腹上死フラグが立ちました♡ (Gallagher)
しおりを挟む

プロローグ
逝け


【腹上死】
行為中、心拍数や血圧が著しく上昇し、心筋梗塞や脳出血、不整脈などが原因で突然死してしまうこと。男の理想な死に方と言われるが、そんなことはない。残される家族のことも考えてみろ。



 「ねえ、一緒に気持ちよくなろ?」

 

 人間を墜とす悪魔のように甘い囁きが、耳を擽った。

 

 いや、正確には「悪魔のように」ではなく「悪魔の囁き」だ。僕は、はむっと耳たぶを甘噛みして来た少女を見て、実感する。

 

 興奮、快感、恐怖。

 

 脳みそが、三つの単語にジャックされている。

 

 これから借りようとしていた本のことなど、思考からは既に吹っ飛んでいた。もはや右手に持ったそれが、古典なのかファンタジーなのか、グラビアアイドルの写真集なのかさえ覚えていない。

 

 高校の昼休み、一階東廊下の突き当たり。市長の寄付のせいでやたらと蔵書数が多い図書室の一番奥のコーナーに、僕はいた。

 

 そこで、出会った。

 

 目も眩むほどに美しい淫魔、つまりサキュバスに。

 

 最初は夢かと思った。

 

 欲求不満の男子高校生にありがちな、性的で素晴らしい妄想の延長線上だと思った。

 

 そりゃそうだろう。

 

 どうして黒山羊の角と蝙蝠の羽を生やしたサキュバスが、現代日本にしれっといるんだ。

 

 僕の記憶上、サキュバスは空想上の悪魔だ。まず、そんな空想上の悪魔が実在することに、驚愕する。そしてそのサキュバスはどう言う訳か、僕をロック・オンしているらしい。

 

 サキュバスは、真夜中の夢の中で搾り取ってくれるから魅力的なのだ。いきなり高校の図書室に出現して、しっぽり×××されるなんて、正直たまったものではない。

 

 というか、色々と危ない。

 

 コトに及んでるとこ教員に見られてみろ、退学だ、一発で。

 

 サキュバスは男の生気を奪い取る悪魔だと、僕はどこかで聞きかじった知識を掘り起こした。サキュバスに喰われた男は大抵、干からびたミイラみたいになって死ぬ。気が狂うほどの快感と引き換えに、自らの命を投げ捨てるという訳だ。

 

 ちょっと待て。

 

 これ退学の危機とか言う前に、そもそも僕の生命が危険じゃないのか。

 

 「なんで、僕は抱き締められてるんだ」

 

 サキュバスから漂う甘ったるい匂いが、理性をじわじわと溶かしている。柔らかな双丘の感触が、しっとりと肌を伝わった。

 

 目の前の少女は人知を超えた悪魔だ。

 

 いつ、正気が音を立てて崩れ去ってもおかしくはない。

 

  サキュバスは、なおも抱き締める力を強めた。そしてそのまま僕を床へと押し倒し、

 

 「逃がさないように、だよ。子猫ちゃん」

 

 ぺろりと、まるで極上の料理を前にしたかのように、舌舐めずりした。

 

 完全に、狙われた。

 

 僕は確信した。

 

 大きな本棚が三つ、正面に立っている。

 

 閲覧スペースに座る生徒からはおそらく、とサキュバスの姿は見えていない筈だ。そして分厚い専門書が並ぶこのコーナーを訪れる生徒は殆どいない。チャイムが鳴るまでの間は、この場所には誰も来ないだろう。

 

 つまり僕は彼女のいう通り、逃げられない。

 

 「恥ずかしがらなくてもいいの。ほら、真面目ぶってるあの子も、その子も、みんな裏ではシテるんだよ?」

 

 淫魔はちらりと後ろを振り向いて、それから僕に向かって微笑んだ。

 

 白磁のように透き通った白い肌に、ほんのりと朱色が差している。どんな女優も到底及ばないであろう整った顔立ちは、どこか猫を思わせた。きっと、鋭く光る紅い瞳のせいだ。宝石の如く輝く彼女の瞳は、抑えがたい欲望に染まっていた。

 

 「どうして、僕なんだ」

 

 僕は目立たないように、されど迫害者にはならぬように生きてきた。

 

 二、三人仲の良い友達を作り、適当に周囲の話に合わせ、嫉妬を喰らわない程度に良い成績を取って、『転校生』というレッテルを上手に使いながら『いても害ナシ、いなくても損ナシ』という最強のポジションを掴み取った。

 

 それなのに、なぜ。

 

 僕の平穏な人生が奪われなければならない?

 

 「君に一目惚れしたって言ったら……信じてくれる?」

 

 サキュバスは人差し指を唇に当てながら、言った。

 

 心の底から、信じられないくらいに、綺麗だなと思った。

 

 悪魔に魅入られた人間に待つのは、破滅だ。どんな御伽話でも、悪魔に憑かれた人間にハッピーエンドはあり得ない。待っているのは、紛れもないバッドエンド。

 

 それでも、俺は目の前の淫魔から目を離せなかった。

 

 くりんと上を向いた長い睫毛も、艶やかな桃色の唇も、全てが、心臓を締め付けるほどに愛らしい。

 

 彼女になら、殺されても。

 

 そう思い始めている自分に、驚いた。

 

 「こんな可愛い女の子に惚れられたらそりゃ嬉しいさ。でも死にたくは、ないな」

 

 「怖がらなくても大丈夫だよ。ゆっくり、ねっとり、優しく吸ってあげる。死の恐怖なんて、絶対に感じさせない」

 

 サキュバスはそう言って、僕の前髪を掻き分けた。

 

 僕はそこまで身嗜みに気を使う人間ではない。

 髭は毎日剃っているが、髪は適当に伸ばしっぱなしだった。

 

 長めの睫毛に、どこか猛禽に似た鋭い瞳。見慣れた自分の顔が、サキュバスの瞳に映っている。

 

 「おい、人の顔見て固まるな。おーい、聞こえてる?」

 

 急に黙り込んだサキュバスを見て、僕は首を傾げた。

 変貌は、一瞬だった。

 

 「あっ……ごめん、ちょっと我慢できないかも」

 

 突如として、サキュバスの目の色が、変わった。

 思ったより僕の顔がタイプだったのか。

 サキュバスの呼吸がハァハァと荒くなる。

 頬は紅潮し、瞳は熱っぽく潤んでいた。

 

 うわ、これ絶対変なスイッチ入った。

 僕は心の中で十字を切った。

 

 アーメン、僕はもう手遅れだ。

 

 「まじで、それは洒落にならーー」

 

 「すき」

 

 瞬間、僕は抵抗する間も無く手足を組み敷かれ、強引に唇を奪われた。生温かい触感が口内を蹂躙する。頭の奥でぴちゃぴちゃと、水音が響いた。

 

 なんとか拘束を逃れようと、僕は「むごー」とくぐもった呻きを上げながら、力の限りもがく。

 

 だが、いくら体を鍛えているからと言って、ただの人間が悪魔の力に叶う筈もない。暴力的なまでの快感が上塗りされているのなら、尚更だった。

 

 手足の言うことが、だんだんと効かなくなってくる。

 呼吸すらままならずに、朦朧とした意識の中、僕は覚悟する。

 サキュバスの食事はこれからだと。

 自分は獲物で、最終的に喰い殺される運命なのだと。

 

 「あはは、ぴくぴくしちゃって、可愛いなぁ」

 

 サキュバスの淫猥な囁きが鼓膜を震わす。

 途切れかけた意識の狭間で、僕の脳裏に浮かんだのは、どう言う訳か一年前に死んだ祖父の姿だった。

 

 既に三途の川に片足を突っ込んでいるのか。

 死に限りなく近い状態だからこそ、死者を思い出すのかも知れない。

 

 だとしたら手遅れだろうなと、思う。

 死というのは、案外気持ちのいいものかもしれない。

 

 温かな微睡みに落ちていく。

 瞼の裏で、淡い光がぼんやりと広がった。

 

 直後、「ガンっ」と強い衝撃が僕の頭を揺さぶって、意識はどこかへと飛んだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一章『日常的非日常』
吸え


 桜木奈々花が、不機嫌そうに机を指でトントンと叩いている。

 

 気品漂う端正な顔立ち。

 ぱっちりとしたブラウンの瞳は凛とした光を宿していた。

 セミロングの黒髪は清流みたいに艶やかで、豊満な胸がネクタイを湾曲させている。

 高校生離れしたその美貌は、世の男を一瞬で墜とすだろう。

 

 二年になってから、定期テストは常に学年トップ。

 気まぐれに出場した英語のスピーチコンテストでは審査員特別賞を取ってくるような優等生だ。

 加えて一年から生徒会長も務めていて、女子生徒からも告られるようなクール系美少女なのだから恐ろしい。

 

 もし神が桜木の魂を創造したとしたら、おそらく翼を授けるエナジードリンクをお供に三徹はしてる。

 桜木みたいな完全無敵美少女を神が時たま創造するから、世界から犯罪が無くならないのだ。

 三徹したあと「まあいっか」的なノリで手抜きで創造したのが、ロクでもない悪事を働く人間に違いない。

 

 ちなみに、僕みたいな不幸すぎる人間を創造するときの神様のモチベが気になるところではある。

 何を基準に人間が生まれ持つ素質は決まるのか。

 僕と桜木とでは能力でも容姿でも、そして運命でも差がありすぎる。

 頼むから仕事してくれよ、神様。

 

 「どうして、伊波君はそんなにつまらなそうな顔をしているの?童貞って私みたいな清楚系が好きなのよね」

 

 「憂鬱なんだよ。生徒会長から童貞呼ばわりされるのが」

 

 驚くべきことに、僕は童貞ではない。

 残念ながら、僕が魔法使いへの道を絶たれた瞬間のことは、記憶から飛んでいるがーー

 

 高校に入学するまでは、ラブコメアニメのキャラみたいな女の子など、この世に存在するはずがないと僕は思っていた。

 

 しかし桜木から「伊波君って……砂糖がまぶさってないポンデリングみたい」と初対面で言われてから、そんな考えは銀河系の彼方へと消え去った。

 桜木は正真正銘の『氷の女王』だ。

 そうでなければ人間をドーナツで喩えたりなんてする訳がない。

 

 「僕、もうそろそろ帰ろうかな。夜にバイトあるし」

 

 「何を言ってるの?ほら、まだここにたくさんプリントの山が見えるでしょう。これ、伊波君のノルマだから」

 

 「どうして僕が生徒会誌の『会長のことば』の原稿を書かされるんだ。夏休みの宿題だって僕は親にやらせたことないぞ。本気で、帰るからな」

 

 「あなたが強硬手段をとるのなら、私にも考えがあるわ。今ここで、『たすけてください!』と泣き叫んで、処女を散らされる悲劇のヒロインを名演してあげる」

 

 旧校舎3Fの生徒会室には僕と桜木の二人しかいないが、警備のおっちゃんが廊下を巡回している。

 

 そんなことをされれば僕は一発退学どころか、SNSで吊し上げられ、社会的に消されるだろう。

 僕はスパイ映画の主人公でもないし、存在を抹消なんてされたら非常に困ることになる。

 

 僕は大きなため息を吐いて、窓の外を見た。

 太陽が既に地平線の際にいる。

 眩いオレンジ色の残光が、暖かく僕と桜木を照らしていた。

 これだけ見るといかにも青春っぽい情景だが、僕は絶賛脅迫されている途中だ。

 

 どう言う訳か、桜木は僕と一緒にいる時だけ嫌に制服を着崩す傾向にある。

 ワイシャツの第一ボタンは外すし、ネクタイはゆるゆるゆるだ。

 おかげで、僕は彼女の綺麗な白い首筋を視界に入れて挙動不審にならないよう、常に警戒する必要があった。

 

 「どうしたの?早く終わらせてちょうだい。頑張ったら、ご・褒・美……あげるから、ね?」

 

 「わ、わかった。やる。やれば良いんだろ、もう」

 

 あざとく片目を瞑り、妙に色っぽく囁いた桜木に僕は呆気なく負けた。

 男なんてみんな美人に弱いんだ。

 そう、心中で呟いてなんとか自尊心を保つ。

 彼女は自分の武器を最大限に把握しているのだ。

 本当に高校生なのか、もう怖くなってくる。

 

 桜木は、無意識のうちに周囲を魅了してしまうのだ。

 言動や態度はまさしく絶対零度のように冷たいが、それでも困っている生徒には必ず手を差し伸べる。

 ある女子生徒が校舎裏で嫌がらせを受けていたときには、柄の悪い生徒の集団に躊躇なく一人で飛び込んで行った。

 

 そんな彼女の優しさや強さに惹かれて、多くの生徒が当たって砕けろの精神で告白を決行するのだが、破壊の呪文「色欲に塗れた目で見ないでちょうだい。汚らわしい」を唱えられて終わりだ。

 

 今のところ告白に成功した人間はいない。

 もれなく全員一撃で砕け散ることになる。

 

 「伊波君ってさ、私のこと好きでしょ」

 

 「いいえ、違います」

 

 スラスラとシャーペンを走らせながら、僕は即座に言い放った。

 もはや脊髄反射だ。

 桜木にこの手の話題を振られたら、それは背後から銃口を突き付けられるに等しい。

 おかげで英語の例文みたいになった。

 

 「耳が真っ赤よ。伊波君の毛細血管の答えは、もちろんイエスだわ」

 

 「なわけあるか。いいか?僕は一途で、優しくて、家庭的な女の子が好きなんだ。間違っても、息を吐くように毒舌を僕にぶち撒けてくる桜木に惚れることなんてない。断言出来る」

 

 「でも、伊波君は私の裸体を妄想して夜な夜な自分を慰めているのね。ふふふ、照れちゃって可愛い」

 

 「彼女いるし、間に合ってるんだよ。そういうの」

 

 失礼にも程ってものがある。

 思わず筆圧が濃くなり、シャーペンの芯がポッキリと砕けた。

 

 それを見た桜木は悪戯っぽく微笑むと、どう言う訳かいきなり僕の両肩を掴んだ。

 そして、吐息が触れ合いそうなほど近距離で、僕の目を覗き込む。

 

 彼女の艶やかな桃色の唇は、どれだけ柔らかいのだろうか。

 桜木のことを可愛いなんて思ってしまう自分に嫌気が差した。

 これじゃあ僕は、桜木に一方的に玩具にされているだけだ。

 

 「いきなり、何すんだよ。イタズラにしてはやりすぎだと思うぞ。こうゆうのは」

 

 「私、伊波君の顔はそこまで好きじゃないけど……」

 

 熱々の恋人並に見つめておいて感想はそれかよ。

 舌打ちしそうになるほどイラついたが、ここは感情的になった方が桜木に弄られると判断。

 僕は努めて、ポーカーフェイスを貫く。

 桜木は白く細い指で、僕の睫毛を優しく上の方へ撫で上げながら言った。

 

 「その目は好きだわ。鷹とか鷲に似ていて、ペットに欲しいくらい」

 

 「僕は愛玩動物じゃないぞ。平々凡々な人間だ」

 

 桜木の澄んだ瞳に反射した僕の顔は、緊張やら興奮やらで分かりやすく引き攣っている。

 訳も分からず、僕はただ無意識に呼吸を止めた。

 蛇に睨まれた蛙と、桜木に見つめられた僕とでは、差はあまりないだろう。

 

 「空に飛ばしたら二度と帰ってこないだろうな。ご主人様が怖くて」

 

 なんとか喉を通り抜けた声は、ひどくうわずっていた。

 そんな僕の様子が可笑しかったのか、桜木の口角が僅かに上がる。

 

 「いいえ。野生なんて、忘れちゃうくらいに甘やかしてあげるの。そうしたら、逃げ出したりなんてしないわ。愛にどっぷり浸かれば、きっと翼があることすら忘れるもの」

 

 「おいおい。急に目のハイライト消すなよ。怖いだろ」

 

 桜木がぺろりと唇を舐めた。

 獲物を前にした猛獣が、これから味わう極上の肉の味を期待するかのように。

 

 「私はね。じーっと顔を見たら、嘘が分かるの」

 

 「そいつはすごいな。人間嘘発見機だ」

 

 生徒会室の雰囲気が、まるでいつもと違っていた。

 エアコンの温度計を見る。

 二十四度、適温だ。

 じゃあなんで、こんなに寒気がするのだろう。

 

 「伊波君、さっき『平々凡々な人間』って言ったでしょ?あれ、嘘でしょ」

 

 うぐっと、喉が鳴った。

 桜木は心底愉しそうに、僕を見て微笑っている。

 桜木はもはや絵画になって美術館に行っても、やっていけそうな気さえした。

 

 おかっぱのギャングみたいに、汗を舐めたわけでもないのに。

 どうして嘘が分かるんだ、チートじゃないか。

 

 「じゃあ、僕が人間じゃないって言いたいのか?ここは現実だぞ。そんなファンタジーなこと、あり得る訳がーー」

 

 チクリと、首筋に擽ったい痛みが走った。

 

 思わず、熱の籠もった吐息が漏れた。

 なにか冷たいモノが、僕の血管に侵入している。

 ちゅうっと、僕から液体が吸い出される音がした。

 それと同時に、視界がチカチカと明滅した。

 

 生存本能が頭の中で警鐘を鳴らす。

 だが、身体は言うことを聞かない。

 桜木が、僕の首元に顔を埋めている。

 魅惑的な彼女の瞳が、ちらりと僕に向けられた。

 

 目が笑ってるとはよく言うが、まさにそれだ。

 瞳を見ればわかった。

 彼女は今、僕の無様な姿を見て笑っている。

 僕はいま、桜木に『吸血』されているのだ。

 

 ーーデジャブかよ

 

 図書室の次は生徒会室か?

 全くもって笑えない。

 

 ふわりと、柑橘系の爽やかな甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 美味しそうな匂いだった。

 唾液が次々と口内で分泌されていくのが分かる。

 そぷっと、柔らかい音と共に、首筋に刺さった桜木の犬歯が抜かれた。

 

 「ごちそうさま。蕩ける様に甘くて、それでいてちょっぴりビター。上質なチョコレートみたいな味だったわ」

 

 「ホワイトデーのお返し……しなきゃいけなくなった」

 

 「ふふふ。吸血鬼にお食事されてそんなことを言えるなんて、やっぱり伊波君は人間じゃないじゃない」

 

 どうして、僕の周りにはろくな女の子が集まらないのだ。

 僕は、頬に付いた血液をちろちろと舐めとって、「おいしっ」と呟く桜木を見て、思った。

 

 もう一度言おう。

 神様、仕事をして下さい。

 僕は、平穏に生きたいだけなのに。

 どうして、そんな夢すら神は叶えさせてくれないのだ。

 

 「次の日曜日。伊波君の『彼女』……私に紹介してくれないかしら」

 

 嗚呼。 

 夕陽が、信じられないくらいに赤かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

純粋に笑え

 「へえ、それでお前は『眷属』ってのになっちまったのか。御愁傷だな」

 

 成田先輩が、フライドポテトを口に放りながら、言った。

 僕は、今年で大学三年生になる剣道道場の先輩と、駅前のファミレスでご飯を食べていた。

 

 土曜日。

 高校生にとっては二日間しかない安らぎのうちの一日。

 だが、僕の気持ちは底無しの沼に沈んでいく一方だった。

 

 「おい。そんな辛気臭い顔してハンバーグ食うなよ。豚も報われないだろ」

 

 「屠殺される豚の気持ちなんて知りませんよ。明日が憂鬱で、仕方が無いんです」

 

 昨日の放課後、生徒会室での出来事を思い出す度、ため息が押しっぱなしのウォーターサーバーみたいに止まらなくなる。

 

 サキュバスの『眷属』であることが、桜木にバレた。

 そして、僕は桜木が高校の生徒会長でありながら、人間ではなく『吸血鬼』であったことを知った。

 自分の血液を二百CCほど犠牲にして。

 

 それだけならまだ良かった。

 あろうことか、桜木は僕の『主』であるサキュバスと会って話しをしたいなどと言い出したのだ。

 僕の部屋に居座るあの庇護欲の塊みたいなサキュバスに、吸血鬼なんて合わせたらたちまち妖怪大戦争が勃発、日本は一面焦土と化すだろう。

 

 僕はハンバーグを口に放り込んだ。

 デミグラス味、肉汁が溢れる。

 美味い。

 

 「まあでも、お前彼女欲しがってたんだから、丁度いいじゃないか」

  

 「人間が良いんですよ。普通の人間が」

 

 「贅沢言うなって。身の丈にあった人生っていうのは大事だろ」

 

 「いや、ぜんぜん贅沢じゃないです!」

 

 成田先輩が四杯目の生ビールを飲み干した。

 彼は滅法酒に強い。

 大学の新歓コンパで、酒豪と名高い四年生を悠々と蹴散らしたくらいだ。

 

 成田先輩はここが居酒屋だとでも思っているのか、フライドポテトや唐揚げ、サイコロステーキをおつまみとして次々と注文し、綺麗さっぱり平らげている。

 

 「まあ、お前ももっと食え。俺の奢りなんだから」

 

 前に成田先輩の預金通帳を見せて貰ったことがある。

 とてつも無いゼロの数だった、多分五千万は優に超えていた。

 成田先輩曰く、「本を一冊出して、あとは投資しただけ」だそうだ。

 彼は大学生の癖に、赤のフェラーリでファミレスに来ている。

 

 成田先輩は、僕が小学校一年生の時から通っている剣道道場の先輩だ。

 週に二回しか稽古に来ない癖に、盆踊りみたいな独特の足捌きと目にも止まらぬ速剣で次々と相手を殲滅する。

 

 地区大会では負けなし。

 全国大会でも前年度チャンピオンを瞬殺したが、その次の試合で審判にF××Kと暴言を吐いて反則負けするというのだから、成田先輩の真の実力を知る者はおそらくこの世界にいない。

 

 成田先輩は勉強もすこぶる出来た。

 塾に行っている訳でもないのに、有名国公立大学に一発合格だ。

 彼がいうには、試験なんてスーパーマリオと一緒らしい。

 簡単な問題を解く時に彼は、いつも「ノコノコだなこりゃ」と呟く。

 

 「お前の命のタイムリミットは三日。行動を起こすなら、早いほうがいい」

 

 顎に手を当て、成田先輩が言った。

 確かに成田先輩は遅刻が多い。

 修学旅行の集合時間に遅刻し、自前のバイクでバスを追撃したのはもはや伝説となっている。

 

 天然パーマの髪に、モアイ像を少しイケメンにしたような顔立ち。

 黒縁のメガネをしている。

 一見オタク風だが、成田先輩はなぜかすこぶる女性にモテた。

 

 『瞬殺のガンディー・マハトマ』という訳の分からないロゴとガンジーの顔写真がプリントされたTシャツに、擦り切れたジーンズを履いている。

 お世辞にもお洒落とは言い難いファッションが、成田先輩の潜在能力を上手く隠しているのだ。

 

 「でも、どうすればいいんですか!逃げ切れるビジョンが一切湧かないんですけど!」

 

 僕は、自分が置かれた絶望的な状況を、成田先輩へと包み隠さずに打ち明けた。

 

 あの日、僕は図書室でサキュバスの『吸精』を受けた。

 普通なら死んでいた。

 だが、幸運にも僕の生命力の貯蔵量が常人よりも多かったみたいで、それで絞り殺されずに済んだのだ。

 

 サキュバスはそんな僕をすっかりお気に召した。

 彼女は僕に自らの血を分け当たえ、おかげで僕は、人間の癖に悪魔の力をちょびっとだけ使える『眷属』になった。

 

 だが、それは僕が悪に堕ちたことを意味する。

 この世に『悪魔』が存在するのなら、もちろん『天使』も存在する。

 天使と悪魔は世界が誕生してから、何億年もの間ずっと争って来た。

 悪魔が人間を墜とせば天使が祝福を与え救う、その繰り返し。

 

 しかしある日、「いちいち下界に降りんの面倒だわ」なんてことを考えた天使がいた。

 だが天使が下界を放置すれば、世界はたちまち悪に染まり、やがて破滅する。

 そこで、天使はお告げを飛ばせば勝手に悪魔を倒してくれる、都合の良い人間を作ることにした。

 

 それがーー

 

 「『聖女』ってことか。それに、お前は命を狙われている訳だ」

 

 ヒゲみたいに付いたビールの泡をおしぼりで拭き取り、成田先輩は腕を組んだ。

 

 「その通りですよ!サキュバスは、『絶対に守ってあげるからね』とか言ってますけど、学校で襲撃されちゃあ僕なんて即死です、即死」

 

 今日の朝、アパートのポストに一枚の葉書が投函されていた。

 

 ーーローマ教皇庁異端審問会議により、あなたの粛清が決定致しました

 

 悪魔殺しの専門家が、僕を倒しにやってくる。

 

 絶望でしかなかった。

 サキュバスは「あの子にはルシちゃんも二秒でやられたからねー」とか言って笑っていたが、ルシちゃん=堕天使ルシファーだ。

 堕天使を二秒で殺す存在に、へっぽこ悪魔見習いの僕が敵うはずがない。

 

 「まあ、落ち着け」

 

 いつも成田先輩は冷静だ。

 僕に動揺を見せたことなんて一度もない。

 僕も、彼のようなダイアモンド・メンタルを手に入れたいといつも思っている。

 

 「いいか?この日本で天使とか悪魔とか、超次元的な存在を認識してる人間なんか、聖職者くらいだ。俺の経験上、教皇庁の奴らから逃げるのはそんなに難しいことじゃない。粛清期間は葉書が投函されてから一か月。三十日ちょっと逃げ切れば、勝ちだ」

 

 「どんな人生送ったらそんな経験するんですか。成田先輩、映画よりも主人公してますよ」

 

 「あれは高校生の時だ。修学旅行先のスペインでよ。俺はイエス・キリストの遺体の右腕、教会が言う『不朽体』を拾っちまった。俺は売り払って金にしようとしたんだが、それがバレたんだな。おかげで教皇庁所属の殺し屋に狙われることになった。まあ余裕で生き残ったけど」

 

 サキュバスや吸血鬼と遭遇しただけでやいのやいの騒いでいる自分が、恥ずかしくなった。

 僕がのほほんと毎日を生きていたとき、成田先輩はイエス様の右腕を持って殺し屋からの逃亡劇を繰り広げていたのだ。

 

 「だからな。案外人間って言うのは死なねえのよ。俺だって腹に一、二発弾丸を貰ったが、死ななかった」

 

 「それは奇跡ですよ。僕なんて、不幸だからすぐ死んじゃいますって」

 

 「おいおい。お前は『負ける負ける』って思って剣道の試合に出たことがあんのか?」

 

 「ないですよ。勝てるって信じます」

 

 「同じだ。病気に効果のない偽の薬も本物だと思い込んで飲み続ければ、三十パーセントは本物と同じ効果が得られる。これをプラセボ効果って言うんだが……」

 

 病は気からは、あながち間違いではない。

 ポジティブな人間とネガティブな人間とでは、六十年後の生存率に五十パーセント以上の差が生じると、いつぞやの健康テレビ番組で見たことがあった。

 

 「奇跡だって同じだろ?起きる起きるって思い込めば、そのうち起きんだよ。お前が不幸だと感じるなら、その不幸さんに言ってやれ。『プラセボ効果舐めんな』ってな」

 

 「成田先輩、暴論すぎますってそれ」

 

 僕は思わず吹き出した。

 なんだか、久しぶりに心の底から笑った気がする。

 おかげで少し肩の力が抜けた。

 成田先輩の言葉は、いつもほんの少しだけ、僕に勇気をくれる。

 

 「聖女に殺されそうになったら『ヒーロー参上』って心の中で三つ唱えろ。そしたら、三十パーセントの確率で時間通りに俺が来る」

 

 「それ、七割がた死ぬじゃないですか」

 

 成田先輩はサイコロのステーキの最後の一欠片をごくりと飲み込むと、伝票を手に席を立った。

 そしてフェラーリのキーをちゃらちゃらと指で回しながら、くしゃりと笑った。

 

 「ヒーローは遅れてやって来るんだよ。残りの七十パーセントは、遅刻だ」

 

 




ラブコメなのに、女の子出て来なかった……
次回からちゃんといちゃいちゃさせます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

眠れ

お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。


 「寝るか……」

 

 「はやく来てよ。淫魔との同衾なんて、世界が違えば最高の贅沢なんだから」

 

 電気が消えた部屋では、カーテンの隙間から差し込む朧げな月光だけが、唯一の灯りだった。

 見慣れたアパートの一室の癖に、夜になるとがらりと雰囲気が変わる。

 

 いや、雰囲気を変えているのは間違いなく、僕のベッドに勝手に潜り込み、「ほれほれ」と手招きしてくる淫魔、シェナ・ラブトレインなんだけど。

 

 お前のせいで健全な男子高校生の一人部屋がエロい雰囲気に変わっているんだ。

 小さく呟くが、とうの本人は大して気にする素振りも見せず、僕をじっと見つめている。

 僕はiPhoneのアラームを明日の朝七時に設定し、ベッドに身を投げた。

 どっと、今までの疲れが津波のように押し寄せて来る。

 

 最近色々とありすぎたのだ。

 サキュバスの眷属になったかと思えば、生徒会長(吸血鬼)に目を付けられ、おまけに今は命すら狙われている。

 まるで出来の悪いハリウッド映画の中にいるような気分だった。

 

 「つかまえたぁ。すんすん……やっぱり、君はいい匂いがするね。このまま寝るつもりだったけど、つまみ食いしたくなっちゃった」

 

 むぎゅうっと、正面からシェナに抱き締められた。

 女性らしい起伏に富んだ極めて扇情的な肢体が、僕に纏わり付いている。

 パジャマ越しに伝わる柔らかさと温もりでどうにかなってしまいそうだが、至って僕は冷静だ。

 

 なぜなら、既に僕の意識は半ば微睡に落ちているから。

 あとは坂道を転がるが如く僕は深い眠りへと落ちて行くだろう。

 エロい気持ちはこれっぽっちも湧いてこない。

 ただ、規則的に響くサキュバスの鼓動が、やけに心地良かった。

 

 「まったく驚かされるな。悪魔相手にここまで豪胆な態度を貫けるのは、君くらいだよ」

 

 「人間三日で、たいていのことは慣れる」

 

 三日坊主とはよく言うが、僕の経験上、どんなに苦しい練習だろうと早起きだろうと、『三日』という魔境さえ超えてしまえば、それは習慣となり、やがてなんら苦ではなくなる。

 夏休みのラジオ体操なんて最初は眠くて仕方なかったが、気がつけば僕は皆勤賞だった。

 

 懐かしい小学生時代の記憶をフラッシュバックさせていると、何やらシェナががぱりと布団から顔を出し、僕のことをじっと見つめて来た。

 そして二秒ほどしーんと沈黙したと思えば、いきなり、とんでもないことを言い出した。

 

 「ちゅー、しよっか」

 

 「ぱーどぅん?」

 

 思わず、僕は英検の二次面接における最強の呪文を呟いた。

 このサキュバスはどうやら僕と接吻……というか口づけ……というか、まあ世間一般的に言えば、その、キスをしたいということらしい。

 

 「はーみがこー」とか「スマブラしよー」とか。

 そんな感じの、特に意味はないけど一応言っておく独り言みたいな気楽さだった。

 女の子が簡単に放って良い言葉じゃない。

 人間と淫魔とのカルチャーショックを、僕は確かに味わった。

 

 「君とね。したいな……キス。」

 

 砂糖のように甘ったるい囁きが鼓膜を震わせたかと思えば、僕の身体は金縛りに遭ったみたいに、一ミリも動かなくなる。

 これは前にも一度経験済みだ。

 主人である淫魔は自らの眷属を、意のままに操ることが出来る。

 これ悪魔界の常識。

 

 「残念ながら君に拒否権はないよ。君は眷属だ。君はボクのペットであり、恋人であり、気心の知れた親友でもある。そんな大事な大事なボクの眷属の健康は、ボクが責任を持って守らなくてはならない。そうだよね?ボクには君を守る義務があるんだ。ボクは何か間違っているかい?」

 

 僕は瞼を閉じた。

 シェナが過保護モードに突入した時の対処法はただ一つ、黙従である。

 無理して抵抗なんてしたら最後、意識が吹っ飛ぶまでちゅっちゅと搾り取られる羽目になる。

 

 「シェナの言う通りだよ」

 

 僕がそういうと、シェナはパッと表情を明るくして、唇にむしゃぶり付いてくる。

 こうなってくるともう誰にも止められない。

 生暖い舌から淫魔特有の甘ったるい唾液が流し込まれる。

 

 粘膜接触による魔力の供給。

 それが、僕と淫魔シェナ・ラブトレインが交わした契約だ。

 

 ヒトの『魔力』の身体保有量が総じて少ないが、雀の涙ほどの微量の魔力なら精液中に含有されているらしい。

 サキュバスはその魔力を吸収することによって、生命活動のエネルギー源としている訳だ。

 

 手っ取り早くエネルギーを補給したいのなら、沢山の人間を搾り殺すしか無い。

 しかし、それをやれば天使に目を付けられ、魔を祓うべく派遣された『聖女』によって殺される。

 

 そこで、僕の出番が来る。

 どういう訳か、僕はほとんど無尽蔵に魔力が分泌される体質らしかった。

 そして僕の血液や汗、唾液中にも高濃度の魔力が含まれていた。

 シェナはそんないかにも「美味しそうな」魔力の匂いを感じ取り、僕のことを見つけ、眷属にしたのだ。

 

 「ーーぷはっ。ごちそうさまでした。ちょっと吸い過ぎちゃったかも。大丈夫?生きてるかい?」

 

 「この終わった後の倦怠感はどうにかならないんですかね」

 

 「むしろ、倦怠感だけで済んでいる自分を誇るべきだよ。普通の人間なら体液ぜーんぶ、ぴゅっぴゅ!って出して死んじゃうんだから」

 

 片目を瞑って見せるシェナに、僕は人間としての尊厳を失わずに済んだことにひとまず安堵した。

 

 魔力を吸われた後は大抵すぐに眠ってしまう。

 まるで生命力を根こそぎ奪いさられたみたいに、一瞬で。

 それほど、淫魔の吸精というのは危険なものだ。

 愚かな人間は目先の快楽にだけ目を奪われ、そして搾り尽くされて死ぬ。

 

 「じゃあ、おやすみ。君さえ良ければ夢の中でもいちゃいちゃしよっか?」

 

 「遠慮しとくよ。夢の中なんてサキュバスの独壇場じゃないか。魔力が二リットルあっても足りない」

 

 「それは残念だね。現実では到底出来ないような、ファンタジーなプレイだって楽しめるのに」

 

 「ちょっと待って。その話詳しく」

 

 「ふふふ……それでこそ男の子だ」

 

 思春期の男子高校生をあまり舐めないでいただきたい。

 なにせ、男は五十二秒に一度エロい妄想をするという研究結果すら公表されている。

 まったく、男はつらいよ。

 

 キラキラと輝きを放っているであろう僕の瞳を覗いて、シェナは心から嬉しそうに微笑んだ。

 淫魔の誘惑は麻薬だ。

 断ち切ろうとしても、その快感が忘れられない。

 黒い尻尾が歓喜と興奮を表すようにゆらゆらと揺れていた。

 

 「そうだなぁ。ボクを媚薬スライムでとろとろのアヘアヘに蕩けさせるもよし。ヒドラプラントの触手であられもない姿になったボクを拘束し、気絶するまで……なんてこともできるけど」

  

 「よし、その話乗った」

 

 ーー即決!

 

 僕は布団をマッハで被ると、羊を数えはじめた。

 

 一匹、二匹、三匹……四匹目が「ジンジンジンギスカン☆」と歌い出したと思ったら、もう僕は夢の中だった。

 

 僕、疲れてんのかなぁ。

 

 

  ▼

 

 

 ぱちぱちと、フライパンの上で油が跳ねる音がした。

 

 重い瞼を開けば、眩い朝日がカーテンの隙間から差し込んで来る。

 

 「朝か……」

 

 憂鬱だ。

 今日は桜木が僕に会いに来る。

 

 「はぁ……」

 

 今日のめざましテレビの星座占いは最下位で確定だろう。

 もし仮に「一位はみずがめ座のあなた!」なんてふざけたことを抜かして来た場合、僕は部屋に置いてあるめざまし君の腸(わたはわたでも綿のほう)を引きずり出さなければならない。

 

 ぼうっとする意識を背伸びと共に押しやり、僕はベッドから身体を起こした。

 

 パジャマを脱ぎ捨て、パンツ一丁で洗面所へと向かう。

 顔を洗う時は僕は絶対に服を着ない。

 なぜなら九割九部びしょびしょになる。

 僕は服を濡らさずに顔を洗えるような優秀極まりない人間を、生まれてこのかた見たことがない。

 

 鏡に移る身体は、バカみたいに続けている自重トレーニングの影響で、細マッチョと言われるくらいには仕上がっている。

 だが一つ気になるのは桜木に付けられた首筋のキスマークと、歯形だ。

 昨日は幸運にもシェナにバレなかったが、もしバレていたら僕は今頃眠りから覚めてないだろう。

 

 夏休みなので制服に着替える必要はない。

 僕は成田先輩から貰った『敵は本能寺にアリーヴェデルチ』という奇妙なロゴとおかっぱ頭の信長がプリントされた黒のTシャツとジーンズに着替え、リビングのドアを開けた。

 

 「いい朝だねイナミ。今日は『ふれんちとーすと』とやらを作ってみたんだ。お口に合うと良いけど……」

 

 「幸せだわ、僕」

 

 朝起きると、裸エプロン姿の美少女が朝ご飯を作って待っていてくれる。

 これ以上の幸福があって良いのだろうか。

 いいや、あってたまるか。

 

 シェナと一緒に席に着き、いただきますを言う。

 最初はこの文化を不思議がっていたシェナも、今はすっかり気にいって可愛らしく手を合わせてくれる。

 

 本来なら眷属である僕が食事を用意しなければならない様な気もするが、シェナは「眷属の幸せがボクの幸せなんだよ」なんて惚れてしまうような台詞ばかり言ってくるから、食事の準備は今のところ彼女に任せきりだ。

 

 まあ、細かいことは気にしない。これ人生のモットー。

 

 僕はふわふわとろとろのパンを、口の中に放り込んだ。

 じゅわっと溢れ出す卵の甘味とバターのほのかな塩味が舌の上で絡み合い、最高のハーモーを奏でている。

 もう百点満点中百二十点をつけてあげたい。

 けれど、作った本人はそんな僕の状況を知らない。

 

 「どう……かな?美味しい?」

 

 不安げな表情を浮かべ、尻尾をぴこぴこと落ち着かなそうに動かすシェナ。

 

 可愛い。

 存在が可愛い。

 可愛いさのために生まれて来たと言っても過言じゃない。

 アザラシの赤ちゃんとかともはや同等の次元に、彼女はいた。

 

 僕はパンをこくんと飲み込み、「うますぎる!」と叫ぶ。

 そんな、取り止めもない、朝の日常の一コマ。

 だが平和というものは、一瞬で消え去るものだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

初恋を襲え

 「ねえ、ちょっと首を見せてもらってもいいかな」

 

 朝食を完食し洗い物をしようと席を立ったところで、僕はフリーズした。

 後ろからとんでもない殺気が放たれているのである。

 漫画とかアニメだと空間が陽炎みたいに揺らめく、あれ。

 今まさに僕はあれを体験している。殺気の主はシェナだ。いうまでも無く。

 

 「ど、どうしてさ」

 

 「昨日からずっと気になってたんだけど。なんか、君から他の雌犬の匂いがしてね」

 

 僕はあまりの恐怖に声を発することが出来なかった。

 女性が男性よりも嗅覚が鋭いというのは聞いたことがある。

 なんでも遺伝子レベルで相性の良い男を探そうとしているのだそうだ。

 現在の状況から考えるに、おそらくその情報は間違いじゃない。

 

 「そりゃ、学校に行ってるからさ。まあ、僕ってば案外モテ男だから、ね?女の子に声くらい掛けられることはあーー」

 

 「嘘は付かないで欲しかったな」

 

 ぐるんと、いきなり視界が一回転した。

 身体が宙に浮いたかと思えば、僕はいつの間にかソファの上に寝かされていて、シェナが僕の上に跨っている。

 

 シェナは完全に怒っていた。

 淫魔の象徴である蝙蝠の翼が完全に開かれているのに加え、ハート型の尾は槍のように僕の額へと突きつけられている。

 美しい白銀の髪があまりの怒気に少し逆立ってすら見えた。

 

 「君から漂って来たのは魔力の匂いだ。それもキツイ香水みたいで、下品な魔力のね。ボクは君を幸せにしてあげたい。だからこそ、君の権利をこれまで尊重してあげて来た。本当は君を部屋に閉じ込めて一日中じゅぽじゅぽしたいんだよ?でも、それをしないのは君の自由を奪ってしまうからだ。でもね、君は越えちゃいけない一線を超えた」

 

 ゾッと、背筋が凍るような声だった。

 シェナの瞳が鋭い光を放つ。

 その姿は獲物に狙いを定める獣を思わせた。

 

 ーーどうするどうするどうする!?

 

 僕の思考は沸騰する。

 どうやったら彼女の怒りは治ってくれるんだ。

 本当のことを話せばいいのか?

 いいや無駄だ。シェナは僕が桜木にお手付きされたことに怒っているんだ。

 自分だけの玩具に、勝手にベタベタと触られた挙句、傷まで付けられたのだ。

 

 イラッと来ない、訳がない。

 

 「君はボク以外の魔族に血を与えたね?」

 

 これから始まるのは拷問だ。

 僕は今、シェナに生殺与奪の権を握られている。

 ガクガクと、僕は全身全霊で頷いた。

 

 「こんなに震えちゃって……さて、お仕置きの時間だ。理性も記憶もぜんぶ消え去るくらいの快感を、今から二十四時間休憩なしで君に与えよう。僕の尾から分泌される粘液は快楽物資の分泌を異常に増加させてしまうんだ。脳みそがぐちゅって、焼き切れちゃうくらいね」

 

 シェナが舌舐めずりをすると同時に、妖しく蠢く尾からねっとりとした桃色の液体が僕の腕に垂れた。

 瞬間、まるで腕の一部分だけに電気ショックを受けたかのような衝撃が走った。

 

 「ーーあぐっ、なんだよ、これ」

 

 「すごいでしょ?もしその液体が君の大事な場所に触れたら、どうなっちゃうと思う?」

 

 これには僕も思わず生命の危険を感じ、なんとかシェナの拘束から逃れようともがいた。

 しかし、いくら悪魔の血を取り込んだからと言っても、僕が主人であるシェナに敵う筈もない。

 

 「ボクが間違っていた。ボクの考えが甘かったんだ。本当に申し訳なく思っているよ。最初から君の理性を溶かしていれば、野良犬に傷を付けられる事もなかった。でも、もう大丈夫だ。君がこれから感じるのは温もりと、柔らかさと、気が狂っちゃうほどの快感だけだから」

 

 動け動け動け動け!!

 

 シェナに悪気はない。

 それは僕だって分かっている。

 彼女はいつも僕のことを最優先に考えてくれる。

 大切な眷属だから、傷がつくのが許せない。

 だが僕は人間でありたいのだ。

 考えて悩んで馬鹿をやる、そんな人間でいたい。

 

 僕はシェナのペットでもいい。

 だけど、彼女の人形になるのはまっぴら御免だ。

 

 「一緒に、壊れちゃお♡」

 

 シェナの息を呑むほどの美貌が、桜色の唇が僕の元へとやって来る。

 しゅるりと、彼女の尻尾がまるで意思を持つかのように僕の口元へと這い寄って来た。

 

 かぱぁっと、シェナの尻尾が口を開くみたいに割れた。

 中からはとろとろと粘液が止めどなく溢れている。

 

 シェナはこの粘液を僕に飲ませるつもりだ。

 そしてこの媚薬粘液を飲んだら最後、僕はへっぽこ野郎に成り下がる。

 

 僕は呼吸を止め、腹筋に力を込めた。

 チャンスは一瞬、ミスったら僕は廃人コースまっしぐら。

 僕はこれまで読んできたサキュバス系同人誌の伝統を信じることにした。

 頼むぜ、性癖の先駆者たちッッ。

 

 「あむっと」

 

 僕はシェナの尻尾を噛んだ。

 

 ただし、舌は絶対に付けないように引っ込めて。

 前歯と犬歯だけを使って、噛んだ。

 

 蛇の毒を口で吸うと、虫歯から神経を通って毒素が吸収される。

 よって絶対にやってはいけないのだが、僕は生まれてこの方虫歯ゼロ。

 媚薬物質が吸収される心配はない。

 

 「ーーかはっ♡」

 

 シェナがビクンと身体を硬直させてのけ反った。

 ぱくぱくと意味もなく開閉を繰り返す口からはだらしなく涎が垂れ、瞳からは意志の光が消え去る。

 尻尾はピンッと一直線に伸びて、やがて力を無くしたように倒れた。

 

 計画通りだ。

 大抵尻尾が生えてるキャラは掴まれたり撫でられたりすると過剰反応する。

 すなわち、その場所に神経細胞が集合しているということ。

 触れただけでも■■なところを、もしも噛んだりしてしまえば、一体どうなるか。

 

 あとは、想像にお任せしよう。

 とりあえず、形成逆転!

 

 「なまっ♡いきなこと……♡するなぁぁぁ♡」

 

 「断る。いいか?今まで隠してきたけどーー」

 

 ここで一つカミング・アウトだ。

 よく聞いておくんだな。多分頭に入れる余裕ないだろうけど。

 

 「ーー僕はかなりのSだぞ」

 

 今度はかなり強めに、尻尾を噛んだ。

 

 「かひゅっ♡あっ……♡へぁっ♡」

 

 白目を剥き、小刻みに痙攣を繰り返すシェナ。

 すると突然操り人形の糸が切れたみたいに、僕の胸へと崩れ落ちた。

 既に意識が消失していることは明らかだった。

 

 「とりあえず、目が覚めたら謝るか」

 

 ぐったりと脱力した彼女の身体を優しくソファに横たえると、僕は腕と服に付着した粘液をティッシュで拭き取り、ゴミ箱に放り投げた。

 

 問題は山積みだ。

 この状態でシェナと桜木を合わせたら、おそらくここら一帯は焼け野原になる。

 なんなら日本すら危ない。

 

 喉が乾いたことに気付き、冷蔵庫に行こうとした時、電話がなった。

 僕は天を仰ぎ、絶望した。

 

    ▼

 

 

 「ーーどう、落ち着いた?」

 

 聞くもの全てを落ち着かせるだろう、穏やかなテノールがボクの鼓膜に響いた。

 耳元で囁かれていたら、きっとボクは腰砕けになっていた。

 例えるなら、森の中で風に揺れる木々の騒めき。

 澄み渡った大海に浮かぶ船の上で聞く波の音。

 

 彼の声はもはや自然の神秘すら感じさせるほど、魅惑的だ。

 本人が自覚していない分、ボクは彼の不意打ちに気を付けなければならなかった。

 

 そうでもしなければ、主人として情けない痴態を曝け出しかねないのだ。

 それほどボクの眷属の声は……男の色気と幼さが混じりあっていて、なんというかこう……お腹にきゅんと来る。

 

 「まったく、淫魔の尻尾を噛むなんて、君は悪魔かい?」

 

 ズキズキと頭が痛み、身体が鉛でも背負っているかのように怠い。

 

 意識が消失する直前に味わった、文字通り脳が焼き切れるほどの快感を思い出して、思わず下半身に甘い疼きが走る。

 でも、今のボクには火照った身体を慰める余力なんて微塵も残っていなかった。

 呼吸をするのさえ、辛い。

 

 「でも、あれしかシェナを止める方法が思いつかなかった」

 

 あの時のボクは、大切な眷属が他の雌に汚されたことに怒り、少し正気を失っていたようにも思う。

 あのままボクが彼を壊していたら……そう思うと、今になって恐怖が襲って来た。

 

 独占欲が強いのは淫魔の悪い癖だ。

 何せ彼の肉体で最も神聖な部位を介して魔力を吸うのだから、他の雌に手を付けられては聖なるその場所に穢れが付いてしまう。

 ボクはそれが許せなかった。

 

 でも目が覚めてから、ボクは彼から全てを聞いた。

 

 ーー同級生の女子が、本当は吸血鬼だった。

 

 彼は『食事』のために少量の血を吸われ、『眷属』であるのを見破られた。

 そして、彼はボクのことを『彼女』だと紹介し、吸血鬼はどういう訳かボクと会いたがっているらしい。

 

 聖なる子じゃなくて血液だったから、今回は百歩譲ってセーフ!

 血液の魔力濃度なんてたかが知れてる。

 彼の、あの摂取した瞬間身の毛もよだつような甘美なる魔力を味わったことがあるのは、この世界でボクけなのだ。

 本当は嫌だけど、ここは主人として寛大な心で許してやらんでもない。

 

 それにしても、吸血鬼なんて久しぶりに聞く単語だ。

 吸血鬼が魔族かと聞かれると、非常に返答に困る。

 『吸血鬼』と言っても彼ら彼女らはもともとは人間だ。

 人間が吸血鬼へと変貌する理由には色々と諸説があるのだが、どれも『生への渇望』がキーワードになる。

 

 ーー末期ガンの患者が急に看護師を襲い、五階の窓から飛び降りた。

 ーー飛び降り自殺した人の死体が動き出し、夜の空に消えて行った。

 

 死にたくないという強い気持ちが、人間の血を吸い生き延びる異形の存在へと変えてしまうのだろうか。

 詳しいことは魔族のボクでも分からない。

 

 でも一つ、わかっていることがある。

 その吸血鬼は、きっとボクの眷属のことが好きだ。

 これは間違いない。

 彼は息をしているだけで魔族や異形を惹きつける。

 『じゃにーず』とやらが街を歩けば大勢の若い女に囲まれるように、彼にもそういう性質がある。

 

 猫にまたたび、魔族にイナミと言っても過言じゃない。

 

 

 「怖かったよね。尻尾使って洗脳しようとしたり、強引に押し倒したりしちゃって… …ごめん。ボクのこと、嫌いになった?」

 

 「いいやぜんぜん。むしろ愛されてるなぁって」

 

 息も絶え絶えと言った様子のボクを、彼は優しく抱き締めてくれた。

 甘い柔軟剤の香りと彼の匂いが混ざり合って、ボクの鼻腔を突き抜ける。

 まったく、本当にボクの眷属はずるい。

 主人がやられて喜ぶことを、全部知っているんだから。

 

 貴族種のボクだから耐えられているんだ。

 低位の淫魔なら理性崩壊とろとろセ■■スまっしぐらに違いない。

 

 「その吸血鬼、君の同級生なんだろう?」

 

 「うん。ちなみに、生徒会長」

 

 「じゃあ、ボクも挨拶しないとだ。『彼氏がいつもお世話になってます♡』ってね」

 

 「めっちゃ恥ずかしいんだけど、それ」

 

 

 

 

 

 

 

 まあお茶とお菓子ぐらいは、出してやってもいいかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




主人公の伊波君はSです。
責めるの大好き人間。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ヴァンパイア・ハンティング

『狩人』・・・教皇庁所属の異端審問官。絶対魔物殺すマン。


 

 『狩人』は駅前の新興住宅地に建つ、二階建て一軒家の前に立っていた。

 

 クリーム色の外壁には汚れ一つ見当たらない。

 ピカピカの新築だ。

 綺麗に整えられた庭には花壇があり、色とりどりの花が咲いている。

ぶうんと、一匹の蜜蜂が飛び去った。

 

 狩人は家の前の電信柱に体を預けると、背広の内ポケットから煙草を一本取り出し、火を着けた。

 美味い煙を吸い込み、ふうっと時間をかけて吐き出す。

 十年前から欠かさない、仕事前の儀式だった。

 

 煙草を吸いながら、スマホにダウンロードしてある標的の情報に目を通す。

 うちの上司は人使いが荒いことで有名だ。

 飛行機で九時間かかる国への出張をエコノミークラスのチケット片手に、三時間前に言い渡す。

 

 まるで「そこの自販でちょっとジュース買ってきて」なんてお使いを頼むみたいに、「ちょっと日本のヴァンパイア狩ってきて」なんてことを平気で言って来るのだ。

 

 おかげで時差ボケが抜けきっていない。

 近年まれに見るバッドコンディションだった。

 死なないで仕事を完遂できるか流石に不安になって来る。

 

 大きな欠伸を一つかます。

 涙で視界が滲んだ。

 

 狩人は腰に付けたホルスターから拳銃を引き抜いた。

 スライドを引き、薬室に初弾を装填する。

 磨き抜かれた漆黒の銃身が陽光を反射して、煌めいた。

 

 ワルサーPPK。

 名作映画007の主人公ジェームズ・ボンドに憧れて自費購入したものだ。

 対異形戦闘用に様々なカスタムを施してある。

 

 「おじさん、そのピストル本物ですか?」

 

 気がつけば、虫取り網を持った坊主頭の少年が狩人の隣にいた。

 そういえば、日本はちょうど夏休みに入ったばかりか。

 子どもたちにとっては、毎日が刺激的で興奮の連続となるだろう。

 

 思わず、心拍数が跳ね上がった。

 拳銃を握る手が僅かに震える。

 失った息子の姿が脳裏に浮かんだ。

 好奇心に満ちた少年の瞳は、消し去ろうとした忌々しい記憶を、最愛の我が子を目の前で殺された瞬間を、鮮明に呼び戻させた。

 

 「任務だからね」

 

 狩人はそう言って、片目を瞑って見せた。

 少年はパァッと表情を明るくする。

 

 「これ、食べる?」

 

 狩人は地元で買ったスイカ味のキャンディを少年に手渡した。

 ぺこりと、少年はおずおずと頭を下げる。

 狩人にとっては食べ慣れた菓子だが、少年にとっては摩訶不思議な代物のようだ。

 少年は少し困惑しながら、飴玉を口の中に放り込んだ。

 

 「うまいだろ」

 

 少年は口をムニュムニュさせながら、こくこくと頷く。

 

 「ハハハ。そいつはよかった」

 

 そういえば、息子も食べ物をよく頬にためていた。

 夕食の時にはハムスターみたいだと、妻と一緒によく笑ったものだ。

 あの時は確かビーフシチューだった。

 妻が赤ワインを飲んで酔っていて、急に唇を尖らせてキスをねだって来るものだから、それはもう堪らなかったのを覚えている。

 その日の夜はもちろん……

 

 悪い癖だ。

 遠い昔の思い出を引っ張り出してしまうのは。

 

 「ここはじきに危なくなる。離れていてくれないか」

 

 狩人が静かに呟くと、ただならぬ雰囲気を察知したのか少年は頷き、ダッシュで駆け抜けて行った。

 

 そうだ、それでいい。

 君は両親を悲しませてはいけない。

 

 狩人は黒い革手袋を嵌めると、玄関へと向かって歩き出した。

 その場で軽く跳躍し、筋肉をほぐす。

 頬をぴしゃりと叩いて、狩人は確かな殺意を滾らせた。

 この世に蔓延る異形は、駆除しなければならない。

 罪なき命が奪われる理不尽を、狩人は断固として許さない。

 

 「さて、始めるか」

 

 表札を見れば、『桜木』と書かれてある。

 狩人はそっと、インターホンのボタンを押し込んだ。

 

 ぴーんぽーんと間の抜けた音が鳴った。

 

 住人の足音がドアの向こう側から段々と近付いて来る。

 足音が止んだと思えば、ガチャリと音を立てて木製のドアが開かれた。

 

 「あの、どちら様でしょうか」

 

 家の中から現れたのは、四十代くらいの女性だ。

 

 年相応のしわが少し刻まれているものの、顔立ちは女優と言われてもなんら疑わないほどに整っている。

 化粧っ気は薄いが肌には染みひとつない。

 紺色のセーターの下から主張する胸の膨らみは日本人の平均以上に大きかった。

 ウエストも引き締まっていて、スタイルの良さはおそらく二十代にも引けを取らないだろう。

 

 「娘はどこにいる」

 

 狩人は女の問いには耳を貸さず、拳銃を突き付けた。

 

 自らの命が目の前に立つ男に掌握されたことを悟ったのか、女は二重瞼の目を大きく見開き、やがて氷水に浸けられたように小刻みに震えだした。

 

 「な、にをしに……来たんですか?」

 

 『標的の母親』は唇を震わせながら言った。

 

 ――とぼけるつもりか。

 

 たいそうな勇気だ。

 よくこの状況で冷静さを保っていられる。

 

 「質問してるのは俺だ。日本人の癖に日本語が分からないのか?脳みそを使わないなら、今すぐにでも噴出させてやるぞ」

 

 「――うぶっ」

 

 狩人は銃口を女の口の中に突っ込んだ。

 鉄の塊が喉に触れたのか、女は目に涙を浮かべながら呻いている。

 

 「いいか?あと一度だけチャンスをやる。仏の顔は三度までだが、悟りを開いていない俺の場合は二回がギリだ……。娘は、どこにいる」

 

 狩人はとうとう引き金に指を掛けた。

 そっと力を入れるだけで、女は死ぬ。

 

 「こうなることは……分かっていました」

 

 狩人は不満げに鼻を鳴らした。

 この女はどうやら自殺願望があるらしい。

 

 「あの子を引き取ったことに、微塵も後悔はありません。強いて言えば、孫の顔が見れなかったことが心残りでしょうか」

 

 女は静かに瞼を閉じた。

 零れ落ちた涙がつうっと頬に垂れる。

 女は自らの死を確信したようだった。

 

 いい判断だ。

 抵抗は無意味。

 弾丸が急所を外れれば、失血から来る悪寒と吐き気にもがき苦しみながら、息絶えることになるだろう。

 

 「遺言、一言くらいなら聞いてやる」

 

 そう言って、狩人が肩を竦めた。

 女は耐え切れずに嗚咽を漏らす。

 そして、最期の言葉を紡ぎ出した。

 

 「愛しているわ奈々花……幸せになーー」

 

 一言じゃねえだろうが。

 狩人は引き金を絞った。

 

 パァンという破裂音と共に弾丸が発射される。

 弾丸は女の喉を突き破り、向こう側の壁に着弾した。

 

 こひゅっと女の喉から呻き声漏れ、堤防が決壊したように血液が噴きだす。

 女は白目を剥きながら血の泡をごぼごぼと吹き出し、そのまま床に崩れ落ちた。

 

 念のためにもう一発。

 女の心臓目掛けて引き金を引く。

 びくんと女の肉体は痙攣して、それから一ミリも動かなくなった。

 狩人は頬に付いた返り血を拭うと、ポケットからスマホを取り出し、上司へと電話を掛けた。

 

 「もしもし、俺です」

 

 『どうした?交通費は渡さないぞ』

 

 「その件じゃないですよ。いや、その件も大事ですけど」

 

 『珍しいじゃないか。お前が仕事中に電話して来るなんて』

 

 「えっと……一般人を一人緊急異端認定し、射殺しました」

 

 『おいおいやってくれなぁおまえ。書類作んの面倒なんだよ。罪名は?』

 

 「異形の隠匿ならびに庇護です」

 

 『オーケー。じゃあ本命をやってくれ。あと、土産はしっかり買ってこいよ』

 

 「自費ですか」

 

 『自費だよ』

 

 全く、この上司の脳内には自費という言葉はあっても慈悲の心は存在しないらしい。

 これからどんどん軽くなっていくであろう財布のことを考えたら、とんでもなく憂鬱だ。

 まったく、これだから年功序列の公務員は辛い。

 狩人はため息ひとつ吐き出して、女の死体を跨ぎ、リビングの扉を開いた。

 

 瞬間、ぞわりと濃密な殺気が肌を撫でた。

 ナニカが、いる。

 そう思った時だった。

 

 「――死ねぇぇぇぇ」

 

 少女の絶叫が耳元で響いた。

 数多の死線を潜り抜けて来た狩人だ。

 不意打ちを寸前で回避することなど、容易い。

 まったく面倒な仕事になりそうだ。

 舌打ちをして、狩人は飛びかかってきた人影に向かって引き金を引いた。

 

 

  ▼

 

 

 「絶対に……許さないっ……ママを、返してっ!!」

 

 「それは無理だ。死者は蘇らない」

 

 狩人は女の死際の言葉を思い出した。

 どうやら奈々花、というのがこの吸血鬼の名前らしい。

 

 真紅に染まる瞳は母親を奪われた憤怒に染まっていた。

 人間の肉など容易く引き裂くであろう犬歯、そして爪。

 凶器とも言えるそれを、奈々花は狩人を殺さんと幾度となく振るっている。

 

 掠っただけでも致命傷となり得るだろう。

 人間は魔族や異形と違い、負傷がすぐに癒えることもないし、出血は簡単には止まらない。

 大きな血管に攻撃を喰らえば、失血死は免れない。

 

 ただ、奈々花という吸血鬼の攻撃は幼稚で、単純で、笑ってしまうほどに遅かった。

 理由は単純だ。

 大切な人を失った悲しみ、怒り、そして絶望。

 奴の中にはありとあらゆる負の感情が洪水を起こしている。

 

 さぞ悔しいだろう。

 憎いだろう。

 それでいい、それが俺が味わった苦しみの一端だ。

 狩人は駄々っ子のように泣き叫ぶ奈々花を前にして、獰猛に笑った。

 

 「どうして、ママを殺したの。貴方が殺したいのは吸血鬼である私でしょうッッ」

 

 奈々花が狩人の間合いへと踏み込む。

 

 人間の約八倍の身体能力を誇る吸血鬼だ。

 常人ならば目には負えない速度。

 だが、狩人は大きく身体を退け反らせて蹴りを回避し、そのままガラ空きになった奈々花の胴体へと弾丸を撃ち込んだ。

 

 狩人の殺意を乗せ、拳銃が咆哮する。

 奈々花の胴体に風穴が空き、鮮血がリビング飛散した。

 部屋には夥しい量の血液に濡れていて、鉄臭い匂いが充満していた。

 

 「あがっ……ふぅ……あ」

 

 奈々花は吸血鬼の『自己再生』すら間に合わない負傷に苦悶の表情を浮かべ、立ってさえいられずに床へと崩れ落ちる。

 

 もはや、一方的な暴力だった。

 

 「クソ、ここに来て弾切れか」

 

 狩人はカチカチと音を立てる拳銃をホルスターに収めると、高そうな革張りのソファーに腰を下ろした。

 目の前で奈々花が血反吐を撒き散らして這いつくばっているが、狩人は特に気にした様子も無い。

 完全に寛いでいた。

 

 「殺して……やる」

 

 「おいおい。ぜんぶお前が孤独に耐えられなかったのが悪いんだろ?なあ、被検体005番」

 

 狩人が口にした瞬間、目の前の吸血鬼は弱々しく震えながら、床に頭を打ちつけ始めた。

 割れた額から血が噴き出る。

 それでも、彼女は脳内に巣食う闇を追い出すかのように、その行為を止めない。

 

 「や、やめてください……その名前で、呼ばないで……」

 

 「お前が母親を殺したんだよ。いいか?世の中は理不尽なんだ。そして、偉い奴の都合がいいように出来てる。教皇庁の闇をバラされる訳にはいかない訳だ」

 

 「おねがいです……ほんと、う……に、や、だぁ……」

 

 「唯一の親友だった女の子が目の前で死んで、次は母親か。お前、吸血鬼より死神の方が向いているよ」

 

 狩人は獲物を追い詰める。無慈悲に、そして冷酷に。

 怯え、恐怖し、限りなく絶望させてからーー殺す。

 それが、彼が『狩人』たる所以だった。

 

 狩人を動かすのは、魔族と異形への紅蓮の如き復讐心。

 狩人が『仕事』をする時に考えるのは、ただ苦しませることだけだ。

 肉体を痛めつけることもあれば、精神を砕きに掛かることもある。

 

 「そういえばお前、好きな男がいるんだろ?なんだっけ、ああそうだ。伊波迅と言ったか?アイツなかなかのイケメンだよな」

 

 「まさか……ダメ!それだけはっ……絶対にダメ!」

 

 「ァハハハッ!そのまさかだよ!愛しの伊波君に会いに行くから、おめかししてたんだろ?いいさ、会わせてやる。電話は入れておいた。『奈々花ちゃんを預かりました』ってな。もうすぐこっちに着くだろうよ」

 

 親友?母親?

 

 いやいや、この吸血鬼の精神を叩き折るのに手っ取り早い方法は、想い人を目の前で殺すことだ。

 出来るだけ残虐に。

 ピンク色の臓物を引きずり出した後で、首をちょんっと切断すれば完璧だ。

 

 「目の前で、何もできないまま、愛しい男が悲鳴を上げて死んでいく様を、ただただ見ているだけ。お前は今日全てを失うんだ。そしてまた独りになる。どんな気分だ?お前が関わったばっかりに、罪のない男が死ぬぞ?」

 

 狩人はソファから立ち上がると、拳銃に新しい弾倉を叩き込み、奈々花の眉間に銃口を向けた。

 最期、この女はどんな顔で死んでくれるのか。

 舌舐めずりをして、狩人は微笑んだ……

 

 ……

 

 ………

 

 ……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ーーあぁぁぁ!?ちょっ、成田先輩!百キロ出る原チャリで突入はヤバいですってぇぇ!」

 

 「安心しろ!この『入れ歯にクッション号』はひいじいちゃんに改造してもらった!」

 

 「いやネーミングセンス!?どんな改造なんすかっ」

 

 「衝撃を感知すると座布団が二枚出る」

 

 「意味ねえ!」

 

 スイカのヘルメットを被った二人組が、窓ガラスを粉砕して転がり込んできた。

 なんなのだ、こいつらは。

 狩人は絶句した。

 




成田先輩久しぶりの登場。
次回更新は一週間後です。お待ち下さい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

乙女よランナウェイ

書き溜めがあったので、投稿します!




 「うみゅ……うわぉぉん」

 

 「おい、起きろシェナ。おきろー」

 

 「あみゅ」

 

 「いたっ。あー指を噛むなって。べたべただよもう」

 

 僕はふわぁっと欠伸を漏らした。

 膝の上ですぴすぴと気持ちよさそうに眠るシェナが、かぷりと僕の人差し指を咥えている。

 ぺろぺろと舐めてくるシェナの舌の感触が擽ったい。

 一体どんな夢を見ているのだろうか。

 どうせ淫魔だからろくな夢じゃない。 

 

 「ぐぅ……きもち、いい……かい、すぅ……」

 「寝言がいやらしい」

 

 寝顔は本当に無邪気で可愛らしいのにな、と思う。

 穏やかな寝息を立てるこの少女が淫魔だなどと言っても、誰も信じないだろう。

 僕はゆっくりと、さらさらの銀髪を撫でた。

 ふわりとシャンプーの甘い匂いが漂う。

 シェナの表情がへにゃりと柔らかくなった。

 

 まるでご主人様に懐く子猫だ。

 とてつもなく庇護欲を唆られ、僕はしばらく無言でシェナの頭を撫でていた。

 尻尾が嬉しそうに揺れている。

 

 

 ゆらゆらと規則的に揺れるシェナの尻尾が、催眠術のコインみたいな役割をしたようだ。

 なんだか眠くなってきたなと、僕はまた一つ欠伸を漏らす。

 

 いや、いくらなんでも遅くないか?

 

 二年間無遅刻無欠席の桜木が待ち合わせに遅れるなんて、にわかに信じがたい。

 しかし「二十分後には着くわ」と電話があってから、かれこれ一時間はたっていた。

 

 なぜか上機嫌にお茶とお菓子を準備し、部屋の掃除をしていたシェナだったが、さっきの甘噛み騒動でかなりの体力を消費していたらしい。

 「吸血鬼ちゃんおそいねー」と呟いたのを最後に、ソファに倒れ込んでそのまま眠ってしまった。

 

 歩いて行くと桜木は言っていたから、渋滞にはまったとか、電車が送れたというのは考えられない。

 

 まさか、交通事故に遭ったのでは?とも思ったが、そもそも彼女は人間じゃなかった。

 流石に吸血鬼が車に轢かれて死ぬ訳がない。

 

 そんなことを考えていると、テーブルに置いていたスマホがブブブと振動した。

 シェナを起こさないようゆっくりとソファから立ち上がり、テーブルの上のスマホを手に取る。

 画面には『成田先輩』の表示が。

 

 え!と思わず声が出た。

 

 いけない、シェナが起きてしまう。

 僕は振り返った。

 そして安堵のため息を吐く。

 シェナは相変わらず夢の中だ。

 

 僕はリビングを出て、自室に入った。

 ベッドに腰を下ろし、通話ボタンを押す。

 

 「もしもし、僕です」

 『おう。今ちょっと時間いいか』

 

 うわ、これは駄目な奴だ。

 成田先輩が僕に電話をして来る時は、たいていヤバいことが起こっている。

 

 ヤバいこと言っても、「不審者が出た」なんて生優しいものではない。

 

 『市街地でヒグマ二頭による乱闘が発生』とか、『出刃包丁を両手に持ち、さらにもう一本を口に加えた三刀流の通り魔が暴れている』とか、熱でうなされている時の悪夢みたいな事件が起きているのだ。

 

 そして成田先輩は「ちょっと見に行こうぜ」なんて言って僕を誘う。

 

 おかげで僕は幾度となく死にかけている。ヒグマには馬乗り(熊乗り?)で殴られ、三刀流の通り魔には脇腹を刺された。

 

 通り魔もヒグマも最終的には成田先輩が北米生息のグリズリー用熊スプレーで撃退してくれたのだが、今でもたまにあの光景は夢に見る

 

 今度はいったいなんなんだ。

 僕は泣き出したい気分になった。

 

 「一体何があったんですか。もうヒグマとやり合うのは御免ですよ、マジで」

 

 『安心しろ。今回はそっち系じゃなくて、あっち系だ』

 

 「いや、あっち系ってなんですか。もしかして、三刀流ジジイの方ですか?」

 

 『ビンゴ!流石は今日の運勢一位だな』

 

 ベッドの上のめざまし君と目が合った。

 とりあえず、一発ストレートをお見舞いする。

 「ろぉくじさぁんじゅっぷん!」と、めざまし君のぬいぐるみが奇妙な断末魔を上げたが、特に気にしない。

 

 僕の鬱憤は少し晴れた。

 

 『久しぶりに原チャリでドライブしてたらよ、信じられるか?聞こえたんだよ』

 

 「何がですか?」

 

 『銃声』

 

 「そんな訳ないですって。絶対かけっこのよーいどんのピストルですよそれ」

 

 日本は馬鹿みたいに銃規制が厳しい。

 警察官が普段着用しているのが防弾ではなく防刃ベストであることからも、それは明らかだ。

 

 ましてや、繁華街とはかけ離れた閑静な住宅街で銃撃事件など起こるはずが無い。

 百歩譲ってヤクザの事務所が近くにあるのなら分かる。

 だが、この辺りはヤクザは愚かチンピラすら見かけない。

 

 『いや、俺はバッチリと目撃したぞ』

 

 「まさか……発砲の瞬間をですか?」

 

 『流石の俺もビビったぜ。マジもんのチャカは初めて見た』

 

 「ち、ちょっとその話詳しく!」

 

 おいおい嘘だろ。

 出刃包丁三刀流で殺人鬼はもうお腹いっぱいなんだよ。

 一年に一回の周期でクレイジーな凶悪犯罪者と向かい合う僕の気持ちにもなってくれ。

 

 だが、僕の胸中にある種のワクワクが芽生えているのも事実だった。

 非日常への扉を、スリルへの階段を、成田先輩はひょいっと僕に持って来る。

 

 『外国人の男だ。高そうなスーツに黒いネクタイをしてた。そいつが、お洒落な一軒家から出てきた美人ママの口ん中に銃口を押し込んで、バン!』

 

 「殺したってことですよね」

 

 『ああそうだ。あいつは間違いなくプロだ。俺の直感がそう言ってる』

 

 「警察に通報は?」

 

 『まだに決まってんだろ』

 

 成田先輩は電話越しに鼻で笑った。

 いや、笑い事じゃ無いでしょ絶対。

 

 「どうしてですか!」

 

 『やっつけるんだよ、俺たちが』

 

 「すみません。やっつけるんだよ俺が、って言いましたよね。そうですよね」

 

 『違うな。俺たちで、だ』

 

 僕は天を仰いだ。

 ほら見たことか。

 やっぱりそうなる。

 いつだって成田先輩は予想を裏切らない。

 

 「今回は無理です。マジで無理です。包丁で死にかけたんですよ?銃なんて、撃つぞ!うわ!撃たれた!死んだ!のコンボで終了です、終了」

 

 『お前、聖女とかいうもっとヤバい奴に命狙われてるだろうが』

 

 「うっ、忘れていた」

 

 『ちなみにいいニュースと悪いニュースがあるが、どっちから聞きたい?』

 

 「どうせ上げて落とすのが成田先輩の趣味なんですよね。分かってますって。悪い情報からでお願いします」

 

 『じゃあ悪い情報。一軒家の表札が「桜木」だった』

 

 呼吸が、止まった。

 思考が追いつかなかったからだ。

 撃たれたのは、桜木のお母さんということなのか?

 

 僕は反射的にベッドから飛び起き、パーカーを羽織った。

 護身用に買ったタクティカルペンをポケットに挿す。

 

 いくら吸血鬼と言えど弱点は必ずあるはずだ。

 相手が成田先輩の言うとおり、プロ。

 つまり殺し屋とか、ヴァンパイアハンターだった場合、彼女の命の保証はどこにもない。

 

 結論はひとつだけ。

 

 ーー桜木が、危ない。

 

 「クソっ、成田先輩今どこにいるんですか!?」

 

 『そこで良いニュースだ。俺はもうお前のアパートの前にいるぜ』

 

 「すぐ行きます!」

 

 僕はすぐさま電話を切ると、スマホを握りしめたまま自室の扉を蹴飛ばした。

 リビングを覗けば、シェナがまだ眠っている。

 「すぐに戻るよ」と、おそらく彼女には聞こえてはいないだろうけど呟いて、僕は玄関へと走った。

 履き慣れたナイキ・ペガサスに両足を突っ込む。絶対に脱げないよう、紐をきつく縛った。

 

 ドアを開く。

 外は清々しいほどの晴天だった。

 アパートの階段を二段飛ばしで駆け下り、駐車場に出る。

 

 「遅かったじゃねえか」

 

 スイカのヘルメットを被った成田先輩が、白い歯を見せて笑った。

 Tシャツはいつもどおり『瞬殺のガンディー・マハトマ』だ。

 非暴力はどこに行った。

 獰猛な笑みを浮かべる、デフォルメされたガンジーを見るたび、僕はそう思う。 

 

 「後ろに乗れ。お姫様がお待ちだ」

 

 成田先輩が決め台詞を放った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

血は鉄の味がする。

沢山のお気に入り登録並びに評価ありがとうございます!
おかげ様で日間オリジナルランキング(加点)18位に入ることが出来ました!
甘々な人外娘ラブコメ展開まではもう少しですので、お待ちを!


 僕の視界はジェットコースターに乗った時みたい、ぐるぐると回転していた。

 

 天と地が入れ替わる。

 世界が真っ逆さまだ。

 見慣れない庭と見慣れないリビングルームの映像が交互に流れ込み、僕の脳は現状を把握できず?マークの洪水に晒される。

 

 数秒前まで成田先輩が運転する原チャリに乗り、住宅街を疾走していた。

 原チャリのくせに時速八十キロ近く出ていたから「ちょっと先輩、これどうなってんすか」なんて言おうとした、まさに瞬間だった。

 

 成田先輩がいきなり「ブレイク!」と叫びながらハンドルを横にぶっ倒したのだ。

 まるでロック・オンされた時の戦闘機の機動だ。

 僕の首はガクンとムチウチになった。

 

 ブレーキを一切握られる事がなかった原チャリは、ほとんどドリフトに近い形でカーブし、お洒落な外見の一戸建て住宅へと突っ込んで行った。

 

 宙へと飛ばされた僕は死を覚悟した。

 全身の骨をバキバキに粉砕され、悶えながら死ぬのだろうと。

 

 「ぁぁぁぁぁ!」

 

 割れた窓ガラスの破片が宙を舞っている。

 ふと気がつけば、床が目の前に迫っていた。

 衝突まで、わずかに一秒。

 

 ――ええい、ままよ!

 

 頭を強打するよりはマシだろうと、僕は床に向かって右腕を突き出した。

 信じ難い衝撃がビリビリと腕に走ると同時に、僕の右腕はフローリングを貫通して突き刺さった。

 ほんの一瞬だけ、身体が片手倒立の状態で停止する。

 咄嗟の判断で、僕は衝撃を全身へ逃がそうとそのまま空中で一回転させた。

 

 真横でブウン!と原付きが通り過ぎた。

 そしてそのまま驚くように口を開けた、拳銃を握る男を吹き飛ばす。

 上下左右しっちゃかめっちゃかだった視界が、元通りに帰ってきた。

 僕は、幸運にも血塗れになったリビングの床に着地する。

 

 「あ、危ねえ……」

 

 「おいおい。いつの間にそんなアクロバティック出来るようになったんだよ、伊波。それじゃあ『入れ歯にクッション号』の意味がないだろ」

 

 僕がどっと安堵のため息を吐いていると、すぐ横で成田先輩がヨギボーみたいな巨大クッションから起き上がった。

 当たり前だが、成田先輩はケガ一つしていない。

 

 いや、成田先輩のことは今はどうでも良いのだ。

 戦闘中のアフガニスタンに旅行に行くような人間の心配をしている暇は僕には無い。

 

 「桜木!無事じゃあ……ないな、これ絶対!ああくそ、出血が多すぎる」

 

 革張りのソファーの前で、桜木が夥しい量の血を流して倒れていた。

 いつも僕に笑顔で毒舌を吐いてくる美少女が真紅の化粧を纏い、死の淵にいる。

 信じたく無かった。

 このままでは彼女の命は呆気なく尽きるだろう。

 

 僕の心臓が早鐘を打つ。口がカラカラに乾いた。

 その光景は恐ろしくも、どこか残酷な美しささえ感じさせたからだ。

 血を奪う存在の吸血鬼が、自らの血に染まっている。

 ある意味アンバランスな状況が、僕にそう感じさせているのかもしれない。

 

 こういう状況をよく水溜りのような血の量と比喩するが、マジでそれだ。

 一歩踏み出すたび、ぴちゃっと湿った音が足下で鳴る。

 僕は桜木のすぐ横にしゃがみ込み、彼女の傷付いた身体をそっと抱き抱えた。

 背筋が凍り付くような血の匂いが、鼻腔を撫でた。

 

 「い、なみ……くん?」

 

 腕の中で、桜木が瞼をうっすらと開けた。

 呼吸は弱々しく、いつ止まってもおかしくないような危うさを感じる。

 焦燥感が背筋を駆け上がる。

 このままでは、彼女はもしかすると。

 

 僕は思わず、桜木をなお強く抱き締めた。

 

 「死んだら許さないからな。絶対に、助ける」

 

 「いつから……ごほっ、少年漫画の……主人公にっ、なったのよ……ほんとうに、バカみたい」

 

 「男の子なら一度は言ってみたい台詞堂々の一位だからな。ちなみにソースは僕」

 

 「弱っている女の子に優しくするっ……なん、て……悪い男の、常套手段じゃない」

 

 桜木は僕の顔を見ると、力なく微笑んだ。

 その笑みに僕は亡き母親の顔を幻視してしまう。

 桜木の表情は、病院のベッドで静かに笑っていた母親とどことなく似ていた。

 

 ああ、神様。

 どうしてお前は僕に試練ばかり与えるのだ。

 

 あの時、なぜ末期癌という死神を母に遣わせた。

 母親は優しい女性だった。

 小さい虫一匹の死にさえ、悲しむような人だった。

 そんな素敵な母がなぜせいぜい三十歳くらいで死ななければならなかった?

 

 神は、今度は桜木の生命まで奪うのか。

 クソッタレ!お前のやりたい放題にはもう、付き合ってられねんだよ。

 

 しっかりしろよ、僕。

 頬をぴしゃりと叩き、僕は大きく息を吸った。

 迷いは捨てろ。

 桜木の命を救うことだけを考えるんだ。

 

 「止血しなかきゃ……いや、それとも吸血鬼パワーで傷とか治るのか?」

 

 「もう、自然治癒はできないわ……あまりにも、血を失い過ぎた」

 

 「じゃあ、僕の血を吸え。経口輸血だ世界初の!」

 

 人間ならば、失った量と同じ量の血液を飲んだところで失血死は免れない。

 失った血液の成分が吸収される前に、失血性ショックによる臓器不全で命を落とすからだ。

 

 だが桜木は吸血鬼。

 血を主食として生きる人智を超越した存在。

 きっと吸収速度が人間よりも格段に速いから大丈夫なはずと、僕は考えた。

 

 「それは無理よ。伊波君が死んでしまう」

 

 「僕は淫魔の眷属なんだぞ。普通の人間じゃないから、大丈夫だって」

 

 「確かに、伊波君の保有する魔力は常軌を逸しているわ。けれど、あなたは人間よ。私が回復する量の血液を失えば、間違いなく死んでしまう。私はあなたを殺してまで、生き延びようなんて思わない」

 

 そんなの知ったことか、僕がそう言おうとした矢先、成田先輩が口を開いた。

 

 「その子の言う通りだ、伊波。確かにお前は人間には制御できない魔力を操れる悪魔の眷属だ。だが肉体はあくまでも人間。循環する血液量のおよそ三分の一。約1.5Lを失えば死ぬ。俺らと同じようにな」

 

 「そんなこと言ったって、やるしか無いんですよ!先輩は桜木を見殺しにしろって言うんですか!?」

 

 成田先輩は僕のためを思って言っている、それは分かっている。

 だが、こればかりは譲れない。

 もう、目の前で誰かを死なせるくらいなら、死んだ方がマシなんだ。

 

 「桜木、早く吸えっ……吸ってくれ!そうしないと死んじゃうんだよ!」

 

 「ふふふ、優しいのね……でも、ごめんなさい。私には、生きていい権利なんかない。私はママを……守れなかった」

 

 「娘が死んで喜ぶ母親なんていないに決まってるだろうが!」

 

 「もういいのよ、伊波君。あなたの暖かい腕の中で命を終えられるなんて、私には……贅沢すぎるわ」

 

 視界がぐらぐらと揺れだした。

 耳鳴りが断続的に脳を襲い、息が詰まるような感覚が喉を覆い尽くす。

 僕はこれをよく知っている。

 

 絶望だ。

 

 絶望が足音を立てて僕に近付いている。

 ぴったりと、僕に寄り添う影みたいに、絶望が傍らに立っている。

 噛み締めた唇から血が滲んだ。錆び付いた鉄の味がする。

 絶望は、たいてい血と同じ味がするのだ。

 

 そしてなにより、絶望は連鎖する。

 空気が、揺れた。

 

 後ろを振り返れば、外国人の男が拳銃を手に、スーツの埃を払いながら近付いて来る。

 

 さっき轢かれていたのに、どうして平気なんだ。

 成田先輩が舌打ちを漏らした。

 

 「逃げて、伊波君。あなたは、きっと殺されてしまう」

 

 桜木の身体が尋常ではなく震え、その恐怖を露わにする。

 こいつが、桜木を傷付けたクソ野郎と見て間違いなさそうだった。

 

 「これはこれは。お前が伊波迅か。会えて光栄だ。その吸血鬼のお友達……なんだってな」

 

 男は僕の前に立つと、さっぱりとした笑みを見せた。

 だが、目は微塵も笑っていない。

 濃密な殺気が男の全身から放出されている。

 

 「まずは礼を言いたい。感動的なやり取りを見せて貰ったからな。思わず涙が出そうになった。それに、俺は今とてもワクワクしてる」

 

 「へぇ。強い奴と戦いたいって感じ?サイヤ人みたいだな」

 

 「それは違うな。その吸血鬼に――お前の生首と臓物の盛り合わせをやる予定なんだ」

 

 男がニヤリと歯を見せた瞬間、「避けろ!」と成田先輩が切羽詰まった叫び声を上げた。

 僕は桜木を抱いたまま咄嗟に横に跳び、床を転がった。

 

 成田先輩が叫んでいなければ、おそらく僕は死んでいただろう。

 

 スッパリと、僕の真後ろにあった液晶テレビが、真っ二つになっていた。

 剥き出しになった電子部品がパチパチと火花を上げて、スパークしている。

 

 「クソッ。いいコンビネーションだ。全く、この吸血鬼の周りにはなかなかやり甲斐のある男が集まるな。おい、そこのガンジー君。お前は部外者だ。逃してやる」

 

 男は、一振りのナイフを握っていた。

 刃は墨を塗ったように黒く、柄には高そうな赤色の宝石が埋め込まれている。

 テレビを真っ二つにした斬撃を放ったのは、十中八九このナイフだろう。

 

 「伊波、こいつは激ヤバだ。警察呼ぶか?」

 

 「いまさら呼んだって無駄ですよ、これ」

 

 即死攻撃を放ってくる敵に、僕たち二人はロクな武器も持たず立ち向かわなければならない。

 絶望的、それ以外にこの状況を表す言葉は存在しなかった。

 

 「そういえば伊波。良いニュースがあるが聞きたいか?」

 

 「じゃあお願いしますっ!ほら来たっ!」

 

 男が僕目掛けてナイフを振るった。

 

 今度は上から下に、僕を斬り殺そうと斬撃が襲いくる。

 僕は咄嗟のサイドステップで回避したが、避けきれず右肩が抉り取られた。

 ぷしゅっと、決して少なくない量の血液が噴き出る。

 

 「――伊波君っ!」

 

 「かすり傷だ、問題ない」

 

 桜木の悲鳴に、僕は不敵な笑みを浮かべた。

 成田先輩がメガネを人差し指で押し上げたからだ。

 たいていの場合先輩がメガネをくいっとすると反撃が始まる。

 

 「たった今、こいつを殺して桜木ちゃんの輸血袋にする算段が浮かんだ」

 

 「じゃあ、僕は何をすれば良いんですか」

 

 「作戦その一『ひいじいちゃんの意思を受け継いだ原チャリ特攻』が失敗した。次は作戦その二『ヒロインピンチにおける主人公の覚醒展開頼りだよん』を実行する」

 

 「補足説明おねがいしーー」

 

 男が接近し、ナイフによる刺突を繰り出してきた。

 僕は身体を大きくのけ反らせ、そのまま残った左足を軸に男の顎へとハイキック。

 クリーンヒットしたが、さほど効いている様子は無い。

 

 「まずは外に出ろ。お前のアドバンテージを使って、五分間逃げ回れ。お前が生き残れたら、後は俺に秘策がある」

 

 「なんすかアドバンテージって」

 

 「眷属なら魔力操って魔法くらい出せないもんなのか?最近全然俺TUEEE!展開が無くて読者はたぶん飽き飽きしてるだろうよ」

 

 「魔法なんてやったこと、無いですって」

 

 「やれ。出来なくてもやれ。そこはあれだよ、『考えるな、感じろ』って奴だ」

 

 「じゃあ感じてやりますよっ!ビンビンにっ」

 

 僕は桜木をソファーに寝かせると、粉砕された窓からリビングを飛び出して、外に出た。

 

 とりあえずは、成田先輩を信じるしかない。

 僕は全速力で住宅街の中を駆け出した。

 後ろから、規則的な足音が付いて来る。

 これはもうぶっ放すしかない『魔法』って奴を。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

拳で語り合おうじゃないか

 「ここ、お気に入りの公園なんだ」

 

 日陰にある公園には、ぴゅおうと冷たい風が吹いていた。

 夏休みだっていうのに、ちびっこ公園には人っ子一人見当たらない。

 

 ポツンと砂場の横に立つ、赤錆が付いたジャングルジムがひどく小さく見える。

 僕はふと、いつからだろうと思った。

 夢中になって集めたキラキラのレアカードを、単なる紙切れとしか思わなくなったのは、いつからだろうかと。

 

 夕焼けに染まる空。

 服に付いた泥。

 口の中でざらつく砂粒の味。

 

 僕の記憶の中で、野球帽を被った少年の自転車のタイヤが、アスファルトをキシっと擦る。

 「なぁ、チャリでドリフト出来るかな!」なんて言っていたあいつは、確か県で一番の進学校に入った。

 

 僕は思わず空を見上げた。

 太陽は増え始めた雲に隠れ始めている。

 こう言う天気の時は大抵雨が降って、友達の家に避難する。

 そして、据え置き型のゲーム機のリモコンを一心不乱に振る羽目になるのだ。

 

 懐かしいなと、思った。

 

 成長はいつだって、喉に刺さった魚の骨みたいな寂しさを残していく。

 そしてその寂しさを抱えて、僕たちは生きて行かなくてはならない。

 取り戻せないそのチクリと痛い寂しさを、大人たちはきっと青春と呼ぶのだろう。

 ーーなんて、ノスタルジーに浸っている場合じゃないか。

 

 「俺と……ここでやるつもりか」

 

 男はそう少し驚いた様子で呟いた。

 チャリチャリと揺れるブランコに一瞬目を向けて、そしてすぐさま僕に視線を戻す。

 底無し沼の様にどんよりとした瞳だ。

 覇気は無く、その代わりに底冷えするような殺意が込められた瞳。

 

 手にはあのチートスペックのナイフが握られている。

 ギラリと、ナイフはまるで男の意思を汲み取ったかのように煌めいた。

 冗談じゃない。

 僕は少し刃物を舐めていたようだ。

 凶暴なまでの殺意が、一直線に自分へと向けられている。

 

 はっきり言おう。

 

 僕は今とてつもなくこの男が怖い。

 これまで対峙してきたどんなヤバい奴らよりもだ。

 もう、目が違う。

 据わってるとか、そう言う次元じゃない。

 目薬とアロンアルファ間違えました?ってくらいに、彼の目は泳がない。

 人を殺る目だ、見たら分かる。

 

 「カッコわるいだろ。ずっと逃げてるのも」

 

 僕は軽く膝を伸ばしながら応えた。

 「絶対に助ける!」なんて恥ずかしい台詞を桜木に吐いてしまった身だ。

 逃げることは許されないし、逃げる気もない。

 僕が四分間こいつを止めれば、後は成田先輩がなんとかしてくれる……僕はそう信じている。

 

 男はやれやれと肩をすくめ、ため息を吐いた。

 そういえば、理科の蒸留実験用の赤ワインをがぶ飲みしてぶっ倒れた生徒がいたが、そいつを指導していた教師もこんな感じのため息を吐いていた。

 

 「お前も不幸だな。吸血鬼などと関わらなければ、もっと長生き出来ただろうに」

 

 「長生きなんてしたくないさ。母さんは死んだし、父親の顔すら知らない。そして将来結婚出来るかも分からないし、ボケて孤独死するよりかは、案外葬式に同級生が来てくれるうちに死んだ方が、ラッキーかもしれないだろ」

 

 僕はぶっきらぼうに言い放った。

 

 死ぬのはもちろん怖いけど、自分の命に未練はそれほど無い。

 唯一の気がかりは、シェナが眷属を失って悲しむことくらいだ。

 桜木はモテるし、僕よりも良い男を見つけて結婚するだろう。

 いいなぁ……吸血プレイ。

 

 そんなことを考えていると、「お前、不幸なんだな」と男が笑った。

 それから「俺もだ」と低い声で呟き、突然ポケットから一枚の写真を取り出して、僕に見せた。

 

 それは仲睦まじい家族の記念写真だった。

 

 写っているのは仏頂面の男と、少し頬を赤らめて微笑む美しい女性。

 男の腕には、パトカーの玩具を手にした金髪碧眼の美少年が満面の笑みを浮かべながら抱かれていた。後ろには真っ白な砂浜と青い海が見える。

 

 「六歳になる息子と、妻がいた。妻のお腹の中には、三ヶ月後生まれて来る筈だった赤子も」

 

 男がガクリと項垂れる。

 同時にナイフが構えられた。

 切っ先は寸分違わず僕の左胸、致命的な場所に向けられている。

 しかし男は僕への攻撃を始めず、なおも言葉を続けた。

 

 「だが吸血鬼に殺された。そして俺だけが生き残った。『お前の血は不味そうだ』なんて言われてな」

 

 僕は動けなかった。

 記憶に浸る男は隙だらけだ。

 それなのに、僕は逃げることも仕掛けることも、できない。

 彼の言葉には確かな『重み』があったから。

 

 想像出来る。

 男が辿って来た物語は悲劇だ。

 そうでなければ、あんな目を出来るものか。

 あの目は絶望に侵された、神から見放された人間にしか出来ない。

 

 「奴は動かなくなった妻の腹を裂いて、ぬるぬると蠢く胎児を引きずり出した。『デザートは貰っていく』と笑いながら。俺は奴の姿を目に焼き付けた。金髪銀瞳、サファイアの耳飾りを付けた吸血鬼を」

 

 僕は思わず呼吸が止まっていたことに気づいた。

 地獄だ。

 この男は、地獄を見てきたのだ。

 

 「そして俺は『聖女』の導きで教皇庁教理省《V機関》の異端審問官となった。サファイアの吸血鬼を見つけ出し、殺すためにな」

 

 この男は復讐のために生きている。

 妻と息子の命を奪った吸血鬼という存在を憎悪し、この世から抹殺すべく戦っている。

 

 「僕が……異端認定されたのも知ってるのか?」

 

 「ああ、だが管轄が違う。俺は《V機関》の所属だから悪魔以外の神に仇を為す存在である『異形』への対処が任務だ。『悪魔』が関する件は『聖女』と教理省《別班》の管轄だ」

 

 だが、僕は桜木を救おうとしている。

 吸血鬼を庇うというのは神に対する反逆であり重罪。

 つまり僕は淫魔の眷属であると同時に、吸血鬼を助けたということでも教皇庁に目を付けられてしまった訳だ。

 

 「そういえばお前、母親を亡くしたと言ったな」

 

 「え、ああ、うん。癌でね。ステージ4。気がついた時には、余命三ヶ月だった」

 

 母は一ヶ月と二十五日で死んだから、案外余命宣告は信憑性に欠ける。

 全身に転移が進んでいたらしい。

 施せる治療法は皆無に等しかった。

 今でも鮮明に、「ごめんな……」と僕の頭を撫でて来た医師の泣き顔を、思い出す。

 

 「俺はお前を簡単に殺すことが出来る……が。もし、宝くじが当たるくらいの確率を引き当て、逆に俺を殺し、あの吸血鬼を救うことが出来たのなら。何がなんでも生き残れよ。『別班』の連中、俺はあんまり好きじゃあねえんだ」

 

 「急に優しいなおっさん。でも、心配いらないさ。きっと僕はあんたを殺して、我が高校自慢の生徒会長を救ってやる」

 

 「ほう。淫魔の眷属に選ばれただけのことはある……保有する魔力量も桁違いか」

 

 「それの使い方は知らないけど。まあ、やってみるしかないさ」

 

 腕時計を見る。

 まだ、一分ほどしか経っていないようだった。

 

 「おっと、名乗るのを忘れていた」

 

 男はナイフを手に、礼儀正しく一礼する。

 

 「ーー狩人だ」

 

 

  

  

 

 

 口から深く息を吐き、そして静かに吸った。

 瞼を閉じる。

 脳裏に響くのは規則正しいリズムを刻む心音と、風に揺れる木のざわめきだけ。

 両足を肩幅に開き、左膝を軽く曲げ、やや右足を前に出す。

 

 剣道の構えだ。

 身体に染み付いた『構え』。

 重心を落とし、瞬時に動作へと移行できるような体を作れ。

 下半身には力を溜め、上半身は脱力しろ。

 

 ポケットからタクティカルペンを引き抜き、逆手で構える。

 スミス&ウェッソン社製の護身用のペン。

 護身と謳っているものの、破壊力はお墨付きだ。

 ガラスすらも簡単に打ち砕くコイツを喰らえば、無事では済まされない。

 

 「四分間にあのガンジーが何をしているかは知らないが、それまでに殺せばいいだけのことだ」

 

 狩人が地面を蹴り飛ばし、高速で僕に接近する。

 刺すか斬るかによって、回避行動は変えなければならない。

 狩人はナイフをストレートのパンチを放つように刺してきた。

 狙いは僕の心臓、一切の無駄を削ぎ落とした一撃はもはや消えてすら見えた。

 

 瞬時に、左足に掛かった体重を抜く。

 『膝抜き』と呼ばれる古武術の技術。

 瞬時に脱力させることによって身体を斜め左へと落下させ、僕はナイフの軌跡から離脱した。

 そしてそのまま、タクティカルペンを力の限り狩人の腹へと突き刺したーーが。

 

 刺さらなかった。

 ペンは弾かれ、衝撃をまともに食らった腕が痺れる。

 岩のような感触、人間の腹筋がここまで硬くなるはずは、ない。

 僕の思考はぐるぐると回転する。

 こいつ、人間じゃないのか?

 

 「クソっ、なんで刺さらない」

 

 「魔法みたいだろ?狩人に獣の爪は通らないぜ」

 

 「あんたも魔力持ってんのか」

 

 「極めて微弱ながらな。お前の足元にも及ばない量だ」

 

 ニヤリと笑った狩人がナイフを振り上げた。

 ピカリと、柄に嵌め込まれた真紅の宝石が煌めく。

 脳裏にフラッシュバックするのはテレビを真っ二つに両断した、射程ガン無視の斬撃。

 僕は咄嗟に地面を転がった。

 砂利と皮膚が擦れて鈍い痛みが走る。

 

 そのコンマ数秒の後にズガン!とてつもない衝撃が地面を媒介して伝わった。

 衝撃波を受けた樹木がミシミシと悲鳴を上げる。

 隣を見れば、地面がパックリと大口を開けて割れていた。

 かなりの深さだ、地下水が流れる音がする。

 

 擦り剥けた肘から血が垂れたが、僕はまだ生きている。

 僕はすぐさま飛び起きた。

 狩人の足音がすぐ後ろで聞こえたからだ。

 地面を思い切り蹴ると、身体がふわりという感覚と共に重力から解放された。

 

 「なんか飛べたんだけど」

 

 「おいマジかよ。そんなもありか!?」

 

 五メートルほど一気に跳んだだろうか。

 そのまま僕はジャングルジムの天辺に着地する。

 

 そこで僕は「あれ?」と思った。

 心臓が、四肢が焼けるように熱かった。

 バクバクと心臓が血液を全身に送り出すたびに、熱い血液が流れているのを感じる。

 熱い血というのは比喩表現ではない。

 ホットココアくらいの、ちょっと舌を火傷するくらいに熱い血が、確かに流れている。

 

 下を見れば、狩人が唖然とした様子で、僕を見上げていた。

 

 「眷属の身体能力、恐ろしいな」

 

 「そうそう。僕ってば人間やめちゃったからっ」

 

 これ、ヤバイ。

 僕、実はちょっと強いかも知れない。

 

 胸が高鳴る。

 戦闘の高揚が、さらに血液を沸騰させる。

 全身が火照り、肉体が暴力に飢えているのが分かる。

 僕は邪魔なペンをポケットにしまい、代わりに右拳を握った。

 

 腕時計を見る。 

 ーー残り、二分三十秒。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レイニーデイ・ドリームアウェイ

 狩人が攻撃の機会を窺うようにこちらを見ている。

 

 下手に飛び込んでも、カウンターを合わせられて終わりだろう。

 いくら僕が身体能力で優っていようと、あの男は歴戦の猛者だ。

 狩人は戦いに、そして何より殺し合いに慣れている。

 

 だがそれは一般人と比較しての話だ。

 人間を遥かに凌駕するポテンシャルを持つ吸血鬼相手に、狩人は何十年も生き延びてきた。

 ぺーぺーの僕なんて隙を見せれば最後、呆気なく殺されてしまうだろう。

 

 僕は、頭を使え!と自分自身に言い聞かせた。

 

 力で勝てないのなら、作戦を立てるしか無い。

 クソみたいに弱っちいヒトという生物種が、化け物みたいに凶暴な猛獣が蔓延る自然を生き抜き、そして食物連鎖の頂点に立てたのは、知恵があったからだ。

 

 人間には、クマの獰猛な爪も、虎の肉を引き裂くような牙も、大空を駆ける鷲のような翼もない。

 だがそのかわりに、人間には『知恵』という武器があった。

 火を手に入れ、道具を作り、集団を形成し、屈強な男たちが石槍を手に狩りに出た。

 まあ、この場合狩られてるのは僕だけど。

 

 「ーーおっと」

 

 狩人のナイフが妖しく光った。

 斬撃を予知した僕は、そのままジャングルジムから横っ飛びした。

 

 トランプで作ったタワーが崩れるみたいに、呆気なくジャングルジムは木っ端微塵の鉄屑に成り果てた。

 滞空しながら、あれは掠っただけでおしまいだと身震いする。

 細切れの肉片になった僕の死体が、脳裏に散らついた。

 

 着地の衝撃を前転で逃がしながら、僕は立ち上がる。

 狩人との距離はおよそ三メートル。

 人の歩幅は大体七十センチだから、狩人が僕に攻撃を加えるためには最低三歩は必要だ。

 だが、今の僕はこんな距離くらいひとっ飛びで詰められる。

 

 けれど宙に浮いてる時間は踏ん張りが効かない。

 僕が跳んでる隙にナイフで攻撃されれば回避は不可能。

 不用意に相手の懐に飛び込むのは自殺行為でしか無い。

 だから僕はゆっくりと、着実に、狩人との間合いを詰めていく。

 

 「魔法、使わないのか?」

 

 あと一歩、撃つか撃たれるかの瀬戸際の距離に来たところで、狩人が首を傾げた。

 嫌味か、僕は少し前まで魔力の存在すら知らなかったんだぞ。

 

 「使い方がわからないもので」

 

 僕は困ったなという風に肩を竦めた。

 魔法を使えないのに膨大な魔力を持っているなんて、猫に小判どころの話じゃない。

 諭吉さんを握ったミーアキャットに笑われる。

 

 「じゃあ教えてやるよ」

 

 狩人が、それがさも当たり前のことであるかのような調子で言った。

 僕は思わず「えっ」と声を上げる。

 敵に塩を送るとはまさにこのことだ。

 なんならウユニ塩湖にテレポートさせられた気分ですらある。

 

 「随分と親切だね。何か企んでる?」

 

 「俺だけ魔法を使って、そんなの卑怯だろ。弱い者虐めは吐き気がするほど嫌いなんだよ。吸血鬼とやってること同じじゃねえか」

 

 ひゅおうっと、また冷たい風が吹いた。

 何処からともなく、花の良い香りが漂ってくる。

 僕はただ黙っていた。

 黙っていたというよりかは、狩人に隙を見せないように、静かに身構えていた。

 

 「魔力、いわば『マナ』という概念がある。お前、メラネシアって知ってるか」

 

 「パプアニューギニアとか、フィジーとかだったっけ」

 

 地理の授業はあまり真面目に受けていなかったから、良く分からない。

 狩人が淡々と言葉を続ける。

 

 「正確には赤道以南、東経百八十度以西にある島々のことだな。そしてそのメラネシアのとある島に、ロバート・ヘンリー・コドリントンという人類学者がキリスト教の宣教師として訪れ、こう書き残した」

 

 「ーーメラネシア人はマナという万物に宿る神聖な力を信じている。彼らの信じるマナとは、人間の通常の力を超越し、自然の普遍的法則の外側にあって、あらゆる事象に効果を及ぼす、極めて神秘的な『生命の輝き』である。そして持つ者によって善にも悪にもその姿を変えると。ちなみに、あの有名なイースター島のモアイ像は一説によると、マナを崇拝するものだっとも言われている」

 

 メラネシアの人々が信じた神秘の力、それこそが魔力の正体であり、そしてそれによって引き起こされるこの世の物理法則を無視した奇跡が、魔法ということらしい。

 

 僕はそういうことだったのかと、納得した。

 成田先輩の顔がなんとなくモアイ像を思わせるのは、神秘的な生命力に満ち溢れていたからなのか!

 

 一通り語り終えた後で狩人は、静かに、自らのナイフを掲げた。

 

 「このナイフは『アケダーのナイフ』だ。旧約聖書で、アブラハムが自らの息子イサクを神への生贄として捧げた際、その心臓を抉り出すのに使われたとされている。息子を殺した父親の遺物、俺にぴったりだと思わないか?」

 

 僕は、何も言えなかった。

 あんたが殺した訳じゃないと言いたかったが、そんなの気休めの言葉はこの男には必要ないだろう。

 それに、互いに殺し合う関係。

 敵に与える慈悲など、残念ながら僕は持ち合わせていない。

 

 「このナイフに宿る魔力は『闇』の魔力だ。エイブラハムの神への憎悪が、そして憤怒が渦巻いている。だからかは知らないが、驚くほどにコイツは俺の手に馴染む」

 

 射程という概念を無視したような斬撃の正体。

 それはナイフに宿る魔力が引き起こしていたものだった。

 凶暴なまでのその破壊力は、子を失った父親としての後悔から生まれているのだろうか。

 

 親の執念とは物凄い。

 

 子熊を連れた熊は平常の数倍は凶暴で、山菜取りにきたじいさんにすら「子どもに手をだすな!」とばかりに襲い掛かるのだから手に負えない。

 真のモンスター・ペアレントとは、僕はクマのことだとずっと思っている。

 

 「魔法はこの世の概念すら覆す。それはもう、奇跡と呼んでも良い」

 

 狩人がナイフを構えながら言った。

 

 「さて、説明は終わりだ。果たしてお前は、奇跡を起こせるかな」

 

 ーー奇跡だって同じだろ?起きる起きるって思い込めば、そのうち起きんだよ。

 

 成田先輩の言葉が、頭の中で繰り返される。

 

 僕は瞳を閉じた。

 プラシーボ効果だ。

 思い込むんだ、奇跡は起きる、いや起こして見せろ。

 それくらい出来なくてどうする。

 また大切な人を失っても良いのか。

 

 鼓膜を震わす風に揺れる木々の騒めき、鼻腔を擽る花の匂い。

 踏み締める地面は地球そのものだ。

 百七十万種の生物の生命を抱える惑星の力。

 僕は地球に引っ張られている。

 そして、地球から押し上げられている。

 

 深く息を吸い込み、吐いた。

 血液中に新鮮な酸素が運び込まれるのが分かる。

 同時に、確かな『熱』を宿した血液が全身へと流れている感覚が脳に伝達される。

 

 この『熱』が魔力だ。

 

 間違いない。

 奇跡は起こる。

 絶対に起こる。

 瞼を開け、僕は徐に空を見上げた。

 

 「まさか、お前っ……」

 

 狩人が唖然とした様子で、言った。

 

 隆々とした筋肉を思わせる黒々とした積乱雲が太陽を遮り、それまで明るかった筈の地上を徐々に薄暗く染めていく。

 遠くの方からゴロゴロと、雷鳴が近付いてきた。

 

 ぽつり、ぽつりと、僕の頬に水滴が落ちて来る。

 

 ーー雨だ。

 一秒、二秒と数えるごとに雨の強さは増していく。

 傘なんて持っている筈もなく、やがてバケツの水をちゃぶ台返しの勢いでひっくり返した様な、土砂降りの雨が降り注ぎ始めた。

 

 矢のように降り注いで来る雨粒が身体にぶつかって、痛い。

 まるで滝に打たれているかのようだ。

 僕はずぶ濡れになりながら、大声で笑った。

 ドッドッドッというまるで爆撃を受けているような激しい雨音のせいで、笑い声が酷く小さく聞こえる。

 

 ピカっと、突如として世界が白く染まった。

 閃光が弾けたのと同時に、爆音が僕のすぐ後ろで炸裂する。

 鼓膜がイカれたかもしれない。

 耳鳴りがギンギンと響く。

 僕はパチパチという音と共に、焦げ臭い匂いが辺りに漂ってる事に気がついた。

 

 木が、燃えていた。

 薄暗い公園が、赤々と燃え盛るオレンジ色の炎に照らされている。

 木が自然に発火する訳がない。

 間違いなく、僕のすぐ後ろに落ちたのだーー雷が。

 

 じゃあどうして、僕は感電死していない?

 これほどの近距離で雷の直撃を受けて僕が御体満足生きていられる筈がない。

 もしかして、もしかすると。

 僕の魔力が……この雷を落としたのか。

 

 続けざまに、もう一撃稲妻が天を駆けた。

 落雷特有のタイムラグを完全無視した轟音が大気を引き裂き、目の前が真っ白になる程の衝撃が走る。

 白く塗り潰された視界が復活する。

 横を見れば、滑り台からもくもくと白煙が上がっていた。

 

 僕は確信した。

 この雷は僕の魔法なのだと。

 僕の魔力によって引き起こされている落雷だから、起源である僕の元へと雷は還ろうとするのだ。

 二発の雷は、どちらも僕の半径十メートル以内に落ちている。

 状況証拠が揃いすぎていた。

 

 「い、言っただろ」

 

 とてつもない衝撃に晒された僕の声は、僅かに震える。

 だって、たった数メートル後ろで雷が落ちるなんて信じられるか。

 それでも、僕は狩人に向かって言い放った。

 

 「こういう天気の日は絶対に雨が降る。

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーそして、友達の家に逃げるんだ」

 

 

 

       ▼

 

 

 

 「無意識で、それも詠唱無しで『雷』の魔法を使えるのか。驚いたな」

 

 「狩人のつむじに落とせ雷様ぁ!」

 

 腕時計のストップウォッチが残り三十秒を切った。

 僕は雷と雨粒が降り注ぐ住宅街を疾走する。

 服はびしょびしょで体に張り付き、絶対乳首やらなんやらが透けている。

 誰得だ男の濡れシャツなんて!と一人で突っ込みながら、僕はただひたすらに走る。

 

 道路の側溝はえげつない音を立てて、濁流のように押し寄せる雨水の流れを吸い込んでいるが、だんだんと道路は冠水し始めていた。

 市街を流れる川は茶色に濁り、水位も急速に上昇している。

 氾濫の時は近いだろう。

 

 防災無線から、無機質な女の声が響き渡る。

 嫌に言葉と言葉の間を伸ばす独特な喋り方は、自然と人間の危機感を煽る。

 どうやら避難勧告が出ているらしい。

 僕は内心で詫びた。

 すまない、全部は僕の魔法のせいだ。

 

 「ーーもういっちょ落とせッ!」

 

 声の限り叫ぶと、稲妻が大気を引き裂くような咆哮と共に呼応した。

 そして僕のすぐ後ろを走る狩人目掛けて、容赦なく雷撃が降り注ぐ。

 

 「生贄は、俺じゃない」

 

 だが、狩人はアケダーのナイフを横薙ぎに一閃。

 彼に雷が直撃することはなく、雷はビリビリとした衝撃波と共に霧散した。

 衝撃をもろに食らった電柱が折れる。

 烏たちが勢いよく吹き飛ばされ、同時に少なくない家屋の電気が一斉に消えた。

 

 これ以上魔法で雷を落とせば、僕は街一つブラックアウトさせた犯罪者としてワイドショーを席巻するだろう。

 日本国を敵に回してしまったら、もう僕に味方はいなくなる。

 十億ボルトの落雷を掻き消すなんて、異端審問官は正気じゃない。

 

 無我夢中で走るうちに、二百メートルほど前方に桜木の家が見えた。

 いったい成田先輩の秘策とはなんなのだろうか。

 彼のことだから、狩人をぎゃふんと言わせるような作戦を準備しているのは間違いない。

 

 「いいぞ。今のは少し……効いた」

 

 「雷喰らって生きてんのがさっ!もう、おかしいんだって!」

 

 「俺の魔力の属性は『土』だからな。硬さには定評がある」

 

 声がしたので後ろを振り返れば、狩人の頬に煤が付いていた。

 服は焼け焦げ、皮膚はささくれ立って血が滲んでいる。

 決して軽くは無い傷を負っているが、それは狩人だけじゃない。

 間髪入れずに繰り出されるアケダーの斬撃に、僕だって血塗れだった。

 

 右腕に貰った一撃のせいで、ピンク色の肉が裂傷の隙間から覗いている。

 魔法による電流を流して筋肉を収縮させ、辛うじて止血は出来ているものの、地面を踏む度に気が遠くなる程の激痛が、断続的に僕を襲っていた。

 

 もはや、感覚だけで僕はなんとか致命傷を免れていた。

 負傷していない部分を探す方が難しい。

 狩人は一切の妥協なく僕を殺しに来ている。

 それは、アケダーの斬撃が集中的に僕の首、すなわち頸動脈を狙っていることから明らかだ。

 狩人は一撃で、僕を絶命に至らせようとしていた。

 

 「本当によく走れる。大腿の筋肉が俺に斬られてズタボロだ。それに、脹脛の肉が見えてる……なるほど、魔力によって増幅させた生体電流を応急処置に利用しているのか。考えたな」

 

 「あんたが足ばっかり狙ってくるからだよ!卑怯なことは嫌いじゃなかったのか!」

 

 「魔力を従えたお前は誰もが認める強者だ。出し惜しみする方が、無礼だろう」

 

 「じゃあ僕も、スパートかけるよ」

 

 眷属としての身体能力を完全に解放させ、滝のような雨の中を駆け抜ける。

 桜木の家まで、残り五十メートル。

 眷属としての全力で走れば残り四秒ほど。

 

 だがそれを阻むかの様に、対向車線から水しぶきを上げながら乗用車が迫る。

 

 僕は反射的に濡れた地面を蹴った。

 跳躍の瞬間、怯え切った運転手の姉さんと目があった。

 僕はすかさずウインクをプレゼントし、車の上を転がって衝突の衝撃を分散。

 傷口に走る激痛に歯を食い縛って耐え、そのまま地面に着地した。

 

 僕はすかさず走り出す。

 

 桜木の家はもう目の前だ。

 割れた窓ガラスの向こうに、成田先輩の姿が見えた。

 おーいと笑いながら、成田先輩は無邪気な子どもの様に手を振っている。

 なんでそんな楽しそうなんだ。

 僕は血塗れの死闘を潜り抜けてきたんだぞ。

 

 最後の力を振り絞り、僕はリビングに滑り込んだ。

 

 「ハァ……ハァ……クソ……四分きっかりですよ、先輩」

 

 「最高の後輩だぜ。あとは俺に任せろ」

 

 成田先輩がぐっと親指を立てた。

 桜木は……よかった。

 息をしている。

 僕は安堵と蓄積した疲労で思わず床に倒れ込んだ。

 だが狩人は、ズンズンと僕の元へと迫って来る。

 

 「おい伊波、このゲリラ豪雨引き起こしたのお前だろ?」

 

 「どうやら、魔法を使えたみたいで」

 

 「よし、じゃあこの家に一撃雷を落としてくれ」

 

 「は?ここ桜木の家ですよ!?」

 

 「そんなの気にすんな。俺が新しい家を買ってやる」

 

 流石は成田先輩。

 大学生とは思えないほど太っ腹だ。

 世界太っ腹な男ランキングでビル・ゲイツに猛追しているだけのことはある。

 

 「もう、どうなっても知りませんよ」

 

 「大丈夫だ。俺が合図したら、桜木を連れて奥に逃げろ。そして落とせ」

 

 成田先輩はそう言うと、何故か台所から勝手にパチって来たかと思われる小麦粉を、部屋中にばら撒き始めた。

 煙となった小麦粉が空気中を漂う。

 僕は思わず粉を勢いよく吸い込んでむせた。

 

 「うわ、ちょっと部屋中真っ白じゃないですか。ごほっ、煙舞いすぎだって……何してんの先輩!」

 

 「俺、実は昔炭鉱でバイトしてたんだぜ」

 

 「それ、いつの時代の人ですか」

 

 「大事なのはな。酸素と、濃度と、着火源だ」

 

 成田先輩が力強く言い切った時だった。

 狩人が、リビングへと入って来た。

 そして、自らが真っ二つにしたテレビを一瞥してから、僕の方を見た。

 

 「決着を付けに来た」

 「残念ながら、有終の美を飾るのは俺なんだーーやれ、伊波」

 

 僕は桜木をお姫様抱っこの要領で抱えると、台所の影へと身を投げた。

 身体から魔力を一斉に放出する。

 窓の外で閃光が弾けた。

 一筋の雷撃が、耳をつん裂く轟音と共に着弾した。

 

 その瞬間だった。 

 

 目の前が真っ白になり、強烈な爆風に僕は吹き飛ばされた。

 桜木を守る様に抱き締めたのを最後に、僕の意識はそこでぷっつりと途絶えた。

 

     

      ▼

 

 

 

 「ーーおい、起きろ伊波」

 

 どこか遠くの方で、成田先輩の声が聞こえた。

 

 全身を舐める鈍い痛みがそれを阻んでいる。

 このまま眠りにつくことができたらどれだけ楽だろうか。

 僕は薄ぼんやりとする意識の中、いっそのこと眠ってしまおうかと思った。

 

 しかし、何やらゆっくりとした心音が規則正しく聴こえて来て、僕は現在の状況を思い出した。

 成田先輩の言う通り、雷撃を落とした。

 狩人は、桜木は、どうなった?

 

 「ーー起きろ」

 

 深海から浮上する様に、意識が覚醒していく。

 クソっ、成田先輩はなんて人間だ。

 どうして家の中でいきなり大爆発が起こるんだ。

 そんなことを思っていると、僕は極めて自然に目を覚ました。

 

 「狩人は、どうなりました」

 

 「死んだよ。桜木ちゃんも、俺が説得して奴の血を吸わせたから無事だ。今はまだ眠っているけど」

 

 成田先輩が、煤まみれの頬を拭いながら力強く笑った。

 ゆっくりと床から身体を起こす。

 霞む視界をゴシゴシと擦ると、変わり果てた家の様相が目に飛び込んで来た。

 

 至る所に割れた皿や、壊れた家具。

 ぽっきりと折れたテーブルと椅子が散乱している。

 まるで大地震の後だなと思った。

 壁にはとことどころ亀裂が入り、そこから雨水が漏れ出している。

 幸運にも雨足は弱まったみたいだが。

 

 無事だったソファには、穏やかな呼吸を繰り返す桜木の姿が。

 ひとまず僕は胸を撫で下ろす。

 

 「ーーって、待ってください!なんですかあの爆発!こっちが死ぬかと思いましたよ!」

 

 「じゃあネタバラシの時間だな」

 

 成田先輩がメガネの汚れを拭きながらケラケラと笑った。

 

 「粉塵爆発、聞いたことあるか?」

 

 僕は首を横に振った。

 

 「小麦粉は不燃だが、条件さえ揃えれば爆発する。炭塵による粉塵爆発は多くの犠牲者を出す。炭鉱夫にとってはいつだって恐怖の的だ。俺はこの部屋の広さから、四分間で爆発に最適な粉塵の濃度を計算し、小麦粉をばら撒いた。着火源は、これだよこれ」

 

 成田先輩が、黒焦げになったテレビを指差した。

 狩人の斬撃で真っ二つになっだけでは済まされず、まさか焼き尽くされることになろうとは、テレビくんもとんだ災難だ。

 

 「あいつがテレビをぶった斬って、電子部品が剥き出しになっている時には、既に俺の頭で作戦は決定していた。着火源だけは最後まで悩んでいたんだが、不自然に沢山の雷が落ち出してから確信したさ。あの雷は伊波の魔法だってな。そうくりゃ、もうこっちの勝ちだ」

 

 成田先輩は、テレビのコードが挿さっていたコンセントに視線を向けながら、言う。

 

 「直撃雷によって発生した異常電圧はコンセントやアンテナ線を通じて、このテレビへと伝わった。普通なら内部故障が起きるくらいで済むが、あの男のおかげでテレビの中身は剥き出しだ。大電流が内部基盤を流れることで生じた火花が、爆破寸前の粉塵を決壊させた訳だ」

 

 「死体すら、残らなかったんですか?」

 

 僕の疑問に、成田先輩は首を振った。

 

 「いや。致命傷ではあったが奴はまだ生きていた。最後は自決だ。奥歯に埋め込んだカプセルを噛み砕いて、死んだ。おそらくは教皇庁が開発した毒薬だろう。遺体すら残さずに奴の肉体は溶けて無くなり、そして逝ったよ」

 

 僕はボロボロになった一枚の写真が、窓の外に落ちているのを見つけた。

 血が垂れる足を叱咤し、外に出る。

 雨は既に止んでいた。

 空を支配していた黒雲はいつの間にか何処かへと消え去り、代わりに太陽が顔を出している。

 

 成田先輩が僕の隣で背伸びをした。

 そして僕が拾い上げた写真を、覗き見てくる。

 

 「奴の家族か?」

 

 「ええ」

 

 「あっちで、また会えるといいな」

 

 「……そうですね」

 

 数秒沈黙が続いたあと、成田先輩が「あ、虹だ」と呟いた。

 僕もつられて空を見る。

 あっと、その壮麗さに思わず声を上げた。

 鬱屈とした天気を薙ぎ払うように、七色の虹が天に掛かっている。

 

 「虹ってのはな、心理学的には希望の象徴らしいぞ」

 

 成田先輩がそう言って笑う。

 本当ですか?

 僕は苦笑した。

 これから『聖女』や『異端審問官』に命を狙われる僕に待っているのは、絶望だらけの夏休みだ。

 

 「なに、お前辛気臭い顔してんだ」

 

 「いや、これから大変だなぁと」

 

 べしっと、僕は成田先輩に頭を叩かれた。

 地味にスナップを利かせるものだから、痛い。

 ほら、また腕から血が出始めた。

 

 成田先輩はポケットからイチゴ味のチュッパチャップスを取り出し、口に加えた。

 

 うめえ……と染み染みと呟きながら、虹を眺めている。

 先輩は大酒飲みの癖に、煙草だけは吸わない。

 代わりに、棒付きキャンディーをいつも持ち歩いている。

 

 「夏休みの宿題は全部俺がやってやるさ」

 

 成田先輩が、自信に満ちた顔で言った。

 それなら、いいかもしれない。

 手持ち無沙汰に、写真を眺める。

 男が、仏頂面でこちらを睨んでいた。

 

 「あんたは、すごい父親だ」

 

 まずは、病院に行こう。

 そして治療を受けたら、今日は桜木も家に招いて、ご飯を作ってあげよう。

 写真をぴんと、指で弾いた。

 吹き飛ばされたそれは、ゆるゆると空に浮かんでいき、やがて虹の光線の中に消えていく。

 

 ーー大雨特別警報は、解除されました

 

 防災無線が鳴っていた。

 まあ、なにはともあれ。

 雨は止んだのだ。

 今はそれでよしとしよう。 




第一章完結。
未熟な文章をここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章『逃亡』
ヒットマン


新章開幕です。


 「おい、おっかねえな。住宅街で発砲事件だってよ」

 

 消毒液の匂いが漂う総合病院の待合室。

 えんじ色のソファーの、通路側に座る『サメ』が太々しく足を組みながら言った。

 二十五歳の癖に髪が真っ白なのは別に染めている訳ではなく、生まれ付きのものらしい。

 奥二重の瞼はいつも眠そうで、おおよそ覇気と言ったものが感じられなかった。

 

 待合室の薄型テレビの中で、『埼玉県警』と白色で印字された捜査服に身を包んだ警官が、一戸建ての住宅の前で走り回っている。

 どうやら、閑静な住宅街で拳銃の発砲事件が起こったらしい。

 坊主頭に虫取り網を握った少年が、インタビューを受けていた。

 

 ゲリラ豪雨に発砲事件。

 全く今日はお天道様の機嫌がすこぶる悪いようだと、『カラス』は紙コップから湯気を立てるコーヒーを飲み干した。

 

 苦い。

 砂糖を入れれば良かったと後悔する。

 

 休日の午前中の病院は、びっくりするほど高齢者で溢れていた。

 おかげさまでマダムによる井戸端会議が、待合室で同時多発的に発生している。

 受付の看護師さんに習いたてのフラダンスを披露する猛者すら、現れる始末だ。

 埼玉県人がやたらと池袋に出てくるのと同じように、お年寄りは病院に集まる。カラスは憂鬱になった。

 

 「おまえが病院に来るなんて、どうりで雨が降った訳だ」

 「久しぶりに刺されたからな」

 

 カラスはズキズキと痛む右胸に顔を顰めた。

 つい二十分ほど前に殺したある男の顔を思い出してしまい、舌打ちする。

 

 生意気な顔をした男だった。

 高架下のホームレスばかりを狙って暴行を加え、鬱憤を晴らすような最悪な男だ。

 ギャンブル依存で闇金融から数百万の借金をしていたが、もう五年も滞納していたことで、とうとうカラスに依頼が来た。

 

 駅前のパチンコ店から、大負けしたのかガクリと項垂れて出てきた男を、カラスは路地裏に連れ込んだ。

 連絡によれば『掃除業者』が来る筈だったから、欠伸の出るような簡単な仕事だ。

 烏は消音器を取り付けた拳銃で男を額を撃ち抜き、殺した。

 

 おそらく、男の臓器は世界中の助けを求める人々に届けられるか、もしくは太平洋の魚の餌になるかのどちらかだ。

 カラスは口笛を吹いた。生まれてはじめての社会貢献じゃないか。

 

 だが、ここで一つの誤算。

 

 生意気なことに、この男は自分の命が狙われていることを知っていたのだ。

 拳銃を鞄にしまい帰ろうとしたその時、ひゅんっという音がした。

 咄嗟に身体が反応し、内臓をやられることは防いだが、カラスの鎖骨の下にはナイフがずぶりと刺さっていた。

 

 はいはい、そういうことかと判断した時にはカラスは行動を開始していた。

 ナイフを無理やり引き抜けば、出血する。

 『黒ひげ危機一髪』はする分には楽しいが、やられてる側からしてみればたまったものではない。

 

 一撃で殺せるとでも思っていたのか、平然と立ち上がるカラスに、男が雇ったであろう痩せぎすの殺し屋は、一瞬立ち止まり、そこを撃たれた。

 心臓に一発、こめかみに一発。

 もちろん銃弾を喰らったその殺し屋は、くるくるとぶっ倒れて、死んだ。

 

 おかげさまで、カラスは大嫌いな病院にいる。

 

 「俺は相変わらずアレルギー性鼻炎が酷くってよ」

 

 「そういえば、そうだったな」

 

 「え、忘れたのか!?トリ頭かよお前。カラスの癖に」

 

 「違う。興味がないだけだ」

 

 カラスがぶっきらぼうに言った。

 サメはしょっちゅうこの病院の耳鼻咽喉科を受診している。

 腕は良いが、仕事の最中もガキみたいに鼻水を垂らすので、コンビを組むカラスはいつも苦労している。

 コンビ二で大量に鼻セレブを買う奴がいたら、そいつはきっとサメだ。

 

 ぴーんぽーんと、呼び出し音がなる。

 受付のスクリーンには121番とあった。

 サメは123番で、カラスは126番だ。

 

 診察室5から出てきたのは、手足を包帯でグルグル巻きにされた少年だった。

 白い布には僅かに血が滲んでいる。

 殺しのために人体を熟知するカラスには、分かった。

 負傷部位を庇うような歩き方、痛みに耐える呼吸。

 おそらく少年は、殺し合いをして来た。

 

 先程のニュースが、頭に浮かぶ。

 カラスが数分前に体験したように、同業者同士の殺し合いはなにも珍しいことでは。

 ただ、カラスの記憶にここまで若い殺し屋は存在しない。

 

 ということは、この歳でフルタイムか。

 カラスは今すぐにこの少年の肩を叩き、美味い焼き肉を奢ってやりたい衝動に駆られた。

 

 殺し屋は大まかに二つのタイプの分類される。

 フリーランサーと、特定の組織、もっとはっきり言えばヤクザやマフィア、ギャングといった組織的犯罪組織にフルタイムで雇われる場合だ。

 

 カラスとサメはフリーランスの殺し屋だ。

 

 請け負う殺しは全て契約から始まり、報酬は必ず前金で振り込まれる。

 費用は一人に付き、およそ五百万。

 相手の決まった行動を知らされる時もあれば、殺し屋が自ら相手を研究して決まった行動を自分で見つけることもある。

 そして一番楽なのが、あらかじめ決められた場所に関係者が相手を連れてくる場合。

 

 殺し屋としてベストパフォーマンスを発揮できる状況は紛れも無く最後の一つだが、そんな好条件の依頼なんてそうそう入り込んで来ない。

 故にフリーランサーの殺し屋は廃業の可能性が高い、つまりは死にやすいということだ。

 

 フリーランサーからしてみれば、バックに協力者がついてくれるフルタイムの殺し屋はいつだって羨望の的だ。

 コネがない殺し屋は一生フリーランサーのまま、なんて話もよく聞く。

 カラスはいてもたってもいられなくなり、椅子から跳ね上がると、「すまない」と少年に声を掛けていた。

 

 少年が、ぴくっと肩を揺らしながら振り向いた。

 

 その様子を見てカラスは内心で舌を巻いた。

 この歳にして殺気を完全に制御しているとは、驚きだ。

 他者の生命を奪うことで生計を立てるいわば『プロ』の身体からは、大抵血のように染み付いた殺気が漂っている。

 

 それによって同業者は愚か一般人にすら、「この人は危なさそうだ」と思わせてしまう殺し屋は決して少なくない。

 だが、殺しの執行前に標的に感づかれれば、先に警察官を処理しなければならない。

 そうなると、仕事の難易度は跳ね上がる。

 

 派手なナイフ捌きも、正確無比な射撃も、実は殺しには殆ど必要ない。

 無害を装い、殺気を抑え込み、いつの間にか背後にいて、死神の一振りを加える。

 それこそがあるべき殺し屋の姿だと、カラスは考えていた。

 

 その少年は微塵の殺気も、強いて言えば人ならば誰しもが持つ害意や、敵意や、悪意と言った感情すら微塵も感じさせない。

 まさにいま、目の前に殺し屋の完成形が、死神がいるのだ。

 カラスは興奮を隠しきれず、手をあたふたとさせた。

 

 「いや、急に声をかけてすまない。その傷、大丈夫か?」

 

 「ちょっと、友達と喧嘩をしまして」

 

 少年は頬を掻きながら、参ったなぁと苦笑する。

 カラスは危なく吹き出しそうになった。

 そいつはどんな友達だ。

 大きな血管を狙って斬撃を浴びせる友達なんかとは、今すぐに縁を切った方がいいぞ。

 

 「そいつは大変だ。最近、物騒な連中も多いからな。気を付けた方がいい」

 

 そう言って、カラスは拳銃事件のニュースが流れるテレビの方に目をやる。

 すると少年は困ったようなその表情を、僅かに険しくした。

 カラスは確信する。

 ビンゴだ、やはりこの少年は同業者で間違いない。

 

 「は、はい。怖いですよね。誰かに命を狙われるなんて」

 

 「ああ。でも君なら、平気そうだ」

 

 「えっ……?」

 

 「()()()()()()は慣れっこだろう?俺も、実は君と同じでね」

 

 カラスは内ポケットから黒塗りのコインを取り出すと、少年の手に握らせた。

 

 漆黒のコインには、羽ばたく烏の姿が金色で刻印されている。

 殺し屋のライセンスとも言える『パニッシャー・コイン』。

 裏社会御用達の高級レストランのウェイターや、ホテルのドアマン、娼館のお気に入りの娘などに渡される、殺し屋専用のチップだ。

 

 パニッシャーコインは、信頼に値する人間にしか渡されない。

 殺し屋が殺し屋にコインを送ることは、『私は貴方の実力を認め、生涯敵対することはない』というのを意味する。

 

 「なにかあったら、そのコインを出せ。俺は案外業界の中で知名度は高いから、きっと役に立つはずだ」

 

 「ありがとうございます……じゃ、あの……僕はこれで」

 

 

 殺し屋に長ったらしい言葉は不要だ。

 少年は会計を済ませると、足早に病院を出て行った。

 また、会える日が来るといい。

 カラスは、いつか一緒に仕事を出来ることを楽しみに、再び椅子に腰を下ろした。

 

 「おいカラス、やっぱり病院ってのは、子どもの気持ちを考えるんだな」

 

 長すぎる待ち時間に退屈したのか、サメが子どもコーナーの本棚に手を伸ばし、一冊の絵本を持って来る。

 カラスは本の表紙を見て、思わずため息を吐いた。

 

 「おまえも読むか?『アンパンマンとてんどんまん』」

 

 「読む訳ねえだろ」

 

 サメは熱烈なアンパンマンファンだ。

 暇さえ有れば、YouTubeでアンパンマンの動画を見るか、絵本を読む。 

 サメが持ち歩くリュックサックには拳銃とナイフと止血剤、そして大量のアンパンマンのぬいぐるみが入っている。

 

 かと言ってカラスが好きなパンは?と聞くと、「日本人はパンなんて食うなよ」と全国のパン職人と戦争をおっぱじめそうな顔で言うのだから、不思議だ。

 

 「おまえはよ、アンパンマンの魅力がまるで分かってねえ。『そうだ♪わすれないでいーきるよろーこび♪たとーえー胸の傷がいーたんでもー』ってな。今のおまえにぴったりだろ?アンパンマンを見れば胸の傷なんて、ちっとも痛くなくなるぜ」

 

 「そんな訳あるか。その胸の傷っていうのは、比喩表現なんだよ。俺みたいに物理的にな?ぐっさりナイフでやられた傷じゃなくて、心の傷ってことだ。誰かに悪口を言われたとか、虐められたとか、そういうのだ」

 

 カラスはそっぽを向いた。

 だが、サメはなおもアンパンマンの布教活動をやめない。

 おまえはもう宗教法人を作るべきだと、カラスは思っている。

 

 「じゃあ、そんなカラスに俺が大好きな言葉をプレゼントしよう」

 

 「プレゼントはいらないから、精神年齢をあと五歳ほど上げてくれ」

 

 「ーー僕の顔をお食べ」

 

 「やめとけって。人肉趣味の殺し屋は腐るほどいるんだぞ」

 

 カラスがヒトの筋肉を直火焼きにして、丁寧に食レポをしていた同業者を思い出していると、不意に後ろから「少しお話を伺いたいのですが」と声をかけられた。

 

 サメが絵本から顔を上げ、「うわ、美女だよすんげえ」と喜色を滲ませている。

 

 確かに、カラスの目前に現れた女性は、途轍もなく美しかった。

 清流を思わせる金髪に、3Dアニメから飛び出して来たような、完璧なまでに整った愛らしい顔立ち。

 黒と白を基調とした修道服を纏っている。

 キリスト教のシスターだろうか。

 

 だとしたら、こんな二人組と話さない方がいい

 地獄への特急列車があったら、俺たち二人はもちろん特等席だ。

 

 「すみません。伊波迅という男性を探しておりまして」

 

 シスターは、一枚の写真をカラスとサメに突きつける。

 

 「ーー先程まで、貴方たちと話していたと看護師の方から聞いたのですが」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。