好きだったよ、ミラ (まなぶおじさん)
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近界民の女①

 ミラという黒猫を探しています。

 数日前の近界民大規模侵略から、姿を消してしまいました。

 名前はミラ、性別はメス、性格はやや人見知り、首輪は真っ赤。

 連絡先は000-0021-0000。

 楠木葵より。

 

 早朝。三門市立第一高等学校の掲示板にて、林田恋太郎は捜索願のポスターを貼り付ける。

 多くの人が関心を持って欲しいな、生徒会の一員として切実に思う。早く見つかればいいな、三門市の住民として願う。

 まだ人気が少ない、1月の静かな廊下の中で林田は息をつく。

 ほんとう、近界民ってやつらは迷惑だ。いったい何を理由に街を破壊して、人々を誘拐したりしているのだろう。

 その中には、愛し愛される人も混ざっていたに違いない。そのことを思うと腹が立つし、ボーダーの一員として戦いたいという熱も湧いてくる。

 ――まあ、落ちたんだけどね。

 まあいい。

 いまの自分にできることをやって、今日もなるだけ善行に励もうじゃないか。

 そう積み重ねていけば、きっと自分にも、

 

「あー、まだ見つかってないんだ~」

 

 突如の声に、体ごと跳ね上がる。

 振り返ってみれば、のんびりした顔をした女子生徒が、

 

「あ、ごめんね、驚かせちゃったかな?」

 

 同じクラスの宇井真登華が、申し訳なさそうに両手を合わせた。

 まだ焦りが生じたままの林田は、「あ、いや、いや」とあたふたしながら、

 

「いや、大丈夫、ぜんぜん。というか、早いね」

「やー、今日は朝早く目覚めちゃっただけだよ」

 

 そして宇井は、黒猫の写真付きポスターに歩み寄る。

 宇井とはあまりなじみがない関係なので、こうして話をするだけでだいぶ新鮮に思える。

 

「それにしても、このポスターは誰が作ったの?」

「俺」

「まじ」

「まじ。昨日、生徒会のお悩みボックスに楠木さんから猫探しの依頼が届いていてね……それで、みんなに知ってもらいたいからとポスターを作ったんだ」

 

 楠木葵はボーダーの隊員で、隣のクラスメートでもある。

 生徒会として、生徒からのお悩みはしっかり受け止めなければならない。だから林田は、依頼を承諾すると同時に楠木から猫の写真を取得し、家でポスターを作ってみせた。

 慣れない作業だったが、やれるべきことをやれて本当に良かったと思う。

 ――林田の話を聞いた宇井は、深刻そうな真顔を浮かべて、

 

「うーん、早く見つかって欲しいねえ……へこんでたもんなあ楠木ちゃん」

「うん? 知り合い?」

「そう、同じ猫好きつながりでね。……だからねえ、楠木ちゃんの気持ちはわかるんだよ。おかげでボーダーの活躍も芳しくないし」

「それだけ大切なんだろうね、猫のことが」

「ほんとだよ。私だったら寝込んじゃうかも」

 

 宇井が、落ち込んだように苦く笑う。

 

「私も探してあげたいんだけれど、今日はボーダーとしてのお仕事がね」

「大丈夫、俺が探すから」

「え、ほんと?」

「本当。これも生徒会の仕事だからね」

 

 外から、部活動に励む男子達の声が響いてくる。朝練の一環か、グラウンドを何周も走っていた。

 そして宇井は、まるで感心したように目を丸くしている。異性からじろじと見られて、どきりとした。

 

「さっすが林田君、生徒会の鑑だねえ」

「そんなこと」

「あるよー、この前だって犬助けしてたじゃん。やるねー」

「ッ、新聞読んだのかっ」

「読んだ読んだ」

 

 宇井が、ご機嫌なピースサインを披露する。

 数日前、小説の新刊を買いに行こうとしていたところで、ふと用水路に流されていた犬を目撃した。

 見るからに溺れていたのを確認したと同時に、林田は1月の寒空の中で服を脱ぎ、そのまま用水路に飛び込んだ。めちゃくちゃ寒かったし冷たかったけれど、救出はできたからそれでよし。そのあとは一部始終を目にしていた通行人から介抱され、後に警察署の方々に表彰までしてもらった。

 犬は野良だったらしいが、現在は新しい飼い主に愛されているとか。ちなみに名前は「コイタロー」だそう。

 これは小さなニュースとなったのだが、まさか宇井に見られていたとは。なんだか恥ずかしいような照れくさいような。

 

「ほんと、いつもいつもお疲れ様です」

「いや、俺はやりたいことをやっているだけだから」

 

 嘘は言っていない。やりたいことをやっていれば、いつか「願望」が叶うと信じているから。

 ――そんな林田のことを、宇井は静かに「へえ」とつぶやき、

 

「かっこいいねえ。よっ、いい男」

「な、なにをっ」

 

 宇井はいたずらっぽく笑う――宇井真登華というクラスメートは、こんなにも可愛かったっけ。

 そのとき、廊下の向こう側から生徒の姿が見えた。窓を覗いてみれば、校門をくぐる生徒が多くなってきている。

 そろそろ賑やかになる頃合いか。

 

「じゃ、二階にもこれ貼ってくるよ」

「そう? じゃあ私が三階を担当しようか?」

「いやいや、これも生徒会の仕事なんで」

「まーま」

 

 宇井がダンボールに立てかけておいたポスターを、画鋲数個をかすめとってしまう。

 なんて速さだろう。これもボーダー隊員のなせるワザか。

 

「じゃ、いてきます」

「……ありがとう」

「いえいえ~」

 

 宇井が、そそくさと階段へ向かい、

 

「あ、でもさ」

「うん?」

 

 背を向けたままの宇井が、横顔だけをさらして、

 

「暗くなったら、すぐ帰るんだよ。もしかしたら、近界民がやってくるかもしれないから」

 

 三門市にとっての、切実な警告を耳にした林田は、

 

「わかった」

 

 しっかりと、うなずいた。

 

「じゃね」

「それじゃ」

 

 それから、宇井は階段を駆けていった。正直、手伝ってくれるのはありがたい。

 ――それにしても、それにしてもだ。

 

 宇井のほうは大丈夫なんだろうか。最近の宇井は、ぼうっとしている事が多いから。

 ずっと見せてくれた含み笑いが、嘘でなければいいのだけれど。

 

 □

 

 それから数分後。授業開始のチャイムが響き、林田と宇井は教室に戻った。

 宇井は林田より少し離れた、窓際の席に着き始める。特に目を合わせることもないまま、国語の授業が始まった。

 

 黒板を刻むチョークの音を背景に、宇井は無関心そうな横顔で外をそっと眺めている。

 

 □

 

 放課後が訪れて、林田はアテもなく三門市を歩き回った。街中から路地裏、破壊された閉鎖箇所の間近まで。その途中で、自分すら知っているA級ボーダー隊とすれ違ったりもした。

 探して数時間は経ったが、野良猫すら一匹も見つからない。誰かに保護されたのだろうかと不安になるが、そんなマイナス思考は首を払って振りほどく。

 念のために犬が溺れていた用水路にも目を配ってみたが、今日の用水路は何事もなく音を立てて流れているのみ。

 遅い時間だからか、ずいぶん寒くなってきた。曇り空もすっかり薄暗い。

 宇井の忠告通り、今日のところはこのあたりにしておこう。帰路につこうと、振り返り――腕を組んでいる男女が、視界に入った。

 見た感じ、年齢は自分と同じくらい。慣れないのか、二人とも視線がうわの空だ。目と目が合ったりもしたが、ごまかすようにして目を逸らしあっている。

 ――それを目の当たりにして、林田はぽつりと一言。

 

「……いいなあ」

 

 男女に対して、林田は猛烈な羨ましさを覚えていた。

 林田がこうして生徒会活動に励んでいるのも、なるだけ人助けをしようと心掛けているのも、すべては異性から告白されたいがためだから。

 

 ――なぜ「告白される」に限定しているのかといえば、林田から告白して、そしてフラれる展開に心底ビビっているからである。

 

 まず林田は、とにもかくにも恋愛沙汰に興味と憧れを抱いている。そうなった引き金(トリガー)として、まず恥ずかしくも微笑ましいラブラブ状態の両親がそばにいたことが一つ。

 そしてもう一つの引き金は、子供の頃にたまたまラブドラマを見たこと。ドラマの内容に林田は時に笑い、またある時には未知の興奮に満ちたり、挙句に幸せな結末に大泣きして両親から心配されたりもした。

 そんな経験をしたからか、林田は今に至るまでずっと恋愛モノにハマり続けている。

 ――そうして数々の恋愛映画や恋愛小説などを見届けていった結果、林田は失恋の痛みや苦しみを身を以て学んだ。

 だからか、恋愛に興味はあれど絶対にフラれたくはないという、非常にくそ甘ったれな人格が形成されてしまったのである。

 

 そんなわけで林田は、今日もモテるためにあれやこれやの活動を行っている。おかげで周囲から信頼されてはいるが、異性からの評価は総じて「いいひと」なのであった。

 

「……がんばれ」

 

 少しさみしい気持ちに浸りながら、林田は雪にまみれた歩道をくしゃりと歩んで、何度も渡った横断歩道を抜け――そのとき、自分すら知っているA級ボーダー隊が横を通り抜けた。今日はずいぶんとボーダーに縁がある日だ。

 さて。

 自宅がある住宅地に着いて、ほっと安堵を覚える。どの家の窓からも黄色い明かりが照らされていて、うっすらと母親らしき声が聞こえてくる。夕飯の話でもしているのだろうか。

 そうして何事もなく自宅の前に辿り着く。今日は何を食べようかと考えながら、ドアまで歩いていって、

 ――にゃーお。

 反射的に感覚が震えた。耳をすませる。

 もう一度、猫の声が聞こえてくる。近い、再び鳴いた、もしかしたら庭にいるのかも。暗がりの中で、刺激しないようにそっと裏庭へ歩み寄る。はっきりと声が聞こえてきた、当たりだ。

 黒猫が観測されることを祈りつつ、林田はようやく裏庭までにじり寄り、

 

 女の人が、眠っていた。

 

 そして猫は、黒猫は、女の人に何度も呼び掛けている。ふいに黒猫と目が合うも、黒猫の関心は女の人へすぐ戻った。

 正気を取り戻す。

 どうしよう。

 こんな寒空の中じゃあ、風邪をひいてしまうだろう。

 介抱しなければ、ならない。

 だから林田は、高価なガラス細工へ近寄るような足取りで、ゆっくりと近寄っていく。そうして女性の全貌が明らかとなる。

 暗めがかった赤い髪、角のようなアクセサリー、すべてを吸い込みそうな黒い服、闇の中であやしく艶めくパンスト、

 頭を振るう。

 林田はそっと姿勢を屈めていって、女性の横顔を確認し――呼吸が止まったと思う。

 嘘みたいに白い肌が、先ず目に焼き付く。その両目は永遠のように閉じられていて、その鼻先は嘘みたいに整っているように見える。口紅がついていない唇は、控えめな麗らかさを主張していた。

 

 ――いけない。

 はやく病院に連絡しないと。

 正気を取り戻した林田は、大慌てで携帯を取り出し、ボタンを押そうと、

 手首に痛みが生じた。

 女性が、自分のことを睨みつけていた。

 女性が、いつの間にかその身を起こしていた。

 気づけば、手首が握りしめられている。

 

「余計なことを、しないで」

 

 女性が、声を発した。

 その外見に連なった、鋭い声色だった。

 冗談では済まされない殺意を真正面から浴びて、林田は従うように動きを止める。それからしばらくは無言のにらみ合いが続いて、

 女性が、その場で横に倒れた。

 慌てて女性の手首に触れてみると、脈はある。気を失っただけらしい。

 ――腰を下ろす。

 

「……家まで運ぶ?」

 

 黒猫に提案してみると、黒猫は「にゃーん」と返答してくれた。

 ――あ、

 そういえばこの黒猫、赤い首輪をつけてる。まちがいない、この子は探し猫のミラだ。

 

 □

 

 女性をリビングまで運び、ソファの上にそっと寝かせつつ毛布をかける。介抱のし方なんてわからないけれど、これが正解であることを祈るほかない。

 あとは体を温めるために、緑茶でも作っておこう。

 ――手を動かしながら、林田はつくづく思う。

 惚れた。

 俺は失恋というものがとても恐ろしいが、そんな甘えなんて捨ててやる。俺はいつか、この人に告白するんだ。

 なんて、この人が何者かもわからないのだけれど。

 でも、惚れてしまったものは仕方がないじゃないか。

 そのとき、黒猫が足元に擦り寄ってきて、にゃあんと鳴いた。

 

「おお、おお、お前も応援してくれるのか」

 

 にゃーんと肯定してくれた。

 緑茶を作り終えて、あとは女性の目が覚めるまで恋愛小説を読むことにする。

 ――数分後、

 

「う、ん……」

「! あ、ああ、目が覚めたかい?」

 

 女性がゆっくりと起き上がる、ふたたび目と目が合う。

 その表情は無に近い。先ほどの衝撃もあってか、全神経に緊張が走り回る。とても怖い。

 けれど、気圧されてはならない。

 林田は、なけなしの男気をかき集め、

 

「こ、これ、緑茶。温かくしておいたから」

「……この緑色、お茶なの?」

「うん」

 

 そっと、湯気が立った緑茶を差し出す。女性は緑茶のことをじっと見つめていて、みたび視線が合って、音のない気まずさが漂いはじめ、

 

「にゃーん」

 

 そのとき、黒猫が女性の隣にまで跳ねてきた。

 女性は真顔で黒猫のことを見つめ――撫でる。黒猫は、心地よさそうに声を発した。

 そんな流れに、力でも抜けたのだろうか。女性は、小さくため息をついて、

 

「……毒は入ってないでしょうね」

「……飲んでみる?」

「いいわ」

 

 そうして女性は、湯呑みをそっと手にして、ふうふうと息を吹きかけて、口につけ、

 

「ッ! にがっ……」

「ご、ごめん。合わなかった?」

「いいえ、大丈夫」

「でも……」

 

 それでも女性は、緑茶を味わうことを諦めなかった。

 最初こそしぶい顔をさらけ出していたものだが、しばらくすると慣れてきたのか、

 

「いいわね」

「そ、それはよかった」

 

 やがて緑茶を飲み干した女性は、湯呑みをテーブルの上に置いて、両肩で息をする。

 

「とりあえず、助けてくれてありがとう」

「い、いや。当然のことをしただけだから」

「そう」

「あと、通報とかもしていない」

「……なるほど」

 

 女性の太ももに、猫が寝そべってきた。

 対して女性は、猫の体をそっと撫ではじめる。

 

「私が何者か、知りたいでしょう」

「……まあ」

「お茶を与えてくれたお礼に、教えてあげる」

 

 女性が、にやりと笑って、

 

「私はミラ。あなたたちの敵、近界民よ」

 

 え、

 黒猫ミラと目を合わせる。

 

「この前に大規模な侵略があったじゃない? あのときに私としたことが大失敗してしまって、いったんこの世界に置いてけぼりになったの」

「え、」

「それから数日間ほど、私はお尋ね者としてこの街に潜伏してた。監視の目をなんとかごまかしてきたけれど、結局は疲れのあまりに倒れちゃったわけ。無様なものよ」

「は、はあ」

 

 三門市で最も忌まれている単語を耳にして、その「本物」を目の当たりにしてしまって、林田はなんと答えていいのかまるでわからなくなる。

 けれども、頭はごく冷静に回っていた。

 どうしてA級ボーダー隊員が数多く巡回していたのか、なぜ宇井真登華が「はやく帰れ」と警告してくれたのか。たぶん、この()を探し回っていたからだろう。

 ミラを見る。

 近界民ってやつは、特撮に出てきそうな怪物のことだと思っていた。けれど実際は、自分たちと何ら変わらない人間そのものだったなんて。

 

「言っておくけれど、余計なことをしたらあなたを殺すわ」

 

 心臓が止まりそうになった。

 たぶん、本気で言っているのだろう。敵を殺すことに、何のためらいが、

 

「……なんて言ってみたけれど、それは悪手ね」

「えっ」

「あなた、学徒か何かかしら? それでも労働者?」

「が、学徒」

「そう。――もしもあなたを殺してしまえば、あなたの『無断欠席』を不信に思った学友や教師が、ここに訪問してしまう。そうして死体を発見されてしまえば、真っ先に私の犯行と疑われて、私はこの寒空の中でふたたび逃亡生活を強いられるでしょう」

 

 思う。

 近界民も、寒いのは苦手なんだな。

 

「だから、あなたは殺さない。このまま匿ってもらった方がいい」

 

 ということは、この人と一緒に住むことに――住めるようになるのか。

 それは願ったり叶ったりだが。

 

「……とかいって、無償で匿えって言ったら反発もするわよね」

「いや、そんなことは」

 

 即答したが、ミラは首を横に振るい、

 

「気遣わなくてもいいのよ、私だって同じことを思うから」

 

 きっぱりと言い切り、

 

「だから、一つ契約をしましょう」

「え」

 

 ミラの口元が、そっと歪む。

 

「――迎えが来るまでに匿ってくれたら、あなたと、あなたの親族を捕獲対象から外す」

 

 一瞬遅れて、平常心が揺さぶられた。

 三門市住民にとって喉から手が出るほど欲しい権利を口にされて、林田の判断力が遠くに飛びそうになる。

 これが本当なら、両親が安心して暮らしていける事になるじゃないか。

 ――頭を振るう。いったん大きく息を吐く。

 

「……そんなことが、本当にできるの?」

「できるわ」

 

 そしてミラは、こう言った。

 

「私、近界民の偉い人の婚約者だから」

 

 婚約者。

 その単語を耳にして、思わず歯を食いしばってしまう。

 いきなり大きな壁が立ちふさがったが、ミラへの熱意は少しも冷えない。完全に惚れてしまっていた。

 

「私もね、近界民の偉い人なの。だから、ここでみすみす死んだりしたら婚約者の面子は丸つぶれ。婚約者としてもそれは避けたいから、私のことを助けに来てくれるでしょう」

 

 そしてミラは、「だから」と続けて、

 

「私は生き延びてみせるわ。汚点になんて、なりたくないもの」

 

 ミラは、表情の変化がとても控えめだ。

 けれども、恋に対する熱意は本物。

 そんなミラの一途さに、林田の想いはいよいよもって燃え上がってしまう。

 

「――さあ、どうする? この契約を、受けてくれるかしら?」

 

 近界民から提案された悪魔の契約を前に、自分は長く長く思考する。時計の針が、はっきりと聞こえてきた。

 ――そして、

 

「わかった」

「賢明な判断ね」

「……ここで見捨てたら、後味が悪いから。だからあなたを、ミラさんを匿う」

 

 最初から、ミラ(初恋の人)を匿うことに迷いはなかった。

 けれどもミラはれっきとした近界民であり、しかも幹部級だ。そんな重要人物を三門市の住民が惚れた弱みで保護するだなんて、重罪に決まっている。確実に私刑モノの愚行だった。

 ほんとうに契約を成立させてしまっても良いのか、冷静ぶって考えてはじめようとして、

 

「にゃーん」

 

 ミラが無表情のまま、猫の体をそっと撫でる。

 ――そんなミラを見れば見るほど、恋への一途さを思い起こせば起こすほど、ミラをボーダーへ売るだなんて、()()()()()()()()

 

「……本当にいいのね?」

「ああ」

「それじゃあ、契約は成立ね」

 

 そしてミラは、ふとリビングを見回しはじめ、

 

「……あなたが出かけている間、家事ぐらいはしておくわ」

「え、え!? いや、それは別に」

「何もしないのは性に合わないの」

「で、でも……」

「いいから」

 

 ミラから睨みつけられて、林田は力なく「へい」と答えるしかない。

 そんな林田を見てどう思ったのか、黒猫ミラは「にゃーん」と鳴いてくれた。

 

「……あ」

「どうしたの」

「その黒猫、ミラっていうんだけれど」

「あら、私とおなじ」

「うん、そうなの。……で、まあ、その黒猫には別の飼い主がいてね、その人に返さないといけないんだ」

「そう」

 

 ミラは、黒猫ミラの頭をぽんぽんした。

 

 □

 

 ――もしもし、楠木さん? ああ、生徒会の林田恋太郎だけれども……黒猫のミラちゃん、見つかったよ

 ――ほんと!? じゃあ今から行く! 行って大丈夫?

 ――え!? いや、俺はいいけど、もう暗いし……

 ――大丈夫! 友人と一緒に行くから! じゃあ待っててね!

 

 それから数分が経って、

 

「おーよしよしよし! お前どこいってたんだよー! 探してたんだぞーッ!」

「にゃーん」

 

 玄関はとても賑わっていた。

 楠木葵が黒猫ミラを抱き上げ、何度も何度も頬ずりしている。楠木の隣に立っていた男友達と目が合って、なんだか「たはは」と笑いあってしまった。

 

「いやあ、こんな夜遅くに来てごめんね。こいつうるさいでしょ」

「いえ、そんな……見つかってよかったです」

「そうか。まあ俺の方も、猫が見つかってくれてホッとしてるよ。マジでへこんでたしな、こいつ」

「そうでしたか……」

 

 よーしよしと、頬ずりしまくる楠木。これほどの愛でっぷりなのだから、猫が失踪した時はさぞ落乱したことだろう。

 ほんとう、見つかってよかったよかった。

 

「ホント、君には頭が上がらないね」

「いえ、とんでもない」

 

 茶髪の男性が、「あ、そだ」と言い、

 

「俺は間宮圭三、ボーダーやってる。もしも困ったことがあったら、いつでも呼んでくれ」

「そうそう、何でもしちゃうからさ~」

 

 ボーダー。

 その名前を聞いて、家の奥めがけ気配りをする。心の内から、気まずさが溢れ出そうになった。

 自分は悪魔に魂を売ったくそ野郎なのだから、ボーダーの守護を受ける資格なんてない。

 

「いや、いいよそんな。俺はただ、生徒会としての義務を全うしただけだから」

 

 そう言ってみるものの、楠木は上機嫌全開の笑顔を崩さない。

 

「君」

「え」

「――とっても、いいひとだね!」

 

 間宮も、「うむ」としみじみ頷く。

 

「遠慮しなくていいんだよ。なんたって君は、家族を救ってくれたヒーローなんだから!」

「ヒ、ヒーローって……そんな器じゃないよ」

「ヒーローだって!」

 

 間宮が、苦笑いする。

 

「林田クン、あきらめなさい。こいつは、受けた義理は忘れないタイプだから」

「は、はあ……」

「そういうことだから、何かあったらすぐ連絡して! 生徒会の手伝いも、近界民の撃退も、なんでもこなすから!」

 

 そう言って、楠木はスマホを前に突き出す。正義の戦隊ヒーローを象ったキーホルダーが、林田の視界に容赦なく焼き付いた

 

「まあ、何か物をなくした時にでも呼んでくれよ」

 

 何も言えなくなった林田のことを気遣ったのか、間宮がそう呟く。

 己が視線を、地にそらす。

 いま自分は、正義の善人に囲まれている。そんな状況に、いやに体温が上がっていく。閉じた口の中で、歯を食いしばった。

 

「で、で」

 

 楠木は、一歩近づいてきて、

 

「何か、困ったこととかは、ある?」

 

 家の奥を一瞥しそうになったが、何とか堪えて、

 

「いや、今のところは何もないよ。うん」

 

 愛想笑いをする林田に向かって、黒猫がにゃあんと鳴いた。

 

 □

 

 楠木と間宮を帰したあと、林田は何事もなかったかのようにリビングへと戻り、一言。

 

「もう帰ったよ」

 

 そう言い終えた瞬間、キッチン越しからミラがゆっくりと立ち上がった。

 

「君のことは、何も言っていない」

「賢明だわ」

 

 そう言って、ミラが林田のもとへ歩んできた。

 そして林田は、人生で一番といってもいいくらいの安堵を覚える。

 

 ミラの靴は玄関からきちんと回収しておいたし、下手な言動だって漏らさなかったはず。手振りも不自然ではなかったはずだ。

 ミラが近界民に帰るまで、神経を張り詰めた生活が続くのか。

 けれども、それにとやかく言える資格などはない。自分は悪魔に魅入られた、三門市最低の男なのだから。

 

「とりあえず、えーと……」

 

 真顔のミラと向き合いながら、林田はなんとか話題を探す。

 

「眠たくなった時は、二階の両親の部屋を使っていいよ」

「いいの?」

「うん。両親は今、そろって海外に出張中だから」

 

 デキる大人は忙しいものである。

 林田の言葉に、ミラは「わかった」とうなずいた。

 

「あとは……基本的に自由にして構わない」

「そう。じゃあさっきも言った通り、基本は家事に励むわ。――ああそうそう、入っちゃいけない部屋とかは、ある?」

 

 意識がしっかりしているなあ、と思う。

 偉い人ということで、厳しい教育などが施されているのだろうか。

 

「うーん……いや、特にはないと思う」

「そう」

 

 何かほかに、聞くべきことはないだろうか。

 林田のことをじっと見ているミラに対して、ううむと唸り、

 

「あ、そうだ。何か欲しいものとか、ある?」

「だから、そんなに気を遣わなくても」

「家事をし終えたあとは、暇になるだろうし」

「……まあ、そうね。じゃあ本とかは……だめね、カンジ(漢字)がむずかしい」

 

 文字『は』ということは、言葉なら通じるわけか。

 よく考えなくても、ミラとはこうして日本語で通じあっているわけだし。

 ――何故なのだろうかと、ふと考える。それから間もなく、二つの心当たりが思い浮かぶ。

 捕らえた三門市の住民から、言語を教わっているのだろうか。

 そして三門市の住民は、すべてを教える代わりに元の世界へ返して欲しいと懇願しているはずである。

 けれどもその願いは聞き流され、こちらの世界の文明を洗いざらい吐き出されて、用済みとなれば恐らく――

 首を振るう。

 きっと近界民には、自動翻訳機みたいなものが開発されているんだ。そうだと思いたい、そうだと。

 

「じゃ、じゃあ、映像作品はどう?」

「映像?」

「そう。ほら、これ」

 

 テレビをリモコンで点けてみれば、ミラは「まあ」と驚きの声を発した。

 どうやら向こう側の世界には、テレビというものは存在していないらしい。

 

「テレビは色々な映像を見せてくれるんだけれど、ドラマ……ストーリーものは決まった時間にしか見られないんだ」

「へえ」

 

 テレビからは、明日の天気予報が映し出されている。明日は雪が降ってくるらしい。

 この番組が終われば、長らく放送されている人気刑事ドラマが放送されるはずだ。

 

「そこで俺が持っている映像媒体を使えば、いつでもストーリーものが見られるわけ」

「なるほど」

 

 そしてミラは、無表情を保ったままで、

 

「どんな話が見られるのかしら」

 

 興味ありげな声で、問うてきた。

 そう聞かれてしまって、林田の鼓動は嘘みたいに音を立て始める。

 

「そ、それは……その」

「なに、何か言えないものなの?」

 

 首を思いっきり横に振るう。

 

「れ、」

「れ?」

「れ……恋愛もの」

「ふうん……」

 

 判断にすごく困る返答だった。

 「あからさまね」と思われただろうか。それとも、純粋に見てみたいと思考しただけなのかも。

 

「と、とりあえず。面白いと思ったものを厳選してあるから、時間潰しにはなると思う」

「悪いわね、何から何まで」

「いや、家事をしてくれるだけでありがたいから」

 

 君のことが好きだから、なんて言えるはずがなかった。

 ――さて。

 話もひと段落ついたところで、急に腹が鳴った。そういえば、まだ夕飯をとっていなかった。

 

「作るわ」

「いや、今日は」

「慣れておきたいの」

 

 そう言って、ミラは主導権を握らんばかりにキッチンへ移動してしまった。

 

「さあ、キッチンの使い方を教えて。あと、作れる料理も」

「わかった。じゃあ作れる料理に関しては口で説明するから、メモなりにまとめておいて」

「わかったわ」

 

 文字が読めないというのは、本当に不便なものだ。とてもではないが、外国なんて行けそうにない。

 そう思うと、海外でバリバリやってる父と母は凄いんだなあとつくづく思う。

 

「……そういえば」

「はい?」

「あなたの名前、なんていうのかしら」

 

 そういえば、名乗っていなかったような。

 なぜだか制服の襟首を整え、無駄に背筋を立たせながら、言った。

 

「俺は林田恋太郎、好きに呼んでほしい」

「そう。わかったわ、ハヤシダ」

 

 そしてミラは、己が胸元に手を置いて、

 

「私の事も、どう呼んでもいいから」

「そ、そう。じゃあミラさんで」

「わかったわ」

 

 それから、ミラとの共同生活が始まった。

 ――ちなみに、ミラが作ったシチューはとても美味しかった。本人曰く「説明された通りに作っただけ」とのことだが、林田はオトコとして「でも、おいしかった」と言い切った。

 

――

 

 翌日、午前六時。

 はっきりと目覚めて、最初に考えたことは「本当にミラさんはここにいるんだろうか」。

 白い日差しに照らされた自室の中で、林田はゆっくりその身を起こす。タイマーをかけておいたストーブのお陰で、室内は温かい。

 カーテンを開けてみれば、窓の向こう側では雪がそっと降り注いでいた。こりゃあ帰ったら除雪だなあと思いながら、林田は寝巻から制服に着替え、ドアを開けて。ゆっくりゆっくりと階段を下りていって、

 

「あら、おはよう」

 

 エプロン姿のミラが、キッチンに立っていた。

 服装は先日のような真っ黒ではなく、白いニックネットに青いジーンズの組み合わせ。母の私服を借りたのだろう。

 瞬間、昨日のことは夢などではない、という現実を強く認識する。

 ミラは無表情のままで、白米と卵焼き、味噌汁までもを要領よくトレイへ乗せていく。メモを手渡すだけでここまで学べてしまうとは、やっぱりミラはいいとこのお嬢様なのだなと実感せざるを得ない。そしてエプロン姿のミラをじっと見て、またしても惚れ直す。

 

「食べないの?」

「あ、食べるっ」

 

 トレイを受け取り、林田はリビングにあるテーブルへとそっと移動する。続けてミラも、自らの分の朝食をトレイに乗せてリビングへ。

 林田と、向かい合うように腰かけた。

 

「では、いただきます」

 

 朝食を前に、林田は両手を合わせて感謝の言葉を述べる。そしてミラは、林田の所作をじっくりと眺めていて、

 

「いただきます」

 

 同じく両手を合わせ、礼をした。

 

「……うん、うまい」

「そう、よかった」

「いやほんとう、おいしいよ。すごいなあ、こっちの料理を見るのは初めてなはずなのに」

「本を見ただけよ。それに、調理自体は私の世界とあまり変わらないし」

「いやそれでもだよ……」

「そう」

 

 いつもは自分で朝食を作り、テレビを見ながら一人で朝食をとっているのが日課だった。

 けれども今は、テレビすらつけずにひたすら朝食を味わう事に没頭している。好きな人の料理を前にすれば、食欲は湧いて出てくるものだ。

 ――ちらりと、ミラの方を見る。ミラは相変わらず真顔のまま、箸をつかって少しずつ白米を食べていた。

 

「ところで」

「な、なに」

「これを食べたら、あなたはどうするの?」

「あ――ああ、学校へ行くよ」

「学校――ああ、学舎(がくしゃ)のことね。わかった、家事はやっておくから」

「ありがとう。暇になったら、テーブルの上にある映像作品を見てもいいから」

「わかったわ」

 

 そうしてミラとの会話は終わる。朝食を余さず食べつくした林田は、念入りに両手を合わせて「ごちそうさまでした」と礼をする。

 同じく朝食を口にし終えたミラも、「ごちそうさまでした」とつぶやくのだった。

 

 そうして林田は、久々に「いってきます」と告げて家から出る。薄暗い曇り空から白い雪が降り注いでいたが、林田の心中は真夏のようにご機嫌そのものだった。

 

 □

 

 まだ人気が少ない学校の中で、林田は猫探しのポスターを掲示板からぺりぺり剥がしていく。一日限りの付き合いだった。

 改めて見てみると、我ながらよくできたポスターだとは思う。個人情報の都合で、処分しなければいけないのが何だか寂しい。

 ポスターを丸め、画鋲を画鋲入れのケースにしまう。次は二階の分を剥がそうと、

 

「おはよー、林田君」

 

 急に背後から聞き覚えのある声。振り向いてみると、手のひらで挨拶をする宇井の姿があった。

 

「ああ、おはよう。宇井さん」

「ども。で、で、楠木ちゃんの猫が見つかったんだって?」

「おお、情報が速い」

「やー、楠木ちゃんから電話がかかってきてさ、見つかったやったやったの大騒ぎでしたよ」

「そうかあ……」

「君が猫を見つけてくれたんでしょ? やるねえ、すごいねえ」

「いやいや、たまたまウチの庭にいただけだよ」

 

 庭。その単語を発して、林田の脳裏に熱が生じる。

 宇井真登華というボーダーの一員を前にして、下手なことは言わないようツバを飲み込んだ。

 

「庭? まじで?」

「まじまじ、本当に庭にいた」

「へえ~、猫に好かれやすい家なのかなあ、君ん家」

「そうかなあ、そうかもなあ」

 

 すこし冷たい廊下の中で、宇井はにっこりと微笑み、

 

「いやほんと、今回は世話になりました」

「え、いやいやそんな」

「威張ってもいいんだよ。君は楠木ちゃんを救った上に、間宮隊の不調を整えてくれたんだからさ」

「大袈裟なー」

「よっ、いい男」

「やめなよ」

 

 宇井と林田が、わははと笑いあう。

 ――そのとき、廊下の向こう側から生徒が歩んできた。気づけば、学校が賑わう時間帯にまで差し掛かっていたようだ。

 

「じゃあ、俺は二階のポスターを剥がしにいくよ」

「三階は任せなさい」

 

 林田が苦笑いする。

 

「じゃあ、頼むよ」

「うむ、任された」

 

 宇井が、えへんと胸を叩いてみせた。

 今日も、宇井は元気そうに見える。仕事の手伝いをする程度には、余裕があるように思える。

 ――それでも、

 

「なあ、宇井」

「うん?」

 

 こうして話し合えた今なら、言える気がする。

 

「その、何か困ったことがあったら、俺でよければ話ぐらいは聞くよ」

 

 明確に、間が生じたと思う。

 宇井の顔から笑みが消え、目と目とが交差した――のは一瞬だけで、宇井はいつもの微笑みをつくり、

 

「ありがと。ま、そのうちね」

 

 否定は、しないんだな。

 宇井の返答に林田は小さくうなずき、二階のポスターを剥がしに足を動かし始める。

 

 そうして授業がはじまる。そっと宇井の方を覗き見してみれば、宇井は頬杖をついて教師の方を眺めていた。

 

 

 思った以上に生徒会の仕事が遅くなってしまった。

 気づけば午後四時、空もすこし薄暗い。今ごろミラは何をしているのだろうか、ちゃんと家で過ごせていればいいのだけれど。

 若干早足気味に帰路を歩む、だのにいつも以上に道が長い気がする。ならばと走ってみせて、途中で凍ったアスファルトに滑りそうになり、べちゃべちゃ雪道を踏んづけながら何とか家の前にまで辿り着き、

 

「ただいまっ」

 

 ドアを開けて、何事もなかったかのように挨拶をする――家の奥から、ゆっくりと足音が反響してきた。

 

「あら、おかえりなさい」

 

 ミラが、リビングからひょっこりと姿を現した。

 ミラの姿を確認することが出来て、ほっと胸を撫で下ろす。ボーダーに拘束されていなくて、本当に良かった。

 

「遅くなってごめん。誰か来たりしなかった?」

「いいえ」

「そうか……それで、今は何をしてたの?」

「ドラマを見てたわ」

 

 林田の意識が、瞬く間に強張った。

 林田は靴を脱いで、ミラに先導される形でリビングへ立ち寄る、

 

「これ」

 

 ミラがテレビを指さす。画面には高校生の男女が文句を言い合っているシーンが一時停止で表示されていて、それを目にした林田は「ああ」と声を出し、

 

「ベターストーリーを見てたんだね。超王道の名作恋愛映画」

「ええ」

 

 そしてミラが、ソファへ腰を下ろし、

 

「面白いわね、これ」

「! そ、そうか……それは何より」

 

 言葉は平静を、内心はいよっしゃあと躍りながら、林田はミラの隣へ座ろうと、座ろうと、座ろ、

 

「別にいいのよ?」

 

 ミラが、ソファを軽く叩く。

 直々に許可が下りたので、林田は少しビビりながらもミラの隣へ座り込む。そんな林田のことを特に気にもせず、ミラはリモコンのスイッチを押す。

 ドラマの時間が流れ始める。男女がああだこうだと文句を言い合っているが、原因はデートコースについてあれやこれやと意見しあっているだけ。

 微笑ましいなあ、いいなあ。何度も見たシーンだのに、林田の口元は緩んでいる。

 ふとミラの方を見てみれば、相変わらずの真顔。ただ、その二つの目はテレビへ釘付けとなっていた。

 ――意外と、こういうのが好きなんだろうか。

 ――好きなんだと思う。愛に対して、一途なところがあるし。

 

 それからベターストーリーは、両想いの男女がああだこうだといがみあったり、手を繋ぐか繋がないかでドギマギしたり、観覧車に乗って互いに思い出話に浸っては、やっぱり相手のことが異性にしか見えなくなって――観覧車が地上に戻る瞬間に、男と女はキスを交わしあう。

 平日に戻ってみればやっぱりケンカしてばっかりだけれども、女の子のスケジュール帳には第二回目のデートが記載されているのでした。おわり。

 ――スタッフロールが流れ始める。いい話だったなあと余韻に浸りつつ、林田はミラの横顔を覗き見しようとして、

 

「いいじゃない」

 

 無表情で、ミラはぽつりと言った。

 その一言だけで、何だか勝った気になってしまい、

 

「そうか、恋愛モノはいける感じみたいだね」

「そうね、そうみたい」

「他にも色々あるから、是非見てみてよ」

「ええ」

 

 その時、ミラが壁掛けの時計に目配りする。

 

「そろそろ夕飯ね」

「あ」

 

 ミラがそっと立ち上がる。

 

「今日は一人で作ってみるわ。カレー、という料理に挑戦してみる」

「手伝うよ」

「家事をする、それが契約の内容よ」

 

 そう淡々と言い、ミラはキッチンへ出陣していってしまった。

 ほんとう、律儀な人だ。

 だが、それがいい。

 

「もしわからないことがあったら、すぐ聞いて欲しい」

「わかったわ」

 

 ――それからミラは、一度も質問を投げかけることがないまま料理を完成させてしまった。

 エプロン姿のミラが、カレーの乗ったトレーを手に持ちながらでリビングへ戻ってくる。そんなミラの姿を見て、林田は当然満たされた気分に陥った。

 

「これはうまそうだ。いただきます」

「いただきます」

 

 ミラの分のトレーもテーブルの上に置かれ、互いに感謝の言葉を述べたあと、林田とミラのスプーンがそっと動き出す。

 白米をルーに浸し、そのまま口につけてみれば、舌に甘さが伝わってくる。ミラの方も、無表情ながら食が進んでいるようだった。

 

「とてもおいしいよ」

「そう、ありがとう」

 

 やっぱり淡々とした口ぶりであるが、話しているうちに「これがミラなんだな」と段々慣れてきた。

 話を途切れさせないよう、林田は口を動かし続ける。

 

「カレーって、そっちの世界には存在していないんでしょ? それなのにこれは……流石ミラ」

「あなたの説明が上手かっただけよ」

「出来るかどうかは本人の能力次第だから」

「そう」

「ミラの料理、もっと食べてみたいなあ。もちろん俺も作るけどね」

「ふうん」

 

 そしてミラは、水を一口飲んで、

 

「……これなら、あの人たちも喜んでくれるかしらね」

 

 ぽつりと、けれども確かに聞こえた。

 あの人たちとは、まちがいなく婚約者のことだろう。

 ――たち?

 

「え、ちょっと待って。婚約者って、一人だけじゃないの?」

「ええ、二人いるわ」

「……そうなの……」

 

 呆然しかけたが、ミラの地位を考えてみればとくべつ不思議な話でもないと思う。

 むしろ、それくらいモテなきゃおかしいだろうな、とさえ考える。

 ――閉じられたカーテンに視線を向ける。

 

「迎え、来るのかな」

「来るわ。面子がかかってるもの」

「……そうだね」

「それに」

 

 ミラは、かしゃりとカレーを掬って、

 

「信じてる、来てくれることを」

 

 ミラは改めて、そう宣告した。

 目の前でこうも言われて、林田の心中に黒いもやがかかる。何ひとつとして理不尽なことを口にしていないから、なおさら。

 もっとアプローチしろ、自分。

 せっかくの出会いを、このまま終わらせるな。

 何かこう、ミラに関心を抱かれるような何かを行わなければ。

 焦る林田のことなどつゆ知らず、ミラはカレーを食べ続けている。小さく「いいわね」と呟いたのを聞き逃さない。

 ――そういえばこの人、どんな料理が好きなんだろう。

 

「あの」

「なに?」

「何か、好きな食べ物とかはある?」

「べつに、このままでもいいわ。贅沢は言わない」

「まあまあ、言ってみてよ。そろそろレパートリーを増やしてみたいと思っててさ」

「……そう」

 

 観念したのか、ミラは小さく息をついて、

 

「パンケーキ」

「おお、なるほど」

「言っておくけれど、気を遣う必要はないわ」

「違う違う。俺が食べてみたいってだけ」

「……そう」

 

 会話はここで終わった。

 ごちそうさまと礼を言い終えたあと、ミラが食器を片付けようと――林田が迅速な速度でミラの食器をかすめとり、そのままキッチンへ早歩きしては水を流し始める。

 そんな林田の姿を見て、ミラは「はあ」とため息をつくのだった。

 

――

 

 休日。昼へさしかかった頃に「ちょっと出かけてくる」とミラに声をかけ、晴れ空に恵まれながら街まで歩んでいく。

 信号待ちが長い交差点を渡り切ってみせれば、ずいぶんと賑やかな街並みが林田のことを出迎えてくれた。この雰囲気はけっこう好きだったりする。

 待ち合わせ場所で有名な「猫の像」を通り抜けようとすれば、「待ったー?」「今きたとこー」のやりとりが林田の耳に飛んできた。すごくうらやましい、自分もミラとあんな関係になりたいものだ。

 気を取り直す。

 雑談と店の宣伝がひっきりなしに飛び交う街並みに足を踏み入れ、なんとなく風景を一瞥してみればバーガークイーン三門市本店が目につく。最近は寄っていなかったなあと思うが、またしばらくはジャンクフードを口にしない日々が続くだろう。それよりミラの料理が食べたい。

 それから数分ほど歩んで、街一番の本屋に辿り着く。三階まであるビル状の建物で、新刊から中古まで揃っているオススメスポットの一つだ。

 

 ――よし。

 

 息を吐く。そのまま自動ドアを潜っていって、人がまばらに要る店内を何となくちらりと一瞥しつつ、「料理」のコーナーへと足を進めていく。

 本棚を見てはあれじゃないこれじゃないと目で探していって、約数分程の時間をかけたのちに、

 

「あった」

 

 本棚から「デキるパンの作り方」という本を引っこ抜く。表紙の煽り文句を見てみれば、クロワッサンの作り方、ナイスなサンドイッチはこうだ、パンケーキの世界について、

 これだ。

 瞬く間に上機嫌顔になった林田は、早速とばかりにレジへ行、かなかった。

 二階へ昇り、慣れた足取りで「恋愛小説」のコーナーに飛び込んでいっては、何か掘り出し物とか無いかなあ前に見たばっかりだしなあとうろつき始め、戦果は当然ゼロ。

 まあ、そりゃあそうだよね。

 力なく両肩をすくめ、そのまま一階へ戻ろうと――

 

「あれ」

 

 意識に余裕が生じていたからか、本棚と本棚の合間を通りがかる際に見知った顔を捉えることができた。

 間違いない、あの子は、

 

「宇井さん」

「あっ。ああ、林田君」

 

 本を物色している宇井めがけ、そっと声をかけてみた。それでも宇井から驚かれたあたり、真剣に本を物色していたのだろう。

 林田は、「あー」と気まずそうに声を漏らす。

 

「ごめん、邪魔しちゃったね」

「ううん、気にしないで気にしないで」

 

 宇井はにっこりと笑みをつくり、

 

「偶然だねえ、こんなところで会うなんて。何かお探しの本でも?」

「うん、まあ、これ」

 

 宇井に問われ、自然と「デキるパンの作り方」の表紙を前に出す。

 心臓がばくりと鳴る。秘密の一端を思わずバラしてしまったような、そんな不安が体の中を渦巻き始めた。

 

「へえー」

 

 宇井の反応に、林田は口の中で歯を食いしばる。

 

「君、料理作るんだ」

「え――ま、まあね、一応」

 

 瞬間、宇井の目と口がぱあっと開く。

 

「すごーい、難しそうなのによくやるねえ。好きなの? パンとかそういうの」

 

 ボーダーの隊員から、そう離れていない距離から注目される。

 下手な嘘をついても、鍛えられているであろう判断力で見破られるかもしれない。

 だから、嘘はつかない方がいい。

 あくまで、本当のことを言え。

 

「そう、だね。こういうのを作れたら、後々役に立てるかなって思って」

「へえ~、ちゃんと考えているんだねえ」

 

 嘘は言ってない。材料を買って家に戻って、ミラに向けてパンケーキをつくる。嘘はついていない。

 神経を張り巡らせている林田に対して、宇井はほうほうと声を出し、

 

「やー、まさか君が料理もできるなんてねえ」

「それほどでもないよ」

 

 林田は、あまり考えることなくそう返した。

 対して宇井は、口元をゆっくりと曲げてみせながら、

 

「君、モテそうなオーラが出てる」

 

 宇井は、そんなことをいきなり言い出した。

 言われたことのない言葉を真正面から食らって、思わず一歩ほど引いてしまう。そんな林田の反応を見て、宇井は「冗談だよ」とは言わなかった。

 ――首を小さく振るう。

 女性の宇井からそう言われて、己が行為が保証されたような気がする。好きな食べ物を通じて距離を縮めようという魂胆は、そう間違ってなどいないわけだ。たぶん。

 

「そ、そうかな?」

「うんうん、出てる出てる」

「そうかあ……うん、パン作り頑張るよ」

「いいねえ~、今度食べさせてよ~」

「合点」

 

 宇井は林田は、本屋の一角でひそひそと笑いあう。

 凝り固まっていた緊張はすっかり溶けて、今や気楽な気分に浸れている。そうなれたのも、林田の行いを肯定してくれた宇井のおかげだ。

 手前勝手に宇井を警戒するなんて、自分としたことが。

 己が胸を、そっとさする。

 ふと、宇井が本を持っていることに気づいた。

 

「宇井さんは、どんな本を探しに?」

「え? あ、あー……それはねえ……」

 

 宇井が目を逸らす。そんな宇井に、林田はあたふたと手のひらを振るい、

 

「ご、ごめん、失礼なことを聞いた」

「あ、いや、そういうわけじゃない。そういうわけじゃないよ? ……これ」

 

 宇井はぽつりと言って、そっと本を差し出す。

 白い表紙に、やわらかいフォントで書かれた、「メンタルの整え方」。

 そういえばこの本棚のコーナー名は、「癒し、リラックス」だった。

 ――宇井の憂鬱げな横顔がフラッシュバックする。

 宇井が抱えている問題とは、恐らくはとても切実なものだろう。それに対して自分は、ひとこと気安い言葉をかけて宇井と別れ、なんでもなかったかのように日常へ戻ることもできる。

 

「――宇井さん」

「ん?」

「今までずっとさ、宇井さんのことが気になってた」

「へ――」

「教室の中にいる宇井さんは、時々眠そうな目をしていたり、窓の外をずっと眺めていたり、時にはうつぶせになることもあったよね」

「……まあ、ね」

「そんな宇井さんのことが、ずっと気になってた。……だから、だからさ」

 

 宇井と林田とは、同じクラスメートでしかない。

 

「俺でよかったら、話ぐらいは聞く。生徒の悩みを聞くのも、生徒会の仕事だから」

 

 そして自分は、生徒会の一員だ。

 だから宇井のことが、どうしても放っておけなかった。

 ――林田の言葉に対して、宇井は口を開けたままで微動だにしない。まったく予想外の言葉をかけられた、そんなふうになっている。

 

「……そっか」

 

 宇井は、そっと言葉を発する。

 

「そっかぁ」

 

 そして宇井は、ふっと微笑んだ。

 

「や、ごめんね。心配かけさせちゃったみたいで」

「いや、俺のことはいい」

「うん。……ええとね、そうだね」

 

 そのとき、客らしき若い男性が林田と宇井を横切っていく。

 本棚の前で立ちんぼなんて、邪魔以外なにものでもない。だから何者にも干渉されず、かつ話しやすいよう腰を落ち着けられるような場所といえば――

 

「なあ、宇井さん」

「うん?」

「バーガークイーンで悩みを話してくれないか? さすがにここだと、邪魔になるし」

「え、」

「奢るよ」

 

 ここまで踏み込んだからには、すこしでも宇井の悩みを取り除きたい。

 それはまちがいなく、林田の本音だった。

 

「――ごちになります」

 

 林田の言葉に、宇井は白い歯を見せて笑い返してくれた。

 

 □

 

 バーガークイーンのカウンターで注文を受け取り、二階まで登っては室内の端にまで林田と宇井は移動していく。

 やがて林田と宇井は向き合う形で席に腰を下ろし、四角いテーブルの上にトレ―を置いて、どうか話してほしいと林田は頷く。

 

 ――そう、だね。まあボーダーのことなんだけれど……あ、詳しくは話せないんだよねえ~……わかりづらかったらごめんね。

 まあ私はさ、隊員のサポートを行っているわけ。オペレーターっていう役職についてるの。

 ……ついているんだけれど、ここ最近は上手くいってないんだ。おかげで隊全体の結果があまり芳しくないというか。

 ああでも、みんなはちゃんと動けてるんだよ。利点も欠点もわかってる。すごい頑張り屋さんで、とても優秀なんだ。

 だのに結果がコレってことは、要は指示が悪いってコトだと思う。オペレーターは隊の目であり耳でもあるんだから、それが悪くちゃ思うように戦えないのは当然だよね。

 ……とまあ、そんな感じでへこんでるわけです。私はだめなオペレーターだ~……ってね

 

 言い終えたあと、宇井は「ありがとうございました」と一礼した。あくまで、苦笑いを崩さないまま。

 ボーダー上における宇井にポジションは、だいたいは把握した。きっと宇井は、戦闘中の隊員たちに忙しなく指示を与えたり、時には変更を強いられたりしているのだろう。

 めまぐるしく戦場の中で、忙しなく。

 「敵」という標的が容赦なく動き回る世界の中で、宇井は常に判断を整えなければならない。

 恐らくは宇井も隊員も、最善を尽くしているのだろう。自分なんぞに発想できるような事は、すべて実行に移しているはずである。

 それでも結果が芳しくないというのであれば、それはもう、どうしようもない何かが立ちはだかっているはずだ。

 その、どうしようもない何かってやつは――

 

「宇井さんは、ダメなんかじゃない」

「え?」

 

 宇井の目を見る。きっぱり言う。

 

「みんな、やれることはやっているんだよね?」

「うん」

「じゃあきっと、運が悪かったんだと思う」

「え、運? え?」

 

 想定外の言葉だったのだろう。宇井がめずらしく、目を丸くする。

 

「最善を尽くしてもダメだったのなら、それはもう運が悪いとしか言いようがない」

「でも、二度も三度もふがいない結果で終わることってあるかなあ?」

「戦場って不確定要素が多すぎる空間だと思うんだよね。場所とか、敵との相性とか、天候とか、とにかく天に任せたい箇所が山ほどある」」

「ぬ~ん……仮に運のせいだとしても、あんまりそういうのに甘えるのは……」

 

 正直言って、林田の論はボロボロだ。素人の思い込みにすぎない。

 しかし、幾度考えても「運のしわざ」としか思えないのだ。実力差がありすぎる相手と戦っているのなら、いの一番から「敵わなかった」という本音が漏れるはずだろうから。

 実力はきっと、拮抗している。ただ、不運がたまたま重なって勝てていないだけで。

 

「甘え、なんてことはないと思うよ。運も実力のうちって言葉もあるくらいだし」

「まあ、そうだけどさあ」

 

 そう簡単に責任を投げ捨てようとしないあたり、宇井は生真面目なんだなと思う。だからこそ、そんな宇井には自責で潰れて欲しくはない。

 ――何か言える事はないか、何か、

 

「……俺さ、このまえ猫探してたじゃない?」

「ああ、うん。探してた探してた」

「あれさ、最初は街中を探し回ってたんだよ。心当たりがありそうな箇所は、ほとんど見て回ったと思うけど結果はダメだった」

「うん」

「でもラッキーなことに、猫は俺の家の庭にいた。猫が見つかったのも、運が良かったからだよ」

 

 林田の言葉に、猫好きの宇井はそっと沈黙した。

 

「いまの宇井さんはさ、きっとツイてない時間に陥っちゃってるんだと思う。でもその分だけ、運に恵まれてくるんじゃないかなって」

「ぬ~ん……そう言われるとそう……かも」

 

 ――林田はさらに、同じクラスメートの宇井にたいして、

 

「それに宇井さんは、隊のみんなは、まだ成長途中なんじゃないかな」

「え?」

「だって宇井さんは、まだ16でしょ?」

「……あ~……」

 

 同じクラスメートの宇井は、まだ高校一年生だ。これから背も伸びる、新しいことも学んでいく、もしかしたら素敵な出会いが待っているかも。

 こんなにも若いのに、自分のことをダメだの何だの言うのは時期早々すぎると思う。林田だってモテるために最善を尽くしているつもりだが、それでも失敗してしまうこともあるし、賞賛の目を浴びる事だってある。

 不運にも未だ「いいひと」どまりの自分ではあるが、「幸か不幸か」ドラマチックな出会いを果たすことはできた。

 ――いや本当、単に運が良かったからこそ彼女と巡り合えたのだと思う。

 

「だからさ、宇井さんと隊のみんなは、まだまだこれからなんだと思う。時間をかけて成長していけば、多少の不運は地力で跳ね返せるようになる」

 

 語尾を曖昧にしないよう、心を強く張り詰める。

 

「勝てば実力、負ければ運が悪かった。そんなふうに考えちゃってもいいんじゃないか、自分が潰れるよりは全然マシだ」

 

 宇井は、生徒会の活動を二度も手伝ってくれた恩人だ。そんな人が苦しむだなんて、見過ごせるはずがない。

 

「もし不運が続いたら、これからも話は聞く。ボーダーじゃないから専門的なことは言えないけれど、気分転換ぐらいにはなってみせるから」

 

 言い切った。

 林田と宇井に、沈黙が訪れる。

 近くの席に座っている若い男女がお堅い教師について明るく愚痴りあっていて、サラリーマンらしき男がドリンク片手に携帯電話を操作し、何があったか二人組の女の子が真剣な顔でじゃんけんし始め、

 

「そっか」

 

 そして、宇井が返事をした。

 力なく、顔をほころばせながら。

 

「そうだね、運のせいかもね、うん」

 

 そして宇井は、己が頭を手でさする。

 

「まだ育ち盛りのトシだもんねえ。そういえばそうだったな~」

「そうそう」

「よしっ、食べて背を伸ばすぞうっ。いただきますっ」

 

 林田に両手を合わせ、宇井がSサイズのハンバーガーを口にしはじめる。

 メンタルが整ってきたのか、その食べっぷりは明るいように見える。ここは宇井のことを信じて、林田もチーズバーガーに手を伸ばすことにした。

 

「いただきます。……うまいっ」

「ね~、うまいねえ」

 

 宇井が左手でバニラシェイク入りの紙カップを掴み、そっと中身を吸っていく。そうして宇井の味覚にシェイクが浸りはじめたのか、宇井は嬉しそうに「ん~~」と唸るのだった。

 そんな宇井を見て、林田の思考がようやく弛緩する。

 宇井の問題が解消されるには、今しばしの時が必要となるだろう。けれども宇井はまだまだ若いのだから、時間なんていくらでもかけてもいい。

 そうだ、そうなのだ。

 自分も焦ることなく、ゆっくりとあの人へ歩み寄ればいい。できることをやって、時には大胆になってみせて、いつか必ず「三人目」になってみせ、

 

「ね」

 

 宇井から声をかけられて、決意表明が霧散する。

 

「な、なに?」

 

 宇井は、面白いものを見るような顔つきになって、

 

「ほんとありがとね。助かった、マジで助かった」

「そうか」

 

 宇井が、にこりと笑う。

 

「君ってば、ほんといい男だよね~」

 

 そう言われてしまい、林田は本能的に「えー」と言う。

 

「いやいや、いい男なんてそんな。まだまだまだまだ」

「そうかな~そうだと思うんだけどな~」

「まだ修行中だから。ほら、食べた食べた」

「ほいー」

 

 そう、自分はまだいい男になどなれていない。

 まだ、なれていないのだ。

 

 それからハンバーガーとシェイクを平らげたあとで、林田と宇井は少しばかり学校についてあれこれ会話する。友人のこと、生徒会について、ほんとうに他愛の無い話ばかり。

 やがて林田と宇井は、トレーを片付けて一階へ下り、バーガークイーンを出る。ここでお別れというところで、林田も宇井も機嫌よく微笑んでいた。

 

「今日はありがとうございました」

 

 宇井が深々と頭を下げる。

 

「じゃあ、私はこれで」

「ああ。また何かあったら、呼んでくれよ」

「あいよ」

 

 そして宇井は、手をひらひらと動かして、

 

「またね、林田君」

 

 林田と宇井は、賑やかな街の中でそっと別れていった。

 

 □

 

 家に戻ってみれば、ミラが真剣な顔つきで恋愛ドラマを試聴していた。

 

 小さく「おかえりなさい」と言われて、林田も「ただいま」と返す。何を見ているのだろうかとテレビを見て――戦争で離れ離れになった主人公とヒロインが、長い苦境を越えてようやく再会を果たす名作恋愛映画、「生きる」だ。

 なるほど、ミラが見入るのもよく分かる。

 今の状況なんて、まんまだもんな。

 恋愛ドラマに浸るミラを覗き見するのは、とても楽しい。けれどもドラマの内容を考えてみると、心の中に黒いもやが生じ始めてくる。

 やっぱりミラは、二人の婚約者のことが好きなんだ。

 そんな一途さが愛おしくて、もどかしい。ミラとは、結ばれたいだけに。

 でも、どうしたらいいんだろう。そう深く考える前に、簡単な答えがすぐに閃かれた。

 けれど、それは――

 

 映画がハッピーエンドを迎え、スタッフロールが流れ始める。それでもミラはソファから動かない。スタッフロールすらも映画の味であると感じているのだろう、いい傾向だ。

 そして数分後、スタッフロールが流れ終える。気づけば時刻は17時、そろそろ夕飯だが、

 

「今日は、俺が夕飯を作るよ」

「どうして、別にいいのに」

「たまには俺が作りたい。というか、これからは交代で作っていこう」

「気遣いは不要よ」

「まあまあ、ミラさんは恋愛映画とかを見ていていてよ。これとか面白いよ」

 

 テーブルの上から、ポップなフォントで「スマイルスマイル!」と描かれたパッケージを差し出す。ヒロインの笑顔に胸キュンした視聴者が数多く生まれたという、大人気恋愛ドラマだ。

 学園が舞台だから、初心者にも大変ススメやすい一本とされている。

 ――林田の押しに負けたのか、ミラが「はあ」とため息をついて、

 

「わかったわ」

 

 そう言って、パッケージを受け取った。

 さて、今日は気合を入れるぞ。

 

 ――それから数分後、リビングのテーブルの上に夕飯が飾られていく。白米にシャケの切り身、味噌汁に漬物少々。そして、

 

「これは」

「作ってみたんだ、パンケーキ」

 

 丸く象られたパンの上に、ハチミツがてろりと流れる。パンの真ん中には、クリーム色をしたチーズがこてりと乗っかっていた。

 ミラは表情を変えないまま、小さくため息をつく。

 

「あなた、私が敵だってことを忘れてない?」

「忘れてないけど、今は同居人だし。これぐらいはね?」

「捕虜に肩入れしすぎるのは、危険よ」

「そうは言っても、家事をしてくれる貴女のことをぞんざいに扱いたくはない」

 

 本当のことは言った。好きだから、という本心は口にできなかったけれど。

 

「そういうわけだから、どうぞ」

「……そうね。食べないのはよくないものね」

 

 林田のプッシュに根負けしたのか、ミラが仕方がないとばかりに両手を合わせる。

 

「いただきます」

「召し上がれ」

 

 そうしてミラは、先ずは白米に手を付け始めた。それから味噌汁を少し、漬物も食べてみて――少し苦い顔をした――続けて切り身を、あとは白米を続けて食す。

 時計の動く音しか聞こえない、今のテレビに電源はついていない。このままでは何も進展しないままで一日が過ぎ去ってしまう。

 ミラの迎えが来るまでに、自分はミラのお眼鏡にかなうような男にならなければいけない。

 

「最近は、恋愛ドラマや映画にハマっているみたいだね」

「そうね。なかなか面白いわ」

「そっちはどうなの? 恋愛モノとか、あるの?」

「映像はないわね。演劇とか、本とか、それで物語を楽しむ」

「へえ……どんなのがあるの?」

「そっちの話とあまり変わらないわ。違うのは服と言語だけ」

「似通るんだねえ」

「そうね」

 

 思う。

 あまり感情を表に出さないミラだが、恋愛に一途という点は明らかになっている。

 じゃあミラは、いったいどんな恋をしてみたいのだろう。

 どんな男が、ミラにとっての理想なんだろうか。

 時間がない、だから聞け。

 

「ねえ、ミラさん」

「なに」

「ミラさんは、その……どんな恋がしてみたいのかな?」

 

 ミラから、じとりと見つめられる。まずいことを聞いたかなと、つい苦笑。

 

「……私は政略結婚をする予定だから、恋愛の自由なんてないわ」

「う――そ、そう」

「でも、不満はない」

「どうして?」

「婚約者に、恵まれたから」

 

 聞け、ぐずるな。恋敵として、婚約者のことは知っておかなければならない。

 

「どんな、人なの?」

「そうね。一人目は真面目で冷静、二人目は豪快で派手」

「正反対だ」

「そうね。共通しているのは、私を怖がっていることだけれど」

 

 え。

 顔に出ていたのか、ミラは「ふう」とため息。

 

「まあ、怖がられることに心当たりはあるけれど、それでもやっぱり気になるものよ」

 

 小林の箸が止まった。だってミラが、「はじめて」不機嫌そうな声を発しながら味噌汁を飲んでいたから。

 ――それにしても。

 ミラが恐れられている理由ってなんだろう。深く考える前に、林田はすぐに答えを導き出せてしまう。

 ひとつは、感情が読みにくいところ。とにかくミラは表情をつくらないものだから、婚約者としてもどう話していいか困りがちだっただろう。

 もうひとつは、その気になれば命を奪えてしまう一面。邪魔になる存在ならば、この人は自らの手でそれを殺せてしまうのだろう。現に自分も、その一人にされかけた。

 婚約者もハラハラしているに違いない。つまんない冗談を言ったら刺されるんじゃないか、気が利かないことをほざいたら抹殺されるかも。

 なるほど。ミラが怖がられるのもよくわかる。惚れている自分すら、それは分かってしま、 

 

「まあ、それでも二人のことは嫌いじゃないけどね」

「そ、そうなの?」

「おそるおそる話かけてくれたり、これまで何度も守ってくれたから」

 

 そう言うミラの口元は、くすりと緩んでいた。

 ――強靭な精神力を抱えているミラだけれども、やっぱり婚約者の感情には揺さぶられてしまうものなのか。そんなところも良い、嫉妬もしてしまうけれど。

 だから林田は、勢いでこんなことを口走った。

 

「俺は、ミラさんのこと、怖いとは思ってないよ」

「本当? 私はあなたを殺せるのに?」

「……怖くなんか、ないよ」

 

 強がる林田を前に、ミラは「そう」と静かに返事をした。

 

 ――それからミラは、フォークでパンケーキの一切れをそっと突き刺す。それをおそるおそる口に近付け、音もなく口の中に入れてじっくり味わいはじめ、

 

「おいしい」

 

 ミラが、こっそり微笑んでくれた。

 林田はもちろん、めちゃくちゃ喜んだ。

 

「おかわりもあるよ」

「……いいの?」

「もちろん」

「……もらうわ」

 

 これからは、必ずパンケーキを用意しようと思う。

 ミラのスマイルを見届けられたからか、今日はよく眠れそうだ。婚約者のことが、頭から離れてくれなかったけれど。



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近界民の女②

 ミラと同居生活を送って数日が経ったが、迎えが来ることもなく、ボーダーにバレることもないまま、無事平穏に毎日を過ごせている。

 今となっては、ミラのいない生活なんて考えられないとすら思っている。家に帰って「ただいま」と言えば「おかえりなさい」と挨拶してくれたり、共同で掃除を行ったり、夕飯を作ったり作ってくれたり、そして視聴した恋愛ドラマについてぽつりと語り合ったりと、林田はそれなりの至福を実感していた。

 あくまで、それなり。

 テーブル越しからミラと話してみると、やはり婚約者への未練がちらほらと聞こえてくるのだ。文句とか不満は口にするけれど、その後はだいたい「まあ、そんなところも」と受け入れてしまう。

 そんな一途なミラに告白しようとしても、絶対に絶対に断られるだろう。そもそも、世界に違いという大きな壁が立ちはだかっているわけだし。

 そんなことだから、考えれば考えるだけ光明が見いだせない。こうなれば断られる前提で告白すべきなのか、近界民と結ばれるにはそれくらいの大胆さが必要なのかもしれないし。

 

 ――何度目かの雪が降りしきる、一月の朝。

 

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 

 朝になって学校が始まろうとも、授業中に教師から笑い話を聞かされても、やがて賑やかな昼休みが訪れても、頭の中では無表情のミラばかりが繰り返し再生される。

 恋は人を夢中にさせてくれるんだなあと、林田はぼーっと思う。

 それでも食欲だけはマシに動いていたのか、林田は無言のまま、学生鞄から自作の弁当を取り出した。ちなみに弁当も、交代交代で作るというルールになっている(させた)。

 ――青い包みを広げ、白い弁当箱が姿を表す。いよいよもって食欲が増してきて、そっと蓋を開けてみれば、

 

「お、うまそうな弁当ですな~」

 

 椅子すら動くほど、林田は大きく驚く。それに連なり、女の子も――宇井真登華も、「うおおっ」と飛び上がった。

 

「あ……ごめん、驚かせて」

「ううんううん、私の方こそゴメンね」

 

 そう言う宇井は、何の躊躇もなく前の空席を占領し、林田の机の上に弁当箱を置いた。赤色の蓋には、黒猫のデフォルメイラストが描かれている。

 

「え?」

「ん?」

「いや、食べるの? ここで」

「うん、そだけど……あ、ダメ?」

「いやとんでもない、まさかそんな」

「でしょー? じゃ、いただきましょう」

 

 宇井も弁当箱の蓋を開けて、いただきますの一礼をする。

 ――まあいいや。林田も、「いただきます」と告げた。

 

「やあやあ、聞いてくださいよ」

「どうしたの?」

「やーね、ここ最近のボーダー活動なんですけどね……」

 

 瞬間、宇井がにやりと親指を立てる。

 それを見て約二秒後、林田の顔から笑みがこぼれ落ちた。

 

「え、マジ? うまくいってるカンジ?」

「そうなんですよ~」

「やったじゃん!」

「やったやった。やあね、あれから色々考えてみたわけなんですよ。慎重に考えすぎるよりは、失敗してもいいから迷わず指示出しをしてみようって」

「うんうん」

「この方針を伝えてみるとね、隊のみんなからも『それがいい』って受け入れてくれた。だから私も、自信満々に、かつ三秒以内に指示を出すようにした」

 

 宇井が、弁当箱からミートボールを掬って食べ始める。

 

「するとね、みんな元気よく動いてくれたんだよね。周囲からも『恐れ知らずになったもんだ』って言われて、まあ良い結果を残せるようになったわけですよ」

「流石」

 

 林田が嬉しそうに言う。宇井も、にひひと笑う。

 

「でね、隊員のみんなも動き始めたんだ」

「と、いうと?」

「少しでも宇井の指示についていけるように、師匠を募って訓練をするって」

「お、いいなそれ。こういうのは、先輩がたの力を借りるのが一番だろうし」

「ね。今はもう、モチベがバリバリになりましたわ~」

「そうか。よかった、よかった」

 

 林田がうなずいている間に、宇井がミートボールを差し出してきて、

 

「こんなふうになれたのも、すべてはあなた様のおかげっ。ささ、これをお受け取りくださいませ~」

「え、えー? いいよいいよ、ふわふわとしたアドバイスしか出せなかったし」

「そうだね、ふんわりとアドバイスしてくれたよね~」

 

 宇井はそう言って、白米の上にミートボールをちょこんと置いてしまった。

 やられた。ここで食べなければ、オトコがすたるじゃないか。

 

「じゃあ、貸し借りはこれでチャラってことで」

「おっけ~」

 

 苦笑いが溢れたまま、林田は宇井のミートボールをじっくり味わう。

 ソースの甘さが、味覚にすうっと伝わってくる。飲み込んでみても、ミートボールの余韻がほんのすこし残り続けていた。

 

「……にしてもさ」

「うん?」

「すごいよね、宇井さん達って。向上心がハンパない」

「まあ、やるからにはね」

「そうなんだ。いやはや、正義感が人一倍凄いんだろうなあ」

 

 正義感と言ってみて、林田は楠木葵と間宮圭三のことを思い出す。

 本来は近界民との戦いで忙しいはずなのに、あの二人は「困ったことがあったら力になる」とまで言ってくれた。間違いなく、正義感に溢れた善人そのものだ。

 だのに自分は、色恋で近界民を匿っている。その判断を覆す気がないあたり、なおのことタチが悪い。

 

「……正義感か~」

「え?」

「いやさ、私ってばお金を稼ぐためにボーダーに入ったんだよねぇ」

「え、そうなの?」

「そうなの」

 

 宇井が、水筒の蓋にお茶を注ぎ始める。

 クラスのひとかどで、男子グループの恋バナが始まっていた。

 

「私さ、仮設住宅に住んでるんだよね。家が近界民に壊されちゃったから」

「――うん」

「そこだと猫が飼えなくてね~。だから、引っ越すための資金稼ぎをしようとボーダーやってるわけですよ」

「おお、えらい」

「いえいえ。そんなわけで、私はとくべつ熱血ってワケでもないフツーの女子学生ですよ」

 

 あえて本当の理由を口にするあたり、宇井という女の子は本当に真面目なんだなと思う。

 宇井は卑下するように告げたのだろうが、宇井に対する評価はすこしも揺るがない。 

 

「そうかな。俺はべつに、それでもいいと思う」

「およ?」

 

 林田が、ブロッコリーを口に頬張る。まだこの味には慣れない。

 

「猫は可愛くて癒されるからね、一緒に暮らしたいって思うのは当然」

「まあ、ね」

「それをモチベーションにして、ボーダーの一員として戦う。それは立派な生き方だよ」

 

 自分だってモテたいが為に生徒会をやっているが、やるべきことをやっている自覚はある。

 極めて私的な動機があるからこそ、今日に至るまで生徒会員を務められたのだと思う。

 

「それに宇井さんは、真面目にボーダーやってるよ。この前の相談で、宇井さんの気持ちの強さはしっかり伝わった」

 

 林田は、宇井の目をしっかりと見据えて、

 

「ありがとう。いつも、この町を守ってくれて」

 

 男子グループの恋バナがいよいよもってヒートアップする。お前に気があるんじゃないのかと囃し立てる者が現れた。

 そして宇井は、目と口を丸くして、箸の動きを止めたまま、じいっと林田のことを見つめている。

 ――あれ。何か、間違ったことでも言ってしまったかな。

 なんだか気まずくなって、水筒に入っていたお茶を意味なく飲み始めてしまう。宇井は何度かまばたいたあとで、口元がそっと緩んでいって、

 

「ありがとう。ボーダーが一番聞きたい言葉を、言ってくれて」

 

 にこりと、宇井は微笑む。

 そんな宇井を見ることができて、心の底から安堵する。

 宇井とは一種のつながりがあるからこそ、こうして明るくなってくれた事がとても嬉しく思う。

 ――俺も、誰かを喜ばせる力があるんだ。だとすれば、きっとあの人も、

 

「ねえねえ」

「なに?」

 

 空想から引き戻される。

 

「もしまたへこんじゃったりしたら、励ましてくださいっ。奢りますからっ」

「ああ、もちろん」

「おおっ即答っ! いやあ、やっぱり君はいい男だわ~」

「何をおっしゃる。俺はまだ、いい男なんかじゃないよ」

「どして?」

「どしてって……まだ、彼女もいないし……」

「そなの? いい男なのにフシギだね」

「遊んでるだろうっ」

「どうだかね~」

 

 クラスのひとかどから聞こえてくる恋バナが、いよいよ最高潮を迎える。出席番号二十三番の遠山茂が、放課後に必ず告白するぜえと燃え上がっていた。

 頑張れ。恋を羨む者として、心から応援している。

 

 それからは他愛の無い雑談を交わしながら、昼ご飯を完食する。互いに弁当箱をしまい、力なく背伸びをした。

 

「林田君は、これからどーするの?」

「んー、読書でもしてるよ」

「読書? どんな?」

「あー、恋愛小説」

 

 そう口にした途端、宇井が「ほう!」と声を上げる。流されるかと思いきや、まさか関心を持たれるとは。

 

「へえ~、いいねえ! 恋愛小説、小説か……活字はあまり読まないんだけど、読んでみようかなあ」

「んー、漫画は読む? そっちにも名作は沢山あるよ」

「ほんとに」

「ほんとに。教えてあげようか」

「おおきに!」

 

 宇井が両手を合わせ、おどけるように笑う。そんな宇井を見て、林田もなんだかおかしい気持ちになってしまった。

 

 授業開始のチャイムが鳴る。恋愛小説を鞄にしまい、数学の教科書を机の上に置く。

 クラスに戻ってきた体育会系のグループが、「数学かぁ」とこぼす。既にあくびを漏らしている者さえもいた。

 

 ふと宇井の席を覗いてみれば、たまたま宇井と目が合う。宇井は、手のひらをゆさゆさと左右に揺らすのだった。

 

 □

 

 生徒会の仕事を終え、少しばかり遅くなって家に戻る。いつものように「ただいま」と呟いて――反応がない。

 リビングから音がする。聞き覚えのあるBGMとセリフが耳に届いてきた。推測するに、ファンタジー恋愛映画「一途」を試聴しているのだろうか。

 今までは一時停止をしてまで迎えに来てくれたのに、今日はどうしたんだろう。

 もしかして、ミラがいなくなってしまった?

 林田は最悪の事態を想定してしまいながら、早足でリビングに駆け付け、

 

 ミラが、じっくりと映画を見届けていた。

 

 心の奥底まで安心しきって、でかい息まで漏れる。林田の存在に気付いたミラが、視線を向けて、

 

「ごめんなさい。つい、夢中になってしまって」

「いや、いいよいいよ。気持ちはすごい分かるから」

「そう。ありがとう」

 

 ミラは礼を言って、ふたたびテレビへ釘付けとなる。

 林田はおそるおそるミラへ近づいていって、そして勇気を振り絞ってミラの隣に腰かける。ミラは特に気にすることもなく、映画の行く末を見つめていた。

 ――「一途」とは、神に選ばれた勇者と聖女がファンタジー世界を救っていくファンタジーロマンス映画だ。アクションや雰囲気、適度にクサいセリフ回しが高く評価され、賞まで得たという経歴を持つ。

 これだけ聞くと、さぞ真っ当な恋愛映画と思えるだろう。

 

「あ――」

 

 ミラが声を漏らす。

 林田が、それを聞き逃すはずがなかった。

 

 ――テレビの向こう側で、この世の悪が勇者を殺したのだ。

 

 すべての苦しみや悲しみを受け入れ、ひたすらに他者へ慈悲を分け与えていた聖女が、勇者の剣を持ち、ただ一度の殺戮のための聖女の力を振りまいた。

 愛から生じた真っすぐな憎悪に、漂うだけの悪意などかなうはずもない。

 魔王の首はあっさりと斬られ、聖女の力により青く焼かれる。そして聖女は、死人のような足取りで勇者の亡骸へと歩みより、子供のように泣きじゃくりながら勇者を抱きしめる。聖女とはいえ、人を蘇らせる力はない。

 そして聖女は、どこか遠い場所へ旅立っていく。憎悪に堕ちた自分に、人と触れ合う資格などないと思ったのか。勇者のいない世界なんて、生きていても仕方がないと想ったのか。

 こうして世界に光が戻り、民衆が聖女と勇者の帰還を待ちわびて、物語は幕を閉じる。

 ――ほんとう、何度見てもやりきれない。けれど、究極的に愛を賛美した作品だと思う。

 ミラはどんな感情を抱いたのだろう。スタッフロールが流れている間、林田はミラの横顔をそっと覗き見して、

 

 ミラは、泣いていた。

 

 声、なんてかけられなかった。だって映画は、まだ終わっていないから。

 そっと、視線をスタッフロールへ戻す。

 ミラはきっと、感情移入をしてしまえたのだろう。

 気持ちはよくわかる、わかってしまう。

 もしかしたら、もしかしたら、これがミラの結末になってしまうのかもしれないから。

 

 スタッフロールが終わり、チャプター選択画面が表示される。林田もミラもしばらくは黙ったまま、それから何秒か何分から過ぎていって、

 

「――私は、ああならない」

 

 ぽつりと、そんな言葉が耳に届く。

 あまりに一途な言葉を前に、林田はミラに対する感嘆と、焦燥感を覚えていた。

 

「……さ、夕飯を作りましょう。今日は……あなたが当番ね」

「はいよ。じゃあ今日もパンケーキ作るよ、いつもより増やす」

「気を遣わなくてもいいのに」

「いいからいいから。ミラはべつのやつでも見ててよ」

「わかったわ」

 

 言われた通り、ミラはテーブルの上からDVDを漁り始める。文字は読めないので、半ばジャケ絵の雰囲気でセレクトしているようだ。

 ハマってくれているのは嬉しい。けれど、かえって恋に対する炎を燃え上がらせてしまっているような気がしてならない。

 林田が夕飯を作っている間、ミラはDVDを再生し始める。見たところ、ミラは「恋の大喧嘩」を選んだようだ。ジャンルはドタバタラブコメディ、これは良い清涼剤となるだろう。

 

 テレビの中のヒロインが天然ボケをかますが、ミラは口元は緩みもしない。けれどミラの瞳は、ずっとヒロインの行く末を見届けていた。

 

――

 

 それからというもの、ミラは順調に恋愛作品の世界へとのめりこんでいた。

 家事を一通り済ませた後は、例外なくDVDをプレーヤーへ挿入し、ソファに腰かけ慣れた手つきでリモコンを動かし視聴開始。この世界の文化にも、ずいぶんと馴染んだものである。

 表情がぴくりとも動かないのは相変わらずだが、見終えた後は必ず「反応」を露わにする。コメディを見れば「おもしろかった」と言い、感動モノを見終えれば深くため息をつかせ、失恋を見届けたあとは無言のままでいるか、そっと涙を流す。

 ミラの立場からすれば、失恋とは身近なものであると実感しているのだろう。だから失恋に対して拒絶を示すし、共感も抱いてしまう。

 ほんとうに、婚約者に焦がれているんだな。

 自分も、その中に混ざりたい。

 

 ――今日はミラが夕飯の当番だ。ここ最近はレパートリーを増やす事に躍起となっていて、カレーから餃子、パスタまで軽々と作ってしまう。

 これらの料理も、元の世界で振る舞うつもりなのだろう。

 けれど三門市は、今日も平穏を保ち続けている。近界民の気配は、まったく感じられない。

 

「……ねえ」

「なに」

 

 テレビが点いていないからか、リビングはとても静かだ。

 

「本当に、彼らは来るのかな。もう数日が経つけれど」

「これくらいは想定内よ。世界を渡るには、それなりの準備が必要だから」

「そうか……」

 

 確かにそうだ。隣町に行くだけでも大変だというのに、他の世界へ出かけるとなればめちゃくちゃめちゃくちゃ大変だろう。

 この世界とミラの世界とは、いったいどれだけの距離があるのだろう。少なくとも、別れれば二度と会えないくらいには遠いはずだ。

 ちらりと、ミラのことを見る。

 自分とミラを隔てているのは、パスタと味噌汁が置いてあるテーブル一つだけ。何かを言えば反応してくれるし、手を伸ばせば触れることだってできる。

 それほどまでに近いはずなのに、ミラの存在が偶像のように思える。

 歩み寄りたかった。

 

「もし、もしもだけど」

「ええ」

「……ここで暮らす、っていう選択はあるかい?」

「ないわ」

 

 即答だった。

 

「私が生まれた世界は向こうであって、ここじゃない。この世界には、あなたの好意で一時的に居候させてもらっているに過ぎない」

「……そう、かもしれないけど」

「あなたとは、本来は敵同士でしかないわ」

 

 三門市の住民として、否定はできなかった。

 けれど、林田としては納得したくはなくて、

 

「そうは、思いたくはないな」

「なに、友好関係でも築きたいの?」

 

 林田は、こくりとうなずいた。

 嘘はついていない、嘘は。

 

「あなたには感謝しているわ。住まいを与えてくれた上に、文化まで教えてくれたから」

 

 ミラは、味噌汁を静かにすする。

 

「けれど、私とは契約を結んだ仲でしかない。これ以上肩入れするのは、互いのためにはならないわ」

 

 無表情のまま、よどみなく言い切った。

 そんなミラを前に、林田は何も言えなくなる。

 ――理性が言う。ミラとは結ばれない、相容れない。

 けれどもミラへの情熱は、これっぽっちも消え失せないのだ。誰よりも静かなミラの性格が、赤い髪と目をしたミラの容姿が、ずっと婚約者を信じ続けるミラの信念が、林田の恋心を今もなおくすぐり続けている。

 

 ――先に林田が、夕飯を食べ終える。食器を運ぼうとした時、「私が洗うから」と念押しされた。ミラは生真面目だからか、当番としての務めを全うする傾向にある。

 時刻は午後八時。今日も、三門市は揺れない。

 

「ミラさん」

「なに」

 

 林田は、あえて余計なことを口にする。

 

「二人の婚約者に、会いたいかい?」

「ええ」

 

 即答だった。

 ミラと過ごして数日が経つが。自分は何者にもなれていない。

 

――

 

 一月も半ばを過ぎたが、三門市は今日も雪に降られていた。

 一度目は新鮮だなあと思うが、数回もすれば正直うんざりしてしまうものである。せめて、雪の中でデートでも出来れば話は別なのだが。

 そんなことをぼんやりと思いながら学校を過ごし、宇井と昼飯を共にして、無事何事もなく放課後を迎えた。

 林田は、うんと背筋を伸ばす。

 今日は街に行って、新作DVDを買うつもりでいる。タイトルは「センパイコウハイ」、歳の差ラブコメディ映画だ。

 映画館で見た時は始終笑えたものだが、周囲の客はもちろんカップルばかりであった。今となってはいい思い出である。

 さて、行くか。

 林田は学生鞄を片手に、そっと席から立ち上がり、

 

「あ、林田君」

 

 横から宇井がとことこ近づいてきた。

 林田は「どしたの?」と応じる。

 

「いま、ヒマ?」

「え? まあヒマっちゃあヒマかな。これから映画のDVDを買いにいくつもり」

「おーそうなん。んじゃー付き合ってもいいかな?」

「えっ?」

「えっ」

 

 林田から予想外の反応を示されたからか、宇井は「はて」と首をかしげる。

 

「あ、あー、ジャマしちゃったかな?」

「いやいやいやとんでもない。むしろ俺なんかについてきていいの? ボーダーは?」

「今日はお休みなのだ」

「そうなんすか」

「そうなんすよ」

 

 宇井が、嬉しそうな顔をする。

 そんな宇井を見て、林田もなんだか笑ってしまった。

 

「まあ俺はいいけどさ、本当に買い物に行くだけだよ? 面白いことなんて無いって」

「話ぐらいはできるっしょ」

「まあーねえー」

 

 ここ最近は、宇井と話す機会が増えたと思う。

 宇井はよく笑うし、悪ぶったことを口にしないから、かなり気軽な気持ちで会話ができる。「あの人」とは違って、緊張なんて抱かない。

 いつの間か、宇井の存在は癒しとなっていた。

 

「わかった。じゃ、町まで行こうか」

「おっけ~」

 

 □

 

 雪が降る道中にて、林田と宇井はあれやこれやと世間話に花を咲かせていた。隊についての大まかな近況とか、生徒会の苦労話とか、学校にまつわる怪しげな噂とか、とにかく話が途切れない。笑みも耐えない。

 そうしている内に街一番の本屋が目に入って、ふと宇井が「あ」と声を漏らす。

 

「そうそう、君が勧めてくれた漫画だけどさ、超面白かったよ~」

「お、読んだんだ。な、面白いよなあ」

「うん。いや、恋愛漫画甘く見てました、甘かったですが」

「ねー、根本先生が描く恋愛漫画は本当にじれったくて、そこがよくて……」

「ねー! ほんっと、早くしろよ~って何度突っ込んだことやら」

「根本先生はねー、そこんところひでーからなあ」

「ほんとひどい人だよね。新作が出たら絶対買うわ」

「それなんだけど、来月に新作出すよ」

「ほんとに!」

 

 宇井が喜色満面の笑みを浮かべる。すっかり恋愛漫画の虜となってくれたらしい。

 仲間が増えてくれて、林田もご満悦だった。

 

「といっても、来月までちょっと時間はあるしな……ほかのオススメ、教えてあげようか?」

 

 宇井は、親指をグッと立たせ、

 

「助かる」

「どこでも手に入る名作といえば……『サークルワールド』に『フェスティバル』、あとは『海に消える』かな」

「おっ最後のタイトルが気になりますな」

「おお、宇井さん。いいカンしてるねえ」

「えーどゆこと? キツいやつ?」

「さあ……」

「クッ、ガードが硬いや。でもありがとねー、参考になるわ~」

 

 ちなみに失恋モノである。ネタバラシをしないよう、林田はなんてことのない顔を維持し続けた。

 

 そう話していると、いつの間にやらDVDショップの前にまで着いていた。楽しい時間とは過ぎていくのが早い。

 林田は、そのままDVDショップの自動ドアをくぐっていく。宇井も、何も言わずに林田のあとを追う。

 

 □

 

 新作DVDを買えたことで、林田はホクホク顔になっていた。家に帰ったら、あの人と一緒に見ようと思う。

 そんな林田に、宇井は「よかったね~」と微笑む。まったくだと林田はうなずく。

 そうして店から出て、宇井はふっと空を見上げて、

 

「おお、もう暗いや」

「ほんとだ。じゃあ家まで送ってくよ」

「え――いやいやいいよ別に、一人でも大丈夫」

「ここまで付き合ってもらったし、何より女の子が一人で夜を歩くのは危ないよ。だから送っていく、俺のことは気にしなくていい」

 

 本心からの言葉だった。

 生徒会員として、クラスメートの危機は見過ごせない。三門市に潜む危険とは、何も近界民だけではないのだ。

 何より宇井にもしものことがあったら、自分は死ぬほど後悔してしまうだろう。余計なお世話と言われようとも、今日のところは送り届けるつもりでいる。

 

 そして宇井は、そんな林田のことをじっと見つめていた。

 

 微動だにしない宇井の反応に、林田は心の中で戸惑う。

 何か間違ったことを言ってしまったか、それとも踏み込み過ぎたか。

 

「――わかった」

 

 何てことなく、宇井から笑みが戻った。

 

「じゃ、お言葉に甘えさせていただきましょう」

「ああ」

 

 そうして、林田と宇井は帰路についていく。すっかり暗くなってしまったが、三門市はまだまだ賑やかである。

 林田と宇井も、まとまりのない雑談を好き好きに広げていく。途中で猫談議に入ったが、そのときの宇井はころころと表情を変えてくれて、ほんとうに楽しそうだった。

 

 そして気づいてみれば、街はずれにある仮設住宅地に着いていた。楽しい時間というものは、早く過ぎ去ってしまうものだ。

 

「じゃ、私ん家はここなので」

 

 宇井が、コンテナのような家を親指で差す。立てかけられた表札には「宇井」の文字があった。中に家族がいるのか、窓から黄色い照明が漏れている。

 思うと、仮設住宅地まで足を踏み入れたのは初めてのことだ。街灯が少ないせいで、あたりがより一層と薄暗い。人気がないからか、どこか寒々しい。

 ここまで追いやられたのも、すべては近界民が原因だ。

 そして自分は、そんな近界民のことを私情で匿っている。何だか気まずくなってしまって、なんと言えばいいのか、

 

「今日はありがとう、楽しかったよ」

 

 宇井の言葉で、現実に引き戻される。

 

「あ、ああ。俺も楽しかった、うん」

 

 そして宇井は、ドアノブに手をかけて、

 

「またね、林田君」

 

 ドアが、ぱたりと閉められる。「ただいまー」の一声が、薄く聞こえてきた。

 ――いつか、猫と一緒に暮らせますように。

 林田は、仮設住宅地を後にしていった。

 

 □

 

「ただいまー」

 

 挨拶をしてみたが、反応はない。これだけで林田の全身から緊張感が溢れ出てきそうになるが、家の奥からシャワーの流れる音が聞こえてきて、瞬く間に力が抜けていく。

 風呂か。

 そして当然、林田恋太郎十六歳はあらぬ妄想を抱きはじめ――強く、頭を左右に振るう。 

 煩悩に抗うため、林田は早歩きでリビングへ入り込み、DVDが入った買い物袋をテーブルの上に置いては夕飯を作り始める。今日のメニューは炒飯と麻婆豆腐と味噌汁、あとパンケーキ。

 しばらく調理に没頭してみれば、先ほどのピンクな思考なんて消え失せていた。やっぱり手を動かすのは大事だなあと思っていれば、

 

「あら、おかえりなさい」

 

 ミラが、リビングに入ってきた。

 艶やかな髪と、シャンプーの匂いを連れてきながら。

 

「新作、買ってきたよ」

「あら、そう」

 

 ふたたび邪な妄想が湧いて出てくる。バレないよう、必死に歯を食いしばった。

 調理をしながら、ソファに座るミラをちらりと覗き見する。今日は白いセーターとジーンズでまとめているようだ。ミラは可愛らしさよりも動きやすさを重視している傾向にあるが、これはたぶん、「いざというとき」に備えているからだろう。

 ほんとう、ミラはプロ意識が備わっていると思う。もちろん、そんなミラのことも好きなのだが。

 

 ――数分後。林田はテーブルの上に夕飯を置く、ミラは「おいしそうね」とコメントする。こうした流れも、今となっては慣れてしまったものだ。

 互いに「いただきます」と一礼したあと、林田がケースからDVDを取り出し、プレーヤーに挿入させる。ミラは淡々と夕飯を口にしているものの、視線は既にテレビへとくぎ付けにされていた。

 そんなミラの横顔を見るのが、好きだった。

 

 それからは、二人でラブコメディ映画「センパイコウハイ」を試聴していた。

 歳の差がそうさせるのか、礼儀作法が空回りしたり、頼れる男アピールをしようと大失敗してしまったり、手と手を繋ごうとしてヒロインが悪戦苦闘を強いられたりと、とにかく嬉し恥ずかしいシーンが多い。林田も、たまらず噴き出してしまうことが多かった。

 夕飯を完食し終えても、林田とミラはその場から動かない。開始一時間半後にようやく手と手が紡がれ、デートコースである美術館にてヒロインの解説がほとばしり、先輩がそれを「すげえすげえ」と囃し立て、気づけばもう夕暮れ。先輩後輩が帰路についていって、後輩の家の前で沈黙が続いて――ようやく、キスを交わしあったのでした。

 

 林田はすっかりご満悦だが、ミラはやっぱり真顔だ。けれども林田は知っている、いまごろミラは映画の世界に浸っている事実に。

 ――スタッフロールが流れる。ミラが、己の手のひらをじいっと眺めはじめて、

 

「……手くらい、つないでみようかしら」

 

 その一言に、林田の脈が大爆発を起こした。

 ミラと手を繋ぐビジョンが、否応なく再生されてしまった。

 だから、ミラがこちらを見ていたことに、数秒ほど遅れて気づく。

 

「なに?」

「あ、いや、その……いいんじゃないかな、うん」

「そう」

 

 そう言って、ミラは「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

 ――わかっている。ミラが、誰と手を繋ぎたいかなんて。

 けれども、どうしても、聞いてみたかった。

 

「ね、ねえ」

「なに」

「……誰と、手を?」

「あの二人と」

 

 悪あがきの質問に対して、ミラは躊躇なく答えてくれた。

 林田は心にもなく「だよね」と言い、食器の乗ったトレーをキッチンへ運んでいく。

 

――

 

 一月もそろそろ終わりが近づいた頃、ミラとの共同生活は何事もなく続いている。

 顔を合わせれば「おはよう」と言い合い、交代で朝食を作り、朝のニュースでも眺めながら食事を共にしていく。やっぱりミラは一つも表情を変えないけれど、これがクールビューティーという奴なんだなあと林田は受け入れている。

 二人きりで日常を送るなんて、傍から見れば恋人そのものだ。

 けれど実際は、ミラは婚約者のことしか見ていない。

 たくさんの恋愛作品を試聴してからというもの、婚約者への想いは日に日に増しているように思える。この前なんて、手を繋いでみたいと口にしていたのだし。

 

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 

 ――考え事ばかりしていたら、あっという間に校門の前まで到着してしまった。

 ふと空を見てみるが、そこには青白い空が広がるばかり。最後に近界民が侵略してきたのは、いったいいつ頃だったっけ。

 まるで遠い昔のように思えるが、いつか迎えは来るのだろう。それまでに自分は、ミラの大切になれるのか。

 何をどうすればいいのか、まるで分からなかった。ボーダーに落ちた自分が、婚約者以上の男に成り上がれるものか。

 教室に入る、席につく。

 諦めることこそ、正しい選択なのかもしれない。ミラとは本来敵同士であり、そもそも住む世界が違うのだから。

 そうだろうけれど、それでも、ミラの心を自分のものにした、

 

「おはよー」

 

 耳元で声をかけられ、椅子が動くほど驚いた。

 現実世界を見渡してみれば、若干体勢をのけぞらせている宇井の姿があった。

 

「あ、ありゃ。考え事してたかな? ゴメン」

「い、いや、いいよ。おはよう、宇井さん」

 

 なんとか笑う。宇井も、たははと力なく苦笑い。

 

「いま、話しかけてもいい?」

「いいよ」

「うし。あのさ、『海に消える』読んでみたよ」

「あ、マジで? どうだった?」

 

 宇井は、物悲しそうにうつむいて、

 

「……いい失恋でした……」

「そうか……」

「つかれました……」

「そうだよねえ……」

 

 そして宇井は、ゆっくりと顔を持ち直し、

 

「でも、恋っていいなあって思った次第であります」

「だよな」

 

 林田も宇井も、おかしそうに顔を明るくした。

 

「やーホント、恋愛モノもいいよね。今まではネコ漫画を読んで癒されてたんだけど、こういうのもいい、いいですわ」

「でしょ?」

「うん。調べてみれば数多くの名作があるみたいだし、これからは忙しい日々が続くかも」

「漫画は逃げないから、ごゆっくりと味わっていただければ」

「そーする。いやー、林田君には感謝してもしきれませんわ」

「俺はただ教えただけだよ」

「先導してくれるのは重要な事ですよ、君ぃ」

 

 オペレーターの宇井が言うからか、その言葉の説得力がとても重く感じる。

 ――その時、教室の引き戸が音を立てて開かれた。の前に恋バナで盛り上がった遠山茂と、出席番号十二番の石沢朱美が、手を繋ぎながらで入室してきたのだ。

 どうやら告白は成功したらしい。恋に恋する男として、心から祝福した。

 

「おお、遠山クンやったんだねえ」

「そうだなあ」

 

 まるで他人事のように言う。手前勝手な恋に振り回されている身分のくせに。

 

「ねー林田君」

「何?」

「林田君は、どういう恋がしたい?」

「え? そうだなあ、俺は、」

 

 間、

 

「えっ、えっ? 俺っ? えっ?」

「うん、君」

「いや、俺は……その……」

「あ、もしかしてトップシークレットだったかな? ごめんごめん」

 

 宇井が両手を合わせてきて、林田はすぐに「違う違う」と首を振るう。

 実際のところは、トップシークレットそのものの初恋を抱いてしまったわけだけれども。

 

「あー……そだなあ。俺のことを好きでいてくれるのなら、どんな恋でもいいかな」

 

 嘘は言っていない。あの人と出会うまでは、「モテたい」と常に意識していたから。

 今となっては、あの人のことばかりを考えるようになった。何をどうすれば受け入れられるのか、どうやれば婚約者という壁を乗り越えられるのかがさっぱりわからないけれど。

 

「ふーん……」

 

 そして宇井は、そんな林田の答えを聞いて神妙そうにうなずいていた。感情が読めない顔。

 

「そっかー」

 

 それから、宇井は、

 

「そっかー……」

 

 もう一度、そう言った。

 そして、チャイムが鳴り始める。教室がざわつき始めた。

 

「あ、そろそろ授業か。じゃあ昼休み、また趣味語りしよーねー」

「ああ……え? 予定早くない?」

「あら、ダメだったかしら」

「いや、いや、そういうわけじゃないよ」

 

 宇井は、にっこり顔になって、

 

「おし、決まり。じゃあまたね~」

 

 宇井は手をひらひらさせながら、席へ戻っていった。

 一区切りついて、椅子の背もたれに身を預ける。

 ここ最近は、宇井と話すことが多くなった。発した言葉なら、あの人よりもはるかに多いんじゃないだろうか。

 まあ、あの人はあまり喋るタイプじゃない。自分の付き合い方がヘタクソだから口数が少ないとか、そんなことはないはずだ。たぶん。

 ――婚約者の前では、よく語るかもしれないのに。

 邪念を払うように、首を払う。引き戸が開けられ、教師が挨拶とともに教室へ入ってくる。

 

 □

 

 放課後。自宅に戻って「ただいま」と言えばミラが出迎えてきて、真顔で「おかえりなさい」と告げた。今日も、ミラと一緒に過ごせるようだ。

 流れでリビングに入ってみれば、テーブルの上には「笑いたい」というDVDと、手鏡が置いてある。テレビは点いていない。

 何をしていたのかを聞くと、ミラは手鏡を持って、

 

「笑顔の練習をしていたの」

 

 ドラマのようなセリフを聞かされて、林田は大いに動揺した。

 

「え……なんで?」

「笑顔がうまくなりたいから」

 

 ソファに腰かけたミラが、手鏡に注目しては笑顔をつくりはじめる。もちろん林田は恥じらいと興奮を覚えてしまったわけだが、なんでいきなり笑顔なんて――DVDが目に入る。あれは、無表情系ヒロインが笑顔を生み出そうと躍起になる恋愛ドラマだ。

 そしてミラは、意外に影響されやすいタイプでもある。

 合点がいったが、それで林田が冷静になれるのかといわれればまるでそうでもなく。

 

「……うまくいかないわね、ぎこちない」

「そ、そう? すごくいい笑顔だと思うけど」

「無理やりすぎるわ、こんなの」

「そ、そう」

 

 うまく笑えているように見えるが、ミラはぜんぜん納得がいっていないようだ。生真面目だなあと思う。

 それにしても。

 そのぎこちない笑顔の先にいるのは、きっとあの「二人」なのだろう。林田恋太郎という敵なんざ、お呼びじゃない。

 羨ましかった、とても羨ましかった。めちゃくちゃ羨ましかった。

 顔をぬぐう。今の自分は、きっとひどい顔をしている。

 

「――これじゃだめね。怖がられちゃう」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間、林田の口が勝手に動いていた。

 

「それって、婚約者のことかい?」

「ええ」

 

 即答。

 

「やっぱり、元の世界に帰るつもりなんだね」

「ええ」

「……それなんだけどさ」

「なに」

 

 林田はすがるように、言った。

 

「俺も、君の世界に連れて行ってくれないかな?」

 

 予想外の言葉だったのだろう。めずらしくミラが、過敏な動きで自分のほうを見た。

 

「どうして」

「そ、それは…………ミラさんと、もっと話がしたいから。せっかく、交流が持てたのだし」

 

 本当のことは言った。

 本音はまるで言えていない。

 そしてミラは、そんな林田に対してあきれたため息をついた。

 

「だめね」

「どうして」

「こっちの世界の住民は、例外なく『ひどい目』に遭うからよ」

 

 林田の意識と、背筋が強張る。

 ――ミラは、無表情を貫きながら、

 

「あなたも例外じゃない。私と交流なんて許されず、ひたすら傷つけられる毎日を送り続けるだけ」

 

 近界民の女()として、ミラはこう告げた。

 

「あなたと私はあくまで敵同士、決して相容れない存在なのよ」

 

 嘘なんて、まったく感じられない声。

 

「もちろん、契約は守る」

 

 ミラは、林田を目で射抜いたまま、

 

「私のことは忘れて、あなたはこの世界で生きなさい」

 

 ミラには、黒い角が生えていた。

 自分には、そんなものなどない。

 それが、答えだった。

 

 林田は返事もしないまま、部屋に戻る。制服のままベッドに寝転がって、ひたすらにミラのことばかりを考え始めた。

 この初恋は、間違いでしかなかったんだろうか。

 たぶん、そうなのかもしれない。

 でも、ひとたびミラのことを思うと、いつだって体が熱くなってしまうのだ。

 ――結ばれたかった。

 

 それから数十分後。笑顔をつくりながら「バカなことを言ってごめんね」と言ったが、ミラは「別にいいわ」と返し、夕飯を作ってくれた。

 

 

 



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近界民の女③

 一月の最後の日は、どこまでも白い曇り空に覆われていた。

 真っ白く薄暗い翌朝。制服に着替え階段を降りてみれば、ミラがちょうど朝食を作り終えていた。

 

「おはよう」

「おはよう」

 

 メニューは白米に味噌汁、ホッケに漬物。

 林田はミラと共に、リビングにあるテーブルの傍に腰かける。同時に手を合わせ、いただきますと一礼して、そっと白米を食していく。

 いつもの流れだった。

 ずっと続いて欲しい風景だった。

 それでもミラは、元の世界に戻りたいと願っている。今日に至るまで、婚約者に向けて恋の情熱を向けていた。

 

 ――私のことは忘れて、あなたはこの世界で生きなさい

 

 そんなこと、できるわけないよ。

 自分が何を言おうが、どんな顔をしようが、ミラは表情を変えない。

 ひどいくらい、寂しかった。

 

 □

 

 通学路は寒いはずなのに、体はすこしも震えない。頭の中でずっと、ミラのことばかりを考えていたから。

 目は覚めているのに、まるで夢を見ているかのような感覚。

 あながち、的外れな表現ではないと思う。ミラは遠い遠い世界の住人でしかなくて、本当は触れあう事すら不可能に近いのだから。

 ――なにが「近い」だ。不可能なんだよ。

 いったいどうすればミラと結ばれるのか、どうやれば婚約者に並びたてるのか、自分の何が足りないんだ。そんなことばかり考えていたら、いつの間にか校門を潜り抜けていて、教室の引き戸を開けては自分の席に腰かけていた。

 

 まだ早いからか、教室には数人のクラスメートしかいない。

 両腕を机の上に置いて、うつむく。

 ふたたび、思考をじりっと回し始める。

 今日で一月も終わり。ミラと出会って半月ほどが経過していたが、何も起こることなく、何も起こることなく、無事に二月を迎えられそう。

 なのに、何やら悪寒めいたものを感じる。月を越えた瞬間に何か変化がやってくるんじゃないのか、もしかして迎えが来るのかも。

 何を馬鹿な。そんなことない、そんなことはないはず。世界を越えるには、沢山の準備が必要で――半月もあれば十分じゃねえのか――自分は、なんて無駄な時間を過ご、

 

「おはよー」

 

 体が震えてしまったと思う。

 

「あっごめん、驚かせちゃった?」

「いや大丈夫。おはよう、宇井さん」

 

 教室に入ったばかりなのだろう。右手に学生鞄がぶら下げられていた。

 そして宇井の口元が、にんまりと大きく曲がって、

 

「聞いてくださいよ。最近、超うまくいってるんです、ボーダー」

「! まことか」

「まことだ」

「そうかー!」

 

 ハイタッチを交わし、教室全体に軽やかな音が響き渡った。周囲からは「あいつら何かやってら」という目で見られる。

 今にしてようやく、意識が目を覚ました気がした。

 

「チーム全体も盛り上がってるし、いやホントよくなってます。やりましたわ~」

「でかした宇井さん」

「えへへ。いやはや、君がいなかったら一体ぜんたいどうなっていたことやら」

「そんな大げさな」

「大袈裟じゃないです真実です~」

「またまた」

「またまたまた」

 

 そして、林田と宇井はからからと笑いあった。

 ――思う、つくづく思う。

 宇井真登華という女の子がいなければ、今ごろはさぞ荒みきっていたに違いない。こうして真面目ぶってはいるが、根は単なる色ボケ野郎に過ぎないのだ。

 始めて抱いた恋心が上手く進展しないとなれば、そりゃあもう燻りもする。そんな中で、明るく気楽に接してくれる宇井の存在は本当に助かった。お礼とともに吉報を伝えられると、林田もついついほっこりしてしまう。

 

「いやホント、色々ありがとね。今度、何か奢っちゃうよ~」

 

 だからこそ、ボーダーである宇井には申し訳なさを抱いている。

 だって自分は、ボーダーの敵を匿っているのだ。

 しかもその敵は、宇井の住まいを破壊したという経歴もある。そんな仇敵を己が色恋でひた隠しにするなんて、本当に許されざる話だと思う。

 

「宇井さん」

「なあに?」

「本当におめでとう。これなら、猫と暮らすことも夢じゃないのかな?」

「えへへ~そだねえ」

「そうか」

 

 だからこそ林田は、心の底から言う。

 

「宇井さん」

「なに?」

 

 そして林田は、心の底から言った。

 

「――これからもどうか、幸せに生きていてほしい。もし困ったことがあったら、いつでも呼んでね」

 

 林田なりの、償いの言葉だった。

 嘘なんて、何一つとして口になどしていない。宇井からは数えきれないほどの癒しを提供してもらったのだから、体を張って応援し続けるのは当然といえる。

 一生、宇井には頭が上がらないだろう。それでもいいと、林田は思っている。

 

 そして宇井は、驚いたように目を丸くさせながら、己が左手を口元に添えていた。

 

「……あ、あれ。もしかして、失礼なことでも……」

 

 宇井が、頭をぶんぶん振るう。

 

「いやいや、いやいやいや、そんなことないない」

「そ、そう……」

「むしろ、そこまでしてもらうのは申し訳ないっていうか……今度は私が、林田君に何かしたいっていうか」

 

 それはいけない。償いでなくなってしまう。

 

「宇井さんは何もしなくても……ああいや、強いて言うならこれからも話ぐらいはして欲しいかな? 宇井さんと話すのって、本当に楽しいから」

「え、えっ? マジ?」

「ま、マジ」

 

 マジである。宇井の人柄もあってか、宇井が相手となると口がよく回るのだ。

 猫談議や恋愛漫画についての語り合いは、本当に良い気分転換になってくれた。良くも悪くも、想い人の前となると言葉を厳選してしまう。

 

「……そっか~」

 

 林田の言い分を受け入れてくれたのか、宇井との間に静寂が訪れる。

 宇井は何かを考えているのか、口に手を当てながら無言で何かを考えはじめた。明らかに手を出してはいけない空気になって、林田はつい体を力ませてしまう。

 

「林田君」

「は、はい」

「じゃあこれからも、沢山お話をしましょうか~」

「あ、ああ。そうだな、頼む」

 

 宇井は、うんうんとうなずいて、

 

「あのさ、もし失言とか口にしちゃったら、遠慮なく言ってね?」

「そんな。宇井さんに限って、それはない」

「いやあ、あるよ。よくあるから」

「……わかった」

 

 そして宇井は、なんでもない様子で携帯を前に出し、

 

「あと、これ連絡先」

「ほう……え!? 連絡先っすか!? いいの!?」

「え~当たり前だよ~。それに言ってくれたじゃない、いつでも呼んでって」

「まあそれはそうなんですが」

 

 心臓が跳ね上がりそうだった。女の子から連絡先をいただくなんて、初めてのことだったから。

 本当にプライバシーの一片を受け取ってもいいのかと、目で話しかける。

 

 宇井真登華は、にっこりと返した。

 観念するほかなかった。

 

 確かに自分は、宇井の夢を応援すると誓ったのだ。受け入れるしかない。

 

「わかった。じゃあ俺も――」

 

 連絡先を交換しあうと同時に、チャイムが鳴った。

 教室がざわつきはじめる、宇井が「こんな時間か~」とつぶやく。

 

「それじゃ、またお昼に会いましょ~」

 

 おどけるように言いながら、宇井が手をひらひら振って退散していく。林田も、ばいばいと返した。

 机の上に、数学の教科書とノートを広げる。

 朝に抱いていたはずの脱力感は、今となってはすっかり霧散していた。それもこれも、宇井のお陰だ。

 ちらりと、宇井の方を見る。

 すると、宇井と目が合った。それもピースサインつき。

 なんだか可笑しい気持ちになってしまって、林田もひっそりと親指を立てていた。

 

 □

 

 放課後。ホームルームが終わると同時に、林田は席から立ち上がる。一刻も早く、あの人に会いたいから。

 窓から空を見る。そこにはうっすらと暗い冬空が映っているだけで、近界民の気配なんてまるで感じられない。そのことに胸をなでおろしていると、窓際の席から宇井が近づいてきていて、

 

「おつかれー林田君」

「ああ、お疲れ。今日はボーダー活動とか、あるの?」

「あるのよ~」

「そうか。ほんと、いつもお疲れさん」

「ども~」

 

 ほんとう、よくボーダーを続けられるなあと感心する。

 日常と戦いを行ったり来たりして、よく精神が持ちこたえられるものだ。落ちた身で言うのものなんだが、自分だったら安寧の日常を歩むことしか出来ないと思う。

 だって怖いじゃないか、死ぬかもしれない実戦に備えるだなんて。

 なのに宇井は、楠木葵は、間宮佳三は、今日も明日も三門市を守るために日々ボーダーとして戦い続けている。

 すごいものだった。尊敬すら覚えていた。

 

「じゃあ、俺は先に帰るよ」

「……それなんだけどさ」

「え、何?」

 

 そのとき、宇井に躊躇が芽生えた。

 珍しいな、と思う。宇井は、言いたいことははっきり口にするタイプだから。

 それから宇井は、口元に手を当てながら小さく唸る。どうしたらいいものか、林田は本気で考えはじめて――待つことにした。

 

「……あのさ~」

「ああ」

「よかったらさ~……」

「おお」

 

 宇井は、どこかぎこちなく微笑んで、

 

「ボーダーまで、一緒に歩かない? なんて……」

 

 放課後になると、教室は例外なく賑やかになる。街に出ようと提案するクラスメートが現れたり、引き続き雑談に興じる女子グループがいたり、時には彼氏と彼女が家デートを持ち掛けることもある。

 そして林田と宇井の間は、嘘みたいに静かだった。

 冗談など一切口にしてはならない。はっきりとした返事を言わなければならない瞬間。そんな中で、林田は、

 

「それくらいならいいぜ」

 

 もちろん、快諾した。

 そんな林田に対して、宇井は口元をにやりと曲げ、

 

「おお~ありがとう~。いやあ、君ともっとお話しとかしたくてさ~」

「そうなん? でも俺、トークスキルが特別優れているわけじゃないしなあ」

「気は合ってるでしょ?」

「合ってる」

 

 そう返答してみせた時、林田はとても珍しい光景を目にした。

 宇井が、ほっと胸をなでおろしていたのだ。

 

「……宇井さん?」

「お、おお~なんでもないよ~。ささ、行きましょうぞ」

「おお、行くべ行くべ」

 

 こうして林田と宇井は、ボーダー本部まで足を進んでいく。

 ――帰りは遅くなるけれど、宇井からの誘いとあれば断れるはずがない。宇井との対話は、良い感じに気晴らしになってくれるし。

 願わくば、こんな日常が繰り返されますように。

 

 □

 

 宇井と雑談を交わしあって数分後。暗く染まってきた空から、雪がそっと降ってきた。

 林田と宇井は「おお」と声に出すが、それだけだ。雪なんてとっくに見慣れてしまっている。

 それよりも目につくのは、ビルよりも高くそびえるボーダー本部だ。まだ数メートルほど離れているはずなのに、その外観ははっきりとよく見える。

 ボーダー本部なんて試験を受けて以来、まるで縁がなかった。

 けれどあの人と出会ってから、今まで以上にボーダーの存在を強く意識するようになった。

 

「もう少しで着くね~、なんだか早く感じるわ~」

「そだなあ。にしてもでっけえなあ本部」

「だよね~。ほんと、いくらかかってるのかしら」

「わかんねえ……今度聞いてみて」

「おっけ~」

 

 宇井と触れあい始めて、何をやっているんだろうと薄々気にもなったりした。

 ――ボーダー本部に近づくたび、体の内から緊張感が湧いて出てくる。

 壁のようにそびえるボーダー本部は、自分の秘密などとっくの昔に暴いてしまっているのでは。

 そんなはずはない。あの人が敵に見つかるだなんて、そんな失敗をするはずが。

 ボーダーほどの巨大組織となると、泳がせだのオトリだのは得意なのでは。

 敵の幹部を遊ばせる理由があるものか。あの人のことだから、気配を察するのは得意であるはずだ。

 いやしかし、

 

「あ」

 

 混濁する林田の意識に、宇井の声が差し込まれた。

 たまらず体が震えてしまったが、上着のお陰で宇井にはバレていないようだ。

 

「ど、どしたの、宇井さん」

 

 宇井の視線を追ってみれば、向こう側から若い男女が歩み寄ってきていた。腕を組みながら。

 

「ああ、なるほど」

 

 つまるところが、カップルだった。

 心の底から羨ましくも思うが、とくべつ印象に残るわけでもない。三門市の街中にハシゴしてみれば、カップルなんてよく見受けられる。

 改めて、宇井に顔を向けてみる。

 ――宇井は両足を止めてまで、ぼうっとカップルを見つめていた。

 

「……宇井さん?」

「あっ。な、なにかな~?」

「どうしたの? 何かあった?」

「い、いやあ、なんでもないよ。ただちょっと、気になっただけ。恋愛漫画の影響かな?」

「ほお」

 

 何事もなく、カップルとすれ違っていく。

 さて、

 一歩ごと進むたびに、ボーダーが大きく見えてくる。どうか連行されたりしないことを、心から祈るばかりだ。

 そうこうしている内に、林田はとある違和感を覚える。

 先ほどから、宇井が沈黙を貫いているのだ。

 一体どうしたのだろうかと、林田はおそるおそる宇井の方を見て、

 

「あっ」

「あ、」

 

 目と目と、声と声が重なった。

 宇井をよく見てみる。宇井の手の平が、林田の左手めがけそっと伸びているような――そんなわけあるか。恋人じゃあるまいし。

 事実、宇井の手はひょいっと引っ込んでしまった。

 

「いやほら、なんでもないから、なんでも」

「そ、そお」

 

 ――手くらい、つないでみようかしら

 じわりとフラッシュバックする。変な顔つきにならないよう、ごまかすように自分の頭をはたいた。

 

「ど、どうしたの?」

「い、いやあ、雪を払ってた」

「あ~、そっかそっか。いやあ、はやく春にならないかしらね~」

「なー、早くこないかなあ春。好きな季節なんだよね」

「おっわかるー。あったかいもんね」

「ね。あと、この季節に読む恋愛モノは格別でなぁ」

「あー、わかるわかる。やったことないけどわかる」

「今度やってみなさい、何なら春を題材にした恋愛漫画も教えるから」

「助かるっす!」

 

 林田と宇井が、感情丸出しで笑いあう。

 やっぱりこの人と一緒にいると、どこまでも気が楽になれる。色恋を抜きにするのも、時には必要だ。

 

「あ――」

 

 宇井が、急に足を止める。

 なんだろうと思えば、既にボーダー本部の付近にまで近づいていた。やはり、楽しい時間という奴はすぐに過ぎていく。

 

「じゃあ、俺はこのへんで」

「そう、だね~」

 

 宇井が、どこか気まずそうに微笑む。どういうことだろうと推測しようとして、

 

「ねえ、林田君」

「なに?」

「その……近界民には気をつけてね」

 

 心臓から音が鳴った。

 

「もし近界民が侵略してきたら、全力で逃げて。捕まらないように、気を付けてね」

「あ、ああ、わかってる」

 

 捕まらないで。その警告は、今の林田にはよく突き刺さる。

 だって自分は、悪魔に魅入られた最低の男だから。

 

「それじゃあ、またね」

「ああ」

 

 手を振り、そのまま背を向け、

 

「ねえ」

 

 声をかけられ、立ち止まる。

 

「なに?」

「……その」

 

 ボーダー本部の照明に薄く照らされる中、宇井は口元に手を添えながら、わずかにうつむき続けている。

 何か、言いたいことでもあるのだろうか。

 自分には、待つことしかできない。

 ――暗くなった夜空の下、雪に振られながらで宇井はそうっと顔を上げる。

 

「また、会おうね」

「ああ」

 

 宇井は、にこりと笑い、

 

「――恋太郎」

 

 ――、

 

「……また、お喋りしよう。真登華」

「……うん」

 

 それから言葉を交わすことなく、恋太郎と真登華は別れていった。

 

 □

 

「ただいま」

「おかえりなさい」

 

 遅くに帰宅したからか、リビングのテーブルの上には夕飯が用意されていた。今日のメニューは牛丼に味噌汁、それと漬物。

 ミラは、それを食べながら恋愛映画を試聴していた。タイトルは「グランド・フィナーレ」、出会いから結婚式までに至る話。

 ミラは表情を変えないまま、映画の行く末を真剣に見届けている。それを横目で見つめながら、林田も映画に視線を向けていた。

 ――結婚、か。誰と、添い遂げるのだろう。

 寡黙な婚約者か、派手な方か、もしかしたらもしかすると自分かも――味噌汁を飲み、あったまってきた頭を仕切り直す。

 

 そして数十分後、結婚式をラストに幕が閉じられる。笑いあり、ケンカあり、挫折あり、抱きしめあってキスありの大長編だが、いつ見ても充実感に浸れる映画だ。

 いいものはいい、うん。

 満足気な気持ちに至って、林田はミラの方に首を向ける。ミラは、「いいわね」とつぶやいていた。

 

「いい映画だったでしょ」

「ええ」

 

 ミラは、すっかり冷えてしまった味噌汁をそっと口につけて、

 

「……私も、あんなふうに結婚したい」

 

 その言葉に抗う術など、恋太郎が持ち合わせているはずがない。

 表情を変えまいと、恋太郎は必死に歯を食いしばる。嫉妬心なんてミラに見られたら、あまりにも惨めすぎて死んでしまうだろうから。

 恋太郎は、なるべく音を立てずに深呼吸する。ミラの目をはっきりと見つめながら、恋太郎はあえて問う。

 

「どんな暮らしがしてみたい?」

「そうね。……穏やかな暮らしがしてみたい、争いとは無縁の」

「そうか」

 

 それが、ミラの本音なのだろう。

 けれどミラは、婚約者の為なら戦地にまで赴き、婚約者の名誉を守る為に必ず生き残ろうとするのだろう。時には、敵に頭を下げてまで。

 それは間違いなく、愛そのものだった。

 それにとやかく口を挟むよな奴なんて、馬に蹴られて死ぬべきなのだ。

 恋愛ドラマ大好きな恋太郎だからこそ、そんなことは痛いほどわかっていた。

 

「ミラ」

「なに?」

「……幸せになってね」

 

 ミラは、表情を変えないまま、

 

「ええ」

 

 やがて、ミラが食器を洗い始める。恋太郎はそれを無言で眺め、しばらくして風呂に入って部屋に戻り、宿題を片付けた後に布団をかぶった。

 

 □

 

 世界がぴくりと震えると同時に、恋太郎は目を覚ます。

 次の瞬間、地響きめいた衝撃が部屋全体を覆いこみ、恋太郎は声にならない声を上げながらベッドにしがみつく。ベッドから落ちたら死ぬんじゃないかと思う、「来た」と確信する。

 徐々に揺れが止まっていく、完全に収まるまで恋太郎は動かない。それから数秒後、世界はそうっと静まり返り、恋太郎は体を無理やり奮い立たせ部屋から飛び出す。

 家の電気が点いている、一階から気配が感じられる。恋太郎は走り、階段で転倒しそうになるも必死にバランスを整え、玄関前に躍り出て、

 

「ミラさんッ!」

 

 恋太郎は見た。足音も立てず、出入り口まで歩んでいるミラの背中を。

 

「世話になったわ」

 

 黒い服に着替えていたミラが、振り向きもせずに言う。

 

「本当に、行ってしまうの?」

「ええ」

「そう、か。そうなんだ」

「契約は守るわ」

「わかった」

 

 自分とミラとは、そもそも住む世界が違う、本来は敵同士でしかない、それに婚約者だって居る。

 そんなミラと結ばれるだなんて、夢物語にも程があるのだ。だからこのままお別れして、綺麗さっぱりミラのことなんて忘れ、元の日常に戻って新たな恋でも探せばいい。

 それが、己が人生における真っ当な選択だ。近界民からも身柄まで保証されている、万々歳じゃないか。

 これでいいじゃないか。

 これで、

 

「ミラさん!」

 

 一歩、前に進んでいた。

 

「お願いします、俺も連れて行ってください!」

 

 ミラは振り向かない。

 

「言ったでしょう。あなたが私の世界に来たら、ただただ痛めつけられるだけだって」

「――そ、それでもかまわない。そんなの耐えてみせるからッ!」

「悪あがきはやめなさい」

「そ、それでもっ」

「あなたとの交流はこれでおしまいよ。あなたなら、この世界で話し相手ぐらいは見つけられるでしょう」

「……あなたは、ただの話し相手じゃない」

「何」

 

 恋太郎は、叫んだ。

 

「好きなんだ、ミラさんのことがッ!」

 

 ミラは振り向いた。驚いたように、目を丸くさせながら。

 そんな顔を見るのは、はじめてだった。

 

「出会った時から、君のことを美しいって思っていた」

「……そう」

「君のいない世界なんて、耐えられない。だから俺は近界民に手を貸す、この世界の敵になってやるッ!」

「あなたに出来ることは、なにも無いわ」

「俺には何をしてもいい、痛めつけられてもいい! でもいつか、必ず、俺はミラさんの婚約者になってみせるからっ」

 

 つまらない嘘ばかりついていた。

 痛みつけられるなんて、そんなの怖い。自分の身が好き勝手にやられるなんて、あまりに恐ろしすぎる。

 ――婚約者に勝てる気なんて、全くない。

 

「ミラさん」

 

 それでも俺は、ミラに手を伸ばす。だって、好きだから。

 それを見たミラは、そっと、俺に歩み寄ってくる。香りが、感覚をくすぐりはじめる。

 

「ハヤシダ」

 

 名前をぽつりと呟かれ、俺はそっと笑って、

 

「あなたは、この世界で幸せになりなさい」

 

 後ろに回り込まれていた。

 その事実に気づいた瞬間、首筋に重たい刺激が鋭く伝わってきて、俺はすとんと意識を失った。

 

 □

 

 雪が降り続ける深夜の三門市は、近界民とボーダーが争う戦場と化していた。

 そこかしこで銃声と轟音が響き、剣筋が闇の中で閃く。屍と化したトリオン兵を横目に、沢山の一般人が避難シェルターへと駆ける。

 勢いはボーダーの方が上だが、数は近界民が圧倒的に有利だ。バムスター、モールモッド、バド、アイドラといったトリオン兵が「派手に」散開しているお陰で、ボーダー側は忙しなく対処に追われている。

 一部のボーダーは、「あの女を回収しに来たのでは」と察したが、女の姿が見えないのではどうしようもない。

 

 そして、その女――ミラは、市街地へと走っていた。監視カメラを、無表情でかわしながら。

 どこかで銃声が反響するが、ミラは動揺することなく市街地の中へ突っ切っていく。残骸と化したバムスターを通り抜け、ボーダー隊をやりすごし、待ち合わせスポットである猫の像を通り過ぎて、市街地の真ん中で女は突っ立つ。

 見上げれば、光の輪が目立つ飛行型トリオン兵、バドの姿がある。

 バドはじいっとミラのことを見つめ、ミラもバドを見返す。そうして数秒ほどが経った頃、遠くからミラへ駆けていく人影が一つ。ミラめがけ、空から落下してくる大柄な人影が一つ。

 変わらず戦闘音が反響し続ける雪の街で、角の生えた三人が一同に会する。

 

「すまない、遅れてしまった。無事だったか、怪我は?」

「大丈夫、問題ありません。詳しいことは後にしましょう」

「おう、そうだな。じゃあ、今日のところはとっとと帰るかッ!」

 

 角が生えた男――ハイレインは、黒く染まった手鏡をミラへ返す。

 ミラは無表情のままそれを受け取り、懐かしむような手つきで黒い手鏡を覗う。

 ――そして、ミラは手鏡の引き金を引いた。

 

「窓の影、再起動」

 

 数週間ぶりに、ミラがトリオン体へ換装する。この瞬間からミラは、近界民に戻った。

 

 □

 

 三門市もそうだが、ボーダー本部も泣きそうになるくらい忙しかった。

 何せ、敵が本部へ侵入してきたのだ。敵は少数精鋭(ガロプラ)で、A級ボーダーすら手を焼くほどの実力者揃い。もはや外も中も戦場だった。

 そんな中でオペレーターの一人が、「あの女」を発見したと大声で報告する。場所は市街地の真ん中、オペレーターが捕縛せよと命令しようとした瞬間、「動物男」が女に駆け寄ってきて、更に「爆撃男」が女の傍に着地し、間髪入れず女からトリオン反応が検知される。トリガー反応のログから察するに、黒トリガーが発動したらしい。

 いよいよもって、ボーダー本部は泣きそうになるくらい忙しくなっていった。

 

 □

 

 数十分後。ミラがアフトクラトルの船に帰還したとの報告を受けて、ヴィザも早急に船へ戻る。後のことはガロプラに任せれば良い。

 艦内に戻ってみれば、ハイレインとランバネイン、そしてミラが席についていた。「いつもの」メンバーを目にして、ヴィザはほっと微笑む。

 

「よくぞご無事で」

「ええ。助けてくれてありがとう、感謝します」

 

 そしてミラは、間髪入れず、

 

「隊長に渡した泥の王はどうなりました?」

「それなら、我が領土にしっかり保管してある。お前のおかげで、泥の王は敵に奪われずに済んだ」

「そうですか。それはよかった」

 

 ヴィザは、以前の侵攻について思い起こす。

 ミラの重要性に気づいた敵勢力は、とにかくミラを潰さんと全力で食ってかかってきた。その時には既に負けが込んでいた状況だったから、ハイレインは指定されたメンバー全員に帰還を命じた――が、寸前のところでミラは間に合いそうになかった。身を守り続けるがあまり、ワープを行う為のトリオンが切れていたのだ。

 そこでミラは、「回収」しておいた泥の王と窓の影をハイレインめがけ躊躇なく投げてよこし、真顔のまま「ご武運を」とまで言いのけてみせた。

 あの時に見せたハイレインの顔を、ヴィザは未だに忘れられない。

 これでも長生きしてきたつもりだが、ミラほど尽くす者は他に思いつかなかった。

 どうしてハイレインとランバネインがミラのことを内心怖がっているのか、よく分かった気がしたものだ。

 

「一つ、質問してもいいですか?」

「なんだ」

「私を救出してくださったことは、本当に感謝しています。ですが、この戦力はすこし過剰気味ではないでしょうか。ガロプラまで使役して、貸しを作ってしまうのでは?」

「問題ない。お前の救出はもちろん、ガロプラには他にやってもらう仕事があったからな」

「そうですか」

 

 ハイレインが淡々と告げ――そこでランバネインが、「待った」と一声かける。

 

「一つ、報告させてくれ」

「何?」

「……俺はガロプラの連中に『最優先でミラを助けて欲しい、今後の処遇も考える』としっかり頼んだ。だから、お前がこの件を気にする必要はない」

 

 ミラは、「まあ」と微笑む。

 

「どうして、そこまで?」

「そりゃあ……まあ、婚約者だからな」

「そう」

 

 柔らかい声色だった。ランバネインは、子供のように笑う。

 

「待て」

 

 そこで、ハイレインの声が重く響く。

 一同の視線が、ハイレインに向いた。

 

「ランバネイン、一つ訂正させろ」

「何だ?」

 

 ランバネインの表情は未だ明るい。まるで、ハイレインの腹の内を読んでいるかのように。

 

「それは、俺が先に言った」

 

 間。

 先ず最初に吹いたのは、ヴィザだった。ハイレインといえば冷静沈着の野心家というイメージだが、やはりオトコ心には抗えないということか。

 ミラも、口元に手を当てながらで微笑している。ランバネインに至っては、どっかんどっかんと笑っていた。

 

「そうだったそうだった。いやすまない、隊長」

「別にいい」

 

 ハイレインとランバネインの争いを見ていたら、なんだか自分も混ざりたくなってきた。

 ヴィザは、心の中でにたりと笑いながら、

 

「ミラ殿。このお二人は、あなたのことをたいそう心配しておられましてな」

 

 ミラが、興味ありげにヴィザを見る。

 

「ミラ殿の救出を行うために、まずはイルガーの使用を禁止しました。ミラ殿を巻き込まないための措置ですな」

「あら」

 

 その時、ハイレインがヴィザのことを無表情で睨みつける。しかしヴィザは止まらない。

 

「それと、雷の羽を使用する際はくれぐれも狙撃モードのみで扱うようにと、ハイレイン殿が真っ先に厳命しておりました」

「……余計なことを言うな」

「申し訳ありません。重要な要件であると思いまして」

 

 ランバネインがわははと笑う、ミラがちらりとハイレインを見つめる。

 

「そうでしたか。道理で爆発音が聞こえなかったわけです」

「……ミラを巻き込んだら、色々と面倒なことになるからな」

「そうですね」

 

 ハイレインの建前など気にもせず、ミラは楽しそうに口元を曲げていた。

 

「隊長、ランバネイン、ヴィザ翁。今回は本当に感謝しています、家の者にも報告します」

「わかった」

「ま、お前が無事で何よりだ」

 

 話にひと段落がついて、一同が肩の力を抜き始める。帰った後も色々と忙しくなるだろうが、せめて今だけは。

 ひと眠りしようかなと、ヴィザが思いかけた時、

 

「隊長」

「なんだ」

「ひとつ、わがままを言っても良いでしょうか?」

 

 ぼんやりとしかかっていた意識が、再び硬直化する。ミラにしては珍しい物言いだ。

 ハイレインとランバネインも、無言でミラの素振りを覗っていた。

 

「まず、この写真を見てください」

 

 ミラが、ポケットから一枚の写真を取り出す。海を背景に、ピースサインをしている水着姿の青年が一人、その左右には父と母らしき人物が映っていた。

 ハイレインが、目で「誰だ」と質問する。

 

「この青年ですが、敵である私のことを善意で匿ってくれました」

「ほう!」

 

 ランバネインが腕を組みながら、青年のことをまじまじと見つめる。

 ハイレインは無表情のまま、「それで?」と促す。

 

「快適な環境を提供してくれたばかりか、玄界の文化や料理を教えてくれました」

 

 そう言って、ミラが数枚のメモを取り出す。アフトクラトルの言語で書かれたそれには、「カレー」なる料理の調理法が書かれていた。

 なるほど。ミラが言っていることは事実らしい。

 しかし、その青年とやらは近界民の事を知らなかったのだろうか。或いは、「我々」の存在は隠ぺいされているのかも。

 ――何にせよ、その青年のお陰でミラは生き延びれたというわけだ。ヴィザは、心の中で感謝する。

 

「彼は、とてもいいひとでした」

 

 ハイレインもランバネインも、口を挟まない。

 

「ですから、彼の一族には手を出さないで欲しいのです。彼とも、そう約束しました」

「……そうか」

 

 ハイレインは、そっとうつむく。

 玄界の住人に例外的な処置を施しても良いものか、真面目に考えているのだろう。

 

「ミラが約束したのなら、俺もそれに賛同しよう」

 

 ミラが、ランバネインに目をやる。

 

「匿うことだって簡単じゃないだろうに、そいつは見事やってのけてくれた。同じ男として、賞賛を送りたい」

 

 ランバネインが言い切る。

 口には出さないが、ヴィザもランバネインの言い分には同意していた。恩を仇で返すなど、武人としての名がすたるというものだ。

 あとは、当主の決定を待つのみ。

 ミラは、ランバネインは、ヴィザは、無表情でハイレインの出方を待っている。

 

「……わかった」

 

 ハイレインが、皆を見る。

 

「ミラの言う通りにしよう」

 

 ランバネインが、ふっと笑う。

 

「ほかでもないミラの命を救ったのだ。候補にならない限りは、手を出さないことを誓おう」

「そうですな、それが妥当でありましょう」

 

 ヴィザの言葉を機に、艦内の空気が緩和していく。ヴィザの内心も、ほっとしていた。

 そして肝心のミラはといえば、深く両肩で息をして、胸に手を当てはじめ、ゆっくり、ゆっくりと、ハイレインとランバネインへ視線をやって、

 

「ありがとうございます」

 

 ミラが、顔いっぱいの笑顔を咲かせていた

 

 そんなミラを前に、ハイレインは、ランバネインは、ヴィザは、もはやどうすることもできない。

 ヴィザの男心がつい揺れはじめ――持ち前の精神力でなんとか食いしばる。相手は上官の婚約者なのだ、やましい目で見てはいけない。

 

「あ――や――その」

 

 ランバネインの顔は、完全に真っ赤に染まりきっていた。すっかり見惚れてしまっているのか、言葉がおぼつかない。

 ハイレインはといえば、相変わらずの無表情を貫いていた。まあ、呼吸は止まっていたのだが。

 

「……こりゃあ、あれだな」

 

 未だ顔を赤くしながら、ランバネインが照れ隠しに頭を掻く。

 

「男として、いよいよ負けていられませんな。なあ、兄者?」

 

 ランバネインが、嬉しそうな顔をしてハイレインの方を見る。

 ――顔をそっぽ向かせているハイレインは、実に苦しそうな声で、

 

「……うるさい」

 

 そんなハイレインを見つめているミラは、とても楽しそうな顔をしている。

 

 □

 

 真っ暗だった。

 地に足はついているから、きっとあの世ではないのだと思う。けれど左右を見渡してみても、ひたすら黒のみが見えるだけだ。

 どうしよう、無暗に歩き回ってもいいんだろうか。

 恋太郎は、両腕を組んでうんうんと唸りはじめ、

 

『ハヤシダ』

 

 後ろから、聞き慣れた女の声が聞こえてきた。

 考える前に振り向くと、そこにはミラの姿が闇の中ではっきりと映っていた。

 ――恋太郎の口元が、思わず曲がる。

 

『ミラさん! 戻ってきてくれたの!?』

『ええ。あなたは、見込みがある男だと思ったから』

 

 相変わらずの無表情で、さらりと大事なことを告げてくる。

 そんないつものミラが、とても愛おしい。

 

『ほ、本当なのかい?』

『ええ。あなたの頑張り次第では、三人目の婚約者として見るかもしれない』

『! そうか……お、俺、頑張るよ、やるよッ!』

『そう言ってくれると思ったわ』

 

 ミラが、闇の奥を指さす。

 

『ここを歩けば、私の世界に辿り着けるわ』

『本当に?』

『ええ。ただし、この先を進めば二度とあなたの世界には戻れない』

『行くよ』

 

 食い気味だった。

 

『俺は、ミラさんの傍にいる』

『……そう』

 

 恋太郎の言葉に対して、ミラはふっと笑った。笑ってくれた。

 

『じゃあ、行きましょう』

『……はい!』

 

 ミラが背を向け、闇に向かって歩き始める。

 恋太郎も、ミラについていこうとして、

 

 ――お知らせします。近界民はボーダー隊によって完全に撃退されました。繰り返します、近界民はボーダー隊によって完全に撃退されました

 

 拡声器を通したような大声が、闇の中で大きく反響する。恋太郎が戸惑うなか、ミラは構わず闇の中に消えていく。

 

「ま、待って!」

 

 ――避難された市民の皆様は、どうかお気をつけて帰路についてください

 

 追おうとした瞬間、真上から白い光が覆いかぶさってきた。

 これはいったいなんだ。自分はミラさんについていかなければならないのに。

 恋太郎は、ミラめがけ手を伸ばし、

 

 □

 

 恋太郎の手は、白い天井めがけぼうっと伸びきっていた。

 

 跳ねるように身を起こす。見渡してみれば、ここは家のリビング。先ほどまでソファで横になっていたらしく、茶色の毛布が下半身にかけられていた。

 時計を見れば、午前1時くらい。

 遠くから、ボーダー本部からの避難解除宣言が重く響いてくる。

 テーブルの上には、恋愛ドラマのDVDパッケージがぽつんと置かれている。

 家の中から、人の気配などまるで感じられない。

 

 夢が、終わってしまった。

 

 力なくソファから立ち上がる。今にして思うと、あの人はわざわざソファにまで運んでくれたのだろうか。

 ほんとう、律儀な人だ。

 はあ。

 あの人は、無事に帰ることが出来ただろうか。

 婚約者から、温かく出迎えられますように。

 ――二度と会えない事実が、ひどくひどく悲しい。

 

 寝よう。

 途方もない脱力感を引きずりながら、恋太郎は二階にある部屋までのろりと戻っていく。階段の一段一段が重い。静かすぎて、とても寂しい。

 部屋のドアをゆっくりと開ける。真っ暗な部屋の中に入り、そのまま布団に倒れようとして、机の上にある携帯から軽やかな音が鳴る。

 あれ、

 眠たげな目を携帯に向ける。画面に明かりが点いた携帯を、ゆっくりと手に取ってみれば、

 

 真登華>大丈夫? 怪我してない?

 

 メッセージアプリに表示された名前を見て、恋太郎の意識に火が付く。

 とても忙しい状況だろうに、時間を割いてまで自分の心配をしてくれたのか。自分は大慌てで返信をする。

 

 恋太郎>大丈夫、生きてるよ

 

 つづけて、恋太郎はこう発言した。

 

 恋太郎>活動お疲れ様。近界民をやっつけてくれて、本当にありがとう

 

 我ながら、うすら寒いメッセージをよこしたと思う。

 色恋を理由に、近界民の味方になろうとしたくせに。

 ――そして、「入力中……」のテキストが流れ始める。真登華はずっと、画面を見てくれている。

 

 真登華>どういたしまして! これもお仕事ですからVV じゃあ明日、また学校で会おうね~、おやすみなさい

 恋太郎>お疲れ様でした。おやすみなさい

 

 携帯を閉じる。暗い部屋の中で、恋太郎は大きく息を吐く。

 何もかも失ったと思い込んでいた。けれども嘘みたいなタイミングで、宇井真登華という話し相手が自分の身を心配してくれた。

 ほんとう、自分にはもったいないぐらいの話し相手だと思う。

 三門市を裏切った身でありながら、自分は今もこうして恵まれてしまっている。

 

 改めて、宇井からのメッセージを見つめる。

 宇井は三門市の為に、今日も戦ってくれた。そんな宇井を欺き続けてきた自分なんて、それはもう酷いという他ない。

 せめてこれから出来ることはといえば、三門市への罪滅ぼしだろう。

 そうだよな、うん。

 携帯をポケットにしまいこみ、部屋の電気をつけては私服に着替え、上着を羽織り、急いで家から出た。

 もしかしたら、人命救助の手伝いが出来るかもしれないから。

 

 □

 

 数時間後。手伝いを終えた恋太郎は、家の鍵をそっと開け、玄関に立って、ぽつりと、

 

「ただいま」

 

 、

 

「……ただいま」

 

 




次回、最終回です。


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宇井真登華

 目覚まし時計が鳴る五分前に目を開け、アラームのスイッチを切っては慣れた手つきで制服に着替える。

 時刻は6時半。カーテンを開けてみれば、2月の薄い青空が恋太郎の目をくらませた。

 さて。

 部屋のドアを開け、廊下に出る。一階から人の気配、フライパンの焼ける音が聞こえてくる。

 恋太郎は無表情のままで階段を下りていく。「もしかしたら」の希望を胸に添えながら。

 

「あら、おはよう。恋太郎」

「おお、今日も早いなぁ」

 

 父と母が、今日も恋太郎のことを出迎えてくれた。

 ――2月に入って数日後。仕事を終えたらしい父と母が「戻ってくるわね」「お土産持ってくるからなあ」とメッセージをよこして、二人そろって家に戻ってきたのだ。

 晴れて顔を合わせると同時に「近界民に襲われなかったか」とすごく心配されたが、恋太郎は「大丈夫だった」と告げた。嘘はついていない。

 

 そういうわけで、これからの朝食は父と母が用意してくれることになった。

 日常が、戻ってきたのだ。

 

 □

 

 あの人と別れて以来、恋太郎は生徒会活動と勉強に没頭していた。

 三門市への罪滅ぼしがしたかったから、というのも間違いではない。けれども実際は、それしかなかった、というのが正しい。

 生徒会お悩みボックスに何かしらの投稿があった際には、恋太郎はすぐに動いた。時間があれば勉強に没頭していたし、三門市が近界民に襲われれば真っ先に救出活動に勤しんだ。

 その結果として教師からの評判が上がったり、宇井真登華から「でかした」と褒められたり、時には新聞に取り上げられたりもしたが、内心では裏切り者としての申し訳なさと、あの人がいない空しさが拭い切れないままだ。

 ――だからか、時おり窓から空を眺めていることがある。近界民の再来を待っているのか、もしかしたらあの人が降ってくるのを期待しているのか、自分でもよくわからない。

 

 そんな日々を過ごしている恋太郎だが、趣味はまるで変わってはいない。相変わらず恋愛ドラマは見るし、小説だって読む。

 ただ最近は、それらを見て笑ったり泣いたりはしていない。

 恋という夢物語から、醒めてしまったせいなのかも。

 それでも何だかんだでやめられないあたり、自分は恋が羨ましくてしょうがないんだなあと思う。

 

 ――2月に入って数日後。根本先生が描く新作の恋愛漫画が発売されたということで、恋太郎はふらりと休日の街並みへ立ち寄った。

 時刻は十一時頃。今日は天候に恵まれているからか、ずいぶんと暖かい。道端に落ちている雪も溶けかかっている。

 長い交差点を通り抜けてみれば、待ち合わせスポットである猫の像が目に入る。像の足元には、カップルらしき二人の男女が談笑しあっていた。

 いいもんだね。

 心の中でぼやきながら、恋太郎はビル街の合間に溶け込んでいく。色とりどりの広告と人の声を潜り抜け、バーガークイーン三門市本店を横切って、ようやく三階建ての本屋が見えてきた。

 漫画は残っているだろうか、売り切れていたらそれはそれで。

 そんなふうに思いながら、恋太郎は店の中に入っていく。

 

 白い壁がよく目立つ、広々しい店内が恋太郎を出迎える。見慣れた光景を前に、恋太郎は静かに息をついた。

 新作が置いてある中央フロアにまで歩んでみれば、台の上には漫画がびっしり並べられている。表紙には、涙を流している女の子がひとり。傍にある立て看板には、派手過ぎないフォントで「根本先生、待望の新作」と書かれていた。

 どうやら、余裕で間に合ったらしい。

 それにしても、表紙からずいぶんと攻めてるなあと思う。またビターな内容でも描いてくれたのだろうか。

 ――いまの自分に、ぴったりじゃないか。

 なんだか苦笑いをこぼしながら、恋太郎は本を取ろうと手を伸ばし、

 

 指と指が触れた。

 

 誰だろう――そう思って、顔を上げてみれば、

 

「あ」

「あ」

 

 同時に声が出たと思う。

 あまりに見知った顔だったからこそ、恋太郎は次に何をすべきかまるでわからない。

 

「おお~、偶然だねえ。恋太郎も、これを買いに?」

 

 宇井真登華が、顔をにこりとさせながら聞いてくる。

 質問されて、ようやく意識が走り出す。

 

「そ、そうそう、買いに来たんだよね。そっか、真登華もか」

「そーそーそうなんですよ~」

 

 そう言って、真登華が本を手にとる。

 

「いやはや、楽しみだったんだよねえ。表紙からして、何かビターな雰囲気がするけど」

「だなあ……先生が描いているしなあ……」

 

 ちなみに根本先生は、五本ほど恋愛漫画を描いている。そのうち五本が、報われない結末を辿るわけだが。

 表紙を見るに、今回もビターエンドは確定らしい。根本先生のファンなら、「知ってた」と答えるだろう。

 

「ま、読んで結末を見届けましょうか」

「そだね」

 

 恋太郎も本を手に取り、二人して会計に向かう。こうして今日のミッションは、難なくクリアしたわけで、

 

「――ところで恋太郎」

 

 店の外に出ると同時に、真登華から声をかけられる。

 

「今日はさ、何か予定ある?」

「え? どういう?」

「その~……恋太郎に、聞きたいことがあって」

 

 なんだろう、何かしでかしたのか。それとも、あの人を匿ったことがバレたのか。

 そう思うと、身も心も強張り始める。

 オペレーターである真登華の動向に、不安が生じた。

 

「恋太郎さ、何かあった?」

「う――」

 

 声が漏れてしまう。

 真登華は、「うん」とうなずいて、

 

「最近の恋太郎はさ、何かこう、遠く見えるんだよね」

「……え?」

「私と話している時、どこかぼんやりしてる。なんていうのかな、眠そう……っていうのかな?」

 

 やっぱり、顔に出てしまっていたのか。

 真登華に失礼な態度をとったようで、つい目を逸らしてしまう。

 

「あと、窓の外をよく見るようになったよね」

 

 見られていたのか。

 堂々と上の空になっていたわけだし、バレても仕方がないのだけれど。

 

「そんな君のことがさ、とても気になってた」

 

 真登華が、不安そうに眉をひそめる。

 そんな真登華を見て、胸の内から罪悪感がじわりと溢れてくる。一瞬でも疑ったことを、心より恥じる。

 こんないいひとを、これ以上不安になどさせてはいけない。自分だけが抱えるべき罪に、巻き込んではいけない。

 

「い、いやあ、ちょっと失敗しただけ。それだけだよ」

 

 からっと笑ってみせる。嘘はついていない。

 

「そういうことだから、真登華が心配する必要なんてないよ。うん」

 

 白々しく腕時計を見て、

 

「気にかけてくれてありがとう。じゃあ、その、また学校で」

 

 そう言って、恋太郎は真登華に背を向け、

 

「待って」

 

 手を、掴まれていた。

 

「――え?」

 

 真登華の顔は、どこまでも真剣だった。

 

「私でよかったら、話ぐらい聞くよ」

「……どうして、そこまで」

「放っておけないから」

 

 無表情のまま、真登華はそう言った。

 その顔は、まるであの人のようで――あの人と違って、真登華は自分の手をとってくれた。

 この誠実さを、振り解けるはずがない。

 

「遠慮することないよ」

「……いいの?」

 

 うなずく。

 

「君には、こうしてお世話にさせてもらったしね」

 

 ああ――

 そういえばそんなことも、あったっけ。

 不思議な廻り回りに、なんだか笑みがこぼれてしまう。

 真登華も、にっと笑って、

 

「ここじゃ話しづらいだろうし、バーガークイーンで話さない? 奢るからさ」

 

 まいった。

 そう言われたら、頷くことしかできないじゃないか。

 気まずそうに、けれども救われた気がして、口元がつい曲がってしまう。

 それを見た真登華は、いつもの顔で微笑んでくれていた。

 

 

 バーガークイーンで注文の品を受け取り、恋太郎と真登華は二人そろって二階の飲食コーナーまで移動する。

 無言のまま向かい合わせで席に座り、真登華が「どうぞ」と手で促す。

 ここまで来たからには、話さなければならない。そうしなければ、きっとロクに前も進めないだろうから。

 

「……俺さ、フラれたんだよね」

「え?」

 

 なんとか笑えたと思う。

 

 ――前から好きな人がいたんだ。綺麗で、聡くて、とても恋に一途な人だった。

 ……その人にはね、素敵な婚約者がいたんだ。でもね、その人のことが本当に本当に好きだったんだよ。

 でも結局、婚約者には勝てなかった。その人は、婚約者とともに遠い場所へ旅立っていったよ。

 でもね、その人は最後にこう言ってくれたんだ。幸せになりなさいって。

 ……優しいよね。恋のジャマばかりした俺に対して、そんなことを言ってくれるなんて。

 とまあ、そんなことがあって、すごくへこんでた。それだけの話なんだ。

 

 嘘は言っていない。

 ただ、核心を話すわけにはいかなかった。真実を知ってしまえば、ボーダーの一員として余計な負担をかけてしまうだろうから。

 三門市を裏切った罪は、自分だけ背負えばいい。そんな奴がフラレ虫になるだなんて、実にお似合いの結末じゃないか。

 

 そんな恋太郎を前にして、真登華は真剣な顔つきを崩さない。何も口にしないまま、目線を下に向けて、何か考え事に没頭していた。

 そこまで、本気にならなくてもいいのに。

 それでも真登華は思考する。お喋りすら許さない雰囲気にかられて、恋太郎は何をすることもできない。

 静かすぎて、客の笑い話がよく聞こえてくる。どこかで携帯のメロディが鳴った。急にくしゃみが響いてきて、背筋がびくりと動く。

 

「――ねえ」

「な、なに?」

 

 無表情のまま、真登華がそうっと視線を合わせてくる。

 

「君はさ、その人に全力でアプローチしたの?」

「え? ま、まあ」

「告白はした?」

「した」

「……なあんだ」

 

 答えを聞いて、真登華がふっと笑いはじめる。

 

「君はもしかして、婚約者より魅力がなかったからフラれた……とか考えてない?」

「……思ってる」

「それは勘違いだよ」

 

 恋太郎の目が丸くなる。

 そんな恋太郎を見て、真登華はくすりと微笑み、

 

「君がフラれたのは、単に出会うのが遅れたから。それだけだよ」

「……そんな、まさか。そんなはずないよ」

「ええ? かっこいいくせに、卑下なんてしちゃダメだよ」

「……え?」

 

 真登華はようやく、バニラシェイクを口にした。

 

「君は誰かを助けられる人でしょ? そんなの、かっこいいに決まってるじゃない」

 

 ストレートな物言いに、恋太郎の内心がかっと熱くなってしまう。

 

「……言い過ぎだよ」

「ううん、私はそう思ってるから」

 

 ぐうの音も出ねえ。

 

「……だからさ」

 

 真登華は顔を明るくしたまま、言う。

 

「君の魅力が足りなかったんじゃない。運が悪かったから、初恋が上手くいかなかっただけ」

 

 どこかで聞いたような言い回しをされて、何度もまばたきしてしまう。

 

「最初に君と出会っていれば、その人は君に惚れていたと思うよ。オペレーターとして、それは保証する」

 

 軽い口調で言うが、きっと考えに考え抜いた結論なのだと思う。だって自分も、そうやって真登華に助言をしたことがあるから。

 苦笑が漏れる。人の縁とは、こういうふうに回るものなのか。まるでドラマだ。

 

「……そっか、そういうもんか」

「そーそ。さ、飲んで食べて」

「そうする」

 

 真登華の顔を見ていたら、なんだか張り詰めていた気が抜けてきた。

 これが人柄なんだなあと実感しながら、「いただきます」とハンバーガーを食べ始める。

 

「で、さ」

「何?」

「君はさ、まださ」

 

 そこで、真登華の言葉が止まる。

 ハンバーガーも口にしないまま、真登華は斜め下に視線を逸らすばかり。何か、言いづらそうにしているような。

 急かすことはできない。ただ、待つだけ。

 

「そのー……」

「うん」

「――恋とか、そういうのに興味ある?」

 

 その質問に、恋太郎は「そうだなあ」と前置きし、

 

「最初は、恋なんてこりごりだと思ってた。俺なんぞが出来るはずないって、そう思い込んでた」

「……うん」

「でも真登華のおかげで、ちょっとは頭が冷えたかな? 好きな人が出来るまで、まあ、お預けってことで」

 

 最初は、ヤケクソのあまり卑下にかられまくっていた。

 けれど真登華が、それは違うと訂正してくれたのだ。そろそろ付き合いが長くなる真登華の言葉だからこそ、疑うことなく信じられた。

 

「……ほお~……そうなの……」

 

 その真登華は、まるで興味深そうにうんうんと頷いていた。

 なんだろう、このリアクションは。

 何かまずいことでも言ってしまっただろうか。身構えるあまり、握りこぶしを作ってしまう。

 

「んー、そっかー……そっかー……」

 

 真登華の口に手が当てられる。「んー」とか「あー」とか、くぐもった声で唸り始める。

 

「……うし」

 

 スイッチが入ったらしい。

 それに伴って、恋太郎の体に力が入る。

 

「今の私ってば、フリーなんだけどさ」

 

 うん。

 

「よかったら、お付き合いしてみない?」

 

 真登華が、たははと笑う。

 つられるように、恋太郎もわははと声に出して、

 

「えー……え? 何? えーっと、確認するけど、もしかして……レンアイ的な意味で?」

「そーそ! 恋愛的な意味で!」

「そっかあ……」

 

 あ、これ告白なのか、

 

「え!?」

「あ、あはは……ごめんごめん、びっくりしちゃうよね、いきなり言われちゃあ」

「い、いやまあ、その……本当なの? マジなの?」

「マジだよ」

 

 真登華という女の子は、決してこういう嘘をついたりはしない。

 けれど告白という一世一代の言葉となれば、本能的に疑ってしまうわけで、

 

「お、俺なんかのどこが」

「あっ、『なんか』なんて言っちゃだめだよ。さっきも伝えたけど、君は運が悪かっただけなんだから」

「は、はい」

「……まあ、あれですよ。恋太郎の人柄とか誠実さとか、そういったものを見てきたから、かな?」

「そう、なの」

「そうなんですよ」

 

 そうか。

 そういうふうに、人は人を好きになっていくのか。

 数多くの恋愛ドラマを見てきたはずなのに、いざ自分のこととなるとまるで実感が湧かない。

 

「……あの」

「なに?」

「俺は真登華のことを、善い話し相手だと思ってる。だから、いきなり異性として見るのは、難しいというか」

「ああ、そうだよね」

 

 そう言われるのは予想していたのだろう。真登華は惑うことなく、「うん」と首を振って、

 

「だからさ、最初はさ」

「うん」

 

 ――あ。

 次に告げる言葉って、もしかして、

 

「お友だちから、始めませんか?」

 

 ああ、やっぱりそれを言うのか。恋愛モノの定番を。

 ドンピシャだったからか、思わず笑いが込み上がってしまう。真登華も顔を赤くしながら、くすぐったそうに微笑んでいた。

 うん。

 言おう。勇気を振り絞ってくれた女の子に対して、嘘偽りなく本心を伝えよう。

 

「真登華」

「うん」

「俺はまだ、真登華のことを友人だと思ってる。だからこれからは少しずつ、ゆっくりと、真登華のことを好きになっていこうと思う」

「……わかった」

 

 その言葉で十分だったのだろう。

 

「恋愛漫画で培ったテクニックを、あなたに見せてあげる」

 

 真登華は、顔いっぱいの笑顔を咲かせていた。

 ――ああ、それは確かに凄そうだ。期待できそうだ。

 

 お会計を済ませたあと、恋太郎と真登華は目的もなく、夕暮れになるまで街中を歩き回った。

 

 □

 

 あの日から、真登華と一緒に居る時間が増えた。

 

 まず教室に入れば、真登華がおはようと声をかけてきて、それから他愛の無いお喋りをする。読んだ本の内容について、ボーダー活動についてのあれこれ、休日はどうするか――ほんとう、他愛の無い話ばかりだ。

 昼休みになれば、大抵は真登華と一緒に昼食をとる。自作の弁当を見せ合って張り合ったり、とっておきのおかずを交換したり、猫とか恋とかについて語り合うのがほとんど。

 そして放課後が訪れれば、決まって真登華と下校するようになった。向かうコースはもちろん、真登華が住む仮設住宅地まで。

 雑談に興じている中、真登華が時おり「いつもエスコートしてくれてありがとう」と言うことがあるが、恋太郎は当然のように「女の子を届けるのは男として当然」と告げる。そのたびに真登華は顔を赤くしたり、恥ずかしげにお礼を口にする。そんな真登華を見るたびに、恋太郎はどこか爽快めいた気分を覚えてしまうのだった。

 

 放課後となれば、時には生徒会の仕事が挟み込まれることもある。そんな時は、真登華が「手伝うよん」と手を貸してくれるのだ。

 生徒会の皆も真登華の手際の良さは高く評価していて、生徒会長にいたっては「ぜひ生徒会に!」とスカウトするほどだ。当の真登華は「ボーダー活動もあるので、ごめんなさいっ」と断っているのだが。

 

 そして時には、真登華にボーダーとしての活動が割り振られることもある。そうなると朝から欠席だったり、放課後になって共にボーダー本部まで送り届けることもあったり。

 前者のケースになると、一度も真登華の顔を見ることもないまま一日を過ごすことになる。けれども時間を見計らってメッセージを送ってきてくれるから、寂しいなんてことはない。

 ここ最近は早打ちのコツも覚えたお陰で、テキストのみで話題の恋愛ドラマについてあれやこれやと議論することもあったり。

 

 そして休日となれば、真登華と一緒に街中を歩き回る。コースなんて定めていないが、腹が空けば洋食和食ジャンクなんでもござれ、遊びたくなったらゲーセンやカラオケ、そして面白そうな恋愛映画があったら最優先で映画館へレッツゴーという仕組みだ。

 ――これはこぼれ話になるが、出かける直前に父と母がお金を手渡すようになった。父曰く「奢ってかっこいいところを見せなさい」母曰く「出かける時のあなた、いい顔してる。ガールフレンドができたんでしょ?」

 ほんとう、親に隠し事なんてできないね。

 

 恋太郎と真登華は、そんなふうに毎日を過ごしていた。

 なんでもなくて、これといった未知なんてなかったけれど、真登華はまちがいなく自分のことを見てくれた。別れを惜しみあうことだって、何度もあった。

 そんな真登華のことを見届けていくうちに、恋太郎は段々と、こう思うようになった。

 

 ――ああ。この人と出会えて、本当に良かった。

 

 □

 

 暖かい青空が広がる6月。休日がやってきて、恋太郎は朝の十時から家を出る。これから、真登華とデートを行うために。

 集合時間は十一時だが、恋愛ドラマ愛好家として「ごめん、待った?」「大丈夫、今きたとこ」を実現させたいのは極めて当然といえる。

 だからこそ先んじて待ち合わせ場所に辿り着こうとしているのだが、ゴール地点には既に真登華の姿があって、目が合えば軽やかにピースサインを決めてくる。こうなった時点で「敗北」は必至だから、恋太郎は気まずそうに「ごめん、待った?」と口にするしかないのだ。待ってましたとばかりに、真登華も「ううん、今きたとこ」と言うのが一連のお約束である。

 今日こそは必ず一着を取るぞ。一時間前行動だ。

 デートに対する高揚感と、真登華と出会える緊張と、ユルい勝ち負けを意識しているせいで、恋太郎はなんだか笑ってしまう。

 住宅地を抜けて、街並みへつづく長い横断歩道を前にする。信号は赤い、猫の像の前には――負けたあ。

 まあいいや。

 苦笑いをしながら、今か今かと青信号を待つ。

 横断歩道に居るのは、自分と、向こう側にいる誰かだけ。

 車が通りがかって、信号機がようやく青になる。視覚障碍者のための警告音が、空に響き始めた。

 もう少しで真登華に会えるからか、恋太郎の足はいささか速い。やがて向こう側から歩んでくる人影が、徐々に明らかになる。

 背からして女性かな、少し大きめの黒いハットが目立つ、白いブラウスに動きやすそうな青いジーンズを着こなし、肩まで伸びる赤い髪がとても特徴的で、

 

 強烈なデジャブに襲われる。あの人との思い出がフラッシュバックした。

 ここが横断歩道でなければ、足なんて止まっていたと思う。その人は少しずつ、少しずつ俺に近づいてきて――くすりと、笑った。

 それは、見た者の心を引き込む悪魔の微笑みだった。

 決して見過ごせない魔性が、女性から伝わってきた。

 この交差点を渡り切ってしまえば、たぶん、あの人とはもう会えないだろう。

 だから、俺は――

 

「お待たせ、真登華。待った?」

「ううん、今きたとこ」

「本当ぉ? 待ち合わせにはまだ四十分もあるぞ?」

「たはは、まあ君とのデートが待ちきれなかったってことで」

「そうなの?」

「そーなの」

「じゃあいいや」

 

 そうして俺は、真登華の手をはじめて握った。

 真登華は驚いた顔になって、俺のことをじいっと見る。

 

「俺のことを好きになってくれて、本当にありがとう」

 

 真登華は、無言で言葉を聞いている。

 

「これからは、君を幸せにするために生きるから」

 

 警告音が、ふっと消えた。

 

「今後も、よろしくお願いします。……本当に好きだよ、真登華」

 

 しばらくして、しばらくして、真登華はようやく笑ってくれた。

 

「うんっ」

 

 真登華も、手を握り返す。

 

「よしっ、今日は派手に遊びますか~」

「金なら任せろっ、親が援助してくれたからな」

「いや~奢られっぱなしはどうかと思うよお」

「カッコつけさせてくれよ」

「いいよいいよそんな、君はいつもカックイイんだし」

「やめなよ不意打ちするの」

「えー? こういうセリフって不意打ち気味に言うのがポイント高いんでしょ? 映画で習った」

「まあなあ」

「でしょー? ……あ、そだそだ、重要なお知らせがあるんですけど」

「何?」

「ふふふ……もう少しで、猫と一緒に暮らせそうなんですよぉ、これが」

「! マジか! もしかしてもしかして?」

「隊員のみんなが張り切ってくれたお陰で夢が叶いそうなんですねえ、これが」

「った! よし、今日は奢るぞ!」

「っしゃー!」

 

 生真面目な表情をしたスーツ姿の男が俺たちを横切り、赤ん坊を抱きしめている家族に道を譲る。ほかにも若いカップルが目に入ったり、携帯電話を片手に何かを話している青年とすれ違って、今日も人が絶えない。

 真登華たちが守ってくれている三門市は、今日も平和だった。

 

―――

 

 ――お幸せに

 

 




これにて、「好きだったよ、ミラ」はおしまいです。
ワートリ杯が開催されるということで、「自分も何か書いてみよう」と思いこの小説を書き上げてみました。

初めてのワールドトリガー二次小説ということで、最初は難しいイメージを抱いていました。ですがバトルシーンをカットすれば、スムーズな青春物語が出来るんだなあと実感しています。
バトルシーンを書けるワートリSS作家は本当に凄いです、強いです。

ミラを選んだのは、「!」となったキャラクター像であったのと、敵との報われない恋を書きたかったからです。
婚約者という設定を活かそうとしたら、ハイレインもランバネインも上手く動いてくれました。

真のヒロインである宇井真登華ですが、選んだ理由は「!」となったキャラクター像であったのと、恋をしたら夢中になりそうだったからです。
ワートリは日常シーンが最低限なので、好きに書けて本当に楽しかったです。
オペレーターとの、メタルな恋愛が描けたと思います。

楽しい企画を立ててくださった龍流様、本当にありがとうございました。
ワートリSSを書くきっかけを与えてくださり、心から感謝しています。


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