恋姫世界で匈奴出身のオリ主が頑張ったりする話 (ニタマゴ)
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第1話 転生

 厳かな装束に身を包んだ父は、無言のままに私へ銀製の盃を差し出した。

 私は緊張感と高揚感に包まれながら、震える手で盃を受け取った。父は横に控える祭祀官から銀製の酒器を受け取り、その中身を私が捧げ持つ盃へと注いだ。

 注がれた白濁した液体からツンと鼻を衝くにおいが広がった。主に馬の乳から作られる馬乳酒に独特の香りであった。

 

「われらがテングリよ。天と地の諸々の神々、精霊たちよ。蒼く清浄な長生の上天より降されし、駿馬鷂鷹の如く世を治められし、あの世へと至った先祖たちよ……」

 

 父が祝詞を紡いでいくが、私は手元の盃になみなみと注がれた馬乳酒をこぼさないことに全神経を注いでいたため、父と祭祀官のありがたいお言葉と祝詞は、ほとんど耳に入らなかった。

 

「わが子に十五に至りし者あり」

 

 祭祀官の神々や祖先への感謝の言葉と馬や羊の繁殖を祈る祝詞が終わると、父がひときわ大きな声で新たな祝詞を唱え始めるのが聞こえ、私の意識はようやく父たちの方へ向けられた。

 父は私の成人を神々に報告し終えると、目で私に祝詞を唱えるように促した。私はそれに従って母や弟、そして家臣たちの集団から歩み出た。

 

「尸利の子の烏利、烏利の子の羌渠、羌渠が子の於夫羅。テングリと祖霊の加護により齢十五を重ねたり。恩寵に謝し、こののちの恩賜を望まん」

 

 なんとか作法も間違えずに祝詞を唱え終わると、捧げ持つ盃を東西南北の四方へ振り、大地に馬乳酒を捧げる。

 それを見た祭祀官は骨器の盃より聖水を四方に撒き、私の祝詞に重ねるように新たな祝詞を唱え始めた。

 

──はぁ、なんとか無事に終わった……

 

 この祭祀自体はまだまだ続くが、今回の最大の目的である私の成人儀礼自体はすでに終わった。この後には宴会を開き、その場で神や先祖へ捧げられた供物の分配を父に代わって執り行うという大任があるにはあるが、神前での告白に比べればそう気負う必要もないと思えた。であるから肩の力も抜けてしまうのも仕方がなし、と思う。

 そんなことを思っていると、突然、ザァーとひときわ大きな風が吹き、少し身震いした。

 すでに春に入ったとはいえ、山には雪が残り、まだまだ肌寒い時期ではあった。

 しばらくして、風が吹くでもないのに再び体が震えた。

 

──こんな時に風邪でもひいたのか? 

 

 そんなのんきな感想を抱いたが、その直後に全身を今まで感じたこともない悪寒と頭痛に襲われた。

 激痛を感じたのはほとんど一瞬だった。歯の根が合わないほどの耐え難い激痛は、十五歳の健康な肉体をもってしても耐えることなどできず、私は声をあげることもなく倒れた。

 

「玄烏!?」「兄さま?」「どうなさった若様!?」

 

 いくつもの声が耳に入ったが、もはや声をあげることさえも出来ずに、私は意識を失った。

 

 

 

 まぶたを透かして生ぬるい感覚が伝わってくる。どうやら額に濡れた布のようなものが置かれていたようだった。

 不快なそれをどけようとしたが、腕どころか指すらもロクに動かせない。

 仕方がないのでなんとか首を振り、目を覆う濡れた手ぬぐいのようなものを振り落とした。

 長い時間目をとじていたからか、飛び込んできた光の眩しさに思わず目をつむる。

 しばらくはぎゅっと目をつむっていたが、何度か瞬きをして目を慣らし、周囲を眺めてみる。

 貧血でもおこして倒れたのだろうか、私は大きなベッドの上に寝かされていたようだ。

 掛け布団に使われてるのは、天然ウールか、はたまた化学繊維か、良く分からないがなかなか暖かく、しかも手触りもいい高級そうなものだった。

 壁にも高級そうな絨毯や毛皮、鹿の角で作ったオブジェのようなものが並べられており、ドラマで見るような豪邸の一室といった趣だ。

 いろいろとあたりを見回していると、ふと枕元に金属製の水差しが置いてあることに気づいた。その水差しには、騎乗の人物が狩猟をしている様子が繊細に描かれていた。その脇にはちんまりと小ぶりなグラスがあったが、これもまたきれいな唐草模様の装飾が施されていた。これらは素人目に見てもかなり高価なものであり、ますますここは何処なのか、自分はなぜこんなところで寝ていたのか、という疑問が湧いてきた。

 しかし、そういった疑問を押し退けて急激に湧き上がってきた感情、いやもっと原始的な衝動があった。

 

──水だ……水を飲みたい

 

 眠りから覚めた体は、水差しを目にしたとたん、思い出したかのような猛烈な飢餓感に襲われた。

 水差しを取ろうと、体を動かそうとするも、全く動かない。手足が棒のように……なんて言ったりするがまさにそれだ。「無理やりにでも」と、全身に力を入れたが体中の関節が痛み出し、ギチギチと悲鳴を上げた。

 その痛みと全身から襲い来る倦怠感は、今の今まで水を求めていた本能を一転して睡眠の泥沼へと誘いはじめた。私の懸命な抵抗の甲斐なく、意識は深い眠りの底へと沈んでいった。

 

 

 

 先程からどれだけ時間が経ったのだろうか。

 いまだに全身を猛烈な倦怠感が襲い、水を求める飢餓感も健在であったが、自分を保っていられる程度には私も落ち着いた。

 

──ここが病院なのかどうなのかわからないが、たぶんその種の建物なのだろう。しかも、見ず知らずであろう私にこんな高級そうな部屋を宛がってくれているのだ。ちょっと声を出せばすぐに看護師なりなんなんりがやって来てくれるのではないか。人さえ来れば、水分補給も食事も、寝汗で気持ち悪くなっている服の着替えも思いのままだ。

 

 そんなくだらないことを考えながら声を出す。いや、出そうとした。

 私の喉から出てきたのは、ヒューヒューと耳障りな音だけであった。

 「あれっ」という言葉が脳内に響き渡り、背筋が冷たくなるのを感じた。

 なんとかして声を上げようとしたが、喉がカラカラでうまく発声することもできず、ただ唸るような音が響くだけだった。

 どうやら私が思っていた以上に、私の体は深刻なダメージを負っていたらしい。

 頭ではあれこれと物を考えられるというのに、体の方ではうんともすんとも言ってくれない。これはちょっとした恐怖体験である。

 このまま誰も来ないんじゃないか、もしかしてこれは植物状態ってやつなのか、というように、不安がとりとめのない妄想となって頭の中に現れては消えていく。

 

──そういえば、なんで私はこんなところに? 

 

 数々の妄想の泥沼からようやく実りのありそうな疑問が浮上してきた。

 先程は飢餓感のためにほっぽり出してしまった疑問であるが、今の状況でこれ以上に重要なことはない。

 私は記憶をたどろうとするが、どうにも靄がかかったように思い出せない。それどころか、つい先ほどまで頭の片隅に存在していた家族や友人たちの存在、工業地帯のど真ん中にあったビルの立ち並ぶ故郷の風景すら、思い出そうとすればするほど沼の奥深くへと沈みこみ、存在したのかどうかすらあやふやなものへとなっていく。

 普通ならこの状態に恐怖するはずであるが、なぜか理性も感情もそれを当たり前のこととして受け入れており、驚きや一抹のさびしさを感じはしたが、大きく心を揺さぶられることはなかった。

 そうして沼へと沈みゆく記憶たちを眺めているうちに、代わりとばかりに、心にぽっかりと大きな穴が開いたような感覚が湧きだしてきた。

 その喪失感は徐々に大きくなっていき、焦燥さえ感じるほどのものとなった。

 なにか大事なものが存在していないという不安。理性や感情よりももっと深く、魂と肉体とを結びつける大事な糸を見失ってしまったかのような、形容しがたい不安とさびしさが魂魄から湧き上がってくる。

 駄々をこねる子供のように地面を転がりながら泣きわめきたいという衝動に駆られたが、体がそれを許さない。声を上げて泣きわめきたくとも喉はただ耳障りな音を鳴らすだけだった。

 私は、どうすることもできずに、ただ不安に包まれ涙を流すしかなかった。

 

 どれだけの時間、私は泣いていたのだろうか。

 外で日が暮れ始めたのだろう、私の寝る部屋の中に、刻一刻と暗闇がその手を伸ばし始めていた。

 忍び寄る夜の気配は私の不安な気持ちに拍車をかけたが、どうすることもできない。あれからというもの、私は不安と焦燥で眠ることもできずに、ただただ涙を流していた。

 もう絶望やら飢餓感やらなんやらのネガティブな感情でどうにかなってしまいそうだと思い始めた頃、突然部屋の扉が開いた。

 部屋に入ってきた人物は持っていた蝋燭で、部屋の中央に置かれた机の燭台に明かりを灯すと、私の寝るベッドへと腰を下ろした。

 

「ごめんなさいね、玄烏(げんう)。今日は母もお父様もあなたのそばにいられなくて……」

 

 その女性は私に話しかけながら私の髪を手櫛で梳いていたが、ふと私の顔を見るとその手が止まった。

 女性は目を真ん丸にあけて私を凝視したと思ったら、「ああ!」と一声発して私を抱きしめた。

 

「玄烏! よかった、ああ、よかった! 目が覚めたのね」

 

 彼女は涙を流しながら私をしっかりと抱きしめ、静かにではあるが、あらゆる感情をこめて「よかった、よかった」と何度もつぶやいていた。

 そんな彼女に対して、私の方も大いに泣いていた。この涙が先程までのものとはまったく別種のものであることは言うまでもない。

 彼女……いや、私の母に「玄烏」と()()で呼ばれた瞬間、初めからそこに存在していたかのように、玄烏としてのこれまでの記憶を()()()()()。それと同時に先程まで感じていた、魂と身体とを繋ぐ糸を見失ってしまったかのような不安とさびしさは、母の呼びかけと同時に消え失せた。この時の私は、綿毛のようにこの世界をただよっていた魂がようやくこの世界に根を下ろしたかのような、そんな不思議な感覚に包まれた。

 

「は、はは……ははうえ……ははうえ」

 

 私はかすれた声で母を呼びながら、抱きしめてくる母の温もりを感じ、生きているという無上の喜びを抱いたまま眠りに落ちた。

 

 

 

 私が目覚めてから三日が経った。

 あの覚醒と母との再会──再会というのもおかしな話だが、そうとしか言い表せない感覚だ──の後、私は再び眠り続けていたそうだ。

 その間に母と父、そして弟は、できうる限りつきそっていてくれたと、私の世話をしてくれている侍女や召使から聞いた。特に母は文字通りの付きっきりであり、私が目を覚ました時に目にした母の姿は、三日間片時も離れずに看病していたのだ、もともと白い顔はさらに青白く、その蒼白の顔にただ鬼気迫る意思を宿した瞳だけが浮かんでいるというものであった。こんなことを言うべきではないが、率直な感想としては幽鬼そのものだった。

 母の容姿を一言で言うのなら花顔柳腰といった感じであるが、その意志の強さはこのことからもわかるとおり、並みの男では比べる土俵にも上がれない。

 そんな男顔負けの意志の強さを持つ母であったが、私が三日間の昏睡から目覚めると、取り乱すこともなくすぐさま医者を呼び、容体を診させて問題ないことを確認し、侍女たちに私の世話を任せるやいなや倒れるように眠ってしまった。

 まったく、尊敬すべきは母である。

 

 さて、その後のことであるが、まず父が私のもとに現れた。

 父は寡黙な人であるから、あまり言葉をかけられることもなかったが、「よく頑張った」という一言が、胸の奥深くにまで刻み込まれた。父は多忙な人だから、母のように私に付きっきりというわけにはいかなかったが、それでも私を心配することひとしおでなかったことが、その言葉から伝わってきた。安っぽい言い方だが親子の絆とでもいうものだろうか。

 

 二度目に父が訪れたときには、母と弟とともに一人の老人を一緒に連れてきた。

 話は逸れるが、私の唯一の兄弟である弟の名前は、呼廚泉(こちゅうせん)というなんとも珍妙なものである。そうはいっても私も似たようなもので、於夫羅(おふら)というのが私の名だ。もはやほとんど消え失せてしまった記憶の底から、愉快な雪だるまのようなものが思い浮かんだが、なぜだろう。ちなみに父の名は羌渠(きょうきょ)という。

 それはともかく、父たちは私に体調について二、三質問すると、ずいぶんと奇妙な格好をした老人を招き寄せた。

 その老人の服装というと、極彩色の羽の冠をつけ、これまた派手な首飾り、貴石のビーズ装飾を身につけ、実にケバケバしい。

 

「久しぶりじゃのう。わしのことは覚えておるかな」

 

 奇妙な装いの老人は、深い皺の刻まれたその顔に予想外に人好きのする笑顔を浮かべ、そう問いかけた。

 



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第2話 羽冠の呪術師

「久しぶりじゃのう。わしのことは覚えておるかな」

 

 父が招いた老人は、極彩色の羽の冠や奇石のビーズ装飾を身につけた、その奇妙ないでたちからは予想外の人好きのする笑みを浮かべてそう問うてきた。

 

「あー、えっと……悪いが思い出せない」

 

 昏睡からの覚醒以後、私の記憶には多少の混乱があった。多分それは、母に真名で呼ばれるまでの、あの別人としか思えない「私」の記憶が混ざってしまったからだろう。その影響なのか、それとも本当に記憶にないのか、私はこの老人のことを覚えてなかった。

 老人は特に気にした様子もなく、「それは残念」と言った。

 

「まあ最後に会ったのは、まだ六、七才のこんなに小さかった頃ゆえ。あれからもう八年も経ってしまえば、忘れるのもむりはないじゃろうて」

 

 老人は大袈裟な身振り手振りを加えて話しているが、無理にそう演じているという感じは全くない。側から見れば滑稽な姿と仕草であるが、こうして間近に話してみると、それらが見事に調和し、なんともいえぬ威厳のようなものまで醸し出している。

 

「わしは占いなり祈祷なりで日銭稼ぎをやっとるしがないジジイじゃ。たまに人に頼まれて、病気の者や憑かれた者を視る(みる)こともある。今回お前さんの親父に頼まれたみたくのう」

 

 老人の言葉に私は「えっ」と声をあげて、父を振り返った。

 

「お前は成人の儀を終えた途端に倒れた。悪霊の中には子供と大人の狭間の人間に好んで取り憑くモノもあるという。念のため羽冠(ウカン)の爺様に視てもらえ」

 

 多少説明不足な感はあるが、どうやら父は私が倒れたのは悪霊の仕業であると考えているようだった。自分自身で振り返ってみると、あのどこかちがう世界を知っていたもう一人の私は、たしかに悪霊に思えなくもない。

 

「そういうことじゃ。まあ見たところ悪いモノに憑かれたという事ではなさそうじゃがな」

 

「見ただけでわかるのか? あー、ウカンさま?」

 

「ジイでよいぞ。まあそうじゃな、長いこと世を生きていると大抵のことはわかるようになるんじゃ。そのわしが見たところ、お前さんには悪いものが憑いているようにはみえん」

 

 ジイ様の言葉に私のみならず、父や母までホッと胸をなでおろした。幼い弟は良く分かっていないようで、ジイ様の派手な着物を物珍しそうにながめている。

 

「待て待て、悪いものが憑いてないのは確かじゃが。ナニかに憑かれていないと言ったわけではないぞ」

 

 ようやく安心できるという笑みを浮かべていた父たちの顔がにわかに強張った。私も似たような表情をしているのかもしれないが、傍から見る分にはよく表情の動く人たちでおもしろい。

 

「羽冠様! やはり息子には悪霊が憑りついているのですか!?」

 

 詰め寄る母をジイ様はおもしろそうに眺めていた。もしかしたら私と似たようなことを思っているのかもしれない。

 それにしても今の母上からは、私を看病していた時の気丈さを全く感じられない。とはいえ、あの気丈な母上がそれほどまでに心配してくれているということに、気恥ずかしさと共に嬉しさを感じた。

 

「落ち着け落ち着け。それを調べるためにわしを呼んだのじゃろうが。まだなーんにも話してないじゃろう」

 

 そう言うとジイ様は私の方に向き直った。

 

「さてさて、於夫羅よ。これからお前にいくつか質問をさせてもらう。お前も年ごろの若者ではある。もし聞かれたくないというのなら親父さんたちには部屋を出てもらうが、どうする?」

 

 母はその言葉に抗議しようとしたが、父がそれを制した。どうやら私の意見を尊重してくれるらしい。

 

「いや、父上たちにはここに居てもらいたい。どうせ寝ていた時には下の世話までしてもらっていたんだから、今更恥ずかしいもなにもないよ」

 

 こんな強がったことを言って見せたが、昏睡状態のときの私はおむつ着用である。父や母どころか、私の世話をした侍女や召使にはバッチリといろんなモノを見られている。それを思うと身を悶えるほどに恥ずかしい。

 だからこそ、そんな世話までかけた人たちには、私の状態を知る権利がある。昏睡前の私なら恥ずかしがって聞かせなかったかもしれないが、今の私はどういうわけかそういうことまで考えられるようになっていた。これもジイ様のいう「ナニか」に憑かれた影響だろうか。

 ジイ様は私の答えに少し目を細めた。

 

「その年齢(とし)にしては立派なものじゃ」

 

 そうつぶやくとジイ様は私の顔をしばらくじっと見つめてきた。

 この時初めて気づいたが、この老人の瞳は白く濁っており、おそらくほとんど見えていないのではないか。その白濁した瞳で見つめられると、心の底まで見透かされるような感覚に陥った。しかし、そこに不快感はない。無理に押し入ってくるというものではなく、するりと自然に入り込まれたというような不思議な感覚である。

 

「ふむう。なんとも不思議じゃ」

 

 しばらく見つめ合っていると、ジイ様はそうこぼした。

 

「まあまあ、とりあえずいくつか質問させてもらうとするかの」

 

 ジイ様の言葉に私が疑問を口にしようとすると、ジイ様はそう言って私の言葉をさえぎった。

 

 

 

 質問は二十分ほど──「分」や「秒」という時間をあらわす概念をいつの間にか私は知っていた。どう考えても件の人格の影響だろう──で終わった。昏睡から覚めた後のことについても当然聞かれたが、私はこれに正直に答えた。

 あの時の私には、明らかに「於夫羅」ではない別の記憶を持った人格が存在し、その意識が体を支配していた。しかも、私はその異なる人格──すでに希薄なものであったが──を受け入れ、その一部を取り込んだとしか思えない状態にある。

 語りながら思い返してみると、我がことながら気味の悪い話だ。

 ジイ様は私の話す言葉一つ一つをゆっくりと反芻するように飲み込んでいたが、対して父と母は流石にこの異常な話に顔を強張らせていた。ついでながら、弟は話し始めてすぐに眠りの世界に招かれてしまったことも付け加えておく。

 

「なんともなんとも。実に奇異な話じゃ」

 

 話を聞き終えたジイ様は顎髭をしごきながらそう漏らした。

 だがその話し振りからは深刻さというものが感じられず、未だ緊張を保ったままの父は困惑したようにジイ様を仰ぎ見た。

 

「羽冠様、そう一人で納得されても困ります。……息子は、大丈夫なのですか?」

 

「そうです! 玄烏の話し振りではまるで悪霊に乗っ取られたかのようではないですか! 玄烏は悪霊に憑かれているのではないのですか⁉︎」

 

 父の言葉にはじかれたように顔を上げた母は、蒼白となった顔に険しい表情を浮かべジイ様に問い詰めた。その必死な様子に眠っていた呼廚泉がビクッと身体を震わし、気圧されるのが視界の隅に映った。

 

「息子が心配なのはわかるがそう殺気立つな。それこそ悪霊どもを喜ばすだけじゃ」

 

 ジイ様は語りかけるように話したはずであるのに、まるで一喝されたかのようにその言葉が心根にしみこんできた。それは母も同じであったようで、我に返った母は怯える呼廚泉を抱きしめた。

 

「……それでジイ様。結局のところ私には悪霊が憑いたままなのですか?」

 

 母が弟を抱きとめているのを尻目に、私はジイ様に問いかけた。

 

「最初に言ったがお前さんに憑いていたのは悪霊の類ではない。それは確かじゃ。人に憑りつくようなのは大抵動物の精霊や下等な悪霊なんじゃが、お前さんの話を聞く限り、どうもそういった連中とはもっと異質なモノの影響を受けたとみえる」

 

 ジイ様はそこまで言い切ると、「かれこれ七十年も前のことじゃが、わが師から似たような話を聞いたことがある」と前置きして言葉を続けた。

 

「偉大なる冒頓単于より興った大匈奴は、かつて西域から朝鮮までを支配下に置き、漢人さえも我らが単于の顔色を伺わずには物事を決することができんかった。しかし大匈奴は分裂に分裂を重ね、あるものは西に走り、あるものは鮮卑や烏丸などという小族にとって代わられ、あるものは仇敵 漢の番犬に成り下がってしまいおった」

 

 何を語るのかと緊張していた私と母は、ジイ様の語る昔話に少しばかり拍子抜けし、父は顔を強張らせた。

 当然である。ジイ様の語った「漢の番犬に成り下がった」匈奴を、単于として率いているのは父なのだから。そしてジイ様の語るとおり、今の匈奴は、漢の地で反乱が起きれば猟犬のように駆り出され、鮮卑どもが侵攻してくれば番犬として矢面に立ってきた。もっと言うなら、漢の一将軍によって単于の廃立が行われたことすらあり、父も漢人の手によって単于の地位に即いた。だが、それと私の状況とどう関係するというのか。

 

「その話については恐懼するほかありませんが、一体そのことと息子のこととがどのように関わっているとおっしゃるのか。まさか祖霊が現世のありさまを嘆き、私の代わりに於夫羅に罰を降されたというのか」

 

 席を立つことこそなかったものの、ジイ様のあんまりな言いように流石に怒りを感じたのか、父はジイ様の話をさえぎり詰問するかのような語気の強さをみせた。

 

「そうは言っておらん。とはいえおぬしの気分を害したのは謝ろう。えてしてジジイの話というのは冗長なものじゃ、もうしばし辛抱してわしの話を聞け」

 

 ジイ様は父に気圧されるでもなく、素直に謝罪しその言葉を飄々と受け流した。敢えなくいなされた父は、ジイ様の言葉にとりあえず冷静さを取り戻し、再び話を聞く姿勢をみせた。

 

「まあ辛抱しろとは言ったが、長々と話すこともあるまい。前置きはさておき、要点だけをまとめて話すとするかの」

 

 父の反応に一応は反省したのか、ジイ様は髭を扱きながらそう付け加えると、咳払いをして再び語り出した。

 

「わしの師は匈奴が南北に分裂する以前、西域の諸国を巡って浮屠という神を信仰する者たちに出会ったという。師の聞いたところによると、その神は西域のさらに西の安息から来たとも南の天竺から来たとも判然とはしなかったそうじゃが、その教えの一つには聖人となれなんだ人間は、死後に天上界や地下界に行くでもなく、罪苦を背負いながら人間やら動物やらとなって蘇るというものがあったそうじゃ」

 

 ジイ様の話に、件の人格のかすかに残った記憶から仏教と輪廻転生という単語が浮かんできたが、その詳細についてはそれ以上に思い出せそうになかった。だがジイ様の言わんとするところは何となく理解できた気がした。

 

「つまり悪霊だと思っていたモノは浮屠教のいうところの生前の私自身である、とジイ様はおっしゃるわけですか」

 

「うむ、理解が早くてたすかるのう。浮屠の教えを信じるのなら、聖人となれなかった者は生まれ変わりを繰り返すというのじゃからな。今のお前さんと先の世のお前さんの魂は同一のものであるから、その記憶を思い出すということも可能性としてはあるじゃろう。それに十五歳という肉体と魂が大人と子供の狭間にある不安定な時期であればこそ、その隙をついて眠っていた先の世の意識が現れることができたとも考えられるのう」

 

 ジイ様は語り終わると用意されていた水を一口に飲み干した。それを合図にする様に、父と母が小さく息を吐く音が聞こえた。だがまだ私には疑問が残っていた。

 

「ジイ様の話は一応は筋が通っていると思いますが、なんでまた浮屠とかいう西域の神の影響を受けたのでしょうか? どうもそこが理解できません」

 

「たしかに、我が先祖は西域に支配を及ぼしたとはいえ、ここ百年はほとんど関係を持っていない。それがどうして突然於夫羅に……」

 

「あるいはこれは吉兆やもしれぬな。西域の神がお主の息子於夫羅に加護を与え、西域は再び匈奴の支配下に入るという」

 

 髭を扱きながらジイ様はそうとんでもないことを言い放った。

 その言葉に一瞬部屋の空気が凍るのを感じた。

 

「な、なんとも、なんとも滅多なことを言われる。いくら羽冠様が俗世を離れられているとはいえ、軽々しく左様なことを言われては困ります! 今の言葉、もし漢人に聞かれては如何に羽冠様とはいえ無事では済みませんぞ!」

 

 最初に口を開いたのは父であった。私の混濁した記憶の中からこれほど慌てふためく父の姿を見た覚えはない。それとは対照的に、ジイ様は実に愉快そうに顔を歪めている。

 

「何を驚くことがあろうか。西域の神がわざわざ単于であるおぬしの息子に力を働きかけたという事は、今後その神が支配下に入ることを暗示していると考えるのはおかしくあるまい。むしろ喜ぶべきじゃ。於夫羅の代には百年にわたる漢の楔を打ち破って匈奴の再興がなるやもしれぬというのじゃからな。実にめでたいことではないか」

 

 そこまで言い放つと、ジイ様はついに大口を開けて笑い始めた。その破顔した様など、見ているだけで愉快な気分になれるほどであった

 そんなジイ様を母は呆れとも困惑ともつかぬ顔で見つめ、母に抱かれる呼廚泉はジイ様につられて無邪気に笑っていた。

 父はというと、頭を抱えるようにして押し黙っていたが、ちらりと私に向けた瞳には、何かを渇望するかのような妖しい光を宿していた。

 

──どうも大変な事が起こりそうだ

 

 私は、自身の運命がより大きな存在に翻弄されるような、言い知れぬ不気味さを感じた。



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第3話 来客者

 ジイ様こと羽冠の呪術師の予言めいた話を聞かされてから一月あまりが経った。

 あの時感じた不気味な予感が早々に的中する、などということはなく、この一月の間、私は医師に命じられてほとんどの時間を自室で過ごしていた。

 医師が言うには、外見上は問題なくとも先の昏睡で身体の中は相当に弱っている、とのことであった。

 当然、食事も薬草を混ぜた塩粥といったぐあいで、育ち盛りの身としては大変不満であったが、文句を言って治るものが治らなくなっては馬鹿らしいので、大人しく医師の言うことに従っていた。

 そんな貧相な食生活を送る私にとって、ときたま遊びに来る弟 呼廚泉が乾酪などをこっそりと持って来てくれたのは、実に嬉しかった。

 弟の呼廚泉とは十歳ほど年齢が離れているので、以前はなかなか話す機会がなく、疎遠というほどではなくとも決して親しい仲ではなかったのだが、この療養中に大分距離が近づいた気がした。そう思うとこの療養生活は価値あるものとなったのかもしれない。

 

 兄弟といえば、父の弟である去卑という人物が近々この単于庭に訪れるだろうと、父上が教えてくれた。父の弟などと回りくどい言い方をしたが、要するに私の叔父だ。

 去卑は洛陽に十年近くも滞在しており、漢人の基礎的な教養についてほとんど習得している、匈奴きっての知漢派と言われているそうだ。

 

 

 

 あの羽冠のジイ様の怪しげな予言から40日ほど、父上から知らせを受けてから10日経った頃だった。以前の味の薄い塩粥から羊肉や鶏卵の入った粥へと改善された食事を平らげ、窓から差す陽光に心地の良い午睡に誘われていた時、召使いが来客があると告げて来た。なんでも洛陽から帰還したばかりの叔父が見舞いに来るとのことであった。

 召使いに伴われて現れたのは、記憶の中にかすかに残った姿よりも、かなり小柄な男だった。

 父は決して巨漢と言えるほどの体格ではなかったが、それでも人より頭一つは大きく、四十も半ばを過ぎた現在もその身体は引き締まっている。その息子である私も同じ年頃の者に比べれば体格や肉付きは良い。

 そういう血だと思っていたが、父の弟だという去卑は随分と小柄に見えた。

 

「お久しぶりです叔父上。洛陽から帰ったばかりだというのに、わざわざ見舞いに来ていただきありがとうございます」

 

 表情には出さず、型通りの挨拶をした。

 

「おう、かまわんよ」

 

 去卑は用意された椅子に腰を下ろしながら言った。

 

「久しぶりに会ったが、随分とデカくなったな。それに礼儀も知ったとみえる」

 

 去卑は黒い瞳を向けてきた。その瞳は、なんとなく父のものと似ているような気がした。

 

「こうして会うのは十年ぶりですから、私も少しは成長しました」

 

「そうかね? 俺があっちにいた時に聞いた分だと、馬と狩りのことしか頭にないガキって感じだったがな」

 

 言われてみれば、そうだ。ほんの一月前までは遠駆けや馬上相撲、擊鞠(ポロ)、狩猟に射術といったものに夢中になって興じていた。

 

「まあ、馬と弓は我らの友だ。それ一辺倒となっては困るが、全く触れないよりは断然良い」

 

 そう言うと、部屋の隅に立たせていた従者を招き寄せた。

 

「ほれ、土産だ。もうしばらくは馬にも乗れんそうじゃないか、ちょうどよかったな」

 

「なんです、これは?」

 

 去卑が従者に持たせていたのは、一抱えほどもある竹簡であった。

 従者はその竹簡を寝台横の卓に置くと、サッともと居た隅の方へ退いてしまった。

 

「漢人の書物だ。これを丸暗記できんと、後で困ることになる。なにしろ数年は、あちらに居ることになるだろうからな」

 

 事も無げに言い放った言葉に、ものすごく引っかかるものがあった。

 

「……? 叔父上、数年はあっちにいるとは、どういう意味ですか」

 

「何を言っている。お前は匈奴と漢の親善大使兼次期単于としての教育を受けるために洛陽に行くことになってるだろう」

 

 去卑の言葉を飲み込めずにいたが、去卑は構わず話を続けた。

 

「あわよくば次期単于に親漢思想を植え付けようって魂胆もあるんだろうが、要するに人質だ。単于の弟なんぞより息子を人質にした方が良いに決まってるからな。俺を解放してやる代わりに、お前さんを洛陽に送れってのが奴らの要求だよ」

 

 もはや言葉もなかった。

 

「ほんとうに知らなかったのか。兄上も酷なことをする」

 

 私の様子に去卑は呆れたように言った。

 

「まあ、実際のところは成人の儀を終えたあたりで話すつもりだったのかもしれん。病身のお前に遠慮して言わなかっただけだろう」

 

 慰めるように言った去卑の言葉だが、正鵠を射ているような気もした。父上は案外気を遣う人であるし。

 だとしても、単于の嫡子を人質として送り出すなんて重大事が一朝一夕で決まるはずもない。多分数年前には、漢と匈奴との首脳の間で決まっていたのであろう。それを父上たちはずっと私に隠していたのか? 

 それとも、例の記憶の混濁でこんな大事なことまで忘れてしまっていたのか?

 どちらにしろ、去卑がこの単于庭に帰っている以上、この件は漢と匈奴との約定として動き出しており、今さら止められないものであることぐらいはわかった。

 未だに先の昏倒の後遺症と記憶の混濁があると言うのに、この分だと体力の回復次第すぐさま洛陽行きを命じられるかもしれない。自分のことの整理すらついていないのに、安心できる環境から一転未知の土地に行くというのは、あまりにも不安だ。

 

 私が押し黙ってしまったのを見た去卑はわざとらしく声を上げた。

 

「……そうであった玄烏よ、お前にはもう一つ土産があったのだった」

 

「はぁ、それはありがとうございます」

 

 去卑は私の生返事も気にせず、部屋の隅で息を殺すようにたたずんでいた従者を指差した。先程まで竹簡を抱えていた者である。

 

「蔡琰という。字は昭姫だったかな」

 

 いきなり従者の名前を告げる去卑に一瞬疑問符が浮かぶが、すぐに合点がいった。

 

「叔父上、まさか土産とは彼のことですか?」

 

「そうだ。ははっ、お前さん。一つ勘違いしておるようだがこいつは女子よ」

 

 蔡琰と呼ばれた従者は緑がかった黒髪を小さく纏めていたのでてっきり短髪の少年だと思っていたが、去卑の言葉によくよく観察してみると、うっすらと朱をさす頬とふっくらとしたあかい唇を除けば、衣服からのぞく肌や顔色は異常なまでに白く、とても男のそれとは思えない。いや、女であっても家業の手伝いなどでもっと日に焼けた肌をしているものだが、この色白さは彼女がそういった身分ではなかったことを感じさせる。

 さらに、彼女のややつり目がちな目は、疲労の色が出てはいるものの、その黒い瞳からは知性を感じさせた。三日月を思わせる眉には意思の強さが宿り、しかも女性的な柔らかさを備えていた。

 くわえて「昭姫」という字を持っていること自体、蔡琰が高貴な生まれであることを示している。庶民が字など必要としないということぐらいは匈奴人の私でも知っている。

 

「たしかに見れば見るほど女だ。それも高貴な生まれと見受けた。失礼なことを言ったな蔡琰とやら」

 

 私の言葉に蔡琰はわずかに頭を振り、「とんでもないことです」と、静かに答えるとそれきり黙ってしまった。どうやら会話をするつもりはないらしい。

 

「そやつの父は蔡邕といってな、漢随一の碩学であった」

 

 見かねたのか去卑が蔡琰の身の上について話し始めた。

 

「今のお前に言ってもわからんだろうが、広大な漢といえども蔡邕ほど優れた学者は片手で数えられる程にしかいなかった。しかも蔡邕の偉大なところはその学問を己だけのものとせず、広く志学の徒に教えを授けたことだ。洛陽の太学には今でも蔡邕自身が筆をとった石経が残され、これを学ぶために多くの者が訪れたものだ。俺もそうした者の一人であったし、お前さんにくれてやった竹簡もほとんどは俺が蔡邕の石経を写し取った書写本を基に作らせたものだぞ」

 

 去卑は語りながらも昔を懐かしむような顔を見せた。

 それにしても、去卑という人はその話ぶりからは武張った男なのかと思いきや、経書の書写を行い本にまとめるほど学問に熱心な男だったらしい。匈奴の男というのは大抵武術と馬、そして遊牧のことしか考えていないものだが、この叔父はそうした基準から見るとずいぶん異色で、私が今まで接したことのない種類の人だった。

 

「それほどの大人物であるから人々は皆、蔡邕が漢の高官になるものであると考えていた。ところがその時の漢主は蔡邕を琴の奏者として召し抱えようとした。当時の人々は落胆した。この帝はこれほどの学者をただの芸人としか見ていないのか、とな。当然、蔡邕もこの馬鹿にしているとしか思えん誘いは蹴り、隠棲してしまった。それから数年後に今の漢主である劉宏が即位し、ようやく議郎というまともな官位を授けられた」

 

「それはなによりではありませんか。あるべき地位にあるべき人が就いたということでしょう」

 

「そうなのだが、蔡邕の悲運はここから始まったと言っていい」

 

 蔡琰の事情について話すのかと思っていたが、父親の蔡邕の方へと話がズレた気がする。あと、なんとなく察してはいたが、去卑はその蔡邕という人物を尊敬していたのか、その語る様はいやに感情の入ったものであった。私としてもそんな叔父の語りに割って入るのは気がひけたので、長くなりそうなこの話に付き合ってやることにした。

 しかし私は病み上がりの身なのだが、わかっているのだろうか、この叔父さまは。

 

「ちょうどいい機会だ。お前は漢について知らねばならん。蔡琰の境遇のついでに、今の漢についても話すとしようか。まず大前提だが、お前は宦官というモノを知っているか」

 

「それぐらいなら。我らが家畜の統御のため一定の牡を去勢するように、漢主が後宮の女や一族の世話をさせるために使うのが、去勢した男である宦官ですよね」

 

「ハハハッ、確かにそうだ。我々がよりよい馬を育てる際に、種馬以外の牡馬を去勢するのと同じことだ。ふふっ、ならば漢主は種馬か、愉快なことを言う奴だわ。しかしまあ、残念ながらというのもおかしな事だが、いまの漢主である劉宏は女だ。種馬とは言えんがな」

 

 「それに宦官も男だけとは限らん」と付け足した去卑は、先ほどの自身の発想が余程面白かったのか、しばらくクツクツと笑った。

 

「まあ、問題はそこではない。いや劉宏には大いに問題があるが、それ以上に害悪なのが宦官でな。本来宦官などというモノは漢主の奴隷のようなものだったのだが、漢主の若死が続き、幼君が相次いで立つようになると、その世話をする宦官は漢主に親代わりとして信頼され、次第次第に力を増して政治にも口出しするようになってきた」

 

「それだけならまだよかった。外戚や権臣が跋扈し朝廷を牛耳るのと同じことだ。むしろ宦官が力を持つことは、そうした勢力との間である種の均衡を生み、政権を安定させることにもなった。だが、何を考えたのか先先代の漢主は宦官に養子をとることを認めた。これが宦官・外戚・官僚の均衡を崩した。どういうことかわかるか?」

 

「単純に考えるなら、宦官は養うべき家族を得たということでしょうか」

 

「随分ぬるい言い方だが、そうだ。それまでの宦官はどれほどの財産を得ようと、それをただ浪費するしかない。なにしろ蓄財しようが遺す相手などいないのだからな。だが、家族が出来れば話は変わる。子々孫々にわたる繁栄を夢見るのは、人として当然のことではある。だが、宦官の欲望というのは底が知れん。奴らは漢主の寵愛と圧倒的な財力、そして養子縁組によって築いた縁戚関係によって、あっという間に漢の全土にその支配を及ぼすようになった」

 

「しかしいくら漢主の恩寵があるとはいえ、外戚や官僚たちは宦官の台頭をただ黙って見ていたわけではないのでしょう。聞いている分には宦官は家内奴隷とそう変わらない存在のようですし、彼らだけでは国家の運営もできないのでは」

 

 私の言葉に去卑は顔を上げ、「よく話を聞いとるじゃないか」と言いつつ笑った。

 

「その通りだ。ならば、政治をできる者を仲間に引き込めばよい。宦官は子供を成せず、自分の家を残すには他家からの養子をとるしかない。これほど有力者たちにとって都合の良いことがあるか。宦官に一族の者を養子に送り込めば、その宦官から一門として扱われ、甘い汁を吸えるのだからな。宦官としても自分の家を残し、なおかつ門外漢である政治を任せられる身内を得られるのだ。どちらも損はしない」

 

「そうして有力者の中にも宦官に従うものとそうでないものとが生まれた。宦官を敵視する者たちは自身らを『清流』、宦官に与する者を『濁流』と呼び、有力者の中でも分断が進み、士大夫や豪族は弱体化した。お前が言ったようにこの状況に危機感を抱いた清流派が何度か武力による宦官の排除を試みたが、その全てが失敗に終わった。まあ、いまの漢を支配するのは濁流派で清流派は雌伏していると覚えておけばいい」

 

「外戚の場合はもっとひどい。漢主の後宮を司るのは結局のところは宦官だ。つまり宦官の協力なくして皇后の地位は得られない。劉宏の后である何氏もその姉で最近河南尹(首都洛陽周辺の行政長官)に昇った何進も宦官に取り入ったことにより、今の地位についたという。そういう経緯があるから何姉妹は宦官に対し従順といっていいだろうな」

 

 ……? さて、去卑が言うには今の漢主劉宏は女だという。だというのに妃である何氏もまた女だというのはおかしな話ではないか?

 まあ、いいか。今あえて話の腰を折ってまで聞く必要のあることではないし、漢という大国ならばそういうこともあるのかもしれないじゃないか。

 そう自分を無理矢理に納得させることにした。

 

「……凄まじい状況ですね。そんな内情の国に従っている我らが言えることではないですが、よく崩壊しませんね」

 

「それだけ漢という国の土台がしっかりしているということだ。大樹の幹が病に罹っても、それはまだ枝や根には及んでいない。だからこそ蔡邕のような人材が現れる」

 

 だが、と言葉を続けた去卑は、哀れむように黙したままの蔡琰に目を向けた。

 哀れみの視線を受けた蔡琰は、依然としてその顔に感情の色を浮かべることはないが、なんとなく物悲しい雰囲気を感じた。たんに彼女の深窓の令嬢然とした容姿と叔父の言葉に、私が勝手にそう感じているだけなのかもしれないが。

 

「叔父上、蔡琰と宦官になにやら因縁があることは分かりましたが、それは一体?」

 

 去卑による漢の現状の講義が一先ず終わったとみて、話を蔡琰の身の上話に戻すように促した。

 

「こやつの父である蔡邕は、宦官が私利私欲の限りを尽くすのを見過ごせるような男ではなかった。とはいえ、常に宦官に取り囲まれている劉宏に宦官は危険だと言うこともできん。そんな事をすればすぐに宦官は蔡邕になんらかの罪を被せて排除するだろうからな。そこで蔡邕は封事を行なった。封事というのは宦官やら官僚やらの目に止まる事なく漢主に上奏する唯一の手段だと思えばいい」

 

「……うん? それはおかしいのでは? 何故、叔父上は蔡邕が封事を行なった事を知っているのですか」

 

 私の疑問に対し、去卑は心底呆れたような、軽蔑したような顔を見せた。

 

「知れたことだ。劉宏といううつけ者は、蔡邕の上奏文を遊び半分に宦官どもにくれてやったのだ。封事というのは臣下が命を懸けて君主を直諌する行為だ。それを劉宏は蔡邕の覚悟を弄ぶかのように踏み躙った」

 

 去卑は明確な敵意、いや殺意すらこもった声を吐いた。漢人の常識を知らぬ私には完全に理解することはできぬが、漢人の感覚を知る去卑からすると、劉宏の行いはいかに至尊の地位にいる者であってもやってはならないことなのであろう。

 

「普段なら宦官どもも蔡邕ほどの大学者には手を出せんかったが、上奏文でかなり手厳しく糾弾されたのだろうな。宦官の方でも収まりがつかず、一時は蔡邕は死罪とされた」

 

「一時はというと、死罪にはならなかったのですか」

 

「そうだ。ここまで話してきてなんだが、宦官もすべてが悪辣と言うわけではない。一部の宦官たちは流石に死罪はやり過ぎであるとして減刑を願い出た。その結果、蔡邕は一家とともに朔方郡への流刑にと減刑された」

 

「蔡邕は朔方郡に居るのですか? そんなのここからすぐではありませんか」

 

 我ら匈奴は漢の番犬となったが、その代償として漢の北辺地帯での遊牧を許されている。今我らが単于庭、漢人風に言うなら首都を置くのも、漢の区分で言えば并州西河郡美稷県となる。西河郡の西に位置するのが朔方郡であり、この地も匈奴の遊牧が許され、数万の同族が生活しているはずである。

 

「何故蔡琰がここにいると思う。蔡邕はとっくに死んだわ」

 

 吐き捨てるように言う。

 

「一部に良識派がいるとはいえ、現実としてほとんどの宦官は悪虐な者たちだ。蔡邕を生かし、野に放てば必ず反宦官の旗頭となる。そう考えた宦官たちが何をするかなど幼児でもわかる」

 

「いくらなんでもそんな雑なことがありますか? 洛陽の人々も高名な蔡邕が流刑先で死ねば、その下手人が誰かなんて簡単にわかりそうなものですが」

 

「もちろん多くの者がこの陰謀に気づくだろうよ。だが今の宦官の権勢を前にすれば、沈黙以外の行動はないと断言できる」

 

 そう言い切ると、去卑は意地悪そうな、自嘲するような、とにかくそういった種の笑みを浮かべた。

 

「それにな於夫羅よ。漢人から見れば、この地は辺境だ。だからこそ、我らの遊牧が許されている。そんな異民族が跋扈する辺境ならば賊などいくらでもいるし、そうした賊によって護送中の囚人が襲撃され、家族丸ごと皆殺しになることも不思議ではない。そういう思考が漢人の根底にはある。言っておくが、これは宦官だろうが官僚だろうが変わらん。それこそ辺境を熟知する董卓や馬家の者たちでさえ、我ら異民族を暴力しか知らん野蛮人だと思っている節がある」

 

 董卓や馬家といえば、漢の最西端の州である涼州で功績を上げた将軍たちであり、その名は匈奴にも知られている。特に董卓は異民族である羌と友好的な関係を結んだと言われた人物であるが、去卑がわざわざここで嘘をつく必要もないのだ。去卑の言葉は妄言ではないのだろう。

 であるならば、漢人は我らを瘴毒の湧き起こる地に居座る野蛮人程度にしか見ていないのだろうか。叔父の口振りからすると、半獣半人の化け物と思われていてもおかしくなさそうだ。

 だが、思い当たるものがないわけでもない。漢主の使者として父に会いに来る漢人は、単于である父以外にはあからさまに見下した態度を取っていた。それは宗主国と属国という上下関係によるものであると思っていたが、ただ単に我らを穢らわしいモノとして嫌悪していたが故のものだったとすれば、納得もいく。

 蔡琰の対話を拒むかのような態度も、ただ疲労と心労のためなのだと思っていた。しかし去卑の話を聞いた後では、そこに我らに対する恐怖や嫌悪の感情があったのではないかと思えてしまう。いや、流石に飛躍しすぎだろうか。

 

 去卑は私の沈黙に何を感じたのであろうか、私の肩に手を置いてきた。

 いつの間にやら、私は名も知らぬ多くの人々から蔑視されるという未知の感覚に恐怖していたようだった。

 肩に乗る去卑の手は私のものよりも小さかったが、私を仄暗い思考から拾い上げるには十分だった。

 

──落ち着け。蔡琰の匈奴人観などどうでも良いじゃないか。我らをどう思おうと、少なくとも、今ここにいるのは、家族を失った哀れな娘だ。

 

 思考を切り替えるように私は話の続きを求めた。

 

「……では蔡邕とその家族は護送中に刺客によって殺され、たまたま蔡琰だけが生き残ったということですか」

 

「そうだ。もう少し詳しく言うなら、俺が単于庭に向かう途中、ちょうど襲撃に遭っている蔡邕たちを見つけ、刺客を皆殺しにした時に生き残っていたのが蔡琰を含めて3人だけだった。すでに蔡邕は死んでいたし、生き残った他の2人も傷が深くすぐに死んだ。蔡邕が宦官に狙われていることは知っていたし、見殺しにする気もなかった故、蔡琰には従者の変装をさせ、ここまで連れてきた」

 

「気の毒だが蔡邕たちの死体はそのまま放置した。あそこは街道とはいえ人通りがないからな。死体が見つかる頃には獣に食い荒らされて原型をとどめていないだろう。哀れだが蔡琰があそこで死んだことにするにはそうする他なかった」

 

 去卑の言葉に蔡琰は泣くことも呻くこともせずに、ただただ沈黙を守った。

 

「刺客の死体はどうしたのですか?」

 

「一部は蔡邕たちの元に残し、残りは道中埋めさせた。この事件の黒幕どもとしては、刺客も口封じのために殺すだろうからな。それを察知して逃げたように見せかけた。だが、なぜそんなことを聞く」

 

 そう言うと去卑は流石に話疲れたのだろう。卓に置かれていた水差しを直接口に含んだ。瞬間、去卑は顔を歪めた。まあ中身は薬湯なんだからそりゃそうなる。

 そんな去卑のことを置いておいて気になることはある。

 

「……懸念があるとすれば、黒幕側が襲撃の成否を確認するために見届け人をつけている場合です。それが襲撃者と共に居たのならともかく、襲撃者を監視するように動いていたのなら、工作の意味がなくなってしまいます」

 

 私の質問に薬湯の苦さを毒づいていた去卑は、一転して満足げに笑った。

 

「よくそこまで気づいた。当然配下には騎馬で三日の距離は探させた。だが、監視者のような者はいなかった。お前の言うように襲撃者に紛れていたのかもしれないし、もっと後方に待機していたのかもしれん。だが、三日もあれば、獣どもに死体は食い荒らされるだろうよ。それに宦官というのは執念深い割にどこか足りないところがある。そもそも監視者など用意していなかったのかもしれん」

 

 叔父がそこまで言うのなら、三日の距離には監視者はいなかったのだろう。我ら匈奴にとって并州の大部分は庭のようなものだ。それを余所者が我らに気取られずに身を潜めることは不可能であると言っていい。

 

 

 

 随分と長いこと話していたのだろう。すでに窓から指す陽の光は西に大きく傾きつつあった。

 部屋に差し込む西日の眩しさに思わず私と去卑がともに目を顰めた。もう去卑と話すことはほとんどなかった。ただ一つの、もっとも重大な事項を除いて。

 

「蔡琰の事情はわかりました」

 

 「そうか」と呟いた去卑は私に目を向けた。

 

「何故、蔡琰を私に預けると?」

 

 私は蔡琰に目を遣ったが、この長い間まったく感情に動きが見られなかった。家族や親しい人が目の前で惨殺されたのだ。その苦痛は想像もできないし、心が壊れてしまっていても不思議ではない。

 

「話を聞けば、叔父上は蔡邕の学問上の弟子となりますし、個人的にも彼を尊敬しているように感じました」

 

 私の言葉に去卑は大きく頷いた。

 

「確かに俺は蔡邕から直接指導を受けることは終ぞなかったが、彼を師と仰ぎ、その人格の高潔さにも敬意を抱いている」

 

「ならばこそ、蔡邕の最期の場に居合わせ、蔡琰を救ったのはもはや運命としか思えません。これは神々が蔡琰を叔父上に預けたと見るのが筋というものではありませんか。私はつい先程まで蔡邕の名すら知りませんでした。そんな私が蔡琰を預かるなど道理に反する」

 

 去卑は私の言葉に再び大きく頷いた。

 

「如何にも、私も当初そのように考えた」

 

「ならば──」

 

「だからこそなのだ。於夫羅」

 

 私の言葉を遮る去卑の言葉にはどこか悲しげな音があり、思わず押し黙ってしまった。

 

「俺は10年という歳月を漢で過ごしてきた。その年月はあまりに長かった。俺は漢人の心というものを知り過ぎてしまった」

 

 悲しさと悔しさが混ざった瞳が私を見つめていた。

 

「俺の心は依然変わらず匈奴のものと変わらない。だが、心のどこかでは匈奴の生活になど戻りたくない、という声があるのも事実だ」

 

 その告白はあまりにも唐突なものだった。

 

「俺の部族は朔方郡で生活している。朔方という語は漢語で北方を意味するが、それに付随する言葉は辺境、野蛮、未開だ。10年もの間洛陽というこの世界最大の都に居た俺にとって、朔方での暮らしはあまりにも辛すぎる」

 

「な、何を言っている……いるのですか」

 

 匈奴を束ねる単于の弟の言葉に、ただ唖然とする他ない。

 

「だが、それは耐えられない痛みではない。俺は匈奴の、(単于)の弟として果たさなければならない務めを忘れたことはなかった」

 

 カッと目を見開いた去卑は、亡霊のように部屋の隅に佇む蔡琰の腕を掴むや、私の目の前へと連れてきた。あまりにも強く掴んだのか、今までほとんど動揺することのなかった蔡琰が、怯えたように小さくか細い声を上げた。

 

「だが! だが、蔡邕の娘である蔡琰は駄目だ。蔡邕こそ、文明の中心地たる中華で生きるべき人間であった。それが哀れにも辺境に屍を晒し、その身を獣に喰われるとは、これほどの悲劇はない!」

 

 去卑が蔡邕に傾倒していたのは分かっていたが、これほどとは思わなかった。いや、蔡邕というよりも、去卑は中華の文明に魅入られたのだ。確かに、前世の記憶から見れば、定住せずに家畜を追って生活する匈奴は『未開』で『野蛮』である。そんな中から見上げる『文明』という光に憧憬をおぼえてしまうのも理解はできる。

 

「その蔡邕の忘れ形見を、朔方に連れ去り、無惨に朽ちさせるなど、俺には出来んのだ」

 

──人というのはここまで悲痛な顔が出来るものなのか。

 

 去卑の顔を見て抱いた感想はそれであった。

 去卑は中華という絢爛たる文明と自身に流れる匈奴の中でも特別な単于の血との板挟みになっているのだろう。その苦痛がどれほどのものなのか私にはわかりようもない。

 

「落ち着いてください。叔父上。蔡邕の忘れ形見を傷物にするおつもりですか」

 

 私は冷静を装い、叔父の昂りを鎮めにかかった。

 私の蔡邕を利用した言葉に、去卑はハッと我にかえり、慌てて蔡琰の腕を離した。蔡琰の白磁の腕には、赤黒い手形がくっきりと残り、その痛々しさを強調していた。

 自由になった蔡琰は再び元の部屋の隅に戻ろうとしたが、私はそれを止めた。

 

「蔡琰、いや昭姫。こっちに来て一緒に話を聞いてくれないか」

 

 私の言葉に蔡琰は立ち止まりはしたものの、逡巡した様子で数十秒ほど立ち尽くしていたが、諦めたように去卑の隣に置かれた椅子に腰を下ろした。私は蔡琰に「ありがとう」と伝えると、呆然としたままの去卑に向かい合った。

 

「叔父上。私は未だにわからぬのですが、昭姫を私の元に置いても、単于庭もまた中華から程遠い辺境であることに変わりはないのではありませんか」

 

 落ち着きを取り戻した去卑は少し申し訳なさを見せながらも語り出した。

 

「結論から言えば、お前が洛陽留学をする際にこの娘も共に連れて行ってほしい、というのが俺の願いだ」

 

「なるほど、それはたしかに叔父上の意向に叶う話だ。しかし、洛陽には昭姫の顔を知る者も多いのでは?」

 

 私は蔡琰に目線を向けたが、相変わらず話すつもりはないらしい。

 

「いや、蔡邕は厳格な儒教の実践者であったから、嫁入り前の娘をみだりに人前には出さなかった。俺も一度だけ輿に乗る蔡琰の横顔を見ただけだ。他の者、特に蔡邕を敵視するような濁流派の人間は、蔡琰の後ろ姿すら見たことあるまい」

 

 私は沈黙を保つ蔡琰に相違ないか尋ねたが、返ってくる言葉はなかった。しかし、そのかわりとばかりに蔡琰は小さく頭を縦に振ってみせた。

 

「叔父上の話は本当のようですね」

 

「どうだ於夫羅。俺の頼みを聞いてはくれぬか」

 

 去卑は私に頭を下げた。

 

「叔父上、頭を上げてください。私はまだ一番大切なことを聞いていません。それを聞くまでは叔父上の頼みに諾否を答える以前の問題です」

 

 怪訝そうに頭を上げた去卑を尻目に、私は蔡琰を見つめた。

 間近で見た蔡琰は美しかった。一見その白すぎる顔色から儚げな印象を受けるが、彼女の黒い瞳は知性を湛え眉は意思の強さを感じさせる。まるで正反対の特徴だが、それが見事に調和した美しさがそこにあった。

 

──そういえば、儒教は調和を重要視するのだったな。蔡邕は娘の容姿にまでその教えを実践したというわけか。

 

 思わずそんなくだらない感想が浮かぶ程に、見惚れてしまった。私と同年代のはずだがとてもそうは見えない大人びた容姿だったのだから、しようがない。

 

 話が逸れた。いや、ここに至るまでに脱線しまくっている気もするが、そんなことはどうでもいい。

 

「昭姫。今までの話は聞いていたか?」

 

 気を取り直して蔡琰に尋ねると、「はい」と手短な答えが返ってきた。

 

「おっ、ようやくお前の声が聞けたよ。よかった」

 

 羽冠のジイ様のように、なるべく明るい調子で話してみてはいるが、どうだろう。心に傷を負っているだろう蔡琰と会話をするさまを思い浮かべると、自然とジイ様の姿が浮かんできた。私の猿真似に彼女がどう思っているのか、見ただけではまるでわからない。まあ、ついさっき会ったばかりの相手の気持ちなど分かるほうがおかしい。

 

「つい数日前に家族を喪ったお前にこんなことを聞くのはかわいそうだが、どうなんだ。叔父上はお前を私と共に洛陽に送りたいと言っているが」

 

「わたしは、帰りたいです。洛陽へ」

 

 蔡琰はそう答えた。てっきり家族を亡くし心神喪失状態にあると思っていたので、意外な返答であった。だが彼女がそう答えるならば、その理由を聞かなくてはならない。蔡邕の娘である蔡琰もまた宦官たちに命を狙われる存在だ。一応蔡琰の顔は知られていないとの事だが、洛陽に行くというのは虎口に飛び込むのと同じ。最悪の場合、この場の三人だけでなく、父上たちにさえ危険が及ぶかもしれない。

 

「一応言っておくが叔父上に義理立てする必要はお前にはないんだぞ。叔父上のそれはあくまでも叔父上個人の願望にすぎない。お前が助けられたのを恩義に感じたのだとしても、わざわざ危険を冒すことはない」

 

 私の言葉に、去卑は流石に不快を感じたようだが、怒号も罵声もあげずに、聞きに徹するようだった。自身の思いが蔡琰のものより優先されるべきではないと、理解しているのだろう。

 

「たしかに、去卑さまにはわたしの生命を救っていただいた大恩があります。しかし、わたしが洛陽への帰還を望むのは、あくまでもわたしの望みによるものです」

 

 蔡琰の言葉にははっきりとした意思が通っており、先程までの弱々しい様子とはまるで別人であった。

 

「その望みとはなんだ」

 

 蔡琰はやはりはっきりとした口調で答えた。

 

「復讐です」

 

 まったく予想しない言葉に私だけでなく、去卑すら驚きをみせた。だが考えてみれば家族の仇討ちなんてよくある話だ。蔡琰にとって復讐というのは当然の選択だったに違いない。

 ただそんな復讐などという物騒な言葉が、蔡琰のような可憐な美少女の口から出るのでは、血生臭い言葉から一転して悲壮な美しさすら漂わすのだから不思議だ。

 

 私より一足先に我に帰った去卑は、どこか優しげな口調で蔡琰に語りかけた。

 

「蔡琰よ。復讐がくだらないなんて言うつもりはないが、宦官などというつまらん連中を殺すためだけに生きるというのはあまりに悲しい。別の道があるのではないか」

 

「いえ、私の生きる道はそこにしかありません。それに、わたしの復讐の相手は宦官ではありません。もちろん濁流派でも」

 

 先ほどから蔡琰の言葉には予想を裏切られてばかりだ。彼女の家族を殺したのは十中八九宦官と濁流派だというのに、それらは復讐の相手ではないというのだ。ならば誰に復讐するというのか。

 そうした私の疑問に応えるように、蔡琰の黒い瞳が私に向けられた。

 

「わたしは、父を、母を、皆を殺した宦官と濁流派よりも、そんなモノが存在することを許した漢という国を赦せないのです」

 

「わたしは漢を滅ぼすために洛陽へ帰ります」

 

 そう言い切った蔡琰の顔には、凄惨も悲壮もなかった。

 あるのは彼女の絶対的な意思の強さだけだった。

 

 私はそんな彼女の気高い意思の光に、胸が大きく高鳴るのを感じた。




暇な時間を見つけつつ書いていたらこんなにも期間が空いてしまいました。
というか無駄に長くなってしまった、短く纏めるのって難しい。


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第4話 迷う

 

「わたしは漢を滅ぼすために洛陽へ帰ります」

 

 蔡琰の言い放った言葉は、匈奴人の一人としては実に胸のすくような面白いものだった。もし、ここがどこぞの酒呑場で、酔っ払いが酔いに任せて吐いた妄言であるなら、皆で笑い飛ばしてこの話は終わりだ。

 だが、そうではない。そんな愉快痛快な妄言を吐いたのは漢の名士として名高い蔡邕の一人娘 蔡琰である。そして、その言葉を聞いたのは市井の飲み仲間なんかではなく、匈奴単于の嫡子にして次期左賢王の於夫羅と単于の弟であり右賢王である去卑という匈奴きっての有力者たちだったのだ。しかもここは匈奴の本拠地である単于庭だ。もはや、笑い話では済まない。

 

「漢に復讐するとは、また途方もない話だ。しかもそんな言葉が、あの蔡邕の娘の口から飛び出すとはな」

 

 この空間を支配していた重苦しい空気を払ったのは、去卑の言葉だった。

 

「あらためて聞くが、蔡琰、気は確かか」

 

 蔡琰は叔父の言葉に初めて笑顔を見せた。

 

「正気、そんなものは家族と共に死んでしまいました。漢を滅ぼすなんて気が狂ってないと言えないですものね」

 

 蔡琰は微笑みを浮かべたまま、私に顔を向けた。

 この時が、私と蔡琰が互いの顔を見つめ合った最初の瞬間だった。

 さっきまではこの顔に純粋な美しさしか感じられなかったが、今となってはそれすら魔性なものに思えた。我ながら現金なことではある。

 

「於夫羅さま。今度はこちらから聞かせてください」

 

「な、なにか」

 

「貴方は今の話を聞いた上で、わたしの身を引き受けてくれるのですか」

 

 私は即答は避け、薬湯の入った椀を一息に煽った。口内に薬湯特有の苦味が広がったが、今はそれがありがたかった。

 

 苦味によって冷静になった頭が、この女は危険だ、と告げてきた。だが、そんな事は彼女自身が一番わかっているはずだ。

 そもそも、今ここで復讐について私たちに話す必要はないではないか。一先ず私の保護下に入り、洛陽に随行してから陰謀なりなんなりを巡らせればいい。彼女自身が狂ったと言ってはいるが、理性まで失ったようには見えない。だとすれば何か意図があるんじゃないのか?

 

 ……わからない。蔡琰の状況を自分なりに考えてみたが、家族が死に、自分一人が生き残ったという極限の状態から、下手人ではなく漢という国家を滅ぼすという思考が、まずわからない。

 

──まさか、本当に狂ってしまったのか?

 

 そうとしか考えられぬほど、蔡琰の発想は飛躍しているし、常識という枠を超えている。

 宦官や濁流派を滅ぼすだけでも困難だというのに、漢そのものを滅ぼすなど、家族を失った10代の少女に出来るはずもない。それこそ、この世のあらゆる神々の加護を得た英雄が全生涯をかけて、やっとのことで成し遂げるような話ではないか。

 

──神々の加護

 

 自分が心中に発したその言葉は、なぜか強く脳裏に刻まれた。

 それと同時に、「まさか」という思いと、「そういうことか」という相反する二つの思いが脳裏に浮かび上がった。そして、その思いの天秤は、ゆっくりと確実に片方へと傾いていった。

 

──なるほど、そういうことなのだ。これは、この告白は、蔡琰が自身の運命を占うための儀式なのだ。天涯孤独の彼女が漢を滅ぼすことなど、どう考えても不可能だ。それを成し遂げるただ一つの方法は神々の力を借りることしかない。漢人風に言えば、天命を受けることによるしかないのだ。

 

 そう考えると蔡琰の不可解な行動の意味が理解できたし、他にもスッと腑に落ちるものがあった。

 

──あるいはこれは吉兆やもしれぬな。西域の神がお主の息子於夫羅に加護を与え、西域は再び匈奴の支配下に入るという。

 

 羽冠のジイ様が予言したこの言葉は、もしかすると彼女の運命に通じているのではないか。

 あの時のジイ様は私が匈奴を漢より解放すると考えていたが、実際には蔡琰が漢を滅ぼすか、その支配体制に打撃を与える。そして、そのどさくさに紛れて私が匈奴の独立と西域の再征服を行うというのが、神々の描いた筋書きなのではなかろうか。

 これならば、漢という大国の楔を脱し、西域を支配するという夢物語も、なんとか実現できそうな気がしてきた。

 

 実際、蔡琰は家族が皆殺しに遭っていながらただ一人生き残り、漢に対抗し得る力を持つ匈奴の王の弟に救出されるというような、偶然とは言い難い出来事を立て続けに起こしている。これらは蔡琰が神々の加護を受けている何よりの証拠なのではないのか? 彼女を私の元に送り込んだのは去卑ではなく、神々なのではないか?

 そうであるならば、神々の意志を尊重して、彼女を受け入れ、協力すべきだ。

 

 もちろん、その道は我ら匈奴に多大な苦難を与えるであろうし、もし神々に見放されれば、その時こそ匈奴は滅びてしまうかもしれない。そもそも、私のこの考えがまるっきり見当はずれであるかもしれないのだ。

 だからといって、私に流れる冒頓単于をはじめとする偉大な先祖たちの血は、このまま漢の奴隷として滅びていくことを潔しとしない。むしろ、民族の誇りをかけて戦った末に滅びることをこそ、よしとする。

 いささか過激ではあるし、私こそ発想が飛躍しすぎているきらいがあるが、もはや私の中では答えは決まった。

 

 私は再び蔡琰を見つめた。

 

 やはり、美しかった。先ほど感じた魔性のものなど露ほども見られなかった。それどころか、どこか犯し難い神聖さを感じた。

 神々から天命を下された者の面差しとはこういうものなのであろう、という感慨深ささえ感じてしまう。

 

「昭姫、君を受け入れよう」

 

 言い終わると、私は蔡琰に手を伸ばした。

 蔡琰は気の抜けたような顔を一瞬したが、ゆっくりと私の手を取った。

 

「於夫羅さま、あらためて聞きます。……気は確かですか?」

 

 私の手を握る蔡琰は、急にしかめ面をし、わざとらしい低い声でそう言った。

 予想だにしなかったこの意趣返しに、今度は私の方が面食らってしまった。この発言の主である去卑も流石に驚いたのか、ポカンと呆けているのが視界の端に映った。

 この冗談とも皮肉ともつかぬ言葉に、蔡琰という少女を覆っていた神秘性が急速に剥がれ落ち、少し皮肉っぽい年相応の少女の姿が見えた気がした。

 

 蔡琰の美貌を神格化し、民族の誇りだの天命だのを投影して四角く考えていた自分が滑稽であった。あるいは、今の彼女の姿さえ私の幻想だろうか。

 

──どうも私は場の空気に呑まれやすい、単純な人間らしい。

 

 自嘲しつつも、私は蔡琰に答えた。

 

「漢を滅ぼすなんて無謀に付き合うのは狂人しかいないよ」

 

 例の昏倒事件以来、神々の掌の上で踊らされているかのような不気味なモノがあった。ここに至って、やはりあの事件によって、私の運命は狂わされたのだという確信を得た。

 ならば、抵抗するだけ無駄である。せいぜい天上の神々に飽きられないように踊り狂うほかないのだ。

 

「姓は攣鞮、名は於夫羅。真名は玄烏だ。」

 

 気がつけば、そう言っていた。

 

「蔡琰、字は昭姫。真名は琵琶。わたしの話を聞いてしまった於夫羅さまはもはや逃れられません。この狂人の気が済むまで付き合ってもらいます」

 

 その美貌の底から吐き出されてくるのは、やはり10代の少女に似つかわしくない、復讐者としての言葉だった。

 

「ふふっ、わたしたちの関係は、さながら比翼連理の仲といったところでしょうか? 於夫羅さま、どうぞ末長くよろしくお願いいたします」  

 

 蔡琰は悪戯っぽく、皮肉っぽく、それでいて意地の悪い笑みを浮かべながらそう言った。

 その笑顔は、彼女の怜悧な美貌に実によく似合っていた。

 復讐者としての決意を湛えた憂いの表情よりも、よほど。

 




短めですが、今後モチベ維持と文章慣れ、投稿ペースのためにも2千字前後で投稿していくかもしれません。
あと、第1話、第2話とかだと寂しいので、サブタイつけてみました。


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