If you so wish. (ハイドさん)
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If you so wish.

「ねえ、もし、欲しいものが何でももらえるとしたら、何が欲しい?」

 

 少女は言う。

 

「私は、両手いっぱいのケーキが食べたいな。それをね、お父さんと、お母さんと、それと君と一緒に食べたいの」

 

 少女は言う。

 

「でも、ケーキでお腹いっぱいになったら、ご飯が食べられなくなっちゃうね。私のお母さんの作るご飯って、とっても美味しいのよ」

 

 少女は言った。

 

「だから、ケーキはダメだね。お母さんのごはんが食べられるように、お砂糖二つだけもらうわ。私と君とで、一つずつ、半分こするの。もちろん、お母さんには内緒でね」

 

 僕はそれに頷いた。

 

 

 

 

 今、俺には欲しいものが二つある。

 一つは、車。新車とまでは言わないが、中古でもそれなりの額はする奴だ。学生アルバイトなんて稼げる額はたかが知れてるし、少ない仕送りは家賃と食費と雑費(友人付き合いともいうが)に消えた。つまり、貯金に回せるだけの金が残らない以上、いつまでたっても手が届くことはない。

 もう一つは……改めて口に出すのは恥ずかしいな。

 

「車だな。車が欲しいんだ。未だに移動手段が自転車だけだと、遠出は厳しいからな……」

「ふぅん、夢が無いなあ。即物的というか何というかさ」

 

 『あなたの願いを叶えます』という文言と共に、色とりどりのパワーストーンが並べられた広告を見て、だからと言って真剣な願いを答える気にもならなかったのだが、彼女は俺の答えに満足しなかったようだった。呆れたように溜息を吐き、雑誌をまた一ページめくる。

 

「じゃあ……」

 

 お前の願いは、と聞き返そうとしたが、とっさに口を噤んだ。

 彼女の願いなど、一つしか思い当たらない。それは、さっき俺が言わなかった願いと、きっと同じだから。

 

「じゃあ、何?」

「じゃあ、車買ったらさ、お前の好きなとこ連れてってやるよ」

「んー。好きなとこかぁ……」

 

 彼女は考えるように腕を組み、車椅子の背にもたれる。

 

「富士山とか?」

「それは……随分遠いなぁ」

 

 日本海側から太平洋側へ横断する旅だ。同じ本州の中とは言え、数百キロの旅になる。

 

「遠いからこそさ、行ってみたいんじゃん」

「そうかもだけどさ。……富士山な。確か五合目までは車で行けるんだっけな」

「うん。まあでも、山に登るってよりも、風景見にいきたいってのがメインかもだけど。……それで、車いつ買うつもりなの?」

「んー。時期は今の所未定。良いバイトが見つかるまでは、正直生きるので精いっぱいだしな」

 

 パッと両手を上げ、首を振る。文字通り、お手上げ状態だ。

 

「そう……。でも、買うんでしょ?」

「……なるべく早いうちに買いたいとは思ってるよ」

「そっか、じゃあ、見込みが立ったら教えてね。約束だからね」

「あいよ」

 

 俺はベンチから立ち上がり、彼女に背を向けて歩き出した。

 

「次はいつ来るの?」

「あー、水曜。午後授業無いし」

「分かった。またねー」

 

 振り返らないまま手を振ってその場を後にする。いつもの事だから、改まってさよならは言わない。どうせ頻繁に会いに来ているから。

 

 彼女が歩けなくなったのは、高校三年の冬、今から二年程前だ。入院が決まるまでは同じ大学に行く事を目指していたけれど、結局それは叶わなかった。彼女は、今はほとんどの時間を病院のベッドの上で過ごしていて、時折外の空気を吸いに出るだけという生活をしている。

 

 もし、本当に願いが何でも叶うのであれば、俺は迷わず彼女の脚を治すよう願うだろう。だが、そんな「もしも」を願うくらいなら、もっと現実的な、彼女の願いを叶えるための努力をした方が良いだろうとも思う。

 

「とは言ってもなぁ……」

 

 彼女に会いに行く事を考えると、あまり長時間のアルバイトは出来ないし、睡眠時間を削っては学業に影響が出る(現状でさえ、危ない単位はいくつかある)。時間に融通が利き、かつ高収入のアルバイトなんてものがそうそう転がっているはずも無いのが現実である。

 残された選択肢は、二つ。つい最近出来る様になったギャンブルで一発当てるか、学生の内に実現するのは諦めて、潔く社会人になるまで待ってもらうか、だ。

 

「……まあ、勝負運とかねえし、無理だよなぁ。後は、なるべく安い車探すくらいか」

 

 結局は地道にやっていくしかないか、と溜息を一つ吐いた。

 

 

 

 

「もし、願いが何でも叶うとしたら?」

 

 呟く。

 

「……別に、叶わなくたっていい」

 

 呟く。

 

「けど、我が儘を言わせてもらえるならば」

 

 呟く。

 

「彼の、彼だけの願いを叶えて欲しいな」

 

 

 

 

 あれから三日後の水曜日。約束通り病院に向かっていたはずの俺は、どうやら道に迷ってしまったようだ。電車から降りて、駅前の大通りを一度曲がり、後は道なりに進んで行くだけのルートで、どうやって迷ったのかは全く分からないが、どうにかして迷ってしまったらしい。

 そうでもないと、目の前にある広大な空き地に説明がつかない。

 

「……痛い、よな?」

 

 古典的な手だが、頬をつねると確かに痛みがある。少なくとも夢ではないらしい。

 それとも、全部が全部、今まで見てきたものすべてが逆に幻だったのだろうか。

 

「……おーい」

 

 後ろから、控えめに呼ぶ声が聞こえる。

 やはり場所は間違っていなかったらしい。

 

 そう思って振り返った先には、彼女が立って居た。

 自分自身の脚で、だ。

 

「っ…………」

 

 声が出ない。情報が錯綜して言葉にならない。けれど、頭の中ではいくつもの疑問と、喜びと、不安とがないまぜになって駆け巡っている。

 

「や。……まずは、約束通り来てくれてありがと」

「ああ。……脚……は?」

「なんか……治った?」

 

 疑問符付きの回答。全部何かのドッキリじゃ無いかと思って辺りを一度見回したけれど、これがドッキリで済むような話でないのは分かっているつもりだ。信じられないような状況ではあるのだが。

 

「えっと、その……おめで……とう」

「うん。ありがと」

 

 ……少なくとも、彼女は本物だ。立てないはずの脚で立って居ても、彼女が偽物という訳ではない。物心ついた時からずっと一緒に居たのに、今更間違える訳がない。

 

「もう、入院しなくて済む……んだと思う。……入院するっても、病院も無くなってるけどさ」

「そうだ、それ、なんで……?」

「さあ……?」

 

 まだ混乱は収まっていない。けれど、一つだけはっきりしたことがある。

 誰に願うでも、何に願うでもなくして、俺の一番の願いは、遂に叶ったという事らしい。

 

「……よくわかんないだろうとは思うけど。って私もよくわかんないんだけどさ、……とりあえず、ご飯でも行かない?」

 

 そう言った彼女の表情は、この二年間一度も見た事の無かった、おそらくは心からの笑顔だった。

 

 

 

 

 彼女が言うには、気が付いた時には、既に病院跡地に立っており、周りには何も無かったらしい。買った覚えのない服を着て、小さな鞄まで携えていた。まるで単に遊びの待ち合わせをしている様な状態で、来るはずの俺を待っていたとのことだった。

 

「……そういえば、昨日ね、変な夢を見たんだ」

 

 未だに現実感をつかみ損ねたまま、街を歩く中で、彼女はふと思い出したように言った。

 

「夢?」

「うん。小さい頃の私が、今の私に話かけて来る夢。昔さ、よく君に聞いたよね。『欲しいものが何でももらえるなら、何が欲しい?』とか。それと同じようにさ、聞かれたの。『もし、どんな願いでも叶うとしたら、何を叶えて欲しい?』って」

 

 彼女の言葉に、昔の記憶を掘り起こしてみる。確かに、遠い昔、二人ともまだ物心ついたばかりの頃に、そんな話をしていたかもしれない。

 

「……で、なんて答えたんだ?」

「…………君の願いを叶えて欲しいって」

「俺の? なんで?」

「……なんだって良いじゃん」

 

 まあ、確かにそうだ。

 夢の中で何を考えていたかなんて、自分にも知れない事だと思う。

 

「じゃあ、夢の中のお前が、本当に俺の願いを叶えてくれたのかもな」

「……願いって、車じゃないの?」

「車もだけどさ……。お前の脚が治って、もう病院に行かなくて良くなるようにって言うのが……その……さあ」

「……ふぅん、そっか」

 

 言ってる途中で恥ずかしくなってきた。顔が熱いし汗が噴き出て来るのが分かる。

 彼女もそれっきり口を閉じ、少し俯いたまま早足で歩いて行く。

 

 結局、そこから話は弾まず、適当に飯を済ませてお互い家に帰った。同じ電車で、隣に座ってるのに、特に会話も無かったのは少し辛かったが、ついに精神の許容量を超えてしまったのだから仕方ない。

 

 だが、一人で落ち着いて考えてみると、だ。彼女の言う通り、俺の願いは叶ってしまったのだろうと思う。文字通りに、言葉通りに叶ったのだろう。彼女の脚はすっかり治ってしまい、そして、もう一度行こうにも病院は全く無くなってしまったのだ。

 

 

 

 

「あの人の願いは、ちゃんと叶ったんだね」

 

 …………。

 

「私の為のお願いだったけど」

 

 …………。

 

「うん。私も好きだよ。……一緒だね」

 

 …………。

 

「それは、……嬉しいよ。……ねえ、まだ、我が儘言っても良い?」

 

 …………。

 

「そっか。じゃあ、もう一個だけ」

 

 

 

 

 唐突な頭痛に目を覚ました。

 辺りを見回すが、暗闇の中には何も見えない。どうやら朝にはなってないらしい。

 

 手探りでスマホを手に取って時間を見る。画面に映る数字は2と4と8。

 今日は木曜日だ。一時間目から講義がある。科目は……なんだったか。

 

 考えが纏まらない。

 そもそも、講義ってなんだ? 俺は大学になんか行っていたか?

 夢でも見てたのかもしれない。それにしては、やけにはっきりとした記憶があるけれど。

 

 落ち着こう。昨日は……、そうだ。昨日は休みだったんだ。あいつに会いに行くから。

 それで、今日は遅番だから、昼まで寝ててもいいはず、だよな?

 シフトのメモも、スマホにちゃんとある。出勤は午後六時で、八時間のシフト。

 遅番は閉店までの業務だから、店の片付けもあるのが面倒だ。

 

 昨日……、なんであいつと一緒に帰らなかったんだ?

 俺は何処に帰った?

 そもそも、俺はなんであいつに会いに外に出たんだ?

 会いに行かなければならなかった?

 

 家に帰ればそこに居るのに?

 

 やっぱり、何かおかしい。

 混乱してるというよりも、混ざってる。記憶が混ざって、乱れてる。

 

 昨日……朝起きて、大学に行っていた様な記憶も、何故かある。

 ノートに取った数式も、友人と喋った話題も思い出せる。

 ただ、人間の顔だけがどうしても思い出せない。友人たちも、教授の顔も。

 ただの夢……か?

 

 大きく深呼吸をした。

 一度、直接話を聞いた方が落ち着くかもしれない。

 こんな時間に起こしてしまうのは忍びないが、話せば心の整理がつくかもしれないし。

 

 俺は自分の部屋から出て、隣の部屋のドアをノックした。

 あいつに直接話を聞く為に。

 

 

 

 

 結論から言うと、混乱はさらに深まった。

 まず、こいつは目覚めるなり小さな悲鳴を漏らしてから「なんで此処に居るの?」なんてぬかしやがった。此処に住んでるんだから此処に居ても良いだろう。……いや、深夜に女性の部屋に入ろうとしているのを咎められたのであれば、まあ、しょうがないのかもしれないが。

 

 だが、話してみるとどうも、俺が此処に居る事自体がおかしいという事らしかった。

 

「まず、私のお父さんの顔は思い出せる? お母さんでもいいけど」

 

 ……親父さん、小母さんの顔はすぐに思い浮かべられる。

 もう何年も一緒に住んでるんだから当然と言えば当然、なんだよな?

 

「思い出せるよ」

「じゃあ、君の親御さんの顔は?」

「…………」

 

 目を閉じて考える。

 最後に会ったのは、……数年前か?

 少なくとも、この家に来てからは合っていないような気がする。

 

「駄目だ、思い出せない。顔に黒い靄がかかってるみたいで、全然分からない」

「そう……」

 

 顎に拳をあてて、彼女は考える様なそぶりを見せる。

 

「じゃあ、なんでこの家に住んでるかって、分かる?」

「なんでって……。俺の親とお前の親が知り合いで……、昔からよく家族ぐるみで遊びに行ってたよな……? それで、俺がこの辺で就職して……、大学に入って? 分からない。どうなって此処に住むことになったんだ?」

「じゃあ、自分の家の場所は分かる?」

「そんなの、同じ町なんだから分からない訳……」

 

 家、目と鼻の先だったよな? でもあそこって空き地じゃなかったっけ?

 空き地で、こいつと一緒に遊んだ記憶も……ある。じゃあ、俺の家はどこなんだ?

 

「……分からないんだね。…………どうしよう。私のせいかも」

 

 一通りの質問を終えて、何かに思い当たったのか、彼女は目に見えて焦り始める。

 

「私、君の家、消しちゃったのかも」

 

 

 

 

「どうして泣いてるの?」

 

 だって、こんなことになるとは思わなかったから。

 

「でも、一緒に居られるでしょ?」

 

 だからって……。

 

「私は一緒のおうちで暮らせたら、すっごく嬉しいと思うの」

 

 …………。

 

「でも、帰るおうちがあったらさ、帰っちゃうでしょ?」

 

 ……だから、帰る場所を消しちゃったの?

 

「だって、此処に帰ってくるようになれば。いつも一緒だもの。一緒にご飯を食べられるし、一緒に遊んで、一緒にテレビ見たり、一緒に寝たりも出来るでしょ?」

 

 ……そうね。やっぱり、貴女は子供なんだね。

 

「うん。おっきくなった私の、小さい頃が、私だよ」

 

 子供だから、今の私の気持ちも分からないし、……彼の気持ちも分からないのよ。

 

「一緒に居られて嬉しくないの? お願い、叶ったのに」

 

 …………嬉しく、無い。……もとに戻してよ。

 

「……嫌。折角一緒のおうちで暮らせるのに。私、お願いを聞いただけなのに。なんで、こんなに泣いてるのかも分からないのに。何にも分からないのに。なんで、戻さなくちゃいけないの? そんなの、絶対に嫌」

 

 ……待って。何処に行くの?

 

「追いかけてこないでね。私、あなたの事嫌いになったから」

 

 ……私も、嫌いよ。あんたなんか。私なんか。

 

 

 

 

 端的に言うならば、途方に暮れていた。

 頭痛はとうに収まっていたが、まるで他人の記憶と自分の記憶がかき混ぜられたような、そんな得体の知れない感覚はまだ残っていた。どうやら――現実味の無い話だが、彼女が想った願いによって、俺の全ては滅茶苦茶になってしまったらしい。……らしい、で済ませて良い話では無いのだろうが、自分の記憶すら信じられないこの状況では、これで済ませておくしかない。

 

「見事に空き地、だな」

 

 やはり、記憶に微かに残る生家の姿は何処にもなく、碌に手入れのされていない空き地が街灯に照らされているばかりだった。

 状況だけ見れば、悲しむべきなのだろうか。実の父親も、母親もいなくなり、家も無くなったのだから。だが、実感が無い。それに比べて、親父さんや小母さんに育ててもらったという記憶は、違和感こそあれど、しっかりと存在している。

 本当はそうでなかったのだとしても、今はそういう事になっている。

 だからこそ、途方に暮れている。

 

「……ねえ」

 

 少女の声が夜道に反響する。

 

「あなたも、嬉しいでしょ? おっきくなった私は、嬉しくないって言うけど、あなたは私の味方してくれるよね?」

 

 何処か聞き覚えのある声で、今にも泣きそうな声で言う。

 

「嬉しいって言ってくれたら、私の味方になってくれたら、好きなお願い、聞いてあげるから」

 

 街灯に照らされたその顔は、遠い昔の記憶のままで。

 

「……ねえ。嬉しいって言ってよ」

 

 遂には、顔をくしゃくしゃに歪めて涙をこぼす。

 

「嬉しいよ。……だって、お前のおかげで、またあいつが歩けるようになったんだろ?」

「うん」

「正直、まだ俺も混乱してるけどさ。なんで昔のお前がこんなとこに居るのかもよく分かんねえし」

 

 何が起こっているのか、分かっている事の方が少ないくらいだ。

 でも、こいつが、彼女の言っていた夢の主ならば、きっと、そうなんだろう。

 

「なあ、お前が、なんでこんなことが出来るのか、こんなことをしようと思ったのかは分かんねえけどさ。もう一個だけ、お願い、叶えてくれないか?」

「……なぁに?」

「あいつ、泣いてただろ? あいつは、ちゃんと全部覚えてて、全部分かってるんだな?」

「……うん。だって私だから」

 

 こいつは、子供だ。聞いた願いを、言葉通りに受け取るんだろう。

 そして、こいつなりに判断して、こいつが想う形で叶えているんだろう。

 その結果が、この空き地だ。そして、この俺だ。

 

 大きく唾を飲み込む。

 この願いで、何がどうなるかは分からない。

 だけど、こいつだって、良かれと思ってやっているはずなんだ。だって、そうじゃなきゃ、此処で、こんな所で泣いてる訳がない。

 

「あいつに、俺の事を忘れさせて欲しい」

「……なんで?」

「だって、好きな女の子が泣いてるのは、見たくないだろ」

 

 

 

 

 お願い事、決まった?

 

「……決められないよ」

 

 そっか。

 

「でも、一つだけ」

 

 なぁに? 教えて。

 

「ケーキ、美味しかったね。丸くて大きなケーキ」

 

 うん。私のお願い、叶ったね。お母さんが、私の為にケーキ作ってくれたから。

 

「――ちゃんが嬉しそうな顔が見れると、僕も嬉しくなるんだ」

 

 ……?

 

「……変かな?」

 

 ううん。……ありがと。

 

 

 

 

 あれから三年が経った。俺は順調に大学を卒業し、就職もまあ、そこそこうまくいった。

 ……まさか、気が付いた時には、自分が九州にいるとは思わなかったが。まあ、生まれなかったことになるよりは、随分マシだろう。別の場所で生まれ育っていた事になる位は。

 

 つまり、俺と彼女は「出会わなかった」ことになった。

 それが、彼女の解釈だった。出会わなければ、記憶が生まれようも無い。

 それとも、ただ単に、俺の事を無かったことにはしたくなかった……のかもしれないが。

 

 この一年死ぬ気で働いて、中古とは言え、欲しかった車を買うことが出来た。

 有休もゴールデンウィークに合わせて取らせてもらって、休み休み下道を走って行き、ようやく辿り着いた訳だ。

 

 富士山ったって近づいてしまえばただの山だった。

 上に登らなきゃ、碌に景色も楽しめやしないだろう。

 けれど、景色を見たいのは、俺じゃない。

 そして、約束もまだ、守れていない。

 だから、俺に此処を登る資格は無いんだろうと思う。

 

「もしかしたら、と思ったんだけど。……流石に、それは出来過ぎか」

 

 当然、此処に来る前に、記憶にある彼女の家にも寄って来た。

 いや、寄れなかった。――たどり着けなかった。

 そこには、知らない家があり、彼女も、彼女の家族もそこには居なかった。

 彼女も、何処か別の場所で、生まれ育ったことになっているのだろう。

 

「――、待ってよ! 歩くの早いって」

「待ってって、そっちが遅いんでしょ」

 

 聞き覚えのある名前が、耳に入る。

 振り返ると、しかし、知らない顔だった。

 自嘲する様に首を振って、溜息を軽く吐く。

 

 きっとこれからも、俺はこうして彼女を探し続けるんだろう。

 何処にいるかもわからない彼女の面影を追って。

 けれど、きっと、彼女は何処かで、笑って暮らしているはずだ。

 それを信じながら、俺はまた車を走らせた。



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