マッサージ屋のおっさんが怪しい (信州しなの)
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どこから見ても怪しい

 彼は疲れていた。とても、疲れていたのだ。だからどこか風の噂で聞いたマッサージ店に行ってみようと、普段はしない寄り道をしてしまったのも致し方がなかった。

 運動はしている。だけれども、デスクに噛り付いたり容赦のない光を眼球に叩きつけてくるディスプレイを見つめていたり、飛んだり跳ねたり走ったりドンパチしたりして、体が休まるかと言ったらそんなことはない。寝たところで回復しきる前には起きて職務を果たす必要がある。

 彼はそう。とても疲れていたのだった。

 

 そこはオフィス街のややはずれにある、古い3階建てのビルだった。確か以前……それもずっと昔は和菓子屋だった気がする。跡継ぎもなく古い店が暖簾を降ろすことは別に珍しいことではなく、ここも例に漏れることなく消えてしまった店の一つだったはずだ。そこに、どこかの輸入品についてきたような何とも言えないフォントで『インド式マッサージ』とだけ書かれた看板が掲げられていた。

 

「ここか」

 

 はちゃめちゃに効くとは誰の言葉だっただろうか。風見ではないが、誰か部下だった気がする。その辺の記憶も曖昧になるほど疲れていたし、限界を訴える肩こりはストレッチくらいでは治まってはくれず、鈍い頭痛をもたらしていた。

 が、なんといっても適当すぎる看板だし、扉もお洒落さのかけらもない古いくすんだ茶色のアルミサッシ製手動の引き戸だ。壁に至っては塗りなおすのではなく、無理矢理ひび割れにセメントを塗りこんで補修した跡がある。

 あからさまな飾らない言葉で……そう、悪くいってしまえば廃墟手前のぼろいビルだった。

 

「ごめんください」

 

 料金や時間といった説明が一切掲げられていない不安はあるものの、ガラガラと思ったよりもずっと軽い扉をあければ怪しいインド人が、畳の上に敷いた花柄のバスタオルの隣でワイドショーを見ていた。

痩せ気味で、老人に入ったような風貌で、ヒゲに白髪が混ざっていて。

 いかにも日本人が想像するインド人といったような風貌の、あやしい男だ。その人物がこちらに目を向けると、にやりという音が聞こえそうな具合に口をゆがめた。副音声でカモが来たと聞こえてきそうな顔だった。

 

 

「アイアムヨーガマスタル。横なってー」

 

 それだけである。一切の説明がない。

 

 

「ええと。この、タオルの上でいいんですか?」

「ソダヨ横なれロウドゥーシャ」

 

 どうみてもスーパーの二階とかにある衣料品コーナーの特売で買ってきたようなタオルを指さして横になれと言うインド人に面食らいながらも靴を脱ぎ、踵を揃えて並べてから畳の上のバスタオルの横に立った。枕もホームセンターで叩き売りされていそうな代物だ。これにもタオルがぐるぐると巻いてあった。

 物は悪いが、きちんと洗濯してあるのが分かるというのが唯一の救いのように思える。とりあえず仰向けでいいんだろうか。

 

 

「あの、仰向けでいいんですか?」

「うつぶせろ下向け」

「アッハイ」

 

 なんだろう、このインド人ものすごく有無を言わせない何かがあるぞ。

何が起きても対処がしやすいようジャケットを枕のすぐ横に置いて、指示されたようにうつぶせに横になる。妙な緊張が走った。

 

「そ~~~~ら、イクヨー」

「んッ!!ぐ、が!」

 

 気の抜ける掛け声が掛かったと思った瞬間、容赦のないマッサージが始まった。バキンだのゴキンだの、耳に優しくない音が聞こえる。遠くからはどこのゴミ捨て場から拾ってきたんだと言いたくなるような古いラジカセからカレー屋でよく聞くようなBGMが聞こえてくる。そのCDどこで売ってるんだ。インドか。インドで買って持ってきたのか。直輸入だな、と寝ぼけた頭は案外マッサージ音と合うなと考えていた。考えた瞬間、マッサージ音ってなんだ。普通マッサージはこんな物騒すぎる音を立てないぞとぞっとする。

 これは、マッサージというより、関節を破壊されている音なのでは……?

 だが、骨折や関節を外されるような痛みはない。確かに痛みに襲われてはいる。だが、痛気持ちいとでもいうべきだろうか。とにかく『効いている』感が凄まじい。そう、とても。とてつもなく効いているのだ。決して痛みを快感に捉えているわけではない。それだけは断じて違うと言い切れる。

 

 

「ロウドゥーシャみ~んなカッチカチ!お客さんもカッチカチ!ロウドゥーシャだからカッチカチ!ほーれほぐれろ、ほぐれろ、労働者ぁ!」

「ぁ、ぐ……!」

 

 コイツ絶対に日本語ぺらっぺらだろ。なんでわざわざ怪しすぎるイントネーション挟んでくるんだ。やめろ。笑う。怪しすぎて笑う。

 

 

「あーっはっははは!健康なてく!あーはははははは!」

「く、……ッ!」

 

 お前が笑うのか。お前が笑うのかよインド人。

 この、笑えるのにマッサージに夢中になるあまり笑うことが出来ず、痛いのに滅茶苦茶に気持ちのいいマッサージは、気が付けば終わりを迎えていた。……からだが、いように、かるい。まるで うまれかわったかのような かるさ。

 

 感動を覚えながらボンヤリとする頭のまま肩を回す。張るような感覚も重さも消え失せ、頭痛もない。そう、嘘のように疲れも消えているのだ。あと3年は戦えるような気にさえなってくる。

 そんな様子を優しい瞳で見つめる怪しいインド人がまるで聖者のように見えてくる。ああ、ありがとう。あなたは本物の聖者だ。聖者がゆっくりと口をあけた。

 

 

「二千円。二千円よこせ」

 

 聖者は価格設定も聖者だった。口調はどう控えめに聞いても恫喝じみていたが。

 

 

「あ、はい二千円ですね」

「二千円寄越したらささと帰れ。ほれ二千円だ」

 

 こうして追い立てるようにして二千円を支払ったあと、「良くなっただろ帰れ」と本当に追い立てられて店を出た。

 

 

「……また来ます」

「つぎも二千円忘れるな、ロウドゥーシャ!」

 

 おそらく日本語は堪能だろうに相変わらず片言っぽい日本語は継続するようで、今度こそ笑いながらアスファルトを踏みしめた。

 今日はちょっといい酒を飲もう。そんなことを考えながら。



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白さに裏打ちされた怪しさ

 徹夜明けの太陽が黄色く輝いて頭が痛い。身体は骨格を鉛製にしたかのように重く、軽快な足取りとはどういうものだったのかをはるか彼方へと忘却させていた。今日も彼は疲れていた。そう、今日もとても疲れていた。

 疲れた時に取る行動や取りたい行動は人それぞれだろうが、多くの人は休息を求める。睡眠、美味しい食事、時間を忘れる長風呂。いずれも疲れを忘れさせ、明日への活力となってくれるものだろう。その中にもう一つ付け加えたいものが出来た。それこそが、マッサージだ。

 正直に言ってしまえばたかがマッサージと侮っていた部分も彼にはあった。血行が良くなることでもたらされる効果は知っていたし、これまでにも何度となく世話になったこともある。だがあれは一時的であったり、逆に毎日しなければ意味がなかったりと扱いの面倒なものという認識もあり、マッサージの世話になるくらいなら身体を鍛えて疲れを殴り返すくらいの心境でいたのだ。

 その降谷の心境を躱し追撃を加えてきた存在が、この古い摺りガラスのはめ込まれたアルミサッシの向こうにいる。

 そう……怪しいけど全然経歴は怪しくないけどやっぱり怪しいインド人だ。

 

 あれからあのインド人については少々調べた。無防備にごろんと横になったところを狙われてしまっては今までの苦労も何もかもが水泡に帰すことになるからだ。結果は、面白いくらい面白いことになった。面白いがゲシュタルト崩壊するかと思った。面白かったから仕方ない。

 

 まず身分。ハイ・カーストだった。一生働かなくていいどころか大勢の使用人を抱え、ひがな一日ごろごろと寝っ転がりながらフィクションの中でしかお目にかかったことのない、あの柄が長くクソでかい団扇で煽られながら専属の楽師による生演奏をBGMにフルーツを齧っていても許される人物だった。なんでわざわざ来日して風情のある……いっそ素直に言えばボロい中古のビルでマッサージ屋の店主兼マッサージ師をやっているのか。さらなる調査の結果も面白かった。ただの道楽だったからだ。彼が幼いころ、無聊の慰めに招いた人物が披露したヨガに心酔し、そのまま囲って弟子入りしたというのだ。そしてそのまま彼曰くヨーガマスタルになった、と。

 なんだその金持ちの謎過ぎる金の使い方は。有意義な金の使い方とはなんなのか考えだしてしまうし、考えたところで結論は出そうにないのでこの思考は放棄した。別の次元に生きていると思った方がいい。それならまさしく思考回路が違っていてもおかしくない。ちなみに裏との係りは一切無かった。驚きの白さだった。薄暗いことをする必要もないレベルの金持ちだからかもしれないが。金持ちのえげつなさを垣間見た気がした。

 

 次に家族構成。なんと家長だった。つまり彼の一族の中で一番偉い人物だった。何をしているんだ日本で。いやマッサージ屋の怪しいオヤジをやっているのは分かっているが。妻がひとりと、息子がふたり。息子にもそれぞれ妻がいる。愛人はなく孫もまだいない。ちなみに長男はニートである。いや、ハイ・カーストだから働く必要なんてどこにもないのは分かってはいる。分かってはいるが、お前の父親は日本で端金と言っていい金額で労働しているというのに何をやっているのか。

 そう思っていたらどうやら株取引に並々ならぬ才能があるようで、一族の資産を更に増やすのに成功していた。元手はお小遣いという名の日本でいう平均生涯年収だったようだ。秘書にこれ買っといてあれ売っといてとやっているうちに膨れ上がったらしい。もう何も言うまい。やっぱり言う、金持ちえげつない。

 

 調査結果を手にした風見との会話が脳裏に過った。

「ハイ・カースト出身者?なんで日本で怪しすぎるマッサージ店営んでいるんだ……しかし裏の繋がりは皆無だな」

「息子さんのひとりがニートという事でしたが、その、ハイ・カーストなので働く必要がそもそも無いようです」

「……なんで働いてるんだあのインド人」

「……趣味ですかね?」

 

 

「趣味、かぁ……」

 

 随分御大層な趣味だが、効果は折り紙付きだ。趣味のおこぼれを預かろうとしている身としてはありがたいと言っていいのかなんなのか。とにかく、真っ白のくせに趣味が理解不能すぎて怪しさを倍増させているこの店に、もう一度世話になろうとしているのも事実だった。安心して身を任せられる人物というのは少ないため、貴重な店だともいえる。

 不安にはなるが、そんじょそこらの金持ちを鼻で笑うことのできる大金持ちが道楽でやっているところで、わざわざ公安に付け入ろうとするはずもなし。同様にして黒い世界に足を浸ける必要もない人物であることは間違いがなかった。

 ただちょっと。ほんの少し。いや物凄く。何考えてんだオメーと言いたくなるだけで。

 

 軽く頭を振って思考を追いやる。癒されに来たというのに仕事と重ねてしまうのは悪い癖であり、必要な技能だった。

 ネジが緩みかけている取っ手に手を添えて入り口を開けた。

 

「こんにちh「疲れたー顔のーニッポンジン!横なってー」

「はい」

挨拶さえさせてくれなかった。やはり彼は何かが決定的に違う世界に生きているのだろう。

 

「私ヨーガマスタルね、安心してネ」

「お願いします」

 

 二回目だというのに相変わらず怪しい。そして安心できない。やはり副音声で金づるが来たと聞こえる気がする笑みを浮かべて、前回とは違うやはり特売品1枚500円のような畳の上に敷かれたバスタオルに指をさしていた。大金持ちのくせになんでそんな安物を使用しているのか。今回も洗濯はきっちりとされているバスタオルの横に座り、上着を前回同様枕の横に畳み、まだ二回目だというのに勝手知ったる感覚でうつぶせになった。勝手は知っているが、それでもちっとも安心できない。妙な緊張感が取れないのは、この怪しいインド人のおっさんと、相変わらずどこで買ってきたのか分からないBGMのせいだろう。なんとなく本日の音楽はインドの大衆映画のサウンドトラックのような気がした。妙にミュージカル調だったせいだろう。

 ぼんやりしていると前回同様に前置きなしでいきなりマッサージは始まった。触れるたびに失礼しますだの、お加減はいかがですかだの尋ねてくれる日本のサービスの有難みを感じずにはいられない。唐突すぎる。

 

「背中ツヨイねー!」

「えーと、そうですか?」

「足腰ツヨイ!」

「????」

 

 それはつまり、筋肉がついていると言いたいのだろうか。まず間違いなく日本語が堪能なんだから、わざと妙な表現をしていないで言葉にして欲しい。なんのために言語というコミュニケーションツールがあると思っているのか。

 バキバキという自分の体から出ているとは信じたくない不穏な音と、何を歌っているのかちっともわからないBGMを聞き流しながらそのまま身を任せる。いや、勝手に力が抜けていく。思考もどんどん溶けていく。あ~~~…………。

 

「ハイおしまい!二千円おいてけよ!」

「……はい」

 

 快適な時間はあっという間に終わった。光陰矢の如し。違うがそんな気分であった。本日も異様に体が楽になっている。何なんだ本当に。

 起き上がりもそもそと財布を用意していると、コンセントからプラグを引き抜くことでBGMを強制的に止めた店主が話しかけてきた。とても個人的な意見だが、その豪快過ぎる停止の仕方は止めた方がいいのではないだろうか。ただでさえオンボロのラジカセが収集車の世話になる日も遠くないだろう。

 

「そーだオニイサンいいものあげるよ」

「これは……?」

 

 隣町にあるカレー屋の割引券をくれた。あまりにもベタすぎて笑えて来る。やめてくれ、せっかく全身ほぐれたのに笑わさないでくれ。なんでこの人は毎度妙な日本人がイメージするインド人を挟んでくるのか。面白いからやめて欲しい。

 

「オニーサンここ行ったことある?オイシイヨ」

「……ないです。えっと、」

「二千円ねー」

「あ、はい」

ちゃんと会計はしてくれるようだ。

 

「明日も来てイイよー」

「えぇ……?また凝ったら来ます?」

「チキンオイシイヨ」

「あ、カレーも食べてきますね……」

 

 話が飛びまくって反復横跳びをしている店主をそのままに、揃えておいた靴を履いて身支度を整えると、マスタルは遠慮なくテレビをつけてから使用したタオルを適当に引きはがして籠の中に突っ込んでいた。そして客である自分を残したまま、籠をもってさっさと裏へと入ってしまった。

 

「ええぇ……」

 

 ありがとうございましたと言いたいのはこちらではあるが、あまりの適当さに、やはり日本式接客業との差を感じてしまった。いや、もしかしたら金持ちゆえの何かかもしれない。深く考えるだけ無駄だと学んでいるというのに、ついツッコミをいれたくなってしまうあたりこのインド人侮れない。マッサージの腕前も侮れない。軽くなった。

 

「……また来ます」

 

 一応の言葉をかけると、奥から二千円忘れるなよという元気な掛け声を貰った。

身も心も妙に軽くなったような、それでいて疲労感があるような。釈然としない気持ちを抱えはしたが、やはり軽くなったものは軽くなったので、今回もちょっといい酒を開けようという気分になった。

 ……カレーはまた今度、調査をしてからにしよう。



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断じて快楽堕ちではない

 言い訳はしない。疲れたから来た。

 自分でもちょっと不味いなと思う程度に思考能力も肉体性能も低下したのを認めただけだ。

 

 三度目ともなると戸惑うことなく引き戸を開けることが出来た。それが成長という名の慣れであるという事実は悲しくなるので直視したくない。

 挨拶もそこそこにいつもの手順を踏んで横になると、マスタルがマッサージよりも先に話しかけてきた。珍しいこともあるもんだな、と思ったが、この人と会うのはまだ三回目だった。なんというか、昔から顔を合わせる親戚か近所のオヤジといった気安さがどうしても生まれてしまうのだ。……おちつけ。相手はインド人だぞ。

 

「よくきたな!横なれ。ソイヤ前も来てたね、タイチョーフリョをヨーガマスタルにお任せしたくなるのわかるけど、ヨーガをマスターしてカラダほぐすといいよ!」

 

 今日のマスタルは機嫌がいいようだ。もしかしたら彼も慣れてきたのかもしれない。……三回しか顔を合わせていないのに妙に馴れ馴れしい気もするが、考えても無駄な事というものはいくらでも存在する。この怪しいマスタルのことを真剣に考えるくらいなら、角砂糖をほぐして結晶を一粒ずつ数えていた方がマシなことに思える。

 

「運動はしてるんですが」

 

 そうはいっても会話は大切だ。安室透という存在は人を邪険に扱ったりしないキャラクターとして生み出したからだ。外では安室透、安室透だ。だから毎度骨抜きのでろっでろにほぐされた情けない笑い上戸は降谷零ではない。断じて違う。

 

「使ってない肉あるよ!ホーレホレホレホレホレ」

 

 ゴキッメキメキメキゴッ、と、軽快な言葉とは裏腹に本日も盛大な音を身体は奏でた。いや、心なしいつもより激しい気もしないでもない。不安が加速する。

 

「アレー?」

「なんですか今の音、何ですか今の声!?」

「ラクになるー」

「……。」

 

 確かに楽にはなった。ここのところはデスクワークが主体で腰から足の付け根がだるかった。それは認める。

 でもなんで腕や肩から出た不自然極まりない音で腰から下が楽になるというのか。人体の神秘が奥深すぎてついていけそうにない。マスタルのノリにもついていけない。

 その後も全身から嫌な音を立てる時間は続き、安室透は骨抜き状態になった。いいか、安室透が骨抜きになったんだ。

 

「効いたね!二千円置いて帰ってヨ!」

「えーと、お代です」

 

 悔しいが確かに効いた。それでもって機嫌が良くても本日も無情に追い出されようとしている。

 

「お札が2枚、誤魔化しナシの円!カレー食べた?」

「ええ、美味しかったですよ」

 

 覚えていたのかと思いつつも、一応接客業だからそういうことには細かいのかもしれないと考えを改めた。

 あの隣町のカレー屋は調査結果でこの目の前の怪しいオッサンがオーナーであり、調理人は家から連れてきたシェフだということも判明しているために行ったのだ。

 シェフはどうやらマスタルとは親友らしい。身分の差というものをあまり気にしないマスタルは、使用人たちととても仲が良いというのも大使館からの情報で知っている。

 

「あそこ息子よりオイシイ。息子はダメだね、ナンも不味い」

「…息子さんも店やってるんですね」

 息子はニートじゃなかったのか。ああ、もう一人の息子の方か。

 

「ニートしてるよ!」

「えぇ???」

 

 やっぱりニートの息子の方だった。なんなんだ、なんなんだこの親子は。労働なんて一切せずに一生を終えることを許された人らだというのに、息子も調理場に立つというのか。

 いやこのマスタルにして息子ありだな。父親が日本に来てまでマッサージ店の怪しいオヤジをやっているように、息子も調理場に立って調理をするのだろう。彼曰く腕はそう良くないようではあるが。

 

「息子ネー、服欲しいってゆーのよ、外歩きたい、ニッポン行きたいからってー」

「はあ?」

 

 まだ続くのか息子の話。本当に今日は機嫌がいいのかもしれない。というか、ハイ・カーストなら服屋の資本ごと買い取れるだろうに何を言っているんだ。

 

「私に似てワーガママ!あーはははワーガママァー」

「ええっと」

 

 好きにマッサージ店やるのも我儘……なのか?我儘とはいったい、何を指す言葉だっただろうか。

 ちょっとスケールと方向性が違い過ぎて理解できそうにない。

 

「だからお古あげたヨ、マスタルの」

「……えぇ?」

 

 お古をあげた、という言葉でついまじまじとマスタルを見つめてしまった。どこの街にもある大手量販店の服だ。カタカナ四文字の、CMもやっているあの会社のシンプルなシャツだ。前回も確か同じメーカーの量販品だった。

 と、いうことは息子はこの大量生産品の服をお下がりで貰ったというのか。買ってやれよハイ・カーストで履いて捨てるどころか日本で中古のビルを買ってマッサージ屋を営む金があるんだから。

 やはりマスタルはマスタルという生物であり、同じ感覚を有する存在ではないのかもしれない。漠然と失礼なことを思い浮かべてしまった。

 

「マスタルいい服持ってるよ!」

「はあ」

 

 あ。やっぱり良い服をあげたのか。高級品ともなれば親子で着ることがあっても不自然ではない。高品質なものは劣化しにくく、受け継がれることは別に珍しくないからだ。彼ほどの家ならばデザイナーだって囲っているだろうし、量販品を渡したというのは酷い誤解だったのだろう。

 心の中の出来事とは言え謝罪をする。申し訳ない、あなたに妙な偏見を持ってしまっていた。

 

「ユニタロのシャツあげたの!」

「いい……服?」

 

 前言撤回。当たってるじゃないか。

 

「三回洗ってもヨレヨレにならないヨ!襟も見てホラピンピンしてる!にーさんも買いなユニタロ!!」

「いい服……ユニタロ?三回……?」

「色水被っても洗えるヨ!」

「日本にホーリー祭はありません」

 

 洗っても落ちないような謎の染料を思いっきりブチ込んだ色水飛び交う祭りは遠慮して欲しい。

 ただでさえ昨今はハロウィンで羽目を外す者たちがいるというのに、無法こそ合法とでも言いたげな祭りを開催されてしまってはたまったものではない。自身の白い愛車がキャンバスに見立てられ、見るも無残な姿になっていくであろう祭りを思って頭が痛くなった。

 おかしい、僕はついさっきマッサージを受けたはずだ。いや受けたのは安室透、安室透だ。だから被害にあうのも安室透……いや、車は共通だ絶対にホーリーだけは阻止したい。断じて独特なカラーリングにしたいわけじゃない。

 色で塗りつぶすのはイカのゲームだけで充分だ。

 

「ホーリー楽しいヨ?オニーサンも一緒にどう?」

「やりません」

「色つける粉ならインドで買えるヨ?」

「買いません」

 

 だめだ、心労が酷い。悪夢のカラーリングになってしまう愛車を思うとつらい。

 大事に大事に乗っているとは口が裂けても言えないが、それでも愛着もあるし可能な限りメンテナンスをして保持をしているのだ。むざむざ落ちない色水に晒されるのを黙ってみている趣味はない。

 

「ア~ッハッハッハッハ!お疲れになっちゃった?サービスいる?」

「……なんですか?」

 

 ひとを疲れさせておいてこのインド人、いけしゃあしゃあと言いやがる。そのやたらと似合っているターバン剥ぎ取るぞ。

 そんな怨念の籠った視線をものともせずに奥へと引き込むと、ラベルの剥がされたペットボトルをもって戻ってきた。

 白い飲み物のようだ。

 

「ラッシーやる。飲め」

「いえ、いりません」

 

 そんな何が混入されているか分からない上に衛生状態の悪そうなものが飲めるか。

 

「あ、そう?じゃあマスタルが飲んじゃう。んんん~オイシネー」

 

 ごくごくと嚥下するところを見ると、本当に不味いものは入っておらず、善意のようだった。

 だがその善意を素直に受け取るわけにはいかない。自分は、僕は。この国のために。

 

「ラッシー飲まないならtandoori chickenのサービス券あげる。オイシーよ!おススメ」

「ありがとうございます」

 

 でも自分の気持ちに素直になるのも大切だよな。うん、あそこのカレーは美味しかった。流石、ハイ・カーストお抱えのシェフの店だ。物凄く美味しくてナンをどれほどお替りしたことか。絶対に次はチキンも食べよう。

 

 

 さっきまで再び重くなっていた身体は、魔法の紙切れ一枚で見事に復活を果たした。

 マスタルは本当にひとを蘇らせるプロだ。やはり彼は聖者だ。

 

 また来いよ二千円持って!

 

 その声に笑顔で応えて店を後にした。

 さて。この後もう一仕事頑張ろう。そうしたらマスタルおすすめのチキンを食べよう。

 チキンを食べて、活をつけて。明日の日本を護るんだ。そう、僕は降谷零。マッサージに骨抜きになった男は安室透。あれは、僕じゃない。

 

 



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もっと自由に笑いたい

 今日も今日とて東都は事件がいっぱいだ。降谷の愛車のお供には少年が。つまり、犯人を追っていた。

 少年の指示に従い角をいくつも曲がり、着実に追い詰めていった。

 

「逃げ足が速いな…!」

 

 悪態をつき逃げる男を追っていると、助手席に座ったコナンが声をあげた。

 

「安室さん、あそこのインドの人がいる角、右に曲がって!」

 

 インドの人。言われてみれば十字路で信号待ちをしているインド人……降谷にとってもはや見慣れた相手である男がいた。マスタルである。

 

「!?(マスタルがハイ・カーストのインド人らしい格好で出歩いてる、だと?くっ、そんなの気にしている場合じゃないのに……!)」

「安室さん!インド人を右に!!」

「分かったから、分かったから!!!」

 

 切羽詰まっているというのにコナンは降谷を笑わせようとしてきた。いや、彼に咎はない。何がいけないのか。降谷は瞬時にマスタルのせいにした。冤罪である。

 彼だって常にマッサージ屋とカレー屋に詰めている訳じゃ無し。量販店の衣服ではなくおめかしして出掛けることだってあるだろう。威厳たっぷりの堂々たる姿は服に着られるなんてことはなく、見事に着こなしている。ただちょっと普段と差があり過ぎて面白いだけで。

 

 絶対にあとで問い詰めてやるからなぁ……!

 

 

 無事に、無駄に俊敏に逃げ回っていた犯人を捕らえることに成功し、戻ってきた日常を噛みしめる。

 昨日はあのあと事後処理に追われて店に行けなかったが、どうせあれほどめかし込んでの外出だ。店に行っても休業日か外出中のままであっただろう。とても気になり過ぎて夢に見るかと思ったが、流石に夢の中にまでは登場しなかったことには安堵以外生まれなかった。夢の中でもマスタル節を味わうなんて冗談じゃあない。自分の笑い声で起きるという不名誉は起こらずに済んだのだ。沽券は守られた。

 

 法定速度を守った運転で例の店からほど近いパーキングに停車し、道を行く。マスタルには是非あの格好の事を尋ねなければならない。ネタ的な意味でも気になるけれども、公安的な意味でも把握しておきたい。ネタバレ上等どころか気になり過ぎて仕事に支障が出たらたまらない。本日留守であったのなら今夜こそ夢に現れそうでもある。沽券が危うい。

 

「なに来たの?早く横なって二千円置いてけ」

 

 出会い頭にこれ。あんまりである。

 

「お急ぎですか?」

「チキン食べたいのよマスタル!tandoori chicken食べたいノヨ!」

「前も思ったんですが、発音いいですね」

「英語も話せるよイギリス東インド会社もあったからね」

「重い歴史ですね」

 

 相変わらず話が飛びすぎて本題に入れない上に、マスタルの脳を占めているのは客である降谷の事ではなくタンドリーチキンの事であるようだった。

 

「歴史はゾウより重い!お喋りよりchicken!chicken!」

「チキン連呼やめて下さい」

 

 まるで降谷がチキンだと言いたげな言い方に、思わず苦笑いが漏れた。だけど今日はチキンの話よりも昨日のあの姿の方が気になるのだ。横になるための支度をしながら勿体ぶらずに本題を聞く。切り込まずにいたら本当に無駄話もせずさっさと人を骨抜きにするだけして去ってしまいそうだったので。

 

「お休みの時はどうなさってるんですか?」

 言外にあの格好なんですかと混ぜておく。だって大量生産品以外の服装なんて初めて見たから。

 

「テレビ見る、そして歩く」

「歩く」

 

 妙に格言じみた言い方である。早速笑いそうになる。この人と対峙すると笑いのツボがとことんばらまかれるような気になってくる。地雷原か。

 

「ヨーガのレッスンしに行くコトもあるよ、スズキのそだん役仲良しネ!」

 

 まさかの名前に一瞬強張りそうになったが、気合で押し込んだ。

 

「どこでお知り合いになったんです?」

「ケツ関係ないヨ?」

「くっ」

 

 だから、日本語分かっているクセにそういうネタを挟んでくるのをやめろ。なんでイメージする語学が変な方へ走るインド人を挟んでくるんだ。わざとだろ。知っている。笑う。わざとらしくあからさますぎて笑う。

 

「どこで相談役と仲良くなったんですか?」

「カレー屋」

「あそこですか?確かに下手な高級店より美味しかったですけど。あそこですか?」

 

 大金持ちが経営している潰れたコンビニを改装して経営しているカレー屋に大金持ちがやってくる。だめだ、お金持ちの考えることがわからない。

 あそこは値段もリーズナブルだ。ナン食べ放題タンドリーチキンセットはプラス二百円でお好きなドリンクおかわりし放題になる。ランチ価格はセットが六百円、ドリンクつけても八百円なので、マッサージ一回分の報酬である二千円があると二人で満腹になれる。

 そんなお店にやってくる鈴木財閥の相談役。なんなんだ、本当に。あの相談役ならホテルでランチじゃないのか。

 

「家から連れてきたシェフがやってるから美味シよ!」

「連れてきた」

 

 資料で知っているけれども改めていわれるとインパクトが凄まじい。

 

「私我儘だよ!私マスタルワーガママぁ、あはは」

「はは……」

 

 本物の金持ちはえげつないな。そんなことを考えていると本日も何の掛け声もなく関節技じみたマッサージは始まった。

 

 

「おしまい!二千円置いてけ!!」

「出しますよ、出しますから!」

 

 急いではいるものの、仕事は手を抜かないマスタルのお陰で本日も無事健康になった。だが、会計はそうもいかないようでせかしてくる。会計も仕事のうちだというのに自由人である。

 

「ハリー!そのお金でtandoori chicken食べ行くんだからハリアッ!」

「これで支払うつもりだったんですか!?」

「ソダヨ?にーさんも一緒いく?マスタル奢るよ?」

「行かないです」

「ラッシーも飲んでokだし」

「結構です!」

 

 なんでこの人は執拗にラッシーを飲ませようとしてくるのだろうか。理解は出来ないが、一押しなのはわかった。

 文字通り背中を押されて追い立てられるように店を出ると、マスタルも一緒に店を出ていた。 そして、唖然とする降谷の横で扉に鍵を掛けていた。

 

「これ?防犯予防」

「いや、そうじゃなくって」

 

 あまりに見つめていたせいだろう、鍵についての説明があった。うん、まぁ。防犯意識があるのは良いことだ。たとえボロボロのビルのせいでプロの窃盗犯には何の障害にもならない鍵だとしても。

 

「ホラ行くよカレー屋」

「行かないですからね!?」

「そなの?サービス券……持ってないや。これはマスタルの分だからあげられない」

 

 使うのかよドリンク無料券。お前が経営者だろ。言いたい言葉を飲み込んで、行かないと再度伝えればマスタルはあっさりと「そなの。じゃーね」と颯爽とカレー屋に向かっていった。力が抜ける思いがする。実際、ほぐされきった体はあまり力が入らないのだけれども。

 

「……結局服の謎は解けずじまいじゃないか……」

 

 ご婦人が抱き上げているチワワに不審なものを見つけたと言わんばかりに吠えられまくりながら雑踏を行く背中にため息を一つついて、パーキングに向かった。どうか今夜の夢の中に彼が現れませんように。念を込めて回したキーは、愛車のエンジンを回転させた。

 

 

おまけ

なんだか全体的に健康が増してきたポアロ閉店後の清掃雑談

 

「安室さん、何かいい事でもありましたか?」

「え?いいことですか?」

「なんだか、前より足取りが軽そうで、それにお肌もツヤツヤですよ!」

「そうですか?」

「そうですよ、2ヶ月くらい前からちょっとずつ!」

「(……通い出した時期だ)」



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風見はよくわからない先入観を持たれている

 上司が何度も世話になっているという噂のマッサージ店に来た。

 ……あの、降谷さんが虜になったマッサージ店だ。

 調査の段階では不自然だが黒い動きはなく、趣味というべきか、道楽でやっているというのは間違いがないようだ。

 

 降谷さん曰く、とてもよく効くが店主が個性的だという。なかなか濃い個性なのは書面でも理解しているが、百聞は一見に如かず。そういうわけで、このうらびれた、看板までも輸入商品の取扱説明書のフォントのような怪しい店に来たのだった。

 

「こんにちh「横なれニッポンジン!」

 

 上司の正確な情報通り挨拶をさせてもらえない。第一声が怒声じみているという話はなかったが、本日は虫の居所でも悪いのかもしれない。

 それを隠しもしないところに、何故か安心感を覚えてしまった。

 接客業はどんなときでも笑顔という鉄則を打ち破ってくれる存在こそ今の日本には必要な存在なのかもしれない。いや、そうじゃない。しっかりしろ。もしかして、自覚している以上に疲れているのかもしれない。

 

「お願いしま、す?」

 

 眼鏡を外して枕元に置き、安っぽいバスタオルの上にうつぶせに横になると、親の仇か何かと言いたくなる挙動で店主が勢いよくマッサージをはじめた。唐突にやられるとは聞いていたが、本気で唐突過ぎて処理能力追いつかない。

 

「コリコリばっか!ゴリゴリゴリばっか!!」

 

 ひとの体をゴリゴリと音を立てながら解すマッサージ師が怒りながらも仕事をしている。なぜだか無性に笑いたくなった。いや普通に笑う。なんで初対面の客にマッサージしながら怒りを発散させているんだ。

 

「すみません」

「謝るのメッ!謝罪No!No!!!」

 

 ゴッキィ!!!!!!と、とんでもない音が自身の肩甲骨からした。一瞬で頭が空白になる。

 痛みはあるが、骨や関節にダメージを受けたものではない。だが、一瞬呼吸は止まった。

 

「がっ、……!」

「メガネすぐ謝る!メガネ謝る!!」

「ちが、ちがいま……!」

 

 眼鏡謝るってなんなんだ。

 そういえば最近謝罪していることが多い気がする。主に上司に向かってではあるが。だからって眼鏡は関係ないだろう。眼鏡イコール謝罪という方程式がこの人物のなかに存在するのであれば、是非とも訂正してもらいたいものだ。

 その後もゴキゴキゴキと不安になる音と体が癒えていく快感に浸っていると、どうやら仕事を終えたらしい店主が痛くない張り手を一回、背中に食らわせてきた。

 

「ほらよ二千円!!」

 

 こんな請求を友人同士の貸し借りでさえしたことがない。ましてやサービスを売っている側からここまでいい加減で不適切な請求をされたことなど今までに一度たりともなかった。あってたまるか。あってたまるかと俯瞰視点の自分が嘯いた。

 そうだな、あってたまるものか。やはり日本に必要なものは心づくしが行き届いた丁寧な対応だ。それに見合う報酬があるべきであって、ここまでぞんざいな対応はまだ日本人には早い。早すぎる。ついていけない。世界に取り残されてしまう。

 この部分だけは周回遅れでもいいかもしれない。対価は支払われるべきだとは断言できるが。

 

「に、二千円ですね」

 

 眼鏡を掛けて財布から千円札を二枚取り出す。そういえば二千円札なんてものも昔はあったな。

 最近はとんと見なくなったが、一部地域では流通していると聞く。この店に今後も通うならば、そんな東都では珍しくなった紙幣で支払うのも面白いかもしれない。

 入手のあてはないし、こんなところで仲間を動員させてまで手に入れようとも思わないが。

 

「ちゃんと二千円!眼鏡つけてまた来いヨ!!」

「え、あ、はい」

 

 言葉の意味は良く判らないが、どうやら嫌われてはいないようだ。

 なんとなく、上司が色々な意味でこの店主に骨抜きになっている理由が分かった。

 マッサージは、はちゃめちゃに効いてどこかのドリンクのキャッチフレーズのように翼を授けられたように軽く、心なしか頭まですっきりしている。

 価格も人によって変えるなんてことはなく安価で、サービス業とは思えない接客態度を差し引いてもこの三倍は支払ってもいいと思えてくる。

 それに、店主は怪しいし正直よくわからないが良い人だ。たぶん。慣れていないけれど面白いし。

 なんなんだ、眼鏡つけて来いって。今日も掛けてただろう。

 意味が分からないしニヤリという音が似合いそうな悪い顔をして手を振って見送る……いや、店から追い出そうとしている店主はやましいところが無くても非常に胡散臭く怪しかったが、また来たくなる謎の魅力を振りまいていた。

 

 

 あれからまだ数日しか経過していないが、再び例の店にやってきた。

 自分でも情けなくなるような細かなミスをしてしまったり、夢見が悪かったりとじわじわと削られる思いをし、普段なら跳ね返していることだというのに妙に心に残ってしまい、このままでは良くない、早急に気分を変えなければと自己診断を下したのだ。

 専門医でもなんでもない自己精神分析などあてにはならないが、経験則から己の中に発生した小さなしこりを放置しておくと時に大きくなってしまうというのは心得ている。

 その小さなストレスの塊をうまく処理出来なくてなにが公安か。

 よって本日はそのしこりが肥大化する前に処置に来た。正しい判断といえる。いえるのに、妙に胸を張って言えないのはなぜなのだろうか。

 何も悪いことなどひとつもないのに、どこかしら後ろめたい。福引で前の人が参加賞のポケットティッシュだったのに、自分だけ洗剤詰め合わせが当たったような後ろめたさ。意味の分からない例えだなと、本日も俯瞰した自分が呆れていた。その通りすぎてしこりが少し大きくなった気がする。

 

 こんな下らない自分の思考にまでストレスの影響が出ている。早急に対処をしなければ。いざ天竺へ。ちがった、マッサージ店へ。

 

「こんにちは」

 

 今日は言えたぞ。達成感が凄い。二回目でしかないのに。

 

「アイアムヨーガマスタル、横なれ」

「はい、お願いします」

 

 そういえば前回は口上も聞いてなかったな。何故か怒りに任せたような態度だった。なのに仕事は丁寧……とは言い難いかもしれないが、やるべきこと以上の成果を己に与えてくれた。そこは感謝をしている。

 本日は前回よりも接客業らしい対応をしてくれている。それだけで妙な感動を覚えてしまった。息子の成長を喜ぶ母親か。断じて違うから落ち着け。冷静になるんだ。

 

「お疲れちゃん?」

「えぇ、まあ」

「ヨーガやりなよ。好きでしょサイババ」

「いえ別に好きでは……」

 

 なぜサイババ好きだと思ったのか。別に好きでも嫌いでもない。勝手にサイババ好きにするのは止めて欲しい。笑ってしまいそうになるから。

 

「ヨーガすると飛べるよ!私も飛ぶよ、ひこーきで!あはははは、ほいっ」

「ぐ、ぎ!」

 

 無茶苦茶なことを言うと見せかけて当たり前のことを言いながら、横になった瞬間マッサージは始まった。

 喋り方は前回と違って穏やかささえ感じるというのに、手の温かさも力加減も、体への影響も身体から発生したと思いたくない音も前回と同じだった。

 ああ、BGMが少し違うな。前回は剣の舞のみを延々とリピート再生されていたが、本日は数学者であり哲学者のピタゴラスの名をもじった番組の使用曲集だった。……あったんだな、そんなCDが。

 軽やかで明るい曲調と鈍く重いマッサージで発せられる音が妙な合致をみせ、脳がとろけるような気分になってくる。

 ややトランス状態に入ったような不思議な気分だ。まさか子供向けの番組の音楽でトランス状態に近い感覚になるとは思わなかった。いや、中毒性があるのは認めるが。

 

 そうして今日も身も心も解された。なんという解放感。店に入る前に抱えていたストレスも、微妙に高さがあっていないデスクのせいで溜め込まれた首の疲れもきれいに消えている。

 ああ、これは無理だ。また通ってしまう。

 

「オシマイ!ラッシー飲む?」

「いえ、おかまいなく」

「ダメだよ、ダメだよ眼鏡。マッサージの後水分補給だいじ。なんか飲め」

「え?あ、はい。じゃああとで飲みます」

 

 前回そんな話出なかったぞ、どうした?と思ったら、例のカレー屋のドリンク無料券を渡された。

 

「これでラッシーも飲み放題ね。行ってくるといい」

「……マスタル!!!」

 

 ちゃっかりしているが、どうにも聖人じみたこの怪しいインド人の事を、どうしても疑い切れないのだ。

 そのわざとらしい演技の向こう側に、あまりにも優しい光が見えるせいかもしれない。

 

「ン~善行積めたよ!じゃあ二千円ちょーだいね」

「はいっ!」

「またおいで眼鏡掛けて」

「はい!!」

 

 相変わらず言葉の意味は分からないけれど、近い内にまた来ようと決心した。

 余裕をもったタイムスケジュールにしてある。ラッシーを飲みつつカレーを食べに行くには、丁度いいかもしれない。

 そんなことを考えながら、軽い足取りで店を後にした。



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区別されるもの

 都会と言えど街の明かりも減った時間帯。それでも間接照明の灯ったバーの一角で、ひと組の男女が酒を傾けていた。

だがそこに色恋の気配はなく、それでいてなにか近寄ってはいけない雰囲気は漂っており、夜を歩きなれた賢明なものたちは、あえて声を拾おうとしなかった。

 それは人の話を盗み効くのはマナー違反だからという、ある意味当たり前の行動ではなかったが、長く夜を楽しむためには余計なものと係るのを極力避けるべきであるという経験則と不文律からだった。

 

「あなた、とうとうインドの秘薬に手を出したんだって噂よ」

「根も葉も無さすぎて組織の行く末に不安を抱きますね」

 

 にこやかに皮肉を言いながら、彼の内心はそのまま壊滅してしまえと組織を呪った。

 

「でも確かに髪も肌も艶やかになったわね」

「やってませんよ?そもそもそんな怪しげなものに手を出すとでも?」

「そうね」

 

 彼の言い分はもっともで、麻薬類に代表されるように非合法の薬品類は上の立場になればなるほど手を出すものがいなくなる。下っ端の売人の中には我慢できずに商品に手を出す愚か者もいるが、上り詰めるようなものは経験はあれど依存するような愚は犯さないものだ。

 

「秘薬、ね……」

 

 ついに押し付けられてしまったものの、危険な成分も雑菌の繁殖も無かったから愛飲してしまっていたが……湯上りにラッシー飲むだけで肌艶が良くなったのは確かだ……マスタルのラッシーは秘薬だった……?いやそうじゃない!どこでインドと関連付けられた?出入りしているのがバレたのか?しばらくマスタルのところに顔を出すのは控えなければ。

 

 そんなことを考えているだなんて知らない美女は、悠然と微笑んで彼に尋ねた。

 

「顔が怖いわよ?大丈夫?」

「根も葉もない噂が鬱陶しくて」

「そう……」

 

 それでこの話は、表面上終わった。

 だが、彼女はそれで納得するような存在ではなかった。根気よく彼の足取りを辿ってみれば、一軒の店舗によく足を運んでいるのが判明したからだ。

 

「ここ、よね?」

 

 訪れた場所はやや鄙びたビル。普段の自分の生活とはかけ離れた場所ともいえるところだった。

 カラカラと扉を開けると、外観にぴったり一致するような内装の中、外観に全くそぐわないインド人と思わしきジジイとおっさんの中間に位置するような、ある意味年齢不詳のおっさんがいた。

 

 色々この店について調べてみた結果は白。本当に施術を受けるためだけに顔を出しているようだ。

 調べている最中、様々な伝手により、ここは技術力のすばらしさがずば抜けているというのに、灰汁の強さと並ぶ入りづらさが天然の結界となって人を寄せ付けず、常に人の視線に晒されるような美貌と名声の持ち主がお忍びで訪れても、誰も騒ぎ立てない店だということは把握していた。

 余人を寄せ付けないと言えば彼女が世話になっている会員制の高級店もそうなのだが、そういった場所でも事情により視線に聡い彼女は、見られている感覚が抜けきらず休まることがない。

 もちろん店員はしっかりとした教育の施された最高の人材ではある。でも、それでも瞳の奥に隠された好奇心や憧憬、あるいは嫉妬に近いものを垣間見てしまえば、気を許すなんてことは出来そうになかった。

 とくに、後ろ暗いものを抱える者にとっては。堂々としていればかえって怪しまれないものだが、どこにどんな恨みを持つものが紛れているかなんて、わかったものではない。ゆえに。そんな中で本当に気を抜くなんてことは出来ないのだ。

 だというのに。

 

「横なれ。アイアムヨーガマスタル、安心しろ」

「……あんまり安心できないわね」

 

 いきなりこれ。気が抜けた。抜いちゃいけないのに気が抜けた。警戒するなんてもってのほかな程気が抜けた。滅茶苦茶あやしい人物のフリをしているのがバレバレである。そのうえバレバレだろうと気にしないどころか、怪しまれようがフリだとバレようがお構いなしな自由人っぷりである。

 

 そんなことより、マッサージだ。ぶっちゃけて言ってしまえば、警戒したまんまだと休まらねーんだよ、人体の腰への負担はんぱねーのになんで人間は二足歩行なんだよ、おまけにヒールとか慣れても疲れるもんは疲れるんだぞ、私は癒されたいんだ。

 これ。これが本音。

 私を解放させてほしい。

 

 ぼうっとしてしまっていたせいか、訝し気な店主が「マッサージするんじゃないの?ヨーガのレッスン?」と尋ねてきたが、マッサージで合っていると告げて、安っぽい……じゃなかった、特売の投げ売り品のバスタオルの上に横になる。

 何とも言えないデザインのバスタオルを前にして、どうして無難に無地で作らないのかと不思議に思わずにはいられなかった。ここまでの安物をもうずっと利用していなかったこともあって、妙に新鮮味を感じてしまうのも不思議な話だ。

 ごろりとうつ伏せに横になれば男が近づいてきて隣に陣取り、さっきまで別にしていなかった怪しげな笑みを貼り付けて口をひらいた。

 

「マスタルに任せればイチコロよ!」

「その、取ってつけたような雑な演技はなんなの?」

 

 そのわざとらしい姿に彼女は耐えきれず、とうとう突っ込みをいれてしまったのだった。

 

「みんなインド人に神秘求めてるからネ!世の中面白く生きないと息詰まる。息止めると健康によくない。あーはははは!」

「真理、ね!」

 

 ついに例のマッサージが始まった。この店の世話になったことのある男性陣が見れば目を剥くこと間違いなしの、丁寧なものでスタートした。そう、優し気にほぐすところから始めたのだ。

 女性には優しく。だがその気遣いは男性陣への手荒な施術を知らない彼女には全く通じないものであり、男性陣からしてもちゃんと手加減して始めるなんてことは決して知られる事はなかった。店員がマスタルただひとりなうえ、閑古鳥が鳴いている店に救われたのは、ある意味全員だろう。

 だって、知ってしまったら悲しくなるし、微妙な気持ちになるし、疑惑の目を向けられていたかもしれないから。いかにマスタルが性的な目を彼女に向けていなくとも、もしやと邪推する人もいるかもしれないし、差別だと嘆くものもいるかもしれない。実際には区別である。そんな言葉も無用な程、店には客と店員しかいなかった。

 

「死んじゃうと来世までマッサージ受けられないからね、健康健康」

「そうね」

 

 扱いに慣れてきた彼女の返事は結構な投げやりだったが、それを気にするマスタルではない。器が大きいというか、おおざっぱというか。兎にも角にもマスタルである。

 が、マスタルであるがゆえ、それはやってきた。

 

「私もお客さんも健康ー!」

 

 愉快さを湛えた、輝かしい笑顔で彼の手の動きがほんの少し変わると、音がした。誰しもを高高度から不安の谷底に叩きつけるあの音である。

 

 ミシミシ、ゴッ、バキン

 

「健、康…?」

 

 マスタルの手によって自分の体から奏でられた音に、真っ黒な組織で女幹部をやっている彼女も、例外なく谷底へと招待されたのだった。

 

 色々と不安を抱えたけれどもやっぱり彼の施術の効果は異様に高く、すっきりとし、彼女からすれば財布の中身が軽くなったとは全く思えない金額を支払い、帰路に就く。とはいっても、仮宿にしている東都内の某高級ホテルだが。

 その日の晩は良い気持ちで長風呂をし、酒精を口に含むことも無く、程よいスプリングのベッドに横たわればあっという間に朝を迎えた。実にさわやかな寝起きである。朝の奇妙なダンス……ラジオ体操を第一どころか第二までやってもいいと思わせるほどの気持ちの良い寝覚めである。

 一瞬やろうかと血迷ったが、普通のストレッチに変更した。伊達に裏社会を生き抜いてきたわけではない女幹部の賢明な判断能力が光った。

 

 だが本日も悲しいかなお仕事がある。どこかの人力ケルベロスさんほどではないが、彼女も結構忙しいのだ。忙しいから今日も遠慮なく足を呼び寄せて利用した。彼女にとって白いRX-7は、もはや公共交通機関と同義である。利用しない手はない。人力ケルベロスさんは決してしないだろうが泣いていい。

 

「寝起きは爽快で肌の調子も良好、なんなの……噂が一人歩きしただけだと思っていたのに」

「なんの話です?」

 

 思わずこぼれた彼女の独り言を運転手の耳がとらえた。足になってはやるがタダで乗せてやるとは言っていない。分捕るのは現金ではないが、普通のタクシーの乗車賃より高いものを毟り取る気満々である。無賃乗車なんて絶対にさせない強い意志を感じさせる。心強い。

 

「バーボン、調べて欲しい人物がいるの。大至急よ」

「あなたが態々?」

 

 言外に自分で調べられるだろうにという不信感をにじませながら。

 他にはまた仕事増やしやがって、これで求めてる情報がスマホで検索すれば済むようなモノだったら許さんぞ。黒に繋がってるならまぁ無駄骨じゃないと思えるけど、それでも余計な面倒はなるべく避けたいという感情もあったが、それは全部、ツラの皮の厚さという名のATフィールドで覆い隠されたのだった。

 

「御託はいいわ。××にあるインド人がやっているマッサーj「大富豪の道楽です」

「道楽」

「息子はニート」

「ニート」

 

 もうすでに調べつくしてある情報であったし、受け渡したところであのヨガとマッサージにしか食指の動かないマスタルが、組織になびくはずも無し。

 でも一応、無難な情報だけ渡しておいた。彼女が求めている情報も囲いたいからとかではなさそうなのは、RPGの宿屋に泊まったのかと言いたくなるような、HP全快の肌艶潤う様子を見ればわかる。

 

 ……ベルモットも、行ったんだな。

 

 なんだか同志を得たような気持になったが、その結束は脆く、実はマスタルが女性には導入が優しいという裏切りに遭っていることを。

 



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きっと近いうちに

一応これでおしまいです。
お付き合いくださり、ありがとうございました。


 マッサージ屋の営業時間は安定していない。不定休なんて程度ではない。

 今日日検索すれば大概の店舗の営業時間は判明するというのに、この店に限って言えば趣味であり娯楽の一環であるせいか、はたまたマスタルの性格ゆえか、なんでも己の望むままに生きてこれた環境のせいなのか。とにかく自由である。

 あらかじめ電話をかけて本日の営業について尋ねておくのが一番正確ではある。

 あくまで一番正確なだけであり、案の定きちんと電話での確認を取り、「今日?ヤッテルヨー、営業中営業中」という言葉を信用して来店した年上の部下が、すごすごと来た道を戻ることになった出来事もある。公安内部でまことしやかに囁かれる、『風見の泣き戻り事件』である。後にこれは電話を掛けた時点では営業中であったが、途中で近所の小学生に混ざってダルマさんが転んだをやっていたため臨時休業になっていたと判明した。

 

 なにをやっているんだインド人。遠い異国の地に来てまで子どもたちと触れ合いたかったのか。ニートの息子を構ったらどうだ。とっくに成人していて妻までいるのは承知しているけど。不審者も多いご時世、地域の子供たちを見守ってくれていたのは感謝するが、その怪しい言動のまま子供に間違ったインド人像を植え付けるのはいただけない。そのうえそれがウケて妙に子どもに人気なのも腹が立つ。

 

 なぜこうも八つ当たり気味なのかというと、ベルモットの詮索でマスタルとの関係から公安まで辿り着く危険性を感じ、ここしばらくはマッサージを受けに行くのを自粛していたからだ。そしてこちらが自粛していても周囲はそうでもない。風見がこちらが行けないのを知りながらも、己の欲求に従ってマスタルのもとへ行って泣き戻ってきた話を聞いた時は、とてもとても胸がすく思いになった。お前だけにいい思いなんぞさせるものか。僕らは業務上、運命共同体も同義。死なば諸共。だがそれはプライベートでは発揮されない。悪いな風見、今日は全面的にオフにすると決めているんだ。お前もよかったら後日訪れると良い。今日はこちらが堪能させてもらう。

 

 ああ、このいっそ懐かしさすら感じるおんぼろの戸口をどれ程夢に見たことだろう。そんな妙な感動を抱いてしまったのも、仕方がない話だ。かれこれ実に三か月ぶりの訪問だ。正直に認めよう、もうマスタルのマッサージのない生活なんて耐えられない。冷蔵庫や洗濯機のない生活が苦痛であるように、マスタルのマッサージの恩恵がない暮らしは、知ってしまった後ではもう戻れない。マスタルは白物家電なみに生活に必要なものなんだ。

 ……もういっそ永住してくれないだろうか。一家に一人マスタル……は、だめだ。さすがに鬱陶しい。街中の至るとこで溢れかえるマスタルや、田舎に不法投棄されるマスタルのことを考えてしまったなんてことはない。溢れかえる胡散臭いインド人だらけの日本など、僕の知っている日本じゃない。もっとこう、奥ゆかしい感じが日本だ。

 

 馬鹿なことを考えつつ扉を開ける。鍵は開いていた。いける。

 

「こんにちは……!」

 

 感極まった挨拶をしてしまった。若干声が震えてしまった気がする。なんだこれ生き別れの親子の再会か。マスタルが親だとすると生活面は苦労しないどころかうっかりしたらご長男と一緒の道を辿りそうだが、日本で育った気質がそのままなので苦労はしそうだ。でも親族ならマッサージ受け放題なのでは?いやダメだ、親にマッサージさせてぐうたら過ごすなんて、絶対にダメな奴だ。自分の中の倫理観とか道徳観念が全力で説教をしだす。誘惑は感じてしまうけど。

 

 「なんだオメー久々来たな。ヨーガマスターしたから、もーマッサージ要らないんじゃないのか」

 

 なんだそれ。どこ情報だそれは。運動はしているけど、ストレッチはするけど、ヨガはやってないぞ。

 怪しげなソースのない情報源を探りたい気持ちはあるものの、ベルモットもインドの秘薬とか適当なことを言っていたので無駄な情報を追うのはやめる。

 今欲しいのは情報でも噂を流した阿呆への制裁でもなく、癒しだ。歓迎されてないような言い方をされてしまったけれど、熱烈な歓迎よりも物理的な癒しを欲しているんだ。だから、そう。この殺伐ささえ感じる出迎えにすら癒しを感じるのは止めるんだ降谷零。ああ変わらないななんて安心感をこんなところで得るんじゃない。これは、あたたかで平和な象徴なんかじゃないんだぞ。しっかりしろ。癒しはこれから受けるんだ。もう受けたような気持になるんじゃない。フライングにも程があるぞ。パブロフの犬か。僕は国家の犬でありたい。犬のおまわりさんだわんわん。……違う、本当に落ち着け。

 

「あはは……ヨガはやってないですよ。ちょっと最近忙しくて来れなかったんです」

 

 来たくても来れなかった思いは本物なので、言葉に重みが増した気がした。その重みで全身の疲れを自覚し、いそいそと例のバスタオルの上に横になった。マットレスなんて気の利いたものはない、畳の上に直敷きのそれに。いや、畳だって日本のマットレスだ。だからこれはマットレスに敷かれたタオルなんだ。たとえ畳が日に焼けてい草の香りもなければ色だって黄色になり、しかもところどころ毛羽立ってしまっていたとしても。……いい加減畳替えをしろ。腕のいい畳屋を紹介するぞ。

 

「ソナノ?まぁまぁ。よく来たから今日は張り切っちゃうヨ」

「お願い、じまぁ!?」

 

 だから、最後まで、言わせてくれ。今日はあんまり遮られないと思った矢先にこれだ。相変わらずのマスタルっぷりだ。やめろ落ち着け自分の精神。これこそマスタルだなぁって安心感を覚えるな。それは危険な兆候だ。

 

 久しぶりなのが作用しているのか、マスタルがとても張り切っているのが作用しているのか。みしみしという音が続いたと思ったら、身体から鈍い音が響く。

 なんだか、そういう楽器になったような気分になってきた。本日のバックミュージックが和太鼓演奏セレクションなのも相まって、重低音が実にそれっぽい。というかマスタルは本当にどこから音源を調達しているんだ。まさか、どこかの路上やリヤカーで不法に販売されている、いわゆるドロボウ市のようなところから仕入れているんじゃないだろうな。公安案件ではないが、非常に気になる。年代物のラジカセと相まって違和感がない。

 

「ふんぬッ」

「……ッ!!」

 

 どうでもいいことをつらつらと考えていると、いままで聞いたことのないマスタルのひっくい掛け声とともに背中と腰の間あたりに、かつてないほどの衝撃が加えられた。その衝撃が骨や筋を伝って全身に広がり、声も出ずに悶え、身体はいきなりのことを警戒するように強張った。

 一瞬思考が空白に塗りつぶされた。これは、本当にやってしまったんじゃないか?マスタルの技術は信頼しているが、あまりにも不穏。少しの空白を置いて戻ってくる体の感覚と、緊張状態からの解放で一気に血流が良くなるのがわかる。そして、なぜかあれほど強張っていたのに頭のてっぺんからつま先まで脱力した。もう指一本たりとも動かしたくないほどの解放感。なんだこれ、本当に動かない。いや、動かそうと思えば動く。動くんだが、動かしたくないと意志に反して体がごねる。

 

「ぁあ~……」

「ソウネ、ソウヨネ、ソウナルヨネ!マスタルの張り切り受けた奴、ミンナそーなるヨ!」

「これは……もう、だめです」

「安心しろロウドゥーシャ、今すぐ陸上競技やれる体にしてやる。世界リクジョもバッチシよ」

 

 毎度思うけど安心できないからな。特に今日のは酷かったからな。それと、なんでいきなり陸上競技なんだ。そのうえさっき陸上ってちゃんと言えていた癖にそこで片言を入れるのか。誤魔化せよ。一度やったんなら持続させろ。なんでいつも適当すぎる片言演技なんだ。いま力が抜けているんだ、上手く笑えないのにやめてくれ。腹筋どころか背筋も引き攣る。死にかけの魚みたいな姿になる。

 

「ほ~~ら、チカラ戻る。不思議なパワーで動けるようになる~」

「う、ぐふっ、ごほっ」

 

 笑い声を無理矢理飲み込んだせいで息が詰まった。いままで散々耐えてきたというのに、ついに敗北して咽てしまった。

 不思議な力もくそもないだろ。もしかしたら気功とかそういうことが言いたいのかもしれないが、マスタルのことだ。いちいち説明するのが面倒だから、不思議なインドパワーとでも思わせておけばいいとでも考えているに違いない。……これまで通い過ぎた弊害か、マスタルの思考の一部をトレース出来るようになってきた自分が恨めしい。

 

「インドパワーすごい?すごい??スゴイヨネー!!あーっはっはっははは!」

 

 ほれみろ!!やっぱりそうだ!!当たってもこれほど嬉しくない推理もないけどな!!

 楽し気な高笑いをあげながらも、マスタルの手が止まることはなく、身体はどんどん手入れをされて健康になっていった。

 

「おしまいだよ~」

「…………。」

 

 色々精も根も尽き果て、動きにキレはないがやけにスムーズになった体を起こし、無言のまま財布から二千円を取り出す。増税しようがお値段そのまま。キャッシュレス決済なんてものは存在しない現金払い。雑な会計だが脱税はしておらず、きちんと納税されているので文句はない。

 そもそも一日にやってくる人数が少ない。当たり前だけど、普通はこんな胡散臭いうえにオンボロなマッサージ店に人は来ない。どこかクリニックを思わせるような清潔感や、癒しを感じるような少しだけ現実離れしたインテリアで装飾する店に人は行く。腕はよかろうと、接客態度もこれだしな。

 

「うひひ」

 

 たったの二千円を広げて口元を隠して、いかにもな笑い声をあげる店主。端金と言っていい金額でよくもまあそんなに悪い顔が出来るものだ。それやる必要あるのか?キャラ付けなのか?似合い過ぎて思わず目を逸らした。直視していたら不思議なインドパワーに魅了……じゃなかった、あやしい行動に突っ込みを入れたくなってしまうから。

 

「そだ。オニーサン」

「なんでしょう?」

 

 いつものように別れの挨拶をして扉を開けると、マスタルが話しかけてきた。なんだ?水分補給ならこの後ちゃんとやるから、久々のマスタル節で疲弊した精神を休ませてくれ。体は万全と言っていいくらい癒えているが。

 

「明日ネー、鈴木のそだん役んとこでヨーガやるから、一緒にレッスン受けるとイイヨ」

「……話が急すぎてついていけないんですが」

「みんなでヨーガやる。みーんな健康になる。そして平和」

「いえ、そうじゃなくって」

 

 いきなり着いていっていいのかとか、そもそもこちらの都合をちゃんと考えているのか。でも。

 

「そのうちレッスン受けさせてくださいね」

 

 平和が一歩でも進めたら。一歩進んだのなら、また新たな不安要素に取り掛かるのが仕事で、きっと叶えられない約束だけど。

 

「ダイジョーブ、ダイジョーブ。カーリーと戦うより簡単!」

「戦神と戦う予定はありませんよ?」

 

 こちらの返事に気をよくしたらしいマスタルが、焼けた肌に似合いの白い歯を見せながら手を振った。

 平和はまだだけど、平穏になったなら彼のところでヨガを習うのもいいかもしれないな。きっとそれは、楽しくて笑い声が絶えなくて。平和の象徴みたいな時間なのだろう。それまでは、習わないで通わせてもらうとしよう。

 

「それでは、また」



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