昼食の片付けを済ませて一息ついたころ、窓の外は大雨模様だった。ガラス戸を締め切ってなお、ベランダから雨の音が聞こえてくる。今日は元々出かける予定を入れてなかったから気持ち的な損は少ないのが救いか。
というわけで、俺は今キッチンで麦茶を口の中で転がしてボケーッとしている。普段の俺ならとりあえずゲームと洒落こんでいただろうが、どうもそんな気分ではなかった。昨日徹夜でゲームしたから眠いってのもあるが――ライオットブラッドは攻略中に飲んだから今日は我慢しないといけない――、大部分は、この生活空間の唯一の同居人に由来する。
玲さんが、ソファに座って窓の外の雨を見ている。片付けを終えてからずっと
昨晩玲さんを徹夜攻略に付き合わせた事とは別…の、はずだ。申し訳ないとは思ったのだが、あのクソゲーは二人プレイじゃないとまともに遊べないので…。外道共は都合つかなかったし。
「………気になる」
一体、彼女は何を考えているのだろう。話しかけて答えてくれるだろうか。声をかけた程度では反応すらしなさそうなんだが。
「よし」
聞いてみよう。聞く権利くらいはあるはずだ。
玲さんのコップに麦茶を注ぎ、話しかける建前を得る。同棲しといて建前がないと声もかけられない訳ではないが、どこか邪魔しづらい雰囲気を漂わせる今の玲さんと相対するには、理由は多いほうが良いと判断した。精神的なハードルが低くなるので。自然なフリで、二人分のコップを手に玲さんに歩み寄る。
玲さんの横顔が目に留まった時、俺はその場に釘付けになった。玲さんにしては珍しい、憂いを帯びた横顔のギャップに見惚れ、同時に脳が記憶の引き出しを探る。その眼差しに見覚えがあったから。
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その眼差しに込められた感情は『望郷』。この場合の
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それはそれとして、玲さんは何に望郷を感じているのか。……思い当たる節は、無くもない。
「玲さん、何を見てるの?」
コップを二つテーブルに置き、ソファの隣に腰を下ろす。その目は、未だ現実より望郷の在処を見ていた。
「……雨が、降ってますね」
「?……そうだね」
玲さんがほう、と息をつく。
「……雨の日の事を、見てました」
「そっか」
内心「やっぱり」と思った。玲さんの雨にまつわる出来事は、それくらいしか知らないんだけども。
しかしまあ今の玲さんのなんと掴みどころのないことか。うたた寝で鈍った脳は、俺の問いかけに自動的に独り言を零しているのだろう。こくん、こくんと小さく船を漕ぐ様に罪悪感が刺激される。
「私は、今……とても幸せです。毎日が、至福に満ちています。大好きな楽郎くん……と、付き合えて、こうして…ひとつ屋根の下で…生活できているのですから…」
「えっと…どうも?」
「しかし、私が甘受している幸せは……途方もなく細い糸を、辛うじて切らずに済んだからこそ、あるものだと…………何かひとつ、ごく小さなボタンの掛け違いで……ここに、至ることはなかったのかもしれない………私と、楽郎くんは疎遠になって………そして…………」
生気の薄い眼差しを、雨からテーブルのコップに落とし、玲さんは俯いて言葉を零す。横顔が垂れ下がった髪に隠れて見えなくなった。
「そんなことを、考えて……しまいました」
玲さんの肩が、震えている。
「………」
――整理しよう。
玲さんは今精神のバランスを崩し、普段は考えないようなネガティブな想像に支配されている。こういう時、彼氏たる俺が取り得る最良の選択は何だ?クソ、眠気でいまいち頭の回転が鈍い。ライオットブラッド……ダメだ。今の玲さんを、僅かにでも放っておくのは悪手だと
考えろ。彼女の不安を和らげる為に、この場で俺に何ができる?………不安を和らげると言えば
座ったまま身体を玲さんに向ける。両手で玲さんの肩を掴んで向かい合う。濡羽色のヴェールの向こうで、彼女はどんな顔をしているのだろう。
普段、バグったりフリーズしたりこそすれど、あれだけ頼もしい玲さんが、今はあまりにも軽く、脆く見える。精緻な飴細工のような、儚く、危うい美しさ。僅かな刺激――例えば、俺がこの手を離すだけ――で、そのまま壊れてしまうのでは、と思えるほどに。
だから真正面から抱きしめる。出来るだけ柔らかく、可能な限り固く。
玲さんの体温と鼓動を、服越しに感じる。心なしか冷たく感じるのは、玲さんの不安が伝わってくるからか。ならば、俺から玲さんにも伝わるはずだ。
どれだけか細い糸だろうと、辿り着いたならそれが勝利だ。『もしも』に怯える必要なんて無い。いっそ開き直ってもいいくらいだ。乱数の女神の悪戯としか思えない、再現不可能レベルのデレ行動に乗っかってラスボスに勝ったとしても、クリアした事実は不変なように。
「……ぅぁ」
絞り出される小さなうめき声。我知らず力が籠もっていたらしい。慌てて緩めようとするが――ふと、ゆっくり、背中に腕が回される感触。弱々しさすらある力での抱き返しは、しかし玲さんの想いを強く語っていた。
「…………っ……、ぁぅ…………………」
「……いいんだよ、玲さん。好きなだけ泣いていい。不安も、恐怖も、後悔も。全部吐き出して、俺が受け止める。俺は、玲さんの彼氏なんだから」
抱き合ってないと聞こえないくらいの嗚咽。肩に暖かい雫が触れる。なんとなくだが、俺はこの日の事を忘れないだろう。
そんな気がした。
……
…………
玲さんが落ち着いてきてしばらく。そろそろ良いかな、と身体を離す。
まず黙して天を仰ぐ。理性は至ってシリアスなのに、欲望とかいう空気の読めない奴め。抱きしめている間、必然的に押し付けられるダブルパンチに、下腹部から沸き上がるすべてを台無しにする熱の抑制を余儀なくされた。理性と3大欲求の内2つが体内で大乱闘していた事は、墓場まで持って行くとしよう。
心の中の戦争を笑顔で隠し、玲さんの顔を見る。
「……玲さ………あぁ…」
「………すぅ…………んむ………」
しょうがないね。徹夜明けにたっぷり泣いたもんね。安心しきった玲さんの寝顔に、無粋な熱が引いていき、安堵と愛情が俺の心を暖める。
玲さんは大丈夫だ。どうせならベッドで寝かせたいが、俺も睡眠欲にそろそろ抗えなくなってきた。身体にいまいち力が入り切らない。このまま玲さんを運んでも、擦ったりぶつけたりしそうでむしろ危険。
「ん……ぬぁ……」
せめて、この場でできる最大限を…。玲さんと並んで座り直し、彼女の身体を引き寄せ、俺の身体で支える。玲さんの寝相はだいぶ良いので、これで暫くは倒れないはず…。
「おやすみ、玲」
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雨の降りしきる夕方に。
薄暗がりのリビングで。
ソファに座った、男女が二人。
肩を寄せ合い、頭を預け。
静かに寝息を立てていた。
ラスト5行の風景があまりにも鮮明に見えてしまったので、これを共有せんと一本書きました。これを読んだ方の脳内にも映像が見えたなら幸いです。
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