ペンタンシュー (ふぁふぁ)
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積読

※離婚要素あり(なんだそりゃ)


妻と別れたとき、自分で買った本と妻が買った本とで分けて段ボールに詰め込んで、それぞれが引き払っていった。選り分ける作業はあまりにも簡単で、本棚ごと分かれていたのだった。

部屋ごとに本棚を置いていたというわけではない。本棚は隣り合って並んでいた。

 

思えば、僕と彼女は示し合わせるでもなく、自ずから本を混ぜて納めようとはしなかった。だから時折同じ小説が二冊家に存在しているということが起きたこともあって、私たちってバカだねって笑い合ったものだけどその場限りで、習慣を改めようという動きにはならなかった。22歳に結婚してそれから21年、つまり人生の半分を妻と共に過ごしたことになる。三つ子の魂百まで、というがそれも努力次第なんじゃなかったのだろうか。

 

新居に着いた僕が真っ先に開けたのは家電だった。それから服を箪笥に詰めていって、本を棚に詰めた。

 

「あれ、こんな本あったかな?」

 

知らない題名の本、著者は外国の人のようだ。僕はSFや、日本作家を中心に買ってきた。海外SF作家、ということでハヤカワは何冊か買っていたのだけど、新潮で海外作家を買ったものは数点だけのはずだ。

だからこの本が僕が買ったものではないことはすぐにわかった。

 

邦題「アムリス・デワールの海床」

        マルキン・オグナム 作

 

なんだか不安になった。すぐに返すことを思い至った。携帯番号はまだ変わっていないはずだから、今すぐにでも通じるはずだ。

しかし十数時間前までの重苦しい時間、そして家を明け渡したときの、ようやく長い間見てこなかったお互い顔を見ることができたのだという解放感が手を止めた。

 

一緒にいることだけがすべてではない。想うが故に離れる選択をとることだって大切だ。という言葉を長らく詭弁だと信じてきた僕にとっては不意をつかれるようだった。

あるとき、先達の格言が沁み渡ってくることがある。見聞きしたときには美辞麗句だと一蹴した事物が重くのしかかるようになったとき、大抵取り返しのつかないことの渦中にあることが多い。

 

持ってきたポットをコンロに置いてスイッチを捻るとチチチと火花のたつ音がするものの不発。もう一度捻ると今度は円形の火の列がぼうっと盛る。コンロとポットの間を覗くようにじいっと火を見つめていると物悲しくて弱火にした。

段ボールから出したマグカップを軽く水道の水で流したら、インスタントコーヒーの粉末と砂糖を溢し、泡が底から湧き立つ音とともに火を消す。

 

机の上に置いた本の前に座り、コーヒーを啜った。

 

青色を想起させるタイトルとは対照的に、さまざまな色で塗り潰されたような乱雑な装丁の表紙をじいっと見つめながら、僕は読むでもなく本を回転させて上から下から、背表紙やバーコード、あらすじと言ったものを見続けた。

 

本にはスリップが挟まれたままで、抜き取ってみるとISBN番号だとか定価だとかいろんな情報が書かれていた。パラパラと最終ページを捲ると、10年前の初版で購入されたのだろうと見当が付けられた。

実際、ヤケの跡が少し付いているし、年月を感じさせるものだった。10年前くらいから家にあったということだろうか。そういえばその頃僕と妻が結婚をしたのだった。

結婚記念日を祝う家庭ばかりではないのはわかっているが、僕たちが世の人よりもいっぱいカレンダーの中に祝日を見出せられていれば、あるいは。

ぶんぶんとかぶりを振って一先ず考えるべきことを考える。

 

10年前、という一致。

年月の符号に何かしらの意味を持たせたくなるのが性なのだが、考えてキリのないことだと嘆かざるを得ない。

 

「しかし、なんだ。結婚のころに本でも贈り合ったんだろうかね」

 

妻が間違えて僕の本棚に入れてしまったというのが妥当だと思う。それ以上の意味を持たせることにどれだけの価値と思いやりがあるだろう。

 

もう一度コーヒーを啜った。まだ熱くて、音を立てながらなんとか喉に通した。

 

コトリと陶器が木の板にぶつかる音がした。本を持ち上げ、茶色いしおり紐を本の100ページ目あたりから引っ張り出して、著者プロフィールのページに挟み直し、また机に置いた。マルキン・オグナム、享年43歳。

不意に見えたその言葉がじんわりと重くのしかかってきた。

 

「この本を読んでいたら、何か変わったのだろうか?」

 

そんなことはない。贈った本を全然読まない不満以上の苛立ちを与えてしまったことは数え切れないほどにあったはずだ。この本に大きな分岐点を頼むのはどうかしている。

お互いにもう少し柔軟さがあれば、こんなことにはならなかっただろうねというのが双方の一致した見解だった。

 

いつしかコーヒーは飲み干してしまっていて、マグカップの内側は円形のコーヒーの跡が年輪のように2つ並んでいた。

 

立ち上がって、結局本を棚に戻すことにした。奥へ、奥へと本を沈ませるように置いた。この先さらに積み重なるものが増えていき、もう読むことどころか出会うことがさえないかもしれない。思い出すことも。

 

けれど家の中には確かに存在している。

 

 

 

風が吹く。枯葉が揺られてくるくると舞い上がったかと思えばすぐに落ちて、アスファルトに引き摺られた。ベランダから眺める景色は季節を孕んでいて、思わず目を瞑る。太陽の光までもが薄いモヤにかかっているようにハッキリしない。

これから冬が来る。北から来るのか、東か南か、西からか。太陽が僕らを照らし、木を彩るものが季節を告げ、道路を行き交う車の音が乾いた空気でよく届く。

なんら変わらない一日だ。目を閉じれば怖くない。

 

コートを羽織ってポケットの財布をお尻で感じて靴紐を結んだ。家の敷居から外れたとき奇妙な浮遊感を感じた。振り返らず、ただ真っ直ぐに歩き続けた。



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多頭飼い

※R15相当
※官能を目的としない性描写・残酷な描写


その「犬」を見つけたのはたまたまだった。野良犬だとかそんなの関係ない。一目見ただけで飼わなければいけないと思った。こんな変てこな犬、飼ってるやつどこにいる。おれだ、おれが飼うんだ。そう思った。

 

ザーーとなり続ける耳鳴りが、音程を変えてうなり始めた。チューニングの音のように思えた。

 

自分はなぜこれを犬だと思ったのかはわからない。しかしどう見ても犬だろう。何せ犬の顔をして、そして犬の胴体に繋がっているのだから。犬種はなんだ、おれは犬に詳しくないのでわからないがペットショップでよく見る、柴犬というやつじゃないか。何にせよダックスフンドでないことは確かだ。耳がペロンと垂れ下がるような形ではなく上三角形にピンと張っている。

 

不安があるとすれば、動物の専門家からするとこの生物を、猫と言うかも知れないということだ。それともライオンか亀かカラスか、人か。

 

とりあえず犬を撫でてみると、不思議そうな顔をして見つめてくる。顎を小指で弾くと、他の動物たちが一斉に唸り始めた。一番凶暴だったのはライオンではなくカラスだった。黒い嘴を執拗に突き皮膚が少し抉れてしまった。ひい、と悲鳴を上げながら仰け反ると、人間の顔をしたやつが大きく口を開けて威嚇してみせた。腰を抜かして失禁すると、人間が笑ったように見えた。ひどく下卑た中年の笑みに背筋を凍らせた。

 

しかしどんな恐怖も、目の前の金のなる木を思えばどうってことない。ほうほうの体で犬の下に這い寄り、いい加減現実に復帰したおれの体を起こして、偶然持っていた網目のバスケットの中にその生物を入れて、さらに毛布を上から被せて持ち運んだ。

 

カゴの中から覗く14の瞳が爛々と輝いていた。こうしておれは、犬、人間、猫、亀、カラス、ライオンの7種の生物の頭が首から生える、犬の胴をした生物を手に入れた。

 

どうにも落ち着かないのは、飼い始めてから一週間が経った頃だった。基本的に人間の顔をしたやつしか食事を摂ろうとしないので、そいつにしかご飯を与えなかった。他の頭のやつは食べないで問題ないのだろうか。もちろん、胴は一つなのだから、どの頭でもいいから食事を流し込めばいいということは納得できるけど、やはり不安だった。それに食事は市販のドッグフードでよかったのかも分からない。

 

人間が頭を垂れながら舌を懸命に伸ばしながら食事をしたり水を飲んだりするのをまじまじと見つめながらタバコに火をつけると、犬の顔をしたやつが軽蔑の眼差しを浮かべてきた。それで仕方なしにタバコを潰して火を消すんだが、これ以外にも我慢することが増えてきたように思う。

動物を飼育する上で、やはりやってはいけないことというのはあるだろう。もちろん喫煙もそうだが長年のクセというやつだ。おいおい直したいと思っている。

 

ここで問題になるのは常に他者の視線に晒されているという錯覚だった。コイツらに理性なんざあるわけないのだが、振り返ると犬の胴体から生えた人間の顔がおれのほうをじいっと見つめていることに気づき肝が冷えることというのはある。ライオンが見てたり、カラスが見てたり、亀が見てたり、犬、猫が見てるのはどうだっていいんだ。しかし、仮にだ。仮におれが自慰行為の真っ最中の中に突然自室に入ってきたのが人間だったら普通イヤだろう。それもおれより年上の中年のおっさんだ。

 

食事の際には、皿の置き方や食べ方、音を立てないことだとかテレビを見ながら食べているのだとか、そういう行儀の悪いとされることができなくなってしまった。他にも独り言を言う回数が格段に減った。寂しくなったからそうなったというわけではなく、自分が観察対象とされているような錯覚があった。おれは次第に生活の中から自身の何かを見破られかねない証拠を残さないことに腐心し始めた。朝起き抜けに頭頂部をポリポリと掻いてしまう癖だとか、つまらないと感じるときに少し唇を前に突き出す癖だとか。次第に寝相や寝言も気になってしまい、一確認すべく一度寝姿をビデオカメラで撮影したことさえあった。そのときはなんだったかな。そうそう、午前3時ごろにビデオを固定させていた脚立が倒れてしまって録画ができなくなっていた。寝転んだビデオカメラにはそれから30分間無表情の犬の顔が画面いっぱいに映し出されていて肝が冷えた。ビデオの確認中にも犬は後ろでじいっとおれのことを見つめていた。

 

段々と家の中だというのに我が物顔で闊歩する「犬」を疎ましく思うようになってきて。とうとうノイローゼになってしまった。手放すことを検討し始めたものの、コイツで一儲けする算段を立てようと思いつつ研究対象として引き取らせない作戦を考えつかないため無為に数ヶ月過ごした身だ。ここで安易に諦めてしまいたくない。自分がコイツを気味悪がればがるほど、コイツに価値を見出すというのは変なものだ。

 

人の頭を切断してしまおう。

そう決断したときには、また数ヶ月の時間が経っていた。例えば見せ物にするにせよ、人の頭なんかが生えた奇天烈な生物を出したら人権団体から抗議の電話が来るかも知れない。そうだそうだ。ああ、危なかった。早いところ気づけてよかった。

人の頭なんて生えてたところで百害あって一利なしだな。それで必要になるのは、ノコギリだろうか。それと犬の身体を固定させておく必要があるかもしれない。切る最中に暴れられたら大変だ。麻酔なんてないがだいじょうぶだろうか。痛みのあまりショック死なんてことならないといいが。

最近睡眠が足りない日々は続いていた。朝起きると中年の人間の顔をしたやつが、おれのズボンを下げるどころかさらに、ペニスを涎いっぱいに舐めていたのだ。蹴ったぐってむちゅうで逃げてトイレに駆け込んだが射精してしまった痕跡も見られて、茫然自失となった。トイレから風呂に移動しようと、廊下を渡ると後ろから犬が追いかけて来たので、すくみ上がるのをなんとか抑え込みつつ服を着たままで風呂場に逃げ込んだ。しばらく扉の向こうでは吠える音や、ライオンの唸り声、カラスのカァカァという鳴き声がひっきりなしで耳を塞ぎたくなったが、耳を押さえる手を貫通するほどの騒音におれは泣いてしまった。

風呂場の扉を押さえで開かなくしてから服を脱いでようやくおれは身体を洗い始めた。

もう人間の顔を撮らなければいけないという意思を固めたおれは、麻酔とかそんなのはどうでもいい、無理矢理にでも切り取ってしまうんだ、それで死んでしまったらもうしょうがないじゃないか、明日だ、明日やろう。そう決心した。

 

血がいくらか出ることを考えると断頭台は風呂場になるだろうか。それまでにノコギリを持って来なければいけない。ホームセンターに買い出しに行くとして、押さえるのとかはどうしようか。いや、もういい。出たとこ勝負だ。身体をうまく使いながらなんとか切ってしまえばいい。

 

風呂場の中でなるべく水を落として、洗面所から手洗い用のタオルを出して拭いた。犬はまだ来ていない。どこにいるのかはわからないが、大丈夫だろうか。耳を澄ましても音は聞こえないので、なんとか心を沈めて一歩踏み出す。風呂から出ると再び恐怖に冒された。

びくびくしながら部屋の隅々を探すとベランダの鍵を器用に開け、外の空気を吸っているところだった。しめたと思い財布を持って家を飛び出した。ホームセンターでノコギリを買って家に戻るとすぐにそれを風呂場前の洗面所の隅に隠した。

 

こうしておれはその日を終えた。

部屋には鍵がないので、扉の前にいくらか荷物を置いて対応することで今日の安眠を願ったのだが、うまくはいかなかったらしい。おれは再び寝起きと共に下半身の違和感を感じて、瞬く間に射精をした。舌を見るとキャンディを舐めるように丹念にペニスを舐める中年顔の犬がいた。悪寒がするが、今だけはこれを好機としよう。この顔も見納めかと思えば愛らしささえ覚える。

特に犬の邪魔をするでもなく立ち上がると、犬はおれに合わせるように立ち位置を変えつつペニスに飛びついた。それからおれが風呂場に移動するまでもペニスを舐めながら並走した。餌だと勘違いしているのだろうか。気持ち悪いが警戒心を抱かせることなく移動させるのはこれが手っ取り早いと思った。

各して風呂場に犬を連れ込むことに成功したわけだ。入るついでにノコギリを掠め取ることも忘れない。

 

風呂場に入った瞬間犬に跨って身動きを取れなくすると、ノコギリを中年の顔にあって、引いては押し引いては押しを繰り返して首の中にめり込ませていった。鳴き声をあげようともせず、首が千切れていく瞬間でさえ犬はおれを凝視し続けた。おれがよだれをたらし、異臭に吐きそうになり、なんとかノコギリに力を込め動かす間、7匹のうちの全部が叫び声をあげずおれを見つめる。

 

ようやく切れたと思った瞬間に千切れたままの首だけ状態でそいつはおれのペニスに食いつこうとして、しかし実現はできないまま事きれた。体験したことのないほど清々しい開放感がおかしくしたのか、気分の昂揚でイカれちまったのか、食いついた中年のおじさんの首をオナホールに見立てて、犬の胴体に跨ったままで、ペニスを何度も出し入れした。先程までのノコギリの動作を思い起こさせた。腰を突き出し、後ろに引きを繰り返す中で、何度も何度も口内に射精をして気づくと、首の切断面から白い液体がドロドロと落ちていた。さらに興奮して夢中で腰を振った。6つの頭がついた犬はおれに跨られたまま、垂れてくる精液をものともせずにおれを観察していたが、もはやどうでもいいことだった。衆人環視の中で腰を振ることがこんなにも気持ちの良いことだったのかと、白む意識の中で喘ぐ呼吸を耳にしながら、感じた。寝るときもまず先に中年の口内に自分のペニスを収納してから長めのタオルで巻いて頭を固定してから寝た。舐められるような感触や温い温度感が消えていたが、この状況が感覚全てを思い起こさせた。不思議な全能感に包まれながら睡眠に入った。

 

数日の間中年の顔を性玩具として使い、また犬の胴体に跨りながらそれを行ったのだが、次第ににおいがキツくなり始めいよいよ処分について考えなければならなかった。淫靡な空間に閉じ込められて、この数日間を常に射精に費やしていた。たまたま連休だったため問題なかったが明日からはそうもいかない、会社が始まる。どうするか、そうだ、山へ捨てに行こう。それがいい。

外という概念が消えていたこともあってしばらくぶりに玄関を出ると、靄がかかっていた頭の中が急に冷えてきてここしばらくの自分を客観視できるようになった。なんてことをしたんだろうか。犬の首の切断はしょうがないにしても、それ以降のはなんだろう。おかしくなっていたとしか思えない。部屋に戻ってタバコに火をつけると、性の匂いに満ちた部屋が紫煙と混じり始めて幾分か空気を正常化した。

中年の口の中はベトベトしていて、それら全てが自分の悍ましさとして跳ね返ってくる。しかし、まるで番ったかのようにペニスはその口内に惹かれていた。理性と反した欲望から逃れるべく、ビニール袋に切断した顔を包み、山に向かった。うんと遠くの山にしよう。人間の頭を捨ててるだなんて外聞が悪すぎる。少々臭うし、車を持っているわけではないので、ビニール袋の上からまた別の袋を被せ、さらに被せ、最後に旅行のときに使う大きめのリュックサックの中に入れてから歩いて山へ向かうことにした。なるべく歩いて、人の少ない過疎地域入ったら電車に乗る。1番山に囲まれた駅で降りればいいというわけだ。

果たして夕方ごろ、手頃な山を見つけて下車した。どこで埋めようかと思い、ここだと思った場所で穴を手で掘ってみてはたと気づいた。スコップがないとキツいかもしれない。今となっては遅く、ベソをかきながら手で掘り進めて、人の頭がすっぽり嵌るよりもうちょっと深めの穴をつくって土を被せたときには月が真上から照らしていた。山を少しだけ遭難しかけて慌てふためきつつ、なんとか駅のあるところまで帰ることに成功してほっと一息をつくのだけど、ここが田舎ということで既に終電を迎えていたことがわかって愕然とする。このあたりの地理には詳しくないし、電波もあまり届かない。安めの民宿でも探そうかと思ったものの、携帯が使えないんじゃ探す手間で足が棒になってしまう。

 

さてどうするかと駅のベンチに、ぼんやりとした発光を伴い立ち尽くす公衆電話ボックスと隣り合いながら、座った。夜とはいえあまり冷えない季節柄、凍死することはないのだけどとにかく暇だった。歩き回れる気力も体力もなければ、手持ちの金は少ない。帰る分のお金と缶コーヒーを自販機から3つほど買えるくらいだ。

あくびをしつつうとうとしているとうるさい音と赤い発光の散乱に目を覚ました。なんだなんだと辺りを見回してみるとパトカーが2台止まっていて、紺色の制服を身に纏ったいかめしい警察官がおれに挑むような目つきで立ちはだかっていた。警察官の背後には髭が生え禿げ上がった老人が隠れるように存在していて、おれももうそろそろ状況を理解し始めていた。

 

「人の頭部を穴に埋めている男がいると通報が入った。君には死体遺棄の容疑がかけられている。それだけではないかもしれないがね」

 

愕然と、この状況の中で頭がぐるぐるして、一体自分はどこで間違えてしまったのかと考え続けた。警察官が事情を聞こうとおれに話しかけるんだがどれも聞き取れず、一向に返事をしようとしないことに腹を立てたのか蹴りを入れられ、ベンチから転げ落ちたところ首根っこを掴まれてパトカーに押し込められた。

冷静さを取り戻したおれは署内で必死に無罪を主張したのだけど、地元民の証言もあったおかげか捕まえるのとほぼ同時に頭部を発見していたらしく、言い逃れをするなとどつかれた。

 

「お前が殺したのか、それとも遺棄を依頼されたのか。これが人の頭だなんて知らなかったという道理は通用しないぞ。なにせ袋かなにかの包まれた状態ではなくて頭部だけが埋められていたんだからな」

 

思えばなぜ袋をわざわざ外して穴に埋めたのか。実は中を見ていなかったんだといって逃げることもできたかもしれないのに。だが、しかし。おれは人を殺していないはずだ。言うなれば犬の首から生えた人型のコブを切除してやっただけなのだ。何も間違ったことはしちゃいない。

必死に無罪を主張した。自宅のあの犬を公権力に明かすときが来たのかもしれない。

 

「私が殺人を犯したわけでも死体遺棄を依頼されたわけでもないということを証明できます。自宅まで着いてきてください」

 

深々と礼をすると最後の悪あがきかと鼻で笑われつつ、いいだろう、しかし手に縄はつけたままで移動してもらうと尊大に語った。

 

パトカーが自宅前に止まると、なんだなんだと周辺の住民が出てくるかと思ったが暁前と言うこともあって誰一人として出てこなかった。カーテン越しに見下ろしている可能性も否定できないがちょうど降ってきた雨のおかげでおれだということはわからないんじゃないか。幾分安心しつつ住居に向かう。鍵を開けると、中から多頭の犬が出迎えた。ワンだったりグルルだったりカァだったりニャアだったりすわっっだったり。色んな音が混じり合った音に警察官は怖気付いた。

 

「いやいや。待ちなさい、どうせ音声機器が取り付けられているか、なんだったらロボットなんじゃないですか」

「そんなことはない。検査してみてくれ、全部生体反応があるはずだ」

「わかったが、これが何の証明になるというんだ」

 

変なことを言い出したら承知しないという目つきでおれを見下ろす警察官に、この首にあの中年顔もついていたんだ!と主張した。

 

「はっ!馬鹿げたことを。大体首から切ったんなら切断面が残っていて不思議じゃない。しかしどうだ、コイツにはそんな跡があるか?」

「探していないだけだ、絶対にあるはずだ!」

 

警官を無理にどかし首を何度も見たのに不思議なことに切断跡は見られず、ライオンは大きなあくびをした。

 

「痛たた、いきなり押し付けるな」

 

警官は尻もちをつきながら、もういいなと脅しかける。しっかりついてるってことをちゃんと見てくれと言っても取り扱ってくれない。いよいよ進退窮まったか、絶望して子どものように声を上げて泣く。

 

「あぁ、わかった、わかったよ!調べればいいんだろう?!それ系の部署でこの犬を見てもらうから、それでいいね」

 

それでも泣き続けるのを無理やり引っ張ってパトカーに戻された。今度は犬も一緒だった。留置所で月を見ていると、見知った警官が、知らない警官数人を連れてちょっと来てくださいと鍵を開けられた。知らない廊下を何度も曲がって、同じところを通ったんじゃないかとか疑心暗鬼に駆られつつ、もはや先程までの留置所との距離も方角も何もかもがあやふやになった頃薄暗い部屋の前に止まった。入ってくださいという声に導かれて扉を開ける。

部屋の中は切れかけの白熱球が明滅を繰り返すばかりだが、そんな明瞭としない視界の中でも空気は澄んでいて、埃なども見かけられず壁は真っ白だった。この8畳ほどの大きさの部屋の向かいの壁には扉がついていて、扉つきの曇りガラスからは赤色の怪しい光が透過して見えていた。

 

ここにも座りくださいと8畳間の真ん中にポツンと置かれただけの、木製の肘置き付の椅子に案内されて、背後には囲むように先の警官たちが整列していた。座っていると、静けさの中で数分の時間が過ぎて不安に押しつぶされそうだった。しかし扱われ方が丁重になった、ような気もする。希望を持っていいかもしれない。

またしばらく経つと赤い光の見える扉が開いて、メガネを掛けた若い、白衣の男が顔を出した。

 

「えーっと、あなたが飼い主さん?」

「はい、そうですけど」

「ふむ、なるほど」

 

まじまじと顔を見つめられると弱ってしまって口もきけなくなる。

 

「君、この犬はどこで見つけたんだい」

「仕事から帰る途中の道、家の少し前の交差点あたりです」

「なるほどねぇ」

「なんですか、この犬がどこかの研究所から逃げてきたやつなんですか」

「わからないねぇ、しかしどの頭にも生体の反応が見られた。おかしな話だ」

「私が無実ってこと、わかりましたか」

「……実際、人間が首から生えてた証拠の写真はあるかい?」

「携帯の写真に収めたはずです」

「後ろの君たち、どうだい?」

 

医者が背後に立つ警官に聞くと、たしかに写真には7つの頭のうちの一つが人間のものになっている写真があったということだった。そして顔は、おれが埋めた頭のやつが同じだと告げた。

 

「君の経歴とか色々調べて、まぁ写真を加工する技術はありそうなわけでもなさそうだし伝手を頼ったわけでもなさそうだった。君の証言は本当なんだろう。じゃあ、次。なんで人間の頭を切ろうと思ったんだ」

「まず、犬を上手いこと使えば金持ちになれるかもしれないと思い飼い始めたんですが、いつも見られてる気がして、人間の顔がこっちを見てると怖くなったんです」

「それで?怖くなって、取ってやろうってこと?」

「それと……、いえ、なんでも」

 

さすがに犬にペニスを舐められ射精したことまで言う必要はないだろう。

 

「まぁせっかくだし、頭一つくらいサンプルとして落としておこうか。例えば、これで首の切断面がきれいさっぱり消えてしまえば君の無実の証拠がまた一つ増えるわけだ。どうだ?」

「お、お願いします」

 

医者は意気揚々と赤いランプの部屋に戻っていた。戻っていきがけに扉を少し覗いてみると、非常灯がその主であることがわかった。

 

「亀の頭でお願いします」

 

扉は閉まる直前にそう叫ぶと医者が答えるように手を挙げたところで閉め切られた。しばらくするとぶーんとモーターの駆動音が聞こえ始める。なんだなんだと後ろでは警官たちが小声で喋っているようだけどおれが入れるような雰囲気ではなくて、肘掛けに肘を乗せて項垂れていた。もはや金などどうでもよく、早く帰って少し休んで出社することを考えたかった。

 

「大変なことだ!」

 

医者が慌てて飛び出してきた。

 

「何なんです」

「実はだね、あの生物はものすごい力を持っていたんだな。これがなんと……」

 

後ろでは取り交わされる会話は、次第に小声になっていき、おれの耳には届かなかった。いったいあの犬にはどんな秘密が隠されていたというのか。数ヶ月をともに暮らした仲だし気にはなるものの、もう早く帰らせてほしかった。しかし無関係では済まない事柄だろうし、この分じゃ「勾留期間」も追加だろう。

 

「少しいいですか?」

 

医者が話しかけてきた。やっぱりだ、と思った。

 

「なんです?」

 

苛立って少しキツい物言いになってしまったが、医者の方もそれに気づかないくらいには興奮していた。

 

「ええ、ええ。せっかくなので他の首も切らせてほしいのですが、よろしいでしょうかね。もちろん、お金は弾みます。留まらせてしまった時間分の補償費も払います。いいですね?」

「会社の方にも休むって言いたいんですけど」

「それはそうだ。協力いただいているというようにこちらから伝えておきますので、気になさらないでください。それでは首でも切ってきますかね。数時間といったところですかね、お休みになっていてください。それでは」

「はいどうも」

 

腕を上にぐぐっと伸ばしたかと思うと片腕ずつグルングルンと大きく回して、やる気も十分といった調子で慌ただしく向こうの部屋に戻っていった。今の自分は気がかりだったことが解消されてしまってようやく眠りに付けそうだった。久しぶりの眠気の到来に身を委ね、椅子に背中を預けて無機質な白の薄暗い部屋の中で目を閉じた。

 

異変が起こったのは何時間後のことだったのか。時計のない部屋、腕時計をつけているものも既にいなかったから時間がわからなかった。肩を揺すられる衝撃ではたと目を覚ますと、視界いっぱいに通報されたとき厄介になった警官がいて、きみ、逃げるぞ!と腕を引っ張られた。

 

「なんです、何があったんですかっ?!」

「わからない。わからないがアレはもうダメだ。逃げてしまわないと」

「はぁ?」

 

わけがわからないままで廊下を走った。行きにここまで来たとき随分迂回して来たんだなと分かるほどにすぐさま階段を降り、留置されていた部屋まで来れた。

またここで留置されたままか、容疑は晴れなかったんだなと思っていると警察官までもが一緒に部屋の中に入ったので面食らった。

 

「どうしたんです」

「しらねぇよ!」

「じゃあ、何があったんですか」

 

しばらく警官が震えていると、落ち着いて来たのかぽつりぽつりと話し始めた。医者は首を切断すると切断面がすぐに治癒されてしまいことに気づいた。医療に生かせるのではないか、これを解明すれば名誉が手に入れられるのではないかとたいそう昂っていたらしい。亀の頭はこうして消えてしまったのだが、次にライオンの首を切って、切断面が治癒される前になんとはなしに首をあてがってみると、なんと首が再び繋がったというのだ。神経を合わせることとか、そういうのなしに元通りになってしまったのをみて、やはり医者は子どものように喜んだという。

 

それから首を全て落として、どの首も元に戻るし、ライオンの切断面に猫の首をあてがるなど、入れ替えても自然に繋がった。そこからは子どもの工作みたいなもので医者はなんと、警察官のうちの一人を部屋の中に呼んだかと思うと、そいつの四肢を固定して身動き取れなくして、首を切ってしまったらしい。その首をカラスの切断面に合わせると、細胞は馴染み、繋がってしまった。

しばらくの間犬の体の一部となった状態でも警察官は喋り続け医者を詰ったが、5分もしないうちに言葉を忘れ、目の焦点を合わせることも忘れ、口を閉めることも忘れだらしない表情を浮かべ始めたそうだ。

何をするのかと医者のことを眺め続けていた警官は止めようとしたものの手術の部屋までは入ることができず棒立ちとなっていた。

 

医者がこの成果に一通り満足すると残りの警官にも目が行き、サンプルは多い方がいいなとだけ溢すと近づいてきたので、逃げるに至った。これが真相だということだが、腰に携える拳銃で撃てばよかったんじゃないかと聞くとそうそう抜けるもんでもないし、ここには警察もいる。上の判断を仰いでからでもいいだろうという。じゃあなんであなたも部屋に逃げ込んだんだとはとてもおれからは切り出せなかった。

少なくとも医者に留置所の鍵を開ける権利はないということで安全らしい。この部屋は奥の方にあるということで万一留置所に入って鍵を開ける権利を得てしまったとしても出入り口付近の人の方が選ばれやすいだろうとも言っていた。

数時間黙ったままでおれと警官は硬いコンクリートの地面に座っていた。それから召集を目的とすると思われる無線が入ったものの、おれはいいんだと朗らかな笑みで無視してここに居座り続けた。

 

医者は発砲許可により撃ち殺されたそうだ。

 

 

しかし犬の体の謎はこの事件のお陰でさらに広まるに至った。

初めに、実はおれがヒトの中年の顔だと思っていたものが、よくよく調べるとやたらヒトに似てるだけも犬の頭だったということがわかった。やたらと舌がざらざらしてると思ったのは中年だからではなく犬だからだったらしい。それにしても犬歯は鋭くなかったのになと思うがこれも削れて丸くなっただけだったらしい。嘘のようなホントの話。

 

ようやく自由になれたと思ったがそうでもなかった。医者が死んでしまって会社に連絡が行き届かなかったため、数日の間無断欠勤となりおれは会社を辞めることになった。後々あの警察官が会社に弁明をしてくれたらしいのだが、誰でもいいからリストラしたかった会社にとってはそんな連絡は邪魔以外のなにものでもなく握りつぶされたのだろう。おれは路頭に迷った。

 

今首を吊るにあたって、少し前のあの騒動が遠い日々のように思える。ネットで調べてちゃんと縄を固定させる方法とかも学んだ。数日もすれば異臭で住人が騒ぎ立て死体は見つかるだろう。

首が吊り下がる瞬間に椅子を蹴り倒して、足が地面につかないようにする。意識が白んでいく。

首といえばあの犬だ。今はどうしているだろう。研究対象か。憐れもうとは思わない。今のおれよりはまともな立ち位置だと思ったからだ。呼吸が困難になって喉から出るのは擦れた呻き声だけ。死が怖い。一人というのがこんなにも痛い。

首の痛みや、頭に血が上って血管が切れてしまいそうになる。そんなことはどうでもよかった。もがき、苦しみ宙を泳ぐ。しかし縄は外れない。涙が出ない。悲しい。あっ……とようやく人間らしい声が出たと思ったとき、おれは死んだ。

 

 

 

そう思ったのだが、ベリベリと首が捲れて首がちぎれた。しかし頭が意識を保っていた。身体も頭と切り離されたというのに動かせる。床に落ちた頭を胴体が手で持ち、徐ろに首に乗せてみると問題なく繋がった。もはや傷跡はわからない。人差し指でなぞってみても滑らかだった。

 

「もう一人はイヤだな」

 

世の中はこれが真理だと思う。だから夜の街中、早速リュックサックの中にノコギリを入れて散歩をすることにした。一人はイヤだ、一人はイヤだ。そう小さな声で呟きながら、周囲を見る。

 

大通り、電灯が立ち並ぶ。車道にはドライバーが思い思いに車を走らせ、歩道では20歳半ばあたりの男女が仲睦まじそうに歩いている。星は見えなかった。バイクが目の前を勢いよく曲がって、横断歩道を渡ろうとしていたおれは、危うく巻き込まれそうになる。お尻から倒れるとすぐ横を歩いていた若い女が大丈夫ですか、と声をかけてくれた。一人じゃないんだということが身に染みた。

 

「ちょっと大丈夫じゃないかも……。すみません、家まで少しなので送ってもらえませんか?あっちなんですけど」

 

家とは反対の方向を指した。それは大通りから外れて、街灯のない、深夜は一人で子供は通るなと大人が口を酸っぱくする通りで、人っ子一人見たことがない。

 

「うーん、そうですね。まだ少しあるので、途中までになっちゃうかもしれませんけど送っていけるところまで送っていきますよ」

 

おれはなるたけ人好きのしそうな笑顔に努めた。

夜はまだ長い。



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不倫女

ガバガバ点滴モルヒネ使用知識に注意
まさかこれをガールズラブという人はおるまい


今死ぬとして、欲しいものは特にない。一人きり死ぬということは覚悟していたし、進んで生き方を選んだのだから当然だった。

 

病床の中、時折母のことを思った。かわいそうな人だった。私よりも若い女に旦那を取られてしまって、いつも泣いていた。母が悪いわけではない。でも完全に言い分があったわけでもなかった。

事実ヒステリーを抱えていたため辛く父に当たっているところを何度か見たことがあった。その被害に私もあった。ヒステリーが始まったら私たちは立ち向かうこともできず収まるのを待つしかなかった。そのためには殴られねばならず、打ったことの罪悪感が母を支配してしまうまで数時間を必要とした。いつ母のヒステリーが来るのかという緊張感が居間を包んでいたけれど、それだけだ。

ヒステリーでさえなければ母は温厚そのもので、慈愛に満ちた人だった。

母のことが好きだった。父も同じだと思っていた。

 

ぽつりぽつりと点滴筒の上から雫が一定の間隔で落ちていく。微かな水面を揺らす。ぼんやりとそれを見る。寿命という言葉が浮かんだ。私の命もあと僅か、数年前の母の姿が重なる。

 

痛い痛いと年がら呟き、もう彼女を殺してあげてほしいとさえ願った。モルヒネのあるときだけしか母の穏やかなのを見ることがない。娘一人ではとても母を安心させることもできない。

父がいたならと思う。あの人は不倫し離婚届を叩きつけ、ついに会うことはなかった。いや、違うか。母が病床に伏す少し前に病死して、それが最後だ。

母は葬式に行かないと言ったけど、私は行った。喪主は不倫相手の女で、喪服に身を包んで目を伏せていた。葬儀場にはそれなりに人はいたが、捨てられた娘なんぞに居場所はなく、式が終わり歓談の場となる前にすぐに会場を抜けて、夜の街を街灯頼りに急ごうとした。会場を少し出るとタバコの自販機が置いてあって父の好きだった箱もあった。なんとなく私はそれを買って、吸うでもなくライターに火をつけて煙が上に延びていくのを見送るだけ見送って自販機のそばの石段に腰を下ろした。

 

煙は寒空の下で、口から漏れ出す白い息に溶けた。

あの、という声がして振り返ると父の不倫相手がいた。その場で静かに礼をされて、私は戸惑った。無性に腹が立ってきて、すぐに私はタバコの箱と吸い殻を石段に落としたままで拾い上げるのも忘れて帰宅した。

父は父なのだから、礼をされる筋合いはない。遠くに行ってしまったのは何も三途の川の距離というわけではなくて関係性自体も離れていたのだろうか。

離婚が成立したときに理解できていたはずなのに、いまだに燻り続けるもののある自身を忌み嫌った。火葬を終えて間もなく母が病に伏した。それが少しだけ救いだった。そして母さえもいなくなって私が一人きりだ。

 

目を閉じると冷たい血液が身体中を回っていることがわかった。手足を最初は巡り、次第に中枢を侵しながら。身体全体が寒くて、凍えてしまうんじゃないかと思った。瞼がとろんと重くなって目に張り付いてしまったみたいで、死んじゃうんだなってわかった。

コンコンと扉を叩く音がして、引き戸が開けられた。聞き覚えのある声だった。冷気を帯びる血液に心臓から熱を混ぜられて、私は目を開けた。

 

「すみません」

 

あの女だった。なぜ知っているのか、私は誰にもここで死を迎えることを言っていなかったのに。でもそんなことはどうでもよかった。

 

「なあに、死ぬところを見て、勝ち誇りたいの」

 

掠れた声で詰る。

右の手を両の手で優しく掴まれながら、しかし彼女は私に何かを言うでもなく、目を瞑った。

 

「あんたの目の前では、死んでやらない、残念だったわね」

 

吐き捨てるように言っても何も言わない。

 

「早くここから出てきなさいよ、このクズ」

 

私の右手は依然として柔らかく包まれていて、心臓のとは別の暖かさを持った熱が手から伝わる。それを心臓からの熱で上書きしようとするけれど、言葉を紡ぐのさえつらくて息が切れてしまった。全身から力が抜けていくのを生命が衰えていくのと錯覚して、やはりこの女は死神で掴まれてしまったら逃れられないのだと、手を振り払おうとするけれど全く動かなかった。彼女の力が強いのではなくて私がもう限界だった。

 

このまま死ぬのかなと思った。ずっと一人ぼっち。最後はこんな屈辱。嫌だなぁって笑いながら、目から見える光が潰れてきた。涙だった。目を瞑るとそれが目端を伝って耳の方へ流れていった。

 

再び瞼が重くなってきて、いや死んでやるものかと、その均衡の中で額に触れるものに気づいた。

 

「お母さん?」

 

この感じをよく覚えている。高熱を出した子どもの頃、寒くて寒くて、目を開ければ幻覚も見えるようになって怖くて、目を瞑っていたら、額を撫でてここにいるからねという声が届いたのだった。すっかり安心してしまってぐっすり眠ると、次の日40度ほどもあった熱は下がってしまっていて、布団のそばでお母さんが寝ていた。そんな記憶のカケラ。

 

「ねぇ、お母さん?」

 

答えるようになおも撫でられる。

 

「私一人ぼっちで頑張ったよね。お母さん……」

 

お母さんが死んで数年を一人で生きた。同じ年齢で両親を亡くしてる子なんているというのに、どうしてあの人たちは強く生きられるのだろう。いつも不思議で不思議で、それから父の不倫が悔しくて悔しくて。子どものまま育たない自分を自覚しつつ、それでも不恰好に頑張ったんだ。

お母さんは、今私を見守ってくれているだろうか。ほんとは一人ぼっちじゃないのかな。わからない。わからない。……一人はやっぱり嫌だ。

 

私がずっと側にいるからね

 

という声が聞こえた気がして、あっと思わず声が出た。私は子どもみたいに泣いて泣いて、それでも撫で続けてくれて、多分顔もぐちゃぐちゃになったけど撫で続けてくれて、ぐっすりと眠れた。

 

夢の中でお父さんとお母さんがいて、私はいつまでもそんな幸せな夢の中で、ブランコに乗って遊んだ。風を切る音が耳にこもって飛行機みたいな音がする。手には鎖をぎゅっと握った。普通なら冷くて固い感触なのに、不思議なことに暖かくて柔らかい鎖でどこまでも高く飛んでいけそうだと思った。ブランコに勢いをつけて、半円ほどの軌跡を描くかというところで私はぴょんと飛んだ。どこまでも飛び上がる私は両親からの拍手を一身に受けながら天空を目指した。鎖も飛び上がる拍子にちぎれてしまったらしく手の中で温もりを伝え続けてくれた。

 

涙が溢れた。

ごめんなさい、ありがとうと、私は泣き笑いの表情で……。



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好きの基準の曖昧さ

※R15相当:強いて言うならBSS要素が若干含まれている
※性犯罪を肯定する意図はありません
※少し前に間違って単話投稿したので再投稿


レイプされたとき、絶対こいつだけは殺すと思った。

同級生の男に、カラオケとか、睡眠薬でも混ぜられていたのかわかんないけど、ふらふらの意識が誰かの背中に体重を預けていることだけはわかっていて、ちょっとだけ不思議には思いつつも、次に意識がすっきりしたときにはホテルにいて、すっごくびっくりした。驚いた感情も、無理やり陰茎がそこに差し込まれて、消え失せてしまって、困惑と嫌悪感ばかりが口の中で苦味のように広がっていた。

逃げようにも力が入らないし、どうすればいいのかわからない。中に出されて、温かくもどろどろとした粘液が私の内側にこびりついた。はじめての経験だったから何をされているのかが理解できなかった。もちろん、されている行為に似たものをインターネットで見たことがあるし、心の奥のところではわかっていたのかもしれないけれど、動画でみたものとされている行為とがうまく結びつかなかった。ぼんやりとした意識のまま、何度か私の目の前で男の顔が揺れて、苦しそうな顔をして、また内側を粘液が汚された。そんなに苦しそうで、息も絶え絶えならば、やらなければいいのにななんてことを思っていた。

ひとしきりして気が済んだのか、私のことをいくらか写真に撮って、どこかへ行ってしまった。床を叩く水の音がするから多分だけどお風呂なんだと思った。あまり仲良くもなかった男がさっきまで目の前にいて、いまシャワーを浴びているという状況が不思議に思えてきて、頭の中が冷静さを取り戻し始めた。よく考えると、今のはセックスだったんじゃないかと思った、私の頭の中にあるセックスを構成する集合の要素と一つ一つ精査して、ことごとくが一致していった。

ようやく大変なことになったと思って、起き上がると、私の陰部からは白濁の液が漏れ出していて、背中をひんやりしたものが、背骨を通過するように下の方から脳みその方まで駆け上がった。わなわなしながら、足もぶるぶさせながら、でも許せないっていう気持ちが強くなってきた。殺そうと思った。いまアイツは裸で無防備だから、なにか武器になるものでも持って風呂場に突撃して行きさえすれば多分殺せるだろう。私のカバンはちゃんと部屋の中にあったので、中から筆箱を取り出してカッターを取り出した。紙を切るときが部活でたまにあって、あると便利だから携帯していた。レイプされたときでさえ役立ってくれるとは思わなかった。裸だと対峙したとき怖い気がしたのだけど、シャワーの音も止んでもうすぐ出そうな気配なので仕方なしに裸にカッターという出立ちで挑んだ。男が出てきたタイミングで横から刺しに行くことに決めた。ガラガラと音を立てて、その瞬間カッターを突き出すと、肉に刃は吸い込まれていった。お腹からは血が出ていて、よしやったと思った。けれど急に怖くなって手から力が抜けてきた。カッターの刃がお腹に刺さったままの男の様子に、後ずさった。

「いってえな!!」

と赫怒の形相で、男は怯むのではなく、かえって私に突っ込んできた。腰が抜けてしまって、ひぃと情けない声を出しながら、尻を引きずりつつ後ろに下がるのに、足を引き摺られながらベッドに置かれた私は、再び犯された。いろいろなことが起こって、また茫然自失となった私だったんだけど、男に命じられるまま、自分が刺してできた傷跡を舐め上げていた。サビの味がした。どうしたってこの男を殺すことができないんじゃないかと思った。恐怖を感じつつ、従うしかないという気持ちで、勝手に身体が動くというか、頭がふわふわしたような、そんな気持ち。血はもう止まってしまっていて、抱えられたまま風呂場に連れ込まれて、その場でも何発か中に出された。私はもう立てなかったから、その場に這いつくばって、突き出したお尻目がけて、男は竿を振り下ろしていた。滑稽で笑えるなと思いつつ男は何度も何度も振り下ろしていて、もう大声で笑ってやろうかと思ったら恐怖が薄れてきた。「ふっ」と鼻で笑った。そうしたら目敏くというか耳敏くというか、気づいたらしく、

「くそ!生意気なやろう!!」

とかなんとか言われながら、無理やりキスされた。クソだと思うんなら、なんでキスするんだよって思いながら、もう笑い止めることができなくて、口を塞がれながら、笑った。結局それから30分立ってから、ホテルを出た。

「写真撮ったから」

と私の前で携帯を見せびらかしてくる男をきっと睨んで、「絶対に殺す」と言って、けれど向かう道はしばらく一緒なので、口を閉ざしながら、距離を離しつつ歩こうとした。けれど、向こうは距離を合わせようとしてくるし、さっきまでレイプしてたという記憶がないとでも言うように気楽に話しかけてくるし、でもときおり撮られた写真を見せてくるし、やっぱり殺そうと思った。別れ際に、パンツの中に手を入れられて、逃げるように去っていく男の背中を、追うのも負けなようで、イライラしながら残りの道を歩いた。

股が痛い、疲れたし、もう夜だ。ふざけんな。っていうかなんであんなやつとカラオケ行くことになったんだったか。そうだ、行ったら他の人間が全員ドタキャンしたからだ。なんだアイツらもグルなのか?もう信じない、絶対信じない。家に着く頃には、8時になって怒られた。服が汚れちゃいないのでバレなかった。

 

学校に着くと、昨日の男が早速私に近づいてきて、今日もしよっかとニコニコしていた。陰湿な行為を求めてくる割にやたらと晴れやかな気持ちだから、何だこいつと思った。

「はいはい、うるさい。どっか行って」って適当にあしらっても、しつこく食い下がってくるので、頭おかしいのかこいつって思いながら、「クラスラ○ンに送るぞ!!」

と強い言葉の割に縋るような声で言ってくるのが、バカだなと思った。とは言え送られるのはクソなので、

「せめてコンドーム……」

と低く小さい声で言ってすぐにその場から離れた。

「よ、どうしたよ元気ないけどさ」

と健吾に言われて、

「ああ、なんでもないよ。最近疲れちゃってさあ」

と返した。

「困ったことがあったら言ってな?」

と言って健吾は去っていった。

健吾は家の近い幼馴染で、先週告白された。2週間くらい考えさせてって言って、残り1週間も期限はない。考えてる期限中に強姦されてしまった。茎が萎れるみたいな心の持ちようになる。処女じゃないといやだって気持ちが純粋な意見には思えないけれど、処女じゃないと嫌だっていう気持ちも多少理解できる。むかしの相手と比較されると嫌だみたいなところに起源を有しているんじゃないか。だから、この前されちゃってさあと言ったら、なんか気まずくなって告白されたことがなかったことになるんじゃないかみたいなことを考えた。断るか受け入れるかはまだ決めていないけど、申し訳なさが強い。そして多分今日もされるんだろう、罪悪感を溜め込みつつ。帰るときも健吾は私の様子のおかしいことを気遣ってくれて、家まで送ってくれた。荷物くらい自分で持てるというのに、持ってくれたり、まあ余計な気遣いだとは思うんだけど、根源には私によく見てもらいたいみたいな思いがあるんだろうなと思えば悪い気はしない。

そのまま私は昨日のラブホに向かって、汗臭いにおいが好きだとかなんとか言われたこともあって風呂に入らないまま、男と向かい合い、ベッドの上でキスをした。ディープキスというやつで、口に中からぐちゃぐちゃ音がして、舌でなぞられると妙な気分になる。キスされながらも、耳や胸や下腹部とかをするすると撫で上げられて、どんどん高まっていく。昨日はそんな気持ちにならなかった。何でだろう。ほんとにわからない。昨日と今日の1日で私の心の中にどんな変化があったって言うんだろう。そのままうつ伏せにさせられ、顔を枕に埋めながら突き出したお尻に、何度も何度も陰茎を出し入れされる段階に入って、昨日よりも感じやすい自分に気づいた。胸を強引に掴まれ、揉まれ、丁寧に膣を刺激してくる。器用だなあと思った。なんだろう、嫌な気持ちがしない。変だな、レイプしてくるサイテーなやつなのに、嫌な気持ちがしないだなんて、どうかしてしまったんだろうか。膣から陰茎を抜き取られて、仰向けにひっくり返されると、またキスをされた。今度は少しだけ私から舌を絡めてみた。目を瞑りながら、首に手を回して、舌をだんだんしつこくねぶった。

こんなこと何がいいんだと思った。多少私に興奮を覚えさせたとして、おかしいんじゃないか、こんなものがいいだなんて。自分の息が荒くなっていることがわかる。キスをしながら、男の陰茎が固くなっていることに気づく。男も私に腕を回していて、2人してがっちりと包まれあっている。私はこの男が好きではない。レイプ魔のクソ野郎だから。

でも楽だなと思う。クソ野郎だから。まともな返答をする必要もない。AVみたいに、興奮していることを表す効果的な喘ぎ方とか、相手を煽るセリフだとか、そういうことも考える必要はない。そんなことしなくてもコイツは腰を振るんだろう。もちろん、コイツに性的に見られてることが嬉しいわけでもないし、セックスが気持ちよくて溺れてしまいそうだとか、そういうことはこの先もない気がした。本当にこいつはクソ野郎で、だから私は楽になれた。健吾だと肩が張る。別に事件とか起伏がほしいから、安定そうな健吾が嫌だとかそういうわけでもないと思う。肩肘張っちゃうんだろうなってだけのだ。幸せになれるのは確実に健吾の方で、この男はDVしてきそうだと思った。だから、こいつと付き合うことが私を不幸に導くことはほぼ確定的で、健悟はほんとうにいい子だ。健吾の方が付き合いも長いし、多分好きだ。男としても、もしかすると。じゃあなんでこの名前さえ覚えてない男の方が楽に思えるんだろう。腰をバカみたいに振っていてやっぱり笑えてくる。

「騎乗位ってやつ?してあげる」

キスを終えて耳元でそう囁くと、鼻息荒く仰向けに倒れてしまった。

「初めて自分からするから、まあ、不手際も多いかもだけどね」

陰茎を掴んで、薄暗い部屋の中で、探り探り自分のやつに狙い済ましていく。なんとか入れて、手を男の胸につきながら、上下してみる。多少興奮してみてもその程度だ。けれどこいつとのセックスで、主導権を取るべきだなとは思う、この先を考えても。何度かのセックスを終えて、手を繋ぎながら私は風呂場に向かった。風呂場でも幾分か行為に及んだ。男の膝を椅子にしつつ、手マンされながら、私は横を向くと見える、男の横顔をようやくしっかりと間近で見た。垂れ目で、鼻筋通ってて、耳にはピアスが開けられていて、金髪なのは知ってたけど、随分と雑に染められていたことに気づいた。その瞬間に私はコイツのことが好きになっていた。顔は並くらいで、健吾の方がいいくらい。清涼感という意味でも健吾の方が上。けれどどうしてか惹かれない。この男の顔を見た瞬間、すぐに惹かれた。楽だから好きになったのか。わからない。

私は自分から男にキスをねだった。頭が沸騰してきて興奮を覚え、それが舌に甘さを感じさせたのか、男の口の中を何度も味わいたくなった。私の長い髪が男の胸に張り付いていた。

セックスがうまいとかそういうのが好きになった理由なのか、わからない。なんかクソ野郎だから接するのに気を遣わなくて楽だなって思った男の横顔に惚れたのか、単に男の横顔がタイプだったからなのか。どうして健吾のことが好きになれなかったのか。いや、語弊がある、好きではあるんだけど恋愛的な意味合いで、だ。レイプ魔のクズに惚れてやる理由なんてないはずだ。そうやって、クソみたいな理由で簡単に人間は恋に落ちる。健吾のことは断ろうかなと思った。敢えてオッケーするのもいいかも。やば、私もクズみたいなこと考えてる。笑えてきた。私にはこの男くらいがちょうどいいのかも。だって刺しても死なないんだし。




テーマは、くだらない理由でも人を好きになることがあれば、こんなに理由があるのに好きになれないこともある。
テーマ優先で話作りすることにしてるのと技量の関係で、話の起伏がないですね(反省点)。


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配信の終わり

※Vtuber要素



脱力とともに配信の画面から目を逸らした。天井の白いのを見つめながら、あんまり首を上に傾けたので息の逃げ場がなく、苦しくなる。

聞いたことのない声がパソコンから響いた。傾げた頭を元に戻すとどうやら次の動画へ自動で飛ぶのをキャンセルし忘れていたらしく、安っぽい不倫アニメのコマーシャルで不倫の原因は口が臭いこと、けれどこのうがい薬を使えばだいじょうぶといった趣旨だった。似たようなコマーシャルは見たことがあるし展開も読み切れるのだが、案外バカにできずフックだけは精巧にできている。はいはい不倫は勘違いで仲直りして終わるんだろうという気持ちとは裏腹に、流されるまま画面を食い入るように見つめるのがいつもだ。

今日はそんな気分になれなくて、すぐに動画サイトごとタブを閉じた。

 

漠然と「引退」という文字が身体にのしかかってきた。

配信者のデビュー記念日だし、久しぶりに見るかなという軽い気持ちでつけて、最初は頬杖つきながら漫然と作業のbgmにでもするつもりだったのに、用意されたコーナーが少しずつ消化されていくごとに線香花火が焼き切れていくような、そんな淡い模様がぐるぐると渦巻いた。

 

配信主とともにこれまでの活動を振り返る。チャット欄でも思い出に花を咲かせていた。1年目から順に今までを辿っていく。

デビュー当時、きっとニッチな層にしか受けないジャンルなんだろうなと思いつつ何か革新的なことが起こるかもしれないという緊張感が空気感としてあった。次第にいろいろな人に受容され始め、マイナーチェンジ的な技術の広まりの中で爆発的に界隈への参与が簡単に、そして増えていった。そんな中で原初の人である彼はリーダーだった。きっと精神的な支柱として君臨し続けるものだと思っていたのだけれど、おかしなものだな。マイナーチャンジャの手法を取り入れた配信主が増えるにつれて、正統がすり替えられてしまったような。度重なる軋轢も彼を苦しめただろう。

 

あの人とコラボした、あそこで大きなイベントを開いた、騒動に巻き込まれて大変だった、それでも楽しかった。ダイジェスト的なまとめ動画とともに配信主が感傷に耽るのが、まるで街灯の少ない寒空の下一人で、白い息を吐きながらどこへ道を進めばいいのか何をすればいいのか分からず、その白い煙の上へと立ち上っていくのを見るのみといった情景と重なってしまった。

活動を振り返り、3年前、2年前、1年前。次第に「今」へと近づいていく中で、その先だけが空白として存在していることがやけに不気味だった。いっそ魔物が待っているという物質的な問題が立ち塞がっているだけならばまだマシだった。

 

結局、彼は振り返りパートが終わってしまったら今後の予定として大きなライブがあるのだと言った。チャット欄も盛り上がりを見せる。

線香花火の妄想が不意に戻ってきた。

一瞬安心した自分の心によくないものが混じってきて、振り払うのは容易ではない。今や作業bgmどころではなかった。大きなライブがあるという告知だけしたら早く終わってしまえと思いながら画面を睨んだ。彼は自身を落ち着かせようと深呼吸をしている。いや、気のせいだ、声色のどこか明るくないのも、発表し終わったというのにさらに大きな発表が待ち構えていてつらそうだというのも気のせいだと、思った。

 

「活動休止します!」

 

という言葉がパソコンからの電気信号によってつくりだされた。いったいその言葉の後にどれだけのアーティストが活動再開までこぎつけただろう。愕然としながら自分の不義理を嘆いた。

2ヶ月に一回くらい彼の配信を開き、5分くらい声を聞いたら、うん、なんか元気そうだなと生存確認し配信を閉じる。ここ2年はそんな関わり方しかしなかったから、それがいけなかったのかもしれない。何がいけなかったのかというと、別にひとりの視聴者どうこうで配信主のモチベーションが上がるなんてことあれほど大規模な枠ではないだろうし、うまく言葉にできない。願掛けみたいなものなのかもしれない、足りなかったものは。

 

呆然と画面なんだかなんなんだかを見つめつつ時間がすりおろされて空気に溶けていき、いつしか配信が終わって、サイトを閉じた。SNSでは悲しいだとか何度か話し合われたり、突然すぎるよという悲しみ報告をしていたり様々だった。批判的な意見はなくはないがほとんど見なかった。

 

一つの時代が終わったんだなと思った。それが世間的な話題を掻っ攫うこともなく、特定の界隈の中でのみ交わされる暗号じみた互いに明滅し合う悲しみの交流電灯として終わるのだろうと思った。あまりにも現実的で、奇跡の復活劇みたいな熱い展開が数年後に始まるという可能性も高くないだろう。終わりというのは唐突で、案外ひっそりとしていて、線香花火の終わりみたいだ。そこにあの頃はよかったなどという我々の感傷の余地はなく、虚ろだけが漂っている。

あの頃に戻りたいならやり直さなければならない。しかしできることは嘆くことのみだという現実に押しつぶされるだけだ。

 

冷凍庫から棒アイスを出すと、それに齧り付いた。間もなくして頭にキーンとした痛みが広がって、構うこともなく二口目、三口目と口の中に運んだ。アイスは舌の上で溶けて形を失いかけた。喉を通ったときには泥のようで、胃の中ではどんな形をしているのだろうか。

依然として頭は痛く、手で押さえながら転げ回りつつ、この痛みについていつまでも覚えていようと思った。プラプラと人差し指と親指でつまんだ抜け殻みたいな棒をゴミ箱に投げると、外れてしまった。

 

どうか、幸せに。

 

ドアノブは冷たく、開けるのに難儀する。温かくなるまでの間、この部屋にとどまっていよう。




「彼」なのでフィクションです


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サスタネイシア

※R15相当 :寄生など(いうなれば憑依?)
※同調圧力を書きたかったのですがことごとく失敗した作品
※投稿済みではありましたが短編集にすべてまとめるということで移動させました


奇病という意味ではぼくの病気は特別品だった。

ぼくはこの世界で唯一サスタネイシアを拒絶する体質だった。

 

朝起きるとぼくは布団から起き上がれない。これは病気によるものだと言えなくもない。他の人は普通に起き上がれるからだ。

これは修学旅行にいったときの話、朝、目覚ましがなった瞬間に同室の人たちはみな一斉に勢いよく起き上がると「よーし!今日も楽しむぞ!!」「よっしゃっ!」「みんなおはよう!!」と思い思いの抱負を語り始めた。ぼくは眠気で重たい頭をなんとかチューニングして彼らの気勢に乗ろうとするけれど不自然さを感じずにはいられなくて落ち込んだのを覚えている。

だから今日の朝もどうしたって目覚めの瞬間から惨めさを感じずにはいられなかった。

 

起きたらすぐにぼくはトイレに行く。ぼうっとしながら用を足すと、しばらくしてから立ち上がってご飯を食べにリビングに行く。リビングに行くと部屋には目をきらきらさせた父と母と妹とがいた。これまた楽しそうに談笑している。

 

ぼくが「おはよう……!!」と、めいっぱいの元気を振り絞って挨拶をすると、先んじてリビングにいた三人ともが

 

「「「おはよう!!!」」」

 

にかっと口を横に広げ歯をきらきらさせながら挨拶を返してくれた。ぼくもなんとか口を緩ませて陽気な印象を持ってもらえるように心がけつつ、おずおずと席に着くと手を合わせてご飯を食べ始めた。

 

「今日はね、とってもいいことがあるんだ!!」

 

ぼくが席に着くやいなや父がそんなことを言うので、母と妹は「なになに!?」と食い入るように質問する。ぼくにはこの瞬発力はどうやっても出せないので、声は出さずに姿勢だけでも父の方に向けた。

 

「今日は仕事終わりに京子さんと会うんだ。だから今日は帰ってこないからね?!」

 

とこれまた元気に父が言うので、母と妹がやっぱり元気に「それはよかったね!」とか「今日もお父さんが嬉しそうで私も嬉しい!!」とかいって褒めそやしていた。ぼくもなんとか空気を崩さないように「それはよかったね……」と言った。

 

そこからも家庭の和やかな雰囲気は続いて、ぼくもなんとかそこからはみ出さないように頑張った。

当たり前の話、話してばっかだから食事は全然進まなくて一時間にも及ぶ。これが日常だから、基本的にみんな5時には起きる。一時間家族で喋ってから、身だしなみも整えたりしつつ、それから仕事とか学校にいくとなると7時頃になるということだ。

 

これは何もぼくの家がそうなんだというわけでもなくて、この時間になればどの家の明かりもつき始めている。みんなよく起きれるなと思うけど、これもまたぼくがサスタネイシアを受け付けられないことが原因だった。ぼくは疎外感を感じる。それで空気の読めない奴だと言って遠巻きにみられるなんてことはみんな気持ちのいい人ばかりだからないのだけど、それでもあのノリについていけないというのはひどくぼくの劣等感を煽った。

 

ご飯を食べ終えてしまえばやることなんてほとんどない。ぼくは自室に閉じこもるけど他の三人は話題が尽きないのかリビングに居座っている。ぼくもうまい返しができればいいのにな、なんて考えながら制服に着替えて上が半袖白シャツ、下は黒ズボンになる。

 

それからしばらくは今日の学校の予習をしていたのだけど、もう8時で家を出なくちゃいけない。それで鞄を手に提げながら階段を降りていくと父と母が毎朝の習慣のキスをして見送っていた。

 

「あなた、いってらっしゃい!!」

 

「ああ、行ってくるよ!!」

 

そんなやりとりを見ながらぼくも靴を履いてドアノブを押した。

 

「陽太!!がんばってきなさいよ!!」

 

玄関を出るときの母の声に背中を押されつつ、ぼくはセミの鳴き声がうるさい七月の青空の下を駆けだしていった。5分間の疾走の後ぼくはギリギリでバスに乗り込んだ。バスの中は蝉時雨かと思うほどには活気づいていた。会社員が幼稚園児とべらべら話をしていたり、おばあちゃんが強面の男性と仲よさそうに話していたり、バスの運転手がマイクでやたらめったらしゃべくり倒していたりで無法地帯だ。少なくともこの場所ではぼく以外にしゃべっていない人はいなくて、やっぱり疎外感を感じた。少しだけ外を向いてぼうっとしていると、横から肩をたたかれた。なんだろうと思って振り返ると

 

「えへへ、引っかかったね?」

 

と言って見知らぬ女の子がぼくの肩に乗せた手、そこから伸びる人差し指に頬があたった。

 

「えと、なんですか?」

 

「君だけ話してないからさ、話そっかなって思って?」

 

「は、はぁ……」

 

その子はうちの近くの高校の制服を着ていた。髪はストレートに伸ばしていてつやつやで、顔立ちは整っているようにみえた。

 

「じゃあ、何話そっかなぁ。……そうだ!今日ね私の誕生日なんだぁ。すごいでしょ?!」

 

「まぁ、確かに。すごいですね」

 

実際のところ、見知らぬ人が今日誕生日なんだとか言って突然絡んでくる確率はそう高くないだろう。そういう意味で確かにすごいと思った。

 

「でしょでしょ?それでさ。家族からプレゼントに手術してもらうことになったんだよね~~」

 

「手術……ですか?」

 

「そう、手術!!前から大人になると私のサスタネイシアが劣化しちゃうって言われててね?だったら最初からそんなのにするな!!って思ったんだけど、誰にでも失敗はあるんだししょうがないよね!!それで取り替えるんだ~~。でも手術だからそれなりに高いじゃない?だから誕生日プレゼントにしちゃえ!ってお母さんが言ってたんだぁ」

 

「……サスタネイシアってそんな簡単に取り替えられるんですか?」

 

「そうみたい!サスタネイシア取り替えたら色々調子も変わるのかなぁとか思ったりするんだけど君はどう思う?」

 

「……ぼくは、わかんないです。サスタネイシアって一つ一つ個性とかあるんですかね?」

 

「さぁ?でもありそうじゃない?私たち人間だって個性っていう立派なものがあるじゃない!!」

 

「それは、確かに」

 

ただぼくがいつも思うのは個性って本当にあるのかなってことだった。だってみんな同じようなハキハキした調子で目をキラキラさせてしゃべるんだから。ぼくからすると全員おんなじに見える。だけど、やっぱりみんなはみんなで個性とかを感じてるんだろうか?

 

「どうしたのよ、そんな暗そうな顔しちゃって!君のサスタネイシアも調子が悪くなってるのかな?」

 

目の前の少女がぼくの両肩をつかんで顔をのぞき込んでくる。異性の顔が目の前まで来るというのはぼくみたいな人間からすると珍しいことだったからひどくびっくりした。ぼくはびっくりして少しだけ背中を仰け反らそうとするけれど、肩が掴まれているから上手く動けなくて、容易に彼女の侵入を許した。つまりキスをされた。

 

「……ん?え?どういうこと??」

 

わけもわからず目を見開き、しばらくの間ぼくは当惑していた。

 

「元気が出るおまじないだよ?がんばってね?……あ、もうここで降りなくちゃ。また会ったら話そうね!!」

 

彼女は手を振り電子マネーでバスの料金を払うと、振り向きもせずたったったと学校の校門をくぐっていった。ぼくはその背中をいまだ立ち直れていない意識のままで見送ると、やがてバスの扉はしまり、窓から見える景色は校門から一変して市街地になりコンビニになりドラッグストアになり、また住宅街になりを数回繰り返すとぼくの学校の最寄りになった。やっぱりぼくは立ち直れないままだったけれどなんとかしてバスを降りてテクテクと教室まで歩いた。

 

一時間目の授業は数学だった。

はっきりいってサスタネイシアを拒絶しない、つまりは健常者の人のほうが頭の働きがいいのは道理だから、ぼくは生まれた時点でいくらかのハンデを背負っていることになる。だからぼくは予習をかかさない。みんなが容易に覚えられることをぼくは容易に覚えられないからだ。真っ当であるためには真っ当であれるための努力がいる。それがぼくみたいな人間に課せられた義務だった。

相変わらず微分という概念が積分の操作と逆の関係にあるというのが意味不明だったがぼくは天下り的に受け入れてなんとか飲み干す。結局のところ計算さえできれば健常者っぽく見えるからだ。ぼくは計算をしながらニュートンやライプニッツに思いをはせる。微積分の歴史を聞きながらライプニッツの考案した記号が基本的に採用される世の中になってくれて本当によかったと思った。

生徒たちは思い思いに質問を投げかける。ぼくがあっと驚くような本質的なものから、くだらないことまで。けれどぼくは手を挙げて先生に質問できないでいた。結局ほとんどの時間が質問で埋められる授業になってぼくは感心した。

 

二時間目は物理だった。

やたらと意識の高い先生で、運動方程式を微積分の形で教えようとしてくる人だった。さっきの授業の記憶をぼくは思い出そうとした。なんと先生が使用した微分記号はライプニッツの記号ではなくてニュートンの記号だったのだ。えぇ、と思いながらぼくはそわそわとした面持ちで手を挙げまいか考え抜いた。しかし我ながら心底どうでもいい質問だと思った。ぐぬぬと奥歯を噛みしめていると、斜め後ろの席のやつが「なんでライプニッツの積分記号を使わないんですか?!」とやけに威勢のいい声で言った。

 

「ニュートンの記法は微分の変数がわからないよね。そこで専ら時間を変数とするときに使うんだ!点々だけで微分記号を書けたほうが簡単だろう?」

 

先生は要約するとこんなことを言った。まぁ言わんとすることはわかるなと思った。

 

三時間目は保健だった。

サスタネイシアについての授業だった。ぼくは今朝の女の子のことを思い出しながら教室の窓から見える青空を見上げていた。ぼくは耳を塞ぎたかった。ぼくの人生には関係してくれなかったものについてなんて学びたくもなかった。けれども保健の、つまりは体育の先生ほど声を張り上げる生物はいない。だから勝手ながら耳の奥の鼓膜を、その声が刺激してくる。ぼくはばれないように無線イヤホンを耳につけて音楽を聴くことにした。数百年前の音楽で、そこにはまだサスタネイシアとか関係のない人たちが思い思いに創作した世界が広がっていた。暗闇も明るさも気怠さも、そこにはぼくの手のひらの中のものが全部あってくれて安心できた。

生まれる時代を間違えた、というのがぼくの意見だ。両親に不満なんてないけれど、どうしてこんな時代なのか。それだけが分からなかった。誰も教えてくれなかった。教師がサスタネイシアの歴史についてを黒板に板書する中、ぼくはままならない自分を感じていた。

 

一度集中が切れてしまうとあとはどうでもよくなってしまう。だからぼくはすべて音楽に集中した。四時間目も五時間目も掃除の時間もぼくは音楽に費やした。ぼく以外の生徒たちが和気藹々としているのにぼくは目を瞑った。そうすればぼくの世界は音楽だけになってくれるから。

ぼくはぼくだけの中に埋没していった。けれど掃除をさぼるなといって軽く頭を先生にたたかれてしまう。やれやれと首を振った。村上某の小説、つまるところはサスタネイシアの関係のなかった頃の偉大な小説家による作品の主人公と同じポーズを取る。それによってぼくは自分を保とうとしている。少なくともこの世界には常時昂奮状態の人間しかいない。こうしてデタッチメント的な視点で見下ろして、ぼくは一体なにがしたいんだろう。自分を高位の存在だと信じることでしか救われない不格好な人型だ。学力的にもサスタネイシアンの方が上なのに。ぼくのどこが優れているというんだろう。

 

時折ぼくはどうすれば自分が救われるのかを深く考えた。例えば朝の彼女がサスタネイシアを受け入れられない体質へ変化していたのなら、ぼくは孤独ではなくなるだろうか。益体もない想像だ。

 

帰りの会も終われば、用はないと言わんばかりに机の横のフックにぶら下がっている鞄を持ち上げ教室を出た。後ろからはガヤガヤワイワイと生徒たちの喧噪が聞こえる。それに少しだけ歯噛みをする。どうしたってなれないものに憧れてしまうことの何が悪い。けれどしょうがないことなんだ。

ぼくはデタッチメントにはなれない。

 

バス停でバスが来るのを待っている。ぼくは一人停留所で座っている。

学校の方からはこれだけ離れているというのにいまだに学生たちのざわめきが聞こえてくる。停留所のベンチに腰を変えながら足をぶらぶらと揺らした。特にイヤホンを耳にかけるでもなく、端末にダウンロードされている音楽のリストを何の気なしに眺めてみたり、聞いたことのない芸能人が不祥事を起こした記事を見ながら意味もない義憤を向けたりした。

 

しばらくするとバスが来たので老人ばかりの車内にいそいそと乗り込んだ。相変わらず老人たちは見境なくキスをし合っている。救いなのはそこ止まりだということだった。それ以上をしたところで咎める法律だってないし、実際その場に居合わせてしまうことも昔あったがぼくはキスで終えていてくれたほうが精神的に楽だ。リップ音だとかぺちゃぺちゃした感じの湿った音。相変わらずうるさい運転手のマイクパフォーマンス。どうだっていい老人の世間話。

 

ぼくは耳にイヤホンをかけてマスクをかけ、目を瞑った。以前マスクをかけずに目を瞑っていたら唐突にキスをされたことがあった。

 

「ふふ、こうすると私も興奮できるから……」

 

と耳元で囁き、もう一回キスをしようとされたところでぼくは逃げ出した。後ろの女の人は呆気にとられていた。基本的に拒もうとする人間は特殊な性癖を抱えている人くらいだとされているのでぼくも特殊な人間だったんだなと彼女に思われたんだろう。

そういえば今朝もそんなことがあった。唐突にキスをされた。彼女は元気出して!とか言ってキスをしてきたがほんとのところはどうなんだろう?誰もが快楽的であり、それぞれの行為をいやがるでもなく喜んで受け入れられる社会というのは確かにそのコミュニティの中に埋没している人からすればこれほど幸せなことはないと思う。

けれど、ぼくからすれば堪ったものではない。

 

バスから降りて家の扉を開けるとやはり玄関には知らない靴が置いてあってリビングの方に耳を立てるともう耳なじみのする声や音がする。毎回変わっているところがあるとすれば男の声がコロコロ変わるってことだ。何もうちの夫婦仲が悪いとかそういうのじゃなくて、好き放題好きなだけできる社会だってだけのことだ。父さんだって今日の夜は帰ってこない。それに家族で嫌だと思う人はいないだろう。

 

ぼくはさっさと階段を上がって自室へ転がり込んだ。それでも階下からは変な声が聞こえてくる。結局ぼくはイヤホンを取ることになった。ベッドに寝転びながらアップナンバーの曲を聴く。アルバムの曲がすべて流れ終わったころ、妹が部屋の戸をたたいていた。

 

「なんだよ?」

 

「お兄ちゃん一緒にゲームしよ?」

 

「あん?まあいいけどゲームっていったって下でやらなきゃいけないだろ?」

 

言外に今したでなにやってるのか理解してるのかと言ったつもりだった。けれど妹にとっては何の障害でもなかったらしい。

 

「ああ、知らないおじさんとおかあさんのことね!さっき私も混ぜてもらったんだけど楽しかったよ!」

 

「なるほどね……」

 

「一緒におふろにはいってきたところなの!もう帰っちゃったからだいじょうぶだよ!」

 

もうすでに色々と終えた後だったらしい。うちの家族も他の家庭と変わらずこんなだけどぼくの体質によるところをちゃんと理解してくれているのでそれなりに気を遣ってくれる。そこはいい家に生まれたなと思うところでもあるし、それ故に家族のノリと合わせられたらいいなと思う一因にもなっている。

 

「ほらほら、行こうよ」

 

手を引かれるままに階段を降りていくと母が晩ご飯の準備をしていた。

 

「あ、陽ちゃん。さっきはごめんね?」

 

母がそういった。

 

「ううん。気にしてないよ。だいじょうぶ」

 

そう言うと母がぼくの頭を撫でる。

 

むかしのこと。ぼくが学校から帰って母が知らない男の人と仲良くしているところに遭遇したとき衝撃を受けてひどく泣いてしまったことがあった。その男の人はわんわん泣きわめくぼくにいたたまれなくなってしまったらしく退散してしまった。母は泣いているぼくの言葉をうんうんと頷きながら聞いてくれてそれから抱きしめてくれた。今思えば泣くことでもなかったのだけど、いい思い出と言えなくもない。

 

過去を振り返るぼくを妹が「ちょっと!おにいちゃーん?!」と呼んでくるのでぼくはゲームのセットをした。晩ご飯までの間迫真のゲーム戦は続きぼくは妹に勝ち越した。悔しそうな妹にぼくは苦笑した。

 

 

次の日、土曜日の朝に父は帰ってきた。「京子さん」とやらの話を母と妹に聞かせているがぼくにとっては心底どうでもいいので自室に引きこもった。父の朝帰りの日にはたいてい京子さんのお話がなされる。一回も聞いたことがないのでどういうことを話しているのかはしらないが、ぼくにとって気分のいい話ではないだろうから聞かないことにしている。母と妹にとっては興味深い話らしい。

 

朝食を食べ、やることもないぼくは自転車でサイクリングに出かけることにした。交差点をまがり鉄橋をくぐりと色々繰り返すうちに隣町まできた。川沿いをきこきことペダルを漕いでいると、昨日の朝の女の子がぼんやりと堤防に腰をかけていた。その様子があまりにも哀愁漂わせていて、昨日の彼女の像とはまるで結びつかなくて違和感に襲われたぼくは思わず自転車を止めて話しかけていた。

 

「やぁ、昨日ぶりだね」

 

びくりと肩を震わせた彼女はぼくのほうをおそるおそるみる。

 

「あ、昨日の……」

 

ぺこりと頭を下げる。

 

「えっと、元気ないけどどうしたの?」

 

「あはは……。なんでもないですよ?」

 

そういって彼女ははかなげに笑った。

 

「あー、偶然だね。えーっと……」

 

話す内容も見つけられず、少々落ち込む。

 

「とりあえず、隣に座りますか?」

 

そう提案されたのでぼくは自転車をとめて隣に座った。彼女は遠くを見ていた。

 

「何をみてるの?」

 

「何を……ですか?……何も、ですかね」

 

「そ、そうなんだ」

 

「……」

 

「……」

 

会話が続かない。そもそもぼくから話しかけるのも変な話だったなと今なら思う。けど腰を下ろしちゃった手前そうそうに立ち去るというのもおかしい。煩悶としていると彼女の方から「昨日手術するって言ってたじゃないですか?」と切り出された。

 

「言ってたね?」

 

「それが……」

 

「失敗しちゃったの?」

 

こうして彼女はいるのだから失敗したわけはないんだろうなって思いながら聞く。ちょっとデリカシーのない質問だなと思ったけどこれくらいで気にする人間ならサスタネイシアンじゃないから問題ないだろう。

 

「そうなんです……」

 

「……え!?」

 

「まず、既存の脳内のサスタネイシアを放射線で殺すところから始まったんですけど、実は私の身体がサスタネイシアを受け入れられない身体に変化してるのが今回の原因だったってことが発覚しまして。これからはサスタネイシアなしで生活しなきゃいけないみたいでして……。サスタネイシアがいないとこんなに不安なんですね?それが怖くて……。今は少しだけ一人になりたくてここにいるんです」

 

「あ、そういうことだったらぼくは」

 

と言って立ち上がろうとする。彼女も一人でいたいのだろうし、ぼくもここから離れたかった。嫌な想像をして、もしもそうあったらいいと考えたぼくが一日前にいて、その記憶が辛かったからだった。例えばぼくがそんな想像をしなければ彼女の手術はうまくいったんじゃないか?そんな妄想をする。でも彼女の体質の問題が根本にあるらしいしそんなのはくだらない身勝手な自虐にすぎない。

 

けれど、ぼくは引き留められてしまった。

 

「あ、あの!……ちょっと待ってください。えっと、その。会う人会う人が怖くてここまで逃げてきたんですけど、不思議とあなたは怖くないといいますか。……変ですよね?」

 

思い当たる節はありすぎる。

 

「あー実は、なんですけど。ぼくも……」

 

「え?!ほんとですか?!」

 

「あはは」「ふふ」

 

そうして二人で話し合って、はじめてぼくは心から理解してくれる人に出会えた気がした。自分の嫌な気持ちから目を背けられれば彼女との時間はきっとこれ以上とない甘美なものになる予感がしたから。

連絡先を交換してしばらくメールを交換したりしたり、バスで会うときはちょこちょこ話したりするようになった。お互いに外れ者だという認識が絆を深くした、と恥ずかしいけど、そう言えるのかもしれない。絆というにはあまりにも短い出会いだったけれど。性別も違うけれど。ぼくは理解してくれる人ができて。彼女は理解してくれる人がいてくれて。ぼくにとって幸せなことだったし、彼女にとってもよかったこと何だと思う。けれどそれは失った先であってくれたもの、という形でしかない。

 

「失ったことで快楽的な幸福は失ったかもしれないけど、得たものだって多かったと思うの」

 

と彼女は言う。笑顔で言う。無理をして言う。我慢をして言う。

 

ぼくもそれに笑顔で返す。

 

知っていた。

常に脳内麻薬に晒されて生きてきた人間が唐突にその加護を外されて耐えられるはずもないんだってことを。けれど、サスタネイシアが普及するにつれて薬物は意味をなくして数を減らしてしまったから、そんなものに頼ることだってできないんだ。時折フラッシュバックに襲われれるというらしい彼女。ぼくは最初から持たざる者だったからこそ苦しみさえなかったけれど、元々持っていた人が喪失したときの痛みは尋常じゃないんだろう。

彼女との出会いはあのバスのこと。だからそれが故に彼女と仲良くなったわけではない。持たざる者ゆえの痛みを抱えるもの同士であったからここまで仲良くなったんだ。ぼくは彼女の不幸のうえに築いた関係性の上にあぐらをかいているのだろうか?

ぼくは時折そんなことを考える。何年か経って二人で同棲するようになってもぼくはそんな考えを捨てきれないでいる。考えすぎだよと彼女は言うけれど、どうだろうか。バスで偶然であった人に元気出してほしいという軽い感覚でキスをしてくる彼女はそれでも目をキラキラと輝かせていた。例えばサスタネイシアの遺伝子改良が発達してぼくらにさえ適合する種が誕生したとしたら、ぼくらはそれに手を伸ばすのだろうか?

 

わからない。幸せとはなんなのか?

 

快楽的に生きること。それを否定する気はない。相変わらず京子さんと仲良くしている父と、相変わらず代わる代わるの男の人を家に連れ込む母も、今やたくさんの「パートナー」たちと同棲しているらしい妹。みんないい人たちだってことを知っているし円満な家庭をそれでもつくっているのをこの目で知っている。だからこそ、どうすればいいのかわからなくなるのだ。

彼女は何を思っているだろう?今のぼくらの生活はもちろん社会的な生物であるからには外の世界と繋がりを持たなければいけない。けれど深い関係性にあるのは二人ぼっちでこじんまりしている。例えば彼女だけが突然サスタネイシアを再び受け入れられる身体にもどったとき、きっとぼくはどうしようもなく自分の惨めさを感じてしまうと思う。前までは無視できていたものが無視できない気がするから。彼女がぼくの母のようになったとしたら、ぼくはどう思うだろうか?狂ってしまう気がする。でも決して母を見下しているわけではないんだ。

 

知っている。

彼女が時折サスタネイシアの記事を、届かないものを見るかのように眺めていることを。ぼくだってサスタネイシアを受け入れられる身体になれたらいいと長く思ってきたはずなのに、どうしてか彼女がつけるのを嫌がっている自分に気づく。そういう醜い自分を嫌いだ。

 

「陽くん、もう寝よ?」

 

と、彼女が声をかけてくる。

 

「うん、寝よっか?」

 

と言ってぼくが照明を落とした。

 


 

『『そうして縋るようにあなたの身体に手を伸ばす』』

 

『『きっと私たちはお互いに不幸であることをなによりも望んでいた』』




サスタネイシアは人間の脳に寄生する。もとは南米のアマゾン奥地で見つかった新種の虫で他生物に寄生をして共存する形で生きようとした生物。人間に見つかった後、マウスでの試験などをおこなったところマウスの寿命が延びた。調べるところによると心的ストレスが低下したことにより発病リスクが低下したのが原因だと考えられる。そこで昨今少子高齢化や自殺率の上昇など、ストレス社会ともいえる現代をよりよくするために人間に虫を寄生させたらどうなるのかを研究し始める人がでてくる。遺伝子操作によりさらに人間にとってリスクのない生物に変化させ、さまざまな治験を行うにあたって試験管でつくった赤ん坊に寄生させたところ寿命が延びた。躁状態のような精神状態になっているように見受けられたが、それ以外の問題はないようだった。そこで精神疾患を抱える人にその虫を「処方」することにした。患者はまたたくまに快復し、社会復帰を果たした。調べていくところによるとセロトニンを分泌しているようであった。鬱などによる脳の機能低下などの改善にも繋がったため、ここで認知機能の向上にも役立つのではないかという意見が出てくる。そこでサスタネイシアをさらに遺伝子操作して中性エンドペプチダーゼを分泌できるようにした。それを高齢者に適用することでアルツハイマーを防止できないかという思いつきにような実験が行われる。結果的にアミロイドβの蓄積は抑えられることになったのでアルツハイマーに効くと言うことがわかった。そこから用途に合わせたサスタネイシアの開発競争が激化し始め、また次第に人間の中でもサスタネイシアを忌避する感情が薄れていった。サスタネイシアには専用の食事が必要で、初期では脳内に寄生したサスタネイシア専用の食事をカプセルにして処方するという手段がとられていた。しかし人間の食べる食事に品種改良の手が伸びることによって普通の食事でもそれらの栄養素がとれるように代わり始めた。このように一般家庭にもサスタネイシアとの繋がりが密接に現れ始めていたころ、ついに万病の予防にサスタネイシアが効くとかいう誇大の宣伝文句までつき始め、熱も上がっていく。ときを同じくしてサスタネイシア寄生者の中で性犯罪を行うものも増加し始めて社会問題となる。しかし目に見えて自殺者やストレス性の疾患などの件数が減ってきている中で今更サスタネイシアを廃止しようなどとは言えなくなってきていて、国民全員にサスタネイシアを寄生させようという試みが出始める。もちろん反対団体なども生まれてきていた。ここで一旦サスタネイシアの寄生方法について教える。それは簡単で口からサスタネイシアを挿入するというこれだけのことである。口に入れた瞬間にサスタネイシアは本能に導かれるように喉に到達、そこから上を駆け上がっていきまたたくまに脳に達する。これでサスタネイシアの寄生は完了される。つまり食事に混ぜれば寄生させられるということでもある。サスタネイシアは最初に見つかったときは体長5cm程度のムカデのような生物だった。しかし人間の手が加わることにより小型化、今や8mm程度となっている。また体表の色も目立たなくなっているため「ご飯に混ぜても気づかれない」。反対勢力との会合において食事にサスタネイシアを混ぜた結果当たり前のように寄生される。こうして反対勢力がなくなりまんまと法案として可決された。こうして市井に普及していったサスタネイシアのおかげで精神が健康になっていく。またサスタネイシアにより性犯罪の敷居も低下したため、性犯罪の件数がなくなっていった。みな興奮状態がおさまらないため相手から許可なくされることはあってもいやがる人間がいないからである。ちなみに現在では出産された瞬間にまずはサスタネイシアを子供に飲ませる手法がとられている。


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