『“穢れ”し少年の吸血記』外伝 (ダート)
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セトナ村の少年『アトラ・アーカー』(本編プロローグ)
セトナ村の少年『アトラ・アーカー』


 ここからは主人公アトラの村での生活と、それが終わりを迎えるまでの外伝です。

 1話へと繋がる話ではありますが、読まないからといって本編を読み進める上では支障ありません。

 

 

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 窓の外には、遊ぶ子どもたちの姿が小さく見えた。ぼくの家の庭の向こう。あまり出歩かないぼくは、彼らのことをなにも知らない。

 けどとても楽しそうで、小さなため息がもれた。

 

 ここはセトナ村。

 3方向を森と山に囲まれた、ぼくら家族が暮らす自然豊かな静かな村だ。

 

 セトナ村は、主に2つの区画に分かれている。

 太い木杭の壁に守られた中心部と、そこから村を囲う木杭の柵までの外周部だ。

 ぼくの屋敷があるのは、中心部。村長さんの家の向かい側にある。

 

 ぼくは元々、セトナ村の産まれではない。もっと大きな町で、それこそ大聖堂のあるほどの大都市で産まれたらしい。

 そこからお父さんの考えで自然豊かな村、セトナ村に移ったらしい。小さい頃の話だからよく覚えていない。が、とにかくそういうことらしかった。

 

「アトラー、ナクラムが呼んでるー! 何か面白いものを見せるってー! 行ってあげなさーい!」

 

 元気なお母さんの声が、階下から聞こえた。ぼくはいそいそと部屋を出て、大きな階段を駆け下りる。途中、階段で走るなというお母さんの声が聞こえたけど、適当な返事を返して玄関を飛び出す。すると、家の門にお父さんの姿があった。

 

「おお、アトラ。朝から元気だな」

 

 走り寄って気づいたことは、お父さんの服が砂に汚れていることだった。土の匂いと、なにか別の記憶にない匂いがする。なんの匂いだろう?

 

「おはよう、お父さん。で、で、おもしろいのってなに?」

「そう慌てるな。それでは、そろそろよろしいですか?」

「ええ、もちろんじゃとも。村のためにここまでして下さるとは、感謝の言葉もない。ナクラムさんのお好きなタイミングでよいですぞ」

 

 お父さんの質問にゆっくりと頷いたのは、セトナ村の村長・クワンさんだ。白くなった髪に、曲がった腰。シワシワの顔は優しげで、小さい頃からよく声をかけてくれる、村みんなのおじいちゃんだ。

 

 村長さんからなにかの許可をもらったお父さんは、ぼくを肩車して歩き出した。行く先には、この村の中心部を囲む木杭の壁と、その切れ間である中心部の門がある。

 この壁はお父さんが作ったもので、町へと通じる一本の道を避けるように壁は築かれた。一度、これじゃあここから入られるよと言ったことがある。それに対して、お父さんは笑って「心配ない」なんて断言したんだっけ?

 

「ようし、ここだ!」

「…………ここ?」

 

 お父さんが自信を持って連れてきたのは、やはり門のところだった。門なんていっても、実際はただ壁が途切れて出入りできるようになっているだけ。

 それは外周部の、村の正門も変わらない。

 

「でも……なんにもないよ? この前見たときと変わってない」

「いいや、アトラ。アレだ、アレ」

「ん?」

 

 お父さんが指をさす先には、たしかに見たことのないものがあった。道を挟む壁。その両端から、なにか複雑な模様が道に刻まれ、壁同士を繋いでいる。

 ちょうどこの模様を含めれば壁は真円になり、中心部を完全に囲う形になるだろう。

 

「お父さん、これってなに?」

 

 お父さんは答えてくれない。顔には、イタズラの結果を見守るような気配がある。つまり、なにかあるんだ。

 

「では始めます」

「……………………」

 

 お父さんの言葉に、村長さんは少し緊張した面持ちで頷いた。いつの間にか、辺りには村に住む人たちのかなりが集まっていて、その中にはぼくと同じくらいの子たちもいた。みんな好奇心と緊張がないまぜになったような表情を浮かべている。

 

「見ていろ、アトラ」

「う、うん……」

 

 お父さんが手をかざす。すると、地面に刻まれた模様か浮き上がり、左右の壁と同じ高さまで上昇する。そして————

 

「「「ウオォ~~~~!?」」」

 

 その模様に追従するみたいに地面が迫り上がり、同時に頭上を村の中心部を半球状に覆う、魔法の障壁が築かれた。

 後ろから、男衆の野太い声と子どもたちの怯えたような声が聞こえる。ぼくも同じような声を出していた。

 少し遅れてそれは歓声へと変わり、たくさんの拍手が辺りを包んでいた。

 

「すげーー!!」「壁できちゃったよ……おい……」「さすが聖騎士様ね!」「これが魔法ってヤツかぁ」

 

 お父さんが振り返る。自然と、肩車されてるぼくも村のみんなと向き合うかたちにされた。

 

「————」

 

 みんながこっちを見ていた。顔を赤くして、興奮しながら称賛の声をあげている。お父さんがほめられ、たたえられているのが誇らしい。村の子どもたちの視線も、その気持ちをさらに大きくさせた。

 そうだ。ぼくのお父さんは、村の英雄なんだ。

 すごいんだ……!

 

「では、こちらはクワンさんが持っていて下さい。私が不在の際に何かあれば、これを使えば発動します」

「おお、これは……。責任重大じゃのぉ」

 

 お父さんの手から、宝石みたいな青いものが手渡される。これを使えば、さっきの魔法が使えるらしい。同時に、使ったことがお父さんに分かるようになっているとのことだった。

 

 お父さんは足が速い。きっとどこにいても、すぐに駆けつけてくれるだろう。お父さんがいるかぎりこの村は安全で、たった今、いないときでも安全になったんだ。

 

「どうだった、アトラ。なかなか面白かっただろう?」

「うん! すごい迫力だった! それに、とてもきれいだった! 上に出てきたヤツって、〈障壁魔法〉でしょ?」

「なんだ、もうそんなことまで知ってるのか?」

「本に書いてあった。……すごいなー、ぼくも魔法を使えるようになるのかな?」

「ああ、当然だな。何せ父さんとアリシアの息子なんだぞ?」

 

 そう言うとお父さんは、ぼくを肩から降ろして頭をワシワシとなでた。

 

 魔法は『第二の血液』と言われる『魔力』によって成される。ぼくは自分の魔力を自覚できていないから、まだ魔力を操ることはできない。だから魔法も使えなかった。

 お母さんは、魔法を上手に扱うにはいろんなことを学ばないといけないと言っていた。魔法について詳しく学べるところは、この国では2つ。『魔法師協会』の学校へ行くか、修道院に入るかだ。

 聖騎士になる近道は修道院に入ること。ぼくも成人して洗礼式を終えたらそこへ行きたいと思ってる。

 

 お父さんに頭を撫でられていると、村長さんがお父さんを呼んで、ぼくはお父さんと分かれた。すると、さっき肩車をされているぼくに視線を向けていた子たちが駆け寄ってきた。

 ぼくはあまり家から出ないから、その子たちのことも窓からときどき見ていただけで、会うのはこれが初めてだった。

 なんだろう……緊張する……。

 

「なあ、おまえ聖騎士様の子どもだろ?! あ、オレ、カロンってんだ!」

「お、おれはオラン。よろしくね」

「……あっ、わたし? わたしシルス。聖騎士様がお父さんなんてすごいね」

 

 なにを言われるんだろうと緊張していたけど、その子たちは目をキラキラさせて話しかけてきた。

 

「ぼくはアトラ・アーカー。よ、よろしく」

「アトラアーカー? 少し長い名前なんだな。あんま聞かねーや」

「違うよカロン。わたし知ってる、『アーカー』は家の名前でしょ?」

「うん、ぼく自身の名前はアトラだよ。だからアトラって呼んで」

「ほーん? 家の名前なんてオレんとこにはないけどなぁ。オラン、おまえの家にはあんのか?」

「え? う、うーん……ない、と思う」

「あったりまえでしょ? 家の名前があるのは特別なんだから。聖騎士様の家は特別なの!」

 

 少し気の強そうな女の子、シルスは腕を組んで答える。

 3人の中で一番背の高いカロンと、背の低い少し気の弱そうなオランは「へー」と、理解したようなしてないような返事をした。

 

 2人の反応も気にしないで、シルスはパッとこっちに向きなおった。

 

「バカ2人は置いといて——」

「バカとはなんだよ! オランはともかくオレはバカじゃねーぞ!」

「ええ!? お、おれもバカじゃないよ?」

「——うるさーい! とにかく、アトラくん。 わたしのことはシスって呼んでね。分かんないことや困ったことがあったら言って」

「うん、分かった。ありがとう、シス」

 

 シルスの親切な言葉を聞いて、ぼくは出された手を握った。柔らかくて、所々にザラとした部分もあったけど、初めての女の子の柔らかさにドキドキして、手汗が出てないかヒヤヒヤする。

 

「あ! ずっりいなぁ、どけどけ!」

「きゃっ! もう、カロン!」

「オレのことはリーダーって呼んでもいいぜ! オレん仲間に入れてやるよ!」

「仲間……? それは……友だちってこと?」

「おう! オランもシスもアトラも、オレの仲間で友だちで手下な!」

「ちょっと! なんでわたしが手下なの?! てゆーかアトラくんがリーダーでしょ!」

「はあ?!」

 

 カロンとシルスはギャミギャミと口げんかを始めてしまった。けど、ぼくは初めてできた友だちが嬉しくて、そんなケンカも新鮮で楽しかった。

 オランとぼくで、2人のケンカが終わるのを待つ。ぼくはまずオランと仲良くなった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「いってきまーす!」

 

 返事を待たずに、ぼくは扉を開けて玄関から飛び出した。外は快晴。柔らかな日差しに温められた風が心地いい。

 

「アトラ、今日も友人と遊ぶのか? 気を付けるんだぞー!」

「はーい!」

 

 庭で運動をしていたお父さんが、重たそうな槍をビュンビュン言わせながら見送ってくれた。やっぱり、お父さんの朝の鍛錬はいつ見ても迫力がある。3人も、これを見たらきっとびっくりするだろう。

 

 そんなことを考えながら、ぼくは村の中心部から外周部へと下り、待ち合わせ場所に向かう。

 

「あら、聖騎士様の息子さんじゃない」

「朝から元気いっぱいなのは、うちのガキどもと同じか。良いことだ」

「ナクラム様によろしくねー!」

「転ぶなよー!」

 

 カロンたちと友だちになってから、村の人たちが声をかけてくれるようになった。それ自体はすごくうれしい。だけど、相変わらずぼくは「聖騎士様の息子」だった。みんなぼくを通してお父さんを見てる。

 ぼくが村に出たくなかったのは、こういう視線が理由だったけど……今はカロンたちがいる。ぼくを「聖騎士様の息子」ではなく、「アトラ」として接してくれる友だちが。だから、最近は外に出るのが楽しい。

 

「あ、いた!」

 

 視線の先に、こっちへ手を振る人影。カロンとオランだ!

 

「おーい!」

 

 元気に手を振っているオランに負けじと、めいっぱいに手を振り返す。そして走る足に力を入れた。

 

「うわわわ!? は、はやいねアトラ」

「ハァ、ハァ、ハァ……っハァ、おはよう、2人とも……!」

「おいおい落ち着けよ。今から疲れてたらついて来れないぜ?」

「はは、これくらい大丈夫だよ。ぼく体力には自信があるんだ」

「みたいだな。——ほら!」

 

 カロンがだいだい色の実を目の前に突き出した。

 ほのかに甘い香りがする。

 

「これは?」

「なんとかっていう果実らしいぜ? 父ちゃんがくれたんだよ。甘くてうまいし、のどがかわいたならちょうどいいだろ」

「食べてみなよ。本当においしんだ」

 

 2人にうながされて、皮ごと実にかぶりついた。

 プツッと薄い皮を歯が裂いた途端、甘い果汁が口の中に広がり、その味は噛めば噛むほど果肉からあふれ出た。

 

「~~~~!! ふぉいひい!!」

「だろ? うんまいよなあ!」

「おれもすぐに食べちゃったもん!」

 

 2人は夢中で食べるぼくを見て笑った。

 

 シスが息を切らせてやって来るのは、それから十数分後のことだった。

 

「おせーよ! シルス、おまえいっつも最後じゃねーか! なにやってたらこんなにリーダーを待たせられるんだよ?!」

「う、うるさい! 女の子には準備があるの、いろいろと! ——あれ? なんだか甘い匂い……」

「これの匂いだろ?」

「え! なにそれおいしそー!」

「おっと」

 

 差し出されたシルスの手を、カロンがはたいた。

 

「シルスはしばらくおあずけだ」

「ちょっと!」

「遅れてきたバツだ! すこしは悪そうにしろよな」

「ぐぬぬ……しばらくっていつまでよ……」

「秘密基地に着くまで」

「「「秘密基地?」」」

 

 ぼく、オラン、シスの声が重なった。

 そういえば、今日呼び出した目的をまだ聞かされていなかった。

 

「秘密基地って、ぼく知らないけど?」

「ああ、驚かせようと思ってだまってた。樹上に作った本格派だから楽しみにしていいぜ!」

「ほえ~、おれ、ぜんぜん気づかなかったや……」

「ふーん……で? それどこにあんのよ? 村にそんなの作れる樹なんてあった? わたし見たことないけど」

「ま、着いてからのお楽しみってヤツだ」

 

 カロンは自信たっぷりに答えると、リーダーとして出発の号令をかける。

 

「よし! だれかのせいで遅くなったな。さっそくオレたちの秘密基地に出発するぞ! ちゃんと着いてこいよ!」

 

 ぼくたちの返事を待たずに、カロンは木杭の柵に沿うように移動をはじめた。

 ぼくたちも慌ててその背について行った。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「——あった、ここだ」

「ここ?」

 

 カロンが立ち止まったのは、だれかの家の影になっているなにもない場所だった。

 カロンはそこで柵を見つめている……と。

 

「見てみろよ。ここ、通れるようになってんの分かるか?」

 

 カロンの視線の先には、ほかの木杭よりあきらかに隙間のある箇所があった。木杭と木杭の間を削って広げたような、そんな感じだ。それはちょうど、ぼくたちなら通れるくらいの隙間だった。

 

「カロン。これ、削ったの?」

「ああ! 削っただけじゃ色が変わってバレるからな、父ちゃんの引き出しから茶色の油をかりて塗っておいた」

「茶色の油?」

「カロンのお父さんは自警団なんだよ。たぶん革鎧の手入れに使うやつだと思う。おれも見たことあるし」

「秘密基地はこの先だかんな。……ほら、こうやって通るんだ」

 

 言いおわるよりはやく、カロンはその隙間に頭から突っ込んで、体をクネクネとひねりながら柵の向こうに抜けた。オランもすぐに続いて、次はシルスの番になった。

 

「ほらシルス。なにやってんだ、見つかるだろ……!」

「ちょっと待って……! わたし服をよごしたくないの。これ気に入ってるんだからね」

「は、はやく! おれ前からひっぱるからね……!」

 

 じれたオランが、柵の向こうからシルスの手をひっぱる。ぼくも、シスのおしりを後ろから押した。

 

「ちょ、ちょっと、アトラくん?!」

「ご、ごめんね? でも後ろで声がしたから急がないと……」

 

 本当だ。さっきからぼくたちが隠れている家の向こうから声がする。もしも声の主が気まぐれに家の裏手に顔を出したら、隠れる場所なんてない。ぼくだけ見つかって秘密基地に行けないなんて……いやだ。

 

 シスが隙間を通り、急いでぼくも続いた。シスが服についた木のトゲなんかを取りながら、すこし赤い顔で見てきた。ぼくも赤いから、顔は合わせられない。あとで謝らないと……。

 

「よし、急ごうぜ。ここまでくればすぐだかんな」

「カロン、果物忘れてる」

「お、あっぶねー。シルスにとられるとこだったぜ」

「とるはずないでしょ。わたしカロンと違って意地悪くないから」

「はあ?! オレがいつ意地悪かったよ!?」

「カロン、しぃーっ! こえ、こえ……!」

「さわいだら見つかるよ……!」

 

 いつもみたいに2人の口げんかが始まりそうになるのを、オランとぼくで必死に止めた。2人は顔を合わせればすぐに口げんかになる。それでも一緒にいるんだから、たぶん仲がいいと思うけど、すこし気になる。

 

 とにかく、こうしてみんな柵を抜けることができた。けど、まだ気は抜けない。この柵はあくまでも柵だ。隙間からはぼくたちの姿が見えてしまう。

 

「カロン、はやく行こうよ」

「そうだな。よし、こっちだ。森に入ればもうすぐそこだぜ? おどろく準備はしとけよな」

「いいから行ってよ。見つかっちゃうって言ってるでしょ」

「ちぇっ、遅れたやつが言ってらあ」

「お、おれ、リーダーの作った秘密基地、楽しみだなぁー。はやく見たいよ」

「うんうん、ぼくも。はやく見たいな、リーダー」

 

 カロンを先頭にして、オラン、ぼく、そしてシスの順番に列を作る。2人を離そうと、オランとぼくは視線で通じ合った。そして、カロンは急かすぼくたちの期待に応えようと、上機嫌に歩き出す。

 この頃には、ぼくたちは自分たちが甘い匂いをまとわせながら歩いていることを忘れていた。

 

 後から思えば、このときのぼくは冷静じゃなかった。友だちと遊ぶことに夢中で、興奮してた。

 もし冷静だったなら、柵を抜けることは止めていたはずだ。森に入るのがどんなに危険かも、思い出せたと思う。

 

 だけど、このときのぼくはあまりに無警戒だった……。



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秘密基地

 

「そんでな、急にオランがもじもじしはじめたと思ったら——」

「カロン! そ、その話はなしだよ!」

「いやー、オレん家でやっちゃうんだもんなー」

「むかしの話だって! いつまで言うんだよー!」

「はははは」

「アトラも笑わないでって……」

 

 森に入ったぼくたちは、カロンの発案で思い出話に花を咲かせていた。

 今の話は、たぶんオランがカロンの家で“そそう”をしてしまった話だ。話に参加していない後ろのシスも、振り向けば涙を浮かべて笑いをこらえていた。

 

「も、もうおれの話はいいよ。アトラ! 笑ってないでアトラの話も聞かせてよ! 一方的に笑ってるだけなんてひきょーじゃん!」

「お、それいいな。そーだアトラ、聞かせろ聞かせろー! シルスが言ってたぞ。おまえん家は特別なんだってな。だったらおもしろい話もあるだろ!」

「え、ぼく?」

 

 怒ったオランにカロンが乗っかって、なにか話さないといけない空気になってしまった。シスに視線で助けを求めると、興味しんしんな視線とぶつかる。味方がいない。

 

「うーん……」

 

 3人からの期待の目がつらい。おもしろそうな、3人が喜ぶ話を一生懸命にさがすけど、どれがおもしろいのか分からない。

 

「じゃあ……なにか質問してくれれば答えるよ。ぼくのことも、ぼくの家族のことも」

「そんじゃ、オレからな。アトラん家って、金持ちなのか? おまえの着てる服も、なんかオレらのよりカッケーしさ」

「お金持ちかは……よく分からない。けど、お父さんは聖騎士だから、たぶん貧乏じゃないと思うけど」

「はいはい! アトラくんは普段どんな生活してるの? 食べ物も豪華とか? キレイな宝石とかネックレスとかあるの?」

「アトラも魔法とか使えるの? おれ憧れるんだよね」

 

 矢継ぎ早にくる質問に答えていく。1つ答えるたびに、3人は「へー!」とか「おー」とか言いながら聞いてくれる。特にお父さんについては反応がよくて、ぼくの話にもつい熱が入った。

 

 そうして話していると、足場の悪い森もあっという間だ。視界の奥に、草を刈られた空間が見えて来た。

 

「きたきたきた、あそこだあそこ! はやく行こうぜ! びっけはバツな! よーいどん!」

 

 早口で言い終えた途端、カロンは全力で走り出す。ぼくもすぐにその背中を追いかけた。

 

「うえ?!」

「ちょっと! わたし女の子なんだけど!」

 

 後ろから聞こえる声も気にならない。友だちとなにかで勝負するのは初めてのことで、ぼくはみるみる近づくカロンの背中を見ながら、口角が上がるのを止められない。

 ぼくは体力には自信がある。でも、いつも一緒に鍛錬するお父さんには全然勝てないし、友だちと競ったこともなかった。つまり、これが初めての競争だ。

 

 走る、走る、走る。息はリズムを崩さない。足場の悪いせいで、思う走りはできない。けど、確実にカロンの背中は近づいている。

 そして、次第に足場になれてきた。小枝を踏み折り、露出した根をうまく使って、身体はぐんぐん加速する。カロンの背中はもう目の前。もう息遣いまで聞こえる距離で、カロンは一瞬体制を崩した。

 

「うおっ!?」

 

 その瞬間、カロンを抜いた。足は止めない。はずむ呼吸と心地いいくらいの疲労感。ぼくはひときわ大きな樹に手をついて、後ろを振り返った。

 

「おまえ、はやいな……アトラ……!」

 

 息を切らせたカロンが笑顔で胸を小突いてくる。すこしくすぐったい。

 

「そのまま上見てみろよ」

「え? ……!」

 

 カロンの言う通りに上を見上げると、樹の上からロープが下げられていて、それは木の板で作られた床へと続いていた。床は4人で遊ぶには十分な広さがあり、壁の代わりにネットを使って部屋を作っている。

 木剣が置いてあるのもなかなかにくい。男の秘密基地という感じで、見上げながらワクワクが止まらない。

 木剣は、カロンのお父さんが自警団の一員だから借りるかもらうかをしたんだと思う。とにかく、武器と秘密基地の組み合わせはぼくの心を掴んだ。

 

「すごい……! これカロン1人で?」

「まあなー。おまえが一番だったし、最初に登ってもいいぜ。 リーダーのオレが許す!」

 

 リーダーの許可が出て、ぼくははやる気持ちを抑えられずに垂らされたロープを使って樹を駆け上る。そして、秘密基地に登りきった。

 

「……………………!!」

 

 ぼくはその光景に息をのんだ。秘密基地からは、ぼくたちがさっきまでいたセトナ村が一望できたのだ。

 山に囲まれたぼくたちの村。村の人たちが、今も自分たちの生活を営んでいるのが見える。そして、ぼくの家もすぐに見つかった。

 こうして見て初めて、ぼくの家が村でどれほど大きなものなのか実感するのと同時に、本当はまだぼくはあの家の自分の部屋で、秘密基地で遊ぶぼくたちを見ているんじゃないか……なんて、不思議な感覚になった。

 

 セトナ村はこんなにも小さいことを、初めて知った。

 

「あ! ずるいよアトラ!」

「っ! う、あ……? あ、オラン」

 

 ボーッとしてた。下からオランがこっちを見上げている。シルスがビリだったのかな? なんだか意外だ。

 

「あっ、そっか! アトラくんがさきに登ってたんだ。オラン、やっぱわたしが先ね」

「ええー!? なんで! おれが先でいいって……」

「あんたビッケでしょ。だからわたしの後」

「そんなー……」

 

 ああ、やっぱりオランがビリだったんだ。でも、なんでオランを先に行かせてあげようとしたんだろう? …………今なんとなく分かったけど、考えるのはやめておこう。

 

「よ……いしょ! ん……!」

 

 シスが登ってくる。ペースが遅いのは、シスがロープになるべく体重をあずけないで登ろうとするからだ。たぶんロープが切れないかこわいんだと思う。

 

「……ん?」

 

 シーが登っている下で、カロンとオランがこっちを見上げてきている。いや、なんとなく視線はぼくに向いていない気がする。ぼくというよりはシスの……。

 

「あっ」

 

 カロンと目が合った。カロンは人差し指を口に当てて、ニヤリ。

 うん、まあ……ぼくは、べつに……。

 

「アトラくん……」

「あ、うん」

 

 登ってきたシスに手を貸して引き上げる。やっぱり、シスの手は柔らかくて緊張した。

 その後オランも登って、やっぱり村を指差して喜んでた。さあ、最後がカロンだ。

 

「アトラー! パース!」

 

 大きな声で言って、カロンは腕を振りかぶってなにかを投げた。それはほとんど狙い通りにぼくまで届く。

 

「これは……ああ、シスの」

「わたしの分!」

 

 カロンが投げてよこしたのは、いろいろ話してすっかり忘れていたシスの分の果物だった。もう匂いにもすっかり鼻が慣れて、たぶんシスも忘れていたくらいだと思う。

 

「すこしつぶれてるね」

「気にしない。遅れたのはわたしだしね」

 

 意外にもシスは気にした様子を見せずに、ぼくの手からヒョイと果物を取ると、豪快にガブリとかぶりついた。

 

「っ! ~~~~~!!」

「あはは、うん、おいしいよね。ぼくもびっくりした」

 

 一口目からシスの顔はほころんで、みるみるその目にキラキラしたものを浮かべる。よかった、反応からして味はそんなに落ちてないみたいだ。もしかして、ぼくもこんな顔をしていたのかもしれない。

 カロンたちがなぜか大喜びしていた気持ちが分かった気がする。たしかに、これは嬉しい。

 

「うし……よっ、と」

 

 一心不乱に食べ進むシーと村に手を振っているオランを眺めていると、きしむロープの向こうからカロンが登ってきた。

 

「あ、もう食べてんのか。食い意地はってんなあ」

「うるふぁい!」

「はははは! なに言ってるかわかんねーよ!」

 

 カロンはからかわれても食べるのをやめようとしないシルス。それがおもしろいみたいで、カロンはいろいろちょっかいを出しては笑っていた。

 そんな中で、オランが村を見ながらポツリと言う。

 

「はあ……ぜんぜん気づいてくれない。おれこんなに手を振ってるのに……」

「当たり前だろ。向こうからオレんとこは枝やら葉っぱやらがジャマして見えないはずだぜ?」

「ここから気付いてもらうなら、ハデな魔法でも使わないと難しいと思うよ。後は……日が落ちてから明かりを灯すとかじゃないと」

「バレる方法話してんなよな! ここはオレたちの秘密基地——って、やめろって、オラン!」

 

 両手を口に当てて、今度は大きな声で呼びかけようとするオランの口がふさがれる。そうだ、秘密基地はバレちゃいけない。秘密基地を1人で作ったカロンは、特にそれを気にしているみたいだった。

 

「魔法か……おれ、使えるようになるかな」

 

 しばらく間を置いて、オランが静かに言った。

 

「まーたその話かよ」

「だってさあ! ……やっぱり、かっこいいし。カロンも聖騎士様の見てかっこいいって言ってたじゃん」

「両親が魔法使えるアトラでも使えてないんだろ? んじゃーオレらがつかえやしねーだろ。そもそも魔法がなんなのかもわかんねーし」

「あ、それわたしもよく知らない」

 

 不意にシルスが会話に混ざる。手にはだいぶかじられた果物が、その断面から赤いタネをのぞかせている。

 

「お、タネありかよ。当たりじゃんか」

「どこが!? タネの周りはしぶいし、タネはすごく硬いし、わたし歯がかけるかと思ったんだから!」

「遅れたバチが当たったんだろ。そこらへんに捨てときゃ育つかもしれないぜ? オレん秘密基地で育ててみるか!」

 

 カロンの言ったとおりに、シスは果肉のすこし残った果物を、タネごと下に投げて捨てた。あとで土に埋めてみよう。

 

「ところでさ、アトラくん。アトラくんは魔法に詳しいの?」

「おれにも教えてよ! 魔法ってなに? どうすれば使えるのかとかさ!」

「オレはべつにいい。そいつらとちがって大人だからな」

 

 オランとシスと違って、カロンは興味がなさそうに端に行って、木剣を手に取っていじり始めた。けど、なんだろう。なんとなく聞き耳を立ててる気がする。

 

 とにかく、困った。魔法を説明すると、きっと魔力についても説明しなきゃいけなくなると思う。けど、あまりそっちの方は人と話しちゃダメだと、お父さんは言っていた。大人相手じゃないと魔力の——特に人が魔力を持つようになった理由とかについては話しちゃいけないと言ってた。

 

「なんだよー! もったいぶるなってぇ!」

「もしかして、秘密にしてること?」

 

 早くと急かすオランに、秘密なら仕方ないと残念そうな顔をするシルス。

 その顔を見たら、話してもいい気がした。

 

「ううん、いいよ。ぼくが話したのは秘密ね。本当は子どもには早い話だって、お父さんが言ってたから」

「なんだよそれ。おまえも子どもじゃんかよー」

「あ、カロンやっぱり聞いてた」

「バ、聞こえてきただけだっての!」

「あんたってほんと子どもだよね」

「はあ?!」

 

 秘密基地が、またにぎやかになる。そう、ここは秘密基地。ぼくたちしかしらない場所だ。なら、すこしだけはいいと思う。

 

 ぼくはすこしの罪悪感を覚えながら、それ以上に秘密を共有できるのが楽しくて、初めてわざと言いつけを破った。



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氷の目

 

 3人の視線を浴びながら、ぼくは魔法について、家で読んだ本の内容を一生懸命に思い出しながら説明した。

 

 魔法とは、魔力によって望んだ現象を引き起こす力だ。その歴史は古く、何千年も前、まだ神さまがいた時代から存在していたとされている。

 

 その頃は、魔法は神さまだけの力だったらしい。人には魔力はなくて、魔法を使ってくれるようにお祈りをして、その願いを神さまが聞き届けたときだけ助けてもらえる。

 そんな時代が長く続いた。

 

 けど、ある理由で人も神さまの力だった魔法を使えるようになる。

 それから長い月日が流れて、今じゃ無詠唱で魔法を使うのが当たり前になっている。

 

「————ぼくが本で読んだのは、だいたいこんな内容だったよ」

 

 一生懸命に本やお父さんの言葉を思い出して、出来るだけ簡単に説明はしたと思う。

 でも、それでも難しいみたいで、3人ともビミョーな顔で聞いていた。

 

「……なあ、アトラ」

「うん?」

「その『魔力』ってなんだよ。魔法はそれを使って、なんかすげーことをするんだろ? なら、その『魔力』ってなんなんだ?」

「あー、そこ、わたしもよく分からなかった」

「ああ、そうか。ごめん、そこの説明が足りなかったね」

 

 うっかりしてたや。大事なのはそこなんだ。

 結局、人に魔法を使うことができなかったのは、もともと『魔力』が人になかったからだ。

 魔法が神さまだけの力だった理由は、この『魔力』を神さましか持たなかったからでもある。

 

 やっぱり、どこかでお父さんの言いつけを破る後ろめたさが、ぼくの説明をあいまいにさせたのかもしれない。

 

「えっと、昔は人が魔力を持たなかったんだ」

「だけど今は持ってるだろ? なんでだよ?」

「『邪神』が現れたんだよ」

 

 その単語を聞いた途端、3人の空気が変わったことに、ぼくはすぐには気がつかなかった。

 

「『邪神』はある日突然現れたみたいで、彼は凶暴な龍やケモノに『魔石』っていう魔法器官を与えたんだ」

 

 この結果、『邪神』の従える獣たちは魔法を使えるようになってしまった。神さまの力であるはずの魔法を。

 そして、神さまたちに仕えていた人々はどんどん勝てなくなり、追い詰められてしまう。

 

 神さまが人に『魔力』を与えたのは、このときだ。

 『邪神』が従える魔物に対抗する手段として、自分に仕えている人々に『魔力』と、それを扱える素質を与えた。

 

「これで、ぼくたちは魔法を使えるように——え?」

 

 不意に肩に置かれた手。カロンのだ。

 

 ぼくはカロンの唐突な行動にとまどって、カロンの顔を見る。……うつろな目が、ぼくを見つめていた。

 

「おい……違うだろ」

「え、ちょっ……痛っ!?」

 

 突然その手に力が込められて、ぼくは痛みに顔をしかめた。信じられないくらい強い力で、腕に痺れが走る。

 

「か、カロン、痛いってば……!」

「違うだろ」

 

 カロンがなにを言ってるのか分からない。そうしている間にも、力は強くなる。

 だんだん怖くなって、オランとシルスの2人に助けを求めるつもりで視線を向けて…………ぼくは、息をのんだ。

 

「……………………」

「……………………」

 

 凍てついた、氷みたいな視線。氷の瞳は2つずつ、それぞれオランとシルスの顔に、2人の目があるはずの場所にはめられている。

 

 誰だ…………?

 目の前にいるのは、一体誰なんだ…………?!

 

 胸が苦しい。なにが起きているのか分からない。

 

 顔中からいやな汗がにじみ出て、したたり落ちる。

 そのとき、2人の口が動いた。

 

「「『邪神』じゃない。『虚神』でしょ(だろ)? 神になろうとした反逆者。神に成り代わろうとし、挙句滅ぼされた愚者」」

 

 冷たい声。なんの感情も感じない、抑揚のない無機質な声。2人の声じゃない。こんなの、違う。

 

 そして、無言の間が訪れた。数秒か、もっと短い一瞬なのか。

 それでも、その一瞬が永遠に感じられる。

 

 そうしてどれくらい経ったのか、ピクリとも動かずに視線でぼくを縫いつけていた2人が、急に明るい声で、さっきまでの軽い調子で言う。

 

「『邪神』なんて言ったら、神さまって認めることになるでしょ? それ、けっこう怒られちゃうんじゃない? アトラくん」

「ぇ…………?」

「そうだよ。おれみたく、お尻がはれるまで叩かれるよ」

「はっはっは! なんだよオラン! そんなの初めて聞いたぜ?」

「ぷっ、ふふ……!」

「な、なんだよう! 笑うなってえ!」

 

 なんだろう、これは……。

 いつの間にか肩に置かれた冷たい手はどけられて、3人はいつものみんなに戻っていた。

 

 まるで夢でも見ていたみたいに、もと通り。

 だけど、肩に残るしびれと、汗にぬれて冷たくなった服が、さっきのが夢だと認めてくれない。

 

「……………………」

「あ? ……おい、どうしたんだよアトラ」

「うわ、すっごい汗! 大丈夫? アトラくん、調子悪いの……?」

「ふ、震えてるじゃん! え、あ、さ、さむいのかな?! さすった方がいいよ!」

 

 3人とも心配そうにさすったり、服の袖で汗を拭いてくれる。

 そうだ、やっぱり夢だ。カロンがあんなことをするはずがない。オランも、シスも、あんな目を向けてくるなんてあり得ないじゃないか。

 

「アトラ?」

「う、ううん。大丈夫だよ。なんでもないから」

「なんでもないはずがないでしょ? ……ねえカロン、今日は帰った方がいい。アトラくん体調悪そうだもん」

「さっきまでなんともなかったのに……果物が傷んでたんじゃあ——」

「はあ?! オラン、おまえそれどういう意味だ! オレが腐ったもの渡したってのかよ!」

「ち、違うって! お、おれは……」

「うるさい! いいから帰るの! アトラくんをお家まで送んなきゃいけないんだから!」

 

 シスの声が場を収める。

 こういう時にシスは強い。

 

 けど本当に大丈夫なのに。もう震えは止まってるし、汗もひいた。3人のおかげで体の調子は戻っている。

 でもシスに怒られそうだから、今日秘密基地で遊ぶのはおしまいだ。

 

「アトラくん、下りられる?」

「うん。本当にもう大丈夫なんだ。これくらいへっちゃらだよ」

 

 シーにうながされて、ぼくはまるで急かされるようにロープを握りしめる。

 そのまま下りようとしたぼくを、カロンの緊張した声が止めた。

 

「待て……!」

「なに? アンタ、まだなにか言うわけ? カロン」

「バカ、下を見ろ……!」

 

 カロンの様子は、ふざけているようにはとても見えない。オランにいたっては、青ざめた顔をしてヒザを震わせている。

 その様子に、シスも下を見た。つられて、ぼくも。

 

「オオ……カミ…………」

「う、うそでしょ……?」

 

 いつからいたのか、ぼくたちの秘密基地の下にいたのは、緑色の体毛に身を包み、額に1つの大きな目を持つオオカミだった。

 鼻先でいじっているのは、シスが捨てた果物の食べ残し…………。

 

「ああ!? 果物の匂いだよ! シスが捨てたのにつられて来たんだ!!」

「バカ、オラン! おまえ静かにしてろ!」

 

 ピタリと、オオカミの動きが止まる。

 

「————」

 

 そして、ぼくと…………目が合った。

 

「うお!?」

「ひぅぅ…………?!」

「きゃあ!!?」

「ぐぅう…………!」

 

 けたたましい遠吠えが身体を震わせる。

 

 一瞬遅れて、また遠吠えが聞こえる。

 

 まずい、今のは遠吠えが反射したんじゃない…………!

 

「お、おい、アトラ…………」

「うん、来る…………」

「く、来るって、なにが!?」

「仲間に決まってるでしょ?!」

「仲間って、そんな…………!」

 

 森がざわめく。

 そして森の中から4頭、1つ目のオオカミが現れた。

 

 風をまとった緑のオオカミ。

 

 魔石を持った、魔物だ…………。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「ど、どどどう、どうするんだよう!? 集まって来ちゃったけどさあ!? こ、こっち見てるし……!!」

「分かってるっての! とにかく……こ、これだ! これ持っとけ!」

「木剣なんて持ったって意味ないよ! ああぁ……おれここで死んじゃうんだあ……! うっ、うぅ…………」

「ないよりいいだろ! 泣くな!」

 

 どこからともなく現れた6頭のオオカミ。

 不気味な沈黙を保って、まばたきひとつせずにエモノを見つめている。

 視線の先はもちろん、ぼくたちだ。

 

 6つの目はなにを考えているのかも分からない。

 ピクリともしないその不気味さが、ぼくたちの精神をじりじりと焦がす。

 

 後ろではオランとカロンが言い争う声が聞こえている。

 こういう時に頼りになるのはシスだ。

 

「……………………?」

 

 待ってても、予想したシスの声は聞こえてこない。

 いつもなら今ごろ「うるさーい!」という大声で、崩れかけた空気を正してくれるはずなのに。

 

「ア、アトラくん…………」

 

 不安そうに震えるシスの声。

 振り向いてみると、すがる様な視線がぼくに向けられていた。

 

 そうか…………ぼくが、シスならこの2人をなんとかしてくれると思っているように、シスは、ぼくがこの状況をどうにかしてくれると思ってるんだ。

 この状況をなんとかできるとすれば、それはカロンでもオランでもなく、アトラ・アーカーだと。聖騎士の息子である、ぼくだと…………。

 

 そう気付いた途端、頼られる重さがのしかかってくるのを感じた。

 ぼくが…………頼られている。期待されている。護ってくれると。

 

 視界の向こうで言い争っていたカロンが、木剣を手にしてやってくる。

 オランはどうしたのかと視線を向ければ、木剣を力なく手にぶら下げて、カロン自慢の木の床をジッと見ていた。

 

「アトラ、おまえも持っとけよ…………シルスも情けない顔すんな! いざとなったら、オレがこいつでぶん殴って追っ払ってやるんだからな!」

「…………カロンも、…………アンタもふるえてるくせに」

「っ! …………ムシャブルイに決まってんだろ」

 

 シスの言葉で、はじめて気づいた。

 カロンだって、こわいんだ。当たり前だ、誰だって死にたくない。あんなケモノに喰い殺されるなんて、ぜったいにイヤだ。

 でも、カロンは必死に耐えている。

 耐えて、リーダーとして、ぼくたちの前で強がってくれている。

 

 それに今さら気付いて、やっと覚悟が決まった。

 

「ぼくも少しは戦える……シスはオランと真ん中にいて」

 

 死なせない。この3人は、ぼくの友達はぜったいに死なせない。たとえぼくが死んだとしても、必ず帰す……!

 

 カロンから受け取った木剣は、ぼくが普段使うものよりずっと軽い。たぶん、使っている木が違うんだ。

 

 こんなに軽くて頼りない木剣で、あのオオカミたちに目の前のエモノを……ぼくたちをあきらめさせなければならない。

 

 ムリだと、頭の中で誰かが言った。

 けど、やるしかない。

 この中で一番戦えるのは、きっとぼくだから。

 護らなきゃ。お父さんならぜったいにそうする。

 友達3人を護れなくて、聖騎士になんてなれるもんか!

 

 ぼくは決意を胸に、足を踏み出そうとした。

 そこに、カロンが待ったをかける。

 

「ちょっと待てよ、オランだって男だ、戦える! ほらオラン、アトラばかりにやらせらんねー! オレらも戦うぞ!」

「ひぐっ、う……うぅ、ぐすっ」

 

 カロンの声にオランは反応せず、床を見たまますすり泣いている。

 その様子に、カロンはいらだたしげにオランの肩をつかんで自分の方を向かせる。

 

 オランの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

 

「じ、じにだぐなぃよぉう…………! おれ、死にだぐない゛ぃぃ…………!」

「ぐ……く、クッソーー!」

 

 オランはその場でへたり込み、わんわん泣いた。

 オランは戦えない。それを責めるなんて、この場の誰にもできない。

 

 泣き声につられる様に、シルスの目にも涙が浮かぶ。

 …………カロンの目にも、くやし涙があふれた。

 

「————っ!」

 

 その時ぼくが反応できたのは、本当に偶然だ。

 涙を浮かべる3人から視線をオオカミたちに戻した瞬間、目に映ったのは、音もなくかけ上がってくるオオカミの姿だった。

 

「カロン!」

「っ?! うわああああ!?!?」

「——シッ!」

 

 登ってきたオオカミの、たった1つの目。

 反射的に放った一撃は奇跡的にもそこへ当たり、ひるんだオオカミはカロンの目の前の床に爪痕を残して落ちていく。

 

「ギャウッ!?」

 

 悲鳴に反して、落下したオオカミはすぐに起き上がり、また唸り声を上げながらぼくたちをにらんでいた。

 

「た、たすかったぜ……アトラ…………」

「カロン、早く立って! 今のはたまたまだよ!」

 

 下では他のオオカミたちが、再び風をまといはじめる。

 

「こんなに簡単に登れるなんて…………」

「たぶんなにかの魔法だと思う」

「魔法?! てことは、あれは……」

「『魔物』だと思う」

 

 『魔物』の定義は『魔石』を持つかどうか。『魔石』のおかげで魔法が使える以上、どう見てもあのオオカミたちは『魔物』だった。

 

「さいあくだ、クソ! なんでオレの秘密基地で、こんな…………!」

「カロンが果物なんてわたすからじゃないかあ!? シーもだよ! シスが遅れて来なかったら、こんな事にはなってなかった! シスが遅れさえしなきゃ、アイツらが匂いにつられることもなかったんだ!」

「…………ごめんなさい」

「オラン!!」

 

 オランのパニックが広がりはじめている。いよいよ攻撃がはじまる中、空気は悪くなる一方だ。

 

「また来る……」

「~~~~! オラン! そんなに叫びたいってんなら村にむかって叫んでろ! オレん家のババアは地獄耳だから聞こえるかもしれねー!」

 

 カロンがオランに助けを求めるように指示する。

 だけど、たぶん意味はないし、カロンもそのことは分かってる。とにかく、オランになにかをさせることが重要だった。

 

 このままじゃ、みんな死ぬ。

 

 ぼくは考えていた作戦を実行するべく、秘密基地から飛び降りた。

 

「————————!」

「おい! アトラ?!」

「きゃあ!?」

 

 2人の悲鳴が聞こえる。そして、すぐに地面が迫ってくる。

 右手の木剣を下に向け、両手でしっかりにぎる。目指す着地場所は、下にいるオオカミだ。

 

「ぐぅぅう————!!」

「ギャッ!?!?」

 

 体はだいたい狙った位置に落ち、木剣はオオカミの腰のあたりにめり込んだ。

 そして、衝撃。

 

「あグッ、くぅ————!!」

 

 殺せなかった勢いのまま、地面を転がる。

 転がっている間は、ものすごく長かった。めちゃくちゃに流れ、回る視界の中で、いつオオカミの牙に襲われるか、気が気じゃない。

 そして気持ち悪さをこらえながら、ぼくはなんとか止まり、すぐにその場から走った。

 

「ハァッ、ハァッ、ハァ、っ、ハァ……!」

 

 向かうのは森じゃない。村でもない。

 あのオオカミから森で逃げ切るなんて、人間の足でできるはずがない。

 だから、向かうのは秘密基地のある大きな樹だ。

 

 ぼくは未だに痛みにもだえているオオカミを避けるように、秘密基地の下に駆け込む。そして、大きな樹を背にして木剣を構えた。

 

「来い……ぼくが相手だ! 登れるものなら登ってみろ!」

 

 これがぼくが考えた作戦だ。

 はじめにオオカミを1頭撃退する。そうすることで、オオカミたちはぼくを警戒するはず。無視はできなくなった。

 ぼくがいる限り、オオカミたちは上の3人を襲うことはできない。

 

 的は1つ、ぼくだけだ。

 

「ア、アトラぁ!」

「リーダーは上にいて! ぼくが防げなかったヤツから2人を守って欲しい!」

「っ、…………分かった! 上は任せろ!」

 

 自分も降りようとするカロンを止める。リーダーと呼ぶのはズルいけど、こうじゃないとカロンは止まってくれないのは分かってた。

 

 あとは、ぼくがどこまでやれるかだ。

 ぼくが手強いと思わせることができれば、オオカミは去る。村の人がオオカミに襲われたとも聞いていないから、目の前のオオカミたちは、まだ人の味を知らないはず。

 あきらめやすい…………はず…………。

 

「ふっ……ふっ……ふっ……ふっ……」

 

 呼吸はだいぶ落ち着いてきた。

 大丈夫。こんなオオカミより、いつも見ているお父さんの方がずっと強い。

 朝の鍛錬の時に見せる動きなんて、ぼくの目じゃ追えないくらいだ。

 それと比べれば、こんなオオカミ、遅すぎる。

 

「グルルルル————」

 

 目の前のぼくを敵とみなしたオオカミたちが、唸り声をあげながらにじり寄ってくる。

 

 ぼくは心の中でお父さんを思い浮かべながら、木剣を強く握り直した。

 



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聖騎士の実力

 

 樹を背にして、オオカミたちとにらみ合う。痛みにもだえていたオオカミは、風の力でなんとか移動して、今は木剣の間合いから離れた場所で大人しくしている。

 狩りに参加するのはやめて、おこぼれを待つつもりみたいだ。

 

 あと5頭。あと5頭もなんとかしないといけない。

 

「…………?」

 

 ふと違和感が頭をよぎる。

 

 5頭……いるか? 足りないような…………。

 

「アトラ!」

「——ッ?!」

 

 カロンの鋭い声に救われた。

 右からわずかな足音がすると、ぼくはすぐさま木剣を横に薙いだ。

 

 木剣が奇襲を仕掛けてきたオオカミに当たる。

 

「づッ、重…………!?」

 

 全力での横薙ぎは、飛びかかる空中のオオカミに当たりはした。しかし、それでも軌道を十分に変えることはできない。

 ぼくが反射的に半身を逸らすと、すぐそばを鋭い爪が通過した。

 

 急いで樹を背にして、向き直る。冷たい汗が背や袖を濡らす。

 

「ダメだ、木剣が軽すぎる……それに…………」

 

 襲いかかってきたオオカミは、これといったダメージを見せることなく唸り声をあげている。効いていない。

 

 木剣での一撃は、オオカミの毛にはばまれて、ほとんど衝撃を吸ってしまう。オオカミの毛があんなに硬くて、優れた鎧になるなんて知らなかった。

 

 決定打がない…………。

 

「アトラ、くるぞ!」

 

 オオカミたちの行動が大胆になってきた。今度は正面から獣特有の俊敏な動きで近づくと、飛びかかってくる。

 

 それを木剣を振るいながら横にかわすと、横腹に強い衝撃。視界が流れる中で、他のオオカミに吹き飛ばされたんだと、痛みを感じながら理解した。

 

「グぅぅ~~ッ!!」

 

 転がる体を止めて、なんとか痛みをがまんして木剣を構えなおす。

 

 身体はすり傷だらけ。服には穴が開いて、赤い血が肌を伝うのがむずがゆい。傷口は熱さとしびれで、痛みがあまりないのが救いだ。

 

「ふぅ~~~~…………」

 

 荒い呼吸を整える。考えるんだ、ここからどうするのか。

 

 背にしていた樹からは離されてしまった。

 木剣は毛と皮を持つオオカミには効かない。

 それに、まだオオカミは5頭残ってて、ぼくはたぶん肋骨を折っている。息を吸うたびに痛みが走る。

 

 絶体絶命だ。

 

「…………お父さん」

 

 頭に浮かんだのは、お父さんの姿だった。

 お父さんは戦いで大事なのは「抜くべき力を抜く」ことだといっていた。どんな極限状態にあっても、力みを無くせるように訓練を重ねるのだと。

 

 でも、今はすべてに渾身の力がいる。全力で振るい、打ち下ろし、なぎ払う。

 半端な攻撃はけん制にすらならない。

 握力もうばわれている。オオカミを攻撃するたびに、まとわりつく風は木剣を取り上げようと強まった。

 

「どうすれば…………」

 

 口に出して、1つ思い浮かぶものがあった。

 槍を扱うお父さんがもっとも得意とする攻撃方法。

 

 それは、刺突だ。

 

 足で大地を蹴り、腰をひねり、作った“タメ”と加速に体重を乗せてくり出されるお父さんの刺突は、ぼくにとってはあこがれそのものだった。

 気恥ずかしくて、お父さんの目を避けてはいつもマネをしていた。

 槍なんて持ってないから、振るうのはいつも木剣だ。

 

「————————」

 

 頭にお父さんの姿をイメージする。

 

 ぼくの知る限りで最強の聖騎士、その姿を。

 

「フゥーー…………」

 

 深呼吸……余計な力みは、吐く息に溶けていく。

 

 姿勢は低く、半身に構えて、引き絞るイメージ。

 

「……………………」

 

 オオカミたちが動く。

 狙う場所は1つだけ、風の弱い眼球のあたりだ。

 

 オオカミが駆ける。

 

 オオカミが跳躍し、その凶悪な牙を見せつけて————今!

 

「————フッ!!!!」

 

 ありったけの力で大地を蹴る。

 

 先行する片足を杭にして、急停止。

 

 伸ばした腰と脇腹を一気に縮めて、加速と体重を腕に運ぶ。

 

 そして————重さを持った木剣は狙い違わず単眼に埋め込まれた。

 

「ッーーーーーーーーーーー!?!?!?!?!?」

「うわっ!?」

 

 なにかをつぶした気味の悪い手ごたえと、遅れてやってきた、硬いものを割ったような感触。

 それをたしかめる間もなく、ぼくの身体は持ち上がり、飛ばされた。

 

「わっ、とぉお!!」

 

 なんとか両手をついて着地する。

 そこはオオカミたちの真ん中だった。

 

「う————?」

 

 襲いくる爪を、木剣で受け流そうとして、気がついた。

 

 木剣が……折れてる……。

 

 右手にあったはずの木剣は、根本から砕けたみたいな断面で折れていた。

 

 直後に衝撃。しびれと耳なりが頭を真っ白にする。

 

「ぅ……? なに、が…………え?」

 

 気づけば、冷たい地面が背中を冷やしていた。

 右手の甲が熱い。焼けてるみたいに熱くて、心臓みたいにドクドクいってる。

 

 右手を持ち上げてみると、手の甲は剥がれてて、めくられた肌が視界をプラプラと行ったり来たりしていた。

 

「ぁ……………………」

 

 何かに顔を覗きこまれる。…………オオカミだ。

 

 たった1つの眼球が、不気味にぼくを見下ろしている。

 

 カロンの叫び声が、遠くに聞こえる。

 

 ぼくは……死ぬのか……。

 

「アトラぁあああ!!!!」

 

 諦めかけた頭を、世界で一番頼もしい声が叩いた。

 直後、目の前のオオカミの頭が、ものすごい速さで飛んできた何かに貫かれ、吹き飛ばされた。

 

「え…………!」

 

 遅れて誰かの背中が、ぼくの視界に入る。

 その人はぼくを護るように、オオカミの前に立ちはだかった。右手に握られた、眩しいくらいに白い槍が、その人の怒気に呼応するようにまたたく。

 

 広い、広い背中。こんなに安心できて、カッコいい背中なんて、1人しか知らない。

 

「お父さん……! お父さん!!」

「アトラ、無事か? っ! アトラ……右手が……!」

 

 お父さんがぼくの右手に気づいた途端、空気が重くなった。息をするのも、苦しい。

 

「グルルルル……」

 

 響くうなり声は4つ。

 お父さんの放つ威圧感に反応したのか、残ったオオカミたちは一斉にお父さんに向かって襲いかかる。

 

 しかし————

 

「お父さん! あぶ——な……」

 

 一瞬だった。

 ほんの一瞬、お父さんの右腕の輪郭がブレたように見えて風を切るような音がした瞬間には、的確に急所を穿たれた死体が転がっていた。ぜんぜん、見えなかった。

 

「すっげぇ……」

 

 なぜか樹から降りているカロンは、目を丸くする。

 ぼくもあんな顔をしているんだと思う。

 

「アトラ、ちょっと貸してみろ。少し痛むぞ?」

「あ、ぅ痛っ……!」

 

 右手の甲に痛みが走る。ジクジクした、まとわりつくような痛みがして、しばらく続く。

 その間にも、お父さんの手はぼくの右手を捕まえて離さなかった。

 そしてだんだんと痛みが引いてきてから、ようやく右手は解放された。

 

 すこし、けだるい感じだ。

 

「よし、治ったな」

「え? ……ほんとだ」

 

 右手の甲は、本当に治っていた。

 めくれた皮も、血もない。

 焼けるような熱さも、しびれも、痛みもなくなっている。

 

「魔法……」

「まあな。〈治癒魔法〉はアリシアの方が得意だったんだが、お父さんもこれくらいはできるぞ。君達も怪我はないか?」

 

 ゴツゴツした手でぼくの頭を撫でながら、お父さんはカロンたちの身体に視線を投げる。そして、ケガらしいケガがないと分かると、安心して頷いた。

 

「アトラ。…………迂闊だったな」

「…………うん」

「初めてのことだらけだったんだろう。だが、どんな時も冷静な自分を持て。もっと言えば冷めた自分だ。感情に惑わされず、主観を排除できる思考を持てれば、自分がどれだけ危険なことをしているのか気づけたはずだ」

「ごめんなさい……」

 

 お父さんの言うことは、何から何までもっともだった。

 柵を越える。それがどれだけ危険な行動だったか、冷静なら分かったはずだ。

 楽しいというだけでやるには、あんまりにもバカなことだった。

 

 今さら自分を責めてうなだれるぼくの肩に、お父さんの手が乗せられた。あたたかく、力強い手だ。

 そして、お父さんはぼくの目線までしゃがんで言った。

 

「けどな、アトラ。よく友人のために戦ったな。お父さんはそれが嬉しいぞ! 初めての命のやり取りだったはずだ。そんな中で他人を護るために戦った。その気持ちを持ち続けることができれば、お前はきっと聖騎士になれるぞ!」

 

 そう言うと、お父さんは笑ってくれた。うれしそうに、本当にうれしそうに。

 

「さ、アトラ。やらかしたことに違いはない。帰ってキッチリ、アリシアに叱られてこい! 流石にアリシアから庇うのは無理だ。あっはっはっは! いやー、カンカンだろうな!」

「うぐぅ…………」

 

 頭の中に、腕を組んで笑みを浮かべるお母さんの姿がありありと浮かぶ。

 不思議なことに、そのイメージは背景がぐんにゃりと歪んでいる。ゴゴゴゴゴなんていう地響きもセットだ。

 

「泣くな泣くな、あっはっはっは!!」

 

 お父さんの笑い声は、静かな森にいやに響いて聞こえた。

 

 しばらくして、村の方から大人の人たちの声が聞こえ、革鎧に身を包んだ大人たちがゾロゾロとやってきた。

 

 その中の1人はカロンのお父さんだったらしい。早足でカロンに近づくなり、強烈なゲンコツが落とされる。

 カロンはうめきながら、地面を転がった。

 

 けど、そんな姿はどこかうれしそうで、流している涙が痛みのせいだけじゃないことは秘密だ。

 

 ぼくらをその人たちに任せて、お父さんは森の奥に行こうとする。

 

「ナクラム様? 村はあっちですが?」

「ああ、いえ。少し魔物どもを間引いておこうかと思いましてね。アトラに手を出したんだ……覚悟しろよ……!」

 

 大人たちが顔を引きつらせる中、お父さんは何かぶつぶつ言いながら、森の中に消える。

 ぼくらが村に帰るころ、森の方からは大きな音が何度も聞こえ、その度にみんな苦笑いを浮かべた。

 

 そうして、ぼくたちは村に戻ってきた。すこし前までいた村が、なぜかとても懐かしく感じられた。

 ぼくは家でお母さんにものすごく叱られて、カロンはまたゲンコツを落とされていた。

 シスは泣いてお母さんに抱きついていたし、オランはずっと泣いてた。

 

 そしてぼくは、罰として10日間の外出禁止になり、しばらくは窓の外を眺めてすごす生活にもどる。

 

 そんなことをしなくても、もうあんなことはしないのに……。あんな思いは、もうこりごりだ。

 

 お父さんが帰ってきたのは、すっかり日の落ちた頃。

 たくさんの魔石と肉をもって森から帰り、みんなの家に配ってまわり、村の人たちにとても喜ばれたらしい。

 

 こうして、ぼくたちの探検は幕を閉じた。



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まどろみの悪夢

 

 真横からの衝撃に、身体が宙へ浮かび上がる。

 肺から追い出された息は、高い音を出しながら空気に融け、獣特有の低く唸るような呼吸音が、すぐ耳元に聞こえた。

 

「ガフっ……!」

 

————衝撃。

 

 飛ばされた身体は大地を転がり、ナニカに当たってようやく停止する。

 

 骨の軋む音を身体中に聞きながら、血に濡れた顔を上げて、そのナニカを見た。

 

「————————カロン…………?」

 

 光を失った眼球が、もう彼がそこにいないことを物語る。これはもう、肉でしかない。数瞬未来の、自分の姿。

 

「オラン…………シ……ルス…………」

 

 喰い散らされた友だち。

 最期まで抵抗せずに死んだ少年は、諦めた表情で冷たくなっている。

 

 生きながらかじられた少女の、ちゃんと殺してと叫んでいた口は、もうない。

 

「は……はは……へひ……」

 

 その光景を絶望と共に咀嚼して、彼もまた、生きることを諦めた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「うわああぁああッッ!!!!」

 

 重い身体にかかわらず、ぼくは一瞬ではね起きた。

 体は震えて、汗と悪寒がぼくから熱を奪いさる。

 

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……………………はぁ」

 

 辺りを見回すと、どうやらぼくの部屋らしくて、それでなんとか落ち着いた。

 まだ腕には鳥肌が立っている。

 

「ゆ、夢か……よかった。よかった……本当に…………」

 

 まだしびれている頭を必死に使って、頭の中から夢の空気を追い出す。

 なにが現実で、どこが夢か。思い返してたしかめる。

 

 そう…………そうだった。秘密基地で魔物に襲われた。

 それで…………そう、お父さん。お父さんが助けに来てくれて、傷を治してもくれたんだっけ?

 

 その時に、すこしけだるくなって……帰ったらお母さんに怒られた。

 それで……それで…………そうだ、たしかぼくの骨が折れてるとかで、お母さんが治癒魔法を使って………ぼくは倒れた。魔力欠乏に特有の症状だ。

 

 治癒魔法は変わった魔法で、治癒を受ける人の魔力も使う。他人から治癒魔法を勝手に使われても、魔力が使われることはない。けど、家族みたいに血のつながりがあれば、ぼくの意思に関係なく、治癒魔法は発現する。

 

 ようするに、ぼくの魔力量は手の甲と折れた骨を治すだけで使い切ってしまう……その程度の量なのだ…………。

 たぶんだけど、妹のアリアにはもう魔力量で抜かれてる。つくづく、魔法の才能がないんだ、ぼくは。

 

「はぁ…………」

 

 いつものように後ろ向きな考えに向かう思考を、ため息を吐くことでがまんする。

 

 とにかく、ぼくはお母さんの治癒魔法で自分の魔力を使い過ぎ、倒れてしまった。

 目が覚めても体が重くて、フラつかずに歩けるようになるまでに3日もかかったんだっけ……。

 

「そうか、今日で4日目なんだ。てことはまだ6日あるのか……」

 

 頭にみんなの顔が浮かぶ。

 

 カロンはすごく怒られただろうな。家でも頭を押さえて転がってたのかもしれない。想像すると、自然と笑みが浮かぶ。

 

 シスはどうしてるだろう。お父さんの話では、ぼくを助けようとして秘密基地から下りたカロンに続こうとしていたらしい。やっぱり、シスは強い。不安そうな、あの顔を見ているだけに、どれほどの覚悟が必要だったかが分かる。2人にはお礼を言わないとだ。

 

 そして、1番心配なのが…………オラン。

 もともと気の弱いところがあったし、そんなオランがいたからシスとカロンは仲良くできていた。

 そんなオランだから、秘密基地での様子も仕方がないと納得してる。むしろ、あれが普通だ。

 

「けど……カロンは怒ってるだろうな…………」

 

 あのとき、いつまでも戦おうとせず、泣いてばかりだったオランに、カロンは本気でイラ立ち、その姿に失望して、くやしがっていたと思う。

 

「ぼくがいない間……なにもなければいいけど…………」

 

 3人の姿がないとは知りながら、視線は窓の外から離れない。2階から見下ろす先では、向かいの村長宅のおばあさんが腰を曲げて草むしりをしていた。隙間のある石畳から伸びる雑草はがんこで、なかなか苦労しているようだ。

 

「ん? あれは…………」

 

 村長さんの家の扉が開いて、中から背の高い男性が出てきた。寝癖のついた髪をイラ立たしげに手で押さえながら、村長の奥さんを一瞥する。そして、イヤなものを見たように顔をしかめてから、一瞬ぼくの家を睨み、そのまま足早に立ち去ってしまった。

 

「村長さんの孫……だっけ? たしか名前は……ゲルク。ゲルクさんだ。こわい顔してたな……不機嫌そうな……いや、それはいつもか」

 

 村長の孫であるゲルクさんは、少し苦手な人だ。あの人は、なぜかいつも不機嫌で、村の外周部の人のことをよくバカにしてはケンカをしているらしい。これはカロンだけじゃなくて、オランも言っていた。

 

 村長の息子……つまり、ゲルクさんの父親は、彼を残してこの村から出て行ったらしい。ゲルクさんの態度も、その辺りに理由があるんだろうか……。

 

「——ん?」

 

 今見た光景に思いを馳せていると、部屋の扉が開いて、お母さんが出来立てのシチューを運んで来てくれた。

 部屋の空気が、食欲をさそう香りでいっぱいになる。

 

「あら、アトラはもうすっかり元気そうね。身体はもう大丈夫? 違和感のある場所はない?」

「うん。まだ少しだけ体が重たい感じがするけど、もう大丈夫だよ」

「そお? じゃあみんなで食べましょうか。ナクラムも喜ぶんじゃない? アリアはもう食べ終わっちゃったけど」

「え? お父さん、まだいるの?」

 

 ぼくが動けなかった昨日までは、お母さんが食事を運びに来てくれていた。その間、ぼくはアリアの持ってくる本を読んであげたり、外をぼーっと眺めて過ごしていた。

 そしてお父さんは、連日オオカミの魔物を狩りに出かけていたのだ。このシチューに入っている肉も、オオカミのものだったりする。

 

 昨日までならもう狩りに出かけている時間だから、ようやく怒りが収まったのかもしれない。

 

「そ、『もうほとんど狩り尽くした』なんて言ってるんだからビックリしちゃう。あんな量のお肉、どうやって使い切れっていうのよ、まったく!」

「近所のみんなに配ったら喜ぶかもね」

「ええ、そうしたところ。さ、どうするのアトラ? 念のため今日は部屋で食べる?」

「ううん! 下で食べるよ」

 

 少し沈んでいた気持ちは食欲に上書きされ、小走りで階段を降りてお母さんに怒られる頃には、ゲルクさんの視線のことはすっかり頭から消えていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「それで、もう体の方は大丈夫なのか?」

「あ、うん。もうすっかり元気」

 

 食卓について、お父さんの口からおはようの次に出たのは、ぼくの体のことだった。お父さんの目は真剣で、ぼくの体をしばらく眺めてから、やがてフッと、いつもの優しい目に戻る。

 心配していたのが伝わってきて、少しこそばゆい。

 

 それを悟られたくなくて、記憶の中に話題を探す。

 ふと、氷の目を思い出して身震いした。

 

「どうしたの、アトラ?」

「まだ気分が悪いか?」

「……………………」

 

 あの目はなんだったんだろう。掴まれた肩の痛みは、未だ鮮明に思い出せる。カロンのものとは思えないほどに強く、硬く、冷たい手だった。

 

 あれは……一体…………。

 

 いろいろあって忘れていた考えにふける中、気がつけばお父さんとお母さんが小言を言い合っている声が聞こえてきた。

 

「まったく、そもそもアトラが倒れるまでしなくてもよかっただろう。術式の構成が甘かったんじゃないか?」

「アトラの魔力量なら大丈夫なはずだったわよ! それなのに想定以上にアトラの魔力は少なかった。ナクラム、必要最低限の魔力に留めなかったのはあなたでしょ? そういえば昔から治癒魔法は苦手だったっけ?」

「なっ!? まだあれを根に持っているのか?! それを言うのであれば、自分で治癒すればよかっただろう。それも出来ないほどに魔力を使い切っていたのは、アリシア自身の失態だ」

「それを言うならナクラムだって————」

「ちょ、ちょっと待って! ぼ、ぼく2人に聞きたいことがあるんだ!」

 

 だんだんと加熱していく言い合いを止めるために、ぼくは2人の会話に割り込んだ。

 

「なんだ? 聞きたいことがあるなら、父さんがなんでも教えるぞ?」

「私たちに聞きたいことって、なにかあったの?」

「えっ…………えー…………とね……」

 

 ……次を考えてなかった。

 不思議に思うことはある。たった今考えていた、あの3人が途端に別人の様になってしまった件。

 だけど、そもそもそうなったのはぼくが約束を破って、3人に魔力についての話をしたからなのだ。

 

「————————」

 

 お父さんとお母さんが、ぼくの言葉を待っている。

 お父さんはどんなことかと興味津々に。逆にお母さんは、少し心配そうに。

 

 …………言おうと、思った。

 

「じ、実は…………」

 

 ぼくはあの時のことを思い出せる限り、包み隠さずにすべてを話した。

 

 3人に頼まれて、いろんな話をしたこと。

 その中で、約束を破ってしまったこと。

 

 そして……3人が豹変したこと…………。

 

「「……………………」」

 

 お父さんもお母さんも、はじめは驚いた表情をしていた。だけど、途中からは真剣な表情で聞いてくれて、ぼくの話が終わった時には、少し表情は暗くなっていた。

 

 話が終わっても、2人はしばらく口を開かず、ぼくにとって気まずい沈黙が続いた。

 それから、少し迷うような感じで、お互いに視線でやり取りをした後————

 

「ナクラム。ちゃんと話さないからよ?」

「ああ。反省している」

 

 静かな声でそう言った後、2人はぼくに向き直った。

 その目に、もう迷いの色はない。

 

「アトラ…………怖かっただろ」

「…………うん。でも、なんで……あんな風に?」

 

 氷の目を思い出しながら、ぼくは尋ねた。

 

「少し、難しい話をするぞ? 分からないところがあったら、その度に言うんだ。分かったな?」

「うん」

 

 1つ間を置いて、お父さんは語り出した。

 それは、この国でずっと昔から続けられる、ある儀式についての話だった。



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洗礼の本質

 

 リビングにはお父さんとぼくの2人だけ。

 お母さんは、アリアを見てくると言って外の庭に行った。

 

 ……………………静かだ。

 お父さんは何かを考えるみたいに目を閉じたまま、もう5分は黙っている。

 それでも静かに待っていると、ようやくお父さんの目が開かれた。

 

 その目はいつものお父さんとは違う。

 聖騎士としてのものだと、すぐに分かった。

 

「アトラ、『洗礼』は知っているな?」

「うん。ぼくもアリアも受けたもん」

 

 お父さんが口にした『洗礼』とは、ここシグファレムの国民なら誰もが知っている儀式だ。

 

 この国では子どもが産まれた場合、なるべく早く教会へと赴き、洗礼を受けさせる。

 この時に、その子どもはクリシエ教に迎えられ、晴れて教国の国民としての権利を得るのだ。

 

 この洗礼を受けないと相続もできないし、何よりいざと言う時に教会の保護を受けることができない。

 教会が町の中心になっている教国では、それは生きていけないことを意味する。

 まして教国の国民はみんなクリシエ教の信者だ。受けさせないなんてあり得ないだろう。

 

「アリアのときは、ぼくも参加したしね。すごく緊張したけど」

 

 アリアが産まれた時も、近くの教会のある町で洗礼を受けさせた。厳かな空気に気圧されて緊張しきっていたぼくに、優しい神父さまがアメをくれたのはいまだに覚えてる。まだ帰りたくないってぐずったっけ……。

 

「その洗礼だが、アトラとアリアが受けた洗礼は特殊なものだ。本来、『洗礼』は産まれたばかりの子供に信仰心を植え付ける〈儀礼魔法〉だ。それを受けている3人と受けていないアトラでは物事の認識にズレがある。それが、アトラの話したような事態となった原因だろう」

「————え?」

 

 いきなりのことに、頭がついて行けない。

 

 お父さんの口からつらつらと出てくる情報。そのどれもが聞いたことのないことで、同時に、聞き逃せない重大なものだった気がする。

 

「え、違……う? 植え付け……て、え?」

 

 いきなり与えられた情報を咀嚼し切れていないぼくに、お父さんはもう一度、それを告げた。

 

「『洗礼』は〈儀礼魔法〉の一種だ。対象に神々への信仰心を植え付け、クリシエ教の教えに『順応』させる」

「え、いや、だって、それって……」

 

 『洗脳じゃないか』————口には出さなくても伝わったのか、お父さんは複雑な感情を目に浮かべる。

 それでも、その目は真っ直ぐにぼくへ向けられている。

 

「アトラ。この『洗礼』によって教国は大陸で最も治安の良い、安定した国であり続けている。レッゾア大陸の3強国に数えられているのも、この『洗礼』のおかげだ。ほらな、怖くないだろ?」

 

 安心させるように、最後にいつもの口調に戻って、お父さんはぼくの頭を撫でた。

 

「それに2人は〈儀礼魔法〉を受けていないしな。聖騎士の家族は受けないんだよ」

「なんで?」

「アトラは人を騙したり傷つけたりするか?」

「しない」

「だからさ」

 

 そう言ってまた頭を撫でる。なにかごまかされた気がするけど、あえて聞くことはしない。それよりも聞きたいことがあったから。

 

「お父さん」

「ん?」

「洗礼は……分かった。怖くない、必要なものなんだよね? でもさ、3人がおかしくなったのも洗礼のせいなんでしょ? なんで……おかしくなっちゃったのかな。『邪神』って言ったとたんに、人が変わったみたいになった」

「ああ…………それは父さんが悪かったんだ」

「?」

 

 その言葉の意味が分からず、お父さんの顔を見上げた。

 

「『邪神』、『虚神』、『始まりの真祖』、『魔王』、『反逆者』…………これらは全て同じ者を指す言葉だ。今も多くの犠牲者を出している魔物の王は、国によって様々な呼ばれ方をされている。その中で唯一神性を認める呼び名の『邪神』は、教国ではタブーになっているんだ」

「だからそれを使ったぼくは不信心者と思われたってこと? でも本では『邪神』って」

「それが父さんの過ちだった。アトラが読んだのはおそらく教国の本じゃなかったんだな。本棚から抜き忘れた父さんが悪かった……」

 

 大きなため息を吐いて、お父さんは肩を落とした。

 そして何度も謝ってきたけど、元はと言えば約束を破ったぼくが悪かったんだから、気にしていない。

 

 それよりもぼくがベッドで過ごした3日間、やたらと夜にお母さんの怒鳴り声が聞こえていたナゾが解けた気がする。お父さんのこれを怒っていたのか…………。

 

「それじゃあ、1つだけお願いを聞いて欲しいんだけど、いい?」

「ああ、なんでも言ってくれ。なにか欲しいものでもあるのか? 父さん結構稼いでるからな、大抵の物は買ってやるぞ? あ、でもアリアには内緒だからな」

「ううん、物じゃないんだ」

 

 今のお父さんなら、ぼくの願いはなんでも聞いてくれるだろう。そこにつけ込むみたいで気は引けるけど、どうしても聞いて欲しい願いがあった。

 もう2度と、あんなことを繰り返さないために。

 

「お父さん、ぼくに戦い方を教えて。人が相手のときだけじゃなくて、魔物が相手でも勝てるように。今までの生き残るための戦い方じゃなくて、護って、勝つための戦い方を教えて欲しいんだ」

「————————」

 

 あの日、お父さんが助けに来てくれなければぼくたちは死んでいた。今朝見た夢が現実になっていたかもしれない。

 

 もう2度とあんなことはしたくないけど、もしもう1度ああなったら、そのときこそは大切な人を護れなくちゃいけない。そのためにも、今までの逃げる隙を作ることを考えた鍛錬じゃなくて、人を護りながら敵を突破して、撃退することを考えた鍛錬が必要だ。

 

 そんな想いを込めたぼくの願いを聞いたお父さんは、一瞬驚いた顔した後、嬉しそうに笑いながらぼくの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

 

「任せろアトラ! ああ、お前は本当に良い子に育ったなぁ、誰に似たんだ? 父さんか? ははははは!」

 

 久しぶりのお父さんの笑い声が、まだ秘密基地の件から離れきっていなかったぼくの意識を日常に引き戻す。ようやく日常に戻れた気がする。あの悪夢も、もう見ないで済むのかな……。

 

「よし、そうと決まれば善は急げだ。アトラ、木剣を持って庭に出るんだ。父さんがみっちり教えてやろう!」

「うん!」

 

 お父さんの号令と共に、お母さんがいないのを良いことに猛ダッシュ!

 階段を駆け上がり、手すりを踏み台にショートカットも挟んでの最短コースを攻めたぼくは、自室の木剣を手にしてリビングへ駆け戻った。

 

 お父さんはいない。もう庭にいるのかな?

 

「にしても、やっぱりこっちの木剣はしっくりくるや。こっちならもう少しうまく戦えたのかな?」

 

 木剣の感触を確かめながらやる気充分で玄関にたどり着く。するとそこには小さくなったお父さんと、腕を組んでいるお母さんの姿があった。

 

 いやな予感がする…………。

 

「アリアが庭で遊んでいるのが分からないの? 鍛錬なら朝やれば良かったでしょ!」

「花壇には近づかないつもりではあるんだが…………そ、それにだ! 何があろうとアリアを危険には晒さない! 例えアトラの手から木剣がすっぽ抜けようと、俺であれば止められる!」

「何があろうと? アトラは昨日まで立ち歩くこともできなかったのよ?! ナクラムはアトラのことが心配じゃないっていうの?!」

「ぐ……む、ぅ……」

 

 お父さんは答えに詰まって唸っている。

 ぼくのお願いを叶えてあげたいけど、お母さんの言うことも正論で参った……そんな感じだ。

 

「アトラ?」

「ッ!?」

 

 柱の影から2人のやりとりを盗み見ていると、お母さんの鋭い視線に捕まった。

 肩が跳ねて、思わず直立不動になる。

 

 すごい……迫力が、すごい…………。

 

「駄目だからね————?」

「はいッ!」

 

 こんなにお腹から声を出すのは初めてだったと思う。

 

 お母さんはぼくの返事に納得してくれたみたいで、いつもの優しい顔に戻って、またアリアのいる庭の花壇に歩いて行った。

 

 後に残されたのは力及ばず敗れた聖騎士と、怒られなかったことに胸を撫で下ろしている小心者の2人だけ。

 

「…………明日にするか!」

「うん、それがいいね」

 

 結局この日は自室で本を読んで過ごし、鍛錬は翌朝からになった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 

 夜が終わり、山の向こうから溢れる光が空の闇を裂いて行く。森がにわかに活気を取り戻し、鳥たちのさえずりはやまびことなって村に落ちる。

 空気は澄み渡り、山や森からの朝特有の匂いを運ぶ。

 その空気を深く吸い込んで、カロンは朝の眠気を追い出した。

 

「…………フー」

 

 吐いた息は一瞬白くなり、すぐに形を失った。

 朝が冷えるようになってきた。もう少しすると猪狩りの季節がやって来る。

 

「う……」

 

 猪肉の味を思い出し、カロンの腹が空腹を訴えた。

 

 カロンのいる場所はセトナ村で井戸広場と呼ばれる場所で、空が完全に明るくなると村の人々が水を汲みに来る。セトナ村の日常的な光景だが、カロンがこの場所にいるのは朝の賑わいに加わるためではない。

 

「おい……まだかよアイツ……なにしてるんだ?」

 

 空が明るくなっていくにつれて、カロンは遅れている待ち人が来る方向を確認しては、その姿がないことに焦り始めた。

 

 そして数分後、カロンのがまんが限界に達する寸前で待ち人は現れた。

 

「なにもたついてんだよ……!」

「はあ……、はあ……」

 

 息を切らせながら、シルスはいつもとは違う、髪をリボンでまとめた姿で現れた。遅れた理由を察したカロンは、呆れた表情を浮かべて怒りを収める。

 

「ここでさわいでても仕方ないか。ホラ、さっさと行こうぜ」

「ちょっと待ちなさいよ、本当によかったワケ?」

「…………なにがだよ」

「オランのことに決まってんでしょ。呼ばなくてよかったのかって言ってんの」

 

 シルスはとぼけようとするカロンを責めるように、詰問調の問いを投げかけた。

 

「誘えってのかよ、アイツを」

「まだあのことを怒ってて、それが誘わなかった理由なら気持ち悪いってだけ」

 

 シルスの語気は強い。

 2人の視線はしばし衝突し、やがてカロンの方から目を背けた。

 

「誘うも何も、オレが行っても出て来ねーだろ、アイツ。行ったってまた『フクツー』だ。オレはまだあの時のことを許してないし、アイツ自身も会いたくないんだとさ! だったら話すことなんてないだろ」

「そう……わたしのときは『カゼ』だった」

「お前にも会わなかったのかよ…………なにがしたいんだアイツ」

 

 会話はそれで途切れた。

 朝の爽やかな空気と相反する空気が降りる。

 

 無言でそうしていると、2人は周りの家からする物音が増えていることに気づいた。空は完全に明るくなっている。セトナ村の夜明けが終わり、朝の賑わいが広場に訪れようとしている。

 

「はやく行こうぜ! 話しかけられると面倒くせーだろ。走れ!」

「ちょっと! 行くっていってもどうやってアトラくんに会うの?」

 

 シルスは走るカロンの背中を追いかける。後ろからは奥さん同士の朝の挨拶が聞こえた。タイミングとしてはギリギリだったといえる。

 

「正面の門からはバレるかんな、塀を越える!」

「それで見つかったら?!」

「お見舞いに来たでいいだろ! ほら、もっとはやく走れって!」

「絶対怒られるからね? 知らないから!」

 

 そうは言いながらも、シルスの胸は『走っている』以外の理由でも高鳴っていた。

 1つは、もしかしたらあの屋敷の中に入れてもらえるかもしれないという期待から。

 もう1つは、アトラという少年に久しぶりに会えるかもしれないという期待から。

 

「なんだよ?」

「えっ! あ、ううん別に」

 

 頭に浮かぶのは、自分たちを守ろうと戦う少年の姿。あの姿を見てから、とても人に言えない夢を見たりする。

 

 それまではアトラという少年は、何度も夢見たきらびやかな世界の話を聞かせてくれる友人だった。

 また会いたいと思うとき、頭の中にはいつもアトラの語る聖堂の様子や街並みへの憧れがあり、アトラ自身への興味よりもそれは強かった。

 

 けど、今は違う。

 シルスの中でのアトラは、確実に変わっていた。

 

「お、見えてきた! ——って、なんだこの音?」

「庭の方……? もしかしてアトラくん!」

「あ、おい!」

 

 

– – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –

 

 

 一閃。なんの小細工もなく最短距離を突き進む剣筋こそが、最も単純でありながら、同時に最も苛烈な攻撃といえる。それを避けるために今の行動をやめて、全力で身体を捻る。

 

「グぅぅっ!」

 

 慣性を無視した急制動に、苦痛が口から漏れ出た。直後に頬を熱が焼き、火傷のようなジクジクした痛みが集中力を奪う。それでも足を踏ん張ってなんとか繰り出した突きは、笑えるほどあっさり躱された。

 

 そして横手からの蹴り上げが身体を襲う。

 

「横がガラ空き……だッ」

「ベッ——!」

 

 とっさに庇った腕に、絶妙な手加減をされた蹴り足が食い込む。

 

 浮遊……衝撃……回転……。

 その中でも冷静に姿勢を確認して、足の裏に感じた硬いものを蹴る。

 

 視界が安定して見ると、直前までいたその場所には土埃が舞い、木剣を振り下ろした格好のお父さんが視線だけをぼくに向けていた。

 

「ふッ、ふッ、ふッ、ふッ……!」

「アトラ、呼吸を整えるんだ。過呼吸を起こし動けなくなるぞ」

「っ!? あ……」

 

 言われて初めて、自分が呼吸の制御を忘れていたことに気づく。反射的に浅い呼吸を速める肺を押さえ込み、しっかりと吐いて、ゆっくり吸う。

 胸に手を当てて、顔は少し上向きに。これが落ち着くためのぼくのルーチンだ。

 

「すぅ…………はぁあぁ…………」

 

 指先に感覚が戻ってくる。感覚が戻るまで、指の痺れに気がつかなかった。お父さんに指摘されなかったら、ぼくはすぐにでも動けなくなっていただろう。

 

「……………………ふう」

「……落ち着いたか? ——よし、顔色も戻ってきたな」

「うん、もう大丈夫。続けよう、お父さん!」

 

 今のところ、何度もお父さんに攻撃を仕掛けて、その全てを弾かれていた。こうして目の前に立つたびに、お父さんが聖騎士であることを再確認させられる。

 

 全く隙がない。ない隙を無理やり作るために虚を突こうとしても、慣れない動きに自分が隙を作ってしまう。

 だから結局堅実に立ち回ろうとして、やはり攻めあぐねてしまうのを繰り返していた。

 

 お父さんは木剣の構えを解くと、軽く手を挙げて終わりの合図をした。今日はここまで。

 

「そろそろ汗を拭いて着替えるぞ。アトラの疲労も限界だ————っと、父さんタオルを忘れていたな。持ってくるから、木剣をいつもの場所に立てかけといてくれ。午後に余力があれば続きだ」

「分かった…………」

 

 早口で言い終わるなり、お父さんは足早く家に入っていった。いつもなら閉めないドアを閉めて。

 

「なんだろ? なんか様子が——ん?」

 

 お父さんの様子を訝しみながらも、とりあえず木剣をいつもの位置に立て掛けようと動かした視線を、何か丸いものが通り過ぎた。

 

 それは視界の端で芝生の上を転がり、止まる。

 

「石?」

 

 それはなんの変哲もない石だった。だけど、石がこの場所にあるのは不自然だ。家の庭は、お母さんがアリアのためにと石をすべて取り除いている。

 

「っ」

 

 また石が飛んできて、今度は足に当たる。

 飛んできた方向に目を向けると…………塀の外にある木の上で、今まさに石を投げようと腕を振り上げているカロンと、その横でカロンに石を供給するシルスが目に入った。

 …………なにしてんの、君たち……?

 

「……、…………。……!」

 

 なにか手招きでこっちを呼んでいる。

 ぼくはまだお父さんが来てないのを確認してから、そそくさと塀を越えようとする2人のところに駆け寄った。

 

「よっ、アトラ。元気そうじゃんか」

「よっ、じゃないよ! 2人ともなんで——ムグゥ?!」

「アトラくん、見つかっちゃうから……! 声大きい……!」

 

 ぼくはシルスの言葉に頷く。驚いてつい大きな声を出してしまった。後ろを見ると……よし、お父さんはまだ来てない。今さっき家に入ったばかりだから、もう少し時間がかかるはずだ。

 

「おいシルス、いつまでそうやってんだ。もう大丈夫だろ」

「あっ!」

「——ぷは」

 

 カロンの言葉に、シルスはパッと口から手を離した。

 どことなく赤いシルスは不思議に思いつつも、ぼくは初めから気付いていた違和感について聞かずにはいられなかった。

 

「…………オランは?」

「————————」

 

 質問は2人にしたつもりだ。だけどぼくとシルスの視線は、自然とカロンに向いていた。

 カロンは一瞬だけ目をキツく細めて、居心地悪く頭を掻く。

 

「フクツーでカゼだってよ」

「腹痛と風邪? オランは体調を崩してるのか……」

「真に受けんなよ」

「え?」

 

 イラ立ちを含んだ言葉に、ぼくは一瞬なにを言われたか分からなかった。

 驚いたのは聞いた側だけじゃないらしく、言った本人も目を丸くして、ピシャリと自分の頬を叩いてから深いため息を吐く。自分自身を責める様に。

 

「オラン、私たちに会ってくれないの」

「どういうつもりか知らねーけど、秘密基地での日が会った最後だ。それからずっと引きこもってんだよ」

「そう、なんだ……」

 

 てっきりカロンと衝突したのかと思っていたが、実際はもっと悪い。出て来てくれないと、話すことすらできない。

 どうしようかと考えていると、カロンがそんなことよりと続ける。

 

「んなことより、見たぜアトラ! なんだよすげー強いな! あれが言ってた朝の特訓か?」

「ああ、まあそうだね。ぼくはお父さんが家にいるときは戦い方を教えてもらってるから」

「見てるこっちがハラハラしちゃった。自分の子どもに手加減なしなんて、聖騎士様も結構こわいんだね。となりでカロンが騒がないか気が気じゃなかったんだから」

「はあ?! 声を出してたのはお前だろ! いちいち『あっ!』とか『きゃっ!』なんて騒いでたじゃんか! むしろオレの方が焦ったくらいだ」

 

 その言葉を皮切りに、2人の間で言葉の応酬が始められる。オランがいなくても変わらないそのやり取りに、ぼくは安心感と共に寂しさも感じてしまう。

 

 なんとかオランに会わないといけない。このままはいけない気がする。けどその前に、カロンがオランと会ってもいいかどうか判断する必要がある。

 カロンのオランへの憤りは、こうしてふざけている中でさえ忘れられていないように感じられた。

 



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解禁

 

 お父さんがいない間のわずかな時間、ぼくたちは秘密基地の件で会えなかった間の話で盛り上がっていた。大きな声は出せないけど、そんな中での会話も内緒話みたいで新鮮で、心が弾んだ。

 

「そろそろ戻らないと。聖騎士様に見つかるとアトラくんが怒られちゃう」

 

 シルスの言葉で、そういえばお父さんに見つかるのはまずかったと思い出す。一応ぼくは謹慎中。こうして友だちとの談笑に興じることが出来ないことも、罰の内なんだから。この時間が、今はやましいことなんだから。

 

「そっか……今日はありがとう。はじめは驚いたけど、2人が来てくれて嬉しかった。あ、塀を越えるの手伝うよ。こっちからじゃ登りにくいよね?」

「いんや、まだだ。今日はお見舞いのためだけに来たんじゃないんだかんな」

 

 カロンの言葉に、2人で首を傾げた。

 シルスもぼくと同じ反応だったってことは、カロンからは何も聞いていなかったということだ。

 

 カロンはわざとらしく辺りを警戒するみたいに見回してから、大げさに身をかがめて声をひそめた。

 

「ここだけの話な? 今朝家を出るときに父ちゃんから聞いたんだけどよ、見張り台からこっちに向かって来る灯りが見えたらしいぜ? 馬車だ、馬車。『ギョーショニン』かもなってよ」

「それ行商人でしょ? 恥ずかしいからそれくらいは知ってなさいよ」

「うるせっ!」

 

 カロンは少し顔を赤くしてから、仕切り直すようにせき払いをする。

 

「とにかく! 父ちゃんが見張りを交代した時間から考えると、そろそろ村に着いてるはずなんだ、その——」

「——行商人ね」

「——分かるっての! そいつが門のあたりにいるころだ。ぜったいおもしろいだろ?」

「行商人か……珍しいね。町では見かけた気もするけど、村に来る行商人なんて見たことないや」

 

 セトナ村は一般的に使われる街道からは外れている。わざわざ商業ルートを変えるほどの特産品もなく、いくつかの果物と動物の毛皮くらい。

 昔は牛を飼い、チーズを売ったりしたと村長さんが言っていたけど、それもオオカミにみんな食べられてからやめてしまったという。

 だから行商人が来るなんてほとんどないことだし、まれに来たときも、例によってぼくは家から出なかったから見たことがなかった。

 

「だろ? だよな? よし、じゃあちょっと抜け出して見に行こうぜ!」

「え? ——っとと!」

「ちょっと?!」

「いいからシルスも後ろを押せ押せ! ずっと家にいて出歩かないとカビはえるぞ! いざとなれば無理やり連れてかれたってことでいいだろ」

 

 腕を掴まれ、グイグイと引っ張られる。珍しいのは、いつもならカロンを止めるシルスがオロオロするだけで止めに来ないことだった。

 

 その場でふんばりながらどうしたものかと悩んでいると————いつからいたのか、聞き慣れた声が降って来る。

 

「おっと、流石にそれは見過ごせないぞカロンくん」

 

 ぼくたち3人の肩が、そろって跳ねた。

 ゆっくりと声のした方に顔を向けると、お父さんはぼくたちのすぐ隣に立ち、見下ろして来ていた。

 

「あ、いやぁ、オレたち見舞いに……へへ、なあ?」

「え?! あ、は、はい……私たちは……」

「そうか、息子のためにどうもありがとう。が、それなら塀を越える必要はなかったんじゃないのかな?」

「っ! っとぉ……それはぁ…………すいません……」

「ごめんなさい!」

 

 後ろめたい侵入経路を言い当てられて、カロンは観念したようにうなだれ、珍しく神妙に謝罪の言葉を口にした。なかなか見ないカロンにギョッとしていると、シルスがそれに続いた。

 それにお父さんはなんと言うのか。怒るのか、それとも見逃すのか。その時はどう言ってかばおうか。

 思案しながら待っていると、お父さんは意外なことを口にした。

 

「次からは正門から来なさい。行商人を見に行くことは構わないのだからね」

「えっ、いいの?!」

 

 それは全く思いがけない言葉だった。お父さんはぼくを見てから驚くほど機嫌良く笑うと頼もしくうなずく。

 

「勿論だ、父さんに二言は無い! ……そもそも人の繋がりは得難いものだ。いくら罰とは言え、10日も引き離すのはいいこととは言えないな。説得は任せろ」

「やったあ!」

 

 弾けたように、庭にぼくたちの歓声があがる。

 大したお咎めもない上に、今日から3人で遊べるという展開に、お互い肩を叩いてはしゃいだ。

 

 だけど、お父さんはそんなぼくたちが落ち着くのを待ってから声色を変えてただしと続けた。

 

「ただしアトラはこれから朝食だ。出かけるにしても休息や食事を疎かにすることは許さない。激しい運動をしたんだ、遊びに行くのなら午後からにしなさい」

「そ、そんなのおそすぎる! チンタラしてたら行っちゃうだろ!」

 

 お父さんの言葉に大声で否がかかる。声の主はカロン。さっきの神妙さはどこへやら、口を尖らせて不満な様子を隠そうともしない。やっぱり演技だったんだな……と、呆れ半分安心半分のぼくは、苦笑まじりのお父さんに同じ表情を返した。

 

 そんなぼくたちとは対照的に、シルスは短く悲鳴をあげると、慌ててカロンの口に蓋をした。

 

「かかカロン?! ご、ごめんなさい! すみません! カロンはバカなんです!」

 

 カロンの頭を無理やり押さえながら謝るシルス。お父さんは気にしてないと手を振ってから、子どもに言い聞かせるように答えた。

 

「カロンくん。もしもこの村に向かっているのが行商人なら、いつもの様に村で一泊するはずだ。なら何も慌てる必要はないだろう? 違うかい?」

「ん? ……あー、そういえばぁ…………そうだっけか、シルス?」

「そうよ! アンタ何年ここで生きてるのよ!? もうこれ以上迷惑かけられないんだから、さっさと帰るの!」

「——ぅお?! おい!」

 

 憤怒の形相のシルスがカロンの腕をむんずと掴むと、そのまま引きずるように正門へ向かう。はじめは抵抗しようとしたカロンも、やがてそれを諦めて大人しく連れてかれることにしたみたいだ。

 2人は正門まで行くと、そろって振り返って手を振る。

 

「アトラ、また後でな! ギョーショニンのやつはオレがふんじばってでも帰さないから心配するなよな!」

「そんなことさせないから安心してね。今日は本当にすみませんでした。アトラくん、午後にまた来るね」

「なんだよ、今日のシルスはオレん家の母ちゃんみたいだな。今からそれじゃ老けるぜ?」

「アンタはもうだまってて」

 

 最後まで変わらない2人に自然と口角が上がるのを自覚しながら、手を振り返して見送った。

 お父さんがぼくの頭を撫でながら笑う。

 

「いやぁアトラ。本当に面白い、良い友人を持ったな」

「——うん!」

 

 ぼくはお父さんの言葉に、自信を持って頷いた。

 今から2人が来るのが楽しみだけど、朝ごはんまで時間もないし、早く汗を拭いて着替えないといけない。

 

 ぼくははやる気持ちを抑えながら、お父さんと一緒に家に入る。そう、お父さんによる説得は朝食の場で行われるのだ。

 自然とぼくの腹にも力が入った。

 

 

– – – – – – – – – – – – – – – – – – – –

 

 

 結果として、お母さんは拍子抜けするほどあっさりと頷いた。

 曰く、お母さん自身もその時の怒りで言ってしまい、言った手前自分から覆すことも出来ずにいたとのことだった。お父さんもそれを分かっていたらしい。

 

 ぼくはと言うと、肩透かしを食らった気分ではあったけど、じわじわと解放感と喜びが湧き上がり、今ではすっかり2人が来るのを楽しみにしている。

 それがスパイスになったのか、もう飽き飽きしていたオオカミ肉もとても美味しく感じられた。

 

 朝食の後は庭で反省会だ。今日の打合いで見えた課題をお父さんから指摘を受ける、苦くて、けれど重要な時間になる。

 

「兎にも角にもアトラの剣筋は実直に過ぎるわけだ。父さんとしては嬉しくもある。だが、狙う先を凝視する癖は命取りだ。アトラの視線で、敵はどこを狙われるのかを悟ってしまう。しばらくはこの癖を直すための鍛錬になるな」

「うん…………分かってはいるんだけどなぁ……」

「それに、これは長所でもあり短所でもあるんだが、アトラは眼がいい。良すぎるほどにな。相手の予備動作を見るのが戦いの常なんだが、どうにもアトラは切っ先の動きで反応している。攻撃を見てから反応しようとして、しかし体がついて来ずに剣で受ける。そして攻撃に転じる機会を失っている訳だ」

「はい…………」

 

 お父さんの指摘は的確ですごく為になる分、自分がまだまだなのを思い知らされる辛さもあって、いつもこの時間は緊張してしまうのだった。

 

「なんだ、顔を上げるんだアトラ。父さん言ったろ? これは長所でもある。普通相手が動いてからの対処は難しい。反応もほとんど間に合わない。それを、お前は目で見て、軌道に合わせて剣で受けることができている。間に合っているんだ?これは間違いなく才能なんだぞ? ————もしかするとそのうち『開眼』するか…………特別枠から近道も…………」

「……?」

 

 最後、何か呟いた気がしたけど知らない言葉でうまく聞き取れなかった。

 お父さんは笑って「なんでもない」と言ったけど、どことなくごまかされた気分だ。

 

 その後はお昼ご飯まで妹のアリアと花壇で花の世話をして、お母さんに呼ばれて昼食。

 そしてすぐに、2人はやって来た。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 

 3人で道を歩く。目指すは村の玄関とも言うべき、外周部の正面門だ。

 すでに村のみんなは昼食を終え、土の付いた農具を担いで畑に向かう人や井戸端会議に熱中する人で活気付いていた。

 

 ぼくは村の人とすれ違うたびに声をかけられて、その都度カロンが「急いでるから」と断ってくれた。けどお肉のお礼にとたくさんの野菜を渡すのだけは、頑として譲らない。結局目的地に着くころには、腕の中に野菜の山が築かれていたのだった。

 

 たぶん「お肉」とは、つまり例のオオカミ肉のことだ。

 人に会うたびそのお礼をくれると言うことは、当然お母さんがそれだけお肉を配っていたわけで…………。

 今更だけど、村の周辺の生態系が心配になったりする。

 

「大丈夫? アトラくん…………」

「重いなら持つぜ? すげえ量になったなぁ…………」

 

 視界を野菜にふさがれているから分からないけど、きっと2人とも呆れた顔をしているんだろう。

 

————腕にかかる重さが軽くなると同時に開けた視界には、やっぱり思った通りの2人の顔があった。

 

「これだけあるなら、もしかしたら買ってくれるかも……」

「お、ならちょうどいいじゃんか。荷物を押しつけて金までもらえる」

 

 名案だと頷くカロンは、ふと何かに気付いたように目を細めた。視線はぼくの腰にあるポーチに向けられている。

 

「ところで……なんだよ、それ? なんか持ってきたのか?」

「ああ、うん。ぼくのお小遣いを少しだけ。おもしろいのがあったら買おうかなって」

 

 ポーチに手を伸ばし、中から何枚かの硬貨を手に取って見せる。

 

「わあ! アトラくん、それ銀貨でしょ? 初めてみた!」

「銀貨……って、高くなかったか? おこずかいって額じゃないだろ……。毎月こんなにもらえるのかよ」

「毎月じゃないよ。村じゃほとんど使わないから、勝手に貯まっちゃうんだ」

「あー……たしかにな。オレも使ったことねーや」

 

 いつの間にかシルスの手の中にある銀貨を見ながら、カロンは思い返すように言う。

 

 セトナ村ではほとんどが物々交換で、硬貨を使う機会がない。

 あるとすれば、1つは町に野菜や皮を売りに行くとき。もう一つは、村に行商人が来たときだ。

 

 お母さんは貰ってばかりは悪いからと無理やりお金を払って「買い物」にするけど、それは特殊すぎるからカウントしない。

 

「アトラくん、これは大きい方? 小さい方?」

「小さい方だよ」

「なんだよ、その大きいとか小さいとかは」

「銀貨には普通の銀貨のほかに大銀貨っていうのがあるんだ。それと区別するために、普通の銀貨を小銀貨って言ったりするんだよ」

 

 ポーチの中を確認する。残念ながら、大銀貨は持って来なかったみたいだ。

 

「2枚だけ持ってるんだけど……持ってきてないや。今度見せようか?」

「でっかい銀貨なら見せてくれ。光を反射させて、村のヤツらおどろかせようぜ」

「いや、大銀貨って言ってもほとんど大きさは変わらないよ? 少しだけ厚くなって、あとは教会が描かれてるくらいだから」

「なーんだ、つまんねーの。おいシルス、いつまでやってんだよ。野菜落とすぞ」

「あっ! ご、ごめん、アトラくん……」

 

 シルスは銀貨に付いた指紋を何度も拭き取ってから、バツが悪そうに銀貨をポーチに戻した。

 

「そんじゃ、行こうぜ! はやく荷物なくしてーし」

 

 視線の向こうには行商人のものであろう荷馬車が見える。ぼくたちは片腕にのせた野菜をもう片方で支えながら、誰からともなく早足競争で向かった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 近くで見る荷馬車はかなり傷んで見えた。馬もあまり食べ物をもらえていないのが、その痩せた身体から見てとれる。

 

 荷台は天井から布を垂らして部屋にしている簡素な作りで、布を閉ざされた中を見ることはできない。もしも商品があるなら、この中にあるんだろう。

 

「誰もいないな……」

 

 カロンの落胆した声が聞こえる。たしかに、荷馬車の横にも後ろにも人影はない。

 ただ————

 

「しー、聞こえる?」

「「……………………」」

 

 よく聞くために2人に静かにしてもらうと、こもった感じの人の声が聞こえた。シルスもカロンも、聞こえたみたいだ。

 

「荷台の中にいるんだよ……」

「だったら声かけてはやく売ろうぜ……?」

「待ってカロン。誰かと話してるんだから待つべきじゃない……?

「話し終わるまでこいつを持ったまま待つのか? だるいぞそれ……」

 

 3人で声をひそめて話し合う。待つのか、声をかけてみるのか。

 結論としては、一度声をかけてみて、今は忙しいと言われたら荷台に野菜だけでも置かせてもらおうとなった。

 

 答えが出てから、カロンは早い。

 すみませんの挨拶もなしに布を掴み、バサバサと揺すりながら声を上げる。

 

「誰かいるかー。野菜買ってくれー!」

「「か、カロンーー⁉︎」」

 

 予想してないやり方に、慌ててカロンを止める。

 驚いたのは行商人も同じみたいで、中がにわかに慌てた気配になったあと、ゴソゴソと動く気配。しばらくして、1人の男が布をまくり上げて出てきた。

 

「————なんだ、おい」

 

 男はイラ立ちをあらわにぼくたちを睨みつける。

 シルスの顔が一瞬歪んだ。恐怖でじゃない。臭いだ。

 

 出てきた男の印象は、ひとことで言って小汚かった。ボサボサの頭に伸びるに任せた無精髭。体を洗っていないのか、酸っぱい臭いとともになにか別の悪臭もさせている。

 清潔感とはおよそ遠すぎる印象だ。

 

 カロンにいたっては堂々と鼻をつまんでいる。

 

「くっせーな、あんた水浴びた方がいいぜ? 野菜買ってくれって言ったんだよ、こいつだ」

「おいガキ————あ? なんだ、食い物か? よこせ」

 

 男は一瞬不穏な空気を纏ってから、突然目を見開いて野菜を掴み取る。ぼくたちの腕から、まるでふんだくるみたいに。

 男が熱心に野菜を載せる間に見えた荷台には、大きめの木箱がいくつかあって、内一つは蓋のズレた状態だった。他に商品らしいものはない。

 

「————うし、これでいいだろ。帰れ」

 

 野菜を荷台に載せ終えて、男は荷台に戻ろうとする。

 

「はあ⁈ おい、金は⁈」

「ああ? なんの話だ、そりゃ」

「ふざけんな! 買い取れって言ったんだ! 一言だってやるとは言ってねえ!」

「チッ、まあいい。どうせ……だしな。ほれ——」

 

 男が懐から取り出したものを指で弾いてよこす。

 上に狙いの逸れていたそれをカロンが跳んで掴むと、男が舌打ちをしたのを聞いた。

 

「おい、銅貨1枚はおかしいだろ。いくつあったと思ってんだよ!」

「買い取っただろ? いくらでかは言わなかったよなぁ。お勉強になっただろ? まあ今さら勉強しよーがムダだがよ」

「てめえっ‼︎」

「カロン!」

 

 激昂して飛び掛かろうとするカロンを後ろから止める。それを見て、男はつまらなそうに荷台の中に消えた。

 やっぱり、挑発していたんだ。何をするつもりだったのかは分からないけど、これ以上関わらない方がいいだろう。

 

 ぼくは暴れるカロンを引きずるようにしてその場を離れる。途中でポーチから落としたお金は、シルスが全て拾ってくれていた。

 

 村の人からの視線が増えるにつれて、カロンは大人しくなっていった。大人しくとは言っても、それは暴れないという意味で、未だにさっきの件は腹に据えかねているのが乱暴な歩き方から伝わってくる。

 

 ぼくはシルスから受け取った硬貨をポーチに戻してから、さっきの男について考える。あれだけ騒いでも見張り台の人が降りて来なかった。

 気がつかなかったはずはない気がする。

 

「もう、興奮しないでよ。アトラくんが止めなかったら手を出してたでしょ?」

「おまえだって見てただろ⁈ オレが悪いってのかよ⁉︎」

「それはそうだけど……元はと言えば、アンタの態度が火種でしょ? それで向こうもあんな態度になったんじゃないの?」

「オレが悪いって言いたいんだな?」

「カロン“も”悪いって言ってんの。相手だって悪いに決まってんでしょ⁈ わたしだって怒ってるんだから!」

 

 カロンは一瞬眉間にシワを作って、納得したと肩から力を抜いた。シルスの言い分に納得したというよりも、シルスも怒っていることに納得した感じだ。

 

 カロンは深く息を吐いてから、口を開く。

 

「アトラ、おまえは何かないのかよ。あれはオレの野菜じゃないだろ」

「うん……。カロンは今日の見張り台の担当が誰か知ってる?」

「……は? 見張り台?」

 

 意味が分からないという顔のカロンに、そういえばという顔のシルス。

 

「門と見張り台は近いのに、あんなにカロンが怒ってても降りて来なかったよね」

「それがどうしたんだ? 誰かがサボってたのがそんなに気になることかよ」

「いや……荷台の中で話してた人ってその人なんじゃないかと思って」

 

 いよいよ分からないとカロンは頭をかいて唸った。

 

「荷台には誰もいなかったじゃんか」

「ひとつだけ蓋のズレた木箱があったんだよ。人ひとりは中に入れると思うんだけど……」

「たしかに、私も声は2人だった気がする」

「…………なんで隠れるんだよ、そいつ」

「ぼくもそれは分かんない…………」

 

 隠れたからどうという話じゃない。けど、あんな男と知り合いで、2人で語らえるような仲の人間が村にいるなら、少しだけ怖かっただけなのかもしれない。

 

 話が終わり、誰も何も言わない時間が過ぎる。

 次に口を開いたのは、カロンだった。それは焦れたように早口で、居心地の悪さを感じているのが隠せてない。

 

「とりあえず今日は解散するか。今日わかったのは、アイツは最悪で、おまけに臭くて、見張りをサボったヤツがいふってことだろ? 自警団については父ちゃんに言っとく。今日はもう帰ろうぜ。…………その……悪かった」

 

 言い切ったカロンが返事も待たずに駆け去って行ったことで、今日のぼくたちは解散した。

 なにか言いたそうにしていたシルスも、最終的にはまたねとだけ言って帰って行く。一度だけ振り返ったシルスに手を振り返して、ぼくも家路に着いたのだった。

 



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村長の孫

 

 アトラにとって日課である父との鍛錬は楽しくも厳しいものだ。余裕を持って終えたことなど全くと言っていいほどにない。しかしそんな中でも、今日の鍛錬は特別過酷だった。

 

 庭の真ん中で父と対峙しながら、肩で息をするアトラは限界が近い。

 滴り落ちる汗が顎下をくすぐり、木剣を握る両手は尽きかけた握力で震えていた。

 

 そんなアトラと相対するナクラムは、肩で息をする一方とは対照的に汗ひとつ流していない。

 

「——よし! 今日は終わるか」

「はあぁぁ~~…………」

 

 父の言葉に、アトラはその場にへたり込んだ。格好を気にする余裕はない。

 

 今日のテーマは「体格で勝る敵を前にした戦い方」。

 体格で劣るアトラをナクラムはひたすら力で押し、休む間を与えずに圧力をかけ続けた。

 

「ふむ————」

 

 ナクラムはバテている息子が回復するのを待ちながら、今日の鍛錬で見つけた課題を頭でまとめ、今後の訓練内容を反芻する。そうして一通りの予定を組み直したところで、ちょうどアトラの呼吸が落ち着いたものになる。

 

「どうだったアトラ。今日の鍛錬は」

「つらかった…………」

 

 アトラの即答に思わず笑みがこぼれる。

 体格にものを言わせた戦い方は、力で劣る側としては最も対処が難しい。それを十分に理解させるための今回だ。それは堪えたことだろう。

 

「そうか。なら少しでもキツくなくなるように反省会だ」

「うん」

 

 ナクラムの言葉にアトラはすぐに姿勢を正し、真剣な目を向ける。こういう切り替えの速さは、まだ子供とは思えないほどだ。

 

 ナクラムは脳内の『家族自慢リスト』に新たな項目を追加する。聖堂へ赴いた際に恒例となっている『親バカさまの無限講話』————その長さから一部ではそう呼ばれている家族自慢のネタが、今日もまた一つ増えたのだった。

 

「さて、アトラ。今日は息切れが早かったな————」

 

 

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「ふう……」

 

 お昼ご飯を済ませて、自室のベッドに身を投げた。

 

「あ゛ーー、今日は反省点が多かったなぁ」

 

 今日の鍛錬はすごくつらかった。

 鍛錬が始まってからすぐに、お父さんはひたすら前に出て打ち込んできた。その打ち込みも重かったし、感じる圧力も今までと比べものにならないくらい強かった。

 

 ぼくは防戦一方になって、すぐにスタミナが切れて…………動けなくなっていた。

 

 今日指摘されたことは、どれも今まで言われたことのある内容ばかり。

 

 『まともに受けるな。力を逃せ』、『怖くても真っ直ぐに下がるな。回り込め』、『体格で劣るアトラはとにかく動くこと。動き続けること。絶対に止まるな』。

 

 特に力を逸らすことや後ろにそのまま下がるのは、自分でも気をつけようとしていた。なのに出来なかった。これじゃあ、当然実戦でもできっこない。

 ぼくのため息のほとんどは、この2つをどうにか克服しないといけないのになかなかできないせいだ。

 

 ただ、指摘と同時にヒントもくれるのがお父さんだ。

 

「お父さん、すごかったな……」

 

 反省会の最後に、お父さんはぼくの理想とするべき戦い方を実際にやって見せてくれた。

 

 頭にお父さんの動きを思い浮かべる。これからはこの動きを目指して、もっと頑張らないといけない。

 ゴールを頭に思い浮かべると、少しだけ心が軽くなった。

 

「アトラー! お友達が来たからはやく来なさーい!」

 

 頭の中で何度も今日の鍛錬を反芻するうちに、2人との約束の時間が来ていた。ぼくはすぐに跳ね起きて、体に疲れが溜まっていないかを確認してから階段を怒られないように気をつけながら駆け下りた。

 

 

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「ア、アトラくん。昨日ぶり」

「よお」

 

 玄関にはどこか固いシルスと、キョロキョロと忙しないカロンが待っていた。玄関横のテーブルにはティーカップが一つ置かれていて、それと同じものがシルスの手にもあった。

 お母さんが出したのかな?

 

「おいシルス。アトラも来たしはやく飲めよ。それとも猫舌か?」

「——アトラくん」

「ん、ぼく? なに?」

 

 カロンの言葉にも答えずに、シルスはティーカップを目の前まで掲げる。その目は見たことないくらい輝いていた。

 

「これ、ほんっとーーーーにおいしい! わたしこんなの飲んだことない…………ハァ」

 

 一口を大事そうに飲んで、うっとりとした吐息を吐く。

 香りからすると、たぶん来客用の紅茶だ。家にはごくまれに教会から人が来る。そのときに漂う香りが、たしかこんな感じだった。

 つまりお母さんはかなり奮発して、2人にとっておきの紅茶を出してくれたのだ。喜んでくれるのはぼくも嬉しい。

 

「そんなにさわぐほどか? たしかにシブくもエグくもなかったけど……そんなにか?」

 

 カロンはシルスの様子が理解できないと首をふって、チラリとぼくに視線を投げて玄関から扉を抜けた。

 ぼくもその後に続いて庭に出た。

 

「——にしても、やっぱアトラん家はすげぇよな。玄関だけであの広さはおどろいたぜ」

 

 そのひと言に、心がざわめいた。どういう意味で言ったのか分からなかったから。

 

 ぼくが外に出るようになって改めて思ったのは、やっぱり自分の家は他の家と比べて大きいということだった。

 この家があんなに目立っているなんて、知らなかった。

 

 カロンの家を、ぼくは知っている。ぼくの家と違って庭はない。花もないし、思い出の植木もない。

 そしてなにより……小さかった。

 

 カロンの表情は見えない。その背中から感情を読み取ることも、ぼくにはできない。

 

 ぼくがカロンの立場だったとして、ぼくは妬まずにいられるだろうか…………。ぼくがあの家に住んでいて、友だちがこんな家に住んでいるとしたら、どんな気持ちで今の言葉を口にするんだろう…………。

 

「うん…………あんなに広い必要はないよね……」

「……? ああ、ちがうって、へんに気を使うなよな。ほめてんだよ。デカくていいじゃんか、掃除が大変そうだけどな」

 

 よっぽど顔に出ていたみたいで、カロンは振り向いてぼくの顔を見ると、ニカッと笑ってぼくの肩を叩いた。

 それだけで、まるで肩にのしかかる悪いものまではたき落とされたみたいに、身体は軽くなった。

 

 自然と口角が上がる。それと同時に、ぼくはカロンを疑ったことを恥じたのだった。

 

「ところで……昨日のことなんだけどな」

「昨日の?」

 

 カロンの声色が変わった。ここからがカロンの話したかったこと。本題だろう。

 

「だから、見張りがいなかったってやつだよ」

「あ、ああ、それね。カロンのお父さんに聴いてみたんだよね?」

「ああ。一応自警団のまとめ役みたいなことをやってるからな。これがひどいんだぜ? 言ってもなかなか信じねーんだ。アトラの名前を出してようやく話を聞こうとか言ってんだ」

「あー……、はは」

 

 カロンには悪いけど、疑う気持ちもちょっと分かる。カロンと遊ぶようになってからだけでも、カロンが父親にウソをついて遊びに来ていた回数は片手じゃ足りないくらいだから……。

 

「それで、どうなったの?」

「聞いた途端にめっちゃくちゃに怒ってさ、サボってたヤツの家にどなり込みに行った。ほら、結婚してない男がいっしょに暮らしてる家あるだろ? あそこだよ。今朝見たらドアがゆがんでた。おっかねー」

「そ、それは……激しいね……」

「だろ? 見に行ってみるか?」

「イヤイヤイヤイヤ! 別にいいよ……」

 

 誰かが怒った跡を見て楽しむ趣味はぼくにはない。今度からどんな顔でカロンのお父さんに会えばいいのか分からなくなる。

 

 カロンはぼくが必死に断っているのを見て、おかしそうに笑ってから続けた。

 

「それで、まずは一発殴ってから話を聞いてた。オレも家の外から見てたからなにを言ってたかは分からねーけど、今朝聞いてみたら大体のことは教えてくれたんだけどな? なんでか急にゲルクのヤツが代わってやるとか言い出したみたいだぜ?」

「ゲルク……って、村長さんの?」

 

 思い出すのは、村長さんの家から出てきた姿。自分の祖母をうっとうしそうに扱い、ぼくの家を睨んで去った、あの姿だ。

 

「そ、じいさんの孫だな。いい歳して働かずに、そのくせ外周部のオレたちをコケにして見下してケンカっぱやくて乱暴なクズだよ。話にも出したくないヤツだ」

「へぇ……」

 

 言葉の通りに、カロンの表情は口をゆがめて吐き捨てるようにいった。こんなカロンも珍しい。なにかぼくの知らないことがある気がする。

 

 そんなことを考えていると、ぼくの視線に気づいたカロンはなにかを振り払うみたいに首を振ってため息を吐いた。

 

「あのクズはな……一回シルスを殴ってんだ。まだ7つのときだぜ?」

「————なっ?!」

「そんなクズとオランが話してるのを見たなんて母ちゃんが言い出したから…………最悪だ」

 

 カロンは最後に、とても不気味なことを口にした。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 

 『ゲルク』とは、セトナ村の村長であるクワンの孫であり、形式上は次期村長となる人物である。

 もっとも、それはあくまで形式上————今までの歴史に照らせば、慣例上はという意味に過ぎない。

 現に彼が村長となることを望まないものが村の大半を占め、彼を望む者など悪友を除いて他にいなかった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 ホコリのたつ部屋に日が差し込み、一本の光の柱を形成する。その柱は、部屋の主である男のまぶたへと足をついていた。

 

「——っ、…………う」

 

 光にさらされたまぶたが眩しげに引き締められる。日に焼けていない腕がむくりと持ち上がり、光の柱を遮った。

 

 視界に赤や緑の残色を見ながら、男はようやく消えた煩わしい光に満足げなため息を放ち、まぶたにへばりついた眠気に逆らうことなく、再び眠りへと落ちようとした。

 

 そんな彼を、聴き慣れた雑音が引き留めた。

 

「こぉれゲルク、起きなさいてぇ。もう昼になるじゃろぉに」

「————————」

 

 自分の許可なく部屋に侵入した狼藉者は、謝罪をしないどころか、耳障りな声を吐く。

 無視をするという方法は、この雑音を前には悪手だと知っている。

 

 それを肯定するように、しゃがれながらも耳を痛くするのに十分な高さを持つ声は鳴り止まない。

 ゲルクの我慢は長くは続かなかった。

 

「うるっせーなぁクソババア! 今起きるとこだったんだよ! チッ……よく確認してから言え!」

 

 手近にあった枕を投げると部屋にホコリが立ち、特有のホコリ臭さが充満する。肌がかゆくなるような感覚がして、今すぐに部屋を出て行きたい衝動が湧き上がる。

 

 目の前の老婆も露骨に顔をしかめており、大きく咳き込んで非難の目を向けて来ていた。

 元はと言えば、この老婆が許可もなくズケズケと部屋に入って来たのが悪いのだ。

 

 こんな老婆が祖母を名乗っているのが、ゲルクには本当に不愉快だった。

 

「あーあー、どこかのクソのせいで部屋がホコリっぽくなったわ。俺が戻ってくるまでに掃除しとけよ。命令だからな。家の外の雑草気にする前に孫の部屋からだろーが、クソが」

「ゲルク! どぉこいくんだい、これぇ!」

 

 これ以上わめき声を聞く気はない。足を止める必要もない。

 

「————とっととくたばれ」

 

 家の扉に手をかけて、未だに背後から聞こえるわめき声にため息が漏れる。

 

(俺はなんで不幸なんだ……)

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 外に出た途端に、強い光が目を刺す。目を細めて空を見上げれば、イヤミなほどの快晴だ。

 

「ったく、昼なのは分かってんだよ」

 

 太陽すらも鬱陶しい。

 目の奥に滲みるような痛みを感じて視線を下げても、まだ痛い。理由は明白だ。この村の長である我が家の真ん前に、バカみたいに白くてデカい、偉そうな屋敷が建っているからだ。

 四六時中見下ろしてくるばかりか、寝起きの網膜を焼きにくるはた迷惑な屋敷。本来、そこは自分のような人間にこそふさわしいものだ。

 

 聖騎士さえいなければ、この村で崇められるのは自分だった。村人どもを使って屋敷を建てさせることだって——

 

「チッ——いい気になってんじゃねえぞ」

 

 ここにはいない誰かに捨て台詞を吐いて、ゲルクは村の外周部まで下りて行った。

 村の中心部には村長や村の幹部が暮らしおり、当然ゲルクも中心部で過ごしている。

 つまり外周部に暮らす人間は、一部を除いて全員格下ということになる。少なくとも、ゲルクの中ではそういうことになっている。

 

 そんなゲルクは、外周部で過ごす村人たちが村の壁外で土にまみれて働いているのを見るのが一番の娯楽だった。

 

「はは、やってるやってる」

 

 少し歩けば、視線の先に畑仕事に精を出す村人連中の姿が小さく映る。

 ちょうど今は『ポリピナ』という作物を冬に収穫するために大事な時期なこともあり、村の男連中は一層精を出していた。

 

 セトナ村にとって冬は厳しい。町への道も雪に埋もれてしまう以上は、この村は冬を独力で乗り越えなければならない。

 つまり、冬の雪に埋もれることでより大きく育つ『ポリピナ』は、正に村の生命線であり、だからこそあれだけの熱量で仕事に取り組んでいるのだ。

 

 だからこそ、汗にまみれ土にまみれている連中と、そんな様子を他人事に眺められる自分との差を感じられるのだが。

 

 ゲルクはその光景にひとまず満足してから、また歩みを進め、村で1番高い木によじ登って適当な太枝に腰を下ろした。

 この位置からの方が壁外の様子をより見て取れるのだ。

 

「しっかし虚しい奴らだなぁ。朝起きて、土にまみれて、帰って寝る。また起きて土いじって帰って寝る」

 

 そうして繰り返しの中で老いてゆき、どこかのタイミングでぽっくり死ぬのだ。

 なにも成し遂げず、自分が生まれた時と死ぬ時とで村に変化もなく、同じことを繰り返して……死ぬ。

 

 これほど無意味なことがあるだろうか? 

 こんなことのために生まれてきたというのだろうか?

 

「違う…………俺は違う」

 

 自分はこんな繰り返しのために生まれたつもりはない。こんなところで終わるつもりはない。

 

「オヤジもこんな気持ちだったのか?」

 

 母はまだ物心がつく前に他界し、父もある日突然息子を置いて出て行った。長いことそれを恨んで来たが、最近になって父の気持ちが分かってきた。

 

 きっと怖かったのだ。この無意味な繰り返しの中で死んでゆくのが。

 

「どいつもこいも分かっちゃいねえ」

 

 村人たちは村長の孫である自分を見て、そろってバカだと思っている。ちゃんとしろだの、村長が哀れだのとまくしたてる。

 だが、それは単に連中の目が節穴なだけだ。

 

「クク、俺の計画も知らずに見下してるんだから傑作だ! もうすぐこの村なんてなくなるってのに、だぁれも気づかずに土いじりにご執心だもんなぁ」

 

 ずっと考えてきた。次期村長の自分が仮にこの村を抜け出して、どこかの町に移ったとする。そこで自分は職を得て生きていけるだろうか。

 

 答えは否だ。セトナ村の次期村長などと言う身分では、移動できる範囲は限られる。

 教会は特定の町に人口が集中するのを嫌い、移住に制限をかけているのが普通だ。

 ましてや次期村長としての立場を捨てての移住。教会からの風当たりは強い。印象も最悪だ。

 

 自分1人での移住が身勝手や我儘に映るのなら、どうすればいいか。どうすれば納得させられて、あわよくば同情を得られるか。

 

 答えは簡単だ。 

 

————()()()()()()()()()

 

 それも不憫で、同情せずにはいられない理由から。

 悲劇の被害者達を教会は手厚く援助し、町への移住を許すだろう。

 

 それだけだ。

 たったそれだけで、セトナ村から出られる上に教会の援助も受けられ、さらに町に暮らすことができる。

 

 我ながら自分の才能が恐ろしくなるような、完璧なシナリオだ。

 

 ()()に声をかけられた時、神への心からの感謝と信仰が溢れたのを覚えている。

 計画に必要だった悲劇を起こす手段が、向こうからやってきたのだから。

 自分のやることなんて、ある物をくすねて、聖騎士がいないタイミングを教えるだけだ。

 それだけで計画は成る。

 

「クク、ハハハハハ!」

 

 希望に満ちた未来を前に、ゲルクは甲高く笑う。笑わずにはいられなかった。

 

「————はぁ、笑った笑った」

 

 ひとしきり笑って地に落ちていた気分も持ち直し、そろそろ木から降りようと腰を上げる。

 そこに、まさに今登っている木に近づく人影を認めてゲルクは動きを止めた。

 

「聖騎士のとこのと一緒にいる…………オランだったか?」

 

 近づいてくる少年は、まさにオランで間違いなかった。うつむきがちにトボトボとした歩みで木の下に来た少年は、そのまま力なく木に背中を預けた。

 

「ああ……どうしよう……うぅ、ごめん……」

 

 ここは家の影になっているために、あまり目立たない場所になっている。ましてや壁外に人が出ている今なら、尚更だ。

 

(これは……すこし遊べそうだな)

 

 オランという少年が、なぜこんな場所で泣いているのかは想像がついている。例の一件を知らない村人などいないのだから。

 弱っている子どもほど扱いやすい物はない。

 

 自分の口角が大きく吊り上がるのを、ゲルクは堪えきれなかった。



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期待の反動

 

 庭でゲルクについての衝撃的な話を聞いた後、ぼくは早くオランに会う必要があると直感していた。

 

 そのことにはカロンもシスも同じ意見らしく、2人とも首を縦に振ってはくれた。ただ、そのためには一つの問題を解決する必要があった。

 

「いつまでも隠れてるバカといい加減話をつけないとな」

 

 それは、カロンだ。

 カロンがオランと会いたい理由が、ぼくとシスのそれとは大きく違っているのは明白だった。

 多分、今のオランの心は弱っている。

 そこにこのままのカロンを会わせればどうなるか…………これもまた明白だった。

 

 ぼくたち3人はオランの家へと向かっている。

 今はみんな畑仕事に出ているのか、あまり村人とは会わない。

 

 時折り吹く風が、壁外の賑わいを運んでくる。

 ぼくはその音や声を遠くに聞きながら、前を歩くカロンを引き留めた。

 

「カロン、すこしいいかな」

「? なんだよアトラ。オランの家はまだ先だぜ?」

「うん……その前にハッキリさせておきたいことがあるんだ」

「おお、なんだよ」

 

 どこまで伝わったのかは分からない。だけど、カロンは一つ返事で頷いてくれた。

 たぶんシスはなんの話か分かってる。なにも言わずに、カロンの背中をグイと押しながらついて来てくれる。

 その表情はなんとなく応援してくれてるように、ぼくには見えた。

 

(そういえば、ここで会ったんだっけ……)

 

 村の中心部と外周部を隔てる壁。いざとなれば、お父さんの設置した〈障壁魔法〉を発動するための魔法陣が地面に刻まれているこの場所で、3人と出会ったんだ。

 

 あの時と違って…………今はオランがいない。

 

 立ち止まり、後ろをついて来ているカロンを正面に見据える。

 シスが頷いたのを視界に入れてから、ぼくは切り出した。

 

「カロン。ぼくたちは今からオランの家に行くけど、それは詰問に行くんでも、怒鳴りに行くんでもないよ。落ち込んでいるオランを励まして、仲直りをしに行くんだ」

「————」

 

 カロンの眉間に力が入る。

 

 少しの間がとても長い。

 

「べつに————」

 

 頭をかきながら不機嫌な顔をしたカロンは、やはり不服そうな声を出した。視線はこっちを向いていない。

 

「……べつに仲間割れってほどじゃないだろ」

「そうだね。すこし言葉を間違えたかも」

「おまえが励ましたいならそうすればいいし、シルスもそうしたきゃそうしろよ。オレはオレのしたいようにするしな」

 

 話は終わりだと、カロンは歩みを進めようとする。けど、そうはいかない。

 

「カロン!」

 

 ぼくは後ろからカロンの腕を掴んで引き留める。

 カロンの動きが止まって、振り向いた顔には明確な苛立ちが張りついていた。

 視線はまるで敵に対してのそれだ。

 

「なんだよ。離せ」

「ダメだ。ぼくは今のカロンをオランに会わせる訳にはいかない。ぼくたちはオランを追い詰めるために行くんじゃないんだから」

「べつに追い詰める訳じゃねーよ」

「じゃあカロンは、オランに会ってなにを話すのさ」

「っ、んなもん……決まってんだろ!」

 

 腕が強く振り払われる。カロンの睨むような視線が向けられる。

 

 カロンの呼吸は早い。向けられたことのない視線に、一瞬身体が硬直する。

 それでも、その視線から逃げる訳にはいかない。

 

「おまえが目ん玉の気持ち悪いヤツらに食われそうになってたときに、どうして見捨てたのか聞くんだよ! オレは助けようとした! それはシルスもおんなじだ! ——でもアイツだけは動かなかったッ! 仲間が死にそうなのに助けようとしなかったッ! アイツはおまえを見殺しにしたんだぞ⁉︎」

 

 カロンの怒鳴り声が辺りに響く。さっきまで鳴いていた虫たちも、萎縮したようにその声を止めた。

 シルスの肩が跳ねて、不安そうな目がぼくを見る。カロンと付き合いの長いシルスも聞いたことがないほど、その声は大きかったんだと思う。

 

「…………………………………………」

 

 壁外の活気は相変わらず聞こえてくる。虫たちが静まり返る今は、なおさら。

 

 カロンの、肩を上下させる荒い呼吸音。赤く充血した目。

 その後ろで自分も入るべきか悩んでいる不安そうなシルスとは対象的に、ぼくにはその声からは悲しみしか感じられなかった。

 

「アイツ……っ、アイツは……オレたちは、ずっと一緒だったんだぜ⁈ それが、あんな……ッ‼︎」

 

 ここに来て、ぼくはカロンを誤解していたことに気づかされた。

 

 目の前にあるのは、あの時のカロンの表情だ。

 へたり込んで、泣いているオランを見たときの……悔しくて悔しくて、今にも泣き出しそうな、あの表情…………。

 

「情けなさすぎるだろーがッ‼︎‼︎」

 

 カロンの声はいつからか感情に震えて、その真っ赤になった瞳には今にも溢れそうなほどの涙がある。

 

「そっか…………」

 

 やっと分かった。

 

 カロンは、きっと認められなかったんだ。

 数少ない同年代の男友達。シス同様、ずっと一緒に遊んできたんだろう。

 そんな友達の、あんな姿に……カロンは裏切られたんだ……。

 情けなくて、悔しくて……泣きたくなるほど認められなかったんだ……。

 

 それを否定して欲しくて、言い訳だけでもして欲しくて…………それが、今のカロンだ。

 

「カロン…………」

 

 だから、やっぱりこのままじゃダメだ。

 このまま2人が会っても、お互いを傷つけるだけだから。

 

 感情を吐き出してゼエゼエと肩で息をするカロン。その呼吸がすこし落ち着くのを待ってから、ぼくは語りかけるように言った。

 

「カロンは今……辛いと思う。裏切られて、悔しくて、傷ついて…………とても、辛いと思う」

「……………………」

 

 カロンの表情からは激情が消えて、なにを考えているのかを正確に理解することはできない。そして疲れたように俯いてしまったカロンに、それでもきっと聞いてくれていると信じて、ぼくはそれを告げた。

 

「だけど……それはオランも一緒なんだ」

「————」

 

 反応はない。それでも続ける。

 

「カロンがあの時のオランに裏切られたように、オランもあの時の自分に裏切られたんだと思う。カロンと同じくらいあの時の自分を受け入れられなくて、認められなくて……傷ついてる。どんな顔で会えばいいのか分からないんだと思う。だから、今のカロンの想いをぶつけても…………きっと追い詰めちゃうよ」

「……………………」

 

 カロンの表情は見えない。返事もなくて、ぼくも言いたいことを言い終えた。

 けど、もう一人言いたいことのある友人がいたみたいだ。

 

「カロン」

「……………………んだよ」

 

 いつもと似つかない、張りのない声。

 それでも、カロンはシルスの声に反応した。

 

「あんたの気持ちは当然だと思うし、間違ってないって思う。けどね、オランが弱っちいことなんて、あんたずっと前から知ってたでしょ? オランがどんな状態かも分からないの?」

「……………………」

「それを今さらショック受けちゃってさ。そんなにオランが弱いのが嫌なら、オランがきちんと立ち直ってから、いくらでも文句言いなさいよ! カロンまでウジウジすんな! そんなに自分も弱っちいなら、わたしとアトラくんだけで行くからね!」

「…………うっせ」

 

 シスの高い声に釣られるように、カロンの声にわずかな張りが戻る。

 カロンはぐしぐしと何かを拭う仕草をすると、一度大きなため息を吐いてから勢いよく顔を上げた。

 その表情はぼくたちの知るカロンで……ぼくたちのリーダーがそこにいた。

 

「っし、そうだな! とりあえず今日のところは勘弁しておくか。そんかわり、きっちり元気になったらオレが男ってやつを叩き込んでやる! 元からアイツのナヨナヨしたところにはイラついてたしよ!」

「あんまり変なことしないでよね。男を教えるって、メソメソしてたあんたにできんの?」

「心配しなくてもおとこ女のおまえには必要ねーよ」

「ちょっと、なにそれ! 女の子に向かってどーいうこと⁉︎」

「おまえがはじめたんだろ!」

「ま、まあまあ、2人とも」

 

 始まったいつものケンカの間に入りながら、ぼくはすっかり元通りになった2人に安心していた。

 カロンの表情からも険が取れて、シスの表情だってどこか柔らかい。

 

 あとはオランだけ。オランさえいれば、ぼくたちは完全に元通り。そうなって初めて、森の一件は本当の意味でお終いだ。

 

「それじゃあ、そろそろ行こう。オランのところにさ」

「ああ」

「うん!」

 

 3人で中心部を出る。背中から吹き抜ける風が、ぼくたちの背中を押してくれてるように感じた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 オランの家はカロンの家と比べて中心部寄りの位置にあり、シルスの家のある曲がり角から細い道に入ったところにある。

 オランの家は小さな畑を持っていて、畑仕事以外に村の木々の世話をしたり、道に生えた雑草を抜いたりという細々とした仕事もしていると、いつかのオランは言っていた。

 

 初めて近くで見たオランの家は、セトナ村には珍しい完全な木造の平屋だった。壁も屋根も、床も全部が木でつくられている。

 建てられてからかなりの時間がたっているのか、壁には節があったであろう孔がいくつかあって、何かの家具で内側から塞いであった。

 

「……………………」

「おい、アトラ。そっちにオランはいないぞ」

「え? ああ、ごめん」

「そっか、アトラくんは来たことないんだっけ?」

「遠目に見ることはあったけどね。ほら、珍しいから……」

「オランのじいさんが木造にこだわったんだってよ。父ちゃんたち自警団のみんなも手伝ったらしいぜ?」

「へえ、そうなの? わたしそんなの知らなかった」

「けっこう前のことらしいからな」

 

 カロンの話をシスは興味深そうに聞いている。

 普段と逆の光景は、なんだか新鮮だ。

 心なしかカロンの表情が得意げに見えなくもない。

 

「うし、そんじゃあさっさと用をすませようぜ」

「うん」

 

 その言葉を合図に、意識を切り替える。

 オランの第一声がどんなものになるのか。それ次第で、話の持っていき方は変わるだろう。

 

「————よし」

 

 自然とカロンを先頭にして、その両隣りに2人で並ぶ。

 カロンの腕が持ち上がり、何度か入口の木製のドアを叩いた。

 

「すいませーん!」

 

 それが大きな音に思えるのは、カロンに力が入っているのか、それともぼくの尖った神経が敏感になっているのか……。

 どちらにせよ、ドアの向こうから返事はなく、どうやら音の大きさを気にする心配はなかったみたいだ。

 

 同時に、別の問題が出たけど……。

 

「……いないのか?」

「すみませーん! オランくんの友だちのシルスです。オランくんとお話がしたくて——!」

「…………いない、な。外で手伝いでもしてるのか? 今はなにかといそがしいし、オレもヒマなときには手伝えって言われてるんだよな」

「じゃあ……向こうに行ってみる?」

「うげえ。父ちゃんに見つかったら手伝わされるぜ? オレが」

 

 カロンとシルスの話に耳を傾けながら、視線は変わらず息をひそめている気配に向けていた。

 

 右端にある、小さな窓。

 もともと空気を入れ替えるためのものなのか、屋根の付け根のあたりにちょこんと付いていて、気をつけないと見落としていたに違いない。

 

 そこに一瞬、なにかが見えた気がした。

 何かを足場にして覗き込む誰かが……いた。

 

 たぶん外の方へ行ってもオランはいない。

 そして今も隠れている誰かは、居留守を使った以上出てこない。

 

「……………………」

 

 ——今日はダメだ。明日来ても、明後日に来ても、きっとオランには会えない。

 

 なにか……なにか、出てきてもらう方法を考える必要がある。

 

 オランの親に頼む?

 ————いや、直接的すぎる。あまり強引な方法は使いたくない。

 家を出るときのカロンの話を思い出して、待ち伏せの案が浮かぶ。ただこれも、同じ理由で断念した。

 よほど自然を装えない限り、今のオランは怖がってしまうと思う。

 

 こんな計算をしなきゃいけないのが、なんだか悲しい。

 

「うーん……」

「どうかしたの、アトラくん?」

「なんだ? アトラも手伝わされるのか? めんどくさいよなーあれ」

「いや、そうじゃないんだけど…………」

 

 もう一度窓を見る。————やっぱり、出てきてくれる気はないみたいだった。

 

「はぁ…………それじゃあ、外を探してみよっか!」

「おお? なんだよ急に元気じゃんか」

「もしかして手伝ってみたいの?」

「え? あー、うん! いやー、ぼく『ポリピナ』はみたことがないから楽しみでー」

「まだ大したもんは見れないぜ? 収穫は冬だかんな。今のポリピナなんて、こんなちっこい根っこみたいなヤツだ」

「そうなんだ? ぼくはどんなのか本当に知らないんだよね。さ、行こーよ、ほら! オランもいるかもしれないしさ!」

「お、おう」

 

 しぶるカロンを強引に押し切って、細い道を引き返す。

 カロンはまだぶつぶつと言っていたけど、外壁の門が見えてきたあたりで観念したみたいだった。

 シルスはというと、もうオランを探し始めているらしい。その視線は真剣そのもので、外壁の向こう側を今から睨んでいる。

 

 それを見て、少しだけ胸が痛んだ。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 外壁の外へ出ると、聞こえて来る賑わいは一層大きく感じた。視線を動かせば、畑の中でも特に目立つものがあった。

 

「あそこがポリピナ用の?」

「ああ。畑ってよりはもう沼だな」

 

 カロンの言葉はまさに見たままを指していた。

 視線の先では、沼のようになった畑に大人たちが腰まで浸かり、子供のようにはしゃぎながら手に持つ細いものを植えていた。

 

 その傍には村の女性たちが休憩している男手を労い、水や簡単な食べ物を配っていた。

 

「おお! ちゃんと来たか!」

「げ」

 

 休んでいた男たちの中から、日焼けした肌にがっしりとした体格の男が笑顔で近づいてきた。

 髭をはやした、見覚えのある顔。

 たしか、あの日カロンにゲンコツしてた人物だ。

 

 となると、なるほど。カロンの顔が渋いのも頷ける。

 歩いてくる男は、つまりはカロンのお父さんなのだ。

 

「レガンさん、こんにちは!」

「シルスちゃんも一緒か。見るのはいいが、あまり近づくと服を汚すからなあ。離れてみていなさい。 ——む?」

「あ、どうも、こんにちは……」

 

 シルスの隣にいたぼくと、カロンのお父さんの目が合う。その目は一瞬驚いたみたいに大きくなって、レガンさんはズイと近づいてきた。

 

「君はナクラム様の……! おお、おお、息子が迷惑をかけてはいないか? うちのカロンは昔っからいい加減なところがあって…………なにかしでかしたらすぐに、なんっでも言って欲しい! ナクラム様には日頃から————」

「ああ、もうやめろって! 迷惑なんてかけてねーよ!」

「また適当なことを! 森に入ろうとそそのかしたのは誰だったのか、知らないとでも思ったか‼︎」

「ぶんぐっ! ————いっでえ⁉︎」

 

 鮮やかなまでに決まったゲンコツ。

 カロンの頭から煙が上がっているとすら幻覚するほどの会心の一撃だ。

 

 カロンがまたいつかのように地面を転げる。珍しくもないことなのか、シルス含め、見ていた村の人たちから笑い声が出る。

 ……と、カロンが視線で何かを訴えてきている。

 シーなら喜んで知らないフリをするだろうけど、さすがにカロンがかわいそうだし、助け舟を出そう。

 ここに連れてきたのもぼくなんだし。

 

「いえ、カロンくんにはいつも元気をもらってて、迷惑どころか助けられてるくらいです」

「ほほう……うちの息子が…………本当であればとても喜ばしいことだが——」

 

 レガンさんは髭についた乾いた泥を指で落としながら、全く信用していない渋顔を作る。

 それはカロンとおもしろいくらい似ていて、今更親子なんだなあと笑みがこぼれた。

 

 そのタイミングで、向こうで休んでいた人たちからレガンさんに声がかかった。どうやら休憩は終わりらしい。

 

「っとお、そろそろ行かないと。それじゃあシルスちゃんもアトラくん、これからもうちのバカをよろしく頼む!」

「だっから、今のアトラの話聞いてたろ⁈ むしろよろしくしてんのはオレなんだって。なんつってもリーダーだかんな!」

「バカが、世辞のひとつも分からんのかお前は。今のはアトラくんの気づかいだ! 感謝のひとつもしてみろ!」

「うおぉ⁈ な、なんだよ、掴むなよお!」

「来いっ、お前もきっちり手伝え! 村に貢献しないものに食べさせるポリピナはないぞ」

 

 哀れカロンはレガンさんの腕にガッシリと捕まり、泥の沼に一歩、また一歩と連れていかれる。

 

「あ、あのお! ぼくも手伝いますよ。人手は多い方がいいですよね?」

「んん? あーいや、しかし……」

 

 泥沼への歩みを止め、振り向いたレガンさんの態度は乗り気じゃない。不思議に思っていると、その視線がぼくの服に向いていることに気がついた。

 

 今日のぼくの上衣は白系のもので汚れひとつなく、晴れの日に眩しいくらいだ。

 

 ぼくはすぐにそれを脱いで、半裸になる。

 

「——あっ、ありがとう」

 

 脱いだ服は赤くなって明後日の方を向いているシスが持ってくれた。

 

 これで準備万端だ!

 

「ほう、その身体はなかなか鍛えているじゃないか。ナクラム様が鍛えてくれているのかい?」

「はい。基礎体力は何をするにも不可欠ですから」

 

 『おお~~!』と、周りの大人たちから歓声(?)があがる。なにが『お~』なのか分からないけど、とりあえず胸を張っておいた。

 

 レガンさんは納得し、ぼくはカロンと同じ泥畑の担当になった。さっき見た細い根のようなものを束で渡され、植え方の見本の後、ぼくとカロンは並んで腰まで浸かる泥を掻き分け、一瞬の隙間に根を落として行った。

 

 泥に塗れるのも、こういった村の行事に参加するのも初めてだったけど、ぼくは村の一員として迎えられた気持ちに張り切った。

 

 途中で畑の傍で声援を送るシルスにカロンが泥を跳ねさせたり、怒ったシルスの投げた泥の流れ玉に襲われたりといろんなことがあったけど、夕焼けに雲が染まるころには、ぼくたちは汗びしゃになりながらも自分たちの担当した箇所を終わらせることができた。

 

 ただカロンとシスが争うということは、ぼくの服も汚れるわけで…………。

 

 帰ったぼくの姿を見たお母さんにはカンカンに怒られ、お父さんには大いに笑われたのは言うまでもない。



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村会議

 

「よーし、うまいもんだ」

「お! 当たったぁ! いいぞー!」

 

 太陽を真上に浴びながら、セトナ村の広場はたくさんの村人で賑わっていた。

 

 子どもたちの手には弓と3本の矢。

 傍にいる大人は時々手で構えを指導しながら、立てられた木の板に矢が当たるたび、自分のことのように手を叩いて歓声を上げる。

 ちょっとしたお祭り騒ぎだった。

 

「おお、アトラくん。君はやらんのかね?」

「クワンさん。こんにちは」

 

 何となく広場を眺めるぼくを不思議に思ったのか、村長のクワンさんが腰を叩きながら隣に立った。

 

「ぼくは家の庭で練習しましたから」

 

 クワンさんはにこやかな表情を浮かべたまま、そうかいそうかいとうなずく。

 

「クワンさんはどうしたんですか?」

「儂かあ? なあに、村の若いのを見るのがすきでなあ。すこうし様子を見にきただけじゃよ。そうしたら興味深げに眺めとるアトラくんがいたのでなあ」

「興味深げ……ですか?」

「不思議そうともいえる。意外じゃったか、これほど人が集まるのは」

「————————」

 

 心の中を言い当てられて、一瞬村長の方を見る。

 相変わらずその目は、やわらかく子どもたちを見守っていた。

 

「たしかに……意外でした。みんながこんなに乗り気になるなんて思いませんでしたし……思ったより大きなことになったから…………。子どもまで出てくるなんて…………」

 

 今、村は狩りの準備に沸いている。これは例年通りのことじゃない。今年の狩りは、かなり特別なのだ。

 

「それだけアトラくんが認められとる証拠じゃよ。釘を刺すようじゃが、ナクラム様の息子だからではないぞ?」

「……はい」

「まあ、娯楽の少ない皆にはちょうど良い提案じゃったのはたしかだの。ゴン坊のあんな顔を見たのはひさびさじゃった」

 

 ゴン坊と呼ばれた人物に視線を向ける。

 彼はこの村1番の弓の名手で、危険な森での狩りの仕方を心得ている達人だ。

 もちろん、白髪混じりの頭から分かるように、坊なんて呼ばれる歳じゃない。けれど、村長さんにとってはいつまでもゴン坊なんだろう。

 

 当たり前だけどゴン坊は本名じゃないし、名前にもゴンなんて文字はない。村長さん曰く、彼が小さい頃からのあだ名ということだった。

 とんでもない石頭から呼ばれるようになったとか。

 

 今では熟練の狩人である彼は村長さんの言う通り、誰よりも嬉しそうに弓の扱いを指南していた。

 今回の行事を言い出したぼくとしては、なんだかそれだけで嬉しくなる。

 

「しかし、皆驚いておったのお。アトラくんからこれほど大胆な提案をするとは————」

 

 村長さんが言うのは、つい先日の村会議でのことだった————

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 ぼくの家は、セトナ村では1番大きい。町のもっと大きな屋敷を見たことのあるぼくからすると、我が家は屋敷としては謙虚な方だと思う。それでも、ここセトナ村では間違いなく1番だ。

 向いにある村長宅が小さく感じる程度には大きな我が家は、村の人からはお屋敷と言われているのも最近知った。

 

 3階には長い廊下とお父さんの書斎や仕事道具がたくさん入っている物置部屋があり、ぼくでも勝手に行くことはできない。

 いつだったか妹のアリアとかくれんぼをしていて、もう他に思いつかないからと上がったときには、お母さんにこっぴどく怒られたのを覚えている。

 あのときは確か、アリアはお母さんのスカートの中に隠れてたんだっけ。……今思い出しても少しズルじゃないだろうか。

 

 2階はぼくたち家族の部屋や、本がたくさん置かれた部屋があったりする。ここはぼくのお気に入りで、ここにある本はなんでも好きに読んでいいことになっている。

 ぼくの知識はこの部屋の本から得たものがほとんどだ。

 もともとはいろんな本が本棚にきちんと整頓されていたこの部屋も、お父さんが町へ出かけるたびに空きがなくなり、今では本棚から溢れた本が床の上を占拠している。

 今度お父さんがぼくのための本棚を作ってくれると言っていたけど、本の置き場に困っただけでしょ……とは言わずにおいた。

 

 そして、1階。

 食堂や、暖炉のあるちょっとした広間、来客用のいくつかの部屋なんかがあるひろびろとした空間。

 その1階の広間が、今はすこし狭く感じられた。

 

「え~、それでは皆そろったようじゃな。これより村会議を開始する。今日はかわいらしい見学者もおることじゃ。気楽になぁ」

 

 応じる掛け声とともに拍手がおこり、1階に反響する。来客用の大テーブルには、村長をはじめとした村の幹部が揃っていた。

 その数、見物人のぼくも含めて20人。

 その中にはレガンさんをはじめとした、昨日見た顔がいくつもあった。

 

 村長さんの隣にお父さんが座り、それから順に年齢で座ってるみたいだ。

 

「……………………」

 

 視線を感じる。

 それもそうだろう。ぼくが積極的に村の行事に関わるようになったのも最近で、村会議に幹部以外の人間が————ましてや子供がいるというのも初めてのはずだ。

 会議の見学を自分から申し出たこともまた驚かれている要因に違いなかった。

 

 オランの家に行ったときから、ぼくはいろんなことを考えた。どうやってオランに会うか。それも自然な形、警戒され難い形でと。

 それでもうまい考えは浮かばずに、気づけばあれから10日以上が経過していた。

 

 そんなぼくが村会議の見学を思いついたのが、ある日の朝食時。お父さんが言った『今年の村会議は家でやるかもしれない』という言葉がきっかけだった。

 

 毎年今後1年間の村の予定や方針を決定する村会議。その会議の議題に、今年は例年とは違うものが追加されている。その議題に関して、ぼくはひとつの提案をしたい。そのための見学だった。

 

「————ということです。えー、まあ例年通りでいいんじゃないでしょうかね」

「異議は…………ないようじゃの。次——」

 

 会議は滞りなく進む。議題のほとんどが『いつも通りで』のひと言で済むんだから、滞りなんて起きようがない。みんな教会の礼拝みたいに、決まった手順で決まったように動いているだけだ。

 が————

 

「さて、それじゃあのお————例の議題と行くか」

 

 ————そんな平和な村会議は、唐突に終わりを迎えた。

 

「————っ⁉︎」

 

 村長のそのひと言で広間の空気は一変した。弛緩した穏やかな空気は突如として緊張感に張り詰め、謎の熱気が広間を満たす。幹部の男たちの顔は、まるで戦へ赴く戦士のそれだ。

 

 ————『例の議題』。お父さん曰く、例年で唯一白熱する議題。その内容は、村に入った儲けの配当をどうするか。

 

 ここにいう村に入った儲けとは、つまりは町で売れた村の作物や毛皮などの売り上げ金。ここのところぼくが頭を悩ませている間にも、お父さんは1度町へ行っている。

 今年はオオカミの魔物の毛皮やその魔石が大量に手に入ったのもあって、帰ってきた馬車の荷台にはいつもより大きな袋がジャラジャラと夢のある音を奏でていた。

 

 そんなこともあって、今回の村会議は例年とは異質なものになっている。この場の幹部は全員が妻帯者。セトナ村の男すべてに共通して言えるのが、妻の尻に敷かれがちということ。

 その例に漏れず、男たちは妻に釘を刺され、見送られてこの場にいる。

 やる気が違う。

 

「ナクラム様」

「はい」

 

 お父さんが返答すると、おもむろに足元から大きな皮袋を取り出して、大テーブルの上にそれを下ろした。

 硬貨の擦れ合う音とともに聞こえる、ドズンという重たい音。

 ……誰かが生唾を飲んだのが、はっきりと聞こえた。

 

「今回は作物のほか、眼狼……つまりは例の魔物の皮と魔石、そして眼球も取り引きするため、平時お世話になっているシーガッタさんのところだけではなく、マレキューゼ商会の主催する競売会を利用しました。数点の皮は……申し訳ありません。損傷が激しいとのことで————」

 

 お父さんが売却金額の内訳や経緯を説明している間にも、皮袋には熱い視線が集まっている。真面目に話を聞いている人は、多分いなかった。

 

「————ということで、教会への税金も前払いしておきました。私からは以上です」

「え~そんな訳でじゃなあ、これより配当を決めたいと思————」

「村長! 今年のポリピナは俺の畑を使いましたよね⁈ 村のために!」

「自警団も畑の見回りや森の監視を徹底した!」

「いやいやレガンさん。お宅のカロンくんが壁を削ったのに気がつかなかったのは自警団の落ち度でしょう? カロンくんの父親としての責任もあるんじゃないですか?」

「ぐむくく……!」

 

 お父さんが話し終えた途端、大人たちが一斉に自分の貢献を強調し出して、広間は一気にうるさくなった。

 

 お父さんは微妙な顔でぼくを見る。見学させるべきだったのか悩んでいる顔。

 それはぼくも同じだった…………。

 

 結局2時間以上騒いだ末に、今回の配当は決定した。

 1番必死だったレガンさんは、数多に出たカロンのイタズラ被害の告発と、今回ぼくたちが森に入るのを予防できなかった自警団の責任を持ち出され、配当金は下から数える方が早いという金額になってしまった。

 大人の本気の無念な咆哮を聞いたのは初めてかもしれなかった。

 

 それから小休止で喉を潤して、いよいよ議題はぼくにとっての本題に移る。

 

「さて、喜びに浮く者も悲しみにむせぶ者もいるじゃろうが、次に行くぞ。今回は特に時間を使ってしまったからのお。議題は今後の森についてじゃ」

 

 今後の森について。

 それはオオカミが激減し、天敵が消えたことで大繁殖が見込まれる猪や鹿などによる食害を懸念してのことだ。

 

 みんなが一様に難しい顔をする。心なしか、お父さんの気配が薄くなっている気がした。

 当然、ことの発端を作った片割れであるぼくも、なかなか居心地が悪い。

 

「————————」

 

 視線が一斉に、挙手した人間に集まる。

 その目はどれも驚いたものだった。

 

 それでも、手は下ろさない。

 オランに出てきてもらう手段が、ぼくにはこれしか浮かばないから。

 

「そ、そのことについて……あの、て、提案が、あるんです…………が………………」

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

「オオーー!」

 

 また一つ、歓声が上がる。

 見れば、子どもの放った矢の半分以上が的に当たるようになっていた。

 

「————————」

 

 思い返せば、あの時ぼくのした提案なんて、悲しいほど単純なものだった。

 

 『せっかくだから、村を挙げての狩猟祭りにしちゃいませんか?』

 

 要はこれだけ。

 

 それに思いのほか異議の一つも出ずに、なんと満場一致で通ってしまった結果が今なんだ。

 

 …………それでも、クワンさんが言ったことがほんの少しでも正しいなら、ぼくはこの光景に胸を張ろうと思う。

 

 村長の呼びかけで、狩りはあと5日で始まる。

 村長の声は辺境の村では絶大な効果を持つ。よほどのことがなければ、村の男なら参加するだろう。逆を言えば、参加しないならよほどのことがあると見られ、心配されるのが村社会だ。

 

 目立ちたくない人間ほど、参加しない手は打てない。

 性格上親に詳細を語っていないであろうオランは、父親の誘いを断れないはずだ。

 

「卑怯だけど、出てきてもらうね、オラン」

 

 ぼくは来る日のことを胸に、弓の鍛錬に家へと戻った。



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狩猟大会

 

「うーーん…………こまったあ…………いや、こまった……」

 

 ぼくの発案で行われることになった狩猟大会当日、ぼくは外壁門の前に集まった村人たちを目に入れつつも、予定外の事態にうなっていた。

 

「まさか、村長さんから誘われるなんて……」

 

 門に集合するみんなを、集団の先頭で見守っている人影。そして隣にはいつもの軽装に槍を携えた人物。

 あの2人が今回ぼくが組むことになった、村長さんとお父さんだ。

 

 2人はぼくと目が合うと、軽く手をあげる。ぼくも精一杯自然な笑顔を作ってそれに応えた。

 

 そう、ぼくはこれからあの2人と組んで森に入るのだ。3人組で。そこにはカロンもシスも、もちろんオランもいない。

 

「はぁ……」

 

 何度目かも分からないため息を吐く。

 

 本来の予定では、ぼくはオランも含めた4人でチームを組むつもりだった。実際、昨日の時点ではそういう話になっていたのだ。

 だけど、突然自分も参加すると言い出したクワンさんに指名を受けて、護衛を買って出たお父さんも加えたチームに組み込まれてしまった。

 

 断れなかった自分の弱さが憎い……。でも仕方ないじゃないか。あんなに楽しそうな顔でお願いされたら……とても断れない。

 

「うぅ……あとは頼んだからね、シス……」

 

 頼みの綱であるシーを視線で探してしまう。

 今ごろオランと合流できたのかな? 開口一番にカロンが怒鳴ったりは……してないはず。

 

 今朝のカロンはやや緊張気味で、本当に大丈夫かと不安だった。それでもシスが任せてと言ったから、今はそれを頼みにするしかない。

 それに、オランとの関係をもっとも修復すべきなのはカロンだ。ぼくがいないこと自体は、そんなに大きな問題じゃない。うん、だからきっと、大丈夫。…………大丈夫。

 

 2人との別れ際、カロンに最後の念押しをしてから、ぼくはここにいるんだ。

 なら、信じよう。きっと上手くやるって。

 

「ふぅーーーー…………」

 

 空を見上げて、目を閉じる。空いた手を胸に当てる、いつもの落ち着くための儀式。

 不安が落ち着いて、少しずつ自分が冷静になっていくのを感じる。

 

 今悩んだってしょうがない。もう決まったことなんだから。ぼくは目の前の狩りに集中するべきだ。村長さんと一緒の狩りなんて、他のことを考えながらすべきことじゃないんだから————

 

 そうして周りの音や声だけに意識を向けていると、しっかりとした足音が近付くのを聞いて、ぼくは姿勢を解いた。足音の主は、予想通り。

 

「待たせたなアトラ」

 

 片手に細身の槍を握る人物は、ぼくの憧れの聖騎士その人だった。透き通った銀色の槍は、ただの武器として以外に、美術品としての価値も高いに違いないと思う。本当にキレイだ。

 

「——お父さん。もう終わったの?」

 

 油断すればすぐに槍に向かいたがる視線に力を入れて、目の前のお父さんに向けると、お父さんはひとつ頷く。

 

「ああ。父さんたちの最後の打ち合わせが終わったから、そろそろ出発だ。今回父さんは極力手を出さないぞ? 自分で大きな獲物を獲って、待っている2人を驚かせてやれ」

「大きな獲物かあ。大人のシカとかなら美味しいかな」

「この時期なら猪が脂を蓄えているころだ。狩るのは難しいが、狙ってみるのもいい。父さんがアトラくらいのときにな、初めて大きな猪を狩ったんだ。あの時の興奮は忘れられない」

「あんまり大きいのはぼくの弓じゃムリだよ……?」

「そのために剣がある」

「えぇ……」

 

 2人で話しているとすぐ、門の方で笛が吹かれた。いよいよ狩りの始まりだ。

 

「よし、行くぞアトラ」

「うん!」

 

 ぼくとお父さんは村長さんと合流して、一番最初に森に入った。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 森を3人で黙々と進む。

 弓を手にして歩くクワンさんは、鼻歌でも歌い出すんじゃないかというほど上機嫌だ。

 ぼくは腰の短剣でジャマな枝を払いながら、ふと後ろを振り返る。

 

 もう村は見えない。結構奥まで来たらしい。

 それなのに、お父さんは当然としてもクワンさんもまだまだ余裕がありそうな様子なのは意外だ。まだ動けるんだな、村長さんって。

 

「お父さん。餌場まではあとどれくらいなの?」

「あと数分だが……なんだあ? バテるには早いぞアトラ。クワンさんを見習いなさい。この歳でこれほどの健脚を保つのは大変なんだからな」

「なあに、儂もときにはゴン坊と森に入りますでな。足場に慣れていないアトラくんにはまだ負けてやれませんぞ」

「ま、まだ疲れたわけじゃないよ……! 他のみんなもそろそろ始めたのかなって思っただけ」

 

 狩りは難しい。

 経験のない人間が森に入っても、そもそも動物に遭遇できない。待ち伏せのポイントだって判断できないから、つまり狩りにならないのだ。

 

 そこで、今回の狩猟大会では森の随所に餌場を作ってある。連日お父さんが餌の補充をしていて、今朝も早くから森に入っていた。

 そして、狩りのチームを組んだ村人は、それぞれ割り当てられた餌場に向かい、そこに集まっている動物を仕留める。こうすることで、お互いを動物と勘違いして射掛ける事故を防ぐ目的がある。

 

 ぼくたちのチームは、一番奥の餌場。距離も長い。つまり、そろそろ他のチームは餌場に着いていいころだった。

 

「そうだな、距離的にはボルンさんのところはもう着いている頃か」

「ゴン坊のことじゃ。もう獲物を仕留めていてもおかしくないのお」

「動物の痕跡を追うのは彼の十八番ですからね。餌場が空振りでも問題ないでしょう。私も色々と教えていただきましたよ。今度アトラも教わってみるといい。なかなか勉強になるぞ」

「ボルンさんとは話したことないけど、うん。おもしろそうだね」

「ちと熱が入りすぎるキライがあるからの、なんどか怒鳴られるかもしれんが、なあに愛じゃよ、愛」

「…………や、やっぱりいいかもです……」

 

 それから雑談を交えること十数分————この時点でお父さんの話と違うけど、『自分のペースで計算していた』とのことだった————、突然前を行くお父さんの動きが止まる。

 不思議に思って声をかけようとすると、人差し指を口に当てた村長さんに止められた。

 

「————アトラ、ここからは静かに行く。矢を出しておくんだ。近いぞ」

「ようやくじゃな」

 

 大人の2人が声をひそめることで、餌場に近いことがわかった。途端に身体に緊張が走る。

 音を立てないように細心の注意で取り出した矢の先。金属の光沢を返すその矢じりは、ぼくの鼓動に合わせて小刻みに震えている。それを止めようとすればするほど、矢じりの拍動は強まって、言うことを聞いてくれない。

 

「アトラ」

 

 肩に置かれた手がぐうと押し込まれて、肩がスッと楽になった。思ったよりずっと、ぼくは力んでたみたいだ。

 これじゃあ思うようにいかないに決まってる。

 

 目を閉じて、深呼吸。

 本番だからって特別なことをしようとしなくていい。練習と同じ動きを再現する。それだけに集中するんだ。

 

「落ち着いたか?」

「うん。ありがとう、お父さん。もう大丈夫だよ」

 

 深呼吸を済ませて、手元の矢を見る。

 

「……………………」

 

 うん、もう動かない。拍動なんてしない。ぼくが動かさないと動かないし、ぼくが動かしたいように動く。

 

 準備ができたことを視線で告げると、2人はニヤリとしてから歩みを進めた。慎重に、慎重に。

 足音を忍ばせて前を歩く村長さんの背。普段小さく弱々しいそれは、今は緊張感と静かな高揚をのぞかせている。

 

 その歩みも、足音を殺しながらもどこか待ち切れないといった雰囲気が感じられた。

 

「————」

「っ……——」

 

 ずっと歩いてきた緩やかで長い坂が終わると、目の前に急な下り坂が出現した。お父さんがゆっくりと指し示すその先。凹地になっている急斜面の終わりに————いた……!

 

「……………………」

 

 シカだ。

 生きているシカのペアが、首を上下しては何かを咀嚼している。食べ物を食べる間にも、スラリと長い耳は油断なく周囲へと向けられ、ピコピコと忙しなく動いていた。

 

 スッと、村長さんが動く。

 ゆっくりと狙いやすく見つかりにくい樹々の間に身を置く。それを見て、ぼくも弓に矢をつがえようとした。

 

 カッ——と、矢と弓が触れた音。その小さな音に、2人の動きがピタと停止する。

 

「————————」

 

 目だけを動かして、凹地を見る。

 

 シカは2頭とも顔を上げて、動きを止めていた。

 四方を睨む耳の動きだけが、時間が停止していないことを教えてくれる。

 

 ————動けない。

 耳鳴りすら聞こえる凍った時間は、雌雄のシカが食事を再開したことで融解した。

 

「——ふ……ぅ……ぅ……」

 

 呼吸を再開して、乱れた鼓動を整える。これまでにない緊張した時間に、前髪は冷たい汗で額と接着されている。

 

 視線で身を低くしている2人に謝罪して、慎重に弓を引く。

 

 村長さんも、ジェスチャーで雄をぼくに譲ると告げて、弓を引き絞る。

 

 お父さんが、指を折り曲げてカウントダウンを始めた。

 

 

 3————

 

 練習で覚えた矢の軌道を思い出す。もう少し上の方がいい。

 

 

 2————

 

 肌に感じる風が弱まる。

 軌道を修正。

 

 

 1————

 

 集中はピークに。

 急所に狙いを定めて……!

 

 

 ————0!

 

 お父さんの親指が立てられると同時に、2本の矢が風を切って放たれた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 

 ほぼ同時に放たれた2本の矢は、それぞれ雌雄のシカを見据えて空を裂く。

 しかし同時に放たれたはずのそれは、射手の技術によるものか、届く頃には僅かな差が生まれていた。

 

「あっ……!」

 

 視界で小さくなって飛んでいく村長さんの矢は、ぼくの矢よりも早く牝鹿の脇腹に潜り込んだ。

 パッと跳ねた2頭のシカは、弾かれたように駆け出す。そのとき、立派な枝角をもった雄のその後ろ脚に、ぼくの放った矢は今さらになって突き立った。動かれたことで、急所を大きく外して。

 ……失敗だ。

 

 牡鹿の後ろ姿は、こちらを振り向くことなんてせずに一直線で斜面を駆け上り、その向こうに消えてしまった。

 それを呆然と見つめてから、我にかえる。

 

「村長さんのシカは⁈」

 

 3人で急斜面を滑るように降りる。餌場には赤い液体がこぼれ、確かな致命傷を与えたことを示していた。

 血は点々とこぼれている。滴るというより、本当に絶え間なくこぼれ続けた感じだった。それはずっと続いていて、ついには斜面を上がっていった。

 血痕をたどるように視線を上げると————1頭のシカが、斜面の途中で力尽きていた。

 

「すごい……」

 

 静かな興奮に急かされるように、ぼくはシカの近くまで駆け寄った。

 

 狙うときと違い、目の前にしたシカはとても大きくて、息絶えてもなお存在感がある。こんな大きな生き物が矢の一本で倒れたのが、なんだか信じられない。

 そして、致命傷を受けてもこんなに走ったという事実もまたぼくを驚かせた。

 

 触れてみれば、当然だけどまだ熱い。間違いなく今さっきまで生きていたシカなんだ。

 

 後ろの2人が何かを話しながら歩いてくるまで、ぼくは目の前の大きな身体から手を離せなかった。その姿を側から見れば、きっともう失われた鼓動を探しているみたいに見えたと思う。

 

「よし。アトラ、急ぐぞ!」

「あ、え……?」

 

 そのまま解体が始まると思っていたぼくは、お父さんの言ってることが一瞬分からなかった。

 

「牡鹿を追うんじゃよ。傷つけた以上は仕留めてやらんと、いたずらに苦しめるだけじゃ。あんな傷でも膿めば死んでしまう」

 

 続く村長さんの言葉で、ハッとする。

 そうだ、ぼくが始めたことだ。最後まで仕留め切ることが、傷をつけた者の責任なのかもしれない。

 

 思考を切り替えて、シカの逃げた先を見据えて走る。すぐ後ろに村長さんをおぶったお父さんがついて来る。その2人を先導しながら、ぼくは自分のせいで手負いになった牡鹿を追った。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 斜面を登り、凹地を抜ける。少し高くなっているところから牡鹿を探しても、樹々が邪魔でよく見えない。

 ただ、追いかける手段は残されている。

 

「…………血?」

 

 よく目を凝らしてみると、微かに残された小さな痕跡。

 それは森のさらに奥に続いていた。

 

「走っていたんだな。足跡が分かり易い。この調子で走っているのなら、随分奥まで行っているか。走る必要があるな」

「まだまだかかるようじゃ。ナクラム様、重ければいつでも置いてくだされ」

「ははは、この程度で疲れはしません。聖堂騎士団の訓練には、自らの相棒である馬を担いで行うものもあります。聖騎士になる以前の頃ですが、私の得意とする訓練でした。それに比べればこの程度、準備運動にもなりませんよ」

 

 お父さんが聖堂騎士時代の話で村長さんを安心させようとする。だけど、その話を聞いた村長さんの表情は驚愕に引きつっていた。お父さんの思い出話には、時々とんでもない話がある。小さい頃からそんな話を聞いて育ったぼくにとって、やっぱりお父さんは英雄だった。

 

 視線を前に戻して、シカの追跡に意識を戻す。シカはきっとまだ走っている。ある程度距離を縮めるためには、ぼくたちも走って追いつかないといけない。

 

「アトラ。脚を負傷しているシカは必ず休もうとする。どこかで座り込むはずだ。そこで今度こそキメるんだぞ? 落ち着いて狙えば当たる。大丈夫だ」

「……うん」

 

 お父さんの言葉を背中に受けて、いよいよ追跡を始めようとしたとき、森の向こうからシカの甲高い声が聞こえた。

 

「——っ⁉︎」

 

 それはまさに悲鳴だった。命が潰える直前に絞り出された、興奮と苦痛、そして恐怖の詰まったその声は、あるいは断末魔と呼べるものだったかもしれない。

 

「お父さん!」

「……クワンさん。危険かも知れないので、少しここで待っていて下さい。念のため〈聖障結界〉を張っておきます。結界から出ずに————」

 

 お父さんが走り出すのを待たずに、ぼくはすぐに駆け出していた。下草を音を立てて踏みしめて、森の奥へ奥へと進んでいく。

 

「ハァッ、ハァ、ハァ、ハァッ——!」

 

 はやく、はやく、はやく、とにかく走る。

 走って、走って、息も苦しくなって、服が汗で重たくなるくらい走ったとき、急に開けた場所に出ていた。

 

「————————」

 

 そこは樹々もまばらな、下草の平原。すこし形の崩れた円形に広がる平原には、奥に小さな池も見える。

 

 そんな開けた場所の、何も視界を遮るものの無い場所で、牡鹿は横たわっていた。

 その身体は後ろ脚以外にも、横腹に大きな裂けたような傷が開き、間違いなくそれが原因で死んでいるのは疑いようがない。

 表情はあんな悲鳴を、断末魔を挙げたとは思えないほどのうつろな死に顔。

 

 そしてその身体は不規則に、痙攣するみたいに動いている。……いや、違う。()()()()()()()んだ。

 

「大きい……!」

 

 牡鹿の身体を執拗に何度も突いているのは、体高がぼくほどもありそうな大きな猪だった。

 大きな牙をもつその猪は、何がそんなに憎いのか、執拗に、何度も何度も殺したはずの死体を傷つけている。

 

「この……やめろ!」

 

 自分でも、何でこんなに怒りが込み上げたのか分からない。それでも、何か大切なものを冒涜された気持ちがして、ぼくはすぐさま弓に矢をつがえる。

 

 大猪はギョロリと血走った眼を一瞬向けると、すぐに興味を失ったように、また冒涜を再開した。

 

「っ⁈」

 

 弓弦を引き絞る。狙いは興奮のせいでうまく定まらない。

 だけど、それでもいい。当たりさえすれば。あの行為をやめさせることさえ出来れば。

 

 矢を放つのに、躊躇はなかった。

 

「プギギュ……ッ⁉︎」

 

 偶然にも、矢は大猪の側頭部に命中した。

 突然の不意打ちに驚いた大猪が、見た目に似合わない声を上げる。

 

 けど、それだけだった。大きなシカだって仕留められる矢は、硬いものに当たる音を残して、突き立つことなく地面に落ちる。

 血走った眼が、ぼくを睨んだ。

 

「……………………」

 

 今さら、危険な状況だと気がついた。今から矢を取り出して、つがえて、引き絞って、放つ……無理だ。そんな時間はもうくれない。

 

 大猪の頭がこっちを向く。

 ぼくの武器は弓を除けば、腰にある短剣くらい。

 

 弓を投げ捨てて、腰から残された唯一の武器を引き抜いた。…………小さい。ジャマな枝を払うには頼もしい重みの短剣が、大猪を前にするとまるでペーパーナイフでも持ってるみたいに軽く感じる。

 戦うには、あんまりにも頼りなかった。

 

 大猪の体が一瞬沈む。

 ————クる!

 

 大きく太った猪は、その重く鈍そうな見た目を裏切る速さを見せた。

 みるみる巨体が迫り、その圧迫感に体が硬直しようとする。心が諦めようとする。

 

 そんな弱気に鞭打って、ぼくは必死に思考を巡らせる。

 まず殺すのは無理だ。ぼくの手にある短剣じゃ、きっとどうやっても致命傷を与えられない。

 だから、今は少しでも粘って、傷つける。そうして嫌がってくれて、攻撃を緩めてくれればいい。

 

 とにかく、まずはこの突進をなんとか回避しないといけない。横に走ってかわすなんて、論外だと思う。絶対に軌道を変えてくる。足だってあっちが速いんだから、逃げ切れないしかわせない。

 やれるとしたら、ギリギリまで引きつけて一気に横に身を投げること。これなら…………いけるはず。

 

 方針を決めるのと、引きつけるギリギリのタイミングはほぼ同時だった。

 右に一瞬フェイントをかけてから、思いっきり左に身を投げ出す。

 

「——フッ‼︎」

 

 時間がゆっくりと流れる。

 大猪は一度、ぼくのフェイントに乗せられて軌道を変えた。そこまでは、身を投げ出す直前に見えていた。

 

 ただ、嫌なチリチリとした感覚を覚えて、ぼくは時間と同じ鈍い動きで、ゆっくりと首だけで振り向く。

 焦らすように遅い動きで変わる視界の端に、大猪の顔を正面から見た。

 

「な————⁈⁈」

 

 あり得ない急制動。

 大猪は一度は軌道を変えながら、無理やりにもう一度軌道をねじ曲げて、ぼくの背後目掛けて加速していた。

 

 今さらどうしようもない、絶望的姿勢。

 ぼくはすでに身を投げ出して、この体は次の瞬間には地面に倒れようとしている。

 かわせない。……どうにもならないのを、体に反して動ける頭で、理解してしまった。



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父に見た幻想

 

「よし。後は私の魔力を流して——」

 

 庇護対象であるクワン氏を中央に配し、4方には銀の細い杭が打ち込まれている。

 聖騎士ではあるが、〈聖障結界〉を張るのは不得手としている自分は、こういった道具の補助を受ける必要があった。この『聖域杭』は、そのひとつだ。

 

 体内の魔力が術式に従い杭へ作用すると、清浄な空気が場を満たし、穢れを否定する聖なる守りが現界した。

 

「ほおおぉ……!」

 

 結界を目の当たりにしたクワン氏は目の前の光景に驚愕の表情を浮かべ、その場に跪き祈りを捧げる。

 珍しいことではない。神秘を目にすれば、誰しも神を色濃く感じるものだろう。

 

 とはいえ、邪魔する様で忍びないがこちらも急ぎだ。

 

「クワンさん。結界は張り終えました。私はこれより息子と共に奥の様子を見てきます。私が戻るまで、決して中から出ないで下さい」

「お、おぉ、儂としたことが申し訳ない。つい神聖な気にあてられてしまいましてな。これだから歳は取りたくないんじゃ……………………ナクラム様、アトラくんはどこに……?」

「アトラ? ……アトラ! ————しまった‼︎」

 

 辺りを見回してもアトラの姿はない。

 それがなにを意味するのかを理解して、心臓が跳ねる。

 

「っ——!」

 

 何事かを言っているクワン氏に目もくれず、すぐに息子の後を追う。

 おそらく息子が向かったのは声のした場所のはず。一見長い距離だが、走ってみればそう時間はかからないだろう。

 

(途中で追いつくのは無理か……⁈)

 

 もはや気配を隠すことはしない。足音を殺すこともしない。下草の生えた足場を踏みしめ、抉られたような跡を残しながら疾走する。

 一足進むごとに、巻き上げた土が樹々の葉に当たって、ザアッ、ザアッという音を立てた。

 

「くっ⁉︎ 聖痕が……」

 

 肩の聖痕がわずかに疼くのを、冷や汗と共に知覚した。

 その感覚はあの時と同じだ。アトラが狼に襲われた時と、まるで同じ反応をしている。

 近くにいる家族の危険を、否が応でも伝えてくる。現実を受け入れ、踏み締める足に更なる力を込める以外に選択肢はない。

 この瞬間にも、息子の身体は宙を舞っているかもしれない。なにかに押しつぶされているかもしれない。

 頭の中に、苦悶の表情を浮かべて、しかし最後まで諦めず、父の助けを待っているアトラの姿がいくつも、あらゆる場面で浮かぶ。

 振り払おうとしても、現にこれは妄想でない可能性を告げる聖痕が、考えるのをやめさせてくれない。

 これが杞憂ではないという現実が、さっきから鳩尾をジリジリと焼いていた。

 

「ッ‼︎」

 

 速度を上げる。普段隠れている聖痕は今や淡い光を放ち、身体能力を引き上げる。今この瞬間、この身体は聖騎士ナクラム・ヴィント・アーカーの性能を最大限に振るっていた。

 

 前方にある森の樹々が、一瞬で遥か後方へと濁流の如く流れ去る。

 こうなると障害となる樹々を避ける余裕はない。

 

「————————」

 

 迫る太い樹々に、右手に携えた聖槍を合わせる。

 バヅッという破裂音にも似た音と、抵抗感。

 次の瞬間には、断ち切られた樹々の倒れる音を背中に聞いていた。

 

 止まらない。

 止まる訳にはいかない。

 

「————見えた!」

 

 そして、ついに前方にその背中を捉えた。ここ1、2年の間に随分と大きくなってきた、息子の背中だ。

 

 家を数ヶ月留守にして帰ると、その度に大人になってきているのを実感させてくれる成長が頼もしかった。

 

 それと同時に、そんな息子の変化が分かるほど家を空けている事実に寂しさを感じる……そんなアトラの背中だ。

 

 しかし、その背中も前方にいる黒い巨体の前には余りに小さく、頼りない。

 

「————⁈⁈」

 

 悲鳴を上げなかったのは奇跡だった。

 キリキリと痛んでいた胃が、息子の危機に収縮する。

 

 全身に緊張が伝わり、視界から情報を得た脳は『息子を救う』という考えから、すぐさま『敵を滅ぼす』というものへと切り替わる。

 

 その間にも、黒い巨体はアトラに迫りつつある。

 アトラも上手い。フェイントを交えた回避行動という、日々の教えを見事に活かし、自分にできる最大限の動きを見せている。

 

 だが、それでは足りない……。

 猪は見た目以上に身軽なのだ。

 

 予想は的中し、視界の奥でアトラは無防備な背中を突進の軌道に捉えられてしまっていた。

 

 ————どうする。

 頭には凡ゆる手段とそこから予想される結果が幾重にも重なり、展開されていた。

 

 あの猪をこの距離で殺せるか?

 

 可否で言うなら、それは可能だ。

 この距離は既に間合い。槍の投擲で、あの命を奪うことは容易い。例えあの体が倍の巨体であろうと、殺すだけなら問題ない。

 そう言い切れるだけの経験をしてきた。

 

 だが、ただ殺したのでは駄目だ。

 それでは、あの巨体は止まらない。

 

 命を失おうと、依然として速度は保たれる。

 命を失おうと、あの鋭い牙が収まることはない。

 アトラの命を奪うのが、生きた猪になるか、その死体になるかの違いにしかならないだろう。

 

 必要なのは、あの巨体の軌道を変えるほどの衝撃だ。

 突き立つに留まらないほどの高い威力がなければならない。

 

 ……それも可能ではある。

 あの巨体を吹き飛ばす程度であれば、聖印の力を用いれば今すぐにでも可能だろう。

 

 だが、これもまたできない。

 あの巨体を吹き飛ばすだけの投擲は、あの猪を一瞬で貫き、大穴を空け、その進行方向に巨体を浚うだろう。

 …………そして、それで終わらない。

 それほどの投擲による余波は、確実に守るべき息子へと襲いかかる。

 

 聖印に加減という概念はない。

 つまり、槍の投擲による解決は図れない。

 ある一件で力の大半を失う前のアリシアなら、こんな時に適した魔法を使うのだろう。

 だが、今のこの身にそれはない。

 

 なら————

 

 数瞬の逡巡。

 その間にも事態は悪化する。

 

 ————やるしかないか。

 

「————」

 

 主の意図を察した様に、聖痕が呼応する。今までの比にならないほどの恩恵が全身を活力で震わせた。

 

 その全ての力をかき集め、一点へと集中させる。

 これから行うことに最適な状態へと、準備は一瞬で整った。

 

 槍を飛ばすのが不可能ならば、自身が槍となり跳べばいい。

 それが自分の出した結論だった。

 

 出来ないなどあり得ない。

 失敗などあり得ない。

 

 聖騎士ナクラム・ヴィント・アーカーに、家族の命を守る為に出来ないことはないのだから!

 

「————ダァアッッ‼︎」

 

 あらん限り、全ての力を解き放ち、足場を陥没させることでこの身を投擲する。

 跳躍というにはあまりに凶悪な轟音。それはもはや爆音と言って差し支えないものだった。記憶を辿っても、これほどの力で地を蹴ったことはない。

 

 1秒にも満たない瞬間を、聖騎士ナクラム・ヴィント・アーカーという一本の槍は空を裂き、その右腕を突き出して着弾した。

 

 立ち込める砂煙と、土の雨。

 煙の晴れた時、そこには目に光を失った巨大な猪が、太かった首の後ろ半分を失った姿で倒れているのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 周りの空間を鉛が満たしたような、ゆっくりと、けれど確実に流れる時間。

 どれだけあがいても結果は変えられない。

 こんなにゆっくりと、手に取るように見えているのに、打てる手立てはなにもなかった。

 

 だから、この時間は拷問だ。

 確定してしまった結果を、こんなにまざまざと見せつけられてる。

 

 ぼくに出来るのは、これから確実にやってくる衝撃と苦痛を想像することだけ。

 

————そのはずだった。

 

「————ッ⁈⁈⁈⁈」

 

 凍りついた時間の流れ。それをまるきり無視した速さで銀色の槍が飛来して、迫り来る巨体に突き立ち、貫いた。

 直後、硬直したその横顔に膝が()()し、巨大な猪の身体を地面にめり込ませたまま数メートルを引きずって停止した。

 

 轟音と土煙。

 

 猪の顔面で除草された、帯状に伸びる血色の地面。その先にある人影は、とても見慣れた形をしていた。

 

 猪の顔は半分潰れたようになり、割れ目からは中身がこぼれている。

 それを確認してから、飛来した人物はゆっくりと槍を引き抜いた。

 

「お父、さん…………」

 

 お父さんは答えない。肩は上下して、まるで限界を超えて走ったみたいに速い呼吸を繰り返している。

 こんなに疲れた姿を見たのは、初めてだった。

 

 いつも笑顔で、余裕を欠かさない。突然の出来事も、まるでいつもの日常で、慣れた作業みたいに対処できてしまう。

 それがぼくが見てきたお父さんだ。

 

——本当に、危なかったんだ。

 

 この時になって、ぼくはようやく理解した。

 お父さんは、人間なんだ。

 

 知識としては知っていた。当たり前だ。

 けど、それ以上にお父さんは『聖騎士』だったんだ。

 

 こんなにも余裕のない姿に初めて、ぼくはお父さんに『人間』を感じていた。

 

 いつも、どこかに甘えがあったと思う。

 どんな状況になっても、必ずお父さんが助けてくれるという、甘え。

 

 それがどんなに危険でひとりよがりな考えなのか、その肩が上下する度に突きつけられている。

 

 槍に体重を預けてから、お父さんはずっと沈黙していた。

 その初めて見る姿に、ぼくもなにを言っていいのか分からなくて、ただただ罪悪感に息が苦しくなる。

 

 しばらく、お父さんの背中を見る時間が続いて……。

 

 そして呼吸が落ち着いたころ、振り返ったお父さんは口を開いた。

 

「————アトラ。お前は……お前は、先日あんな目にあったというのに、何も学ばなかったのか……⁉︎ 勝手に行動して、その危険も頭になかったのか⁈ お前には聖騎士に最も必要なものが欠けている‼︎ 今のは確実ではなかった……死んでいたかもしれないんだぞ…………」

 

 絞り出すようなその声は、震えていた。その顔は、息子の死という悪夢に青ざめていた。

 その声も、顔も、全部がぼくのせいで…………。

 

「ごめ……なさい……」

 

 のどの奥が熱くなって、声がつっかえた。

 お父さんはしばらく沈黙してから、『今日のことを決して忘れるな』と言って、傷だらけになった牡鹿の解体に入った。

 ぼくは黙ってその作業を見て、時折渡される肉を受け取っては、まだ残るその体温を感じた。

 

 解体に必要な時間は、想像していたよりずっと短いものだった。それは単に、お父さんの手際が良かっただけじゃない。この牡鹿の身体に傷が多くて、あの猪の牙による傷が中を強く傷つけていたからだ。

 

 両手に持つシカの命を見る。

 あんなに大きな身体から、ぼく1人で運べるだけの糧しか得られなかった。

 本当は、もっと……なのに…………。

 

「アトラ」

 

 頭にポンと手が乗せられて、その軽い衝撃で涙が溢れた。肉の量なんて、問題じゃない。ただ、本来と比べてこれだけしか受け取ってあげられないのが悲しかったし、守れなかったのが悔しかった。

 

 命をムダにする生々しさが、辛かった。

 

「その気持ちは無くすなよ?」

「うん……」

 

 解体されて、生き物から物になったシカの姿を頭に焼き付ける。これで、ぼくの初めての狩りが終わった。

 

 その後、ぼくとお父さんは会話もあまりしないで村長さんと合流した。ぼくたちが見えるなり顔を引きつらせた村長さんの視線は、お父さんの方を向いている。

 

「ナ、ナクラム様……ソレは…………」

 

 お父さんの背には、いらない内臓を落とされた猪が背負われていた。

 シカの解体を終えてから、お父さんは今から解体を終えるには時間がかかると言って、その場で簡単な処理だけ済まし、後は村に持ち帰ってから続きをすることにしたのだった。

 

 そんなのできっこないと思ってたけど、現に山道をここまで運んだお父さんの息は大して乱れてもいない。

 こうなれる日が、いつか来るのかな……。

 最近のぼくは、ほんの少しの焦りを感じているのだった。

 

 村長さんの折りたたみ式の背負い籠を借りて、抱えていた鹿肉を丁寧にしまう。肉の量の少なさに首をかしげていた村長さんだったけど、何かを感じたのか、そのことに関してあまり聞いては来なかった。

 

 ただただ、初めての狩りの成果を喜び、肩をポンポンと叩きながら祝ってくれた。そのおかげで、なんとなく胸にあった冷たいものが溶けて、ぼくは森に入って初めて笑った。

 

 そして森を村へと進み、もうすぐで帰れるというころには、もう陽は山の向こうに隠れて紺色の山影が辺りを覆っていた。

 そんな中で見下ろす村はいつもとは違う雰囲気で、立ち止まった村長さんの隣で、しばらくぼーっと眺める時間が過ぎていく。

 

「————立派なもんじゃなぁ」

 

 ぽそりと、ひとりごとのようにクワンさんは言った。

 

「儂がアトラくんくらいの頃は、毎日いたずらばかりでの? そりゃぁ大人を困らせとった。よく村の作物を勝手に食べては引っ叩かれたものじゃよ」

 

 細く、懐かしむような視線は、セトナ村へ向けられている。ただ、その目が映しているのは、きっとあのセトナ村じゃなかった。

 

 クワンさんは懐かしむ目をそのままに、時々何度も頷いていた。そして、少しの間を置いてから——

 

「うん……立派なもんじゃ。爪の垢を煎じてアレに飲ませてやりたいくらいじゃよ」

 

 そう言って、困ったような笑みを浮かべながらぼくを撫でた。

 

「実はの、修道会から呼び出しがあったんじゃよ」

「え?」

 

 唐突に出てきた単語に、聞き返す。

 セトナ村で生活をしてきて、村の人からその単語が出てきたことなんて今まで1回もない。

 

「内容は、アトラくんの人格についてを6神様の名の下に偽りなく述べよというものでの……今後は定期的に町に行くことになるじゃろう。もう試験は始まっとるらしい。なんとも気の早いことじゃ」

「それって……修道院の……」

 

 クワンさんが言っているのは、シグファレムの4分の1の修道院を統括する聖カノテアン修道会のことだ。

 ぼくの場合、お父さんの推薦ということもあってか、どの修道院に入るのかを修道会が決めることになっていると、随分前に教えられていた。

 その中で修道院に入るには人格調査を通る必要があることも聞いてはいたけど、こんなに早くから始まるなんてまさか思わない。

 

「6神様の名の下にと言われては、儂も脚色なく真実を伝える他ない訳じゃが——」

 

 そこでクワンさんは1度ぼくを見て、フッと優しい笑みを浮かべた。

 

「——アトラくんの人格はよぉ~く知っとる。教養も礼儀もあり、優しさを持ったよくよくできた子じゃ。おかげで儂は胸を張って修道会の呼び出しに応じられる。心配することはないからのう」

「あ、ありがとうございます……!」

「本当はもうすこしはやく伝えたいと思っておったが、人格調査のことを知ると良からぬことを企むアホウに心当たりがあるでな。すこうし強引に機会を作ってしまった」

 

 そう言って、クワンさんは一瞬顔をしかめて「すまんのう」と、小さくつぶやいた。

 

 そしてその謝罪の意味を尋ねるより先に、クワンさんは歩みを再開する。

 ぼくはその背中に疑問を投げかけることはしなかった。

 セトナ村にぼくを貶めるような人はいるはずが無いし、何よりもクワンさんの言葉が嬉しくて、浮かんだ疑問はすぐにかき消えていた。

 

 その後村に着くころには辺りはもう完全に暗くなっていて、村に戻ったぼくたちを真っ先に出迎えたのは、帰りの遅いぼくたちを探そうと集まっていた自警団の人たちだった。



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祭りの成果

 

 狩猟大会から一夜明けて、村の広場では今回の狩りの成果であるシカや猪の肉を使ったスープが、それを獲ったチームへの賛辞とともに村の人たちへと配られていた。

 

 広場はとても賑わっている。こんな活気はお父さんが井戸に細工をして、冬でも凍らないようにしたときのお祭り騒ぎ以来だと思う。

 普通凍りにくい井戸水だけど、セトナ村はその水源が特殊で季節の影響を受けやすい……と、お母さんから聞いたことがある。

 水がいつでも自由に飲めない中で、積雪のない中での井戸の凍結は死活問題だ。それを解決したときに迫る賑わいといえば、そのすごさが伝わると思う。

 

「…………」

 

 視線を落とした手元には、空になった木のお椀。まだ今さっき飲み干したスープの香りが残っていて、肉の脂が小さく透明なリングを作っている。

 それを木製のスプーンでいじりながらなんとなく眺めていると、聞き覚えのある声がぼくを呼んだ。

 

「よっ」

 

 広場の人混みからまっすぐに歩いてきたのは、スープの並々と入ったお椀を手にしたカロンだ。

 カロンはぼくのとなりに移動すると、お椀の中身をこぼさないようにゆっくりと慎重に腰を下ろす。

 

「——っぶね、ズズ……ほぅ……うめえ」

「欲張りすぎだよ、カロン。そんなことしなくてもおかわりできるのに。みんながおかわりできるようにって、スープになったんだから」

「いーや、甘いな。アトラは大人連中の意地汚さをしらねんだよ。あの集団なんか見てみろよ。おかわりなんてすぐなくなるぜ?」

 

 カロンがあごで示した先には、空になったお椀を手にした大人たちが、舌なめずりをしながらおかわりを求めて人だかりを作っていた。

 対応している奥さんたちは見るからに大忙しだ。

 

「あー……せめて列を作ればいいのに……」

「むりむり。そんなオギョーギ求めんなって。肉と野菜でこんなにはらを満たすなんてめったにできないかんな。あれが正しい楽しみ方だろ」

 

 確かに、このイベントを一番楽しんでいるのはあの人たちかもしれないな。

 

 そんなことを考えながらワタワタと対応する女性陣を眺めていると、不意に見覚えのある姿を見つけた。

 

 いや、見覚えのあるっていうか……すごく見知っている姿。あれは…………。

 

「シス?」

 

 大きな釜を、額をぬぐいながら一生懸命にかき混ぜているシス。たまに「押すな」とか「抜かすな」とかで始まる口げんかをそれに負けない大声で止めるその姿は、カロンを叱りつける姿そのものだ。

 

「酒場の看板娘って感じだよな、あいつ」

「あはは、本当だね」

 

 カロンが言う酒場の看板娘という言葉にすこし想像力を働かせてみると、酒場で元気に働くシスの姿は意外なほどしっくりくる。

 それからしばらく、ぼくとカロンの他愛もない話が続いてから、ついに“本題”に入る。

 

 それを切り出したのは、カロンの方からだった。

 

「——ふいー、笑ったし腹もそこそこ膨れたな……。んじゃ、そろそろ昨日の報告な」

「あっ……うん。……どうだった?」

 

 カロンがあんまり急に切り出したから、すこしのどがつかえたような声が出る。

 それを咳払いでやり過ごした。

 

「ああ、別に大丈夫だったぜ? とくに言い合いもねーし、ふつーな感じだった」

「へ?」

 

 ぼくの緊張に反して、カロンの報告はとてもあっさりとした、あっけないものだった。

 

「なんだよその顔は。信用してねーのか?」

「いや、違う……けど…………本当に?」

「ここでウソなんて言うかって。最初はオドオドしてたけどな————」

 

 カロンから語られた昨日のオランの様子は、ぼくの心配したものとはだいぶ違った。

 

 カロンのチームは、カロン、シルス、そしてオランの3人に、森での狩りの経験がある大人が1人の4人編成だった。

 

 広場でチームの待ち合わせをしていたところに、オランは父親に連れられて最後にきた。

 その時は目も合わせずにオドオドとした態度だったみたいだけど、そこでカロンが開口一番に謝罪をしたことで仲直りできたらしい。

 帰る頃には以前と同じように会話をしていたそうだ。

 

 ちなみにその帰り道でオランはウサギを獲り、その肉も具材に使われていたりする。

 

「————て感じだな。心配するほどのこともなかったぜ?」

「へぇ……なんだか意外だな。けど、オランも意外に思っただろうね。カロンが真っ先に謝ったんだから」

「そこが意外なのかよ……いや、まあ確かにな。あの時のオランの顔は見ものだったぜ? 目を見開いたまま固まったかと思ったら、面白いくらいに表情が変わんだよ。ははっ、アトラもいればよかったのにな」

「へえぇ、そんな反応だったんだ。なんだかすごい驚きようだね」

 

 オランの反応にすこし引っかかるものを感じつつも、ぼくとカロンはお互いの狩りの話に花を咲かせた。

 

「————お、やべっ。そろそろおかわり分がなくなるか」

 

 ある程度お互いの話もひと段落したところで、カロンはパッと立ち上がる。——お椀を片手に。

 

「そんじゃ、オレもアッチに混ざってくるわ」

「うん。結構長く話したけど、もうスープ残ってないんじゃないかな?」

「いーや残ってるね。アイツらまだ集まってるだろ?」

 

 おかわりを求める集団は相変わらずわちゃわちゃとしていた。さっきと違って、今の方が白熱しているような気がする。心なしか大人たちの声量も上がっていた。

 

 それを注意するシルスもヒートアップしている。

 ついに言葉だけじゃなくて、お玉を振り回しての実力行使に出ていた。

 

 木製のお玉が響かせる音が、こっちにまで聞こえてくる。

 

「急いだ方がいいかもね。たぶん残りが少ないんだよ、あの様子だと」

「やっぱそう思うよな。のんびりしてらんねー! じゃあな、アトラ ! 今度はオレらだけで狩りに行こーぜ!」

 

 それだけ言うとカロンは返事も待たずに走り出し、押し合いへし合いの中へと飛び込んで行った。

 

「だから、並べって言ってんでしょーがあ!」

「ッぷぇぁ⁈」

 

 直後、今日1番の快音が響き、カロンの頭にタンコブができた。

 

「うわぁ、容赦ないなぁ……」

 

 しばらくはシルスとカロンの攻防、そしてその隙に勝手にスープをよそう大人のしたたかさを眺めていた。

 

 だけど、そろそろ風も冷たくなってきた。

 ジッと座っているだけだと、やっぱり冷える。

 温かいスープだって、もうとっくに飲み干している。

 

「シスは忙しそうだし、カロンは行っちゃったし……帰ろっかな」

 

 ぼくは家から持ってきたお椀を片手に引っかけて、広場の喧騒を背にした。

 

「……………………」

 

 家に帰るまでの道で考えるのは、これからのことだ。

 オランとカロンは仲直りできた。これからはまた4人で一緒に遊べる日々が戻ってくるんだ。

 

 何をする?

 やりたいことは多いけど、さっきカロンの言っていたのも面白そうだった。

 

「みんなで狩りに行く……楽しそうだなぁ」

 

 そういえば、オランは父親の影響で山菜に詳しかった。

 カロンの話でも、今日のスープにはオランの採った山菜も使われたと言っていた。

 

 ぼくも教わってみようか。

 お父さんの蔵書に山菜に関してのものがあれば、それも読んでみよう。いや、それともオランと一緒に読もうか。

 きっと喜んでくれるに違いない。

 

 頭の中に色々な楽しみを描きながらの帰り道は、本当に短い。気がつけばもう家は目の前まで来ていた。

 

「…………ん?」

 

 そこで、おかしな人影を見つける。

 

「なにをしてるんだろ?」

 

 その人影は木の影からぼくの家を——正確には家の門をジッと見ている。

 こっちには背中を向けているけど、誰なのかはすぐに分かった。

 

「——————」

 

 とりあえず近づいてみる。

 けど、よっぽど集中しているのか、全然ぼくに気づかない。すこし待ってみても、これといって動きもない。

 

 仕方ないから、声をかけてみることにした。

 

「————何してんの?」

「ッ⁈ ぅおぁあッ⁈」

 

 慌ただしいことに、人影は肩を跳ねさせて振り向くと、ぼくを見て大きくのけぞった。

 

 今のけぞったら……。

 

「ッづあ⁉︎」

「あ……」

 

 頭と木の硬い皮がぶつかる鈍い音がして、目の前の人物はそのまま頭を抱えるようにうずくまってしまった。

 木の皮に残されたすこしの凹みが、その衝撃を物語る。

 

「だ、大丈夫? ————オラン」

 

 人影の主は、ここのところ会えていなかったオランだった。実際には最後に会ってからそんなに経ってないのに、もうずいぶんと長く会っていなかった気分になる。

 

「いい」

 

 近づいたぼくの胸に、オランの手が当てられ、押しのけられた。

 

「————」

 

 オランは黙って立つと、土を払う。

 それからアゴで付いて来いという意味だろう動きをして、振り返ることなくスタスタと前を行ってしまう。

 

「オラン…………」

 

 立ち上がるときに見た、オランの目。

 まるで敵に向けるようだったそれを見て、良い予感なんて浮かびようがなかった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 

 オランについて行くと、そこは村の資材置き場だった。

 近くの町へ向かう門とは正反対に位置するこの場所は、木材や伐採道具などが置かれていて、用もなく来る場所じゃない。

 それはぼくも同じだ。

 普段使う道とは逆な上に、山が見える以外何もないのがこの場所だ。

 実際に来たのは、これが初めてになる。

 

 話に聞いたのだって、カロンがチャンバラのためにここの道具を持ち出そうとして、それはもうこっぴどく怒られたのを聞いたくらいだ。

 

「……………………」

 

 前を歩くオランが止まった。

 …………なるほど、この位置はちょうど積まれた木材の影になっている。

 もしも向こうから誰かがこっちを見ても、ぼくたちがいるとは気づかないだろう。

 

「……内緒話にはいい場所だね。でも早くしないと、カロンみたく怒られちゃうよ」

 

 重い空気を少しでも軽くしようとした、小さな試み。

 その結果は、振り向いたオランの目が教えてくれた。

 

「————————」

 

 オランはぼくを数秒間睨むと、一瞬視線を外して口を開く。

 

「————対等ぶるなよ、しらじらしい」

「え……?」

「アトラの……おまえの友だちごっこはもううんざりなんだよ」

 

 オランの第1声は、ゾッとするほど冷たいものだった。

 外された視線が、もう一度向けられる。

 

 その目から感情を推し量ることはできない。今、オランがどういう気持ちでぼくを見ているのかが、まるで分からない。

 

 自分の心臓の音が、いつの間にか聞こえている。

 拍動に合わせて揺れる視界が、とても気持ち悪かった。

 こんな目を向けられることが気持ち悪い。

 

 そして、こんな感情をオランに向けている状況、この時間が…………気持ち悪い。

 

「オラン……、なにを……」

 

 カラカラのノドとパサパサの舌が、ぼくの声から大切なものを奪っていく。

 

 結果、出たのは届くはずのないかすれ声。

 なんの想いも伝えられないそれは、乾いた音でしかない。

 

「いつもにこにこして、どこか余裕がある感じでさ。上から下を見るような目で見るんだよ。カロンもシルスも、2人とも気づいてないけど、おれには分かるからな! おまえはおれたちを見下してるんだ!」

「ち、違うよオラン……ぼくは誰も下になんて見てない! ぼくは、本当に対等だって……っ⁈」

 

 その視線にノドが閉じる。怒りと憎悪を含んだその目は、ぼくの知るオランのものじゃなかった。

 

「対等——? おれとおまえの、どこが? 聖騎士様が父親のおまえと、おれが⁈ 村がどうなったって生きていけるおまえと、おれが⁈ 好きなものを食べられて、それが明日も続くって決まってるおまえと、おれが⁈ どこが対等なんだよ! おい! どこが⁉︎」

 

 オランから浴びせられる言葉が、感情が、頭の中に組み立てられた反論の言葉を粉々に砕いていく。

 何度も何度も砕かれ、大きく揺さぶられた心は、いつの間にかすっかり縮みあがっていた。

 

「カロンがおれにあやまるとき、なんて言ったと思う? 『悪かった。おまえがふつうだった』だってさ! ふつうってなんだよ‼︎ じゃあ3人は特別なのかよ⁉︎ おまえがなにか言ったんだ‼︎ カロンがあんなこと言うなんてぜったいない‼︎ カロンとシルスだけは対等だったのに……おまえにあってから2人がおかしくなったんだ‼︎‼︎」

 

 もう、聞きたくない。

 その視線も、声も、怒りも憎悪も全部…………ぼくの後ろの誰かに向けられたものならどんなにいいか…………。

 

 温厚な性格をしたオランをこんなにも怒らせた誰か、そんな誰かがいたのなら、きっとぼくはオランに味方をして糾弾するだろう。

 一体なにをしたのかは分からないけど、あのオランにこうまで言わせるのは、余程のことに違いないんだから。

 

 自覚なく、うっかりでしたなんて言い訳はあり得ない。

 

 あり得ない……………………はずなんだ……。

 

 こうしている今も、オランは刃を吐き出し続けている。

 

 その度に、今までのぼくたちの思い出がイビツな形に歪んでいった。

 

 向けられる刃すべてが痛すぎて…………。

 

 …………ただ吐き気だけが増していった。

 

 オランの口は閉じることがなかった。

 溜めてきたあらゆるドロドロとしたものを吐き出して、そのすべてがぼくを汚した。

 

 オランの感情の濁流は分かりにくくて、流れも順番もなく、支離滅裂だった。

 お前は自分たちを対等に見ていない、見下してると責めたかと思えば、その次には「おまえみたいになんでもできて、なんでもそろってるヤツから対等に扱われるおれの気持ちがわかるか」と、対等に接してきたのを認めるようなことを言う。

 

「惨めなんだよ……おまえといると……」

 

 終わりの方でオランの言った言葉。

 それまでと違って、絞り出したような小さくかすれたそれだけが、なぜか頭に深く刻まれる。

 

 それまで登ってきていた吐き気は嘘みたいに消えて、その代わりとでも言うみたいに、涙が溢れて止まらなかった。

 

 今まで聞いたどの言葉より、本心からだと分かったから。本当に苦しいのが、分かってしまったから。

 

「…………それでも、これが全部おれのカンちがいっていうなら……」

 

 オランの右手がゆっくり動き、ポケットからなにかを取る。そして何かを握った右手が突き出され、静かに開いた。

 

「……石?」

 

 オランの手に乗っていたのは、石だ。

 なんの変哲もない、ただの石に見える。

 

「これは……?」

 

 とまどっているぼくに、返事はすぐに返された。

 

「宝もの……おれの1番の宝ものなんだ」

 

 それだけ言って、オランは口を固く閉じる。

 …………どうやら、次はぼくの番らしかった。

 

 ここでどう答えるかで、オランは何かを見極めるつもりだ。それだけは、雰囲気で伝わってくる。

 ぼくは必死に考えた。ただの石に見えるそれの正体を見切ろうと、穴が空くほど凝視した。

 

「————————」

 

 今まで得た知識を総動員する。

 ただの石が宝ものになることはない。なら、これの正体は何かの原石だろうか?

 重さは分からない。けどもしも何かの原石であれば、1番の宝ものと言えるだけの価値を持つもののはず。

 ある程度希少で高価なもの……。

 …………いや、そんなのを持てるとは思えない。町で買うにしても、生きる上で役に立たないものを買うような余裕はないはずだ。

 

 なら……………………。

 

「……セツカ鉱石の、原石……かな?」

 

 セツカ鉱石は、ゆっくりと力を加えると光を放つ特性を持った鉱石で、町では携帯できる明かりとして重宝されている。

 パッと見ただけでは原石と石ころとの見分けはつかず、衝撃を与えて光るかで見分けられると読んだことがあった。

 

『近くの山にセツカ鉱石が見つかってな、新たな村の産業に出来るかと村長さんが期待しているんだが……なかなか厳しいだろうな』

 

 ぼくがもっと小さい頃に聞いた、お父さんの声が思い出される。

 この記憶が確かなら、オランが山で拾うことだってあり得るはずだ!

 

 ぼくは頭の中で何度も誰にでもない自己弁護をして、祈る気持ちでオランの答えを待った。

 

 …………………………………………沈黙がながい。

 

 息が苦しくなってきたことで、自分が息を止めていたと気づいたとき、答えは返された。

 

「……………………やっぱり、ちがうじゃん」

「————————」

 

 なにも 言えない 。

 

 それでも、オランは続ける。

 もうぼくのことは見ていない。

 

「ただの石だよ、これ。はじめて川に連れて行ってもらって、そこで拾ったんだ。たくさん持って帰れないからって、1番カッコいいヤツを選んでもらって」

 

 突きつけられた正解。

 ぼくのそれとは、まるで違う。

 なんて、見当違いな…………。

 

「ふつう……こう思うんだ。石が宝ものって言ってたら、じゃあなにか思い出があるんだなとか、大事な人にもらったのかなとか、そう思うもんじゃんか」

「そんなの……分からないよ」

「そうだよな。おまえはそうだよ。でも、2人なら分かってた」

 

 オランの視線は合わされない。

 もう、2度と合うことはないという諦めも湧いてくる。

 

 帰りたい。帰って、ベッドの上で包まって、みんな忘れて眠ってしまいたい。

 

 身体に冷たい虚脱感が広がる。

 それに抗う気は起こせなかった。

 

「うらぎったのはおまえだからな。おまえはおれたちにとって、百害あって一利なしだ」

 

 フッと、力が抜ける。地面の冷たさをお尻に感じて、視界が影に覆われる。

 

 気力の限界だった。

 心が強制的に聞くのを辞めさせるように、感覚は遠く落ちていく。

 

(『百害あって一利なし』なんて言葉、オランが知ってたんだ…………)

 

 浮かんだのは、オランの意外な語彙に対する、場違いな感想。

 

 その感想はまさに上からで————

 

(なんだ……オランが正しいじゃないか————)

 

 ————そんな自分に嫌気がさして、ぼくは意識を手放した。

 



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逃避の先で

 

 オランとの決別から数ヶ月。

 季節は変わって春を迎えて、それと同じくらいにぼくたちの距離感も変わった。

 

 あの日意識の底に逃避したぼくは、自室のベッドで目を覚ました。

 意外なことに、オランが大慌てで村の人たちに助けを求めたらしい。それも、泣き、取り乱したようすでなんていう信じられないことも聞いた。

 

 当然、ぼくはお母さんから説明を求められた。心配してたんだと思う。けど、ぼくはただの立ちくらみで通した。

 心配するお母さんが何度本当のことを聞こうとしても、頑なに「疲れ」と、それが蓄積したことによる「立ちくらみ」としか答えなかった。

 

 そんな様子を離れて見ていたお父さんが発っする静かな怒気にすら耐えて、ぼくはそんなウソをついた。

 

 オランに助けられた。だからって、やっぱり仲直りできるんじゃないか思うようなことは、さすがにない。

 ぼくはもう、オランの気持ちを知っている。

 いやと言うほどに聞いたんだから。

 

 それからのぼくは、カロンたちと会う回数は減り、言い訳のように鍛錬に励んだ。勉強熱心になったことを、お母さんはにこやかに喜んでいたけど、お父さんの表情は固かった。

 それでも、ぼくが話さない限りはなにも聞かないでくれて、鍛錬も本気で付き合ってくれた。

 

 そして、ぼくはもう13歳になっていた。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 あれからぼくはみんなと距離を置き、代わりに鍛錬のない日は狩りに没頭するようになった。

 狩りはお父さんからの教えを実践できる数少ない機会であり、本当の意味で孤独になれる時間でもある。

 今のぼくにはもってこいだった。

 

「…………ふぅ」

 

 そんなぼくは今、樹上から下の様子を注視していた。

 辺りは、春の柔らかな日差しが葉を照らしている。そんな中で、ぼくの周囲だけは影の密度が高い。

 

「……そろそろ修復しないと」

 

 頭上の葉を突つくと、頼りない抵抗感と共に日差しが目に飛び込んでくる。

 すぐに葉を元の位置に戻して、ぼくは小さくため息を吐いた。

 

 ここはぼくの作った樹上基地だ。……と言っても、カロンのほど本格的じゃない。

 たくさんの枝と葉からなる天幕……みたいなもの。

 こうして完成度を比べてみると、カロンの器用さと自分の不器用さを目の当たりにした気分になる……。

 

「いや、完成度なんていいんだ。元からこれは、造りが簡単で、数を作れるのが強みなんだから。狩りの簡易拠点としては合格だよね」

 

 そう自分を慰める。

 だけど、実際この基地を使ってからは狩りの成功率は確実に上がった。

 この基地に隠れるだけで、外からぼくを見つけるのはかなり難しくなる。こうしてジッと隠れて、獲物が下の餌に夢中になったところを————()()で仕留める。

 

 右手の硬く、冷たい感触。

 誕生日にお父さんがくれた真剣だ。

 装飾は最低限のものが申し訳程度に施され、どこまでも頑丈さに重点を置いた無骨なそれは、『剣の最大の役割は敵を斬ることではなく、主を丸腰にさせないことだ』というお父さんの考えをよく表している。

 

「ッ…………」

 

 眼下の光景は変わらない。それでも、空気が変わった。

 これは予感。いつも獲物が来る直前に感じる不思議な感覚だ。

 

 人間関係から逃げて鍛錬と狩りに明け暮れる生活は、皮肉にも、ぼくを確実に成長させていた。すこし前までのぼくならできなかったことができる。感じられなかったものを感じ取れる。

 それを、いつか誇れる日が来るのだろうか……。

 

「————————」

 

 まだ周囲に変化はない。それでも、予感だけは一層強まってくる。

 

 獲物の姿は、まだ現れない。

 集中と緊張だけが、ジリジリと高まる。

 

 そして、唐突にその瞬間は訪れた。

 

「ッ⁈」

 

 獲物は地中から現れた。

 地面が盛り上がり、一瞬姿を見せたかと思うと、すぐに地面に潜る。そして次の瞬間には、まき餌にしていた村の作物の半分が地中に吸い込まれていった。

 

 瞬時に目の前で起きた現象が、これまで読んだお父さんの蔵書と結びつく。

 この特徴的な捕食行動は————

 

「ツノモグラ……!」

 

 口にするより前に、身体はすでに動いていた。

 飛び跳ねるようなムダはしない。

 身を潜めていた基地から、半歩。

 その半歩の重心移動で身体は落下を始め、枝を蹴ることで加速を得る。

 そしてその全てを、地面の一点に叩き込む!

 

「ピギュッ」

 

 手応えと共に、小さな悲鳴みたいな音を耳にする。

 同時に、剣を放して転がることで残った衝撃を逃した。

 

「フゥ~~~~…………」

 

 今回は上手くいった。

 それも、ツノモグラなんて珍しい獲物を相手に。

 

 ぼくは胸を高鳴らせながら、剣身の半ばまでを地面に突き立たせた剣を引き抜く。

 引き抜かれた剣の先の方には、狩りの成功を示す赤色が滴っていた。

 地面を掘り起こすと、血を流して事切れているツノモグラの姿があった。

 その口からは、今しがた地中に消えたまき餌がはみ出している。

 

「ずいぶん食いしん坊だな……」

 

 さっきの不思議な現象は、ツノモグラの魔法。けど、ツノモグラには『魔石』がない。つまり、分類上は魔物じゃないということになる。

 

 こういう魔石も無しに魔法を使う生物は、『魔獣』と呼称されていると読んだ。実際に見たのはこれが初めてで、胸の中を跳ねる興奮と達成感が、さっきから指先を落ち着かせてくれない。

 

「……………………」

 

 これまで読んだ本の記述を思い出しながら、すこし乱暴に獲物の額を布で擦る。

 すると————

 

「わぁぁあ……! スゴイ、金色だ……‼︎」

 

 出てきたのは、キラリとした輝きを返す美しいツノ。螺旋を象るそれは、土を拭い去ると金色の光を瞬かせた。

 

 その名の通り、ツノモグラの最大の特徴は額のツノにある。この小さな魔獣は年齢を重ねる過程でツノの色を変え、産まれて数年は白いそれは、徐々に銀が混ざり、30年もすると完全な銀色に。50年を迎えるころには金の輝きを持ち、そして、100年を超えたところで虹色へ至るという。

 

「——ふッ! よっ! ふんッ!」

 

 ツノを傷つけないように気をつけながら、根本に剣を当てがって踏みつける。

 本にあった限り、ツノモグラのツノはその見た目から装飾品に使われたり、収集家が集めたりと人気が高いらしく、金色のツノはかなり高値で売買されている。

 さらには、粉末にして魔法薬の原料にしたりもするみたいだ。

 

 だからって、別に売るつもりはない。

 ただ、これははじめて魔獣を狩った記念だ。なるべく完璧な状態で持ち帰りたいじゃないか。

 それに、こんなにきれいなツノなんだから、雑に扱って割りたくなんてない。そんなのもったいなすぎる。

 

「——うわっ⁈」

 

 慣れない作業に思いの外手こずりながらも、ついにツノモグラのツノが根を上げた。

 今までと明らかに違う感触に、剣に乗せた足を退けてみると、ツノモグラの額にあった金のツノは、地面の土色の中でキラリと輝いていた。

 

「ぃやった……!」

 

 大声で叫びたい衝動を抑えながら、ぼくは戦利品を頭上に掲げて、枝から見物する小鳥たちに見せつける。誰にでもいい。人間ですらなくてもいい。

 とにかく、自分の成果を誇りたかった。

 

「さて、ツノも回収できたことだし…………どうしよう……」

 

 やりたいことをやりきって、一通り満足したぼくの目の前には、早く帰って戦果を報告したいぼくに「待った」をかけるかのように獲物の亡き骸が横たわっていた。

 

 目の前のツノモグラをどうするか。

 

 モグラ——それも、魔獣の解体方法なんてぼくは知らない。本での記述に照らせば、傷つけたら一瞬で周りの肉をダメにする内臓がある場合もあると言う。

 つまり、適当な解体はできない。

 

 いや、そもそもこの魔獣は食べられる魔獣なのか。

 食べられるとして、美味しいのか。

 お父さんの蔵書のほんの一部とはいえ、これでも読破した本の数はかなりのものだと思う。

 だけど、その中でツノモグラの味について書かれたものなんて、ただの1冊もなかった……。

 

「……………………よし」

 

 結局、ぼくはこのモグラを持ち帰ることにした。

 ぼくには分からなくても、物知りなお母さんなら知ってるかもしれない。狩った者の責任として、食べられる場所を残して置いていくなんてできない。

 それに、実物を持って自慢したいのもあった。

 

 今お父さんは村にいない。

 これは今までもたびたびそうだったけど、ぼくの誕生日のあとから特に増えた気がする。

 その分、家にいる間はつきっきりで稽古をつけてくれる。そして、お父さんのいない間の都合の良いときに狩りをするのがぼくの日課だ。

 

 だから、お父さんはぼくの獲ってきた獲物を口にしたことがない。仕方がないとはいえ、それはすこし残念だった。

 

 家にいるときには、いつもぼくの話を興味深々に聞いてくれて、大喜びしてくれるお父さん。

 そんな夕食の主菜として自分の戦果を出せればと、そんなことをいつも考えていた。

 

 そんな考えを、このツノモグラは実現してくれるかもしれない。

 魔獣の肉は傷みにくくて長持ちしたはずだ。

 お父さんが帰ってくるのは、いつもの調子なら数日後。

 それなら、たぶん味も鮮度も保てるはず……。

 

「よっ…………と」

 

 首の後ろと肩に乗せるように担ぎ上げると、見た目以上のズシリとした重さがのし掛かる。

 

「う……きつい……」

 

 これも魔獣だからなのか、見た目から想像する3倍はあるんじゃないかという重さは、途端に帰り道を険しく見せた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 すこし荒くなってきた呼吸を、深呼吸で整える。

 それでも汗は引っ込まない。

 

「迷った……」

 

 周りを見渡しても、同じような並びの木々が囲いを作るばかり。

 慣れてきたからって下を見ながら歩いていたら、見事に迷子になっていた。

 

 そもそも、ぼくは蛇行をしながらも村に向かっていたはずだ。それがいつからか上り下りの斜面が現れて、それがまた平坦に戻ったころには知らない場所を彷徨っていた。

 

 こうなってくると、狩りにあった高揚感もすっかりなりを潜めて、代わりに抑えられていたものが姿を見せてくる。

 

「オラン……………………」

 

 今でも、あの頃に戻れないかと思うときがある。

 やり直したい。あのとき、カロンの秘密基地に誘われたときに、浮ついた気持ちをすこしでも抑えることが出来ていれば…………今こんなとこで心細くならずにすんでいた。

 

 オランを泣かせなかったし、ぼくも傷つくことなく日々を過ごしていたに違いない。

 

「みんな…………」

 

 会いたい。また会って、遊んで。また明日って、当たり前にやくそくをする。

 

 けど、そんな日々はあり得ないんだ。

 現実は、悪夢にうなされる自分だった。

 

 夢の中で、ぼくはいつもダレカに怒っていた。

 カロンもシルスも、泣いているオランを庇いながら、こっちに背を向けて、向こうのダレカを責め立てている。

 

 そのダレカは、決まって言い訳をして、次第には泣きだして……。

 

 「泣いたからって許されると思うな」

 「気づかなかった訳がないじゃないか」

 「よくそんなことが言える」

 

 ぼくたちはそんなダレカのイイワケには耳も貸さない。

 

 そして、夢の終わりはいつもおんなじ。

 

 そのダレカが顔を上げると…………。

 

 ————それは決まってぼくなんだ。

 

「ッ⁈ 今の…………‼︎」

 

 起きながらに悪夢にうなされそうになるぼくの意識は、聞き覚えのある鳴き声…………いや、()()()に叩き起こされた。

 

「すこし距離はあるけど……いや、ダメだ!」

 

 忘れるなとばかりに、今まで忘れかけていたツノモグラが重さを増す。

 

 そう、今担いでいるのはツノモグラ。その死体だ。

 そしてこの死体は、恨み言でもいうみたいに赤いものでぼくの服を汚している。

 

 鼻の良い()()()()()()が、この匂いに気づかないはずがない。

 つまり、あの遠吠えは…………。

 

「くそっ!」

 

 ツノモグラを地面に投げ下ろして、抜き身の剣を構える。神経は研ぎ澄まされて、視界外の様子を探り始める。

 

「————————」

 

 そのまま身を低くしながら、次の瞬間にはヤツらの咆哮を間近に聞くことになるのではという不必要な妄想が、頭に絡みついて離れない。

 

 そんなぼくの耳に、予想していなかった音が届いた。

 

「——え…………」

 

 音としてはとても小さく聞こえた程度。ひょっとしたら気のせいなんじゃないかと思うくらいに微かな音。

 

 そんな音にこれほど思考が固まるのは、それがオオカミたちの悲鳴だと理解したからだった。

 

「…………………………………………」

 

 ぼくはの足は、本能の打ち鳴らす警鐘を聞きながら、それでも悲鳴のした方向へと向かっていた。



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そして少年は少女と出逢う

 

 走っている間にも、事態は進行している。

 微かに聞こえた悲鳴は大きくなり、怯えの混ざる威嚇の声が響いてくる。

 一歩進むごとに空気には血の臭いが混ざりはじめ、今やとても無視できないほどの悪臭となっていた。

 

「いったいどんな出血量なんだ……⁈」

 

 あまりに濃い臭いに、ついには錆びた鉄の味すら幻覚する。まるで鼻から血を流し入れられている気分だった。

 

 しかし、その発生源に着こうかというところで、不可思議なことが起きた。

 

「っ、…………消えた?」

 

 思わず立ち止まる。息苦しいのを我慢して、鼻で深呼吸をする…………が、やっぱり消えた。

 

「臭いが……しない」

 

 自分がどうにかなってしまったんじゃないかと、かなり本気で疑った。

 けど、事実だ。現にあんなむせる程の悪臭が消えて、体を駆け抜ける悪寒も失せている。まるで最初からそんなものはなかったとでもいうみたいに…………。

 

 理解の追いつかない状況に、一瞬思考が固まってしまう。

 だから、その気配に気づいたとき、まるで突然そこに現れたように見えた。

 

「っ、え————…………」

 

 咄嗟に身構えたぼくの思考は、まるで予想していなかった出来事にまたも固まる。

 オオカミの獰猛な顔や開かれた顎を予想していた視界には、実際は同じ年頃の少女が映っていた。

 

 腰まで下りた黒の長髪。赤のアクセントの似合う上質な服は、見るからに家格の高さを思わせる。

 ぱちりとした大きな瞳は、服のアクセントと似た真紅の輝きを放ち、まるで宝石を思わせた。

 

 相手の存在に驚いているのは、ぼくだけじゃなかった。

 その驚愕の色を隠さない瞳と視線が交差した瞬間、何か無視できないおぞましさと悪寒が湧き起こり…………なぜか次の瞬間には霧散していた。

 

「き……みは…………」

 

 かろうじて出た言葉は、驚愕と緊張の弛緩を器用に両立する、フニャフニャとした声。

 いや、なんかちがう……?

 フワフワとした気分だ。ボーとするけど、不快じゃない。

 警戒心がかき消されてく音が、どこか遠くに聞こえる。

 本能が掻き鳴らす警鐘も、なんだか他人事で、握っているはずの剣の感触も遠い彼方だった。

 

「びっくりしたぁ……なんで気づかなかったんだろ。そもそもルミィナの結界をどうやって…………」

 

 少女は首を傾げながら、何かを懸命に考えている。

 しかし結局答えは出なかったのか、それとも今はどうでもいいと思い直したのか、少女は軽く首を振って思案するのをやめにした。

 

 目が合う。

 

「槍はいっぱいだし……融かすのが1番……かな?」

 

 なにかしら答えが出たのか、少女はスッとこちらに手を向けてくる。

 その眼はいつの間にか、まるで温もりを感じないものに変わっていた。

 

「じゃあね」

 

 ひと言。そのたったひと言を境に、全身を死の気配が叩いた。

 

 ここから一瞬でもはやく脱しなければならないという確信じみた直感が、汗に、震えになって逃走を促す。その直感に従わない理由は一片もない。

 

 なのに……視線が、切れない……!

 赤い瞳を介して、まるで鉛を詰められたみたいに体は言うことを聞かない。

 

 不意に、頭の中にナニカが割り込む。

 

 ————逃げてはならない。彼女はそれを望んでいない。

 

 すぐに汗がひき、震えも止まり、何を恐れていたのかも分からなくなった。

 

 ただ、自分が終わりだということだけを知っている。

 そんな感じ。

 何もかもが空っぽで、無気力な感覚。

 何に抵抗しようとしていたのかわからない。

 抵抗の仕方すらも思い出せない。

 

「————あ」

 

 今にも終わりを迎えようとする視界には、こちらに意識を向けている少女。

 その背後から、禍々しい単眼のオオカミがゆっくりと迫っているのが見えた。

 

 ぼくの知っているあのオオカミよりも、その体躯は一回り大きい。こんなのに襲われたらどうなるかなんて、いちいち考えなくとも分かる。

 

 ——助けないと!

 瞬時に浮かんだ考えは、身体に届く前に遮られた。

 

 ————彼女はそれを許していない。

 

 頭に割り込むそのナニカは、すぐに思考を止めようとする。

 こうしてる間にも、あのオオカミは少女へと近づいている。そのひとつだけの瞳を憎悪に染めて、確実な間合いまでにじり寄ろうとしている。

 いまだ……いま、動かないと。

 

 ————彼女はそれを許していない。

 

 ……るさい…………。

 

 ————彼女はそれを……、

 

「っ! ——うるさい‼︎」

「えっ⁈」

 

 唐突に、感覚が帰ってきた。

 身体は形を取り戻して、どうすればどう動くのか、考えなくても知っている。

 

 さっきまで自分がなにをしていたのか思い出せないけど、そんなことは後だ。

 

「危ない! ————シッ!」

「グャギャッ⁈」

 

 今まさに飛びかかられようとしていた少女の横を一足ですり抜け、その踏み込みを刺突に繋ぐ。

 その一撃はオオカミの勢いも助けになって、深く首と胸の間に突き刺さった。

 

「ッぷぇぐ⁈」

 

 ただ、それだけじゃ飛びかかったオオカミの身体は止まらない。ぼくは致命傷を負ったオオカミに体当たりされる形で、背中から地面に潰される。

 剣は身体に刺さったまんまで、地面とオオカミに挟まれた体勢でこれを引き抜くのは無理だ。

 

 そして、視界はオオカミの血塗れの顎下を見上げている。

 

 死んだ。

 

 言葉が浮かぶと同時に、自分の頭が噛み砕かれるのを幻視した。

 

「——はぁッ、はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」

 

 息が苦しい。

 心臓は早鐘を鳴らすばかりで、うまく力が入らない。

 まるでオオカミを跳ね除ける力を、心臓を動かすことに使ってしまってるみたいに。

 

 目を硬く閉じる。確実に来る痛みへの恐怖に、必死に抗った。

 

 …………………………………………まだ、痛みはやってこない。

 視界は真っ暗で、耳には低く弱々しい、けれども憎しみのこもった唸り声。

 

 恐る恐る細目を開けると、視界はさっきとほとんど変わってなかった。

 

 唯一の変化は、オオカミの顔が少女の方を向いているという一点だけ。

 魔物に睨まれている少女の表情は、この位置からだとオオカミの顎がジャマで見えない。

 

 そうしている間にもオオカミの呼吸は徐々に弱り、頭はゆっくりと下がってきて…………やがて力尽きた。

 

「うっ! ふんぬ! この……!」

 

 力尽きたオオカミに完全に塞がれた視界。

 なんとか抜け出そうとしても、疲れと安堵で参っている体だと難しい。

 

 重い身体に胸が圧迫されているせいで息が苦しいのも、うまく力が入らない原因の一つだった。

 

「ぐぅぅ~~~~~~…………ったはぁ! ふんっ~~~~————ぅおあ⁈」

 

 なんとか抜け出そうと悪戦苦闘している中で、いきなり体にのしかかっていた重さが消えて、視界が明るくなる。

 

 圧力が急になくなって肺が驚いたのか、ぼくは状況の確認もよそに何度もむせた。

 

 すこし遅れて、重量を感じさせる音が頭上に聞こえて、同時に小さな振動を感じる。

 見上げるような姿勢で視線を向けると、あれだけ重たい身体のオオカミが、石ころでも投げたような離れた位置で横たわっているのが見えた。

 

 その姿はとても不自然なもので、まるで本当に放り投げられたみたいで……。

 

「…………あっ、そうだ!」

 

 呆けている場合じゃない。

 あの子だ。

 魔物に襲い掛かられて、睨まれて……きっと怯えてる。

 どんな言葉をかければいいのか分からないけど、ぼくと同じ迷子なら放っておく訳にはいかない。

 

「……………………」

 

 その子は、探すまでもなく目の前にいた。

 肘をついて上体を起こした状態のぼくと、その目が合う。

 

「だい、じょうぶ……?」

「………………………すごい」

「……あの、……え?」

「すごいすごい! 私の『眼』も破って、助けようとしてくれたんだ!」

 

 突然、その子ははしゃぐ子供のような声で、何かを喜んだ。そこには人形みたいな無機質な雰囲気はなくて、見た目以上に幼くすら思えるほどの純真無垢な女の子がいた。

 

 女の子は機嫌をそのままに、グイイと体ごと近づいてくる。その距離感に、ぼくは挙動不審にならないように努力しないといけなかった。

 

「ね、ね! 『邪神』って聞いてどう思う?」

「っ……、それ『偽神』のこと? ……その呼び方はやめた方がいいと思うよ。ぼくは平気だけど、そうじゃない人の方が多いし……こわい思いをすることもあるから……」

 

 嫌な思い出を浮かべながら、ぼくは少し咎めるような視線を向けた……つもりだった。

 けど、当の本人はむしろ、どういうわけか瞳を輝かせている。

 

「……ん?」

 

 その瞳の色は、黒。

 それに、一瞬違和感を感じたのは……なんでだろう?

 何かが違うような……。

 珍しい色だったから?

 いや、珍しいけど、見たことがないことはない。

 

 その違和感に意識を向ける前に、女の子が口を開いた。

 

「わぁ! やっぱり洗脳もされてないんだ!」

「————————」

 

 その言葉に、心臓が跳ねた。

 洗脳。今の問いかけといい、その言葉といい……この子は知っている。

 なんでそんなことまで知っているのか。

 

 少女はいたずらが成功したような表情で、悪意ひとつない顔を向けてくる。

 逆にぼくは、隠しておくべき悪事がバレたような、嫌な感覚がした。事実を知りながら、黙っている共犯者のような罪悪感が刺激されたのだ。

 

「…………キミは……?」

 

 その問いは、ぼくの口から勝手に漏れたものだった。

 普通超えてはいけないラインを軽い調子で踏み越える突拍子の無さや、ぼくが強い衝撃を受けた『洗礼』の事実を知っている得体の知れなさ。

 そんな、どこからなにを訊けばいいのか分からない中で漏れ出た問いに、少女は満面の笑みで答える。

 

「ルカ! それが私の名前だよ」

 

 胸を張って、宝物を自慢するように名乗った少女。

 

 ぼくとルカの出会いは、こんな奇妙なものだった。



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『ルカ』

 

 不思議な少女『ルカ』との森での一件からはや3ヶ月。

 彼女との出会いは、ぼくにとっては救いとなる出来事だった。

 

 セトナ村は、誰かと距離を置くには狭すぎる。

 ぼくの村内での行動は、どうやっても村人の知るところになる。当然、オランたちにもだ。

 

 そうなると、そこにはいないオランやみんなの視線を感じるようになっていった。

 これは、少し前の頃と同じだ。

 避けたい相手が変わっただけで、結局逆戻り。

 

 だから狩りに行く足取りは、常に何かから逃げるようなものだった。

 

 ————けど、今は違う。

 

「……弓、矢と……剣もよし!」

 

 身支度はバッチリ。

 服も、これなら多少は汚れていいというお母さんのお墨付きだ。

 

「じゃあ、行ってきまーす!」

「気をつけなさいよ? 前みたいに暗い中で帰って来たら————分かってる?」

「ハイ……ごめんなさい……」

 

 お母さんの釘は、うわついた心にしっかりと突き立った。

 

「——ん?」

 

 ふと視線を感じて顔を上げる。

 すると、薄い金の髪をお気に入りの髪飾りで装飾したアリアが、階段の上から顔をのぞかせていた。

 

 笑顔で手をひらひらと振ると、アリアは素っ気なく引っ込んでしまう。

 ————と思ったら、またひょこりと顔を出して、「ベーっ」としてから引っ込んでしまった。

 

「まだ怒ってる……」

「ああなるとアリアは長いわよ? どうやって機嫌を取るか、よーく考えておきなさい」

「はい……」

 

 ある事件をキッカケに、今のアリアからの好感度は絶賛下降中。つい先日までは遊んでアピールをしていたアリアからのつれない態度は、なかなかクるものがあった。

 

 ぼくはややうなだれながら、お母さんに背を向ける。

 そして玄関の()をはずして外にでる。

 

「うい……しょ!」

 

 重量のあるその()を、玄関の扉のあった場所にはめ直す。これも、ぼくがアリアを怒らせた事件の副産物だ。

 ついでに、ここ数日お父さんが村にいない原因でもある。

 

「さ、行こう」

 

 気持ちを新たに、ぼくは新しい友達を頭に浮かべながら家の門を押し開けた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「お、弓の名手様じゃんか。まーた狩りかよ」

 

 村の正門を抜けて森に向かおうとしたところで、懐かしさを感じる声が聞こえた。

 しばらくぶりなのに、その声にはまるで昨日も会ったような軽さと、変わらない親しみがこもっている。

 

「カロン……!」

 

 振り向いたぼくに「よっ」なんて手をあげるカロンは、なんだか少し大きくなった気がした。

 

「なんか……背が高くなってる?」

「まあな。なかなか伸びないと思ったらようやくだ。この調子で父ちゃんを抜いてやれば、そうゲンコツもやりにくいだろーぜ」

「あはは、レガンさんを超えるにはまだまだ時間がかかりそうだね」

「いーや! 冬が来るころには抜いてるぜ! おまえのおかげで最近は肉もよく食うしな」

 

 ここのところのカロンは、父であるレガンさんと一緒に自警団の仕事や訓練に参加しているらしい。

 体が大きくなったのは身長だけでなく、筋肉も含めてのことだった。

 

 笑う顔も、どことなくレガンさんに似て来た気がする。

 

「おっそうだった。——ありがとな、アトラ」

「え、なにが?」

「いや、少し前に……あれだ、あーー、…………名前は忘れたけど、なんとかって魔獣の肉をくれたの、アトラなんだろ? 母ちゃんが言ってた」

 

 カロンの言葉で、頭にモグラの魔獣が浮かぶ。

 

 ルカと初めて会った日の帰り、ぼくはルカの指さす方向へと進むことで見覚えのある獣道へと出て、無事に村へと戻ることができた。

 ツノモグラもその道中で回収して持ち帰ったは良いものの、思ったほど保存がきかず、ぼくはしぶしぶいくつかの家におすそ分けをしたのだった。

 

 カロンが言うのは、その件だ。

 

「あれ食ってから何日かして足にだるい痛みが出てよ。母ちゃんが言うにはデカくなるときに出る痛みらしい。絶対にあの肉のおかげだろ?」

「うーん……」

 

 ツノモグラの肉にそんな効果があるとは聞いたことがない。もちろん、読んだこともない。

 

 たぶん微妙な表情を浮かべているぼくに、そんなことは気にせずに感謝の言葉を述べるカロン。

 とりあえず、ぼくはあいまいに頷くことで返事とした。

 

「悪いな、引き留めて。久しぶりだったからつい、な」

 

 お互いに話が盛り上がってしまい、ちょっとした挨拶は思った以上に長くなっていた。

 バツが悪そうに頭をかくカロン。

 だけど、当然遅くなったのはカロンだけのせいじゃないし、謝罪されるようなことでもなかった。

 

「いいよ、久しぶりに話せて楽しかったし。それに、こんな程度の時間じゃ狩りにも影響ないから」

「うそつけ。狩りでは1分の遅れがその後の100分に影響するって村長のじいさんが言ってたぜ?」

「あはは、クワンさんは達人だからね。ぼくはもっと気楽な方だから」

 

 大げさというか、あんまりにも狩りへの意識が違う言葉に苦笑する。普段のいかにも好々爺然としたクワンさんは、こと狩りのことになると昔に戻ってしまう。

 最近、狩りから戻るたびに獲物を持ち帰るぼくに対して、何かと技術を伝授しようとしてくれるようになったけど、なんというか、気迫がすごくて緊張してしまうくらいだった。

 

 久しぶりの会話を切り上げて、お互いに手を振って別れる。カロンは村の中へ。そしてぼくは、森の中へ。

 

 森へ入る手前で、一度振り返る。

 門の前には人影はなかった。

 さっきまでの会話を思い出して、楽しかったという想いと共に、胸に少しの痛みが走った。

 

 カロンは、鍛錬や勉強が忙しいからと誘いを断り続けているぼくに、表面上は今まで通りに接してくれる。

 けど、忙しいと言いながら、たびたび行く必要のない狩りに出かけているぼくを……どう思っているんだろう。

 

 ぼくは狩りから帰るたびに、獲物は村のみんなへ分けている。村の人たちは感謝してくれているけど、それだって『ぼくのやっていることは村に利する行為ですよ』という言い訳みたいなもので、その動機を思えば偽善以外の何者でもない。

 それが、いつかオランのときみたいに暴かれる日が来るんじゃないかと……勝手に怯える日々だ。

 

 込み上げてくる罪悪感。

 それが身体を重くする前に、ぼくは森へと足を踏み入れた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「……………………はぁ」

 

 いつものように腰のポーチからエサを撒き、自作の天幕に隠れて獲物を待つ。

 けど、どうにも今日はダメだった。

 

 森の雰囲気が……どこか違う。

 どこが違うのか具体的には分からないし、一見森の様子もいつも通り。

 だから、初めはおかしいのは自分かと疑った。

 内心の揺らぎが、そのまま気配に出ているのかと。

 

 ただ、やっぱりそれも違う。

 なんとなく言葉にするなら、怯え。

 森にある生き物の気配は、どこか恐ろしいものから隠れたがっているような……そんな怯えを感じる。

 

(誰か先客がいたのかな?)

 

 規模は違うけど、以前にも似た経験がある。

 獲物を仕留め損ねて、派手に追いかけっこをしたときがそうだった。

 最終的には、なんとか獲物は仕留めたけど、当分森の動物たちは姿を表さなくなった。

 

 ただ、そのときはここまでの静けさにはならなかったけど……。

 

「うう~……ん」

 

 大きく伸びをして、固まった体に血を巡らせる。

 

 長いこと同じ姿勢で息を殺しているけど、集中力はとっくに尽きていた。

 いい加減にしびれた痛みを背中が訴えて来たころ、ぼくは獲物を諦めて、手ぶらで帰ることを受け入れた。

 

 本当はもう3時間は粘りたい。

 手ぶらで帰る日が続くと、『ぼくのやっていることは村のためになっています』という建前がグラつく。

 そうなったら、カロンかシルスから誘いがかかったとき、ぼくには断りきれない。

 誘われた先には当然、オランもいるはず。

 どんな空気の中で過ごすことになるのか、考えたくもなかった。

 

「けど、もうそろそろ行かないと」

 

 ぼくは樹上の天幕から降りて、まき餌をあらかた回収し、森の奥へと足を進めた。

 

「あ——」

 

 しばらく森の傾斜を進んでいると、視界が開けたような開放感を感じた。

 辺りの空気が変わる。

 こうなると、ルカのいる場所までは近い。

 

 そこからさらに歩いて数分、森に穴が空いたみたいに開けた場所が出現する。

 その真ん中にある大きな樹に、背中を預けている人影。

 

 その人影は、ぼくが来るのが最初から分かっていたみたいに、こっちに手を振っている。

 

 ぼくは新しい友だちに手を振りかえして、大樹の根まで駆け寄った。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 今日のルカは、白と黒のシンプルな服装だった。

 けど、ルカの黒い髪と白い肌には、いつものどこか優雅な服装よりもしっくりくる。

 ただ、やっぱりその生地は上質で、天真爛漫な少女に気品を感じさせた。

 

「どうしたの?」

「へ?」

「私の服装、変かな?」

「っ、いや! むしろその逆で……その、似合ってると思って……」

 

 ルカとの会話は、そんな恥ずかしいやり取りから始まった。目を輝かせて、しきりに服の感想を掘り下げようとするルカをどうにか躱しながら、やがて話題は今日の狩りについてへと向かった。

 

「へー、じゃあ今日はうまく行かなかったんだ?」

「うん。やっぱり狩りって難しいな……。最近は上手くいくのが連続してたから、ちょっと楽観してた」

 

 2人並んで、ゆっくりとした時間を過ごす。

 ルカとの会話は、基本的にぼくから話題を振り、それにルカがアレコレと思ったことを口にするのが多い。

 そのせいもあって、会って3ヶ月が経つのに、ぼくはルカのことをほとんど知らない。

 

 この3ヶ月で持ったルカへの印象は、とにかく不思議な子だということだけだった。

 村の誰もが知っているような常識が、ルカはたまに初めて知ったという態度を取る。

 かと思えば、ぼくも知らないような、いったいどこで得たのかも分からない専門的な知識を持っていて、それをぼくが当然知ってる前提で話すこともあった。

 

 一度、気になってきいてみたことがある。

 

『ルカは色々な難しいことを知ってるけど、どこで知ったの? ぼくみたいに、やっぱり本を読んでとか?』

『ううん、違うよ。あのね、ルミィナが教えてくれるの』

『ああ……そっか。先生みたいな人なんだっけ?』

『うん! あとね、お母さんみたい。ルミィナってすごく優しんだよ————』

 

 その後、しばらく続いた『ルミィナ』が如何に優しく面倒見がいい人かという話を聞きながら、ぼくは知識の出所を話す気がルカにはないんだと悟った。

 

 だって、『ルミィナ』なんてあからさまな偽名だし、ルカの話を真にうけるなら、ルカは神域の魔法使いである【魔女】の1人から教えを受けていることになる。

 さすがにそんなことはあり得ない。

 

 それ以来、ぼくはルカに関しては本人が口にするまでは訊かないことにしていた。

 

 そんなルカは、ぼくの狩りの失敗談を聞いてなにを思ったのか、急にパッと立ち上がり、大樹の幹の反対側へ手招きしてくる。

 

「ね、アトラ。こっちこっち」

「?」

 

 ルカの突然の行動や言動は、結構いつものことだった。

 ぼくは特に抵抗もしないで腰を上げる。

 

 2人で両手を広げても全然足りないほどの大樹。ぼくが心の中で『森の王様』と崇めているその幹の反対側に来て、飛び込んできた光景に絶句した。



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嫉妬と焦燥

「ジャーン!」

 

 ルカの導きで大樹の裏に回ると、なんだかとんでもないものがあった。

 

「どう? カッコいいでしょ!」

「な……に、これ……」

 

 最初、それがなんなのか分からなかった。

 太くて厚い、深緑の壁。

 自分の身長の倍近くあるんじゃないかというほど巨大な金属塊。

 

 それがどんな用途で使われるものなのかは、視線を上げると分かった。

 信じられないけど、持ち手がある。

 

「け、剣……だ」

 

 見上げるような巨剣は、自分の重さで沈み込んだみたいで、立てかけられた大樹にその#軌跡__きずあと__#が重々しく残っていた。

 

「うん! これならアトラも勝てるでしょ?」

「………………」

 

 目の前の光景を処理できてないのに、ルカは何か言っている。

 勝てる? 何が? ぼく? 誰に?

 

 頭の中の混乱が顔に出ていたのか、ルカは言葉を付け足す。

 

「だから、アトラ言ってたでしょ? いつもお父さんにすぐ負けちゃって自分が情け無いって。でもいつかは勝って、胸を張るって」

 

 その言葉で、いつかの記憶がよみがえる。

 そうだ。たしかにぼくは、ルカにそんな話をしていた。

 

「アトラのお父さんがどんな人かは知らないけど、でも人間でしょ? じゃあ、これでアトラの勝ちだもん!」

 

 やったね!なんて言いながら、ルカはとびきりの笑顔を向けてくれる。

 

 ぼくはその笑顔を前に、そういえば、ルカにはお父さんが聖騎士だって言っていないことを思い出した。

 

 『ぼくのお父さんは聖騎士です!』

 

 それが凄まじい自慢話で、人によっては嫌うのに十分な理由になることを、ぼくは思い知っている。

 第一、お父さんのことを話すと、どうやっても自慢気になっている自覚があった。だって、お父さんはぼくの自慢のお父さんなんだから。

 

 だから、ぼくはルカに対してはお父さんのことをあまり話していないし、これからも誰に対してもむやみに言うことはしないと決めていた。

 

 けど……。

 

「……あ、勝てるって、ぼくがお父さんに?」

 

 大きな頷きが返される。

 え、ほんき……?

 

 つまりルカは、お父さんが聖騎士でもなんでもない人だと思った上でこんなものを持ち出して来たってことに……。

 

「こんなのどうやって使うの……? いや、そもそも、どうやって持って来——」

「? 剣なら、アトラ持ってるよね?」

 

 ぼくの疑問の声は、次のルカの行動に止められる。

 

 ルカは緑の巨剣を、雑草でもむしるみたいに引き抜く。

 ごばぁっ、なんて音がして、沈んだ剣身が地面を捲り上げながらその全容をあらわにする。

 

 ルカはその剣先をつまむと、曲芸みたいに空中で半回転させた。

 

 低い唸るような音。舞い散る湿った土。

 目に入ったそれを涙が落とす頃には、ルカの手には手首よりも太い持ち手が握られていた。

 

「…………………………………………」

 

 ぼくより小さい体が、見上げるような剣を振り上げている。

 そのチグハグな光景に、現実感なんてどこにもない。

 

「みてて! これ、すっごいから‼︎」

 

 はしゃぐような声で、ルカは返事も待たずにソレを振り下ろした。

 

 途端————

 

「————————⁉︎⁉︎」

 

 お腹の底から震えるような轟音が通り抜ける、

 視界は土煙にふさがれて、飛んでくる土が肌に痛い。

 

 目を開くと、地面には綺麗な直線状の溝が深く刻まれていた。

 長い長いそれを目で伝うと、ずっと向こうの樹々が剣の軌跡をなぞるみたいに断ち切られ、ガサガサという大きな音と共に倒れている光景が目に入った。

 

 なんだ、これ……?

 

「——どう? 今日何回か試したけど、すっごく楽しいの!」

 

 空気をかき混ぜる音を立てながら、持ち手がズイと差し出される。

 

「……………………」

 

 ぼくは、朝から感じていた違和感の原因を目の当たりにしながら、首が飛ぶくらい思いっきり首を振った。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 風が吹く。

 隣でルカが動く気配。

 それにならって、ぼくも少しお尻を動かした。

 

 例の剣は今、その厚みを活かして座椅子代わりになっている。硬い座布団の座り心地は、あまり良いとは言えないけど、ルカは平気な顔で座っている。

 だから、自然とぼくも座っていた。

 

「アトラよろこぶと思ったんだけど」

「はは……持てないよ」

 

 用意したプレゼントを受け取らないぼくに、ルカは不満そうな顔だった。

 

「それにしても、ルカは魔法が使えたんだね」

「? なんで?」

「いや、だってこんな重たいものを扱えるなんてさ。魔法くらいしか思い浮かばないよ。……いや、この剣がそもそも魔道具だったらあり得るか。どう見ても魔剣だもんね」

「…………ん、ああ、うん! 魔法! 魔法師、だから、魔法だよ?」

 

 明後日の方向に目を泳がせるルカ。

 その態度は不思議だったけど、とにかくルカは魔法が使えるらしかった。

 

「すごいや、ルカは……」

 

 知らず、落ち込んだ声になってしまう。

 ルカは不思議そうに、ぼくの顔をのぞき込んでくる。

 

「アトラは使えないの?」

 

 その声になんだかすごく意外そうな響きがあって、ぼくはルカと目を合わせた。

 

「うん。使えないけど……なんで?」

「だって、アトラここに来れてるから。……ああ、もしかして——」

 

 ルカは口を閉ざすと、真剣な眼を向けてくる。

 心なしか、なんだか距離が近い気がする……。

 

「んー、見えないよ」

「ベゥッ」

 

 気恥ずかしくなって目を逸らそうとするぼくを、ルカは許してくれなかった。

 

 頬を挟む両手。

 視線は正面から逃してくれない。

 あと、やっぱり近い。

 ジリジリと、耳の後ろが熱くなってくる。

 

 これは……とても恥ずかしい…………。

 

「————うん、やっぱり」

「へ?」

 

 ルカの体が、前ぶれもなくパッと離れる。

 あんまり当然だったから、さっきまで触れられてた頬が少しだけさみしかった。

 

 そんな気持ちを顔に出さないようにしながら、ぼくはルカに今の言葉の意味を訊いた。

 

「やっぱりって、なにが?」

「アトラは眼がいいってこと! 珍しいよ?」

「…………? えーと、ぼくは魔法を使えないって話は?」

「使えるよ。今は気づいてないだけ。お母さんとかお父さんはどう? 魔法、使える?」

 

 その質問に一瞬迷って、答える。

 

「……うん。2人とも——あ、お母さんはあまり使えなくなったらしいけど、2人とも使えた」

「じゃあ使えるね。魔力の量はお母さん。どんな魔法が使えるかは、お父さんの影響が強いんだって。ルミィナから聞いたんだ」

「へー……」

 

 改めてルカの知識量に驚かされながら、実際のところ、ぼくはいつかは魔法が使えるようになるとは思っていた。

 なぜなら——

 

「魔法が使える日が来るとは思ってるよ。ただ、すこし焦ってるだけで……」

「なんで? 待っていればいいのに」

「ぼくは行きたいところがあって……それに間に合って欲しいし。あと……妹はもう、使えるんだ……」

 

 そう、アリアはもう魔法が使える。

 ぼくが焦りを覚えるのは、修道院の件もあるけどそれ以上に、アリアに先を越されているのが大きい。

 妹の成長を前に、単純に喜ぶだけでいられない自分がいて、ぼくはそんな自分がほとほと嫌だった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 その日は、朝からのお父さんとの鍛錬も終わって、ぼくは勉強の休憩がてら、庭にいるアリアを眺めていた。

 アリアは今日も、日課の水やりをしている。

 

「……………………」

 

 そんな姿をぼーと眺めていると、思考は自然とアリアについてのことになっていた。

 

 アリアはぼくよりももっと大人しい。

 いや、大人しいというのは違うか。あんまり話さないだけで、実際は年相応に好き嫌いをするタイプだ。

 好奇心も強い。

 

 最近は色々な匂いに興味があるみたいで、いつぞやはぼくの部屋中を荒らしまわって、匂いの気に入ったものを持っていってしまった。

 狩りから帰ったぼくを迎えたのは、ぐちゃぐちゃに物の散乱した部屋と、枕のなくなったベッドだった。

 

 そんなアリアの1番のお気に入りが、あの花壇。

 お母さんと一緒にいないとき、アリアは大抵あそこにいる。

 

「ん……?」

 

 ふと気づくと、アリアは花壇から離れてこっちを向いていた。小さい手が、ぼくを呼ぶ。

 

「なんだろ? 久しぶりに遊んで欲しいのかな?」

 

 本を読み聞かせることは今までにもあったし、それをせがまれることも、珍しいけどない訳じゃない。

 けど、今日みたく外に呼ばれるのは初めてだと思う。

 

 手を振り返すことで返事をして、とりあえず下へ降りてみる。玄関の扉は開けっ放し。

 よくお母さんが注意するけど、アリアに改善の兆しはなさそうだ。

 

 外に出て、扉を閉める。

 さわやかな空気と、温かさをもった花の香り。

 それを胸いっぱい吸い込みながら、視界の端に閉めた扉の装飾が見えた。

 

 玄関の扉は両開きの、そこそこ立派なものだ。

 なんでも、この家が造られるとき、お母さんが唯一口を出したのが、この扉らしい。

 ぼくには詳しいことは分からないけど、木目がきれいで、気品のある蒼に銀の装飾がイヤミにならない程度に施されている。

 

 じっくり見たことがなかったけど、よく見ればいいものなのかも知れない。そんな気がしてくる。

 

「おにーちゃん」

「ん、ああ。お待たせアリア。呼んだよね?」

「こっち」

 

 招かれるまま、ぼくはアリアがお世話をしている花々を前にする。

 花には詳しくないけど、最近すごく元気になったような、ツヤがある感じがする。アリアがそれだけお世話を頑張っているんだろうし、もしかして才能があるのかもしれない。

 欠点を探しても、小さく葉に虫食いがある程度だ。

 

「今からやるのは、2人のひみつね」

「ん? うん、分かった。内緒にするよ」

 

 ほのぼのとした気持ちで花を見ていると、不意にアリアが両手を前へと突き出す。

 

 お母さんから、何か秘密のおまじないでも教わったのかな?

 優しい言葉をかけてあげると良く育つと聞くし、おまじないの言葉も意外と効き目があったりして。

 

 そんなことを、やっぱりのほほんと考えていたぼくの思考は、すぐに吹き飛ばされることになった。

 

「————」

 

 アリアが瞳を閉じて、1秒。

 アリアの手元に、ナニカが出現した。

 柔らかな光を放つそれは、キラキラとした細かな霧となって花壇を覆う。

 

 見れば、いくつかあった虫食いは、痕も残さず消えていた。

 

「……………………」

 

 呼吸も忘れて、目の前の現象に固まる。

 

 数秒間、キラキラとした『霧』の残滓がその場に漂う。それも空気に溶けるように消えてから、アリアは誇らしげにこっちを見た。

 

「…………………………………………え——?」

 

 マ……ホウ?

 

 いや

 

 いやいやいや

 

 え

 

 アリアが、魔法……………………、魔法を使った————ッッ⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎

 

「えェぇエエぇえええええッ⁈⁈⁈⁈」

 

 叫んだ。

 在らん限りに、それはもう全力で。

 ぼくも驚くくらいの金切り声で。

 

 人によっては悲鳴と捉えるくらいの叫び声を、お父さんはやはり、悲鳴と捉えた。

 

「どうしたアトラァ‼︎⁉︎」

 

 爆発みたいな音と共に、砕けよと蹴り飛ばされた両開きの扉。

 飛び散る木片。

 

 お父さんは息が苦しくなるくらいの威圧感を撒き散らしながら、庭に出る。

 そして、事態を把握するなり、その威圧感が消える。

 

「————————て……」

 

 お父さんに見られたアリアの表情を見て、ぼくは自分の失態に気付いた。

 けど、もう遅いし……仕方ないじゃないか……。

 

「天ッ才だああぁああ⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」

 

 一瞬で抱きしめられて、もみくちゃにされるアリア。

 そのほっぺは不満げに膨れて、視線は一瞬で秘密を破った裏切り者へと向けられていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「ふーん。じゃあアトラは妹さんに先を越されちゃったんだ」

「……うん」

「それに嫉妬してる自分もヤなんだ」

「…………うん」

 

 言ってもいない痛い部分を、ルカは的確に突く。

 焦りがあるのは本当で、けど本当に苦しいのは、アリアに対して一瞬でも『ずるい』なんて怒りを覚えた自分に気づいたことだったりする。

 

「う~ん……と——」

 

 沈むぼくを見て、ルカは何かを思い出そうとするみたいに虚空を見つめる。

 ぼくもなにかを話す気分じゃなくなって、それきり沈黙が続いた。

 

 しばらく自分の中のモヤモヤと向き合っていると、ルカがパンッと手を叩いた。

 どうやら何かを思い出したらしい。

 

「思い出した! アトラ、魔法使える様になるよ」

「……もしかして、『覚醒法』のこと?」

 

 自分の魔力に気付き、その感覚を獲得する方法。それが『覚醒法』だ。

 ルカはそれを試せばどうかと言いたいんだと思うけど、それなら今まさに試している。

 

 最も一般的な方法である、魔法に関する学習と理解の過程で感覚を得るという『修学覚醒法』。

 ぼくがずっとやっている方法だ。

 

「うん、でもたぶんアトラが思ってるのとは違うよ」

 

 言い当てられたはずのルカは、得意げな態度を崩さない。他の覚醒法を試せってことかな?

 

「ルミィナが言ってたの。1番はやく覚醒できるのは『治癒覚醒法』だって」

「…………チユカクセイホウ?」

 

 ルカの口から出たのは、ぼくの知らないものだった。

 首を傾げるぼくに、ルカはその詳細を語り出す。

 

 最初は話半分に聞いていたぼくは、それを聞き終わる頃にははやる気持ちを抑えられず、気が付いたら早口でお礼を済ませて全速力でもと来た道を走り抜けていた。

 

「またね~! 魔法が使えるようになったら見せてー! あんまり遅いと迎えに行っちゃうからー!」

 

 背後のルカの言葉は、魔法のことでいっぱいの頭の中には届かなかった。



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純白の理神聖堂

 

 ある聖人が死した丘。

 その丘の上に、その聖堂は建てられた。

 

 純白の聖堂。

 穢れを寄せ付けない荘厳な姿は、さまざまな建築物の立ち並ぶ都市にあっても、ひときわ輝いている。

 

 街は聖堂を中心に発展し、必然、人々はどこからであっても、生活の中で聖堂を視界に入れることになる。

 かつては防衛の要でもあったこともあり、その姿はどこか城の面影も感じさせる。

 『清浄要塞』などという(いかめ)しい呼び名が付いた由縁が、まさにこれだった。

 

 そんな聖堂のバルコニーの一つで、ため息をこぼす男の姿があった。

 情けなく肩を落としてはいるが、見る者が見ればいくつか分かることがある。

 

 このテラスに1人自由に出入りできる点から、地位が高いこと。

 そして、男の身体や、この瞬間にも隙がほとんどないことから、戦闘に極めて長けていることが分かる。

 

 そんな男の視線は、街を一望する絶景を前にしながら、そんなものに興味はないと、指に挟まる1枚のメモに注がれていた。

 

『クラフィード製の蒼樹扉』

 

 筆圧強く書かれたそれは、家具、調度品、建築において天才の名を欲しいままにした、ある名工が手がけた一品の名が綴られていた。

 その下には、こう続く。

 

『手に入れるまで帰ってくるな』

 

 視線は何周目かも分からないリレーの果てに、男がうなだれたことで足下へと滑り落ちた。

 

「勘弁してくれないか、アリシア……」

 

 男————ナクラム・ヴィント・アーカーの呟きには覇気がなく、惨めさばかりを帯びている。

 その声は、少し前から静観していたある人物の姿勢を崩した。

 

「ナクラム、元気がないですね。どうされたのです?」

「…………オルヴォン」

 

 少し前からあった気配が旧友だったことを知り、ナクラムの表情が僅かにほころんだ。

 

「久しぶりだな。気配が変わっていたから気づかなかった。見違えたじゃないか」

 

 オルヴォンと呼ばれた優男は、見た目通りの柔和な笑みを返した。

 長く真っ直ぐに伸ばされた髪を後ろで束ねているのは変わらないが、その長さは記憶のものよりずっと長い。

 

 そこで、ナクラムはこの友人に会うのが、娘が産まれたとき以来であることを思い出す。

 纏う空気も以前とは違う。それだけ修羅場をくぐったということだ。

 

「ええ、本当に久しぶりですね。次に会うのは3人目かと思っていましたよ」

 

 薄い翡色の髪を揺らして、オルヴォンはナクラムの隣に並ぶ。

 視線は眼下で昼の賑わいを見せる街に向けられていた。

 

「またアリシア嬢を怒らせでもしましたか?」

「……………………」

「ふふ、こわいですね。『また』は余計でした。そう睨まないで下さい」

 

 少しも怖がっていない態度で、オルヴォンは半歩離れる仕草をとる。

 だが、ナクラムもナクラムで慣れた態度だった。

 

「……娘が『覚醒』した」

「おや、それは早い。おめでとうございます。間違いなく母の血ですね」

「間違いない。アリアはすごい子だ。魔法の才能だけじゃなく、頭も良い。あれほど利発な子はここを探してもいないんじゃないか? いや、利発さではアトラも負けていないな。俺にはもったいないくらい出来た子だ。アトラも『覚醒』はまだ来ていないが、剣の腕も良い。感覚もかなり鋭くてな? 同年代でも群を抜いているだろう。いや、間違いなく飛び抜けている。あれでもう少し冷徹さを持って切り替えられる様になれば————」

「————ええ、分かりました。キミの御子息も御息女も、どちらも可愛く才能に溢れています。それは分かりましたので、本題へ入って下さい」

「ム…………いや、そうだな。この話は後にしよう」

「後、ですか……」

 

 さらりと出てきた言葉に、この後の予定を旧友の子どもの話で塗りつぶされることを悟ったオルヴォンは胸の内で苦笑した。そんな胸中をおくびにも出さずに先を促す。

 そして話を聞き進めるにつれて、その表情は難しそうなものになった。

 

「——彼の名工の手がけた扉ですか。それも蒼樹とは。なかなかの物を破壊しましたね」

「…………加減を違えた」

「本当ですか? キミの性格上、家族の有事を前に扉のことを考えて行動するとは思えませんが。何を破壊しようとも助けるでしょう」

「……オルヴォン、本題から逸れているのはお前もだ」

「ふふ、そうですね。これは申し訳ありません。さて、しかしこれは難しい問題ですね————」

 

 ナクラムの欲している物は、中々希少なものだった。

 まず、蒼樹と呼ばれるものは昔から神聖視されている樹で、なにか特別な理由でもなければ伐採自体されない。

 その上さらに、彼の名工は数年前にこの世を去り、結果遺された作品の希少価値が高まっているのもこの問題を難しいものにする。

 

 彼の名工の作品はどんなものであれ凄まじい価格になるし、その大半が欲している収集家の手元に収まってしまっている。それを今、都合よく手放す者などいないだろう。

 

「————ああ」

 

 そこまで考えていたオルヴォンの脳裏に、とある有望な聖堂騎士の姿が浮かんだ。

 

 彼女は収集家としても名高い名家の人間だ。ナクラムの望む品をすでに持っている可能性がある。

 さらに、常日頃から聖騎士と手合わせしてみたいと口にしている彼女になら、このナクラムとの手合わせは対価としては破格のものになるだろう。

 

 ここに利害が一致する余地がある。

 

「なんとかなるかも知れません」

 

 ビッと高速で視線を向けてくる旧友に、思わず苦笑する。『1時間半後、第2修練場で待て』そんな指示だけ残して、オルヴォンは長い髪をゆるりと揺らしながら純白のバルコニーを後にした。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「おお……さすがに立派なものだ」

 

 オルヴォンの天啓にも等しい発言からおよそ30分が経過した後、突然ヒマになったナクラムの姿は、巨大な聖堂の中央に位置する大礼拝堂にあった。

 

 ふと立ち寄っただけではあったものの、礼拝堂には多くの信徒たちが祈りを捧げており、つい見届けようという気になったのだった。

 祈る先の祭壇には、『理神』を表す『知恵のなる大樹』を象ったシンボルと、それを中心に宙空に浮かぶ光輪があった。

 

 祈りを捧げる信徒から不定期に浮かぶ光の破片。

 それらが宙空の光輪に加わる様子は、例えようもない神聖さを帯びている。

 

 だが、聖騎士であり、さまざまな聖堂を渡り歩いたナクラムにとっては見慣れた景色であり、これといって感じ入るものもない。

 それを表すように、実際ナクラムの視線は光輪ではなく自身の頭上へと向けられていた。

 

「大きいな……そして高い。礼拝堂に関しては6大聖堂に並びかねないな」

 

 見上げる遥か頭上には、柱から伸びた枝が放射状に天井を覆うという装飾。そして、その中心で威光を放つ巨大な薔薇窓が鎮座していた。

 どうやら天窓としても機能しているらしく、礼拝堂にはほとんど光源がないにも関わらず、明るさは外と遜色ない。ただ、礼拝堂を柔らかく照らす光は、ステンドグラスの天窓を介していながら色に濁っていなかった。

 

 そんな天蓋に目を奪われていると、心地良い歌が礼拝堂を満たした。

 視線を下げて正面を視界に収めると、祭壇を中心に深い緑の祭服を見に纏った聖歌隊が整列していた。

 

 聖歌は、神聖言語と呼ばれる古代言語で紡がれている。

 しかし、その内容は知っていた。

 

 6大神の中で、『理神』は最も人間に接触した神であり、最後にこの世界から立ち去った神でもある。

 その際に『理神』へ対し、人類がした誓約。その内容を並べ、次にくるのが神々への賛美だ。

 

 そんな昔学んだことを思い出していたからだろうか。ナクラムの脳裏に、懐かしい記憶が浮かぶ。

 

 それは、はじめて授かった息子、アトラが産まれたときのことだ。

 

 ナクラムが抱える後悔のひとつが、アトラの出産に立ち会えなかったことだった。

 『悪魔』と認定された精霊の討伐任務が長引き、結局初めて息子を見たのは、出産の2日後。

 

 眠っている小さな体を抱いたとき、まだ父としての実感も、この赤子が自分の息子である実感もなかった。ただ、護るべきものだということだけは、本能的に理解していた。

 

「大きくなれよ。俺が、……父さんが必ず護ってやる。だから、大きくなれ……アトラ」

 

 神と、何より息子に、ナクラムはそう誓ったのだ。

 

 親子の実感が湧いてきたのは、それから少ししてのことだった。何かにつけて危なっかしく、完全に自分へと依存して生きている姿。それを見るうちに、これは自分の子供であり、自分はその父であるという実感が日に日に増し、使命感も強まっていった。

 

 息子アトラがかわいくて仕方なくなってきたのは、この頃からだ。

 はじめの頃は、定期的に家を空けている間に、息子はこちらを忘れて、またはじめからやり直しを繰り返していた。

 それがいつからか忘れられなくなり、頻繁にひざに乗りたがるようになった。

 懸命によじ登ろうとして、時々転びそうになる。その危なっかしさも愛おしかった。

 

 ナクラムが最も好きだった時間は、家族そろっての食事だ。目の前の食べ物に集中して、懸命に食べる息子の姿を見るのが、ナクラムには何よりも好ましかった。

 

 生きている。生きようとしている、その姿。

 

 慣れて、作業的にこなしてきた食事も、アトラがするだけで生命の輝きに満ちていた。

 それをもっと見たくて、ついつい好きなものばかり与えてしまい、それをアリシアに咎められるのが日常だったのだ。

 

「……………………」

 

 記憶に没入していた意識が、現実に帰る。

 いつの間にか歌は終わり、あれだけいた礼拝者は今外へ出るので最後になる。

 

 一般へ解放されるのは礼拝のときに限るのか、兵士姿の男2人が、大扉に手をかけて視線を向けてきていた。

 部外者ではないのだが、かと言ってこれ以上長居しては遅れてしまう。

 

 城門が閉じるような重々しい音を背後に、ナクラムはぼんやりと空を眺める。

 空は雲ひとつない……とはいかないまでも、それでも気持ちの良い晴れ空だ。

 

「……………………帰りたい」

 

 昔を思い出したせいだろうか、無性に家が恋しくなる。

 帰って、自分のいない間の色々の話をする息子を抱きしめてやりたい。

 そんな気持ちが湧いていた。

 

 だがそのためには、鬼と化している妻を人に戻さねばならない。

 

「はぁ…………」

 

 ため息ひとつを残して、ナクラムは指示された場所へと歩き出した。



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聖騎士、司祭と聖堂騎士

 

 第3『理神』聖堂。通称『清浄要塞』は、その役割から優れた防衛能力を持ち、聖騎士を常駐させているばかりでなく、聖堂騎士自体の質も安定して高い。

 

 その聖堂騎士団の中でも、戦闘面で特に優れ、仲間からの信頼も厚いのが、イレニアという女性騎士だった。

 彼女が所属する『聖ソロム騎士団』は、他の騎士団とは違って討伐任務に就くことはなく、専ら拠点防衛の専門部隊という立ち位置だった。

 その歴史も古く、『教国』で3番目にできた騎士修道会であり、過去に多くの聖騎士を輩出している。

 

 彼女の生まれた家は、『聖ソロム騎士団』の総長をたびたび務めてきた名家だったこともあり、イレニアが望めば従士過程を飛ばして騎士としての入団も可能であった。

 

 しかし、彼女自身の希望によって、イレニアは従士として入団し、その後実力によって聖堂騎士の座についた。

 “家”を排除し、己が能力のみで駆け上がる。

 騎士や従士からの信頼は、イレニアのそういった姿から来ていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 『清浄要塞』の一角にある騎士修道院。その中庭は、聖堂や修道院同様に素晴らしい景観を誇り、団員たちの憩いの場でもある。

 しかし、普段であれば穏やかな空気の中で団員たちの談笑が聴こえてくるその場所は、今は異様な熱気に包まれていた。

 

「うおおお⁈ またイレニアの勝ちだ!」

「これほどの実力差とは……同じ聖堂騎士とは思えん」

「これは次の聖騎士もウチからだな」

「よっ! 筆頭騎士~~!」

 

 人だかりからは思い思いの賞賛が投げかけられている。その中心には、全身を金属製の鎧で包んだ騎士姿が2つあった。

 両者の鎧には聖堂騎士であることを示す紋章がある。だが、一方は肩で息をしながら膝を曲げ、他方はこれといったこともなく、自然体で眼前の騎士を見下ろしている。

 その手に握られる蛇腹の刃が特徴的な槍は、視線に沿うように突きつけられていた。

 

「ハァ……ハァ……参った、貴殿の勝利だ……」

 

 一方からの敗北宣言に、またも太い歓声が挙がった。

 

「良い勝負でしたね。また機会があればお願いします」

 

 勝者の言葉に、誰からともなく苦笑が聞こえる。いや、それはその声を掛けられた騎士からだったかもしれない。

 今のを『良い勝負』だと認める者など、この場にはいない。それほどに余力を持っての勝利だった。

 

「いつ見ても素晴らしい槍の冴えですね、イレニアさん」

 

 いやに高い拍手と共に、柔らかな声が中庭に響いた。その場の視線が、声の主へと向けられる。

 そこには緑を基調とした司祭服を纏う男がいた。

 

 その司祭を認めると、団員たちはそそくさとその場を離れ始める。敗北した騎士も会釈をしてその場を後にしようとし、勝者として讃えられていた騎士もそれに続こうとした。が、それを男の声が引き留めた。

 

「おや、どちらかに用事でもお有りですか? もしお手空きであれば、少しお時間を頂戴したいのですが」

「……………………はぁ」

 

——しくじった。

 

 内心で舌打ちをして、騎士は振り向いた。

 

 不思議なことに、振り向く騎士の装備していた槍や鎧は光の粒子となって掻き消え、それと代わるように、騎士のいた場所には淡い紫紺の髪を肩まで下ろし、性格がそのまま出たような切れ長の目をした女性が立っていた。

 

 その視線は目と同じく——いや、それ以上に鋭く男を見据えている。

 

「何用でしょうか、オルヴォン様」

「そう警戒しないで下さい。今回は面倒なことは無しです。むしろ貴女にとっては素晴らしい話をお持ちしました」

「ますます聴きたくなくなりました」

 

 イレニアの棘のある返答にも、微笑みの仮面は揺らぐことがない。この男のこういうところが、イレニア含めた団員たちには不気味だった。

 心がまるで読めない者は信用できないのだ。

 

 そんなイレニアの内心も恐らくは理解しながら、やはり男は続けた。

 

「少し歩きませんか?」

 

 返答を待たず、司祭服は遠ざかっていく。

 そのままここで別れてしまいたいが、そうもいかない。

 

 湧き上がる欲求を無視して、イレニアはその背中に続くのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 この聖堂は————いや、この町全体に言えることだが、丘という地形上階段や坂の数が多く、非常に高低差のある造りをしている。

 

 そんな道を時には上り、時には下りながら2人は歩いていた。会話は非常に散発的で、イレニアはますます自分が呼ばれた理由が分からなくなる。

 

 まさか本当に立ち話がしたいだけだろうか?

 

「————————」

 

 浮かんだ考えを散らす。

 

————そんな訳がない。

 

 行動、言動に必ず含みや意味があり、だからこそ一緒にいて気が抜けない。休まらない。

 無意味とはおよそ無縁の男。

 

 それがイレニアの知るオルヴォンという男だ。

 階段の連続で息が少し早まっているのすら、何かの前置きかと身構えるくらいでなければダメだ。

 

「ときにイレニアさん」

「はい」

「聖騎士との手合わせは叶いましたか?」

「……いえ」

 

 白々しい問いだった。

 現実的に、声をかけられる聖騎士など『清浄要塞』に常駐する4人以外あり得ない。

 その4人の動向など、目の前の男が知らないはずがないのだから。

 もしもイレニアの願いが叶ったのなら、司祭を務めるこの男は、早い段階でそれを知ることになるだろう。

 

 つまり、この話にはまだ先がある。適当に返答しながら先を促すのが正解だ。

 

 そのイレニアの判断は、極めて模範的だった。

 

「オルヴォン司祭がサレシィカ司教へ掛け合って下されば可能かと思いますが」

 

 努めて無感情にした返答。しかし、イレニアの声には僅かな期待が乗っていた。

 話の流れから、あり得ないことではないのでは……と。

 

 それは本人にも無自覚な、それ故に心からのものだった。

 

「ハッハ、それは申し訳ありませんが不可能です。そんなことをすれば私の評価は急降下してしまいますよ」

 

 ——が、それに気づきながらも、オルヴォンはさらりと否を返す。

 自身の出世が優先とまで付け加えて。

 

「————————」

 

 イレニアの瞳に僅かに灯っていた暖かいものが急速にゼロになり、そのままマイナスへと加速してゆく。

 

「お待ち下さい。この話には続きがあるのです」

「…………続けて下さい」

 

 背筋を襲う寒気に身震いしながら、オルヴォンはやり過ぎたと軌道修正を図る。

 食い付かせるためとは言え、餌の撒き方には気を付けなければならない。

 

 ここには手すりも塀もない。

 『不幸にも階段から落下して死亡』ということも、万に一つくらいはあるかもしれないのだから。

 

「どうもありがとうございます。まず、聖騎士は原則司教の指揮下にあります。ここではサレシィカ様の指揮下にあるわけです」

「それは知っています」

「その上、聖騎士と聖堂騎士間での訓練は聖騎士の能力秘匿の観点から限られた場合を除き許可されません。ましてや個人的な手合わせなどは尚更困難です」

「……何が仰りたいのですか?」

 

 分かりきったことを口にする司祭に、イレニアは僅かに怪訝な表情を浮かべた。

 

「私がサレシィカ様の指揮下にある聖騎士を動かすことはできません。ですが、手合わせがお望みであれば、何もここの聖騎士でなくとも良いでしょう」

「はあ……それは、そうですが……」

 

 他にアテもツテもないから困っているのではないか。

 

 口には出さずとも、イレニアの表情にはハッキリと、そう書かれていた。

 そんなイレニアに柔らかな笑みを深くして、緑の司祭は歩みを再開する。

 

「今から向かう先には、ある聖騎士がいます。彼は私の友人であり、『裁神』大聖堂隷下の特殊部隊に所属していた経歴を持つ超人です。もっとも、聖騎士きっての問題児であることから今は任を解かれていますが……。そんな彼なら、貴女の願いを叶えられるでしょう」

「ッ⁈ オルヴォン様————」

「ただし……ひとつお願いがあるのです」

 

 顔を興奮に染めたイレニアを、細い人差し指が押し止める。

 

「————お願いですか」

 

 イレニアの顔から紅が消え、瞳を冷静な色が支配する。

 その切り替えの速さはやはり聖堂騎士なのだと、オルヴォンは苦笑まじりに目を細めた。

 

「ええ。もし、貴女が聖騎士となった暁には…………偶には今日のことを思い出してください。私からのお願いは以上です」

「……………………それだけですか?」

 

 尚も怪訝そうなイレニアに、しかし司祭は微笑み、首肯する。オルヴォンの望みは本当にそれだけだった。それを理解したイレニアは一瞬瞳を大きくしてから、目の前の司祭への評価を改める。

 まるで読めない不気味なところもあったが、それでも心根は本物の“司祭”なのだと。

 

「分かりました。たとえこの身が朽ち、魂が天蓋の園へと昇ろうとも、ワタシは今日を忘れません」

「はい。お願いします」

 

 その後、2人は再び歩きだす。

 1人は心から上機嫌な笑みを浮かべて。

 1人は気迫を漲らせる獰猛とすら言える笑みを浮かべながら。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 『修練場』……そう呼ばれる場所は、この聖堂には2箇所ある。

 1つは集団戦における連携強化を目的とし、聖堂が攻められた際に、“最後の抵抗”が行われることも想定された大規模なものだ。

 そしてもう1つが、決闘戦の形式によって個人の技量を向上させるためのものであり、今から聖騎士と聖堂騎士による手合わせが行われる場所でもあった。

 

「そうか、オルヴォン司祭か……違和感しかないな」

「そうですか? 私はしっくり来ますが。オルヴォン助祭よりよほど良い響きではありませんか」

「てっきり終身助祭に落ち着いたものと思っていた」

「笑えない冗談はやめて下さい。延々と続いた助祭期間はトラウマなのです。キミのそれはかつて本気で危惧したものですから」

 

 和気あいあいとした声を耳にしながら、イレニアは視線の先に立つ男を分析する。

 

 恵まれた体格に、精悍な顔付き。仕草や体軸ブレがなく、体幹の強靭さが見て取れた。

 肌の露出が少ない服装のせいで、筋肉のつき方からどんな動きを好むのかなどは分からないが、聖騎士が相手の場合、その身体能力は『聖痕』の影響を受け飛躍的に向上する。

 先手を譲るのは悪手だろう。

 

「ムゥ…………」

 

 それにしても、とイレニアは視線をオルヴォンに向ける。その表情はイレニアの知る仮面じみた笑みではなく、人間味のある自然なものだ。

 どうやら本当に仲は良いらしい。

 会話の内容にも、特に探りらしいものもなく、純粋に男との談笑を楽しんでいるようだった。

 

 だか、それにしても少しばかり長い気もする。

 本来は互いに挨拶を済ませてからではないだろうか。

 

 男は初めはこちらに歩み寄ってそうしようとはしていた。だが、隣に立つ司祭服を目にすると、オルヴォンの首根っこを捕まえて向こうへと連れて行き、こうして自分はほったらかしである。

 どうやら友人が思わぬ出世の仕方をしていたらしく、「どうして黙っていた」とか、「祝いに後で我が家のとっておきを聞かせてやる」とか始めてしまったのだ。

 

 だが、一見隙だらけに振る舞う男が、もし仮にこの場で奇襲を受けたらどう動くのか。

 そこに興味を抱いてからずっと、イレニアは胸の中の獣を抑え続けていた。

 

 が、それもいい加減限界である。

 そもそもあれだけ焚き付けておいておあずけをする司祭が悪い。こういった場合に話を上手く切り上げるのも、提案した者の責任だろう。

 

「————」

 

 所有者の呼び出しに応じて、イレニアの手に蛇腹の穂先を持った槍が顕現する。

 聖堂を中心に張られた結界によるものだ。

 この結界のおかげで、どこにいようと即座に武具の着脱ができ、そのまま戦闘に移行できるといういかにも要塞らしい結界だ。

 

「……………………」

 

 そのまま、イレニアは歩き出す。

 手にする槍など無いかのように。

 まるで挨拶をしにでも行くように、軽く自然な歩調。

 

「————フッ‼︎」

 

 そして、緩やかな歩調は一瞬で加速し、歩みは踏込みへと姿を変えて穂先を唸らせる。

 

 必中の間合いだった。

 

「ッ————⁈」

 

 次の瞬間、イレニアの背すじを戦慄が駆け抜けた。

 穂先はビタリと停止し、それ以上の進行は不可能だと固い感触で告げてくる。

 イレニアとて、本気で刺し貫くつもりはなく、ギリギリで止めることのできる程度の、おおよそ7割程度の力加減による刺突。

 信じられないものを見たかのように見開かれた目は、蛇腹の穂先に、まるで鏡に突きを放ったような正確さで、純白の穂先が合わされているのを凝視している。

 

 白い。あまりに純粋で、眩しさすら感じる白。

 それが聖騎士の握る槍だった。

 

 ナクラムはイレニアの蛮行をさして気にした風もなく、咎めるような空気もない。

 

「っと、申し訳ない。すこし話が長くなってしまった。オルヴォン、話は通しているのか?」

「ええ、快諾でしたよ」

「おお!」

 

 喜色満面のナクラムに、イレニアの手が固く握られる。

 

「ありがとう、本当に助かった! あんな高価な物を」

「ぅ……あ、ええ…………高価?」

「その分の働きはしっかりと果たす! ——オルヴォン!」

「私はいつでも構いません。改めて言っておきますが、彼女は聖騎士候補の筆頭です。くれぐれも注意して下さい。私では聖堂内であっても欠損部位の治癒までは出来ません。有望な人材を潰されては、流石に司教が黙っていませんよ」

「分かっている!」

 

 いまいち話の分かっていないイレニアを置いて2人は早口に言葉を交わすと、司祭はその場を離れ、ナクラムはイレニアと10歩ほどの距離を空けて振り向いた。

 

 そして、聖騎士と聖堂騎士の“手合わせ”が始まった。

 



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“本気”

 

 聖堂の一画に、空気を割くような音が連続で木霊する。絶え間なく続いていたそれは、一際大きく響いてから前触れもなく止まった。

 

 とてつもない力に弾き飛ばされたのは、全身を細いシルエットの金属鎧で守る騎士だった。

 それが確かな質量を持ったホンモノであるのは、地面に衝突する度に鳴る重みある音からも理解できる。

 だが跳び方だけみれば、癇癪を起こした子どもに投げ飛ばされたオモチャのようだ。

 否、“ようだ”ではなく、抗えぬ力に翻弄されている点で、それはまさに“そのもの”と言えた。

 

 砂汚れが付着した鎧に、何かの神秘なのか、汚れひとつない深緑の腰マントが見る者にチグハグな印象を与える。

 もっとも、この場に観戦者は1人の司祭をおいて他にいない。それは惜しまれも救われもするが、果たして。

 

——惜しむのは誰で、救われるのはどちらなのか。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 すぐに姿勢を制動して、イレニアは身体が欲するままに酸素を供給する。

 肩は上下し、それを隠す余裕もとっくに失っていた。

 

 油断していた訳じゃなかった。

 だが良い勝負にまでは持っていけるとも思っていた。

 それが、蓋を開けてみればこのザマだ。

 

 荒くなった呼吸と、その度にする鎧の硬質な音が鬱陶しい。まるで己が未熟を喧伝されているような気分になる。

 

 対して、白槍の男はこの瞬間を追撃せず、構えすらしない棒立ちのままだ。

 だが、あれが見た目の通りではないという直感がある。あんな姿勢でも、体の内側にはしっかりと「「タメ》》がある。

 油断して隙を見せれば、姿勢からはあり得ないほどの速さで突きを見舞ってくるだろう。

 

 イレニアの目が、ナクラムの一挙一動を見逃すまいと細められる。

 

 対して、そんなイレニアを無表情で見据えるナクラムはというと、目の前の若き才能に内心で感嘆していた。

 

(大した勘だ……大した場数も踏まずにコレか————)

 

 余程の英才教育を受けたことは想像に難くない。

 最初の打ち合いで不利を悟るや、即座に鎧を呼び出したが、あれはかなり集中力を割かれるはずだ。だがそんな最中でも、目の前の騎士の動きは精細さを失わなず、安定した防御を見せてくれた。

 判断力もあり、即決できる精神力もある。加えて技術も持ち合わせているときた。

 

 そして何より、鎧の使い方が上手い。

 

(精神面ではほぼ完成しているな。恐怖をよく抑えられている)

 

 槍の刺突に対して、槍ではなく鎧で応える。

 衝突の瞬間に角度を調節し、望むままに鎧の表面を滑らせるという卓越した技術。それをほぼ無意識に行なっているのが、イレニアという天才だった。

 

(押されて防戦にまわっても亀にならず、常に隙を突こうという姿勢もいい)

 

 体力で優る敵を前に、防御に専念しては勝ち目がない。相手を勢い付かせる上に、攻撃はより苛烈に、より大胆になる。そうなればあとは一瞬だ。守りは容易くこじ開けられ、決定的な一撃を受ける。

 

 イレニアはそれを上手く避けていた。

 槍を受け、いなす中でも、小さな攻撃を差し込むことを忘れない。その牽制によって、より強力で強引な一手に出られず、結果として彼女はああして立っている。

 

 刃を合わせる度に想像を超えるイレニアに、ナクラムの戦い方は、つい引き出しを探るようなものへと変わっていたが、これは無意識でのことである。

 

(————そろそろか)

 

 騎士の空気が変わったことで、ナクラムは意識を闘いへと集中させる。

 そして、イレニアの鎧から感じる魔力が先程までより増していることに気がついた。

 

 これは手合わせの中で気づいたことだったが、どうやらイレニアの鎧は特注品のようだ。通常の聖堂騎士の鎧に比べてより質が高く、身体能力を向上させる幅も大きい。そういった部分は実家の太さが活きているのだろうか。

 

 そもそも、ナクラムの持つ槍を何度も鎧の上に滑らせておきながら、未だ鎧として機能していることが異常といえば異常だった。

 これが仮に通常の金属しか用いない鎧であれば、槍を滑らせた先から鎧は裂かれ、捲られ、歪められ、金属製の歪なオブジェと化すだろう。

 

「ハアッ!」

 

 全力で加速し、イレニアはナクラムに正面から接近する。一度劣勢になって以降なかった動きだ。

 膂力でも速さでも勝る敵に、決してすべきでない悪手。

 

「フンッ!」

 

 当然のようにナクラムによる迎撃の刺突が見舞われる。十分な加速と重さを与えられたそれは、たとえ槍で防ごうとも姿勢は崩れ、追撃を防ぐ手を失ってしまう。

 つまり、詰みだった。

 

 しかし、自身に向けられた切先を前にして、イレニアは鎧の中で口角を上げる。それは狩人が獲物が罠にかかったと知ったときに浮かべる、そんな笑みだった。

 

(来た!)

 

 大地を踏み砕く勢いで右脚という杭が打たれる。

 鎧による身体強化を活かした、強引な急停止。

 軋みをあげる体を無視して、イレニアは踏み込みの衝撃を乗せた横なぎを白槍に叩きつける。

 

「————ッ⁉︎」

 

 瞬間、ナクラムの目が見開かれた。

 蛇腹の槍に浮かぶ、淡い光。『聖印』だ。

 

 聖堂騎士の中にも、功績などによって聖印の刻まれた聖具を特例的に持つ者がいる。イレニアがまさにその“特例”だった。

 その聖印は、聖騎士と比べれば簡素なものだが、使う場面次第では十分な成果を挙げる。

 

 イレニアの聖槍に込められた効果は、『増幅』。

 蛇腹の穂先で発生させた衝撃を遥かに強力なものとして伝えるという聖印の効果は、本来ならば武器を落とさせる程度だった衝撃を、“武器を固く握るほどにその腕を破壊する”という凶悪なものへと変貌させる。

 

「グ…………!」

 

 鎧が無いためにその衝撃を素手で直接受けたナクラムは、ここで初めて表情らしいものを見せる。

 が、その対応は実に早い。

 

 即座に槍から手を放し、イレニアの追撃を掻い潜る。そしてそのまま滑るように、槍を持っていた右手はイレニアの胸元へと打ち込まれていた。

 

「ッ⁈」

 

 低い音と共にイレニアの身体が打ち上げられ、着地する1秒と満たない間に、すでに白槍は元の位置に握られていた。

 イレニアは胸を鎧の上からさするが、ほとんど衝撃は通っていない。その事実をもって、今の打撃が反撃ではなく、追撃を殺すためのものだったことを理解し、イレニアは驚愕と共に歯噛みする。

 

 今のは完全な不意打ちだった。これ以上の好機は、おそらくもう無いだろうと言うほどの完璧なものだったと、他ならぬイレニア自身が誰よりも分かっている。

 知略と直感、持てる全てで見出した勝機が、いとも容易く潰されてしまった。

 

「……………………」

 

 苛立ちと共に、抑えていたものが湧き上がる。

 そもそも、目の前の男からはピリついたものが感じられない。やる気はあるが、それは稽古をつけてやろうという教官としてのものだ。

 イレニアが求める“本気”とはまるでかけ離れている。

 

 そんな姿勢でいる相手に対して……それとそれを突き崩すことのできない自分自身にも、腹の底から粘度の高いものが濁流となって迫り上がってくる。

 そして、それはそのまま視線となって敵へと注がれていた。

 

 一方、睨まれていることに特に反応を示さない男は、右手の感覚を確かめながら、彼もまた驚愕していた。

 

(巧いな……駆け引きも出来るのか)

 

 鎧に感じた魔力と、渾身の構え。それによって、次に来る一撃はさらに重いものだと予想し、それまでよりも槍を握る手には力が入っていた。それがイレニアの狙いであり、そうするよう誘導されていたのは疑うまでもない。

 槍を伝う衝撃は、固く握るほどに手を破壊する。

 そのためにあえて魔力を大袈裟に撒き散らしたのだろう。加えて、それは槍の聖印に気付かせないための偽装としても機能していたのだ。

 その事実は聖騎士ナクラムをしても驚嘆に値した。

 

 だが…………。

 

(態度に出すぎだな。ここは経験不足が出てしまったか?)

 

 感情を出すのは得策では無い。相手に情報を与えるなら、相応の目的を持たなくてはならないものだ。

 

 ナクラムはイレニアの視線を受け止める。

 鎧によって表情は分からないが、その感情はとても分かりやすい。

 

「……………………ひとつ、答えてください」

「む?」

 

 唐突に投げかけられた問い。

 微かに震える声は、なにかを堪えているようにも聞こえる。

 

「私はなぜ……本気になって頂けないのですか」

「いや、そんなことはない。最初から本気で——」

「白々しい嘘はやめて頂きたいッ‼︎」

 

 聞く者に痛ましさすら感じさせる声があがる。

 槍の穂先は小刻みに震え、その拳は在らん限りの力で握り締められる。

 

「ワタシは指南や手ほどきを受けたいのではない! 聖騎士の全力を見たかったのです! 自身が目指すものがどれほどの高みにあるのかを身をもって実感したい! ワタシが望んでいるのは、断じてこんなあしらわれ方ではないッ‼︎」

「————————」

 

 …………沈黙が訪れる。

 聞こえるのはイレニアの荒い息づかいのみ。

 感情をぶつけられた聖騎士の表情に、やはり変化はない。しかし、その視線はイレニアから外れ、何やら難しい顔をしている司祭へと向けられた。

 

「——オルヴォン、俺はやるぞ」

 

 その言葉に、司祭は眉間に浮かべたシワをいっそう深くしてから、数秒かけて不承不承に頷く。

 

「こうなっては、止めるのはイレニアさんの為になりませんからね…………分かりました。ですが、細心の注意を払って下さい」

 

 その言葉にナクラムは首肯し、そして————纏う空気が一変する。

 

「どうやら履き違えていたようだ。申し訳なかった。君の為を思うなら、俺は先達として大きな壁になってやるべきだったな。————鎧はないが、全力で行かせてもらう」

「っ⁈ ————はい、お願いします!」

 

 言い終わってから、ナクラムがはじめて構えらしきものを見せた。

 その瞬間、イレニアは弾かれたように後方へ跳んだ。

 

 一瞬で開いた距離は、先程までの3倍はあろうかというおよそ槍の間合いとはかけ離れた距離。

 しかし、それでもイレニアの()()は消え去らない。

 

(ここも間合い……⁈)

 

 一足。

 イレニアの獣すら超越した直感が弾き出した、あの男が彼我の距離を埋めるために必要とする歩数だ。

 イレニアはこの時はじめて、自身を救い続けた直感を疑った。

 

 聖騎士が白槍を構えたまま、その姿勢を低くする。瞬間、イレニアは首筋に刃を突きつけられているような錯覚を覚えた。

 

 首筋に刃を突きつけられているという状況。

 それは、どうやってもこちらの動きよりはやく、その刃が喉を裂くという致命的な状況を意味する。

 

「フフ……」

 

 不思議と、笑みが溢れた。

 

 まあ、あの白槍が迫るまで、おそらく碌に反応できないという意味では同じだと……そこまで考えたところで溢れた笑みは、一つには諦めを。そしてもう一つには、開き直る気力をもたらしてくれた。

 

(勝てるつもりなど始めからありません。せめて、一矢報いらせてもらいます……!)

 

 誰にも見えない獰猛な笑みを浮かべて、イレニアは相手を待たずに攻め込む。先手を譲ることだけは回避するために。

 

 だが————

 

(遠いッ!)

 

 自身を守るために空けた距離が、攻めに際して災いした。最短で駆けても相手に時間を与えてしまう距離だ。

 イレニアは即座に直線的移動から、高速での蛇行移動へと切り替える。加速と減速の緩急をつけた動きは負担が大きいが、そんなことを気にしては一矢報いるなど不可能だ。

 

 ナクラムはまだ動かない。

 だが、その目は視界にイレニアを捉え続けている。

 

 そして、2人の距離がイレニアの踏み込み一足分にまで近づいたとき————ナクラムが動く。

 

「っ⁈」

 

 音もなく、動作も最小限の接近。

 イレニアの視界では、ナクラムの身体が急に大きくなったようにしか見えなかったほど、その動きには予備動作が存在しなかった。

 

 白槍が振われる。

 横なぎで、回避不能のタイミング。

 

「ダァアアアッ‼︎」

 

 それを、イレニアは渾身の力を込めた槍で迎えた。

 

 けたたましい音と共に、白と蛇腹の穂先は衝突した。同時に、発動するのはイレニアの槍が持つ『聖印』。

 イレニアの全力に応えるように、淡い光はその力を発揮する。

 

(勝てる————⁈)

 

 あまりに理想的な展開に、イレニアの表情に喜色が差す。……が次の瞬間、その表情は驚愕に彩られていた。

 

「なッ⁈⁈」

 

 ————なんだそれは‼︎⁉︎

 

 声にならない叫び。

 それは、目の前の聖騎士に対してのものだ。

 

 槍を伝い、腕に伝う衝撃。それに対する策としてナクラムが実行したのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という、思いもしないものだった。

 

 イレニアの視線の先で、ナクラムの腕は()()()いる。そしてイレニアからの衝撃も、自身の膂力も加速も、その全てを保持した穂先が、イレニアの胸元へと着弾した。

 

 その瞬間、炸裂音と軋むような音を立てて、イレニアは鎧の破片と共に宙を飛んだ。

 



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外法にして邪法

 

「……ぅ、……」

「ああ、目が覚めましたか」

 

 イレニアが目覚めると、青い空を背景に自身を見下ろす長髪の男と目が合った。男は安堵した表情を浮かべると、視界から消える。同時に、男の長髪が遮っていた日の光が視界に飛び込み、イレニアは顔をしかめながら体を起こした。

 

「……ワタシは……気を、失っていたのですね」

「ええ。もっとも、それも20秒ほどのことではありますが。——ああ、今は無理をしないでください。治癒は引き続き私が行いますので、誘導に従ってくださいね」

 

 痛む身体に〈治癒魔法〉を使用しようとしたイレニアを、司祭はやんわりと押し止める。そのまま手をイレニアの胸にかざすと、〈治癒〉が始まった。

 

 イレニアの脳内に、行うべき魔力操作と起こすべき結果のイメージが浮かぶ。それに抵抗することなくイレニアがそのイメージをなぞると、求めた通りの奇跡が発現した。

 

「……………………」

 

 魔法を使ったとき特有の感覚を覚えながら、この時はじめてイレニアは自身の身体を見下ろした。

 少しずつ癒えてゆく身体。赤紫に腫れる程度にまで治った胸部は、イレニアが倒れた直後はどんな状態だったのか。それは今となっては分からない。

 だが、槍の側面で打たれた胸部の鎧はイビツにへしゃげ、こうして服の裂け目から変色した肌を見れている時点で、受けた衝撃がとてつもないものだったことは容易に見てとれた。

 

 ふと自分をこうした犯人を視線で探すと、修練場内を行ったり来たりとしながらせっせと何かを拾い集めている。それが飛び散って散乱した鎧の一部だと理解すると、なんだか無性に恥ずかしくなって、イレニアは再び胸部に目を落とした。

 

 胸の傷はだいぶ治って、腫れはほとんど消えていた。

 それを見て、目の前の司祭の腕にイレニアは感心する。自分で治した場合、こうはいかなかっただろう。

 

「……? どうかされましたか?」

「あ……いえ。見事な術式だと感服していました。最後に他人から受けた〈治癒〉はひどいものでしたので」

「ひどいもの、ですか?」

「オルヴォン。〈治癒〉は順調か?」

 

 イレニアの言葉に暗い感情を読み取ったオルヴォンが首を傾げると、修練場を歩き回っていたナクラムが戻ってくる。その両手にいくつもの金属片を乗せて、視線は気遣わしげにイレニアを見下ろしている。

 

「ええ、見てください。皮膚の変色は少し残っていますが、それ以外は癒えたはずです」

「おお……! 砕けた胸骨も元通りか……全盛期のアリシアにも迫る腕だぞこれは」

「聖堂の結界のおかげもありますが、イレニアさん自身の力でもあります。これほど急速な回復です。並の騎士であればその回復(へんか)の負荷によって衰弱してしまいますからね」

 

 イレニアの癒えた胸を前に盛り上がる男2人の視線は、イレニアの右手によって遮られる。イレニアとて女だ。傷も癒えたなら、いつまでも肌を晒す理由はない。

 男たちもそこで自分たちの非礼に気づいたらしく、その視線は気まずそうに逸らされた。

 

「失礼しました。それで、先程の件ですが……最後に受けた〈治癒〉は、あまりいいものではなかったのですか?」

 

 その手で自分の羽織っていた深緑のマントをイレニアへと差し出しながら、司祭は柔和な表情を崩すことなく話を振る。それが空気を変えるためだと察して、イレニアはマントを受け取りながら話に乗る。

 だが、その表情には先程までとは違う陰りがあった。

 

「はい。ワタシは『治癒覚醒法』の成功例なので」

 

 その言葉に、司祭と聖騎士は異なる感情を顔に宿す。

 司祭は哀れみの感情を宿し、聖騎士は怒りと嫌悪に顔を歪めた。

 

「まだそんなマネをする馬鹿がいるのか」

「『治癒覚醒法』の誘惑は、覚醒を求める者にとっては魔性のそれです。これまで多くの被害が出てもなお、僅かな成功例が視界を塞ぐのでしょう」

「天秤に掛けるのが我が子の未来でもか?」

「ええ。皆がキミの様な考えを持てれば良いのですがね」

 

 『治癒覚醒法』。その方法の簡易さと成功した際の利点の大きさから、これまで数多に試されてきた覚醒法。そして、ごく僅かな成功例と、多くの失敗例を積み上げた外法だ。

 

 方法はいたって単純。

 まず〈治癒魔法〉を習得している親と、未覚醒の子を準備する。そして、この子どもに“ケガ”をさせ、親はそれを〈治癒〉する。

 この〈治癒〉の最中に子は魔力の流れに触れ、これによって自身の魔力を自覚し、ここに覚醒は成るというものだ。

 

 術者が親で、被術者がその子どもに限られるのは、『他者の魔力を肉体は拒む』という魔法学の大原則の存在による。

 他者が治癒魔法を用いようとする場合、被術者の体内に魔力を流した時点で未知の力によってこれは弾かれてしまう。この“他者を拒む未知の力”及びその発現範囲は『内界』と呼ばれており、〈治癒〉に限らず大抵の魔力を拒んでしまう。

 

 “敵の脳内に炎を発生させて即死させる”といったことができないのも、この『内界』によるものだ。

 

 しかし、この『内界』は絶対的なものではなく、いくつか付け入る隙があるのだ。その内の2つを利用することで、『治癒覚醒法』は考案された。

 

 その2つとは、ひとつに“内界は少年期を終えるまでは未成熟である”ということ。そしてもうひとつが“内界は血の繋がりに弱く、近親者であるほど突破しやすい”というものだ。

 これを利用し、“少年期までの子ども”に“血の繋がった親”が〈治癒〉することで、通常「覚醒者の魔力を誘導する」程度の〈治癒魔法〉を未覚醒者に強制的に使わせることが可能となる。

 

 これで感覚を覚えてしまえば、膨大な手間と時間を必要とする学習を経ることなく覚醒できてしまうのだ。

 

 ——だが、そんな都合の良いことばかりではなかった。

 仮にも、魔法はその起源を神に遡る本物の奇跡だ。魔力も神と同じものを分け与えられたと聖典にはある。

 そんな神の力。本来人間という生物には過ぎた力を、こうも簡単に制御し、体得することができるとされた時点で、人々は疑わねばならなかったのだ。

 

 かくして、『治癒覚醒法』は多くの人々の手から魔法を取り上げ、覚醒はおろか心身に欠陥を抱えて生きなければならなくなった人々の血と涙に濡れた邪法として認識されるに至った。

 しかし——

 

「ワタシは最後の〈治癒〉で覚醒しました。運が良かったとしか言いようがありません」

「それは……何度目で覚醒したのですか?」

「7度目です。それも同じ日でのことでした。おそらく、8度目があったならワタシはここにはいなかったでしょう。覚醒時点で、すでに“中身”がぼろぼろでしたので」

「……よく死ななかったものだ」

 

 連続での〈治癒〉は心身に多大な負荷をかける。

 規模にもよるが、安全性の観点から〈治癒〉の後は最低でも3日は〈治癒〉を受けるべきではない。だが、それほどの間を空けては魔力という未知の感覚を掴むことはできない。

 結果、治癒覚醒法では日に何度も〈治癒〉を受けることになる。また、“ケガ”の程度も重要とされ、すり傷程度では覚醒に至るほどの〈治癒〉が行えない。骨折で最低限だ。

 

 つまり覚醒法として〈治癒〉を行う場合、親が我が子を何度も痛めつけ、安全性を無視した〈治癒〉を行い、それでも大半は失敗する。

 そんなマネを好んで行う人間が、ナクラムには毛ほども理解できず、憎悪の感情すら浮かんでくるのだった。

 

 ナクラムが湧き上がる感情を処理していると、ふとイレニアが目を丸くして自分を見ていることに気づいた。正確には、視線はナクラムの手元に向けられている。

 

「っ、しまった……!」

 

 ナクラムが咄嗟に手を開くと、握り潰された金属片が音を立てて零れ落ちる。

 

「すまない……」

「ナクラム……相変わらずキミは家族が絡むと平静を失いますね」

「気にしないで下さい。どのみちポーピル人形にするつもりでしたから」

 

 シグファレムには自分の鍛錬の過程で壊した道具を破棄する際、その道具の一部を使った人形——『ポーピル人形』を作る風習がある。料理人であればダメにした鍋や刃物から。騎士であれば剣や鎧から作ることが多く、イレニアはその例に漏れず、鎧の一部を使って人形にすると言っていた。

 

「それであればちょうど良かったですね。さ、そろそろ離れるとしましょう。 ここは少し騒がしくなってしまいそうです」

 

 オルヴォンが手を鳴らして空気を切り替える。その言葉通り、修練場には激しい戦闘音を聞きつけた騎士やその従士兵たちが集まり初めていた。

 それを見てイレニアもマントをしっかりと羽織り直し、ナクラムも落ちた金属片を集めて移動の準備を整える。

 

「ああ、その前にイレニアさん」

「はい?」

「聖騎士ナクラムへの対価はもう決まっていますか?」

「は、対価、ですか?」

「おや?」

 

 疑問符を頭に浮かべるイレニアに、司祭は柔和な笑みを浮かべて振り向く。それはイレニアのよく知る仮面だった。

 

「まさかイレニアさん。貴女はこの“手合わせ”に満足できなかったのですか? 大した経験にもならなかったのでしょうか」

「まさか、そんなはずありません! 今回させて頂いた経験は非常に大きなものです。お二人には本当に感謝しています…………ですが、対価はすでに話したはずでは」

「それはこの機会を用意した私へのものです。直接付き合ってくれたナクラム・ヴィント・アーカーに対して、まさか貴女はなんの対価も払わないと仰るのですか? いえ、それはそれで仕方ありません。それが貴女の感謝なのでしたら、私からは何も」

「っ! でしたらワタシに差し出せるものであれば何でも言って下さい! この“手合わせ”はそれほどの価値があり、ワタシはそれだけの感謝をしています!」

「————と、イレニアさんは仰ってますよナクラム。今ならきっとキミの力になってくれるのではないでしょうか」

 

 イレニアからの挑むような視線を受けながら、ナクラムは深いため息を吐く。

 

「何故お前はいちいち詐欺師めいたやり方をする。快諾してくれたと言ったのはなんだったんだ」

 

 「さあ!」と迫るイレニアに急かされながら、ナクラムは人の集まり始めた修練場を後にする。

 

 その後、例の扉の約束をイレニアと取りつけ、オルヴォンを夜通し家族の話に付き合わせて、ナクラムはようやく我が家へと帰宅した。

 

 そして、いつも以上に明るい表情で迎えてきた我が子の口から飛び出した言葉に、ナクラムの表情は凍りついた。

 

「お父さん! ぼくも魔法が使えるかもしれないんだって! 『治癒覚醒法』っていうんだけど————」



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悪しき入れ知恵

 

 階段に座って、聞こえる声に聞き耳を立てる。

 食堂からはお父さんとお母さんの話し声。

 

「…………は………………けん……アトラ………………」

「……も…………ム。そ…………問題に……………?」

「…………もな。だが…………だ。明日……………………。アトラも…………」

 

 ここからだとはっきりと聞こえない中にも、時々自分の名前が出ているのだけは聞き取れた。その度にどういう流れで名前が出ているのかを考えて、嫌な汗がにじんでくる。

 

 帰ってきたお父さんに、ぼくは『治癒覚醒法』のことを話した。その瞬間お父さんは目を見開いて、どこでそれを知ったのかとすごい剣幕で問いただされた。

 そんなお父さんを前にウソなんてつけるはずもなく、ぼくは山奥での不思議な体験を口にしようとした。

 

 ————言おうとして、なのに……言えなかった。

 

「あ……れ  ?」

 

 漠然とした記憶はある。けどその記憶を手繰り寄せることができない。遠くからみたら分かるのに、近寄ると途端にぼやけてしまう。

 なんだか少し、魔法を使おうとしたときの感覚に似ているような気がした。

 

「山の奥で……誰かが、教えてくれた……はず。 ぼく…………ごめんなさい、お父さん。ぼく……うまく、思い出せない……。さっきまで覚えてたのに……ううん、今も覚えてるのに、分かんない……」

「アトラ…………!」

 

 自分の状況や戸惑いをなんとか伝えようとすると、お父さんはぼくの肩を掴んで、真剣な表情で続ける。

 

「その“誰か”と、何か“約束”をしなかったか?」

「した……かもしれないけど」

「覚えていないか」

「うん……ごめんなさい」

「……………………いや、いいんだアトラ。お前が悪いんじゃない」

 

 頭にお父さんの手が置かれる。そうしてぼくを撫でている間、お父さんはいつもの優しい表情にもどってくれて、これで終わりなのかとホッとした。

 

「これは——〈契約〉か。『このことは秘密』とでも吹っかけたんだろう。アトラがそれを了承することで成立か…………ここまで一方的な〈契約〉は人間かも怪しいな……小賢しい妖精か? 何にせよやってくれる——」

 

 そんなぼくの安堵とは裏腹に、その笑顔に反してお父さんの声は低い。その怒りはぼくじゃない誰かに……顔も浮かばない“あの子”に向けられているのは明白だった。

 これが良くない状況だと、胸のざわめきが教えてくれる。だけど、そんなのはどうしようも無い。庇おうにもごまかそうにも、ぼくにだって訳がわからないんだ……。

 

 ぼくが話し終わるとお父さんはお母さんのいる庭の方へと出て行った。ぼくもこの話がこれで終わりにならないと予感してついて行くと、庭には大きな荷馬車が駐まっていた。

 それはすごく違和感を感じる光景。荷台にはぼくから見ても高級品だと分かる蒼の扉が、宙に浮かぶ水球の中で守られていた。

 

 初めてみる魔法。想像だけど、荷馬車がどんな悪路を走っても傷つける訳に行かないものを保護するためのものだろうその魔法は、蒼い扉の美しさもあって、ひとつの芸術品みたいだった。

 そんな水球を目の前にしながら、お母さんは顔を上気させてピョンピョンとはしゃいでいる。こんなお母さんは見たことがない。

 その熱い視線は、水球というよりはその中身、蒼い扉に向けられて見えた。

 

 お父さんはそんなお母さんの様子に苦笑すると、なんとか苦労して落ち着かせてから、“大事な話”のために食堂に行ってしまう。

 

 結果、ぼくは話に参加させてもらえずにここで聞き耳を立てるしかなかった。一度、終わったら呼ぶから部屋に戻ってなさいと言われたけど…………とても自室で落ち着ける気分じゃなかった。

 

 待ってる間に外はもう薄暗くなってきて、話が長引いている事実にまた落ち込んでしまう。ぼくのしでかしたことは、それだけ時間をかけなきゃいけない内容ということなのだ。

 

「そんな大変なことを言っちゃったのかな……」

 

 誰にともなくつぶやく。そんな自分に、もう心底呆れた。

 だって、大変なことを言ったのはもうとっくに分かりきってるじゃないか。それにもかかわらず白々しくもこんな呟きをもらすのは、つまりは言い訳なんだ。

 「悪気はありませんでした」、「ぼくは知りませんでした」という役作り。

 いや、知らなかったのは本当だけど……どこかで予感はあったじゃないか。『……そんな簡単なことなのかな?』とか、『なんで今まで読んだ本に書いてなかったんだろう?』とか……けど、そんな予感をぼくは嬉々として払い除けて、目先の希望に飛びついたんじゃないか。

 

 こんな言い訳をさせているのは、そんな今更な罪悪感と自己嫌悪に違いなかった……。

 

「っ、あ……アリア?」

 

 さっきまでなかった人の気配に振り向くと、予想通りの気配の主が立っていた。

 鹿のような角を持った白馬のぬいぐるみを抱いたアリアだ。大事に抱きしめられているぬいぐるみは、アリアの誕生日にお母さんが作ったものだっけ。名前はコロコロ変わるから今の名前は分からないけど、アリアがお気に入りのぬいぐるみを部屋から出すのはとても珍しい。

 

「アリア……?」

 

 見上げる先のアリアは、こっちを見ながらなかなか動かない。なんだか悩んでいるようにも見える。だけど相談に乗る元気もなくて、ぼくとアリアの間には奇妙な沈黙の時間が流れる。

 

 そして結論が出たのか、アリアは軽く頷くと無言で階段を降りてくる。そしてそのまま通り過ぎることなく、妹はぼくの隣に腰を下ろした。

 

「ん…………」

「え?」

 

 白馬のぬいぐるみが突き出される。

 それをどうすれば良いのか、何を求められているのかと戸惑っていると、アリアは再び口を開いた。

 

「だっこして、いいよ」

「あ……りがとう」

 

 何を思ってのことかはよく分からない。ぬいぐるみを触るのはこれが初めてだから。

 アリアは自分のものをあまり触らせたがらないし、気に入ってるぬいぐるみなんかは特にそうなのに……。

 

「わっ……やわらかい……!」

 

 とりあえず、渡されたぬいぐるみを抱いてみる。見た目以上に柔らかな白馬はもふもふとした感触で、なんだか日向ぼっこをしたヒヨコみたいな匂いがした。

 これを抱いて寝たら、それはもう気持ちいいんだろうな。アリアの寝付きがいいのも、この馬のおかげだったりするのかもしれない。

 正直うらやましいくらい、このぬいぐるみはなんというか……ポカポカしてた。

 

「こーやってなでてあげて」

「ああ、————こうかな?」

「うん」

 

 アリアとぬいぐるみを撫でたり、この馬のお世話の仕方を教わっているうちにあっという間に時間は流れて、気がついたらお父さんたちの話も終わっていた。

 夕食のいいにおいと一緒に、お母さんが呼びに来る。

 その頃には体にまとわりつくような嫌な汗はすっかり引いて、聞き耳を立てていたときでは考えられないくらいにぼくの気持ちは晴れていた。

 

(もしかして気づかってくれたのかな……?)

 

 これがぼくの都合のいい解釈なのか、はたまたアリアの優しさなのか。ぬいぐるみを置きに階段を上る小さな背中は、どことなく満足げに見えた。

 

(今日はアリアの好きな果物の日だし……ぼくの分をあげたら喜んでくれるかな)

 

 ちょっとした恩返しを考えながら、ぼくはひと足先に食堂に入った。

 

「————アトラ、明日は一緒に山に入るぞ。『治癒覚醒法』を教えた“誰か”に会いたい」

 

 夕食を終えたタイミングでのお父さんの言葉だった。

 ぼくはそれに頷くと道具の支度を済ませてから、翌日に備えて早く布団に入る。だけど、おかずのほとんどをアリアに容赦なく取られちゃったせいで中々寝付けず、浅い眠りから覚めたときにはもう夜が明けていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「…………おはよ」

「んー? はは、なんだアトラ。あまり眠れなかったか」

「うん……」

 

 目が覚めて、なんとなく重たい頭をどうにか持ち上げて下へ降りると、もう完全に支度を整えたお父さんに張りのある声で迎えられた。

 うぅ……頭にひびく…………。

 

「ほら、顔を洗ってしゃんとしろ! 朝の不調は一日引きずるぞ!」

 

 足元に水の入った桶が置かれ、タオルが投げられる。

 びっくりするくらい冷たい水で濡らしたタオルは、頭の重さを吹き散らし、少しぼやけていた視界がはっきりしたものに変わる。

 

「フゥーーッ、よし!」

 

 だいぶスッキリした。どんな経緯であれ、お父さんと山に入るんだ。みっともないところは見せたくない。

 

「さて……」

 

 余った水を庭の芝にあげようと玄関を見ると、そこには数段グレードの上がった両扉が鎮座していた。

 『玄関は家の顔』とお母さんはよく言っていたけど、扉ひとつ変わるだけでこんなに雰囲気が変わるなんて……。

 

「すごい綺麗な扉だなぁ……これだけで知らない家みたいだ。シスが見たら喜びそうだな。こういうの好きそうだし」

 

 しばらく遊んでない友だちの顔を思い出す。今度これを理由に呼んでみようかな…………いや、それじゃただの自慢みたいになる。それはダメだって学んだじゃないか。

 

 頭を振って、余計な考えを飛ばす。今はそんなことよりやるべきことがある。カロンやシルス、そしてなによりオランのことは時間をかけて考えればいい。

 

 そんな考え事をしていると、目の前の扉が開く。お父さんだ。

 お父さんは何度か扉を開け閉めしながら、装飾を指で撫でて何かブツブツ言っている。

 

「————室内を想定しているからな……やはりコーティングして汚れにくくするべきか……今度町に行った時にでも買ってみるか? どこで手に入るんだったか…………あまり放っておくとアリシアがなぁ…………」

 

 なんだか難しい顔でお父さんも考え事みたいだ。ぼくはその横を通って水を庭に蒔くと、昨日の荷馬車が門の横に置かれているのに気がついた。

 庭を見回すと、馬が縄で木に繋がれている。気持ち縄が短い理由は、木の周りの芝の状態を見ればすぐに分かった。

 

「ゥ……」

 

 馬と目が合う。すぐに逸らした。

 実を言うと、ぼくはあまり馬が好きじゃない。というのも、少しこわいから。

 遠目に見える馬はかっこいいけど、近くで見ると本当に大きいし、顔や目もなんとなくこわいし……。

 

「アトラー! 顔も洗ったならそろそろ軽く腹に入れて出発するぞー!」

「はーい!」

 

 逃げるようにそそくさとお父さんのところへ戻る。そしてパンと果物をひとつずつ口にしてから、なぜか槍2本で武装したお父さんと一緒に村を出発した。



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大人になるということ

「よし、小休憩にするか」

「うん」

 

 足場の悪い傾斜を登ったところで、お父さんは2回目の小休憩を告げた。少し重くなった足を揉みながら、適当に座れる場所を探す。

 と、ひと足早くいい場所を見つけたお父さんと目が合う。

 

「なんだ? ————ハハ、なるほどな。久しぶりに膝に座るか? ん?」

「いいよそんなの!」

 

 からかってくるお父さんの様子はいつもと変わらない。変わらないどころか、むしろ上機嫌にも見える。

 ただそれが見た目通りじゃないことは、休憩中も槍を離さないことや、なんとなく感じる緊張感が教えてくれる。

 

 やっと腰を下ろせる場所を見つけて、足を休める。すると、そこはお父さんにとって少し遠いのか、お父さんは手招きすると座る場所を譲ってくれた。

 

「勉強は進んでいるか?」

「うん……充分なのかは分からないけど、時間があればやってる」

「よしよし。結構座学に命を救われる機会も多いからな、今のうちに知識は蓄えられるだけ蓄えておけ」

 

 お父さんはそういって、ぼくの頭を撫でる。すると、何かを思いついた顔をした。

 

「よーし! それじゃあアトラの知識が充分か、ここはひとつ父さんがみてやろう! あまりひどかったら母さんに言いつけるからな」

「ゔ、良かったら……?」

「言いつけるのはなしだ」

「えー!」

 

 いきなり始まった口述試験は、ご褒美が『罰はなし』というひどいものだった。けど、思えばこういった機会はなかったし、自分を試す良い機会だと無理矢理に納得したことにする。

 

「最初は頭の体操がてら、聖職者の序列をざっくり言ってみろ」

「ざっくりって言われても分かんないよ」

「まあ例えば、『大司教』に関してなら『大司教』のひと言でいい。『聖内大司教』とか『聖外大司教』に分けなくていいし、『母神大司教』の方が他の大司教より権威がどうこうとかは無しってことだ。そんな具合に他のもおおまかにな」

「なら簡単だよ。下から『助祭』、『司祭』、『司教』、『大司教』だよね?」

「ふむ。ま、これは常識だな。次からは難しくなるぞ?」

 

 その後もいくつかの問題を難なく答える。読むのを許された本にはあらかた目を通してあるし、分からないことはお母さんに聞けば分かりやすく教えてくれたおかげで、ぼくはお父さんが途中に混ぜる少しイジワルな問題にも対応することができた。

 

「おー、やるな! 少し系統を変えるか。————『神威等級』について簡単に説明してみろ。本番だと思ってな」

「えー……っと、『神威等級』を簡単に……? ……そんなの本番で訊かれるの?」

「ああ、本番でも何かを説明させることは多い。ここで大切なのはな、単に簡単に説明するだけでなく、その説明の中で如何に自分の理解度を示すかだ。父さんのときはこういった質問の配点が大きかった。…………今は知らんが」

「うーーーーん…………」

 

 そんなことを言われても、どうすれば良いのかなんて分からない。『神威等級』なんて、試験を受けるくらいの人間からすれば常識のはずだ。単に概要を述べる程度だと簡単過ぎて、大した加点は見込めないだろう。

 かと言って、細かな点を拾っていけばこの話はいくらでも難しくなる。

 

「『神威等級』は……ある魔法がどれだけ『源流』……つまり神々の奇跡に近いかを等級で表した指標……です。上から『神域』、『聖域』、『浄域』、『清種』、『公種』、『汎種』……です。上3つはまとめて『領域魔法』と呼ばれることもあります……で……いい?」

「まあ妥協点だな。不足点は、『神威等級』の格付け対象は『魔法およびそれに準ずる現象』だ。細かいが覚えておけ。『魔法現象』のひと言でも足りるだろう。欲を言えばその『神威等級』という格付けをどこがしているのかを言ってほしいところだが……まあ、やはり妥協点だな」

「難しいな」

「なんだアトラ。その割に楽しそうに見えるぞ」

「うん! 覚えるばっかりだったから、こうやって考えるのは新鮮で……また問題だしてよ」

「よーし、その意気だ! 取り敢えず今回はお咎めなしだな。母さんにはお前はよく頑張ってると伝えておこう」

 

 お父さんの手が再びぼくの頭を撫でる。それが嬉しいと思う反面、もう少しで大人になるのにこうでいいんだろうかとも考えてしまう。

 少なくともぼくの知る“大人”は、頭を撫でられて喜びはしない。

 

「……お父さん」

「んー?」

「お父さんは大人だよね」

 

 ぼくの質問に、お父さんは微妙な顔をする。

 

「ああ。父さんは聖騎士で、お前の父親だぞ? 子どもでどうする」

「うん、そうだよね。ぼくもあと少しで大人になる」

「ふむ、まあ権利関係の上ではな。あくまで法的には成人ってだけだ。身体も心も、まだまだ成長盛りだろう」

「じゃあ、お父さんから見てぼくはまだまだ子ども?」

 

 お父さんは撫でる手を止めてから一瞬何かを考える素振りをする。

 そして大きく頷いてから、ぼくの背中をポンと叩いた。

 

「アトラが幾つになろうと、父さんからすればいつまでも子どもなのかも知れない。それを煩わしく感じるときが来るかもしれないが、まあ親というのはそういうものだと許してくれ。父さんにとって、アトラはいつまでも大切な子供なんだ」

 

 言い終わると、お父さんは伸びをしてから「そろそろ行くか」と歩き始めた。ぼくの記憶が正しければ、多分もう休憩を挟む必要もないくらいの距離に来ている。

 道のりはあと少しだ。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 深い森を進み、ひときわキツい坂……というよりも山を登ってから、もう無いはずだった3回を超え、4回目の休憩。傾き始めた陽の光は、加速度的に山の向こうへ落ちてゆく。

 

 水筒の冷たい水が体に沁みるのを感じながら、ぼくは混乱の中にいた。

 

(なんで……どこだここ?)

 

 山という高所から眺める景色は、眼下を樹海が占領し、視界の中央彼方には巨大な岩の山脈が空へと矛のような山頂を突き立てている。人の手の及ばない原初の自然だった。

 

 辺りを見渡しても、やはり現実は変わらない。もうここは全く見知らぬ場所だ。

 こんなに深い森に入ったことは、絶対にない。いつものぼくの装備でこんなところまで来るはずがないし、こんなキツい山登りもした覚えはない。

 

 けど、道を間違えたとも思えなかった。

 途中までは正しい道を歩いている感覚があったし、実際近くまで来ていたと思う。そろそろ森が開けて、あの大樹が視界の中央に鎮座する……はずだったのだ。

 

 いつもの同じ道だった。違ったのはただひとつ。

 

(“あの感覚”が……なかった)

 

 いつもの場所に近づくと必ずした“感覚”が、今日はまるでなかった。空気が急に変わることもなく、いくら空気を吸い込んでも、森特有のおいしい空気が肺を喜ばせるばかりだった。

 

「アトラ」

「ごめんなさい、お父さん。ぼく……ここ知らない……通り過ぎたんだと思う」

「そうか。よし! じゃあ今日はここで夜を明かすぞ! 枝を集めろー!」

 

 特に気落ちした風もなく、それどころかどこか上機嫌に、お父さんは銀の槍を地面に突き立てた。低い音と振動が足裏から伝わる。

 その後、テキパキと慣れた手つきで縄を槍に結んで支柱にして枝や葉をかき集めると、ぼくが燃えやすそうな枝を集めるころには本格的な天幕が出来ていた。

 

 本格的なことに、天幕を囲うかたちで堀までできている立派な拠点だ。

 

「なんか楽しそうだね……お父さん」

 

 今日一日が無駄になったのに、鼻歌でも歌い出しそうなお父さんが理解できなくて、未だに今日を徒労にした後ろめたさから出た言葉だった。

 

「当たり前だ! いやあ、一度はこうして父と息子で火を囲んでみたかったからなあ。親子らしくていいじゃないか。さ、アトラ! ここには父さんとおまえの2人だけだぞ? 普段話せないことも口から漏れ出てこないか? なあに、ここで聞いたことはもちろん秘密だ! 男同士の約束だ!」

「……………………」

 

 ぼくはお父さんの捉え方に、素直に感心してしまった。

 そうか、そういう考え方もあるのか……と。

 

 たしかに今日やったことを総括すれば、1日かけての本格的な山登りだ。ぼくは目的を果たせずにお父さんの時間を無駄にしたと思っていたし、それに気まずさも感じていたけど、お父さんはそれならそれで楽しい1日だったと笑ったのだ。

 

 なんだか、自分がとても子どもに感じる。

 

「それで? 父さんが居ない間は何かあったか? 昨日は聞けなかったからな。いつもみたいに、父さんに教えてくれ」

「…………うん!」

 

 心のモヤが晴れる。

 お母さんから聞いた村での出来事や、狩りのこと。勉強してて初めて知ったことや、驚いたこと。

 話し出したら止まらなくて、時系列もなくて。そんな思いつくままに語られる、決して聞きやすいとは言えないぼくの話を、お父さんはいちいち驚いたり、感心したり、興奮してみせる。

 

 そうしている間に空は暗くなり、橙色から深い紺色へ。そしてそれも超えて、辺りはすっかり暗くなっていった。

 

「————ぼくも早く大人になりたいよ」

「ははは、まあ精神的に子どもじゃなくなるのはまだかかるな」

「まだって、どれくらい?」

「さあなぁ。父さんが自分は“大人”になったと思ったのなんて、結婚したとき……も微妙だな。ああ、恐らくはアトラが産まれたときだ」

「そんなに⁈ じゃあ、それまではずっと自分は子どもだと思ってたの?」

「いいや違う。“大人”になる前に、父さんには“子どもじゃない”って期間があったんだよ。“子ども”じゃなくなったが、“大人”とも言い難い時期が」

「…………? じゃあ、お父さんが“子ども”じゃなくなったのっていつなの?」

「そうだな…………」

 

 お父さんはしばらく口を閉ざして空を見上げる。会話が止むことで、虫の鳴き声や薪の爆ぜる音、どこからか聞こえる動物の鳴き声に、天幕を避けるように迂回する気配。

 夜の山は静かな様で、こんなにも賑やかだったんだ。

 

 そんな中で揺らぐ火を見ていると、なんだかすごく癒される。微かに鼻腔をくすぐるのは、そんな火に焼かれている何かの実の香りだった。

 お父さんがここへ来る途中で採っていたらしい。ぼくは全く気がつかなかったけど、もしかしたらお父さんはこれを採ってる頃には森で夜を明かすことになると察していたのかもしれない。

 

 ぼくが普段そんな遠くに行ってるはずないから、つまりは実を集めていた時点でお父さんは『親子でのお出かけ』に頭を切り替えて楽しんでいた訳だ。

 

 そんなお父さんに視線を戻すと、もうとっくに答えを出していたみたいだった。

 

「やっぱり、親が死んだときだな」

「親が……?」

「ああ。俺にとっての両親。アトラにとっての祖父母にあたる。2人が死んだとき、『ああ、俺はもう子どもではいられないのか』と思った記憶がある。自分の“子ども”を見せる相手が居なくなってしまったから、子どもではなくなった……そんな感じだった」

 

 静かな声で語られた内容は、ぼくが初めて聞く『息子』としてのお父さんだった。

 火に照らされるお父さんの顔は、なんだかいつもとは違って見える。

 いつかぼくにも、“子どもでいられなくなる”瞬間がやってくるのかもしれない。そのときを懐かしむぼくは、こんな顔をできていられるのだろうか。

 

「おっ、もういい頃だな。熱いから少し冷ますか。まだ触るんじゃないぞ?」

「えっ? あ、うん。わかった」

 

 充分に焼けた実を、赤々とした薪から掘り出す。

 それが冷めるのを待ちながら、ぼくはいつか来る死別(わかれ)に思いを馳せるのだった。

 

 



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魔女の庭

 

「アトラ! 起きろ、アトラ! 面白いものが観れるぞ‼︎」

「ん゛ん……う……?」

 

 寝起きに優しくないお父さんの声。部屋に呼びに来るなんてどうしたのかと起き上がると、背中や腰に少しの痛みを感じてここが家ではないことを思い出した。

 

「ぅ゛……いたい……」

 

 起き上がると、ビキリという痛みが走る。冷えた身体に血が巡り、痺れが広がった。

 

(普段のベッドがどんなにやわらかいか、ほんとによく分かるな……)

 

 慣れない姿勢と固い寝床はけっこう体にムリをさせたらしかった。背中から続く抗議を努めて無視して、ぼくは声の主を視界にさがす。

 

「あれ、おとうさん……くわぁ————ぁふ、なにしてるの?」

 

 ぼくの声に、お父さんは手招きだけで返す。

 よく分からないけど、とにかく来て欲しいのは伝わってきた。

 ぼくはいそいそと、堀のあったはずの固い地面に驚きつつもお父さんいる崖側に向かう。

 お父さんが何を見せたいのかは、すぐに分かった。

 

「えぇ⁈」

「タイミングが良かったな。見るのは初めてだろう」

「山が……光ってる……⁉︎」

 

 正確には山頂だけど、どっちにしてもだ。

 昨日眺めた景色はそのままに、遠く向こうにあるひときわ大きく尖った岩山。その山頂部が、キラキラと瞬いているのだ。

 

 幻想的であり、あまりにも非日常的な出来事に言葉が出ない。

 

「アレが何だか分かるか?」

「う、ううん……知らない……見たことない」

「見たことは無くとも、アトラは既にアレを知っているはずだぞ? 予想してみろ」

 

 言われて、頭の中のノートを高速でめくる。

 お父さんの口ぶりからして、ぼくはアレを本で読んでいる。それも、かなり知名度の高いもののはずだ。

 

 けどいくら記憶を探っても『山頂が光を放つ』なんてものは見つからない。

 そんなの忘れるとも思えないから、ぼくは違う形でアレを記憶しているのかもしれない。

 

 頭の中で、探すべき項目を『山』の一点に絞る。

 すると、もしかしてというものがあった。

 

「お父さん。あの山って……『霊峰』?」

 

 聖典では『彼の岩の丘』と記される神聖な山。山頂で定期的に祈りの儀式が行われることなら知っている。だけど、光るなんてどこにも書いてなかったし、記述もさらっと触れる程度のものだったから、『霊峰』の知名度の割に、その詳細はあまり知られていない。

 アレが『霊峰』で行われている祈りの光じゃないとしたら、もうお手上げだ。ぼくには分からない。

 

 そんな半ば投げやりな答えに、お父さんは面白そうに頷いた。

 

「正確だ。ヒントを与えたとは言え、よく分かったな」

「詳しくは分かんないけど、山に関してならこれかなって。逆に、これ以外しらないから」

「そうか。じゃあ少し解説するとな、いつか現れる『神人』は知っているな?」

「うん。この世界が神さまたちの庭にふさわしくなったら現れて、呼び戻してくれるっていう……人?、だよね?」

 

 疑問系なのは、神を呼び戻せる者が人間なのかが分からなかったからだった。

 

「そうだ。聖典の文言からは『源流』に至った人間なのか、はたまた『源流』そのものである新たなる神なのかはハッキリとしないが、兎も角、いずれその『神人』が現れ、神の座す『天蓋園』への門を開くとある」

「うん。いつになるか分からないけど……」

「いや、実はいつ現れるかについては触れられている。曰く、『彼の岩の丘』が敬虔なる祈りの手に削られ、やがてその姿を失うころ、この世界は神々の庭として復活を遂げているそうだ」

「じゃあ、アレって——」

 

 視線を景色に戻すと、山頂の光は消えていて、どうやらもう『祈り』は終わったらしかった。

 

「ああ。端的に言えば、祈りを捧げながら岩を擦っている。昔は素手だったらしいが、今は魔法で強化された籠手でザリザリやってるらしい」

「……………………そういうもの?」

 

 頭に浮かぶ光景は、ひどく滑稽なものだ。あの神秘的な光の裏がそんなことになっているとは思いたくなかった。

 それはお父さんもそうだったらしい。子どもの夢を壊したと思ったのか、なんとも曖昧な表情を浮かべて————

 

「まあ……流石に人が待つには長すぎるからな! 削れて更地になる頃には神は戻ってますよと言われたところで、それでは結局いつになるか分からない」

 

 そんな、フォローになっているのかいないのかよく分からない事情を口にした。

 

「————あれ?」

 

 けど、ちょっと気になることが。

 

「お父さん。たしか『霊峰』ってアレだけじゃないよね?」

「ああ。全部で6つあるな」

 

 そうなのだ。聖典で記されているのは『彼の岩の丘』であって、それがこんなにたくさんあるのはなんか納得いかない。『彼の岩の丘』を、どうやって6つの山と読んだんだろう?

 だって、普通こう書かれたら『岩の丘』はひとつであるべきな気がする。

 

「アトラは気づいたか? 聖典の書き方も、どうもひとつであるのを前提にしているように読める。なのに六か所も『岩の丘』があるのは何故だろうな?」

 

 何がおかしいのか、お父さんは思い出し笑いでもするみたいに声を震わせて、堪えられなくなったのか大きく口を開けて笑い出した。

 

「ははははは! いや、実はな、ふふ、この『彼の岩の丘』がどこなのか分からないんだ。分からないから、それらしい候補を全て『霊峰』として典礼の対象にしよう。その結果、本来ひとつであるはずの『彼の岩の丘』は長い歴史の中で増えて行き、今や6つの『霊峰』が存在する訳だな。どうだ、面白くないか? 父さんは面白おかしくてこの話好きなんだが」

「う……ん……そんなに」

 

 たぶんお父さんにとってこれは、一種の身内ネタなんだろうな。

 帰ってきたお父さんが教会や街の話をするときにこういう笑い方をすることがある。そのときは決まって教会関係者の失敗談だったっけ。

 

 光が途絶えたのを確認してから、ぼくは帰宅準備を進める。水の残量は心許ない。それもそのはず、もともと日帰りの予定だったんだ。

 そういえば、来る途中で川の流れる音が聞こえたはずだ。音からして、かなり大きな川だったと思う。

 

 お父さんに水の補給を提案すると、特に間も置かずの了承だった。

 ちなみに、ぼくもお父さんもガラス瓶を柔らかな革帯で巻いたものを水筒としている。

 もともとは何か動物の胃袋を加工したものを使っていたけど、もしかしたらあれを持ってきてればわざわざ川までおりなくても済んだかもしれない。

 でも、においがイヤなんだよなぁ……。

 

 

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「————お父さん、それ重くないの?」

「重い? この槍がか?」

 

 険しい傾斜を終え、ひと時の緩やかな登り降りを繰り返す。川の音が聞こえるまではもう少しかかるというところで、ぼくは荷物と二本の槍を同時に運ぶお父さんに聞いてみた。

 

 銀の細身の槍はこんな場所でも誇らしげに光を照り返している。対して白槍は変わらず汚れひとつなく、森の中で言いようのない存在感を放っていた。

 

「————持ってみるか?」

「えっ! いいの!? うん、もつもつ‼︎」

 

 どっちの方を持てるのかと待っていると、ズイと腕が突き出される。白銀の槍を握るその腕は、震えもせずに水平を保っている。

 あんまり重くないみた……っ⁈

 

「おっ——と、気を付けろアトラ。怪我をするぞ」

「あ、ありがとう」

 

 想像を超える重さを無防備に受け取り、危うく落としそうになる。それを体で迎えに行こうとしたぼくを、お父さんの手が支えてくれた。

 

「こんなに重いんだ……」

 

 考えてみれば当然だ。この槍が白銀に輝いているのは、穂先だけじゃない。槍の石突から穂先まで、全てが同質の輝きを持っているんだ。まるで巨大な銀塊から削り出したみたいに。

 そんなの軽いはずがない。

 

「ん……くッ! ハッ! ……ダメだぁ」

 

 ズシリとした槍は、お父さんみたく片手で振り回すなんて出来る気がしない。試しにやってみようとしても、片手じゃ踏ん張りが効かずに振り回されてしまう。これじゃヘンテコな踊りみたいだ。

 

「はははは! やめておけ、腰を悪くするぞ。槍は力で振るうものじゃないんだ。その様子だとアトラに扱えるのはまだまだ先だな! ほら、お父さんが見本をみせてやろう」

「ん…………」

 

 まるで重さを感じさせない無造作な手つきで、槍がヒョイと手を離れる。

 

 笑われるのは少し悔しいけど、流石に意地を張る気にもならない。「武器の最大の役割は主を丸腰にさせないこと」と常に言うお父さんが、どうして綺麗だけど細身の槍を持っているのか不思議だったけど、これなら納得できる。確かな重みを持つ銀の槍は、まるで折れる気がしない。

 折れるとすれば…………。

 

「あの剣ならどうなんだろう————————エ?」

 

 頭に浮かんだのは、ルカの持ってきた巨大な……剣と呼べるのかも分からないほど巨大な剣。

 そう……ルカ、だ……。黒く長い髪が特徴的な……コロコロ表情を変える……あの子。

 

「ッ——⁈」

 

 途端に身体を駆け抜けたのは、あの感覚だった。昨日、あれだけ探してもまるで気配を見せなかった、あの感覚だ……!

 

「お父さん! 来て! 近い! はやくッ‼︎」

 

 槍を振ろうとしていたお父さんは、ぼくの要領を得ない言葉に一瞬動きを止める。

 けれど、その後の行動は早かった。

 

「案内しろアトラ! 父さんの前に出るな! 方向が分かれば俺が前に行く!」

「あっち!」

 

 お父さんを先頭にして、森の中を駆け抜ける。

 そして、確実に“感覚”は強まっていった。

 

 前を走るお父さんの背中を視界に収めながら、ぼくは正直ホッとしていた。

 思えば、ルカという友人とは今までずっと“感覚”に頼って会っていた。今回みたく、ある日突然その“感覚”を失ってしまえば、たぶん2度と会えない。

 昨日あんなに沈んでいたのも、もしかしたら心のどこかでもう会えないんだと理解してしまってたのかもしれなかった。

 

 だけど、そんな考えももう杞憂だ。会ったらまずはちゃんと話をして、お父さんにも悪い子じゃないって分かってもらわないと。きっとなにか誤解がある。ルカの無邪気さや悪意のない人柄は、会えばすぐに分かるだろう。

 

 あ、あと帰り道にも何か目印をつけて帰んなきゃ。今回みたく“感覚”が働かなくなって、今みたいに運良く戻らなかったら今度こそお別れだ。

 

「あ」

 

 空気が変わった。樹々の生命力にも侵されない空白地が出現する。そして、あの巨木だ。

 

「……え?」

 

 その巨木の下に、ルカはいない。代わりにいたのは、長く赤い髪の女性。

 イスの様な形をした巨木の根に腰掛け、その視線は枝に引っ掛けた大きな本に固定されている。

 それはまるで、生きた巨木を従えるような、不思議な光景だった。

 

 女性はこっちに気づいていない。それとも、気づいていてもまるで興味がないのか。

 

「【血塗れの魔女】…………」

 

 戦慄を帯びた声が聞こえる。

 【魔女】。神域に到達した魔法師は、その性別で呼び方が変わる。

 男性であれば【賢者】とされ、女性であれば【魔女】とされる。なら、あの人がその【魔女】なのだろうか。

 

 どんな疑問よりも好奇心が勝り、お父さんの背中から覗き込むように、【魔女】を見た。

 何かイヤなことがあったのか、【魔女】はため息をひとつ吐くと、相変わらず視線は本に固定したまま、羽虫を払うような動作をした。

 

「っ⁈ 下がれ‼︎」

「ぁ————…………?」

 

————瞬間、網膜を熱と光が焼き、身体を轟音が震わせた。



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終焉は足音を殺して

「ぁグぅ⁈⁈」

 

 ものすごい力で体が弾かれ、地面に落下する直前で誰かに抱えられた。まだ残る耳鳴りのせいで何を言っているのかは聞こえないけど、お父さんはしきりに怒鳴りながら背後を気にしている。

 

 乱暴な運び方。ぼくへの負担より離脱だけを最優先に考えた疾走から、お父さんの余裕の無さと、事の深刻さが理解できた。信じられない速度で真横を過ぎ去って行く樹々は、間違っても当たったらケガじゃ済まないだろう。

 訳も分からないまま、ただ身を丸めて耐えることしかできなかった。

 

 それからどれだけ経ったのか。激しい揺れに耐えるのも限界に近づいてきた頃になって、お父さんは走るのをやめた。

 普段より早い呼吸のお父さんは、しばらくぼくを抱えたまま走ってきた道を睨んでいた。そして、ようやく腕の力が緩み、ぼくは揺れない大地に四つん這いで着地した。

 それでも、まだぐらぐらと揺れている感覚は治らない。

 

「う゛、げえぇええエッ!」

 

 盛大に吐いた。

 訳が分からなくて、訳を聞くこともできなくて、ひたすら耐えていたもの。それら全部が、水音を立てて僅かな傾斜を滑って行く。

 

「エ゛っ、ゲッホ、カハッ!」

 

 出すものもなくなったのに、これ以上なにを出せというのか。胃は何度も収縮し、その度にぼくをえづかせた。涙まで出てきた。

 

「大丈夫か、アトラ?」

 

 背中が優しくさすられる。お父さんだ。

 気遣わしげなその声を聞いていると、すこし落ち着いた。

 冷静にならなきゃ、深呼吸……うぇ、にが……。

 

「口を濯いでおけ。ゆっくりだぞ」

 

 渡されたものを、ほとんど反射的に口に含む。

 無味無臭なそれに苦味を感じるようになったら、躊躇なく吐き出した。

 それを何度か繰り返した。

 

「……はぁ……ふぅ」

 

 水で口内の不快なものを洗い流す頃には、ぼくは完全に落ち着きを取り戻せていた。

 残った水でのどのイガイガを飲み下しながら、さっきまでの出来事を思い返してみる。

 

 巨木の下には、ルカはいなかった。いたのは見たことのない女性だ。全身を赤で統一した姿は距離があっても印象的だったし、森の中ではひときわ目立っていたからあの一瞬でも覚えている。

 本を読んでいた彼女が虫を払うみたいに腕を振るって……アレが放たれた。

 

 どう考えても、魔法だろう。人へ向けるにはあまりに過剰な“破壊”。破滅的なまでの熱を運ぶソレは、瞬きの間もなく距離を埋めて…………純白の槍に阻まれた。

 すごい光と音がして、後は同じだ。お父さんはぼくを抱えて森を駆け抜け、ぼくはゲーゲー吐いただけ。

 

「アトラ」

「あ、ありがとう……もう、大丈夫。ごめんなさい。水、全部使っちゃった……」

「いい。帰りはアトラを背負っていく。ああ、そう心配するんじゃない。今度は酔わないように気をつけてだ」

「……うん」

 

 もう一度あんなに苦しい思いはしたくないという思いが顔に出ていたみたいで、苦笑されてしまう。

 ただそれも一瞬で、お父さんの顔はすぐに真剣なものに戻る。

 

「アトラ。ヤツに見られてないな?」

「うん。あの人ずっと本読んでたし、こっちに全然興味がないみたいだった。確認自体してないと思う……。あの人が……」

「ああ、【血塗れの魔女】よりも【紅の魔女】の方がアトラには分かりやすいか? 本に書いてあるのはこっちの方だろう」

「やっぱりそうなんだ……」

 

 巷に蔓延る【魔女】への悪印象。その元凶といってもいい人物が、【紅の魔女】ルミィナだ。

 彼女の魔女としての逸話はどれも冷酷さを示すものばかり。中でもひときわ強烈なものとして、彼女に救いを求めに来た人たちを「鬱陶しい」という理由だけで皆殺しにしたというものがある。

 

 教国が今最も手を焼いている人物が、間違いなく彼女だった。

 

「なんでこんなところに……」

「さあな……ここは霊峰の影響下だ。ここでしか研究できないものもあるのかもしれないが……父さんにもよくは分からない」

 

 普段のぼくであれば、思わぬ大人物を前にはしゃいだのかもしれない。けど実際に指先を向けられた今となっては、心は芯から冷え切って震えている。

 いや、そもそもお父さんがいなければはしゃぐ間もなく死んでた。あの場所で炭か灰かに姿を変えて、お父さんにもお母さんにも、アリアにも知られないまま消えていたんだ。

 

 そんな想像に震えながら、それ以上に神域に到達した人物があんな人だったと知って、そのことがただただ怖かった。

 あんな人格が奇跡を手にしている。それは悪夢以外ない。本に書かれているのはかなり尾ひれのついた話だと思っていた。そんな破綻者なら、シグファレムで『特別顧問官』なんて役職に就くはずがないと。けど、目の当たりにした【紅の魔女】は、恐ろしいほどに【魔女】だった。

 

「未報告の魔女の庭、か…………今度は少し長くなるな」

「……………………」

 

 それが家を空けることなのは、お父さんの表情から察することができた。寂しげな表情とは裏腹に、槍を握る手は真っ白になるくらい握り込まれている。

 それがぼくには、とても怒っているように見えた。

 

 その後はお父さんの背中におぶさり、背負われたぼくが荷物を背負う形で村へと帰った。

 日が暮れていたこともあって人通りはなく、降ろしてもらうタイミングを逃したぼくの姿は誰にも見られずに済んだ。

 …………と思ったら、1人で薪を運ぶ人影が。

 

 ————ああ……カロン、だ……。

 

「ぐ、グゥ」

 

 もう遅いのに、苦し紛れに寝たふりなんてしてしまう。一瞬見えた、ニヤニヤしたカロンの顔がまぶたに貼り付いてなかなか消えない。

 

「ぅぅ……」

「? なんだアトラ? 荷物が重いか?」

「なんでもない…………はやく、あるいて……」

 

 顔が熱くなっているのを感じながら、ぼくは村へかかる山の影に感謝するのだった。

 

 

- - - - - - - - - -

 

 

「よし、それじゃあ行ってくる」

「ええ。しっかりね」

 

 お父さんが出発したのは2日後の早朝のことだ。今度は少し長くなるから、そのことを村長さんや村のみんなに伝えておかないといけないらしかった。

 

 こういう時、お母さんの見送る背中は少し寂しげなものだったけど、なんだか今日はいつもと違う。

 お父さんもお父さんで、「帰ったら重大発表があるから楽しみにしてろ」と、何やら自信あり気な表情を浮かべていた。

 【魔女】の件以外に、何かあるんだなと思った。

 

 そうしてお父さんは起きてた村の人何人かに見送られて村を後にした。少し重たいまぶたを擦りながら、お母さんと2人で家に戻る。

 アリアはまだ寝てるはずだ。

 お父さんの居ないこの時間は、なんだかすこし静かすぎる。毎朝この時間には、庭から風を切る音がしていたのに、それがないだけでこんなに静かなんて……。

 

 もうすっかり慣れていたはずなのに、今回は何故かそう感じてしまう。

 

「お父さん、また行っちゃったね」

「……アトラは淋しい?」

「うん、少し。最近お父さんが居ない時間が増えてるし……」

「そうね……けど許してあげて。あれでもアトラのために動いているみたいだから」

「ぼくのため?」

「そ。本当に、昔からズレてるんだから。そんなことより一緒にいてあげた方がアトラは喜ぶのに……ねえ?」

 

 ぼくの頰をさすりながら、お母さんは呆れの混ざった笑顔をこっちに向ける。同意を求められても話がよく分からないから、ぼくはとりあえずの同意を返しす。

 そして、ふと忘れかけていた客人が視界に入った。

 

「そういえばさ」

「ん?」

「あの馬とか荷馬車とかって、いつまでウチにいるの?」

「あー……そうね。帰ってきたら言っとかないと」

 

 2人して庭を見やる。そこには相変わらず木に繋がれた馬が、なんともだらしのない顔で眠っていた。お母さん自慢の庭には似合わない光景。

 扉を運んだ馬を可愛く思っていたのも最初だけ。今は世話の手間だけの可愛げは見出せないみたいだ。

 お母さんは分かりやすくため息を吐いた。

 

 そうしてセトナ村の時間はいつも通り、穏やかに流れていく。ぼくは部屋で本を読みながら過ごし、アリアは花と戯れるか、ぐうたらな馬にちょっかいをかけて遊ぶか。お母さんは井戸端会議で盛り上がって、他のみんなもゆっくりと時を過ごす。

 ここにいる間は意識しないけど、稀に町に行くと無性に恋しくなる。ここセトナ村はそんな村で、間違いなく故郷だった。

 

 そんなある日、久しぶりにカロンとシルスが家に来た。なんでももう少しで修道院へ移るぼくに、その前に渡したいものがあると2人は言った。

 そして久しぶりに遊ぼうと。

 

 ぼくはもちろん快諾して、今すぐにでも遊ぼうと提案すると、それは待ってほしいらしかった。

 疑問に思いつつも、言われた通りに数日後の待ち合わせを約束して、2人は門へ踵を返す。

 と、一度振り返って、カロンが大きな声でもう一つの約束を告げた。

 

「アトラーー! 約束の日まで村の正門に近づくなよーーっ‼︎ 男同士の約束だかんなーーっ‼︎」

「わかったーー!」

 

 もとからお父さんが戻ってくるまで狩りに行くのは止められてしまったし、村からでる用事は全くなかった。でもわざわざ約束までしてきて、一体なにがあるんだろう。

 

「あと、約束におくれんなよーー! なんならオレがおんぶしてやるかーー!」

「ぶッッッッ?!?!」

 

 大笑いしながら走り去るカロン。戸惑いながらこっちに手を振って後を追いかけるシルス。

 あの様子だと、今度会うころにはなにか吹き込まれているだろう。

 

「ああもう、めんどくさいなあ」

 

 口から出た声は、言葉には似合わないくらいに明るいものだった。当たり前だ。

 

「ふーーーー…………」

 

 久しぶりに純粋な期待で胸が高まる。ぼくはにやけそうになるのを堪えながら、もう見えない2人の背中を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………………………それが最後だった。

 

 

 

 



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楽しい計画

 

「…………はあ?」

「だ、だからっ! プレゼントはどうするかって言ってんの!」

 

 セトナ村の正門で、シルスのいらだった声が響く。本人も意図せぬ声量に、シルスは慌てて周りを見渡してから声をひそめた。

 

「ほら、アトラくんもうすこしで町に行っちゃうでしょ? だから何か渡せないかと思って」

「むりだろ。オレたちが渡せるもんなんて全部持ってるはずだろ? モノ渡すのはやめたほうがいいんじゃねーの」

「……そう、だけど」

 

 カロンの指摘に、シルスは言葉を詰まらせる。それは薄々分かっていたことだ。それでも何かないかと思って、思うからこそ相談している。

 母親に相談することも考えた。けどおしゃべりが何より大好きな母がこんな話題を黙っているはずがなく、嬉々として吹聴するのが目に浮かび断念。

 ならばと目の前であくびをしている幼なじみに相談してみれば、これがなんとも冷めた回答であった。

 

「じゃあなに? アンタはなんにも無しでお別れするわけ?」

 

 責める口調を隠さずに、最近身長の伸びた薄情者へとぶつけた。それを聞いたカロンはムッとした顔になり、唇をとがらせる。

 

「うるせーな、オレもアイツも男だぜ? 男同士の友情に言葉はいらねーんだよ」

「思いつかないだけでしょ?」

「はあ⁈ おまえと一緒にすんなよな!」

 

 熱くなってきた幼なじみに、シルスの心の中に浮かんだのは「しめた」だった。長い付き合いの中で、カロンの扱い方をシルスは十分に心得ている。どうすれば頭を使わせられるのか、それくらいは分かっているつもりだ。

 

「じゃあどうすんの? モノを渡せないならどうすればいいのか、アンタには思いついてるんだよねえ?」

「当たり前だろ! ……ああ、モノでダメなら行動、なんじゃねーの?」

「行動…………」

 

 思いのほかまともな案が返ってきたことに、聞いた本人が驚いてしまった。シルスは頭の中で反芻する。

 

 行動。

 友だちを見送るのに相応しい行動。

 それも、相手に喜んでもらえて思い出になる、そんな行動だ。

 

「どうすればアトラくんは喜んでくれるかな?」

「なんでも喜ぶんじゃねーの? アイツいいヤツだかんな」

「そんなんじゃダメ! 1番喜んでくれるのじゃなきゃ」

「そんなの分かるかっての。聞けばいいだろ」

「それじゃあサプライズにならないじゃない!」

「ちげーよ! アトラじゃなくて、アイツのことを分かってるヤツにだよ!」

「分かってるって————アトラくんの、お母さま……とか?」

「おー、ちょうどいいじゃんか。今朝からアイツは狩りに行ってるらしいし、あの母ちゃんなら話聞いてくれるんじゃねーの?」

 

 日の温もりをあくびで受けるカロンは、やはり他人事のように言い放った。その言葉に不吉な響きを感じて、シルスは確認のために弱々しく口を開いた。

 

「え、ちょ、ちょっと、……カロン?」

「なんだよ? 答えは出たじゃねーか。はやく行ってこい」

 

 その言葉を聞いて、シルスの懸念はいよいよ確信へと変わった。

 なんとこの男、独りで行けというのだ。

 ここへ来ての裏切りに、シルスの眉が吊り上がる。納得のいく説明がなければ粛清も辞さないという勢いで、シルスは被疑者に詰め寄った。

 

「あ、アンタね! ここまで来てそれはないでしょ⁈ アンタも来るの! お見送りは私たち3人でじゃなきゃダメなんだから!」

「3人? ……ああ、アイツもか。むずかしいこと言うな、おまえ」

「……それでも、わたしたちは4人で一緒だったでしょ? 今のままじゃ……ダメ」

「アトラもアイツも隠してる気になってるからめんどうだよなぁ」

 

 「めんどう」の片割れであるオランとは、仲直り以来3人で遊べる仲に戻れている。

 最近だと、自警団としての訓練にカロンが無理やり付き合わせてはひぃひぃと言わせているのが日課になりつつあった。

 だが、アトラとの間になにかの確執が残っているのは、2人がやたらに接触を避けることや、話題を嫌うところからも明らかだった。

 

 そんな状態でのお別れは、許せない。

 その一点に関して、シルスは断固とした決意を持っていた。

 

「ま、アイツのことは今はいいだろ? はやく行ってこいって」

「行ってこいって、アンタも来るの!」

「あー、むりだ。オレは自警団としての見張りでいそがしい。じゃ、まかせたかんな」

「はぁーー⁈」

 

 今のいままでそれをサボっていた男のセリフに、シルスのノドは大いに震えた。

 そこには先程までの周りの視線を気にする余裕も思慮もない。まさに思わず出た呆れと怒りとその他もろもろの吐露だった。

 

「アンタねえ、見張りの素振りもしないでわたしとここでしゃべってたじゃない!」

「うるっせーな! そもそもおまえが話しかけてきたから相手してやったんだろーが! そもそもおまえ、畑仕事の手伝いはどうしたんだよ⁈」

「あっ、今それ言うわけ⁈」

「言うね! それがイヤならとっとと行けっての! …………オレも手は貸す。これでもかなり力がついたんだぜ? 体力仕事ならまかせろよ」

「ああ、そっか。そういえばアンタ、最近たるんでるってゲンコツされてたんだっけ。レガンさんがこわいから、しばらくは真面目にってわけね」

「あーそうだよ。わかってんなら行けっての」

 

 シッシと手で払うようにしてから、カロンは見張り台へと踵を返しす。挑発にも乗らない辺り、父親からの加減なしのゲンコツは相当にこたえたようだった。

 

 シルスは恨みの視線を送ってから、たっぷりと時間を使って覚悟を決め、屋敷の方向へと足を進めるのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 セトナ村で『お屋敷』といえば、もともとは村長宅を指すものだった。木材と石材を組み合わせた建築は、村の誰もが憧れるを抱くには十分なほど立派だったのだ。

 しかしそれも昔のはなし。

 シルスが深呼吸する先にある邸宅こそ、今の『お屋敷』であるアーカー邸である。

 

 その門の前で、シルスは舌が水分を失うほどに深呼吸を繰り返していた。

 頭の中で何度も想像し、練習した挨拶の言葉も、繰り返すたびにこうじゃない気がして……。

 そんなことを、もう20分は続けていた。

 

「ハァ~~…………。大丈夫。変じゃないはず……!」

「——シルスちゃん?」

「ぇひゃいっ⁈⁈⁈⁈」

 

 完全に虚をつかれたシルスは、練習もどこへやら。

 自分でも今まで出した覚えのない声を発して振り返る。

 

「あ…………」

 

 そこには美しい金の長髪をさらりと流した女性が、柔らかな微笑みをシルスへと向けていた。

 やっぱり、ほんとうにキレイだと、挨拶も忘れて見入ってしまう。

 

「ごめんね? アトラったら、朝早くに狩りに出ちゃったの」

「っ、あ、いえ! 今日は、ちがくて……! お、お母さまに、相談があってキたんですっ!」

 

 慌てて出た言葉は裏返ったひどいもので、上品に驚いた様子を見せる貴婦人を前に、シルスはほとほと消えてしまいたくなった。

 

 しかし結論から言えば、そんな様子のおかしい客人をアリシアは微笑ましく迎えた。

 リビングの中央に敷かれた柔らかな絨毯。その上に鎮座するテーブルに、コトリと小気味の良い音とともにティーカップが置かれる。

 

 リビングに広がる紅茶の香り。しっかりとしたつくりのソファーは、小さな客人を柔らかく迎える。

 置かれたティーカップも、アーカー邸にあるものの中では中の下程度。本来であれば客人に対して出すものではないが、これも緊張をさせないようにというアリシアの気遣いであった。

 

 ————が。

 

「ア、アリガトウ……ゴザイマス」

 

 軋む音でも聞こえそうな挙動。おそらく口をつけている紅茶の味などまるで分かっていない。

 

 紅茶の香りも、ソファーの柔らかさも、そしてアリシアの健気な気遣いも。シルスという少女の緊張を和らげるにはいま一歩足りなかった。

 ここにカロンがいれば、シルスは「しっかりものの自分」を出せる。しかし、ここに世話を焼き手を焼くべき相手はいない。

 結果、今のシルスはいわゆる“素”の状態であった。

 

 しかし、それもこの年の子どもには珍しくない性格であり、アリシアはアトラという引っ込み思案な息子の母であった。

 

 結果、シルスの明るい性格も相まって、ものの10分でシルスの表情と声は明るさを取り戻していた。



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狼煙

「来たわね、裏切りもの!」

 

 清々しい朝の空気の中、シルスの開口一番がこれだった。カロンはいかにも面倒くさいという表情を浮かべて、相変わらずご立腹な声の主へと視線を向ける。

 まさかこのやかましさが日をまたぐとは思わなかった、とため息を吐いて。

 

「まだ言ってんのかよ。つーかなんだ、それ?」

 

 視線の先。シルスの胸元には、なにやら仰々しいデザインの箱が抱えられている。

 頑丈そうでありながら高級感を感じさせるそれは、シルスが持つには違和感しか感じない。

 

「昨日の戦果よ。アンタなしで、わたしが独りでお願いしたんだからね?」

「せんか? あー……アトラの母ちゃんにもらったわけな。なんだよ、けっきょくそれを渡すのか?」

 

 やたらに独りでいったのだと強調するシルスの恨み節を、カロンはキレイに聞こえないことにした。

 

「ちがう! これが昨日いってた“行動”! ……ほら、すごいのもらっちゃった」

「すごいの? なんだなんだ、ちょっと貸してみろよ」

 

 シルスの戦果報告には無関心でも箱の中身自体には興味があると、カロンは好奇心を目に浮かべながらその中を覗き込んだ。

 

「……………………はあ?」

 

 箱の中には、小さくて黒くて不思議な模様を持った丸いなにかが入っている。

 それも1つや2つではない。たくさんだ。

 しかしそのどれもがパッとしないというか、カロンの琴線に触れるには到底役目不足だ。

 

 入れ物の見た目に反して迫力のない中身に、カロンはあからさまに興味を失う。

 

「っし。朝の鍛錬といくか。じゃあなシルス、がんばれよ」

「ちょっ、待ちなさい!」

 

 ガッシとカロンの腕が捕まる。

 軽く振り解こうとしても、わりと本気で掴んでいる手は一向に離れる気配がない。

 

「しつけーなあ。いくらアイツでもそんなもんで喜ぶわけねーだろ。すこしは真剣に聞いたオレがバカだったぜ」

「まだ何も言ってないでしょ⁈ これはタネなの! これからアトラくんが出発するまでに咲かせるんだから、アンタも手伝いなさいよ!」

「タネ?」

 

 訝しげな表情を隠しもせずに、カロンは箱の中身をヒョイと摘み、手のひらの上で転がしてみた。

 硬く冷たい感触と想像をわずかに上回る重みは、どこか金属めいて感じられる。

 

「タネ……か?」

 

 言われてみればたしかに、そう見えなくもない。

 だがこれが仮にタネだとしても、こんなものが仲間の見送りに相応しいだけのものになるとは、カロンには到底思えなかった。

 

「————」

 

 無造作に、カロンの手から黒いモノがポイと放られる。それは小さな弧を描いて元の場所へと収まった。

 

 もういい。やはりここはアトラの仲間でありリーダーでもある自分が考えよう。

 

 あんまりな戦果を前に本気でそんなことを考え始めたカロンの意識を、シルスの言葉が縫いとめる。

 

「このタネ、よく見たらこう——ぐるぐるしてるでしょ? これがぐわって開いて、土をかき分けながら開花するみたい」

「な……に……?」 

 

 それは、すこし……カッコいいんじゃなかろうか。

 

 もう一度、カロンの手が箱へと伸びる。

 シルスの得意げな表情も、今のカロンには見えなかった。

 

「これが————」

 

 今カロンの脳内では、自分の合図に合わせて一斉に地中から出現する黒く厳しい花々と、それを成した自分へと喝采を送るアトラの姿がありありと浮かんでいる。

 ちなみに、その想像ではなぜかシルスまでもがカロンを賞賛していた。

 だが、それを正す者はここにはいない。

 

 こうしてカロンは誰よりも張り切り、その様子はそう仕向けたはずのシルスをして閉口するほどであった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 この日もいつもの場所で、3人は集合した。

 1人は畑仕事で汚れた手をそのままに。1人は自警団の鍛錬を終えたその足で。そして1人は、首根っこを捕まえられながら、トボトボとした足取りで歩いて……正確には引きずられてきた。

 

「来たわね」

「ぅ……」

 

 ギロリと睨まれて、気の弱そうな少年……オランは目を逸らした。その様は余人が見れば盗人が自警団に捕まり、持ち主の前に突き出されているようにも見えるだろう。

 

「鍛錬でへばってるとこを捕まえてきた。オラン、アトラと話せとはいわねー。ただ手伝うくらいのギリはあんだろ? あのとき助けられたのはオレとシルスだけじゃなかったはずだぜ」

「————————」

 

 これでゴネたら鉄拳制裁だという迫力を備えた言葉。しかし、その言葉は暴力の影などなくとも十分にオランを打ちのめした。

 オランの顔が青いのは、何も運動疲れからだけではない。

 

「うし! んじゃやるか! 3人ならそろそろ終わるだろうぜ」

「はいこれ。オランの分ね」

「え……なに、これ。おれ、どうすればいいの?」

「見れば分かるから、ほら」

 

 頼りない助っ人の手に無理やりタネを握らせて、ろくな説明もなく引っ張る。

 そうして種まきは急遽の徴兵もあって、順調迅速に、滞りなく進む。始めは戸惑いまごついていたオランも、すこし慣れればいつもの畑仕事と変わらない。村の植物博士の息子だけあって、手際の良さはさすがのひと言だった。

 

 そして日の暮れるころには、その成果が明らかになる。

 

「ふー、こうしてみると植えたなあ。これ全部が咲くのかよ」

「水は少なくていいって言ってたし、あとはアトラくんにバレないようにすれば完璧ね」

 

 満足そうに頷くシルスとカロンは、自分たちの努力の跡を前に、心地良い疲労を噛み締める。

 

「お疲れさま、オラン」

「うん……はぁ、おれもうクタクタだよ……」

 

 セトナ村の植物博士の将来を約束された少年に、少女は労いの言葉をかける。珍しいことに、カロンも笑顔で少年の肩を叩き、賞賛の態度を見せた。

 実際オランの働きは、体力のあるカロンや畑仕事に慣れているシルスをして目を見張るものだった。

 今日一日のオランの仕事量は、2人の実に2日分である。農作業の多いセトナ村において、これは最も重宝される才能といえた。

 

「あ、でもさ、アトラには教えないんだよね……? …………さすがに気づくよ、これ。おれでもわかるもん」

「あ…………どうしよう」

「あんまり土を被せすぎるのもよくないから…………どう、する?」

 

 オランの言葉に、シルスは黙り込む。

 そう、これはサプライズ。本人に気づかれるのはご法度だ。しかし見送り対象はたびたび不定期な狩りに出かけてしまう。冷静に考えて、隠せるはずがないのだ。

 こうなると、計画は大きく修正する必要がある。

 

 しかし、サプライズの計画に立ち込める暗雲を、リーダーの張りのある声が一蹴した。

 

「バッカおまえら、そんなもんリーダーのオレがひと言いえば解決じゃんか!」

 

 だろ?と、自信に満ちているリーダー。2人はよく分からない。

 

「ひと言って、アンタなに言う気?」

「だから、ここに来られちゃ困るんだろ? ならここにくんなって言えばいい」

 

 な?と、再びのカロン。オランは「そんな手が!」と手を打ち、シルスはそんな2人に頭を抱えた。しかし、オランが偏ったことで本案は2対1で可決。軍配はカロンとその子分に下り、翌日にはアトラ宅へ足を運ぶカロンとシルスの姿があった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「うまく行きそうだな」

 

 アトラ宅への突撃訪問を終えた足で、カロンたちは井戸の広場で互いの健闘を称え合う。

 あとは約束の日までに手入れを怠らずにいれば良い。シルスがアーカー邸を前にした場面で、唐突に「開花が早いと言われてたことを忘れていた」などと言い出すというハプニングはあったが、それであればもう見送る前に計画を早めようというカロンの機転の良さでことなきを得た。

 

 なので、自然と“称え”られる比重はカロンに偏っている。それを当然だと受け止めて、カロンの鼻は高々だった。

 そんなリーダーを微妙な表情で眺めながら、シルスはふっと疑問を口にする。

 

「そういえば、さっきの話はなんだったの?」

「あ? さっきのはなし?」

「ほら、オレがおぶってやるとかなんとか言ってたでしょ、アンタ」

「ああ、いやアイツ親ばなれってやつができてないんだぜ? 笑えるから聞けよ」

 

 カロンは嬉々として語る。ここに、アトラの懸念は現実となったのだった。

 

 その後の2人——ときどき3人——は、暇を見つけては花の手入れをするという日々を送った。花が育つほどにこのことは村の中でも話題となり、サプライズの協力者は増えていった。

 協力者は村の自警団の若い衆を筆頭に、村の主婦らも顔を見せる。来る者はさまざまだが、皆浮かべる表情は微笑ましげなものばかり。

 

 それをくすぐったくも感じながら、シルスとカロンは着々と準備を進める。

 そんな約束の日が近づく中で、意外な人物が顔を見せる。それを歓迎する者など1人としていなかったが。

 

「これが例の花畑か? まあまあじゃん。ギリギリ合格にしとくか」

 

 チリチリとまばらに伸びたヒゲをいじりながら、次期村長であるゲルクは鮮やかな花を上機嫌に眺めていた。

 

「なにか用か? ジャマするなら帰れ」

 

 突然現れたゲルクに、カロンは鋭い視線を投げた。小さな悲鳴をあげて、オランは身を低くする。

 ゲルクの視線は生意気な反逆者へと向けられ、細められた。

 

「邪魔する? いや、続けるのは許してやる。俺の庭をキレイにしようってことなら褒めてやってもいい」

「はあ? 誰もおまえのことなんざ頭にねえよ」

「————許可を取り消してもいいんだぞクソガキ」

 

 2人の視線が切り結ぶ。

 一方は身の程を弁えない反逆者への憤怒を胸に。一方は目の前の汚物へ対する殺意すら込めて。

 

 一触即発の空気に、傍観していた大人たちも腰を上げる。……が、その直前でゲルクは視線を逸らした。

 

「…………いや、クソガキに本気は大人気ないか。そもそもサプライズだったよなあ。こんなもの、聖騎士が帰ってくれば家で話題にするに決まってる。それでお前たちガキどもの小便臭い計画はご破算だっての。ざんねんだったなぁ~、ちょっと頭が足りなかったかぁ~?」

 

 優越感に顔を歪めながら、神経を逆撫でする声で無礼者を見下ろす。次の瞬間にも激昂するであろうカロンをどう痛め付け、調教するか。

 ゲルクの脳内はそんな愉しみに溢れていた。

 

 しかし。

 

「——ハッ」

 

 ゲルクの歪んだ微笑みを、カロンは鼻を鳴らして一蹴した。蔑むように鼻で笑うカロンの目には、もはや憐れみすら浮かんでいる。

 

「なにが笑えるんだ? ん? そんなに躾けられたいか?」

「やっぱおまえは知らねーのな。おまえの苦手な聖騎士は当分留守だっつーの。村で知らねーのはおまえくらいだぜ?」

 

 カロンは嗤う。そんな周知のことを知らないことこそ、おまえの孤立を表していると言わんばかりに。

 

 それを前にして、ゲルクは目を見開いて紅潮して————

 

「あいつが……当分いない……? く、ハハっ、ハハハハハハハッ‼︎」

 

 興奮を隠すことなく、高らかに勝鬨を上げた。ようやくだと。この時を待っていたと。

 

 誰も予想していなかったゲルクの狂笑に、カロンはおろか大人たちですら眉を顰める。

 

 聞く者を不快にする笑い声が止まるころには、ゲルクの機嫌はここ数年来のピークへと達していた。

 

「気が変わった。俺が直々に手伝ってやる」

 

 止める間もなく、ゲルクは踵を返す。その背中を唖然と見つめる一行。胡散臭いことこの上ないが、邪魔をしないだけでも僥倖だと思い直して、カロンはいち早く硬直から回復した。

 

「結局、なんなの?」

「さあな。もうほっとけよ。オレたちもひまじゃねえし」

 

 やれやれと首を振って、作業に戻る。

 その後再びやってきたゲルクは草や枝を集めるだけ集めて燃やし、それを肥料にしろと言ってきた。この灰は栄養になると。

 

 もうすでに花開き、約束の日も目前にした今となっては栄養もなにもないのだが、それを言っても面倒事が増えるだけだと、カロンたちは大人しくやらせることにする。

 

 そのモクモクと天に昇る煙をみて、なんだか狼煙という単語を思い出すカロンであったが、それもすぐに頭から消えた。

 

 そして約束の日。

 セトナ村の正門で待つカロンとシルス、そしてオラン。

 

 相変わらず取り留めのない会話へ花を咲かせていると、ふとカロンの視線が道の向こうへと向けられる。それは本当に偶然だった。

 

 カロンの視界は、町へと続く道の向こうから村へと進んでくる妙な集団を捉えていた…………。



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遅すぎた開眼

 

 その日は朝からひと雨降りそうな曇天だった。

 まさに鉛色。重く垂れる雲が、空に分厚い蓋をしている。

 

 目を覚まさないといけないのに、窓の外の陰鬱な空模様のせいで頭がなかなか目覚めてくれない。

 今日だけは2度寝も良いかも、なんて考えて——

 

「ふっ‼︎」

 

 ガバッと、気合いで体を起こした。

 こういう時に眠気の未練を断ち切れるかどうかで1日が決まるんだぞ、とはお父さんの言葉だ。

 すこし手こずったけど、それでもこうして起き上がったんだから、今日という日がぼくにとっていい日であってほしい。

 ……さっそくめまいがするけど。

 

 ちょっと急に起きたのが良くなかったみたいだった。軽い耳鳴りとクラクラした感じが治るまですこし待ってから、ベッドから腰を上げる。

 

「さ、早く準備しないと!」

 

 なんたって今日はカロンたちとの約束の日だ。遅れるわけにはいかない。すこし早く行くくらいでちょうどいいんだ。

 

 微かな高揚が頭にのこっていたモヤを散らす。おかげで部屋を出るころには、思考は顔を洗ったときみたいにクリアになっていた。

 

「ん————?」

 

 階段の踊り場まで駆け降りたとき、玄関が騒がしいことに気がついた。興奮した高い、というより裏返った声が耳に痛い。

 

 なんだか大の虫嫌いのお母さんが、アリアのイタズラで虫を背中に入れられたときの声を思い出す。

 あんなお母さんはあれ以来見たことがない。

 

 あれでどんなものを口にするにも抵抗のない逞しさをもつお母さんだけど、お父さんが虫を焼いたのを食卓に並べたときはすごかったっけ……。

 

「……あれ?」

 

 家庭内の真のヒエラルキーを知ることになった出来事を思い出しながら、階段を最後まで降りる。

 すると、玄関にいたのは珍しい人だった。

 曲がった腰と、いつも肌身放さないスカーフは間違いない。名前は忘れてしまったけど、間違いなく村長さんの奥さんだ。

 

「落ち着いてください……! 私も一緒に探します」

「ないのよう! どんなにさがしても、みつからないってえ……!」

 

 村長の奥さんはお母さんに縋りついて、しきりに「ない」とか「見つからない」を繰り返している。

 なんとなく、声をかけられない。

 

 お母さんが玄関を早足で後にするのを見送って、ぼくも時間がないのを思い出した。

 

 急いで着替えて顔を洗い、玄関から外に出る。

 すると、奇妙な光景があった。

 

 正門の向こう。この村では僕の家を除けば1番大きい邸宅の中は、まるで泥棒でも入ったみたいに荒れ放題だった。

 開け放たれた入口からは、中でせわしなく動く人影が見え隠れしている。

 

「あ」

 

 そんな見え隠れしていた村長さんと、窓越しに目が合う。なぜか目を丸くするクワン村長。

 

 そのまま、体調が悪いのか青ざめた顔のクワン村長が家から出てきた。

 

「…………?」

 

 クワンさんはぼくへ真っ直ぐに視線を向けて、正門をくぐって庭を通過して目の前まで来ると、ぼくの両肩を強く掴んだ。

 

「アトラくん、すまんが家から出んでくれ……! もうすぐ建材置き場の裏門がひらく。万が一のときはそこから馬車で逃げなさい……!」

「ぁ、え……、あの……?」

 

 すごい剣幕だった。いつもは優しげなしわくちゃの顔も、まるで幽鬼みたいで、手の置かれている肩は信じられない力で締め付けられている。

 

「な、なにがあったんですか⁈」

 

 怖くなって、助けを求めるような、悲鳴じみた声が出た。それで我にかえってくれたのか、クワンさんはハッとして手を放してくれた。

 

「…………すまん、アトラくん。ともかく村の正門には近づいてはならん。あそこは危険じゃ。幸いここには馬車がある、村の子どもらが集まるまでは————」

「村の正門……っ、すみません、失礼します!」

「な⁈ アトラくん! ならん!」

 

 身体が弾かれる。村長の表情や声色から、何か大変なことが起きているのは明らかだ。

 それを理解した瞬間、ぼくの身体を脊髄が支配した。

 

 ————走れ

 

 間に合わなくなる前に、走れ。

 

 何に間に合わないのかなんて、知らない。

 間に合ってどうするかなんて、分かるはずない。

 

 それでも、身体の指示に従った。

 

 走る途中、正門へ向かう道程で、何度も人とぶつかった。

 みんな逆方向へ流れて行く。

 

 何度も服を掴まれ、肩を掴まれ、懇願するような声で行かないでと。

 

 それも全部振り払う。

 静止されるほど、足は一層回転して、心臓は信じられないほど早鐘を打った。

 

 そして、あっという間にその光景を前にしていた————

 

「か…………ろん……?」

 

 村の入り口前に広がっている、見たことのない男たち。手には剣や槍を携え、刃先を自警団の人たちに向けている。

 

 そんな男たちの足下に、

 

 うつ伏せで倒れた、友だちと呼べるひとがいた。

 

「————————」

 

 落ち着きかけていた呼吸が、一瞬で言うことを聞かなくなった。

 

 頭の中は、今目の当たりにしている光景に漂白されて…………本当にくるしい。

 

 ありえない。

 

    ちがう。

 

     そんなはずがない。

 

 どうしてアレをカロンなんて思ったんだろう。

 こんなの、カロンが知ったら、なんて……。

 

 だって、そうだ。

 服装も体格も、たしかにすこしだけ、ほんの少しだけ見知っている。

 

 けど、違うだろ。

 

 だって……()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あんな潰れて、割れた頭じゃ、ない。

 だって、だって、あんなの、何度も踏みしめて踏みしめて……死んじゃうじゃないか————

 

「カロン————————」

 

 なのに、不義理な冷たい自分がバカなことを口にした。

 

 何度踏みつけて、何度苦しめて、何度静止の懇願を無視すればああなるのか。

 あんな……人の頭を、潰れた果実のようにできるのか……想像もつかない。

 

 となりにいる若い人が、剣を男たちに向けながら何か言ってくる。守ろうとしてくれるのはいいけど、ぼくとカロンの間に入らないで欲しかった。アレをヤッたヤツの顔を覚えられない。

 それでも剣は有り難いから、突き飛ばして取り上げる。

 

 いつも使う剣と比べると……軽かった。こんなものでやりたいことができるのか、すこし不安になる。けど、やろう。

 

「カロン……ごめん……痛くて……苦しくて……怖かったよね」

 

 体が震えて、熱くなる。

 

 涙は一滴も出ない。

 

 視界を霞ませるなんて不手際は犯さない。

 そんなことをしたら、やりたいことができない。

 

 心と体が、同じ目的のために完全に協力する。

 こんなに自分が思い通りになったことはなかった。

 

 汚らしい男たちの怒号も、気にならない。

 ただ、さっきからうるさいくらいの耳鳴りと、大切な友だちを足蹴にしていることだけが、どうしようもないくらい不快だっただけ。

 

「ギゅ」

 

 1人目の男は、そんな声とも音とも分からないのを最期の言葉にした。

 

「ハガッ」

 

 崩れ落ちる1人目を、突っ立って見ていた2人目の最期はこれだった。

 

「て——」

 

 3人目。

 

「やろう! ちょうしに——がぇあッ⁉︎」

 

 4人目。

 今のは危なかった。

 お父さんに見せてもらった、ぼくの戦い方をさらに再現する。

 

 より正確に。より忠実に。

 今ここにいるのは、あのときのお父さんだ。

 あのときの聖騎士を、完璧に再現する。

 

 動きだけじゃなく、思考ごと、完全に。

 目が痛くて、頭が熱く重くなるけど、我慢した。

 

「やべえ……頭! こいつ、強——」

 

 よそ見をしているのを仕留めると、ぬめりと温かいものが手に伝う。

 

 なにも感じない。

 

 人を殺すのがこんなにかんたんなんて知らなかった。こんなかんたんに死ぬなんて、実感が湧かない。

 人の命がこんなに軽くて、それを奪う剣までこんなに軽いなんて、予想外だったしどこか間違ってる。

 

 こんなに死にやすいのに、よくぼくたちはあのオオカミから生き延びたな、なんて幸運を思い出して……急に悲しみに襲われた。

 

 それを振り払うために、また地を這うように踏み込んで、のどを貫く。

 

「? ……ああ」

 

 妙な手ごたえ。不快なそれは、剣が真ん中から折れたものだった。

 

 自分の剣ならこんなことも無いのに。

 そんな不満を我慢して、汚い男の汚い剣を拾う。

 

「オ”、ぎォ……!」

 

 それを、汚い男の体に埋没させる。

 

 今更気がついた。

 この現実感のなさ。抵抗感のなさは、ぼくがこの男たちを人間だと思えていないからなんだ。

 だから覚悟なんていらなかったんだ。

 

 ズキリ、と……目が激しく痛んで、正気に戻りそうになってしまう。

 正気(そんなもの)は今いらないから、邪魔だから、手を動かすことに集中しないと。

 この今の感覚を手放したら、もう一度再現できる気がしないから。

 

「おおいィ! こっちみやがれクソガキィッ‼︎」

 

 うるさい声。

 痛む目の奥を刺激する、不快な声だ。

 頭も痛いし、何より気が散るからすぐに静かにしようと思って、視線を向けて————

 

 ————瞬間、身体の熱が一瞬で醒めるのを感じた。

 

「オラ、ン?」

 

 こっちを見る怯えた視線と目が合って————

 

 

 

 

 ————ぼくは、正気に捕まった。



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アトラ・アーカーの最期

「ぁ、アトラ……おれ……」

 

 オランは、記憶にあるよりずっと掠れた声で、ぼくの名前を口にした。

 今にも泣き出しそうな顔が、ぼくに向けられている。いやあの目を見ると、もうさんざん泣いたのか……。

 それもそうだ。ここにいるってことは、オランはカロンの最期を見たんだから。見せつけられたんだから。

 

 その上、今の状況はとてもまずい。

 どうすればオランを助けられるのか、まったく見当もつかない。

 

 オランの首へ刃を食い込ませている男とは、ここからだと僅かに距離がある。

 さっきまでの全能感みたいなのはもうすっかり消えて、遅れてやってきた疲労が太ももを勝手にヒクつかせていた。こんな足じゃムリだ。

 

 夢から覚めて、どうにもならない現実へと取り残された気分。いっそこっちが悪夢であってくれたらどんなによかっただろう。

 

 どんなにうなされても、目が覚めたら自分の部屋にいて、なにがあっても守ってくれるお父さんがいて、心から安心できる笑顔を浮かべるお母さんがいて、掴みどころのないアリアに困らされて…………そんな日常がある。

 今日も変わらずそんな日常を送る自分が、どこかにいるんじゃないかと本気で思えてくる。こっちは何かの拍子に道から外れてしまった方で、そうじゃない方のぼくは今ごろお母さんの作る料理に舌鼓を打っているんだ。

 

 現実から逃れようとする思考が、ありもしない世界の、いもしない自分を妬み、憎しむ。

 けど、そんなのはやっぱり現実逃避だった。

 

 相変わらず冷や汗も止まらなければ、時間もまた止まってはくれない。

 

「テメェ、ハデに暴れてくれたなァ」

「アト——ッ⁉︎」

 

 その声で、楽な妄想から引き戻された。

 

 オランの身じろぎに反応して、刃はさらに食い込む。あのまま、あと少しでも引かれれは……それだけでオランは…………。

 

「動いたら……分かってんな?」

「……………………」

 

 呼吸は心臓に合わせるように早くなって、ろくに頭を働かせてくれない。どうすればいいのかという自問だけが繰り返されて、思考はそれだけで埋め尽くされていく。

 

 けれど、冷静で冷淡な自分が告げている。

 これは詰みだと、嘆息混じりの独白が聞こえた気がした。

 

 アトラ・アーカーにオランは殺せず、反撃にしろ回避にしろ、動くということはオランを死なせる……殺させるということになる。

 だから、アトラ・アーカーは動けない、と。

 だから、おまえは詰んでいるのだと。

 

 癇癪を起こしたくなるくらい、当たっていると思った。

 どうしようもなく正解だ。

 あんまりにも正論すぎて、もう刃物と変わらない。

 だって、それも当然だろう。

 この言葉は、紛れもなくぼく自身のものなんだから。

 

 動けばオランは死ぬ。

 それを承知で動くということは、あの男の腕と短剣を使って、ぼくがオランを殺すのと変わらない。

 

 だけど、それじゃあ動かなければオランは助かるのだろうか?

 

 …………そんなはずはなかった。

 そんなの、これっぽっちも考えられない。

 一瞬でも縋りたくて、楽になることに全力を出している頭でも分かるくらい、一切の希望がない。

 

 けど…………それでも、ぼくは動けない。動きようがない。だって、オランを殺すなんて……できないんだから。

 

 男たちを殺すのだって、人を殺す覚悟を持たないでやってしまった。できてしまった。

 人を人だと思わないことで、踏み越えてしまった。

 なのに、人を殺すどころか友だちを殺す覚悟なんて…………一足跳びどころじゃない。そんなの、一生涯かけたって、できっこない。

 

「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……」

 

 呼吸が荒い。胸が、肩が上下して、何もしていないのに苦しくてたまらない。

 繰り返される自問と、その度に出る『どうしようもない』という回答と、肩へのし掛かるオランの命への責任。

 それらが、あのときのオオカミなんて比じゃないくらいにぼくを苦しめ続ける。

 

 いっそ子どもみたく丸くなって、お父さんに助けを求めて泣き出したかった。

 

 じゃり、という……音。

 それが背後から聞こえた瞬間、しまったと思った。思ったと、思う。

 

「あ゛ガッ?!」

 

 ドムッ、と……自分の身体が鳴らした音を聞いた。

 背中を固くて、感じたことのないほど冷たいものが乱暴に擦ったのかと思った。

 けど……直後の焼かれるような感覚と、そんな感覚すら切り裂いて脊髄を割る激痛に、いやでも何をされたのか理解する。

 

 背中の灼熱の感覚とは対照的に、全身は血の気の引いた、凍えるような寒さで震えて……。

 いや……痙攣している、のか……。

 

「があ、ギぁっあああぁあぁあ‼︎‼︎‼︎‼︎」

 

 叫びが出ている間にも、異物が容赦なく入り込み、体の中身を押し分ける。痛くて、熱くて、怖くて……全身からの苦痛を口から吐いたような声が止まらなかった。

 自分のものとは思えない、ケモノの断末魔。

 ぐしゃぐしゃになった思考は、もう死ぬことを受け入れてしまってる。そんな自分が情けないのに、もう壊れてもいい。諦めてもいいんだと、どこか安堵している自分が……理解できない。

 もう答えのない自問を繰り返さなくていいんだという安堵。そんな狂気を否定する理性。

 

 そんなものすら、次の瞬間には痛みで掻き消える。

 

 オランを人質にしている男は、何が面白いのかニヤニヤとした顔を興奮で染めている。それが、オランとはほんとうに対照的だった。

 

 もういい。もうアトラ・アーカーは終わった。

 こんな中でまともでいても苦しいだけだ。

 

 そうだ。これは夢なんだ。

 昨日の延長に、こんな地獄があるなんて信じられない。それよりも夢だという方が、何倍も説得力があるし、常識的だ。

 それなら、いっそ死んでしまえば目が覚めるのか。

 

 よし、壊れてしまおう。結果は変わらないんだから。これは夢なんだから。

 

「よーし、1つ賭けだガキ。テメェが最後まで悲鳴をあげなけれりゃあ、こいつは解放だァ」

 

 そしてその言葉で、最後に縋った自失という逃げ道すら、ぼくは閉ざされてしまった。

 

「あ゛がィゥ、グ………………ッくぅ、はっ、ふっ…………ぐぅぅぅ、う゛……!!!!」

 

 耐える。

 死にかけた心を、休もうとした理性を叩き起こして、必死に歯を食いしばる。

 それでもダメだから、手に噛み付いて、噛みちぎることに集中した。

 

 口内に錆びた鉄の味が広がる。口に入ったのか、口から出たのか。手から出たのか、「「中》》から出たのか。どちらとも分からない血は、ただでさえ苦しい呼吸をさらに苦しくする。

 

「ひっでェもんだなァおい」

「ぁ、ぁアト……ら……」

 

 真っ青な顔のオランは、歯をカチカチと鳴らして震えている。オランのそんな姿だけが、ぼくの意識を繋ぐ唯一の糸だった。

 

 耐えなきゃ。守らなきゃ。

 もう助からないぼくが、唯一守れるもの。遺せるもの。

 そのためなら、こんな痛みも寒さもおぞましさも耐えられる。耐えられなきゃ、いけない。

 

 けれど、やっぱり冷めた声が水を差す。

 冷静ぶった声で、ぼくの声で、ぼくじゃないぼくが断言する。

 

 “全部ムダになる”——と。

 “これでオランが助からないのは、さっきまで分かっていたはずだ”と。

 

 そしてそれは現実になる。

 

「ひどすぎるよなァ」

「ぁ、……ぁぁ……ぁぐっ⁈」

「てめぇのことだァ、ガキ」

 

 グイと、男が震えるオランの髪を掴み、乱暴に突き飛ばして押し倒す。前触れがなさすぎて、オランもぼくも、もう……意味が分からない。

 

「俺はなあ、ガキ。仲間を見捨てるヤツがいッちばん気に入らねえんだよ」

「…………ぇ?」

 

 か細い、今にも消えてしまいそうな声。

 ぼくはそんなオランと違い、男のやろうとすることが理解できてしまった。

 気づいた瞬間、どこにそんな力が残っていたのかというくらいの悲鳴じみた怒号が喉を削りながら出ていた。

 

「ふッ……ざげるなあ゛ッッ‼︎ やぐぞぐ——ゲッハ! だずげる゛っでえ゛、ごふッ、ぃ゛っだぁあ゛あ゛あ゛あ゛ッッ‼︎‼︎」

 

 吐き出す声は血が混じる。

 

 賭けなんてウソだった!

 約束を守る気なんてはじめからなかった!

 なにがどうなっても、こうして難癖をつけて“済ませる”つもりだったんだ‼︎

 

 込み上げてくる感情は止められない。

 理性と本能が、()()を冷静な状態で目にすることを全力で拒んでいる。

 

 男は歪んだ顔をそのままに、オランの背中を膝で潰す勢いでのし掛かる。

 苦しげなうめき声が聞こえた。

 

「仲間が命ィはってるのを何とも思わねぇのか⁈ このクソがァア‼︎‼︎」

「あ゛————ぇ…………?」

 

 振り下ろされた。

 何の躊躇もなく。

 声とは裏腹に、なんの怒りもない顔で。

 喜色すら浮かんだ顔で。

 

「カフッ! ぃ……た……」

 

 オランの口から、赤い(いのち)が溢れた。

 

「ァ……あぁ、あ゛ぁ゛あ゛ア゛ア゛‼︎‼︎ オランッ! オランッ‼︎」

 

 必死に叫ぶ。涙で輪郭を失った視界。どんなに目を瞬いても溢れ出す涙は、オランの姿すら霞ませようとした。

 それでも、叫んだ。

 命を繋ぐために、必死に手を握りしめて、懸命に呼び止めた。

 もしかすると、置いていかれたくなかったのかもしれない。オランが先にいなくなって、独りでここに残されるのが、本当に嫌だったのかもしれない。

 

 返事は返ってきた。すすり泣くような声で、弱々しい声で、返ってきた。

 

「……ご、めん」

「————え?」

 

 唐突な謝罪の言葉。あまりに唐突で、周りの音や男たちのせせら笑う声すら気にならない。

 

「オレ……あや……まりたくて…………ずっと……ひど……こと、いっ……た、から……」

 

 時々えずくような声を挟みながら、オランの声が聞こえる。苦しそうで、それでも続くそれは……なんだか急いでるようにも聞こえた。

 それが何に間に合わせようとしているのか……考えるまでもなかった。

 

「オ……ラン……!」

 

 涙は止まらない。視界は霞んだままだ。

 けれど、目の前のオランは間違いなく、みんなで遊んだあの日々のオランだった。

 

「オ゛ラ゛ンッ‼︎」

 

 もう、返事は返ってこない。急所へと突き立った刃は、正確にオランの命を刈り取ってしまった。

 本当に、あっさりと……ひとり残されてしまった。

 

「あとはテメェらでやれ」

 

 オランを殺した男が、手下たちを引き連れて村の中央へと歩みを進める。

 すると残った何人かの男たちが、ぼくの体を仰向けにする。動く視界の中で、自警団のみんなが死んでいるのが見えた。

 そういえば声もしないし助けてもくれないと思ったけど、なんだ…………死んでたんだ。

 

 ぼくを仰向けにした男は、しきりに「楽に死ねると思うな」とか、「苦しみ抜いてしね」とかを繰り返す。

 ぼくの体に孔を作りながら。

 腕を歪めながら。

 あばらを踏み砕きながら、涙を流していた。

 

 「よくも弟を」と聞こえて、殺される理由が腑に落ちた。意外とマトモな理由で、少し安心した自分すらいたくらい、常識的な理由だった。

 けれど、もう苦しくない。感覚はとっくに死んで、心も今死のうとしている。

 

 でも、それでもオランの手は離さなかった。今までさんざんすれ違ったけど、せめて死んでしまった後では一緒にいられるように。

 そして、カロンたちも探そう。みんなで一緒なら……こわくないから。

 

 なのに……聞こえた。聞こえてしまった。

 村長さんをはじめとした、聞き覚えのある声。

 

「その子を放さんカァッ‼︎‼︎」

「お前ら逃げるなあ! ナクラム様への恩を感じているなら、逃げるなあ!」

「あの子を見捨てたら、ナクラム様に顔向けできないじゃない」

「あたしゃ逃げるなんてゴメンだよ!」

 

 視線が動く。

 見れば、村でもよく話しかけてくれた人たちの姿があった。野菜を押しつけてくれたおばさんたちの姿もあった。狩りの成果を分けたとき、何度もお礼を言ってくれた人たちの姿があった。

 中には手に調理器具を持って構える人までいる。

 

「テメェらァ! わざわざ死にに来てんだ、相手してやれェッ! 皆殺しだあ‼︎」

 

 号令と共に、怒号と悲鳴が聞こえてくる。

 

「や……て……」

 

 死んでゆく。みんなみんな、ぼくなんかのために死んでゆく。

 優しかったひとたちが、あたたかかったひとたちが、ぼくの名を叫びながら死んでゆく。

 

「…………けて……」

 

 もう枯れたはずの涙が、ひとすじだけ目から耳へと伝い落ちる。

 

「たずげでえ゛! お父さ゛あ゛ぁあ゛————」

 

 自分の頭蓋の割れた音。

 それがぼくの聞いた最後の音だった。

 

 

 そしてアトラ・アーカーは死に、数十分後に目を覚ます。自分の名すら忘れて、どのような想いで友人の手を握っていたかも忘れて、吸血鬼は徘徊をはじめるのだった。

 

(本編第1話へ続く)



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調査隊に起きたこと
調査隊10名 うち聖堂騎士2名 隊長レグス


「ホントウに大丈夫なんですかね」

「何がだ」

 

 移動用の馬車に揺られながら、男は今日何度目か分からなくなったため息混じりの返答をする。部下の情けない言葉も、男のため息と同じ数だけ繰り返されていた。

 だから、部下の次の言葉もやはり繰り返しだった。

 

「なにがって、こんな数でいいのかってことですよ————うわっ!」

 

 馬車の強い揺れに、男の部下が悲鳴をあげる。悪路を進む以上は当然のことだが、特に男たちを運ぶ馬車は衝撃を吸収する機構にガタが来ているらしく、悪路の凹凸を臀部を通して正確に理解できるほどだった。

 とはいえすでに目的地にかなり近づいている。いい加減にこの揺れにも衝撃にもとっくに慣れていいのではないかなどと、つい悪態をつきたくなるのを堪えたのは、はて、やはり何度目かも分からなかった。

 

「シマク、これで何度目だ。そろそろくどいぞ——いや、とっくにくどい」

「だって考えてみたらアブナイないじゃないですか! あのナクラム様がとっさに攻撃したんですよ⁈」

 

 部下シマクのわめき声に、車内の隊員たちの視線が集まることを、男は内心舌打ちと共に認めた。

 こいつの弱気は伝染し得る。それを防ぐためにも、男は声量を上げなければならなかった。

 

「そうだ! そしてその攻撃によって、脅威は無力化された! ゆえに我々の任務はあくまで調査になっている訳だ! 聖堂から応援の聖堂騎士も来ている。それは聖騎士が必要となることはないと、聖堂が判断したからに他ならない! シマク。お前は司教の判断に異を唱えるのか?」

「い、いえ……そうでは、ありませんけど……」

 

 シマクの声が尻すぼみになるのを確認してから、男はやれやれと、また長いため息を吐いた。こんな言葉の効果も一時的なのは、ここまでの道中で嫌と言うほど分かっている。男にできるのは、シマクがまたグチグチ言い出す前に目的地に着くことを祈ることくらいだった。

 

 荷馬車よりマシという風の車内に視線を向けると、もう他の隊員らはこちらから興味を外し、自分の世界に埋没して揺られていた。

 ガタンッと、再び馬車が揺らされ、小さな悲鳴が1人分。男は意識してため息を飲み込んだ。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「レグス隊長。もう僅かで目標地点です」

「……ん」

 

 突発的な調査任務への対応のために、徹夜で引き継ぎを済ませた疲れからなのか、男——レグスは馬で並走している聖堂騎士の声で目を覚ました。夢を見た気がしないその眠りは、まるで瞬きの間に瞬間的に移動したのではないかと錯覚させた。

 

 声のした方へ首を回すと、騎士はレグスが起きたのを確認してからは真っ直ぐに前方へと向き直っている。長剣にしても長い、槍を思わせる獲物を携えて、油断なく周囲を警戒するその姿に、レグスの胸中には頼もしさと共に複雑な感情が起こる。

 

 自身を遥かに凌ぐ能力を持つ聖堂騎士。若かりし頃は羨望の眼差しを送りもしたそれを、ある日突然部下だと渡されてしまったのだ。少しの誇らしさはあるが、嬉しくはない。

 いっそ聖騎士が来たなら、いつかのように素直に喜び、興奮に胸も昂ったことだろう。だが、かつて夢見て、全ての時間を費やして目指したもの。そして才能という壁を前に、泣き喚きながらも届かなかったもの。

 

 凡人が血反吐を吐けば覆せる程度の能力なぞ、聖堂は求めてはいなかった。替えが効かないほどの才能。求められたのは、そういった原石たちだ。

 泥を丸めていくら磨き上げようと、所詮は土くれでしかない。宝石になど、なれるはずもない。

 そんな現実を理解出来るように丁寧に教え込まれ、認めてしまった。

 

 レグスにとっての聖堂騎士とは、つまりはそういうものだ。

 

 胸の痛みを噛み殺しながらも、ふと、何かが足りない違和感を感じ、シマクがやけに静かなことに気づく。泣き言を言うにも疲れて寝たかと車内を一瞥すると、予想を裏切り、気弱な部下の目は開かれていた。

 あの目には覚えがある。

 また、古傷が疼いた。

 

「……………………」

 

 羨望の眼差しの先には、もう1人の聖堂騎士がいる。そう、聖堂騎士は2人いる。こちらの騎士も姿勢に僅かの乱れもなく、精悍さと気品を絵に描いたようだ。

 先ほどレグスに声をかけた方もそうだったが、今回派兵された騎士は、聖堂内でも精鋭の部類であると、レグスのみならず隊の皆が肌で感じている。

 シマクが純粋な羨望を向けているのは、彼だけが未だにそれらを感じ取れていないからだろう。

 

 レグス含めた他の隊員の視線は、ただ一点に絞られている。盾だ。

 その騎士の得物は巨大な盾だった。まるで聖堂の柱から切り出したようなその盾には、やはり聖堂の柱を思わせる装飾が施されている。レグスには、それがどの聖人を象った装飾であるかも理解できた。

 

 守護聖人は死してなお信仰され、その姿形にすら奇跡を宿す。存在そのものが、魔法的意味を持つに至る。

 故に、大聖堂などには必ず縁ある聖人の像や、時には壁画が置かれ、あらゆる穢れを遠ざけている。

 

「隊長……あれ、重くないんですかね……?」

「っ……くく! シマク、お前……」

 

 真剣な顔を近づけてきた部下の明後日からの質問に、レグスは堪えられなかった。

 内心冷や汗を噴き出しながら視線だけを向けるが、幸いにも騎士の注意はこちられ向けられてはいない。少なくとも、レグスから見てそう映った。

 

「まったく、そんなことを気にするとは余程余裕があるんだなぁ、お前は。殿(しんがり)は任せるぞ」

「んなぁ⁈ なんでですか⁈ ムリです! フカノーです!」

 

 車内に隊員らの笑い声が湧き起こる。それだけで、レグスの胸の痛みは目的地まで消えてくれた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 長剣の騎士の言葉通り、目標地点であるセトナ村へは程なくして着いた。村を視界に映した地点で馬車を停め、そこからは装備を整えて徒歩で近づく。

 そして脅威はないと確認するか、もしくは排除したのち、乗ってきた馬車と運搬用の荷馬車を近づける手筈になっている。

 

 夜だった。盾の騎士を先頭にしながらも、やや互いの間隔を広くして進む。脅威となる存在がいる可能性は低いと言っても、だからといって安心も油断もできない。慣れることのない、危険を身近に感じたとき特有の緊張感と、不快なほどの感覚の冴え。

 

 明るいとも暗いとも言えない月明かりが、人気のないセトナ村をぼんやりと浮かび上がらせている。それをずっと見ていると遠近感が徐々に狂いはじめ、歩みを進めるたびに迫ったり離れたりして見えた。

 

 何も起きぬまま村に足を踏み入れた頃には、レグスの肌着は重さを増していた。早くも引き返して着替えてしまいたい欲求に抗いながらも、レグスたちの動きははやい。

 4人それぞれで運んでいた4本の細い杭。それを地面に四角を作るように打ちつける。最後にレグスが長方形の金属製の箱から取り出した針を、四角形の真ん中あたりに放ると、針は波紋だけを残して地中に沈み消えてしまった。

 『針上の鏡面』と呼ばれる結界用の魔道具は、水面を思わせる波紋をゆっくりと広げていく。

 

「“鏡”の敷設は完了した。……しばらく待機だが、警戒は緩めるな」

 

 言われるまでもないと、各々が片手を太もものプレートについたピンに触れる。

 このピンを引き抜くかプレートごと砕ければ、簡易の〈聖障結界〉が展開させるはずだった。本来レグスたちの教会には配備されていない防具だが、今回の調査のために、聖堂からきっかり人数分を支給されている。

 

 聖堂騎士が2人。うち1人は聖像の加護を受けた盾を持ち、その他全ての隊員へこんな代物が渡されている。レグスから見ても過剰なまでの守りの堅さである。この編成であれば、例え悪魔が出ても半数は生還できるだろう。それほどのものだった。

 

 しかし、調査隊の最大の使命は情報を持ち帰ることであることを思えば、レグスには聖堂がどれだけこの調査を重視しているのかが表れているように思えた。

 

「レグスさん」

 

 シマクが小声で呼びかける。視線は聖堂騎士両名に向けられており、声を潜めているのはシマクの中では未だに騎士が部外者のごとく映っているからに他ならない。

 

「何か異常を見つけたか?」

「あいえ、そうじゃないですけど……いや、まあ異常がないわけでもないですよね……」

「異常とは、痕跡がないということか?」

「……はい。ホントウに不気味ですよね……」

 

 それはシマクも含めて全員が気づいていたことだ。この村には人気がない。争ったであろうことは、破られた扉やその向こうに見える散乱した物品から明らかに思える。

 だが、血痕もなく死体もなく、焼いた跡も埋めた跡も解体した跡も見当たらないのだ。

 

 そして不気味さの最たるものが、点々と散らばる衣服だった。薄ぼんやりとした月明かりに照らされるそれらは、いくつかは風に吹かれて家の壁に集まっていたりもしたものの、おおよそは上下そろって落ちている。

 それが、レグスたちが来るまでは1人でに歩き、村内を徘徊していたのではないかとすら思わせるのだ。目を離せば、今にもムクリと起き上がるのではないかと。

 

 レグスはそんな悪しき妄想を振り払い、答えの出ない疑問を無理やり押しやる。そして一応の推測を立ててみるに。

 

「これは……森へ逃げた可能性もあるな。そうなると……ふぅぅ、これは難航するぞ」

「ですね……。けど荷馬車にあまり荷物積んでないですから、長くて3日程度しかいられませんよ? 一応、食べものはそれなりにありますけど、大部分は保護した生存者の方へ渡すためのものですし」

「……3日か。それまでに1人でも見つけてやらねば……生きていようと死んでいようとな」

 

 もし生き物が森で力尽きれば、その身体は今を生きる者への供物となる。その場合、例え生存者を見つけても、その死体の顔や特徴から身元を特定することが困難になる。

 それでも誰か分かるようなものを身につけていれば話は別だが、散乱した衣類を見るに、それも望み薄だった。

 

 いや、そもそもクリシエ教徒の死に方として相応しくない。そしてもし仮に死に方がどうであれ、せめて教会へ連れて帰り、弔ってやらなければならない。そうでなければ、彼らの魂は神々の座する『天蓋園』へ辿り着くことができない。

 それだけは、絶対に阻止してやらなければならなかった。

 

「あと、提案というか、質問なんですが……」

「シマク。いつも言っているが、用件のみ簡潔に話せ。その前置きは必要ない」

「ああ、すみません。えー、“鏡”の結果が出るまで時間があるので、すぐそこの家なんかは調査しちゃダメですか? 何かあってもすぐ対応できると思うんです」

「その案には自分も賛成です。もうかなりの時間が経過しています。一刻も早く生存者がいるなら見つけなければ」

「…………分かった。“鏡”の解析が終わっていないことを忘れず、迂闊な行動はするな。必ず互いの視界内で行動を取れ」

 

 隊員らの賛同もあり、レグスは限定的調査に許可を出した。

 

 レグスのこの行動自体は、なんら致命的失態ではない。致命的なのは、そもそも彼らはここへ来てはならなかったというその1点だった。

 



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災厄の到来

「見つかりませんね……。やっぱ森にカクレテるんですかね」

「分からん」

 

 5軒目を見終わって、シマクがつぶやくように口にした。生存者はおろか、死体の1つもやはりない。隊員の表情はどれも暗かった。聖堂騎士は変わらず周囲を警戒しているが、時々視線を感じるのだから、やはり成果に少しの期待は持っているのだろうか。

 

「手伝ってくれてもバチ当たんないんですけどね」

「馬鹿者。今こうして行動できているのは彼らが警戒してくれているからだ。本来であれば“鏡”の結果が出るまで待っている必要があるのは知ってるだろう」

「まあ……そうですけど。言ってみただけです。ホンキじゃありませんよ」

「であれば口にするな。お前はいつも迂闊だ」

「…………すみません」

 

 形では叱責しながらも、こうも何も手がかりが得られないとなれば理解できる心情ではあった。良し悪しはともかく、まだ物事を俯瞰して見れないシマクの主観に立てば理解できる……程度の意味ではあるが。

 

 ふと周りを見ると、他の隊員たちも戻ってきていた。成果の程は、その表情を見れば聞くまでもない。

 

「すまない、隊長……」

「分かっている。まあダメ元だったんだ、気を落とすな」

 

 言って肩を叩き、捜索開始から30分と経たずに結局“鏡”に再集合していた。時間の短さが表す意味に、場の空気は重くなる。

 しかし警戒は保ちつつも、ある程度辺りを行動したことで張り詰めた空気は無くなっている。レグスは“鏡”の波紋を眺めながら、この後の行動について思案していた。

 隊員らもそれを察して、音を立てずに黙していた。

 

 が、そんなことを察せない部下が、ここには1人いた。

 

「隊長、チョットよろしいですか?」

「……………………なんだ?」

 

 色々なものを先送りにして、とにかく、一応は内容を問うてみる。

 シマクには1人、世話役をつけていたはずだった。それはもちろんシマクへの教育という目的もあったが、本命の目的は隊長の足を引っ張らないためだ。つまり、今こうして思案中に話しかけてきたと言うことは、世話役の隊員の許可を得る程度の用件なのだろう。

 

 そこまで考えて、レグスの視界の端にその“世話役”が映った。愕然とした表情。自分の隣りとシマクを視線が往復している。さっきまでいたのに目を離した隙に……そんな心中が、レグスには手に取るように分かった。

 

 ため息が漏れる。

 

「その、聞いたことがあるんですが、隊長はもともと聖堂従士だったんですよね?」

「ああ」

「では……会ったんですか?」

「会った……?」

 

 ここで初めて、レグスはシマクへと視線を合わせた。と、これまたキラキラとした少年の瞳があり、それでレグスにはシマクの聞きたいことが理解できてしまった。

 シマクは“聖騎士に会ったのか”と聞きたいのだと。

 

 年齢によらず、聖堂騎士を目指す者や聖堂で勤めたいと考える人間は、“聖騎士”という英雄を目当てとする者も多い。その憧れは男なら誰しも理解できるもので、レグスにはシマクの若々しい想いが眩しくも映る。

 

 聖堂従士時代の話を掘り下げる気かとハラハラ見守っていた隊員らも、レグスの表情が和らいでいるのを見て笑みを浮かべた。1人は胸を撫で下ろしたが、それが誰かは語るまでもない。

 

「ああ、会ったどころか1度は任務を共にしたぞ」

「うええ⁈ それホント——ムグ…………⁉︎」

「しー! シマクくん、静かにしないか……!」

「シマク……周りを見ろと毎回言っているな?」

 

 隊員に口を塞がれ、自分が任務中であることを思い出したらしい。シマクはゆっくり頷き、謝罪を口にしてから聴きの姿勢を作る。先を促しているのだ。

 

「次騒げばこの話は終わりだ。次回の任務から配属も変えるからな。心しておけ」

「はい、気をつけます。申し訳ありません」

 

 何度目になるかも分からないやり取りをする。こうするとシマクはしばらくは静かになるのだが、やはり長続きせず、終いにはレグスの鉄拳を受けることになるのだ。

 

 そんなやり取りは教会では有名で、レグスとシマクは時折親子の如くセットで話題にされていることを、本人たちだけは知らなかった。

 なぜか共に行動する機会が多いのも、上司である司祭がこの関係を微笑ましく思っているからだったりする。が、そんな黒幕の存在にレグスが気がつく日は来ない。

 

「それでその聖騎士とはダレですか?」

「ナクラム様だ」

「ッ……、いや、待ってください。耐えました隊長」

「……命拾いしたな、シマク」

 

 閃きかけていた拳が下されるのを、冷や汗と共に見届けるシマク。最近、拳の受け方が少し上手くなってきたのが悲しいところだ。

 

「今回この任務を受けたとき、不思議な縁を感じたものだ。内容は……この通りだったがな」

「そう、ですね…………ご子息がこの村に取り残されたのは聞いています。その……隊長はどう思いますか?」

「……………………」

 

 何を、とは聞かない。聞くまでもない。

 

「…………難しいだろう。せめて遺愛の品を回収できれば良いが……」

「……………………」

 

 そして誰もが沈黙した。先の捜索で何らの手がかりも得られなかったことがトドメとなって、生存者の存在を信じる者はもういない。仮に森へ逃げようと、この瞬間まで生き延びているのは現実的でないように思われた。

 

「ナクラム様は大変家族を愛しておられる方だった。ご子息の話も聞いたことがある。……ナクラム様の精神が心配でならない」

「アトラくん、でしたっけ」

「ああ。歳はシマク、お前の3つ下だ」

「…………見つけましょうよ。絶対に。遺品とか、そう言うんじゃなくて」

「————そうだな」

 

 頷いて、レグスは聖堂の知り合いの話を思い出す。聖騎士ナクラムの悲痛な叫び。嗚咽。身をすくめるほどの、怒りと絶望に満ちた声。それを聞いたのだと、聖堂からの使者へと出世していた旧友は語った。

 

 レグスの知るナクラム・ヴィント・アーカーとは、たとえ身を裂かれようとも叫びひとつあげないであろう人物だった。金より重い志を内に持ち、決して砕けぬ金剛石の肉体。精神的にも肉体的にも、レグスの抱く印象は、こんな無敵の英雄である。

 

 そんな英雄が、そのような悲痛な声をあげるほどの苦痛とは、一体どれほどのものであったのか。

 レグスには、そんな姿も痛みも想像がつかなかった。

 

「と、ようやくか。今回は時間がかかったな」

「こんなに長いとおいそれとは使えないですよね。移動した方が安全ですよ、これ」

「そろそろ交換時期かもな。もっとも、新しい“鏡”を調達できるのはだいぶ先になるんだが」

「そんなに貴重なものなんですか?」

「当然だ。お前は魔法について無知だから分からないのだろうが、この質の結界をこの規模でというのは————」

 

 レグスの声が止まる。レグスだけではない。隊員も、聖堂騎士も、全員が息を呑んだ。

 

 断続的なその音は、未だに続いている。

 ゴボリという、不気味な音。その光景も相俟って、吐血の音にしか聞こえない。

 

「“鏡”が……真っ赤、なん、ですが…………隊長……」

「————————」

 

 冷や汗と脂汗が混ざって噴き出る。騎士の2人が駆け寄って来たことすら、どこか遠く感じる。

 古い古い記憶が呼び覚まされる。聖堂騎士を目指す中で得たその知識は、まるで走馬灯のごとくレグスの脳内に瞬いた。現役の騎士2人も、当然同じものを頭に浮かべているのだろう。

 

「“穢れ”の痕跡です! ————レグス隊長、直ちにここを離脱します。この情報は、我々全ての命に優先します!」

「また、本件は甲種第1類事案に相当します。よって本部隊の指揮権は聖堂騎士である我々に移行します。馬車は破棄し、直ちに行動を開始して下さい」

 

 言うが早いか、聖堂騎士は駆け出している。その疾走はレグスたちがついて来れないことなどお構いなしで、それが一層事態の深刻さを物語る。

 

「全員走れ‼︎ 今すぐ————」

 

 

 

 

「あら、もう帰るの————? 残念ね。もう少し待ってあげてもよかったのに」

 

 

 

「な————」

 

 声が響いた。

 

 誰もいない、気配もない村に、それはあまりにも異質で、聖騎士の走った方向で轟音と火の手があがっても、嫌にハッキリと聞こえる声だった。

 

 村の中心部。いつからいたのか、そこに1人の女がいる。赤々とした長髪に、灰のローブ。ローブには所々、揺らめく赤があった。

 この場にアトラがいれば、そのローブに見覚えがあっただろう。アトラが吸血鬼として目覚めて、初めてルミィナと対面した際に着用していたのがこのローブだ。

 その色彩は、見るものに炎を纏っているように錯覚させる。

 

 指は炎上している方向へと伸ばされている。煙と炎で、騎士の姿は見えない。だが、誰も騎士の姿を探そうとはしなかった。するまでもなく、結果は分かっていたからだ。

 

 誰の仕業かは明らかであり、女にはそれを隠すつもりもない。隠す必要がないという態度に、レグスの背筋は凍りついた。

 

「【血塗れの魔女】…………」

「なんで、こんな……」

 

 誰かが震えた声で口に出したのは、最悪の神域到達者————【紅の魔女】ルミィナという災厄の名だった。



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対魔女戦の結末

「全員ピンを抜けェッ‼︎」

 

 硬直から来る静寂。それを真っ先に破ったのは、隊長たるレグスだった。思考停止も硬直も、レグスにだけは許されない。隊を率いる者として、隊員を生還させる責任かある。帰りを待つ家族たちのもとへと帰してやる責任がある。

 そんな彼には、諦めるなんて楽な選択肢は存在しない。

 

 レグスの声に、隊員らもまた硬直を脱した。とはいえ、思考は纏まらない。纏まらないからこそ、逆に隊長の指示への反応は早かった。

 

 脚部を守る腿当てからピンが一斉に引き抜かれ、〈聖障結界〉が展開される。“守護”の存在で僅かに冷静さを取り戻し、隊員らに思考力が戻ってくる。

 と、【魔女】の呆れを含む声が響いた。

 

「ああ、〈聖障結界〉? それも随分懐かしいものを見せてくれるのね。その不出来な簡易装置は、私としては消し去りたい汚点なのよ」

「…………なにを、言っている」

「あら、知らされていないの。〈聖障結界〉を展開する魔道具はずっと昔からあったわ。けれど、それを携帯できるように小型化したのは私。

 それはかなり初期の型で、小型化ばかりに意識を割いて、肝心の守りの強度を落としてしまった欠陥品よ。出来の悪いのを使われ続けるのは、製作者としては複雑ね」

「馬鹿な……!」

 

 結界内で、憤慨の声があがる。

 レグスはその声の方を振り向きもしない。視線を切れば、その瞬間()()()を迎えると予感してのことだ。

 

「教会がキサマに助力も協力も請うはずがない!」

「大声ではしゃいで、無知を晒すのがそんなに楽しい? 『魔法師組合』が教国にあることが、そのまま教国の姿勢を示しているでしょう」

「それはキサマの監視のためだ! 聖ネグベネの予言は誰1人忘れていない!」

「そう、教会の言い訳をそのまま信じたの。盲目だこと」

 

 聖ネグベアとは、予言者としてしられる聖人である。彼女は晩年ある予言を遺し、その内容は教国を震撼させた。

 

 ————『真祖の中に【魔女】の助力を得る個体が現れる』。

 

 これを受け、教国は後世で“魔女狩り”と語られる100年に渡る大粛清を開始し、当時の全兵力の4分の1と多くの聖遺物を失い、2人の【魔女】とその後継者となり得る7人の聖域魔法師を屠った。

 

 結界、他の【魔女】は教国と距離を置き、以来寄り付かなくなったのだ。当初はこれを悲観する声はなかった。当時の教国は間違いなく最強の国力・兵力・技術力を有しており、対抗できる国など、大陸はおろか世界規模で存在したかどうかだったのだから。

 

 しかし、それは“魔女狩り”から600年して【魔女】たちが『魔法師組合』を設立することで一変する。

 

 それまで教国が他を圧倒できていたのは、魔法に関する研究成果を各国が共有しなかったことが大きい。

 魔法とはあらゆる面で国にとっての切り札である。故に、優れた技術や研究は秘匿され、研究者や魔法師は厳重に管理された。

 結果、研究サンプルの量でも質でも優る教国だけが利する状態となっていたのである。

 

 が、その流れを断ち切ったのが『魔法師組合』であった。教国一強の状況に危機感を持っていた【王国】と【帝国】は、魔法技術の共有と発展を掲げる組合を我先にと受け入れた。

 そしてその流れは各国へと広がり、魔法技術はそれまでと比べるべくもないほどの速度をもって発展していったのである。

 

 これに焦ったのが教国だ。

 未だ数々の聖遺物を保有し、独占している技術も多い教国であったが、『魔法師組合』設立後たった300年での他国の躍進ぶりには舌を巻くものがあった。さらには教国も把握していない魔法も現れては、もはや悪夢である。

 当時の教国が算出した、『わが国に追いつく国が現れるまでに残された時間』は『800年』。教国の歴史からして、これはあまりにも短期間である。

 ここへ至って、教国は【魔女】と向き合う必要を受け入れざるを得なくなった。

 

 しかし、どれだけ時が経とうと“魔女狩り”の歴史は無くならない。今更、教国に協力的な【魔女】などあり得なかった。そしてそのまま100年が過ぎ、いよいよ頭を抱える当時の大司教らの前に現れた人物こそ、【紅の魔女】その人であった。

 教国は多くの妥協と譲歩の上、ようやく“魔法師組合”を招くに至ったのである。

 

 以来、教国と【紅の魔女】の関係は“利害の一致する限りにおいて協力する”というものに落ち着いている。

 

「そもそも、その予言すら当たっていないじゃない。

 これまで【魔女】は対真祖戦に大きく貢献して来たでしょう。【魔女】がいなければ、人類は3代目の真祖の時点で敗北していたはずね。

 アナタたちが彼女の妄言を間に受けて執行した“魔女狩り”の後も、5代目の真祖が発生したわよね? その時、当時の父神大司教がなんて言ったか知らない? 知らないのでしょうね」

「ッ!」

 

 クスリと、嘲りと愉悦の微笑みを浮かべて、【魔女】は腕を持ち上げる。

 

「十分話したわね。アナタたちに使う時間はここまで」

「…………な……んだ……あれは……」

 

 レグスの声に、隊員たちも空を見上げて——絶句した。

 

 何十という赤熱する光弾が、星のように瞬いている。

 そのひとつひとつが、聖堂騎士へ向けられた悪意の正体だと、果たして何人が理解できたか。

 

「製作者として断言してあげる。その〈聖障結界〉では苦しみすら感じないわ」

 

 【魔女】は艶然たる笑みをそのままに、その腕を無造作に振り下ろした。

 瞬間、赤い星々は悦びの声高らかに、有象無象の這う地表へと(くだ)る。

 

 しかし、その直前。

 

「————そう、面倒な大盾(もの)を持っているのね」

 

 どこか冷めた瞳は、レグスたちへと駆けつけた騎士へと向けられている。

 

「はぁああああッッ‼︎」

 

 天上へ向けられた大楯は光を放ち、レグスたちの〈聖障結界〉を遥かに凌ぐ守りを顕現させる。

 それは、“脅威を阻む”性質を持つレグスたちの〈聖障結界〉とは異なる、“脅威を遠ざける”ことに特化した結界である。

 

 巨大な光の半球はレグスたちを完全に覆い、星々は軌道を曲げ、半球の表面を滑るように地上へと降り注いだ。着弾の衝撃と、直後の爆発。辺りに轟音が断続する。

 その余波ですら、家屋を吹き飛ばすには十分な威力を誇る。

 

 盾の聖堂騎士へと身を寄せながら、レグスたちは神へと祈りを捧げ、ひたすらにこの地獄が過ぎ去ることを祈り続ける。

 そしてついに、閃光も轟音も途絶え、耳鳴りと頭痛を噛み殺しながら、レグスはチカチカと明滅する視界で辺りを見回し、今のがどれほど凶悪な魔法であったかを認識する。

 

「……………………」

 

 声が出ない。誰ひとり、目の前の光景が信じられなかった。

 

 村は完全に消滅していた。辺り一帯は火に飲まれ、燃やすものを失った炎がレグスたちを取り囲んでいる。地形は完全に元の形が分からないほどに変わり果てていた。

 

「グ……、カハ……」

 

 聖堂騎士が膝をつき、荒い呼吸もそのままに【魔女】を睨みつける。その瞳には憎しみの色がありありと浮かんでいた。

 

「なぜだ、【紅の魔女】。貴様が教国と対立する理由はないはず」

「そうでもないわ。それに、ここでアナタたちを殲滅すれば、向こうから招集してくるでしょう?

 今自分から会いに行くのは、後々怪しまれるのが目に見えているもの。

 そろそろ会議室へ仕掛けたものも回収したいのよね」

 

 断片的な言葉に、意味を理解できたのは騎士ただひとりだけだ。

 彼女は聖堂騎士の所属している“第6裁神聖堂”に関して話している。

 

「そうか……あの部屋の結界も……」

「ええ、私が考案したものね。もう少し警戒して然るべきじゃない? まあ、信頼しているという政治的なメッセージでもあったのでしょうけど、もう少し傍受の術式に詳しい人間がいれば違ったでしょう」

「——貴様ッ……人類(われわれ)を裏切ったな……‼︎」

「フフ、要するに彼女は正しかったのよ。“魔女狩り”の時代を違えたわね」

 

 ルミィナの死刑宣告の直後——

 

「うわぁああぁあぁああ⁈⁈⁈⁈」

 

 隊員が怒号とも悲鳴ともつかない咆哮をあげながら、輝く石を敵へ掲げた。

 あらかじめ込められた魔力が呼応し、魔法陣が出現する。“覚醒”していない者でも、魔法による攻撃手段は存在する。これはそのひとつだ。

 レグスも止めない。ここまで来ては、止める意味もない。

 

「私を相手に魔法陣を晒すなんて、正気?」

 

 心底から不快げに、ルミィナは魔法陣へと意識を向ける。そうする今も、魔法陣は人の胴体ほどの岩石を形成し、今にも射出されんとしている。

 それを見て、レグスは声を張り上げた。

 この魔法はこんな巨大な岩石を放つものではない。こちらの意図せぬ動作をしている。状況から見て、好ましい変化であるはずがない。

 

「今すぐ伏せろォ‼︎‼︎」

「もう無駄でしょうけど、最後に教えてあげるわ。魔法陣は隠しなさい。不可視化できないならせめて守りなさい。

 さもないと————」

 

 【魔女】の指が動く。その指揮に従って、敵を粉砕せんと待機していた岩石は、ようやくだと標的へと突進した。標的である()()へと。

 

 声すらなく、おそらく苦痛も一瞬だった。男は自身の起動した魔法によって、胸から上を取り上げられて死亡した。シマクの世話役の男。隊員の中でもっとも面倒見が良い優男と称されていた男は、こうしてまだ短かった人生を終えた。

 

 昆虫を石で挟み潰したときのような、メシャリとした音が耳に残る。ブルリと、レグスは悪寒に身震いした。

 

「————こうやって手を加えられてしまうのよ」

 

 ことの顛末を見届けて、ルミィナはつまらなそうに目を細める。

 そして、中断していた魔法を今度こそ発現させ、その奇跡の規模に、レグスたちは今度こそ絶望を見るのだった。

 

 先ほどの魔法を星々と形容するなら、これはさながら太陽そのもの。村を周囲もろとも飲み込めるその規模は、人ひとりが腕を掲げるだけで行使するにはあまりに過ぎた奇跡に思えた。

 

 夜であるにも関わらず、昼間以上に照らされて、レグスは思考を止める。生還など、考えるのも馬鹿馬鹿しい。この状況で生還できる可能性と比べれば、自分が聖騎士になることの方がまだ現実的だ。後者は不可能。前者は絶対不可能という程度の違いだが。

 

「これが……神域……」

 

 誰かのかすれた声。レグスですらやっと聞こえたその声が、やはり【魔女】には聞こえたらしい。

 

「呆れた。こんな大量の魔力さえあれば再現できる魔法が、“源流”に肉薄するはずないじゃない。これ以上無知を晒す前に消滅しなさい。聞くに堪えないわ」

 

 吐き捨てるように言って、“太陽”は振り下ろされた。

 

 迫る大火球を前にして、シマクに覆い被さるレグスの努力も、そのレグスを護らんとさらに被さる隊員たちの絆も報われぬまま、調査隊は周囲の地形ごと消滅した。



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