その優しい星で… (草之敬)
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Navi:01

 

 見上げる夜空は、戦場から立ち上る煙に覆われてどこか白っぽい。

 もしかしたら、自分の目がもう見えなくなる寸前まできているのかもしれない。

 

 俺は今、立ち尽くしている。 

 またひとつ、十の内の一を切り捨てた。

 またひとつ、アイツに近付いてしまった。

 

 違うと思いたい。違うと、信じたい。

 だからまだ、俺は諦めない。

『正義の味方』は、いつだって諦めない。

 全てを救う『正義の味方』になると誓ったんだ。

 だったらまだ、ここは通過点。

 今まで切り捨ててきた十の内の一の人の分も『正義の味方』になって救ってやる。

 

「そうだろ、セイバー」

 

 俺のために剣となり、盾となって戦ってくれたあの少女。

 もうきっと、会えない。

 だけど、あいつの中に見た、決意と悲しみ。

 それはまだ、俺の中に鮮明に息衝く。

 

 だから、そのセイバーに恥ずかしいところなんて見せられるもんじゃない。

 

「……行こう、立ち止まってなんかいられない」

 

 第5次聖杯戦争……あの地獄から、10年が経っていた。

 

 

 *  *  *  *  *  

 

 

『前略――――

 こちらはお仕事にも慣れ始めて、やっと一息ついた感じです。

 

 今朝はとっても摩訶不思議な夢を見ました。

 どう言う風に? と聞かれると困りますけど……。

 

 目の前に広がるのは夕暮れの空と、知らない丘。

 茜色の空に負けないくらい赤い人影が、たくさんのお墓に囲まれていたんです。

 

 覚えているのはそれくらい。景色がぼやけて、そこで起きちゃったんです。

 でも、ぼんやりと覚えている夢の内容を思い出していると、なんだか悲しくて。

 気付いたら泣いていて、アリア社長とアリシアさんにまで迷惑をかけちゃいました。

 

 あの夢は何だったんでしょう

 今日は大変なことが起きちゃいそうな気がします。

 

 それでは、また。

             水無 灯里』

 

「おーい、あーかーりー! 先にいくわよー?」

 

 朝日が海面をキラキラと照らしている。上からだけじゃなく、下からも太陽の光が降り注いでいるようだ。

 窓から見える水平線を彼方に、手前には一隻の黒いゴンドラが浮かんでいた。

 

「はひっ!? ちょっと待ってよ藍華ちゃ―ん!」

 

 そのゴンドラを漕ぐ藍華ちゃんは意地悪く笑って、すいすいと先へ行ってしまう。

 PCを急いで閉じて、私も自分のゴンドラへ飛び乗る。

 目の前に広がるのはネオ・ヴェネツィアの紺碧の海原。

 

「水無灯里、今日も頑張ります !! 」

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 整えられた山道は使えない。獣道を切り開きつつ、俺は山中を進んでいた。

 もちろん、こんな場所にまともな人間がいるはずもない。

 若干緩めていた緊張を張り直し、魔術回路に火を入れる。

 

「誰だ」

 

 両手には干将・莫耶を投影。

 相手は姿を隠す気がないのか、無防備な足音でこちらに近づいてくる。

 その姿を確認した途端、緊張の糸がプツリと音を立てて切れてしまった。

 

「誰だとは、ご挨拶だな衛宮」

「橙子、さん?」

「ああ」

 

 咥えたタバコから紫煙をくゆらせ、夜の闇からスルリと現れた女性。

 臙脂色のロングコートを着込み、その下には山中だというのにパンツスーツ。

 右手には旅行用の中型のトランクが握られている。折りたためば人も入りそうだ。あながち、それはない、と言い切れないのが怖いが。

 

 蒼崎橙子。

 稀代の人形師にして、天才と称される魔術師。

 魔術に関して言えば、第5魔法に最も近い家系のアオザキの中でも抜きん出て凄まじいらしい。

 その才覚故か、魔術協会からは封印指定され、日本にある『伽藍の堂』で隠居中のはず。

 

「なぜ、ここに?」

「なぜも何もない。遠坂嬢に頼まれて、協会に見つかることを承知でここまで来た、としか。いや、さすが遠坂嬢だよ、私の言い値をポンと払ってくれた」

 

 こんなに楽な仕事は久しぶりだ、と言いつつ、その表情には呆れが浮かんでいた。

 いや、それよりもだ。

 

「遠坂が……?」

「そうだ。まあ、とにかくついて来い。遠坂嬢と合流する」

 

 遠坂凛。

 聖杯戦争時共闘し、その後ロンドン『時計塔』に共に留学。

 最後に会ってから、もう4年になるか。

 ある情報筋からは最近になって“宝石剣”を仮で受け継いだと聞いている。

 その遠坂が、どうして今更俺なんかを……?

 

 

 しばらく橙子さんに着いて歩いていくと、どうしてこんな山中――しかも内戦地域の――にあるのかが理解できないほど立派な洋館が、俺たちを出迎えてくれた。

 カムフラージュのつもりか、館の壁には蔓が巻きつけられ、屋根に至っては所々剥げ落ち、窓は割れ放題……なのだが、それらは魔術によって視覚的に操作された外観だ。それに意識介入の結界まで張ってある。もし仮に、どこかの誰かがこの館を発見したとしても、よくある景色だと意識を改変されて気付いても気付いてない、という誠に意味のわからない状態に陥るだろう。

 たぶん、一時的な工房代わりにもしているのだろう。若干頼りないが、拠点としては十分強力なものに仕上がっている。さすが、遠坂と橙子さん、と言ったところか。

 

「来たわね」

 

 館の扉をくぐると、正面の闇から声がかかった。

 4年振りに聞く、盟友の声だ。

 

「久しぶりだな、遠坂」

「ええ、本当に」

 

 腰にまで届く長く艶やかな黒髪と朱色のロングコートを翻し、彼女が振り返る。

 三十路近い年齢になったとはいえ、その美貌は昔から変わらない。

 ここ数年は心が廃れる光景ばかりを目にしていたからか、俺の心がふっと軽くなったような気がした。

 

「なによ?」

「いや、なんでもないよ」

 

 ムスッとする遠坂。

 別に相変わらず胸がどうとか、三十路近くになっても童顔っぽいとか、そんな邪なことは考えてないのだからご寛恕願いたい。

 

「再会を喜ぶのも良いが……早く本題に移った方が賢明だと思うのだが、どうかね?」

 

 肺に溜まった紫煙をふぅっと吐きながら、呆れ気味に橙子さんがぼやく。

 

「そうね。じゃあ士郎、単刀直入に言うからよく聞いて。あなたを並行世界に飛ばすわ」

「意味がわからない」

 

 少々なりとも怒気を込めて言い放つ。

 それは遠回しに、けれどはっきりと、俺のこの10年の歩みを消すということか。

 そんなもの、ちゃんとした理由がなければ飲み込めない。

 

「どうしてそうなる」

「どうしてもこうしてもないわよ」

 

 遠坂の顔が一変、凛々しいそれから、今にも泣きそうな顔になる。

 

「ふむ? 理由については私から説明しよう。単刀直入に、君を封印指定することが正式に決まった。遅すぎる判断だとは思うが、そこはまあ、遠坂嬢あたりが裏でコソコソしてたんだろう」

「だからどうしたって言うんだ。やることは変わらない」

 

 封印指定が何だと言うのだ。

 もし邪魔をするというのなら、その先に救える人がいるのなら、俺は差し向けられた魔術師を殺すことも厭わない。

 それは今までと、何ら変わりない。

 

「並行世界なんかに飛ばされる理由にはならない」

「士郎、聞いて。覚えてるでしょう、私が聖杯戦争で誰のマスターだったかぐらい」

 

 覚えているさ。そう、アーチャーのサーヴァント。

 

 真名を“エミヤ”といい、そう遠くない未来の衛宮士郎の可能性のひとつだという話だ。

 だからこそ、俺が変えてみせたい運命のひとつでもある。

 

「私は見てるの……。彼の過去、つまりアナタの未来を」

「曰く、そこに辿り着く可能性が、辿り着かない可能性を上回ったとかでな」

 

 思い出す。

 この道を歩むと決めたとき、遠坂が言っていた事を。

 

『アイツ……アーチャーは命を救った人に殺されたのよ。だから、アンタはそういうことがないように人を救いなさい』

 

 俺の未来が、そうなると?

 確かに、今までも救った人々に憎まれることもあって、ときには刃を向けられたこともある。

 だけど、その刃を許すことはなかった。俺が出来るのは、せめてその想いを背負うこと。

 彼等が向ける刃はこの身ではなく、心を抉っていった。

 そんな、危なっかしい想いを背負って生きる、覚悟はある。

 

「保険よ」

 

 遠坂がまた泣きそうな声を振り絞り、細々と言う

 

「私は、貴方が世界の守護者になるのが許せない。でも、そんなもしも(・ ・ ・)がもう近い。貴方の理想が、貴方の夢が、士郎の『正義の味方』が潰されるのが、私は絶対許せない。だから、まだその『正義の味方』を純粋に追ってほしいから……。でも、でもこの世界じゃもう時間がない。だからせめて、私が出来ることをしてあげたい。時間をあげたいから!」

「遠坂……」

 

 らしくない語り口だった。どうしたんだ。俺のこと、そんなに応援してくれてたのか。

 会うたびに「諦めろ」だの「もうやめろ」だの、耳にタコができるくらい言われたのに。

 

 いや、でも、俺だって解っていたんだ。

 もう時間がないのも、俺が限りなくアイツに近づいているってことも。

 目の前で感情を吐露する女性が口を酸っぱくしてまで俺を否定していたのは、俺を否定したくなかったからだということも、まあ、付き合いが長くなればわかってしまうものだ。

 

 遠坂凛はそういう人柄をしている。

 

「俺は何人も人を殺してきた。直接的にも間接的にも。だけど、そこは問題じゃないんだろ? 俺は『正義の味方』を諦めたわけじゃないし、殺すことを仕方ないなんて思ってもいない。……無意識だったんだ。十の人間のうち、より多くを救うために一を切り捨てる。切り捨ててしまう。きっと、これは動かせない悪夢で、俺だけの苦悩じゃなかったはずだ。平等に降りかかる覆せない運命でしかなかったのかもしれない。きっとそれはどこに行っても一緒だ。だから――」

「……運命が未来を差す言葉と勘違いしていないか?」

 

 並行世界には行かない、と言いかけたところで唐突に会話に割り込んだのは橙子さんだった。俺と遠坂は突然の横やりに言葉を失ったまま、何本目かになるタバコに火を点けた橙子さんの言葉を待った。

 

「いやね、私も最近思ったことなんだ。運命って辞書で調べれば人生やら社会やらを見えざる神の手で支配して、人間が及びつかない力のことらしいよ。なるほど、衛宮の言うそれは運命だろうさ。けどね、私はこう思う」

 

 暗闇の中、橙子さんの瞳とタバコの炎がゆらりと輝いた。

 

「運命ってのは過去だよ。そりゃ覆せないさ。……では問おう、衛宮士郎」

 

 さっきまで吸っていたタバコを一気に吸い出し、灰だけになったそれを床へ落として靴底で火を消した。吐き出した白い息は霧散し、夜の闇へと消えていく。顔を上げた彼女の顔には、まるで「お前の答えなぞ知っているよ」と言わんばかりの笑みが浮かんでいた。

 

「お前は、どうした?」

 

 究極に単純な質問を投げかけられた。

 

「お前は、どうしたんだ?」

「……俺、は」

 

 息を飲む。運命が橙子さんの言う通り過去を差す言葉なら、それはつまり、諦念に直結してしまう。違う。俺はそんなものに苛まれて、理想を追い続けてきたわけじゃない。だから、そう、ここにいる誰もが、俺の答えを知っていて……。

 そこで思考を中断。俺を含む三人ともが一斉に戦闘態勢を取った。

 

「囲まれてる……」

「動きが早い……のか?」

「早い方だな。まあ、魔術を秘匿する気が微塵もないうえに、場合によっちゃ魔術師的視点から見たときの一般人をバカスカ殺す奴を放っておく理由もない」

 

 今は私もいるしな、と橙子さんは変わらない調子で話す。

 彼女はそのまま軋む床を無遠慮に踏破して、扉へと近づいていく。

 

「時間は私が稼いでやろう。言い値分の仕事はせねばなるまい。あと、早く帰りたいからな。……ああ、そうだ」

 

 なにかを思い出したのか、橙子さんはこちらに向き直り、コートのポケットから何かを取り出して俺に投げ渡してきた。

 

「これは……」

「餞別だよ。君は無茶が目立つ。いざという時に飲み込めばいい」

 

 昔の自分の髪の色のような、赤銅色の宝石。

 それが彼女の投げたものだった。

 

「……? 何してるんだ、遠坂?」

 

 自分の着ている衣服のポケット、否、穴という穴をパタパタと叩いて回っている。そして、それを見てニヤつく橙子さん。

 

「橙子さん!」

「はははっ! 衛宮、達者でな」

「な、俺も手つ……ッ!!」

 

 じとりと責めるような視線でこちらを制し、橙子さんはゆっくりと外へと出ていった。

 いくらあの人が規格外の魔術を操ろうと、多勢に無勢は変わりない。どうせなら敵を排除してからでも遅くはない。そう思って一歩を踏み出したところ、二歩目を遮ったのは傍らの遠坂だった。

 

「遠坂!!」

「アンタまで戦い始めたら、意味がなくなるでしょうが!」

「だけど……」

「信じなさい!!」

「え……?」

「私たちはきっと無事に帰る! あと、言うまでもないでしょうけど、アンタが今までしてきたことだってアンタ自身が信じないとそれこそ無意味になっちゃうわ。だから、これからも信じ続けなさい。そのための時間を、私が作るから。アンタは黙って受け取りなさい。その時間の中で、アンタはずっと、答えを追っかけなさい!」

 

 彼女は一歩退いて、懐から輝かしい七色の短剣を手に取る。

 ――宝石剣“ゼルレッチ”。

 第2魔法を行使するための魔術、否、魔法礼装というべきか。

 

「遠坂……」

「幾つか、約束しなさい」

「……あぁ、なんだ?」

 

 一生懸命にいつもの彼女であろうとする努力が伺える。

 ……でもな、遠坂。目、涙がたまってるぞ。

 

「絶対に向こうで答えを見つけなさい。絶対にこっちへ帰ろうなんて思わないで、絶対に向こうで幸せになりなさい」

 

 ひとつひとつの約束を交わすたび、涙は頬を伝い顎、中空、床へと零れていく。

 一粒、また一粒。

 

「忘れてなんていわないわ。時々、思い出して」

 

 すぅ、と宝石剣が弧を描いて振られる。

 現れるのは輝く光の切断面。

 その光が俺を包む。

 

「了解」

 

 光は俺を飲み込んでいく。

 あぁ、そうだ。言うことは、まだある。

 

「俺は、俺のしたことを間違いだと思っちゃいない。それでもこっち(・ ・ ・)に傾くんなら、俺の終着点は決まってたのかもしれない……。だから、ありがとう凛。宝石も、ありがたくもらうよ」

 

 体の半分以上は飲まれた頃、彼女は最後にもう一度、そう。

 遠坂凛の、遠坂凛らしい笑顔を見せて。

 

「さよなら、士郎。来世でね」

「あぁ、さよなら凛。来世でな」

 

 未来、しかも来世というわけのわからない未来への約束。

 どうだろう、これが叶うならば、そう。

 

 正に奇跡だ。

 

 瞬間、視界は白光で覆われ、突然の浮遊感が身体を襲う。

 息つく暇もなく、嵐の海を彷徨うような、暴力的なベクトルの渦へと呑み込まれていく。

 

 

 

 

『さよなら、士郎。私の愛した人……』

 

 

 そして俺は辿り着き、歩み始めることとなる。

 その、優しい星で……。

 

 

 

 

 




08/07/20 ブログにて連載開始
14/05/22 本サイトにてBU版連載開始


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Navi:02

 

 考えているのは今朝の夢のこと。

 でも、ただの夢というわりには生々しいというか、記憶に残りすぎているというか……。

 

「……り! あか……!!」

 

 あの真っ赤な人影は誰で、どんな人なんだろう? 

 なんであんな、お墓が並ぶ場所にいたんだろう?

 

「前見てっ!」

「はひ?」

 

 ――ゴンッ。

 ゴンドラが激しく揺れる。ゴンドラの船首と、ぶつかった壁に小さな傷ができあがってしまった。

 

「ああ、もうっ。……なにしてんのアンタは、まったく」

「はひ、ごめん」

 

 いけないいけない。

 いくら夢のことが気になるっていっても、今は練習中だった。

 ちゃんと集中しないと。

 

「よぅし」

「なぁ~にが『よぅし』よ、なにが。ごまかし禁止!」

 

 たはは、と苦笑いを浮かべておく。

 気合を入れ直したところで、練習再開。集中集中――

 そういえば、あの茜空、綺麗だったなあ……。

 

 ――ゴンッ。

 

「何回目よ!?」

「えっと、6回目かな……?」

「どんだけよ!」

 

 やめやめ! と藍華ちゃんは怒りの勢いを緩め、ムスッとした様子で手を差し出す。

 申し訳ない思いでオールを差し出すと、手頃な桟橋を見つけてゴンドラをそこに停めた。

 私より先に桟橋に降り立つと、憮然としたまま私に言う。

 

「休憩するわよ。そこでぼっとしてるわけ、話してもらうからねっ」

「はひぃ……」

 

 藍華ちゃんの表情は、ゴンドラから降りるのを躊躇するくらい怖いものだった。

 とはいえ、降りないと許してくれそうにもないわけで、頭を低く、私はゴンドラから桟橋に降り立ったのだった。

 

 

 

 近くにあったカフェのテラスに腰を落ち着けると、私の正面に陣取った藍華ちゃんは身を乗り出した。

 機嫌が悪そうな藍華ちゃんはじとりと私をにらむと、はあ、と盛大なため息を吐いた。

 そんな顔されても、こっちは話すための心の準備が……。

 

「さてと、灯里~?」

「は、はひぃ……」

「練習中だっていうのにあーんなにぼっとしてた理由、話してくれるわよねえ?」

 

 えへへ、と笑ったけれど、藍華ちゃんの目じりが余計に吊り上がってしまった。

 無意識に椅子の背もたれを押すように身体を仰け反らせてしまう。

 うう、藍華ちゃんってば顔だけじゃなくて声まで怖くなってるんだもん……。

 

 でも、今朝見た夢が気になって、なんてことを言ったら、それこそ「そんな理由で練習に集中してなかったの!?」と爆発してしまいそうだ。

 その次にくるだろう「そんなことで集中乱せるアンタもすごいわ」と呆れたような、感心したような反応までが簡単に想像できてしまう。

 

「あによっ」

「な、なんでもないよ!」

 

 藍華ちゃんの顔色を窺っていると、ムスッとしたまま藍華ちゃんが私をにらみ返してきた。

 もう一度ため息を吐くと、心配そうな顔をして、声の調子まで変えて話かけてきた。

 

「あのさ。なんか悩みがあったりすんなら、私にも言いなさいよ。少しくらいなら力になれるかもしんないし……」

「う、ん……」

 

 こんなに心配されちゃ、話さない方が不誠実だよね。

 なんでもないよって言うのはきっと簡単なんだろうけど……。

 

「えっと、実は……」

 

 今朝の夢の話を藍華ちゃんに話す。夢の中で見た人影のこと。茜空の景色、そして乱雑に立ち並ぶたくさんのお墓。

 起きた時、無性に悲しくなって泣いてしまったこと。――覚えのない景色と人物を夢に見たこと。なぜか悲しくなってしまったこと。だから見た夢がただの夢には思えなくて、ずっと気にしていて、練習に集中できなかったことを全部藍華ちゃんに打ち明ける。

 三度目のため息――かと思うと、藍華ちゃんはポカンと口を開けて、驚いている様子だった。

 思っていたのとは違う反応が返ってきたこともあって、この後がちょっと怖いんだけど。

 

「それ、私も見たんだけど」

「ええっ?」

 

 予想外の答えに、私のほうが固まった。

 本当に同じ夢だったのだろうか。

 

「ちょっと違うんだけどね。お墓じゃなくて、剣……なのかなアレ。だったと思うのよ」

「うん、そう言われててみればそんな感じだったような、なかったような?」

 

 印象強い夢だった割には、記憶があいまいだ。

 そういわれれば剣だったような気もするし、やっぱりお墓だよって気もする。

 うむむ、と唸っていると、藍華ちゃんは表情を明るくして話を続けた。

 

「アレ、灯里も見てたんだ。起きた時悲しくってのは、まあ、灯里の感受性ならわかんなくもないけど、私はなかったかな。『変な夢』くらいにしか思ってなかったもん。ん~……でも灯里まで見てるってなると、ねえ?」

「そうだよね。二人が一緒に同じ夢を見るってすごい偶然かも」

「試しに聞いてみたら、アリシアさんも同じ夢見てたりしてね?」

「え~? それはないよ~」

「わかんないわよ~? だって、もう私と灯里は同じ夢見ちゃってるんだし」

 

 そんな他愛のない夢想話を藍華ちゃんと話していると、いつの間にかお昼になってしまっていた。

 ついでにと昼食をそのまま摂ると、これがとっても美味しくてビックリ。

 たまたま入った初めてのお店だったからちょっと不安だったけれど、夢の中のあの人にちょっぴり感謝です。

 

 

 

 藍華ちゃんの「こんな頭じゃ練習にも身が入らない」の鶴の一声で、午後の練習はお休みすることになった。

 そのまま書店とか、観光地巡りをして、最後に私たちが腰を落ち着けたのはARIAカンパニーのバルコニーだった。

 書店で買った雑誌を藍華ちゃんと読み合いっこしたりして過ごしているといつの間にか寝てしまっていたようで、うっすらと目を開けた時、目の前には仕事を終えて帰ってきていたアリシアさんがいた。ビックリして椅子からずり落ちそうになって、慌てて身体を支えて、腰から下が椅子から放り出された状態になってしまった。

 お互いに苦笑いを浮かべて、「ただいま」と「おかえりなさい」。すぐにご飯の用意するわね、とアリシアさんが言ってくれた。

 手伝います、と私が立ち上がると、アリシアさんは静かに藍華ちゃんの方へ目をやって、「まだ寝てるわね」と一言。

 

「一緒にいてあげて。ね?」

「あ、は、はひっ」

「うふふ。それじゃ、美味しいの期待しててね。出来たら呼ぶから、藍華ちゃんと一緒にいらっしゃい」

 

 それだけ言って、アリシアさんは会社の中へと戻っていった。

 残された私は、夕日のお布団で気持ちよさそうに眠る藍華ちゃんの方を所在無げに覗き見た。

 かわいい寝息をたてて、猫みたいに丸まっている。

 

 こんなにかわいくても、実は私よりも『水先案内人(ウ ン ディ ー ネ)』としては先輩だったりする。

 そのうえ、アクアにおける観光業で最も長い歴史を持つ老舗『姫屋』に所属しているのだ。

 ちなみに私が所属している『ARIAカンパニー』は他と比べると新興の会社で、所属人数――というよりは社員がアリシアさんと私の2名だけととても小さな会社だ。

 そんな、聞いただけだと天と地ほどもある会社に所属している私たちが一緒に練習するようになったのは、藍華ちゃんがアリシアさんを訪ねてきたのがきっかけだ。初対面の印象は強引な子って感じだったけれど、付き合い始めて、お世話焼きさんだってことがわかった。今日みたいに私が練習に集中できてなかったりすると叱られたりするけど、そのあと、絶対に相談に乗ってくれたりする優しい気持ちも持ってる。

 アクアに来て初めてできた、私の親友。

 

 で、藍華ちゃんも定期的に会いに来るくらい大好きなアリシアさんは、私の上司で、先輩のウンディーネ。

 とっても美人さんで、ゴンドラを漕ぐのひとつとってもその美人に拍車をかけているくらいだ。お料理も上手だし、家事だってバッチリこなす、なんでもできちゃうすごい人だ。藍華ちゃんは『アクアのウンディーネナンバー1はアリシアさん』と言っていたのもあながち間違いじゃないのかもしれない。

 

「ふ……むぅ?」

「あ、おはよー、藍華ちゃん。もうすぐご飯だから一緒に食べようってアリシアさん言ってたよ」

「うん。たべるー」

 

 まだ少し寝ぼけた様子で目をこする。

 口をおおきく開けて、あくびをひとつ。

 寝ぼけ眼のまま茜空を眩しそうに見て、突然ギョッと目を見開いた。

 椅子から転げ落ちる勢いで走り出し、バルコニーの手すりから身を乗り出すようにして空の一点を凝視している。

 

「ど、どうしたの?」

「いや、でも……まさか、アレ」

 

 目をごしごしとこする藍華ちゃん。何度も何度も茜空に視線を向け、その顔色が青くなっていく。

 あんまり見るものだから、私も気になってその方向を見上げると、背筋がサーッと凍り付いた。

 

 人が、落ちてきている。

 

「わああああああああああ!?」

「きゃあああああああああ!?」

 

 と、二人して叫んでも人が落ちてきている事実は拭えない。

 どころか、当然ながら人影はぐんぐん海面に近づいていくばかりだ。

 あと数秒もすれば、文字通りの■の海になる。

 

「いやあああああああああ!!」

「ひいいいいいいいいいい!!」

 

 海面まであと少し。あの勢いと姿勢は致命的。

 もう間に合わない……!

 

 しかし。

 その人影はくるっと空中で姿勢を整え、と思うと、キラリと何かが光った。

 ぼんっ! と強烈な水柱が立ち昇る。人影はその水柱に飲み込まれ、海の中へと消えていった。

 

「な、なにが……」

「あ、ああ、あああああ灯里! と、とにかく行くわよ!」

「ううう、うん!!」

 

 なにが起こったのかはよくわからないが、とにかく助けにいかないと!

 あの高さ、あの勢いなのだから無事なわけがない。

 

 どたばたと転がるように階段を降り、「さっきの音は何かしら?」と悠長にしているアリシアさんに見たことを話すと、みるみるうちに顔が真っ青になっていく。息つく暇もなく「急げ急げ」と私たちはそれぞれのゴンドラに乗り込み、出せる限りのスピードで落下地点へと向かう。

 逆漕ぎでアリシアさんと変わらない速度で並走していくと、少し遅れている藍華ちゃんが不満そうに言った。

 

「ちょっと、灯里ずっこい!」

「はひっ、な、なにがっ?」

 

 この状況でも突っ込むなんて、なんというか、大物だよ藍華ちゃん……。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「う、おっ!?」

 

 光に埋もれていた視界が、急に景色を捉えた。

 瞳の中を茜色が埋め尽くす。思わず俺は、燃え盛る空にぽつりと浮かぶ灰のような、さりげない寂寥感を覚えた。

 こんな綺麗な空を、俺は見たことがない。それはつまり、そういうことなのだろう。

 

 だが、どうしても違和感が拭えない。転移の影響か、まだ思考がぼんやりしているからだろうか。

 そんなことを考えていると、不意に浮遊感が俺を襲った。次の瞬間に浮遊感は消え去り、足が大きく空振った。

 

「っ嘘、だろ?」

 

 眼下には雲海。その切れ間に覗くのは赤く輝く波間――つまり海面だ。

 ……遠坂、お前。こんなところでつい『うっかり』なんて冗談じゃないぞ!

 

「ぬあああぁんでさあぁぁぁあああ!!」

 

 この口癖も久しぶりに言ったなー、なんて現実逃避する傍ら、俺の身体は現実(じゅうりょく)に引かれ、確実に死のカウントを刻み始める。

 くそっ、来世で覚えてろよ遠坂! 現実逃避を打ち切って、俺の魔術使いとしての側面が現状を冷静に認識し始める。

 

 すると、生死の境をさまよう落下中であるにも関わらず、俺は思わず嘆息していた。

 

「……なんて、綺麗」

 

 夕焼けに照らされた海は燃え盛る炎のように揺らめき、その海に浮かぶ街並みを激しく責めたてているようにさえ見える。

 だが、その街並み、そこに生きる人の営みも、その激しさをそよ風のように受け流している。力強い街だと素直に感じた。

 特にその力強さと美しさが目立つのは、中央近く、海に面している巨大な広場だ。

 

 L字型を見せる広場を行き交う人々は笑顔を振りまき、活気に溢れ、そして俺の心を激しく揺さぶった。

 久しく「平和」という空気を吸っていなかったからだろうか。それともこの胸の内から漏れ出す動揺は、世界との離別からか。

 俺の感傷なんかはともかく、この景色は本物だ。俺の目の前にある、美しく在る街並みだ。

 

「うん……?」

 

 次に目についたのは、L字型広場に面する、広場のスケールに添った巨大な聖堂。

 荘厳な装飾類は目にも賑やかだ。黄金で彩られたモザイク壁画、色大理石、宝石、七宝が喧嘩せず同居している。

 十字形の四つの頂点、十字の重なる中央部の計五点に円蓋を配したビサンチン建築。

 これは――

 

「サン・マルコ大聖堂? じゃあ、ここはヴェネツィアなのか……!」

 

 ということは、手前の広場はサン・マルコ広場ということになる。

 まさか並行世界じゃなくて、ただ空間転移しただけ……なんてオチはいらないからな。

 遠坂のうっかりもさすがにそこまで酷くない――と、切に願いたい。

 まあ、転移中即死、なんて笑えない状態じゃないだけマシと思うべきなんだろうが。

 

 事実、紛争地帯にいたと思えばイタリアだ。ないと言い切れないのが悲しい。

 日頃の行いの積み重ねがいかに大事かがわかるな、遠坂?

 

 閑話休題。

 

 とにかく、俺のいた世界となにか違いがないか、強化した視力でヴェネツィアの街を隅々まで見渡す。

 特に大きな相違点は見つけられない。気になったといえば、古くから黒で統一されているゴンドラの中、真っ白いゴンドラがあるくらいだ。その白いゴンドラは決まって女性が漕いでいる。それもほとんどが細腕の、華奢な体型をしている女性たちが、だ。もちろん、漕げないこともないのだろうが……。

 俺が知らない間にゴンドラが大幅に軽量化されたか、推力が発生しやすいオールが開発されたか。

 どちらもありえてしまうのが判断の難しいところだ。

 

 だが「並行世界」というくらいだ。ヴェネツィアがあってもおかしくはない。

 宝石剣まで持ち出した遠坂がついうっかり転移だけにしちゃったテヘっ――なんて失敗は想像したくもない。

 なので、俺の願望と現実のすり合わせで「無事に並行世界へ渡った」と判断を下す。

 

 閑話休題。

 

 それにしてもヴェネツィアか。訪れたことはなかったな。

 まさか一度目の来訪が並行世界で、それもこんな空からとは思っていなかった。

 雲海を抜けて見えてきたのは、さらに広い世界だ。炎弧を描く全周囲を巡る水平線がなんとも心を高揚させる。

 

「……?」

 

 ……なんだ、俺は今、なにに違和感を抱いた?

 もう一度ぐるりと全天を見渡す。強化された視力は水平線をハッキリと写し、ヴェネツィアの営みさえも手に取るようにわかる。

 ――そして見つけた。だが、これは違和感の正体じゃない。

 

「なんだ、あの……浮いてるのか、アレ!?」

 

 巨大な浮遊機械、なのだろうか。

 居住区のような場所があるところを見るに、浮かんだ島のような印象を受ける。

 どうあがいても、21世紀初頭の技術で造り出せる代物じゃない。

 

 あれだけで確信した。ここは並行世界だ。

 それも科学技術が俺のいた世界よりも数世紀ほど進んだ、近未来的な世界だ。

 だが、それを理解したところで違和感はまだ拭えないままだ。いったいなにが引っかかっているのか。

 

 この美しい(・ ・ ・ ・ ・)一面が海に(・ ・ ・ ・ ・)覆われた景色(・ ・ ・ ・ ・ ・)のなにが――――

 

「陸が……ないじゃないか」

 

 愕然とした。

 ヴェネツィアと思われる街を覆うのは、一面の海。

 陸が見当たらない。列島のように小島はあるものの、あるはずの陸地がまっさらの海だ。

 科学技術のさらなる発展で環境問題が悪化した? それとも、元からこういう世界なのか?

 

 考え、考察するべきことは多い。

 だが今はそれよりも、そろそろ身の安全を考えた方がよくなってきた。

 海面まで残り数百メートル。なにもしなければ数秒後にはグシャリだ。

 

 戦闘直後、というわけでもなかったが、小競り合いに介入したこともあって魔力の残量はそう多くない。

 とはいえ、この状況から無事に生還する程度できなければ、今まで生きてこれていない。

 高所からの落下なんて、逃走するのに何度も使った。下が海なら難易度はそう高くない。

 

「――投影、開始(トレース ・ オン)

 

 映し出す影は弓と矢。

 漆で塗られたような艶やかな黒弓は夕日すら飲み込んで、鈍くてらつく。

 矢は無銘の剣を歪めたもの。仕込みは完了、あとは結果を御覧じろ……!!

 

「ふしッ!」

 

 残り数十メートル、というところで矢を放つ。

 海面に向かって雷の如く奔る矢は、一息でそれを貫いた。矢の勢いが死んだと思われるところで、起爆。

 ――壊 れ た 幻 想(ブロークン・ファンタズム)

 

 宝具級の魔力を内包しているわけではないので、爆発自体は小規模だが、水柱を立たせる程度には練り込んである。

 そうして、落下中の俺へ手を伸ばすように海面から水柱が想定通りに立ち昇り、全身を包み込む。

 落下の勢いを大幅に殺し、同時に身体にも強化をかけ、姿勢を槍のように正す。

 

 着水の衝撃でさすがに骨が軋みはしたものの、どこも折れてはいない。

 軽く耳抜きをしてから、視力ではなく目を強化し直し、海面を仰ぐ。

 爆発の余波で発生したままの泡でよく見えないが、十数メートルと沈んでしまったらしい。

 

 急いで浮上するほど余裕がないわけでもない。

 せっかくのヴェネツィアの海だ、ゆっくりと昇っていこう。

 それに、久しく海に入っていなかったからか、なぜだか心地いい。

 

 改めて海上を見上げれば、茜色のカーテンが揺らめている。

 息が続く限りいっぱいまで、この景色を見ていたいと思うくらいに――あるいは死んでもいいから見続けていたいと思うほどに――心を打つ風景がそこには広がっていた。踊る魚影、ふるえる泡、茜の揺光。俺の身体は、いつのまにか上昇をやめていた。

 

 海という大きな流れに身を任せる。

 心地よく全身を包む冷たさは、緊張に熱した身体にはちょうどいい。

 ……そこでハッと我に返った。

 俺がこうしている間にも、遠坂と橙子さんは追手を相手取っているのだ。

 ぐずぐずはしていられない。まずは行動を起こさなければ。

 

 上昇を再開する。今度は周りに気を取られずに、一直線に海面へ。

 

「ぷはぁっ」

 

 肺いっぱいに空気を吸い込む。

 顔についた海水を拭いつつ、周囲を見回そうとした、その時だった。

 

「灯里っ、ちょ、まっ!!」

「灯里ちゃん止ま……っ」

「はひ?」

 

 姦しい声に続いて、目の中を星が暴れまわる。

 遅れて鈍痛が後頭部を襲う。完全に気を抜ていたいところに不意打ちだ。それもかなり強烈な。

 そのダメージがきっかけで疲れがドッとのしかかってくる。

 冷たい海水をやたら気持ちよく感じて、意識は自然と底へと沈んでいく。

 

 前途は多難で満ちているらしい。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 ――ごんっ。

 

 今日7回目の衝突は壁ではなく、人の頭だった。

 

「はっ、はひぃ!?」

 

 ぷかぁ……と波に揺られて漂う人影。

 色が燃え尽きたような白髪に、浅黒い肌の男性。彼の後頭部に漫画のようなたんこぶが見えればどれほど気が楽だっただろう。

 現実はそんな逃げ道も用意してくれず、残酷なくらい素直に私に事実を突きつけてくる。

 

 さあっ、と血の気が引いていく。

 ぎぎぎ……と油の切れた機械のように藍華ちゃんとアリシアさんを振り向く。

 

 その二人も夕陽を浴びていてもわかるくらいに真っ青な顔をしてこっちを見ていた。

 

「ど、どど、どどうしよう!?」

「灯里……」

「灯里ちゃん……」 

 

 引き気味の声が二人からかけられる。

 すっと助けを求めるように手を伸ばすと、すっと二人が身を引く。

 

「私、見てたから……。ちゃんと証言するから……」

「大丈夫。大丈夫よ、灯里ちゃん……」

 

 言われた意味がよくわからず、もう一度浮いている人を見る。ピクリともしない。

 波に任せて、ぷかぷかとただ浮いている。

 二人とも、明らかに動揺して自分を見失っている。そうなると不思議なもので、私はだんだん落ち着きを取り戻していく。

 現状をどんどん認識していくと、さらに血の気が引いていく。

 藍華ちゃんとアリシアさんの言葉が冗談じゃなくなっちゃう!

 

「そ、そんなことより助けようよおっ!」

 

 ハッと我に返った二人と一緒に、私たちは海に浮かぶ男性を助け始めるのだった。

 

 

 




08/07/25 ブログ投稿
14/05/27 ハーメルン投稿


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Navi:03

「……ぐ……っう」

 

 波音が静かに耳をくすぐる。

 気絶する前が海だったので、背中に感触があるのに一瞬戸惑う。

 全身を走査してから、ゆっくりと目を開けた。

 

「ここは……?」

 

 病院ではないらしい。だが建物の中に違いはないようだ。

 身体を起こし、周りを見渡そうとして空気が直接肌に触れるのを感じた。見下ろした上半身は脱がされていて、物騒な傷が丸見えになっていた。

 だが、ともう一度改めて周りを観察する。

 受付らしいカウンターに、スケジュールボード、カレンダーと留置所らしくない。

 

 と、いうことは、だ。

 

「なにかを察してくれたか、よっぽどのお人好しか……」

 

 人のことを言える立場ではないが、とりあえずはそう結論付けておく。

 それにしても肌寒い。今までかけられていたらしい毛布を羽織り、立ち上がる。

 遠坂のおかげで空に転移させられて、自由落下の末に海に墜落。海面に浮きあがったところで後頭部に強烈な衝撃が走って――というところまでは覚えている。とりあえず並行世界に無事転移できたらしいことは、落下中の「浮かべられた島」を見て確信したはいいのだが……。

 

「へっぐし!」

 

 毛布一枚だとまだ寒い。さらに一枚、無銘の赤い布を投影して羽織っておいた。

 赤色にした意味は特にないが、まあ、見た目暖かそうだから気にしない。

 

 近くに着ていた服でも置いていないかともう一度部屋を見渡すが、見当たらない。

 こうして目覚めても誰も出てこないところからすると、後者か、と目星をつける。だとすれば、丁寧に洗濯でもしてくれているに違いない。だとすると、俺の服は外に干してもらっているのだろう。

 とはいえ、流石にシャッターを開けて外に出るわけにもいかない。

 再三部屋を見渡し、扉を見つけるのと一緒にカレンダーも目に入った。そういえば今日はいつだろうと興味本位でそれを覗く。

 

「八月か。ふむ? このあたりの気候は日本とそこまで違いないはずなんだけど冷夏か? ……ン」

 

 と、そこでひとつあることに気付く。

 このカレンダー、普通のものよりも分厚い。

 今までにめくっただろう七枚を含めると、ちょうど二年分あるようだった。

 珍しいな、と思いはすれど、それ以上興味が湧くことはなく、俺は扉へと向かった。

 

 この時、少しでもカレンダーに後ろ髪が引かれていれば、また違った結果になったのだろう。

 だが、未来の俺が過去の俺に物申せるはずもない。

 俺はただの二年分(・ ・ ・ ・ ・ ・)のカレンダー(・ ・ ・ ・ ・ ・)に別れを告げ、外へと足を踏み出したのだった。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「んん……」

 

 ふと目が覚めた。

 いつもとは違う天井に、あれ? と寝ぼけたのも束の間。

 そういえば、あの人がいるから会社に泊まったんだったと思い出す。

 

 身体を起こし、ベッドの端で丸まって寝ていたアリア社長を起こさないよう静かにベッドから抜け出す。

 床には――私がそっちで寝ると言ったのだけど――敷布団で寝ている灯里ちゃんがちょっと寝苦しそうにしていた。

 夕方は思わず錯乱しちゃってあんなことを言ってしまったけど、その結果がこれなら少し申し訳なく思ってしまう。

 そっと彼女の頭を撫でてから、彼の様子を見に行くことにする。

 

 眼鏡をかけてカーディガンを羽織ったところで、階下から扉の開く音が聞こえた。

 アリア社長は後ろで寝ているし、それなら彼が? と、早足になって階段を降りていく。

 待合室を兼用する事務所を見渡すと、予想通り彼の姿はなかった。

 

 まさかなにも言わずに立ち去るつもりだろうか、と不安がよぎる。

 だが、とも思う。今追えば、きっと――。

 

「あ、そうだわ、服」

 

 さすがに世間体というか、会社のイメージと彼の立場もあるだろうから外に男物の服を干すのはやめておいたのだ。

 乾燥機から彼の服を取り出して、簡単に畳んでから腕に抱えた。

 ちょっとひどいと思われるかもしれないけれど、どちらかというと後者の理由が大きいから彼には寛恕してほしいところだ。

 だって……思い出すだけでも身震いしてしまう。

 特に目立ったのは肩から胸にかけての大きな裂傷痕。銃で撃たれた傷はひとつやふたつじゃなかった。

 他にも火傷痕のようなものから、今にも血が流れ出てきそうな生々しい傷までさまざまだった。

 灯里ちゃんとアリア社長にはちょうど氷枕を作りに行ってもらっていて彼女たちは見ていないけれど、彼の服を脱がせるのを手伝ってもらっていた藍華ちゃんは彼の身体を見た瞬間にトイレに駆け込んでいってしまっていた。私も本当はそうしたかったのだけれど、年長者としての意地がそれを押しとどめてくれた。

 

 それに、なんだか、見た目よりもずっとやさしい傷のような気がして……、と、これはさすがに呑気すぎるかしら。

 

「いけない、早く持っていかないと」

 

 春も終わりに近いけど、今夜は特に冷え込んでいる。

 さすがに上半身裸のまま歩かせるのも彼に悪い。

 服をきゅっと胸に抱いて、小走りに外へと駆け出していく。

 

 受付前の通路には彼はもういない。

 とんとん、と外付けの階段を昇り、バルコニーに出ていくもそこにもいない。

 まさか、本当に立ち去ってしまったのかと胸に空虚が押し寄せる。

 なぜだかわからないけど、きっと素敵な出会いになっていたと思ったのだけれど。

 

「こんばんは。君が俺を助けてくれたのかな」

 

 すると、突然声が降りかかってきた。

 私が驚かないように、やさしい声音でかけられたそれに振り向くと、屋根の上に彼はいた。

 どこから持ってきたのか、赤い布を纏っている姿は、どこか隠者のようにも見えた。

 

「あ、あのっ、もう大丈夫なんですか?」

「ああ、こういうのには慣れてるから。っと、失礼」

 

 屋根から無造作に飛び降りた彼は、私のそばに降り立った。

 とはいえ、それでも数メートルと距離を開けて着地したのは私に気遣ってのことだろうか。

 

「あ、あの、とりあえず中に戻りませんか?」

「……いいのか? こんな得体のしれない奴」

「あ、あらあら、それもそうなのだけど……」

「ごめん。困らせるつもりはなかったんだ。お言葉に甘えさせてもらうよ」

 

 そう言われて、からかわれただけなのだと気付く。

 それが恥ずかしくなって、私は無言で彼をARIAカンパニーの中へと先導するのだった。

 ウンディーネ失格だわ……。

 

 

「どうぞ。まだ冷えますから」

「えっ? あ、いや、ありがとう」

「あらあら……?」

 

 私、なにかおかしなことを言ってしまっただろうか。

 彼は視線を泳がせつつも、受け渡したホットミルクに口をつける。

 私も人のことは言えないんだけど無警戒というか、自然体というか。

 緊張してる私の方が損している気になってきた。

 

「おいしい。うん、ホットミルクなんて久しぶりだ」

「あらあら」

 

 彼の反応に、私は思わず微笑んでしまった。

 それに気を悪くする様子もなく、ゆっくりゆっくり彼はホットミルクを飲み干していく。

 コップ一杯のホットミルクを数分かけて飲んだ後、彼は大きく息を吐く。

 

「おかわりありますよ」

 

 言ってからハッとする。

 ちょっぴり恥じ入りつつ、彼の表情を窺う。

 ハトが豆鉄砲を食ったような――なんていうと失礼かしら――顔をしていた。

 それから私の様子を見て、苦笑をひとつ。ああ、恥ずかしい。

 

「それじゃあ、せっかくだしいただこうかな」

「あらあら……それじゃあ、淹れてきますね」

 

 彼のコップを受け取って、持ってきておいたポットからホットミルクを注ぐ。

 注ぎ終わったコップを彼に受け渡すと、ふと思いついたように彼が言った。

 

「そういえば、今年は平均的に涼しいですよね」

 

 今度は私が虚を突かれる番だった。

 なんだってそんなことを聞くのだろう? と純粋に疑問に思えど、この程度答えない理由もない。

 そうですね、と前置いてから私は言った。

 

「去年と比べて過ごしやすいですね」

「ですよね」

「ええ。このまま夏も過ごしやすかったらうれしいんですけどね」

「え?」

「あら?」

 

 まるでコメディのような間が空く。

 乾いた誤魔化し笑いが彼から漏れ出し、にわかに真剣みを帯びた表情でずいと身を乗り出した。

 

「今、八月で間違いないですよね?」

「ええ。春の終わり、晩春の八月ですよ」

「ちょっと待ってくれ」

 

 会話を中断し、彼は眉間を指先で軽く揉む。

 何事かをぶつぶつとつぶやいてから、ぎこちない笑みで再びこちらを向く。

 何を言い出すんだろうと思わず私も身構えてしまう。

 

「ここ、イタリアのヴェネツィアで間違いないですよね?」

「半分正解……ですけど」

 

 私の回答に彼が怪訝な顔をする。

 どういうことだろう。私まで混乱してきてしまった。

 状況を整理する意味も含めて、この街のことを口にする。

 

「イタリアのヴェネツィアといえば、昔地 球(マンホーム)にあったこの街の〝モデル〟になった街ですよね。ここは火星(アクア)のネオ・ヴェネツィアですよ?」

「え……と、なにヴェネツィア?」

「ネオ・ヴェネツィアです」

「……マンホームでアクア?」

「ええっと、マンホームは地球、アクアは火星のことですよ?」

「か……ッ!?」

 

 彼の鋭い目元がぐわっと見開かれる。

 その迫力に思わず身を引き、ごくりと生唾を飲み込む。

 

「火星、だって?」

 

 絞り出すような声。

 その疑問は、私の疑問を呼び起こす。どうして驚いているの(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

 ここはテラフォーミングされた火星で、アクアという名称になったのはもうとっくの昔だ。

 なぜ、ここにいる彼が、ここにいることを驚いて、疑問に思っているのだろう?

 

 すると、彼は立ち上がり、渋い表情を浮かべた。

 

「信じてくれなんて都合のいいことは頼まない。だけど聞いてほしい。俺はこの世界の人間じゃない」

「えっと……」

 

 突然のことに頭が追いつかない。

 もしかして、彼もこんな状態なのだろうか。

 私が言葉を紡ぐよりも早く、彼の手には布が現れていた。

 

 それは彼が羽織っていた――あれ?

 そういえば、服を渡してからあの赤い布はどこにいったのだろう?

 あんな大きな布、ポケットに入るわけもないし、服の下に隠そうにもかさばって太ってしまう。

 

 と。

 今度は彼の手から今まであったはずの布が風に溶けるようにして消えてしまった。

 手品とかそんな生易しいものじゃない。本当に、溶けるように消えて――また現れたのだ。

 

「俺は、魔法使いなんだ」

「あ、あらあら……。手品がお上手なんですね?」

 

 思わずそんなことを口走ってしまう。

 

「これで証拠になるなんて思ってないけど、ああ、クソ。俺、なにがしたいんだ」

「えっと、その、まずは落ち着いて……」

「あ、はい。すいません、取り乱して……」

 

 がたん、と彼が崩れるように椅子に座る。

 ぐしゃりと髪をかき上げて、消沈した様子で力なく言葉が続く。

 

「とりあえず、簡単に、魔法とかそういうの抜きでぶっちゃけるとだな……」

 

 疲れているのがわかる。口調が崩れてきているもの。

 私も驚きっぱなしでちょっと疲れてはいるんだけど、彼の話はまだ続く。

 

「俺はこの世界の常識も、歴史も、延いてはここがどこだかもわかっていないってことなんだ。困ったことに」

 

 本当に困った様子で、彼は机に突っ伏してしまった。

 大の大人――それも男性が今にも泣き出しそうになっている。

 なんとも奇妙な光景だけど、とりあえず私がわかっていればいいのは、彼が可哀想な人でも、イタイ人でもなく、〝困った〟人だということなのだろうか。

 

「あの、そういうことでしたら私、ちょっとは助けになれるかもしれません、よ?」

 

 おずおずと私がそういうと、彼は机に突っ伏したまま、ふっと苦笑した気配を放つ。

 どうしたんだろう、なにか変なことを言ってしまっただろうかと疑問に首をかしげていると、彼が頭をあげた。

 

「聞かないんだな。もしかしたら通報されると思って逃げる準備もしてたのに」

「本当に逃げるつもりだったんですか? でも、そうですね。まだ信じられないっていう気持ちがあるのも本当ですけど、別にあなたが違う世界から来たとか、魔法使いだとか、関係ないじゃないですか。あなたはここにいて、あなたがそう言った。意味としてはそれで充分じゃないかしら?」

「それは……はは。なるほど、参ったな」

 

 どことなく嬉しそうに、彼が微笑む。

 私よりも確実に年上のはずなのにその顔がまた子供っぽくて、ギャップを感じてしまう。

 

 全身の傷はなに?

 その瞳の鋭さは?

 魔法使い?

 異世界ってどんな場所?

 すごく気になるけれど、この答えのほとんどが最初の疑問で解決する。

 あの傷痕を見ただけで、その他のすべての答えが簡単に想像できてしまう。

 

 だから。

 だから私は聞かない。

 そう決めた。

 

「ええっと、それじゃどこから話していきましょうか」

「そうだな、それじゃあ……」

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 話を聞いていくと、その内容よりも彼女の流暢な語り口の方が気になり始めた。

 科学技術の発展は予想通り相当上を行っているようだが、その他の実情は元いた世界とそうは変わらない様子だった。

 火星とかなんとかって単語が出てきたもんだからこれも予想してたことなんだが、星間旅行が一般に普及しているのには驚いた。

 なんか嫌な予感がどんどん膨らんできているんだが……。

 

「では、次は大まかな歴史についてですね。どのくらいから話せばいいですか?」

「そうだな、一般に『歴史の転換点』とか言われているあたりからでいいかな」

「歴史の転換点……そうですね、それじゃあ、〝惑星地球化改造(テ ラ フォ ー ミ ン グ)〟ぐらいからですかね」

 

 テラフォーミング?

 SFなんかでよく聞く単語だ。

 ……膨らみ始めていた嫌な予感がすごい勢いで加速していくのがわかる。

 

「マンホーム、つまり旧名〝地球〟の人々はアクア、つまりこの星〝火星〟の惑星開拓に成功。その際、火星極冠部に堆積していた氷が融解。いまではその溶けた氷によって地表の約九割が海に覆われることとなりました。ゆえに旧名〝火星〟は現在、水の惑星〝AQUA(ア ク ア)〟と呼ばれるようになりました」

「な、なるほどな……」

「それが今から約百五十年前になります。そして、マンホーム、イタリアのヴェネツィアは二十一世紀前期、温暖化もあいまった大規模なアクア・アルタにより水没。今では地図からその姿を消しています。ですが、ヴェネツィア出身者がアクアへの入植時、配分された島に故郷と瓜二つの再現都市〝ネオ・ヴェネツィア〟を建造しました。地図から消えた街は、時を超え、星を越え、まだここにしっかりと存在しています」

「なんてこった……」

 

 嫌な予感が炸裂した。

 今の話の流れからして科学技術が発展しているのは当たり前(・ ・ ・ ・)だ。

 なんてったって並行世界に飛んだだけでなく、時間に場所まで跳躍してしまったというのだから。

 しかし、テラフォーミングか。嫌な予感がまたふつふつと心に湧き出し始める。

 

 閑話休題

 

 この世界、というよりも星の成り立ちはだいたい理解した。

 俺のいた世界から魔術という存在がなくなって――もしかしたらあるのかもしれないが――二世紀ほど未来にきてしまったことになるのか。

 結構なことじゃないか、遠坂。ええ、おい。

 

 さておき、生活やら社会性やらも把握しておきたい。

 

「ごほん。えっと、それからここは会社みたいだけど……」

「はい。ここは水先案内人(ウ ン ディ ー ネ)所属の観光会社、ARIAカンパニーです」

「う、うんでぃーね? それに観光会社だって?」

「えーっと、マンホームでは確かゴンドリエーレと呼ばれていた職業のことかと。ウンディーネは中でも女性のみがなることのできる、この街の観光ガイドのことですね」

 

 なるほど、この流暢な語り口もガイドだってことなら納得だ。

 しかし、俺の知ってる限りだとゴンドラを漕ぐというのはとてつもない筋力が必要で、他人を複数人乗せて一時間近く漕ぎ続けるゴンドリエーレは皆、太腿のような腕を持っていると聞いたことがある。だから基本的に男性がなるものであるとも。しかし未来にきたというのだから、超軽量化されたゴンドラが完成したか、推力を得やすいオールが作り出されていてもなんらおかしくない。

 

「突然失礼ですが、片手でどれくらいのものまで持てますか?」

「え? そんな質問されたことないから……。そうですね、オール自体が十キロから十数キロだったはずでしたから、そのくらいまでは大丈夫だとは思います。けど、いっつも両手で持ってますから片手でとなると……ちょっとわからないですね」

「そうですか」

 

 ふむ。そういえば、火星の重力って地球よりも弱かったはずだから、それも関係しているのだろうか。

 いやでも、この身体の感覚は地球上にいるときとなんら変わらない。ともかく、暇があれば解析してみるのも手か。

 

 その後、地球にはないアクア独自の職業を紹介してくれた。

 アクアの気候管理、および調整をする〝火炎之番人(サ ラ マ ン ダ ー)〟。

 アクアの地下深くで重力制御を行っている〝地重管理人(ノ  ー  ム)〟。

 アクアの空をエアバイクという乗り物で飛び、配達業を一手に担う〝風追配達人(シ  ル  フ)〟。

 これにネオ・ヴェネツィア観光のエキスパート〝水先案内人(ウ ン ディ ー ネ)〟を加えた四大妖精の名を関する職業がそれだという。

 

「――と、こんなところですね」

「ありがとうございます」

 

 まだいろいろと知らなければいけないことが多いだろうが、それはまた追々知っていけばいい。

 それとは別に、一気に言われても今は潜在的な動揺もあって覚えきれそうにない。

 観光業らしいのでおそらく彼女は明日も仕事があるだろうから、あまり長く起こしておくのも悪いだろう。

 

「……ああ」

 

 自然と笑みがもれてしまう。

 彼女と話していて、なんとも懐かしい感覚に包まれていたのだ。

 ここには、守らなければいけない幸せが溢れている。

 ――そう、幸せ、だ。

 

 今まで俺は十の内、九の『命』を救ってきた。

 決して十すべてを救うことを諦めたわけでもなく、ただひたすらに救い、救って、殺してきた。

 

『アイツ……アーチャーは命を救った人に殺されたのよ。だから、アンタはそういうことがないように人を救いなさい』

 

 遠坂、悪かった。

 これは、そういう意味だったんだな……。

 ただひたすらに救うんじゃなくて、十すべての命と幸せを救えって、そう言いたかったのか?

 

 だとしたら、お前は俺に期待しすぎだ。

『正義の味方』にもなれない男に、その先を目指せというのだから。

 俺はそんな、聖人みたいなやつじゃないっていうのに。

 

 肉塊が飛び、血錆にまみれる大地にいた俺。

 だが、それだけでは気付けなかったことが、ここにはあった。

 戦場を離れて、救うことから離れて気付くことがあるなんて思わなかった。

 

 道はまだまだ続く。

 時間も、遠坂がくれた。

 あとはそれに向かって走るだけなんだ。

 

「そういえば、敬語……」

「はい?」

「見たところ私より年上ですよね。別に敬語じゃなくてもいいですよ?」

「そりゃあ、でも初対面の人にいきなりはどうかと思いますよ」

「こんな小娘相手にでも、ですか?」

「え?」

「うふふ。私、まだ十九なんですよ?」

 

 驚いた。

 驚いたが、それは表情に出さないようにする。

 彼女は俺という人間を前にしてもとても落ち着いていて、雰囲気もやわらかい。

 ずいぶんとやんちゃな三十路前を出発前に見たからか、正直彼女のことを二十半ばかと思っていた。

 なんて失礼な間違いをしていたんだ、俺は。

 

「すごく落ち着いてるんだな」

「そうでもないですよ。驚いてますし、まだ混乱してます」

「それでも、信じてくれるんだな」

「うふふ」

 

 彼女はやさしい微笑みで返してくれた。

 どことなく、もうずいぶん会っていない――もう会えない――妹分に似ているなと、そんな思いが心をよぎる。

 

「衛宮士郎だ。よろしく」

「あら?」

「自己紹介、まだだったろ?」

「あらあら、うふふ。そうですね」

 

 上品な仕草で、すずらんの面影を覗かせて彼女も笑う。

 

「アリシア・フローレンスです」

 

 彼女――アリシアがすっと手を差し出す。

 テーブル越しに向けられた手は女性のそれで、強く握れば壊れてしまいそうだ。

 反射的に俺も手を出しだしかけて、テーブルの上にきたところで止まってしまう。

 この手で、こんな手で、彼女の綺麗な手を取っていいのだろうか――。

 

「こちらこそ、よろしくお願いしますね。士郎さん」

「あ、おい」

「はい。どうかしましたか?」

「……いや、なんでもないよ。こちらこそよろしくな、アリシア」

 

 所在無げに止まったままだった俺の手を、アリシアがしっかりと握っていた。

 彼女の手は見た目よりもずっと硬い。毎日ゴンドラを漕いできたからだろう。

 これがアリシアの誇りで、幸せなのだろうか。

 

 そんな簡単に言葉で片付けられるものじゃないのかもしれない。

 今はまだ漠然とした指標なのかもしれない。だが、俺が目指してきて、これからも目指すものに迷いはない。

 まだたどり着けない正義の味方の、それでももう一歩先へ進むために。

 

 みていてくれ。『幸せの守り手』に、この手をかけてみせるから。

 

 

 

 




08/07/30 ブログ投稿
14/06/05 ハーメルン投稿

脱字報告ありがとうございます。


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Navi:04

長らくお待たせいたしました。
ブログの方でも最新話更新しましたので、そちらを読んでる方はそちらもどうぞ。


 朝。

 いつものように窓から入る朝日で目を覚ます。

 

 下の階からはいつも通りの朝食の香り。

 アリア社長がいない、と言うことに気付いて、遅まきながら寝坊してしまったことに気付く。

 

「あわわわ………!」

 

 慌てて制服に着替えて、サイドだけを長く伸ばした自分の前髪をまとめ、それ以外はまだボサボサのまま階段を駆け降りる。

 

「す、すいません、遅れました!」

「あぁ、いいよ。君もそこらへんで寛いで待っててくれ。もうすぐ出来あがるからさ」

「はひっ すいません!」

 

 気にしないで、と言われたけど、やっぱり寝坊は寝坊だ。

 しかも自分は入社してまだ一ヶ月も経っていない。

 否が応でも気が滅入っちゃうんですよ……。

 

「気にしなくていいのよ。昨日が昨日だったんだもの、ね?」

「はひぃ。すいません、アリシアさん。今度からは気をつけます……」

 

 いつものテーブルに腰掛けて、正面にはアリア社長を抱くアリシアさん。

 それにしてもネコさんが社長なんていまだに信じられません。

 火星猫は喋れはしないけど知能が人間並らしいんだけど、それにしたってこんな珍しいことをしてるのはウチの会社ぐらいじゃないのかなぁ。

 

「アリシア、皿ってどこにあるんだ?」

「あ、その正面の棚の上です」

「了解」

 

 ニコニコと笑って対応するアリシアさんはやっぱり、流石だなぁと思う。

 私も早くアリシアさんのような立派なウンディーネにならなくちゃ!

 

「はい、お待ちどおさま」

「わぁ! とってもおいしそうです!」

「あらあら。うふふ」

 

 テーブルに並べられるのはトースト、オムレツにほうれん草のソテー、ウィンナーなどなど。

 一式の洋風朝ご飯だ。お好みでどうぞ、とジャムとバターも並べられていく。

 

「じゃ、いただきます」

「「 いただきます! 」」

 

 つ、とオムレツを切り分けると、中からはトロリとした卵が流れ出る。とてもひとつの卵で作ったとはおもえない。

 ぱくん、と口に入れると、ほわぁ……と広がる卵のやさしい味。なんて贅沢な朝ご飯なんだろー…… 。

 

「おいしーです、これ」

「ええ、本当に。おいしいわ」

「ぷいにゅ~っ!!」

 

 3人共全員が顔を赤くしての大絶賛です。

 アリア社長なんて本当にほっぺが落ちそうな顔をして……幸せそうだなあ。

 そういう私も、きっと鏡をみたらだらしない顔してるんだろうなあ。

 

「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいよ」

 

 また、朝ご飯はオムレツに限らずその全てが絶品で、アリア社長は食べ終わったあと感動で泣いていました。

 かくいう私も少しだけ涙が出たのはナイショです。

 

「食後の紅茶ぐらい、私が入れますから」

「あ、あぁ。そうかい? じゃあ頼むよ、アリシア」

 

 アリシアさんがキッチンへ向かっていくなか、私はアリア社長と二人きり。

 

「今日は昨日の分まも練習がんばりますよ~」

 

 きゅっと社長を抱き上げると、思わず「うっ」ってなる。

 

「社長。ちょっと太りすぎじゃないですか?」

「それは俺もそう思うな。少し控えた方がいい」

「ぷ、ぷぷいにゅ~っ!?」

 

 絶品朝食のこともあってなのか、アリア社長が真っ青になって震え始める。

 ぽろぽろ、と涙がこぼれはじめ、やがてだばだーっと滝のように流れ始める。

 もう号泣です。ど、どうしよう……。

 

「じゃぁ今度作るときは社長だけ特別メニューにしておこうか。それなら文句ないだろ?」

 

 ぽんぽん、と私の抱き上げているアリア社長の頭を軽くなでてあげている。

 はひぃ……大っきい人だなぁ……ぁ、あ、れ?

 

「ん? どうかした?」

「あ、あ、あ……」

「あ?」

「あああああああああ――っ!!!」

 

 自分でも思った以上に大きな声が出た。

 そりゃもうアリシアさんが飛んでくるほどに。とかそんなことじゃなくて!

 驚きのあまり抱えていたアリア社長まで落としてしまって、下の方でぶにゅん、なんてやわらかい音がした。

 

「ど、どうしたの? 灯里ちゃん」

「あぅ、あっあっ!!」

 

 指で目の前の人を指差す。

 アリシアさんが視線を向け、そしてまた私に戻す。

 とても心配そうな顔をしている。

 

「彼がどうかしたの?」

「ゆっ、ゆ、ゆゆっ………幽霊です!!」

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「すいませんでした」

「いや、いいんだよ。気にしなくていい」

 

 彼女はなかなか落ち着いてはくれず、「幽霊が! 幽霊が!」と連呼していた。

 あれだ。今朝の彼女の様子を見て調子に乗って「いつ気付くかな?」なんてふざけていた俺も悪い。

 

「じゃあ改めて。衛宮士郎だ、よろしく」

「みっ、水無灯里ですっ!」

 

 がばっと頭を下げて俺に簡単な自己紹介した彼女――灯里と呼ぼう――は、そのまま勢いよくアリシアを向き直した。

 

「えっと……この方は昨日の、ですよね? 会話とか聞いてると……アリシアさんとは知り合いとか、ですか?」

 

 それはアリシアじゃなくて俺に聞くべき質問なんじゃないか?

 いや、まあ得体のしれない、それも男性とあっちゃ聞きにくいんだろうけど。

 あんまり認めたくはないけど、顔も穏やかな方じゃないしな。

 

 と、アリシアが困ったようにこっちに助けを求める視線を寄越している。

 どう言ったらいいものか、わからないんだろうな、きっと。

 誰だってそうなる。俺だってそうなのだ。

  

「灯里。俺はね、魔法使いなんだ」

「はひ?」

 

 昨晩と同じ。

 爺さん、つまり俺の義父である衛宮切嗣もこういって俺に自己紹介していた記憶がまだ俺の中に残っている。

 当時なんでそんな風に言ったのかを聞くと、「そう言ったほうがわかりやすい」と言っていたのもまた、同じように覚えている。

 確かに、魔術師なんて言葉の響きに比べればメルヘンチックで受け入れやすいかもしれない。

「なにいってんだコイツ」みたいな目で見られることも請け合いだろうけどな。当時の俺もよくあの言葉を鵜呑みにしたもんだ。

 

 もちろん、俺は厳密には魔法使いじゃない。魔術師だ。

 こういうとわからない人には同じに聞こえるだろうが、そうじゃない。

 このふたつは全く違う。

 

 魔法使い、というよりも魔法は、現存する技術ではいくら時間をかけようと、いくら金を注ぎ込もうと叶うことのない《奇跡》のことをいう。

 遠坂が俺に施してくれたのは第二魔法。【並行世界の運営】とかなんとかと言っていた記憶がある。

 この通り、並行世界へ移動することも可能らしいが、具体的な術式は俺には理解できていない。

 いやまあ、魔法なんだから理解できていないのも無理はないのだが。

 

 ちなみに、現在確認されている魔法は五つ、という話は有名である。

 こういうと勘違いされがちだが、現存の技術で実現不可能な事象が五つしかない、というわけではない。

 それこそ無限に存在するだろう。ほら、「物理的に不可能」だとかよく聞くワードだろう?

 現時点で実現不可能でかつ、魔法という形の奇跡に昇華できた事象が五つしかない(・ ・ ・ ・)のだ。

 

 閑話休題。

 

 そして魔術師。つまり魔術は、ぶっちゃけて言うとライターみたいなもんだ。タバコに火を点けたりするアレ。

 現存する技術に時間か金か、あるいはその両方をつぎ込めば、実現可能な事象を己の魔力のみで実行するのが魔術だ。

 日常における行為には『技術』の方が圧倒的に効率的だが、大掛かりになればなるほど『魔術』の方が効率的になる傾向にある。

 とはいえ、そのどちらにも熟達した魔導士なら、という前置きがつくわけだが。

 

 たとえば、ここにダイナマイトの材料と、ダイナマイト並の火力が出せる魔術師(遠坂凜)がいるとする。

 さて、ある程度の大きさを持つ廃墟を発破するならどちらが早いか?

 この場合は魔術師に軍配があがる。宝石魔術が使えるのなら、遠坂は一瞬で廃墟を吹っ飛ばすだろう。トテモ物騒。

 

 対してダイナマイトを使用した場合、ニトログリセリンをその他硝酸ソーダや、低硝化綿薬などと化合し、粉状あるいはゲル状にして、雷管に詰めダイナマイトを作成。

 発破に適した設置、安全確認ののち、発破の秒読みが始まる。そして発破、廃墟は崩れる。遠坂の魔術と比べるとこれはかなりの手間がかかる。あっちは金がかかっているが。

 と、まあ、つまりそういうことだ。

 

 こんな説明を一般人にしたところで「はあ……」という残念なリアクションしか返ってこないだろうことは火を見るより明らかだ。

 だから、半人前の魔術師とはいえ『魔法使い』で説明を済ませるのだ。

 そのせいで余計な苦労を背負うことになる場合も、あるっちゃあるんだけどな。

 

 今回がそうだ。

 

「ほ、本当ですか!?」

「ああ、半に――」

 

 んまえ、と続けるよりも早く、興奮した様子で灯里は言葉を被せてくる。

 

「じゃあ、空とか飛べるんですか?」

「飛べないなあ」

「じゃあ、変身! とか?」

「できないなあ」

「じゃあ、身体をオートマタに改造とか……」

「どっかの世界の俺はそんなことしてそうだけどなあ」

「じゃあなにができるんですか!?」

 

 いや、なにと言われましても。

 瞳をキラキラ輝かせ、羨望の眼差しが俺をちくちくといじめる。

 まあ、好意的に受け入れられたんならいいかな、なんて気楽に考えることにしておこう。

 

「灯里ちゃん、あんまり聞いたら失礼でしょう?」

 

 助け船を出してくれた――さすがウンディーネだ――アリシアに軽く手をあげて感謝してから、改めて灯里に向き直る。

 

「申し訳ないが、この歳になっても半人前でね。それに、魔法ってのはナイショにしといた方が神秘的だろう?」

「な、なるほど、一理ある気がします……」

「だろう?」

 

 どうにか誤魔化せたらしい。

 なるほどなるほど~、と灯里は何度もうなずき、「ちょっと残念です」と表情だけで訴えるにおさまった。

 まあ、見せたところで手品の延長みたいなもんだけどな。

 

「おはようございまーす、アリシアさーん! あとついでに灯里ー!」

「あ、藍華ちゃんだ。ついではひどいよ~!」

 

 ARIAカンパニーの外から灯里を呼ぶ声が聞こえた。

 友達なんだろうか。足取り軽やかに駆けて、灯里は階下へ駆け下りていく。

 その楽しげな背中を眺めていると、アリシアが話しかけてきた。

 

「士郎さんを見つけてくれた、もう一人の子です。それと、その……」

「……なるほど。なんとなくわかったよ」

 

 灯里とは違って、軽やかとは言えない歩みで階下へ向かう。

 昨晩のうち、アリシアから聞いたことのひとつ。灯里と藍華という少女についてだ。

 

 落ちてくる俺を見つけて、助けようと提案したのはこの二人だったらしい。

 加えて、俺を看病しているうちに、知らず藍華には嫌な思いをさせてしまったようだ。

 

「ちゃんと謝罪とお礼をしないとな。もちろん、灯里にも改めて」

「え? あ、はい。そうですね」

「? なんか変なこと言ったかな」

「い、いえ、そんなことない、ですよ……?」

 

 アリシアの妙な反応が気になったが、まずは彼女らに会わなければ話も進まない。

 できるだけ怪しまれないよう――もう手遅れ感は否めないが――注意せねばなるまい。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「おはようございまーす、アリシアさーん! あとついでに灯里ー!」

 

 ああ、うわ、やっちゃった……。

 ARIAカンパニーに来たってんで反射的に挨拶なんてくれちゃった。

 ……いや、いやいや。挨拶は別に悪いことじゃないんだよ。

 問題なのはあの人(・ ・ ・)だ。

 

「うう……。ああ……」

 

 思わず唸ってしまう。

 灯里の近づく足音が、今日だけはなんともいえない。

 

 あの人は怪しい。怪しすぎる。

 あの気持ち悪いぐらいのキズ。うう、思い出しただけでも震えてくる。

 どう見ても考えても普通じゃない。

 

「おはよー、藍華ちゃん」

「お、うん。おはよ、灯里」

 

 にこやかに挨拶を返してくる灯里を見る限り、もしかしたらあの人はまだ目が覚めてないのかも、という期待が私を湧かせる。

 テンションを少しあげて、灯里を急かす。

 

「灯里! さ、練習いこっ。昨日の分もやるんでしょ? んじゃあ早く練習いこう!」

「そ、そんなに急がなくても……紹介したい人がいるのに」

「なぬ?」

 

 すさまじいまでの嫌な予感が私の胸をかき乱す。

 ああ、でもここで「私はいいから」とか言うとそれはそれは嫌な子になっちゃうし、そんなことでアリシアさんの好感度を下げてしまうのもいかがなものかと思うわけで、ついでだけど灯里との友情にもヒビが入るくらいならいっそ怖いもの見たさにその「紹介したい人」とやらに会ってみるのもあるいはひとつの手であるように思わなくもなくなくないわけで何言ってるのか自分でもわからなくなってきた……、ところでアリシアさんと一緒にARIAカンパニーから出てくる人影が。

 

 長身で、浅黒い肌。妙に雰囲気に合った白髪と、間違いなくその人影は、昨日の「あの人」だった。

 

「えっと、こちらは……」

「衛宮士郎だ」

「そう! 魔法使いなんだって!」

「まほ……なに? 恥ずかしいセリフ禁止!」

「ちがっ、えっと……」

 

 おろおろする灯里は、視線で黒っぽ(黒い人+のっぽ)に助けを求めている。

 なによう、助けを求めるくらいにはもう懐いちゃったって?

 

「しょ、証拠はあるんでしょうね、灯里」

「はひ? だって士郎さんがそうだって言ってるんだよ?」

「……っだー。話にならないわね」

 

 人を疑うってことを知らんのかね……。

 ほんと将来が心配になる子だなあ……。

 ていうか、そもそも魔法使いって子供じゃあるまいし。

 

「飛べたりするんですか?」

「飛べないんだ」

「動物に変身とか?」

「できないんだ」

「あっ、弓矢で幽霊退治とか?」

「できそうだけどそうじゃないなー」

 

 適当に言ってみただけだったんだけど、できそうなの!?

 いや、それもう魔法使いじゃなくて御祓い師とかそういうのじゃない?

 ていうか、こう、手品師とか大道芸人的なやつってオチじゃないの?

 ほら、そういう人って『魔術師』とかって呼ばれたりするし。

 

「怪しまれるのは当然だと思っているよ」

「む……」

 

 そんなに顔に出ていたのだろうか、向こうからなにか弁明があるらしい。

 

「今すぐ認めてくれってわけじゃないんだ。嘘か本当かって話じゃなくて、友達ぐらいにはなれたらいいと思ってるよ。相手がオジサンでよければ、だけどね」

「う、むう」

 

 にこり、と。

 やたら鋭い目元からは想像もしていなかった子供っぽい笑顔を浮かべられた。

 それに不意を突かれた私は、もう呆けるしかないわけで。

 

「あ、藍華・S・グランチェスタ……です」

 

 回らない頭は、勝手に自己紹介などしてしまうほど混乱していたらしい。

 一瞬、ハトが豆鉄砲くらったみたいな顔をしていた彼も、私の名乗りに満足したのか、先ほどよりも深い笑みを浮かべてくれた。

 その笑顔にますますなにも言えなくなって、「ぐぬぬ」と思わずうなってしまう。

 

「そんな顔しないでくれ。これからよろしく、藍華」

「……よろしく、お願いします……」

 

 ひとまず、私の中の人物評は「不審人物」から「なんか人の良さそうな人」にランクアップした。

 あんな傷だらけの身体の人に対してこんな警戒度でいいのかと、自分でも不思議に思うけど壁がなくなってしまった。

 とりあえずは、ARIAカンパニーにきてこちら、緊張しっぱなしだった身体を深呼吸ひとつで楽にする。

 

 こちとら接客を生業にするウンディーネですから!

 どんなお客様がきても、そのお客様が満足していただけるよう観光案内するのが私たちの仕事!

 そう思えば、この人との出会いはいい刺激になるのかもしれない!

 

 ポジティブに考えていこう。

 そうしよう、そうしよう。

 

「あ、あとね、藍華ちゃん。士郎さん、料理もすっごく上手なんだよ!」

「店が出せるほどじゃないと思うけど、まあ、取り柄のひとつと言ってもいいからな」

「ほほーう?」

 

 どこか懐かしそうに、衛宮さんはそう言う。

 機会があれば食べてみたいとも思うけど、それってつまりアリシアさんとも卓を囲むってことになる?

 うう、考えただけで緊張しちゃう。さっき緊張をほぐしたばっかりだっていうのに!

 

「それで、昨日は二人が助けてくれたって聞いたんだが……」

 

 うん? でも衛宮さんが気絶した原因って落ちたからじゃなくて灯里が――

 ああ、そういうことか。灯里の方を見ると、ちょっと苦笑いを浮かべていた。

 そこで、ちょっとしたことを思いつく。さんざん心配と緊張させられたお返しなんだから、黙って受け取んなさい。

 

「あすこで灯里があた――」

「あわわうわわわっ!? 藍華ちゃん!」

「ふふん? なにかしらー」

「もう、いじわるだよー!」

 

 しばらくはこのネタでいじれるわね。

 ま、やりすぎるつもりはないけど。

 

「盛り上がってるところ悪いが、それでひとつお礼をと思っている。やってやれることは少ないが、どうだろう?」

「あっ、じゃあじゃあ、私たちの練習に付き合ってもらえませんか?」

「そんなことでいいのか? 言っちゃなんだが、もっとこう……」

 

 と、言いつつ思いつかないらしく、衛宮さんはもやもやした仕草を続ける。

 そんな彼を見かねてか、灯里が私の方へと視線をやった。説得手伝えってことね。

 

「ご存じだとは思いますけど、私たちウンディーネは接客業ですから。お客様役としてゴンドラに同乗してほしいと思って」

「そうです! その通りなんです!」

「……わかった。それじゃあ、言ってくれれば必ず時間を作って付き合おう。お礼をする側としては褒められたもんじゃないが、ちょっと楽しみにしてる」

 

 本人は本当に何気なく言ったつもりなんだろうけど、私と灯里は目を見合わせて固まってしまった。

 今回一度きりのつもりだったのだけど、衛宮さんは「これからずっと」練習に付き合ってくれるという。

 アリシアさんの方にも目を向けると、なんと彼女まで驚いていた。

 

「じゃあ、さっそく練習行きましょう、士郎さん!」

「い、いきなりか? ちょっと待ってくれないか。さすがに朝食の片付けはしたい……」

「はひ……そうでした」

 

 しゅん、と灯里が縮こまる。

 それに苦笑で応えた衛宮さんは「別に行かないってわけじゃないさ」と灯里を励まして、ARIAカンパニーの中へ戻っていった。

 私はその背中を見送って、見えなくなったところで盛大に息を吐き出した。

 

 灯里はそんな私を見て「?」を頭に浮かべているが、あんたがゆるすぎるのよ、まったく。

 緊張を幾分解いていたとはいえ、それでもやっぱりあの傷! あれが引っかかって仕方ない。

 もし私の予想が当たってるなら、手品師でなにをそんなに怪我するんだろう。

 

 もしかしてどこかのサーカス団に所属してたとか?

 そうなるとどっちかっていうと大道芸人っぽいかも。

 料理もそうだけど、いつかちゃんと「魔法」も見てみたいと思う。

 

「魔法使い、ねえ……」

 

 本当に魔法なんて使っちゃったら、どうしよう。

 どうやら、灯里と付き合ってたら不思議が向こうからやってくるらしい。

 不思議体質――だとあの子が不思議ちゃんみたいだな。被不思議体質?

 

 ともあれ――。

 

「おまたせ。それじゃ、行こうか」

 

 衛宮士郎と名乗ったあの人も、被不思議体質でないことを祈っておこう。

 私の日常――主にアリシアさんとの時間とか――が壊されない程度なら、まあ、多少怪しくても仲良くなれるかもね。

 そう、ポジティブ。

 

 前向きに考えていこう。

 たぶん、それでぜんぶうまくいく。気がするのだ。

 

「それじゃ、灯里」

「はひっ。士郎さ――じゃ、なくてお客様っ、お手をどうぞ!」

 

 

 

 

 

 

 むろん。

 その後の練習で、灯里がぐだぐだになってしまったのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 




08/08/08 ブログ投稿
14/10/20 ハーメルン投稿
 


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Navi:05

草之の更新速度……遅すぎ!?
 
 


 ――前略。

 士郎さんが来てから、もう二週間になろうとしています。

 士郎さんが泊まるところがないって言っていたときはどうしようかと思いましたけど、ARIAカンパニーに下宿することになって、なによりごはんが楽しみになっちゃいました。なんだかちょっとおかしいですよね。でも、士郎さんのごはん、本当においしいんですよ!

 アリシアさんは洋食が得意なんですけど、士郎さんは和食が得意だそうで。

 まさかアクアにまできて、定期的に和食の朝ごはんが食べられるなんて思ってもなかったです。

 

 誤解のないように言っておくと、もちろん、ごはんだけが士郎さんのいいところじゃないんですよ。

 やさしいし、親切だし、朗らかでおだやかで、とってもいい人なんです。

 アリシアさんはそんな士郎さんのことを「ぶらうにー」って言っていたんですけど、「ぶらうにー」ってなんだか知ってますか?

 調べようと思っても、ついつい忘れちゃうんですよね。そういうこと、ありませんか?

 

 そうそう、ARIAカンパニーに下宿するって決めるまでは、意外に大変だったんです。

 士郎さん、基本的にはやさしくてお願いとかもなんでも聞いてくれちゃうんですけど、「下宿するといい」っていうアリシアさんの言葉には全然うなずかなかったんです。

 

 これは、そのときの話なんですけど……

 

 

 ――――――……

 ――――……

 ――……

 

「そういえば、士郎さんってどこに住んでるんですか? 空島? 落ちてきましたし」

 

 という私の発言に、アリシアさんとアリア社長も士郎さんの方へ視線を向ける。

 士郎さんはといえば、私の言葉に「いやー……」と微妙な表情を浮かべていた。

 

「それが、ないんだよ。どこかに泊まろうにも、手持ちがな」

「あらあら、それじゃ、ここに下宿するのはどうかしら?」

 

 アリシアさんの即答具合は、まるで最初からそういうことが決まっていたかのような切り返し。

 けど、普通に考えればそうなりますよね。社員が少ないから使ってない部屋もあるし、そこを使ってもらえれば問題もなさそうですし。行く当てもない人を放り出すなんて、そんなひどいことできるはずもないもんね。

 ……でも、士郎さんはなにか納得がいかないようで、むつかしい顔を浮かべていました。

 

「それは駄目だ。灯里も下宿しているんだろう?」

「私は気にしませんよ?」

「俺が気にする。というか、住所不定推定無職の自称魔法使いの怪しい男を一晩であろうと泊めた事実にも目をむけてくれ……」

「魔法使いだけに?」

「そういうのもやめようか。美人が台無しだろ……」

「???」

 

 最後のやりとりの意味はよくわからなかったけれど、それにしても、自分からそこまで言わなくてもいいんじゃ……? というくらいの全力拒否。ここだけは譲らないとばかりに腕を組んで私たちと向き合う士郎さん。士郎さんも士郎さんで出ていくことは心の中で決定済みなのか、その思案顔は「どうやって断ろうか」というよりも「これからどうしようか」という風でした。

 でも、やっぱり、寝泊まりするあてもない人を「それじゃあ、さようなら」なんて送り出せないよ。

 

「あの、私は本当にいいんですよ? 自分のこと、そんな風に言いますけど、私、士郎さんが良い人だって知ってますっ!」

「その評価は嬉しいけど……。灯里だって年頃の女の子だろう。こんな奴とひとつ屋根の下なんて……」

「あらあら、それなら――」

 

 と、アリシアさんは人差し指を立てて、くるりと宙に丸を描く。

 そのまま指を頬にあてて、はてな、とわざとらしく首をかしげた。

 

「どうして最初から『家はある』とか、嘘を言わなかったんですか?」

「それは……、君たちは俺を助けてくれた恩人だ。嘘を言わないくらいの誠意は見せるさ」

「やっぱり、良い人」

「あのな、あんまりからかわないでくれないか?」

「あらあら、うふふ」

 

 とはいうものの、士郎さんに嫌そうな雰囲気はない。

 呆れたような、でも、どこか楽しそうな、そんな感じだった。

 

「う~ん、じゃあ、そうね……」

「こっちはこっちでなんとかするから、君たちが気にすることはないんだよ」

 

 口調はやさしく、態度ではぴしゃりと断る士郎さんにアリシアさんは苦戦しているようだ。

 下宿している私が構わないって言ってるし、経営責任者のアリシアさんはそうすればいいと言ってくれている。

 なのに、士郎さんは頑固にもそれを断り続けている。

 年頃の女の子が~って言ってたけど、それこそ士郎さんみたいな大人が、こんなちんちくりんを相手にするとは思えないし……。

 それになにより、やっぱりこうやって「自分は怪しい者だ」と言って遠慮するのは私たちを思ってのことだと思うから、士郎さんは良い人なんだと思うんです。

 だから、もっと一緒にいたい、仲良くなりたいって思うのは自然なことだと思うんだけど……。

 

「あ、じゃあ……」

「イヤだ」

「まだなにも言ってないのに、ひどいです」

「うぐぅ……っ」

「住み込みの家政夫さん、なんてどうかしらー?」

 

 士郎さんの頑なな態度を読んで、彼が即座に否定することを予測しての〝困った態度〟というカウンター……。

 そのカウンターで士郎さんがひるんだ隙に、ほほえみと一緒に本命を打ち込む……っ。

 ……さすがアリシアさん。ウンディーネの接客技術を応用した、人心掌握術とでもいうべき会話の流れっ!

 こ、これがデキる女というやつなのでしょうか!?

 

「家政夫というよりも、事務員とか用務員って言った方が近いかしら。元々ARIAカンパニーは私と灯里ちゃん、アリア社長で回せるくらいの規模ではあるんですけど、私がお仕事、灯里ちゃんは練習でお店を開ける時間はどうしても出てきちゃいますから、そういう時間を埋めてもらいたくて。もちろん、雇用契約というかたちになりますから、お給金だって支払います。それでも駄目ですか?」

「……ああ、もう」

 

 まるで、答えなんて言わなくてもわかるとばかりに笑顔を浮かべるアリシアさん。

 士郎さんはといえば、もう勘弁してくれと机に肘をついて、身体を震わせている。

 一瞬怒っているのかなとびっくりしたけど、すぐに堪えたような笑い声があがりはじめてホッとする。

 ひとしきり笑い終えてから、士郎さんは顔をあげた。

 

 むつかしそうな表情は消えて、おだやかな微笑みを士郎さんは浮かべている。

 

「参ったよ。君がそんなに頑固者だなんて思わなかった」

「あらあら。お互いさまじゃないかしら?」

「ふふん? だが、ありがとう。これも一宿一飯の恩だ。君たちが嫌と思うまで、働かせてもらうよ」

 

 すっと、士郎さんがアリシアさんに手を差しだす。

 アリシアさんはそれを受け入れ、軽く握手を交わした。

 士郎さんは続いて私にも握手を求めてきて、びっくりしたけど、ゆっくりと彼の手を受け入れる。

 

 ごつごつした手。でも、あたたかくて、力強くて。

 

「あ、あの、よろしくお願いしますっ、士郎さん!」

「ああ、こちらこそよろしく、灯里」

 

 こんな感じで士郎さんのARIAカンパニー下宿、もとい就職が決定したのでした。

 

 

 ――……

 ――――……

 ――――――……

 

 

 それから、二週間はあっという間に過ぎていきました。

 はたしてそれが大変だったからといえるのか、楽しかったからなのかは、ちょっとわかりません。

 本当に毎日、いろんなことがあったんです。

 

 特にビックリしたのが床上浸水……じゃなくて、アクア・アルタと呼ばれる高潮現象。

 毎年、春の終りに発生して、街の全てが機能を停止する……とかなんとか。アリシアさんと士郎さんが教えてくれました。

 

 そして、今日はと言うと藍華ちゃんとの合同練習はお休み。

 昨日も用事とかって言ってたけど……なんなんだろ?

 

「むにゅう……」

 

 ともかく、いつもより少しお寝坊さんになれることが、今はなによりしあわせ~……。

 

「こら」

 

 ぺちぺち。

 

「はひっ!?」

 

 ほっぺをぺちぺちされて、はっと体を起こすと、そこには三角巾と、ピンクのエプロンをつけた姿が妙にしっくりくる士郎さんが。

 

「練習が休みだからって、朝食は休みにならないぞ! それと、お客だ」

「お客?」

「取り急ぎ顔洗って行ってこいな」

 

 はぁ、と気のない返事をして、寝起きのおぼつかない足取りで二階へと降りていくのでした。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 「じゃーん」

 

 窓を隔てたベランダに立つ藍華が、灯里に向けて晴れがましい笑顔を浮かべ、両手を突き出す。

 めいっぱいに開かれた両掌には、いつもの手袋が――片方だけなくなっている。

 おっ、と二人には聞こえない程度の声が漏れる。アリシアから聞きかじった話だと、確か……。

 

 灯里はその事実に気付かずに、顔を洗ってもまだ寝ぼけたままなのか、ぐしぐしと目をこすっている。

 藍華はといえば、期待と喜びに満ち満ちた顔を浮かべてずずいっと、灯里に迫っていく。

 しかし、灯里はなにを勘違いしたのか、藍華の手を握ってぶんぶんと力強く握手している。

 灯里らしいと笑ってしまうが、当人である藍華は期待外れの反応にむっとしたようだった。

 

「違ーう。手袋てぶくろー」

 

 握手の後、もみもみと藍華の手を揉んでいた灯里は、その言葉に彼女の両手を見つめる。

 木魚の音でも聞こえてきそうな間が空いたあと、灯里の髪がざわわっと逆立った。

 元から寝癖をつけていた灯里の頭が大変なことになってしまっているのも気にせず、少女二人は目を輝かせる。

 

「ああーっ、片手袋(シングル)だぁーっ!」

「ふっふっふ~。一人前のウンディーネになるのも時間の問題っ」

 

 アリア社長を挟んで、灯里と藍華はきゃっきゃと騒ぐ。

 さて、そうなると俺からもちゃんとお祝いは言わないといけないな。

 仲良く笑う二人に近づいて、会話の隙にするりと言葉を入れこむ。

 

「藍華、昇格おめでとう」

「はいっ! ありがとうございます!」

「シングルになったならシングルなりの心持ちにならないとな。片手袋の意味、ちゃんとわかってるだろ?」

「ぶーぶー。こういうときは素直に祝福してくださいよー」

「……片手袋の意味、ですか?」

 

 灯里が、はてな、と首を傾げる。

 その反応に、藍華は「うそでしょ」と言いたげな表情を浮かべている。

 なんだ、アリシアまだ教えてなかったのか。それとも、まだ早いと思っていたのか。

 アリシアの教育方針もあるだろうから、どうしようかと俺が迷っているうちに、藍華が呆れ半分優越感半分くらいの態度で「しょうがないわねえ」と呟く。教えることにまんざらでもなさそうなところが、藍華の人の好さが出ていてこちらまでほほえましい気分になってくるようだ。

 

「いーい? 新米ウンディーネが手袋を両手にはめるのは、まだオールの扱いに慣れてなくて、手にマメや怪我をしてしまうことが多いからなの。その手袋が片方だけでも外れるっていうのはつまり『マメや怪我の心配なくゴンドラを操れる』って認めてもらえたようなもんなの」

「ほへー」

「わかってんだかわかってないんだかわからない返事禁止っ!」

「はひっ! ご、ごめん」

「とにかくよ。ん、まあ、その、認めてもらえたぶん、しっかりしなきゃってことなの」

 

 なんだ、わかってるじゃないか。

 なら、わざわざ俺が出張るようなことでもなかったかもな。

 祝福しろって言われたし、激励の言葉でも送ってやろう。口下手なりにな。

 

「なんにせよ、プリマを目指すっていうならここがスタートラインだ。この歳になってもまだ半人前から抜け出せない半人前の先輩から言わせてもらえば、お前らには素直な才能がある。努力だって楽しんでしまえる、俺にはない才能がある。プリマへの道はきっと険しい。だけど、そんな道だって、きっと笑って進んでいける。そんな気がする。うまく言えないけどな。ガラにもないことは言うべきじゃないな。うん。本当におめでとう、藍華」

 

 ぽん、と藍華の頭を軽くなでる。

 と、その瞬間、藍華はぼろぼろと涙をこぼしはじめてしまった。

 ええっ、なんでさ!?

 

「お、おい、なんで泣くんだ? 俺、変なこと言ったか? ごめんな……!?」

 

 咄嗟に頭を撫でて、背中をやさしくこする。

 すると、次第に落ち着きを取り戻した藍華は、まだしゃくりあげながらもしゃべり出した。

 

「違……っ、違う、ンですっ! なんか、その……うぅっ、うまく言えないけどっ! うれしくてぇ……!」

「……そうか」

 

 師匠や先輩っていうのは、経験則からしてあんまり褒めはしてくれないものだ。

 ――いや、あれは彼女が特別辛辣で、かつ俺が特別特殊だったからなのもある気がするが。

 ともかく。

 藍華個人の事情は知らないが、褒められ慣れてなかったらしい。

 俺としてはそこまで褒めたつもりではなく、激励程度のつもりだったところを、それでも藍華にとっては大きな言葉だったようだ。

 

 つまるところ、ビックリしてしまったのだろう。

 重ねて子供扱いしすぎかと思ったが、あやすように藍華の背をぽんぽんと叩く。

 

「あわわわ……!」

「灯里もなにをそこまで慌ててるんだよ」

 

 俺達を遠巻きに見る灯里は、目に見えてうろたえている。

 友達が急に泣き始めれば、まあ、仕方ないか。

 そんな灯里を見てか、藍華も次第に落ち着きを取り戻してきたようで、「もう大丈夫です」と弱々しく言うと、どこかバツが悪そうに俺から離れていく。

 すると、今度は私の番と言わんばかりに灯里が藍華に走り寄り、「大丈夫? 大丈夫?」と一心に藍華を気に掛けている。

 藍華はそれを少しうっとうしそうに、だけどどう見ても嬉しさが優った表情で受け入れている。

 

「もう! 本当に大丈夫だからっ!」

「はひっ。……うう、よかったあ」

「まったく、ちょっと泣いたくらいで心配しすぎよっ」

 

 灯里があわあわしているからか、藍華はだんだんと落ち着きを取り戻しはじめているようだ。

 呼吸の合間にまだ引き攣るようにしゃくりあげてはいるものの、普段とそう変わらない様子だ。

 

「ふふ。でも、さっきの士郎さんと藍華ちゃん、兄妹みたいでちょっとうらやましかったかも……」

 

 ――そう、変わらない様子だった。

 灯里の何気ない台詞で、藍華はくしゃりと顔を歪ませると、その瞳に再び涙が浮かぶ。

 俺は灯里を、灯里は俺と目線を交わす。「なんてこと言ってんだ」と「助けてください」が交差する。

 

「恥ずかしいセリフ禁止ぃーっ!! うわあああああああああああああんっ!!」

 

 その決め台詞を引き金に、藍華の感情が決壊してしまう。

 赤ん坊かと思うほどの

 

 叫びと一緒に涙もぶり返す。

 ていうかさっきよりヒドイ。涙と鼻水で顔がぐしょぐしょだ。

 

「灯里ーっ!!」

「ひぃ~んっ! ごめんなさーいっ!」

 

 その後、藍華が本当に泣き止むまでは15分程を要した。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 藍華ちゃんは泣きやむと私があわあわしているうちに、すたこらと帰っていってしまった。

 試験内容を聞くような雰囲気じゃなかったのは、自業自得な部分があるんだけど……。

 

「そう、藍華ちゃんはもう半人前になったの」

 

 さすがねー、と少しなにかを考えるようにつぶやくと、アリシアさんは私をじっと見てから口を開いた。

 

「どうして一人前に近づくにつれて、手袋を外すかわかるかしら?」

「あ。藍華ちゃんに教えてもらいましたよ。えっと、確か余分な力を使わずに上手にゴンドラを操れるようになったら、手にマメとか傷とか余計な怪我の心配がなくなっていくから……でしたっけ?」

「その通りね」

「……んー。私の手、まだマメだらけです」

 

 ぐい~っと伸びをして、手を空に向かってかざす。

 見上げた手のひらの、手袋の下にあるマメのことを思う。

 やっぱりまだまだだなあ、なんてぼんやりと考えていたその時。

 

「うん。よしっ。灯里ちゃん、ピクニックに行こっか」

「ピクニック……?」

「うん。今から!」

「今からっ!?」

 

 カウンターにもたれかかっていた体を起こして、アリシアさんは決定と言わんばかりの気合の入れよう。

 思わず聞き返してしまう勢いだった。

 それにしても、今からなんて、急な話だなぁ……。

 

「そっ。とっておきの場所を教えてあげる」

 

 ぱちん、と星でも出てきそうな素敵なウィンクをしながら、アリシアさんは言う。

 はわぁ……、どんなことをしても似合う人は似あうんだなあ、なんて少しズレた感想を浮かべつつ、その姿に魅入ってしまう。

 

「士郎さーん!」

「はい、なんですかね?」

 

 ちょうど階段を下りてきた士郎さんは、弾むアリシアさんの声に半ば呆れたような口調で応える。

 でも士郎さんがその顔に浮かべているのは笑顔で、鏡映しのように素敵な笑顔を返すアリシアさんは嬉しそうに続けた。

 

「士郎さんもピクニック、行くでしょ?」

「君の中じゃもう決定事項だろう? ああいや、嫌なわけじゃないんだけどな。さて、そうと決まれば弁当でも作ろうか」

 

 少しニヒルな言葉を繰りつつも、士郎さんは早足にキッチンへと戻っていく。

 それを追いかけるようにアリシアさんもキッチンへ向かって駆けていく。

 途中、階段の半ばぐらいから身を乗り出して、私に笑顔を向けつつ、

 

「灯里ちゃんはゴンドラの準備しといてね。すぐに行くから」

 

 そうとなれば私の足も軽やかに動く。

 どんなお弁当ができるのかな、とウキウキしながら、私は私のゴンドラへと向かうのでした。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「すぐ出発するんだろう? なら、サンドイッチとか、軽めのものだな」

「そうですね」

「それにしても急な話だな。ピクニックなんて」

「そうですか?」

「そうです」

 

 ともあれ、サンドイッチなら三人と一匹前でもすぐにこしらえられる。

 ……というか、火星猫ってサンドイッチとか大丈夫なのか? 今更か。

 

 さて、急な話だ。充分な材料が冷蔵庫にあればいいが……。

 冷蔵庫を覗けば、最低限朝食用に買い置きしているものがまだ残っている。

 ベーコン、トマト、レタス、卵にハム。

 バッチリだな。バッチリすぎて勘ぐってしまいそうになるほどだ。

 

 レタスは数枚むしって氷水に、もうひとつのボウルには水を張って卵を割らずに浸す。

 茹で卵はある程度手間をかけてやれば美味しく出来上がるので、ベルトラインは別で取っておくといいだろう。

 この隙にフライパンをコンロの上へ乗せ、火をかける前にベーコンを並べる。

 弱火にかけた後、温まるまでの時間でレタスを氷水から引き揚げ、水気を切るためにキッチンペーパーの上へ並べる。

 じりじりといい具合にベーコンが焼け始めたら、滲み出した油をキッチンペーパーで拭き取る。

 油を放置してしまうことでベーコンが熱される温度が上がり、焦げ付きやすくなってしまうのだ。

 結果、こまめに拭き取ることで美味しいカリカリベーコンへの近道となる。

 

「アリシア、見てるだけなら食パンの耳でも切ってくれないか?」

「ええ、よろこんで」

「耳は取り置きしておいてくれ。貧乏性だが、今度お茶請けにでもするよ」

「わかりました」

 

 アリシアにパンの方は任せ、俺の方は具材の調理に戻る。

 ベーコンがいい具合に焼けてきたところで、卵の準備も整う。

 ベーコンを焼くフライパンの横に鍋を置き、水から取り上げた卵を並べていく。

 そのまま卵が半分浸かるくらいまで水を注ぎ、酢をおおさじ1足してから火にかける。

 事前に卵を水に浸した理由は、この時点での温度差をなくす目的からだ。

 加えて酢はタンパク質を凝固させる作用を持っているため、万が一茹で途中で卵が割れても白身が漏れ出す危険を減らしてくれる。

 この総合的な気配りによって、茹で時間の短縮、殻が割れにくくなる、というメリットがあるのだ。

 

 そこまでしたところでまな板にキッチンペーパーを敷き、ベーコンを取り上げる。

 余分な脂はここですべてなくなり、香ばしいベーコンが出来上がる。

 

「アリシア、こっちは頼むよ。BLTサンドだ」

「はい、任されました」

 

 あとはゆで卵に集中すればいい。

 水が沸騰するまでは卵を静かに転がしてやる。こうすると黄身が真ん中にあるゆで卵になってくれるのだ。

 水も卵の半分くらいと少な目なので、すぐに沸騰してくれる。

 軽く沸騰し始めたところで蓋をし、火は中火へ。あとはだいたい7、8分というところだろう。

 好みでゆで時間を調整すればトロトロのゆで卵や、ハードボイルドなかたゆで卵にすることもできるだろう。

 今回の茹で時間は半熟あたりのゆで卵だな。

 

 この時間を利用してサンドイッチを詰めるバスケットを用意する。

 ふと、サンドイッチだけでは物足りないか、と思い、副菜も添えるとする。

 ケトルで湯を沸かし、その間にベーコンを焼いていたフライパンにもう一度火をかける。

 冷蔵庫を確認すれば、ウインナーの缶詰もしっかり常備してある。

 

 まあ三人と一匹だし、これくらいなら食べるだろうと一つを開ける。

 少しだけ考えて、灯里なら懐かしむだろうと飾り切りを施していく。基本的にはタコだな。赤くないが。

 ちなみにウンチクだが、ウインナーに切れ目を入れるのは日本だけだと言われている。

 というのも、あれは元々「皮が破けないように」とか「余分な脂を出すために」だとかではなく『箸でつまみやすいように』入れたものだからだ。

 さらに、切れ目を入れることを考えた人と、タコさんウインナーを考案した人は同一人物だ。

 

 ウインナーの焼き上がりと、卵の茹で上がりが重なる。

 ウインナーは小皿に取り出し、卵はレタスを浸していた氷水に軽くヒビを入れてから放り込む。

 こうすれば熱されて膨張していた卵が急冷されることで身を引き締め、身と殻の間に隙間を作り出し、剥きやすくなる。

 

「アリシア、半分任せていいか?」

「はい。どうしますか?」

「確かスライサーがあったろう。あれで輪切りにして、ハムと一緒に挟んでくれないか」

「うふふ、はい、わかりました」

 

 つるつると卵の殻を剥き、半分はアリシアへ。

 もう半分は手元のボウルに入れ、荒めにマッシュする。そこへマヨネーズを和えて、出来上がりに粗目の胡椒をふりかけ軽く混ぜれば、エッグサラダの完成だ。あとはこれを薄くバターを塗ったパンに挟んで、エッグサンドの出来上がり。

 BLTサンドとエッグサンド、アリシアの仕上げたハムエッグサンドをバスケットに詰め、タコさんウインナーの脳天にピックを刺しこんで添えれば――サンドイッチランチバッグの完成だ!

 ささっと後片付けも終えれば、作業時間は三十分弱。上出来だ。

 

「完成っと」

「うふふ。すごいですね」

「なにがさ?」

 

 慣れれば誰だってできるような簡単な調理だ。

 すごいと言われるようなことはなにもしていないはずだが?

 

「本当に魔法使いなんですね」

「……魔術を使った覚えはないが?」

 

 そういうことじゃないですよ、と微笑まれて、どういうことだと首を傾げると、

 

「そう、つまり、台所の魔法使いさんですね」

「……ああ、なるほど。いや、そんなことは……」

 

 もにょもにょと言葉尻が小さくなってしまう。

 確かに、料理は昔からしていたし、こちらに来てブランクも埋めることができた自覚はある。

 だが、その、なんだ。そうして正面から褒められると、年甲斐もなく照れてしまうわけで。

 こんなおっさんの照れ顔なんて、見て嬉しいもんでもないだろうに。

 

「一本取られたかな」

 

 頬を指先でかいて、照れ隠しとする。

 浅黒くなった肌に、今だけは感謝の念を伝えたいと思う。顔の赤さがバレずに済む。

 

「じゃあ行きましょう。士郎さん」

「ああ、灯里も待ちくたびれてるかもな」

 

 二人並んで階段を降りていく。

 灯里はすでに外に出てゴンドラに待機しているのだろう。事務所には姿がなかった。

 シャッターを閉め、本日営業終了の看板を掛けておく。

 

 そこで、ずっと俺の後ろに並んでいたアリシアが、そっと声をかけてきた。

 

「士郎さん、ピクニック、楽しみですね?」

「ああ」頷いて、振り向く。「アリシアがからかいさえしなければ、な」

「あらあら、うふふ」

 

 そんな言葉には怯みませんよ、とでも言いたげに微笑むアリシア。

 俺の知る誰とも違う彼女に、どうも調子を崩されっぱなしだ。

 

 陽の差す通路へ歩き出したアリシアは振り返ると、いまだ日陰を歩く俺に向かって、目的地を告げる。

 

「今日これから行くのは、ウンディーネの間で『希望の丘』と呼ばれているところなんです」

「へえ、希望の丘、か。ウンディーネの間でってことは、なにか曰くがあるのか?」

「実は特にあるわけじゃないんですけど、そうですね……」

 

 空を見上げたアリシアは眩しそうに目を細め、やはり微笑みながら続けた。

 

「希望の丘は、きっと、託す場所なんですよね」

「……託す場所、か」

 

 思い出すのは綺麗な月夜だ。

 あの日、まだ幼かった俺は、隣に座るじいさんに――。

 

 そしてもう一つ。

 何かを託されたわけじゃなかったけれど、あれは確かに希望の夜だった。

 運命に出逢った日。やはり、綺麗な月夜だった。

 

 あの日俺は、願い続けたものへの一歩を、確かに踏み出したのだ。

 それを希望の夜と言わず、なんといえばいいのか。

 奇跡が幾重にも連なり、そうして、歩き出した夜なのだ。

 

 感傷的だ。らしくない。

 そうは思っても、彼女を思わずにはいられない。

 できることなら、もう一度。そう思わずにはいられない。

 

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもない。行こうか」

 

 俺は、陽の差す場所へ向けて、歩き始めるのだった。

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 




08/08/20 Navi:5前編としてブログ投稿
18/02/15 ハーメルン投稿

十年前……だとぉッ!?


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