時遡らせしは魔王の子 (はたけのなすび)
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第一章
一話


こんばんは、或いははじめまして。

よろしくお願いします。


 

 また会えて、どれほど嬉しかったか。

 それは絶対に、俺にしかわからない。

 

 

 

 

■■■■■

 

 

 

 

 

 己の人生が壊れた原因は、実の父を調子に乗らせてしまったことにあったと(げん)斗生(とせい)は思っている。

 その原因は、主に二つ。

 一つ目は、単純に自分が父の【転生の器】として、とてつもなく優れていたことだ。

 実の父である朱重世(しゅじゅうせい)は、子の体を乗っ取り続け、何百年もの間生きながらえてきた化け物であった。

 斗生は十歳のころ、そうと知らずに彼の保護下に入ってしまったのである。

 母を亡くして父に引き取られてからの数年間、何も知らずに父の下で修業を重ねた斗生は、ある日父に体を奪われ、地獄に叩き落された。

 己の意識はあるのに、声を出すことも体を動かすこともできず、自分の体が残虐な行いを重ねるのを、ただただ無力なまま眺めさせられたのだ。

 普通ならば体を奪った瞬間に意識は消滅するはず。なのに術に逆らい、己を保ち続ける貴様は珍しい息子だと面白がった重世により、斗生は満足な眠りも許されずに、植物のように生き続けた。

 十年も己の体の中に身動き一つできないままに閉じ込められ、果てに父もろとも殺されたのである。

 最悪の人生だったと、疑いなく言えた。

 

(なら、どうして俺は巻き戻った?)

 

 小さな手のひらを見つめ、狭いぼろ小屋の粗末な牀に一人で腰かけたまま、斗生は考える。

 あかぎれの目立つ手は、斗生のものだ。

 自分は確かに父と共に剣で貫かれ、絶命したと思った。そのはずだった。

 なのに今、斗生は生きていた。しかも、八歳の頃の己の体で生きていたのだ。

 俄には、信じられなかった。

 ついに自分は正気を失って、都合の良い幻覚の中に逃げてしまったのだろうかと思ったが、数日経っても幻は覚めることがなく、斗生は過去に生きていた街の片隅にいた。

 そこは、斗生が父に見出されるまで母と暮らしていた騒がしい街である。

 斗生の父、朱重世(しゅじゅうせい)は、傍若無人にして残虐非道と恐れられた、魔王の如き人間だった。

 人々を悪鬼妖魔から守るべき仙士で、大仙家の当主でありながら人々を虐げてはばからず、実の子どもたちですら、自身が永遠を生きるための道具にした。

 才能に優れた子に、乏しい子を殺させて勝ち残った者だけを認める蠱毒紛いですらやってのける彼は、抜きんでて高い霊力を持ち、数多の仙術を操り、逆らえる者はいなかった。

 その冷酷非情な男が手を出して孕ませた侍女が、斗生の母である。

 子を身籠った彼女は、朱家の妻たちに迫害されるのを恐れて下町へ逃げて、子を産んだ。それが斗生だった。

 

(母さんは、正しかった)

 

 霊力に乏しく仙術や仙剣を扱えない母は、己の勇気と力を振り絞り重世とその妻たちから逃げて、斗生を育ててくれたのだ。きっと、本能的に重世を恐れて。

 病に倒れて亡くなる寸前まで、斗生を気遣っていた。斗生を産んだから人生が狂ってしまったようなものなのに、一度たりとも斗生を恨みもしなかった。

 本当に、最期のときまで愛してくれたのだ。しかし、それならば。

 

(どうして、俺はもっと前に戻れなかった!)

 

 斗生は握りしめた拳で太腿を強く打った。今から数年前に戻れたなら、母を助けられたかもしれない。だが斗生が『目覚め』たのは、つい五日前。母を墓に埋めた翌日だった。

 呆然と母をいけた土饅頭の前にへたり込んでいた際、頭が割れるような痛みに襲われて気を失い、起きたときには斗生は普通の子どもではなくなっていた。

 斗生は、二度母を失ったのだ。

 けれど、一度目のようにただ泣き続けることはなかった。

 夢の中にいるような心地で、母と暮らしていた懐かしい家へ戻り、ようやくこれが己の見ている幻ではないのかもしれないと思い至ったのだ。

 

(夢でも幻術でもないとしたら、これは何なんだ。時間を遡ったのか?)

 

 人と神の距離が今より遥かに近かった古の大仙士ならば、時を戻し、過去を変える術を扱ったと聞いたことがある。

 だが、おとぎ話のようなものだ。

 神が人から離れて長い、今の時代の仙士が行おうものなら、霊力を吸い取られるどころか魂そのものが壊れるだろう。

 

(あの化物……朱重世にだってできないだろう。もちろん、俺にも無理だ)

 

 しかし、今の自分の状況は時を遡ったと考える以外になかった。

 だとしたら、斗生のすべきことは単純だ。

 きゅっと、小さくなった手をきつく握りしめた。

 

(俺は、あの化物に見つかったら駄目だ。また器にされる。体を取られてしまう)

 

 母を失ったあと、斗生はある事件に巻き込まれて生まれ持った霊力を暴発させ、朱家の仙士に目をつけられた。そのまま朱家に連れて行かれ、そこで重世によって実の息子であると認められてしまったのだ。

 あのころは、嬉しかった。

 母を亡くして一人になり、心細かった。

 この世に自分の家族と呼べる人間がいることを素直に嬉しがった。父も、よく生きていたと喜んでくれたのだ。

 少なくとも、斗生はそう思った。ぎらぎらと光る父の瞳の奥に秘められていた悍ましさに、気づきもせず。

 

(あいつは、生き別れていた子どもを見つけて喜んだんじゃない。自分にふさわしい新しい体を見つけたから、喜んだんだ)

 

 今の斗生にわかることが、当時の斗生にはわからなかった。幼い自分は、そうと知らずに己から地獄へ続く道へと踏み入ってしまったのだ。

 そうして、死によってあの地獄がようやく終わると思った矢先にこれである。

 いきなり何の前触れもなく過去に放り出され、訳も分からないうちに母を二度失った。

 もし神が斗生を巻き戻したと言うなら、性格が歪んでいるにもほどがあろう。

 ようやく休めると思ったのに、まどろむ暇もなかった。再び、あの父が生きる時代へ戻されたのだ。

 しかし、それでも思う。

 朱重世が、実の子の体を奪い続けて生きる化物であることは、世に知らしめなければならない。殺さなければならない。

 あれは、最早仙士どころか人間とすら呼べない化物だった。

 父殺しという天地に逆らう大罪を犯してでも、必ずやらなければならないと斗生はこの瞬間に固く決めた。

 斗生の体と、もう一つの【宝】を手に入れた重世は増長し、他の仙家を滅ぼして己の一門が世を統べようとした。

 事実、朱家と肩を並べるほどの仙家は二つ三つ消され、それ以外の小さな仙家は数え切れぬほどに滅ぼされるか、傘下に組み入れられたのだ。狂っていたとしか思えない。

 逆らい破れた者は、ひどく残酷なやり方で皆殺された。

 計り知れない野心と、恐ろしい力を持つ重世は、絶対に殺さなければならないと思う。

 その殺意の中に、十年も体を奪われた己の恨みがあることも、斗生は自覚していた。決して取り除けないだろう恨みと憎しみが、すっかり心の奥に根を張っていたのだ。

 だが、今の斗生は親を亡くした孤児だ。

 暮らしているこの小屋も、明日には追い出されるかもしれずない。誰が、何の力も後ろ盾もない子どもの言葉を信じてくれるだろう。

 霊力を使う感覚は残っているが、この体はまだ仙術を使う要にある仙骨を使えるようになっていない。いっぱいに水を湛えた革袋があっても、弁が開いていなければ中の水は飲めず喉を潤せないのと同じ。

 正真正銘、ただの子どもである。

 我流で仙骨は使えるようになるだろうが、危険な上に修行の効率が悪くなることを斗生は知っていた。

 

(どこかの仙家の、弟子になるのが手っ取り早いが……)

 

 だが、仙家とは血筋を重んじる世界なのだ。

 朱家との繋がりを絶対に明かせないとなると、斗生はただの孤児。それも、身分の低い貧民の父無し子となる。こうなると、入門の望みが極端に薄い。

 大体、明日の飯をどうするかで悩んでいるのに、雲上人の仙士をどうすればいいのか。

 

(それでも、まだあの父親に目をつけられていないだけマシか)

 

 黄昏れていても仕方がない。

 母を亡くした今このときこの時代において、斗生を助けてくれる者はいない。己が踏ん張るしかなかった。

 自分の体を、自分の意志で動かすことができる喜びを味わうのはもっと後になるだろう。

 死んだときから大体十六年前、八歳か九歳そこらの今ならば、まだあの化物は他の一門と比べて格段に尊大で、最も強力な力を持つだけの当主だ。

 朱重世が行った華甲山(かこうざん)での悲劇、宋氏の焼き討ち、邪霊と屍による北宝宮(ほくほうきゅう)の蹂躙も起きていない。

 まだ、間に合うはずだ。

 

(……でも今日は、飯を食べて寝てしまおう)

 

 空腹を感じることも、斗生の体感で言えば十数年ぶりなのだ。

 味覚が少しおかしくなっているらしく、草を食べても粥をすすっても砂を噛むようで同じ味としか思えないのだが、空腹は抑えなければ何もできなくなる。

 昨日の薄い粥の残りがまだあったはずだと、斗生は牀を降りて竈の方へ向かう。

 けれど、かたりと音がして斗生は足を止めた。猫の仔でも迷い込んだのかと、破れかけの扉に手を当てたそのときである。

 破れかけの扉が、外から蹴破られた。同時に飛び込んできた小さな人影が、斗生に体当たりをしかける。

 後ろに大きくよろけた斗生の胸を蹴り飛ばして仰向けに倒すや、子どもは斗生の上に馬乗りになって来た。

 胸を強く打たれ、斗生は呻きながら子どもを見上げる。

 垢じみて固まった前髪の隙間からこちらを見下ろす顔を見て、斗生は目を見開く。

 幼いながらも、精悍で整った顔立ちに見覚えがあったからだ。

 

「……(がく)漣宇(れんう)?」

 

 その名を聞いた子どもの瞳が、一層鋭さを増す。しゃがれた声で、子どもは口を利いた。

 

「俺の名前を知ってるってことは、お前も同じだな。それならいい。殺せる」

「ッ!?」

 

 子どもの、岳漣宇の目に宿っている本気の殺気と、その手が握る小刀がぎらりと光る。

 一気に体温が下がった。

 この子どもは、本気で斗生を殺す気なのだ。手加減している場合ではない。

 地面に落ちていた斗生の手が死にかけた蛇のようにのたうち伸びて、竈の灰を何とか握り込む。

 細い腕を、斗生は渾身の力で振り抜いた。

  

「ぎゃっ!」

 

 斗生が投げた灰を目に直に浴び、悲鳴を上げた漣宇の胸を、斗生は体内から引きずり出した霊力を纏わせた掌で強く打つ。

 小さな体が吹っ飛ばされて薄い板の壁にぶつかり、持っていた刃物が土間に落ちる。

 小刀を蹴り飛ばし、床の上にあった薪を掴んで相手を叩こうとした斗生は、けれど思わず手を止めていた。

 灰が目玉を直撃した痛みで床をのたうち回っているのは、幼い子どもだったのだ。

 髪はぼさぼさで、手足は擦り傷だらけ。服は斗生のぼろ服よりもなおひどい。斗生より小柄で痩せた体を硬い木の棒で叩けば、死んでしまうかもしれない。

 薪を手にしたまま数秒考え込んだ斗生は、ぽいと木の棒を投げ捨てる。捨てて、後ろ手で水瓶に柄杓を突っ込み、水を一杯漣宇に差し出した。

 

「……」

 

 ただし、何を言えばいいのかわからないために、無言である。

 ようやく痛みがわずかに引いたらしい漣宇は、柄杓を無表情に付き出す斗生を見るや、兎のように部屋の隅へ飛び退いた。

 赤くなった瞳に野獣じみた勢いで睨みつけられ、斗生は途方に暮れた。

 彼の名前は知っていた。

 未来において、斗生の体を使った重世がとある邪術を操るため、生きた道具に変えた青年である。

 

 父が増長する理由になった、まさに二つ目の理由が彼、岳漣宇だった。

 彼が、あまりにも使い勝手の良い破格の兵器に、道具になってしまってから、朱家の力はいっそう増し、横暴は悪化した。

 

 道具にされ、人としての尊厳も矜持も何もかも踏み躙られ、それでも心が砕けていなかった彼のことを斗生は無論忘れてはいなかった。

 しかも、どうやら彼も斗生のことを知っているらしい。無力な幼い子どもとしてではなく、純粋な殺意を向ける相手として。

 

「……岳漣宇、お前も巻き戻ったのか?」

 

 唸り声のような肯定を返されて、斗生は無表情で柄杓を差し出したまま内心うろたえた。

 この説明のつかない巻き戻りを漣宇もしているとすれば、彼にとって斗生は百回千回殺しても足りないほどの敵だろう。

 生皮を剥いで四肢を引き千切って、死体を焼いて灰にしてぶちまけたとしても、おそらく岳漣宇の恨みは晴れない。

 彼の故郷を焼いたのも、家族を殺したのも、彼自身を道具に作り変えて陵辱したのも朱重世だが、彼はそのすべてを成り代わった斗生の体と名前で行っている。

 

 岳漣宇の仇が、斗生になるのは当然のことだった。

 

 頬のこけた幼い漣宇のやたらと大きな瞳は、純粋な殺意でぎらぎらと光っている。どちらかが死ぬまで、止まりそうになかった。

 

「岳漣宇」

「……」

「信じられないと思うが、お前の敵は俺ではない」

「……何を今更」

「それは俺も思う」

「あ?」

 

 地獄の底から響くような声である。

 無表情のまま、斗生はゆっくり唇をなめた。内心では頭を抱えていても冷や汗をかいていても、ばれなければいい。

 

「違う、間違えた。いや、お前は間違えていないが間違えている」

「……俺を馬鹿にしてるのか?」

「していない。していないが、俺はとにかくお前の仇にはなれない。あれは、俺がしたことではないからだ」

 

 言い訳するつもりはないが、元々斗生は無口で、表情も豊かではなかった。母はそれでもかわいい子と言ってくれたが、親の欲目なことはよくわかっている。

 引き取られた先の朱家では、愛想笑いもできず、可愛げのない端女の子だと馬鹿にされて友人がろくにできなかった上、外に出てもあの朱重世の息子だと後ろ指さされる。

 その環境で修行に没頭した挙げ句、十五歳になる直前に体を奪われて動けなくなった。そこから先、自分の体を使って喋れるわけもない。

 それやこれやで、斗生の口下手も無表情も、最早、人とまともに交流できるか怪しいほどに悪化していた。

 氷のような無表情の下で、これで自分にどうしろというのだと泣きたくなる。

 

「お前がもし俺と同じ巻き戻った状況にあるなら、恨みはわかる。わかるが、あのときの俺は父に体を取られていた。だから、あれをしたのは俺ではないんだ」

「……おい、どういう意味だ?」

「【生魂転生呪(しょうこんてんせいしゅ)】という邪術がある。俺の父、朱重世はそれを使って、俺の体を奪った。巻き戻る前の俺が、十四のときだ。お前の家が焼かれたのは、お前と俺が確か十九歳のときだ。だから、あれは俺じゃない」

「じゃあ何か?お前の悪逆のすべてを、お前はしてないって?」

「すべてがどこまでを指すかわからないが、恐らくそうだ。……岳漣宇、お前があれらの出来事を防ぎたいと思っているなら、今の俺を殺しても意味がない。いや、意味ならあるが大本を殺せないのだから防げるかわからない」

 

 水の入った柄杓を持つ腕が、そろそろ重くなってきた。ぐぅ、と斗生の腹が大きな音を立てる。

 漣宇が、目を瞬いた。

 

「お前、自分がどれだけ訳の分からないことを言ってるかわかってんのか?」

「わかっている。とにかく、ここで俺を殺しても意味が薄い。それから、その目は早く洗うべきじゃないのか?痛いだろう」

「灰をぶっつけたのはお前だろ!」

「先に刃物を持って襲って来たのはお前だ」

 

 押し付けるように柄杓を渡し、両手を上げて反対側の部屋の隅まで下がる。とはいえ、狭いぼろ小屋なのだから大した距離を稼ぐことはできなかった。

 漣宇は、慎重に目と顔を洗った。

 灰を洗い流しても尚赤い兎のような目で彼は斗生を見ると、毒気を抜かれたように牀の端に腰を下ろした。

 子どもらしさのかけらもない深いため息を吐いて漣宇は、斗生を見上げる。

 

「なぁ」

「……なんだ?」

「一度、お前の話を聞かせろ。さっき言ったことは、誓って本当か?」

「本当だ。天地と、俺の母に誓って」

「なんだよそれ」

 

 く、と漣宇が喉の奥だけで笑う。

 状況がさらにややこしくなった気がしないでもないが、ひとまず殺し合うのは避けられたらしかった。

 




前書いていた中華風異世界ファンタジーがプロット迷子になって書けなくなってしまったので、別作品を書きました……。

後々ヒロインは出ますが、愛がちょっとばかし重いタイプです。


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二話

こんばんは。

成り代わられ主人公の奮闘物語です。

では。


 

 奇妙なことになったと、斗生は無表情のまま目の前にいる子どもを観察した。

 子どもといっても、今の斗生も同じ年である。浮浪児と親無し子で、境遇もそれほど違わない。

 さらには、同じように未来の記憶を持ってさえいた。

 

「なるほどな。あんたは十年以上の間体を奪われて、父親もろとも刺されたと思ったら……というか、俺に刺されたと思ったら過去に戻っていた。俺の仇は、あんたの父親であってあんたじゃない。加えてあんた自身も、殺したいくらいに親父殿を憎んでいる、と。……で、あんたがこういうふうになったのは五日前なんだな?」

「そうだ。母を埋めた翌日だったから、間違いない」

「……」

 

 ただ、漣宇は斗生と違って表情が豊かだった。

 殺気だって獣のように斗生を睨みつけたかと思えば、斗生の一言に気まずげなすっぱい顔になる。

 水を借りて手足と顔を洗ったときはわかりやすく気持ちよさそうに目を細め、斗生があまりの痩せ様を見るに見かねて出した粥を全部食べたときは満足そうに笑った。

 着物がぼろすぎて見ていられないと、斗生が代わりになる服を渡したときは、信じられないと言いたげに目をぱちぱちとさせて驚いていた。

 笑顔になろうとすれば唇の端がひくひく震えるだけの斗生には、感情豊かな漣宇は羨ましい限りである。いや、羨んでいる場合ではないのだが。

 

「俺も、同じころに記憶が急に振って来た。となると、多分俺たちがこうなった原因は同じだな」

「巻き戻った原因が同じだと?」

「おっと、本当に時間の巻き戻しとは限らないぞ。たとえば未来を予言できる誰かが、その記憶を俺たちの頭に送ったとも考えられる。世界を十年巻き戻すより、こっちのほうがまだ実現できる術だろうな」

「……どちらも、大して変わらないぐらい不可能に思えるが」

「おい真面目ちゃん。今のはただの仮説だ。思いつきだから、あんまり深く考えるなよ」

 

 言われて、斗生は目を瞬いた。

 

「その真面目ちゃんとは、俺か?」

「今ここに、あんたと俺以外の誰がいるってんだ」

「……」

 

 前の自分を合わせても、呼ばれたことのないあだ名である。

 不思議と嫌な気分にはならなかったが、ついさっき刃物を突き付けた相手に漣宇は随分馴れ馴れしかった。

 岳漣宇とはこんな人間だったのかと、斗生は何とも言えなくなった。

 斗生の記憶にある漣宇は、逃げぬよう脚を斬り落とされ、猛獣のように鎖で繋がれ薬で理性を奪われ、ただ邪術を操る道具にされても、目に光を失わなかった青年だ。

 最終的に斗生の体を使う重世を刺殺したのも漣宇で、その点では斗生は漣宇に深く感謝していた。

 

 だが、斗生自身が漣宇と親しく言葉をかわしたことは一度もなく、普段の人となりも伝え聞いたことしか知らない。朱重世は、斗生の体で散々に漣宇を嬲ってはいたが。

 寝台に座ったまま、幼い漣宇は手足をばたばたと振った。

 

「何にしてもな、真面目ちゃん。今のあんたと俺に、こうなった原因を突き止めることは不可能だよ。どうにもできない。他にも、俺たちみたいになってるやつがいる可能性はあるけどな」

「逆に、巻き戻ったのが俺たち二人だけとしたら、何故そうなったか考えはあるか?同じ場所で死んだ人間がまとめて巻き戻されたとしたら、朱重世もこうなっているかもしれない」

 

 最期の場にいたのは、朱重世と岳漣宇と、魂のみの斗生だけだった。それは間違いない。

 そう続けると、漣宇はきゅっと口をすぼめた。

 

「あんた、ほんと最悪の可能性を遠慮なく言ってくれるよな……。でも、それは無いんじゃないか?だって、五日も経ってるのにあんたは無事だ。あの朱重世が、もし俺たちのように未来の記憶を手にしたとしたら、あんたを真っ先に捕らえに来てるだろ。だって、あんたの体は最上の【器】だったんだから。未来の記憶があるなら、この頃のあんたの居場所だって知ってるだろうし」

「……確かにな。俺とお前だけ戻ったのもおかしな話だが、今はこれ以上考えても無駄か」

「そういうこと。この話はここまでだ。油断はできないけどな」

 

 話を区切るように手を打ってから、漣宇は考えるふうに顎に手を当てた。

 

「何にしても、あんたと俺の、朱重世を倒そうってな目的は一致してる。なら、話は簡単だろ?……協力しよう」

「いいのか?」

「何が?」

「俺の話を信じるのか?全部、嘘かもしれないのに」

「嘘だったらあんたを殺すだけだから、別に構わない。だが今のあんたは少なくとも、俺が覚えてる魂と気配が違う。別人だってわかるよ」

 

 斗生は、目を細めた。

 

「そんなことがわかるなら、襲う前にきちんと見極めろ。人違いだったらどうするつもりだったんだ」

「悪かったな!こっちは腹が死にそうなくらい減ってちっとは錯乱してたんだ!記憶が戻ってからこの家まで、三日は歩き通しだったからな!というか、あんた全然余裕だっただろ!目つぶしするわ霊力で殴るわ!」

「余裕じゃない。俺は驚いた」

「ほんとにあんた驚いてたの?顔、さっきからぴくともしてないんだけど」

「……放っておけ」

 

 ふざけた態度こそ取っているが、朱斗生を殺すためにこの岳漣宇は三日も動き回ったのだ。

 このころの岳漣宇は数年前に親を妖魔に殺されて露頭をさ迷う、腹を空かせた浮浪児だったはずだ。実際手足は棒のように細いし、顔色もよくはない。

 間もなく大仙家の宋家に引き取られてそこで頭角を現したはしたが、今の彼はただ栄養の足りていない幼子の体しかなく、霊力も前世の最盛期と比べれば雀の涙。なのに、恐ろしい執念だった。

 腹も空かせるわけだと、斗生は汁一滴も残さず空にされた粥の器を眺めてから、漣宇に視線を戻した。

 

「俺のいる場所が、よくわかったな。この頃の俺は、ただの子どもだったろうに」

「一応言っとくが、前世じゃ生まれた街の名前を知られるくらいに、あんたは有名だったんだぞ?だけど、それしか知らなかったから苦労したんだ。……ってまあ、俺の話はもういいよ。これから具体的にどうするつもりなんだ?」

 

 問われて、斗生は手元にふと目を落とした。

 協力すると言う漣宇に、偽りはないのだろう。彼には、重世を殺す動機が十分すぎるほどにあった。

 引き取って育ててくれた宋家を滅ぼされ、自分自身囚われて道具に作り替えられたのだから。

 それなら、正直に答えてもいいだろう。

 

「どこかの仙家に入れてもらおうと思う。今の俺が【生魂転生呪】を言ったところで、相手にされない」

「だろうな。ただの汚いガキが言ったところで、疑われて危なくなるだけだ。あんたはその上、朱家にばれたら体を取られるかもしれないんだし。でも、朱家の伝手も血筋も蹴って大丈夫なのか?」

「……」

「ハハハッ!やっぱり全然大丈夫じゃないんだろ!」

 

 何がおかしいのか、腹を抱えて笑う漣宇を斗生は黒い瞳でじっと見つめた。

 協力するのは構わないのだが、こうもやかましくて明け透けな相手とは関わったことがない。

 牀の上を転げ回って笑った漣宇は、むくりと身を起こすと斗生のほうを見た。

  

「なら、俺とここを出ないか?」

「?」

「いや、首傾げるなって。俺は前のときみたいに宋家に行こうと思ってるんだけど、そこにお前も来いって言ってんの。わかる?」

「……宋家は、大丈夫なのか?」

「多分何とかなる。俺が拾ってもらえたのは、俺の両親が宋家の門弟だったからだけど、あそこは才能があったら色々気にしないんだよ」

 

 素直に斗生は驚いていた。普通ならば、仙家は血筋がどうだ、親の生まれがなんだとややこしい。

 実力主義な宋家の家風は知っていたが、父親もわからぬ浮浪児を迎え入れるほどとは知らなかったのだ。

 天下には特に名高き四つの大仙家があるが、宋家はそのうちの一つで、第一位の朱家に次ぐ二位の規模を誇っていた。

 尤も、だからこそ朱家が野心をあらわにしたとき、最初に滅ぼされたとも言えるのだが。

 とはいえ、朱家が宋家を滅ぼしたころ、斗生はとっくに体を奪われてただの影法師になり下がっていたから、宋家の知識には乏しい。

 斗生の驚きを見て、漣宇は満足げに笑った。

 

「あんたを俺の……んー、兄弟みたいなやつってことにしとけば大丈夫だと思うんだ。おまけに、あんたはもう自分の霊力を自覚して使ってる。仙骨なしにそこまでできるってわかったら、宋家ならまとめて迎えてくれるよ。あ、だけど兄弟って名乗るなら、俺が兄であんたが弟にするからな。逆は嫌だ」

「お前の好きにすればいい。俺は気にしない」

「言うと思ったよ、この真面目ちゃんめ!あんたと来たら、ずっとむっつりしてて人形みたいだもんな!つまらん!」

「お前はさっきからうるさいくらいだが」

「俺が何年まともにしゃべれなかったと思ってるんだよ。嬉しくなって声ぐらい大きくなるし、口数も増えるさ。確かに今は夜だけど、ここの周りに他の家はいないんだから、誰も気にしやしないだろ。あんたも母親と二人だけでこんな寂しい場所に住んでて、よく物取りにも遭わずに無事だったな」

 

 そう言われれば、斗生は黙るしかない。

 記憶の中の、青年になった漣宇は人としての尊厳を奪われていた。声など枯れ果てて、心底からの笑い声など聞いたことがない。

 漣宇は、斗生が一個話す間に十個言い返すほど騒がしいが、煩わしくはないのだ。それならこのままでいいかと、斗生は放っておくことにする。

 彼の提案に従うのが、最適なように思えた。だがその前に、斗生には一つやらなければならないことがあった。

  

「なら、俺はお前と行きたい」

「ほんとか?」

「ああ。だが、その前に行きたい場所がある」

 

 聞くや、漣宇はようやく斗生が面白い何かを話したと言わんばかりに、身を乗り出した。

 

「どこだ?ここから近い?あんたは、そこへ何しに行きたいんだ?」

「一度に聞かないでくれ。答えられない」

「嘘つけ。あんたなら二、三個の質問なんて簡単だろう。それで、真面目ちゃんはどこに行きたいんだ?」

 

 あくまで、真面目ちゃん呼びを崩す気がないらしい漣宇を片手で止めながら、斗生はつまらないと言われた無表情で答えた。

 

「俺が行きたいのは花黄市(かこうし)だ。そこに、俺の従者がいる」

「従者?……あー、言われてみればいたな。あんたの側にいつも侍ってた、黒い服着た腕の立つやつ。顔知らねぇけど。でも、今は俺たちより年下じゃないのか」

「もう一度従者にしたいわけじゃない。今どうしているか、確かめたいだけだ」

 

 幸せでいるのか、何をしているのか、それが知りたいだけで会いたいわけではないのだと言えば、漣宇は怪訝そうに眉をひそめながらも頷いた。

 

「ふぅん。花黄市なら、宋家の本拠地に行く途中で寄れるから遠回りにもならないな。丁度いいか。なら、早速明日行こうぜ。あと、俺今晩ここで寝ていい?知ってると思うけど、俺、今家も何もないからさ」

「……わかっている」

 

 牀から降り、斗生は部屋の隅に畳んでいた布を拾って床の上に寝転がった。

 この家にひとつしかない牀は、ずっと臥せっていた母が使っていた。眠るならば、床のほうが却って慣れているくらいだった。

 それに、今の斗生より痩せている漣宇に、硬い床の上を使えとは言いたくない。

 

「お前も早く寝ろ」

 

 牀の上の漣宇に言い、斗生は猫のように布に包まるや目を閉じたのだった。





(しょう)はベッドってことにして使ってます。
時間遡行か未来予知かでもめてますが、タイトル見たらどっちなのかは一目瞭然状態です。

【名前欄】

(げん) 斗生(とせい)
視点主。無口なほう。

(がく) 漣宇(れんう)
襲撃した。おしゃべりなほう。


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三話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 一夜明けてもまだ斗生(とせい)の小屋にいた岳漣宇(がくれんう)は、本当によくしゃべった。

 小屋を片付ける間も、最後になる粥を食べる間も、とにかく黙っているということがなかった。

 一晩経ってもこれなのかと、さすがに何度か斗生は止めたのだが、まったくとめどないお喋りは減らなかった。

 

「なあなあ、なあってば真面目ちゃん、ほんとにこの服もらっていいのか?」

「いい」

「ありがとう!これ、何回も何回もものすごく丁寧に直されてるよな。直したのはあんたの母さんか?」

「そうだ」

「でも、肘のところの縫い方は他より雑なところがあるよ。ここはあんたがやったんだろ?」

「……そうだ」

「ハハッ、やっぱりか!」

 

 どうやったらこうも喋り続けられるのだと、斗生は感心した。

 髪を最低限整える間だけは黙ってじっとしていろと頭を叩いたが、あとは漣宇がさえずるに任せるしかないほどだ。口ではどうしても勝てない。

 路頭をさ迷って暮らしていた漣宇の髪はぼさぼさで艶もなく、臭いがした。

 艶はどうにもできないが、せめて洗えと水をぶっかけて櫛を使い、紐で一つに結べば案外精悍ながらも愛嬌のある顔がまともに見られるようにはなって、斗生は一仕事やり終えた気分になった。

 髪を櫛で梳く間も、紐で結ぶ間も、漣宇のお喋りが止まらなかったからだ。

 

「それ女物の櫛だろ?綺麗じゃないか。なあ、それってあんたの母さんの? 大事なものじゃないのか?俺みたいなぼさぼさ頭に使ってもいいの?虱と蚤だらけだろ 」

「……今は俺の道具だ。お前は黙ってじっとしていろ」

「やーだね!弄るのは髪だけなんだから、黙ってる必要はないじゃないか!暴れなきゃいいんだろ?だったら口ぐらい動かさせてくれよ。俺は黙ってじっとしてるのはうんざりなんだよ。耐えられない!前世で散々経験したしな!」

 

 それは、もしかしなくとも漣宇が受けた監禁のことを指していて、斗生は何も言えなくなる。

 悍ましい記憶をまとめて【前世】と扱うことにしたらしい漣宇は、何が楽しいのか斗生に構うのをやめなかった。

 ないに等しい荷物を背負って小屋を出たときも、漣宇は立ち止まって斗生の家をふり返り、また話しかけてきた。

 

「あんたはさ、ここに生まれてからずっと住んでたの?ずっと母さんと一緒にか?あとそれから、何があってお前の母さんは朱家を出たんだ?朱家当主の実子のお前が、なんだってあばら家に住んで育ったわけ?」

「……母は朱家の侍女だったが、俺を身籠ったから逃れてここへ来て、ここで俺を産んだ。俺を育てるためには、そうするしかなかったらしい。……それ以上は聞いていない」

「そっか。にしてあんた、いつもそれくらい口利いてくれよ。『わかった』と『そうだ』と、あとは『やめろ』に『騒ぐな』ばっかりじゃないか」

「……」

「あっ、置いてくつもりか薄情者!」

 

 漣宇を放って早足で歩き出しながら、斗生は母のことを想った。

 病に倒れてからは、坂を転がり落ちるように母は体調を崩してあっけなく儚くなった。けれど、死に顔は思い出せなかった。

 実を言えば、斗生の記憶から母の顔は抜け落ちている。

 斗生の感覚で言えば、母を看取ったのは十六年以上前。それから様々なことが降りかかって、昔をあまり思い出せなくなっていったのだ。無論、体を長い間取られて、脆い魂だけにされた影響もあるだろう。

 今では、何度も頭を撫でてくれたあたたかい手の感触と、かわいい子と言う優しい言葉の響きと、ぽつぽつと教えてもらった身の上話ぐらいしか残っていない。

 この時間に『戻って』来たとき、母は既に土の下だった。

 土饅頭を掘り返し眠りを妨げることは斗生にはできず、面影は遠ざかったまま、もう戻ってはこないのだ。

 

(……取り戻すのを期待しなかったと言えば、嘘になるが)

 

 かぶりを振って、斗生は小屋をふり返ることなく歩き出した。その後ろを、やはり跳ねるように漣宇がついて来る。

 

「あんたさ、ずかずか歩くけどちゃんと花黄市への道筋わかってんだよな?」

「わかっている」

「ほんとだよな。それと今更だけどさ、あんたは花黄市がどんな街かも知ってて行くんだよな?」

「妓楼の多い街だ」

「っていうより、妓楼で成り立ってる街って言ったほうがいいだろ。つまり、恨みやら嫉妬やら陰の気を持って死んで、そのあと悪鬼邪霊に転じる人間が多い。だから仙家の……特にあそこを直轄にしてる朱家のやつらがよく見回りに来るってことも、もちろんわかってるよな?」

「知っている。だが、俺たちは今はただの子どもだ。余程のことをしない限り、気づかれない」

「おいこら。ただの子どもって言うなら、もうちょっとその不愛想な顔はどうにかしろって。そんな顔で、そんな喋り方をする子どもなんかいないぜ。あんた、この歳でも綺麗な顔してるから無駄に目立つんだよ。ほら、俺みたいに笑ってみろって」

「……努力する。お前は少し落ち着け」

 

 目の前で笑顔を実践されても、斗生にできるわけがなかった。

 思い切り眉をしかめた斗生は、漣宇を無視して歩き出す。漣宇が何を言おうが無言を貫いて歩き続けていると、花黄市へ繋がる街道へは案外に早く入ることができた。

 朱家が治める花黄市に繋がる道を、牛や馬に牽かせた車、それに商人や旅人が盛んに行き交う。

 所属する仙家の紋章を描いた衣を身に着け、剣を持った仙士もちらほらといたが、やはり朱家の管轄地であるせいか、緋色の紋章を入れた朱家の仙士ばかりである。

 彼らの姿を遠目に見た途端、漣宇は吐き捨てた。

 

「緋衣の朱家ばっかりじゃないか。俺は早く宋家の群青が見たいぞ。もうこの際、黒の胡家のやつらでも白衣の凌家でもいい。赤いのはうんざりだ」

 

 斗生の隣に並んだ漣宇は、小声でぶつぶつとこぼす。同感だった。

 神代が近かった千年前、この中原(ちゅうげん)には天命を与えられてこの世をひとつに統べる、皇帝という者がいたそうだ。

 が、時代が下った今、この世は仙術を使う仙家によって治められていた。

 一つの家がすべてを統べるのではなく、四つの大仙家が大体四つに領域を分けて治めているのだ。それ以下の、中から小の仙家は、四大の傘下に入って担当する土地の悪鬼妖邪を退けて人々を守り、金銭や貢物を受け取って対価とする。

 その四大仙家が、漣宇の言う(しゅ)家、(そう)家、()家、(りょう)家である。

 規模で言えば、緋衣の朱家が一位、群青衣の宋家が二位、白衣の凌家が三位で、黒衣の胡家が四位となる。

 

 尚、前世では朱家が宋家と凌家を滅ぼしたため、世は乱れに乱れていた。

 とにかくも、霊力を扱って仙術を使う仙士は、世の人々から尊敬され、時に恐れられるのだ。

 彼らは、老いも遅ければ寿命も長く、傷の治りは速く身体能力も高い。仙骨がなく、霊力を扱えない並みの人間からすれば、見た目と心が同じだけの別種の生き物に近かった。

 今も、緋色の衣の朱家の仙士たちが堂々と道の真ん中を歩けば、人々は端に自然と避けて彼らに道を譲っていた。漣宇と斗生も、彼らに従う。

 緋色の衣の仙士など正直出会いたくないが、今は目をつけられるのが何よりまずいのだ。

 漣宇も、さっきの騒ぎようが嘘のように口を閉ざし、朱家の仙士たちが通り過ぎるまで黙っていた。

 

「ふん!」

 

 彼らが通り過ぎてから、抑えきれないとばかりに鼻を鳴らした漣宇に、むしろよく我慢できたものだと斗生は思った。

 彼にとって、朱家の仙士は自分からすべてを奪った仇にも等しい。

 じ、と見つめる斗生の視線に気づいた漣宇は、漣宇はしかめ面を引っ込めてぱっと笑顔になった。

 

「何?俺の顔になんか付いてるのか?」

「別に何も。だが、お前は何故笑う?」

「俺に言わせれば、あんたのほうこそ何でちっとも笑わないんだ?そりゃ奇妙すぎる状況になっちゃいるが、あんたにしろ俺にしろ今は自由に動けて、喋れるんだぜ。やらなきゃならないことも山積みだが、今を楽しいと思うのは罪かい?」

「罪ではない」

「ほんとにそう思ってんの?あんたの顔、死人か罪人みたいにくっらいぞ。ずっと俺からしか話してないし、旅はまだかかるんだから会話をしてくれよ。俺はあんたが全然わかんないんだからさ」

 

 斗生は、またも目を細めた。

 

「俺が一つ話そうとする間に、お前は十個も返してくる。追いつきにくい。顔が暗いのは……努力は、する。子どもと思われないのは困る、から」

「真面目ちゃんは素直ちゃんだなぁ。あんたがそんなやつなんて、俺は全然知らなかったよ。あ、言っとくけど前世のお前のことだからな。それにもっと詳しく聞きたいんだが、前のあんたが朱家に引き取られたのはいつで、体を取られたのはいつなんだ?昨日は、細かいこと省いただろ」

「……あの家に行ったのは十ぐらいのときだ。十二歳くらいから術にかけられて、時々自分がどこで何をしているのかがわからなくなった。おかしいと気づいたときには手遅れで、十五になる直前で取られた」

 

 母を亡くして放浪している間、年齢など気にしなくなっていたため適当な勘定になっているが、概ね合ってはいるはずだった。

 小声で、斗生は歩きながら淡々と答えた。

 自分の体を奪われた夜の記憶は、最も思い出したくない恐怖の源だったが、十年も身動きできない魂だけにされたためか、斗生は今や何を話そうが感情そのものがそれほど波立たなくなっていた。

 想いが先走って言葉が震えるようなことはなく、斗生は淡々と過去の記憶を語ることができた。

 

「体を完全に奪うには、数年かかるそうだ。それから朱重世の実子でなければならないし、男女どちらでも成り代われる。朱家が血筋を重んじるのは、今思えばあの術のためもあったのだろう」

「……体を取られたあと、術を破る方法はあるのか?」

「無い。準備に数年かかる大禁術だが、代わりに術が完全な形で発動すれば、完璧に体を奪える。解呪の方法はないし、体を奪われた時点で元の意識は消える」

「あれ?でも、あんたは取られてからの記憶があったよな?」

「よくわからないが、俺は意識が消えない特別だと言われた。前の体もその前の体も、元の魂は早々に消えたとも」

 

 漣宇は、舌を鋭く打った。

 

「……なんて惨い術だ。なら、今生きている朱重世の体も名前も、奪われたものってことだろ。初代の朱家の当主が、延々と生き続けてるとでも言うのか?」

「そうだ。彼は数百年は生きていると俺に言った。俺も、彼の最初の名前は知らない。もしかすると、皇帝が生きていた千年前の神代に届くかもしれない。そうまでして生き続ける理由や悲願とやらはわからなかったが……」

「理由なんてなんでもいいだろ。死にたくないからそうしたんじゃないのか?それよりもさ、術の発動条件はなんなんだ?子どもだったとはいえ、過去のあんたが数年気づかなかったなんてよっぽどだろ。また奪われないためには、俺はどうすればいい?」

 

 虫を払うように手を振って斗生を見た漣宇は、案外に真剣な瞳をしていた。

 確かに、対策を立てるためにも術のことは覚えている限りを伝えておくべきだった。

 

「朱家の本家に連なる仙士は、皆額に赤い点を描いているだろう」

「あの入れ墨みたいな目立つ朱色のあれか?前のあんたも、そう言えばつけてたな」

「あの朱点が術の要だ。額に点を入れられた朱重世の実子は、皆魂の受け皿になれる。逆に言えば、朱点さえないなら実子であっても体は奪われない。だが朱家で生まれた当主の子は、例外なく生まれてすぐ点を入れられるから、逃れるのは難しい」

「おい、おいおいおい!それなら、あんたを産む前に家を飛び出たあんたの母さんは、大正解じゃないか!勘の良い、聡明な人だったんだな!」

 

 漣宇は、何度も斗生の肩を叩いた。

 通り過ぎる人々が、一体この薄汚れた子どもは何故そんなにもう一人の仏頂面の子どもに楽しそうにじゃれかかるのかと、胡乱な視線を向けては通り過ぎていったが、漣宇に気にした様子はなかった。

 

「そうだ。……結局、俺が戻ったせいで、母の心をすべて台無しにしてしまったが」

「それはあんたのせいじゃない。知らなかったし、予想なんてできっこないだろ。俺だって、母さんが死んで父さんに見つけてもらえたと思ったら嬉しくなって他は目に入らなくなってたさ」

「だが、俺が……」

「あーもう、うるさいうるさい!真面目ちゃんの言うことは聞きたくない!悪いのはどう考えても、あんたの親父だ。あんたは十年も耐えてたんだろ。魂を消されず、邪霊にも落ちずに。なんだってそんな、自分が全部悪いみたいな不景気な顔になるんだよ。まさか、生まれなきゃよかったとでも思ってるんじゃないだろうな?」

「……そうは思っていない。母の心が無駄になる。それから、お前はもう少しうるさくするのをやめろ」

 

 耳を塞いで頭をぶんぶんと振る漣宇のわき腹に、斗生は肘を入れた。

 お前のせいではないという一言を、よりにもよって岳漣宇に言われるとは思わなかったと、そう思う。

 わき腹を押さえた漣宇は、ぶつぶつ言いながら斗生と共に歩く。だが、しばらく歩くと口数が減って肩で息をするようになり、足元が覚束なくなる。

 ついに立ち止まりしゃがみ込んでしまった漣宇は、途方に暮れたように立ったままの斗生を見上げた。

 

「なんでこんなすぐに疲れるんだ?まだ一日も歩いてないのに」

 

 当たり前だろうと、斗生は額を手で押さえた。

 斗生もろくに食べることができず育ったが、数年一人きりで浮浪児だった漣宇よりはまだましな体格をしている。

 一回りも小柄な漣宇がこうなるのは、想定外ではなかった。だから、騒ぐなと何度も言ったのだ。

 

「お前は、今の自分の体力と体格をわかっていなさすぎだ」

「あんたもそんなに変わらないチビでガリだろ!なんで平気なんだよ!」

「叫んで体力を使うな。じっとしていろ」

 

 言うが早いか、斗生は霊力を込めて底上げした腕力で漣宇を掴んで背負う。

 痩せている漣宇は今の斗生の力では軽くはないが、そこまで重くもない。花黄市までの残りの距離を考えれば、ぎりぎりで体力が間に合うだろう重さだった。

 一方、背負われた漣宇はかなり驚いたらしい。

 

「おい!?あんた何してんだよ!」

「静かにしていろ。騒ぐと頭から逆さに落とす」

「むしろ落とせ!なんで背負う!?」

「俺は歩けて、お前は歩けない。そして時間が勿体ない。理由は以上だ」

 

 子どもが街道にへたり込んでいても、身なりが汚ならしく親がいなさげならば、手を差し伸べてくれる者はまずいない。いても、精々が人買いである。そうして、休むため足を止めている間に日が暮れれば、子ども二人など野獣に食われる。

 漣宇もそれを知っているのか、やがて黙った。

 

「くっそ、この馬鹿力の真面目ちゃんめ……あとで覚えてろよ」

「俺に背負われるのが屈辱なら、喋るのを控えろ。興奮して体力を削るな。だから騒ぐなと言った」

 

 斗生が零すと、漣宇はぴたりと動きを一度止めた。

 

「あのさ、あんたはもしかして俺がうるさいから黙れだの静かにしろだの言ってたんじゃなくて、俺の体力を気にして言ってくれてたわけ?なら、そうと言ってくれよ」

「言っていなかったか?」

「言われてないね!だけどこれでわかった!あんたは手先もぶきっちょなら、言葉と表情もぶきっちょだ!足りてない!もうちょっと何とかした方がいいぜ、真面目ちゃん」

「……やはり落とす」

「あ、嘘嘘!冗談だって!悪かったよ!もう静かにするから落とさないでくれ!」

 

 本当だろうなと呟きながら、斗生は腕に力を込め直して歩いた。

 

 

 




ざっくり言うと、彼らは赤色陣営の陣地から旅を始め、青色陣営の土地まで辿り着こうとしています。


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四話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 言葉通り、花黄市の城壁が見えるまで漣宇は斗生の背中で大人しくしていた。

 城門の手前で斗生が立ち止まり、背から降ろすと漣宇は真っ直ぐ自分の脚で立つ。器用にも、背負われたまま斗生の背中で瞑想して霊力を蓄えたらしい。

 さすがは、大仙家の一番弟子と言われた青年の過去の姿だった。

 逆に、小柄とはいえ人一人を背負って歩いたためにふらついた斗生の腕を掴んで支えてくれたほどだ。

 

「今度は俺が背負ってやろうか?」

「要らない。歩ける」

「はいはい、わかったよ真面目ちゃん。だけど一回でも転んだら担いで行くからな」

「……」

 

 夜も眠らぬ妓楼街で潤う花黄市へ吸い込まれていく人々の流れに紛れ、二人も歩く。

 城門には剣を背負った朱家の見張り役の仙士もいたが、彼らにはぼろを纏った浮浪児の二人組などいないも同然なのだろう。一瞥すらなく、素通りができた。

 門をくぐれば、夜でも提灯を連ねて明るさを保ち続ける街が広がり、斗生は目を見開く。

 ここはこういう街だったと、記憶がいくつか刺激されたのだ。その肩を、漣宇が叩く。

 

「街中では俺から離れるなよ。あんた綺麗な顔してるから、人買いに見られたら多分目を付けられるぜ?で、会いたいって言ってた従者はどこにいるんだ?」

「……こっちだ」

 

 何を言っているんだと心中呟きながら、斗生は薄れかけの記憶を頼りに花黄市の奥へと進む。進むにつれて白粉と香と、食べ物のにおいが混ざりに混ざった風が流れて来て、鼻にしわが寄った。

 街に財を齎す妓楼街は西街にあり、妓楼が立ち並ぶ通りに入ればちらほらと仙士が見えた。緋色の衣の者が多いが、それ以外の者もいる。

 だが、四大仙家の残り三つに属する仙士は姿が見えなかった。

 

「やっぱり、他の四大の仙士はいないな。少なくとも、目立つとこにはさ」

 

 斗生の後ろをついて来ていた漣宇は、ひょっこりと背後から顔を出して通りを伺いながら、そんな言葉を漏らす。

 この時代でも他の宋、胡、梁の三家に比べて傲慢で恐ろしいと言われている朱家だが、実際金と兵力においては随一だった。

 義侠心が強いため後ろ暗い金策に手を染めない宋家、長い歴史を持ち知識に富むが自らの勢力を広げようとはしない凌家、優秀な薬師を輩出するがやや世俗に疎くなるほど研鑽に明け暮れる胡家は、この世の秩序を守る仙士本来の姿に則ってはいるのだが、野心や危機感という面で朱家より劣ってもいた。

 

 だからこそ長らくの平和に油断して、朱家に滅亡させられるのだと言っても、この時代では聞く耳持つ者がいると思えない。

 

 未来を見てきた者以外、この危機感を共有できる者はいないだろう。

 などと思っていると、斗生は袖をくいと引かれた。

  

「今更だけど、あんたの従者って妓楼にいたの?俺たちが八か九歳くらいの今なら、そいつって何歳だよ」

「四つか三つだ。妓楼で生まれて、そこで育った子だ。朱亀という店を探してくれ」

「また朱色かぁ。俺は緋色も朱色ももううんざりなんだけど」

  

 すっかり赤が嫌いになっているらしい漣宇とともに、斗生は建物の影から影を歩いて店を探す。

 提灯を並べた街は明るく、楽の音や嬌声、唄声に満ちていた。

 時を遡っても変わらない喧騒は記憶を刺激したが、元々ここにいい思い出も何もない斗生である。

 朱家の仙士となってから何度か訪れたが、先輩の仙士たちは妓楼街に出る妖邪を退治したあともずるずると留まりたがったのだ。

 華やかに笑っていても、朗らかに舞い踊っていても、虐げられる妓女たちの情念は邪霊に変じやすく、悪鬼妖邪を呼び寄せる。

 そうして生じた邪を退けたあとに、白粉や媚態で自らの悲哀や不満を覆い隠すような妓女たちと席を同じする気は起きず、斗生はいつも一人、楼閣の外や屋根の上でぼんやりするのが常だった。

 今探している子どもとも、そうやって一人でいるときに出会った。

 

「お、あれじゃないのか?朱い亀の看板を出してる、あの店だよ」

「……間違いない。ありがとう」

 

 その名の通り、亀を看板に掲げた妓楼は大きい。

 だが、近づくに連れ二人とも異変を感じ取った。

 蛾を誘う灯りのように夜に咲く妓楼が、死んだ貝のように門を閉ざしているのだ。周囲には人が集まり、囁きあっているが誰も近寄ろうとしていない。

 よくよく見れば、両開きの扉には符が貼られて開かないよう封じられており、二人は顔を見合わせた。

 

「あれって、封邪の術だよな?」

「ああ。朱家の術だ。一級符を使っている」

「なんだってそんな大層なものがここに貼られるんだよ。しかもあれは外からのものを寄せ付けないためじゃなく、内側のものを閉じ込めるためにやってる。仙士の見回りが来る妓楼の中に、一級の邪が出たってのか?」

「無い話ではない。見回りがしくじったか、あるいは……」

 

 斗生が硬い声で答えた正にそのとき、背後から騒がしい声が聞こえる。

 争いながら現れたのは、数人の男女だった。しかもそのうちの一人が、特に激しく暴れている。甲高い声は、夜気によく通った。

 

「いやよ!絶対にいや!どうして私の子なの!」

 

 身悶えしながら叫んでいるのは、ほっそりして夜目にも色白とわかる女で、彼女を囲んで引きずるようにして連れて来るのは、剣を背負った仙士たちだった。やはりと言うべきか、緋色の衣の朱家の者である。周囲の人間も、仙士となれば手が出せず道を開けるしかない。

 女は、何か大きな布の塊を取られまいと暴れていた。

 その包みの中から、中を引っ掻くように指を曲げた腕が伸び、漣宇はぎょっと跳び上がった。斗生は目を細め、手を握りしめる。

 

「離しなさい!離しなさいと言っているの!この子を使って化物を殺すなんて、信じられないわ!仙剣を持ってるくせに、恥ずかしくないの!あたしの(ぎん)に触らないで!」

 

 続く女の声は尋常ではなく、漣宇は思わず斗生の袖をまた引っ張る。

 

「何か大変なことになってるみたいだが、俺たちはどうす……っておい!」

 

 漣宇が驚きの声を上げたのは、袖を掴まれた斗生がその手を振り払うや駆け出したからだ。

 これまでずっと、凍りついた冬の湖面のような無表情で、漣宇がどれだけやかましく騒いで絡もうが大した反応を返さなかった斗生が走り出すなど想定できず、漣宇の手は衣を掴みそこねる。

 突如暗がりから飛び出て正面に立ちふさがった小さな人影に、朱家の仙士たちも仰天した。

 身なりは粗末で汚れていながら、銀月のような清らかな面差しの子どもに鋭い眼光を向けられ、彼らは束の間怯む。

 その僅かな隙に、彼らに捕まえられていた女は山猫のように暴れて拘束から抜け出し、斗生の背後に回り込んで朱家の仙士を睨みつけた。

 しかし、怯んだ仙士たちが我を取り戻すのも速かった。

 対峙しているのはぼろ服を着た幼い子どもと、少女の面差しを残す華奢な女である。どちらの力が強いのかは、明らかだった。

 

「我々は、邪を倒しに来たのだ。だが相手は狡猾にも隠れている。それをおびき出すために子どもが必要になるだけで、危険はない。我々が守るのだから、子に危険はない」

「よくそんなことが恥ずかしげもなく言えるわね!化物を見つけられないのはあんたたちの落ち度よ!あたしの子を囮にする道理なんてないわ!」

「何だと!貴様に何がわかる!」

「あんたたちが、そんな立派な剣を持っているくせに、自分で動きもしない腰抜けってことはわかるわよ!」

「この……!」

 

 こうも罵倒され、表立った反抗を受けたことなどない朱家の仙士たちは、たちまちにいきり立つ。

 次々と剣を抜いた彼らに怯む女を背に庇ったままの斗生は、一足もその場から動かなかった。

 静かな表情のまま、彼は口を開いた。

 

「聞いたことがない」

「何?」

「情念の籠る妓楼に陰気が集まり、邪霊を呼び込み悪鬼を生じさせることはままある。しかし、建物を封じなければならないほど凶悪なものが育つには、時が必要になる。あなた方の目が光る朱亀楼で、それほどの邪気が溜まるのは不自然だ。祓うためとはいえ幼子を不自然に生じた邪の前へ送るのは、人道にも仙道に外れた行いで、聞いたこともない。あなた方は、邪霊の依り代でも生む気か?」

 

 どうなるのかと集まっていた見物人たちは、まるで名家の仙士のような落ち着いた口を利いた子どもを目の当たりにして驚く。

 確かにそうだと一人が呟けば、同意の囁きが野火のように広がっていくが、朱家の仙士の睨みでまた治まってしまう。

 

「そうそう。まるで、誰かが怨念をわざと肥え太らせたみたいじゃないか。ついでに言うとな、妓楼に生じる悪鬼妖邪が狙うのは、大体美しい女か、目立つ男の客なんだよ。この街じゃ、そういう目立つやつらが恨みを集めやすいんだからな。右も左もわかってない無垢な幼い子どもなんてのは、餌にするのに最も向いてない人間だ。意味がない。あんたたちのうちの誰かが囮をやったほうがよっぽどましだろう。朱家の仙士とくれば、亡霊の目に留まるほどの男ぶりがあるってもんだろう」

 

 重い沈黙に滑り込むように軽妙に喋ってから、ひょいと人垣の中から飛び出た人影があった。

 呆気に取られて動きが遅れていた岳漣宇は、斗生の隣に立つ。

 ついでに彼は、さり気なく斗生の靴の爪先を踏んづけた。目立たないようにするという話をどこかへ蹴とばして前へ出た斗生への、ささやかすぎる仕返しだった。

 ぴくりと眉を動かした斗生は、小さく頭を下げた。

 

「すまない」

「はいはい、後でどういうことか聞くからな。今はこの場をどうにかするぞ」

「感謝する」

 

 小声で短く言い合い、並んだ二人の子どもは剣の前に震えもせずに立つ。

 身なりこそ粗末だが、物言いは確かで顔立ちも秀麗な子どもたちを支持するざわめきが先ほどよりも強く広がる。

 それを感じ取り、先頭にいた朱家の仙士の中で何かが切れたようだった。

 

「うるさい!我ら朱家仙士のやり方に口を出すな!それほどに言うならば、お前たちにも手伝ってもらおう!おい、こいつらをまとめてあの中へ放り込め!」

 

 群衆が、一気にどよめいた。

 彼らも朱家の仙士の横暴は知っているが、こうも道理に外れた行いは見たことがなかった。けれど、仙剣を抜いた彼らを止める者も現れない。

 反抗する者も邪魔者もこれ以上現れないことに気を大きくしたのか、先頭の男は尊大に袖を振って指示を出した。

 たちまち数人が飛び出て、女と子ども二人を捕らえて押さえつけた。

 

「何するのよ、この馬鹿野郎ども!」

 

 腕を握られ暴れようとする女に、同じく肩を押さえられた斗生はそっと声をかけた。

 

「暴れないほうがいい。あなたが怪我をするだけだ」

「は?」

「それより、その子を守っていてほしい。邪はこちらがどうにかする」

「どうにかって……できるの?」

「する」

 

 断言した斗生と、それを聞いて呆れたように目を瞑った漣宇、自分の子を胸に抱えた女の三人は、こうして封じの術が外からかけられた妓楼に閉じ込められることとなったのだった。





タグに仙人と入れましたが、この世界では仙人を目指して修行する修身界をイメージしておりますので、神仙(神と仙人)は主人公たちにとって太刀打ちできないチートキャラみたいな感じのつもりです。

仙人になることを目指して修行する人間たちがいるのが修身界ということで…。


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五話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


「とりあえず一発殴らせろ。話はそれからだ」

「わかった。本当にすまない」

 

 素直に詫びた斗生の頭を平手で一発殴った漣宇は、ふんと腕を組んで辺りを見回した。

 朱家に歯向かった三人が閉じ込められたのは、灯りを落とされた薄暗い妓楼の中である。

 朱亀楼は吹き抜けになっているため、見上げれば三階までが見通せる見事な建物だったが、人影も灯りも絶えた今、ただ不気味な闇がそこら中に蟠っていた。

 漣宇と斗生がそれぞれ蝋燭を探し出して霊力で火をつければ、少しだけ闇は払われた。

 

「ねえ、あなたたちは大丈夫?あいつらに強く掴まれてたけど」

 

 この場に閉じ込められた四人のうちの三人目、腕に包みを抱えた女は尋ねた。

 鼻筋の通って目の大きな、美しく若い色白の女である。

 少女と言っても通りそうな風貌の彼女は、突然現れて一緒に閉じ込められることになった二人の子どもをどう見ればいいのか、戸惑っているようだった。

 漣宇は、ぱっと人懐っこい笑みを浮かべる。

 

「平気だよ、お姉さん。ところでさ、さっきの馬鹿どもは一体何なんだ?」

「朱家の仙士よ。この店の店主が化物退治のために呼んだんだけど、いきなりあたしの子を渡せって言うの。子どもを使わなきゃ、化物を捕まえられないとかなんとか言って。そんな方法聞いたことがないって言っても、あの調子だし、店の皆は仙士様の言うことには従うべきだって言うばっかり。信じられないわ!」

「朱家なんてそんなやつらばっかりさ。だが、さすがにおかしいだろ。何であんたの子にそんなに拘った?もしかしてだが、その子の父親に何か……」

「岳漣宇」

 

 低い声で名を呼ばれ、漣宇はとうとうと流していた言葉を止める。斗生の目を見て、彼はひょいと肩をすくめた。

 

「はいはい。無遠慮に詮索するのは失礼って言いたいんだろ。わかったよ。今はここをどうにかするほうが先だもんな」

「そうだ」

「だけど、あんたにはあとで話をしてもらうからな。いいか、全部だぞ。あんたが必要ないと判断して端折っただろう部分を、俺は知りたいんだからな!あんたはやっぱり自分を語らなさすぎだ」

「反省する。……ところで、お前は防邪の陣を敷けるか?」

 

 今度は、漣宇は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「当たり前だろ。俺を誰だと思ってるんだ。千の術だって使えるさ」

「千も必要ない」

「わかってるっての。必要なのはあの二人を守る陣だろ。任せろ。で、ただ陣を敷いて籠城するだけじゃないよな?」

「ここに出たという邪を倒す」

「言うと思ったよ。あいつらが助けてくれる保証なんざないからな。霊力も何もかも、ヘボそうだし。となると、俺たちでどうにかしてここを出るしかない。中の邪気が消えなきゃ、外への扉は開かないんだからな」

「ああ」

 

 それを聞いた女の瞳は、不安に揺れる。包みを抱える手に、一層力が籠った。

 布の塊の中から、ふぇぇと大きな泣き声が響いた。

 

「あっ、ごめんね、ごめんね、怖い思いさせて!ごめんなさいね、吟。泣かないで!」

 

 たちまち表情をやわらかなものに変えて、女は布の中から顔を出した幼子をあやす。

 それでもむずかるのをやめない子は、ころりころりと暴れて床の上にしゃがんでいた母の手から抜け出すと、布の中からも這い出して床の上に立った。

 黒い髪を輪にして結い、女子が着る薄青の衣を着た小さな幼子である。顔立ちからして三つか四つに見えるその子は、並みよりも一回りかそれ以上に小さな体だったが、頬は丸く健康な顔色をしていた。

 濡れた黒い瞳で、子どもは真っ直ぐに斗生を見た。

 

「にぃに?」

「……いや、ちがう」

「おいこら」

 

 幼い子どもにはまず向けないだろう無表情で返した斗生の頭をぽかりと叩き、漣宇は斗生の肩に肘を乗せて子どものほうへ身を乗り出した。

 

「俺は岳漣宇。こっちのこわーい顔のお兄さんは、玄斗生さ。でも、中身は怖くないお兄さんだから安心しろよ。で、お嬢さんの名前はなんだい?俺に教えてくれないかな」

 

 幼子は、横から口を挟んだもう一人に驚いたように目をぱちぱちとさせたが、すぐにこくりと頷いた。

 

「ぎんは、ぎんよ」

「……この子の名前は(しゅう)路吟(ろぎん)よ。あたしは(しゅう)路燕(ろえん)。さっきは庇ってくれてありがとう」

「礼なら、ここから生きて出たあとに頼むよ。ところで、周姐さんはここの店の人なのか?」

 

 よちよちと歩いて、何故かしきりに斗生に近寄ろうとする娘の腹に手をまわして押しとどめながら、路燕は頷いた。

 

「ええ、そうよ。あたしはここの芸妓。これでも花柳の才燕って名前のある売れっ子だったの。まあ、今やどうでもいいことだわね。それで化物を倒すって言っていたけど、あたしにできることはある?」

「この子を抱いて、護りの陣の中にいてくれ」

 

 ふんふんと子兎のように鼻を鳴らしつつよじ登ってきた路吟に頬をぺちぺちと叩かれながら、斗生はなんとか小さな体を母親のほうへ押し返した。

 漣宇は、幼女を持て余す斗生に笑いをこらえながら指を一本立てた。

 

「うん、こいつの言う通り、周姐さんには路吟ちゃんをだっこしてもらって、安心させといてほしいんだ。この子が一番か弱くて、陰気に当てられやすいからな。泣いたりしたら、もっと大変なことにもなる」

「それで、化物はあなたたちが退治するって言うの?」

「そうだよ。すまんな、助けがこんな子どもだけで」

「何言ってるの。あたしは嬉しかったわよ。化物については、あたしも知ってるから話せるわ」

 

 娘を膝の上に乗せた路燕は、しっかりした口調で話し始める。

 化物が現れ出したのは十日前で、時刻は常に決まった真夜中。姿形は黒い霞の塊であり、店の中を狂ったように毎日飛び回った。

 また、この霞に包まれた者は精気を失って倒れ、寝付いてしまうのだという路燕を前に、漣宇と斗生は顔を見合わせた。

 

「襲われて、死んだ者はいないと?」

「今のところはいないわ。でも、十日前に襲われた子はまだ起き上がれてないし、部屋の扉を閉めて魔よけの札を貼って防げてはいたんだけど、この前閉めていたあたしの部屋に入って来たのよ。吟が泣いてくれたからあたしは起きて逃げられたんだけど、そうでなかったら捕まってたわ」

「それはいつだ?それから、この妓楼でここ数年の間死んだ者はいるか?」

「あたしたちの扱いはいい店だから、ここしばらく死んだ子はいないし、病にかかった子も治ってるわ。あたしが襲われたのは、六日くらい前よ。そのことがあったから店を閉めて、ようやっと仙士様方が来てくれるようになったの。……来たのはあんなやつらだったけど」

「来ないほうが良かったかもな」

「本当にそう!だけど、これって化物が段々強力になってるってことよね。最初は入れなかったあたしの部屋に入って来たんだもの」

「お、周姐さんは鋭いな。その通りだよ。そんなものから母さんを助けた路吟ちゃんは、ほんとに偉い子だな」

 

 路燕の膝の上の路吟に笑いかけ、優しく手を振る漣宇だが、ふいと路吟は顔を背けて母の胸に顔を埋める。

  

「なんでこっちの真面目ちゃんには懐くのに、俺は駄目なんだよ!綺麗な顔のほうがやっぱり好かれるのか!」

「うるさいと思われたからでは」

「あんたは静か過ぎだろ!……ちぇっ、わかったよ。陣を描こうぜ。周姐さん、字を書く道具はない?」

「そっちの棚に筆や墨が入ってるわ。客の前での余興に使うものだけど」

「十分だ。急いで描こう」

「了解っと」

 

 かくして、二人の子どもは筆を二本と墨壺を二つ見つけると、親娘を中心にした陣を床の上に描き始めた。

 線が蔓草のように絡み合い、細かい文字も含んだ複雑な文様の陣を容易く描き上げる二人を見、路燕は呆気に取られていた。彼らが描き上げる速度は速く、しかも正確でもある。

  

「ねえ、あなたたち、ほんとはどこかの仙家のお弟子さんとかじゃないの?仙士さまって、見た目を若いままにしておけるでしょ?」

「いーや、俺たちはただの家無しっ子で、兄弟分だよ。俺が兄でこっちが弟。宋家のある月穹河(げっきゅうが)に行こうとしてたんだ。入れてもらおうと思ってさ」

「あなたたちなら、入らなくてもやっていけるんじゃないの?」

「まさか!俺はずっと宋家に行きたかったんだよ!絶対……絶対に、月穹河には行くさ!」

 

 筆を片手に持ち、片方の手を広げて言う漣宇に、俯いて無言で文字を書き続けていた斗生が顔を上げた。

 

「漣宇」

「はいはい、喋ってても俺の陣に間違いはないぜ。あんたは硬いんだよ」

「……」

 

 宋家に行きたいという漣宇の一言に、抑えられないほど大きな感情が籠っているのを感じたから斗生はつい声をかけてしまったのだが、漣宇は単に斗生が不真面目を咎めるために声をかけたと思ったらしい。

 口を尖らせる漣宇に、斗生は上手く行かないとひそかに肩を落とした。

 とにもかくにも、二人がかりで描き上げた陣はなかなかに強固に仕上がった。以前と比べると無論遥かに劣るが、乏しい霊力しか使えない状態にしては最高と言ってもよかった。

 

「よし。なら、俺たちは店を見て回るよ。周姐さんはここで待ってて。心細いと思うけどさ、陣からは絶対に出ないでくれ」

「わかってるわ。気をつけてね」

「大丈夫だ。……こういうものには慣れている」

「え?」

「あー、なんでもない!なんでもないからな!」

 

 訝し気な顔になった路燕の前から斗生を引っぱり、漣宇は二階へ続く階段を駆け上がった。

 二階へたどり着き、漣宇は掴んでいた手を離す。

 

「さーてと、あんたはここの邪に関してどう思ってる?」

「……自然に生じたものではないと思う。感覚だが、この店にそこまでの邪気は溜まらない。部屋に入ったやり口も、わざと己を弱く見せ油断させて隙を突いたようで狡猾だ。精気を吸うだけの低級な邪霊には、ふさわしくない」

「俺も同感だ。誰かが呪詛を送った場合に近いな。となると、よくあるのは呪物を建物に仕込んで、邪霊を呼び込むか生み出す方法だが……」

「一階の中心と四隅、戸口と窓の周辺に呪いの類は仕込まれていなかった。ここは吹き抜けがあるから、あり得るとするなら最上階の天井辺りか?」

「あんた目敏いな。うん、でも確かにこういう建物なら、頭を押さえて四方に陰気を巡らすやり方はありだ。先に上へ行って、順に探っていこう」

 

 ひと気のない廊下を、静かに駆け抜ける。

 真夜中にはまだ時間があったが、あまり余裕があるわけでもない。二階から三階へ続く階段の途中で、先を走っていた漣宇は口を開いた。

 

「今は答えなくてもいいけどさ、一応聞いとく。あんたの会いたいやつは、あの路吟ちゃんだろ。探してた気配を感じたから、あんたは朱家の仙士の前にまで飛び出て庇った。前世でも、あんたが気にかける朱家の人間はあの従者ぐらいだったもんな。まーさか、あいつが女の子だとは俺も気づかなかったけどさ。違うか?」

 

 斗生は、前だけを見て頷いた。

 

「合っている。路吟の母親は幼いころに病で亡くなったと聞いていたから、最初はわからなかった。俺が出会ったのは、彼女が五つのときだ」

「なら、あんたが十一ぐらいのときか。そんな歳から妓楼に来てたなんて、あんたもなかなかに遊んでたのか?」

 

 にやつきながら尋ねる漣宇に、斗生は冷たい目を向けた。

 

「…………仕事だ」

「だと思った!で、病で亡くなった母親ってのがあの周姐さんか。全然元気に見えたけど」

「ただの病死ではなかったらしい。昔『悪いもの』に襲われ、体がひどく弱くなったから病に勝てなかったそうだ。路吟も幼いころの記憶だから、所々確かではないと言っていたが。……その悪いものとやらが、今回のこれなのかもしれない」

「なら、俺たちは過去を変えている最中ってことか?」

「俺たちにとって、既に過去ではないだろう」

 

 それを聞くや、漣宇は上機嫌で斗生の肩を幾度も叩いた。

 

「アハハハッ、その通り!だったらなおさら、足止め食ってる場合じゃないな!退治できるものは退治して、早いとこ逃げよう」

「そうだな」

 

 階段を上った先にある三階は、階下と比べ部屋が少なかった。斗生が印を結ぼうとした手を、漣宇は掴んで止める。

 

「あんた、俺より霊力に余裕ないだろ。俺がやる」

 

 それはその通りで、斗生は黙って引き下がった。

 事が路吟の安全に絡むと、頭に血が上りやすくなるのは自覚していたが、またそうなりかかっていた。霊力と体力不足で倒れかけた漣宇のことを言えない。

 斗生の背中で休んだ分、霊力が戻っていたらしい漣宇は、持って来た筆とそこらで拾った紙にさらさらともの探しの術式を描く。

 直接術を行うより手間はかかるが、符を作ったほうが霊力の消費は少なくなるため、理に適った方法だった。

 

「できた!」

 

 完成した符に、漣宇が息を吹きかけて宙に飛ばせば、紙は魚のように空中を滑って装飾が施された特に太い柱の一本に貼り付く。

 朱色に塗られた柱の、天井に近い一箇所がかたかたと音を立てて揺れ出す。

 口笛を吹いて、漣宇は斗生を振り返った。

 

「見つけたはいいが、今の俺たちの背丈だと肩車してもあの高さに届かないぞ。宙にも浮けないしな」

「弓矢……はあるはずもないか」

「槍も剣もないな。ったく、剣舞の物もないのかよ」

 

 仕方なしに、二人は閉ざされていた部屋を蹴破って入ると、椅子や棚を引きずり出して重ね、どうにか不格好な台を作った。

 柱はすべて吹き抜けに面しているため、足を滑らせれば欄干を飛び越えて、たちまち下まで落ちてしまうだろう。

 仙骨が使え、仙剣を持っていたならば術で剣を飛ばして柱を抉れば済む話なのだが、どちらもない上、体が子どもの状態では手間がかかることこの上なかった。

 それでも、どうにか目指す高さにまで届く台は出来上がる。

 ではどちらが上るかという段になり、なんとなく黙った二人は次の瞬間どちらともなく拳を引き、音頭を取って同時に手を出した。

 斗生の手は指を伸ばした『紙』をつくり、漣宇の手は拳を固めた『石』をつくっている。

 斗生はうん、と頷いた。

 

「俺が勝った。俺が上る」

「了解。だけど、あんた落ちるなよ。頼むから落ちてくれるなよ」

「落ちたら捕まえろ」

 

 無茶を言うなと漣宇が騒ぎ出す前に、ひょいと斗生は椅子や棚、机を組み合わせた台を上がって符が貼り付いた柱の箇所へ手を伸ばす。

 滑らかに見えた朱塗りの木に触ると、一部かすかに指が引っかかる場所がある。穴を開けて何かを埋め、わからぬよう穴を塞いで隠したらしかった。

 眉をひそめた斗生は、少し身を乗り出して下にいる漣宇を見た。

 

「見つけた」

「速いな!取り出せそうか?」

「叩けばどうにかなりそうだが、引き換えに俺の霊力が尽きる。壊すか封じるのは任せていいか?」

「ちょっと待ってくれ!そういうことなら符を描くから!」

 

 ちぎった掛け布や手巾へ手当り次第に模様や文字を描き、即席の符を作った漣宇に、いいぞと手で合図を送られ、斗生は柱に手をついた。

 『叩く』と言ったのは、触れたものに直接霊力を通し、内側から弾けさせることを意味した。元は鎧を着た者と素手で戦うための技なのだが、霊力の少ない今では木の柱を壊すのが精々であった。

 

(それでも十分だろうか)

 

 自身が完全にあるのかと言えば微妙なところだったが、斗生は一度目を瞑り、残りの霊力を手のひらに集めた。

 

「破ッ!」

 

 気合とともに霊力を放てば、ぴきりと柱にひびが入り、次の瞬間木片を撒き散らして中から何か黒い塊が飛び出た。

 

「漣宇!」

「わかってる!あんたはとっととそこから降りろ!」

 

 言われなくとも、斗生は飛び散った木片と飛び出た黒霞をかわした勢いで、漣宇の名を呼んだときには姿勢を崩していた。

 しかも衝撃で足場まで崩れ、斗生は転がってぎりぎりで床に背中から落下する。身をひねらなかったら、欄干から飛び出て一階に叩きつけられていただろう。

 受け身を取り損ない、したたか体を打った痛みで斗生が動けない間に、漣宇が符を放っていた。

 

「疾ッ!」

 

 霊力をまとった幾枚もの符は、宙に躍り出ていた黒い霞に絡みついて動きを止める。と、みるみる黒い霞は晴れて塊の核となっていた何かが、ぼとりと床に落ちた。

 

「斗生!」

 

 落ちた何かには構わず、漣宇は床の上に倒れたままの斗生に駆け寄る。

 呻きながら斗生が手をついて身を起こすと、漣宇は安堵したように息を深く吐いて手を伸ばし、斗生の腕を引いて立たせた。

 ふらつきながら立った斗生は、顔をしかめた。

 

「やはり今ので霊力が空だ。お前は?」

「かつかつだけど、あんたよりはましってとこ。歩ける?」

「できる」

「そーか?だけど、余裕ないだろ。あの黒いやつの始末も俺がするし、あんたはちょっと座ってろ」

「……すまない」

「いいよ。あんたにおぶわれたとき俺が謝ったか?謝ってないだろ。こういうときは謝罪も何も要らないんだよ、真面目ちゃん。俺としちゃ、運ばれたときの借りがもうあんたに返せるから万々歳ってやつだしな」

 

 廊下の隅まで斗生を引きずるようにして連れて行った漣宇は、そこに斗生を座らせると床に落ちた封邪符まみれの塊を見下ろした。

 その背中に、斗生は手足を投げ出して座ったまま声をかける。

 

「何かわかるか?」

「んー、こりゃやっぱり呪詛だな。鳥の頭を核に、恨みを形にしたものだ。元が鳥だから、あちこち飛んで人を襲ったんだろ。だけど大元のこいつが壊れたから、術は既に破れたよ」

「なら、これで終わりか」

「ああ。でもな、呪詛ってなると呪われた相手がいるだろ。あんたは、それに心当たりがあるんじゃないのか?」

「……」

 

 確信を含んだ漣宇の答えに、斗生は何も返せなかった。

 彼の言う通り、斗生には誰がここに呪いを仕込んだかも、誰が狙われていたかも、何故そうなったかも察しがついていたし、間違いないだろうと思ってもいた。

 それを漣宇に告げるには、まだ躊躇いがあった。

 前世では、斗生はいくつか知られてはならない秘密を持って生きていたが、今回はまさにそのうちの一つが関わっていた。

 長い間、身を守るためたった一人で隠し通していたことを、親しく話すようになって三日も経たない相手に打ち明けることは躊躇われた。

 巧みに嘘をつくことも、話題を逸らすこともできない斗生は押し黙るしかなく、その様子に何かを感じ取ったらしい漣宇も軽口を止める。

 しかし、漣宇の沈黙はすぐ破られた。

 

「しっかしまぁ、雑な術だよな。俺たちみたいなひよっこちゃんでもどうにかなる程度の低級呪詛だし、これがどうにもできなくて路吟ちゃんを使おうなんて馬鹿をやらかしかけていた輩は、本当に度し難いな」

「ああ」

「ま、これでここは終わりだから、とっとと抜け出して月穹河へ行こうぜ。俺はあそこが恋しいよ。恋しくて恋しくて堪らないんだ」

「……そう、か」

「月穹河は良いところだぞ。あんたも、絶対好きになるよ。俺、昔からそう思ってたんだからな」

「……うん」

「だから安心しろ。置いていったりしないからな」

 

 漣宇の声は奇妙に反響し、くぐもって聞こえた。

 四肢の力が急に抜け、支えられなくなった頭ががくりと項垂れるのを感じたのを最後に、斗生の意識はふつりと途絶えた。




シスコンとタグに入れましたが、これは無口主人公のことです。


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六話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

感想めちゃくちゃ嬉しいです!!!!

では。


 斗生が次に目覚めたのは、漣宇の背中の上だった。

 最上階でばったり気絶した斗生を漣宇が背負い、一階まで降りたところで目を覚ましたのだ。

 気絶していた時間は半刻にも満たず、もっと気絶していてもよかったのにと嘯くのは漣宇だったが、斗生は当然すぐに背中から降りた。

 それを見て、陣の中に座っていた路燕はほっと息をつく。路吟はその膝の上で指をしゃぶりながら、きょとんと黒い瞳で漣宇と斗生を見上げていた。

 

「お待たせ、周姐さん!これが周姐さんたちを困らせた『化物』だよ。でも、もうこうなったら何もできないからな」

 

 漣宇が呪物の核として上から持って降りてきたのは、封じの符まみれの烏の頭である。

 まだ生きているかのような艶のある黒い瞳と羽毛を保ちながら、切り落とされた首の断面は萎びて乾いているという異様な物体だった。

 気持ち悪そうに、路燕は顔をしかめて路吟の目を手で覆った。

 

「あっ、ごめん!」

「いいわよ。むしろ、ありがとう以外言う言葉なんてないわ。だけど、それを吟には見せないでね」

「うん」

 

 漣宇が烏の首を隠すと、路燕は首を傾げた。

 

「一体、この店のどこにそんなものがあったの?」

「最上階の中央の柱に埋め込まれていた。これが核になって邪を集め、あなたのいう『化物』を作っていた」

「うん。だからこれを抜き出したから、もう何も出ないよ。あいつらにまだ壊れてないこの呪物を渡せば、多分解放されるさ」

「待って、これ壊してないの?」

「壊してないよ。封じただけ。完全に壊しちゃったら、外の仙士さまたちはまた何か言ってくるだろ。このまま渡せばあいつらは一番の手柄を自分たちのものにできて、満足してくれるだろうってこと……上手く行ったら、だけどさ」

「……そういうことなのね。しかも、埋め込まれてたってことは、誰かがうちを狙ってやったの?」

「残念だけど、そうだよ。呪いを使って相手をどうこうってのは、わりとよくあるんだよ。仙家同士でも珍しい話じゃない。俺たちはある程度見抜けるし自分たちでどうにかできるからマシだけど……姐さんたちの場合は、運が悪かったってことかな」

 

 路燕の顔色が曇るが、運が悪いという一言に納得できる部分があったのか、それ以上のことは言わなかった。

 となると、残る問題はこの場から出られた後のことになる。

 ここに放り込まれたのも、元はと言えば朱家の仙士を挑発してしまったからだ。

 あれから数刻経っているが、一晩は過ぎていない。

 公衆の面前で罵倒され、たてつかれた朱家の怒りが引いているか、見逃してもらえるかは五分五分だった。

 

「それを彼らに渡しても済まないときは封印を解いて暴れさせ、その間に逃げるしかないだろう。俺たちは逃げるといっても街の外へ向かうしかないが……」

「あ、待って。あたし、助けてくれそうな場所を知ってるわ。ここからなら近道を通って走れば何とかなる。あいつらでも、なかなか入っては来られないはずよ。()家出身のお医者で、この子を取り上げてくれた仙士さまよ」

「そんなところがあるのか!?周姐さんすごいな!」

 

 四大仙家の一つ、医薬に優れた胡家は、確かに己の管轄地の外にも施薬院や医療院を開く。

 そのうちの一つが、この近くにあるならば頼れそうな相手だった。

 

「ならば、あなたは路吟……ちゃんを抱えてそこまで走れるか?」

「平気よ。あたし、見かけより力持ちだし走れるわ。あたしたちより、あなたたち二人……特にそっちのあなたは顔色が悪いけど、大丈夫なの?」

「問題な────」

「こいつが大丈夫じゃなくても俺は力持ちだからさ、一人ぐらい担いで走れるよ」

 

 割り込んだ漣宇を、横目で斗生は睨んだ。

 調子のいいことを言ってはいるが、疲労ではそう違いはないだろう。

 二人とも元々ろくに食べられもせずに一日歩き、街に着いた途端に騒ぎに巻き込まれて、霊力まで使ったのだ。

 並みの子どもならとっくに目を回して倒れ、三日は寝込んでいるだろう。

 そうならないのは、二人ともが霊力を使っているのと、目覚めていないとはいえ持って生まれた仙骨があるからだが、それにも限界は当然ながらあった。

 こうも消耗することになったのは、朱家の仙士の前に言葉の回らない自分が飛び出したのが原因で、本当に巻き込まれたのは岳漣宇だけなのだと斗生もわかっていたが、それこそやり直せたとしても自分は同じことをしただろう。

 ならば、軽々しく謝罪などできなかった。

 つまらないと散々漣宇にからかわれた無表情で、固まっているしかない。

 動けないでいると、ひょこりと漣宇が覗き込んでくる。

  

「ん、どうしたんだよ真面目ちゃん?怖い顔して固まっちゃってさ」

「何でもない。……そう言えば、お前はさっき俺の名を呼んだか?」

 

 ふと思い出したことを尋ねれば、漣宇はきょとんと首を傾げた。

 

「そうだったっけ。さっきっていつだよ。俺は覚えてないなぁ」

「……そうか」

 

 床に落ちて動けなくなったとき、名を呼ばれた気はしたのだが斗生の意識もはっきりしていたわけではない。

 漣宇が違うというならば、そうなのだろう。

 体を奪われたとき、斗生は名前も奪われた。

 そこから先の人生において、斗生という母のくれた名は他人のものとなっていたから、誰かに呼ばれてもとっさに反応できない。借り物の、身の丈に合わない衣を着ているような落ち着かなさが、常に付きまとう。

 間違いなく自分の意志で自分の体を動かせる今、呼んでもらえていたら、段々と名前が己に帰ってくるだろうと思えたのだが、漣宇は【真面目ちゃん】か【頑固ちゃん】のあだ名を押し通すつもりらしい。

 

 とはいえ岳漣宇の前世とそこで彼が受けた仕打ちを顧みれば、斗生とまともに会話してくれることも信じられないほどだった。

 

 彼を苦しめたのは斗生の父だが、そのとき使われた外見も声も、すべてが斗生の肉体だった。

 なのに、漣宇は心底恨み、憎んだ相手と同じ顔と声の相手を避けるどころか、馴れ馴れしく近寄り、倒れても置いて行かずに背負ってくれる。

 魔王を倒すための協力者という以上に、斗生当人を知りたいのだとばかりにずかずか踏み込んでくるくせに、頑ななまでに名前を呼ばない。

 斗生には、漣宇がよくわからなくなっていた。

 元々、わかり合っている相手でもないというのに。

 

「おい、扉開けて外に出るけど、大丈夫なのか?」

「どうにかする」

「あ、やっぱりまだへろへろなんだろ。背負ってやろうか?」

「必要ない。お前が動けなくなる。月穹河に着けなくなるぞ」

「ちぇっ、この頑固ちゃんめ」

 

 ぺろりと舌を出した漣宇は、路燕にちらりと目をやる。路吟の手をしっかり握った彼女が頷きを返すと、漣宇は烏の首を持ったまま勢いよく扉を開け放った。

 扉の外はまだ夜も開けておらず、赤々と燃える松明に鎮魂の祭壇、その前で仙剣を構えて呪文を唱える朱家の仙士たちと、一体どうなっているのかと遠巻きに眺める群衆がいた。

 幼く愛らしい子どもの手を引いて現れた路燕、その後ろにいる子ども二人の姿を見た彼らから、どよめきが漏れる。

 

「お、お前たち、どうやって……」

「え?仙士さまたちが唱えてくれた呪文のお陰じゃないんですか?ほら、俺たちがここに入ってすぐに壁からこれがでてきたんですけど、中にあった札を貼ったら大人しくなりました!仙士さまたちの呪文が聞こえていたから、きっとそれで化物が弱っていたんですよね。ありがとうございます!先ほどの数々の御無礼を謝罪します!」

 

 息もつかせずデタラメを並べ立てた漣宇は、丁寧な仕草で符まみれの烏の頭を朱家の仙士たちの前へ差し出す。

 彼らも、まさかそんなものを子どもが捧げてくるとは思いもしなかったのか、魚のように口をはくはくとさせていた。

 

「それ、まだ生きてますよね?仙士さまたちでないとどうにもできません!ほら、お願いします!」

 

 背伸びをして、漣宇はさらに烏の頭を差し出す。人懐っこい笑顔に怒気を飲まれたのか、朱家の仙士はそれを受け取る。

 にこにことした笑顔のまま一歩下がり、手のひらを合わせて恭しい礼をした漣宇だが、漆黒の瞳はかけらも笑っていなかった。

 斗生と路燕も、漣宇と同じく礼をして一歩ずつ下がる。幼い路吟までもがちょこんと母親を真似て礼をしたのを視界の端に収めながら、斗生は袖の中で符を握っていた。漣宇も同じなのか、仙士たちから片時も目を離さない。

 どうなるかと固唾を飲んで見守る群衆の気配に押されたかのように、仙士たちは仙剣を抜いて烏の呪物に向き直り、じりじりと近づいて来る。

 瞬間、漣宇が微かに唇の端を吊り上げ、指を鳴らした。

 

「うわっ!」

 

 たちまち、烏の呪物を中心に黒い霞が吹き上がる。煙幕のように広がった黒は、仙士たちから斗生たちの姿を隠した。

 しかし、同時に漣宇の体までがぐらりと傾ぐ。

 地面に頽れる前にその腕を掴んだ斗生は、漣宇に肩を貸して無理に立たせると路燕を見た。

 

「走れ!」

 

 斗生が叫ぶや、路燕はさっと娘を抱きかかえ、走り出す。力持ちと言ったのは嘘ではないらしく、幼子一人を抱えて彼女は軽々走っていた。

 

「こっちよ!」

 

 入り組んだ妓楼街の路地に飛び込み、路燕は勝手知ったように駆けていた。夜だというのに、よろけもしない。

 本当に足が速かったのかと、斗生は内心で舌を巻く。

 漣宇を半分抱え上げるようにして引っ張りながら、斗生も走った。

 路燕が足を留めたのは、一軒の屋敷である。

 妓楼が並ぶ一角からは離れており、夜だというのに小さな門には輝く提灯がぶら下げられていた。

 

明月(めいげつ)先生!いるんでしょう!あたし!周家の路燕です!緊急だから中に入れてください!」

 

 言うが早いか、がんがんと扉を拳で強く叩いた路燕に、斗生は目を見開いた。

 その音で項垂れていた漣宇が頭を上げ、額を押さえて呻く。鼻からたらりと血が垂れていた。霊力を使いすぎた証である。

 

「岳漣宇」

「あ?……あー、またあんたに助けられたか」

 

 へらりと笑った漣宇に、斗生は氷のような視線を向けた。

 

「自分が何をしたかわかっているのか?」

「仕方ないだろ。あいつら逃してくれそうな気配してなかった。俺たちの中の誰かを、よっぽど傷つけなきゃならない理由があったみたいだからな。あんたは霊力が完全に空だし、何より深く身元を探られたら俺より誰よりあんたが危ない。あんたにそんな怖い顔で怒られる理由はないだろ」

「だとしても、いきなり倒れてどうするつもりだった。俺が……」

「どうもしないよ。だって、あんたは実際俺を抱えて逃げてくれたじゃないか。見捨てようなんて、これっぽっちも考えなかったし、俺を抱えて逃げられるだけの体力はあっただろ。あんた、ほんと頑丈で回復が速いからな」

「……」

 

 明け透けに言われた上に図星を突かれ、斗生は完全に言葉を失った。

 漣宇の肩を支える腕に、骨を軋ませるほどの力が籠もる。

 

「俺は、お前が誰より憎んだ朱家の者だ。この顔と体がお前をどれだけ惨い目に遭わせたか、覚えていないのか?」

「ちょっ、そんなことよりも腕!俺の腕が折れるから!あんた自分の馬鹿力を自覚しろこの馬鹿!」

「そんなことだと?そんなことで済ませていいわけがない。俺の父が、俺の体を使ってお前に何をしたか、俺は見て覚えている。嫌悪し、憎んで当然な相手を、何故お前はこうも信用できる?」

「ちょっと!」

 

 飛んできた鋭い声に、斗生の腕の力が一瞬緩み、漣宇は斗生の胸を突き飛ばして腕から逃れる。

 二人は揃って、屋敷の門を見た。

 半分屋敷に入った路燕が、門の扉の間から手招きしていた。

 

「兄弟喧嘩はあとにして!早く、こっちへ!」

「にぃにたち、はやく!」

 

 母の足元から顔を出した路吟にまで言われてしまえば、喧嘩などできない。

 斗生は無表情のまま、漣宇はとんでもない力で握られた腕を押さえながらの涙目で、門をくぐった。

 

 




この世界では、【鬼】は人が死んで成る化物という体なので、日本的には幽霊が最も近いです。
幽霊ですが、実体はあったりなかったりです。


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七話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


(しゅう)路燕(ろえん)、この二人がそうなのか?」

 

 門をくぐった屋敷の庭にいたのは、胡家の黒の衣を纏った若い男だった。

 眉は筆でさらりと描いたように細く、何故か目を閉じている。斗生は彼に柳のようにしなやかな印象を覚えた。

 

「夜に騒がしくしたのはすみません。でも、どうしても助けが欲しかったんです!明月先生、あたしのいる店で化物騒ぎがあったのは知ってますか?」

 

 黒衣の青年の前に進み出て、路燕は胸の前で手を重ね合わせ、先ほどとは比べものにならない上品で優美な礼を取る。

 斗生と漣宇も、はっとして彼女に倣った。

 確かに、言い争いなどしている場合ではない。

 青年のほうは、軽く礼をして返すと細い顎に手を当てて、考え込む仕草をした。

 彼は左腰には仙剣を吊っていたが、右腰には袋がいくつも吊るされており、手に持っているのは赤い実と緑の葉が入った大きな笊である。

 ()家は仙士の名門だが、仙術や剣術よりも薬術や医術に優れた仙士を輩出することで有名だった。

 彼らは市井に降りることも多いため、並みの人間たちにとっては特に有り難い家なのだが、研究に打ち込み過ぎて浮世離れが過ぎ、話の通じない変人仙士が多いことでも知られる仙家である。

 加えて言うならば、胡家は唯一他家の縄張りに堂々と住居を構えることが許される家でもあった。

 明月先生と路燕が呼んだこの仙士も、そうなのだろう。

 

「ああ、風の噂で店の災難は聞いていた。ところで、その子らは相当弱っているな。話の続きは中でしよう」

 

 有無を言わせない口調で、明月先生とやらは屋敷の方へ向かう。

 こちらの話を聞いてくれているようで、我が道を行くこの妙に傍若無人な調子は、まさしく胡家の仙士だった。

 どういうことかと言えばつまり、やりにくい相手なのだ。

 

「玄にぃちゃ、岳にぃちゃ、こっちよ」

 

 とたとたと路燕の脚元から離れた路吟が、斗生と漣宇の手を右手と左手で握って引っぱる。

 引かれるままに入った屋敷は、薬の匂いに満ちていた。えいえいと路吟は知ったふうに、斗生と漣宇を壁際に置かれた長椅子に座らせる。

 明月も音もなく近寄り、膝を折って二人の顔を見た。

 

「あ、あの……?」

「静かに。視えづらくなる」

 

 いきなり仙士が膝を折ってしゃがみ込んだことに驚いた漣宇が手を伸ばしかけるが、明月先生はぴしゃりと言い捨て、糸のように細い眼を見開いた。

 

「!」

「え!」

 

 前世でも様々な悪鬼妖魔を見慣れた二人だが、これには同時に驚いた。

 開かれた瞼の下には、四つの瞳があったのだ。二つの目の中に、更に二つの瞳が収まっているのだから、計四つである。

 異相の瞳の仙士は、意外そうに眉を上げた。

 

「あんまり驚かないのね。あたしがそれを初めて見たときは、悲鳴あげちゃったもんだけど。ねぇ吟、あれはびっくりしたよね?」

「うん、まぁまぁ、おどろいたよねぇ」

 

 明月は、しかめ面を親娘に向けた。

 

「この二人は一体全体どこから降って湧いた?内と外の力が狂っているぞ。この状態で、霊力を使ってお前たちを助けたのか?」

「あたしもよくは知りません。見ず知らずの通りすがりの子たちですから。だけど助けてくれたんです。力が狂うって、それはまずいことですか?」

「……狂ってはいるが、狂ったままにつり合いが取れてはいるから、まずくはない。どこの仙家が、お前たちにこんな無茶な修行をつけたんだ?」

 

 漣宇は、そろそろ手を上げた。

 

「あー、あの明月先生。俺もこいつも、ほんとに仙家の修行なんて受けてないんだ。ぼーっとしてたら、お腹の辺りが熱くなるときがあって。そこから来てる熱い水みたいな、力みたいなやつを使ってるだけ。こいつも同じようなもんだよ。だから、宋家に入れてもらおうと思って旅してたの」

 

 斗生も、漣宇のデタラメを補強するつもりでこくこくと頷く。

 事実、仙士の最初の修行はまず丹田にある【気】の流れを感じることから始まるので、あまり的外れでもないのだ。

 明月は、額に手を当てた。

 

「明月先生、どうなんですか?あたしたちの命の恩人なんですってば。まずいならまずいとはっきり仰ってください」

「まずくはない!急かすな!問題なのは、体力を霊力で補ってとっくに限界な体を無理に動かしている現状だ!これでも飲んで安静にしていろ!」

 

 かなり乱暴な口調になった明月が斗生たちの手に押し付けたのは、飴玉並みに大きな真っ黒な丸薬である。

 漣宇は大きく顔をしかめ、斗生も微かに眉間にしわを寄せた。

 二人とも、この薬が何かは知っていた。

 体力を補う【増内丹】である。

 胡家の仙士が作ったものとなれば効き目は確かだが、とんでもないえぐみと苦味があるのだ。その上やたらと大きく、舐めずに飲み下そうとすると絶対に喉に引っかかる薬だった。

 前世でも散々世話にはなったが、はっきり言って普通に苦手である。

 

「……」

「あっ」

 

 迷うくらいなら飲んでしまえと、斗生は一気に丸薬を飲んだ。

 しかし予想していた苦味は何も感じない。そう言えば、巻き戻ってからこちら、味覚がおかしくなっていたことを斗生は今更に思い出した。

 

「あんた、これ苦くないのか?顔が動いてないんだけど」

「俺は苦くなかったが────」

「じゃ大丈夫か」

 

 真っ黒な丸薬をつまんで口へ放り込んだ漣宇は、たちまち咳き込んだ。涙目で、斗生の肩を乱暴に叩く。

 

「おい真面目ちゃん!俺に怒ってたとしても、嘘をつくことはないだろう!めちゃくちゃ苦いじゃないか!」

「……俺には苦くないが、お前がどう味わうかはわからない、と言おうとした」

「先に言えよ先に!言葉が遅い!」

「お前の早とちりだ。だが、よかったな」

「は?」

「双方はしゃぐな!大人しくしろ!」

 

 部屋の奥から飛んできた空の魚籠が、二人の頭を直撃する。痛くはないのだが衝撃は走り、斗生も漣宇も口を閉じた。

 物理で患者を黙らせた明月は、路燕をじろりと見る。

 

「一体お前は何があってこんな夜に、他所の子と自分の子を連れて僕のところに駆け込んで来た?朱家の仙士が、店で出た怪異を鎮めるべく店に向かったと聞いたんだが」

「その仙士さまたちが、とんでもない犬野郎だったんです!化物を呼び寄せるために、吟を囮に使うって言うし、止めてくれたこの子たちと、あたしと吟をまとめて店に閉じ込めたんです。化物をおびき出すとかなんとか言って!」

「なんだと?」

「店の中には呪物ってのがあって、それはこの子たちが捕まえて朱家の仙士さまたちの前に出してくれたんですけど、それでもあの仙士さまたちは何かおかしかったから、逃げたんです!」

「一体、そこからどうやって逃げた?」

「そっちの漣宇くんが何かしたら、黒い煙がしゅうっと呪物から出たので、紛れて走りました」

 

 明月は、しばし言葉を失ったらしかった。瞠目してから再び口を開くが、四つの瞳はどれも鋭さを帯びていた。

 

「……周路燕、僕が吟を取り上げるときに言った言葉を覚えているよな?」

「もちろんです。でも、この子はあたしの子です。あたしだけの子ですよ」

「お前のその覚悟は強いが、今回の事件はそれで済まさない輩が仕組んでいる」

「わかっています。だから、この子たちを助けて下さいって先生に言ったんです。この子たちと吟を助けてくれるなら、あたしは何でもします」

「意気込みはいいが、ただの人間のお前にできることなど、たかが知れているぞ。……が、朱家の愚か者どもから逃れようとするなら、ここに来たのは正解だ。あいつらも、すぐにここへは来ないし、来たとしても入らせない。入らせるものか」

 

 うーん、と斗生の隣で漣宇が唸り声を出し、ひそひそと斗生の耳へ口を近づける。

 

「あのさ、やっぱりこれは路吟ちゃんの父親がこう……ややこしいやつってこと?この街で朱亀楼なんていう【朱】の特別な字を入れた看板を出せるのは、あの店の格は相当に高いからだよな。それこそ、朱家の偉い誰かが通うくらいにはさ。だけど、この時代の朱家の正妻さまの悋気がとんでもないのは、前世の俺も知ってる話だ。あんたの母さんだって逃げなきゃならなかった」

「……」

「加えて、あの男の息子のあんたが個人的な情でずっと大切にしていたなら、あの子の親父と兄さんってのは───」

「岳漣宇」

 

 出会ってから最も鋭い声で、斗生は漣宇の名を呼んだ。軽くかぶりを振り、斗生は口を開く。

 

「お前は聡い。だから、もう言葉にするな。周路吟は、周路燕の娘だ。それだけでいい」

「あの子が、あんたをにぃにって呼んでてもか?」

「今の彼女は、お前をもそう呼んだろう。言ったはずだ。今の俺たちには、ここ……この時だけが現実だ」

 

 玄斗生は目を瞑る。

 岳漣宇がどんな目で自分を見るかなど、知りたくないことだった。

 斗生は、周路吟という少女がどんなふうに母と暮らし、母に甘えていたかを知らない。ただ、それは途中で絶たれてしまった道だと思っていた。

 この先、目の前にいる小さな路吟が母と共に生きていけるならば、その道の先にいるのは斗生が知らない少女だ。

 斗生が守りたかった、守れたと思った【妹】ではない。

 この子は、きっと二度とあの黒衣の少女にはならない。斗生の側に常にいてくれた、彼女ではないのだ。

 それでも、今ここにいる幼子が彼女と同じ魂であるのならば、今回のように斗生は他人を巻き込んでも、自分を擲ってでも、【路吟】を助けてしまうのだろう。

 彼女が路吟で、自分が斗生である限り。

 

(本当に、ままならない。一体、誰が俺たちをこうした?)

 

 やり直したいと思ったことなど、なかったのだ。

 なのに、気がつけばこうなっていた。

 それならば、立たされた場所で足掻くしかない。

 訳のわからない状況に放り出された【仲間】が、自分にはまるで理解できない相手であっても。

 

(……漣宇が俺を信じるのは同じ状況に置かれた相手を、信じたいからか?)

 

 漣宇は心から斗生を信じているのではなく、信じたいから信じているかのような行動を取って試していると考えたほうが、よほど腑に落ちた。

 と、ぺたりと頬にすべすべした手が当てられて斗生は驚いて目を開ける。

 

「玄にぃちゃ」

 

 鼻と鼻が触れ合いそうな距離に、路吟の顔があった。いつの間にか母親の足元を離れて、座っている斗生の膝によじ登ったらしい。

 

「玄にぃちゃ、どしたぁの?つかれたの」

「いや……別に」

「そんなわけないだろ。路吟ちゃん、そのお兄ちゃんを止めておいてくれ」

「あいゃ!」

 

 にっこりと笑った路吟は、さらによじ登ろうとする。

 壁際に並べられた長椅子に座っている斗生の背後には、当然壁しかない。

 

「岳漣宇、岳漣宇……!」

「えー、なんだよ。助けてくださいってか?あんた、小さい子を抱っこしてあげたこともないのかよ」

「ないっ!」

「堂々と言うのかよ〜。もー、しょうがないなあんたは。ほらおちびちゃん、玄にぃちゃんには手加減してやれよ。その意地っ張りお兄さんはお化けには強くても、君にはめっぽう弱いみたいだからさ。こっちに来るか?」

「やー!」

「ほら、嫌だとさ。じゃあ、あんたが何とかするしかないよな?」

 

 しきりと斗生に近づき触れたがる路吟、迂闊に力で止めると壊れそうな幼子をどうすればいいのかわからず無表情でおろおろする斗生、それを見ながら笑う漣宇という一塊に、明月が近寄る。

 三人の子どもたちを見下ろした彼の四つの瞳は、斗生と漣宇に向いていた。

 

「そこの二人、名は何という?僕は胡家の明月だ」

「俺は岳漣宇です」

「……玄斗生、です」

 

 明月は、漣宇の名を聞いて片眉を上げた。

 

「他界した宋家の先代大師兄の姓が岳だが、お前は彼の縁者か?」

「はい。岳環宇(がくかんう)は俺の父です。母の名は()子温(しおん)と言いました」

 

 それは、斗生も知る話だった。

 岳漣宇の父親は宋家の大師兄、つまり一番弟子だったが、幼い我が子と妻を連れ旅に出た際、妖魔に襲われたか事故に遭ったかで亡くなったという。

 遺された漣宇が宋家に拾われて養育され、父と同じ宋家の大師兄となったのはそれから数年後のことだ。

 漣宇が大師兄となったのは前世の出来事だが、両親を亡くし孤児になってさ迷っていたのは同じらしい。

 

「路燕から事情は聞いた。この街で朱家の仙士に目をつけられたならば、宋家へ行くべきだろう。しかも都合よく、僕は宋家の領域へ行く用事がある」

「本当ですか?」

「薬草の仕入れのためだ。お前たち四人を僕の馬車に乗せて、月穹河まで送ろう。僕の患者と、宋家の先代大師兄の子を放ってはおけない」

「送ってくれるんですか!?」

「むしろ、お前たちは歩いて行くつもりか?やめておけ。最後にまともな飯を食べたのはいつだ?途中で倒れたいのか」

 

 旅立ったその日の朝に食べた、草が浮いた粥らしきものが最後の食事である漣宇と斗生は、てんでばらばらな方向に視線をそらした。

 明月は、今度こそ深く息をついた。

 

「……僕の知己が一人宋家にいるが、そいつとお前たちは似ているな。あの家に行きたがるやつは皆こうなのか?向こう見ずで、頼まれもしない厄介事に関わり合って……」

「明月先生の知己?誰ですか?」

 

 宋家に関わることならば何であれ知りたいのか、漣宇が背筋を伸ばして食いつくように尋ねるが、明月は肩をすくめた。

 

「誰でもいいだろう。あちらに無事についたら教えてやる。そら、早く行くぞ!」

 

 明月は目を閉じ、四人を急き立てる。

 路吟をなんとか丁寧に引きはがして路燕の下へ返した斗生は、速足で駆け抜けながら屋敷を見渡した。

 人の気配はいくつかあるが、それ以上に薬草の匂いがきつい。胡家の仙士の屋敷らしく、造りは質素かつ使い勝手がよさそうだった。

 屋敷の隣の建物には、既に馬を繋いだ馬車がある。

 手綱を握っている人影は、よく見れば人間ではない。紙に油を塗って補強した、人形だった。

 まるで生きているかのように精巧な紙人形の肩を明月がぽんと叩けば、人形はがくりと頭を動かして手綱を握る。

 

「早く乗れ。積んでいる物には触るなよ。絶対にだ」

 

 糸のような目に戻った明月だが、口調は鋭かった。

 板張りの馬車の床には木箱や道具が雑に置かれており、座る場所はあまりない。それでも、小柄な子どもと細身の女ばかりなのだから、全員収まることはできた。

 

「よし、行け」

 

 明月の声に従い、紙人形は黒毛の馬に鞭をくれて車は走り出した。屋敷の門までが勝手に開くのだから、斗生にはもう何も言うことがない。

 紙人形を操る術は珍しくないが、ここまで巧みな技を見たことはなかった。

 前世でも胡明月という名に聞き覚えはなかったが、四つの瞳といい紙人形の術といい、仙士としては相当に修為(しゅうい)が高いはずだった。

 

(だが、あのころ仙士は沢山死んだから……俺の知らない名士がいても、おかしくはない)

 

 そんなことを思っていると、斗生の隣で膝を抱えて座る漣宇が手を上げた。

 

「あのさ、周姐さんまで馬車に乗ってるけど、姐さんもこの街を出て宋家の方へ行くってことでいいの?」

「そうよ。あの店にはよくしてもらっていたけど、この子を育てられないならいられないわ。あたしたちを助けてくれたのは、あなたたちだけだったもの。……本当に、本当にありがとう。周路燕は、終生この恩を忘れないと誓うわ」

 

 がたがた揺れる馬車の中でなかったら、娘を膝の上に乗せていなかったら、路燕は叩頭して礼を言っていただろう。

 黒目の大きな澄んだ瞳には、感謝の念が籠っていた。

 そんな目を向けられたのは随分と久々で、斗生はつい受け止めきれずに目を逸らしてしまう。

 

 即座に、頭を軽く平手打ちされた。

 誰がやったかといえば、当然漣宇である。

 斗生は、拳を握りしめて逸らした視線を路燕に戻した。

 

「き、気にしなくていい」

「うん。勝手に首突っ込んだのはこっちだし、気にしないでよ。俺たち、あんまり上手いこともできなかったしなぁ。周姐さんと路吟ちゃんまで身一つで逃げることになっちゃったし……」

「それは心配しないでいいわ」

 

 路燕が取り出した小ぶりな袋に、斗生と漣宇は驚く。それは、蔵一つ分の品を詰め込める【陰陽袋】だったからだ。

 

「お金とか宝石とか、いつもこれに入れて肌身離さず持ってるもの。この袋はあたししか開けられないし、仮に失くしたってあたしにはこの子さえいたらどうにかできるわよ」

「た、たくましいね姐さんは……。どこでそんなものを手に入れたんだい?」

「数年前だったかな。あたしに入れ揚げた客がいて、そいつから貰ったのよ。いくらでも入るから便利よね」

「……はぁ」

「は、ハハハハハ……それは凄い」

 

 持ち主にしか開けられない陰陽袋となれば、便利どころか名家の仙士が持つような高級仙器である。銀子がいくら必要になるか、考えたくもないほどだ。

 それを、路燕の口ぶりからしてただで貢いだ仙士がいたのか。

 あっけらかんと、路吟を膝に乗せて笑う路燕は美しくも明るく、斗生どころか漣宇も言葉を失ったのだった。

 

 




新キャラが増えたので名前を。

【現在のネームド登場人物】

(げん)斗生(とせい)
・主な視点主。無口。顔が綺麗と漣宇に言われる。

(がく)漣宇(れんう)
・斗生の相棒。おしゃべり。精悍な顔と斗生に思われている。

(しゅう)路燕(ろえん)
・妓女。路吟の母。まごうことなき美人。

(しゅう)路吟(ろぎん)
・幼女。路燕の娘。

()明月(めいげつ)
・医術に長けた家の仙士。瞳が四つある。

【修為】という言葉がありますが、これは【レベル】みたいなものということで。
修為が高い仙士=高レベル冒険者みたいな。


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八話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


「それで、互いへの礼は終わったか?」

 

 路燕が礼をする間、黙っていた明月が口を開いた。

 木箱に頬杖をつき、片膝を立てて座り不機嫌そうに吐き捨てる彼からは、最初に感じた穏やかそうな医者という印象が、かなり薄れている。

 

「胡先生、ありがとうございます」

「ありがとうございます」

「……深く感謝します」

 

 路燕、漣宇、斗生が順に礼を言うと、明月は色白の頬を抑えていた手を外した。

 

「感謝なら、あとで宋家に支払わせる。まったく、路吟が絡んでおらず、お前があの大師兄の息子でなかったらこんな面倒事、誰がやるものか。この街の門を抜けること、それ自体は上手くいくだろうがな!」

 

 腕組みをして横を向いた明月に、そろそろと漣宇が手を挙げる。

 

「あの、先生は俺の父と親しかったんですか?」

「僕は何度か妖魔退治を共にしたくらいだ。が、彼は当代の大師兄の剣の師匠だろう?あいつが、やたらとお前の父を尊敬しているからな。……恩師の息子を僕が見捨てたなどと知ったら、どうなるか考えたくもない」

「当代の大師兄っていうと……」

 

 それは誰だったろう、と斗生は錆びついた記憶を引っ張り出すべくわずかに顔をしかめた。

 はっきり覚えている宋家の大師兄とは、隣の岳漣宇である。

 だが、それは今から数年後の話だ。

 彼の一つ前の大師兄は、才能に溢れていたが早々に死んだと、誰かが喋っていた記憶はぼんやりある。

 明月が言う『大師兄』とは、夭折した彼のほうだろう。今の時代、彼はまだ死んでいないのだ。

 漣宇もそれに思い至ったのか、微かに震える声で問いかけた。

 

「宋家の大師兄と言ったら、鐘白霜(しょうはくそう)に決まっているだろう。知らんのか?」

 

 言った次の瞬間に、明月はみすぼらしい漣宇の衣や、細い手足に気がついたらしい。

 明日も知れぬ浮浪児に、大仙家の一番弟子名をわざわざ知ろうとする余裕はない。

 気まずげに咳払いして、明月は続けた。

 

「白霜も他の宋家の連中も、行方知れずになった先代師兄の子をずっと探していたが、どうしてお前は今の今まで宋家に名乗り出なかったんだ?先代と奥方が旅先で消息を絶って、もう四年にはなるだろう」

「その、俺は最近まで記憶がなかったっていうか、自分の名以外忘れてて……それに居着いてたのも、朱家の領域に近かったから、宋家の仙士にも会わなかったんです」

「とすると、先代と奥方の行方も……」

「わかりません。俺は、気がついたら一人だったから。あ、でも、どこかの川か、湖に落ちたような気はしてるので、水難に遭ったんだと思います。頭打ったからか水を飲んだからか、何かあったから忘れてしまったんじゃないかなって……今更なんですけど、明月先生はほんとに俺が父さんの子だって思うんですか?俺は、かなり怪しいですよね?」

「僕の目で視たからだ。霊力や体の質が、お前は先代や奥方とよく似ている。間違いなく親子だ。視えぬものが視えるように、僕は目を弄ったんだ。性能は良い」

「へ、へぇ……」

 

 性能以前に、どういう改造をしたら瞳を増やせるのか。そもそも、増やそうと思うのか。

 斗生にはさっぱりわからなかったが、人体と薬術、医術に関して随一の胡家の仙士ならばできるのだろう。

 四つの瞳となると、視界が四つに割れているのだろうか、それとも視界自体は変わらないのだろうかと、半ばぼんやり考えていた斗生は、少し遅れて明月が自分へ鋭い視線をくれていることに気がついた。片目を開き、二つの瞳で斗生を凝視している。

 

「で、お前は誰だ?宋家に縁ありものではないだろう」

「……俺は、玄斗生です」

「それはもう聞いた。お前はどこの、誰の子だ?」

 

 ここで、斗生はまずいことに気がついた。

 明月の瞳が血縁関係すら見通すとならば、この場に斗生と半分血が繋がっている者がいるのもとうにばれている。

 それが誰かと言えば─────周路吟だった。

 異形の瞳に、嘘を見抜く力まではないのを祈るしかなかった。

 

「母の名は玄飛雲(げんひうん)ですが、父の名は知りません。母は教えてくれず、数日前に亡くなりました」

「どうして岳漣宇と知り合った?」

「俺の家の前に腹を空かせて現れたから、家に入れました」

「うん、そうなんですよ」

 

 実際は、刃物を持って襲撃してきた漣宇はするりと話の流れに割り込んだ。

 

「自分も腹減ってるのに、俺の顔色が悪いからって粥をくれたんです。話してみたら霊力を使えるやつだし、気も良いし、だったら仙士に一緒になれないかなって思って一緒に旅して来たんです」

「お前、つい最近まで記憶がないと言っていなかったか?」

「霊力が使えるようになったら、色々思い出したんです。宋家って名前や、父さんと母さんの名前を。まぁ、それでも腹減って倒れそうにはなってたから、こいつに助けてもらわなきゃなんなかったんですけど!」

 

 恐らく、漣宇は前世と今を混ぜこぜにして語っているのは斗生にもわかった。

 前世の漣宇がどういう境遇で拾われたか斗生は知らない。が、恐らく、拾われるまでは自分の名以外忘れていたのだろう。

 覚えていたならば、前世でもう少しは早く彼は拾われていただろう。だが、前世でも宋家の大師兄が八歳か九歳になるまで浮浪児だったことは、彼を貶す意図を含んで広められていた話だ。

 どれほどの暮らしを強いられれば、八か九つの子が己の名前以外を忘れてしまうのか考えたくない。

 ここにいる漣宇も、斗生よりかなり小柄なのだ。

 明月も、そのように顔色の悪い漣宇が明らかに斗生を庇うとみるや、追及する気を失ったようだった。

 

「そうかっかするな、岳漣宇。父親が誰か、玄斗生もお前も知らないんだろう?」

「知りません。……俺は父が嫌いです。母は、苦労に苦労を重ねて死にました。父が死んでいるなら恨みませんが、生きているならば俺は父を恨みます」

「……ならば好きにはなれまいな」

 

 明月は目を閉じ、腕を組んで座りなおした。

 

「僕はお前の父を知らんし、興味もない。ないが、教えてはおく。お前の父は朱家の誰かだ。お前は朱家の宗家仙士の者と似ているからだ。仙骨もあることだしな」

「それって、まずいのかしら?」

「さぁな。誰の子かまでは僕にもわからん。だが、先に知っておけば避けられる事態もあるだろう」

 

 善い人だ、と斗生は思った。

 口調はぶっきらぼうで態度にも優しさはないが、あからさまに素性の怪しい斗生をつまみ出すどころか、助言までくれている。

 

「教えてくれてありがとうございます。明月先生。予想はしていましたが、これで確信が持てました」

 

 手を重ねて頭を下げる礼をすれば、明月は額にしわを寄せた。

 

「どうというほどのことでもない。岳環宇殿の子を助けた者が朱家の者にいじめられでもしたら、僕の目覚めが悪くなる」

 

 よって堅苦しい礼などするなと言いながら、明月は指に挟んだ符を飛ばした。符は馬車の幌に貼りつき、霊力が空間を覆う。

 

「結界だ。お前たちの存在を極力薄れさせる。だが騒いだり大声を立てればばれるからな。この街を抜けるまでは静かにしていろ。返事は?」

「はい!」

「はーい」

「わかりました」

「あい!」

 

 てんでばらばらな四人の返事が、広くもない馬車に響く。

 明月の宣言通り、彼らはそこからは何事もなく花黄市を抜けることができたのだった。

 

 

■■■■■

 

 

 宋家の拠点、月穹河はその名の通り河の側にある。というよりも、中州に築かれた街なのだ。

 前世の斗生も、幾度か訪れたことはあった。その中で最も強烈なのは、月穹河を朱家が攻め、陥落させたときの記憶だった。

 そのころの斗生は既に体を奪われており、自分の体の周りを蛾のように飛び回るしかできず、なすすべもない幽霊のような状態だった。

 記憶にこびり付いている月穹河は、ただ燃やされ、殺され、蹂躙されて破壊された灰色の染みでしかなかったのだ。

 風景は覚えていても、自分が何を感じたかを斗生は思い出せなくなっていた。

 だが、今、斗生の目の前にある街はまだ生きていた。人々が歩き、馬車が走り、子どもたちの笑い声が聞こえる。

 きらきらと鮮やかな月の河の街に負けず劣らずの眩しい笑顔で、漣宇は大騒ぎしていた。

 

「どうだ。月穹河は綺麗だろう?すばらしいだろう?」

「うん」

「そうだろう!こちこち顔のあんたも認めざるを得ないよな!」

「……俺の顔と、この街のすばらしさは関係ないだろうに」

「アハハハハハッ!」

 

 花黄市を抜け出し、馬車で旅をし始め五日。

 馬車から身を乗り出し、一つにくくった髪を風になびかせる漣宇の目は、一心に宋家の街に注がれていた。

 目尻にはうっすら涙が浮かび、ただ感情を爆発させるように幾度も斗生の肩を叩く。

 彼にとっては、二度と帰れないと思っていた故郷なのだ。

 故郷がない斗生には漣宇の想いがどれほど深いのか、激しいのかは測れないが、彼が騒ぐに任せていた。ただ、馬車から落ちては大変なので襟首を掴んではいた。

 漣宇につられて、斗生の膝の上を占拠した路吟までもがきゃっきゃとはしゃくものだから、気が気ではない。

 旅の間で、路吟はすっかり漣宇にも懐いていた。

 それでも母に次ぐお気に入りは何故か斗生らしく、少し目を離すとこうして膝に登るようになっていたのだ。

 馬車を操る明月は、うるさそうにまた顔をしかめて振り返った。

 

「騒ぐな! 聞き分けのない餓鬼かお前たちは!」

「明月先生、この子たちまだ子どもじゃありませんか。いいじゃないですか、少しぐらい騒いでも」

「あい、やー!」

「ほら、路吟もちっちゃいことに拘っちゃダメって言ってますよ」

「幼子の言葉を都合のいいふうに解釈するな!馬車から落ちる気か!」

「……大丈夫です。俺が押さえています」

「そうしておけ!」

 

 馬車は、ごとごとと月穹河へ通じる橋を進んでいく。

 すれ違う人々の中には、青を基調にした衣をまとって剣を背負った宋家の仙士もおり、彼らは胡家の衣を着ている明月を見ると、意外そうな視線をくれた。

 

「あれ、胡家の明月先生じゃないですか。大師兄に何かご用事が?」

 

 橋の終わりに建てられた門の番人は、明月の顔を見るなりそう言い出す。

 明月は、通行証でもある翡翠の玉佩を番人に見せながら応じた。

 

「いや、あいつでなくともいい。白霜か宋宗主か、宋夫人に会えないだろうか」

「宗主と奥様は留守にされて今はおられませんが、大師兄なら修練場に行かれてます。でも明月先生の御用向きは?またうちの大師兄を引っ張って妖獣退治ですか?」

 

 少年の面差しの残る門番の仙士に、明月は簡潔に応えた。

 

「違う。お前たちの先代大師兄の子を連れてきた」

「は?」

「岳環宇殿と蘇子温殿の子の、岳漣宇だ。お前たちも探していた子を連れてきたと言っている。白霜がいるならば、あいつに会いに行く。どの修練場にいるんだ?」

 

 まさにそこで、ひょっこりと馬車の奥から顔を出したのは漣宇本人だった。

 旅の間、湯を使って丁寧に洗われた髪からはごわつきがとれ、虱や蚤も明月の薬で消えている。継ぎ接ぎだらけのみすぼらしかった衣も、さっぱりした物に変わっていた。

 細い手足は五日ほどでは変わらなかったが、かなり血色と身なりの良くなった漣宇は、斗生から見ても利発そうなかわいらしい子どもだった。尤も、口を開かなければの話であるが。

 身軽に馬車から飛び降りた斗生は、門番の前へ進み出て丁寧に礼を取る。

 

「はじめまして、岳環宇と蘇子温の一子、岳漣宇と申します。宋家の方にご挨拶いたします」

 

 言い切った漣宇の、大きな黒目を向けられた門番の青年はその場で硬直する。馬車を牽く馬がブルルと鼻を鳴らし、路吟がきゃいきゃいと斗生の膝の上で笑い転げた。

 その声で、ようやく門番の青年は硬直を解いた。魚のように口をはくはくさせ、声を絞り出す。

 

「だ、」

「だ?」

「だ?」

「だぁ?」

「だ、だだだだ大師兄ーッ!大師兄大変ですーッ!緊急、緊急ぅぅぅ!」

 

 言うが早いか、彼は門の脇に吊り下げられた鐘を全力で叩き鳴らす。

 たちまち宋家の屋敷中にけたたましい鐘の音が響き渡り、斗生はただそっと路吟の耳を塞いでやった。 




大師兄(だいしけい)は弟子たちのまとめ役です。


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九話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 叩き鳴らされた鐘の音が消えるより前に、斗生は風が鳴る音を聞いた。

 空を見上げれば、そこには風を切り鳥のように飛んでくる人影が一つ。路吟が指で空を指し、甲高い声を張り上げた。

 

「にぃ、とんでる!」

「そうだな。彼は仙術で飛んでいる」

「なんでぇ?」

「飛ぶほうが速いからだろう」

「にぃと、かぁさまにはできう?」

「俺にはできない。路燕殿は?」

「あたしにも無理よ。吟はどうかしらねぇ」

 

 甘えてくる路吟を路燕の腕の中へ返し、斗生は漣宇の方へ駆け寄る。

 いつもうるさいほどに饒舌な彼は、黒く塗られた滑らかな木の板に乗って空から現れた仙士を凝視し、固まっていた。

 視線の先にいるのは、空を飛んで現れた仙士である。

 青と白の衣を纏い剣を背に吊った、目元涼やかな黒髪の青年である。優しげでやわらかな、秀麗な顔立ちの彼は、地上に滑らかに飛び降りる。門番の青年が、即座に彼の側へすっ飛んでいった。

 

(しょう)大師兄!」

「はい。何事でしょうか?もしや明月が何か……」

「おい、何故僕を真っ先に疑う。今回は違うんだよ」

 

 こっちだ、と明月は漣宇の腕を引いて、青年の前へ彼を押し出した。

 

「岳殿の子だ。お前たちが探していた、岳漣宇だ。うちの薬療院へ助けを求めに来たから連れて来た」

「……はい?」

「間違いはない。僕が霊視して確かめた。とっとと引き取れ」

 

 青年、鐘白霜(しょうはくそう)の瞳が大きく開かれる。次の瞬間には、彼は白と青の閃光になっていた。

 ぎゃっ、と水をかけられた猫のような漣宇の悲鳴が響く。彼は、白霜によって軽々持ち上げられていた。

 とんでもない速さで漣宇に飛びかかり、彼を抱き上げた青年はもう頬ずりせんばかりだった。

  

「小さい大師兄!小さい岳師兄そのものじゃありませんか!間違いありません!ありがとうございます、明月!」

「馬鹿この馬鹿!そいつは霊力枯渇と栄養不足から回復したての半々病人だ!馬鹿力で振り回すやつがあるか!子どもは丁寧に扱え!!」

 

 漣宇の脇の下に手を差し入れて軽々持ち上げ、その場でくるくると回りだしかけていた白霜の肩を、すぱんと小気味いい音を立てて明月が叩く。

 それでようやく止まった白霜は、漣宇の顔をまじまじと眺めた。至近距離で見つめられた漣宇は若干顔ごと視線を逸らす。凄いな、と斗生は素直に感心した。

 何が凄いって、この鐘白霜という青年は怖いものなしの漣宇を素で圧倒しているのだ。

 普段とうってかわったしおらしさで、漣宇は頭を下げた。

  

「えと……あの、初めまして。俺は岳です。岳、漣宇と申します」

「はい!私は鐘。鐘白霜です。きみとは初めましてではありませんよ。赤ん坊のきみを抱かせてもらったことがありますし……きみがもっと小さなころにも出会っています」

 

 昔を懐かしむ優しい目になった白霜に、じとりとした目の明月が釘を刺した。

 

「三つ四つのころの記憶なんて、そう確かなものじゃないんだよ。忘れることだってあるだろう。おい白霜、鐘大師兄よ。懐かしむのはあとにして僕らをとっとと中へ入れろ。門を馬車が塞いでるんだよ」

「わかりました。では、門を開けてください」

「は、はいっ!」

 

 白霜の言葉に、門番の青年が手で合図を送れば、分厚い木と鉄の扉がゆっくりと開かれていく。

 ひらりと馬車の御者台に戻り、明月はまだ漣宇を抱いたままの白霜に話しかけた。

 

「白霜、馬車はいつものところに置けばいいな?」

「ええ。私たちは先に第一修練場に行っています」

「わかった。僕もこいつらを連れて後で行く。おい、馬車に戻るぞ」

 

 はい、と頷いた斗生は、路燕たちとともに馬車の荷台に戻る。

 後頭部に熱い視線を感じて斗生が振り返ってみれば、赤子のように白霜に抱きあげられている漣宇が口をぱくぱくと動かしていた。

 た、す、け、ろ、と読み取れる。

 精神年齢二十何歳にとっては、軽々持ち上げられ抱きあげられたまま移動するのは、恥ずかしかったらしい。

 しかも鐘白霜は、漣宇を絶対に離さないとばかりにがっちり腕の中に収めているのだ。

 うん、と頷いた斗生は、しっかり静かにかぶりを振った。漣宇の目が、限界までかっぴらかれる。薄情者ぉ!と今にも叫びそうだった。

 

(そんな顔をされても困る。俺に、どうやって鐘大師兄へ抗議を入れろと言うんだ)

 

 大体、斗生も平気ではない。

 前世で自分の体が破壊しつくし、殺しつくした場にいるのだ。こうしている間も、己の体が引き起こした殺戮と破壊の記憶の欠片が目の前を過っていき、平気とは言えない精神状態なのだ。

 遠ざかっていた記憶が、急に牙を向いて追いかけて来たかのような状況は耐えるのが苦痛だし、何もない振りをするのでいっぱいいっぱいである。

 頭から取って食われるわけじゃないのだから幼子扱いぐらいは我慢しろと、斗生は、空へ飛びあがった白霜に連れて行かれる漣宇を見送った。

 

(小さいころに死んだ兄弟子、と言っていたか……)

 

 漣宇は、白霜のことを斗生にそう説明した。

 つまり、爽やかで礼儀正しそうな見た目に反してしっちゃかめっちゃかな大騒ぎを繰り広げたあの青年は、そう遠くない未来において死ぬかもしれないのだ。

 

(あいつは、それを防ぎたいんだろうな)

 

 明月の操る馬車の振動に身を任せながら、ぼんやりと斗生は考えた。漣宇がそう望んでいるならば、無論斗生は協力するつもりだった。

 斗生は鐘白霜の人と成りはほぼ知らない。

 漣宇をあっという間にさらっていった、かなり破天荒な人間だという印象ぐらいしかないが、宋家に一人でも優秀な仙士がいれば朱家の牽制にもなる。

 だが、斗生はまだ前世の鐘白霜がどのような最期を迎えたのか聞いていなかった。

 剣術も仙術もずば抜けて優秀で頭もよく、漣宇よりも強かったらしいが、それだけ優れた仙士だった彼は、何故若くして死ぬことになったのだろう。

 妖魔幽鬼を狩りに出て、仙士が命を落とすことは確かにある。が、宋家の一番弟子が落命するとなれば、よほどの強敵を相手にしたのだろうか。

 

(もしくは、殺されたのかもしれないな)

 

 そういうことが起こっていても、おかしくない。宋家の大師兄が死に、得をする者はいくらでもいるだろう。

 暗殺であった場合、真っ先に疑うのは朱家だが、他家や身内に暗殺者が紛れていても斗生は何も驚かない。

 前世で朱家へ正式に迎え入れられたころ、斗生も暗殺されかかったことはあった。

 しかも、朱家の当主はその程度の刺客にやられる者は価値ある我が子でないとばかりに捨て置くものだから、家の内側には謀略が蔓延っていたのだ。

 かくも蟲毒じみた朱家に育った斗生が、謀殺暗殺を疑うのは自然な流れだった。

 

「ちょっと、あなた大丈夫なの?」

「ん?」

 

 唐突に路燕から話しかけられ、斗生はそちらへ顔を向ける。

 愛娘を膝の上に乗せた彼女は、数日前まで妖艶な妓楼の華だったとは思えない、裏表も屈託もない心配を顔に浮かべていた。

 

「せっかく月穹河へ辿り着いたって言うのに、元気がないじゃない。あの子は大騒ぎしてたのに」

「彼にとってここは故郷だから。騒ぐのも無理はない」

「でも、あなたもここへ来ることを望んでたでしょ?なんだか顔色が悪いわよ」

「そうなのか?」

「そうよ。さっきの大騒ぎがびっくりしたの?」

「……うん、あれには驚いた。宋家の大師兄は弟子たちの手本だと聞いていたから、もっと物静かな人かと」

 

 ふん、とそこで大きく明月が鼻を鳴らした。

 

「お前たちが宋家にどんな想像をしていたかは知らんが、白霜の見た目に騙されるなよ。如何にも品行方正な名門貴公子という顔だが、あいつは正真正銘馬鹿で、しかも無鉄砲で馬鹿力だ」

「馬鹿って二回も言うほどなんですか?」

「ああそうだ。考えるより先に体が動いてしまうと言い張って、何度も人を助けに走るやつを馬鹿と呼ばずに何と呼ぶ。何回僕があいつの怪我を縫って、薬を作ってやったと思ってるんだ。この前なんて、あいつのお陰で僕までが寒中水泳する羽目になったからな。それも真冬に」

 

 結構に語気が荒く鋭い憎まれ口である。が、明月には白霜を心底嫌っているふうがなかった。宋家と胡家という別の家に所属しながら、彼らはいつ、どうやって知り合ったのだろうかと斗生は気になった。

 明月は、語りをやめなかった。

 

「白霜だが、数年前に岳殿たちが亡くなって漣宇が行方知れずになったとき、一番熱心に探していたんだ。今日の騒ぎっぷりは一番弟子にあるまじき姿だが、あいつも思いつめていたのさ」

「そりゃまた、大変な話だったのね。明月先生も探してたの?」

「手伝いはした。が、見つけられなかったんだ。まさか、朱家の土地でさ迷っていたとは思いもしなかった。行方がわからなくなった場所と、相当離れていたからな。……いや、これも言い訳か」

 

 黒衣の医師は、しかめっ面のまま視線を斗生へ向ける。

  

「どうあれ、僕たちは漣宇を見つけられなかった。お前が助けなければ、あいつは死んでいたかもしれない」

「……俺が、助けた?」

「他に誰がいる。玄斗生。お前があいつを助けたんだ。だから、僕はお前に感謝している」

「先生、ならもうちょっと愛想よく言ってあげましょうよ」

「茶化すな!……とにかく、ここの連中はきっと僕と同じように考えるだろう。漣宇を助けたお前の味方になってくれるだろうさ。だから、お前がそう不安を抱く必要はない」

 

 それっきり、つんと前を向いた明月は一言も喋らなくなる。

 だが、彼の言いたかったことは伝わった。

 恐らく、明月は顔色が悪く表情が凍りついたままの斗生が緊張していると思い、心配してくれたのだろう。

 心遣いは有難かったが、斗生の顔色が悪いのは何も緊張しているからではない。

 表情が動かないのはいつものことすぎて最早どうにもできないし、顔色が悪いのはこの土地を破壊したときの記憶が、目の前にちらついて仕方ないからだ。

 はっきりとしない断片的な記憶たちだが、その小さな一つ一つが氷のような冷たさと残酷な痛みに満ちており、どうしても無視ができなかった。

 それでも、味方になってくれるだろうという一言は胸の奥に温かい火を灯してくれる。

 

(ここの弟子になって、ここで暮らせるようになるといいのだが……)

 

 これから何が起こり、何が始まるのだろうと考えながら、斗生はただ馬車の外に広がる見知らぬ仙家の賑わいへ思いを馳せた。

 




主人公の過去の記憶は完全ではない虫食いですが、強烈なものは強烈に残っています。


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十話

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では。


 馬車を止めた明月のあとについていき、たどり着いたのは宋家の第一修練場だった。

 第一修練場は、明月によれば剣の修練を積む場所らしい。

 藁人形や木剣が置かれた円形の広場に入った斗生は、修練場の光景を見て驚く。

 剣を腰に吊るし、揃いの青と白の衣を着た宋家の仙士たちが、大きな輪を作っていたからだ。

 その輪の中心にいるのは、あの鐘白霜大師兄。それにその足元に半分隠れるようにしている漣宇である。

 宋家の仙士たちに囲まれ、見下ろされている漣宇は、斗生たちの姿を見るや小さな体を生かして彼らの足の間をすり抜けて、弾丸のように突っ込んでくる。

 そしてそのまま、漣宇は斗生の背中にぴったりと隠れた。

  

「……おい」

「深く聞くなっ!ちょっとでいいから隠れさせろっ!」

「……」

 

 これはあれか。構われ過ぎた猫が、却って体を弱くしてしまうあれか。あれと同じことが起きたのか。

 そう思いつつ、斗生はひとまず宋家の弟子軍団と向き合う。心なし、全員の目が潤んでいるようにも見えた。ほとんど全員体格のいい青年がそんな有り様で見下ろしてくるのだから、威圧感がある。

 けれど、斗生が何かを言う前に頭痛を堪えるような渋面の明月が、少年二人の前に立つ。

 糸目をかっと見開き、彼は四つの瞳で宋家の弟子全員を睨みつけた。明月の束ねられた長い髪が、ぶわりと膨れあがって天を衝く。

 

「お前たち、一体何をした。僕は言ったよな?岳漣宇は、栄養不足で霊力枯渇から回復してまだ数日の半々病人だと。それを囲んで騒ぎ立てるなど言語道断甚だしい!わかったか!」

「は、はいっ!」

「わかったならばよし!お前たちの師兄を少し借りる!」

 

 言うが早いか、明月は白霜の襟首をむんずと掴んで輪の中から引っ張り出す。

 襟首を掴んだのと逆の手で、斗生たちについて来いと合図を送り、向かった先は修練場の側に建てられた小屋だった。

 休憩場所なのか、椅子や卓に寝台がいくつか並べられ、高い位置の窓からは日差しが降り注ぐ整頓された空間である。

 路吟を抱いた路燕、斗生や漣宇を適当な感じに振り分けて座らせると、明月は白霜の前で腕を組んで仁王立ちとなった。

 

「落ち着けと言っただろうが、鐘大師兄。長年探していた子どもが見つかって嬉しいのはわかるが、お前は一番弟子だろうが」

「……うん、すまなかった。すまなかった、漣宇。それに……」

 

 白霜は斗生を見て、迷うように瞳を泳がせる。そう言えば、まだ名乗っていなかったのだと斗生は腰かけていた寝台から飛び降りて、白霜の前で手を重ね合わせる礼を取った。

 

「お初にお目にかかります。玄斗生と申します。母の名は、玄飛雲です」

「初めまして。私は宋家の鐘白霜。先ほどは……見苦しい真似で驚かせてしまい、すみませんでした」

 

 丁寧な礼を返され、斗生はやや面食らう。

 宋家の一番弟子である白霜は、一門の中では弟子たちを取りまとめる高い地位にあるのだ。そんな貴公子が、名前しか持っていないような子どもに丁寧な礼を尽くすのはまずあり得なかった。

 

「どうかしましたか?」

 

 咄嗟に何も答えられない斗生を、白霜は心配そうに覗き込む。

 黒い瞳には混じりけのない善意があって、やはり斗生はたじろいだ。

 何というか、前世を含めたこれまでの人生で鐘白霜は出会ったことのない人間だったのだ。

 

「大騒ぎしたお前の変貌ぶりに驚いてるんだろう。気にしてやるな。それから、こっちの玄斗生も岳漣宇と大体同じだ」

「……何故、そのようなことに?」

「乏しい食事での二人旅の途中で、朱家どもに歯向かって霊力を使った大立ち回りをしやがったんだよ。此処に来る数日で僕にできるだけのことはしたが、時間が足りなかった。お前たちがこいつらを引き取るなら、毎日腹いっぱい食わせてやれ。こいつらは霊力は扱えているが仙骨は眠ったままだ。そちらもどうにかしろ」

「妓楼で朱家と……それは、そちらのお二人とも関係がある話ですか?」

 

 白霜の視線が、路燕と路吟に向く。

 路吟を膝から降ろした路燕は、深く白霜に頭を下げた。

 

「お初にお目にかかります。あたしは周路燕。花黄で、芸で身を立てていました女にございます。こちらは娘の周路吟」

「あい!」

 

 紅葉のような手を目いっぱい広げて上げた路吟に、白霜の瞳がまるく優しくなる。

 

「初めまして。そちらの二人の体調は如何でしょうか?」

「明月先生に診てもらってるから、あたしは平気です。この子も」

「ぎんは、だいじょうぶよ。にぃたちのが、だいじょぶ、ないないよ」

「おや、それは」

 

 柳眉をひそめて、白霜は少し考える仕草を取る。取ってから、彼は漣宇と斗生に向き直った。

 

「あなた方二人は、我ら宋家の門弟となる意志があるという話で、間違いはありませんか?未だ仙骨が目覚めていないならば、仙士にならない道もある」

 

 硬く鋭いもので、斗生は胸を突かれた気がした。

 四大仙家の一角を担う宗家の大師兄は、淀みなく述べた。

 

「知っての通り、仙士とは仙道を歩く修行者です。仙骨を生まれ持ち、霊力を扱える者のみ、そう呼ばれます。仙士は大きな力を持ち、徒人(ただびと)と比べれば寿命も長く体も頑健になる。ですが、同時に私たちには担うべき責任や、立ち向かわなければならない危険があるのです」

 

 凛とした覚悟の声は、真っ直ぐに漣宇と斗生に向けられていた。

 さすがの大師兄だな、とぼんやりと斗生は思った。

 確かに、仙士には危険が伴う。それは妖魔妖邪との戦いの危険であり、守るべき土地と民を守るための危険だった。

 前世の斗生の苦しみも痛みも、結局のところ仙士になることを選んだがために起きたとさえ言える。

 仙士にならない道。力を持たず、戦わない道。

 そういうものも、なるほど確かにあるのだ。

 それでも、その言葉は斗生の胸には沈まず、染み込んでこなかった。

 戦わないと言う道を選ぶために必要だった何かが、既に自分の中からは失われているし、たとえ世界が巻き戻ったとして失くした何かは二度と戻りはしない。

 凪いだ瞳で、斗生は白霜を見つめ返す。そこに何かを見たのか、白霜が目を瞬かせた。

 不思議な膠着状態をほどいたのは、不機嫌を隠そうともしない明月の一声だった。

 

「おい、白霜。お前のその問いを向ける姿勢を僕は好んでいるが、腹が減っている子どもに難しい話を向けるのもどうなんだ?」

「おや、きみがいたのに彼らは腹を空かせているんですか?料理上手なきみが」

「悪かったな。急いでいたから今日の昼飯がまだなんだよ」

「なるほど。となると……先に昼餉としましょうか。今の時間なら、食堂が開いたばかりです」

 

 修行を重ねた位の高い仙士になれば、飲食の必要もなくなる。

 だが、多くの弟子を抱える宋家には共同の大食堂が造られていたらしい。

 ……そう言えば、前世で己の体を乗っ取った『父』が中にいた人間諸共火を放った建物の中に、使い込まれた厨房と広々とした食堂があったと思い出して、斗生は無言ですぅっと顔色を白くした。

 途端に漣宇が気づき、斗生の顔を覗き込んでくる。

 

「わ、お前どうしちゃったんだよ。顔色がまずいぞ」

「……あまり、思い出したくないことを思い出しただけだ。体調が悪いわけでは、ない」

「ほんとだろうな。あんたの大丈夫を信用しちゃならん気がしてるんだけどな、俺」

「その言葉、そっくりそのまま返す」

「なんだとコラ」

 

 脳天に拳をぐりぐりとめり込ませに来る漣宇の手を避けて、斗生は白霜と明月のあとを追った。路吟を抱いた路燕は、そのさらに後ろを歩く。

 

「……大丈夫、か?」

 

 ふと振り返って路燕を見て、その顔色がなんとなく優れない気がした斗生は尋ねていた。

 彼女の気風が秋の晴れた空のように澄んで明るく気持ちのいいことも、娘を心から大切にして守っていることも斗生はこの数日で直に感じていた。娘の前では決して暗い顔を見せない彼女が、どこかこう、疲れているように見えたのだ。

 路燕は、斗生を見下ろして少し口角を上げて答える。

 

「あたしは平気よ。んー、でも仙士さまたちのお城に入るなんて初めてだから緊張はしてるかもね。ほらあたしは芸事の夜女だし、宋家には呼ばれたこともなかったの。初めて尽くしで、もうびっくりしてばっかりよ」

「……他の家は、あなた方を招いて宴でも開くのか?」

「そっ。って言っても、宋家と凌家と胡家はしないのよね。どこも具合は違うけど、堅物だから。……まぁ、どんな宴かなんてあなたたちには想像もつかないわよ」

 

 路燕からすれば、斗生も漣宇もまだ十になっていない子どもなのである。瞳には、淡い諦めのようなものがあった。

 前世では斗生もそういう宴に列席したことは無論あったし、そこへ呼ばれる白粉が香る妓楼の女たちが何を求められていたかも、見てはいた。

 尤も、前世の斗生はそういうことに関心がわかず、専ら自分の従者と引っ込んでいたのだが。

 

「仙士ばかりだから緊張するのか?だったら、俺もそうだ。緊張している」

「ほんと?だってあなた、もう仙士さまみたいに霊力使えるじゃないの」

「あれは、正しいやり方ではない。生木で焚火を作ろうとするようなものだ。だから、俺たちは仙士ではない」

 

 斗生には、自分が宋家の門弟として迎えてもらえるかに、自信がなかった。

 宋家は、特に義侠の心が厚い。

 実力主義で後ろ暗い金策に明るくない特性もそこから来ているのだが、斗生には自分に義侠の心とやらがあるのかどうか、わからない。

 義侠心とは、身を挺してでも誰かを守ろうと言う利他の心だ。

 路吟と路燕のことは体を張ってでも助け守ったが、それは前世の路吟が斗生にとってかけがえのない大切な妹で、路燕が彼女の母だったからこそ、したことだ。

 他の誰かだったならば、斗生は助けなかった。

 まるっきり関わりがなかったのに、自ら渦中へ飛び込んで斗生や路燕たちを助けた漣宇は宋家の信念に相応しい。事実、前世でこの家の大師兄を務めていたほどなのだから。

 しかも、二十歳になっていない時分から。

 そう思うと、回廊を渡りながら斗生は呟いていた。

 

「お前は、凄いやつだったんだな」

「へっ?」

「いや……いま、そう思った」

「だから口に出したってか?へー、あんたが素直な感想を言うなんて珍し……くもないか。あんた、顔が変わらないだけで考え自体はわかりやすいもんな。読むのは楽なほうだ。あれだな。あんたは自分の感情を言ったり出したりすのが下手なんだ。ついでに顔が変わらんし口数が少ないから誤解される」

「……お前に比べたら、誰でも無口だ」

「おっ、なんだよちゃんと言い返せるじゃないか。いつもそうやってくれよ頑固ちゃん」

 

 斗生は、無言でにやにやと笑う漣宇のわき腹に肘を入れた。

 かなりいいところに入ったらしい漣宇が拳を振り上げつっかかって抗議するが、斗生はするりと抜け、くるりくるりと立ち位置を入れ替えて逃げる。 

 紐で一つに結った黒い髪が、猫の長い尾のように跳ねた。

 

「逃げるなこら!」

「そう言われて、逃げないやつがいると思うのか?」

「あーっ!あんた今俺のこと馬鹿にしただろ!鼻で笑ったな!今のはさすがにわかるぞっ!」

 

 どたばたと回廊でじゃれ合う斗生たちを見て、遊んでいると思ったのか路吟までもがきゃっきゃと手を打って騒ぎ出す。

 路燕の静止も聞かず、屈託なくはしゃぐ三人の子どもたちを青衣と黒衣の二人の青年は、静かに見守っていた。




無口主人公は、しょっちゅう肘を入れます。


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十一話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

「先ほどは難しいことは話しましたが、弟子入りの決定権は宗主にしかないのですよ。ですから、あなた方が弟子になれるか否かは宗主が帰ってこられてから出ないと、判断できないのです」

 

 さらりと鐘白霜は語った。

 白霜の向かいの席で白米の粥をゆっくりと啜っていた斗生は、その言葉に顔を上げる。

 白霜に案内された全員は、場を食堂に移していた。尤も、弟子でひしめく大食堂はさすがに注目を集めすぎると思ったらしい。

 大食堂の側にある、別の部屋にて一同は集まって食事を摂っていた。

 

「……だと思った」

 

 斗生の横、白霜の真向かいに座って林檎を齧っていた明月は眉間にしわを刻みつつ答えた。

 

「お前は一番弟子で内弟子たちのまとめ役だが、弟子入りの決定権はないと以前言っていたからな」

「ええ。私個人が弟子を取ることもできるのですが。私は未熟者故、直弟子を取る気はありませんから」

「よく言う。涼しい顔して、何度手合わせで僕を叩きのめした?嫌みか」

「武の腕だけが修行者を測る物差しではないでしょう。大体、きみとの手合わせで下手に手加減すればやられるのは私のほうです。しびれ薬を塗った治療鍼を正確に投げつける医仙士なんて明月くらいですよ。暗器使いにでもなるつもりかと思いましたね」

「ふん。腕っぷしが無ければ患者を満足に診ることもできない世なんだ。暗器でも剣でも毒でも、使えたほうがいいだろうが」

 

 糸目をひそめ、がりりと林檎を齧り取った明月と、どこまでもおっとりした物言いを崩さない白霜は、そこまで言い合ってから我に返ったらしい。

 白霜の目が、隣で斗生と同じく粥の椀を傾けていた漣宇に向く。

 無邪気な調子で粥を食べていた漣宇は、白霜を見上げてにっこりと笑った。

 

(……猫かぶりの笑顔だな)

 

 斗生も、段々と漣宇が読めるようになっていた。

 仙士になることは、漣宇の中で決定事項だろう。示された選択肢があっても、彼は仙士以外を選ぶつもりはまったくない。前世で無残に破壊されたものを守るため、戦う道をとるだろう。

 けれど、自分を思いやってくれている兄弟子の心もわかるから、無邪気な子どもの笑顔を向けて安心させたい、といったところか。

 

(かつて目の前で失った人間が、今生きていて隣で笑いかけてくれると言うのは……)

 

 どういう気持ちなのだろう、と斗生は考える。

 嬉しくて堪らないが、感情をありのままぶつけるわけにも行かないからもどかしい、というところか。

 

(ここでなら、彼らならば俺たちが巻き戻ったことを話しても、信じてくれるだろうか)

 

 宋家と明月には、岳漣宇を慈しむ気持ちが大いにあるらしい。彼が誠心誠意言ったならば、少なくともあり得ないと切り捨てられることはない気がした。

 

(知らせれば、朱重世をのさばらせないために最も効果的な方法は、俺が死ぬことだと皆が思うだろうな……。そう言われれば、否定ができない)

 

 前世であの『父』がああも横暴に情け容赦なく他家を飲み込んでいったのは、斗生が器として優れ過ぎていたからだ。

 それまでのどの器よりも優れ、途轍もない父の霊力を存分に扱える体を手に入れたからこそ、彼はあそこまでになり果てた。何かの箍が、壊れてしまったのだ。

 これまでの『器』たちは朱重世の魂を受け止めるのに精一杯で、本来彼が持っていた莫大な霊力や仙術を十分に扱うことが、できなかったらしい。

 ところが、斗生の体はそれを可能にしてしまった。

 だからこそ、天候を操り、雷を呼んで水を招き、大地一切を破壊できる仙士が誕生してしまったのだ。

 父は己の霊力と仙術に加えて元々斗生の体が持っていた霊力まで手に入れ、魔王そのものになった。

 斗生に、自分が器として優れていた自覚は欠片もなかったし、今もわからない。

 あんな神仙のような術、やり方がわかっていても実行できる力などない。

 斗生の霊力は確かに多かったが、朱家の一番上の兄に比べれば仙術も霊力の扱いも劣っていた。なのに、父は斗生を器にするや喜びを爆発させ、笑ったのだ。

 これならば悲願に手が届く、と。

 だから、斗生がいなければ父がああなることは恐らく、ない。

 朱家は横暴なままだろうが、朱以外の四大仙家を滅ぼそうとはしないだろう。

 当然、斗生も死にたくはない。

 自分の体を取り戻せた喜びを、誰かに自分の声が届く嬉しさを、まだ味わっていたい。

 しかし、このまま生き続けていていいのかと言われれば、是が非でもそうしたいのだと、心の底から激しく強く思うことができなかった。その根拠が、摩耗して失せていた。

 事実として、朱重世の次の『器』となる体は滅んでいたほうが安全だと、冷めた自分がそう告げている。

 自ら死にたいわけでは断じてないし、自分の死ひとつで前世で起きたような惨事がすべて防がれるとも、償いになるとも考えていない。そう考えられるほど、自惚れていないのだ。

 ただ、確実に己がいないほうが危険は減る。

 すべての災禍が防げるとは行かなくとも、少なくともあの最悪の魔王は誕生しないだろう。

 

(……岳漣宇と相談するか)

 

 自分一人では、効率的だが後ろ向きで破滅的で自罰的な考えに至る。それはよくない。

 

(俺は前世でまあまあに生きたが、自分の頭で考えて行動できたことは……あまりないからな)

 

 重ねた歳の割に、まぁなんというか斗生は阿呆なのである。

 思慮深く行動することができていないというか、経験が浅いというか。

 

(だめだ。深く考えると落ち込む)

 

 味はしないが温かい粥を啜って斗生はほう、と息をついた。そのときである。

 

「……だから、あなた方の案内は彼に任せるとしましょう。いいですね?」

「え?」

 

 向かい側の白霜に話しかけられ、斗生は顔を上げた。

 白霜は、穏やかな苦笑を浮かべていた。

 

「私はこれから用事があるので、あなた方に宋家を案内できません。それを、別の人にと言う話だったのですが……」

「申し訳ありません。聞いていませんでした」

「おいこら」

 

 がつん、と机の下で漣宇の蹴りが脛に入った。

 

「こらこら、喧嘩はいけませんよ」

「喧嘩じゃありません。じゃれ合いです。だろ?」

「はい」

 

 真顔の斗生と、いたずらっぽい漣宇を見比べ、白霜は朗らかに笑った。

 

「そうですか。それなら私から言うことはありません。それなら、案内をしてくれる者を呼んできましょう。失礼します」

 

 立ち上がった白霜は、音も立てずに部屋を出て行った。

 考え事に集中し、周りの音が聞こえていなかった斗生には、白霜が誰を呼んでくるつもりなのか当然わからない。

 粥の匙を持ったまま固まっていると、漣宇が苦笑した。

 

「俺たち、ここの若君さまに案内してもらえるんだってさ」

「若君というと、宋宗主のご子息か?」

「そうだ。名は(そう)聲心(せいしん)。歳はあと半年で九つだったか。ちなみに、お前たちは何歳なんだ?」

「俺は九歳ぐらいです。父さん母さんがいなくなってから四年経ってて、そのときの俺って五つなんですよね?だからそんなものかなって」

「俺もそれぐらいかと」

「……」

 

 何とも言えない顔で、明月は三つ目の林檎に手を伸ばした。

 年齢のあやふやさは微妙な顔をされても仕方ないと、斗生は路燕とその膝の上で眠っている路吟を見た。

 

「あの、路燕殿と路吟、ちゃんはこれから何を?」

「ん、あたしたち?あたしたちは、明月先生たちとお話があるから、一緒には宋家を回れないわね。何しろ、あたししばらく使えるお金はあるけど妓楼を飛び出しちゃったしね」

「安心しろ。宋家の領土に入ってしまえば、朱家の下っ端は追いかけてこられない。しばらくは僕らの薬療院を手伝って、先のことでも考えろ。そういう話だったろ、周路燕」

 

 路燕は頷いた。路吟は母の様子から何かを感じたのか、首をこてんと横に倒す。

 

「明月先生には、感謝しています。いつか、この恩は必ずお返しいたします」

「やめろやめろ。僕たち胡家の仙士は、あちこちに薬療院を設けているが、僕含めてどいつも人間相手の会話が苦手だ。愛想よく患者と話せる人間はうちでは貴重なんだ。花黄市には僕以外の胡家もいるから、僕の患者も彼らが引き継げるし問題はない。僕がお前たちを助けたことがばれても……ま、あいつらが短絡的に胡家を襲うことはないだろう」

「何故ですか?」

「僕らは、朱家の仙士たちも診ている。仙士とて病も拾うし、傷も負う。それを、どこの誰が治療してやっていると思う?」

 

 仙家随一の医術を誇る胡家の黒衣の袖を払い、明月は腰に吊るした仙剣の柄を叩いた。

 おお怖い、と漣宇が口だけを動かして呟き、首を縮める。斗生も同感だった。

 胡家も己の領土を持っているのだが、彼らはそこに留まらず中原に広がっている。

 胡家の本拠地は確か、緑豊かな山に建てられていたはずだった。明月にはそこに帰る選択肢もあるだろうに、彼はどうやら月の河に留まるつもりらしい。

 宋家の弟子たちにも睨みを利かせられるようだし、明月の立ち位置は斗生から見れば妙に不透明だった。

 が、巧みに人から情報を聞き出すような器用さがあったら、斗生の前世はもう少しマシだったろう。

 

「僕たちはここを発つ。お前たちは達者で暮らせ」

「もう行っちゃうんですか?」

「当たり前だ。僕はそれほど暇じゃない。百薬峰(ひゃくやくほう)へ戻るわけじゃないんだ。東街の薬療院にいるのだから、怪我病気をしたら来ればいい。行くぞ、周路燕」

「はい!……ありがとう、本当にありがとうね、あなたたち」

 

 言うが早いか、黒衣の裾と黒髪を翻して明月は立ち上がる。そのあとを、すぅすぅ眠る路吟を抱いた路燕がぱたぱたとついて行く。

 彼らがいなくなると、部屋がぐっと広く、静かになった。まともに礼を言う暇も、顔を見る暇もない速さだった。

 伸ばしかけていた手を拳にして下ろし、斗生は漣宇を見る。

 

「東街の薬療院は、お前の前世にもあったのか?」

「勿論さ!でも、俺は明月先生には会ったことがないんだ。前世のあの人って、ずっと花黄市にいたのかな?俺たちが関わったからこっちに来たとか」

「かもしれない。鐘大師兄と随分親しいようだが、お前は本当に彼を知らないのか?」

「ああ。あんな人に会ってたら絶対忘れねえよ。……師兄が死んだのは俺がまだ子どものときで、気づけてなかったこともたくさんあった。明月先生も、そのうちの一人だったかも」

 

 漣宇が小声で言い終えたちょうどそのとき、部屋の扉が開く。

 最初に目に入ったのは、白霜だった。その影に、もう一人が隠れるようにして立っている。

 

「お待たせしました。漣宇、斗生。聲心、こちらの二人が……」

「知ってる。さっき教えてもらったんだ。岳漣宇に、玄斗生って言うんだろう」

 

 白霜の影から現れたのは、黒髪を髷に結った少年だった。整った顔立ちで、子どもながら負けん気の強そうな鋭い目をしている。さらには漣宇や斗生より背が高く、体格も良かった。腰に短めの剣を吊って、宋家の仙士たちと同じ作りの青と白の衣を着ており、その肩には宋家の紋章が刺繍で描かれている。

 

「宋、公子(こうし)?」 

 

 危うく宋宗主と言いかけて、すんでのところで斗生は言い直した。

 この子どもを、斗生は知っている。幼い顔でも、間違いなかった。

 彼は成長し、研ぎ澄まされた剣のような鋭い面差しの青年になる。そうしてその顔を歪め苦しみながら、父上と母上を、月穹河を返せと吠えて血の涙を流し、どす黒く膨れ上がった怨嗟を斗生に叩きつけた。

 この幼い少年こそが、壊滅した宋家を漣宇とともに立て直し、朱家の若き宗主になる、()()宋聲心なのだ。

 子どもは、斗生を見た。大きな瞳には、燃え盛る炎のようだった恨みも憎しみもない。

 

「ぼくを知ってるのか?」

「あ、いえ……いや、知っています。宋家の聲心さま」

 

 礼をしながら斗生が言えば、聲心はふんと腕を組んだ。幼くも整っている顔だが、何故か棘があるなぁと斗生は感じる。

 

「さま、はいらない。鐘師兄がお前たちと遊べって言うから来た。お前は玄斗生のほうだろ」

「はい。ありがとうございます」

 

 もう一度斗生が頭を下げると、聲心はむず痒そうにぷいと横を向いた。

 

「その丁寧な喋り方、やめろ。好きじゃない。ぼくは一緒に遊びに来たんだからな」

「……ならば、この話し方でいいか?宋聲心」

「そ、そうだ!」

 

 遊び相手ではなく案内してくれる相手ではないのか?と思いながら、とりあえず頷いた斗生は、珍しく静かな漣宇を見てぎょっとする。

 彼が、泣いていたからだ。ぼたぼたと目から大粒の滴をこぼし、声もなく。

 

「!?」

「ど、どうしたんだよそいつ!?」

「わ、わからん!おい、岳漣宇!?」 

 

 拷問を受けようが何をされようが不敵な笑いを崩さなかった岳漣宇を知っている斗生は、大いに慌てた。

 聲心も飛び上がり、おろおろと鐘師兄を見上げる。

 涼やかな柳のような青年は、穏やかなままだった。

 

「おや、お腹でも壊しましたか?今日、私は厨房には一歩も近寄っていないのですが……」

「ち、ちが、違います!師兄の料理は関係ありません!すぐ終わりますから……」

 

 目を無茶苦茶に拭って、漣宇は笑った。明らかに無理をした笑顔だったが、それでも漣宇は笑ったのだ。

 

「ごめん、驚かせた!俺は岳漣宇!改めてよろしくな、宋の若さま!」

 

 赤い目のままで、漣宇は胸を張って聲心の前に立って告げる。聲心は、頬を膨らませた。

 

「そういう呼び方はいらない!ぼくは聲心だ!お前もそう呼べ!」

「ハハッ、わかったよ。ここを案内してくれるんだろ?なら頼むぞ」

「当然だ!ぼくが全部教えてやる。ほら、そっちの斗生も行くぞ」

「……うん」

 

 三人の少年は、鐘白霜に礼をして部屋を飛び出す。その背中を、白鞘の剣を背負った青年は静かに見送る。

 彼らの姿が見えず声が聞こえなくなってから、彼は表情を引き締めて衣の裾を翻して静かにその場を離れたのだった。

 




また増えました。

(しょう)白霜(はくそう)
・宋家の大師兄。前世では若くして死んでいる。

(そう)聲心(せいしん)
・宋家宗主の息子。正真正銘子ども。

公子は【若君】みたいなノリです。「宋公子」ならば「宋家の若君」です。


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十二話

評価、感想、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 宋家の跡取り、(そう)聲心(せいしん)は、どうやら気兼ねなく遊べる友が欲しかったらしい。

 漣宇と斗生を連れた彼は、修練場から門弟たちの宿舎から、あちこちを歩いて回った。

 子どもたちだけの散策なのかといえば、そんなことはない。

 少し意識を集中すれば、付かず離れずの距離に誰かがいるのは感じ取れたが、隠れて聲心に付いている護衛か、侍従の誰かなのだろうと、斗生も漣宇も気づかないふりをした。

 小さな剣を腰に吊った【わかさま】と、その後ろをとことこきょろきょろと歩く子ども二人は注目の的だったらしく、修行に励む門弟たち全員から声をかけられないまでも、必ず視線は向けられるという有様だった。

 彼らの多くが岳漣宇に向ける視線が好意的であることに、斗生はしばらくして気がついた。

 まだ十歳にもなっていないのに、岳漣宇にはかつて宋家の弟子たちをまとめていた岳環宇の面影がはっきりあるようで、懐かしむような視線や言葉、先代大師兄の遺児が無事帰ってきたことへの安堵が含まれていた。

 となると尚更、三人目の見慣れぬあの子どもは誰だ?と皆が思うらしい。

 斗生に向けられる視線は、無遠慮にじろじろと眺め回すものが多かった。

 それでも、岳漣宇がここでも何かと斗生に話しかけ、腕を引っ張ったり小突いたりと馴れ馴れしい態度を崩さなかったため、次第に無遠慮なものは減って微笑ましいものを見る視線に変わっていった。

 詳しいことはわからないが、あの子どもは先代大師兄の子にとっては大事な友達らしい。それならば良い子なのだろうと、そう言いたげである。

 少し身内に甘すぎではないか、と斗生は有り難く思いながらも同時に歯がゆくなった。

 宋家と敵対する気は今欠片もないが、斗生の正体は彼らが嫌う朱家当主の実子だ。

 志と実力があるならば受け入れるという宋家の思想は、斗生にとっては嬉しいがもどかしいものだったのだ。

 そうやって宋家を駆け回る三人の子のうち、唯一の正真正銘の子どもである聲心は、修練場を見て回ったあとに訪れた、屋敷の裏手の船着き場で腰に手を当て得意げにそっくり返った。

 

「うちは河に近いから、修行には水練もあるんだ。剣術、仙術、六芸の他に水練もちゃんとやらなきゃだめなんだからな」

 

 その口ぶりは、漣宇と斗生の二人がこれから一緒に修練してくれると疑っていないものだった。彼は宗主の一人息子だが、まだ本格的に仙士としての修練を積んではいないらしい。とはいえ、子ども用とはいえ剣を持っている辺り、仙士の修行をやる気は十分にあるようだった。

 彼の父である宗主に会っていないから、まだ弟子になれるかわからないと言おうとして、斗生はやめる。

 今、この子どもに冷水を浴びせる必要はない。

 前世では、親の仇として強烈な怒気と殺気と怨嗟を叩きつけられていてばかりだった聲心から、少し上から目線とはいえ無垢な親しみを向けられるのは、斗生にはむずがゆいが不快ではなかった。負けん気の強そうなところが【妹】とも少し似ているから、猶更である。

 月の河の流れを見ていると、漣宇が肩に肘を乗せてくる。

 

「そういえば、あんた水には慣れてるのか?」

「……」

「ほほーん、目を逸らしたってことはさては泳ぎ上手くないんだろ。安心しろって、ここにいたら嫌でも泳げるようになるさ。だろ?聲心」

「そうだけど、お前は何でそこまで詳しいんだ?」

「さーな、なんでだと思う?」

「わかるわけないじゃないか」

「ハハッ、そりゃそうだ。悪かったよ。なあ聲心、次はどこを見せてくれるんだ?」

「……こっちだ!」

 

 わかりやすく頬を膨らませる聲心だが、素直に頼めばたちまち機嫌を戻してまた別の場所へ二人を引っぱって行く。

 そうこうするうちにあっという間に日は暮れて、空を飛んで現れた白霜が三人の前へ降り立った。

 

「宗主と夫人は明日お戻りになられますから、今日は先に寝てしまいましょう。漣宇と斗生はこちらへ」

 

 今日はもうおしまいです、と言われて聲心はまたも膨れたが、明日も会えるからと白霜が言えば、一応頷く。

 

「お前たち、また明日も来いよ!まだ教えてないところがあるんだから!」

「はいはい、わかってるよ。宋の若さま」

「その呼び方はやめろったら!」

 

 何度も聲心をからかうのをやめない漣宇のわき腹を肘で突いて、斗生は聲心を見据えた。

 

「……宋聲心、また明日」

「うん、また明日だ」

 

 二度目は漣宇も真剣に答え、聲心はそれに気を良くしたのか迎えに来た青い服の侍女のあとを素直について、彼の部屋へ戻っていった。

 残された漣宇と斗生は、様子を見守っていた白霜に連れられて別の場所へ向かう。

 簡単な食事をとって湯を使わせてもらったあと、二人は部屋へ案内された。

 二つの牀が並んで置かれ、丸い卓もある部屋だった。牀の枠や窓の桟には、満月と剣、筆が彫られており、床にもどこにも塵一つない。

 

「ここを使ってください。明日は宗主に会ってもらいますから、ゆっくり休んでくださいね」

「ありがとうございます」

「ありがとうございます」

「いえ、何かあればそこの鐘を鳴らしてください。それで、私はこれで」

 

 衣の裾を翻して、青年の大師兄は静かに去って行った。

 彼の姿と気配がなくなるや漣宇は牀へ勢いよく飛び込み、斗生は静かに端へ腰かけた。

 靴を脱ぎ散らかし、掛け布を巻き込んで牀の上をごろごろ転がる斗生へ尋ねる。

 

「疲れたか?」

「全っ然!あんたこそ平気だったのか?俺にとっちゃここは故郷だけど、あんたにとっちゃ異郷もいいとこだろ」

「平気だ。慣れる」

「ってことは、まだ慣れてないのか。じゃあ疲れただろ。人によっちゃ、水だらけのここが落ち着かないとかさ、水面がきらきらしてるとか言って、目を回してるやつもいるんだぜ。泳ぎの苦手な真面目ちゃんは平気だったか?」

「目は回していない。苦手とも言っていない」

 

 あはは、と漣宇は仰向けになって明るく笑う。ぼたぼたと泣いたのが嘘のようで、斗生は首を傾げた。

 

「お前こそ、平気なのか?」

「んー、何が?」

「泣いていた」

「……ほっとけ」

「しかし……」

「いいから、あれはほっといてくれ」

 

 斗生は目を瞬いて、肩をすくめた。

 

「わかった。なら、眠る前に話がある」

「なんだ?」

「俺たちの正体を、明日宗主に会えたとき包み隠さず言うべきか?」

 

 漣宇は、その一言で俊敏に起き上がった。

 

「それは俺も考えた。宋おじさ……宋宗主は頭っから否定するような人じゃない。と言って全部信じてもらえるかといったら、難しいけどな」

「一部信じてもらえるだけで、十分だ」

「だよな。何せ俺たちが経験したのは時の巻き戻りか、未来の予知だぜ?どっちも古の神仙か、さもなきゃ天命を受けし古の皇帝の御業並みのことだよ」

「神仙にも皇帝にも、縁はなかった」

「俺もないよ。……と、ここまで言ってあれだが、宗主に俺たちのことを話すのは無理かもしれない」

「……は?」

 

 漣宇は、気まずげに頬をかいた。

 

「さっき俺が泣いただろ。あのとき、俺は聲心に思わず全部ぶちまけかけてたんだ。後先かまわず、全部な。やっと会えたもんだから、嬉しくてさ」

「……お前は、一言も喋れていなかった」

「ああ。駄目だった。確かに俺は口に出そうとした。だけど、まあ結果はあれだ。頭が割れそうに痛くなって、感情が抑えきれなくなって、あのざまだ。あれは、呪詛を受けたときに近いな。あんたの親父が俺にかけた、頭の中身や心を弄るやつにそっくりだ」

「……」

「おっと、先に言っとくが謝るなよ。それにこれから先、過去のあんたの体が俺にした一切について謝罪するな。あれは全部あんたじゃないんだし、謝られてる時間が惜しいんだ。これからを考えるべきだろ」

「……ああ、わかった」

 

 それでよし、と頷いた漣宇は、指を一本立てた。

 

「だから、俺たちは誰かに何かの術をかけられてる。それは巻き戻しか未来予知の術で、しかも、まだその術は続いてるぞ」

「俺たちの正体を、他言できないようにする呪いとしてか。頭痛と抑制できない感情を与えて、口を利かせないようにすると」

「と、思う。もしかしたら、あんたなら喋れるかもしれないが……」

「お前に抗えないなら、俺が抗えるとは思えない。では、前世の記憶は俺たちと……もしや術者の間でしか共有できないのか」

「おそらくな。だが、これだけ規模がでかくて訳の分からない術だ。術者本人は反動で死んでる線もある」

「生命を対価にし、死後も作用する術か。……術者は、俺たちに自らの遺志を託しでもしたのか?」

「どうだかな。もしこれをやったやつの目的が朱重世を殺すことや、戦を止めることだとしたら、俺たちの口を封じる意味はないだろ。知識の共有ができないんじゃ、俺たちのできることはぐっと減るぞ」

「……俺もお前も、まだ子どもだものな」

「まさにな!しかも目も当てられないほど弱い!!仙骨も使えないし、体もがたがたのぺらぺらだ。ここまで弱かったのかって、俺も信じられないくらいだぞ。十何年か後の俺は、腹を切られて腸が溢れても、傷を片手で押さえて逆の手で剣は振るえたんだぜ」

「知っている。見ていた」

 

 より正確に言うと、斗生はその満身創痍の漣宇が甚振られる様を、自分の体の中に閉じ込められたまま見させられていた。

 髪を振り乱し、敵の血と己の血で総身が赤くなるまで味方を逃がすために戦った漣宇を、斗生の体を使って【父】は生きたまま捕らえた。

 そのあと【父】が漣宇に何をしたかを、斗生は口にしたくもなかった。

 殺されたほうがこの人間にとっては幸いだと思った出来事など、思い出したくもない。

 が、その青年は、今こうしてかなり縮んだとはいえ、明朗闊達に斗生の前にいる。

 自分たちをこの状況に放り込んだ者の思惑も正体も、斗生にはわからない。

 かつてあった時間はあまりにも唐突に砕け散り、掴めなくなった。理由も、原因も、何ひとつわからずに。

 それでもせめて、怨嗟と苦しみの底に落ちて虫のように藻掻き苦しんでいた岳漣宇が、一度でも故郷に帰れて良かったと、斗生は、そのことにおいてだけ顔も知らぬ術者に感謝した。

 

「ん、どうしたあんた?腹でも減ったか?」

「……いや。もう寝る」

「了解。じゃ、俺も寝るとするか。明日寝坊するなよ」

 

 言うなり、くるりと布を巻き込んで漣宇は目を閉じる。蝋燭を消して、斗生も同じく牀に横たわった。

 仰向けになって、月光に白く光る窓を見るともなく見ていると、段々と周りの輪郭がほどけゆらめいていって、意識が沈んで行く。

 そうして、ゆらゆらと眠りに沈んだ斗生は、ほどなく獣のような叫び声で飛び起きることになった。

 隣の牀で、安らかに眠ったはずの漣宇が吠えていたのだ。

 

「やめ……やめろっ……!」

 

 腕で宙を引っ掻き、足をばたつかせて漣宇は苦しんでいた。その姿に、青年の彼が重なって斗生は一瞬硬直する。

 

「岳漣宇!」

 

 だが、すぐに掛け布をはね退けて斗生は漣宇の腕を掴んだ。様子が尋常でない。

 起こさなければと斗生が再び名を呼ぼうとしたとき、漣宇の目が開く。

 焦点の合っていないそこに、斗生の顔が映った瞬間、漣宇の黒瞳の奥の奥に苛烈で凶暴な光が宿った。

 ひゅうと風を切る音がして、斗生は咄嗟に腕で片耳を庇っていた。その腕に、霊力をまとわせた漣宇の平手が直撃する。

 

「!?」

 

 強烈な一撃に、斗生は声も出せずに吹っ飛ばされ床へ倒れ込んだ。頭が揺らされ、受け身を取り損なって、したたかに胸を打ち息が詰まる。目の前が、束の間真っ暗になった。

 肉の薄い痩せた体に諸に衝撃が走り、斗生はぐらぐらと揺れる頭を抱えて床の上に丸まる。庇っていなければ、鼓膜が破れていただろう。

 三秒数えて、目眩がいくらか引いた斗生は起き上がる。牀の上では、身を起こした漣宇が呆然と自分の手のひらを見つめていた。

 

「岳、漣宇」

 

 問いかければ、漣宇は斗生を見た。

 斗生の姿が、漣宇の瞳に映る。

 

「俺……俺は今、あんたを殴ったのか?」

「平手だ。拳じゃない。寝ぼけたんだろう」

 

 霊力をまとわせた手で叩かれた顔は、明日の朝には派手に腫れているだろう。

 切れた唇の端からたらりと流れた鉄臭い唾を、斗生は指で拭って残りを飲み込み、漣宇に背を向けて床に座る。

 

「魘されていた」

「……それは覚えてる」

「俺の顔を見て、怒って殴ったように見えた。過去が夢に出て、混乱したんだろう」

 

 中身が違っていても、漣宇を拷問し、苦痛を与えたのは斗生の体で、斗生の顔を使った人間だった。

 魘されて混乱すれば、間近に現れた憎い人間を、殴ってしまうだろう。剣が手元になくてよかったと、斗生は思った。

 

「お前が魘されるのを見るのは始めてだ。故郷に帰って、心がほどけたか?」

「……あんたさぁ、俺を問い詰めるときだけぺらぺらおしゃべりになるのどうかと思うぞ。普段からそれくらい言えたら、俺も苦労しないで済むんだけど」

「誤魔化すな。どうなんだ?」

 

 無言で見つめれば、漣宇は観念したように唸った。

 

「正解だよ、あんたが正解。空気とか匂いってのは、忘れたと思ってても覚えてるもんだな。寝てたら、懐かしいころに包まれてるみたいになって、幸せだったよ。でも、すぐにここが燃えたときの夢になった」

「……」

 

 普段の勢いのいい湧き水のような軽口とは違う、何かを堪える口調で漣宇は話し続けた。

 

「あとはぶつ切りに色々と記憶が出てきて、最後はあれだ。足を切り落とされたときの」

「……あのときか」

「あんたも覚えてたのか。あんたさ、俺のきつい記憶ほどよく覚えてないか?」

「……体を取られたあとの記憶のほうが、取られる前の記憶より鮮明だからだ」

「初めて聞いたぞ!?」

「他人に言うことでもないだろう」

「……」

 

 返事がない漣宇のほうを振り向いて確認すれば、牀の上には掛け布でできた塊があった。

 

「もう一度眠れるか?」

「やってみる。……間違えてごめんな。ほんとに、ごめん」

「気にしない。誰かに聞かれたら、熊に襲われる夢を見たお前が寝ぼけたことにする」

「なんでそこで熊なんだよ」

「熊は強い」

 

 きっぱり言い切った斗生がよほどおかしかったのか、布の塊が笑いをこらえながら震える。それが収まると、くぐもった声が聞こえてきた。

 

「あんたは魘されないのか?」

「夢は覚えない。疲れは取れている」

「だから問題ないってわけね。まああんた、寝てるときはめちゃくちゃ静かだもんな。いや、起きてるときも静かだったか」

「寝ろ。俺ももう寝る」

「はいはい。起こして悪かったよ。もう大丈夫だ。多分な」

 

 自分の牀へ戻って掛け布を被り直し、斗生は漣宇へ背を向けて寝転がった。

 叩かれた右耳から頬にかけてがじんじんと傷んだが、自分の呼吸に集中するうちに気にならなくなり、また眠りに沈んでいく。

 意識が闇にとける寸前、漣宇が何かを呟いた気がした。けれど、斗生はそのまま眠りに抗わなかった。

 翌朝にはやはり顔は腫れていたが、明月の作ったという膏薬を白霜から貰い、斗生はそのまま漣宇とともに宋宗主に会うことができた。

 そうして、拍子抜けするほどあっさりと弟子入りを認められたのだった。

 二つ、三つの質問に答えれば、青の衣をまとい銀の冠をつけた宗主は、静かに頷いた。

 入門を認める、と。

 

「……」

 

 まだ若々しさの残るこの時代の宋宗主、宋深沈(そうしんちん)の部屋を辞して、やや呆然としている斗生の肩を、漣宇は軽く叩いた。蒼穹は高く澄み、二人の歩く回廊の下はさらさらと水が巡っていた。

 

「ほらなぁ、心配しなくても何とかなるって言っただろ。これで俺とあんたは、同門の兄弟弟子だからな。あんたは朱家の朱斗生じゃなく、宋家の玄斗生だ」

「……そうか。俺の名は、そうなるのか」

「そうだよ!しっかりしてくれって!ま、変な感じがするのもわかる。あんたと兄弟弟子だなんて前世の俺が聞いたら驚くどころじゃ済まないだろうし!」

 

 そこまでを一気に喋り終え、漣宇は遠くを見るように月の河へ目を向ける。

 すぐさま、彼は二、三歩前へ出て斗生の方を向いた。眩しい太陽がちょうど背になり、斗生は漣宇の表情を見失う。

 

「俺たちのこれから先は長いだろうし、上手くいくかもわからない。だけど、よろしくな」

「ああ、よろしく頼む」

「応!」

 

 漣宇は斗生の腕を掴み、回廊を駆け出す。

 その先には、衣の裾と黒髪をを風になびかせる白霜がいる。すっきりと背筋を伸ばしたは、涼やかに河岸を眺めていた。

 師兄!という漣宇の無邪気な声が、水に愛された仙の土地に吹く風に乗り、河の上を渡って行った。

 

 




故郷に帰って気が緩んだので、魘されました。

「六芸」は名家の者が身に着けておくべきものということにしています。
礼儀、音楽、弓術、馬車技術、書道、算術の6個です。多い。

誰が術をかけたのかという疑問を見つけたところで、一章は終わりです。
二章は少し時間がかかります。


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十三話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

二章というより、一章の裏話です。

では。


 夜の月の河の上を、一人の青年が飛んでいた。

 霊力を込めれば空を駆ける仙器(せんき)・【飛樹(ひじゅ)】に乗るのは、宋家の大師兄、鐘白霜。

 長い黒髪と白い袖を風になびかせ、河を飛び越えた彼を陸の上で待っていたのは、黒を基調にした衣を纏い剣と袋を腰に吊った青年だった。

 彼の名は、胡明月。

 長年の知り合いである彼の姿をみとめて、白霜は表情を緩めて音もなく地上に降り立つ。

 

「待たせてすみません」

「構わん。お前は大師兄だろう。あいつらはどうしてる?」

「二人とも聲心と月穹河を駆けまわったあと、休んでいます。聲心が珍しく機嫌を良くしていたと先ほど報告がありました」

 

 あの癇癪持ち気味の若君が珍しいこともあるものだ、と明月は思う。

 彼が言ったあいつらというのは、今日彼がこの宋家に連れてきた二人の少年、岳漣宇と玄斗生のことだった。

 宋家にあの二人を入れるならば、彼らについて言っておくことがある。ただし、あいつらが寝静まった夜に一人で来い、と明月は白霜をわざわざ呼び出したのだ。

 それに応えて、一人月穹河から飛んできた知己の青年を前に、明月はどう説明したものかと一瞬考える。

 だが、結局彼は直截に述べることにした。

 

「僕が連れて来た玄斗生は、間違いなく朱家の血をひいている。父親が朱家の人間だ」

 

 その一言に、白霜は目を見開く。

 驚くのも無理はないと思いつつも、明月は淀みなく続けた。

 

「知っているだろうが、僕のいた花黄市には朱家の者が使う妓楼が数多い。そこには、やむにやまれず朱家のやつらの子を産む女もいた。玄斗生は、そうして生まれた子どもらと同じ血だ。眼で視てわかった」

 

 普段、騒がれるのを嫌って瞼の下に隠している四つの瞳を見せ、明月は告げた。

 修行を積み我が身で術を試した結果、明月は左右二つずつの計四つの瞳を持つようになった。その瞳には、仙骨の有無や霊力の体内循環などに加えて、血の繋がりを見定める能力も備わっている。

 その瞳で視た玄斗生には、間違いなくあの朱家との血縁があった。

 明月の瞳の力を知る白霜は、疑うことなく信じた。

 

「それを、彼は知っているのですか?」

「おそらくな。だが、あいつは筋金入りで父親を嫌っていると見えた。よほど母親の苦労が深かったんだろう。看取りから埋葬から、すべて一人でやったようだしな」

 

 明月から見て、玄斗生という少年は善良に見えた。

 数日ともに旅をしただけだが、斗生はよく気が利き、面倒見がいい。無表情と極端に少ない口数のため子どもらしさはないが、明月には却って静かなところが好ましい。

 むしろ、四六時中うるさく斗生にちょっかいをかけまくる岳漣宇を面倒だと思うほどだった。

 

「そうですか。ですが、彼が朱家の血縁ということは私たちの中ではおそらく大した問題にはならないでしょう。朱家の隠し子や落とし子の数が多いのは、皆が知るところです」

「あそこの当主が代々漁色家で、無闇に子種を撒くせいだろう。選り好みして引き取るくせにな。現に、あの周路吟がそうだ」

「おや、彼女も」

「ああ。だから、周路燕に路吟の父の話は禁句だ。それからな……」

 

 このことは言うべきかと、明月は一瞬迷う。

 だが、すぐに彼は決断した。

 

「周路吟と玄斗生は、僕が見るに父親が同じだ。だから、あの二人は異母兄妹になる」

 

 これにはさすがに驚いたのか、白霜は大きく目を見開いた。

 早口で、彼は尋ねる。

 

「それを二人には伝えたのですか?周路燕殿にも?」

「いや、言っていない。今言ったところで混乱させるだけだろう。状況が目まぐるしく変わり過ぎたんだ。最悪、親娘揃って体調を崩しかねん。周の親娘には必要があれば僕がどうにか伝えるが、玄斗生にはお前たちで伝えるなり何なりしろ」

「……ええ、そのほうがいいでしょう。明月、きみの判断に感謝を」

「改まった礼などやめろ。僕はお前たちに厄介事を投げたんだ。……幸い、周路吟に仙骨はない。ここまで逃げて僕らの家の庇護下にいれば、一先ず問題はないだろうが」

「その言い方だと、花黄(かこう)の事件で何があったか、きみは気づいているのですか?誰が何故、楼閣に呪物を仕込んだかを」

「……あれは、周路燕に嫉妬した朱家の妾の誰かだろうなと考えているだけだ。これまでも、そうやって呪いを差し向けられた妓女はいた。だから、路燕があの店から消えれば追いかけては来ないだろう。妓女をわざわざ追いつめたがる嫉妬者ではない、とも言い切れないが」

 

 路吟の父が何者かを、明月は探っていなかった。知らずとも良いことがあると、半ば勘のように思ったからだ。

 その結果、周の親娘が危うく呪物で生まれた妖邪に襲われるところだったと知り、明月は自分の手抜かりを悔やんだものだ。

 明月が気づかぬうちに周親娘を救ってくれた少年たちの片割れに、彼は感謝していた。

 今更花黄に戻ってみても、呪物を仕込んだ犯人の手がかりはとうに消されているだろう。第一、被害に遭いかけたのが仙士や金持ちであったならともかく、妓楼の女とその年端もゆかず父親も表沙汰にできない娘である。

 口を噤んで安全な場所へ逃げることが、最適な解決方法であった。

 

「ともかく、周の親娘に関しては僕が預かった。が、玄斗生はちがう」

「仙士としての才がある故に、あの子は朱家にとって価値がある者になりかねないと?」

「そうだ。……正直、玄斗生を受け入れるのは面倒を引き受けるも同じだ。朱家の輩は何事にも貪欲で、心を決めると執着しやがる。お前たちも知っているだろうがな」

 

 忠告したところで、宋家の大師兄や彼が取りまとめている弟子たちが斗生を突き放すとは明月も考えていなかった。

 あの岳漣宇が斗生にめったやたら懐いており、引き離そうものなら絶対に抵抗するだろうというのもあるし、何よりも斗生本人は何ら追われるような悪事など行っていない。

 数日前に母親を亡くした、まだ十歳にもならない子どもが、それでも目の前で倒れた見ず知らずに手を差し伸べ、無力な親娘を助けようと倒れるまで奮闘したのだ。

 これで子どもを助けずに放り出すような輩がいれば、明月はお前の血は何色をしているか血の管切り裂いて見てやると剣を抜いて啖呵を切っているだろう。

 だとしても、尋ねておきたい質問というのはあった。

 果たして、義侠を掲げる仙家の青年は当たり前のように答えた。

 

「あの子は助けを求めています。ならば私たちはそれに応えます。宗主も同じ考えでしょう」

「……まぁ、そうなるよな」

 

 弱きを助け強きを挫く宋家の気質を知っていて、そこにつけ込むためにここまで来た明月には、何も言えない。

 言えないから、毎度の如く彼はこれからも手を貸すことになるだろう。

 白霜は深く頷き、ふと目元を緩めた。

 

「しかし、私としてはきみが周の親娘を助けるのが意外と言えば意外でした。きみは丹薬の修練や傷病の治療には熱心ですが、個人の事情にはあまり入れ込まず、踏み込まないかと思っていたのに」

「……周路吟を母の胎から取り上げたのは、僕だ。そこから延々病だ怪我だ疳の虫だと大騒ぎしながら大きくなるのを見ていれば、情だって湧く。……おい、その生ぬるい目をやめろ!産婆と薬師と女医仙士が根こそぎ出払った悪夢の一夜だったんだよ!僕は二度と御免だ!」

「と言いつつ、逃げずに役目を果たしたんでしょう」

「……僕の話は、今どうでもいいだろうが」

 

 吐き捨てるように言って、明月は腕を組んだ。

 

「それ以上に、あの二人には何かある。霊力と体の力が狂っている節があるし、有り体に言って、数日の付き合いにしてはおかしいほど気心の知れた感じがある。周親娘の話を聞いた限り、戦い慣れもしているらしい。あり得るか?」

「……他の点に関して即答はできませんが、彼らがよく打ち解けているというのはあり得る話では?きみと私も、かなり短い時間で友となれたと思っているのですが」

「あれは一蓮托生で妖物退治する羽目になったからだろう。協力しなければ僕もお前も死んでいた」

「彼らも同じではないでしょうか。短い時であっても、互いを信じ助け合わなければどうにもならぬ事態に陥ったならば、信頼も生まれると思います。……私たちが見つけられなかった漣宇を助けてくれた子に、私は感謝していますよ」

「……」

 

 なら結局は、明月も白霜も同じ少年に対して感謝の念があるのだ。

 どこかぼんやりして、木石のように静かな彼に対して。

 岳漣宇や周路吟がいなければ、物静かすぎて心配になるほどに反応が乏しい、玄斗生という少年に対して。

 

 尚、岳漣宇に関して明月は特に心配していない。あの手の賑やかなのはどうにでもなると思っているし、何より彼は今も慕われている大師兄の実の息子だからだ。

 母親の名前しか頑なに明かそうとせず、その母親すらもとうに失っている玄斗生は後ろ盾という意味で弱いのだ。

 

「彼らに何かがあっても、明月、きみはそれを糾弾するつもりなどないでしょう。むしろそれが彼らに害を及ぼしていないか、気にしているように見えます」

「お前も、それに宋宗主も、面倒とわかっていてあいつらを庇う気だろうが」

 

 反射的に憎まれ口じみたことを言い返したことに気づき、明月は乱暴に頭をかいた。

 

「僕が伝えるべきと思ったことは以上だ。宗主と奥方にも話すだろう?」

「ええ。戻ってこられたならばすぐにでも。もしかすると、きみを呼んで話を聞きたいとお二人が言われるかもしれませんが」

「そうなったらなったで呼びつけろ。僕はこの街に住む。では、もう行くぞ」

「ええ、私も戻ります。ありがとうございました、明月」

 

 肩をすくめ、明月は白霜が再び空へ浮き上がるのを見守る。

 胡家の屋敷があるため、明月はこの街での住処には困らないが、用意された部屋の整理や周親娘の身の回りの手配など、やることはいくらでもあった。

 ふわりと衣の裾を翻したかと思うと、放たれた矢のような速さで河を越えて帰っていく友人の背を見送ってから、明月は河向こうに広がる城に背を向けて歩き出したのだった。

 




兄弟子たちの話です。


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第二章
十四話


あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いします。

では。


 

 自分の体を、自分の意志のみで動かせるとは何と幸せなことであろうか。

 

 岳漣宇(がくれんう)が初めてそう言ったとき、【彼】はしばし考えたあと「そうだな」と返した。

 淡白な返事で、しかも表情一つ動かさない返答であった。

 こいつ本当にそう思っているんだろうかと、疑いたくなるほどの素気ないその少年の名は、玄斗生(げんとせい)という。

 幼い子どもながら銀の月のように清らかで綺麗な顔をしている彼は、表情に乏しいし、口数も少なかった。

 常に無表情で、己から誰かに話しかけて会話を始めることは滅多にない。

 話しかけられなければ、一人で黙々といつまでも剣を振るって修行を続け、夜になれば誰とも口を利かずばったり倒れて眠る、そんな少年である。

 元々の性格がそうだったのか、前世で自分の体を実父に奪われ魂だけにされ指一本動かせない状態で十年体に閉じ込められるという、右を見ても左を見ても類がないほどに悲惨な前世を送ったためこうなったのかは、漣宇には判断がつかない。

 つかないが、きっと斗生の万年喪中のような影は、彼の父が斃れぬ限り完全に消えることはないのだろうと思う。

 斗生の父とは、前世において魔王もかくやという領域に達した朱家の当主、朱重世(しゅじゅうせい)

 彼を倒すことが、人生を【巻き戻った】岳漣宇と玄斗生の今の目標であり、前世では絶対にありえなかった二人が協力している理由でもあった。

 

 未来から過去に突如引き戻され、前世と同じく四大仙家の一角である宋家の弟子となってから、約半年。

 揃いの宋家の衣を着た少年二人は、これまた揃って仲良く宋家の修練場の地面に伸びていた。

 日がさんさんと照りつけ、汗まみれの彼らを容赦なく温める。

 

「どうしましたか、二人とも?私はまだこの通り、髪の毛一筋も斬られていませんが」

「……」

「……」

 

 修練用のものとはいえ、当たれば骨が砕ける重さの剣を軽々片手に引っ掛け、倒れた少年二人を見下ろすのは、長い黒髪を結った青年、鐘白霜(しょうはくそう)

 現在、宋家の門弟たちを束ねる大師兄を務める青年であり、少年二人を剣の稽古で散々に打ちのめした張本人でもあった。

 柳のように涼し気な見た目の、すらりと背の高い青年であるが、振るう剣はとんでもなく重く速く、一撃で木の床に大穴を開けたこともある。

 そのような剛剣使いを相手にしたは、まだ体が出来上がってもいない子ども二人。

 気絶していないだけ大したものだというのは、彼ら三人の稽古を見ている弟子たちの意見だった。

 干からびたミミズのように床に落ちていた斗生の指が、ぴくりと動いたのはそのときである。

 すぐ側に転がった剣に手を伸ばすと、その柄をしっかりと握りしめて、立ち上がる。

 漣宇は倒れたまま、目だけを動かしてそれを見ていた。

 こんなときも、斗生の顔はいつもと変わらない。

 笑ってもいないし、泣いても怒ってもいない。波一つ立たない湖面のようで、本当に本気になっているのかもわかりにくい。

 が、今は正真正銘、体力気力の限界寸前なのだろう。

 剣を掴んだはいいものの、生まれたての子鹿のように手足が震えている。剣を握って構えるだけなのに、倒れそうである。

 悔しそうな顔とか、楽しそうな顔とか、わかりやすいものを一つでも浮かべたらいいのに勿体ない、と漣宇がそこまでを考えたときだ。

 斗生の靴の爪先が、漣宇のわき腹に突き刺さった。

 

「いっ……!?」

「まだ動けるだろう。立て」

 

 つまり、師兄にぶっ飛ばされること確定の剣の稽古に、もう一本付き合えということらしい。これで朝から何本目だ。十越えたあたりから、もう数えることなどやめたというのに。

 当然のように俺を道連れにするなとか、肋骨の間の痛いところを的確に蹴って来るなとか、立ち上がらせたいなら手で助け起こすとかもっと優しい方法を知らないのかとか、色々と言いたいことはあった。

 あったが、漣宇も剣を握って立ち上がる。

 理由は単純。立ち上がらなければ、少なくとも根性において玄斗生に負けたと思われるからだ。

 

「おっ、前なぁ……!助けて、ほしい、なら、もっと優しいやり方あるだろう、がっ……!」

 

 文句を言いながら漣宇は起き上がる。

 ふん、と隣で斗生が鼻を鳴らした。立ち上がって文句を言う体力が残っているくせに、ぐずぐず倒れているほうが悪いのだと言いたげである。

 全然まったく漣宇の心情を鑑みず、立ち上がることを当然のように思っているこの態度。

 しかもこれで本人のツラは、笑顔もなければ闘志もわからぬ無表情。なまじ綺麗で整った顔立ちであるだけに、取っつきにくさと小憎らしさの極みであった。

 だけれども、結局漣宇は斗生と肩を並べて剣を構えてしまうのだ。

 鍛錬であっても、実力に鯉と龍ほどの開きがあるとわかりきっている兄弟子相手でも、負けることは悔しいから。

 青あざだらけで肩で息をしながらも、目に宿った光は消えない少年二人に剣を向けられた青年は、にっこりとほほ笑んだ。

 ひゅぅと鋭い音を立てて剣を振り、切っ先を少年たちに向け返して構える。

 

「その意気やよし。では、これで最後といたしましょう」

 

 そうしてこの日も、少年たちは兄弟子の剣捌きの前に、あっという間に叩きのめされることになったのだった。

 

 

 

■■■■■

 

 

 

「あー、もう背中も腕も足も肩もどこもかしこも痛い!誰かさんがいつもいっつも師兄に挑みまくるから、俺まで痛い目見てるんだが!」

「……」

 

 訓練で今日も散々にやっつけられてからしばらくのち、大師兄からの用事を言いつけられて訪れた川辺の街、光月(こうづき)の大通りを歩きながら、漣宇は元気に文句を言っていた。

 文句を言う相手は、いつもと同じくどこを見ているのかわかりづらい底抜けの黒瞳に街の賑わいを映す少年、玄斗生である。剣を握って修練場に立てばあれだけ苛烈な目になるのに、そうでないときの彼は木石かと思うほど静かだった。 

 いやもう本当に、これで笑顔と愛嬌があったなら斗生は文句なしに紅顔の美少年なのだが、氷の無表情を貫き通すせいか、入門してから半年経っても漣宇以外に友人らしいものが一人もできない有り様だった。

 

(こいつが自分から何かしようとする相手って、基本的に(しゅう)(あね)さんと路吟(ろぎん)ちゃんだけだもんな)

 

 明月の手伝いをしている、元妓女の周路燕(しゅうろえん)とその娘の周路吟(しゅうろぎん)

 斗生がわかりやすく気にかけるのは、漣宇の知る限り彼女たちだけだった。

 その理由も、路吟が前世において常に側に置いていた自分の異母妹で、路燕がその実母だからだ。斗生の人間関係は前世を基準にしたまま止まっていてほとんど進んでいない。

 せっかく前世と違って宋家の門弟になったというのに、弟子たちと斗生は交流がほぼないと言ってもよかった。

 漣宇は、元々の人懐っこい性格と二度目の弟子入りということもあって、兄弟子たちにも受け入れてもらえているのだが、斗生は上手くいっていない。

 数日前にも、兄弟子たちが新入り兄弟の片方はまったくもって不愛想でかわいくないと愚痴っぽく言っているのを聞いてしまったのだ。

 

(今の子ども時代のこいつはかわいい顔してるんだし、つまりは愛想の問題だよな?将来は間違いなく美人になるし、ま、成長しても氷雪美人だし笑ったところは見たことないけどな!)

 

 いやもう本当にこの半年間、漣宇は斗生と行動を共にしているが、にこりもにやりも笑い声も一切合切まったくなかった。鼻で笑うのが精々なのは、さすがにどうかと思ったほどだ。

 五日瞑想してついに仙骨を目覚めさせることができたときも、白霜に頭を撫でて褒めてもらったときも斗生は笑わなかったほどだ。

 お前は笑顔に罪悪感でも抱いているのかと言いたくなるほどである。

 くすぐって笑わせようともしたのだが、見事な背負い投げを決められ投げ飛ばされ池に叩き込まれ上に、寒風並みの目で見下ろされる始末だったのだ。

 が、それでいて宋家の跡取りである宋聲心(そうせいしん)とは上手くやれているし、子どもながら気難しいところのある彼に懐かれている。路吟にも玄にぃ玄にぃとやたらと慕われて、不器用ながらあやしているのだ。

 

(要するに、年下には好かれるんだよこいつは。それでも、こいつに俺以外の友達がいなくって、上の兄さん弟子たちからかわいくないって思われる状況に変わりはねぇんだよなぁ)

 

 ちなみに、漣宇も斗生から友人だとは別に言われてはいないのだが、その点を彼は考えないようにしていた。無視しているとも言う。

 頭の中でぶつぶつ考えていると、低い声で名を呼ばれる。横を見れば、やっぱりまったく変わらない白皙の無表情があった。

 

「岳漣宇、どうした?」

「ん、いや何でもないよ。あんたこそ何だい?」

「……もう着いた」

「へ?」

 

 呆れているのか、わずかに額にしわが寄っている斗生の指差す先には、目的地だった屋敷の門扉があったのだ。

 鉄の鋲が打たれた分厚い木の扉には、見慣れた()家の家紋が描かれていた。

 考え事をしながら歩く間に、早くも辿り着いていたらしい。

 

「ずっと上の空だったが、まさか叩かれ過ぎて本当に体を悪くしたのか?」

 

 それならば明月(めいげつ)先生に診てもらおう、と真面目に言う斗生に、漣宇は苦笑いを返す。

 わかりにくいが、この少年は漣宇を心配してくれていたようだった。放っておくと無反応な斗生が面白くなくて、散々騒いだだけであったのに。

 

「これくらいの怪我で、俺たち仙士がおかしくなるわけないだろ。あんなのただの冗談だっての。本気にするなよ。師兄だって綺麗に治るように打ち込んでくれてるんだし」

「そうか」

「そーだよ。てか、明月先生に怪我診せるのはやだよ、俺。まためんどくさくて長い文句言われるに決まって─────」

「僕がどうかしたのか?宋家の弟子ども」

 

 背後からの声に、漣宇は跳び上がりかけた。

 勢いよく振り返れば、そこには気難し気に鼻にしわを寄せ、瞳を閉じた黒衣の青年がいる。栗毛馬の手綱を持った彼は、どうやら今日も街の外へ薬草探しに行っていたらしい。馬に、いくつかの袋が括りつけられていた。

 

「明月先生」

 

 ここ半年ですっかり板についた丁寧かつ隙の無い礼をした斗生に、明月は片眼を開いて優しい視線を向けた。

 この気難しやで文句言いの若い仙士は、どうも漣宇より斗生のほうを気に入っている節がある。

 きっと、斗生のほうが素直に彼の言うことを聞くし、大人しく治療にも従うからだろう。漣宇はじっとしているのが苦手で、どうも逆らってしまうときがあるのだ。

 

「ああ。たった今な。尤も帰って来てみれば、小言が嫌だから怪我を隠すと医仙士の門前で宣う不埒者がいたようだが?」

「あ、あはははは~。だ、誰でしょうね」

 

 頭をかく漣宇にぎろりと鋭い視線をくれて、明月は肩をすくめた。

 

「まあいい。用件は中で聞く。ついてこい」

 

 そのままさりげなく馬の手綱を斗生に押しつけ、明月は軽々扉を開いて屋敷の中へ入っていく。

 漣宇と斗生は、慌ててそのあとを追った。

 





年末年始は色々と、本当に色々とあり、あまり書けませんでした。

それでもまた、ぼちぼちとやって行きます。

感想など、めちゃくちゃにお待ちしています。本当に感想を頂くとやる気が出るので。


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十五話

感想、評価、誤字報告くださった方々、ありがとうございました。

では。


 ()明月(めいげつ)の屋敷は、怪我や病を患った者にも門を開いている。

 何も明月が特別なのではなく、胡家の仙士はそういうふうに市井の中で暮らす者が多い。

 無論、彼らの本拠地である百薬峰に籠っている者もいるが、そこを旅立ち中原に点在する胡家の薬療院を巡って生きる者もいるのだ。

 彼らの本領は丹薬を作ることにあり、市井に降りることすらも珍しい病や怪我、妖魔悪鬼を見つけ新たな丹薬の糧とするためであり、修行のひとつだ。

 なので、時折やり過ぎる胡家の者もいる。

 特に、珍しい病にかかった者や珍しい妖魔によって傷を負わせられた者と出会うと、治療の前にまずその観察を優先させてしまう場合があった。

 漣宇も、前世において病人の治療より先にその観察を優先して危うく死なせかけた胡家の者とやり合ったことがある。

 なので、あまり胡家の者に対してよい印象というのはなかったのだ。それは、明月に出会うまでの話だが。

 

「ほんとあの人元気っつーか……活動的だよなぁ。うちの師兄と気が合うわけだ」

「丹薬の材料探しで、よく師兄を連れ回すと言っていたが」

 

 明月に押しつけられた馬の手綱を引き、馬小屋へ向かう道すがら言えば、斗生は屈託なく返してきた。

 宋家の大師兄、鐘白霜を兄弟子と呼ぶことに、何も戸惑いを見せない斗生は本当によく宋家に馴染んで来ているようで、それがなんとも漣宇には嬉しい。

 そう思いながら、漣宇は口をとがらせて見せた。

 

「そうだけどさ。普通、胡家のやつらが集めてる薬の材料ってのは珍しい草とか花とか木の実とか、あっても精々でかい洞窟の奥の湧き水とかだろ。新鮮な人食い蛇の生き胆取りに行くからついて来い、なんていうやつには初めて会ったぞ」

「修行に熱心で、かつ実力があるからできるのだろう」

「だけどそのくせ怪我を治してくれ病気を癒してくれってな普通の人たちにも応えるし、ろくに金取らねえよな。口ではぶつぶつ言うけどさ、その間に手が動いて包帯巻いて薬を作ってちゃ何してんだよって感じだ」

「……その点、しっかりした周路燕殿がここにいてよかったと思う。特に金銭面で」

「ああー、確かにな。金が無いなら物々交換って決まりを作ったって聞くし、路吟ちゃんもよくお手伝いして楽しそうだし」

「うん」

 

 斗生たちが宋家へ逃げる原因となった、妓楼での事件。そこで知り合った周路燕と路吟の親娘は、今もこの屋敷で働いている。

 妓女だった路燕だが、ここではくるくると忙しく働いている。

 屋敷の家事から、病人怪我人の対応から、妓女だった彼女には慣れないことばかりなのだと思うのだが、彼女はいきいきと仕事を進めていた。

 白魚のような手が水で荒れようと、肌が日に焼けようと、白粉を塗って店の中に引き籠っているよりこっちが性に合っていると笑う彼女は、漣宇にとっても気持ちのいい人間だった。

 娘の路吟もそんな母の側にいて、泣きもせず聞き分けよくきゃっきゃと笑っており、その相手をするときは斗生の氷の無表情が少し緩んでいるのだ。

 

(ただの前世の元従者が幸せそうで嬉しい……ってだけじゃないんだよなぁ。ま、妹なんだからそれも当然か)

 

 斗生が前世において朱家でどんな暮らしをしていたかを、漣宇は知らない。斗生本人が大半を忘れ、その上敢えて語りたがらないために全貌は見えてこない。

 見えてこないが、路吟のこととなると少しどころかかなり派手に我を忘れる節がある辺り、幼い斗生は妹を守らなければならなかったのだろう。妹を守るという行為が、習性として染みつくほどに。

 だとしたら、何故大事な妹を側にはおけるが危険も伴う従者として使っていたのだろうか。

 知りたいと思うのだが、これに関しては漣宇はまだ聞き出せていなかった。

 

「師兄からの用事済ませたら、路吟ちゃんに会っていくか?」

「うん」

「だよな!あの子も絶対待ってるぞ」

「……うん」

 

 馬の首をとんとんと叩き落ち着かせながら、斗生は軽く頷く。

 斗生はどうも馬や猫など獣全般に懐かれやすいらしく、馬房に馬を帰す作業はあっさりと片付き、二人はそのまますんなりと馬小屋を後にすることができた。

 そもそもは、大師兄から明月に宛てた書簡を渡しに来たのだ。他家からの遣いに自分の馬の片付けを押しつけて消えた明月は非常識と言えば非常識だが、斗生も漣宇も気にしてはいなかった。

 

「明月先生、大師兄からの書簡を持ってきました」

「よくやった。そこへ置いておけ」

「あ、それは駄目なんですよ。俺たち、先生が中身を読んで確認するまでいなさいって大師兄に言われまして。だから明月先生、この場で一応中身を確かめてくれませんか?」

「……チッ」

 

 他家の名士に対するには少し以上に気安く、斗生と漣宇は明月の部屋を訪れて要件を言い、明月はそれに軽い舌打ちで応じた。斗生たちに舌を打ったというより、己の行動を先読みしている白霜相手の舌打ちだろう。

 しかしまぁ、白霜が手紙を読むまで見届けてくださいと言うのも無理はないのだ。

 明月は整理が苦手なのか、自室は書物と書き付けが洪水を起こしている。

 彼がこの部屋を使うようになったのは半年前からのはずなのだが、よくもここまで物を増やしたと言いたくなるほど散らかって、足の踏み場がないのだ。

 寝床の上にまで書物や筆や何かを書きなぐった紙の束が散っているのだから、書簡を部屋に置こうものなら、あっという間に埋もれてどこかへ行ってしまうだろう。

 それを明月もわかっているのか、斗生から書簡を受け取るやざっと中身を確かめる。

 何が書いてあるのかはわからないが、読むにつれて明月の眉間のしわは深くなっていった。

 

「漣宇、斗生」

「はいっ!」

「はい」

「僕がこれに返事を書くまで、そこいらで遊んでいろ。終わったら符で呼ぶ。……路吟なら、路燕と一緒に裏の畑にいる。それからもう一人遊びに来ている」

「わかりました!」

「わかりました。ありがとうございます、明月先生」

 

 筆を片手にしっしと手を振って応じた明月に礼をして、斗生と漣宇は部屋を出る。

 今は明月の屋敷に傷病人は押しかけていないのか、屋敷の中は静かだった。緑豊かな屋敷だが、庭に植えられている木々や草花はどれも薬にも毒にもなるものばかりで、如何にも胡家らしい。

 その緑豊かな屋敷の中でもひときわ植物の気が濃い裏手で、大小の人影が二つ動いていた。

 近づけば、気配を感じたのか腰を折って作業をしていた路燕が立ち上がる。頬には泥が飛んでいたが、彼女は気にしたふうもなく朗らかに笑った。その足元には草をいじっている路吟がいて、こちらを見るなりぱっとほほ笑む。

 

「あら、(げん)公子と(がく)公子、こんにちは。またお使いなの?」

「公子なんてのはよしてくれよ、周姐さん。だけどお使いはその通りだよ。先生が師兄への手紙書くまで遊んでろってさ。何か手伝えることあるかい?俺たち力あまってるから、何でも運べるぜ」

「あら、ありがとう。それなら、あっちに積んだ白菜を厨房に運んでちょうだい。さっき宋家の坊ちゃんにも頼んだんだけど」

「へ?」

 

 まさにそのときである。

 建物の影から、青の衣を身に着けた小さな貴公子が現れる。

 宋家跡取り宋聲心(そうせいしん)は、斗生と漣宇を見ると走ってきた。手には野菜籠があり、腰帯にはいつもの剣が吊るされている。

 

「お前たち、やっぱりここにいたんだな!」

「うん」

「俺たちは大師兄からお使い頼まれたんだよ。聲心こそどうして来たんだ?」

「遊びに来た!ここにいたらお前たちも来るだろうしな」

「またか……」

 

 胸を張る聲心は、斗生と漣宇にやけに懐いている。

 前世の聲心は、もっと気難しくて言葉がきついと感じるときが多かったと漣宇は思う。無論、それ以上に聲心と漣宇は気が合ったし仲も良かったが、きついと感じるときの聲心は本当にきつかった。

 前世で引き取られてきたばかりの、正真正銘幼かった漣宇は、誰かの邪魔にならないよういつも声を殺しているような状態だったから、尚更聲心を怒らせないようにしていたものだ。

 

 だが今は、二十何年分の人生を積んだせいなのだろう。

 

 年端も行かない聲心の言動は、全部かわいく見えてしょうがない。

 斗生はさすがに聲心をかわいらしいとまでは思っていないようだが、聲心がちょっとした癇癪を爆発させても落ち着くまで静かに待っている。

 多分、聲心をまだまだ肉球が薄桃色な子猫か何かと思っているのだろう。子猫に引っかかれても、怒るような斗生ではない。

 玄斗生が怒りを露わにするのは、それこそ実父の暴虐を前にしたときぐらいなのだろうから。

 理由こそ違えどまったく怒らない斗生と漣宇は、気難しさと誇り高さのため同年代の友人ができていなかった聲心にとって、甘えやすい相手になったらしかった。

 前世のころは兄弟のように仲良く育ち、取っ組み合いの喧嘩もした悪友で親友だった聲心に、年の離れた兄のように慕われるのは不思議な気分だったし寂しい気もしたが、今更変えられない。

 腰に手を当てて少しそっくり返る聲心と、いつも通りぼうっとした無表情の斗生を見ていると悪戯心が湧いて来て、漣宇は手を一つ打った。

 

「よし、遊びに来たってんならこうしよう。誰が白菜全部運ぶか勝負だ!いいだろ、斗生?」

「いい」

「や!」

 

 どんっ、とそこで斗生の足に激突する小さな影があった。

 誰なのかは見るまでもない。そこにいたのは、小さな手足で斗生の足に子熊のように抱き着いている路吟だった。

 

「玄にぃには、ぎんとあそぶの!まぃあぅの!」

「まいあうの?……ああ、毬があるのか。毬投げしたいのか、路吟?」

「ぁい!」

「うん、わかった」

 

 斗生は屈んで、ひょいと自分の足元にしがみつく路吟を軽々抱きあげた。

 相変わらず妹に甘々の兄ちゃんめ、と漣宇は苦笑いをする。

 路吟にくっつかれると斗生はまず何でも言うことを聞く上、妹ちゃんも妹ちゃんで、強情っ張りなのだ。

 お気に入りのお兄ちゃんを取られたくないのか、漣宇や聲心が一緒に遊ぼうとすると、いやいやと駄々をこねる。

 皆で一緒に遊ぶことより、独り占めしたお兄ちゃんが自分と遊んでくれるのが大好きらしいのだ。一番ご機嫌になるのは、母と斗生と三人で遊んでいるときだから、とてもわかりやすい子である。

 今の路吟は、斗生が母親違いの兄ということを知らない。そのはずなのに、母親の次に甘えるのは斗生なのだ。何故なのかわからず、漣宇にはただ相性が良かったんだろうと思うほかない。

 路燕が我がまま言っちゃだめよと叱っても、おちびちゃんはこのことだけは譲ろうとしないのだ。

 しまいには漣宇と斗生と路燕のほうが折れてしまい、路吟を止められる者はいなくなっていた。

 これ以外では本当に聞き分けのいい子らしいのに、斗生がらみでは膠のようにぺったりとくっつく駄々っ子になる。

 斗生もそれを知っているから、漣宇と聲心の方を見た。

 

「白菜勝負はまた今度でいいか?」

「ああ、いいぞ。いいよなー、聲心。白菜運び終わったら、俺と剣勝負しようぜ」

「また漣宇とするのか?ぼくは斗生とも勝負したい!いつもそいつがくっついてるじゃないか!」

 

 不機嫌そうに聲心が言えば、路吟がぷくっと頬を膨らませて斗生の脚にひっしとしがみつく。

「やぁ!玄にぃはぎんのなの!まぃすぅの!」

「路吟、俺は誰のものでもないぞ……。聲心、剣勝負は月穹河に帰ってからやろう」

「ほんとだろうな?」

「誓って」

「……わかった。じゃあ絶対後で勝負だからな!漣宇、行くぞ!」

「うわ、先に走るなんてずるいぞ!俺は野菜籠も持ってないのに!」

 

 路吟を抱きあげた斗生にひらりと手を振って、斗生は漣宇を追って駆けだす。

 肩越しに振り返ると、母の異なる兄妹の寄りそう姿が見えて、漣宇は少し頬が吊り上がるのを感じたのだった。

 

 




ヒロインが異母妹のガチ幼女ってどうなんでしょうかねこれ。


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