Individual (箱女)
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 映像作品の終わりに流れる数多くの文字列を、ノイズとして捉えるのが日尾和葉の習慣だった。下から上へ、あるいは右から左へ行進する名詞の羅列は、映像を汚すという理由で彼女にとっては有害ですらあった。それらを美しいと思ったことのない感性を彼女自身疑ったことはない。必然、わざわざ見る対象としての立場が与えられることもなかった。

 しかしいま、彼女は強いエネルギーをともなった感情とともにエンドロールを眺めていた。ある三つの漢字の並びはとくに和葉を苛立たせた。一度は吞み込んだと思った敗北がもういちど胸に火を灯す。自分の名前がその後に流れてくる事実が不快だった。

 

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 道を行く和葉の姿に誰もが振り返るのが常だった。素顔で歩けばもちろん、大きなサングラスをかけようが髪型を変えようがそれは変わらなかった。夜道ですれ違ったってそれは当たり前のことだった。そのことは何も彼女が有名になってからの話ではない。中学校に通い始めてしばらく経ったあとから、規模は小さかったがその現象が起きるようになった。

 当時の和葉は美醜の区別をあまりつけていなかったが (今でさえ同年代に比べてそこにこだわりがあるようには見えない)、彼女はいつの間にかそれを自然なこととして受け入れていた。

 そしてそんな和葉が芸能界に見つかるのにそれほど時間はかからなかった。

 

 誰がスカウトのために声をかけてきたのかを和葉は思い出せない。そんなことはどうでもよかったし、今でもどうでもいいと考えている。しかし客観視に優れ、外見の印象をはるかに超えて聡い彼女は、すぐにそれがチャンスなのだろうと察した。重要なことはその場所で金が稼げるかどうかということだけだった。

 結果だけを見れば和葉は才能に恵まれており、芸能界という環境は性格を含めて金を稼ぐのにおそらくもっとも適していた。彼女にとっては当たり前のことすぎて、誰かにそういう特別なものがあると言われてもピンとは来なかったがそれは確かにあった。和葉がしゃべれば、その場が小さなグループであれ教室全体であれ、みんなが意識を向けずにはいられなかった。川の流れが石を丸く削ってゆくように、あらゆる視線が和葉の美質を磨いた。それは芸能界でさえ輝くにじゅうぶんなほどの光沢を備えていた。

 だから彼女の美しさは力を湛えていた。

 

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 テレビのリモコンが直線軌道を描いてソファに呑み込まれる。わずかに弾み、位置が定まる。遅れて投げ出されるようなかたちで腰が収まる。ソファが不満を訴えるようにぎしりと音を鳴らす。すぐにバッグが叩きつけられた。むちゃくちゃな順番だった。バッグを下ろすより先にリモコンを拾って投げることの正当性を誰も説明できなかった。おそらく和葉自身でさえ。

 年齢を考えれば贅沢がすぎるマンションのリビングルームに次々と着ていたものが無造作に放り投げられていく。オフショルダーのトップス、黒いスキニーのパンツ、靴下、簡素な下着。受かるつもりがそもそもなかったとはいえ、大きなオーディションに参加するための服装にはとても見えない。

 

「12人連れてる……? 冗談じゃない」

 

 肌にやさしいナイロン製のタオルが壁にぶつかって情けない音を立てる。まるでシャワーが苦痛であるかのように和葉の顔が歪んでいる。

 髪を洗い体の汚れを落としたあと、彼女はわざとらしく湯船に行儀悪く入った。オノマトペが直接目に見えるほどに。その原因は想像に難くない。それ以外に苛立ちのぶつけ先が他になかったからだろう。髪も肌も雑に扱ってはいけないことはわかっているようだった。他人から見て圧倒的な商売道具であることをさんざん言い聞かされてきたに違いない。和葉から見てまったくの別世界にいるのは天使と呼ばれているスターくらいのものだった。

 

「あいつ、……新宿ガールまで芝居だっての?」

 

 机を叩くように水面を叩いた。湯がまっすぐ上に跳ねてぱたぱたと落ちてくる。叩きつけた拳は水中でまだ固く握られている。衝撃で揺れる湯船は和葉の裸を押したり引いたりしていた。しかし和葉はそんなことなど気にも留めていない様子だった。この入浴の時間を終えたら、パソコンでもスマホでもどちらでもいいから新宿ガールの動画を、いや羅刹女も繰り返し見ようと心に決めた和葉にとって両作がネット上で公開されていることは苛立たしい幸運だった。デスアイランドも銀河鉄道の夜も、と言いたいところだったろうがそれは難しいわがままだった。

 

 睨むように見つめる画面の先の夜凪景は明確にこちらに語りかけていた。ある意味でこの作品は失敗していると言えたかもしれない。本来ミュージックビデオとして撮られたはずのこの映像が、もとの音楽をBGMに押し込めてしまっていたからだ。

 音楽を聴きながら楽しそうに夜凪景が駆ける。それが伝わる。これだけのシンプルなことがどうして世間を賑わせ、評価されているのかを理解している人間はあまり多くない。ハンディカメラによる一本撮りなのにあまりにも綺麗という技術面もあるだろう。しかしそれが本質ではないと和葉は理解していた。動作、目線、表情、その他こまごました要素。それらすべてを夜凪景は自分のために使っている。言い方を変えれば視聴者を意識していない。だから、ただ楽しそうで、下心が感じられないから視聴者も楽しそうだと共感する。誰かに見られているという意識を持ったうえでそれを感知させない技術は、役者としていわば土台に等しい。そうして初めてそこにあらゆる種類の美が花開くのだ。いまの和葉の目から見て夜凪景のそれは完璧だった。オーディションでの映像がフラッシュバックする。()()()()()()()()()()()()()()

 

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 和葉は海底から観光に来たという男と山梨で会ったことがある。小学生の、どの学年だったか、とにかく泊りがけの行事で行った先での出来事だった。賢い和葉はその男が言っていることが現実的でないことをすぐに理解したが、それはそれとして彼女はその中年男性が気に入った。外見が特別に優れていたというわけではなかったし、海底から来たという以外に興味深い話をするわけでもなかった。だというのに事前に決めていた班から抜け出していた和葉は、その日の午後をずっと男と話して過ごした。

 

「海の、本当の本当の底はね、ちょっと光るんだ」

 

「ウソでしょ、深い海底に光は届かないってテレビで言ってた」

 

「違うんだ。海底の岩肌にはなんでも捕まえる苔の仲間がいるんだよ」

 

 小学生の和葉はため息といっしょに首を横に振った。

 

「無理ね。光って信じられないくらい速いもの。目になんて見えないくらい」

 

「それができるんだよ、光は水中では遅くなる」

 

 そうでないと僕たちは生きていけない、と男は遠くの山を見つめた。和葉自身どうしてそこにいたのかはわからないが、おそろしくのどかなところだった。座っているのは駄菓子屋のベンチだったが、あと十分も歩けば無人の野菜直売所がありそうだった。

 

「もっと前の話だよ。水圧で潰れちゃうじゃん」

 

「そうじゃない。水圧を気にする必要はないんだ。だって僕たちは海底に住んでいる。その僕たちがいまさらそんなもの気になんてしないさ」

 

 道理だった。信じるつもりはまったくなかったが、それでも別世界の常識をぽんぽん返されるようで楽しかった。少なくとも教室でバカ騒ぎしている同級生よりは何倍も見どころがあった。もちろん和葉の知性も完成されてはいなかったから、質問やらやり取りのなかに明確な方向性を持たせることはできなかった。けれども海底の話は時間が経つごとに掘り下げられていった。

 

「僕たちにだって近づけない場所はある。海底火山は危ないんだ」

 

「噴火するとどうなるの?」

 

「マグマと海水が触れるだろ、そうすると熱のせいで海水が一気に蒸発して爆発が起きるんだよ。それほど多いわけじゃないけど」

 

「思ったより海底の生活も大変そう」

 

「まったく」

 

 そのあとで和葉は班行動をせずに一人でいたことを叱られた。けれどそんなものはほとんど耳に入っていなかった。上の空もいいところで、学校に帰ってから書かされる感想文にかなり困ったくらいだった。クラスメイトにあの日何をしていたのかを聞かれもしたが、なんとかなだめて誤魔化した。正直に話しておかしくなったと思われたら笑い話にもならない。とはいえ和葉にその程度のことが難しいわけはなかった。

 

 その経験から和葉はまったくの無音が好きなもののひとつに入った。海底を思い出すからだ。

 

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 オーディションに落ちた翌日になっても和葉の機嫌は悪いままだった。受かるつもりがなかったことに間違いはないが、落とされたことにはまだ腹が立っていた。難儀な性格だった。

 役者として空いたスケジュールを埋めたいところだがそれは単純な話ではない。出演する作品があってはじめて成り立つ職業だ。和葉にできることは待つことだけ。オファーが舞い込んでくるか、あるいはマネージャーが何かを見つけてくるかのどっちかだ。

 

 劇団に所属していない和葉は稽古をしようにも個人的なものに終始するしかないというのが実情だった。彼女にできることはこれまでに参加してきた作品の台本を読み返したり、作品そのものを振り返ることがそれにあたる。あるいは発声練習のためにボーカルレッスンのスタジオに顔を出すといったくらいだ。実はドラマ収録に限っては大声を出すよりも繊細な声を聞き取りやすく発音するほうが難しく、そのトレーニングだけはまだ欠かせない。

 しかしいま和葉の頭にはそのどれも浮かんでいなかった。代わりに響いているのは夜凪景の言葉だけだった。12人を連れていると彼女は言った。だから和葉はどこかからその12人を連れてきているに違いないと考えた。どうせあれは比喩だとか言葉遊びができるような種類のものじゃないだろう。では実際にかたちを持った何かを連れてくるにはどうするか。簡単だ。人間をその身に飼えばいい。やり方は見当もつかないが他人の人物像を吸収したと考えるほかない。

 役者として負けたことを和葉が自覚したのはここだった。あれは理論上、どんな役でも演れる。けれどどこか危ない感じもあった。夜凪景が、というわけではない。そのスタイルが、だ。それも和葉は気に食わなかった。自分にできないこともあってどこかずるいような気がする。

 

 歩いたからといって気分が晴れるとも苛立ちが収まるとも考えてはいなかった。ただ、家の中でじっとしていると余計に面白くなくなるだろうと思っただけのことだった。代わり映えのしない部屋の様子なんて眺めて何になるものかというのが和葉の考えだった。あるいはそれは物が少ないことも関係しているのかもしれない。

 あてもなくぶらぶらする、というのも厳密にやってみようとすると案外むずかしい。どうしてかそのことを知っている和葉はとりあえずの目的地を決めた。美味しいシュークリームを出す店があるのだ。パイ生地のシューが和葉は気に入っている。

 

 空はどちらかといえば白かった。青空は隙間からやっと覗いている。半ば義務的に塗った日焼け止めを馬鹿らしく思って誰に向けるともなく和葉は苦笑いをした。

 いつもならバスの窓から眺めるだけの風景の中を歩いていく。バスに乗っているときの頭の位置と道に立っているときのそれに大して違いなどないだろうと思っていたが、それは思い違いもいいところだった。普段見ているはずの景色から受ける印象がすっかり異なっている。それは奇妙な感覚だったが、ただそれだけのものだった。だからといって迷うこともないし、そんな新たな発見に感動するような性格をしてもいない。和葉は歩くスピードをちっとも落とさなかった。

 

 和葉はこのお気に入りの店を、芸能界の人間には一度も話したことはない。もしそうすれば何かヘンテコな特集を組まれてテレビで紹介されてしまうかもしれないからだ。和葉が嫌ったのは自分の判断というものを持たない人間が大挙してこの店を訪れることだった。もしかしたら店からするとそのほうがうれしいのかもしれないが、勝手な彼女にそんなことは関係がなかった。自力で見つけられるやつが来ればいいと本気で考えていた。それがたとえ自分には味がわかると思い込んでいるだけの勘違いさんであってもだ。

 メタリックの取っ手を握って透明なドアを開ける。三十分もいれば酔ってしまいそうな甘い匂いがマスクの隙間から滑り込んでくる。店内を見渡してみるとそれほど客の数は見受けられない。単純に今日は平日だからなのだろう。レジで待たされないのは都合がいいとばかりに歩き出すと、隣から声をかけられた。

 

「ねえ、私、あなた知ってるよ」

 

 百城千世子が立っていた。

 

 

 



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