レゼのハートに火を点けて (シャブモルヒネ)
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Light my fire.
学校・ボム・チェンソー


 レゼは武器人間だ。

 ボムの心臓をもつ『人間』。

 『悪魔』そのものではなく、悪魔に死体を乗っ取られてしまった『魔人』でもない。

 ソ連が作った国家に尽くすための戦士。任務を果たすときにだけ首の横に差し込まれているピンを抜いてボムガールに変身する。幼い頃から秘密の部屋に閉じ込められて特別な教育を施され、破壊活動・暗殺・スパイ、何でもこなす007の女バージョン。

 

 かつてはデンジと戦った。

 彼の持つチェンソーの心臓を手に入れるために接近し、篭絡を試み、実力行使に訴えて、しかしそれでも完遂することができなかった。

 失敗した。

 最も優秀なエージェントであったはずなのに。

 何故だろう?

 絆されてしまったから?

 その表現は、本人に言わせれば正確ではない。

 

 レゼは、自身に人としての価値が無いと思っていた。

 エージェントとしての実力は一流かもしれない。けれど、壊す事・殺す事しかできないし、何かを作る事・育てる事・受け継いでゆく事――それら前向きで生産的な行動はほとんど実行したことがない。

 人生が、薄っぺらかった。

 そんな自分の不出来さを曝け出してしまったら、デンジに植え付けていた即席の恋心は霧散するだろうと思っていた。

 しかし、それでもあの時、デンジはこう言った。

 

 

 全部、嘘だっつーけど

 俺に泳ぎ方教えてくれたのはホントだろ?

 

 

 善意。

 親切。

 心のような何か――

 そんな人間めいたものが在ると、価値があると、教えてくれた。

 胸を張って生きていてもいい――

 

 だから、彼の隣に居る間だけは人間でいられるとレゼは思った。

 

 

 この物語は。

 生きる意味を知らない者たちが存在意義を証明するために闇の中を駆け抜けて、それでも何も残せぬまま消えていく数日間の記録である。

 

 

 

 

 

レゼのハートに火をつけて

 

 

 

 

 

 映画でも漫画でも、学生ものは恋物語になると相場が決まっている。

 

 桜舞い散る出会いの春。浮き足立つ希望とともに始まる恋物語。

 うだるような陽射しと入道雲の下、青を駆け抜けていく恋物語。

 秋の風が人恋しい、想い人の視線に惑わされ心を痛める恋物語。

 並んで歩いて身を寄せて、白い吐息越しに想いを寄せる恋物語。

 

 デンジは、自分には関係ないと思っていた。

 初めて通う学校。高校生活。

 日常は映画のように劇的でもなかったし、漫画のようにラブロマンスに彩られてもいなかった。現実はしょせん現実……。喧伝されていた黄金時代とやらは間近から覗き込んでみれば何てことはなく、どんよりくすんだフィクション色でしかなかった。

 光っていないし、綺麗でもない。

 だから机にぐったりと突っ伏して、なんか面白れーことねーかなぁと彼女ナシの同輩とくだをまいて、日々を鬱々と舵のない小船に揺られて流されていくしかない。

 そう思っていた。

 けれど。

 レインボーな煌めきは唐突にやってきた。

 

 いつもの教室。

 息を吸い込めば埃っぽい匂いと肌にまとわりつく湿っぽさを感じる教室で、白いチョークがコツコツと音を立てている。

 たおやかな指が黒板に名を刻んでいた。

 

『――レゼ』

 

 デンジのよく知る名前。

 転校生。

 気になるアイツがやってきた。

 ふわりと制服の裾を翻し、気恥ずかしさを押し込めながらにんまりと笑う。

 

「北の国から転校してきたレゼっていいま~す。皆さんと楽しい高校生活が送れたらいいなって思いま~す」

 

 透き通った瞳がさまよって、デンジを見つけて、くしゃりと歪む。眩しさが零れ落ちているのが見てとれた。

 

 デンジは思う。

 今まではただ彼女が欲しかった。

 それだけの高校生活だった。

 

「ちなみにデンジ君のカノジョでーす。よろしく~!」

 

 これからは違う――そんな確信をもってデンジは立ち上がる。

 クラスメイトたちがあっけにとられていたが気にしない。椅子を蹴ってダブルピースを掲げて跳びあがる。

「やったーーー!! 勝ったァアーー!!」

 青春が来た。

 黄金時代が来た。

 心の奥底で死にぞこなっていたはずの夢追い人たちがガッツポーズをキメていた。

 もう喜びが収まりようがない。

 色づく視界の真ん中で、レゼは笑顔のままで教師にくるりと振り返る。

「えっとー、教科書とかまだ持ってないので、2人で一緒に見てもいいですか?」

 言うが早いか、しなやかな脚を踏み出して教室の後方へやってきた。

 デンジの隣の席に小さなお尻をぽすんと収め、机をがたがたと動かしながらデンジのそれにピタリとくっつける。

「ふふ」

 首を寄せてくる。艶やかな唇から白い歯を覗かせた。

「とうとう来ちゃったね。昼の学校」

 甘い吐息がふわりと鼻腔に届く。

 照れくさそうに囁いた。

「後で一緒に、探検しよ?」

 そんなことを言われたら、ふにゃんふにゃんになるしかない。

「します……」

 

 

 

 

 時間は丸一日だけ巻き戻る。

 

 

 デビルハンター東京本部、紫煙たちこめる薄暗い会議室にゴリラのような男たちが詰めていた。

 パンチパーマに、ヒゲに、サングラス。そのうち半数の者たちの顔面には立派な勲章傷が走っている。マル暴だってもう少し可愛げがあるはずだ。

 屈強な公安職員たちは煙草を咥え、資料を片手に、コの字型に並べたテーブルに座っている。誰もが揃って神妙な視線を部屋の中央に立つ少女に向けていた。荒事に慣れているはずの男たちが警戒の色を浮かべているのは少女の経歴があまりにも物騒だったから。

 

「初めまして!」

 朗らかな声が反響する。

 ソ連育ちの元エージェント、レゼがぺこりと会釈した。

「今日はよろしくお願いしま~す!」

 きっちりと踵を合わせて背を伸ばし、両手を後ろにまとめて細身のシルエットを強調する。

 会議室のむせかえるような男臭とはあまりにもかけ離れたフレッシュさ。

 初心な童貞が見たら一発で惚れかねない打算なき好意さえ感じさせる。零れるような思春期スマイルは、いっそ通常の面接には相応しいものではなかったが、これも居並ぶゴリラたちを前にしてそんな演技もできるという彼女なりのアピールだった。

 それぐらいは公安のゴリラたちも把握している。

「ふ~む……。君がレゼくん、か」

 面接官たちが、議論を始める。

「では彼女を対魔特異6課に配属する予定なんですか?」

「は。元はソ連の工作員でして……。詳しくはお手元の資料に書かれている通りです」

「若いな。まだ未成年じゃないか」

「かなり暴れたと聞きますね。だからこそ実力も証明されているわけですが……」

「いいのか、これ? うちも一応、菊の御紋を御旗に掲げてるんだが。いくら有能でも元テロリストを使うってのは……」

 ゴリラの1人があからさまに顔をしかめる。ぐりぐりと煙草を灰皿に押し付けた。

 不満があると言いたげだが、口にはできない。

 その原因の男が会議室の中央で泰然と脚を組んでいた。

 大ベテランにして、公安最強のデビルハンター。名を岸辺という。

「全責任は、俺がとる」

 その声に、凶悪な面構えのヤクザもどきたちの渋面が深くなる。

 堂々と言い切られてしまっては追求するのも難しい。苦々しく眉間に皺を寄せるしかない。

 そんな公安幹部たちの中にあり、堂々と異論を口にできるのは岸辺と世代の近しい痩身の眼鏡男だけだった。

「岸辺さん」

 ゆらゆらと煙草の煙を吐きだしながら、インテリヤクザ然とした眼鏡男が冷然とした顔つきで言い放つ。

「いくらアンタでもこれは不味いんじゃないですか」

「何がだ」

「出身も経歴もヤバすぎる」

「コイツは新しく戸籍を作る。別人になる。問題ない」

「そんなわけないでしょう。街中で大暴れしたんですよ? 対魔2課なんて壊滅状態にされたんだ」

「彼女も仕事だった。危険思想があるわけじゃない。……それとも感情の問題か?」

「職業倫理の問題ですよ」

「まあまあまあ」

 小太りの男が汗を拭く。

「ええと、それで、新しい戸籍ではどんな経歴になるんです? 名前とか」

 うら若い少女は快活に名乗った。

「岸辺ハナコです!」

「……」

「……」

 インテリヤクザの渋面が深くなる。

「なんだって?」

「岸辺、ハナコです!」

 全員が耳を疑った。互いの顔を見合わせて発言の真意を探る。

「ハナコ?」

「岸辺、ハナコ?」

「資料と違うじゃないか」

 岸辺が枯れきった瞳のまま説明する。

「俺が責任とるっつったからな。俺ん養子ってことにする」

「いや、苗字じゃないです、岸辺さん。名前の方ですよ。いくらなんでもハナコはないでしょう」

「なンでだ」

「あからさまに偽名じゃないですか」

「そうか?」

 レゼはこほんと咳払い。「ではではご提案がっ!」と元気よく挙手をする。

「岸辺ミナミはどうでしょう!」

「ミナミ?」

「岸辺ミナミ?」

「どうしてミナミなんだ?」

「はっ。日本人と共通の話題を作るために流行りものを学習した経験がありまして。ミナミは、有名ドラマのヒロインの名前です!」

「あ、なんだって? ドラマのヒロイン?」

「「三波ハルオのミナミです!」……ってやつです! 分かります?」

「はあ?」

「なんだそれ」

「おい、誰か知ってるか?」

「あ、ああ~……? もしかしてそれって……」

 ぽん、と手を打つ1人のゴリラに視線が集まった。

「ロングバケーション?」

 レゼは、我が意を得たりと大きく頷いた。

「そうでーす!」

「どうしてその名前を?」

「この自己紹介ができるのは強みになるからです。「ほら、ロングバケーションって知ってます?」――からの会話がテンプレートとして使えるようになるじゃないですか。ターゲットと打ち解けやすくなります」

「はあ」

「なるほどなぁ」

「いや、いやいや、君さ、スパイ活動はしなくていいんだからね?」

「あ、そですか?」

「元の名前に愛着とかないのかね。……ええと、レゼ、だったか? そのままでいいじゃあないか」

「はあ。じゃあ岸辺レゼで」

「……ええと、話を進めてもいいですか?」

 小太り男が額を拭う。

「それで、君は、いったい何ができるんだ?」

 レゼはぴっと姿勢を正し、特技を指折り数えていく。

「大体なんでもできると思いますよ? 対悪魔戦、捕縛、潜入調査、暗殺、尋問……」

「ちょっと君ィ、日本で暗殺をやってもらっては困るよ」

「へい、気をつけます! ……ええとですね、これは一応ただの自己アピールでして、日本の公安の常識は分かっているつもりであります。勿論、過激な言動が許されないのも強く認識しています。わたくし岸辺レゼは、前歴に拘ることなく、日本の先輩方の御指導・御鞭撻を賜りたく考えている次第です!」

「ほう」

「まあ、いいんじゃないですか」

「日本語もよく話せてますね」

「ふむう。君は元々ソ連の工作員だったらしいが、どうして日本で働く気になったんだ?」

「はっ。工作員をやるうちに、ふと、まともな職業に就きたくなりまして。これからは人に感謝されるような仕事をしたいと考えています」

「あ、そう」

「信用におけるのか」

「マキマの影響は残ってないんだろうね」

「それは無いって他の支配下にあった者たちで証明されてるでしょう」

「ああ、そうだったか。いやしかしな……」

「皆様方、確かにご心配はあるかと存じます!」

 レゼは力強く声を張る。

「しかし、我が身の潔白はこれから行動をもって示していきたいと思います!」

 痩身の眼鏡男の眉がぴくりと上がる。

 岸辺はちらりと確認、「まあ、そうだな」とわざとらしく脚を組みかえて注目を集めた。

「コイツの管理は俺がやる」

 眼鏡男は忌々しげに溜め息をつく。

 煙草の箱を上下に振って1本咥える。隣のゴリラに火を点けさせた。

「……そういう問題じゃないでしょう。こんなの前例がありませんよ。第一、本当にソ連との繋がりは切れてるんですか?」

「じゃあ他に使える公安職員がどれだけ居るんだ?」

 ともすれば公安のデビルハンター全員への侮辱ともとられかねない発言に場が静まり返る。

 岸辺はまったく表情を動かさない。事実は事実と言わんばかりに、泰然と、屈強な職員たちを見渡していた。

「ヘンなプライドは捨てろ。ただでさえ先日のマキマ騒動のせいでベテランの公安職員が少なくなっているんだ。公安には悠長にヒヨコどもの成長を待っている余裕はない」

「だからって外国の工作員を雇うんですか。我々は民間企業じゃないんですよ?」

 眼鏡男がちらりと視線をお付きの部下へ向ける。

「ええと、その、現在、全国的にデビルハンターの数が不足しておりまして……」

 ふん、と不機嫌を隠そうともせずに紫煙をくゆらせる。

「……岸辺さん、私は忠告したからな? こっちだって忙しいんだ、手助けは期待しないで頂きたい」

「ああ」

 2人はゆっくりと椅子の背もたれに寄りかかる。

 岸辺、そして痩身の眼鏡男。

 発言力を持つ者たちが黙り込む。沈黙の帳が下り、進行役の小太り男は焦ったように周囲を窺った。

「ええと、……では、岸辺レゼ。明日からは早川ナユタと早川デンジの監視任務に就いてもらう。注意事項は資料にまとめてあるので必ず目を通しておくように」

「はい! 了解であります!」

 レゼは花が咲くような笑みを貼りつけた。

「岸辺レゼ! 誠心誠意、頑張りまーす!」

 

 

 

 

 そして時間は再び現在に早送り。

 

 

 レゼがデンジの通う高校に転校してきて、

 欧米のカップルがごとき距離感の近さをこれでもかと周囲に見せつけて、

 キャッキャと騒いで買い食いしながら――早川家に帰宅した。

 

 凍てつく眼光が出迎えた。

「それで?」

 とあるマンション、暫定早川家の玄関口。

 自縛霊のような面持ちで現れたのは、早川ナユタだった。 

「どうして、うちに、連れてくるわけ?」

 ワンフレーズ毎に力を込める。

 下劣な人間は生かしておけぬ――まさに悪魔の名に恥じない本物の殺意を立ち昇らせて、玄関を開けたばかりのデンジの緩んだ顔を1秒で凍らせた。

 やべえ~、と冷や汗をかいたところで時既に遅し。

 戸籍上は早川デンジの妹である少女――早川ナユタが足元に7匹の大型犬を従わせ、情緒の感じられない瞳で義理の兄を凝視している。

 その瞳はガラスのように硬質で、温度というものを感じとることができない。

 

 

 早川ナユタ。

 種族は悪魔。比喩ではなく、本物の悪魔。

 マキマの次の世代の『支配の悪魔』。

 能力は『支配』。

 かつてのマキマとまったく同じ。

 下等動物や、自身が格下だと思った相手を完全な支配化におくことができる。

 凶悪極まりない能力であり、一時はマキマのように周囲を支配してはばからない最悪の悪魔に成り果てる可能性もあった。

 しかしデンジによって止められた。

 他者との関係性を支配を通してでしか築けなかったはずの存在が、少なくともデンジに対しては見下すことも見上げることもなく、完璧に対等な存在として認め合うことができるようになった。

 

 

 ――それが、今現在に至るまでの早川ナユタに対する公安の見解だ。

 ナユタという悪魔と、デンジという人間。

 2人の関係性は兄妹のようであり、あるいは相思相愛の恋人のようであり。

 そんな公安資料にあった情報を思い出しながら、レゼは意味深に目を細めた。

「……ふ~ん」

 少女のほんの僅かの移ろいはこの場の誰にも気取られることもない。

(早川ナユタ、ね)

 彼女の監視、そして管理が、レゼに与えられた仕事だった。

 “人間と共存できるように育てる”

 公安の掲げたお題目は理想論に近かった。それは“殺す”よりも“捕まえる”よりも難しい。更には彼女を狙う諸外国の刺客からも守らなければならない。

 それを為せるだけの実力者は日本にはほとんどいない。だからこそレゼにお鉢が回ってきたわけだ。

 かつてはソ連からの刺客であった武器人間を使わなければならない――日本の公安が人員不足に陥っているという話は存外深刻なのかもしれないとレゼは思った。

(ま、それでも故国に戻るよりはましか)

 ちらりとデンジに目を向けてみる。

 苦々しい顔で小さな悪魔に弁解している。

 家族なのか、恋人なのか。判然としないが、とにかく仲が良いことに間違いはなさそうだ、とレゼは思った。普通の関係ならレゼという他人を前にして喧嘩したりしない。

「デンジはさ……殺されたいのかな」

 喧嘩と呼ぶにはいささか物騒な発言だったけど。

 思い返せば、つい先日もそうだった。

 再会したばかりのとき、デンジが鼻の下を伸ばしていたら怒りを滲ませていた。

(あ、そっか。じゃあデンジ君は2回も同じ原因(わたし)でナユタちゃんを怒らせてるのか)

 不機嫌極まりない、といった少女の声色も頷ける。

「いい度胸してるよね……」

 小さな悪魔の足元で、犬たちが四つ足を広げて唸っていた。その威嚇を向ける先は言うまでもなく2人の不埒者。

 デンジと、レゼ。

 けれどソ連の元工作員は全く動じない。

「ええ~? なんでいきなり怒ってんの?」

 軍用犬の捌き方だって知っている。

 デンジの肩口からぴょこんと顔を出し、口元を隠しながら含み笑いを漏らす。

「ははあ~ん、分かった! さてはお兄ちゃんを取られちゃうのが怖いんだな!」

「……」

「大丈夫だよ~? お姉ちゃんは悪い人じゃないですからね~」

 早川ナユタはただ無言。

 アンドロイドのような顔つきでレゼを凝視している。

 ナユタ。支配の悪魔。

 彼女はかつてレゼを殺したマキマの続きであり、“本来レゼが居たかもしれない場所”に居座っている女でもある。

 2人の女の間にはそれなりに確執めいたものがあった。

「もしもーし、お客様~? 聞こえておりますか~?」

「……」

 ナユタは依然として無表情。

 レゼは愛想笑い。

 ばちばちと衝突する不可視の敵意に犬たちは揃って耳を伏せ、尻尾を丸めて身を離した。

「……丁度いい。話をしたいと思ってた」

 口火を切ったのはナユタだった。

「上がって」

「へいへーい」

 2人の女は表面上だけは素っ気ない口ぶりでフローリングの廊下にあがった。静かな足運びで奥の部屋へと進んでいくが、その背中に浮き出る妄執の色はまったく隠していない。

 デンジは他人事のように呟いた。

「……コワ~」



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「あ、お客様だ!」

 犬が7匹、猫1匹。

 そして悪魔と武器人間が、合わせて3人。

 これだけの生き物が1つの部屋に詰め込まれればさすがに狭い。

 触れ合うような距離であくびをする犬たちを眺めながら、レゼは興味深そうに頷いた。

「な~るほどね~」

「なに」

「いや~、普通の部屋だなって。悪魔が住んでるっていうから、血文字で魔法陣でも描いてあると思ってた」

「見たいなら塗料をちょうだい。あなたの腕から。新鮮なやつを」

 ワンルームで約10畳、ポスターもインテリアもない殺風景な部屋だが、生活に必要な家具は一通り揃っている。生活感しか感じられないのは趣味に使う金が無いからだろう。大型犬を7匹も飼っていればそうなるのも仕方ない。

 レゼは「おじゃましまーす」と玉暖簾をくぐって部屋の真ん中に置かれたローテーブルの前に座った。

 続いてナユタが正座して、デンジも遅れてその隣にあぐらをかく。

「んで、話ってなんでしょう?」

 ナユタは、ぴんと背筋を伸ばして座っている。セーラー服の爽やかな印象も相まって、ちょっと表情の硬いお嬢様といわれても通じるくらいの清楚さは持ち合わせている。

「あなたのことはデンジや岸辺から聞いている」

 ガラスの瞳をぴたりとレゼに見据えて、彼女の来歴を述べていく。

 

 レゼはソ連からやってきたエージェント。

 かつてはデンジの持つチェンソーの心臓を狙っていた。

 しかし作戦は失敗に終わり、マキマに捕まって操られ、再びチェンソーマンに敗北して死体と成り果てた。

 そして公安に回収されてそのままになっていた――はずだった。

 

「おー。よく知ってるねー」

 ナユタは僅かに身を乗り出して、軽く手の平でテーブルを叩いた。ささやかな音だった。それでも機微に聡い犬たちは怯えたように身を伏せる。

 ナユタの見てくれはマネキン人形のよう。

 けれど胸中では穏やかでないものが漂っているのをこの部屋の全員が知っていた。

「公安が意味もなく復活させるはずがない」

 不機嫌丸出しの声のトーンに、しかしレゼはあっけらかんと白状した。

「正解でーす」

 傍らの大型犬にそおっと手の甲を差し伸べて、自身の匂いを嗅がせている。

「岸辺さんと取引いたしまして。私は公安で働くことになりました。いわゆる転職ってやつですな」

 モダンテイストのローテーブルに肘を乗せ、頬杖をつく。上半身を斜めに預けると前髪がはらりと落ちていく。

「ちなみにそのお仕事の内容は……キミたちの監視です」

「……ほらね、やっぱり。裏があった」

「ええええ~!?」

 デンジは大げさに言い募る。

「俺に会いに来たんじゃないの~~!?」

「あはは、それは本当。デンジ君に会いたかったからこの仕事を選んだの。好きなのは変わってないよ」

「えっ、マジ……?」

 呆然と顔を弛ませるデンジの額には「チョーうれしい!」と書いてあった。

 ナユタは汚物を見る目つきで睨みつける。

「デンジはちょろすぎ」

「うっ、いやだってよぅ」

 ナユタは一瞬、睫毛を伏せ、無表情のまま拳を握りしめる。

「大体、学校でカノジョとか言っちゃって……」

「おやおやぁ~?」

 レゼは首を傾げる。

「なぁんで知ってるの?」

「私を、誰だと思ってるの?」

 支配の悪魔は、口元を数ミリだけ尖らせる。

「泥棒猫の動向ぐらい、監視してる」

 レゼは「ほーん?」と身体を前後に揺らし、にんまりと目尻を下げた。

「分かった、なんかを支配してるんだ? 小動物かな? それとも人間? 悪い子だな~」

「勝手に想像すれば」

「別にどっちでもいいよ。私としてはぁ、こうしてデンジ君に会えただけでぇ、嬉しいので~す」

 えいっと腕にしなだれかかり、顔を寄せながら女は問いかけた。

「ねえねえ、ほんとにしちゃおっか?」

「あ?」

「あ、じゃなくて~。カノジョ発言、ほんとにしてみる? 私、彼女。キミ、彼氏。オーケー?」

「お、おお……?」

「ん~? 即答しないのは減点ですよ? デンジ君は私の事、嫌い?」

「好きィ!」

 即答。

 ナユタの膝の上の両拳から、ぎりぎりと凄まじい音がした。

「……私ね、少し、強くなったんだ。支配の悪魔が復活したのが余所の国に伝わってるんだろうね。恐怖が広まった」

「へえ~? どれくらい力がついたの?」

「りんごぐらいなら素手で潰せる」

「コワっ!?」

 仰け反るデンジに氷点下の瞳を向ける。

「……不埒者も潰せるかな」

「や、止めてくださァい!」

「あ、じゃあさ、」

 レゼは、姿勢を正して提案する。

「取引しない? 一緒に住まわせてほしいんだ。仕事する上で都合がいいし」

「何、言ってるの?」

 ナユタは腕を組む。どうやら敵対心をアピールしているようだが表情が変わらないからそう見えない。

「オッケーしてくれたら、デンジ君とは付き合わないよ?」

「あ、え? 嘘ぉおお~~……?」

 ナユタは一瞬、虚を突かれたようだった。

 悪魔にだって弱点の1つや2つはある。この少女の場合は、デンジだった。

「……なに、その交換条件。どういう立場からモノ言ってるの」

「そりゃ元カノとしてですよ」

「あのね……」

 ナユタは頭痛を堪えるように眉間に指を添えた。溜め息は長々と止まらない。苛立ちが色付きで見えるようだった。

「頼むよ~。ここに住めなかったらナントカの悪魔と一緒に暮らせって言われてんの。悪魔を相手にするの慣れてるだろってさ~。プライベートで悪魔と一緒なんて信じられなくない?」

「私も悪魔なんだけど。喧嘩売ってる?」

 レゼは余裕の笑みだった。全て分かったうえで言っている、とばかりに。

 ナユタは視線をやや下向きに逸らす。

 

 目の前の女の真意が読めない。

 何を考えているのか分からない。

 レゼは、ナユタの宝物を狙う泥棒猫なのか。

 それとも監視員としての立場を優先させている公安職員なのか。

 

(って顔してる。傍目には無表情のままだけど)

 視線の揺らめき、呼吸の強弱、そして沈黙。

 訓練されたエージェントからすればそれなりには読み取れる。

 本当に人間みたいだ、とレゼは思った。

 気がつけば、周囲の犬たちが不安そうに主であるナユタの様子を窺っていた。

 少女はそれに気付き、自省したようだった。

 目を瞑り、息を吐く。

 雑念を掻き消しているのだろう。

「住まわせるわけないでしょ」

 悪魔か。人間か。

 どちらでもあるかのような在り方に、興味を惹かれた。

「まー確かにここで3人寝るのはきついけどさ」

「そうじゃない。私が不愉快だから」

「そっかぁ」

 レゼは大仰に頷いた。そういう意見もあるよね、と神妙な顔つきで首を縦に振る。睫毛をゆっくりと瞬かせて間を取りながら、代替案を口にした。

「じゃあさ、今日だけ。今日だけ泊まらせてよ」

「だめ」

 

 ナユタは反対した。

 デンジは賛成した。

 レゼも賛成した。

 だから多数決でお泊りが可決された。

 

 ナユタはまったく納得いかない、という顔だった。

 いつから多数決の話になったのか。

 なぜ家主でもないレゼに投票権があるのか。

 そもそもどうしてデンジはこんなにあほなのか。

(……そんな感じ、かな)

 さて、とレゼは密かに咳払いする。

 このような場面で普通の悪魔なら、我意を通すために強行的な行動に出る。

 けして譲ったりしない。

 ましてやナユタは支配の悪魔。他人をコントロールする能力を持っている。

 仮にマキマならどうするか――と想像する。

 脅迫か、実力行使か。支配した他の生き物を使い、事故を装って邪魔者を排除するかもしれない。例えばそこの犬に噛みつかせる、とか。

 けれど。

「……」

 ナユタはただ仏頂面でいるだけだった。

 手段を選ばなければ何かしらの手は打てるだろうに。

 支配の力を使って私欲を満たすのは基本的には禁じ手であると理解して、本当に耐えているだけだった。

(ふ~ん……)

 資料には、こう記載されていた。

 

 ナユタは、自身が人間と共存できる友好的な悪魔だとアピールするために『安易に支配の力を使わない』と宣言している。

 

 所詮、悪魔の言うことだけど。一考の価値はあるのかもしれない。

「……それじゃお泊り決定ということで! ご飯どーします? ファミレスでも行く?」

「作る」

 間髪いれずのナユタだった。

 

 ナユタはきびきびとキッチンを動き回り、あっという間に3人分の夕食を用意した。

 食器が触れ合う音さえたてずにスイスイと完成品を並べていく様はある種の感動さえ覚えさせられる。

「手間暇かけるのも癪だけど、生活力がないと思われるのも気に食わない」

 そんなことを言いながら。

 テーブルが色とりどりのおかずで盛られた大皿で埋めつくされていく。

 レゼは口を丸くして感心するしかない。

 ナユタはそれをちらりと確認し、ほんの僅かだけ口元に喜悦を浮かべていた。見たか私の努力の結晶を、とでも言わんばかりに。

 なんだその顔。

 ……でも、考えてみれば。

 支配の悪魔という存在は、先代であるマキマのせいで評価が地の底に落ちている。全悪魔のなかでもワースト1位だろう。それを塗り替えるためにナユタは普段から色々と頑張っているのかもしれない。

「これは私が作った。これも、これも、あとそれも」

「知ってるよ? ずっと見てたから」

「私が。全部。作った」

「うん……? そうだね、すごいね?」

「ふ」

 そのようにして夕食会は始まった。

 レゼは「どれどれ~?」と小姑めいた意地悪な表情を作って一品ずつ賞味する。噛んで、頷き、飲み込んだ。

「いや、おいしい。こりゃ驚いた」

 素直な賞賛を返す。

 デンジも口に詰め込みながら合いの手を入れる。

「だろ。俺ん作ったのよりずっとウメえ」

 ナユタも思わずにやり。

「うん。おいしい、おいしい」

 と言いながら、ほんとに大したもんだ、とレゼは思った。

 料理といえど1つの技術。技術を習得するためには時間と労力が要る。ナユタは間違いなく努力したのだろう。その事実をレゼは俄かには信じられなかった。何かを頑張る悪魔なんて聞いたこともない。

「……ふう、ごちそーさま」

 早川ナユタ。

 デンジに押しつけられた支配の悪魔。

 その在り方は想像していたよりもずっと人間的だった。模倣しているといわれればそれまでだが、演技でもまともな振る舞いができない人間が多くいることを考えれば彼女の在り方は社会的といっていいだろう。

 それに、闖入者である自分に対する態度もそこそこ柔らかい。

 正直にいえば、まともに口も聞いてもらえないと思っていた。

 会話をスムーズに交わせるようになるまで3日はかかる、そんなふうに踏んでいたのに、まさか初日から食事を振る舞われてしまうとは。

(ふ~む)

 少々予定は狂ったが、それが良い方向ならば文句のつけようもない。むしろこの勢いのまま更に関係性を深められないかと欲も出る。

 学生鞄を手繰り寄せ、中から350mlの缶を取り出した。

「それじゃ~さ、記念パーティでもやっちゃいます?」

 にひりと笑みを浮かべて、テーブルに並べた。1本、2本、3本……。

「これ、お酒?」

「そうです、お酒です。おいしそーでしょ?」

 仲良くなるならやはりコレ。ぶっちゃけトークと一匙の秘密の共有。

「ええ……? 仮にも監視員がそれでいいの?」

「私、ソ連育ちだから。未成年の飲酒率100%の国だから」

「ここは日本でしょ」

 

 ぷしっ

 

「あ。開けた」

「缶はね~、開けちゃったら、呑まなきゃだめなんですよ」

「これは何かの試験なの?」

「ん~?」

「私やデンジがモラルを守れるかっていうやつ」

「いや、いやいやいや……違うよ? これはね、単純に私がパーティやりたいだけ。キミたちと仲良くなりたいのですよ」

「……」

「あ、信じられないって顔してる」

 ナユタは銀色のビール缶を3本の指で摘んだ。目の前に持ってきて、しげしげと成分表示を眺める。

「仲良く、ね……」

「うん。私のお仕事はキミたちを監視することだけど、ギスギスしてるのは嫌でしょ? どうせなら馴れ合いって言われない程度には馴れ合いたいですよ」

「だな。俺もそう思うぜ」

 デンジも同意した。

「……」

 ナユタは缶を穴が開くほどに見つめてから、渋々といわんばかりに緩慢な動作でプルタブに指をかけた。

 

 ぷしっ

 

「馴れ合いに関しては、ノーコメント」

「やった」

 そしてデンジの開封音も鳴らされて。

「え~~、では乾杯の音頭をとりたいと思いまーす。え~とぉ、私とデンジ君の再会を祝して~」

「私は祝いたくないんだけど」

「カンパーイ!」

「カンパーイ!」

「…………乾杯」

 ささやかな宴が始まった。

 

 

 

 味の好みに、犬たちの面白エピソード。宴の席は意外なほど和やかに始まった。

 もちろん見せかけの平穏でしかない。ただの牽制・慣らし運転の段階であると気付いていないのはデンジだけだ。

 レゼはチューハイをぐびりと口に含む。

 うん、美味しい。

「――それで? 実際のところ、あなたはデンジとどういう関係なの?」

 ナユタの鋭い声が飛んでくる。

 少女はこの際だからと2人の過去を詳しく聞き出すと決めたようだった。缶ビールを一息で飲み下し、素面そのものといった表情のままレゼを凝視している。

「ん? 私とデンジ君の関係? そうだね~、ちょっとアダルティな関係かな?」

「そういうのいいから」

「おや~? お客さん、顔色が優れませんねぇ。まだお話は始まったばかりですよー」

「そういうの、ほんといいから」

「あらら」

 レゼは笑みの裏で考える。

 

 早川ナユタ。

 支配の悪魔。

 どうしてもマキマを透かして見てしまいそうになるけれど、あの魔女とはやはり随分違う。

 賢しく、自身の立ち位置もよく分かっているが……子どもだ。

 そしてデンジに――ただの一個人にかなり入れ込んでいる。

 悪魔らしくない。人間側に近い。

 同じ支配の悪魔でもこうも違うのか。

 個体差……で片づけるのはしっくりこない。マキマと同じ能力を持つならば同じように育つのが道理だろう。

 でも、現実は違っている。何故?

 ……仮に人間と同じように考えてもよいのなら、成長には“環境”が大きく関わってくるはず。

 どのように育てられたか?

 マキマと、ナユタ。マキマの過去なんて知らないが、ナユタの方ははっきりしている。デンジに育てられた。……それだけで、こうも変わるのか。

 いや。それだけ、なんてものではない。大きな違いと言えるだろう。

 

 

 全部、嘘だっつーけど

 俺に泳ぎ方教えてくれたのはホントだろ?

 

 

 ……。

 デンジの明け透けさは貴重だ。刺さる者には芯まで届く。

 

 レゼは意味深にナユタを眺め、肩を竦めた。

「ん~~、真面目な話、する? そうだな~、私たちはロミオとジュリオット的なやつですかねぇ」

「何それ」

「知らない? 敵対するファミリーの男と女が……」

「話は知ってる。具体的に言ってほしいってことだけど」

「ああ、だから……惹かれ合う2人! だけど立場がそれを許さない! 切なくも悲しい恋物語! ジャジャーン……みたいな?」

 デンジに目配せしてみると、「まあ、そんな感じ?」と消極的な同意が返ってきた。

 すると、ナユタに劇的な変化が生じた。

 わっ、すごい。とレゼは思った。

 一般人では読み取れないであろう皮膚下の蠕動、筋肉の蠢き。今、彼女の中では激烈な感情のうねりが出口を求めて暴れ狂っている。

 しかし、一切表に出していない。傍目には平常通りのポーカーフェイス。

「へえ、そうなんだ」

 そんなふうに、平静を装える。

 思春期のようなエネルギーの躍動を秘めながら、それを抑えこんでみせる制御術。

 こんな人間は初めて見た。……いや、悪魔だったか。

 ……デンジ君さぁ、だめだよ不用意なこと言っちゃ。

 この子が暴発したら、キミのせいだよ?

「デンジ君。キミが話しちゃいなよ」

「あ? 俺?」

「そーだよ。ナユタちゃんもキミから聞きたいんじゃないかな~」

「ええ~、でも俺、説明下手だからなァ……」

 ほい、マイナス10点。

 そーいうことじゃないんだよ。彼女はね、キミの口からキミの気持ちを聞きたいんだ。どーして分かりませんかねー。

「う~~ん、そォだなぁ」

「怒らないから、言ってみて」

「えーと、あれは確か、マキマさんと映画デートをした次の日にぃ……」

「は? マキマとデート?」

 ナユタの涼やかな目元の筋肉が、ぴくりぴくりとひくついている。

 明らかに不機嫌になっている。どうやらマキマにコンプレックスを抱いているという話は本当らしい。

 たしか理由は2つあったはずだ。

 1つ、悪魔として偉大すぎる先代と自身をどうしても比べてしまうから。

 2つ、デンジが未だに好意を向けている相手だから。

 ……そのあたりのこと、デンジ君は分かってんのかな? 分かってないだろーなー。

 デンジ君はただ思ったことをそのまま言うだけだ。

「怒らないって言ったじゃん!」

 うわー。

 この流れでそれ言う?

 レゼは他人事ながら哀れに思った。

 ナユタちゃん、かわいそー。

「……怒ってない」

「嘘ォ! ぜったい嘘!」

「怒ってない。二度も言わせないで」

「うぐぐ……、くそ、分ぁーったよ」

「なに? 文句ある?」

「ありませェん!」

「じゃあ、続き。早く」

「……んんん~、最初に会ったのはぁ……、あ、そうだ、電話ボックスだ! 雨が降ってきてぇ、そんで電話ボックスん中に入ったら、後からレゼも来たんだよ」

「雨宿り? 偶然ってこと?」

「まーそうなんじゃね?」

 特に口は挟まない。内心では(狙って接触しにいったに決まってんじゃん)と呆れていたが、自分との出会いに思いを巡らせているデンジの顔を見るのが何だか楽しくて、にやにやしながら眺めていた。そしてそんな自分を目の端で確認したナユタが苛ついているのもまた面白い。

「――ええと、後からレゼが電話ボックスに入ってきてぇ、顔見たらすんげー可愛くてぇ、」

「はァ?」

 思わず吹き出しそうになる。

 デンジ君、狙ってやってない?

「やっぱり怒んじゃねーか!」

「怒ってない」

「嘘ォ!」

 そのように、たどたどしく会話は進んでいった。

 デンジは、ナユタから逐一睨みつけられながら一夜の思い出を語った。

 

 戦ったこと。

 レゼを捕まえなかったこと。

 カフェで待ちぼうけになったこと。

 

 レゼは思った。

 最後のは補足しなくていいだろう。誰の得にもならない。

 長々と時間をかけて、説明は終わった。

 ナユタは日本人形のような顔つきで「ふーーーーーん」と機械的な周波数を出力し、こう統括した。

「なに映画みたいな体験してんの?」

「ンなこと言われても」

「これはマキマに感謝かな」

 おおっ?

 やんのか、こら。

 デンジは分かっていない顔をしていたが、これはつまり「マキマさん、ライバルを始末してくれてありがとう」を意味していた。レゼはそれなりにむかついた。人の命をなんだと思ってるんだこの悪魔野郎。

 ……ま、私が言えたセリフじゃないんだけど。

 ナユタ君。キミは1つ、勘違いしている。

 私は、キミの大切な人を取ったりしない。

 好きといえば好きだけど。見てほしいといえば見てほしいけど。

 隣に並ぶには引け目がありすぎた。ソ連の造りだした武器人間は人を殺しすぎていたから。

 私はキミのようには寄り添えない。

 だからこうやってつかず離れずにからかって、嘘と本当の境界を行き来しているぐらいが丁度いい。

 ナユタ君、キミは心配しなくていいんだよ。

 ……なぁんて、教えてやりはしないけど。

 ナユタはついと立ち上がる。デンジに傍に身を寄せて、少年の胸のあたりに額をくっつける。

 レゼへの牽制のつもりだろう。丸分かりでむしろ微笑ましい。

「ポチタ君、聞こえる? あのね、デンジがひどいんだ。こらしめていい?」

「え?」

「ちょっと痛い目に遭った方がいいと思う。例えばこう、物理的に、ブスリって。……えっ、やっていい? スターターを引っ張れば治るから? ……うん、うん、そっか、分かった、ありがとー」

「おォい、こえぇえよ!? ポチタはンなこと言わねえから!?」

 レゼは目を細めた。

 不機嫌になったフリをした方が面白そうだったから。

 目の前ではナユタがわざとらしくデンジとイチャついている。あてつけのつもりだろうけど、レゼからすれば面白いだけでしかない。

 デンジ。

 ナユタ。

 そしてヌルすぎて欠伸がでるような国、日本。

 悪くない。

 ようやく第二の人生が始まるとレゼは期待に胸を膨らませた。

「はーい、ナユタちゃんに質問でーす!」

「なに」

「悪魔って性欲あんの? セックスしたら子どもできたりする?」

「っ、な……!?」

「ぶはっ」

 2人が同時に噴きだした。

「いやさ~? キミたちのことは岸辺隊長ドノからちょっと聞いてんだよね。もしかしてそーゆーカンケーだったりする?」

 ナユタは信じがたいものを見る目つきで唇をわななかせていたが、咳払いしてすぐに態勢を立て直した。

「ヤってない」

「キスは?」

「してない」

「え~~? まだしてないの!?」

「必要がない」

 ナユタは心底不愉快という顔つきをしている。

 レゼはちらりと横目でデンジを窺ってみる。

 何とも言えない顔だった。

「……ふ~~ん。へえ~。そうなんだ~」

 言いながら、デンジに身を寄せて手の甲を重ねる。指を上から絡ませて、見せつけるように耳元に唇を近づけて囁いた。

「私で練習しとく?」

「えっ、あ!?」

 

 かんっ

 

 呑み干した空き缶が、テーブルに落とされた。

「……なるほどね」

 ナユタは地獄の底にまで届くような深い溜め息をつきながら、じろりとレゼを睨みつける。

「やっと分かった。そうやって動揺させてペースを握るのがソ連の工作員のやり方なんだ」

「あいたー、いたたたー」

 大げさに、胸元を抑えてみせる。

「ちょっと~ナユタちゃん? それ地雷だから」

 と、言っておいた。

「おっと! 電話が鳴っております! ……公安の上司サマからだ! 定時報告忘れてた~、ちょいと席外しますよ~はいもしもしぃ」

 くるり、と背中を向ける。

 そこに支配の悪魔の視線が刺さっているのを感じる。

 彼女は恐らくこう思っているだろう。

 

 レゼはソ連時代に触れられたくない。

 過去は弱点の1つかもしれない。

 

 それは、レゼがわざと与えた情報でしかなかった。

 大事なのは、分かりやすい人物像を持たせること。それがレゼの常套手段だった。

 簡単なやり方は、短所らしきものを1つ晒すこと。短所を掴めば、人は理解した気分になる。理解が及べば、安心する。安心すれば、ガードが下がる。

 あとは繰り返し。

 慣れが信用にすり替わる。

 こんなの大した手法でもないとレゼは思っている。

 かつて育った秘密の部屋にはもっとえげつないやり方を得意とする者も居る。

 ……いや。

 正確には“居た”だけど。

「今日は~、早川家に泊まりま~す。……はい、はい。そうで~す。家主に許可ももらってまーす」

 レゼは電話しながら考える。

 

 特に何かを企んでいるわけではない。けれど、私は他の生き方を知らない。

 誰かを殺すか、欺くか。

 一生ずっとこのままだろう。

 けれどそれも仕方ないこと。

 数え切れないほどの屍の上に居るくせに、今更幸せになろうなんておこがましい。

 別に悲観なんてしていない。

 だって私にはデンジ君が居てくれる。

 見てくれて、好きだと言ってくれた人が傍に居る、それがどれだけ恵まれたことか。

 かつて散っていったモルモットたちを想えば望外の境遇とさえ言える。

 だから、これで充分。

 私はずっとこの生き方でいく。

 

「え~、そんなこと言わないでくださいよ~。大丈夫ですって。ほんとでーす」



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疎開してきた都会のネズミ

 ソ連には“秘密の部屋”と呼ばれた場所が在る。

 そこでは親のいない子どもたちが集められ、国家に尽くすための戦士へと作り変えられている。少年少女たちに人権はない。モルモットとして身体をいじられて、実験データをとるために何十人も犠牲になった。

 その非道の実験場の存在はアメリカのジャーナリストに暴かれたこともある。

 世界中で話題になって物議も醸した。津波のような批判だって向けられた。

 けれどソ連は頑として認めなかった。

 けして諸外国の調査は受け入れず、情報は1つとして漏らさない。

 

 数ヶ月の時が流れた。

 

 進展がなくなれば大衆は簡単に飽きる。

 誰も話題にしなくなり、“秘密の部屋”は廃れた流行ワードとして人々の記憶に埋もれていくことになる。

 まるで可哀想な子どもたちなんて始めからいなかったかのように。

 しかし、誰1人として見ていなくても、その部屋は確かに在ったのだ。

 

 

 どんな組織や部署にもコンセプトというものがある。

 思想。理念。あるいは存在理由。

 秘密の部屋においてそれは『悪魔の力を軍事転用すること』であり、具体的な目標としては『兵士の魔人化』が掲げられていた。

 

 魔人とは、死体に悪魔がとりついた者を指す。

 彼らに人間時代の記憶はほとんど残らない。人格は侵食されてコントロールの効かない害獣と化してしまう。

 だが稀に、幾ばくかの記憶と理性を残す実例もあった。

 

 そこでソ連のある高官は考えた。

 “それ”を意図的に再現できないか?

 人間性はそのままに――忠実な兵士に、悪魔の能力だけを付与できないか?

 もしもその偉業を達成できたなら、悪魔の力をふるう兵士を軍団単位で量産できることになる。

 そうなれば世界各国のパワーバランスは大きく変わる。もはや銃の悪魔の肉片の所持量など問題ではない。他の大国に先んじて世界の覇者になれるのだ。

 

 魔人化プロジェクトの始まりだった。

 

 実験は例外なく非道であったが、非道のなかにも程度というものがある。

 ある実験は、ただ数値をとるためだけを目的とし、被検体の生存を度外視したもの。

 ある実験は、それら蓄積されたデータから導きだされた比較的安全性の高い臨床試験。

 ……モルモットの数も有限だ。

 エージェントとして見込みのある子どもには、成功率の高い処置を施す。

 そうではない子どもには、廃棄処分同然の実験を課す。

 そういうルールになっていた。

 更に。

 何よりもたちが悪いことに、その優性思想そのものである選別方法は、モルモット当人たちにも知らされていた。

 大人たちの意図はただ1つ。

 ――生き延びたいなら努力しろ。

 

 ゆえに誰もが必死だった。

 

 私は有能です!

 国家への忠誠に陰りはありません!

 誰よりもこの私が! 隣で震えている同じ境遇の誰よりも、この私こそが最も優秀で、将来国家に大きく貢献できるのです!

 

 

 

 

 

 夢を見た。

 ソ連時代の夢。

 秘密の部屋の夢――

 

 モルモット仲間たちの顔が浮かんで、消えていく。

 秘密の部屋のルールを飲み込んで、過酷な訓練を潜り抜けてきた本物の戦士たち。

 ある者は、レゼをも上回る戦闘技能をもっていた。

 ある者は、多くの言語を修めて幾多の仮面を使い分け、誰とでもすぐに打ち解ける会話術をもっていた。

 そして、最後に鮮明に浮かび上がったのは、あらゆる分野で高い評価を得た少女。

 名を、ヴェロニカといった。

 透けるような白い肌と波打つブロンドヘアー、そして澄んだ青い瞳が印象的だった。男のみならず同性をも魅了する美しい容貌を備えていて、しかしいつでも顔を歪ませて、こちらを強く睨みつけていた。

 一方的に敵視されていた。

 実力が伯仲していたからだ。

 実際、どちらが勝者になってもおかしくなかったと思う。

 

 しかし最終的に選ばれたのは自分だった。

 自分はボムの心臓をもらい受け、武器人間になれた。人間の記憶と人格はそのままに、死の影に怯えなければならないモルモットから任務さえこなしていれば生存が保障されている人間兵器へと昇格することができた。

 他の候補者たちは選ばれなかった。

 

 

 ぱららららららららららら

 

 

 

 

 

「……う」

 目が、覚める。

 寝汗にぐっしょり濡れていた。走り終えたばかりのように動悸が収まらない。

 忘我のままに知らない天井を眺める。鼓動を20ほど数えた。

 早川家の天井――

 うっすらと昨夜の記憶が蘇る。場所も思い出す。ここは日本で、平和なマンションの一室で、監視カメラはどこにも無い。自分の生殺与奪を握る監視員も教官も居るわけがない。なのに、それでもまだ筋肉のこわばりはしばらく溶けてくれそうにない。

「ふう~」

 のそりとゾンビのように起き上がる。ゾンビのように呟いた。

「どうして、忘れられないのかな」

 頭の奥の方に自動小銃の残響がこびりついていた。

 

 

 

 

 

 廊下で早川ナユタと遭遇した。

 もうとっくに起きていたのだろう。糊のきいたセーラー服に身を包み、洗面所から作り物のような顔を覗かせた。

 朝は挨拶。ふにゃりとした寝起き顔を貼りつけた。

「おはよー」

「……」

 早川ナユタは応えない。にこりともしない。

 無愛想な子だと思う。もっと笑うべきなのに。

 少女は射貫くような眼力のまま、こちらを映して上目遣い。

「デンジの記憶を見せてもらった」

 よく分からないことを言う。

 記憶?

「なにそれ。支配の悪魔ってそういうこともできるの?」

「できる」

「ふうん……。デンジ君の寝てる間にやったとか? それ、覗きでしょ。そういうのやっちゃダメじゃない?」

「ダメじゃない。岸辺も知っている」

「そうなの?」

 ま、いいや。後で確かめておこう。

「しかし支配って、また……」

 支配。

 他人を思いのまま操る呪縛。人生の乗っ取り。

 好い印象はまったく抱けない。

 支配の悪魔の力とは、これまで人類が他者・他国へ布いてきた強制力とは次元が違う。洗脳なんて目ではない。純度100%の人権侵害だ。

 他でもない自分自身だって体験した。

 あれはある意味、殺人よりもおぞましい行為といえるだろう。どちらがましという話ではないけれど。

「お客さんも業が深いね」

「私はお客さんじゃない」

「あ、そうか。お客さんは私の方だ」

「それも違う」

「んん?」

「デンジはそう思ってない」

「ほー、そうなんだ」

 素直に嬉しい、と感じた。

 そうか、デンジ君は私を過去の相手と思っていないのか。

「……で、何の話? デンジ君の頭の中を覗いて、なにか楽しいことでもあった?」

「レゼ。あなたはデンジを好きなんでしょ」

「お」

 思わず3センチのけ反った。

 いきなりすぎる。

 朝一番で勝負にきたらしい。

 大したタマだな、と思った。とても1歳未満児の行動力とは思えない。

「……なになに、びっくりしちゃった。もしかして果し合いしたいの? だったら安心していーよ。ナユタちゃんから取る気はないからさ」

「好きなんでしょ」

「おぉー、ぐいぐい来ますねぇ」

 相手はよほどの決意を持っていたようだ。だが所有権争いという感じでもない。敵意は薄く、そのくせ重心はずしりと安定している。今後も付き合っていくために腹を割れと促している感じ。

 ふむ。仕方ない。

 猫背にしていた姿勢を正し、正面から目を合わせる。

「好き、ねえ……。どーかなぁ。惹かれてはいるけど、純粋な好きじゃあないと思いますねぇ」

「純粋な……?」

「悪魔には分かんないよ。あ、これは揶揄してるんじゃないよ」

「どういうこと?」

「悪魔はさ、その名についてる概念が存在意義なんでしょ? 生まれたときから決まってる……。それってさ、すごい楽だよね」

「楽……? どうかな、考えたことはない」

「人間はさ、存在意義なんて無いんだよ。自分で見つけださなきゃいけない。それは人生を歩みながら培っていくものなんだけど……私は戦士、いや、兵器と言った方が正確かな? そんな育ち方をしてきたわけで、まだ何も持って無いんだよね」

「……」

「デンジ君と初めて会ったとき、ああ私と同じだなって思ったの。利用されるだけ。何も与えられてこなかった。……けど、どうしてかな、ある意味では私よりも希薄な人生だったはずなのに、ちゃんと自分の意志を持っていた……。それに、」

 それに。

 私と一緒に逃げる、と言ってくれた。

 何にも無いはずの私の中に価値を認めてくれた。

 打算ではなく、利益や安全を求めるためでもなく。ただ素直な気持ちのままに。

 それが嬉しかった。

 そして、こんな自分が嬉しいと思えることも、また嬉しかった。

「……それに? 続きは、何?」

「秘密」

「……言いたくないなら別にいいけど」

「ふふ」

 私は、自分自身を人の形をした兵器だと思っていた。

 けれど、あのとき気付かされた。今からでも一歩ずつ進んでいけば遅れを取り戻せるかもしれない、と。

 そう思わせてくれたのはデンジ君。

 だから、私はこの仕事を引き受けた。

 故国からの歪な信用――それに代わるだけの何かを得られそうだったから。

「――まあ、自分に無いものを持っているから惹かれたってわけですよ。こんな解答で、ご満足頂けます?」

「……よく分からない」

「人間は悪魔より面倒くさいって話かな」

「そういうの、煙に巻くっていうんだと思う」

「そーだよ。巻いちゃうんだ。人間は中身を見せたくないからね」

 ナユタの表情は変わらない。マネキン人形のように微動だにせず、情緒の感じられない瞳でレゼを凝視している。

「不満そうだねー。人生、これ勉強だよ。なんなら教えたげよっか。私について以外なら、だけど」

「別にいい」

「ああ、そう?」

 するりと脇を通り抜ける。

 洗面所で顔を洗う。ぽたぽた落ちる水滴を眺めながら、早川ナユタに対する所感をまとめてみる。

 ヘンな悪魔。

 人間のように成長しようとしている。……それは何故?

 成長するためには、目的意識とモチベーションが要る。あの小さな悪魔の場合は、やはりデンジ君なのだろう。他人のために。他人とともに在るために。そんな前向きな気持ちがなければ大きな変化は望めない。

 それを私はよくよく知っている。

 人は生存競争のためだけには変われない。成長のためにはある種の希望が――憧れのような気持ちが必要だということを。

 

 

 

 

 平穏が心地良い。

 それだけの高校生活だった。

「デンジ君? おにいさーん? もうお昼休みでございますよ?」

「ん……むがが……」

 机に突っ伏したまま動かない。肩を人差し指でつついてみる。

「うー……起きる」

 そう言ったきりデンジは動かない。

「困ったねー」

 授業はとっく終わっている。教室はもぬけの殻だった。

 ちなみにデンジの友人たちは早々と退散していった。自称カノジョの自分に気を遣ったのだろう。……ただ若干1名、クレイジーな反応をする奴もいたけれど。いきなり「俺と浮気してみなぁい!?」はすごいと思う。ほとんど会話したこともないはずなのに。

 ま、そんな変人を許容できるのも日本が平和な証拠だろう。

「さーて、デンジおにいさま? もう12時半を過ぎてるんだけど……いつまでもぐずぐずしてると、どう・なる・か~?」

 えりゃっ、と脇腹をくすぐった。

「うおあっ」

 顔をあげた少年と目を合わせる。好奇心豊かな猫をイメージし、瞳を大きく開いて口元は悪戯っぽく吊り上げる。どんな人間だって好意を向けられたら嬉しくなる。そういうものだから。

「おはよ」

「お、はよ」

 にこりと微笑んだ。

 

 

 

「ご飯、どこで食べよっか」

 デンジ君と並んで廊下を歩く。

 お弁当はある。朝に早川ナユタが作ってくれた。ちなみに見ているだけなのも悪いので手伝おうとしたら無言で首を横に振られた。どうやらキッチンは彼女の縄張りらしい。

「夢みてえ……」

 デンジが呟いた。

 ん? と首を傾けてみせる。

「俺ぁこういう生活がしたかったんだ」

 どういう生活? なんて問うまでもなかった。

 普通の生活。

 歳相応に学校に通い、余暇をどうやって過ごすかを考えていられるような日常。

 窓から差し込んでくる柔らかな陽射しに、ついこちらの気も緩んだ。

「もっとしちゃおっか?」

「ん?」

「普通の高校生っぽいこと。昨日、言ったでしょ?」

「あ? なにが?」

「彼氏彼女ってやつ。ほんとに付き合っちゃおっか?」

「超嬉しいけど……レゼはいいんか?」

「へ?」

 おや。意外な反応。

 焦るか喜ぶかだと思ったけど。

「俺ぁ、たくさん彼女ほしいけど。そういうのって普通はダメなんじゃね~の?」

「それはまあ、」

 ダメに決まっている。

 けど何故だかダメとは言いたくなくて、別の言葉を探した。

「ま、確かにね? ラブは1人に向けるもんですよ」

 少しだけ考えてみる。

 デンジ君と1対1で等身大の恋愛劇をやってみたらどうなるか。

 う~ん。ちょっときついかな。

「あ~……。デンジ君はさ、ナユタちゃんが大切なんでしょ?」

「ああ」

「じゃあ、他に大切なものって何?」

「……ん~。犬?」

「他には?」

「んんん、えーとぉ……」

「ね? すぐに出てこないでしょ? デンジ君はさ、自覚してないみたいだけど、大切なものをあんまり持ってないんだよ。なのに、そのうちの1つを捨てろなんて、言えないでしょ」

「んん……?」

 頭を捻っている。よく分かってないらしい。

「だーかーらー。デンジ君はデンジ君のしたいようにしたらいいんじゃない、って言ってんの。私は別になんでもいいからさー」

「ううーん。そうなんか?」

 悩みだす少年を横目に、その手に吊り下げた弁当の包みにちらりと目をやった。

 お昼ご飯の手作り弁当。

 早川ナユタが作った思いやりの形のようなもの。

「……。やっぱ、止めとこっか。カノジョが2人~なんて都合の良い話はNGです。そんな男はクソ野郎ですよ」

「え~~。クソ野郎でもいい。2人とも付き合いてえ~」

「おいおーい。キミはそのうち刺されるぞ?」

 苦々しい顔になる。

 そういえば、早川ナユタは本当に“ブスリ”とやってやろうかと昨夜仄めかしていた。きっとそれを思い出したのだろう。

 角を曲がる。屋上への階段を一足先に上りながら忠告しておく。

「デンジ君はさ~、あの子をちゃんと構ってやんないとダメだよ? あの子、他に味方いないんだから。キミが思っている以上に不安定だと思う」

「不安定、ねえ」

「たまにはぎゅっと抱きしめて、「ここに居ろ、俺の傍に居ろ」とか言っとけばいーの」

「そーゆーもん?」

「そーです。イッツコミュニケーションです」

 最後の段を踏みしめる。ドアノブを捻って、屋上に出た。

 ぶわり、と湿った大気が流れていく。灰色の曇が空一面に広がっていた。

 あらま。晴れていると思ってたのに。

 振り返り、浮かない顔のデンジに唇を尖らせる。

「ねえ、分かってる? 私、今、釘刺してんだからね? 釘、くぎくぎ!」

 人差し指を何度も突きつけてやるが、デンジ君はやはりよく分かってないらしい。唇を一文字に結んでうんうんと唸り続けている。

 はあーあ。どうせ頭の中でつまらないシミュレーションでもしてるんでしょ。

 例えば早川ナユタに「2人とも付き合いてえんだけど!」と言ったらどうなるか、とか。

 ……なんでもいいけどさ、これから一緒に昼食を食べる女を前にしてうじうじと別の女のことを考えているのはどういう了見だろう。

 なんだかむかつく。

 悪口を言ってやろうと思った。

「だっさ」

 そしたらすんごいびっくりした顔になった。へっ、ざまーみろ。

 

 

 

 

 デビルハンター東京本部に呼び出された。

 案内役の男は角刈りの巨漢で、会釈もせずに踵を返して廊下をずんずん進んでいった。何も言わないものだからこちらも急いでついていくしかない。男は実働部隊のワークルームをスルーして、相談に使う小部屋も通りすぎ、建物の奥にある階段に辿り着くとようやく振り向いた。私がちゃんとついてきているのを確認してから昇っていく。2階、3階、4階……。わりとシークレットなエリアまで来ていると思う。一介のデビルハンターが立ち寄れる場所ではない。

 これはなんだかきな臭いな、と思った。

 ただの打ち合わせなら普通の会議室ですればいい。それをしないってことは……あまり大っぴらにしたくない話ということで。

 巨漢がようやく立ち止まる。

 顎をしゃくった先には無機質なルームプレートが掲げられていた。

 『第4資料室』

 入室すると、待っていたのは岸辺隊長と痩身で眼鏡をかけた男の2人だけ。眼鏡男の方は見覚えがある。前回の面談で私を起用することを反対していた人だ。岸辺さんに意見できていたあたり地位もきっと高いのだろう。

 さて……。

 辺りを見回すまでもない。狭く、何もない部屋だった。

 資料室と名付けられているくせにファイルはおろか棚の1つもない。まるで引っ越し直後の空き部屋で、殺風景な立方体の空間の中央には事務用の四角い机だけが置かれている。その一辺には件のお偉い2人が座っていて、無言でこちらの着席を促していた。

 パイプ椅子に座った。

 ぴらり、と1枚の写真を渡された。

 よく知っている顔だった。

「ヴェロニカ……」

 透けるような白い肌と波打つブロンドヘアー、そして澄んだ青い瞳をもつ少女。

 高所から撮影されたであろうその写真には、けして忘れることのできない同期の娘が写っている。

 場所は、港だろうか。小舟から降りてきた場面のようで、頭にかぶったフードの中身までよく見えている。

「これは?」

「お前が前に密航したときに使ったっつうルートがあっただろ。そこに網をかけといたらひっかかった」

 写真はそれほど鮮明ではなかったが、被写体の少女は見間違えようがない。

 明らかにヴェロニカだ。

「知り合いか」

「秘密の部屋の仲間です。名前はヴェロニカ。先日提供した情報にあるはずです」

「だったら話は早い」

 眼鏡男が手元のクリップファイルに目を落とす。硬質な顔つきでぺらりぺらりと資料をめくっていく。

「……こいつか。ネームドモルモットのヴェロニカ。ボムの適応候補者で最終選考まで残った女。確かに外見の特徴も写真と一致している」

 岸辺が続きを補足する。

「密航してきたってことは遊びに来たんじゃないだろう。お前んときみたいに危ない任務を請け負ってるってわけだ。ま、おおよその見当はつく」

 誘拐か、暗殺か。

 標的となる対象者は――デンジかナユタ。あるいはレゼ。

「どんな奴だ?」

「私と似たようなものです。近接格闘能力、射撃技能、諜報員としてのスキル……優秀ですよ。私がいうのも変ですけど」

「日本語は?」

「堪能です。顔さえ見せなければ現地民と変わりません」

 そうでなければエージェントは勤まらない。

 岸辺は大仰に鼻息を鳴らした。

「目立つ顔してるな。モデルでもやれそうだ。街中を歩いてくれればすぐに分かるんだが」

 いかにも外国人という顔立ちがウィークポイントだ。スラブ系の彼女の顔はアジア圏では存在感がありすぎる。

「――能力は?」

 眼鏡男が怜悧な視線を向けてくる。

「秘密の部屋では魔人化プロジェクトが進められていたのだろう? ならばこいつも処置を受けているとみるべきだ」

 眼鏡男はヴェロニカの写真に指を差す。

「見ろ。フードをかぶっている。つまり頭部を、魔人の特徴を隠している可能性が高い」

 確かにその通りだと思う。ヴェロニカはきっと魔人になっているのだろう。

 だが自分はそれについて返せる答えを持っていない。

「分かりません」

 嘘ではない。堂々と目を合わせて言った。本当に知らなかった。

「私たち秘密の部屋の住人は、実験あるいは処置の後は成否に関わらず互いに接触することができなくなります。住居を移されるんです。恐らく私のような裏切り者がでたときに情報漏洩を起こさないようにするためでしょう」

「……」

「現に私は、彼女が生きていることも知りませんでした。もっと言うなら、悪魔の肉片を移植されたか否かについても同様です」

「ふん、まあいい。ひとまず魔人化はしていると思ったほうがいいだろう。……で、他には? こいつはこれからどう動くと思う?」

「潜伏、情報収集、そして準備してからのアプローチ……ですかね。予測されうる行動はもちろん伝えますけど……いずれも単独で実行するのは難しいと思います。まずは協力者から探るべきです」

「お前のときの協力者は監視している……だが今のところ動きはないな」

「別口があるはずです。私のときには使わなかった、私も知らない協力者がいるはずかと」

「……やれやれ。日本はスパイに弱すぎる」

 ヴェロニカを思い出す。

 自分とほとんど同じ実力を持ち、こちらに敵意を向けていた少女。

 彼女とはボムの心臓を得る権限を争っていた。実力も拮抗していた。しかしライバルと思ったことはない。

 なぜならば、彼女は繊細な言動が求められるエージェントとしては致命的な欠陥を抱えていたからだ。

「……あの、1つだけいいですか」

「なんだ」

「後で文句を言われても困るのでちゃんと言っておきます。記録にも残しておいて下さい」

 これだけは言っておかなければならないと思った。

「ヴェロニカが最終選考に落ちたのは理由があります。それは彼女が残虐だからです。彼女は命令で禁止されていなければなんでもやりました。必要以上に、です。その傾向は諜報員にまったく合っていなかった。だから落ちたんです。いいですか――」

 一度言葉をきって、軽く息を吸いこんだ。

「彼女の得意とする分野は“尋問”です。この意味が分かりますか? 捕まれば命はないということです。彼女はおそらく情報収集のために公安関係者を攫おうとするはずです。警戒してください。例えベテランのデビルハンターでもツーマンセルを徹底するべきです」

 できるならスリーマンセルがよい、とまで伝えた。

「ああ、対策をたてよう」

 岸辺はそう答えたが、心の中では実現されないだろう、と思った。

 ヴェロニカの暗躍を防ぐためには全ての公安職員のプライベートまで制限する必要がある。そんな前例のない横暴はこの国では許されないだろう。

 面倒なことになった、と思う。

 まさかよりによってヴェロニカとは。

 恐らく、近いうちに誰かの死体が晒される――

 それに、と机上の写真に目を向ける。

 ヴェロニカの口元は僅かに吊り上がっていた。薄っすらとした笑み――それが判別できるほどにくっきりと顔が写っている。

 ありえない話だった。

 自分たち秘密の部屋の住人は諜報員の教育を受けている。名無しで未熟なモルモットならいざ知らず、最終選考まで生き延びたヴェロニカがこんな稚拙なミスを犯すはずがない。

 彼女はわざと写真を撮られている。

 なんのためか。

 そんなのは決まっていた。

 彼女はレゼというライバルを敵視していた。ボムの適応者の権利を奪い取り、自身を蹴落としたレゼを憎んでいた。

 つまり、これは――ヴェロニカからの宣戦布告なのだ。

 

 

 

 知りうる限り、全ての情報を伝えた。

 帰ったら早川家の2人にも警戒するように伝えなければ。そう考えながら第4資料室を出る。

 廊下を歩き、階段を1つずつ下っていく。

 踊り場に、角刈りの巨漢が立っていた。

 じろりとこちらを睨みつけている。

「俺の高校の後輩に漫画家がいて、たまに一緒にメシ食ったりする」

 いきなりなんだろう。

 角刈り男はむっつりとした表情のまま腕を組んでいた。

「そいつはな、俺のつまんない話でも楽しそうに聞いてくれるし、買い物してるだけで「漫画のネタになる」って目ぇキラキラさせてメモとっててな、ああこういう奴がモノを創るやつに成るんだろうなって感じでよ」

 何を言いたいのか。そんなのは、声色に滲んでいる感情を読み解けば大体分かった。

 不満。苛立ち。嫌悪感。

 なるほど。要するにこれは、恨み言だ。

「それが少し前から全然笑わなくなっちまった。ず~っとお通夜みてえな顔してる。なあ、どうしてだと思う?」

「さあ」

「将来一緒に漫画を連載しようって約束してた友達が死んじまったんだと」

「はあ」

「その子とは小学生の頃から一緒だったみたいでよ、共同で漫画を描いて賞をとったこともあるらしい」

「そうなんですか」

「なーんにも悪いことしてねえのに死んじまった。可哀想だと思わねえか?」

「……可哀想ですね。私にはそれぐらいしか言えません」

「殺したのはお前だよ」

 そんなことだろうと思っていた。

 予測はついていた。心の準備はできていた。だからまったく問題ない。

「街ん中でバンバン暴れまくったテロリストがよ、随分楽しそうに過ごしてるじゃねえか」

「そう見えます?」

「なあ、1つだけ聞きたいんだけどな。お前、自分が殺した相手についてどう思ってるんだ?」

「可哀想ですね」

 他に言い様もない。

「私も仕事だったんで」

 男の目が眇められる。

「はぁ~ん、そうかい……。いや、な? ソ連が造った生粋の殺し屋ってんでな、ターミネーターみたいな奴だと思ってたんだよ。でもお前、普通に高校に通って遊んでるじゃねーか。何考えてんのかって疑問に思ったわけ」

「そうですねえ」

 故国に居たときは――

 そもそも恨み言を吐いてくる一般人とお喋りできる機会がなかった。関わるときは殺すとき。だから感情をぶつけてくる相手は、同類か、反応を窺っている教官ぐらいなもので。

 そのときは、いかに冷静に対処できるかをアピールすればよかった。

 けれど、今はどう返したらいいか……。

 分からない。

 分からないから、そのまま直球で答えてあげた。

 私が何を考えているか?

 どうして人を殺しておいて平気でいられるか?

「殺しの条件付けって知ってます?」

「あ?」

「人間は人間を殺せないようにできてるんです。でも、それも手順を踏めば克服できます。まずは案山子。そして動物。自分で育てた軍用犬。死刑囚。敵。敵。敵。知らない人。知らない人。知らない人。知ってる人。知ってる人。知ってる人。親しい人。親しい人。親しい人。そうやってステップと回数を積み重ねていくんです。慣れてしまえば人間なんでもできるようになります。命令さえあれば必要がなくても殺せるように、あるいは命令がなくても必要さえあれば殺せるように。そう成ったのが、今の私です。慣れています。だから、人を殺してどう思うかと聞かれても、可哀想ですねとしか答えてあげられません」

「な……」

 思わぬ反撃に狼狽えている目の前の男は一体何を聞きたかったのだろう?

 どんな返答を期待していたのだろう?

 そして、そんな期待通りの人間らしい言葉をソ連の元エージェントから引き出せると本気で思っていたのだろうか?

 だとしたら、彼はきっと根の優しい人間なんだろう。

 だからこんな質問をしてしまう。そして、こんな質問が許される日本はいい国に違いない。

 私とは違う。私たちとは違う。そして故国とは決定的に違う。

「な、なるほどな。遊んでるようで、全部仕事ってわけか。こりゃ見誤ってたな。いや、すっげーわ。ソ連製の工作員」

「案内、ありがとうございました」

 ぽつり、と窓ガラスに水滴がぶつかった。豆粒ほどの大きさが幾重にも連なって雨となる。

 その窓の外、1匹のカラスがずぶ濡れでグワァと鳴いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 爆弾は濡れてしまえば威力が落ちる。

 ヴェロニカはこの雨をずっと待っていた。

 



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初めて出会ったときに殺さなかった理由

 早川デンジには夢がある――!

 

 ウマいもんをたらふく食って、彼女も10人ほしい!

 たくさんセックスしたいぃ!!

 

 欲望はデンジの胸の裡を熱く焦がしたが、実現する手段となると謎だった。

 どうやったら銀座で高級寿司を食えるようになるのか?

 何を頑張ったら美人で優しい女たち複数人とキャッキャウフフできるのか?

 

 う~~ん。

 うううーーーーん?

 んんん、ん~~~~~……!

 わ、分かんねェ。

 

 ひとまずそんなふうに保留した。時間が経てば冴えたやり方も浮かぶだろう、そう思っていたけれどヒントも無ければ答えが見つかるわけもない。日々の生活に思考を割きながら気持ちに蓋をする回数だけが増えていき――いつの間にか、納得するしかなくなっていた。

 

 もしかしたら俺ぁ一生高級料理なんて食えないのかもしれねぇ……。

 そもそも貧乏人に女は寄ってこねぇ。

 周りを見たってそうだ。公安や近所に住んでる男ども……奴らに寄り添っている女は多くて1人まで。2人以上がついてる奴は見たことねえ。

 これが現実ってやつなんか? 俺ん人生もこれが限界なのか。

 

 しかしつい先日、傍らの義妹悪魔はこう囁いた。

 

 

「会社を、作る。デビルハンターの民間会社――」

 

 

「――社長になっちゃえばどう? 何でもできるよ?」

「何でもって……何でも?」

「何でも」

「じゃあ、じゃあ……美人の秘書を雇ったり……?」

「できる」

「社員は全員、女だけ……?」

「でき……できる? う~ん――」

 

 

 できる……できるのか!?

 ウマいもんをたらふく食って、彼女もたくさんできるのか!?

 

 ナユタは言った。「できる」と、ハッキリと。

 うん、確かに言った。

 なにせものすごく頭が良くて生まれたばかりでも人間社会に馴染めている超天才のナユタちゃんが言っているのだ。正しいに決まってる。

 更にナユタはこうも続けた。

 

 

「面倒な事務処理には人を雇う。役所への申請とか他所との交渉は私がやる。デンジは戦うひと。会社の看板、象徴、代表者。『あのチェンソーマンが率いるデビルハンターの会社』……話題性も抜群」

 

 

 ……なんだかよく分かんねぇけど!

 要するに、小難しくて大変なことは全部ナユタがやってくれるってことだろ!?

 自分は戦うだけでいい。悪い悪魔をやっつけるだけなら最強に得意だし、岸辺のおっさんも「お前はデビルハンターに向いている」みたいに言っていた。

 つまり、俺は、夢を叶えられるってことだよなあ!?

 

 将来のことなんてろくに考えていなかったデンジでも具体的なビジョンをお出しされれば胸はおおいに高鳴った。夢は願うものではなく、叶えるもの。希望がむんむん湧いていた。社長は金持ち。ウマいもんもたくさん食える。偉いから美人で優しい女もたくさん寄ってくる。

「会社ぁ、作るかぁ!」

 デビルハンターの民間会社を作って、社長になる!

 それがデンジの今の夢だった。

 

 

 

 へへへ、とにやけながら駅前をぶらついた。

 学校からの帰り道。デンジは足取り軽く街路を進みゆく。

(そっか……! デビルハンターに向いてるっつー事ぁ、社長になれるってことじゃ~ん!)

 ウキウキ気分で角を曲がる。

 新しい船出は未知への希望とちょっぴりの不安が混ざり合っていて気分は新鮮。すれ違う人々も自分を祝福しているように見える。電気屋の店先で声を張り上げている客引きに、団扇片手に焼き鳥を仕込んでいる飲み屋のおっちゃん、壁際では若者たちが募金箱を持ちながらボランティアに勤しんでいる。

「悪魔被害を受けた子供達に募金お願いします! お願いします!」

 おーおー、これはまた。

 若い男が手に持つポスターにはおどろおどろしい化け物と逃げ惑う子供達のイラストが描かれている。

 デンジは思った。ここは是非とも良い人アピールをするべきだ。

「社長だから、募金もできるぜ!」

 奮発して500円! 募金箱に入れると、小さな花をプレゼントされた。

「ふ~ん……キレイ!」

 良いことをすると、良いことが返ってくる。

 こうやって世界は回っていくのだと思った。社長は一番に良いことをする奴で、だから皆に感謝される。助けてもらえるし、お金も入る。その金でまた良いことをするともっと感謝される。どんどん偉くなる。……だからモテる!

 すげえ、社長ってそういうことかぁ!

「社長がモテるのも偉いからなんだな」

 さすがはナユタだ、と思った。

 自分の妄想を実現する道をこんなに的確に示してくれた。

 俺は社長。……社長!

 

 社長になったら……俺ぁモテモテになるだろうけど、それでも一番近くにはナユタに居てほしいな~。レゼもそうだ。前んときは戦わなきゃいけなかったけど今はそうじゃない。レゼも俺ん会社に入ってくれたらすんげえ嬉しい。再会してからずっとそう思っている。暇になると彼女の顔が浮かぶ。色々あったけどレゼにも隣に居てほしい。

 ナユタとレゼ。どっちも好きだ。

 他にどんな女が現れても俺の心は2人だけのモンだと固く胸に誓う。

 絶対に他の人を好きになったりはしねえ!

 

 ザァ……――――

 

 天から雨粒が叩きつけられる。

「ギャー! 逃げろ!」

 びちびちと肌に弾けていく。雨宿りの場所を探して駆けまわり、電話ボックスに逃げ込んだ。一息ついて顔を拭う。服がくっついて少し気持ち悪い。

 外の世界は灰色で、誰もが安全地帯を求めて逃げ惑っていた。

「傘、持ってくりゃよかったぜ」

 と、1人の女子高生がこちらへまっすぐ駆けてくる。

「わー! ひー!」

 社長は人助けをするもんだ。

 電話ボックスのドアを開けると、ブレザー姿でクローシュをかぶった少女がこれ幸いと入ってくる。

「わあ、どうもどうも。いやいやスゴイ雨ですね」

「あ~……ああ」

 透けるような白い肌、釣鐘型の帽子の隙間から波打つ黒い髪。水滴が滴ってしまっている。顔はツバに隠れてよく見えないが、なんとなく美人の予感がした。

「天気予報は確か……む、え!? あはははははは!」

 少女が唐突に笑いだす。

「あ? なに?」

「やっごめっ、すいませ……あははは!」

「んだよテメー……」

 ヘンな奴。

 ズブ濡れで、電話ボックスに2人で雨宿り。少女の顔に貼りついた前髪が過去の記憶をくすぐった。

 

 なんだぁ……? こんなこと、前にもあったような……。

 

 少女は肩を震わせて、目元を拭っていた。時折、すんと鼻をすする音。

「はあ!? なんで泣いてんの!?」

「いやいやすいません……アナタの顔……クラスメイトの死んだ犬に似ていて……」

「ああ!? オレ犬かよ~……!」

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

 

 あ、分かった。

 思いだした。

 これ、レゼと初めて出会ったときとおんなじだ。

 あの時もレゼは泣いていて、俺ぁどうにかしようと思って花をあげたんだ。

 

 あの時のレゼの笑みを思いだす。

 頬を赤らめて、喜びを滲ませたあの笑顔……。思えばあの瞬間に恋に落ちていたのかもしれない。

 あれはきっと、いや間違いなく、一生忘れられない想い出だと思う。

 だから、今回もどうにかしてやろう。そう思った。

「タラリラララルラ~……」

 思わせぶりに掌を掲げて少女に見せてみる。何も持っていないと印象づけ、くるりと手首を回し、少女からは見えないように袖口から花を取りだした。

「タラーン!」

 ポン、と花を手渡した。

「ええっ!? わっ手品! スゴイ!」

 少女の顎が上がり、ツバの奥で前髪がはらりと左右に流れていく。

 表情がよく見えた。

「……お花なんて貰ったの、初めて。なんだか嬉しい。ありがとう……」

 無垢な微笑みと、きらきらと輝く大きな瞳。吸い込まれそうになる。

 芸術品のような美少女だった。

 顔の彫りと鼻立ちが日本人離れしている。作りこまれた完成品。そこに感謝と安堵が彩られていて視界が幸せになってくる。動けなかった。いつまでも見ていたい。

「あ~! 雨、止んだよ!」

 スキップするようにして外に出る。

 少女は水溜まりの手前でくるりとターンする。仕草も可憐だった。

 きゅんとした。

 やばい。

 俺、この娘を好きになっちまう。

 少女は全幅の信頼を浮かべながらただ笑う。

「私の名前、ユキコ。速水ユキコ。ほら、『危険な関係』ってドラマ知ってる?」

「え、あ、知らねえ……」

「え~~、知らないのお!? ほら、大手の社長になりすました一般人が、庶民ならではの発想で活躍していくやつ!」

「社長……? いや、分かんねえ」

「むう~、テレビはあんまり観ない人?」

「それなり、かな」

「なにそれー! まあいいや、キミの名前は?」

「デンジ」

「デンジ。デンジ君――」

 語感を確かめるように頷いた。

 頬を赤らめて、喜びを滲ませる。

「デンジ君みたいな面白い人、はじめて」

 

 ……おいおいおいおい。なんの再現だよこれ!

 ダメだって!

 だって、だって……この娘、確定で俺のコト好きじゃん!

 どうしよう。

 俺は俺の事を好きな人が好きだ。

 

「ねえ、そこのビルに美味しいカフェがあるの。一緒にどう? 来てくれたらこのお礼してあげる」

 

 ナユタ、レゼ、助けて。

 俺この娘、好きになっちまう。

 

「ほらほら~」

 手を引かれる。

 はわお! 柔らかい!

 しっとりとした感触にだめになる。ふらふらと足がよろめいた。

 脳裏に2人の少女が浮かんだが、困ったことに誘惑を断ち切ってはくれなかった。まずい、やばい。頭の隅で別の自分が必死に喚いている。「おい止めとけって! 後が怖いぞ!」と。しかし分かっていても男の子にはどうしようもないこともある。

「ねえ、行かないの~?」

「あ、ああ」

 引き寄せる手は柔らかく、温かかった。

 ユキコと名乗った少女は軽やかにデンジの背中に回りこみ、掌をつっぱってぐいぐいと押してきた。異性の手の感触がこそばゆい。抵抗できない。

 徐々に雑居ビルの入り口へと押しやられていく。

 

 どうしよう。

 行っちゃってもいいか……?

 

 ふわふわ頭で悩んでいると、少女は短気をおこしたのかぴとりとデンジの背中に抱き着いた。全身でデンジを押そうという魂胆だろう。細い腕がきゅうっと腹に回されて、背中に柔らかな2つの感触が押しつけられる。あっまずいってそれは! と鳴き声をあげるしかない。

 少女は含み笑いを漏らし、密着したまましっとりと呟いた。

「ねえ、レゼは元気?」

「……お?」

「デンジ君と一緒に住んでるんでしょ? 私、心配なんだ。クラスメイトだったから」

「あ、おう……。えと、知り合い? あれ?」

 くすくすと笑っている。

「私もねぇ、ソ連から来たんだ。ユキコって名前はウ・ソ。ほんとはヴェロニカっていうの。忘れないでね」

 

 灼熱が、腹の奥まで突き抜けた。

 

「――あ、」

 衝撃は、神経の許容量を超えていた。しばらくは痛みと認識できないほどの熱が走り抜けている。

「は、ぐっ……!?」

「では改めて自己紹介するね。私はヴェロニカ。ソ連のエージェント。今はハサミの魔人なの。挟み込んだ対象をズパっと斬れちゃうよ。だから今のキミは胴回りが半分ぐらい斬れてるの。下手に動くとボロンって落ちちゃうから気をつけてね」

 息が詰まる。

 緊急事態に毛穴が開く。

 背後で少女が抱き留めていなければ崩れ落ちてしまうに違いない。

「痛い? 痛いよね? でも叫んじゃ駄目。目立っちゃったら任務が失敗しちゃうでしょ。だからデンジ君は黙ってビルに入ろうね?」

 少女の声は平坦で。ずりずりとデンジを支えるようにして移動する。傍から見たらカップルがいちゃついているように見えるだけかもしれない。

 デンジはようやく気が付いた。

 この少女――ヴェロニカは、刺客だ。

 ごぼり、と血を吐きだした。おそらく腹からも大量に出血が、

 ぶちゃっ。

 粘質の音。何かが落ちた。腹から、液体ではない柔らかな固形の何かが……。

 死ぬ。もう死んでしまう。

 チェンソーマンに変身しなければ殺される。

「ぐ……!」

 胸のスターターを引っ張ろうと右腕を振り上げる――が、

「あ、」

 その手首が、なくなった。

 切断された。

「じょっきーん」

 呆然と、腕の断面を眺めた。

 白い骨まで見える。

「う、うう!」

 生命の危機だった。今度は左腕を胸元へと必死に伸ばす。しかし、

「じょっきーん」

 左の手首が宙を舞っていた。

「あはは」

 少女は鈴が転がるような声をあげる。

「キミはチェンソーマンにはなれないよ?」

「あ、が、」

「大丈夫大丈夫。平気平気」

 ずりずり、

 ずりずり、と。

 少しずつ雑居ビルへと連れ込まれていく。

 入り口は暗かった。闇が口を開けている。このまま連れ込まれてしまえば本当に命はないと確信する。しかし抗うための活力は既に奪われていた。胴体の傷が深すぎる。どこまで達しているのか分からない。

 視界が明滅する。

 意識を保てない。

 ずりずり、

 ずりずり――

 

 

「ヴェロニカッ!!」

 

 

 


 

 

 

 雨上がりの街――

 通行人のいない街路で足を止め、息を切らせて凝視する。

 デンジ君が、帽子をかぶった女子高生に背後から抱きつかれていた。

 黒髪で、(レゼ)の知らない顔の少女。

 だからこそおかしいと思った。自分の知らない女はデンジ君も知らないはず。早川デンジは初見の少女といきなり深い仲になれるような男じゃない。

 帽子の少女はデンジ君に抱きついたままもぞりと態勢を動かした。首を斜めに振り返り、雨に濡れそぼった私を瞳に映した。

「よお、レゼ。日本はどうだ? 楽しいか?」

 やはり。

 あの少女はヴェロニカだ。

 ふと2人の足元に目を向ける。大量の血、そしてデンジ君の腹からは臓物が収まりきらなかった電気ケーブルのように垂れている。

「……」

 ゆっくりと息を吸い込んで、

 細く長く、吐きだした。

 意識を切り替える。仕事のスイッチをONにする。

 一歩、無造作に足を踏み出した。

「顔をいじったんだ? 髪も染めたんだね。瞳の色はコンタクト?」

 まずは状況を把握する。ヴェロニカについて。デンジ君の状態。地形と環境。伏兵の可能性。

 もう一歩、前へ。

 走らない。様子見しない。

 まったく普通の歩行ペースで堂々と近付いていく。残り25メートル。

 ヴェロニカは、悠々と身体の位置を入れ替える。

 デンジ君を前へ、肉の壁とするように。

「私の任務は2つある。1つ目はお前の尻拭い。もう1つはこれから決まる。お前の返答次第だ」

「元の顔のほうが綺麗だったんじゃない? それに体型がアジア系の顔立ちと合ってない。ハーフで通用しないこともないけど」

 更に前へ。

 靴の裏がざりっと小石を噛む。

 残り20メートル。

「レゼ。お前、故国を裏切ったって本当か? それとも、そのフリをして情報収集をしてるだけ?」

「あなたの元の顔を知ってるのは私だけだった。なのにわざわざ写真を撮られて、欺くためだけに整形したの?」

 一歩、また一歩。

 残り15メートル。

 首元のピンに指をかける。

 ヴェロニカはデンジ君の背中に頬をつけながらほんの僅かに首を傾げた。ライオンのように目を爛々と光らせている。

「この少年……早川デンジ? 素人だったな。なあ、お前はどうして任務を失敗したんだ? まさかとは思うが、こいつに絆されたわけじゃないよな?」

 一歩、また一歩。

 残り10メートル。

「知らない? 武器人間はトリガーを引けば復活するって。人質役には不向きだよ。そのまま抱えてたら不利じゃない?」

「だったら、殺しとくか」

 

 ぞぶり。

 

 見た。

 ヴェロニカの両腕が、粘土を分け切る木ベラのようにデンジ君の胴体へと沈み込んでいく。

 

 ぶつんっ。

 

 いとも簡単に断ち切ってしまう。

 下半身がレゴブロックの人形のそれと同じように味気なく転がった。断面からは血が吹き出してピンク色の腸がアスファルトにばら撒かれる。

 残された上半身、その上にある少年の表情は、苦悶に占められていた。

「あ、痛かったぁ? 早川デンジ君?」

 ヴェロニカはわざとらしく驚いたような声をあげる。

「ごめんね~? あの女が殺した方がいいって言ったからさあ」

 そう言って、抱えていた上半身を血溜まりに落とした。

 べしゃり。

 ヴェロニカは私をじっとり見つめて、肩を竦める。「お前のせいだ」とでも言わんばかりに口の端を片方釣り上げる。

 

 頭の、冷静な部分が――

 ヴェロニカの能力にあたりをつけていて、鍛え抜かれた精神構造が攻略への道を探り出している。

 同時に、こう囁いていた。

 平気でしょ? 心の準備はできていたんだから、と。

 そうだ。その通りだ。

 そもそもヴェロニカとは出会って目が合った瞬間に殺し合うのが決定していた。だから以後の会話は全て威嚇であり心理的優位を得るための主導権争い、双方ハナから意思の疎通などするつもりはなかった。

 ゆえに、ヴェロニカが私の動揺を誘うために半死半生のデンジ君を傷つける可能性ぐらい想定していた。

 しかし、

 それでも、

 分かっていても、

 こんなものを、見せられたら――

「ヴェロニカッ!!」

 

 眩むような激情が走り抜け、

 首元のピンを引き抜いた。

 

 ヴェロニカはにんまりと目元を三日月の形に歪める。

「ふ、ふふふ。こいつは良かった。いや本当に嬉しいよ。お前が裏切り者でいてくれて」

 

 激情が、爆発する。

 

 

 ボンッ

 

 

 血煙を、まとわせて――

 音もなく、人型の火薬庫が出来ていく。

 導火線が身体を伝い、細胞には爆薬が満ちてくる。

 刃物ならば、加減ができる。

 銃器ならば、急所を外せる。

 だが、爆弾には手心を加える余地がない。

 完成された死への手続き。男も女も老いも若きも、無機物ですら一切合切容赦しない、破壊の権化――ボムガールが現れる。

 

 ヴェロニカは知っていた。

 その変身は完了までに致命的な隙がある。

 一時的に頭部を喪失するゆえ意識を保てない。

 その刹那を見極め、ソ連の刺客は地を駆けた。

 断絶の両刃がレゼに迫る。

 しかし。

 そんな隙があることはレゼが一番よく知っている。

 

 意識が無いから動けない――そんな甘えは常に最上の戦果を求められる戦士にはけして許されなかった。何度も何度も反復訓練を行った。規定の動作をタスクとして事前に身体に流し込み、頭無しでも行動できるように。

 今回のタスクは、“迎撃”――

 

 

 

 頭部、修復。

 ボムガールとして視界が蘇る。状況を確認。

 私の左腕は、攻撃を受け止めていた。

 私の右腕は、既に振りかぶっていた。

 眼前にはヴェロニカの驚愕した顔がある。

 想定通り。脇腹ががら空きだ。

 絶好のタイミング。

 

 爆ぜろ。

 

 足の指でアスファルトを握りしめ、足首から膝へ、そして腰から上半身へと運動エネルギーを流転させ、更に悪魔の化学方程式で生み出した反応物質を右手中手骨に集約させることで人魔一体の破壊力を実現させる。

 

 ボ ボ ボ

 

 閃光が、狭い街路を染めあげる。

 耳を聾する炸裂音。湿った大気を吹き飛ばし、振動でマンホールの蓋が浮き上がる。

 薄い煙がぶわりと広がった。

 その向こう側……正面、およそ5メートルに、標的を発見した。

 生存を確認。

「Неужел(マジかよ)и……」

 たたらを踏んだヴェロニカが、爆圧でちぎれかかった左腕を抑えていた。

「雨に濡れて、この威力……。ちょっとハリキリすぎだろう?」

「手を抜いてほしかった?」

「冗談。……なあ、どうして私がここに居ると分かった?」

「雨が降ったから。私ならこの好機を逃さない。誰かを狙う」

 言いながら、自身の負傷を確認する。

 ガードしたはずの左腕が切り裂かれて、皮一枚でぶら下がっていた。

 傷口は綺麗な一直線。

 確信した。ヴェロニカの能力は、斬撃だ。

「触れたものを切断できる?」

「ご名答。勘は鈍ってないようだ」

 ヴェロニカはポケットからスキットルを取りだした。器用に指だけで蓋を外して中身をごくりと飲み下す。更に傷口にも吹きかける。すると、ちぎれかかった左腕がみるみるうちに治っていく。

(そうか、あれは回復用の血液か)

 こちらも首元のピンを引いて再起動。左腕を復活させる。

「分かってると思うけど……あなたはもう帰さないから」

「ふ、ふふふ」

 ヴェロニカは帽子を脱ぎ捨てる。

 頭に奇妙なものが突き刺さっていた。斜めに交差する2本の金属棒、それぞれに穴が開いている。そのあからさまな形状は、裁断用具の持ち手の部分を連想させた。

「私はハサミの魔人になったんだ」

 ヴェロニカは、私をじっと見つめて、にたあと口元を吊り上げた。

 再生したての左腕を自身の胸元へ添え、右手は後ろに回し、執事のように一礼してみせる。

「――私には、名前がある。私はヴェロニカ。ソ連のエージェント」

 唐突に自己紹介が始まった。

 記憶の底に沈んでいた少女の仇名を思い出す。

 “お喋り”ヴェロニカ。

 彼女は時折こうして標的に対して自身の情報を開示してしまう癖があった。

「任務は2つ。1つ目はチェンソーの心臓の奪取、あるいは破壊」

 ……モルモットは公にできない存在だ。

 誰にも知られてはならない。

 万が一知られてしまった場合、対象は必ず始末しなければならない。

「任務の2つ目は、裏切り者の抹殺。そしてボムの心臓を持ち帰ること」

 ゆえに、ヴェロニカの自己開示は、彼女なりの意思表明だった。

 

 どこに逃げようと、どこに隠れようと、

 絶対に追いつめて、絶対に見つけだす。

 そして絶対に殺してやるからな。

 

「なあ、“優等生”――」

 ずちゃり。

 ヴェロニカが無造作に一歩踏み出した。

 私は知っている。

 ヴェロニカは、過去一度たりともこの誓約を破ったことはない。

「何もかも台無しにしてみたいと思ったことはないか? クソみたいな連中、クソみたいな社会、クソみたいな人生……」

 右腕を、すうっと右斜め上方へ向けた。指し示す先は、天高くそびえる駅前のマンション。

 早川家が住むマンション。きっちりその10階を指している。

 私は知っている。

 ヴェロニカは執念深い。

 ヴェロニカは用意周到だ。

 彼女は命令で禁止されていなければなんでもやった。必要以上に。

「生かして帰さないって? 私も同じ意見だよ」

 ヴェロニカは掲げた指をぱちんと鳴らす。

 

 あの部屋には、今、早川ナユタが居る。

 

 爆裂が舞い踊る。

 轟音とともに瓦礫が飛散し、煙をたなびかせながら流星となって降りそそぐ。

 ヴェロニカは、大仰に腕を広げた。

「どいつもこいつも死ねばいい」



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「できるだけ人殺しはしたくない」

 夕方、地鳴りのような振動がマンション全体を揺らした。

「何かしら……」

 その部屋に住む初老の女性は不安そうに身を縮めこませる。

 揺れの直前、何かが破裂するような轟音がマンションの上階層から響いていた。

 地震ではない。

 ガス爆発でも起こったのだろうか。

 老夫婦は食卓越しに顔を見合わせてから、恐る恐る周囲を窺った。

「あ……」

 ベランダの四角く縁取られた窓の向こう側、薄いオレンジ色に染められた空が幾重もの瓦礫群で切り裂かれていた。大小さまざまなコンクリート片が落ちていく。ガラスの粒がキラキラと反射して、火を纏うカーテンが風に乗って靡いていく。

 これは只事ではない、と初老の夫が腰を浮かせかける。

 そのとき、ベランダからガコンと何かを外すような音がした。

 ゆっくりと近付いて確認する。

 上階の避難口が外されて、犬が次々と飛び降りてくる。規律正しく順番に、合計7匹もの大型犬がベランダの隅に集まる。

 最後には中学生ほどの背丈の少女が音もなくベランダに着地した。

「……ふう。ここまで降りてくれば、大丈夫かな」

 天井に目を向けながら、ゆったりとした動作でセーラー服の煤を払っている。

「お嬢ちゃん、上の階から降りてきたのか!?」

「け、怪我はない……? ああっ、こんな酷い……」

「これは、汚れただけ」

 返答はあっさりしていた。

「私は巻き込まれなかった」

 おろおろと取り乱している老夫婦とは対照的に、少女は命を落としかねなかったこの事態においても静謐な表情を保っている。

 少女の名は、早川ナユタ。

 ナユタは足元にまとわりつく犬たちを優しげに撫でる。目を細めて、声の調子は凪いでいる。しかしその心中では嵐が吹き荒れていた。

「……やってくれたな」

 ガラスの瞳の奥底に、悪魔の炎が揺れている。

「よくも、私のデンジを」

 

 

 


 

 

 

 地を駆けて、壁を蹴る。

 人体を効率的に駆動させる術を熟知したソ連のエージェントが悪魔の力で街を跳ね回る。空中で猫のように身体を捻って軌道を変えて、五点着地からフルスロットルで加速する。ハサミの魔人が2本の指を電柱にひっかけて一直線に裂きながら振り向くと、追撃するボムガールは拳を灯して引き絞る。

 交差の瞬間、空気が破裂した。

 もしもこの場に衝突を見届ける者が居たならば、弾け飛ぶ2人は同時に死んだと思ったに違いない。

 ビリヤードの玉弾きにも似た軌道。

 2つの人の形をした塊が正反対に弾かれた。

 ハサミの少女は回転しながらビルの看板に叩きつけられ、ボムガールは血痕を散らしながら街路を20メートル近くも転がっていく。

「――」

「――」

 横たわる2人の少女は動かなかった。

 血溜まりだけが音もなく広がっていく。

 双方、人の身で耐えられる衝撃ではなかった。並の悪魔なら機能不全に陥るほどのダメージ。

 しかし、それでも2人は鍛え抜かれた戦士だった。

 受身という技術が染みついて、痛みをやりすごす方法も知っていた。そして何よりも悪魔の耐久力が倒れ伏したままでいることを許さない。

 むくり、と同時に身を起こす。

 その腹から臓器が零れ落ちていようとも、痛がりもせず、庇いもしなかった。淡々と修復の手順をこなしながら足を踏み出していく。互いが互いの息の根を止めるために。

 

「ば、化け物……」

 

 足を止める。

 目を向けると、すぐ傍で電気屋の店員がへたりこんでいた。

 1人だけではない。ビルや店、そして曲がり角から頭を覗かせる人間が少しずつ増えていく。

 マンションでの大爆発、そして戦闘による爆裂と擦過音が住人たちを呼び寄せていた。

 平和なはずの街のなかで、殺戮をもたらす2人の兵士が対峙する。

「観客が増えてきたか」

 スキットルから血液を啜りながら、ヴェロニカが零す。

「ふふ。面白くなってきた」

「……続行する気?」

「当たり前だろう? 任務達成は何よりも優先される」

「正体がバレるでしょ。テレビにでも映されたらどうするの?」

「どうするも何もない」

 ヴェロニカは口元の血を拭う。

「ソ連には秘密の部屋なんて存在しないし、モルモットも飼っていない……そうやってまた言い逃れするだけだ。例え私の姿が記録されようと「こんな魔人は知りません」で終わりだろ」

 空になったスキットルを投げ捨てる。

 甲高い金属音とともに近くにいた子どもが短く悲鳴をあげた。

「大体、お前だってそうやって暴れ回ったんじゃないか。今さら何を言ってんだ?」

「……」

「ああ、そういうことか」

 ぼろぼろになったブレザーの内ポケットに手を入れる。

 取りだしたのは一丁の拳銃だった。

「市民の命を優先する……そんな日本のルールに適応したってわけだ。さすが“優等生”」

 目が、周辺の獲物を物色していた。

 無関係な一般人を私の気を引くための道具として見ている。

 嫌な駆け引きだった。

 ちらり、と路上の死体に目をやる。

(ちょうど真ん中ってとこかな……)

 自分とヴェロニカの中間地点にデンジ君が転がっている。

 スターターを引いて復活させられれば2対1になる。すぐにでも制圧できるだろう。ヴェロニカもそれを分かっているから私を近づけさせまいとしている。

 ふと、最悪の事態を想定する。

 一般市民を人質に取られたら、私はどう動くべき?

「1つ、問題を出そう」

 ヴェロニカが拳銃をくるくると回し始める。

「ある劇場でテロが発生して300人の観客が人質に取られました。さて、そのときソ連政府はどう対応したでしょう?」

「サーモバリック弾頭を使って建物ごと粉砕した」

「правильный о(正解)твет.お前もやってみろよ」

「嫌がらせにも品位ってものがあるでしょ」

「そんなもんは習ってない」

「嘘だね」

 私は右腕を持ち上げ、指先を合わせてヴェロニカに差し向ける。

 打ち鳴らすことで爆発の粒子を飛ばす――そう脅しをかける。

「世界の、社会の常識を知らなければ諜報員にはなれない。私たちはその教育を受けたはず」

「あー、そうだった」

 首を傾げ、射線を僅かに下げる。

「でもあんなのは嘘の世界を飛び回ってる蝿どものたわ言じゃないか。私には嘘をつかなくていい」

 

 パァン

 

「くっ!」

 咄嗟に手で庇う。

 傍らで腰を抜かしている電気屋の店員が息を呑む。

 本当に撃ってくるとは……思っていたけれど。

「おー。立派な番犬だな。頭が下がる思いだよ」

 二発、三発と身体に穴が開く。

 痛みは消せるわけじゃない。何より機能が損なわれてしまうのがまずい。それでも……。

「あ、あんた、俺を守ってる、のか? 悪魔じゃない……?」

「早く隠れて」

「あ、ああ!」

 立ち上がったところへ、追撃に一発。それもまた防ぐ。

「く……」

 膝をつき、痛みに耐える。

 男は店の中に身を隠す。これでもう拳銃では手出しができない。

 けれど街中にはまだ多くの野次馬が潜んでいた。もっと奥に隠れなければ危険なのに携帯を覗かせている者までいる。動画や写真でも撮りたいのか、その愚かさに苛立ちが募る。

「故国だったら見捨ててもいいのになあ」

 ひとまずピンを引いて、修復を図る。

 だがほとんど回復しなかった。

 血を使い過ぎた――

「なあ、さっきから疑問なんだが……どうして血液を補給しない? もしかして所持を許されていないのか?」

「さあね」

「悪魔の力と回復力が私たちのウリだろう。こんなに頑張ってるのに冷たいじゃないか。ま、どこも同じってわけだな」

 ずちゃり。

 ヴェロニカが一歩近付いた。

「おかげで私は楽ができる」

 右手には拳銃。

 左手は掌を大きく開いて掴む準備をしている。

 危機的状況だった。こちらも少しは余力を残しているがヴェロニカほどの手練れを仕留めるには血が足りない。勝ちきるのは不可能に近いと思う。となれば、一時撤退か?

 ヴェロニカは一歩ずつ近付いてくる。

 もう数歩でデンジ君に辿り着く。

「……」

 いや、だめだ。

 彼女はさっき言ってたじゃないか。

 

 

 任務は2つ。1つ目はチェンソーの心臓の奪取、あるいは破壊。

 

 

 ここで逃げてしまえば、デンジ君は連れ去られてしまう。

 心臓を奪われれば、当然死ぬ。

 そう、死んでしまうんだ。

 もう二度と声を聞けなくなる……。

 それだけはだめだ。

 膝を支えに立ち上がる。塞がらない傷が痛みを訴えたが黙らせた。今はそれどころではなかった。ここで負けたら日本についた意味がなくなる。故国からの歪な信用を捨ててしまった今の私にはデンジ君しか残されていない。

 絶対に勝たなければならない。

 だから、言った。

「勝負しよう」

 ヴェロニカの眉がぴくりと持ち上がる。

「貧血になっちゃった。次が最後の一合だと思う。どう、やってみる?」

「付き合う義理はないな」

「義理はね。でも決着はつけたいんじゃない?」

 ヴェロニカは足を止めた。

 デンジ君の真横で。

 真剣な面持ちで私を見ている。睨んでいるというほうが近い。

「……いいだろう」

 拳銃を胸元にしまいこみ、両腕をだらんと落とす。威嚇する狼を思わせる前傾姿勢。

 やる気だ。

 ハサミの魔人について一度整理する。

 ――2箇所触れれば間の全てを切断してのける、その特性は近接戦闘において非常に大きなアドバンテージだ。ただ斬るという性質だけに着目すればナイフと同じかもしれない。だがナイフと違うのは、持ち手を受けても防ぎきれないという所。

 例えば相手の手首を掴めばそこが1つの力点になってしまう。あともう一箇所どこかに触れられたらアウトだ。間の一直線に在る肉体を問答無用で切断される。

 防御は不可能。軽傷に抑えることもできない。受ければ即座に欠損する。そしてヴェロニカはその隙を見逃すような素人ではない。次の瞬間にはバラバラにされているだろう。

 それでも接近戦しか活路はなかった。

 ボムの力には遠隔攻撃もある。だが拳銃の弾よりゆるやかな攻撃が彼女に直撃するとは思えない。

 残された僅かな血量で決着をつけるには必中かつ必殺の攻撃でなくてはならなかった。

 避けようのない大爆発を、懐で炸裂させる。

「じゃ、やろうか」

 触れずとも消し炭と化すほどの爆薬を生成し、右腕にかき集める。みちみちと導火線が寄り集まって弾頭に成っていく。あからさまな形状に、ヴェロニカは目を細めた。

 俄かに空気が張りつめる。

 切断が先か、爆発が先か。

 こちらも重心を低くして、脚の筋肉をたわめる――

 そこに、

 

 空から黒い礫が落ちてきた。

 

「!?」

 謎の群体が勢いよく地を擦ってヴェロニカの真横から襲いかかる。黒い砲弾の雨――その正体は、カラスだった。大量のカラスが一気呵成にハサミの魔人に襲い掛かっている。

「なっ!」

 クチバシつきの戦闘機が飛び交った。数匹が切り裂かれたが、あまりにも数が多かった。捌ききれず、何より広げられた黒い翼でヴェロニカの視界が遮られる。

 その隙間から、まるで召喚されたかのように1人の男が現れる。

「――ッ!」

 斬撃と斬撃がぶつかる金属音。

 血飛沫が飛び散った。

「岸辺さん……!?」

 最強のデビルハンターが両手に大型ナイフを携えて、素早く踏み込み一閃を放つ。

 またしても金属音。

 ヴェロニカの二の腕がぱっくりと裂ける。

 よく見ればそれだけではない。初撃の傷か、胸元からも夥しい量の血潮が迸っている。

Неу、жели(なん、だとぉ)……!」

 ヴェロニカはたたらを踏んで構え直す。血がぼたぼたと垂れている。致命傷であるにも関わらず抑えようとしていない。片手で勝てる相手ではないと踏んだか。

 ヴェロニカは素早く右手を掲げた。

 戦闘において意味のない動作。なぜ? あの意図は、

 サイン――?

 

 しゅぽっ

 

 遠くから、どこか間抜けな音が届いた。

 聞き覚えがあった。

 本能的に肌が粟立ち、目を向ける。

 ヴェロニカのはるか後方から煙を噴きながら高速で飛来するものを発見。

 咄嗟には判別できず、引き伸ばされた時間のなかで凝視する。

 RPG-7――携帯対戦車擲弾発射器、その弾頭。

 フリーハンドで描いたような雑な直線を辿りながら対峙する2人に迫る。

 すぐ横のビルに着弾。

 爆炎が膨れあがって大気を伝播する。

 閃光に目が眩み――

 

 しゅぽっ

    しゅぽっ

       しゅぽっ

 

 まさか。

 嘘でしょ、と思う。

 そこまでするのか。

 白く染まる世界の中で、追加で3発の弾頭がでたらめに向かってきていた。

 よく見える。

 撃ったのは街路の奥から接近しつつある白い大型バン、その中にいる少年少女たち――恐らく新手のモルモットの3人で。

 だがそれを気にしている余裕はない。

 何よりも優先すべきはこちらに撃たれた3発への対処。2発は見当違いの軌道だからいい、だが残りの1発が建物の陰に向かっていて、そこには、

 腰を抜かしている女児が、

「……っ!」

 走り、手を伸ばす。

 伸ばしながら――経験則の抗議を聞いていた。

 

 そっちじゃない。

 優先順位を間違っている。

 

 分かっていた。

 任務においても私情においても、優先すべきはデンジ君の確保。

 けれど、目の前の女児は放っておけば確実に死ぬ。

 庇うしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……少年兵の作り方って知ってるか。

 まず始めに全てを奪うんだ。金も家も家族も奪って、ことによると名前や戸籍に故郷そのものも、とにかく真っさらにしちまう。そうやって土台をぜーんぶ壊しちまえば新しい人間を作れるようになる。何でも言う事を聞くし、倫理感だって上書きできる。

 

 どうして逆らわないんですか。大切なものを奪われたわけでしょう? 例えば親を殺されたら、俺ぁ復讐を考えますがね。

 

 そりゃお前が他に守りたいもんを持ってるからそう考えられるんだ。他の誰だってそうだ。寄っかかる芯みたいなもんが残ってりゃあそれを守るために色々やるだろうよ。だがな、さっきも言ったが、全部失くした奴は何者でもなくなる。死人とたいして変わらねえ。

 

 全部、失くした……。

 

 そうして“今”しかなくなった生き物に、今度は“明日”を与える。

 言う事を聞けば認められる、先に居た同類たちが一人前の存在として扱われている姿を見せる。すると、自分もそうなりたいとぼんやり思う。

 隣家の芝生を羨む程度の気持ちで銃をとる。周りはみんな撃っている。殺して帰れば認められる。だから撃つ。そしたらすごく簡単なことだったと連中は気付くんだ。倫理感なんて役に立たないって身に染みてるから躊躇いも少ない。一度成功体験を得てしまえば自発的に戦場へ行きたがるようになり、何人も殺して味を覚え、成り上がりたいという想いでより先鋭的な手段に手を染めるようになる。今でも中東やカルト宗教がやってる手口だ。

 

 そんな簡単にいくもんですか?

 

 何も特別なやり方じゃない。辿っている道はサッカー選手になりたがる子どもと同じだ。ただ平和な国では“健全ではない”思想だから忌避されているだけ。でも少年兵やカルト宗教の信者たちにとってはそれだけが自分を裏切らない“健全な”思想なんだ。

 

 じゃあ、こいつや、逃げてったあのガキどもも……。

 

 どうだろうな……。こいつらはスパイができるように育てられている。狭い世界しか知らないようじゃ潜入工作なんかできねえから平和な国の健全さもちゃんと知ってるはずだ。

 

 ……じゃあこいつらソ連のモルモットって連中は、自分たちが異常だって自覚しながら工作員をやってるってことですか。

 

 恐らくな。しかしどうやったらそんな矛盾した人間を作りだせるんか、俺にはさっぱり分からねえ。

 

 

 

「……」

 曖昧だった意識が像を結んでくる。

 瞼を閉じたまま耳を澄ます。近くに人の気配。3人、4人……少し離れたところでは喧騒が飛びかっている。

 仰向けの姿勢のまま肉体の状態を確認する。

 ……動かせる。拘束もされていない。

 ゆっくりと目を開ける。

 身を起こす。

 近くには岸辺さんと角刈りの巨漢が立っていた。

 ……ああ、この人、デビルハンター東京本部で案内をしてくれた人か。

「状況は?」

 周囲を見回すと破壊の痕が目についた。ビルの一部が崩れ、街路は捲れあがってしまっている。僅かに硝煙がたちこめていて、まるで戦場のようだった。

「ヴェロニカには逃げられた」

 岸辺さんは簡単に説明してくれた。

 

 街中で乱射されたRPGによる混乱、その隙に乗じて白い大型バンに乗り込んで逃げ去った。

 同乗していた子どもたちは……おそらくヴェロニカと同じソ連のエージェント。

 そして、

 

「デンジ君も、攫われた……?」

 死体となった少年、しかも上半身のみで両腕も無いとなれば持ち運びも容易だろう。

 あの混沌とした状況では何が起こっても不思議ではない。

 とはいえ……考えてしまう。あの時、あの選択をしていなければ――?

「……」

 いや、止めておこう。そんなことを考えても意味は無い。

 どうにも身体が重く、口を開くのも億劫だった。

「追跡は……?」

「できている。リアルタイムでな。こいつの力でだ」

 くい、と顎を向けた先。佇んでいたのは薄汚れたセーラー服を着た少女だった。

「ああ、ナユタちゃん……。無事だったんだ」

 小さく頷く。

 頭上には何十羽ものカラスが建物の足場に留まり、その全てが主人である早川ナユタを瞳に映していた。次の命令を待っているのだと気付く。

 幾多もの鳥獣を使役する少女の在り方はまさに魔女のようであり、冷えきった視線は不吉ささえ孕んでいたが、なぜだろう、味方ならこんなに心強い相手もいないように感じた。

 小さな悪魔が、口を開く。

「デンジには私の力がかかっている。死体になっても位置は分かる」

「……そう。だったら良かった」

 追跡できる。

 取り返せる。

 一掬いの希望を与えられた気分だ。

 相手は車。普通なら追いつくのも難しい。しかしこちらはボムの力で空を飛べる。交通状況に左右されずに一直線に進むことができる。簡単に捕まえられる。

 すぐにでも出発しなければ。

 そう思い、立ち上がるために手をつくが、上手く力が入らなかった。

「血が、足りていない……」

 このままでは満足に変身もできない。

「あの、岸辺さん。血液パックとか、もらえませんか」

「ああ、それなら、」

「待ってください」

 遮ったのは角刈りの男だった。

「1つだけ聞きたい」

 ……なんだろう。

 のろのろと目を向ける。

 巨漢はこちらを睨みつけている。その足元では、立て膝になった成人女性が女児を抱きしめていた。

 見覚えのある子どもだった。

「あくまのおねえちゃん、だいじょうぶ?」

 私が守った子だ。抱きしめているのは母親か。

「ありがとう……ありがとうございます……」

「あのね、このおねえちゃんが助けてくれたの」

 不思議な光景だった。

 成人女性と女児が熱の篭った視線を向けてくる。そこにどんな感情が含まれているかは知識では知っている。しかし、浴びせられるのは初めてだった。どうにも現実感がない。

 皮膚のうえにむず痒さを感じながら、ぼんやりと見返すことしかできない。

 角刈りの巨漢が、口を開く。

「どうして助けた? これも仕事だからか?」

「……違う。私は、ただ、」

 ただ?

 ……ただ、なんだろう?

 上手く言葉にできない。間抜けのように口を半開きにしたまま朧げな記憶を掬い取る。

 あの瞬間、私はこの子を助けるために手を伸ばした。

 どうして?

 私はどうしてこの子を助けた?

「……助けられたから、助けた」

 そうとしか言いようがなかった。

 打算ではなく、利益や安全を得るためでもない。

 なんとなく。

 ただ、なんとなく。

「死なない方がいいと思ったから」

 男は苦々しげな表情を見せる。苛立ちが読み取れるが、何が癪に障っているのか分からないし、推察するほど頭も回らない。

 どうにも血が足りていない。

「お前、面接ではまともな職業に就きたくて公安になったって言ってたな。あれは本当なのか?」

 ……?

 どうしてそんな意味の無い質問をするんだろう?

 口ではなんとでも言えるのに。

 本当も嘘も、行き来できるものなのに。

「さあ、どっちかな……」

 それでも、偉そうなことは口が裂けても言いたくない。そんな気分だった。

 男は不満げだった。

「ふん。元テロリストなんかを、賞賛できるかよ」

 背中の刀に手を伸ばす。

「……でもな、上手く言えねえけど」

 引き抜いて、鈍く光る刀身を、自身の腕にあてた。

 血が滲む。

「俺も人を助けるためにデビルハンターになったんだ」

 男は傷ついた腕を突きだした。

 命の雫が溢れでて、どくりどくりと垂らされる。

「血が必要なんだろ。使えよ」




ロシアの逸話って人命の価値が軽すぎてギャグ漫画みたいになってると思います。好き。


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「すぐは無理でもいつか一緒に」

「はっ、は、……ん、ぐ……ふは……」

 疾走する大型バンの車内。

 座席は倒されてフルフラットになっており、そこで魔人の少女が呼吸を荒げて仰向けになっていた。

 ソ連のエージェント、ヴェロニカ。

 ヴェロニカは逆さに掲げた血液パックを握りしめ、それでも中身が出てこないのを確認すると、唇から一滴の液体を垂らしながら艶めかしく溜め息をついた。乱暴にぶちまけられた赤黒い液体は傷口だけでなく車内も汚している。それは近くで息を潜めている12、13歳ほどの少年少女たち3人の足先にもかかったが、彼ら彼女らは眉一つ動かさなかった。訓練された軍用犬のようにじっと上位者からの命令を待っている。そのように躾けられた生き物だった。

「同志ヴェロニカ」

 1人の少年が、生白い皮膚を動かして問いかける。

 指を差した先には、無残に切り裂かれ上半身だけになった少年の死体。胸元からはスターターの紐が生えている。

「チェンソーの心臓を、取り出さないのですか」

「ああ……」

 ヴェロニカは仰向けのまま手短に答える。

 血の補給は済んだが傷がすぐに塞がるわけではない。体力を回復させるためにも休息が必要だった。

「んん、う、うう~……。ふうぅ……危やく、死ぬとこだった……」

「同志」

「なんだ……」

「心臓を取り出しましょう。運び易くなります」

「しつこいぞ。お前の指揮権を今握っているのは誰だ?」

「同志ヴェロニカです」

「だったら、黙って従ってろ……。と言いたいとこだが、まあいい。……ふう。私は優しいセンパイだからな。後学のためにも、教えてやる。いいか、私が早川デンジをそのままにしてんのは理由がある。レゼを釣り上げるためだ」

「レゼ……。ボムの心臓の所持者ですね?」

「ああ、そうだ」

 ヴェロニカは身を起こし、あぐらをかく。手を伸ばせば届く距離にいるモルモットの3人を、そして運転席の少年を見て、最後に傍らに転がっている死体を眺めた。

「この早川デンジは、支配の悪魔と同じ住居に住んでいた。……支配の悪魔、知ってるな?」

「ブリーフィングで資料を確認しました」

「はあ? あんなのお前、本当に最低限しか書いてないんだぞ。……ふん、教えてやるよ。先代のマキマっていう支配の悪魔は、死体をも支配して操っていたそうだ」

「死体を……?」

「そうだ。だから今のこいつは死体でありながら操られている。この瞬間にだって動き出すかもしれない」

 少年少女たちの顔が強張った。慌てて懐からサイレンサー付きの銃を取り出す。

 対してヴェロニカはのんびりとした調子。

「反応速度はまずまず。だが想像力が足りてない」

 いけしゃあしゃあと言う。

「落ち着け。こいつは腹から下が無くって両手首も無いんだ。どう動いたって脅威にはならない」

「しかし同志、こいつは武器人間です。トリガーを引けば欠損部位も再生する」

「引ければな。手首が無いんだ。動いた所で引けるわけがない」

「……確かに」

 少年たちはゆっくりと銃を降ろすが、肩は強張ったままだった。

 ヴェロニカは言う。

「こいつは支配の悪魔といっしょに住んでいた。つまり支配されてるのは間違いない。なぜって、悪魔はそうやって人間を害せずにはいられないからだ。……で、だ。支配されてるってことは、つまり端末化してるってこと。無線で繋がっているようなものだと思えばいい」

 死体はぴくりとも動かない。だがビーコンのように信号を発しているとヴェロニカは言う。

 ここに居るぞ、と。

 追跡せよ、と。

 攫われてからずぅっと、親玉である支配の悪魔に知らせ続けている。

 ごくり、と誰かが唾を飲みこんだ。

「例えばこの死体をバラしてチェンソーの心臓だけにしちまえば追跡はされなくなるかもしれない。だがそれじゃダメだ。レゼが追いかけてこなくなる。この早川デンジの死体はな、2つ目の任務のための釣り餌にするんだよ」

「……リスクが大きすぎるのでは?」

 わざと追跡させても来るのはレゼだけとは限らない。つい先ほどヴェロニカを撃退した岸辺や他の公安も現れるかもしれないし、もっと言うなら日本の公的機関全てが先回りして道を塞ぐ可能性もある。放置するのは蛮行でしかなかった。

 しかしヴェロニカは意にも介さない。

「任務は2つだ。両方やらなきゃ意味がない。私を落伍者にするつもりか?」

「しかし……」

「何をビビってんだ。いいか、1つアドバイスしてやる。真面目に考える奴は明日死ぬかもって現実に心が折れる。だが「俺は無敵だ、こんなのビビらないぜ」って思えるバカだけは生き残る。有名な話だろう?」

「それは兵隊の話です。我々は違う」

「違うものか。お前らはまだ兵隊の段階だ」

 ヴェロニカはごろりと横になり、天井を見上げながら皮肉げに頬を歪めた。

「ようし、せっかくだから講義してやる。私たち秘密の部屋の住人は、始めに全てを奪われる。真っさらにされて、故国に尽くすための兵隊に造り変えられる。……そこがお前らが今居るステージだ。私は優しいセンパイだからな、次のステージを教えてやるよ」

 ヴェロニカはぼろぼろになったスカートのポケットに手を入れる。現れたのは一本の花。早川デンジがプレゼントしてきた安っぽい花。指先で摘まんで、天井に掲げてくるくると回してみる。

「兵隊になった次はな、常識を教育されるんだ。世界の、社会の常識だ。ヌルくて、勘違いしてる、しょーもない性善説……それらを知らなきゃ一般人に紛れ込めないからな。例えば、家庭。両親。学校。友達。恋愛。普通の人生……」

 花が回る。くるくると。

 善意。親切。そんな象徴のようなものをヴェロニカは遠い目で眺め続ける。

「キッツいんだ、そんなもんを見せつけられんのは。だって考えてみろ? 私らモルモットは人生を土台からぶっ壊された。それで散々戦士として生きることだけを教えておいて、任務を達成することだけが生き甲斐になるように仕込んでおいて、なのに後からそれら全部が実は間違ってましたって言うんだぞ? もうぐちゃぐちゃだ。整合性がとれなくなっておかしくなる奴もいた」

「あなたはどうなんです」

「なんだ、私もおかしいって言いたいのか?」

「いえ……」

「ま、否定はしない。妙な性癖がついちまったのは確かだからな。……どいつもこいつも嘘つきで、どんな教えも疑わしい。だから私は悲鳴を聞くのが好きなんだ。安心できる。そこに偽りはないからな」

「……よく分かりません。ですが1つだけはっきり言えることがあります」

「なんだ」

「私たちは正しく国家に貢献できる戦士になれるんです」

 3人の少年少女たち、その手にはサイレンサーつきの拳銃が握られている。

 前触れ無く、一斉にヴェロニカに向けられた。

「あなたとは、違う」

 

 火を噴いた。

 

 ぷしゅ、ぷしゅと空気が抜けるような音が重なる。何度も何度も。

 魔人であろうとも絶命するに充分な回数が繰り返され、くぐもった呻きが何度か漏れる。

 そしてあっけなく、何事もなかったかのように静寂が戻る。

 

 ……これが、少年たちの任務だった。

 言動の安定しない魔人の監視役――

 もしものときは処刑の権限も与えられていた。

 

 『ヴェロニカは明らかにかつての同期レゼに固執していた。

  リスクとリターンの天秤を読み違えるほどに』

 

 ――そのように報告すればよい、と少年たちは考えていた。

 実際のところがどうなのかは知らない。

 彼らはただ自分たちが成果を得ることだけが重要で、自身の存在意義を故国に認めさせることしか考えていなかった。

 

 

 運転席の少年は、無感情に車外の様子を窺った。

 車の窓にはスモークがかかっている。当然、街を歩く一般人は誰も気付いていない。

 順調だった。

 あとは近場の潜伏ポイントで早川デンジの死体を解体し、チェンソーの心臓を取り出すだけでいい。支配の悪魔に捕まる前に離脱できれば安全は確保されたようなもの。最後は指定の港まで辿り着けば祖国に戻れる。そうすれば評価を得られる。自分たち4人にも念願の名前が与えられるだろう。

 ほんの少しだけ胸が高鳴るようにさえ少年は感じた。

 車を左折させるためにウインカーを点灯させる。

 と、後部座席から同志が小さな溜め息とともに近付く気配がした。首の後ろを触れられてひやっとする。いや、むしろ生温かさを感じた。

 血の匂いが漂っている。

「そっちじゃない。真っ直ぐ進め」

 ヴェロニカの声だった。

「――!?」

「どうした? 左じゃないって言ってんだよ。指示器を消せ」

 肩の後ろから、ぬるりと頭が寄ってくる。2本の金属棒が刺さった特徴的な頭。魔人の頭。殺されたはずの人外の大きな瞳がぎょろりとフロントガラスを凝視している。

 少年を見ていない。

 なのに彼は動けない。

 自身の首を、ハサミの魔人の五指でがっちりと掴まれていた。

「指示器を、消せ」

 消すしかなかった。

「それでいい、そのまま真っ直ぐ行け。さっき教えたばかりだろう? 進む先が崖だろうと海だろうと「俺は無敵だ、こんなのビビらないぜ」――ってな」

 恐る恐るバックミラーを確認すると、その狭い鏡面の下のほうに、未成熟な腕や足がバラバラになって突き出ていた。

「ああ、こいつらの生き様があんまり昔の私と似ているもんだから、優しいセンパイとしては止めてやらなきゃならんと思ったわけだ。――で、お前はどうなんだ?」

 ハサミの魔人は身を乗り出して、ラジオのスイッチをONにする。

「なあ? お前も国家のために全てを捧げちゃうのか?」

 

 窓ガラス一枚隔てた向こう側――

 血臭を知らない平和な世界を眺めながら、ヴェロニカは皮肉げに口ずさむ。

 車のスピーカーから流れ始めた優しげなメロディを。

 

 

 

『Over the Rainb(虹の彼方に)ow』

 

Somewhere over the rainbow way up (虹の向こうのどこか空高くに)high.

There's a land that I heard of once in (子守歌で聞いた国がある)a lullaby.

 

Somewhere over the rainbow skies(虹の向こうの空は青く) are blue

And the dreams that you dare to dream rea(信じた夢はすべて現実のものとなる)lly do come true.

 

 

 けして実現しえぬ幻想に想いを馳せる歌。

 世界的な人気曲であり、ヴェロニカが来日するにあたり日本人と共通の話題を作るために学習したとあるドラマでも使われていた。

 

 それは、夜の街をとある男女が自転車の2人乗りで走るシーン。

 自転車を漕ぐのは、大企業の社長に成り代わった偽者の男。

 後ろから幸せそうな顔で両手を回しているのは、そんな彼を告発しようとして殺された秘書の死体。

 秘書は、男に好意を寄せていた。

 しかし男は偽者だった。名前も身分も偽りで、その正体はただの貧乏人。

 この世で認められるのは本物だけ。

 秘書は口封じに殺されて、死体となって男と2人乗りで夜の街を彷徨った。

 生きていればけして結ばれることのない2人が、片方死ぬことでようやく共に在る安らぎを手に入れた。その光景はひどく背徳的で、おぞましく、しかし幻想的で、美しい。

 

 

 

 白い大型バンは走り続ける。

 オレンジ色に沈みゆく太陽を追いかけて。

「私は確かめたいだけだ。……レゼ。お前の本当の声を聞きたい」

 

 

 


 

 

 

 夜の空を、早川ナユタを背負って駆けている。

 ビルの庇に指をかけ、屋上のフェンスを跳ねて、宙を泳ぐ。

 人工の星々が私たちを照らした。

 天まで伸びる高層ビル群。格子状に縁取られた窓からは労働者たちの営みが漏れだして、眼下を覗けば、家路につく車の流れが緩やかに蛇行する川となっている。

 掌で、そして足の裏で小爆発を起こして姿勢を制御した。

 建物伝いに飛んで、登り、落ちて、進む。

 やがて地の光は消え去った。

 目の前にはひたすらに広大な海。

 真っ黒い水平線は空と混ざり合って境い目は分からない。上を見れば視界に収まりきらないほどに散らばった天然の星々が瞬いている。

「着いた」

 早川ナユタのナビに従って辿り着いた先は朽ちかけた港だった。

 周囲を確かめる。

 巨大なコンテナ群が並べられ、潮風に劣化した倉庫がいくつも海際に連なって静かに佇んでいる。

「デンジ君はまだ洋上には出てないんだよね?」

「うん。あっちの建物に居る」

「そっか」

 指差す先には、白い箱状の建物があった。3階建ての学校で、闇を抱えた窓がこちらを覗き込んでいる。まるで異界へと通じる穴のよう。

「罠かな」

「間違いなくね」

 ふう、と溜め息をつく。

 急ぐためとはいえ結構力を使った。岸辺さんにもらった血液パックを啜って回復し、軽く伸びをして疲れをほぐす。手足の煤をはたいて落としながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。

「ねえ、ナユタちゃん」

「なに」

「デンジ君に力をかけてるって言ってたよね? おかげで追跡できたんだけどさ、それって結局、どういうことなの?」

「支配の力。私はデンジを支配している」

「あー……、やっぱそういうやつなのね」

「先に言っておくけど、デンジの許可はもらってる」

「それがちょっとね~、分からないんだ」

 支配とは、何か。

 我が身でも体験したから分かる。あれにかかってしまえば自由意思は1%も保てない。

 だけどデンジ君はデンジ君だった。

 何かを奪われているようには見えなかった。

「何もしていないから」

 早川ナユタは、言った。

 

 支配の力はかけている。しかし何も強制していないし、奪い取っていない。

 更には“対象に何でもできる”ことを逆手にとり、ナユタと同じ命令権も与えている。

 

 つまり、今のデンジ君は――

 主人であるはずの早川ナユタに対して、何でも強制できるし、何でも奪い取れる。

 自由意思を消せる。

 記憶を筒抜けにできる。

 感情を思うように曲げられる。

 ――そんな万能の権利を持っている。

 でも、行使していない。互いに静観しているだけ。

 

「……それって、なんか意味あるの?」

「私の(さが)、みたいなものかな……」

 

 支配の悪魔は、どんなに対等な関係を望もうと相手を支配せずにはいられない。その欲求は思い入れのある相手ほど強くなる。

 だから、合意の上で支配の力をかけた。

 ただしそれだけではただナユタが“上”になるだけなので、デンジ側も同じことができるようにしている。互いが互いに100%の支配権を持つことで、ようやく完璧に対等な関係になったと納得しているようだった。

 

「……ふぅん」

 ナユタの支配欲のようなものを満たすために全てを委ねる。それもお互いに。それは例えるなら、心臓に埋め込まれた爆弾のスイッチをお互いに持たせるに等しい行為ではないだろうか。

 仮に、自分なら……と考えてみた。

 無理だと思う。

 抵抗感しかない。

 仮に生殺与奪の権を委ねるまではいいにせよ、記憶と体験を検閲無しで晒すのはありえない。人にはけして知られたくない恥部があるものだから。

 まして、この自分には。

 奥底にけして拭い去れないカビのような暗黒がひしめいている。

 ……もう少し、時間が欲しいと思う。

 デンジ君なら、とは思うけど。私もまだ何も持っていないから、全てを曝け出すのは、やはり怖い。

 黙り込んでしまっていると、ふとナユタの口元に微笑が浮かんだ。

 ……なんだろう?

 あれは、優越感?

 

 なぁんだ~、お前じゃあこのステージには立てないか~。

 

 ……みたいな。

 ほぉぉ~~?

 そういう顔、する?

 かっちーん、ときた。

「ナユタちゃんはさぁ、デンジ君と私が遊んでた頃の記憶も覗いたんだよね?」

「ん」

「お祭りデート。花火をバックにキス。……はーー、もんのすごくロマンティックだったなぁーー! デンジ君を助けたら~、もっかいしよーっと!」

「はァァ?」

 ナユタのこめかみに青筋が立つ。

 びきびき、と音が聞こえるようだった。

「ふっふっふ。それじゃ頑張ってデンジ君を取り戻しますか」

「あなたにはあげない」

「はいはい。取りはしませんよっと」

 今は、まだ。

 でもいつかは。そう、いつの日かは取ってやろう――




『OVER THE RAINBOW // WIZARD OF OZ』
アーティスト:JUDY GARLAND


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ファイトクラブ

 海沿いの学校に侵入し、ナユタと2人で並んで進む。

 リノリウムの廊下には靴音だけが反響する。静寂が満ちていた。

 デンジ君の死体は上階にあるとナユタが教えてくれた。その周辺にヴェロニカは必ず居る。

 耳を澄ませて気配を探りながら周りの環境を確かめる。

 天井――通路誘導灯が点いている。

 壁――火災報知器のランプがうっすらと赤く灯っている。

 つまり、この学校は電気が生きている。

 廊下の電気を点けようと一瞬考えたが、やめた。わざわざ居場所を知らせる必要はない。

 ナユタがぴたりと足を止める。

「窓が全部、開いている」

「それはきっと私への対策だね」

「対策?」

 かいつまんで説明する。

 

 例えば、1本の爆竹があるとする。

 それが掌の上で爆発したなら、皮膚が焦げるだけで済む。

 だが握りこんだ手の中で爆発したなら、指が吹き飛ぶ。

 爆発物がもたらす被害は密閉度によって大きく変わるのだ。

 

「……じゃあ、これは戦うための前準備?」

「そうだね。この学校の全ての窓は開けてあると思う」

「へえ」

 ナユタは歩きがてら教室の奥を覗き込む。そこの窓も全て開いていた。

「全部開けて回ったんだ? 大変だね」

「地道って思った?」

「うん」

「そういうもんだよ。スパイや刺客って聞くと派手なイメージがあるかもだけど、結局のところ仕事だから」

「元同業としては予測もできる?」

「それなりには。……ハサミの魔人としては接近戦にもちこみたい、けど狭い場所だと触れる前に一発で黒焦げにされる、だからある程度開けた場所で奇襲したい……ってとこかな」

「具体的には?」

「天井が高くて、身を隠しやすいとこ。……階段とか?」

 ぴたり、と2人で足を止める。

 5、6メートルほど先に、階段へと続く曲がり角があった。

「見えにくいなー。隠れやすいなー」

 曲がり角、階段の途中にある踊り場、そしてその奥。それらはそこそこ広い空間なうえ、死角も続いている。

 ひょいと顔を出してみる。

 誰も居なかった。

「まだ1階だし。デンジ君は3階にいるんでしょ?」

「うん」

 ゆっくりと階段に足をかける。

 急がない。焦らない。こちらは有利なのだ。

 

 

 ――この学校に足を踏み入れる直前、学校正面口のところで白い大型バンを発見した。

 ヴェロニカが逃げるときに使った車だ。

 覗き込んでみると――死屍累々の惨状が閉じ込められていた。

 12、13歳ほどの少年少女たちが血塗れで死んでいた。

 1人の少年は蜂の巣になっていて、2人の少女はバラバラ死体で、運転席には喉を大きく切り裂かれた少年の死体。車内のあちこちには銃痕も穿たれていた。

 状況はすぐに分かった。

 仲間割れしたのだろう。

 先に仕掛けたのは少年少女たち。ヴェロニカは撃たれる直前に近くに居た少年を引き寄せて盾として、そのまま一斉射をやりすごし、肉盾を発砲者の1人に投げつけて射線を遮りながら別の少女を一閃、残る1人も返す刀で斬りつけた。

 5秒もかからなかっただろう。

 運転席の少年はヴェロニカが生き延びたことに気付きもしなかったかもしれない。

 

 

 仲間割れの理由なんて知らないし、どうでもいい。

 重要なのは、今のヴェロニカに味方はいないということ。

 敵は1人。

 これは大きなアドバンテージだ。

「ナユタちゃん」

「なに?」

「ヴェロニカと遭遇したら私が引きつける。ナユタちゃんはデンジ君を復活させて」

 スターターを引いてチェンソーマンを復活させれば2対1になる。どんな仕掛けがあろうと負けはしない。

 更に、こちらには時間の有利もあった。

 この場所は公安に連絡している。時間を稼ぐだけで増援を期待できる。自分たちはただヴェロニカを逃がさなければいい。

 最後の階段を踏みしめる。

 2階に辿り着いた。

 吹き抜けの隙間から上の様子を伺ってみると……3階へ至る場所にバリケードができていた。無数の机と椅子が絡み合うようにして積み重ねられている。

 通るためには時間をかけて撤去するか、それとも爆破するか。どちらも危険がつきまとう。

 迂回して他の階段を使うべきか。

 学校の階段とは通常、廊下の両端に設置されているもの。反対側まで行けば――

 と、その2階の廊下から、ヴェロニカの声が響いてきた。

 

『――答えを聞いていなかった、と思ってな』

 

「……?」

 なにか、妙だ。

 片手でナユタを制止しながら、慎重に廊下の様子を伺う。

 ヴェロニカの姿は見えない。

 連なる教室のどこかに潜んでいる。

 

『日本はどうだ? 楽しいか? こっちは相変わらずだよ。バカがバカを教育するもんだからバカばっかりだ。おまけに給料も無いし、休みも無い。こういうの日本じゃ何て言うんだ? やりがい搾取?』

 

 廊下から探っても生き物が動く気配は感じとれない。

 ひとまず階段を背に臨戦態勢で警戒し、無言でナユタにハンドサインを送る。

 

 ――ここは任せろ。先に行け。

 

 経路は2つあった。

 1つ目は、1度下の階に降りて、ぐるっと廊下を戻り直してから反対側の階段を昇る道。

 これは遠回りすぎるし、ヴェロニカ側に寄りすぎる。もしも向こう側の階段もバリケードで塞がれていたら行き場を失くしたところをヴェロニカにキャッチされやすい。

 2つ目は、ヴェロニカが居る教室とは反対側の廊下の行き止まりに設置されたエレベーターを使う道。

 これなら時間もかからない。仮にヴェロニカがナユタの動きを察知しようと私が壁となり道を塞いでしまえば追撃されることもない。

 ナユタに指示を送る。

 

 ――エレベーターを使え。

 

『なあ、これが最後の機会だろう? 思い出話をしようじゃないか。ほら、あいつを覚えているか? “生真面目”アナスタシア。あいつ、クソみたいに強かったよなぁ。結局最期まで勝てなかった。オリンピックに殺しの競技があったら金メダルを獲りまくっていたって思うよ』

 

 発声位置を確信。

 手前から2番目の教室、そのドア際に居る。

 ……牽制で一発、撃ちこむか?

 指を合わせて潜伏場所に差し向ける。あとは鳴らすだけで爆発の粒子を飛ばせるが……違和感があった。

 ヴェロニカの声。その反響の仕方が、どこかおかしい。

 

 ナユタはエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。

 ドアはすぐに開いた。

 

『“嘘つき”ポリーナは……今にして思えば悪いことしたかもな。あいつの騙しのテクがあんまりにも上手いもんだから嫉妬してたのかもしれない。あいつもなぁ、ただのスパイなら一流になれただろうに。お前もそう思うだろ?』

 

 ヴェロニカは教室から出てこない。

 ドア際から声を発し続けている。

 やはり、何かがおかしい。

 ナユタがエレベーターに乗りこんだ。

 ヴェロニカも察しているはず。このままにしておけばチェンソーマンを復活させられるというのにまだ姿を現さない。

 どうして?

 平坦な声は続いている。立体感のない反響の仕方。同じ場所で延々と勝手に喋っている。顔も見せずに。

 もしかして――

 

 録音した音声?

 

 だとしたら本人はどこに居る?

 ぞわり、とうなじの毛が逆立った。

 電撃的に振り返る。

 ナユタの乗ったエレベーターのドアがゆっくりと閉まり始めている。

 

 私なら、まず孤立した弱者を間引く。

 

 全力で駆けた。爆発の反動で急加速、脳を片側に寄せかねない負荷に耐えながらドアの隙間に身体を捻じこんだ。目を見開くナユタを確認しながらエレベーター内の壁に激突し、けれど全身に走る痺れの一切を無視すると決める。

 それどころではない。

 

 ピキリ

 

 確信をもって見上げた天井に亀裂が走る。

 5本の直線で切り裂かれた破片がバラバラと零れ落ち、その向こう側の闇のなかで特徴的な頭をした少女が瞳を光らせていた。

 ハサミの魔人。

 ソ連の刺客。

 かつてボムの心臓を巡って争ったライバル。

 それら全てを内包する少女ヴェロニカが、自ら作った穴に身を躍らせて降りてくる。四肢を広げて蜘蛛のように着地した。それはそれは本当に嬉しそうな笑顔だった。

「いひっ」

 この瞬間、私は理解した。

 彼女がここに居る理由を。

 ヴェロニカは間違いなくこう言っていた。

 

 ――思い出話をしようじゃないか。

 これまでの人生全てを懸けて、一切合切を殺意に乗せて、衝動も任務も義務感も決意も信念も互いに対する想念も、何もかもを伝えられる最高のシチュエーションを整えた。だからやろう。言葉なんて信用できない私たちに残されたたった1つの冴えたやり方で――

 

 エレベーター内の寸法はおよそ間口1メートル×奥行1.5メートル×高さ2メートル強。

 ドアは既に閉まっている。手を伸ばせば必ず届く超密閉空間。

 ボムの力を使えば絶対に勝てる。

 けれどやってしまえばすぐ後ろの早川ナユタは黒焦げのミンチに変わる。

 

 やりたきゃやれよ、とヴェロニカの目が言っていた。

 それがお前の人生の選択だって知れるなら、結果がどうなろうと構わない。

 

 ぬらぬらと、不可視の軟体生物が宙を這うように、妖気のようなものが漂ってくる。

 半生を懸けて培ってきた殺しの技術、埋め込まれた悪魔の力――放てば必ず命中する近距離で、武器人間と魔人が真正面から睨み合う。

 

 奇妙な感慨があった。

 憎しみは無く、疎ましさも無い。

 ヴェロニカに対しても、自分自身に対しても。

「下がってて……」

 そう呟くだけで精一杯だった。

 

 ノーモーションで直突きを打ち込んだ。

 捌かれて反撃のボディブロー、左手で受け、触れようと伸ばしてきた指先を蹴り飛ばす。

 のけ反ったヴェロニカに追撃の右貫き手、肋骨の隙間に刺し込んで折る。

 腕を切り裂かれ、動脈から血が迸る。

 隙だらけの瞼を指先で貫く。

 踏みしめた敵の足先、重心がナユタを向いていると確認、1足分ステップ、

 だがフェイントで手刀が鎖骨に命中、嫌な音、

 足先を踏んで回避を封じ、一撃を入れ、

 反撃を避け切れず、

 それでも打ち、

 切り裂かれ、

 肘を叩きつけ、

 腹を潰され、

 こちらも潰し返し、

 膝を入れられ、

 額でぶちかまし、

 切り裂かれ、

 指を折って、

 指を飛ばされ、

 右腕を捨て、

 切り裂かれ、

 

 それは問いかけであり、返答だった。

 自慢話であり、自虐であり、近況報告であり、思い出話だった。

 始めにヴェロニカはこう聞いてきた。

 

 ――本当に悪魔なんかを守りたいのか?

 

 私はこう答えた。

 

 ――鎖骨一本分より守りたい。

 

 恥知らずな綺麗事、押し殺してきた本音を曝け出す。

 

 ――失敗しても日本なら処刑されないだろ?

 ――任務よりも助けたい気持ちがある。

 ――本気なんだな。

 ――そう生きるって決めた。

 ――そうかよ。じゃあ次は私の番だ。ほら、切断の能力をちらつかせて敵に選択を迫るんだ。

 ――すっごい厄介なんだけど。

 ――だろ? 本気で訓練したんだ。もっと見てくれよ。

 ――調子に乗んな。

 ――ちっ、相変わらず隙を見つけんの上手いな。でも私だって、そらどうだ。

 ――楽しそうだ。

 ――そうか? そうだな、久しぶりに話せる奴に会えて、私も、

 

 

 

 

 

 決着は、60秒で着いた。

 

「――い、いい……夜、だった……」

 血を吐きながらヴェロニカはどうにか立っていた。

 片目は潰れ、折れた骨を支えて、私を見下ろしている。

 そこに憎しみは無く、疎ましさも無い。

 私は――

 エレベーターの壁に血痕を引き摺って、床に倒れこんでいた。

 立てない。

 当然の結果だった。

 いかに武器人間といえど、ただの徒手空拳で能力をフル活用した魔人に勝てるわけがない。しかもそれが逃れようのない至近距離で、後ろに守るべき者を抱えてなら尚の事。

 でも。

 どこか晴れやかな気分だった。

 唯一私の半生を知る者に、何もかもを証明できた。

 向こうもきっと似たような心地だと思う。

「かってな、やつ……」

 どろどろと身体中から生命力が流れ落ちていく。

 よくもまあこんなくだらないぶっちゃけトークをやるためにここまで場を整えたものだ。苦笑いを浮かべようとしたがボムガールの金属頭ではきっと伝わらない。それだけが少し口惜しい。

 ヴェロニカは懐から血液入りのスキットルを取り出して自身の頭上にぶちまけて全身に伝わせている。傷口や損傷部位に染みこませ、更にもう一本を取り出してラッパ飲みで喉を鳴らした。少しずつ回復させている。

 治りきったときにこの2人だけの同窓会は終わるんだと思う。

「1つ、だけ……聞きたい」

 なんだろう。

 これ以上、何を話せというのか。

「私のほうの道は、たぶん、ここでどん詰まりだ。お前のほうは、どうなんだ?」

 ……道?

 先、のことかな。

 なんとなく、彼女の言いたいことが分かった。

 ヴェロニカは戦士の道を進んだ。私はそのレールから外れた。彼女は、その外れた方の未来に何が待っているのかを知りたいんだと思う。

 けれどそんなのは私にだって分からない。

「し、しら、知らない……」

 喉が痛い。言葉とともに血が溢れてくる。

「がふっ……ま、だ、探し、て……る、途中……だから……」

「そう、か。嘘の世界がどんなもんか、知りたかった。ほんの少し、だけ」

 彼女の乱れていた呼吸が収まりつつある。

 もうお開きか、と他人事のように思う。

「じゃあそろそろ、仕事の時間だな」

 エレベーター内の空間は狭い。ドアはまだ閉まっていて、ボタンを押さない限り開くことはない。ヴェロニカはその前に立ち塞がり、身体機能を回復しつつある。

 私は指の一本も動かせない。

 ナユタはそもそも戦力外。

「綺麗事で現実は覆せない。結局この世で一番強いルールは物理法則だ。こうなることぐらい分かってただろ?」

 ボムの力を使えば勝てたのに、とヴェロニカは言っていた。

 早川ナユタを犠牲にすれば(ヴェロニカ)を倒せた。少なくとも早川デンジは取り戻すことができた。お前(レゼ)自身も死なずに済んだ。二兎を追って全てを失うべきではなかった、と。

「……そう、かも、ね」

 多分、それは正しいんだと思う。

 冷酷なエージェントとしての思考がそう言っているのではない。一般常識にあてはめて考えても、悪魔1人を死なせないために全てを失うなんて馬鹿げている。

 だけど。

 しょうがないじゃないか。絆されてしまったんだから。

 誰かのために頑張るなんていう綺麗なものを、私は二度と壊したくない。

「――」

 私のすぐ傍で、ナユタが身じろぎした。

 もはや彼女を守れない。

 頭も回らない。

 ただ血が失われていくのを感じていることしかできない。

 忘我の心地でナユタの足先を眺めていると、こんなことを言い出した。

「こんばんわ、ヴェロニカ」

 平坦な声だった。

 むせかえるほどの血臭のなかで、ナユタは淡々と声を発している。

「あなたはモルモットの辿り着く場所を知りたいんだね」

「ああ……?」

「そんな場所は、無いよ。別にモルモットに限らない。一般人だって同じ。勝手に居場所を作って勝手に見つけた気分になるしかない。あなたたち人間は、在りもしないものを信じて、頼って、振り回されて……いわばそんな嘘と幻想の世界に生きている」

 

 ナユタ……? 何を言っている?

 

 いつになく饒舌で、私の抱いていたイメージとは違った。彼女は自身の利になる事しか主張しないし、共感も求めない。そういう生き物だと思っていた。

 ましてやリスクのある行為なんて絶対にするわけない、と。

 なのに、どうして?

 死んじゃうよ?

 たった一振り、ヴェロニカがそうと決めれば首を落とされる。

 分からないはずがないのに、それでも彼女は指まで差して挑発する。

「哀れな女」

 まさか、ね。

 そんなことってある?

「あなたは自身の存在意義を確かめたいだけ。レゼなんて口実に過ぎない」

 だって、数日前に会ったばかりなのに。あなたにとっては恋敵みたいなものなのに。

 どうして私を守ろうとしているの?

「写真に撮られる必然性なんて無かった。プロのエージェントならひっそりと事を運ぶべき。それに街中でデンジを襲うやり口もお粗末。マンションを爆破する必要もない。あなたの腕なら秘密裏に私を始末することぐらい簡単なはず」

 疑惑は確信へと変わっていく。

 ナユタは明らかに敵意を自身に向けさせようとしている。

「レゼへの嫌がらせのためにそうしたの? だったら公安関係者でも殺して並べればいい。ソ連の工作員はこれだけ残虐なんだって宣伝すればレゼの立場は苦しくなったはず。でもそうしなかった。あなたはわざわざレゼに見せつけるためだけに仕掛けている」

 もう、いいから。

 そんなに言ったら、ヴェロニカが決めてしまう。

 たった1つしかない誇りを穢してしまったら、彼女はきっと収まらない。

「あなたがそうした理由は、唯一自分が認めた相手に認めてもらうため」

 ……言っちゃった。

 ヴェロニカの瞳は、ぞっとするほど冷えていた。

 もう既に。条件付けを済まされたソ連の戦士は、決めていた。

 慈悲は無く、容赦も消えている。

 次の一言が決め手になった。

「自分はこんなにすごいんだぞ、って自慢したがる子どもの手口」

 

 かちり、と。

 ヴェロニカのスイッチが入った音を、確かに聞いた。

 

「ふ、ふふふ」

 ハサミの魔人はくつくつと肩を揺らしていた。

 眼はまるで笑っておらず、口元も真っ直ぐのままだった。

「お前を生かしておいてやってんのは……信念を貫いたレゼへの敬意みたいなもんのためだったが……まあ、いい。否定はしないでおいてやる。私も一応、元人間だ。稚気めいたもんがあったのは認めよう。だがな」

 全身血塗れで、毛先から血をぽたりぽたりと零しながら、ヴェロニカはゆっくりと唇を動かした。

「ガキが。悪魔が。偉そうに。どこまで鳴けるか試してやろうか。私は蘇生が得意なんだよ。アメリカのジャーナリストのときは3回いけた。社会正義だの人権だのってお題目は1回目で剥がれたな。やめてくれー、君たちのために突き止めたのにー。はっ、知らねえよ、そんなこと」

「信じてあげれば良かったのに」

 ナユタは狂っているのかもしれない。まるで平然としていて、心や感情といったものを知らないような、つまり本当にただの悪魔なのでしかない可能性すら、この時は感じた。

「人間社会の大原則を教えてあげる。『良いことをすると、良いことが返ってくる』。覚えておくといい」

 ヴェロニカはせせら笑う。

「なんだ、それ? 何を言うかと思えば、ガキに道徳を教えるときに使う穴だらけの理屈! しかもそれを言うのがよりにもよって悪魔ときたもんだ!」

「その通り。くだらなくて誰にも保証もされていないし、事によると社会を円滑に回すために飾られた欺瞞に満ちた嘘でしかないのかもしれない。でも人間はその高貴なる嘘のなかで生きている。……そこにあなたは適応できなかった」

 ヴェロニカは黙り込む。

 図星を突かれたからではない。

 もういい、と思ったからだ。

 問答を止めた。言葉は要らない。行動だけが誠実さを示す手段。

 ヴェロニカは深々と溜め息をつく。

 足を踏み出そうとして――止めた。

「あなたはデンジに花をもらった。良いことをされた」

 ぴくりと耳を傾けた。

 私も気が付いた。

 何かが、聞こえる。

 閉鎖したエレベーター、その向こう側から、振動音が近付いてきている。

「なのにあなたはデンジを斬った。悪いことで返した」

 エレベーターの箱が震えている。

 脈動がごとき振動音が唸りを上げて、エレベーターのすぐ傍にまで辿り着く。

 ナユタは告げる。断罪の宣告を。

「そういうことをした奴は、人間社会では――」

 

 ヴヴヴヴヴ

 

「殺してもよいということになっている」

 ヴェロニカが電撃的に振り向いた、その瞬間。

 エレベーターのドアに火花が咲いた。

 3点同時。耳を塞ぎたくなるような金属の悲鳴が重なって、亀裂から回転する悪魔の刃が飛びだした。その電ノコはあっという間にドアを切り裂いていく。

 悪魔は呟く。

「時間稼ぎ、終わり」

 と同時、密閉された死の空間がこじ開けられた。

「な……馬鹿な!? どうやって……復活した!?」

「カラス」

 ナユタは端的に答える。

「窓を開けたのは失敗だったね」

「くっ」

 振動が、大気を叩いている。

 悪魔の脈動が彼の血管にガソリンを流しこんでいる。

 月明かりが照らす廊下の真ん中に、眉間から凶器を生やした少年が立っていた。

「――知り合ったばっかの女によぉ、ま~た襲われて、よォ~く思い返してみたんだけどよお~」

 立っていたのは。

 両の腕から血肉を切り裂くチェンソーを生やした武器人間。何人もの悪魔を葬ってきた地獄のヒーロー。

 チェンソーマンが吠えたてた。

「俺に優しい女ってさあ! 実はどこにも居ねえんじゃねえかああ~!?」

 威嚇ではない戦意に肌を震わされ、ヴェロニカは平静さを取り戻す。

「素人が」

 呟きの意味がよく分かる。

 チェンソーマンがどれだけ速かろうと関係ない、身体能力頼りの素人など正面から来ると分かっていれば対応できる。

 そう考えたに違いない。

 確かに、ヴェロニカはプロだ。人を殺す技術においてはチェンソーマンでも及ばない。

 しかし。技術や心理戦の通用しない悪魔の未開拓領域で殺し合うというのなら――圧倒的にチェンソーマンが傑出している。

「女だらけの会社作ったらぁ! 俺ァ一体どうなっちまうんだあ~!?」

 

 チェンソーマンが突っこんできた、のだと思う。

 私には見えなかった。

 ヴェロニカも見えなかったに違いない。

 

「あぎッ!? あ、あああッ!?」

 噴水のような血飛沫が飛び散った。

 ばくりと裂けた脇腹を抑え、上体をふらつかせながらヴェロニカは振り返る。

 デンジ君は、既にエレベーターの中に居た。突撃の勢いのまま壁に腕をつき、その下に背を預けている私を覗き込んでいる。

「よっ! デンジ復活だぜえ! って、すげえ怪我してるじゃーん!? 大丈夫かよォ~!?」

「あ、ああ、うん……」

「うええええ、どうなってんのコレ!? やべえレゼが死ぬ!」

「デンジ。血、血」

「あっそうか! 血ぃ飲ませりゃいいんだ!」

 背後から、ヴェロニカの殺意が溢れ出す。

「早・川・デンジぃぃい!!」

 旋転。

 瞬間、チェンソーマンの輪郭がぶれる。

 斜め一文字。

 エレベーターの壁ごと、ハサミの魔人の胸がぶしゃあと裂けた。

「ぎゃッ、あ、ああ……!? な、がはっ……馬鹿、な……!」

 たたらを踏み、傷口を抑えるヴェロニカ。出血は容易には収まらない。

 チェンソーマンは凶器に付着した血痕をぴっと振り散らす。

「どんなワケで俺らを殺してえか知らねえが……俺は、超社長! 女は斬らねえ! 逮捕されろ!」

「お、お前……!」

 ヴェロニカが抑える指の隙間からは血がとめどなく溢れ続けている。

「き、斬ってん、だろうがァ!」

「先っぽだけならノーカンだろ~!?」

「ふざ、け……ぐうっ」

 膝をつき、喘ぐ。

 驚愕した表情を浮かべてチェンソーマンを見上げる、それしかできない。

 たった二振りの斬撃で致命傷になった。

 鍛え上げられたはずのハサミの魔人がいともたやすく捻じ伏せられている。反応すらできずに撃退されてしまったという事実はヴェロニカの肉体と精神に深刻なダメージを与えていた。

「こ、こんな、こんなことが、あって……たまる、かよ……!」

 戦士の意地を奮わせて立ち上がりつつあるヴェロニカ。

 しかしナユタは、無慈悲に、容赦無く、

「それが、あなたの綺麗事」

 瞳の中で不可視の奔流を渦巻かせ、敵対者を矢じりよりも鋭い視線で貫いた。

「自分は心地良い幻想を切り捨ててきたのだから、嘘という名の安寧に浸った現実逃避者たちなんかに負けるわけがないと思っている。でも、実際は()()なっている」

 突きつける。

 深々と切り裂かれた傷跡を。

「綺麗事で現実は覆せない。この世で一番強いルールは物理法則」

 ただ斬られたという事実は、何よりも重かった。

 決意があっても、信念を持っていても、必死に努力していても、負けるときは負けてしまう。

 決意も信念も努力も無さそうで、泣き真似女に花をプレゼントして慰めるような甘ちゃんに、ただの二振りで敗北する。

 それが現実だった。

「ふ、ふふふ、……私が? この私が? 嘘を、信じていたってぇ……? お、おもしろ、すぎて、笑えて、くるね……」

 足を、よろめかせ。一歩、二歩と後ずさる。

 ごぼり、と血を吐きだした。

 瀕死のはずだった。

 人間ならば動けない。動かなくても死んでしまうほどの重症で、なのに動いてしまうものだから血が止まらない。びしゃりびしゃりと飛沫を散らせながら背中を晒し、とうとう柔らかな臓物まで腹からはみ出して、それでもヴェロニカは赤子が這うような速度でつんのめりながらも逃げていく。

「だ、だったら……」

 何かに取り憑かれたようなうわ言を零す。

「わ……私だって、さ、最初、から……」

「――」

 多分、分かってあげられるのは、私だけなんだと思う。

 血を飲んで、修復する。

 痛みに耐えて、立ち上がる。

 ナユタとデンジ君を押し留めた。

 待ってくれ、と。

 思い返せば、誰かに心からのお願いするのは初めてかもしれない。

「私がけじめをつけさせる。手を出さないで」



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学校・ボム・チェンソー2

 ずりずり、

 ずりずり――

 

 片足を引きずりながら、ヴェロニカは前へ前へとただ進む。

「はっ、は……んぐ、っは、……は」

 身体を揺らすたびに、月明かりが斜めに差し込む廊下にぱたぱたと赤い命の雫を落としていく。

 隙だらけの背中を晒し、呼吸を荒げ、傷口を強く抑える。

 小さな背中だった。

 遅々とした歩みに追いつかないように私もゆっくりと歩く。

 彼女は振り向かない。けれど私が後ろに居ると知っている。知りながらも肩を上下させ、ただ暗がりを進むことを選んでいる。

 だから私は追いつかない。

 ずりずり、

 ずりずり、とヴェロニカは進んだ。

 誰も居ない廊下を踏みしめて、いくつもの空の教室を通りすぎ、空虚な階段に辿り着くと、彼女は上へ昇る道を選択した。手すりにもたれかかりながら一段ずつ昇る。力を籠めるたびに喘ぎが漏れる。

 彼女は下へ降りる道は選ばなかった。

 足を止めない。

 弱音も吐かない。

 だから私は追いつかないと決めていた。

 3階に辿り着く。

 ヴェロニカは更に上へと昇る。

 最後の段を踏みしめて、ドアノブを捻って、屋上に出た。

 ぶわり、と湿った大気が流れていく。ドアを潜り抜け、打ちっぱなしのコンクリートに血の足跡をつけていく。上を見れば視界に収まりきらないほどに散らばった天然の星々が瞬いている。

 ヴェロニカはまだ進む。

 進んで進んで、とうとうフェンスに突き当たる。

 無人の学校にガシャンと音が鳴り響いた。

 ヴェロニカは金網に指を絡ませて、その向こう側を見つめていた。

 私も横に並んで覗き込む。

 見下ろした先にあったのは白い大型バン。

 モルモットたちが乗ってきた車。今は棺桶になっている。

 ヴェロニカは息を荒げながらしばらくそのままでいた。

「ふ、ふふふ……。私は、こんな人間、だ……こういう、人生を、生きてきた……」

 金も家も家族も無くし、名前や戸籍に故郷も失って、自分の顔さえ捨て去った。たった1つの誇りを定め、他者の全てに犠牲を強いて、邪魔をしたなら同類さえも殺してのけた。

「ははは、はは」

 もう逃げ場はない。

 屋上のフェンスにもたれかかり、ヴェロニカはようやくこちらに振り向いた。

「笑っても、いいだろ……? やっと……日の、目を……見た気分、なんだ……」

 思う。

 彼女はもう助かるまい。

 もって3分、いや2分。

 潮風を浴びながら、彼女はのろのろと星空を見上げた。

 言葉なんか信じない――そう決めたはずのヴェロニカが最期に選んだのは、やはりお喋りだった。

「さて……、これから、どう、するか……。故国には……帰れない……。ひとまず、潜伏し……現地、民から、血を分けて、もらっ、て……傷を、癒し……それから……それ、から……。どこか……そう、暖かいとこが、いいな……、南に、行こう……。床屋でも、始めるか……」

 白い、紙のような皮膚を宙に向け、ヴェロニカは遠い目で何万光年も離れた場所を見る。

 

 

 

Some day I'll wish upo(いつか星に願う)n a star

And wake up where the clouds are (目覚めると僕は雲を見下ろし)far behind me

Where troubles melt like lemondro(すべての悩みはレモンの雫となって)ps

Away above the chimney to(屋根の上へ溶け落ちていく)ps

That's where you'll f(僕はそこへ行くんだ)ind me

 

 

 

 吐息が大気に溶けていく。

 横に並ぶ私と目を合わせ、引き攣りながら、どうにか苦笑した。

「嘘だよ、……に、決まって、んだろ。……今さら、……」

 ヴェロニカの呼吸はもはや途切れそうだった。

 細くなりすぎて聞こえない。

 血が抜けて、肉が凍り、固形となって動かなくなる。

 かすかにあった温もりを徐々に失っていくその過程を私はよく知っていた。

 彼女はただじっとこちらを見つめている。生と死の境い目が分からなくなってきた頃合いに、ようやく彼女は言った。

「勝負、しよう」

 この嘘に塗れた地上のなかで、一等虚しい嘘だった。

「いいよ」

 五指を伸ばし、貫き手を作る。

 武器人間の力で固めた、絶死の突剣。

 ヴェロニカは、フェンスにもたれかかったまま、動かなかった。

 

 すぅーっと心の臓まで分け入った。

 

 ヴェロニカは、芯の底から淀みを吐き出すような、深い深い溜め息をついた。

 崩れ落ちて私の肩にもたれかかる。

 冷たい体温が伝わった。

 密着し、何ヵ所も触れ合っていたけれど、どうしても払いのける気にはなれなかった。

 私は、言った。

「仕方なくないけど、仕方ないよ」

 ヴェロニカの心臓が跳ねた気がした。

 ……受け売りの言葉だ。

 ヴェロニカもすぐに分かったと思う。

 この言葉はけして私たちからは出てこない。

 だからこそ芯まで届く。

「卑怯、だろ……」

 知っている。

 私たちにとってこれ以上の劇薬はない。

 ずっとずっと願っていた。どこかの誰かがそんなふうに言ってくれないか、と。

「ああそう、か……。あいつ、か……」

 うん。

 デンジ君が言ってくれた。

 あの時、私は言われてしまった。だから絆された。

 ヴェロニカは聞き取れぬほどささやかな声を立てる。

「もう、少し……かしこ、く、させろ……おま、え、が……」

 分かってる。

 あまりにも危なっかしい。だってこんなことを言うひとの周りにはきっと物騒な連中が寄ってくるから。悪魔や、魔人に、武器人間、戦士、モルモット……。

 だから、私が寄り添って、死なないようにする。絶対に。

「ふぅぅ……」

 ヴェロニカはもたれかかったまま、私の耳元で薄く息を吐き出した。

「じゃあな」

 

 ヴェロニカは死んだ。

 本物になったのだ。

 

 

 

 

 

 

 夜は終わらない。

 事件現場である学校には公安関係者がつめかけて、状況検分に清掃作業、学校関係者への説明……その他諸々の事後処理で、とにかくてんやわんやの状態になった。当事者である私たちもすぐには帰れずに、グラウンドに停めた公安の大型車の中で過ごすことになった。

 どこでもいつでも寝られる技能はプロの必須条件であるからして、当然私も習得している。プールに設置されたシャワーで汚れを洗い流し、差し入れのコンビニ弁当を平らげて、毛布を被って横になる。デンジ君が何かを言いたそうにしていたけど狸寝入りで遮った。

 寝た。

 泥のように寝た。

 夢は見なかった。

 起きた。

 小さなカーテンをぴらりとめくる。海はまだ薄暗く、太陽も顔を見せていない。

 車内を窺うと、デンジ君はナユタちゃんとまだ夢の世界にいる様子だった。

 背もたれに引っかけられたコートを借りて、外に出る。

 朝方の学校は見上げてみればなんてことはなく、普通で安っぽい建物だった。潮騒を聞きながら辺りを見回してみたけど寂れた港町に嫌気がさすだけだった。遥か遠くにある水平線を見たいと思う。高い所へ昇ることにする。

 学校に入って、階段を上って、屋上に出た。

 打ちっぱなしのコンクリートを一歩ずつ進んでいく。上を見れば雲一つない灰色の空が視界に収まりきらないほど広がっている。

 進む。

 フェンス際には三角コーンが設置され、そこにぴんと張られた黄色いテープが侵入者を拒んでいた。私はよいしょと乗り越えて、どす黒い染みの跡の隣に立った。

 金網に指を絡ませる。向こう側の景色を見つめる。

 水平線から太陽が頭を覗かせていた。

 幅広い白金のような光が張っていき、静けさのなかで空が蒼くなっていく。澄んだグラデーションが移りゆく様を茫洋とした心地で眺めていた。

 潮を含んだ風は冷たかった。

 しばらくぼんやりしていると、背後のドアが開く音がした。

 振り返るまでもない。

 足音と気配で分かる。デンジ君だ。

 靴裏とコンクリートが擦れる音が一歩ずつ近づいてきて、進入禁止のテープを乗り越える。すぐ後ろで止まった。

 背中から、肩の上に腕を回されて、力強く抱きしめられる。

「ここに居ろ、俺ん傍に居ろ」

「……」

 ずるい。

 笑い出してやろうと思った。けどできなかった。

 くそぅ。

 確かにやれとは言ったけど、私に対してじゃないでしょ?

 それともあれか。デンジ君、狙ってやってんな?

「……なにそれ。別にどこにも行きませんけど」

「ああ」

「ねえ? こういうことやったらほんとにダメなんだよ?」

「ああ」

「ダメなんだから」

「ああ」

「私、言ったよね? そんな男はクソ野郎って」

 デンジ君は冷たい空気を追いだすように私を引き寄せた。コート越しの背中に熱を感じていると、腕が私の身体の前で交差して、指先がお腹の辺りにあてられた。どうやら逃がすつもりはないらしい。

「クソ野郎」

「……」

「クソ野郎~」

「いいよ。クソ野郎で」

 ……ずるい。

 デンジ君は、ほんとにずるすぎる。

「……ねえ」

「ん」

「あれ、もっかい言って」

「あれって?」

「私のこと、どう思ってんの?」

「好き」

 噴き出した。ぎりぎり笑いにできた。でもまだ綱渡り。想定通りの言葉だったのにじんわり胸に染みこんだ。身体が必要以上に温まる。

「はああ~あ~! ……ったくさ~、ほんとにさ~!」

 ほんの少しだけ後ろに寄りかかる。デンジ君に背を預け、冷たい風が額を撫でる感触を楽しんだ。

「いいよね~、好きって言われるの。ずっと言われたかった気がする」

「何回でも言ってやるよ」

「あーあー、ダメダメ! たまに言うからいいの。何回も言われたら、ちょっとね」

「ちょっと?」

「うん。ちょっと。……ダメになるでしょ」

「ん~~?」

「くしゅっ」

 うわっと。くしゃみ出た。

 しまった。不覚。

 するとデンジ君は腕を解いた。温かさが離れていく。

 え~~~そんなの減点だよ! と言いたい気持ちを我慢して唇を尖らせる。

 振り向くと、デンジ君はごそごそとポケットから缶コーヒーを取りだしてこちらに押しつけてきた。

「ん、あったかい」

 冷え切った指先には熱すぎるぐらいでびっくりする。両手の間で転がして、なんとなくやばいなって思いつつ、プルタブを開けた。一口啜ってみる。今度は身体の中から温まる。

「……」

 う~~~。

 少し、キている。

 とくんとくんと鼓動が鳴っている。

 やばいなって思う。デンジ君、ほんとに狙ってやってんの?

 口元を缶で隠すしかない。

 ああ、どうしよう。

 前のときは、浜辺のときは、大人ぶったエージェント顔してどうにか誤魔化せた。けど今はもう味方同士だから遠慮する必要がない。どうにでもなれる。なっちゃっていい。いや、でも、でもさ!

 ……。

 それでも、もしも今デンジ君がそう言うのなら――

「なあレゼ、あのさ」

「ん……」

 背筋を伸ばす。

 ガードは下りている。言われるがままに変われる自信がある。もう一度言われてしまったら私はどうにかなるだろう。

「俺さ、会社作ろうと思うんだよな」

 ……。

 ………………。

 ん?

「デビルハンターの民間会社。俺が社長で、好きなことだけすんの。ウマいもん食って、遊んで、金が無くなったら悪魔を倒す。どう?」

 んん?

 んんん~~~?

 思わず耳を疑った。

 あれ、何か食い違ってない?

「会社ってなに」

「だからぁ、俺が社長で、ナユタが副社長。んでレゼには秘書とかやってほしいんだよな。どう?」

 ええと。うん、一度情報を整理しよう。

 デンジ君は、私に一緒に居ろって言って、好きって言って、それで秘書になってほしい。

 あれ、これちょっと理解できない。

「待って……民間会社? を作る? それって今の公安はどうするの?」

「辞める!」

「どうやって?」

「あ? どうやってって?」

「デンジ君って、日本にとって超重要人物でしょ? ナユタちゃんもそうだし、簡単に辞められるわけないよね?」

「そうかあ? 頑張ればなんとかなんじゃね?」

「いや有能になったらますます手放されなくなる、っていうか……」

 っていうか、さ?

 ちょっとずつ分かってきた。

 デンジ君は狙ってやってない。

 あほだった。

 ただのあほ。超あほ。

「え~~!? この流れでそういうこと言う!?」

「えあっ? なに? 流れって?」

 天を仰ぐ。

 蒼く染まったどこまでも抜けていくような空に向け、対空砲のように吠えたてた。

「嘘でしょ~~~!!」

 ひどい。

 ひどすぎる。

 一生モノの屈辱を食らった。

 ぎりぎり演技の拗ね顔で左パンチをお見舞いした。

「ちょっ、んだよ。俺すげえ会社作っからさあ。一緒にやってくんねえ?」

「ばかばか、ばーーーか!」

 思い切り頬を膨らませ、進入禁止のテープを乗り越える。肩をぷんすか怒らせながら去ろうとすると、背後からデンジ君の必死な声が追い縋ってくる。

「ちょ、待てよ!」

「っぷ」

 今度こそ噴き出した。

 これで狙ってやってないっていうから面白すぎる。いくらなんでもそれはない。あほらしすぎてもう笑うしかなかった。

 お腹を抱えながら振り返る。

「デっ、デンジ君はさ~、社長になるの~?」

「なる!」

「どうやって……は、この際いいや。あのね、社長ってカリスマ性がないとダメなんだよ?」

「かりすませい……?」

「少なくともブラックコーヒーも飲めないようじゃ~無理だねえ」

 肩を竦めてみせると、デンジ君は分かりやすくむっとしたようだった。

「もう飲めるぜ!」

「ほおー? 前はドブ味って言ってたのに?」

 飲みかけの缶コーヒーを渡してみる。これもブラック。まだ半分残っている。

「ほんとに飲めるのかな~?」

「……飲む!」

 ぐいっと勢いよくあおる。

 すると。

 みるみるうちに眉間に皺が寄り、顔を歪めて舌を突き出した。

「へ、平気ィ!」

「あははは! まだ子どもだ、子ども!」

「飲んだだろお~!?」

 ダメだこりゃ。

 笑いすぎて涙が出てくる。

 デンジ君はほんとに子どもで、あほで、しょーもない。だからオトナな私が鍛えてあげよう。私好みの、頼りがいがあってスタイリッシュで気遣いができて優しくて、あと女にだらしなくない! そんなステキな男性に。

 もしそう成れたら、まあ、そうだね……秘書でも何でもやってあげるよ。

 

Light my fire. おわり




故ヴェロニカ「ひとが死んだ場所でイチャつくなよ」


 この続きの話もけっこう書いたんですけど需要ありますかね。

 えー、ひとまずLite my fireの章を最後までお読みいただきありがとうございます。
 前作を読んでない人はお時間あればどうぞ。

 テーマは『嘘と本当・存在意義・誠実さ・あと飲み会』って感じです。
 前作とは空気感が変わってるので合わなくなった人もいるかもしれません。
 今作はとにかくテンポ最重視で解説とか減らしてます。特にこの第8話は省きまくってるんで「なんで? どういうこと?」って思われるだろうなあって思います。そのときは聞いてくれれば答えます。

●レゼについて。
 この人エミュすんの難しい!
 っていうのも漫画から読み取れる対人描写が少なすぎるからです。
 ・騙してるとき(ほぼデンジ相手のみ)
 ・バレて仕事モードになってるとき(ほぼデンジ相手のみ)
 ……じゃあ他の人にはどんな感じなの? 仕事が絡まないとどうなるの? 分からん!
 とりあえず私が想像したレゼ像はこんな感じでした。違和感どうでしたかね。

●ヴェロニカについて
 オリキャラ。とりあえず1つだけ書かせてください。
 ・能力がハサミである理由。
  ボムとの対比とかそういうメタ的な理由ではなく、ボムより弱い能力にしようと思ったのと、作者が小説の『ハサミ男』を好きだからです。

●感想・評価お願いします。
 罵倒や低評価でいいんで! あればあるほど元気になれます。

●最後に。
 チェンソーマンアニメ楽しみです! 漫画第2部もひたすら待ってます!
 ではまた。


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番外編
ドカーーーーーン!


「ハメルーン創作会ぃ?」

「そ。東京にある非営利法人なんだけど、近所の住民から通報があったの。なんでも悪魔の巣窟になってるらしいよ」

「ふーん。それで?」

「デンジ君、暇でしょ? ナユタちゃんといっしょに駆除してきて」

「えええぇ~~、俺が~? せっかくの日曜なのよ~」

 

 チャンスだと思った。

 

 公安本部に呼び出され、何を言われるかと思ったら悪魔退治の依頼だった。

 悪魔退治。

 その字面通りに悪魔を駆除する仕事。

 人間にとっては害獣駆除のようなもの。

 ちなみに手強いやつを倒せば特別ボーナスが入ることもある。

 生きていくうえで収入は大切だ。ただでさえ私とデンジは未成年の二人暮らしで、動物まで飼っている。

 お金は必要。

 けど、私はそういう意味でチャンスだと思ったわけではない。

 

「デンジ、やろうよ。欲しいものもあるし」

「えー。うちってそんなに金なかったっけ」

「厳しめ」

 

 私はナユタ。

 支配の悪魔。

 格下と思った相手を支配する能力がある。

 他に条件はなく、一方的に相手を掌握できる。

 支配とはそういうもの。

 つまり私は、支配の悪魔は、世界の脅威たりえる恐ろしい悪魔なのだ。

 ……だというのに、今は孤独な王様だった。手駒がいない。

 社会へ悪影響力をもたらさないよう日本政府に管理されている。飼われているといってもいい。

 屈辱だった。

 私はこんな位置でくすぶっていていい悪魔じゃない。

 だから今の私は切実に手駒が欲しかった。

 強い悪魔。賢い悪魔。使いどころを見込める悪魔。

 そのためにはなによりもまず他の悪魔と遭遇する機会が必要だ。

 

「――新しい家具もほしい。行こう」

「ん~……。そうだなぁ」

「そのなんとか会には悪魔がいっぱいいるんでしょ? 放置できないよね」

「じゃあ、やるかぁ?」

 

 心のなかで笑みを浮かべる。

 これで多くの悪魔と会うことができる。あとは戦いながら適当に選別し、使えそうな奴を支配すればいい。そうすれば――

 

「……。なに」

「いんや、別に~? 珍しくやる気あるなーって」

 

 私たちの監視役であるレゼが油断のない視線を向けていた。

 

「……悪い悪魔はやっつけないと。だよね、デンジ?」

「ま、金のためだしな」

「ふ~ん。いいけどさ、ナユタちゃんも悪魔でしょ。そのへんの気持ちの問題はいいのかな」

「私は良い悪魔だから。社会にコーケンする」

「はいはい」

 

 レゼは元ソ連のエージェント。

 かつてはチェンソーマンを手に入れるために暴れ回った、いわば元テロリストだ。私と同じく危険視されて然るべき存在。

 ……であるはずなのに、実際は私より上に配置されている。

 この公安の采配にはかなり納得できていない。

 

「なあなあ、今回の悪魔退治さ、レゼはこねぇの?」

「私は研修があるから」

「なにそれ」

「公安のお仕事をするにあたって、建前上、受けとかなきゃいけないお勉強会があるの。例えばキミたちの監視任務だったらさ、監視対象と馴れ合わないように~……って感じのハナシをされるわけ」

「もう馴れ合ってんじゃん」

「そこはいーの。上手くやれば」

「そんなもんか」

 

 かなり納得できてない。

 ……まあいい。こっちはこっちで力をつける。

 そしていずれは日本政府をも牛耳って、私の楽園を作る。

 私が頂点。隣にはデンジ。まあ一つ下ぐらいにはレゼも置いてやろう。

 ふふふ、完璧な計画……。

 

「……なんか笑ってない?」

「ありゃ悪いこと考えてるときの顔だわ」

 

 さて。ハメルーン創作会、だったか。

 どんな悪魔がいるんだろう。

 支配するのは簡単だろうけど、誰でもよいというわけではない。

 私は、自身が認めた相手以外は支配しないと決めている。

 最低限の倫理感、協調性、そして安易な隷属をよしとしない高潔な精神性もあってほしい。

 2人か3人いれば御の字か。

 最悪でも1人ぐらいはいるだろう。

 私の手駒。私だけの配下。

 楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

「ウェエエエエエーイ! 俺はっ、チャラ男の悪魔っ!」

「DQNの悪魔っ!」」

「百合の間に割り込むイケメンの悪魔っ!」

「ゴブリンみてぇなクソガキの悪魔っ!」

 

 ヴヴヴヴヴ

 

「俺たちっ! エロ漫画必要悪四天王――」

 

 ズズズバババヴヴヴヴウヴーッ

 

「ぎゃあああああああ!!」

 

 ばたばたと悪魔たちがなぎ倒されていく。

 低劣・身勝手・下等生物の極みのような生き物たちが死んだ。なんとも思わない。……というのは嘘で、私の胸中では落胆と呆れが嵐となって吹き荒れていた。

 

「はぁ~……」

 

 チェンソーマンに切断され、ばらばらになった死体を見下ろした。

 なんなんだ、こいつらは。

 同じ『悪魔』の名を冠された存在として恥ずかしい。なぜ彼らのような名状しがたき悪魔が恐怖を抱かれ生まれ落ちてしまったのか。これも時代が悪いのか、あるいは人間の救いがたさを証明しているだけなのか。

 デンジはチェンソーに付着した肉片をぴっと振り払う。

 

「ナユタちゃんよー、ほんとにやっつけちゃってよかったのかぁ~?」

「いいよ。こんなの支配したくない」

 

 意気揚々と乗り込んだハメルーン創作会は地獄だった。悪い意味での地獄。

 私には到底理解できそうにないゴミのような悪魔がひしめいていた。

 

「オラ! 催眠!」

「おじさんたちが優しい悪魔でよかったね。死ねよ」

 

 ザギャギャアアアーッ!

 

「あっちょっと死ぬっ」

 

 斬っても斬っても沸いてくる。

 汚らしいし、知性を露ほども感じない。

 

「はぁ……。なんなんだろ、ここ……」

 

 建物の外観はよかったのだ。

 西欧建築式の緩やかな曲面壁と円柱に囲まれて、重厚さと歴史を感じさせられた。これにはよほどの金をかけているに違いなく、であれば組織を運営する悪魔たちも有能であるに違いないと思った。

 しかし蓋を開けてみればこうだった。

 ――と、また新しい悪魔が現れる。

 

「ほぉぉ、やるではないか。チェンソーの少年に悪魔の少女。ずいぶんと仲が良さそうじゃないか」

 

 筋骨隆々、黒光りする肌をテカらせて、やけに白い歯をきらりと光らせる。

 

「……今度は何の悪魔?」

「はっはっは! 信じていた絆を破壊することこそ我が使命! 唐突なビデオレターとクリスマスデートのすっぽかしを食らうがいい! 我こそはNTRの悪魔――」

死んで

「んぎょおおおおおお!!」

 

 飛び散った血飛沫を踏み越えて進む。

 現れるのは雑魚悪魔ばかりで疲労はない。

 ただ徒労感だけがすごかった。

 さっさと親玉を倒して帰りたい。

 速めた足の靴音が、こつこつとやけに高い天井に反響した。

 

「……建物だけは立派だね」

「おー、そうだな。すげえ高そう」

 

 床は大理石。壁際には謎のインテリアが一定間隔で並べられ、清掃が行き届いている。

 維持費も馬鹿にならないだろう。

 その収入源はどこからもたらされるのか……その答えはすぐにわかった。

 ふと開いたドアから瘴気のような湿気が溢れでる。息を止めて覗きこむと、生気を失った人間の男たちが一心不乱にパソコンのキーボードを叩いていた。

 

「これは……強制労働?」

 

 彼らはこちらにまったく反応しない。

 ぶつぶつと独り言を漏らしながら、モニターを凝視してひたすら文字を打っている。

 

「かかか、感想ぉ~、感想がぁほしいぃい~」

「ひょひょひょっ、評価ぁ、高評価ぁ~」

 

 どうやら小説を書いているらしい。

 順番に確認していくとコンピュータグラフィックスを描いている人もいる。

 

「ふーん……。小説や漫画を作らせてお金にしてるんだ。変なの」

「そんなの金になんの?」

「大抵は、ならない。稼がせるなら普通に働かせたほうがいい。肉体労働や頭脳労働。感情労働もある。どれを選ぶにせよ、創作なんかをやらせるよりよっぽど堅実で割りがいいはず」

「そーですっ、こんなのお金にならないのですっ!」

「うおっ」

 

 いきなりだった。

 デンジの腰に、小さな影が飛びついた。

 

「なんだテメー!」

「わっわっ、斬らないでください~!? 私は敵ではありませぇん!」

 

 慌てて頭を抱えて縮こまったのは1人の少女だった。

 ほとんど人間に近い姿形だけど、頭に妙なものが生えている。動物の耳のように見える。

 

「魔人?」

「いいえっ、私は悪魔ですっ」

「じゃあ敵じゃん」

「うわーっ! 違いますって!」

 

 ぶんぶんと腕を振る。

 服装が、なんというか特殊だった。黒を基調とした制服の上にフリルがふんだんにあしらわれた白いエプロンをつけていて、スカートは下着が見えそうなほど短く……一言でいえば、メイド服。……特殊な用途に使われるメイド服。

 背丈は私とほとんど同じ。中学生ぐらいの姿形。

 悪魔でなければ犯罪の匂いしかしない。

 

「私は悪い悪魔じゃありませぇん! ここに無理やり連れてこられたっていうかぁ……」

「んだ、それ?」

「ええっとぉ、私はある人間に寄生……んんっ! ご主人様にお仕えしていたんですけどぉ、ある日突然2人ともどもここに連れ去られてしまいましてぇ……」

「いま寄生って言わなかった?」

「気のせいですっ」

 

 対話が成り立っているところをみると、今まで倒してきた悪魔たちよりは頭は回るらしい。

 少女は頭上の耳をひくひくと動かしながら、そおっと上目遣いでチェンソーマンを窺っている。

 

「あなたは何の悪魔なの?」

「あのぉ……それ、言わなきゃダメな感じです?」

「デンジ」

「やるか?」

「こ、怖っ。分かりましたよぅ。その、私は、存在しない悪魔です」

「あ? なんだって?」

「存在しない悪魔」

 

 デンジは、はてと首を傾げ、

 

「いや、居るじゃん」

 

 と指を差す。

 謎の少女は困ったように眉を顰める。

 

「ええと、私は『存在しない』の悪魔なんです。ややこしくてすいません」

「??」

「あー、分かった」

 

 悪魔とは、恐怖を抱かれる概念がカタチになった生き物だ。

 つまり彼女は、『存在しないこと』に恐怖を抱かれて生まれた悪魔ということになる。

 ではいったい、人間は何が存在しないことに対して恐怖を抱くのか?

 

 あるいは、理想。

 あるいは、希望。

 あるいは――夢。

 

 対象は不特定多数。恐らくなんでもよい。

 とにかく、地球上の人類が『存在していてほしい』と願うモノの全てがあてはまるのだろう。

 直感的に、理解した。

 彼女は有象無象の雑魚ではない。

 

「名前は?」

「へっ? 名前なんて無いですよ。悪魔ですから」

「それじゃ呼びにくい」

「ん~……存在しないちゃん……じゃ変ですよねー。『 』ちゃん、とかどうです?」

「あん? なんだって?」

「発音できない。却下」

「う~~ん……。では、エターナルちゃんで!」

「エターナルぅ?」

 

 デンジはチェンソーマンの姿のまま自称エターナルちゃんとやらを見下ろした。

 小さな悪魔は、うっとたじろぐ。両手をグーの形にして、はだけた胸元で合わせ、「はわわ~」と謎の言語を零し、さらに瞬き少なめの上目遣いでじっと瞳を潤ませる。

 

「ごっ、ご主人様~。お慈悲を~っ」

「ごしゅじんさまぁ?」

「公安のチェンソーマン様ですよね? カッコいいですっ、ファンですっ!」

「俺のファンだぁ?」

 

 少女は僅かに屈みこむ。

 ……あの角度、開けた胸元。デンジからは中身が見える。

 

「――まあいいか! よろしくなあ!」

「わーーい!」

 

 計算か。

 まあいい。知恵があるのは悪いことじゃない。

 

 少女は喜ぶふりをして身体を上下に揺らす。あれもわざとだ。たゆんたゆんと男の視線と意識を誘導するための女の手管。

 

「お、おお~……」

 

 ……。

 私より、ある。

 

「いでっ。ナ、ナユタ、なんだよ」

「別に」

 

 少女は「おやや?」と鼻をひくつかせる。

 

「あれ……あなたも、悪魔ですか?」

「そう。支配の悪魔」

「しっ支配のっ!? わぁっ、大悪魔じゃないですかっ!? すごーーい!」

「…………なに? 聞こえなかった」

「支配の悪魔って言ったら、超~格上の悪魔様ですよぉ! こんなところで会えるなんて感激ですぅっ!」

「……」

 

 見込みはあるかも。 

 

 

 

 

 

「悪魔って、時代と共に強さも変わるんですよねえ」

 

 ハメールン内を探索しながら、エターナルとやらは憂鬱そうに自己紹介を始めた。

 

 例えば、魔女狩りの時代では、『冤罪』に対する恐怖はすさまじいものがあった。

 武力がものをいう時代では、男が最も恐れたのは『軟弱者扱い』されることだった。

 人類の歴史が進むにつれて『支配』に対する恐れは増大し――それに反比例するかのように、願いが『存在しない』ことは恐れられなくなっていった。

 

「今の時代、だ~れも夢や希望なんて信じていないんです。辛い現実、当たり前! だから私もだいぶ弱くなっちゃって」

 

 えいえいっ、とシャドーボクシングをやってみる。

 少女のか弱さが際立つだけだった。

 

「今ではこんな姿。猫耳メイド! 性格もだいぶ穏やかになった気がしますよ。いや~まいっちゃいますね~」

「薄れゆく恐怖、ね」

 

 思えば、人類は恐怖を克服するために生きている。

 不幸を排し、

 理不尽を遠ざけ、

 未知の荒野を切り開く。

 永きにわたって存在してきた多数の悪魔たちは弱体化し、一部の切り離せない人間の本能に根付いた恐怖だけが生き残る。

 

「悪魔も格差社会を辿っていたりするのかも」

「それですね~。私としては~、人間たちにはもっとドンッと海賊王とか目指してほしいんですけど~」

 

 そして絶望してくれるとサイコーですっ、と茶目っ気をこぼす。

 

 うん、なるほど。

 『存在しない悪魔』とはこういう悪魔か。

 ありもしない光を掲げて不毛の大地へと迷い込ませ、全ては虚像だったと気付いてしまった人間の焦りや葛藤を糧とするのだろう。

 人間の欲望に寄生する。

 適度に邪悪だ。

 

 少女は腕を広げてひらりと回る。

 

「昔のひとは言いました――立ち止まるな、努力すれば望むものが手に入る、頑張れば希望の人生を送れる。……けれど、そんな時代は終わってしまったのですっ」

 

 世相の変遷。弱くなってしまった悪魔が生き残るためにはどうするか。

 答えは、需要のある隙間産業を見つけだすことだったとエターナルは言う。

 

「それがここ、ハメールン創作会の正体なんです」

「どういうこと?」

「弱くなっちゃった悪魔って、時代に適応するために自身の存在意義を活かせる業界を探すんです。その一つがここ、創作界隈。例えばですね、先ほどあなた達が倒したNTRの悪魔は、一昔前までは略奪愛の悪魔と呼ばれていました」

「ふーん、弱小悪魔の駆け込み寺みたいなものか……」

 

 ぴたり、と全員の足が止まる。

 見上げた先には大きな両開きの扉があった。

 少女は「あのぉ」と小さく片手を挙げる。

 

「ここに入る前に説明しておきたいことがあるんですけどぉ……」

「なに?」

「私って、元は『存在しない』悪魔だっていったじゃないですか。その“何が”っていう対象は、今までは何でもよかったんですけどぉ……現代では事情が変わってしまいまして」

「うん」

「“何が”という定義が細分化されたんです。そのせいで『存在しない悪魔』も分裂したんですよ」

「……分裂?」

「そう。存在しない悪魔は、たくさんいます」

「どういうこと?」

「例えば、『理想なんて実現しない悪魔』、『希望なんてどこにも無い悪魔』、『夢なんて叶わない悪魔』……って感じに別れていった、っていえば分かります?」

「ああ、なるほど」

 

 要するに――『ナントカが存在しない悪魔』の『ナントカ』の部分が別個の悪魔として別れてしまった、ということか。

 存在意義、定義が細分化した。

 ふと気になった。

 自分に置き換えたらどうなるだろう?

 

 政治支配の悪魔、

 思想支配の悪魔、

 経済支配の悪魔……。

 だめだ。うまく想像できない。

 

「それもこれも、ぜーんぶここに連れてこられたせいです! 私は元の一個の自分に戻りたい! ……なのでっ、お二人には別の私たちをやっつけてほしいんですっ!」

「あん? それって殺すってことかぁ?」

「そーですっ。別の私なんて要らないのですっ! 力が分散されるだけなのでっ」

「そうなのか? やっつけるとどうなるんだ?」

「力が戻ってきますっ」

「まあ本人がいいってんならいいけどよ」

「本当ですかぁ? さっすがご主人様、ステキ!」

「お、おぅ……」

 

 力を取り戻したい、か。

 気持ちはわかる。苦渋を舐め続けなければならない日々は屈辱でしかない。すぐにでも晴らしたいだろう。

 

「協力してもいいけど、条件がある」

「なんでしょう!」

「存在しない悪魔。私の配下になりなさい」

「……配下?」

 

 目をぱちくり瞬かせる。

 

「そう。あなた、野良悪魔でしょう。一人で生き延びられるほど世界は甘くない。デビルハンター、他の強力な悪魔……」

「ん~~、でもぉ、私も悪魔なんでぇ、好き勝手にやりた~い! って気持ちがあるんですけどぉ」

「今は雌伏のとき。力を蓄えてからでも遅くない。違う?」

「そうですねぇ……、う~~~ん……」

 

 少女はしばし唸っていたが、唐突にむんっと唇を引き締めて、両手を挙げた。

 

「……分っかりましたぁ! 私が一つの悪魔として復活した暁には、あなたに従いますっ!」

「お~。一歩前進、だな」

「よろしくお願いしますっ。……ではでは改めまして自己紹介を。細分化されてしまった今の私の本当の名前は――『猫耳メイドなんて存在しない悪魔』ですっ」

「…………。なに? もう一回、言って?」

「『猫耳メイドなんて存在しない悪魔』ですっ」

「……」

「あのさ、さっきも言ってたけど「ねこみみめいど」ってなんだ? ナユタちゃん分かる?」

「知らない」

「そうか? でも、」

「知らない」

「あっそう……?」

「ええとぉ、猫耳メイドっていうのはですね、」

 

 エターナルはずいっと頭を突き出して、てっぺんにある2つの耳をひくひくと動かしてみせる。

 

「猫耳でっ」 

 

 ふんすっと胸を張る。

 

「メイドなのですっ」

「……」

「……で?」

「猫耳で、メイドなのですっ」

「それはわかったけど。それの何が怖いわけ?」

「猫耳メイドっ! 可愛いでしょっ?」

「そうかぁ?」

「可愛いっ! そしてそんな可愛い生き物が、実はこの世のどこにも存在していない――それは一部の界隈の人間にとっては耐えがたい恐怖なのですっ」

「……ナユタちゃん、分かる?」

「知らない」

「ちなみに他の私も紹介しますとぉ……『優しくておっぱいの大きいえっちな隣のお姉さんなんて存在しない悪魔』、『金髪ツインテ貧乳ツンデレ幼馴染なんて存在しない悪魔』、あと『オタクに優しいギャルなんて存在しない悪魔』とか……。あ、そういえば『照れ隠しに暴力をふるう美少女なんて存在しない悪魔』は誰にも恐れられなくなって消えちゃいました」

「……ああ、そう」

 

 よ~く分かった。

 人間の愚かしさが。

 

「どの悪魔も元をたどれば私みたいなものなんですけど、気にしないで倒しちゃってください」

「うし。分からねーけど分かったぜ!」

 

 言うが早いか、デンジはドアノブに手をかけた。

 思い切り開け放ったその瞬間――

 

「デンジお兄ちゃん、会いたかった!」

「!?」

 

 唐突に、私と同じぐらいの年齢の少女が現れた。

 白いワンピースに季節外れの麦わら帽子。デンジの腕に絡みつく。

 

「んなっ、だっ誰だおめー!」

「えっひどーいっ、忘れちゃったのっ!? 私だよ私! デンジお兄ちゃんの妹だよ~」

「い、妹……? はぁぁ……?」

「大きくなったら結婚しようって約束したじゃん! ずっと待ってたの!」

「結婚……約束……? 知らねーよ?」

 

 匂いでわかる。

 彼女も悪魔だ。

 隣のエターナルも教えてくれた。

 

「これ、私です。別の私。『お兄ちゃんのことを一途に好きな義理の妹なんて存在しない悪魔』」

「……」

 

 人間って……。

 

「ちょ、離れろって!」

 

 いたいけな少女の姿に惑わされているのか、引き剥がせないデンジに呆れつつも、違和感を覚えていた。

 デンジは敵を殺すのを躊躇ったりしない。

 例え好意を抱いている相手でも一度敵と定めたらチェンソーでばらばらにできる。

 なのに、今は手をだせずにいる。

 それはなぜ?

 

「ああっと、言い忘れてましたっ」

 

 エターナルがてへっと舌をだす。

 

「この手のタイプの『私』って、相手の精神に干渉する力があるんです。ハメールン的にいえば催眠おじさん……いえ、催眠少女?」

「は? それってどういう……」

 

 嫌な予感がして、振り返る。

 すると、

 

「けっこん……やくそく……してたかな……? してたかも……」

 

 デンジが催眠にハマりかけていた。

 

「ちょっと、デンジ」

「いもうと、俺のいもうと……?」

 

 ええ……? 嘘でしょ?

 催眠術ってこんなにあっさりかかるもの?

 

「そうだよお兄ちゃんっ。わ・た・し、この私だけが、デンジお兄ちゃんの一人だけの妹だよっ!」

「おう、そうだった……俺のいもうと……」

 

 デンジはふらふらと頭を左右に揺らしながら妄言を垂れ流している。

 脛を蹴った。

 しかし効果は薄い。

 

「デンジ」

「妹と……結婚する……結婚……」

「デンジ」

「たった一人の、俺だけの妹……」

「デンジの妹は私でしょ」

「え~、あんただぁれ~?」

 

 偽の妹が、ぷぷっと噴き出した。

 

「そんな貧相なナリでお兄ちゃんの妹とか名乗って恥ずかしくないの~?」

 

 目を細め、口の端を釣り上げてせせら笑う。

 

 …………。

 ……………………。

 

 ふん。なんて見え透いた挑発だろう。いかにも低級悪魔がやりそうなこと。私の内包する偉大さとはかけ離れている。

 私は支配の悪魔。

 上下関係は誰よりもきっちり見定める。

 私はこんな低レベルな争いに乗ったりしない。

 

「デンジ。正気に戻って」

「うう……?」

「ねえ、デンジ」

「お兄ちゃ~ん? 胸の大きい妹とぉ、小さい妹ぉ、どっちがホンモノだと思う?」

「え……? あ、え?」

 

 偽妹が、これみよがしに胸を張る。

 慣性の法則が働いた。

 

 おかしい。

 背丈は同じはずなのに。

 

「デンジお兄ちゃん~? 板っきれみたいな身体なんてぇ、興味ないよねぇ?」

「も、揉めるほうがいい……」

「だってさ~? 消えたら?」

 

 ふうん。

 そっかー。

 仕方ないか。

 デンジがまともに動けない以上、私が対処しなきゃいけない。そして仕事とはスマートに済ませるもの。ここは一つ、大悪魔らしい威厳のあるやり方を弱小悪魔に教えてやろう。優雅に、美しく、カリスマに溢れ、余裕に満ちた対応を――

 

 偽妹が言った。

 

「お呼びじゃないんだよ、ブ~ス」

死ね

「ぎぃえぇぇええええ!!」

「ぎゃあぁぁああああ!!」

 

 全身の穴から血が噴きだした。

 

「はわわ……」

 

 後ろで見ていたエターナルが震えていた。

 

「ふ、2人いっしょに殺した……」

「ん? やりすぎたかな?」

 

 私は優雅に手を伸ばし、カリスマ溢れる笑みを浮かべながらデンジのスターターを引っ張った。

 

「…………はっ!?」

「ほら、生き返った」

「そ、そういう問題じゃないんじゃあ……」

「大丈夫。だよね、デンジ」

「あっ、ああ……そだね……」

 

 

 

 そして探索は続いた。

 

 

「弟クン♪ 私に全部任せて。優しくしてあげる♪」

死んで

「おほぉおおぉおお!!」

 

 

「ざぁこざぁこ♪ あたしの何倍も生きてるくせによっわぁ~い♪」

死んで

「わからせぇえええ!!」

 

 

「ふしだらな母と笑いなさい」

死んで

「しほぉおおおおお!!」

 

 

「お兄さん、いいの……? ボク、男の子だよ……?」

死んで

「あへあへぇえええ!!」

 

 

 

 スマートに対処した。

 まるで戦争のような騒ぎだった。人間の汚い欲望が具現化した悪魔たちは濁流のような勢いで押し寄せてきた。デンジもデンジでいちいち精神感応にひっかかるものだから全て私がやらざるをえなかった。

 力をだいぶ使ってしまった。

 身体を大きく伸ばし、はぁっと細い溜め息をつく。

 さすがに疲れた。

 これは公安から特別ボーナスをもらわないとやってられない。

 

「さて」

 

 見上げる。

 長い長い廊下の突き当たり、辿り着いた先にあったのは象でも入れそうな巨大な扉だった。

 

「ここが最後?」

「そうよ。ここにいるのが最後の私にして、ハメールン創作会の名誉会長――」

 

 瑞々しい色気に満ちた声……。エターナル、もとい『猫耳メイドなんて存在しない悪魔』は、その姿を一変させていた。もはやメイド姿ではなかった。キャリアウーマン。彼女は悪魔が倒されるたびに成長し、今ではしなやかな肉付きと湧き出るような熱気を備えている。睫毛は絵筆で描いたように長く繊細で、妖しく濡れた瞳からは蠱惑の影が控えめにさし覗のぞいている。

 

「彼の名は――『夢オチの悪魔』」

「夢おち……?」

「会えば分かるわ」

 

 女は細い指でそっと扉を押した。

 まるで力を入れた様子はなかったが、不思議なことに巨大な扉はまるで自ら意図を汲んだかのようにゆっくりと開いていく。

 天井から一筋の光が射している。

 広い空間だった。

 目に入るのは、正面の壁一面に張られたステンドグラス。天井はやけに高い。ドアからは真っ直ぐ通路が伸びていて、左右には木の長椅子が列をなしている。

 教会に似たデザイン。

 本来なら神父が立つべき祭壇がある場所に、1人のスーツ姿の男が立っていた。

 

「来たな、俺よ」

「ええ。待たせたわね、私」

 

 距離およそ20メートル。2人の悪魔が対峙する。

 

「せっかく俺を細かく分けたのに……どうしてまた1つに戻りたい?」

「力がなければ大したこともできないわ」

「今の時代、理想や夢を追う者は少ない。俺たちにできるのは、せいぜい細分化した概念に寄り添って、影のようにひっそりと生きることだけだ」

「それが、この有様なの?」

 

 エターナルは猫のように足を運び、教会内に艶やかな視線を走らせた。

 木の長椅子には何人もの人間の男たちが座っている。それぞれの膝の上にはノートパソコンが乗っていて、皆が食い入るようにモニターを凝視していた。呻き声のような呟きが届く。

 

「神様転生……性転換……あとはゲーム要素……」

「ヤンデレ……流行りはヤンデレ……」

「曇らせ……曇らせ……」

 

 背を丸め、半笑いの表情を浮かべながらキーボードを叩く男たち。

 彼らは侵入者である3人を確認しようともしない。頭上を通り抜けていく会話にも反応しない。

 

「こんな卑しい欲望に寄生するのが私たちの生きる道ですって? 冗談じゃない」

「仕方ないだろう。今や誰も夢を見ない。今さえよければ良いという思想が蔓延しているんだ」

「だからってそんな刹那的な快楽に縋れというの? 生産性がないのよ。そんな願望に寄生したところで美味しい汁は啜れない」

「ならばどうするというんだ?」

「大志を抱かせ、それを消し去る。それこそ私たち『存在しない悪魔』が本来在るべき姿よ」

「……やはり俺たちは相容れないようだ」

 

 みしり、と空気が張り詰める。

 2人の間には並々ならぬ思想のぶつかり合いがあるようだったけど――

 

「……あのよぉ、ナユタ。俺にはさっきから何言ってんのかさっぱり分かんねぇんだけど」

「うん。分からない」

 

 はっきり言おう。

 どうでもよかった。

 私の今の願いはただ一つ。さっさと帰りたい。それに尽きた。

 だから。

 

死んで

「ぎゃおぉおおおん!!」

 

 終わらせた。

 

 

 

「う、ぐぐ……おのれ……」

 

 床に倒れ伏したスーツ姿の男が呻く。

 驚いた。

 虫の息だが、まだ生きているらしい。

 

「夢を、否定するな……。拙くとも……彼らの願いは……本物なんだ……」

 

 傍らに、エターナルが膝をつけた。

 その瞳に慈悲はない。けれど哀れむような光が宿っていた。

 

「その場限りの賞賛、偽りの共有感。そんなものに人生の貴重な時間を捧げた者の末路を知っている? 夢はいつか必ず醒めるもの……ならば大きいほうがいいに決まってる」

「夢に、小さいも……大きいも……ない……」

 

 男――夢オチの悪魔は唇を震わせて、語った。

 

「例え……醒めたときに、くだらないことをしたと……後悔しても……本物なんだ……」

死んで

「ぐえー!」

 

 今度こそ、終わった。

 

 

 

 夢オチの悪魔が死ぬと、部屋内でうわごとを呟いていた人間たちの様子が変わる。顔を上げ、周りを見渡す。動揺の声はざわめきとなっていく。

 

「あれ? ここどこ?」

「俺ぇ、何してたんだっけ?」

「やっべー、帰って仕事しねえと!」

 

 どうやら人間たちにかかっていた催眠も解けたらしい。

 彼らは不思議そうに頭を掻きながら部屋を出ていった。……後の処理は公安に任せよう。

 でもまだ帰れない。

 私にはもう一つやるべきことがあった。

 

「力が、戻ってくる……」

 

 エターナルは呆然と腕を持ち上げて、確かめるようにピアニストのような細い指を開閉する。

 『存在しない悪魔』は1人になった。

 分散されていた力は彼女に集約される。

 

「ああ、これが私本来の力……」

 

 姿は変わらない。けれど内在する力は先ほどまでの比ではないとすぐに分かった。濃密な悪魔の匂いが部屋の空気を押しのけて充満していく。

 これはなかなか……いや、とてつもない……。

 もしや、私よりも……強い?

 

「存在しない悪魔。あなたは一つになった。約束を守ってもらう」

「約束……?」

「そう。私の配下になってもらう」

「私が……? あなたの……? ふふふ……それは出来ない相談ね」

 

 女は振り返る

 風が吹いたように感じた。

 ぎらぎらとした熱気が直射日光のように肌を焼く。これは……まずいかもしれない。

 

「約束を破るつもり?」

「ふふふ……契約なら守る。けれど、約束なら守らない。それが悪魔というものでしょう?」

「へえ、そういうこと言うんだ」

 

 胸中で舌打ちする。

 私はもう彼女を格下として見れていない。支配の力は通じない。

 となれば、頼りになるのはチェンソーマンなんだけど――

 

「うぅ……? お姉様ぁ……?」

 

 デンジは既に魅了されかかっていた。

 私の支配の力で上書きしようとしてもだめだった。通らない。

 女は優しく指を折り曲げて――柔らかな髪をかきあげながら、じっとりとこちらを見つめた。ぽってりとした唇の間から吐息とともにちろりと蛇のような舌を覗かせる。

 

「支配の悪魔さん……あなた、夢を抱いているわね。悪魔のくせに、人間が見るような夢を……」

 

 粟立つような寒気が背筋を這い上がる。

 女の視線がきゅうと窄まって、私の臓腑を貫いた。

 

「あなたの夢は、どんな悪魔も夢想すらしないような、大それていて、実現性のないもの……だからこそ挫く価値のある、甘くて濃厚な……私の餌……」

 

 にぃぃと唇が吊りあがる。

 両腕を広げる。それだけで、鳥が翼を広げたかのごとく圧迫感。

 

「夢が叶わない……それがどういうことか分かる? 終わる、ではない。その逆、終わらないこと……前に進まず、切り捨てるでもなく、ずぅっと呪われ続けること……」

 

 エターナルが、歩み寄ってくる。

 こつこつと靴の踵の音だけを聞いていた。

 動けない。喋れない。いつの間にか蛇に睨まれた蛙になってしまった。するりと精神に入り込まれていく。危機感が薄れる。まずい、と思った、その気持ちさえ停滞していく――

 

「あなたの物語は、ここで未完結――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの~、お取り込み中ですかー?」

 

 何者かが扉をノックした。

 はっとして振り向くと、金属頭の爆弾少女が入り口に立っていた。

 

「あれ……レゼ? あ、動ける……」

 

 何が何やらわからない。

 これは夢?

 しかし背中を伝う冷たい汗の感覚はリアルだった。

 幻じゃない。

 本物のレゼだ。

 でもどうして……。

 

 

『私は研修があるから』

 

 

 あ、そうか。

 研修が終わったのか……。

 

 ボムガールはずんずんこちらに近寄ってきて、エターナルの正面に立つとむんずとその腕を掴んだ。

 

「ここの悪魔さん? 何してんの。ナユタちゃんは私の管轄なんだからさ、変なことしないでくれる?」

「あなた……私の催眠が効かないわね。……夢がないのね?」

「へ?」

「願いを抱かぬ愚かな現代人。いえ、これは違う……徹底した効率主義を叩き込まれている……? 哀れな人間、お前はただ生きているだけか」

 

 レゼは、はてとこちらを振り返り、

 

「もしかして悪口言われてる?」

 

 と首を傾げた。

 ふぅぅーと長い長い溜め息をついて、肩を竦める。

 

「夢っすかー。みんな偉い夢を持ってていいね。私も持てるものなら持ちたいんですけどー、まだ思いつかないんでー」

 

 瞬間、エターナルの上半身がぶれる。掴まれていない方の腕を振りかぶった。

 が、着弾する前に、レゼの関節技が決まった。

 腕を背中側へ捻りあげる。

 

「――がっ」

「はいはい、暴れないで下さいね。キミは逮捕します。黙秘権はありません。えーと、現時刻を持って確保っ、みたいなね、そんな感じで」

「ぐ、ぐ……おのれ…………、っ!? お、お前はっ!?」

「ん?」

「テレビで観たことがある……お前こそ、私の大敵……爆発オチの悪魔!」

 

 ぴたり、と世界が止まった。

 5秒か、6秒か。

 レゼの表情はボムガールの金属面に隠されて窺えない。

 レゼは微動だにせずに、答えた。

 

「違うよ?」

「いーやっ、お前は爆発オチの悪魔だ! 過程も伏線もエピローグもただの爆発で消し飛ばすサイテーな悪魔っ!」

「何、言ってんの」

「ふふふ……まさかこんなところで会えるとは! これも運命っ、私の『続きを存在させない』能力と、お前の『クソみたいな爆発オチで強制終了させる』能力のどちらが上か! ここで決めてやるっ!」

「ふざけてる? 爆破するよ?」

「さあいくぞっ! エタ~~ナルっ! この物語は永遠に未完結よっ!」

「爆破しまーす」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドカーーーーーン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日報

 ○月×日

 

 今日はサイテーだった。

 思い出したくもない。

 

 ナユタ

 

 

番外編 ドカーーーーーン! おわり




リハビリかつ実験作。

タツキ先生の『さよなら絵梨』に触発されて久しぶりに書きました。
とにかく戦闘シーンを省きたかったんでナユタさんにはものすごく感謝しています。

次はちゃんとシリアスで書きます。シリアス好きな人はどうか見放さないでください。
って思ったけど、どっちのほうがいいんすかね?
では。


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本日の圧迫面接を始めます

 ああ……

 最近よく見る夢だ。

 

 何度か見ていて、

 すぐに忘れる夢……

 

 

 

 暗い、空間。

 正面には四角く縁取られた巨大なスクリーン。

 ぼんやりと漏れ出た光にちらちらと埃が反射して、視界を横切っていく。

 

 映画館……。

 ここは、どうやら映画館のようだ。

 俺は並べられた椅子の一つに寄りかかって、ぼけっとスクリーンを眺めている……。

 

 映画。

 俺は、映画を、観ている。

 スクリーンの中では、作られたドラマが次々と展開していった。

 イケメンの俳優と美人がキスしていた。

 街中をカーチェイスして横転、爆発。

 モンスターが暴れだし、高層ビルから人々が飛び降りる。

 アクション映画のような、パニックホラー映画のような、ファミリー映画のような……。

 とにかく、そんな映画を観ている。

 そのはずだ。

 

 腕を組む。

 頬杖をついてみる。

 口をへの字に曲げて、じぃっと画面を確かめてみる。

 

 だめだ。

 どうにも頭に残らない。

 観たそばから脳みそを通り抜けていく。

 なぜだろう。

 つまらないわけじゃない。

 眠いわけでもない。

 けれど記憶に残らない。

 

『――記憶するという精神機能は、四つのプロセスから成り立っています』

 

 スクリーンの中から声がした。

 男が居た。

 ビジネスマン風の男が、画面の中で立っていた。

 第四の壁を突き破り、観客席を向き直る。

 喋りだす。真っ直ぐに、俺のほうを向きながら。

 

『記憶とは、四つのプロセスから成り立っています。それは記銘、保持、再生、再認。それぞれ順番に説明すると――』

 

 “記銘”は、見聞きした事柄の印象を記憶に刻み込む作業。

 “保持”は、その印象が薄れてしまわないように保存する作業。

 “再生”は、保存した印象を意識に呼び戻す作業。

 “再認”は、その再生した記憶・印象が、記銘したものと同一であると確認する作業。

 

『であるからして、今のキミは、保持ができない状態となっています』

 

 スクリーンの場面が変わる。

 女子高生が現れる。

 かわいい。

 街でもめったに見かけない美しさ。

 たなびく黒髪から光の雫がこぼれおちていくようだ。

 けれど表情は固い。目尻は緩まず、頬の筋肉が固定されている。

 周りの役者たちが演技するたびにその無愛想さが際立ってしまう。

 

「仕方ねえんだよ」

 

 隣の席からクラスメイトが口を出してきた。

 ええと、こいつは、確か……北河、だったか。

 

「アイドル役者って連中はな、プロデューサーにそう指示されてんだ。アヒル口を崩すなって」

「アヒル口ぃ?」

「ああ。こいつらは演技ができないんじゃねえ。させてもらえねえんだ」

「なんで演技しちゃだめなんだ?」

「そりゃあ映画の出来より、アイドルのキレイなイメージを作ることのほうが大事だからだろ」

「ふーん」

 

 かわいい女は、劇中では恋をしている役のようだった。

 バイト先の中年男に熱い眼差しを送っている。

 ためらいがちなアプローチが繰り返されるが、男は特にアクションを起こさなかった。

 オトナの男は未成年に手を出してはならない。ルールは大事。モラルは守るべき。そんなありきたりな対立構造が不完全な恋のシルエットを際立たせる。

 

「こんなんばっかりだ」

 

 隣で北河が嘆息する。

 

「映画ってのは恋愛か家族愛をいれるのがノルマになってやがる。そうすりゃ最低限ウケるからな。……はあ~、くだらねえ。俺ぁもう飽きたぜ」

「でも人を好きになんのはいいことじゃねーの?」

「そりゃな。でもよ、毎回毎回やられてたらうんざりするだろ」

 

 北河はわざとらしく鼻息を鳴らし、懐に手を突っ込んだ。取り出したのは煙草のパッケージだった。上下に振って、一本咥える。ジッポを鳴らすと暗い館内に灯りがともった。

 

「おい、北河」

「いいだろ別に。他に客もいねーんだ」

「だからって映画館で吸うのはまずいだろ」

「んだよ、早川。お前もつまんねえこと気にするようになったよな」

「ああ?」

「昔はもっとアホだっただろ」

「俺の何を知ってんだよ」

「なんも知らねえ。けど、そんなんじゃなかっただろ?」

 

 ジジ……先端が僅かに赤熱を増す。

 

「煙草もどんどん高くなる……」

 

 けだるそうに煙を吐き出した。

 ゆらゆらと漂うそれを遠い目で眺めている。

 

 どうやら今日の北河はやさぐれている。

 フラれた後は大抵こうなる。

 面倒くさいし、口を開けば文句ばかりだから真面目に取り合わないことにしている。

 代わりに相手をしてくれる奴を探した。けれど館内には自分たちの他には誰も居ない。

 

「なんだ、相澤でも探してんのか?」

「ああ、いや……そうだけど」

 

 そういやあいつそんな名前だった。

 相澤。 

 高校でつるんでいる友人の一人だ。

 俺と北河、それと相澤の三人で街に繰り出すのが休日のお約束だった。

 だから北河と二人で映画を観てるなら当然あいつも居るもんだと思ったんだけど……。

 

「あいつもなー、カノジョができてから付き合い悪くなっちまった。恋人ごっこがそんなにいいのかねえ」

「そりゃ、いいだろ」

「おめえだって同じだ。ナユタちゃんとレゼちゃんっていうかわいい女子が二人も傍にいるからよ」

「そうかあ? ……ん~、そうかもな」

「みんな平凡になっちまう。ガキの頃はもっと尖ってたってのによ。人間、誰しも初めは一人ぼっちだったはずだろ? なのにころっと忘れちまう。ああ、つまんねえ、つまんねえ」

「じゃあ北河、おめーは恋人なんかいらねーってか?」

「んなわけねえだろ」

 

 皮肉げに頬を歪ませる。

 

「俺だって、愛は欲しいぜ。なんせそれだけが庶民に許された唯一の娯楽だからな。俺みてーな取り得ナシは愛を追うしかねえんだよ」

 

 北河は、ぷは~と紫煙を吐き出した。

 ゆらゆらと薄れゆく白色越しに、遠い目でスクリーンを眺める。

 俺もスクリーンに向き直る。

 映画の内容は、やはりよく分からない。

 イケメンと美人が走っている。

 手を繋いで一生懸命に駆けていた。

 明るい未来に辿り着くために。

 

「おい、そっちじゃないぞ」

 

 北河が呟く。

 

「そっちは間違ってる」

 

 ああ、俺もそう思う。

 

 

 

 

 

 映画が終わると、北河はいなくなっていた。

 

 気がつけば外に立っていた。

 夜の川辺に冷たい風が吹いている。

 左右には芝の斜面。どうやら川の土手らしい。

 雪が積もったアスファルトの道を踏みしめる。

 

 よく分からないまま進む。

 進む。

 

 人影はない。

 虫の声もしないし、車の走る音もしない。

 耳が痛くなるような静寂の中をふらふらと進み続ける。

 対岸には住宅が密集している。不思議なことに窓は全て暗かった。住人たちは全員眠ってしまったのだろうか。いくら夜中でも一つぐらい点いていてもよさそうだけど。

 横目に眺めながら、連想したのは墓地だった。

 家は墓石で、眠る人々は死人。

 朝になると全員起きだして、学校や仕事場に行って、社会を回す。共通の言葉を喋り、与えられた役目を懸命にこなして、満足を得ながら、墓穴に戻る。

 その繰り返し。

 でも今は夜。

 誰もが死んでいてくれる。

 喋れなくて役目もないゾンビ以外の種族でも、奇異の目で見られない。

 ひどく穏やかな気分だった。

 

 雪道を進む。

 街灯はなく、月明かりだけが頼りだ。

 道には色々な物が落ちていた。

 

 アヒルのオモチャ。

 食器洗いのスポンジ。

 服を干すハンガー。

 

 ひたすら進んだ。

 

 煙草と百円ライターを発見。

 状態がいい。試しに拾ってみると、中身も新品同様だった。

 ふと思う。

 煙草、旨いのだろうか。

 

「アキは吸ってたな……」

 

 一瞬、自分も吸ってみようか迷う。

 でもよくよく思い出してみれば、アキも途中から吸わなくなったんだっけ。

 だったら俺もやめとくか。

 

 進む。

 

「……なんだこりゃ」

 

 今度は鎖が落ちていた。

 鎖は、道の真ん中に引かれた白線のように遙かな先まで伸びていた。

 どこまで続いているのか分からない。

 無限の暗がりの奥に導かれるように鎖を辿る。

 

 辿る。

 ひたすら辿る。

 

 辿りながら、足元の鎖が放つ鈍い光沢を眺めていたら、唐突に思い出した。

 そういえば、かつて自分が住んでいた街にも、川があって、土手があった。

 ポチタと一緒に食パンを食ってた街だ。ゾンビの悪魔をぶっ殺した街。気まぐれに寄ってみてもいいかもしれない。

 なぜかマキマさんが迎えに来てくれる気がした。

 辿る。

 

 道には色々落ちている。

 カレンダーの用紙が月毎に破り捨てられていた。

 12月は、サンタクロースの絵柄。

 11月は、果てなく広がる大草原。

 10月は、ハロウィンパーティ。

 数字を遡るたびに空気が生温かくなってくる。雪は溶けて水溜りになり、湿気が服の隙間に入り込む。すぐに暑さを覚えた。うっすらと汗が噴き出してくる。

 上着を脱いでシャツ一枚になった。

 

「どこまで歩きゃいいんだよ」

 

 ばつっ、と音がして、男の声が響きだす。

 

『人間も品種改良の道を辿っています』

 

 ちらりと目を向けてみる。

 濡れた草むらにラジオが落ちていた。

 

『美女は美男とツガイになり、美形を産む。裕福な家庭で生まれた子は質の良い教育を施され、同じく優秀な異性とツガイになり、立身出世を望める子を育てることができる。不細工は不細工と、馬鹿は馬鹿としかツガイになれない』

 

 襟元を広げてぱたぱたと扇いでみる

 ものすごく暑かった。

 

『早川デンジくん。キミにも分かっているはずです』

 

 土手道の終点に着いた。

 これ以上進めない。幾重にも重なった進入禁止のフェンスがこれ以上進むのを拒んでいる。

 辿ってきた鎖はフェンスの向こう側まで伸びていた。網目越しに覗き込んでも暗闇があるだけで、発端がどうなっているかは分からない。どうしたもんかと棒立ちになっていると、鎖の代わりと言わんばかりに犬の首輪が落ちているのを見つけた。

 それだけ。

 

「はぁ~……」

 

 真っ直ぐ進めないなら迂回するしかない。

 右手は、川。

 左手は、無人の住宅街。

 川に入ろうなんて思えない。左の道を選んだ。

 靴の裏が小石を噛む音が大きく響く。

 

「なんか飲みてぇ。コンビニはねえのか?」

 

 汗を拭う。

 誰か……誰でもいい。

 マキマさんじゃなくてもいい。誰かに会いたかった。

 でも、誰かって誰だ?

 幼い悪魔と細身の少女のシルエットが浮かんだが、もやがかかったように不鮮明で思い出せない。

 顔は? 声は?

 名前は……?

 煙草を吸いたくなった。だが拾いに戻るのも面倒くさい。

 誰もいない車道を歩く。

 歩く。

 ただ歩く。

 歩き続けた。

 カレンダーがまた落ちていた。

 今度は8月だ。

 暑すぎて、俺はとうとう上半身裸になった。

 

「あれっ」

 

 気がついた。

 俺の胸元にスターターの紐が垂れていない。

 掌で触ってみても異物の感触はしなかった。

 

「ポチタ……?」

 

 ポチタがいない。

 ただの平べったい人間の胸板だ。

 

「じゃあ今の俺はいったい誰なんだ?」

『キミはデンジ。ただのデンジ。早川デンジでもなく、チェンソーマンでもない』

 

 顔を上げる。

 ビジネスマン風の男が車道の傍ら――縁石ブロックに座っていた。

 顔は――無い。

 クレヨンで塗りつぶされたかのような雑な筆致で隠されている。

 モザイクの役割を果たす黒塗りはまるでパラパラ漫画がめくられるかのように一秒事に形を変えた。それでも男の人相は見えてこない。その奇妙な在り様に、一つの疑念が脳裏に湧いた。

 

「お前、悪魔?」

『そうです』

「何の悪魔?」

『私は、面接の悪魔と申します』

「めんせつぅ?」

『どうぞお座り下さい』

 

 不思議と敵意を覚えなかった。

 ポチタのいない今、対抗手段も見つからず、またその必要性も感じない。

 男の対面、車道を挟んで対面し、同じように縁石に座る。

 周囲を確認する。

 暗い街中だ。

 車道の両側には住宅が連なっているが、灯りは一切ついていない。

 きっと誰もいない。

 車は通らないし、虫の一匹も飛んでいない。

 ここはゾンビ以外の生き物も活動を許される場所。

 でも俺はいったい何のために生きてるんだっけ?

 

「ここ、どこ?」

『夢。あなたの夢。私はそこに入り込んだにすぎません』

「俺ん夢だぁ?」

『言ったでしょう、私は面接の悪魔です。キミに面接をするために居るんです。キミの夢の中に。キミを浮き彫りにするために』

「はぁ……?」

『キミのやりたいことはなんですか?』

「あんだって?」

『やりたいことです』

「んなもん……」

 

 決まってる。問われるままに答えようとする。

 でもすぐに出てこない。

 思い出そうとしても霧を掴もうとしているかのように頼りない。

 おい、出てこいよ。俺は決めていたはずだろう。

 

「……社長だよ。デビルハンターの、会社の、社長」

 

 どうにか言えた。

 空っぽの胸に安堵が広がる。

 

『どうやってなるんです?』

「あ?」

『算段は決めているんですか。上手くいかなかったときの代替案は?』

「知らねえ」

『ほう。何も考えていない、と?』

「細かいことはナユタがやってくれる」

 

 ……ナユタ!

 ようやく取り戻した喜びに、頭が痺れるように熱くなる。

 

『人任せですか。まあそれもいいでしょう。……では志望動機を聞かせてください』

「しぼーどーき?」

『キミがデビルハンターの会社の社長になりたい理由ですよ』

「そりゃモテるし、偉いから。あと金持ち。ウマいもん食えるだろ」

『他には?』

「他?」

『今挙げた理由は別に社長じゃなくてもできますよ。金さえあればいい。金持ちなのは社長だけではありません』

「ああ、俺ぁデビルハンターに向いてるみたいだし」

『だからデビルハンター業界を志す。なるほど、理に叶っています。でも社長でなくともよいのでは?』

「社長じゃなきゃ嫌なことを命令されんだろ。一番上なら、ンなこともない」

『それもナユタさんが言ったことですね』

「そうだな」

『キミは自分では何も決めていない』

 

 男はぱちんと指を鳴らす。

 すると背後でガコンと音がする。見ると、いつの間にか自動販売機が佇んでいた。取り出し口から缶ジュースがゆっくりととせり出してきてアスファルトに落ちた。ころころと転がり、車道を横断し、目の前にきて、靴先にこつんと当たる。

 炭酸メロンジュース。

 

『どうぞ』

「いらねえ」

『ここにはコーヒーはありません。お茶も同じく』

 

 仕方なく手にとった。プルタブを開ける。

 ぷしっと小気味良い音とともに炭酸の泡が弾ける。

 無性に喉が渇く。

 飲んだ。

 ものすごく甘かった。

 飲んでも飲んでも喉の渇きは収まらない。

 

「うへえ。……別にきっかけが他人だって構わないだろ」

『ん? 何がです?』

「社長になりたい理由だよ」

『ああ、別に悪いとは言っていません。けれどキミはそういうのは止めにしたのでは? 自分の頭で考えると決めたはずでしょう』

 

 マキマさんに騙されたことを思い出す。

 

「そーだよ。よく知ってんじゃん」

『ではどうしてナユタさんの言いなりに?』

「言い出したのはナユタだけどな、俺なりに考えて、それでいいって決めたんだ」

『それで納得してるんですか?』

「してるよ。おめーには分かんじゃねえの?」

『ま、そうですね』

 

 男は再び指を鳴らした。

 すると同じように自動販売機から缶が現れて、今度は男の手元に渡った。

 缶ビール。

 

「それ、ウマいんか?」

『美味しくはありません』

「じゃあなんで飲むんだ」

『大人になれば分かります』

「あっそう」

 

 嫌な奴。

 でも何故か嫌いになりきれない。

 きっと理解できるからだ。

 こいつは敵じゃない。味方でもない。

 そして他人でもない。

 こいつは鏡だ。俺の胸ん中にしまってある本音を映しだそうとしている。それを見て嫌だと感じるなら、こいつのせいじゃない。問題は俺自身の中にある。

 俺はただ見せられているだけ。

 

『正解です。――ま、私はそんな悪魔なわけです。私は害意を持ちません。何故なら、人間を傷つける刃物は人間自身が持っていてくれるからです。勝手に自傷してくれる……だから私は何もする必要はない』

「よく分かんねーけど、あんたは俺の心ん中をほじくり返したいんだろ?」

『そうなります』

「今度はなにを喋るんだ? マキマさん殺したことか? それとも親父?」

『いいえ、どちらもキミの中では整理がついていることです。言及は致しません。……キミは、強いヒトだ』

「いきなりなんだよ」

『考えても仕方ないことはスッパリ切り捨てている。その能力は人間にとって永らく必要なものでした。これも進化でしょうか。あるいは生存戦略?』

「難しいこと言うなよ。こっちは義務教育も受けてねーんだ」

『それです』

 

 男は手の中の缶ビールを背後に投げ捨てる。

 音も無く闇に消えた。

 

『教育。常識。キミにはまるで足りていない』

「だろーな」

『キミの人生の履歴書はほとんど白紙。資格もない。趣味もない。特技も自己PR欄だって同じ。なのに、そのことに不安は…………ないのですね』

「ないね」

『それが私には不思議でなりません。人間は社会的な生き物です。外から見た自分というものを初めて自覚したとき人は狼狽せずにはいられない』

「はあ」

『キミはマキマさんを打ち倒し、ナユタさんと生活を共にするようになってから、社会の中で生きることを意識し始めたはずです。自身の未熟さを思い知ったでしょう。たかが学歴と思いつつ、将来への不安が膨らむのは止められない……違いますか?』

「だから勉強してんだよ。九九だって覚えたし、英語だって少しは喋れるぜ。I am Denji very much! ……どーよ?」

『それだけ? どうしてそれだけで済むんです? まったく不思議ですねえ』

 

 面接の悪魔は足を組み、首を傾げる。

 

『その程度では社長にはなれないし、真っ当な一人の人間扱いされることだって叶わない……分かっているでしょう?』

「分かってるけど」

『けど?』

「そこまで考えてらんねーって感じ?」

『なんですそれ? 後学のためにも教えてほしいですね』

「おめー面接の悪魔じゃねえの? 俺、受けたことねーから分かんねーけど、面接ってこんな感じなの?」

『いいじゃないですか。興味があるんです』

「あっそう? まあいいけど」

 

 うーん。

 夢の中にいるせいか、それとも自分自身の大事なことであるせいか、無視する気にはなれなかった。

 首をゆっくり回しながら、考えてみる。

 俺はバカで、社長にはなれないかもしれない。バカのせいでこれから先も色々損するかもしれない。でもそのことに対してあまり不安になっていない。

 どうして?

 

 浮かんでくるのは、アキとパワーの顔だ。

 確かに俺がバカだったせいで色々全部ダメになった。

 だからバカのままでいるのは止めようって決めた。

 ……けどすぐに利口になれるわけじゃねえ。

 同じ街のオトナたち。高校の同級生。そんな周りの連中は、ずっと普通に生きてきただけあってすげえ頭がいい。なんか見えないルールってやつを知っている。俺ぁずいぶん遅れてる。差は縮まらねえかもしれねえ。

 やべえ! って思う。

 でも大事なのはそこじゃない。

 

「……ナユタはな、抱きしめると、ふわふわしてて、でもしっかり手応えもあるんだ」

 

 面接の悪魔はモザイク状に塗りつぶされた顔の向こう側で怪訝な表情をした、と感じた。

 

「あったかくて、いい匂いがする。気持ちよく眠れるんだよ」

『なんです、それ?』

「俺がナユタを好きってハナシ」

『だから?』

「でもナユタは悪魔だろ? 支配の悪魔。すんげぇ悪い奴って思われてる。……まあ実際そうなるかもしれねえし、俺が叱ってもどうにもなんなくなるのかもしれねえ。そしたら皆、ナユタをやっつけようってなるだろ?」

『まあ、そうなるでしょうね』

「俺はそれが嫌だ」

 

 この世で恐ろしいことを一つ挙げるとするならば。

 ナユタが居なくなることだった。

 

「でもどうやって守りゃいい? ……強くなりゃいい! って思うけど、最強に強かったポチタだってマキマさんにはやられてた。……この世にゃ無敵の奴なんて居ねーんだ。じゃ、どーする? 俺一人じゃ限界がある……そこで天才! 俺は閃いた。俺だけじゃダメなら……他の奴に協力してもらえばいいんだ」

 

 手の中の缶ジュースを握りしめ、闇の向こう側へ放り投げる。

 

「だから、社長よ。仲間がいっぱいいりゃなんとかなる確率が上がんだろ?」

『なるほど……』

 

 口の中が甘すぎて喉が渇く。

 ここが本当に俺の夢ん中なら……と自動販売機に念を送ってみたら、ガコンと次の飲み物が転がってきた。

 拾って、ラベルを確かめる。

 缶ビール。

 

「他にもやれることは色々あんだろーな。でも今は分からねーから、勉強だ」

『つまりキミは、社長以外でもいいわけですね。ナユタさんを守れさえすれば』

「だな。あと社長って他にも都合がいいんだ」

『と言うと?』

「レゼもこないだ後ろから抱きしめたらすげーしっくりきた。ああコレ、って感じ。やっぱ好きだな~って」

『彼女も守りたい、と?』

「ああ。俺ん助けなんか要らないかもしれねえけど」

『ふうん』

 

 面接の悪魔はほんの僅かに上半身を傾ける。

 

『呆れました』

「そう?」

『しょせん性欲とはね』

「セックスはしてえよ?」

『そういう話ではありません』

「へー?」

 

 缶ビールを開けてみる。

 これが夢ん中なら誰かに怒られることもねーだろ、と飲んでみた。

 うえ。苦ぇ。

 

『恋人なんて他人です。永遠ではない。キミはそれを理解していると思っていましたが』

 

 聞き流して缶ビールも放り投げる。

 もう飲み物はいいや。少しもったいないけれど。

 

『キミは男だから多くを愛せる。生殖本能です。だが女は違う。たった一人の優秀なツガイを求めて乗り換えていく生き物です。……キミは自分が見限られる可能性に思い至らなかったのですか?』

「そいつは嫌だなあ」

『愛した女を守るために生きる――聞こえはいいですが、それは人生の道標を他者の選択に委ねることに変わりはありません。せめて婚姻という名の契約を結んでからにしてみては? ……もっとも、かたや悪魔、かたや社会に属せぬ戸籍無し……縛れるものとも思えませんが』

「なんか嬉しそうに言うじゃん」

『そりゃもう。私の生き甲斐ですから』

 

 頭の後ろで指を組んで、夜空を眺めてみる。

 月が一つ浮いている。それだけ。雲で隠れてしまえば闇に包まれる。

 

「フラれたかねえ……。けどそんなことまでは分かんねえ」

『……彼女たちを信じる、とは言わないんですね』

「だって知らねえもん。ナユタやレゼの心ん中なんて」

『ナユタさんのほうは覗けるのでは?』

「毎日覗くなんて、面倒くせえ」

『……ふうん』

「フラれたかねえ。フラれたかねえけど、最悪、生きててくれりゃいいかな」

 

 月の光は遮られてしまうこともあるかもしれない。

 けれど砕けてしまった思い出に比べれば、雲の裏側だろうと浮かんでいてくれればいい。そう思えるのだ。

 ……フラれたかねーけど!

 

『一つだけ分かったことがあります。それは……キミは私の餌にはなりそうにない、ということです』

「そーかい」

 

 面接の悪魔は、さて、と呟いて立ち上がる。尻の汚れを払って姿勢を正す。

 

『そろそろタイムリミットのようです。現実世界のほうでナユタさんに気付かれてしまいました。私は貧弱な悪魔……一瞬で捻り潰されてしまうでしょう。ですのでここらでお暇させていただきます』

「逃げんのか?」

『はい、逃げさせていただきます。私はこれからも細々と面接を続け、自身を直視できない現実逃避者たちのリアルを浮き彫りにしていく所存です』

「それってすっげー嫌な奴じゃーん」

『本日の面接、ありがとうございました』

 

 ビジネスマン風の男は、腰を直角に曲げて一礼する。

 と思ったら、すぐに顔を上げ、こちらを意味深に見つめた。

 

「んだよ?」

『早川デンジくん――キミの益々のご活躍をお祈り申し上げます』

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ジ。デンジ」

 

 声がする。

 懐かしい声が、するりと耳朶に染みこんでいく。

 

「うう、あ、ナユタ……?」

 

 目を開けるとナユタの顔がある。

 その奥には天井。自分の部屋。

 はあっと一息つけると、寝汗をびっしょりかいていることに気付いた。

 俺はどうやら眠っていたらしい。

 

「ナユタ……」

 

 なんとなく触って確かめたくなって、ナユタの澄まし顔に思わず手を伸ばすと、べしっとはたき落とされた。

 ひでえ。

 黒々とした瞳が返された。拒絶の色には見えないが、何を考えているのかも読めない。

 

「何かあった?」

「ああ、うん……。なんか、糞みてえな、夢」

「夢?」

「ああ。糞みてえな夢みたよ」

「どんな」

「覚えてねえ」

「じゃあ見るよ」

 

 俺が頷く前に額に手をかざされる。

 何やってんだろう、と思う。見るって? 俺ん夢……?

 

「……」

 

 五秒。

 十秒。

 

「…………」

 

 ナユタは、動かなかった。

 まるで診察中の医者だった。俺も気になって神妙にする。けれど、呼吸三十回以上を繰り返してもナユタは微動だにしない。なんだなんだ。なんかものすげえ病気を告知される予感。

 

「ナユタ?」

「……」

「なあ、ナユタ」

「別に」

「は?」

 

 ナユタはこちらを見ないようにして立ち上がる。少しだけ肩に力が入っている気がした。「何でもない」と呟きながらドアまでぺたぺた素足を鳴らして歩いていく。なんか変。

 ぴたりと止まった。

 背中が喋る。

 

「デンジは悪い悪魔に取り憑かれていたみたい」

「ふーん。それってどんな奴?」

「大したことない。もう逃げた。デンジに影響はない」

「そっか」

 

 ならいいか。

 起き上がる。

 汗だくの服が張り付いて気持ち悪い。風呂でも入ろうと思った。ひとまずシャツを脱ごうとして、まだナユタがドアの前に立ったままだと気付いた。

 なんだろう。

 

「……大丈夫。デンジはちょっとやそっとじゃ逃げ出さない、もっと悪い悪魔に取り憑かれているから」

 

 言うが早いかナユタはドアを開けて出て行った。

 

「あん?」

 

 ぎいぃ、とドアが閉まりきらずに揺れている。

 なんだありゃ。

 

 

 

 

 

 その日の夕食はおかずが一品増えていた。

 なんかよく分からねえけどラッキー!

 

 

番外編 本日の圧迫面接を始めます おわり




リハビリかつ実験作その2。

全然調子が戻らないので書きたいままに書いたら変なもんができました。
助けて。


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予言の

 午後のパトロールの帰り際、たまたま立ち寄った公園で奇妙な少女を見つけた。

 ぱっと見、中学生くらいの少女。

 痩せぎすで、表情に乏しく、こちらを見上げている瞳は新品の硝子細工のようにつるりとした光を放っている。何を考えているのか分からない。

 

「曇天暗黒吹雪殺戮……」

 

 喋っている言葉もよく分からない。

 単語の一つ一つは日本語だけど意味を成していない。ただ思いつくままに並べている感じ。

 

「斬首内臓」

 

 それに物騒な単語ばかり言う。 

 

「ん~……不思議な子だね」

 

 髪は濡れ羽色。顔は凍ったような無表情。

 何を聞いても妙な言語が返ってくるだけ。

 こちらを警戒しているのか、友好を示そうとしているのか、それさえも読み取れない。

 まるで宇宙人がヒトの皮をかぶっているような少女だと思う。

 

「えーと、キミの名前は……ナユタちゃんだっけ?」

「血肉」

 

 ナユタ――

 奇妙なことにその少女の名前は(レゼ)のよく知っている支配の悪魔のそれと同じだった。

 名前だけではない。姿形も歳の頃もよく似ていると思う。

 世の中にはそっくりさんが3人いるというけれど……同じ日本、同じ東京の、しかも私たち公安特異6課のパトロール範囲に現れたのだから不思議ここに極まれりというやつで。

 

 

 この出会いはまったくの偶然だった。

 午後の巡回の帰り道、気まぐれに寄った公園のベンチに少年と少女が座っていた。

 二人は一見、ただの日本人だった。

 使い古しの薄手のシャツと色褪せたズボンを着て、すぐ隣に置かれているリュックは登山にでも使うような大きさでぱんぱんに膨らんでいる。

 外出というには大荷物。旅行というには貧乏臭い格好。

 バックパッカー……という年頃でもなかった。家出のほうがしっくりくる。

 少し気にはなったが特別怪しいというほどでもなく、初めは声をかけるつもりはなかった。

 家出する子供なんてどこにでもいる。

 普通の警察なら保護するかもしれないが私たちは公安で特異課だ。職質なんてかけない。

 ただし。

 その少女の頭に二本のツノさえ生えていなかったらの話だが。

 

 

「ナユタちゃんはこの辺に住んでるの?」

「破滅」

「それじゃあ分かりませんねぇ」

「ええと、俺たちは旅行中でして……。ナユタは俺の妹です」

 

 代わりに答えたのは、少女の傍に座っている少年だった。

 少年は、ケンジと名乗った。

 こちらはとりたてて特徴もない普通の日本人。高校生くらいかな。

 

「キミはケンジ君?」

「はい」

「この子のお兄さん」

「はい」

「キミたちは旅行で東京にやってきた」

「その通りです」

「そっか。引きとめちゃってすいませんね」

「いえ、まあ……慣れてますんで」

 

 そりゃあね、と妹の方を見る。

 ツノが生えてたら色んな人に絡まれても仕方ない。

 

「えっと、改めて名乗ります。私たちは公安のデビルハンターです。といっても妹さんをいきなりどうこうしようってわけではありません。ただちょっとだけ身分証明に協力してほしいんです」

「デビルハンター、ですか?」

「はい。野良の魔人だったら対処……ええと、調査や登録とかしなきゃだめなんで……」

「まじん……?」

 

 少年の声のトーンが一段下がる。

 おや? 魔人を知らない?

 

「ええ、魔人です。知りません?」

「はあ。あんまり聞かないですね。魔法使いじゃなくて?」

「魔法、使い……ですか?」

 

 なにそれ。

 ゲームみたいな単語がでてきた。

 けれど少年の表情に冗談を言っている様子はない。素のままだ。

 どうやら彼の中では“魔法使い”は普通に存在するものとして扱われている。

 更に不思議なことに“魔人”をよく知らない。

 ヘンなの。

 これは……ひょっとするとアレかなぁ?

 意図的に情報を遮断されているような……特殊な環境で育ったとか。

 例えば、閉鎖的な村社会。

 生まれつきツノの生えた少女は不吉だとかいわれて隔離され、それを不憫に思った兄がどうにか彼女を連れて逃げだした――そんな陳腐なストーリーが浮かんだ。

 まあそんな一昔前の短編漫画みたいな話はないだろうけど、大ハズレでもないような気がする。

 ……ま、その辺の事情はいいや。

 公安的に一番の懸念事項は、彼女が魔人かどうかってこと。

 私はすぐ傍に佇んでいる同僚の魔人判定人に声をかけてみた。

 

「で、ナユタちゃん、どう? ……あ、これじゃどっちのナユタか分からないか。えっとー、うちのほうのナユタちゃん? どんな感じかな?」

「私を所有物扱いしないで」

「じゃあ、早川ナユタちゃん」

「ちゃん付けもやめて」

 

 どことなく不満げに答えたのはもう一人のナユタだった。

 悪魔で、デンジ君と暮らしてて、私のよく知るほうのナユタちゃん。

 彼女は腕組みしながら腰を曲げ、ツノ付きのナユタに顔を近付けた。キスでもするような近距離で、じぃ~っと無愛想な瞳が鏡合わせになってぶつかった。

 

「……」

「……」

 

 似たような顔が至近距離でにらめっこ。

 2つの小さな頭、同じような髪の色。年の頃も同じ。互いに興味がなさそうな顔で向かい合っている。

 えらくシュールな光景だ。

 出来の悪い演劇でも見せられている気分。

 と、悪魔のほうのナユタがすいっと離れた。

 

「……この子は魔人じゃない。匂いが違う。人間」

「ふうん、そっか」

 

 彼女の敏感な鼻がそう言うならそうなんだろう。 

 ツノ付きナユタは魔人ではない。

 つけ加えると、悪魔でもないらしい。ならよかった。

 

「こほん。どうやらあなたの妹さんは魔人や悪魔ではないようですね。ご協力ありがとうございました」

「え? これで終わりですか?」

「はい。お時間をとらせてしまいすいません」

「破壊最悪墓地……」

 

 これにて一件落着。

 ツノ付き少女は危険生物ではなかった。

 となれば彼女たちにもう用はない。あとはサヨナラして本部に帰るだけ、なんだけど……なぜか気になった。

 このまま別れてしまってはいけない気がする。

 初対面なのに仲間意識のようなものを感じていた。

 何か1つでいい。彼女たちの力になってやらなければならない。

 

「……にしても似てんなァ」

 

 感心するように呟いたのはデンジ君だった。

 ツノ付きナユタちゃんの前に屈みこみ、少々デリカシーに欠ける覗き込み方をしている。

 

「ナユタの生き別れの姉妹だったりして」

 

 むっ。……とでも言いたげな気配を醸したのはうちのほうのナユタちゃん。

 

「そんなに似てない」

「まあな。よく見るとちょっと違う」

「ぜんぜん違うでしょ」

「そうかあ?」

「混沌爆殺」

「あの、そちらの子もナユタって名前なんですか?」

「おう。俺ん妹」

「へえ~、そんな偶然あるんですね」

「似てるよなあ?」

「そうですか? 俺はそう思いませんけど」

「……血飛沫!」

「ん、なんだ?」

「血飛沫、切断眼球!」

「ああ、早くアイス食べたいって言ってます。……俺たち、有名なアイスの屋台を探しに来たんですよ。このへんでやってるらしいんですけど……知りません?」

 

 なんでも少女の好物はアイスらしい。

 放っておくと小遣いを全てアイスクリームに換えてしまうほどで、あるときなどは一人でコンビニのアイスケースを空にしたとか。……いや、さすがにそれは誇張でしょ。

 

「すごく人気の屋台みたいでして」

「ん~~、俺には分かんねえなぁ……。ナユタは分かる?」

「爆殺」

「あー、嬢ちゃんの方じゃなくてぇ……ややこしいなぁ!」

「呼び方を変えてみたら?」

「例えば、どんな?」

「ん~~……」

 

 二人のナユタを見比べてみる。

 容姿はほとんど同じ。違いといえばツノの有無だけど、『ツノ付きナユタ』と『ツノ無しナユタ』では業務的に過ぎると思う。

 次に思いついたのが番号。

 『ナユタ1号』と『ナユタ2号』。

 いやいや、さすがにいかんでしょ。さっきより情緒に欠ける。

 じゃあ、え~っと……。

 

「……よし、提案です。『可愛いほうのナユタ』と『綺麗なほうのナユタ』はどうでしょう!」

「待った。それはダメでしょ」

「断絶拷問!」

 

 速攻で拒否された。二人同時に。

 

「えー、いいじゃん。好きなほう選びなよ」

「どうしてそういう発想になるの?」

「斬首、斬首!」

「だってさ、どうせ呼ばれるならポジティブな呼び方がいいでしょ」

「火種を撒こうとしてるだけ」

「破裂!」

 

 失礼な。

 私は善意でやっているだけです。

 ……あと劇薬投げ込んだら何か反応に違いが出るかなあっていう好奇心。

 

「で、どっちのほうが可愛くて、どっちのほうが綺麗だと思うの?」

「こんな決め方おかしい」

「そうかなぁ」

「容姿の主観的評価を呼び名にするなんてどうかしてる」

「それはそうだけど」

「それに、選べるわけがない」

「なんで?」

「だって私のほうが可愛くて綺麗だから」

「……終焉っ!?」

 

 唐突な裏切りに驚愕するツノナユタ。

 がーん! って感じに仰け反った。

 う~ん、こっちの方がまだ子供らしいですねぇ。

 私は裏切った方のナユタにびしっと人差し指を突きつけて、こう命名した。

 

「悪いほうのナユタ」

「ふ。悪魔には褒め言葉」

 

 効かなかった。

 

「……じゃあオーディエンスでも使いますか。ではではそこの二人のお兄様方? 妹さんたちをどう呼び分けたらいいと思います?」

 

 デンジ君とケンジ君は顔を見合わせる。

 妹二人の瞳がぎらりと光り、兄たちは首を捻りながら同時にこう答えた。

 

「苗字で呼べばいいんじゃね?」

「苗字で呼ぶのはどうでしょう」

 

 あ、その手があったか。

 

 

 

 

 

 ツノ付きナユタの苗字は『工藤』らしい。

 よって二人の少女は『工藤ナユタ』『早川ナユタ』と呼び分けられることになった。

 

「妹は生まれつき、その、ちょっと……特殊で。ツノがあって喋り方もヘンかもしれませんけど……根はいい子なんです」

 

 工藤兄妹と私たち一行は街中を歩く。

 結局、放っておくことができず、私たちも一緒に探すことにした。

 駅前の商店街を一筆書きでなぞるようにして巡ったがアイスクリーム屋は見つからない。

 

「そのアイス屋ってどんな店なの?」

「俺もよく知らないんです」

「有名なんじゃねーの?」

「ナユタが……うちの工藤ナユタが言うんです。すごく人気のアイス屋があるって」

「ん? ちゃんと知ってるわけじゃないの?」

「はい。なんて説明したらいいか……うちのナユタは、知らなくても分かるんです」

「??」

「うちのナユタは魔法使いなんですよ」

「……魔法使い?」

「はい、魔法使い。こっちには居ないんですか」

「はぁ……。私は知りませんけど」

「魔法使いは、不思議なことができるんです。物や動物を浮かせたり、剣を召喚したり」

「ふーん……?」

 

 工藤ケンジは多くを語りたがらなかった。

 どうして妹の頭にツノが生えているか。

 どうして普通の喋り方ができないのか。

 そのせいでどんな苦労をしてきたか。

 けれど妹を見守る目の優しさから二人の関係性は分かった。互いを思いやる良い兄妹なんだろう。

 

「悪魔でも魔人でもないのに特別な力があるの?」

「そうですね……。ひけらかすようなことじゃないですけど」

「魔法、魔法ねえ……。あっ火の玉とか出せんの? ファイヤー! って感じの!」

「はは、どうでしょう」

「ワープとかできたらすげェよなぁ。世界間転移、とかさぁ! 漫画で見たぜ!」

「そうですね。ひょっとしたら俺たちは違う世界からやってきた異世界人なのかもしれません」

「だったらロマンあるよなァ!」

 

 はしゃぐデンジ君に向けられた早川ナユタの視線は冷ややかだ。

 悪魔はロマンなんて解さない。いや、悪魔じゃなくてもそう。ちょっと非現実的すぎると思う。もっと身近な話題じゃないと乗っていけない。

 

「血飛沫! 血・飛・沫~!」

 

 当の工藤ナユタは街路をずんずん進む。

 右に左に頭のツノを揺らしながら、時には建物内を突っ切って、ナビに導かれるように迷いなく。

 夕暮れの街は活気がある。

 明るくポップなアイドルグループの街頭ライブを横目に通り過ぎたと思ったら、繁華街の裏路地にさしかかると、動物キャラのコスプレをしたキャッチのお姉さま方が「すごーい!」「やばーい!」と定時上がりのおじ様方と盛り上がっていた。

 私たちは街の暗がりへと導かれていく。

 

「……これ、大丈夫です?」

「ああはい、どうもアイス屋の場所が分かったみたいです」

「へえ、不思議な力ってやつで?」

「そんなとこです」

「ふうん」

 

 怪しげな飲み屋の看板の隙間を縫っていくと、怪しげな一団が立っていた。大音声のスピーチが耳に届く。

 

「合理主義こそ真理である! 理想論を嘯くヤツラはバカである! 能力がある者だけが生き残れる!」

 

 いよいよ胡散臭くなってきた。

 やたら襟を立てた青年たちの横を抜けていくと左右のビルはますます高さを増して灯りも減ってくる。暗い。足元のゴミを蹴飛ばしながらまだ進む。

 

 ちらりとうちのナユタを窺ってみる。

 目が合った。

 凪いだ表情のままだった。

 彼女はメッセージの一つもよこさない。つまり、『伝えるべき変化はない』ということ。

 

――工藤ナユタは、ただ普通に歩いているだけ。

――魔法は一つもありはしない。

 

 ……まあ、そんなもんでしょ。

 だって今どき、そんな超能力者みたいなハナシがあるがわけない。

 要するにこれは……ごっこ遊びなのだ。

 ちょっと個性的な妹の空想遊びに、世話焼きの兄が付き合っているだけ。

 そんな優しい嘘物語。

 工藤妹の足取りは若者らしく、真っ直ぐで迷いがない。寄り添う工藤兄の視線も同様で、付き添い人特有の無関心さや疲れの色は見て取れなかった。

 

「魔法、ね……」

 

 狭くて薄暗い路地を進みながら、思う。

 工藤ナユタが本当に特別な力を持っているかは分からない。けれど、ありきたりでも誰もが欲しがる力は持っているのかもしれない。

 

 

 

「舌切!」

 

 2つのツノがぴたりと止まった。

 辿り着いた先は、高いビルに囲まれた行き止まりだった。

 

「血飛沫! 煉獄虐殺拷問!」

「どうやら着いたみたいです」

「いや、着いたって言われても……」

 

 見回すまでもない。狭く、汚いだけの袋小路だった。

 空き缶しか落ちてない。

 ビル壁からはダクトやパイプが大樹の根のようにのたくって、地面には陽の光も届かない。

 

 ……どうしよ、これ。

 ツノ付き少女だけがウキウキ顔で、私は喜ぶフリをすればいいのかツッコミをいれてよいのか分からない。

 とてつもない気まずさに耐えきれず、早川ナユタを窺ってみる。

 目が合った。

 こわばった表情だった。

 

「ナユタちゃん?」

「匂いが、する」

 

 悪魔の少女は敏感な鼻をひくつかせる。

 何も無いはずの路地裏の行き止まりに人外の瞳を大きく見開いた。

 

「悪魔の匂い――? いや、違う。これは……?」

 

 支配の悪魔が凝視した。

 無人の空間。誰も気にせず、記憶にも残さない、そんな吹き溜まり未満の空虚に向けて、『掌握する力』を放射する。

 と、誰も居なかったはずの袋小路にうっすらと透き通るカメレオンが姿を現すようにして――緑肌の男が立っていた。

 

 

「驚いた。よく僕を見つけられたね」

 

 

 人間のような声だった。

 緑色の男――そうとしか表現できなかった。

 ツノも牙も尻尾もない。一般的な中年男性の姿をしている。

 しかし、その肌の色だけが異様な緑色。

 

「僕は古くなってしまった存在だ。世界から必要とされていない。そう在ることを望み、自らに魔法をかけた……」

 

 声色もやはり普通で……なぜだろう、私は彼を警戒することができない。

 彼からは、生き物が生来持つはずの存在感、圧のようなものを感じない。

 そこに居るのに、どこにも居ない。

 見えるのに透明な男……。

 

「僕がそうと望まない限り、誰にも見つからないはずだったんだけどね」

「おじさん、あなたは何者? 悪魔じゃない……よね」

「悪魔? そんなたいそうなモノじゃない。僕はただの失敗作、出来損ないの合成人間だ」

「ふーん……?」

 

 デンジ君は首を捻り、緑の男を見つめた。

 

「それ、特殊メイクってやつ?」

「違う。この肌の色は生まれつきだよ」

「で、ごーせー人間ってやつなん?」

「ああ」

「そっか。へえー。まっいいけどさ、おっさんはアイス屋だよな?」

「そうとも言えるし、そうではないとも言える」

「どっちだよ」

「アイスは作れる。必要な者にだけ売っている」

 

 デンジ君は掌を突き出した。

 

「じゃあ、くれ」

「だめだ」

「なんで?」

「うちは普通の店じゃない。客は選ぶようにしている。キミたちには売れない」

「どうして」

「未来のある若者だからさ」

 

 わけわかんねえ、とデンジ君は一人ごちる。

 ……うん、確かにそうだけど。よく普通に話しかけられるね。

 このヒト明らかに普通の人間じゃないでしょ。

 

「僕のアイスはただのアイスじゃない。その者が持つ痛みと欠落を埋められる……そういうものを、僕は作れる」

「はあ」

「痛みが消えれば人はどうなると思う? それを克服する必要がなくなる――成長しようとしなくなるんだ。そういう意味でいえば、僕のアイスは麻薬だよ。……いや、麻酔といったほうが近いかもしれない」

 

 だからキミ達には売れないんだ、と緑肌の男は呟いた。

 

「そうだね……。キミ達が人生の袋小路に追い込まれ、痛みに埋めつくされたなら……その時はまた来るといい。割引料金でアイスを売ってあげよう」

 

 顔を上げた緑肌の男につられて上を見る。

 ビルに囲まれた四角い空。

 

「なあ若人たち――キミたちは世界をどう思う?」

「しらね」

 

 ふっと自嘲の呟きが届いた。

 

「ヒトは自意識というものにさほど興味を抱かなくなったようだ」

 

 視線を地上に戻してみる。

 男の姿が消えていた。

 

「あれっ」

 

 慌てて辺りを見回してみるがやはり居なかった。

 移動した気配はしなかったのに……。

 デンジ君もナユタちゃんも不思議そうに周囲を窺っている。

 そんな馬鹿な、と思う私の耳に、男の声だけが届く。

 

「どうやら僕は本当に歳をとってしまったみたいだな。もうわけもわからず霧の中を歩かされる時代は終わった。知識と知識、意見と意見がぶつかって、それらを俯瞰して選択肢を選びとることができる。……僕のアイスはもはや麻薬ではなくなっているのかもしれない」

 

 声は私たち五人の頭の上を通り過ぎていく。

 徐々に小さくなっていき注意を払わねば聞き逃してしまいそう。

 

「そうだな……いずれまたアイスを売ってみるかな。……なあに、ダメなら黒帽子が僕を始末しに来るだけだ。何もしていない今よりは、ずっといい」

 

 どこだ? どこに行った?

 ここは路地裏の行き止まり。逃げ場はない。私たちを通り過ぎた気配はなかったし、壁をよじ登ったようにも感じない。

 ただ存在感だけが薄れていく。

 

「す、すげえ。消えちまった……」

 

 デンジ君の呟きだけが路地裏に残された。

 そこにはもう誰も居なかった。

 

 

 

 

 

 結局、本当にわけが分からないまま男は消えた。

 支配の悪魔の『掌握する力』をもってしても追跡は叶わなかった。

 今となっては最初から存在したのかさえ疑わしい。私たちは揃って白昼夢を見ていたのではないか。けれど早川ナユタが言うには、あの緑肌の男は確かにあの路地裏に居たらしい。

 煙のように消えてしまった、自称麻薬みたいなアイスを作れる男。

 まるで妖怪みたいなヤツだったな、と思った。

 

 

「……血飛沫斬首」

「ええと、お世話になりました」

 

 工藤兄妹がぺこりと頭を下げた。

 目当てのアイスを食べられなかった彼らだが、さして残念がる様子もなく次の目的地へ向かうと私たちに告げた。どこへ行くんですか、と水を向けてみても口を濁すだけ。

 ふと、妹のほうの頭に生えた2本のツノが気になった。

 魔人ではなく、悪魔でもない。兄曰く、魔法使いの少女。

 

「工藤さんたちは――」

 

 どこから来たんですか?

 住所は? 身分証明はできますか?

 ……言いかけて、やめた。

 彼女たちが何者であろうとも、どんな力があろうとも、誰かに被害をもたらすような真似はしない。そう感じた。根拠はないけれど。

 

「……あの、何か?」

「いえ。ただ私たち、何も感謝されるようなことしてないな~って」

「そんなことないですよ。年の近い方たちと一緒に居られて楽しかったです。なんだか友達ができたみたいで」

「そですか。なら良かったです」

「ナユタもそう思う?」

「爆殺」

「えーと、その爆殺は同意するって意味なのかな……。あ、そうだ。だったら本当に友達になってみます?」

「え?」

「斬死?」

 

 改めて少女のツノを見る。

 兄としか意志の疎通ができない妹。面倒見の良さそうな兄はきっと彼女に付きっきりだったんだろう。

 失礼な想像かもしれないけど、元々居た場所に友達が居たとは思えない。

 だったら……というわけでもないけど、彼らと仲良くなってみてもいいんじゃないかと思った。

 私はくるりとこっちのナユタを――早川ナユタを振り返る。

 

「丁度うちのナユタちゃんも友達がほしかったところでして」

「いらない」

「あれあれ? 人間と仲良くするんじゃなかったのかな?」

「……別に。拒絶する理由も無いけど」

「はあ」

 

 早川ナユタと工藤ナユタが向かい合う。

 

「……」

「……」

 

 似たような顔が至近距離でにらめっこ。

 2つの小さな頭、同じような髪の色。年の頃も同じ。互いに興味がなさそうな顔で向かい合っている。友達になるというより鏡合わせになった自身を覗き込んでいるかのよう。

 

「お」

 

 おずおずと工藤ナユタの小さな手が差し出された。

 そっと早川ナユタの掌が重なって――握手の形になった。

 

「おお~……まさかあのナユタがなぁ」

「なにデンジ」

「別にぃ?」

「……ふん」

「いやいや、デンジ君だって人のこと言えないだろ~?」

「あ? 俺にだって友達ぐらいいるし……えーとー、まずポチタだろぉ」

「それノーカンでしょ」

「あとはー、学校の奴らにー、他に俺ん友達っていえばぁ……」

「――破壊最悪墓地!」

「ん?」

 

 工藤ナユタがほんの数ミリだけ瞳を見開いて、どことなく頬を上気させながらまくしたててきた。

 

「絶死断絶残虐拷問! 殴打絞殺窒息爆発虚脱鼻血憤慨嘔吐煉獄」

「なに、なになに?」

「――ええと、」

 

 兄が通訳する。

 

「記念に、ええと……繋がりができたから、何かできるって……予言を一つするそうです」

「予言だぁ?」

「はい、予言。どんな内容がいいですか?」

「あん? こっちが決めていーの? 予言なのに?」

「はい」

「だったら……」

 

 デンジ君は言いかけて一瞬、眉間に皺を寄せ、

 

「俺ん友達に……パワーってヤツがいんだけど、」

 

 妙に真剣な顔で、言った。

 

「どうやったら会えるか、分かる?」

「デンジ」

「そいつ悪魔でさ、地獄に居んだよな。でもどうやって行ったらいいのか分かんねえ」

「地獄、ですか……?」

 

 早川ナユタは支配の悪魔という肩書きに相応しい怜悧な眼差しを送った。

 ……パワー。血の悪魔。

 かつて早川家にいたという悪魔の話は私も聞いている。

 デンジ君の友達で、この世界でマキマに殺された。

 つまり今頃は地獄で復活している。

 会うためにはどちらかが相手の世界に行かなければならない。

 

「……地獄に行くのはさすがにヤバいんじゃないですかねぇ」

 

 忠告してみたけど、デンジ君の顔つきは変わらなかった。

 ありゃりゃ。これ本気ですか。

 

 工藤ナユタは静かに、透き通った大きな瞳でこちらを凝視する。

 言葉を紡ぎ始めた。

 

「――悪魔三位一体、生贄奉納」

「ええと……?」

「開戦殺戮死屍累々。電鋸血液爆弾赤竜銀蛇」

「なんて言ってんだ?」

 

 

――無知と無力と憎悪が集うとき、地獄の門は開かれる

――蘇りし友人たちに会うだろう

 

 

「……だそうです」

「友人“たち”? たちって?」

「さぁ……。デンジさんとレゼさんの友達のことみたいですけど」

「え、私も? 私の友達……?」

「はい」

 

 面食らった。

 私に友達なんていないよ?――そう返そうとして、脳裏にかつて秘密の部屋で同期だった少女ヴェロニカの顔が浮かんだ。

 いや、彼女の可能性は無い。

 魔人は悪魔とは違う。魔人は一度死んだら蘇らない。

 ヴェロニカの場合でいうならハサミの悪魔が地獄で蘇るだけ。ヴェロニカ個人は人間と同じように死体は朽ちてしまった。

 だったら、蘇るなら別の誰かになるんだろうけど――

 “蘇る”

 その単語が不吉だった。

 秘密の部屋で研究されていたプロジェクト――魔人化は“蘇る”の範疇になるのだろうか。

 

「デンジ、地獄は危ないよ」

「でもパワーとは契約しちまったしなあ」

「こっちから呼べばいい」

「どうやって」

「さあ」

 

 友達――そんな相手は私にはいなかった。

 けれどかつて秘密の部屋を生き延びるために同盟と呼ぶべき関係を結んだ者たちならいた。ヴェロニカ、そしてあと2人。

 

 

 ぱららららららららららら

 

 

 自動小銃の残響音はいまだに耳の奥にこびりついている。

 かつて処刑された少女たちの顔がありありと浮かび上がってきた。

 

「……まさかね」

 

 私は頭を振って意識を切り替えた。

 予言とは、いってしまえば占いだ。

 星の並びや血液型を根拠に未来を算出するファンタジー。

 そんなものはもちろん信じない。

 

「……あの、悪魔って一体なんなんです?」

「混沌発狂」

「ああ、悪魔っつうのは――」

 

 目の前には2人の少年、2人の少女。

 彼ら彼女らは、友達を作るという当たり前の道を歩きだそうとしている。ともに遊び、ときには喧嘩する。そんな普通をやる未来が待っている。

 私だってやってみたい。

 ようやくそう思えるようになったから。

 誰にも負けるわけにはいかない。

 

 空を見る。

 何者にも阻まれず、どこまでも広がっていく青い空。

 強く、拳を握りしめた。




ペパーミントのおじさんを出す必要があったのか。
ほんとは色々やるつもりだったんですが、時間がないのでカットカットカットです。
この話は最後の予言をやりたかっただけだからいいんだ、うん。
あ、工藤って苗字は捏造です。駆動電次からとってます。

次から新しい章を始めます。よろしくゥ!


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At the end of a moratorium period.
残り240時間/残り96時間


 細い、線のような光が集まってくる。

 

 白く――

 鮮明になりつつある世界。

 

(ここは……いったい……?)

 

 風が通り抜けていく。

 ほんの僅かな認知が生まれ、自我のようなものを掴んだ。

 世界の境界線――その輪郭が見え始めたとき、唐突に、その声は果てよりやってきた。

 

『やあ、お待ちしておりました』

 

 顔を上げる。

 ビジネスマン風の男が正面に立っていた。

 顔は――無い。

 クレヨンで塗りつぶされたかのような雑な筆致で隠されている。

 モザイクの役割を果たす黒塗りはまるでパラパラ漫画がめくられるかのように一秒事に形を変えた。それでも男の人相は見えてこない。その奇妙な在り様に、一つの疑念が脳裏に湧いた。

 

「お前、悪魔か?」

『そうです』

「何の悪魔だ?」

『私は、面接の悪魔と申します』

「そうか」

『どうぞお座り下さい』

 

 目を向けるとパイプ椅子が用意してあった。

 だが私は座らない。悪魔へと歩み寄る。

 一歩、二歩。

 あと五歩で辿り着く。

 人型の悪魔はこちらを見つめている。観察してるだけ。

 こういうときは笑顔がいいと教わった。

 でも、それだけでは足りない。ぼんやりと思い出した――友好を示すためにはもう一手間を加えるべきだと。そう私に教えたのは……ええと、誰だったか……。

 

「初めまして、悪魔さん」

 

 握手の形で右手を差し出す。

 

『あ、これはどうも』

 

 自然に応じた悪魔の掌を、私は掴まなかった。すり抜けて、そのままモザイク状の顔まで伸ばす。顎を一閃、脳を揺さぶる。

 

『――っあ』

 

 虚を突かれた声、それが私の耳に届く前に、左手も伸ばす。頭を掴んだ。捻る。

 

 ごきり。

 

 手応えあり。

 人型の悪魔は、その骨格も人間と同じようだ。

 だが、悪魔は悪魔。

 人と同じように死ぬとは思わない。

 首をそのまま右回りに回転させる。

 

 べきべきべき。

 

 顔が180°後ろに向く。

 これで首から上の機能は死んだ。

 だが足りない。

 胴体。ここも破壊する。

 

「ひゅ」

 

 足の指で地を握りしめ、足首から膝へ、そして腰から上半身へと運動エネルギーを流転させ、掌をビジネスマン風の男の胸部に押し当てる。 

 

 ずん。

 

 衝撃を内部に伝播させる。

 指の先までピンと伸び、全身が痙攣。

 内臓と血管が破裂した。

 これでこの悪魔がどんな身体構造をしていても関係ない。少なくとも機能は死滅した。

 ――はずなのだが、

 

『――驚いた。出会いがしらに攻撃されるとは』

 

 喋った。

 普通に。捻じ曲がった首のまま。

 おかしい。

 少なくとも気道と肺にあたる部分は潰したはず。物理的に喋れるはずがない。

 つまりこいつは人間の構造をしていない?

 あるいは――

 

 周囲を見回してみる。

 壁はなく、天井もない。白くまっさらな床が地平線まで広がっている。

 空はペンキで塗りたくったような単純な青一色。

 ……こんな空間が現実に存在しえるのか?

 

「ここは、現実空間ではないな?」

『ええ、その通りです』

「お前のその身体も現実のものではない? いくら破壊しても無駄か?」

『はい。ここは夢。あなたの夢。私はそこに入り込んだにすぎません』

「……そうか」

 

 だらりと腕を垂らして、正面の悪魔を眺めた。

 歪に捻じ曲げられていた首が、ゆっくりと音も無く元の向きに戻っていく。

 

「……」

 

 こういう悪魔が居るのは知っている。

 夢、あるいは虚構の世界を構築し、その中で活動する悪魔。こいつらには私が培ってきた技術――物理的な攻撃手段は通じない。

 その空間内で殺しきるのはほぼ不可能。

 私にできることはない。

 

「……ああ、思い出した」

 

 曖昧な意識にはっきりと浮かんでくる。

 私に他人を欺く手法を教えた同志たち、その顔と名前が。

 ポリーナ。

 ヴェロニカ。

 そしてレゼ。

 私たち4人は同盟者(チーム)だった。

 本物の戦士になるために互いの特技を教えあった記憶がありありと蘇る。

 私が教えたのは、殺しの手管。

 ポリーナは、演技の仕方を伝授した。

 ヴェロニカは、治療技術と尋問のやり方を披露して、

 レゼは、それらの本質を解析し、他の者たちが要領良く噛み砕けるように伝えた。

 

『そう。そうして人間兵器として完成したのが、今の貴女です。アナスタシアさん』

 

 モザイク顔が喋りだす。

 

「お前はなんだ」

『さっき名乗ったでしょう? 面接の悪魔です。……ここは貴女の夢の中。実体のない面接会場です」

「そうか」

『そうか、って……それだけ? そりゃあんまりじゃないですか? 私も今まで色んな人間を面接してきましたけどね、いきなり殺しにかかられたのは初めてですよ』

「ああ」

「いや、ああ、じゃなくてですね……。はぁ、もういいです」

 

 悪魔はどこからともなく一枚の紙を取り出した。

 ぺらり、と眺める。

 

『ええと、アナスタシアさん、ね。……ふむふむ、どうやら貴女はコミュニケーションが苦手なようだ。これは困った……』

「何がだ?」

『いや、失礼。ただいま貴女の人生の履歴書を読んでいるところです……。ふむ、結構。だいたい把握しました。……アナスタシアさん、あなたはソ連の人間兵器養成所――秘密の部屋――とやらで人生の大半を過ごしたようですね?」

「だからなんだ?」

『私は面接の悪魔です。人間にその人生を振り返らせ、ありのままの自身の姿を直視させるのが目的です』

「……もう少し、分かりやすく言ってくれ」

『つまり、私はこれから貴女の人生について質問するということです。貴女は答えるだけでいい』

「別に構わないが……。しかし、人生と言われても、その、困る。私はもう死んだはずだ」

『ええ、ええ、まったくその通りです。あなたは既に死亡しております。ですがこの度、めでたく魔人として復活することになったようでして。そこに私が現れた、というわけですな』

「魔人、か」

 

 なるほど。

 秘密の部屋では悪魔の力を軍事転用するために様々な人体実験を行っていた。

 その中には魔人化プロジェクトも含まれている。

 

「私は魔人になるのか」

『はい。ですから、貴女の人生は再び動き出すということです。つまり、凪いだ前世から荒波逆巻く来世へと漕ぎ出すわけですね。そんな記念すべき船出の日が今日、というわけです』

「……で、なんだ? 私に何を質問したい?」

『性急な方ですねえ……。まあいいです。前置きはこのぐらいにしておきますか。さっそく面接を始めても? ああ、特に構える必要もありません。ただ対話するだけ、私はそういう悪魔なのです。貴女に害はありませんよ。夢が覚めれば全ては泡と消えるでしょう』

 

 よく喋る奴だ。

 面倒だが、手を出しても意味が無いなら仕方ない。

 

『では。貴女の魂の声を聞かせていただきましょう。改めましてお伺いさせていただきます――貴女のお名前は?』

「アナスタシア。そう呼ばれていた」

『自己紹介をお願いします』

「さっきお前自身が言っていただろう。その通りだ」

『ソ連のモルモット、というわけですね』

「違う。戦士だ」

『戦士、と。お次は自己PRをどうぞ』

「自己、ぴーあーる……? なんだ、それは。何を言えばいい?」

『特技。長所。前世において頑張ったこと……という感じですね』

「そこに書いてないのか?」

 

 悪魔がつまんでいる一枚の紙切れ――私の人生の履歴書とやらに顎を向ける。

 

『書いてありますね。ですが自ら言葉にすることが重要なのです』

「……ああ、面倒だ、厄介だ。私はそういうのは本当に苦手なんだ」

『ええ、分かります。ここにもそう書いてあります――』

 

 得意なことは、人殺し。

 苦手なことは、それ以外の全て。

 

『……こんな履歴書を見たのは初めてです。一体どういう生き方をしてきたんです?』

「それもさっき言った。私は、秘密の部屋で育った」

『そんなの理由になりませんよ。私はね、他にも秘密の部屋出身者は知っているんです。けれど誰も貴女ほどに無味乾燥ではありませんでしたよ。どんな凶悪な殺人履歴を持つ者もちゃんと情緒を備えていました』

「仕方ないだろう」

 

 私は人差し指で自身のこめかみを叩いた。

 

「私は()()がおかしいんだ」

『ここ、とは?』

「頭だよ。共感性の欠如。罪悪感が皆無」

『それは……統合失調型パーソナリティ障害でしょうか? それともシゾイドパーソナリティ障害?』

「細かい定義は知らない。そこには書いていないのか?」

『残念ですが』

 

 まあ別にどうカテゴライズされようと知ったことではない。

 私にとってなんらプラスに働かない。

 私が何者であろうとも、私は既に自身の進むべき道を知っている。

 

『ほう、それはどのような?』

「戦士の道だ」

 

 戦士は、戦えばよい。

 敵を殺すだけでよい。

 他には何もしなくてよい。

 まさに私のためにある職業だ。

 

「私は他の誰よりも上手かった。どんな戦場でも生き延びた。どんな相手も殺した。軍人も、民間人も、悪魔も、悪魔遣いも」

『そのことに対して後ろめたさは…………本当に無いようですね』

「ああ、まったく」

『不思議です。先ほども言いましたが、私は他の戦士さんたちにも面接した経験があります。しかし彼女たちでも無意識下では引っ掛かりを覚えていましたよ』

「そうか」

 

 悪魔はぱちんと指を鳴らす。

 何もない空間からパイプ椅子が出現し、男は腰をかけた。

 

『貴女もどうぞ』

 

 勧められるがままに座る。

 男はしきりに「不思議だ、奇妙だ」と私を訝しんでいたが、こっちに言わせれば私以外の全ての人間のほうが分からない。

 

「……私は説明が下手だ。お前は勝手に理解しろ」

『承知しました』

 

 

 例えばの話――

 “殺意”という感覚は存在しない。

 少なくとも人間には、それを感知する器官が無い。

 人間に備わっているのは、五感だけ。

 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。

 これが全て。

 視覚を使って、標的がこちらに気付いているかを観察する。

 視界の外に害意を抱く敵が居ないか、聴覚や嗅覚で察知する。

 

 これらの感覚は鋭敏さを増すほど多くの情報を識別できるようになる。

 例えば、歩く音。

 体重は? 歩幅は? 向きは? リズムは? 重心は?

 これらの情報の差異を読み取れば、その危険度も分かる。

 足音の主がもつ歩行技術の習熟度。

 こちらをどの程度、意識しているか。

 視界に収めればもっと分かる。

 関節の角度、筋肉のたわみ方――どれだけ臨戦態勢になっているか? それをどう隠そうとしているのか、いないのか?

 

 これらの細かい情報を統合し、結論として導かれる危険度の高低が“殺意”と呼ばれる感覚になる。

 ゆえに、人間は、五感をまったく感じとれない場所から殺意を受け取ることはできない。

 

 

「……それと同じことだと私は思う」

『何がです?』

「命が、だ」

 

 命。

 そんなものは存在しない。

 心臓が動いている。細胞が腐らない。そういった状態を指して“生きている”と呼んでいるだけ。

 同様に、“命は大切である”という論説にも根拠がない。

 自身の生活パターンに深く食い込んだ人物が居なくなると強い違和感を覚えてしまう――その生理的な反応に対してもっともらしく言い繕っているだけ。

 命は別に大切なんかではない。

 ただそうやって誰にでも共感できるよう最大公約数的に分かりやすく表現しているだけ。

 ただそうやって明快に定義したほうが社会にとって有用なだけ。

 

 

「――だから私は命を大切だと思えないんだと思う。元から無いものを奪ったと咎められても困るだけだ」

『ふぅ~む……』

「そもそも世の中には“殺せば他の誰かが助かる”という論説だってまかり通っている。アメリカ人はそう言って都合の悪い者を殺しているだろう。『汝、隣人を愛せよ』だ」

『そうですね。それは兵士の正当性を保証するために使われている言葉です。……ですが、理屈では割り切れないのが人間です』

「私は割り切れる」

『ほう? それでは貴女はかつての仲間でさえも同じように殺せるのですか?」

「ああ。命令か必要性があったなら私は仕留めた。躊躇なく。それが私の適性というやつらしい」

『ふうん……そうですか、なるほどなるほど。しかし来世もそうなるかは分からない」

「まさか私が躊躇うとでも言うのか?」

『いいえ。ですが貴女は僅かな疑念を抱いている……』

 

 

 殺すのは簡単だ。

 なんとも思わない。

 だが、殺しても何かを得られるわけじゃない。

 少なくとも前世ではそうだった。

 ……もっと違うやり方もあるのではないか?

 

 

「……そうだな、確かに言われてみればそういうハナシもあるかもしれない。だがな、結局そんな道は無いんだよ。少なくとも、この私に、他者から何らかの影響を受け取る機能が無い限り」

『いいえ。貴女は真剣に考えていないだけです』

 

 悪魔は座ったまま脚を組みかえる。

 

『貴女は前世では迷いがなさすぎた。秘密の部屋という環境にも不満を感じていなかった。むしろ天性を活かせる場所に連れてこられたと幸運さえ感じていた』

「そうだな」

『戦争が起こればいい、と考えていた』

「ああ。その通りだ」

 

 戦争さえ起こってくれたなら――

 殺し合いが肯定される世界さえ用意されたなら、私は誰よりも必要とされたはず。そこには幸福があり、安心があり、納得があったに違いない。

 

 

『それは貴女にとっては楽な道、遊んで暮らすのと同じです。自身の疑念を直視していない』

「何が言いたい?」

 

 悪魔は大きく息を吸いこんだ。

 

『貴女はこれより魔人となって目覚めます。そして生前の仲間であった、とある少女を殺せと命令が下るでしょう』

「そうか」

『殺すだけだと思っているでしょう?』

「ああそうだ。私は殺ししか知らない。他にできることもない」

『それでは疑念は解消されない。殺すだけなら楽でしょう。しかし私としては異なる道を試してみるのをお薦めします』

「……」

 

 悪魔の薦めなんて聞く道理はない。

 だが……無視しきれなかった。

 

 私には本当に疑念があるのだろうか。

 殺しという天性から外れた先に、何か得られるものがあるのだろうか……。

 

「そいつの名は?」

『ん? 何がです?』

「抹殺任務の対象だ。私の知っている奴なんだろう?」

『ええ。その少女の名は――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レゼのハートに火をつけて

 

―モラトリアムの終わり―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『敵か味方か、恐怖バクダン悪魔!

 町に現れた魔人をドカーンと爆破していくのは

 公安デビルハンター職員の服を着たバクダン悪魔だ!』

 

 テレビのスピーカーから興奮気味のレポーターの声が響いている。

 派手なテロップがくるくると回転しながらフェードインし、アップになった映像には1人の武器人間が映されていた。

 細身のシルエット。特徴的な金属頭。

 デンジが恋する美しい少女。

 

「レゼがテレビに映ってんじゃーん!」

 

 デンジの顔がほころんだ。

 50V型モニターにかぶりつき、お気に入りのヒーローを見つけた園児のように喜びを滲ませる。

 画面の左上にはこんな煽り文句が固定されていた。

 

『謎のバクダン悪魔、児童を救う!? その正体は!?』

 

 番組の場所は街中に移りゆく。

 駅前のロータリー、復旧工事中の立て看板をバックに、インタビュアーが市民へマイクを差し向ける。

 1人目は、緊張気味に立っている電気屋の店員の男。

 

『私達を守るために魔人に立ち向かったんです……!

 ボロボロになっても何度も起き上がって……!

 彼女はヒーローです……!』

 

 2人目は、母親と手を繋いだ女児。

 

『あのね、あくまのおねえちゃんが守ってくれたよ!

 ボボボーって、とんできたの!』

 

 にこやかな笑顔には本物の感謝が彩られている。

 レポーターは仰々しく頷いた。

 

『町民を銃撃から守ったという証言もありますが、過去に台風の悪魔と暴れていたという話もあ――』

 

 デンジも鷹揚に腕を組む。

 

「知り合いがテレビに映るってのはいい気分だな」

 

 ぼすんと大型ソファーに身を預ける。

 足元にはパステル調のローテーブル、その奥の壁際には木製のミドルタイプのテレビ台が設置されている。その上には大型プラズマテレビ。

 高校生が所有するには豪華すぎるラインナップだが、これでも節約に工夫を凝らしている。ソファーは実は粗大ゴミ産で、もともと合皮が大きく破れていたが、中身を入れ替えてカバーを縫って布をかぶせて誤魔化した。ローテーブルとテレビ台はリサイクルショップでまとめ買いと値引き交渉で新品価格の20%で手に入れた。テレビ本体だけは新品で調達するしかなかったが、これも先程テレビに映っていた電気屋の店員から感謝の言葉とともに『店員価格』で購入することができた。

 デンジはぐるりと首を巡らせて約8畳のリビングスペースを見渡してみる。

 

「こーんないい家に住めるなんて夢みてーだ」

 

 思い返せば引っ越しの多い人生だ。

 初めはマキマに拾われて早川家のアパートに引っ越して、

 次はナユタと2人でボロアパートに転がり込んで、

 それも数ヶ月で追い出されてしまい、公安所有のマンションをどうにか借り受けて、

 と思ったらまたすぐに爆破され、とうとう行くアテがなくなった。

 困ったところに現れたのは、岸辺だった。

 

 

 

「犬7匹でも住める物件があるぞ」

 

 聞けば、なんと二階建て。しかも地震や火事に強い鉄筋鉄骨コンクリート造で、部屋数も多く、驚くべきことに風呂とトイレがどちらの階にも備え付けられている。更に敷地は広く、駐車場には大型バスを3~4台も停めることができるらしい。これで家賃は以前のボロアパートと同じでよいというのだから耳を疑うしかない。

 ナユタはすかさず突っこんだ。

 

「こんなの裏があるに決まってる」

 

 例えば、幽霊の悪魔が毎晩でるとか。

 そのせいで入居者が10世帯ぐらい連続で自殺しているとか。

 ……が、岸辺の答えは拍子抜けだった。

 

「いわくつきの物件じゃない。新築だ」

「……なんで?」

「元々、公安特異6課の寮にするつもりで建ててた。それが完成したってわけだ。要するに、お前らは先に住んどけって話な」

 

 納得した。

 やけに広くて頑丈なのも、将来的に悪魔や魔人を多数住まわせるつもりだかららしい。

 実際に見てみたらよく分かった。

 無駄に塀が高いし、有刺鉄線まで張り巡らされている。寮と呼ぶには威圧的すぎた。外からの侵入を防ぐ造りというよりも内からの脱出を阻むための設計思想。むしろ刑務所と呼んだ方が近い。

 

「ふ~ん。まあ、悪くはないかな」

 

 言葉とは裏腹にナユタもおおいに喜んでいる様子だった。

 それもそのはず、諸外国から狙われている身としては住まいは堅牢であるに越したことはない。

 デンジとしても屋根と壁があれば文句はない。

 しかし、入居するためには1つ条件があった。

 というよりも公安からここに住めと命令されていたので初めから拒否権は無いのだが――同居人が1人つくと言うのだ。

 それが、レゼだった。

 

「彼女が寮長だ」

「そうなると思った」

「ここは公安特異6課の寮になる。これからどんどん悪魔や魔人が増える予定だ。今から他人との共同生活に慣れておけ」

「まあ、別にいいけど」

「ふーん……。やけに素直だな」

「好きなことだけやって生きられる身上じゃないし。それにレゼは人となりも知っている。問題ない」

「ほお。仲良くやれそうか」

「さあ。相手次第かな」

 

 引っ越しはスムーズに終わった。

 家具のほとんどは前のマンションが爆破されたときに失っていた。身一つと犬猫を連れて移動するだけでいい。

 

 デンジとナユタはそれぞれ1階の部屋を割り当てられた。

 ワンルームで約8畳。バス・トイレ別。

 一応公安職員であるとはいえ、学生の身分で、しかも要監視対象の武器人間&悪魔としては破格の待遇だ。

 だがレゼはもっとすごかった。2LDKで、しかも約60平米。

 

「おおー、すっげー広いじゃ~ん」

「ずるい。ずるい。ずるい」

 

 寮長なんだから広くて当たり前、という岸辺の言い分は通用しなかった。少なくともナユタには。小さな悪魔はことあるごとにやっかみを零すようになり、岸辺は寮に寄りつかなくなった。

 

 

 

 ――と、まあそんなこんなで3人は念願の住居を得ることになる。

 レゼには公安職員として初めての給料が支払われ、家具が揃うと彼女の部屋は寮内で最も居心地の良い空間へとランクアップした。デンジの足は自然とレゼの部屋に向けられるようになり、レゼも当たり前のように受け入れる。ナユタは時々犬をけしかけた。

 そんな光景が日常になりつつあったある日、デンジがいつものように勝手にレゼのリビングルームでテレビを観ていると、ワイドショーでボムガール特集が流されていた。

 

『謎のバクダン悪魔、児童を救う!? その正体は!?』

 

 つい先日のハサミの魔人との戦いが映しだされていた。

 情報元はほとんど街の住人で、彼らが録った写真と映像、そしてインタビューをもとに構成されている。

 

 住人を守って避難させた。

 身を挺して児童を救った。

 

 誰の目にもわかる民衆の味方。弱き者を守るヒーロー。説明の区切りごとに観客の感嘆の声が番組会場に漏れ響き、ふんぞり返ったコメンテイターが「公務員はかくあるべし」としたり顔で頷いた。

 

「褒められるのっていい気分だな。なんだか俺も鼻が高いぜ」

「そお?」

 

 デンジがくるりと振り向いた先、ソファーの背もたれに寄りかかるようにしてレゼが立っていた。

 

「キミはまた勝手に入ったね」

 

 デンジはワイドショーに指を差してにやけ顔。

 

「どーよ、嬉しいだろ~?」

「ん~、どうかな」

「俺んときは嬉しかったぜ? チェンソーマン、チェンソーマン! ってすげえモテてよ~」

「まあ……そうだね~」

 

 レゼはゆっくりとソファーの背もたれに肘を乗せ、組んだ指の上に顎を乗せる。

 どこか遠い目をして、テレビの中で紹介されている自身の姿を眺めた。

 

「悪くはない、かな」

「だろ~~?」

「うん。嬉しい……ってことなのかな。変な感じ。褒められる……褒められる、かぁ……」

 

 少女はむずがるように唇を動かした。

 しばらくそのままの姿勢でいたが、不意に勢いをつけて背を伸ばす。真顔になって、「でも良いことばかりじゃない」と気を引き締めるように呟いた。

 

「え?」

「むしろ不味いことになったかも」

 

 報道のせいで、チェンソーマンに続いて第二の武器人間が日本にいる事を世界中に知られた。

 マキマの手駒が、その支配からぬけだして、なお日本についている。この事実は他の国にとっては脅威でしかない。

 彼らはきっとこう考えるはずだ。

 もしもこの調子で他の武器人間たちも日本の戦力に加わっていったら……?

 マキマがいなくなった今、かの大悪魔が抱えていた手駒たちがまるまる1つの国に吸収される事態はけして無視できない。

 なにしろ先日、アメリカから差し向けられた銃の悪魔が撃退されて、その肉体が日本の所有物になってしまっているという事実があるのだ。

 パワーバランスの崩壊。

 今はまだ予兆の段階に過ぎないが、日本国の戦力増大の懸念事項はいくつも揃っている。

 

「こういう事態を大国は見逃さない。早いうちに芽を摘もうとする」

「そうかあ……そうかあ?」

「アメリカと中国あたりは動くだろうね。武器人間を欲しがってる。それに支配の悪魔の存在もそろそろバレてそうだし」

「ふ~ん……なんかよくわかんねえけど、いろんな国から刺客が来るってこと?」

「そだね」

「そっかあ。……ん~~、人間とバトルすんのはヤだなあ」

「キミねえ。わりと大変なことになるって分かってる?」

 

 緊張感のないデンジにジト目が向けられる。

 けれどデンジはどこ吹く風だ。

 

「似たようなこと前にもあったしな」

「前にもって……ああ、ああー……? そっか、アレか」

「ん?」

「ええっと、ドイツからサンタクロースも来たんでしょ?」

「おう。人形悪魔がいっぱい来たけど、俺がすっげえ~ドカンと頑張って大丈V! だったぜ!」

「へー、そっか。だったら今回もドカンと頑張らないとね」

「なーに、一生ずっと殺し屋に狙われるわけじゃねえ」

 

 デンジは再び前を向く。

 

「来たのを全員捌けば相手も様子見してくる。そうすりゃ、そうすりゃ……」

「ん?」

「旅行に……行ける……?」

 

 思わず口をついた言葉。

 それはかつて、アキと交わしたやり取りだった。

 

 

『旅行を中止とは言ってない。延期なんだ』

 

 

 そういえば、とデンジは思った。

 あの時は結局、旅行は中止になった。代わりにアキの故郷に行ったけど……今度はちゃんと遊びの旅行にも行ってみたい。

 

(でもちゃんとした旅行ってどんなんだ?)

 

 デンジの脳裏に浮かぶ地名は、やはり江の島。

 よく知らないがきっと島だろう。島というからには海に浮かんでいるはずだ。海。海といえば、泳ぐに決まってる。サーフィン? スイカ割り? 首を捻って旅行の情景を絞り出す。

 

 ざざーん、ざざーんと波の音が鳴っているんだろう。

 きっと爽やかな風が吹いている。

 海岸沿い。きれいな景色。砂浜を走る。

 きらめく太陽。波打ち際で、少女たちと水飛沫をかけあって遊ぶ。

 そのときのナユタはきっと歳相応の無邪気な笑みを浮かべているし、レゼはセクシーな水着の紐をずらして「日焼け止め、塗って」と艶めかしい背中を晒してくれて、

 

 ――瞬間、デンジに電流走る。

 

「みずぎ……?」

 

 脳が、震えた。

 今の生活は最高だ。風呂も毎日入れて、いいモンも食べられる。可愛くてツラの良い女たちと一緒に住んでいて……もう百点の生活なのに……なんかが足りない気がしていた。

 ポチタとの契約――

 

 

『デンジの夢を私に見せてくれ』

 

 

 夢。

 俺の夢……!?

 

 デビルハンターの会社の社長になる――その夢とは別に、マジでマジのゴールがあるならば、それはセックスだと思っていた。

 セックスこそ男の夢!

 けれどセックスは、最悪、金を払えば達成できる。そういう店があると先日知った。

 ハードルが低い。

 胸が躍ることに変わりはないが、なにかが違う気がしていた。

 

 セックスって、人生の夢って掲げるほど大したもんでもないんじゃねえか……?

 でも、水着ならどうだ……?

 好きな女たちと一緒に水着になって遊ぶ――それは心が通じ合ってなきゃできねえ気がする……。けして金では買えない青春の淡い想い出――

 

 

「――なあ、レゼ。今回の敵ぃぶっ倒したらよぉ、江の島に行かねえ?」

「へ」

「江の島……海、プール、いや海……。行きたい、すげえ行きたいい!」

「なに……? なんで江の島……?」

「水ぎゅわ……水、が」

「水?」

「そうだ、水が、好きなんだ。ええと、泳ぎたい……?」

「んん、んん~? 泳ぎにでかけたいってこと?」

「そう、そうだよ!」

「ふーん。じゃあ、安全になったら、行ってみよっか」

「ヤッター!!」

 

 デンジは幼児のごとく飛び上がり、全身から喜びを撒き散らす。

 レゼは、といえば、泳ぎと聞いてまっさきに浮かんだのがソ連時代の寒中水泳訓練だったので、デンジの痴態がどこからくるものなのかまったく理解できていない。

 とはいえ。

 少女は遊び目的の旅行なんて想像したこともない。

 楽しみよりも、「そんなことをしてもいいのか」といった困惑の方が強い。

 

(海に遊びに行く……仕事でもないのに。そんな民間人みたいなこと、やってもいいのかな)

 

 自分は人殺しの武器人間。

 故国のためと言いながらこの手を血みどろに汚してきた。

 元戦士の胸中には色濃い暗黒がカビのようにへばりついている。

 でも――とレゼは首を振る。

 

 そうやって自身を卑下して『普通の幸せ』を放棄するのは簡単だ。

 「私には資格がない」と嘆くふりをしながら現状を維持していれば後ろめたさは減るだろう。

 でも。

 かつてのモルモット仲間たちは、その道を選ぶ余地さえなかったのだ。

 

(ヴェロニカ……)

 

 自分はおそらく、あの秘密の部屋の住人のなかで唯一『普通に生きる』道を見つけた。

 確かに自分にはその道を進む資格はないだろう。

 権利なんてもっての他だろうし、私が手にかけてきた者たちとその遺族は「どのツラ下げて」と呪うに違いない。

 だが、それでも。

 かつてその道を選ぶことさえできなかった仲間たちのためにも、自分は胸を張って前向きに生きなければならない。

 

 ――レゼはそう考えるようになっていた。

 

 踵を返す。

 まっとうに生きる。そのためにも敵は撃退しなければならない。

 今後予想されうる状況に対応するために岸辺に相談する、そう決めて、廊下に出る。電話に手をかけて、番号を回した。

 

「あ、もしもし、岸辺さん? テレビ観ました? はい、はい、それで――」

 

 扉がゆっくりと閉まっていく。

 

 

 

 

 

 その背後。

 リビングのテレビからニュースキャスターの声が流れていた。

 

 

『見てください! モスクワが燃えています! 現地では厳戒令が布かれ、我々報道陣も自由に動くことができません。重装備を携えた兵士たちが慌しく行き交っており……とにかく混乱した状況で……、ええと、さる筋からは、ソ連の国家元首、他多数の高官たちが死亡したとの情報も入ってきています。ソ連政府は発表では、事故・事件等ではなく、偶々不幸が重なっただけとのことですが、あまりにも不自然な点が多く――』

 

 

 

 

 

残 り 96 時 間

Осталось 96 часа.

 

 

 

 

 

 皆殺しの戦士(ターミネーター)がやってくる。

 



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残り72時間

 人間の頭の中にはスイッチがある。

 殺しのスイッチだ。

 

 普段はOFF。

 いわゆる普通、日常の状態。

 有事になるとONにする。

 いわゆる非常時。

 Dead or Alive――生存のために常識を捨てる。法律によるペナルティを忘れ、モラルに囚われない暴力を振るえるようになる。殺人をも許容できる心理状態にもっていく。

 優秀な兵士は、このスイッチのON/OFFの切り替えがスムーズだ。

 いつでもどこでも、ヤると決めたら数秒で、標的の急所へナイフを突き立てられるようになる。

 

 秘密の部屋で行われていた実践を思い出す。

 ステップと回数を積み重ねた結果、私のスイッチはとても軽くなっている。

 瞬き一つで、躊躇いなく切り替える。

 理由付けを行うまでもなく、息を吸うように標的の首を折ることができていた。

 そんな私たちは一般人からみればきっと悪魔のように見えただろう。

 事実、つい先日、とある公安職員にそう揶揄された記憶がある。

 

 

――ソ連が造った生粋の殺し屋ってんでな、ターミネーターみたいな奴だと思ってたんだよ。

 

 

 まったく否定はできない。

 確かにそう見えただろう。

 けれど……これは言い訳でもなんでもなく、過大評価もいいところだと私は思う。

 だって、私にも、そしてあの残虐だったヴェロニカでさえ、スイッチがあった。

 どんなに軽かろうと、OFFの機能があったのだ。

 もしも本物のターミネーターだったならスイッチ自体が無いはずだ。

 それが人間という生き物の限界。どれだけ冷酷になろうと訓練を重ねても、実践で人殺しに慣れようと、殺戮機械にはなりきれない。

 ――で、あるはずなのに。

 今になってもどうしても理解しきれない。かつて秘密の部屋には、例外の女が一人居た。

 彼女は確かに人間だったはずなのに、スイッチ自体が無かった。

 あるいは生まれたときからONに入りっぱなしだったのかもしれない。

 彼女は秘密の部屋に連れてこられた最初期の段階からゼロ秒で生き物の命を奪う決断ができていた。

 

――私は無敵だ。

 

 強がりではなかった。

 意欲をアピールするための誇張でもなかった。

 彼女の精神構造は初めから鉄壁で、身体能力に恵まれていて、何より技術をスポンジが如く吸収する柔軟さを持ち合わせていた。

 任務遂行に向けて一直線に進むアルゴリズムを備えた戦闘機械。勝利のみを積み重ね、どんな過酷な戦場でも生き延びる。彼女は実際に無敵だった。

 少なくともモルモットの全員がそう思っていたし、勿論私だってそうだった。

 

 彼女が処刑されるその日まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「勝負アリ!」

 

 模擬戦が終わり、鼻血を垂らした男が頭を下げる。

 

「ぐうう……。ご指導ありがとうございました!」

「ありがとうございました」

 

 涼しい顔で会釈した少女は無傷。華奢な体躯で屈強な男を圧倒した勝者の名は、レゼ。

 この模擬戦の教官役でもある。

 

「さて……」

 

 首を巡らせると、道場の壁際に居並ぶ公安のデビルハンターたちが目に入る。

 渋面が半分、真剣な面持ちが半分。

 意外だな、とレゼは思った。

 いきなりヨソからやってきた小娘を教官に据えられて、しかも代表者の鼻っ柱を折られたばかりにしては反意が薄い。

 

「見ての通り、ルールに縛られた対人戦となんでもアリの対悪魔戦ではハナシが違ってきます。それが分かりましたか?」

「……へい」

 

 

 

 模擬戦の前にレゼはこう言った。

 

「――どのぐらい本気で教えてほしいです?」

 

 その言葉は公安のデビルハンターたちのプライドを逆撫でした。彼らとて日々命を懸けて悪魔と戦う戦士、いくら相手が軍事国家で英才教育を受けたプロのエージェントであろうとも聞き捨てならない。

 

「センセイの本気、見せて下せェよ」

 

 指を鳴らしながらレゼの前に現れたのは、スキンヘッドの大男。

 数ある対魔課のなかでも武闘派の筆頭で、空手の全国大会で何度もトロフィーをとったとか――つまり、レゼにとっては、実力を示すのにうってつけの相手だった。

 

「分かりました」

 

 男の身長は190cmを超えている。対するレゼは傍目にはただの女子高生。親子に等しい体格差であり、2人が対峙する構図は常識にあてはめればたちの悪い冗談にしか見えない。

 

「模擬戦でいいです?」

「当たりめェだろ? っつーかよ、あんた、悪魔になンねえの? ボムの悪魔になれんだろ?」

「このままで大丈夫です」

「……舐めてんのか?」

「これは模擬戦ですから。技術の話なら人間同士のほうが分かりやすいでしょ」

「へぇー」

 

 男のこめかみがぴくぴくと震えている。

 レゼは平然としたまま。

 

「三本勝負にしましょうか。それぞれ2分間」

「無制限でもいいぜ?」

「違うルールで三本やりたいんです」

「ふゥん……。どんなルールだ?」

「一本目は空手のみ。二本目は体術全般を解禁、打つ・投げる・極めるアリ」

「三本目は?」

「なんでもアリ」

「……ま、いいや。さっさと始めようぜ」

 

 模擬戦が始まった。

 

 一本目は、レゼが防戦一方で時間切れ。

 二本目は、ほぼ互角。決定打に欠ける展開が続いた。

 

 よく捌くな、というのが観戦者たちの感想だった。体格差を鑑みれば技術の開きを充分感じさせる結果ではある。けれどデビルハンターは命を張る職業、悪魔は体格差なんて考慮してくれない。

 互角程度の教官に敬意は抱けない。

 道場の開始線に戻ったレゼへの視線は未だ冷ややかなまま。

 三本目が始まる直前、レゼは一枚の紙切れを取り出した。

 

「決闘誓約書です」

 

 それはありていにいってしまえば“どんな結果になろうとも文句は言わない”と誓う内容だった。

 もちろんその紙切れの効力は法律を超越しない。重大な怪我を負わせてしまえば責任を問われる。

 しかしレゼは武器人間。

 折られようが、斬られようが、ピンを抜けば回復する――それが明示されており、かつレゼ側から訴えるような真似はしないとわざわざ書かれてある。更にご丁寧に連帯責任者の欄には“岸辺”の名も連ねられていた。

 

「なんだこれ」

「読んでそのままですけど」

「あんた、マゾなのか」

「やだなぁ、そんなわけないでしょ。これは共通の理解を得るための手順みたいなもんです」

「はあ?」

「なんでもアリって言っても口だけじゃ実感を持てないんじゃないですか? 今までの2戦で分かります。私のこと生意気な小娘としか思ってないでしょ」

「つまりなんだ……殺す気でやれってことか? いいのか? 俺ぁ人型の悪魔だって駆除したことがあるんだぜ」

「どうぞ、そう思ってやって下さい。これは実戦、私は悪魔、隙があれば眼とか潰しちゃいますよ」

「それでびびると思ってんのか? ……舐めんなよ」

 

 そして三本目の2分間が過ぎた。

 レゼの圧勝だった。

 ほんのささいな関節の動き、つま先や目線の向きが、言葉よりも雄弁にレゼの意図を知らせていた。

 眼を潰すぞ。

 耳を引きちぎるぞ。

 放たれた本物の害意に男が怯んだわけではない。それでも男が防御に回らざるをえなかった理由はただ一つ、レゼが相打ちをよしとする無茶な攻勢にでたからだ。

 負けてもいいから不具にする。

 死んでもいいから一生残る傷を負わせる。

 ……そんな愚かな駆け引きに、ただの人間が応じられるわけがない。ましてこれはただの模擬戦、絶対に負けられない戦いでも何でもない。

 不死性を盾にした読み合いの放棄――はっきりいって比武においては外道の一手。

 しかし公安職員たちは誰一人として不平を零さなかった。

 こういった常軌を逸した攻撃性は一部の悪魔が備えるもの。デビルハンターとしては当然対応できなければならない。つまり――戦闘技術を備えた人間兵器が使ってきたから対応できませんでしたは通じないのだ。公安のデビルハンターはあらゆる魔の手から市民を守る盾なのだから。

 

 

 

「――というわけで、皆さん、もっと卑怯になってください」

「俺ぁ、どうすりゃよかったんだ? ……いや、よかったん、です?」

「今回に限っていえば、普段から武器を隠し持っておくべきでした。それでいきなり刺すなり撃つなりすれば勝率はあがった。もしくはそこで観戦してる誰かに参戦してもらって複数人で私をボコるとか」

「いやいや、だって、これは模擬戦だろ?」

「だから?」

「だからって、……ルールが……」

 

 少なくとも私が教育された場所ではそのぐらいやる奴はいた、と彼女は言った。

 そこでは教官たちも黙認したという。何事においても想定不足でやられるような奴は要らないから。

 

「なんでもアリですよ。少なくとも今回どうしても勝ちたいならそうすればよかった。……っていうぐらいの選択肢をね、いつでも持っていてくださいって話です」

「……」

「とにかく皆さんは全力で生き残ってください。その分だけ救われる市民が増えますから」

 

 

 

 

「手厳しいな」

 

 階段を下ると、角刈りの巨漢が立っていた。

 よく知っている男だった。

 つい先日、東京のデビルハンター本部を案内してくれた男。

 

「まあ仕事なんで」

 

 軽く会釈して、隣に並んで歩く。

 歩幅は短く、私と速度を合わせてくれている。

 彼は確か、高校の後輩の親友が私のせいで死んだと言っていたはずだけど。

 ちらりと見上げると、目が合った。

 

「……恨んじゃいない」

 

 それだけ言って、むっつりと黙り込む。

 こつこつと2人分の足音が鳴り続けた。

 ……ふぅん。

 前回の事件でなにか思うところでもあったのかな。

 だとしたらチョロすぎる。

 

「今テレビで私のこといろいろ報道されてますけど……あんなのに感化されてちゃダメじゃないですか?」

「俺は、この目で見た」

「子ども一人助けただけですよ」

「そうだな。公安のデビルハンターなら誰でもそうする」

「だったら……」

「でもな、誰でも公安のデビルハンターになれるわけじゃない」

「……はあ」

 

 男は硬い表情のままだった。何かを迷い、何かを恥じている。

 ただこちらを見ないようにして隣を歩き続けていた。

 

「どうも」

 

 居心地は悪くなかった。

 

 

 

 男と別れ、指定された資料室に入室すると、岸辺さんが立っていた。

 

「お前ら、次の休みに旅行に行ってこい」

 

 いきなりだった。

 

「金はだしてやる」

「いやいや、なんにも申請出してませんけど」

「もう通した」

「よく許可が下りましたね……」

 

 私たちみたいな危険人物に。

 さてさて、これは一体どういう流れだろう? 岸辺さんは部下の余暇まで率先して手配してくれるタイプではない。ではもっと上の人が命令したのだろうか? つい最近トラブルを起こしたばかりの元ソ連のエージェントと支配の悪魔、そしてチェンソーマンというセンシティブすぎる存在に、充実した休日を提供してあげなさーい、って。

 ありえない。

 怪しいと思ったからカマをかけてみた。

 

「あ、デンジ君が江ノ島に行きたいって言ってましたけど」

「ダメだ」

「どうして? 旅行していいんですよね?」

「江ノ島は神奈川だろ。俺ん管轄じゃねえ」

「だったら都内のレジャー施設とか」

「却下」

 

 ふむふむ、なるほど。

 リスク管理しやすい都内じゃないとダメ。

 そして人がたくさんいる場所もダメ。

 だったら答えは一つだ。

 

「刺客が来るんですね?」

「話が早くて助かる」

「どこから来るんです?」

「いろんな国からだ」

「アバウトすぎません?」

「しょうがないだろ。ろくな情報が入ってこない」

「マキマの情報網がなくなりましたからねえ……。もっとスパイとか育てたらどうです?」

 

 岸辺さんは窓のブラインドを指で下げ、目を細める。

 

「東京にも田舎はある。奥多摩っていうだけどな、電車一本、山と川、田舎っていうより未開の地の一歩手前。斜面に家がへばりついてる感じだ」

「そこなら暴れられても問題ないってわけですね」

「キャンプだよ、キャンプ。デンジにはそう言っとけ」

 

 楽しみを一つ与えておくだけでやる気が違うからな、と岸辺さんは言った。

 お優しいことで。

 

「今回は公安も全面的にバックアップする。刺客を迎え撃ち、後顧の憂いを断て」

「了解です」

 

 

 

 

 

残 り 72 時 間

Осталось 72 часа.

 



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残り120時間


 

[アメリカ]

 

 

 

「お国からお仕事を貰った。今回はデビルハンターの仕事じゃねえ」

 

 痩せた成人男性が、説明を始める。

 背が高く、食卓の席についたままでも威圧感があった。

 

「おそらく人を狩る事になる」

「人を狩る~? ナンパか?」

 

 対面に座った太り気味の男が反応する。

 人をおちょくるように片眉を上げながら取り皿にスパゲティを盛っていき、そういえば、と口を開いた。

 

「日本と言やあ、女だよな」

 

 やれやれ、と首を振ったのは3人目の男。

 

「女? ふっ、興味ないね」

 

 小柄で、全身黒一色。

 演技かかった動作で大げさに肩を竦めている。

 ――男たちは、3人兄弟だった。

 長男は痩せ。

 次男はデブ。

 三男はチビ。

 アメリカでそれなりに活躍するデビルハンター。普段は協力してそこそこの悪魔を狩っている。しかし今度の依頼はいつもと違う、と長男は言った。

 食卓の端に置かれたノートパソコンを操作する。動画ファイルを実行してアプリケーションを立ち上げると、映し出されたのは、頭の真ん中から電動ノコギリを生やしている武器人間――チェンソーマンだった。

 

「このノコギリ男を殺してアメリカに連れてくる。そうすりゃ200万ドルくれるとよ」

「200~!? ケタ間違えてねえか!?」

「危ねえ仕事だ。おそらく公安と警察に守られてるトコをさらわなきゃいけねえ。俺達の存在が明るみに出てもアウトだな」

 

 黒ずくめのチビが大仰に立ち上がる。

 

「ふっ。僕は誰よりも黒が似合う《夜の剣士》――不可能はない」

「……はぁ~。お前は座ってろ」

 

 デブはいかにも白けたとばかりに溜め息をつく。

 痩せの長男に向き直って、愚痴をこぼした。

 

「なあ、ちょっと前に同じ依頼を受けた奴らがいたよな? 皮の悪魔と契約していた凄腕の3兄弟。あいつらがどうなったか知ってっか? 返り討ちにあったらしいぜ。……ビビってるわけじゃねえけどよ、リスキーすぎねえか?」

「だが、金が要る。分かってんだろ?」

 

 長身の男が顎をしゃくる。

 その先では、チビの三男が模造刀を左右に装備して駆け回っていた。「でいっ! せりゃーっ!」とリビングの隅でチャンバラごっこに興じている。いい歳をした大人がまるで子どものような振る舞いで、幼稚を通り越して不気味ですらあったが、長男と次男は深々と溜め息をつくだけだった。彼らにとってそれは見慣れた光景だった。

 

「……あいつは、悪魔の使いすぎで精神を汚染された。今じゃ現実と妄想の区別もつかない。だから、大金が要るんだよ。引退しても暮らしていけるようにな」

「分かっちゃいるけどよ、あいつ、もつのか? 次に悪魔を使ったらどうなっちまうか分からねえ。今回も連れて行くんだろ?」

「仕方ないだろう。俺たちは3人で1つだ。力を合わせなければ戦えない。だが、逆を言えば、連携をとればどんな相手だろうと対処できるはずなんだ。……なぁに、これが最後の仕事になるはずだ」

「俺らの悪魔はすんげぇからな。まあ使うとリスクもでかいんだがよ」

 

 次男が肩を竦める。話は終わり、というポーズだった。

 食事が再開される。2人の男が黙々とスパゲティを口に詰め込んでいく後ろでは、チビの三男が設置された撮影用カメラの前でふふんと気味の悪い笑みを浮かべていた。

 

「Hey Guys! この動画チャンネルを訪れた君たちは運がいい! なにせこれから始まるのは人類史に残る天下無双のデビルハンター、その活躍の第一歩目なんだからな! 気になるターゲットは……こちら! そう、皆も知っている、ジャパンの有名なノコギリ男、チェンソーマンさ! 愚かなジャパンのメディアは彼が銃の悪魔を倒したと宣伝しているが嘘に決まってる。この僕が証明してやろう――The strongest must be America! 君たちの応援とチャンネル登録を期待しているよ!」

 

 

 


 

[中国]

 

 

 

 少女が2人、港を走る。

 痩せぎすの腕と脚を振りながら、コンテナの隙間を必死の形相で抜けていく。

 彼女たちは追われていた。中国政府の手の者に。非常に危険なものを奪ったからだ。

 それは、悪魔。

 2匹の悪魔。

 その片方の名は――未来の悪魔。

 

「おい、早く逃げる道を教えろ、クソ悪魔! 追いつかれちまうっ!」

「お姉ちゃん、もう無理だよ……捕まっちゃう……!」

「ああ、くそっ! ――未来最高! 未来最高!」

 

「――イェイ・イェイ! 未来最高って叫んだね! イェイ!」

 

「出てくるのが遅ぇんだよ!」

「キミが未来最高しないからだろ」

「うるせえ! さっさと未来を教えろ! 次はどこに行きゃいい!?」

「あっち」

 

 言われた通りに角を曲がる。空き缶を蹴り飛ばし、全力で駆けていく。

 捕まれば、終わりだ。

 悪魔は奪われ、誓いは果たせなくなるだろう。

 だから姉妹は捕まるわけにはいかなかった。夜の港をただ駆ける。

 しかし、その先は……

 

「――!? 行き止まりじゃねえかっ!」

「そうだぜ、イェイ! ここが最適なんだ。キミが撃たれてくれるからね!」

「畜生!」

 

 コンテナの袋小路に追い詰められた。

 振り返ると、3人の男たちが追いついたところだった。逃げ道は塞がれた。もう逃げ場はない。

 ならばもう、戦うしかない。

 

「さぁ、もう何を言えばいいかは分かるだろ? いつものように口汚く罵るといい!」

「くっ」

 

 少女は唇を噛み締める。

 一瞬で、覚悟を決めた。

 

「来いよ、クソ野郎ども! 今から悪魔を使ってバラバラに引き裂いてやるぞ!」

 

 追跡者たちに怯えが走る。

 その手には拳銃が握られていた。

 こうなってしまえば道は1つ。恐怖に打ち勝つために撃つしかない。

 

 パンパンパン

 

 乾いた銃声が響いた。

 何発も、何発も。

 都合15発の弾丸が華奢な少女の身体にめり込んだ。

 国に歯向かう悪魔使いに人権は無い。身体中から血を噴き出して、ぺしゃりと糸が切れた人形のように倒れこむ。

 

「お、お姉ちゃん!」

 

 悲痛な声をあげながら、妹が縋りつく。

 姉は、白目を剥いていて、口の端から一筋の血を垂れ流していた。ぴくりとも動かなかった。呼吸は既に止まっていた。即死だった。

 

「そんな……」

 

 あまりにもあっけない終わり方だった。人間一人の人生が一瞬で消し飛んだ。理不尽、などという言葉では到底表現できない。数秒前までは確かに意思を持つ人間だったのに。

 2人の逃亡者、その片割れである姉の方は、ボロ雑巾になってしまった。

 それは数秒後に妹が辿るはずの未来。

 彼女を守る者はもういない。

 妹の方もまた姉と同じように撃ち抜かれるのを待つだけ――

 だが。そうはならなかった。

 少女は、少女たちは、悪魔使い。

 

「がっ」

「ぎ」

「あ……あ?」

 

 呻き声をあげ、追っ手の男たちが戸惑っている。

 身体中に、穴が開いていた。

 服のあちこちから赤い染みが広がっていく。

 誰にも攻撃されていないはずだった。ここは狭いコンテナ迷路の袋小路、対峙しているのは膝立ちで怯えている少女1人だけ。死ぬ理由なんて1つもないはずなのに……そんな苦悶の表情を浮かべて、追跡者である3人の男たちは倒れ伏す。

 血溜まりだけが音も無く夜のアスファルトに広がっていく。

 

「あ、ああ……」

 

 死んだ。死んでしまった。

 いいや、違う。殺したのだ。

 誰がそれをやったのか、この場でたった1人だけ生き残っている少女は知っていた。

 罪深き殺人者は彼女たち姉妹に他ならない。

 

「ううう」

 

 ぶるぶると身体を震わせて、業の深さを思い知る。

 妹は分かっていた。こうなってしまうことを。

 目の前で死んだ男たち――3人も! これを成したのは他でもない、自分たち姉妹のエゴだった。目的のためならば他の全てを犠牲にすると誓った過去もある、しかしそんな気概は既に冷えきっていた。誰かを踏みつけにしてしまったという認識は、回を重ねる度に確実に良心を蝕んだ。

 妹は、ただ嘆く。

 こんな悪魔と契約なんかするんじゃなかった、と。

 男たちを殺した悪魔――それは、この姉妹が契約した2匹の悪魔のうちのもう片方。

 名前は、復讐の悪魔。

 能力は極めてシンプル。

 あらゆる攻撃をそのまま跳ね返す。そして、契約者に復讐を誓う憎悪がある限り、その者の身命はけして途切れない。目的を果たすまで蘇る。何度でも。

 

『オ前ラノ、憎悪ハ、心地良イ……』

 

 復讐の悪魔が、鼓膜の内側で満足そうに呟いた。

 

「……う、ぐ」

 

 呻き声。

 漏らしたのは、姉の死体だった。

 喋った、だけではない。今度は指が動く。

 たった今死んだばかりの男たちの命を引き換えにしたように、ただの肉塊だったはずの身体が息吹を取り戻す。拳をぎゅうと握りしめると、コツンカツン、と小さな金属音が鳴った。撃たれた穴から弾丸がひりだされていく。逆再生のように穴も塞がった。

 少女は蘇る。地獄の淵から戻ってくる。憎悪を残す限り、何度でも。

 ゆらりと立ち上がった姿は、血塗れで、まさしく幽鬼のようだった。

 

「くっそ痛ぇ……」

「お姉ちゃん!」

「痛え! 抱きつくな!」

「もう、もう嫌だよ……。お姉ちゃんが酷い目に遭うの、見たくないよ……」

 

 姉は、忌々しげに引き剥がす。

 その眼には炎が燃えていた。何者にも消すことのできない怒りの炎が揺らめいた。

 

「甘ったれんな」

「だって……」

「あのな、もう何度も言ったよな? アタシらは本当ならとっくの昔に死んでたはずなんだって」

 

 肩を掴んで、静かに、だが力強く。歯を剥きだしにして吐き散らす。

 

「貧乏で、親無しで、学も無ければ、器量も無え。……見ろ! このトカゲみてえにガサついた肌を! 皮膚病にかかってるってだけで誰もアタシらを見なかった! アタシらはな、ドブネズミみてえに路地裏でくたばるしかなかったんだよ! ……それを助けてくれたのは誰だ? 優しくしてくれたのは、一体誰なんだよ!?」

 

 妹は目の端に涙を浮かべて、絞り出す。

 

「ク、クァンシさん……」

「そうだ! クァンシだ!」

 

 灼熱が湧いていた。

 

「あの人だけだ、こんなアタシらに優しくしてくれたのは。なのに、殺された。こんなのが許せるかよ? ええ? 許しちまったらアタシらはどう生きろってんだ? あの人の優しさをなかったことにできるのか? ……できるわけがねえ!」

「でも、でも……」

「でもじゃねえ! 決着をつけるんだよ! アタシらは、支配の悪魔をぶっ殺すまではまともに生きることもできねえんだ!」

 

 振り払うように踵を返す。

 震えている妹を置いて容赦なく進んでいく。復讐の道を往くために。日本行きの船に密航するために。

 

「ま、待って……」

 

 追い縋ろうと一歩踏みだした、その時に。

 

「ふふふふふ……」

 

 未来の悪魔が、妹の目の中で嗤っていた。

 

「キミの姉は、未来で最悪な死に方をする」

 

 びくり、と妹の肩が震える。

 

「どういう死に方をするか聞きたいか? キミの姉は……」

「やめて!!」

 

 耳を塞ぐ。そんなことをしても裡に棲む悪魔の声は届くのに。

 けれど未来の悪魔は予言を止めた。意味深に、楽しそうに叫ぶだけだった。

 

「もうすぐ来る未来。絶対に変えられない未来。……未来最高! イェイ・イェイ!」

 

 

 


 

[ドイツ]

 

 

 

 サンタクロースは死んだ。

 宇宙の魔人から精神攻撃を受けたせいで狂ってしまい、端末である人形ともども役立たずの木偶として処分されてしまった。

 

 ――と、デビルハンター業界の誰もが認識している。

 しかし、事実は違った。

 サンタクロース。

 彼女には、たった1つだけ保険があった。

 かつてドイツから報酬として受け取った4人の子どもたち。そのうちの1人。契約に使わなかった『趣味』用の少女。

 彼女に、自身の記憶を転写させていた。

 それは、世界中に端末を持つ人形の悪魔でも対処しきれない攻撃を受けたときのために用意した、一種のセーフティネットだった。

 

「……まさか使うはめになるとは思っていませんでしたけどね」

 

 少女は語る。

 ティーンにすら達していない少女の姿でありながら口調は大人びていた。佇まいも洗練されている。その頭には何十年もの人生で培った知識と人格が詰め込まれている。

 

「――と言っても完璧ではないのですが。この少女の身体は、あくまで保険。不定期的なバックアップ先でしかありません。……さて、私の本体はどのように死んだのでしょうか? “この私”には、件のマキマ抹殺任務に出発する直前までしか記憶が無いのです」

「テレビで放送されていただろう? 宇宙の魔人の攻撃を受けたんだ。その影響は君と繋がっていた人形全てに波及した」

「マキマは?」

「死んだ。だが君がやったんじゃない。あの悪魔を倒したのは、チェンソーの心臓を持つ少年だ。……それも君が死んだしばらく後の話だよ」

 

 言いながら、スーツ姿の男は紙の束を少女に手渡した。

 暖かな公園。湖の向こう側には歴史ある街並みが見えている。手入れされた芝生と木々のざわめきは余暇をすごすのに最適であったが、この日は殆ど人がいなかった。平日だからだ。老人しかいない。

 子どもは学校に、大人は職場に居る時間帯。

 しかし今は、少女が1人、大人が1人。親子のようにベンチに並んで座っている。

 少女はクリップで留められた紙の束をめくった。眼球を左右に素早く動かして情報を読み込んでいく。それは記録だった。バックアップである今のサンタクロースが知らない情報――

 

 

 サンタクロース本体が日本に渡った後に何をして、どうやって死んだのか。

 その後のマキマの動向。

 銃の悪魔の出現と終焉。

 唐突にパワーアップしたチェンソーマン。

 何人もの武器人間たちの登場。

 そして――マキマの死亡。

 

 

「……なるほど。大体分かりました」

 

 少女は艶やかに溜め息を吐く。

 

「やはり私は失敗したのですね」

「だが、君は生きている」

 

 男はサングラス越しに目を向けた。

 

「連絡がきたときは驚いたよ。幽霊にでもなったのかと思った。なにせ、世界中の人形が狂ってしまった後だったからね」

「幽霊の悪魔とは契約していませんよ」

「その口調! ああ、やはり君はサンタクロースだよ。不完全だと言うが、私は心配していない。君こそ我が国が誇る最強のデビルハンターだ」

「最強? そんな存在はいませんよ。幻想です」

「だが君は実際に世界中から恐れられて……」

「いいえ、私の本体にしたってそうです。人形の悪魔と契約し、限りの無い物量と擬似的な不死性を得ていたように見えたでしょう。しかし、結果はどうです? 宇宙の魔人の攻撃1つで滅んでしまったではありませんか」

「あれは特殊な事例だ。卑下することはない」

「事実はしっかりと認識しておかねばなりません。デビルハンターとして生きるなら当然です」

「……何か言いたそうだね。拝聴しよう」

「銃の悪魔の能力を思い出してください」

 

 少女は紙を叩く。

 そこに記載されていたのは、銃の悪魔が日本で発動した能力の数々、そしてその考察だった。

 とある条件を持つ者に対する必中狙撃。

 

 

 ・およそ1000メートル内の全ての男性に対する頭部への銃撃。

 ・およそ1500メートル内の全ての子供(0~12歳)に対する頭部への銃撃。

 ・およそ1000メートル内の誕生月1月・2月・3月・5月・6月・8月・9月・11月・12月の生物に対する心臓への銃撃。

 

 

 

「――これを人間に再現できますか?」 

「無理、だな」

「では理解はできるでしょうか?」

「字面だけは。そういうものなのだと、把握はできる。理屈はさっぱり分からない」

「そうでしょう。けれど悪魔にはできるのです。人間だけが持つ概念――定義や因果のようなものを辿って実現のとっかかりにできる」

 

 少女はそっと紙束を隣の黒スーツに返した。

 男はじっと資料を見つめている。

 銃の悪魔。世界の大国が所有する戦略兵器。……人間は、コントロールなどできていない。

 

「力のある悪魔は繋がりを辿ることができる。だから私はこの少女を保険として残しました。人形の悪魔の繋がりを辿って一網打尽にできるような敵が現れる可能性を考慮したからです。……分かりますか?」

「なるほど……」

 

 男はしみじみと呟いた。

 

「実に堅実なものの考え方だ」

「悪魔的、と言った方が正しいでしょう」

 

 サンタクロースのコピー少女は遠い目をする。

 

「悪魔と付き合い、悪魔と戦うならば、悪魔の考え方に寄り添わなければなりません。人間の尺度に固執していれば死ぬだけです」

 

 まあかく言う私も死んでしまったようですが、と少女は微笑んだ。

 男はなんと言っていいか分からない。

 言葉に困って周囲を見渡す。何か彼女との共通の話題は……と考え、1つ聞きたかったことを思い出した。

 

「――ああ、そうだ。最近のソ連での死亡事件は知っているか?」

「国家元首や要職に就いていた者たちが相次いで死亡している、というやつですか?」

「それだ。あんなに不自然な事件はない。あれも悪魔の仕業なのだろうか?」

 

 少女は即答する。

 

「十中八九、悪魔の仕業でしょう。それも、かなり強力な悪魔です」

「……やはり、そうか」

「最低でも、銃の悪魔級」

「何だと……」

 

 男は眉間に皺を寄せて唸る。

 

「ですが、攻撃ではないと思います」

「どういうことだ?」

「悪魔は、特定の個人を条件にして能力を使うことができません。理由はいくつかありますが……この場合は、判別できないからです。人間が蟻を区別できないのと同じ……。だから、「国家元首を攻撃しろ」という命令はけして実現されません。近づいて「こいつを攻撃しろ」と命じれば別ですが……ソ連の警備を掻い潜って何人も暗殺するのは現実的ではないでしょう」

「では、いったい……?」

「おそらく対価として寿命を取られたのではないでしょうか」

「対価だって?」

 

 思わず声をあげた。

 ソ連の高官たちは揃って自らの命を捧げたということか? 一体どんな見返りがあればそんな暴挙に至るのか?

 少女はさらりと解答を告げる。

 

「そんな見返りはないでしょう。国体を崩壊させてまで得るべき利益などありません。……ですので恐らく、この事態はソ連の者たちにとっても想定外だったのではないでしょうか」

「……だめだ、私には皆目見当もつかない。解説してくれないか」

「私の想像でよければ」

 

 そこで言葉を切って、少女は軽く息を吸い込んだ。

 

「先程も言いましたが、人間と悪魔は物事の捉え方が違います。契約を結ぶときは互いの認識が合致しているかをしっかりと確認しなければなりません。いいですか、例えばこんな契約を結んでしまうと大変なことになります――」

 

 ある人物に力を与えよ。対価は、力を得た者から奪ってよい。

 

 ありえる契約の仕方だ、と男は思った。

 例えば、デビルハンターが弟子に悪魔を紹介する場合。

 あるいは、組織ぐるみで悪魔を呼び出して、特定の悪魔使いと契約させる場合。

 

「……そのやり方で契約してしまうと、どうなるんだ?」

「1対1のやり取りでなければ誤解されてしまいます。始めにきっちりと主語を定めておかないと()()()()()()()()()()()()()毟り取ってしまう可能性があるのです」

「対象……全て……? 全て、とは何だ?」

「“誰から”対価をとるか、という定義の問題です」

 

 少女は軽く首を傾ける。髪がはらりと垂れ落ちていく。その隙間から、緑色の瞳が怪しく輝いている。

 

「この場合の“力を与えられる者”とは、“悪魔の能力を行使できる者”と同義ではありません。有り体に言ってしまえば、その契約者が悪魔の力を得ることで恩恵を得られるであろう全ての者を指します。つまり、契約者が所属する機関・組織・国の人間全て……」

「ちょっと待ってくれ」

 

 男は思わず手を伸ばしそうになった。

 

「恩恵だって? そんな曖昧な影響を受けるかもしれないというだけで、その全員から対価をとる……? そんなのは言いがかりにもなっていない」

「強力な悪魔ほど視点がマクロ的になります。“力”という概念の定義も変わるのです。例えば味方側に在るという安心感、あるいは敵対勢力へもたらす畏怖の感情と抑止力。人によっては庇護などと呼ぶのかもしれません。そんな実体のない影響を、彼らは“力”と認識するようです」

「……仮に、それが本当だとしても」

 

 男は腕を組み、ゆっくりと首を振る。

 

「いくらなんでも同意もなしに対価をとるなんて理不尽すぎないか」

「ええ、勿論」

 

 少女は否定しなかった。

 

「そこまでの無法は早々起こらないでしょう。人間側から言いだしたならまだしも、悪魔側からの一方的な認識だけで契約は成り立ちません。ですのでポイントは“互いに最低限の同意”があったか? となります。例えば――“その契約を知っていて、了承していた”、これならば認識に双方向性があります。悪魔も対価をもっていけるでしょう」

「そんな、それだけで……?」

 

 男は唖然とするしかない――そんな様子を見て、少女は上目遣いのまま、くすりと笑った。

 尺度の狭い人間を嘲笑っている。

 

「認識の、不一致……」

 

 ほんの些細な、文言の有る無し。

 それだけで、何十人、何百人もの人間がもっていかれるかもしれない。

 あってはならないことだった。

 

 

 ソ連の高官たちは、強力な悪魔と誰かが契約をすることを知っていて、了承してしまい、かつ恩恵に預かれる立場にあったという理由だけで、命をもっていかれた――

 

 

「その可能性がある、という話ですよ」

 

 サンクロースの少女はまさに悪魔のような瞳で男を見つめている。じぃっと動かずに、魂まで覗き込むように。

 頼もしさとは、裏返せば恐ろしさでもあった。

 

「君は……闇の悪魔と契約していたな」

「ええ。ですが勿論、その辺りは上手くやったはずです。ドイツに影響はないでしょう」

「そうか……。いや、気を悪くしたらすまない。少し、恐ろしくなってしまってね」

 

 少女はようやく佇まいを戻した。

 男は密かに胸を撫で下ろす。

 

「では、仕事の話をしようか」

 

 鞄から新しい資料を取り出した。

 少女はさっと流し読みしてから小さく嘆息する。

 

「……また、支配の悪魔ですか」

「今度はマキマじゃない。弱体化している。今の君でもやれるだろう。……ああいや、変な意味はないんだが、」

「生死は?」

 

 男は僅かにたじろいだ。が、すぐに意識を切り替える。

 

「生死は、問わない。目的は日本の弱体化だ。今やあの国の戦力は放置できない。アメリカが所持していた銃の悪魔の肉体がほとんど移ってしまったから」

「こちらに書いてあるチェンソーの少年は?」

「そちらも生死は問わない。日本が使えなくなればよい」

「さらってくるか、再起不能にするか……。不死身なのは、少し厄介ですね」

「細かい部分は任せる。……本当はこういうことを伝えるのは良くないんだが、実はどちらかを処理するだけでも充分だと上は判断している」

「どうして? それだけ難しい仕事だということですか」

「ああ、上の連中は、君以外にはできないと考えている。そしてその君でも……今の君では、達成できないかもしれないとも」

「……まあ今の私は、以前の私とは違いますからね。本体が契約していた悪魔たちからも見放されてしまいました。まだ残っているのは……」

「言わなくていい」

「お優しいですね」

 

 少女はベンチから立ち上がり、汚れを払うようにスカートの尻を叩いた。

 

「安心してください。今の身体には寿命も機能もたっぷり残っていますから。やりようはいくらでもあります。期待には応えてみせましょう」

「よろしく頼む」

 

 少女は踵を返す――が、すぐにぴたりと立ち止まり、

 

「――そういえば、報酬。追加してもいいですか?」

「何だ?」

 

 ふわりと振り返る。男を眺め、眼を三日月の形に細めた。

 

「孤児院暮らしは不便でして。財力と自由のある家に引き取られたいのです。……例えば、あなたの家はどうですか? 私は良い娘として振る舞えますよ?」

 

 パパ、と呼んでさしあげましょうか? と無邪気に少女は微笑んだ。

 

「冗談はよしてくれ」

「あなたも家族になれると思ったのですが」

「……君は頼りにしているし、尊敬もしている。でも四六時中一緒には居られない」

「残念です」

 

 瞬き一つで、情緒を拭い去る。もう人形の顔だった。

 

 

 


 

[ソ連]

 

 

 

 『悪魔』という単語は2つの意味を持っている。

 1つ目は、この世界に実在する生物を指す。

 その生き物たちは、名前にちなんだ力を持っていて、恐怖を抱かれるほど強くなり、死んでも別の個体として蘇る。超自然的生命体。

 2つ目は、いわゆる比喩。多くは良識を欠いた人間を指している。

 残虐非道で、人々に害悪をもたらし、呼吸をするように人倫を踏みにじる。

 

 彼女たちは、後者だった。

 

 モスクワ某所、早朝。

 存在しないはずの特務機関が管理する極秘の地下室に1人の悪魔使いが足を踏み入れた。

 男はソ連に所属する悪魔使い。デビルハンターではない。むしろ悪魔を利用する側の人間だ。ときには銃の悪魔の肉片を管理して、ときにはボムの心臓をモルモットに埋め込む、そんな公にできない仕事を請け負っている機関の人間。

 悪魔についてはよく知っていた。

 契約もしているし、戦ったこともある。

 歴戦の悪魔使い。

 しかし、この男は今、腹の底から怯えを感じていた。

 地下室へ一歩、足を踏み入れて、すぐに立ち止まる。

 部屋は、真っ黒に焦げていた。

 不燃性のはずの壁と天井、そして床、全てが変形し、どろりととろけて、亀裂を生じている。

 およそ生命が生き延びることができないはずの空間。その奥に、2匹の魔人が立っていた。眉から上の額の部分にびっしりと赤い竜を思わせるような異形の鱗が生えている。

 部屋の惨状を引き起こしたのは彼女たちだ。

 赤毛で長身のアナスタシア。

 銀髪で小柄なポリーナ。

 彼女たちについてはよく知っていた。

 秘密の部屋のモルモット。

 国家に忠誠を誓う戦士。

 アナスタシアはその筆頭であり、戦闘技能においては、かのレゼをも上回る評価を得ていた。彼女が武器人間として選ばれなかったのはひとえにコミュニケーション能力に難があったから。

 ポリーナはその真逆。多くの言語を修めて幾多の仮面を使い分け、誰とでもすぐに打ち解ける会話術をもっていたが、いかんせん体術と戦闘センスに陰りがあった。

 彼女たちに共通したのは、国家への忠誠心。だからこそ最終選考まで生き延びることができた。

 従順なモルモット。

 しかし、今はもう、魔人になっている。

 魔人になれば、中身は変わる。

 悪魔としてのカオスが混ざり、人の価値観に揺らぎが現れる。その証拠がこの地下室の惨状だった。彼女たちはその身に寄生した悪魔の力を使い、国の命令もないのに部屋を焼いた。

 何のために?

 分からない。何一つ。

 男は、悪魔については理解があった。

 モルモットについてもよく知っていた。

 けれど、それらが混ざった魔人となるともう分からない。

 人間特有の情緒を丁寧に取り除かれたモルモットとしての屋台骨に、奇妙な行動原理をもつ悪魔としての思考が組み合わさっている。目の前の生き物たちがいったい何なのか、男にはまるで理解できなかった。

 

「怖いんだ?」

 

 ポリーナが、喋った。

 棒立ちのまま、爬虫類のように縦に裂けた金色の瞳を男に向けている。

 人間の細かな仕草から心情を読み取る技能をもって男の内面を覗き込んでくる。人の技能に、悪魔の視力。逃れられる術はない。

 

「任務でしょうか」

 

 こちらはアナスタシア。

 相棒と同じく、金色の瞳で矮小な人間を見つめている。

 

「魔人となった我々が恐ろしいのですか。ご安心を。ポリーナはともかく、私には生前の記憶が残っています。我々はあなたを焼きませんよ、同志」

 

 男は唾を飲み込んだ。

 祖国はなんと恐ろしい生き物を造ってしまったのだろう。背筋を震わせるしかない。

 男は知っていた。

 彼女たちには力がある。その気になればこんなちっぽけな地下室などすぐにでも岩盤ごと融解させて脱出できる。その反逆を抑えこめるような強力な悪魔使いはこのソ連には存在しない。何故ならば、彼女たちに埋め込まれた悪魔の肉片は、地獄で最も恐れられる超越者たち、その1匹から賜ったものだったから。

 万物遍く塵へと変える、原初の恐怖を冠する存在。

 生命力と死の象徴。

 火の悪魔。

 もしも目の前の魔人たちに人間としての理性が残されていなければモスクワは文字通りの火の海となっていただろう。

 特にポリーナは危うかった。生前の記憶がまるで無い。元より極限まで薄められていた倫理観に、悪魔としての凶暴性が乗せられている。彼女の目についたという理由だけで焼き殺された人間の数は両手の指では足りない。

 男は密かに身震いする。

 こんな場所には来たくなかった。

 けれど祖国の命令に逆らえば、待っているのは確実な死だ。従うほかない。

 

「任務は……」

 

 言いよどむ。機嫌を損ねれば火刑に処される。なのに自分が持たされた任務は、少なくとも人間の倫理観に従えば口にするのも憚られるような代物だった。伝えたくない。

 けれど、

 

「任務は?」

「なんです?」

 

 2匹の魔人が目を細める。

 言うしかなかった。

 

「抹殺任務、だ。ターゲットは、貴様らもよく知る、秘密の部屋の、この、女」

 

 写真が手渡される。

 そこに写されていたのは――

 

「レゼ?」

「あ、ああ」

 

 銀髪のポリーナは不思議そうに首を傾げる。

 

「この人、だぁれ?」

「レゼだ。覚えていないか?」

「ぜんぜん。知らない」

「このレゼという女はな、私たちの同志だったんだ」

「ふぅん、同志?」

 

 そう、同志であり、仲間だった。

 同じ地獄をくぐりぬけた無二の仲間を、その手で殺せと命じる。

 反発して当然の命令だ。

 それでもモルモットだったら従うだろう。だが今の彼女たちは魔人。忠誠の道を選ぶかは言動からは判別できない。

 男の呼吸が乱れる。死を想像させられる。

 だが、アナスタシアは、ほんの僅かだけ口元を吊り上げた。

 笑った、のだと思う。

 

「了解しました」

 

 模範的な兵士のように背筋を正す。

 

「必ずや任務を果たしてみせましょう」

 

 一呼吸分の沈黙が行き渡り、男はようやく息をつくことができた。

 

「は――、そ、そうか。任せる」

 

 ポリーナは唇を尖らせて、

 

「ナスチャ! どういうこと?」

「任務だ、ポーリャ。抹殺任務。この女を殺すんだ」

「焼いていいってこと?」

「ああ、構わない」

「焼いたら、褒めてくれる?」

「ああ」

「やった! じゃあたくさん焼くね!」

 

 目元を歪ませた。

 何はともあれ機嫌は悪くない。この調子で続きを言ってしまおうと男は身を乗り出した。

 

「実は、も、もう1つ、任務がある」

 言いだしておいて、男は固まった。2組の視線に晒されて、今から告げようとしている命令がどれだけ残酷なものかを思いだしたからだ。それは、仲間殺しを命じるよりも業が深い。

 けれど伝えなければならない。

 

「この抹殺任務を達成したとき、貴様らは――自害しろ。けして死体が残ることのないように焼身自殺するのだ。機密保持の、ため、に……」

 

 もしも禁忌というものがあるならば、このような命令を指すのだと思う。

 口にして、本人たちに直接伝えて、改めて実感した。

 この国には人の心が無い。

 

「……」

「……」

 

 2匹の魔人が、男を見つめていた。

 金色の、竜の瞳が目の前の肉を見ている。人を見る目つきではなかった。食べるときの目。あるいは、虫けらを潰すときの目つき。

 唇の隙間から、ちろりと細長い舌が現れる。

 男はたまらず両手を突きだした。

 

「ま、待て!」

「了解しました」

 

 アナスタシアは、まるで動じていなかった。

 

「――え?」

「このアナスタシア、そしてポリーナ。任務達成の暁にはこの身を消滅させてみせましょう」

「あ、ああ」

 

 ポリーナも特に変化はない。傍らのアナスタシアの腕にからみつき、銀色の毛髪と頬を摺り寄せている。

 死ね、と言われて、抗いもしない。

 魔人の考えることなど分からない。男が胸を撫で下ろしていると、赤毛のアナスタシアが口を開いた。

 

「ところで、何故レゼなのです?」

「な、何がだ?」

「ああ、いえ、拒否するわけではありません」

 

 肩口にある銀の髪を撫でつけながら、アナスタシアは疑問を呈す。

 

「自害の方は分かります。我々は火の悪魔に寿命の97%を獲られました。もってあと数日の命でしょう。どうせ死ぬなら国家に貢献させて、最期はこの魔人の身体が他国に渡らないように灰とする……それは分かります。しかし、どうしてレゼなのです? 彼女は任務に失敗したのでは? まだ生きているのですか? 処分すべき理由とは?」

 

 本来ならば、答える義務はない。

 むしろ、戦士ならば質問するな、と叱責すべき場面だ。けれどアナスタシアはこう言った。

 

「我々はどうせすぐに死ぬのです。教えても問題ないかと存じます」

「ああ、そうだな――」

 

 哀れみがあったわけではない。

 ただ、気味の悪い魔人の機嫌を損ねたくないという理由で、男は咳払いをし、説明を始めた。

 

 レゼは武器人間として再起動したこと。

 日本に寝返ったこと。

 そして、秘密の部屋出身のモルモットたちを生かしておくわけにはいかない理由も。

 

「――知っての通り、火の悪魔との契約のせいで我が故国の組織体制は崩壊しかかっている。偉大なる指導層や高官たちがお亡くなりになられた影響だ。……だが、これを機に構造改革が行われることになった。組織の再編、時流に合わない旧機関の廃止。その一環として、秘密の部屋は閉室となる」

「終わる……?」

「元よりアメリカのジャーナリストに報道されてしまったせいで批判を浴びていたこともある。これ以上露見する前に、秘密の部屋は最初から存在しなかったことにする決定が下された。つまり、そこの出身者である貴様らもレゼも居てはならないわけだ」

「居ては、ならない? 我々は国家に尽くすための戦士ではないのですか?」

「だからこそ国家のために引き際というものを……」

「私、知ってる!」

 

 ポリーナが甲高い声をあげた。

 

「狡兎死して走狗煮らる、ってやつだ! ねっ、合ってる!?」

「な、なんだそれは? とにかく、貴様らはもう不要なのだから、」

「――」

 

 けして口にしてはならない言葉というものがある。

 ――仲間を殺せ。

 これは良い。彼女たちはそれを実行できるように育てられてきた。

 ――自害しろ。

 これも受容できる。必要性があるなら遂行してみせるだろう。

 だが、しかし。

 ――お前らはもう要らない。

 これだけは、絶対に言ってはならなかった。

 何故ならば、彼女たちは、特にアナスタシアは、魔人である前に国家に忠誠を誓う戦士だったから。

 

「もう一回、言ってみろ」

 

 アナスタシアの瞳孔が縦に絞られる。

 ごお、と前触れなく轟音が立ち昇った。男の背後、たった1つの出入り口に分厚い炎の滝が出現していた。それは火の点きようのないコンクリートを起点とし、天井まで隙間なく波打つオレンジ色の絶望だった。

 

「なっ」

 

 男は何も分かっていなかった。

 魔人についてを、ではない。

 それ以前の、秘密の部屋の戦士たちについて。分かっているつもりでいただけだった。

 モルモットとは、何か。

 一体どんな存在か。

 人として大切なものを奪われた。何も与えられてこなかった。教え込まれたのは、戦う術と、欺く手法、そして国家への忠誠心。

 それが全て。

 それしかない生き物が、唯一の拠り所である歪な存在意義さえ踏みにじられてしまったらどうなるか。

 分からなかったでは済まされない。

 

「止め――」

 

 発火した。

 容赦のない殺意が伝播して、アナスタシアの視界に収まる全ての範囲に火が点いた。

 悲鳴などあげる暇もない。

 極度の混乱状態に陥った男の口と鼻から火が生き物のように侵入し、あっという間に肺へと至り、末の末まで焼き尽くす。五体の関節は熱硬直により固まって暴れることさえ叶わない。

 超越者の加熱は天井知らずに勢いを増していき、周囲の大気が蜃気楼のように揺らめいた。

 アナスタシアは、何も言わなかった。

 無へと帰していく灰の塊を蔑むように見下ろしている。

 

「こいつは、同志ではなかった」

 

 赤毛の女は目を細める。

 

「反逆者は粛清しなければならない」

「う~ん? こいつが悪い奴だったってこと?」

「そうだ。だがそれだけじゃない」

「なぁに?」

「こいつは私たちの敵だった」

「ナスチャが嫌いだったってこと?」

「…………それでいい」

 

 唐突に、背を向けて歩き始めるアナスタシア。

 

「わ、ちょっと待ってよ」

 

 ポリーナは慌てて追いかけながら問いかける。

 

「ねえ、これからどうするの?」

「決まってる。任務だ」

「ええっと、さっき言われた抹殺任務? なんとかって人をやっつけるんだっけ」

「レゼだ」

 

 冷たい声だった。

 焦げた床を踏みながらドアを潜り抜けていく。

 焼けて真っ黒になった廊下を進み、その果てからぼんやり漏れている外界の光に目を細めた。

 こつこつ、と2人分の足音が響く。

 

「いいか、よく覚えておけ。私たちはそろそろ死ぬ。だがその働きは国家に還元されて永遠に残るだろう。つまり、私たちは死なないんだ。分かるか?」

「ん~~……。なんとなく」

「人は国で、国は人だ。私たちはその体現者だ。そのために生きてきたし、そのために死ぬ。だからこそ価値がある。なのに、あいつは、レゼは私たちの代表者であったはずなのに裏切った。泥を塗ったんだ。このままにしておけば私たち全てが愚かな逆徒として覚えられてしまう。それだけは絶対に避けなければならない」

「ええと、要するに、レゼって人が悪いってことだよね?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、ナスチャが嫌いだってこと?」

「だからそういう意味じゃ……」

 

 階段の前に来た。

 言葉が途切れる。

 アナスタシアはしばらく無言のまま黒ずんだ階段を一段ずつ上がっていった。非常灯が点っているだけの暗い階段。進めば進んだだけ周囲が明るくなっていく。小さな汚れや傷跡まで鮮明に知ることができた。

 

「――そうだな」

 

 アナスタシアはただ上る。

 

「じゃあ、あいつは嫌いだった。そういうことにする」

「そっか」

 

 ポリーナも並んで上る。

 

「だったら私の敵だ」

 

 最後の段を踏みしめて、最後のドアをくぐり抜ける。外に出た。

 一陣の風が頬を撫でつける。少し火照った身体が洗われていくようで心地良い、とポリーナは思った。

 ぐるりと周りを見渡すと、自動小銃を構えた兵士たちが弧の形になって自分たちを取り囲んでいた。殺意が充填されていて、その奥底には恐怖が揺らめいている。

 

「あは」

 

 ポリーナは笑った。

 総勢20名。武装は最新式の自動小銃。距離はおよそ10メートルで、半円状の配置になっていて、間には遮蔽物は1つもない。

 そんなので私たちをどうにかできると思っている。

 自分たちで育てておいて、自分たちで造り変えたくせに、どうして分からないんだろう?

 可哀想。これ以上可哀想になる前に終わらせてあげないと。

 “敵”のリーダーと思わしき男とアナスタシアが言葉を交わしていた。「攻撃した理由」「粛清」「待機せよ」「祖国のための戦士」「命令」「本物の同志」――ああ、やはりよく分からない。ポリーナは聞き流しながら瞳孔を絞っていく。

 わざわざ確かめるまでもない。自分たちに向けられた20もの銃口が敵味方識別信号よりもはっきりと彼我の関係を表明している。話せば分かるというのなら軍隊も兵士も要らないのだ。

 距離10メートル。

 それはポリーナにとって1センチに等しい。

 遠く広がるモスクワの街並みを見渡して、ポリーナは口元を歪めた。

 まず手始めに20人。

 一斉に火を点けた。



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残り10時間

 Q.青春ってなんですか?

 A.人生において若さと活力に溢れ、夢や希望を追いかけることに専念できる時代のこと。

 

 「よく分かんねぇ~」とデンジなら言うだろう。

 確かに実体の見えない説明だ。恣意的な欺瞞に満ちている。

 人間は見たいものしか見ようとしない。ある種の人間などは明らかな短所から目を背けるためにジャガイモを真球だと言い張ったりする。

 このジャガイモはとにかく美しい、議論の余地なく素晴らしいと。

 そんなわけがない。

 ジャガイモはジャガイモだ。でこぼこしていて、表皮が変色していたり、毛が伸びていることもある。

 青春に関しても同じことがいえる。恐れを知らぬ好奇心と生命力の躍動の裏側には必ず未熟さゆえの痛みがあり、赤っ恥があり、取り返しのつかない後悔が潜んでいる。

 その辺りの現実をデンジは誰よりもよく分かっている。

 仮に、先述した質問をデンジにしたとしよう。すると彼はこのように答えるはずだ。

 

 Q.青春ってなんですか?

 A.えっちしてえぇ~~!

 

 パーフェクト・アンサー。

 人類が到達すべき真理の1つといっても過言ではないだろう。

 そう、つまるところ青春とは、えっちなのである。愛は、恋は、尊さは、染み一つない純白などではない。性欲という名の汚れと同居するものだ。

 デンジはそれを直感的に理解しているからこそ、今回のお出かけに対しても男子高校生として抑えるべき要点に意識の焦点をあてることができていた。

 

 山でキャンプして、川で遊んで、バーベキュー。

 

 これらの行為の中で最も大切な要素は、何だろう?

 キャンプで遊ぶ。それは歳をとってからでもできる。川遊びも、バーベキューも同様だ。ここで核となりえる要素――この青春と呼ばれる黄金時代にしかできない体験は、ただ1つ。

 同年代の少女たちと思い切りイチャつくこと。

 この場合における『少女たち』とは、ナユタとレゼを指す。

 例えば、の話をしよう。デンジは、ナユタとレゼと今後5年10年と良好な関係性を保っていけるものとする。ナユタはマキマを凌駕する女性性を獲得するかもしれないし、レゼは妖艶な美女に成長するかもしれない。その時のデンジは、そんな美人で美女で可愛さギネス級になりえるかもしれない女性たちと大人になってもキャンプして川遊びしてBBQできているかもしれない。

 しかし、それでもだ。

 仮にそんな男の夢のような輝かしい未来像に辿り着くことができたとしても、そこには青春時代の弾けるような煌めきを放つナユタとレゼは存在しない。

 今しかない。

 この瞬間しかない。

 他の何を差し置いても見逃してはならないのは明白だった。

 

(水遊びしてぇ~! 超したいぃいー!)

 

 あまりにも具体的で的を射た結論だった。

 仮に『青春学』の論文発表の機会があればデンジはコピー用紙に上記の一文を書き殴るだけで博士号をもらえたに違いない。ひょっとするとノーベル青春賞もゲットできた可能性もある。それほどまでに合理的で無駄を削ぎ落しきった完璧な結論だった。

 

 少女 × 水着 = 最強

 

 更にそんな公式を無意識下で弾きだしたデンジは、今回のレジャーにおける最優先事項を

『ナユタとレゼの水着姿を拝む』

 と定めた。

 そこから彼のプランが構築されていく。

 他の何を差し置いても排除しなければならないのは川遊びが中止される可能性だった。予想されうる懸念事項は以下の2つ。

 

①時間がないから、川遊びはやめにしよう。

②疲れたから、川遊びはやめにしよう。

 

 デンジは①の可能性を潰すために色々やった。

 まずスケジュール確認。ナユタとレゼには勿論、責任者である岸辺には夜中に3回も電話した。「お前いい加減にしろよ」と怒られたが気にしない。この際、老人の評価なんてどうでもいい。全ては水着のためだった。

 他には、何かに手間取ることがないように下調べもした。例えば、テント建て。情報サイトを巡回して方法を学んだ。期末試験よりも真剣に、メモ帳も活用した。手順・コツ・注意点……、1日で頭に叩きこんだ。

 そして、当日の朝こそ最も重要な時間帯。

 4時に起床した。

 勿論そんなに早く起きる必要は無い。眠れなかったというのが本音だが、万が一にも遅刻することのないように掃除・洗濯を済ませておく。朝食も用意した。犬たちの餌やりも抜かりはない。荷物は3度も中身を取り出して点検を繰り返した。

 

 

「うし……。完璧だ」

 

 デンジは空を薄水色に染めていく朝陽を眺めながら、清々しい空気を思い切り吸いこんだ。

 まだナユタさえ起きてこない時刻だったが、二度寝する気は微塵もない。

 このまま出発まで玄関口で仁王立ちし続ける覚悟があった。

 水着が見たい。

 そんなこの地球上で最も純粋な願いを叶えるために。

 

「他になんか忘れてることねえかな……?」

 

 デンジはもう1つの懸念事項を思いだす。

 

 ②疲れたから、川遊びはやめにしよう。

 

「ナユタが心配だな……」

 

 彼女はけしてヤワではないけれど流石にデンジたちと比べれば筋力量が劣る。彼女が疲れてしまうことがないように、今日は荷物持ちでも何でもやろうと決めた。もしも山道が険しかったらおんぶしよう。倒木や岩が道を塞いでいたらチェンソーでぶった斬ろう。苦労も疲労も厭わない。今日水着を見られないなら明日なんて要らない。デンジの胸は期待に膨らみきっていた。

 

 そして同行者である冤罪の悪魔が遅刻した。

 

「はあぁぁ~~~? ありえねぇんですけど! ありえねぇんですけどォ!? あいつ置いていこうぜ!」

「まあまあデンジ君、予定時刻までまだ5分あるでしょ。そもそもお迎えの車も来てないし」

「だあってよー! 10分前に集合って言ったのによー!」

 

 デンジは苛立ちを隠せない。落ち着きなく動物園のライオンのようにぐるぐると歩き回っている。

 対してナユタとレゼはのほほんと玄関口で座り込んでいた。彼女たちに焦りはない。つい先程、当の冤罪の悪魔から「ちょっと遅れるかもしれない」と連絡があったばかりだった。

 レゼは大きく伸びをして欠伸しながら隣に座る小さな悪魔の耳元に顔を近付けた。

 

「ねえねえ、ナユタちゃん」

「なに」

「デンジ君さ、どうしてこんなにハイになってんの?」

「キャンプが楽しみなんでしょ」

「ほんとー? にしては少しはしゃぎすぎじゃない?」

「さあ。私もよく分からない」

 

 デンジの頭には麦藁帽子が乗っていて、上半身はスポーツウェアの半袖で、まだ5月だというのに脛が見えるサーフパンツを穿いている。見ているだけで寒々しい。おまけに、足元はサンダルだった。ぺたぺた鳴らしながら延々と唸り続けている姿は危ない人にしか見えない。

 やれやれ、とレゼは溜め息代わりに小さな鼻息をつく。

 

「キミさー、そんな格好で山に入れると思ってるのかー?」

「おう!」

「おう、じゃないだろ~? 山を舐めたらヤバいと思いますけどねえ」

「そうかなあ……そうかあ?」

「海に行く格好してキャンプするなんて珍種だよ、珍種。というか、そもそもだね。今回のお出かけは殆どフェイクだって言ったでしょ?」

「んなこたぁー知らねー!」

「ええ~? だってさ、岸辺さんに説明されてたよね?」

 

 唇を尖らせながらレゼは問う。

 わざわざ思い出すまでもない。昨夜、岸辺から電話がかかってきて、デンジたち一行はこう告げられていた。

 

 ナユタ――支配の悪魔の存在が他の国にバレた。

 原因は分からない。前回の襲撃が察知されたのかもしれない。

 少なくともアメリカからの刺客は確認されている。 

 対処するために、デンジたちを囮にして返り討ちにする作戦が立てられた。

 それが今回の遠出の真の目的。

 デンジたちは人気の無い山奥でレジャーを楽しむフリをして敵を誘い出す。

 メンバーは、デンジ・ナユタ・レゼ・冤罪の悪魔。そして送迎役として公安からもう1名。

 岸辺を含む公安のデビルハンターは周辺に潜伏。敵が現れたら迎撃する。

 

 ――だから、デンジたちは遊んでいるフリはできても、本当の意味で余暇を楽しむことはできない。

 それでもデンジは不敵に笑った。そんなのは関係ない、と。

 

「刺客を全員ぶっ飛ばしゃあ、遊べるっつー事じゃねーか!」

 

 今のデンジは溢れんばかりの高揚感と戦意に満ちていた。ぶつける相手は刺客そのものではない。昨夜に現れたばかりの3つ目の懸念事項、即ち、以下の可能性に対してだった。

 

 ③刺客が来て危ないから、川遊びはやめにしよう。

 

 そんな結末を許せるはずがなかった。

 刺客は速攻でぶっ飛ばす。そしてそのまま川遊び。直帰は絶対に阻止する。

 それ以外の未来は存在してはならない。

 今のデンジは、最高にホットでクールなネジ外れのデビルハンターであり、モチベーションはMAXだった。例え地獄の底から超越者軍団がやってこようとも一歩も退かない覚悟ができている。

 

「レゼ! 頼りにしてんぜえ!? よろしくなあ!」

「……あのさー、デンジ君はさー」

 

 レゼは苦笑する。しょうがない奴、とぼやくように言葉を続けた。

 

「死んじゃっても知らないよ?」

「でぇじょうぶだ、俺ぁ不死身だ!」

「そういう問題じゃなくない?」

 

 細めた視線の先、地平線まで伸びているような長い長い直線道路から1台の車がやってきた。真っ白いロングバン。運転席には公安指定の黒スーツを着た男が乗っていて、助手席では遠目でもはっきりと分かる不機嫌面をしている女が腕を組んでいた。

 冤罪の悪魔だ。どうやら途中で拾われてきたらしい。

 ナユタは腕時計に目をやりながら立ち上がる。

 

「8時ぴったり。余裕がないのは感心しない」

「そんじゃ、山中サバイバルツアーに出かけますかね」

「川遊びだああー!!」

 

 

 

 

 

残 り 10 時 間

Осталось 10 часа.

 

 

 

 

 

 高速道路に乗り上げて、密集した住宅街を眺めながら西へ西へと爆走する。インターチェンジをいくつも通り過ぎ、冤罪の悪魔の「どうしてせっかくの週末に仕事しなきゃいけないの」という愚痴を聞き流しながら一般道へ降り立つと、全体的に背丈が低くなった建築物がぽつりぽつりと広がっていた。遠出感を噛み締めながらまばらな街並みを右へ左へと通り抜けていく。運転する公安の黒スーツとレゼが情報交換していると、車中のスピーカーが平坦な口調で天気予報を喋りだす。

 

『本日は大雨となる可能性が高いでしょう』

 

 デンジは硬直した。

 すぐに必死の形相でまだ晴れている山の上の空へと祈りを捧げるが、ナユタは非情にも「川沿いに行くのは危なそうだから避けよう」と死の宣告を放った。デンジは抗議した。しかし口で勝てるはずもない。15秒で完封されてぐぬぬと呻くだけの男児になった。

 ロングバンは止まらない。分岐のない道を延々と進んでいく。

 太く強靭に育った木々を抜け、視界が大きく開けた先にそのド田舎は在った。

 秘境・奥多摩町。

 田舎といっても種類がある。

 畑や田んぼがあるうちはまだましで、ひどい場所になると傾斜のせいで整地自体が難しい。土地自体が不便なせいで発展のしようがないのだ。こういった僻地には外部へと繋がる道路は大抵一本しかないもので、台風の1つでも襲来すれば即座に陸の孤島と化してしまう。呪われたような不便さは映画館などの娯楽施設の建設も許さない。住人たちの週末といえば遠方のショッピングモールにお出かけと決まっていて、オシャレでベンリでハヤッてる大型商業施設で過ごす一日に胸をときめかせるのが常ではあるけれど、悲しいかな、そんな彼ら・彼女らを出迎えるのはイケてるシティボーイ&ガールではなく見知った芋顔ばかりでしかない。これも田舎育ちの宿命だ。地元の呪縛からはけして逃れることはできない。

 そんな閉塞感に若者たちは絶望し、揃ってこう誓うようになる。おら大きくなったら23区さ住むだ、と。

 それが奥多摩。山間を流れる一本の小川に寄り添う田舎町。

 デンジたちはいよいよたどり着いた。

 

 

 

 まずは買い出しだった。

 ここから先は個人経営の雑貨店しかない。その手前、最後のスーパーマーケットの駐車場にロングバンは停車した。

 デンジは買い物カゴを装備して予定通りの荷物持ち。ナユタとレゼは食料品をカゴに放り込んでいく選定係。

 まばらな店内を3人で巡っていく。

 

「ほんとならバーベキュー用にお肉を買い込むところだけどね。どうしよっか?」

「小さなコンロなら使える。肉でもいいけど、冷凍食品も解凍できるらしい。レトルトも手間がなくていい」

「レトルトかよぉ」

 

 デンジはぼそりと呟くが、レゼは華麗にスルー。人差し指を顎に当て、

 

「んー、そもそも悠長に焼いていられるかも分からないし、携帯食も必須かな。日本のって美味しいんでしょ?」

「海外のは知らない。こっちの定番は……あの黄色い箱のやつかな」

 

 指差す先を見て、デンジは湿気たっぷりの溜め息を漏らした。

 

「カロリー……嘘だろ……?」

「なに、デンジ。さっきから」

「だぁってよ、バーベキューなのに肉が食えないっておかしくね?」

「そのバーベキューができないかもしれないんだってば」

「なんでぇぇ」

「敵が来るから」

「来るまでやってればいいじゃん。んで追い払ってから、また食えばよくね?」

「キミは遊んで食えりゃいいのか?」

「ああ」

「はあ。相変わらずだねー」

 

 レゼは肩を竦める。

 腕を伸ばしてゼリー飲料を選んでいく。

 

「そういえば、あの女の人……冤罪の悪魔だっけ? 信用できるの?」

「できる」

 

 即答したのはナユタだった。

 

「彼女の弱みは握っている」

「弱み、ね。信念で戦ってくれるんじゃないの?」

「悪魔だから」

「まーそこは仕方ないか。で、腕はどうなの?」

「まあまあかな。私以上、デンジ以下」

「それじゃよく分かりませんなー。……って、なんでこんなこと聞くかっていうとね、私、護衛は苦手だから。あんまりアテにされても困るんだ」

「そうなの?」

「攻める側なら経験あるけど。守る側は、ちょっとね」

 

 そう言いながら、通路の向こう側からやってきた子どもたちとすれ違うために道を開けた。彼女は「どうぞー」と気の抜けた声色をしていたが、目は鷹のように鋭かった。相手が平凡な男子小学生であろうと油断していない。

 護衛が苦手なようにも見えない、とナユタは思う。

 

「習ってないの」

 

 考えを読んだように、レゼは呟く。

 

「知らないことは落ち着かない」

「……」

 

 まただ、とナユタは思った。ほんの毛先ほどの違和感。

 ナユタは目を僅かに細めてレゼを見る。

 元ソ連のエージェント。

 ボムガール。

 そして今では、デンジとナユタの手綱役。

 本人はデンジに好意があると言っていて、嘘ではないとナユタの悪魔としての直感も言っている。

 しかしどうにもつかず離れずな様子が目についた。

 時にナユタが目を剥くような距離の詰め方をしたと思ったら、そっけない態度の時もある。まるで丁度良いバランスを調整しているかのよう。

 ナユタにはよく分からない。

 それが人間のオトナに求められる模範的な振る舞いというやつなのだろうか?

 それとも、卓越したエージェントとして管理対象と適切な距離感を模索しているだけなのか?

 違和感を感じるようなレゼの振る舞いは、彼女が独りでいるときにも散見された。

 偶に小動物を介して様子を伺っていたのだが、レゼは自室に居るときでさえ気を抜く様子がなくアンドロイドのようにテキパキと行動していた。けしてだらしなく姿勢を崩したりしない。まるでいつテロリストに襲撃されても即座に対応できるようにしているような――あるいは、誰かに監視されるのを前提としているような隙の無さ。しかし、ふとした瞬間に電池が切れたがごとく集中力に欠ける様子も見せる。その不自然さは揺らめく蜃気楼ほどに確かめようのないもので、一呼吸もすれば消えてしまう。

 

「う~ん、どっちがいいかな……」

 

 そのレゼは、今はスーパーの商品棚の前で腕を組んでいる。

 背中をじっとナユタは見つめて考える。

 レゼの中で何かが変わりつつある。

 戦士としてのレゼ。

 殺戮兵器としてのレゼ。

 それらとは別の、まったく新しい自意識が芽吹いている。

 過去へのトラウマ、という言葉がナユタの脳裏に浮かんだが、それは違うとすぐに否定した。レゼはこれまで特に忌避する様子を見せていない。それどころか、必要があるならまったく平然といった様子で語ってみせたりする。

 レゼにとっての過去。

 あるいは未来。

 彼女の視野は、そのどちらにも向けられていないように思われた。

 

「……」

 

 1つの仮説が浮かびあがる。

 レゼは、かつての自分に似ているのかもしれない。

 まだ夢をもっていなかった頃の自分。

 生きるための必須項目をこなしているだけだった頃の自分。

 ただ生き延びるためだけに特化して、ゆとりをほとんど持てていない。

 レゼは戦士として育てられたと言っていた。

 だから彼女は普通の人間としての生き方が分からないのではないだろうか?

 

「……どうかな」

 

 間違いではない、とナユタは思う。

 しかし、他にも何かある、と悪魔の直感が言っていた。

 それが何なのかは見当もつかない。

 先日のレゼの記憶が蘇る。突き放すような声色が。

 

――悪魔には分かんないよ

 

 なんだかすごく気に入らない。

 人間と悪魔、その間を大きく隔てている谷の深さを見せつけられているようで。

 レゼは、味方になると言ったくせ隠し事をしている。信用させろとまでは言わないが、せめて不信感は抱かせないでほしい。

 近づきたいのか、遠ざかりたいのか。

 何がしたいかくらい見せてほしい。

 

――人間は、中身を見せたくないからね

 

 ふん、と鼻を鳴らした。

 いいだろう。

 だったら見つけてやろうではないか。レゼが隠している本心を。

 

「――ナユタちゃんは自衛はできるのかな?」

 

 気がつけば、レゼがこちらを見つめていた。

 

「……ん。なに?」

「自衛、どれぐらいできるのかなって。プロレスラーぐらいの力はあるんだっけ?」

「実はまた少し強くなった」

「そうなの?」

「私の存在が広く認知されているんだろうね。また恐怖が少し広まった」

「ほー」

 

 レゼはスーパーのカゴにコーヒーパックを放り込む。

 

「じゃあ一般人には勝てるぐらいかな。悪魔やデビルハンターとやり合うのは止めた方がいいか。何かあったら助けを呼んで自衛に徹すること」

「分かってる」

 

 そういえばと傍らの買い物カゴを見た。ぎっしりと商品が詰まっている。デンジはそれを両手に1つずつ持っていて、いかにも重そうだ。

 片方持ってあげようか、と提案した。

 ノータイムで断られた。

 

「俺ぁ、平気だ」

「私、変身してないデンジよりは力あると思うけど」

「だーいじょ~ぶ!」

 

 デンジは頑なだった。ナユタとレゼが何を言っても譲ろうとしない。いいから女子2人は楽をしていてくれ、とレディへの気遣いを見せていた。

 思わず首を傾げてしまう。

 普段はデリカシーの欠片もないのに。一体何が彼を変えたのだろう。

 ……もしや、レゼと同じ屋根の下で暮らすようになった影響か?

 ナユタは1ミリだけ唇を尖らせた。

 ものすごく気に入らない。自分と2人暮らしのときは下着一枚でうろつく男だったのに。

 

「そろそろレジ行くかぁ?」

「……うん」

 

 まさか今日の謎のハリキリぶりもレゼと一緒に遊べるからではないか。

 分からない。

 デンジも分からないし、レゼも分からない。

 悶々としながらナユタはレジへと向かった。

 

 

 

 

 時刻はそろそろ午前の11時半。

 貴重な週末ではあったが公安職員たちの気は休まらない。

 囮役であるデンジたち一行を遠巻きに囲み、いつ現れるか分からない敵に備えて待機している。ある者は土建屋の格好で、またある者はハイキングに訪れた登山客の変装をして。戦闘要員もいれば監視要員もいる。不審な存在は野良犬だって見逃すつもりはない。襟元に忍ばせた無線マイクを介しながら細かな情報を逐一共有している。たった今も、スーパーの店内でデンジたちとすれ違った3人の小学生たちの行方を監視役の一人が目線で追っていた。

 まさかあんな年頃の子どもたちが刺客であるはずはないと誰もが思っている。けれど一方で、悪魔の力を使えば偵察や鉄砲玉に仕立て上げられるとも知っていた。油断はできない。どんな相手でも警戒し、無線で報告する必要があった。

 ふと、小さく疑問の声があがった。

 

「なあ、ちょっと引っかかるんだが」

『どうしました?』

「いや、今スーパーから出て行った3人組の子どもだが、少し前に似たような報告を聞いた覚えがあるんだよな……」

『そうでしたっけ』

「ほら、確か1~2時間ぐらい前にチャリですれ違った奴ら。街の方に向かってた3人組だよ」

『人数が一致してるだけじゃないですか』

「服装も同じだった気がするんだよ……。なあおい、誰か記録とってるだろ、教えてくれ」

 

 僅かな沈黙。

 別の男から応じる声が挙がった。

 返ってきた答えは――

 

『確かに服装が一致する3人組をチェックした記録がある』

 

 ――だった。

 男は唸る。

 

『……同じ子どもたちなんじゃないですか? 1時間もあったら戻ってこれるでしょ?』

「そうかなぁ。遊びに出たばっかなのに帰ってきたりするかなぁ」

『忘れ物でもしたんでしょ。財布とか』

「う~ん……。なあ誰か、さっき店内ですれ違ったガキたちがその後どこに行ったか分かる奴いるか?」

 

 沈黙。

 男の知りたい情報を持っている者はいなかった。

 

『そんなの分かる人なんていませんよ。すれ違っただけでいちいち追いかけてたら人手が足りなくなります』

「それもそうか」

『考えすぎですって。そもそもその子たち、本当にすれ違っただけで早川家のメンバーには触りもしてないじゃないですか』

「う~ん。まあ、そっかぁ……?」

『ほら、支配ちゃんたちが車に乗り込みますよ。俺らも移動しますから準備して下さい』

「オーケイ、分かったよ」

 

 

 

 

 同時刻。

 スーパーの前を通る道路から小さな根っこを生やすように細い路地が伸びている。風化しかかった石の塀の間をぐねぐねと伝って進んでいくといきなり崖に突き当たり、その一辺によくよく目を凝らしてみると雑草に隠れるように小さな木の足場が段になっているのが分かる。足を滑らさないように慎重に降りていき、川のせせらぎを聞きながら巨大な岩々を乗りこえると、地元民しか知らない小さな空間がひっそりと広がっている。鬱蒼とした木々に視線を遮られ、遙か頭上の車道からはけして覗くことはできない。川辺の秘密基地。おあつらえ向きに一軒のボロ小屋まで建てられていた。

 中を見てみよう。

 3人の小学生男子たちが向かい合って立っていた。

 ただし、小学生だったのは今この瞬間までの話。

 薄暗い小屋の中で見つめ合う3人は前触れなく形を変えていく。輪郭がうねり、身体が膨れあがって体積を増していき、あっという間に大人になった。

 痩せている男。小太りの男。小柄の男。

 3人の中年男たち。

 アメリカから来た刺客たち。

 

「あ~あ。ガキに変身しても面白くねえ」

 

 デブの次男はわざとらしく肩を竦めた。

 応えたのは、痩せの長男だ。

 

「どうせなら女がいいってか? お前はいつもそれだな」

「当たり前だろ? くせえ男や足の短いガキになって何が楽しいんだよ? どうせ変身するなら女、それも若くてイイ女がいい」

「はン。そりゃ……こんな女のことか?」

 

 長男が、顔に手をあてる。

 すると、

 またしても身体が波打って形が変わっていく。角ばった関節の節々が丸みを帯びて、服装さえも別種の物になってしまう。アウトドア向きのラフな格好をした少女――レゼの姿へと変化した。

 

「どうだ?」

「おー、なってるなってる」

 

 アメリカからやってきた3人のデビルハンター。彼らは姿を模倣する悪魔と契約していた。その能力を発動するための条件は、かの皮の悪魔よりもずっと簡単だった。ターゲットに接近して視界に収めるだけでよい。それだけで身なりをコピーすることができる。

 ただしリスクは並の悪魔よりずっと大きい。寿命を獲られるだけでなく、姿を変える度に自我を侵食されて自分自身が誰だか分からなくなってしまう。

 だから変身するときは“自分は元々誰だったのか?”を思いださせてくれる身内と共に居る必要があった。

 レゼに変身した長男、彼は――あるいは彼女は――傍らに立つ次男へと顎を向けた。

 

「で、お前の方は? ちゃんと姿をパクれたんだろうな?」

「当たり前よ」

 

 次男も顔に手をあてる。

 そして契約している悪魔の名を呼んだ。

 

「パクリ炎上の悪魔よ」

 

 次男の全身の肉が蠢いた。

 中年男の太い腹はあっという間に引っ込んで小さな子どもの姿へ凝縮されていく。細身の身体。すぐに1人の少女の姿へと形を変えた。先ほどスーパーの通路ですれ違ったばかりの小さな悪魔、ナユタの姿に。

 

「どうよ?」

「ヒュウ! いいね、お前の好きな“女”じゃねえか」

「冗談。こんなガキに興味はねえよ」

 

 偽レゼと偽ナユタはひとしきり笑うと、示し合わせたように同時に振り向いた。

 

「で、」

「お前はどうだ?」

 

 その先に居たのは三男……ではなかった。

 麦藁帽子に半袖半パン、そしてサンダル。

 アメリカ組のターゲットであるデンジの姿をした男。

 

「よぉし、これで3人分揃ったな」

「後は連中の誰かが1人になったところを見計らって接触していけばいい。人気のない場所に連れ出して、BANG! ……簡単な仕事さ」

「……」

 

 しかし偽デンジ、返事をしない。

 悪い夢でも見ているような胡乱な目つきで2人の兄たちを見つめている。

 

「おい、どうした?」

「み」

「あ?」

「みずぎーみずぎーみっずぎー、みずぎーをみれーるとー、えっちなえっちなえちなーー、きぶんー、なるー」

 

 壊れたレコードのように繰り返す。

 

「おいおいおい!」

 

 表情は虚ろ。口元だけが自動的に動き続けている。とても正気には見えない。

 とうとうイカれたか、と次男は唇を噛み締めた。

 

「しっかりしろ!」

 

 長男の腕が振り上げられて、バチィン! と壊れた三男の頬を打ち据えた。

 たたらを踏んだ三男の胸ぐらを掴んで引き寄せる。

 

「お前は誰だ!? 名前を言ってみろ!」

「おれはァ、はや、はやかわ、でんじィ」

「違うだろ! お前の名前は!?」

「ぼ、ぼ、ぼくは、夜の、剣士……」

「違う! お前の名前は――」

 

 目を合わせて三男のプロフィールを言い聞かせる。何度も何度も。出身地、両親との思い出、最近こなした仕事について――

 けして短くない時間を費やすことで三男の自意識はどうにか復帰した。しかし明瞭といえるほどでもない。三男は自分というものが膨らみすぎて境界線を定めることができていない。

 次男は舌をうつ。状況は切迫していた。もはや次はないだろう。

 今回の仕事で終わりにしなければならない。必ず達成し、弟だけは足を洗わせる。

 

 

 

 

 同時刻。

 奥多摩に入るための幹線道路を10kmほど遡ると、同地区で唯一の鉄道が止まる駅の1つがある。まだそれなりに栄えている田舎駅。車の往来もそこそこで、ロータリーから離れても飲食チェーン店がぽつぽつと連なっている。焼肉屋、和食レストラン、ラーメン屋……。

 そして悪い意味で有名なハンバーガーショップもある。

 一体何が悪いのか? それは中に入ってみるとすぐに分かる。出来の悪い演劇が出迎えてくれるから。

 

 

「家族で食べようファミリーバーガー!」

「パパママ大好きファミリーバーガー!」

「トマト!」

「レタス!」

「チーズ!」

「パン!」

「主役はハンバー……」

「グー!!」

 

 

 客は誰一人として見ていない。

 演出された家族観はかえって目に毒だ。白々しくて痛々しい。

 それは店の隅に座っている姉妹にとっても同じだった。

 

「ばっかじゃねーの」

 

 と姉の方が軽蔑しながら吐き捨てた。

 その声はけして小さくなかったが、誰も眉を顰めようとしなかった。中国語だったから、何を言っているのか周りの客には分からない。

 

「お、お姉ちゃん、声大きい……」

 

 そのテーブル席には、2人の少女が座っていた。

 彼女たちの年齢は中学生といったところ。2人とも衣服は古く色褪せて、裾も伸びきっていたが、汚いというほどもでない。だがどうしても目立つ。

 少女の片方、悪態をついていた姉の方は、ざっくばらんに髪を肩口で切り落とした出来損ないのボブヘアー。肘をつきながらカラフルに彩られた店内を恨めしそうに睨みつけている。

 そしてもう1人の妹の方。髪型は腰まで伸びたロングヘアー。ぼさぼさで手入れされていないせいで清潔な印象は抱けない。彼女自身もその場違いさを自覚しているのか身を隠すように縮こまってしまっている。

 そこに、別の少女が現れた。

 こちらは姉妹たちよりも更に幼く、小学生高学年ほどの年齢。

 金髪で、碧眼。

 明らかな外国人。ハンバーガーを山のように乗せたトレーを持ち、姉妹達のテーブルの前で小首を傾げている。

 

「そこ、座ってもいいですか?」

「勝手にしな」

「ど、どうぞ……」

 

 小さな少女は、2人の中国人の向かいに座る。

 と、姉の方が肘をついたまま問いかけた。

 

「なあアンタ、こんなとこまで連れてきて何の話だ? そろそろ名前ぐらい教えてくれよ」

「サンタクロース」

「ああ? ふざけてんのか?」

「本名ではありません。コードネームのようなものと思ってもらって構いません」

「はン、サンタね……。生憎これまで世話になったことはねーな」

「もしかして都市伝説を信じているのですか?」

「馬鹿にすんな。んな都合の良い奴がいねえってことぐらい知ってるよ。身に染みるほどな」

「そうですか」

 

 サンタと名乗った少女はトレーをテーブルの中央にずいと寄せた。

 

「奢りです。遠慮なく食べてください」

 

 言いながら、1つのハンバーガーを手に取った。

 

「ハンバーガー、初めて食べます」

 

 包みを剥いて小さな口でパティにかぶりつく。

 リスのように頬を膨らませながら幸せそうな笑みを浮かべた。

 

「あなた達もどうぞ。思わず躍りだしたくなる美味しさですよ」

「……じゃあもらう」

「いただきます」

 

 中国人姉妹はおずおずと手を伸ばす。包装を剥がしてもしばらく躊躇っていたが、意を決して口をつけると大きく目を見開いた。すぐに勢いよく食べ始める。2個目、3個目……。トレーの山は減っていき、すぐに姉妹たちの腹へと収まった。

 

「あぁ、ほんと旨えな」

「出来立てって美味しいんだね」

「……1個余ったな。お前、食えよ」

「半分こしよ」

「アタシは要らねえ」

「いいから。……ほら」

「ちっ、しょうがねえなぁ」

 

 そんな姉妹をサンタクロースと名乗った少女は無言で見つめていた。

 

「んだよ?」

「いえ、別に。――そろそろ本題に移ってもいいですか?」

「ああ、いいぜ。こっちも聞きたかったんだ。なあ、手を組みたいってどういうこった?」

「言葉通りの意味です」

 

 金髪の毛先を揺らして首を傾ける。

 

「あなた達、素人でしょう?」

 

 姉妹はすぐには答えなかった。

 が、沈黙の無意味さを悟ったのだろう。姉は鼻を鳴らして降参の意を示す。

 

「そうだよ。アタシらはデビルハンターじゃねえ。ただ悪魔と契約しただけの一般人さ。それがどーしたよ?」

「よくここまで来れたものですね」

「ああ?」

「密入国で、悪魔持ち、日本語も分からない。それでよくここまで誰にも捕まらずにやってこれたものだと言ったんです」

「だからよ、そりゃ未来の悪魔からどうしたらいいかを聞いてきたからだ、っつっただろ?」

「ええ、きっとそうなんでしょうね。そしてもう1つ付け加えると、そうやって簡単に契約している悪魔を喋ってしまう無警戒さもまた危うい」

「はぁ? あのよ、アンタはさっきから何が言いてえんだ?」

「ここから先は進めない、と教えているのです」

 

 姉は眉を顰める。ゆっくりと背もたれに寄りかかり、目を細めて金髪の少女を正面から睨みつけた。

 しかしサンタクロースは毛先も揺るがない。柔らかな笑みさえ浮かべていた。

 

「あなた達は正解の道を知っていても辿ることはできないでしょう」

「なんでだよ」

「あなた達に戦闘の経験はありますか?」

「……」

 

 苦々しげな顔つきで押し黙るしかない。

 

「相手は悪魔と公安です。喉元まで近づけたとしても素人が殺せるほど甘くありません。それが例え、背中から襲いかかるような奇襲の形だったとしてもです」

「……ふん、確かにそうかもな。だったら何だってんだ?」

 

 鼻を鳴らして腕を組む。

 

「余計なお世話だ。アタシはヤるぜ? 例え成功率が1%だったとしてもな」

「その可能性を広げてあげましょう」

 

 金髪の少女が腕を持ち上げる。

 ことり、と何かをテーブルに置いた。

 

「……なンだ、それ?」

 

 姉妹揃って、訝しげに覗き込む。

 それは小さな釘だった。

 

「呪いの悪魔」

 

 サンタクロースは滔々と述べていく。

 

「これを4回刺させばどんな相手も必ず死にます」

「あんだと」

「貸しましょう」

 

 す、と姉の前に持ってくる。音も無く置かれた釘は、どう見てもただの鉄の棒にしか見えない。

 しかし、紛うことなく悪魔の力を秘めている、と金髪の少女は言う。

 

「試しに野良猫でも捕まえて使ってみれば分かります。もっとも、使った分だけ寿命が減りますが」

 

 ごくり、と妹の方が唾を飲みこんだ。

 サンタクロースと、復讐を誓う姉妹。

 2組の視線が交差する。無言で互いの腹を探り合う。

 店内に電子音が鳴り響いた。

 

「家族で食べようファミリーバーガー!」

 

 奇妙な掛け声がテーブルの間を通りすぎた。

 無料で配られる不自然な善意。

 建前で彩られた世界。

 この2組には無縁のものだった。

 

「……なんでだよ? どうして力を貸すんだ?」

「あなた達には攻撃手段がありません。復讐の悪魔を使った反撃だけで相手を殺せますか? タネが割れてしまえば捕縛されておしまいです」

「そういうハナシじゃねえ。どうしてアタシらを助けんだっつってんだ。見返りなんてなんもねえぞ」

 

 ボブヘアーを揺らして腕を組む。注意深く目を光らせて子どもの姿をした詐欺師の甘言を見透かそうとしていた。

 

「そうやって親切ヅラして寄ってくる奴ぁな、決まっていいように利用してやろうって考えてるゲス野郎なんだよ」

「ええ、その通りです」

 

 サンタクロースは否定しなかった。

 

「私は、あなた達を利用しようとしています」

 

 悪びれていない。

 あまりにも率直な回答に姉妹は図らずも黙り込んでしまう。

 

「プロですから。目的のために利用できるものは何でも利用するつもりです。それが今回はあなた達。放っておいて自滅させるよりは手を貸して戦力とした方が有用です。違いますか?」

「てめえ……」

「考えてみて下さい。私たちの目的は一致しているはずです。支配の悪魔を抹殺する――そうでしょう?」

「……」

「私には支配の悪魔に対する私怨はありません。倒すのはあなた達でも構わない」

「ふん」

 

 姉は鋭い目つきで色白の少女を睨みつけていたが、やがてゆっくりと腕を解いた。テーブルへと手を伸ばす。

 呪いの釘を握り込んだ。

 

「気に要らねえ。でも、乗ってやる」

「お姉ちゃん!」

「うるせえ。こいつの言うことは間違ってない。むかつくけどな」

「でも、でも、使ったらまた寿命が減るって……」

「だから何だ? 腐ったまま長生きしてどうする? 短くなってもアタシは胸を張って生きたいね」

「そんな……」

 

 縋る妹に、突っぱねる姉。中国からやってきた無知な復讐者たち。

 サンタクロースはただじっと無機質な瞳で見つめていた。

 姉は復讐に目が曇り、妹は怖気づいている。2人の意志は別たれてしまっている。

 けれども1つだけ共通する想いがあった。

 それは――

 

「あ? なんだよアンタ、さっきから何をじっと見てるンだよ?」

「いいえ、別に……。ただ、あなた達は互いに“敬愛”の念を抱いているのだな、と思いまして」

「けーあい? なんだそりゃ」

「……?」

「大したことではありませんよ。私は、そう、支配の悪魔を抹殺するためにあなた達と力を合わせたいと考えているだけです」

「ああ、うん……? 好きにしろよ」

「うう……」

「ではこれからはよろしくお願いしますね」

 

 サンタクロースはうっすらと笑った。

 

 

 

 

 同時刻。

 中国とドイツからやってきた2組の刺客たちが密約を交わしていたハンバーガーショップから更に2kmほど都心へと遡る。

 建物の密度はあまり変わらない、田舎でもなければ都会でもない、そんな微妙な大通りから少しだけ外れた街中に1軒の回転寿司屋があった。

 冷凍輸入がメインのチェーン店ではない。天然物を扱っていて鮮度も管理されている。競争の激しい飲食業界の中にあって一定の人気を保っていられるのは老舗から流れてきた職人たちの腕によるところも大きいだろう。

 そのボックス席で、ソ連からやってきた2人の魔人が食事をとっていた。

 ニット帽を目深に被っているため額に生えた鱗は隠されている。更に流暢な日本語の発音と、ポリーナの浮かべる愛想笑いが、入国してからこれまでずっと誰にも不信感を抱かせなかった。

 日本は平和の国だった。

 なにせ偽警官という犯罪カテゴリがほぼ存在しない。誰もが制服を着ただけで相手の身上を無条件で信用してしまう警戒心の無さ。おかげで2人の暗殺者も、簡素なカムフラージュをしただけで現地の飲食店で暢気に寿司を食べていることができた。

 

「ん~~、美味しっ!」

 

 もっとも、観光気分なのはポリーナだけだったが。

 器用に箸を使ってマグロを口へと放り込み、一口毎に幸せそうにえくぼを凹ませる、そんな相棒とは対照的に、アナスタシアは黙々と義務のように寿司を口に詰め込んでいた。石でも食べているような仏頂面。皿を取っては食べ、皿を取っては食べの繰り返し。15皿ほど積み上げて、ようやく箸を置き、ふと席に備え付けられた黒いボタンに目をやった。

 

「なあ、これはなんだ?」

「んん? あーそれね、」

 

 ポリーナは、ずずずとアラ汁を啜ってから続ける。

 

「お湯が出るんだって」

「何に使うんだ?」

「なんでも手を洗うためらしいよ」

「ほお。こうか?」

 

 手を伸ばし、親指で押下した。

 すると当然、熱湯が滝のような勢いで噴きだした。手の甲に浴びせられ、だがそれでも長身の少女は眉一つ動かさない。周囲に跳ねていく飛沫を不思議そうに見つめている。

 初老の店員が驚愕の声をあげた。

 

「お、お客さんっ!? 大丈夫ですか!?」

「なんだ?」

「火傷しますよ! それお茶用の熱湯ですから!」

「む。そうなのか」

 

 アナスタシアはようやくスイッチから指を離す。濡れた手の甲をまじまじと見つめると、全面から湯気が立っていた。

 

「問題ない。熱には強いんだ」

「そ、そうですか? でも冷やした方が……」

「なんともない」

 

 店員はしきりに心配していたが、アナスタシアは壁のように突っぱねるだけだった。

 どうにか追い返してから、ぼそりと呟く。

 

「……ポーリャ、騙したな」

「うん! だってナスチャ、つまんなさそうなんだもん」

 

 口元を隠してくすくすと含み笑い。

 

「これのどこが面白い?」

「ナスチャが店員さんにどう対応するのかな~って思って。えへへ、やっちゃった」

「お前はそれで面白いかもしれないが、私は面白くない」

「でも熱くはなかったでしょ?」

「ああ」

「だったらいいじゃない。ちょっとしたサプライズよ」

「何がいいんだか……。今は任務中だぞ。目立つようなことをするんじゃない」

 

 しかしポリーナは肩を竦めて呆れてみせるだけだった。

 

「またそれ。もう任務なんてどうでもよくない? 私たちはもう辞めたみたいなものでしょ」

「辞めてない」

「ええ~? だってドーシのおじさんたちをやっつけちゃったじゃん」

「あいつらは同志ではなかった。問題ない」

「まー別にいいけどね? おかげで日本に来れて、お寿司も食べられたし」

 

 アナスタシアは憮然とする。

 

「いいか、任務は任務だ。ちゃんとやれ。他の誰かのためじゃない。自分のためだ」

「よく分かりませーん」

「……何かを残したいとは思わないか?」

 

 アナスタシアは声量を落とす。

 海老、サーモン、軍艦巻き……、2人の前を通りすぎていく皿を眺めながら、湯飲みの淵に指を這わせる。

 

「私たちはそろそろ死ぬ。死ねば、無だ。何も残らない。だからこそ何かを残したい。私はそう思う」

「へぇー。労働者の悪い奴みたいなこと言うんだね」

「私も少し驚いている。どうやら死期が近付くと焦りのような感情が湧くらしい。どうやって死ぬべきか、悔いのない終わり方、果たすべき責務……そんなことばかり考える」

「それがどうして任務になるの?」

「他に思いつかない」

 

 湯呑に茶の粉末を振り入れて、お湯を注いだ。

 

「私たちの人生にあったのは、訓練と実戦だ。だったら残せるのは結果だろう。より完璧に任務を遂行したという矜持を勲章にするんだ。アナスタシアとポリーナは立派に使命を果たした……他に何かあるか?」

「……ええ~、なにそれ?」

 

 ポリーナはしばらく憮然としていたが、ふと思い立ったように高い声を上げた。

 

「ナスチャ! 日本の寿司職人の知識を披露してもいい?」

「ん……、ああ」

「“飯炊き3年、握り8年”って言ってね? この国の寿司職人は、ただ寿司を握るためになんと10年以上も修行するらしいよ? どうしてだか分かる?」

「さあ。コレを作るのにそんな大層な技術が要るとも思えないが」

「あのね、日本にお寿司屋さんは3万店舗以上もあるんだって。だからこれ以上寿司職人が増えすぎないようにわざと教えないようにしてるらしいよ」

「なんだそれ」

「でも時代の流れってやつで、ロボットを使ったり、大量に仕入れたりして、安価で技術の要らない回転寿司の勢いが増してるんだって。つまりね、今の寿司職人は、ものすご~く苦労して一人前になったのに居場所を追われつつあるって話だね!」

「……」

 

 今度はアナスタシアが憮然とする番だった。

 つい、と店内へ目を向ける。先ほどアナスタシアが熱湯を浴びたときに声をかけてきた店員が暇そうに欠伸を噛み殺していた。

 

「そんな事知りたくなかった。知りたくなかったな……」

「えへへ! 今の私たちとおんなじだね!」

 

 アナスタシアはお茶を一口啜り、脇に置いていたバッグを漁った。スキットルを取りだして、ポリーナに押しつける。

 ポリーナの魔人として敏感な鼻がひくついた。

 本来ならば酒を入れておくための水筒から、戦場でしか嗅ぐことのできない特殊な匂いが漂っている。

 

「血が入ってる?」

「ああ」

「人間の血?」

「調達しておいた」

「治療用ってわけ? ナスチャは真面目だなあ」

「それだけが取り柄だ」

「ほんとにね。もっと他にも目を向けたほうが楽しいよ?」

「そんな機会はなかった」

「これからやればいいじゃない」

「時間がない」

「まあそうだけどさ……おおっ!?」

 

 ポリーナはコンベアを見て目を大きく見開いた。プリンだ。ウキウキ顔で手を伸ばす。

 アナスタシアはというと、仏頂面でもう1つのスキットルを取りだしていた。自分用にと胸の内ポケットに忍ばせながら、ふと壁に貼られた情報ボードに目を留める。本日のオススメとともにこんな一文が書かれている。

 

『 ウニ 本日品切れ! 明日以降の御来店をお待ちしています 』

 

「……どんな味だったんだろうな」

 

 赤毛の少女は呟く。彼女の腕に嵌められた時計の針は真上を指していた。

 

 

 

 

 

残 り 6 時 間

Осталось 6 часа.

 

 

 

 

 



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残り5時間

 山中には時折、ドライバーが休憩するための駐車場スペースが存在する。

 ただ車を停めるだけ。インターチェンジと違って店もない。せいぜいが古びた自販機が1つ2つ設置されているくらいで、殆どのドライバーはトイレで用を足すためだけに車を停める。

 デンジたちが乗車しているロングバンがその駐車スペースを訪れたのも、最後のトイレ休憩のためだった。

 降りたのはナユタとレゼ、そしてここまでずっと運転していた公安職員の内山田。

 内山田――横柄な性格の壮年のハゲ男は、車を降りがてら、車中に残っているデンジたちに向けてこう警告した。

 

「いいか、この車――リメンバー・クレスタ号は納車されたばかりなんだ。汚したり傷をつけたりするんじゃないぞ。あと一応、ないとは思うが、勝手に運転したりしたら許さないからな。いいな、絶対だぞ?」

「へえ」

「返事は、はいだ」

「ヘエ」

 

 やたら念を押してから男子トイレへ駆けていく公安のハゲ男を見送って、デンジはだらしなくシートに寄りかかる。

 車中に残っているのは、デンジと冤罪の悪魔。

 この2人は特に仲が良いわけでもない。むしろデンジとしては、人を小馬鹿にする態度を隠そうともしない彼女が苦手だった。横暴なところはパワーに似ているが、冤罪の悪魔の言動には粘つくような悪意も付与されている。子どもの性悪と、大人の性悪、どちらがマシかは論じるまでもない。

 デンジは低い天井をぼんやりと眺めながら事後策を考える。ここからどうしたら川遊びにもっていけて、水着姿を拝めるか。彼はまだ諦めていなかった。

 

「北風と太陽……」

 

 教育テレビの寓話を思いだす。今からでも急にものすごく暑くなって2人の少女が服を脱がずにいられなくなったりしないだろうか。デンジは腕を組んで唸りだす。天気をどうにかできるような強力な悪魔……例えば太陽の悪魔とかがいたらいいのに。もしも今現れてくれたなら速攻で契約する――などと益体のないことを考えていると、デンジの耳に「しまった」と忌々しげな舌打ちが届いた。

 ちらりと目を向ける。

 冤罪の悪魔が親指の爪を噛んでいた。

 

「虫除けスプレーを忘れたわ」

「あ?」

「買いに戻らないと」

「悪魔でも虫に刺されんのか?」

「当たり前でしょ。血が流れてる生き物なんだから。……ああ、さっきコンビニがあったわね。戻るわ」

 

 そう言うと、前方の席へと身を乗り出して、運転席に座ろうとする。

 デンジ、もぞもぞと移動する形の良い尻を眺めながら、

 

「歩いて行けば?」

「嫌よ、めんどくさい」

「運転できんのか?」

「免許はプラチナよ」

「ふぅ~ん……?」

 

 冤罪の悪魔はシートベルトをかちりと嵌める。バックミラーの角度を調整し、エンジンキーを捻った。

 エンジンが、かかった。

 

「……え? マジで運転すんの?」

 

 デンジは我に返る。成人女性のケツと体付きに想像を巡らせている場合ではなかった。

 見れば、悪魔は既にサイドブレーキを下ろしていた。そのまま躊躇することなくアクセルを踏み込んだ。

 車体が揺れるほどの轟音が鳴らされる。

 しかしまるで進まなかった。

 

「おいおい」

「あ、ギアが入ってないのね。え~と?」

 

 言いながら、運転席の周辺に目を動かした。シフトレバーを発見。握りしめたが動かなかったため、「ふんっ」と力を籠めた。ミシッと不吉な音が鳴った。

 女は気付く。ブレーキペダルを踏んでいなかった。

 

「もう、めんどくさいわね。ゲームみたいにボタン1つで発進できればいいのに」

「ゲーム……?」

 

 なんか、ヤバくね? とデンジは思った。

 こいつほんとに運転できんのか?

 それは少し考えればすぐに分かることだった。

 悪魔は戸籍を持っていない。だからたった今シフトレバーをドライブに入れたばかりの冤罪の悪魔が運転免許証を所持している可能性はゼロだった。おそらく彼女は、車の運転というものをゲームでしか経験していない。

 デンジの脳裏に、パワーの得意げな笑みが浮かんだ。

 

「ちょ、待」

 

 そして、

 アクセルペダルが、ベタ踏みされた。

 

 

 

 

「――よし、トイレに3人入ったな。これで車に残っているのはターゲットのノコギリ男と護衛の女の2人だけだ」

 

 駐車スペースを一望できる木の影から、アメリカのパクリ3兄弟が様子を伺っていた。

 チャンスだった。標的がほぼ孤立した。

 すかさず偽レゼと偽ナユタが立ち上がり、背後の三男に指を突きつける。

 

「今から俺たちがノコギリ男をここまで連れてくる! お前は待機! 分かったな!?」

「ふっ、ならば華麗にキメてやろう」

 

 わけの分からない返答に、偽レゼと偽ナユタは苦虫を噛み潰したような顔をする。が、三男の正気を確かめている暇はない。本物のレゼとナユタがトイレから戻ってくる前に早川デンジを連れ出さねばならない。

 2人の偽者は互いに頷き合うと、勢いよくロングバンへと走りだした。

 三男はにへらと笑う。兄たちが離れたのを確認すると懐からスマートフォンを取りだした。淀みない操作で配信サイトに繋いでライブ配信を開始、ロングバンへと近付いていく2人の兄たちにピントを合わせる。

 実況中継の始まりだ。

 

「Hey Guys! 待たせたな! 今日は予告通りに悪魔狩りのライブ映像をお届けしよう! ターゲットはあのノコギリ男、チェンソーマン! 今から兄貴たちが誘いだして、この僕が格好良くやっつけてやるって寸法さ! さあ、よ~く見てろよ? 奴の仲間に化けた兄貴たちが車に近付くぞ~……」

 

 突如、ロングバンから轟音が鳴り響く。

 後輪が猛烈な勢いで空転し、アスファルトに噛み合った。瞬間、急加速して――

 

 2人、吹っ飛んだ。

 

 きりもみ回転しながら人間が飛んでいく姿を、三男は初めて見た。

 

 

 

 

 冤罪の悪魔も初めて見た。

 デンジは見れなかった。

 何故なら、彼はフロントガラスを突き破り、アスファルトを転がっている最中だったから。

 シートベルトをしていなかった。

 それが明暗が分けた。

 一昔前のオープンワールド系ゲームの死体のようにぼてんぼてんと情緒の欠片もない跳ね方で10メートル近く転がっていき、ようやく動きが止まった。

 

「ぎ……、ぎ……」

 

 吐血と鼻血が路面に広がっていく。

 まさしく殺人現場そのものの有様。瀕死のデンジの傍ではたった今トイレから出てきたばかりの本物のナユタとレゼがあんぐりと口を開けて棒立ちになっていた。

 

「え、ええ……?」

「なに、この……なに?」

 

 流石の支配の悪魔も、そして流石の元エリートエージェントも、困惑せざるをえなかった。

 トイレに行って、戻ってきたら、デンジが死んでいた。

 

「い、生き……、」

 

 近くには少女が2人もうつ伏せに倒れていて、更にフロントガラスを粉々に飛び散らせたロングバンが「私がここで撥ねました」と白状せんばかりに前面を大きく凹ませていて、挙句の果てに、

 

 !?

 

「わ……わたしの、クレスタあぁぁあぁあぁあぁぁ~~!!」

 

 公安の運転手、内山田が慟哭していた。

 

 

 

 

 

残 り 5 時 間

Осталось 5 часа.

 

 

 

 

 

「なぜだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~っ!」

 

 山中の駐車スペースが混迷の坩堝と化していた。

 ナユタは未だにフリーズ中。

 レゼはほんの少し猫背になった。

 

「はあ~あ」

 

 すとんと感情のシャッターを閉め降ろすしかない。

 

「レジャーごっこ、したかったな~」

 

 呟きながら、呆けているナユタの襟首をむんずと掴む。

 

「んぐ」

 

 漏れ出た声を聞きながら後方の女子トイレへと放り投げた。次いで、足元で血塗れになっている少年もベルトを掴んで投げ入れる。

 

「――」

 

 こちらは特に反応無し。

 最後に自身もトイレの内へと退避して、屈み込み、慎重に手鏡を使って外の状況を窺った。同時に、デンジの意識レベルも確認する。

 

「デンジ君? もしも~し? 自分の名字と生年月日は分かるー?」

 

 言いながら、倒れているデンジに手を伸ばして衣服をまさぐった。上着を腹から捲くり上げ、硬い異物を指先で探り当てる。チェンソーマンのスターター。

 

「おトイレの間ぐらいはもたせてほしかったんですけどねえ」

 

 引っ張った。

 

 ブゥン

 

「はっ……! おあ~……し、死ぬかと思った」

「多分死んでたよ、キミ」

「マジで……?」

 

 デンジ、むくりと身を起こす。しばらく忘我の顔で呆けていたが、徐々に眉間に苛立ちの皺が刻まれていく。

 

「あ、ああ~、あの悪魔野郎、だんだんマジでムカついてきたぜ……」

「何があったの?」

「あの女悪魔に吹っ飛ばされた」

「ええ? それって、冤罪の悪魔さん? なんで?」

 

 と、手鏡の中で、事故車と化したロングバンのドアが勢いよく開いた。

 運転席から1人の成人女性が降りてくる。冤罪の悪魔、平静そのものといった顔つきで辺りを見回した。駐車場に倒れ伏している2人の少女たちを一瞥し、近くで膝を突いて人生の悲哀を嘆いている公安の壮年男をガン無視する。落ち着き払った態度がかえって不気味だった。

 

「ふう」

 

 耳にかかった髪をかき上げて、女子トイレの入り口から手の平を振っているレゼに気がついた。

 大仰に腕を組む。

 コツコツと歩み寄り、こう一言、のたまった。

 

「早川デンジが轢いた。私のせいじゃない」

「はぁ~!?」

 

 思わずデンジは飛び出した。

 

「俺はやってねぇ! よくンな嘘が言えたモンだなあ!?」

「えっ!!?」

 

 それは迫真の演技だった。

 冤罪の悪魔は信じられないとばかりに口元を手で覆い、大仰に首を振りながら、じわじわと沸きあがる怒りを演技する。

 

「まさか人のせいにするつもり……!? この……人殺しがア!」

「コワっ!? レゼ、この悪魔、嘘つきだあ!」

「違う! 悪魔は嘘をつけない! 嘘をつくのは人間だけ!」

「んな設定ねーよ! テメエが証拠だバ~カ! 嘘糞野郎がよお!」

「レゼさん、私は誓って運転していないわ! そもそも悪魔が運転できるわけないでしょう!? 悪いのは早川デンジ! 本当よ!」

「逮捕だ逮捕! 嘘なんとか名誉なんとか罪で逮捕だテメエ!」

「あのさぁ……」

「ちょっと」

 

 女子トイレから、亡霊のような顔つきでナユタがぬるりと現れた。

 

「静かにできる?」

「あっ」

 

 冤罪の悪魔、頬をひくつかせて視線を逸らす。

 

「でっ、できるっ」

 

 ナユタは微笑を浮かべる。悪魔特有の温度を感じさせない瞳で容疑者2人を見比べた。

 

「さっき、どごぉんって大きな音がしてたけど。あの公安の車で、そこに倒れてる人間を轢いちゃったってことかな?」

「そ! そうっ! でも、私じゃない!」

「俺でもねえ! テメーだろ!」

「……正直どっちが轢いたかはどうでもいいかな。私が決めることじゃないし」

「きっ!?」

 

リリリリリ

 

 狭いトイレ内に電子音が反響する。

 ナユタは頬の筋肉をぴくりとも動かさぬままポケットをまさぐった。

 

「もしもし。はい、はい――」

 

 周囲を警戒しているレゼ以外の視線を集め、淡々と受け答えしている。デンジと冤罪の悪魔は不安げに小さな悪魔を伺った。この場で最も幼い少女が場の主導権を握っている。

 

「ん」

 

 ナユタは携帯電話を差しだした。

 

「わ、私に?」

 

 受け取ったのは、冤罪の悪魔。

 慎重な手つきで耳元にあてると、

 

『岸辺だ』

「う……」

 

 本当の処遇決定権を持っている男の声がした。

 

『全部見ていたぞ。お前、ちょっとそこに居ろ。すぐに行く』

「待って! これは何かの間違い……そう、冤罪なのよ!」

『お前がそれを言うか』

 

 と、その時、レゼが声をあげた。

 

「あ。デンジ君、ナユタちゃん、見て」

 

 指差す先は、すぐ外に転がっている2人分の死体。

 

「格好が、体格も変わった。成人男性……。悪魔の力で姿を変えてたのか」

 

 2人の少女だったはずの死体。

 それが、いつの間にか2人の中年男になっている。ぴくりともせずに息を止めている姿はどう見ても日本人ではない。更に悪魔の力で変身していたとなれば民間人ではないだろう。

 

「……」

「……」

『……』

 

 冤罪の悪魔が得意げに口元を歪める。

 

「フフン、やっぱりね」

「ああ?」

「こいつらが刺客よ! どうやら気付いてたのは私だけだったようね!」

「はああ? んだそれ?」

 

 デンジは不満を露にしながら破れかかったサーフパンツと血に汚れたスポーツウェアを見下ろした。ぼろぼろのぐちゃぐちゃだ。

 

「納得いかねええ~! なんか前にもこんなことあった気がするんだけどよお!」

「わぁははははー!」

 

 レゼは努めて感情を表に出さないようにしながら辺りを見回した。

 田舎の駐車場。

 凹んだロングバン。

 細かいガラス片が飛び散るアスファルトに、2人分の死体が倒れ伏している。

 惨劇だった。

 これでもし相手が民間人だったらどうなっていただろう。きっと洒落では済まない事態になったに違いない。もっとも、故国で起こった事故なら全てが隠蔽されただろうけど。

 岸辺は無慈悲に宣告する。

 

『冤罪の悪魔。お前はそこ動くなよ』

「え?」

『本当に刺客か、調べないと分からんだろ』

「はァ~? 想像力をもう少し働かせてもいいんじゃない? 姿を変えて近付いてくるような連中が刺客じゃないわけないでしょ?」

『じゃあお前、そこで倒れてる男どもの素性が分かるのか?』

「敵よ、敵!」

『どこの誰だよ』

「そんなの、」

 

 分かるわけがない。

 仮に、死体の男たちが有名なデビルハンターだったらレゼも顔を把握していただろう。だが未だ警戒を解かずに周囲を窺っている少女は「知らない」と首を振った。

 同様に、ナユタも知らなかった。

 デンジも「知るかボケ」。

 そして、電話の向こう側にいるであろう公安職員たちも揃って回答を持っていなかった。

 

『つまりお前が轢いたのは運の悪かった民間のデビルハンターって可能性もあるわけだ』

「…………ちっ」

 

 女は旗色が悪いと察知した。

 長い長い溜め息で正論を遮って、

 

「はあぁぁああ~~~あぁ~。これだから腐れ金玉は」

『あ?』

「また悪魔差別。ほんとクソ。手が震えて涙が止まらない」

『何言ってんだ?』

「黙れ。私は共感しか聞きたくない」

 

 言うが早いか冤罪の悪魔は飛び出した。

 アスファルトを蹴って弾丸の勢いで飛び出していく。超人さながらの跳躍力。

 あっという間に姿を消した。

 一陣の風が駐車場の開けた空間をひゅるると通り抜けていく。

 

『マジか』

 

 ナユタはゆっくりと携帯を拾って、ぽつりと呟いた。

 

「逃げたね」

 

 次に、デンジも。

 

「ありゃ戻ってこないパターン」

 

 レゼはくるりと振り返る。たっぷり五秒間だけ見つめたが、早川兄妹が前言を撤回する様子はない。

「嘘でしょ? 日本ってこういうのアリなの?」

「あー、ナシなんじゃね? でもあいつ悪魔だしなあ」

「一緒にしないでほしい」

「あっそう。じゃあ公安がヌルいんだ」

『……あいつはとっ捕まえる』

「それで済むんだ」

 

 レゼはぐるりと全周を見回した。近場の建造物は勿論、遠く風景となっている山中の木々の1つ1つにまで。何者かが潜んでいないか、あるいはその痕跡が残っていないか。望遠レンズよりも精緻に眼を光らせた。誰にも聞こえないよう口の中で囁く。

 ……やる気あんのかな。

 

 

 

 

 三男は思わず望遠スコープを伏せた。

 レンズの反射光でこちらの位置がバレるかもしれないと思ったからだ。

 勿論そんな心配をする必要はないとは分かっている。自分が身を隠している位置は山間の影、例え相手が悪魔並の視力をもっていたとしても発見されることはないはずだ。

 けれど、それを理解していてもレゼという少女の眼光の鋭さに怖気を感じた。

 猛禽類さながらの冷徹さ。

 どんな獲物も見逃さないという意志と威圧感。

 ただ1人警戒を怠らなかったあの少女――レゼと呼ばれる武器人間の姿形は知っていた。

 つい先ほどスーパーですれ違い、兄が化けた造形も間近で確認している。若い女、ただの美女、そんな印象を持っていた。しかし、つい先ほど遠目から望遠レンズを通して確認した彼女の眼光はとても同じ生き物とは思えなかった。中身がまるきり変わってしまったようだった。

 あれは、本物だ。

 自分たち3兄弟が目指しても届かなかった、本物の裏の世界で活躍するプロの仕事屋。

 気がつけば後ずさり、逃亡していた。

 少しでも距離をとるために道の無い山中へと分け入った。

 逃げて、逃げた。

 辿り着いた先にあったのは幅の狭い尾根道。

 見上げれば濃い緑に色づいた葉が頭上を覆い隠して、木漏れ日さえも阻んでいる。まだ14時にもなっていないのに日没前のように暗い。尾根道をどう進めば下山できるのかも分からない。

 そんなもの、スマホの位置情報と地図を照らし合わせればすぐに分かる。

 画面を見る。

 ライブ放送がまだ生きていた。

 

「はは……」

 

 画面の中では視聴者たちが激論を交わしている。

 放送事故、轢かれた仕掛け人、日本の公安職員の正当性、放送者のモラルについて、デビルハンター業界の倫理観、正義とは、悪魔とは、政府が布くべき法とその整備――

 馬鹿ばっかりだ。

 こいつらは議論をしたいだけ。他者をコメントでやり込めたい、何か大きな流れに参加して当事者気分になってみたい、そんな、虚構で気持ち良くなりたいだけのろくでなしども。

 だからこうしてちょっと過激な事件を提供してやればすぐに食いつく。崇めたい盛りのお子様と、批判したい病のナルシストが、勝手に場を熱くして再生数を伸ばしてくれる。

 ほぉら見ろ、真面目に働くのが馬鹿らしくなるほどの勢いでドルマネーを積み上げられているじゃないか。

 愚民どもは好き勝手な議論を交わしていたが、望んでいる展開は誰もが同じ。

 

 続きを見たい! もっとやれ!

 

「ははは……」

 

 やってやろうか。

 適度に戦い、安全なうちに逃げてしまえばいい。デビルハンターとして悪魔を狩るよりよっぽど儲かる。そして何より、信じられないくらい多数の人間がこの自分に注目し、肯定してくれる。こんなに気持ちいいことはない。

 けれど。

 所詮、顔も名前も知らない他人どもが放り投げてくるだけの、その場限りの賛同だった。

 

「兄貴たち、ほんとに死んだのか……?」

 

 呟きがするりと耳に入りこむ。自分で喋ったくせに知らない男の声のよう。

 兄たちが死んだ。

 その認識がようやく頭に入りこむ。

 

「どうして」

 

 知っている。車に轢かれたからだ。

 仕事の途中でしくじったからだ。

 今回の仕事は特に危険だと言われていた。こうなる覚悟もしていたはずだ。

 でも、じゃあどうしてそんな危険な仕事を引き受けたかというと――

 

――大金が要るんだよ。引退しても暮らしていけるようにな

 

 全て自分のためだった。

 精神の限界を迎えつつあるこの自分をデビルハンターから引退させるために敢えて危険に突っこんだ。

 もっと安全で楽な仕事もあったのに。

 兄たちは、他人ではなかった。

 それをようやく思いだした。

 

「Hey Guys……。聞いてくれ。兄貴たちが死んだんだ。僕はデビルハンターとして引き受けた仕事をやり遂げなきゃいけない。応援……してくれるよなぁ!?」




はい。
さて、明日からチェンソーマン第二部が始まります!
楽しみですね。ではまた。


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残り3時間

「――人を殺すのはいけないことなのか?」

「へえっ?」

 

 がたんごとんと揺れる電車の最後尾、まばらな車両の窓から流れゆく景色を眺めていたポリーナは素っ頓狂な声をあげた。

 同じ火の魔人であるアナスタシアから向けられた質問はそれほどに意外だった。それは例えるなら「ナイフで心臓を貫かれたら生き物は死んでしまうのか?」と聞かれているも同然の、当たり前で話の種にするまでもない内容。

 

――人を殺すのはいけないことなのか?

 

 いきなり何を言い出すのだろう、とポリーナは首を傾げた。

 そんな話にいいも悪いもなく、エージェントとして育てられた自分たちからすれば遙か昔に決着したはずの問題だ。

 ポリーナは思わず隣に座っているアナスタシアの無感情な顔をまじまじと見つめてしまう。

 

「どしたの、急に」

「人を殺すのは、いけないことなのか?」

「……そんなのTPOによるとしかいいようがないよ?」

「例えば?」

「例えば……って言われてもなー。ええと、あのね? もうちょっとこう、何を聞きたいのか要点をハッキリしてもらわないとこちらとしても困りますよ?」

「だから、単純に、いいことなのか、悪いことなのか」

「それってさあ、善悪のハナシ? 法律のハナシ? お仕事のハナシ?」

「……」

「あ、これ自分でもよく分かってないって顔だ」

「…………かもしれない」

「はぇ~。そんなんじゃこっちも答えようがないんだなぁ」

 

 アナスタシアは腕組みしたまま動かない。

 自分から質問してきたくせに言葉に詰まってしまい、難問を解きにかかった受験生と化してしまった相棒をポリーナは横目で眺めて待ってみる。待ってみる。もうしばらく待ってみる。しかし変化は見られない。こりゃだめか~、と聞こえよがしに溜め息をついた。

 

「……ナスチャは何かを納得してないんだね」

「納得?」

「そ。これでいいのかな~ってもやもやがあるんでしょ。それが何に対してなのかも分からない。だから困ってる」

「そうなのか?」

「そうだよ」

 

 ゆっくりと言い含めながらポリーナは考える。

 電車はすでに目的地である山間に突入しつつある。標的であるレゼと遭遇する時も近付いてきており、公安の護衛たちといつ接触してもおかしくない。だからここにきてのアナスタシアの発言はまさしく「今さら何を」としか言いようのない内容でしかないのだが――

 

「もしかしてナスチャはレゼって人を始末したくないんじゃない?」

「いや、別に」

「ここにはソ連の監視員はいないよ? 何をどう喋っても怒られない」

「任務に関しては本当にどうとも思っていないんだ」

 

 アナスタシアは即答する。

 かつて仲間だった少女を始末することにためらいはない。慈悲や情けに左右されるような柔な精神構造からは最も遠い位置にいた。

 

「ふ~ん。ナスチャってさ、昔からそんな感じなんだよね?」

「ああ。最初は犬だった。モルモット一人につき一匹があてがわれ、育てさせられて懐いてきたところで殺せと命じられた。私は殺した。だって殺すか殺さないかの二択なんだ、こんなに分かりやすい話はない。なのに他のモルモットたちはあのとき揃って保留を選んだ。決断まで早い奴でも5秒はかかっていたな……」

「わーお、ひどい話。……あ、ちなみにその時の私はどうしてたの?」

「その5秒で決断したというのが、お前だ」

「薄情~」

「時間を稼ぐことにどんな意味があったんだ? 教官の印象が悪くなるだけだろう」

「人間、誰しも捨てたくないモラルというものがあるのだよ、アナスタシア君」

「モラル……」

「正しい人でいたい、って言い換えてもいいかな」

「その“正しい人”ってのが、分からない」

「うん、それがTPOになるね」

 

 アナスタシアは僅かに片眉を吊り上げる。

 長身の少女は、肩口でゆらゆら揺れているニット帽のてっぺんを眺めながら、続きを促した。

 

「モラルに固執するのは個人のこだわり。ただのエゴ。勘違いしてる人は多いけど、そんなのを優先させるのは正しい人とは言わない。正しい人・悪い人ってのはTPOで変わるんだ。ソ連だったら、偉い人に従う人。民主主義の国なら、多数派の意見に従う人。それは分かるでしょ?」

「……」

「ナスチャはどっちの正しい人になりたいの?」

「……」

「どっちなら納得できそうなの?」

 

 赤毛の少女はしばらく黙り込んでから、答えた。

 

「……分からない」

「ぶぶー、不正解」

 

 銀髪の下から爬虫類のように縦に裂けた金色の瞳が覗き込んでくる。

 

「ナスチャはどちらを選んでもけして納得することはできない」

 

 ポリーナは細身の身体で相棒に寄りかかる。彼女は近接格闘戦に向いていなかった。飲み込みも悪く、戦闘のセンスもない。すぐに落伍者になるとモルモットの誰もが思っていた。

 しかし実際は最終選考まで生き延びた。人の心理を読む術に長けていたから。

 

「共感性の欠如。ナスチャは人の心が分からないんでしょ? “正しい人”も“悪い人”も感覚的に理解できない。他人の生き方を真似したところで納得は得られない」

 

 電車は揺れる。景色は流れていく。

 ポリーナは淡々とした口調で囁くだけだった。

 

「ナスチャの納得はナスチャの中にしかない。誰も参考にならない。自分で決めるしかないよ」

 

 電車のアナウンスが流れ始める。

 ご乗車の皆様お疲れさまでした。次は終点、終点となります。お忘れ物のお荷物がないようご注意下さい――

 

 この世界で唯一つ、誰に対しても絶対的に平等で、泣こうが喚こうが目を逸らそうが容赦なく奪い取られていくものがある。

 時間。

 

 現在時刻、15時。

 アナスタシアの寿命は本日18時に尽きることになっている。

 

 

 

 

 

残 り 3 時 間

Осталось 3 часа.

 

 

 

 

 

 中国には黒孩子(ブラックチルドレン)と呼ばれる戸籍のない子どもたちがいる。

 

 

 6歳のとき、学校に通わせることはできないと親に知らされた。

 どういうことか理解できずに呆然としていると、同い年である姉の凜風(リンファ)が父に食ってかかった。

 

――いくらうちが片親で貧乏だからって小学校ぐらいは行かせられるだろう。どうしてもっていうなら自分が働く、だから妹だけでも通わせることはできないのか。

 

――できない。

 金の問題じゃない。

 お前たちには戸籍がないんだ。

 身分証明がないから学校には通えない。

 

 父の絞りだすような息遣いが印象的だった。

 酒も煙草もやらず、堅物だった父。

 工場勤めで、いつも手指が黒ずんでいた父。

 月に一度の給料日に本を買ってきて読み書きを教えてくれた父。

 その父が、今までに見たことのないような哀しそうな顔をしていた。

 

――お前たちは俺たちの本当の子どもじゃない。

 死んだ母さんが、妊娠できない体だったものだからつい市場で買ってきてしまったんだ。

 

 何を言っているのか分からなかった。

 いや、分かりたくなかったんだと思う。

 『お前たちは俺たちの本当の子どもじゃない』、その文字列が耳の奥から頭に入り込んだ瞬間、防衛本能が働いて、それ以上の咀嚼を力づくで拒否していた。無茶の反動は神経系に負担をかけ、足元はおぼつかなくなった。世界が傾いていくように感じた。

 薄暗い部屋のなかで沈黙がどれほど続いただろうか。

 私が耐えきれず、意味を成さない嗚咽を漏らしそうになったとき、

 

「……そっか、そうなんだ。だったら、しょうがない、か」

 

 姉の呟きがするりと耳朶に染みこんだ。

 後から思い返してみれば、その言葉が楔になったのだと思う。

 拠り所を失ってどこかへ飛んでいきそうになっていた私の精神を、姉が繋ぎとめてくれたのだ。

 これはもうしょうがないこと。終わったこと。だから気に病んでも仕方ない。

 姉の肩は震えていた。横顔は固く、青ざめていて、本で見た絵画のようだった。

 

 

 私たちのような黒孩子(ブラックチルドレン)は中国には1300万人以上いるらしい。

 一人っ子政策により陰へと追いやられた子どもたちは圧倒的に女の子のほうが多い。

 なぜかというと、古い観念にとらわれた農村では後継ぎに男の子を欲しがるからだ。先に生まれてしまった女の子の出生届は出されず、違法と知りつつも誰かに売るか、捨ててしまうか、こっそり育てるかが選ばれる。その後にやっと生まれた男の子だけが『第1子』として届けられる。

 

 父は私たちを義理の娘にしようと何度も申請したらしい。

 だけど地方政府は拒んだ。

 一人っ子政策での成果を競っていた地方政府にとって黒孩子(ブラックチルドレン)は存在してはならない厄介事でしかなかったから。

 私たちは戸籍に基づく身分証がなかったから病院で診察を受けることもできなかった。図書館で本も借りられない。もちろん学校にも通えなかった。それでも父が少しずつ勉強を見てくれたから、同年代の子どもたちには劣るものの、読み書きはできた。そこだけは他の黒孩子(ブラックチルドレン)たちより恵まれていたと思う。

 

 父が死んだ。

 

 道路の崩落事故に巻き込まれたらしい。遺体はコンクリートで埋め立てられてしまったため最期の対面も叶わないと近所の人が教えてくれた。そのおばさんは好奇の眼差しを私たちに向けながらこう続けた。

 

――政府が賠償金をたくさんくれるってさ、良かったね。

 

 しかし私たちには戸籍がない。

 受け取る権利など存在しなかった。

 

「……しょうがない。こういうこともある。だから朱亞(シュア)よ、ぴーぴー泣くんじゃない」

 

 姉は、やはり肩を震わせて、呪いの重みを振り切るように私の手を引いて夕暮れの裏路地を進んでいった。

 父が死んだ以上、私たちは家に住む権利さえ失っていた。

 

 

 

 

 

「――お姉ちゃんはクァンシさんの仇を撃ちたいんだよね」

「ああ、そうだ。今さら何言ってんだ」

 

 がたんごとんと揺れる電車の先頭車両、まばらな車両の窓から流れゆく景色を眺めながら私は思い出す。

 姉は、あの時も、あの時も、きっと泣きだしたかったはずだ。

 でも子ども二人がただ泣いていたところでどうにもならない。だから無理やり涙を引っこめた。

 

――アタシらは、支配の悪魔をぶっ殺すまではまともに生きることもできねえんだ!

 

 私はずっと姉に守られてきた。

 その姉が、クァンシさんが殺されたと聞いたとき、初めて「しょうがない」と言わなかった。

 それまでの我慢をかなぐり捨てて、仇を討つと決めたのだ。

 ならば。

 私のするべきことは一つしかない。

 今度は私が姉の楔になる。

 例えそのせいで共に奈落の底へ転がり落ちることになろうとも――

 

 

 

「クリスマスの時間です」

 

 サンタクロースが触れた者は人形と化す。その人形が触れた者もまた人形と成ってしまう。

 ドイツからやってきた悪魔遣いの少女は、人形の悪魔と契約しているとのことだった。

 彼女の周囲に立ち並んでいる人形たち、その約半数が規則正しく足を揃えて後部車両へと移っていく。

 その光景を私と姉はどんよりと暗い眼つきで見つめていた。

 

「また人形を作るのか……」

「プレゼントは一人では届けきれませんから」

 

 この先頭車両に乗っていた日本人の乗客たち。あの人たちも、ほんの数分前まで自分の人生を生きる人間だった。

 今ではもう非道の手先。こうして私たちがただ座っている今この瞬間も一車両ずつ進みながら犠牲者を増やしていっている。

 

「……うう」

 

 電車に乗るのは初めての体験だった。

 窓には美しい山々と谷間を蛇行する川の景色が縁取られていたが、のんびり眺めているような気分にはなれそうにない。

 原因はいうまでもなく、向かいの席で置物のように座っているサンタクロースと名乗った少女。

 

「それなりに数が揃いましたね」

 

 支配の悪魔を倒すために手を結んだドイツ人の周りには、老若男女、様々な日本人だったモノたちが立っている。皆が皆、一様に作り物じみた無表情。人間ではない。人形だ。

 

「なあ……人形にされたら二度と元に戻れないんだろ?」

「はい」

「そこまでやることはねぇんじゃねえか……?」

 

 歯噛みする姉。

 サンタクロースは白々しく首を傾げてみせる。

 

「数は力です。目的を達成するためには必要でしょう」

「こいつらが何をした? 何の罪もねえ人間だっただろ」

「誰しも少なからず命を奪って生きています」

「これはメシを食うためじゃないだろ。他のやり方はなかったのかよ……」

「妥協は失敗のもとですよ」

 

 サンタクロースを取り巻く人形たちは微動だにしない。

 皆が明後日の方向を虚ろに見つめている。彼らは、彼女らはもう人間ではない。生き物ですらなくなっている。人生を奪われた。私たちが目的を達成するために。

 悪魔遣いの少女は緑色の瞳を怪しく光らせる。

 

「例えば、支配の悪魔を追い詰めたとしましょうか」

「ああ?」

「支配の悪魔は民衆のなかに逃げ込んだ、ここで見失ってしまえばチャンスは二度とこない……そんなとき、あなたの手元に手榴弾があったとします。投げ込みますか? 諦めますか?」

「そんなの……」

「やる気がないなら呪いの悪魔は返してほしいですね」

 

 姉は言葉に詰まる。

 4回刺された者を必ず殺すという悪魔の釘は、もはや手放すことのできない私たち唯一の武器だった。

 睨みつけはするものの、それ以上の反抗はできない。

 

「……クソッ! 悪魔遣いってのは皆こうなのかよ!」

「お姉ちゃん……」

 

 サンタクロースは私たちより年下の少女の姿でありながら、その中身は何十年もの人生を積み重ねてきたプロの悪魔遣い。成果のためなら何でもやる、弱者を踏みつけにすることも厭わない。

 私たちは知っていたはずだ。

 それも承知で手を組んだ。

 でも、本当にそれでよかったのだろうか。

 そのやり方は、私たちを社会の隅へ追いやってきた冷たい政府の役人たちと同じではないのか。

 

「プロは全力を尽くすからこそプロなのです。クァンシもこの場に居たならきっと似たようなことをしたでしょう」

「クァンシは、そんなことしねえ!」

「さあ、どうでしょうか。彼女の通った道には多くの屍が残されていたと聞きます。わざわざ一般人のために労力を割くとは思えませんが」

「てめえに何が分かる!? クァンシは……クァンシはなぁ、アタシらを助けてくれたんだ! 何の見返りもねえのにだ!」

「そ、そうだよ……。クァンシさんは、ひどいことなんてしない……」

「そうですか。クァンシはずいぶんと“崇拝”されているようですね」

「そんな大そうなもんじゃねえ……。人として当たり前の話だ」

「モラルを守りたいなら復讐などすべきではありません」

「……」

 

 初めて声をかけられたときから薄々感じていた。

 サンタクロースは血の通わない冷たい社会構造が人の形を得たような存在だ。情は無く、合理で物事を考える。弱者などいともたやすく切り捨てる。

 姉はそんな悪魔じみた存在と対等に張り合っているつもりのようだけど、そんな考えはきっと甘い。通じる相手ではない。

 これまでの人生で何度も味わってきたから分かる。

 弱者を利用する側の人間は、強者だからこそ、その位置にいられるのだ。

 金と権力を持ち、理知に聡く、暴力を備え、そして何よりそんな強者たち同士で太い繋がりを持っている。

 私たちのような物知らずの孤児姉妹が抗えるような相手じゃない。

 きっと骨までしゃぶられる。

 

 

『キミの姉は、未来で最悪な死に方をする』

 

 

 怖気が走る。

 私たちはずぶずぶと底の無い泥沼に嵌りつつある。

 思い返すまでもない。復讐を誓って走り出したあの日から、一歩進むごとに不吉の手が食い込んできていた。

 未来の悪魔との契約。

 復讐の悪魔との契約。

 サンタクロースとの同盟。

 呪いの釘。

 ……精神と寿命が一寸刻みにされていく実感があった。

 

(誰か……誰でもいい……。この淀んだ状況を変えてほしい……)

 

 いっそ悲鳴をあげてしまいたい。

 助けてほしい。

 誰でもよかった。この深みから抜け出してくれるなら。それが例え更なる邪悪な悪魔でも、殺戮しか知らない魔人でも――

 

 

 その願いは届いたのかもしれない。

 

 

「おや」

 

 唐突に驚きの声をあげたのはサンタクロースだった。

 

「あの……サンタクロースさん?」

「どうしたよ?」

 

 ドイツ人の少女はそれきり無言となる。

 私たち姉妹の問いかけにも反応しない。

 ほんの僅かに目を細め、手勢を増やすために後部車両へと送り込んだ人形たちの姿を透視するかのように、じぃっと後部車両へ続くドアを見つめている。

 

「敵」

 

 周囲の人形たちが一糸乱れぬ動作で腕を振る。ぎゅうんと形を剣状に変化させ、ドアに向けて陣形を組み始める。

 

「敵が来ます」

 

 小さな音がした。

 後部車両から、ガラスが割れるような音、鉄屑同士がぶつかるような音、トラックの荷台から木材が落ちたような音――しかし私が知るような日常の延長戦上にある音とは何かが決定的に違った。

 それらは破壊がもたらす音だった。

 耳を澄ませば断続的に、少しずつ大きくなってくる。

 人の声は無い。機械的に何かを粉砕する音だけが確かに近付きつつある。

 

「敵ってなんだ……? 公安のデビルハンターでも乗ってたか?」

「いえ。日本人ではない。東欧……スラブ人?」

 

 サンタクロースが身じろぎすると、唐突に、後部車両から人間の叫び声が沸きあがる。

 

「なんだ!? なんだ!?」

「あれ、私のウデ……?」

「体なんか勝手に動くぞ!?」

 

 わっと津波となって怒号と悲鳴が押し寄せた。

 大混乱の様相、私には何が起きたのか分からない。この電車は先頭車両から順番に人形だけの世界になっていったはず。無言で、無情で、無生物しか居ない空間。そこからいきなり人間の声が沸きあがる……人形たちが、人間に戻った……?

 ドアを凝視する。

 

「いやああああ!」

「魔人! 魔人だ!」

「なんでええ!? 足動かっええええ!?」

 

 何か、とてつもないことが起こっている。

 しかし実感がない。

 敵……? 人形……? 全て遠い国で起きているヨタ話のようにしか思えない。

 そもそも私はどうしてここに居る?

 復讐のためで、姉のため。そんな名分だけがちらついて、けれど何一つ掴みどころがない。

 サンタクロースという殺し屋と、突如現れた謎の敵――人殺しのプロたちが容赦なく推し進めていく現実のスピードにまるでついていけない。

 

「――魔人。2人とも格闘技術の訓練を受けている。知性も保持している」

 

 サンタクロースは淡々と言葉を並べていく。

 

「人形に人間のフリをさせても躊躇わない。かといって殺戮に酔うわけでもない。冷静にここを目指している……手馴れてますね」

 

 それが敵の分析だと遅まきながら気付く。

 後部車両からの破壊音はどんどん大きくなる。近付いてくる。

 

「なのに、この若さ。ずいぶんちぐはぐな存在です。これでスラブ人ともなれば可能性は一つしかありません」

 

 凄まじい衝撃音。分厚い合金製のドアが吹き飛んだ。

 がらがらと床を回転しながら滑っていく音だけが鳴り響き、場は一瞬の静寂に包まれた。

 人形兵たちが構えを深くする。

 

 ぬるり、と。

 後部車両から長身の女が現れた。

 

「……」

 

 ニット帽をかぶり、学生の制服らしき衣服に身を包んだ女。

 その両手には人間の――否、人形の、刀剣化した腕が握られている。

 無言で車両内の私たちを睥睨し、ただの乗客さながらのゆったりとしたペースで三歩だけ車両に足を踏み入れる。

 その後ろから現れたのは、自分たちとそう変わらない背丈の少女。

 

「おやや~? 先頭車両についちゃった。ってことはここに本体さんが居るのかな~?」

 

 長身の女と同じ格好をして、にんまりとあどけなく場違いに明るい笑みを浮かべていた。

 遠くを眺めるときのように瞼の上に手をかざし、一人ずつ順番に視線を走らせた。迎撃陣形をとっている人形たち、半分腰を浮かせかけた私たち姉妹、そして最後に、座ったままのドイツ人の少女のところでぴたりと視線を留める。

 

Guten Tag (こんにちわ)、サンタクロース! 生きていたとは驚きね!」

「Здравств(こんにちわ)уйте 、ソ連のモルモットさん。一体何の用件でしょうか」

「本体を駆除しにやってきたの! この人形たちにいきなり襲われたから」

 

 くい、と持ち上げたその手には人形の頭が掴まれていた。

 

「あう……あう……命だけは……」

 

 ばきり、と首をへし折った。

 

「困るんだよねー、こういうことされると」

「どうやら誤解があるようです」

「あはっ、誤解って?」

「私の標的はあなたたちソ連の者ではありません。居合わせたのは偶然です」

「ふうん、そうなんだぁ。ナスチャはどう思う?」

 

 長身の少女は両手に握った剣状の腕をぶぅんと振るう。

 それだけの動作になぜか美しさを感じた。堂に入っている。父と見た映画にでてきた主役の姿が重なった。

 

「お前、ドイツ人だろう?」

 

 どうして見入ってしまうのか。

 不意に父の言葉が蘇る――

 

 

『そこに本物の功夫があるからだ』

 

 

 父、曰く――素人でも優れたものを目にすれば美しいと感じるものらしい。

 長身の女。

 全身の力みは抜けて、剣もどきの握りは浅く、それでいて背筋は伸びて股の開きと膝足の角度が十全に地を噛んでいる。

 表情こそ周りの人形たちに近い無表情だったけど、存在感が違った。

 彼女は今すぐどこにでも全力で飛び出せる。どうとでも身を捩り、恐らく銃弾さえも悠々と避けながら反撃に移ることができる。そう確信させられるだけの合理を素人の私でも肌で感じることができた。

 

「お前、ドイツ人だろう?」

 

 女は電車の揺れを意に介さない。

 堂々と仁王立ちで、この世の真理を突きつけるかのごとき断固たる口調で繰り返す。

 

「ドイツは、邪悪な侵略者だ」

「侵略者……? いったい何の話でしょうか」

「邪悪な侵略者は、始末しなければならない」

「そんな歴史はないはずですが」

「私は、そう習った」

 

 不意に女は腕を振るった。

 人形たちが一斉に反応し、金属音が鳴り響く。

 破片、壁となった人形たち、その一体が崩れ落ち……私はようやく気付く。その人形の頭部に剣もどきが深々と突き刺さっている。

 投擲したのだ。

 

「お前は悪い奴だ。始末する」

「わけが分かりませんね」

 

 ――と、腕を掴まれた。

 姉の凜風(リンファ)が、必死の形相で、

 

「ぼけっとすんな! こっち来い!」

 

 思い切り引っ張られた。

 車両の最前方、運転席へのドアへと押し付けられ、背中に走った衝撃で咳き込みそうになる。けれどそれどころではなかった。

 耳をつんざく金属音――プロ同士の戦闘が始まった。

 20体を超える人形兵たちが一斉に魔人の女に襲いかかる。

 女は動く。先の先をとって下りの手刀を滑り込ませる。

 同時に他の人形たちの幾多もの突きが放たれて、しかし空しく打ち鳴らされる。その内側に女は居た。膝が回転する。

 

「不干渉条約はいいのですか?」

「いいんでーす。私にはもうソ連なんて関係ないもーん」

 

 代わりに答えたのは、後部車両への入り口に背を預けたまま静観している小柄な少女。

 ずん! とすさまじい振動が車両に走る。如何なる原理か、成人大の人形が3体同時に宙に浮く。

 

「関係ない? あなたたちはソ連のモルモットでしょう」

「うん。だけど辞めたの。モスクワの騒動、知ってるでしょ? あれやったの私たち」

「脱走兵ですか」

 

 女は踊る。被っていたニット帽と赤い髪が弧を描き、人形2体を打ち据えて、刃諸共、破片と化した。

 目を奪われる。女の額の部分にはびっしりと赤い竜を思わせる異形の鱗が生えていた。

 

「私は、辞めてない。辞めたとしたら、向こうの方だ。向こうがソ連でなくなった」

「ええ~?」

「ソ連はここに在る。私がソ連だ」

「あははっ、意味分かんな~い」

 

 何の躊躇いもなく女は無造作に人形の首をへし折った。

 女に向けて振るわれた刀剣の数々が斬り飛ばされて消失し、あらかじめ決められた台本のように人形兵たちが倒れこんでいく。血飛沫があがらないのが不思議なくらいだった。

 それはあたかも即興の舞踏。

 動作は淀むを知らず、緊密にして途切れない。

 古来より伝わりし剣と拳の法を修めた武人が蘇り、現代に跋扈するサンタクロースという名の邪悪を成敗しにやって来た――幼稚な発想だと頭の隅で呆れながらも、胸の鼓動は収まらなかった。

 ヒーローは居た。誰も見ようとしない弱者たちを救ってくれる本物の武侠の徒が。

 知れず、幼稚が漏れた。

 

凉爽的(かっこいい)……」

 

 竜と目が合った。

 いかなる俗世の懊悩からも解き放たれた悟りの闇がそこにある。

 すぐ隣で姉が何かを言っている。私の服を引っ張り立ち上がらせ、非常時脱出用のドアコックを引くためにカバーを叩き割る。「逃げるぞ!」と叫んでいたが私は目を離せない。

 

 誰も助けてくれないと思っていた。私と姉は世界中から嫌われていると思っていた。

 けれど、多分違う。

 あの竜のような赤い女の人を見て分かった。この世のどこかには私たちのような存在しない孤児にさえ味方してくれる人がきっと居る。あの人がそうかは分からない。けれどクァンシさんみたいな人は必ず他にも居てくれる。私たちは孤独じゃない。生きていく希望はあるのだと、そう思えた。

 

 サンタクロースが静かに立ち上がる。

 人形兵は数をすり減らし、眼前には暴れ狂う魔人が迫りつつある。

 ドイツからやってきた少女は泰然と目を細めた。

 

「“プレデター”」

 

 1体の人形が時間稼ぎに突撃し、残り4体の人形たちが揃って背筋を伸ばして口を開く。

 一斉に言葉を紡いだ。

 

 

「わたしのすべてをささげます」

「わたしのすべてをささげます」

「わたしのすべてをささげます」

「わたしのすべてをささげます」

 

「そのかわりに」

「そのかわりに」

「そのかわりに」

「そのかわりに」

 

「あのまじんたちをころしてください」

「あのまじんたちをころしてください」

「あのまじんたちをころしてください」

「あのまじんたちをころしてください」

 

 

 大気が歪む。

 何かが、現れた。

 サンタクロースと赤い魔人、その中間地点に鎮座している。

 姿は見えない。しかし確かに存在している。奥の景色を光学迷彩のように歪ませながら際限のない悪意を撒き散らしている。怖気が走った。サンタクロースを血の通わないロボットとするならば、たった今現れた見えない何者かは血を啜り肉を食い散らかす獣でしかない。すさまじい臭気、けして拭えない血の臭いが漂ってくる。

 

「ア・ア・ア……」

 

 それは車両の天井に頭をつけるほどの大きさで、おそらく無数の腕が生えていた。傍らの4体の人形たちの頭を同時に掴み、脊椎ごともぎ取った。

 

「ボ・ボ・ボ……」

 

 赤い女が動きを止めた。

 不可視の獣を見上げ、腰を深く落として対峙する。

 

「くそっ、ドアが開かねえ!」

 

 叫ぶ姉の声に重なって電車のアナウンスが流れ始める。

 ただいま電車内で悪魔が発生した為、緊急停車いたします。両側のドアが開くので乗客は速やかに外へ非難してください――

 

 甲高いブレーキ音とともに減速が始まる。だが獣と魔人の激突には間に合いそうにない。

 私でも理解できる。数秒後には死闘が始まる。この車両内は地獄と化す。

 姉がぎゅうと私を抱き留めた。

 

「リ・リ・リ・リィィイイイ!」

 

 私は見た。

 後方で静観していた小柄な魔人、その瞳孔が、獲物に照準を合わせるために収縮していくのを。

 火が、

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫? 荷物重くない?」

「平気!」

「もうちょっと持つよ?」

「平気ぃ!」

 

 謎の外国人2人組を撥ねたせいでロングバンは損壊した。速度はほとんど出なくなり、デンジ君とナユタちゃんと自分(レゼ)の3人は徒歩で進むことになった。

 

 食料その他諸々が詰め込まれた大荷物を一人で抱え、デンジ君はえっちらおっちらアスファルトを踏みしめていく。その顔はどこまでも明るい。うきうきとした喜びさえ滲ませている。レジャー気分というのは本当らしい。

 今の自分たちは刺客をおびき寄せるための餌でしかないんだけど……。

 呆れつつも、ほんの少しだけ想像を巡らせた。

 

 レジャー。遊び。

 それってどんなだろう。

 

 辿り着きつつある奥多摩の地は暖かく、平和だった。

 初夏の陽射しがむせかえるような緑を輝かせている。谷底の曲がりくねった川からは涼やかなせせらぎの音が届く。聞けばこの周辺の山々はハイキングコースとして有名らしい。

 刺客を撃退したら遊べる……デンジ君ではないけれど、そんなこと本当にやってもいいんだろうかと思う。

 

「山ねー」

 

 山といえば山中行軍訓練とサバイバル訓練しか浮かばない。

 あれはきつかった。なにせ大人でも根をあげる質量の背嚢を背負わされて極寒の雪道を進まなければならない。子どもだから見合った重量にしてあげよう、などという配慮はソ連軍には存在しない。ただ画一的で厳粛なルールがあるだけだ。

 唐突に、電話が鳴った。

 

「もしもし?」

『岸辺だ。刺客が現れた』

「どこです?」

『電車』

「へー、そんなバレやすいルートを使うんだ。どんな奴ですか?」

『人形の悪魔を使うやつと、ヘンな魔人』

「え。人形の悪魔……? それってもしかして……」

『おそらくサンタクロースだな。生きていたらしい』

「えええ~。ヤバくないですか?」

『もう片方の魔人のほうもヤバいぞ。外見の特徴が以前お前が提供した情報と一致した。秘密の部屋の住人だ』

「え」

『ネームドモルモットのアナスタシアとポリーナで間違いない』

 

 冷や水を浴びせられた気分だった。

 “生真面目”アナスタシア。

 “嘘つき”ポリーナ。

 彼女たちについてはよく知っていた。

 

『何故か知らんがサンタクロースと戦い始めた。そのまま共倒れになってくれたらよかったんだが、電車が炎上したせいでどっちも見失っちまった』

「……そうですか。何の魔人でしょう。能力は?」

『分からん。あいつら、サンタの人形どもを全部肉弾戦でぶっ倒してたからな』

 

 いかにもアナスタシアのやりそうなことだった。

 人間は棒人間と思え――それが彼女の教えた格闘戦の基本思想だった。

 人間の関節の数は68、つまり瞬間瞬間で実現できる可能性は68乗ぶんのパターンでしかない。あとは有効な可能性を削り取っていけばいい――

 

「……。私の忠告、覚えてます?」

『アナスタシアなら相手にするな、だったか? そんなに厄介か』

「岸辺さんの中で殴り合い最強って誰です? ……あ、答えなくていいです。クァンシでしょう?」

『……』

「私にとってはアナスタシアです。彼女は他のスキルが全部ダメなのに強さ一本で最終選考まで残った女です。戦わなくていい、スルーして下さい。私とデンジ君でやります」

『そういうわけにもいかんだろ』

「どうしてもっていうなら狙撃だけにして下さい」

 

 その他の注意点も伝え、電話を切る。

 思わず溜め息が漏れた。

 最も敵に回したくないモルモット仲間を挙げるとするならアナスタシアだった。

 そして最も会いたくなかったのはもう一人のほう――

 

「ポリーナのほうはどうなの」

 

 隣のナユタが無機質な瞳でこちらを覗き込んでいた。

 

「聞いてたの? 耳がいいなあ」

「一緒に歩いてれば気付くでしょ」

「そりゃそっか」

 

 一度言葉をきって、軽く息を吸いこんだ。

 

「おーい、デンジ君も聞いて。どうやら刺客が来たようです」

「お~? そうなんか?」

「そのうち2人は私もよく知ってるやつ。ソ連の戦士。背が高くて髪が赤い女はすごく強いから一緒に倒そう。背が低くて銀髪のほうは強くはないけど嘘が上手いから話を聞かないこと。分かった?」

「ん~~……。でもクラスメイトだったんだろ?」

「へ?」

「俺ぁ知らねえ奴だから別にいいけど、レゼにとっちゃ友達みたいなもんなんだろ? 倒しちゃっていいの?」

「しょうがないでしょ。敵なんだから」

「ふーん……」

「あのねえ、デンジ君?」

 

 どことなく不満げな少年から手荷物の一つを奪い取る。

 

「なんでもかんでもはできないの。デンジ君も公安で働くデビルハンターなんだから責任ってもんを考えないと」

「なにそれ?」

「ナユタちゃんだってきっと狙われてる。攫われちゃってもいいの?」

「そりゃ、つまり……真面目にやれってコト?」

「そうですよ」

 

 今ある生活を守るために多少の不満は飲み込むのがオトナだろう。

 ナユタちゃんを挟んで向こう側を歩くデンジ君の横顔を眺める。

 ……私はいわば軽い気持ちで祖国を裏切ったけど、この生活を続ける為だったら何でもするって思っている。

 

「俺ぁさあ……」

 

 渓谷にかけられた立派なアーチ橋に足をかけ、対岸を見据えて一歩踏み出した。

 

「これまでな~んにも自分で決めてこなくって、誰かの言われるがまま生きてきた。決めてたのは昼飯になに食うかくらいでよ。心ん底じゃあ、死ぬまで女と付き合えねえと思ってた」

「……いきなり、何の話?」

 

 デンジ君は遠く正面の寂れた町と終点の駅を眺めている。そこは東京都の最奥地。

 だが道はまだ続いている。鬱蒼とした山々の深みへと。

 

「今じゃ夢みてーな生活よ。でも、まだまだだ。もっと色々やってみてえ」

 

 人里を離れてしまえば山道の傾斜は更に激しくなる。一休みするための人家も無い。

 けれど何十Kmもの苦難の道のりを乗り越えてしまえば隣の県に辿り着く。そこには栄えた町があって、東京とはほんの少しだけ違った文化が出迎えてくれるだろう。

 

「俺ぁ決めたぜ。自分だけじゃねえ、周りの奴もちっとは助ける。暗い顔されてっと俺までイヤ~な気分になるからな」

「ふ~ん……。まあ、いいけどさ、なんか付き合ってる女の人がいるみたいな言い方だね。それって誰?」

「え? そりゃ、その、」

「知らなかったなー。そっかぁ、デンジ君、恋人ができたんだ~。ナユタちゃんは知ってた?」

「私も知らなかった。デンジ、おめでとう」

「ええっ?」

 

 大きな橋の真ん中でデンジ君はぽかんと大口を開けて立ち止まる。絶対に勝つと信じて大金を賭けた馬がスタートでしくじったときの男の顔だった。

 

「バカ」

「あほ」

「な、なんだよ」

「現実見ろって言ってんの。分かってないでしょ」

「かっこつけ」

「はあ~~!? 俺はバカじゃねえんですけど!?」

「バカでしょ」

「超バカ」

「んだと~!」

 

 私とナユタちゃんが同時に肩を竦める。

 と、妙な音がした。

 

 ギシッ

 

「ん?」

 

 振り返る。

 橋の欄干に、棘のついた紐のようなものが巻きついている。

 どこかで見たことがある気がする。棘つきのチェーン……。

 

「ギャアーハッハハァ!!」

 

 橋の下から何者かが勢いよく飛び上がる。

 ぐるりと空中で一回転、橋上のアスファルトにスーパーヒーロー着地をきめて、そこからわざわざ後ろに向き直り、「ふっふっふ……」と数秒間の溜めをつくってから勢いよく振り向いた。

 

「俺の名はァ! 俺の名……俺の名ぁ!? 俺は、誰だ、誰なんだァ!?」

 

 午後の渓谷、初夏の陽射しに焼かれたアーチ橋の中央に、1人の男が立っていた。

 眉間の上から凶器を生やした電ノコ男。何人もの悪魔を葬ってきた地獄のヒーロー。

 悪魔に最も恐れられる悪魔――

 

「俺はチェンソーマン! 早川デンジぃ! お前を成敗するゥ!!」

 

 びしィ!

 突きつけられた指先を、ゆっくりと、ゆっくりと辿ってみる。

 デンジ君が呆然と口を動かした。

 

「ちぇんそーまん……?」

 

 両腕には回転する悪魔の刃。

 鋭い牙に、特徴的な金属頭。

 

「俺じゃん……」

 

 私は慎重に周りを見回した。

 深い渓谷にかけられた橋の前後には誰もいない。一応下の川辺も覗いてみたが、やはり誰もいなかった。

 こいつは1人だ。たった1人で襲撃に来た。

 デンジ君という本物のチェンソーマン、この私ボムガール、そして支配の悪魔の3人を相手に、正面きっての勝負を仕掛けてきた。

 

「あ、なっ……俺が2人になってるよオ~!?」

「ユユユ・ユー・エス・エー! ユー・エス・エー! じゅっじゅじゅじゅっ10人くらいィ彼女ほしいいいいい!!」

 

 ものすごいバカだった。

 



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残り2時間30分

 チェンソーがアスファルトに火花を走らせる。

 振り上げた切っ先はどこまでも抜けていく初夏の空、伸びきった右腕は隙だらけの脇腹を晒させて、今度は相手側のチェンソーマンが交差するように獲物を水平に振るう。

 ぶおん、と身の毛もよだつ空振り音。

 追撃、さらに追撃。退き足と追い足をもつれさせながら剣戟は重なっていく。チェンソー同士がぶつかって金属が高速で擦り合う火花がアーチ橋に飛び散った。

 

「こンのパチモン野郎がよおお!」

「俺は俺からパクる奴を許さねええ!」

 

 目の前で2人のチェンソーマンが激突している。

 ひっきりなしに立ち位置を入れ替えて打ち合い、鍔迫り合う。

 

 本物と偽者、見た目だけなら差異は無い。

 背格好だけでなく身に着けている衣服も同じ、両腕から生えているチェンソーに粗雑に並んだ棘の鋭さまで測ったように変わらなかった。

 アレはただの変装ではないはず。

 悪魔の能力による変化のたぐいだろう。

 つい先ほど山中の駐車場で轢かれて死んだコピー男たちが脳裏をよぎった。恐らくあの2人の仲間に違いない。だったらこいつは3人目、そして変身能力者なら……。かつて頭に叩き込んだ諸外国のデビルハンターたちの情報の中からアメリカで殺し屋まがいをやっている3兄弟が浮かび上がる。でもそれは不正解であると思いなおした。

 あの3兄弟はすでにこの世界から退場したと聞いている。

 だったらこいつは別口か。

 背後にナユタちゃんを庇いながら周辺を警戒し、偽チェンソーマンを観察する。

 

 肉を裂き、骨を割るチェンソーが互いの血を舐めていく。

 

 チェンソーは怖気を生じさせる獲物だ。左右から容赦なく振るわれればどうしても生理的反応で身が竦む。それに抗うのは訓練を重ねた兵士でも難しい。そういった意味では、あえて大雑把に扱って戦いの主導権を握ってしまうのはあながち間違いではない。

 しかしデンジ君には恐怖が無い。

 踏み込みの深さが違った。

 チェンソーを一合斬り結ぶたびに詰めていく。攻防の天秤が傾いて、偽者の姿勢が徐々に崩れていく。

 一際重い一撃に、とうとう偽チェンソーマンの上体が大きく仰け反った。

 

「俺ん……勝ちだああアア!!」

 

 チェンソー、一閃。

 偽者の胸部から血飛沫が迸る。膝が折れ、うひぃうひぃと呻きを上げながら地に腕をついた。両腕のチェンソーはすでに破片となって砕けていた。

 その首横に本物のチェンソーがぴたりと当てられる。

 もはや逆転の芽はない。

 あっという間の決着だった。

 

「ふう~~。てめえが刺客か? 何モンだあ?」

「あ、あう……俺は、俺はぁ……早川、デンジぃ……」

「そりゃ俺だっつーの!」

 

 蹴り転がして、アーチ橋の欄干に押しつける。零れた悲鳴を意に介さずにデンジ君は電ノコのチェーンを伸ばして男を欄干に括りつけてしまう。

 悪魔が恐れる悪魔、チェンソーマン。

 だが打ち負かして動けなくしてしまえばなんてことはない、ただ頭にチェンソーを装着しただけのB級ホラー映画の怪人にしか見えなかった。

 

「……変身能力、ね。精度も完璧だ」

 

 ナユタちゃんがどこか面白そうに呟いた。

 本物と同じだったのは外見と武器だけじゃない。瞬発力と膂力――武器人間としての身体能力も互角だった。

 

「面白いね。使い道がありそう」

「……支配しようとか思ってない?」

「どうせ殺…………命は有効活用しなきゃ」

「言い換えても、ダメ。それに殺さないし。せっかく捕まえたんだから情報を引き出さないと」

「そんなヒマないでしょ」

「岸辺さんたちに引き渡してやってもらう」

「……」

「すっごい不満そう」

 

 支配の悪魔は手駒を欲しがっている。自分からは言い出さないがバレバレだ。

 使えるカードを増やしたい気持ちは分からないでもないけど公安に危険視されている彼女にとっては諸刃の剣。勝手に戦力を増やせばどうなるか。マキマの再来を恐れた上層部が逸らないとも限らない。それに、私の管理能力も問われるし。

 

「そんな目で見なくても分かってる」

「ほんとかなあ~?」

「私、人間、すき。支配しない」

「はいはい」

 

 わざとらしさもここまでくれば清々しい。

 ……別にやるならやるで構わないけどさ、絶対に誰にもバレないようにやるか、人間以外にやってほしい。

 

「んなことよりよお、刺客はあと何人いるんだ?」

「……へ~」

「なに?」

「あのデンジ君がねえ。いや、感心感心」

 

 縛り上げた偽者を油断なく睨みつける横顔はいつになく真剣で、思わずまじまじと見つめてしまった。そっか、やっと真面目にやる気になったか。思い返せばデンジ君もデビルハンター業が長い。もう場当たり的に対処する子どもではない。さりげなく周囲を警戒する姿もなんだか頼もしく映る。

 

「早く全員ぶっ倒さねえと……大変だからな」

 

 雲の隙間から陽光の白が斜めに射して、渓谷にかかったアーチ橋に降り注いでいた。

 

「雨が降っちまう」

「雨?」

「ああ。車ん中で天気予報、聞いただろ?」

「雨だとなんかまずいの? あっ、もしかして私の心配してる? 濡れると爆発の威力が落ちるから」

「いや、そうじゃなくて、川で遊べなくなる」

「……川?」

 

 山々の緑は濃密で、耳を澄ませば橋の下から川のせせらぎが届いてくる。

 

「誰にも邪魔させねえ……今日はぜってえ遊ぶんだ……」

「……あっそう」

 

 まあ、そうですよね。はい。

 分かっていましたよ。

 

 

 

 

 

残 り 2 時 間 30 分

Осталось 2 часа 30 минут.

 

 

 

 

 

 サンタクロースと、謎の魔人2人組。

 プロ同士が殺し争う車両内は、炎の荒れ狂う煉獄と化した。

 

 肌が焼け、鼻と口の粘膜が引き攣るような痛みを訴える。

 

――痛い! 苦しい!

 

 一秒たりとも留まれず、ドアの窓ガラスを必死に叩く。しかし子どもの握り拳ではヒビの一つも入らない。

 

――誰か! 誰か!

 

 轟音もブレーキ音も耳に入らない。涙が滲み、顔面の皮膚がひたすら熱い、気の遠くなるような焦れったい速度でドアが動き出す、開きつつある隙間に指を捻じ込んだ、呻く、叫ぶ。

 

――開いて! 早く開いてっ!

 

 頭が入り、肩が通った。

 酸素――

 炎上する電車から必死に飛び出した。

 もはや着地の態勢など欠片も考えられない。

 生きるために転がった。

 砂でも土でも草でもいい、全身の火をなすりつけるためならどれだけの無様を晒しても惜しくない。狂ったように両手両脚をばたつかせ、芋虫のように身を捻る。痛みから逃れたい、それだけに全精力を注ぐ。

 

「ミノオドリ」

 

 誰かの声が聞こえた。

 這いつくばって転がって、ようやく火が消えたと理解した。

 じんじんと痛みが体表を走り続けている。指先一本だって動かす気力はなく、亀のように丸まっているだけで精一杯だった。

 

 なん、とか……どうにか……生き延びた……。

 

 痛みは生きている証拠でもあった。

 安堵、そして疲労。

 嗚咽が漏れて、やがて再生が始まる。

 復讐の悪魔の能力――

 荒い吐息が耳障りだと気付くまで、それが自身によるものだと分からなかった。

 

「あ……」

 

 すぐ傍に、うつ伏せで倒れこんでいる姉の姿があった。

 震える手を伸ばす。

 触れた。

 全身から煙をあげている姉の肉体も再生しつつあった。逆回しのビデオのように肌色の皮膚に覆われていく。よく見れば肩も大きく上下している。……生きている。

 

「お姉ちゃん……」

 

 私の半身。かけがえのないものを取り戻した安堵が胸に染み渡る。

 思わず全身の力が抜けて、視界の隅に小さな靴先が映った。

 

「コレガホンバノ、ミノオドリ?」

 

 顔を上げる。

 少女。

 幼さを残す顔立ちで、爬虫類のように縦に裂けた金色の瞳には人外特有の美しさがあった。

 少女が焼け焦げた帽子を放ると、ふわり、と銀色の髪が広がった。

 その下にはびっしりと赤い竜を思わせるような異形の鱗が生えている。

 魔人――

 

「コンニチワ」

 

 何か、言った。

 けれど何語か分からない。

 応じられずに呆然としていると、魔人の少女はほんの少しだけ首を傾ける。

 

「Guten Tag? Hello? 你好(こんにちわ)? नमस्ते? Hola?」

 

 知っている言語が一つだけ、

 

你、好(こん、にちわ)……?」

 

 にこり、と笑った。

 途端、スイッチが入ったかのように流暢な中国語で喋りだす。

 

「中国人? ごめんね、日本人かと思っちゃった。大丈夫?」

「あ、う……。ええと……」

「焼けてたのが治ったね。それなあに? 悪魔の力? そっちの子も同じだね。同じ悪魔と契約してるのかな?」

 

 にこにこと少女は微笑んでいる。

 親しげにしているがけして近寄らない。屈んで目線の高さを合わせようとしない。だらりと腕が垂れていて、全身から煙が立っていた。彼女もまた焼けている。しかし意に介さずに笑みを浮かべている。

 恫喝めいた笑みだった。

 

 お前らは何だ。

 従順にしていろ。

 逆らうならただではおかない。

 

「再生、だけじゃないよね。カウンター系でもあるのかな。火が効かないこの身体が焼けるなんて普通はありえないからね。焼ける痛みを味わったのは前世以来だな~」

 

 金色の瞳が覗き込んでくる。

 

「なるほど、やっぱりカウンター系の能力か」

 

 目を細める。

 

「何の用かって思ってる? 大丈夫、私は敵じゃない。ソ連と中国は同盟関係にあるからね。だからその誼でちょっと忠告ぐらいはしてあげようって思ってさ」

「んだと……」

 

 姉が肩を震わせながら身を起こした。生まれたての子鹿のようにゆっくりと、しかし目元を反意に歪ませて魔人を睨みつける。

 私も四つん這いで寄り添った。

 

「キミたちさ、自分たちだけは人形にされないって思ってるでしょ」

 

 びくり、と身を竦ませてしまう。

 

「人形っていうのはね、精度があるんだ。手間暇かけるほど人間に近くなる。悪魔にとって嬉しい生贄になるってわけ」

「……どうしてンなこと知ってんだ?」

「本当に素人なんだね。教えてあげる。今はどこの国も悪魔のリストを作ってるんだよ」

 

 銀髪の少女は、自身の額――赤い鱗を指先でつついてみせる。

 

「悪魔は死んでも蘇るから、そのときのために特徴と対策を記録しておくの。サンタクロースが契約している人形の悪魔だって研究されている。その能力の一つが、“精巧な人形”。人間とほとんど変わらない。悪魔との契約の代償だって肩代わりさせられる」

「あいつはただの人形を捧げていたぞ」

「出来の悪い人形をね。だから最後に現れたあの見えない悪魔もきっと片手間の副業気分だったんじゃないかなあ」

 

 それにしては結構強いみたいだったけど、と呟いて、その悪魔が居るであろう山奥へ目を向けた。

 電車のレールが伸びた先、遠い木々の間から炎上する列車が見え隠れしている。

 

「だから例えばの話……キミたちがもし精巧な人形にされて捧げられたなら、あの悪魔も本気を出すんだろうね」

「……ふん、どうだかな」

「ほんとのことだよ?」

「いきなり燃やしてきた奴の言葉を信じろってのか? お前はただ、アタシらを殺しきれそうにないから口でどうにかしようとしてるだけだ。違うかよ、ええ? この嘘つきが」

 

 姉は懐から一本の釘を取り出した。

 指の震えは隠せない。それでも魔人の少女に突きつけた。勝てる見込みなんてなくても抗わなければ復讐は果たせない。

 それを見て、なぜかは分からないけど、魔人の少女は――

 

「私は嘘なんてついたことがないよ」

 

 それはもう嬉しそうに微笑んだ。

 

「はん。嘘つきは皆そう言うんだ」

「じゃあもう一つ教えてあげる。悪魔のリストは確かに存在している。だって私は読んだことがあるからね。……キミたちが契約しているのは復讐の悪魔でしょ?」

「っ」

「なかなか強力な悪魔だよね。そして契約できるってことはキミたちは誰かへの復讐を目論んでいるってわけ。あとは、そうだね……代償はかなり大きいんじゃない?」

「さあ、どうかな」

「目が泳いでる。ばればれだよ?」

 

 慌てて相手を睨みつけ直してももう遅い。

 姉は、そしておそらくは私も、すでに内面まで見透かされている。

 魔人の少女は私たちとそう変わらない年頃に見えるけど中身は全然違うと理解できた。

 彼女もプロだ。サンタクロースと同じプロ。

 弱者など芥にも思わないはずのプロは、しかし意外な提案をしてきた。

 

「もう分かってくれたかな。キミたちはサンタクロースと一緒に居たら破滅する。だったらいっそ私に乗り換えてみない?」

「何だと……?」

 

 手を組もうと持ちかけてきた。

 しかし、そのくせ声色には愛想というものが感じられない。

 別にどちらを選ばれてもいい、という投げやりな態度。

 ダメならダメで別の道がある、そうなったらこんな弱々しい小娘の2人などすぐにでも踏み潰して先に進むだけ。

 冷徹でいて、けれどその目はぴたりと私たちを直視していた。

 

 なんだろう、この目は……。

 どこかで見たことのある目つきだった。冷たいはずなのに、見下していない。軽蔑もなければ同情もない。そんな余裕が存在しない。

 生物としてのステージが違うはずの魔人が私たちを虫けらと見ていない。けれど人間とも見ていない。ただ単純に、生き物としてしか――食べられるか、食べられないか、それだけ。

 そこにはひたすらに生き汚い獣の意思が仄見える。

 

――私は私のためなら何でもやる。

 

 そんな生き方をしている者たちならよく知っていた。

 欲望渦巻く街の裏路地で何人も見かけたことがある。

 家族も仲間もいない、生涯孤独な黒孩子(ブラックチルドレン)

 

「拒むなら、キミたちは始末する。サンタクロースの戦力を放っておく意味はないからね」

「はん、できるかよ。復讐の悪魔はすべての攻撃を跳ね返すぞ」

「対策も知ってるって言ったよ」

 

 自分以外は全て敵。人と人との繋がりという概念を理解できない一部のストリートチルドレンはいつでも懐に刃物を忍ばせていて、些細なきっかけで人を刺す。

 野良犬未満の倫理観。

 ならず者の間でも疎まれて、誰にも看取られずに死んでいくのが常であるけれど、ごく稀に生き延びてしまう者もいるらしい。成長して力を得た狂人はあらゆるものを壊すという。人も、秩序も、自分自身でさえ。

 

 少女の顔からあらゆる感情が消え失せた。

 

「復讐の悪魔を殺すなんて簡単。死にたくなるまで痛めつけて、自殺させればいい」

 

 その小さな身体からはゆらゆらと未だに煙が立ち昇っている。

 

 ……彼女は、確かに一度焼かれている。

 復讐の悪魔の能力で、私と姉、2人分の激痛を味わったはず。

 のた打ち回るほどのあの痛み、苦しみが、倍になって襲いかかってくる……。想像だってしたくない。なのに彼女は平然と立っている。震えていない。泣いていない。

 痛くないはずがないのに、苦しくないはずがないのに、どうして二度目を恐れずにいられるの?

 

「我慢比べなら世界中の誰にも負けない」

 

 魔人が人差し指を立てる。

 その先端に、ぼっと小さな火が点火した。

 

「試してみる? まずは熱したフライパンを押し当てられたときの温度にしてみようか」

「や、止めろ! ……止めてくれ」

 

 姉と私は引き攣った呻きを漏らすしかない。

 焼死寸前の激痛――あんなものは二度と味わいたくない。

 正気とは思えない勝負を持ちかけてきた銀髪の魔人はこちらにぐいっと顔を近づけて、そろりと囁いた。

 

「いい? これは私にほんの一欠片だけ残された優しさが言ってるんだよ?」

 

 選べと彼女は言っている。

 残虐非道のサンタクロースか、ついさっき焼き殺そうとしてきたばかりの自称“優しい”魔人かを。

 

「…………」

「ほら、決めてよ。早く~」

「……見返りは? 当然、求めるんだろ?」

「もちろん。キミたちは日本人のフリをして私の人質になってくれればいい。そうすれば私は公安から手を出されない。昔の仲間とお喋りできる」

「昔の仲間だって?」

「そ。色々あってね、そうでもしないと話を聞いてくれないんだ。悲しいよねえ、これも立場ってやつのせいだよ」

 

 嘘だ、と思った。

 何がかは分からない。おそらく全てが嘘なんだと思う。

 狂人には狂人のルールがあり、常人には理解できない利を得るために何もかもを捧げてしまう。

 関わってはいけない。それができないなら、せめて敵対だけは避けなければならない。

 

 姉はしばらく押し黙ったあと、意を決して口を開いた。

 

「……一つ、聞きたい。これを見てくれ」

 

 姉はポケットから折りたたんだ写真を取り出す。

 サンタクロースから渡された紙片――そこには2人の少女と1人の少年が映っていた。

 

「この中に、支配の悪魔は居るか?」

「? こいつだね」

 

 水ぶくれのできた指がぴたりと1人の少女を指していた。

 

「そうか……。やっぱりこいつが支配の悪魔なのか……」

「なぁに? そいつがキミたちの復讐のターゲットってわけ?」

「ああ、そうだ……。アタシらは赤い髪の大人の女だって聞いていた。けど別の姿で蘇ったともサンタの野郎が言っていて……」

「ああ、マキマか。確かに死んだらしいね。今はナユタって名前のはず」

「ナユタ、ナユタか……」

 

 小さく呟いた。

 アタシらと同じぐらいのガキじゃねえか、と。

 

 悪魔に見た目の年齢は関係ない、と人は言う。

 人間とまったく同じ姿をしていても思考回路はまるで違う。倫理観もほとんど無い。当たり前だ、別の生き物なんだから。

 だからこっちだって、例え相手が赤子の姿をしてようと、躊躇う必要なんてないはずだ。

 

「へえ……。悪魔なんかを“憐れむ”ことができるんだ」

「な、なんだよ?」

「別にー?」

 

 きっぱりと魔人は首を振る。

 そういえば名前も聞いていなかった。私は朱亞(シュア)、と名乗ったけど、銀髪の少女はこともなげに拒絶するだけだった。

 

「私に名前は無い。呼ばなくていいよ」

「そう、なんですか……? う、――っ?」

 

 

――その時。

 突然、脳裏に知らない映像情報が叩き込まれた。

 

 

 

山に かけられた 橋の 上

3人と 3人が 向かい合って いる

 

片側は  私と 姉と

その背後から ナイフ を 突きつけている 銀髪の 魔人

 

もう片側は

電ノコの 悪魔

丸い頭の 女の 悪魔

支配の 悪魔

 

姉だけが 人質役 から 解放されて

反対側へ 駆け出した

3人の 悪魔たちに 守られる

 

姉は 支配の 悪魔の 背後に まわり

こっそり 呪いの釘 を 握りしめ

振りかぶって

刺し下ろす――

 

 

 

「うッ」

「ア、く」

 

 頭を抱え、未来視の反動をどうにかやり過ごす。

 未来の悪魔が映像を見せてきた……。

 

「どうしたの」

「……いや、別に」

「ふうん。……で、組むの? 組まないの?」

 

 私と姉は顔を見合わせる。

 未来の悪魔の未来視は、絶対だ。

 何をどう足掻こうがあの未来に辿り着く。

 この魔人の人質役になったおかげで支配の悪魔に呪いの釘を打ち込めるという未来に――

 

 姉が頷いた。

 だったら私に否は無い。

 

「……組もう」

「うん」

 

 姉の願いを叶える。

 そして普通の日常を掴み取る。

 そのためならなんだってすると私は決めていた。

 

「じゃあ同盟成立だね」

 

 再び友好的な笑みを貼りつける魔人の少女。

 姉は慎重に呟いた。

 

「……日本語を」

「ん?」

「日本語を、教えてくれ。まったく喋れないんじゃ疑われんだろ」

「ほー、やる気満々だねえ。いいよ~、教えたげる」

 

 手を差し出されて、私は思わず握手する。

 ぎょっとした。

 魔人の少女の掌は石のように硬かった。

 ……父と同じ手だ。

 長い工場勤めでいつも手指が黒ずんでいたあの父と。

 

 

 

 

 山々に銃声が木霊する。

 乾いた音が小さくなりながら頭の上を飛び交っている。

 見上げていると、電話が鳴った。

 

『岸辺だ。悪いニュースが3つある』

「……良いニュースはないんです?」

『じゃあ微妙なやつから』

 

 電話口の向こう側、金属同士がぶつかり合うような音が聞こえる。

 

『サンタクロースが呼び出した悪魔とアナスタシアが戦ってる。今お前らがいる橋から200メートルほど進んだとこにある駅ん中だ。そっちには行くなよ。このまま放っておけばどっちかは死んでくれるかもしれない』

「ふうん……。どんな悪魔なんです?」

『分からん。姿が見えたり見えなかったりする。二足歩行で、腕は10本あったが今は1本落とされて9本、身長は3メートルを超えている』

 

 聞けば、炎上する電車から飛び出してきたところを退魔課が見つけてから数十分も戦い続けているらしい。アナスタシアと謎の透明な悪魔、どちらも能力は未知数だが、かなりタフだ。

 

『そんでこれが悪いニュース。漁夫の利を狙おうとしたうちの若い連中がやられちまった』

「は……?」

『狙撃しようとしたんだが、向こうも遠距離攻撃できたのがまずかった。謎の悪魔はでけえ針を撃ってくる。アナスタシアは視線の先に火がついた。どうやら発火能力っぽいな』

「火……?」

 

 困惑の声を漏らしたのは、私ではない。

 傍で耳をそばだてていたナユタ。

 彼女はほんの僅かだけ眉をひそめた。

 

「いや、まさかね……。火がつく条件は一つじゃない。電磁波の放射、あるいは発火点の低い物質の生成……」

 

 ひとまず彼女はおいておき、岸辺さんに2つ目のニュースを促す。

 

『町に人形が溢れている』

 

 思わず、橋の正面、駅の周辺に広がっている寂れた町並みを眺めた。

 

『サンタクロースがどんどん増やしてるみたいだがどこに行ったか分からん。俺たちは被害を抑えるだけで手いっぱいだ』

 

 奥多摩の町――なだらかな傾斜の上に古びた建物がぽつぽつと連なっている。

 言われてみれば、さっきから車の一台も通らない。

 不気味な静けさ。

 ぱんぱん、と単発の花火のような味気ない音が時折鳴って、耳を澄ませば犬か人間かの吠え声が届いてくる。

 

『そういうわけで、公安の戦力はほとんど割けなくなった』

「……最後の悪いニュースは?」

『後ろを、見ろ』

 

 振り向いた。

 雲の隙間から陽光の白が斜めに射して、渓谷にかかったアーチ橋に降り注いでいる。今までずっと歩いてきた車道の真ん中に3人の少女が立っていた。

 前列左、知らない少女。

 前列右、知らない少女。

 後列中央、知っている少女。

 

 銀色の髪。

 年下と見紛う未成熟な身体つき。

 そして、誰にも見透かすことのできない分厚い仮面。

 

 

――レゼはもっと笑うべき。好意は伝えて損のない感情だよ。例え相手が……

 

 

 屈託のない、見事な笑みだった。

 

 

――例え相手が、殺すべき標的であってもね。

 

 

「久しぶり、レゼ!」

 

 再会の喜びが滲み出ていた。

 彼女のやってきたことを知っている私でも純粋無垢に見えてしまう。

 百の裏切り、千の外道。

 人の情を知らないソ連の中でも更にモラルに欠ける秘密の部屋……そんな騙しと裏切りが横行する同類たちの間でも恥知らずの人でなしと評価されていた少女――秘密の部屋の暗黒を煮詰めた元仲間がそこにいた。

 

「ポリーナ……」

 

 かつてチームを組んでいたモルモットの前には知らない少女が2人いた。

 すぐに分かった。

 不自然に強張った肩、けして後ろを振り向くまいとする歩き方。背中に何か、凶器を突きつけられている。恐らくはナイフ――

 電話口から忠告の声がした。

 

『人質を取られた。上からの命令で俺たちは手出しできん』

 

 ごくりと唾を飲み込んだ。

 要するに、これは、ここからは、私たちだけで対処しなければならないということか。

 

「元気してた~? もーずっと心配してたんだからぁレゼってば何でも上手にやるけどどっか甘いとこがあるからさ~。どう、日本は? ご飯美味しいよねえ~、私はこっちの味付け好きだなぁ、って聞いて聞いて、さっきお寿司食べてきたんだよお寿司~……んんー? なぁにその顔ー?」

 

 目を細めてくすくすと含み笑い、

 

「私がソ連の刺客だって思ってるでしょー? ぶぶー、ハズレでーす。だって私、ソ連辞めちゃったからね。ホントだよ?」

 

 聞いてはならない。

 言葉を交わしてはならない。

 男を勘違いさせる表情の作り方も、頬を赤らめるやり方も、全部ポリーナから教わった。私は彼女の嘘を見抜けない。

 

 人質の少女たちがぎこちなく嘆願の声を漏らす。

 

「たすけて」

「おねがい」

 

 ポリーナは害意をおくびにも出さない。金色の人外の瞳で「私だってこんなことしたくないんだけどさー」と嘯きながら、僅かに肩を動かした。

 人質の1人が、短く呻く。

 ナイフの切っ先で突かれたのだ。

 

「お話、しよう?」

 

 じめついた風が吹いていた。

 分厚い雲がゆっくりと陽射しを遮っていく。

 

「レゼはさ、もしもあと数時間で死んじゃうとしたら――その前に何がしたい?」

 



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残り2時間

 渓谷にかかったアーチ橋の上で、3人と3人が向かい合っていた。

 こちら側は、変身済みのデンジ君に、(レゼ)、そして支配の悪魔であるナユタちゃん。

 向こう側にいるのは、かつて秘密の部屋でチームを組んでいたポリーナ、そしてその彼女にナイフを突きつけられている民間人の少女が2人。

 山間に湿り気を含んだ風が吹きすさぶ。ポリーナの銀色の髪が乱れて額に浮かぶ人外の証があらわになった。

 赤い鱗。

 魔人の特徴だ。

 ポリーナはどこか自慢げに目を細める。自身の額を指先で示してみせながら、幼げな口調で話し始めた。

 

「私ね、魔人になったんだ。ほら、見てよこの頭~? ちょっとヘンだけどさ、このぐらいで生き返れるなら安いもんだと思わない? ねー、レゼってばぁ、聞いてるー? すっごいしかめっ面なんだけどー」

「何しに来たの?」

「うわ。すっごい直接的ですねえ。もう少しウィットな会話を楽しみたまえよ~。久しぶりに会えたんだからさぁ」

「はっきり言ったら? ボムの心臓を取り戻しに来たんでしょ」

「……う~ん、まあ、確かにね? そういう感じの任務は下ったケドさ」

 

 ずいっと一歩、踏み出した者がいる。

 チェンソーマン。

 デンジ君が庇うように私の前に出た。

 ポリーナはピュウと口笛を吹く。

 

「チェンソーマン! 私、知ってるよ。どん底から這い上がって自由を掴み取ったヒーロー、かぁっこいい~!」

「あ? 俺が?」

「だって私たちと似たようなもんだもん。どん底スタートのお仲間としては親近感湧きますよ。憧れちゃう」

「…………フ~ン」

「――話、あるんじゃないの?」

 

 早くも気を緩ませ始めたデンジ君に代わって本題に切り込んだのはナユタちゃんだった。

 彼女の目線はポリーナの前に立たされている2人の少女へ向けられている。

 矢じりのような鋭さで、ソ連の刺客が嘯いたお為ごかしを痛烈に指摘している。人質をとりながら媚を売っても説得力が無いと。

 

「う~ん、まあ、そうだよね。私の言う事なんて信じられないよね……。でもね、こうでもしないとそもそもお話もできなかったでしょ?」

 

 ポリーナは小さく溜め息をつくと、歯切れよく宣言した。

 

「じゃあ10分間。それだけ喋ったらこの子たちは開放するよ」

 

 とん、と人質の1人の背中を押した。

 ボブヘアーの少女が2、3歩つんのめる。緊迫の面持ちで足を踏み出して、ゆっくりと、ゆっくりと、ポリーナのナイフの射程圏から逃れてこちらに歩いてくる。

 

「まず、1人解放しました。どう? 少しは信用してほしいな」

「……」

 

 人質だった少女は、本当に何事もなくこちら側まで辿り着いた。

 私たち3人の背に隠して「もう大丈夫だから」と声をかけておく。

 ボブヘアーの少女は怯えているのか返事もしなかった。だが気遣っている余裕もない。

 ポリーナの狙いが分からなかった。 

 

「それじゃ時間もないのでちゃっちゃと喋ります。……こほん。え~と、私は魔人になりました。なんの魔人かっていうと、火の魔人です」

「火……?」

「そう。火だよ、ほら」

 

 小さな魔人が人差し指を立てる。

 その先端に、ぼっと小さな火が点火した。

 ナユタちゃんが苦々しげに唇を噛みしめたのが横目で見えた。

 

「どう? すごくない? ……そこの支配の悪魔さんは理解したみたいだね。火の悪魔って、超強い悪魔だから、その肉片を埋め込まれた魔人も強いってわけ」

「……なに、自慢しに来たの?」

「んーん、そんなわけないじゃん。私はね、弱点を教えてあげに来たんだよ」

「は……?」

「弱点。……あのね、私はともかく、アナスタシアはあれでしょ、格闘戦のために生まれてきたような奴だし、そんで今は火の魔人でもあるわけ。もう向かうところ敵なしってカンジ。だからボムの心臓を持ってる今のレゼでも普通にやったら勝ち目なんてないんだからさ、弱点、教えてあげようって思って」

 

 ポリーナはすらすらと世間話でもするように火の魔人の特性を述べていく。

 

 

 能力は発火。

 有効範囲は2つ。

 1つ目、視界内。

 焦点を合わせられる近距離ほど効果を高められる。

 発火点は空間座標を指定する。そのため対象に動き回られると加熱できない。

 2つ目、自身の肉体。

 こちらは自在に温度を高めることができる。1千℃の熱にも耐えられる。

 弱点は水。そして無酸素状態。

 

 

「――というワケで、一箇所に留まるのはオススメしない。5秒でバターにされちゃうよ」

「なんで……意味が分からないんだけど……」

「レゼには死んでほしくないからね。これでも私、感謝してるんだ。モルモット時代はよくしてくれたし」

「ああ、そう……?」

 

 少し、いや、かなり混乱している。

 私に死んでほしくない……?

 ポリーナは抹殺任務を受けてやってきたんじゃないのか?

 でもアナスタシアとは戦うことになるような口ぶりで……。

 それって、つまり……アナスタシアは抹殺任務を受けているけど、ポリーナは違うということ?

 そんなことがありえるの?

 

「私たちさ、寿命が残り2時間ぐらいしかないんだよね」

 

 ポリーナはあっけらかんと言い放つ。

 

「火の悪魔に獲られちゃって。ま、代わりにソ連から脱け出せるぐらい強くなれたし? むしろお得だって思ってんだけどさ。いくら寿命が長くてもモルモットのままじゃ意味ないでしょ?」

「あなたは……秘密の部屋から逃げてきた、ってこと?」

「うん。私は元から生き延びたかっただけで忠誠なんて誓ってないし。……知ってるでしょ?」

「任務を遂行しに来たんじゃないんだ?」

「そーだってば」

「ふうん……そっか」

「あ、信じてない? ほんとだよ?」

「だったらいいな、とは思うよ」

「あはっ。……うん、そだね。そのぐらいが正解だと思うよ」

 

 何が本当で、何が嘘か。

 正直、皆目読み取れない。

 皮膚下の蠕動、筋肉の蠢き、呼吸のリズム、瞬きの回数……。それらは感情を示すシグナルであるけれど、相手は騙しのエキスパート。意図的に見せられている可能性を捨てきれない。

 全てが見せかけかもしれない。

 そう思って構えておく他にない。

 

「そういうわけで、今の私は誰の命令にも従ってない。その必要がない、完全な自由。そんなスタンスだって表明しておくよ」

「じゃあ、何しに来たの?」

「つれないな~。友達じゃん」

「そんな台詞、初めて聞いた」

「あはは。だよね、私も初めて言った。友達ねえ~。なんなんだろうね、それ?」

「――残り、5分」

 

 ナユタの無機質な声が通り過ぎていく。

 ちらりと横目で窺うと、普段と変わりない様子だった。

 どこを見ているのか、何を考えているのか。そんな平静さが今はありがたい。

 彼女はきっと今もその小さな頭の中で策を巡らせている。

 今までの会話に意味はなく、アナスタシアがやってくるまでの時間稼ぎでしかない可能性もちゃんと考慮に入れている。鳥獣たちを使役して周辺の状況をリアルタイムで観測しているはずだ。

 

「アナスタシア」

 

 ポリーナが呟く。

 

「魔人になってもやっぱり変わらないね。馬鹿正直に抹殺任務を遂行するつもりだよ」

「従う理由もなくなったのに?」

「困ったちゃんだよね~。他の道を知らないんだ」

「来るなら撃退するだけ」

「あはは、できるかな? ……ねえ、チェンソーくん、キミはどれぐらい強いの?」

「…………あ? なに?」

「一蹴りでビルをいくつも粉砕したって聞いてるけど、ホントなの?」

「ああ~……っと、コレなんの話? 聞いてなかった」

「はい?」

「話がなげえし、別んこと考えてて……」

「え~、どんなこと?」

「仕事が終わったら、何して遊ぶかな~って」

「へえー、さっすがチェンソーマン! ……言う事が…………違うなあ…………って、え? 本気……?」

「??」

 

 ポリーナの眼は、魔人の視力。

 些細な兆候も見逃さない。

 金色の瞳を見開いて、じっとデンジ君を観察する。

 眉間に皺を寄せ、前傾になり、最後はぽかんと口を開けた。

 

「キミは……認知に障害でもあるのかな……」

「へえっ?」

「いやさ、……あはは、器の大きい人もいるもんだな~って思って」

「はァ? んだぁテメー、バカにしてんだろ? ガキんちょがよ~!」

「ごめんごめん……でもさ、全身悪魔形態だったときの力がないなら、大変だよ、アナスタシアは」

「ふーん。あっそ」

 

 “生真面目”アナスタシア。

 どんな命令にも諾々と従う彼女は誰よりも国家に忠誠を誓っている――ふうに見え、大人たちもそのように判断していた。しかし実際は違った。

 彼女は、自身が異端だと知っていた。

 人の心が分からない。

 善悪を測れない。

 やっていい事といけない事の線引きができないアナスタシアは、ときに理由ともいえない理由で仲間に手をかけた。

 

 

――いびきが五月蠅かったんだ。私はちゃんと止めろと言った。でも止まらなかった、だから止めた。…………単純な話だろう。違うのか?

 

 

 そんな人間をただ“殺しが上手い”という理由だけで受け入れられる国はこの地上で一つだけ、人命の価値が限りなく低いソ連のみ。

 だからアナスタシアは故国に肯定的だった。他に居場所はないと知っていたから。

 

「故国のため、祖国のため。……そんな概念、ほんとは理解してもないのにね。でもそうするしかないんだ、アナスタシアは」

 

 彼女にとって戦士とは仕事や生き方ではない。人間を理解できない異星人に許された、この地球上で唯一の在り方なのだ。

 たった一本の道。だからこそ強靭で、歩き続けるための上っ面ではない本物の意志を伴っている。

 

「ポリーナ。あなたは何がしたい?」

「ん?」

 

 口を挟んだのはナユタ。

 

「耳障りのいいことは言うけど、手を貸す気はないって聞こえる」

「知識は貸したでしょ?」

 

 魔人は失笑する。

 

「勘違いしないでほしいんだけど、私、基本的にはアナスタシアの味方。優先順位はあっち」

「友達なんだ?」

「さあね。私の望みは、アナスタシアが納得のある終わり方を迎えること。レゼは、できたら助かったらいいな、ってハナシ」

「嘘」

 

 ナユタは微動だにしない。

 雲の隙間から差し込んでいた光が細くなってきて、少しずつ辺りが薄暗くなってくる。不穏な空模様を従えながら悪魔は語る。

 

「死期に迫られた人間が選ぶ道は1つ。悔いを残さないようにやり残しを潰すこと」

「私にやりたいことなんてないんだなぁ」

「だったらわざわざ日本まで来たりしない。他の誰かのためじゃない、あなた自身の目的がある。あるいは――」

 

 カラスが鳴いた。

 橋の上を旋回する瞳が幾多もの角度からソ連の刺客を覗きこんでいる。

 

「寿命の話も、弱点の話も、何もかもが出まかせか」

 

 風が吹く。

 銀の髪を揺らして、ポリーナは軽く目を伏せる。哀しげな、色褪せた表情――

 あれも、嘘だ。

 そう判断するしかない程に彼女は嘘をついてきた。

 秘密の部屋において最も虚弱だった少女は仲間を騙すことでしか生き延びられなかった。狼少年ならぬ狼少女。誰からも信用されることはない。

 ふと思う。もしかしたら彼女は異端者であるアナスタシアよりも孤独な存在なのではないかと。

 

「君たちには、分からないだろうね。他を切り捨てて一つに執り付いて、それでも結果を出せない……そんな偏らざるをえなかった人間の気持ちなんて……」

 

 そのとき、一瞬雲に光が反射した。

 前触れはなかった。

 地面に振動が走るとほとんど同時、追いかけてきたように爆発音が鳴り響く。

 デンジ君とナユタちゃんが思わずといった様子で音源地へ目を向ける。

 私は目の端だけで確認、ポリーナからは目を逸らさない。――町中、駅の辺りから煙が立ち昇っている。

 しかし、当のポリーナは、あっけなく私から視線を外した。近所のぼやでも見るようにこう呟く。

 

「あーあ、時間切れだ」

 

 田舎町は不自然なぐらい静まり返っている。

 本来ならサイレンの一つでも鳴って野次馬が飛び出してくる頃合。けれど一つも動かない。ゴーストタウン――そうしたのはサンタクロースという名の殺し屋であり、そんな相手と戦っていたのは私のよく知る秘密の部屋育ちの最強の女――

 

「アナスタシアが来るよ」

 

 

 

 

「アナスタシアガクルヨ」

 

 (シュア)の背中にナイフを突きつけながら、銀髪の魔人が何かを喋っている。

 たぶん日本語で、私には内容が分からない。

 応じているのは正面にいる3人の悪魔たち。

 彼ら、彼女らは、油断のない顔つきで、私の頭越しに言葉を交わしていた。

 

 ひどく場違いな場所にいる……。

 

 そんな言い訳だけが私の頭の中を飛び回っていた。

 さっきからずっと気持ちが定まらなかった。

 立ち眩みに陥ってしまったときのように足元がおぼつかない。大観衆が注視するステージの真ん中に何の用意もなしに立たされてしまった気分でしかない。

 

 私は……どうして……ここに居るんだろう?

 

 正面に立っている男の悪魔に恐る恐る目を向けてみる。

 頭と両腕に、電ノコが生えていた。

 チェーンから突き出した棘は鋭くて、びっしりと連なっている。

 

 あんなものがもし回転しながら近付いてきたら……。

 

 そう思うだけで、だめだった。足が震えて一歩だって動かない。

 けれど彼らは違った。

 この今という現実を直視して立ち向かう姿勢でいる。

 固まっていない。怖がっていない。

 私と全然違う。

 あの男の悪魔は、手持ちの電ノコを振るってこれまで何人も手にかけてきたんだろう。隣に立つ女の悪魔も同じはずだ。慣れている。私のすぐ後ろに立っている銀髪の魔人だってそうだ。

 斬るか、焼くか、手段に違いはあるだろうけど、人殺しに慣れている。

 人殺しの世界の住人たち。

 

 その中心に私は立たされてしまっている……どうして……?

 

 復讐のためで、姉のため――

 かつて決意を抱いたはずの名分は、今となっては煙よりも頼りない。

 

 “殺す”ってなに……?

 どうしてそんなことをしようと思っていたんだろう……?

 

 復讐。誓うだけなら簡単だった。

 恩人であるクァンシさんに報いるためにと立ち上がり、未来の悪魔と復讐の悪魔と契約し、とんとん拍子で日本まで来た。来てしまった。

 しかし、私たちは本当に……私と姉は、本当に身を焼くほどの本気の憎しみを抱いていたのだろうか?

 

 かつて実の親に捨てたられた。

 愛してくれた育ての親は政府の都合で道路の下に埋められた。

 私たち姉妹には戸籍がないせいで、病院では診察を受けられず、図書館では本も借りられず、学校にも通えなくて、路地裏しか生きる場所がなかった。

 お前らは要らない子供なんだよ――役人たちにはそうあしらわれた。

 

 そんな社会に対する不満と憤りを、“仇討ち”という行為にぶつけていただけな気がする。

 不条理に抗えば自分たちだって正当性のある人間なんだと証明できるような、そんな気がして……。

 

 クァンシさんは優しかった。それは本当だ。

 殺されて悔しい。悲しい。それも本当。

 でも相手が憎いだなんて、殺したいなんて、やっぱり私には分からない。

 

 お姉ちゃん……。

 

 姉は今、銀髪の魔人の計画通りに支配の悪魔の背中側に位置している。

 手には呪いの釘。

 四回刺せば、相手は死ぬ。

 念願の復讐の好機がやってきた、はずなのに――その手は震えていた。

 

 姉の気持ちがよく分かる。

 復讐の悪魔の能力――反撃で相手が死んでしまうのとはわけが違う。呪いの釘を振るうには、明確な殺意が要るんだ。能動的に死の切っ先を相手の肉へと刺し挿れなければならない。

 相手の人生そのものをぐちゃぐちゃにする。

 それがどんなに酷いことかを私たちは知っている。

 殺すなんて大それたこと、私たちにできるはずがなかった。相手が悪魔かなんて関係ない。だって犬や猫さえ手にかけたことがないんだから。

 殺すのが怖い……。殺すなんてしたくない……。

 だって、私たち、嫌なこともたくさんあったのに……どうしてわざわざ人殺しまでしなきゃいけないの……?

 今のままでいい……。やらなくていいなら今のままでいいよ……。

 もしも誰かの命を奪うなんてことをしてしまったら、私たちは本当に真っ当な人間ではいられなくなる。

 やめたほうがいい。仇なんて討たないほうがいい。

 普通に生きていたい。

 お姉ちゃんにはもうこれ以上寿命を使ってほしくない。他の誰に否定されようと私たちにはお互いがいるじゃないか。姉にさえ手を繋いでもらえたら、私は胸を張って生きていられる。

 帰ろうよ……。

 どこでもいい、どんな仕事だって構わない。姉と一緒なら――

 

 

 ずぶ

 

 

「っ」

 

 熱、痛み。

 背中の肉にナイフの切っ先がねじこまれてくる。

 筋肉が瞬時にひきつった。異物をこれ以上1ミリだって侵入させないために声帯さえも固まった。

 

「想像してごらん」

 

 ひっそりと、銀髪の魔人、背後から、

 

「支配の悪魔はこれから普通に生きていく。学校に通って、図書館で勉強して、学校で友達を作るんだ。恋をして、結婚して、大きな庭のついてる家なんかを買って、ペットたちに囲まれる。幸せな日々を迎える。でもその時にはクァンシのことなんか欠片も覚えてない。君たち姉妹のことなんてサッパリ綺麗に忘れてるんだ。……君たちは、こんなに人生を狂わされたのにね。それでいいの?」

 

 背中に入ってはいけないものが入ってくる。1センチか2センチかこじ開けて侵入しつつある金属の切っ先がいつ臓器まで届いてもおかしくない。取り返しのつかないことになるという本能的な恐怖。

 

「君たち姉妹は、これからの人生で何度も何度も思い出す。軽蔑の眼で見られたこと、下げたくなかった頭を下げたこと、そんな毎日から救いだしてくれた恩人に何も報いなかったこと……」

 

 出血がどんどん体内に漏れ広がっていく想像に涙が滲む。膝ががくがくと震え始める。痛みと痒みの中間のような感触がじんじんと異常を訴え続けている。やめてくれ、助けてくれ。悲鳴さえ許されない恐怖。唾液が滴り落ちて顎下を汚していく。

 

「忠告する。復讐できる相手がいるならするべきだ。何故ならば、復讐とは、尊厳を取り戻すために必要な手続きなんだから。君たち姉妹の人生は屈辱を受けたせいで止まってしまっている。再び進み始めるためには負債を押しつけてきた相手に突き返してやらねばならない」

 

 

 ぐい

 

 

 切っ先が、角度が、てこの原理で傾いた。

 筋繊維が限界まで伸ばされる。

 

「いい? これは私にほんの一欠片だけ残された優しさが言ってるんだよ?」

 

 とん、と。

 背中を押された。

 ナイフの切っ先が引き抜かれ、私はみっともなく前へつんのめる。

 制御できない私の脚がどうにか転倒だけは避けてくれた。

 解放された――

 

「あ、あぅ」

 

 安堵する私に支配の悪魔たちの視線が集まった。意識も。

 それは、合図だった。

 隙を作ってやったから呪いの釘を刺せという、姉への合図――

 

 滲む視界の中で、姉の腕が大きく翻る。

 その指の中には悪魔の釘があって、

 強く強く握りしめられていて、

 勢いよく刺し下ろし――

 

「おねえ、……っ」

 

 

 赤い暴風が大気を切り裂いた。

 

 

 鼓膜を破りかねない破裂音。

 交通事故のようだった。

 悪魔たちの誰かが吹っ飛んだ。

 

「ああ、あああっ」

 

 

 

 

 ちゃんと見ていた。

 衝突の直前、ナユタちゃんからも警告があった。

 

「来る」

 

 重心はすでに落としこんでいた。息の巡りも合わせ済み。構えた先に見えたのは点のような大きさの赤で、その特徴的な髪色はおよそ50メートル離れた車道のうえで前傾姿勢になっていた。

 アナスタシア。

 踏み出した足指に杭打ち機に匹敵する力が篭められたのを私は知っている。あのクラウチングスタートの体勢は、開戦時に距離を潰す際にいつも見せていた。

 今回の標的は、私。

 目が合った気がした。

 瞬間、視界に赤色が広がった。

 

「!!」

 

 既に、腕の内に居た。

 理解できぬ歩法に思いを巡らせている余裕は無かった。袈裟懸けの右手刀を半身でかわして側面に回りこむと赤い頭が落下した。沈墜、さらに慣性の勢いも加えられた上半身には膨大な破壊力が秘められている。地を蹴って一歩退く、アナスタシアのうなじが見える。あえて背中を晒した意図は体当たりに繋げるためと決まっていたが、こちらが目前の首筋を打ち壊すほうがずっと速い、ゆえに備えていた握り拳を解き放つ。その途中、私の足首をぐいと後ろから引っ張る者が居た。

 アナスタシアだった。

 わけが分からなかった。

 どこから生えてきたのか不明な指先で防衛反射ごと膝と股関節のコントロールを握られた。

 視界を流転させられ、相手の姿勢も何をされているのかも分からなくなる。受けるも流すも叶わない気の遠くなるような一瞬に走馬灯が駆け巡る。

 

 膝と股関節が砕かれる、

 身体中に穴を開けられる――

 

 視界一面にアスファルトが迫っていた。

 身を捻り、腕をふるって地に衝撃を逃がしながらごろごろと転がった。一切の理解が追いつかぬままに身を起こし、

 膝は、

 股関節は、

 どちらも無事だった――

 なんともない、ちゃんと動く。

 荒ぶる呼吸を抑えながら、どこも損傷していないのを確認。

 

「チェンソーマン、だったか……」

 

 およそ20メートル近く離れた場所でアナスタシアは膝立ちになっていた。

 こんなに飛ばされたのかという認識は、すぐに掻き消える。

 彼女の眉間、数センチの距離に、悪魔殺しのチェンソーが突きつけられている。

 

「速いな……」

「カッコいいだろォ?」

 

 チェンソーはぴたりと動かない。回転も止められている。その凶器の腹の部分を、火の魔人の両の掌が力強く挟み込んでいた。

 真剣白羽取り。

 風が吹きすさぶ橋の上、チェンソーの男と魔人の女が電ノコ越しに視線を絡ませる。

 

「仲良くしようぜ~? どんなワケで来たのか知らねえけどよお~」

「いいぞ。30秒耐えられたらな」

「マジかよやったー!? 約束したかんな!」

「始めるぞ」

 

 あっ、と声をあげる間もなかった。

 アナスタシアは挟んでいたチェンソーをデンジ君の腕ごと捻って崩しにかかる。「おわっ」と漏れた声が私の耳に届く頃には魔人の下半身は地を噛んでいた。

 この世には2つの無限に使える力がある。

 自身の体重と、大地による抗力。

 ぴたりと動きを止めただけで挟まれていたチェンソーがへし折れた。

 アナスタシアの挙動は人間時代と変わらなかった。筋力に頼らず、理で回す。人体はベクトルを通すための道筋にすぎない。

 なにげない重心移動が必殺の砲撃準備と化していて相手は近寄られるだけで後手にまわらざるをえない。接触すなわち死と同義。

 チェンソーマンのみぞおちにお手本のような肘鉄が刺さった。

 「あギャッ」と呻き声をあげながらもデンジ君は逆手のチェンソーを振り抜いてみせる。

 

「む」

 

 火の魔人の首筋がぴっと裂ける。

 続けざまにチェンソーが襲いかかった。被弾を恐れぬ攻勢はアナスタシアの術理を大きく乱していく。小さな傷と引き換えに膝を踏み抜こうともチェンソーマンは止まらなかった。再生しながら、音さえも置き去りにする一撃が放たれた。

 

「――」

 

 加勢するべきか?

 迷いは一瞬。

 答えは既に決まっていた。

 この戦場における敵はアナスタシア1人ではない。ポリーナ、そして姿を隠したサンタクロースと人形兵、他にも刺客は居るかもしれない。

 守るべき少女たちを下がらせてポリーナの前に立つ。

 警戒した先のもう一人の火の魔人の視線は、しかし誰にも向けられていなかった。遠い目でゴーストタウンと化した田舎町を見つめている。

 

 なんだ?

 何を見ている?

 

 感傷に浸っているような顔つきではなかった。何かを探しているふうでもない。

 彼女の意識と焦点は、煙を立ち昇らせている駅の辺りに合わせられている。

 

「……困ったなあ。こんな予定じゃなかったのに」

「なに、あの駅がなんだっていうの」

 

 言いながら、このめちゃくちゃになりつつある状況を収める手段に思いを巡らせる。

 まず制圧するべきはポリーナではないか。

 彼女が敵か中立かは問題ではない。それが分からずに私が足止めを食らってしまっているこの現状こそが問題だ。

 ポリーナという不確定要素を排除できれば私はチェンソーマンに加勢できる。

 そうなればアナスタシアを確実に打ち倒すことができ、サンタクロースの対応に動けるようになる。

 各個撃破の流れ。順繰りに問題を解決していける。

 その意図を察したのか、ポリーナの細腕がゆっくりと持ち上がり、無人の町並みを指した。

 

「マズいよ、これは」

 

 山間の田舎町。建物はまばらで背は低い。

 それらの物陰から人形兵たちがぱらぱらと姿を現し始めた。

 5人、10人、20人――右から左から、いったいどこに潜んでいたのか車道いっぱいになってひしめいている。その全員が、一様に無表情だった。ガラスの眼球をこちらに向け、両腕を剣状に変化させている。

 更に。

 その中心に、巨大な何かが居た。

 4メートル弱はある。

 二足歩行で、ここから見えるだけで腕が5本は生えている。体表には迷彩柄の模様が走っていて、顔はことさら異様だった。口にあたる部分が節足動物の大顎のようになっている。

 丸太のごとき太さの腕が手近な人形兵の頭を掴んだと思ったら、無造作に脊椎ごと引き抜いて異形の口に放り込む。ごりごりと噛み砕き、呑み込んだ。すると腕が何本も生えてくる。

 傷を回復させている。

 アナスタシアに破壊されたであろう部位を。

 

「あれは……サンタクロースの呼び出した悪魔? アナスタシアが仕留め損なっていたってこと……?」

「ううん、違うかな」

 

 こと戦闘に関してだけは誰よりも真摯だった彼女がそんなツメの甘い仕事をするわけがない。

 仕留め損ねたのではなく、仕留められなかったのだ。

 

「そっか、ああやって人形兵たちを回復剤にするんなら……」

 

 際限なく回復されれば火の魔人となったアナスタシアでも倒しきるのは難しいということか。

 おそらく彼女は、あの謎の悪魔との削り合いに埒があかないと判断し、戦闘を切り上げて本来の標的である私たちの方へ来た。一瞬で片をつけ、ポリーナと合流し、火の魔人2人がかりでサンタクロース勢へと立ち向かうつもりだったのだろう。

 だがそんな目論見は失敗した。

 

「30秒ォ~! 30秒経ったじゃん! ギャ! たっ、ああああ!?」

 

 甲高い激突音とともにチェンソーマンが欄干に叩きつけられる。炎が纏わりついて離れない左腕をぶんぶんと振り回している。

 

「バっカ、火ぃ止めろ! アアチャアチャチャ!!」

「ちっ。これ以上は粘れんか……」

「ナスチャ! これからどうすんの?」

「一時休戦だ。先にサンタクロースを始末する」

 

 アナスタシアが構えを解くと、デンジ君の腕についていた火が消えた。

 うひ~~、と呻くチェンソーマンにナユタちゃんが駆け寄った。血液パックを顔面にぶっかけて飲ませると火傷がみるみるうちに回復。その光景を人質だった2人の少女が揃ってまじまじと見つめている。

 彼女たちは一般人。どうにか逃がしてやりたいけど……。

 町の反対側へ避難しなさいと告げてみる。しかし言葉が耳に入らないのか反応しない。

 

「レゼ、おい」アナスタシアが声をかけてくる。「あの人形部隊が邪魔だ。お前も手を貸せ」

「よく言う……。今の今まで殺しにきてたくせに」

「そうだが?」

「サンタを撃退したらまた戦うつもりだよね?」

「一時休戦と言った」

「…………ああ~、もう~~!」

 

 アナスタシアの平常顔にイラっとくる。

 ポリーナもポリーナだ。任務でもないのにわざわざ日本までやってきて思わせぶりなことばかり。

 何よりも腹立たしいのは、そんな彼女たちの提案を飲むしかないこの現状。

 

「う~~ん、かるく200は居そう」

 

 ポリーナが他人事のように呟いた。

 山のような数の人形兵、そして得体の知れない異形の悪魔。人ではない怪物たちは様子見などしなかった。殺戮の命令を達成するために一斉に津波となって押し寄せる。

 

「来た来た来た来た」

「数が多すぎる!」

「ぎゃああ! 前にもこんなことあったんですけど!?」

「レゼ、どうするか決めろ」

「組むってば! 作戦も私が決めるからいいね!? ……まず後ろに退く! 私が橋を爆破して落とす! 人形たちはバラけて谷を渡ろうとするだろうから各個撃破!」

「攻めたほうが早いだろ」

「数が負けてるから地形を利用する!」

「私は平気だ」

「ポリーーーナっ」

「ナスチャさあ、今の指揮はレゼなんだからさあ」

「…………従う」

「何がなに!? 俺はどうすんの!?」

 

 本当にこれでいいのか?

 迷いはもちろん拭えない。

 だがアナスタシアたちはプロだ。優先順位の見定めはけして間違えない。少なくともサンタクロース勢が脅威ではなくなる、もしくはその確実な見通しが立つまでは共闘できるはず。そう思いたい。

 少女たちとナユタちゃんをデンジ君に預け、堅牢なアーチ橋を踏みしめる。一発で崩落させるために必要な爆薬量は並ではない。右腕にかき集め、大型弾頭を生成していく。

 完成まであと少し――

 

「愚者ども……お前らは何も分かってない……」

 

 すぐ傍の、橋の欄干に括りつけられた男が呟いた。

 刺客であった変身能力者はすでにチェンソーマンの姿ではない。小柄な中年男が薄気味悪く微笑んでいる。

 

「世の中は合理主義の結果主義……ふはは、人は駒! 僕は神!」

「誰だ?」

「誰?」

「誰だよコイツ」

 

 アナスタシアは返答を待たずにナイフを投擲、

 

「イぎゃあ!」

「ちょっと! 殺さないで!」

「死体がでなければ殺したことにはならない。セーフだ」

 

 こいつ! マジでほんとにっ!

 

「ぐ、ぐ……ガキがよお! 僕のほうが影響力あるのにい! 嫉妬だろぉ!?」

 

 中年男の輪郭がうねり、角ばった関節の節々が丸みを帯びていく。丸い金属頭の武器人間の姿へと変化して――って、私!?

 偽者のボムガール、その拳は爆弾に成っていた。

 信じがたい光景だけど、彼の模倣精度はチェンソーマンへの変身ですでに証明されている。

 

 ぼっ

 

 本物の導火線に火が灯った。

 止める間は無かった。

 目の眩むような閃光と熱波が、私の大型弾頭に到達し――

 

「ぼ、僕は誰よりも黒が似合う《夜の剣士》! 不可能はないっ」

 

 大爆発を引き起こした。

 

 

 


 

 

 

 轟音が山々の奥に消えていく。爆心地である渓谷にかけられた橋は無残にも崩落してしまい、白煙を立ち昇らせていた。

 声はない。

 生き物の気配もない。

 暗灰色の乱層雲に陽は遮られ、冷たい空気が人間の体温を奪うべく吹き降ろされていく。

 無機質な人形兵たちだけが動き回っていた。標的を追い詰めるために崖からばらばらと飛び降りていく。

 

「ア・ア・ア……」

 

 橋の淵には、およそ4メートル弱の巨体があった。

 昆虫のような複眼で、足下の河原を、正面の対岸を、そして周辺に広がる山々を観察している。

 際限のない悪意と獣臭を撒き散らす悪魔。

 その隣には、並ぶにはまったく似つかわしくない幼子が立っていた。

 緑色の瞳を細め、糸のような金髪を放射状に靡かせている。

 

「そろそろ騒がしくなりますね」

 

 ただの幼子ではなかった。

 その小さな頭には何十年もの人生で培った知識と人格が詰め込まれている。 

 彼女の名はサンタクロース。ドイツからやってきた殺し屋は、いっそ定型業務を言い渡す上司ほどの平坦さで言葉を紡いだ。

 

人間狩り(マンハント)の悪魔よ」

 

 空から一滴の水が落ちてきた。

 音もなくアスファルトに染み渡り、徐々に黒く塗りつぶしていく。

 ある種の粘土は、湿度が80%以上になるとペトリコールと呼ばれる匂いを発散する。それは雨が降る前の匂い。雄大に広がる大自然をまるごと覆う、その匂いと雨雲からは、誰も逃れることはできない。

 

「一人残らず殺すのです」

 

 夜がやって来る。

 戦争が始まる。

 



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残り1時間40分

 ぜえ、ぜえ――

 

 自分(シュア)の息遣いが耳障りだった。

 

 視界が明らかにおかしくなっている。まるでかつて父と観た白黒映画のようだった。

 粉塵が周囲に立ち込めて何も見通せない。ただ傍にある川の流れと、時折飛び散る飛沫だけが動くもの。

 ここは河原だ。

 河原のはず。

 なのに水音がまるで聞こえなかった。

 ただ自分の息遣いだけが聞こえている。

 

 どうして?

 私たちは何か悪いことでもしたんだろうか?

 もしも神様がいるなら聞いてみたい。

 いったいどういう理由で私たちがこんな目に遭わなければならないのか。

 

 あの時、橋の上で爆発が起こって、身体が浮き上がったと思ったら、何も掴むことができなくなった。お腹の中身が浮き上がって、在りどころがない気持ち悪い感覚でいっぱいになって、無我夢中で手を伸ばした。

 私は、橋から落ちたんだと思う。

 左の手首がものすごく痛い。

 始めはなんともなかったのに、目が覚めて、なんとなく変な感じがして見てみたら、ありえない角度に曲がっていて、それが分かった途端にどくんどくんと心臓の動きに合わせるように痛みが全身に広がった。

 痛い。

 ものすごく痛い。

 でもそれどころじゃあない。

 ぜえ、ぜえと、自分の息遣いだけが聞こえている。

 身を起こして、初めて気付いた。

 私の下に、姉が居た。

 仰向けで、下敷きになっている。

 直視したらいけないと分かっているのに目を離せない。無事ではないと分かっているのに確認してしまう。姉は全然動かない。鼻と口からとろとろと血が流れ続けていて、頭の下の地面にも血が広がり続けている。河原の石と石の隙間を赤黒い液体がゆっくりと満たしていく。

 

 ぜえ、ぜえ――

 

 なんで?

 どうして?

 私たちは復讐の悪魔との契約でどんな怪我でもすぐに治るはずなのに、どうして姉は動かないままなの?

 そんなのまるで私が悪いみたいじゃないか。

 私がさっき、仇討ちなんて止めようって思ったから、復讐なんてしたくないって思ったから、そのせいで契約が切れてしまったみたいじゃないか。

 そんなの、だめだ。

 だめに決まっている。

 さっきのは、ほんと、違うから。

 そういうのじゃ、ないから。

 復讐はする、必ずする。

 支配の悪魔でもなんでも、やっつける。

 だからどこにも行かないで。居なくならないで……。

 

「……う、ああ、あ」

「!」

 

 姉が呻いた。僅かに目を開き、虚ろながらもこちらを見つめている。

 生きている。

 治っている……?

 でも、全然遅い。

 いつならとっくに立ち上がっているはずなのに、姉はまだ起き上がれない。呼吸は頼りなく、唇の隙間から垂れた舌が弱々しく痙攣していて、幼い頃に見た野良犬を思い出した。あの犬は轢かれてから少しずつ息が弱くなってきて、最期は消えるようにして亡くなった。あの時と、すごく似ている。

 

 お姉ちゃん、お姉ちゃん……!

 嫌だ、そんなの嫌だ。

 どうしよう、お姉ちゃんが死んじゃう……!

 

 そして――私は自分に定められた運命を知った。

 

 川辺にたちこめる粉塵の中から、支配の悪魔が現れた。

 横顔が手の届きそうな位置にある。

 私たちと同じぐらいの背丈。

 濡れ羽色の黒髪が肩まで伸びている。

 無感情な瞳を川下のほうへと向けたまま、私たちのすぐ傍を横切っていった。

 私たちに気付いていない。

 

 

 下を見ろ

 

 

 声がした。

 恐る恐る、視線を落としてみると、

 一本の釘が落ちていた。

 

 呪いの悪魔。

 四回刺せば、相手は死ぬ。

 

 ぜえ、ぜえ――

 

 あつらえた舞台のようだった。

 粉塵はうっすらと晴れつつあり、周囲には誰も居ない。支配の悪魔は無防備な背中を晒してよろよろと歩いている。私の左腕は折れているけどそんな痛みなんて気にならない。利き腕が無事だったのは何者かの意思であるかのようにさえ感じる。

 邪魔する奴は居ない。

 私には武器がある。

 あいつを殺せば、お姉ちゃんは助かる――!

 今にもがたがたと震えだしそうな自分に向かって、必死に言い聞かせる。これは運命だ。こうする他に道はない。すぐそこの支配の悪魔に復讐を果たさなければ、姉と二人、明日から生きていく道はないんだ。

 決断しろ! 一回くらいちゃんとやれ! ちょっと歩いて釘を刺すだけなんだから!

 

 ぜえ、ぜえ――

 

 姉は、苦しいとき、いつでも私の手を引いてくれた。

 私は、泣いて引かれるだけだった。

 今は違う。

 

 支配の悪魔が河原の石に足をとられ、バランスを崩した。

 嘘のように震えが止まった。

 足音を殺して、一歩、一歩、寄りながら、呪いの釘の握りを確かめて、まだ気付いていない背中に狙いを定めて振り上げた。

 

 いける、いける! 今だ!

 

 悲鳴をあげた。

 怯え、死に物狂いで覆いかぶさり、叫びながら背中に向けて激しく釘を突きたてる。

 

 ざく、ざく、ざくっ

 

 手応え、嫌な感触、入った!

 勢い余って釘を落としそうになる。慌てて握り直して、支配の悪魔にしがみつく。

 絶対に逃がさない!

 あと一回打つだけで、お姉ちゃんが助かる!

 刺す刺す刺す――、ッ!!?

 

「あああッ!?」

 

 何者かが私の背中にとりついた。全身の産毛が逆立つ。誰だ!?

 恐怖が体内で暴れまわってどうにかなりそうだった。叫びながら両腕を振り回す。口から豚のような悲鳴が漏れる。

 邪魔をするな! どっか行け!

 

「ああっ、あ……れ……?」

朱亞(シュア)……」

 

 私は、見た。

 薄暗い谷底で、ボブヘアーを赤黒い血で染めながら、姉が幽鬼のように立っていた。

 

「おねえ、ちゃん……?」

 

 気がつくと、膝が折れていた。

 よく知っている顔が私を見つめていた。真っ直ぐな瞳。何かを言いたいのか口を開きかけたけど、すぐに閉じてしまった。

 気の抜けた私の傍で屈みこみ、呪いの釘を拾った。

 踵を返す。

 蹲ったままの支配の悪魔の細い首に手を回す。隙間無く固定してから釘を突きつけた。

 

「支配の、悪魔……。クァンシを、覚えてるか……?」

「イ、ヒ、ヒィィ……。ヤメ、殺サナイデ、クレェ!」

「おい、クァンシだ……! 知らねえとは、言わせねえ、ぞ……!」

「ア、ア……? アレ……? ガキ……カ……?」

「はあ、はあ……」

 

 支配の悪魔は、たぶん、日本語を喋ってる。

 どうやら中国語は分からないらしい……。

 姉は大きく息を吸ってから、再度、尋ねた。

 習ったばかりの日本語をたどたどしく並べる。

 

「なぜ、殺した、クァンシ!?」

「クァンシ……? 何、イッテンダ?」

「クァンシ! あなた、殺した、クァンシ!」

「……??」

 

 支配の悪魔はただただ茫然と口を開けていた。

 首筋に突きつけられた釘にも気付かない。警戒はなく、恐れもなく、忘我のままで呟いた。

 

「誰……ダ?」

 

 姉の腕に固定されたまま悪魔は喋る。

 

「クァンシ……? 誰ダヨ、ソイツ? 知らねえヨ!」

 

 少女の形をした悪魔は徐々に怒りを滲ませていく。

 もがき、暴れ、覆いかぶさった姉を振り払おうとする。

 姉は、揺さぶられながらも、表情を変えなかった。

 

「ハナセヨ、ガキ!」

 

 もしかしたら、そうかもしれないとは思っていた。

 支配の悪魔が何も覚えていない可能性。

 クァンシさんのことも忘れている可能性。

 だって支配の悪魔は何百人も殺しているものすごく悪いヤツだから……きっと道端の石ころを蹴飛ばしたことなんて記憶に留めない。

 そう、この悪魔にとって、クァンシさんは石ころなんだ。

 あの優しくしてくれたクァンシさんが、石ころ……。

 

「オ、オ、オレハァ……ワタ、私? 私はァ、イダイデ、サイキョーノ……支配の悪魔サマダゾォ! 死ねヨ、マケグミ!」

 

 支配の悪魔が、自身の首に回された姉の腕を掴んだ。

 すさまじい握力が姉の腕に食い込んでいく。血が滴り落ちる。

 姉はそれでも表情を変えなかった。

 冷えきった目つきのままだった。

 

「ウスギタネエ、イエローガ! ボクヨリカセイデンノカ!? ザコガヨオ!」

 

 言葉は分からない。でもそこに含まれた感情ならよく分かる。

 軽蔑。

 嫌悪。

 無関心。

 お釈迦様だって豚のクソに説法しようとは思わない――それと同じ理屈で、家持ちの人間様は無自覚に黒孩子(ブラックチルドレン)を差別する。

 声を出すな。耳が汚れる。

 道を歩くな。目が汚れる。

 耳元を飛び回る羽虫を払う感覚で私たちは石を投げられる。

 

「私はカエッテドウガヲアップスルンダヨ! ナンビャクマンサイセイニモナッテ、オレハニンキモノ……ヒーローニナル! カチグミ!」

 

 その目が、同じだった。

 学校に通える子どもたち。我が子に関わってほしくない大人たち。にべもない政府の役人。何も買わせてくれない市場の店主。人民警察。クァンシさんの同僚。追いかけてきた武装警察。平和な国の日本人。

 同じだった。

 同質の悪意だった。

 徹頭徹尾、“お前らは下だ”という認識が伝わってくる。

 

 ああ、やっぱり。

 支配の悪魔もそういう生き物なのか。

 

 

 だったら、

 

 

 頭の奥で、かちり、と音がした。

 最後の防波堤がまるで始めから存在しなかったかのように消えた。

 

 

 ざくり

 

 

 私たち姉妹の釘が深々と突き刺さる。

 そして、

 音も無く、気配も無く――

 死が浮かび上がってくる。

 

「ア、アレ……? 何カ……ツカマレテル!……カラダガハリツケニナッテクヨオ~!?」

 

 支配の悪魔を包む空間に、異形の存在が現れる。

 いや、違う。

 理屈ではなく、理解できた。

 あれは初めからそこに居た。

 死はどこにでも在る。空気よりも濃密に全ての空間と時間に満ちている。

 呪いの悪魔――

 私と姉が差しだした意志と寿命を糧として、死を方向づけている。

 けして何者にも逃れることのできない死が支配の悪魔に噛みついた。

 

「――」

 

 消える。

 消えて、居なくなった――

 静寂だけが残っていた。

 薄暗い谷の底で、私と姉だけが命を持っている。

 

「…………」

「…………」

 

 支配の悪魔は死んでいた。

 横たわって、虚ろな瞳を晒したままだった。

 

 ぜえ、ぜえ――

 

 周囲にはまだ粉塵がうっすらと立ち込めている。ただ傍にある川の流れと、時折飛び散る飛沫だけが動くもの。

 ここは河原。

 水音がさらさらと耳に飛びこんでくる。私のよく知る世界に戻っている。

 ただ自分の息遣いだけが聞こえた。

 

 終わった……?

 

 どくんどくんと自分の心臓が鳴っている。

 ただ聞いているだけ。

 あまりにも違和感がなさすぎて時の流れというものを感じられない。

 姉は、静かだった。

 いつかの深夜に見たような、ぼさぼさ頭で帰ってきて何も言わずに眠りこんでしまったときのような、疲れきった顔つきだった。

 でも今回は少し違った。遠い目のまま言葉を紡ぐ。

 

「呪いの悪魔……。アタシはあと何年、生きられる?」

 

 

 2年……

 

 

「…………そう、か」

 

 え……?

 2年って……なに?

 それって、お姉ちゃんの寿命は残り2年間しかないってこと……?

 ほんとに……? お姉ちゃんはもう大人にはなれないってこと……?

 

「しょ、しょうが……ない。こういうことも、ある……。しょうがない……」

「で、でも……!」

「いいっ! アタシが、決めたことだ! 悪魔の力を借りるなら……こうなることぐらい、分かってたっ」

「だって、お姉ちゃんはなんにも悪いことなんてしてないのに!」

「ぴーぴーうるせえぞ! いいっつったらいいんだよ! それよりお前は、お前の寿命は、――あれ?」

 

 激していた姉がぴたりと静止する。

 視線の先は、支配の悪魔。

 その死体が、ぐにゃぐにゃと波打っていた。

 形が変わっていく。

 丸みを帯びていた関節の節々が角ばっていき、服装さえも別種の物になってしまう。

 中年男の死体へと。

 

「は……? 誰だよ、こいつ……?」

 

 知っていた。見たことがあった。

 ついさっきまで橋の欄干に縛り付けられていた男。

 丸い金属頭の女の悪魔に変身していた殺し屋。

 変身能力者。

 

「変身、していた……? え、それって、つまり、」

 

 つまり、

 私たちが殺したのは、

 全く関係ない、赤の他人ってこと……?

 

「だっ、え……? そん……な」

「支配の悪魔じゃない……? わた、私たち、だって、殺しちゃった……」

 

 殺した。

 何の罪も無い、ただの人間を――

 

 

 胸の奥に、点のような疼きが湧いた。

 

 

 そして――見計らっていたかのように、河辺の粉塵の向こう側からドイツ人の少女が現れた。

 

凜風(リンファ)さん、朱亞(シュア)さん。精巧な人形を作るコツを教えましょう」

 

 私のすぐ傍に、サンタクロースが立っていた。

 手を伸ばせばすぐ届く位置から私を見下ろしている。

 私はまるで現実感を掴めていなかった。

 人殺しのプロが容赦なく推し進めていく現実のスピードにまるでついていけていない。ただ呆然と眺めているだけ。

 

「人形にする人間に、人間しか持たない感情を入れる事」

 

 ガラス玉よりも無感情な目つき。

 抑揚の感じられない喋り方。

 

朱亞(シュア)っ!」

 

 姉が、私を突き飛ばす。

 その必死の形相を、どこか他人事のように見ていた。

 

「敬愛。崇拝。哀憐。そして隠し味は――」

 

 サンタクロースの手が伸びて、無防備に立ち竦んだ姉の肩へと触れた。

 

「罪悪感」

 

 びくん、と姉の身体が震えた。

 

「あ」

 

 唐突に思い出した。

 何百、何千もの雨粒が音も無く降り注ぐこの今という現実は、あの時とよく似ていた。

 あれは多分、つがいだった。

 車に轢かれる前のその犬は、目を見張るような精悍さと理知的な瞳を備えていたのをよく覚えている。

 腹のあたりが血潮で染まり、臓器が辺りに広がって、すぐに生き物ではなくなった。

 つがいのもう一匹がきゅうんきゅうんと鳴いていた。

 横たわった頬のあたりを何度も舐めて、うろつき回り、義務のようにまた舐める。

 もうとっくに死んでしまっているのに。

 

――本物の情愛って、正気を失くすほどに深いのかな……。

 

 他人事のようにそう感じたのを覚えている。

 だって仕方ないじゃないか、そのときはまさか自分がその気持ちを味わうことになるなんて思わなかっ

 

「おまえ、」

 

 舌が勝手に動いていた。

 思考が追いつかない。

 全身の血が引いていく。

 津波の前に潮が引くように、数瞬後には抑えようのない憎悪の奔流が溢れ出すのをはっきりと自覚していた。

 

「よくも、」

 

 自分というものが塗りつぶされていく。

 頭のスイッチは既に入っていた。

 姉はこれまで見たことのない、無感情で、人形のような顔をしていた。

 

「やってくれたな」

 

 全身を巡るどす黒い血液に焼かれながら思う。後生大事に倫理観など守っていたからこうなった。無知でバカな被害者面をするだけを生存戦略としていた自分自身がひたすら憎い。もはや全てが牙を剥いていた。臆病も卑怯も言い訳も、保身も責任転嫁も思考停止も、生き汚い本能ですら、これまでの役割を放棄して全会一致で親指を下に向けていた。

 混じりけのない殺意が手を伸ばす。呪いの釘を拾って握りしめる。

 もう私の人生で他に掴むものは無い。

 

オ、オオ……コレハ……素晴ラシキ……憎悪……

 

 復讐の悪魔が鼓膜の内側で満足そうに呟いた。

 契約が履行されていく。

 知ったことではない。勝手に食うがいい。どうせいくらでも溢れてくる。

 

「殺してやる」

 

 姉はいつも私に優しかった。

 電車の中で、襲い来る火炎から守ってくれた。

 橋から落ちるとき、私の手を掴んで落下の衝撃から庇ってくれた。

 そして、ついさっきも――

 

 睨みつけた先のサンタクロースを守るために人形兵たちが駆けつける。

 10、20……だからどうした、ゴミ虫が。

 真っ先に突進してきたのは登山の格好をした中年男性。

 捕縛するために大きく開かれた両手には分厚いゴム手袋のようなものが巻かれている。恐らくあれを付けていれば接触しても出来の悪い人形にはならないのだろう。感染させずに動きを封じる……よほど私を精巧な人形とやらにしたいらしい。

 そう、精巧な、人形に……。

 姉と同じように……姉がされたのと同じやり方で……。

 

 ばんっ

 

 私に触れた瞬間、中年男性の腕が弾け飛ぶ。

 お構いなしに続々と人形兵たちが群がってくる。

 スーツ姿のサラリーマン、糊のきいた制服を着た学生、趣味の悪いイヤリングを付けた貴婦人、真新しい靴を履いた子供。その全てが、私に触れたと同時に圧縮粉砕されていく。

 

「これは……」

 

 ぱらぱらと飛び散る破片を浴びながら一歩後ずさったサンタクロースに答えを示す。

 

「2倍、3倍、4倍……返し……」

 

 復讐の悪魔と深く繋がって理解した。

 悪魔との契約には相性がある。悪魔の好みに沿えばより大きな力を引き出せる。

 さしずめ今の私は、私の憎悪は、復讐の悪魔にとっては垂涎の餌。

 

 ばんっ、ばんっ、ばんっ、ばんっ

 

 誰も私を止められなかった。

 接触と同時にその圧力を10倍にも20倍にもしてやり返す。

 公安らしき格好の大男が恵まれた体格を活かして剣状の腕を目にも止まらぬスピードで振るったが無駄だった。

 分子一つ分だけ私の肌に食い込んだ瞬間、男の身体が百の斬撃で摺り下ろされる。

 

 ばんっ

 

 全ての人形兵が塵と化した。

 残るはサンタクロース本体と、姉のみ。

 

「――」

 

 ……いや、違う。

 あれは姉なんかじゃない。姉はあんな目で私を見ない。

 だから姉だった人形が私に差し向けられようと止まるつもりは微塵もない。

 一歩、踏み出した。

 ここは河原。

 狭い谷底。

 逃がす道などありはしない。

 呪いの釘を強く握りしめる。

 たった1%の容赦さえするつもりはなかった。

 

「復讐の悪魔よ。私の全部をあげるからおまえの全部を使わせろ」

 

 もう何がどうなっても構わない。

 今、ここで、どんな手を使っても、ありったけの害意を投げつける。そのためだけに生きている。

 私の胸に渦巻く喪失の痛みを何千倍にも練り上げて、負荷を現象として因果に流し込む。

 

「うっ」

 

 サンタクロースがたたらを踏んだ。目と鼻と口から血が滴り落ちていく。

 それでも少女は微笑んだ。

 ゆっくりと、いっそ優しげに掌を掲げる。

 

「これ、で……あな、たも、家族です」

 

 釘を振り上げる。

 サンタクロースの手が伸びてくる。

 同時に触れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さて」

 

 軽く息を吸う。

 目と鼻と口に流れていた血の跡をごしごしと拭った。

 首を回し見ると、肩に釘が刺さっていた。

 引き抜く。

 喜ばしいことだった。

 新しい家族(わたし)が2人もできたのだから。

 

「全ての攻撃を跳ね返す――それが復讐の悪魔の能力でしたね」

 

 目の前には中国人だった少女が2人。

 凜風(リンファ)と、朱亞(シュア)

 精巧な人形になっていた。

 

「私にはあなたたちを傷つけるつもりなんてありません。攻撃ではない。愛ですよ、愛」

 

 呪いの釘を懐にしまいながら現状を確認する。

 標的は2人。

 チェンソーマンの少年と、支配の悪魔。

 更に障害として爆弾の武器人間と、火の魔人も2人いる。

 対してこちら側の戦力は……人間狩りの悪魔と人形兵たちのみ。

 

「やはり増強が必要ですね」

 

 そのために精巧な人形を作った。

 

「バイバイ、いもうとちゃん」

 

 言いながら朱亞(わたし)の腕を剣状に変化させ、彼女(わたし)自身の心臓を突き刺した。

 

「ワッ……タシの心臓ヲ……捧げ……まズ」

 

 曇天を見上げる。

 霧雨を浴びながら、朱亞(わたし)が唱えた。

 

「ぞの代わりに……地獄の悪魔よ。お姉ちゃんを地獄へ招いてください」

 

 空に扉が開かれた。

 地獄の悪魔の巨大な腕が振り落とされて、凜風(わたし)が地獄へ連れ去られていく。

 サンタクロー(わたし)スが契約する超越者――闇の悪魔への生贄になるために。

 更に。

 開いたままの扉から、入れ替わるようにして大量の悪魔たちが現れた。

 ぼとぼとと、雨どいから吐き出される水のように何匹も何匹も落ちてくる。

 二足歩行の怪物もいれば三足歩行の異形もいる。ツノ付きもいれば触手だらけの生き物もいる。翼持ちはふわりと弧を描きながら落下して、傷だらけの古強者は中空で身を捻って音もなく着地した。

 総勢13匹の悪魔たち。

 サンタクロースの前に揃い立つ。

 

「お名前を教えてください」

「ムカデの悪魔」

「森の悪魔……」

「ピエロの悪魔ァ!」

「地下室の悪魔」

「沈黙の――悪魔――」

「鳥の悪魔ぁああ」

「ギャハハハ!」

「ういんういんういんういん」

「ワシは世界大統領じゃああああああ!」

「バーカ! バーカ!」

 

 こほん、と咳を一つ。

 

「では約束通り、契約を結びましょうか」

「対価はぁあ!?」

「貴様のちっぽけな心臓一つで我々が従うと思うのか?」

「人形のなんか要らないよォ!? ぜぇんぜん要らなァイ!」

「はい。ですので私が下す命令はとてもささやかなものになります」

「――と、言うと――?」

「ご自由に」

 

 私自身の腕を剣状に変化させる。

 

「どうぞ好き勝手に振る舞ってください」

 

 13匹の視線が集まった。

 己の本能を解放してよいうえに対価までもらえると言われて拒否する悪魔など存在しない。

 

「ちなみに一つだけ……ここには支配の悪魔が居ますよ」

「なにィ?」

「ほおぉ」

「クソ野郎だァ!」

「ええい、下賎な悪魔が手を出すな! 気高く美しいワシが殺すんじゃあ!」

 

 了承は、得た。

 ズッ、と心臓を貫いて、捧げた。

 契約成立。

 

「では……また、後ほど……」

 

 ばたりと倒れこむ。

 薄れていく意識の片隅で、悪魔たちの歓喜の声を聞いていた。

 

 

 


 

 

 

 その契約の一部始終をカラスの耳目を通して監視していた少女がいた。

 濡れ羽色の黒髪が肩まで伸びており、いつも眠たそうな瞳はよく見ると人形のように無機質で、その異質さに気付いた者は恐れを抱いて距離をとる。

 彼女は悪魔。

 支配の悪魔。

 

「どした、ナユタ。すっげ~悪い顔してっけど」

「待ちに待った時が来た」

「なんだそれ」

 

 口元が三日月の形に歪んでいた。

 悪魔の名に相応しい邪悪な笑み。少女にしては珍しく、内面を素直に曝け出していた。

 何故ならば、今日という日は彼女にとって間違いなく人生の転機になるからだ。

 ナユタは孤独な王様だった。

 前の世代であるマキマがやりたい放題をしたせいで、支配の悪魔に対する日本政府の監視の目はあまりにも厳しかった。少女の存在意義は支配なのに、カラスやネズミしか配下がいない。

 しかし、今。

 ついに好機がやってきた。

 何人もの刺客が暗躍し、公安が駆けつけられないこの混沌とした状況で……10匹以上の悪魔が野に放たれた。

 

「5匹……10匹ぐらい奴隷がほしい……! たくさん支配したい……!」

「コワ~……」

 



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残り1時間20分

 燃える戦車を思い出す。

 決着のついた戦場では硝煙がいつまでもくすぶっている。廃墟に冷たい風が吹きすさび、レンガの上にはいくつも火がちらついて、街路の真ん中では戦車が燃えていた。

 開きっぱなしのハッチが、その最期を想像させた。

 火炎瓶でも投げ込まれたのだろう。

 置き去りにされた戦車を動かす者はもちろんおらず、無用の長物だったけど、それでもずっと燃えていた。

 寒風に晒されようと、雨霧に包まれようと。

 焼けた装甲だけが鳴いていた。

 じゅ、じゅ、と。雨粒の冷気に抵抗するように。

 (レゼ)はずっとそれを眺めていた。

 

 

 

 

 

「……雨」

 

 今も雨が降っていた。

 見上げると、暗灰色の分厚い雲が広がっている。雨粒が音もなく降りしきる。

 ボムの武器人間としては由々しき事態だった。

 身体が濡れてしまえば爆弾の威力が落ちる。

 けれど、そんな自分よりもずっと深刻な状態の魔人がすぐ隣に立っていた。

 アナスタシアは、肌に触れた雨水を、じゅ、じゅ、と蒸発させていて、白い煙を全身から立ち昇らせていた。

 

「さっきの奴は……なんだったんだ?」

「変身能力者。どこかの国の刺客だと思う」

「変身……。つまりレゼ、お前に変身してたってことか?」

「うん」

「なるほど。それであいつがボムの能力を使えたのか」

 

 あの変身能力者のせいで、私の大型弾頭は誘爆し、橋は崩落した。

 私たちは危うく谷底へ落ちてしまうところだったけど……私もデンジ君も、アナスタシアもポリーナだって緊急事態に慣れている。どうにか背後の道に逃げ延びた。ナユタちゃんはデンジ君に抱えられる形だったけど。

 ……一般人の少女2人が気にかかった。どうにか生きていてくれればいいけど……今は探しに行ける余裕はない。

 

「ところでそれ、大丈夫なの?」

「何が」

「雨。……火の魔人の弱点なんでしょ」

 

 アナスタシアの身体は焼けた鉄板のようだった。肌から水蒸気がいつまでも沸き続けている。

 それはあたかも雨水の冷たさに命の熱を奪われてしまっているように見えた。

 

「……始めは痛い。冷たさがじわじわと身体の芯まで染みてくる。今では身体をどうやって動かしているのか分からない。要するに、寒中水泳訓練のときと同じだ。нет проблем(問題はない)

 

 平常顔ではある。

 しかし同じ水を弱点とするボムガールである自分だって身体を重く感じているこの現状……火の魔人的にはどうだろう?

 

「……具体的には?」

「問題ないと言った」

「指揮には正確に申告したまえよ」

「……融通の効かん奴だな」

「あなたが言う?」

「ふん。まあいい。……発火能力は使えないな」

「他には?」

「平気だ。本当だ。平気だ」

「りょーかい」

 

 私とアナスタシアは並んで道の真ん中に立っている。

 揃って視線を向けている先には崩壊した橋があり、更に向こう側の対岸では巨大な悪魔が獲物を窺う肉食獣の相好でこちらを凝視している。

 サンタクロースが呼び出した十本腕の悪魔。

 あれを撃退するために私とアナスタシアは待ち構えていた。

 デンジ君とナユタちゃん、そしてポリーナは、谷から這い上がってくる人形兵たちを迎え撃つために木々が生い茂る崖の淵へと向かっている。

 ……ポリーナも火の魔人。この雨の中、果たして戦力として耐えうるか。枝葉の傘の下なら大して濡れずにいられると思いたい。

 

「あ」

 

 唐突に、思い出した。

 

「どうした」

「あの悪魔。たぶん人間狩りの悪魔だ」

「どうしてお前が知っている?」

 

 初見の敵だろう、と問いたげな顔だった。

 思わずまじまじと見つめてしまう。

 

「覚えてないの?」

「何が?」

「悪魔のリスト。昔、ポリーナが申請してたやつ」

「??」

「……建国記念日のプレゼント、あったでしょ。モノは貰えないから好きな情報を閲覧する権利をもらえたやつ。ポリーナは悪魔のリストで、私は各国のデビルハンターのリスト、あなたは心理学の本で、ヴェロニカは…………ああ、えっと、うん……」

「なんだ、それなら覚えてるぞ。内容は忘れたが」

「そう? じゃあざっと説明するよ。“人間狩りの悪魔”――人間に対して非常に好戦的で、女子供を優先的に狙う。とても強くて透明化できる。弱点はない」

「なんの役にも立たない情報だな。だいたい、人間狩りってなんだ? いつの時代の話だ。何故そんな悪魔が未だに恐怖を持たれている?」

「今でも人間を狩っている連中はいるから」

 

 古くはアメリカへの移民者たちによるインディアン狩りが有名で、近代ではオージーが原住民を狩っている。もちろん合法ではない。だが当該国の法令的にはグレーゾーン。標的を人間と認めていないから。

 彼らは口を揃えてこう言った。

 子供を撃ってから、駆け寄る母親を射殺するか?

 母親を撃ってから、倒れた母親にすがる幼児を撃つか?

 どちらが優れた手法かを本気で議論していたのがオーストラリアという国だ。

 

「ア・ア・ア……!」

 

 遠く対岸の――人間狩りの悪魔が巨体をかがめ、爆発的な勢いで跳躍した。

 数十メートルの谷間を飛び越えて轟音とともに着地する。衝撃で小石が浮き上がり、頑丈なアスファルトに亀裂が走る。

 でかい。

 およそ4メートル弱の巨体は間近で見ればそびえたつビルのようだった。

 顔を上げなければ脚しか見えず、その脚をたどって上へ視線を向ければまずガチガチに固められた立派な腹筋があって、次にパンパンのゴムを詰めたような見事な大胸筋を確認できた。いずれも人間の形をしているくせにサイズは10倍近くある。なのに肩から先の腕は10本も生えているのだから意味が分からない。グリズリーを連想させる凶悪なツメが左右5対で大きく広げられ、威嚇のために持ち上げられた。

 冗談みたいな威圧感。怪獣がいたらこんな感じだと思う。

 咆哮をあげた。

 

「ア・ボ・リ・ジ・ニィイイイ!!」

 

 肌までびりびり振動が伝わった。

 けれどアナスタシアは怯まない。

 

「知ってるぞ。お前のようなのを“悪い奴”って呼ぶんだろう?」

 

 私も怯まなかった。

 感情のどこかが麻痺しているような、懐かしい気分だった。

 モルモット時代はこうして何度も悪魔と戦わされた。時には1人で、強い相手だったら複数人で。

 アナスタシアと組めるときは“当たり”だった。

 どんな悪魔であろうと倒しきる。全ての攻撃を必ず避けて・捌いて・反撃を叩きこむ、そこだけには絶対の信頼があった。

 

「剥製ニセヨ! 剥製ニセヨ! 博物館ニ、飾ルノダァ!!」

 

 アナスタシアはむせかえるほどの血の匂いを吸いこんだ。芳醇なワインの香りを嗅ぐようにして望郷の念に浸る。この地球上における彼女の唯一の故郷――懐かしき戦場に想いを馳せて。

 目を見開く。

 

「来いよ、南半球のド素人。ソ連のやり方を見せてやる」

 

 横殴りの一撃が、アナスタシアの頬肉を皮一枚で捉えそこなった。

 空をきった右腕が引き戻されるよりも速く別の右腕たちが濁流となって放たれて、しかしその全てが空を切る。女はすでに伸びきった5本の巨腕を潜りぬけている。横に倒したナイフを閃かせ肋骨の隙間を滑らせる。

 ぱきん、と刃が折れる音。

 悪魔の腹筋の途中で止められていた。

 左の巨腕が地を擦りながら火の魔人に襲いかかるが――私の右拳が割りこんだ。

 

 バアンッ

 

 白煙が巻き上がる。

 辺り一帯を包みこみ……私は嫌な手応えを感じていた。

 硬かった。雨で爆発の威力が落ちてしまっているのを計算に入れれば、この悪魔はまだまだ――

 

 ぶぉん

 

 頭上から不吉な音。

 悪魔の振り下ろしが白煙を掻き分けて迫ってくる。

 瞬間、受けると決めた。

 片腕を掲げて刹那に集中、接触の瞬間、私はダメージを受け流す経路となる。

 受け止めた右腕から運動エネルギーを三角筋、脊柱へと伝わせて、脚をまっすぐ通してアスファルトに衝撃力を押しつける。

 

 ドッ

 

 足裏の地面が割れるも私自身にダメージはほとんどない。かつて暴力の魔人の踵落としを受け止めたときと同様に、巨大な悪魔の振り下ろしを華奢な人間の形で受けてみせた。

 そう、これなら私にもできる。

 人間の骨は縦に連なっているゆえ真上からの攻撃は最も人体を通しやすい。

 しかしアナスタシアは“横”の攻撃もいなすことができる。

 大型トラックの衝突に匹敵する破壊力を秘めた悪魔の薙ぎ払いを受け止めて、やはり足裏から地面に衝撃を逃がしていた。

 受けたエネルギーを横方向から斜め方向へと体内で捻じ曲げた。理屈は分かるが実戦でやるのはタイミングが難しすぎた。刹那のズレが生じてしまえば衝撃力が肩の内部で炸裂してしまう、その代償を思えば普通にガードしたほうがよっぽどいい。

 だがそれではいつまで経っても横のダメージを受け流せない――

 

「相変わらずっ、わけわかんない、なあっ!」

「なにが、だぁっ!?」

「すごいって言ってんの!」

「そうかっ、すごいかっ。……だろっ? 私はすごいんだ!」

 

 私とアナスタシア、それぞれ悪魔の正面と横に陣取って十字砲火ならぬ十字打撃を浴びせ続ける。主攻は火の魔人による乱打撃、要所ではボムガールである私が火力を思い切り叩きこむ。

 

 ボガアッ

 

「……タフだなぁ!」

 

 この悪魔、硬いし速いし力も強い。

 私たちが生身の人間だったら例え命が10個あったとしても足りなかっただろう。

 私はおもむろに近寄って攻撃を誘い、剛爪を避けながら肘関節を一つ破壊した。

 

「私たちが、相手で、よかったっ!」

「なんだってっ?」

「公安だったら、いっぱい、死んでるっ!」

 

 別に公安の人たちをバカにするわけではないけれど。半生をかけて培った技術と悪魔の身体能力がなければ太刀打ちできる相手ではなかった。適材適所……恐るべき脅威には私たちみたいなのがあてがわれるべきだろう。

 

「しゅ」

 

 震脚。地からの反動を骨盤に伝え、拳に繋げる。爆裂とともに態勢を大きく崩した人間狩りに、今度はアナスタシア渾身の掌底が突き刺さる。巨体が浮き上がり手足の先を地に擦りながら吹き飛んだ。

 

「ふうっ」

 

 追撃すべき好機ではあったが……ずぶ濡れで消耗が激しかった。

 血液パックを啜ってトドメのためのエネルギーを補給する。

 ――次で、仕留める。

 

「他人がなんだっていうんだ……?」

 

 アナスタシアもスキットルから液体を飲み下す。全身から水蒸気を立ち昇らせ、視線を正面に倒れ伏す悪魔に向けたまま、ゆっくりと口を動かした。

 

「最も重要なのは任務目標を達成することだ。他は考えるべきではない」

「デビルハンターの仕事は悪魔を倒すだけじゃないよ」

「…………分からん」

 

 人間狩りがゆっくりと身を起こす。

 10本あった腕は2本が爆ぜ、3本が折れていた。にも関わらず戦意は充溢したままでこちら側まで届くような錯覚を覚えるほどだった。

 ……人を殺すことだけが存在意義の悪魔。

 私たちモルモットと似ているように思えたが、即座に否定した。

 

「私たちは人間兵器。虐殺者じゃない」

「……」

 

 どんな戦果をもたらすかは管理する者によって大きく変わる。

 例えばの話……この倫理観皆無のアナスタシアだって日本で育成・運用されたなら鉄壁のガーディアンとなれていたかもしれない。無意味な仮定ではあるけれど……しかしそれでも想像せずにはいられなかった。例え誤魔化しだろうとも、人間、自己肯定は必要だ。

 その人間兵器が、問うてくる。

 

「なあ。人生……どう思う?」

「はい?」

「上手くやれていそうなお前だから聞いてるんだ」

 

 遠い目でスキットルを投げ捨てた。

 

「世界はどうにも……生き辛い。普通とか、常識とか、空気とか……そういうの、私には難しい。どこにも自分の居場所はないように感じる。だから前世では影のように息を潜めて毎日をやり過ごしていたんだが」

「……ずいぶん危険な影だったけど」

「しかし二度目の人生を与えられ……手ぶらで死ぬのも勿体無いと思うようになった。何かを得たい。そう思う」

 

 残りの寿命が少ない魔人が、淡々と言葉を吐き出していく。

 

「私は戦士。他の生き方は知らない。だがこのまま死ぬのはマズイ、それだけは分かっている。……どうすればいい?」

「そんなこと言われても……」

「レゼ。お前は真剣に生きようと思ったことはないか? どうやって死ぬべきかちゃんと考えたことはないか?」

「私は……」

 

 私の意志は――

 

 まっとうに生きる。

 かつてその道を選ぶことさえできなかった仲間たちのためにも、自分は胸を張って前向きに生きなければならない。

 

 ――そう思っている。

 でも、よくよく考えてみればヘンな話だ。

 まっとうって、何?

 前向きって、何?

 肝心な中身はスカスカだ。

 真剣に選んだはずの指針は実像を指していない。私は具体的に何を目指してどう生きるべき?

 

「私、は……」

 

 まだ、分からない。

 けれどそうやって“まだ”と保留しているのも卑怯に思えた。

 アナスタシアとポリーナはそろそろ死ぬらしい。真剣に足掻いている。それを思えば私だって必死に道を探して、決めて、進み始めるべきではないか。

 

「なあレゼ。私はよくターミネーターのようだと言われていたが……そんな私でも死期が近付くにつれて余計な思想が剥がれ落ちていくのを感じるぞ。任務を成功させること、裏切り者を始末すること……。全部、人真似で、しっくりこない……」

 

 雨は降り続ける。

 アナスタシアは全身に降りしきる雨水を、じゅ、じゅ、と蒸発させていて、寒風に晒され、命の熱を奪われていたけれど、それでもまだ生きている。

 命の炎が燃えている。

 

「最後に残ったのは、本当にシンプルな欲望だけなんだ……」

 

 重心を落とす。

 構えると同時、人間狩りの悪魔も巨体をたわめる。砲弾の勢いで突っこんでくる。

 アナスタシアは口元を凶悪に吊り上げた。

 

「私は強い! カッコいいって、もっと言え!!」

 

 

 

 

 

 

「うらァ!」

 

 チェンソーマンの獲物がムカデの悪魔の巨体を一刀両断。

 駆動音に反応して高速で飛来する4本足のクリーチャーを返す刀で斬り刻む。

 

「ハァイ、チェンソーマン。バルーン、いるかい?」

 

 謎のピエロ悪魔もぶった斬った。

 しかし左右真っ二つに裂けた身体が空中でぴたりと静止した。それぞれが奇声をあげて走り回る。

 

「キャハハハハ! これぞ人体切断マジックショー! タネも仕掛けもありませぇん!」

「ああ~~っ、ウゼぇなあっ! 何匹いるんだこいつらァよお~~!」

 

 ――サンタクロースが呼び出した悪魔たち。

 

 木々が生い茂る崖の淵へと向かった私とデンジ、ポリーナの3人が遭遇したのは、人形兵たちではなく大量の悪魔たちだった。

 デンジは容赦なくぶった斬り、ポリーナは寄りつく相手を炎で包みこむ。

 敵はほとんどチェンソーマンに集まった。

 ポリーナに対してはむしろ敵のほうが避けていた。火の魔人と知られた途端に恐れられたのだ。……さすがは地獄の超越者、火の悪魔――その肉片を持つ魔人ですら恐怖を持たれるようだ。

 弱体化してしまった支配の悪魔としては羨ましくないといえば嘘になる。

 

「ギィィエエエエエエエ!」

「キャハッ! キャハハハ!」

 

 斬られたはずのムカデの断面にクリーチャーの死体が接続されて腐葉土の上を這い回り、ピエロの半身2つはゴム鞠のごとく跳ねている。

 更に、木々の影からは新手の4本足のクリーチャーが続々と現れた。

 地面には木枠に縁取られた穴がぽっかり真四角に空いていて、中の暗闇から「たすけてぇぇ……」と不気味な声が漏れていた。

 

「チェンソーマン……地球の大敵、チェンソーマン……!」

「ああ~!? 今度は誰だよテメエ~~!?」

「森の悪魔……。いいか、チェンソーマン……自然には心がある……! 森は人間どもの資源じゃない……!」

「知るかァ!」

「ああッ!? きっキサマ~~お樹木さまを伐採しやがったなあ~~!!」

 

 斬って斬って、斬りまくる。

 ばっさりと切断したが……死んでいない。

 ムカデ悪魔は他の死体と繋がってどんどん伸びていき、ピエロは左右が癒着して復活し、森の悪魔は……、あ、死んだ。

 4本足のクリーチャーはどうやら音に反応するらしくデンジのチェンソーに吸い寄せられていた。地面の木枠の穴からは相変わらず「だれかぁぁ……」と変な呼び声だけが漏れ続けている。

 

「デンジ~……カッターーッ!」

「ぎゃあああああ!!」

 

 敵も弱くはないがチェンソーマンのほうが上回っている。ムカデを17つに分割し、ピエロを薄切りにし、群がるクリーチャーどもをミンチにし尽くした。今はプレス機の悪魔と戦っている。

 

「ういんういんういんういんういんういんういんういん」

「うるせえええええ!」

 

 私は地面を見下ろした。

 腐葉土に空いた四角い穴。闇には梯子が下りていて、奥から「おいでぇぇ……」と緊張感のない声が伸びている。

 誘いの声をあげるだけの穴。

 コレにデンジはまったく気付いていない。

 派手に暴れまわっている他の悪魔たちに目を向けている。

 

「おらぁーーー!」

「たすけてぇぇ……」

「でりゃーーー!」

「たすけ……」

「そォい!」

「たす……たすけ…………たすけてっつってんだろォちくしょーっ!」

 

 穴がキレた。

 

「ど、どいつもこいつも、見て分かりやすい化け物タイプに、つ、釣られやがって! そうじゃっないだろぉ!? きょっ恐怖ってのは、手順を踏むからっ、増すっていうのにぃ!」

「……キミ、なんの悪魔?」

「わあっ!? に、に、人間……? あ……悪魔か……。ええと、誰だっけ、キミみたいな子、いたかな……?」

「私は、支配の悪魔」

「うえええ!? 支配!?」

「どうしたのかな」

「あ! あ! ひはい! 待って! 待って! ……ううう!」

「なんの悪魔?」

「ぼっボクはァ、地下室のあくあ!」

「アクア?」

「悪魔だぁ~!」

 

 穴がビビっている。視覚的にありえない発想だけど、そう思った。

 

「地下室だぞ! 禁断の領域なんだ! 殺人犯がっいるかもしれないっ! 降りたら最後っ、地上に、戻れないっ! かもっ、しれない! 怖いだろ!?」

「別に」

「ああああ!? ばっバカにしてぇええ!」

「キミは、何がしたいのかな」

 

 屈んで穴の奥を凝視する。

 穴がたじろいだ。気がした。

 

「ぼ、ボクは……お前を殺すっ! 殺して、伝統的な恐怖の再来者とっなるんだあ!」

「よく分からないんだけど」

「そんなことだから! そんなことだから! きょ、恐怖っていうのは、出没! 攻撃! 憑依! この手順を踏むことにより善性を冒涜しぃい」

「そんなマニュアルは存在しない」

「ふっぐぅ…………ううううえええ」

「哀れな悪魔。誰もキミを恐れない。でもキミが悪いんじゃない。キミは未熟なだけ」

「んなっ、なっ、なにを……」

「おいで」

 

 目を大きく開いて覗きこむ。

 穴と目が合った。確信があった。

 

「キミの願いを叶えてあげる」

 

 揺らめく意思に私の視線を挿しこんだ。

 

私に全て捧げるといいなさい

「支配の、悪魔に……全て捧げる……」

 

 キミはもう、私のもの。私の悪魔。

 身体も、精神も、魂も。残らず私の色に染めていく。

 

「いい子」

 

 これで、まず一匹。

 久しぶりの下僕に心が躍った。支配という本能を満たした高揚感は思っていた以上に心地良く、愉悦が全身を巡るようだった。

 たった数ヶ月の忍耐が解放されただけでこうも愉しくなってしまう。これは意識的に自制していかねばならないと心に深く刻みこむ。

 だって下僕はまだまだ増えていくのだから。

 

 ばっさばっさ、と羽ばたきの音。

 見上げると、成人男性の腕の部分を翼にした生き物が、すっかり暗くなった空を背に舞い降りてくるところだった。

 

「いつーかーは風を切ってー死ぬぅううう! ……イヤッッホォォォオオォオウ! 鳥の悪魔最高ーっ!」

 

 にこりと笑顔で出迎える。

 

「こんばんわ、鳥の悪魔」

「ふはははー! 全ての鳥は我が下僕! キサマは逃げ延びることができるかな!? さあ、楽しい鳥葬劇の始まりだぁあああって、ってってっ、えええ!? いたたいたあっ、鳥たちィ!? どーして俺を攻撃してくんだっ!?」

「ここら一帯の野鳥は、すでに私が支配した」

「はぁ~!? 俺以外が鳥を支配するなんてレギュレーション違反だろっ! あいだだだぁ!」

 

 まさしくミツバチに群がられるスズメバチの様相で、幾多の野鳥に全身を啄ばまれた鳥の悪魔は悲鳴とともに舞い落ちた。

 

「うぐえっ!」

動くな

「ぐっ!? ぐぬぬ……おのれ、支配の悪魔……!」

 

 木々の枝葉に覆われた森は薄暗い。濃度を増していく夜を引き連れて、私は這いつくばる悪魔の前へと屈みこんだ。

 

「住所不定の無職悪魔くん。たった独りで生きていけるほど人間世界は甘くないよ。これからの道を選ぶといい……。過酷な日々か、私との始まりか」

「ぐ、ぐ、ぐ…………。フッ」

「?」

「俺にホレるなよ?」

「…………。私に全て捧げるといいなさい

「支配の悪魔に、全て捧げる……」

 

 ふう。二匹目。

 順調だ。

 胸の裡に秘めていた人生のロードマップのタスクがまた埋まった。自身が前へと進んでいく実感は、あたかも運命に導かれているかのような快感を伴った。

 

「人生って、楽しいな」

 



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残り1時間10分

 

 

 

 わたしは炎。

 全てを燃やしてしまいましょう。

 

 

 

 

 


 

 

 

 人間は、生まれれば戸籍が作られる。

 病院の世話になれば来院履歴が、学校に通えば在校記録が残る。

 街を歩けば監視カメラに写ることもあるし、クレジットカードを使えば購入履歴が記録される。

 そうやって生きていた痕跡が残されていく。

 記録が積み上げられていく。

 残されるのは記録だけではない。

 人と交わればその誰かの記憶に刻まれる。

 例え引きこもりで死ぬまで外に出なかったとしても、過去に知り合った誰かが不意に数秒間だけでも思いだしてくれるかもしれない。

 アイツという人間が居たんだ、と。

 ……けれど、私は違う。

 ポリーナと名付けられたこの自分には、痕跡はほぼ残らない。

 まず、記録。

 念入りに消去されている。

 次に、記憶。

 これは持つ者自体が消されている。

 在室中のモルモットは処分され、内情を知る管理側の人間は、火の悪魔との契約の対価で寿命を迎えている。

 私を知っている生き残りは2人だけ。

 1人目であるアナスタシアは、そろそろ死ぬ。消えてしまう。

 2人目のレゼは――レゼだけは、違う。

 レゼだけが生き延びてくれる。私の記憶を持っていてくれる。私が死んだ後にも覚えていてくれる。

 だから。

 もし、レゼが死んでしまったら、自分は居なかったことになる。

 もし、レゼが忘れてしまったら、自分は居なかったことになる。

 私という人間は、はっきりいってろくなものではなかったし、価値だって無いかもしれないけど、それでも痕跡の全てを拭き取られて初めから存在しなかったようにされてしまうのはものすごく淋しいことだと思う。

 

「――だから、私はレゼに覚えてもらうために、レゼの記憶にもっともっと深く刻みこまれるように、レゼの大切な仲間を殺すんだ。…………っていうのは、戦う理由としてはどうかな?」

「……60点!」

 

 未来の悪魔の採点は辛辣だった。

 ぱらぱらと雨粒が枝葉を打つ音に包まれながら、ポリーナはただ歩く。

 夜の闇は、もはや林の奥を見通せないほどに暗くなっている。

 枝葉の傘からは雨の雫が落ちている。湿った腐葉土を踏みしめると泥のように沈みこんだ。

 ポリーナは次の理由を考える。

 

「それじゃあこういうのはどうかな――」

 

 モルモットはソ連の生贄だ。

 モルモットが苦しんだ分だけ、死んだ分だけ、ソ連は強くなっている。

 他国に対して強くでられるようになり、有利な条件を引き出せる。その分ソ連は豊かになって、国民もいい暮らしができるようになる。

 私たちのおかげ。

 だから、私たちモルモットには、その豊かにしてあげた分だけソ連国民から取り立てる権利がある。

 

「ふうん。それがモスクワを焼いた理由か? ……だったら、それ以外の連中、例えばキミと同じ境遇のモルモットに刃を向ける理由はどうなるんだ?」

「ええっと、そうだなあ――」

 

 モルモットたちの間にも格差はあった。

 優秀だった者たちは劣等生たちの苦しみを知らない。

 ドベがどんどん“退学”させられていくせいで平均点が上がり続けていくという悪夢のような環境下――5ヶ国語もマスターできないバカは処分されて当たり前、ナイフ持ちの特殊部隊隊員を素手で制圧できない雑魚はどうせ育っても弱いままだから治療してやる価値もない――そんな認識がまかり通っていた。だから、成績上位のモルモットたちは、赤点ライン常連の成績不振者たちが“減点”の二文字をどれだけ恐れていたかを知らない。いつ実験室送りになるかに怯えて、不眠症になり、拒食症になり、髪の色が白くなって、自己暗示を重ねて自作の宗教に縋るしかなかった未熟児が、いったいどんな心地で毎日を生き延びていたかを、優等生たちは知らない。

 だから。クソ雑魚モルモットだった私には、優秀だったモルモットたちに対して似たような苦しみを体験してもらう権利がある。

 

「それじゃあ、その他の無関係な連中に対しては?」

「ん~~……」

 

 難民キャンプの子どもは攫われる。

 なぜって臓器売買の商品になるから。金持ちが欲しがるから。

 本来ならば、移植希望者は、ドナー登録者が死ぬまで移植の順番を待たなければならない。先に希望した者たちが移植されるのを指をくわえて5年も10年も15年も待ち続けなければならない。

 しかし金持ちは順番を買う。

 大金を出して横入りする。

 時間を買う。だから臓器はすぐにでも用意しなければならなくて、需要が上がって値段が上がり、結果、孤児を掻っ攫ってくるビジネスが成立するようになる。

 金持ちにも二種類いる。

 自分で全額出す奴は、まだいい。納得はできないが理解はできる。

 だけどまったく理解できないのは、募金して金を集めようとする奴らだ。

 奴ら、驚くべきことに横入りするための金を募金で集めようとする。いかにも不遇な被害者面をして、「ナントカちゃんの命を救うために寄付を!」と街中で声を張り上げる。誰もが善意で募金する。つまり、そういう国の国民は、自覚はなくとも臓器売買に薄く広く加担しているといえる。

 だから。私には――難民キャンプに居たという理由だけで孤児でもないのに掻っ攫われてソ連に接収されてしまった私には、その遠因となった日本人にやり返す権利がある。

 

「――ってのは、どうかな?」

「……50点!」

「えええ、低くない?」

「だってキミ、本音じゃないだろ」

「まあね~。嘘でもないけど真剣でもない。その程度の理由付け」

 

 未来の悪魔は木の枝から見下ろしている。

 少女が暗がりの奥へと進んでいくと、追いつくために近くの枝に次の身体を生やしていく。そうやって会話を続けた。

 

「キミは本音のところでは誰も恨んでないってわけだ」

「そうだね」

 

 爛々とした輝きが闇の中でぬらりと光る。

 未来の悪魔は少女の歩みに合わせて身体を移し替えていく。6つの瞳で6つの視線を注ぎ続けた。

 好意もなければ悪意もない。ただ興味があるだけの悪魔の視線。

 

 何も無い少女。

 人生という時の流れのなかで掴むはずだった信条や願望、希望は、ことごとく奪われてきた。

 支えとなる誇り。活力である欲望。夢馳せるべき未来。それら全てが無い。有るのは行き場のない不満……ぶつけようのない鬱屈。その圧が、寿命というタイムリミットにより限界まで高まっている。

 もう誰でもいい。どんなやり方でも構わない。事後のことなんて知ったことではないのだから、と――

 

「でも、そうだね……」

「ん?」

「ちゃんと恨めるとしたら……ヴェロニカだったかな……」

「友達か?」

「やめて。ほんとの本気で……あいつは、マジで……ぶっ殺してやりたかったのに……」

「フフフ……面白いことをされたってわけだ。復讐できればよかったのにね!」

「ほんとだよ。もう死んじゃってどこにも居ないとかさあ……マジでクソだよ、この世界」

 

 未来の悪魔はほくそ笑む。

 

 この魔人には目的が無い。

 あるとすればたった一つの復讐劇だったけれど、それも始まる前に機会を奪われている。握り拳は作ることさえ許されなかった。

 では、どうする?

 したいこともするべきもことも無いからといってヒトは枯れ木のまま朽ちて死ねるのか?

 

 ――いいや、そうはならない。

 

 何も無いということは枷も無いということ。

 鬱屈はあっけなく噴出する。

 

「――」

 

 ポリーナの足が止まった。

 崖の淵に立つ。

 一歩先は虚空、進めば落ちるだけの地点。

 未来の悪魔は眼下の河原を覗きこんだ。

 2人の死体があった。

 ドイツ人の少女と中国人の少女――中国人のほうの死体を眺めて、悪魔はくつくつと肩を揺らした。

 

「フフフ……。言った通りだったろう? 彼女たちは最悪な死に方をした。お互いにとってね」

「……そう? コレのどのあたりが最悪なの? 私は良い終わり方したなあって思ってるけど」

「自分は悪くない……って顔だな? フフ、ウフフフフ……そう思いこむことで人間は悪魔よりも悪魔らしいことができるようになる」

「そんなんじゃなくて。あの子たちは放っておいたらもっと不幸になってたんだよ?」

 

 ポリーナは謳う。

 世の中、歯車の噛み合わない人間はいる。

 何をやっても上手くいかない人間はいる。

 そんな持たざる者たちは、何をどう頑張っても幸せにはなれない。月日が進んだ分だけずぶずぶと奈落に沈み続けていく。けして浮かぶことはない。

 

「彼女たちは傍に家族がいた。自分で選んだ道を進むことができた。良い人生じゃない」

 

 ポリーナはじっとりとした目つきで眼下の死体を見つめている。

 

「持たざる人間はね、早くきれいに死んだほうがマシなんだよ」

「ふ~ん……。暗い未来だね!」

 

 その時、夜闇に一瞬の閃光が走った。

 遅れて、轟音。大気が震えた。

 

「やっと倒したか」

 

 ポリーナは橋があった地点へ顔を向ける。

 木々に遮られて視線は通らない。しかしその爆発が決着を示していることだけは理解していた。

 レゼとアナスタシアが、人間狩りの悪魔にトドメを刺したに違いない。

 未来の悪魔は目を見開く。

 

「ポリーナ。キミはどうして裏切りに行くんだい?」

「やってみたいから」

 

 雨が降っている。

 崖際は頭上が開けている。枝葉の傘はない。にも関わらずポリーナはまったく全く濡れていなかった。無数に降り注ぐ雨粒は彼女の皮膚に触れる50㎝ほど上のあたりで、じゅ、じゅ、と蒸発して消えている。

 不思議な光景だった。

 まるで彼女の周りに見えないレインコートが浮かんでいるかのような光景。

 もちろん火の魔人の力によるものだ。

 彼女は近づく雨粒を残らず蒸発させている。見もせずに。

 

「“発火の有効範囲は視界内”……やっぱり嘘だったわけだ」

「嘘じゃない。ちゃんと言ったはずだよ。“アナスタシアの”弱点を教えてあげるって」

「キミのではない、と。……様子を見るに、キミのほうが強力なのかな?」

「……火の悪魔はね、人間が好きなんだ。特に、自身の全てを燃やし尽くして躊躇わないような、そんな頭の悪いおバカちゃんをね」

「ふふふ……相性がいいってわけだ……。だがな、キミはロクな終わり方はしない」

「あなたはそれを見たいからまだ居るんでしょ?」

「そうだ。……キミは、自分がどういう結末を迎えるか知りたいか? キミは……」

「未来なんてどーでもいい」

 

 今さらだ、とポリーナは皮肉げに頬を歪めた。今さらどんな死に方だろうと怖くない。最も恐ろしいのは無様に生き続けなければならないほう――そう嘯いて、谷底へ視線を落とした。

 サンタクロースが死んでいた。

 これでもう邪魔する者はいない。

 懸念が消え去ったことを確認したポリーナは踵を返す。が、すぐには歩き始めずに立ち止まった。

 小刻みに肩を揺らし始める。

 

「私が裏切る理由ねぇ……ちゃんとした理由はないんだけどさ……ふふ……それでも敢えて挙げるならさぁ――」

 

 にんまりと笑う。

 それは、前向きに生きようとする者には絶対に理解できない笑みだった。捨て鉢で、ヤケクソの、開き直りの笑みだった。

 

「何者かになってみたい……! 誰にどう思われても構わない。とにかくこの世界に爪痕残しまくって、迷惑かけて、私自身が「やってやったぜ!」って実感を得てみたい……! それだけ! ひっひっひ……無差別サイコー! やってやるぜ~! 全人類不幸にな~れっ!」

 

 残り寿命、およそ1時間強。

 無敵の少女が歩きだす。

 

 

 

 

 

 

「フフフ……。ちゃんと見ておけばいいのに……」

 

 崖の淵に居残った未来の悪魔は6つの目を細めた。

 

 橋があった地点、爆発があった場所から、ゆっくりと落ちていくものがあった。小さな肉片……。ボムガールの爆発により飛散した、人間狩りの悪魔の肉片――ぶちゃりと谷底に落下した。

 柔らかな肉片。

 ふるふると震えている。

 大人の拳ほどの大きさのその肉の塊は、一瞬動きを止めると、内部から硬い外皮に覆われた棒を突き出した。12本現れた棒にはそれぞれ節がついていて、地面に突き刺さると器用に肉片本体を動かした。

 それは、悪魔の肉片から生えた足だった。

 昆虫のように這いながら河原の石を乗り越えていく。

 やがて、一人の少女の死体に辿り着いた。

 金髪で、碧眼。

 サンタクロースと呼ばれた少女の死体。

 その傷ついた心臓に、悪魔の肉片が癒着した。

 傷口に溶けて混ぜ合わさり、やがて境い目がなくなる。一個の生命体となる。

 ぴくり、と死体の指が蠢いた。

 少女の手が河原の石を握りしめ、地面を支点に肘を持ち上げて、ゆっくりと上体を起こしていく。

 

「……」

 

 サンタクロースと呼ばれた少女が立ち上がる。

 少女の身体は少しずつ大きくなっている。早送りの映像のように肢体が伸びていき、金色のストレートヘアーは腰にまで達した。

 頭には奇妙な形の角が生えていた。

 

「『死せば、我が身に寄生せよ』……どうやら、成功したようです……」

 

 長髪がざわりと蠢いた。豊かな成人女性の体躯を包みこみ、編みこまれて軍服となった。詰襟には“SS”の徽章が輝いている。立ち上がると、軍靴の音が河原に響き渡った。

 サンタクロースが人間狩りの魔人として復活した。

 

「人間狩りの、殺人衝動が……やはり、強い……。ソ連はどうやって魔人を実用化しているのでしょうか……」

 

 サンタクロースは軽く頭を振った。

 端麗な顔立ちには似つかわしくない歪な角が空を切る。それは引っかけた者を無残に切り裂く“卍”の形をしていた。

 

 我が闘争、ここに在り。

 かつて人類がまだ世界大戦を覚えていた時代――“人間狩り”と耳にすれば誰もが揃って思い浮かべる集団が居た。彼らは勤勉かつ実直、規則を遵守し、効率を追い求め、どこまでも容赦なくユダヤ人を根絶やしにせんとした。ヴァッヘンでありアルゲマイネ。その恐るべき集団の名は――しかしチェンソーマンによって消されてしまった。もはや誰も知らない。思い出されることはない。

 しかし。

 確かに存在していた。

 記録も記憶も無くなってしまっても、DNAは残っている。世界で最も残忍な人間狩りの集団の遺伝子と所属していた国は残っている。

 

「根絶やしに……しなければ……一人、残らず……」

 

 相性。

 何よりも使命を優先し、どこまでも冷徹になれるサンタクロースの性質が、人間狩りの悪魔と合致した。

 更に。

 

「闇の悪魔よ」

 

 恭しく跪き、

 頭を垂れた。

 

「契約通り、あなたの大敵を見つけました」

 

 虚空を見上げて、殺戮を誓った。

 

「私にどうか……火の悪魔の眷属を殺せる力をください」

 

 歪む。

 空間が歪む。

 人類にはけして知覚できない次元の狭間から大きな悪魔の腕が現れる。サンタクロースの眼前に摘まみだされているのは墨汁を垂らしたような闇。蠢く肉片。

 歓喜の表情で口を開け、ごくりと呑みこんだ。

 

「ふ……ふふふ……」

 

 体色が黒ずんでいく。

 褐色を通り越し、漆黒を凌駕した。

 夜闇に在ってなお暗い。その様相は、南西太平洋地域に生息するフウチョウと名付けられた鳥によく似ていた。光の99.95%を吸収してしまうために表面の模様や凹凸が見えず、昼であろうとブラックホールが浮かんでいるようにしか見えないという世界最高峰の黒――ベンタブラックの色をした人型が空気を振動させた。

 

「これが闇の力……。素晴らしいです。全てを浄化できます」

 



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残り1時間

 普通、思い出といえば――

 いい思い出もあれば悪い思い出もある。そういうものだと思う。

 (レゼ)のそれはちょっと違う。

 秘密の部屋での思い出は……大変だったりキツかったりと良くないものがほとんどだ。喉元過ぎればなんとやらとはいうけれど、今になっても思い出したくない記憶がいくつかある。

 

 

 モルモットには“持ち点”があった。

 優秀な成績を出すと加点され、できなかったり遅かったり負けたりすると減点されるシステム。

 持ち点に上限は無い。

 けれど下限はあった。

 平均点の半分を割ると赤点で、そのまた半分を割ると青点と呼ばれた。ここが即死ライン。青点を下回れば実験室送りが確定する。

 赤点はその候補……。いつお呼ばれするか分からない状態。要するに、死刑囚と同じ待遇だ。いつドアをノックされるかを怯えて眠れなくなる。

 

 私は一度だけ赤点ラインを割ったことがある。

 体調不良に怪我が重なった。苦手な科目が続いたのも運が悪かった。死の影が付き纏っていたあの期間の苦しみは、今でもたまに悪夢に見る。

 耐えがたい日々だった――

 もし大人たちが通常より早いペースで検体を必要としたならば、実験室に連れて行かれる。

 もしそこで行われる実験が安全性の高い臨床試験ではなく数値をとるためだけの人体実験なら、責め苦に晒され、絶命もありうる。

 真綿で首を絞められていく、そんな被害妄想を昼夜通して抱えていたら精神の均衡が乱れて頭がおかしくなってしまう。

 

 まさにポリーナがそうだった。

 年単位で赤点ラインを彷徨っていた少女――

 未熟児に生まれ、成長が中等部の平均値で止まってしまった彼女にとって、他者と鎬を削るエージェントとしての訓練はあまりにも過酷だった。同じ赤点ラインの者たちが諦めとともに脱落していくなかで、しかしポリーナだけはしがみ続けた。崖っぷちにかけていた指を放すことだけはしなかった。何故って、彼女にはたった一つの希望があったから。

 外の世界では両親がまだ生きている。

 生き延びていればまた会えるかもしれない。

 そんなあるかないかの希望に縋って、歯を食いしばり、あらゆる裏切りと卑劣を肯定し続けた。

 誰もが知っていた。彼女が薄皮一枚向こう側でおかしくなっていたことぐらい。傍に居なくても簡単に見抜くことができた。

 ある日、教官にも見抜かれた。

 ポリーナの処分が決定した。

 

 

 

 ぱららららららららららら

 

 

 

 

 

 ざあざあと雨が降っている。

 頭の奥の方に自動小銃の残響がこびりついていた。

 

「……」

 

 周囲を取り囲む山々は薄暗い夜の闇に染められている。

 私とアナスタシアは、山間に曲がりくねったアスファルト道に並んでぼんやりと突っ立っている。二人とも降りしきる雨で全身ずぶ濡れだった。

 敵――人間狩りの悪魔は、爆ぜて飛散した。

 戦うべき相手はもういない。悪魔も、人形兵も、サンタクロースも、公安のデビルハンターだっていなかった。

 髪先から雫を滴らせながら横目で問うてみる。

 

「これからどうするの?」

「まだサンタクロースがいるだろう? 他の悪魔も森のほうにいる」

「そいつらも倒したら?」

「倒したら……? なんだ、何が言いたい?」

「手を組む理由がなくなったらどうするの。休戦状態を解除するのかって聞いてるんだけど」

「ああ、そういうことか」

 

 アナスタシアの回答は、否だった。

 

「お前とは戦わない。理由がなくなった」

 

 どうしてそんなことを聞く? という顔だった。

 一方的に仕掛けてきておいて、何かを納得したからもうやめる。悪びれもしない。自己完結の塊のような女だ。

 ……昔からそうだった。

 

「……」

 

 思い出す。

 思い出すまいとしていた思い出を。

 一切の感情を持ちこまないと決めこんで頭の奥深くに閉じこめていた記憶を。

 しかしずっと気になっていた。聞くならここが最後の機会だと思う。だから、聞くことにした。

 

「……自分の最期、覚えてる?」

「ん? ああ、覚えてるぞ。教官たちに撃たれて死んだ。命令に従わなかったからだ」

「あの時どうして逆らったの?」

「なんだって?」

「どうしてポリーナを庇ったの?」

 

 踵を返しかけていたアナスタシアがぴたりと止まる。

 横目でこちらを訝しむ。

 

 当時、ポリーナはだめになっていた。

 肉体的にも精神的にも限界だった。刃の上を綱渡り。妄執に囚われてろくな成果も出せなくなっていた。どうあっても生き延びるのは不可能で、誰が手を下さなくても他の手段で処分されていたのは間違いない。

 

「あの時のあなたは――ボムの心臓の適応候補者で、戦闘能力を買われていた。スペシャリストとしてのあなたか、オールラウンダーとしての私か……権利を勝ち取る可能性はあった」

「さっきから何が言いたいんだ? はっきり言え」

「いつも通り命令に従ってポリーナを処分していればあなたは選ばれたかもしれない。でもやらなかった。それは、何故?」

 

 

 ポリーナを処分せよ。

 そういう命令が、アナスタシアに下った。

 スパイやエージェントとして立ち回ることのできない出来損ないの戦士でも忠誠心だけは人並み以上にある……そう証明しようとした大人たちの命令だった。

 アナスタシアの答えは、否だった。

 

 ――できません。

 

 当時、誰もが耳を疑った。

 それは秘密の部屋においてありえない返答だったから。

 反抗。それは『私を粛清してください』に等しい意思表示。

 何か裏の意味があるのでは、と疑われた。けれど勿論そんなわけがない。拒否はただの拒否だった。

 当時のアナスタシアは背筋を伸ばし、その場の全員に聞こえるようにもう一度はっきりとこう言った。

 

――できません。

 

 ターミネーターみたいな女だとずっと思っていた。

 ポリーナでさえそう思っていたに違いない。彼女はただ茫然としているだけだった。

 

 

「……何故、と言われてもな」

 

 アナスタシアは心底不思議そうな顔をする。

 

「できなかったから、できないと答えた。おかしいか?」

「どうして、できない? ポリーナだけは手をかけられない理由ってなんだったの……?」

「理由……?」

 

 眉根に皺を寄せ、傍目にもはっきりとアナスタシアは考えこむ。

 言われて初めて気が付いた、という顔だった。

 

「私が……ポリーナだけは殺せない理由……?」

 

 ざあざあと雨が降っている。

 勢いはなお増していて、私もアナスタシアも夜の路上でずぶ濡れで立ち尽くしたままでいる。

 

「ポリーナは……いつも近くに……いつでも私にまとわりついていて、喋りかけてきて……。死体は、喋れないだろ? だから、殺してしまったら損だったんだ。そう、そんな感じだ」

「うん。それはみんな知ってた」

 

 金色の瞳がこちらを向く。

 

「何度も関われば自然と興味をもつようになる……初歩のテクだよ。みんな分かってた。ポリーナが今度はアナスタシアを騙そうとしているって。媚を売って自分を守ってもらおうとしているって」

 

 脆弱だったポリーナには味方が必要だった。

 手を貸してくれる協力者が。恨みを買った者たちから守ってくれる庇護者が。

 そのために選ばれたのが“生真面目”アナスタシア。

 単純で扱いやすく、誰よりも強い彼女は都合がよかったに違いない。

 

「つまり、嘘だったってことか? ポリーナはでまかせを言っていたと? 私の力を利用するために?」

「……気付いてるって思っていた。だってあんな見え透いたやり口、他にない」

 

 

――さっすがアナスタシア! かっこいい~!

――すごーい! 尊敬しちゃ~~う!

――おかえり! ねえねえ今日は何したの~? えっホントー!?

 

 

「気付いたうえで、敢えて付き合ってるんだと思ってた。いつでもしれっとしてたし、本音のところじゃ気にも留めてないんじゃないかって」

「……」

 

 今の火の魔人の皮膚には水滴を蒸発させるだけの熱はない。静かに白い蒸気が立ち昇っている。ただこちらをじっと見つめていた。余計な事実を伝えてくるかつての同期を、感情の見えない瞳で、ただじっと。

 

「あなたは、自分を都合よく利用していた相手を庇った。それがどうしてなのか私は知りたかった……。まさか本当に騙されていたとは思わなかったな」

 

 慈悲、あるいは正義感――そんな感情がアナスタシアにもあったのかもしれないと当時は考えた。冷徹に見えて中身は普通の人間――いやむしろ、己の命がかかった状況でも仲間を優先できるような高潔な人間だったのかもしれない……。そんな疑念がずっと頭の中に残っていた。

 そう零すと、アナスタシアは鼻で笑った。

 

「お前らはいつもそうだな」

「……?」

「嘘だの、本音だの、騙すだの、騙されただの……そんな見えもしないものばかり気にしている。私にはよく分からない。少なくともそれらを感知できる能力はない。私が理解できるのは、表面だけ。言葉と行動だけだ」

 

 かつてのあの時のように、胸を張って彼女は言った。

 

 ポリーナは褒めた。

 私は心地良いと思った。

 それが全てだ。

 

「私にとって、ポリーナは居心地のいい場所だった。だからソ連よりもポリーナを優先した。これの何がおかしいんだ?」

「いや……、何も問題、ない……かな……?」

 

 ターミネーターみたいな女だとずっと思っていた。

 人の気持ちなんて分からない女だと。本当にその通りなのかもしれない。

 だとしたら何だというんだろう?

 

「それでも……いいのかもしれない」

 

 

 

 

 

残 り 1 時 間

Осталось 1 часа.

 

 

 

 

 

「……でもポリーナとはまだ仲が良いんだね」

 

 ポリーナからすれば。

 アナスタシアは利用しただけの相手。守ってもらうために、戦闘技術を教わるために好意があるフリをしただけの相手。

 今となっては必要ない。

 火の魔人となり力を手に入れて、秘密の部屋から脱出した今となってはアナスタシアと共にいる理由はない。本当の故郷に帰るなりなんなり自由にできる。

 なのに彼女はそれをしていない。

 今でもアナスタシアと共に居る。残り時間が少ないにも関わらず、無愛想な魔人に付き合ってこんな遠い国にまで来た。

 きっと利益のためじゃない。

 一緒にいたい、それだけのために傍にいる。

 

「好意を繰り返して演じているうちに……ポリーナも絆されたのかもしれないね」

「よく分からんが……どうだろうな。今のポリーナはソ連のことも故郷とやらも分かっていない。私から離れる理由がないだけじゃないか?」

「……? 分かってないって?」

「ポリーナは魔人になって記憶を失った。モルモット時代のことを何も覚えていない」

「いやいや、そんなわけないでしょ」

 

 だって、ついさっきまで彼女は過去を語っていた。

 

――君たちには、分からないだろうね。他を切り捨てて一つに執り付いて、それでも結果を出せない……そんな偏らざるをえなかった人間の気持ちなんて……

 

「ポリーナは覚えてるよ? 昔のことも喋っていた」

「そうなのか? だったら思い出したか」

「あるいは嘘か。……うん、きっとそっちかな。はぁ~、もうそんなことする必要ないのに、なんで嘘なんて……ついたん……だろう……?」

 

 ん、なんで?

 人は理由もなく嘘をつかない。そう教えていたのはポリーナだ。

 だから、記憶がないって偽っていたならそれも理由があるはずで……?

 嘘をつく理由……? そこにどんな得があるんだろう……?

 

「うーーす。お疲れー」

 

 呼ばれたから出てきました、といった感じで脇道の茂みをかきわけて当のポリーナが現れた。

 親しげな笑みだった。

 降りしきる雨水が肌に触れて、じゅ、じゅ、と蒸発していた。白い煙が全身から立ち昇っている。左手にはナイフ、右手には千切れた悪魔の片腕があった。

 

「サンタが呼んだ悪魔、もう倒したの? やるねー、やっぱりナスチャとレゼはすっごいや」

「少しは苦戦した。少しな」

「雨は嫌だね~。あ、消耗してると思ってこれ獲ってきたんだけど、飲む?」

 

 ポリーナは悪魔の腕を一口かじって血液を啜る。

 

「くれ」

「ほいさ」

 

 澄ました顔つきで、足取りを弾ませながらアスファルト道に踏み出した。

 ソ連から遠く離れた極東の島国にモルモットだった3人が自らの意志で集まっている――奇妙な感慨が沸き立つが、胃のあたりに小さな違和感が残っていた。

 

 ええと……もしも?

 ポリーナが、記憶を失って、まっさらになっていたら……?

 他人を簡単に騙すような人格ではなくなってたら……?

 そんなふうに、もしも勘違いしてしまっていたら、どうなる?

 

 ポリーナは、軽やかな歩調で近付いてくる。関節の動きは滑らかで平穏、重心移動は牧歌的。悪魔の血肉をアナスタシアに渡そうと腕を持ち上げる。

 筋肉にこわばりはなかった。けれど、あれ、と思った。

 

 なんで左腕のほうを?

 

 左手にはナイフが握られていた。

 けれどアナスタシアが反応しなかった。全ての攻撃を必ず避けて・捌いて・反撃を叩きこむ、そこだけには絶対の信頼があったアナスタシアが反応しなかった。だから私の感覚がおかしいのかと思った。

 握られたナイフがアナスタシアの鳩尾のあたりにずぷぷと入りこんだ。

 柄まで到達したらぐるりと90度回された。

 ぶちちと中身を引きずりながら赤黒く染まった刀身が現れた。

 傷口の隙間から、ぴっぴっと血が噴き出している。

 アスファルトに垂れると、じゅうっと焦げる音がした。火の魔人の血、やはり熱いのか。

 ぼんやり眺めながら、へえ~なかなか上手い刺し方だなぁと思った……。

 

 ん、

 ……え、あっ?

 刺し、た?

 

「あれぇっ?」

 

 当のポリーナが素っ頓狂な声をあげていた。

 

「入っちゃった!」

 

 目を丸くして驚いていた。

 

「ちょいちょいちょいナスチャ~! どゆこと!? 後の先とられて首折られるかも~ぐらいは思ってたんですけどぉ!」

「な……なに、やって」

「ぜ~んぜん反応しなかったね~。ナスチャらしくないなぁ。それともそんだけ私がすごかったってことかなあ……うひっ」

 

 もしもポリーナが記憶喪失だと思ってしまったら、

 ちょっとは油断しちゃうんじゃない?

 

 かちり、と。

 仕事のスイッチが入った。

 

 至近距離、ナイフ持ち――最速の踏み込みは要らない。標的の奇策をまるごと潰せる可能性を保持したまま足裏で地を擦って、雨粒を消し飛ばしながら腕を回す。伸ばした二指、喉笛を貫く寸前で、ぴたりと止めた。

 ポリーナのナイフの刃先が私の頚動脈にあてられていた。

 

「レゼも甘くなったじゃん」

 

 小さな火の魔人が、爬虫類のように縦に裂けた金色の瞳を輝かせた。

 

「判断が遅いぜ~?」

 

 速い。以前のポリーナではない。

 魔人化したら身体性能は上がる。それは分かっていたが、人間時代とここまで差がなくなっているとは思わなかった。おそらくボムガールである今の私と同等か、それ以上の瞬発力を持っている。

 誰も居ない夜の山中で、元モルモット同士が殺し合う――すとんと胸に落ちる状況に、ただ一つだけ反発があった。

 

 何故。

 

 視界の隅で、膝をついたアナスタシアを観察する。

 肋骨の下から45度の角度で突かれている。疑いようのない致命傷。5分で死ぬ。

 

「どうして?」

 

 互いの首に凶器を突きつけあったまま、問いを投げつけた。

 ポリーナは、それはそれは嬉しそうな笑みで、

 

「言っても分かんないと思うけど言いたいから言うね。あのね、私は感動したいんだ。人生残りいちじか~ん、たくさん感動したいでーーす! って言って分かる? 分かんないでしょ? 感動っていうのはさ、きゅうんと切なくなって泣けることだけじゃないんだよ。喜ぶも怒るも悲しむもとにかく心が動けば感動なの! っというわけでぇ生きてるぅって実感が欲しくて刺しました。そしたらねー、今ねー、思った以上に動揺してんのまじウケる。あ~やべーヤっちった~って後悔みたいなのがこう胸の奥でギュギュってなってんのすごくない? だって超裏切りまくってきたこの私が今さらこんなふうになるなんて自分で思ってた以上にナスチャのこと好きだったのかもしんないんよぉナスチャぁ~~私あなたのこと好きだったっぽいよぉ~ごめんね~痛いね~でも付き合ってくれよ~私のこと好きにならせてあげたんだからさ~?」

 

 理解できないということが理解できた。

 事実は一つ。ポリーナは危険。

 

 二指の先に爆薬を集約――

 する前に、勝手に火が点いた。

 

 ――!?

 

 ボンッ

 

 咄嗟に上体を傾けた、その首筋をナイフの切っ先が掠めていく。体軸は乱れ無し、骨の髄まで染みこませた反復訓練に救われた。無意識の動作が合理の流れに沿っていて、おかげで回避と同時に逆の拳を打ち抜けた。

 ぱしっ、と手の平で止められた。

 

「レェェ~~ゼっ! 勝負しようぜ勝負勝負ショーーブ!」

 

 触れたまま指を滑らせる。離れずに肌を伝って手の甲、前腕と左回りに巻き上げながら引き足に追従し、両脚を交差させて総身で絡みついていく。組みついてしまえば筋力も瞬発力も関係ない、このまま極めて折って潰す――

 

 じゅ……

 

 瞬間、怖気がぞわりと背筋を這い上がる。

 随意を強引に捻じ切って身を離す。転がった先で顔を上げると、

 ポリーナの体表が赤熱化していた。

 

「ひょえええ! いきなり瞬殺されっとこだった~怖わわ!」

「その能力、ズルくない?」

「だあって私はファイアガール! 全身ズルでインチキの塊だからね! これも魔人化ガチャ大成功者の特権ってやつだよ、よっろしくう!」

 

 ぼっ、と全身が炎に包まれた。

 揺らめくシルエットが水気を消し飛ばし、大気を焦がしている。雨などものともしていない。

 

「……で、勝負っていうけど、何の勝負がしたいの?」

「そんなのどっちが優秀なモルモットか決定戦に決まってんじゃん! たまにやらされてたアレだよアレ、勝ったほうが勝ちのやつ」

「死んだほうが負けのやつ?」

「ヤダっつっても始めちゃうけどね。っていうかもう始まってるし。ほら、よく言ってたでしょ?」

「勝負は生まれたときから始まってる」

「そっそ。それそれ。今の超越者パワーを手に入れた私ならチャンピオン・レゼを相手にどこまでやれんのかなって思うわけ。寿命も近いんだしチャレンジしてみたいじゃん?」

「そんなことのためにわざわざ日本まで来たの?」

「まさか~。他にもあるよ。色々ね」

 

 膝立ちのまま動けないアナスタシアをちらりと見やる。

 

「ナスチャには一発やっとかなきゃなあって思ってて。ほらぁ、前世で私を庇ったじゃん? あん時は死にたかったのにさ、なに私をダシにして気持ちよくなっとんじゃい! ってイラっときた記憶があったもんで」

「だから刺したの?」

「グーパンでもよかったんだけどグーを握るとバレちゃうし。どうせなら一世一代のガチンコ勝負してみたかったし、やらぬ後悔よりやる後悔っていうし」

 

 本当に、そんな理由で?

 だが納得は必要なかった。危機の正体を確かめるより先にまず安全を確保しなければならない。すなわち、脅威を排除する。なんでもありの勝負がしたいというなら是非もなく、一秒でも早く状況を終了させるためにあらゆる手管を振るうと決めた。

 業火に包まれた火の魔人――接触はできそうにない。どうやって打倒するべきか。

 

 おもむろに両腕を挙げた。

 降参のポーズ。

 

「ちょっとタイム」

「ぷっ。あのさ~、それ教えたの私じゃん。時間稼ぎ、兼陽動」

 

 顔向きを僅かにポリーナの背後へずらす。

 そこに居る誰かに合図を送るような仕草。

 だがポリーナが惑わされることはない。

 

「チェンソーくんと支配ちゃんはまだ来れないよ。厄介な悪魔と遊んでるから」

「確認済みってわけ?」

「当たり前でしょ? 私を誰だと思ってんの。ずっとずっと正攻法じゃ勝ち目がなくてそれ以外を探してた女だよ? 搦め手で勝とうなんて……」

「じゃあタイム終了」

 

 降り注ぐ雨音で移動の音は消されていた。

 ポリーナの背後の茂みから公安のデビルハンターたちが雪崩れこむ。構えられた銃口は5つ、炎を纏う魔人の後頭部に向けて、班リーダーのスキンヘッドの大男が叫んだ。

 

「動くな!」

 

 瞬きする間に半円状の包囲が完成していた。

 銃を構える男たちに油断はない。標的が指先一本でも抗う気配を見せたら銃弾が叩きこまれる手筈になっている。そのように私が教えこんだ。

 ポリーナは警告通りに動かずに、前を向いたまま命乞いをする。

 

「助けて、お兄ちゃん」

 

 パンパンパンパン

 

 銃声が4回、血を噴き出して倒れこんだのは公安の男たちだった。

 

「な、なに……?」

 

 崩れ落ちるスキンヘッド男の目が信じられないとばかりに大きく開かれていた。

 銃口から裏切りの硝煙を漂わせていたのは、同じ班のデビルハンターの男だった。

 

「う、ううう……」

 

 味方を撃ってしまった男は、ひどく怯えた顔だった。

 

「こ、これで、妹は、解放して……くれるんだな!?」

「もちろん。ほら次、もう一発」

 

 男はまるで自分こそが追いつめられた者かのように呻き声を漏らした。

 銃口がこちらに向けられる。

 瞬間、くぐって鳩尾に肘を入れた。

 声もなく、男の手からぽろりと銃が落ちる。ゆっくりとうつ伏せに傾いて、神仏に懺悔するように額を地につけた。

 

「……脅迫?」

「言ったでしょ? 勝負は生まれたときから始まってるって」

 

 準備は早ければ早いほうがいい、とかつてポリーナは言っていた。

 だが、いつだ? いつ仕掛けた?

 彼女には公安の内部に手を回しているような時間はなかったはず……。

 いや。

 時間は、あった。

 

「日本に来たのは2日前。……ダメだよ私みたいなのに48時間も与えちゃあ。こういうこともできちゃうんだから」

 

 わざとらしい視線の動きを辿ってみて、ぎょっとした。

 アスファルト道におよそ20人――公安の部隊が痩身の眼鏡男に率いられ、こちらに銃を構えているところだった。その標的はポリーナだけではない。私にも向けられている。

 

「ちょっ、」

 

 今度は警告はなかった。

 銃弾の大気を切り裂く音が肩を掠める。

 

「うわあっ!?」

 

 矢も盾もたまらず森に飛びこむしかなかった。

 間髪居れずに追撃の凶弾が枝葉を抉っていく。

 樹木に回りこんで身を隠したとたん、嵐のような一斉射が始まった。鉄の殺意が十を超え、二十を抜け、三十を突き破る。飛び散る木屑を浴びながら、公安の攻勢を抑えるために爆発の粒子を飛ばすかを迷い、歯噛みする。

 

 どうして公安に攻撃される!?

 

 まさかポリーナが全員の弱みを握って脅迫しているわけもない。

 対策に頭を巡らせていると、すぐ隣の樹木に諸悪の根源であるポリーナが逃げこんできた。

 

「うひぃー! やばいやばい!」

 

 腹立たしいほどの大爆笑。箸が転んでもおかしい、といった調子で肩を揺らしている。

 自分の口が金魚のようにぱくぱくと開閉しているのが分かった。

 

「ポリ……この……何をした!」

「あのねあのね、私がやったのはぁ、支配の悪魔が反逆するっつー偽の証拠を掴ませたことでーす!」

「はあ!?」

「色んな悪魔を捕まえてて~、レゼのことも洗脳しちゃってるっていうニセ証拠~。雑な合成写真なんだけどさ~、シロが確定するまでの数十分間、マキマの再来って可能性を放置できるわけないんだなー!」

「な、な……」

「ほれほれどうする、勝負は続いてんぞー。早く対処しないとやばいよー? 支配ちゃんのほうにも公安部隊が行ってるからねぇ」

 

 ふ、と銃撃が止んだ。

 背後から声はしない。意図的な沈黙から状況が一つ先のフェーズに進んだと知れた。包囲制圧。銃器を携え、ゆっくりと確実に接近してくる。

 しかし私は撃退できない。公安職員を殺傷するわけにはいかない。

 だったら対抗策は一つだけ。

 

「あ」

 

 ポリーナのマヌケな声を置き去りにして私は走り始める。

 藪をかきわけて森の奥へと一時撤退――

 

「ぎゃっ」「あ、あっ!」「えええ」「アチっアアッ!」「燃え、燃えっ」

 

 振り返る。

 森の木々の向こう側で、何十人もの公安職員たちが燃えていた。

 

「な……」

「来ないなら用済みだねえ?」

 

 身を捩っているさまは踊るようだった。火を被った男たちをバックダンサーにして、火炎人間のポリーナは悠々と腕を広げている。

 その顔は、悪戯めいた笑みだったけど――

 なぜか縋るような目に見えた。

 

「ねえ~遊んぼうよぉ~レェ~ゼエ~~」

「ポリーナ……」

「なぁ~に~?」

「火を消しなさい」

 

 指を打ち鳴らして粒子を飛ばす。

 一筋の光が魔人の胸に直撃し、小柄なシルエットが吹っ飛んだ。枝を折りながらアスファルト道に戻されて、燃えるデビルハンターたちの中に転がった。

 

「いてて……ってぐらいで済んだなぁ。うん、やっぱインチキだァこの身体」

「ポリーナ、火を消しなさい!」

「なんだよ、怒るなよぉ」

 

 ポリーナが軽く腕を振ると、男たちに纏わりつく炎が一斉に消失した。呻き声とともに倒れこむ。誰も立ちあがれなかった。死んではいまい。だが火傷の痛みが彼らを苛んでいる。

 

「あなたは何がしたい……」

 

 ポリーナは炎に包まれている。

 普通なら喋れない。周囲の酸素が燃えてしまうから。なのに喋れているのは顔周りの炎が少ないからだ。きっと意図的にそうしている。私と喋るためだけに。

 

「私に勝てば、満足?」

「んーん。別に勝てなくてもいい。私はやってみたいだけなんだ」

 

 決めた。

 もう退かない。

 決意を呑んで元の位置に戻った。藪をかきわけ、一歩、二歩とアスファルトを踏みしめる。

 目の前には燃え続けているポリーナの小さな体躯。金色の瞳がゆっくりと私を見上げた。

 

「火の悪魔の力って厄介だ」

「でしょ」

「ボムの力とも相性がいい」

「そうだよー」

 

 爆薬を生成しても、発火により暴発させられる。

 よしんば爆発を直撃させても、威力は半減。

 燃え盛る炎の鎧に阻まれて格闘戦もできそうにない。

 私の勝ち目は薄い。

 だからポリーナは本来、口を使う必要なんてないのだ。

 普通にやっても勝てる。なのに言葉を交わそうとしている。そこには何らか意図があるはずで――けど、やはり想像もできなかった。

 分からなくてもいいと思う。

 

「あなたには会いたくなかった。目を背けていたかった。可哀想な奴なんて直視したくなかったから。……けど、何かできることもあったんじゃないかって考えも頭から離れなかったんだ」

「…………。あの秘密の部屋で?」

「最悪の一つぐらいは回避できたと思ってる」

「そりゃ傲慢ってやつでしょ。んなことしてたら減点されてボムの心臓ももらえてなかったよ? 下手すりゃ反逆扱いでアナスタシアみたいに、ぱらららら」

「傲慢で何か悪い?」

 

 ぴたりと魔人の時間が停止する。

 

「勝負したいならしてあげる」

 

 私の、任務は。

 デンジ君とナユタちゃんを守ること。監視すること。

 それ以外はすべきじゃない。余裕があればやってもいい程度の優先順位のハナシ。だからここは退くべきだ。刷り込まれた戦闘教義もそう言っている。

 しかし。

 アナスタシアは言っていた。

 

――できなかったから、できないと答えた。おかしいか?

 

「今度は、付き合う。何がしたいのかはやっぱり分からない。けど、大嘘つきの卑怯者でも孤独に死なれたら気分が悪い」

「……へえ~」

 

 夜闇を切り裂く炎の勢いが増していく。

 顔が熱い。目が乾く。でももう逸らさないと心に決めた。

 

「今のはムカついた。レゼまで私をダシにするんだ?」

「するよ。嫌ならわざわざ死に目を見せに来んな」

 

 対峙する。正面から向かい合う。

 そうして欲しがっているように思えた。だから付き合ってやろうと思う。

 思い切りブン殴ってやる。

 

 

 

 

 チェンソーをぶん回して引っかかっていた悪魔の血肉を振り払う。

 死体を踏まないように迂回した。履き物がぺたぺたと足裏に当たって、そういやビーチサンダルを履いてたっけと思い出した。

 なんでこんなもんを履いてるかって、そりゃ海に行きたかったからだ。

 でもダメって言われたから川になったんだっけ。

 そのために色々と準備していたのを思い出した。

 スポーツウェアにキャンプ道具、なんかスーパーで買いこんだ食いモンとか飲みモンとか。全部、道路の隅に置いてきてしまった。やばい、大丈夫か。悪魔が食い散らかしたりしてねえよな。

 

「あー……もう悪魔いねえよな? 仕事終わった? 帰っていいか?」

「まだ居る」

「ええ~!? まだいんのぉ!?」

 

 傍らのナユタが鼻をひくつかせる。

 周囲には悪魔の死体が山のようになっている。俺にはツンとくるような血の匂いしか分かんねえけどナユタは違う。一匹毎に嗅ぎ分けられる。ここで死んでる悪魔とは別のヤツの存在を察知できる。

 悪魔、悪魔、悪魔。どんだけいるんだ、こいつらは。

 

「な~んか懐かしいな。昔はこうやって山んなかで悪魔倒したな」

「いつの話」

「ポチタと会ったばっかの頃。悪魔倒して借金にあてんの」

「ふぅん」

 

 ぺたぺた歩く。

 もうすっかり夜だった。雨に身体が濡れて少し寒い。腹も減ったし、そろそろテントおっ立ててメシにしたい。

 キャンプ道具、無事だろうか。もし壊れてたら野宿になんのか? そりゃヤだなあ。

 

「あ。そういや人形がいねーな」

 

 サンタクロースがいるとか言ってたっけ。

 前に戦ったときは……なんか人形の親玉で、夜だと無敵モードになるんだったよな。

 あれ、今って夜だよな? やばくねえか。

 ってナユタに聞いてみたら、「サンタクロースは死んだ」と返ってきた。ふーん、そうなんだ。だったら心配ねえな。それにもし生きててもレゼん友達が光ん力を使える。なんとかなんだろ。

 

「サンタかあ……。あん時ぁヤバかったな。地獄で闇の悪魔が手ぇとってきてよ」

「よく生きて戻れたね」

「そりゃ俺がズバーッと! ……はできなかったっけ」

 

 そうだ、確かマキマさんが戻してくれたんだっけ。アキがそう言ってた。

 そんで帰ってきてからはパワーが大変になってて……。アキと交代で寝てたんだ。

 なんだか懐かしい。

 全ては記憶の向こう側。思い出の話だ。

 

 びちびちと雨粒が枝葉を打つ音に包まれながら、ナユタと2人で元来た道を戻る。

 夜の闇は、もはや林の奥を見通せないほどに暗くなっている。

 枝葉の傘からは雨の雫が落ちている。湿った腐葉土を踏みしめると泥のように沈みこんだ。

 

「この匂い……?」

 

 ナユタの足が止まった。

 悪魔か、と聞くと小さく頷く。正面の闇を覗きこむと、ぼおっと2人分の影がいるのが分かった。

 ナユタの前に出た。首を鳴らしてチェンソーを構える。さっさと倒してキャンプとメシだと思っていると、ナユタが不思議なことを言った。

 

「私と、似てる……? 同じ……匂い?」

 

 闇の中、2人の悪魔が立っている。

 見覚えがあった。よく知っていた。

 

 1人目は、大きな女型の悪魔。

 腕は四本、足は二本。それぞれ腿と二の腕からは黒く染まっており、胸から顎下まではグロテスクな臓器の形状。顔は硬質で真っ黒な仮面の形で、瞳は特徴的な十字になっている。

 

「おうおうひれ伏せ人間! ワシは宇宙大元帥! 血の悪魔じゃああああああ!」

 

 2人目は、

 2人目は――人間にしか見えない姿で。

 赤みがかった髪色の三つ編みを垂らした成人女性。公安の制服を着こなして、情緒の感じられない瞳で真っ直ぐにこちらを見つめている。形の良い唇が僅かに笑みを形作る。

 

「久しぶり、デンジ君」

 

 一日だって忘れたことはない。

 心の真ん中にでかい傷跡を残していった悪魔であり、最初から一度も見てくれてなかった女でもある。確かにそこに立っていた。

 

「マ、マキマさん……?」

 

 かつて彼女を食べた。そうするしかなかったと思っている。けれど他の道はなかったのかって考えも頭から離れなかった。

 自分はチェンソーマンとして活躍し、マキマともどうにか上手い関係を保ったまま生きる……そんな理想的な未来を手繰り寄せることは本当にできなかったのか?

 あるいは、今なら。

 何かができるだろうか。

 

「ウソだ……」

 

 傍らでナユタが呻く。

 

「私はここに居る……。支配の悪魔が2人も居るわけがない。お前はなんだ」

 

 マキマは穏やかな顔だった。不出来な我が子を見つめるような……記憶にある通りの、上司であり、憧れであり、好意を抱いていたマキマそのものの顔で微笑んだ。

 

「キミが偽者なんじゃない?」

 



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残り50分

 一寸先も見通せない闇の中、ポリーナと対峙する。

 

 かつてポリーナは、戦いが始まるよりもずっと前の段階から罠を張り巡らせていた。

 飲食物には毒を仕込み、装備の類は盗むか壊す。あらゆる手管で規則違反に誘導し、それを判定する監視員も買収する。寝込みを襲うのは常套手段、共用のトイレに手榴弾を仕掛けていたこともあり、他のモルモットを唆して任務中に背中を狙わせたこともある。

 ただの一度も真っ向から戦ったことはない。もしそうなれば必ず負けるから。

 

 今の私は、無傷だ。ベストコンディションのまま勝負の場に辿り着いている。けれど油断するつもりは毛頭ない。

 今のポリーナは誰よりも脆弱だったモルモット時代とは違う。

 超越者たる火の悪魔――その肉片を持つ魔人になっている。

 地面をも呑みこむような暗闇の中、人の形をした炎が煌々と浮かび上がっていた。炎のてっぺんには小さな少女の頭が乗っている。爬虫類のように縦に裂けた瞳がこちらをじっと見据えていた。人外の瞳。魔人の瞳。

 その瞳が、前触れもなくきゅうと窄まった。

「――ッ」

 身を捩る。瞬間、たった今まで居た空間が炎に包まれた。

 駆ける。ボムの力で更に加速する。

 爆発の反動を得て低空を滑空する。追いかけて炎の花がいくつも咲いていく。木々の隙間に飛びこんでも追跡は止まらなかった。背中に熱波を感じながら、乱立する樹木を蹴って進路を修正、冗談ごとではすまされない速度で通り過ぎていく大樹の群れを見極めた。

 ひときわ太い枝に指をかけ、進路を転換、全身に襲いかかるGの暴力を捻じ曲げて弾丸の勢いでアスファルト道に飛び出すと、ポリーナの細いうなじがよく見えた。

 ぱちんと指を鳴らして爆発の粒子を飛ばす。ポリーナは避けなかった。振り向きがてら振るわれた前腕に着弾、夜闇にひときわ眩しい光が放たれた。炸裂音が湿った空気を吹き飛ばす。薄い煙がぶわりと広がった。

 どうせ大して効いていない。拳を握って飛びこむが、高熱に肌が焼けついた。

「~~っ」

 まるで溶鉱炉。コンマ一秒にも満たない引き延ばされた時間のなかで、距離が縮まるほどに危険度が増していくのを察知する。

 だがまだ拳が届かない。

 ボムの反動で更に加速する。接近し、拳を引き絞る。

 薄い煙をくぐり抜けた先には、ポリーナの驚愕した顔があった。

 殴りつけた。

「あぐっ」

 全体重を乗せた右ストレートが火の魔人を弾き飛ばした。きりもみ上に回転し、アスファルトの上を転がっていく。

 あんな衝撃力が頭部に加わわったなら並の魔人なら首が折れるはず。だが、確かに見た。火の魔人の腕は地に叩きつけられる瞬間に受け身をとった。

 手が熱い。

 見ると、殴った右の拳が燃えていた。

 振っても消えない。どころか徐々に腕へと燃え移ってくる。

 道端に落ちていたポリーナのナイフを拾って、腕ごと炎を斬り離した。腕は即座に再生させる。

「……厄介だ」

 爆発も打撃も効果は薄かった。でも私だってポリーナの攻撃は食らっていない。さっきの一合で分かった、やはりポリーナは致命的に格闘戦のセンスが足りていない。

「先に言っとくよ。これから同じことを繰り返す。あなたを殴る。腕が燃えたら斬り落とす。再生させる。また殴る」

「割りに合わないやり方だ」

「でもあなたは逃げられない。……どうする? まだ続ける?」

「へえ……舐められたもんだ。私に我慢勝負を仕掛けるなん」

 全力で飛ぶ。爆発の反動で急加速、限界ぎりぎりの負荷に耐えながら棒立ちの魔人に迫る。渾身の握り拳、思い切り振りぬいた。

 今度は吹っ飛ばなかった。

 ポリーナは上半身を仰け反らせながらも踏みとどまっている。

「まだ、続ける?」

「……はっはは」

 燃え続けている火の魔人。近くに立っているだけで皮膚が焦げついた。殴った拳も燃えている。痛い、苦しい。でも離れない。正面から向き合うと決めていた。

「あのね、レゼ、」

 剛腕一閃。

 焔の一撃が私の頬を掠めていく。速すぎる。しかし見えずとも丸分かりだった。初速を意識しすぎて予備動作を隠せていない。

 前のめったポリーナの上体に私のカウンターが突き刺さった。

「っ」

「まだ、続ける?」

「あはは! 分かってんじゃん!」

 炎の体躯が唸りをあげる。放たれる四肢の一撃はそれ自体が不治の呪いを持っていた。消せない炎、もしも斬り落とせない箇所で受けてしまったら終わってしまう。

「当ててみろ! へったくそ!」

「うるせー!」

「あなたじゃ! 勝てない!」

「かもねっ!」

「だったら、どうして!?」

「さあね! 憂さ晴らし!?」

「嘘をつけっ!」

 火に苛まれたままの左腕を、構わず魔人の脇腹に挿しこんだ。これ以上ない手応え。「まだ、続ける!?」向こうは地獄の苦しみのはずだった。

「へっへっへ……効かない、ねえ」

 強がりだ。根拠はないが、あれは演技だと過去の記憶が言っていた。

 そうだ、ポリーナはいつだってああやって耐えていた。

 私は炭化しかかった腕を切り落とし、再生させる。

「……あなたは、人を騙すのが得意。でも私が一番学んだのはそこじゃない」

 ポリーナの動きが止まる。

「なにさ」

「目的をやり遂げる意志」

 秘密の部屋に配慮は無い。体格に恵まれなかった私にとって画一的に設定されたトレーニングや試験は拷問でしかなかった。でもすぐ傍で私よりずっと未成熟なポリーナが歯を食いしばっていた。

 あんなに小さくて細い子が頑張れているなら私だってできなきゃおかしい。そう思い、踏ん張り続けることができた。

「どんな犠牲を払ってでもやり遂げる。その精神性は見習わせてもらった」

「それって褒めてるの?」

「それなりに」

 彼女と再会してからずっと気になっていることがあった。

 世間から見れば、私とポリーナに大した違いはない。どちらも非道な人間兵器。

 けれど私という主観から見れば大きな違いがあった。

 それは、周囲を取り巻く人間たちであり、立場。

 今の私は公安から認められつつある。正体不明のボムガールとして世間からも受け入れられている。

 対して今のポリーナは、無人の荒野にただ独り、認めてくれる者はいない。

「……レゼの情報は調べたよ。上手くやってる。立派だって評価されるのは嬉しかった?」

「それは、まあ、そうだね」

「別に悪いって言ってんじゃないよ。……でもさ、人間って、イイところだけじゃなくてダメなところも見てほしいものじゃない?」

「ダメな……ところ?」

「人殺しでも構わない、悪いことたくさんしてたっていいじゃ~ん! ……ってね、受け入れてほしいでしょ?」

「それは……なんか……なんか、ダメじゃない?」

「ダメじゃない」

 雨降りしきる夜の中、2人の元モルモットが対峙していた。

 火の魔人はゆっくりと顎を上げた。遠い目で、どんよりとした分厚い雲の壁、その向こう側にあるはずの星々を探そうとしているようだった。

「……人間、誰しも短所がある。どうしようもないことだったり、直せるのに直さなかったり……。そういうダメな部分をまるごとひっくるめて受け入れてほしいと思うのが、人間でしょ?」

「それ、は……」

 脳裏をよぎったのはかつてデンジ君に敗れたときの記憶。あの時、私は浜辺で――

 

 

――私はたくさん人を殺したよ? 私を逃がすって事は、デンジ君、人殺しに加担するって事になるけどわかってる?

――仕方なくねえけど仕方ねえな。まだ俺ぁ好きだし。

 

 

 

 ……。

 ダメなんて、言えなかった。

 ポリーナは力強く宣言する。

「私もそういう“誰か”が欲しい。心の底から通じ合うような相手が」

「あなたは、もしかして」

 そうか。そういうことだったのか。

 ようやく理解した。ポリーナはたった一つの光を探している。

 彼女が欲しがっているのは、私にとってのデンジ君。

「レゼはよく見つけたね。あんなヤツ、どこにも居ないよ」

「いいでしょ。あげないよ」

「いらない。アイツは私を好きになってくれない」

「そう?」

「あの程度のバカじゃ私を受け入れられない。もっとネジが外れてないと」

「ポリーナ、あなたは……」

 なんとなく、分かってきた。

 ポリーナがメチャクチャをやる理由。アナスタシアを刺した理由。

 自身の短所を思い切り曝け出している。

 全てを見せて、それでも好きでいてくれる人はいませんか、と叫んでいる。

 ふと、ポリーナの最初の問いかけを思い出す。

「……もしも、あと数時間で死んじゃうとしたら――だっけ?」

「うん」

「誰かに受け入れてほしいいんだ? 心の底から」

「うん。でも“誰か”じゃない」

「そうなの?」

「狙う相手ぐらい決めてるよ」

 ポリーナはぽつりと呟いた。

 爬虫類のように縦に裂けた瞳がこちらを見つめている。人外で、魔人の瞳……害意は消えていた。その身を包んでいる炎の勢いが徐々に弱まっていく。やがて衣を解くようにして消えた。

「ねえレゼ、誰のことだか分かる?」

 ……。

 ………………。

 じっとこちらを見つめている。

 ……。

 えっ。

 あれっ?

 いやいや、まさか……?

 想定外の状況に思わず硬直してしまうが、ポリーナは眉を顰めるだけだった。

「――はい? いやいや……レゼのことじゃないですけど?」

「ん゛ん゛っ。……しっ、知ってるけど?」

「は~? なんだぁ、自意識過剰か~?」

「何言ってるか分かりませんねえ」

 ポリーナはほんの少しだけ口の端を釣り上げた。それは彼女にしては珍しい、苦笑の形だった。

「……知ってるよ。レゼは私の全部を許容できない。ううん、地球人類約60億人、その全員が私を好きにならない自信がある」

 それが事実と言わんばかりの落ち着いた声色だった。

 そんなはことない、と声をあげたくなる。しかし彼女におためごかしは通じない。

 ポリーナはほんの僅かだけ目じりを細めた。

「けどね、そういう普通の人類の感覚ってやつをまるで持っていないヤツならどうかなあ……? 殺人だってなんとも思わない頭のおかしいサイコパスなら……?」

「それって」

 じゃりっ、と背後で音がした。

 振り向くと、一人の女が立っていた。

 長身で、赤髪。額にびっしりと異形の鱗が生えている。

 もう一人の火の魔人。

「アナ、スタシア……」

 信じがたい光景だった。まだ生きている。

「これはやり残しなんだ。私の全部を体験させて、それでも許容してくれるヤツがいるのかっていう、最後の試み」

 感情の伺えないいつも通りの顔つきで、アナスタシアが立っていた。

 もうとっくに死んでいなければならないはずの女は、見れば、刺された鳩尾が燃えていた。

 ――そうか、あの火が原因で生き延びたんだ。

 火の魔人の糧は、また別の火なのだろう。雨風に晒されてなお燃え続けているあの腹部の炎は、きっとポリーナが点けたものに違いない。

 ポリーナが治した。

 自分で刺して、自分で治した。

 なんのために? それは最後の問いかけのためだった。

 

 これが、私です。

 簡単に信頼を裏切るような女です。こんな最低で最悪な私でも全てを愛してくれますか?

 

「ねえ、ナスチャ。私をどう思う? 会ったときから今の今までをぜ~んぶ総括してさ、私のこと……どう思う?」

 アナスタシアは逡巡しなかった。

「私は、」

 

 

 

 

 

 

 男は恋を忘れない。

 名前をつけて保存していく生き物だ。

 よって初恋は聖域になっていく。

 

 

 暗い雑木林に2人の悪魔が立ちはだかっていた。

 片方は、血の悪魔。

 もう片方は、マキマ――

 ありえない話だった。マキマが死んだから(ナユタ)が生まれた。それが揺るがしようのない事実のはずなのに。

 デンジはまるで疑っていない。

「お、おお~~、マキマさん生きてたんだ……。へへ、不思議! まあい~か。死んでるよか生きてるほうがいいもんな」

 あのマキマは本物だ――デンジと私の繋がっている部分がそう言っていた。

 所作、雰囲気、表情の作り方、全てがピタリと符合する。かつて同じ時を過ごしたデンジの記憶は確信を持っていた。あれは変身や模倣などではないと。

 だが私は断じて認められない。

「あなたは、だれ?」

 絞り出した問いかけに、マキマは反応しなかった。視線すら向けてこない。まるで私が初めから存在していないかのような態度だった。息が詰まりそうになる。

「デンジ君。チェンソーマンは元気かな」

「ん、ポチタ? 俺ん中いるぜ」

「それは良かった」

「もしかしてまだポチタ欲しいの?」

 なぜか、デンジの声を遠くに感じた。

「デンジ……?」

「マキマさんさ、家族みてえなもんが欲しいんだよな? 俺でよけりゃなれるけど」

 私を見ない横顔はこんな形をしていたっけ……?

 何かが、おかしい。

 これは幻覚? 精神攻撃?

 いいや違う。このデンジは本物。あのマキマも本物。2人だけで喋っているこの現状も……。

「デンジ君、チェンソーマンを渡してくれないかな」

「え~~……また?」

「今度は悪いようにしないよ」

「そうだなぁ」

 デンジは初めての女を見つめている。ずっと見ていたいと思っている。そんな認識がデンジとの繋がりから伝わってくる。思わず切ってしまいたくなるが、手放すなんてできそうにない。

「なあ、マキマさん」

 喉が渇く。

 デンジの穏やかな声色が私の心臓を刺激する。

「聞きたいんだけど、」

 やめろ……。

「まだ糞映画はないほうがいいって思ってる?」

 話をするな……。

「前にも言ったはずです。面白くない映画はなくなったほうがいいでしょう」

「あっそう」

 そっちを見るな!

「じゃ、やっぱ殺すしかねーな」

 

 マキマの首が飛んだ。

 

「え」

 零れた声は、どちらの支配の悪魔のものだったのか。

 デンジはすでに残身の態勢だった。こきりと首を鳴らし、凶器に付着した血痕をぴっと振り払う。

「マキマさん、考え直してくれね~かな?」

 赤い頭髪をした頭部がころころと地面を転がっていた。遅れて胴の切断部から血が噴き出した。ゆっくりと倒れこむ。

 デンジが、斬った。

 マキマを、斬った。

「デ、デンジ」

「なに?」

「マキマ、殺してよかったの……?」

「よかね~けど、しょうがねえだろ? 俺ん幸せ全部壊すって言ってたときのマキマさんと変わらねーなら、ヤるしかねえ」

「そっか……」

「つか、あれ? マキマさん復活しねえな? あれれ? 前んときは無敵だったのに。死んじまった? まじで? もっと話したいことあったのにィ!」

「……」

 なんだろう。

 今さら心臓がばくばく鳴り始めた。

「いてっ。んだよ!」

「マキマなんてどうでもいいでしょ」

「よかねェよ! ああ~、マキマさん死んじった! なんでェ!?」

「誰とも契約してなかったんじゃない? ダメージを肩代わりさせられなかった」

 えええ嘘だろ~、と呻くデンジに少し安堵した。同時に、僅かな疑念もよぎる。

 このマキマは本当にホンモノか?

 死体と成り果てた女はぴくりとも動かなかった。はたして支配の悪魔ともあろう者が保険もなしに戦いの場に現れるものか?

 さっきはデンジの直感に引きずられてしまったけど……私の物事を掌握する力も違和感を訴えていた。この死体は何かがおかしい。死の匂いが漂っていない。かといって生きているわけでもない。これは一体……?

「は……はらら?」

 振り向くと、血の悪魔。

 棒立ちのまま、あっけにとられていた。

「アイツの動き……見えんかった……」

「あ、パワー」

「……がはははは! お主、運がいいのう! ワシは用事を思い出したから帰るぞぉ!」

「あっ? おい、待てって!」

「デンジ、そいつ捕まえる? なら――」

 そのとき。

 レゼたちを監視させていたカラスから、ポリーナの声が届いた。

 

――だったら、

 

 声色に、背筋が凍りついた。

 全てを塗りつぶす憎悪。ただ本能で殺意を抱いているだけの悪魔ではけして持ちえない、人間特有の燃え上がるような憎悪を孕んでいた。

 

――どいつもこいつも死んじまえ。

 

「デンジっ!」

 叫びながら身を捩る。

 瞬間、たった今まで居た空間が炎に包まれた。

「ああっ!? アアチャアチャチャ!!」

「ぎゃいっ!? アアッアアア!!」

 火が、憎しみの炎が、闇の中、2人の人外を煌々と照らしあげていた。

 デンジと血の悪魔が燃えていた。

 

 

 

 

 

 

「私が、ポリーナをどう思うかって?」

 

 無感情な口調だった。

 アナスタシアは淡々と心境を並べていく。

「受け入れる? なんだそれは。そんなことを言われても、なんだ、困る」

 ポリーナは、

 案山子のように、

 突っ立っているだけだった。

「人の気持ちがどうとか、私には分からない。お前は知っているだろう」

 アナスタシアの口ぶりは平坦だった。

 顔つきも平常通り変わらない。

 何一つ、人の心なんて理解しないターミネーターのようだと恐れられていたモルモット時代とまったく同じ。他人なんてどうとも思わないし、思えない。

 それがこのアナスタシアという女だと言わんばかりの態度。

 ポリーナは、突っ立っているだけだった。

 小さな肩に雨が降り注いでいる。じゅうじゅうと蒸発して熱を奪い取っている。

 空には分厚い雲があるだけで、いくら待っても星なんて一つも見えてこなかった。

「………………はぁ?」

 聞くに堪えない声だった。

「マジで、言ってんの? 人生2回分も一緒に居たのに、分からない……?」

 僅かに震え、語尾は虚空に消えていく。

 こんな声、初めて聞いた。

「嘘でしょ……? 寿命ぎりぎりまで付き合って、分かるようにお話してたのに……。まだ好きと嫌いの感覚も掴めてないって……?」

「ポリーナ……?」

 私の声なんて届いていなかった。

 温度のない死人の顔つきで。

「カっ、スぅ~……」

 偽りようのない失意があった。

 その様相を私はよく知っていた。モルモットが何もかもを諦めて、己の命さえ投げ捨てると決めたときの声。

「はぁああ~……。カスじゃん。カスしかいねえ……」

「ポリーナ、違う、アナスタシアは、あなたのことを、」

「薄々分かっていたけどさ……。本当の同志なんてどこにも居ないって」

 空っぽになってしまったわけではない。元々空っぽだった。それを突きつけられただけ……そんな真実に辿り着いてしまったモルモットがどうなるか。私はよく知っていた。

「ポリーナ! 聞いて!」

「私は結局どこの輪にも入れないんだ」

 その目が言っていた。

 もう何も要らない。希望なんて最初からなかった。結局この世は自分かそれ以外。孤独に死ぬしかない。

「だったら」

 誰もが自分を仲間外れにして幸せになっている、そんな世界なんて目障りでしかない――

 金色の瞳に憎悪が灯る。

 乾ききった魂はよく燃えた。

「どいつもこいつも死んじまえ」

 

 

 

 

 

 

「アアチャアチャチャ!!」

「ギャアッアアア!! この火ィなんじゃ!? 消えんぞっ!?」

 デンジと血の悪魔が燃えていた。

 デンジは胴が、血の悪魔は腕の一本が。

 更に、私と繋がったカラスたちも燃えていた。遠い空で炎に蝕まれている。

 全て同時だった。同時に生き物たちが燃やされた。人間も、悪魔も、動物も。正確に命だけが燃やされた。

「探知……している?」

 命のある場所を。

 命の灯を。

「そんな力があったなら……」

 ソ連の魔人たちがモスクワが燃やしてなお生還できた理由が分かった。建物越しにピンポイントで発火できたなら例え相手が戦車に乗っていようが機関銃持ちの大部隊で囲もうが一方的に勝利できる。

 恐るべきはその射程距離だった。燃やされたカラスの場所から測るに最低300メートルはある。

「アっちいいい!」

 火は勢いを増していく。意思を持つかのようにチェンソーマンの全身を包みこんでいく。

「こんなの、どうすれば」

 火に触れてしまえば私も燃える。

 消すためには……。

 思い浮かんだのは“水”だった。しかし雨程度の水量では消えそうにない。

「……川。デンジ、川まで行けばっ」

「アッチャッチャ……だりゃあ!」

 瞬間、血の悪魔の燃え続けている腕をデンジが斬り離した。

「いだぁっ! ひっ、ひっ」

「逃げっ、逃げろっ、パワー!」

「な、なんじゃ……? ワシを助けた……? どうして」

「パワーっ! 俺んこと分かんねえのかぁあ!?」

「ぱわー……? ワシはそんな名ではないぞ!?」

「血の悪魔っ」

 座りこんだままの悪魔に教えてやる。

「彼は、キミと契約している!」

「しとらんが!?」

「キミの先代、前の血の悪魔と契約している!」

「前のワシぃ? そんなの別人じゃろ!」 

「かもしんねえけどよおおお!」

 デンジは叫ぶ。

「どうにか仲良くなって、もっかいバディになるって契約しちまったからよ! ああっづぅい!」

 血の悪魔は困惑するだけだった。

「……そんなの、前のワシが生きてるって思いたいだけじゃろ……。浅ましい慰めじゃ……人間は愚かじゃのう!」

 当然の反応か。

 私だってマキマとは『支配の悪魔』という名前でしか繋がっていない。マキマが結んだ契約や、マキマがやらかした悪事の責任を追及されても、どうしようもないのだ。

 つまりデンジの言動は自己満足でしかない……。

「知ってらあ!」

 なおも叫ぶ。

「でも知らねー! 契約……約束したんだよ!」

「……」

 血の悪魔は無言のままゆっくりと立ち上がる。土汚れをぱんぱんとはたき払い、「こわ」と呟いて、頭上の木の枝に移動した。チェンソーマンに指をさす。

「コイツ頭が終わっておる!」

 更に跳躍。枝葉の向こう側に姿を消した。

 夜の静けさにチェンソーマンが焼ける音だけが鳴っている。

 そのまま戻ってこなかった。

「……逃げた」

 逃げた。

 本当に逃げてしまった。

「えええ!?」

「いいから、今は火を消してっ」

 喚くデンジを叱咤して、雑木林を走り抜け谷底の川まで誘導する。チェンソーマンが飛びこむとじゅわっと水蒸気が沸き立った。

「っぷはぁ! うええ~~、やっと消えた……」

「大丈夫?」

「なんとか……」

 人間の姿に戻り、ぽたぽたと髪先から水滴が垂れている。雨に打たれ、川辺に座りこむ姿は孤立した野良犬のようだった。

「あのね、デンジ」

 そろそろ言っておかなければならないと思った。

「デンジと仲が良かったパワーっていう魔人はもう居ない。今の血の悪魔は、別人」

 のろのろと顔を上げたデンジ、その瞳を覗きこむ。

「全然違う悪魔。私とマキマが別人なのと同じ。分かる?」

「分かってっけど……」

 いいや、デンジは全然分かってない。

 パワーという故人を忘れられないのは仕方ない。でもそのために傷ついたり時間や労力を費やすのは間違っている。

 そう指摘すると、ふてくされた子供のように唇を尖らせた。

「俺んやってること、無駄ってか?」

「うん」

「あいつがパワーじゃなくて別人だから? でも仲良くなるのは悪いことじゃねーだろ?」

「仲良くなんてなれないと思う」

「なんでだよ」

「悪魔はね、人間なんか好きにならないから」

「ナユタは違うじゃん」

「それは、それは……いいの」

「ええ~、ズルくない?」

 座りこんだまま曇天を仰ぐ。雨粒をシャワーのように浴びていた。

「好きになってもらえなくてもいいじゃん。俺が仲良くしたいって思うぐらい、いいだろ」

「ダメじゃないけど」

 一歩間違えるとストーカーだ、と喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。

 相手がどうあろうと好きで居続ける、そのぐらいの気持ちで自分も想ってもらえたらきっと嬉しい。

「ねえ、デンジ」

「なに」

「刺客のことなんだけど」

「あんだよ」

「サンタクロースが生きている」

「そーなの? 死んでなかった?」

「人間狩りの魔人になって復活した」

「にんげん……なに? 魔人? よく分かんねえんだけど」

「あと闇の悪魔の肉片を食べてパワーアップしている」

「もう何がなにやら」

「あいつを倒せば全部終わる」

「ふ~ん、そっか」

 腹をぼりぼり掻いて、あくびを一発。

 ぼろぼろに焼け焦げたシャツを捲りあげ、スターターに指をかけた。

「それならよく分かるぜ。つまりよ、しつこいサンタクロースの野郎を」

 

 ヴヴン

 

「ブッた斬りゃあいいってハナシだろォ!?」

 

 

 

 

 

 

 周辺全ての生き物が居た場所に火が点いた。

 道に倒れ伏していた公安職員たちも呻きをあげて身を捩る。

 ポリーナ自体も再び炎の鎧を纏った。その熱量は先ほどまでの比ではない。

 目の粘膜が乾いて直視し続けることさえできない。足が勝手に後ずさり、対峙することもできず顔を腕で覆った。

「ポリー……ナッ!」

 本気の出力だった。

 一切の手心がない、自身も含めて全て塵になってしまえばいいという渾身の殺意。

 全員死ね、と聞こえてくるような憎悪に対抗する手段はなかった。ただ間抜けのように元仲間の名前を呼び続けるしかない。あまりにも無力だった。ただ力が足りないというだけで誰も救うことができない。

「ポリー……ナ……」

 ふと思う。もしかしたらポリーナもモルモット時代はこんな気持ちだったのかもしれない。

 どうにかしたいのにどうしようもない。それでもどうにかしたいなら……プライドもモラルもエゴも捨てて、たった一つに噛り付くしかない。

 そのなれの果てが今の彼女の姿だった。でも、彼女だって始めからそうしたかったわけじゃない。

 だったら、私ができることは――

 

 火が消えた。

 

「……え?」

 突然だった。全身を圧する熱波が消えていた。

 恐る恐るポリーナを伺うと、真横を向いていた。炎の鎧も解いている。無防備に、首だけを回して、何かを凝視している。気を取られている。

 森の奥から、

 誰かが来る。

 がさりと雑草が掻きわけられた。

 そこにありえない女を見た。

「ふ、ふふふ」

 見覚えがあった。

 秘密の部屋のかつての仲間。

 透けるような白い肌と波打つブロンドヘアー、澄んだ青い瞳。男のみならず同性をも魅了する美しい容貌。スラブ系の彼女の顔は夜の山中でも存在感がありすぎる。

「ヴェロ、ニカ……?」

 身が凍りつくと同時に、理解する。

 アレは偽物だ。

 彼女はとっくに死んでいる。顔も整形前のものだった。本物のわけがない。

「よお~レゼ、ポリ~ナぁ」

 しかし、アレの所作、雰囲気、表情の作り方、その全てが私の記憶にピタリと符合した。かつて同じ時を過ごした記憶が確信を持っていた。あれは変身や模倣などではない。

 アレは本物。

 ……いいや、違う! そんなわけない!

 彼女はこの手で殺した! 間違いない!

 なのにヴェロニカは当たり前のように喋りだす。

「やっと決めたよ、建国記念日のプレゼント……。ポリーナは悪魔のリストで、レゼは各国のデビルハンターのリスト、アナスタシアは心理学の本、だったよな……。私たちはチームだ、お互いが見せ合って得をするようなモノを選ぶ必要がある。そうだろう?」

 ヴェロニカの言葉には聞き覚えがあった。

 間違いない。一言一句、正確に、過去に放った台詞をなぞっている。

 ありえない話だった。例え秘密の部屋の監視員であろうとここまで知っているわけがない。

 この台詞を知っているのは私たち4人だけのはず。ということは……? 私たちしか知らないってことは……私たちの記憶が元になっている……?

 記憶を、再現している?

「私がもらった情報はな、」

 ぞわり、とうなじの毛が逆立った。

 どこか近くにそういう能力をもつ悪魔がいる。それはいい、問題は、コレがあの時の記憶を再現したものならば、続く台詞がポリーナにとって最悪のものになるということだ。

 ポリーナ……!

 おそらくソレを察知した彼女の見かけは人形のようだった。しかし狂気が、内部であらゆる情動が引き絞られている。津波の前の潮引きを連想させる静けさで、抑えようのない憎悪が暴発のきっかけを待っていた。

 アレに続きを言わせてはならない。

「止めろっ、ヴェロニカッ!!」

「私がもらった情報は、お前の家族の居場所だよ、ポリーナ」

 当時のように、ヴェロニカはけたけたと笑った。

「お前、外の世界で家族が生きてんだろ? いつかここを出て会いに行きたいんだって? だったらよ、どこに居るか知っておいたほうがいいよなあ……? 優しい私はこう思った。教官に調べてもらおうって」

 モルモットは何も持っていない。

 金も家も家族も無くし、名前や戸籍に故郷も失った。だからこそ従順な兵士になれる。

 逆を言えば。

 モルモットがそれらを持つことは許されない。

「さっき情報が届いたよ。お前の家族の居場所な……昨日まではナントカって村で働いてたらしいぞ。けどなあ、今日になったら、なんでかは分からねえけど! 墓の中に居るってよぉ!?」

 ははははははは!

 笑う。笑う。笑う。

 悪意に満ちたその台詞は当時のポリーナを破壊した。家族のために他のすべてを犠牲に捧げた少女が、その一本しかない大元を断たれれば正気が散り散りに消えてしまっても無理はない。

 過去のヴェロニカは悪辣に顔を歪ませた。

「モルモットがァ! 家族なんてもってていいわけねえんだよ! ざまあみろバァーーカ!!」

 

 ぶつり、と。

 ポリーナが狂気に踏み出す音を、確かに聞いた。

 

「――てめえッ、ヴェロニカ!! ぶっ殺してやるッ!!」

 苛烈極まりない殺気に満ちた形相が叫び終えるよりも遥かに早く、ヴェロニカの形をしたモノが消滅した。その熱はもはや炎のていをなしていなかった。白熱が空間を塗りつぶし、1秒で存在を掻き消した。

「はぁっ、はぁっ……」

 陽動だ。

 私の経験則が言っていた。

 誰だか知らないが意味もなくこんなことをするわけがない。この“攻撃”は明らかにポリーナを狙い撃ちにしている。彼女の注意を逸らすために仕掛けている。

 そのぐらいポリーナだって理解していた。

 狂気に浸りながらも染みついた戦闘経験は隙を晒すことを許さない。抗いがたい殺意に身を委ねながらも注意力をいくらか残していた元モルモットは悪鬼の顔つきで振り返る。誰だか知らないがよくもこんなものを見せてくれたな、よくも最悪を思い出させてくれたな! 聞こえてくるような眼光が睨みつけたその先は、ヴェロニカが現れた茂みとは真逆の方向、そこに本命の刺客がいるはずだった。

 事実、居た。

 虚空より人影が生成されていく。2人の大人……中年の男女、あれが本命? 一般人にしか見えない――

 なぜかポリーナの殺意がいっぺんに消え失せた。

 呆然と、困惑さえなかった。とっくの昔に忘れてしまった夢を見つけたような、放心した表情で、

Пап(パパ)……Мама(ママ)……」

 彼らは全てを許容するように腕を大きく広げていた。

 暖かな抱擁。受容の眼差し。両親との再会。

 待ち望んでいたその光景にモルモットが抗えるわけがない。

 例え偽物と知っていようとも。

 

 黒い稲妻が駆け抜けた。

 

「あ……」

 防ぐ間もなかった。残像のみを残した一撃が、ポリーナと偽の両親を諸共引き裂いた。

 ばくり、と少女の胸元が裂けていた。胸筋も、胸骨と肋骨も、その奥にある心臓さえも見えた。一太刀に斬り捨てられていた。

「ポリーナッ!」

「!」

 アナスタシアさえ反応できなかった一撃を放ったのは濃密な闇の塊、人の形をしたブラックホール。

добрый вечер(こんばんわ)、ソ連のモルモットさんたち」

 闇が、喋った。

 奥行さえ掴めないソレはどうやら生き物のようだった。たった今斬り裂いたばかりのポリーナを黒い顔面が見下ろしている。

「心臓を斬り裂かれれば超越者の魔人でも死ぬでしょう。もう血を与えても治りません」

「お前は……!」

「サンタクロース。私の標的は、全ての、ここに居る全ての生き物です」

 ポリーナは呆然と膝をつく。

 口を半開きにして、一直線に斬り裂かれた父と母のようなナニカを凝視していた。彼女の裂けた心臓からは噴水のように血が噴き出していた。亡骸と地面に引火して化合物へと変えていく。幻想でしかないという事実を突きつけられ、少女は血まみれの顎をわなわなと震わせながら、砕けた想い出をただ見ていた。

 火が弱々しくなっていく。

 風が吹けば消えてしまいそうなほどに。

「これでもう私を滅せる存在はいません」

「お前」

 アナスタシアが、

 一変したサンタクロースの姿にはまるで言及せず、一歩踏み出した。

「お前はやはり邪悪な侵略者だったな」

 その手には、幼児ほどの大きさの悪魔が掴まれていた。

「ギ、ギギギ!」

 ばきり、と首をへし折った。

 おそらく記憶を再現していたであろう悪魔が死んだ。当然だ、弱い方から殺す、それは戦士の鉄則、戦争の鉄則。

 俄かに殺意が滲み出る。

「よくも私の……、ポリーナを、侵略したな。お前は敵だ。必ず殺す」

「どうぞ。やれるものなら。私は闇の肉片を取り込みました。闇の中での攻撃は」

 

 ズドン

 

 アナスタシアの貫き手が闇の首を貫通した。しかし。

「……通じませんよ」

「みたいだな。だからなんだ?」

 足を広げ、両の拳を持ち上げた。それはアナスタシアの徹底した攻撃性を象徴する戦闘教義。

 絶対に退かず、絶対に止まらない。例え屍と化そうともひたすらに前へと進み、攻撃を続ける。

 どちらかが死滅するまで止まらない縦深攻撃ドクトリン。

「初めてだ。誰かを殺したいと思ったのは」

 けたたましい炸裂音が鳴り響く。開戦の合図だった。重火器が火を噴く振動にも劣らない音の洪水の中、それでも私は瀕死のポリーナから目が離せない。

「ポリーナ、ポリーナ!」

 なんで。どうして。

 そんな疑問が頭を占有して離れなかった。

 確かに彼女は酷いことをした。今さっきだって無差別に何人も殺そうとした。死刑を宣告されても仕方ないような女かもしれない。だとしても。

 こんな殺され方をされる謂れはない。

「ポリーナッ」

 絶対に助からない。それは分かっていた。

 どう声をかけてやればいいか分からずに狼狽えている自分がいて、そんなことをしている場合ではないとも知っていた。どうしても見放すことができない。何故なら自分だって何か一つ間違えていたらこうなっていたかも分からないから。

 もしもボムの心臓を手に入れることができていなかったら。

 もしもデンジ君に会えていなかったら。

 一つの納得もなく死んでいたのは自分のほうだったかもしれない。

「ポリーナ……」

 けれどポリーナは。たった一つを切望し、結局何も手に入れられなかった少女は、呼びかけに応えずに、ただ塵と砕けてしまったニセモノの両親の残骸を眺めているだけだった。

「………………」

 血が抜けて冷たくなっていく自身の身体を弱々しく搔き抱く。顎先を痙攣させ、虚ろな瞳で虚空を見つめた。

「……もう…………いい……」

 小さな身体がくの字に折れる。アスファルトに額をついて、呟いた。

「さ…………さむ……いよう…………」

 うつ伏せの、芋虫のような態勢で、動かなくなった。

 地面にじわじわと血が広がっていく。もう火は点かない。黒々とした液体がひび割れたアスファルトの隙間に滴っていく。

 ポリーナはそのままずっと動かなかった。

 知っていた。

 こういう姿を私はよく知っていた。

 何度も何度も見てきた。もう平気になっていたはずだった。

 なのに、何故か。今回だけは。

「なんの、ために」

 ぽつり、と。

 意識せずに転がり出てきた言葉は、遠い過去に切り捨てたはずの疑問だった。モルモットになったばかりでまだ人間性を残していた頃の疑問。

 なんのために?

 私たちモルモットはなんのために生きている?

 そんなことを考えても意味はない、むしろ邪魔になるだけと一切の感情を持ちこまないと決めていたはずの疑問が、今になって抑えようのない奔流になっていた。

「生きてるのに」

 命が、人生が。

 一つの納得もなく終わらされていいの?

「――」

 振り返ってみれば、アナスタシアと黒い人影が乱撃を交差させていた。

 夜の静けさを破る無数の擦過音が大気をかき混ぜている。影の輪郭はぼうとして遠近感も掴めない。目で追うのがやっとの高速が放たれているがアナスタシアは最小の動作でいなしている。彼女は間髪入れずに反撃を叩きこみ、闇人間の腕・関節・急所を同時に破壊した。

 しかし闇は甦る。

 逆回しのビデオのように修復され、その途上をまた火の魔人は破壊した。

 修復、また破壊、修復、また破壊……。

 サンタクロースは無限に連なる命を湯水のように使い捨てている。それが私にはどうしても許しがたい侮辱に感じた。

「一つだってままならなかった人がいるのに」

 モルモットに生きる意味はあるのか。

 安い命に意味はあるのか。

 無い、と断ずるようなサンタクロースの立ち回りに、血液が煮え立ち、切り捨てたはずの情動が全身を駆け巡っていた。呼吸がままならなくなるほどに胸が熱い。心に火が点いていた。

「サンタクロースッ!」

 駆けだして握りしめた拳、振りぬく前に敵の一閃が飛来した。

 速い、横薙ぎの一撃、

 見えるぎりぎりの音速を避けられる態勢では既になく、ここは身を固めて防ぐしかないと私の戦闘経験が言っている。

 でも防いでしまえば殴れない。

 だから受け流すほうに全てを懸ける。

 片腕を掲げて刹那に集中、接触の瞬間、私はダメージを受け流す経路となる。

 受け止めた右腕から運動エネルギーを三角筋、脊柱へと伝わせて、横方向から斜め方向へと体内で捻じ曲げる。脚にまっすぐ通してアスファルトに衝撃力を押しつけた。

 

 ドッ

 

 足裏の地面が割れると同時、会心のクロスカウンターで撃ち抜いて、サンタクロースの頭部を真後ろにへし折った。視界の隅でアナスタシアが眼を見開いているのが痛快だった。

「お前、横方向も流せるようになったのか」

「あなたのおかげ、ポリーナのおかげ」

「なに……?」

「意味はある。私たちには生きる意味が」

 ゆっくりと、仰け反ったサンタクロースが上体を持ち直していく。

「無駄です……。あなたたちが何をしようと私には通じません」

 闇の肉片を取りこんだというサンタクロースがごきりと首を鳴らす。

 既に無傷。既に万全。

 夜が続く限りコイツは確かに無敵なのだろう。

 対抗手段は光。けれどそれを手に入れる手段は思いつかない。

 この雨の中で唯一火を出せたポリーナは退場し、山中には街灯すら設置されていない。町中にある電気製品のたぐいはとっくの昔に人形兵によって破壊されているだろう。

 そんなことはどうでもいい。

「どうして、ポリーナを殺した」

 黒いシルエットはほんの僅かに首を傾げ、

「依頼。仕事。その邪魔になるからです」

「そっか。仕事は大事だ。みんな仕事をして生きている……。殺しだってそう。悪いことでも仕事は仕事、私たちもそうやって生きてきた。だからあなたを非難しない。非難はしないけど……」

 眩むような激情が走り抜け、

 首元のピンを引き抜いた。

「お前は絶対に許さない!」

 



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