アフタースクール・ラビュリントス (潮井イタチ)
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第0層「三度ゴミ箱に捨てるまで」
白亜の回廊で、夢を見ている。
第一層。荒れ果てた広間に、記憶が一つ。
炎。爆発炎上する旧校舎。気絶した同級生達を背負い廊下を歩く自分の姿。
――違う。想起すべき記憶はこれじゃない。
第二層。白光が瞬く通路に、記憶が一つ。
腕。千切れた自分の右腕。無残な断面からは、滝のように真紅が溢れ出す。
――違う。そんなことはもうどうでもいい。
第三層。月が照らす窓際に、記憶が一つ。
光。悲しいほどに眩い光。黄金の光が、刃となって俺の右腕を切り裂いた。
――違う。本当に知りたいのはその担い手。
第四層。夜に微睡む階段に、記憶が一つ。
鋼。強靭で繊細な鋼の腕。鉄の義手が、勇者みたいに光の剣を握っている。
――違う。だが、近い。あと、もう、少し。
第五層。闇に消える聖堂に、誰かが、一人。
安らかな眠りを誘う静謐。閉ざされた扉の奥を知って、心が逸る。
それこそが目的だと理解して、歩いてなどいられず、入口に向かって駆け出し、扉へと手をかけて、何一つ思考しないまま、ただ開け放つ、その、直前――
「――違う」
それを起こしてはならないことを、思い出した。
〝あなたは、コーヒーゼリーを拾った。〟
妙な声がして、意識を取り戻した。
目覚める時はいつも、ここがどこで、自分が誰なのか。少しばかり分からなくなる。
見る限り自宅ではない。
どこかの店の事務所。コンビニか何かのバックヤードだろうか。
頭は自分が誰かも理解出来ないぐらいにぼやけていた。が、少なくとも椅子に腰掛けていることは自覚できる。
どうやら、座りながら俯いて寝ていたらしい。
あくびをしながら、顔を上げた。
「この状況で居眠りが出来るとは大した度胸だな男子高校生。何ならこのまま無限に寝るか?」
――顔を上げた目の前に、銃口があった。
びっくりすべきなのだろうが、ぶっちゃけ頭が回らない。
でも少しは面白いことを言うべきなのかなあと舌を回す。
「……そうか、俺は今まさに大ピンチに見舞われているサスペンス映画の主人公……?」
「ほう、個性的な遺言だなモブ被害者B。思わず脇役にもそれぞれ己が人生の一人称があるのだなと感心してしまったぞ? まぁその人生も今ここでニューシネマよろしくプツっと終わりを迎えるわけだがなァ!」
などと俺に銃口を突きつけブチ切れているのは、ゾッとするほど美しい巨乳の女性警官だった。
ただ、美しいと言ってもジャンルが花や蝶でなく雌ライオン。
一見しただけでは線の細い顔立ちと、長い手足、ゆったりしたコート姿に誤魔化されそうになるのだが、よくよく観察してみれば体格と筋肉がすごい。
今見ている巨乳にしても、こうして真正面から見ている分にはただの巨乳だが、少し斜めから見ればその半分が鍛え上げられた胸筋であることがすぐに分かる。
そんな彼女が片手で軽々と持っているのが、象でも狩るのかと言った具合の大拳銃。
成人男性の両手でも持て余しそうなリボルバーは、明らかに日本の警察官が携帯していい物ではない。そいつが、何の罪もない(と思う)俺の額にぐりぐりとめり込まされている。ひどい。
「ところでおまわりさん」
「あぁ? どうした容疑者」
「俺の罪状って何でしたっけ」
「万引き」
万引きかー。
道理でコンビニの事務所で警官と相対しているわけだ。銃のことはひとまず置く。
「と言っても、何かを盗んだ覚えも無いのですが」
「ほう。まぁこの状況でそう言えるなら真実なのだろうな。だが実際問題ブツは失くなっているんだよ――私が徹夜明け仕事終わりの自分へのご褒美に購入しようとしていたコーヒーゼリーが、な」
「マジかよ……」
賢明なる皆様には説明するまでもないだろうが、当然コンビニスイーツが失くなったことに対しての「マジかよ……」ではない。このクソバカマッスル私怨九割ウーマンに対しての「マジかよ……」だ。
「いいか? まずこの
「帰りたい」
そもそも、よくよく思い返せば帰る以前に学校に向かう途中だ。
確か、早起きの結果少し早く家を出てしまったので、学校へ行く前に漫画雑誌でも立ち読みしようとコンビニに立ち入ったのだ。まさかこんな些細な寄り道のせいでバッドイベントが発生するとは。
そうして色々と考えている内に、段々と頭がはっきりして、諸々と思い出してくる。
例えば、この女が永池市の名物警官で、
「先ほど鞄と制服を
「いや国巻さんの面倒臭さを全力で抜きにして真面目に答えたところで、本当に心当たりとか無いんですけど」
「……本気か? 本気で言ってるのか? 私なー、こう見えて全身ズタボロで、折れた骨で内臓もちょっと抉れててなー、病院行ったらろくに物も食えん生活が確定してるんだぞー今なー! 何も食えなくなる前にせめてお気にのコーヒーゼリーを食べておきたいと現場からそのまま気合と根性だけで必死に這って来た気持ちが分からんのかお前なー!」
「知らんが……」
というか、全身ズタボロなんだ。
巨乳と拳銃にばかり目が行っていたが、確かに、よく見れば彼女の左脚は折れていて、拳銃を持っていない方の手では杖を突いている。服が黒いのでわかりにくいが、ところどころに大きな血っぽい染みもあった。はよ病院行け。
……いや、そもそも、何をどうしたらこの鉄人美人が全身ズタボロになるような事態に陥るのだろう。
確かこの
「……ああ、アレだよ、アレ。動物園の。覚えているか、
村雨。俺の名前である。
村雨
この怪物美女と比べれば特徴的なアピールポイントも無い一般人だ。でも「国巻麻と比べれば全人類のほとんどが一般人ではないのか」と言われればそれはそう。
「数年前に、テロ目的で永池動物園の大型獣が一斉に解放された事件があっただろう。それも薬物投与のオマケつきでな。要はアレの残党処理だ」
「まだ捕まってない猛獣が居たって情報自体がまず全力で驚きだよ。一体どんな……ライオンとか?」
「うーん……。トカゲ、かな」
「何でそこフワっとしてる感じなんですか?」
「それなりにデカい奴だ。兎にも角にも頑丈で、二十発ほど脳天に至近からブチ込んでやったはずなんだが、これがまあ倒れもしない。口の中を手榴弾でぶっ飛ばしてみたり、川に沈めて窒息させてみたりもしたが、もう何やってもダメでな。最終的に近くにあった廃屋に誘い込んで、廃屋ごと発破し生き埋めにした上で火を放ったんだが、結局死体が見つからないという始末だ。きっと逃げられただろう。こればかりは警察官として満足に仕事も行えなかったことが不甲斐なく、市民である君たちに対してただ頭を下げる他ない」
「それはもう警察官の仕事じゃないんだよ」
どう考えても怪獣か何かじゃねーか。戦車を呼べ、戦車を。
俺の精神の安寧のためにも話を盛っていると思いたいのだが、実際この超人をズタボロにするにはそれぐらいのバケモノが居た方が自然なのも事実だ。いや、何かがおかしい。
「まあいい。そういうワケだからお前も気をつけろ。直に駆除されるだろうが、あまり人通りの無い所には行くなよ。死ぬぞ」
「そんなバケモノが相手だと人通りがあっても死にそうなんですが」
「他に人がいれば誰か食われる間に逃げれるだろ」
今さっき「市民である君たちに対してただ頭を下げる他ない」って喋った口ですげーこと言うな
「万人を守りたい気持ちはあるが、それはそれとして私だって隣人の方が大事だよ。いいか村雨、どうしようもない状況というのはどうしようもないんだ。まず自分の身を守れ。手の届く者だけを連れて逃げろ。そのために誰が犠牲になったところで、お前は何も悪くない。責任は全て我々にある。だから、大切な物以外を見殺しにすることを躊躇うな」
「へい」
「気の無い返事だがよし。遅れる前に学校に行け」
「誰のせいで遅れてると思ってんだ。それで結局、コーヒーゼリーはよかったんですか?」
「よくは無いが実際無いんだから仕方ないだろう。どうして消えたのかは本当に分からんが、無い以上は我慢するしかない。お前に詰問したのはただの八つ当たりだ」
「なんなの?」
理不尽が過ぎるが、既にまともに
至りたくなかった心境に至りながら、俺は鞄を持ってコンビニを出た。つーか何時何分だよ。間に合うのかこれ。
時間を確認するため、携帯を取り出そうとポケットに手を突っ込む。
「……あれ?」
ポケットから引き抜いた俺の手には、空になったコーヒーゼリーの容器が握られていた。
まず頻繁に物を失くす。忘れる。ふと目を離すと消える。
いつものことではある。
あるが、ここしばらくは頻度が多すぎる。
ビニール傘に、学校の提出物に、美化委員の仕事で使ったスコップに、麦茶の入った水筒に、自転車に、風呂場の石鹸に、台所の小麦粉に、自室の毛布に、借りたソフトが入ったままのゲーム機に、消耗品から小物から家電から何から何までとにかく色々。
あるいは、日に三回はモノを失くしているんじゃあるまいか。
ちょっとヤバいタイプの頭の病気かと思いもするが、単純な物忘れではどうにも不自然なコトも起きている。
謎だ。
なお現在時刻は普通に致命的だった。遅刻確定。
ホームルームどころか一時限目にも間に合わないことが確実なので、むしろ穏やかな気持ちで通学路を歩いていく。
一つ角を曲がると、急に閑散とした風景に切り替わった。
この永池市は、いくつもの町やら村やら郡やらが合併して生まれた県境の地方都市である。大量の風土が入り混じっているせいか町並みもパッチワークめいていて、古都と田舎と都会が少し歩くごとに入れ替わってしまう。
今はおおむね田舎エリア。小学生でもなければ遊べないような寂れ尽くした公園の傍を通った辺りで、チャイムが鳴った。
のんびりとチャイムを聞き流す俺を案じたのか、公園にいた小学生が走り寄ってきて、こちらの脛に蹴りを入れてくる。痛い。
どんな憎たらしい顔をしたクソガキかと思えば、意外なほどに可愛らしい。
見れば、友人の妹であった。
「
「いいんだよ。急いでも遅刻だからね」
「さようで」
水色ランドセルの少女が、「こいつぁしつれいしやした」と黄色の通学帽子を目深に被る。
「みとらちゃんの方こそ大丈夫なのかな。代休か何か?」
「否。お兄ちゃんをさがしてるの。十日まえからまいご。今ごろさびしさに泣いてるともかぎらぬ。ゆえに、みとらも学校休んでほんごしを入れたわけ」
……もうそんなに経つのか。
この子の兄は俺の友人である。
そして彼女の言う通り、俺の友人は十日ほど前からどこかへと消えてしまった。
一応、何かしら意図があっての家出らしく、失踪して以後も何度かはSNSでメッセージを交わしていたのだが、それも三日前から既読無視になっている。
ヤツが行きそうな場所については一通り探してみたのだが、結局のところ見つからずじまいだ。
元々大して素行の良いヤツでもなかったし、普段なら心配もしないのだが……嫌だなあ。特に、トカゲ怪獣の話を聞いた直後というのが最悪だ。
「……
「は? 子どもだとおもってバカにしてます?」
もっともな言い分であった。
「いや、国巻さんがね、むかし動物園から逃げ出した猛獣がまだ残ってるって」
「
困ったことに返す言葉もぐうの音も出ない。
「それに、こないだあえて目立つように夜中に大声でお兄ちゃんの名前よんでそこら中まわってたら、お兄ちゃんからみとらのスマホにメッセきたの」
鮮やかなブルーのキッズ携帯を受け取り、画面を見る。
そこには、『あぶないし近所メイワクだからこれ以上さがすな』という室久からのメッセージ。
「おろかよな、これでは『妹のうごきが分かるぐらいには近所にいる』と自分からはくじょうしているようなもの」
「全て計算づくだと言うのか……?」
「あとね、お兄ちゃん一回へやに帰ったこんせきがあるんだけど、その時USB-ACアダプタの付いたじゅうでんコードはおきっぱで、モバイルバッテリーの方だけもってってるわけ。ってことは、コンセントが使えるような場所にはいない、もしくは行けない。ならば、野宿できそうなエリアに当たりをつけてさがせるってすんぽうよ。お分かり?」
「うーむ、手放しに喜べないタイプの将来性を感じる」
説明に満足した様子で、みとらちゃんはくるりと俺に背を向け、ずびし、と、すぐ近くにある山なのか丘なのか分からない小さな高台を指差した。
「他にもすいりはあるが、これ以上話すのもだそくであろう。みとらはあの
「ではじゃないが。未成年が朝から学校サボって一人で外をうろつくのはよろしくないの」
「ブーメランなげがおじょうず」
「やかましい。というか、この後みとらちゃんに何かあったら君のお兄さんに申し訳が立たないでしょ」
「むぅ」
少女はこちらに向き直り、わずかに頬を膨らませて俺の背後へと歩いていく。
「仕方なし。学校に行きます」
「送る?」
「すぐそこの角をまがれば見守りのボランティアさんがいるのでだいじょぶ。じゃ」
「そっか。じゃ」
そして、水色ランドセルは曲がり角へと向かっていった。
せめてそれが見えなくなるまではと、少女のことを眺めておく。
彼女がボランティアの人に「おはようからごくろうさまでございます」と声をかけるのを見て、踵を返した。
その瞬間。
〝あなたは、―――――を拾った。〟
――また、何かが脳の奥で響いた気がした。
頭蓋が振動するようなめまいを感じて、一瞬の立ちくらみを起こす。
ほんの三秒と経たず、頭のふらつきが収まった。
……本当、最近妙だ。
少しずつ、日常がブレている気配がして止まない。ほんの僅かに角度を間違えたせいで、無限に軌道を外れていく宇宙船を連想しそうになる。
明日の朝にでも室久が帰ってくれば、いくらか軌道修正できるのだろうかと――そんなことを考えながら、俺は学校に足を向け直す。
思い返せば、始まりは二週間前だった。
みとらちゃんとの会話の後、一時限目が終わる頃に学校へ到着した。
1-Dの教室に入る。
本日も欠席者多数。席は、半分程度しか埋まっていない。
扉を開けた俺に向くのは、二十弱の視線。一度集まったそれは、すぐに怪訝な色に変わる。
そんな目で見られても学校に来て欲しいのか来ないで欲しいのか分からないのだが、向こうがそれを言うことはないだろうし、それぞれの思うところも違うだろう。
席に座って窓の外を見る。
今いる本校舎から、少し離れた場所にある旧校舎。
その壁面のコンクリートは黒く焼けただれたまま、まだほとんど手つかずの状態だった。
今から二週間前。
俺含むこのクラスの生徒十六人は、旧校舎の火事に巻き込まれた。
原因はガス爆発。他の建物に延焼はしなかったものの、旧校舎は全焼。火勢自体はかなり強く、遠くからでも火柱が見えるような規模だったらしい。
しかし、この火事によっては死者・重傷者・行方不明者は出なかった。
軽い火傷や、骨折程度の怪我を負った者は多いが、登校できなくなるほどの傷を受けた生徒は一人もいない。
俺含む数人が酸欠による記憶障害を負いもしたが、それだって深刻なものじゃない。程度の差こそあるものの、せいぜい事故の時の記憶が少しあやふやになっている程度だ。
まともな状態だったのは俺、
その上、その室久も十日前から失踪している。
結局、あの日火事に巻き込まれた中で、現在も学校に通っているのは俺一人だけだ。
理由は分からない。医者や警察が調べても原因不明。
俺自身は記憶障害であの日のことをあまりしっかりと覚えていないし、室久や、他の火事に遭ったクラスメイトも、満足な説明は出来ていない。
結果として、被害を受けなかった他のクラスメイトには、どことなく距離を置かれていた。
まあ他から見れば俺一人だけ生き残ったというか――周りを見殺しにしているというか。
そんな風に思う者もいるだろうし、それを否定しようと思う者もいるだろうし、しかし、被害者でもない人間がそれを言及するのもいかがなものかと思う者もいるだろうし。
総意として彼らが最終的に出した結論は不接触、腫れ物扱いだ。
仕方ないよな。と、他人事のように思う。
逆の立場だったなら俺だって触れ方に困ってしまうだろうし、あまり干渉しないようにしようとも考えるだろう。
そういうわけで、この数日はめっきり学校での会話というものが無い。
このままじゃ朝の奇天烈な会話だけで終わるなあと思ってる内に、二時限目、三時限目、四時限目。誰とも何も話さず昼休みとなった。結局変人としか会話していない。
何だか、誰とも話さないよりもマズい気がした。常識的対話を求めて教室を出る。
顔の広い方ではないが、人の多い食堂にでも行けば知人の一人はいるだろう。
「…………」
そんなことはなかった。
一人でうどんを啜りながら、食堂の端に置かれたテレビを見る。
今じゃとうにスマートフォンに追いやられた感のある情報媒体だが、意識の余分を削ぐには十分だ。
内容は相変わらず暗い。政治が悪い・人が死んだ・熊が出た。言ってるアナウンサーも気が滅入るだろうなあと思っていると、画面が赤く切り替わる。
『続いては、■■県立永池高校で起きた火事の――』
む。
もう二週間も経つのに、と思ったが、どうやら隣町でまた火事があったらしい。死者四名。連続する火事に、警察は放火の可能性も視野に入れて捜査をするとかどうとか。
背景に流れる当時の動画。
燃え盛る火の中から出てくるのは、三人の生徒を背負った男子の影――というか俺だ。
「炎の中から出てくるの、ヒロイックな構図ですよねえ。古いロボットアニメのオープニングみたい」
いつの間にか、向かいの席に若い女性教師が座っていた。
1-Dの副担任で、朝の超人婦警と違い、花や蝶に例えて構わないタイプの清楚系美人。
教科担当は確か……なんだっけ。そもそも、この人の授業を受けたことはあっただろうか。
「そりゃどうも。でも、俺自身は何があったか覚えてないんですけどね。ほら、酸欠のせいで記憶障害起こしたとか何とかで」
「そう言えばそうでしたっけ。残念ですね。覚えていれば『立派なことをしたな』って思えたかもしれないのに」
おお、すごい。本日最初のツッコミを入れる必要のない返答である。正直、それだけでこの先生に好感が持てそうだった。
にこやかに笑う先生に対し、少し照れ混じりに返答する。
「いや、別に立派ってことはないと思いますよ。知り合いが火に巻かれそうになってれば誰だって必死になって連れ出すでしょうし。大したことでもないです」
「――へぇ、そうですか」
ふぅん、と含みのあるため息のようなものが漏れていた。
「確かに、こんな動画が流れてるせいでみんな勘違いしていますけど、村雨君もただの被害者ですもんね。結局、君以外みんな休んじゃってるわけですし」
「ッスよね。でも
「そうなんですか?」
聞かれて、朝の小学生との会話をざっくり要約する。
先生は風変わりなみとらちゃんの行動に、気さくな笑みを見せた。
「面白い子ですね。それ以上に、お兄さん思いの良い子です。なかなか出来ることじゃありませんよ」
そう言って、先生は席を立つ。
「学食、先生は何頼んだんですか?」
「え? ああいえ、私はもうご飯済ませちゃってるんです。村雨君の顔が見えたので、声をかけていこうかなと、そう思っただけですよ」
では、と静かに言って、先生は食堂から出ていった。
消費カロリーの少ない、薄味でありふれた、食べごろサイズのやり取り。
素うどんを食べながら、「ほど良く印象に残らない人だったなあ」なんて失礼な感想を抱く。
でも、それが普通だ。朝から銃口を突きつけられたり、小学生に蹴りつけられたりする方が人として間違っている。
「にしても……」
気負うことなく会話できた。
案外、気を遣って距離を取っているのは俺の方かもしれない、とふと思う。
昼が終わり、昼下がりも無意識の内に過ぎていった。
何事もない、いつも通りの恒常性平常運転。
安静な日々を過ごしていると、二週間前に負った日常の傷が少しずつ癒えていく錯覚がする。
当然みたいな顔をして、いつもの放課後がやってきた。
バイト学生ゆえ部活はやっていないのだが、今日は生憎、美化委員会の仕事がある。
旧校舎が使えなくなったせいで本校舎の方に新たな備品を入れる必要があったのだが、一度使ってない用具の整理をする必要があるとかなんとか。
急な仕事に皆でぶーたれながら、埃っぽい椅子やら何やらを運び出す。
中には、扉から外に出せないほど大きい机を一度分解してから外に出す仕事さえあった。
工作室から持ってきたバールを肩にかけ、ふうとため息をつく。
〝あなたは、バール(良質)[鋼鉄製]を拾った。〟
ようやく終わった仕事に汗を拭い、玄関の靴箱に向かおうとした時、美化委員の可愛い系先輩女子に声をかけられた。
「村雨くん、バール仕舞った? 私、一旦教室戻るから、まだならついでに工作室寄ってくけど」
「ああ、じゃあ悪いんですけどお願いしま――、あれ」
無い。
まただ。さっきまで持っていたはずなのに。
「あー……すいません、どっかに置いてきたみたいで。自分で返しに行きます」
言って、先ほどまで居た部屋に戻る。
一通り元居た場所を回ってみるが、見つからない。
散々探した末に下校時刻になり、用務員さんに学校を出るよう注意された。
明日また探すか。そう決めて校門を出る。
朝にみとらちゃんと話した、丘ヶ山の麓公園まで歩いたあたりで、しかし一体どこにいったのだろうと、頭を掻こうとして、ふと。
いつの間にか、手にバールを持っていることに気がついた。
「…………」
わけがわからない。
先輩に言われて戻った後に、バールを拾ったなら、それは気づくはずだろう。どのタイミングでバールを持っていたのか、本気で思い出せない。
手に持っていたはずの物がいつの間にか失くなって、いつの間にか手の中にある。
よくあることではある……ああ、いい加減「よくあること」で片付けるのも無理な気がしてきた。
そろそろ気が滅入りそうだ。これじゃ知らない間に、誰かの持ち物を奪っている、なんて最低なことまでしているんじゃあないか、と――
――ことん。足元に何かが落ちる音が響いた。
地面を見る。
鮮やかなブルーのキッズ携帯。
「……うわ」
確かに、そうだ。そういえば。
みとらちゃんから画面を見せてもらった後、手渡された携帯を、俺はあの子に返していたか?
最悪だ。何が起こっているのか知らないが、兎にも角にも気味が悪い。自分がいつの間にか盗っ人になっているなんて、いくら何でも忌まわし過ぎる。
鉛みたいに重い溜息をつきながら、携帯を拾い上げ――同時、それは手の中で振動した。
軽く驚きつつ、画面を見る。
ポップな背景の中心に「お兄ちゃん」の五文字があった。
反射的に緑の通話アイコンを押してしまった。
「――室久?」
応答は無い。思わず画面を確認するが、ちゃんと繋がっている。
再度耳に当てて喋った。
「悪い、俺だ。みとらちゃんのスマホを間違って――っていうかマジで何処いるんだよお前。別に今更家出したからどうこうとか言わねえけど、」
『グ、な』
「は?」
『――来゛、ルな、みと、ら。逃、げ』
バキン、と何かが割れる音がして、こぼれる音。
液体に塗れた柔らかいモノが、地面に擦り付けられている。
「……おい、室久」
『丘ヶ山から、離れ……警察ハ、ダメ、だ……来ても、死、ギッ――、国巻ザン、を、呼ん、』
苦しげな呼吸音。室久の声に混じって聞こえる呻きは――何だ。わからない。人間の声ではない。俺が今まで聞いたどんな動物の声とも合致しない。
今まさに人間を喰らおうとしている巨大な獣をイメージしてみる。
最悪にしっくりきた。
「室久! ちゃんと声聞け、俺だ、
『お前、かよ……、クソ、が……』
「悪態ついてんじゃねえよもっと有益なコト言え! 見るからに余裕ねえ感じだろうがそっち!」
『オレは、もう、どうデもいイ、から……、みとらを、小屋に入れさせ、ルな。頼む空、間――』
直後、何かが砕ける。
スピーカーの向こうから聞こえる、硬い物が握り潰されたような音。
それと同時に、通話は途切れた。
リダイヤル。繋がらない。コール音のみが響く。
丘ヶ山はこの公園からすぐそこだ。
状況についていけない頭に反し、身体の方は本能的だった。思考するより先に丘ヶ山に向かって振り返り、走り出す。
あまり整備されていない狭い山道。暗くて障害物を上手くかわせない。飛び出している葉や枝がちくちくと刺さる。
上り坂に息を切らす中、ようやく追いつき始めた思考が脳内を回り出した。
――どうする? いや、それ以前に、何も考えず山に飛び込んでよかったのか? 国巻さんは動けないとしても、警察への通報は? 室久は警察はダメだと言っていたが、それでも――
水色ランドセルの影を探して走り回りながら、携帯の緊急通報画面を開く。一、一、〇。
「警察ですか?! あの、今、」
瞬間、何かに蹴躓いた。
俺の手を離れる通話中の携帯。勢いよく転んだ俺は、山道脇の茂みへと突っ込む。
「ぐっ……何、が……!」
起き上がる。そして。
「……ッ!?」
見た。
見てしまった。躓いた場所に転がる、ボロボロに崩れた形の黒いランドセル――いや。いや、待て。落ち着け。
みとらちゃんのランドセルは水色だ。そうだ、あんな真っ黒な色じゃない。あんな、真っ黒に、ボロボロになるほどに、焼け焦げて崩れてしまったランドセル、では、
「――――」
ジュウ。
バーベキューみたいに。
背後で、何かの焼ける音がする。
振り返りたくなかった。
振り返りたくなどなかった。
だが、確かめなければならなかった。
日常の傷が癒えていく錯覚なんて、本当に錯覚でしかなかった。
記憶に無い記憶が、脳の底から這い上がってくる。
背後には、見覚えのある顔が四つあった。
「おまえ、ら……」
室久以外の、行方不明になった四人の生徒たち。
「――は、ハ」「ああ、村雨だ」「美味しそう」「潰させて」
だが違う。こいつらは違う。
あの四人はこんな、狂い切った目なんてしていなかった。
あの四人はこんな、燃え尽きたヒトの亡骸を足蹴に笑ってなどいなかった。
あの四人はこんな、向かい合っただけで俺に明確過ぎる死を想像させなどしなかった!
彼らの一人。その片目が白目まで黒く染まった。
黒い眼窩からタールみたいな雫がこぼれ、器の形を作っていた彼の手に、ぴちょんと落ちる。
もう、常識なんて死に切っていた。
タールの涙が一瞬で火山のごとく噴き上がる。
悍ましい灼熱の砲弾を彼の手へと握らせていく。
頬を焼く熱波。瞳を焼く閃光。
初めてではない。
脳が忘れていても、全身の細胞がこの炎に塗れた光景を覚えている。
あまりにも物理的に燃える魔球が、場違いなほど綺麗なフォームで投じられて――
〝あなたは、――を拾った〟
二週間前と全く同じ炎の色に、俺の体は呑み込まれていった。
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第1層「あなたは、迷宮に足を踏み入れた」
世界が赤い。
見るモノ全てが燃えている。
眼前の脅威はまるで熱の洪水。
嘘みたいな量の爆炎が、津波になって迫り来る。
けれど、どうにもできない。何もかもが遅すぎる。身体はおろか、思考すら鈍い。間に合っているのは危機感だけだ。
死ぬ。焼死する。皮膚が焦げてめくれ上がって肉が焼けて炭になってぼろぼろ崩れて骨になる。
覚醒下に視たあまりにも明確な死の予知夢。まばたき一度の刹那の後、現実はこの無意味な未来予知に追いついてくる――
――その直前。
目の前に、誰かが立ち塞がった。
「な」
もしもこの世に炎を落とす滝があったのなら、それはこんな風に響くのだろう。
熱くない。何者かの身体に当たって、炎の波が完全に防ぎ切られている。
灼熱の前に立つ姿は、光に眩んでよく見えない。ただ、爆風に吹かれ、長い髪だけがはためいていた。
しかし、ほんのわずかにその人物がこちらを向くのを察することが出来る。
陰影だけで分かる整った顔。
小さな口が、俺に向けて唇を開いた。
「〝注意:現在、回想モードです〟」
…………。
「なんて?」
「〝十四日前の映像が再生されています。閲覧を中止しますか?〟」
言われ、咄嗟に辺りを見渡す。
気づけば、いつの間にか周囲は
「……えっと、走馬灯的な?」
「〝十四日前の映像が再生されています。閲覧を中止しますか?〟」
「えっ。あっはい。じゃあその、中止する感じで」
「〝了解しました。閲覧を終了します〟」
ぶつん。
右腕から走る鋭い痛み。
ケーブルを強引に引き抜いた液晶画面のように、視界に激しいノイズが走り、暗転した。
そして、舞台は
脳が忘れていても、全身の細胞がこの炎に塗れた光景を覚えている。
あまりにも物理的に燃える魔球が、場違いなほど綺麗なフォームで投じられて――いやここからスタートなのか。状況が何も変わっていない。
極めて特殊な走馬灯を見た気がしたが、何の参考にもならなかった。なんだったんだ今の時間。
だが、おかげで対応するだけの精神的余裕が生まれた。
前方、後方、左右に斜め。全三六〇度のいずれに移動したところで、灼熱球の炸裂によって生じる爆炎は回避出来ない。
それでも、直撃よりは良い。動きさえすれば被害は軽減出来る。炸裂を直接受ければ死だが、その後の爆炎だけならば万死に一生を得る希望はある。多分。
最もダメージを抑えられる退避方向を本能で探る。だが――
〝推奨:方位角一五〇への退避〟
そう。そうだ。確かに右後方には小さな木がある。
あれの陰に今すぐ飛び込めば、行動不能にこそなれど、少なくとも死ぬことは無いだろう。
〝
だが、それではダメなのだ。
〝――
だってそれでは、
俺が生き残っても、あいつらが死ぬんじゃ意味が無い。そんな生存は願い下げだ。
〝……
そういうわけじゃない。俺だって当然、死にたくはない。
だけどそれと同じぐらい、俺を構成する全てを死なせたくない。
例えそれしかないのだとしても、それしかないからと安易な敗北に飛びつくことは出来ない。
〝
ですが、何だ。
許されてすらいないというのか。
何も奪われず全てを失わず。
一切合切みんなまとめて完璧に守り切る、完全無欠の*勝利*を望むことは。
〝――――――なるほど。
何者かも分からない機械的な声は、随分と人間的な抑揚でそう言った。
〝
――
そして、世界の種別は一変した。
ヴン! という演出的な音。
炎一色だった視界に浮かび上がる、蒼に輝く文字列の群れ。それを囲む長方形。
パソコンの
明らかに二十一世紀の枠を飛び越えた超技術。表示される文字列は、もはや読む必要すら無い。いいや、元よりそれは光によって『情報そのもの』を叩きつけてきたに過ぎない。まず「情報を理解する」という結果があり、「何故理解できたか」という過程を、俺がこのような形の後付けで解釈しただけだ。それが解る。
〝あなたの能力は未鑑定です。不思議な次元(特別)に関する知識を得るには、鑑定する必要があります〟
〝現在表示できる情報数:2。
一つ。それは、接触物を別の空間に『収納』する。
二つ。それは、
……急にそんなことを言われても困るのだと、この誰かさんは分かっているのだろうか。
言わんとするところはなんとなく分かったが、能力――能力? 随分とまあ心躍る言葉を使ってくれる。こんなシチュエーションでただの高校生にそんなことを言ったら、ろくに疑うことも出来ず有るか無いかも知れないものに命を託してしまうというのに。
しかし、賭けに出ねばならないのは変わらない。
だから、せめてもの反骨心として、こう思うことにした。
「……
恐怖に震えながら手を伸ばす。
触れれば弾ける灼熱の柘榴を、
この手で、
掴み取る――!
〝あなたは、炎を拾った〟
予想通り、それは弾けた。
直径十メートル近い規模に膨らむ爆炎。目も眩む灼熱の閃光。
――その全てが、俺に触れた瞬間に失くなっていく。
〝あなたは、2個の炎を拾った〟〝あなたは、3個の炎を拾った〟〝あなたは、4個の炎を拾った〟〝あなたは、5個の炎を拾った〟〝あなたは、6個の炎を拾った〟〝あなたは、7個の炎を拾った〟〝あなたは、8個の炎を拾った〟〝あなたは、9個の炎を拾った〟〝あなたは、10個の炎を――〟
「ッ、ぁあああああああ!!」
学ランの端を焦がしながら、走った。
舞い散る火の粉の中、周囲に浮かんでは消える無数のメッセージ
どうやら、まだ動揺するだけの回路は残っていたらしい。相手は炎を突っ切ってきた俺に驚き、ろくに行動を取れずにいる。
頭はまだ状況に追いついていない。
だが、この身体は最高に本能的だった。
奪われる前に奪い尽くせと、ひどく衝動に忠実に。
自分でも振り上げるまで忘れていたバールの存在をとっくに思い出し、炎を投げ放ったクラスメイトの脳天へ叩きつけようとしている。
このまま振り下ろすのはいい。彼らを無力化もせず放置するわけにはいかない。
だが、全力では殺しかねない。果たしてどれだけ加減する――
〝Tutorial:無力化〟
〝三階の高さで頭から落ちて大丈夫な時もあれば、何も無いところで転んで頭を打って死ぬ時もあるのが人間です。大事なのは力加減ではなく衝撃を与える箇所。表示されるガイドに従い、思い切って攻撃してみましょう〟
ヴン、と、虚空に青く輝く
恐ろしく親切だ。それをなぞるように、バールを一閃。
確かな手応えとともに、「Good!」の文字が視界を踊った。おいやめろ真面目にやってるんだぞこっちは。
〝あなたは、迷宮主:炎の使い手に深い傷を負わせた〟
〝迷宮主:炎の使い手は気絶した〟
響く硬質な音は、金属音のそれに似ていた。
誰に言われるまでもなく、意識だけを刈り取った感触が手に残る。
僅かに安堵した。一人倒したと。
馬鹿だ。まだ三人残っているのに。
「む、村雨、ムラ、サ、ァ、メ――」
見れば、残った三人の内の一人。同級生女子の右腕が、胴の長い異形の黒獣へと変わっていた。
黒い獣の頭部は高速で伸長し、俺に向けて牙を剥いている。
回避は間に合わない。咄嗟にバールを握った右手を構える。
大丈夫だ、信じろ。ついさっきやったことだ。
例えどんな攻撃であろうと、この力は、触れるモノ全てを『収納』する――!
〝あなたは、痛手を負った〟
ダメだった。
衝撃。勢いよく俺の手が弾かれ、握っていたバールは吹っ飛んだ。
手首がへし折れそうだった。掌の肉が抉られていた。中指と薬指の先の何かが飛んでいったこの感触、激痛は――分かった、爪が剥がれたのだ。泣きそうになる。
だが、それより何より直感的に理解する。――
この力は確かにあらゆる種別の接触物を『収納』出来るのだろう。しかしそれでも制限はあった。
あえて感覚を例えるなら、それは嚥下に似ている。
人間の喉は、水や米粒ならば噛まずに飲み込めても、大きな肉の塊を丸ごと呑み込むことは出来ないのと同じ。俺の能力では、火炎やスマホのような軽い物は噛まずに一瞬で飲み込めても、人間のような重い物を十分な
ならばどうする。同級生女子の右腕から伸びる黒い獣は、弾き飛ばしたバールに噛みつき、バキバキと噛み砕いていっている。
武器は無くなった。無手の間合いでは届かない。あの子に走り寄る間に、獣は舞い戻って俺の全身を噛み砕く――
肌を牙に。身体を口に。精神を喉に、亜空を胃に。
ぐにゃり、と変形したガラスを通して見たように、三次元が歪んだ。
派手さは無い。音も無い。
まるで最初からそこにあったかのように、何日か前に使ったスコップが、俺の右手に握られている。
青い軌跡をなぞりながら、スコップを振り払った。
〝あなたは、迷宮主:獣の血族に深い傷を負わせた〟
〝迷宮主:獣の血族は気絶した〟
ここまで来てようやく本当の意味で「なるほど」と思う。
最近の不自然な物忘れは、つまりコレの暴走だったわけだ。
残る二人の内の一人は、大柄な男子。
袖を
〝あなたは、銃弾を拾った〟〝あなたは、2個の銃弾を拾った〟〝あなたは、3個の銃弾を拾った〟〝あなたは、4個の銃弾を拾った〟〝あなたは、5個の銃弾を拾った〟〝あなたは、6個の銃弾を拾った〟〝あなたは、7個の銃弾を拾った〟〝あなたは――〟
だが、効かない。威力の大小は一切関係なく、重量が足りないという理由だけで俺には届かない。
〝あなたは、迷宮主:銃の変異者、迷宮主:心の魔族に深い傷を負わせた〟
〝迷宮主:銃の変異者、迷宮主:心の魔族は気絶した〟
一息に薙ぎ払った。
大柄な男子と、何か手を出して唸っていた小柄な女子が倒れ伏す。
「……。やっ、たか……?」
やっていた。
四人はしっかりと息をしているが、起き上がってくることはない。
切り抜けはしたが、かなり危うかった。俺は別に特別喧嘩が得意というわけじゃあないのだ。四人が普通に素手で襲いかかってきていたのなら、いくらバールを持っていたところでどうにもならなかっただろう。
後は……。
俺は、恐る恐る、彼らの足元にあった焼死体を見る。
直視は避けたが、酷い。それはもう、人型の炭というべき有り様だった。損壊し過ぎて、うまく人間だと認識できない。
だが、それでも一つだけ分かることはある。
見た瞬間からそうだろうとは思っていたが、この死体は――大人の物だ。
間違っても、小学校に上がったばかりの児童のそれではない。
この人には悪いが、わずかに緊張が解け、はぁ、と息をついた。
「っぎ……!」
瞬間、抉れた肉、剥がれた爪の痛みが一気に来た。やばい。普通に動けなくなるぐらい痛い。あの声にあんな啖呵を切っておきながら、早くも挫けそうになる。
〝がんばってください〟
応援されてしまった。
いや、というかそもそも何なんだこの声。今更だが、ちょっと不気味だ。
〝…………〟
あっ……。その、色々とありがとうございます助かりました。
〝はい〟
どうやら、思ったより丁寧に扱わなければならないタイプの御仁らしい。
だが、実際助かったのは事実だ。この彼もしくは彼女がいなければ四人を無力化することは出来なかったろうし、そもそも炎に巻かれて死んでいただろう。
で、誰なんだろう。
〝包括的な説明には約780秒かかります。開始しますか?〟
780秒……13分だ。長い。流石にこの状況でゆったりと聞いている余裕は無い。
というか、さっきのホログラム? を使えば一瞬で俺の頭にその説明全て送り込めるのではないのだろうか。
〝
やめておきます。
〝了解しました〟
出来るならば今すぐにでもこの声の正体を知りたいが、しかし忘れてはならない。
今は室久からのあの切迫した電話があった直後なのだ。こうしている今も、あの二人がどんな状況になっているかわからない。
気絶させた四人を拘束なり何なりしておきたいところだが、その前に落とした携帯を探す。
「……クソ」
ダメだ。先ほどの炎の軌道上にあった俺の携帯は、熱に溶けて使い物にならなくなっていた。
みとらちゃんのスマホを使う手もあるが、しっかりロックがかかっている上、機種が違いすぎて緊急通報画面の出し方が分からない……いや、そうだ。
俺は頭の中で謎の声に呼びかける。――あの、そっちの方で通報とか出来ます?
〝
圏外……なら、そもそもこの声は何処から届いているのだろう。
〝
俺の能力の内部。
確かに、自身の内側に意識をやれば、先ほど炎やシャベルを仕舞ったり出したりしていた箇所の更に奥深く、俺自身でも容易には届かない場所に『何か』がある。
今までのが口の中や胃の中の物を吐き出していたのだとすれば、これは胃を通り過ぎ、腸の中に溜まっているような感覚。
〝便秘みたいに言うのやめてください〟
すいません。
まあ、さっきの炎は住宅街の方からも見えたろうし、銃声だって響いたのだ。俺が通報しなくてもその内パトカーが来るだろう。
今は室久……いや、その前にみとらちゃんを探すのが優先だ。
室久が通話で言っていた「小屋」については心当たりがある。「みとらを入れさせるな」という言葉から察するに、小屋の周辺に行けば彼女を保護できるかもしれない。
もっとも、その小屋の近くには、通話中に唸っていたあの唸り声の主が待っているわけだが……。
〝推奨:警戒態勢の維持〟
わかっている。まだ油断が出来る状況ではな――
〝
一気に汗が引くような感覚。
足を少しもつれさせながらも、俺は急いで右へと跳ぶ。
そいつ自身に音は無く、攻撃の瞬間は目で追えなかった。
分かるのはその結果のみで、痕跡はまるで巨大なレーザーで縦に薙ぎ払ったかのよう。コンマ一秒前まで俺が居た地面に、信じられないほど長く深く鋭い斬痕が刻まれている。
突進の先を見る。
人が一人、立っていた。
「……あぁ、またオマエですか。最悪」
見覚えのある顔だった。
女だ。花や蝶に例えて構わないタイプの清楚系美人。山の中で動くにはいかにも不向きなレディーススーツ。1-Dの副担任である女教師。
昼休みに話したあの先生が――俺に、抜き身の日本刀を向けていた。
「この四人だって、ギリギリで
先生は自分の頭を掻き毟る。崩れた前髪が目を覆い、その奥から覗く瞳が蛇のように俺を睨みつけた。
もう迷うまでも無い。コイツは敵だ。疑いようもなく。
そして確実に、この事態における俺が知らない情報を持っている。
だが、どうやって聞き出せばいい? 素直に問いかけたところで答えてはくれないだろう。
「……まさか、あの時のアレはそういうことだったのか……!?」
などと迫真の表情で適当なことを言ってみた。当然あの時がいつかは知らないし、アレが何かも知らないし、そういうことがどういうことなのかも分からん。
「ええそうですよ村雨君。本当なら火事の時の十六人全員、まとめて
なるほど。本当なら火事の時に十六人全員さっきの四人みたいな感じになっていたようだ。
で、それをこの謎パワーにいち早く覚醒した二週間前の俺が邪魔したせいでなんか中途半端になったらしい。全然覚えてないけどグッジョブ俺。
しかし……ノギス工業?
そういえば声もノニウスインダストリがどうとか言っていたが、その会社? は一体この事態にどういう関係があるのだ。ノギスグループと言えば何十かの社からなる世界的に有名な企業体の名前だが、その内の一つでいいのだろうか。
疑問は尽きない。だが、相手はこれ以上俺と言葉を交わす気は無いらしかった。日本刀を構え、クラウチングスタートに似た独特の姿勢を取っている。
〝推奨:逃走〟
同感だ。
相手が飛び道具を使わないのなら、俺の能力もさして役に立たない。
〝あなたは、シャベル(鉄製)[粗悪]を拾った〟
シャベルを虚空に仕舞う。かかった時間は一秒程度。そして、あの日本刀はシャベルよりも重いだろう。斬撃を受けてなお刀身に一秒間も触れていれば、既に俺の体は真っ二つだ。
せめて障害物の多い方向に逃げようと茂みに向けて駆け出す。
この丘ヶ山は小学生の頃に室久と何度も来ていた場所だ。地の利はこちらにある。
あの高速移動には度肝を抜かれたが、これだけ邪魔な物が多い場所であれば、十分な速度は出せまい。
「あぁ。――本当に、邪魔」
だけど今更、そんな常識が通用すると思っていた俺の方が愚かだった。
走ってくる女に木や枝が触れた瞬間、それらがバラバラに斬り裂かれていった。
「っな……!?」
これが、せめて彼女が手に持つ日本刀で木々を切り裂いていたというのならまだ理解も出来た。
だが違う。あの女は刀など使わない。ただその身体に障害物が触れただけで、木々や岩が手品のように多重分割され、障害としての機能を斬り飛ばされていく。
加え、女のスピードは一歩ごとに上がっていた。まさしく加速度的。最初は俺と同じか少し遅い程度の速度だったのに、もう既に全力疾走でも振り切れないほどの速度になっている。
まずい。追いつかれる。何か、何か無いのか。シャベルやバールなどではない、何か武器になるようなものは……いや!
「出ろ、炎! そして銃弾!」
手を後ろに向けてかざす。ちょっと熱気がぶわってなって、銃弾がぽとりと掌から落ちた。あっダメだこれ。
〝亜空間内の時間は止まっているわけではありません。攻撃として用いるならば、『収納』した直後に取り出すべきです〟
やる前に言って欲しかった。
こうなれば茂みを行くのはむしろこちらに不利だろう。諦めてある程度整備された山道に出る。
右は上り坂、左は下り坂。自転車があれば、迷わず下り坂を選んだのだが――いやあったわ。自転車。
まず全力で跳躍。次いで、両足を上に振り上げる。
そして俺は、数日前に失くしていた自転車を亜空間から取り出し騎乗した。
かくして位置エネルギーを運動エネルギーに変換。全力で坂を駆け下る。
一時的に女から大きく距離を離した。しかし振り切れてはいない。
女はぐんぐんと加速し続け、時速四十キロは優に超えているはずの俺に少しずつ迫ってくる。崖の手前にある分かれ道を曲がる頃には追いつかれてしまうだろう。
だが。俺は亜空間から更に物を取り出し、背後へと投げた。
「無駄なことを――、ッ!?」
投げ放ったのは同じく自炊の後に失くしていた小麦粉の袋。
袋は女に触れた瞬間にバラバラに切り裂かれ、中の小麦粉が煙幕のように彼女の視界を遮った。
無論、こんなものはすぐに突っ切られる。
だから、選ぶべき選択肢はこれしかない。
「ッ!」
崖の前にあるのは右と左の分かれ道。
だが、あえて右も左も選ばない。自転車で坂を駆け下った勢いのまま――俺は崖から飛び降りた。
一瞬の浮遊感。体が夜の闇へと投げ出される。
〝もしかして:E.T.〟
なんか滅茶苦茶のんきなギャグを言ってるヤツがいる。殴りたい。
ツッコんでいる暇はない。亜空間に自転車を仕舞いながら落下する。
山自体が大した山じゃない以上、崖もそう大した崖じゃない。それでも、下は何もない岩場だ。落下すればタダでは済まない。
しかし。この速度ならば横方向への飛距離が稼げる。
岩場に落ちるギリギリで、あの葉が生い茂った木に落ちることが出来る――!
〝警告:飛距離が足りてません〟
マジかよ。
俺は極限状態で咄嗟に亜空間から毛布を取り出し、とにかく乱暴に振り回す。
寸前で、木の枝に毛布が引っかかった。
ビギィ! と毛布を振り回した右腕に落下の勢いがのしかかり、鈍い痛みが走る。が、引き換えに落下の勢いは著しく減速する。
毛布をターザンのように使い、どうにか湿った土の地面に落ちた。ゴロゴロと十回近く大地を転がった後、俺の身体はようやく停止する。
全身が痛い。気分的にはとっくに半泣きだ。身体中が血まみれの土まみれ。平衡感覚も三半規管もズタボロで、胃の底からお昼のうどんがせり上がってくる。これであの女を振り切れてなかったら本気で泣く。
気合で木の陰へと隠れながら、崖の上を見た。
女は、分かれ道の前でしきりに周囲を見渡している。そして何度か左右を確認した後……諦めたように、左の方へと走っていった。
深く深くため息をつく。……どうにか、撒いたようだ。
だが……分かっている。まだ、これで終わりではない。
根性で立ち上がり、歩く。
「……クソ」
湿った地面には、小さな子供の足跡。
それが、山の中に建てられた小さな倉庫へと続いている。
「……いいさ、ここまで来たならとことんまでやってやる」
覚悟は決まった。
なんてことのない簡素なプレハブ小屋から感じる、運命の鼓動。
中に閉じ込められたモノを解き放つように、俺はそのドアを引き開けた。
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第2層「このモンスターは迷宮の主である」
そこに、異界があった。
山の管理に使われる用具が置かれ、大人にとってはきっと雑然と狭苦しく、しかし子供の頃の自分たちにとっては未踏の要塞に見えていた倉庫。工具マニアである室久などは大興奮して、一緒に「ひみつ基地にしよう」などふざけたことを言い、歳のいった管理人のお爺さんにつまみ出されていた記憶。
あの人も今では管理をやめてしまったのか、それとももう亡くなってしまったのか。
小屋は見るからにボロボロで、かなり長い間放置されている。
故にそこは、何の変哲も無いただの廃屋なのだ。
なのに。
扉を開けた先の暗い空間。
――最初に感じたのは、おぞましい
「……嘘だ」
ありえない。学校の体育館よりもなお広い――いいや、それどころではない。デパート? 大型ショッピングモール? どうにもしっくり来なかった。こんなに広い密閉空間を例える言葉は持っていない。
どんなトリックアートの天才だって、これほどの空間を数畳ごときの小屋に詰め込むことは出来ないだろう。これ以上の認識行為が恐ろしい。「プレハブ小屋の扉を開けた」という、自分の行動と記憶と精神そのものを疑ってしまう。
世界の内装は、大洞窟と形容すべき岩石の壁と天井。その下に広がるのは、どこか永地市の町並みにも似てしかし決定的に違う建物群。
古い木材とトタン屋根で出来た近代的な高層ビル。キレイにガラス張りされた鉄筋コンクリートのズタボロ一軒家。挙げ句、それらの色彩は全てが彩度と明度をごっそりこそぎ落とされて岩盤や地面の土までもが濃厚なダークグレー。
あらゆる存在が墨汁の風呂に浸けられている。何もかも入り混じって歪み並ぶモザイクな風景に、正気がガリガリと削られる。
「――――」
思わず、一歩、引いた。
目の前にあるのは、ただの粗末なプレハブ小屋。
扉の先にあるのは、暗く黒く歪んだ異世界の都。
……素人が作った合成画像みたいだ、と思う。
どう考えても、常人が立ち入るべき領域じゃない。
ここにあるのは、「ともだちをたすけたい」なんて、そんな小学生みたいな信念で立ち入っていいような世界じゃあない。
だが。
みとらちゃんの足跡は、迷う痕跡すらなくこの奥へ続いていた。
……畜生。なんてこった、ここで退いたら小学生女児よりもチキンであることが確定する!
〝あなたは、迷宮に足を踏み入れた〟
中に、入った。
空気が仄寒い。身体が震えそうになるのは低温ゆえだと思いたかった。
「…………」
本当に良かったのかと、疑問が頭を巡る。
しかし、仮に助けを待っていたところで、こんな一目見て分かる超常的な場所、公的機関はすぐに立ち入ってはくれないだろう。
みとらちゃんが危険な目にあっていることが百パーセント確定しているわけでもないのだ。まずどこぞの部署に連絡し、ゴタゴタと相談をして、その後に十分な調査をした上で、ようやくレスキューに入るはずだ。そんなもの、待っていられるわけがない。
国巻さんのような例外なら話は別かもしれないが、あの人は今入院中だ。流石に連れ出すわけにもいかない。
見渡せば、意外にも黒い世界は明るかった。
ほとんどの物が暗い色彩で統一されているために誤解したが、光量自体は日が落ちた外よりもむしろ大きい。
ダークグレーの天井を仰ぐ。
洞窟のような、黒い岩盤のそれ。照明らしきものは無いが、だとするとこの明るさの理由が分からない。
試しに、足元の黒い土をひとつまみ拾った。
普通の土と同じような感触だった。少なくとも、それ自体に「わけのわからなさ」は無いように思える。色が黒いのは……金属を多く含んでいる? 地学授業は選択していないが、恐らくはそんな感じ。
要するに、常識の範疇で説明できそうな黒色だ。材質に不自然さがない。
……いや、これ以上の分析は後回しだ。
注意するのは良いが、立ち止まるのはいただけない。
足跡を辿りながら、慎重に歩を進めていく。
歩きだしてみれば、少しずつ
ふぅ、と、ずっと浅く刻んでいた呼吸を深くする。
『――ガズロ』
直後、脇道から人間型の黒いナニカが飛び出して俺の呼吸は止まった。
『フェイクロゥダァアアアAAAAAAAAA――!』
「ウワー!」
襲いかかってくるソレの頭部に、ゴキィ! と咄嗟に振り回したスコップがクリティカル。「Excellent!」「すごいぞ!」「Tuyoi」「つよーい!」の文字が視界を踊る。やかましいわボケ。
〝会心の一撃!
首の折れ曲がった人間大の黒い
風船から勢いよく空気が抜けるような音。ナニカは心臓に排水口が出来たみたいに渦を巻いて収縮し――消失した。
跡には何も残らない……いや、収縮に巻き込まれて、地面が少し削れている。
……。……なん、だったんだ、今の?
〝Tips:
〝迷宮が発する力の塊。命や意思を持たない彼らは、大半が人型を取り、侵入者に敵対します〟
〝迷宮は理論上あらゆる事象を描写することが可能ですが、可能性の振れ幅が大きい存在は正確に描写できません(ヒトの受精卵が大人になった時の予想図を正確に描ける者が存在しないようなものです)〟
〝結果として、描写の失敗により発生するものが
いや……説明されてもわからん。もうちょっと噛み砕いて欲しい。なんというか融通が利いていない。
〝…………〟
拗ねちゃったっぽい。ごめん。
だが、とりあえずアレが敵で、命や意思の無いエネルギーのようなモノであることは分かった。
階層が上がると脅威度が上がる、という説明が気がかりだが、迷宮とやらには地下や上層があるという理解でいいのだろうか?
〝
……何やらむつかしいことを言っているが、要は階層があって、階段で上り下りするらしい。
曲がり角から少しだけ顔を出し、大通りのようになっている場所を覗き込む。
この様子では、他の場所にも同じように居るのだろう。
階層を上がる度にコレの脅威度が上がるというのなら、いよいよ
みとらちゃんが別の階層とやらに行く前に、早く見つけ出すべきだ。
警戒しつつ、しかし早足で彼女の足跡を追っていく。
みとらちゃんの偵察はかなりしっかりしていた。交差点の前では地面に複数の矢印が描かれ、それぞれに印が付けられている。
○印の先を進んでみれば、
少しずつ、奥に奥に進んでいく。
それにつれて、地面に物が落ちているのが目立ってきた。
鉄球。鉄板。鉄パイプ。
簡単な作りの鉄製品が、無造作にゴロゴロと置かれている。
何かのトラップかとも思ったが、そういうわけでもなさそうだ。遠くから適当な棒で突いてみても反応無し。
……まあ、持っていけば武器にはなるか。今なら、大した手間も要らないし、大荷物で困ることもない。
〝あなたは、鉄球を拾った〟
〝あなたは、鉄板を拾った〟
〝あなたは、鉄パイプを拾った〟
〝あなたは――〟
何度か物を収納して、分かったことがあった。
まず、この能力は「①収納したい物に一定時間触れ続ける」「②対象が重いほど必要な時間は長くなる」という制限がある。
この必要時間だが、対象の重量にきっちりと正比例しているわけではないらしい。
基本的にはおおむね1kgにつき1秒といった具合なのだが、どうも0.1kg以下と10kg以上で何らかのラインがある。
0.1kg以下なら必要時間がなくなり触れた瞬間に収納でき、10kgを超えると途端に必要時間が跳ね上がる。
詳細な仕様はまだまだ分からない部分が多い。後で詳しく検証しようと思いつつ、少女の足跡を辿っていく。
既に小走りで追っているのに、みとらちゃんにはまだ追いつかない。
そして――
「……クソ」
足跡はついに、地下横断歩道のような階段を下っていってしまった。
〝あなたは、階段を下りた〟
第二階層。
階段の下にも、ほとんど同じような黒色の洞窟街が広がっていた。
しかしここに入ってから、現れる
相変わらず黒い靄のような姿なのだが、その上に服を着ているのだ。
しかも、ガラの悪いチンピラのような格好。それらが、鉄パイプやナイフのような凶器を持って武装している。
……これが、脅威度が上がる、ということだろうか。
手から炎を出すおかしくなった同級生や、触れた物をバラバラにする日本刀女教師とは違う。わかりやすく、恐ろしい。
一般人である俺にとっては、むしろこういう低俗な危険の方が現実的に恐怖だった。単純に数体に囲まれればそれだけで終わってしまう。
見れば、道に落ちる鉄製品も、鉄パイプや鉄板から、ナイフ・包丁・
銃刀法違反……とは思いつつも、落ちている武器を回収しつつ足跡を追っていく。
〝あなたは、ナイフ(粗悪)[鉄製]を拾った〟
〝あなたは、斧(良質)[鉄製]を拾った〟
〝あなたは、包丁(粗悪)[鉄製]を拾った〟
〝あなたは、長槍(良質)[鉄製]を――〟
武装した
丁寧に分岐を確認し、最も安全なルートへと迷いなく歩んでいっている。辿っていけば、会敵することは全く無かった。小学生女児、優秀過ぎる。
しばらくして、足跡は大通りを突っ切っていく。
その場所だけはかなり危険だった。何体もの
だが、一人ならすり抜けられないほどではない。
帰る時にどうするかが悩ましいが、その辺りは後で考える。今はただタイミングを見計らい、一気に大通りを駆け抜けた。
しかし、その直後に。
〝警告:敵接近。停止してくださ――*おおっと*。回避不能。エンカウント〟
「っ?!」
そのままの勢いで次の通りまで駆け抜けようとした俺は、警察官の制服を纏う
『ガズロ。フェイクロゥダ――』
心臓が止まりそうになる。そこへ、迷いなく拳銃のトリガーが引き絞られた。響く銃声。
だが、初手が銃撃であったのはむしろ幸運だった。
〝あなたは、銃弾を拾った〟
胸元に飛翔した弾丸が、俺の学ランに触れた瞬間、虚空へと消える。
即座に、警察官の
まるで鏡で反射されたように、俺を撃った弾丸は自身の射手を撃ち抜いた。
〝警官
〝あなたは、
ところで、その技名のようなものは何だ。まさか、こういった応用法は既に名前が付けられるぐらいには確立されているのか?
〝
どこだよR2ボタン。
振り返れば、みとらちゃんの足跡は交差点の前で少し足踏みしている痕跡があった。
ゾンビのような
だが、この
撃ち方など知らないが、威嚇程度には使えるかもしれない。
急ぎ、俺は、黒い靄が握りしめるソレを拾おうと腰をかがめる。
〝警告:
ビクリと手を止めた。
次の瞬間、ギュルリと渦を巻く黒い靄。
拳銃が
「っ……」
銃身とスライド部だけが地面に落ちる。……とんでもない威力だ。あのまま触れていたら指の数本は吹っ飛んでいただろう。
本当に、助かっている。この「声」には既に何度助けられたか知れない。完全な信頼は出来ないにしても、ある程度信用するには十分だった。
〝弊機の性能はいかがですか? 星をタップして評価ポイントを入れてください。☆☆☆☆☆〟
表示された
しかし、この「声」があの副担任の敵対勢力?らしきノギス工業?の所属?だとして……あの副担任は一体どこのどういう輩で、何の目的で俺たちにこの力を与えたのだろう。
〝不明な人物は、所持武装および体表から計測された退魔効果より、ドミニオン系要注意団体・裏刀の派生団体であると推測されます。しかし、ドミニオン系所属者による
これも、すぐに説明出来ることではないらしい。
仕方ない。後で解説してくれるだけありがたい話だ。
気を取り直し、捜索を再開する。
と、そこで、警官
「……財布?」
移動しながら拾い上げ、手早く中を
一応、免許証のような物はあったが、写真や名前の部分などは黒い染みに塗りつぶされていた。人となりがわかるような情報は何も無い。
現金は二万と数千円ほど入っているが……仮にネコババしたところで使用出来るのだろうか、こんな怪しい金。
〝
そうなのか。じゃあ、まあ……ガメとくか。
〝あなたは、24000円を拾った〟
ともあれ、これ以上の油断は許されない。
いくらみとらちゃんの足跡が頼りになるからって、何も考えずほいほいと辿っていけば死にかねないというのは身に沁みた。
冷静かつ慎重になる必要がある。下手を打てば二次災害だ。ミイラ取りがミイラになっては意味がない。
銃声を聞いた
音を立てないようにし始めると、迷宮の中は思った以上に静まり返る。
上映三秒前の映画館だって、これほど無音にはならない。
音を立てるモノがほとんど無いのだから当然か、と思う――
ちょうど角を曲がったあたりで、警官服がいた場所から、ズシン。大きな物音が響いた。
もうやってきたか、とほんの少し曲がり角から顔を出して、来た道を振り返る。
そこには、
人身に牛頭持つ、ミノタウロス。
「……あ?」
神話みたいに、魔獣は在った。
もう何が来ても驚かないつもりだった。
超常的なモノなんて既に十分見たつもりでいた。
予想外が起こることなんて、承知しているつもりだった。
甘かった。
それは、今までの何よりも解り易かった。
解り易く、暴力的だった。
解り易く、脅威的だった。
解り易く、災害的だった。
そして何より、どうしようもなく解り易く――超常的だった。
まさに怪物。
あまりにも、あまりにも大きい。遠近感がバグりそうだ。巨木のような、小山のような肉質巨躯――バカな。そんなわけがない。それじゃあ天井を突き破ってしまう。ちゃんとよく見ろ、体長自体は二メートル強で、
分かっている。誰に説明されずとも
アレの規模は物理的な領域に収まっていない。俺の感じたモノが間違っているのではなく、これほどのモノを二メートル強程度のスケールで済ませてしまう三次元の方が壊れているだけ。最初に思った巨躯こそが、あのバケモノの真実だ。
物理空間に収まらない超常巨獣――それだけでもう十分だというのに、本能で脅威を理解したというのに、理詰めと常識で脅威性を否定することすらアレは許してくれない。
見れば分かる。ヤツが棍棒みたいに携えているのは、あろうことか対戦車級の
『ガズロ――』
一瞬だった。
ミノタウロスに襲いかかろうとしたチンピラ
卵の殻でも割るみたいに、頭蓋を握りつぶされた。
速すぎる。あんなの回避不能だ。アレの腕の届く範囲に入っただけで死ぬ。
『フェイクロゥ、』
階層全体を揺らす轟音。
怪物が持つ銃が一秒に十度瞬いて、次いでやってきた五体の
ガラガラと倒壊する瓦礫。もしあの家の中に居たのなら、生き埋めにされて終わっていただろう。
俺の手にした超常なんて、この純粋暴力に比べたら子供の玩具だ。
「……。■、ァ……」
呻くような声。それと共に、ミノタウロスの足元から、無数の兵器が
黒い土が渦を巻き、芽吹くように生み出される剣、槍、斧、鉄パイプ、ナイフ、ハンマー、ピストル、マシンガン、アサルトライフル、スナイパーライフル、アンチマテリアルライフル。あぁ、あの土の黒はやはり金属の色だった。ここに来るまでに落ちていた武器は、全てこの怪物が創っていたのだと理解する。
だが、脅威であること以外の何も分からない。なんだ、なんだ――何だ、アレは。
〝
耐える――? 無理だ。アレの存在を知覚するだけで死にそうになる。生物としての根源的な部分から怯えているんだ。理性や意地で耐えれるようなものじゃない。
〝外見はギリシャのミノタウロスに近似していますが、生物学の観点より、西洋ではなく東洋のウシ亜科であると判断。日本の牛頭人身であれば神仏習合の神である
声の長広舌を聞く余裕は無かった。
一刻も早くあの魔獣から離れようと、限界まで気配を殺して歩く。
どこだ。みとらちゃんはどこにいる。もう悠長なことはしていられない。俺はまだ油断していた。脅威がこれほどに脅威だったなんて思ってもみなかった。すぐに見つけ出さないと、本当の本当に何もかも終わってしまう。
「…………」
ズシン、ズシン。怪物の動きは無軌道だ。
視線を宙に彷徨わせ、意識は見るからに虚ろ。足跡なんて探してもいない。
なのに、その移動が、俺の進む方角と一致している。アレの本能が、にわかにこちらを捉えている。
「……はぁ、はぁッ……!」
ほんの少しの移動で、もう酸欠になりそうだった。
音を立てないように――そう思っていても、呼吸は要る。息が切れるのを止められない。
もういい。何も考えるな。ただあの子の足跡を追えばいい。他は無視だ。室久のヤツはきっと上手く逃げ出したのだと思い込む――アイツが妹を置いて逃げるわけが無いとか、そんなことは分かっているけれど――ここまで来ればもうあの子以外の何がどうなろうが知らない。親友の、頼みだ。これだけは、絶対に、
「――――」
足跡が、二つあった。
みとらちゃんのそれに交差するように。誰かの靴が、黒い土を踏んでいる。
続く先を見た。
――両足の折れた、見知らぬ男がうずくまっていた。
若い男。大学生ぐらいの。常時ならやや軽薄に感じそうな服は薄汚れ、顔は苦痛と涙に歪んでいる。
それが、こちらに顔を向けた。
「た、たすけ」
ふざけるな。
ふざけるなよ、見て分かるだろうが。こっちだって精一杯なんだ。恐怖を必死に抑えて、自身の命さえどうなってもいいと友人の妹のために奮闘しているんだ、余裕なんて無いに決まってるだろうが!
知るか。知るか知るかもう知ったことか。なんでこんなところでいきなり無関係な第三者が出てくるんだ。予兆も伏線も無かったじゃないか。そんなの手に負えないし手に負う義理も無い。どうでもいい人間がどうでもいいところで死ぬだけのことなんてどうでもいい。俺はヒーローでも何でもない、自分の知り合いだけ守れればそれでいいだけの、ただの高校生なんだよ……!
俺は俯き、顔を逸らす。
そこが彼の分水嶺だった。
「助けッ――!」
「■■■■■■■■■■■■――!!」
懇願の叫びを塗りつぶすように怪物が吠える。
明らかに、ミノタウロスは青年の悲鳴を捉えた。
まるで隕石みたいに超重量の威圧感が近づいてくる。
彼はもはや半狂乱だ。必死になって泣き喚き、こちらに詫び謝り、最後に恨みと怒りをぶつけてくる。
そんなやかましい生き物を、魔獣が見逃すはずがない。
無意識に、良い
何もかもを無視して走る。
警戒することをなくしてしまえば、みとらちゃんは思った以上にあっさりと見つかった。
見つけ出した少女がびくりと震える。しゃがみ込んでこちらを伺う彼女は、土に汚れてこそいるが傷も何も無い。それは、この状況で真実本当に有難い救いだった。
「く、
「逃げるぞ、みとらちゃん」
「あの、さ、されどまだお兄ちゃんが、」
抱え上げ、口を塞いで、顔を俺の胸板に埋めさせた。
少女はもがいて抵抗する――構わない。この程度の重量、一分もかからず『収納』できる。
いける。この子一人なら確実に迷宮の外に連れ出せる。
〝推奨:救助対象の意思確認〟
黙れ。全部俺が勝手にやる。こんな小さい子に選択させるな。責任を押し付けてたまるか。見殺しの罪悪感なんて、俺一人で抱え込んでいればいい。
〝救出を中止する場合、
うるさい。確かにお前は助けてくれた。感謝もしてるし礼だって言える。だけどこっちは、最初から一言たりとも「助けてくれ」なんて言った覚えは無いんだ。手助けを止めるというなら勝手にすればいい。
〝
あんなのただの理想論だろうが。何を言ったところで優先順位は結局ある。全て拾うことにこだわって、何もかも失くすなんて許されない。どれだけそうしたいからって、実際にそうできるわけじゃない。
〝――
……俺の気持ちなんてどうでもいい。俺がそうしたいからって、この子を無謀な賭けにベットしていいわけが無い。
〝ならばこそ、少女の意思を確認すべきです。その感情は、あなた固有のものではありません〟
出来るわけねえだろ、この子だけは確実に助けられるんだぞ。室久だって、自分がどうなろうが妹だけはって思ってるはずだ。本人にどれだけ恨まれたって、この子だけは助けなきゃダメなんだよ……!
〝それではあなたが報われません。人助けに苦痛を覚えるのは間違っているはずでは?〟
だから、俺の気持ちなんてどうでもいいと――
〝
思考を遮るように、声は言う。
〝救ってください。そして、救われてください。真の正道に涙は不要なのだと、
「…………」
命を取捨選択することは、間違いなんかじゃない。災害現場に携わるレスキュー隊員だって、大量の急患を抱えた医者だって、マクロな視点で見れば大勢の人生を左右する政治家だって、それが最善でないと知りながら、より大事な方を生かす決断をする。
現実的に常識的に、俺の方が絶対に正しい。
あんなバケモノが迫ってくるのを目の当たりにして、見知らぬ第三者まで助けようとする方が絶対に間違っている。
冷静かつ慎重になるべきだ。
下手を打てば二次災害だと知っているだろう。
ミイラ取りがミイラになっては意味がないと確認したはずだ。
だが。
その声が、あまりにも真摯過ぎて――
「……頼む……」
気づけば、少女を抱える腕から力が抜けていた。
わずかに解放されたみとらちゃんが顔を上げる。
俺は言った。
「お願いだ、
言ってしまった。
「――うん、助けて。というか、みとらはさいしょから空間さんがみんな助けてくれるとおもってたので」
当然みたいに、みとらちゃんは答えた。
本当に分かっているのか不安になるような、軽い声。
しかしもう関係がなかった。やるしかない。やるしかないのだ――この子にこう言わせてしまったからには。
相応の責任を、果たす他ない。
「……少し狭いかもしれないけど、我慢してくれ」
〝あなたは、少女を拾った〟
みとらちゃんの姿が消える。
得体の知れない亜空間に小学生女児を放り込んだことになるわけだが、しかし。
俺には、この能力が何かを守るための物だという確信があった。
今まで使っていた空間より少し『深い』場所に、少女を埋める。
これで、俺が死なない限り、彼女を傷つけられる存在はいなくなった。
「■■■■■■■ォ……」
眼の前には、恐怖を撒き散らす神話の魔獣。
自分でも気づかないぐらい自然に、俺は一度見捨てた犠牲者の前で立ち塞がっていた。
今から始まるものこそが、俺にとって最初の戦い。
戦わなければ殺されていたこれまでとは違う。
紛うことなき己の意思で、俺は本物の怪物へと駆け出した。
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第3層「奇跡が起きなければ殺されるだろう」
作戦など無い。
ただ全力で、怪物に向かって駆けていく。
〝アシストレベルを引き上げます。負荷の上昇に注意してください〟
視神経に走る痛み。眼球が熱く、充血する気配。
それと共に、視界に大量の情報が浮かび上がる。
レーダーやマップ、相手との距離のような、俺にも分かる基本的戦闘情報。そして、
「■■■■■……!」
蹄が地面を踏みしめる。
魔獣は、その中から一際大きい長銃を引き抜いた。重機みたいな音を立てて、ミノタウロスが両手に重火器を構える。
常識破りの
避けはしない。あえて浴びるように身を晒す。
元より、これ以外に策などない。
見上げるような化物が、シュウ、と口から蒸気を漏らした。
極限の集中の中、絞られていく引き金。
来る。来る、来る、来る――!
――轟。
世界を掻き毟るような銃声の二重奏。
嵐の如き銃撃豪雨が、俺の体へと突き刺さり、
〝あなたは、銃弾を〝あなたは、3個の銃弾を拾〝あなたは、5個の銃弾を拾っ〝あなたは、9個の銃弾を拾っ〝あなたは、13個の銃〝あなたは、18個の銃弾を拾っ〝あなたは、25個の銃弾を拾〝あなたは、32個の銃弾を拾った〟〝あなたは――〟
〝――あなたは、
そのまま、自らの射手へと跳ね返った。
賭けに、勝った。
俺の身体には傷一つ無い。空気を裂く衝撃波ごと銃弾を『収納』し、ヤツに向けて跳ね返した。
やった。やったはずだ。頼む通用してくれこれで無理ならもうどうにもならない頼む――!
「『■■■』」
さらり。
銃弾は、怪物に触れた瞬間、塵になった。
「クソが!」
当然ながら損傷無し。わずかに眼を見開いていたような気もしたが、それだけだ。動揺すらしていない。
苛立ちのままにシャベルを投げつけた。
柄まで金属製のそれを、ミノタウロスは避けもしない。俺に通用しないと分かった重火器を捨て、空いた手で羽虫を払うように脆弱な飛び道具を弾く――
直感だが、恐らくヤツも『重量』だ。土に含まれる金属粒を加工したり、その逆に数十グラムがせいぜいの銃弾を金属粒に還すことは出来るが、今投げたシャベルを金属粉にしたり、重火器を別の白兵武器に加工したりはしない。なら、ある程度の重量があればすぐには加工できないと見た。
ならばこれは通じる。いや、今の作戦が通用しなかった以上、後はこれに託すしかない。
無手のまま突撃した。
相手も、武器作成は連続して行えないのか、あるいはこちらを舐めているのか、ゆらりと巨大な掌を伸ばしてくる。
互いに素手。しかしリーチの差は歴然。先に届くのはあちらの方だ。何せ単純にサイズが違う。
要は間合いの問題。――それならこちらが先に届く。
早すぎても遅すぎてもダメだ。
巨腕の射程距離に入る直前に。
俺は、長槍を『取り出し』た。
「――――」
何も無い所から武器が出てくるのは、流石にヤツも予想外だったらしい。
一瞬の停止。
狙い過たず、穂先は怪物の胸元に突き刺さった。
「……っ」
しかし、それだけ。ほんのわずか一センチ突き刺さるだけ。それ以上は進まない。まるで岩を突いたかのようだ。俺の腕の骨の方が痛む始末。硬度がそもそも生物のそれではない。
「■■■■――」
元より、存在としての格が違った。
かすり傷を付けるだけのひ弱な人間に、今度こそ魔獣の掌が迫りくる――
――ところで。
俺の能力だが、炎を浴びても銃弾を浴びても服は無事な様子を見るに、どうやら俺だけでなく、俺が身につけている物も俺の一部として『収納』能力を持つらしい。
だとするなら。
俺が身につけている物が俺と同じ能力を持っているとするのなら。
それには『収納』する能力だけでなく、『取り出す』能力も当然にあるのではないだろうか。
「■ッ、ガァアアアアアアアアッッ!?!?!?」
仮説は無数の刃の発生により証明された。
僅かに食いこんだ槍の先から『取り出さ』れる、短剣包丁刀鉾槍長剣長槍三叉槍。
魔獣の背中を突き抜け、血の噴水と共に咲き誇る武器の華。
人智及ばぬ怪物が、初めて生き物らしい叫びを上げた。
〝あなたは、
しかし、俺への反作用もゼロではなかった。バトルモノなら空間属性の技は防御無視というのがお決まりだが、俺の『取り出し』は単純に強い力で障害物を押し退けているだけのようだ。穂先から生え出した武器の勢いに、反対方向へと弾き飛ばされる。
「っぎ……!」
ろくに受け身も取れず地面を転がった。
だが、やった。確かに心臓を穿ち貫いた。確実必殺致命傷。
これで、と、確信のままに立ち上がりながら振り返り、
「な」
怪物の拳が、寸前まで迫っていた。
〝あなたは、悲痛な叫び声をあげた〟
土手っ腹で爆発が起きたかと思った。
五臓六腑が揺れる。視界に赤い色が混じる。バラバラになりそうな衝撃が、鳩尾から末端まで響き渡る。
酩酊、酩酊、酩酊。痛みより苦しみより先に吐き気がした。絶叫混じりに吐瀉される血。
「おげ、っが、ば、ぁ!? あ、っぎ!?」
何も考えられない。何も感じられない。脳が全く役に立たない。気持ち悪い、苦しい、痛い。
ガシャン。咄嗟に腹から『取り出し』て盾にした鉄板と、クッション代わりに挟んだ段ボールが地面に落ちる。
防御が間に合ったのはただの奇跡だ。即死は、即死だけは避けられた。だが、もう、無理だ。立てない。いや、立つどころか指の一本さえ動かない。もはや可動する部位は眼球だけだ。
脅威を見上げる。ミノタウロスは十メートル近く離れた場所にいた。今のパンチで、それだけの距離をふっ飛ばされたのだと理解する。
ダメージは、あった。
俺が放った攻撃は確かに致命傷だった。
怪物はふらつきよろめき、瀕死という言葉が相応しい状態だ。
だがその怪物は、出血量が増えることも
「■ッ、■ァア――」
ベキボキゴキガキグキ、と、唇を裂きながら強引に刃を咀嚼する。鋼を噛む。鉄を食う。そして――喰らった分で補填したかの如く、胸の穴が塞がっていく。
瞬きの間に回復は完了した。
完全に傷が無くなる。どころか、その肌は鋼の色を帯びて、硬度を増したようにさえ見えた。
〝――兵主神『
頭の中で、声が響く。
〝人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持ち、石や鉄を喰らったとされる中国の魔神。
戦の神であり、ある書では「この世の優れた金属の武器は、全てこの神に造り出された」とも語られます〟
〝現在表示できる情報数:3。
一つ。それは、金属の武装を錬成する。
二つ。それは、金属を食らって回復する。
三つ。それは、金属を食らう度に硬質化する〟
なん、だそりゃ……。じゃあつまり不死身ってことじゃないか。ここの土、全部が金属含んでるんだぞ。使い切らせろとでも言うつもりか……?
〝
なら、結局無理じゃねえか。いや、そうでなかったところで、俺は、もう――
〝推奨:気合〟
急な精神論やめろ。
〝
好き勝手言いやがって……! こっちだって踏ん張ってはいるんだよ……!
力の入らない俺に、鈍い足取りでミノタウロス――いや
黒土の凝縮と共に錬成されていく長大な破壊の斧。振り上げられる鉄塊が、俺の身体に影を落とした。まずい、死ぬ。
だが、斧はそこでピタリと止まる。
困惑する俺。
ただ、苦悩に悶えるように顔を歪める。
歪めて、歪めて、歪めて――、歪まりきって変形する。
「■、■■ァ、ぎっ……! ぐ、ぅ、
変形した果てに現れる――人間の、顔。
「
十日ぶりの親友の顔。
理解する。つまり、そういうことだ。こいつもあの四人と同じだ。あの副担任によって化物に変えられた内の一人だった。
「あ、あァ、頼、む、空間――」
「分かっ、てる……! 大丈夫だ、どうやって助ければ――」
「――殺してくれ」
は?
「頭だ……脳を吹っ飛ばせば、死ぬ、死ねる……! だから、」
「ナメたことほざいてんじゃねえぞ馬ッ鹿野郎がァアアアアアアアアアアアア!!」
いつの間にか、勢いよく立ち上がって馬鹿の頬に右ストレートを叩き込む俺がいた。なるほど、確かに気力の問題だ。
「何が殺してくれだクソボケ! これ以上おかしくなる前にとかそういうアレだろンなモン気合でどうにかしとけこの根性無しがァ!
「テメ、こ、の、馬鹿、空■、■■■■■■――ッ!!!」
埋没するように
今度こそ振り下ろされる長大な斧。それを、表示されていた攻撃予測線を頼りに一瞬早く回避した。そのまま、斧での連撃を気合で躱す。
飛び退く俺。唸る
鈍重な斧では捉えきれないと判断したのか、一度捨てて新しい武器を造り始めている。ほんの数秒、余裕が生まれた。
しかし実際問題どうする。どうすればアイツを殺さず無力化できる?
〝難易度は
答えなんて決まっていた。
〝了解しました。以下、攻略のヒントを表示します〟
〝方法自体は簡潔です。殺さずにダメージを与え続ければ、迷宮主:
〝それは、回復するほど硬質化する。しかしノーリスクではありません。先の硬質化以後、柔軟性の低下による速度低下を確認。このまま
なるほど、確かに簡潔だ。
後のことは考えない。今は室久の無力化だけに集中する。
アイツの身体を
生命質量とやらの意味は分からないが、「HP」のルビが振ってある以上はつまりそういうことだろう。これが室久の残り体力だ。
先の一撃で減ったHPは5%。なら最低でもあと十八回、さっきと同じだけのダメージを与える必要がある。
室久が長剣を両手に構え、猛牛の如く突進してくる。
急接近する破滅的威圧感。この爆走に比べれば、暴走トラックの方がまだ穏やかだろう。
――これを相手に、あと十八回。
「上、等――ッ!」
ギリギリまで引きつけ、飛び退く。
直前、足元の土を数キログラムほど『収納』した。
〝あなたは、土を拾った〟
「■ッ――!?」
要は即席の落とし穴だ。大した大きさじゃないが、足を取るには十分なサイズ。
バランスを崩したヤツに向けて反転し、長槍による刺突からの『取り出し』攻撃を放った。再度咲き誇る武器の華。
〝あなたは、
「グ■ァアアアアアアアアアア!!」
「耐えろ室久ァアアアアアアア!!」
迸る血と刃と絶叫。
ヴン、と苦し紛れに振り回される左の長剣を、『取り出し』た鉄板でガードした。攻撃予測線を頼りにどうにか受け流したが、それでもなお染みる斬撃。右腕の皮膚が弾け、肉が裂け、骨がひび割れる。
「知ったことか……ッ!」
次いで迫り来る右の長剣。
邪魔な長槍を弾き飛ばそうとする一撃に、俺は渾身の力で飛ばされまいと堪える――ように見せかけて、打ち合う直前に長槍を『収納』する。
「■――ッ」
空振る斬撃。俺はナイフを『取り出し』て、室久の懐に潜り込もうとする。
間合いを詰めての近距離戦に、室久は剣を捨てて対応しようとし――
「学習しねえな脳筋野郎!」
「■■、■ッガァアアアア!?」
即座にナイフから長槍へ切り替えて、中距離からの突き。三度炸裂する『ブレイドブルーム』。
俺は反作用に弾き飛ばされるまま後退し、これ見よがしに様々な得物を一秒単位で切り替える。リーチの概念は既に失われた。
〝あなたは、
残り83%。
室久は貪るように武器を喰らう。完全回復の後、さらに光沢を増して鋼の色に近づいていく皮膚。
しかし、動きは眼に見えて鈍くなっている。再度の突進が来るが、そろそろ回避にも慣れてきた。常人よりはよほど速いが、アシストによる攻撃予測があれば躱すことは出来る。その上、ヤツは次々とリーチを変える武器に気を取られ、下手に近づくことを躊躇っている。
〝あなたは、
続け様に奇跡を起こした。残り36%。
やれる。押し切っている。優勢なのはどう考えても俺の方だ。
「――――。■■、■乱」
だが。
それまでろくに人語を発さなかったアイツが、何かを唱えた。
「
鉄分を奪われ、本来の茶色に戻っていく周囲の土。反して、室久の足元へと集まっていく深い深い漆黒。
そして、凝縮した暗黒から無数の鉄杭が飛び出した。
「ぎっ、がぁッ!?」
室久を中心とした大物量の全方位攻撃。
全力で飛び退いたが、避けきれない。足の肉をいくらか削がれる。
攻撃は終わらない。
凝縮した黒は
「
室久が浮かぶ黒を掴み、こちらへと投擲した。
不定形の砂鉄蛇が、自身を加工しながら流星の如く飛翔する。その果てに生まれるのは、群れを成して襲いかかってくる幾百の短剣の雨。
回避は不可能だ。ここまで『収納』してきた中でも一際大きい鉄板で全身をガードする。
絶え間なく五体を鞭打つ衝撃の中、視界に映る戦闘情報がヤツの接近を予見した。自ずから視界を塞いでしまった俺に、室久が凄まじい勢いで近づいてくる。
どこから来る。右か、左か。それとも下か。
いずれでもなかった。
長大な破壊の斧が、俺の頭上で振りかぶられている。
「このッ――!」
全霊の防御。もう二度と出せないほどの全力を振り絞る。
受け流しは完璧だった。村雨空間という人間が本来行える百パーセントすら超えた、限界突破のベストパフォーマンス。
だがその上で、右腕をへし折られた。
斧が地面を叩く衝撃だけで、軽く三メートルは吹っ飛ばされる。
室久は、蚩尤は止まらない。アイツの肩から腕のように伸びて浮かび上がり、とぐろを巻く砂鉄の蛇。超常にて補われる行動速度の低下。
構わない。走り寄った。
蛇がこちらに迫り来るが、それを迎え撃ち、包み込むように毛布を『取り出し』振り回した。
〝あなたは、砂鉄を拾った〟
そう、流体ならこうやって無力化出来る。
武器を失った室久に、片手で槍の連撃を叩き込んだ。
「ご、ガ、■ァアアアアアアアッ!」
残り9%。
もし室久が正気なら、こうはいかなかっただろう。本当のあいつは空手の経験者だし、俺よりよほど喧嘩慣れしている。いくら俺に収納能力があったところで、こうまで見事に出し抜くことは出来なかったはずだ。
既に室久の速度は俺と同域にまで落ちていた。あと一撃、叩き込めばそれで終わる。
これまでの十数回と同じように、槍での突きを放った。
この刺突によって、ヤツを完全に無力化し――
「――な、」
「■■■■■――」
「くっ――!」
〝あなたは、
刃の群れを放つ。しかしダメだった。これを使っても傷一つつけられない。
武器の華はあえなく散り、身体が無意味に後方へ弾き飛ばされる。
どうすると悩む暇もなく、室久の身体にさらなる変化が起こる。
密度を高めるかのように、二メートル強に膨れ上がっていた室久の身体が圧縮されていく。
出来上がったのは、十日前に見た室久と同じ、百八十センチ程度の引き締まった体躯。
静かな動きで取られる姿勢は、見紛うはずもない。
肉体に染みつけられた流れる歩法で、室久がこちらに近づいてくる。
繰り出される拳撃を躱す――が、何だこれは。
今までと違い過ぎる。速度だけなら最初の方がよほど速かったはずなのに、ありえない。
アシストの攻撃予測さえ追いつけない。武器のリーチ差さえ問題にならない。一手毎にこちらを追い込んでいく、詰め将棋のような技量の冴え。
五手目で、追いつかれた。
今まで造っていたどんな武器より鋭い回し蹴りが、折れた右腕に叩き込まれる。
「がッ、あ!?」
咄嗟に『取り出し』た鉄板の防御など、あまりにも軽く貫かれた。
折れた右腕をさらに砕かれ、サッカーボールのようにかっ飛ばされる身体。
「ぎ……ぐ、ッ……!」
気合を振り絞って立った。立てはした。
だが、もはや右腕は完全に使い物にならない。動くのは指ぐらいのものだ。
そして、こちらの攻撃は効かず、あちらの攻撃は防御も回避もろくに出来ない。
勝ち筋が、無い。
「――――」
少しずつ迫ってくる魔獣の武人。
考えろ。要は、攻撃力だ。わずかにでもアイツの皮膚を貫くことができれば、『ブレイドブルーム』は圧力によって効果を発揮する可能性がある。
ならば、アレを使うしかない。
室久に向けて突撃する。互いに走り寄る俺たち。
激突の直前、毛布を投げた。
「――――」
当然、ただの目くらましにしかならない。すぐに毛布は払われる。
だがその間際に、ヤツの横を走り抜けた。
追ってくる室久。最初ならすぐに追いつかれていただろうが、今ならば速度は同等。そう簡単に捕まりはしない。
そして目的地にたどり着き――地面に転がっていたライフルを、渾身の力で持ち上げた。
適当な紐を取り出し、壊れた右手にどうにか固定する。
分かっている。今の室久に弾丸は効かない。俺が弾丸に触れた瞬間に『収納』するのと同様、触れた瞬間に分解される。それは分かっている。
だが。
室久に槍を突きつけている、この状況。
「
来る。
やはり、今の室久には本能と技はあれど知性が無い。警戒をしていない。だから勝てる。
そして俺は――
〝あなたは、銃弾を拾った〟
〝あなたは、
銃を握った事も無い高校生に、槍の石突きを狙って弾丸を当てるなど土台無理だ――それでも、これならば当たる。
怪物用に作られた銃の反動で、右腕が完全にぶっ壊れたが構わない。
端を握って突き出した槍の底面に、掌から飛び出した弾丸がぶち当たる。足りない攻撃力を補填する。
「■ッ――!?」
刺さった。
残り
室久は、必死になって俺に手を伸ばすが――もう遅い。
「踏ん張れ室久ァ!」
〝あなたは、
残りの武器全てを、この一撃にぶち込んだ。
「グ――、ガッ、■ァアアアアアアアアアア!!!!!」
刃の華が、硬質化した身体を貫く。生命質量を削り飛ばす。
ドサリと倒れる室久。瀕死の身体で、必死になって刺さった武器を抜こうとしている。
「■っ、ガ■ァ……!」
「死ぬな……」
「■、■、■■■■……!」
「死ぬな室久ァアアアア!!」
痙攣しながら室久が鉄を喰らう。刃を喰らう。
少しずつ傷がふさがり、肉体が硬質化し――そして。
「■……、」
動きが、止まった。
「……すま、ねえ。助かった」
いつの間にか、倒れ伏す顔は、いつもの友人のそれに戻っていた。
〝あなたは迷宮を解放した。
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第4層「*The heroine appears.(前)」
ヒロインが とびだしてきた!▼(挿絵あります)
勝った。
疑いようもなく、俺は勝利した。
これほど疲労したのも、流血したのも生涯初。特に、右腕のダメージは酷かった。もう全く感覚が無い。一秒後に千切れ落ちていたとしても、少しも不思議とは思わないだろう。無事な左腕だって、ほとんど力が入らないほど疲労している。
このまま、何も考えずに崩れ落ちてしまいたかった。しかしそうしたが最後、一瞬で意識が途絶えるのは間違いない。
休息を必死に堪えて、動きを止めた室久に問いかける。
「……正気に戻った、ってことでいいか……?」
「いや……気を抜くとまだ、■ッ、ダ、メだ……」
数秒置きに、友人の顔が怪物のそれに変わりかける。
どうやら、出来たのは無力化だけらしい。この異常な状態そのものが無くなったわけではないようだ。
まだ気は抜けない。
「げぶっ――、」
そう思ったがその瞬間、咳とともに血を吐いた。
いい加減に身体が限界だった。正直、気合だけで立っている。
傍から見ても、酷い有り様なのだろう。倒れた姿勢のまま、銅像みたいに固まった室久が言う。
「――許して、くれ……、許してくれ、なんでだ、なんで、こんな、俺に……なん、で……」
ぐしゃぐしゃな表情。捩じ切れそうな声。
危険なバランスだと思った。
今にも心が崩れそうに見えた。
当然と言えば当然。身体がバケモノになって、自分の意思ではどうにもならないまま人を殺そうとして、実際に友人をズタボロにした直後だ。普通なら錯乱する。
安心させるべきだった。
「……気にするなよ、結局、全員無事だ。取り返しがつかなくなる前で良かっただろうが」
安心させるつもりだった。
「けど、お前――」
だから、軽く手でも振ってやろうとして。
「気にするなって。別にこれぐらい、一生モノの怪我でもな、」
二の腕から先が、落ちた。
「――――」
安っぽい玩具みたいにあっさり。
地面に落ちた自分の右腕を、真っ白な頭で見下ろしている。
正直、分かっていた。
まだ何とかなると、必死に目を逸らしていた。
とっくに取り返しがつかないのに、見て見ぬふりをしていた。
無意識に理解していた俺。
唐突に最悪を浴びせられた室久。
「あ、」
「待、て、室ひ――」
「ァアアア■ア■■■■■■■■■■■!?!?」
先に均衡を崩したのは後者だった。
凝、と。
地面の、天井の、建物の。空間全ての黒色が、まとめて室久へと凝縮していく。
工業機械みたいな音を立てて摩擦する金属粒。莫大規模の静電気により、いたる所で放電が発生した。
飛び散る火花の中、中心である室久が鋼鉄の渦を纏って黒く。黒く、黒く、どこまでも黒く。漆黒の超常そのものへと変容していく。
〝Tips:暴走〟
〝
唐突に、声が途絶えた。いや、声自体は聞こえているが、そこにあった何かが失われた。
だが、そんなことはどうでもいい。
「ふざ、けるなよ……」
ただ、怒りがあった。
勝ったのは俺だろう。勝利したのは俺だっただろうが。今更ひっくり返すなやめろ。こんな理不尽があってたまるか。
この現実だけは認めない。この結果だけは許容しない。
胸中に激憤が満ちていく。許せないという意思だけが、心の外まで溢れ出す。
お前もお前だ室久。何をショックなんぞ受けてやがる似合わねえ。居直れ。罪悪感なんて感じるな。お前は何も悪くなんかない。全人類が糾弾したって、お前の罪なんか認めねえ。そんなモノを抱えはさせない。
だから。
「さっさと――、」
右腕の断面から、純白の何かが滴り落ちた。
血のように白が噴き出す。不定形の何かが腕の形を作る。そしてその内に――白亜の回廊を覗かせる。
〝不確定名:不思議な次元(特別)は、★自律迷宮『白亜回廊』だと判明した!〟
詳細など知ったことではない。
今、重要なのは、この馬鹿をぶん殴れる拳が有るという事実。
「――起きろォッ!」
白亜の右手が、超常の中心に突き刺さった。
〝あなたは、邨碁ィ灘?、繧堤?エ螢翫@縺――〟
黒い暴走が止まった。
吹き荒れる砂鉄の渦が、力を失くして地面に落ちた。
砂の山に埋もれる室久は、完全に意識を失っている。
俺に発生した謎の白色も、今は痕跡さえ無い。
右腕の断面では、血も垂れず、ただ金属の部品のような物が覗いているだけで――いや、待て。
「……何だ、これ」
断端に埋められた、筒のような金属部品。
まるで別の
こんなの、俺は知らない。
地面に落ちた右腕を拾い上げた。
やはり、というべきか。その断面にも、プラグのようなパーツ。
「…………」
〝デバイスが接続されました。
音が鳴った瞬間に肉が蠢く。『継ぎ目』が分からなくなる。神経が繋がり、ボロボロになった右腕から、気を取り直したような激痛が伝ってくる。
「義、手……」
……なのか? 今更こんな常識的なことを言うのもバカバカしい気はするが、どう考えても二十一世紀の技術で作れる物じゃない。
そもそも、なぜ俺の腕が義手になっている。別に、腕を失った覚えなど無い、はず、だが――、
「――っぐ」
その時、室久がうめき声を漏らした。
目を開けた室久は、
「いや、お前動けないはずじゃ、」
「
「どこって……」
「映画のスタジオなんかじゃねえよな?
真面目くさった顔で、室久はそんなことを言った。
「……なあ、今日、何日か分かるか?」
「六日、じゃ、ないっぽいが」
「ああ、二十日」
やっぱり、そうだ。二週間前、火事が起こってから今日までの記憶が失くなっている。
単純に、ぶん殴った時の衝撃で記憶が飛んだとは思えない。迷宮主とやらが気絶すると記憶を失う仕組みになっているのでなければ、恐らくはさっきの――白い右腕の影響か。
「……ずっと寝てたか記憶喪失かのどっちだ、俺」
「記憶喪失。理解が早くて助かる――っても、お前はずっと失踪してて、今日やっと見つけたところだから、お前が記憶失ってる間のことは分からん」
何があったか思い出させる必要は無いと思った。努めて平静簡潔に、事務的な情報伝達を済ませていく。
「なら、他の奴らはどうなった? あの後、何が……いや、それは後でいいか。ここ、明らかに普通じゃねえだろ。お前一人で来たのか?」
「あっちに足折れて動けない人が一人と、みとらちゃんが来てる。今出すよ」
左手を上げ、みとらちゃんを『取り出し』た。虚空から突如現れた彼女に、室久が軽く瞠目する。
「んな……お前、今どこから、」
「む、お兄ちゃん。三日間もいずこをさまよっておられたのか。あまりみとらを心配させないでいただきたい」
「お、おお。悪ぃ」
「
その言葉に、俺と室久の眉がぴくりと上がった。
「……みとらちゃん、今日、何日か分かる?」
「とうぜん。
黄色の通学帽を斜に被って、びし、と少女がポーズを決めた。
「
「……七日分の、記憶が無い」
「?」
みとらちゃんがきょとんと首をかしげる。
「どういうことだ……? みとらにも何かあったのか?!」
室久が問い詰めてくる。
だが、これがこの迷宮の影響で無いとしたら、心当たりなど一つしかなかった。
「収納能力の、影響……?」
何かを守るための力だなんて、俺の思い込みにしか過ぎなかったのか。
いや、それとも。そもそも物を『収納』する能力なんかじゃなかった?
だとしたら、火事に遭った俺含む十六人の記憶が無いのも、あるいは――。
「……っ」
黙り込む俺に、室久が気を取り直すようにかぶりを振った。
「いや、いい。とりあえず、今はここを出るのが先決なんだろ?」
「あ、ああ。室久は、さっき言ったあっちの人を頼む」
頷き、室久が足の折れた男性の元に向かっていく。
見送る俺に、みとらちゃんがくいくいと袖を引いた。
「空間さん、空間さん。お兄ちゃん、ぶじ見つかってよかったですね」
「――そう、だね。うん、それはそうだ」
そうだ。色々あったが、少なくとも当初の目的は完全にクリアした。
みとらちゃんは無事。室久も無事。他に居た被害者も無事。疑いようもなく、最善の結果だ。
記憶の喪失も、結局は数日間。罪悪感はある。あるいは人生を左右する思い出が詰まっていたかもしれない数日間だ。それを奪ったかもしれない、という気持ちはどうしたって消えない。この後も、大小種々の問題は起こるだろう。
だが……だがそれでも、少なくとも、命の代償として考えれば破格のはずだ。
勝った。
疑いようもなく、俺は勝利した。
――なのに晴れないこの不安は何だ?
何かが迫り来るのを感じる。
さながら、大きなイベントが始まる五秒前。
主張を強める環境音。
不自然に減少する情報量。
唐突に操作の効かなくなる自分。
口では言い知れようのない運命の予兆。
それが、すぐ。
そこまで。
迫ってきている――。
「チュートリアルは済んだかな少年少女。では初めまして
それは来た。
長身の、男。外国人であることは分かるがモンゴロイドにもコーカソイドにも見えない人種不明。長い黒髪に真っ赤な瞳。タイトな黒いズボンにスポーツ選手みたいな薄手のインナー。
出で立ちだけならどこにでもいる若者のようだった。実際、歳の頃は二十代程に見える。
若々しい。瑞々しい。
しかし――どうしようもなく、古々しい。
これを何に例えればいい。果てることなく生長を続ける古代の樹木。遥かな過去から噴き上がり続ける永劫の活火山。
男は、そんな現在進行系の生きた太古だった。
〝第四超越『アインソフ=ヨルムンガンド』[職業:超越主](距離 6) - "瞬殺されるだけだ。巨人と蟻ほどに格が違う" -
視界に乱れ散る無数の〝ATTENTION〟〝CAUTION〟〝WARNING〟。逃走を促す声が、頭の中で無限に響く。
〝遥か古くより生きる真に不死身の迷宮主だ。最強の主である
しかし逃げようにも逃げ出せるほどの隙がない。コツリ、足音を立てて一歩。男がこちらに近づいてくる。
「どうした、少年。好きに行動して構わんぞ。相対するなり逃走するなり問いかけるなり、出来ることはいくらでもあるだろう。ただ呆然と私のような未知に身を委ねて良いのか?」
馴れ馴れしく語りかけてくる男。それに対し、困惑した様子のみとらちゃんを背中に隠した。
「……あの副担任の仲間、か?」
「そうだな、アレなら私の部下だ。まあ不始末をつけに来たと思ってくれれば良い」
男が自然な動作でこちらに指を向ける。
そして、真紅のレーザーが放たれた。
予兆が無かった。あまりにも何気なさ過ぎた。
きっと皆思っているだろう。人が人を殺すなら何か
もはや日常動作だ。攻撃は速かったが、それとは別の次元で回避が出来ない。
何も抵抗出来ず赤い一撃が俺の身体に突き刺さる。
〝あなたは、血を拾った〟
どぱっと冷や汗が噴き出した。
死んでいた。収納能力が無ければ間違いなく死んでいた。真っ向から不意を打たれて殺されていた。
「ふむ。ビーム状ならあるいはと思ったがやはりか。まあ
何事もなかったかのように、興味深げな顔で男が問いかけてくる。だが「答えるまでは殺されない」という保証など間違いなく無い。思わず、左手でボロボロの右腕を掴んだ。
「なんだ……テメェ一体何が目的だ……!」
「ああ、悪いがそう大した野望を抱いているわけではない。簡潔に言ってしまえば兵力補充だな。君たち十六人に私の手助けをしてもらおうと思ったわけだ。君らの副担任が失敗したせいで中途半端になったがね」
分析する。さっきの赤い光線は、ウォーターカッターの如く高圧で噴射された血液だ。どういうカラクリか知らないが、流体である以上は俺に効果は無い。が、みとらちゃんに流れ弾が飛ぶことだけは許されない。
せめて俺に意識を集中させようと、必死に声を張り上げる。
「何が兵力補充だ。なんで俺たちなんだ。どっか知らない所でやってろよ、こっちは何一つ関係ねえだろ……!」
「いや、そうでもない。
男の言葉に動揺する。動揺してしまった。
そして、俺が呆気にとられた一瞬で、男は瞬間移動みたいな超スピードで手の届く距離に立っていた。
「あ――、」
「使えよ、少年。私に届くとすればそれだけだ」
「ぁ、ぁあ、あああアアアアアッ!」
打ち上げるアッパーカットで、白亜の右手が男の真芯に突き刺さり、そして、
「ご、ぶッ……!?」
〝あなたは、Error -
血混じりに胃の中身を吐き散らす。意識が飛びそうなほどの吐き気。今まで食べた何より甘く何より苦く何より辛く何より旨く何より不味く何より爽やかで何より粘つき何より刺激的で何より酸い物を、全て混ぜて胃と喉を溢れさせるほどに詰め込まれたような。ただそれだけで人を殺しうる、致死量に至った
白亜を通して見えたものは、何だ。破滅の黄金、荒涼たる平原。霧の空中庭園で蛇が蛇を貪っている。槍携える王が最も難き地に凱旋し神の剣に貫かれた。女神と王を屠った刃もいずれは廃れる。打ち捨てられた錆を圧し折る不満足。満たされぬ胃にただひたすら無意味を詰め込んで詰め込んで詰め込んで――
〝ショックによる復帰措置を実施――
バヂィ! と、右腕から電撃が迸った。激痛により、かろうじて安定を取り戻す。
「つまらん。新種の『死』に耐性がつくかと思ったが、そもそも不発か。その力、恐らくは閾値以下の生命質量を条件に取るタイプだな。ならば私に通じんのも道理だろうよ」
不満げにこちらを見下ろし見下す男。
吐き気にうずくまる俺は、無意識に聞き覚えのある単語をリピートしていた。
「生、命、質量……」
「こちら側の用語だ。ネズミが釘で貫かれれば即死だが、象であればかすり傷にしかならん。重い生物、規模の大きい生命というのはそれだけで死ににくい。
が、居るのだ。象ほどに死ににくいネズミや、竜ほどに死ににくい人間というのが。この世界にはいくらでも。
そうした生命に対し、物理的な質量とは別に設定される命の重みこそが生命質量だ。君らにはゲームのHPのようなものと言えば分かりやすいか? 要はその腕、生命質量の軽い、小動物や死にかけの相手でなければ効果が無いという話だよ」
白亜の腕が消えていく。咄嗟に維持しようとしたが、瞬間、頭まで真っ白になりかけた。
「やめておけ少年。その力、時間逆転にまで手が届いている。強大な分、自身にかかるリスクも相応だろう。使えてせいぜい二度が限度だ、それ以上は白痴になりかねんぞ? 自滅など興ざめに過ぎる。君にも家族はいるだろう、無事で帰らなければ父母が悲しむとは思わんのか?」
「どの、口が……!」
「なんだ、何がおかしい? 私の言葉に一つでも間違いがあるか? 分かったらさっさと生き足掻けよ。もう二、三本四肢をもいでみればあるいは勝ち目も出るかもしれんだろうが」
男が万力の如き力で俺の左腕を掴み、首を押さえる。
抵抗出来ない。骨の軋みと、内側の何かがブチリと引きちぎれる音、が、耳まで届い、て、
「――ッらぁ!」
ゴキィ! と、室久が振り下ろした鉄パイプの一撃が、男の頭部にクリーンヒットした。
「逃げろ空間! クソッタレ、誰だか知らねえが、油断してんじゃ、」
「油断か。羽虫に触れられることを油断と言うなら確かにそうだ」
まるで堪えた様子なく男が室久を振り返る。
「ッ!?」
二撃目は全力だった。防御しなければ首がへし折れてもおかしくない威力の横殴りが振るわれて――全く防御しなかった男の首がへし折れた。
「あっ、」
確実な死。殺人の感触に一瞬自失する室久――だが直後、バネ仕掛けみたいに折れた首が跳ね上がって元に戻る。
「な、ん――?!」
「蚩尤の
直後、打ち合いが始まった。
俺が割って入れば二秒で吹っ飛ばされそうな格闘の嵐。両者共に凄まじいが、室久の技は冴え渡っている。高校に入る時に空手は辞めていたはずなのに、素人目にも分かるほど研ぎ澄まされたそれ。学生の力量など完全に逸脱している。
なのに。
「素晴らしい。私がその領域に入ったのは三十も半ば過ぎた頃だったろう、いや四十だったか? 悪いな少年。如何せん十世紀以上前の話だ。流石に記憶の自信が無い」
相手の方が巧過ぎる。その気になれば力も速さも数段上だろうに、わざわざ室久にレベルを合わせて――合わせた上で、アイツを赤子扱いしている。
素人目にも既に詰んでいた。必至になってなお続けることが面倒になったのか、体勢を崩した室久に男が腕を振りかぶる。
「さあ殺すぞ生き残れ。希望を抱け絶望するな。諦めれば家族まで皆殺す。『
質量保存の法則が死に絶えた。
増、と腕から発生する筋肉の束と骨の外殻。それらを纏って腕が肥大化し、アンキロサウルスの尻尾めいた三メートル強の怪腕が創り出される。
男が肉々しい鉄槌を室久に振り下ろす、そのギリギリで俺の介入が間に合った。
「あぁアアアッ!」
渾身の気合で落ちていたロングソードを投げつける。上手く腕に命中したものの、男を小揺るぎさせる役にしか立たない。
だが、その一瞬の隙を突いて室久が宙を舞う長剣を掴んだ。
そのまま剣を振り上げ、男の腕を根本から斬り落とす。馬鹿みたいな火事場の奇跡。
巨腕が床に落下し、地面が衝撃に振動した。ぶわりと黒い土煙が舞い上がる。
「良いぞ、やればできるじゃあないか。だがもっと工夫しろ。お前たち現代っ子だろう? それぐらいの奇跡ならば千年前の戦場で既に在った。より目新しいその場凌ぎを見せてくれよ」
そう言って平然と現れる男の五体に、欠損は無い。
不死身。そう不死身だ。蚩尤と化していた室久も大概だったが、こいつは明らかに一線を画している。攻撃し続ければどうにかなる、というビジョンさえ見えない。
後退る俺達に、男が蔑みの表情でこちらを見下した。
「どうした、絶望したか? もう無理か? 諦めたか? 耐えられないか? 頑張れないか? ――そこの少女を拷問する、とでも言えばやる気が出るか?」
俺の身体が、苦痛を忘れた。室久の眼が、あり得ないほど剣呑に輝いた。
「そう。そうだ、それで良い! ああ、諦めるな少年たち。何があろうと諦めるな。腕をもがれようと諦めるな。脚が千切れようと諦めるな。両目が抉られ耳が削がれ鼻が削られても諦めるな。石を抱かされ水底に沈んでも砂漠の只中で飢え果てても獣に喰らわれている最中でも諦めるな。親が殺されても友が躙られても愛する者全て犯されても諦めるな。諦めるな諦めるな諦めるな、だから諦めてくれるなよ――『
男の全身から、肉と骨が噴き出した。
増、と。膨れ上がる身体。異形と化す身体。視界に表示されたままの戦闘情報、そこに示されていた対象の重量が、数十キロ、数百キロを悠々超えて一トン突破、五トン突破。育って育って育って育って、体長十メートルを超えて、第二階層の黒い天井を突き破って、第一階層を徘徊していたであろう
直立する、トカゲに似ていた。
外殻として骨を纏うそれは、もはやヒトのシルエットなど保っていない。
『――さァ、どうだ。
最終体高、十五メートル。
最終体重、十七・五トン。
穴の空いた第一階層の高みから、巨竜が俺たちを見下ろしていた。
「あ、」
腰が抜ける、というのはこういうのを言うのだろう。
見れば、隣で、いつの間にか室久が尻餅をついていた。
『どうした、立てよ。お前の妹が見ているだろうが。折れたか? 折れてしまったか? なあ少女よ、その情けない兄に「立って」とお願いしてみろよ。言葉の通り奮い立てばまだ生かしてやるから言ってみろ、なあ?』
「お、お兄ちゃ……」
立てない。室久は立てない。必死に足を震わせて、歯を震わせて、目を見開いてそれでも立てない。
ハ、という笑い声が頭上から響いた。
『では妹から殺すぞ良いよな? 諦めるとはそういうことだよな? ……ああ、それでも立てんか。残念だ少女、恨むならお前の兄を恨んで死ね』
「恨まれるのも死ぬのもテメェの方だろうがこッのクソ野郎がァアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
何かが完全にブチ切れた。
右腕の断面から、純白の何かが滴り落ちて、そして。
『君も結局暴走からの自滅か、つまらん。それは効かないと教え――』
――
『な、』
裏返る内界と外界。漂白の夢が深化する。
具体的に何が起こってるのかは分からない。恐らくはさっきの室久同様、俺も暴走している。だがそれはそれとしてコイツは殺す。
第一層。大理石のような床、並び立つ石柱の廊下が、荒れ果てた広間に移り変わった。
「ぎ、ッ――!」
男が「二度が限度」と言ったチカラの三度目使用。副作用は甚大だった。削れ飛ぶ意識。直近一時間の記憶が曖昧になりかける。
しかし直感的に理解する。足りない。コイツを白痴に変えるには、この程度の深度では到底足りない。
狂い弾ける認識。歪み捻れる視界。耳に混ざる高ヘルツの異音。広間の吹き抜けを落下し第二層。世界そのものが白光瞬く通路へと落ちていく。
『有り得ん、他者の迷宮内での迷宮開廷だと?! 何をどうすればそのような――ああ、いや、そうか、そういうことかッ?!
狂的な歓喜を見せる竜など知ったことではない。
迷宮内装の変革は続く。月照らす窓際の第三層を経て、夜に微睡む階段の第四層。脳細胞の潰れる音がした。溢れる血の涙が反動の致命具合を告げている。
『来いよ見せてみろ、何をしたところで、バシレウスの『槍』以外に私を殺す術などありはしないッ!!』
確かにそうだろう。きっとどれだけやってもコレを死なせることは出来ない。得られるものはせいぜい一時的な無力化だ。そして恐らく、代償として今の俺は死ぬ。――だとしても。
終ぞ到達する第五層。全ての自我が溶けていく。
深い闇の中、安らかな眠りを誘う静謐。闇に消える聖堂が、迷宮の中心に現れた。
そして、
「そこまで」
直後に爆発四散した。
「――!?」
瞠目。聖堂の中、閉ざされた扉の内側から炸裂した黄金の輝きが、全てを染め上げ破壊する。
心臓を失くしてしまったような喪失感があった。粉々になっていく白亜回廊。雪のように舞い散る白と、灰のように舞い散る金。迷宮が、元のダークグレーへと還っていく。
一瞬前まで聖堂があった場所。
竜に立ち向かうように、白銀の誰かが立っていた。
「
槍を携える少女だった。
見た目中学生ぐらいの華奢な女の子。首元と肩を何か黒いインナーで覆っている。白いキャミソールを纏った銀髪のロングヘア。蒼い色の瞳に、幾何学的なハイライトが爛と輝き浮かんでいた。
右腕に取り付けられているのは、ゴツゴツしたシルエットの鋼鉄義手だ。補助器具では有り得ない戦闘目的。華奢な体にまるで似つかわしくない、武装としての腕。
彼女が、こちらを一瞥する。意識が凍りそうなほど美しい、整った顔立ち。まるで作り物みたいな。青ざめた肌の白さがあまりにも穢れない。が、それが記憶に焼き付くと同時、何故か強い
白銀の少女を見た竜が、一歩後退る。
ほんのわずかな後退だが、その巨体故に、実態以上に慄き退いたように見えた。
『ノギス工業の探索兵器だと……、いつの間に、いや、違う! それよりその『槍』、貴様、まさか! 既に完成していたというのか――!?』
「〝★《黄金歴程ヴェルヘレグァ》、発動シークエンス実行。
少女の周囲に浮かび上がる無数の蒼い長方形。そこに記されている情報が脳に直接叩きつけられ、少女の言葉を一瞬で代弁していく。
「〝申請。第一段階・
〝――承認。貴機が保持するレベル3クリアランスにより、展開は自動で許可される〟
「〝申請。第二段階・
〝――承認。貴機が保持するレベル3クリアランスにより、展開は自動で許可される〟
「〝申請。第三段階・
〝――承認。貴機が保持するレベル3クリアランスにより、展開は自動で許可される〟
黄金の槍が光を放ち、その圧力を増していく。
だが、それら全ての工程が一瞬だ。叩きつけられる情報の密度により、時間が鈍化して感じられるだけ。竜が何か対処しようとする気配がしたが、全くもって間に合わない。
「〝申請。最終段階・
〝――申請却下。レベル3クリアランスの独自判断による天体破壊級アーティファクトの展開は許可されない。これより本社による承認会議を開始。会議終了まで、そのままの状態で待機せよ〟
「――――」
少女の目の前に、バツ印をつけた
鈍化していた時間が正常に戻る。動きを止めた少女に、竜が引きつった笑い声を漏らす。
『は、ハハ! 愚かッ、あまりにも愚かなりノギス工業! 確かに貴様らにとって「それ」は核弾頭も同義だろうが、お前達の人形が
「
『、ばッ』
鋼の義手が、
「
『お、』
目を焼く閃光が竜の巨体に突き刺さり、貫き飛ばす。
『ォ、オオッ、オオオオオァアアアアア!?!?』
炸裂の軌跡が第二階層の天井を貫いた。第一階層の天井を貫いた。果てに迷宮そのものを貫いて、飛翔して、天を遡る流星となる。
竜を穂先に引っ掛けた光の槍は、夜空の星々と同じ大きさになるまで高く高く昇っていった。
長くなったので分割。後編も早めに投稿します。
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第5層「*The heroine appears.(後)」
現在、上空一〇〇〇〇メートル。
一連の事件の黒幕であるアインソフ=ヨルムンガンドは、何の抵抗も出来ず光の槍にされるがままに夜空を貫き飛ばされていた。
「――ァアアアアア!! 死ぬッ、このままでは間違いなく死んでしまうぞォオオオオオオアアアアア――!!!」
成層圏に突入しそうな高度まで飛翔してもまだ、光の槍は勢いを止めない。
(い、いいや……これが本当にかの王の『槍』ならば、私を殺すまでは絶対に止まらない……。これだけは唯一、史上唯一、この私を純粋な物理攻撃だけで殺しうるアーティファクト! 『命中した物を確実に
銘を黄金歴程ヴェルヘレグァ。
この槍の『投擲』に、破壊出来ぬ物体は存在しない。「無限の攻撃力」という謳い文句は、比喩でも何でもない、現実として否定の余地がない完全無欠の絶対的事実だ。
伝説に曰く、岩に命中すれば岩を砕くだけの攻撃力を発揮し。
伝説に曰く、山に命中すれば山を砕くだけの攻撃力を発揮し。
伝説に曰く、星に命中すれば星を砕くだけの攻撃力を発揮する。
当然、命中してしまった時点で詰みだ。
本来なら、不死身のアインソフであってもとっくに死んでいる。数多の『死』への耐性などゴリ押しで貫かれている。今は気合で耐えてはいるが、このままでは余命三秒とないだろう。
それでも、どうにかして穂先から脱出しようと、アインソフは自身の肉体再生・肉体操作能力を応用して無数に分裂する。
「ぴ――、」
が、その直前に槍が光量を爆発的に増し、シンプルな大火力で分裂体を焼き尽くされた。
(だ、ダメだ……、こんな小手先でどうにかなる程度のモノなら、元より伝説に語られはしない……。やはりどうにもならん、もう無理だ――)
「――な・ど・と、潔く諦めると思ったか、こォの私がァアアアアアアアア!!!」
男が吠える。既に竜の身体を失い、人としての本体を焼かれ、二秒後に死ぬことが確定していても、その茹で卵のようになりつつある白濁した眼球には一握の諦観とて浮かんではいない。
「諦めてたまるものか、諦めてなどたまるものかよォ!! 山に命中すれば山を砕き、星に命中すれば星を砕くだと!? 抜かせ、そもそも山とて地球の一部であろうが! 山と地球の区切りはどうやって付けている?! 『槍』が自動で判断しているのか!? 違うだろう、そんなモノまともに運用出来るワケがあるかァ! 対象に取っているのは『槍に命中したモノ』ではない――『
ならば、その定義を外れれば良い。
あの探索兵器にアインソフ・ヨルムンガンドと定義された存在は確実絶対に崩壊する。ここから逃れる方法はただ一つ――
「発射時点での認識の外に出るッ! そうだ、私が私で無くなれば良い――!」
アインソフの身体が変形する。否、変身する。
膨らんだ胸部、豊満な肢体、縦に裂けた緋眼。
その姿は、妙齢の美女だった。
光の槍は止まらない。このままでは「アインソフでないモノ」とは認識されない。ただの「変化したアインソフ」でしかない。それは彼/彼女も承知している。
故に、これはただの下準備。
「逝くぞッ――転生だァアアアア!」
アインソフの腹がボコリと膨れる。
そして、裂けるような音を立て、尾てい骨から伸びる
母体が焼き尽くされると同時に、産卵管から一体の胎児が地表に向けて射出された。
言うまでもなく、親と子は別の人間である。よって、この赤子はもはやアインソフではない。結果として、そうなった。
ひと気の無い路地の一角に墜落する胎児。
そばを通りすがっていた男性が、何事かと落下地点を伺う。わずかにしゃがみ込み、落ちているものを観察しようとする。
「――あァ、本当に危ないところだった」
そんな通りすがりの男性の腕に、ピンク色の胎児が融合した。
「運良く通りすがってくれて有難う青年。脱出したは良いが、その後に行動する手段が無かった」
「――!?」
男性が持っていた鞄を落とす。グロテスクな肉がボコボコと男性の腕を侵食しながら変形し、黒髪赤眼の男へと姿を変えていく。
通りすがりの男性が、アインソフへと呑み込まれていく。アインソフを構成する材料へと変えられていく。
「有難う、本当に有難う。感謝の念に堪えんぞどうか礼をさせてくれ! これでも超越主などと呼ばれる身だ、大抵の願いは叶えられると思っている――うん? 『助けて』? ハハ、それは無理だ。人は他者に助けられるものではない、自分で勝手に助かるものだろう? 己が命を大切に思うなら諦めずに自分でどうにかしろ」
「――! ――! ――、…………」
呑み込まれていく男性が、自分の物ではなくなっていく身体に抗いながら、必死になって声を上げる。しかし声は徐々に弱まり、すすり泣くような小さな声へと変わっていった。
「どうした、何でも言えよ。うん、何? ふむ、ふむふむ。おぉ、そうか! 故郷の両親が心残りか! 良いだろうとも、今の時代、
もはや声は無い。
体を取り戻したアインソフが鞄を拾う。
「
アインソフの顔が変形し、犠牲になった男性――竜胆始の顔へと変わっていった。
さて、と整形し終わった顎に手を当てる。
あの『槍』がある以上、この街に滞在し続けるのは不味い。不死殺しを用意された不死者ほど強みが死んだモノはない。普通に考えれば、すぐに永地市を離れるのが正解だ。
不死の怪物はことごとく滅んできた。人狼ならば銀の弾丸で。吸血鬼ならば太陽の光で。
彼に言わせれば、そんなものは不死ではない。弱点を突かれたからしょうがない? 甘えだ。何故そこで諦める。何故銀に耐える努力をしない。何故太陽を破壊しようとしない? そんな「諦めの良さ」で滅んだのだろうが貴様らは。
故に殺す。『槍』の担い手を殺し、担い手を再現した者を殺し、担い手を発生させうる要因を全て殺す。それこそが、真の不死者として最も正しい振る舞いだ。
元々、この地には担い手を完成前に潰すために来たのだ。既に出来ていたからと言って逃げ出すなど本末転倒だろう。それではいずれ詰む。臆するものか、この程度の窮地、陥った回数は千を超える。乗り越えた数もまた同じ。諦めるなどあり得ない。
「とは言え、この六〇キロ程度の生命質量で挑むのも流石に無謀ではあるか」
まずは肉の補充からだ。
目安とする期限は一週間。それまでに準備は全て済ませる。何しろ敵は『科学文明』だ。もたついていては最悪『槍』を量産される可能性さえある。
情報面で遅れを取っている状態だが、構わない。ぶつけるための手駒ならば十数ほど心辺りがある。――今は不完全な、迷宮主の雛たちが。
中途なままに終わった少年少女の迷宮を完全に拓かんがため、邪竜は夜の街へと消えていった。
迷宮はすっかり静まり返っている。
しかし、もう何が何だかわからない。今しがた飛んでいったあの男も、俺の右腕から溢れた白色も、突如現れたこの少女も。
「…………」
唯一説明ができそうな彼女は、口を開く気配を見せてくれない。ただ静かに、冷くて綺麗な無表情を浮かべているだけ。
仕方なく、俺の方から問いかけた。
「えっと……やった、のか?」
「
その機械的な口調と整い切ったリズムは、頭の中に響いていた『声』と完全に一致する。
ということはやはり、あの『声』の正体はこの少女だったのか。
考える俺に対し、少女はずい、とその端正な顔を寄せてきた。氷みたいな透き通った青い瞳に覗き込まれ、思わず一歩退きそうになる。
なんというかその、正体不明さに威圧されたというのもあるが、それより何より、美人過ぎた。今まで見てきた誰とも比べ物にならない。可憐さに息が詰まる。
「何故ですか」
「な、なぜって……?」
「何故、自身の死を許容したのですか?」
「――――。いや、それは」
最初から変わらず、人形のような無表情。なのに、酷く怒っているような気がしてならなかった。
「それは間違っていると言ったはずです。あなたは何故、自身が犠牲になる手段を実行したのですか?」
あるいはそれは怒った顔ではなく、泣きそうな顔だったかもしれない。
言葉が返せない俺に、少女が義手ではない方の手を伸ばそうとして、そして――
「教えてくれるって、言ったのに」
――普通の女の子みたいな声とともに、彼女の左手にヒビが入った。
「……?!」
俺の驚愕の声を余所に。生身のはずの左手がバキバキと音を立てて、指先から伝播するように亀裂が走っていく。
「……。え、あれ……。何故。
亀裂の内側から漏れているのは、さっきの槍と同じ黄金の光だ。輝きとともにジュウと血の蒸発する音がして、肉の焦げる匂いがする。壊れかけの炉心みたいに、高熱が内側から溢れ出していた。
「い、た、
致命的な響きを上げて、左腕が砕け散る。
黄金の光と一緒に飛び散ったのは、鮮やかな血肉。そして、金属部品と何かの黒い液だった。弾けるように、無数のヒビが胴体にまで伝播する。飛び散る火花と放電は、生身ではあり得ない損壊だ。
だが、その破損で人形のような無表情が崩れた。
片目がぎゅっと瞑られて、喉の奥から生まれて初めてするかのような困惑混じりの叫びが溢れる。
「う、あ、ああああああ――〝エラーが発生しました。問題が発生したため、一部ユニットが正常に動作しなくなりました。この問題の解決策を確認しています〟」
どさり。
彼女の体勢が崩れ落ちた。悲鳴の途中で急に機械的なメッセージを読み上げた後、正しくスイッチを切ったかのように。
横向きに倒れた少女は光の無い目を半分開いて、小さな口をわずかに開けたまま、動かない。ぐったりと、糸の切れた人形のようという表現がこれ以上なく相応しい。
「――――」
声も無く立ち尽くす俺の脛に、蹴りがごすりと叩き込まれた。
「
みとらちゃんが言う。状況にそぐわない常識的判断。否定の言葉を返そうかとも思ったが、対案が無い。
半ば呆然と、倒れた少女の身体を抱えあげようとする。
そこで、自分も腕が片方取れたままだったことを思い出した。外れていた右腕を嵌め直す。
〝デバイスが接続されました。検索中...同期できませんでした。
「っ……」
女の子に対して失礼な言い分であることは重々承知だが、少女の身体は重かった。低い身長と華奢な体格から考えれば異様なほど。
黒いインナーに見えた場所は、金属質でありつつ柔らかな未知の素材。彼女の肌にぴったりと張り付いて……いや、違う。むしろこれが『地肌』だ。通常の肌に見える部分の方が、黒い肌を覆う被膜だった。
体温はあるが、心拍のようなものは感じられない。か細い呼吸らしきものと、かすかな機械の駆動音は聞こえてくるものの、それが何の証明になるとも思えなかった。
「そうだ、室久は……?」
「……こっちだ、空間」
振り返ると、足の折れた男性を抱える室久の姿があった。
曲がりなりにも窮地を切り抜けたとは思えない苦々しい表情。きっと、俺も似たような顔をしている。
「……とにかく、出よう。もう、
みとらちゃんに携帯を返したが、通話は不可能だった。どうやら、迷宮の中では電波が通じないらしい。
みとらちゃんに先導されつつ外に出た。
帰りの道中は、行きほど苦労しなかった。
「っ……」
「室久?」
「いや、何でもない……」
破損体たちを倒す度に室久が妙な挙動をしていたのが気になったが、それ以上のことは起こらなかった。
プレハブ小屋の扉を開ける。夜は一層深くなって闇が濃い。謎に明るかった迷宮とのギャップで、周囲が見渡せなくなってしまう。
「119ばんの人で――あっ、えっと、かじじゃなくて、きゅうきゅう……?」
わたわたと電話をかけているみとらちゃんから携帯を借り、後を引き継ぐ。
『了解しました。患者の容だ……■■……■……、』
場所と時間を伝えた瞬間、何かノイズが入った気がした。
『――ァア、ハイ。間もなく現場に救急車が到着します』
ぶつり、通話が終了する。身元も詳細も聞かれていない。
嫌な予感がした。
「……室久は、離れててくれ」
「? なんで、」
「いいから。何かあったら、頼む」
「……。……わかった」
何も聞かずに、足の折れた男性を置いて、室久が近くの木の陰へと引っ込む。
その後すぐに、救急車がやってきた。
そう、すぐに。二分かそこら。あまりにも早すぎる。
「……
みとらちゃんが聞く。そんなわけがない。
降りてくる救急隊員が三人。足の折れた男性の方には目もくれない。申し訳程度に俺に話しかけ、背負った少女を担架に乗せるよう促してくる。――その傷口の異様さに、一切言及せず。
「……ノギス工業、か?」
その言葉で確定した。
「――主任」
「はーい、オッケー。確保」
若い女の声が返った瞬間、俺は地面に組み伏せられた。
「っ!」
「狼狽えなくても大丈夫よ、わたしたち一般人には危害加えないし。っていうか加えられないし?」
救急車の陰から現れたのは、小柄な美少女だった。
背はみとらちゃんより拳一つか二つ大きい程度。茶髪のツーサイドアップに、外国の血を感じさせる青い瞳。身につけている服は黒と白のいわゆるゴスロリだ。が、妙に装飾が少なく、布地が硬い。作業服との間の子とでもいうような、奇妙な作りのドレス。
俺と同様に、きょとんとした顔のまま、みとらちゃんも組み伏せられ――というほど乱暴ではないが、拘束される。俺とともに、プラスチック製の拘束具で手足を縛り付けられていく。
木の陰で動き出そうとする気配があったがまだ早い。室久を押し留めるための合図をした。
大丈夫、銃なんかを持っている様子はない。相手は救急隊員の姿をした大の男が三人。これぐらいの人数なら、室久がいればどうとでもなる。
「やーっぱ普段してない業務はダメねー。やっててぎこちないなーって思ったもん。とりあえず、すぐにセスティ持ってきて。修理するから」
だが、この『主任』と呼ばれた少女が異質だ。あの副担任や、アインソフという男と同じ種類の圧力がある。
手の空いている男により、背負っていた少女が車内に連れて行かれる。
どう動くか悩んだが、まだダメだ。あの子を治せるというなら、下手に敵対や逃走は出来ない。
「探索兵器の状態は」
「ん。
背面の扉から覗く内装は救急車に似ているが、明らかにどこか違っていた。機械の色が強すぎる。工具にしか見えない大量の道具に、工作機械としか思えない無数の機材。一つの工場か研究所のよう。
そしてさらに、それより何より、
規模は小さいが、まるであのプレハブ小屋と同じだ。
「このまま本社まで?」
「ううん、今直すわ。替えの義肢取ってきて。カワイクないけど、バトル用の汎用性高いヤツ。いつアイツが襲ってくるかわかんないしね」
「いえ、ですが、第四位は黄金歴程の直撃を受けたことが確定して――」
「あのド根性クソトカゲがそう簡単に死ぬわけないでしょ、忌々しい。土壇場の判断力と立て直しの早さと生き汚さと気合だけで一四〇〇年生き延びてきた怪物よ? ま、死んでたら死んでたで困るんだけどね。
平然とした口調で話しながらも、『主任』の手際は凄まじい。既に、少女のひび割れた黒い肌はいつの間にか元に戻り、部下が用意した義肢を取り付け終えている。それは、いい。
「
どうしても、聞き逃せなかった。
「待、ってくれ、今、」
「んー? ああ、そう言えばお礼言ってなかったっけ。ありがとね、連れてきてくれて。わたし達、攻略用の装備とか持ってなかったし。あ、勿論アンセスタのことよ? ってかそこのモブ被害者Bも連れてくるとかご苦労様よね。ほっとけばよかったのに」
「主任、一般人への情報漏洩は、」
「いいじゃない。どうせ『ソレ』
俺を取り押さえている男が、何か、四角い棒……注射器のようなものを腕に押し当ててくる。直後に走るチクリとした針の痛み。
何の薬か知らないが絶対にマズい。注入されていく薬液を即座に『収納』した。
〝あなたは、記憶処理剤(8時間)を拾った〟
何とかなった。記憶処理剤(8時間)。字面通りの意味なら、八時間分の記憶を消す薬だろう。
みとらちゃんや足の折れた男性にも同じ薬が射たれていく。木陰から剣呑な気配がしたが、手の動きでまだ室久をステイさせた。
「さっき調べてたトコの近くに落ちてたんだけど、見る? テンプレ過ぎて逆に笑えるわよ、もう本当に『あーあ』って感じ」
『主任』が車内に置かれていた、ひび割れの携帯をこちらに見せつける。
映っているのは、足が折れる前の足が折れた男性の姿だ。プレハブ小屋の扉から覗く黒い異空間を前に、興奮した様子で撮影者に話しかけている。
『いやこれすごくね!? やべーって、もう絶対ダンジョンだって!』
『えー! 我々永地大学オカルト研究会、略してエイオカ研はぁ! 数日前から囁かれ出した牛男のウワサの調査の末、このような謎の空間を――、』
シークバーが移動させられる。男性と撮影者が迷宮の中で、
『……なあここ、何かもう、ヤバいだろ。完全にモンスターじゃん。流石にこれ以上……』
『いや待てって。このモンスター金落とすし、もう何匹か狩ったらワンチャンレベルアップまであんじゃね? つーか日和んなって、これまでもホラースポットとか色々勝手にさぁ、』
『お前いい加減にしろよ、もうホラースポットとかそんなレベルじゃねえだろ!? 勝手にやってろ、俺は――』
撮影者の怒鳴り声の直後、牛に似た怪物の唸り声が響いた。
再度、シークバーが移動させられる。
『ハァ、ハァ、ハァ……! クソ、なんだよ、何なんだよアレ!? どうしようもねえだろ、オレのせいじゃねえよな!? 最初に入ろうって言い出したのはアイツの方で、ッ!?』
迷宮の外、山を走っていた撮影者が人影にぶつかった。
人影がくるりと振り返り――零れ落ちる、タールのような黒い涙。
『おま、何』
風景が吹っ飛んで、画面の端で爆炎が噴き上がった。
映像が終了し、電源が切られる。
あの四人の足元に転がっていた、焼死体のことを思い出した。
「と、まぁこんな流れよ。うーん、危機感あった方が死ぬ世の無情。この炎使いもできれば見つけて駆除したかったんだけど、先にアインソフ側が回収しちゃったっぽいのよね。ねえ、あなた何か知らない?」
「……それより、」
「へえ、ヒトが殺されてるのに『それより』? なるほどなるほど。いいわよ続けて?」
笑みの滲む、皮肉げな声だった。
言語化出来ない歯痒さを感じながら、俺は『主任』に対して問いかける。
「……その子を戦わせるって、言ったのか」
「? そうよ? だってあのクソトカゲ、絶対死んでないんだもん。この子に黄金歴程がある以上は確実に追ってくるわ。わたしの
「待て、待ってくれ……アンタたちのことは何も分からないけど、多分その子、正常な状態じゃない。何もしてないのにいきなり腕が吹っ飛んで――きっとその、黄金歴程? が暴走か何かしてるんだ。すごく痛がってて、だから、」
それに対し、女はああ、と頷いて、
「気にしなくていいわよ。ソレ、そういう仕様だから」
少女の仙骨から伸びていたコードを機材に繋いだ。
途端、気を失っていた少女が目を見開き――表情に満ちる苦痛の色。
「――あ。ぃや、待っ〝炉心再稼働。制御率は基準を82%下回って、〟ぎッ――ぃ、やめ、ぇ……!」
「んー? いつもならこれぐらい全然我慢するのに、今日は随分痛がるじゃない。制御率もやたら低いし、回路が壊れてる……っていうかブレてるのかしら。何にせよバグだけど。一旦リセットした方がいいかな」
その苦しみ様を見ても、『主任』は顔色一つ変えない。
まるで、患者の歯をドリルで削ることに何の躊躇いも覚えない歯医者のよう。あまりにも自然に受け入れ過ぎていて、一瞬、その光景をどう感じればいいのか分からなくなった。
「何、を……?」
「ああ、この子には痛覚も自我も感情もちゃんとあるって話? あ、それはまだだったか」
女は機材を操作しながら、まるでこちらの理解を期待していない一方的な講釈を始める。
「迷宮ってのは基本的に迷宮主専用なのよね。
例えば『踏破すれば怪物になれる迷宮』があったとしても、その迷宮の主か、主と似通った怪物の因子を持っている人間でなければ、踏破したところで経験値はほとんど入らない。
特に、黄金歴程を手にするための大迷宮『
ヒーローなんてフィクションなら珍しくもないけど、実際問題そんなの居ないじゃない? いえ、仮に運良く実在して、超兵器たる黄金歴程を手にしたところで、超兵器をそんな高潔な正義の味方サマに持たせてちゃ、いつこっちに牙を剥いてくるかわかったものじゃないでしょ?
「な……」
――いや、待て。じゃあおかしい。だったら、何で。
「まあわたしはほとんどハード専門だから、どうやってこんな滅茶苦茶なソフトを開発したかは知らないんだけどね。定期的にリセットしないとワケわかんないエラー起きるし。
とにかくそういうわけだから、ちゃんと痛みに苦しみ、力の反動を甘んじて受けるのが仕様なの。そうじゃないと黄金歴程はこの子を担い手と認めてくれない。願いの代償を踏み倒すようじゃ勇者とは言えないって理屈。お分かり?」
だったら何で、あの子は、自分を含む誰もが何も失わない、本当の*勝利*が見たいなどと言ったのだ。
「ふざ、けんな……ふざけんなよ。何したり顔で語ってんだテメェ。そんな報われない心の使い方があっていいはずが――!」
「――あ、もしかしてあなた、二週間前の火事の時の男子?」
俺の言葉を遮り、記憶から抜け落ちている出来事を『主任』が口にした。
「あー思い出した思い出した。居たわね居た居た。なんだっけ、『人助けに苦痛を覚えるのは間違ってるー』とか、『真の正道に涙は不要だーっ』とか『自分を犠牲にするのはどうのこうのーっ』とか、寒イボ立つクッサイこと言ってたヤツ」
「――――」
それは、彼女に言われたはずの言葉だった。
だが、違うのか。
「は、バカバカしい。放っといてよ。わたしたちはね、
「そんな幼稚な理想に縋っちまうような女の子を造ってんじゃねえよこんッのド悪党共がァアアアアアアアア!!!」
拘束具を『収納』して、立ち上がると同時に俺を組み伏せていた男を跳ね飛ばした。
迷宮で拾った武器は蚩尤との戦いでほとんど吐き出して、ろくに回収出来ていない。かろうじて残っている鉄パイプを虚空から『取り出し』た。
無から武器を出現させる俺に、女が訝しげな視線をやった。
「――? おかしいな、あなたからは主の反応出てないのに。まさか、迷宮に由来しない天然の超常使い? そりゃ有り得なくはないけど」
「主任、アーティファクトの使用許可を――!」
「ダメ。主じゃない以上は一般人よ。
どうやら、あちらは本当に俺たちに危害を加えられないらしい。
動揺の色を浮かべつつも、男たちが三人同時に俺を拘束しにかかる。
一対三。過剰な武器も異能も無い単純な喧嘩の土俵。
鉄パイプがあるとは言え、さして喧嘩が得意なわけでもない俺ではまず無理だ。だが。
「先走るなって――! 合わせなきゃ意味ねえだろこういうのは!」
木陰から飛び出す室久。
俺の身勝手に巻き込みたくはなかったが、これならいける。こいつの力量なら、大の男三人程度、同時に相手取っても充分に、
「あぁ、やっと来た? 〝未登録迷宮主の敵対確認。社内規定に基づき、七大迷宮『
「了解」
ヴン、と音を立ててヤツらの周囲に浮かび上がる、青色の
「――!?」
室久が動揺しつつも、拳を一人の鳩尾に叩き込もうとする。
だが――その拳が、途中で止まった。
寸止めではない。理由が無い。見えない壁にぶつかった、という感じでもない。
男が腕を振るい、室久が弾き飛ばされた。
異常な現象に直面した室久が、困惑混じりに声を漏らす。
「……速度が、
「どうにもなんないわよ。あなたみたいな
男たちが懐から何かを取り出す。白いプラスチック製で、手のひらサイズの小さな、ボタンのついた玩具の銃のような――いやまさか。
「撃て」
「お、ォオアアアッ!!」
男の一人が呟く。銃声なんてものは全くなかった。マズルフラッシュも無い。アクション映画で見たサイレンサーというのともまた違う、周囲へ影響を悟らせない完全な無音の射撃。
寸前、闘牛士のマントのように、『取り出し』た毛布を射線に割り込ませて、室久をガードすることに成功した。
〝あなたは、銃弾を拾った〟
〝あなたは、
毛布に撃ち込まれた銃弾を『収納』し、そのまま跳ね返す。が、それも途中で減速し、男たちに触れる寸前で地に落ちた。
……分からない、どういう理屈だ、俺や蚩尤の無効化とはまた違う……!
銃撃は効かないと諦めたか、男の一人がこちらに向けて腕を伸ばしてくる。
鉄パイプで迎撃しようとしたが、やはり、効かない。
男が手に握った何か珍妙な機械を押し付けようとしてくる。まずい、躱せな、
「――そっちからは触れられるなら、カウンターは出来るだろが!」
「なッ」
室久が、動かず
そのまま、息継ぎなしでの一本背負い。男が地面に叩きつけられ動かなくなる。
なんと研ぎ澄まされた空手の技前であろうか。驚くべきはこの土壇場でそんなカウンターを成立させた技量と対応力。
「こいつらの前で良いトコ無しのままじゃ、終われないんだよ――!」
二人目の男に向けて室久が接近する。蚩尤の時に見せたものより遥かに流麗な間合いの詰め。
男の足元で震脚。振動にバランスを崩し、倒れそうになる男をやはり
が、三人目の男が室久に銃を向けようとする。危うい。
目眩ましにしかならないが、『収納』していたアインソフの血を男に向けてぶちまけ――赤色が、男の顔を汚す。
「!? 固体のみが対象……いや、一定重量
相手の瞠目する顔が見えた。
重い物を無効化できない俺と逆だ。軽い物は無効化できない。
ならば、出来るかどうか分からないがやるしかない。
〝あなたは、空気を拾った〟
男に駆け寄りながら、全身で一気に大量の空気を『収納』する。俺の周囲に巻き起こる風。
ズタボロの右腕を強引に振り回し、男の顔面へ。当たる寸前に減速するが、しかし。
「弾けろォッ!」
膨、と拳の先、一点集中で解放される
思った以上に凄まじい威力が出た。反動で俺も吹っ飛んだが、顔の前でかまされた男の衝撃はそれ以上だろう。不可視の爆弾が炸裂したかのようにかっ飛び、生えていた木へ強かに打ち付けられる。
「ッ、ぐ……!」
流石に、限界が近い。
とはいえ、あちら側もかなりのダメージを受けたはずだ。無傷なのは『主任』だけ。
あの女は見るからに
「……
「……っ!?」
違う。そうじゃない。最初に感じたはずだ、あの女から、副担任やアインソフと同じ気配を――!
「止めるぞ室久! そいつ、何か狙って、ッ!」
だが、男たちがよろめきながらこちらを妨害する。
室久が撃破を試みるが、それでは遅すぎる。鉄パイプを女に投げつけたが、それもダメだ。男たちと同じように、減速して地に落ちた。
「ク、ッソ、がぁあああアアアアア!!」
否応が無い。右腕を引きちぎり、溢れ出る白亜で男たちを薙ぎ払う。
〝あなたは、、荳牙?九?邨碁ィ灘?、繧堤?エ螢翫@縺――〟
四度目使用。反動が凄まじい。目の前が真っ赤になった。溢れる鼻血に、溢れる血涙。
「おい、空間!?」
「いいから行け、早――」
「
間に合わない。
俺が白亜回廊を暴走させた時と同じように――
土は基盤と螺子と銅線に。木は釦と鉄骨と歯車に。夜空に瞬く星光は有機ELのそれだ。否、天球自体が巨大な液晶であることに今気づく。
まるで地から這い出る死者のように、大地の部品が組み上がって無数の義手が作られていく。伸びてきた無数の腕に、既に足を掴まれていた。
「っぶなー……。やめてよね、なに素人高校生二人に負けてんのよノギス社員。わたしの迷宮、別にバトル用ってワケじゃないんですけどー」
そう言いながら、女は腕を掲げる。地面から寄り集まって沸き立ち、形成される巨人の腕。倒木のような一撃が、室久に向けて振り下ろされる。
「じゃあさっさと潰れなさい。後にクソトカゲがつかえてるんだから、こんなところでムダに体力使ってられな――ッぎ」
直前。
室久が指で弾き飛ばした螺子が、『主任』の片目を潰した。
ほんの数グラムに満たないであろう小さな螺子だった。ヤツらは、一定重量以上でなければ無力化出来ない。
軌道を逸らす腕。ほんのわずか隣で爆散する地面。室久が直撃を避ける。
「テ、メェ……! やってくれたわね雑魚が――!」
「おおおおおおおおッ!!!」
弾け散る瓦礫に紛れて、傷まみれの室久が機械部品の大地を疾駆する。幻妖の歩法は、容易にアイツを捕捉させない。伸び上がる手を躱しながら、女の前で室久が跳び上がる。大地から伸びる腕は、高く跳んだ室久に届かない。
「これでッ」
「空中なら安全地帯だとでも思ったかよ、ド素人!!」
虚空に展開された
女に届く寸前で室久の身体が縫い留められる。さらに空中から湧き出した三本の義手が、室久の両手を絡め取った。
女が丸っきり素人な構えを取った。しかしその拳にまとわりつくおぞましい量の機械部品。
造られた巨人の掌を携えて、女が室久の方へ寄った。
「潰れなさいよこのままァ! 野良共が、ワケわかんない理屈で歯向かってきやがってッ! 誰がアンタたちの世界を回してるのか、分かってもないクセに――!」
「知るかよ、クソボケ――!」
室久が、まるで蚩尤のように義手の鉄指を
強引に拘束から抜け、自由になった片手で油断し近づいた女の首を掴み絞める。
「ッが……!? こ、の……!」
「やれ、空間! 早く!」
足を掴む義手を『収納』する。
全力で『主任』の下に向けて駆け出した。白く点滅する視界の中、必死に右腕の白亜を維持し続ける。
「舐、め、るなァ!!」
ゾンビのように、生え伸びる無数の義手。
俺の速度では確実に捕獲される。
だが。
〝あなたは、空気を拾った〟
「ッらぁアアアアア!!!」
ブースターなんて格好良いものじゃなかった。ただ吹っ飛んでいるのとほとんど何も変わらない。
それでも、腕は届く。あの女を確実に白亜へ呑み込むことが出来る。
「……!」
しかし、この角度では室久ごと――
「――許せッ!!」
勢いのまま、親友ごと白亜が『主任』を呑み込んだ。
「がッ……! こ、の……」
一瞬では足りない。恐らくはアインソフの言っていた生命質量の関係だ。首を絞めただけでは弱りきっていない。女が抱く怒りが、白亜回廊を通して流れ込んでくる。
しかし、
「起、きなさい、アンセスタぁ! コイツら全員まとめて吹っ飛ばし――」
〝あなたは、莠悟?九?邨碁ィ灘?、繧堤?エ螢翫@縺――〟
〝あなたは、ビームを拾った〟
妙な声がして、意識を取り戻した。
目覚める時はいつも、ここがどこで、自分が誰なのか。少しばかり分からなくなる。
気がつけば、そこはプレハブ小屋の前でも、機械部品の迷宮でも、丘ヶ山の山中でもなくなっていた。
静かで寂れた夜の町並み。永地市のどこか、きっと俺の家の近所だと思う。
整理しようにも、記憶が乱れて繋がらない。時系列が順序立たない。脳が全く役に立たない。
だが、目の前で。
「
「…………」
白銀の少女が、俺に光の剣を向けていた。
「……ダメ、だったのか?」
「発言意図不明。あなたの名称、所属、目的等のパーソナルが開示される場合、質疑への応答は考慮されます。
つまりは――そういうことらしい。
どうにもならなかった。ダメだった。散々こんなのは嫌だと喚き散らして、友人を巻き込んで、最後に結局、こうなった。
終わった。
何もかもが*勝利*からほど遠い。
無様で、無意味で、無価値な、どうしようもない。
敗北。
……。
…………。
…………いいや。
「……まだだ」
まだ、終わらせない。
右腕を引きちぎった。溢れる白亜が視界を染める。
今度こそ致命的に死に切っていく意識と記憶。壊れ逝く自分の欠片を見送りながら、俺は少女に言い放つ。
「
「……」
光の剣が出力を上げる。
「……発言意図不明。応答の意義は無しと判断します」
出力は上がり続ける。体内で暴する黄金に、少女が痛みの呻きを漏らした。
「……。……
「なら何度でも言うさ――そんなものは、*勝利*じゃない」
白亜と黄金が膨れ上がる。高まり続ける。極まっていく。
どうしようもなく臨界しながら、俺たちはこの夜の最後に激突した。
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第6層「迷子の兵士に送るマニュアル」
ヒロインはボルテッカーのつかいかたをきれいにわすれた!(挿絵あります)
カーテンの隙間から漏れる光で目を覚ます。
気づけば、朝だった。
「家……」
背に感じるのは身に馴染んだ布団の感触。瞼を開いた視線の先に、自室の天井が見えている。
今日は何曜日だったろう。思い出せない。それでもまだ平日であることは確かだ。
立ち上がろうと思ったが、やたらと体が重く、だるい。全身の各所に鈍痛を感じる。
それでも起きて、着替えて、準備をし、学校に、行かな、けれ、ば――
「――――」
――いや、違う。
昨日の出来事を全力で脳から掘り起こす。
が、曖昧な頭はろくに想起することをしてくれない。順序立たない滅茶苦茶な記憶の切れ端ばかりが、散り散りになって浮かんでくる。
とにかく、状況を確認しなければ始まらない。
そう思い、布団をめくって起き上がろうとしたのだが、しかし。
なんか居る。
分からん。何がどうなった。
必死になって断絶した光景を時系列順に継ぎ接ぎする。だがどれだけ探っても、あの後、白亜と黄金が激突した後の映像が浮かんでこない。
「Meeewmew……」
少女が耳元で何か鳴いている。彼我の距離はあまりにも近かった。体が触れ合い、呼吸が触れる。
目の前にあるのは、子猫のように布団に寝転び、瞼を閉じたあどけない童顔。肌白いを越して青白い、しかし美しく愛らしいそれ。両腕は鋼の義手だが、胴体が触れる感触は内側の金属質を連想出来ない女の子の柔らかさだ。というかなんでパンツしか履いてないのさ、黒い部分インナーみたいに見えるけどそれ肌の一部なんだから実質トップレスみたいなものなんじゃないの?
吐息か、排気か。
すぅすぅと穏やかに空気を吐く小さな口が、ほんのわずかに開き、声を漏らす。
「……たらばがに……」
どういう寝言?
とにかく、一旦離れるべきだ。
そう思い身を引いた瞬間、猫のような蒼い瞳がぱちりと開いた。
彼女は無表情なまま、抑揚のない平然とした声で言う。
「おはようございます」
「あ、はい。おはようございます」
「では」
よいせ、と言わんばかりに起き上がり、俺の服を脱がそうとしてくる彼女。
「いやいきなり何――うわ力
「
全く抵抗出来ずに、ズタボロの学ラン――から、いつの間にか着替えていたジャージの上着を引き剥がされた。
晒された俺の上半身には、手つかずの傷跡が見えているはずだった。
だが、違う。大きな傷は糸で縫われ、無数の切り傷擦り傷には包帯が当てられている。見れば、いつもは玄関にあるはずの救急箱が、蓋を開けたまま部屋の床に置かれていた。
そしてそれ以上に驚くべきことに、
いくらなんでも治癒が早すぎる。特に治りが早いのは、一番ズタボロだったはずの右腕だった。粉砕されたはずの骨は危うい気配こそあるものの繋がり、剥がれた爪も三割方元に戻っている。
「な……」
「鎮痛・治癒促進ナノマシンの正常稼働を確認しました。特に、
「これ、君が――、っ」
立ち上がろうとした瞬間、目が眩んだ。
「失血に関しては未対応です。適切な栄養を摂り、通常の回復を待ってください」
淡々と少女は言う。
だがその言葉に答えるより先に、問いかけなければならなかった。
「治療してくれたのか……? なんで」
「はあ。怪我人の救助に何か理由が必要なのでしょうか」
当然みたいに言い切りやがった。
「いや、待て……俺のことを倒そうとしてたはずじゃ」
「うみゃあ。なんのことでしょう。
相変わらずの無表情。だが、小首を傾げる仕草があまりにもきょとんとしている。
思わず、俺は自分の右手を見つめた。
「……勝った、のか?」
白亜をこの子にぶつけて、記憶を殺すことに成功した?
俺の記憶も吹っ飛んでいるのは、その反動ということなのだろうか。二度が限度と言われた力を六度も使えばむしろ当然かもしれないが……。
「ええと、それで……。……名前なんて言ったっけ」
「ID、E79TOR。コードネームは『アンセスタ』で登録されています。端的にアンセスタで結構です」
アンセスタ。確かに、言われてみればそんな風に名乗っていた覚えがある。
何かの英単語みたいな響きだが、どういう意味かは分からない。少なくとも、英語の授業に出てくるような単語じゃない……と思う。
「じゃあ、アンセスタ? 悪いんだけど、色々と聞きたいことが、」
「あなたの名前は教えてくれないのですか?」
「え、あ、ああ」
少し
「そうだよな。俺は――。――――。――あれ」
俺の名前、なんだっけ。
「……っ?!」
ゾッとした。
動揺で呼吸が止まる。意識もせずに出てくるはずの文字列が、微塵も想起できない。名前――俺の名前は何だ。
跳ねるように立ち上がり、立ちくらみでつんのめりながら本棚へ向かった。乱暴に、あえぐように、ノートを全て床へ落とす。
数学Aとタイトルが振られた表紙に、自分で書いた文字があった。
「ムラサメ……」
「クウマ?」
くい、と袖を引かれながら呼ぶ声で、我を取り戻した。
少女――アンセスタが、学ランの中から学生手帳を取り出し、こちらに向けてくる。
「あ」
そこには確かに、
止まっていた呼吸が再開する。
混乱して上手く返事の出来ない俺に、アンセスタが首をかしげていた。
「違いましたか?」
「あ、いや……多分それで合ってる、と思う」
困惑しつつも、どうにか床に腰を落とす。
まだ、動揺はなくならない。が、どうにか平静を装える程度には落ち着いた。
……これが、白亜を使った、代償?
相手の記憶を殺すだけでなく、自分の記憶まで漂白する。それが、あの白亜回廊の副作用?
「……村雨、空間」
俺の物であるらしい名前を呼ぶ。実感は無い。過去の記憶を掘り返しても、周囲の人間が自分をどう呼んでいたか思い出せない。
まるで、背骨を失くしてしまったかのような不安がある。昨日の連続する命の危機とは、全く質の違う恐怖が身体を強ばらせる。
だが、しかし……
「……その、アンセスタ。お前の方は大丈夫なのか? 怪我は、痛いところは? いやそれより、まだあの……黄金歴程とか言うのを使う気なのか?」
「はあ。どうしてあんなクソ機能を使わなければならないのでしょう。使ってみたらすっごい痛くて弊機泣いちゃうかと思っちゃいました」
「うーん」
……。……なら、まあ……。……いいか。
助けた。助けられたのだ。あのわけの分からない、押し付けの使命感は無くなっている。
ならば対価としては相応だろう。あれだけ無茶苦茶やって、何の問題も無いという方がむしろ不条理だ。
安心して、腰を床に落とした。気の抜けきった尻餅の音。
だが、ハッとしてまだ問題が残っていることを思い出す。
「そうだ、室久は? みとらちゃんはどうなった?」
アンセスタは答えない。
「見てないのか……?」
「
「クソッ……」
すぐに連絡しようとするが、スマホが無い……と思いきや、枕元に置かれていた。
画面が大きくひび割れているが、まだ普通に使える範囲だった。一体どのタイミングで拾ったのだろう。
考えられるとすれば、室久ごと『主任』の女を倒した後、最後にアンセスタと戦うまでの、記憶の抜けの範囲だが……
いや、スマホの有る無しに関わらず、ノギス工業は一一九番への通報に干渉してくるのだった。個人の通話まで盗聴してくるのかは知らないが、携帯は使わない方がいい。
傷が擦れる痛みを感じながらジャージを着た。
床に右手をやり、バンと叩きつけるようにして立ち上がる。治りかけの腕を使ってしまったせいで骨に激痛が走った。
「ッぎ……!」
「まだ安静にするべきと判断しますが」
「いや、いい! 今はそれより、」
と、そこで、部屋の外から「さっきからバタバタうるさーい」という声があった。
階段を上ってくる足音。姉さんだ。
きっとこのまま部屋に入ってくるつもりだろう。しかし振り返れば、そこに居るのはおすまし顔で部屋の真ん中に棒立ちする銀髪のメカ少女。
どう考えても、見られたらろくなことにならない。
俺は救急箱を布団の下に突っ込みながら、アンセスタに言う。
「っ……悪い、どこでもいいからすぐ隠れてくれ!」
「おなかが空きました」
「今?! 後で何か用意するから、それより早く!」
立ち尽くす彼女の左義手を引っ張るが、ビクともしない。大木の枝を引っ張っているような動じなさだ。仕方なく全力で力を込めた、その瞬間。
「〝――バッテリー残量が少なくなっています〟〝炉心を稼働するか、アンセスタを充電してください〟」
「は? うわおまっ」
アンセスタから急に力が抜けた。俺が引っ張る勢いのまま、こちらへと倒れ込んでくる。
衝突の瞬間と、扉が開け放たれるのは、全くの同時だった。
「ちょっと空間ー。お姉ちゃん夜勤明けなんだからさー、あんまりうるさくしないでよ、もー」
パジャマ姿で部屋を覗く姉さんが、ベッドに倒れ込んだ俺へと視線をやる。
俺の上にはもつれるように半裸の少女が乗っかっているはずだったのだが、しかし。
「――ていうか、そろそろ学校行かないと遅刻するよー? 寝っ転がってないで急いだ方が良いぞ弟ー」
「な……」
居ない。俺の上に倒れ込むはずだったアンセスタの姿がどこにもない。
何も気づいていない様子の姉は、眠たげに目を擦りながら言う。
「あと、私のカレーぱん知らない? 台所に置いといたんだけど、空間食べた?」
「え、いや……食べてない」
「そっかー。まあいいや。あ、そういえば、
どこまでも日常的に、姉さんは言った。
「え――?」
「ほら、十日ぐらい前から帰ってないって話だったじゃない? 今朝、妹さんが見つけて帰ってきたんだってさー」
世間話をするようなテンションで、のんびりと二人の所在が語られる。
「帰る途中のゴミ出し場で近所の人たちが話してたんだけど、なんかねー。帰ってきた室久くんも妹さんも、何があったか全然覚えてないみたいな話でねー。すぐに病院行くとか行かないとかで大変なんだって」
「け、怪我は!? 全身ズタボロとか大火傷とか、ビームで身体に風穴空いてたりとかは!?」
「いやビームて。ちゃんと聞いてないけど、命に別状は無いんじゃないの? 自分達の足で家まで戻ってきたらしいし。それに、酷い怪我してたならそっちの方で騒ぎになってると思うよー」
言うべきことはそれだけなのだろう。「んじゃー寝るから」と軽く手を振り、姉さんは自分の部屋へと戻っていった。
「…………」
思わぬ所からの情報に、ぽかんと口が開いたまま塞がらない。
数秒ほど呆けた後、ハッとなって部屋を見渡す。
「そうだ、アンセスタは!?」
「うみみゃぁ」
ずるり、と。
そんな音すら似合いそうな動作で、
「いや次から次へと異様な情報増やすのやめて欲しいんだけども!」
「*もぐもぐ*。弊機、工学妖精E79TOR-アンセスタ。白亜回廊からの脱出に成功しました。〝1個のカレーぱんを取り出した〟」
服を引っ張る少女の重量。まるで二人羽織のように、ジャージの中でもぞもぞと少女がもがき、どすんと音を立てて裾から床に落下した。
動じる様子もなく、ぺろりとカレーぱんを平らげてしまったアンセスタは、「んー」と不満げな声を漏らす。
「引き続き、白亜回廊を探索します」
「待てやめろ、人の腹に手を突っ込もうとするんじゃない」
ジャージの裾に突っ込まれる手。それがそのまま肌に沈み、肘まで体内に侵入する。
明らかに異様な光景だが、俺の『収納』能力を踏まえればなんとなく理屈は分かる。
恐らく彼女は、重量等の条件を無視して、俺の有する異空間を自由に出入りできるようになっているのだ。……いや、「なっている」ではなく「なった」、か?
昨日、プレハブ小屋の迷宮で、突如現れたアンセスタ。情報をまとめて考えるに、きっと二週間前の火事の日からずっとこの異空間に閉じ込められて……あるいは迷い込んでいたのだろう。
それが、あのアインソフという男との戦闘で、何らかの条件を満たしたことにより脱出に成功した。
その結果として、これまでとは違い自由に異空間を出入りできるようになった……と考えるのが、一番順序立っている、と思う。
だが、全ては仮説だ。俺はまだ、これまでの経緯の基本的な部分さえ把握していない。
本当は今すぐにでもアンセスタから話を聞き出したい。だが、部屋の外では姉さんがまだバタバタと家を歩いている音がする。
「うみゃー」
そしてアンセスタは、俺の身体に頭まで突っ込んでゴソゴソしたままである。カンガルーの親になった気分だ。
この子の奔放さを考えるに、このまま家に居続けるのは絶対に不味い。
下手に動けば、アインソフやノギス工業に見つかるかもしれない。だが、既に住所が割れている可能性だってある。それなら、家族を巻き込まない内にさっさと家を出た方が良いはずだ。
家の中から必要そうな物を『収納』する。
普通に学校に行くフリをして、俺は少女を連れ静かに玄関を出ていった。
見る限り、街の様子はいつもと特に変わっていない。
特に騒がしさもないし、雰囲気自体はいつもの永地市のままだ。家を出た瞬間、得体の知れない黒服集団に襲われるということもなかった。
室久とみとらちゃんの様子や、あの後プレハブ小屋がどうなったかも見たかったが、すぐに行くのは躊躇われた。考えたくないが、罠の可能性だってあるはずだ。
まずはアンセスタに話を聞いてからにしようと、近所の公園へと移動する。
当然、あのパンツだけの状態で連れ歩くわけには行かないので、適当にタンスにあったパーカーとジーンズを着せていた。
拒むかとも思ったのだが、案外素直に身に着けている。
だが、着心地が良いというわけでもないらしい。サイズの合わない袖と、髪を隠すフードを邪魔くさそうに揺らしていた。
「クウマ、これ邪魔です」
「いや、そのままだと目立つから……」
フードを外そうとする彼女を押し留める。
勢いで出てきてしまったが、あの義手と銀のロングヘアはこれ以上なく目立つ。
あの時居たノギス工業の人間は全員、俺のあの……いい加減名前無いと不便だな……忘れろパンチ(仮称)で記憶を失っているはずだが、俺のことは忘れてもアンセスタとはそれなりに長い付き合いのはずだ。室久の時は二週間分の記憶を殺したが、その程度でアンセスタを忘れるとは限らない。
「ところでおなかが空きました」
「とりあえず色々買ってきたけど、そもそも何食べるんだ君。ガソリンとか電池とかじゃなくていいの?」
「おすしが好きです」
「うーん」
言いつつ、道中のコンビニで買ってきた食べ物を渡す。
中にはおにぎり、サンドイッチ、ゼリー飲料にチョコレートなど、一通り種類は揃えておいた。昨日拾ってきた二万円があるので、懐事情には余裕がある。
アンセスタはそれらの封を開け、ぱくぱくとお行儀良く、しかし素早く食べ尽くしていく。
「もう本当普っ通にメシ食うな……金属製なのに……」
「
「じゅうげ……何?」
「猛獣の肉を突き破るサソリの尾。シカの毛皮を貫くマダニの牙。これらの極めて耐久性が高い生体は、通常のたんぱく質とは組成からして異なります。亜鉛、銅、マンガンなどの重元素を原子レベルでたんぱく質に『織り込んでいる』頑強かつ長持ちする生体複合素材。それが重元素バイオマテリアルです」
へえ、と答えながら、興味を覚えて重元素バイオマテリアルで検索する。
しかし、どうにも妙だ。出てくるのはあくまで生体に使うための金属材料の記事で、たんぱく質に重元素を織り込んだ素材の話など全く出てこない。ダブルクォーテーションで囲んでの完全一致検索に切り替えてみると、ヒットする記事はゼロになった。
「んん……?」
「一部の無脊椎動物のあご、牙、針に重元素が多く含まれていることは既に知られていましたが、それがどのように関係しているのか判明したのはつい最近のことです。『重元素バイオマテリアル』という命名が日本で発表されるのは、数日後発売される学術誌での掲載が最初になるでしょう」
「じゃあ、アンセスタが作られ……生まれたのも最近なのか?」
「弊機の製造は十年以上前ですが」
「ん? えっとつまり……ノギス工業の科学技術は十年は先に進んでるってこと?」
陰謀論みたいな話だが、ノギス工業は非人道的な闇の研究機関で、人倫を厭わないその場所では技術が一般より先に進んでいる。とか、そういう話なのかと俺は予想した。だがしかし。
「
「な……どうやってそんな――いや、まさか」
「
迷宮。……やっぱり、迷宮なのか。
迷宮。
恐らく、『迷宮』は俺が思っている以上に重要なワードだ。あるいは、このわけの分からない事態全ての根幹であってもおかしくないほどに。
切り込むように、俺は少女へ問いかけた。
「じゃあ、アンセスタ。――そもそも迷宮って、何だ?」
「迷宮。ラビリンス。ダンジョン。
つまりどういうこっちゃ。
「……哲学的な話?」
「実際的な話です。個人が至るIFの結晶。最果てにある理想の具現。過去に遡る分岐樹の枝。迷宮とはすなわち、一人の人間が持つ多くの可能性の中で、この
「わかんない……」
「うみゃあ。わかりました」
アンセスタは最後のサンドイッチの切れ端をゴクンと飲み込み、何のつもりか俺に学ランを脱ぐように要求してくる。
素直に脱いで上着を手渡してみた。
アンセスタはパーカーの上からそのまま学ランを羽織り、地面に落ちていた木の枝を一本拾う。
「何の意味が?」
「授業をする時は制服を着るのでしょう?」
正しいが間違っている。
心無しかドヤ顔で学ランを羽織ったアンセスタは、木の枝を教鞭のように持ち、滑らかな口調で語りだす。
「前提として、個体としての人間、あるいはそれに準じる知性体には多くの可能性があります。賢い人間になる可能性、愚かな人間になる可能性、強い人間になる可能性、弱い人間になる可能性。多くの可能性の中のどれに至るのかは、これから何をするのか、何と出会うのか、何が起こるのか。そのような分岐の積み重ねで決まっていくものです。ここまではよろしいですか?」
「ああ、うん。要は、人には色んな将来があるってことだよな。良いも悪いも含めて」
「
話の風向きが変わった。
「拳一つで岩を砕き、ビルの屋上まで高々と跳躍し、銃弾を受けても傷一つないスーパーマン。様々な先天的素質や環境により、そんな現実の法則では有り得ない超人に至る可能性を持った人間が、ここに一人、居るとしましょう。
無論、容易に到れる将来ではありません。際限なく肉体を鍛え続け、多くの試練を潜り抜け、無数の奇跡を起こした果てにようやく到れる将来であるものします……
強調された言葉を、俺は反復する。
「本来であれば……?」
「それほどの超人になると、あまりの逸脱さから、存在するだけで一つの異世界を作ってしまうのです――
迷宮とはすなわち、迷宮主がいずれ造りうる異世界そのもの。そして、『未来が過去に逆流してくる』という物理現象なのです」
比喩でも何でもない。
そういうことが実際に物理的に起こりうるのだと、アンセスタは言った。
「そして何より、この異世界に迷い込んだ迷宮主は、凄まじい速度で『将来』へと近づいていく。階層を潜れば潜るほど、迷宮主は長い時間をかけて体験するはずの未来を急速に体現していく。
つまりは育成装置。未来の自分に教えを乞うレベルアッパー。それが、迷宮という異空間の正体」
それが、俺が昨日迷い込んだあの場所。
「迷宮を発生させるのは、『超人になる将来』に限りません。『魔術師になる将来』『超能力者になる将来』そして――『怪物になる将来』さえ。様々な『将来』が、人の可能性が、迷宮を作り出すのです」
「いや、待て、待て待て……」
投げかけられる怒涛の情報を整理しながら、俺は言葉を投げ返していく。
「まず前提として、この世界には超人、魔術師、超能力者、怪物。そういった『常識では有り得ないもの』が実在する」
「
「そして、そんな『常識では有り得ないもの』になれる可能性を持った人間が存在する」
「
「そしていつか実際にそうなった時、迷宮が発生する」
「
「発生した迷宮は過去にまで現れて、まだ可能性を持っているだけの人間を、急速に『常識では有り得ないもの』に変えていく?」
「
信じられない、と言うには摩訶不思議な体験をし過ぎてしまった。
「じゃあ室久もそうだって言うのか……? いつかアイツがあんな怪物になる未来があったって?」
「ムロヒサという方については存じませんが、この永地市は古来より様々な風土が入り交じる土地です。日本のみならず、大陸の諸要素も多く継承してきた場。神や妖の血・因子を継ぐ者は多いでしょう。それをいずれ覚醒させうる人間も相応に存在するかと」
あの男、アインソフは戦力補充が目的だと言っていた。
永地市がそんな特色を持つ街だと言うのなら、確かに、戦力補充には持ってこいだろう。
「じゃあ、ノギス工業はつまり……」
「はい。ノギス工業が保有する大迷宮『
この偉大なる祖にして主の名を、
世界的複合企業体ノギスグループを秘密裏に統べる影の総帥にして、十九世紀に交流電力システムを作り上げた科学史の大偉人、その人です」
「…………」
なんか思ったよりとんでもない相手に喧嘩売っちゃったっぽいな。
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第7層「ラビリンス・レベルダウナー」
ニコラテスラ。
名前だけなら俺だって知っている。電気や電磁波の歴史を語る上で絶対に欠かせない大偉人。
史実では数十年前に死んでいるはずだが――そんなのは今更か。
それほどに滅茶苦茶な科学技術があるというのなら、実は生きていたとしても何ら不思議ではない。
「……でも、ノギス工業がそんなとんでもない組織なら、なんでもっと表に出てこないんだ。三百年先の科学があるなら、それこそ何でも好き放題じゃないのか?」
「『
故に、実際には未来で生まれるはずのものを現在に広めることは出来ない。そうなればそれが生まれた事実そのものが失われてしまう……因果に矛盾が発生するというわけです」
「お前説明下手だろ」
「は? 泣きますよ」
アンセスタの話は長くややこしい。
だが、言わんとすることは大体分かった。
「……つまり、タイムパラドックスが起こると困るって話?
例えば、半導体の無い時代に、未来からコンピューターを持ち込んで、部品に使われている半導体の原理と製法が解明され、それが世に広まってしまったら――
ここに半導体を作ろうと苦慮している科学者がいると仮定する。
その科学者の前に、未来からコンピューターを持ってきて、半導体の原理と製法を教えてしまう。本来半導体を作るはずだった科学者は、苦慮せずに半導体の原理と製法を手に入れる。
だが――
「
この
複雑な上に、スケールがデカい。完全にSFの世界の話だった。
「……でもそれなら、迷宮主なんてそもそも成立しないんじゃないか? 未来を先取りすることが出来ない法則と、未来を先取りすることが出来る存在。両立なんて出来ないんじゃ」
「出来ます。迷宮主は未来を先取りしているのではなく、未来に向けて高速で成長しているだけですから。先の例えにならうなら、半導体の原理と製法をいきなり教えるのではなく、その才能を開花させ半導体の原理と製法を一瞬で閃かせるだけのこと。しっかりと因果の因がある以上、
なんか煙に巻かれたような説明だな……。
実際には色々と計算された理論があるのかもしれないが、概要だけ聞くとどうにも不自然に感じてしまう。
「えーっと……それなのにノギス工業がタイムパラドックスを発生させてしまうのは、『
「
……だいぶ頭がこんがらがってきた。
一旦整理しよう。
原理や機序はこの際置く。要点となるのは、
①未来科学を一般に広めるとタイムパラドックスが発生し、大迷宮『
②これは規模の大きい『
③『
この三つだ。
この三つさえ分かっていれば、とりあえずは問題ない。今の俺に必要なのはあくまで知識であり、理解ではないのだから。
「企業なのに一般に技術を広められないなら意味が無い……ってこともないか。超技術で現代の製品を低コストに作ったりは秘匿しながらでも出来るだろうし」
「クウマの言う通りです。一般に広められない超科学を裏で使うことで、ノギス工業は莫大な利権を得ている。そのため、ノギスの裏に近づいた社員は、基本的に表の世界に関わることが出来なくなります」
「万が一にも未来科学を一般に広めて、タイムパラドックスを起こすわけにはいかないから?」
「
要は、あの『主任』が言っていた通りだ。
④ノギス工業は、一般人に干渉出来ない。
ならば、ノギス工業によって家族や知り合いが人質に取られる、という危惧をする必要はないだろう。無論、相手も状況次第で対応を変えてはくるだろうが……。
だが、そうなると気になることがある。
「でもそれなら、ノギス工業の秘密を握っている奴は、いつでも好きな時に『
「クウマには、その陰謀論めいた秘密を拡散し、大多数に信じさせることが出来ますか? あるいは、それだけのスキルを持ったインフルエンサーへのコネクションがあると?」
「いや……でも、ちゃんとノギスの技術を解析して、データとして発表すれば……」
「どうやって解析するのです。先程言った重元素バイオマテリアルの発見にも現代最新の設備が使われたわけですが」
「む……」
「それら
俺は押し黙った。思った以上にハードルが高い。
それに、仮にいくつもの条件をクリアしてタイムパラドックスを発生させる目処が立ったとしても、その結果『
俺は話題を切り替える。
「一般人には干渉出来ないって言ったけど……迷宮主は、別なのか」
「
⑤ノギス工業は、他の迷宮主に友好的でない。
そうなるとやはり、アインソフと副担任に迷宮主にさせられた室久や、他のクラスメイトのことが気がかりになってくる。
アンセスタに対し、何人かの知り合いが迷宮主になっていることを話してみた。
「ノギス工業は常に一般人への影響を考慮するため、あまり積極的には動けません。能動的に動く際は常に会議を必要とします。完全に迷宮主として覚醒しておらず、表の世界に超常が露見していないのなら、いくらかの猶予はあるでしょう。状況にもよりますが、永地市ならば一週間はかかるかと」
つまり、一週間以上放っておけば危ういということだ。
とはいえ、何をどうすれば助けられるのか……。
「……駆除が基本、なら、やりようによってはそれ以外の道もあるのか?」
「そうですね。ノギスにとって有用な
「その、技能型・機能型ってのは? 迷宮主の分類?」
「はい。全ての迷宮主は四つのタイプに分けられます」
言って、アンセスタは義手の指を一本ずつ立てていく。
「
立てた四本の指の一本が折り曲げられる。
「一つ。
剣術を極めて斬撃を飛ばせるようになった、
学問を極めて超常の知識にアクセスできるようになった、
料理のマズさを極めて何からでもダークマターを生成できるようになった、など。
技能を極めた果てに逸脱する可能性を持つモノが、
『
料理のマズさの例はなんか違う気がするが、理解は出来る。分かりやすい。
「二つ。
己に宿る神や魔獣、そう言った先祖由来の超常因子を、肉体的に開花させた者。
自らに宿る機能を顕在化する可能性を持つモノが、基本的に
四つの迷宮系統の中では、この
……室久も、この
「そして残る三つと四つが、
「具体的にどう違う感じ?」
「異能は自身の認識を外世界に押し付ける行為であるのに対し、霊能は魂や神などを定義した上で既知の記号や象徴に当てはめ操る行為であるため――」
「もうちょっとざっくりで頼む」
「んぅ。……自分の精神からパワーを生むのが
だいぶざっくりに解説してくれた。
つまり――まとめるとこんな感じだ。
超人 | 極めた技術から力を発揮する | |
超能力者 | 自分の精神から力を発揮する | |
魔術師 | 神話や宗教から力を発揮する | |
怪物 | 異形の血脈から力を発揮する |
俺はなるほど、と頷いて言う。
「じゃあ俺の白亜回廊も
「そうなのですか?」
「そうじゃないの?」
「どうなのでしょう」
「よくわかんない?」
「よくわかんないです」
「よくわかんないか……」
よくわかんないなら仕方ないな……。
能力の効果を一通り話してみたが、アンセスタは首を傾げたままだ。
「少なくとも、神話や宗教などに由来するモノでないのは確かです」
「つまり
「そういうわけではないのですが……。
「じゃあ何なのコレ」
「うみゃあ」
つまりよくわかんないらしい。
「ただ、どういう訳かクウマは肉体そのものが迷宮化しています。物を出し入れできる機能は肉体の迷宮化による副産物であり、迷宮主としての特性とは無関係かと」
アイテムボックス機能はあくまでオマケらしい。
となるとやはり、本質は忘れろパンチ(仮称)の方なのだろうか。
しかし、あの忘れろパンチは忘れろパンチでよく分からない。室久はアレでシバいたらなんか元に戻ったが……。
「よー、空間。そんなとこで何してんだ」
背後からかけられた声にバッと振り返る。
噂をすれば影。鞄を担いだ室久が、平然とした顔で自転車に乗っていた。
アイツも大概ボロボロになっていたはずだが、見る限りどこにも怪我をした様子は無い。
急な遭遇に動揺しつつも、俺はかろうじて声を返す。
「あ、お、おう。まあちょっと。ていうかお前、大丈夫だったのか」
「あ〜いや、これマジでネタとかじゃねえんだけど、記憶喪失らしいんだわ、俺。何か火事とか行方不明とか色々あったってのは聞いたけど、二週間ぐらい前から本気で何も覚えてねえんだよなぁ」
含むところのない普段通りの表情に、またも記憶を失っていることを確信した。自分でやっておいて何だが、脳のどっかにダメージが入ってそうで心配になる。
そこからの情報は、ほとんど姉さんから聞いた通りのものだった。
気がつけば同じく数日分の記憶が無いみとらちゃんと一緒に丘ヶ山の麓にいて、自分の足で家まで帰ってきた。その後病院に行き、特に何の異常も確認されないまま、再度家に戻ってきたところだと……。
「なら、どうして普通に外出歩いてるんだ、明らかに大ごとだろ。そのまま家に居た方が」
「でもなぁ、元々ギリだったのにいきなり十日も休んじまったから割と単位ヤベぇんだ。病院でも異常無しって話だったし、まあ出ても大丈夫かなって」
「お前ら兄妹なんでそう妙なところで図太いの」
あの妹にしてこの兄ありだった。俺がノギス工業がどうので頭を悩ませているというのに、当の本人はこうも呑気である。勿論、こっちの方が
しかし……。
「なあ、室久。本当に――本当に、何も無かったのか?」
「むしろ俺の方が何あったか知りてえんだけど」
「そうじゃなくて今朝、意識が戻ってから。怪しいモノとか、コトとか。心当たりは何も無いのか?」
「ねえなあ」
……ノギス工業が、そのまま室久を解放した? 何の処置も監視もなく? だが、相手は超科学集団だ、こう見えて実は、という可能性も――
「クウマ。この方がムロヒサですか」
くい、と丈あまりの袖に包まれた手が制服の裾を引く。
室久にアンセスタの姿を見られると話がこじれそうな気がした。彼女を背中に隠し、小声で密かに返事する。
「待てアンセスタ、もしかしたらノギス工業の手で室久そっくりに作られたクローンという可能性も」
「クウマはノギス工業を何だと思ってるのですか。技術と知識があるからと言って、それより遥か遅れた時代で資材や設備まですぐに用意できるわけではないのですよ? 人間のクローンを一晩で作れるほどの機材は本社にしか存在しませんし、そもそもノギスはそんなリスクの高い真似はしません。常識的に考えてそんな超技術の塊がそう簡単に町中を歩いているわけがないでしょう」
「いやキミ歩く超技術の塊」
「弊機は良いのです。そこの方にも
そう言って、アンセスタはこちらを向きながら室久の方にバックステップし――そのまま幽霊のように、室久の身体を
「なッ……」
そしてそのまま平然と身を翻し、公園の外に歩き去っていく。
流石にわけがわからない。ここまで超常的な現象は色々あったが、それにしたって異質だ。というかそもそも科学なのか、アレ。
急に動揺した俺に、室久が怪訝そうに眉をひそめる。
「あ? どうした、空間」
「いや何でもない! また学校で!」
適当に手を振って走り出し、公園を出ていくアンセスタに追いついた。
「今の何、どういう原理!? トンネル効果?」
「全身に迷宮を纏いました」
「なんて?」
「簡易的な疑似迷宮の開廷です。例えるなら可視光線から赤外線へと位相を……いえ、誰にも認識されず触れることも出来ない異空間を周囲に展開して片足突っ込んでるぐらいに思って下さい」
アンセスタはフードを外して、そのまま人の多い市街地の方へと向かっていく。
「……本当に大丈夫なのか? 俺に見えてるんだし、他にも見える人は居るんじゃ」
「疑似迷宮の内部を知覚出来るのは、一度でも迷宮に入ったことのある人間か、迷宮主だけです。それ以外の人間にはどのような手段を用いても察知は出来ません」
そうなのか、と返事をしようとして、気づく。
「待て、迷宮主には知覚出来るって……」
「
断言だった。
「室久が、既に迷宮主じゃない? 迷宮主のことはまだわからないけど、そう簡単に辞めれるものじゃ……」
「
なら、という俺の声を遮って、アンセスタはじっとこちらを見る。
「ですがクウマの白亜回廊は
「え――いや、でも、最初に室久の記憶を消した時は、ノギス工業がアイツを迷宮主だって判断して、」
「白亜を使ったのはムロヒサの迷宮内だったのでしょう? その後、彼の迷宮主としてのレベルアップを伴う行動に心当たりはありませんか?」
「レベルアップって言っても……あ」
プレハブ小屋の迷宮に入った直後、最初に
――〝それらは、多くの場合で迷宮主が挑むべき『経験値』として設定されています。そのため、階層が上がる毎に脅威度が上昇していきます〟
今なら分かる。というか、思った以上にゲーム的な話だったのだ。
「アレそういう意味か……。
「
俺は、額に手を当てため息をついた。
「……倒した。いや、倒させた。室久に
「
今更言っても仕方がないが、あそこで室久に戦わせるべきではなかった。アインソフを倒して気絶していたアンセスタに何故言ってくれなかったとは言えないし、説明を後回しにしてみとらちゃん達を探すことにしたのは俺の選択だ。
悔やむ俺を振り返らず、アンセスタはどんどんと市街地に向けて進んでいく。
「そういうわけなので行きますよ、クウマ」
「……? どこに?」
「病院です。中途半端に主にさせられたクラスメイトが、意識混濁状態で入院中なのでしょう? あなたの白亜を使えば元に戻せる可能性は充分にあるはずです」
気付かされる。確かに、そうだ。
過ぎたことを悔やんでいる暇は無い。出来ることから手を付けていくべきだ。
見当違いの病院に向けて歩を進めていくアンセスタを引き戻し、俺たちは市内の公立病院へと向かっていった。
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第8層「大きな地殻変動が起こった」
くすんだリノリウムの廊下。種々の薬品が入り混じった独特の臭い。
そんな病院の雰囲気がアンセスタには物珍しいようだった。長い銀髪と、尻尾のようなコードを揺らしながら、しきりに周囲を見渡している。
可愛らしいがそれはそれとしてかなりの異物感だ。しかし、俺以外の誰もそれを気にする様子はない。そもそも彼女のことを見ている人間がいない。
全身に迷宮を纏う。字面は胡乱なものの、効果は確かだった。
「…………」
しかし、こう、実際に透明人間であることを見せつけられると、話しかけるのが躊躇われる。だって今声かけたらいきなり独り言呟き出した変な人になるわけだし。
特に会話もないまま、受付で教えられたクラスメイト達の病室の前にたどり着いた。
「ん」
扉を開けようとする俺に、アンセスタが袖をめくって金属の手を差し出してくる。
俺は周囲を見渡す。廊下の奥に看護師が一人見えたが、視線はこちらは向いていない。息を潜め、アンセスタに言った。
「もう食べ物ないぞ」
「常に腹ぺこみたいに言わないでください。クウマを簡易迷宮の内に入れるだけです。弊機に触れている間は、あなたも認識不能になりますから」
「ああ……、病室に他の人が居るのか」
「
手を繋いだ。当然ながら、鋼の義手は女の子の柔らかさなんて微塵もなくゴツい。何が悪いというわけでもないが、言いようもなく残念だった。
ドアノブを引く。中にいた看護師さんにはひとりでに扉が開いたように見えたのだろう。不思議そうにしながら廊下を見に行く彼女とすれ違い、ベッドの方へ向かう。
火事の被害を受けたのは、俺と室久を除けば十四人。
うち四人が行方不明……正確には、迷宮主化し副担任の支配下に。六人が心身不定状態で療養中。さらに四人が、意識混濁状態で入院中。
この病室の中にいるのは、入院している四人の内の二人だった。
中にいた同級生たちは、パッと見るだけならただ寝ているだけのように思える。だが、学校で見ていた時とは明らかに顔が違った。眠っているのに休めていないのか、眉間のあたりに刻んだようなシワが出来ている。
覚悟を決めて右腕を引き千切ろうとした。
が、どうも安全に取り外すためのスイッチがあるらしい。アンセスタが二の腕の奥にあったしこりを押し込み、肉が解けるように腕が外れた。
「この腕は、どこで?」
「多分、記憶の無い二週間前の火事ですげ変わったんだと思うけど……」
外れた腕を眺めるアンセスタが、彼女の右義手を俺の右腕と付け替える。付け替えれるんだ。
そしてアンセスタに合わせるように、腕はぐにぐにと歪み、男の腕から女の腕へと形を変えた。
「ふむ」
「なんか変形しちゃったけども」
「後で戻します。しかし、妙な機能が組まれていますね」
「妙な機能?」
「弊機との連携機能です。恐らくこの義肢の装着者を弊機がサポートするため……いえ、違いますね。元々弊機用のアタッチメントでしたか。それなら本体との間に連携機能があるのも頷けます」
……要は、この右腕は元々アンセスタの物だったということなのか? 確かに、初めて現れた時、右腕だけ金属義手だったが……。
「……返した方が良いかな」
「結構です。無いとあなたも不便でしょう」
「でも、君だってその金属のだと不都合あるだろ」
「感触が無いだけです。問題ありません」
感触無いのは普通に問題だと思う。
彼女はもっと、こう、人間らしくしていいはずだ――と言うと語弊があるか。正確に言えば、ここまで奔放なのに、そういうところで妙に機械的なのはどうも危うい気がするのだ。
俺の勝手な考えと言われればそれまでかもしれないが……。
とりあえず、今は同級生の治療を優先する。
右腕から白亜を噴出させるものの、昨日と違い少し手こずった。
感覚的な話になるが、多分この白亜は「
どうにか自分の思考を制御し、忘れろパンチ(仮称)を二人に叩きつけた。
〝あなたは、邨碁ィ灘?、繧堤?エ螢翫@縺〟
〝あなたは、邨碁ィ灘?、繧堤?エ螢翫@縺――〟
効果は劇的だった。直後に二人が目を覚ます。
二週間寝たきりであればもっと弱っているはずだが、そんな様子も無い。起きた彼らは困惑した表情で、一体何事かと話し合っている。
まだ十五人の中の二人だが、ひとまずは安心できた。わずかながら口元が緩むのを感じる。
「…………」
が、隣の少女は相変わらずの無表情だ。
……というかそもそも、何だってこの子が俺の同級生を助ける提案なんてしたのだろう。大体が無関係の他人のはずだ。彼らを元に戻すことが彼女にとって何かしらの利益に――
そこまで考えたところで、アンセスタがこちらを振り向く。
そして、思い出したように。だけど、真実嬉しそうに、子供みたいに。
「良かったですね、クウマ」
屈託なく、笑った。
「――――。え、あ、あぁ……」
いや……笑う、のか。この子。
何故か、彼女の笑顔なんて絶対に見れないものだと思い込んでいた。
不意打ち過ぎて、滑稽なくらい動揺している。我ながら単純極まりないが、そんな風に笑顔を見せられただけで、アンセスタのことをどうしようもなく優しい奴だと思ってしまった。
「えっと……じゃあ、次行くか。まだ二人居るし」
「クウマの負担の方は大丈夫でしょうか。それなりにリスクのある能力だと思うのですが」
「ああ、大丈夫大丈夫。昨日は六回ぐらい使ったし」
アインソフには二回が限度と言われたが、まあ何とかなるだろう。
〝あなたは、邨碁ィ灘?、繧堤?エ螢翫@縺――〟
そういうわけで隣の病室に移り、サクッと三回目の忘れろパンチを叩き込んだ。
反動の方もそこまでではない。実際、五回使った後でもアンセスタと真っ向勝負して勝つ程度の余力は残っていたのだ。この程度の頭痛と朦朧具合なら、まだ全然余裕だ。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
「ぐ、ぎィッ……! まだだッ、問題ない!」
「ダメそうですけど」
「いや、まだいける! 昨日も、四回目の時はまだ血涙出るぐらいで済んでた!」
「えいっ」
「おぐっ」
文字通りの鉄拳が俺の土手っ腹に叩き込まれた。
かけ声は可愛かったが、威力が洒落にならん。鉄の塊で腹を殴打されたのと何も変わらない。
うずくまる俺を引きずり、アンセスタは病室を後にした。
「ま、待て……まだ一人残ってるのに……」
「ノギスの干渉が及ぶまで一週間はかかります。あと十二人なら、一日二、三人ペースでやっていけば間に合うでしょう」
「だけど、ノギス以外にも、アインソフって奴がまだ街に潜んで、」
「――アインソフ」
一瞬だけ、アンセスタが足を止めた。
そして、何かを思い出すように目を閉じ、しばらくしてからゆっくりと瞼を開く。
「なら――もう一度、人の居ない場所で情報交換をしましょう。この簡易迷宮も、あまり長時間は展開出来ませんから」
「……? いや、確かにこっちから聞くばかりだったか……。わかった、移動しよう」
どうにか立ち上がり、二人で病院を出る。
だがその途中。同級生の母親らしき女性が、ちょうど見舞いに来ていたのを見た。
「うちの娘たちも目を覚ましたんですか!?」などと医者に問いかけ首を横に振られている様子に、後ろ髪を引かれてしまう。
「クウマ」
「あ、ああ……いや、わかってる」
仕方の無い――ことだ。
最後に感じた、背中に刺さるような感覚を振り払い、俺たちは今度こそ病院を後にした。
そんな二人の様子を、病室の窓から見下ろす影があった。
「フッ――、よりによって、
病室のベッドに座る、どこにでもいる青年のようだった。
しかし、纏う気配はあからさまなほどに隔絶している。
哀れな犠牲者、竜胆始――その姿を借りたアインソフ・ヨルムンガンドが、王者のように座していた。
「これは彼らが不運なのか、あるいは私に天運が向いたのか。果たしてどちらだろうな。少女――
ベッドに眠るのは、一人の少女だった。
恐らくは誰もが、一目見て「大人しそうな女の子」だと思うだろう。
背丈は平均よりやや高いが、体格的には並以下、貧弱とも言ってよかった。目を瞑った顔は如何にも幸薄げで、凶悪などという言葉からは程遠い。どちらかと言えば善良かつ生真面目で、クラスの委員長でもやっているのが似合うような、そんな少女。
「そうだ、再町左希。お前はこの十六人の中で最も、弱く、優しい。
アインソフが自身の指の一本を半ばから噛みちぎった。
そしてそのまま、おぞましいほどに紅々と輝く血液を、再町左希の唇へ――零す。
「目覚めるが良い、新たなる主。汝が拓く迷宮に、
病室内が、静かかつ急速に異界へと塗り替わっていく。
窓から差し込む日も、照明の光も何も変わらない。なのに、室内の明度だけが急速に落ちていく。暗く、暗く、薄暗く、曖昧に。周囲に漂う独特の病院臭が強く濃くなり、どこからか血と灰の匂いが混ざり――そして。
「――――あ、」
新たな迷宮主が目を覚ます。
起きたばかりの胡乱な眼差し。ぼんやりとした瞳をアインソフに向けながら、再町左希はのろのろとした手付きで、枕元に置かれていた眼鏡をかける。
「あ、なた、」
「ようこそ、万色の外側へ。気分はどうだ、目覚めた心は何を想う? 赴くままに語っ――」
「
アインソフが振り返る。そこには。
『ロギアズ。レェィイイルォオオオルゥゥウウウ――』
人間大の黒い
「下らん」
――斬、と。
超速の手刀で、その首を跳ね飛ばされた。
ゴトリと音を立て、黒を撒き散らしながら、ボールのように転がる頭蓋。
「ま、責めはするまい。成り立ての主に
再町左希はそれをじっと見下ろした後、
「……あな、た。殺しましたね?」
「何だ、まだモラルが残っているか? ならばもう幾らかその心を削って、」
「
「――は?」
転がった黒靄の首に、少しずつ色が宿る。
「……な、に……!?」
「罪は『消す』――命は『戻す』――ザクロを吐いて、私たちは『ゆるされる』――」
そして、
「何だ――
侵蝕は止まらない。逃れることも出来ない。
不死身の再生能力すら通じぬまま、黒い靄へと邪竜の全身が置換されていく。
「さ、再町左希ィ! 貴ッ様何をしたァアアアアアアアアア!!」
「迷宮の『脱出条件』はただ一つ……『
再町左希がゆっくりとベッドの上に立つ。今にも崩れ落ちそうな姿勢で、祖たるアインソフを見下ろし見下す。
「『あなた』が脳死するまで、残り十秒……十秒の『余命』を過ぎた時、あなたは『囚われる』。この
アインソフが咄嗟に転がった首へと手をかざす。しかし、首は何の反応も返さない。アインソフの再生能力はあくまで自己再生能力であり、他者を対象とするものではない。
「ふ、ふざけるな……! というかそもそもこの私が首を飛ばされた程度で死ぬかッ!? あり得んッ、無効だ! すぐに解除しろ、再町左希ィイイイイイイ!!」
「喰らった
ズレた眼鏡、ボサついた髪。
大人しそうな委員長風の女生徒が、死の超越者に二本の指を突きつける。
「に……いち……零。
迷宮、創造。――
「く、クソがァあああアアアアア!! ウオオオこの程度で私が諦めるとでも思っ、」
言葉を待たず、アインソフの全身は黒い靄に置換されていった。
かくして、新たなる迷宮は拓かれる。
祖たる
「ああ、生きたい。生き返らせたい。もう、死んでいたくはない――」
意義も意味も無く、制御さえ手放しで自殺産道は広がっていく。拡張し続ける。
次なる迷宮との戦いは、すぐそこまで迫っていた。
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第9層「One way heroics」
病院を出て、最初の公園に戻ってきた。
俺たちは二度目の情報交換をする。ただし、一度目とは違い、今度は俺の方が答える側だ。
昨日の戦い。一部始終とはいかないが、要点を絞って何があったかを端的に語っていく。
同級生達との戦闘。副担任との相対。迷宮での室久戦。その後のアインソフ戦。ノギス工業との戦闘。
記憶が曖昧ではあるが、その後アンセスタと戦ったことも話していった。
最後まで聞いたアンセスタは頷き、「とりあえず」と前置きして、言う。
「――なんで一日に六連戦もしてるんですか?」
それは俺が聞きたい。
ともあれ、本題は別のようだ。無表情の中にどこか呆れの色を見せつつも、アンセスタは静かに語り出す。
「
アインソフ・ヨルムンガンド――あの、凄まじい力と不死性を持ち、一連の事件の黒幕を名乗った男。
一撃でぶっ飛ばされていたのでイマイチ脅威度の位置づけがしづらいのだが、アンセスタの声は真剣だった。
「真不死。死殺し。無限の竜。ウロボロス。ネフシュタン・ゼロ。
その生年は
西暦、六〇〇年。
驚きはしたが、俺はその言葉を事実として受け止める。ニコラテスラ云々の話を聞いていなければ、きっと何かの聞き間違いだと思っただろう。
しかし――それにしたって桁が違った。
ニコラテスラが二十世紀の人物であるのに対し、こちらは七世紀。日本史で言えば大化の改新、世界史で言えばイスラム教が始まった頃だ。あまりにも時代が遠すぎる。
「アインソフは、元々ある遊牧国家の
「遊牧国家って言うと……チンギス・ハンとか、フン族みたいな?」
「
勢力としてはかなりマイナーらしい。アンセスタは話を続ける。
「アインソフがいつどのように迷宮を拓いたのかは不明です。しかし、そのきっかけが、当時敵対していた国の王にあることは間違いありません。
凱旋王。輝かしき英雄。最も難き地のあるじ。黄金歴程最初の担い手――王の中の王、ゼーイール。
かの主と出会った後に、アインソフは不死の力に目覚めます」
……黄金歴程の最初の担い手。
あの『主任』が言っていた、『昔の英雄的な王様』、か。
「遊牧国家は衰退し滅んでいきましたが、アインソフだけは不滅でした。
自身の迷宮を拓いてからの千と四百年。自分を殺す力が生まれたと知れば行って滅ぼし、死なせる道具が出来れば解明し耐性を付け、延々と力を蓄えながら無数の邪悪を振りまいてきた、最古最強の
疑うわけではないが、彼女の言葉を信じきれない俺がいた。
何せ、千と四百年だ。それほどまでの長きに渡って無法を許すほど人類は甘くないだろう。
実際、目の前にいる少女は確かに奇襲を入れてみせたのだ。隙がある以上は突くことだって出来たはずと、そう考えた俺にアンセスタが頷く。
「無論、アインソフを滅ぼそうとする試みは数多くありました。
個人的な復讐から、国家的な報復まで。無謀なものも多くありましたが、それでもあの男を抹殺可能なだけの意思は確かにあったのです。
当時のアインソフの性能では離脱不可能な深海への封印。火山への投入。宇宙への追放に始まり、近代兵器による断続爆撃及び核攻撃。それら物理的手段から、
アンセスタの結びの言葉に、俺は思わず瞠目する。
「せ、成功した? 失敗じゃなくて?」
「
隙を突ける突けないなんて問題ではなかった。
「アインソフを殺せるのは黄金歴程だけ、と本人が自称してはいますが、それもどれだけ信用出来るか――ですが、可能性がある以上は弊機を狙ってくるでしょう。効かないと慢心して不死殺しを放置するような性格では絶対にありません」
「そっか、ヤバいな……」
「早ければ数日中に……いえ、ノギスの干渉が及ぶまでの一週間内に始末をつけに来るのは確定です。どう対処するにせよ、戦闘になるのは避けられません」
思ったより余裕が無い。果たしてどれだけ対策と準備が出来るか。
「弊機としては逃げに徹するつもりです。黄金歴程は使えませんが、それでも威嚇手段にはなるでしょう」
「まあ、倒せないなら現状それしかないか……。分かった、その方針で準備しよう――あ、そういやどこに逃げるかって決まってるのか? いきなり海外まで高飛びとかだとキツいな、英語そこまで得意じゃないし」
そう言った俺に、アンセスタは答えなかった。
まばたきのない、鳥みたいにギョロッとした視線。少し不気味の谷っている瞳で、俺の方を注視している。
「アンセスタ?」
「着いてくるつもりですか、クウマ」
「え? うん」
「家族にはどう説明するのですか。二度と会えなくなる可能性もありますが」
「まあ仕方ないだろ。姉さんもアレで結構強い人だし、大丈夫だよ」
「アインソフの手を躱して終わりではありません。弊機はもうノギスに戻るつもりは無いのです。世界的組織と敵対し続けることになりますよ」
「ああ、戻るつもり無いのか、良かった。分かってる、安心してくれ。自分から手を出しといて放っておくほど無責任じゃない」
「…………」
アンセスタが黙り込む。そして、その無表情を崩した。
呆れた顔だ。これ見よがしに「はぁ」とため息をついて、俺に向けて鋼鉄の右手を伸ばす。
「……地獄ですよ。逃げ場も出口も無い。そんな世界に、これからずっと囚われます。本当に、良いんですか?」
「いいよ。覚悟は出来てる」
どうしてこう何度も問いかけてくるのか、本気で理解できなかった。
俺は右手を伸ばし、彼女の義手を握り返す。
「では、ここでお別れです」
そしてアンセスタは、俺の中指をへし折った。
何が起こったのか分からなかった。
「い゛ッ――ぎ、っォあああ!?!?」
「どうやら弊機の文章作成機能に問題があったようなので、余計な処理を挟まずに言いましょう。――『来るな』。以上です」
何の警戒もしていなかったところに来た激痛に思わずうずくまる。
そんな俺を軽く一瞥し、彼女はそのままどこかへ歩き去ろうとした。
「ま……待てッ、アンセスタ……! 俺はッ、」
「嫌です。あなたに覚悟なんて出来ていません」
「あ……?」
自分の中で何かがブチ切れたのを自覚する。我ながら短気極まりないが、それだけはあまりにも心外過ぎた。
「覚悟が出来ていない――俺が? 俺がか?! 俺が何の覚悟も無しにああ言ったと、そう思ったのかッ、君は!?」
「うるさいです」
返答は回し蹴りだった。
景色が吹っ飛ぶ。腹の上で爆発が起きたかのような凄まじい衝撃。軽く一秒は滞空して、着弾。地面を勢いよく転がった。
「がッ、あ、ァ……! げ、ゲホッ、おま、え……!」
「申し訳ありませんが、同級生の治療はクウマ一人で行ってください。難しくはあるでしょうが、弊機が無くとも可能なはずです」
蹴り抜かれた彼女の足からは、金色の光がスラスターのように噴き出している。その噴射力で、俺の体を吹っ飛ばす威力を得たのだと理解した。
「そして――最後には、その白亜回廊を自分の頭に叩きつければいい。それで、あなたは日常に戻れます」
「待っ、」
気合で立ち上がったが、もう間に合わない。
アンセスタはそのままスラスターを吹かし、とんとんと非現実的な軽やかさで公園の遊具から電柱、家の屋根へと飛び移っていく。十秒経った頃には、もう俺の視界から彼女の姿はなくなっていた。
「〜〜ッ!」
失敗した。何を失敗したのかは分からないが、間違いなく何か間違えた。そう思った。
だが、考えるのは後回しだ。立ち上がって、アンセスタが去っていた方を見る。今追いかけなければもう二度と会えなくなるという直感があった。
内臓が歪みそうな激痛に耐えながら、俺は公園の外へ歩き出す……いや、歩くだけじゃ追いつけない。走るのでも多分足りない。
俺は右手を地面にかざし、虚空から自転車を『取り出し』た。
サドルに跨りながら、その非日常的な現象を起こした右手を見る。
……白亜を自分に叩きつけて、日常に戻ればいい? 何もかも忘れて? 出来るわけが無い。例え忘れたとしても絶対に永遠に後悔する。その自信がある。
自転車を漕ぎ出した。
アンセスタは、あまり長時間一般人から認識不能になれるわけでは無いと言っていた。なら、あの高速移動もいつまでも続けられるわけではないだろう。
ここら近辺であまり人目につかない場所をいくつか思い浮かべ、そこに先回りしようと全力で通りを走り抜ける。
明らかに俺が不利な鬼ごっこだが、それでも土地勘はこちらの方が上のはずだ。上手くやれば追いつける。そう信じて、壁に挟まれた狭い路地に入っていく。
小さな工場と工場に挟まれたこの道はそう長くない。急いで通り抜ければ、彼女を追いかけるのに有利になる。全力でペダルを漕いでいく。
「…………」
……だが、追いついて、その後は? 結局、このままではまた逃げられるだけじゃあないのか。両脇に壁が続く中、冷静な部分が問いかけてくる。
「…………」
しかし、今さら彼女を放って日常に帰ることは出来ない。壁が続く路地を、俺は走り続ける。
「…………」
だって責任がある。最悪な場所から引き上げておいて、その後にまた同じ場所に戻ろうが知らない、なんて言えるはずがない。そんな偽善は悪にも劣る。俺は自転車を必死に前へ進める。
「…………」
覚悟ならある。あったのだ。昨日、ノギスの奴らを殴り飛ばそうとした時から既にあった。地獄だろうがどこだろうが、絶対に一人では行かせない。俺はひたすら路地を駆ける。
「…………」
だから、壁の続く道を走って、
「…………」
走って、
「…………」
走り続け、て――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
異常が発生していた。
明らかにおかしい。こんな路地、二百メートルもない。だが、
出口は見えている。道の終わりは見えている。なのに、近づいている認識はあるのに、どれだけ走っても終端に到達しない――いや、違う。
そうだ、止まればわかる。
道の『奥行きが増して』いる。
傍の道路標識に、『十センチ近い厚み』がある。
それを支える柱が、『前後に引き伸ばした』楕円形に。
壁に立てかけられた看板の、『横幅が広がって』いく!
「マズい――!」
何がどうなっているのか分からないがとにかくマズい!
「『
響いた。
「『沈むは木の葉、』」
声が。
「『天理そこ
背後から。
「基底現実、伐界開始。
迷宮、開廷――
振り返った瞬間、引き伸ばされた世界がついに引き裂かれた。
死に絶える現実感。顕現する千本鳥居。
雲の一つも無いのに空は灰黒に染まっていた。通常空間が川のように道を流れ去っていく。元の世界の痕跡はもはや両隣の壁と、遠くに見える色の無い建物の群れだけ。
異世界と化した長い長い小道の果て、一人の女が立っていた。
「もう先生からは逃げられませんよ、村雨くん?
レディーススーツに日本刀。
清楚系美人の副担任が、淑やかな笑みを浮かべてゆっくりとこちらに歩いてくる。
「……ッ!」
「安心してください、殺しませんよ。擬似迷宮を開廷した以上、あの人形もすぐにやってくるでしょうし。黄金歴程の無い探索兵器なんてどうとでもなりますが、それでも万が一がありますから。君を人質にするだけで話が非常にスムーズになると思うんです」
コツコツコツと、緩やかに迫る足音。だが、おかしい。
「しかしどうしましょう。先生、捕縛だとかには向いてないんですよね。――『
副担任が立ち止まり、足元にあった石を蹴り飛ばす。
蹴られた石はそのままこちらへと飛んできた。そう、『そのまま』。
落下しないのだ。速度も落ちない。完全なる等速直線運動。
「――!」
この狭い道では逃げ場が無い。『取り出し』た鉄板を構え、盾にしながら飛び退く――が、石は鉄板を『そのまま』引き裂いて、俺の足元へと飛んでくる。
「っ、ォ、がぁッ!?」
躱しきれなかった。石が左脚に掠り、まだ治りきっていない肉が更に刻まれる。
否応なく倒れ伏す俺を見て、副担任はくすくすと笑い、懐から何かを取り出した。
「ふ、ふふっ。ああ、そういえば村雨くん、昨日先生に小麦粉投げつけてきましたよねぇ?」
白い粉がぶちまけられる。
速度は遅い。だが
回避は出来ない。倒れたまま、苦し紛れに適当な鉄パイプを投げつけた。が、何の意味も無い。鉄パイプが小麦粉の群れに接触した瞬間、粉砕機にかけられたが如く弾け飛ぶ。
マズい。『収納』出来るか? 分からない。このまま踏み込むのは危険過ぎる。
立ち上がって後退する。幸い、粉の動きは鈍い。アンセスタがここに来るというのなら、それまではこうやって耐えしのぐしかない……!
「そう、そうですよ、それでいい……! そうやって怯えて逃げて引き下がって大人しくしてればいいんです。私の邪魔さえしなければッ、こんな目に合うこともなかったんですから!」
周囲の空気を『収納』し、風として叩きつける。が、何の抵抗にもならなかった。粉の動きを止められない。
「自己満足なんですよ、所詮! 何か出来ると思いましたか? 何か出来たと思いましたか!?
「――――」
そこまで聞いて、ようやく分かった。
「分かったなら、さっさと――」
「ああ、
背中に爆風を発生させて突進した。背骨の軋む痛みを無視して、ぶっ飛ばされるように飛翔する。
〝あなたは、小麦粉を拾った〟
小麦粉の弾幕を突き破った。『収納』出来ない可能性などもはや考慮しない。
『取り出し』た鉄パイプを振り上げ、副担任の頭に向けて全力で振り下ろす。
「ッ、」
副担任の顔に迷いが見えた。進むか下がるか、戸惑うように脚が動く。
舌打ちと共に副担任が飛び退いた。鉄パイプが袖に掠り、カフスボタンが千切れて飛ぶ。
「あぁ、そうだ、そうだった……! なんでこっちが情けなくもただ黙って唯唯諾諾と大人しく引き下がる必要がある!? 逆だろうが! 引き下がるのはお前だ、地獄に落ちるのもお前らの方だッ! それが道理ってもんだろうがァ!」
アンセスタが怒るのも当然だ。出来そうにないと犠牲を容認し、理想を目指さず妥協を覚悟し、高いハードルを跳ばずに潜ろうとした。何が*勝利*だ。それが嫌だからあの昨日はあったのに。
加速しつつ後退していく副担任に、鉄パイプを突きつける。
「まず今ここでテメェを殺す……! 次にアインソフを殺す……ッ! おかしくなった
「ハァ……? 何をバカな、そんな思い上がり甚だしい間違いをよくもまあ堂々と――」
「『間違い』とは『誇るべき意思を貶めること』ッ! あんな格の低い三下丸出しのカスにへつらい従って結果素人一人捕まえられずに焦り散らす程度の間抜けがさも訳知り面で無駄に大物染みた態度を取っているんじゃあないッ! 自分で自分を無様だとは思わねえのかこの恥知らずがッ!」
戦力差がどうとかそういう話は俺の中でもう過ぎた。こんな輩の言葉を聞く耳はもはや無い。
相手を「強い」「弱い」なんて意味の無い指標で測るのは止めだ。正しく目を開き、見極める必要がある。
恐らく、相手の能力は「等速」……いや、「減速しない」だ。副担任が追加で加速をかけられる以上、常に速度が一定というわけではない。
そして、それが攻略の糸口になる。すなわち、向かい風に対しては強いが、追い風に対しては弱いのではないかという仮説だ。要は背後から殴る。
飛び退く副担任のカフスボタンを弾き飛ばせたという実例もあるのだ。状況証拠としては弱いが、試す価値はあるだろう。
「問題は――」
この、道の狭さ。
自転車一台通るのがやっとの道幅。副担任があの刀を横溜めに構えて突っ込んでくれば、それだけで回避がほとんど不可能になる。背後を取るのはほぼ無理だ。仮に副担任の背後まで飛び越えるようなジャンプ力があったとしても、上は鳥居で塞がれている。
「……あぁ、もう、何……? なんで私の方がイラつかさせられてるわけ……? 本ッ当にウザったい……邪魔……邪魔、邪魔、『邪魔』……!」
後退していた副担任が静止し、こちらに向けて駆け出してくる。
いつの間にかかなり距離を取られていた。助走時間が長いほど速度が増すからだろう。
人間の脚伸展力が
到達まで残り三秒と無い。それまでに何としてでも捻り出す必要がある。敵の後方に回り、無防備な背中に攻撃を叩き込むための、その手段を――!
「『本当に』、『邪魔』」
そして、副担任が姿を消した。
「――な」
虚空に、琥珀色の亀裂が開いて閉じる。
あまりの速度で見失った、わけではない。
「
背後だった。
背中合わせになるように、副担任が俺の後ろに立っている。
瞬間移動。そう言うしかなかった。
刀は既に振られている。もはや間に合わない。望んでいた背中を相手が自ずと晒しているのに、攻撃する時間はおろか、躱す時間さえない――死ぬ。
「――もう。『来るな』って言ったじゃないですか」
確信した次の瞬間、身体が後ろに引っ張られた。
目の前で刀の切っ先が空を斬る。破けそうなほどに服が強く引かれ、首が締まった。一気に数メートルほど距離が離れる。
「っぐ――アン、セスタ!」
「状況説明は結構です。クウマの義肢を介して情報は取得していますので」
だぼついたパーカーとジーンズを纏った銀髪少女が、俺の服を掴む手を放す。
「お前、いつの間にどうやって、」
「こちらとしても言及したいことは多々ありますが、戦闘に関わらない事柄は後に回しましょう。ひとまずはこの迷宮主への所感を」
「っ……自分や、自分の触れた物が減速しなくなる能力だ。進行方向への直進を妨げる抵抗力を消す。確証は無いけど、後方からなら攻撃が通るかもしれない」
「なるほど。後方からなら、というのは盲点ですね」
向き直ろうとするアンセスタに、俺は慌てて「だけど」と付け足す。
「相手の背後に瞬間移動する力もある、多分、アイツの力は一つじゃ――」
「いえ、単一でしょう。恐らくは『距離そのもの』を消し飛ばしたのだと予想します」
瞠目する俺。銀髪少女は周囲の鳥居を軽く見上げつつ、淡々と語る。
「鳥居。
「……つ、つまり?」
「『減速しない』のではなく、『邪魔なモノを除く』と捉えてください。
アンセスタが話す中、副担任がいくつかのピンポン玉をポケットから取り出し、投げ放った。
当然ながら、それもまた等速直線運動だった。全く減速せずにこちらへ突き進んでくる。
「限定展開につき申請省略――第三段階・
アンセスタが右手をかざす。虚空に描かれる蒼い
「ビーム、発射」
言葉通りだった。
銃口から迸る黄金の柱。直径五十センチはある太いビームが、飛んでくるピンポン玉をまとめて呑み込んだ。
「いやお前、黄金歴程は使えないって――」
「使ってません。代わりに、朝食べたカレーぱん一個分消費しました」
光の柱が過ぎ去り、その終端からピンポン玉が無傷で顔を出す。
やはり、進行方向に対しては無敵だった。依然として攻撃は迫ってきている。
「なるほど。では」
再度アンセスタが手を振るう。飛んでくるピンポン玉の後方に、複数の
ライフルの引き金が引かれ、間断する銃撃音。しかし、銃口からは何も発射されない。代わりに展開された
「――確かに。後方からならば通用するようです」
「いける、今の
「それはちょっと無理かもです。疑似迷宮の展開強度で負けてるので」
「擬似迷宮の展開――え?」
「多くの主は、自身の
副担任が助走距離を稼ぐために後退する中、アンセスタが機械的な早口で解説しながら俺の目の前に
「どうにか押し返したり出来ないのか? それか、近づいてアンセスタの
「そもそも弊機の簡易迷宮は、通常迷宮に比べると総合的な出力で劣ります。一般的な主相手ならばそれでもある程度押し合いは出来るのですが、今回の相手は自分を有利にする
また、展開強度は彼我の距離が近いほどその効力差が顕著になります。アレと接近戦の間合に入れば、弊機はほぼ迷宮を展開出来なくなるでしょう」
対策がされている。当然だ。そうそう都合良く解決手段が手元に転がってはいない。
だが、今、俺の傍には例外が存在する。
してしまう。
「…………。――黄金歴程ヴェルヘレグァ、発動シークエンス実行」
無数の蒼い長方形が周囲に浮かびあがった。
溢れる黄金の光。見る限りでは先ほどのモノと何も区別がつかない。だが、その内に秘めるエネルギーはきっとあらゆる意味で桁が違う。
光を握るアンセスタの右義手が、ビシリと歪な音を立てた。部品の隙間から、黄金の輝きが僅かに漏れる。
「っ、待て!」
「黄金歴程は、一種の聖遺物です。そう簡単に魔的な属性を付与することは、出来ません。出来たとしても、アーティファクトとしての、格の差で、強引に押し勝てます」
「そうじゃない……! 使ったら泣くほど痛いって自分で言ってただろ!? いいからやめてくれ、そんな平気そうにしないでくれ……!」
「別に……表情を、作る余裕が、無いだけです。感情と表情筋が、連動しているわけでは、ないので」
致命的な輝きを零していく腕を掴んだ。溢れるエネルギー自体は『収納』で無効化できるが、加熱された義手が掌を焦がす。しかし今はどうでもいい。
「こんなもん使わなくてもッ、二人で工夫して勝てばいいだけの話だろうが! なんでアンセスタがこんな奴らのために身を削る必要がある!?」
「……彼らのためでは、ありません。あなたのためです。こちらの方が、確実です」
「俺の言ったこと聞いてたんだろ!? ただ勝ったり生き延びるだけじゃ意味ねえんだよ! 俺のためにって言ってくれる君が、そうやって涙を飲んでいい理由なんて何処にもない――! 本当は『勝ちたい』はずだ! 完全に、完璧に、理想的に、誰も呪わず悲しませずにッ! 喜びを以て正義を成したいはずだッ!」
昨日言われたことをそのまま本人に言っているなと思った。これを言うのは恐らく二度目なのだろう、とも。
「大体ムカつくだろうが! なんッで
アンセスタの目を見て本気で言った。いや、本心であっても、本気ではなかったかもしれない。それでも、俺を助けてくれる彼女を助けたい思いだけは、全てが全て本気だった。
光が静かになっていく。逡巡を感じさせる動きで、少女が静かに腕を下ろした。
「……対案はあるのですか」
「ああ! 挟み討ちにしてボコるッ!」
「ざっくり」
ですが、とアンセスタが言い、恐らくは意識して作っているのだろう、小さな微笑みを、見せた。
「それでいきましょう。援護はよろしくお願いします」
頷き、前を見る。道の先の敵を睨む。
もう後退はしない。アンセスタに作戦の具体的な内容を告げながら、俺たちは前へ駆け出した。
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第10層「One way cowardlys」
今回も挿絵あるけど色々悩んだ結果勢いに全てを託したので後で描き直したり直さなかったりします
状況を整理する。
場所は敵の迷宮内。地形は千本鳥居が並ぶ狭い一本道。
敵の能力は『邪魔なモノを
進行方向に対しては無敵であり、触れただけで引き裂かれる。
減速の要因さえ『邪魔』として祓われるため、相手は決して減速しない。また、そこから追加で加速をかけることも可能。自分だけでなく、自分が触れた物にもこの効果を付与することが出来る。
位置関係は、まず一本道を前進する俺。俺の前を行くアンセスタ。アンセスタより更に前に、凄まじい速度でこちらへと向かってくる副担任。
「作戦名、『挟み討ちにしてボコる』。開始します」
アンセスタが
そして、そこから放たれる
「っ!?」
「〝工学妖精アンセスタは、
しかし、副担任には効いただろう。昨日の時点で目潰しが有効であることは確認している。
目を眩ませた隙を突き、アンセスタが跳んだ。高く。小柄な身体を活かして、副担任の頭上スレスレへ。
上方を塞ぐ鳥居の貫。その底面を蹴って更に跳躍。突き刺さるように地面へ着地。副担任の背後を取った。
俺は少女の跳躍と同時に鉄パイプを投擲している。アンセスタも右手から光の剣を伸ばし――
「〝第二形態、
――既に背後へと振るわれていた刀を躱すために、攻撃の中断を余儀なくされた。
反応したにしては早すぎる。目潰しをされた時点で、背後を取られることは分かっていたのだろう。
しかも、そこからの太刀筋の繋ぎがあまりにも巧みだ。明らかに『背後に回った敵を斬る』ことに特化した剣技。アンセスタが否応なしに間合いを開ける。
「〝第三形態、照準〟ッ!」
展開される光の
「第一撃、発射――」
一拍遅れて放たれるビーム。当然、副担任はアンセスタに向けて踵を返す。真後ろへと切り替わる進行方向。
「――――っあ?」
が、その瞬間に気づいたのだろう。
光に眩んだ目では見えない細い糸が、鳥居の貫を介して、俺とアンセスタを繋いでいることに。
『収納』されていた毛布を
そしてここで、俺の『収納』能力の条件。
一つ。『収納』には、対象に接触している必要がある。
二つ。『収納』能力を持つのは、俺と、俺の身につけている物である。
三つ。『収納』に必要な時間は、対象の重量に応じて変化する。一瞬で『収納』出来るのは、百グラム以下の物質のみである――が、例外として。
アンセスタだけは、重量制限を無視して一瞬で『収納』出来る。
〝あなたは、工学妖精アンセスタを拾った〟
そして、身につけた糸越しに『収納』したアンセスタを、手元に『取り出す』。
俺の胸元から生えるように飛び出した少女が、副担任に向けて光の
「――第二撃、発射」
挟み『撃ち』だ。
最初に発射したビームと、たった今ここから発射したビーム。二条の光線が向かい合って副担任に迫る。
普通ならこれで詰み、だがしかし。
「――『邪魔』ァ!」
進行方向がこちらに切り替わる。
読めていたことだ。先んじて間合を放しつつ、『取り出し』た鉄パイプを背後に叩きつけている。
そして、俺の振るった鉄パイプが、副担任の刀に防御され
そう、引き裂かれるのではなく普通に弾かれた。
予想はしていたが、やはり。先ほどの瞬間移動の時からなぜ立ち止まって刀で攻撃してくるのか疑問だった。だってコイツの能力ならそのまま突進して触れる方が明らかに賢い。
恐らく、瞬間移動の後には何らかの負荷がかかる。能力の一時的な使用不可か、そこまで行かなくても進行方向の切り替え不可か。
どちらにせよ、この瞬間移動の直後が最も無防備。それを確信する。
「お、ごぁッ!」
がしかし、それで俺がこの女を仕留められるかと言えば話は別だ。
単純に接近戦の技量が違った。土手っ腹にぶち込まれる強烈な蹴り。鉄板ガードは間に合ったが、それを貫いてなお染みる、肋骨にヒビが入りそうな重威力。
元々こちらが距離を取るつもりだったことも相まって、否応なしに吹っ飛ばされた。
が、どうにか倒れることは堪える。
かろうじて着地し、地面に足を擦って吹っ飛ばされた勢いを止めて――
止め――
止――
――
「『
マズいッ!
〝あなたは、工学妖精アンセスタを拾った〟
触れた瞬間に『収納』し、即座に副担任の方へ『取り出し』た。アンセスタが光の
「――〝第三形態、照じゅ〟、っ!」
が、
回避し、再度副担任を狙おうとするが、やはり斬撃がそれを阻害する。
近接戦において刃は銃に勝る。どれだけ真に迫った言なのか知らないが、この瞬間は明らかにアンセスタの方が不利だった。
「〝第二形態っ、支持〟!」
光の銃が光の剣に切り替わる。日本刀と黄金剣が打ち合い、白光の火花が弾けて散った。
まるで漫画かアニメのような鮮烈的剣戟群の嵐。数瞬後には既にそれぞれの斬閃数が数え切れなくなっている。激突の軌跡を目で追うことなど出来ようはずもない。
しかし、それでも分かることはあった。
まだ、アンセスタの方が、不利だ。
「っ、く、ぅ」
光の剣はもう光の剣ではない。いや、瞬きの後にその姿を変えている。剣から槍、槍から双剣、双剣から鞭、鞭からまた剣。次々と変形する自在武装は、敵対者にとって脅威そのものだろう。――しかしそれでも、副担任の方がまだ強い。
単純に相手の技量が高いというのもあるが、それに加えて、いつ瞬間移動後のクールタイムが終わって否減速の突進が来るか分からないのが大きい。既にクールタイムが終わっている可能性もある以上、迂闊に肉体が接触するような攻撃が出来ない。一定以上に間合いを詰めることも出来ない。距離を取って光の銃撃に切り替えようにも、副担任の猛攻がそれを許していない。先ほど使った糸も、ここまでの攻防で既に切り裂かれている。
いい歳して高校生相手にイキり散らすカスの分際で。内心で悪態をつきつつ、どうにか停止に成功する。
否減速の付与も、意識していればある程度抵抗出来るらしい。逆に、意識して抵抗しなければどこまでも飛んでいってしまうということでもあるが。
しかし止まったはいいものの、二人の攻防に割り込む隙が無い。俺では完全に足を引っ張る。
歯噛みする中、アンセスタが勝負に出た。
「〝第二形態・支持:旋回〟」
アンセスタが光の剣を光のブーメランに変形させ、投じた。
背後から襲いかかってくるブーメランを、副担任がバックステップし、背中で触れて破壊する。
武器を投擲し無手になった彼女に、反転した副担任の斬撃が襲いかかった。
「ッ!」
脇腹が裂かれる。何かの黒い液とともに舞い散る血。
能力を使用しての攻撃ではなかった。傷は浅い。だが――
「――――」
声を上げかける俺に、アンセスタがほんの一瞬、目線をやった。
「〝第二形態・支持〟」
光の剣が再生成された。何もなかったかのように、戦闘が続けられる。
――情報を再分析する。
攻略の糸口になるとすればやはりあの瞬間移動だ。いや、むしろそれ以外に糸口が無い。
まともな飛び道具を持っているのはアンセスタだけ。相手は進行方向に対して無敵。後方から攻めても近接では敵わない。地形は狭い一本道。そして、いざとなれば瞬間移動で脱出出来る。最後を塞がなければ流石にどうにもならない。
二回の瞬間移動で、ヤツは二回ともこちらの背後を取っていた。
瞬間移動後のクールタイムで封じられるのは、能力そのものではなく進行方向の切り替えだとアンセスタがたった今証明した。ならば、ヤツが『こちらの背後にしか瞬間移動できない』ことは確定だ。
恐らく、『邪魔なモノを祓う』という能力による都合だろう。
『邪魔なモノ』を邪魔では無くす。それ故に、『邪魔なモノ』を
だいぶ、わかってきた。
あと少し。あと少し情報が揃えば、この
「っ――」
先の瞬間移動から四秒。ついに進行方向が『切り替わる』。
アンセスタに襲いかかる等速直線運動。副担任の体に触れた瞬間、砕け散る光剣。金色が塵になって宙を舞う。
だが、間合い自体は常に取っていた。
後退には間に合う。アンセスタは既に光の形態を切り替えている。
「〝第一形態・所持〟!」
掌から噴射される黄金。光のスラスターにより、アンセスタが一気に間合いを離す。
相手は無限に加速できるが、初速自体は大したことがない。人並みだ。いつか追いつかれるにしても、アンセスタならば一時的に距離を取ることは出来る。
まだ余裕はある。策がある。
だから、あと少し。あと少しでいい。――確信が欲しい。
負けられない。勝たねばならない。あるいは蚩尤に挑んだ時より増して、必勝を切望する俺がいる。
迫ってくる副担任に、俺は用意していた物を『取り出』そうとし――
「――『ああ』、」
それより早く、副担任が、ピンポン玉を一つ、アンセスタに投じた。
大した速度ではない。ただの投擲だ。彼女の身体性能ならば躱すに易い。そもそもそのピンポン玉自体に攻撃力がなかった。軌道は水平を保たず、放物線を描いてアンセスタの足元に向かって落ちていき――等速直線運動ではない? 何故?
いや、まさか――
「『邪、魔』、だ、なァ!」
「尻尾伸ばせ、アンセスタァ――ッ!」
副担任が、
〝あなたは、工学妖精アンセスタを拾った〟
アンセスタの腰から伸びる尻尾のようなコードを掴み、『収納』。俺の傍に引き寄せる。
わずかに距離は取れたが一時凌ぎだ。もう間に合わない。
読みきれなかった。今、間合いを詰められたことで、用意していた策が完全に潰された。
後退は出来る。まだ後退は出来る。余命を稼ぐことは出来る。
だが、それで? 思いつくか、その後を凌ぐ策が?
無理だ。仮に凌げたとしても、その瞬間に意志が後退する。
アンセスタは黄金歴程を取り出す。俺たちは望まぬ勝利を得る。それは、確信出来る絶望だ。
しかしだからと言って進めるのか。進んでいいのか。挑んで良いのか? 希望なんて不確定要素に身を任せられるのか――
「〝クウマ〟」
――答えは既に決まっていた。
さっき、アンセスタが傷ついても声を上げなかったのは何故だ。自分を犠牲に勝利を得ようとする。それだけなら、黄金歴程を使うのと何も変わらない。
だが違う。そうではない。
苦痛を受容し、逃走を受容し、後退を受容し何になる。根底する物は一つだ。例え同じ結果に辿り着くのだとしても、その過程を受け入れれば、この誇るべき意思が貶められるッ!
「プランBだッ! やるぞッ、アンセスタ――!!」
「〝第三形態・照準〟――!!」
アンセスタが黄金銃を構え、俺が『取り出し』たソレをぶちまける。
――白い物が、弾けて舞った。
女は、退魔師の家系だった。
世に仇なす魔を祓い、人々を護る降魔の一族。先祖より代々受け継いできた霊山に潜り、修験し、法力を身につける。
迷宮に潜って
迷宮主である先祖の拓いた
しかし、その力を私心のままに用いてはならない。
ただ他者のため、魔を祓うためのみに遣うべし。
それが、一族の掟である――馬鹿馬鹿しい。女はそう思った。
一族が言うところの『魔』など、既に絶滅危惧種であったからだ。
原因は、ノギスである。
科学の興隆と共に発達したノギス工業。世界に散らばる多くの異常は、『隔離』の名目にて根絶されていった。当然、一族が祓ってきた『魔』も例外ではない。科学に基づく圧倒的な物量で、一族が二百年かけても祓えなかった魔は、ただの十数年で絶滅しかけていた。
裏の世界において、一族は密猟犯の扱いにまで零落していた。
一族はあり方を変えられなかった。それでもまだ、魔を祓えと。力を私欲に振るうなと。それが掟であるのだと。
『――邪魔』
女にとって『魔』が在るならば、それはもはや己が一族に他ならなかった。
拓かれるは自身にとって邪魔なモノを魔と定義する破戒求道。一族の宝にして神器であった神刀は簒奪され、一族は女の代で滅び去った。
女は自由だった。自身を囚えるものなどない。この刀と破戒求道がある限り、自分を邪魔するモノはない。
前に進む限り、全ては斬り祓える。
伐り拓ける。
切り抜けられる――はず、なのに。
「ガッ、はッ……!?」
――
少年と少女の前、女は血まみれになって膝をつく。
「ハァー、はぁ、はぁ……ッ!」
相手も無傷ではない。特に、少年の被害は甚大だった。
一瞬で止まったわけではなかった。完全な停止にかかった僅かな距離。探索兵器を庇ってわずかなりとも女の突進に触れたことにより、右腕と胴体が料理下手の作った魚の開きめいてズタズタになっている。
だが、そんなことは女にとって何の慰めにもならない。
「と、止められた……? 私が? この私が? この私が止められたァアアア゛ア゛ア゛?!?!?」
自我の礎を崩すにも等しい衝撃だった。
あの瞬間。探索兵器の黄金光に飲まれた瞬間に受けた、全身をすり潰すようなダメージ。押し返された体。
女の力の根幹は、手に持つ神刀に由来する。彼女の力を破れるとすれば、この神刀と同等以上の
「お、黄金歴程は……! 黄金歴程は、使えない、はず、じゃあ――ッ!」
よろめきながら立ち上がる。
失神しても何もおかしくないダメージを受けながら、村雨空間は依然としてこちらを睨み続ける。
その傍の
「あ、ぎ」
――否。
「ぃッ、やッぁ、あ、あぁああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――ッ!!」
爆ぜるような苦悶の声を上げて、少女の右手が弾け飛ぶ。
金色の光とともにパーカーの袖が引き裂けた。ジャンクとなったネジや基盤が吐瀉物のように路面に落ちる。
勢い良く倒れる体。断続的な苦鳴とともに、ビクビクと芋虫のごとく痙攣する少女。
黄金歴程――英雄を見出すもの。しかし、その本質はほとんど人柱だ。
炎は黄金を証明する。苦難こそが勇者を示す。故に、黄金歴程はまず何よりも先に
人間には絶対に耐えきれない精神的ダメージを与え、耐えきれなければ次は物理的なダメージが発生する。
しかし、だからといって無痛者に黄金歴程を持たせても意味がないのだ。そんな者は黄金歴程に選ばれない。
だからこそ、工学妖精アンセスタには苦しみを感じる心は無論、痛覚も人並みに――いいや、むしろ人間以上に存在している。
そのことは女も知っていた。知っていなくとも見れば分かる。
「はァ、ハ、ハハ……! 必ず殺す……伐り殺す……!」
全速で後方に退く。当然、撤退のためではない。助走距離だ。
重力も摩擦力も空気抵抗も何もかも振り祓って、銃弾めいた疾走が少女と少年に襲いかかる。仮に躱したとしても、散り散りに裂かれた空気の余波だけで相手をミンチに出来る超速度。
最初から、厄介なのはあの探索兵器だけだった。村雨空間の能力はこちらを何手か遅らせたが、しかしそれだけ。所詮は、無意味な痛罵を吐き散らすことしか出来ない凡人に過ぎない。
「最高速度だッ! 加減抜きで塵にしてやる、最ッ悪に邪魔臭いクソガキ共ォオオオオオ――!」
「
ドップラー効果にひずむ声が、女の足を止めかけた。
「何を、」
「
女が反論するより先に。
「〝第、三……、形、態〟――」
探索兵器が立ち上がり、光の銃を携えていた。
「ッ――!」
震える足。死に喘ぐ顔。今にも崩れ落ちそうな体を少年に支えられながら、苦しみ悶える少女はされど、迫り来る敵を凝視している。
「どうした来いよさっさと進めよ邪魔なんだろう、なぁ!? 伐り拓いてみせろ切り抜けてみせろよッあ゛ぁ゛!? その魂を誇れるのなら、他ならぬ己に確信を持てるのならッ! そのまま突き進んで死にに来いクソ野郎がァ!! この子の決死に応えてみせろォオオオオオオ!!!」
「こ、このガキィイイイイ!! 女の後ろから偉ッそうに吠えてんじゃねェえええ――――ッ!!!」
発射される黄金光。横倒しになった光の柱は、人間の身長ほどの直径を持っていた。
逡巡、する余裕は無い。
前進か後退か。決める余裕は、その一瞬は、もう既に過ぎ去っている。
だから――
「――――」
――足を退いていたのは、ほとんど無意識だった。
一度決めた方向は変えられない。全速全力の後退。走りながらまず考えたのは、何よりも自身への弁明だった。
「(逃げじゃない……! これは断じて逃走なんかじゃあないッ! そうだ、そうよ、勝つためだッ! 前進にせよ後退にせよ最終的に私が勝つことに変わりは無いんだ絶対にッ――!)」
迫り来る光線との距離は縮まっていく。加速していく女の速度でも、いつかは追いつかれる。引き離すことはもはや不可能だ。
回避するために『次元祓い』を使って相手の背後に転移したとしても、この状況では絶対に読まれる。背後に転移することを読まれる。こちらが弱点を晒すことが分かりきった状況で、このレベルの相手が罠を張っていないはずがない。
「(だから――
あの状態の探索兵器が、いつまでも光を放射し続けられるはずがない。いつかは途切れる。絶対に途切れる。その瞬間に光線と探索兵器の間の
破壊の黄金は迫ってきている。今にも背中が焦げそうな熱量。致死的な密度の赤外線が、針のように皮膚へ刺さる。
人と光の速度勝負は、果たして何秒続いたか。
女にとっては永遠にも近い経過の後――ついに。
光の勢いが、弱まった。
「勝ったァッ!」
即座に光線を飛び越え、探索兵器の眼前へと飛んだ。
「死ねェッ探索兵器ィ! ズッタズタのスクラップに落ちぶれろォ――ッ!」
「ごッ、ぶゥ――ッ!?」
「かかったなマぁ・ヌぅ・ケぇがァあああアアアアアッ!! 退き下がったテメェの負けだァアアアアア!!!」
「ッヅ、ぁ?! び――光線
俺は、百グラム以下の物体ならゼロ秒で『収納』できる。故に、重さの無い攻撃――アンセスタの光線は効かない。これは昨日の時点で既に確かめている。
確かに、副担任は背後からの攻撃の対処に慣れている。だが、背中に目がついているわけではない。全く無警戒の状態でかわせる道理はなかった。
「だッ……だが、だがッ! ただのガキの一人程度ォ――!」
普通に考えて、無防備な人間の後頭部を鉄パイプでフルスイングすれば普通に死ぬ。が、何らかの技能か、あるいは超常によるものか。副担任は頭部から噴水のように血を流し、フラつきながらもまだ生きていた。
しかし、襲い来る女の背後から、苦痛などまるでない機械的な声が響く。
「〝工学妖精アンセスタは、
アンセスタが、ガラクタをパーカーの袖の中に詰めるために外していた、自分の義手を懐から取り出し、つけ直す。
「な――」
「というわけで弊機の七色表情筋劇場でした。すいませんね完全随意制御で」
意識しなければ表情が作れない――それはつまり逆説、
そもそも本当に苦痛を感じているなら、むしろ表情を作る余裕がなくなるというのが本人の弁だ。不気味の谷を易々と踏破した完全な表情制御は、場慣れした副担任を見事に化かしきった。先の一撃が
「何故ッ、どうやって黄金歴程以外で私を、」
「決まってんだろ
「
レディーススーツに付着していた白い粉を見て、副担任が目を見開く。
つまり、目には目を、等速直線運動には等速直線運動をだ。最初に『収納』した小麦粉は、俺の
再度アンセスタから発射される光線。四秒のクールタイムが終わるまで、進行方向は切り替えられない。女が冷や汗混じりのバックステップで後ろに進み、『邪魔』な
更に一撃、鉄パイプの追撃を入れることに成功する。顔面だった。歯の一本が勢い良く弾け飛ぶ。
「ぶッ――」
しかしまだ倒れない。放出され続ける光線に対処すべく、副担任がさらに背後へと後退する。
「しぶッ、といッ! さっさと死ねッ!」
「う……運が、良かっただけの、ガキ、がァ――ッ!」
「ああ確かに運は良かった! だが先に折れたのはテメェだッ!! テメェの信念が貧弱なのが悪いッッ!!!」
鉄パイプと刀が打ち合う。アンセスタと凌ぎあった太刀筋は見る影もなく、防御をすり抜けて俺の打撃が何度も女を殴打する。しかし、それでも致命傷は避けられていた。仕留めるには至らない。
後退を続けることで、副後退が加速していく。俺には追い切れない速度まで上がっていく。
「逃、が、す、かァアアアア!!」
〝あなたは、
背中から圧縮空気を噴いて加速し、視界端の
振り抜いた一撃がこめかみを捉えた。人体から出たとは思えない、硬質球のホームランみたいな音が響く――が、女はまだ倒れない。加速する。
ここまで三秒。あと一秒以内に仕留めきれなければ終わりだ。逃げるにせよ向かってくるにせよ、ヤツはまた距離を飛び越える。
「こ……ここまで、だ……! つ、次は絶対に――!」
「今死ねオラッ!」
鉄パイプを投擲した。クルクルと回転して飛んでいくそれを、副担任は辛うじて首を振り回避する。パイプが光線に飲み込まれ、黄金の中に霞んでいく。
歪んだ顔面で、副担任が冷や汗混じりの笑みを浮かべかけ――即座に引きつる。
鉄パイプに結び付けられた、細い糸を見たことで。
〝あなたは、工学妖精アンセスタを拾った〟
光線の先、鉄パイプに結んだ糸を掴んだアンセスタを『収納』し、手元に『取り出す』。
「あ、ア、ァアアアアアアッ?!?!?!?!」
「ブッ殺せアンセスタァ――ッ!!」
「うみゃあ」
黄金の炸裂。爆ぜるような光の波。
消えゆく副担任の影とともに、鳥居道の迷宮が弾けて溶けた。
ぐしゃり。
遠く離れた路地裏で、人の倒れる音がした。
「ぜぇ……ぜぇ、ハァ……ッ!」
全身を焦げたひき肉のようにした女だった。
先ほどの道からここまで一キロ。今までにこれほどの距離を祓ったことはない。光に呑まれながら行った瞬間移動が、ギリギリで女の命を繋いでいた。
「く、クソ、クソ……ッ!! あのクソガキ共がァアアア――!!」
「おい、君。大丈夫か?」
「うるッさいのよクソモブゥ!」
声をかけようとした通りがかりの男がバラバラになった。
焦げ付いた刀身を振り抜いて、息を切らしながら女は自身の頭を掻きむしる。
「許さない……許してたまるか……次は殺す、絶対に殺すッ! 今度はあの四人を使って、一人ずつ、確実に――」
「なあ、おい。本当に大丈夫か?」
「だからッ、うるさいと言っ――は?」
立体パズルのように合わさる肉体。
何事もなかったかのように、黒髪赤眼の男――アインソフ・ヨルムンガンドが、副担任を見据えていた。
「なんッ……
「何で? 疑似迷宮の開廷を感知したから気になって見に来ただけだが? それとも何か?
ろくに動けもしない瀕死の状態で、全身をさらに損傷させながら女が背後に跳ぶ。咄嗟にそうせざるを得ないだけの脅威がそこにあった。
「おいおいおいおいそう怖がってくれるな。確かに私はたった今お前にバラッバラにされ、お前が既にノギス工業に嗅ぎつけられていることを報告しなかったことが災いしてあの探索兵器にブッ飛ばされ、二週間前のお前の不始末を片付けた際にまたトラブルに遭う羽目に陥ったが……。そんな程度で部下をブチ殺すと思われてはそれこそ心外だ……」
言葉選びこそ女をいびるようなものだったが、アインソフ当人は本当に怒りを感じていないように見えた。いや、あるいは、女のことなどどうでもいいのか。とにかく、その感情に揺らぎは無い。
「それに、あの自殺産道に関してはお前の責とするのも流石に酷だ。フッ……また一体、私の手に負えぬ怪物を生み出してしまった、とでも言ったところか……」
静かに笑いながら、アインソフが女に近づいていく。
「故に、私が訊きたいことは一つ――
「は……?」
思考が止まる。意図が、掴めなかった。
「人間は意志で生きる。私を見ていれば分かるだろう? 善だの悪だのはどうでも良い。重要なのは己が意志を誇り、祝福すること……
本気で言っている。この化け物が、まともな人間みたいな価値観を本気で信奉している。それが分かってしまったのが、女を何より混乱させた。
「君にもあるだろう? 長きに渡って続いた退魔の一族を自分の身勝手で滅ぼし、何にも囚われず邪魔なもの全て滅ぼしてきた、
まるで、立ちふさがるように。
女を邪魔するように、アインソフが彼女の前に立つ。
「
「な、何を……」
「退くなよ? 退けば殺す」
女の足が震えた。斬り抜ける? これを?
今のアインソフが弱っていることは知っている。アインソフでは相性的に自分の破戒求道を止められないことも知っている。
だが、それ以上に自分は瀕死だ。この状態の自分が、
「う――」
「退くな」
「う、あ――」
「退くなッ!」
「う、ぁああアアアアア――!」
――
「ここからが本番だ」
カラン、と焦げた刀が地面に落ちた。
「次の自殺産道――『
ヒト一人を体内に取り込み終えながら、不死者はここには居ない彼らへ静かに語りかけていた。
迷宮名-「破戒求道・逆賊門忠臣悲落」
迷宮主-副担任(本名不明)
ステータス
展開強度-A/補助効果-E/地形変更-D/迷宮範囲-C/持続力-C
能力
迷宮内の障害に[魔]特性を付与する。
神刀(特別)[鋼鉄製]
・退魔の一族に伝わる古い刀だ
・それは貴重な品だ
・それは[魔]に対して強力な威力を発揮する[*****+]
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第11層「*ぐだぐだ*」
「〝――バッテリー残量が少なくなっています〟〝炉心を稼働するか、アンセスタを充電してください〟〝――バッテリー残量が少なくなっています〟〝炉心を稼働するか、アンセスタを充電してください〟〝――バッテリー残量が少なくなっています〟〝炉心を稼働するか――」
ぐったりとしたアンセスタを自販機のある場所まで負ぶさっていき、適当なジュースを飲ませてみた。
「〝アンセスタを充電し―― 〟みゃあ。おなかがすきました」
「急に動かなくなるからマジでビビった……」
「黄金歴程が使えれば無限にエネルギーを生成可能なのですが。それと、ジュースじゃ全然足りません。迅速な補給を要求します」
そういうわけで、近場のファストフード店へやってきたのだった。
平日かつお昼前であるため、店内はあまり混んでいない。
ズタボロになった体を椅子に預け、応急処置をした傷跡を替えの服の上から撫でる。
とりあえずホッチキスで留めただけなのだが、すでに傷口がふさがりかけていた。少なくとも、服の上からではわからない。腕が使い物にならなくなってもおかしくない怪我だったが、激痛はありつつも普通に動かすことが出来ている。
「……治癒促進ナノマシン、だっけ。これ、副作用とか――」
「一度や二度の投与では問題ありません。多用すれば多発性骨髄腫のリスクが劇的に。あと、白髪が増えます」
そう言う小さな口が、いつの間にかバーガーを食べ尽くしていた。俺の分も含めて。
もうちょっと量の出るタイプの店に来るべきだったか。後悔する俺に対し、小動物のようにさくさくとフライドポテトをかじりながらアンセスタが言う。
「それで、クウマ。今後の方針については――本当にあれで良いのですか?」
「このまま向かってくる奴ら全員ブッ殺していこうぜ」
「ぱわー。好感度が上がります」
方向性を再確認し、本格的な作戦会議へと移行する。
「ひとまずはアインソフを大ボスとして定めましょう。アレら
「そういうもんか」
「そういうもんなのです」
言われてみればあのノギスの『主任』もそんな感じのこと言ってた気がする。
「重要なのは、この街にノギスの息がかかる前に決着をつけることです。つまりは、一週間以内に」
「一週間……」
長くはない。世界を長きに渡って苦しめてきた巨悪を倒す準備期間と考えれば、短いにもほどがある。
しかし、それを言うなら年季の長さでアインソフに敵う存在はいないのだ。ならば極論――本当に極論だが、一週間でも一年でも変わりはない。
「最低限の教練は行いますが、まともな戦闘訓練をする余裕はありません。準備するならば、物資・武備、そして戦術・戦略的な面を主とすべきでしょう」
経験値の大小ではどう足掻いても敵わない。だから、道具と策に頼る。現実的だ。俺はアンセスタの合理性に感心しうなずく。
「すぐに済ませられるところとしては物資・武備面ですね。先ほど使ったこの糸も、もっとしっかりとしたものを用意しましょう。細かなところですが、装備の信頼性は重要です」
「それ毛布の糸だもんな……」
「ホームセンターで二、三千円のワイヤーロープを購入してくるだけでもかなり違うはずです。あの毛布も、戦闘に使うならばもっと軽くて丈夫な布の方がいいでしょう。……おっと、それとは別に新しい毛布も必要ですが」
「ん、ああ。ついでに買ってくるか。あの毛布、昨日と今日でズタズタになっちゃったし」
「お願いします。敷き布団と掛け布団とまくらとクッションも一緒に」
「ん?」
「あと、弊機のエネルギー切れを防ぐための食料も重要です。今回はエネルギー切れ寸前で決着がつきましたが、次もそう都合良くいくとは限りません。クウマの迷宮内に十分な貯蔵を持っておくべきでしょう」
「そうだな、買い込んでおこう」
「あとでいっしょにおやつ選びましょうね」
「あ?」
「それと、白亜回廊の中にいくつか電化製品を用意してもらえませんか? ノギスの専門エンジニアには敵いませんが、弊機にも多少の工作スキルはあります。素材があれば、状況に応じて簡素なデバイスを作る程度は出来るでしょう」
「うーん……まあ、俺の財布ならいくらでも使っていいけど……」
「ひとまず冷蔵庫とテレビがあれば文句は言いません。ゲーム機は既にあったので。迷宮内には水場もありましたし、必要な電気は弊機が発電できます。あと入ってた漫画、十巻が抜けてたので後で入れておいてください。全てはこれからの戦いのためです」
「待てや」
「にゃん」
「にゃんじゃねーよ」
メカ少女が猫ポーズと鳴き声で誤魔化そうとする。人の体内で暮らす気かてめー。
「だって良い感じの部屋があったので。そも他のどこで過ごせというのでマイクレイドル。家族には弊機のことを知られたくないのではなかったので?」
「……こう、ドラえもんよろしく押入れとかで……」
「だめです。居住性が段違いです。犬小屋とホワイトハウスです」
「そんなに」
「携帯端末を貸してください、内装を撮ってきてあげましょう。少し失礼しますね」
「別にいいよ暴走した時に一回見たから。やめろ、腹に頭を突っ込もうとするんじゃない」
「服の上からだと入りにくいようです。脱いでください。胸元開けるだけでいいので。というかもう面倒なのでずっと胸元開けといてください」
「あーもう」
どうにかアンセスタの横暴を押し止め、話題を戻した。
「真面目な話、戦闘目的に限らず様々な物品を入れておくべきです。迷宮主との戦闘では何が役に立つか分かりません。いくらでも物が持ち運べる以上は、その特性を最大限活かしましょう」
「迷宮の容量は莫大なのかもしれないけど、資金まで莫大に用意できるわけじゃないんだぞ……。それに、日用品が必要になる場面があるのは分かるけど、それはそれとしてやっぱり武器も要るだろ」
「それなら両方とも既にあてがあるではありませんか」
「……まさか」
俺は唯一の心当たりを答える。
「室久の――蚩尤の迷宮か?」
「
「確かにあそこなら武器も資金も手に入るか……でも、あそこはもうノギス工業に割れてるんじゃ?」
「
淡々と語るアンセスタ。
「いずれにせよ、まともな飛び道具――銃火器の確保は急務です。条件付きとはいえ、飛び道具無効のクウマが遠距離射撃に徹すればそれだけで相手には脅威ですから」
つまり、まずはあそこで武器と資金集めというわけだ。いよいよゲームじみてきた。
「物資・武備的な面はひとまずこの程度にしておきましょう。詳細は後に再度相談を。では、次の議題です」
「ええと……戦術・戦略だっけ。現状でもかなり頑張ってるつもりなんだが」
「確かに、先の戦闘での作戦立案はほとんどがクウマによるものでした。その有効性と発想力は高く評価します」
ですが、とアンセスタは逆接する。
「一点だけ――あなたの戦術管理には、重大な瑕疵が見られます」
「重大な瑕疵――?」
細かい部分でのミスはいくつも思いつくが、重大とまで言われると逆に心当たりがない。根本的な部分での問題は往々にして本人に自覚が無いものだが……。
「……分からない。教えてくれアンセスタ。それは、一体……」
「ネーミングがダサいです」
「ネーミングがダサい」
思わず復唱した。
「いえ、ダサいは不適ですね。直球過ぎると言いたいのです。先の作戦名も、『挟み撃ちにしてボコる』ではこちらの狙いが筒抜けです。その分では、あの白亜の右手にもろくな名前をつけていないのでしょう?」
「俺は一応『忘れろパンチ』って呼んでるけど」
「ダッサ」
わざわざ意識して顔しかめやがったコイツ。
「いえ失礼、」
「意図せず感情が顔に出たみたいに言ってんじゃないよ完全随意表情筋」
「ともあれ、凝った名前というのはある種の符牒になります。味方にのみ意図を伝え、連携しやすく、かつ相手に悟られないようにする立派な戦術。というわけでちゃんと技名をつけてください」
「えー……じゃあ『フォーゲットパンチ』で……」
「みゃあ! みゃあみゃあ!」
「あーもーわーかったから」
「いざと言う時に叫びやすくて耳触りが良くそれでいて技にかける思いが伝わる感じの名前でお願いします」
「注文が多い」
だが、そう言われてもこの白亜に特別な思いなんて無い。これは「元に戻す」ためのものだ。普通の日常を取り戻すための力。周囲が普通であってほしい、なんて感情に何か特別な名前をつけるのは難しい、と思う。
「注文と言えば、クウマは何を食べますか? 弊機の分だけ頼んで自分の分は頼んでいなかったでしょう。弊機がオーダーしてきてあげます」
「自分の分頼んだけど君が二つとも食べたんでしょ」
「だってクウマが『アンセスタは何食べる?』『うみゃあ。ダブルチーズバーガーが良いです』『じゃあ、ダブルチーズバーガーのセット二つで』と言ったのではありませんか」
「二つとも食えって意味じゃねーよ。特にオーダーないから、適当に定番っぽいの――あ、『ホワイトオーダー』とかどう? 技名」
「グッド。それでいきましょう」
そんな感じでヌルッと諸々の名称を決めていく。
なんだかんだと理由をつけてはいたが、ぶっちゃけアンセスタの趣味だろう。相変わらず無表情ではあるが、どこか浮ついた様子で俺から奪い取った携帯に何やら打ち込んでいる。
「……文句つけるわけじゃあないけど、もうちょっと真面目に……」
「なんですか。『前向きisベストだぜ』と言ったのはクウマではありませんか」
「言ったかなあ」
「なら、やっぱり、もっと……――
「――――。いや、そうだな。悪かった」
含まれた意味を察する。伺うような彼女の瞳に、せめて明るく笑いかけた。
「楽しくやろう、アンセスタ。俺もお前も、何も間違ってないんだ。そりゃ、ずっとこの調子ってわけにもいかないだろうけど……だからって、ずっと辛そうにしてやる義理もない。――確かに、俺が言ったことだ」
「ではクウマの携帯に義手と連携して必殺技を使うと自動でBGMが流れるアプリをインストールしておいたので後で流したい曲を設定しておいてください」
「やっぱりもうちょっと真面目にやれ」
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第12層「絶対に入ってはいけない予感がする」
「BGMが流れるアプリが不評でしたので新しいアプリを作りました。ほめていいですよ」
「アンセスタはすごくてかしこいな。で、今度はどんなゴミ作ったんだ」
「ステータス確認アプリです。戦闘時には
「普通に便利そうなやつだごめん」
携帯の画面、「必殺BGM」の横にある「キャラシート」のアプリアイコンをタップする。
一覧表で並ぶ項目。その中から、自分の名前に指を触れた。
【ステータス】
村雨空間 Lv8 HP42/69kg
種族:人間 職業:迷宮主 性別:男
筋力33 耐久35 器用18 感覚6 習得5 意思12 魔力12 魅力6
【スキル】
経験消去1.00 収納1.35
【
【ドロップアイテム】
たおすとレベルダウンポーションとかでそう。
おお、と感嘆が口から漏れた。最後のクッソ適当な一文を見るに大半をアンセスタが気分で決めている可能性もあるが、それでもこういうのを見ると少しワクワクする。
「これってどういう基準で決まってるんだ?」
「レベルとHP以外は弊機の気分ですが?」
「予想通りだけど開き直るな」
しかし、HPは生命質量を測定しているのだと分かるが、レベルにも何かしら基準があるらしい。
「レベルに関してはノギス式脅威測定法の流用です。特に戦闘経験の無い理論派の研究者が開発した物なので、あまり参考にはなりませんが」
「アンインストールしていい?」
「でもがんばってつくったのです」
そう言われるとちょっと可哀想になる。
俺は人の頑張りを否定できない。別に減るものでもないので置いておくことにした。あ、いや、今見てみたら携帯のストレージ容量が一気に四ギガほど減っていたが、それでも仕方なく置いておく。
「弊機の気が向いた時にこんな感じで更新しておくので、暇な時にチェックしておいてください」
〝あなたは、銃器の技術を習得した!〟
表示される通知を見ながら、俺は手に持った拳銃のずっしりとした重さを確認する。
現在、
昼食を終えた俺たちは、食休みもそこそこに丘ヶ山のプレハブ小屋へとやってきていた。
既に十分な、むしろ過剰な量の銃火器と弾薬を入手し、撃ち方も一通り教わっている。
だがそれでも、ここにいる
なのだが、今回は強力な案内人がいる。
「うみゃー」
金色のビームで雑に薙ぎ払われていく
派手な土煙が巻き起こり、口の中に砂鉄が入りかける。既に服は巻き上がった土で真っ黒だ。
片手間に倒される襲撃者を見ながら、俺はアンセスタに話しかけた。
「でも、この階層から急に難易度上がってるな……。この
「
「ああ、SAT……って言うんだっけ。映画でテロリストと戦ったりするヤツ」
「基本的に迷宮に現れる
俺は、第一層と第二層の
第一層の
「……蚩尤になった当初は一般人を相手にして、次に柄の悪い連中や普通の警察官相手に暴れて、その次に特殊部隊が出てくる、って流れか」
「典型的なモンスター系機能型迷宮主ですね」
なんとも言えず絶妙に嫌な気分になる。対しアンセスタは無表情で、倒した
「やはり、防具は
「副担任みたいの相手じゃ無くてもあんまり変わらないんじゃないか」
地面に落ちた銃火器や、消失に巻き込まれボロボロに裂けたタクティカルベストなどの中から、二人で使えそうな物を探していく。
収穫は多かった。元々の目的であった銃火器やそれらの弾薬に加え、ポリカーボネートの防弾盾や
「この結束バンドみたいなのなに?」
「
「この、妙にカーブしてる管は?」
「経鼻エアウェイ。気道確保に使う医療器具ですね。
「ホースが伸びてるこいつは?」
「ハイドレーションシステムです。登山とかでも使います」
「このなんか光ってる棒は?」
「クリアマーカー用のケミカルライトかと」
「この取手ついてるのは?」
「ドアこわすやつです」
「語彙力下がってない?」
「にゃあ」
とりあえず全部『収納』しておいた。
「というわけで、軽く戦争出来そうな量のアイテムが確保出来ました。イェーイどんどんどんぱふーぱふー」
ダブルピースをクロスさせた謎ポーズを決める無表情。依然気負う様子もなく、自然体で迷宮の奥へと進んでいくアンセスタを追う。
だが、歩き出そうとして、ひどく疲弊している自分に気がついた。
この黒塗りの洞窟街では、時間感覚があいまいになる。電波の繋がっていない携帯を取り出してみれば、時刻はいつの間にか午後の四時を回っていた。
振り返ったアンセスタが、窺うように俺を見る。
「地上で待ちますか? 既にアイテムは十分回収できました。あとは最深部の
「いや、一緒に行くよ。不安だから」
「なんですか、そんなに弊機に信頼性がありませんか」
「そうじゃあ……ないけど」
アンセスタが不安なのではなく、彼女を見ていると俺が不安になるだけなのだ――最初から、ずっと。
疲労感を無視して進んだ。
無人駅の階段を降りる。構内にはちらちらと、鈍色の燐光が舞っていた。不気味だが、幻想的でもある。少しじっくりと見たい感情もある気がしたが、アンセスタはさくさくと先へ進んでいってしまう。止まれとも言えず、その背を追った。
構内の一番奥。
締め切られたシャッターに立てかけられていたのは、奇妙な形の重火器だった。
「――迷宮の
「……これが?」
何か、結晶や宝石、あるいはエネルギーの塊のような物をイメージしていた俺は、実物とのギャップに首を傾げる。
「別名を
「室久がまた入ったら困るし、この迷宮は早く壊したかったけど……。強い武器が手に入るならもうしばらくそのままにしておくのもアリか……? ちなみにそれ、どういう武器?」
「個人携帯可能な核ミサイルランチャーですね。兵主神の加護が乗っているので、爆心から半径三十キロは熱放射半径に入るかと」
背後でガラガラどーんとプレハブ小屋が崩れる音を聞きながら、俺はブッ壊した核ミサイルランチャーを白亜回廊の奥深くに仕舞う。
山間から沈んでいく夕日を見た。今頃、学校も放課後になった頃だろう。久々に丸一日サボってしまったが、しばらくは仕方がない。
何かしら変化がないか確認しようと携帯を取り出す。室久に連絡しようと思ったが、先にあちらからメッセージが来ていた。
通知からSNSアプリを起動し――息を呑む。
「……クソ、マジか」
「クウマ?」
俺を窺うアンセスタに言った。
「入院中の最後の一人が、いなくなった」
「みゃ」
出席番号二十二番。眼鏡女子。少し身長が高い。優等生。体育は苦手。大人しい性格。少食。美術部。同じ中学出身。サメは好きだがサメ映画は嫌い。何故かたまに水筒と弁当箱を二個持ってくる――以上。
「それだけではなにもわかりませんが」
「それだけでも仲良く同級生やるには十分なんだよ」
一度帰宅した俺たちは、居なくなった同級生、再街
あのまま強行軍で調査をすることも考えたが、流石に俺の疲労とアンセスタの
その上、派手にビームを撃ったことで、今の俺たちは迷宮の黒い土埃に塗れている。多少の汚れなど気にしないが、このまま行動すれば間違いなく悪目立ちするだろう。
変な噂が立つだけならまだしも、それで知人や警察、果てはノギス工業まで寄って来られては確実に面倒だ。仕切り直しも兼ねて、一度家に戻って休憩がてら夕食を取ることにしたのである。
「とにかく、一旦病院に行ってみた方がいいんじゃ」
「
「再街も大人しくついてったりはしないだろうけど……アイツ相手に多少暴れた程度じゃどうにもならない、か……」
「とはいえ、我々やノギス相手の戦力にするつもりならばそう離れた場所には行かせないはずです。基底迷宮化領域は迷宮主と縁のある場所でなければならないという条件もありますので。まずは街で何か事件が起きていないか探ってください」
「分かった、調べておく」
「弊機はおふろに入ってきます。土まみれなので」
「君が風呂出たら買い出し行くか」
現在、この家は俺と姉さんの二人暮らしだ。姉さんは先ほど夜勤に出ており、銀髪メカ少女がうろついていても咎める人間はいない。
「でもおふろってどうやって入るので。洗浄機で洗われたことしかないです」
「文化の違い」
改めて聞かれると逆に解説に困る。ざっくり説明してアンセスタを風呂場へ送り出した。
……しかし、あの再街が何か凶悪な力を得たと言われてもいまいちピンと来ない。膨大にある未来の可能性の一つである以上、何でもアリというのは分かっているが、それでも上手くイメージ出来ない俺がいた。
「くうまーくうまー。この義手だと体こするの痛いですー」
「えー? ……じゃあこれ、はい。こっちの腕置いとくから」
「どうもー」
俺は右腕を取り外し、風呂場の前に置く。断端から白亜が溢れ出したが、代わりに差し出された金属義手を接いで塞いだ。
「重っ……」
ずっしりとした金属の重量。アンセスタがこんなのをつけてひょいひょい動いていたことに驚いてしまう。猛烈に肩が凝りそうだが、仕方ない。
一通りニュースサイトやSNSを見て回ったものの、何か事件があったという情報は得られなかった。
俺の調べ方が
「情報収集か……」
悩んだ末に室久の携帯に電話した。
と言っても、話したい相手は室久ではない。
「というわけなんだけど、みとらちゃん何か知らない?」
『しらぬ。でも、その人にえんのある場所がしりたいなら、その人のごかぞくに話をうかがうのがてっとりばやなのではなかろうか』
「極めて論理的だ」
買い出しついでに再街の家に寄ることを決め、外出準備をする。
むしろ、『縁のある場所』という話なら、実家など第一候補まであるだろう。本日二回目の戦闘も視野に入れておいた方がいい。
家族以外に友人相手へ聞くのもいいかもしれないが、再街はあまり友達の多いタイプじゃなかったはずだ。休み時間はだいたい本を読んでいるイメージで、他の同級生とあまり仲良くしていた覚えがない。
「アンセスター、こっちの腕しばらく借りていいか?」
「いいですよー」
重量こそあるものの、膂力と耐久力ではこちらの腕が圧倒的に上だ。大きな強化ではないかもしれないが、アンセスタとの戦力差は埋めておいた方が連携もやりやすい。あといくら治りが早いからって毎回毎回右腕がズタボロになるのはつらい。
適当な軍手と長袖で義手を隠す。……心もとない。何かの拍子に袖がめくれたら一発だ。買い出しリストに手袋とアームカバーを追加した。
「おふろ終わりました」
「おかえり――っておまえなー髪をなービショビショのままなー」
最初に会った時の、イマイチ丈の危ういキャミソールワンピースでアンセスタが戻ってくる。しかしその髪からはポタポタと水滴が垂れて、通った後が濡れっぱなしだ。
しかもどういう光の反射をしているのか、濡れた銀髪は仄かな虹色の
「ドライヤーを使うことぐらい知っています。でも全然乾かないのです。不良品です」
「まずタオルで拭け」
彼女の頭にタオルを被せ、水気を吸わせる。
その時ふと、彼女の銀髪がわずかに透けていて、どこか人工的な、極細の光ファイバーのような煌めきを持っていることに気がついた。
「工学妖精の
「へえ。じゃあ俺が下手に弄んない方がいいか」
「拭くの面倒です。クウマやってください」
「お姫さまめ」
「えへ」
悪戯っぽくアンセスタが笑う。……急に普通の女の子みたいに可愛くするのはやめてほしい。どうしていいか分からなくなる。
「なら、普通にしてない方がいいですか? ウィーンガシャンガシャン。アー、ワレワレハコウガクヨウセイダー」
「げに恐るべき腹立たしさだな。……アンセスタは普通にしてなきゃダメだよ」
「そうですかね。クウマは弊機のことを普通だとは思っていないようですが」
「それは――」
答えに詰まる。こんな会話、適当なツッコミの一つでも入れておけばよかったのに、咄嗟に否定も肯定も出来なかった。
「――……でも、それでも、普通にやらなきゃダメなんだよ。普通に、笑ったり怒ったり楽しくしたり……。友達と学校行ったり、知り合いと仲良くしたりとか、そういう、日常って。大切なんだ」
「
要領を得ない。当然だ。そもそも言ってる俺に致命的なほど説得力が無いし本気で言っているわけでもない。しかし、それでも――
「…………」「…………」
髪を乾かす間、しばらくの無言が続いた。
キューティクル(に相当するものがあるのか知らないが)が傷つかないよう、柔らかく水気を拭き取り、ドライヤーの温風を当てる。乾きにくい根本から、熱変性(に相当するものが起こるのか知らないが)しないよう、ドライヤーを小刻みに揺らしつつ。
櫛を入れると、非有機的だが不快ではない、塩素のような匂いが香った。シャンプーのそれと入り混じって。なんというか、新品の家電みたいな。女の子っぽくはない。だが、良い匂いなんだろうとただ思った。
「……よし。じゃあ、着替えたら、行くか」
「了解しました。――クウマ」
「うん?」
汚れない銀髪を翻し、アンセスタがこっちを振り返って言う。
「髪を乾かすのは、『普通』のことですか?」
「そりゃあそうだろ」
「なら、大切かもです」
家の近所は既に夜闇へ染まっていたが、この永地市は少し移動するだけでその様相を変える。
住宅街とは時間の流れが違うかのように、駅前周辺は未だ明るい。
『実際この街、次元が歪んでいますので。そもそも古都と田舎と都会が少し歩くだけで入れ替わるってどんな街ですか。おかしいでしょ』
「改めて言われると確かになんだけど衝撃の事実」
『住民に迷宮主候補が多いために微細な影響が積もって
そう言うアンセスタの声は、俺が耳に当てている携帯電話の向こう、白亜回廊の中から響いていた。
室久の迷宮がそうだったのと同様、白亜回廊も内部に電波は届かない。
故に、今行っている通話は有線式。迷宮内からコードの片端だけを『取り出し』、携帯に接続して話している。
「でもなんだってこんな……」
『弊機がいると目立つと言ったのはクウマではありませんか。なら、これが一番効率的です』
「それにしたって、昨日みたいに直接脳内に語りかけるんじゃあダメなの?」
〝待機中...
「あーそういう感じになるのかー……」
より機械的というか文語的というかなんというか。とにかく、言いたいことは伝わった。
「……いや、というか通話をつなげるだけなら電波自体を『収納』すればいいのか……? でも電波を『収納』ってなんだ……電波……?」
『応用幅を広げるならあとで一緒にお勉強しましょうね』
そうやって電話を耳に当てながら、店で目的の食料や道具を買い揃えていく。
一応買い物袋は持ってきているが、律儀に持ち運ぶつもりはない。人目につかないようにさっさと購入品を『収納』していく。
「分かってると思うけど、それエネルギー切れた時用の非常食だからすぐに食べちゃダメだぞ」
『分かっています。もぐもぐ』
「何も分かってねえな?」
まあ充電(?)を満タンにしておけるなら悪いことでもない、だろうか。どうだろう。
そうこうしている内に、目的の物が全て調達し終わった。
買った手袋を義手にだけ付けるか両手共つけるか悩みながら、再街の家へと赴いていく。
『ですが、その再街さんが一人暮らしという可能性もあるのではないでしょうか。まずそちらを先に調べた方がいいのでは』
「ウチの高校には寮あるから、それならそっち行くはずだよ。
『クウマの家には両親が居ないようでしたが』
「まあ姉さん居るし。それにあの家、一応書類上は父母姉弟の四人暮らしになってるから。アンセスタの方は――」
言いかけて、気がついた――居るわけがない。
今日はこの子とすごく普通に過ごしていたせいだ。思わず失敗した。それに対してアンセスタがどう思ってるにしても、積極的に出したい話題じゃあなかった。
だが――
『さあ。どうなのでしょう』
「……どうなのでしょう?」
『
「――。何?」
一瞬、直感が何か嫌なものを捉えた。
だが、それが具体的に何なのかわからない。ぼんやりとした予感だけで、その輪郭を上手く言葉にすることが出来ない。
「アンセスタ、それは――」
『見えましたよ、クウマ』
そうしている内に、再街の家の近くにまで辿り着いてしまった。
少し高台になった場所にある一軒家だ。割と良い感じの。窓を見る限り、照明は付いている。この時間ならまだ寝ては――
「あ」
窓から漏れる光が消えた。
慌てて玄関まで走り寄り、インターホンを鳴らす。
『……はい』
スピーカー越しに響く、疲れたような女性の声。再街の母親だろう。
「遅くにすいません。
『……娘達は見つかったんですか?』
「達? あ、いえ。まだ見つけてはないんですが、」
ブツン。
通話が切れた。
「……。……え?」
もう一度、インターフォンのボタンを押す。しかし反応はない。
「ええ、と……」
……対応する余裕が無い、のか?
まあ、娘が火事に巻き込まれ、二週間もずっと目を覚まさない上、いきなり行方不明になったと来れば、母親としてはメンタル的にやられてもおかしくないのかもしれないが……。
明日、また出直した方がいいだろうか。そう考える俺に声がかけられる。
「忍び込みますか」
いつの間にか、白亜回廊から出たアンセスタが、俺の隣に立っていた。
「忍び込むってお前……」
「元より、クウマのような一般の学生が情報提供を求めたところで大した対応はされないでしょう。以前から交友関係があるわけでもないなら尚更です」
「まあヒト一人ブッ殺しといていまさら住居侵入罪がどうとか言わないけどさ。忍び込んだから何か分かるってもんでもないだろ」
「そうでもありません。パソコンの履歴、日記やアルバムの一冊でもあればいくらか絞り込めるでしょうし、何もなくても迷宮主候補の自室ならば多少なりとも
……アンセスタが言うならそういうもんなんだろうか。
「もし、この家が既に迷宮になってたら?」
「先ほど大きめに簡易迷宮を
「多分って」
「なので、まずは弊機だけで行きます。身体能力の低いクウマでは初見殺しがあった場合に対応できませんので」
不安はあるが、彼女の自信を覆すほど積極的な反論は出せそうにない。
一旦アンセスタを『収納』し直し、玄関扉の郵便受けに買ったばかりの糸を差し込む。
ある程度の長さまで入れた後、玄関扉の向こう側、糸の先からアンセスタを『取り出し』た。
「グッド。では、クウマはそのまま待機していてください」
忍び込んだアンセスタの気配が遠ざかっていく。足音はない。
透明人間になれることも考えれば、まず見つかることはないだろう。
「…………」
しかし……。
俺は自分の右手を見つめ、先ほどの彼女の言葉を反芻する。
「……居ない、じゃなくて
目を凝らしても、赤外線の色しか見えない。
きっと、家の中は真っ暗なんだろう。
熱が周囲の輪郭を描く中。ヒトの視界を想像しながら、アンセスタは赤暗い廊下を歩いていく。
自然界において赤外線を『視認』できる生物は存在せず、光電変換や光電子増倍技術に基づいた現代の赤外線カメラは逆に可視光環境での併用が出来ない。
だが、長波長光を短波長に変換する
近年に中国の大学から発表された研究。現在でも未だ実験段階だが、彼女のそれは当然のように実用レベルの更に先に達している。ほとんどゼロに近い光量でも、再街
それに、探索には慣れている。これまで彼女がノギスの下に攻略してきた迷宮の中で、民家と似た構造の建築物を探ったことは何度もあった。
「…………」
しかし、だからと言って一般の民家への
家具の配置。掃除のされ方。飾られている聖書。冷蔵庫の中身。日用品の使用率。
通常の人間ならばそれらの傾向から何かしらの違和感を覚えることが出来たとしても、アンセスタにそれはわからない。「通常」「普通」の
一階を探索し終える。再街
――二階、だろうか。
階段を登った。
精密動作で足音を殺し、無音のままに登りきる。
何気なしに左を向いた先、鏡があった。
映っているのは銀髪の少女人形。
ズル剥けになった胸部の
「…………」
ビリビリに破けた首元の
貼り付けたテープを剥がすような小さな痛み。それと共に、肌色の皮が僅かにめくれる。
――……
何故、自分は人間に偽装されているのか。
それは、彼女の知識にはない情報。今朝からずっと思っていた疑問だった。
人型であることの利点は分かる。
まず、汎用性がある。人間のために作られた道具・施設。それらを十全に扱えることの意味は大きい。迷宮という異界空間ならば尚更だ。
だが、それならここまで似せる理由は無いだろう。
手足が二本、指が五本。極論それだけで要件は満たせるはずだ。
ならば社会の内に潜入させるため? 違うだろう。それならそれ用の
ヒトの形に近しくなければ黄金歴程の資格を得られないのか。あるいは製作者の趣味か。現状では結局そんなところに結論が落ち着いてしまう。
自身の現状、己の詳細。
本当はもっと深く考察するべきなのかもしれないが、どうにも思考が回らない。
いや、そもそも思考の鈍さで言うなら今日一日はずっとそうだ。夢でも見ているかのように判然としない。頭に靄がかかったようにふわふわしている。
「んー……」
集中が途切れた。思索を打ち切って周囲を見渡す。
トイレやベランダ等を除き、二階の部屋は三つ。
その内の大きな一つ。夫婦用の寝室と思われる部屋からは、すすり泣くような女性の声。再街
残る二つの部屋の片方、そのドアを開けた。
「……?」
――
アンセスタは首を傾げる。
熱の色が部屋の輪郭を縁取る。中は女の子の部屋だ――そのはずだ。女児向けと思しき調度品たちが整然と配置されている。
村雨空間の部屋と比べて物の数は多いが、整頓具合はこちらのほうが上だ。
部屋の中を見渡し、手から軽く光を放って周囲を照らした。部屋の大部分を覆う彩度の高いピンク色。
目立つのは、床に置かれた……確か、ランドセル。埃が積もっていることから、長い間使われていないことがわかった。
小学生が使うバックパックだったはずだが、高校生になっても捨てずに取っておくものなのだろうか。
「…………」
とにかく、歪みが無い以上は仕方がない。少なくとも迷宮主の使っていた部屋でないのは確かだ。
隣室。歪曲を感知する。こちらが再街
先ほどの部屋に比べるとかなりシンプルだ。インテリアの色彩も地味なベージュとモノトーンでまとめられている。
勉強机、その上の古いノートPC、本棚、ベッド、タンス。目につくのはそれぐらい。先ほどの部屋はおろか、村雨空間の部屋よりも飾り気が無い。
「〝【
半径三メートルで疑似迷宮を展開し、亜空間そのものに刻んだ回路に分析処理を走らせる。
部屋の中に琥珀色の走査線が描かれ、四十二秒経過。
スキャンが完了し、アンセスタの目の前に
――〝再街
「……
声が漏れた。彼女の表情筋が不随意ならば、その顔は相応に困惑していただろう。
アインソフはこちらへの刺客を作るために迷宮主を生み出しているはずだ。なら、戦力にならない者を主にする意味がない。
黄金歴程でのダメージを回復するための治療薬代わり、と考えることも出来るが……回復自体はアインソフだけでも出来るはずだ。
それに、実際に使うかどうかは別として、こちらには
ともあれ、再生医療の技能型迷宮ならば、『基底』となっているのは医療関係施設の可能性が高い。
この街にある病院・診療所の数は、眼科、歯科等を除外し十三。この家から通いやすい距離で考えれば五つに絞れる。いや、学生にとっての馴染み深い医療関係施設ということで学校の保険室等を含めれば、小・中・高のそれぞれを加算して八つには増えるか。
少々多いが、探りきれない数ではない。『迷宮となった場所を絞り込む』という意味なら、既に目的は達成したと言ってもいいだろう。
だが――
「…………」
勉強机の上で開かれたままの古いノートPCに、変形させた
もどかしい速度で点灯するディスプレイ。ロック画面が表示されるが、アンセスタからすればこんな世代のセキュリティなど脆弱に過ぎる。あっさりと突破した。
デスクトップに表示されるアイコンの数は三列に満たない。インストールされているアプリがほとんど無いのだ。入っているのは、サポートの終了した文書作成や表計算ソフトに、ファミリー用の簡素な動画編集ソフトだけ。
ブラウザの履歴を探っても、ほとんど実用目的で使っていることが見て取れる。
種々の通販サイトや電子書籍ストア。あとは、辞書代わりに一般にはあまり馴染みのない単語を検索しているのみであり――否だ。明らかに履歴の中で抜けがある。
履歴は消されているが、キャッシュされた画像までは消えていなかった。ためらいがちに表示する――
「…………」
ブラウザを閉じて、PC内のファイルを洗い出した。
ピックアップされるいくつかのホームビデオ。作成日時はかなり古い。
現在の本人を見たことは無いが、映っているのは恐らく幼い頃の再街
ホームビデオの中の母娘は楽しげだ。母親が促し、再街
肥満等では考えられない明らかな異形。朗らかな声が動画ファイルから響き出す。
『
自身の奥からせり上がってくるこれは、何だ。
『
――気がついた時には動画プレイヤーを閉じていた。
「……。……き……『寄生性双生児』……」
呟く声が震えていた。何故だ。恐怖しているのか? 探索兵器であるこの
意味が分からない。明らかに異様なダメージを受けている。立ちくらむようにふらついて、部屋を後にしようとする。
「――っガ」
不快感に口元を抑えた。
だが、吐き気ではない。奥底からせり上がってくるこれは――
〝
〝
「ま、ず……ッ!」
〝必要な犠牲だった〟
〝嘆き苦しむ誰かのために、
〝
ダメだ。このままでは、
そうなれば終わりだ。もう、今日、目覚めてからの自分ではいられない。これ以上この場所には居られない。すぐに、今すぐに、離れなければ――
「――
音もなく、扉が開く。
再街左希の母親が、モニターライトに昏く照らされていた。
「左希……ねえ、左希……」
痩せこけた頬、呆けかけた表情。暗がりの中、目の隈と黒目の境が曖昧になって虚ろな穴のようだった。
「……左希、どうして……あなたまで居なくなったら、どうすればいいの……」
簡易迷宮による透明化は展開しているが、曇った瞳はどちらを向いているか分からない。覗き込まれるような悪寒を覚えながら、アンセスタは荒れそうになる排気を必死に抑える。
「お願いだから、一人にしないで……
〝「だが、収穫はあった」〟
〝「定量的とは言い難い表現だが」「姉妹機の度重なる損壊で」「
〝「
力が抜ける。倒れこみそうになった体が、姿勢制御機能で強引に固定される。
「どうしてお父さんの言うことを聞いたの……
彼女の犠牲は無駄にはならない。無駄にはしない。きっと
「
〝「
「ねえ左希、お願い――」
〝「だが原型機体の性能は維持されなければならない」〟
〝「故に工学妖精、アンセスタ――」〟
「〝
――頭にかかっていた
「ぃ、や――」
自分を制御できない。完全随意であるはずの
「……。誰……?」
「ぁ――」
記憶の中のノギスの人間達と再街左希の母親の姿が重なる。
「ねえ」
嫌だ、無理だ。こっちを見るな。
「居るの」
もうあんな、あんな言葉は聞きたくない。だけど、だけど。
「そこに――」
「当て身」
――ゴキィ! と音を立てて再街左希の母親が背後から鉄パイプで殴り飛ばされた。
突如現れた闖入者に今度こそアンセスタの思考が止まる。否、思考のみならず時間すら止まった気がした。
一瞬の停滞が過ぎ去り、再街左希の母親が机に向けて吹っ飛んでいく。
「かぶぼッ、が、ぁ?! ぎ、あァアア――ッ!!!」
「なにっしぶといッ」
吹っ飛んだ母親は咄嗟に受け身を取り、机の上のノートを村雨空間に向けて投げつける。
少年の目の前にバラバラと飛び散る紙の束。視界が塞った一瞬の隙を突いて、母親が握りこんだカッターナイフを空間に向けて振りかぶった。狙いは鉄パイプを持つ右手。
「――っな、」
がしかし。ギィンと。金属質な音ともに弾かれる。
そして、再度の打撃音。
今度こそ、痩せこけた女が崩れるように床に倒れ伏した。
「……ヤベーな骨バキッつったぞ今これ……。まあ忘れろパンチ――じゃなくてホワイトオーダーすれば治るしいいけど」
鉄パイプを虚空に仕舞い、少年が少女の方を向く。
「で――何かあったのか?」
「……ぇ、あ……。クウマは、どうして、ここに」
「遅かったから窓ガラス『収納』して忍び込んできた。まあ見るからにアレな宗教やってる感じの家でビビったけど……何かされたのか?」
「……い、え」
何か言うべきなのかもしれないが、今は何も考えられなかった。
白亜の右手を叩きつける少年。その横で、ふらつきつつも立ち上がるアンセスタ。
「ただの……不調です。気にしないでください」
「不調って、」
「大丈夫です……休めば治ります……」
そう言って、少年の胸元を開き手の平を当てる。ずぶりと沈み込んでいく腕。
「いや、俺の中で休むのか……」
「……だめ、ですか?」
「……。……いいけども」
ほとんど倒れ込むようにして、身体を白亜回廊に沈めていく。
うつむく彼女には、少年の表情は見えない。
だが、困惑していることが明らかに分かる声で、村雨空間は静かに語りかけていた。
「……なんかあったら、言ってくれよ。お願いだから、無理だけは――」
返せる言葉は無かった。
白い床の上に横たわる。買ってもらった布団を敷く余裕も無い。
無意識に、迷宮内に漂う白い霧を吸い込んだ。
白亜の味とともに、記憶がかすれる。思考がぼんやりとして、僅かに状態が落ち着いた。
「……あぁ」
道理で、居心地が良いわけだ。
できるならば、このまま白痴になってしまいたかった。
だが、ダメだ。再街左希の迷宮には挑まなければならない。
そうしなければ、これからどうすればいいのかさえわからなくなる。今、自分の内に抱えているものが、本当に無価値になり果てる。
攻略できる自信はまるで見えないまま、アンセスタは白亜回廊でうずくまり続けていた。
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第13層「あなたは、自殺産道に足を踏み入れた」
幽体離脱をした体験はあるだろうか。俺は無い。
だが、入眠中に自分の体から何かが『抜け出た』ようなこの感触はきっとそれに近いと思う。
自分が身体から剥がれてしまう錯覚に怯えた。眠りから覚醒し、冷や汗をかきながら勢いよく起き上がる。
「――っ、が!?」
肘をつき体を起こそうとして、右の二の腕から先が無いことに気がついた。
そうだ。あの義手を付けたままでは重いからと、寝る前に義手を外していたのだった。
枕元を見て、ぎょっとする。置いておいたはずの金属義手でなく、生身と見分けのつかない右の義手が転がっていた。
少し驚いたがすぐに気を取り直し、部屋の中を見渡す。
「あ、」
――金属義手を持ったアンセスタが、窓から外に飛び出そうとしていた。
「……。おはよう」
「……。
見なかったことにすべきかと思い、とりあえず挨拶をした。
が、やっぱり気になったので聞いてみる。
「どこ行く気だったんだ?」
「……迷宮へ。再街左希さんの迷宮は脅威度的に
目を伏せつつアンセスタが言った。無表情のくせに、気まずそうにしているのがわかり易すぎる。
「あくまで予測なんだろ? それに、そうだからって黙って出ていくことはないだろ」
「……クウマが居ても大して役に立ちませんし」
「あ? 言ったなテメェ表に出ろ」
いや違う。そうではない。
「大体それなら何のために昨日武器集めしたんだ。俺が居なきゃ再街を元に戻すことだって出来ないのに」
「なら、再街さんは拘束してクウマの元に連れてくればいいだけでしょう。無為に危険を侵す義務はありません」
「それを言うならお前が危険を侵す義理だってねえよ。義務だの義理だので言うなら、本当は俺が一人でやらなきゃいけないことじゃないか」
「そんなことはありません。クウマは何も悪くないのに――」
「アンセスタだって何も悪くないだろ。何も悪くないのに、俺たちを助けてくれてる」
「…………」
俯いた顔。だが、青い瞳がちらとこちらを向いている。
「大体この辺の下りもう昨日やったようなもんだろ。何も悪くないんだから、辛い目に合わずに勝ちたいだろうって。だから俺のことは遠慮なく巻き込めって」
「……
まだアンセスタの顔は上がらない。
俺は面倒になって、そこで話を打ち切る。何より、これ以上憂鬱な様子の彼女を見ていたくなかった。
「少し準備したら行こう。適当に何か朝食用意してくるから待っててくれ」
「あ、」
アンセスタが手に持っていた金属義手を強引に奪い取り、自分の二の腕に取り付けた。振り返って部屋を出る。
「……むぅ」
背後で渋々と窓を閉める音。
俺は、気づかれないように小さく安堵の息を吐いていた。
朝の六時だった。
まだ肌寒い空気の中を、自転車に乗って駆けていく。
当然ながら、向かう先は学校ではない。朝練に向かう学生とすれ違いつつ、目指すのはこの街の中央病院。
最初は病院の可能性は低いと言っていたアンセスタだが、調べ直した結果、やはりここだと判断したらしい。
「で、着いたはいいけど……」
まだ玄関は空いていない。診療受付の開始はまだまだ先だ。
つまりは昨夜に引き続き不法侵入である。アンセスタを白亜回廊から出し、透明化を使ってもらう。
そのまま、適当な窓のガラスを『収納』し、忍び込んで元に戻した。
ガラスの比重はおよそ2.5。一メートル平方で厚さ一センチの窓ガラスなら25kgになる。俺の『収納』は10kg以上から必要時間が跳ね上がるが、これぐらいならまだ数分で『収納』可能だ。
そろそろ病院も起床時間だった。看護師や医師が慌ただしくしているが、行き交う声の中に気になるものがあった。
「先生が、」「――さんも」「一体、どこに――」
……人が姿を消している。それも、再街だけでなく、複数名の病院関係者が。
既に、被害が出ている。
焦る気持ちを抑え込んだ。他の人間に見つからないよう、再街の病室へ。
だが、病室の傍まで来た瞬間、アンセスタがぐいと俺の手を引いて物陰へと隠れ潜んだ。
「急に何――」
「……静かに。弊機の迷宮が
体が固まる。廊下を歩いていた看護師が通り過ぎるのを待って、物陰から出た。
「迷宮主が生み出す迷宮には二種類あります。昨日のプレハブ小屋のような、特定のエリアを基点に常時開廷される『基底迷宮』。対し、昨日の副担任や、弊機が今しがた使っていた、迷宮主の意思によって任意のエリアに開廷できる『疑似迷宮』。そして――」
「『基底迷宮』と『疑似迷宮』がぶつかると、『疑似迷宮』が一方的にかき消される?」
アンセスタがこくりと頷く。
ならば、今回の探索では使えないが……それでも有用な能力だ。俺も早い内に『疑似迷宮』を使えるようになっておいた方が良いだろうか。
「やり方さえ覚えれば、クウマは既に『疑似迷宮』を開廷出来ます。ですが、当分はやめておいた方がいいでしょう」
「? どうして?」
「『基底迷宮』と違い、『疑似迷宮』は能力に合わせてある程度自由に特性を設定できます。ですが、一度効果を設定してしまえば、その後に変更することはできません。最も難易度が高いアインソフとの戦闘までは、温存して……。…………」
なるほどと納得し、警戒しながら病室へと近づいていく。
「っていうか、『基底迷宮』の特性の方は自由に設定できないのか? 室久は地面を砂鉄にしてたけど」
「……無意識的な部分の反映が大きいというのもありますが、そもそも迷宮自体が迷宮主に対する試練ですから。外敵を問答無用で排除するような
彼女の言葉に少し安心する。それなら、入った瞬間デストラップで即死、なんてことにはならないだろう。
周囲に人目は無い。アンセスタが扉に手をかけた。
彼女がこちらへと目で合図する――頷き返した。
「……っ」
死臭。何より最初に、血と灰の匂いが混じる濃厚な病院臭が嗅覚を刺激する。
広く、暗い。小さな病室の中にあったのは、長い長い廊下だった。
外はもうとっくに日が出ているのに、窓から覗く景色は朧月夜に変わっている。照明がついているのに薄暗い。闇の濃さに光が完全に敗北していた。遠くに輝く非常口のランプだけが眩しく、緑の光を周囲に満たす。
「…………」
……それでも、見た目自体はただの病院だ。室久の時のようなあからさまな「異界感」は薄い。
銃を取り出し、構えた。迷宮の中に一歩を踏み込む。
同時に、月にかかった雲が僅かに晴れる。
後ろから、続く足音――しかし、それが二歩目で止まる。
「……アンセスタ?」
「
……二人、長い廊下を歩いていく。
調べたところ、側面に並ぶ扉の先は、何か部屋があるというわけでもないらしい。
ほとんどの扉は締め切られており、破壊も出来ない。だが、さっきのように月が異常に輝く瞬間だけ、現実空間にある病院内のランダムな扉へ繋がるようだ。
行方不明になった病室関係者は、この繋がったタイミングで迷宮へ誘い込まれたのだろう。
十数分かけて、廊下の奥へと突き当たる。ここから更に、右と左へつながる廊下。
「どっち行く?」
「階段のある方でしょう。大抵は迷宮の下層に繋がっています。どちらが階段かは……信憑性は不明ですが、ここに来るまでに『見取り図』がありました」
空中に投影される
ここから先は、左右どちらもかなり入り組んでいた。エレベーターはここに来る途中にあったが、動いてはいなかった。そして、階段があるのは右の通路のみ。
左の通路も探索すれば何かあるのかもしれないが、今は――
「……?」
左に一つだけ、扉が開いたままの病室があった。しかもどうやら現実空間に繋がっているわけではない、迷宮の一部としての病室。
見る限りでは普通の部屋だが、何か違和感がある。少しだけ、足を止めた――瞬間、カチ、カチ、カチと時間を刻む針の音。
指しているのは『六時三十三分』……いや、待て。普通は病室に時計なんて――、
「――
「っ、」
左の通路。向かって右側にある横道から、アンセスタと同じくらいの小柄な
「〝第二形態:支持〟」
だが、それらが攻撃行動に移るより早くアンセスタが動いていた。
光の銃より展開が早い光の剣を生み出し、小柄な
追撃を入れようとするアンセスタだが、相手の反応が良い。
飛び退って回避され――そのまま、二体とも元いた横道へと戻っていった。
「……逃げた?」
「……そのようですね」
というか……逃げることもあるのか、アイツら。
「
アンセスタが光の剣を仕舞う。無理に追う必要は無いと考えたようだ。
「背後にだけ注意を。行きましょう」
右へ進む。入り組んでいる通路は警戒箇所が多い。
室久の時に比べると随分
階段を降りる。二層目。
こちらもまた入り組んでいた。その上、点滴スタンドや種々の薬品、カルテらしき書類等がリノリウムの床へ乱雑に散らばっている。
アンセスタがビンの一つを拾い上げ、見つめる。彼女の眼球から微かにチチ、と、機械の動作する音。
「……通常の薬品ではありませんね」
「そうなのか?」
「
手渡された薬品達を『収納』する。
そのまま数分ほど進んだ。
頭上から物音。天井から飛び降りるように落ちてきた、一体の小柄な
即座にアンセスタが切り捨てようとして――仕留め損なう。回避された。
「っ、」
俺は即座に
だが、怯んだ隙をついてアンセスタが
『レェイルオォォルゥウウ――』
それでもまだ動いていた
「……すいません、クウマ」
「いや、お前なら油断しててもあんなのにやられないだろ。……だけど」
何とも言えず苦い表情になる。今のアンセスタは、明らかに精彩を欠いていた。
「……やっぱり、何かあったのか?」
「……『何か』の意味が不明です。返答出来ません」
「急にロボるな。出来の悪い音声アシスタントみたいなこと言いやがって」
「放っておいてください。……クウマ達のことはちゃんと助けます。それでいいでしょう」
「はあ? お前、まさかまた、自分だけ痛い目に合えばいいみたいに――」
俺の言葉に背を向けるように、アンセスタが進む足を早める。慌てて駆け足で追いかけた。
あんな状態で、また奇襲を受けたらどうなるか分からない。
向かいの通路には、一層目と同じ扉が開いたままの病室もある。あそこから
「――あ?」
待て。あの病室、
いや……。そもそもここまで通ってきた通路自体、思えば何か
もちろん、ここにあるものは全て初めて見る景色だ。初めて見る景色なのは間違いない。だがそうじゃない。そんな、
立ち止まって考え込む――瞬間、
扉の開いた病室の中から、
指し示す時刻は、
「ま――」
そうだ――第一階層で見た『見取り図』。
左右で悩んで、行かなかった左側の通路。あの時二体の
「まずい――」
顔を上げた。アンセスタは通路の先に顔を出す寸前。
そしてその左奥には、
「まずいッ! 逃げろアンセスタァッ!」
「待ってください、あそこに
「あれは『第一階層の俺達』だッ! ここは『過去』だ、すぐに『
「な、」
走り寄り、肩を掴むが、遅い。
小柄な
光の剣を持って、『現在』のアンセスタへと襲いかかってくる。どうする? このまま『過去』を
「くっ――!」
「ダメだ、迎撃するな! アレが『過去のアンセスタ』なら、下手に倒せば現在のお前が消えかねない!」
それ以上の余裕はなかった。アンセスタが俺の体内に手を突っ込む。
直後に、アンセスタの左義手が吹き飛ぶ――いや違う。吹き飛んだのは、左義手の代わりに、瞬時に白亜回廊から『取り出し』取り付けた丸めた雑誌!
「退きます! タイムパラドックスを防ぐなら、今は『先ほどの状況』をなぞるしかない!」
即座に撤退する。
アレが『過去』の通りなら、これ以上追ってくることはないだろう。が、油断は出来ない。すぐには追いつけないだけの距離を取ろうと、全力で元の道を戻っていく。
「クソ――というかヤバいぞ、さっき俺たちこの階層で倒したよな、
タイムパラドックスを起こさない限り、
「冗談だろ――既に詰んでるじゃねえか!」
「……落ち着いてください。まだ本当に過去逆行しているとは限りません。白亜回廊のような時間逆転の超常がこうも続けて現れるはずは……何かしらのトリックかギミックの可能性もあります。一旦、ここまで来た道を戻って情報収集を、」
だが、その提案が最後まで言い切られることはなかった。
『
どこからか響いた声と共に、アンセスタの足元から、破砕音。
飛び退く時間は無かった。
第二階層にぽっかりと開いた大きな穴。
第三階層への落とし穴へ、アンセスタが足場を失い落ちていく。
――マズい。マズいマズいマズ過ぎるッ! さっきの
『さあ、どうぞ……。
眼下には、待ち受けるように二人の俺達が歩いていた。
「っ!」
『過去のアンセスタ』から放たれる斬撃を、現在のアンセスタがギリギリで回避する。
「がッ、」
だが、回避の余韻に合わせるように『過去の俺』からの銃撃。
現在のアンセスタが黄金光で迎撃しようとして、俺そっくりの姿に手を止めた。四発の弾丸がアンセスタの躯体を打ち据える。
「やめろ」
怯んだアンセスタへ、『過去のアンセスタ』が強烈な斬撃を浴びせる。ギリギリで防御するが、防ぎ切れていない。『過去の俺』の足元へと吹き飛ぶ彼女。
容赦など『俺』がするはずもない。数分前の通りに、『過去の俺』が『取り出し』たスレッジハンマーをアンセスタの頭部へと――
「だからやめろっつってんだよボケがァアアアアア!!!」
「ダメですッ、クウマ――!」
――気が付いた時には、『俺』の脇腹を槍でぶち抜いていた。
「『
声の先。
振り返った先に、白衣の再街。
そして、再街とよく似た見知らぬ子供。
ふらふらと、焦点の定まっていない目でこちらを見ながら、再街が静かに呟く。
「……村雨君には、効きが悪いだろうから……だからちゃんと……ちゃんと『自分を殺させた』……」
俺の脇腹から――『過去の俺』を刺したのと同じ、脇腹から。急激に溢れ出す黒い
そしてそれと同時に、真っ黒だった『過去の俺』の姿が色づいて……
「クウマっ」
「……
『うん』
謎の少女が、無重力を感じさせる動きで跳ねた。そのままアンセスタへと近づき、あり得ない脚力で彼女の体を蹴り飛ばす。
『
少女が床を爪で引っ掻いた。直後、床のリノリウムが溶けて
「『あなた』が出血死するまで、残り百六十七秒」
コツリ。白衣のポケットに手を突っ込みながら、再街が近づいてくる。
「百六十七秒の『余命』を過ぎた時……あなたは『囚われる』。この
変わり果てた同級生の口から、死神のような宣告が放たれた。
「――ようこそ、自殺産道へ」
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第14層「一つ前の選択肢へ」
分断された。
その事実を認識したアンセスタは、まず何より先に連絡を取った。
「〝――聞こえますか、クウマッ〟」
敵が分断策を講じるのはこちらの連携を防ぐためだ。ならば逆に、こちらが連携さえ出来れば相手が不利になるのは間違いない。
『〝アンセスタ――? 迷宮の中じゃ電波は通じないんじゃ、〟』
「〝迷宮の内外間でのやり取りが出来ないだけです。基地局を通さず迷宮内で通信を完結させました。そのまま通話状態の維持を。適宜連絡を行いますので、早急に合流しましょう〟」
返事が返ってくるが、その声にも余裕が無い。出来ればスピーカーモードに切り替えて欲しかったが、残念ながらこちらから聞くだけになりそうだ。
故にこそ、アンセスタは目の前の少女を見据えた。即座に乗り越えなければならない障害を。
『あんまり良い結婚じゃなかったんだって』
右弥と呼ばれた少女が歌う。人の声でありながら楽器のような。奏でるが如く独特な声音。
『でもね、パパはちゃんとパパをやろうとしていたよ。そんなパパのためにママは必死だったし、パパ以上に本気でママをしようとしてた。強迫的なくらいにね』
「〝第三形態:
『妊娠した時は双子だったよ。名前も決めてたし、どっちも本気で幸せにしようとしてた』
光のライフルから放たれる閃光の槍。
ただし、威力としては大したことがない。殺傷性は低く、一般人がまともに受けても衝撃で気絶する程度――
『だけど、わたしだけお腹の中から居なくなった』
そして、避けずに受けた再街右弥の
「っな、」
『バニシングツインって言葉、聞いたことはある?』
だが、吹き飛んだ顔面からは飛び散ったのは、
何ら痛痒を感じた様子もなく、再街右弥は淡々と語り続ける。
『妊娠中に、双子の片方がお腹の中で溶けちゃうの。双子にはよくあることだけど、ママはそれでダメになっちゃった』
「まさか、人型の
顔の半分が黒に覆われ、晴れた時には既に元通りの顔面がそこにあった。
『溶けちゃった子は
少女が軽やかに飛びかかってくる。体重の無い移動、動きが読みづらい。指に掠らせつつも、振り下ろされた爪を光の剣で弾き返す。
『そんな
だがしかし、掠った指が
『そんなお姉ちゃんを、ママは「マリアさま」って言ったの』
即座に指を千切り捨てた。投げ捨てた指が弾けるが、それ以上は被害が広がらない。光のスラスターを噴射し、相手から一旦距離を取る。
「金属を培養するバクテリアの類……
『
「条件は『自分の手で対象を傷つける』こと? ならば距離を取り、階層移動さえ警戒していれば問題は――」
『
「――――」
明確にこちらへと向けた言葉。独り言を並べ立てていた再街右弥から初めて投げかけられたそれに、アンセスタの思考が停止する。
『この階層で『自分』を殺さなければ問題無いと思った? この階層で『自分』を殺しても、下の階層にさえ行かなければ問題無いと思った? あはッ、ハハッ、あはははは! 迷宮の外――
「待っ」
瞬間。周囲全ての病室から鳴り響く、ナースコールの群れ。
けたたましい音の中。黒い靄が虚空から集合し、凝縮して形を成していく。
『〝みゃあ。ドゥアスに任せてください。弊機だって
『〝
『〝
『〝条件は満たしています。黄金歴程を渡してください。……どうして? トレーズィの意思はただの振る舞いでしかありませんか? わたしは、あなたのようになれませんか?〟』
無数の
彼女が殺した彼女の半身達が、真っ黒になって溢れ出す。
「う、あ――」
『
少女が歌う。死者を糧に生き残った者への歌を。
『
英雄機体量産実験の失敗作達が、黒い槍を持って
走っていた。自分の体を抱えながら。
もう一人の『俺』の脇腹から広がっていく出血。それと同期するように、俺の脇腹から広がっていく黒の侵食。痛みは無いが、黒が広がる度に俺の中で限りない焦燥感が溢れ出してくる。
逃げた先、「手術中」のランプが赤く灯る部屋の前に突き当たった。
振り返る。まだ再街は追ってきていない。距離が取れたことを確認し、『俺』の体を地面に下ろした。
先ほど拾った薬品を『取り出し』、傷口を抑え、止血しながら『俺』の口へ含ませる。だが――
「なん、だッ、これ……!」
包帯程度じゃ意味が無い。応急処置キットを『取り出し』、糸と針で傷口を縫い付ける。
自分で自分を縫うという異常な状況に、脳が混乱を来たし始める。だが、止まるわけにはいかない。このままでは『俺』が、俺が死んでしま――
「あ、あぁッ、あああああああ!?!?」
爆ぜそうなほどに心臓が早鐘を打つ。だが、何かおかしい。あまりにも異常な挙動。これほどの焦りを感じるのだって不自然だ。何か、精神的に
「――百四、百三、百二、百一」
コツ、コツ、コツ、と秒を読みながら近づいてくる足音。
白衣姿の再街が、急かすように俺の元へと歩み寄ってくる。
「待て……」
「百、九十九、九十八、九十七――」
「待てェッ!」
彼女を倒せば解決する。それに一縷の望みをかけて、全力で再街の元へと疾駆する。
走り寄ってくる俺を見ても、再街は歩みを止めない。ただ、
「『
爪が、凄まじい勢いで、伸びた。
十数メートルも伸長する爪の槍。驚愕に硬直しそうになりつつも、咄嗟に防弾盾を『取り出し』防御する。しかし。
「ご、ッ――!」
防弾盾ごと体が後方へと吹き飛ばされた。そのまま、倒れていた『俺』さえまとめて、背後の手術室へとドアを破って押し込まれる。
「九十六、九十五、九十四――」
「がはッ、ごふ……! テメェ、再ま、ち――」
立ち上がろうとして光の無い『俺』と目があった――瞳孔の開いた、死人の瞳と。
吐きかけの、怒声が止まる。
「……う、あ、ああ……!」
「九十三、九十二、九十一、九十」
もう再街には構っていられなかった。息せき切って、押し込まれた手術室の中を見渡す。何体かの
『ニタク、ナイィ』
だがそれは、俺より早く伸びてきた、一体の
「やめろッ、返ッ、返、し――」
取り返そうとした、手が止まった。
『ニタク、ナイ……
誰とも知らぬ男性の、死体があった――
頭から倒れたのか、頭蓋骨が割れて首の骨が折れている。薬を飲ませたって治るわけがない。
だがその
『シニタクナイ、シニタクナイ、シニタクナイ』『イキタイ、イキタイ、イキタイ』『イヤ、イヤ、イヤ、イヤ――』
心臓マッサージで延々と自身の胸骨を折り続ける看護師。
逆にグチャグチャになるぐらい傷口を縫い合わせる患者。
何百枚のカルテと大量の医学書の中でもがき続ける医者。
「――罪は、償われなければならない」
再街左希が、手術室へと足を踏み入れる。
「
焦点の合っていなかった目が、俺の顔を静かに見据える。
「あの男……アインソフ以外の誰も、この冥界からは逃れなかった。私だって、そう。私はまだ、本当の意味で右弥を生き返らせていない……」
「再街、おま、え……」
違う。その言葉で理解した――
自殺産道。償い。生き返らせる。脱出出来たのはアインソフのみ。
脳裏を巡るキーワード。あくまで予想であり仮説。だが、恐らくは
「……ハァ、ハァッ……!」
なのに、考えただけで息が上がる。出来るのか、
無理だ。出来ていいわけが無い。やっていいわけがない。保証など何も無い。『確信』など何も無い。こんな手段、それこそアインソフでなければ取れるはずも――
「誰も、命を奪うことに覚悟なんて持っていない」
「――あ?」
思考が、凍った。
「君だって、そうでしょう? こんなものに向き合う覚悟なんて無い。あったはずが無いん――」
「
そして俺は、『取り出し』たナイフを
「…………え?」
「
激痛に喘ぎながら刃を埋める。黒く侵食された脇腹に。俺が『俺』を傷つけたのと同じ箇所に。
激痛に眩む意識。焼き切れそうな脳神経。腹の奥から喉元へ、一気にせり上がってくる鉄臭い味――だがしかし。
「ガ、ハァッ……! ――
「な、何を……」
「殺した相手を蘇らせるのが償いだァ!? 違ェだろうがボケ! この基底迷宮のルールがテメェの無意識で設定されてるなら、お前だって本当は分かってるはずだろうが!!!」
見せつけるようにナイフを引き抜き、血に塗れたそれを再街に向けて突きつける。
そうだ。そこに転がっている『俺』に何をしたところで俺が助かるわけがなかった。何故なら――
「
『俺』の側に何をしても治らなかったのも恐らくそういうことだ――生き返らせる・蘇らせると言いつつ、
ならば、再街が本当の意味で信じる『償い』とは何か。
覚悟が必要なこと、向き合いたくないこと、そして不死身の人間には平気で出来てしまうこと――考えれば、自ずと答えは出る。
傷口から止めどなく溢れる血。『取り出し』た薬をブッかけて包帯で縛り上げるが、いくら万能薬でもこんな雑な処置で治るわけはない。
だが、痛みは引いた。出血もほんの僅かに減った。あるいはプラシーボ効果かもしれないが、もはや何だろうと構わない。
「ここからだ……」
「ま……待って、待っ、」
「
十を超える
『思ったより耐えるんだね。「黄金歴程に相応しくなかった故の死」を「黄金歴程に相応しい者」に与えても殺せないのは当然かもしれないけど』
「っ……!」
アンセスタの元にまた一体。同じ形の少女の
かつての彼女がそうしたように、真っ黒な少女から手渡される黒い槍。回避しようとするが、両者の機体性能は同等だ。よりダメージを受けているアンセスタが追いつかれ、黒い槍を体に押し付けられる。
「待っ――
発生する精神へのダメージ。そして、それに耐えきれなかったことで発生する物理ダメージが、黄金の光となってアンセスタの体を内側から焼いた。
単純な外傷ならば、彼女の素材である重元素バイオマテリアル専用に開発された治癒促進ナノマシンで即時に修復することが出来る。
しかし、これは内部からのダメージだ。装甲ではなく、内側の精密部品への損傷。そう簡単に回復することは出来ない。
とはいえ、以前までならこんなことはなかった。ノギスによってインストールされた人格調整ソフトが、アンセスタの精神をどんな苦難にも耐え忍ぶ英雄のそれへと変えていた。
今は違う。村雨空間の
実験機たちのことを思い出すまでは、そのことを素直に喜んでいた。もう、自己の犠牲を至誠とするような思想を植え付けられることはないのだと。
だが、今は、もう――
『あなたもお姉ちゃんも本当にばかなんだから。認めればいいのに。「こんなモノが私と同じなはずがない」って。そうするだけでこの迷宮からは逃れられるのに』
吐き捨てるような言葉。それを聞いた瞬間、アンセスタの瞳に力が戻る。
「違う……違いますっ、この子達は、みんな弊機のッ、」
『何で? この槍は「英雄に相応しい心」を持っていれば使えるんでしょう? じゃあこの子たちはあなたと違って心の無いただの人形なんじゃないの?』
再街右弥が、そばに控えさせていた
直後、彼女の体はバラバラになって吹き飛び、しかし残った足首から瞬時に再生する。
『わたしと同じでね。わたしには分かるの――心があるのはあなただけだよ。他の子はみんな、心がある、心があるって主張するだけのロボット。だからさ、やめよう? そんな物が壊れたからって、あなたが責任を感じる、必要、は、無い、の』
言いながら、
そして、ギザギザになった五本の爪先を、全てアンセスタの方へと向けた。
『「
五爪の槍が爆発的に伸長し、アンセスタを貫かんと迫る。
咄嗟に回避するが、しかしそれで追い詰められる。
逃げ場がなくなった。否、最初から彼女の安全圏を削るための攻撃だったと一拍遅れて理解した。
アンセスタの元へ五体の
回避は不可能だ。そして彼女でも、五撃を同時に喰らえば即死のダメージは免れない。
『さあ、どうする? ――それでも、「それでも」って言い続ける?』
残された応手は迎撃のみだ。
だが、出来ない。
『〝
――繋がったままの携帯端末の先から響く声。
『〝
「う、ゔ、ゔゔゔァアアア゛ア゛ア゛ッ!!」
衝撃。黄金の光。薙ぎ払われる五体の
しかし、それを自ずから焼き切る。
あえて常人より高い感度で設定された痛覚に走る灼熱の苦しみ。それに焼き尽くされるかのように、黒が虚空に溶けて消えていく。
あまりの激痛に、アンセスタの顔から完全に表情が消え去る――表情を制御する余裕がなくなった。高速治癒によって過熱された機体が、激しい発汗と
『……チッ。あのお兄さん――』
「これで――これで良いんでしょうッ!?
光の剣を持って、全身を自傷した探索兵器が突貫する。
『あぁ……本当、わかんない……』
その姿に、少女はため息をつきながら顔を強く歪めていた。
『……なんで、あなた達が苦しまなきゃいけないの?』
まずい、死ぬ。
「――『
「ぐわああああああああああ!!!」
再街がコンクリート壁にメスで刻んだ切り傷。
そこから槍のように飛び出したコンクリートの柱が、俺の全身を打ち据えていた。
「こ、これで――」
「な・に・が・こ・れ・でだァアアア! こんッな程度のかったるい攻撃でこの俺を一歩でも退かせられると思ったか間抜けがァ!!」
今の攻撃で、出血が更に酷くなった。心だけは折れまいと叫びを上げて突進するが、現実問題として俺は瀕死だ。いや、もはやその境を半分通り越している。
何せ、あと一撃もらえば死ぬ、と確信してから既に三撃は喰らっている。自分でも驚愕だが、どうも人間は俺が思うより遥かに頑丈な生き物だったらしい。
しかし、流石にこれ以上は無い。自身を
再街が見当外れな方向にメスを投擲する。そしてその直後に、
「な、」
「『自分が傷つけた物を再生する能力』――ただし『過剰に』って但し書きはつくようだが、な――!」
「ぅ、うう、ァああっ!」
次いで投擲された四本のメスを、飛来中にタオルで絡めとって『収納』した。そもそも何も傷つけさせなければ発動もしない。
「だって……だって、ちがう、違うのッ、だってパパが、パパが
更にガラスの薬瓶が俺の足元に投げつけられ、割れたそれがまるでトラバサミのように修復・再生し、一つに戻ろうとする。だが、百グラム以下の攻撃など『収納』すれば完全に無効だ。警戒にも値しない。
「私のせいじゃ、ちが、ごめんなさ、でも、何で!? 何で私ばっかり、右弥のために、右弥のためにって――!」
「お前のご家庭事情なんざ知るかよゴチャゴチャうッるせェなァアアアアアアアアアアアアア!!
腹部から血を撒き散らしながら、背から圧縮空気を噴いてただひたすらに疾駆する。間合を詰める。
何せ、口でこそああ言ったが銃を使えば殺しかねない。俺の白亜がどこまで経験を『なかったこと』に出来るのか知らないが、いくらなんでも即死は無理だ。その確信がある。
兎にも角にも再街に一撃ぶちかまし、生命質量を削って
〝あなたは、
ろくな練習時間も無いぶっつけ本番の応用技だったが仕方ない。
俺は先端にフックを括りつけたロープを手首から『取り出し』、階段に逃げ込もうとする再街に向けて放る。
「――っ!」
回避されるが、同時にロープの先端から圧縮空気を『取り出し』た。
空気噴射の反作用で、追いすがるように伸びるロープ。それでもって再街の足を絡めとろうと試みる。が、流石に精度と練度が足りない。二、三歩の足止めにこそ成功するものの、メスによる切断で抜けられる。
「クソっ――ぁ!?」
悪態をつき、ロープを仕舞った瞬間だった。
今しがた俺が仕舞ったロープではなく、再街の側で切断されたロープ。それが、彼女の修復能力によって元に戻ろうと、俺に、俺のロープに向かって高速で飛んで来ていた――重量3kgは下らない点滴スタンドを結び付けられた状態で。
「ォ、オオオオッ!!」
姿勢を低くして、仕舞ったロープを頭上に投げ捨てた。俺の頭頂ギリギリを掠め、凄まじい勢いで点滴スタンドが背後へ飛んでいく――マズいッ、コイツ戦いのセンスがある!
点滴スタンドが壁の電気設備か何かに当たり、病院内の照明が落ちた。暗闇の中、真っ二つに折れたスタンドがくるくると宙を舞っている。
事ここに至っては武器選択の時間さえ惜しい。回転して飛ぶスタンドの一方を掴み、床に落ちたもう一方を空気噴射を併用し全力で蹴り飛ばす。
蹴りつけた一撃が逃げる背中にブチ当たり、吹き飛ぶように廊下を転がった。
今なら、トドメを刺せる。
折れた点滴スタンドを掴み、倒れた再街へと躍りかかり――違う。
「しまっ、」
「――『
俺が視線を外した一瞬で
それと共に、俺の足元――正確には、足元のリノリウムに刻まれていた傷が、
足場の変化で崩れたバランス。
咄嗟に再街の白衣を掴むがダメだ。もつれ込むように階段へと倒れ込む。
転がり落ちていく自分たちを、空気噴射とクッションの『取り出し』で防御した。
「っゔ……!」
「チ、ィ――!」
バラけるように階下へ落下。再街の呻きと俺の舌打ち。
だが、マズい。何がマズいかって、下の階層に来てしまったのが何よりマズいッ!
周囲を見渡す。再街は階段からの落下で足を挫き、動けそうにない。
だが、そのそばに立つ『俺』が、俺に向けて半分に折れた点滴スタンドを蹴り飛ばしている。
圧縮空気の噴射で自分を吹き飛ばして回避するものの、その反動で体が限界を迎えかけた。もはや一分の猶予もない。
廊下の彼方へ飛んでいく一撃。幸い、今の点滴スタンドはかなり遠くに飛んでいった。
『俺』が点滴スタンドを振りかぶる。磁力で吸い寄せられるが如く半分に折れた凶器が振り下ろされる中、俺はロープを『取り出し』て自分を拘束し――
「――――」
――ようとした思考を即座に切り替え、代わりにバールを『取り出す』。
そして、
……性格が悪い! 『どうせ同じことをする』と思ったところに別の
そして、今の対処の間に間合を詰められた。
迎撃は間に合わない。歪な形に再生した点滴スタンドが迫りくる。防御のために、ポリカーボネートの防弾盾を『取り出し』た。アンセスタから借りた義手の腕力を頼りに、
「ごぶ……ッ!」
防御越しで響く衝撃に吐血する。
いい加減に出血性ショックを起こしていないと不自然だったが、まだダメだ。まだ、倒れるわけにはいかない。
再街は足を挫いている。彼我の距離は数歩と無い。ここ、さえ、踏ん張れば……ッ!
「……もう、少しだ……」
「ぅ……」
視界がグラつく中、鍔迫り合いから三秒経過。
必要な時間を満たした相手の点滴スタンドを防弾盾越しに『収納』。武器を失ってフラつく『俺』の足を払い、『スネイクチェイサー』で縛り上げる。
同時に俺の全身で
それ以上は広がらない。自殺産道は、『ダメージ』にしか効果を発揮しない!
「もう少しで、テメェを、ブチのめす――!」
「ぅ、あ、あああアアアアア――!」
そして、
まるで夜が溢れるように。
再街の叫びと共に、廊下を満たす無数の
〝あなたは、
そして俺は、
「ぁ、」
「――ぶっ飛べェッ!!」
統制を失った群れの中をすり抜け、再街に右拳をぶち込むのに、そう時間はかからなかった。
室久と違い、再街に自分の肉体を強化する類の変化は無い。戦闘義手の膂力に物を言わせ、容赦無用の全霊でその胴体を殴り飛ばす。
壁に叩きつけられる再街の体。勢いよく減少する
今、この瞬間しか無い。俺は右の義手を引き剥がし、その断端から白亜の腕を表出させる。
「『ホワイトッ、オー、ダー』ァアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛――――――!!」
勝った。『確信』する。ここから先に、ヤツの逆転はあり得ない。
このままホワイトオーダーをぶち込めば終わる。ニ歩だ。ニ歩の距離を詰めて殴ればそれで全て済、
「――ッか」
視界が真っ白に弾け飛んだ。
崩れ落ちる。身体が動かない。感覚が無い。左腕が別の生き物みたいにビクビク痙攣する。皮膚が真っ白に青褪めていた。滝のように流れる汗が異様に冷たい。骨が氷になったようだ。立ち上がろうともがく度、ビチャビチャと鳴る血溜まりの音。
限界が来た。この肉体は、どう足掻いたところでこれ以上稼働しない。精神論の領域は既に超えた。人体はこの出血量で動けるようには出来ていない。
「ふ……ッざ、けんなボケがァッ……!」
それすら知ったことか。イメージはホバークラフト。圧縮空気を断続的に『取り出し』、地面に吹きつける形で動かない体を起き上がらせる。
再街がフラつきながら立ち上がるのも同時だった。今にも泣き出しそうな目で俺を見、目を逸らし、俺から離れようと、廊下の壁に張り付くようにして再街が足取り鈍く逃げ出していく。
「待、て――逃げんな、再、街……! 何でもかんでも目ェ逸らして、逃げられるとでも思ってんのかテメェ……!」
「違う、違う……! 私のせいじゃない、私のせいじゃないっ……! 償うために生きたくないッ、犠牲にしたくてしたんじゃない、ないのに……!」
「ああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛黙ッとけよ鼓膜が腐るんだよボケがァアアア!!! 何があったか知らねえがなッ、生きてりゃ誰でも何かしら犠牲にするモンだろうがァ!! 一人だけグチグチ言うな甘ったれてんじゃねえ犠牲になった相手に恥ずかしいとは思わねえのかクソ野郎ォオオオオオオッ!!!」
身体が動かない以上、もう口を動かすしかない。いや、それ以前に叫び散らしていなければ勢いと共に死にそうだった。
俺の叫びに刺殺されたみたいに再街が震えて倒れかける。言葉だけで半ば殺せていた。しかし、これ以上の手段は無い。逃げられる。
「ハァ、ハァ……ッ……う、ゔ、ゔゔゔゔゔ…………!!!」
息を切らしながら、這うように歩く再街。
暴走、あるいはその予兆なのか。彼女の足元のリノリウム床材が
「……ッ!」
ここまで、やったってのに……!
歯噛みする。痙攣する手で床を叩いた。――瞬間。
「〝最終形態:
光槍が炸裂した。
あまりの明度に黄金を超えた白光。一瞬の輝きの後、幾枚ものコンクリートをまとめてブチ抜く大穴が廊下の壁に穿たれていた。
『――っ、ぁ……、本当に、もう……』
壁に突き刺さる槍。再街に
毎秒ごとに黒い靄を噴いて再生する少女を、槍は断続的に威力を発揮し続けて逃さない。圧倒的な攻撃力で以て、不死身を完全に拘束している。
コツリ。トンネルのような大穴の奥から、響いてくる鉄踵の足音。
「アン、セ――……、」
呼びかける声が止まる。
酷い、有り様だった。
焦げ付いた両腕。全身のヒビ。割れた顔面。剥がれ落ちた黒い
彼女にも痛覚はある――あるはずなのに。
俺より深刻な状態の彼女はしかし、無表情に二人の敵を睥睨している。
縫い留められた少女が苦しげに指を鳴らす。
再街の周囲に溢れた
「〝第二、支持〟」
五指から金色に噴射される、爪のようなギザギザとした光。
あえて効率的とは言えない形状で以て、アンセスタは『自分』を壊し切らない程度に破壊する――そして、そのまま返す刀で自傷。行動不能にならないよう、己の骨を残して肉を刻む。
「――――」
やっていることは俺と同じだ。その痛々しさに対して、俺に何かを言う権利など無い。
だけど――
『うみゃあ、
「ごめんなさい」
『トゥリンタが証明してみせます。今までの二十九機全て、この時のためにあったのです。あなたは素晴らしい物を生み出したのだと示して――』
「……ごめんなさい。償い続けます。永遠に」
懺悔と共に、黒い人型が砕かれていく。壊されていく。殺されていく。
『自分』をぐちゃぐちゃにしながら、アンセスタは最後の一体を引き裂く。血混じりの金光を噴いて肉薄する。再街の首根を掴む。もう自分でも自分が何をしているのか分からないような、その表情に語りかける。
「逃げることなど出来ないのです、再街左希」
「ぅ、あ」
「
アンセスタの視線がこちらを向いて、俺に止めを促した。
「――終わらせてください、クウ、
二人まとめてブチ抜く白亜の右手。
驚愕の表情を晒す彼女らに、血を吐きながら俺は言う。
「やり直しだ……」
「なッ、ば……?!」
「――
白い火花を迸らせながら腕を引き抜く。不定形の白亜は二人を傷つけず、しかし昏迷させて地に倒す。
「なに、を、考、意味、無」
「うるせえ知らねえやかましいッ!! さっきからグチグチと辛気臭えんだよボケ共が! 意味の在る無しなんざ知るかよ俺がルールだ! 俺が納得するまでは終わらせねえッ!」
勝機と正気を放棄し叫ぶ。
例え最後には再街からまた全ての記憶を奪うだけだとしても、構わない。
「ここからだ!
「クウ、マ――」
案じる声を振り払い、白亜を通じて流れ込んできた情報を噛み砕く。
残り余命三十秒。
風前の命火を燃やしながら、俺はただ、無意味に覚悟を証明するだけの戦いを開始した。
ヒチ(@hichipedia)さんからアンセスタのファンアートを頂きました! スタイリッシュせくしークールカワイイ! 「うみゃあ」ってツラじゃねえ。
【挿絵表示】
そしてなんと同じくヒチさんからファンアートがもう一枚!
【挿絵表示】
うーんこれはうみゃあってツラ。
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第15層「あなたは血を流しすぎて死んだ。」
白亜回廊へと流れ込んでくる彼女達の記憶・経験・感情。
自分が二人の何も知っていなかったことを痛感する。その悲哀、その慟哭、その献身。
それら全てをしかと理解し、噛み砕き――その上で俺は言う。
「――
眉間にシワが寄るのが分かった。額に青筋の浮かぶ感触がした。ギリ、という音で、自身が歯を食い縛っていることに気がついた。
「何でだ……?」
「あ、う、ぇ……?」
ただ許せないという思考だけが、生命力に代わってこの肉体を駆動させる。
「何でだ? 何で、こんなに! 死んだ奴のことを想って、苦悩して、罪を感じてッ! そんな風に思える心も意思も――
「ク、ウマ――?」
だから、何より許せないのはそれだった。
二人がこんなに苦悩するのは死者を慮れるからだ。道徳というものに真面目に向き合っているからだ。責任感があるからだ。何もかも無視してそんなのは自分のせいじゃないと言ってしまえば全て解決するのに、そう出来ないぐらいの優しさがあるからだ――何でそんなに優しい人間が、こんなに嘆いて苦しまなきゃいけない?
白亜に貫かれ、昏倒した二人がふらつきながら目を覚ます。
俺が殺した数分を彼女らを覚えていない。彼女らの認識には、ただ死の間際に荒れ狂う俺の姿だけがある。
「む、村雨くん……何、なんで、何が――」
「いいかよく聞け再街ィ!
「な――」
血を吐いて叫ぶ。時間は無い。無いからこそ、それをはっきりさせておかなくてはならない。
白亜から流れ込んで来た情報を踏まえて、俺は再街に血濡れの指を突き付ける。
「その上で言うぞ!
「まっ……待って、待って! 急に、そんな――!」
「黙れェ! テメェの言い分聞く気も時間もねえんだよこっちは! 何度でも言うぞ、
霞み眩む視界に、彼女らの狼狽する顔が映る。
二人とも混乱して状況なんて掴めていなかった。アンセスタはどうしていいか分からずに義手を虚空に彷徨わせ、再街は訳も分からず泣きそうになっている。
「無意味だ! こんな迷宮、何の意味もねえッ! ここにどれだけ人間を囚えて、逃げられないようにしたところでッ、お前の心なんざ誰にも理解されねえよ! ああ当然、俺だってそうだ! ヒトの気持ちなんて分かるわけねえだろ! テメェらのことだって知るか馬鹿が!」
視界の端に映る
【ステータス】
村雨空間 Lv8 HP1/69kg
【ステータス】
村雨空間 Lv8 HP0.7/69kg
【ステータス】
村雨空間 Lv8 HP0.4/69kg――
そんな数値の減少に正直何も感じない。本当のところ、俺が死ぬのも生きるのもどうでもいい。実際大して変わりの無いことだ。――だが、こいつらのしみったれた絶望だけは見過ごせない。
「……っ、ぅ……!」
涙の落ちる音。虫の息で吐いた言葉に、再街は追い詰められていた――そんな程度の奴だ。コイツは。
再街左希も、そしてアンセスタも。そんな程度の言葉で動揺する、普通の女の子だ。
だから、絶対に――こんなワケの分からない力を持って、こんなワケの分からない場所に、こんなワケの分からない理由で閉じ籠らされて良いわけがない――!
「何、なの……?! 知らっ、知らないなら、そんな勝手なこと言わないでよ! 私の、私たちのこと、何一つも分からないのなら――、ッ!?」
一歩、大きく、踏み出した。
だがそれ以上は進めなかった。あるいは倒れ込んだというのが近いかもしれなかった。だが倒れきる前にリノリウムに強く、大きな音で靴底を叩きつけて食いしばった。
……ああ、確かに分からない。こんなどうしようもない境遇に、共感なんて出来はしない。彼女が本当に分かって欲しいその痛みを、同じように感じることも出来はしない。
「
至近。
「お前が何を言っても、」
白亜の右腕を前に伸ばす。
「お前の何を知っても、」
届かない――
「お前の何も分からなくても――お前の全てを助けてやる。
限界まで手を伸ばす。届かない。
「……なん、で」
「何でだァアア゛ア゛?! 中学校からの知り合いだろうが! 今まで二回同じクラスになったことがあっただろ?! そんなことすら関係なしに、お前が目の前で辛そうにしてるってだけじゃダメなのか?! そんな理由で命を賭けるのはバカバカしいか!? ンなワケがねえだろうがただの思いやりが理由の全部で何が悪い! そうだよなアンセスタァッ!」
「え、あ、そ、その、」
手を、伸ばす。届かない――再街が、手を伸ばさない限りは。
「信じろ! 理屈も無く命を賭ける俺を信じろ! 意味も無く他人を助けようとする他人を信じろ! 理由無く助けが与えられるこの現実を信じろッ! そして理解しろ――こんな
「け、けど――!」
「罰を受けたいならこんな場所でなくたって良い! 償いたいなら一つの方法に囚われるな! お前はいつか許される――自分を許せるようになる! お前はそんな人間だ! そうなって良いだけの心がある人間だ! 俺に分かるのはそれだけだ!」
白亜が霞んでいく。視界の端に浮かぶ
【ステータス】
村雨空間 Lv8 HP0.1/69kg
これ以上は、保たない。力も、命も。
「手を、伸ばせ、再、街……! この白亜に触れればッ、全て忘れる! 力も無くなる! ここで話したことを何もかも忘れて! それでも、俺が! 全て忘れたとしても、何の保証もなく、俺たちがッ! 助けに来ることを信じて、手を――!」
そして。
震えながら。
再街の手が――
「――ふむ」
防犯カメラのモニター越しに、男は見ていた。
壁に背を預け、簡素な丸椅子に王者の如く腰かける。
隣で床に転がっているのは、『自分』を治療し続ける
右腕が六本、左腕が三本、右足が四本、左足が二本。右でも左でもない手足が一本ずつに、腕とも足ともつかない四肢が二本。
『ナオサナキャ、ナオサナキャ、ナオ、ナオサ、ナ』
右の肩口には本来あるべき腕が無い。そこに必死に腕を生やそうともがいているのだろう。だが、生えてくるのは頭や胴。この自殺産道にある限り、蘇生・治療行為は絶対に成功しない。
いや、それを言うならそもそも死体自体、治療しようが放置しようが何の意味も無いのだ。
「まあ、そうはいかんから厄介なわけだが」
男――アインソフが、大量に四肢を生やした死体から腕を無造作に一本千切り、スポーツ観戦をしながらフライドポテトをつまむかのように、
この自殺産道自体は
つまりは呪いの藁人形だ。対象の顔写真、対象の髪の毛。そう言った縁の物を傷つけることによって対象に同じダメージを与える儀式。
本来ならば格上の相手には通らない代物だが、ことこの迷宮に限っては
相手の力を使っている以上、相手がどれだけ強かろうが、最強であろうが、
アインソフでさえこれと同じ性質を持つ迷宮など覚えが無かった。強いて似たモノを挙げるなら、かつて都市伝説として流行した『一人かくれんぼ』などこれに近いか。
あれの本質は自分で自分を対象とする
条件が複雑故に嵌らない相手にはいくらか下準備が必要になるが、嵌る相手には即座に仕掛けることが出来る。自分の場合は、先日喰らって肉体を奪った通りすがりの男性を『自分殺し』と定義して呪をかけられたか。
やはり、近年の迷宮は興味深い――そんな、新しく発売されたトレーディングカードの効果を確認する程度の感慨で人間一人を破滅的に歪めておきながら、不死者は静かに笑みを見せる。
「だがまあ、大して使えんな、これは。刺さる相手が少ない割に状況を整えてやるのも面倒だ」
「今はお前だ。もう誤魔化しも要らん。
躊躇などするはずもなく。
解き放たれる不可視の波動。
積み木細工を倒すように、不死者は少女を暴走させた。
【ステータス】
村雨空間 Lv8 HP0/69kg
前触れ無く噴き出したリノリウムの槍が俺を貫き、
「――あ?」
芯を打つ衝撃が、世界に無音をもたらした。
最後の命が漏れ出していく。
心臓が身勝手に鼓動をやめる。
全身の血液が死に絶えて、認識の全てが白に染まる。
この体の中に在る
血液が脳を巡ることを止めていく。だが、反して思考は明瞭だった。
走馬灯、なんてものじゃない。そんなものが見える地点はもうとっくに通り過ぎている。
だからこれは、単純に――俺が脳ではない部分で思考を始めてしまったというだけの話。
切り離されていく肉体との接続。剥がれていく内宇宙に対し、熱を失いきっていない頭が必死に抵抗を表明する。
熱い。まだ熱い。まだこの命は諦めていない。まだ死なない。死んだ程度で死ぬはずがない。死んだ程度で諦めるほど、この村雨空間が諦めの良い人間であるはずがない。
だから。
なのに。
俺が最後に思うのは――
「……あぁ――」
――
脳を冷やす、凍った思考。
だって、そもそも、本当は――
本気で言えた自信が無かった。
本気で言った自信が無かった。
なのに一体どうして、そんな言葉が誰かに届く――
地面に叩きつけられると同時、ぜんまい仕掛けの終わりみたいに全身が停止を迎え入れる。
村雨空間、死亡。
何が起きたのか分からなかった。
貫き飛ばされていくその姿を、受け止めることも出来なかった。
アンセスタの背後を通り過ぎて、少年が墜落する。
一拍遅れて振り返る。
その身体が起き上がることは、無い。
「……!」
即座に眼球が機械音を立て、少年を解析する――
呼吸無し。心拍無し。脳波無し。
完全に、死んでいる。
「クウマ――、ッ!」
駆け寄ろうとした瞬間、再街左希から伸びてきたリノリウムの棘を黄金光で焼き払う。
「止まっ、てください、再街左希ッ! もう、何の意味も――!」
「なんで……」
「それは、こっちの――!」
「
「な、」
生々しい有機音が炸裂した。
「っぎ、あッ、ぁあああ゛あ゛あ゛ッ!?」
再街左希の苦鳴と共にその両腕から噴き出す無数の膿。
赤黒い腫瘍から誕生する胎児のような形の
「第三、照準!」
光砲が敵性の全てを薙ぐ。
飛来する攻撃の全てを撃ち落とし、攻撃の源である彼女を抑えようと走り寄る。
しかし。
「待っ」
《その混乱を殺戮に》
再街左希が戸惑いの目でアンセスタへと向き直った瞬間、
彼女の爪が自動的に罅割れ、アンセスタに向けて何百にも枝分かれした槍として伸長する。
ノーモーションでの攻撃がアンセスタの虚を突いた。暗い色の血液が脇腹から噴き出し、非人間的な苦痛の
「
「ち……違っ、違う! だって、何も――!」
《その否認を殺戮に》
ここまでの戦いで散らばり、破壊された院内備品。その全てがグロテスクに膨張し、耐えきれずに爆ぜた。混合して迫り来る無数の薬品群及びガラス片。
光の盾でそれらを弾きながら、しかしアンセスタは解析し、確信する。
「……まさか、最初から彼女の認識を――!」
《当然の拒絶を。僅かな隔絶を。微量の恐怖を。些細な猜疑を。さらに追加して、救難、混乱、否認、哀願、悲痛、苦鳴、懇願、絶望――全てを殺戮に置換する。だからまあ、
膿が爆ぜる。腫瘍が裂ける。
再街左希の意思を基点に、再街左希の思考とは無関係に迷宮が攻撃で埋め尽くされる。
上昇していく脅威に応じ、アンセスタの視界で青白い
〝『再街左希』はより強くなった〟
〝『再街左希』は成長した〟
〝『再街左希』は――〟
そしてその度に強化される自殺産道の原初と根幹。
可能性の根たる少女の『罪悪感』を糧に、更に更に更に。
まるで針葉樹の如く、全身へ肉の槍を生やしていく彼女の姿――
「こ、のッ、アインソフ・ヨルムンガンド――!」
暴走する彼女を前に、アンセスタはここにいない邪悪に向けて声を上げる。
だが、そんな叫びなど何の意味も持たない。目の前にある再街左希がただ腫瘍の塊へと堕ちていく。
もはや手遅れだ。因果を逆行し全てを『なかったこと』に出来る
「
背から噴射される黄金光。ダメージ覚悟で肉の地獄を突破しながら、最速で再街左希へと突き進む。
そんな理屈にこれ以上屈する義理は無い。
そんな理由でさっぱりと再街左希を介錯してしまえるなら、最初からこんな迷宮になど囚われてはいない。
縄状へと変形する黄金の形。
蛇のように放たれた光のロープが、彼女を絡め取らんと宙を舞う。――しかし。
『「
幼い少女から飛び出した爪槍が、その拘束を引き裂いた。
身体に風穴を空けながら、少女は傷口に黒を集めて再生する。
だが、そうやって再起する様はどこか惰性だ。意力も気力も何も無く、義務感を思わせる態度で小さな人影がアンセスタへと襲いかかる。
「再街、
『あなたの方こそわかってないよ。わたしが何なのかもう忘れたの? ただの迷宮のアーティファクトに姉だの妹だの言ってもしょうがないでしょ』
即座に光縄で四肢を絡め取る。だが、その瞬間に少女は自身の手足を強引に引き千切り、死角へと。
瞬きの内に再生しながらアンセスタへと五指の爪槍を振り下ろす。
『結局のところお姉ちゃんを助けるのだって、あのお兄さんがお姉ちゃんを助けようとしたのに助けられなくて死んじゃったからってだけなんでしょう? 態度だけ奮起したみたいなポーズ取ってもさ、責任感や罪悪感から逃れられないままじゃ自殺産道は攻略でき――』
全てを無視した光撃が、少女を遥か彼方に吹き飛ばした。
死角からの振り下ろしを見もせずに片手で迎撃しながら、アンセスタは鬱陶しげに言う。
「――空間の話を聞いていなかったのですか、貴方は。今そういう話はしていません。ぐだぐだぐだぐだとやかましい。それはそれ、これはこれでしょう。単純に人が苦しんでるから助けるのです。邪魔をしないでください」
そうしている間にも、再街左希の暴走は加速する。アンセスタが全力で黄金歴程を振るえばまとめて焼き尽くすことは容易だが、それでは再街左希も死んでしまう。しかし、手加減した威力では膨張する攻撃群を突き破れない。
暴走を止める手立ては、ある。
拒絶、隔絶、恐怖、猜疑。分析する限り、アインソフが施している精神干渉は全て再街左希自身の悪感情を基点としている。僅かにでも攻撃性のある感情を『種』にして、それを実際に攻撃として発展するレベルに肥大化させているのだ。
ならば、攻撃性のある感情を一度全て払拭してしまえば――
「ッ、」
思考を遮るように、再生した再街右弥が躍りかかった。その小さな体から放たれた凶悪な攻撃を受け止める。
「だから、このままではあなたの姉が――」
『知らない! わたしはアーティファクトだって言ったでしょう!? 攻撃しろって指示が出てるんだから攻撃するの! それ以外の何でも無い!』
爪の刃、リノリウムの槍、医療器具の檻。数々の攻撃を繰り出しながら、アンセスタに向けて少女は叫ぶ。
『助ける助けるって、口だけで! あなたたちは具体的なことなんて何も言ってない! そんな強引な開き直りで、納得なんて出来るわけない!』
「別にあなた達の納得なんて求めてません。そもそも、こんな
『だからって、何も言ってくれないの!? 責任の取り方は自分で考えろって!?
「…………」
アンセスタが、口を閉じた。
戦いが静止する。今もなお事態は動き続けている中で、その一瞬だけが凪いでいた。
『違うって言ってよ……! そうじゃないって、証明してよ! なんでそこだけ、寄り添ってもくれないの!?
「――――」
血を吐くような、懇願だった。
既に両者ともに武装は解除している。叫びを上げる少女に対し、アンセスタが一歩、歩み寄った。
『それだけで良い……! その言葉さえ心に届けば、お姉ちゃんは救われるのに! なのに、な
「じゃあもう自分で言いなさい」
叩き込まれたのは拳であった。
一切の容赦無く顔面。肘からスラスターを噴いて加速した手加減無しの全力全開。
幼児の鼻骨など余裕でへし折れる一撃が、再街右弥を四回転させて宙に舞わせた。
「いい加減にしないと殴りますよ。さっきから聞いていれば勝手なことをごちゃごちゃと。あなたのお姉さんでしょう」
『……っだから! わたしはただのアーティファクトだって言った! 本当の妹でもなければ人間でもない! わたしがそう思ってたから何!? そういう風にできてるだけの物がそう思っただけのことに何の意味がある!?』
「
それは彼女の怒りに呼応した物か。悲しみに呼応したものか。あるいは、もっと、別の感情か。
「本物でなかろうが本気でなかろうが本心でなかろうが知ったことではありません。あなたがどう思おうがどう思っていようがどうとも思っていなかろうが関係さえありません。例えあなたの言葉に何の思いも宿っていなくても、それでも――
『――――』
心がある、とはそういうことだ。
頑張っているように見えれば応援したくなる。
苦しんでいるように聞こえれば慰めたくなる。
生きているように感じれば大切にしたくなる。
人間である限り、人心ある限り、このアナロジーからは逃れることはできない。
「ただの腫瘍に過ぎないから? ただの機械に過ぎないから? 本当は生きてなどいなかったから? ……そんな『事実』で納得出来るなら、
そして――
「言いなさい、再街右弥。あるいはその残滓、その可能性、そのまがい物とさえ言えないのかもしれないアーティファクト。再街左希の願望の収束でしかないのかもしれないあなた。そんなあなたの言葉でさえ、この再街左希には――わたしたちには、届く。……届いてしまう」
『っ……!』
動揺、あるいは混乱。
生命か否かも判然としない少女が揺らぐ。
『……わたしのことを、何もかも忘れ去って欲しいなんて言えない』
しかし、そこに真実が無いなどと、誰にも思えないような狼狽で。
『でも! だからって!
叫びが、迷宮に響き渡る。
『ただ、どうしようもなく始まることの出来なかった家族が居て! そのことが、後ろを向かない理由になってくれればそれで良かった!! 人生を投げ捨てずにいられるような、些細な重りでいられればそれで良かった!! こんな風に、人生の何もかもを押し潰してしまうほどの荷物になんて――わたしはなりたくなんかない!!』
それで、止まった。
きっと信じきれてはいない。迷いだってあるだろう。だけどそれでも、と思う感情が、彼女の中から消えてなくなるはずは無い。
だが、確かに。再街左希の暴走が、その一瞬、確かに――停止した。
「第三、照準ッ!」
撃ち抜く。
膨れ上がった攻撃群を、黄金の光が貫き壊す。再街左希本体に傷一つ与えず、害なる全てを切除する。
道は出来た。
拘束が間に合うかは五分。拘束が成功するかは一分。拘束した後、無力化し続けることが出来るかは完全に不明だ。
だとしても、と。
躊躇い失敗率を振り払う。もはや一片の迷いなく駆け出そうとして――
「――――」
――足が、止まる。
信じられないものを見た。
だが、どこかで、信じていたものを見た。
「……
村雨空間が、立っていた。
あり得ない。
あり得るはずがない。
こうしている今ですら生きているはずがない。生命質量はゼロを計測したままだ。死んでいない時点で異常。動いて、言葉を発しているだけで超常過ぎる。
だが立っている。「まだだ」と。屈服という回路が、最初から存在しないかのように。
「お前が何をしようが……お前に何をされようが……」
理屈に合わない。もはや何も流れ出ないはずの傷口から、血のように噴き出す白亜の閃光。あれは何だ。
理屈が分からない。今にも崩れ落ちるその体を支えるように、背後に佇む、
「お前が!
爆発的な白光。
視界全てを染め上げる漂白の一撃が、今度こそあらゆる悪性を消し飛ばす。
残る因果など何も無い。
白亜の吹き荒れた後には、全てを戻された少女だけが、意識を失い倒れていた。
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第16層「ディアボロス」
「つまらんなあ。一人ぐらい死ねよ」
病院の屋上で、何もかもを台無しにする声があった。
一部始終を見終わったアインソフが、つまらなさげに迷宮内の様子を映すモニターを地面に向けて投げ捨てる。
もはや再街左希は迷宮主ではない。主を失った自殺産道もまた、その構造を崩れさせつつある。
あの手のアーティファクトは迷宮主の想念によって存在を依拠する所が大きい。迷宮主が居なくなった現状では、あと数分もすれば迷宮とともに消失するだろう。
そして、そうやって基底迷宮が崩壊したところで内部の人間が生き埋めになるわけでもない。
そもそもの話、迷宮自体が未来に存在する特異点だ。この時代に『伸びてきた』領域を壊したところで、それは歪んだ現実が元の形へ戻るだけに過ぎない。古く脆い建造物なら消失時の空間歪曲によって崩れもするが、定期的に管理されている公立病院ではそれもないだろう。
囚われた病院関係者達にしても、自殺産道の性質上、物理的・肉体的なダメージはほぼゼロだ。放っておけば数日後にでもノギス工業が記憶処理を図るはずだ。
探索兵器に白亜回廊、再街左希もまた健在。
再街左希は全ての変化を二週間前まで巻き戻されてしまっているし、探索兵器の方も損傷こそあるが未だ戦闘は可能範囲。
唯一白亜回廊だけは相当に深刻なダメージを受けているが――まあ、死ぬことは無いだろう。そもそも死ぬはずがない。自殺産道で確保したアイテムがあれば全治可能な損傷だ。
故にすなわち、このままいけばハッピーエンド。
自殺産道編、堂々完結。
「良いだろうとも賞賛しよう。自責に迷い苛まされ、強迫に囚われた隣人をよくぞ救った素晴らしい――
甲高く指を鳴らす音。
その瞬間に、アインソフの背後にあった六つの異常が顕在した。
それは少年であり、少女だった。
アインソフ・ヨルムンガンドから『経験値』を与えられた六名。
二週間前の火事に巻き込まれた生徒たち残り全員。
その全員が、今、まさに――
「はァ、が、あっ、ぐ、ぅ、ぅ――」
まず最初に、小柄で、大人しそうな男子生徒が膝をついた。
傷を負っているわけではない。苦痛を与えられたわけではない。ダメージと呼べるようなものは何一つ受けていない。
だが、何故か――
排出されている唾液の量は既に十リットルを超えていた。常人ならば脱水症状で死にかねない量。だが、分泌が止まらない。息ができない。――そして。
そして、何より問題なのは――
「食べたいか?」
まるで友人とフライドポテトを分け合うかのように、アインソフから差し伸べられた――
「ならば喰らえよ。お前が人間であるための境界を」
それがどうしても――
歯がおかしくなる。牙になる。口がおかしくなる。
「あ、ぁ――ぁぁああああああああああああ――」
「食べたくない」と――その言葉が出ない。そう言おうとする口がもうおかしい。舌が。歯が。喉が。頭が、壊れて、しまって、いる――だから。
「から、し、」
「うん?」
だから――その思考は
「――からしとわさびは入っていませんか」
「、クハッ」
耐えきれず、男が笑いを漏らす。
「ククッ、ハハッ、ハハハハハ! ああそうか辛いのが苦手かよ少年! ああ安心しろよ採れたばかりの完全無添加だ、好きなだけ食、」
「
瞬間、アインソフの右腕は一瞬の内に食い尽くされた。
「――は?」
「
口一つつけずに、アインソフの全身が食い荒らされる。
気づいた時には、もう――大地は一面の牙だった。
それは咀嚼の迷宮。
大地を食卓へと変える無限の牙。広がり続ける谷の口腔。
出席番号二十三番――『
「――暑い」
ふらり、と酩酊した様子で呟く女子生徒。
それに対して、咀嚼の主は呟いた。
「ねえ……ポカリスエットとアクエリアスは……どっちが好きですか……」
「暑い」
「でも、さぁ……あんなのどっちも水と砂糖と塩じゃないですか……」
「暑い」
「だから、さぁ……どっちか片方だけ選んでんじゃねえぞこの差別主義者がァアアアアアアアア!!!!」
「
そして、全ての牙が蒸発した。
溶けていく。溶けていく。溶けていく。全てが溶ける。食い荒らされたアインソフごとまとめて、何もかもが融解する。
それは太陽。ひまわり畑。それは夏。ミンミンゼミ。それは熱。青く爽やかな灼熱死。
それは青空の迷宮。
蒼天下の全てを焼殺する熱射領域。ある夏の日の絶滅者。
出席番号十九番――『
「死にたい」
生命の存在など許されない熱量の中、汗一つかかずにショートカットの少女が言った。
「死にたい。死にたい死にたい死にたい。死にたい死にたいああ死にたいって言ってるのに何で死ねないの死ねない死ねない死ねない!!!」
何度も自分の手首にカッターナイフを振りかざしながら――自分の手首に掠りもしないカッターナイフを振り回しながら、周囲の虚空を刻んで叫ぶ。
「みんな死んでるのに! みんな死んでるのに私だけ! ああずるいずるいずるいなんでなんでなんで! なんで死にそうになってるの何死にそうになってるの死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな! ズルいんだよズルいって言ってるんだよ
そして、裂けた――食い荒らされ、焼け焦げ倒れていたアインソフの体が。
彼女の体を避け続けた代わりのように、その全身が裂ける。裂け続ける。
それは凶運の迷宮。
破滅的生存を保証するマイナスの加護。最悪災厄のサバイバー。
出席番号五番――『
「 」
そんな彼女に、とん、と。
穏やかな青年が静かに優しく肩を触れた。
「……殺せよ」
「 」
「
「 」
爆音。
いいや、爆轟。入り乱れているとはいえ、ここが疑似迷宮の内部でなければ病院の屋上など丸々吹き飛んでいただろう。瞬きの間もない刹那の内に、その衝撃波は大気を駆け、転がっていたアインソフを吹き飛ばし大地を舐める。
「」
それは認識の迷宮。
意味消失を引き起こすマイナスの音色。クオリア殺しの共感覚。
出席番号二十七番――『
これら全て、寸分の狂いなく地獄。
そして『それほど』でありながら、『これほど』の地獄でありながら――未だ負傷者ゼロという事実。
これだけの乱雑な攻撃解放の中で、誰も彼もが無傷。無敵。恐らくは再街左希と同等か、あるいは上回る迷宮主。これらにはもう、秩序も理論も常識も認識も策謀も無謀も分別も判断も思考も演算もありはしない。
故に、もし。
これらが、何らかの間違いで統制だった動きをすることがあるとするならば――
「■」
声、ではなかった。鳴き声でもない。呼びかけというには獣的で。唸りというには意味に満ち。咆哮というには些細で。叫びというには王者に過ぎる。
「■■■■■ォオオオォオオオオオオァアアアアアアアア!!!」
巨躯――3.5メートル近い筋肉質。
硬度等を除けば、蚩尤・祇園室久をも上回る暴力の化身。
それは人狼の迷宮。
月光に魂を焼かれ尽くした獣人。十六人全員の中で最強の身体性能。
出席番号一番――『
迷宮が
超常が
地獄が――
轟、と唸りを上げて災厄が一点に収束・激突する。
万喰の牙が。死蒼の熱が。凶つの星が。滅びの音が。魔獣の爪が。
ぶつかり合いは、比類無く世界を引き裂く威力だった。一つ一つが絶死絶命。二週間前の主犯である副担任程度なら、ダース単位で殺せるレベルの破壊――
「良いぞ少年少女。体感できたし実感できた。この第四超越が保証する――お前達は最高だ」
――
片手一つ。あるいは指五つ。攻撃一つにつき指一つ。もう片方の手はポケットに突っ込んだまま。ダムの決壊に匹敵する超威力の獣爪をたったそれだけで。形無き熱量や音波さえ最低限で。全てを喰らう・全てを避けるという異常法則にさえ、不死者は既に『殺されない』。
「そうだな、辛い物が嫌いではないお前。お前が先頭で行くと良い。えっと、名前はなんと言ったか――」
「さ、」
「いや、覚える気も無いのに聞くのも良くないな」
興味なさげに。石を蹴るように。虫を潰すように人を壊すように神を躙るように――褒め称えた五人全員を、アインソフは暴走させる。
「ごっ、」「、っぎ」「が」「 あ」「ァ■■アアア?!?!?!」
「良し」
聞き飽きるぐらい聞き慣れた音楽みたいにその絶叫は聞き流された。
不死者は屋上のフェンスに飛び乗り、にぃと笑みを浮かべ下界を見下ろす。
「さあどうする。
静かに構えられるフィンガースナップ。
響き渡る指の音が、全員に破滅を促して――
「――――」
一秒経過。
「――――」
五秒経過。
「…………」
三十秒経過。
「…………フッ」
一分、経過――
「そういえば一人、忘れていたな。覚えよう――名乗って良いぞ」
「村雲
全滅していた。
『
「只の、高校生だ」
優しげな声色。中肉中背。着崩さない学ラン。無個性過ぎて中性的。何処にでもいそうな平均値。
そんなたった一人に。
そんなたった一人の、酷く平凡な少年に――
――全滅、させられていた。
「ふ、フフ、クク……!」
そして何より。何より驚くべきは、その全滅にして殲滅が――
正確な所要時間は果たしてどれだけだ。一分? いや三十秒? あるいは五秒? ――全て否。恐らくは一秒もかかっていない。
哄笑を漏らしながら、アインソフは豹のように軽くフェンスから屋上に飛び降り、
「良いぞ、面白い……! 貴様は我が側近とし――
それはまるで高度一千メートルの彼方から墜落したかのような位置エネルギー。
下半身が丸々潰れ、大腿骨が腹部を貫く。内臓が二つほど破裂して、花火のように血華が散る。
「随分とまあご挨拶だな少年。なるほど、重力操作か? 確かに中々の出力だ」
何事もなかったかのように立ち上がっていた。事実、何事でも無くなっていた。全ての負傷はコンマ一秒後には完全に治癒し尽くされていた。
効かない。そう効かないのだ。こんなもの、この不死者にとってはそれこそ挨拶でしかない。
仮に効いたとしてすぐに耐性がつく。それは切断・高熱・劇毒といった物理現象に留まらず、
「それほどの
少年に向けて、いっそ優しげに不死不滅の不条理が歩み寄る。
「だが許そう。いいや、故にこそ許そう。そうすべきだろう? 赤子を恨む大人が、この世の何処に居、」
「
音も無く。
アインソフの両腕が、たった零秒で切断された。
速い。速すぎる。明らかに異様なスピード。重力操作などでは決してない。この少年、村雲零時が有する超常は別にある――
あらゆる者を絶望させうる超速を、アインソフは鼻で笑う。
この不死に、この不条理に、この第四超越に。そんな
「ハ。ま、駄々を止ませるのも大人の仕事か」
切断された腕を掲げた。再生する。瞬きの内に切断された腕はそこに在った。
「……あ?」
切断された腕を掲げた。再生する。瞬きの内に切断された腕はそこに在っ――そして何も起こらない。
「おい、待て……」
切断された腕を掲げた。再生する。瞬きの――
「なん……」
切断された腕を掲げた。再生す――
理解が出来ない。認識ができない。
これを何と形容する。否、この宇宙の言語でこの現象を言い表すことなど不可能だ。再生しようとする度に『取り消される』ような、この名状し難い感覚は――まさか。
「ば、馬鹿な……!
「黙れ」
音も無く。
零秒で全身が切断される。瞬断される。処断される。
「だが、なァ――!」
切断された腕に意思を込め、少年に向けて掌をかざす。
そして、
あらかじめ植え込んでおいた暴走の火種が、不可視の波動と共に少年の内部で覚醒し――
「ッな、にィイイイイイ!?!?! 少年、貴様、一体どうやって――!!」
「気合だ」
音も無く。
零秒で全身が粉砕される。破砕される。撃砕される――
例えこの場では勝てずとも、この程度でアインソフ・ヨルムンガンドは滅びない。
どれだけ全身を砕かれたところで、所詮はただの物理攻撃。
再街左希のような例外な挙動を起こす異彩の異能が無い限り、アインソフを真に撃滅さしめることなど決して不可能――!
「忘れたようだからもう一度だけ言ってやる――
軽い動作で、少年の左手が向けられる。
それは黒だった。
白亜と対極を成す黒源。縄のように文様のように黒々しいそれが左手を覆う。纏わりつく。
何を言われずとも知覚出来る。あの左手のある場所には『何も無い』。
その左手こそは絶対善。そこに触れる
「……ッッ!?!?」
不味い。アレだけは不味い。アレは
「呉れて遣る。
「――きっ、基底現実・伐界開始――!」
「遅い」
それは既に開いていた。ただ、今の今まで認識が追いつかなかっただけ。
不死者は見た。その黒を。地に。壁に。雲に。月に。星に。
世界全てに走る、回路のようなその黒縄を――
「む、村雲零時ィ! 貴様の、その迷宮の銘を――!」
「良い名前だ、賜わろう。――それだけを遺して、死ね」
故に、その名を唱える意味はもはや無い。しかし、その処断の完遂を宣するために、少年は己の迷宮の名を開帳した。
「迷宮、開廷――
アインソフ・ヨルムンガンド、完殺。
死因:不明な手段による全細胞の完全消滅。
それは極黒の迷宮。
この世の全てを善へと導く完結宇宙。■■■■の■■■。
出席番号三十一番――『
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第17層「*ぐだぐだ?*」
目覚める時はいつも、ここがどこで、自分が誰なのか。
少しばかり、分からなくなる――
――という設定なわけだが。
最近のところはその辺明瞭だ。
白黒はっきりと付いてきている。
ただ、それが白なのか黒なのか。
勝ちなのか負けなのか、正なのか負なのか、生なのか死なのか――
…………。
いや。
あるいは逆に中間なのか。
灰色であり不戦であり零であり――不生。
もしくは、不死。
《呼んだか?》
呼んでねえよ。誰だよ。
《おいおい。随分と欠陥だな白亜回廊。私の顔を忘れてどうする、ラスボスだぞ?》
ラスボスだぞ、じゃねえよ。
何で居んだよ。
というか居るなよ。
こっちは生死の境で真剣にポエム詠んでんだよ。
あと俺の中じゃ出てきてすぐにブッ飛ばされたチョイ役だからなお前。
《ま、私も君と似たようなものだ。つまりは生死の境というわけだな》
ドヤ顔で何言ってんだ。こっちの知らないとこで死にかけてんじゃねえよラスボス。
《安心しろ、三日後には復活する。私の疑似迷宮はそうだな、分かりやすく言うなら死後発動型だからな――死後発動、という言い方は不死身の自負をいささか身削ぐが、実際にして
そう言ってアインソフは肩をすくめる。
いや、実際肩をすくめたのかどうかは見えてないし分からないのだが。
そもそも何故俺の思考にこのクソボケが介入してきているのかも分からないわけだが。
《はん。嘘臭いな。まあ本当に分からないなら適当に地獄で会ったとでも思っておけよ。天国と言った方があるいは近しいかもしれんがな》
ペラペラうるせえなあこのジジイ。
というか何だ? アンセスタから聞いた、『黄金歴程は史上唯一純粋な物理攻撃だけでアインソフ・ヨルムンガンドを殺しうる』って話は嘘なのか。
完全消滅しても死なないなんてそんなの、物理攻撃じゃもう殺しようが無いだろう。
《嘘ではないな。私が最初に喰らった黄金歴程の最終形態にして最大解放は、迷宮そのものを物理破壊出来る。蚩尤の迷宮でも、『槍』は迷宮を外郭ごとブチ抜いていただろう? アレ自体、尋常の手段では不可能な所業だ。故に、私が疑似迷宮を死後発動したとしても瞬時にそれごと砕かれる。迷宮もまた、迷宮主の一部だからな》
へえ。
じゃあその、お前を殺した真の黒幕だか何だか知らないが、そいつは黄金歴程ほどの攻撃力は持っていないのか。
《黒幕は私だと最初に言ったろうに。ヤツもまた、自殺産道と同じだよ。ただの被害者にして被術者。村雨空間の同級生であり――私が作り出した、新たな刺客だ》
自分で作った刺客に自分で殺されてんのかよお前。馬鹿かよ。死ねよ。金輪際二度と黒幕ぶるんじゃねえよ。
《ふん、何とでも言え。だがこれだけは忘れるな白亜回廊。全てを万全に揃えたとしても、そこに完全だけは無い。最強の戦力と最高の戦略と最上の戦術と最良の戦況と最大の戦気を以てしても敗北する時は敗北する――
いや負けてるじゃん。
《それに、どうであろうとお前たちは挑まざるを得ないのだからな。
馬鹿言ってんじゃねえよ馬鹿が。大人しく死んだふりしときゃ良いのにノコノコと顔出してきやがって。その王道だか何だかと組んで真っ先にテメエ殺すに決まってんだろボケ。
《それは無理だな。お前たちは絶対にアレと相容れない。いいや、本当の意味で相容れる者など本質的に存在しえないのだよ。あの迷宮主に限ってはな》
……何?
と、俺は疑念を発した。
それの何が面白かったのか、アインソフは小さな笑みを漏らしながら、長広舌を語りだす。
《そうだな。では一つ問おう、白亜回廊。お前は――『自分が本の中の登場人物である』という、そういう意識を持ったことはあるか? ――いや無いな。無さそうだな。そういうセンシティブな人間らしい感情は確実に無いなお前》
マジで黙れ。
《世界の全てが本だとするなら、王道無道はその読み手だ。ヤツはこの世界という物語を好きなだけ読み進めることが出来るし、読み終わることが出来る――そしてその結末を、恐らくは全てが全て、
意味分かんねーよ具体的に言えよ。解説が曖昧過ぎるし寓意過ぎるし哲学過ぎるだろうが。衒学気取んな口下手が。
《私も詳細は知らん。本質は掴んだがな。あと言っておくがわざわざ言う義理も無いからなお前。黒幕が次なる刺客の解説してどうするよ》
テメーが正論言うなよ。殺すぞ。
だが実際問題、詳細にベラベラ解説されたところでそれはそれで逆に怪しい。仮にそれで本当のことを言っていたって信用するはずがない。なら、まあ、この戯言を適当に聞き流しておいた方がまだマシだ。
一つの諦めとともに俺は返答する。
返答を思考する。
――というか、聞く限りには良いことづくめじゃないか、それは。
誰も彼もを幸せにする力。全てをハッピーエンドへと導く力。そんな物が、そんな者が誰とも相容れないなんて、それこそ受け容れがたい話じゃないのか。
《ハッ、そうか? 本当にそうか? ならばお前――『こうしてみんなが幸せになりました。めでたしめでたし。おしまい』、と――
……それは。
思考が止まる。いや、止めざるを得ない。
論理的に考えれば、そこには何の『悪』も無い。
だがしかし、それを肯定できてしまえば、それを肯定できてしまうような
《そう。たった今思い浮かんだそれこそが、王道無道が本質的に相容れず、受け容れられない理由そのものだ》
不死者は語る。
終わり無き者は語る。
《よく言うだろう? 『例え夢を叶えてもそこでゴールじゃない、そこから先も人生は続くのだから』、と。全くもってその通り――
アインソフがどういう表情で、どういう感情でそれを話しているのかは分からない。
俺に伝わってくるのは、あくまでヤツの思考のみだ。
《最初はある程度で満足するだろう。
悪い人を改心させました。めでたしめでたし。おしまい。
困ってる女の子を助けました。めでたしめでたし。おしまい。
貧乏人のおじいさんを裕福にしました。めでたしめでたし。おしまい。
――
悪人はまたいつか、死ぬまでに悪事を働くかもしれない。
困ってる女の子はまたいつか、死ぬまでに困難を見舞うかもしれない。
貧乏人のおじいさんはまたいつか、死ぬまでに財を失ってしまうのかもしれない。
だからこそ、故に必ず、何処かの時点でアレは絶対に死神になる。
悪人は死ぬ。
困っている女の子は死ぬ。
貧乏人のおじいさんは死ぬ。
一瞬で、幸せに、死ぬ。
たった今生まれた赤子は次の瞬間には百年生きて人生に満足した老人の遺体になるだろうし、そんなことになっては子を産んだ両親が不幸になるから彼らごとまとめて死なせてやる。
そんなことになっては今度はその両親を大切に想う人々が不幸になるから――と、そういう要領でアレは全て殺す。死なせる。終わらせる》
気がつけば、呑まれていた。
毒のような蛇のような侵すような絡め取るようなその語り口に、呑まれていた――否、呑まれかけていた。
まだ、圧倒されてはいない。
俺は気を取り直す。自らの思考を取り戻す。
――それが、お前の言うことが真実だって保証がどこにある。
《無い。だが分かるとも。会えば分かる。全てが嘘だったなら先ほど言っていた通り、王道無道と結託して私を殺しに来るが良いさ》
相手の気配が霞んでいく。その存在が離れていく。
生死の境が終わる最後に、琥珀色の中で
《だが、全てが真実だったならば――
勝つだけなら終わらぬ私にも出来る。殺すだけなら全ての始まりである
しかし、真の意味でアレに対抗し、対応し、対処できるのはお前のみだ、白亜回廊。
何故ならば――お、前――こそ――は――――》
――――――――――。
――そこで、目が覚めた。
……夢見が悪過ぎる。
まあ忘れていいだろう。多分本当のことも言っているのだろうが欺瞞もほざいているのだろうし、だったら完全に忘れた方が無意味になって有意義だ。
そのまま起き上がろうとしたが、一切動くこともせずに身動きを止めた。全身が激烈に痛んだからだ。
視線だけで周囲を見渡す。
どうやらまだ、病院に居るらしい――いや病院、なのか? 病院だが何か違う。病室ではない。掃除は行き届いていないし、洗面台もついていないのに簡素な流し台やレンジはある。まるで宿直室だ。
が、それにしては今寝ているのは病室用ベットのようだし、一部の内装なども病室のそれだった。しかし、部屋の隅はまるで手術室で、医療器具ならぬ治療器具が目につくところに晒されている。
何というか
反対側はどうなっているのかと、痛む体に鞭打って寝返りを試みる。
「うみゃ」
と。
それより早く、銀髪少女の蒼眼が、俺を覗き込んでいた。
近い。寄ってくる気配は感じなかった。なんか知らんが、俺が目覚める前からその距離に居たらしい。
遅れて、彼女の背後に再街左希が回り込む。
特に混乱しているというわけではなさそうだが、おどおどとしていて所在無さげ。
それでも――まあ、普通だ。
今の再街は、どこにでもいる女子高生だ。
底知れない不気味さも、天井知らずの不安定も、もはや残滓さえ残ってはいない。
否、
だが、もうあんな風には成らない――成らせない。
何を言うか悩んだが、それでもひとまずアンセスタに声をかけた。
「……おはよう」
「……
「…………」
「…………」
ぐい、とアンセスタが再街の襟元を引っ張って俺の前に出した。
「え、あ、あの……? え? わ、私が説明するの……??」
再街の背中に隠れるように引っ込むアンセスタ。
振りほどくように再街が極めて些細な抵抗を行うが、流石に腕力が違う。文字通りの豪腕だ。
「……よう。二週間ぶり」
「う、うん……あ、で、でも、無理に喋らなくて大丈夫だから、大丈夫です、その、話すだけでも苦しいと思うし……」
「……あー」
確かに、まあ、苦しくて当然だろう。肺を動かすだけでも傷が痛むし、あれだけ失血したのだから呼吸だって苦しくなるに決まってる。
だが、そう言われて黙るというのもどこか今更だ。
「で、どこまで聞いた?」
「え、えっと、なんかクラスのみんながおかしくなって、
「おおむね正しい」
「その、む、村雨君の怪我も、わた、私が……ごめ、」
「あ? 二週間ぶりっつったろうがボケ。人の話を微塵も聞かねえゴミが。テメーの耳は鼓膜の代わりにシャボン膜でも張ってんのか」
「そこまで言われる……?」
「俺がブッ飛ばしたのはお前によく似た別人だよ。俺がお前らに平服されたりチヤホヤされるためにバトルしてるとでも思ったか。分かったらもう二度と謝るなクソが――っと」
そうして血圧を上げた瞬間、目眩がした。
特になにということも無いが、再街がこちらに近寄ろうとする。しかしその際に俺の視界の外にあった何かに彼女の手がぶつかり、棚から落ちかけたそれを再街が慌てて受け止める。
落ちかけた物。
赤い華――彼岸花だ。
「ご、ごめんなさい、病室に置く花じゃないよね……あの、でもこれ、最初から置いてあって……」
「……彼岸花の花言葉ってなんだっけ?」
「え? ええと……ネガティブな感じのやつだったと思うけど……」
再街が携帯を取り出し、検索する。
「『悲しき思い出』『諦め』……あ、でも、『独立』とか、ポジティブな意味もあるみたいだけど……」
「じゃあそれ、お前用の奴だな。後で持って帰れよ」
「? う、うん……」
しかし、そうなると。
「この部屋、
「……
アンセスタが、再街の背中からひょいと出てきて解説する。
「病院関係者がここに入ってきたりは――?」
「
「何でも出来るな、お前の迷宮……」
「こちらはただの技術で、心理科学です。ミスディレクションと認知バイアスの複合とでも思ってくれれば」
そう言って、再度、再街の背中へと引っ込む彼女。……さっきからどうした一体。
ともあれ、ひとまずの拠点としては申し分なさそうだ。
「でも、なんで再街まで連れてきたんだ? 話は終わったんだからもう帰らせ……いや」
あんな状態の母親が居る家に、そのまま送り出すのも酷、か。
「それもありますが――単純にクウマを治療するために人手が必要でした。あんな致命傷――というか致死傷を治すためには自殺産道の超科学ならぬ超医学が必要でしたが、それに一般の医療関係者を関わらせるわけにもいきませんでしたので」
「へえ、冷静だな。俺が瀕死の時もちゃんとその辺考えて動いてたわけだ」
「というのは建前で、猫の手も借りたい時になんか近くに居たので手伝わせました」
「えっ」
転する言葉にキョドる再街。そして、別に皮肉のつもりはなかったのだが、慌てたようにうな、と猫の手を作るアンセスタ。後ろめたい時に取るポーズが独特過ぎる。
「というかそもそも、クウマはあの時点で死んでいたはずなのですが」
「死んでたなあ」
「HP0になっていたはずなのですが」
「なってたなあ」
「謎の人型ヴィジョンも出ていたはずなのですが」
「そうなのか。そんな感じになってたのは知らんかった」
「白亜回廊に何かそういう能力が?」
「いや、別に。不死身ってわけでもないんだし、死ぬ時は死ぬし、負ける時は負ける。だがある奴に言わせれば、そういう理屈に屈さぬ限りは決して負けることはないのだと」
「なんですかそのIQ低い言い分は。小学生通り越して幼稚園児の理屈じゃないですか」
言いも言ったり言われたりな言い分だった。もっと言ってやれ。
「その話は置いといて、ひとまず現状を確認させてくれ――あれから何時間経った?」
「二十九時間三十二分と十八秒です。昨日の朝に意識を失って、今日の昼ですね」
「マジかよ。完全に丸一日以上寝てるじゃん。道理で腹減ってるわけだ」
「点滴は打っているので栄養的には問題ありませんが」
「え、えっと……良かったら何か作るよ……? まだ病み上がりっていうか立ち上がりって状態だから軽い物になるけど、」
「良かったら何か作りましょうか? まだ病み上がりというか立ち上がりという具合なので軽い食事になりますが」
「いや、あの。え、なんで復唱したの?」
「こちらの許可もなくクウマに心配りをしないでください。あなたとのギャップで弊機が自分本位な性格だと勘違いされるでしょう」
「いや勘違いじゃないよ! 自分本位だよ!」
「それで、クウマは何が食べたいですか?」
「カレー」
「軽い物って言ったじゃん! 重いよ! ガッツリだよ! 臓器にも傷あるのに!」
「がっくり来たか? ガッツリだけに」
「な……何も上手くないよ! がっくりって言うかがっかりだよ!」
「でも男子高校生はみんなカレーが大好きなんじゃあないのか?」
「私に尋ねられても困るよ……! この状態でカレーを食べようとするのは病み上がりでも立ち上がりでもなく思い上がりだよ……!」
「上手いこと言うなあ。こりゃ確かに思い上がりだ、全く商売上がったりだぜ」
「だから何も上手くないよ! というか今、小声で『一丁上がり』って呟いたよね?!」
とまあ、そんな感じで盛り上がりを興しつつ。
「この人、通常時の方が面白いですね、クウマ」
「ああ」
アンセスタに頷き、「私が面白いんじゃなくて君たちが面白がってるんだよ……!」という再街の言葉を聞き流す。
「迷宮主はその人間が持つ可能性を極めた存在、なんて言われたけど……結局、方向性を一極化させてるだけだろ。臆病さも優しさも面白さも全部削って芯だけ残して――そんなの、つまらなくなって当たり前だ」
――しかし、それはそれとして二十九時間か。
「もともと一週間しか時間無いのに、一日潰したってのは……痛いな。二日かけて元に戻せたのが再街一人ってんじゃあ――」
「
そう言って語られたアンセスタの報告に、俺は目を見開く。
「……屋上に転がってた? 迷宮主になった奴らが、五人も?」
「
「そうか。じゃあ、そいつらも
そして俺は――ベッドから立ち上がる。
「……え?」
「どうした再街」
「いや、その……た、立てるの?」
「立ち上がりの状態って言ったのお前だろ」
置かれていた制服を手に取り、シャツの上からばさりと羽織った。
「顔、洗ってくる。ちょっと待っててくれ」
廊下で待とうと室外に出たアンセスタに、再街左希は慌てて追いすがる。
「ちょ……ちょっと待って、アンセスタさん……!」
「? どうしました?」
その様子に、アンセスタは首を傾げる。何を焦っているのか、よく分からなかった。
「なんで……なんで村雨君、アレで立てるの……? それも、あんな状態で、平気な顔で――」
「
「
真剣な声音で言う再街に、アンセスタの動きが一瞬止まる。
「
「それは――」
そんなこと、アンセスタには思いも至らなかった――思い至るはずもなかった。
だって、
「迷宮主は、一つの可能性を極めて、方向性を一極化した存在って言ってたけど……」
「……
「
「――――」
不可解なコンティニューには、理由がある。
ぐだぐだとした日常のベールで覆い隠し切れない違和が、少しずつ膨張を始めていた。
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第18層「*ぐだぐだ!*」
「それはそれとしてカレーを作ります」
「い、いや既に多いよ! 材料が! 今フライパン一個しか無いのに!」
「野菜を切ります」
「だから多いって! もう確実にフライパンからはみ出るよこれ!」
「煮込めば減ります」
「無理だよ! もうかき混ぜられない! 中身が!」
「……肉を、投入します」
「どうして……どうしてそこでその判断に到れるの!?」
「水を入れ――溢れました」
「でしょうよ!」
「レシピとは違いますが今回はこちらを入れます」
「どう、して……ッ! どうしてこの状況でアドリブを利かせようと思えるの……ッ!?」
「栄養がありそうな砂肝を買ってきました。焼肉用の味付け済です」
「カレーに砂肝……ま、まあ、悪くはないけど……」
「ぽいっと」
「あの、今のなんか生っぽくなかった?」
「…………」
「…………」
「……砂肝って焼かなきゃいけないタイプの食材なのです?」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!! 離して! 離せ! この縄解いてお願いだからッ!」
「だめです。このカレーは弊機がひとりでつくるのです。再街さんはすぐ手出しをするのでいけません」
「事態はもはやそんな感傷じゃどうにもならないところまで来ているのッ! こんなものを重傷人に食べさせたら何が起こるか分からないッ!!」
「待ってください、取り出しました。今から改めて過熱すれば間に合う可能性があります」
「いや、フライパン一個しかないのにどうやっ、」
「何分ぐらいチンすれば良いんでしょうね」
「な――ま、待っ、砂肝は卵と同じで表面に膜があるからレンジに入れたら――!」
*チュドーン!* 砂肝は爆発した。
「…………」
「…………」
「もう一回チンしてみますか」
「何故!?」
*チュドーン!* 砂肝は爆発した。
「――再現性、アリ」
「再現性有りじゃないよッ! 絶対確認する必要なかったよ今の!!」
「一度爆発しただけでは砂肝以外の物が爆発した可能性があります」
「その場合レンジか皿が爆発してるんだからどちらにせよ爆発するよ!」
*チュドーン!* 砂肝は爆発し、
「なんでもう一回やった!? なんでもう一回やった!?!?」
「このままやっていけば火が通るかな、と」
「食べ物で遊ぶなぁ! 命を――命を何だと思ってるの!? 死んでいるなら、生きていないなら何をしても良いとでも!?
「……罪は必ず、償います。ですが、それは今・ここでではありません」
「ここだよ!」
「無事、ルーを投入する段階に至りました。次に移りましょう」
「何をもって無事と判断したの?!」
「買ってきたはずのルーがありません」
「ここまで来て砂肝と野菜と豚肉を水で煮た物が生まれようとしているッ!」
「バーモンドの空箱だけです。弊機の認識では確実に『在った』のですが。何らかの迷宮による攻撃を受けています」
「まず探そうよ! どっかに落ちてるよそれは!」
「あっ、有りましたバーモン――こくまろ!」
「何故!!」
「しかしこれにてようやくカレーの完成です」
「……砂肝は!?」
「あ」
「忘れるなあ! 三度もッ、三回も爆発させておいてッ! あの子が一体何をしたって言うの?!」
「そういえばこの部屋、炊飯器が無いのでそもそもご飯が炊けま――」
「完成したものがこちらになります」
普通の病院食だった。
アンセスタの前には、改めて買ってきたのだろうレトルトごはん。
彼女が自分で作った砂肝カレー(四人前)を一人で*もぐもぐ*と食べ尽くすのを見ながら(鶏肉の生食はカンピロバクターによる食中毒を起こす可能性があります。探索兵器以外は絶対に真似しないでください)、俺は普通で無難な病院食を口に運ぶ。
「で、これ結局再街が作ったのか?」
「
「作れるのか……」
「レシピ通りに作ればレシピ通りに出来ます。アドリブを利かせなければどうということはありません」
じゃあレシピ通りに作れよ。可哀想なことになってるだろ砂肝と再街が。
「……だって、手作り感が欲しかったのです。クウマの食べるカレーなので」
「……うん?」
「みゃあ」
ぽす、と。傷を気遣ったのか、撫でるようなパンチが胸の辺りにぶつかった。
食事を終えて、惨状の如く荒れ果てたシンク周りの片付けもどうにか終了。
包帯の取り替えなども終わった頃、時刻は既に午後四時を回っていた。
「それで、あの五人に関してですが」
「ああ――もう完全に元に戻ったよ。五人まとめて一度にブチ抜いたから、ホワイトオーダーも一回しか使ってない」
「
「あの五人以外――最後の一人に関して、か」
一旦数え直そう。
まず、あの時火事に遭ったのがクラスの約半分、十六名。
先程まで転がっていたのが、佐田国・近澤・尾根田・西奥・以西の五人。
三日前に副担任が引き連れていたのが、火神・鉄鳥・黒雁・心沢の四人。
一昨日に病院で元に戻したのが、入院していた寒登・早町・新谷の三人。
再街。
室久。
俺。
で、十五名。
故に、残る一人こそが――最後の一人。
十六人目。
出席番号三十一番――村雲
「村雲か……」
今となってはもはや俺の記憶など何のあてにもならないが――それでも、村雲零時のことは覚えている。
覚えていることを、確信出来る。
それだけのインパクトが、アイツには有る。
「それほど――ですか」
「ああ。見た目はそれこそどこにでもいる普通の高校生って感じだけど、アレほど没個性って言葉から縁遠いキャラクター性もない。割と派手なバックボーンがあるくせにモブ度が高過ぎて教室じゃ完全に埋もれてた再街とは全く違う。そもそも裏設定に通じるプロフィールが地味過ぎるんだよな。なんだよサメが好きで弁当をたまに二個持ってくるって。母親の胎内で共食いする種類のサメがいるとか知ってる奴いねえんだよ普通。もっと派手に闇撒き散らせや」
「……あの、私そんなに村雨君に酷いことしちゃったの……?」
どうだろう。思い返すと、再街がどうってよりは俺がいきなり切腹したのが色々と良くなかった気もする。あの時はそこそこシビアな時間制限があったからアレだが、今にして考えてみれば、もうちょっと穏便に済ませる方法があったでもない。というか、ホワイトオーダーで死体を
「まあ、済んだことだ。常に最適解を選べる人間はいない。いや、人間に限らず行動する限りはどんな存在だって間違うんだ。だからここは水に流そう。サメだけに」
「は?」「は?」
「で、村雲がどういう奴かって話だが」
が、いざ人物評をしようとして、先のアインソフの言葉が頭を過ぎる。端的に言ってノイズだ。
そうでなくとも、俺みたいな奴があまり人間を客観的に――普遍的に評価できるとも思えない。
「……まあ、俺が説明するより再街が説明した方が正確な評価になるだろ。頼む」
「え……? う、うん……」
唐突な振りに困惑しつつも、頷きと共に再街は語り出す。
「えっと……多分一言で言うと語弊が生まれると思うんだけど、それでも一言で言うと、村雲君は――
「
「……うん。すっごく真面目で……。信じられないぐらいに――極端」
回想するような素振りを見せながら、彼女は言う。
「中一の頃なんだけど……学校までの通り道に、道路脇の植え込みがゴミだらけになってるとこがあってね? 何でかって言うといつもそこ通るおじさんが、数年ぐらいずっと家のゴミを平気でそこに捨ててたからなんだけど……」
「なんかもう既に民度低いですね」
「ちょっと前まで相当治安悪かったからな、この街」
あの、三日前の朝に話した女警官――国巻さんが赴任してからはかなり改善、というか戒厳されたものの(なんせ警部補だ。あんな人間が)、ほんの数年前までは地域別犯罪件数ランキングで結構な上位にインしていたのが我らが永地市だ。
小学生の頃には夜中に何度か銃声を聞いた記憶があるし、街の奥まった場所ではカタギの人間が入らないように強面のおじさんが道を塞いでいた。
そしてその辺の人達とすら無関係に、ネジの外れた人間が全体的に多かった印象がある。数年前の猛獣テロなどはその最たるものだった。
そういや、アレで逃げ出したとか言う人喰いトカゲは結局どうなったのだろう。恐竜だか怪獣だかみたいな巨体で、国巻さんがどうにか撃退したものの、撃っても焼いても何をしても死なない不死身のようなヤツって、話、だった、が……。
……いやまさかアイン……。
…………。
……いや……まさかな……。
そんな俺の様子を気にした様子も無く、二人は話を続けていた。
「管理の兼ね合いか何かで問題にするにも難しい場所だったみたいで……それで、村雲君はそこのゴミを一人でずっと片付けてた」
「別に、誰かから命じられたというわけでもないのですよね? なぜそんなことを?」
「私も一回ね、聞いたことがあったんだけど……逆に『何でお前らはそうしないんだ?』って」
「
こてん、と首を傾げるアンセスタ。どうにも話の流れが掴めない様子だ。
「うん――すっごい当然みたいな顔で言うから、私も、なんか逆に自分が情けなくなっちゃって……その日は手伝ってから帰ったんだけど」
その、次の日にね、と再街。
「口論になってたの。村雲君と、その――」
「不法投棄の犯人ですか」
「うん……。私は遠目で見ただけなんだけど、怖そうな人だったよ。鍛えてる感じで、身長も多分百八十は超えてて……。後から聞いた話なんだけど、昔は格闘技やってたって噂で……大人でもそうそう真っ向から注意なんて出来なかったと思う」
しかし、そんな相手に村雲は既に口どころか手まで出していたらしい。
再街は同じくそれを見ていた他の生徒に指示され、慌てて大人を呼びに言ったそうだ。
「えっと、結局私は近くに頼れそうな人が見つけられなかったから、しばらくしてから戻ったんだけど……その、村雲君が、それで……」
「それで?」
「
「――――」
相変わらずの無表情。だが、それでも、彼女が静かに息を呑んだ気配を感じる。
「当然、途中で止められたんだけど、それでも――六キログラム、だったと思う。胃の中から出てきたゴミの量」
アンセスタは、何も言わずに再街の話を聞いている。
「当たり前だけど、その人の口の中も喉の中も胃の中もズタズタで……村雲君の手も、その人の歯でズタズタになってた――
思い返すだけだというのに、彼女の顔には冷や汗が垂れていた。
「自分の拳の骨を折りながらいじめっ子を殴り殺しかけるなんてのは序の口で……小学生の頃から、不良グループ相手に真っ向から注意して、ボコボコにされて、その後グループ全員の住所を特定して寝込みを襲ったりして……本当かどうか分からないけど、暴力団みたいな人にも、そんな風に挑みかかったって噂まであって……」
「……なぜ、そんな」
「うん……聞いたよ、私も。そしたら――」
――
と。
一言一句、先の言葉を繰り返すように、再街は言った。
「…………」
「怖かったよ――そんな風に暴力を振るうことじゃなくて、
正義感に燃えていたわけでも、怒り狂っていたわけでも、何かの理由で恨みあったわけでもなかった。
ただ、
「だから、怖かった。そんな価値観を――そんな世界観を共有するのが」
「…………」
「言葉だけじゃ、伝わらないかもしれないけど……。……うん、だから、極端って言うのとはちょっと違うのかもしれない」
言うならば、アレは――
「――
「同じ……」
「そう、同じ。ゴミを片付けるのも……悪人を壊すのも……同じ」
「…………」
「隣の席の子が落とした消しゴムを拾ってあげるのと同じ態度で、
「…………」
「……仮に村雲君に『世界を救って』って言ったら、きっと平気で『分かった、いいぞ』って言うよ。――平気の、本気で」
再街が同意を求めるようにこちらを向く。それに対し俺も首を縦に振った。
「酷いことを言ってる自覚はあるけど――それでも、確かに本心だよ。……村雨君はどう思う?」
「ああ。なかなか良い感じのトークだったんじゃないか? 思ったよりも案外語りが上手いぜ、お前」
「そんなことは聞いていないよ?????」
というか俺にそんなコメントだの感想だのを求められても困るのだ。
辛気臭い感じになった空気を軽く振り払いつつ、俺は実際的な方向に話を戻していく。
「まあ、そんな感じのヤバい奴なわけだ。一応、国巻さんにシメられてからは村雲も相当丸くなったはずなんだが――迷宮主になってその性質が戻ったって可能性はあると思う」
「
「それで、なんでそれをわざわざ再街に言わせたかなんだが、実は――」
言うべきか悩みつつも、俺は先程のアインソフとの会話の内容を語る。
「……色々と信じられない話ではありますが……、アインソフが村雲零時に敗北したというのなら、さっきの迷宮主五人が屋上に意識の無い状態で倒れていたのにも納得がいきます」
「ああ――全部が全部真実とは言わないけれど、それでも、大体は本当のことを言ってるんだと思う。あまり真に受けても仕方ないが、少なくとも村雲相手に撃退されたってのはまず間違いないはずだ」
「なんか聞く限りじゃ滅茶苦茶格低く聞こえるんだけど……」
それはそう。だけどそんなのに決死の覚悟で立ち向かっていると思うとこっちの士気がダダ下がりなのであまり言わないで欲しい。
「……アインソフの格がどうであろうと、村雲零時がそんな人物である以上、対策しないわけにはいきません。クウマは今後の方針について何かありますか?」
「ああ。ある」
そして、俺は本調子とはほど遠い体をベッドに横たえ、言った。
「――あえて寝る」
「あえて」「寝る」
交互にリピートする女子二人。
「というかやれることが無い。対策を打つには村雲の調査が必須だけど、村雲の家はこっからじゃかなり遠いし、調査しに行こうにも俺はこのザマだし」
「調査するだけなら弊機一人でも出来ますよ?」
「そう言って一昨日に一人で行かせたらアレだったじゃん」
「うみみゃ……」
無表情でいじけるアンセスタの横で、再街が小さくほっと息をつく。
「でも、よかった……。一応、自分の状態は分かってるみたいで……」
「そりゃな。流石にあと一日は休まないと使い物にならないってのは俺にも分かる」
「わかってないじゃん! 無理だよ! 一日じゃ! 水道管工事じゃないんだよ!」
唸る再街。しかし、その表情はすぐに陰鬱なものへと変わる。
「……やっぱり、おかしいよ、村雨君……。こんな状態でそんな風に思えるの……
「そんなん言われても最初から俺こんなんだけど」
「曇りなき眼を宿した真顔で言わないでよお……」
まあ、再街の危惧は分からないでもない。
「迷宮主になった影響がどうのって言いたいんだろうけど、俺は確実に例外だよ。ノギスの主任も『超常を使ってるのに迷宮主反応が無い』とか言ってたし」
「えっ、あっ……そ、そうなの?」
「まあ、
「うん。だから再街は気ぃ回さなくて大丈夫だよ。カンピロバクターにだけ注意してくれればそれで十分だ」
「今日のあれそれを見る限り他にも注意することはありそうだけど……」
ベッドに寝っ転がりつつ、傷が傷まない姿勢を探しながら画面バキバキの携帯電話を取り出す。
「つっても、情報収集しなくてもいいってわけじゃないんだが……」
「何か街で事件があるようなら、対処しないわけにはいきませんからね――対処すると言っても、倒さずとも良い――むしろ倒さない方が良い、というのは楽な部分かもしれませんが」
「……???」
要領を得ない様子の再街。俺はアンセスタの言葉にああ、と得心して答える。
「俺たちと村雲とアインソフで、一対一対一の三つ巴にしようって?」
「というよりは漁夫の利ですね――村雲零時とアインソフの戦闘に持ち込み、どちらが勝つにせよ消耗した相手を万全の我々が相手にし、倒す。できればそれがベストです」
もちろん、理想論ではありますが、と付け加えるアンセスタ。
しかしその状況に持ち込めれば圧倒的に優位に立てるのは確かに間違いない。
「まあ、情報量で出遅れてる以上、そこまで有利な状況を整えるのは難しいか……」
「弊機の方でもこの環境で可能な限り情報収集を行います。せめて村雲零時の迷宮が存在する座標……可能ならば村雲零時の現在地を把握することができれば――」
「い、いや、あの……」
「何ですか、再街さん。弊機は今から演算能力をフル稼働させて村雲零時の行方を調べるところなのですが」
「その、それなんだけど――」
同じように携帯を取り出した再街が、恐縮したように手を挙げ、言った。
「――村雲君、普通に学校来てるって」
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第19層「あなたは、王道無道に足を踏み入れた」
翌日。
「……何?」
「フィンランドからの留学生、アンセスタ・
元気そうで何よりである。俺は無視して再街に向き直った。
「再街の制服貸したのか?」
「う、うん、学校に入るのに必要だからって、一旦家に帰って……その、私の家、だいたい何でも二つあるから……」
「こいつ透明人間になれるから変装とか要らないぞ」
「えぇ……」
というか透明人間になる必要すら無い。白亜回廊に引っ込んでいればそれで済む。……別に、普通の格好など、する必要は、無いのだ。
それにしてもよくサイズが合ったものだ。アンセスタはスタイルこそ良いが身長は一五〇センチと無い。ろくな道具もないだろうに、一晩で無理矢理仕立て直したというのか。
にゃあにゃあと俺の服を引っ張りながら制服姿を見せようとしてくるアンセスタを適当に追っ払い、俺もまた学ランに袖を通す。
「……本当に行くの?」
「安心してくれ、無理はしない。昨日アンセスタも言ってたけど、理想は村雲とアインソフをぶつけて残った方を漁夫の利だ。仮にバトルになっても、被害が出る前に撤退する」
言いながら、頬に貼られた包帯を剥がす。
流石は自殺産道の超医学というべきなのか、少なくとも、表面の傷に関してはほとんど目立たなくなっている。
とはいえ内部は未だズタボロ、大きな傷は抜糸もしていないし、激しく動けばすぐ傷口が開くだろう。が、それでも今日一日活動する分には問題無い。多分。
まあそれにいい加減、室久に無断欠席やら無断外泊やら色々誤魔化してもらっちゃいるが、三日もサボれば流石にボロが出るだろう。明日からどうするにせよ、今日一日ぐらいは顔を出しておいた方が面倒も少ないはずだ。
「うみゃーうみみゃー。くうまーくうまー」
「ええいやかましい、さっきから何だってんだお前は」
「みゃー……」
うつむくアンセスタを見て、再街が俺に言葉を投げる。
「あ、あの、村雨君、その、一言アンセスタさんに可愛いとか……」
「? 弊機って可愛いんですか?」
「えっ、う、うん。可愛いよ?」
「褒められちゃいました。いえい」
「褒められたのか?」
「……褒められてないんですか?」
「ほ、褒めてるよ? 別に女子は何にでも可愛いって言うとかそういうのじゃないよ?!」
「いや……可愛いが褒め言葉って認識が無くて……」
「え、えぇ……? 可愛いが褒め言葉じゃ無かったらなんなの……? 感動詞なの……?」
「だって女子ってみんな可愛いか美人なんじゃないのか……?」
「わ、ワァ……ガチの顔で言ってる……」
再街がミナミコアリクイめいた威嚇のポーズを取る。村雨空間の常識だとそうなのだが。何か変なこと言ったんだろうか。言ったんだろうな。
「じゃあもう可愛いじゃなくていいから、似合ってるとかさ……」
「似合ってるかぁ? 生クリームに海苔巻いたってぐらい異物じゃねえ? 百歩譲ってもなんかのコスプレにしか見えなくないか?」
「なんでそんな人間味の無い台詞吐けちゃうかな! もう何でも良いからアンセスタさんのこと褒めたげてよ!」
「…………。……好き?」
「にゃあ! にゃあにゃあ! うみゃあ!」
「痛い! 痛い痛い! こら! アンセスタさんこら! 照れたからって近くの物を叩かない!」
べしべしとアンセスタに叩かれる再街。
「……
「ま、まあ、それは確かに……」
「確認しましょう。クウマ、再街さんは可愛いですか?」
「可愛いんだろ。知らんけど」
「投げやり!」
「美人ですか?」
「バランスは良いんじゃねえの?」
「何の!?」
「好きですか?」
「いや、別に」
「これ私バカップルのダシに使われただけじゃない?!」
朝からうるせえ。
アンセスタは上機嫌そうにしながら制服のスカートを翻す。今にも部屋を出ていきそうな勢いだったが、今から出ても流石に早い。
起床時間は極めて早朝である。昨日あの後、「もう放課後だし、今から行動しても仕方ない」と判断して夕方就寝を決め込んだからだ。
「……今更だけど女子二人と一つ屋根の下で寝泊まりしてなんでこんなに平然としてるの……? 草食を超えた絶食系男子……?」
「というよりはそもそも食欲が死んでいる類に見えますが」
「何の話だ」
問いかけを真顔で無視し、アンセスタは俺たちの方へと向き直る。
「では、基底迷宮外での戦闘の基本について、今のうちに確認しておきましょう」
そう言って、彼女は
はえ、と今更ながらに超技術に驚く再街を気に止めることなく、アンセスタは説明を開始する。
「まずおさらいですが、迷宮主は一つの方向性に特化した存在です。それぞれが単一のコンセプトに基づく固有能力を保持し、加えて更に、自身のテリトリーとなる『迷宮』を展開する能力を持っています」
彼女が握り開く掌の内に、二つの文字列が浮かぶ。
文字列の一つは『基底迷宮』。そしてもう一つは『擬似迷宮』。
「基底迷宮は特定のエリアを基点として常時開廷される迷宮。擬似迷宮は任意のエリアに一時的に開廷できる迷宮です。基本的には基底迷宮の方が出力は高く、擬似迷宮とぶつかり合った際には一方的に擬似迷宮が打ち消されますが、その分、擬似迷宮にも利点が存在します」
「無意識に効果が設定される基底迷宮に対し、擬似迷宮はある程度自由に効果を設定できる、だったか」
こくりと頷くアンセスタ。実演するように、半球状の蒼い光のフィールドを、自身の周囲に展開する。
「
「……そんなにか? 副担任ブッ殺した時は割と何とかなったけど」
え? と俺の発言に寝耳に水顔の再街。言ってなかったのかその辺。
「実践的迷宮戦闘の知識がある迷宮主の場合、むしろ必殺性は低くなりやすいのです。攻撃に特化させればその分防御力が下がりますから」
「そういうもんか。じゃあ、戦闘のノウハウが無い村雲の場合――」
「
恐る恐るというように、隣で小さく手が挙がる。
「……あの、即死って具体的にはどういう……」
「そうですね――例えば、黄金歴程の第二形態である光の白兵武器。これは本来、弊機の体表面を基点としてしか出現させることができません」
光の剣を手元に生成するアンセスタ。彼女は「ですが」と逆接し。
「擬似迷宮展開時は、
一気に広がった蒼のフィールドが、部屋全体を覆い尽くす。
そして、俺と再街の
「……ッ!」
「『迷宮内の好きな位置に攻撃を出現させる』――まずこれがデフォルトだと思っていただいて結構です。流石に相手の体内に出現させることは出来ませんが、これをやられれば必中不可避。ここまではよろしいですか?」
刺激的なパフォーマンスに再街の魂が抜けかけているが、おかげでよく分かった。無理だ、これは。
「いや、っていうか無理過ぎるだろ……こんなん防ぎようが無くないか?」
「
「ああそうか、だから防御力……」
「
迷宮の展開規模や相性によっても変わってはきますが、とアンセスタは続ける。
「先も言った通り攻撃一辺倒、
「要はアンセスタの近くにいれば大丈夫ってことだな」
「
「かしこいか?」
「思考速度が爆速です」
アンセスタが胸を張る。確かに彼女がいれば
「まあそこは三度目の正直に期待するか……」
村雲零時。
単純なバトルにはなりそうにもないが、案外やり口自体は物理的な可能性もある。直接触られるまではなんにも起きないとか。
ともあれ、ここでぐだぐだ悩んでいても仕方がない。
相も変わらず行き当たりばったり出たとこ勝負の覚悟を決めて、俺達は病室を後にした。
やや肌寒く薄暗い、しかし静かに明るくなっていく校舎の中。
人の喧騒は未だ静かに、窓の外からスズメの鳴き声がよく響く早朝。
「……マジで普通に来てんのかよ、アイツ……」
まだ生徒の少ない朝の教室。あまりにも堂々と奴は居た。
中肉中背。着崩さない学ラン。無個性過ぎて中性的。何処にでもいそうな平均値。
何事も無いように。
本当に、何事も無かったかのように。
村雲零時は、机で、授業の予習を、していた。
「…………」
アインソフと戦い、倒した、はずなのに、傷の一つさえ負っていない。俺のように隠している可能性もあるが、何故か本当に無傷のままに倒してのけたのだという直感があった。
今、俺は、廊下の陰に立っている。
教室の外。村雲との距離は十メートルあるかないか。
背後に控えているのは、アンセスタと再街の女子二人。
再街を学校に連れて来るか否かは悩んだが、アンセスタ曰く、アイツもまだ一応迷宮主ではあるらしい。
状態としてはノギス工業との戦闘時の室久と同じ。迷宮主としての能力はほとんど無いものの、ノギスに見つかれば抹殺もしくは研究対象だ。なら、一人で留守番を任せるわけにはいかない。
『一般人にノギスの超科学のような、超越主の迷宮由来事象を観測されれば修正力の発現を招きますので。ナノマシン等を使ってクウマの治療の手伝いをする再街さんには、一時的に一般人でなくなってもらう必要があったのです』
とは、昨日のアンセスタの言。
『修正力の発現……前に言ってた、タイムパラドックスでノギス工業が崩壊するとかどうとかって奴か』
『
追加のホワイトオーダーで完全に元に戻し、ノギスから狙われなくすることも考えたが、その辺りは現在保留中だ。俺が万全とはほど遠い現状、サポート要員が居た方が助かるのも事実ではある。
無論、危険が及びそうならば即座に白亜をキメて全てを忘れさせるが、今はまだ、だ。
ともあれ、記憶の中の村雲と比べ、今の村雲に変化は無い。
最初の四人のような変貌も、室久のような異形化も、再街のような狂気性も何も無し。完全な自然体。
こうしてかなり近い距離まで迫っても、こちらに気づく素振りさえ見せていない。
なんならこのまま「おはよう」と声をかけても、何の問題もなさそうなほどで――
「お前早っえーなあ村雲。いっつもんな時間から来てんのかよ」
――そんなことを考えている最中に、別の扉から入ってきた室久が普ッ通に声をかけやがった。
村雲が胡乱げに顔を上げる。
そして、半目で、惣菜パンを食いながら登校してきた室久を見て、言った。
「……ああ、祇園か。おはよう」
「おう、つーか思ったよりなんかみんな普通に戻ってきたよな。いやまだ来てねえのも居るけどよ」
「そうだな。あと何人だ? 火神に、鉄鳥、黒雁、心沢。あとは再街と――村雨もか?」
「空間はアイツただサボってるだけだな。昨日も『頼んだ』って携帯に来てたし」
「『頼んだ』だけか。それだけだと伝わらんだろうが、何も」
「普段のヤツだったら『頼んだ』もねえからな。意味不明なスタンプしか送ってこねえぞ。ほら」
「なんでキリストの磔を送ってるんだヤツは。というかどういうスタンプだ」
「いや、これはキリストで代用したセリヌンティウスだ。この場合は『間に合いそうにないから代わりになんとかしてくれ』を意味する」
「お前らツーカーの馬鹿なのか?」
…………。……普通、だ。
その後も村雲と室久は取り留めのない会話を続ける。そこに不自然さは一切無い。
室久がポケットから落とした惣菜パンの包装袋に対しても、ただ平然と軽く
背後を振り返り、アンセスタの方を見る。
疑念を訴える俺。彼女は静かに首を振って、虚空に投影した
「〝……
アンセスタの言葉を否定する根拠は無い。いや、正しいのはいつだって俺より彼女だ。もちろん、特に状況が差し迫っていない時のクソボケな言動は除くが。
しかし、どうする。この状況で、俺たちは一体何をすればいい?
「〝今回の目的は、村雲零時の観察。ひいてはその危険度、及び迷宮主として所持する特性・能力の調査です。特に能動的に動く予定は無いはずですが〟」
それは分かっている。……だが、こんな
たとえ内面がどうであろうと、出力される結果がずっとこのまま、完全に平常そのものなら、その危険度なんて推し量れるはずがない。こちらからアクションを起こさない限り、ヤツの異常は露見しないのではないだろうか?
「……いや」
結論を急ぎ過ぎだ。これだけの行動で決めつけるにはまだ早い。
アンセスタへと手を差し伸べる。
彼女はこくりと頷き、伸ばした手を無視して胸元から白亜回廊へと『収納』されていく。……まあいいけども。
三日ぶりの学校。
俺は努めて平然とした顔で、教室の中へ入っていく。
「……おはよう」
「ああ――久しぶりだな、村雨」
結論から言うと。
村雲零時は、最後まで、ずっと、ただの高校生のままだった。
五時間目の授業が、もうじき終わる。
『どうしてクウマのアルファベットはそんなに歪んでいるんですか? それでは自分でもaかoかの判別が付かないのではないですか? 曖昧な字体にしておくことで試験の際にスペルミスをしても正解にしてもらえることを狙っているのですか? 今は自分のノートに書き留めているのですから後で読み返せるようにもっと丁寧に書いた方が良いのではないですか? 肩にダメージが残っているなら無理はしない方がいいですよ?』
コイツ人の体内からゴチャゴチャうるせえ。
俺は髪に隠したアンセスタ手製の骨伝導イヤホンを弄る。昨日、俺が意識を失っている間に彼女が作った
黒板を見る。
ここしばらく生徒の半数が欠席していた都合、このクラスの授業の進行は他クラスに比べ遅い。そしてその分の予習はしていたので、二、三日ほど無断欠席をかました後でも授業についていくのに特に問題は無かった。――まあ、学校とか成績とか、元々大して気にしてないけども。
チャイムが鳴った。昼休み。次第に騒がしくなる教室。
数日前まであったぎこちない静けさは、今は無い。
日常の風景。二週間ぶりの。
「…………」
戻ってきた――戻した、のだ。
俺が。
俺と、彼女が。
もちろん、まだ完全じゃない。
まだ四人、行方不明になった同級生がいる。
二つ隣の村雲零時が、超常の力を隠し持っている。
再街左希だって、この異常事態に巻き込んだままだ。
戻さなければならない。
失われる物が、一個だってあってはいけない。
戻せるはずだ。
必要なのは――重要なのは、俺の覚悟だけだ。
アインソフがどうとか、ノギスがどうとか、そんなのは極論些末な問題に過ぎない。
やるかやらないか。それだけだ。
そして俺はやる。
そう決めた。
そして、何より――
『――クウマ? 呼ばれていますが』
「……ん、おう」
見れば、新谷が俺に声をかけてきている。あいつとは仲が良い。以西も近くに居た。中学からの友達だ。室久もそのそばに居る。グループを作っているわけじゃないが、あの三人とつるむ機会はそれなりに多い。
「村雨ー、今日弁当?」
「いや、食堂で食べるけど」
「一緒に行こうぜ、俺らあんまりここ二週間の話聞けてねえし」
「ああ……」
村雲や再街から目を離すことになる――と、思ったが、再街はこちらをちらちら伺いつつ、食堂について来る構えだ。意外と察しは良いタイプらしい。
俺は頷いて廊下に出る。
「で、何言えばいいんだ? 言っても火事の後はあんまり大したことなかったけど」
「いや、大体のことは把握してるんだよこっちも。昨日のHRでも色々説明されたし」
俺は僅かに首を捻って言う。
「じゃあ何聞きたいんだよ」
「んー、いや、つーか、村雨の方から何か話したいこととかねえの? 流石にガチで話題の一つも無いってことないだろ?」
そりゃあ、そうだ。
こんなことになってるのだから、話すことの一つも考えてなきゃ嘘だ。
「――――」
考えていた、はずだ。
「村雨?」
「悪い、ちょっと……トイレ」
足早にその場を去る。背後から再街が慌てて着いてくる気配があった。
『クウマ?』
「何も考えてなかった」
『……?』
「
『はあ』
廊下の奥、少子化で使われなくなった部屋の扉に手を触れ、扉を丸ごと『収納』し、中に入った。
慌てて小走りに追いついてきた再街が部屋の中に入ってくる。それを見て扉を付け直し、アンセスタが白亜回廊の外に出る。
「え、あの……村雨くん、どうしたの?」
「なんか急にスンってなっちゃいました」
戸惑ったという風に話す二人。俺は、気を取り直すように頭を振った。
「いや、悪い、何でもない。妙な事が多かったから……どんな顔して学校居ればいいかちょっと分からなくなっただけだ」
「そうなんですか。そういうものですか? どうなんですか再街左希」
「そ、そういうもの、かも……? 私、友達とか居ないからあれだけど……」
「なるほど、残念な娘です」
「まって?」
アンセスタに弄ばれる再街を見つつ、落ち着きを取り戻す。
いや、元より落ち着くも落ち着かないもない。この俺自体はずっと平常だ。
「昼、なにか……買わなくてもいいか。まだいくらか食えるもんあったはずだし……」
白亜回廊から適当にパンを取り出す。消費期限は……昨日か。よし、ギリギリアウトだ。食べるけど。
「ここで食べるの? 窓とか開けた方が……」
使われていない部屋の中は仄寒く、埃っぽい。再街が気を利かせて建付けの悪い窓を引いた。
入ってくる暖かい日差しと風。それは勢いよくカーテンを膨らませて、室内の空気を爽やかに染め上げる。
眩しげに窓を離れる再街に対し、アンセスタは日を浴びるように窓の外の景色を見渡す。
風に吹かれて銀の長髪が揺れた。いくらかの透明度があるその髪の中を柔らかい陽光が屈折して、構造色の虹を描く。
眩しい。その幻想的な色も、青褪めた色の肌が昼の光に照らされる様も、この教室の中ではあまりに異物的だ。学校の制服を着ているからって、馴染んでいるとはとても言えない。
「クウマ、気持ちいいですよ、ここ」
窓際の机にひょいと腰かけて、アンセスタが俺に呼びかける。
隣の机に座って、まだ大丈夫なパンを彼女に手渡す。
思えば、誰かと一緒に、学校で昼食をとるのは、あの火事があってからは初めてだった(……いや初めてではないか? わからん、忘れた)。
「…………」
俺は黙ってパンを口に運ぶ。一分一個ペースで一心に食べ尽くすアンセスタに対し、一個食べ切るにも四苦八苦している様子の再街。
無言の昼休みに危機感を覚えたのか、再街が義務感めいた声で話を切り出す。
「……あ、あのさ村雨くん、そういえば午後の英語の課題ってどうしよう。何もやってないんだけど……」
「んなもん今どうでもいいだろこの状況で。つーか今日学校来て今日提出出来るわけねえんだからやってなくても構わねえよ別に」
「で、でも、他のみんなやってきてるみたいだし……」
「そりゃアイツら昨日から登校してきてんだからそうだろ。別にお前は単位とか内申とかヤバいわけじゃないんだからほっとけそんなん」
「……お前『は』ってことは村雨くんはヤバいの?」
「…………」
「ヤバいの!?」
「いや……英語だけだし……課題一つ提出しなかったぐらいじゃ変わらんし……」
慌てて懐から課題のプリントを取り出し、名前欄に「村雨空間」と書き込む再街。良いっつってんだろ別に。
「待ってください再街さん、クウマのアルファベットはさながらミミズのミイラです。恐らく筆跡を覚えられているでしょう。代行すれば教員に露見する可能性があるかと」
「じゃ、じゃあ、村雨くん!」
「……『T』……『Th』……『The』……。……ふぅー……」
「遅っそい!! なんなのその息継ぎ!!」
「だって義手だし……。えー、これ何て訳すんだ」
「『彼は具合が悪かったが元気そうな振りをした』、ですね」
「『彼は具合が悪かったが元気そうな振りをした』、よし」
「日本語は普通の速度で書けるんじゃん! なんでアルファベットだけそんなガッタガタなの!」
「知るかよ。俺だって苦労して書いてんだよこのガタガタ」
「真っ直ぐ! 書きなよ!!」
アンセスタがやれやれと言った風に(無表情だが)右腕を外し、俺に預け、代わりに俺の付けていた金属義手を装着した。そして俺が書いていたプリントを抜き取り、素早く英文を記入していく。
「――どうですか?」
「あっ! 再現度すごい! 完全にミミズのミイラ! 汚すぎて全然読めない!」
やかましいわ。
そのままアンセスタは流れるように回答欄を埋め終わる。その字は全くもって俺のものと見分けがつかない。凄まじい精密性だ。
「誤字と誤回答もいくらか混ぜておきました。これなら問題は無いでしょう。良ければ再街さんの方もやっておきますが」
「えっ、い、良いの?」
そう言って、再街の分もまた、そっくりに真似た筆跡ですらすらと事も無げに処理していく。筆の速度は常識的だが、回答にあまりにも迷いがない。高校英語程度は余裕といった様子だ。なるほど、かしこい。このペースなら恐らく三分もかからないだろう。
「…………」
隣の席。教室の机に着いて、プリントに向かう彼女。
まるでアンセスタが同じ学校に通う同級生であるかのような錯覚。
たった今、初めて、全部終わった後のことを考える。
仮に――いや、絶対にと言い換えても別に全然良いし実際にそうするのだが――アインソフもノギス工業もブッ殺して、平穏と日常を取り戻したところで、彼女がこの高校の生徒になるなんてことは無いだろう。
だけどそれは、彼女が「普通の高校生」になれないなんて意味じゃない。
アンセスタはやっていける。どこででもだ。記憶も何も無くても、己を定義する自我がある。瞭然かもしれないが、意思の無い機械なんかじゃない――誰かに言われなければ何も出来ないわけでも、何かに縋らなければ誰にもなれないわけでもない。
「……いや」
思索を打ち切る。これ以上は、考えても仕方がない。
どうせなるようにしかならないし、なるようになるだろう。――別に、俺は、何か望みがあってこうしているわけじゃない。
「機械製の義手なのにこれだけ精密に――いや、逆に義手だから精密に書けてる感じなのかな……?」
「両方です。弊機の場合、有機にせよ無機にせよ、神経に送る信号は完全に数値制御していますが、それでも生体複合であるあちらの義手ではいくらかの誤差が出ますので」
「あっ、じゃあ義手付けてもいきなり精密に書けるようになるわけじゃないんだ」
「
「村雨くん普通そうに使ってたけど……?」
「先に
「そうなの?」
「さあ。よくわからん」
書き上げたプリントを再街に渡すアンセスタ。そのまま当然のように俺の胸元に手を突っ込み、食料を漁り出すの押し止める。さりげなく食うな。これ以上食べても過充電だろお前。
「見くびらないでください、130%までは問題なくいけます。ただしパフォーマンスは落ちます」
「やめろやめろ、午後からバトるかもしれないのに」
「現状、こちらから干渉しない限りは特に問題無いように思われますが?」
「ああ、だからこそこちらから干渉するんだ」
「第一のアプローチから既に暴力的なのは良くないですよ?」
「なんで俺が喧嘩売りに行くのが前提なの?」
首を傾けつつ半目になっている彼女へ言う。
「普通に、味方してくれないか持ちかけよう。アインソフは絶対に相容れないとか何とか言ってたけど、アイツの言うこと素直に聞いてても仕方ないだろ」
放課後、夕焼けが照らす渡り廊下。
渡り廊下とは言っても、あるのは屋根とそれを支える柱だけ。校舎の一階と一階を繋ぐそれは、どちらかと言えば別棟に移動するための通路と言った方がいいかもしれない。
廊下の中ほど立ち止まる。なにせ、渡った先にあるのは例の火事で焼け落ちた旧校舎だけだ。
以前なら旧校舎が文化系の部室棟を兼ねていた都合、放課後の渡り廊下もそれなりに人気があったが、今は全くの無人。
都合の良いことに、今日は特に静かだ。少し離れた中庭にも人影一つ無い。
故に、付近にある人影は、先に待機していた再街と――、
「――で、何の用だ」
この、俺の後ろに付いてきた同級生、村雲零時だけだった。
『このひと、なんかすごみありますね』
白亜回廊内で待機しているアンセスタからの通信。事前評判を聞いたからそう思うのだろうが、おそらく気のせいだ。
素人である俺より、アンセスタの方が気配やオーラと言ったものに敏感、ということはあるだろうが、それでも村雲は依然として平然、そして自然だ。突出した佇まいなどどこにもない。
むしろ、迷宮がどうの、と言った話を本当に切り出していいのかとこちらが熟考してしまうレベルだった。
「…………」
「何も無いなら帰っていいか?」
「あ、ま、待って村雲くん……!」
口を開かない俺。怪訝そうに眉を潜める村雲。
控えていた再街が、慌ててそれを引き止める。
「なんだ、再街」
「えっと、その、ちょっと話があって……」
「そうなのか」
「その……ええっ、と……」
ちら、と再街がこちらに助けを求め、視線を送る。
俺は頷き、彼らに言った。
「――じゃ、後は二人でごゆっくり」
「待っっってッッッッ!!!!」
いい感じの絶叫ツッコミに踵を返す。
まあ考えていても仕方ない。今なら何かしらミスってもギャグで済むだろう、多分。
「うーん。なあ村雲、アインソフって知ってる?」
「ああ。この間殺した」
「いや死んだんだけど復活したらしいんだわ」
「何? そうか……しくじったな」
「協力して一緒にブチのめそうと思うんだけど、どう?」
「そうだな、やろう」
まとまってしまった。
…………。
おかしいな……殴り合いながらの話し合いも覚悟していたのに……。
「言っといてなんだけど本当に良いのか?」
「同級生をここまで滅茶苦茶にしたゴミをブチのめさないでおく理由があるのか?」
「いやまあそりゃそうなんだけど」
……なんだ、これ? 拍子抜けが過ぎる。あれだけ警戒していたのが馬鹿みたいだった。
常識と照らし合わせて正常か異常かで言えば、確かに異常ではある。が、元から村雲がブッ飛んだ不良であることを考えれば正常異常以前に通常だ。変化無しとも言える。
いや――むしろ、それが普通なのか?
ここまで迷宮主になって人格が変わる例しか見ていなかったが、そもそも迷宮主はあくまでも「自らの極まった可能性の一つ」なのだ――ならば、「現在の方向性そのままに成長した上で、極まった可能性にたどり着く」ことだって、当然にある、のだろうか?
無条件で信頼は出来ないが、昨日今日と普通に登校していた事実を鑑みる限り、今すぐに暴走だの何だのというのは無いように思える。
どうにも話がスムーズ過ぎてついていけない俺がいるものの、それでも、状況が好転したのは間違いない。
全身に施していた緊張の強張りを解きながら、俺は村雲と話し合いを始める。
「ならとりあえず、情報交換から始めるか。お互いの能力と迷宮の効果とか……いや、そもそも、村雲は現状どこまで理解しているんだ?」
「
「……あん?」
どういう意味だ――と。
そう問いかけようとした、次の瞬間。
――視界の隅で、何かが夕陽に煌めいている。
バシュンッ、と。
何か、ガスが高圧で噴射されたような響き。
甲高い、耳に突き刺さる風切り音。
そして、それより早く。
見えないバットで側頭部をフルスイングされたみたいに、村雲の体が頭から横合いに吹っ飛んだ。
「ッ!?」
即座に白亜回廊からアンセスタが飛び出す。倒れかけた村雲を受け止める。
狙撃だ、と気づいたのは、彼女が返しざまに
瞬時に光線で撃ち抜かれる人影。校舎の屋上に陣取っていたスナイパーの体が大きく吹き飛ぶ。
「ノギスです! 複数! クウマ!!」
アンセスタに答えるより早く、右の義手を外す。忘却の白亜が、断端から過去最速で溢れ出る。
「再街!」
「うぇ、あ、へ?!」
呼びかけた。
腕の形を取るそれを、彼女に向けて振りかぶる。
逡巡はしない。
唯一迷ったのは、最後に何を言うか――
「――またな!」
「え」
〝あなたは、邨碁ィ灘?、繧堤?エ螢翫@縺――〟
顔面をブチ抜く。
物理的な威力は皆無だが、勢いに気圧されたのか、白亜に呑まれた再街が地面に尻もちをついた。
「――――……痛っ! え、な、なに――」
「立てるか!?」
「う、うん……えっと、あれ? さっきまで、旧校舎……火事が、あれ?」
右腕を戻す俺。困惑しながら立ち上がる彼女。勘だが、同時にどこかからも戸惑いの気配を感じた気がした。
「立てるなら逃げろ! 早く!」
「え、いや、村雨くん――だったよね? 何が、」
「逃、げ、ろっつってんだろうが
「ぎゃんッ!?」
校門に続く方角へと再街の尻を蹴り飛ばす。犬のような悲鳴を上げ、ほうほうの体で走り去っていく彼女。
「クソ……!」
村雲の方を振り返る。
死んではいない。だが、全身がひどく痙攣していた。激しい嘔吐。加えて、耳と鼻から何か、血混じりの透明な液体がこぼれている。恐らくは髄液だ。間違いなく頭蓋骨が割れている。
アンセスタが止血と、自殺産道で手に入れた万能薬の投与を行っているが、見るからに状態は芳しくない。少なくとも、超常に頼ったところで一日やそこらで治るような怪我じゃないのは確かだった。
「『迷宮主相手には能力バトルなんてさせないのが最適解。感知されるより先にヘッドショットで脳を吹っ飛ばせ――』、なんて、上は簡単にマニュアルに書くけどさぁ、正直現場を知らない意見よねー。この学校一棟に
焼け焦げた旧校舎から現れる、作業着のようなドレスの女。
確か、『主任』――そう呼ばれていたノギス工業の技術者が、複数の社員を連れ立って、俺たちの前に立っていた。
「……良い年した大人が雁首揃えて高校生二人にカスみたいなボロ負け晒したくせに随分調子こくじゃねえかカス。新手の挑発か? 確かにムカつくかもな、カスの調子こいた態度ってのも。死ねよ」
「あ、そう。生憎だけどその辺覚えてないのよあなたのせいで。映像は残ってたから経緯は知ってるけど」
言って、女がこちらに銃を向ける。
銃本体より、その先端に付けられた(恐らくは)消音装置の方が大きい不格好。しかし、それでも人間の頭蓋骨を割る程度の威力があることは十分にわかっている。
「ところで、なんであの子逃したの? 迷宮主から一般人に戻すのはいいけど、そのまま抱えてればこっちも手出ししづらかったのに」
「ああ゛? んなもんテメェらブッ殺すために決まってんだろうがカス。つーか良いのかよ俺だって一般人だろうが」
「テメーが一般人なワケねーだろデク野郎。……良いのよ別に。そこに転がってる迷宮主のおかげでこの付近の基底現実は
相手の周囲に展開される青い
「いえ、キネマティックカウンターヴェイル……減速理論によって相殺出来る運動エネルギーには上限があります。弊機の重量でも時速五十キロ近い速度で接近すれば、ほぼ確実に接触可能です」
話す彼女へにじり寄るように、倒れた村雲へと近づく。
その体を静かに持ち上げ、『収納』の必要時間を待ちつつ、この場から離れさせる。入れ替わりでノギスの前に立つアンセスタ。
俺にも圧縮空気などの攻撃手段はあるが、質量の無い彼女の光線の方が確実だ。加えて、俺と俺の持つ物には100グラム以下の飛び道具は一切効かない。
アンセスタが展開する黄金の剣。
鋭い光を放つそれに対し、女は大きくため息を吐く。
「……また随分と入れ込んだわね、セスティ。あなたが『そういうモノ』だってのは分かってるけど。何? 組織的にはともかく、個人的にはそれなりに良くしてあげてたはずなんだけど?」
「それは――」
「そう。その感じだと記憶自体はそこまで消えてないわね。私たちと同じ二週間かそこら――というか、消せる範囲はそれが上限? 企業理念プログラムや遵守コマンドの方を飛ばされた感じかしら」
女が歩み寄る。警護する社員らが制止しようとするのを振り払い、一歩。
「ねえ。もうさ、ほっときなさいよ。アインソフのクズだって、我らが総帥と同じ
「――数の、問題では、」
「あのさぁ。こうしてる間にも溜まってんのよ、案件が。ほら、見て? ついこないだ山梨で出現した主のデータ。機能型の
懐から取り出した端末の画面が、アンセスタの眼前に突きつけられる。
「このレベルの主、討伐するのにどれだけの社員が必要かしら。班の編成に何日かかるかしら。事前準備に何日、漏洩対策に何日、実際の討伐に何日かかって、
女が歩み寄る。二歩。背後の社員に持たせた機材。そこから伸びるケーブルを、鎖のように引っ張って。
女が歩み寄る。三歩。悪意に満ちた先端の端子を、首輪のように差し出しながら。
「ねえ。ねえ、ねえ、ねえアンセスタ――
「……ッ」
「ふぅん。すぐに頷かないのね、今回は。じゃあそうね、交換条件――『あなたが帰ってくれば、この街には何もしない』。これでいい? いいわよね? だって今回の事件、あなたの槍を追ってきたアインソフのせいじゃない。だからさ、
アンセスタの表情は変わらない。
変える余裕が無いのだと、分かる。
――だが。
「……せん」
「何? はっきり答えなさいよ。これから死ぬ人間を助けたくないの?」
「
「――――あ?」
義手が、端子を振り払う。
光の剣を、『主任』の眼前へと突きつける。
至近に切っ先を見ても、女はまるで竦んでいない。むしろ、意味が分からないという風に首を傾げる。
「……何言ってるの? 何で分からないの? あなたが傷つかない分、周りが傷つくって言って――」
「それも嫌です。弊機は、弊機を含む誰も傷つけたくありません」
「そんなことが、」
「それこそが*勝利*です。……私達なら、そう出来ると。そのためなら、どれだけ巻き込んでもいいと――クウマは、言ってくれました」
女が、動きを止める。
具体的なことなど何も言えていない。反論とも言えない稚拙な異存。
だが。だからこそか。
『主任』は諦めたように、大きく息を吐き切った。
「そう……そっか。変化したわね、全く」
端子をアンセスタの足元に投げ捨てる。
「分かったわ。諦めましょう。戦闘になったらどうせ勝てないもの、私たち。これで帰ってきてくれないなら、もう本社の支援を待つしかないわ」
後退した。切っ先を突きつけられても、まるで退かなかった女が。
「私だってやりたくてやってるわけじゃないもの。昔は普通に友達だったじゃない。今だって大切に思っているわ。それは分かってくれてるのでしょう? 私はあなたよりも会社の理念を優先するようになったけれど、あなたはそうじゃないものね。私が管理を任せられてるのも、その優しさにつけ込むためでしかないの、知ってるでしょ? そうじゃなきゃ、いくら迷宮持ちだからってこんな若輩が主任格になれるはずないわ」
だから、と。
「
「――え」
『主任』の左手首に浮かぶ
描画される文字列、00:02.00。一秒経過。00:01.00。更に一秒経過して、
「待っ、」
手を伸ばしかけたアンセスタの体が硬直する。おびただしい出血。ドクン、ドクンと、心拍に合わせて噴き出す赤色。
潰れるような絶叫があった。『主任』の体勢が崩れ落ちる。頬にへばりついた女自身の血と肉片。洗い流すような涙を流しながら、女は、笑う。
「あっハ……い……
「何――なんでこんな」
「
脇腹の当たりに展開された表示枠がゼロを指す。爆ぜる。何かの折れる音と、破ける音――腹部が、一瞬だけ、勢いよく、膨張した。
血を吐く音に悲鳴が滲んだ。地面に倒れ込む。びしゃり。既に飛沫が立つほどの血溜まりが出来ていることに気がついた。
「お……おねが、い……セス、ティ……」
「――――」
「し、仕事……これが、しごと、なの。わかって、おねがい、わかっ、てよ……ねえ、あ、ああ、あ――」
展開される
「は、はや、く……ねえ、早くッ!! はやく助けなさいよ、アンセスタァッ!!!!!」
もういい。
あの女は、俺が殺す。
アンセスタが否応も無く端子を拾い上げる。まあ、彼女ならそうするだろう。させるものか。
村雲を置いて、走る。その行動を制止しようとする。だが。
「――クソ!」
判断を、間違えた。あの減速がある以上、圧縮空気の至近解放しかないと思ってしまった。ワイヤーフックでも投げて縄越しにアンセスタを『収納』するなり、否、ここまで切羽詰まった状況ならもう銃でアンセスタの手なり腕なり吹っ飛ばせばよかったのだ――周囲の社員が、いつの間にか、村雲に銃を向けている。
射線を通してしまった。
咄嗟に退いて再度村雲を射線からカバーしようとする。同時に拳銃を手元に『取り出す』。間に合うか。否、遅すぎた。撃鉄の落ちる音、五つ。体で受け、『収納』できたのは三発のみ。残り二発が、俺をすり抜けて背後の村雲へと流れていく。
しかし、致命弾だけは防いだ――そのはずだ。
正直、五分だ。当たり所が良いことを祈るしかない。俺は一縷の望みをかけながら、銃撃でアンセスタを制止しようとし、
「っあ」
どさ、と。
背後で何か、崩れ落ちる音がした――崩れ落ちる音がした?
何が、崩れ落ちたというのか。
村雲ではない。あの状態では崩れ落ちる以前に立ち上がることさえ出来るものか。
振り返っている時間は無い。
だが、アンセスタも、ノギスのヤツらも、動きを止めて俺の背後を見ていた。
だから、振り返る。
再街が、戻ってきていた。
「あ、ご、ごめ……やっぱり、なんだか、気になっ、……」
ごぷ。
口から血が溢れて、言葉が止まる。
胸部に、二発。心臓と肺を穿っているのは間違いない。致命傷だ。助かる見込みは無い。
「おい、再街――」
「……あの……なんか……なんだっけ……謝らなきゃ、いけないこと、あったと、思うん……だけど……思い出せないん、だけど……」
無理そうだ。間違いなく死ぬ。治療は無意味だと判断できる。いや、でも、どうだ? だからって放っておくのも間違いだろう。とりあえずでいいから、駆け寄るぐらいはした方が――
「あの時のこと、ご、め……」
自分の右腕を引きちぎる。漏出する白亜。仰向けに倒れ伏す再街の胸元に、それを突き入れるように叩きつける。
叩きつける。
叩きつける。
叩きつける。
そして。
【ステータス】
再街左希 Lv8 HP0/46kg
俺は、もう、完全に。
自分がどうしたらいいのか、分からなくなってしまった。
「あっちゃぁ……。死んだわね、その子」
00:00.00は既に超えていた。
爆発は起こらない。『主任』が爆ぜた自身の腕を千切り、捨てる。ガシャンという落下音が、
しょうもない奴だ。もう本当にどうでもいい。
それより、何より、分からない。
こんな時どうすればいいのか、この俺は知らない。分からない。
泣き喚けばいいのか? 怒り狂えばいいのか? 嘆き悲しめばいいのか? 何が正しい? そして、
決定的に、狂った。
最初から発射角度を誤っていたロケットを思う。軌道を逸れていく宇宙船を想像した。
もう取り返しはつかない。修正の望みは無い。
針路が、消えた。
「はぁ。記憶消すならちゃんと消しなさいよアナタ。よりにもよってウチの流れ弾で死ぬとかさぁ……これもう始末書確定じゃない。――ほら、もう来た」
死体の――死体の、でいいのか? まだ「これ」は再街と呼んだ方がいいのだろうか、分からない――銃創が、蠢動する。
止まった心臓。
力無く溢れ、零れる血の中で、蠢く物が在った。
混沌だった。
秩序と対をなすもの。
万色にて黒く燃ゆる
無でありかつ激しいというパラドクス。
炎と氷とスパークに包まれ、爆発的に増殖するそれ。
ありとあらゆる
――修正力。
傷口を起点に噴出し、極彩色に膨れ上がった混沌が視界を埋め尽くす。
それはこちらへ見向きもせずに、ノギスへの殺到を開始した。少女を撃ち抜いた銃手へと。
「あーあー……じゃ、残念だけどマニュアル通りにね。薬、持ってるでしょ」
「ま――待ってくださ、主任ッ」
ガスが高圧で噴射されるような音。
女が撃ち放った静かな銃声と共に、再街を撃った社員の頭が割れて、中身が散った。
黒い虹色が大きく震える。動きを止め、透明に掠れていく混沌。
「ほら、帰った帰った。ったくもう、ウチの社員は使い捨てじゃないってのよ。消耗品だけど」
消失。
現実に溶けるように、時の猟犬は、この世界から退去した。
そしてそれで終わりだった。
それ以上に劇的なことは何もない。女が他の社員に命じて、射殺された社員を拾わせる。
「それじゃ、私たちも帰るわ。これ以上
「……ま」
「何?」
「……。……待て……」
言ってみただけだ。
思考がまとまらない。こいつらをどうしたらいいのだろう。とりあえず殺してみるか。いや、何か、情報を聞き出す方がいいのだろうか。
「アンセスタ……」
喘ぐように振り返ってみる。
彼女は、再街に駆け寄って声をかけて、何か、心臓マッサージやらの、治療をしていた。
なんというか、無意味だ。いや、そうか、そういうもんか。そうだよな。とりあえずそういうことやった方がいいよな……。
ふらふらと立ち上がる。再街の方へ、無意味に歩み寄る。
そんな俺を無視して、奴らはこの場を去っていっ
それまでの全てが取り消された。
零秒後。
「なるほど――そうなるのか」
「……は?」
「それ以上の心臓マッサージはやめろ。胸骨が折れるぞ」
振り返る。
動きを止めたアンセスタの下で、無傷の再街が目を瞬かせている。
「え、あ……? その、だ、誰……?」
「……ッ?!?!」
無表情ながら、驚愕にアンセスタが後退った。
見れば、再街だけではない。先ほど『主任』に撃ち殺されていた社員も、ボロボロにされてこそいるが息を吹き返している。
なんだ――何が、起きた?
「まだ、許してやれる。全ての条件を受け入れろ、傷つけはしない」
状況を理解出来ているのは恐らく、村雲だけだ。ノギスの『主任』が混乱と困惑に満ちた表情で叫ぶ。
「な、あ……ッ?! おか、しいでしょうッ!? 蘇生能力、いえ、仮にそうだとしてもどうやって一瞬で、催眠、超スピード、違う! だって、キネマティックカウンターヴェイルも精神補強薬も正常に、」
「
零秒後。
いつの間にか移動していた村雲に、『主任』がその後頭部を掴まれ、体を持ち上げられていた。
「あ、あなた達ぃッ!!」
女の言葉に、社員たちが苦鳴に呻きながらも村雲へ銃を向ける。
俺たちがそれを制止しようと動くより早く。
零秒後。
何度もトリガーを引く音と、一向に発射されない弾丸。
「――――。弾、切れ?」
アンセスタの呆然としたような声が小さく漏れる。村雲の握り拳が開かれ、血に濡れた大量の弾丸がその掌から零れ落ちる。
無感動に女を吊り上げながら、渡り廊下の柱を見て、村雲はフラットな声音でつぶやいた。
「自分から近づいてくる分には減速しない、だったな」
がぁん、と鐘のような音。
金属製の柱に、村雲が女の顔面を打ち付ける。後頭部を掴み、そのまま振り下ろすように。
「ぎ、ぁ」
「聞くが――」
「な、何、を」
「――ダメだな。答えないか」
打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける。
ポップコーンみたいに歯が散って、潰れたトマトみたいに血が舞い散る。
「次で殺す。いや、死ぬ。さっきの一撃で額骨が割れた。次にお前を叩きつけた時、それは前頭葉に刺さって、抉る。死にたくなければ全て吐け」
「わがっ、分かった、分がったか――っぶ」
零秒後。
気がついた時にはその全身に無限の苦痛が与えられていた。
全身の皮は裂かれ。全身の肉は潰され。全身の骨は砕かれ。刹那の瞬間に行われた莫大量の拷問によって、血液が噴水のように全身から弾け散る。
「最後だ、答えろ。知っている全てを、吐け」
「い、ゔ……言う、が、ら……」
「
零秒後。
女の姿は、村雲の頭上十メートルの位置にあった。
「呉れて遣る。
軽い動作で、少年の左手が掲げられる。
それは、黒だった。
白亜と対極をなす黒源。縄のように文様のように黒々しいそれが左手を覆う。纏わりつく。
何を言われずとも知覚出来る。あの左手のある場所には『何も無い』。
その左手こそは絶対善。そこに触れる
絶殺の左手へ、為す術なく女は落下していく。
死ぬだろう。間違いなく。
対極の能力の持ち主として直感的に分かる。あの左手は、俺の右手と全く同じだ。それも、過去に引き戻す白亜と違い、あの黒源は未来へと加速させる。
だが、俺と違ってたかだか二週間なんてちゃちなものじゃない。恐らくは
女がこちらを見た。血で真っ赤に塗りつぶされた顔面でありながら、懇願の表情だと確かに分かる。
俺は、何も考えずにただそれを見送った。
アンセスタは、最高速で跳躍し、落下する『主任』の体を空中で抱きとめた。
「は――? おま、何やって、いや、違う、待て村雲ッ!」
待たなかった。あの男が待つわけがなかった。
ゆらり。村雲が、学ランのポケットから刃物を取り出す。ただ、刃物と言っても、肥後守みたいな、まだ包丁の方がよほど役に立ちそうな、ちゃちな工作用ナイフ。
着地したアンセスタにその刃先が向けられ――零秒。
「、
「随分と、よく
細く浅い、しかし無数の切り傷が、アンセスタの制服と皮膚を微塵に裂いて、その内部の黒い装甲を露出させる。
ノギスと違って、彼女はある程度あの訳の分からない村雲の攻撃を見切れるようだった。だが、完璧じゃない。
「逃げるぞアンセスタ! ンなやつ置いとけッ!」
「ですがッ」
「さっきそれで騙されたばかりだろうが!! なっっんで見殺しにしねえんだよ!?」
「
「……! この……!!」
俺は駆け出す――村雲の前へ。
立ち塞がる俺の姿に、真顔で奴は問いかけてくる。
「……今の、特にお前を説き伏せれてはいないと思うんだが」
「知るかよ……! 知らねえよ! そういうことじゃねえんだよ、クソ!!」
村雲に視線を向けたまま、背後のアンセスタに叫んだ。
「全員逃がせ! 早く! 時間は稼ぐ!!」
「いえ、それは……! いくら何でも、クウマでは勝てません! 時間稼ぎすら!」
「ここは俺に任せて先に行け! なあにすぐに追いつく! 俺より先に死ぬんじゃない! おまえと一緒に過ごせて楽しかったッ! この戦いが終わったら故郷でパン屋を初めて始めて両親に親孝行をして彼女と結婚する!」
「なんで増設するんですかフラグを!」
「いくぞ村雲! この技を見て生き延びた奴は居ないッ!!」
そして俺は村雲へ手のひらを向け――スタングレネードを『取り出し』た。
零秒後、とはならず。
数秒が経過し、その間にアンセスタは再街とノギスの全員を連れて、この場から離脱していた。
特に堪えた様子もなく、ただため息をついて、村雲は俺に言葉を投げる。
「なんで生かす? あのノギス工業とやらに共感する部分でもあったのか? 多数のために俺たちは死ねだの言う、あれに?」
「なわけねえだろ……! 知らねえモブが何人死のうがそれこそ知ったこっちゃねえよンなもん! あのカス共だって今すぐ俺自身がぶっ殺しに行きてえに決まってんだろ!」
「だったら、なんでだ」
「そんなの、決まってんだろ……
自分でも意図しない、絞り出すような声が出た。
村雲は、肥後守の刃先をこちらに向けて、揺らす。
一秒、二秒。奴は眉間にシワを寄せて、ナイフを下ろした。
「……特に納得行く理由も俺を説得する言葉も無いのに命を賭けるんだな、お前」
「言うなよクソ……! とにかく、一旦、待ってくれ村雲! 話し合いからだ! なんでもいいから、アイツらを殺すのだけはやめろ!」
「そうか」
村雲が唐突に携帯を取り出す。
しばらく操作をした後、奴は、アンセスタ達が逃げたのとはまた違う方向――校舎の外、夕焼けに照らされる街並みの中、どこか遠くを、じっと見つめた。
突然に停止した村雲を訝しみ、俺が「何を」と、問いかけるより早く。
零秒後。
――数キロメートル離れた街の一画で、爆発が起こった。
「……な」
遠く離れた学校からでも見える、もうもうとした鉛色の煙。
しばらくして、サイレンの音と、老朽化して掠れた市内放送のスピーカーが音を鳴らす。
『……ノギス電機ロジスティクスセンター永地支部で……の火災が発生し……放火と思わ……付近……市民の皆様は……』
村雲がまた二、三、携帯を操作する。
また違う方向、街のどこか遠くを見つめる――零秒。
大気の揺れる衝撃。郊外の町工場が爆炎に包まれて、大煙が立ち上る。
村雲はまた携帯を操作し、しかし、今度は顔をしかめる。
「これ以外のノギス関連会社は……遠いな、流石に。やっぱり、あちらを追った方が早いか」
「待て、お前……。何、やってんだよお前……」
「
当然みたいに、村雲零時は言い切った。
「待て、待ってくれ……世界的な大企業だぞ……違う、そもそも、大多数は、何も知らない普通の一般人、で……」
「
「――――」
言い返せなかった。
いや、そもそも……
「なんで……なんでだ……なんでなんだ……
「
あ。
あぁ……。
そう、か……そういうこと、か……。
村雲が歩き出す。
俺の横をすり抜けて、アンセスタが連れていった奴らを皆殺しにしようと歩み出す。
「退けよ、村雨――
「っ、ォッらぁああああああああああああああああ!!!!」
瞬間。
噴出する白亜が、凝縮する黒源と衝突した。
物質的な干渉はしない白と、物質的な干渉を殺す黒が、あり得ないはずの物理的拮抗を引き起こす。
鍔を迫り合う逆行と終極。過去と未来。因と果。善と悪。白と黒。
時空間が軋みを上げ、世界が割れる。次元の裂け目から覗く
「クソ……クソ、クソ、クソッ!! 畜生!!! そりゃそうだろうよ!! 相容れれるわけがねえだろうがあのクソ野郎ッ!!」
爆発的な超常の炸裂。因果を混乱させる衝撃の衝撃に、両者が数メートルほどの距離を弾き飛ばされる。
村雲は見つめる。絶対的な物質消滅を引き起こすはずの左手を防いだ、俺の右手を。
「……なるほど。
「行くぞ村雲ォ!
理屈も理論も捨て去って。
誰の理解も追いつかない領域で、王道無道の攻略が、今、始まる。
【挿絵表示】
丸焼きどらごん(@maruyakidragon
)さんからアンセスタのファンアートを頂きました!んぎゃわいい 良い意味で人間的な感じのしない無機的で神秘的な色合いがとても素敵ですね。
【挿絵表示】
親に向かってなんだそのあざといカレーパンは
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第20層「Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Reload」
勝つための算段など無かった。毎度の如く。
がむしゃらに全力で振り下ろした鉄パイプを、村雲零時が軽々回避する。
鉄パイプ五つを『取り出し』ながら腕を振るい、ワンモーションでの鉄パイプ投擲五連。最小限の身の捩りで躱される。
「っ、この……!」
圧縮空気解放。回避不能の局所爆撃。
至近距離で開放した奔流を、村雲零時は五指で
否、裂いたのではない。気流の操作だ。荒れ狂う空気の中に方向性を作って散り散りになるよう統御された。
空圧を薄紙のように貫いた手が、俺の握る鉄パイプを掴む。
「――こんな不良の玩具で、この俺を止める気か? お前」
「離せこのイカレ……!」
「もう少し
次瞬、衝撃。
どこから飛んできたのか分からない蹴りだった。肩に入った一撃が、俺を一足間吹き飛ばす。
衝撃に腕がビリビリ痺れる。間合を再度詰めながら、奴に向かって俺は叫んだ。
「後、悔――」
「するかよ」
『取り出す』。大振りのサバイバルナイフを一つ。
「――すんなよクソがァアアアア!!!」
〝あなたは、
短剣忍刀海賊刀包丁刀長剣大剣三叉槍長槍鉾槍長棒杖手斧大斧戦斧鎌大鎌棍棒大槌。一瞬ごとに切り替わる武器種。
リーチも形状も重量も威力も万種万容。
振り下ろす一撃の姿は、もはや無数の残像が混ざりあったモザイク状の影でしかない。
そして、インパクトの瞬間。
「だから言っただろう――真面目にやれよ」
俺が最後に『取り出し』た木刀を、村雲零時は素手で受け止めていた。
「ッ……!」
「この俺とお前が対等の条件で戦っていると思うな。殺さないから殺す気で来い」
「舐、めやがって……!」
木刀を『収納』する。本物の刀を『取り出す』。
そして一閃――迷いなく手刀で峰を叩かれ、弾き飛ばされる。
長剣を『取り出す』。短剣を『取り出す』。包丁を『取り出す』。ナイフを『取り出す』。小太刀を『取り出す』。野太刀を『取り出す』。曲刀を『取り出す』。直刀を『取り出す』。
だが、届かない――俺の繰り出す真剣の刀剣の数々を、村雲零時は素手の手刀一本で迎撃する。
……正気か、こいつ! 『刃物が怖い』って気持ちが微塵もねえのか!
「怖かったから何だ? 恐怖を乗り越えていくのが人間じゃあないのか?」
まるで人間味の無い声と、表情と、態度で、こいつは、こいつは――ああ、ああ、ああ、クソ!!!!!
もはや言われるまでもなく手加減などするものか。
『取り出』される拳銃二丁。
そして銃撃、より、早く。
「――!」
握った凶器が視界から消える。蹴り飛ばされるピストル二つ。
宙に舞ったマガジンを村雲が掴み、
中から出てくるのは――非殺傷用のゴム弾が十数発。
「……手加減が何だって?」
「ッ~~~~!!」
『取り出す』。
俺は拳銃の銃口を、自分のこめかみに押し当てる。連射。
〝あなたは、1個の非殺傷弾を拾った〟〝あなたは、2個の非殺傷弾を拾った〟〝あなたは、3個の非殺傷弾を拾った〟〝あなたは、4個の非殺傷弾を拾った〟〝あなたは、5個の非殺傷弾を拾った〟〝あなたは、6個の非殺傷弾を拾った〟
自身の内に『収納』した弾丸六発。
それらの弾速が死ぬ前に、俺は村雲に向かって突進した。
拳を振り回す。勢いだけのテレフォンパンチ。
当然のように回避されるであろうそれは、当然ただの牽制だ。
迫り来る拳に、意識を集中している奴に向けて。
俺は、
〝あなたは、
眼球の表面から『取り出』された射撃。予想外の座標から放たれた銃弾。
拳撃に気を取られているコイツには、ただ黙ってこれを受ける以外に無く――
「――はっきり言わなければ分からないか?」
「…………!!」
……だ、から……!
何で避けれんだよ、これが……!!
射線も! 射撃の起こりも! 読めるわけないはずだろうがこんなの!
「
鉄パイプを薙ぎながら左の爪先から発射。
長剣を振り下ろしながら剣先から発射。
蹴り払いながら左手から発射。右肩から発射。口内から発射――全て躱される。
〝あなたは
なら――速度だ。
どう攻撃しても読まれるというのなら読まれようが反応出来ないレベルのスピードで潰す他無い。
背中から圧縮空気を噴いて加速。自らを吹っ飛ばすような勢いの衝撃波を多方向に連続発生させ、攻撃軌道は稲妻のようなジグザク状。俺自身でも制御しきれないほどの速度と手数。
「当然のことをしているだけだ」
足りない。俺の全速力を、村雲零時は無駄口さえ叩きながら悠々と躱していく。
「隣人を守り、日常を維持する。そのために全力を出す。せめて手の届く範囲にあるものを守ろうと必死になる。どこにでもある常人の足掻きと全く変わらない。何が悪い?」
更に加速する。全身に青痣を作るほどに自分に圧縮空気を叩きつけ、限界速を超えた連撃を試みる。
「何が『せめて手の届く範囲を守る』だ……! その範囲の外を全部ぶっ潰す覚悟のお前が! 一般人ヅラすんじゃねえよ気味の悪いッッ!!!」
「殴ってくる相手を殴り返さないわけにいくか。誰もがそうしている。皆が皆、自分の日常を守っている。出来なければ負ける。失う。奪われる。死ぬ。シンプルだ」
「極論だ! お前は物事を焦り過ぎる!」
「だからどうした」
超速での突撃、交錯――吹っ飛ばされたのは俺の方だった。
地面に叩きつけられる。衝撃に肺が空気を全て吐き出す。吐血する。開きかける傷口。
与えることが出来たのは、僅かなかすり傷一筋だけ。
「この俺は本気でやっている。平凡な日々を守ることに命を賭ける。正しい人生を渾身で生き抜こう。理不尽な暴力に屈さなくて何が悪い。不条理な圧政に膝をつかなくて何が悪い。極論だと? 極端だと? お前らがそうなれないだけだろうが。この俺は違う」
もう格付けは済んだ。そう言わんばかりに、奴が攻撃に転じる。
抉るような蹴りが俺の脇腹に突き刺さった。鉄板ガードは間に合ったが、衝撃は殺しきれない。肋骨が軋むような鈍い痛み。
反撃の鉄パイプが空を切る。まぐれでも良いと振り回す。当たらない。
霧を薙ぐような手応えの無い攻撃を繰り返す俺に、襲い来る驟雨のような蹴りの乱打。
鉄板を『取り出し』ての防御は間に合った。間に合ったが――間に合うだけだ。
防御越しに響くダメージ。耐えられはするが、耐えきれない。
息もつかせぬ連撃によって蓄積する損害。外面を取り繕っただけのズタボロの内部から感じる、内出血の気配。確信する。もはや三撃と保たない。
「っ……!」
「この距離でか?」
苦し紛れに『取り出し』たスタングレネードが、出現した瞬間に蹴り飛ばされる。頭上で起こる閃光の炸裂。渡り廊下の屋根に遮られる。返す刀で入れられるローキック。視界に映る自分の
退くしか、なかった。バックステップと共に、噴射するように『取り出す』圧縮空気の奔流。
「『ブラック・オーダー』」
直後、
そして俺の鳩尾に突き刺さる、貫くようなミドルキック。
「ぎ……!」
「最後だ、村雨空間」
手も足も、出なかった。
これまでの敵とは訳が違う。超常も武装も何も無し。素手。ほぼほぼただの素手だけで、俺の全ては完封された。
真っ直ぐに伸び上がるハイキック。せめて直撃を避けようと首を振った先に、まるで
避けも逸らしも出来ず、確実に俺の意識を奪い去るだけの蹴りが俺の顎を打ち上、
〝あなたは意識を失っ〟――まだだ。
見える。この俺には「俺」が見えている。
まるでゲームのような三人称肩越し視点。よろけた「俺」が倒れる瞬間も待たずに、村雲零時は踵を返して、アンセスタ達を追おうとしている。こちらは向いていない。注意すらしていない。
手を伸ばす。蠢く白亜。操り人形の糸を
有り得るはずがない踏み止まり。跳ね返るような踏み込みの勢いを右拳に乗せて、今まさに振り返ろうとした奴の顔面を――撃ち抜く。
「――ッが」
見開いた目に宿る困惑の視線。
この戦闘開始以来初めてのクリーンヒット。
同時に、
視界隅に表示された村雲零時の
……見間違いか?
今、殴るより前に生命質量が減少していたような――
「待、て……! なんッで動ける村雨空間……! 確実に刈ったはずだろうが意識を! それに、今の白いヒトガタは、」
「なあ村雲零時。――お前、本当は他にやること無いだけなんじゃねえのか?」
気合・根性・意志力。否だ。そんなものでは説明がつかないし、そんな高尚なものであるはずもない。
根本的に俺は『そういうもの』ではないのだ。むしろ逆。ただ、それを認めるわけにはいかないだけ。
意味不明に食いしばった俺に、奴が動揺を隠しきれない目でこちらを見る。
そして、零秒。既にその瞳の中に混乱や狼狽は無くなっていた。
「舐めていた」
「だろうな」
来る。
迷宮主・村雲零時の有する
強力無比にして一撃必殺の、避けることは決して出来ない
何としてでも打ち破る。
観察しろ。白亜回廊に貯蔵した
どんな
両者停止。一瞬の静寂。世界が凪いだ。
そして。
「
「迷宮、開廷――
開廷
いいや、恐らくは既に開いていた。
風景に変化は無い。村雲零時に変化は無い。俺の五感で感じる範囲、変わったことは何も無い。
何も、起こらない?
奴が向かってくる。今までの底の見えない洗練された動きとは違う。まるで技巧の見られない、考えなしの正面突撃。
これならば躱せる。
薙ぎ払うような大振りの蹴り。予想外に攻撃範囲は広いが、それでも掠るだけだ。
左肩に走るわずかな衝撃。バカみたいな大振りで隙を晒した村雲零時の顔面に、俺は右ストレートを叩き込んだ。苦鳴を漏らし、鼻血を噴きながら村雲の体が吹っ飛んで、
「――
両者停止。一瞬の静寂。世界が凪いだ。
そして、
「っ……!?」
なんだ?
今、何をされた?
あいつはまだ
何故か左肩に衝撃が走って
不可視の弾丸か何かを飛ばしたのか。分からない。
奴が向かってくる。今までの底の見えない洗練された動きとは違う。まるで技巧の見られない、考えなしの正面突撃。
これならば躱せる。
斬り上げるような大振りの蹴り。予想外に攻撃範囲は広いが、それでも掠るだけだ。
脇腹に響くわずかな衝撃。バカみたいな大振りで隙を晒した村雲零時の顔面に、俺は右ストレートを叩き込んだ。苦鳴を漏らし、鼻血を噴きながら村雲の体が吹っ飛んで、
「――
両者停止。一瞬の静寂。世界が凪いだ。
そして、
「っ……!?」
なんだ?
今、何をされた?
あいつはまだ、迷宮を開いてさえいないのに、何故か左肩と脇腹に衝撃が響いて――
不可視の弾丸か何かを飛ばしたのか。分からない。
奴が向かってくる。今までの底の見えない洗練された動きとは違う。まるで技巧の見られない、考えなしの正面突撃。
これならば躱せる。
そう思った俺に、フェイントをかけての回し蹴り。しまった、当たる。だが、それ以上に奴の晒す隙の方が大きい!
鉄板で防御するが、肋骨に響く大きなダメージ。しかし、バカみたいな大振りで隙を晒した村雲零時の顔面に、俺は右ストレートを叩き込んだ。苦鳴を漏らし、鼻血を噴きながら村雲の体が吹っ飛んで、
「――
両者停止。一瞬の静寂。世界が凪いだ。
そして、
「が、ァッ……!?」
なんだ?
今、何をされた?
あいつはまだ、迷宮を開いてさえいないのに、何故か左肩と脇腹と肋骨に衝撃が響いて――
「――
両者停止。一瞬の静寂。世界が凪いだ。
そして、
「っぎ、バ、ぁアアアアアアアアアアアア!?!?」
見えない
なんだ?
今、何を、され、た!?
奴が向かってくる。今までの底の見えない洗練された動きとは違う。まるで技巧の見られない、考えなしの正面突撃。
これならば躱せる。
「……ッ!」
「
だが、直後。俺は跳んだ。咄嗟の勢いで跳び退いた。
圧縮空気を噴いて、ただの高校生の脚力ではあり得ない距離のバックステップ。
移動してきた村雲零時が、脚を振りかぶる。既に俺はそこには居ない。タイミングの遅れた渾身の蹴りは、ただ虚空を薙ぐばかりであり、
「――
見えなかった。俺が後方に跳び退こうとする一瞬前。
奴は俺のすぐそばに瞬間移動して、渾身の蹴りを俺の胴体に叩き込んだ。
「ゴッ、が!?」
「
どうにか踏み止まるものの、横合いに吹っ飛びそうになる身体。それを尻目に、村雲零時は腰溜めに拳を構え、
「――
まるでコマ落としのように、零秒で放たれた右の拳。
振り切っていたはずの脚は既に地面を踏みしめている。見えざる一閃が、俺が踏み止まるより早く俺の身体を打ち据える。
「か、ハ……ッ!」
マ、ズい!!
蹴りと拳で吹っ飛ばされた俺は、それでもどうにか中庭に着地。
同時、内部に貯蔵した全てを吐き出す勢いで、足裏から圧縮空気を『取り出し』た。
爆散する中庭。一日中校舎の陰になって、光の差さない砂っぽい地面が爆ぜ、茶色い粉塵が宙に舞う。
一瞬で良い。相手の視界を奪い、間合いを取る。
「
直前に奴が学ランを脱いで砂を散らすように振り回すのが見えたが、その程度では何も、
「――
村雲零時が振り回した学ランが、爆風を伴って粉塵の全てを吹き飛ばす。
「……!?!?!?!?!?」
なんだ――。
なんなんだ、コイツッ!!!
俺は、圧縮空気の炸裂によって、高く宙を舞う。
流石にこの高さに追いすがってくることは出来ない。そういう確信があった。
しかし。しかし、この優位を活かせねば、
間違いなく負けるという、
本能的な、
直感――
「ッ、ぁああああああああああああああああ!!!!」
サブマシンガンを『取り出す』。
もう、もう本当に手加減などしている場合ではない。
大丈夫だ、直接当てはしない。弾幕を張れ。相手の動きを制限しろ。牽制になればもはや何だって構わない。
太陽を遮っていた校舎の影より高く飛び上がる俺。
差し込む夕陽が、背後から俺の背中を赤く照らしだす。
「
そして。
村雲零時は、校舎に逃げ込んだ。
「は……?」
虚を突かれた。引き金を引くことも出来ず、中庭に落下。
どうにか受け身は取れたものの、ダメージを受けた身体がギシギシと痛む。
追うか? いや、作戦なのか。少なくとも、このまま無準備に追って迂闊に奴との距離を詰めていいはずがない。
ノギスによってこの校舎は人払いがされているという話だし、そもそもあの性格上、他の生徒を巻き込むことは絶対に無いだろうが……。
慎重に、俺は校舎の中へと奴の影を追う。カンカンカンカン、と階段を駆け上る音が響いてきた。それも、凄まじいペースだ。上階へと向かう村雲零時の存在。こんなに急いで一体どこへ、
「――
太陽を遮っていた校舎の影より高く飛び上がる俺。
差し込む夕陽が、背後から俺の背中を赤く照らしだす――
「
今の今まで、中庭の地面に立っていたはずの村雲零時が。
屋上を蹴って、俺の頭上へと、跳び出していた。
「な、」
「
そのまま、中空にいる俺へと、落下の勢いをつけて飛び蹴りを放っ、
「
そのまま、中空にいる俺へと、落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて飛び蹴りを放っ、
「
そのまま、中空にいる俺へと、落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて飛び蹴りを放っ、
「
そのまま、中空にいる俺へと、落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて飛び蹴りを放っ、
「
そのまま、中空にいる俺へと、落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて飛び蹴りを放っ、
「
そのまま、中空にいる俺へと、落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて飛び蹴りを放っ、
「Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re――――Relentless、Reloaded」
落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて落下の勢いをつけて――
「――必殺・無限蹴り」
終端速度290km/h。
反応することもままならない超速の一撃が、俺の土手っ腹に墜落した。
ソウルゲーでめっちゃ時間かけてボスをギリギリまで追い詰めたのに死んだらまた最初からというつらみの中思いついた能力です
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第21層「白亜回廊、開廷」
衝突。
『取り出し』た鉄板による防御を、易々と貫く蹴りの一撃。
全身の爆裂、貫通、あるいは両断。そんなイメージを引き起こす破壊力が、骨と筋肉を粉砕して俺を地面へと流星のように墜落させる。
受け身は取れなかった。頭蓋が陥没する「
だが、それがなんだと言うのか。
「ぎ……ッ!」
もう、両足が折れている。
立てない。
「……そう、だ……。立てないように、折った」
落下の衝撃に自身も大きなダメージを負いながら村雲零時は無傷の状態で立ち上がり、俺を見下ろす。
「構造的な話だ。その骨の状態じゃどう足掻いても立てない。直に、迷走神経反射で意識も落ちる」
血圧が落ちる。
視界が眩む。
意識が――
白く――
消、
だがその程度でこの俺が戦闘不能になると思ったら大間違いだった。
「まだ、
「
ゴッ、と、無骨な打撃音が、この俺が見ている前で俺の体を打ち据える。
そして、零秒。
気が付けば、折れた足が渡り廊下の柱に、紐で括り付けられていた。
無理に動こうとすれば肉が剥がれて筋が千切れる。これ以上の無理は一生足が動かなくなるも同義だ。アンセスタに投与されたナノマシンや、自殺産道製の治療薬があろうとどうなるかわからない。
だが、それでも。
離れていく村雲零時の足。俺は咄嗟に伸ばした手でそれを掴んで、
「待、」
「
離れていく村雲零時の足。俺は咄嗟に伸ばした手でそれを掴んで、否。
掴もうとすることを、最初から知っていたように躱されて――
「…………」
「……待、て」
そして。
無意識に動いた俺の指が。
「……反射神経か」
離れていく村雲零時。
裾に引っ掛けただけの指が外れて、地面に落ちる。
もう、足を引きちぎりでもしなければ、あいつに追いつくことはできない。
拘束された俺を振り返ることなく、奴はその場を去っていった。
村雲零時は道を探る。
それは三次元上の
彼にとってはあらゆる出来事はもはや総当たりで解決可能な事象に過ぎない。それは人間が決して獲得すべきではない六つ目の感覚。因果を知覚する異形のクオリアを、彼はその手に掴みかけている。
そして、幾度もの選択と試行の末、辿り着く。
「……
この相手を、避けては通れないという結論に。
そこは誰もいない無人のグラウンド。その中心。
眼前には立つのは、この学校の制服を着た、長い銀髪の少女。やや丈余りの袖から、ちらりと覗く機械義手。
見る限りでは、まさしく少女。人形のように無機質な、背の低い、幼げな少女にしか見えない。先ほどの一連の流れを見ていた村雲零時にさえも。
だがしかし、頭では分かっている。
この少女――探索兵器アンセスタが、先の村雨空間など及びもつかない、非日常の怪物であることは。
「第二形態・非殺傷・
アンセスタの手から溢れる黄金の光剣。
彼我の距離は十メートル。おおむね教室の端から端程度。
曰く、剣道における一足一刀の間合い、すなわち相手に即座に攻撃可能な距離はおよそ1.5メートルから2メートルとされる。
故にこの距離からならば一瞬で切り倒されることはないように思える。
が、しかし、そのような常識が通用する相手でないことも同様に分かっ、
「と見せかけてビーム」
意表を突かれる。回避は間に合わない。
土手っ腹に突き刺さる黄金の一撃。それは必要十分な威力で彼の意識を刈り取って、
「
あらかじめ意表を突くことが分かっていたように躱す。
「
そして突撃。放たれた矢のように駆け出す彼の姿はまるで攻勢一辺倒。
だが問題ない。例えどのような攻撃を繰り出されたとしても、文字通り見てから対処することができる。彼の王道無道は、受動においてまさしく最強の能力だ。
まずは様子見。大振りの蹴りを放つ彼を、彼女はひょいと軽く避けて、そのまま返す刀でその顔面に威力を加減した光剣を叩き込む。
「
その回避機動を観測し終え、村雲零時はモーションを修正した蹴りを放つ。
だが避けきれないはずのその蹴撃を、アンセスタは見てから回避する。覆し切れぬ身体性能の差。格差。彼女にとってはこれすらまだ様子見だ。そのまま返す刀でその顔面に威力を加減した光剣を叩き込む。
「
だが覆し切れぬということは決して覆せないことを意味しない。
つまりは意識の差。『今は互いに様子見の段階である』という意識――
要はスイッチの切り替えだ。一から十へ。瞬時に点火するトップギア。つい先ほどまで様子見でしかけてきていた相手が、零秒で絶殺に入れ替わる。緩急というのならばこれ以上はない。村雲零時の能力ならば、それができる。
そう。本来、客観的には、もしこの戦いを横から見ている第三者がいるとするならば、戦いは今から始まるところなのだ。
彼と他人では生きている時間が違う。蓄積される経験値がどうこうではない。それ自体が強み。
エンジンが稼働しきっていない彼女ではそれに対応する術は無く、
「うみゃ」
「――――」
それほどまでに身体性能に差があるというのか。だが、だとしても対応不可能な領域はあるはずだ。受け手を誤ってしまう一撃はあるはずだ。今の回避とてギリギリだった。決して追いつけないほどの差ではない。
「
むしろ、王道無道の真領はここからと言っていい。
蓄積される経験値。積み上がっていく試行錯誤。何度も何度も何度も何度も、トライアンドエラーを繰り返してたった一度の有効打を見つけ出す。
死角から放たれる蹴り。「みゃ」紙一重で躱される。「
「…………」
紙一重から、縮まらない。
「こい、つ――」
反射神経などという話ではない――いや、反射神経なのだ。対処はとても機械的。
人間の選択肢は無限だが、人体の選択肢は有限だ。こうきたらこうするという正解が存在している。
だから、単純な対応行動である限り。
機械的な正解を返し続けるアンセスタは、受け手を誤るということが、
それでも、これが尋常な人間同士の立ち会いであるならば村雲零時はまだ競り勝てるだろう。
人体と人体。取れる選択肢が同じである以上、相手が何をしてきたところで理想行動をすれば対処は可能なように思える。が、実際はそうではない。
姿勢に体格、位置に状況、身体状態に精神状態。優位な面と劣位な面は双方でそれぞれ絶対に違う。詰め将棋のようなものだ。例え理想行動を取ったところで、対応不可能な選択肢は確実に存在する。
だがアンセスタはジェットを噴いて飛ぶ。腕を切り離す。可動域をブッちぎる。身長143cm体重72kgの重元素バイオマテリアルボディ。人体に可能な選択肢もクソも無い。
一から十とか、経験値がどうとか、そんなレベルの話ではなかった。
村雲零時がグー・チョキ・パーをジャンケンの直前1秒前に変更できようが、グー・チョキ・パー以外の新しい手を考えようが、アンセスタはジャンケンの直前0.1秒前に自動で手を変更するシステムを搭載しているしそもそも指が十本あるようなもの。
さらに。
「ところで今、46回目のループで合っていますか?」
「――――。
「ところで今、47回目のループで合っていますか?」
「
「ところで今、48回目のループで合っていますか?」
「
「ところで今、49回目のループで合っていますか?」
「……
「多分、今は50回目ですよね? よくやりますね」
ダンッ!! と、肉食獣の爪から飛び退くように村雲零時は距離を取った。
「驚くことも慄くこともないでしょう。こんなものはただのシミュレーションです。あなたの行動、力の入れ具合、視線と意識の向いているポイント。そしてその推移。それらから逆算すれば、決して辿り着けない視点ではありません」
そう言ってのける。こともなげに。
性能が違う。違い過ぎる。
アインソフ・ヨルムンガンド。アレなどは所詮、獣だった。油断、慢心、乱雑、不合理。積み上げた圧倒的な力と経験を振るう
だがアンセスタは違う――
パラメータを比較することに意味は無い。
この少女は、最初から常人では勝てぬように造られている。
「
故に、村雲零時は接近してくるアンセスタに合わせて足元の土を蹴り上げて。
「
動作が繰り返されること幾十。
莫大量の土砂が、互いの間に巻き上げられ、土煙となって視界を覆う。
アンセスタが数秒、静観した後、腕を広げて全方位へ軽く黄金の衝撃波を放つ。
吹き散らされる煙幕。
視界が晴れたその先、眼前に立つ村雲零時。
彼が数秒のうちにどこからか持ち込んできたのは――金属バットと、カゴに入った大量の硬式球。
「――
ふわり。浮き上がるように上へと軽く
村雲零時がバットを振るう。放課後のグラウンドに響き渡る小気味良い快音。当たりは当然ジャストミート。衝撃摩擦の焦げ臭い匂い。すなわちは、時速160km殺人ライナー。
「えー。バッターボックスには一番、ノギス工業アンセスタが入ります。稀代の機体は果たして期待通りに塁に進むことはできるのか」
少女は普段より感情を乗せて声高に、ウグイス嬢の如く透る声でアナウンス。
黄金光をバット状に形成して、ぐるりと手首を回し――強振、快音。
「打ちましたっ、大きい、ホームラッ、」
「
第二球。
巻き戻すタイミングは第一球を打った零秒後。第一の殺人ライナーと同時に放たれる第二の殺人ライナー。
飛翔する弾丸二つを、アンセスタは両手に出現させた二本のバットで打ち返す。
「
歪む快音。放たれる殺人ライナー三十五連。
流石の彼女も捕捉しきれない凶弾の群れ。全身を回転させ、剣舞のように猛撃を躱しながら打ち返していくが、それでも球の一つが肩を掠める。
そして、一度でも当たってしまえば、村雲零時はその事象を無限に繰り返せる。
「迷宮開廷。――
展開される見えざる黒。王道無道が世界に満ちる。回路のような黒縄が、あらゆる地点に纏わり走る。
ただでさえ時速160km硬式球の運動エネルギーは単純計算で拳銃弾の三分の一に相当するのだ。
いかにある程度弾丸を耐え凌げるように設計されている彼女の
だが。
「
前ループから持ち越されるはずの『球の一つが肩を掠める』という事象が、リロードと同時に消失する。
「なるほど。ループ自体はあなたの能力ですが、以前のループから起こした事象を持ち越すのは、擬似迷宮に備わった能力。――そして、事象持ち越しの対象に取れるのは、
「っ、」
「ならば、体表に簡易迷宮を纏って、他の迷宮を押し返している弊機にそれは効きません。タネが割れた以上はここまでです」
周囲に存在する見えざる黒。王道無道の満ちる領域。
世界全てに走る回路のようなその黒縄を、彼女の迷宮が切り拓くように打ち払う。
「簡易迷宮、最大展開――
機体に過負荷をかけて、展開される半径数十メートルの簡易迷宮。
飲み込まれる王道無道。ギリギリで完全に押し潰されないように耐えているが、補助効果の強い彼の迷宮は、その分迷宮同士の押し合いに弱い。
ただし、探索兵器アンセスタは迷宮主ではない。あくまでノギスの技術で再現されただけのその迷宮は、機械部品の世界を作ったり、邪魔を祓う千本鳥居を構築したり、因果律を歪める干渉域を作り上げたりと言った力を振るうことはできない。
何の補助効果も持たない、他者の迷宮を押し返すだけの迷宮。
だが、そんな彼女の簡易迷宮であっても、擬似迷宮としての基本的な機能自体は備わっている。
「第三形態・非殺傷・
村雲零時から中心半径二メートルまで縮小させられた王道無道の領域外。
アンセスタの簡易迷宮内に出現した無数の銃口が、黄金の稲妻を散らしながら、一斉に村雲零時を狙い撃つ。
回避の手は無い。防御の択は無い。耐え凌ぐ道も同様に。
厳密なる方程式にて完遂される無情無慈悲な演算試行。
村雲零時の性能では絶対に、この金色の猛威を越えられない。
「
静かな動きで向けられる、少年の左手。
何を言われずとも知覚出来る。あの左手のある場所には『何も無い』。
その左手こそは絶対善。そこに触れる
「残念ながら、
迫りくる光条の総数、256。
左手一本で迎撃できる道理は、無い。
「――
そして、光の檻は機械的に村雲零時を蹂躙し、
「
そして、光の檻は機械的に村雲零時を蹂躙し、
「
そして、光の檻は機械的に村雲零時を蹂躙し、
「
そして、光の檻は機械的に村雲零時を蹂躙し、「
七秒間の炸裂。
「…………」
アンセスタは判断する。
――勝った。
慢心でも油断でもない。複数かつ同時かつそれでいて時間差も含んだ包囲攻撃。ただの高校生に対処できる道理はどこにもない。
「……相性が良かったですね」
道無き道の君臨者、
なるほど確かに、アレはアインソフに勝つこともできる能力だった。
一度でもミスをすれば、否、一度でもミスをする可能性があるならば、その時点で絶対に勝てなくなる能力。
対処できるとするならば、アンセスタが今しがた行った飽和攻撃か範囲攻撃。あるいは、何度繰り返したところで絶対に勝てない、現象的な存在だけだ。超越主の中でも特に
当初の仲間にするとか漁夫の利を狙うだとか言う作戦は丸っ切り失敗に終わってしまったが、これに関してはむしろ前向きに捉えるべきだろう。
村雲零時はあまりにも危険過ぎた。その気になれば零秒で誰にも止められない広範・多様・大規模・致命的な事象を引き起こせる神のごときその権能。現在この街がある程度無事なのは相手の気性故だ。これほどの相手をさして被害の出ていない今の段階で仕留められたのは成果と言って間違いない。
そして、彼女はふぅ、と、ため息のように排気をして。
「――――。な、に?」
それを見た。
「Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re.Re」
〝『村雲零時』はより強くなった〟
〝『村雲零時』は成長した〟
〝『村雲零時』は回避の技能の成長を感じた〟
〝『村雲零時』はレベルが上がった〟
〝『村雲零時』は器用になった〟
〝『村雲零時』は見切りの技能の成長を感じた〟
〝『村雲零時』は成長した〟
〝『村雲零時』は我慢することの快感を知った〟
〝『村雲零時』の意思は固くなった〟
〝『村雲零時』は周りの動きが遅く見えるようになった〟
〝『村雲零時』は成長した〟
〝『村雲零時』は世界をより身近に感じるようになった〟
〝『村雲零時』はレベルが上がった〟
〝『村雲零時』はレベルが上がった〟
〝『村雲零時』はレベルが上がった〟
〝『村雲零時』はレベルが上がった〟
〝『村雲零時』はレベルが上がった〟
――耐えている。
光条の群れを回避し、防御し、迎撃し、対処し、耐え凌ぎ切っている。
村雲零時の周囲で、メッセージを告げる
特に戦闘経験の無い理論派の研究者が開発したノギス式脅威測定法によって算出される数値。
あてにはならない。それはわかっている。だが、だが、だが――。
砲撃はまだ続いている。
七秒を過ぎた後、村雲零時がまだ立っている確率は零だ。それを算出した上での包囲攻撃だったのだ。
千を超える試算の果てに、アンセスタはそれを確認したのだ。
だから、まさか、と試行する。
彼の行動、力の入れ具合、視線と意識の向いているポイント。そしてその推移。
それらから逆算し演算する、現在のループ回数の概算は。
「じゅ……――
――光条群、突破。
飛びかかってくるシルエットは何も変わらない。だが違う。内に秘めた硬さ、鋭さ、しなやかさ。精神的な経験値を貯めたのでは無い。
つい先ほどまで王道無道をほとんど押し潰せていたはずの簡易迷宮が、ガラスのように崩壊していく。出力の桁が段違いだ。何もかもが成長している。レベルが違い過ぎる。
「呉れて遣る。
唸る黒腕。絶対消滅。
回避はできない。防御はできない。対処はできない。
どういうわけか。何をどう試算しても、それらの
アンセスタは即座に演算を放棄した。ただの勘、完全なる直感でもってその一撃を凌いでのける。
だが足りない。機械的な対処を捨てた時点で無謬は終わりだ。
「――
黒い掌に連続して放たれる蹴り。ほんの僅かに掠って、それが無限に繰り返される。ループから持ち越された事象によるたった一度の連続攻撃。
「『ブラック・オーダー』」
染まる黒源。次の掌は躱せない。
決意するのは黄金歴程の最終形態。だが間に合うか。最終形態をもってしても、果たしてこの男を止められるのか。わからない。
だが。
だが、それでも。
そして、彼女が槍を振りかぶる――
「――『ホワイト』、」
その直前。
「『オー、ダー』ァアアアアアアアアアアアア!!!!」
飛び込んできた白亜の右手が、黒源の左手を相殺した。
鍔を迫り合う逆行と終極。過去と未来。因と果。善と悪。白と黒。
物質的な干渉はしない白と、物質的な干渉を殺す黒。物理世界から外れた両者が、あり得ないはずの物理的拮抗を引き起こす。
時空間が軋みを上げ、世界が割れる。次元の裂け目から覗く
爆発的な超常の炸裂。因果を混乱させる衝撃の衝撃に、両者が数メートルほどの距離を弾き飛ばされる。
村雲零時は見つめる。
絶対的な物質消滅を引き起こすはずの左手を防いだ、その右手を――その右手の持ち主を。
「村雨、空間――」
「第三ラウンドだ、村雲零時……! 今! 今、ここから!
そして、彼の右腕の断端から。
純白の何かが、滴り落ちる。
「まさか」
「基底現実・伐界開始」
裏返る内界と外界。
漂白の夢が、深化する。
――世界の全ては、白亜の回廊に塗り替わる。
「迷宮開廷――
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