それでも風は吹く (SunGenuin(佐藤))
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○プロローグ

第三者視点1話+主人公視点1話+大百科パロの3話構成で話が進みます。


あなたは、覚えていますか。

あの馬のことを──。

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生、原稿はどうですか」

「……意地悪しないでくれよ、見たらわかるじゃないか」

 

散らかった室内で、先生と呼ばれた男── 遠山寛次郎は頬を掻いた。

遠山の職業は作家で、ふだんは若年層向けの作品、所謂ライトノベルを執筆している。

中学生の頃、ネット小説で一発大当たりしたものの、それが打ち切りになってからは鳴かず飛ばず。

連載作の1冊目を出しても立ちゆかず、すぐ打ち切りになってしまう。

そんな生活をもう10年近く送っていた。

それでもなんとか食いつなぐことができているのは、偏に担当編集である川野辺のおかげだろうと、遠山は内心で息を吐いた。

 

「やっぱりさ、書けないよ、競馬ものなんて」

「そうおっしゃらず!先生の戦闘シーンはバツグンなんですから!」

「お前ね、戦闘とレースは別物だろうよ」

 

遠山が趣味で書いていたネット小説を拾い上げ、本にまでして見せたのはこの川野辺である。

何度も打ち切りになりながらも、遠山の作品を推しつつづけてくれる川野辺に、遠山は頭が上がらなかった。

この川野辺という編集者がいなければ、遠山はとっくのとうに物書きをやめ、毎日死んだように、ごく普通の企業戦士として働き続けていたに違いないのだから。

 

「だいたいなんで競馬なんだよ」

「私が競馬好きだからです!」

 

にっこりと笑った川野辺は、髪の毛を耳の上までパッツリと揃えた女だ。

遠山よりも10も年上だとは思えない若々しさを保ちながら、その笑顔には妙な迫力があった。

 

「ギャンブルなんてしてたっけ」

「先生、競馬は単なるギャンブルじゃありませんよ!」

「あー……感動あり、笑いありのスポーツだったな」

「そうです!競馬は感動できるし笑えるんです!それに今は競馬を題材にしたメディアミックス作品が大ブームですから、競馬モノはあたる兆しが──」

 

まるで好きなドラマでも語るような熱量で、川野辺は拳を作って見せた。

その様子を、遠山は頬杖をつきながら眺める。

 

── 感動できるって言ったって、馬の何が面白いんだか

 

遠山は競馬にも、ボートレースにも競輪にも、賭け事と呼ばれるものにはとんと縁の無い生活を送ってきた。

返ってくる見込みのないものに金を使うなんて馬鹿げていると、そう口にすれば川野辺からすかさず反論が返ってくるだろうとわかっていたので、遠山は口をつぐんだ。

 

「あ、先生、渡した資料は御覧になりましたか」

「一応な。……まだ全部は見てないけど」

 

ちらりと視線を移した先には、積み上げられた紙の束やDVDのパッケージがあった。

すべて川野辺が揃えた、競馬に関する資料だ。

最近のレースはもちろん、古くは戦時中にまでその情報は多岐にわたる。

 

── よくもまあ、ここまで揃えられたもんだよ

 

遠山が何か熱量を感じたとするならば、それは競馬そのものというよりは、この川野辺の熱だろう。

 

「それで、それで!」

「それで、って?」

「ですから、資料の中で何か気になるところはありましたか!?」

 

気になるところ。

 

はて、何かあったかと、遠山は流し読みしただけの資料の内容を思い出そうとした。

古い年代から見た方が話の筋が読みやすいだろう、と最初に手を付けたのは1920年代頃の資料だった。

確か、そう、外国からの馬── 下総御料牧場の輸入基礎牝馬についてだ。

そこから読み進め、やがて優秀な軍馬選別のための検定としてレースが開かれるようになった年代の、その後。

国内初の三冠馬となったセントライトから23年の時を経て、戦後初の三冠馬となったシンザンの資料を見て浮かんだ疑問を、遠山はここで思い出した。

 

「なあ、この馬の資料はないのか?」

 

遠山は資料の山からシンザンの束を引っ張り出した。

その紙には数えてわずか6回だけしか登場しない馬の名前が、遠山の中で小さくも残っていたのだ。

 

「この馬は──」

 

その馬の名は、紙の中に、ネットの海に、かすれたレース映像の中に。

だけども人々の記憶の片隅に追いやられ、今日まで埃を被っていた。

川野辺の語りを聞きながら、遠山は無意識のうちに、紙面に残る名前をなぞる。

 

「──……と、まあ、今から60年近くも前の馬ですし、資料が少ないですからね。GⅠのようなビッグレースにも勝っていないので、なおのこと知ってるひとが少ないというか……」

「川野辺」

「は、はい」

 

遠山はまだ、競馬についてピンと来ていない。

だが、そんな遠山だからこそ知ろうと思えた。

華々しい戦績はなく、途切れ途切れの情報しかない存在を拾い上げる。

 

「決めたぞ川野辺!」

 

遠山はシンザンの資料を手に取り、それを高々と天に掲げながら川野辺に告げた。

 

「こいつの小説を書く!」

 

少しだけ皺の入った資料の、その親指がなぞる名前は── ウタワカ、とあった。



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ウタワカ ── 1961年~1964年
○夢まで残り20メートル 前編


『月刊「優駿たち」11月号 ── 連載:名馬の影に思いを馳せて』
執筆:遠山寛次郎
競馬史に残る偉大なる名馬たちの、その輝かしいレースの影に佇む馬に焦点を合わせ、その足跡を辿るドキュメンタリー風小説を7ヶ月に渡ってお送りします。
11月号でお送りする名馬の影は『ウタワカ』

あなたは、この馬のことを覚えていますか?


黒鹿毛の馬と聞いて、あなたはどのような馬を思い浮かべただろう。

 

史上三頭目の三冠馬・ミスターシービーだろうか。

勝利へ向かう快速切符・ウイニングチケットだろうか。

それとも王道を往く王道・スペシャルウィークか、その娘・ブエナビスタか。

 

数多の名馬が過り、選べずにいることだろう。

私が思い浮かべた馬は残念なことに知名度があるわけでなく、「黒鹿毛と言えば」と聞かれてもすぐに出てくるような馬ではなかった。

そもそも毛色以前に、その馬について知っている人間があとどれほど残っているのか。

その痕跡を追い始めた2021年6月には、想像すらできずにいた。

そんな私がその馬について知っていることは、片手で足りた。

 

ひとつは、その馬の毛色が黒鹿毛であったこと。

ひとつは、その馬が牡馬だったこと。

ひとつは、その馬があの伝説的名馬── そう、競馬に携わる方なら知らぬ者はいないとまでいわれている、あの馬── シンザンと同厩舎だったこと。

ひとつは、1964年11月15日を最後に、その馬の消息が途絶えたこと。

 

たったそれだけが、私の中にある、その馬のすべてだった。

……ああ、いや、もうひとつだけ。

最も重要で、最も忘れてはいけないこと── その馬の名。

つやつやとして漆黒の毛並みに、それを引き立てる流星を持つその馬の名を『ウタワカ』と言った。

シンザンに関する記事や書籍の中に、ほんの数行ではあるが名前が出てくるので、シンザンの熱心なファンであればこの馬の名前くらいは覚えているかもしれない。

このウタワカという馬は、シンザンの記事などでは「同厩舎の馬」「立派な黒鹿毛の馬」として登場する。

シンザンの隣の馬房に入っていた同世代の馬で、当歳の頃から見事な馬体と毛艶をしていたからか、極めて一般的、かつこれといって特徴の無かった現役時代のシンザンは、この馬とよく比較されたと記されていた。

 

“ 見るからに走りそうなウタワカと、走りそうにないシンザン ”

 

そう呼ばれていた2頭だったが、歴史にある通り、競走馬として成功したのはシンザンの方なのだから、競馬とはわからないものだ。

そのウタワカに関する記述の最も新しいものは、シンザンが戦後初の三冠馬となった1964年11月15日の菊花賞。

世代最後の一冠を賭けて舞台に上がった13頭のうちの1頭こそが、ウタワカという馬だった。

枠は大外。

隣に毎日盃── 現在の毎日杯── を制したオンワードセカンドが入り、一番人気には1963年の最優秀三歳馬── 現在の最優秀二歳馬に相当── であり、この年のNHK盃、セントライト記念を制したウメノチカラが、この日に三冠馬となるシンザンは体調不良の影響で二番人気に控えていた。

ウタワカはと言えば十二番人気だったと記録されているのみで、どうしてこのような人気だったのかは残されていなかった。

インターネット上の情報を見ると、4歳春という遅めのデビューを迎えたウタワカはその時点で4戦4勝と調子が良かったという。

ただ、生まれつき腰が弱いため短期の休養をよく挟んでいた、という情報も同時に残っており、この事が影響していたのではないか、とする説が広く伝わっていた。

菊花賞は3000メートルという長距離走になる。

ウタワカの腰ではその距離を熟せまい、と軽視する空気が当時はあったのではないか、と私は考えた。

しかし、ウタワカが生まれつき腰が弱かった、という情報も確かではなく、異なる情報サイトでは「蹄が薄かった」「右脚に爆弾を抱えていた」「虚弱だった」と、情報が錯綜していたため、正しいことは分っていない。

そのように、情報に関してはイマイチ統一感のないウタワカだった、それを横に置いたとしても、菊花賞当日の人気が決して高くなかったことは紛れもない真実だ。

ただ、競馬に限らずどのような場面でも言えることだが、勝利というものは予想外の展開から訪れることもある。

第16回東京優駿の勝ち馬であるタチカゼは、23頭中19番人気だった。

1着の馬がゴール板を踏み越えるその瞬間までは、誰が勝つのかわからないものだ。

なにより馬も馬に乗る騎手も、人気に限らず全員が勝ちを目指している。

当然、あの日のウタワカと、その鞍上に跨がった新條(しんじょう)勝喜(かつき)騎手も勝利を目指していたに違いだろう。

このレースの勝ち馬となったシンザンは、その後も大変な人気を誇ることになる名馬であるから、この年の菊花賞から60年近く経つ今日でも、そのレースの多くを動画として見ることができる。

三冠達成という記念すべきレースとなった菊花賞の映像も、もちろん残っていた。

 

レースはこの年の桜花賞と優駿牝馬を制した名牝・カネケヤキの大逃げから始まる。

男11頭の中で可憐に咲く二輪のうちの一輪だったが、そもそもカネケヤキは牝馬二冠の実力馬。

後続に控えることになった男馬たちの多くは焦りと迷いの中にあり、追うか控えるかの板挟み状態に陥っていた。

それを横目にカネケヤキの背に張り付いたのが、ウタワカだった。

素人目に見ても、玄人目に見ても、ウタワカが釣られて掛かってしまったように見えた、と伝記本にも記されていたが、そう見えるくらい勢いよく駆けだし、カネケヤキの背を追っていたと言うことだ。

先頭は二冠牝馬・カネケヤキと、無冠だけど無敗の伏兵・ウタワカが争う状態となり、ついにはウタワカがカネケヤキを越して先頭に立つ。

この時、実況者は張り上げた「波乱の幕開け大どんでん返しか」の言葉には、抑えきれない興奮が感じ取れるだろう。

ウタワカが先頭で第四コーナーを回る頃には、その走りに危機感を煽られたウメノチカラが駆け上がってきていたがウタワカには届かず、二番人気シンザンはまだ中頃で耐える競馬。

このままウタワカが無敗で菊花賞を逃げ切るかと思われた、その次の瞬間だった。

 

「おっとウタワカ落馬だ、先頭ウタワカ落馬、落馬、故障かウタワカ残り20メートルだ」

 

腰か、脚か、蹄か。

動画を見るだけではどの部位が故障したのかを判断することは不可能だったが、少なくともウタワカがもう走れない状態になったことは明らかだった。

鞍上から投げ出された新條騎手は、頭を打ったのかその場からピクリとも動かない。

ウタワカと新條騎手は後続馬にかなりの差を付けていたが、動画の端には猛スピードで追い込む他馬の姿があり、最悪の事故を想像させた。

だがその次の瞬間、私は目を疑い、何度も何度も動画を巻き戻すことになる。

 

新條騎手が落馬した後、一度は体勢を崩したウタワカだったが、すぐに立ち上がると迫り来る後続馬を横目に、新條騎手をまたぐようにその場に立ち止まった。

その姿がまるで騎手を守っているかのように見え、私は言葉を失った。

馬が騎手を庇うようなことがあるというのか。

確認するために巻き戻す作業は十数回を超え、次のシーンに移るまで一時間も要した。

だがそうして進めた動画の中に、ウタワカの姿は無い。

ウタワカが落馬し、新條騎手をまたぐように立つまでのほんの一瞬の間に、残り20メートルと叫ばれたゴールの向こう側には、三冠を達成したシンザンの姿だけがあったのだ。

信じられないほどの上がり脚を見せたシンザンが、三番手まで下がったカネケヤキごとウメノチカラを撫で斬ってゴールしたのは、ウタワカが新條騎手を跨いだほんの数秒後。

三冠達成を称える実況者の声色が響く中で、カメラはシンザンだけを追っていた。

ゴールのわずか20メートル手前で健気にも騎手を守るウタワカの姿は、もう、どこにも残されていない。

ただ無情にも「ウタワカ故障により予後不良となりました」と淡々としたアナウンスが鳴り響くだけだったのだ。

低人気からの見事な逃げ脚に興奮していた瞬間はなんだったのか。

勝ち馬シンザンを称える声と拍手には、競馬というスポーツの難しさが如実に表れている。

私がウタワカに明確に興味を持ったきっかけが、この菊花賞のレース映像に内包された一瞬の栄光と終焉だった。

今の時代にほとんど名前の残らないこの馬はどうして故障してしまったのか。

ネットに書いてあったとおり、腰が弱かったのか。それとも脚か蹄か、別の箇所か。

シンザンという光り輝く馬と隣り合っていたというウタワカの本当の半生とはどんなものか。

中途半端に知ってしまうと、完成された真実を知りたくなってしまう人間が一定数いると言う。

私がまさにそうだった。

 

「ウタワカはどのように生き、最期はどのように散ったのか?」

 

幼少期は。その亡骸は。遺品は。

電子の海を虱潰しに探してみたものの、残念なことにウタワカに関する記述の多くは『菊花賞で予後不良と判断された』という箇所で完全に途切れ、それ以降の情報が出てくることはなかった。

インターネットにも、めぼしい書籍にも記載がないというのであれば、もう、私自身が確かめにいくほかあるまい。

幸いにも私の職業は作家であり、様々な場所に取材に赴くことがある。

その時に得た人脈を駆使して、私はウタワカの半生と、その最期を知る旅に出ることにした。

そうして方々に電話やメールを送り、現地に赴いて情報を集めること半年。

 

私はついに、ウタワカを最も良く知るであろう人物と接触することに成功したのだった。

 

以降に書き記すのは、ウタワカという一頭の馬の生涯と、彼を取り巻く人馬の物語だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

── 2021年の夏。

 

私は青森に向かうため、新幹線に乗っていた。

この時期と言えば、疫病によって人々の行動が制限されていた時期だ。

例年は帰郷や観光などで満員だっただろう新幹線も、その影響は強く見られた。驚くほどガラガラだったのだ。

東京から新青森まで約三時間。

長旅になるからと指定席を取ったこともあり、心身共に余裕を持つことができた私は、これを利用してウタワカについてもう一度復習することにした。

 

馬名、ウタワカ。

父馬の名はライジングフレームと言って、イギリスの競走馬だった。

まずはこの父の血統から紹介しよう。

ライジングフレームは、母の父に歴史的名馬にして種牡馬・ネアルコを持ち、現役時代はイギリス2000ギニー、イギリスダービーにも出走した経験がある。

だが特出した結果は残せず、今であればその戦績だけで種牡馬入りするのは難しいほどの馬だった。

しかしライジングフレームは、アイルランドの二冠馬であった父と、アイリッシュオークス馬であり、前述の通りネアルコの直仔だった母を持つ良血から、敗戦後の馬輸入禁止が解除された日本の農林水産省によって購買が行われ、日本に種牡馬としてやってきたのだ。

初年度からアングロアラブの名馬・セイユウや、サラブレッドでは二年目産駒に安田記念馬・ヒシマサル、当時は3200メートルだった天皇賞・秋の覇者オーテモンを輩出。

ウタワカが産まれる一年前の1960年には、母父に三冠馬・セントライトを持つ牝馬トキノキロクが桜花賞を制し、これがライジングフレーム産駒初のクラシック制覇となった。

他にも1961年に優駿牝馬を制したチトセホープらも送り出している。

1950年代から60年代にかけてアングロアラブ、サラブレッドを問わず仔を遺し続けたライジングフレームは、1958年から1960年までの三年連続でリーディングサイアーにも選出された、戦後日本を代表する種牡馬の一頭だったのだ。

 

次に、ウタワカの母馬について。

ウタワカの母は、その名を丘高(おかたか)と言った。

これは繁殖に上がった後の名で、この当時は現役時代の競争名と繁殖入り後の名前が異なることはよくあることだったようだ。

丘高は、現役時代の名をクモワカと言う競走馬だった。

ライジングフレームに続き、このクモワカの血統にも触れることにしよう。

クモワカの父セフトは、戦時中に日本に持ち込まれた外国生産の種牡馬で、現役時代はイギリスで活躍した。

当時の三冠馬バーラムと同世代であり、イギリス2000ギニーではそのバーラムの二着に入線している。

来日後は京都農林賞典四歳呼馬── 後の菊花賞を制するハヤタケを初年度から輩出し、特に知名度の高い産駒と言うと、「幻の馬」として2000年代になった今も高い人気を誇る名馬・トキノミノルだろう。

クモワカはトキノミノルと同世代の牝馬で、現役時代は桜花賞二着、菊花賞四着となった。

重賞を制するほど華々しい活躍はなかったが、そのファミリーラインからは後に1980年代から90年代で活躍する名馬が多く誕生している。

下総御料牧場の基礎繁殖牝馬として名高い月丘(つきおか)の血は、母系としてこのクモハタを伝って長く残ることになるのだ。

また、クモワカは現役時代に「馬伝染性貧血」であると診断され、それを巡る一連の騒動でも知られている。

数年に及ぶ馬主と軽種馬登録協会との争いが続く最中で、クモワカは繁殖牝馬・丘高としてウタワカを産むことになった。

 

それが1961年の2月の頃だ。

 

ウタワカが産まれたのは、北海道は早来町にある吉里牧場だと言われている。

母であるクモワカ── 以後、丘高と称する ── が、吉里牧場で繋養されていたからだ。

丘高を巡る事件はまだ収束していなかったため、既に生まれていた他の三頭の兄弟同様、ウタワカも血統登録ができない状態だったと推測されている。

しかし、それから二年後。

ウタワカが競走馬としてデビューできる三歳の九月にようやく事件は終結し、ウタワカも兄弟と共に競走馬登録が行われた。

そうして1963年の10月、ウタワカは馬主が約束していたという竹田厩舎に預けられ、いよいよ競走馬として調教を受けることになった。

この竹田厩舎の調教師、竹田文五郎氏は、1953年にレダという馬で天皇賞・春を制し、57年にはミスオンワードで桜花賞と優駿牝馬の二冠、60年には皐月賞と東京優駿を制する二冠馬・コダマを管理していた名手として知られている。

よほどの馬でなければ受け入れて貰うのも一苦労だっただろう名手の元に預けられたウタワカは、四歳・春の新馬戦を目指して調教を積むことになった。

ちなみにこの当時の三歳、四歳は現在の二歳、三歳にあたり、ウタワカの新馬戦はその入厩時期もあって通常の馬よりも遅かった。

しかしウタワカは新馬戦を勝ち上がるとそこから四戦を完勝し、あの日── 菊花賞を迎えることになる。

 

 

 

インターネット上や、シンザンに関する書籍などを辿りきった状態でも、ウタワカについての情報はこれがすべてだった。

産まれてから血統登録が行われるまでの間のことや、入厩した後のこと、菊花賞以外のレース詳細、その最期にまでたどり着くことはできなかったのだ。

しかし、今日。

はやぶさに乗ってたどり着くその場所で、私はようやく知ることができるのだ。

ほんの一瞬の風のように通り過ぎていった黒鹿毛のことを、真の意味で知ることができる。

私は、奇妙なほどに興奮していた。

何が私をここまで駆り立てているのか。

ただ、シンザンという目も眩むほどの名馬の影で、ちらりと姿を見せるウタワカなる馬が、どうしても気になって仕方がなかったのだ。

 

予定通りに新青森駅に到着したはやぶさから飛び出すと、私は数少ない荷物を持って目的地に急いだ。

東京よりは涼しいだろうと思っていたが、この日の青森は最高気温32度。

約束していた場所に着く頃には、すっかり額に汗が滲んでいた。

 

「こんにちは。今日は暑いですよね」

 

私が汗を拭っていると、そう言って水の入ったペットボトルを差し出してきた男性がいた。

彼が、今日、私が最も会いたかった人── の、ご子息である、森重(もりしげ)(あつし)さんだった。

 

「遠路はるばる、こんなところまでありがとうございます」

 

三十路手前の若造相手にも深々と頭を下げる森重さん── 以後、敦さんとお呼びする ── の姿には、懐が広く誠実な様子が窺え知れた。

それからしばらく敦さんと談笑していたのだが、競馬の話になったところで、彼は申し訳なさそうに頬を掻きながら口を開いた。

 

「一応、電話でもお伝えした通りなのですが、本当に大丈夫ですか」

 

敦さんの言う「大丈夫ですか」は、これから私がお会いする彼の父、森重春一(はるいち)さんのことだ。

こうして青森を訪れる前に、私は春一さんに会うために敦さんに連絡をしたわけなのだが、その際に春一さんが認知症だと知らされていた。

 

「もう60年近く前だということもありますし、それに、最近は僕のことも誰だか分らない様子で。会話は、調子がよければできるかもしれませんが……」

 

私は躊躇いなく頷いた。

春一さんが認知症であり、多く情報が得られないことは織り込み済みで青森に来たのだ。

元より情報が少ないウタワカに関して、ひとつでも知ることができれば満足だ、という気持ちもあって、どう転んでも私は痛くもかゆくも無いと思っていた。

私に引く気はないないだということを悟ったのか、敦さんは申し訳なさそうにしながらも春一さんの元まで案内してくれた。

 

現在、春一さんが過ごしているのは青森県内にある老人ホームで、もう十数年ほど前からここで生活をしているそうだ。

春一さんは60歳までは乗馬クラブで厩務員として働き、その後は北海道の早来町で一人暮らしをしていたのだと言う。

しかし70代の後半に差し掛かったところで、自宅で倒れているのを近隣の人が発見し、家族のいる青森に連れてきたのだと敦さんは続けた。

 

「僕が幼いころから父は馬一筋の人間でした。競走馬の厩務員としては比較的早めに引退した方なのですが、関西から北海道に移った後はあちらの乗馬クラブで働き出して、結局変わらずに馬、馬、そんで馬。僕や他の兄弟たちの進学のために青森に引っ越そう、って言うときも、一人で残るって言って聞きませんでしたよ」

 

そう苦笑いで語る敦さんの視線を辿ると、ベッドに腰掛ける一人のご老人が窓辺を見ていた。

グレーのスウェットに身を包んだそのご老人が、敦さんの父・春一さんなのだろう。

ぼうっとした様子には、どこか心ここにあらず、のように見えた。

 

「親父、お客様だよ」

 

敦さんの声がけに、春一さんは言葉を返さない。

だが、ちらりと私の方を見て、小さく頷いたのはわかった。

私は敦さんに助力を貰いながら、最初は世間話からはじめて、徐々に春一さんとの距離を詰めていった。

話始めてから一時間近くが経ったところで、春一さんも言葉数は少なくとも返してくださるようになり、ここがチャンスだと思った私は、ウタワカについて聞いてみることにした。

 

「春一さん、馬がお好きなんですね」

「……ああ。馬は、人生だ」

 

そう答えた時の春一さんの声色は、心の底からそう思っていることが伝わるほど、穏やかなものだった。

 

「そうですか。……ところで春一さん。ウタワカという馬に、聞き覚えはありますか」

 

春一さんの様子が一変したのは、その質問をしたすぐ後だった。

それまで穏やかな表情をしていた春一さんが、険しい表情で私を睨み付けたのだ。

 

「お前もか。お前も悪く言うか」

 

刺々しい声を纏って吐き出される言葉は、それまでのどの言葉よりも鮮明で、私はただ首を横に振って否定した。それが精一杯だった。

敦さんも戸惑ったように春一さんを呼んだが、春一さんはそれを気にもとめずに口を開くと、掴み掛からんばかりの勢いで叫び出した。

 

「ウタワカはな、素晴らしい馬だった。優しい馬だった。誰よりも賢くて、誰よりも穏やかだった。決して、決して、死に急ぎの駄馬なんぞではなかった──ッ!」

 

大声を出すこと自体が久々だったのだろう。

ひときわ大きな声で叫んだ後、春一さんは大きく咳き込んだ。

しかし、その背を撫でる敦さんを振り切ると、再び私を睨み付けてくるのだから、吐き出した言葉に込めた感情は相当のものだったに違いない。

事実、この後に続いた話に、私はたまらない気持ちになるのだから。

 

肩を怒らせ、浅く息をする春一さんの目には、長い長い傷跡が滲んでいる。

その傷跡が浮かび上がる様に、私は、目を逸らすことができなかった。




毎週土曜日更新


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○夢まで残り20メートル 後編

「敦、水を汲んでこい」

「ええっ」

 

出会ったときのぼんやりとした様子が嘘かのように、春一さんはハキハキとした喋り口で敦さんに指示を出す。

敦さんが驚いたのは、春一さんがすんなり話すようになったから、それとも水汲みを頼まれたからなのか。

おそらくどちらもだろう。

始めは抵抗していた敦さんは、二度三度と春一さんに同じ事を言われると、私を気にする素振りを見せつつ退室した。

それを見計らったかのように、春一さんは姿勢を正し、私の真正面に座り直した。

 

「ウタワカは、穏やかな目をした馬だった」

 

そう静かに語り始めた春一さんの瞳は、されど轟々と燃える焚き火のようだった。

大きな声でもないのに、部屋の中いっぱいに響く声にこもる想いは深い。

私は、黙してその続きを聞いた。

 

「出会ったのは1963年の秋。この頃のウタワカは三歳── 今でいうところの二歳だな。同期はとっくにデビューも済ませている中、入厩そのものが遅かった。なぜだか分るか?」

「母馬である丘高の件が解決していなかったから、ですよね」

「そうだ」

 

相づちを打って答えた春一さんは、懐かしむように目を細めると「だから」と言葉を続ける。

 

「11月の終わりなんて妙な時期に入ってきた。驚いたよ。牧場でのんびり過ごしてきたとは思えないくらい、ご立派な身体付きだった。くわえて気性も穏やかで、すこぶる従順。俺がゆるく手綱を持つだけで、ウタワカは吸い込むようになんでも覚えた」

 

春一さん曰く、ウタワカはこの頃からすでに見映えの良い馬だったようで、調教師である竹田氏はもちろんのこと、多くの厩務員が春一さんを羨んだという。

黒鹿毛の馬体は艶めいていて、騎乗馴致もゲート練習もさらりと熟した。

人見知りも馬見知りもすることなく、あっさりと厩舎生活に順応したらしい。

その出来の良さは、当時は栗東も美浦もなく、竹田厩舎があったのは京都競馬場だったのだが、わざわざ他の競馬場にいる調教師たちが見に来るほどだったそうで、春一さんは得意気に言った。

 

「テキはウタワカをたいそう気に入って、良い馬房拵えてやってたよ。高い砂糖も、ご褒美代わりにって自腹で買って。それは贔屓がすぎるってんで少量ずつ他の馬にも分けられたけど。それら全部が期待の表われだった。ひょっとしたら、ウタワカが走ることを誰よりも待ち望んでいたのはテキかもしれないな。調教も熱心で、『春一、コイツは翌春に咲くぞ。ちょうどめでてえな』っていうのが、当時のテキの口癖だった」

 

春一さんの「春」の字に季節を重ね合わせて「めでたい」と言ったのだろうか。

真偽は竹田氏ご本人しか知り得ない事が惜しいが、そう思うと言葉にできないロマンを感じた。

 

「春の新馬戦に出したら、皐月賞は間に合わなくても東京優駿には間に合う。それまでに何戦か叩いて向かわせよう。そういう計画だった。……俺もテキも、馬主も」

 

── だがウタワカは、東京優駿には出ていない。

私が言葉も無くそう思ったことを感じ取ったのか、春一さんがコクリと頷いた。

 

「ウタワカは大きな馬体をしていた。今でこそ珍しくないが、あの当時からするとかなりの大型馬でな。体高は170センチ近くあって、体重は500キロをゆうに超えていた。……サラブレッドの脚は細い。ガラスに例えられるほど繊細でもろく、あの時代、今ほど満足いくケアもできなかったから」

「それじゃあ、ウタワカは身体が弱かった、という噂は本当だったんですね」

 

ふと零した一言に、春一さんは頷きながらもひとつ訂正した。

 

「正確には『脚が弱かった』んだ。大きな身体を支えるには、ウタワカの脚は弱かった。だから本格化するのは早くて五歳からだろう、というのが当時の厩務員の間ではよく話題になったものだ。だがテキはそれに納得いって無くて、東京優駿を諦めてなんぞいなかった。絶対にウタワカを東上させるぞ、と強めの調教をしては馬を疲れさせて。けどウタワカって馬は大したやつでな。稽古上手だった」

「というと」

「調教での走りがいいってことだよ。指示通り、期待に通りに走って見せる。テキはそれも含めて気に入ってたんだろうよ。なにせ、同期のシンザンが稽古嫌いだったから」

 

ここでシンザンの名を耳にして、私は疑問に思ったことを春一さんに投げかけた。

 

「私がウタワカのことを知ったのはシンザンがきっかけだったのですが、この二頭はよく並べられていたのですか?」

「ああ。テキがその筆頭。いっつも『シンザンは見るからに走らなそうや。ウタワカは走るで、なんぼでも走る』ってな」

 

ウタワカが入厩して一ヶ月が経った頃、シンザンは新馬戦に出走しここを圧勝している。

その圧勝劇を前にしても、竹田氏はウタワカの方が上だと思っていたのだそうだ。

 

「シンザンはこれと言って見目の良い馬じゃなかった。もちろん、馬は見目に寄らないが、パッと見では走りそうにない馬で、加えて稽古嫌い。『まともに調教もでけへんのに、どうやって勝つんや』と厩務員に怒鳴っていたこともある。失礼ながら、あの時の俺も、シンザンよか俺のウタワカの方が何倍もええがな、なんて思ってたさ。厩務員てのは、自分の担当馬が可愛いもんだし、人生握られてるからな」

 

馬が走って得た賞金のうち、数パーセントが厩務員に支給されることになっている。

なので、春一さんが言う『人生握られてるからな』は間違いではないだろう。

茶目っ気を含んだ微笑みに気を取られていると、すっと春一さんが表情を曇らせた。

 

「……でも歴史に残ったのは、シンザンの方だった」

 

小さく呟かれた言葉には、万感が籠もっているようだった。

言語化できない複雑な感情が滲み出たそれは、春一さんも無意識だったのかもしれない。

私は言う言葉も見つけられず、ただその続きに耳を傾けることしかできなかった。

 

「そういや、面白い話があったな」

 

ぱっと声色を明るくした春一さんに、私は戸惑いながらも「どんなのですか」と聞き返した。

春一さんは思い出すように一度ひとみを閉じると、軽妙な口調で語り始めた。

 

「ウタワカが入厩した歳の暮れだよ。調教のためにウタワカとシンザン揃って馬場に出されたことがあって、案の定、シンザンは走らなかった。テキはもうカンカンに怒って、担当厩務員の中本も他の厩務員から冷やかされる始末。そんな場面に、ウタワカの方からシンザンに近づいていったんだよ。あれには二重に驚いた」

「二重、ですか」

「ああ。……ウタワカという馬は、実は他馬にはほとんど興味を示さない馬なんだけどよ、シンザンだけは別だった。何が起きるんだ、喧嘩かと焦ったのは一瞬で、ウタワカは短い嘶きを繰り返すと、シンザンの目の前で走り始めた」

 

すると何が起こったのか。

それまで調教だと走らなかったシンザンが、ウタワカの背を追うように走り始めたのだ、と春一さんは言った。

そんなことがあり得るのか、と私が目を丸くしていると、春一さんは苦笑を浮かべながらも話を続けた。

 

「珍しい例だ。当時の俺たちからしても不思議な出来事だったが、なんにせよシンザンは調教でも走るようになった。ただし、ウタワカと一緒に居るときだけだった。それ以外ではぐーたらなもんで、テキはウタワカとシンザンを同時に調教することにした、ってわけだ」

「シンザンはどうして、ウタワカと居るときだけ走ったのでしょうか?」

「さあな。……単純にウマが合う、というやつなんじゃないか」

「ウマが合う、ですか」

「そう。ウマが合う。難しいことじゃないんだ。ただ連れ添っていると気分が良い、そういう相手は人間にだっているだろう?」

 

見た目も性格も正反対だという二頭。

お互いのどこを気に入ったのか、私たち人間に押し量ることはできない。

ただ確かなのは、稽古嫌いのシンザンが走り出すほどの何かが、ウタワカにはあるということだ。

 

二頭の様子について、春一さんは付け加えるように口を開いた。

 

「後は、ウタワカは面倒見がよかったからな」

「面倒見……でも、他の馬にはほとんど興味を示さなかったって」

「そうだ。あんまり他馬を気にするようなやつじゃなかったのだが、例えば相手が手に負えないくらい暴れている馬を見ると、まるで宥めるように嘶いたこともあった。相手の馬はそれを聞くとすぐに落ち着くから、暴れ馬の世話上手、なんて呼ばれたものさ。人間だったら競馬関係の仕事は天職だったかも知れない」

 

冗談交じりにそう言った春一さんは、私が驚いたまま言葉を発せ無くなっているにも拘わらず、「そうそうもうひとつエピソードがあるんだ」と言うと、にこやかに話始めた。

 

「年が明けて四歳になったとき、シンザンはウタワカの隣の馬房に移動になってな。しばらくして、ウタワカの体重は変わらないのにシンザンは膨らみだすから、誰ぞが余分に食わせているのか、と話題になって、犯人をとっちめてやる!って中本のやつと張り込んだことがあるんだよ。そうしたら、くくっ、犯人はウタワカでなあ」

 

優しい思い出を再生するように春一さんが語り続ける。

 

「どうもあの当時のシンザンは通常の飼い葉じゃ足りず腹を空かせていたらしい。見かねたウタワカが、自分の分の飼い葉を食んでは、首を伸ばしてシンザンに分けていた。俺が自宅からくすねて渡してた、ウタワカの好物のサツマイモまで食わせてやがった」

 

続く春一さんの言葉は『それでもお前が太らないんじゃ意味がないのに』だった。

それはとても穏やかな声色で、当時も似たような言葉をウタワカに告げたのではないだろうか。

お前のために用意した飼い葉なのだから、と。

春一さんの言葉のひとつひとつに、ウタワカへの愛が詰まっていた。

 

「それからは中本が上手い具合に飼い葉を調節するようになったから無くなったが。ウタワカがシンザンのことを気に掛けていたのはこちらにもわかるほどだった。もしかしたら、ウタワカには分っていたのかも知れないな」

「何をです?」

「シンザンが神話になることを」

 

そんなまさか、と言いかけた口を閉じた。

春一さんは真剣だ。

本気でそう思っていると分った。

 

「戦後初の三冠馬。全戦連帯100パーセント。競馬界全体に『シンザンを超えろ』と言わしめるほどの強さを、当時生きていた人馬の誰よりも感じ取っていたのかも知れない。そうであってもおかしくはない。あの馬は他馬に絡まれても動じないくらい穏やかで、優しくて、稽古苦労なんかひとつもないくらい賢くて、物わかりが良くて。……最期まで、本当に」

 

言葉尻がしぼんでいた。

春一さんは一度深く息を吸うと、私の目をはっきりと見た。

 

「ウタワカの馬名の由来は?」

「え?」

「ウタワカの馬名の由来は知っているか」

「い、いいえ」

 

古い時代となると、馬名の由来が添えられていないことも多く、インターネットやシンザン関連の書籍からはウタワカの名の由来を知ることはできなかった。

そう正直に伝えると、春一さんはこくりと頷いた。

 

「謳われるもの」

 

後世に広く、その名が謳われるほど素晴らしい馬になることを願って。

馬主が想いを込めた、最初の贈り物だった。

 

「だがアイツの名前は今やシンザンの副産物でしかない。あの名馬シンザンの同厩だった馬。それだけが、今のウタワカのすべてだ……すべてになってしまった。仕方ないことだとは分っていても」

「仕方ない?仕方ないって、なんです?」

 

ウタワカの情報がほとんど残されていない根本の理由を、春一さんは知っているようだった。

彼は覗き込むように見る私と視線を合わせると、『菊花賞の話をしよう』と言った。

 

「ウタワカはデビューから4戦4勝で菊花賞へと駒を進めた。鞍上には三年目の若手騎手を使った。テキ気に入りの新條って騎手で、才能のあるやつだったから選んだんだろう。ウタワカとの相性も良かった。だが……厩務員たちが噂していたとおり、もろいウタワカの脚では東京優駿に間に合わず、狙いを菊花賞に定めることになっていた。それまでの4戦すべてを後方からの差し込み強襲で勝ちきってきたウタワカは、遅いデビューと、同期の馬たちに比べてレース数も少なかったからか13頭中12番人気。だが人気なんぞどうでもよかった。最初にゴールに飛び込んだ馬だけが勝者だから」

 

それから一息置いて、春一さんは話を続けた。

 

「ウタワカはいつも通り後方から進める予定だった。3000メートルという長距離もあって、時計は遅めに回る。だから後方でじっと耐えて、最後に飛び出せば勝機はある。シンザンにだって勝てる見込みがある。あった。あったけど」

 

当時の菊花賞のレース映像は中央競馬会の公式サイトにも載せられている。

牝馬二冠のカネケヤキが逃げを打つところ、その二番手についたのがウタワカだった。

ウタワカは後方に控えなかった。

前へ前へと首を伸ばす姿は、あの場でみていた観客や競馬関係者のみならず、数十年経ってから動画で見た私にさえ、掛かっているのだと思わせる。

しかし春一さんはそれを否定した。

 

「確かに、俺も最初は掛かったのかと思った。けどな、あいつが二つ目のコーナーを回ったときに理解したんだ。……ああ、こいつは勝ちに行ってるんだって」

 

後方に控えたままではカネケヤキの背に届かないかも知れない。

中段で耐えても他馬のスタミナに揉まれてしまうかもしれない。

ならいっそのこと。

そういっそのこと。

前へ、前へ押し出て、先頭を走ってやろうじゃないか。

 

すべては勝つために。

 

そう語る春一さんは、少し泣きそうだった。

 

「あのレースではウタワカはいちばん体重が重かった。脚に掛かる負担は相当のものだ。逃げの稽古なんかしてないから、ずっと最大の力と速さで駆けていただろう。そんな走りをしたら脚がどうなってしまうのか。わからない馬ではなかったのに」

 

映像の中のウタワカは、ゴール手前で崩れた。

実況者の声が蘇る。

 

『おっとウタワカ落馬だ、先頭ウタワカ落馬、落馬、故障かウタワカ残り20メートルだ』

 

わずか20メートル。

されど20メートル。

 

勝ちを目指して走っていたウタワカ。

脚はどれだけ痛かっただろう。

崩れて、もつれて、でも目の前のゴールには飛び込まず、騎手を守ったウタワカ。

 

「悲鳴を上げたのは俺だけだった。他のやつらは『ああやっぱりな』って。一瞬の盛り上がりを演出して自滅したのだと指さして……っ」

 

自滅ではない。

勝つためだけの走りだった。

貪欲に勝利を目指したゆえの悲劇だった。

痛む脚を引きずって、騎手を守り通した優しさだった。

 

「一瞬息を飲んで、吐き出す頃にはシンザンが三冠馬になっていた。拍手喝采の場内で、あれほど惨めに思ったことはない。顔を覆って泣きたかった。勝つのはウタワカのはずだったと、叫んでやりたかった」

 

しかし春一さんはそうはしなかった。

ただ耐えた。

 

「中本は、せっかく担当馬が勝ったって言うのに辛気くせえ顔をする。背中をぶっ叩いてようやく笑ったんで、俺はそれを見てすぐに馬場に駆け込んだ。医者やらスタッフやらがわらわらと1頭と1人を囲んでたのを割って、ほとんど気力だけで立ってるだろうウタワカを見た。……澄んだ目をしていた」

 

暴れることなく、ただ白い汗をぶくりと泡立たせた姿で立っていたという。

倒れ伏す新條騎手を見やって、それから再び春一さんを見たウタワカは、それから間もなく予後不良と診断された。

 

「新條は頭を打って脳震盪を起こしていたが、幸い命に別状はなかった。だが予後不良と診断されたウタワカに明日はない。ウタワカは競馬場内で安楽死の処置が執られた」

 

場内は戦後初の三冠馬誕生に沸き立っていた。

シンザンの馬主はその偉業を存分に称え、中本氏も竹田氏もその喜びは隠しきれない。

ただその一室だけは、安楽死の処置を行うその一室だけは、異空間だった。

滑り込んできたウタワカの馬主は、額の汗も拭わぬまま愛馬に縋り付いていたという。

 

よくやった、お前は俺の最高の馬だ。

そう繰り返しウタワカを褒め、ウタワカもまた馬主の頬に顔を寄せる。

完全に砕け散った脚は、とうぜん酷い痛みを訴えていたはずだ。

だというのに、ウタワカは最期まで暴れることはなかったと、春一さんは静かに語った。

 

「馬主も揃い、それじゃあ処置しますよ、という段階でもうひとり、部屋に駆け込んできた。テキだった。シンザンの勝利会見を早めに切り上げ、取材陣も巻いて。『ウタワカがいるのはここか!』と叫びながら飛び込んできたよ」

 

スーツは乱れていた。

ウタワカの馬主同様、額の汗を拭うこともせず、荒く息を吐く竹田氏の姿には、その場の全員が驚き目を見開いたそうだ。

てっきりシンザンの勝利会見にどっぷり時間を使うだろう、と思い込んでいた春一さんもウタワカの馬主も、竹田氏の登場には心底喜んだという。

 

「テキもまた、横たわるウタワカに縋り付いてな。『よく夢を追った。お前はやっぱり凄い馬や、俺にも春一にも夢を見せた』って。ウタワカはそれに短く嘶きを返して、今度こそ安楽死の処置が執られた。……あの頃はな、今ほど安楽死のための薬も精度が良かったわけじゃないから、打ってすぐに馬が死ぬ、わけじゃなかった。場合によっては長く苦しむ馬もいた。ウタワカもすぐに薬が効いたわけではなく、身体全体がひどく痙攣したあとに目を閉じた」

 

最期まで苦痛を味わわせた、と春一さんは後悔の念にまみれた表情で呟いた。

それでも忘れられないのだと言う。

ウタワカが本当に事切れる寸前。

パッと目を開いて、春一さんをまっすぐ見つめてきた時の、力強い目。

 

「あれは、『俺は戦い切ったで、なんも心配はいらん』と言っている目だった。後悔のない、どこまでも澄み切った目で俺を見ていた」

 

はたして馬に感情はあるのか。

勝ち負けを理解するのか。

悔しさを、喜びを。

 

それは競馬関係者のみならず、馬に携わるものの永遠の議題だろう。

そして春一さんは『ある』と答えた。

彼が最期に見たというウタワカの、澄んだ瞳のようにまっすぐに。

 

「戦い切ったこいつに、俺はなにができるだろう。考えて、答えは一瞬だった。ウタワカの名誉回復だ」

 

ウタワカの安楽死処置が執られた後、傷心の馬主と竹田氏と共に場内を歩いていた春一さんの耳に、その言葉は飛び込んできたという。

 

『死に急ぎの駄馬』

 

それは、本来差し馬にも拘わらず逃げを選び、ゴール手前で夢を絶たれたウタワカを貶すものだった。

 

「聞いた時はわけがわからなかった。だが、理解すると同時に果ての無い怒りがわいて、一発でいいから殴ってやりたくなってな。このヤロ、と言いかけた俺を止めたのは、誰でもなくウタワカの馬主だった」

 

彼の怒りも相当なものだった。

馬主は唇を噛みしめ、うっすらと血が滲んでいたという。

それでも春一さんを止めた。

ウタワカを育ててきた春一さんに汚名を着せたくない、その一心だったのかもしれない。

次いで馬主は、竹田氏にある願い事をした。

 

「『ウタワカの名前を出さないでくれ』と。あの人はそういった。正気か疑ったよ。だけどあの人もまた、深い傷を引きずっている。ウタワカの名を誰かが貶すよりはいっそ、誰も話題にしてほしくなかったのかもしれない」

 

そうしてウタワカの名前は、京都競馬場にある竹田厩舎から始まり、他の厩舎でもタブーとなった。

いつしかそれが他の競馬場にも広まり、美浦と栗東に別れた後も続いているのだという。

 

「語るものがいなくなれば、継がれるものはなにもない。今の美浦や栗東だって、ウタワカの名前自体知らないやつのほうが圧倒的に多いし、タブーになっていることを知っていても理由にはもうたどり着けないだろう」

 

ウタワカの馬主は晩年、見舞いに訪れた春一さんにこう告げた。

 

「『ウタワカを忘れんでくれ。せめてあんただけは』」

 

もう春一さんしかいない。

日本中どこを探しても、この人だけが唯一、ウタワカの真実を知る人。

 

「……実はこれまでにも、ウタワカについて尋ねてきたやつらはいたんだよ。でもそいつらはな、何故か競馬関係者の間でタブーとなっている『ウタワカ』という馬が一体なにをやらかしたのか、を聞いてきた。中途半端に『死に急ぎの駄馬』なんて言葉だけ持ってきやがって。全部ボケて追い返してやったがな」

 

呆れたように語る春一さんに、私は思わず前のめりに質問をした。

 

「私の取材を受けるのも苦痛だったでしょう。すみません」

「あんたは純粋に知りたいって目をしていた。死に急ぎの駄馬ではなく、ウタワカという馬を知りたいのだ、と。その目が気に入ったから、こうしてぺちゃくちゃ喋ってんだ」

 

そう言って春一さんは私の肩を叩いた。

それから、真剣な表情を作ると、私に向かって頭を下げるので慌てて肩を掴んで止めた。

 

「頼みがあるんだ」

 

春一さんの声は縋り付くようだった。

 

「どうかウタワカの名前を、後世に残して頂きたい」

 

馬主との約束は破ることになる。

だが、どうしても残したいのだと春一さんは言う。

もう自分だけだった。

自分が死んだ後、ウタワカの名はどうなるのか。

この世の誰も、勝ちを目指して走り、夢を絶たれてもなお騎手を守った馬のことなど覚えていない。

あの日聞いてしまった悪意の塊が胸をついて、ウタワカの名前を守るために隠された。

しかし、残したいという気持ちを消すことは終ぞできなかった。

 

そう語る春一さんの願いに、私は頷いた。

これは記憶のリレーである。

ウタワカという1頭の馬の。

 

「これを」

 

敦さんが持ってきていた紙袋の中から、一冊のアルバムを取り出された。

古びたそのアルバムの表紙には、マジックペンで書かれたのか、かすれた文字で『ウタワカ』と書いてある。

私が不思議そうな顔で受け取ったからか、春一さんは苦笑しながら口を開いた。

 

「ウタワカの写真が入ってる」

「写真……そんな貴重なものを……」

「どうか使って欲しい。お願いします」

 

頭を下げる春一さんをなんとか宥めて、私はアルバムをゆっくりと開いた。

そこには大柄な馬と、若かりし頃の春一さんが映った写真が数枚。

あとは、当時のウタワカの観察日記なのか、今日はどのような調教をしたのか、何を食べたのか事細かに書かれたメモが挟まっていた。

それを見るだけでも、ウタワカが飼い葉をゆっくり食べる性格だったことや、砂糖がいちばんすきなこと、二番目にサツマイモが好きなことがわかるくらい、びっしりと。

 

「春一さん、最後にお聞きしていいですか」

「なんでも聞いてくれ」

 

出会って間もない時の春一さんとはまるで別人のような表情で、春一さんは頷く。

私はその言葉に甘えて、その在処を聞くことにした。

 

「ウタワカの墓はどこに?」

 

花を手向けに行きたかった。

春一さんの話を聞いたら、その気持ちでいっぱいになってしまったのだ。

 

「馬主と同じところに。……ただあの震災で何もかもなくなっちまってな。今は当時使ってた蹄鉄が京都競馬場に寄贈されてるはずだから、そこに行ってみてくれ」

「はい、ありがとうございます!」

 

会う前、春一さんの息子の敦さんは、春一さんが認知症だと言っていた。

けれど、この瞬間まで話していた春一さんにその症状はないように見える。

古く、絶対に忘れてはならぬ記憶がそうさせたのだろうか。

別れ際、安心したような表情で微笑む春一さんの姿が頭から離れない。

嬉しそうな敦さんと共に立つ春一さんに見送られ、私は青森の地を後にした。

 

春一さんが亡くなったと知らされたのは、それから丁度一週間後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

京都競馬場にある厩舎には、古い蹄鉄が額縁に入って飾られている。

その厩舎は遠征してくる馬たちに貸し出され、その蹄鉄は馬たちの闘志を鼓舞し、無事を祈っているという。

 

その蹄鉄につけられた名は── 謳われるもの。

 

夢のゴールまで残り20メートル。

果敢に勝負を仕掛け、諦めず、戦いきった、名馬・ウタワカの蹄鉄である。

 




毎週土曜日更新。

次回、主人公(転生馬)視点。
文体も雰囲気も180度変わるのでご注意ください。
※雑誌パートだけ話としては問題ないです


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●約300年の時を経て

主人公(転生馬)視点です。
雑誌(作家)視点とは雰囲気、文体、180度変わります。
これを読まなくても雑誌視点だけで話は通るので、雰囲気変わるの嫌な方はスキップしてください。

主人公視点と雑誌視点は今後下記のようにタイトル分けします。
先頭「○」:雑誌視点
先頭「●」:主人公視点


はい死んだ。

また死んだ。

これで何回目だ安楽死。

……わからん!!死にすぎてわからん!!

ただ言えることは、俺は今回も馬だということです。

 

「ひっひ~ん!?」

 

何を言っているかわからねえと思うが、順を追って説明していくぞ。

まず俺は馬だ。

 

……なに?そこからわからない?

仕方ないから人間だったときから説明するぞ。

 

アレは100年……いや200年?300年かもしれんけどもうわからん、かなり前の話だ。

それはもっとも古い記憶であると同時に、俺の中で一番強い記憶で、というのも俺は── かつて人間だった。

人間の中でも弱い部類で、生まれてから死ぬまで病院で生活していた。

院内にある学校に通い義務教育を受ける日々。

授業が終わったら個室に引っ込んで読書、読書、そして読書、たまに動画鑑賞。

友達?ばかやろー、作って三日後に友達見送ることになったらイヤだろうが。

こちとらもう10人くらいはあの世に見送ってるんだぞ。

まあ普通の学校にいけない、長期入院してる子供ばっかりの院内学級なんだからそらそうなるわな。

見送るのもダメージあるんで、いっそのこと友達いないほうが精神的に快適だと気づいてからはぼっちだ。

ぼっちはぼっちでも名誉ぼっちです。

栄誉ある孤立です。

ラッキーなことに俺の親がめちゃめちゃ金持ちだったこともあり、俺は病院で快適に生活できていたし問題は無い。

 

いやごめん嘘吐いた。

過ごしていた場所が病院だってこともあって、本以外の娯楽はぜんっぜんなかった。

それにあって院内にある児童書や絵本は100回くらい読み返してる。

100万回生きた猫とか暗唱できるよ俺。

とまあ、退屈な日々を過ごしていた俺なのだが、ある日病気が尋常じゃないくらいのスピードで悪化してしまい、そのまま現世にバイナラした。

最期の記憶は「健康に産んであげられなくてごめんね」と泣く母と、唇を噛みしめる父と、死んじゃイヤだと泣く弟。

まあもう顔とか覚えてないんですけどね!

さすがに百年単位で馬やってると顔まではね……でも両親がいて、弟がいて、病院が退屈だったことだけは今でも覚えている。

俺の記憶の中の両親はいつも謝っていたけど、ぶっちゃけ両親はなんも悪くなくない?

こんなん産まれるまでわからんやん。

むしろここまで生かしてくれてサンキュー!って感じ。

弟は俺とは真逆の健康優良児だったはずなので、親孝行は弟にお任せした

おお、弟よ、すべてを押しつけて先立つ兄を許してくれ、と俺が弟に言ったとか言ってないとか。

あと俺のお墓の前で泣かないでね!そこに俺はいないたぶん!ってな気持ちであとは視界真っ暗。

そんなこんなで死んだわけなのだが……目が覚めたら馬だった。

 

 

 

あ、ありのままいま起こったことを話すぜ!

俺は享年ピーッ歳という若さでこの世におさらばしたはずだった!

だが目が覚めたら馬だった。

な、何を言ってるかわからねーと思うが、俺も何がどうなってこうなったのかわからない。

頭がどうにかなりそうだったがとりあえず流れに身を任せることにした。

 

これが記念すべき第1回目の馬転生である。

そして記念すべき第1回目の安楽死である。

いやあ、まさか転生1日目で転んでそのまま死ぬとは。

この時の俺はまったく知らなかったのだが、馬は立ったり走ったりできなくなると死ぬしかないらしい。

馬の脚は第2の心臓と言われるほど重要らしく、それが使えなくなると血液とかの巡りが悪くなって結果死ぬっぽいんだわ。

特に後半になって俺が転生しまくってる馬の品種、サラブレッドというやつがこれまた脚が弱いのなんので、よくポキポキ折れた。

で、第1回目の俺は初めて歩いた直後に転んで骨折、これはあかん!ってことでそのまま闇に葬り去られたわけよ。

そもそもなんで転んだのかと言えば、この時の俺がめっちゃ混乱してたから。

そらそうなんよ。

現世にさよならバイバイした後に馬になるとか誰も思わんからね、当然混乱するし四足歩行慣れてないんだからすっ転ぶわ。

しかもその時の俺のまわりにいたオッサンたちみんなイカつい外国人だったし。

転んで「痛すぎィ!」ってなってたら謎の布被せられて人生、いや馬生終了。

 

状況飲み込めないまま第2回目。

今度は転ばないように気をつけてたけど、母馬のおっぱいの吸い方わからず死亡。

そこから回数を重ねて第4回目くらいから吸い方を覚え、三ヶ月くらいは生存したはず。

ちなみにこのときの死因は刺殺です、たぶん。

確か誘拐?密猟?母馬からちょっと離れた草原で昼寝してたらイカつい男どもに捕まったんだよな。

いやああれは予測つかないでしょ。

第5回目からは身体がデカくなるまで母馬から離れない決意したね。

 

初めて母馬くらい身体が大きくなったのは、確か第31回目あたり。

この時はまだ回数数えてたんだよなあ。

俺が何度死んでも必ず馬に転生するんだと諦めがついたのもこの頃。

人から馬になるってそれ、畜生道じゃねえかアレ俺なんか悪いことしたっけ、と思ったけどそうだね、親より先に死ぬのは親不孝だねでも仕方なくない?

若干の理不尽を覚えつつ、親より先に死んだのがこの馬転生の理由なら、母馬とか父馬より長生きすれば転生ストップするかも、と思ったのは記念すべき第100回目の馬転生。

ついでに数えるのもやめた。

あとどうでもいいけど第38回から第100回までの死因No.1は戦死です。

ある程度身体がデカくなるとクッソ重い男どもを乗せて戦場に出された。

イカついオッサンたちの服装がなんか古いなあ、とは薄々気づいていけど、初めて戦場に出された時に見た黒い鳥が描かれた旗から、当時の俺がいたのは16世紀から17世紀くらいなんじゃないか、と思ってる。

黒い鳥が描かれた旗はたぶん神聖ローマ帝国のヤツ。

なんで知ってるのかっていうと、神聖ローマ帝国、っていう名前の響きと旗が格好良くて、その……一時期、その……そういうことだよ!

頭が二つある黒い鳥が旗に使われ出したのが15世紀から17世紀半ばまでで、戦場に他にも白地に赤い十字と楽器っぽいのが入った旗、これは16世紀から17世紀くらいイングランドだかスコットランドの旗のはずだから、時期的には合ってるはず。

敵の兵士はブスブスぶっ刺してくるし、乗ってる男どもも足で俺の腹蹴るし。

酷いときは剣の平らっぽい部分で叩かれたこともあるからな。

マジ最悪だったわ。

それが第100回まで行われた後はしばらくなんもなく、オッサンたちの娯楽代わりなのかゴツゴツしたところを走らされたりした。

俺が負けるとイカついオッサンどもが叩いてくるからど突き返してやろうかと思ったね!

 

そこから時々戦場にぶち込まれたり、オッサンたちの遊びに付き合わされたりしてるうちに、気づけば18世紀ごろ。

ちょっと前まではユニオンジャックっぽい旗の真ん中に楽器が描かれたヤツだったんだが、その楽器が消えてたから18世紀であってるはず、たぶん、おそらく。

その頃になると、俺は戦場に行く機会がちょっと減った。

産まれるところも、狭い小屋にボーボーの草原っていうよりは、なんか施設っぽいところに変わっていったんだよな。

イカついオッサンたちから、少年から中年まで幅広い年齢層の男たちに世話されることが増えた。

それまで娯楽で走ってたときに背中に乗ってたヤツらも、年齢体重関係ねぇ!ってやつらから細身の男達に変わり、観客らしき人たちまでできたのはビビったわ。

途中から「あれこれ競馬じゃね?」ってなったんだけど、俺がテレビでチラ見した競馬はこんな硬そうな鞭じゃなかったんだよなあ。

乗ってるやつも力一杯叩いてくるから何度振り落とそうと思ったか。

 

この時期の俺はめちゃくちゃ脚が折れた。

理由は「前よりも脚が細くなったから」だ。

なんでかわからんけど、18世紀くらいから俺が転生する馬の脚が前よりも細くなってくんだわ。

その分スピードが出るようになったんだけど、細いから身体が重くなると支えきれなくてポッキり。

走れないと分ると即処分されたため、戦場にぶち込まれてたときとほぼ同じような速度で転生しまくった。

で、何十回目かの時、運良くめちゃくちゃ頑丈なボディを手に入れた。

立つのも早かったし、強めに鞭が入っても耐えられるレベル。

これは俺の馬転生もこれで終わりでは?とワクワクしてたんだけど、同時期にクッソ強い馬がいてそいつに負けまくった。

そいつの名前はエクレアだかエリンギだかプリウスだか、発音むずくてわかんないけど、そんな感じのやつで、そいつが強いのなんの。

当時の俺は「俺、最強では?俺に勝てる馬とかいないんでは?」くらい勝ちまくってたのに、そいつと同じレースに出たらめちゃくちゃ離されたよね。

俺も後ろの馬をめっちゃ引き離してたけど、それと同じくらいソイツとも差ができてた。

なにこいつ怖ッ!てビビってたらレース中に脚ポッキり逝っておしまいです。はい。

いやあ惜しかったなあ。

なんとか頭一個分まで迫ったんだけど。

あそこでポッキり逝かなかったらワンチャンで勝てたんじゃないか?俺は訝しんだ。

 

そのメチャ強馬と走ってからだと思うんだけど、俺は転生する先々で強い馬に会うようになった。

ポテト好きそうな感じの名前のやつとか、振られたー!みたいなやつとか、筋肉マッチョだとかムーチョみたいな名前のやつとか、サイとかシモンとかいう感じのやつとか、あとマンなんちゃらとか。

産まれる先も、それまでほぼイングランドとかスコットランド、つまりイギリスなんだけど、フランスやドイツ、イタリア、ハンガリー、最近だとアメリカなどなど、国もバラバラになってきた。

 

そして今回。

記念すべきうんちゃら回目。

とうとう日本に生まれた。

 

「……こりゃまた、見事な黒鹿毛だなあ」

 

日本語聞くの久しぶりすぎィ!

そうそうこういう言葉だったよな!

16世紀~17世紀がスタートだったと考えると、だいたい200~300年ぶりくらいだわ日本。

……なに?長いこと外国に居たのに向こうの言葉覚えられなかったのかって?

ばっきゃろーこちとら生きることに精一杯で言語学習してられるか!俺は部屋に戻らせて貰う!

 

「もう立ったんですか!いいですね、期待できますね」

「ああ。こいつは走るかもしれん」

「でも、牧場長……」

「……わかってる。すべては、結果が出次第」

 

なんか人間たちが暗い顔と暗いトーンで話してる。

牧場長と呼ばれた平たい顔のオッサンが今回の持ち主かな。

転生馬を担当するのは初めてか?まあ肩の力を抜けよ。

過去には5回連続で俺を担当した牧場のオッサンとかいたから、直に慣れるって。

いやあ、それにしてもようやく日本か。

日本なら安楽死も結構良い感じにやってくれるんじゃないか?

ここまで数え切れないくらい安楽死による最期を迎えてきた俺だけど、酷いときは刺殺だったり頭のところガッツーン打たれたり、撃たれたり。

安楽死とは一体なんなのか考えさせられるような感じだったけど、時代の流れなのかここ十数年は薬を使われることが増えた。

まあだからってまったく痛くないってことないんですけどね!

とはいえ改良は進んでいるはず。

いちばん良いのは死なないことだけど、生き物である以上死からは逃れられないからね。

せめて心穏やかに逝きたいわけですよ。

頼むぞ日本!穏やかな最期!

 

 

 

そんな祈りを捧げて早2年ちょっと。

俺はとうとう「学校」に行くことになった。

学校とは言っても俺が勝手にそう呼んでるだけで、正式には「厩舎」と言うらしい。

英語がわかんなかったころはその建物をどう呼んで良いかわからなかったのと、同世代っぽい馬がたくさんいたから「学校」って呼んでたけど、これからは厩舎って呼ぶか。

郷に入っては郷に従えって言うし。

 

「頑張ってくるんだぞ、三郎」

 

あいよ~!

見送りにきた牧場長にケツを向けると列車に詰め込まれた。

ここからが長いんだよな。

俺が産まれたのは北海道で、これから逝く先、じゃなくて行く先が京都だっていうんだから。

ガタンゴトン列車に揺られた後はトラックに乗せられ、数十時間掛けて厩舎に到着した。

俺は京都に在る「京都競馬場」ってところで暮らすらしい。

本当はもう1年早くに入るはずだったのが、俺の母馬の件でもめ事があったらしく遅れた。

俺と同世代の馬たちの半分近くがデビュー済みらしいので、今から頑張って後れを取り戻すぞ!

初手から強さを見せつけてマッチレースに持ち込めば勝てる!

……え?日本ではマッチレースやってない?

そんなあ。

 

「ウタワカ号、ここがお前の馬房だよ」

 

マッチレースないとか絶望しました、馬やめます、と泣きながら部屋に入った。

イギリスの部屋よりは狭かったけどまあ戦場にブチ込まれてたときよりマシ。

さっそく用意してもらったゴハンをたべていると、二つくらい離れた部屋から視線を感じた。

こ、これは……ペロッ、強いやつの視線……!

 

説明しよう!

エクレアとかそこらへんの強い馬と戦い続けた結果、俺は相手馬がどれだけ強いとかふんわり分るようになったのだ。

まあわかっても何にも活かせないんですけどね!

 

同じ厩舎に強いやついるとか聞いてないよ~!

こんなん絶対比べられるやつじゃん。

先生……調教師が馬を比較して優劣着けたがるタイプのやつだったら最悪の展開だわ。

強い馬の引き立て役やるためだけにレースに出される流れになっちゃう~!

調教師が人格者でありますよーに、と祈りながらそれから三ヶ月。

デビューレースを圧勝したらしいその馬── シンザンが隣の部屋に越してきた。

時は年末。

馬っていうのは結構静かな生き物で、めったに喋ったりしない。

俺?俺はほら、元の魂が人間やってたんで……。

シンザンも静かな馬だったんだけど、目が語るっていうか、視線の圧がある。

といっても嫌な視線じゃないし、視線の先見ると俺のゴハン見てるので単純に腹が減ってるのだろう。

俺もこれ以上太ると脚に負担掛かりやすいので、ゴハンをいくらかお裾分けした。

ワハハ、たんとお食べ。

そんでこれに恩を感じたら、同じレースになった時は手加減してくれ。

 

「ウタワカお前、シンザンに食わせてたのか。面倒見が良いとは美徳だけどな、それでもお前が太らないんじゃ意味がないぞ」

 

バレテーラオコラレーター。

シンザンのゴハンの量が増え、俺は食事を監視されるようになった。

 

 

 

俺がデビューしたのは翌春だった。

なんかね、脚が弱いっぽい。

うすうすそんな気はしてたんだよ、俺、身体大きいし。

まずったな、また安楽死エンドか?と思ってたが、調教師や俺の世話をしてくれるオッサンは俺に負担のない範囲でレースに出すつもりらしい。

これは……勝ったな!

ちょっと走ってくる。

 

「どうや春一!ウタワカはよお走るな!」

「そうですね」

 

ドワハハハ!1着!

勝ったぞい、と厩舎に戻った俺は、シンザンと走ったり、シンザンと走ったりして過ごし、季節は流れて秋。

俺と違って頑丈ボディなシンザンは、日本のデカいレースを勝ちまくって日本中から注目されているらしい。

いやさすが俺の目。

やっぱつよつよウッマだったんじゃないですか!

やばあ、この馬と同じレースじゃなくて安心したわ、と思ったのもつかの間。

 

「次の菊花賞はシンザンとウタワカや。シンザンが三冠取るか、ウタワカが無敗の菊花賞馬になるか」

 

よせ調教師。

ここまで勝てたのは俺の頑張りもあるけど、シンザンとかいうヤバ馬がいなかったっていうのもある。

シンザンと同じレースになったら勝てるかどうか。

 

「……せやけど、ウタワカは脚が弱いし、菊花賞勝てたら種牡馬にした方がええな。馬主にもそう言うか」

 

マジ!?

種牡馬と言えば、種付けするのが仕事の男のロマンみたいなやつ。

そこまでこぎ着ければ少なくとも母馬より長生きできそうじゃん!

でも、うーん、シンザンに勝てたらだろ?

勝てるかなあ……いやでも、勝てばワンチャン馬転生終わるしなあ……。

 

5分くらい考えた結果、シンザンになんとか勝つという方向性で決まった。

まあワンチャンなくもなくもなくもない。

日本はデカいレースともなると馬がたくさんでてくるって聞いたから、その馬たちにシンザンが沈んでくれればありがたい。

逆に俺が囲まれたり沈んじゃうと意味がないから、当日はなるべく前で走らないと。

そう決意を固めて挑んだ菊花賞だったのだが──

 

「13頭だけか。……例年より少ないな」

 

ドウシテ……ドウシテ……!

 

「シンザン由来で回避が相次いだのでしょうね」

 

アーッ!シンザンンーッ!

わかるよ、強すぎウッマと同じレース走りたくないもんな!

でも今回だけはいっぱいの馬が欲しかった。

どうしよ、勝つ方向性止めるか?

……いや、もう行ったるしかないな。

頭1個分でも良いから勝つゾ──!

 

 

 

 

 

 

「ウタワカ……ッ!ウタワカッ!」

 

これはアカンやつ。

おい乗り役のひと大丈夫か。

 

「馬運車の準備を……」

「これは折れて……」

「医者来ました!」

 

俺の周りにワラワラとわく人、人、人。

これは安楽死フラグ。

いやあ参った。

まさか先頭で走ってたら折れるとは。

っていうかゴールまであとちょっとじゃなかった?

もう俺の目の前に見えてたんだけどゴール。

マジ惜しかったわあ。

行けたじゃんね。

別の逝っちゃうけど。

 

アーッ!ほんとうに惜しかった。

気づいたらシンザンがゴールしてたんですけど。

アイツこれで勝ったから三冠ってやつじゃね?

ほんとすごいなシンザン。

……あ、人のみなさん、そろそろ俺をトラックに乗せてくれません?

シンザンが明らかにこっちに戻ってこようとしてるんでまずいです。

他の人間が轢かれちゃう~!

 

「ウタ……ワカ……」

 

お、乗り役の。

意識はあるなよかったよかった。

いやあごめんね振り落としちゃって。

乗り役もここで勝てばデカいレース初勝利だったのに、俺の脚が細すぎるばっかりに……。

次はもうちょっと頑丈な馬にあたるといいな。

それじゃあ俺は逝ってくるわ。

 

「ウタワカ……」

 

ガチ折れしてる脚を引きずって処置室っぽいところまで連れて行かれた。

先生って呼ばれてるハゲたオッサンはたぶん獣医。

言葉にしなくてもヤベーこと丸わかりの表情してるのでやっぱりアカンやつか。

いつも世話してくれてるオッサン、いや、まだ若そうだからお兄さんって呼んだ方がいいのか?

お兄さんがめちゃくちゃ悲壮感たっぷりの顔をする。

俺の持ち主も汗だくだし泣きじゃくってるし。

いい年したオッサンがそんなに泣くな。

それに持ち主は他にも馬いるんだからでえじょうぶ!

どっかで強い馬が巡ってくるよ、たぶん。

 

「……それでは、処置を始めます」

 

最期だからってんで砂糖をめっちゃ舐めさせてもらう。

俺は甘いもの大好きなので砂糖もらえるの嬉しいんだけど、過去にも安楽死前に砂糖たくさん貰うことあったから複雑。

砂糖舐めるとどうしても思い出しちゃうんだよなあ。

調教師とかお兄さんはリッチなのかたびたびおやつとして砂糖くれるけど。

 

「薬の準備できました」

 

お、そろそろか。

はいドーゾ。

できれば優しい感じで……痛み少なめで……。

何回やっても死ぬのは慣れないなあ、としんみりしてるところで調教師が処置室に滑り込んできた。

シンザンの打ち上げはどうしたよ。

馬主と同じぐらい汗だくギャン泣きの調教師を宥め、調教師からまた砂糖をもらい、今度こそ処置。

薬が入ってるだろう注射をぶっ刺され、俺は静かに── 逝けなかった。

 

これ普通につらいやつ~~!!!!

 

「ウタワカ……ッ!」

 

あっでもアメリカにいたころよりはなんかマシかも!

ちょっと身体痺れてるけど確実に改良されてる!

俺は意識が落ちていく中で目があったお兄さんに向かって心の中で叫んだ。

 

『俺が次転生するまでにもうちょっと刺激少なめに改良しといてくれ頼む~~!!!!』

 

 

 

これで俺のうんちゃら回目は幕を閉じ、次に目を開けると、また別の牧場だった。



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【大百科】ウタワカ(競走馬)

閲覧、感想、ブックマークに評価、ありがとうございます!!!!

※Wikipediaパロです
※注意文はWikipediaの注意文を引用しています(引用:https://w.wiki/3AHz)

2022/03/07 12時に予約投稿されてしまったのですが、まだ編集途中なので一端削除しました。
不思議なものを出してしまいすみません。

夜間モードにしても文字色反転せずに表示できるようになっているかと思います。
いちおうPC版(chrome)とスマホ(safari)では文字が読めることも確認しました。
ただ、テーブルの枠線など一部反転できていないのと、夜間モードだと青色や赤色などが見づらい場合もあります。
その際は夜間モードをオフにして御覧下さい。


ウタワカ(競走馬)


出典:フリー大百科事典『ニヨペディア(Niyopedia)』

 

注意:この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記表や2001年以降の日本国名の表記とは異なっています。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。

 

注意:この記事のほとんどまたはすべてが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性、中立性、信頼性の向上にご協力ください。

 

ウタワカ(1961年2月10日 - 1964年11月15日)は、日本の競走馬。

     

ウタワカ

品種サラブレッド

性別

毛色黒鹿毛

誕生1961年2月10日

死没1964年11月15日

ライジングフレーム

丘高(クモワカ)

母の父セフト

生国日本(北海道早来町)

生産者大石久美子

馬主山田大五郎

調教師竹田文五郎(京都)

厩務員森重春一

競走成績

生涯成績5戦4勝

獲得賞金240万円

勝ち鞍

4歳以上(1964年9月5日)

4歳(1964年6月13日)

4歳(1964年5月3日)

4歳新馬戦(1964年3月22日)

 

ウタワカ

品種サラブレッド

性別

毛色黒鹿毛

誕生1961年2月10日

死没1964年11月15日

ライジングフレーム

丘高(クモワカ)

母の父セフト

生国日本(北海道早来町)

生産者大石久美子

馬主山田大五郎

調教師竹田文五郎(京都)

厩務員森重春一

競走成績

生涯成績5戦4勝

獲得賞金240万円

勝ち鞍

4歳以上(1964年9月5日)

4歳(1964年6月13日)

4歳(1964年5月3日)

4歳新馬戦(1964年3月22日)

 

 

概要


戦後初の三冠馬・シンザンの僚馬として知られる競走馬。

均整の取れた美しい四肢を持つ、当時としては珍しい大型の馬だった。母・丘高(クモワカ)の馬伝染性貧血に関する一連の騒動により、3歳(現・2歳)の秋に遅く入厩した。管理する竹田調教師をして「これは大物になる」と言わしめるほどの素質馬であったが、生来の脚の弱さからデビューも翌4歳の春と出遅れる。しかしそこから4戦すべてを圧勝すると、4歳馬最後の一冠を求めて菊花賞に駒を進めた。

 

馬名の由来は「謳われるもの」

 

1960年代の競走馬であり、かつ重賞の記録も無いためか資料が乏しく、当時に関する情報は殆ど無い。だがウタワカが菊花賞で使用していた蹄鉄は、京都競馬場の馬房に今も大切に保管されている。

 

生涯


1961年2月10日に誕生。

母・丘高に関する一連の騒動によってその血統登録が受理されたのは1963年と大きく遅れる。同年秋に竹田文五郎厩舎(京都)に入厩。非常に大人しく、従順な性格から「世話がしやすい」とされており、後ろ蹴り、立ち上がり、過度な嘶きは一度も無かったという。

当時では珍しい大型の馬で、生まれつき脚が弱い。そのためデビューは1964年3月の4歳新馬戦。これを当時7年目だった若手のホープ・新條騎手を鞍上に、後方に溜めてから最終コーナーで差し切って圧勝。すると続けて3戦勝利した。

当時は中1週でレースに出走させることも多く、同世代の馬の多くは10戦以上レースに出走している。例に挙げると、僚馬であるシンザンも菊花賞までに10戦熟していた。その中でウタワカの出走数はかなり少ない部類で、菊花賞当日の人気の低さはそれに由来するものだと考えられている。[要出典]

 

デビューから差し追いの戦法を取っていたウタワカだったが、菊花賞では二冠牝馬カネケヤキが逃げを打ったことでハイペースになることが予想され、鞍上の新條騎手は「差し追いではシンザンや他の馬に負ける」と判断し、カネケヤキを二番手で追走する走りを選択。レース中盤にはカネケヤキを捉えきると先頭を奪い、猛スピードで走り続けた。13頭中12人気の馬が菊花賞馬になってしまうのか、と場内が沸き立つ最中、ゴールまで残り20メートル地点でウタワカは故障し予後不良と診断された。

1964年11月15日、京都競馬場にて安楽死の処置が執られた。

 

競走成績


4歳新馬戦東京1600m1964年3月22日1着

4歳京都1800m1964年5月3日1着

4歳阪神1800m1964年6月13日1着

4歳以上中京1700m1964年9月5日1着

菊花賞京都3000m1964年11月15日競走中止

 

エピソード


・自分用の飼い葉やおやつをシンザンに分け与えていた

・本番でも稽古でもよく走る馬で、他の厩舎から見物人が止まなかった

・気性が非常に大人しく、人馬問わず誰に対しても威嚇も悪戯もしたことがなかった

 →だが特別人に懐いていたわけでもなく、馬房の中ではマイペースな性格だったという

・ウタワカの見目を気に入り、その素質を高く評価していた竹田調教師は、ウタワカへの褒美として砂糖を厩舎に常備させていた

・安楽死の処置が執られた際、投薬の副作用で痙攣している間も声を上げること無く、静かだった

・ウタワカ亡き後、一時期シンザンが体調を崩していたが、ウタワカの蹄鉄を馬房に飾ると改善した

 




次回から別の世代です。


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ライブアゲイン ── 1970年〜1974年
○炎の中に揺れる 前編


『月刊「優駿たち」12月号 ── 連載:名馬の影に思いを馳せて』
執筆:遠山寛次郎
競馬史に残る偉大なる名馬たちの、その輝かしいレースの影に佇む馬に焦点を合わせ、その足跡を辿るドキュメンタリー風小説を7ヶ月に渡ってお送りします。
12月号でお送りする名馬の影は『ライブアゲイン』

あなたは、この馬のことを覚えていますか?



人生には『出会い』と『別れ』がある。

もちろん、馬にも。

 

「我慢強く、そして静かな馬でしたよ」

 

誕生して直ぐ母馬に蹴られた時も。

離乳して母馬から離れる時も。

他の仔馬にいじめられた時も。

調教中にソエを発症した時も。

 

その馬は静かに耐えていた。

暴れることもなく、ただじっと、じっと。

 

「あの時もね、相当痛かっただろうに」

 

私の眼前に座った神林さんからは、後悔の匂いがした。

 

 

 

 

 

 

2022年。

ウタワカについて調べていた、ある夏の日のことだ。

その厩務員であった森重春一さんとのアポイントメントが取れた私は、それとほぼ同時に他の馬について調べていた。

有り難いことに編集部が多くの資料を用意してくれていたおかげで、どの年代のどの馬を取り上げるかは、比較的容易に決まった。

この連載のコンセプトからお察しの通り、2頭目に選んだ馬も所謂『日陰の馬』である。

 

プリントアウトされた資料はA4サイズにして3枚ほど。

たった数行だったウタワカと比較すると多く感じるが、画像込みでこの枚数なのだから、情報量は現在に比較すればずいぶんと少ないものだ。

指でなぞった紙面は、その馬の半生を写すようにザラリとしていた。

 

 

 

時は1970年に遡る。

日本万博展覧会── 通称・大阪万博の開催年である1970年、日本で何が起こっていただろうか。

この雑誌を愛読する古き良き紳士淑女の皆様にとっては、過去を懐かしむ数行になるかもしれない。

前述の大阪万博はもちろん、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドの日本1号店が誕生するなど、欧米から吹き込んだ風が国中を包んでいたあの頃。

ボーリングブームが巻き起こり、銀座、新宿、池袋、浅草で歩行者天国が開かれ、男はカラーシャツ、女はノーブラ旋風。

上島珈琲店の缶コーヒーを片手にリーマンが街を歩いていれば、ため込んだ古紙を『ちり紙交換』に出す主婦の姿が全国各地で見られるようになった。

変革の時を迎えていた、そんな年の初め。

これから巻き起こるブームがその影を僅かばかり見せていた1月のある朝に、1頭の馬が産声を上げた。

競走馬としてはありふれた鹿毛の馬体で、生まれた時にはこれと言った特徴はなかったその馬は、後に『ライブアゲイン』と名付けられた。

新しい時代に相応しい、強き馬になることを願われて──。

 

ただ、このライブアゲインという馬は、あまりにも『運』が無かった。

生まれて間もなく母馬に蹴られたエピソードもさることながら、最も大きいのは──。

 

「生後3ヶ月で牧場閉鎖って……相当ですよ。同じフォルティノ系でも、あのタマモクロスだって当歳の頃はまだ故郷があった」

 

調べ物を手伝っていた担当編集者がそう零す。

 

『生後3ヶ月で牧場閉鎖』

 

その字面を撫でながら、私は手にしていた資料を一端手放し、しばらく思案に耽った。

何を考えていたのかといえば、ライブアゲインの血統についてだ。

ここで読者の皆様に、ライブアゲインの産まれについて軽く紹介しよう。

 

ライブアゲインの父は、1969年に日本に持ち込まれた種牡馬・フォルティノだ。

フランスの競走馬で、現役時代はアベイユ・ド・ロンシャン賞、サン・ジョルジュ賞などを勝利した。

同馬は制したレースから分る通り、スタンダードな短距離馬と言えたが、その産駒からは様々な脚質の馬が産まれている。

1963年に同国で種牡馬入りすると、67年に生まれた4年目産駒・カロがフランス2000ギニー、イスパーン賞、ガネー賞を制する等G1級の走りを見せ、その後は種牡馬としても繁栄を遂げることになるのだ。

そのほかにもヨークシャーC勝ち馬のノックロー、アイルランド1000ギニー勝ち馬のピジェット、イタリアの共和国大統領賞を制したシャムサン等の産駒を輩出。種牡馬として申し分ない実績を作った状態で来日している。

日本でもライブアゲインが生まれた5年後の1975年、シービークロスが誕生。

言わずと知れた白い稲妻・タマモクロスの父だ。

タマモクロスは天皇賞・春秋、宝塚記念等を制し、オグリキャップと共に競馬ブームを牽引。

『葦毛は走らない』と言われた時代に、それらを覆した名馬だ。

このタマモクロスが産まれる以前。フォルティノが来日した初年度の産駒であり、牧場の期待を一身に背負って生まれた馬が、鹿毛の馬体を持つライブアゲインだった。

 

ライブアゲインを生産したのは、かつては北海道・浦河町にあった麻井牧場。

所有する牝馬の大半がサラ系── 所謂、血統書紛失等で血統が定かではない馬が多く、そのため生まれる仔もまたサラ系がほとんど。

その中でもライブアゲインの母馬である『小梅』は、遡れば新冠御料牧場で供用されていた繁殖牝馬・クレイグダーロツチに行き着く牝系で、血統的に間違いなくサラブレッドと言えた。

 

クレイグダーロツチ牝系と言えば、特に有名なのは名牝・スターロツチだろう。

5代母にクレイグダーロツチを持つスターロツチは、孫に皐月賞馬・ハードバージ、ひ孫に名種牡馬となるサクラユタカオーを輩出した。

また、サクラユタカオーの半姉・サクラスマイルが生んだサクラスターオーは、皐月賞と菊花賞の二冠馬だ。

今日では『クレイグダーロツチ牝系』ではなく『スターロツチ牝系』と呼ぶ方がスタンダードなのだろうか。

ライブアゲインの母馬である小梅は、このスターロツチとは異なるクレイグダーロツチ牝系だった。

小梅の祖母がクレイグダーロツチの1940年産 ── 父・月友であるため、血統表でみればライブアゲインから4代母にクレイグダーロツチがいることになる。

 

小梅自体は競走馬として目立った活躍はなく、既に5頭の馬を産んでいるがいずれも不幸に見舞われ早逝していた。

血統は良血と言える部類であるだけに、小梅を所有する麻井牧場としては、なんとしてでも小梅に名のある種牡馬を付け、その仔を大成させたかったのだろう。

そうして白羽の矢を立てられたのがフォルティノというわけだ。

 

私は再び資料を手に取った。

『生後3ヶ月で牧場閉鎖』の文字の続きを指でなぞる。

 

麻井牧場は、戦前から続く古式ゆかしい小牧場だったとされる。

これといった活躍馬はなく、ゆえに常に資金繰りに苦しんでいる状態だったが、戦前から続くだけあってその人脈は確かだったようだ。

なんとかフォルティノを小梅に付けることに成功し、ついに待望の牡馬が生まれることとなる。だがライブアゲインが生まれた時点で麻井牧場は多額の負債を抱えており、それ以上馬産業を続けることは困難だった。

ついには1970年3月。

奇しくも大阪万博が開かれた同日に、麻井牧場は所有していたすべての馬、土地を手放し、その歴史に幕を閉じることとなった。

 

担当編集者がタマモクロスの名前を出したのは、2頭がどちらもフォルティノ系だったこともあるが、何より牧場の行く末に所以するのだろう。

タマモクロスを生産した牧場もまた、タマモクロスの成功を待たずして閉場したのだから。

 

わずか生後3ヶ月で産まれ牧場をなくしたライブアゲインは、それからは近隣の牧場で世話をされた。

麻井牧場で彼の世話を担当していた青年が、そのまま住み込みでライブアゲインを世話していたという。

そしてしばらくすると、その青年と母馬と共に、同じ浦河町にある谷畑牧場に所属を移すことになった。

 

谷畑牧場と言えば、1973年の日本ダービーを制したタケホープや、1981年の菊花賞馬・ミナガワマンナ、近年だと2009年フェブラリーステークス覇者のサクセスブロッケン、2021年の小倉2歳ステークス勝ち馬であるナムラクレアらの生産牧場として知られる。

それと同時に、あの五冠馬・シンザンや、その仔・ミホシンザンらが種牡馬として繋養されており、ライブアゲインが生産された1970年時点で、シンザンは現役の種牡馬としてこの谷畑牧場で繋養されていた。

麻井牧場の牧場長と、この谷畑牧場の若きオーナーが先代からの付き合いだったことが、ライブアゲイン受け入れに大きく作用したのかもしれない。

 

 

 

ここまでで既に資料の1枚目の半分を読み終えていたが、私は2枚目に手を伸ばした。

1枚目の下半分がライブアゲインの血統表と、麻井牧場の跡地写真だったからだ。

更地となってしまった牧場跡地をしばらく眺めた後、私は2枚目を読み始めた。

 

2枚目は、谷畑牧場に移動した当日の出来事から始まる。

それは1971年の暮れのこと。

その時ライブアゲインは、もうすでに2歳(現・1歳)となっていた。

ここからは、特に注釈がない限り、当時の馬齢で記載する。

 

新たに加わる仲間を迎えた谷畑牧場のスタッフは、馬運車から降りてきた馬を見て、こう叫んだという。

 

「タケホープ!?」

 

これに驚いたのは、ライブアゲインの手綱を握っていた世話役の青年だった。

青年が手綱を握っていたのは間違いなくライブアゲインである。

当時のライブアゲインはオーナーも決まっておらず、それゆえに競走馬名もついていなかった。

この時の呼び名は、母・小梅から一時取って『梅太郎』だったとされている。

戸惑いを隠せない青年は、谷畑牧場のスタッフに「これは梅太郎と申します」と何度も説明したそうだが、谷畑牧場のスタッフにも、タケホープと叫んだ理由があった。

双方の混乱が落ち着かぬ中、最初にタケホープと叫んだ谷畑牧場のスタッフが、ある1頭の馬をつれて戻ってきた。

その馬を見て、今度は青年が叫ぶ。

 

「梅太郎!?」

 

それから2頭の馬を並べるとあら不思議。

鹿毛の色合いから馬体のシルエットからなにまで、2頭は瓜二つだったのだ。

 

気軽に写真を送り合う習慣などなかったその時代、谷畑牧場のオーナーもスタッフも、やってくる馬の顔など知らなかった。

だから自家生産のタケホープとあまりにも良く似たライブアゲインに、腰を抜かすほど驚いたのだろう。

騒ぎに呼ばれたオーナーも驚いて何度も何度も2頭を確かめに来た、と当時の厩務員の日誌に残されていた。

 

2022年現代でも、雰囲気の似ている馬同士と言うのは、稀だが確かにいる。

たとえば『浦河優駿ヴィレッジALL』で余生を過ごしている2頭が、その一例として有名だろうか。

2007年の高松宮記念を制したスズカフェニックスと、ジャパンカップダートや川崎記念を制した砂上の名馬・タイムパラドックスのことだ。

スズカフェニックスはサンデーサイレンス系で、タイムパラドックスはロベルト系。

血統は異なるが、2頭はまるで双子のようによく似ていた。

とはいえ、馬体のシルエットや流星の大きさなど、見分けることはそう難しくはないだろう。

しかし、ライブアゲインとタケホープに関しては、それが困難と言えるほど似ていた。

それはライブアゲインが誕生してから入厩するまでの間、毎日世話をしていた青年が戸惑うほどに。

だが瓜二つだからといって育成に大きな支障が出ることはない。

ただ困ることがあるとすれば、今どちらを育成したのかと担当者が首を傾げるくらいだった。

それも工夫を凝らせば、大きな問題にはならなかったという。

 

前髪を赤い紐でちょんまげのように結われたのがライブアゲインで、何もされていないのがタケホープ。

そのようにして2頭を分けていたことが、添付されていた写真から伝わった。

 

このように、当時は『不思議な偶然』『面白い巡り合わせ』と楽観視されていたこの出来事も、後の事を考えれば、偶然とは言い切れないのかも知れない。

結末を知っている私は、続きを読むこともできないまま、しばらく黙って写真を見つめた。

ぼやけたカラー写真には確かに、赤い紐で鬣を結った馬が1頭、静かにこちらを見ていた。

 

── ライブアゲインとタケホープの出会い。

私は、これこそが、彼の2つ目の不運だったのではないかと、思わずにはいられなかった。

 

 

 

ライブアゲインが谷畑牧場で育成された期間は、実はそう長くはない。

すでに2歳となっていたこともそうだが、ライブアゲインは聞き分けがよく、育成では手がかからなかったためだ、と記されている。

だが唯一、育成担当者が頭を悩ませたエピソードがあるという。

 

ライブアゲインが谷畑牧場にやってきてから初めて放牧された時のことだ。

タケホープたち同世代の仔馬の群れに連れ出されたライブアゲインは、馬房に引き上げる頃にはトモにいくつかの擦り傷を負っていたとされる。

どうやら放牧中に他の馬に蹴られたようだった。

それがどういうことかと言うと、つまり、ライブアゲインは他の仔馬からいじめられていた、と言うことだ。

他所の牧場から来た、ということがわかるのか、それとも他に理由があるのか。

追い運動にも疲れを見せず、強靱な肉体を持つタケホープが群れの中心を行く一方で、ライブアゲインは群れに混ざらずいつも最後尾をのんびりと歩いていたという。

ライブアゲインが群れに近づくと他の仔馬が攻撃しようとするので、それから逃れるためでもあったのだろう。

ただ唯一、タケホープだけがライブアゲインを気にするような素振りを見せていた。

やんちゃ盛りの2歳馬は度々喧嘩も起きるが、ライブアゲインが他馬から攻撃されると、タケホープがすかさず割って入ることもあったそうだ。

その記述を見る限り、見た目は「はてどちらがタケホープだったか」とスタッフが頭を悩ませる2頭だったが、性格はまるで違うようだと私は思った。

 

結局ライブアゲインは、谷畑牧場を出るその日まで群れに馴染むことはできず、最後まで1頭のままだったという。

救いがあるとすれば、ライブアゲインは他馬に無関心なタイプだったことだろう。

これから経験する数多の挫折に対し、ライブアゲインは走り続けたその根本には、この出来事によって培われたメンタリティがあったのかもしれない。

 

 

 

2枚目の紙を横に置いた時点で、私ははたと気づいた。

次が最後の1枚。

まだ入厩すらしていないというのに、あと1枚だという事実に、私は胸騒ぎを抑えながらも文字を読み進めた。

 

3枚目はライブアゲインの入厩の話から始まった。

谷畑牧場で過ごしてからさらに時が過ぎて1972年。

3歳となったライブアゲインは、タケホープと共に東京競馬場にある稲羽厩舎に入厩。

この時、谷畑牧場から輸送された2頭はどちらも名前入りの赤い手綱をつけていたそうだ。

だが入厩してからしばらく経った頃、稲羽調教師によって黒い手綱はタケホープ、赤い手綱はライブアゲインと分けられた。

ライブアゲインの鬣を赤い紐で結ぶだけでは、2頭を適切に見分けるのは困難だと判断したのだろうか。

わざわざ牧場関係者を東京競馬場まで呼び寄せ、馬の見分けをさせてから手ずから手綱を付け直したというエピソードが、資料の中頃に佇んでいた。

 

それからさらに数ヶ月が経ち、あれほど見分けがつかなかった2頭も、ある一点で大きく見分けがつくようになった。

その一面が何かと言えば、戦績だ。

 

「3歳時点で3回、療養の名目で長めの放牧に出されてますね」

 

1回目はソエで、2回目は擦り傷で、3回目は蹄の調子が悪く。

調教も新馬戦も上々の出来だったタケホープと異なり、ライブアゲインの競走馬生活は、もっぱら怪我との戦いとなった。

前述した3回の療養に始まり、特に蹄のヒビ割れや熱発などに悩まされ、とにかく手の掛かる馬だったことが紙面の情報からも伝わる。

谷畑牧場時代は『手がかからない』とされていたのは、あくまで育成段階では、と言う話だったようだ。

出走、レースに出すための調教には、その身体はやや脆いと言えた。

それでも入厩した同年、3歳の冬── ようやく調子を整えることができ迎えた新馬戦。

出走にこそ漕ぎ着けたものの、ここでも運の無さが出たのか競走中に落鉄し4着。

そこから未勝利戦を4戦重ねて、初勝利となった5戦目を迎えたのは、4歳の8月のことだった。

 

度重なる怪我と戦いながらも未勝利戦を脱したのだから、ライブアゲインもよく走ったものだ、と私は思う。

夏の未勝利戦を勝ち上がれずに散っていく、数多の同世代と比べれば、その力強さは評価されるべきだ。

 

だが、ライブアゲインがようやく1勝を得たこの頃、共に育ったはずのタケホープは、すでに日本ダービーを制して世代の頂点に君臨していた。

瓜二つと言える容貌で、共に育ちながらこの戦績差。

怪我さえ、体質さえ丈夫ならば。

2頭の間に広がった大きな差を縮めることはできたのだろうか。

タラレバでしかないそんなことを考えながらも、同時に、僚馬であったタケホープについて思いを馳せた。

 

資料を見る限りでは苦労の多かったライブアゲイン。

それに比べればタケホープの競走馬生活は、まずまず順調と言えただろう。

しかし、この馬にもまったく苦難が無かったのかと言えば、そうではないと私は思った。

 

資料を読み進める前に、1973年のクラシックについて少し触れようと思う。

ライブアゲインが挑むことさえ叶わなかったクラシック三冠戦。

特にこの世代のダービー馬であり、ライブアゲインと共に過ごしてきたタケホープについてだ。

 

ここまでの資料を読む限り、ライブアゲインという馬は、生後3ヶ月で産まれ牧場を無くし、移動先の牧場では顔そっくりの馬がいて、他の仔馬にいじめられ、競走馬としてデビューすれば怪我と虚弱に悩まされ、他馬に間違われて罵詈雑言を浴びせられる、とんでもない不幸まみれの馬だ。

お世辞にも幸福に満ち足りていた、とは言えないだろう。

そんなライブアゲインと対比になるように、タケホープは恵まれているほうだと言っても良い。

 

しかしタケホープにとっての不運があるとすれば、それは同世代に『怪物』ハイセイコーがいたことだ、と言わざるを得ない。

 

JRAポスターヒーロー列伝コレクション。

その記念すべき1枚目に躍り出て、誰もが夢を託したと言われる、日本競馬史上最初のアイドルホース。

地方からやってきた良血馬。そのエピソードに枚挙の暇無しと言われた怪物『ハイセイコー』が、タケホープの行く道にいた。

タケホープの母・ハヤフブキはビューチフルドリーマー系に属し、現役時代は4勝を挙げる活躍馬。

父・インディアナはセントレジャーステークスの勝ち馬で、長距離血統ならではの豊かなスタミナはこの父譲りだろう。

半姉・タケフブキがオークスを優勝した1972年の夏、デビュー戦を完勝。

期待の良血として、その後も申し分ないレースぶりを見せてくれるかと思えば、タケホープはまさかの連敗で3歳シーズンを終えることになる。

年が明けて4歳になってから2勝目を挙げたタケホープは、そこから東京4歳ステークスと弥生賞に出走し、皐月賞の優先出走権を目指した。

だがどちらも勝利するには至らず、弥生賞ではハイセイコーに敗北。

皐月賞への出走を断念し、休養に入った。

休養明け、4歳中距離特別に出走すると、ここを勝ち上がり東京優駿への切符を掴む。

この時点でタケホープは9番人気。約66パーセントの支持率を集めて1番人気だったハイセイコーには遠く及ばなかった。

しかし、タケホープは東京競馬場で力強く舞い、勝利を掴む。

それまで積み上げてきた調教と、丈夫な馬体を誇示するような力強い勝ち方だった。

 

だが当時の競馬ファンからすれば、タケホープのこの勝利は、まったくの想定外といっていいだろう。

まばらで冷ややかな拍手に出迎えられたタケホープに、稲羽厩舎を始め関係者からも「なんだか申し訳ない」という声さえ漏れたという。

レース前、稲羽調教師はそれなりの勝算があると語っていた。

だが誰も、調教師ですら、人気のハイセイコーを3着に下すほどの勝ち方をするとは、想像すらできていなかったということだろう。

ただひとつ、稲羽調教師が頑として認めなかったことがあるとすれば、タケホープの勝利がフロックだと言われていたことだ。

 

「フロックなんかではない。正真正銘の実力が、あの場面、最高のタイミングで発揮されたのだ」

 

そう稲羽調教師は力強く語っていたと、タケホープに関する書籍の多くに記されている。

フロック評価を覆す為に挑んだ菊花賞での、あのハナ差の突き出しは、その悔しさから湧き上がったのかもしれない。

 

しかし陣営がどう思っていようと、ハイセイコーの一部のファンからタケホープは親の敵もかくやと言わんばかりに憎まれていた。

どうしてこんな馬が、とタケホープが東京競馬場で調教されていればヤジが飛んだと言われている。

栗東や美浦といったトレーニングセンターがなかった時代だ。

各競馬場に所属する馬たちは、その調教も競馬場内で行われている。

見ようと思えば入ることができ、そして過激なファンは時と場所を選らばない陰湿さを兼ね備えているものだ。

飛び交う罵詈雑言は、とても文字に書き起こせるようなものではなかっただろう。

そしてこのヤジを受け止めていたのがタケホープではなく、タケホープに見た目がそっくりだったライブアゲインだったことは、この資料を読むまでは知らなかった。

 

日本ダービーが終わった頃、タケホープは菊花賞に向けて東京競馬場で休養を取っていた。

主に厩舎での生活であり、馬場には出ていなかったという。

その時に競馬場内で調教をしていたのは、8月の未勝利戦に向けて調整中のライブアゲインだった。

身近にいる厩務員でさえ見分けが付かない2頭のことを、一般人が見分けられるはずも無い。

当初は「自分たちのことではないから反応しない」と努めていた陣営だったが、やはり我慢の限界というものはある。

連日続く謂れの無い罵倒にうんざりしたライブアゲインの担当厩務員によって、ライブアゲインの調教も一時的に休止、と資料には追記されていた。

その際、ライブアゲインの担当厩務員は「ハイセイコー人気はなんて恐ろしいんだ」と同僚に零していたそうで、それを横で聞いていた稲羽調教師もしきりに頷いていたと言う。

 

 

 

タケホープの代わりにヤジを飛ばされながらも未勝利戦を勝ち、僚馬が菊花賞に挑むその裏で2勝目を挙げたライブアゲインは、さらにもう1戦挟んだあと、そこから長期の休養放牧に入った。

蹄の調子が悪化したためだという。

 

放牧に出される際には、有馬記念を回避したタケホープも共に休養のため北海道へ。

どうして2頭共に休養に入ったのかと言えば、実はタケホープは、ライブアゲインが居なければ長距離輸送にめっぽう弱かった、というのだ。

その証拠に、菊花賞のために共に京都競馬場に入った際は元気だったタケホープが、1頭で東京に帰厩する際は酷くさみしがって泣き、馬体重は大幅に減ったという話が、当時の厩務員の日誌に残されている。

どうして帰厩する際にライブアゲインが居なかったのは、その中1週で京都競馬場のレースに出走するためだったそうだ。

これ以降2頭は遠征する際、行きも帰りも一緒に移動することが決まり、それはライブアゲインが亡くなるまで続いた。

 

 

 

そこまで読んで、私は手を止めた。

残るのは数行のみだ。

その数行を読むことを躊躇っていた。

だが、ここで止まっていてはどうしようもない。

わたしは人差し指で紙面をなぞりながら、声も出さずにその一文を読んだ。

 

『1974年11月11日 焼死』

 

タケホープの引退レースとなる有馬記念は1974年12月25日開催。

その同日の4歳以上レースでライブアゲインも引退することになっていたようだ。

5歳になったライブアゲインは、若い頃に比べて体調が悪化するスピードが上がったそうで、これ以上の活躍は望めないと判断されたのだろうか。

だがラストランまであと2ヶ月という段階で、ライブアゲインの調子はかつてないほど良かったと記されている。

 

ラストランまで順調に進む調教。

そして残り1ヶ月。

短期放牧に出たその先で、ライブアゲインに何が起きたのか。

 

それを知ることが、ライブアゲインという馬への最大の手向け花になると思った。



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〇炎の中に揺れる 後編

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季節は秋だった。

あのウタワカの一件から約3ヶ月。

森重春一さんと、そのご子息である敦さんの協力を経て、私はあるひとりの男性とカフェテラスで顔を合わせることができた。

 

「神林太一と申します」

 

グレーの頭髪にクラシカルなスーツに身を包んだ初老の男性は、谷畑牧場のスタリオンスタッフだったという。そしてその前は麻井牧場にいたそうだ。

つまり神林さんは、幼少期のライブアゲインと共に過ごしていた、あの青年ということになる。

 

「麻井牧場に勤めだしたのは15歳の時ですかね。家族と折り合いが悪くて、家出同然で麻井牧場に住み込みで働いてたんです。梅太郎……あ、ライブアゲインに出会ったのは、そうですね、18歳くらいの時ですか。牧場の経営がギリギリなのは知ってました。私も寝床と三度の飯以外はほぼ給料なんてなくて。このまま大丈夫なのかな、と思ってたんですけど、案の定ですよね」

 

苦笑いを浮かべながらも、神林さんの語り口は軽妙だ。

人好きのする穏やかな目元には、不思議と安心感を覚えた。

 

ちなみに『梅太郎』というのはライブアゲインの幼名で、神林さんが名付け親だそうだ。

小梅の仔で牡馬だったから「梅太郎」にした、と。『結構気に入ってるんですよ』と付け足した神林さんの表情は、懐かしさを帯びていた。

 

「ライブアゲインは谷畑牧場に行くまでの間、近隣の牧場でお世話になっていたとか」

「ええ、はい。あの牧場さんももうないので、牧場名を出すのは差し控えますが。他の馬たちも散り散りに売られていって、ライブアゲインと小梅、あ、ライブアゲインの母馬ですね、この2頭は幸運な方ですね。ただその牧場さん、働き手が足りないってんでライブアゲインたちの世話にまでは手が回って無くて、そこを、ええ、そこを私が入り込んだわけですよ」

 

寝床と三食の飯さえあればかまわないので雇って欲しい。

そう言って神林さんはその牧場で住み込みで働くようになったという。

与えられた寝床は、ライブアゲインとその母・小梅が住む馬房の横だというから、大変な苦労が伺え知れた。

だがそんな私に対して、神林さんは首を横に振った。

 

「苦労なんてとんでもない。ライブアゲインの様子がすぐにわかるんですから、これほど楽なことはないですよ。それに、住めば都って言うでしょ。ライブアゲインも小梅も静かだったから、結構快適でしたし。それに慣れてしまったせいで、谷畑牧場に移った後の方が大変でしたね。なんと屋根付き壁付き布団付き!厩舎から離れてるせいでライブアゲインのいびきも聞こえなくて、あれには困りました」

 

冗談交じりにそう言って、神林さんはアイスコーヒーに口を付けた。

季節は秋だが、取材当日は冷え込んだ11月。ホットコーヒーじゃなくて良いのかと尋ねると、神林さんは「熱いのは嫌いでして」とやんわりと断った。

それからケーキセットをひとつ頼むと、私に向き合って尋ねた。

 

「それで、ライブアゲインについて何が知りたいのでしょうか」

 

私はまず、ライブアゲインの幼少期の様子が知りたかった。

編集部がまとめてくれた資料には、谷畑牧場に入る前のライブアゲインの性格に関する情報はほとんど残っていない。

だから、当歳はどんな馬だったのか、生まれた時から入厩するその瞬間までそばで見てきた神林さんの、その目から見たライブアゲインが知りたかったのだ。

私の質問に対して、神林さんはしばし考え込むような表情を浮かべたが、にっこりと笑うと再び口を開いた。

基本的には谷畑牧場にいた時と変わっていないらしい。

ただひとつだけ、強調するように、そして思い出に浸るように声色を強めた。

 

「静かな馬でしたね。それも、恐ろしいほど」

 

歩き方も、食べ方も、何から何まで静かだったという。

滅多に嘶くことはなく、動き回ることもほとんどなかった。

ただその場でじっと立ち、乳が飲みたければ母馬の背後に回って静かに吸う。

吸い終わればまたじっと立ち、寝転ぶ時さえあまり音がしなかったと神林さんは続けた。

 

「離乳の時もアッサリしてて。小梅の方が可哀想なくらい鳴いていた。親の心、仔知らずっていうんですかね。仔馬の群れに放しても交ざってくれないし。でも追い運動をさせればキッチリ走ってくれるんですよ。これは谷畑牧場のスタッフからも言われたんですけど、良く言って世話しやすい、悪く言うとつまらん馬ってね。……ただ私が思うに、ライブアゲインは他馬よりちょっとばかし精神が大人だっただけ、なんですよ。達観してるというか、自立心が強いというか」

 

その自立心の強さは、怪我をした時に強く現われた、と神林さんは繋げた。

 

「馬っていう生き物は、怪我したってことをストレートに伝えてくるやつってほぼいないんですよ。野生の本能なんでしょうかね。なるべく隠そうとする。でもライブアゲインは割と素直に言うタイプで、治療が始まった後もじーっと耐えるんです。普通の馬だったらストレスで疝痛になってしまいそうな治療法でも、長い間我慢できる馬だったんですよ。……だからかなあ。怪我しやすい割には、治りもそこそこ早かった。そもそもがストレスに強い馬だったのかもしれません。我慢強い、って言ったらいいんでしょうか。ゲートで苦労したことも、集団に揉まれて掛かったこともない、って稲羽厩舎の厩務員さんからは聞いてましたけどね」

 

懐かしむような、過去を振り返る声色でそう言った神林さんは、一転して明るい口調で話始めた。

谷畑牧場に移動したあとの話だ、と言う。

 

「タケホープを初めて見たときは、そりゃあ私も驚きましたよ。ライブアゲインがもう1頭いる!って思ってしまって、何度も何度も、自分が握っている手綱の先を確認しました。間違いなくライブアゲインの手綱を握っていたのですが、谷畑牧場のスタッフさんが連れてきたタケホープとほんと、似てるんですよね」

 

1971年の暮れ。

谷畑牧場に降り立ったライブアゲインは、そこで僚馬となるタケホープと対面を果たした。

2頭共に鹿毛の馬体で、その色合いからシルエットからなにまでよく似ていた、と神林さんは肯定する。

 

「並べると鏡写しのようで、私は『まずい、ここで手綱を放したらどっちがライブアゲインか分らなくなる』と思って手綱が手放せませんでした」

 

産まれてからずっと側にいた神林さんでさえそう思ったのだから、谷畑牧場のスタッフの焦りも想像できた。ここで私は、資料に記載されていたあの写真を思い出した。鬣を赤い紐で結ったライブアゲインの写真だ。資料の通り、あの赤い紐は、2頭を見間違えないためにつけられた大切な印だったのだ。

私はここで、ふと疑問に思ったことを尋ねてみることにした。

 

「赤い紐等で区別できるとはいえ、実際にライブアイゲンとタケホープを間違えたことはないのですか?写真を拝見させていただきましたが、とてもよく似ていたので……取り違えのようなことは?」

「それは……そうですね、1度だけ。ただ谷畑牧場さんで取り違えだったりの事故はなかったですね。稲羽厩舎に入厩した後も、赤い手綱がライブアゲインで黒い手綱がタケホープだと区別されてたみたいなので」

 

逆に言えば、そういった区別をつけるためのアイテムがなければ見分けるのも困難、というわけだ。ライブアゲインとタケホープの白黒写真を並べると、色が2種類しかない分、見分けるのはとても困難だった。少なくとも私には不可能だ。

そう考えれば、当時の関係者が手を尽くしていたことがよく分った。

 

 

 

私は神林さんから当時のライブアゲインの写真を数枚見せて貰った。

編集部に用意してもらった資料ともまた違う、どれも貴重な写真だ。

すべて谷畑牧場で撮られたものだと言うが、その中に紛れ込んでいた1枚の絵はがきには、1頭の仔馬が柵にもたれかかって寝ている姿が描かれていた。

これは何か、と聞くと、当歳時のライブアゲインを描いたものらしい。

麻井牧場に勤めていた牧夫の多くは近隣農家の三男や四男以下で、これはその内の画家志望だった男が描いたものだそうだ。

勤め先がなくなった後、散り散りになっていく牧夫達の中で神林さんだけが浦河町に残ると知って、餞別に渡されたという。

音のない絵の中で、ライブアゲインは穏やかそうな寝顔で描かれていた。

 

「誰も彼もが、生後3ヶ月で生まれ故郷を無くした馬を哀れんでいたんです。ついでに、そんな馬にひっついて浦河町から離れない私のこともね。……絵はがきもそうですが、育成の指南書や何やら、いろんなものを置いていって。サッポロでもトーキョーでも、走らせるなら連絡寄越せよ、なんて。私が走らせるわけじゃないっていうのに」

 

呆れ半分の表情を見せながらも、思い出に浸る神林さんは嬉しそうだった。

ライブアゲインに運の良いところがあるとすれば、それは人情に厚い牧夫たちと巡り会えたことだろう。

私は漠然とそう思った。

 

 

 

そこからしばらく、神林さんが頼んだケーキをつまみながら私たちは雑談をした。

神林さんの口からはポンポンとライブアゲインとの思い出が飛び出す。

初めて仔馬の群れに送り出した時。歴戦の古馬のように堂々と放牧地に立っていたこと。

牧場を転々としていた時。どこに移動してもまったく動じなかったこと。

神林さんが体調不良で他のスタッフが担当に変わった時。いつもと変わらず過ごしていたこと。

 

「人慣れしていたんですね」

「いや……むしろ逆、ですかね」

 

神林さん曰く、ライブアゲインは人に興味がなく、飼い葉を要求するとき以外は近寄りもしなかった、と苦笑いを浮かべた。

それでも『いつも世話をしているのは神林さん』だと認識していたらしく、側に人間が2人いれば、必ず神林さんを選んで近づいてきたという。

 

「普段は素っ気ないけど、いざという時は必ず私を選ぶ。そういうところが愛らしかったんです。甘えられたことはないけど、信頼されてはいるのかな、と」

 

ライブアゲインにはこんなエピソードがある。

谷畑牧場では、ライブアゲインとタケホープは分けられて育成されていた。

赤い紐等で区別されていたとはいえ、育成スタッフが混乱しないようにするための仕様だったとされている。

だが日によっては時間ごとに分けることも難しく、何度か同じタイミングで育成されたそうだ。

 

「とはいえ、スタッフもきっちり指導されてますんでね。例えば2頭を取り前違えて、タケホープに2倍稽古させるとか、ライブアゲインに2回飼い葉を食わせてしまうとか、そういった直接的な事故はなかったです。……でもあれは、私も驚きました。今でも懐かしい思い出のひとつとして、谷畑牧場時代の同僚に会うと酒のつまみになりますよ」

 

それはある日の話だ。

共に育成を終えたライブアゲインとタケホープは、青ざめたスタッフに連れられて厩舎まで戻ってきた。

当時はともに赤い手綱をつけていた2頭。ライブアゲインだけが、赤い手綱に加えて赤い紐で前髪を結っていた。

だがその時、乗り役が降りてしばらく経ってから紐がないことが判明したため、スタッフたちは青ざめていたのだ。もちろん、神林さんも例外ではない。

どっちがライブアゲインだ、どっちがタケホープだ。

当時の育成の成長具合から2頭に与える飼い葉の量は異なっていたという。

訓練を終えた2頭は疲れ切っていたが、見分けるまでは馬房に戻すこともできない。

だが立ち姿の2頭を見分けることは非常に難しい。

慌てふためくスタッフたちを横目に、1頭の鹿毛馬が歩き出した。

 

「私の前まで来ると、じっと立ち止まったんです。それで、あ、こいつだな、って」

 

目の前まで歩いてきた鹿毛馬と見つめ合った後、何かを思いついた神林さんは厩舎に駆け込んだ。

そしていつもライブアゲインに与えている飼い葉を手に戻ると、鹿毛馬の口元に近づける。

すると馬は黙って草を食んだ。

一方、もう1頭の馬の前に草を出すと、小さく鳴きながら食べはじめる。すべて食べ終えると機嫌良さそうに嘶いたそうだ。

それを見て他のスタッフも納得したという。

 

「何せライブアゲインは、谷畑牧場に移動してから1度も鳴いたことがないんです。それくらい静かな馬だってことをみんな知っていたから、どうにかなったんすよね」

 

それからは2頭の手綱にネームプレートが付けられたそうだ。

以降は『どっちがタケホープだ、ライブアゲインだ』と悩むこともなく、時は1972年。

2頭は揃って東京競馬場にある稲羽厩舎に入厩した。

 

「ライブアゲインは人もそうなんですけど、馬にも興味なくてね。タケホープは昼夜放牧とか育成が一緒になると絡んでくるんですけど、いつもそれを流すんですよ。無視はしないけど、そんなに興味もない、みたいな」

「クールな性格だった、と?」

「上手く言えばそうですね!悪く言うと……結構自己中心的だったかも」

 

基本的に自分がしたいことをしたいようにする、そんな馬なのだと神林さんは苦笑いで続けた。

 

「でも無茶だけは決してしない馬でした。自分がどこまでやれるのか、どこまでやっていないのかを理解している。頭の良い馬でもあったんです」

 

そこから話はライブアゲインの現役時代に移った。

入厩した後のライブアゲインのことを、神林さんはすべて知っているわけではない。そう前置きして、当時の担当厩務員や調教師らから聞いたこととして、いくつか教えてくれた。

 

「ライブアゲインは、当歳の時からそうだったんですけど、体質的に強い馬では無くて。育成時もよく怪我をしては療養に入って、なかなかスムーズにはいかなかったんですよね。入厩してもそれはかわらなかった。怪我をして、休んで、また育成して、怪我。休んで、育成して……を繰り返してきた」

 

馬の中には、調教中に怪我をするとそれを学習し、次から調教を嫌がるタイプもいるらしい。

痛みと出来事を結び合わせることができている、ということだ。

実はライブアゲインもこのタイプで、育成時は自分が転んでしまった溝の手前で停止したこともあるという。

普通、それを繰り返していれば自然と人間が乗ること自体を嫌がりそうだが、ライブアゲインはそれでも何度でも人を背に乗せ、調教を受け続けた。

 

「立ち止まることは多いけど、その分だけ何度でも歩き出せるやつだったんです。馬名のように」

 

誇らしげな表情の神林さんが、ライブアゲインの初勝利となった未勝利戦の話を始めた。

 

「1973年の8月。場長に無理をいって休みを貰ってね。札幌競馬場でした。ダートの1800メートル。雨の降る不良馬場です。こんな、滑ったらひとたまりもなさそうなレースで走るなんて、って思ったんですよ。でも、それがほぼラストチャンスみたいなものでした。未勝利戦はどんどん少なくなってましたから」

 

悪天候の中、ライブアゲインの背にはタケホープの主戦騎手である嶋原騎手が騎乗した。

冷たい雨に打たれながら走る砂の1800メートル。

その時のライブアゲインは療養開けて中1週。まだろくな調教もできていない中、一縷の望みを掛けた出走だった。

ぬかるんだ馬場でレースは当然のスローペース。

溜まる先行集団の中に埋まりながら、ライブアゲインは前を伺っていた。

 

「ラスト200メートル。先頭は福富洋壱騎手が操るシュウエイローザ。そこから四番手にいたライブアゲインは、末脚を爆発させて一気に上がったんです。わずかハナ差。劇的な勝利ではありませんでしたが、未来に続く希望の1勝でした」

 

神林さんが目を閉じる。その瞼の裏に浮かぶ情景は、きっと今も色褪せない美しいものだろう。

ライブアゲインは生涯で1度も重賞レースに出走した経験がない。そのため、走ってきたレースが映像として残されていない。

だから私も、今日こうして神林さんから話を聞くまでは、ライブアゲインの走りを想像すらできなかった。

だが今。たった今。神林さんの口から溢れ出る言葉のすべてに、ライブアゲインの疾走を感じた。誰かが叫び挙げた歓声の隙間に、雨を纏う1頭の鹿毛馬が、確かに見えたのだ。

それまで丹念に世話をしてくれた神林さんの眼前で、それに報いるように踊る四肢。

幾たびの怪我を乗り越え、立ち上がり続けた先で掴んだ1勝は、単なる未勝利戦以上の輝きを放ったに違いない。

少なくとも神林さんにとっては、ライブアゲインが勝ち上がったそのレースは、ダービー以上の価値だった。

 

「戦績だけ見れば、そりゃあ、ライブアゲインは名馬とは呼べないかも知れません。でも、私の中では名馬です。私だけの名馬」

 

そのワンフレーズにどれほど胸を打たれただろう。

 

『私だけの名馬』

 

それは、歴史に名を遺すことなく、それでも確かに走り抜けたすべての馬に捧げる、金言に思えた。

 

 

 

アイスコーヒーを飲み干した神林さんは、さて、と真剣な表情を作った。

ライブアゲインの未勝利戦から話は進み、タケホープの菊花賞制覇の裏側で2勝目を挙げたこと、そして苦難の5歳時。

怪我をしてもそのたび何度でも這い上がってきたライブアゲインは、5歳にして限界を迎えた。

 

「今までとは明らかに傷の治りが遅くなっていました。これはもう、大怪我をする前に引退させるべきだって話になってたんです。その当時は日本ではまだそれほど数のいないフォルティノの直仔ですから、重賞勝ちはないけれど繁殖入りさせる話も持ち上がってたんですよ」

 

1970年代。

それは、多様な種牡馬が共存していた時代。

ウタワカの項でも紹介したように、その父であるライジングフレームは競走馬としては成功者とは言えない。だがその良血ぶりで種牡馬入りし、セイユウやオーテモン、ヒシマサルらを輩出したのだ。

それだけではない。現役時代は10戦1勝のネヴァービートや、11戦5勝のテスコボーイなど、完璧な戦績ではないが、その良血を買われて日本で種牡馬入りした海外馬は多くいた。

特にテスコボーイは、日本の近代競馬を語る上で欠かせない重要な種牡馬だ。

長距離に重きを置いていた当時の日本に、圧倒的なスピードを持ち込んだのがこの馬だった。

 

直仔に二冠馬・キタノカチドキ。

天馬にして大種牡馬・トウショウボーイ。

『スピードの美学』と謳われた名牝・テスゴガビー。

天皇賞・秋を制した栗毛の快速馬・サクラユタカオー。

速さに優れた名馬を多く送り出した。

 

「ライブアゲインは海外馬ではありません。でも、その父フォルティノに、母系クレイグダーロツチ牝系。フォルティノ産駒のカロはビワハヤヒデの父・シャルードを出し、ウイニングカラーズは牝馬にしてケンタッキーダービーを勝ちました。コジーンもブリーダーズカップシリーズの勝ち馬を2頭輩出し、アドマイヤコジーンは名マイラーと呼べるでしょう。母系であるクレイグダーロツチ牝系からは名牝スターロツチが出現し、彼女から前述のサクラユタカオー、サクラスターオー、ハードバージやウイニングチケット、ロイヤルタッチ……挙げればキリがないほどの名馬が出てる。すべてがタラレバになりますが、ライブアゲインも十分、種牡馬として才能を開花させる可能性はあったんです」

 

あの時代だからこそ。

多くの血が行き交っていたあの時代だからこそ選べた、ライブアゲインの第2の馬生。

競走馬として怪我と闘いながら、何度も這い上がってきた日々とも、もうおさらばする日も近かった。

1974年11月。

 

「タケホープが天皇賞・春を制し、しかし陰りが見え始めていたのも、ライブアゲインが力尽きるのと同時期でした。彼もまた、年末の有馬記念を最後に谷畑牧場に戻ることになっていたんです。それに合わせて、ライブアゲインのラストランもその年の暮れに行われる4歳以上レースに決まりました」

 

ライブアゲインが千葉にある牧場に短期放牧に出されたのは、10月末のことだった。

外厩という言葉を聞いたことがあるだろうか。指定された厩舎以外の厩舎施設のことであり、あの名牝・アーモンドアイも外厩を使用して調教されたことで有名だ。

それらの言葉が一般化したのはここ20年ほどのことで、ライブアゲインが現役だった1970年代にはそのような言葉も、制度もなかった。

あくまでリフレッシュするためのだけの短期放牧であったが、その牧場でライブアゲインは療養しながら細かい調整を受け、それから東京競馬場に戻る予定となっていた。

約2週間滞在し、帰厩のための出発日は11月11日。

 

「時刻は13時27分。……時間までくっきり覚えてるんですよ。おかしいでしょ」

 

半分崩れたような笑顔を浮かべながら、神林さんは語る。

当時の彼は、短期放牧先でライブアゲインと落ち合ったあと、共に東京競馬場に向かう予定となっていた。

しばらくは東京に滞在し、12月のレースを終えたら共に浦河町に帰ることになっていたのだ。

到着の予定はライブアゲインが出発する1時間前。

だが渋滞に巻き込まれてしまった神林さんが千葉の牧場に着いたのは、13時ちょうどのことだった。

ライブアゲインが出発する予定時刻から1時間も経っていた。

大阪万博でワイヤレスホンが出された1970年代。だが携帯電話は一般的ではなかった。

気軽に連絡を取る手段もなく、ひとりで東京に向かうことになるだろう神林さんは、とりあえず電話を借りようと、牧場の中へと入ろうとした。

その時、入り口のところに馬運車と鹿毛の馬が1頭見えた。

手綱の色は赤。それをみて神林さんは、喜色を浮かべて声を張り上げた。

 

「『ライブアゲイン!これから出るんですか!』ってね」

 

だがその時、鹿毛馬の手綱を握っていたスタッフがおかしそうに笑った。

そして神林さんに告げる。

 

『この馬はタケホープですよ』

 

ネームプレートを見ると確かに、そこにはタケホープと彫られていた。

どうやらここに着くまでの間に、黒い手綱が切れて使えなくなってしまったらしい。

予備の手綱が赤色しかなかったのでつけていたようだ。

神林さんを見て鼻を鳴らし、顔をすり寄せる仕草はライブアゲインにはない愛嬌。

それを見て神林さんも納得した。

11月6日のオープン戦を2番人気5着で終えたタケホープもまた、ライブアゲインと入れ違いになるように短期放牧に出されることになっていた。

 

『ところでライブアゲインはどうしたんです』と続けて尋ねると、スタッフは首を傾げた。

タケホープも渋滞に引っかかり、到着が1時間遅れてしまったらしい。

だがライブアゲインの迎えの馬運車が遅れるという情報は聞いていなかったので、おそらくもう出発しているはずだ、という。

やはり間に合わなかったか、と項垂れた神林さんだったが、このスタッフと共に東京に向かうことにして、ひとまず話は済んだ。

後は牧場のスタッフにタケホープを引き渡すだけ。

そのタイミングで、牧場の奥からひとりの男が青ざめた顔で走ってきた。

何事だ、と眉を顰めた神林さんに、男は衝撃的な言葉を放つ。

 

「『厩舎が燃えてるんです!中にタケホープが!』そう言われて、思わずスタッフと顔を見合わせました。だって、タケホープはその場にいたのですから」

 

神林さんはしかし、瞬時に答えにたどり着いた。

その燃える厩舎の中にいるのは、ライブアゲインだ、と。

タケホープの到着が遅れて、ライブアゲインだけ予定通り出発しているはずがなかったのだ。

スタッフの制止を振り切り、神林さんは走り出した。

悲鳴のする方へ近づいていくと、煙が上がっていくのが見える。

たどり着いた先では、文字通り厩舎が火に包まれていた。

 

「大の男たちが数人、バケツリレーで水をぶっかけて。それでも火の勢いは一向に落ちなかった。むしろ風が吹く度に大きくなって、周りの木々に燃え移りそうな勢いでした」

 

轟々と燃える火に、しかし神林さんは見つけてしまった。

いつも通りの堂々とした姿で佇む、ライブアゲインの姿を。

 

「夢中になって叫びました。ライブアゲイン!ライブアゲイン!って。近くまで走ったのを覚えてますよ。近づくだけで熱くて、熱風で喉が焼けそうでした。それでもかまわなかった。ライブアゲインを助けてやりたかったから。……でも、それは叶いませんでした」

 

厩舎に入ろうとした神林さんは、複数のスタッフに取り押さえられた。

その場に這いつくばりながら、それでも神林さんは声の出る限りライブアゲインの名前を叫ぶ。

顔を上げ、視線を前に向け、揺らぐ炎の中にいるライブアゲインを見た。

熱いだろうに、苦しいだろうに、ライブアゲインは暴れることもなくじっとしていた。じっと耐えていた。

その丸い目とかち合い、神林さんは視線が逸らせなくなったという。

 

「炎の揺らめきと連動するようにギラギラと光る目は、それでも純粋に見えました。私の声が聞こえているのでしょうか。あきらかに私の方を見ていたんです。まっすぐに、私を、見ていたんです。……タケホープかライブアゲインかわからなくなった時に、迷わず私の前に立ったときのような、そんな目で」

 

その日は曇り空だった。

乾ききった風は火をさらに大きくし、消し止めることを防ぐ。

厩舎が、厩舎だったものが怒号のような音を立てたとき、神林さんは終わりを悟った。

燃え始めと思われる部分が崩れていく。

水を投げ込んでいたスタッフたちも、もうそれ以上近づくことはできない。

一度広がった炎はすべてを飲むまで止む気はないのか、勢いは増していくばかりだった。

それにもかまわず、神林さんはライブアゲインの名前を呼び、手を伸ばす。

その時だった。

 

「私を見つめていたライブアゲインが、ゆっくりと、本当にゆっくりと頭を下げたんです。まるで、『世話になったな』と、別れを告げるように」

 

それが神林さんが見たライブアゲインの最期の姿だった。

次の瞬間、ひときわ大きな音を立てて厩舎の屋根が落ちる。

ライブアゲインは炎に飲まれ、神林さんと共に故郷の大地を踏むことなく、天に還った。

 

「炎が消し止められたのは翌朝でした。乾燥した冬季で、厩舎は木造。消火が終わって、たちこめる肉の匂いが、鼻腔にこびりついて離れなかった。今もです。今も、肉は食べられない」

 

目元を隠す神林さんの肩は、小さく震えていた。

 

私はここで初めて合点がいった。

寒い11月。室内にいるとはいえ、ホットコーヒーではなくアイスコーヒーを頼み、熱いのは嫌いだと言った神林さん。

それらすべてが、この悲惨な出来事に由来していたのだ。

 

「……焼けて、灰でいっぱいになった厩舎跡からライブアゲインの骨を拾い集めました。それを持って、谷畑牧場まで帰ったんです。骨は、牧場の施設内に納骨して、小さいけどプレートも用意して貰いました」

 

谷畑牧場の種牡馬施設には、既にライブアゲインの馬房が用意されていた。

その血統の確からしいことを証明するネームプレートが、整えられた馬房の扉に掛けてあったという。

隣の馬房にはあの名種牡馬・シンザンの馬房があり、シンザンを挟んだ隣にはタケホープの馬房が用意されていた。

第2の馬生に向けて、すべての準備が整っていた矢先の、取り返しの付かない不幸だった。

 

「なんであんなことになったか。実はね、正確な事は分ってないんです。確実にわかっているのは『予定していた時刻に馬運車が来なかったこと』だけ。……あとは、ほとんど不確定なんです。ライブアゲインと共に待機していた牧場スタッフが、別のスタッフに馬房に戻すように言われたこと。そして、それと前後して牧場側に連絡があったこと」

「どのような連絡ですか」

「『これから到着するタケホープは赤い手綱を付けている』」

 

ライブアゲインとタケホープは瓜二つだ。

世話をしてきた谷畑牧場のスタッフや神林さん、稲羽厩舎の厩務員たちですら、手綱の色分けなどをしてようやく見分けているほど。

その牧場にも瓜二つの情報は届いていた。いたが、同日の道路が渋滞していたことも、ライブアゲインが予定時刻を過ぎても出発できていないことも、なにひとつ伝わっていなかった。

電話を受けたスタッフは、牧場の出入り口にいたライブアゲインをタケホープだと思い、共に待機していたスタッフに『馬を馬房に待機させる』ことだけを伝えた。

間違われているとは思わないスタッフは、ライブアゲインの出発がかなり遅れていることから、休ませる目的で言われたのだと解釈した。

そのすれ違いが、悲劇を招いた。

 

ここで私は疑問に思った。

神林さんは『正確なことは分っていない』と言った。それは『不確定』な情報として挙げたそれらのことだと思うが、何故それらの情報が不確定なままなのか。

私の疑問に、神林さんは苦々しい表情で尋ねた。

 

「電話を受けたというスタッフが、火事の翌日から行方知れずなんですよ。ライブアゲインを馬房に戻したスタッフも、翌年には牧場を辞してしまって。『電話を受けたスタッフ』側の証言がないんです。もう片方の情報しかない。だから『正確』ではないし、それらを知る術はもうないんですよ」

 

そもそもの火事の原因すら不明だという。

当時取り調べを行った警察曰く、厩舎裏にたばこの吸い殻がいくつかあったというので、その火の不始末が原因だとされたようだが、牧場側は働いている牧夫に喫煙者はいないの一点張りだったそうだ。

たばこの吸い殻は誰のものか。何故厩舎裏で吸っていたのか。

それらを確かめることもできず、その方法もなく、神林さんは恨む先さえ見つけられないまま北海道に戻った。

 

「虚しいばかりでした。1975年にタケホープが牧場に戻ってきた時も、当然のように種牡馬用の馬房に入っていく姿をみて、やるせない気持ちになって。馬は悪くない。なんにも責任はない。けどね。『もしこの2頭が出会わなければ』……ライブアゲインはタケホープに間違われて馬房に戻されることも、それで燃えることもなかったかもしれない。タラレバなんて分ってるんです。間違われたこと以上に、火事さえ起きなければ問題なかったって。でも、でも……『ライブアゲイン』って刻まれたネームプレートを扉から外した日。この世のすべてから私の愛馬が、私だけの名馬がきれいさっぱり忘れられてしまったような、そんな気持ちになったんです」

 

犯人がいればそいつを素直に恨めた、と神林さんは言う。

ライブアゲインを弔いながら、犯人がまっとうに更生することを祈りながら、少なくとも胸にわだかまりを残すことは無かっただろう、と。

 

時は流れて1994年。

ライブアゲインが天に還ったその20年後に、タケホープもその生涯に幕を閉じた。

今は共に谷畑牧場に眠る。

 

神林さんは、タケホープの死後に牧場を辞めた。

38歳。働き盛りだった彼は、それ以降は引退馬の余生をサポートする会社で働いている。

 

「こうして当時の写真を見たりすると、あの2頭は瓜二つだなあ、と思うけど。仕草や、食いっぷりや、走りなんかを思い出すとね、ああ、違うな、まったく違う馬だったなあ、と再確認できるんです」

 

仔馬時代。

いつも群れの中心にいて、息も切らさず走り続けるタケホープと、いつも群れから離れて静かにしていたライブアゲイン。

食欲旺盛で飼い葉をほとんど残さなかったタケホープと、小食で飼い葉食いの悪かったライブアゲイン。

牝馬が近寄るとすぐに馬っ気を出したタケホープと、誰が近寄っても関せずだったライブアゲイン。

 

競走馬時代。

頑丈な馬体と大きな心臓を持ち、大一番の勝負にこそ強さを見せたタケホープと、虚弱体質でありながら、大敗だけは決してせず、常に堅実に走り続けたライブアゲイン。

芝の長距離戦で無類の強さを誇ったステイヤーのタケホープと、芝・砂問わず短・中距離を走破したマイラーのライブアゲイン。

 

「思えばお互い、自分にないものを補い合うような2頭だったのかもしれません」

 

もしライブアゲインにタケホープのような頑丈な身体があったら。

もしタケホープにライブアゲインのような距離適性があったなら。

 

どんな結果になっていただろう。

どんな走りをみせてくれただろう。

すべてがタラレバだからこそ、神林さんは思いを馳せる。

そして確信する。

 

「どんなに冷たくあしらわれてもタケホープがライブアゲインの側にいたのは、自分にない何かを相手が持っていると、分っていたからでしょう。そしてライブアゲインもまた……」

 

タケホープは種牡馬入りした後、初年度は44頭の牝馬に恵まれるも、現役時代とは異なり宿敵・ハイセイコーの種牡馬成績に追いつけないまま繁殖を引退。

若馬たちの追い運動のパートナーを務めた後は、谷畑牧場で余生を過ごした。

神林さんはその20年を静かに振り返る。

 

「タケホープは時々、遠くを見るんです。牧場の向こう側を。どこかにライブアゲインが静かに立っているんじゃ無いかと、探すように」

 

晩年のタケホープは病魔に襲われた。

1990年の1月。喉嚢炎と診断されたタケホープは、しかし翌日には奇跡的に回復する。

それでも高齢による体力の衰えからは、いかに頑丈なタケホープでさえ逃れることはできない。

4年後の7月に再び喉嚢炎に冒され、タケホープは25歳で永眠。

その瞬間に起きたことを、神林さんは今でも『夢だったかも知れない』と語る。

 

「馬の嘶きが聞こえたんですよ。牧場内ならいざ知らず、この時のタケホープは家畜診療センターにいてね。他にいる馬たちも怪我や病気で体力使い切ってて、盛大に嘶くなんて無理でしょ。でもね、聞こえたんです。すごく大きな嘶きが、確かに」

 

それを神林さんは、終ぞ聞くことのなかったライブアゲインの嘶きだと思ったという。

タケホープを迎えに来てくれたのだ、と。

 

「今では虹の向こう側で2頭、のんびりしてるんじゃないかな」

 

そうであってほしいと祈る声が、私の胸に残った。

 

 

 

 

 

 

年が明けたら谷畑牧場に行こうと思う。

歴代の名馬たちの墓が並ぶそこに、きっと光がある。

 

Live Again ── 何度立ち止まっても、折れそうになっても、生き返る。

不屈の闘志と共に。




主な参照元:「サラブレッド101頭の死に方」(タケホープのページ)


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●瞬きするほど鮮やかな

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はいはい即死即死。

早いんだわ死ぬの。

こちとら生後1年も経ってないんですけど。

乳離が済んで、子馬の群れにも慣れ始めて、せっせと草原を走ってたら胸が痛くなってバッタンですわ。

最期の記憶なんか、急に倒れた俺を見てビビって集まってきた他の子馬のヤバそうな嘶きだぞ。

俺の突然死にパニクって柵に突っ込んで死んだ馬とかいたらどうしよ。

子馬、割とそういうのあるからな。集団で行動してるから、1頭がどこかに向かって突っ込んだりすると釣られたりすんだよな。

まあ、ロベ、ロベなんちゃらって馬が冷静ならどうにかなんだろ。

アイツ、俺がいた牧場で1番期待されてたし、これまでの経験で行けばアイツは絶対でかいことやる馬だから死なないだろうし、うん。

 

それにしても……日本に転生したからもうずっと日本か、なんて思ってたけど普通に外国に生まれたな。

まったく知らん牧場に、聞いたことあるけど言ってることは全然頭に入ってこない言語。

大体の牧場には国旗もあるんで、それで判別はできるけどね!

ウタワカから数えてもう3回、あ、今回で4回転生。スパンは割と短かったな。

簡単に死にすぎっていうのもあるけど。

そう考えるとウタワカも割と長生きの部類だったのかも。

ウタワカより後の転生で、出走できた回がどんくらいあったと思う?

 

1回!!!!

 

3回の転生の中でたった1回とかウケる。

残り2回のうち1回は誘拐されてサクッと殺されたし、今回は突然死だもん。

 

あ、そーいや誘拐されたのはフランスに産まれた時だったけど、隣の馬房のやつは無事だったんかな?

まあアイツもすごいことやりそうな馬だったから大丈夫か。

すごいことやりそうな馬、だいたい俺とは一緒に死なねーから。

 

出走できた回はイギリスにいた時。

こん時は同期がやべー馬しかいなくて……ちなみにこの場合のやべーは戦績もそうだけど性格です。

もう暴れる暴れる……ディクなんちゃらって名前のやつとか、くっそ強すぎてフルボッコにされたにんじん大好き!みたいな名前のやつとか。

俺、ディクなんちゃらには3回蹴られたからな。

当たりどころ悪かったら俺の死因になってるレベルだわ。

でもあいつも強かったな。

なに?暴れ馬じゃないと強くなれない法則があった?

 

しかも結局イギリスやフランスだと勝てねえ!ってんでアメリカに売り飛ばされたよ。

今度こそいい具合に走って引退して余生過ごすぞ、なんて思ってたのに、次はハロー!みたいな名前のやべー馬が移籍先の厩舎にいて笑っちまった。

そんで、そいつの特訓の練習相手やってたら死んだ。

でも別にそいつに蹴られた訳ではない。

ただ、ギャアギャア暴れるそいつに近づきたくなくて身を捩ってたら、乗ってた人間が落ちちゃって、それにキレたっぽい人間に鞭で打たれたんだわ。

鞭でバシバシやられてビビった俺は自分から柵に突っ込んでしまい、当然のように死亡。

 

我ながら情けねえ死に方だ……鞭で打たれるなんて慣れっこのはずなのに俺ってやつは……。

で、そこから転生したのがついさっきの子馬時代で、今度は突然死ですよ。

 

辛すぎて一周回ってワロた。

突然死に関してはせめて1回くらいレースに出させてくれやって感じ。

ま、今更過ぎ去った日々に縋っても無駄無駄。

切り替えて次の馬生で長生きを目指すとするか。

 

 

 

ということでまた日本です。

もうしばらくないかと思ったけど間違いなく日本だな。

耳を澄ませると西暦1970年らしくて、前に日本にいたのは1964年とかそんなんだった気がするから6年ぶりくらいか?

ウタワカの時は1961年生まれだった記憶があるから、日本に生まれるのは大体10年周期なんだろうか。

海外だと言葉がわからなくて何年に生まれたか把握できなかったけど、今までは国によって生まれる周期とかはなかった気がする。

ま、実際にまた10年後くらいに生まれたらその時に考えればいいか。

 

とのんびり構えてたら俺が生まれた牧場潰れた。

ドウシテ……ドウシテ……!

トラックに乗せられながら泣いた。

 

けどこれは前にも経験したことがある。

あん時は確か、引き取り手なくて即屠殺場送りだったはず。

今回もそれだったらキチィわ。

突然死の時といい……せめて1回くらいは走らせて欲しいよな。

ひょっとしたらひょっとするかもしれないだろ!

 

そんな俺の祈りが通じたのか、トラックに乗せられて着いた先は普通の牧場っぽいところ。

このままここで余生過ごせねえかな、と思ったけどそううまくいかないですよね、はい。

なぜか知らんけど、前の牧場からそのままついてきた少年に世話されつつ成長。

この少年、俺の部屋の隣で寝泊まりしてたから衛生環境心配だわ。

本人ニコニコしてたからアレだけど。

 

……そういやうんと昔、エクレアみたいな名前の馬と走ってた時も、俺の世話をしてたのはちっこい少年だったな。

人間だった頃、死んだ俺よりもさらに幼いくらいの。懐かしい。

あの少年は大家族で、俺のレースの賞金からお給料が出てたっぽいからなあ。

当時の俺の所有者が、レース主催者っぽいやつから貰った金の一部を少年にあげてるところ見たから、そのはず。

俺が死んだあとは他の馬の担当につけてるといいけど。

今回世話してくれてる少年は、聞き耳を立てて手に入れた情報によると家出してそのまま牧場住み込みらしい。

ガッツありスギィ!!

そんな少年に世話をされつつまた別の牧場に移動した俺は、そこで走る訓練をしていよいよ競馬場入りした。

 

 

 

ここまですげえ長旅だったなあ。もうクッタクタ。

疲れすぎてトラックん中で熱出したぞ。

はあつらい。

何がつらいって、今度こそ丈夫なボディをくれ、と転生するたびに祈ってるのに、今回のボディは過去1、2を争うレベルで脆い。

走ったらすぐ疲れるし、脚はすぐにボロボロになるし、熱はすぐ出るし。

移動に使う車はウタワカの時代より良くなってるはずなのに、ものすごくしんどいのは単純にこのボディの体力不足が原因に違いない。

 

あ、鼻血出たわ。

やべっ、息すんの苦しくなってきた。

お〜いおっちゃん、鼻血出たわ拭ってくれ。

 

「まずいっ!おいお前テキ呼んでこい!ラブが鼻出血だ!」

 

ラブて。

前から思ってたけど俺の略称可愛すぎんか?

まだ梅太郎のオス感あったな。

 

「軽く追わせただけでこれですか……」

「しんどいなあ……また1ヶ月は競馬できんぞ」

 

またぁ?

どんどんデビュー遠のいてて笑う。

言うてウタワカの時も桜舞う季節に華麗にデビューしたわけじゃないですか。

まあなんとかなるんじゃね?

な、お隣くん!

 

「ブルルッ」

「お、心配してるのかタケホープ。大丈夫、ラブはよくなるよ」

 

タケホープ。

俺の隣の部屋に入っている馬の名前だ。

百年単位の馬生活で身につけた、相手馬を見極める俺のウルトラスーパーデラックスすごすごアイによると、この馬も強いやつになる、気がする。

タケホープって呼ぶの面倒、じゃなくて長いから略してタッちゃんって呼んでる。

……何?俺の今世の名前の方が長い?

うるせえやい!こっちはこっちで「ミナミちゃんって呼んでね♡」って言ってあるから、セーフだから。

 

このタッちゃんは甲子園には連れてってくれなさそうだけど、強いレースで勝ちそうな馬だ。

牧場の人間たちも、タッちゃんはスタミナがすごいとか、心臓がでかいとか、色々褒めてたし。

あと、俺の部屋には鏡とかないからわかんないんだけど、周りの人たちがいうには俺とタッちゃんは激似らしい。

まあ何もしなくても常にボロボロな俺のボディと違って、タッちゃんは絵に描いたような頑丈つよつよボディなわけなんだけど!

マジでタッちゃんのボディ頑丈すぎんだろ。

この前も柵に突っ込んでたけど無傷だったしな。

ノーダメージすぎて牧場の人間、タッちゃんが柵に突っ込んだこととか絶対気づいてないぜ。

あと体力もありすぎ。長いことトラックに乗ってたのにケロッとしてやがる。

その万分の一でもいいから俺のボディも頑丈であれよ。

 

「わあ……こりゃまたド派手にでたな」

「すんませんテキ」

「いやいやお前のせいじゃないよ。出ちまうもんは仕方ないさ。……どっちみち1ヶ月は確実に競馬に出せん。予定は秋に、そうだな、余裕持って12月。ここに合わせてキッチリやっていこう。オーナーにはこっちから伝えるから」

 

12月か。後4ヶ月。

俺が言うのもなんだけど、間に合うのか?

まあ調教師が言ってんなら間に合うか。

ちょっと俺も気合い入れてデビュー戦がんばろっと。

海外だけど、デビュー戦勝てないままいろんなところ走らされて、そのまま競馬場で死んだことあるからな俺。

ボロ雑巾みたいに使い倒されるよりは、ギリギリでもなんとか勝っておきたいところ。

 

「でもオーナーさん許してくれますかね。希望はタケホープとほとんど同じ時期でしたよね」

「まあな。でも無理だろ。このまま出したら最悪ゲートでた瞬間死ぬぞ」

 

それは弱すぎて芝が生い茂っちゃう。

調教師、俺のことどんな弱体生物だと思ってんだよ。

でも俺もそんな気ぃするわ。

 

「それにオーナーは今ゆとりがある。優駿牝馬はタケフブキが勝って、すぐ後にタケホープが新馬戦を勝った。虚弱のラブを今すぐ走らせる必要もないわけだ」

 

今だと死んだときの処分の費用のほうが高そうだしな。

 

ちなみに俺の所有者はタッちゃんと同じだ。

当初はタッちゃんの名前にちなんで『タケロープ』とかいう一切ちなんでない名前になる予定だった。

途中で正気を取り戻してくれたのか、それとも誰かが助言したのか気づいたら『ライブアゲイン』って名前に変わってたけど。

 

なんで俺がタッちゃんと同じオーナーなのかに関しては、ぶっちゃけると、馬の売買取引で俺が余っちゃったんだよな。

パッと見は悪くないらしんだけど、やっぱ虚弱ってのがマイナスになって売れなかったわけだ。

これは殺処分フラグか……と思ってたら、タッちゃんの馬主が『似てるから』っていう理由だけで俺を買ってくれた。

馬は決して安い買い物じゃないと思うんだが、所有者に感謝感激ィ!ですわ。

とりま売れ残りからの死亡は避けられたからね。

買ってくれた分の金額くらいは走って稼いでおきたい。

あ、でも、死亡時の処分費用がなんぼかは知らんけど、それとトントンになるくらいじゃないと割に合わんか?

なんにせよ、大レースは無理ぽだと思うけど、そこそこのレース走って賞金積むからヨロシクぅ!

 

 

 

 

 

 

「よかった……これで未勝利戦脱出……!」

 

いやあ、夏だよね。

え?結局12月じゃなくて夏にデビューできたんかって?

違う違う、今4歳。そして今日でたレースは4歳未勝利戦。

つまりですね、3歳の末に行われた3歳新馬戦で負けたってワケ。

途中まではなんかいい感じだったんだけど、走ってる途中で靴が脱げてそこからダメだった。

なんとか4番目にはゴールできたけど、裸足で走ったせいで脚がひっでえことになって即休みになったわ。

そこから出走して負けて休んで、を繰り返してたら夏。とうとう5戦目。

これ絶対走り終わった後は熱でるな、と確信できるレベルの雨の中、ドロッドロの砂を掻き分けて走って、ゴール前でなんとか鼻だけ出して勝った。

わざわざ牧場の仕事放り出して見にきた世話役の少年と、俺の体調に苦労しっぱなしのおっちゃんが泣いて抱き合ってるのを横目に、俺は無事発熱。

部屋で治療を受けつつ、秋になったら2勝目を目指してまたレースに出ることになった。

 

隣のタッちゃんはといえば、俺の予想通りめちゃめちゃでかいレースで勝ってスーパーホースの仲間入り。

もはやオーナーも俺のことなんか忘れているレベルの出世である。

そんなタッちゃんの気になる次走は菊花賞。それを目標に夏の間は休養するようだ。

そらこんな暑い中で訓練なんかできるかっつーの。

俺もぶっちゃけ休みたいけど、熱明けてからまた休み入れると秋に間に合わないんで、ちょっとずつ訓練を再開してる。

 

それにしてもタッちゃんは菊花賞か。

俺はあれ、ウタワカの時に走って死んでるからね。

そういやあれからちょうど10年じゃね?

シンザンも生きてりゃ14歳か。

っていうか2年前までは確実に生きてたよ。

なんで知ってるかって、俺が2度目に移動した牧場にシンザンがいたんだわ。

シンザン!?シンザンナンデエ!?とか思ったよねそりゃね。

当然向こうはこっちが前にウタワカだったことなんか知らんので。

特に会話なんてしなかったけどさ。

 

あいつ長生きだなあ。

俺なんて一桁しか生きたことないからな。二桁まで生きてみてえよ。

今世で成し遂げたいけど、このボロボロボディじゃ、楽に引退しても長生きできそうにないじゃん?

もう来世に期待するしかないっていうか……せめて穏やかな最期を迎えたいっていう低レベルな目標になってる。

幸いオーナーがタッちゃんで稼げてるので、俺はそんなにレースきつきつに出なくてもよくなってるし、引退自体は出来そうだからな。

いやマジでタッちゃん様様だよ。

タッちゃんがでかいレース勝ってくれたおかげで俺もゆったりできます。

はいこれタッちゃんににんじんあげる。

 

「おおラブ、珍しく完食……いやお前!タケホープの桶に移したな!?」

 

バレテーラ。

 

 

 

 

 

 

はい、5歳。

俺ももう5歳になったぜ。

これまでの馬生の中では長い方では?

あ、ちなみにタッちゃんは菊花賞勝ちました。

そんでついさっき天皇賞・春っていうでかいレースにも勝ちました。

 

ヒュウ!さすがタッちゃんそこに痺れる憧れるぅ!

……何?瓜二つなのに戦績が違いすぎる?

そら別人ならぬ別馬なんだから当然やろがい!

俺は俺なりに頑張ってんの。

死なないようにな!

 

……けど、そろそろ限界な気がする

ここ最近は休んでも体力が回復しきった気がしないし。

面倒を見てくれてるおっちゃんたちにもそれは伝わってるらしく、今年いっぱいで引退が決まった。

やったね俺!これで引退だ……身体はボロクソだから余生はあっという間かもしれないけど、この約300年で初めての引退になるかもしれん。

ウッキウキしちゃうなあ。引退したら何しようかなあ。

とりま死に怯える必要がないってだけで最高じゃね?

はえ〜、この短期放牧とやらも楽園へのステップかと思うと楽しいですわあ。

 

なんて思っていた時期が俺にもありました。

 

クッソ熱いわ。

誤字?暑いの間違い?ちげえよマジで熱いんだよ、焼けてるから。

 

「ラブ──ッ!ラブッ!ライブアゲイン!!」

 

おっ、世話役の少年。

お迎え遅かったやん。

でも呼んでくれてるとこすまんが俺はもう無理だ。

こんな火だるまの建物から出るとか無理ゲーがすぎる。

燃えてる今となっちゃ理由はどうでもいいけど、こんな、焼け死ぬとか久しぶりだわ。

戦場に出てた時は割とよくある死因だけども。

俺がパッパカ走ってた頃の戦場だと、敵が火炎瓶的なものを投げ込んでくることもあった。

それに当たってしまうと、背に乗せてる戦士もろとも焼死確定。

あとは今回みたいに厩舎が火事にあって、そん時に一緒に厩舎に入ってた他の馬もろとも死ぬとかそういうのもあったな。

今回は後者のパターン。

 

全然迎えの車来ないし、部屋に戻っておけって言われたから待機してたからこの様とはな。

穏やかな余生を望んだ瞬間これとか、やっぱり神様なんていない。はっきりしてんだね!

あーあ、あとちょっとだったのに。

 

焼死、ギリギリまで意識あるし何より熱いのしんどいし焼けるの痛いしで最悪の死に方。

厩舎内で初めて燃やされた時はパニックになって脱出を試みたこともあるけど、逃げようとすると壁とかに当たって余計痛いんだよな。

ほかの馬もパニックになってるから、馬同士が正面衝突して首が折れるというコンボが決まることもあった。

戦場だと燃えてる馬にぶつかって巻き添えくらったこともあったっけ。

だから学んだよね。

燃やされたら終わり。無駄な抵抗せずに今世にさよなら、来世にこんにちは。

 

……あ、煙吸い込みすぎて意識が遠のいてきた。どうやらここまでのようだな。

もう頭上がらんわ。どんどん下がっちゃう。

なんか世話役の少年が叫んでるけど、すまんなもう聞こえん。

まあなんだ、君はまだ若いからこれからいい感じの馬に当たるといいな。

牧場にはシンザンの子供とかもいるらしいし、タッちゃんもこれから種牡馬としてパコパコ励む予定なんだろ?

シンザンとかタッちゃんの子供で成功するといいな。

俺も来世こそは丈夫なボディ手に入れるから、少年も馬が燃えるとかいうショッキングなシーンは忘れて元気に生きろよ。

 

ほいじゃ、タッちゃんたちにもよろしく伝えておいて。

次は厩舎が燃えるとかいうトンチキやらかさないように対策たてといてくれよな。

じゃあね。

 

 

 

こうして俺の日本での2度目の転生は幕を閉じ、目が覚めた時にはいつも通りまた知らない牧場だった。



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【大百科】ライブアゲイン(競走馬)

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ライブアゲイン(競走馬)


出典:フリー大百科事典『ニヨペディア(Niyopedia)』

 

注意:この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記表や2001年以降の日本国名の表記とは異なっています。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。

 

注意:この記事のほとんどまたはすべてが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性、中立性、信頼性の向上にご協力ください。

 

ライブアゲイン(1970年1月6日 - 1974年11月11日)は、日本の競走馬。

     

ライブアゲイン

品種サラブレッド

性別

毛色鹿毛

誕生1970年1月6日

死没1974年11月11日

フォルティノ

小梅

母の父プリメロ

生国日本(北海道浦河町)

生産者麻井牧場

馬主藤近丈子

調教師稲羽幸雄(東京)

厩務員荻野武雄

競走成績

生涯成績10戦3勝

獲得賞金1,120万円

勝ち鞍

4歳以上(1974年5月19日):580万

4歳以上200万下(1973年11月11日):280万

4歳未勝利戦(1973年8月18日):100万

 

ライブアゲイン

品種サラブレッド

性別

毛色鹿毛

誕生1970年1月6日

死没1974年11月11日

フォルティノ

小梅

母の父プリメロ

生国日本(北海道浦河町)

生産者麻井牧場

馬主藤近丈子

調教師稲羽幸雄(東京)

厩務員荻野武雄

競走成績

生涯成績10戦3勝

獲得賞金1,120万円

勝ち鞍

4歳以上(1974年5月19日):580万

4歳以上200万下(1973年11月11日):280万

4歳未勝利戦(1973年8月18日):100万

 

 

概要


フォルティノ来日後の初年度産駒。

母・小梅はクレイグダーロツチ牝系であり、母の父・プリメロ、母母の父・月友。

早期に繁殖入りする母系のため当時の活躍牝馬は乏しいが、父・フォルティノは海外にカロ、ピジェットらを輩出している。

またのちにクレイグダーロツチ牝系からはスターロツチが出現し、その子孫にはサクラユタカオー、サクラスターオー、ハードバージ、ウイニングチケット等の活躍馬が並ぶ。

父系もカロが種牡馬として大当たりしたほか、ライブアゲインの死後に生まれたシービークロスからは天皇賞馬・タマモクロスが生まれる等、血統的には良血の部類である。

 

1970年に麻井牧場で生産。

生後3か月で牧場が閉鎖したため、後に谷畑牧場に所属を移している。

馬名の由来は『再生』

 

1973年のダービー馬・タケホープの僚馬であり、瓜二つの見た目をしていたとされる。

性格的に非常に物静かで従順。

生まれつきの虚弱体質が目立ち、重賞レースへの出走経験はないものの3~4歳(現・2~3歳)時は掲示板を外さない等、安定したレースぶりを見せた。

 

1974年11月11日、短期放牧先の千葉の牧場にて火災に巻き込まれて死亡。

墓は谷畑牧場に建てられた。

 

生涯


1970年1月6日誕生。

同年3月に生産牧場が閉鎖された後、近隣の牧場で一時的に飼育される。

1971年に谷畑牧場に移動後、1972年に東京競馬場の稲羽幸雄厩舎に入厩。

 

同年夏の新馬戦を目指して調教されるも、熱発やソエなどにより延期を重ね、デビューできたのは12月。

鞍上にはタケホープの主戦騎手でもある嶋原ジョッキーが騎乗した。以降のレースでも嶋原ジョッキーが主戦を務めている。

この時のレースでは、競走中に落鉄した影響で4着に敗れ、その後蹄の負傷が判明したため療養に出される。

2戦目は年明け4歳未勝利戦。ここからダートレースに出されるようになるも、惜しい競馬が続く。

合間に怪我による短期療養をはさみながら、初勝利を挙げたのは8月18日開催の4歳未勝利戦だった。

その後、東京競馬場で夏を越し、11月の4歳以上レースで2勝目を挙げる。

1973年は7戦2勝で終えた。

 

1974年は2月の5歳以上500万下から始動。

ここで初めて掲示板を外す。

レース後に肺炎の症状がみられたため、療養のため三田の畜産診療センターへ移動。

4月末に帰厩すると、5月の4歳以上500万下で3勝目を挙げる。

同年3戦目として8月の函館に出されるも、5月の疲れが抜けきらなかったのか最下位。

嶋原ジョッキーの提案により放牧に出される。

 

4歳時よりも回復の速度が落ちていることから、陣営は年末での引退を決定。

引退後は種牡馬入りすることも決まる。

 

10月末に北海道から千葉の牧場に移動。

同牧場で2週間ほど調整を受けたのち、11月11日に東京競馬場に帰厩する予定だった。

 

11月11日、13時27分に千葉の牧場で火災が発生し、それに巻き込まれる形で死亡。

遺骨は谷畑牧場に運ばれ、同牧場に墓が建てられている。

 

競走成績


3歳新馬戦東京1200m1972年12月23日4着

4歳未勝利東京1400m1973年2月4日4着

4歳未勝利東京1400m1973年4月22日5着

4歳未勝利東京1400m1973年5月12日3着

4歳未勝利札幌1800m1973年8月18日1着

4歳以上200万下京都1900m1973年11月11日1着

4歳以上400万下京都1900m1973年11月25日3着

5歳以上500万下東京1400m1974年2月2日6着

4歳以上東京1800m1974年5月19日1着

4歳以上函館1700m1974年8月18日8着

 

エピソード


・誕生時、母馬に蹴られそうになった

・生後3か月で生産牧場が閉鎖し、その後2回牧場を移動した

・タケホープと瓜二つのため、見分けるために前髪を赤い紐で結っていた

 →ハイセイコーの過激なファンからタケホープに間違われて罵声を浴びせられたことがある

・小食で、飼い葉を完食したのはたった2回

 →たびたびタケホープの飼い葉桶に自分の飼い葉を移し、量を誤魔化していた

・生涯で1度も鳴いたことがないといわれている

・他馬に興味がない

 →自ら近寄ったことがあるのは、谷畑牧場に種牡馬として繋養されていたシンザンのみ(1度きり)

 

 



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ユメシンパイスルナ ── 1980年〜1986年
〇姉と弟


『月刊「優駿たち」1月号 ── 連載:名馬の影に思いを馳せて』
執筆:遠山寛次郎
競馬史に残る偉大なる名馬たちの、その輝かしいレースの影に佇む馬に焦点を合わせ、その足跡を辿るドキュメンタリー風小説を7ヶ月に渡ってお送りします。
1月号でお送りする名馬の影は『ユメシンパイスルナ』

あなたは、この馬のことを覚えていますか?



華々しい名馬の陰に、そっと佇んでいる馬がいる。

 

戦後初の五冠馬・シンザンの稽古相手を務め、美しいままに散った素質馬・ウタワカ。

スタミナ満点の名ステイヤー・タケホープの僚馬ライブアゲインは、虚弱の欠点を持ちながらも堅実に走り続けた悲運のマイラー。

 

そして今回紹介する馬は、『姉のために戦い続けた弟』であり、そして、『弟分を育て上げた兄』だった。

 

 

 

 

 

 

2021年12月。

千葉県富里(とみさと)市。

年明けの準備に追われる牧場に私はいた。

掻き出される寝藁を手押し車に乗せて厩舎を出ると、白銀の向こう側から女性が走ってくる。

 

「本当にすみません!手伝ってもらっちゃって……」

 

彼女の名前は沖上(おきがみ)(ゆめ)さん。

ここ富里市に家族経営の小牧場『ゆめの牧場』を開いている。

もともとはご両親が経営していた『沖上(さとる)牧場』が基で、一度閉鎖された牧場跡地を買い戻して再び始めた。

今はお子さんと旦那さん、そしてアルバイトの青年たちと切り盛りしている。

開場してから約8年。

基本的には庭先取引で、今年は4頭の1歳馬が馬主に引き取られ育成牧場に旅立った。

過去に売買した馬の多くは船橋競馬場を主戦場としているそうだ。

沖上さんは『中央競馬の重賞レースを制する馬が作れたらうれしい』と語る。

そんな彼女は、結婚して子供ができてから牧場の開場を目指した。

どのようにして開場に至ったのか、それに関しては追々説明していこう。

 

まずは頭を下げ続ける彼女を止め、むしろこんな忙しい時期に訪ねてしまったことを詫びる。

12月といえば、牧場にとっては翌年の出産や繁殖に備えた大事な時期だ。

そんな飛び切り忙しい時期に無理を言ってお邪魔しているのだから、手伝いのひとつやふたつ、どうということはない。

とはいえ、普段はディスプレイを凝視しキーボードを叩いている私では、情けないことに簡単な手伝いをやらせていただくだけで手いっぱいだった。

手押し車を手放した後、生まれたての馬でももう少しまともだろう足を引きずって、すたすたと歩く沖上さんの背を追う。

着いた先は、牧場の事務所兼自宅となっている場所だった。

 

「ねえママ、宿題の音読!」

「ママ──!?あたしのワンピースどこぉ!?」

「明日3千円、集金だって」

 

部屋の中は子供たちの声で満ちていた。

子供たちに一斉に話しかけられた沖上さんは、頭痛をこらえるようにこめかみを抑えると、子供たちを各自の部屋に戻していく。

数分ほど待っていると、疲れ切った表情で戻ってきた。

 

「騒がしくて申し訳ないです」

「いやいや、賑やかでいいですね。三人兄妹ですか?」

「ええ。長男と長女と次女。上はどっちも中学生で、下が小学生。長男は来年度には競馬学校ですよ」

「騎手になるんですか!」

「本人はそのつもりみたいですね」

 

つい最近まで初耳でした、と困ったように頬を掻いた沖上さんは、それでもうれしそうな表情を浮かべた。

 

「それにしてもまさか、あの馬について訪ねてくださる方がいるとは思いませんでした」

 

沖上さんはそう言いながら分厚いアルバムを取り出して広げる。

そしてパラパラとアルバムをめくると、1枚の写真を指さして、私に見せてくれた。

 

「あった、これですね。2歳── 今だと1歳の秋に取った写真です。年明けに美浦の平野調教師に預けられる予定でした」

 

角刈りの男性と、髪を一本結びにした女性の間に、1頭の馬が立っている。

その馬の背に、あどけない表情の少女がまたがっていた。

右手で馬の片耳をつかみ、もう片方の手は鬣をつかんでいる。

でも馬は暴れる様子もなく、涼しい表情を写真の中に残していた。

少し褪せたその写真に、懐かしいにおいを感じた。

 

 

 

写真が撮られたのはは1981年。

若者の間でマリンスタイルファッションが流行り、アイスのガリガリ君や雪見だいふくがヒットしていた当時。

世間的にも欧米の空気がなじんできたそのころ、競馬界にも新しい風が吹いていた。

天皇賞の出走資格改定── 従来の「勝ち抜け制度」が廃止され、1度天皇賞を勝った馬でも再度出走できるようになった。

この改定の7年後。タマモクロスが史上初の『天皇賞・春/秋連覇』の偉業を達成する。

そして今や世界のレースレーティングでも上位に食い込む、我が国の国際招待競走『ジャパンカップ』。

第1回が開催されたのも、1981年だった。

この時の初代優勝者はアメリカのメアジードーツ。

日本馬がこれを制したのは、開催の3年後、第4回ジャパンカップ。

同年のG1・宝塚記念を制したカツラギエースが、後続に1馬身と2分の1をつけて勝利した。

それまで競馬後進国だといわれていた日本の馬が、世界の馬を相手に戦えることを証明したのだ。

 

そんな記念すべき1984年より前、1980年の4月1日。

この世に生を受けたのが、今回紹介する馬である。

 

どんな馬なのかについて紹介する前に、まずはその血統を見てみよう。

 

父はシャトーゲイ。

1963年にケンタッキーダービーとベルモントステークスを制しているアメリカの競走馬だ。

引退後は現地で種牡馬として供用された後、日本に輸出された。

故郷であるアメリカでは種牡馬成績は芳しくなく、代表産駒はサバーバンハンデキャップ勝ち馬のトゥルーナイト。

来日してからは11頭の重賞勝ち馬を輩出し、朝日杯3歳ステークス勝ち馬で同年の最優秀3歳牡馬(現・2歳牡馬)に選出されたホクトフラッグが日本での代表産駒となる。

直仔にはクラシック級の産駒を輩出できなかったシャトーゲイだが、母の父としては絶大な影響力をもたらした。

イギリスダービー馬のヘンビット、イギリスオークス馬のフェアサラリアがその筆頭だ。

日本ではダービー馬のメリーナイス、前述した天皇賞馬・タマモクロス、エリザベス女王杯勝ち馬のミヤマポピーが特に有名だろうか。

ターフに力強い軌跡を残した名馬を多く輩出した。

 

次は母のシラフブキについて。

彼女は3代母にシラオキを持つ牝馬で、未勝利のまま競走馬を引退。

生産牧場で繁殖牝馬として仔を生した。

数頭出した後、シャトーゲイが種付けされた状態でセリ市に出され、沖上さんの父・聡氏によって購入された。

母の父バウンドレスはニュージーランド生産馬。

日本では馴染みの薄い種牡馬だが、地方重賞勝ち馬・ハカタオーカンを輩出している。

 

所謂『主流の血統』からははずれるが、クロスなしのアウトブリードを持つ牝馬を期待しての配合だったとされているので、もし牝馬であれば相手を選ばない使いやすい血統なのかもしれない。

結果として牡馬だったため、良い戦績を収めない限り、その血統を残すことは非常に難しくなってしまった。

それでも聡氏は、一縷の望みをかけて馬を中央競馬に送り出した。

 

「デビューしたのは1982年の7月の新馬戦です。ここを前目につけて追うと、残り200メートルで抜け出して勝ちました」

 

2枚目に見せてもらった写真には、鹿毛の馬体を持ち、額に環星(かんせい)を持つ馬が移っていた。

新馬戦で勝った時の写真のようだ。

聡氏の腕に抱かれた幼い沖上さんが、笑顔で馬の手綱を握っている。

よく見ると、写真の端のほうに文字が刻まれていた。

 

『1982年7月 ユメシンパイスルナ号 初勝利』

 

文字は少し滲んで、それでもしっかりとそこにあった。

 

「おかしな名前でしょう」

 

文字をなぞりながら沖上さんがそう言う。

でもその馬の名を、誰よりも彼女が愛していることが、その声色から伝わった。

 

「馬の名前はね、私があんまりにも泣くからこうなったんです」

 

幼少期、沖上さんは身体が弱かったのだという。

心臓に欠陥があって、適切な治療がなければ大人になれないだろうと言われるほど。

そんな彼女が外出することはほとんどなく、あっても病院にいく時くらいだったと語った。

遊び相手と言えば、父・聡氏が営む『沖上聡牧場』で生産された仔馬たち。

その中でもよく遊んでいたのが、額に環星を持つ馬だった。

 

「当時、父が所有していた繁殖牝馬は1頭だけでした。それがシン── ユメシンパイスルナの母馬・シラフブキです。それ以外はほぼすべてが預託馬。仔馬たちはいつかそれぞれの母の所有者に引き渡される都合上、気軽には遊べない。好きに遊んでいい、と言われたのは、シンだけでした」

 

馬名が決まる前から、沖上さんは馬を『シン』という名前で呼んでいたそうだ。

『もし自分に弟ができたら、こんな名前が良い』

そうずっと考えていた名前を、弟だと思って可愛がった馬に与えたのだ。

 

そんなシンをはじめ、沖上聡牧場で生産された仔馬たちが入っていた厩舎は、自宅から目と鼻の先にあった。

 

「家にいる間はもっぱらその馬が遊び相手でした。保育園には通えてなかったので友達といえる同世代の子もいなくて。馬相手におままごとなんてしたりね」

 

シンは最初はそっけなく、沖上さんには無反応だったそうだ。

それでも毎日のようにシンのもとに通い、その手綱を引き、1人と1頭で牧場を歩いた。

そうしているうちに沖上さんに慣れたシンは、やがておままごとにも付き合ってくれるようになった。

料理と称して泥団子を前に置くと、食べるふりをしたり、青草を抜いて沖上さんの前に置いたりもした。

1人と1頭は、そうやって『姉弟』になっていったのだ。

 

沖上さんがこんな話をしてくれた。

ある日、いつも通りシンと遊んでいると、沖上さんは発作に襲われた。

その際に飲み薬を泥水に落としてしまい、パニックになった沖上さんはその場に倒れてしまう。

するといつもは静かなシンが、ひときわ大きく鳴き始めた。

その声を聞いて駆け付けた牧場のスタッフによって、沖上さんはすぐに手当てをされ、事なきを得た。

 

「馬だけど、私にとっては単なる馬じゃないんですよ。生産者の贔屓目抜きに、あの仔はすっごく頭がよくて、思いやりもあった」

 

一人っ子だった沖上さんが一番欲しかったのは、話し相手、遊び相手になる弟妹。

その代わりを── いや、そのものになってくれたのが、シンと名付けた馬だったのだ。

 

「今思えば、ろくに走って遊んでやれない自称・姉なんかより、同世代の仔馬たちと遊びたかったはずです。でもあの仔は本当にやさしくて、私が会いに行くと抵抗せずに相手になってくれました」

 

遠くを見るように細められた目には、何が映っているのだろうか。

きっとそれは、幼い彼女の視界いっぱいに広がった鹿毛の馬。

人間の姉と戯れる、馬の弟の姿が、私の脳裏にもじんわりと浮かんだ。

 

幼い頃の沖上さんは、その馬とずっと一緒にいれるものだと思っていた。

しかし1982年。

馬は競走馬としての一歩を踏み出すために、美浦トレーニングセンターに入厩することになる。

 

「私が、シンがいなくなってしまう寂しさで『私と離れて大丈夫かしら』『まだ3歳の赤ちゃんなのよ』なんて繰り返し言うもんだから、呆れた父があんな名前にしたんです。最初は『もっとかわいい名前をつけてよ』なんて文句を言ったんですけどね」

 

馬の3歳、現齢・2歳といえば、人間にすると5歳、6歳ほどだ。

当時の沖上さんとそう年齢は変わらなかっただろうが、幼い少女にとって、馬の3歳は人間の3歳とそう変わらない感覚だったのだろう。

顔をほころばせ思い出を語る沖上さんに、私も思わず笑みを浮かべた。

そして3枚目に渡された写真の裏を見ると、少しかすれた文字で何かが書かれていることに気づいた。

それをじっくりと見つめると、文字が思い浮かぶ。

 

『夢姉ちゃん、心配するな。 シンより』

 

美浦へ旅立つ直前に撮られた写真だと言う。

『俺は美浦でもやっていける』そんな副音声が聞こえそうな、力強い名前を携えて、シンは生まれ故郷から巣立った。

 

シン── ユメシンパイスルナの管理調教師は、スピードシンボリで凱旋門賞に出走した平野裕三元騎手だった。

いきなり飛び出た大物の名前に、私は思わず身を乗り出した。

沖上さんはおかしそうに笑った後、実はね、と秘密の話をするように話を始める。

 

「実は母とは従兄妹同士で、その縁あって預かってくれることになったんです。平野裕三さんといったら、あのシンボリ冠の和久さんでしょう。当時も多くのシンボリ冠の期待馬がいる中で、うちの馬がぽつんと紛れていたんです」

 

前述したように、ユメシンパイスルナがデビューしたのは3歳── 現・2歳の夏。

危なっかしい脚運びではあったものの、前目につけて抜け出したその脚の鋭さは本物だった。

この新馬戦を突破したユメシンパイスルナは、同年は400万下条件戦、800万下条件戦を続けて撃破し3連勝。

デビュー年を完勝で終える。

ここまで聞くと『日陰の馬』とはなんなのか、と思われそうだが、この馬の試練は年明けから始まった。

 

明けて1983年のクラシックシーズン。

後方から一気の追い込みを掛けて昇ってくるその流星の名を、ミスターシービーと言った。

その世代の紛れもない『寵児』であるミスターシービーは、4歳の初戦を共同通信杯4歳ステークスから始動し、ここで重賞初制覇を果たす。

そこから勢いそのままに弥生賞を快勝すると、同世代のトップとして東西問わず持て囃された。

ユメシンパイスルナがミスターシービーと初対決となったのはクラシックの一冠目・皐月賞。

追い込み馬不利とされる不良馬場で、常識を覆すシンガリイッキを決めたミスターシービーの遥か後方、ブービーに敗れたのがこの馬だった。

重い馬場だったことと、競走中の落鉄が敗因になったとされている。

ブービー後、ユメシンパイスルナはダービー出走を目指してトライアルに挑むも、惜しくも出走権を逃し、4歳以上のOP戦を中心に賞金を加算した。

 

「コーナーを回るのが上手な馬でした。器用だったんですね。乾いた良馬場だと、その柔らかい脚運びが目立ちました。中団のやや前で控える先行策を得意とし、前の好位置をとれた時の勝率は、60パーセント近くあったはずです」

 

しかし重賞勝ちには恵まれず、念願叶って出走できた菊花賞では7着に敗れた。

それでもユメシンパイスルナは走り続けた。

芝でもダートでも、短距離でも中距離でも長距離でも。

馬場、距離不問の適性の広さだけは、当時の競馬雑誌の小さなコラムに取り上げられるほどだった。

 

沖上さんは、ユメシンパイスルナが出るレースは、テレビ中継されていればそれを食い入るように見ていたという。

なければラジオを抱えて、アナウンサーが口にするちょっと小難しい用語に耳を澄ませて、ユメシンパイスルナの走りを想像した。

それは体調が悪化し、入院するようになってからも変わらなかったと沖上さんは続けた。

 

「絵本や、リボンや、当時流行りのアニメの話も聞かずに、ラジオから流れてくるユメシンパイスルナの名前を待ちました。手術をする前は録音した実況を再生するんです。勝った時のレースをね。『ユメシンパイスルナ上がってきた、ユメシンパイスルナ、ユメシンパイスルナ!』……まるで自分が応援されているかのような、そしてシン本人から『夢姉ちゃん、心配せずにがんばれ』と言われているような気になれて、これを聞くと手術も怖くなかった」

 

1984年、ユメシンパイスルナは5歳になった。

いまだ重賞勝ちはないものの、オープン戦ではよくいる顔ぶれの1頭になり、重賞レースでも掲示板に乗ることも少なくはない。

絵に描いたような堅実な走りで、ユメシンパイスルナは賞金を積み重ねた。

そしてその健気に走る姿に、いつしか根強いファンも増えた。

時々生産牧場にファンレターも届いたという。

どこから知ったのか、『ユメシンパイスルナ号、ユメちゃん、ふたりともがんばって』とメッセージが添えられることもあった。

外界とほとんど接触のない沖上さんにとって、それらのメッセージは『頑張って走っている弟が運んでくれた縁』そのものだったという。

 

続けて沖上さんは語る。

彼女が受けてきた多くの治療や手術、その代金のほとんどは、ユメシンパイスルナが稼いだ賞金だった、と。

 

「私がそれを知ったのは、結構大きくなってからでした。小さい頃は知らなかった。自分にどれくらいお金がかかってるのかなんて、想像もできていなかった。でも受けた手術の回数を思えば、小さな牧場を細々と経営していた両親の、その貯蓄だけではとても賄えません。ユメシンパイスルナが、文字通り私を支えていました」

 

出走手当金はもちろん、掲示板に乗ればそれなりの賞金もある。

重いオッズの時に勝てば、馬券もかなりの額になった。

聡氏は所有馬の馬券を握るタイプのオーナーだったようで、必ずユメシンパイスルナの馬券を買っていたから、低人気の時に馬券に絡むと大きな払い戻しを得られたという。

 

「いつだったか父が言ってました。『シンのやつは新聞が読めるに違いない』って。低人気の時は、いつもより3割増しくらいで頑張って走るから。実際にシンの勝率、低人気の時のほうが高いんです」

 

悪戯っぽく笑った沖上さんが、そっと視線を落とした。

 

「シンは相変わらず重賞だけは勝てませんでしたが、それでも、その走りは誰かの光になるものです」

 

5歳になったユメシンパイスルナの主戦場は変わらずオープン戦だったが、この頃になるともうひとつ戦場が増える。

それが、同厩舎の期待馬・シンボリルドルフとの併せ馬だ。

 

ユメシンパイスルナからすると1歳下にあたるシンボリルドルフは、3歳のデビュー時から無敗のままクラシックシーズンを迎えた。

そんな彼の細かい調整役を任されたのが、コーナリングが上手く、様々な馬場、レースに出走してきたユメシンパイスルナ。

求められたのは、シンボリルドルフの完成度を上げることだった。

 

「シンボリルドルフは頭の良い馬です。一を知れば十を知るような。そんな彼にとって、ユメシンパイスルナはいいお手本だったのかもしれません。私にとってはいつまでも可愛い弟でしたが、彼にとってはシンボリルドルフをはじめとしたシンボリ冠の馬は、弟分だったのかもしれませんね」

 

シンボリ牧場で調整されてから平野厩舎に入厩することがほとんどだったシンボリルドルフだが、ここ大一番の調教では必ずユメシンパイスルナが併せ馬の相手に選ばれた。

共に無敗だったビゼンニシキと激突する弥生賞前も。

一冠目となる皐月賞前も。

無敗ダービー馬の称号がかかった東京優駿前も。

ジャパンカップか菊花賞か、オーナーが出走を悩んでいた秋も。

 

「シンはほんと、他馬にとんと関心のない馬だったので、例えばほかの馬が暴れていても気にすることなく調教に挑めるんです。そういう、精神的にどっしりしたところもシンボリルドルフにあっていたみたいですね。厩舎では気が荒い、とされていたシンボリルドルフの隣の馬房に移されても、疝痛もなんのストレスにもならずにいられたのは、シンだけだったそうです」

 

パートナーを務めたシンボリルドルフが成果を出すと、その馬主である和久オーナーはユメシンパイスルナの能力に強く関心を寄せるようになったという。

6歳になると、他厩舎ではあるが、シンボリルドルフの一件から親密になった和久オーナーの要望に応える形で、その年にクラシックを控えるシリウスシンボリや、他のシンボリ冠の馬たちの練習相手も務めた。

相変わらず重賞勝ちは達成できないまま、ユメシンパイスルナは1986年、アメリカ遠征に旅立つシンボリルドルフの帯同馬になる。

遠征費はすべて和久オーナーが持つことになったが、そうしてでもシンボリルドルフに帯同させるだけの価値があると判断されたのだ。

ユメシンパイスルナはサンルイレイハンデキャップの同日に行われるオープン戦に出走が決まった。

その頃、沖上さんもまた手術のために渡米していた。

 

「日本では小児心臓病の手術をしてくれるドクターが見つからなくて、アメリカでやってもらうことになったんです。これも和久オーナーが手を尽くしてくれて……これに関しては感謝してもしきれないですよ」

 

和久オーナーは『いつものお礼』と言って、知り合いの伝手を使って沖上さんに合う病院を探し当てた。

そこで沖上さんは長年抱えていた心臓の病を克服するための手術に挑む。

奇しくもその日は、ユメシンパイスルナが出走する当日だった。

 

「1986年の3月29日。私の手術の開始時刻と、シンのレース開始時刻はほとんど同じでした。母が病院に残ってくれて、父は競馬場へ。別れる前に言われたんです。『夢、シンも頑張って走る。お前も頑張れるか』って。だから言い返したんですよ。『お姉ちゃんだもの。弟が頑張るなら、私も頑張るわ』って」

 

シンボリルドルフが出走するサンルイレイハンデキャップと同じサンタニアニタパーク競馬場。

直前の平野調教師とシンボリ冠の和久オーナーの対立により、シンボリルドルフは和久オーナー主導で管理されることになった。

和久オーナーの支援で遠征することになったユメシンパイスルナもまた、和久オーナーが用意した現地の調教師によって調整された。

3月29日。

サンルイレイハンデキャップの開催当日に開催されるダートのオープン戦に、ユメシンパイスルナは挑んだ。

そして──……。

 

 

 

 

 

 

「私が日本に戻ったのは1987年の夏。リハビリを経て、完治の診断を受けました。両親が泣いて喜んでくれたことを覚えていますよ」

 

そう言って沖上さんが目を閉じる。

その手には、緑色のお守りが握られていた。

 

「『元気になったらシンに会いに行きたい』それが当時の私の口癖でした。そしてそのたびに父が言うんです。『元気になれたらな』って」

 

しかし沖上さんがユメシンパイスルナと再会することはなかった。

帰国した沖上さんは何度も両親に再会を熱望した。

その度に両親はあの手この手で言い訳をする。

 

『シンはアメリカのレースで勝ったから、向こうから帰ってこない』

 

そう言われて、沖上さんはしばらくの間会うのは断念することにした。

それでもあきらめたわけではない。

自分でお金をためて、それでいつか、自分の力で会いに行く。

そう決めて、通いだした学校でも真面目に過ごし、高校生になるとすぐにアルバイトをした。

沖上さんが中学生になるころには、両親は経営難から牧場を手放し、小さな雑貨店をオープン。

ユメシンパイスルナをイメージしたマスコットグッズを自作しては、それを店頭に並べてもらった。

アルバイトもグッズ作りもコツコツと続け、気づけば手術をした日から10年が経っていた。

小さな少女だった沖上さんも、卒業を間近に控える高校3年生。

午前中で授業が終わり、たまたま両親よりも先に帰宅していた、ある日のことだった。

ポストに手紙が入っていることに気づいた。

薄緑色の封筒に、馬の横顔が描かれている。

沖上さんにはそれが誰から届いたものなのかすぐにピンときた。

ユメシンパイスルナが日本で走っていた頃、熱心にファンレターを書いてくれていた人だ。

いつも同じ色の封筒に、同じ馬の横顔が描かれていたのを、沖上さんは覚えていた。

 

「勝手に開けちゃいけない、と思いつつも、その時の私は懐かしさのあまり封を切り、中身を取り出しました」

 

『拝啓、沖上聡牧場様へ』

その書き出しは、幼かった沖上さんの耳にも残っていた。

やわらかい母の声で再生される。

 

 

 

 拝啓、沖上聡牧場様へ

 

 桜のつぼみがゆっくりと花開く、そんな季節が近づいてまいりました。

 わたくしの住んでいる場所は未だ冬です。

 千葉は暖かいと聞きましたが、お元気ですか。

 牧場が閉場されたこと、遅ればせながら最近知りました。

 オーナー様のご心痛を考えれば、仕方ないことと存じます。

 わたくしも、あの日のことを思い出すと胸が締め付けられる思いです。

 こうしてお手紙をお送りするのに、十年という月日をかけてしまったのは、ひとえに、馬のことを思い出すとさみしい気持ちになるからでした。

 しかし、十年という節目に、どうしてもオーナー様に御礼申し上げたく、こうして筆を執らせていただいた次第です。

 

 ユメシンパイスルナ号は、わたくしにとって応援歌のような存在でした。

 オープン戦、重賞、どこであっても健気に走る姿は、わたくしに明日への希望を強く信じさせてくれたものです。

 あの子ほど、わたくしに勇気を与えてくれた馬はいません。

 アメリカに遠征すると聞いたときは、それがシンボリルドルフ号の帯同馬としてでも、素晴らしいことのように思えました。

 どこが戦場であっても、誰が相手でも果敢に走り抜けてくれた馬です。

 アメリカの大地で力強く駆け抜け、そしてまた日本の競馬場でその疾走を目にできるものと信じてました。

 それがまさか、あのような最期になってしまうとは、わたくしはもちろん、オーナー様にとっても青天の霹靂でしょう。

 実を言いますと、いまだに信じられぬ思いです。

 しかし、過ぎ去った時が戻らぬように、ユメシンパイスルナ号が戻ってこないこともまた真実です。

 

 オーナー様のご心痛が癒えない中でありながら、ファンであるわたくしたちに送ってくださったお手紙の数々、そしてあの時、お手紙に同封してくださった鬣、今もお守りとして大切に持ち歩いております。

 十周忌となる今年、こうしてお手紙をお送りしましたのは、わたくしのような人間に、ユメシンパイスルナ号という素晴らしい馬を巡り合わせてくださった、オーナー様への感謝、そして何よりユメシンパイスルナ号へのいつまでも尽きぬ情熱をお伝えするためです。

 彼は間違いなく、わたくしにとってのヒーローであり、そして、戦い続ける名馬であります。

 わたくしが彼を忘れることは、未来永劫ないでしょう。

 それほどと思える馬を送り出してくださったこと、本当に、心から、感謝申し上げます。

 ありがとうございました。

 

 ユメシンパイスルナ号の冥福をお祈り申し上げると共に、オーナー様が今、心穏やかに過ごされていることをお祈りし、この手紙の締めとさせていただきます。

 

 敬具

拝啓、沖上聡牧場様へ

 

桜のつぼみがゆっくりと花開く、そんな季節が近づいてまいりました。

わたくしの住んでいる場所は未だ冬です。

千葉は暖かいと聞きましたが、お元気ですか。

牧場が閉場されたこと、遅ればせながら最近知りました。

オーナー様のご心痛を考えれば、仕方ないことと存じます。

わたくしも、あの日のことを思い出すと胸が締め付けられる思いです。

こうしてお手紙をお送りするのに、十年という月日をかけてしまったのは、

ひとえに、馬のことを思い出すとさみしい気持ちになるからでした。

しかし、十年という節目に、どうしてもオーナー様に御礼申し上げたく、

こうして筆を執らせていただいた次第です。

 

ユメシンパイスルナ号は、わたくしにとって応援歌のような存在でした。

オープン戦、重賞、どこであっても健気に走る姿は、

わたくしに明日への希望を強く信じさせてくれたものです。

あの子ほど、わたくしに勇気を与えてくれた馬はいません。

アメリカに遠征すると聞いたときは、

それがシンボリルドルフ号の帯同馬としてでも、

素晴らしいことのように思えました。

どこが戦場であっても、誰が相手でも果敢に走り抜けてくれた馬です。

アメリカの大地で力強く駆け抜け、

そしてまた日本の競馬場でその疾走を目にできるものと信じてました。

それがまさか、あのような最期になってしまうとは、

わたくしはもちろん、オーナー様にとっても青天の霹靂でしょう。

実を言いますと、いまだに信じられぬ思いです。

しかし、過ぎ去った時が戻らぬように、

ユメシンパイスルナ号が戻ってこないこともまた真実です。

 

オーナー様のご心痛が癒えない中でありながら、

ファンであるわたくしたちに送ってくださったお手紙の数々、

そしてあの時、お手紙に同封してくださった鬣、

今もお守りとして大切に持ち歩いております。

十周忌となる今年、こうしてお手紙をお送りしましたのは、

わたくしのような人間に、

ユメシンパイスルナ号という素晴らしい馬を巡り合わせてくださった、

オーナー様への感謝、そして何よりユメシンパイスルナ号への

いつまでも尽きぬ情熱をお伝えするためです。

彼は間違いなく、わたくしにとってのヒーローであり、

そして、戦い続ける名馬であります。

わたくしが彼を忘れることは、未来永劫ないでしょう。

それほどと思える馬を送り出してくださったこと、

本当に、心から、感謝申し上げます。

ありがとうございました。

 

ユメシンパイスルナ号の冥福をお祈り申し上げると共に、

オーナー様が今、心穏やかに過ごされていることをお祈りし、

この手紙の締めとさせていただきます。

 

敬具

 

 

 

流れるような美しい文字で、2枚の便箋にわたって綴られた文章は、その文字量だけで言えば決して多くはない。

けれど、そのひとつひとつの言葉に込められた熱量が、手紙を見るだけでグっと湧き上がってくるのだ。

ユメシンパイスルナ号を文字だけでしか知らない私でさえこうなのだから、『姉』である沖上さんがどのような思いを抱いたかは想像するしかない。

感動に涙したか、熱い思いに打たれたか。

しかし沖上さんの口から出たのは、ショック、という言葉だった。

 

「ショック。ショックですよ、そりゃあ。だって私は、その手紙を読んではじめて、シンがこの世のどこにもいないと知ったのですから」

 

1986年から1996年までの10年間。

あのレース前に分かれてからこんにちまで、沖上さんはユメシンパイスルナがアメリカで生きていると疑いもしなかった。

父も、母も、あの当時いたスタッフの誰も、ユメシンパイスルナが死んだとは言わなかったからだ。

いつ会えるかと聞いて、アメリカにいるから、と言われてきた。

沖上さんは、両親に騙されていたのだと、その時は思ったそうだ。

ずっと黙っていた、ずっと隠していた。

ユメシンパイスルナがいるだろうアメリカに向かうため、コツコツとアルバイトにいそしんでいた自分を両親はどう思っていたのか。

そんな、無意味なことをなぜずっとさせていたのか。

あふれ出た涙は、でも、騙されていたことへの怒りではなく、ユメシンパイスルナがこの世にいない事実を知らずに生きてきた、自分への怒りから流れていた。

 

「知ろうと思えばもっと早く知れたんですよ。血統についてほんのちょっとの知識があれば、大レースでもなんでもないオープン戦に勝って、シンがあっちに残れる理由はないし、良血だったわけでもないですから。それでも信じていた。生きていると。……もしかしたら、信じていたかっただけなのかもしれません」

 

沖上さんは帰宅した両親に手紙のことを問い詰めた。

どうして今まで教えてくれなかったのかと、自分が知ろうとしなかったことへの怒りも込めた、半ば八つ当たりに近い言葉を吐き捨てたと、彼女は言う。

泣き崩れた沖上さんに、両親は真実を話し出した。

 

1986年3月29日。

ユメシンパイスルナは予定通り、シンボリルドルフが出走するサンルイレイハンデキャップの前レースに出走。

鞍上にはシンボリルドルフの主戦、岡林騎手を迎えた。

騎手にとっても、シンボリルドルフ騎乗前にコースレイアウトを確かめる試乗も兼ねていたのだろう。

中団でじっくりと周りを見ながら進んだ後、ラスト1ハロンで伸び始めると、地元のオープン馬を相手に競り合い、クビ差で制した。

当日の注目はやはり、シンボリルドルフが出走するサンルイレイハンデキャップ。

だからか、日本から来ていたマスコミはユメシンパイスルナそっちのけで、ただシンボリルドルフを追っていた。

ユメシンパイスルナがただの調整相手だと思われていたからかもしれない。

それでもその勝利は、間違いなくユメシンパイスルナが勝ち取ったものだった。

このレースの後、ユメシンパイスルナはほかの馬とともに馬房に戻される。

そこで馬体を検査受けた際、右前球節部分に熱感と浮腫が確認され、捻挫と診断された。

アメリカのダートは日本のダートとはわけが違う。

そして日本ほど整備されていないこともあり、レース中に脚替えのタイミングで捻ったのだろうと思われた。

氷嚢を当てられ、馬房内で暴れないよう固定されたユメシンパイスルナは、しかしその1時間後、予後不良と診断されることになる。

 

「捻挫だったのではなく、折れていたのだそうです。でも傍目からみたら捻挫にしか見えない。熟練の獣医でも判断が難しい箇所が折れていたといいます。馬自身があからさまな症状を見せていなかったことも、誤診された要因だとされました。……でも、本来なら予後不良とまではいかない、と父は言ってましたね。ただ、すべてが遅かった、と」

 

サンルイレイハンデキャップでシンボリルドルフは7頭中6着に敗れる。

それまで1度も掲示板から落ちたことがなかったシンボリルドルフの、生涯唯一の大敗だった。

ここで左前脚繋靭帯炎だと診断されたシンボリルドルフは、すぐさま獣医によるケアを受けることになる。

その時点でただ1頭の無敗の三冠馬。

そして七冠を制した日本の名馬・シンボリルドルフの存在は、他のどの馬よりも優先されるべきだった。

適切なケアが施され、万全の状態で帰国の準備が進められていく。

そのさなかで、帯同馬として隣の馬房にいたユメシンパイスルナの様子に関係者が気づいたのは、ずいぶん後だった。

様子を見に来た岡林騎手によって、脚を挙げたまま固まっているユメシンパイスルナが発見される。

ひどく汗を掻いていて、その目は充血していた。

明らかに『捻挫』の馬が見せる状態ではなかった。

シンボリルドルフのケアが済んでいたこともあり、手の空いた獣医たちがその様子を確認し、議論の末に骨折と再診断。

手術は困難とされ、予後不良とされた。

おそらく放置されていた間、痛みに耐えかねて脚を動かした結果扉にぶつかり、骨折はよりひどい状態になったのだと思われる。

 

「父がその知らせを受けたのは、私の手術が成功したと聞いた、そのすぐ後だったそうです。……晩年に言ってましたよ。『娘は助かったが息子は死んだ』って」

 

当時の防疫の観点から、海外で死亡した競走馬は帰国することができない。

ユメシンパイスルナは鬣のみが形見として聡氏に渡され、知り合いもいない異国の大地に、荼毘に付された。

 

「私は元気になったらシンに会いたい、シンと遊びたいって、毎日のように言ってました。シンに会うことを目標に、術後の痛みにも耐えたんです。それを父は知っていたから、いつまでもシンのことを言えなかった。完治して、初めて学校に通い始めて、馴染めずつらかった時も、ただシンに会うために休みませんでした。シンが私の支えだったから、その存在の大きさを知っていたから、父も、母も……」

 

聡氏は、ユメシンパイスルナの熱心なファンにあてた手紙にこのような一文をつけている。

 

 

『娘は手術中、一時的に危険な状態に陥っていました。時間と照らし合わせると、ちょうどユメシンパイスルナが苦しんでいたタイミングです。そしてユメシンパイスルナが旅立った後に、娘の手術は終わり、すべてが成功しました。私はそれを、ユメシンパイスルナが娘を守ってくれたのだと、弟が姉を守ってくれたのだと思えてなりません。いつも姉思いの馬でした。慣れない馬場で、折れて痛い脚で勝ち切って、最後は痛みからも姉を救ってくれた。どう感謝したらいいのかわかりません。うれしい気持ちと、悲しい気持ちが混ざって、正しい言葉も見つけられません。娘がユメシンパイスルナを弟と呼ぶたび、私の中でも彼は『息子』になっていたのです。息子を失った今、どんな感情を持てばいいのかすらわかりません』

 

 

その葛藤が溢れ出していた。

実の娘への愛。

その娘が弟と呼ぶ、所有馬への愛。

いつの間にか『馬』から『息子』に変わっていた存在は、しかしもう帰ってこない。

弟を待つ娘に真実を告げることもできないまま、聡氏は牧場を手放した。

告げられぬまま、結果として隠すことになってしまった真実を、思いがけないタイミングで娘に知られてしまったとき、聡氏はどのように思っただろうか。

私は、もしかしたら彼はホッとしたのかもしれない、と思った。

もちろん、娘に詰られる痛みを受けた上で、それでもようやく息子の死と向き合えることに、どこか安堵したのではないだろうか。

聡氏は、沖上さんが牧場を開場する1年前に大病を患い、亡くなっている。

 

「最期の言葉は、『合わせる顔がないな』でした」

 

その一言に、聡氏がそれまでに抱き続けた感情のすべてが、籠っているように思えた。

 

 

沖上さんと状況は異なるが、私にも身体の弱い兄がいた。

2つ違いの兄はその時間のほとんどを病院で過ごし、私は彼に会うことを休日の楽しみにしていた。

初めて物語を書いたのは、兄が『続きは読めないかもな』といった物語の、その続きだった。

彼が『面白いよ』と言ってくれたのがうれしくて、毎日物語を書いていた。

 

もはや想像の範囲でしかないが、もしユメシンパイスルナに感情があったとして、本当に沖上さんを姉だと思っていたとして。

私が兄のために物語を書き続けてきたように、彼もまた、姉のために走り続けていたのかもしれない。

 

「そう思いたいですね」

 

私の妄想話に、沖上さんははにかんで頷いた。

 

 

 

 

 

私がユメシンパイスルナという馬を知ったのは、沖上さんのブログを読んだことがきっかけだった。

 

『幼い頃から持たされている緑のお守り。その中身は、弟の遺髪』

 

そんな衝撃的なタイトルがついた記事を見つけたのは、編集部だった。

約3千文字の短文に、追いきれないほどの思いを感じた。

記事に書いてあった『ユメシンパイスルナ』という馬の名前をもとに、その簡単な経歴をネット上で探す。

シンボリルドルフの調教パートナーだと知ったのは、その主戦だった岡林騎手のコラム記事で知った。

古い記事だったが、その文中に踊る一文に目が行った。

 

『ルドルフの兄貴分』

 

あの七冠の皇帝・シンボリルドルフの兄貴分。

いったいどんな馬なのだろう、と調べて出てくる情報はわずかだった。

7歳、現齢・6歳まで走り続けた無冠の馬。

シンボリルドルフと共に海外遠征に向かい、その地で散った。

彼の半生、それまで、死に至る瞬間、何がおきたのか。

それが知りたくて、ブログの記事を書いた沖上さんに連絡を取った。

 

『令和の今、ユメシンパイスルナの名前を聞くことができるなんて』

 

どこかうれしそうな声色でそう言ってくれたことを思い出す。

眼前の彼女は目を閉じ、緑のお守りを握りしめていた。

 

『開場した理由ですか?そうですね……昔を思い出したからです。実は末の娘も身体が弱くて。院内パジャマを初めて着せた時に、シンと過ごした幼少期が鮮明に浮かんできたんですよ。そしたらふっと、やりたい、馬を育てたい、シンみたいな誰かの希望になれる馬を作りたい、って』

 

アポイントメントを取った時、開場理由を尋ねた私にやわらかい声色で答えた沖上さん。

今、その瞼の裏で、どのような思い出が浮かび上がっているのだろうか。

私は聞くこともなく、ただ、彼女の目が再び開くのを待った。

 

 

 

 

 

ユメシンパイスルナ。

夢、心配するな。

 

姉に力強く頷いた弟。

最期まで姉を救った弟。

死してなお、その存在で姉を支え続けた弟。

 

では、兄としての彼は?

 

目を開けた沖上さんは、私に1枚の紙を渡した。

 

「今でも交流があるんですよ」

 

伊角宗臣氏。

ユメシンパイスルナの担当厩務員だった彼は、今、アメリカにいる。



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〇兄と弟

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イギリス植民地時代の1600年代に始まったアメリカ競馬は、今日では世界有数の大レースを開催する偉大なる発展を遂げた。

その広大な土地には多くの競馬場が存在する。

例えば、全米のみならず、世界中から注目を浴びるケンタッキーダービー&オークス。

その舞台となるチャーチルダウンズ競馬場を有するのはケンタッキー州。

クラシック第2戦、プリークネスステークスが開かれるピリコム競馬場は、メリーランド州に。

最後の一冠、クラシック戦最長の12ハロンで行われるベルモントステークスは、同名のベルモント競馬場が開催地で、ニューヨーク州に存在する。

 

ほかにも挙げればキリがないほど、アメリカは競馬が盛んだ。

そして今回私が向かったのは、ケンタッキー州でもなく、メリーランド州でもなく、ニューヨーク州でもない。

場所は西海岸・カリフォルニア州。

そこには主に4つの競馬場が存在する。

 

10あるG1レースのうち半数が芝で行われるデルマー競馬場。

ここは西海岸の芝馬にとって目指すべき場所のひとつと言えるだろう。

主なG1競走として夏季は『パシフィッククラシック』、秋季は『ハリウッドダービー』が開かれる。

 

上述したケンタッキーダービー&オークスの前哨戦、『サンタアニタダービー&オークス』が開催されるのはサンタアニタ競馬場。

合計23のG1レースの舞台でもあるこの競馬場には、毎年、国内外問わず多くの競馬ファンが訪れる。

 

先に紹介した2つの競馬場に比べると、ロスアラミトス競馬場は日本人には知名度が低いだろうか。

2歳牝馬限定G1・スターレットステークスが開かれるこの競馬場は、遡ればその始まりは1947年と古く歴史がある。

惜しくも2013年に閉場したハリウッドパーク競馬場── シーザリオが制したアメリカンオークスの舞台でもあったこの競馬場から、いくつかのレースを受け継ぎ、今日(こんにち)もカリフォルニア州の競馬事業に寄与する主要馬場のひとつだ。

 

そして最後に紹介するのはゴールデンゲートフィールズ競馬場。

北カリフォルニア最大の競馬場であり、主にG3競走の舞台となる。

同競馬場からデビューしたスターホース・シルキーサリヴァン、エクリプス賞最優秀短距離馬に選出された名スプリンター・ロストインザフォグらの遺灰が埋葬されている。

今も地元住民に深く愛される場所だ。

 

私はその4つの競馬場を順に巡りながら、最後にある牧場に立ち寄った。

立ち寄った、といっても、これが本来の目的だった。

競馬場を巡ったのは、ここに向かうまでの覚悟を作るために必要なことだったのだ。

 

私は牧場の入り口に立ちながら、その奥に広がる広大な草原を見つめた。

そうしながら、頭の中では、今日のために詰め込んだアメリカ競馬の知識が、ひとつ、またひとつと浮かんできていた。

 

『アメリカの馬産地は』と言えば、多くの人がケンタッキー州を挙げるだろう。

その愛称はブルーグラス── 青草。

肥沃な土壌を持つこの州で、数多くの名馬が産声を上げた。

同国が誇る最上の種牡馬・ミスタープロスペクターもそのうちの1頭だ。

ケンタッキー州・スベンドスリフトファームで生産された同馬は、その生涯戦績14戦7勝。

特出した戦績ではない。

しかしミスタープロスペクターの真価は、種牡馬になってから現れた。

 

コンキスタドールシェロ、アフリート、フォーティナイナー、ガルチ。

 

国内外に多数のチャンピオンホースを輩出したのだ。

その父系の勢いは止まることなく、直仔のキングマンボはエルコンドルパサーやキングカメハメハの父となり、そのキングカメハメハからはルーラーシップ、ロードカナロア、ドゥラメンテら一級の馬が生まれ、日本競馬にも枝を広げた。

そんなミスタープロスペクターも寄る年波には逆らえない。

30歳と、馬としてはなかなかの長生きをして、繋養先のクレイボーンファームでスタッフたちに看取られ静かに眠る。

 

開場して100年以上の歴史を持つクレイボーンファーム。

ミスタープロスペクター以外にも、ここで数々の名馬がその命を繋ぎ、託し、そして眠っていった。

セクレタリアト、ニジンスキー、そしてマジェスティックライト。

桜花賞馬・ニシノフラワーの父だ。

 

思い出しても思い出しても尽きることのない名馬たちの血脈が、ブルーグラスから流れている。

しかし、何もケンタッキー州だけがその命の源ではない。

カリフォルニア州もまた、アメリカ競馬史に爪痕を残した名馬を輩出している。

近年で特に有名なのは、2014年、カリフォルニア州生産馬として52年ぶりのケンタッキーダービー馬に輝いた、同州の名前を冠した『カリフォルニアクローム』だろう。

地元のサンタアニタダービーを制してチャーチルダウンズに乗り込んだ彼は、その力を示すように勝ち切って見せた。

続くプリークネスステークスを勝利し二冠馬になると、2014年、2016年の2度もエクリプス賞年度代表馬に選出される。

まさにカリフォルニア州の英雄的存在だ。

そんな英雄も、2017年に現役を引退した後は同国で種牡馬入りしている。

2020年からは日本の新ひだか町で繋養され、産駒のデビューは2023年を予定しているそうだ。

 

「おいおい、アポなしは勘弁してくれよ。暇人だからいいけどな」

 

少ししわがれた男性の声に、私は遠くを見ていた目を瞬かせ、彼に一礼した。

 

Omi&Elly── オミとエリー、日本人オーナーの伊角(いすみ)宗臣(ときおみ)さんとアメリカ人の妻・エリーさん、その間に生まれた5人の子供たちとその家族が営むサラブレッド生産牧場。

沖上夢さんを通して、かつてユメシンパイスルナの厩務員だった伊角さんを訪ねたのは、偏にあの馬の横顔を知りたいと思ったからだ。

 

伊角さんは日本を離れて長く、30年以上をアメリカで過ごしている。

沖上さんも最後に顔を合わせたのは10年近くも前だというから、長らく帰国していないのだろう。

それでも文通が途絶えることはなく、伊角さんのご子息も含め、家族ぐるみの付き合いなのだそうだ。

私は沖上さんを通じて、伊角さんのご子息とアポイントメントをとることに成功した。

幸いにもご子息は日本語が堪能で、とんとん拍子に渡米することが決まった。

編集部からは海を渡っての取材に難色を出されたが、私の有能な編集者がどうにかアメリカ行きのチケットをもぎ取ってくれたおかげ、こうして伊角さんに会うことができている。

この場を借りて、編集者に厚く御礼申し上げる。

締め切りも伸ばしてくれてありがとう。

 

「ご覧のとおり隠居の身で大したもてなしはできねえ。ま、そこらへんに座っておいてくれよ」

 

青々と茂る草原を抜け、牧場敷地内に存在する伊角さんの自宅まで入れていただいた。

グラスを持つ手は太く、点在する小さな傷跡に、牧場経営の苦労を感じる。

しかし伊角さんは今年で83歳になるとは思えないほど若々しく、腰も曲がらず背筋をピンと伸ばしていた。

グレーの髪を後ろに撫で付け、黒いセーターを着込み、眉間に皺を寄せる姿には少しだけ気難しい性格を想像させる。

だが話口とは異なり、室内は整然と美しく整えられていた。

 

伊角さんに促されて椅子に座る。

ソファにもたれた伊角さんに、ご子息にアポイントメントを取ったことを伝えると、眉間の皺をより深くして首を傾げた。

 

「あの野郎、俺には何も言わなかったぜ。知っていりゃ地酒くらいは出したのによ」

 

にやりと笑った伊角さんは、それで、と私を促す。

どのような用でアメリカまで来たのか。

私は促されるまま、沖上さんと知り合いであること、彼女の紹介で伊角さんを知ったこと、そして伊角さんに尋ねたいことがあってここまで来たことを伝えた。

 

「伊角さんは平野元調教師の元で厩務員をしていたそうですね」

 

鷹揚と頷いて、伊角さんはそれを肯定した。

 

「この世界に入ったのは17の時だが、手伝い込みなら10の頃からだな。憎たらしいことに15歳離れていた姉貴が調教師に嫁いだんで、ほぼ小間使いみたいなもんよ」

 

美浦も栗東もなかった頃の話だ。

伊角さんは自身の姉と、その姉の夫である調教師と共に京都競馬場に詰めていた。

元々は関西の出だという伊角さん。

栗東トレーニングセンターが完成した後、数年遅れて美浦トレーニングセンターが完成すると、それを視察するよう義兄に頼まれて上京したのが、美浦入りのきっかけだったと言う。

 

「俺はとにかく姉夫婦から離れたかった。義兄さんは悪いやつじゃなかったけど、姉貴の人使いの荒さは最悪だったから。早くこいつから自立してえと思って、てめえの荷物全部カバンに詰めてよ、義兄さんから貰った列車の切符を引っ掴んで飛び出した」

 

『思えば義兄は最初から自分を美浦入りさせるつもりだったのだろう』

 

伊角さんはかつての義兄とのやりとりをそう振り返った。

悪い人ではなかった。

ただ少し気が弱く、流されやすく、馬を愛しすぎていた。

そんな義兄を姉と2人っきり残していくのは心配だったというが、それでもこれが渡りに船。

伊角さんは義兄に別れを告げ、荷物にひっそりと紛れていた紹介状を手に、平野厩舎の門を叩いたのだ。

 

「他の職業は考えなかったのかって?馬鹿言うんじゃねえよ、これ以外の選択肢があったのかってんだ。ガキの頃からこれしかやってこなかったんだぜ、俺はよ」

 

美浦トレーニングセンターが開場したのは1978年。

第1次オイルショックの影響は未だ根深く、狂乱物価の言葉はまだ消えなかった時代。

今さら新しい職業に就く、ということすら考えられず、伊角さんは厩務員としての新しい職場を求めるほか選択肢がなかったという。

 

「あんたさ、職業軍人って言葉知ってる?義憤に駆られてお国のために兵士、なんて奴じゃなくてさ、元々職業として試験やら何やらを経て軍人になる奴ら。そいつらの中に愛国心がないとは言わねえが、あくまで職業な訳だ。仕事さ、仕事。俺もそれと一緒。職業厩務員」

 

伊角さんは語る。

今も昔も『馬が好きだから』でこの仕事── 厩務員等の馬に関わる仕事を選んだ人もいるだろう。

だが、伊角さんはあくまで『これが手に馴染むから』それを職業にしたに過ぎない。

馬が嫌いなわけではないが、執着するほど好いているわけでもなかった。

あくまで仕事であること。

それを強調しながら、伊角さんは話の途中で水を飲むと、小さく息を吐いた。

 

「最初に断っておくぜ。俺は『競馬』というものに対して、一定の思想を持っている。それを曲げるつもりはねえし、誰かに諭されてもそうそう変わることはない」

 

そう前置きをつけると、伊角さんはまくしたてるように話し始めた。

 

「最近は馬のバックグラウンドが先行して人気になるケースもあるよな。父が、母が、兄が、姉が勝てなかったこの舞台で、とか。期待と夢想ばかりが先に来て、その馬が持つ『実力』から乖離している。……血統のロマンは昔からの流行りだが、最近のはそれとはまた違う。あのみょうちくりんな雰囲気はどうも好きになれねえ」

 

『競馬はスポーツだ、賭け事なんかじゃない』

 

「そう綺麗事をくっちゃべる奴もいるけど、その本質はギャンブルであることに変わりはねえよ。そもそもだ。馬は人間の都合で走ってるに過ぎない。それを忘れてるやつが最近は多すぎるんだよ」

 

グラスに残った水を一気に呷って、伊角さんは小さな声でつぶやく。

 

『馬が好き好んで走っているわけがない』

『手綱を引かれて、鞭で叩かれているから走ってるに過ぎない』

 

「何もスポーツとして観戦するな、と言ってるわけじゃないんだぜ。ただ、レースが開けるのも、その裏側にいる人間を養えてるのも、勝ち馬の花道を飾る馬券の紙吹雪があるからこそ、な訳だ。そいつが賭けずにスポーツとして楽しめてるのもな」

 

『賭ける賭けないは個人の自由』

 

それが前提だとしながらも、伊角さんは止まることなく話をつづけた。

 

「俺は、賭けて罵声飛ばすやつの方がまだ『競馬ファン』として信じられるね。たった100円だったとしてもそいつは馬に金を落としてンだから。それに、人間は耳栓してりゃ罵声なんで通じないし、その100円が回り回って馬の餌代に変わるんなら堪えられる。それに比べて、賭けもしないくせに賭けてるやつを貶してるのはどうしようもねえや。てめえに賭けられねえ都合があるのかもしれねえけどよ、結局は金。金がなきゃ馬をどうすることもできない現状じゃ、やっぱ賭けてるやつの方が俺はマシに思えんだよ」

 

ユメシンパイスルナの現役時代、彼が低人気のまま勝ち切ると、人気馬を買っていた人間から顰蹙を買うことも多かった。

逆に人気だった時に着順を落とすと、彼の馬券を買っていた者たちからの恨み節が響いた。

聞くに堪えない罵詈雑言を、その手綱を握ってパドックを回った伊角さんは、今でもはっきりと思い出せるという。

それでもやっぱり、馬券を買ってくれているだけマシだった、と語る。

もちろん、罵声にしろ応援にしろ、馬に向かって大声をあげることはご法度だ。

けれど、せめて馬券さえ買ってくれていたら。

耳を汚すそれらすべてが、巡り巡ってユメシンパイスルナを養う金に代わるのだと思って耐えられる。

そう伊角さんは信じ、無心で職務に励んだ。

 

私は、伊角さんが口にした『結局は金』というキーワードに思いをはせる。

それと同時に、決して断ち切ることのできない『馬の支援』というワードが、脳裏を掠めた。

 

2022年現在、引退馬を支援する方法はいくつか存在する。

引退馬を支援する事業を行っている企業等を通じた寄付。

または、都度行われる引退馬支援に関するクラウドファンティングへの参加や、馬の里親となって継続支援するフォスターペアレント制度など、近年その活動は活発になってきている。

昨今、競走馬をモチーフとしたソーシャルゲームがブームになっていることもあり、そういった時世が支援の後押しに繋がっているのだろう。

だが、現役の競走馬を支援したい場合、その方法はごくごく限られたものになる。

現金での直接の支援はできず、所属厩舎に飼料等の現物支援を行うこともできない。

かつてはターフィーショップで『競走馬応援ギフト』として現役の競走馬に牧草、にんじんなどの飼料を贈ることもできたそうだが、現在はその支援を利用することもできないのだ。

 

では、どのような形での支援なら行えるのか。

一つ例として挙げられるのは、競走馬へのファンレターだ。

JRAは公式のホームページに競走馬や騎手、厩舎へのファンレター送付先を明記している。

もちろん馬は人間の文字など読めないが、世話をしている厩務員や厩舎、関係者にその馬を応援している存在がいることを知らせることはできるのだ。

そしてもう一つは勝馬投票券── 馬券の購入である。

 

ここで馬券の売上の内訳を見てみよう。

例えば100円馬券を買ったとして、内訳は以下の通りとなる。

 

75パーセント:75円 = 払戻金。

10パーセント:10円 = 国庫納付金。

15パーセント:15円 = 運営費などに使用。

 

これだと金額が小さく見えるが、G1レースともなれば馬券の売上は億単位に上るため、結果的に莫大な額となるのだ。

近年だと、2021年有馬記念の売上は約490億円。

この額は上述の通り、運営費などに使用されるわけだが、では『運営費』には何が該当するだろう。

主だったところで、例えば美浦や栗東のトレーニングセンター、騎手や厩務員などの人材を育成する競馬学校など、JRAが運営している多様な施設の維持、発展に用いられる。

 

目に見える形で応援している馬への直接の支援にはならないが、馬券を買うこともまた、巡り巡って応援している馬へのサポートに繋がることだけは確かだろう。

 

「馬券を買わない別の方法で馬を養育できるってんなら、そうして欲しいけどね。できるんならもう俺は何も言わねえよ。……あ、今の世の中じゃこういう発言はまずいんだっけ?都合悪いならカットしてもいいぜ。でも、これが俺の考え方だ」

 

私を見つめる伊角さんの視線は試しているようだった。

ここでどう答えるか、どう反応するか。

それによってこれからの対応が決まるのだろう。

伊角さんには申し訳ないが、私はごくごく普通の男で、この連載を始めるまでとんと競馬に無縁の人生を送ってきた。

そんな私が返せる言葉は少ない。

 

でもその分だけ、混じり気のない本音になる。

 

「カットはしません。今の言葉まるまる全部、そっくりそのまま載せますよ」

「……おお、いいのか?」

「何も問題ないので。取材を申し込んでおいてなんですが、私にはこれといった競馬論はありません。そして競馬論について語りたいのではなく、ある1頭の馬について知りたいだけなのです」

 

競馬雑誌で連載を組ませてもらっていながら、読者諸兄に読んでもらっていながら、しかし私には『競馬とはかくあるべき』という思想がない。

競馬歴が浅いのはもちろん、この連載の前提が『この馬はどのような馬であり、どのように生き、どのように死んだのだろうか?』と言う疑問から始まるからだ。

10頭の馬がいれば、その馬に携わった人間が少なくとも10人はいる。

十人十色。

その中に1から100まで同一の思想は存在しない。

これまで取材してきた人々を思い出せば、それは確かなことだと思える。

 

完成された四肢と美しい黒鹿毛を持ちながら、脚部不安と戦い、最期までその真価を見せることなく散ったウタワカ。

彼の厩務員であった森重春一さんは『馬は人生』と語った。

 

生まれつきの虚弱体質を抱え、不運に襲われ、それでも砂地を力強く駆け抜けた悲運のマイラー・ライブアゲイン。

最期の瞬間まで寄り添った厩務員の神林太一さんは、彼を『私だけの名馬』と呼んだ。

 

そして今回。

ユメシンパイスルナの厩務員である伊角さんは、厩務員の仕事はあくまで『職業』であり、馬に特別の執着はないと言う。

だがその語り口はしっかりとしていて、競馬に対する職人としての矜持が見え隠れしているようだった。

 

「あんた物好きだな。大抵の記者はここらへんで下がってくれるんだけどよ。少なくとも、競馬かぶれの記者よりは、なんぼか話しやすそうだ」

 

空になったグラスを傾けて、伊角さんは私に尋ねた。

どの馬の話が聞きたいのか。

 

「ま、沖上さんの紹介なんだからどいつかは分かってるんだけどよ」

 

沖上さんの言葉を肯定するように、私はユメシンパイスルナの名前を挙げた。

 

「……アイツ、か。また懐かしい名前を聞いたな。何年前だ?」

「36年前です」

「そうか。……そうか。そりゃ、俺も歳をとるわけだ」

 

伊角さんは一瞬だけ思案するように瞼を閉じた。

だがすぐ開くと、(おど)けたような口調で笑う。

 

「アイツのことなんかとんと思い出さなかったよ」

「でも、沖上さんとは今も親交があると聞いていますが」

「ああ、確かにあんたの言う通り、沖上さんとは今も付き合いが続いてるよ。あん時のチビのお嬢ちゃんがあんな肝っ玉母ちゃんになるったあ、本当に長い年月が過ぎたもんだぜ。……でもな、俺たちの間であの馬の名前が出たことはほとんどねえ」

 

私は意外だった。

なぜなら、私が沖上さんに電話した時、彼女はユメシンパイスルナの名前が出たことにとても喜んでいたからだ。

令和の今でもその名を知っている人がいること。

話題にし、思い出を語り合い、過去に思いを馳せる瞬間を、あれほど喜んでいた沖上さんが、あの馬の名前を出さなかった。

それは一体何故なのか。

私は伊角さんに迷わず尋ねた。

すると、自嘲を込めるように、伊角さんは言葉を吐き出す。

 

「理由?そんなの一つに決まってる。沖上さんはな、許せないのさ」

「許せない?」

「そう、許せない。アイツを── ユメシンパイスルナを殺した俺をな」

 

私の脳裏には、緑のお守りを大事に握りしめる沖上さんの姿が、ふわりと浮かんでいた。

 

「結局よ、聞きてえのはサンタアニタ競馬場でのことだろ?」

 

空になったグラスに水を注ぎながら、伊角さんは語り始めた。

 

「あの時のことを思い出すのは簡単だぜ。何せ、アイツの墓はこの敷地内にあって毎日のように目にするからな。それでもアイツのことを、ユメシンパイスルナを思い出すことはほとんどない。……いや、思い出さないようにしてきた。アイツを思い出す時は、俺はいつも後悔する。こんな馬を担当に持っちまった自分の不運を呪う。そんで……アイツ自身を呪う」

 

伊角さんがご家族で営むこの牧場に、ユメシンパイスルナの墓があることはご子息に事前に聞いていた。

そして毎日、その墓掃除を伊角さんが行なっていることもまた、ご子息から聞いていたのだ。

だが私はそれを指摘することなく、ただ伊角さんの言葉に集中した。

 

「何を期待してるかわからねえが、先にっておくぜ。俺は、あの馬が嫌いだ。思い出したくないほど」

 

そう言葉にして、しかし、伊角さんの目は揺れていた。

それが無意識のものだとしても、名前を呼ぶ声はやわらかく、思い出に満ちた音色が私の鼓膜を刺激した。

 

 

 

 

 

── 1982年。

沖上聡牧場から美浦の平野厩舎に入厩したユメシンパイスルナは、当時在厩して全ての馬の中で最も静かで聞き分けの良い馬だったという。

恐ろしいほどまったく手のかからないこの馬を、当初、担当厩務員である伊角さんは気に入っていた。

何せ楽なのだ。

他の厩務員からは『愛想がなくて可愛げがない』と不評だったが、蹴り癖のある馬や、謂わゆる気性難と呼ばれる馬たちに比べれば、その何倍も扱いやすい。

 

「俺が職業厩務員なら、あいつは職業競走馬。それくらいストイックで、実直で、飾り気がなかった」

 

自分の仕事が走ることだと理解していた、と伊角さんは言う。

無駄に頭を振ることもなければ、他馬に興奮することも、影響されることもない。

ただ調教場に連れ出せば調教師が望んだ通りに走り、競馬場に連れ出せば掲示板まできっちり走った。

 

「大レースを勝つような能力なんざなかったから、俺に振り分けられる金は微々たるもんだ。でも無いよりはよっぽど良いし、掲示板に乗った際の進上金はまあまあ良い。コンスタントに走ってくれたから収入も安定してた。おかげさまで貯金までできちまう始末。多分俺だけだぜ?あの厩舎で貯金できてたのは」

 

俺が無趣味だったのもあるかも知れねえけど、と伊角さんは付け加えた。

しかし、それを抜きにしてもユメシンパイスルナの安定感は凄まじく、伊角さんは彼を担当した4年間、1度も金に困らなかったと話した。

 

「今は、馬をたくさん走らせることに対して『馬が可哀想だ』って言うやつもいるだろ?でもよ、オーナーが金を必要としてて、馬の脚も丈夫で、そんでテキも問題ないって言ってるなら何も問題ねえんだよ。走れる馬を走らせているだけなんだから」

 

私の目をじっと見つめながら、伊角さんはそう言葉にした。

 

しかしその言葉には、きっと賛否両論があるだろう。

 

『理由はなんであれ走らせるべきではない』

 

そう否定する者も。

 

『走れるなら走れば良い』

 

そう肯定する者も。

どちらも間違っていないと私は思う。

 

もし脚元が弱い馬ならば、私も『走らせるのは無理があるのではないか』と口にするだろうし、そうで無いならオーナーの判断に委ねる他ない。

忘れてはいけないのは、競走馬はあくまでオーナーの所有の下に存在し、ファンである我々にはその出走に口をはさむ権利がないこと。

そして、競走馬というものは基本、走らねば生きていけない、と言うことだ。

それは物理的な意味合いではなく、彼らがその脚で得た賞金で暮らしていると言う事実から目を背けることができないから。

 

思いを巡らせよう。

重賞の勝ち鞍もなく走らなくなった馬はどこへ行くだろうだろうか、どこへたどり着くだろうか。

全ての馬を救う手立てがない現状、彼らはひっそりとその馬生を終える他ない。

安易に『走らせるのをやめろ』と言えない現実が、残酷だとしても、確かにそこにあるのだ。

2022年の今でさえ、馬の幸福とは何か、どのように支援をしていくべきか、どのようにその余生、その生活を守るべきかの議論は絶え間なく続き、結論は出せないでいる。

それより36年も前の1980年代ともなれば、今以上に難しく、そして今以上にその存在は脆く、薄く張った氷の上に立つようなものだったかもしれない。

伊角さんの言葉一つをとっても、その背景に滲むものを理解するのは容易ではないだろう。

 

「アイツだっていろんな重賞に出てたぜ。4歳のころに皐月賞、菊花賞、古馬になってからは阪神大賞典、ウインターステークス──……勝てたことはないけどな。それでも掲示板にはちゃっかりと乗って、賞金抱えてまた次のレースへ。定量戦はいいんだけど、OPは賞金によって負担重量が違ったりもするから、重賞未勝利なのに負担ばっかりでかくなったり。それでもアイツは走ったし、なんだかんだで賞金も掴んでくる。馬主孝行、調教師孝行、厩務員孝行ってな」

 

ユメシンパイスルナの世代は、ミスターシービーがシンザンに次ぐ3頭目の三冠馬として君臨し、その影響力はとても大きかった。

同世代の全ての馬がミスターシービーの影を追い、しかし捉えることもできないままでいた。

だがその光は、ある1頭の馬によって塗り替えられる。

日本競馬史上初の無敗の三冠馬・シンボリルドルフの登場だ。

同じ平野厩舎に所属する2頭は、その戦績を見ると全くの逆だと言える。

皐月賞ブービー、日本ダービー未出走、菊花賞も敗退。

そんなユメシンパイスルナだったが、彼は彼にしかない特別な能力があった。

 

「どの競馬場のどの馬場、どの長さ、どんな天候の時でも走れる。場所は関係ねえ。どこだろうと走り切ることができた。極め付けにコーナリングが上手い。コーナリングだけだったら重賞馬クラスだった。……だがな、コーナリングがどんなに上手くても、それだけじゃ勝てないのが勝負の世界だ。でも、それでも、アイツのコーナリングは三冠に届いた」

 

シンボリルドルフのコーナリングの上手さは、令和の今でも語り草になるほど素晴らしい。

それはシンボリルドルフ自身の才能もさることながら、その並走相手を務めたユメシンパイスルナの能力の高さを証明することにも繋がる。

 

「シンボリルドルフは左利きだった。だから脚を組み替える時に変な癖があったんだけどな、それの矯正と、それから見本のための併せ馬に選ばれたのがアイツだった」

「当時の平野厩舎には他にも有力馬がいたかと思います。その中でユメシンパイスルナが選ばれたのは、コーナリングの上手さ以外にもあるのでしょうか」

 

私の質問に、伊角さんは口角を上げて答えた。

 

「ユメシンパイスルナも左利きだったからだよ」

 

だが当時、それに気づいていたのは厩務員である伊角さんだけだった。

乗り役の調教助手も、平野調教師も気づいていなかったその脚捌き。

脚を組み替える時の動きがあまりにもスムーズだったことで、常日頃からそばにいた伊角さん以外気づけなかったそれは、他でもないシンボリルドルフの主戦・岡林騎手によって再発見された。

 

『この馬の脚捌きはルドルフの見本になります』

 

そういって、シンボリルドルフの併せ馬の相手にユメシンパイスルナを推薦した。

最初は半信半疑だった平野調教師も、併せ馬を重ねるごとに脚運びが滑らかになるシンボリルドルフを見て、以降相手はユメシンパイスルナに固定したという。

通常はシンボリ牧場で調整されていたシンボリルドルフだったが、大レースの前は必ずユメシンパイスルナと併せ、そして結果を出してきた。

 

「2頭の相性が良かったんですね」

「併せ馬の相手としては、そうだな。だが馬が合うか、と言ったら合わねえ方だろうよ。ルドルフは馬房ではやたらうるさくてわがままなやつでな。一部では『ライオン』なんて言われてやがった。それとは逆に、アイツは仏像みたいなやつで、隣の馬房に入ってるルドルフが何をしようと微動だにしない。調教中もよくルドルフにちょっかいかけられてはガン無視だったな。そう言うところが、ザ・職業競走馬って感じで俺的には楽だったけど」

 

他の厩務員、特にルドルフの厩務員からは『無愛想だ』って嫌われてた。

 

そう続けた伊角さんは、昔を懐かしむように目を細めた。

 

「ルドルフが結果を出すと、同じ厩舎の他のシンボリ冠の馬にまで付けられるようになった。で、その馬たちも結果を出すと、翌年には別厩舎のシンボリ冠にまで付けられて……テキはご立腹だったな。『同厩舎ならともかく、どうして別の厩舎に預けた馬にまで』って」

 

シンボリルドルフが三冠馬になった翌年、日本ダービーを制したシリウスシンボリもまた、ユメシンパイスルナが併せ馬を務めたうちの1頭だ。

この勝利によって、シンボリ冠の和久オーナーはユメシンパイスルナの能力に対する信頼を確固たるものにしたのだろう、と伊角さんは言う。

 

「シンボリ冠の馬もそうだし、そうじゃなくてもシンボリ牧場の生産馬のほとんどと併せ馬をしたんじゃねえか?アイツはやたらどっしり構えてたから、その余裕さが他馬にウケるのか、いつも絡まれてたっけな。どんなにテキトーにあしらわれても、構ってくれと言わんばかりに追いかけ回されたり」

「まるで兄弟みたいですね」

「そうだな……今思えば、そうだったのかも知れねえ。アイツが兄貴分で、シンボリ冠の奴らは弟って感じで。成績は全くといっていいほど弟たちに敵わなかったけどな!弟より弱い兄貴なんてどうかしてると思うが、でも……ああ、言われてみりゃ納得だ。追い比べで抜かされても、無口を引っ張られても、いつも落ち着いていて……確かにアイツは、兄貴って感じだったかも知れねえ」

 

その瞼の裏にどんな光景が浮かんでいるかはわからない。

でも、伊角さんは穏やかな表情で何度も頷いていた。

私は彼がこぼした数少ないキーワードを拾い上げ、夢想する。

堂々と構える兄の傍らに集まり、しきりに話しかける弟たち。

私自身、これまで『弟』と言うポジションで生きてきたからか、その光景がとてもリアルに想像できた。

例え返事がなくても、兄の視界に入るだけで嬉しかった記憶。

もし馬にも誰かを恋しく、慕わしく思う気持ちがあるとしたら、それは私が感じた暖かさに似ているかも知れないと、ふと思った。

 

「だが、うちのテキとの間には亀裂が入り始めていた。それまでも度々和久さんとテキの意見は対立してたんだけどよ、決め手になったのはルドルフの遠征と、その帯同馬にユメシンパイスルナを持っていくと和久さんが言い出したことだろうな」

 

真剣な表情をした伊角さんが言葉を重ねる。

1986年のアメリカ遠征。

ここを叩き台に、秋にはヨーロッパ遠征を計画していた和久オーナーと、春を全休して秋のヨーロッパ遠征を目指していた平野調教師。

シンボリルドルフの使い方で対立した2人は、和久オーナーが押し切る形で遠征を決めたことで決別状態にまで陥った。

その際、沖上さん── 娘である夢さんの手術を控えていた沖上聡氏は、遠征費を全額和久オーナーが負担すること、そして夢さんの手術を後押ししてくれた御礼としてユメシンパイスルナを貸し出すことに決めていた。

 

「テキとしては沖上さん側の事情は仕方ねえって思ってたんだろう。沖上さん側から電話が入った時もむしろ巻き込んで申し訳ないって言ってたからな。……和久さんだって、手術を盾にアイツをアメリカに連れてった訳じゃねえ。ただ、結果としてそうなっちまった。俺も、あの人も、あの場にいた全員が、ユメシンパイスルナという馬を、蔑ろにした事実は消えねえからな」

 

アメリカ遠征で、平野調教師はシンボリルドルフの調教に携わることができなかった。

和久オーナーとの対立から、オーナーは平野厩舎の厩務員を誰1人伴わず、自身で用意したチームで調整を行うことにしたからだ。

 

「表向きはな」

 

実際には伊角さんがサポートメンバーとして同行している。

どうしてなのかと尋ねると、伊角さんは短く『大人の都合』と表現した。

 

「まあぶっちゃけて言えば、アイツの分の現地スタッフにまで手が回らなかったんだよ。向こうのスタッフだって無限に湧くわけじゃねえし、ルドルフの方が優先度は高いからな。関係者やファンにとっては悔しいことかも知れねえけど、三冠馬と無冠のOP馬じゃ扱いが違うのは……こればかりは仕方ねえんだ」

 

私はこくりと頷き、続きを求めた。

 

「かといって誰もつかないわけにはいかない。調整役としてつれていくアイツが体調を崩したんじゃ意味がねえ。和久さんはシンボリ牧場のスタッフをつけようとしてたみてえだけど、テキがそれに気づいてな。外野をアイツにつけるくらいなら伊角を連れてけ、って言って俺をねじ込んできた。和久さん側もルドルフの遠征計画で無理を言ってる分、少しでも衝突を減らしたい気持ちもあったのか、ここはすんなり決まって、当日は一緒にアメリカに行った」

 

アメリカについてからもユメシンパイスルナは変わらなかった。

いつも通りの堂々とした立ち姿でシンボリルドルフの併せ馬を務めた。

馬房内では不遜だが、一歩外に出れば従順だったシンボリルドルフは、この馬がいる場所では態度を変えなかった。

 

「ルドルフにとってアイツは、気ままに振舞っても許してくれる存在だったんだろう。多少甘えてじゃれたって、アイツは山のように動かねえ。ほかのシンボリ冠の馬も似たようなもんだな。……ま、ただ舐められてたってだけの話だよ」

 

それでも自身も同日に開催されるダートのOP戦に出走するために準備を重ねる日々。

シンボリルドルフの休憩時間に現地のスタッフが乗り運動を行った時の感想は、『問題なし』の一言のみ。

特に不調を訴えることもないまま、いよいよレース当日を迎えた。

 

「なんも変わんねえよ。いつも通りの淡々とした様子でサンタアニタ競馬場に入っていった。直前の馬体検査でも問題なし。岡林さんが背中に跨った時も、日本にいた時と変わらず飄々としててな。場の空気に流されないところも、俺がアイツを職業競走馬なんて呼ぶ所以だ」

 

そしてユメシンパイスルナはサンタアニタのダートを駆け抜けた。

当日は最低人気。

当然だ、と伊角さんは語る。

 

「重賞勝ちのない外国馬の人気なんてそんなもんだ。ましてや、ルドルフの調整役として連れてきたとあればな」

 

だがユメシンパイスルナは勝利した。

地元のオープン馬を相手に、日本の砂地ほど整理されていない異国の大地で一花咲かせた。

惜しいことがあるとすれば、当日の注目の全てがシンボリルドルフに向いていたこと。

それゆえにユメシンパイスルナの活躍が映像に残ることはなく、ただひっそりと、沖上聡氏と伊角さん、そして鞍上の岡林騎手の記憶の中に眠る。

 

「アイツに異変が起きたのはゴールしてからしばらく。馬房に戻る直前の馬体検査の時だった。やたら前脚を気にしてたから、すぐに手の空いている獣医に見せた。すると『捻挫』だという。アメリカのダートは日本のそれとは違う。走っている最中に小石を踏んだかして捻ってしまったのだろう、とな」

 

馬が捻挫した場合、そのほとんどが競争能力に影響しない軽症だとされる。

だから取るべき対応としては、多くの場合はあまり走らせず安静にさせるなどで、骨折や他の怪我のように手術を行うことはない。

その時は球節部分に熱が確認できたため、念のため氷嚢で冷やしながら、患部をそれ以上刺激してしまわないようにユメシンパイスルナの行動範囲を制限する、と言う、一般的な対応を取ったのだ、と伊角さんは続けた。

 

「それまで怪我という怪我をしてこなかったやつだから、俺は驚いた。こいつでも怪我をすることがあるのか、とな。でも大丈夫。こいつはすぐ回復する。だって今までもそうだった。こいつは冷静に堪え、痛みを克服し、そしてまた走るだろうと、俺は、思っていた」

 

丈夫な馬だった。

これまで熱発もなく、怪我もなく。

調教を休んだことはなかった。

中1週でも連闘でも、疲れ知らずの体力は調教師を驚かせ、そしてオーナーを助けた。

そんな馬だったから。

 

「そんな馬だったからこそ、念入りにケアするべきだった。俺は職業厩務員を語っておきながら、チェックを怠った。ケアを怠った。慢心した。どうしようもないほど、自惚れていた。競馬に絶対なんか存在しねえのに」

 

ユメシンパイスルナは骨折だった。

それも発見の難しい箇所の骨折。

熟練の獣医でさえそれを判断するのは難しく、傍目からは捻挫にしか見えなかった。

また、骨折箇所によっては馬自身が痛みを知覚するまで時間がかかるケースもあるらしい。

場合によっては跛行── 歩行の異常を現すまでに数時間かかる馬もいるという。

この時のユメシンパイスルナは、最悪なことにこのケースに当てはまっていた。

捻挫と診断されてから骨折の痛みが発現するまで約1時間。

四肢をしっかりと大地につけ、ユメシンパイスルナは首も下げずに伊角さんを見送った。

これから七冠馬・シンボリルドルフのレースを見に行く彼を、冷静な目で送り出したのだ。

 

「ルドルフがレースで故障したことで獣医のほとんどがそっちにかかりっきりになった。そらそうだ。七冠馬様だからな。俺が獣医でもそうするよ。その間に俺はマスコミにとっつかまってルドルフの様子を聞かれたり、それを撒いて逃げたり。……アイツの様子がおかしいと知ったのは、ルドルフの様子を見にいった岡林さんが帰ってきた時だ」

 

『ユメシンパイスルナは本当に捻挫なんですか?ものすごく汗を掻いていて、目も充血してるんです。もう1度獣医に見せた方が良いと思います』

 

「その言葉を聞いて馬房に戻った時には、もう、手遅れだった。岡林さんがいう通り、異常なほど汗を掻いて、その目は赤く染まってた。明らかに限界を迎えてるって目だ。俺は、そんなアイツを見たのは初めてだった」

 

和久オーナーは手の空いた獣医をかき集め、急ぎユメシンパイスルナの再診察を行わせた。

その結果、捻挫だと思われていた箇所は骨折だったことが判明。

馬房の前扉の一部に蹴り跡があることから、痛みに耐えきれず脚を動かした際に、さらに骨折部位を痛めたのだろう、と思われた。

 

「もし俺がアイツにつきっきりでそばにいたら。側にいてちゃんと見ていたら。……全てがタラレバでしかねえけど、きっと結果は変わってただろうよ。少なくとも予後不良よりマシな結果になってたはずだ」

 

しかし、過去は変えられない。

ユメシンパイスルナは予後不良の診断がくだり、競馬場内で娘・夢さんの手術成功を聞いたばかりの沖上聡氏は、今度は愛馬の死を看取ることになった。

 

「あんた、大の大人が泣いて土下座する姿を見たことがあるか?あれはな……プライドも何もねえ。ただ、ただ……誰もが苦しかった」

 

頭を下げ続ける和久オーナーに、沖上聡氏は何を思っただろうか。

今は亡き彼が抱いた感情を、もう知る術はない。

ただ思う。

愛馬を、息子のように思えてきたその馬を失った彼の、混濁した心を思う。

 

「オーナーは、沖上さんはなんも言わなかった。ただ安楽死の処置が施されるアイツの横顔を撫で、静かに泣いていた。……俺は初めて、罵声のない地獄ってやつを知った。いっそのこと罵倒された方がマシなんだな。罪を責められることも救いだったなんて、知りたくなかった」

 

伊角さんは語る。

担当馬が安楽死処分になるのは初めてではないこと。

脚が壊れたら生きていけない競走馬が、その時点で処置を施されるのは仕方ないと受け止めていたこと。

もう慣れてしまっていたこと。

馬に執着心なんて持っていなかったこと。

 

「でもな、人生で初めて……厩務員になって初めてだったんだ」

 

ユメシンパイスルナは人懐こい馬ではなかった。

撫でられることを嫌い、過度に触れ合うことを拒んだ。

厩務員に対して愛想がなく、可愛げなんて皆無と言っても良い。

だが、『姉』である幼い少女にだけ心を開き、彼女に触れられることを好んだ。

『弟』たちに戯れつかれるのを嫌がったが、それでも彼らを拒んだことはなかった。

姉弟の前ではどこまでも穏やかで、強かに振る舞った。

そんな馬の最期。

 

「アイツは── ユメシンパイスルナは、俺に顔を寄せた。頬を擦り寄せて、それで……」

 

最初で最期のふれあいだった。

まるで伊角さんを慰めるように頬を擦り寄せ、肩を叩き、そしてユメシンパイスルナは天国へと旅立った。

 

「この野郎、なんてものを残していきやがった」

 

心中でそう叫んで、伊角さんは膝をついた。

立っていられなかった。

たった1頭の馬に、走るために生み出され、走らされ続けていた職業競走馬に、深く深く(こうべ)を垂れた。

それはこれまで彼が走り続けたことに対する敬意であり、痛みを抱えたまま迎えた最期に対する謝罪であり、それ以上に、恨みをこめていた。

 

「知りたくなかった、本当に、知りたくなかった。最期の最期に、失いたくないと思わされるなんて」

 

馬はどれも同じだと思っていた。

同じように世話をし、同じように見送ってきた。

自分は職業厩務員。

職業として、仕事として馬を世話している。

そこに好悪の感情はなく、ただ淡々と仕事を熟してきたつもりだった。

 

しかしユメシンパイスルナは、最期の瞬間になって、伊角さんの記憶のど真ん中に部屋を作り、そこに居着いた。

 

「心底嫌いだ、あんな馬。重賞レース一つ勝てないで。他の厩務員から悪口言われて、俺が悔しくないとでも思ったのかチクショー……相手がルドルフの厩務員じゃなかったら拳の一つや二つでてた。それくらい悔しかった。アイツは戦える素質があったのに、あと一つの押しが足りなくて勝てないでいる。併せ馬の相手として振り回されてる間も、どれだけ腹が立ったか。言われるがまま働き続けるアイツにも、テキになんも言わない俺にも。みんなクソッタレだ。こんな気持ち、一生知りたくなかった、本当に!」

 

自覚した頃には全てが遅かった。

どんなに後悔しても過去は戻らない。

それをわかっているから、伊角さんはユメシンパイスルナを嫌いだと言うのだろう。

過ぎ去った全てに佇むその馬を、忘れられないでいるから。

 

「厩務員を辞めたのは、その日だ。テキと和久さんが言い合うど真ん中で土下座して、辞めさせください、ここに残らしてください、ってな」

 

当時、防疫の観点から異国の地で没した競走馬を帰国させることはできなかった。

だからユメシンパイスルナは、知り合いもいない、馴染みもないアメリカで眠ることになる。

たった1頭で。

 

「職業厩務員としてあるまじき最後だ。担当馬に情を抱いた挙句、仕事をほっぽり出すことになった。俺にあんなことをさせたアイツが心底憎いよ」

 

だが彼は、実に36年もの間、その墓を守り続けた。

知り合いもいない異国の地に根を巡らせ、美しい草原を楽園にかえて。

 

ご子息に連絡を取った時、彼は別れ際にこう言った。

 

『父は彼の墓掃除を、息子である私たちにすら任せなかった。牧場仕事なんて苦労ばかりだ、と口にするくせに、ひどく暑い日も、雨の日も、雷が落ちても、嵐が来ても。毎日必ず、父が手ずから墓を磨くんだ。その横顔を写真に収めて、目の前に突き付けてやりたかったね。ぶつくさ文句言うくせに、あの瞬間がいちばん、父を輝かせる』

 

Omi&Eliy牧場が開場したのは、1988年のことだ。

それまでの約2年間、そこは細々と畜産業を営むある老人の所有地で、間借りする形で墓は存在した。

伊角さんは近くの農家で住み込みで働きながら現地の言葉を覚え、1日も欠かすことなく墓参りをした。

その根性に惚れた老人の末娘が、現在の妻であるエリーさんだ。

彼女の熱意に惹かれた伊角さんは、彼女の親族の許しを経てアメリカで結婚。

それと同時に、その土地を譲り受けたのだという。

結婚の知らせを受けた和久オーナーと、沖上聡氏からの支援を受け、伊角さんはサラブレッドの生産牧場を開き、牧場の中心── 青々と美しい放牧地の間に、ユメシンパイスルナの墓を移した。

すべての馬を見渡す最高のポジション。

 

「騒々しいのは嫌いなやつだった。最期の時、向かい馬房のルドルフに吠えられて、嫌そうに顔を背けていたのを思い出すぜ。『ったく、オレぁ最期までお前の面倒みなきゃいかんのか』ってな。大した兄貴だぜ、ご丁寧に鳴き返して……だからこれは嫌がらせだ」

 

そう言いながら、伊角さんは笑う。

 

「せいぜいあの世で、馬たちを見守ってろってんだ!」

 

その時窓際に吹いた風は、もしかしたら、ユメシンパイスルナの嘶きだったのかもしれない。

 

『仕方ねえなあ』

 

と弟をなだめる、兄のように、風は強く吹いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

美しく磨き上げられたプレートに触れる。

冷たいはずなのに、そこに確かなぬくもりを感じた。

 

アメリカ・カリフォルニア州に広がる草原のど真ん中。

そこに眠る1頭の馬の、声なき声が聞こえる。

 

『心配するな』

 

ユメシンパイスルナ。

姉を励まし、支え。

弟を育て、鍛えた。

 

決してレコードに残るような馬ではない。

けれども、いつまでも記憶に残る馬だ。

姉の、弟の、誰かの。

胸の真ん中に部屋を構え、そこで瞬きをする。

気だるそうに息を吐いて、そしてもう1度鳴くのだ。

 

『心配するな』

 

ここにいる。

静かにそこに佇む。

可愛げなく、愛想なく。

 

ただ静かに、凪いでいる──……。



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●鼻息荒くさあ次へ

※予約※
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あ、ありのまま、いま、起こったことを話すぜ……!

『濡れた家』みたいな名前のやつにレースでボッコボコにされていたかと思えば、また日本に馬転生していた……!

な、なにを言っているかわからねーと思うが、俺はほんとに直前まで『濡れた家』みたいなヌルっとした名前の馬にボコられていたんだ。

明確に骨折したとか、火だるまにされたとか、そんなチャチな死に方じゃあ、ないぜ。

もっと恐ろしいものの片鱗を──

 

味わう以前にどう死んだのかわからん。

エッていうかほんとに死んだ?

死んだ自覚もないまま次の転生きちゃったが……いや、思い返したらよくあることだしいいか。

気づいてたら死んでた、とか馬転生者あるあるだからな、ウン。

誰しもが通る道よ……。

 

「シンちゃん、あそぼー!」

 

お、はいはい、ちょっと待ってね。

よっこらショーイチっと。

 

「きょうは、あそぶまえに、さんぽ、つれてったげるわ!おねえちゃんだから!」

 

おうおう、ありがとよオネエチャン。

 

……ん?お前、人と関わるつもりなかったんじゃないか、って?

ばっきゃろー、相手はいたいけな幼女だぞ。

さすがに幼女をガン無視するほど人間、いや馬として腐ってねえわ。

しかもこの子、生まれつき身体弱いみたいだし。

人間だったころの自分と重ねたわけじゃないけど、こういう年ごろで、周りに同世代がいないとなかなかさみしいモンなんだよ。

オネエチャンの感じるさみしさとはちょっと違うけど、その感情は俺にも覚えがある。

 

俺はオネエチャンよりさらにチビの頃から入院してたけど、筋肉に影響が出る病気だったから他の子とも遊べなかった。

みんなが多目的ルームで花札やベイゴマ、おはじき、あやとり……なんか思い出すと渋い遊びばっかりだな、ウン、まあいろんなので遊んでいるのを見てるだけの毎日。

ぶっちゃけつまらんかったよな。

院内にある本をかき集めて病室に積み上げて『は?いや俺は読書してるほうが楽しいですしおすし』なんて言って。

まあ強がってました、ハイ。

でもそんな俺にも『弟』がいた。

 

そいつは俺より2つ下で、そんで俺とは真逆の健康優良児で、病気はおろか風邪ひとつ引いたこともない。

1回通学中に車に跳ね飛ばされたらしいけど、無傷でぴんぴんしてたって後から聞いた。

その弟がほとんど毎日のように俺の見舞いに来てたんだよな。

他に友達いないんか、って言ったらそいつらとは学校で会えるから俺と遊びたいって言う。

小学生なんだから放課後もドッジボールとかせえよ、とか思ったけど、俺も特に用があるわけじゃない。

友達の多い弟と違って俺の交友関係は狭かった。

本当にチビの頃は同じ病棟にいる同世代と遊んだりもしたんだけど、まあ入院してるからには大なり小なり何かしら抱えてるわけで。

場合によっては『また明日ね』がない。

3人くらい友達が天国に旅立つのを見送ってからは、誰かと関わるのはつらいだけだと悟ったね。

仲良くなっても明日がないんじゃ意味がない。

別れに立ち会うのも心が痛いだけなら、最初から仲良くしなけりゃいいんだ。

無限馬転生状態の今も、その考えは変わらない。

むしろ強くなったと言ってもいい。

仲良くなったと思った人間に殺されたり、一緒に駆け回って遊んだ仔馬が脚折れて処分されたり。

戦場に駆り出されてた頃はもっと酷かったなあ……。

傷つくくらいなら関わらない、心を預けない、預からない。

これ、馬転生をスムーズに熟すテクニックです。

 

今回の馬転生でも、今までと同じように生産者に過剰なスキンシップを取らない、ごはん貰うときや部屋を掃除してもらう以外で世話役に近づかない、を徹底するつもりだったんだけど。

……どうしてか、俺がどんなに素っ気なくしてもオネエチャンが諦めてくれそうになかったので。

気づけばお散歩とかおしゃべりとかおままごとに付き合うようになってた。

俺ってやつは、何かあったときにしんどくなるのは自分なのになあ。

コレでダメだったら(・・・・・・・・・)

来世こそ徹底しなきゃ。

 

そう思いつつ、小さな口で懸命に話すオネエチャンを見た。

オネエチャンは大人たちには『静かでおとなしい』なんて言われてるけど、こうしてたくさん話すのを見ていると、本当ははしゃいだりするのが好きなタイプなんだろう。

そもそもオネエチャンは入院こそしていないものの、その虚弱っぷりからほぼ家と病院を往復するだけの毎日だ。

当然、同世代に会う機会はほとんどない。

仮に会えたとしても、制限の多いオネエチャンがその子らとまともに遊べるか、と言ったらまあ、無理だろうな。

オネエチャンの身体の弱さは周知の事実だし、同世代の子らは親からそれを言い含められてるだろう。

万一のことがあってはいけないから、遊ぶにしても常にオネエチャンの事を気にしたり、配慮しながらやらなくちゃいけない。

そんなの、オネエチャンもその子らも楽しくないじゃんね。

お互い気まずくなって交友関係が途絶える……そんな気がするわ。

 

せめて両親が積極的に遊んでくれるタイプなら、と思うが、まあ俺がここにいる通り、オネエチャンの実家は牧場なわけでして。

牧場経営してる両親が暇してるわけがない。

でっけえ牧場ならまた違うんだろうけど、見た感じだと家族だけで営んでる牧場っぽいし。

オネエチャンにはほかの兄妹もいないみたい。

だからなし崩しに俺が相手になってるんだが。

一応ね、俺以外にも馬はいるにはいるんだけど……所有者の話を盗み聞きしたところ、どうも所有してるのは俺だけで、ほかの馬は預かってるだけらしい。

いつかは返さなきゃいけない馬たちを遊び相手にするわけにはいかないからね、仕方ないね。

 

「……あのねシンちゃん」

 

フンフンと鼻を鳴らしながら歩いていたオネエチャンが立ち止まる。

 

なんだいオネエチャン。

あ、ちなみに俺がずっとオネエチャンって呼んでるこの幼女の本名はユメちゃんだ。

漢字にしたら『夢』になんのかな?

精神年齢的に俺のほうが年上で間違いないんだけど、どうもずっと弟が欲しかったみたいで姉を自称してくる。

ので、それに合わせてオネエチャンと呼んでるのだ。

馬が弟とか激ウマギャグでしかないので、ユメちゃんパパこと俺の所有者には奥さんとふたり、第2子に向けて励んでほしいところである。

はよ本当の弟か妹を作ってやれ。

 

「シンちゃんねー、もうすぐおねえちゃんとね、バイバイなのよ」

 

あー、あれね、あれでしょ、入厩ってやつね。

俺もこっちに馬転生して2年ちょっと。

生まれた年に1歳と数えるらしいので今は3歳なんだが、そろそろ競馬場に行く頃合いだ。

ウタワカの時は京都、ライブアゲインの時は東京の競馬場に移動した。

はてさて、今回はどっちの競馬場か、はたまた別の競馬場か。

どこに入るんだろうな。

 

俺がのんきにそう考えていると、オネエチャンの目がうるうると潤みだした。

お、なんだ、泣くか?

ちょい待ち、いま耳を伏せるから。

 

「シ゛ン゛ち゛ゃ゛ん゛ん゛」

 

ん~、クソデカボイス。

しゃくりあげるオネエチャンが俺にしがみつく。

これ絶対あとで水浴び確定だわ。

だが俺は身体を動かさず、オネエチャンにされるがままじっとしていた。

馬の3歳と幼女じゃ対格差がありすぎるんで……俺がちょっと身体ゆするだけでオネエチャンが吹っ飛ぶかもしれんし。

人間に危害を加える動物は害獣として処分になっちゃうのでね。

馬転生するみんなも気を付けよう!

 

「シ゛ン゛ち゛ゃ゛ん゛……い゛っ゛ち゛ゃ゛や゛あ゛……っ」

 

そうは言うても。

こればっかりはしゃーないんだわオネエチャン。

俺も『とっとこ~!走るよシン太郎~!』しないといけないんでね……それ用に生まれてますんで、一応。

あ、走らなくてもいいなら走らないんですけど。

むしろ牧場の隅っこでペットみたいな感じで大往生させてほしいくらいなんだが。

まあこれまでの転生経験を振り返ると絶対無理だけどな!

どうせ最初っから走る以外の選択肢なんてないわけでして。

でも今世の所有者が優しそうなおっちゃんとその家族でむしろ当たりっていうか。

恵まれたほうといいますか……前にさあ、生まれた時からロクに世話もやかなかったってのにバンバン走らせるやべーのに当たっちゃったことがあるから、それと比べると大抵のことはハッピーなんよね。

っていうか戦場に比べればなんでもマシなのでは?

でもあれだ、マジでそいつは最悪だった。

フツー脚が折れて骨むき出しの馬を放置するかっての。

祟ってやろうかと思っちゃったじゃん。

まあ怨霊になる間もなく馬転生しちゃうんだけどな!

 

「夢、また泣いてるのかい」

「お゛と゛う゛さ゛ん゛ん゛」

 

所有者やん、チッスチッス。

あれま、せっかくのスーツがオネエチャンの鼻水で……。

お疲れ様ですわ。

 

オネエチャンが所有者に駆け寄っていったので俺の紐はフリーになったのだが、俺は人入りの馬なんでね、もちろんここから駆け出したりしないんで安心安心。

そのままオネエチャンを抱っこしててもらえます?

泣き止んでから俺の紐を握ってもろて。

馬ってめっちゃ耳いいから、オネエチャンの泣き声すっごい響くんだわ。

俺との別れを惜しんで泣いてるのはわかるんだが。

それはそれ、これはこれでして。

 

「いいかい夢。シンはね、美浦に行って、立派な競走馬になるんだよ」

「わ゛か゛っ゛て゛る゛も゛ん゛」

「じゃあどうして泣いてるんだい?」

「た゛っ゛て゛え゛……シ゛ン゛ち゛ゃ゛ん゛は゛ま゛た゛あ゛か゛ち゛ゃ゛ん゛な゛の゛に゛~~!!」

 

赤ちゃんて。

……いや、赤ちゃんなのか?

馬の1歳が人間換算でどれくらいなのかはわからないんだけど、乳離れが済んだ瞬間から大人かと思ってたわ。

でもオネエチャンは今5歳くらいだっていうし、5歳からしたら3歳は赤ちゃんかも。

俺の中身は3桁超えだけどな!

 

「夢はシンのことが心配なんだね?……それじゃあ、夢が心配しなくていいような名前を、シンにつけよう」

 

ここで名付けのタイミングか。

前回日本にいたときはライブアゲインだったっけ。

あの時はスルーしたけど、名前の由来が『何度でも生き返る』ってやかまし!

俺が馬転生繰り返してんのバレてんのかこれって思ったな。

いやタケロープよりはマシなんだけどさ。

いくらタッちゃんに似てたからってホープとロープは音以外似てるとこないからな!?

まだ最初に日本に転生した時の名前、ウタワカのほうが格好よかった。

今回もアレの路線で名付けてほしい。

いっちょ頼みますわ所有者。

 

「夢が心配しなくていいように……そうだな、シンは今日から── ユメシンパイスルナ、だ」

 

えっ。

 

「カッコわるい……」

 

それな!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

ハイ、どうもユメシンパイスルナです。

オモシロネームっていうか珍名っていうか。

まあこんな名前ですけどパッパカ走らせてもらってます、ハイ。

 

「テキ、準備できました」

「おう。じゃあルドルフも出して、いつも通り併せるぞ」

「はい」

 

ん、出番か。

部屋の扉をあけてもらってレッツゴー馬場。

俺も美浦── トレーニングセンターってところに入って早2年。

ライブアゲインとかウタワカの頃は競馬場内に厩舎があったのだが、今はトレーニングセンターという施設内にたくさんの厩舎がある。

俺はそのなかでも比較的デカめの厩舎に入ったらしい。

最初の1年はいい感じにスタートを切って、これは俺の時代がキター!と思ったのだが、同世代にバケモンみたいなつよつよウッマがいて無理だった。

やばくてヒィヒィ言ってたらいつの間にかそいつ、シンザンみたいに三冠馬になってたよね。

最後方走ってたのに、ゴール手前で抜かされたのマジで意味わからんすぎる……こわひ。

結局俺が調子が良かったのもデビューした1年目くらいで、デカいレースにもたくさん出たけど勝てずじまい。

 

でもでも、今回の身体は当たりだ。

どんなにレースに出まくっても特に疲れないし、痛みもでないし。

渇望してたつよつよボディが手に入ったのだ。

こりゃ今回こそ長生きして馬転生ストップするかもしれん!

もしかして俺がオネエチャンとうっかり仲良くなっちゃったのもコレの前触れ?……勝ったな!

ちょっくら年下の練習相手にでもなってやりますか、っと。

 

「──……で、どうだ?」

「調子いいですよ。やっぱりこの馬と併せるほうが整いますね── ルドルフは」

 

ボッコボコにされた。

やっぱこの馬……強すぎィ……!

 

「ルドルフもいよいよ最後の一冠。ここが取れたら……史上初の無敗三冠馬だ。万一にもここを落っことしちまったら……はあ……」

「テキ、何弱気になってるんですか!獲れますよ、ルドルフなら!」

「そうか……そうだな、こいつなら!」

 

あ、いい感じに盛り上がってるところスマンがコイツを俺から引きはがしてもらえません?

練習相手になるのはいいんだけど、最後はいっつもこう……俺に張り付くんだわ。

まあまだ4歳だからね……俺の圧倒的包容力を前に甘えたくなる気持ちも、まあ、理解できます。

それはそれとして助けてくれ、そろそろ跳ね飛ばしそう。

他馬と揉めた時、相手馬が怪我なんかしちゃうと……場合によっては処分されてしまうって俺、知ってます。

 

「それにしても。……ルドルフはほんと、シンに懐いてますよね。とんと愛想ないのに」

「ルドルフの隣の部屋にしてもストレスにならんのは、まあコイツだけだったからな。その安定感が良いんだろう……コーナリングもだいぶ改善された」

「こんだけ併せてるんだから、シンもそろそろデカいとこ獲ってくれたらいいですね」

 

やかまし、馬にも得意不得意があるんやぞ!

俺はデカいとこは無理でも一般的なレースならキッチリ稼いでますんで。

 

「……テキ、そろそろ戻していいですか」

「おお、オミ。いいぞ、戻してやれ」

 

アイツの世話してるスタッフ、悪気がないのはわかるけど、その天然さゆえか……俺の世話してるおっさんがイライラしちゃってますわ。

落ち着けおっさん、イライラするより先に俺を部屋に戻してくれ。

ついでにコイツに、ボーちゃんにぶっかけられた砂を落としてくれや。

 

……あ、ちなみにボーちゃんってのはコイツ── シンボリルドルフのあだ名な!

シンボリルドルフなんて贅沢な名前だねえ!

こちとら『ユメシンパイスルナ』だぞ!?

ルドルフってだけで格好良すぎる……うらやましい……これは別に嫉妬じゃないけど、シンボリの『ボ』をとってボーちゃんと名付けました。

某ケツ丸出し幼稚園児の友人とは別人、ならぬ別馬なのであしからず……。

最初はカザマくんにしようと思ったなんて俺だけの秘密だゾ!

 

「お前は職人や……ストイックな男。チャラチャラしたやつらとはちゃう。他馬なんか気にする必要ない。いつも通りでええ、いつも通り、走り切ったらええんや」

 

おっさん、俺といるときだけ関西弁だよな。

ま、わざわざ忠告されんでもキッチリ走るよ。

なにせオネエチャンの治療費とかも稼がなきゃだし……ゆくゆくは俺の余生にも繋がるからな。

俺も5歳。

ライブアゲインの時も5歳まで生きたし、これを突破したら年長記録更新するんじゃね?

馬がだいたいどれくらいで引退するかはアレだけど、たぶん2桁は走らんだろ。

あと2、3年くらいしたら引退するはず。

そん時に『こいつはユメの治療費も稼いだし余生の面倒みてやろう』って思えるくらいには稼いどかないと!

 

ん?なに?現時点の俺の獲得賞金よりもボーちゃんの獲得賞金のほうが上……?

ウッ頭が……ッ!!

 

 

 

 

 

「シリウスシンボリもダービーを制した……やっぱり、この馬は『持ってる』ぞ……!」

 

あ、このにんじんと四角い砂糖、差し入れっすか。

あざーっす!

ボーちゃんの所有者に敬礼!

 

「とうとう2頭目のダービー馬を出しちまったなァ、シン。お前が人間だったら、きっと調教師が天職だ。馬なのが惜しい……いや、馬だからこそ、この結果をだしてくれたのか……?」

 

めっちゃ褒めるやん。……褒めてんのか?ウン、褒めてることにしとこ。

 

さて、俺も6歳になった。

そう、年長記録を無事更新したのだ。

ヤッタネ!

相変わらずデカいレースは勝てないけど、毎月レースに出て賞金は稼いでる。

オネエチャンも順調に治療が進んでるらしく、この前は俺のレースを競馬場で応援してた。

あのちっこいオネエチャンも今や小学校の2年生。

時の流れってのは早いですなあ。

ボーちゃんもデカいレース勝ちまくってブイブイ言わしてるし。

 

っていうか『持ってる』っていうならそれはボーちゃんの所有者のほうじゃね?

今年のダービーっていうデカいレースに勝った馬も、ボーちゃんと同じ所有者の馬なわけじゃん。

ソイツの名前は『シリウスシンボリ』っていう、これまた格好良い名前でしてね。

もうボーちゃんってあだ名使っちゃったわ……ほかのあだ名も思いつかなかったんでそのままシリウスって呼んでるけど。

この馬がちょっと暴れ馬っぽくて、よく蹴ってくるので1回だけ腹が立って尻で跳ね返したことあるんだよ。

やばい、しくった、これでこいつ怪我したら処分されちゃ~う!なんて思ったんだが、ギリギリのところを耐えて脚じゃなくて尻で蹴ったからか、なんとか怪我をさせずに済んだ。

あとなんか次からは俺を蹴らなくなった。

ほかの馬のことは相変わらず蹴っ飛ばしてるらしいけど、まあ俺を蹴らないならなんでもいいです。

 

「和久さん、シンをシリウスに帯同させたかったらしいですね」

「ああ……だがシンは沖上さんの馬だ。向こうで長期遠征させる旨味は、今の沖上さんにはないからな。こっちで連闘させるほうがまだ稼げる」

 

帯同っていうのは付き添いとほぼ同じ意味らしい。

シリウスはダービーの後に海外レースに出走してて、最初はその付き添いに俺が指名されてた。

でもまあ、向こうのレースで俺が勝てるとは限らないし、税金とかもろもろ考えると一緒に行く意味ないらしいよ。

飛行機とかの費用も馬鹿にならんだろうし。

俺が海外に行くことはなかろう。

それに今世海外に行かなくってもどうせそのうち向こうに転生するだろうし。

これまでも何回も転生してるしな!

あと調教師が言う通り、こっちのレースをパッパカ走ったほうがマネー的にお得なわけだ。

ということで、俺はボーちゃんの練習パートナーしつつ、今月も元気に出走である。

今回も稼ぐぞ~~!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7歳である。

最長記録更新その2~~!!

いやあ、これはもう決まったでしょ。

今世で無限転生ともおさらばです。

ありがとう丈夫なボディ。

 

「クソッ、なんもかも……勝手すぎるわ……」

 

どうしたおっさん、またイライラしてんのか?

相変わらず短気だなあ。

いや、おっさんは仕事をきっちりしてくれるタイプだからいいんだけど。

必要以上にペタペタ触ってこないし。

 

「オミ、わかってるとは思うが」

「ッはい。今までと変わらず、キッチリ、しっかり、シンの面倒は俺が見ます」

「いちいち環境に左右される馬ではないが……頼んだぞ」

「はい!」

 

あ、そうそう、今世では海外にいかないと思ったが、どうやら行くらしい。

どうも今回はルドルフ、あっ間違えた、ボーちゃんが海外レースに出るらしくて、その付き添いだ。

調教師は前に所有者に旨味ないとか言ってたけど、俺が行くことになったのはオネエチャン絡みっぽい。

今まで国内で治療してたオネエチャンが、いよいよ根本的な治療のためにアメリカで手術を受けることになった。

その病院とかをボーちゃんの所有者経由で見つけたらしく、お礼とかも兼ねてるとかどうとか。

遠征費もボーちゃんとこが持ってくれるっていうから、ほぼ無料なのも遠征に行かせる決め手なんじゃない?

何はともあれ、俺は懐かしの── いや全然懐かしくないけど、アメリカに行くことに。

この身体で向こうの馬場を走ったことはないけど、記憶はあるしなんとかなるなる!

おそらく、たぶん、メイビー!

 

 

 

 

 

 

「シン……ッ」

 

クッソ痛いんだが!?

 

「すみません、すみません……!」

 

あの、謝罪はいいので安楽死頼むわ。

これあの、そういうアレだろ?

こんなん死亡確定の痛みじゃんね。

走り終わった後からなんかやべーとは思ってたけど、時間が経つにつれて痛みがマックスピーポー!

もうサクッと終わらせてくれぇ……!

命乞いならぬ安楽死乞いです。

おっさん、これが俺の最初で最期の頼みやぞ!

 

「なんでや……シン……ッ!」

 

なに!?

安楽死乞い足りない!?

先に痛みでショック死しそうなんで早めに頼むわ。

っていうかボーちゃんうるさっ!

大丈夫かって無理なんだわ、これは無理としか言いようがない。

ボーちゃんも怪我してるらしいけどそっちは大丈夫か?

……いや、ボーちゃんは俺のスーパーウルトラすごすごウッマを見分ける目によると大成功を収める馬なので、ここで死にはしないだろう、ウン、大丈夫だ!

よかったなここで2頭とも死んだら呪われた競馬場だぞここ。

 

「安楽死の……処置を……お願いします……っ」

 

所有者~~!!

ここぞという時に決めてくれると思ってました!!

ありがとうありがとう!!

 

あ、さっきチラッと聞いたけどオネエチャンは手術成功したらしいな?

いやあ、よかったわ。

デカいレースじゃないし賞金はちょっとしかないだろうけど、今回のレースで勝った分で残りの治療費をどうにかしといてくれ。

あ、あとオネエチャンも頑張ってたし、今度は本物の弟か妹を用意してやれよ。

俺みたいなまがい物にあれほど熱心に接してたんだから、その欲望はガチだぞ。

所有者も奥さんもどっちも若いんだしいけるよ!!

それじゃ、俺はここらへんでお暇するぞ!!

 

「ごめんね、シン、ほんとうにごめん……それから……今まで、ありがとう……ずっと、ずっと、愛してるよ、シン」

 

ん、なんて?

ごめん、ちょっともう耳が遠くなってて最後のはわからんかったけど、まあなんだ。

今回は平和な感じの家族に生産されて俺、結構ハッピーだったよ!

7歳まで生きれたしな。

なんだかんだ日本に生まれるとちょっとずつ寿命伸びてるっぽいし、次は8歳行けちゃうんじゃないか!?

そう考えたらちょっとやる気でてきたわ。

ウン、次こそいけるかも。

よおし頑張るぞ~~!!

 

あ、息できなくなってきたわ……今度こそ、じゃあな!!

 

 

 

こうして俺は無事に安楽死処理され、次の転生先へ旅立った。



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【大百科】ユメシンパイスルナ(競走馬)

ユメシンパイスルナ(競走馬)


出典:フリー大百科事典『ニヨペディア(Niyopedia)』

 

注意:この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記表や2001年以降の日本国名の表記とは異なっています。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。

 

注意:この記事のほとんどまたはすべてが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性、中立性、信頼性の向上にご協力ください。

 

ユメシンパイスルナ(1980年4月1日 - 1986年3月29日)は、日本の競走馬。

     

ユメシンパイスルナ

品種サラブレッド

性別

毛色鹿毛

誕生1980年4月1日

死没1986年3月29日

シャトーゲイ

シラフブキ

母の父バウンドレス

生国日本(千葉富里市)

生産者沖上聡牧場

馬主沖上聡

調教師平野裕三(美浦)

厩務員伊角宗臣

競走成績

生涯成績33戦14勝

獲得賞金9,752万円

勝ち鞍

OP戦(ダ:1986年3月29日:米)

札幌日経賞(ダ:1985年6月9日:日)

北九州単距離S(芝:1984年8月18日:日)

 

ユメシンパイスルナ

品種サラブレッド

性別

毛色鹿毛

誕生1980年4月1日

死没1986年3月29日

シャトーゲイ

シラフブキ

母の父バウンドレス

生国日本(千葉富里市)

生産者沖上聡牧場

馬主沖上聡

調教師平野裕三(美浦)

厩務員伊角宗臣

競走成績

生涯成績33戦14勝

獲得賞金9,752万円

勝ち鞍

OP戦(ダ:1986年3月29日:米)

札幌日経賞(ダ:1985年6月9日:日)

北九州単距離S(芝:1984年8月18日:日)

 

 

概要


父・シャトーゲイ、母・シラフブキ(母の父・バウンドレス)という血統。

アメリカの競走馬でケンタッキーダービー馬であるシャトーゲイから砂地への耐性、名繁殖牝馬シラオキを3代母に持つシラフブキからは忍耐強さを受け継いだ。

血統論からみて優れた配合ではないが、もし牝馬であればどの種牡馬ともローリスクで配合できる強みを持つので、元の目的は繁殖用だったのではないかと思われる。

 

1980年に千葉県富里市の沖上聡牧場で生産。

生産者である沖上聡氏がオーナーブリーダーとなって同馬を所有した。

名前の由来はオーナーの一人娘の名前+『心配するな』。

今でいう『オレハマッテルゼ』『アイアムハヤスギル』などに通じる、所謂珍名馬。

 

1982年に美浦トレーニングセンター・平野厩舎に入厩。

デビュー年を3戦3勝の完勝でスタートするも、クラシック本戦ではミスターシービーの勢いに押され敗戦。

しかし芝・ダート、良・重、短・中・長を問わず走破できる多彩な走りを見せ、主にオープン特別で活躍した。

 

シンボリルドルフの帯同馬として向かったアメリカでレース後に故障。

予後不良と診断され、1986年3月29日に死亡。

同地・カリフォルニア州のある牧場に埋葬されている。

 

生涯


1980年4月1日誕生。

3歳(現齢・2歳)まで沖上聡牧場で育成されたのち、美穂・平野厩舎に入厩。

ダートの1200メートル戦でデビュー後、同年の芝400万下、700万下を勝ち上がって3戦3勝。

1983年には皐月賞、菊花賞に出走したが、同世代の三冠馬・ミスターシービーの前に敗れる。

古馬になってからはオープン特別を中心に出走。

頑丈な足腰を持ち、あらゆる馬場に適応する同馬は、多くて月に2回出走する等、4年の競走馬生活で33戦もこなしている。

 

33戦のうち14勝(新馬戦、条件戦含む)を挙げており、2桁着順となったのはブービーに敗れた皐月賞のみ。

それ以外は掲示板(5着以内)に載ったり、落ちてもほぼタイム差なしなど堅実な走りを見せた。

重賞レースでは勝鞍を上げられず、上述した皐月賞、菊花賞の他に、阪神大賞典(G2)、ウインターステークス(G3、現G2・東海ステークス)などにも挑戦しているが、いずれも掲示板を落としている。

だがオープン特別(出走条件無し)では主だったところで、仁川ステークス(ダ・1600m)、北九州短距離ステークス(芝・1200m)などで勝利を挙げた。

 

管理する平野調教師は同馬を「技巧派」と評し、派手さはないもののコーナリングの上手さや適応性の高さは重賞馬クラスと表現した。

落ち着いた性格で無駄吠えもなく、他馬の影響をものともしないそのメンタリティを買われ、厩舎内の若馬たちの調教パートナーを多く務めた。

同厩舎で1歳年下の七冠馬・シンボリルドルフもユメシンパイスルナをパートナーとし、馬房も隣同士だったとされる。

シンボリルドルフが無敗の三冠馬になると、その調整能力を高く評価され、シンボリ冠の和久オーナーが所有するほぼすべての馬の調整役を熟した。

平野厩舎以外の所有馬にも用いられ、とくに有名なのは1985年のダービー馬・シリウスシンボリ。

 

1986年、7歳(現齢・6歳)となったユメシンパイスルナは、アメリカ遠征が決まったシンボリルドルフの帯同馬として共に渡米することになった。

当時、オーナーの沖上氏は遠征に乗り気ではなかったが、シンボリルドルフの遠征を成功させたい和久オーナーの説得と、遠征費全額を和久オーナー側が負担することで話が付き、3月中旬に渡米、カリフォルニア州のサンタアニタ競馬場に入った。

メインレースとなるサンルイレイハンデキャップの前走となるオープン戦(ダート)に出走。

地元オープン馬を相手にクビ差交わすと勝利を挙げた。

 

ゴール後の馬体検査で球節部分に熱と腫れが確認され、一度捻挫と診断される。

悪化を防ぐために行動範囲を狭め、球節部分を冷やす等の手当てが施されたが、それから1時間後に状態が悪化。

最終的に骨折と診断され、治療の手立てがないことから予後不良とされた。

一旦捻挫となった後に骨折と判明した件について、当時、メインであるシンボリルドルフの故障が発生した余波でユメシンパイスルナの状態の観察、確認が遅れた結果、悪化に繋がったという見方が有力。

収納されていた馬房の前扉に蹴り跡が発見されており、これは痛みに耐えかねた同馬が故障個所を打ち付けたものだと思われる。

当時の防疫の観点から、同馬の遺体を持ち帰ることができず、カリフォルニア州にて埋葬された。

現在は同州のOmi&Eliy牧場にてその墓が管理されている。

 

1周忌となる1987年3月、和久オーナー側から沖上氏にシンボリルドルフの優先種付け権譲渡の話が持ち上がったが、沖上氏側がこれを辞退。

以降、二者間の交流は途絶えていたが、1990年に沖上聡牧場の閉場が決まった際、残された7頭の繁殖牝馬と5頭の仔馬を和久オーナーが引き取っている。

 

2014年、沖上聡牧場跡地を、沖上氏の長女・夢氏が買い取り、新たに『ゆめの牧場』を開場した。

 

競走成績


主だったオープン特別の勝鞍のみ記載※当時のレース名、格付け、情報にて表記

仁川S阪神1800m1984年3月18日1着

北九州短距離S小倉1200m1984年8月18日1着

吾妻小富士S小倉1800m1985年4月28日1着

札幌日経賞札幌1800m1985年6月9日1着

オープン戦1600m1986年3月29日1着

 

エピソード


・おそらく真夜中に生まれたとされる

 →朝に沖上氏が様子を見に行った際、馬房の隅のほうで寝藁に埋もれている姿が発見された

・基本的に物静かで干渉されることを嫌ったが、沖上氏の娘・夢氏には寄り添う姿を見せた

 →幼駒時代は夢氏が引き運動をしていた

 →夢氏が手を伸ばすと、自ら顔を近づけた

・馬名は同馬が入厩する前、離れるのを寂しがった夢氏を励ますためにつけたものだ、と沖上氏は語っている

 →おそらく『夢、心配するな』という意味

・シンボリルドルフの隣の馬房に入ってストレスにならなかったのは同馬だけ(平野調教師談)

・左利きだったが、それとわからないほどきれいに脚の組み換えができたため、岡林騎手から「ルドルフの見本になれる」と評価された

・シンボリルドルフに懐かれていたため、美浦で引き運動を行うときなどは必ず2頭セットだった

 →ユメシンパイスルナ自体は1頭でいることを好む傾向にあったとされるが、シンボリルドルフを威嚇したり攻撃することもなく、常に穏やかだったと言われている

・蹴り癖のあったシリウスシンボリは、同馬の前だけ非常に大人しく、和久オーナーはシリウスシンボリの海外遠征時にユメシンパイスルナの帯同を熱望していた

 →沖上氏が辞退したため、シリウスシンボリの遠征には帯同していない

・持ち帰ることが許可されたユメシンパイスルナの鬣のうち、一部は同馬の熱心なファンに形見分けされた

 →和久オーナーにも一部形見分けされ、種牡馬入りしたシンボリルドルフの馬房にお守りにいれられて飾られていた他、シンボリルドルフ亡き後はシリウスシンボリに、そこからさらにシンボリクリスエスらに引き継がれた

 



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第1章から第3章(昭和期)までの情報
登場馬まとめ


次から平成になるので、昭和までの登場馬を簡単にまとめました。


ウタワカ編

主人公死因:レース中の骨折による安楽死

馬名シンザン

生没年1961 - 1996

ウタワカ(主人公)と同期、同厩舎、隣の馬房。

日本における主人公の最初の被害馬。

主人公からすればバリバリの打算ありきだったが、サツマイモ分けてくれたり稽古相手になってくれたりと仲良かった(シンザン談)のでレース中の故障で先に逝ってしまった時は寂しかった。でもすごく仲良かった(シンザン談)し虹の向こう側に渡る時はきっと迎えにきてくれるはず(来てくれませんでした)。馬としてはずいぶんな長生きをしてから渡った先で馬探しをしている。

 

「黒鹿毛のものすごい美馬で自分の分のサツマイモを分けてくれるような優しい馬を探してるんだが、見かけなかったか?」

 

 

 

ライブアゲイン編

主人公死因:事故死(焼死)

馬名タケホープ

生没年1970 - 1994

ライブアゲイン(主人公)と同期、同牧場、同厩舎、隣の馬房。

日本における主人公の2番目の被害馬。

担当スタッフすら混乱させるほど顔が似ていたが、自分の姿なんて見たことない馬には関係の無い話。生産牧場時代から仲良し(タケホープ談)で引退時期も一緒になる予定が、とんでもない不運で主人公が火あぶりにされてしまい、別れも言えないまま永遠にさよならした。虹の向こう側に渡る時に迎えにきてくれるかと期待したがそんなことなかったので馬探ししてる。

 

「他馬が言うには見た目すごい似てるらしいんですけど……ああ、ハイ、そうです、コレと同じような顔をしたとても静かで堂々とした馬、知りませんか?」

 

 

 

ユメシンパイスルナ編

主人公死因:レース後故障、骨折による安楽死

馬名シンボリルドルフ

生没年1981 - 2011

ユメシンパイスルナ(主人公)の1つ下、同厩舎、隣の馬房。

日本における主人公の3番目の被害馬。

生産者・オーナー、厩舎もろもろの期待を背負う無敗三冠馬。入厩時から主人公と併せ馬をしてきた。馬房では気ままに振る舞うが外に出れば従順、と公私の使い分けが上手かったが、主人公が居る場所ではそこが外であっても自由に振る舞う弟分。何度絡んでも相手にしてくれなかったが、邪険に扱われたことも無かったので自然と懐いていた。虹の向こう側でシリウスシンボリと共に馬探しをしている。

 

「パッと見では偉そうだけど実はとても包容力があって、寡黙で職人気質でクールな眼差しのハンサムな男馬を探しています。兄です。見かけたら教えてください」

 

馬名シリウスシンボリ

生没年1982 - 2012

ユメシンパイスルナ(主人公)の2つ下、別厩舎。

日本における主人公の実質4番目の被害馬。

主人公とは所属厩舎が異なるので関係は深くないが、シンボリルドルフの一件から主人公の調教能力()に目を付けたオーナーによって、別厩舎同士であるにも拘わらず併せ馬の相手を務める。モガミ産駒らしい気性の荒さで蹴り癖もあったが、1度主人公にケツで跳ね飛ばされてからは「俺にこんなことをした馬は他にいなかった。おもしれー男(意訳)」と思って懐いていた。ルドルフの後を追うように虹の向こう側に渡った後は馬探しwithシンボリ軍団に参加している。

 

「相手が若馬だろうが期待馬だろうが、いざとなれば身体を張ってでも上下関係を叩き込んでくる男気のある馬を捜索中。兄です。見かけたらルドルフより先に教えてください」

 

 

 

ここまで物語に出てきた史実海外馬一覧

馬名(主人公記憶)馬名(正式名)生没年

エクレアエクリプス1764 - 1789

ポテトポテイトーズ1773 - 1800

振られたーハイフライヤー1774 - 1793

筋肉マッチョ/ムーチョキンチェム1874 - 1887

サイとかシモンセントサイモン1881 - 1908

マンマンノウォー1917 - 1947

ロベロベルト1969 - 1988

ディクディクタス1967 - 1989

にんじん大好きニジンスキー1967 - 1992

ハロー!ヘイロー1969 - 2000

塗れた家ヌレイエフ1977 - 2001

 

あとは名も無き戦禍の馬たちも多数存在。




虹の向こう側にたどり着いた唯一無二さん
「たった1頭、クビ差まで粘り込んできたあの勝ち気な馬を探しているが見つからない……既にこちらに着いてるはずなのにおかしい……見つけ次第マッチレースの続きをしようと思ったのに」

一方そのころ20世紀を生きる主人公
「謎の悪寒が!?!?」

感想欄で虹の向こう側で名馬たちが主人公を探してることがお察しされてて芝なんだ。
なお見つからない模様。


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キミニホレタ ── 1990~1995年
○彼と彼女の二角関係 前編


『月刊「優駿たち」2月号 ── 連載:名馬の影に思いを馳せて』
執筆:遠山寛次郎
競馬史に残る偉大なる名馬たちの、その輝かしいレースの影に佇む馬に焦点を合わせ、その足跡を辿るドキュメンタリー風小説を7ヶ月に渡ってお送りします。
1月号でお送りする名馬の影は『キミニホレタ』

あなたは、この馬のことを覚えていますか?


 いつの時代も、人は、組み合わせに ── もっと言えば『恋』に熱狂する。

 

 東京二千を沸かしたヤエノムテキの片思い相手はシヨノロマン。

 ダイイチルビーが居ると気合が入ったダイタクヘリオス。

 名優メジロマックイーンが惚れた鉄の女イクノディクタス。

 

 色めき立ったウワサに誰かが振り返り口を開く。

 

『競走馬は恋をするのか』

 

 さてこの難問に、あなたはどう答えるのだろうか。

 

 物言わぬ馬の感情に思い馳せる時、私は、ある1頭の牝馬を巡る恋物語を思い出さずにはいられない。

 いや、ひょっとしたら恋と呼ぶには足りず、浮き足だった私だけがそこに居るのか。

 その牝馬は、史上5頭目の三冠馬・ナリタブライアンの初恋相手だと、紳士が微笑んで答える。

 栄光と挫折を繰り返したシャドーロールの怪物に、恋のウワサはひとつ、ふたつ。

 果たして上手くいったのだろうか。人間には聞こえない口説き文句はなんだったろう。

 くたびれたアルバムをマダムの細い指先がなぞり、その過去に1頭の牝馬がため息交じりに振り返るのが私には見えた。

 

 時は1993年の5月中旬。

 栗東トレーニングセンター・大窪(おおくぼ)厩舎に後の三冠馬が入厩した、その日が始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ── 2022年3月。

 

 馬をかたどったプレートが軒先に揺れる。

 その喫茶店は奥まったところにあった。

 観光客でごった返す表通りから一歩外れた脇道の、そのさらに奥だ。

 ひと一人分が通れるかどうか、と言うくらい細い裏路地を抜ける。

 向かい側から人が来たら譲り合いが始まるだろうその道の果てに、目当ての店があるのだ。

 しかし辿り着いた扉の前にはクローズ── 閉店の看板が立てられ、私は思わず小窓を覗いた。

 部屋は薄暗かったが、じっと見つめているとヒタリ、女性と視線が合った。

 

「あら」

 

 と言ったかのように女性の口が動いた。

 ちょうど私も似たような声が出てワッと片手で口を塞ぐ。

 しかし数秒も経たないうちに扉が開いて、黒いシンプルなエプロン姿の女性が現われた。

 私は言われたわけでもなく自然と背筋を伸ばし、彼女に一礼する。

 そうさせる柔らかい上品さが彼女にはあった。

 

「マァ、ご丁寧にどうも。お待ちしてましたよ」

 

 彼女の出身は大阪府と聞いている。

 そのイントネーションは関西ならではのうねりを見せ、笑い皴は彼女の快活さを強調した。

 

 私を室内に招き入れてくれた女性── 彼女の名前は殿原(とのはら)充子(みつこ)さん。

 都内にエステサロンを4店舗経営するオーナーであり、この喫茶店を経営するマダムである。

 

「夫もあと少しで到着します。先生にはお手数おかけしますが、どうぞこちらでおくつろぎください」

 

 顎下で揃えられた黒髪を揺らして、殿原さん── 以降、充子さんとお呼びする ── は私の前に水を置いた。

 年下の、それほど著名でもない私が『先生』と呼ばれるのは些か恥ずかしいものがあったが、これもリップサービスとして受け取るのがマナーだろうか。

 気恥ずかしさが滲む私に、充子さんは懐かしいものを見るような瞳で微笑んだ。

 

 時期は年明け3月の半ばということもあって、外は春休みの家族連れが多く見られる。

 桜が見頃を迎えた関東では、この頃になると暖かさを取り戻していた。

 晴天の日も多く、青空を見上げながら舞い散る桜を眺めるのは、さぞ気分が良いだろう。

 ただ稀にじとりと暑い日もあって、今日はその稀な日に当たったせいか、額には汗が滲んだ。

 そんな私にはたと気づいたのか、充子さんは水の横におしぼりを置いてくれた。

 ひんやりとしたおしぼりがとてもありがたい。

 

「そうだ先生。夫が来るまでの間に、昔の写真でも見ませんか」

 

 充子さんが持ってきてくれたのは数冊のアルバムだった。

 ベルベットのしっとりとしたさわり心地の表紙には、短く、おそらく手彫りと思われる味わい深さで『メモリアル』とだけ刻まれている。

 積み上がった内の1冊を開いた充子さんは、弾んだような声で私を呼ぶと、ページの中央を指さした。

 マニキュアが施された指先の向こうで馬が1頭、立っていた。

 

「ほら、これです、これがあの馬!」

「隣にいるのは」

「私ですね。……やぁ、なんだか恥ずかしい。こんな垢抜けない」

「いえいえ! とても素敵な写真です。充子さんはこの馬の担当だったそうですね」

 

 私の言葉を肯定するように頷いて、充子さんは懐かしそうに指で写真をなぞった。

 

「母馬の胎の中にいた時から見守ってきました。1年以上寝食を共にして……本当は2歳でさよならのはずやったんですけど、まさか最期の瞬間にまで立ち会うことになるとは、思いもしませんでした」

 

 懐かしさに緩む目元に深い慈愛が浮かぶ。少しだけ滲んだ瞳が、その馬への思いの深さを思わせた。

 その表情はこれまで会ってきた人たちの横顔によく似ている。

 私は小さく頷き、彼女の指の腹で撫でられた、写真の中の馬と目を合わせてみた。

 白いジャンパーを着込んだ若かりし頃の充子さんの隣。

 こちら側をじっと見つめるように顔を上げたその馬を知ったのは、実は、ユメシンパイスルナよりも先だった。

 

 この雑誌を愛読している紳士淑女の皆様も知っての通り、私自身は競馬歴も浅く、不足している知識も多い。

 こうして執筆する時間と場所を貰っている身としては恥ずべき立場なのかもしれないが、学びながら、調べながら、そうして知っていくことに楽しみを見出している。

 そんな楽しみの中で過去のレースシーンや書籍に没頭していた、まさにその時、ふっとこの馬が現われたのだ。

 

 風に揺れる青い鬣。

 

 強情さが伺い知れる鋭い瞳は、写真越しでも目を逸らすことを許さないような、そんな存在感を放つ。

 最初にウタワカの写真を見た時のような、引き込まれる何かを感じたのだ。

 さらりとシンプルに競走馬名だけが添えられたその写真を見た日から、私はいつかこの馬の話も書きたいと思うようになっていた。

 

 この馬は1990年代に生産、活動した馬であるから、それまで扱ってきたどの馬よりも情報が多く出ると踏んでいた。

 ウタワカの1960年代とは比べものにならないほど情報の発達した年なのだ、1990年代というのは。

 しかし予想に反して情報が集まらず執筆を断念していたのだ。

 そんな折、幸運にもユメシンパイスルナのネット記事を見つけ、興味を惹かれた私はゆめの牧場さんと知り合うことになる。

 その際、沖上さん(ゆめの牧場の場長。先月号で紹介)が偶然この馬のことを知っていた── 正しくは、この馬の母馬がゆめの牧場の前身である沖上聡牧場で繋養されていた繁殖牝馬だったことで、充子さんに渡りをつけて貰えたのだ。

 

 1980年代後半。沖上聡氏の牧場閉場に伴い、すべての繁殖牝馬、仔馬、繋養馬が移籍することになった。

 その全頭を引き取ったのが、シンボリルドルフやシリウスシンボリらの所有者である和久オーナー。

 

「私は当時17歳の小娘で……府内でもえらい荒れたところの出やったんです。家庭環境も……酒浸りの父と、そんな父に逆らわない母。母の稼ぎも私の稼ぎもぜーんぶ酒に消えるんです。それがもう嫌でね。どうにかして家を出たかった。ちょうどバブル景気で羽振りの良い人が多いでしょ。ダメなことだってわかってたんだけど、年齢ごまかして水商売して。ちょこっとだけ貯めたお金と、お客さんにおねだりして北海道まで送ってもらったんです」

 

 とにかく父母から離れたかった、と充子さんは白い手をすり合わせた。

 そうして辿り着いた北の大地で、彼女はある牧場の下働きをすることになる。

 それが和久オーナーが運営する『シンボリファーム』だった。

 

「あの時代はどこもかしこも人手不足で、それで私、運よく働かせて貰えることになったんです。北海道まで送ってくれた人が実はオーナーの知人で、もう本当に運良く、住み込みでね。もちろん大変でしたよ。楽なんてことは一回もなかったし。みぃんなまっとうな出の牧夫ばかりの中で、西から出てきた女でしょ。えらい舐められた。けれど、汗水流して得たお金を自分で使える。ああ、なんて素晴らしいんだろうって思いました」

 

 充子さんは基本的には雑用係のような仕事をしていたそうだ。

 あの当時の高校中退の小娘にしちゃ上等な仕事ですよ、と充子さんは微笑む。

 だが彼女の勤勉さを、牧場側はよく見ていた。

 

 ある年の暮れ。

 沖上聡牧場から受け入れた繁殖牝馬のうち、キミノトップレディという高齢牝馬の世話役をすることになった。

 その時にはすでに身ごもっていたキミノトップレディは、非常に気性の荒々しい馬だったという。

 まさにじゃじゃ馬という言葉が似あう暴れっぷりに、充子さんは生傷の絶えない毎日だった。

 それでも楽しかったと微笑む充子さんは、翌年の話をした。

 

「美しい青鹿毛の馬でした。あの頃の私はまだまだ馬初心者で物をよく知らず、けれどひとつだけ。当時、青鹿毛と言えば『メジロラモーヌ』ともっぱらの噂で、半ば常識のようなものでしたが。私は、キミノトップレディの仔はそれにもひけをとらない、と強く思ったものです」

 

 その毛色は母馬であるキミノトップレディ譲りだった。

 生まれた仔は牝馬で、その時には18歳だった母馬にとってはほとんど間違いなく最期の仔と呼べた。

 キミノトップレディもそれがわかっていたのか、愛情深く育てたという。

 

「母の愛を一心に受けて、仔はすくすくと育ちました。牧場内での評判も良くて、和久オーナーも育成状況に満足げにしていたのを覚えています。でもあの仔はオーナーの所有馬になることもなく、セレクトセールに上がることもなかった」

 

 何故なら庭先取引が行われたからだ。

『キミノトップレディの1990』として2歳の秋── 現年齢で1歳の秋のこと。

 和久オーナーが連れてきたある一人の青年が、仔のオーナーになった。

 

「それが当時、起業して数年経ったばかりの殿原さん── 旦那さんですね」

「ええ。あの頃の夫は起業して五年目。ハタチで立ち上げたので、まだ25歳ですかね。バブル景気っていうのもあったんやろけど、上手いこと商売を軌道に乗せてた。ちょうどオグリキャップやタマモクロスのブームが重なってたのもあって、あの時代、今よりも活発な馬主が多くいたような気がします。夫もそのうちのひとりでした」

 

 順繰りに馬房を巡っていた殿原さんの表情は芳しくなかったという。

 きっと乗り気ではなかったのでしょう、と充子さんが苦笑した。

 乗り気だったのは一緒に回っていた別の男性で、殿原さんは付き合いのつもりで来ていたのだろうと、彼女は悪戯っぽく頷いた。

 

「けど、あの仔の前に立った途端、ぴたりと動きを止めたんです。それでしきりに『綺麗なお馬さんや』と言いましてね。あンれ、この人同胞の訛りや、なんて思いつつ、内心では『せやろ、この仔が一番きれいやねん』なんて思ったり。うれしくってついつい、そうでしょう、綺麗でしょう、と詰め寄ってしまいました」

 

 和久オーナーは渋面で充子さんを咎めたが、次いで『確かに綺麗だ』と顔を綻ばせたという。

 そしてそれまで世話をしていた充子さんを称えた。

 仔は生まれつき右後肢が緩かったが、充子さんの懸命なサポートによって通常の馬と相違ないほど健康になっていた。

 充子さんは自身の頑張りが認められた事がうれしくて、満面の笑みを浮かべたそうだ。

 

「そしたらね、夫が、もちろん当時は夫じゃなかったけれど、彼がね、叫んだんです」

 

『君に惚れた!』

 

 呆然とする充子さんに、殿原さんは一拍おいてから首を振った。

 

『いや、あの、違うんです、馬に、馬の、そう! 馬の名前に……()()()()()()って名前にします!』

 

 言い訳としては無理がある。

 そう思ったのが顔に出ていたのか、充子さんは手を叩いて笑った。

 

「ふふっ……今となっては『どう考えても私に向かって言っていた』ってわかるんだけど、当時はなんでか『へぇ、そうなんですか』なんて返しちゃって。和久さんが苦笑いを浮かべていたのを今でも思い出せますよ」

 

 殿原さんの、もしかしたら最初となる告白は響かなかったわけだ。

 私も思わず笑みをこぼしてしまったが、今も充子さんの薬指に輝く指輪を見かけて、眩しさに目を細めた。

 その響かなかった告白を重ねて何度もチャレンジした努力が、この輝きに詰まっているのだ。

 この後、仔の所有者は殿原さんで正式に決まり、仔の名前も本当に『キミニホレタ』になった。

 1991年の暮れのことだった、と、充子さんは微笑んで答えた。

 

「── や、や、おまたせしました! すみません、会議が長引いてしまって」

「あら、マ、なんてタイミングの良い」

「なに? なんの話をしてたんだい?」

「いーえ、なんでも! さ、先生をお待たせしてますよ!」

 

 これが長く連れ添った夫婦というものか。

 夫である殿原さん── 殿原恵太郎(けいたろう)さんと微笑み合う姿は、ふたり、よく似ていた。

 

「改めまして、今回取材を申し込みました、遠山と申します」

「はい! お待たせしてすみませんね、遠山先生。殿原です。ささっ、どうぞおかけください。あっ、お昼はもう食べました? 夫の私がいうのもなんですがね、妻の作るスパゲティがこれまた美味しいんですよ。よかったらどうです? な、充子さん」

「ちょっとあなた、またゴリ押しして。……すみませんね先生。この人この通り、私をすーぐ持ち上げちゃって」

「そりゃ、初恋相手は永遠に持ち上げたいからね」

「やーね! ……先生、まだ昼時ですしどうでしょう、時間のかかるものじゃないですし、ご馳走させていただけませんか」

 

 実のところを言うと、私は昼食どころか朝食もまだだったので、この申し出は非常にありがたかった。

 しかしすぐに頷いても良いのか、社会人的にはまずいのではないか、そう逡巡してしまうのも、悲しきかな大人というものではないだろうか。

 私は一瞬だけ遠慮の構えを取ったが、しかしほんの数秒後には「ぜひ」と強く頷くこととなる。

 腹の中に飼っている馬が盛大に嘶いたからだ。

 

 それにしても、会話のテンポが非常に良いご夫婦だ。

 妻である充子さんを「初恋相手」だと言い切る殿原さんの愛情深さもさることながら、それをいなす充子さんの寛大さもすごい。

 初々しさを失わない夫婦と言うのも良いものだな、と思いながら、私は本題を切り出した。

 

「あの、今日は、キミニホレタ号に関して、お話を聞きにきました」

「うん、そうアポ取りで言われました。いやあ、実に懐かしい。写真はもう見ましたかな?」

「はい。アルバムの中にあるものを数枚ほど」

 

 殿原さんは一つ頷いた後、店にある壁を指差した。

 それは店に入って右側の壁で、入った時には気づかなかったが、1枚の絵画が掛けられていた。

 

「あの絵の馬も、モデルはキミニホレタです。僕と妻は『キーちゃん』と呼んでました」

 

 最初は『キミニホレタ』とそのまま呼んでいたという殿原さん。

 だが充子さんに「ずっと告白されているみたいで照れ臭い」と言われ、一緒に考えた愛称だと言った。

 

「キーちゃんはね、魔性の女って感じですね」

「魔性の女、ですか」

「うん、そう。ものすごくモテてねえ。立派な青鹿毛でしょう。当時の僕は、マ、馬に関してはトーシローなもんだから。毛色とか何がどうしたら美しいとかはよくわかんなくて、ただ直感で、うわあ、このお馬さん別嬪やわあ、って。もし、もしですよ。自分が馬主になるんやったら、やっぱ気に入った馬で始めたいじゃないですか。そやったら、このお馬さんがええなあ、とね」

 

 キミニホレタは旧年齢3歳の暮れに栗東トレーニングセンターへ向かった。

 預け先は大窪真陽厩舎。

 過去に天皇賞馬エリモジョージ、グランプリホースのメジロパーマーらを手がけた名手だ。

 令和の今、最たる代表馬はナリタブライアン、と説明した方がわかりやすいだろうか。

 エリート厩舎とも呼べる場所に預けることができたのは、和久オーナー繋がりで知り合った他の馬主の紹介だという。

 

「僕なんて大したコネもないまま馬主になってるんでね。和久さんが色々と手ほどきしてくれたわけです。これはその一環かな。キーちゃんは、ここであのナリタタイシンと一緒に管理されてたんですよ。ご存じですか、タイシン」

 

 もちろん、存じ上げている。

 ナリタブライアンとオーナーを同じくする、1993年の皐月賞馬だ。

 同年のダービー馬ウイニングチケット、菊花賞馬でありナリタブライアンの半兄ビワハヤヒデと共に、BNWと呼ばれた。

 私がキミニホレタを知るきっかけになったのが、他でもないナリタタイシンだ。

 競馬についての知識を深めるために書籍を読んでいた時、ナリタタイシンの記事にほんの少しだけ息づいていた。

 1ページにも満たない。総じて5行ほどの文章。その一文を引用しよう。

 

『タイシンは同期である青鹿毛の牝馬を相手に調整を進め、復調の兆しを見せていた。タイシンはこの牝馬といると不思議と従順だった』

 

 気性が荒く、気ままな自由主義者。

 そう関係者から評価されていたナリタタイシンが従順に、大人しくなってしまうような牝馬とは、一体何者か。

 この牝馬はどのように生まれ、どのように育ち、どのように天に還ったのか。

 

「タイシンは小柄な馬でした。キーちゃんは、牝馬にしてはちょっと大きいくらいかな? ちょうど良いサイズ感で、肉付きも良い。そうだな、人間で言うところの、グラビアモデルのようなイメージです。出会った当初はタイシンに激しく威嚇されていたようなのですが、うちのキーちゃんはその、他馬にあんまり興味がなくて。まあ無視し続けていたら、こいつは自分の害にならない相手や! と判断されたみたいなんですよ」

 

 当時、厩舎全体の評価として、タイシンはそこまで重要視されていたわけではなかったようだ。

 しかし、キミニホレタとの調整を続けていくごとに調子が良くなった。

 迎えたデビュー戦こそ1番人気の6着に終わってしまったが、続く未勝利戦は勝利。

 5番人気で迎えたラジオたんぱ杯3歳Sも、直前までの調整相手を務め、タイシンは後方から一気の追い込みを決めて重賞勝ち馬になった。

 

 殿原さんは、キミニホレタが特に何かをしたわけではないと思う、と言った。

 ただ、横にいると妙に落ち着けるような、そんな空気を醸しているのだと。

 側に敵がいないだけでちょっと気が楽になる。それと同じですよ、と、キッチンから声が響いた。

 

「それはタイシンだけじゃなくて、ブライアンの方にも効きました」

 

 ナリタタイシン、キミニホレタの一つ下が、ナリタブライアンの世代だ。

 2頭がクラシックシーズンを迎えたころ── 最も、キミニホレタは未勝利戦をなんとか勝ち上がろうともがいている頃だったが、その時期にブライアンは入厩してきた。

 関係者からの評判はとても高く、マスコミの前では控えめに言うものの、調教師本人のやる気も違った。

 しかし入厩当時のブライアンは、ちょっとした問題児だったという。

 

「又聞きですけどね。よく夜泣きしたそうですよ。初めて来る場所だったからなのか……キーちゃんの担当厩務員さんも言ってましたが、ブライアン自体は興奮しやすい割には臆病な性格。朝厩舎を開ける時から騒いでいて、引き運動するときも自分の影に怯える。そんな、怖い物が多いブライアンの側で静かにしていたのが、うちのキーちゃんというわけです」

 

 引き運動で連れ出すとき、キミニホレタが先導を務めた。どっしりとした大柄の牝馬の影に隠れ、ナリタブライアンはゆっくりと歩いていた。

 

「その後からも、どこに行くにもキミニホレタにくっついて回ろうとしたようで……いやあ、タイシンと言い、ブライアンと言い、ほんまに魔性の女やわあ」

 

 くすくすと笑った殿原さんは、続けてこういった。

 

「あれが初恋なんじゃ無いかってね、思うわけですよ。充子さんは、妻は案外違うかもよ、なんて言うけれどね。私からしちゃ、年下男の淡い初恋みたいなもんだと思ってるんです」

 

 初恋? 私は思わず聞き返した。

 若干、前のめりになってしまったのは否めない。

 それほど、聞いた時は驚いたからだ。

 

「笑っちゃいますよね。馬が恋なんて……って思うし、それに、『ナリタブライアンの恋』は有名すぎた。……先生が最初に思い浮かべた牝馬、当てますよ。黒鹿毛でしょ?」

 

 唾を飲み込んで頷いた。

 

 かつて『漆黒の弾丸』と呼ばれた牝馬がいた。

 

 1991年3月26日、アメリカ生まれ。

 G1含めた重賞勝ち鞍はのべ9勝。

 同期の三冠馬・ナリタブライアンが世代を代表する牡馬であるならば。

 その黒鹿毛は、世代を代表する牝馬だった。

 

 その馬の名を── ヒシアマゾン。

 

「はてさて。キーちゃんはこの名牝よりも魅力的な牝馬だったのか? 世間一般で見れば違うのでしょうよ。私たちだってそんな名牝と比較するのも申し訳ないと思う。親馬鹿で言うなら一番ですが。しかしね先生。恋ってのは、ほら、ひとつじゃないんですよ」

 

 長くひとつの初恋を貫く男が、悪戯っぽく私に微笑んだ。



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