星女神の系譜-三界駆ける冥府の灯火- (haruhime)
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プロローグ 女神の生まれた日

ウマ娘ネタは初めてなので初投稿です。

この話ではウマ娘は一ドットも出てきません。まだ馬時空です。


 1974.7.23 

 長野県軽井沢町

 南軽井沢菱沼乗馬クラブ

 

「ゲオルギウスさん! すぐに来てください! アステリアーが産気づきました!」

 

 夏のバカンス始まって以来の貴重な晴れの日、息子ニコラオスへ乗馬を教えようと、日本へ帯同した馬達を預けた牧場の駐車場へ着いた途端、駆け寄ってきたわが友菱沼がそう叫んだ。

 

「なんだって! 予定日はまだ先だろう!?」

 

 私は思わず叫び返した。出産まであと数週間はあると聞いていたからだ。そのために抱えの獣医を本国から呼び寄せる準備を整えていたというのに。

 

「いいから早く! もう生まれそうなんですから!」

 

 彼は汗ばんだ手で私の手首をつかむと、赤い365GTB/4スパイダーの運転席から引き摺りだそうとする。

 シートベルトも外していないのに引っ張り出そうとしないでくれ。

 待て、待ってくれ! 私はそう叫び、彼の手を振り払うとシートベルトを外して、エンジンを止めて降り立つ。

 

「父さん!」

「ニコもついてきなさい、転ばないように、ゆっくりでいい」

 

 助手席でシートベルトと格闘している息子に声をかけていると菱沼が再び私の手をつかんで走り出した。よほど気が急いているのだろう。

 彼を説得することは諦めて、私も覚悟を決めて駐車場と牧場を繋ぐ急な坂を必死に走る。

 十数メートルの落差を駆け上がると、南軽井沢が誇る広大な放牧場と数十頭の乗馬を抱える厩舎を繋ぐ小さな十字路に、一頭の栗毛馬とそれを囲む人だかりが見えた。

 

「ぜひゅ、大、丈夫ですか! ひっ、先生ぇ!」

「菱沼さん、あんたの方がよっぽど死にかけだよ。で、そちらが馬主さんかい?」

「ふぅ、初めましてドクター。アステリアーの持ち主のゲオルギウスです。状況は?」

 

 何重にも敷かれた布の上に横たわった愛馬アステリアーの股間をのぞき込む、実に偏屈そうな白衣の老人が責めるような視線を送ってくる。

 彼の傍に控えている美しく若い女性からの不安げな視線を感じながら、私は安堵を覚えた。抱えの獣医と同類だと確信したからだ。

 どこまでも馬を守るために、妊娠中の太平洋横断という負担をかけた私を責めているのだと。

 彼は信頼できる獣医なのだ。

 

「ふん、もう足が出とるが羊水もきれいだし蹄の向きも正しい。早産気味だが安産だろうよ。母体と仔が頑丈なのに感謝するべきだな」

「その通りだ、菱沼にあなたのような名医との付き合いがあったことにも感謝しよう」

「こんなヤブ捕まえて名医とは。菱沼さんよ、あんたの友人の目は大丈夫か?」

 

 私の言葉にバツが悪くなったのか、老人は菱沼に悪罵を飛ばした。

 菱沼は走って赤くなった顔色を、さらに赤くしながら叫ぶ。

 

「そんな! 先生がヤブなら日本の獣医はみんなヤブでしょう! このあたりの乗馬クラブは先生一門で持ってるんですから!」

「やかましい! 産気づいとる馬の傍で大声を出すな!」

「先生も声が大きいですよ。アステリアー号がこっち見てるじゃないですか」

 

 大声を出す菱沼の襟首を締め上げ始めた老人を諫める若い女性が、私に目礼を送ってきた。

 彼女の言う通り、老人も大声を出している。

 アステリアーは不安そうに耳を傾けながらこちらに顔を向けているしね。

 

「大丈夫だよアステリアー、君と子供は心配ないよ」

 

 手を振りながらそう声をかけると、彼女は目を細めながら前を向いた。

 

「見るたびに思っていたが、アステリアーは人の言葉が分かってるのかね」

「そうだと良いと思ってはいますがね、まぁ、人間の気持ちは伝わっているのでしょう」

 

 若い女性に引きはがされながら、老人が私に問いかける。

 それに対する私の回答は随分とロマンチックなものだ。だがそうであってくれればうれしいとは思う。

 

「げほっ、アステリアーは言葉どころか人間の行動まで分かってますよ。寝藁にボロを出さないならともかく、食事前と後に口をゆすいで吐き出すのは厩務員の行動を覚えたとしか思えません」

「口をゆすぐのはアメリカで覚えた行動だね。あちらの厩務員が綺麗好きでよくしていたらしいから」

 

 咽る菱沼の疑問に答える。彼女は非常に賢い、人間の行動を覚えて真似するのが非常に得意だった。

 

「随分と人間臭い馬だ。中に人間でも入ってるんじゃないか?」

「星の女神は宿っているかもしれないけどね、さぁ、出てくるぞ!」

 

 老人がビニール手袋をはめ、女性が差し出す消毒液を振りかけたハサミを手に握りながら言った言葉に軽口を叩くと、アステリアーの産道からじわりじわりと仔馬が出てきた。

 皆が息をのんで見守る中、粘着質な音と共に、一気に黄金の仔馬が飛び出した。

 老人が素早い動きで羊膜を切り開き、自発呼吸を確認する。

 

「よし、呼吸している、音もおかしくないな。ふう、よかったよかった」

 

 老人が呼吸音を確認して安堵の息を漏らすと、アステリアーが立ち上がろうと前足を搔き始めた。

 力が入らないようで何度も地面を掻いて立ち上がろうとしている。

 出産直後に立ち上がろうとするとは、これほど体力のある馬だっただろうか。

 

「おいおい立つな立つな、へその緒が切れちまう。そうだ、落ち着け、子供は無事だ。いいというまで立つなよ」

 

 老人が声をかけるとアステリアーは落ち着きを取り戻し、前足を折って横臥の姿勢に戻る。

 袖口で噴出した汗をぬぐった老人が、こちらに視線を送る。

 

「こいつ本当に人間の言葉が分かってるだろ。菱沼さんより聞き分けがいいんだが」

「いくら何でもひどいですよ先生」

「黙れっつっても黙らないのが菱沼さんだからね、実際聞き分けが悪い」

「」

 

 正論で殴られ、菱沼は無言で肩を落とした。

 確かに、彼は人の言うことを聞かないところがあるなと思った。

 

「父さん! もう生まれたの!」

「静かに、アステリアーと子供がびっくりしてしまうよ」

「んっ!?」

 

 駆け上がってきたニコが、黒髪を汗で濡らし息を切らせながら叫んだ。

 私はそれをたしなめながら、口に両手を当てて静かにする息子の肩に手を添え、人の輪の中に招き入れた。

 羊水にまみれた仔馬と、産道から後産を垂らす母馬の姿を見た息子は体を震わせた。

 濃厚な命の気配が漂う、鮮烈な生の現場を小学生の子に見せるのはショックが大きいだろう。

 だが、私も含め家の男は代々子供のころから馬が産まれる現場に立ち会うのがルールだ。

 愛すべき家族の誕生に立ち会わない男は、男ではないというのが家訓であるがゆえに。

 

「父さん」

 

 しばらく無言で体を震わせていた息子が私を呼ぶ。

 

「なんだい、ニコ」

 

 君は、どんな感想を得たんだい。

 

 彼は蒼白な顔で私を振り仰ぐと、努めて小さな声で私に告げた。

 

「生まれた仔は、僕の弟かな、妹かな」

「はは、さすがは私の子だ」

 

 馬を家族と認識する良い子に育ってくれたことが喜ばしかった。

 聞いたかい、エカテリニ。君の子は望み通り素晴らしい子になってくれたよ。

 

「拍動も止まった。臍帯も切った。いいぞアステリアー、しっかり舐めてやれ」

 

 老人が声をかけると、生まれてから数分そわそわしていたアステリアーは立ち上がり、立ち上がろうと藻掻く仔馬を舐め始めた。

 老人は胎盤の落下に備え、後産を縛り上げ始める。

 

「先生、体を拭きますか?」

「いや、今日は暖かいし風も弱い。わざわざ拭く必要もないだろう」

 

 女性が清潔なタオルを手に、老人に問いかけた。

 確かに今日は気候がいい。冬季のように寒さで仔馬が死んだりすることもないだろう。

 

「いや、この仔は走らせるつもりでね。私と息子で拭くつもりだったんだ」

 

 この仔は競走馬にするつもりだ。そのためにかの名馬から種をつけたのだから。

 

「なら拭いてやりな、ほれ坊ちゃんにタオルを渡してやれ」

「はい、どうぞ」

 

 女性からタオルを受け取る息子を見守る。

 大理石の彫像のような美貌の持ち主に赤くなるのを見て、幼いとはいえニコも男なのだなと感心してしまう。

 いや、黒髪の美女は私が見ても妻の若いころを思わせる。母を思い出したのかもしれんな。

 

「あ、ありがとうございます」

「いい子だ、ニコ」

 

 ちゃんと礼を言えたニコを誉め、仔を舐めながらもこちらに視線を向けるアステリアーと仔馬に近づく。

 彼女は舐めるのをやめ、耳を後ろに倒しながら顔をこちらに向け強くにらみつけてきた。

 

「アステリアー、仔を拭かせてもらえるかい?」

「いいかなアステリアー」

 

 私たちの問いかけに、彼女は一鳴きすると耳を立ち上げ、仔馬に向き直って舐めるのを再開する。

 ほっ、と息を吐き、どこかおかしさを感じて息子と顔を見合わせて噴き出すと、アステリアーも鼻息を鳴らした。

 私たちはゆっくりと仔馬に近づき、アステリアーの邪魔をしないように声をかけながら全身を拭き上げていく。

 

「それにしてもまた見事な佐目毛だな」

「アステリアーの母系はアハルテケにバイアリータークをつけたのが最初でね。第一次大戦までに5回アハルテケの牡が入っているのもあってか、アハルテケ特有の金属光沢が出やすいんだ」

 

 それにしたって、これだけ強く金色が出るのは珍しい。

 羊水がぬぐい取られ、乾燥を始めた体毛は陽光を浴びて黄金の糸のように輝いていた。

 

「なるほど、道理で胸郭が大きく、腰が細いわけだ。アステリアーもそうだがアハルテケの特徴があるな」

「ベースはサラブレッドだけどね。それにかわいらしいアーモンド形の目もそうだ。この仔はちょっと目が大きいからね、きっと美人になるだろう。おっと、離れるよニコ」

「うわっ、う、うん」

 

 ある程度拭きあげられた仔馬は、母馬に小突かれ敷かれていたタオルを蹴散らしながら立ち上がる。

 何度か崩れ落ちながらもわずか数分で自立した仔馬は、初乳を求めてアステリアーの乳首に食らいついていく。

 それを眺めていると、胎盤が滑り落ちて濃い血の匂いが広がった。

 老人は素早く胎盤を広げて形状を確認し、子宮角の先端まで抜けているのを見て取ると一つ頷いて金盥に放り込み、重量計に乗せて重さを見る。

 

「7.4Kg、まぁ、間違いなく全部出てるだろう。今日中に不調がでなけりゃまず安泰だ」

「それしても早産で心配したが、終わってみりゃ母子ともに予想以上に頑丈だ。母馬は初産とは思えないほどスポンと産んだな」

「ここ数代は難産が続いていたので良かったですよ。出産に耐えきれなかった母馬もいましたからね」

「そりゃなによりだ」

 

 老人は産道周りや臍を再度消毒しながら、こちらに言葉を放る。

 

「もうあんたらにできることはない。今日のところは帰りな」

「申し訳ないのですが、私を含め乗馬の対応は難しいです」

 

 老人と菱沼さんの言葉に、思わず頷く。ほんの数人で回している牧場だ、出産ともなれば総出に近い。

 忙しくて我々の相手をして、乗馬の世話までするのは大変だろう。

 

「それもそうですね、ではお暇します。帰るよニコ」

「待って! この仔は牡? それとも牝?」

「なんだ坊ちゃん、見てわからんのか。股の間に坊ちゃんと同じもんがぶら下がってねぇんだ、立派なレディーだよ」

「先生……」

 

 老人のあけすけな言葉に、女性が頭に手をやりながら溜息を吐く。

 美人がするとどんな格好でも絵になるね。目の保養をしていると、息子が私の袖を引いた。

 

「そっか! 父さん! 星の女神様が十字路で産んだ女の子が僕の妹だって!」

「よかったなニコ、けどもう少し静かにね」

「はい!」

 

 元気よく答える息子に、思わず苦笑する。

 初めての経験に興奮する姿は、過去の自分を思い出させるのに十分だった。

 うるさそうに耳を倒すアステリアーには申し訳ないが、今日はもう帰るし少し我慢してもらおう。

 

「では先生、菱沼さん、後はよろしくお願いします。この後は別荘から動きませんので何かあったら連絡を」

「おう、しっかり見ておくから安心してくれ」

「任せてください」

 

「ああ、よく頑張ったねアステリアー」

 

 最後にアステリアーの額を息子と一緒に撫でて、私たちは家路につく。

 アステリアーが目を細めていたのは、喜びと親愛の情だったと信じたいものだ。

 

 興奮する息子をどうにか助手席に縛り付け、12気筒が奏でる素晴らしい音を聞きながら別荘に向かう。

 走り出すまではしゃべり続けていた息子だが、口数は徐々に少なくなり、いつしか深く考え込んでしまっていた。

 

 

 1974.7.23 

 長野県軽井沢町

 メルク―リ家別荘

 

 

 別荘についた後、静かな夕食を終えても息子は黙り込んだまま。

 私が風呂に入っるように言っても、こくりと無言で返事をして着替えを取りに向うだけだった。

 

「父さん、話があるんだ」

「なんだい、さ、ソファーに座りなさい」

 

 夕食の片付けを終え、キッチンで食後のコーヒーとホットミルクを入れていた私に、風呂を済ませた息子が声をかけてきた。

 彼の分のホットミルクと、自分のコーヒーを手にソファーへ腰かける。

 

「あの子は、星の女神さまの子だよね」

「そうだね」

 

 妻が名付けた母馬の名はアステリアー、その美しさに大神に見初められ海に身を投げた悲劇の女神。

 

「あの子は、十字路の上で生まれた」

「そうだね」

 

 放牧地と馬房を繋ぐ十字路の上で生まれた、珍しい仔。

 

「あの子は灯火のように輝いていたね」

「そうだね」

 

 あの仔は陽光を浴びて、黄金の月のように輝いていた。

 

「父さん」

「なんだい」

「あの子の名前、僕が決めてもいい?」

 

 決意を秘めた瞳が、私をまっすぐに見据えていた。

 

「ああ、いいよ」

「アステリアーのお母さんの名前は、私が決めた。アステリアーの名はお母さんが決めた。次はニコの番だ」

 

 生まれた仔の名前は、家族が決める。名前をつけたことのない人がいればその人がつける。

 それが我が家のルールだ。

 

「そっか、うん、決めたよ。いや、一目見た時から決まってたんだ」

「そうか、何て名前だい」

 

 促した彼の口から、祝福の言葉が零れた。

 

トリウィア(三叉の)トリウィアヘカテー(十字路の女神)

 

 巨神を打倒した松明を持ち、闇夜の十字路に佇む女神。

 

「星の女神が十字路で産んだ、灯火のように輝く娘、か」

 

 神話に名を遺す、星の娘(アステリアー)の子。

 

「きっと三界を歩んでくれるよ、夜の女神様みたいに」

 

 大神より三界を歩むことを許された、数少ない自由の神。

 

「芝、ダート、それに障害を制覇してくれるのか、それはそれは、素晴らしい夢だ」

 

 天界()地上(ダート)冥界(障害)の三形態を持つ、人を見守る麗しき月の女神(黄金の牝馬)

 それは歴史の外側、神話(妄想)に語られる、理想の神馬の在り方だ。

 

「僕の妹はそれくらいしてくれるよ」

 

 だが彼は、無邪気に家族の可能性を信じている。

 なら私も、彼の夢の手伝いをしよう。

 かわいらしくも、驚くほどに大人びた表情を浮かべる彼の頭をなでながら、そう誓う。

 

「そうか、ならニコもお兄ちゃんとして勉強を頑張らないとな」

 

 許してくれとは言わないよ、アステリアー。

 私は君の仔とその子孫を利用しつくすつもりだ。

 全てを賭けて、彼と妻の願いを叶えて見せる。

 君が成しえなかった、その名を世界に刻むという偉業を果たして見せる。

 

「任せてよ、僕は父さんと母さんの子供だからね!」

 

 それだけが、妻の願いを叶えられず、息子から母を奪った愚か者。

 真実を告げることのできない卑怯者にできる、唯一の贖罪なのだから。




次はうまぴょいした人の視点予定。

予定は変わるものなのでなんとも言えない

ゲオルギウス・ベッサリオン・メルク―リ
長身のイケオジ。
駐日ギリシャ大使館員、去年まで駐米ギリシャ大使館に居た。
割と偉い。実家は貿易業とオリーブ生産で巨額の財を得てきた古い家系。
若妻を亡くしてそれほど時間がたっていない。かなりナーバスになっている。
愛車は赤い365GTB/4スパイダーとランチア・ストラトスHFプロトティーポ。

ニコラオス・ゲオルギウス・メルク―リ
ゲオルギウスの長男、6歳。黒髪癖っ毛の美少年。
アメリカで生まれ、父の転勤に合わせ日本へ移住した。
本国の自宅には一度しか帰ったことがない。
神話が大好きで、原典に当たるために古代ギリシャ語や古典ラテン語などを積極的に学んでいる。
日本語もすでに堪能で言語的天才の気がある。


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第一話 女神に撃ち落とされる日(物理)

トリウィアヘカテ―にうまぴょいした人?の話

読まなくても今後の展開に支障はないはず。




 20xx年某月某日

 天界 オリュンポス山

 ヘカテ―神殿

 

 神々が住まう栄光の地、オリュンポス山。

 十二神を始めとした偉大な神々は上の方、私のような木っ端神は麓に住む格差社会の権化のような場所。

 中腹当たりを山手線内とすれば、秩父とか北関東のあたりになる麓の森の一角に、私の神殿がある。

 

 かつてラギナの地にあった神殿を元に、何百倍も増改築された建物。

 天界にまでやってきて私を信仰する奇特な連中が、魔術の力で組み上げた私の住居。

 訳のわからないレリーフや、おどろおどろしい画風で描かれた化け物の絵や像(しかもそれが私だという!)で飾られた、はた目には邪神の神殿のように見える建物の奥底。

 外からは決して見えない、元の神殿の礼拝室が私の私室だ。

 

 周囲を勝手に増築された建物で覆いつくされ、太陽の輝きが一欠片も入らない静かな場所。

 私好みの黒と紫を基調とした内装を、冥府の蒼い炎がぼんやりと照らしている。

 大きな天蓋付きベッドの上で、紫のジャージで身を包んで長い金髪をヘアバンドでまとめ、日がな一日アニメや漫画や配信を楽しみ、AMAZONES.COMでグッズを漁るが私の日課だ。

 最近ツキヨミちゃんが送ってくれたブルーライトカットの伊達メガネは私のマストアイテムとなった。

 薄暗い部屋で画面見てても目が疲れにくくなって、オタ活がはかどることはかどること。

 信者たちも私が求めている藻を理解しているようで、最近はAMAZONESギフトカードを捧げものに入れてくれるしな。

 

 それにしてもこの部屋はいい。

 

「暗いし」

 

 光が入らないから魔導書や偶像(同人誌やフィギュア)も劣化しにくいし。

 

「静かだし」

 

 神殿中で繰り広げられている邪教の儀式、信者どもの奇声や生贄の断末魔も聞こえないし。

 

「狭いし」

 

 自称友人共が入ろうとするのを断る口実にもなる。

 

 最高である。

 

 なによりオリュンポスから離れているから、陽キャが寄ってこない。

 

 ヘラの神殿でS○X(由緒正しい女の自殺)しようと誘ってくる脳みそチン○共(ゼウス以下男神)とか。

 だれかの信者の結婚式のたびに金のリンゴ投げて誰かが地獄見てるのを爆笑する邪神エリス(不和の女神)とかに絡まれない。

 私の信者の時は、私が金のリンゴを渡されてひどいことになった。

 

 万年処女こじらせ女騎士(アテネ)はプライドずったずたで顔真っ赤にして大人げなく槍向けてくるし。

 アレはそろそろ処女捨てたほうがいいよね。プライドオリュンポスツンギレ鉄壁万年処女とか処女厨でもマイナス点じゃん。

 

 むかつく視線を人の胸に向けながら、たまには貧乳もいいよねとかほざくエロ親父共(ゼウス以下男神)はいつも通りクソだし。

 あいつら全員ヒュドラの毒でも股間に垂らした方がいいんじゃないか。世のため女神のためだぞきっと。

 

 それをを睨みながら嫉妬BBA(ヘラ)が垂れ流した呪詛が、黒い蛇とか化け物になって襲ってきたし。

 ヘラは週に一回くらいカナートスの泉にダイブして処女性取り戻した方がいいよ。

 

 おかげで巨神戦争(ギガントマキア―)以来久しぶりに松明ブンブンする羽目になって、数日間全身筋肉痛で一歩も動けなかったんだから。

 

 顔ひきつらせながら無駄にデカい胸の脂肪を揺らして”まぁ、貧乳好きに私は魅力的じゃないわよね”とか言った無駄肉半裸痴女(アフロディテ)は絶対に許さん。

 あのクソ痴女め、そのうち無駄乳もぎ取ってやる。

 

 まぁ信者君の三女神共の下劣な誘惑に負けない信仰の強さを感じた喜びでテンション振り切って

 

 ”私みたいな貧相木っ端女神に金のリンゴ持ってかれてどんな気持ち? ねぇどんな気持ち? 美・貌・の・女・神・様・達プークスクス!!! ”

 

 とかやったのはちょっと言い過ぎたかなって反省してるけど。

 

 数年前に起きた悲劇とやらかしを思い出し安息の地(ベッドの上)でのたうっていると、何やら神殿の上の方がうるさくなってきた。

 

「人がゆっくりしてるときに騒ぐなよもう」

 

 東方の友人であるクレインちゃんから送られた超高級羽毛布団からのそのそと起き上がり、騒ぎの方向に()()()()()()

 

 私の可愛くも忌々しい信者たちが右往左往しながら、様々な術理に基づく多重防御を上空に向けて貼りめぐらしていた。

 物理系よりも対神力防御が多いってことはヒュドラとか怪物じゃなくて神とか眷属が相手ってことだな、今度は何しやがったあいつら。

 

「なんだなんだ、またアルテミスの狩場で生贄捕まえたのか? それとものぞき見してるゼウスでも捕まえたのか?」

 

 私の神殿が矢が九、空が一な矢の天蓋(恋愛クソ雑魚狩猟神の絶技)とかブチギレ雷霆ブンブン丸(ナンパ失敗クソ爺の逆ギレ)によって、素敵なオブジェ(がれきの山)に劇的ビフォーアフターされるのはまれによくあることだ。

 状況によっては手助けしてやらんこともない。アルテミスならこっちが悪いので見捨てるけど。

 

 状況を見極めるために視線を信者が見ている空に向ければ、奇怪極まる暗黒神殿に()()()()()()()()()()()()()()()()が降り注ごうとしていた。

 

「は?」

 

 ひと際大きく輝く星の輝きに焦点を合わせれば、星の煌めきを織った薄絹一枚の黒髪星女神(歳考えろBBA)と目が合った。

 

「何考えてんの! うわっ!? ぐべぇ!?」

 

 恒星に匹敵する概念質量を光の速さで無数に叩きつけるとかいう魔法殺しそのものを受けて、信者たちの作り上げた防御と神殿、ついでに私が飛ばした視点も消し飛んだ。

 弾き出された目という概念が光速で戻ってきて、私の頭が凄まじい勢いでベッドを突き破り神殿の床に埋まる。

 乙女が出してはいけない効果音が口から洩れてしまった。

 なけなしの筋力を総動員してエクソシストのポーズから復帰し、頭を引っこ抜いた。

 大理石の欠片を髪の毛から払いのけていると、この部屋と神殿を繋ぐ唯一の鉄扉を叩く音がした。

 

「ヘカテーちゃーん、いるんでしょー。開けなさーい」

「か、母様」

 

 この間延びしたゆるふわボイスは、忌々しいことに私の神話生物学的母親であるアステリア―のものだ。

 ついさっき私の神殿外装を消滅させた張本人でもある。

 

「こ、言伝や依頼でしたらこのまま承ります、どうぞそのまま」

「直接お話ししたいのよー。んー、面倒だし消しちゃおうかしら」

 

 やべぇ、今日は相当気が短いぞ。

 このままじゃ星の光でお掃除されてコレクションが全部消えちゃう。

 

「開けます! 開けますから!」

 

 慌ててダッシュし、魔法鍵とオリハルコンの閂を解除して扉を開けて外をのぞく。

 

「久しぶりねー、ヘカテーちゃーん」

「お、お久しぶりです母様」

 

 夜を思わせる豊かな黒髪を結い上げて銀の月桂冠を乗せた、星の輝きを纏っただけのほぼ全裸女神が輝くような笑みを浮かべていた。

 

「歳考えろBBA」

「ん?」

いえ何でもないです

 

 痴女スタイルに思わず余計な言葉が口から洩れたが、母様の笑みが強くなる。

 笑顔とは本来攻撃的であるとは誰の言葉だったか。

 ゼウスをぶちのめしているヘスティア様の、返り血まみれな笑顔を見た誰かが言ってた気がする。

 ちょーこえーですよ。

 

「ところで、何の御用でしょうか。母様がわざわざ出向くなんて珍しい」

「今日はねー、ヘカテーちゃんに協力してほしいことがあってきたのよ」

 

 そういうと母様は薄絹で覆われていない、女神の秘密のポケット(スマホが隠せそうな谷間)へ手を突っ込むと、創作でよく出てくる一人用コクーン型冷凍睡眠装置みたいなの取り出して床に置いた。大理石が軋んだ。

 いや、谷間から出してはいけないサイズには目をつむりましょう。けれどもトン単位で重量ありそうですけど女神の細腕で片手はダメでは? イメージ的に。

 

「これも読んでねー」

 

 予想以上にパワー系だった母様におののいていると、今度はメモ帳サイズの冊子を取り出し渡してきた。

 体温で生暖かいのが気持ち悪い。

 冊子の題名は”おいでませ理想世界-今日からあなたも主人公-”とかいう頭の悪いものだった。

 パラパラとめくると、なんとも頭の悪いことが書いてあった。

 何でも創作世界のパラメータを入力し、その登場人物として干渉することができる装置らしい。

 神としての権能を持ち込むこともできるし、その世界の普通の存在として生きることもできるとか。

 創世神や太陽神、月神といった時間運航に関わる神々の権能が込められているため、最大一晩で百年程度の体幹時間加速ができるとか。

 プリセットデータなら夢小説の愛され主人公として逆ハー体験できるとか。

 なんかヘファイストスとかドヴェルグが筐体作って、オベロンとかロキが神にも有効な幻術を組み上げ、名だたる創世神がその力の欠片を溶かし込み、この概念を地上にもたらすためだけにプロメテウスが解放されたとか書いてある。

 下界にフルダイブVRができた時点でまた磔にされたのだとか。ケイローン君に救われたのに核分裂反応を教えて磔にされてから不死は誰もプロメテウスのために死んでないからなぁ。残念でもないし当然。

 それにしても技術と権能の無駄遣いが過ぎる。

 

「ヘカテーちゃんは栄えあるギリシャ代表テスターに選ばれましたー。おめでとー、ぱちぱちぱち」

「正気ですか」

 

 こんなもの与えたら私は現実世界に帰ってこなくなるぞ。いいのかそれで。

 いや、ほかの神とほとんど交流していない私なら別にいいのか。

 権能もほかの神に丸投げできるくらい被ってるし、現世で私を信仰する魔術師(ウィッカ)なんて限りなくゼロだし。主流は悪魔だしな。

 

「まぁいいですけど。テスターというと、プリセットで遊べばいいんですか?」

「そうよー、逆ハー物ではないけどねー」

「逆ハーより甘々おねショタがものがいいです、黒髪純真ショタを赤面させるのが至高(鋼の意思)」

「性癖と欲望に素直なのはギリシャ神族の血って感じよねー」

「イエスロリショタ、ノータッチ! 変態野郎(アポロン)とは違うので!」

 

 思わず性癖語りしてしまったが、その間に体は無意識にVRマシンに寝転がっていた。

 欲望に逆らえないのを目の当たりにするたび、自分もゼウスとかアポロンの同類(ギリシャ神)だなと自覚してしまう。

 

「黒髪ショタとおねショタはできるわよー、よかったわねー」

「ッシャオラァッ!」

 

 ぐっとガッツポーズを決める。

 いきなり神生最高のシチュエーションが来たな。マジで帰ってこれなくなりそう。

 

「残念ながら異種姦になっちゃうけど」

「は?」

 

 なに、どういうこと? 意味わかんないんですけど。

 

「原作はウマ娘プリティーダービー、架空馬として生きて、ウマソウルに転生、架空ウマ娘の一生を体感してもらうわー」

 

 つい最近(神様基準)いつも通り東方から持ち込まれた擬人化物じゃん。神界でも人気なのは知ってる。

 けどあれにショタ出てこないじゃん! トウカイテイオーでも愛でろってか! 

 いやおねロリも全然いけるが! ただおねショタならもっと良い。

 

「おねショタはッ! 黒髪ショタはどこに!!!!」

「お馬さんになった時よー。持ち主の子供がそう、あらかわいい。一杯触れあえるみたいよ、よかったわね」

「んぎぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!!!!!」

 

 母様に見せられたのは、ちょっと癖っ毛な黒髪のギリシャ風正統派ショタの完成系だった。神代に居たら変態野郎共(アポロンとかゼウスとかポセイドン)に攫われるレベル。

 畜生、どうしてこんな美ショタと人型でキャッキャウフフできないんだっ!!!! 

 あ、これから畜生になるんだったわ。

 

「発狂しそう」

「血涙流してるし、もう発狂してるんじゃないかしらねー」

 

 目元をぬぐうとほんとに血涙出てた。ドン引きである。我ながらどんだけ黒髪ショタと戯れたかったんだよ。

 

「自分にドン引きするとか相変わらず器用ねー、さ、行ってらっしゃい」

「チェンジ! チェンジでお願いします!!! せめてウマ娘の時も触れ合わせて!!!!!!!!」

「熱意がすごいわねー、(けどそんなチャンスは)あげません!!!!」

 

 スぺちゃんに無茶苦茶似てるぞ!? 

 あ、クソ、心話まで使った芸に驚いた隙を突かれて開閉装置をロックされてしまった。

 

「母様声真似上手!」

「コス合わせの時に必須だものー」

「ウソでしょ……」

 

 母親の意外な趣味に驚愕していると、意識がすっと遠ざかっていく。

 あ、これヒュプノスの権能も入ってんな。

 さらに魂が肉体から引きはがされてく感覚ってこれ死神の権能は入ってるよね。

 これ事故ったら神でも死ねるやつでは? 

 

「ぁ」

「ゆっくりたのしんできてねー」

 

 閉じていく視界の中、母様が笑っているのだけは分かった。

 畜生、絶対ウマ娘になってショタと戯れてやる、絶対にだ!!!!!!!!! 

 




神様(が)転生というよくあるパターン。
そしてうまぴょい(馬憑依)への流れ。

正直読まなくても全く問題がないようにはする予定。

ヘカテーさん
ギリシャ神族が誇る変態ショタ好きオタク女神。
金髪ちんちくりん貧乳内弁慶コミュ障毒舌陰キャ。
巨乳コンプレックスが非常に強い。
インドア派で二次元向きかつイエスショタノータッチ甘々おねショタ派なので脅威度は低め。
一度畜生道に落ちてからウマ娘になるという創作ネタ、神様が転生をリアルに体験することになる。
昔ギリシャ男神総ショタ化おねショタ本を描いてオリュンポスコミックマーケットで頒布した報いを受けたのかもしれない。(女神総ショタ化おねショタ本も描いたが頒布前にアテネに見つかり、ヘスティアにより焚書されている)


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第二話 飼い主さん達との出会い(女神主観)

変態が変態してるだけ

これまでのあらすじ

ギリシャ系陰キャイキり女神、母親の手によりウマ娘になるため一度畜生道へ疑似転生させられる


1974年7月7日

長野県軽井沢町

南軽井沢菱沼乗馬クラブ:放牧場

 

【悲報】意識が落ちたと思ったら馬になっていた件【神転失敗?】

 

 目が覚めるとそこは牧草地でした。

 まさかマジで馬にされるとは思ってなかったね。実際に体験すると四本足で大地に立つのってすごい違和感。これが正常だって本能的に感じるのが余計に違和感を与えてくるのだ。

 

 しかし、これだと生まれる時を体験しなくてよかったかもしれない。

 前に聞いたクサントス君の話じゃ相当大変らしいし。結構痛いし苦しいんだって。あいつも普通の生まれじゃない牡馬だからまた聞きだけど。

 それに私的につらい話もあったし。

 

 ———最近こっちにも来るようになったスタイルのいい娘たち、サラブレッドって言ったかな? なんか子供産んでも、すぐ立ち上がって初乳飲めない子は処分されたりするらしいんですよ。自力で生きられない奴が冥府に行くのは摂理っすけど、半日待たずに冥府に送るのは俺らの時代じゃ考えられないっすね。

 

 出産の加護持ちとしては、なかなか納得のいかない話ではある。生まれる全ての子に祝福を与えてやりたいのは当然だ。

 けれども、生きていけないだろう障害のある子を冥府に送るのは産婆や私の神官の仕事でもあった。

 今世で苦しむより来世に幸せになってほしい。そういう女たちの悲痛な祈りを聞き届けるのも私の権能であったのだから。

 命を守りたいのに、命を奪うことを許す。

 これは私が私として存在することになってから、常に私の中にある矛盾だ。

 

 ———それにしてもあの娘たち、皆ムチムチした孕ませたいトモしてるんすよね。なんか王族っぽい子とかも一族単位でガンガン声掛けてくるし誘ってんのかな? ヘカテー様はどう思います? 

 ———うるさい死ねこの種馬野郎。

 

 そりゃお前は神の私から見てもイケウマだが、干物女神相手とはいえいきなり下の話を振るんじゃねぇよ。まじめな話との落差で風邪ひくわ。

 あの後娘だの孫だのひ孫だの、目についたら次から次へと種付けて加護を送る相手増やしやがって。

 一族まとめていただきますとかお前はゼウスか。

 

 人が松明持ち出した瞬間に駆け出した駄馬を思い出して疾走していると、後ろから私の名が呼ばれた。

 

「ヘカテーちゃーん、ご飯の時間よーお腹すいてないのー?」

 

 馬イヤーに響く圧倒的ゆるふわボイス。今世の母であるアステリア―である。

 よりにもよって実母と同じ名前の馬から産まれるというのは、このシナリオを作った奴の強烈な悪意を感じる。

 現世に戻ったら探し出して頭でポールバッティングしてやる。絶対にだ。

 

「おいちぃ!」

「一杯飲んでくれてうれしいわー、おっぱい張っちゃって痛いのよねー」

 

 等と考え事をしていたら、今世の母様の乳首にむしゃぶりつきごくごくと母乳を摂取していた。

 くそ、また本能に負けてしまった。でも仔馬だからね、おっぱい飲まなきゃ大きくなれないし。ウマ娘になるには勝てるウマじゃなきゃだめだから仕方ないのだ。

 けっして、けっして神生では味わえなかった母性たっぷりママの合法授乳プレイが癖になったとかじゃないんだよ。私は大人だから、ママみになんて負けないし。

 

「けぷっ」

「一杯飲めてえらいねー、よしよし」

 

 口の周りをぺろぺろしながらいっぱい褒めてくれる。

 

 ママァ……。

 

「わたしもままみたいにおっきくなれるかな?」

「いっぱい飲んで、いっぱい遊んで、いっぱい寝たら大きくなれるわー、私がそうだったもの」

「がんばる!」

 

 今世の母もすこぶる巨乳である。神生では大きくなれなかったが、馬ならなれるかもしれない。そうすればウマ娘になったときも……。くくく、夢が広がりますなぁ! 

 巨乳ウマ娘としての姿に希望を見出し、私は全力で馬生を生き抜く決意を新にしたのだった。

 

 

 

 

 1974年8月17日

 

 レースに勝てる競走馬を目指すには何をすればいいのかを考えた。

 母様のいう通り、仔馬としての生活を満喫するのも重要だろう。

 だが、それだけでいいのか? せっかく私という女神が実装されているのに、平凡な馬と同じことをしていていいのだろうか。

 良くはないだろう。そこで経産馬さんたちから話を聞き、母馬から離れるのを早くしながら体を鍛えることにしたのだ。

 

「ふっ、ふっ、ふっ」

 

 呼吸と足の回転を合わせて極力体力消費を抑える。曲がるときは足と体の向きに気を付けてしっかり芝を踏み抜く。

 昨日よりも一歩でも遠く、コンマ一秒でも早く走れるように。

 一周400m程度の牧場を、ゆっくりと三周したり、全力で一周したり。

 これはほかのみんなは遠慮してくれて、私が駆け抜けるルートから離れてくれるからできることだ。

 皆が私の夢を応援してくれている。

 

 ──―頑張るのはいいけれど、私のようにケガをしてはいけないよ。

 

 けれども新馬戦前に骨が折れて、乗馬になることになった牝馬さんが言っていたことだって守るんだ。

 無理をしてはいけない。少しでも違和感があれば辞める。

 ケガをしたら夢はなくなってしまうんだよと、寂しそうに言っていたんだ。

 

 だから今はまだ無理をしない。これから体が出来上がっていくのだから、鍛えすぎだって良くはないんだから。

 

 神としての知識だって使っていく。大体全部アニメや漫画の受け売りだけれども。

 トレーニング前や終了後には柔軟で関節の可動域を確かめ、強張った筋肉を解す。

 

『柔軟みたいな動きをするんだね』

『犬猫の真似でもしてるんでしょうか』

 

 菱沼さんと、細身のイケオジがこちらに視線を向けながら会話している。

 菱沼さんはともかく、イケオジがかっこよすぎて柔軟に集中できない。

 だってだって、たぶん190㎝近いのにシャープな印象を与えるくらい絞り込んだ肉体(決して細枝じゃない、だってまくり上げた二の腕がバキバキだもの)にクール系正統派ギリシャ美形の顔が乗ってるんだよ。形のいい唇から放たれる声は深みのあるバリトンで、女神の時に聞いたら腰が砕けそうだし。

 

『そうだ、呼んでみたらどうです。会うのはあれ以来でしょう?』

『そうだね。おいで、ヘカテー』

 

 夢音声かな? 名前呼ばれるとすんごい威力。思わず全力で走っちゃう。

 彼らの目の前の柵に体を押し付けながら首を伸ばす。

 撫でて撫でて―。

 

『ふふ、私のことを覚えてくれていたのかな?』

『どうでしょうね、賢いとはいえ、ゲオルギウスさんに最後に会ったのは生まれてすぐでしたから』

 

 やっべぇ意識飛んじゃう。絶妙なテクニックで撫でられるだけで夢心地なのに、耳元でささやかれるとほんとにヤバイ。脳みそとろける。

 それにしても気になるのは、このゲオルギウスなるイケオジと昔あったことがあるって話だ。

 私の記憶にはないんだが、どこか安心するこの感覚。ほんとに昔撫でられたことがあるんだろうなと思う。

 多分私が目覚める前の話だ。もったいねぇ。

 

『かわいいね、私のヘカテ―。元気に成長しなさい、今度息子もつれてこよう』

『息子さんはびっくりするでしょうね。馬というのは一気に大きくなるものですから』

『私も子供のころはびっくりしたよ。それもまた経験というものさ』

 

 愛をささやかれるとほんとに惚れてしまいそうだからやめてよ。やっぱりやめないで。最高すぎる。

 それにしても息子さんがいるんですか!? ま、こんなイケメンほっておくわけないよね。

 息子さん、どんな子なんだろうな。クール系かな、わんこ系かな、はかなげ系かな。

 美少年なのはもはや保証されたも同然だろうし、会うのがすごく楽しみだ。

 喜んでもらえるように、もっと体を大きくするぞ! 

 

「だから無理しちゃダメって言ったでしょ!」

ごめんなさい

 

 

 そのあと張り切りすぎて体力を使い果たし、馬房で元競走馬さんにしこたま怒られてしまった。

 反省しきりである。

 

 

1974年11月18日

 

 

 時は流れて霜の降り始める秋の終わり。離乳で母様から離されて落ちてた気分が食事の美味しさに盛り返してきたある日のこと。

 私は感動に打ち震え目をかっ開いていた。目尻とか裂けそう。

 何しろ柵を挟んだ目の前に、以前見せられた癖っ毛黒髪美ショタが興奮した様子で立っているのだから。生きてる姿の完成度はマジで変態神が来そう。

 その後ろにはショタパパらしきゲオルギウス君もいる。やだ、成長後も約束されてるとか幼年、少年、青年、壮年、初老、老年と一粒で6回おいしいじゃないですか!!!! 

 

『父さん、トリウィアが凄く尻尾振ってるよ』

『鼻息も荒いし随分興奮しているね、耳もあちらこちら向いているし、警戒してるのかな』

 

 美ショタの透き通ったソプラノボイスとイケオジの腰が抜けそうなバリトンボイスが奏でるギリシャ語で耳が妊娠しそう。馬を気遣って小声で話すとか実質ASMRですよこれは。

 周囲を警戒してるのは、美ショタを変態神が編隊組んで攫いに来そうですからね! 白い動物がいたらなんとしてもミンチにしないと! 

 かわいい白い小動物がゴリマッチョ半裸ヒゲに変身したら、幼い心に深い傷が残ってしまうからね、貴重な美ショタ保護のためには警戒はいくらしても足りないというものです! 

 

 フンフン鼻を鳴らしていると、美ショタとゲオルギウス君からとても安心する良い香りがすることに気づいてしまった。

 

「なんでいいにおいがするの」

 

 なに、美ショタとイケオジからは天然のアロマが出てるの? 納得だわ。美形は纏う空気感から違うもんな。いい匂いがしそう、いやしてる。

 なぜこんないい匂いを嗅いだことがある気がするのか、その謎を解き明かすため私は柵にぶつかりながら必死に匂いの方向へ首を伸ばす。

 いっぱい嗅いだらわかる気がする。具体的には肺一杯分くらい。ぎぶみーもあないすすめる。

 

「あなたが生まれた時に二人は体を拭いてくれてたのよー、その時に匂いを覚えたんじゃないかしらー」

「え、ま、へ?」

 

 幸せいっぱい胸いっぱいに香りを堪能してトリップしている所へ母様からお出しされた衝撃の事実に、思考が一瞬止まった。

 まって、生まれた時? 粘液まみれのロリボディを、母親に舐められながら美ショタとイケオジに全身くまなくタオル拭き拭きプレイしてもらったってこと? 

 なにそれ、なんで私はそんな天国を覚えてないの? 

 二人の手の感触の違いや、私の体を蹂躙しながら漏れる感想を覚えてないとか理不尽が過ぎない? 

 自分の性癖捻じ曲がる音を覚えてないとか! 

 今すぐねっとりしっとり描写した本を描きたくなっちゃたのに! 

 

『急に止まっちゃったんだけど、触っても大丈夫かな』

『鼻をしきりに鳴らしていたし、ニコの匂いを覚えていたのかもしれないね、ゆっくり触ってあげてごらん』

 

 さわりと首筋に感触を覚えて意識を覚醒させると、さっきとは比べ物にならないほどの濃厚な香りに脳が焼き切れそうになった。

 視界に映るのは喜びをあらわにした紅顔の美少年が、色気のある笑みを浮かべたイケオジに抱かれながら私を撫でるとかいう宗教画のごとき尊い姿。

 なぜこの目は下界が誇る32Kビデオカメラではないのかと悔やみつつ、未来永劫再利用するために脳内にRECしていく。爛れたオリュンポスではまずお目にかかれない美しい光景だからね、仕方ないね。

 

『うわ、すごいサラサラだ。とってもきれいだね』

『菱沼さんたちが丁寧にお世話してくれるおかげだ、後でお礼を伝えなさい』

『はい!』

 

 あ”ぁ”──、肯定感で溺れそう。

 

 スタイルに自信のない陰キャ女神があこがれるシチュエーションの一つが、自分の髪をなでられながら褒められるってやつなのだ。

 あまり外に出ないから痛まないし、暇さえあればコンプレックスから目をそらすために手入れしてるんだよ、陰キャ神はみんな。

 唯一陽キャに負けてないなって、ちっぽけな自尊心のよりどころになるのが髪の毛。

 結局、美神とかあの辺は手入れ無しに完璧を保つので勝てないんだが。権能とは理不尽であるから権能とはよく言ったものである。

 

『この仔の成長度合いはどうなんだい?』

『当歳馬としてはかなりのもんですよ、ゲオルギウスさん』

 

 ショタのなでなでに脳みそバチバチされていると、菱沼さんとゲオルギウス君の会話が聞こえてきた。

 

『ただ障害の練習を見ていたようで、きれいなフォームで脱柵されるのは困りますがね。単に飛ぶのが楽しいだけみたいですが』

『そうか、次はダートでも走らせてみようか』

『芝の覇者ニジンスキーの仔がダートを走りますかね、いやでもアハルテケの特徴が出てるから走れるのか?』

 

 柵を飛び越えるのは楽しいのよ。芝の上を走るよりも楽しいかもしれない。

 けどペーダソス君がサラブレッドちゃんたちに言ってたのはやっぱり出来ないのよね。

 

 ———いいですかマイハニーたち。早く走るためにはまず大気を踏みしめ、空を飛ぶところからです。

 

 普通の馬は大地ならともかく大気は踏めねぇんだよあの駄馬が。みんな困惑してただろうが。

 なに自分はできたって? ガチの神馬とタメ張れる神代生まれと現代生まれのカワイコちゃんたちを一緒にすんなよ常識ねぇのか。

 

『育成厩舎はどこにするんです。そろそろ決める時期ですよ』

『一応車岱総帥の伝を当たっているんだが、あまりいい所がなくてね』

『ゲオルギウスさんなら札束で殴れるでしょうに』

『そういうところは信用ならないんだよ』

 

 なにやら私が調教を受けるところの話をしている。有望なところがないようだ。

 あまり劣悪では困るが、とりあえずレースに出る資格さえもらえれば勝ってみせますとも! 

 

『一つ考えている所があるんだ』

『というと?』

『北海道に今年少し早く生まれたニジンスキー産牡馬がいるらしくてね。話を通して同じところにと考えている』

 

 へー、半分血がつながった兄がいるとはびっくりだね。馬の兄とか別にどうでもいいけど。

 

『トリウィアにお兄ちゃんがいるの!? なら家族は一緒にいた方が良いよ!』

『そうか、ニコがそういうならそうしようか』

 美ショタきゅんはニコっていうんだね! かわいいね!!! おなまえはニコラオスとかかな!!!!!! とってもはかどるよ!!!!!!!!! 

 

 それにしてもゲオルギウス君いくら何でも息子に甘すぎない? その甘い表情なんて万一女神に向けるとほんとに妊娠しちゃうレベル。

 でもニコきゅんがかわいいから仕方ないよね。

 

『よかったね、トリウィア! お兄ちゃんと仲良くね!』

 

 ニコきゅんがそうしろというのだ、待っていろよ見知らぬ兄馬。

 私は妹を全力で遂行してやるからな、覚悟しておけ! 

 




次話は育成編


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第三話 北方千里行

調べても調べてもマルゼンスキーの本郷入厩前の経歴が分からない……。
まさかとは思うが、某善吉氏は本郷入厩前の騎乗馴致を全部自前でやったのか?
さすがに軽種馬農協関係者に預ける形でお願いしていたとは思うのだが。
でもマルゼンストロングホース買った後だしな。やったかもしれない。

本作では、いったん全部自前でやってたということで進めます。そのあたりの事情知ってる人がいたら感想か活動報告に投げてくれるとありがたい。




 1974年1月16日

 北海道勇払郡安生町

 端本牧場:厩舎前

 

 

 食べ物が濃厚飼料交じりに切り替わった結果、ものすごい勢いで体が大きくなったころ。

 菱沼さんは追い運動どころか馬装への凄まじい順応を示した私(当然である)のことを、追い運動しては放牧に送り出し、大量の飼料を食わせながら検査する日々を送っていた。

 そもそも自発的に追い運動を繰り返していた私にとって、乗馬組の皆さんを日々ローテしての追い運動ですら負荷が不足し始めていたのである。

 

 月に一度のニコきゅん訪問が終わり、絶望と共にすっかり暇を持て余していたある日、突然大きなトラックの後ろに乗せられ牧場を後にさせられた。

 最初は何が起きているのかさっぱりだったが、途中で持ち主と菱沼さんのやり取りを思い出したのである。

 

「あ、兄とやらのところに行くのか」

 

 今生初めての長距離移動にワクワクしていたのは最初の数分だけ。

 外の景色は見えず、自動車の騒音や走行振動にイラつき、狭苦しい車内馬房に不満を垂れ、おいしい食事に舌鼓を打っては寝るサイクルを何度か繰り返す羽目になった。

 イライラのあまりガッツンガッツン前掻きしてごめんよ、同乗してた菱沼さん。

 

 途中で日が落ちて、それでも移動が続いたときにはびっくりしたものである。

 おそらく船に乗ったと思える揺れを体験し、そのあとまた長距離移動。

 

『よーし、ヘカテー降りろ』

 

 ようやく車が止まり、菱沼さんの先導で後部扉を降りたその先は広大な銀世界であった。

 考えてみれば、今日で彼の不毛の大地(薄ら禿げ)も見納めか。鼻息でもしゃもしゃにするの結構好きだったんだけどな。

 

「それにしても寒いなおい」

 

 体がブルっとするほど寒かった。

 馬運車から降りても、カチカチに凍り付いた固い土の感触に驚く。そして這い上がってくる冷気にはうんざりした。

 これからこんな環境で過ごさなくてはならないとは。

 思わず耳は後ろに伏せ、前掻きしてしまう。

 

『やぁ、ご機嫌斜めだね。長距離移動お疲れ様ヘカテー』

 

 不機嫌極まる私の姿を見かねたのか、馬運車の横に止めた真っ赤なスポーツカーから降り立ったゲオルギウス君が声をかけてきた。

 

「あーカッコいいわ。スチルかな?」

 

 普段と違って髪を撫でつけ、深紅のタイとスーツにロングコートまでカッチリ決めたイケメンとスポーツカーの組み合わせは無敵である。そこに笑顔を添えるのはもはや反則に近い。もっとやって。

 そんな彼が私の首を黒の革手袋をした手で撫でてくれる。いつもの繊細な指とは違ったこの感触がたまらない。

 

『おっと、これから端本さんと話をするんだ。今擦り付けは我慢してくれ』

 

 いつものように体を擦り付けようとしたら止められてしまった。

 そうだよね、これから人と話をするのに馬の毛だらけというのはいただけない。

 しょんぼりしたのに気づかれたのか、彼は苦笑しながら撫でるのを続けてくれた。

 

『終わったらかまわないから、今はね』

 

 ご褒美宣言に、おすまし顔しながら彼から離れる。ここは我慢だ我慢。

 そんなやり取りをしていると、厩舎の中から一人の中年と青年、少女が出てきた。

 薄いサングラスをかけた強面の中年はこちらを見て近づいてくる。ほかの二人はこちらを見てそわそわしている。

 にしても圧が強いなこのおっさん。

 

『わざわざこんなド田舎にようこそ、ゲオルギウスさん』

『こちらのお願いを聞いていただいた方に直接あいさつするのは礼儀だと思いまして。そちらのお二人を紹介していただけますか?』

 

 お互い仏頂面で握手を交わすと、なんだかとげとげしい感じで会話が始まった。

 

『娘の祥子と世話を担当する真井です、ほれ、挨拶』

 

 端本さんに肩を押され、ゲオルギウス君の正面に出てきたのはハーフアップのもこもこ美少女だった。

 

『はい! 私は端本祥子です! 小学生です! お父さんのお手伝いしてます!』

『私はゲオルギウス・メルク―リ。この仔はトリウィアヘカテー。どうか仲良くしてあげてほしい』

 

 がばっとお辞儀してから顔を上げ、握手のために手を差し出す少女。緊張でお顔が真っ赤である。10歳くらいかな、かわいい。

 ゲオルギウス君がちょっと屈んで目線を合わせ、握手してあげていた。そのまま流れるように手の甲に軽く口づけを落とす。

 え、ファンサ良すぎない? 祥子ちゃんちょっとお目目ぐるぐるしてるよ。

 

『はい! 毎日お世話してあげます!』

『元気だね。祥子ちゃんと呼んでもいいかな?』

『お願いします! ゲオルギウスさん!』

 

 とっても元気にお返事した祥子ちゃんは、そのまま端本さんの後ろに回って、ちらちら顔をのぞかせている。かわいい。

 まぁ、あんな小さい子にこんな丁寧イケメンムーブぶつけたらそうなる。性癖がぶっ壊れた音がしたね今。

 

『はは、いい子じゃないですか端本さん』

『もうちょっと落ち着てくれればいいんだがな。真井は挨拶してねぇだろ。馬にまだ近づくんじゃない』

『あ、終わりましたかね。俺、いや私は真井芳樹です。ここで馬の世話やらしてもらってます』

 

 ふらふらと私に近づいていた青年がゲオルギウス君たちの方へ振り向き、キャップを外しながら頭を下げた。

 オールバックにリーゼントをカッチリキメた髪型とかいかにもやんちゃしてそうな感じ。がっつり鍛えているのが防寒服の上から見て取れる。鋭い系だけど顔は悪くないな。これはこれで需要在りそう。

 

『この仔をよろしく頼むよ。それと、言葉遣いは好きにしていい。私たちはこれから仲間になるんだからね』

『ならそうさせてもらうッス。敬語とかわからなくてめちゃくちゃシンドイッス』

 

 雑ぅッ! 

 いきなりタメ口通り越した何かになったぞこいつ。いやまぁ、ゲオルギウス君がOK出したんだから外野がどうこう言う話ではないんだけどさ。

 端本さん頭抱えてんじゃん。

 

『ゲオルギウスさん、御覧のあり様だが本当にうちに預けるのかい? 車岱の総帥からいろいろ紹介されたんだろう?』

『信用ならなかったのですよ。通訳を連れて行ったら、私が日本語をわからないと思ったのか随分無礼でね』

『ま、海外良血の仔を引っ張ってきた外人が気に入らない連中だらけだろうからな』

 

 そんな連中の世話にならずに済んだのはよかった。万一目の前でそんなことされたら私の蹄が深紅に染まっていたかもしれない。

 

『その点、自分の目を信じて回りを蹴散らし、マルゼンスキーを手に入れた端本さん。あなたの方が信じられる。あなたは決して馬をないがしろにしないタイプだ』

 

 ゲオルギウス君がそういうと、端本さんは照れながら頭を掻いて私を見た。

 

『そうまで言われちゃ、仕方ないな。それにしてもデカいなこいつは』

『自慢の娘だ。当歳馬としてはかなり大きな子だよ』

 

 二人とも当初とは全く雰囲気が違い、緩やかな表情をしている。お互い納得できたのだろう。

 ゲオルギウス君や菱沼さんが言うことには、この年の子としてはかなり大きいらしい。体が大きいというのはいいこともあれば悪いこともあるというが。

 

『ただ肉の付きは良いが骨盤が小さい、繁殖牝馬としてはダメだろう。産めて一匹、それでも母親は危ないかもしれん』

 

 私の周りをぐるりと半周した端本さんは、なんとも言い難いコメントを言い放った。

 いや、活躍した牝馬の宿命として子孫を残すことが期待されるのは分かっていたが、出産に不安があるとは思っていなかったわ。

 

『けどトモの張りとかはバリバリにいい感じッス。よく走ってくれそうッスね』

『無事に走り抜いてくれればいいさ。勿論、次代の子が生まれてくれればそれに越したことはないけれど』

 

 ゲオルギウス君の言葉にキュンときちゃう。イケメンに期待されるとついついやる気になっちゃうよね。陰キャの悪い癖である。

 しかし、繁殖かぁ。ん? 繁殖? 

 

「お馬さん相手に神生含めての初体験は辛くないか? うお、ぶるっと来た」

 

 よくよく考えると、馬相手の異種姦である。初手アブノーマルプレイというのは変態度が高い。異常な思考に体が震えてしまった。

 だが考えてみれば、割と異種姦状態でヤる逸話があるのが我らがギリシャ神話である。ケダモノプレイが好きな変態が多すぎる。

 

 それを考慮すると、精神的処女を馬にくれてやるのは普通なのかもしれない。そもそも今は私馬だし。

 

 ……いや、考え直せ。普通じゃないから。

 

『お父さん、ヘカちゃん震えてるよ?』

 

 いつの間にか近づいていた祥子ちゃんに心配されてしまった。

 さっきまであわあわしていたのに、今は真剣な目で私を見ている。本当にいい子だなぁ。

 

『ん、ああ、そうだな。この寒空に出しっぱなしはよくない。厩舎に入れんと』

『私が連れて行ってあげる!』

 

 祥子ちゃんが私の誘導を買って出てくれた。いやまあ誘導なんていらんのだけど。

 正面の建物でしょ? 馬房の入り口だけ開けといてもらえればいいんだが。

 祥子ちゃん小さいからすごくゆっくり歩かなきゃダメだしね。

 

『お前はだめだ。真井、トリウィアヘカテーを厩舎に入れてやれ』

『ウッス』

『なんでよー!』

 

 拒否された祥子ちゃんは端本さんの足にしがみつき、がくがく揺さぶっている。

 まぁ、普通は当歳馬を子供に任せようとは思わないよね。止められないし。

 

『この仔をたのむよ、これ引綱ね』

『あざっす。菱沼さんッスよね、しっかり面倒見させてもらうッス』

 

 真井君は菱沼さんから引綱を受け取ると同時に挨拶を受けていた。

 ちょっと涙ぐむとは思わなかったよ、菱沼さん。今日は素直にすりすりしてやろう。

 彼は無言で私の首を撫でると、端本さんとゲオルギウス君に呼ばれて別の建物に向かっていった。

 

『真井君! 誘導したい!』

『お嬢さんじゃまともに引綱持てないでしょ、一緒に持ちます?』

『持ちたい持ちたい!』

『はいはい』

 

 端本さんの説得をあきらめた祥子ちゃんは、引綱を持つ真井君を直接懐柔することにしたようだ。

 真井君が端本さんを見れば、あきらめたように手を振っている。

 大人が持ってる綱の端なら、危なくはないかもしれない。それでも私はゆっくり歩かなきゃいけないが。

 

『こっちこっち! お友達もいるよ!』

 

 踏みしめられた雪の道をゆっくりと進み、真新しい厩舎の中に入ると予想以上に温かかった。

 セメント打ちの床面は平坦だし、汚れやにおいも少ない(馬の住環境なのでどうやっても臭いは臭いが)

 思ってたよりはいい環境なのでは? 

 

「おや新入りかな」

「仔馬さんが来たわね」

「お、お世話になります」

 

 足に帰って来る感触を確認しつつ、周囲をきょろきょろと眺めながら歩いていく。

 次々に馬房を通り過ぎ、ものすごい大きな体の栗毛馬や大人の鹿毛牝馬さんにキョドりつつもあいさつした。

 いやぁ、陽キャ系がいなさそうで良かった。牛と温厚な馬しかいないなら静かに過ごせそう。

 

「ん? なんだなんだ、ってでっか!?」

「あぁん?」

 

 などと思っていると、いきなり横の馬房から無礼極まるガキの嘶きが響く。

 視線を向ければ、おそらく1歳馬だろう栗毛の牡馬が私をじろじろと()()()()()()

 キッと睨みつけると、ちょっとビビったらしい。馬房の中にさっと引っ込んだ。

 

『仲がよさそうでよかったねぇ』

『マルゼンスキー、お前同い年の牝に負けたのかよ』

 

 別に仲良くないよ祥子ちゃん。

 

 無礼者がヒンヒン鳴いてるのを無視して、そいつの隣の馬房に誘導される。

 中を見て回ると、大量の寝藁といい三和土といいよく整えられた清潔な空間だった。ちょっと寒いが、まあ寝藁に転がればましだろう。

 あちこちに体を擦り付けて臭い付けを済ませるのを見ていた祥子ちゃんと真井君は、馬房に鍵をかけるとそのまま歩き去っていしまう。

 

『またあとでねー』

『おとなしくしてるッスよ』

「はーい」

 

 二人の声掛けに返事をして、何もすることがないのであちこち見回す。

 よく見れば水と飼葉があるじゃん、食ったろ。

 馬房の外側に置かれた飼い葉桶と水桶に首を突っ込んでもしゃもしゃしていると、真横から奴のぶしつけな視線を感じる。

 瞳を向ければ、さっきの無礼な馬がくりくりとした目をキラキラさせながら見ていた。

 

「本当にデカいなあんた。何歳くらいなんだ?」

「いくら何でも初対面の牝馬に無礼すぎんぞお前」

「え、牝馬だったの? 毛艶とかは若そうなのに体がすげぇ仕上がってんだもん、気になるじゃん」

 

 子供すぎる。いや、毛並みといい顔つきといい多分仔馬だわこいつ。そうであっても人を牝扱いしなかった時点で許さんが。

 静かに切れていると、奴の背後から先ほどあいさつした二頭の馬が顔を出して仔馬をたしなめた。

 

「マルちゃん、牝馬さんに失礼よ」

「坊主もうちょっと気にしないとモテねぇぞ」

「ママにストロングさんまで言わなくてもいいじゃん」

 

 二頭の大人に怒られ、ちょっとバツが悪そうに視線を逸らす仔馬。

 それを睨みつけていると耐えられなくなったのかしぶしぶ頭を下げる。

 

「……ごめんわるかった」

「まあいいけど。私1歳にしてはかなり育ってるみたいだし」

 

 さすがに子供が反省してるのに大人が許さないのはダメだろということで許した。体は仔馬でも精神は大人だぞ私は。

 私の返事を聞いたマルゼンスキーは、喜色満面こちらに首を伸ばしてくる。急になんだ!? 

 

「だよなぁ! 俺はマルゼンスキー! あんたの名前は? 何をしたらあんたみたいに大きくなれるんだ? 教えてくれよ!」

「私はトリウィアヘカテー。いやいっぱい食べて、いっぱい走って、いっぱい寝ただけだけど……」

「マジか! なら俺もでかくなれそうだ!」

 

 許されたと思ったら途端にぐいぐい来るなこいつ。

 明らかに陽キャの気配を感じる。なんか一気に苦手意識が出てきたぞ。

 

 

 

 この後、心がへとへとになるまで質問攻めにされた。

 シルさんとストロングさんの助けがなかったらどうなったことやら。

 正直ここでの生活がちょっと不安になっってしまった。

 

 それにしても兄とやらはどこにいるのだろうか。




端本全吉
(全)端本牧場のオーナー
重馬種のマルゼンストロングホースを輸入し、北海道競馬に新風を吹き込んだばかり。
もともと牛の生産者として日米で有名だったが、一目見て優れた繁殖馬と判断したシルを購入し、産駒での競馬界殴り込みを決意した。
購入費や輸送費、馬房改装費での膨大な出費をゲオルギウスからの預託費他で埋めることができたためどうにか一安心。
心配をかけたため娘と妻には頭が上がらない。

端本祥子
全吉の娘。ハーフアップの少女。
馬に乗ったり動物の世話をするのが好きな活発な少女であったが、ゲオルギウスに情緒を破壊され少女漫画も好きになった。
割と何でもできる運動神経抜群。

真井芳樹
オールバックとリーゼントでばっちりキメた見た目硬派。
口調は緩々で適当だが、地元でも有名な真面目系である。
動物への愛情はかなりのもので、体調や感情を見る目は確か。

ゲオルギウス
車岱総帥からの紹介された厩舎の対応に腹を立て、同じ父の仔がいる端本牧場に預託することを決意した。
巨額の出費に苦しんでいるところに、巨額の投資で頬を殴った形。
端本の奥方からは感謝されている。

ニコラオス
月に一度のヘカテーとの面会がとても楽しみだった。
今は都内のインターナショナルスクールに在籍しつつ、家庭教師複数から様々な学問を学んでいる。


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第四話 兄との同居生活(北海道編)

大人げない女神と仔馬の戯れ


1975年3月3日

橋本牧場放牧地

 

「んしょ、よいしょっと」

「何やってんだ?」

「柔軟」

 

放牧された私は、さっそく芝の感触を確かめながら全身の関節を解していく。

北海道はまだまだ寒い季節だから強張った筋肉と関節を柔らかくしないと無駄なケガをしかねない。

 

「兄さんもやったら?その足が外に広がってるのもよくなるかもよ?」

「そうか?まぁ、これが良くなるかもってんならやるかな」

 

私がそう唆すと、シルさんとだいぶ違うその広がった足を気にしていた兄は素直に柔軟を始めた。

競走馬としては割と不利だよなぁ、あの足の広がり方。前に見に来たおじさんたちもそう言ってたし。

踏み込んだ時の力が斜め横方向に関節へ掛かるから壊れやすくなるよね。

 

半分血のつながった兄貴だし、彼がより良い馬生を送れればいいとは思ってるんだぞこれでも。

 

『また変な動きしてますよあの二頭、柔軟スか?』

『向こうの牧場でもしてしてたらしいぞ、どうもシルやストロングも覚えたみたいでしょっちゅうやってる』

『トリウィアヘカテーは本当に馬なんスか?』

『わからん、柔軟も厩務員とか猫の動きを見て覚えたようだし』

 

聞こえてるぞ人男ども。

私をUMA認定してきた真井君と端本さんをじっと見つめていると、慌てて二人は退散していく。

 

『やっぱり人の言葉わかってないスか?』

『わかってるかもな、アレは相当頭いいぞ』

 

わかってるなら馬耳で聞き取れるとこでこそこそ喋んな!

 

 

 

1975年4月16日

橋本牧場放牧地

 

「ハッ、ハッ、シャァッ!俺の勝ち!」

「だぁ~ッ!また負けたぁ!?」

 

たった今開催された端本牧場放牧地、1歳新馬戦芝4ハロンはマルゼンスキーに大きな差をつけられての敗北に終わった。これで10度目の敗北である。体もさらに出来上がってきたし、前の牧場では一番早かったんで自信があったんだが完膚なきまでにぶち壊されたね。

加速力に差がありすぎる。スタミナは圧倒的に私の方があるんだが。多分3000m以上なら負けない。もしくはダート。芝はなんか滑るんだよな。

 

「兄より優れた妹などいねぇ!」

「あぁん!?野郎ぶっ殺してやる!!」

 

この野郎ちょっと芝の上じゃ速いからって調子乗りやがって!

テンション上がってるマルゼンスキーに肩をぶつけてガッツリ嚙みついてやった。

 

「いってぇ!?なにすんだこの馬鹿妹!」

「うるせぇ!ぶっ殺してやるアホ兄!」

 

ヒンヒン鳴きながら逃げ惑うマルゼンスキーを放牧地を何週も追い回し、出入り口でへとへとになって足を止めたところで鬣や尾をむしゃむしゃしてやった。

野郎は死んだ目をしながら成すがままだ。兄さんのくせに生意気なこと言うからだぞ。

 

『マルゼンスキーがまた泣かされてるし。お前は本当にトリウィアヘカテーに弱いな』

ヒィン

 

呆れたような目でマルゼンスキーを見る真井君。

そうだそうだ!もっと言ってやれ!

 

 

 

 

1975年5月29日

橋本牧場放牧地

 

「ちっくしょ~!?また負けた!」

「はい勝ち~!10連敗おめでと~」

「むかつくな!?」

 

私たちが走りすぎて地面が露出した荒地のうえで、マルゼンスキーが棹立ちする。

ついさっき行われた端本牧場放牧地、1歳新馬戦ダート4ハロンは私が圧勝して終わった。十連勝目である。

やっぱ私ダート向きだわ。めちゃくちゃ走りやすいもん。

 

「兄さんのざ~こ♡年下の女の子に負けちゃう負け牡馬♡」

「調子乗んな!」

 

テンション上がって煽り倒す私に、マルゼンスキーは肩をぶつけた上軽く嚙みついてきた。

 

「いたぁ!?なにすんのこの馬鹿兄!」

「うるせぇ!わからせてやんよ妹モドキ!」

 

奴はヒンヒン鳴きながら逃げ惑う私を放牧地の端に追い込み、身動きが取れず足を止めたところで鬣や尾をむしゃむしゃされた。

私は死んだ目をしながら成すがままだ。妹のくせに生意気なこと言いました、ごめんなさい。

 

『トリウィアヘカテーがまた泣かされてるし。お前は本当にマルゼンスキーに弱いな』

ヒィン

 

呆れたような目で私を見る真井君。

うるさいぞ!そんな目でこっちを見るな!

 

 

 

1975年6月12日

端本牧場馬房前

 

日差しが温かくなり、風も徐々に暖かくなってきた頃。

馬房前では私とマルゼンスキーの馬装馴致が始まっていた。

 

「それは嫌いだって言ってるだろー!」

『マルゼンスキー、暴れんな』

 

馬装をやけに嫌がるマルゼンスキーを尻目に、私は一足早く騎乗馴致に到達していた。

当然である。そもそも菱沼牧場で馬装まで済ませていたのだから何の問題もない。銜を目の前に出されたら口は全開にするし、頭絡をつけるときは首を下げ目を瞑って耳ピンする。鞍をつけるときも微動だにしない。

非常に馬装しやすい体勢を心掛けているのだ。

全ては馬装なんぞとっとと済ませて、一秒でも早くあの憧れのコースに入りたいため。

この牧場に放牧場から見える位置にオーバルコースがあるんだし、個人的には競争練習に入りたいのだが端本さんは奴と一緒に走らせたいようでそうはさせてくれないのである。

シルさんがたまに走りこんでいたり、ストロングさんが凄まじい重さの橇をガンガン引っ張っていたりする姿を、マルゼンスキーと共に眺めていたのでとにかく走ってみたい。

 

『うわわっ!?』

 

危ないぞー、ちゃんと鐙に体重掛けて膝を締めろ膝を。ってまだ無理か。子供だし。

 

今は端本さんの娘である祥子ちゃんを載せ(乗れてないから載せてやっているのだ)、乗馬を教える日々を過ごしている。

二歳なり立ての私でも10歳くらいの子供なら何時間載せていても苦にはならないし、人を乗せる練習にもなっているからよい。

しかし、端本さんは幼い娘相手にスパルタが過ぎる。最初私に乗せたと思ったら乗り方は馬に教われとか言って人の尻に鞭くれるんだもの。

アマゾネスの戦士でも育成しようというのか。

 

「なんだこれなんだこれ!歯がキーンってする!絡みついて気持ち悪い!やめ、やめろー!」

『そろそろ慣れろよマルゼンスキー、あ、動くなおバカ耳に絡むぞ』

「引っ張るな!耳が曲がっちゃうだろやめろよ!」

 

動いて銜を歯にぶつけては嘶き、頭絡をつけられては頭を振り回しと、暴れまわるマルゼンスキー。

あれ真井君大変そうだわ。よし、私が一肌脱いでやろうじゃないか。

マルゼンスキーの視界に入るように、ゆっくりと近付いていく。

 

『危ないよヘカちゃん!?』

『ヘカテーのおバカ、祥子ちゃん乗っけてるんだからこっち来るな』

 

大丈夫だよ祥子ちゃん、兄さんが立ち上がろうが走り出そうが避けれる位置までしか近寄らないし。

それと真井、貴様私を兄さんと同類扱いしたな。助けてやらんぞ。

 

近寄ってきた私をいぶかしげに見つめるマルゼンスキーを、上から見下ろしつつ鼻で笑う。私は奴より体がでかいので見下ろす形になるのだ。

 

「兄さんダッサ」

「これ気持ち悪いだろ!なんでお前は平気なんだよ!」

 

慣れるまで気持ち悪いのはわかる。というより、服を着る文化を経験してないとこの感触はなかなか不快だろう。

陰キャオフ会の罰ゲームでつけさせられたボールギャグとラバーマスクよりはましだけど、あんなもん普通は一生に一度もつけない。

まぁ、それでも煽るわけだが。

 

「これができないと大人になれないし。むしろ妹より遅れて兄として恥ずかしくないの?」

「なんだなんだ妹モドキ、挑発してんのか」

 

挑発してるんだよ、早く馬装終わらせて私と走れや。

 

「早く頭絡つけて、鞍載せて、人間さん乗せて勝負しようよ。兄さん待ちでずーっと祥子ちゃん載せてるんだけど」

「いやだね。勝負ならしょっちゅうやってるし俺が勝ってる!」

「は~!?それは芝だけでしょ!?ダートで毎回ぼろ負けしてるくせに!」

 

我儘な奴だな!人がこれだけ下手に出てやっているのに!

いいだろう、覚悟を決めてやってやろうじゃないか。オリュンポスで効果抜群だった煽り技をなぁ!

首を大きく下げ、奴を下から見上げるようにしつつ心のメスガキを起動する。

 

「あれあれ?もしかして妹に負けるのが怖いのかな~?」

「は!?妹モドキなんぞに負けないが?実際芝では無敗だが?」

 

効いてる効いてる。しかし女神に対する事実陳列罪は許されんぞ。

 

「でもでも~、馬装も騎乗も私が先に終わらてるんだよ~?」

「」

「それってもう負けてない?えー?年下の女の子ができることすらできないとか、兄さんなさけな~い♡」

「」

「兄さんのざーこ♡ざーこ♡一生仔馬ちゃん♡尻尾と鬣すかすか♡妹相手に負け癖ついちゃえ♡」

「あぁ?やってやろうじゃねぇかよ!真井ィ!とっとと銜と紐と鞍着けろやぁ!」

『うわぁ、急に落ち着くな!』

 

マルゼンスキーは私の煽りに耐えきれなくなったのか、大きく一度嘶くと一気に落ち着きを見せて真井君に頭を差し出した。

 

いやぁ、負けず嫌いには効くのよねこれ。ねちっこい陰キャ神にもよく効く。

陽キャ?ギリシャの陽キャ神相手じゃ、アフロディーテ怒らせた時みたいに『イキり陰キャがわからせプレイをおねだりとか興奮してきたわね』ってなって、貞操と生命の危機が訪れるから……。

女神だって24時間降りてこれないと死んじゃうんだよ?冥界神の1柱なのにハデス様に送り返されなかったらあれで死んでた。大事なものは守り切ったがな!

 

しっかしなんかまじめな雰囲気なのに、馬の頭に頭絡がぐちゃっと絡みついてると面白いよね。

 

「ぷふっ」

「妹モドキィ、お前今俺を笑ったか?」

「べつに?」

 

 

 

 

1975年6月22日

端本牧場オーバルコース

第二コーナー前

 

いよいよ初夏に向けて強まる日差しの中、北の大地特有の涼しい夏の風が良く整えられた芝を揺らしている端本牧場のオーバルコース。

私と兄は馬装を整えられ、いよいよこの場所へと引き出された。

放牧場から見えるこの美しい場所に焦がれてはや数か月、私は念願のコースの感触を蹄に感じながら柔軟を念入りにしていた。

 

長く苦しい戦いを経て(何度も兄を宥めすかし)馬装馴致をし、とにかく覚えの悪い兄と並走しながら並足や襲歩のお手本を見せ、最後には騎乗馴致を完了した兄のようなナニカ(マルゼンスキー)をみた端本さんは、知り合いの厩務員も引っ張ってきて私たちを競わせることにしたらしい。

 

『トリウィアヘカテーちゃん、よろしくね』

 

私に乗るのはまだ若い女の子、奴に乗るのは端本さんの息子全一さん。二人とも細身だが、体重差はそれなりにあるように見える。

彼女を乗せゆっくりと歩きながら調子を合わせていると、息子さんを乗せた奴が鼻息荒く近寄ってきた

 

「妹モドキに実力の差をわからせてやるぜ!」

「あぁん!?へっぽこ兄さんのくせに!!やってみろよぉ!!!!!」

 

『仲がいいなぁ』

『ヘカテーは随分機嫌が悪いみたいだけどね』

 

この女の子の目は節穴かもしれない。全一君の言うとおりである。

見ればコースの端に端本さんがシルさんと立っている。スタート役をしてくれるのだろう。

 

『それじゃ、いつも通りにね』

『はい、全一さん』

 

なんかこの二人通じ合ってない?もしかしてもしかするのかな?

 

『ゴホン!左回り芝1000!用意!』

 

端本さんがにらみを利かせると、二人はすっとレースの準備を始めた。

オーバルコースの第2コーナー奥に設置されたウッド式発馬機の内ラチ側にマルゼンスキー、一枠開けて外側に私という並びで入る。

私は全く問題なくすっと入るが、マルゼンスキーはちょっと嫌がっているようだ。

 

「狭いところにに入らなくてもいいだろ!」

「ゲートに入らないと兄さんの負けが決まるけど?実力の差が分かっちゃうね?兄さんのざ~こ♡ざ~こ♡未来永劫発走再審査♡レース出れずに負けちゃうよわよわ牡馬♡」

「やってやらぁ!!!!」

 

ちょろい。

煽ったらさっきまでの嫌がりはどこに行ったのか、非常に冷静にゲートインするマルゼンスキー。

本当に手間のかかる兄である。

 

『いくよ』

 

鞍上の彼女の合図と同時に、ゲートが開く。

 

「いっくぜぇ!!!!!!」

 

私は全力で駆け出すが、それよりも早くマルゼンスキーが前にすっ飛んでいく。

野郎、相変わらず腹が立つくらい強烈な加速だ。踏み出すごとにぐんぐん伸びていきやがる。

それに比べて無駄にデカい馬体が重く、芝が苦手な私の加速は鈍い。

乗用馬の皆さんよりも早いのは確かなのだが、奴と比べれば雲泥の差だった。

 

「けどなぁ!お前のスタミナと根性のなさは分かってる!差し切ってやるからなぁ!」

 

400mの直線を駆け抜ける頃には、奴の姿は10馬身以上前にあった。

だがここで差は大きくならなくなった。じわりじわりと私の速度が伸びていく。

前を走る奴は速すぎてコーナーがまだ苦手だ。体が出来上がればきっと違うのだろうが、今はまだまだしょぼい。

 

「外に膨らんでたまるかぁ!!!!」

 

うるさい奴だな!

 

マルゼンスキーはわずかな減速と引き換えに内ラチを掠めるようにコーナーを曲がっていった。

あいつ直前の放牧場レースより成長しやがったぞ。あの時はぐんぐん外によれて柵を掠めそうになってたのに。

 

「だが減速したな!しかも足を使ったな!直線で伸びてこない兄さんなんざ怖くねぇ!!!」

 

マルゼンスキーがコーナーを抜けるまでに3馬身は詰めた。

前半馬鹿みたいに飛ばしてコーナーで足を使ったマルゼンスキーはさらに減速するだろう。

残り400mの直線でぶっちぎれるはずだ。

 

そう、思っていたのに。

 

「負けてたまるかぁ!!!!」

「ここで伸びるの!?」

 

マルゼンスキーは直線に入った瞬間、猛烈な加速を見せた。

芝が抉れ飛び、蹄が大地を抉る重い音が響く。

これまでにない強い踏み込みだった。

 

『マルちゃんやるぅ』

「野郎逃がさん!」

 

鞍上!お前はどっちの味方だ!

だがそれでも、その加速は最初の直線には劣るものだ。

ならずっと加速を続け、ようやくまともに走れる速度帯にたどり着いた私に負けはない。

最終コーナーを抜け、より強く、より大きく踏み込み、より早く足を回す。

 

6馬身。

 

良いぞ足が軽い、さらに速度が乗ってきた。内ラチ沿いを、膨らんだ奴を内側から差し殺すつもりで進む。

 

4馬身。

 

順調に距離を縮めていく。奴と視線が合った。

 

2馬身。

 

「うおぉぉぉぉ!!!!!!!」

 

だがそれでも、マルゼンスキーは私よりも速かった。

足りないと思っていた根性を見せた。

 

2.5馬身。

 

奴の背中が遠ざかる。白い線を踏み抜いて、それでもなお加速していく。

 

3馬身。

 

手綱が引かれた。

 

後ろを振り返れば、ゴールフラッグを振る厩務員さんとストップウォッチをのぞき込む端本さん、隣に佇むシルさんの姿が見えた。

 

負けた。私は芝じゃ奴には勝てないのか。

あいつは苦手だと思っていた長い距離を走り切れるようになっていた。これから成長すれば、もっと長い距離を走れるようになるだろう。

その時、スタミナ以外ない私に、マルゼンスキーに勝つレースなどできるのだろうか。

 

「ぜぇ、はぁ。どうだ!妹モドキ!俺は勝ったぞ!」

 

私よりも先にゴールラインを駆け抜けたマルゼンスキーが、汗で馬体を煌めかせながら私のそばに寄ってくる。

よくよく見れば、まだまだガキだと思っていた顔つきはすっかり牡馬になっていて、体つきもがっしりしてきていた。

 

なんだよなんだよ。へっぽこのくせに。

 

「私の負けだよ。流石だね兄さん」

 

ちょっぴりカッコいいじゃないか。

 

 



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第五話 本江厩舎での生活

新馬戦までの生活


 1976年6月10日

 東京競馬場本江厩舎

 

 マルゼンスキーに敗北したレースから一年近く。

 さらに成長した奴に、芝1800mまで全く勝てなくなったころ。

 私はマルゼンスキーと共に馬運車に乗せられ、一路長距離移動させられたのである。

 

 車が揺れれば大騒ぎ、海の上では気分が悪くなるマルゼンスキーを端本さんと共になだめすかし、時には脅しつけて黙らせる作業の末、ついに冷房の効いた馬運車の後ろから引き出された。

 

『ついたぞ、お前ら。東京競馬場だ』

 

 なるほどここが東京競馬場。いやどこだよ。例の東の果ての首都、だったっけ? 

 

『やぁ、トリウィアヘカテー。今日はご機嫌だね』

 

 馬運車の隣に止められた赤いスポーツカーの傍に立っていたゲオルギウス君が声をかけてきた。

 久しぶりにゲオルギウス君に会えたからね。そりゃあ機嫌もいい。

 

「兄さんがうるさくて仕方なかったけどね」

うるせぇ、なんでそんな元気なんだよおまえ

「鍛えてますから?」

 

 隣でげっそりしてるマルゼンスキーに言葉を返す。

 まぁ、私は長距離移動二回目ですし。あんたほどやつれはしないよ。

 

 ゲオルギウス君に撫でられていると、大きな建物から数人の男たちが駆け寄ってくる。

 先頭を走っていた一人がゲオルギウス君に声をかけ、頭を下げた。

 

『すみません、お待たせしました』

『いえ、お気になさらず。あなたが本江師でよろしいですか?』

『はい、代理人の方からお話を承っていますゲオルギウスさん』

 

 二人ががっしりと握手を交わす。いやぁ、いい人そうで良かった。

 私の蹄が深紅に染まらずに済んだぜ。

 

『端本です。マルゼンスキーをよろしくお願いします』

『本江です。よろしくお願いします』

 

 端本さんと本江さんもガッツリ握手を交わしていた。

 いやぁ、この二人に信用されているなら、本江さんは良い人に違いない。

 

『ニジンスキーの子二頭を任せてもらえるのは感無量です。どちらも一目見ただけでいい馬だと分かる』

『自慢の娘だよ』

『マルゼンスキーは走ってくれますよ』

 

 男三人が私と兄さんを褒めたたえる。いいぞ、もっとやってくれ。

 

「めっちゃ褒められてんぞ兄さん」

「だろうな!」

 

 人間の言葉を翻訳した途端、一気に元気になったマルゼンスキー。

 いきなり元気になるなよ、びっくりするだろ。

 

『そうだ、お二人に紹介しなきゃならん奴がいましてね』

 

 そう切り出した本江さんは、後ろに控えていた二人の男性を紹介する。

 

『本馬信夫です。トリウィアヘカテーの主戦騎手を務めさせていただきます』

 

 まだ20歳にもなっていないだろう若い青年が、深く頭を下げた。

 なるほど、彼が私に乗るのか。

 ん? つまり彼が神生初めて私に乗る男性ということ? 初体験の相手か。

 

『ええ、日本での騎乗はお願いします。この仔は勝ち鞍を増やしてくれるでしょう』

『はい、しっかりした美しい馬体でよく走ってくれそうです。よろしくな、トリウィアヘカテー』

 

 ゲオルギウス君と青年からのよいしょに気分良くなったところで、青年は私の首をやさしくなでてくれた。

 ふむ、牝馬への扱いは合格じゃないか? ちゃんとほめてよしよししてくれるし。

 乗せてやってもいいかな。

 返事代わりに彼に首をこすりつけてやる。愛情表現だぞ、喜ぶといい。

 

『認めてもらえたんですかね?』

『人見知りする仔だからね、スキンシップを取ってくれるということはそういうことだろう』

『なるほど』

 

 彼はそういうと、私の首をやさしくさすってくれた。

 いやぁ、ウマいじゃないか。

 

『仲渡誠一です。マルゼンスキーの主戦を務めさせていただきます』

『本江です。こいつはきっと走ります。うまく乗ってやってください』

 

 彼のテクニックに骨抜きにされている間に、少し年上の青年と本江さんが挨拶を交わしていた。

 なるほど、この青年が兄さんの主戦騎手か。

 

「この人が兄さんに乗るってさ」

「クンクン、へぇ、嫌な感じもしないし、乗せてやるか」

 

 兄さんにそのことを伝えると仲渡君に顔を近づけ、舐めまわすようにあちこちを見ては匂いを嗅ぎ、納得したのか一度頷くと彼に首をこすりつけた。

 

『マルゼンスキーも随分と人懐っこいんですね』

『牧場じゃそうでもなかった、それこそ認められたんじゃないですか』

『そうだと嬉しいんですが』

「やっべ、この人撫でるのうまいな!?」

 

 端本さんと仲渡君のやり取りをしり目に、兄さんは仲渡君のテクに翻弄されていた。

 

『それでは、二人にはこの子らを隔離厩舎へ連れて行ってもらいましょう』

『よし、行くぞトリウィアヘカテー』

『マルゼンスキーも行こうか』

 

 主戦の二人に引綱を取られ、私たちは隔離厩舎とやらに移動することになった。

 

 

 

 

 

 1976年8月22日

 東京競馬場 本馬場

 

 北海道とは比べ物にならない暑さの中、私と兄さんは主戦の二人を背に乗せ本日二回目の調教走へと挑む。

 ダート6ハロンを駆け抜けるこの競争でも、兄さんに勝てなくなりつつある。

 

「今日も凹ましてやるよ!」

「クソが! ぶち抜いてやる!」

 

 兄さんがムカつく顔でこちらを煽りやがる。この野郎連戦連勝だからと調子に乗りやがって。

 

「まじめな話、距離足りないんだから無理すんなって」

 

 キレ散らかしていると兄さんが急にまじめな口調で心配してきやがった。

 なんだよ優しいじゃないか。確かに距離が足りなくて加速しきれてない感じはあるけど。

 

「気を使われるのがムカつく! 絶対負けねぇからな!」

「わかったわかった」

 

 その言い回しに噛みつくと、兄さんは呆れたように視線をそらした。

 なんだなんだ急に兄貴ぶりやがって、この野郎ぜってぇ泣かす。

 

 なお決意を新たに挑んだ勝負は、野郎が自己記録を馬なりで更新しやがった(人間がざわめいていた)ために見事敗北に終わった。

 すいません、ダートでも芝でも距離は8ハロンくらい下さい。

 

 

 

 

 

 1976年10月2日

 東京競馬場 本馬場

 

 涼しくなってきたとはいえ、やはり軽井沢や北海道に比べれば暑い東京の秋。

 再びダート6ハロンを駆け抜ける競争がやってきた。

 

『来週マルゼンスキーの初戦ですね』

『ええ、芝1200。こいつなら楽に勝てますよ』

 

 仲渡君がそう言いながら兄さんの首を叩く。

 鞍上同士の会話を聞いて、兄さんのデビュー戦を知る。

 前々から調教が実践向けになってきたのもあるし、そろそろかなと思ってたけどいよいよか。

 

『トリウィアヘカテーはいつなんです? マルゼンスキーと同じ時期にというのは聞いてましたけど』

『16日の中山、ダート1200。この馬ならダートで負けはないですよ』

 

 ついでに私の予定も出てきた。

 やっぱりダートか。いやまぁダートの方がありがたいのは確かである。

 ただ、距離が短いんだよなぁ。兄さんに勝てない距離でほかの馬に勝てるんだろうか。

 

「兄さんあと数日でデビュー戦だってさ」

「マジか。今日は全力で走ってみるわ」

 

 兄さんがふと漏らした言葉に、私は耳を疑った。

 

「なに、これまで本気じゃなかったの?」

「いやほら、寒いとこに居た時お前が通訳してくれてたじゃん? 人間が全力だと故障するかもって言ってたと。お前と遊んでた時も全力出すと足とかちょっと違和感あったし。だから普段は全力出してなかったんだよな」

「マジかコイツ」

 

 確かに本江さんとゲオルギウス君がこそこそ話してたのを翻訳して伝えたよ? 

 けがされても困るし。けどまさかそこまで本気にしてるとは思わないじゃん。

 え、流して走ってた兄さんに、これまでの勝負でほとんど全力出して負けてた私って、もしかして弱い? 

 なんだか先行きが不安になってきたぞ。

 

「俺、全力出すから見ててくれよな」

「いいけど、前から見てやる」

「無理無理、俺の後ろでヒイヒイ言ってな」

「何が何でも前に出てやるからなぁ!」

 

 野郎煽りやがって! 思わず嘶き、頭と体を振ってしまう。

 

『うわ、どうしたトリウィアヘカテー!?』

『よっとっと、マルゼンスキーが気に入らないみたいですねぇ。何を言ったんだお前?』

 

 ああ、ごめんよ本馬君。

 鞍上に頭を叩かれている兄さんを睨みつけると、奴はすっと首ごと目線をそらした。

 絶対に許さん。

 

 なお再びの対決も馬なりで上がり3ハロン35秒を切りやがった(体内時計がおかしくなければだが)奴にぎりぎり追いつけず私の負けで終わってしまった。

 非常に悔しい。私も34秒台は出せてたと思うが、兄さんのテン3ハロンで1秒近く差をつけられたせいだろう。やっぱり距離が足りんよ距離が。

 

「ふぅ、くそー、やっぱり兄さん速いな」

「ぜぇ、はぁ、おまえ、元気、すぎんだろ」

 

 旗持ってるおじさんの真横を駆け抜け、やっぱり追いつけなかった悔しさを大きな息とともに吐き出すと、随分前まで走っていったマルゼンスキーが近寄ってきた。

 兄さん息切れすぎじゃない? いやでも距離適性の差ってやつかな。

 

『やっぱりこの二頭は強いですね。1:10なんて新馬が出していいタイムじゃないですよ』

『マルゼンスキーなんて主戦場は芝だろう。短距離とはいえダートでOP馬を蹴散らせるタイムを出せるのはすごい』

 

 なぜ鞍上の二人がすでに私たちのタイムを知っているのか。

 それは私と兄さんは事前の打ち合わせを聞かせてもらえれば、鞭も手綱も必要なくタイム測定ができるので二人は自分でストップウォッチでタイム計測しているためである。

 

 ほかの馬のタイムが分からないけど、私たちは随分と良いタイムを出せたらしい。

 兄さんは前の測定の時点で相当いいタイムを出してたらしいが。

 

『トリウィアヘカテーなんてダート最速も狙えるじゃないですか。6ハロンを馬なりで加速し続けるなんてひどいですよ。後半マルゼンスキーが一杯に飛ばしてるのに、後ろを見るたび近づいてくるトリウィアヘカテーは怖かった』

『テンの3ハロンあれだけ飛ばして上り3ハロンほとんど減速しないマルゼンスキーもどうかしているさ。あれだけの加速をしているのに距離がなかなか詰まらないというのは怖いものだよ?』

 

 二人に誘導され、本馬場から練習馬場に向けて歩き出す。これもう一回やるってことかな? 

 などと思いながら、いつも通り彼らの言葉を兄さんに翻訳して伝えてやる。

 私だけ人間の評価を理解してたら対等の条件で勝負できないからね。

 

「めっちゃ褒められているぞ兄さん」

「ひぃ、ひぃ、お前に勝てるんだから、そりゃそうだろ。そろそろ自分が速いって自覚しろよ妹モドキ」

「そうは言ってもわからないものは分からないんだよ兄さん」

 

 息を切らした兄さんに指摘されるが、それが理解しにくいから困っているのである。

 私は他所の馬と並走することがほとんどない上に、自分や他の馬のタイムを見ることができないので実感がない。軽井沢の皆様より早いというのは知っているが、ブランクが長すぎるから比較対象にもならない。

 正確な比較対象が私より圧倒的に速い兄さんしかいないのである。

 兄さんに置いて行かれる訳ではないのだから、遅くはないのだろうが。

 

「はぁ、はぁ、やっぱお前頭に問題ないか?」

「喧嘩売ってるなら買うけど?」

「痛い! 尻尾はやめろ!」

 

 バッチンバッチン兄さんの尻に尻尾を叩きつける。

 私に喧嘩売っといて蹴りじゃないんだから我慢しろよ。

 

『負けたのが悔しいのかな、トリウィアヘカテー』

『兄に甘えてるんじゃないですかね』

 

 そうじゃないからな鞍上君! 勘違いすんなよ! 

 微妙に悔しいのはそうだけど! 

 

 

 

 

 1976年10月11日

 東京競馬場

 本江厩舎

 

「やべぇ、結構しんどい」

「本気で走ると消耗するからね、ゆっくり休みなよ」

 

 新馬戦をぶっちぎりで圧勝したらしい兄さんは、帰ってきて以来ズタボロの状態である。

 他の馬達も遠征から帰ってくるとしばらく愚痴を漏らしているのでそんなものなのだろう。

 徐々に回復しつつあるのでそれほど心配はしていないが、全力疾走とはここまでここまで消耗するものなのだなぁ。

 などと言っていると、大きめの箱を抱えた本江さんが兄さんの馬房をのぞき込んだ。

 

『随分疲れてるな。まぁ、新馬とはいえレコード叩き出したんだ、しょうがないか』

「ん? どうしたおっさん。なんかようか?」

 

 本江さんは箱一杯の果物を飼い葉桶に流し込み、腰を叩く。重いだろうからね、仕方ないね。

 そんな本江さんに、馬房から首を伸ばした兄さんが頭を摺り寄せた。

 え、何コイツレコード出したの?こわ、やっぱ早いんだな。

 

『おお、よしよし。リンゴと人参が届いたぞ。三週間後には次戦だ、ゆっくり休め』

「うひょー、甘くてうまい奴じゃん!」

 

 本江さんがマルゼンスキーの頭をなでていると、果物の山を見つけた兄さんのテンションが上がる。

 まぁ、匂いからして美味しそうな上物だもんね。

 物凄い勢いで齧り付く兄さんの頭を最後に一叩きし、本江さんは去っていった。

 

「三週間後には次戦だってさ」

「もぐもぐ、マジかよ。早くね?」

 

 本江さんの言葉を翻訳すると、兄さんは口からリンゴの欠片をこぼしながらこちらを見てきた。

 汚いな、口の中のもの飲み込んでから喋れよ。

 

「そんなもんじゃないの? 二週間に一回遠征してる馬結構いるじゃん」

「確かに」

 

 近くの馬房にいる馬などガンガンレースに出走し、そのたびに負けて帰ってきているのだから、そんなものといえばそんなものなのだろう。

 東京競馬場でも毎日のように何レースも行われているのだから、全国の競馬場の数を考えれば、出られるレース自体は山ほどあるはずだし。

 

「今は一杯食って一杯休んで疲労抜きが優先だな。疲れてたら勝てるもんも勝てねぇ」

「そうしなって。はぁ、それにしても兄さんが勝ったんだし、私も勝たなきゃな」

 

 同じ父を持つ兄が勝ったのだから、私も相当期待されているのだろう。そう思うだけで胃のあたりに重さを感じてしまう。

 ダート戦だし、よほどのことがない限り負けないとは思うが、レースというものは時の運が絡むもの。

 馬群に沈めば何もできなくなる可能性だってある。

 一度負ければ負け癖がついてしまうかもしれない。

 兄やゲオルギウス君に見放されてしまうかもしれない。

 そんな陰キャ特有のネガティブな思考が頭の中を駆け巡り、どうにもやる気が減退していくあの独特の感覚に飲まれそうになっていると、私の飼葉桶にリンゴが放り込まれた。

 

「無駄にいろいろ考えてそうだけど、果物食って落ち着け」

「そうは言ってもね」

 

 兄さんの言葉にあいまいな返答を返しつつ、もらったリンゴに噛り付く。

 旨いなこれ。ヘラのリンゴより旨いかもしれない。

 

「ボス馬にすら圧勝した俺を追い詰める俺の妹がそこらの有象無象に負けるかよ。いつも通り走れば俺以外に負けるわけないだろ」

「それもそうか」

 

 半分煽りみたいな兄さんの言葉を聞いて、気持ちが上向いた気がした。

 新馬レコードをたたき出した、世代最強の可能性すらある兄さん相手に首差や頭差までは追いすがれるんだ。

 少なくとも同じレースに出た新馬たちよりは強いと思っていいんだろう。

 

「よし、勝ってくるよ」

「当然だろ、妹モドキ」

 

 いい感じに終わるかなと思ったら、なんか腹立つなこいつ。

 

「ペッ、ヘタレ兄さんのくせに生意気だぞ」

「汚っ!? 芯を飛ばすなよ!?」

「ふん」

 

 奴に芯を吐きつけ、馬房の中に引っ込む。

 感謝の言葉をかけるタイミングを逃した感があるが、無事に勝ってから言えばいいだろう。

 

 間もなくやってくる新馬戦に向け、カッチリと何かがはまった気がした。




マルゼンスキー戦績

1976年10月9日 三歳新馬戦 芝1200m 1:08.3(新馬戦レコード)
        一着 大差(約20馬身差)

外向肢勢の改善と本気を出す気になった当馬の実力が合わさり、圧倒的な爆逃げで史実より2.5秒ほど早いタイムをたたき出し新馬戦レコードを獲得した。
出だしから鞍上との折り合いはつかなかったが、馬なりでこのタイムを出したことにより史実よりも大きな注目が集まっている。

タイム的には同じコースを走るスプリンターズS(現G1)でも1990年バンブーメモリーまで負けないレベル。それ以降でもニシノフラワーやヒシアケボノ、タイキシャトルにカレンチャンなどの実装組くらいにしか負けない。
グランアレグリアと同タイムである。
こいつはこの時点では現在の2歳馬である()



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第六話 新馬戦

やっと新馬戦が書ける……。

古すぎてレースの状況が全くわからん……。


 1976年10月16日

 中山競馬場 パドック

 一競馬ファン

 

「ああ、効くなぁ」

 

 夜勤を終え、疲れた体に酒とモツ煮を流し込みながら降りしきる雨の中、久しぶりの競馬場を楽しむためにパドックを見ていた。

 周囲にいるのは俺と同じように、目をギラギラさせ赤鉛筆片手に馬を見定める競馬狂いばかり。

 俺のようにひっかけながらというやつも多い。

 それもそうだろう。これだけ雨が降る中での、まだ第3レースのパドックなのだから。

 来年の名馬を今からを探し回るような暇な奴しかいない。

 

 第3レースはダート1200で行われる新馬戦だ。

 この雨の中不良馬場で行われるダート戦に期待が高まっていく。

 ダートという芝の二軍扱いされることも多いレース体系だがこれはこれで面白いもの。

 露骨に実力差が出るという意味でも、今日のように不良馬場では番狂わせが起きやすいという意味でもな。

 

「やはりウエッターホーンが来るか? 仕上がりは良いようだが」

 

 目の前に次々と現れる第3レースに出走する馬達を見ていても、やはり一番人気のウエッターホーンの仕上がりが一番のように思えていた。

 だがそれも最後に現れた馬を目にするまではだ。

 

≪8枠10番、トリウィアヘカテー、牝馬、体重498kg、鞍上は本馬信夫騎手、斤量52Kg≫

 

「なんて馬だ」

 

 場内放送の音が頭に入ってこないほどの衝撃に、うわごとのように言葉が漏れる。

 周囲の競馬野郎共もどよめくほどの完成度。

 

≪9日の新馬戦で圧倒的な強さを見せたマルゼンスキーと同父、調教時計も素晴らしい結果を残した注目の馬です≫

≪馬体もしっかりと仕上げられています。左右を見回していますが誰かを探しているのでしょうか≫

 

 美しい馬体に、がっしりとした筋肉が乗り、しかし軽やかな歩みを見せる黄金の馬。

 周囲の馬を圧する気迫が漏れ出しているように思えるほどの、重厚な肉体だった。

 

「あれ牝馬だろう?」

「秋生まれの三歳牝馬とは思えないな」

「牝馬なのにマルゼンスキーより重いのか」

 

 こいつは強い。間違いなく強い。

 イレ込んでるわけでもないのに、周囲の馬を委縮させるこいつが、弱いわけがない。

 オパールステークスにつぎ込むつもりだった3万を握りしめ、ほかの馬をこれ以上見るつもりもなくなった俺は販売窓口へ駆け出した。

 

≪おっと、トリウィアヘカテー柵に寄っていく。子供に挨拶をしているようです。ああ、馬主とそのお子さんなんですね≫

≪人懐っこさを見せたトリウィアヘカテーに、場内から笑いが上がっています≫

 

 

 

 

 1976年10月16日

 中山競馬場 馬主席

 ゲオルギウス

 

 パドックや返し馬でのトリウィアヘカテーの様子を見て、馬主席に帰ってきたニコラオスはとても静かだった。

 競馬場についた時には珍しいほど興奮し、落ち着きがなかったというのに。

 パドックでは真剣な目つきになり、返し馬を見た今は沈思黙考している。

 

「さて、ニコ。人生で初めて見たレース場のトリウィアヘカテーはどうだった?」

「……あの子とはまだ数えるほどしか会ってないけれど、今日出ている馬では一番速く走ると思う」

 

 私の質問に、数拍おいて顔を上げた彼が答える。

 私に付き合い、アメリカではそれなりの回数競馬場へ足を運んだ彼の評価は、競馬新聞や競馬師の評価とも合致する適当なものだった。

 

「なぜそう思うんだい?」

 

 だが私は彼に問いかける。

 メルク―リの家の者としてある程度は観察眼を身に着けてほしいからだ。

 馬を見る目でその人物の器量が図れるというのは、我が家の伝統である。

 

「最後に見た時よりも体が締まってた。ちょっと落ち着きがなかったけど歩き方にも澱みはないし、毛艶もよかった。他の馬はどこか弱そうに見えたし、トリウィアヘカテーと目が合うと落ち着きがなくなってた。多分走る前から序列が決まってたんだと思う。騎乗した途端にすっと落ち着いたし」

 

「返し馬ではゆっくり歩いていたけど、どうかな?」

 

 あの娘は全く走る気配を見せなかった。

 ぬかるんだコースを馬術競技のお手本のような常足で最短距離を歩んでいた。

 

「マルゼンスキーとの並走の時だって、走るべきタイミング以外だと基本的におとなしかった。あれはトリウィアヘカテーの気質なんだと思う。走らない時は全力で拒否する子だしね」

「うん、お父さんも同じ考えだよ」

 

 よく見ている。あの仔は走るべきタイミング、自分のなすべきことを理解している。

 牧場でも、厩舎でも、練習馬場でも。まるで人の言うことを聞き取れるように指示に従い、最適な判断を下すことができる。

 他の馬相手には容赦ないが、天性のボス馬気質なのだろう。現に東京競馬場の牝馬の中でもかなり上位になっているらしいからね。

 

「ニコならどの馬に賭けるかな?」

「当然トリウィアヘカテー」

「2着は?」

「ウエッターホーン」

「3着は?」

「ちょっとわからない。多分カイエンオーかウインリボーだと思うけど」

「わかった、少し待っていなさい」

 

 私は彼に待つように伝え、トランクケースを持って窓口へと向かう。

 うん、とりあえずヘカテーに4000万ほど入れておこうか。

 

 

 

 

 

 1976年10月16日

 中山競馬場 ダートコース

 トリウィアヘカテー

 

 雨が降りしきる中、ぐちゃぐちゃのダートコースを踏みしめゲート入りを待つ私。

 ついにやってきた新馬戦への緊張は、ここに至るまでに吹き飛んでいた。

 なぜなら今回の相手で、怖いと思う馬がいなかったから。

 パドックで視線を向ければ怯えたような雰囲気を醸し出し、返し馬の走りと見ても全く脅威を覚えなかった。

 つまり鞍上君や兄さんが言っていた私が速い馬であるということを、少なくともこのレースにおいては信じることができると思えたためである。

 

 他の馬が次々にゲート入りしていくのを見送り、誘導員に引かれながら私もゆっくりとゲートへと向かう。

 

「勝てるのか、いや、勝たなきゃいけない」

 

 雨に打たれながら、一度嘶く。奥底から湧き上がる熱に浮かされたように体が震えた。

 出発前に励ましてくれた兄さん。

 雨の中パドックまで来て応援してくれたゲオルギウス君とニコラオス君。

 最後まで見送ってくれた本江さんや厩舎の人たち。

 私は、みんなの期待に応えることができるのか。

 弱気の虫が心の隙間から這い出してきたのか、不安が積み上がり震えが止まらない。

 

『武者震いか、やる気は十分だな』

 

 本馬君が私の首に手を添える。濡れた彼の手の熱が、私にじんわりと伝わってくる。

 数度撫でられると、すっと手が離れた。

 

『順当に走れば、間違いなく勝てる。お前は、圧倒的に強い』

 

 全ての馬で最後に狭苦しいゲートに押し込まれ、背後で扉が閉じる甲高い音がする。

 気付けば震えは止まっていた。

 

『勝つぞ、トリウィアヘカテー』

 

 彼の声を聴き、私は耳に意識を集中させる。

 馬の嘶き、彼の呼吸音、周囲の人や馬が芝を踏みしめる音。

 それらを切り捨て、ただスターターがレリーズを握る音を待つ。

 

 何秒経ったかはわからない。皆の足が芝を踏んだ。

 ガチリという小さな音が聞こえた。

 体に力を籠める。

 ほんの数瞬の間の後、ガチャリという大きな音共にゲートが開き始める。

 周囲の馬達が駆け出そうと体に力を入れるタイミングで、用意していた私は第一歩を踏み出し始める。

 本馬君の両足がすり抜けられるぎりぎりのタイミングで、私は半開きのゲートを飛び出した。

 

「今日は逃げに逃げてやるわぁ!!!!!」

 

 距離が足りないなら、最初から全身全霊!スタート直後からのロングスパートで頭を押さえて逃げ切ってやる! 

 

 

 

 

 

 1976年10月16日

 北海道 端本牧場

 

「おうおう、よく食ってんなシル」

「ブヒン」

 

 出産を済ませすっかり食欲も戻ったシルの世話をしていると、厩舎の奥からザリザリというラジオの空電雑音が聞こえてくる。

 ついでに社長の舌打ちまで聞こえてきた。

 

「チッ、なかなか聞こえんな」

 

 社長はダイヤルを弄繰り回し、その度に雑音が大きくなったり小さくなったりしていた。

 

「何やってんスか社長。ラジオなら高いところで聞かないと」

「あん? このあたりでも聞けるように態々高いアンテナ立てたんだろうが」

「それだって金属に囲まれた厩舎の中じゃまともに電波来ないっス」

 

 締め切った建物だし、発電機を含めた電気設備が一杯あるんだからいくら高精度ラジオだからって無茶だってのに。

 

「つーかこの前買ったチューナーも繋いでないんじゃ無理っすよ。母屋で聞き来ましょうよ」

「チッ、ほかの馬にも聞かせてやりたかったんだがな。茶淹れとくから繋いといてくれ」

 

 汚れを落とし一度着替えてから母屋の炬燵に入りつつ、ラジオに大アンテナから引っ張った線をNSBチューナー経由で繋いでやるとすぐに人間の音声を吐き出してくれた。

 

≪雨降りしきる中山競馬場からお届けしていますラジオたんぱ競馬中継、第3レース新馬戦、ダート1200は間もなくの発走です≫

 

「よかったよかった、聞こえるようになったっス」

「ありがとうな、間に合ってよかったぜ」

 

 安堵の息を漏らした社長が台所から持ってきてくれた日本茶を啜りつつ、頂き物の煎餅をかじる。

 

≪本レースの注目株は3枠3番、一番人気のウエッターホーン、そして2番人気のトリウィアヘカテーであります≫

 

 お、トリウィアヘカテーが出るレースだったんスね。

 

「そういえば坊ちゃん達は向こうにいるんでしたっけ」

「おう、日本の競馬を見せてやりたいってんでな」

 

 学校休ませてまで態々現地に連れていくとか、社長の娘さんたちが聞いたらどんだけわがまま言うかわかんねぇ。

 まぁ、お嬢さんたちと違って、坊ちゃんは小学校の勉強くらいしなくても良い程度に頭いいけれど。

 

≪一番人気のウエッターホーン、良い仕上がりです。内枠を確保できたのが有利に働くか≫

≪続いて三番人気のトリウィアヘカテー。三歳牝馬とは思えない筋量を秘めた大柄ですが、動きは軽やか。大外枠が不利に働くと見たか三番人気であります。≫

 

「枠順不利が相当響いたな。新馬戦でしかもダート不良馬場ならしかたないかもしれん」

「けど実況はべた褒めっスよ。相当な仕上がりなんスね」

 

 新馬戦じゃまず聞かないくらいのべた褒め。こっちにいるときからめちゃめちゃ良い体つきしてたけど、向こうで更に仕上げたんかね。

 

≪おっと、場内がどよめいた。ここでトリウィアヘカテーが一番人気に躍り出た、倍率2.5倍ですがこの変動も納得の仕上がりです≫

 

 これはあれっスかね。

 社長の方を見ると苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

「ゲオルギウスさんが大買いしただろ」

「したッスね」

 

 あの人なら1000万単位を涼しい顔で投げてもおかしくない。

 何億って金を小切手でサッと支払えるレベルのお金持ちのやることは分からないッス。

 

 ラジオから割れた音でファンファーレが鳴った。

 

≪さぁ、発券打ち切りのお時間となりました。いよいよゲートインであります≫

≪各馬スルスルとゲートに入っていきます。新馬戦とは思えないほどスムーズに入ります≫

≪良いレースが期待できそうです。さぁ、大外のトリウィアヘカテーがゲートインし、各馬発走準備が整いました≫

 

「いよいよっスね」

「距離が足りない。追込をするとしたらどうなることやら」

 

 トリウィアヘカテーは典型的な追込ステイヤーの素質馬。1200じゃ加速しきるのすら難しいと思う。

 けれども、あのマルゼンスキーとも競り合えた馬なら、何かやってくれるんじゃないかとも思う。

 

≪雨の中三歳新馬戦が今スタート。芝の上飛び出したのはトリウィアヘカテー! 1馬身、2馬身離れて続くはウエッターホーン! 先頭争いはこの二頭か≫

≪ダートに入って中段はカイエンオーを先頭にウインリボー、ナリキウイング、キクサファイア、コクサイパレードが密集した馬群を形成、その後方にスコットシチーとロッキージャンボ、最後尾はぽつんと一頭コガネグレート≫

 

 トリウィアヘカテーは追込のはずなんスけどね。

 なんでダート入っても頭抑えてブッ飛ばしてるんだ? 

 

≪坂を下って第三コーナー、3Fを通過してトリウィアヘカテーが先頭を飛んでいく! ウエッターホーンが後続を引き離しながら追いすがるが差が広がる! 3馬身! 4馬身!≫

≪この状況に焦ったか中段の馬群からカイエンオーとウインリボーが抜け出した、先行するウエッターホーンをとらえられるか≫

 

 明らかに展開が速い。逃げどころか大逃げのペースだ。

 ラジオ越しでもわかるくらい、場内がどよめいている。

 

≪トリウィアヘカテー! 最終コーナーを一人旅! まだ差を広げていく!≫

≪残り400mを通過、ウエッターホーン追いすがるが差が縮まらない! 中段からコクサイパレードが上がってきた! ほかの馬は失速気味か!≫

 

「距離が足りないなら最初からロングスパートさせればいい、か。やるじゃないか」

「ほんとっスね」

 

 牧場長が無意識に溢した言葉に、思わず同意する。

 2歳で4000m走れてしまう、馬鹿げた体力があるトリウィアヘカテーなら、クラシックディスタンスの半分程度全力で走っても余力があるッス。

 なら適性が低い短距離で実力を発揮させるなら、最初から体力任せにスパートさせてしまえばいい。

 単純だが、体力と実力が圧倒していないととてもじゃないけど取れない戦術っスね。

 

≪最終直線に入って来たのはトリウィアヘカテー! 伸びる! 伸びるがウエッターホーンは間に合わないか! 食い付かんとカイエンオーとウインリボーが叩き合う! その後方コクサイパレードが外から仕掛けた!≫

 

 その結果がこれ。他の馬はまともにレースができない。

 高速展開についていくために足を使ったのに差をつけられ、ずるずると引き離されていく状況ではどの馬も早仕掛けが要求された。

 だが好位に着けない先行も、足を溜められない差しも、射程圏に居られない追込も、体力を残して逃げる馬の脅威にはなりえない。

 

≪残り200m! ものすごい勢いでトリウィアヘカテーが坂を駆け上がる! ウエッターホーン後方を突き放したがもう前には届かない!≫

 

 淀よりはましとはいえ、減速必死の中山の坂をただ一頭で駆け上がっているらしいトリウィアヘカテー。

 ダートを苦にしない筋力と骨格、大きな胸郭に納められた心肺が生み出すスタミナを存分に使い倒した走りを見せたッス。

 

≪トリウィアヘカテー! トリウィアヘカテー! トリウィアヘカテーがゴール板を駆け抜けた! 圧勝です! 明確な大差をつけ勝利しました!≫

≪大きく離されウエッターホーンが二着! 三着はカイエンオー! 続いて四着にウインリボー! 少し離され五着はコクサイパレード!≫

≪勝ち時計は1:08.9! トリウィアヘカテー日本レコードです! ダート1200m日本最速を叩き出しました! 上り3F34.5!≫

 

「レコードっスよレコード!」

「兄妹そろってレコード勝ちとは剛毅だなぁ、おい」

 

 思わず声を上げた俺を見て、社長は楽しげに笑った。

 いやいや、とんでもない馬達の面倒を見てたんだなと改めて思う。

 

≪……さん、いやぁ、素晴らしいレースでしたね。≫

 

 ラジオからアナウンサーが解説に話を振ったのが聞こえてきた。

 

≪泥濘の中、不良馬場とは思えない圧倒的な走りでした。続く二着ウエッターホーンも1:10.9と好タイムです。全体的に異様な高速レースでしたが、それでも最後まで追いすがり、後続を大きく突き放したウエッターホーンの次走に期待しましょう≫

 

「確かに、ウエッターホーンは強い。良い時計だし、トリウィアヘカテーがいなけりゃ順当に勝ってただろうよ」

 

 社長の言う通り、レース全体の所見と二着のウエッターホーンについてのコメントは納得のいくものだった。

 日本レコードとなる超高速展開となった新馬戦で、不良馬場としてはOP戦でも勝てるだけの時計を叩き出したウエッターホーンは今年の有力馬といっても過言じゃない。

 

≪カイエンオーとウインリボーの三着争いもいい勝負でしたね、この二頭についてはいかがですか≫

≪ウエッターホーンにも地力の差を見せつけられた格好ですが、一勝クラスの標準タイムと比較しても悪くない時計です。未勝利戦を勝ち上がるだけの力はあると思いますね≫

≪そして、トリウィアヘカテーが圧倒的な強さを見せつけました。芝のマルゼンスキーに続きダートをも海外良血が制するのか。今後の展開に注目が集まります≫

≪今払い戻し計算が終了したようです、配当額は単勝250円……≫

 

 配当金の放送が始まると、太く息を吐きながら社長がラジオを切った。

 

「ふぅ、順当に勝ったな。しかし消耗してないと良いんだが」

「マルゼンスキーはともかく、いくら追い込んでも平気な顔して走ってたトリウィアヘカテーは大丈夫じゃないっスか?」

 

 社長の心配は分かるっスけど、めちゃくちゃ速くても普通の馬なマルゼンスキーはともかくトリウィアヘカテーは大丈夫だと思うッス。

 3600走らせてズタボロになったマルゼンスキーを尻目に、もっと走りたがるような馬は気にしなくていいはず。

 

「ケガしてなきゃ飯食わせとけば直に走りだそうとしますよ。つーかマルゼンスキーのコズミはどうなんスか?」

「それもそうか。ああ、よくなったみたいでな、今日はいちょう特別に向けて普通に調教掛けると連絡が来たよ」

 

 レコード勝ちした代償か、前レースの後コズミを発症していたマルゼンスキーは回復したらしい。

 こっちにいるときも、トリウィアヘカテーと合わせた時たまになってたからそれほど心配はしてなかったんスけどね。

 そういやトリウィアヘカテーはこのままダート路線に行くんスかね? 地方に移籍しないとあんまレースがないっスけど。

 

「トリウィアヘカテーはどうするか聞いてます? マルゼンスキーはいちょう特別、府中三歳、朝日杯三歳Sってのは聞いてますけど」

「銀杏特別で芝を走らせてみて、結果次第じゃ府中三歳にぶつけてくる」

「えっ!? 持込馬同士で削り合いやるんすか?」

 

 難しい顔をして腕を組んでいる社長。

 出れるレースの少ない有力持込馬同士で勝ち星の取り合いしなくてもいいと思うんスけどね。

 

「向こうさんとしては、どうも芝路線を諦めるかどうかをマルゼンスキーと競わせて決めたいらしい。基準扱いされるのは業腹だが、少なくとも世代最強はマルゼンスキーと見ているという話でな。結局勝った方が芝、負けた方がダートを主軸にするって話になった」

「社長もギャンブラーっスね」

 

 馬主同士のアホな結論に、呆れた声が出てしまう。

 いくら何でもギャンブル過ぎる。

 

「馬主になるような奴がギャンブラーじゃないわけないだろ。それにどっちに出してもマルゼンスキーとトリウィアヘカテーは勝ちまくるだろうからな」

「それは確かに」

 

 どっちがどっちの路線とっても、適正距離なら勝ちまくるのは目に見えてますからね。

 

 それにしても今年デビューした馬達はひどい年になりそうっスね。

 OP戦は芝の2000までは無敵、2500までは好走できるマルゼンスキーと、ダートは短距離以外全距離、芝でも中距離以上なら走れるトリウィアヘカテーが出張ってくるんスから。

 出走できないクラシックやティアラ路線で勝っても空き巣扱いされるでしょ。

 来年の有馬記念取られたら最弱世代扱いだってあり得るッスよ。

 

「来年の有馬が楽しみっスね」

「今から来年の話をすると鬼が笑うぞ? けど、見てみたいよな、あの二頭が中山で先頭争いするのは」

 

 俺も社長も顔を見合わせて笑ってしまう。

 まだ新馬戦を勝っただけの二頭だ。冗談でしかない。

 けれどもトリウィアヘカテーとマルゼンスキーが、国内有力馬を蹴散らして中山の直線を駆け抜ける姿がはっきりと見えた気がした。




兄妹合わせて新馬戦で1200mレコードを叩き出したのにクラシックやティアラ路線に参戦できない馬がいるって?

この時代はちょうど持込馬が外国馬と同じ扱いを受け始めたあたりになります。
このため有名なレースの大半は出走できないんです。

天皇賞も出られなくなったため、このころは今のG1だと朝日杯とエリ女くらいしか出られなかったはず。有馬と宝塚は出られますけど。

次回は本江厩舎での休養と調教の話になるかと。


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第七話 初戦の手応え

次戦に向けて休暇中のお馬さんたちと人間たちの悪だくみ


1976年10月17日

東京競馬場 本江厩舎

トリウィアヘカテー

 

「ぐえー、マジ痛い、無理」

 

新馬戦を終え本江厩舎へと戻った私は無理をしすぎたのか、全身酷い筋肉痛に襲われていた。

松明ブンブン丸になった後並みの筋肉痛である。無茶苦茶しんどい。

流石にレース当日よりはましだが、痛いものは痛いのだ。

 

「飯食って寝てれば治るよ、俺がそうだったし」

「いや、わかってるけどしんどいんだわ」

 

隣の馬房から、練習馬場へと引き出されるマルゼンスキーの声が聞こえる。

奴はすっかりコズミも治り、今日も元気に練習しに行くのだ。

 

「はいはい、ゆっくり休んどけ。んじゃ行ってくるわ」

「いてらー。……くそ、ほんとに痛い」

 

私の馬房の前を通り過ぎるマルゼンスキーを見送った後、馬房の寝藁の上に転がる。

筋肉痛軽減のためにじたばたと全身を動かしていると、どうも聞きなれた足音が二つ聞こえてきた。

一つは本馬君の足音。もう一つは軽くてサイクルが早い。子供かな?

 

『トリウィアヘカテー、起きてるか?』

 

立ち上がり馬房の入口へ向かうと、ちょうど馬房の前に来た本馬君が声をかけてきた。

 

『うおう、急に出てくるなよ』

 

にょきっと出した頭を撫でてくれる本馬君。

ふっ、相変わらず撫でるのがうまいじゃないか。

 

『よかったな、坊ちゃんが来てくれたぞ』

「坊ちゃん?」

 

坊ちゃんって誰だ?坊ちゃん、男の子供、関係者、まさか!

 

『元気そうでよかった、久しぶりだねヘカテー』

「ニコきゅん!!!!いだだだだだだだ!!!!!!!!」

『うぁっ!?急に興奮するな!』

『本当に元気そうでよかった』

 

本馬君の陰に隠れていたニコきゅんがはにかんだ笑みを浮かべて私を見てくれていた。しかも限界まで下げた頭を撫でてくれるサービス付き。天国かここは。

 

レースの時に会って以来の新鮮な黒髪美ショタに大興奮である。全身に力が入り激痛に苛まれるが問題ではない。

本馬君が何か文句言っているが、私は今ニコきゅんを嗅覚と触覚で堪能するので忙しい。後にしてくれ。

 

『コズミはよくなったのかな?』

『勝手に整理運動とリハビリする賢い馬だからね、今朝はまだ痛がってたけど、数日で治るとは思うよ』

『そっか、早く良くなってね』

「大丈夫!ニコきゅんになでなでしてもらったからすぐに治るよ!!!!いだだだだだだだ!!!!!!」

 

ニコきゅんのヒーリングヴォイスとヒーリングハンドとヒーリングスメルの効果で痛みが少なくなっている気がする。いや少なくなっているに違いない。

脳内麻薬とホルモンと血流がドバドバになっているのが分かるくらいである。

 

『目は血走ってるし首より後ろはガクガクしてるのに、頭は微動だにしないで深呼吸してるの気持ち悪いな』

『器用だね、ヘカテー』

「気持ち悪いってなんだよ本馬君!ニコきゅんに傷一つつけるわけにはいかないからね!畜生!とにかく痛い!!!!」

 

痛みに悶えていると、本馬君が持っていた籠からリンゴや人参をニコ君に差し出した。

 

『坊ちゃん、林檎とか上げます?』

『いいの?はいこれ!』

「ニコきゅんの手から食うリンゴうめぇ!!!!!!」

 

 

黒髪天使手ずからの人参やリンゴをめっちゃむしゃむしゃした後、時間を気にした二人は連れ立って去っていった。

どうも次のレースは近いらしいし、とっとと筋肉痛直さないとな。

柔軟や足踏み、右回りしたり左回りしたりと全身を意識的に動かしていく。

 

「けどやっぱ痛いもんは痛い!」

 

しかし気合を入れても痛いものは痛いのだと、ビクンビクンしながら改めて思った。

 

 

 

1976年10月20日

東京競馬場 本江厩舎事務室

本馬信夫

 

調教師から連絡を受け、本江厩舎の事務室でゲオルギウスさん(トリウィアヘカテーの馬主)が持ち込んだ折詰を食うことになった俺は緊張で箸を持つ手が震えていた。

安っぽい長テーブルには緊張で震える俺と仲渡の騎手組と、本江調教師とゲオルギウスさんがそれぞれの側で座っている。

 

俺も仲渡も、馬に負担をかけるような騎乗をしてしまっている負い目があった。

二頭とも軽微なコズミだけで済んだが、もしかしたらがあってもおかしくないような大記録を出してしまっている。

勝つことは重要だが、それは制御された勝ち方でなくてはならない。

全力を常に発揮させていては、負荷があまりにも大きくなりすぎてしまうからだ。

 

正直なところ、全く制御できなかった俺たちは、いつ屋根を下ろされてもおかしくない状況だった。

馬を制御できないヘボ騎手の代わりなんて、この東京競馬場だけでもいくらだっている。

今日の呼び出しは解雇通告だな、と笑えない冗談を飛ばして仲渡に一発殴られてから事務室に来たくらいには追い詰められていた。

 

だが、事務室に着けばそこに居たのは本江調教師とにこやかに談笑するゲオルギウスさん。

最初の挨拶の時点で本江師から主戦継続を言い渡され、俺たち二人はほっと息を吐いた。

 

解雇の緊張から解放され、席に着いた俺たちだったが今は別の緊張に襲われている。

 

「弁当で申し訳ないが、我々の馬の初勝利祝いということで食べてほしい。ああ、本格的な祝宴は別に設けるつもりだよ」

「い、頂きます」

 

目の前にあるのは自分でも名前を知っている東京でも老舗の折詰弁当。

蓋を開ければ、尾頭付きの小さな鯛と有頭海老を主役に添えた明らかに高級なものだった。

そんな代物がゲオルギウスさん、本江調教師、俺、そして仲渡の分並んでいる。

一週間の食費くらいしそうなそれを、ゲオルギウスさんは安い煎餅でも差し入れるように持ち込んできたのだ。

 

「私までいいんですか?」

 

とりあえず感謝の言葉は伝えたものの、尾頭付きなんて初めて食うんだがどう食えばいいんだ。

そう困惑していると隣の仲渡が申し訳なさそうな声を出していた。

まぁ、確かに関係は薄い。正直おごられるような関係じゃないよな。

 

「ええ、端本さんから”しばらく東京に行けないから代わりに頼む”と言われています」

「だとよ、ありがたく食っとけお前ら。んぐ、旨いなこれ」

 

端本さんからの伝言にホッと息を吐いた仲渡も、安心した様子で箸を手に取った。

それにしても本江師は豪快が過ぎる。普通このサイズの尾頭付きに齧り付くか?

 

卵焼きやタコの桜煮などめったに食わないようなおかずを堪能して完食し、食後の茶を飲みながら一通り感想を言い合った後。

まじめな顔に切り替わった上役二人が口を開いた。

 

「お前ら二人が呼び出されたのは次戦以降の予定が決まったからだ」

「まずはマルゼンスキーの出走予定から見てほしい」

 

 

本江師が立ち上がり、備え付けの黒板へ今年の予定を書き込んでいく。

 

―――――――――――――――――――――――

 

マルゼンスキー

 

10月30日 いちょう特別      中山 芝1200

11月21日 府中三歳ステークス   東京 芝1600

12月12日 朝日杯三歳ステークス  中山 芝1600

 

―――――――――――――――――――――――

 

「いちょう特別を叩いて賞金を稼ぎ、府中三歳Sと朝日杯三歳Sで距離を延ばす。体が出来上がる来年には2200や2500でも戦えるようにな」

 

トリウィアヘカテーと比較すると全くスタミナが足りてないように見えるが、確かに成長すれば長距離でも戦えそうではある。

そもそも3600を追い込んでもピンピンしているトリウィアヘカテーと比較することが間違っているわけだが。

 

にしても2200と2500という距離、出走制限が厳しい持込馬が目指すとすればやはり。

 

「ここまでが上手くいくなら、来年は宝塚と有馬を主軸に海外遠征も視野に入れると端本さんは言っています」

「マルゼンスキーの才能なら世界でも戦えるってのが馬主と俺の共通認識だ。しっかり勝ってこい仲渡」

「は、はい!」

 

二人から激励される仲渡の表情は強張っていた。

宝塚と有馬。人気投票で出走馬が決まる、年度前後期のスター馬を集めたレースでの勝利を望まれるってのは期待も重いだろ。

デカいレースで勝ててないのは俺も仲渡も一緒だからな。

 

「次はトリウィアヘカテーだ。」

 

本江師はそう言ってマルゼンスキーの予定の隣に、トリウィアヘカテーの予定を書き込んでいく。

だが、そこには信じられない内容があった。

 

―――――――――――――――――――――――

 

トリウィアヘカテー

 

10月31日 銀杏特別        中山 芝1200

11月21日 府中三歳ステークス   東京 芝1600

12月12日 朝日杯三歳ステークス  中山 芝1600

 

―――――――――――――――――――――――

 

「いやいやいや!ちょっと待って下さい!」

「黙って最後まで聞け」

 

思わず抗議の声を上げたが、本江師に制止される。

ゲオルギウスさんに視線を向ければ、変わらず微笑んでいた。

けれどもどこか冷たい視線に、頭が冷える。

俺が落ち着いたのを見て取ったのか、ゲオルギウスさんが口を開いた。

 

「驚かれるのも無理はありません。ですがこれには考えがあるんです」

「マルゼンスキーとトリウィアヘカテーを同世代の二強と見ています。ここに異論はないでしょう?」

 

俺も仲渡も頷いた。ここに異論はない。ダートでも芝でも二頭にかなう馬などいないだろう。

 

「ですがこの二頭は持込馬、出走可能なレースはごく限られています」

「クラシックディスタンスの主要競争はほぼ出られず、世代最強達と争う機会はほとんどないでしょう」

 

最近の規定変更で、持込馬は外国産馬と同じ扱いになってしまった。八大競争のみならず、オープン戦も、それ以下も出走できるレースは全体の三割にも満たない。

クラシックには参戦できず、天皇賞も規定が変わったせいで大きな賞で出られるのは宝塚と有馬だけだ。

 

「そこで私は端本さんに提案しました」

「府中三歳ステークスで雌雄を決し、負けた方はダート路線へ移ることにしようと」

「何をバカなこと言ってるんですか!」

「マルゼンスキーもトリウィアヘカテーも、ダートでだって勝てるでしょう!けどそれとこれとは話は別ですよ!」

 

今度は俺だけじゃなく、仲渡も声を荒げる。

○外同士で潰し合いをした挙句、片方はダートに流れるなんてする必要はないはずだ。

マルゼンスキーは最長でも中距離、それに対してトリウィアヘカテーは中長距離が本来の戦場になる馬だ。

芝の上でも一部を除いて、ほとんど被らずにレースを荒らせるのだから。

 

「ええ、仰る通り馬鹿げたことに見えるでしょう。ですが、持込馬同士で芝の冠を取り合うよりも、手分けして芝もダートも蹂躙してしまう方が良いと判断しました」

「八大競争に出られない?なら芝とダートを蹂躙した二頭が出られなかっただけで、宝塚と有馬で世代最強は我々なのだと示してやるつもりです」

「我々を出走させないということがどういうことか。二頭による混合レース蹂躙で、八大競争の価値を地に落とすことで思い知らせます」

 

ダートと芝を行き来するより、馬の脚の負担にもなりませんしね。そう言って肩をすくめるゲオルギウスさん。

彼の眼はにこやかに細められているが、目の奥に燃える冷たい炎が見えた気がした。

 

確かにはらわたが煮えくり返る思いがあるのは否定できない。

二頭は出走さえすれば、八大競争の栄冠を分け合えるだけの力があると思わざるを得ないからだ。

国内で生まれたというのに、外国産馬と同じ扱いを受けるのは理不尽だろう。

 

 

「何よりこれは私と端本さんの賭けであり、対抗意識の強い二頭を潰し合わせないための方策でもあります」

「どうでもいいレースで本気の競り合いされて、ほかの馬を置き去りに消耗されても困りますからね」

 

ゲオルギウスさんの言葉に、思わず体が跳ねる。

心当たりがある上に、仲渡と一緒に危惧していることだからだ。

 

「この二頭を並走させるとタイムが特におかしくなる。お前らもわかっているだろう」

「それは確かにそうですが」

「自分たちの力不足です、すみません」

 

俺と仲渡は頭を下げる。あの二頭を並走させるとどうにも時計がおかしくなるのは事実だ。

追切をかけたくなくても、本番並みに追い切ってしまう。手綱を引いてもいうことを聞きやしない。そのくせ逃げや追い込み戦術は完璧にこなすのだから騎手としてはたまらない。

もっとも二頭とも新馬戦前の最終追切を最後に、並走では全力を出さないようにしているようだが。

 

「いいんですよ。あの二頭は子供のころから一緒に切磋琢磨してきた関係です。それもお互いに拮抗した実力を持つライバルであり兄妹として」

「絶対的な格付けが済むまで、人間が制御できるような状態にはならないでしょう。なまじ賢い分余計にね」

 

自分でレース展開を組み立て、本番に支障が出ないぎりぎりまで脚を使い切れるくらい賢いというのが、かえって悩みの種になるのは不思議なものだ。

 

「だが本番のレースで何度も全力を出されれば消耗が過ぎる。だがそれを回避できるほどレース数に余裕はない」

「だからこそのお二人の賭けってわけだ。お前らの騎乗一つで馬の道が決まる。府中三歳までに何とかして折り合いをつけろ」

 

本江師が厳しい視線を向けてくる。

 

「まぁ今回の賭けは、私と端本さんが生粋の負けず嫌いで、自分の馬が一番だと思っているせいなんですがね」

「私も端本さんも、負けるなら相手の馬だけだと思っています。お二人には面倒をかけることになりますが、一つよろしくお願いします」

 

ゲオルギウスさんはそう言うと頭を下げた。

頭を下げられても困るのだが、馬主同士の賭けに自分たちを巻き込まないでほしいとは思う。

 

「はい!」

「何とかします」

 

仲渡は元気に答えていたが、自分は何とか絞り出すような答えしかできなかった。

本江師がこちらを見てくるが、視線を向ければそらされる。

本江師でもどうにもなっていないのだから、責められても困るというものだ。

 

「どうにか、します」

 

それでも何とかするという決意を改めて伝えれば、ゲオルギウスさんは鷹揚に頷いた。

そうだ、何とかするしかない。

あいつは俺の言うことを聞いてくれるか。これまで普通の馬相手のやり方は全部だめだった。

あれだけ賢いんだし、いっそのこと人間だと思って全部話してみるか?



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第八話 決戦への道筋

仕事が忙しくなりすぎて全く手が付けられなかった……。


トリウィアヘカテー

銀杏特別
2馬身差で一着、勝ち時計1:11.1

マルゼンスキー

いちょう特別
10馬身差で一着、勝ち時計1:10.0

マルゼンスキーは外向肢勢の良化と調教強度アップで末脚が伸びた影響で、史実よりタイムが良くなりました。




 1976年11月20日

 東京競馬場 本江厩舎

 

 朝から降り続いていた雨も上がり、時折落ちる雨だれの音を聞きながら私は馬房で眠れぬ夜を過ごしていた。

 本江厩舎の馬のみならず、周囲の多くの馬が遠征でいない厩舎は足元からする前掻きの音以外静かなものだった。

 

 いよいよ明日、私とマルゼンスキーの直接対決がやってくる。

 そのプレッシャーのせいか、思った以上に眠りが浅くなって眠れない。

 

 奴は前走のいちょう特別で実に十馬身をつけて圧勝してきている。

 最速で飛び出し、ハナを押さえ、逃げに逃げて最後に刺したとか。本当に意味が分からない。

 だが奴は間違いなく成長している。

 帰って来た時にはボロボロだったが、翌日にはけろっとしていた。1200とはいえそれができるほど体が仕上がってきたということだ。

 実力は、たぶん世代でも最高なのだろう。

 

 全開ボロボロになったことを反省し、最近妙に話しかけてくる本馬君の言うことを聞いてちょっと変則な追込でレースを進めてみた結果、勝てたもののそれほど大きな差にはならなかった。

 

 今回は最後尾に着け残り800から進出を開始、最終コーナー出口で最高速に乗ってゴール板に突っ込む戦術をとった。

 この戦術は私にあっていたのか疲労度は新馬戦と全く異なり、当日でも疲れを感じることはなかった。

 ゴール時点でも余力はあったし、加速するタイミングはもっと早くてもいいのかもしれないとは思う。

 

 だがそれでも今波に乗っている奴をとらえきれるのか不安でたまらないのだ。

 次は多少距離が延びるが奴の得意距離であり、私にとっては距離が短い。

 正直勝ち目は薄いと言わざるをえない。

 

 だが、次の一戦で私とマルゼンスキーの運命が決まるようなのだ。

 詳細は分からないが、ゲオルギウス君と端本さんの間で何か取り決めが交わされているらしい。

 本馬君と仲渡君が随分と追い詰められたような表情で何か話しているのを何度か見かけている。

 本江先生もたまに胃を押さえているし、よほどの何かがあるのだろう。

 

 色々考えこんで名状しがたい不快感を抱えながら、眠ろうと努力をする。それでも寝不足になりそうなくらいに眠れなかった。

 自分で思っているよりも緊張しているということだろうか。

 思い通りにならない体を持て余しつつ、その苛立ちをぶつける為に前掻きしていると、隣の馬房から声が上がった。

 

「おい、夜中だぞ、静かにしろよ」

 

 にゅっと首を伸ばしてきたマルゼンスキー、ちょっとイラついたような声だった。

 起こしちゃったかな? 

 

「周りの馬は皆遠征してるから大丈夫」

「俺が眠れないんだよ」

「それはごめん」

 

 周りにほとんど誰もいない静かな厩舎に、カツカツと前掻きする音が響く。

 けれどもその音は、私の足元からだけではなかった。

 さっきまでは音が重なっていたのと、自分がぼーっとしていたので気づかなかったけど、マルゼンスキーの馬房からも音は響いていた。

 

「兄さんも眠れないの?」

「お前がうるさくてな」

 

 いやいや、それもあるだろうけど、それだけではないでしょ。

 

「兄さんもガツガツ音立ててるからね?」

「は? ……マジかよ」

 

 私の指摘にかなり本気で呆れた声を上げた兄さんだが、足元を見たのか前掻きの音が止まった。

 

 掠れるような呟きの後、何度か大きく息を吸って吐き出す音が聞こえる。

 最近ようやく覚えさせた精神を鎮める動作を生かしているようで何より。

 ちょっと前の兄さんだったら逆ギレして大喧嘩になっている所だった。

 

 最後に大きく息を吐き出したマルゼンスキーがこちらを向いた。

 

「能天気が売りのお前が何を悩んでんだよ」

「いきなり喧嘩売ってんの?」

 

 なに冷静になった瞬間に喧嘩売りに来てんだよ。情緒不安定か? 

 

「お前が悩むなんて、何から食うか考えてる時くらいじゃん?」

「うぐ」

 

 確かに馬になって以来深く悩んだことないし、普段はおやつをどの順番で食べるか悩むくらいだけどさ! 

 仮にも女の子相手だぞ、デリカシーがないのか! 

 

「お前が悩んでるの、俺とお前の行き先が決まるって話だろ」

「は? なんでわかんの? 人の言葉覚えた?」

「少しだけな。仲渡と本江が”芝”と”ダート”、”マルゼンスキー”と”トリウィアヘカテー”って言葉を苦しそうに言うんだぜ?」

 

 寝ぼけたことを言い出したマルゼンスキーに反論しようとするが、続く言葉に私は口をつぐんだ。

 

「俺もお前も、”芝”と”ダート”で勝ってきた。その時は喜んでた。なのに最近は苦しそうだ」

 

 確かに最近の彼らはいつもどこか悲しそうな顔と声色で私たちに声をかける。

 

「”次で””決まる”と何度も繰り返すんだぜ?」

「お前のおかげである程度人の言葉を覚えちまったからな。そこから推測すれば、次のレースで俺とお前がどこを走るか決めるってことだと考えたんだよ」

 

 マルゼンスキーは頭がいい。私が通訳していたのもあるが人の言葉を聞き分ける能力もあった。

 最近は私と同じくらい人間の指示に素直に従うと東京競馬場でも有名になりつつあるほどに。

 

「ま、周りの馬達もダートや障害に路線変更してるやつが多いしそれもあるけどな」

 

 最近になって、いよいよ芝路線に見切りをつけてダートや障害に転向した馬は多い。私たちと同世代だけでなく、先輩方もそうだ。

 勝てない芝に無理に拘る必要もないとは思う。馬にとっても馬主にとってもね。

 転向したからと言って勝てるとは限らないのが競馬の恐ろしいところだが。

 

「あの人達、私の前じゃそんなこと言ってなかったのに」

「お前は人間の言葉が分かるって思われてるからだろ。伝わらないようにしてたんじゃねぇか?」

「そうかな、そうかも」

 

 普通の馬ならば人の言葉を聞かれようと気にも留めないのだろうが、人間の子供に近い扱いを受けている私の前では気を付けていたのだろうな。

 ヘタに内容を理解されて、調子を崩したり本番で掛かられても困るだろうし。

 

「もしかしたら、正面からやり合うのは最後になるかもしれないんだ、全力で来いよ。トリウィアヘカテー」

「言われなくても勝ってやる。覚悟しとけマルゼンスキー」

 

 いつも通りの、どこか気の抜けたやり取りを最後にマルゼンスキーは首をひっこめた。

 私は彼の馬房を見つめながら、この先のことに思いを馳せる。

 

 もしも、彼の予想通りだとしたら。

 私は彼に勝つことができるのだろうか。

 

 もしも負けた時、私が戦えるダート戦などあるのか? 

 はるかに多くのレースが存在する芝路線ですら、多くのレースを戦う権利すらない私に。

 

「いや、勝たなきゃダメだろ」

 

 私の背には私以外の想いも乗っているのだ。

 私にはゴール板のその先へ、その思いを一番に届ける義務がある。

 

「それが今日まで生かされてきた、私の成すべきことだ」

 

 たとえこの世界が泡沫の夢であったとしても。

 誰かの求めを聞き届け、力を貸すことこそが私の在り方なのだから。

 

 

 

 

 1976年11月21日

 東京競馬場 馬主席

 

 第七レースのパドックと返し馬でトリウィアヘカテーの様子を見た私とニコは、馬主席に座っていた。

 

 どんよりとした雲が空一面を覆い、冬の先駆けが駆け抜ける東京競馬場。

 しかし、眼下の一般観客席はかなりの人で埋まっており、それなり以上に盛り上がっている様子だった。

 

「さて、ニコ。今日のトリウィアヘカテーはどうだったかな?」

 

 私の質問に数瞬目を瞑った彼は、一度うなずくと私を見据えて答えを返す。

 

「うん。あまり調子は良くなさそうだった。目も血走っていたし、落ち着きがなかったよ」

 

 トリウィアヘカテーは普段の様子からは考えられないほど、普通の馬のように見えた。

 ごく普通のイレ込んだ馬の姿と振る舞いは、普段の賢さを見慣れているとなんとも新鮮だった。

 レース前の競走馬としては、あまり褒められた状態ではないのだけどもね。

 

「それじゃあ、トリウィアヘカテーは勝てないかな?」

 

 少し意地悪な聞き方をすると、ニコは首を横に振る。

 

「そんなことはないと思う」

「どうしてそう思うんだい?」

「マルゼンスキーも随分神経質そうだったし、返し馬がどうも仲渡さんと折り合いがついていなさそうだったから」

 

 それは確かにそうだった。何度も首を振っていたし、騎乗時点から折り合いがついていないように見えた。

 返し馬では強く手綱を引いていてもかなりの速度で走っていたほどだからね。

 

「ふむ、二番人気のヒシスピードはライバルにならなさそうかな?」

「二頭が普通の状態なら相手にならないけれども、今は危ないかもね。でもトリウィアヘカテーとマルゼンスキーの二頭が本気でやり合うならどちらかが勝つよ」

 

 ヒシスピードも二番人気に押されるだけあって、十分良い仕上がりだった。

 落ち着いていたし、好走が期待できるだろうとは思った。それでもあの二頭には一枚劣るとも感じる程度だ。

 

「そうか、私もそう思うよ。勝つならどちらかだ」

 

 自信に満ちた表情でそう断言する息子の頭を撫でまわす。

 この子の中ではあの二頭が世代の二強というのが結論なのだろう。

 無論私もそうだ。馬主の贔屓目を抜きにしても、非常に強い馬なのだから。

 

「親子そろって景気の良いことを言ってるじゃねえの」

「おや、端本さんご無沙汰しています」

「おじいさん、お久しぶりです」

「おう、二人とも久しぶりだな。悪いが水を飲ませてくれ」

 

 端本さんが背後から声をかけてきた。

 いよいよ大一番であるからと態々東京までの長旅を終え、どこか疲れている様子の彼は私の対面にドカリと座り込む。

 宣言通りグラスに注いだ水を一気飲みし、太い息を吐いて人心地着くとこちらに向き直った。

 

「いよいよ決まるな。馬鹿げた賭けだ」

「狂気の沙汰ほど面白いでしょう?」

「違いない」

 

 私と彼が顔を見合わせ、笑っているのを見たニコが、怪訝な顔をしていた。

 何も知らないこの子からすれば、意味の分からない会話だろう。

 

「マルゼンスキーはイレ込んでるが、走るぜあれは」

「トリウィアヘカテーもやりますよ、今日は荒れてるようですが」

 

 ついにファンファーレが鳴り響いた。

 

「「さぁ、始まりだ」」

 

 これから始まるのは私と端本さんの間で交わされた、ひどく傲慢な賭けだ。

 同世代どころか今の日本競馬を小ばかにしたような酷い賭け。

 

 これは私の願望だ。

 長い戦いの第一歩。

 その行き先を占う大事な一戦だ。

 

 大きな大きな、大博打が始まる。

 

 

 

 

 1976年11月21日

 東京競馬場 ゲート内

 

 大外六枠六番に配置された私は、ゲートの中で奇数番の馬のゲート入りを待っていた。

 芝は前日の雨で濡れている。踏み抜けば水気を感じさせる音がするほどに。

 足元が悪い馬場なら、私の勝ち筋も見えてくるかもしれなかった。

 

『今日はマルゼンスキーとトリウィアヘカテーの大一番なのに、ミスターケイのキャリーまでやらせようって本気か? マルゼンスキーがゆっくりけん引してくれるなら勝ち目もあるけどさ』

 

 溜息を吐きながら愚痴をこぼす本馬君。

 本江先生、それマジで言ったの? 私たち真っ向から決闘するんじゃなかったんかい。

 いや、確かにマルゼンスキーがゆっくりキャリーしてくれるなら展開的には最高だけれども。

 

「マルゼンスキー! トリウィアヘカテー! よろしくねー!」

「あ、うん。よろしくね」

「……」

 

 三枠三番に収まろうとするミスターケイから声がかかったので返事だけはする。

 マルゼンスキーはガン無視しているが。めちゃめちゃ血走った目してたけど大丈夫かあいつ。

 

 ミスターケイは良い子だけど、私たちが本気で走ると取り残されるよね? 本気で走らなくていいのか? 

 

『俺も仲渡も本気で勝負する。ミスターケイの馬主には嫌味言われるかもしれないけどな。勝つぞ、トリウィアヘカテー』

「任せろよ本馬君」

 

 私の首を軽くなでる彼に、一度嘶いて返事をする。

 勝たなきゃならない。負けるわけにはいかないんだ。

 

『暴れんなって、くそ、走る前からかかってやがる!』

「とっとと走らせろ! 全員置き去りにしてやる!」

「ひぃ!? なんか横に暴れてる奴が!?」

 

 突如として大暴れするマルゼンスキーの嘶きと、必死に落ち着かせようとする仲渡君の声が聞こえた。

 いくらレース前だからって情緒不安定すぎるだろ。他の馬驚いちゃってるじゃん。

 

「何やってんだあいつ、迷惑な奴だな」

 

 スッと私の隣にゲート入りしてきた馬が文句を言う。

 言われて当然だと思うよ。

 

「私の兄がごめんね。えっとヒシスピード君?」

「あれお前の兄貴かよ。あーお前は?」

「トリウィアヘカテー、よろしくね」

 

 私がそういうと、彼は首を大きく振った。

 

「よろしくはしない。俺は勝つためにここにいるんだからな」

「そっか、いい勝負をしよう」

「それなら大歓迎だ、覚悟しとけよ」

 

 そんな会話をしていると、いつの間にか静かになったマルゼンスキーもゲートインを済ませたようだ。

 ついに全ての馬がゲートに入り、レリーズが引かれる音を待つ。

 

 ゲートの前で控えていた係員が駆け抜ける音が途切れ、一瞬の静粛が訪れる。

 

 ガチリ。

 

「行くぞ!」

 

 一瞬遅れて開き始めたゲートをこじ開けるように、私は駆け出した。

 

 

 



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第九話 府中三歳ステークス

文章が全く浮かばなくなっていた(今も浮かんでくるとは言っていない)


 1976年11月21日

 東京競馬場 芝コース

 

《最後の一頭が入りまして、今第7レースがスタートしました》

 

「いくぞ!」

 

 会心のスタートを決める私。

 足元の濡れた枯れ芝はねばりつくような感触を返してくるが、それを蹴り潰すように体を前に跳ね飛ばす。

 半開きのゲートを飛び出せば両側に馬の姿は見えない、完璧な出足だった。

 

「逃がすかぁ!」

『どわぁっ!?』

 

 私の一歩目の音と共に、牡馬の嘶きが響き渡る。

 鼻息荒くほかの馬より半歩は速いスタートを決めたマルゼンスキーの嘶きだ。

 ついでに仲渡君の情けない声も響いている。

 他の馬達も猛烈な勢いでゲートから発射されたマルゼンスキーに引きずられ、かかり気味のスタートとなった。

 

《まずはトリウィアヘカテーが飛び出した、マルゼンスキーを先頭に五頭も追随していく、おっとトリウィアヘカテーが外へ下がった》

 

「ッ!」

「引き離されるのはまずい!」

 

 ヒシスピードとヨシノリュウジンが、マルゼンスキーを捉えんと無理やりに飛び出したようだ。

 鞍上が抑えようとしているがそこまでイレこんだらなかなか難しいだろう。

 いいぞ、そのまま体力を無駄遣いしてくれ。

 

『抑えるぞ』

「もちろん」

 

 凄まじい勢いでスタミナを浪費しながらダッシュした彼らを尻目に、本馬君の指示に従って力任せの短いストライドの数完歩で速度に乗り、最後の一歩は大きく飛んで長めのストライドに切り替える。

 パワー任せではなく、トレーニングと看取り稽古によって踏み込み方に工夫を凝らした今だからできる走りだ。加速時だけ回転を上げることで、体力の消費を抑えつつ素早く速度に乗ることができ、速度に乗ったらロングステップで巡航する。

 

「何してんだお前!?」

『おいマルゼンスキー! まだ全力を出すタイミングじゃないだろ!?』

 

 マルゼンスキーは私の横を通り過ぎるとき、こちらをガン見しながら物凄い表情をしていた。

 見事に私の罠にかかってくれたらしい。

 全く仲渡君の言う通りだぞ。

 

 ま、ハナを抑えて後続が上がってくる状況で、今更速度を抑えるという選択は取れないだろう。あいつ先頭大好きだしな。

 マルゼンスキー、ヒシスピードを見送って、ヨシノリュウジンに並ぶように中団前目の位置取り。

 

《マルゼンスキー、トリウィアヘカテーを見ながら馬なりで快調に飛ばしています。鞍上仲渡、諦めたのか手綱を緩めたままだ。続いて2馬身開けてヒシスピード、内内をヨシノリュウジン、続いて外にトリウィアヘカテー、キクアサジロウ、ミスターケイという並び》

 

 4番手で若干外回り。不経済なコース取りだが、ヒシスピードの影に隠れてマルゼンスキーからは見にくい位置についている。

 この場所に潜むことで、じわりじわりと前に出てもある程度はごまかすことができるはずだ。

 このデカい馬体をどこまで隠せるかは疑問だけれども。

 

『いいぞ、ヘカテー。まずはこのままだ』

「そうだね仕掛けどころは」

『「第三コーナーだ」』

 

《ほぼほぼ一団で三コーナーのカーブへと向かっています。マルゼンスキーが快調に飛ばしていく、すでに三馬身差、ヒシスピードとヨシノリュウジンが徐々に離されていくか》

 

「ヘカテーが下がるなら俺の負けはねぇ!」

『くそ、下手に邪魔する方が危ないか、付き合ってやるから最後まで走れよマルゼンスキー』

 

 前方では奴が快調にぶっ飛ばしている。折り合いは全くついてないようだが、鞍上は制御を諦めたようだ。

 

『このまま潰れてくれれば楽なんだけどな』

「そう簡単にはいかないでしょ」

 

 相応に体力を消耗するだろうが、このレースじゃまだまだ距離は短い。奴が潰れてくれることはないだろう。このハイペースなら多少最終直線で有利になるかもしれないけど。

 後ろの二頭がプレッシャーをかけて消耗させてくれればいいが、そうでないなら逃げ切られるかもしれない。

「さて、外に出ますか」

 

 展開に不安を覚えながらもカーブ突入前にさらに外へ膨らみ、加速しながらコース取りを仕込む。

 うまい具合に前後の馬群が切れており、最内へ切り込んでも斜行を取られることはなさそうである。

 

《マルゼンスキー先頭で三コーナーのカーブ。ここでヨシノリュウジンが内から仕掛けていく。徐々にその差が縮まっていく。ミスターケイが前に出始めた、最後方はキクアサジロウ⦆

 

「野郎速いな!」

「うおおおおおお! こっからだ!」

 

 2位争いをしている2頭の声が聞こえる。こっちもかなりの速度で走っているのに、その差は全く縮まっていない。

 だが猛烈な速度でコーナーへ突入したマルゼンスキーやヒシスピード、ヨシノリュウジン達は大きく外に膨らんでいく。

 私の目の前にヒシスピードがいるくらいだ。彼の蹄が芝と土が大きく跳ね上げ、私と鞍上君を茶色く染め上げる。

 

《三四コーナーの中間地点ですが、マルゼンスキーが先頭を抑えたまま。リードは2馬身。すぐ後ろ、内からヨシノリュウジン、ヒシスピード横並び、トリウィアヘカテーがヒシスピードの1馬身ほど後ろを加速する。さぁミスターケイ、キクアサジロウも上がってきた。⦆

 

「ヘカテーやマルゼンスキーには負けないよ!」

 

 ミスターケイの元気な声が随分近くから聞こえる。このハイペースについてこれてるあたり、私も彼を見誤っていたのかもしれない。それは彼の鞍上もそうだろう。

 

 前方では外に膨らみつつ2位争いが激化し、ついにマルゼンスキーを捉えんとしていた。

 後方を確認すればなかなかの勢いでミスターケイが上がってくるが、それでも私が目指す内ラチコースはがら空きだった。 

 

『切り込むぞ!』

「よし!」

 

 仲渡君の鞭に合わせ、カーブの頂点から出口最内に向けて突っ込んでいく。

 最初の一歩はサイドステップ気味に方向転換。気合と根性で体に残った外向きのベクトルと遠心力をねじ伏せる。

 大外からから四角出口を目がけての突撃だ。

 

「きついきついきつい!」

 

 外に飛び出そうと全身を苛む力はかなり強い。

 それでもボコボコした芝の窪みに足を取られればそのまま死ぬという恐怖と、全身にかかる負荷を無視して加速し、四角で大きく外へ広がった前三頭と並んでいく。 

 

《四コーナーのカーブ、600の標識を過ぎました。速度が乗って全頭外に膨らみながら先頭は中央マルゼンスキー、その内からヨシノリュウジン、外にヒシスピードにミスターケイいや内ラチ沿いにトリウィアヘカテー!》

 

 横目に見れば他の馬達は一斉にストレートへ立ち上がろうとしていた。

 ヨシノリュウジンの陰から飛び出し内ラチを掠めるように進む私を、そこで初めて視認した彼に動揺が走ったのが分かる。

 

「いつの間に!」

「どいたどいた!お先に失礼!」

 

 四角出口で私を隠していたヨシノリュウジンを交わし、私は強く踏み込み最前列へと歩を進める。

 動揺した彼は姿勢を崩し速度を落とす。おそらくここで先頭争いからは離脱だろう。

 

 いざ、決戦の時!

 

「来やがったな!トリウィアヘカテー!」

「来てやったぞ!マルゼンスキー!」

 

 そこで待っていたのは栗毛の怪物。

 私に先頭を奪われたところで、さらに根性を見せるマルゼンスキーが前に出る。

 

「俺を無視するとは上等じゃないか!」

 

 そんな私たちを外側からヒシスピードが強襲する。

 三頭が互いに抜きつ抜かれつ、ホームストレッチをひた走る。 

 

≪400でトリウィアヘカテーが前二頭に追いついた、マルゼンスキーに追いついた! だが外からヒシスピードか!≫

 

 猛烈な勢いで内ラチが後ろに流れていく。

 冬枯れし、何度も踏み荒らされ湿った芝はへばり付くようで、しかも私の足を取ろうといくつもの抉れが顔を見せている。

 鞍上の彼と息を合わせ、そんな障害を切り抜け駆け抜ける。

 

「ぐっ、俺が!勝つ!」

「危な!?無理しない方が、良いんじゃない!?」

「んな、カッコ悪いマネ、できるかよッ!」

 

 そんな穴にでも足を取られたか、はたまた体力切れか。

 僅かに内向きによろめくも、マルゼンスキーが三頭の中から僅かに抜け出そうとする。

 口から泡を吹き、全身から汗を垂れ流している奴は限界のはずだ。

 なのになぜ垂れない、なぜここで速度を上げられる。

 

≪マルゼンスキーが差し返す!マルゼンスキーが僅かに内にヨレましたがトリウィアヘカテーとは接触せず!≫

 

「俺が、いるのを、忘れてないかッ!」

 

 鞍上の振るう鞭に答えるように、息を切らせたヒシスピードの体がそれでも前に進み、先頭を奪う。

 彼もまたマルゼンスキー同様の状態だ、馬としての限界に挑んでいるようなもので普通なら騎手が抑える段階のはず。

 なのになぜ抑えない、なぜ私と競り合っている。

 

「あんたらが居ても! 勝つのは私だ!」

 

 首を上げようとする体に喝を入れ、枯れた芝を掻き抱くように踏み切れば、私の体は彼らよりも前に出る。

 体力なら私の方があるはずだ、彼らより重い体だろうとより大きな力で動かせばいいだけのこと。それができるように体を作ってきた。

 なのになぜ差が作れない、なぜ横並びになっている。

 

≪トリウィアヘカテー!ヒシスピード!マルゼンスキー!三頭がハナを揃えて差し合う展開!鞍上は懸命に鞭をふるいます。僅かにヒシスピードか!だがマルゼンスキーが差し返す!内からトリウィアヘカテーが前に出た!≫

 

 どうしてあれだけ息が上がり、歩様すら乱れているのに速度が落ちない!

 自分と競り合う二頭の見せる凄まじい根性に、私は混乱していた。

 マルゼンスキーの体力は、最初のスタートダッシュとヒシスピードとの競り合いで削れていたはずだ。

 そうなるように私と鞍上君が仕組んだのだから。

 

 迫りくる敗北への恐怖を押しのけようと、本能が全身をより大きく躍動させる。

 より強い力で、より大きなストライドで、大地を踏みにじり、勝利を手繰り寄せようとする。

 

『力が入りすぎだ!トリウィアヘカテー!』

 

 鞍上君が叫んでいる。私もわかっている、無用な力が入っていることは。

 だが力が入るのも当然だろう、私は今頃彼らを置き去りにしているはずだ。していなければならないのに!どうして私の足が、体が前に出ない!

 

 理性が叫ぶ。無駄な力を抜け、鞍上と折り合いをつけろ、タイミングがずれていると。

 わかっている。私にだってわかってるんだ。

 だが本能に沸騰した脳と肉体がそれを拒む。

 奴との最後かもしれない闘争という状況に、力と力のぶつけ合いを望む本能に、理性の箍はあっけなく砕かれた。

 

 私の全力をもってすれば勝てると本能が叫ぶ。

 なのにどうだ、現実は抜きつ抜かれつ、それでも大きな速度差が出ないまま。

 ゴール板まではあと少し、三頭横並びで飛び込むことになりそうだった。

 

『首だ、首の動きを揃えよう!』

 

 首の上げ下げがほかの二頭とズレてきているのが気にはなる。

 ストライドの広さが違う、足の回転が違う、だから首の動きがズレ始める。

 理屈で考えれば当然だ。

 

 理性は合わせろという、本能はこのまま進めという。

 だが、鞍上君の指示に従って一瞬でも動きを変えれば負けてしまう気がするのだ。

 ほんの少し、ほんの少し私が前にいるはずだ。

 ここで首を合わせるために足を緩めれば、たちまち逆転されてしまう。

  

『ッ!ダメだヘカテー』

 

 だから苦しくとも全力で駆け抜ければ、勝負に勝てるのだと。

 そう思っていたのに。

 

『すまない』

「えっ?」

 

 鞍上君がぼそりと零した突然の謝罪に驚いた時、既に私たちはゴール板を駆け抜けていた。

 それぞれの鞍上が下げさせた二頭の頭が、視界の下側に見えていたはず。

 すなわち私の首は上がり、二頭は首を伸ばしていた。

 たとえ胸が前にあろうと、着順は鼻先で決まる。

 

≪三頭の首の上げ下げ!三頭の首の上げ下げ!トリウィアヘカテーの動きがズレたまま!同時にゴール板ですが僅かにマルゼンスキーか!≫

 

「ぜひゅ、勝ったのは、俺だ!」

「ごひゅ、いいや、俺だ!」

「んだと!」

「やるか!」

 

『こら!離れるぞマルゼンスキー!すみません大嶌さん』

『お前も絡もうとするな! 落ち着けヒシスピード! こっちもすまんな仲渡君』

 

 大騒ぎしながらガンつけあいをする二頭を、鞍上の二人が必死に引きはがそうとしている。

 彼らを尻目に足を壊さないよう丁寧に減速していく中、本馬君は私の首に縋りつくような姿勢で言った。

 

『俺の騎乗ミスだ』

 

≪ほとんど同時でしたがマルゼンスキー一着!ヒシスピード二着!三着はトリウィアヘカテー!これは首の上げ下げがズレたか!本馬騎手涙を堪えております。≫

 

 場内に響く実況がはっきりと私の敗北を告げている。

 私の首に熱い雫が落ちた。

 

『最後の一歩で、君の首を伸ばしてあげられなかった』

 

 手綱と鞭を握り潰す、ギチリという音。

 食いしばった歯の間から洩れる、掠れた声。 

 鞍と鐙から響く、震える金音。 

 馬達の嘶きも、場内の大歓声も、彼の奏でた悲痛な音が何もかもを塗りつぶし、私の耳を占めた。

 

『すまない、トリウィアヘカテー』

 

 負けたのか。

 弱弱しい彼の声と共に、現実が体の芯に染み渡る。

 忌々しい曇天を見上げ、愚かな敗北を嚙み締めた。

 

 




競争結果

1976年11月21日
東京競馬場 4R
府中三歳ステークス
天候 曇/芝 重

1着 マルゼンスキー    1:36.6
2着 ヒシスピード     ハナ
3着 トリウィアヘカテー  ハナ
4着 ミスターケイ     7馬身
5着 キクアサジロウ    4馬身
6着 ヨシノリュウジン   6馬身


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