揺るがせ衝撃、異次元に届くまで (スターク(元:はぎほぎ))
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馬編-ぼくは君になりたかった【前編】

 書き書きしていくゾ^〜


 やったやったと、ぼくは歓声の中を軽い足取りで歩く。今日はニンゲン達にとって大事な日、そしてぼくにとって大事な駆けっこの日。それに勝って、褒められたんだ。

 いつもとは段違いに長い距離だった。お陰で一周した時に「ここが最後だ」と勘違いしちゃったのはぼくのミス。あの時、背中の兄ちゃんが止めてくれなかったら大変な事になってたかも。

 そうそう、兄ちゃん。兄ちゃんがいっぱいいっぱい褒めてくれた、その事が一番嬉しかった。一番最初の駆けっこからずっとぼくに乗って、ぼくを叱ってくれて、ぼくを勝たせてくれるお兄ちゃん。そんなお兄ちゃんが、ぼくは一番好き。お兄ちゃんが仕掛けて回る最後のコーナー(曲がり)が、心地よくて仕方がない。それで今日も皆を抜いて、1番早く走り抜けたんだもん。

 そんなお兄ちゃんは今、ぼくの背中で前足から三つ細いの(ニンゲン達が“ゆび”って呼んでるヤツ)を伸ばしてる。どういう意味かはよく分かんない。きっかしょう?だとか、さんかん?だとか何だとか。

 あっ、降りるの?どうぞどうぞ、また乗ってね。

 

「ありがとうな、ディープ」

 

 お兄ちゃんの優しい鳴き声、これも好き。意味は分かんないけど心地良くて、今すぐ顔を擦り付けたい。でもいつも世話してくれるヒトが引っ張って来て、引き離されてしまった。

 

ブルルルッ(えっ、待ってよ)!?」

「お前はこっちな、お坊っちゃま君」

 

 少しぐらい良いじゃん、と思っていると被せられる布。ううー、さっき首に被せられたのといいヒラヒラして落ち着かないよー。

 ていうか、前の前のレースの時もそうだったけどニンゲン達がうるさ過ぎ!もうちょっと静かに出来ないのかなぁ、他の馬達(みんな)もそう思うでしょ?

 あっ、ぼくしかいない……

 

 でもまぁ、お兄ちゃんも世話してくれるヒトも皆幸せそうだし、ぼくも幸せだし、良いかなって。そう思ってた。

 その時までは。

 

 

「いやぁ、凄いですねディープインパクト!サイレンススズカとどっちが凄いんですか!?」

 

 お兄ちゃんが降りた方向から聞こえて来たのは、そんな声。他の声にかき消される程度には大きくなかったそれを、ぼくの耳が鮮明に拾ったのは、きっと。

 

 

「今する質問が、それですか」

 

 

 お兄ちゃんが怒ったから。

 ぼくはすぐに分かった。多分、お兄ちゃんをよく知るニンゲン達もすぐ分かったと思う。

 それぐらい、背中越しでも分かるくらい、お兄ちゃんは怒っていた。静かに、でも確かに。

 

「あっーーすす、すみませんっ!」

「……ええ、大丈夫です。では」

 

 お兄ちゃんが怒りを解いて、やっと時間が動き出す。さっきの事なんて誰も無かったみたいに、お兄ちゃんも他のニンゲン達も笑顔を振り撒きあって。

 

 でも、ぼくは。

 

「ディープ?」

 

 動けなかった。「サイレンススズカ」というその音が、ぼくの耳から離れなかったから。

 あの時お兄ちゃんが見せた怒りが、今も顔に落としている影が、頭から離れないから。

 

 

 ねぇ、お兄ちゃん。

 そのサイレンススズカって、誰の事なの?

 誰が、お兄ちゃんを悲しませてるの?

 

 お兄ちゃんは答えてくれなかった。その後も、その次の日も。その目に隈を浮かべていて、ぼくに乗り辛そうにしていても。

 

 

 

 

 

 その答えを知ったのは、少し経った日の事だった。

 

『サイレンススズカ?そういや母ちゃんから聞いた事あるような』

『ホント!?』

『うおっと、すげぇ食いつきだな』

 

 あの日からサイレンススズカの事が頭から離れず、夜も眠れない…訳ではなかったけどあんまり物事に集中できなくて。仕方がないから隣や向かいの部屋の馬達、更には練習やその行き帰りですれ違う馬達に“サイレンススズカ”について聞いてみてた。これまでは特に成果を挙げれてなかったんだけど、やっと知ってる馬に出会えたんだ!

 

「ディ、ディープ!?待て待て、どうした」

「あれ…サムライハートが気に入ったんですかね?」

『ニンゲン達が困ってるぞ』

『良いから、引き離される前に早く教えて!!』

『まぁ良いけど…でも、俺も詳しく聞いてた訳じゃないからなぁ』

 

 あんまり乗り気じゃなかったけど、なんとかゴリ押しで話を聞き出す。数少ないチャンスを逃したくない、その一心で。

 

『俺の母ちゃんはエアグルーヴって言うんだけどさ。なんか暑くなり始める時期のレースで、とんでもねぇ速さの馬にぶっちぎられて負けちまったらしいんだ』

『それが…サイレンススズカ?』

『ああ。その前から何回か会ってた仲だったらしいんだが、母ちゃんとしてはその一回が特に忘れられないらしい。それはそれはすんげぇ逃げっぷりだったと』

『……逃げ』

 

 後ろから全員抜いちゃう僕とは真逆の走り。ずっと前で駆け抜けて、後ろを置き去りにする走り。

 それが、サイレンススズカ。

 お兄ちゃんは、その背中に乗ってたの?

 

『っとと、どうやらここまでらしい。また会えるかは分からんが、話の続きはその時にな』

『…うん、ありがと!』

『頑張れよ、俺ら世代のエースさん!!』

 

 サムライハート君からの応援を受けて、ぼくは上の空だった気分を引き締め直す。そうだ、ぼくは一回も負けた事が無い強い馬なんだ。お兄ちゃんがどんな強い馬に乗ってようと、今のお兄ちゃんを乗せてるのはぼくなんだ。

 過去(サイレンススズカ)になんて、負けるもんか!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、その日の練習で。

 

 

 

 

 眩しい輝きを放つ栗毛の影を、見てしまう。

 それが、ぼくの馬生が変わった日。




 この小説書くに当たってディープのレースを調べたけど強過ぎィ!自分戦慄いいすか?(語録)


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馬編-ぼくは君になりたかった【中編】

拙作における騎手の描写は、現実のそれとは何の関連性もございません(予防線)


 今の僕の相棒はディープなんだ。

 素晴らしい馬なんだ。

 ディープを栄光に連れて行く事に、今は集中するんだ。

 

 そう頭では分かっていても、ふとした瞬間に見てしまう。

 ()と共に見た景色の思い出を。

 ディープと走った芝2400(ダービー)の栄光に、彼と得る筈だった芝2400(ジャパンC)の面影を。

 後方からディープと追い上げる時、その視線の先を駆ける彼の幻影を。

 

 もう君は、どこにもいないのに。

 何故思い出してしまうんだろう。

 なぜ今になってぶり返すのだろう。

 

 

 彼とディープを比べたあの質問の所為?いや、違う。目を背けていただけだ。

 ディープと出会えて、埋めた筈の心の穴。でもそれは埋めたんじゃなくて、隣に築かれた山で隠しただけという事。

 その山が、穴を埋めるに足る程の輝きを放つからこそ露呈した闇。

 ディープと、彼。

 鹿毛と、栗毛。

 追い込みと、逃げ。

 

 彼らが得る景色は違う。当たり前だ。一緒くたにする方がおかしい。ディープはディープ、彼は彼だろう。

 何故、埋め合わせられると思った。

 なんて事はない。二頭を比べていたのは、他ならない僕じゃないか。

 

「……ああ、…っ」

 

 あの日曜日。彼が僕を投げ出していれば。

 僕がすぐに降りていれば。

 いっそ手綱を離して地面に打ち付けられていれば。

 君に、“転ぶ”という選択肢を僕が与えられていれば。何か、変えられたんだろうか?

 

 

 問いに答えてくれる存在は、もうこの世にはいない。

 その沈黙は、僕の心に巣食い続ける。彼が虹の向こうに消えたその日から、ずっと。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 日に日に酷くなっていく顔色を押して、お兄ちゃんはぼくの背にまたがった。その顔を見る度に、ぼくは“サイレンススズカ”への怒りを燃やす。

 お兄ちゃんを悲しませるなんて許せない。ぼくが絶対に、今日こそぜーったいに笑顔にするんだ!

 

「——さん、アンタは」

「大丈夫です……っ、いこうディープ」

 

 いつも通りの、でもいつもより固くなった声を受けてぼくは歩みを進める。

 今日はニンゲン達がいつもオイキリ(追い切り)って呼んでる練習だ。馬房(おうち)仲間(うま)達と追いかけ合って、最後に抜き去るヤツ。

 

『よろしくね』

『よろしくー』

『おう』

 

 声を掛け合って、コースに入るなり開始。お兄ちゃんもスッと姿勢を変えて、調子の悪さなんてまるで見せない。

 前の二頭(ふたり)を先に行かせて、一周の最後に追い抜かす。ぼくの持ち味を一番活かせる、そして本番で活かす為の練習。

 でもいつもと違うのは、今回は本番さながらの()()で走るって事。

 

(お兄ちゃん、見ててね)

 

 ニンゲン達は(ぼく)達の走りを見て大きな声を上げて、驚いたり泣いたりする。つまり心を大きく動かされるって事。それは、背中のお兄ちゃんだって同じ筈だ。

 サイレンススズカってヤツの走りがどれ程の物だったのかは知らないけど、それはそれは凄かったんだろう。周りから褒めそやされるお兄ちゃんが、今も忘れられないぐらいに。

 でも。

 

(ぼくの方が、絶対にすごいもん)

 

 ムハイサンカン?っていうぼくの称号は、ぼく以外にはとある一頭の馬しか達成してないらしい。そしてその馬の名前は、ニンゲン達の話を聞き取れないなりに盗み聞きした上では、少なくとも“サイレンスなんちゃら”ではなかった。

 つまり、ムハイサンカンを取れてないサイレンススズカはすごくない!取れてるぼくの方がすごい!!多分!

 だから今回のオイキリで、凄いタイムとか末脚とか出してお兄ちゃんを驚かせてあげるんだ。それで、サイレンススズカの走りよりも強く強く覚えてもらう。そうすればお兄ちゃんはサイレンススズカなんて忘れて、ぼくに夢中になって元気になる。うん、ぼく天才!

 

「ディープ」

ヒンッ(あっ、ゴメン)

 

 なんて考えてたら、集中してないのがバレて怒られちゃった。流石はお兄ちゃん、なんて考えてる場合じゃない。目の前の事にしっかり向き合わなきゃ、お兄ちゃんを驚かせるなんて……

 

 

 と思って、前を見たその時。

 

『…あれ?』

 

 ぼくは、ぼくの置かれた状況が少しおかしくなっている事に気付いた。

 

『ね、ねぇ』

『ゼェ、どうした』

『菊花賞馬さんは息も上がらねぇのか、こちとら必死なのに』

 

 ダメだ、前の二頭も気付いてない。その上に乗ってるニンゲン達も。

 見えないの?なんで?どうして?

 

『前に()()()()いるじゃん…!』

 

 ぼく達のコースで、ぼく達の先を行く茶色いお尻。その向こうに見える後頭部には、草と同じ色のメンコ(おめん)が被せられているのが首の上げ下げでチラリと見えた。

 そんな馬が、トロトロ走る二頭を置き去りにしていく。その後ろを走る、ぼくもまた。

 

『早く行かないと、追いつけないよ!』

『何言ってんだ、誰を追いかけりゃ良いんだ?』

『今回走るのは俺達だけだろう』

『違うよ、そうじゃない!』

 

 そうは言ってみたものの、ぼく自身もよく分からない。今言われたように、この走りはぼく達3人だけで行われている筈で、でも

“あの馬に追い付かなければならない”

って焦りが確かにここにあって。

 

ヒヒィン(お兄ちゃん)ッ!!」

 

 最後の望みを懸けて、背中のお兄ちゃんに託してみても。

 

「……落ち着け、ディープ。慌てるな」

 

 やはり駄目だった。そうしている間にも、その馬はどんどん走って先にコーナーを曲がって行く。

 そして、その最中。その馬と目が合った。

 

 

 

————来い。

 

 

 

 ……ああ、くそっ!

 

「なっ、!?」

『ディープ、どうした!』

 

 周囲の制止も、お兄ちゃんの手綱さえも振り切って全力疾走。振り落としたりはしない、でも手加減なんて出来ない。

 あのままだったら追いつけなくなる所だった。ここしか無いんだ、無かったんだ!お兄ちゃん、ごめん!

 

「何があったディープ!?くそっ、どうして急に……」

 

 頭上から聞こえる苦しい声に申し訳なくなりながらも、ぼくは足を止めない。なんとか前を走る馬の後ろにつけて、様子を伺う。

 近くに来てようやく分かったけど、とても綺麗な走りだった。流れるように運ばれる足に一切の淀みは無くて、コレがぼく達馬の理想形だと言われても素直に信じれてしまいそうな程に。

 

『何だよお前!ぼくに何か用なの?』

『…』

『なんか言ってよ!!』

 

 イライラしてしまった理由は、ぼく自身にも分からない。日々溜まっていた分が、八つ当たりみたいに吹き出しちゃったのかも知れない。

 でもこの時のぼくは、どうしてかその怒りが正しい物であるかのように思い込んでしまっていた。そしてその理由も、一瞬後に否が応でも理解してしまう事になる。

 

 その馬はコーナーで一層体を傾けた。最後の直線に入る前、そこで出す全力に備えるように。

 そしてその傾きで、彼の胴に掛けられた布が見えた。そこに書かれた、ニンゲン達の文字も。

 読めない筈なのに、その時だけは直感で理解してしまった。何という名前が、そこにあったのか。

 

 

『お前は——ッ!?』

 

 

 瞬間、信じられない光景がぼくの目の前で巻き起こった。その馬は今までずっと前で走って消耗していた筈なのに、そんなの知るかとばかりにぼくを突き放したんだ!

 今までこんな馬、相手にいなかった。でも負けられない、負ける訳にはいかないんだ!!

 

「何を、何を追ってるんだディープ!」

 

 お兄ちゃん、それどころじゃない!お願いだから邪魔しないで!!

 ああ、むかつく!あの馬にも、それを追ってる内に楽しくなってきた自分にも!だって初めてなんだもん、こんな速い馬と戦うなんて!

 

「…くっ!」

 

 すると意思が通じたのか、背中が軽くなる感触。でも振り落とした訳じゃない、お兄ちゃんは今も背中にいる。

 やっぱりお兄ちゃんは凄いや、と思うと同時に、ぼくは彼の後を全力で追い上げた。届かない、でもちょっとずつ詰めてはいる。いや全然だ、彼はまだ速くなるだろう。なんとなくだけど分かるんだよ。

 最後の直線で追い越す為には、もっと!もっと速く!今までのぼくなんて置き去りにする勢いで、この瞬間に成長し続けるんだ!!

 

『……』

『だから!その無言を!やめてって!!』

 

 死に物狂いで並びはしたものの。また視線が交わるけど、彼は何も言ってくれない。その度に僕の苛立ちは高まるばかり。

 

『負けられないんだ、お前だけには!』

 

 叫ぶ。その音も自分の力に変えたくて、全力で。

 

『お兄ちゃんの為にも、お前だけには!!』

 

 一瞬、彼の表情が強張った気がした。でも瞬きしたら元通りだったから、多分気のせい。

 コーナーでは追い越し切れない。でも最後の直線、足が残っている方が勝つ!

 いくぞ、勝負———

 

 

 

 

『……え?』

 

 

 

 

 気が付くと、彼はどこにもいなかった。

 僕の前にも、横にも、後ろにも。

 

『え?』

 

 体だけが動き続けて、でも心はもうここに無いような感覚。歩幅をそのままに首を傾けて周囲を見ても、あの草色のお面はどこにも見えない。

 そのまま、ゴール。虚しさを抱えて、ぼくはコースを振り返った。

 どこだ。

 どこだ。

 

『……だ』

「え……」

 

 どこだ。

 

『どこだッ!!』

 

 やはりどこにもいない。なんで消えた。消えるならなんで現れた?

 

『どこにいる、サイレンススズカ———ッッ!!!』

 

 あらん限りの声で嘶いても、周囲は驚くばかりで答えてくれず。

 我に返ったのは、オイキリ仲間が遅れて到着した後、お兄ちゃんが首を叩いてくれた時の言葉だった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 ディープの異変の原因は、僕はさっぱり分からない。

 少なくとも騎乗前に異常は無くて、騎乗後にもアクシデントなんて無かった。本当に、追い切り前、いや追い切りに入った直後まで本当にいつものディープだったのに。

 でも、乗ってて分かったのは“彼が前を行く何かを追いかけていた”という事だけ。あのコーナーから最終直線に入って直後まで、ディープは何かを追い抜かす為ひた走っていた。滅多に出さない()()を躊躇も無く出して。

 

「ディープが、本気にならざるを得ない相手」

 

 あの時、僕の目には何も写っていなかった。だからこれはオカルト的な妄想になるが…ある程度は絞り込めなくもない。

 前の二頭になんて目もくれずに追い抜かして、まるで常時スパートみたいな力の入れ込みよう。置いていかれる事を避けてるみたいなこの感覚を見るに、相手は相当な逃げ馬だろう。ディープが危機感を抱くほどの大逃げの。

 

 

 

 ……そんな稀代の逃げ馬なんて、一頭しかいない。

 けれど僕に、その答えを出す勇気は無かった。

 

「まさか、な」

 

 いや、勇気ではない。これを正確に言い表すとするなら、恐怖。

 今その名前を口に出したら、今度こそ僕は決壊してしまう気がする。だから、こうやって避けて蓋をする。

 そんなの意味無いなんて、遥か昔から分かり切っていたというのに。

 

 

 コースから出る折。僕の震えを、ディープはしっかりと感じ取っていたらしかった。



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馬編-ぼくは君になりたかった【後編】

 これじゃダメだ。()()()()()()あの日から、ぼくはずっとそう考えていた。

 負けたとは思っていない。実際、あのコーナーでぼくは彼に追い付いたんだ。

 

(でも、彼は本気を出してなかった)

 

 彼——サイレンススズカはあそこから更に速くなる。だから最後の直線が、ぼくと彼の決着の時だったのに。

 その前に、彼は消えてしまった。走り終えてどこを見ても、あの草色のお面も茶色の体も見つからなかった。

 そして、その走りでもお兄ちゃんの笑顔は取り戻せなかった。

 

(ぼくじゃダメなんだ)

 

 全力だったのに、それでも影を取り去れなかった。

 お兄ちゃんに必要なのは、ぼくじゃない。

 

(悔しい)

 

 あの綺麗な走りじゃなければ。

 悔しくて、悲しくて。どうしようもなくイライラして。

 でもぼくは、ぼくのこんなワガママよりもお兄ちゃんの方が大事だから。

 だから、ぼくは————

 

 

「行こう、ディープ…ディープ?」

 

 頭の上からの声に、僕は鼻息で返した。『うん』って意味と、『見てて』って意味で。

 そうだ、ぼくはこのレースで

 

「シンボリルドルフを、超えよう」

 

 サイレンススズカに、()()んだ。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

『こりゃいけませんな』

 

 ゼンノロブロイは、噂に聞いた新星を前にため息を一つ。

 限界を感じ始めたこの頃、今日この日に来るであろう衝撃にトドメを刺される予感はあった。しかし……

 

『よもやその新星君があのような有様とは』

 

 レース中でもないのに凄まじいプレッシャー。その出所に視線を向けながら、ゼンノロブロイは思わず後ずさる。

 有様とは言ったが、決してマイナスの意味だけではない。覚えたのは、寧ろ恐怖。

 

『アレがまだ爆発を残してるとすると、本番が恐ろしいというもの…あぁ、周囲はおろか乗ってるニンゲンまで惑わせてるじゃないですか』

 

 自らにも一度乗った凄腕のニンゲンから発せられる戸惑い。見ればそのニンゲンもまた本調子ではないようで、『いよいよどうなるか分からなくなってきたぞ』と警戒心を高めていく。

 とはいえこちとら厩舎(いえ)のボス。斜陽といえど、若手には負けられない。

 

『そうは思いませんか?』

『なぜ俺に話を振る』

『近くにいたので』

『……』

 

 その馬はすぐには答えない。ただ自らを鼓舞するように息を吐き、ゲートへと向かう。

 

『ゴールへと走る。それだけだろう』

 

 俺たちがするべき事は。

 言い捨てられたその言葉に、ゼンノロブロイは『そうですな』と返し。“5”と書かれたゲートに入っていく彼を見送ったのだった。

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 

『うおっ…』

『ヒェッ』

 

 ぼくが入っただけで、両隣から変な声が聞こえてきた。何かあったかな?

 いや、何かあっても関係ないんだ。ぼくはこのレースで勝つ。勝って、お兄ちゃんを助け出す。その為にも、他の事に気を使ってる場合じゃないんだ。

 時間が惜しい、全部()()()()時間に費やせ。彼ならどうする。ゲートが開いた時、彼ならどうする?

 

 決まってる。

 

 

《“最強の衝撃”対、歴戦の古馬。史上初の無敗の四冠へ、ディープインパクトのスタートは…》

 

 

 今だ!!

 

 

《良いスタートを切った!ここから後ろh…えぇ!?》

『なっ…』

『ハァ⁉︎』

「えっ———!?」

 

 ニンゲン達の声、周りの馬の声、そしてお兄ちゃんの声。

 でもぼくは止まらない。

 

《ディープインパクト()()()()()()()()()()()()()ですっ!!コレはどういう事だ豁ヲ雎、折り合いはついているのか?!》

「ファッ!?ウッソだろお前」

『ニンゲン達の話と違うじゃん!』

 

 ええいうるさい!こんなの聞こえないぐらい前へ、前へ!

 彼ならそうした!ならぼくだって!!

 

「ディープ、落ち着くんだ!まだ正面スタンド前ですらないんだぞ!?」

 

 そんな事は分かってる。お兄ちゃんは前のレースで間違えて急いじゃった時の事を思い出してるんだろうけど、でもぼくは止まるつもりなんて無い!

 

《ディープインパクト未だ先頭、屋根の指示に全く従わない!?最早逃げも逃げ、大逃げの体制で第一コーナーを曲がりホームストレッチへ。全てが狂ったかのような中山競馬場2005年冬、先頭にはタップダンスシチーが食らいつくがどうなるか!》

『むりぃ〜』

「くっ、下がるか…!」

 

 まだだ。こんなモンじゃない。こんなんじゃお兄ちゃんの求める彼には届かない。

 もっと、見てる皆が目を見開くような差を…!

 

「っ、これは…」

 

 お兄ちゃんの気配が揺らぐ。ぼくに彼の影を重ねてくれた可能性を信じて、ぼくは更にギアを上げた。

 まだ1週目。まだいける、“きっかしょう”を走り抜けたぼくなら!

 

《混沌とかしたレース場に歓声が轟く中、1000m通過タイム出ました!57びょ…え》

「ぇ……」

「…あっ」

「おい、これって…」

 

《57秒台!これはあの()()()()()()()()と同じタイムだ!?》

「「「ワァァァァァァッ!!!」」」

 

 いつもと違う、一瞬の途切れの後に爆発する声。でもぼくに、その意味を考える暇なんて無い。

 がむしゃらに足を動かすので精一杯だ、他に何も考えてられない。あの動きを、前に見たあの身体運びをなぞるのでもう頭が…!

 

『……ぁっ、はァ……!』

 

 ヤバイ、思ったより息が苦しい!足も重い!!でもやめるもんか、まだいける!!!

 サイレンススズカはここから加速するんだ!そうでしょ、お兄ちゃん!

 

「……くれ」

 

 お兄ちゃん?何か言った!?

 ほら、ぼくがサイレンススズカだ!その証拠にホラ、もう後ろがあんなに遠い!

 

「…め……れ……」

 

 最後の曲がりだ!さぁ、最後の力を振り絞れぼく!

 お兄ちゃん、これでしょ?これがお兄ちゃんの求めたサイレンススズカでしょ?!

 だから喜んで!頑張って!早く手綱を、

 

「お願いだ。

 

 

もうやめてくれ、ディープ」

 

 

 

 え?

 

 

 

 

 

《これはまさか、まさかなのか!ディープにサイレンスの魂が宿ったかのような走り、今それが沈黙の日曜を栄光に変えるべく戻って来たというのか!?さぁ最終コーナー、断トツの先頭で戻ってきたのはディー……これはどうしたディープインパクト、ここに来て失速!?》

 

 

 

 

 背中に感じた冷たい滴は、きっと幻なんかじゃない。

 手綱越しに伝わる震えた手の感覚は、絶対に気のせいなんかじゃない。

 その事がぼくに、否応無く現実を突きつけてくる。

 

 

 ぼくが、お兄ちゃんを泣かせたの?

 

 

 足から力が抜ける。とっくの昔に力を使い切って、もう回らない。息も底をついて、冷たい空気を吸い込んだ肺が痛い。

 興奮で誤魔化していたそれらが今、一気にぼくに襲い掛かった。

 

『ぁ、あ、ぁぁ……』

 

 切り裂いていた風が壁になり、蹴り飛ばしていた土が足に絡まる。

 無数の線になっていた景色が、止まっていく。

 

『若造』

 

 聞こえてきたのは後ろから。いつの間に近付いてきていたのか、そこには一頭の馬がいた。

 いや、それだけじゃない。ぼくが遅くなり過ぎて追い付かれたんだ。

 

『やってくれたな。お前の所為で、ニンゲン達の思惑は全部ご破算だ』

『ぐ、ぅ、あっ』

『だが……自分を見失うような青二才が、出しゃばって良い舞台じゃぁないんだよ此処はッ!!』

『……!待っ——』

 

《ディープインパクト逆噴射、観客席から巻き起こる悲鳴を掻い潜って飛び出たのはハーツクライだ!グチャグチャになった馬群を切り抜け、ディープに並ぶいや並ばない!華麗に差し切り一頭、全速力で直線に向かうーー!》

 

 黄色いニンゲンを乗せた彼は、そのまま飛ぶように走り去って行ってしまう。残されたぼくは、ただただ惨めで仕方がなくて。

 何がダメだったのか、何がお兄ちゃんを悲しませたのか、ぼくは何を台無しにしてしまったのか。そんな考えばかりが頭の中で回り続けるばかりで。

 

『ぜぇ、ぜぇ、流石にもう限界ですか。引き時ですね』

 

 更に横に並んできた5歳馬(おじさん)に気付くのも遅れる始末。そんなザマを晒すぼくに、おじさんは息切れしながら話しかけてきた。

 

『新星君、君が誰を追いかけてたのかは知らないし、興味も無いよ。けれどね、先輩として、その様相は頂けませんな』

『アナタは…』

『“君”は一体“誰”だい?』

 

 唐突な、でもさっきの馬の言葉と通じるような質問。ぼくは咄嗟に応えられず、でも絞り出すようにしてようやく口に出来た。

 

『ディープ…ディープ、インパクト』

『そう、君はディープインパクトだ。ニンゲン達は君をそう呼び、君に夢を託している』

 

 何かを肯定するように、肯いたおじさんは、じっとぼくを見つめて言い放った。

 

『君はディープインパクト。そして君が、追いかけてた誰かさんは、そうじゃないだろう?』

 

 ハッとする、とはこういう事なのかも知れない。それだけおじさんの言葉はぼくの芯に響いた。そこにあった記憶を、強引に掘り起こす劇薬だった。

 

 暖かくなってきた時の、一番最初の大きな皐月賞(レース)。そこでお兄ちゃんが、ぼくを撫でてくれながら呼んでくれた名前は。

 その少し後、暑くなりかけの時の大きな東京優駿(レース)で、お兄ちゃんが口遊(くちずさ)んでくれた名前は。

 

 

 サイレンススズカじゃない。

 ぼくだ。

 

 

『ぼくは…()()()()()()()()() () ()だッ!!』

「……!」

 

 

 尽きた身体になけなしの力が宿る。残りカスのそれは、でも先程の“0”に比べれば無限にも思えた。

 

「ディープ…あぁそうだ、まだ終わってなかったな……!」

 

 決死の加速を繰り出して、先に行ったあの馬の背を追う。お兄ちゃんもそれに応えてくれて、待っていた鞭が飛んだ。

 ありがとう。それだけで、ぼくはどこまでも走れる。

 

『やれやれ、私も負けたくないのに…悔しいですが、託すのが最後の仕事のようですねっ……』

『うおおおおおお!!』

 

 今度は何も聞き逃さない。歓声も、罵声も、怒声も、皆耳が拾っていく。それを少しでも力に変えて、走り続ける為に。

 “勝ち”を目指す、その為に。ぼくに夢を託してくれた、お兄ちゃん達の為に。

 

《ハーツクライ先頭、これは決まっ…てない!?ディープインパクト来た、ディープインパクト復活!己の魂を取り戻した無敗三冠が、歴史を塗り替えるべく息を吹き返して迫りくる!ハーツクライ逃げ切れるか!》

『嘘だろ!?勝ち逃げ台詞のつもりだったってのに!』

『負ける…もんかぁっ……!』

 

 近付く背中、でもまだ遠い!お兄ちゃんも必死で体重を消して制御してくれてるけどまだ足りない!

 底力を探さなきゃ、探して絞り出さなきゃ!!

 

『ぼくが…皆の夢なんだァァァ!!』

 

 そう思った瞬間、力が湧き出る。これを出し尽くしたら今度こそヤバイという実感があって、でも躊躇はぼくには無かった。

 足の回りが早くなる、呼吸も早くなる。その分だけ体が前に進む、進む。

 そして、並ぶ。

 ここまでくれば、お兄ちゃん!

 

(今だっ!)

(うん!!)

 

 言葉は通じなくても、ぼくとお兄ちゃんは最強コンビなんだ。それを今見せつけてやる!

 

《並んだ、並んだ、波乱のレースは二頭の叩き合いに(もつ)れ込み……っ、またもやディープが競り勝っての一直線!!》

『いける———ッ!!』

 

 

 

 

『皆の夢、だと?』

 

 

 肝が、冷えた。

 

 

『俺もそれは…同じだァァァァッ!!』

 

 

 爆発した。

 爆発された。

 お兄ちゃんがつけてくれた差が一瞬で無くなったのは、明確にぼくの所為で。

 そして彼の、強さの証。

 ぼくの、苦い苦い大事な記憶。

 

《いやハーツクライ!ハーツクライだゴールインッ!!ハーツクライ手を上げました、繝ォ繝。繧ァ繝ォ手を挙げたッ…!》

 

 

 

 

 

 

 出し尽くしたらヤバイ力は、出し尽くしたら本当にヤバかった。

 何がヤバイって、すっごい筋肉痛。そしてダルい。ニンゲン達にショックウェーブ(ブルブルする奴)を当てて貰ってもマシになった気がしなくて。

 でもそれよりも、悔しくて悔しくて。

 

『…負けちゃった』

 

 ハーツクライさんに、ぼくは負けた。馬生で初めての敗北だった。

 サイレンススズカとかそれ以前の問題。目の前の相手すら見れてなかった、ぼくの完全な落ち度だ。

 そして同時に、とても大事な経験にもなった……と、負け惜しみ抜きでも思う。

 

『強く、なりたい』

 

 “ムハイサンカン”の“ディープインパクト”として。ぼくの出来る、ぼくだけの走りで。

 いつかハーツクライさんにリベンジして、その先へ。

 あの異次元の走りに届くように。

 

 そんな事を考えていると、慣れ親しんだ気配を感じた。思わず飛び起きたぼくが見たのは、愛しいお兄ちゃんの顔。

 どうにも気不味いけど、それは向こうも同じようで。お互い同時に目を逸らして、それがおかしくてまた向き直る。

 

「ディープ、ごめんな」

 

 お兄ちゃんが口を開いた。

 

「僕が情けないばかりに、お前に無理をさせてしまった。僕の心の傷を埋めようとさせてしまったんだね」

 

 ニンゲンの言葉だから内容は分からないけど、ニュアンスは大体把握できる。明らかに自分を責めてるお兄ちゃんを慰めたくて、ぼくは柵から頭を出してお兄ちゃんに押し付けた。

 ぼくがサイレンススズカになろうとしたのは僕の意思だ。それはお兄ちゃんの為ってつもりだったけど、同時にぼく自身の為でもあった。

 あの鮮やかな逃げ足に、ぼくはどこかで惹かれて、囚われてしまっていたから。

 だからお兄ちゃんが落ち込む必要なんて無いんだよ。

 

「…優しいな、お前は」

 

 そんな意志が通じたのか、お兄ちゃんもまたぼくの頭に頬を押し付けてくる。馬のそれとは違う、柔らかくて頼りない感触。でもこれが好きなんだ、ぼくは。

 好きだから、頑張れるんだ。

 

「強くなろう、ディープ。僕の新しい夢」

 

 うん、強くなろう。ぼくはぼくの道を、お兄ちゃんの夢を乗せて走るよ。

 

「他の何物でも無い、僕と君だけの夢を、今度こそ」

 

 もちろん、という意味を込めて嘶いた。

 春も夏も秋も冬も超えて。ぼく達だけの夢を、焦がれ果てたその先へ。

 勝利というただ一つのゴールへ、君と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サイレンススズカ。

 ぼくは君じゃない。そして君もぼくじゃない。

 ぼくは君にはなれないし、君もまたぼくにはなれない。

 でも、そう———きっと、乗せた人は同じなんだろう。重ねた夢は違っても、重ねた想いは同じだったんだろう。

 そして君は、その道を走り切れなかった。道半ばで、君はお兄ちゃんと離れてしまったんだね。

 その無念が、あの日ぼくの前に現れたのかな。あれからどれ程経ったかもう分からないけれど、君は行くべき場所に行けたのかな。

 だとしたら、今の()は。

 

「ディープ」

 

 あの敗北の後、色んなレースをお兄ちゃんと一緒に走り切って、海の向こうとかにも行って。そして見守られながら目を閉じる僕は、君と同じ場所に行くのかな。

 

「君は、僕の自慢の相棒だ」

 

 お兄ちゃんの言葉に目を細めた。もう殆ど聞き取れないけど、褒めてくれる言葉が最後まで嬉しかった。レースしなくなってからずっと、近くに寄っても乗ってくれなくなっちゃったのが心残りだけれど。

 

 僕は、僕の道を走り切ったよ。

 ああそうだ、()()をつけよう。あの日、途中で終わった勝負の続きを。

 お兄ちゃんの心を連れて行った君と、お兄ちゃんの夢と共にあった僕で。

 どちらが最強で、最高な、お兄ちゃんの相棒なのかを。

 

 光が近づく。これが終わりなのかな。

 同期の皆、僕より後に来てね。

 ハーツクライ先輩、貴方とも全力の決着を。是非向こうで、今度こそ。

 エアグルーヴさんは…向こうでまた会えるかな。おっかないけど優しい馬だった。

 お姉ちゃん、優しさをありがとう。幼い頃からずっと温かかった。

 世話してくれたヒト、いつもご飯美味しかったよ。

 お兄ちゃん。いつか、また。

 

 さぁ、サイレンススズカ。首を洗って待っていろ。

 この衝撃が、君の異次元を揺るがすその日まで。

 きっと、絶対に追いついてみせるから。

 

 

 その決意を最後に、僕———ディープインパクト号は、その生涯を終えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、()が目覚めた。



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