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ALO編
第1話


 フッと目蓋を開く。その途端、強烈な白い光を感じ、目が眩む。

 ゆっくりと視線を変えると腕には点滴のインジュクターが繋がっていた。

 その時、ここが《あの世界》でないことを──還って来たのだと少年は実感した。

 

「…………ッ!」

 

 声がうまく出ない上に喉が痛む。

 と、そこでようやく頭が固定されていることに気付き、顎下にあるロックを手さぐりで外して《それ》をむしり取る。

 

《ナーヴギア》

 

 全てはこれを被ってから始まった。ピカピカだったそれも二年もの歳月で外装は色褪せていた。

 

 それを枕元に置くと、部屋の中には自分以外誰もいないことに気付く。あるのは医療機器だけだった。

 その時、先程まで隣にいた一人の女性の姿が脳裏を過る──崩壊していく世界の中──最後まで離さなかった《彼女》の姿が。

 

 すぐに立ち上がろうとしたができなかった。体が酷く重い。

 筋肉が落ちているのだとすぐに解ったが、そのあまりの虚弱ぶりには溜め息しか出てこない。

 点滴の金属棒を杖代わりにしてようやく立ち上がり、膝がガクガクと震える中、持てる限りの力を振り絞り、一歩、また一歩と、病室のドアへと足を動かす。

 するとドアが開く音とともに、二人の男女が入ってきた。

 

 セーラー服を着た少女が誰なのかはすぐに解った。忘れるはずがない、自分の大切な妹なのだから。

 ただもう一人の、黒縁メガネにスーツ姿の男は記憶が確かなら面識は現実、SAO共にないはず──。

 すると訝しそうな顔に気付いたのか、男が自ら名乗りをあげた。

 

 《総務省SAO事件対策本部》それが彼の所属だと言う。

 彼らはSAO被害者対策活動の一環として被害者を病院に移させることと、手に入れたごく僅かなプレイヤーデータをモニターしていたそうだ。

 彼がここに来た理由は早い話が情報収集、取り調べだった。《あの世界》で一体何があったのかを。

 

 答えるには吝かではない。

 だが、これをチャンスと見て一つの条件を突きつけた──今すぐ《彼女》の居場所を調べて教えろ、という条件を。

 意外にも男はすぐにその条件を飲んでくれた上に、わずか数分で彼女の居場所を探し当ててみせた。いや、探し当てたというより彼の担当する被害者の中にたまたま被っていたのかもしれないが。

 しかしそんなことはどうでも良かった。今すぐそこに連れて行くように頼むと少し戸惑っていたが──やがて男は頷いてくれた。

 

 そしてもう一人、妹に視線を向けると、いつからか黒い瞳に大粒の涙が浮かんでいるのが見て取れた。二年ぶりの再会だから無理もない。本来であれば掛けるべき言葉があるのだろうが、しかし今は《彼女》のことしか考えられなかった。

 

「…………スグ……頼む」

 

 喉の痛みに耐え、振り絞り出した声は酷く枯れていたが、それを訊いた妹は小さく頷いてくれた。

 

 車椅子に乗り駐車場まで妹に運ばれ、役人の車に乗り込む。

 

 幸い、然程遠い場所ではなかった。

 

 連れて行かれた別の病院の病室。ここに《彼女》がいる。そう思うといてもたってもいられなかった。

 別れの時間は実際に計算すれば然程のものではないはずだが、現実の世界で会うのは初めてだったため、多少の緊張と期待を持って病室のドアを開ける。

 そこにいたのは──栗色の長い髪を靡かせ、こちらを見つめ、優しく微笑みかける──彼女の姿だった。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 それから2ヶ月が経とうとしていた、とある日の夕方。

 

「ねぇ、お兄ちゃん……やっぱり私も行かなきゃダメ?」

 

「いや……まぁ無理にとは言わないけど明日奈が逢いたいって言うからさ。それに明日には退院するらしいから、そうなると東京まで行くことになるぞ」

 

「…………解った」

 

 それから十分後──ジャージから普段着に着替えた直葉を連れ、和人は家を後にした。

 キリト/桐ヶ谷和人と妹の桐ヶ谷直葉がこれから向かう場所は埼玉県所沢市──その郊外に建つ最新鋭の総合病院。

 その最上階の病室に彼女はいる──アスナこと結城明日奈が。

   

 デスゲームから覚醒した直後、総務省SAO救出対策本部の役人に頼み、彼女と現実での再会を果たすことができたのだが、すぐに彼女の両親と思われる男女が駆けつけてきたため、一緒にいられた時間はものの数分だっただろうか。

 さすがに両親が来たのでは長居するわけにはいかないと思い、軽い会釈をして妹に車椅子を押してもらい病室を出ると、廊下では例の役人が電話越しに何度も頭を下げていた。

 すぐにこちらに気付くと申し訳なさそうに直葉に携帯を渡してきたので、その相手が母だというのはすぐに解った。

 申し訳ないという気持ちもあったが、さすがに無理をしたせいか──まるではりつめていた糸が切れたように疲れがどっと込み上げてきたので、その場は二人に任せることにした。

 その翌日、約束通りその役人に全てを話すと、彼から信じられない話を聞かされた──未だ約300人ものSAOプレイヤーが目を覚まさないことを。

 当初はサーバの処理にともなうタイムラグだと思ったが、今現在もそのプレイヤー達が目覚めたという知らせは来ないままだ。世間では茅場晶彦の陰謀が継続しているのだと騒がれているが、それはないだろう。

 彼は──茅場晶彦はすでに死んでいるのだから。

 これは非公開ながら例の役人から聞いた話なので間違いないだろう。

 SAOがクリアされた時点で茅場晶彦の潜伏先がわかり、すぐに警察が駆けつけると超高出力で大脳をスキャンし、脳を焼き切って死亡している茅場晶彦と彼に脅迫されて世話をしていたという助手の女性が発見された。

 彼の潜伏先は長野県。見つかった助手の女性──神代凛子も重要参考人として捕まっているが、望むなら面会させることはできると例の役人に言われ、少し迷ったが明日奈と相談して、彼女が退院してから二人で行くことにした。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 ゆっくりとしたペースでペダルを漕いでいくと、やがて前方に巨大なブラウンの建築物が姿を現した。民間企業によって運営されている高度医療専門病院だ。

 高級ホテルのロビーのような受け付けで通行パスを発行してもらい、胸ポケットにクリップで留め、エレベーターに乗り込む。

 数秒で最上階である18階に到達し、無人の廊下を歩いていくと、やがて突き当たりにペールグリーンに塗装された扉が見えてきた。

 すぐ横の壁面には鈍く輝く金属のパネルがあり、名前が印刷されたプレートが嵌め込まれている。『結城 明日奈 様』というその表示の下の1本の細いスリットに、和人は胸からパスを外し、その下端をスリットに滑らせると微かな電子音、圧搾空気の音とともにドアがスライドした。  

 真冬にも関わらず、色とりどりの生花が部屋のそこかしこに飾られている。その広い病室の中央にあるベッドの上で彼女はこちらに気付くと、ニコっと優しく微笑んでいた。後ろに身を隠し、上着にしがみつく妹を引きずりながら彼女の元へと歩み寄る。  

 

「よっ明日奈、連れてきたぞ!」

 

「は、はじめまして……」

 

「あっキリト君、それと直葉ちゃん……でいいのかな? 初めまして、結城明日奈といいます」

 

「ん?確か初めてここに来た時に会ってる筈だぞ」

 

「あの時はまだ目がよく見えなくて……だからちゃんと会うのはこれが初めてなの!」

 

「あぁ、なるほどな……」 

 

 ベッドの脇にあるパイプ椅子に腰を下ろすと、そこでようやく妹は上着から手を離してくれた。だが緊張しているのかすぐに俯いてしまった。

 やれやれ、と溜め息を溢しながら明日奈を見ると直葉とは対照的に、明日奈は嬉しそうな笑みを浮かべながら直葉をじっと見つめ、やがて納得したように頷いた。

 

「兄妹仲良さそうで羨ましいなぁ~」

 

「そうか?てかアスナもお兄さんいるだろ?まだ会ったことはないけどさ……」

 

「うん、この前キリト君が来てくれた時もちょうど入れ違いで来てくれたの!でもまた出張らしくて海外に行っちゃったから……今度帰ってきたら紹介するね」

 

「あぁ、まぁ機会があれば……な……」

 

「ふふ、対人スキルが弱いのは相変わらずなんだね」

 

 そんな二人の会話を、直葉はただ黙って聞いていた。

 

 あの日、まだ動ける状態ではなかった兄が何故そこまで必死になるのか、当初は理解することが出来なかった。

 だがこの病室で──抱き締め合う二人の姿を見て──彼女が兄にとってどんな存在なのか、すぐに解ってしまった。

 自分がなりたかった《その関係》を目にし、何も言えなくなってしまった。

 その晩、直葉は泣いた──溢れる気持ちを、涙を抑えられずに。

 そして一つの決意した──この想いは告げずにいようと。

 

『はぁ……やっぱりわたし……ダメだな……』

 

 あの日心に決めた筈だったが、目の前の二人を見ていると、どうしても胸が締め付けられるように痛む。

 

「──ちゃん、直葉ちゃん、どうしたの?」

 

「えっ?」

 

 ふと我に返ると、二人が心配そうに見つめてきていた。

 次第に気まずい空気が漂い始め、直葉はその場にいるのが堪えられなくなり、慌てて席を立つ。

 

「い、いえ……何でもないです! あっちょっと飲み物買ってきますね!」

 

「あっ、おいスグ、自販機の場所わからないだろ?」

 

「大丈夫だよ!お兄ちゃんは明日奈さんの側にいてあげて」

 

 そう言い残し直葉が病室を後にすると明日奈は深い溜め息を溢した。

 

「ねぇキリト君、直葉ちゃんは私のこと嫌いなのかな……」

 

「い、いや……そんなことはないと思うぞ。たぶん緊張してるからじゃないか?」

 

「……だといいんだけど」

 

「…………」

 

 先程までの笑みとは一転、明日奈の顔には暗い影が射していた。

 どうすればいいか解らず暫く無言の状態が続く。

 すると再び病室の扉が開く音とともに、直葉ではなく二人の男性が入ってきた。

 

「おお、来ていたのか桐ヶ谷君。度々すまんね」

 

 前に立つ恰幅のいい初老の男が、顔を綻ばせて言った。

 仕立てのいいブラウンのスリーピースを着込み、体格の割りに引き締まった顔はいかにもやり手といった精力に満ちている。唯一、オールバックにまとめたシルバーグレーの髪だけがこの二年間の心労を伺わせる──アスナの父親である結城彰三。

 

 初めて会った時、とても気さくで優しい人と言うのが第一印象だったが、明日奈から一流電機メーカー《レクト》の社長であると聞かされた時は、さすがに驚きを隠せなかった。

 和人はひょいと頭を下げ、口を開く。

 

「こんにちは、お邪魔してます。結城さん」

 

「いやいや、いつでも来てもらって構わんよ。この子も君が来るのをいつも楽しみにしているんだよ」

 

「ッ──! お父さん、それは言わないで!!」

 

 結城の言葉に、明日奈の顔はみるみる真っ赤になり、少し涙目さえ浮かべていた。

 そんな彼女の姿に数秒ほど気を取られたが、すぐに背後に立つもう一人の男に視線を向ける。

 

「あぁ、彼とは初めてだね。うちの開発部で主任をしている須郷君だ」

 

 人の良さそうな男だな、というのが彼の第一印象だった。

 長身をダークグレーのスーツに包み、やや面長の顔に黒縁の眼鏡をかけ、レンズの奥の目は糸のように細く、まるで常に笑っているかのようだった。

 

「よろしく、須郷伸之です──そうか、君があの英雄キリト君か」

 

「……桐ヶ谷和人です。よろしく」

 

 和人は結城をちらりと見る。すると結城は顎を撫でながら苦笑していた。

 

「いや、すまん。SAO内部のことは口外禁止だったな。あまりにもドラマティックな話なのでつい喋ってしまった。彼は私の腹心の息子でね。昔から家族同然の付き合いなんだ」

 

 なんとも口の軽い人だなぁ、と和人は内心呆れ果て、ふと明日奈を見ると──先程までの笑みは一切消え、険悪な表情を浮かべていた。

 

「あぁ、社長その事なんですが──」

 

「お父さん、わたし和人君のことが好き……将来は結婚したいと思ってます!」

 

「「「…………ええぇぇぇ!?」」」

 

 見事なハーモニーとはこのことだろう。三人の絶叫が──部屋中に響き渡った。

 幸い、病室が防音だったので看護師が来て怒られることはなかったが。

 

「ちょっ……明日奈?」

 

「お父さん、わたしは本気です」

 

 慌てて止めに入ろうとする和人を他所に、明日奈は真剣な眼差しで結城を見つめる。

 ようやく我に返った結城は、ゴホンっと一度咳払いし、口に手を当て暫く考えているような素振りをすると、和人の前に歩み寄る。

 

「桐ヶ谷君……娘がこう言っているが、君はどうなんだね?」

 

「え……おっ俺も……明日奈さんと同じ気持ちです!」

 

 それは和人の本心だった。仮想の世界でとは言え、本気で彼女を愛し、結婚したくらいだ──現実の世界に還ってきたからといってその気持ちが変わるわけがない。寧ろ気持ちは日に日に強くなる一方だった。

 

「そうか……解った。 なら私は応援するよ。 和人君、娘をよろしく頼むよ」

 

 そう言い、和人の肩をぽんっと叩き、結城は笑みを浮かべながらドアに向かって行った。

 二度の開閉音──後には和人と明日奈と須郷だけが残された。

 

 和人は彼女に真意を問い掛けようとした時、顔を伏せていた須郷が口を開く。

 

「ふざけるな……ふざけるな……ふざけるなあぁぁぁ!」

 

 部屋中に響き渡る怒鳴り声に、和人は須郷の第一印象が大きく間違っていたことを悟る。

 先程までの笑みは消え、怒りに満ちた表情で明日奈に詰め寄る須郷にキリトは危険を感じ、彼女を庇うように間に入った。

 

 とその時、ドアが開き、直葉が部屋に戻ってきた。

 須郷も状況を察したのか、怒りを堪え、和人と明日奈をじっと睨み付ける。

 

「まぁいいさ、直に僕の凄さを君のお父さんも解るだろうしね……その時は君も僕のものさ」

 

 そう言い残し、須郷は病室から出て行った。直葉だけは状況が理解出来ず、その場で首を傾げていたが。

 

「ごめんね、キリト君……いきなりあんなこと言っちゃって」

 

「いや、まぁ最初はびっくりしたけど……俺もアスナと同じ気持ちだし、正直嬉しかった」

 

「ねぇ……何の話?」

 

「あっえーと……ってもうこんな時間か!スグもう帰るぞ」

 

 妹にこんな恥ずかしい話を言えるわけもなく、和人は直葉の手を掴み部屋を出ようとする。

 

「え、ちょっと! 何話してたか教えてよ!」

 

「また今度な!それじゃアスナ、明日退院したらメールしてくれ」

 

「うっうん、それじゃ二人とも帰り気を付けてね」

 

 手を振るアスナに別れを告げ、ようやく帰宅し、食事などを済ませると時刻はすで夜10時になっていた。

 

 和人は部屋のベッドの上で病院での一件を思い出していた。須郷が去り際に言ったことが妙に気になっていたからだ。

 かと言って今自分に何か出来るわけでもなく、その日は少し早く眠りについた。

 

◇ ◇ ◇

   

 翌日、昼に明日奈から退院した旨を知らせるメールが届き、和人は夕方まで近場にあるジムで一汗流していた。二年間で衰えてしまっていた筋力を少しでも早く取り戻すためだ。

 

 帰宅すると一足先に部活から帰宅していた直葉が夕食の用意をしていた。

 

「あっお兄ちゃん、おかえり! ご飯まだだから先にお風呂入って来ちゃって」

 

「あぁ、んじゃ先にもらうな」

 

 部屋で上着を脱いでいると突如アラーム音が耳に鳴り響く。

 ふとデスクに目を向けると、卓上のパネルPCの上端でメール着信ランプが点滅していた。

 椅子に座り、PCのタッチセンサーに触れてサスペンド状態を解除し 、キーボードのメーラー起動ボタンを押し受信トレイを開く。

 

 タイトルは『29158487』とまるで暗号のような数字な上に送信者のアドレスがなかった。

 おかしい、と思いつつ──本文を見た瞬間、和人は驚きのあまり言葉を失った。

 

【是非コードを利用してAlfheimOnline──アルヴヘルム・オンラインの世界を堪能してくれたまえ 茅場晶彦】

 

『茅場ッ!?』

 

 和人は思わず立ち上がり息を呑む。

 茅場晶彦はすでに死んでいるはずなのに何故その彼からメールが来たのか理解が出来なかった。

 

 すると今度は携帯が鳴り響いた。画面の表示にはアスナとなっており、嫌な予感を抱きつつ電話に出る。

 

「あっキリト君! 今パソコンにおかしなメールが来てて──」

 

 やはり彼女にも同じ内容のものが来ていたようだ。

 

『一体誰がこんな……』

 

 すると再びPCに新たなメールが届いた。今度はエギルからだ。

 タイトルに『look this』と書かれてあり、開いてみると本文はなく一枚の画像のみだった。

 

 なんとも不思議な構図。前景には、ぼやけた金色の格子が一面に並んでいる。その向こうに白いテーブルと白い椅子。そこに座っている、同じく白いドレス姿の二人の女性。こちらに横顔を向けているその少女は──。

 

「シリカと……リズ!?」

 

 かなり引き伸ばしたものらしくドットが粗い。それでも間違いなく彼女達だと思えた。

 よくよく見ると背中からは透明な羽根状のものが伸びているように見える。

 

「アスナ悪い、ちょっとエギルに電話しするから一旦切るな!」

 

「えっ……解ったよ、何か解ったら教えてね」

 

 キリトはアスナからの電話を切ると電話帳をスクロールし、発信ボタンを押した。

 

 プツ、という接続音のあと、野太いエギルの声が聴こえた。

 

「もしも──」

 

「おい、この写真はなんだ!」

 

「……あのなぁキリト、せめて名前くらい言え」

 

「そんな余裕ねぇよ! 早く教えろ!」

 

「……ちょっと長い話なんだ。店に来られるか?」

 

「解った。すぐ行く!」

 

 キリトは返事も聞かずブツリと電話を切ると再びアスナにかけ直し、事情を説明した後、上着を抱え部屋を飛び出した。  

 

「スグ、悪いけどちょっと出掛けてくる!」

 

「えっちょっお兄ちゃん!?」

 

 

 エギルの店は台東区御徒町のごみごみした裏通りにある。煤けたような黒い木造で、そこが喫茶店であることを示すのは小さなドアの上に造り付けられた金属製の飾り看板だけだ。店名は『Dicey Cafe』

 カラン、という乾いたベルの音とともにドアを押し開けると、カウンターの席には栗色のロングヘアーに白のセーター、下は赤いチェックのスカート姿の一人の少女、その奥には禿頭の巨漢がニヤリと笑っていた。

 

「よっキリト、ようやく来たか」

 

「キリト君、遅いよ!」

 

「ごめん、ごめん……ってアスナ、こんな時間に大丈夫なのか?」

 

「んー慌てて来ちゃったから……まぁちょっと怒られるくらいだよ」

 

 アスナは笑ってそう言ったが既に時刻は夜9時。キリトとしては彼女の父親は兎も角、母親の方は許さないので、という懸念があった。

 最悪、自分も一緒に謝りに行こうかとキリトが言うと、アスナは微かな笑みを浮かべ、首を横に振った。

 

「相変わらずお暑いこったな!」

 

「いいだろ、別に! それにしても相変わらず不景気な店だな。よく二年も潰れずに残ってたもんだ」

 

「うるせえ、これでも夜は繁盛しているんだ」

 

 まるであの世界に戻ったような、そんな気さえ感じる。アスナの隣の椅子に座るとエギルはグラスに茶色い液体を入れ、キリトに差し出した。

 

「これ……酒じゃないよな?」

 

「安心しろ、ただの烏龍茶だ。 まぁ退院祝いってことでサービスだ」

 

 エギルはアスナと同じ病院に入院していたらしく、キリトより先にアスナが連絡先を交換しており、四日前、退院したエギルに呼ばれ、キリトはこの店で彼との再会を果たしたのだった。

 エギルの話では総務省の役人からクラインや他のSAOプレイヤーの連絡先も聞いたようだが、彼らも今は現実世界との折り合いをつけるのに苦労しているだろうと思い、軽い連絡程度しかしていないらしい。

 

「そういえば……団長からのメールって一体なんなの?」

 

「あっ俺にも来てたぞ。 他のSAOをやってた奴らにも連絡してみたが、やはり全員に送られてるらしいな。 それにあの画像も気になるしな……」

 

「確かにな……てかあの画像はどうしたんだ?」

 

 エギルはカウンターの下に手をやり長方形のパッケージを取り出すとキリトとアスナに差し出した。

 

「これ知ってるか?」

 

「……ゲームソフト?」

 

 キリトとアスナはそのパッケージを眺めた。描かれているイラストは、深い夜の森の中から見上げる巨大な満月だ。黄金の円盤を背景に、少年と少女が剣を携え飛翔している。格好はオーソドックスなファンタジー風の衣装だが、二人の背中からは大きな透明の羽根が伸びている。イラストの下部には、凝ったタイトルロゴ――『Alfheim Online』。

 

「あっ!これって団長から来たメールに書いてあったのと同じよね?」

 

「あぁ、でもアルヴヘイムってどういう意味なんだ?」

 

「妖精の国、っていう意味らしいな」

 

「妖精……。なんかほのぼのしてるな。まったり系のMMOなのか」

 

「そうでもなさそうだぜ。なんでも、どスキル制。プレイヤースキル重視。PK推奨らしい」

 

「どスキル制?」

 

「レベルは一切ないらしい。経験値はあるがそれでスキルを上昇させるだけで、どんなに稼いでもHPは大して上がらないそうだ。戦闘もプレイヤーの運動能力依存で、剣技のないSAOと言ったところかな」

 

「へえ……PK推奨ってのは?」

 

「プレイヤーはキャラメイクでいろんな妖精の種族を選ぶわけだが、違う種族間ならキル有りなんだとさ」

 

「そりゃハードだな。でも人気出ないだろ、そんなコアな仕様じゃ」

 

「そう思ったんだけどな、今大人気なんだと。理由は『飛べる』からだそうだ」

 

「えっ飛べるの?」

 

「あぁ、妖精だから羽根がある。フライト・エンジンとやらを搭載してて慣れるとコントローラ無しで自由に飛びまわれるみたいだ」

 

 仮想世界内において、プレイヤーは現実の体と同じように動ける。それは裏を返せば、現実の人間に不可能なことは同じく不可能、ということでもある。背中に羽根をつけることはできても、それをどの筋肉で動かしていいのかわからないのだ。    SAO内では、末期にはキリトやアスナは超絶的なジャンプ力によって擬似的に飛ぶことも出来るようになっていたが、それはあくまでジャンプの延長線上であってやはり自由な飛行とは違う。

 

「飛べるってのは凄いな。羽根をどう制御するんだ」

 

「わからん。だが相当難しいらしい。初心者は、やはりスティック型のコントローラを片手で操るんだとさ」

 

「なるほどな……」

 

 キリトは一瞬、挑戦してみたい、と思ってしまったが、すぐにその気持ちを打ち消すように烏龍茶をごくりと飲んだ。

 

「──まあこのゲームのことはだいたいわかった。本題に戻るが、あの写真は何なんだ」

 

 エギルは再びカウンターの下から一枚の紙を取り出し、二人の前に置いた。プリンタ用の光沢フィルムだ。あの写真が印刷してある。

 

「どう思う?」

 

 エギルに聞かれ、キリトとアスナはしばらくプリントを凝視してから言った。

 

「似ている……シリカとリズに……」

 

「うん、リズにそっくり……ってキリト君……この小さな女の子と知り合いなの?」

 

「えっ……アスナに話してなかったっけ?まぁいろいろあってさ」

 

「ふ~ん、キリト君~!あとで詳しく聞かせてね♪」

 

 アスナは笑顔であったが──目は笑っていなかった。

 SAOの時、モンスターに向けていた彼女の殺気を、キリトは今、自分に向けられている気がしたのは、気のせいではないだろう。

 

「……はい」

 

「おいおい、うちで夫婦喧嘩はやめてくれよ……ったく、話を戻すがやっぱり二人もそう思うか。ゲーム内のスクリーンショットだから解像度が足りないんだけどな……」

 

「早く教えて!これはこのゲームのどこなの?」

 

 エギルはアスナからパッケージを取ると、裏返して置いた。ゲームの内容や画面写真が細かく配置されている中央に、世界の俯瞰図と思えるイラストがある。円形の世界がいくつもある種族の領土として放射状に分割され、その中央に一本の途方もなく巨大な樹がそびえている。

 

「《世界樹》と言うんだとさ」

 

 エギルの指が大樹のイラストをこつんと叩いた。

 

「プレイヤーの当面の目標は、この樹の上に他の種族より先に到着することなんだそうだ」

 

「到達って、飛んでいけばいいじゃないか」

 

「なんでも滞空時間ってのがあって、無限には飛べないらしい。この樹の一番下の枝にもたどり着けない。でもどこにも馬鹿なことを考えるやつがいるもんで、体格順に五人が肩車して、多段ロケット方式で樹のてっぺんを目指した」

 

「なるほどな……馬鹿だが頭がいい」

 

「うむ。目論見は成功して、その樹上の城にかなり肉薄した。ぎりぎりで到着はできなかったそうだが、その五人目が木の枝に下がる大きな鳥かごを見つけて撮影した。それを引き伸ばしたのがあの写真だ」

 

「鳥かご……」

 

 キリトはその言葉の持つ不吉なイメージに眉をしかめた。囚われの……というフレーズが頭をよぎる。

 

「だがこれは正規のゲームなんだろう……? なんでシリカとリズが……」

 

 キリトはパッケージを取り上げ、もう一度眺めた。

 長方形のトールケースの下部に視線を移す。メーカー名は─《レクト・プログレス》

 

「あっ、これってお父さんの会社が作ってるゲームなんだ!」

 

 驚くアスナにキリトは彼女があまりゲームに詳しくないことは知っていたが、自分の父親の会社が作っているソフトすら知らないのか、と内心、溜め息を吐いた。

 

「あっならアスナのお父さんに相談してみたらどうかな?」

 

「んーでもそうすると須郷さんも関わってくるから……出来ればそれは避けたいかな……」

 

「あっ確かにな……」

 

 アスナの考えにキリトも自分が言った考えを改めた。昨日会った彼にキリトは信頼以前に彼の人間性を疑問に思ったからだ。

 

「警察に言おうにも茅場はもう死んでいるしな。ただ、あのメールとシリカ達がこのゲームにいるのは間違いなく関係していると思う」

 

「わたしもそう思う。もしキリト君がこのゲームに行くなら……わたしも一緒に行くよ!」

 

「エギル、これ売ってくれないか?金はあとで払うからさ」

 

「わたしも!」

 

「いや金はいいが……それよりあのメールの招待コードを使うつもりなのか?」

 

「ああ、この目で確かめる」

 

 エギルは一瞬気遣わしげな顔をした。また何か起きるのではないか──という恐怖がじわりと湧き上がってくる。

 

「エギル、俺とアスナなら大丈夫さ」

 

「うん、キリト君がいればわたしも安心だし!」

 

 二人の笑った顔にエギルはSAOでの──彼らの姿が脳裏に浮かび、恐怖はすぐに消え去った。目の前にいる自分より年下の筈の少年と少女の姿にふと笑みが溢れる。

 

「さてゲーム機も買わなくちゃな」

 

「あぁそれなんだが、ナーヴギアで動くぞ。OSもCPUも一緒なんだ」

 

「そりゃ助かる。じゃあ、俺達は帰るよ。また情報があったら頼むな」

 

「情報代はツケといてやる。キリト、アスナ、必ずまたここに戻って来いよ!」

 

「ああ、いつかここでオフをやろう!」  

 そう言い残し、キリトとアスナはドアを押し開け、店を後にした。




◇ ◇ ◇

この度ソードアート・オンラインの二次小説を始めました。SAOからでなくALO編からですが……いずれSAO編も出来たらいいと思います。

どうか温かい目で読んで下されば幸いです。


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第2話

『はぁ……こんなことになるならお兄ちゃんの帰りを待ってた方が良かったかな……』

 

 中天にかかる巨大な月が、深い森を水底のように青く染め上げる。

 彼女が今いるのは現実の世界ではなく仮想の世界の森の中。

 家を飛び出していった兄の帰りを待っているつもりでいたが、一人の少年との約束を思い出し、この世界──《アルヴヘイム・オンライン》にログインしていた。

 すぐに用を済ませてログアウトするつもりだったのだが、ダンジョンで敵の急襲を受け、森の中へと逃げ込んむハメになってしまった。

 

 

 アルヴヘイムの夜は長い。まだ曙光が射すまでにはずいぶん間がある。普段なら不気味なだけの夜の森だが、今はこの暗さが少年にとっては有り難かった。追われているから、という理由もあるが、隣に座る彼女の──険悪な表情を見ないで済むからだ。  

 

「ねぇ、リーファちゃん、最近少し機嫌悪くない?」

 

「えっ、そっそんなことないわよ! それよりいつまで座ってる気? 追いつかれる前にこの森を抜けましょ」

 

「えー、僕はもうだめかも……」

 

 情けない声で相棒が答える。

 

「情けないなぁ……しっかりしなさいよレコン」

 

「そんな事言ったって……」

 

 リーファはやれやれという心境で溜め息を吐いた。

 大樹の根元にしゃがみこむレコンという少年は、リーファとは現実世界でも友人であり、ALOを始めたのも同時期である。つまりリーファと同じく約一年のキャリアがある筈なのだが、空中戦闘能力が強さの全てと言っていいALOで一度や二度の乱戦でへばっているようでは正直頼りなかった。

 とは言え、リーファはレコンのそんな所が嫌いではない。強いて言えば放っておけない弟、みたいなものだろうか。

 外見もそんなキャラクターを裏切らず、背の低い華奢な体に黄緑色のおかっぱ風の髪、長い耳も下方向に下がり、顔は泣き出す寸前で固定されたような作りだ。ランダム生成されたにしてはあまりにも現実の彼を彷彿とさせるその姿を初めて見たときは思わず大笑いしてしまったものだ。

 もっともレコンに言わせればリーファの姿も現実の彼女にかなり似ているらしい。シルフ種族の少女にしては少しばかり骨太の体に、眉も目もきりっとした作り。

 せめて仮想世界では【おしとやか】といった表現の似合う姿を彼は期待していたのだが、まあ客観的に見れば可愛い、と言っていい容姿ではある。それはこの世界ではかなりの幸運に恵まれないと得られないものであるし──満足できる姿を手に入れるまでゲームパッケージを二桁程無駄にした者もざらにいる──リーファとしては決して不満があるわけではないが。

 

「そういえばリーファちゃん、何かおかしいと思わない?」

 

「ん? おかしいって何が?」

 

「あっいや……たぶんボクの勘違いだと思うんだけどさ……」

 

「あのねー、男ならはっきり言いなさいよ!」

 

「ご、ごめん。 えっえーと……思ったんだけどさ、あのダンジョンで敵に襲われるのっておかしくないかな? あまり人気のダンジョンってわけでもないし、ましてやサラマンダー領からだとかなりの距離がある筈なのに、あんなタイミングよく現れるものかなって……」

 

「……」

 

 確かに彼の言うことも一理ある。経験値やユルドを稼ぐのなら効率のいいダンジョンなど他にいくらでもあるからだ。

 にも関わらず、敵は何故わざわざ距離の離れたダンジョンまで来たのだろうか。

 その上、まるでタイミングを見計らったように現れたのも妙に気になる。

 

「それにあの時の《シグルド》の行動はどう考えてもおかしいよ! いつもなら真っ先に逃げるか誰かを囮にする筈なのに、今日に限って自分から囮になるなんてさ!」

 

 確かにそれも彼の言う通りだ。そもそも今日あのダンジョンに行くと言い出したのは他でもない《あの男》だった。

 その責任を感じて自分から囮になったのだとばかり思っていたが、よくよく考えてみると彼の性格からして、それはあり得ない。

 

「まぁアンタの言いたいことは解るけど、とりあえず今は逃げ切るのが先よ! 街に戻ったら詳しく話しましょ」

 

 リーファは立ち上がり、背中の透明な四枚の翅を覗き込む。飛行力が回復した証として薄緑の燐光に包まれている。

 

「よし、もう飛べるね。 いくよ、レコン」

 

「えぇ、もう少しだけ休ませてよ~」

 

「甘い!! サラマンダーの中に索敵スキルの高い奴が一人いたから、下手するともう見付かってるよ。二人じゃ次の空中交錯(エアレイド)には耐えられない。根性でテリトリーまで飛ぶのよ!!」

 

「ふわーい……」

 

 レコンは情けない返事をすると、左手で宙を握る仕草をした。するとその手の中に、半透明のスティック状のオブジェクトが出現する。短い棒の先端に小さな球がついたそれは、ALOで飛行するときに使用する補助コントローラだ。レコンが軽く手前にスティックを引くと、四枚の翅がふわりと伸び、わずかに輝きを増す。

 それを確認して、リーファも自分の翅を広げ、二、三度震わせた。彼女はコントローラを使用しない。ALO内での一流戦士の証、高等技術の意思飛行をマスターしているためその必要がないのだ。

 

「じゃ、行くよ!!」

 

「う、うん」

 

 二人は一気に地を蹴って飛び立ち、背中の翅をいっぱいに伸ばして急上昇する。  途端、視界が広がり、月の明かりに照らされた森が遥か遠くまで広がっている。  敵の気配がないことを確認し、アルヴヘイム西域にあるシルフ領《スイルベーン》を目指し、リーファとレコンはその場をあとにした。

 

 

◇ ◇ ◇

 

「……」

 

 エギルの店を出たアスナはキリトと別れ、急いで帰宅したのだが──やはりと言うべきか──玄関で母が苛立った表情を浮かべ、睨み付けてきた。

 

「退院した日にこんな時間まで外出なんて、一体どういうつもりなの?」

 

「ごめんなさい……」

 

「あなたはあんなゲームのせいで他の子より二年も遅れているのよ? 解ってるの!?」

 

「はい……」

 

「それと今日お父さんから聞いたけど、須郷さんとの結婚を断るだなんて信じられないわ! しかもあんなゲームなんかで知り合った子と結婚したいだなんて、恥を知りなさい!」

 

「──ッ!」

 

──心にヒビが入る音が聞こえた。

 

【彼のことを何も知らないくせに】

 

【知ろうともしないくせに】

 

 たがそれを声に出す勇気はなく、心の中で虚しく叫ぶしかなかった。

 

「それと参考書を机の上に置いておいたから毎日やりなさい! 来週から家庭教師もつけますからね。あと、あの変な機械(ナーヴギア)も早く捨てなさい!」

 

「……」

 

 それだけは返事が出来なかった。あの機械、否──あの世界があったからこそ彼と出会うことができ、そして今の自分があるのだから。

 

「いいわね?」

 

「勉強はちゃんとするから……それだけは許して……」

 

「……勝手にしなさい!」

 

 そう言い、母親は自室へと去って行った。アスナも深い溜め息を吐き、自分の部屋に戻ると倒れ込むようにベッドに飛び込んだ。

 

 ふと──二年前、SAOにログインする前に母がよく言っていた言葉が次々と脳裏を過る。

 

「勉強はしてるの?」

 

「受験生なんだから勉強しなさい!」

 

「中学のテストなんて出来て当たり前よ、それより高校の勉強はしてるの?」

 

 あの頃、母は自分の為に言ってくれているのだと思っていた。そう思い込むことによって自分の存在を保っていた。

 たが二年の月日を経て《それ》は間違っているのだと思えた。あの時の母の言葉は、ただ自分を苦しく締め付ける《鎖》でしかなかったのだと。

 

 エギルの店で見た《鳥かご》に囚われている二人の少女──その光景が再び脳裏に浮かび上がる。

 空を自由に飛べず、ただ寂しく眺めているだけの光景が、今の自分と少し重なるように思えた。

 

『キリト君……』

 

 毛布を被り、身を縮め、涙を必死に堪える。

 現実という名の鳥かごから抜け出せずにいる今の自分の無力さに、アスナは憤りを感じずにはいられなかった。

 

──とその時、携帯が鳴り響いた。上着から取り出すと、画面には彼の名前が表示されていた。瞳にうっすら浮かんでいた涙を拭い、電話に出る。

 

「もしもし」

 

「あっアスナ、俺は準備出来たけどアスナも今から大丈夫か?」

 

「うん、大丈夫だよ……」

 

「…………もしかして泣いてるのか?」

 

「えっ?」

 

 頬に手を当てると先程拭ったはずの涙が流れ落ちていた。何度拭ってもそれは一向に止まらない。

 何故なのかはすぐに解った。彼の声を聞いて心の底から安堵したからだと。

 

「大丈夫か? 無理なら俺だけでも……」

 

「ううん、平気だよ! わたしも行く!」

 

「解った。それじゃALOで落ち合おう」

 

「うん」

 

 電話を切り、もう一度涙を拭い、パッケージを開封する。その中にはソフトと説明書と思われる薄い本が入っていた。

 念のために軽くそれを読んでみると一つの問題点に気付いた。

 

『えっ? これって種族によって最初に始まる地点違うの!? あっ早くキリト君に知らせなきゃ!』

 

 すぐにキリトに電話を掛けるが、呼び出し音がただ虚しく流れだけで出る気配はない。すでに彼はALOの世界に行ってしまったのだと思い、アスナは慌ててナーヴギアにソフトを挿入し、ベッドに横たわる。

 

 ナーヴギアを被るのに多少の抵抗があったが、意を決して被り、口を開く。

 

 

「リンク・スタート」

 

 

◇ ◇ ◇

 

 キリトがALOにログインすると、まず最初にSAO同様、各種接続テストが行われた。

 一通りそれが終わると、アルヴヘイム・オンラインの初期設定画面が表示され、ナビゲーションに従い、名前を【KIRITO】──キリトと打ち込む。

 プレイヤーの容姿はランダムであったが、長期間プレーするつもりはないので、そこは妥協することにした。

 次に種族選択画面が出たが──その数、全部で九種類。スクロールするとそれぞれの種族の長所と短所が簡単な説明文として表示される。キリトは迷った末、【スプリガン】を選択した。理由は種族の特性などではなく──ただ単に黒がメインカラーというところが気に入ったからだ。

 最後に招待コード入力画面が表示され、茅場からのメールにあった数字を打ち込むと、そこで全ての初期設定が終わった。

 瞬間──眩い光に包まれ、目を瞑る。意識が遠退き、体が落ちていくような感覚に囚われた。

 

 

 

「ここが……アルヴヘイムの世界か」

 

 意識が戻り、目を開くと、そこは深い森の中。樹齢何百年とも知れない巨大な木々が、天を突く勢いで伸び、枝葉を広げていた。

 耳を済ますと鳥や虫の鳴き声、鼻腔をくすぐる植物の香り、肌を撫でていく微風。その全てが恐ろしく鮮やかに五感を包み込む。現実以上の現実感──まごうことなき仮想世界の手触りだった。

 

「にしても、ここは一体どこなんだ……」

 

 開始地点は種族のホームタウンの筈だが、ここはどう見ても街中ではなく森の中。キリトは不安を抱きつつ、システムウインドウを出すため、右手を振る。

 

「……? ふん……ふん!」

 

 いくら右手を振ってもウインドウが表示される気配がない。開始地点といい、もはやバグかエラーなのではないかと思ってた、その時──。

 

「キリト君!」

 

 後方から声が聞こえ、振り返ると──容姿は完全ランダムのはずが、目の前にいる彼女の容姿は現実の彼女と瓜二つだった。

 その上、白地に赤いラインの入ったSAOで彼女が所属していた【血盟騎士団】の団員服の格好をしている──ただ唯一の違いは、背中にクリアブルーに透き通る鋭い流線型の羽根があることくらいだ。

 

「アスナ……なっなんでその格好なんだ……?」

 

「やっぱり、キリト君もなんだね!」

 

「えっ?」

 

 アルヴヘイムの景色に見とれ、自分の格好を見ていなかったキリトは視線を服に向ける。

 そこでようやく気付いた。黒を基調とした、SAO75層の時に装備していた姿であることを。

 

「な、なんで俺達SAOの時の格好なんだ? だって……ここはアルヴヘイム・オンラインの世界だろ?」

 

「わたしにもよく解らないけど、もしかしたら団長から送られてきた《あのコード》を使ったからかも……」

 

「あっ!」

 

 ようやく合点がいった。茅場から送られてきた謎の招待コード。

 この姿や開始地点の違いがそれによるものならば説明もつくからだ。

 ただ、一体何のために茅場はこのようなことをしたのかは未だに謎のままであったが。

 

「それよりキリト君、システムウインドウ見て! きっとびっくりするよ!」

 

「あぁ、そのことなんだけど……」

 

 アスナの前でもう一度右手を振ってみせるが、やはりウインドウは表示されない。 「ほらな!」とキリトはアスナに視線を向けると、彼女はクスっと笑い、自信に満ちた表情を浮かべる。

 

「なっ……なんだよ!」

 

「キリト君、右手じゃなくて左手を振ってみて」

 

「……」

 

 そんなバカな、と思いつつ左手を振ると、軽快な効果音とともに半透明のメニューウインドウが開いた。

 

「あっ!」

 

「ほらね、説明書にも書いてあったよ! まさかキリト君にゲームを教える日が来るなんて、なんか嬉しいな♪」

 

「はぁ……」

 

 こんな初歩的なことに気付かない自分自身に呆れつつ、メニューウインドウを見つめる。デザインはSAOとほとんど同一のものだった。

 

「あ、あった……」

 

 メニューの一番下に【Log out】と表示されたボタンが光っていた。試しに押してみると、【フィールドでは即時ログアウトはできませんが云々】という警告メッセージとともにYES/NOボタンが表示される。

 一先ずキリトは安堵の溜め息を吐いた。どうやらこのゲームは正常にログアウトすることが出来るのだと。

 

 再びウインドウに目を落とすとアスナが横から覗き込んできたのでキリトは彼女にも見えるようウインドウを可視化し、スクロールしていくと、目の前の表示にキリトの指がピタリと止まる。

 

 ウインドウ最上部にはキリトという名前とスプリガンという種族名の表示。その下にはヒットポイント400、マナポイント80といかにも初期ステータス値。

 キリトが目を止めたのは、さらにその下にあるスキル一覧だった。

 

《片手剣》《体術》《武器防御》などの戦闘系スキルから《釣り》のような生活系スキルなどいくつも表示されていた。

 その上、熟練度の数値が異常に高い。ほとんどのスキルが900台で、中には1000に達してマスター表示が付いているものもあった。

 

「ねっ!驚いたでしょ? わたしも自分のを見た時はびっくりしちゃったよ」

 

「これはさすがに驚くよ……もはやビーターじゃなくてチーターだな」

 

「確かそうかもね、でも今度はキリト一人じゃないよ……わたしも一緒だもの」

 

 そう告げるアスナのにこやかな笑みにキリトは何度も救われたことを思い出す。彼女と──ユイがいてくれたからこそ、今の自分があるのだと。

 

「あっ!」

 

 キリトはある可能性に思い至り、急いでアイテム欄を開く。アスナもそれを食い入るようにじっと見つめた。

 そこには膨大な数の文字化けしたアイテムの羅列が表示されていた。

 キリトは祈る気持ちで、画面をスクロールしていくと、一つだけ鮮やかなライムグリーンに発光するアイテムがあった──【MHCP001】と。

 

「キリト君、これって……もしかして!」

 

「あぁ、間違いない」

 

 キリトは震える指でそのアイテムをタップすると、涙滴型にカットされた大粒のクリスタルが手のひらにオブジェクト化される。そのクリスタルの中心部分が光輝き、仄かな温もりが二人を優しく包み込む。

 アスナは目に涙を浮かべ、それをじっと見つめいた。キリトはそんな彼女の手を握りしめ、そっとクリスタルを二度叩いた。

 その途端、クリスタルから純白の光が輝き出した。

 

「──ッ!」

 

 光輝くクリスタルはキリトの手を離れ、地上から二メートルほどの高さで停止する。クリスタルの光は次第に強さを増していき、周囲の木々が青白く染め上げられ、月すらその輝きを失う。  

 二人が眩しさを堪え、見守るなか、光の奔流の中心部分にゆっくりと一つの影が生まれ始めた。それは徐々に形を変え、色彩をまとっていく──四方にたなびく長い黒髪、純白のワンピース、すらりと伸びた手足。目蓋を閉じている一人の少女が、まるで光そのものが凝集したかのような輝きをまといながら、ふわりと二人の眼前に舞い降りてきた。

 眩い光は不意に消え去り、地上から少し浮いた場所で静止した少女の長い睫毛が震え、目蓋がゆっくりと開いていく。

 やがて夜空のように深い色の瞳が、真っ直ぐにキリトとアスナを見つめた。

 その少女の桜色の唇がゆっくりと綻んだ。天使のような──という陳腐な言葉でしか表現できない微笑。

 

「わたしだよ……ユイちゃん、わかる……?」

 

「ユイ……ユイ!」 

 

 すると少女──ユイの唇が動き、懐かしい鈴の音のような声が響いた。

 

「また、会えましたね──パパ、ママ」

 

 大粒の涙を煌めかせながら、宙を飛ぶように移動したユイが二人に飛び込んできた。

 

「パパ……ママ!!」

 

 何度もそう叫びながら、細い腕を二人の首に回し、頬をすり寄せる。

 キリトとアスナもその小さな体をぎゅっと抱きしめる。

 アスナも心の糸が切れたのか、子供のように泣きながら、少女を強く抱きしめる。キリトも同様に涙を浮かべながら、またこうして三人でいられる喜びを強く噛み締めた。

 

 

──それからどれくらい時間が経っただろう。

 

 ようやく落ち着きを取り戻した三人は森の中の片隅にあった切り株を見つけ、腰を下ろす。

 そこでキリトは隣に座ったユイに、これまでの経緯を簡単に説明した。

 ユイを圧縮して保存したこと、アインクラッドが消滅したこと、そしてこの新たな世界──アルヴヘイムに来た理由とシステムがSAOに酷似していることを。

 

「なるほど……あっ、ならちょっと待ってくださいね」

 

 そう言い、ユイは目を閉じ、何かの声に耳を澄ますかのように首を傾ける。

 

「ここは──」

 

 ぱちりと目蓋を開け、キリトとアスナを交互に見る。

 

「ここはソードアート・オンラインのサーバーをコピーしたものだと思われます」

 

「コピー?」

 

「はい。基幹プログラム群はほぼ同一です。ただカーディナル・システムのバージョンが少し古いですね。その上に乗っているゲームコンポーネントはまったく新しいものですが……」

 

「なるほど……」

 

 キリトは考え込む。

 このアルヴヘイム・オンラインがリリースされたのはSAO事件の12ヶ月後、アーガスが消滅し、事後処理をレクトが委託されたしばらく後だ。

 アーガスの技術をレクトが吸収したということになれば、それをそのまま流用して新規のVRMMOを立ち上げるということは十分考えられる。ゲームの根幹を成す感覚シミュレーション・フィードバック技術が出来上がっているなら、開発費は大幅に抑えられるだろう。

 つまり、ALOがSAOのコピーシステム上で動いている、という事になる。

 

「ねぇ、キリト君……さっきユイちゃんが言ってたコンポネートって……」

 

「ん?」

 

 真剣な表情のアスナに、キリトとユイは考えを止め、息を呑む。

 

「コーンポタージュみたいなもの?」

 

「「………はぁ」」

 

 キリトとユイは溜め息を吐き、頭を抱える。先程の話から何故そう思ったのか、キリトとユイには理解出来なかった。

 

「ママ、今すごく大事な話をしているので、静かにしていてください……」

 

「えっ? あっ……はい」

 

 アスナとしては至って真面目に聞いたつもりだったのだが、娘から哀れむような視線に、ただ頷くしかなかった。

 

「……それでユイ、話を戻すけど、この文字化けしたアイテムはどうしたらいいんだ?」

 

「ちょっとパパとママのデータを覗かせてくださいね」

 

 ユイは再び目を閉じた。

 

「システムが共通なのでセーブデータのフォーマットもほぼ同じなのですが、この世界に存在しないアイテムは破損してしまっているようです。このままではエラーチェッカーに検出されると思います。パパとママのアイテムは全て共有になっているようなので、パパがアイテムは全て破棄すればママのも消えると思います」

 

「そうか、なるほどな」

 

 キリトはアスナに同意を得ようとしたが、彼女は俯き、完全にいじけていた。右手だけを軽く上げたので、話はちゃんと聞いているのようだが。

 キリトはそれを同意したのだと解釈し、アイテム欄に指を滑らせると、文字化けしているアイテムを全て選択し、まとめてデリートする。

 二人に残ったのは、正規の初期装備品と、現在装備しているSAO時の服だけだ

 

 キリトはウインドウを閉じ、ユイに視線を向けると、少女はアスナを見つめ、少し哀しげな表情を浮かべていた。

 

『ユイもさっき言い過ぎたのを気にしているんだな……』

 

 そういうところは実に人間らしい少女の一面だ。だからこそキリトはユイの悲しむ顔なんて見たくはない。

 

『しょうがないな……』

 

 キリトはそっとユイを左から押す──するとユイは体勢を崩し、アスナの方にゆっくりと倒れ込む。

 

「あっ!」

 

 アスナもそれに気付き、慌ててユイを抱きかかえる。

 

「ユイちゃん、大丈夫?」

 

「はい……あの、ママ……さっきは言い過ぎました。ごめんなさい……」

 

 瞳にうっすら涙を浮かべる少女の姿に、アスナは優しく微笑みかける。

 

「ううん、ユイちゃんは悪くないよ……わたしも大人げなかったし、ごめんね……」

 

 そう言い、アスナが優しく頭を撫でると、ユイも次第に笑みを取り戻す──そんな二人をキリトは暖かい眼差しでただ見つめた。

 

 

「そう言えば、ユイはこの世界ではどういう扱いになってるんだ……?」

 

「えーと、このアルヴヘイム・オンラインにもプレイヤーサポート用の擬似人格プログラムが用意されているようですね。ナビゲーション・ピクシー、という名称ですが……わたしはそこに分類されています」

 

 言うなり、ユイは一瞬難しい顔をした。その直後、その体がぱあっと発光し、次いで消滅する。

 

「お、おい!?」

 

「えっ、ユイちゃん!?」

 

 キリトとアスナは慌てて声を上げる。すぐ立ち上がろうとした、その時──アスナは膝の上にちょこんと乗っているモノに気付いた。

 身長は十センチほどだろうか。ライトマゼンタの、花びらをかたどったミニのワンピースから細い手足が伸びている。背中には半透明の翅が二枚。まさに妖精と言うべき姿だ。愛くるしい顔と長い黒髪は、サイズこそ違うがユイのままであった。

 

「これがピクシーとしての姿です」

 

 ユイはアスナの膝上で立ち上がると、両腰に手を当てて翅をぴこぴこと動かした。

 

「かっかわいい……」

 

 アスナはやや感動しながら指先でユイのほっぺたをつついた。

 

「えへへ、ママ、くすぐったいですよー」

 

 笑いながらユイはアスナの指から逃れ、しゃらんという効果音と共に空中に浮き上がり、二人の周りを一周し、アスナの肩にちょこんと座る。

 

「……じゃあ、前と同じように管理者権限もあるのか?」

 

「いえ……できるのは、リファレンスと広域マップデータへのアクセスくらいです。接触したプレイヤーのステータスなら確認できますが、主データベースには入れないようです……」

 

「そうか……」  

 

「ごめんなさいパパ、わたしに権限があればプレイヤーデータを走査してすぐに見つけられるのに……」

 

 しゅんと落ち込む声に、アスナは肩に乗るユイの頭を指で優しく撫でる。

 

「ユイちゃんは悪くないよ。 キリト君もあまりユイちゃんばかりに頼っちゃダメだよ!」

 

「いや、そんなつもりじゃ……ごめんな。 まぁ世界樹ってとこにいるのは解ってるんだけどな……」

 

「あっそれなら解ります。ええと……ここからは大体北東の方向ですね。でもかなり遠いですね。リアル単位置換で五十キロメートルはあります」

 

「えっ、そんなに遠いの?」

 

「アインクラッド基部フロアの五倍か……。うーん、そういえばここでは飛べるって聞いたなぁ……」

 

 キリトは立ち上がり、首を捻って肩越しに覗き込む。背中からクリアグレーに透き通る鋭い流線型の羽根──というよりも昆虫の翅と言うべきか──が伸びている。だが動かし方がさっぱり分からない。

 

「どうやって飛ぶんだろ……」

 

「補助コントローラがあるみたいです。左手を立てて、握るような形を作ってみてください」

 

 ユイの言葉に従って、二人は手を動かした。するとその中に、簡単なジョイスティック状のオブジェクトが出現した。

 

「えと、手前に引くと上昇、押し倒すと下降、左右で旋回、ボタン押し込みで加速、離すと減速となっていますね」

 

「なるほど」  

 

 キリトはスティックをゆっくり手前に倒してみた。すると、背中の翅がぴんと伸び、ぼんやりとした燐光を放ち始める。そのままスティックを引きつづける──。

 

「おっ」

 

 不意に、体がふわりと浮いた。ゆっくりとした速度で森の中を上昇していく。

 

「すごい、キリト君、ホントに飛んでるよ!」

 

「ママも行きましょ!」

 

「うん」

 

 アスナもクリアブルーの翅を輝かせ、ゆっくりと上昇していく。

 すると、うす暗い森とは対称的に眩く輝く月が視界に入った。

 

「キレイ……」

 

 仮想とは思えない、その月の輝きにアスナは思わず見とれてしまった。

 

 

 暫く二人はその場で下降や旋回を試すうちにすぐに操作を飲み込んでいった。

 

「なるほど、大体わかった。とりあえず基本的な情報が欲しいよな……。一番近くの街ってどこかな?」

 

「北西のほうに《スイルベーン》という街がありますね。このまま飛んで……、あっ……」

 

 突然ユイが顔を上げた。

 

「どうしたの?」

 

「プレイヤーが近づいてきます。 ,三人が一人を追っているようですが……」

 

「三人がかりか、ちょっと気になるし行ってみるか。 アスナ、行こう! ユイ、先導頼むな」

 

「うん」

 

「解りました。 こっちです」

 

 鈴のような音とともにアスナの肩から飛び立ったユイを追って、キリトとアスナの新たな物語が始まった。




第2話ようやく出来ました。ご意見やご感想、ご指摘ありましたらよろしくお願い致します。


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第3話

──遡ること十分前。

 

 アルヴヘイム西域にあるシルフ領を目指し巡航していたリーファとレコンを──突如、赤色の閃光が襲った。

 

「──ッ! レコン、回避!!」

 

 リーファは咄嗟に叫び、左下方に急速旋回する。

 ギリギリのタイミングでそれを避けると、攻撃が放たれたであろう下方の薄暗い森の一部に目を凝らす。

 するとそこから五つの赤い影が飛び出し、急速に上昇してきた。

 

「もー、しつこいなぁ!!」

 

 リーファは咄嗟に北西の方角に目を凝らすが、シルフ領の中央にそびえ立つ巨大な《風の塔》の灯りはまだ見えない。

 かと言って最早逃げ切るのは困難だろうと判断し、腰から湾曲した長刀を引き抜く。

 

「レコン、戦闘準備!」

 

「えー、もうこれで何回目なのさ~」

 

 レコンは不満げに隣にいるリーファに訴えかけたが、すでに彼女は目をギラつかせ、戦闘体勢に入っていた。こうなってしまってはもはや止めようがない。

 はぁぁ、と深い溜め息を吐き、レコンも半ばやけくそ気味に腰からダガーを引き抜いた。

 

「簡単に諦めたら承知しないからね! レコンはどうにか一人でいいから落として」

 

「ぜ、善処します……」

 

「よし……行くわよ!」  

 

 リーファは気を引き締め、翅を鋭角に畳むと、敵集団の先頭の一人に狙いを定め、臆することなく急降下する。

 

 あっという間にその距離が詰まると、リーファは敵が構える銀色のランス──その鋭い先端に全神経を集中した。  

 甲高いシルフの突進音と鈍い金属質なサラマンダーのそれが奏でる不協和音がみるみる高まり──二者が交差したその瞬間、大気を揺るがす爆発音となって轟き渡った。

 リーファは歯を食いしばり、視線をそらすことなく必殺の威力を秘めたランスの穂先を首を捻るだけの動作で回避し、両手で上段に構えた長刀を敵の赤いヘルメット目掛け──叩き込む。

 

「せやぁぁ!!」

 

 瞬間──黄緑色のエフェクトフラッシュが炸裂したが、リーファはそれを気にも止めずにバランスを崩したサラマンダーとともに地面へと急降下する。

 その間もリーファは怯むことなく敵に猛攻を仕掛け、敵のHPをぐんぐん減らしていく。やがて地面まであと十メートルのところで──遂にそれは消滅した。

 

「畜生!!」

 

 断末魔の直後、敵の体が深紅の炎に包まれ、飛散──その痕には小さな火焔の雫だけが残された。

 ここで蘇生アイテムや魔法を使われない限り、一分後には残り火は消え、敵はサラマンダー領で復活することになる。

 幸い、敵に蘇生魔法を使う者はいないようだった。

 リーファは一息吐き、残りの敵がいる上空を見上げた。

 

 すると今まさにレコンも敵に止めを刺そうというところだった。先程までの頼りなさとは一転──ダガーで敵の脇腹を一閃し、見事敵の一人を消滅させてみせた。

 これで三対二。圧倒的に不利なエアレイドだったが僅かな希望が見えてきた。

 

『いける!』

 

 そう確信し、リーファはレコンの元に駆け寄ろうとしたその時──視界の中央に捉えていたレコンに左右から火炎魔法である炎の渦が迫っていた。

 

「うわああ!!」

 

 悲鳴を上げながらもそれをギリギリのタイミングで回避してみせたのには「さすが隠密が得意なだけはあるわね」とリーファは思わず感心させられたが、避けたことに安堵したのか、こともあろうにレコンはその場で停止してしまった。

 

「──ッ! バカ、止まるな!!」

 

 だがリーファの叫びが届く前に、後方から迫っていたサラマンダーのランスが──止まっているレコンの体を貫いた。

 

「ごめぇぇぇん」

 

 断末魔と謝罪を同時にこなすと、レコンは緑色の光に包まれ──直後、その体が消滅し、先程と同様に小さな残り火へとその姿は変わってしまった。  

 

「あのバカ……」

 

 死んだレコンも一分後にはシルフ領で復活するだろう。

 だがリーファにとって仲間が目の前でやられるというのは、いつ見ても慣れないものだった。

 

 レコンが倒されてしまったことにより先程とは一転、状況は一気に不利になってしまった。その上、リーファは自身の翅の輝きが失われつつあることに気付く。 

 忌々しい滞空制限──あと数十秒で翅がその力を失い、飛べなくなってしまう。

 

「くっ……」

 

 歯噛みしながらも一旦体制を建て直すべく、来た道を戻るように全速力で樹海目掛けて急降下する。ここで諦めて大人しく討たれたら、レコンの死が無駄になってしまう。

 

 梢の隙間に突入し、幾重にも折り重なった枝を縫いながら地表に近づくと正面の大木の裏に飛び込み、じっと息を潜める。

 やがてサラマンダー特有の鈍い飛翔音が聞こえていた。次第にその大きさは増していき、背後の茂みに着陸する音とともに、それも掻き消えた。

 がしゃん、がしゃん、と鎧の擦れあう音と、迷うことなく真っ直ぐ近づいてくる足音が聴覚を刺激する。

 

『──バレてるっ!?』

 

 リーファはやむなく木の陰から飛び出し抜剣して構えると、三人のサラマンダーも立ち止まり、ランスの矛先を向けてきた。

 

「梃子摺らせてくれたなぁ」

 

 右端の男が兜のバイザーを跳ね上げ、興奮を隠し切れない口調で言った。

 中央に立つリーダー格の男が落ち着いた声で言葉を続ける。

 

「悪いがこっちも任務だからな。金とアイテムを全て置いていくのなら見逃すが」

 

「なんだよ、殺しちまおうぜ!! ポイントも稼げるしよぉ」

 

 今度は左の男が、同じくバイザーを上げながら言った。暴力に酔った、粘つく視線を向けてくる。

 

 リーファは左端の男の視線に嫌悪感を抱き、肌が粟立つのを意識した。信じくないがVRMMOで女性プレイヤーを殺すのはネットにおける最高の快楽、などと嘯く連中がいる。

 正常に運営されているALOですらこうなのである。なら《あのゲーム》の内部はさぞ於曾ましいものだっただろう。少し考えただけでも背筋がぞっと凍りつく。

 

「さっさと諦めちまえよぉ」

 

 左端の男が不敵な笑みを浮かべ、さらに捲し立ててきた。

 リーファはその男の言葉に、怒りを抱くのと同時に、一つの疑念が込み上げてきた。

 果たして兄は《あの世界》で諦めたことがあったのだろうか──という疑念。

 もし今と同じような状況で諦めてしまったら、その末路は大抵決まっている──《死》しかないだろう。

 例の役人曰く《あの世界》の死は、つまり現実の死をも意味する、と訊かされたとき──直葉/リーファは恐怖のあまりベッドの上で眠り続ける和人の目の前で泣き崩れてしまった。

 それからというもの、僅かな希望を残しながらも日に日に不安は増していった。それをぬぐい去ることはどうしても出来なかった。もし兄が二度と目を醒まさすことがなかったら……という不安。

 

 だが《あの日》──無事現実の世界へと還ってきた和人の姿を目にした時、ようやくその不安から解放されたのと同時に、一つ気付いたことがあった。体こそ衰えていたものの、その瞳は二年前とはまるで違い、強い信念のようなものが宿っているように見えた。その理由が《あの人》のことであるのはさておき──。

 まるで一流の剣士を思わせるその気迫──とりわけ鋭い眼差しに、和人がかつて《あの世界》でどのように生きていたのか、なんとなくではあったが解ったような気がした。

 

 きっと兄は《あの世界》を必死に生き抜き──そして最後まで決して諦めなかったのだろう。

 

 思い出すだけで口元から笑みが溢れてくる。先程まで余裕など一切なかったはずなのに、兄のことを考えると不思議と気持ちが楽になる。

 リーファ/直葉には今現在叶えたい願いが二つあっだ。当初は兄の気持ちを少しでも理解出来たらと思い始めたVRMMORPG──《アルヴヘルム・オンライン》。今ではすっかり自分が魅了されハマってしまった《この世界》に、兄/和人も誘おうという一つ目の願い。

 母曰く『和人は私に似て根っからのゲーマーね』と言っていたので、きっと気に入ってくれるだろう。

 ここで昔のように、兄妹仲睦まじかったあの頃のように過ごしたい。それ以上は望まない──もう一つの願いは、きっと叶うことはないのだから。

 

 それを叶えるためにも、こんなところで諦めるわけにはいかない。妹として──そして一人の剣士として恥じない闘いをしよう。

 そう心に決め、リーファは両足でしっかりと地面を踏み締め、愛刀を上段に構えた。

 大きく息を吸い、視線に力を込めサラマンダーをじっと睨み──叫んだ。

 

「──来いッ!!」

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 一方その頃、アルヴヘイム上空を飛翔する最中──アスナは《この世界》に魅了されていた。

 現実のしがらみなど一切なく自由に飛べる喜びと、鳥かごから抜け出したかのような解放感が──次第に心を満たしていくような気さえする。

 

 この翅でどこまでも遠く、どこまでも高く飛んでいきたい──《彼》と一緒に。

 そう思いながらアスナは後ろを飛ぶ《彼》──キリトを見ると、ふいに視線が交差した。

 何故か慌てて視線を逸らすキリトの姿が少し妙ではあったが、そんなシャイな一面すら今は愛しく思える。

 

「パパ、ママ、あそこです!」

 

 鈴の音のような声でふと我に返り、前に向き直ると──ナビゲーターを勤める──ユイが少し離れた森の一部を指差していた。

 視線を凝らし見つめると、そこからは赤い閃光と緑の閃光が交互に輝きを放っていた。耳を済ませると金属のぶつかり合うような音も僅かに聞こえてくる。

 

 一旦その場で停止し、キリトとアスナはメニューウインドウを開くとアイテムストレージに指を走らせ、初期装備である剣を装備フィギアに設定する。

 するとその瞬間──目の前に剣が出現した。初期装備だけあって見た目がなんとも貧弱そうなそれを、それぞれ背中と腰に装備する。

 

 

『…………?』

 

 その間、二人を見ていたユイは一つの異変に気付いた。

 

「パパ、どうかしましたか?顔が真っ赤ですよ」

 

「え……?あっホントだ!ねぇキリト君、もしかして具合でも悪いの?」

 

 アスナもキリトの顔が先程よりさらに赤くなっていることに気付く。

 だが心配そうに見つめてくる二人を他所にキリトは「いや、その……それ……」と恐る恐るアスナの装備している《赤いチェックのスカート》を指差した。

 

「えっ?」

 

 キリトが何故《それ》を指差したのか疑問に思いながらも、アスナが自身の装備している《それ》に目を向けた瞬間──膝上十五センチはあろう短いスカートが風で靡き、前方が僅かに捲れ上がった。

 

「──きゃっ!」

 

 アスナは慌ててスカートを手で覆い隠し、すぐさまキリトをキッと睨む。

 

「──み、見たッ!?」

 

「い、いや……その……」

 

「見たのねッ!?」

 

 もろに見てしまったため、もはや言い訳することも出来ない。正直に言えば許してくれるかも……と淡い期待を込めながらキリトは頭を下げて言った。

 

「…………スマン、アスナ!実はここに来るまで何回か見えてたんだけど……中々言い出せなくてさ……」

 

 一瞬、純白の布地で作られたであろう《それ》も初期装備なのかと疑問に思ったが、もちろん口には出さない。

 暫くの沈黙の後、微かな希望を持ちながらチラッと顔を上げてみると──頬を真っ赤に染め、潤んだ瞳で睨む彼女の姿があった。

 

 アスナは無言のまま腰に装備した剣を引き抜き、両手でそれを天高く振り上げる。

 

「ちょ……ア、アスナ!?」

 

 慌てて後方に下がろうとしたが、すでに遅かった。

 アスナはそのまま大きく息を吸い込み──「いやぁぁぁぁぁ!!」と絶叫しながら──全力でキリトの頭に叩きつけた。

  

 それはまさに改心の一撃だった。キリトのHPバーをイエローゾーンまで一気に削る。(精神的には全損に近いだろうが)

 

 するとバランスを崩したキリトは悲鳴を上げながら、戦闘が行われているであろうポイントに──流星の如きスピードで──落下していった。

 

 そんな二人のやり取りを、ユイは敢えて止めることはしなかった。

 むしろにこやかに眺めていた──何故かというと──『なるほど……これが夫婦喧嘩というものなんですね!喧嘩するほど仲がいいと言いますもんね♪』と解釈をしていたからだ。むしろ喧嘩しない夫婦の方がおかしいというのが少女の持論である。

 

 無論落下していったキリトのことも心配ではあったため、ユイはまだ息を荒らげているアスナの肩にちょこんと座ると、頬を擦り付けながら優しい声色で話し掛けた。

 

「ママ、落ち着いたらパパを追いかけてあげて下さいね。パパも悪気があったわけではないと思いますし」

 

「えっ?……う、うん……」

 

 なら気付いた時に言ってよ!……というのがアスナの本音だったが、娘にそれを言っても仕方がないと思い、その気持ちをぐっと堪える。

 暫くし、多少落ち着きを取り戻したアスナはふと肩上のユイを見ると、少女は指を加えながら心配そうにキリトの落下していった地点を見つめていた。

 そんな娘の姿が──可愛い!……ではなく、どこか寂しげに思えた。娘をこんな表情にさせてしまった罪悪感が込み上げてくる。

 さすがにあれはやりすぎたかなぁ……と反省し、少女の頭をそっと指で撫でた。

 

「ごめんねユイちゃん、もう大丈夫……。早くキリト君のところに行こっか」

 

「はい♪」

 

 決して大丈夫というわけではなかったが、満面の笑みを取り戻した娘の姿に内心ホッと安堵し、優しく微笑み返す。

 

 月の光を浴び鮮やかなブルー色に輝く翅を鋭利に畳み、アスナとユイはキリトの後を追い、樹海の森へと降下していった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「──ッ!」

 

 遂に敵のランスに捉えられ、地面へと吹き飛ばされる。

 左上に表示されているHPバーがみるみる減少していき、やがてそれは危険域であるレッドゾーンに突入してしまった。

 

 見上げると、地上から三メートルの高さをホバリングしているサラマンダーの一人が鋭利なランスの先端を向けてきていた。

 

『──ここまでか……』

 

 諦めないと決めたものの、さすがに三体一では無理があった。リーファは抗うことの出来ない現実に覚悟を決め、死を受け入れてしまおうかと思った──その時。

 ランスを構えるサラマンダーのさらに上、仮想の夜空を見上げると、視界には満点の星空──その中に一際大きく、光輝く流星があった。

 

 一年前、リーファ/直葉は本物の流星を見たことがあった。自分の部屋の窓からではなく、兄である和人が眠り続ける病室から。慌てて直葉は一つの願い事をした──「お兄ちゃんを……助けて下さい」という願いを。

 一瞬の閃光であったため、そう願い終える前にそれは消えてしまったが、それから一年後のあの日──その願いは叶った。

 流れ星とは関係ないのかもしれない。ただの後付けでしかないのかもしれない。だだそれでも叶わずにはいれなかった。

 

 敵に殺されるであろう状況でリーファは瞳を閉じ、それが消えてしまう前に、僅かな希望を込めて願った。

 

『助けて……助けて……お兄ちゃん……』

 

 だが再び目を開いたリーファは唖然とした。それは流星ではなかったからだ。

 微かに聞こえてくる男性と思われるプレイヤーの悲鳴。恐ろしい速度で真っ直ぐこちらに向かって落下してくる黒い影。

 あっという間に距離が詰まり、それはランスを構えていたサラマンダーの頭に見事に激突した。

 そのまま勢いよく上空から落下してきた《それ》とサラマンダーは地面に衝突し、衝撃によって土煙が巻き上がり、周囲を覆い尽くす。

 

「「~~ッ!」」

 

 視界が霞む中、微かに二人の男性と思われるプレイヤーの悶絶する声だけが虚しく響く。

 

 暫くし、ようやく土煙が収まると、先に衝突されたサラマンダーが起き上がり、突然現れた乱入者に警戒心を高め、一度その場から距離を取った。

 だがリーファはサラマンダーには目もくれず、今もなお倒れ込んでいる黒衣の乱入者を凝視し続けた。

 

「いてて……」

 

 やがて緊張感の無い声とともに立ち上がった乱入者の姿に──リーファは驚愕した。

 垂れた黒髪に色白な肌、昔よく姉妹かと間違われた程の女顔をしたプレイヤーは──兄である和人だった。

 

「お、お兄ちゃんッ!?」

 

「──えっ?」

 

 キリトは目の前の少女の言葉に耳を疑った。黄緑色のポニーテールの少女にいきなり『お兄ちゃん』と言われたのだから当然だろう。

 だが同時に気掛かりもあった。今の姿は現実の姿と瓜二つと言っても過言ではない筈なのだが──にも関わらず自分を『お兄ちゃん』と呼ぶ、その少女が他人とは思えなかった。

 よく見るとキリッとした眉と目、そして聞き覚えのある声が、自分の知る少女と重なるような気さえする。

 

 まさかと思いながら、じっと見つめてくる少女にキリトは恐る恐る口を開く。

 

「もしかして……スグ……なのか?」

 

「う、うん……」

 

「……」

 

 コクンと頷く少女の姿に、キリトは言葉を失った。

 なぜ妹の直葉が《この世界》にいるのか理解が出来なかった──そもそもゲーム自体に興味を示したことなど今まで一度もなかった筈なのに。

 

 一方、唖然とするキリトを他所にリーファは先程まで様子を見ていたサラマンダーの一人が翅からルビー色の光を引きつつ、キリトの後方から突撃してきていることに気付く。

 

 あまりにも咄嗟の出来事であった為、間に合わないと思った──その時。

 

「──えッ!?」

 

 リーファは目の前の光景に目を疑った。完全な死角からの攻撃を──キリトは一度も見ることなく、左手でランスの先端をがしっと掴んだのだ。

 ガードエフェクトの光と音だけが周囲の空気を震わせる。

 

 あっけに取られて口をぽかんと開けるリーファの眼前で、キリトはそのまま突進してきたサラマンダーの勢いを利用して掴んだランスごと背後の空間に放り投げる。

 

「うわぁぁぁ」

 

 悲鳴を上げながら吹っ飛ばされたサラマンダーが待機していた仲間に衝突し──がしゃん、と金属音が重なって響き、両者は絡まったまま地面に落下した。

 

 それを見届けるとキリトはゆっくり振り返り、やや戸惑ったような表情でリーファに問い掛ける。

 

「えっと……スグ、こいつらを斬ってもいいのか?」

 

「そりゃ……いいんじゃないかな……。少なくとも向こうはそのつもりだと思うけど……」

 

「それもそうか。 じゃあ失礼して……」

 

 そう言い、キリトは右手で背中から剣を引き抜くと、左足を前に半身を構え、腰を落とし、右手で握った剣の先を地面に接するほどまで下げる。その構えを見たリーファは慌てて叫んだ。

 

「ちょ、お兄ちゃん! ふざけてる場合じゃないんだよ!」

 

 リーファからしてみればキリトのその構えは剣道の基礎など一切なく、珍妙としか言いようがない構えだった。

 

「いいんだよ、俺流剣術だ」

 

「俺流って……」

 

 ニヤリと笑みを浮かべるキリトの姿に、リーファは若干頭痛を感じていると、地面に倒れ込んでいた二人のサラマンダーが起き上がろうとしていた。

 

 その時──突然、ズバァン!!という衝撃音が響き渡った。それと同時に隣にいたキリトの姿がいつの間にか掻き消えていた。

 

「──えッ!?」

 

 リーファは慌てて首を右に振ると、遥か離れた場所でキリトが低い姿勢で停止していた。剣を真正面に振り切った形である。

 

 瞬間、二人いたサラマンダーの内の一人が悲鳴を上げ、体が赤い光に包まれた。直後にその体が四散し、小さな残り火へとその姿は変わった。

 

『──速過ぎる!!』

 

 リーファは激しく戦慄した。いまだかつて目にしたことのない次元の動きを見た衝撃が全身をぞくぞくと震え上がらせる。

 

 リーファとサラマンダーのリーダーがあまりの出来事に唖然とする中、キリトはゆっくりと立ち上がり、もう一人のサラマンダーに剣を向けた。

 

 

「ヒ、ヒィッ!」

 

 もう一人のサラマンダーは未だに何が起きたか理解出来ていないようだったが──向けられた剣に身の危険を感じたのか──慌ててランスの矛先をキリトに向けて構えた。

 

 シーン、と森が静寂に包まれる中──今度こそ見失うまいとリーファはじっとキリトを見つめ、目を凝らす。

 するとそこでリーファは一つの異変に気付いた。

 いつの間にかキリトは──目の前の敵から遥か上空──仮想の夜空へと視線を移していた。その上、その顔から先程までの笑みは消え、恐怖の色へと染まっていた。

 嫌な予感を抱きつつ、リーファも上空を見上げると──デジャブだろうか──月夜の暗闇の中、またして真っ直ぐこちらに向かって落下してくる流星を目にした。

 

 

「──スイッチ!!」

 

 上空からの叫び声が訊こえた途端、再び大気を揺るがす大音響が耳に響いた。

 おそらくその大音響を発生させたのは兄だと思い、リーファはすぐに上空の《それ》からサラマンダーへと視線を移した。

 そうしたことにより今度は一部始終を見ることが出来た。まるで映画を限界まで早送りしたような、コマの落ちた映像が目に焼きつく。

 

 サラマンダーに急接近したキリトは剣を下段から跳ね上げると正確に敵のランスを弾き飛ばし、そのまま振り上げた剣の勢いに身を任せるように地面を蹴り、体を大きく捻ると──空中で器用に一回転し──再び下段から剣を振り上げ、今度はサラマンダーの胴体を切り裂きながら宙へと吹き飛ばした。

 すると、まるでそうすることが解っていたかのような絶妙なタイミングで上空から落下してきた流星の一太刀が──エフェクトフラッシュすら一瞬遅れる程のスピードで──サラマンダーの胴体を貫き、一瞬にして炎焔の雫へと変えてみせた。

 

「う、うそ……」

 

 あまりにも一瞬の出来事であったため、スピードにばかり目を奪われていたリーファだが今更のように攻撃で発生したダメージ量の凄まじさに気付く。

 二人のサラマンダーのHPバーはフルでこそなかったもののまだ六割程度は残っていた。それを一撃、二撃程度で吹き消すとは、もはや尋常とは言えない。

 ALOにおいて攻撃ダメージの算出式はそれほど複雑なものではない。武器自体の威力、ヒット位置、攻撃スピード、被ダメージ側の装甲、それだけだ。

 この場合、武器の威力はほぼ最低レベル、それに対してサラマンダーの装甲はかなりの高レベルであったため、通常ならば敵うはずがないのだが──二人のプレイヤーの異常なまでの攻撃精度とスピードが、その常識を意図も容易く覆してしまった。

 

 だが驚いたのも束の間、それ以上の衝撃が目に飛び込んできた。

 いまだ消滅したサラマンダーの火焔の雫が行き場を失い虚しく漂う中、ヒラリとそこに舞い降りたプレイヤーの姿は──自身の知る彼女──《結城明日奈》その人だった。

 

 

『な、なんで……』

 

 リーファは呆然とアスナを見つめ考える──何故この人までいるのだろうと。

 その上、その姿は兄同様──現実の彼女と瓜二つ。一年に及ぶALOでの経験の中でも、今までそんな話を訊いたことがない。

 近いうち種族の転生システムが実装されるかもしれないという噂が囁かれているが、アバター関連の新システム実装などは一切ないはずだ。

 仮に、もしそんなシステムが実装されるという噂が少しでもあれば──今頃スイルベーンで復活しているであろう──レコンが満面の笑みを浮かべながら薦めてきているはずだが今のところ彼からそんな話は訊いていない。

 

『なら……なんでお兄ちゃん達は……』

 

 考えれば考えるほど疑問は膨らむばかりで、一向に答えは見えない。

 いっそのこと本人達に直接訊いた方が早いと思ったが、今はとても入り込める空気ではない。

 何故なら──彼女は泣きながら兄を強く……強く抱き締めているのだから。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 キリトは必死に今現在、自身の置かれている状況を理解しようとしたが、思いもよらぬ出来事のせいで思考が追いついてこない。

 上空での一件から、さぞお怒りなのだろうと思っていたのだが──案の定、彼女は地面に降り立つや否や、消滅したサラマンダーの炎焔の雫には目もくれず、剣を投げ捨て、胸に飛び込んできたのだ。

 

「え、えーと……アスナ?」

 

 問い掛けてもアスナは顔を胸に埋めたまま何も反応しない。

 だだ、その体が小刻みに震え、グスッ……グスッ……と鼻を啜りながら泣いていることだけが伝わってきた。

 まるでガラス細工のように繊細で、強く握れば割れてしまいそうな、そんな儚ささえ今の彼女からは感じられた。

 かつて《あの世界》で、同じように怯えた彼女を、キリトは何度か見たことがあった──第七十四層のボス部屋の中、彼女の護衛担当だった男を殺した後、愛する娘との別れの瞬間──どれをとってみても、それらはただ辛く、悲しい記憶でしかない。

 だからだろうか──特に意識したわけでも、考えたわけでもなく、キリトはアスナの背中へと手を回し──震える彼女を優しく抱き締めた。

 

 

 暫くの沈黙の後、ようやく落ち着きを取り戻したアスナは顔を上げ、口を開く。

 

「ごめん……ごめんね……キリト君」

 

「いや、上空でのことなら俺が黙ってたのが悪かったわけだし、アスナが気にすることじゃ──」

 

「ううん、そうじゃなくて…………私があんなことをしたせいで、キリト君を危ない目にあわせちゃったから……」

 

「危ない目って、さっきの敵のことか?」

 

 言うと、アスナは再び視線を落とし、何も言わずにコクンと頷いた。

 不思議と──彼女が今何を思い出し、考えているのか、キリトは察した。

 アスナも自分と同じように《あの世界》で起きたことを忘れられずにいるのだろうと。嬉しかった記憶──そして悲しかった記憶さえも。

 もうデスゲームは終わったのだと、現実では死ぬことはないと頭では解っていても──SAOと同一のアバターのせいもあってか──脳裏に焼きつく辛く悲しい記憶が甦り、その考えを阻害する。

 その原因である茅場から送られてきた謎の招待コード。わざわざアバターまで再現されるように細工されていた《あのメッセージ》の意味がずっと疑問だったが、今の彼女を見ていると、その意味はさほど難しいものではないように思えた。

 ただ伝えたかったのだろう──《あの世界》で起きたことを──忘れるなと。

 

 そう思うと心がズキンと痛んだ。

 

 忘れられるわけがない。もし忘れることが出来たとしても、いつの日か必ず思い出してしまうだろう。

 《あの時》──ダンジョントラップにかかり、目の前でポリゴン粒子となって消えていったサチ達のことや、自らの手で殺したプレイヤー達のことを。

 例え仮想の世界であろうとも、あんな思いは二度としたくない。

 

 彼女を──アスナを守りたい。

 

 ただ純粋にそれだけを考えていると、自然と言葉が内側から込み上げてきた。

 現実の世界へと帰還することが出来た手前、その言葉は意味を持たないと思えたが、言わずにはいられなかった。

 

「大丈夫、俺はアスナを置いて死んだりしないし……それにアスナのことは俺が必ず守ってみせる」

 

「…………ホントに?」

 

「あぁ、約束だ」

 

「なら……それなら──」

 

 言いかけ、アスナが顔を上げた瞬間、目が合った。

 ほんの一瞬、キリトは気恥ずかしさから視線を逸らそうかと思ったが、真っ直ぐ見つめてくる彼女の真剣な眼差しに、その考えを止め、彼女の次の言葉を待つ。

 その瞳の奥には──何やら強い決意が宿っているように見えたからだ。

 するとアスナは顔をキリトの耳元まで近づけると、優しい声色で囁いた。

 

「なら──ならキリト君のことは、私がずっと……ずっと守るね」

 

◇ ◇ ◇

 

 名残惜しく思いながらもアスナは抱き締める腕の力を緩めると、再び目が合った。どこまでも深く、透き通った綺麗な黒い瞳。

 そして優しく微笑みかけてくるキリトの顔を見た途端──トクン、トクン、と心臓の脈打つスピードが次第に速くなっていくのを感じた。溢れる気持ちを抑えられず高鳴る鼓動に従うままに、再びゆっくりと顔を近づける。

 距離が近付くにつれ、呼吸さえもクリアな音声となって聞こえてくる。あと数センチ──瞳を閉じ、さらに距離を詰める。

 だが、それが触れ合おうとしたその時──コートのポケットがゴソゴソと一際大きく蠢いた。

 

「あっ!」

 

 そこでようやくアスナは一つの大事なことを思い出した──キリトの後を追って降下する最中、戦闘になるだろうと思い「窮屈かもしれないけど少しの間この中にいてね」と言い、ポケットの中に入った少女のことを。

 嫌な予感を抱きつつ視線を向けると──やはりと言うべきか──小さな妖精はキラキラと目を輝かせ、じっと見つめてきていた。 

 慌ててキリトから離れ、アスナは小さな妖精──ユイに話し掛ける。

 

「えーっと……ユイちゃん、いつから見てたの?」

 

「ん~内緒です♪それよりママ、早く続きを!」

 

 未だ目を輝かせ、次の展開を期待するユイ。だが娘の前で出来るわけもなく──また教育上あまりよろしくないため──アスナは苦笑しつつ、話を逸らした。

 

「それよりほら、パパ無事だったよ!」

 

「…………」

 

 だが──逃がさないと言わんばかりに──なおもユイがジーっと見つめてくる。アスナもここまで来ては引き返すわけにもいかず、顔をひきつらせながら必死にその眼差しに堪え続けた。

 やがてユイは不満げに頬を膨らませると──。

 

「…………解りました。それなら──」

 

 ポケットから勢いよく飛び出し、しゃらんと翅音をたてながらキリトに近寄ると何を思ったのか、キリトの頬に──チュッ──と短いキスをした。

 

「ユ、ユイ!?」

 

「ユイちゃん!?」

 

 娘の思いもよらぬ行動に驚く二人を他所に、ユイは再びアスナの肩に降り立つと、ニコニコと満足げな笑みを浮かべながら耳元で囁いた。

 

「さぁ、次はママの番ですよ♪」

 

「お願いだからもう許してぇ~~!」

 

 

◇ ◇ ◇




お久しぶりです(^^)v第3話書き直してようやく出来上がりました(;・ω・)多忙でかなり遅れてしまいました(。>д<)
至らぬところがあると思いますが温かい目で読んでいただけると幸いです。
ご意見やご感想お待ちしております☆


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