「超光速の粒子に乗せて」 (あび@ウマ娘)
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「超光速の粒子に乗せて」

Ⅰ――二年目の一月

 

 しばらく前に注文しておいた本をトレセン学園の事務室で受け取ると、こちらから切り出すまでもなく職員の方は「それから……」と言ってもうひとつ荷物を持ってきてくれる。手渡された小包には「アグネスタキオン」という宛名がカタカナとローマ字の両方で併記されていて、外装も汚れているから国際便で送られてきたのだと一目でわかる。トレーナーといえど担当するウマ娘に届いたものを勝手に受け取ることは原則できないけれど、「効率が悪すぎる!」と()()が何度も言っているうちにこれも職員の方とのあいだの例外的な習わしになった――トレセン学園の中で彼女に許されている他のいくつかの例外と同じように。

 両腕で荷物を抱えて彼女の「ラボ」に持ってゆく。ここ最近は忙しくて積み上げたままの本もあまり読めていないし、今抱えているものだって一体いつ注文したどの本なのか憶えていない。忙しいのは彼女の「実験」に付き合っているからだし、そのせいで読まなきゃいけない資料も増えてゆく。

「タキオン、海外から荷物が届いてたよ」と、ラボに入って声をかけると彼女は振り返って「やぁやぁトレーナー君、遅かったじゃないか。どれどれ……」と言う。「あぁ、地球の反対側に住んでいる私の幼い頃からの友人からだ。また手紙も付いているな、相変わらず律儀な奴だ。彼女のことは前に話したことがあるだろう? ふぅン……家族共々元気にしているそうだ」

「それなら良かった。あ、今日はダイワスカーレットの模擬レースを見に行くんじゃなかったっけ?」

「あぁ。そうそう、今日はウオッカ君も出走するらしい。スカーレット君、随分気合が入っているようだったよ。さぁ、君も早く準備したまえ」

 

 二週間前、タキオンはジュニア級の年末に行われたGⅢレースに勝利した。これでメイクデビューから二戦二勝で、レース直後だからしばらくはトレーニングメニューも緩めている。なぜかもともとずいぶん親しくしているダイワスカーレットから聞いた模擬レースにタキオンは興味をもち、息抜きもかねて見学することにしたのだ。

 そのまますぐにラボを出て模擬レースの会場に向かい、スタンド席に座ってスタート位置の方に目をやると「緋色」と称される髪と尻尾を一月の冷たい風になびかせたダイワスカーレットがすぐに見つかった。スタンドに人はそれほど多くなかったから、彼女もこちらに気づいて大きく手を振る。タキオンはラボからそのまま着てきた白衣の余った袖をひらひらさせてそれに応えた。

「おっと、今日は彼女も出走するのか」そう言ったタキオンの指差した方を見ると栗色の髪のウマ娘がいる。

「知ってるの?」

「いや、知り合いというほどでもないのだがね、なんだか彼女は他人のような気がしなくてねえ」

 ラボを出るときに慌てて掴んで持ってきた資料の束を繰って今日の模擬レースの出走表を探す。自分の担当以外のウマ娘から学ぶのもトレーナーの務めだ。たしかにこの束の中にあるはずだけど、忙しくて資料の整理もできていない。ええと、あのウマ娘は……ゼッケンの番号は――

「パン!」というレース開始を告げる音がそうこうしているうちに鳴った。慌てて顔を上げるとダイワスカーレットが先頭集団を引っ張るのが見える。いつもの彼女らしい堅実で、それでいて意欲的な走りだ。

 するとタキオンが言う。

「トレーナー君、君も知っての通り私はウマ娘の脚に眠る可能性に興味がある。その肉体で到達し得る限界速度にね」

「うん」

「例えばほら、スカーレット君を見たまえ。彼女には才能がある。ゆくゆくはGⅠレースで何冠も獲ることだって夢じゃないだろう……賞の話をするならばね。彼女は身体も恵まれている。左脚に些か不安があるようにも見受けられるがね。それに、ほら――」

 タキオンが指差すと「うぉらああああああっ!!」という威勢のよい声を上げてウオッカが外から上がってきた。「切磋琢磨すべき同世代のライバルにも恵まれている」と、タキオンは言う。「これは素晴らしいことだよ」

 ダイワスカーレットが少し横を向いてウオッカが伸びてくるのを確認し、そこからさらにギアを上げて差し返す。ふたりの間からまた別のウマ娘も伸びてくる。そのまま大接戦でゴールすると、ダイワスカーレットとウオッカはほぼ同着のように見えた。ふたりはそのまま並んで仰向けに芝に横たわると、息を切らしながら「今のはアタシ!」「ゼッテェ俺だっ!」と言い合うのがこちらまで聞こえてくるようだ。

 タキオンは微笑んで「何よりスカーレット君の場合、あの『一番』に対する執着だ。たとえ模擬レースであっても力を抜くことがない。あれは一つの才能だよ」と言う。

「たしかにダイワスカーレットはすごいね」

「なぁ、トレーナー君。何故私たちウマ娘が『速さ』にこだわるか分かるかい?」

「なぜ?」

「スカーレット君はあれ程『一番』にこだわっている。彼女は彼女の夢に一生懸命なのだよ。あるいは例えばシャカール君。彼女の計算によれば、彼女は自身にとって重要なレースを七センチ差で負けるらしい。それを何度も検証しているわけだよ――どうにかその七センチの差を縮め、そしてもう一センチでも先に行くためにね」

 エアシャカールの話は聞いたことがある。

「何故それ程までに頑張る? ある特定のレースに勝つためだろうか? 三冠ウマ娘になるためか? あるいはトレーナーやファンの期待とやらに応えるため? あぁ、私の家族にも長年懇意にしている大変優秀なベテランのトレーナーがいてね、彼には随分世話になっている。何、私だって自分勝手だの傲慢だのとの言われるが、ウマ娘の勝利にはトレーナーや関係者の協力が欠かせないということくらいはわかっているつもりだよ」

「それが走る動機となるウマ娘もいるだろう。だが突き詰めればそれだけではないのだよ。ほら、あの目を見たまえ。ククッ、スカーレット君もウオッカ君も実に良い目の色をしている……『可能性』だよ」

「『可能性』、ね」タキオンのよく使う言葉だ。

「自分に何ができるのか、どこまで行くことができるのか、その『果て』を見たいのさ。自分の可能性、相手の可能性、そして相手を通した自分の可能性をね。シャカール君なぞまさにその好例だよ。彼女はリアリストを自認しているが……フフッ、リアリストも行き過ぎれば立派に理想を追っていると思うけれどねえ」

 そう説明するタキオンの赤い目が、日の光に照らされてきらめいて見えた。彼女は他のウマ娘の話をしていたけれど、それは間違いなく彼女自身のことに違いなかった――少なくとも自分にはそう思えた。

 

 二週間前に開催された、彼女にとって二戦目となるGⅢレースをタキオンはレコードを叩き出して勝利した。出走した同世代のライバルはすでに実績を上げていたからそもそもレースの注目度自体が高く、そのうちひとりは前走となるGⅢのレースをレコード勝ちしていて、もうひとりも前走でタキオンの距離適性と同じ芝二〇〇〇メートルを三バ身差で圧勝している。

 そのレースでタキオンはライバルたちを圧倒したにもかかわらず、勝利した直後、足を止めた彼女はそれほど喜ぶ様子を見せるわけでもない。まるでこのレースも検証のひとつに過ぎないと言わんばかりの大胆不敵な様子で、その視線はどこかもっと先、遠く地平線の彼方を見据えているように思えた。それがどこかはわからない。

 彼女のその姿は見る者を()()()には――それとも()()()()には――十分過ぎるほどで、すると彼女のトレーナーになったときのことを思い出した。

 

 トレセン学園の中で周囲からの期待も高いのにも関わらず、選抜レースに出ようともしなければトレーナーからのスカウトを受けようともしないタキオンは実質上の退学勧告を受けていた。それで以前から気にかけていたのだろう、見かねたシンボリルドルフが「要望」として併走を頼んだ。それが自分の初めて見たタキオンの走る姿だった。そもそもあのアグネスタキオンとシンボリルドルフが走るところを自分一人だけが観客として見ることができるのだから、正直なところ胸の高鳴りを抑えられなかった。

 薄暗い夕闇の中でタキオンが準備をしているあいだ、シンボリルドルフがこちらに近づいてきて話をしてくれた――アグネスタキオンは自身の目的のために優秀なウマ娘が参加するトゥインクル・シリーズに出走すべくトレセン学園にやってきた。しかし、彼女の「研究」の支障になるのであればレースに出ることはおろか、トレーナーからのスカウトを受けようとすらしない。そこまでは理屈が通っている。「だが、」とシンボリルドルフはつづける。それにもかかわらずアグネスタキオンが最後通告を受けるまでわざわざ学園に残りつづけたのはなぜか、と。「『担当トレーナー』という、彼女の言う『邪魔者』からは決して逃れ得ぬこの学園に、何故?」とシンボリルドルフは言った。君はどう思う? と彼女に訊かれたけれど、咄嗟に返事を思いつくことはできなかった。そうこうしているうちにタキオンの準備が終わり、二人の併走が始まった。

 当然シンボリルドルフの走りは圧巻で、見ているだけで圧倒され、息を呑んだ。

 だけど自分が目を奪われたのは「皇帝」シンボリルドルフの走りではなかった。

 併走をつづけているうちにある瞬間、タキオンがその細い脚を踏み込んで加速するのがわかる。その一瞬、彼女の赤い瞳が夕日に照らされてきらめいたように見えた――それは無邪気な少女の瞳のようでもあり、狂気的な欲望に疲れた悪魔の眼差しのようにも見える。彼女の加速は、能力のあるウマ娘が時として喩えられるような、轟音を上げて離陸するジェット機や野生動物の全力疾走のようなものではなかった。そうじゃなかった。彼女が加速するとき、まるであたりが静まりかえってしまったかのように音が消え、彼女の周囲の景色がゆっくり流れるように見え、次第に時間が止まってしまったかのように思えた。音も動きもなくなった空間を駆け抜ける彼女の、その赤い瞳の輝きだけが鮮明に脳裏に焼きついている。

 結局、シンボリルドルフが僅差で差し返したけれど、タキオンの走りにすっかり魅せられてしまった自分は「一緒に『果て』が見たい」と懇願して、彼女の実験の被験体、彼女の言う「モルモット」としても協力することで、半ば押し切るかたちで彼女のトレーナーになったのだった。

 こっちが押し切ってしまったからタキオンはちょっと驚いた様子だったけれど、それからすぐに「担当トレーナーがついたというのに退学なぞしていられるか」と言って職員室に向かう彼女はどこか嬉しそうにも見えた。直前まで、もう退学、これが最後の走りになると言っていた彼女が、どうしてそんな様子を見せたのか、やはり学園に残ってトゥインクル・シリーズに挑戦するのはそれほど魅力的だったということなのか、それはよくわからなかったけれど。

 

 自分はトレーナーだけでなく「モルモット」でもあるのだから、タキオンとの関係は他のトレーナーとウマ娘との関係とはかなり違った、うまく他人に説明するのも難しい変なものだし、一日のうち彼女とふたりで過ごす時間もずいぶん長い。

 だけどそうしているうちに彼女はだんだん色々な話をしてくれるようにもなった。彼女の話はときどき難しすぎて自分にはさっぱり理解できないけれど。

 いつか彼女がその名前にも入っている『タキオン』という言葉について説明してくれたことがある。

「どういう意味だか知っているかい?」

「えっと、『超光速の粒子』ってやつでしょ」以前から彼女が口にしていたのを聞いていたから、それくらいはかろうじて憶えている。

「そう、その通りだ。『タキ』は学術用語のギリシャ語で『速い』を意味する。そして『オン』は『存在』だ。『タキカルディア』、分かるね?」

「あー……えっと……あ、『頻脈』! 心拍数が乱れて速くなってる状態!」スポーツ科学の知識がなんとか助けてくれた。

「その通り。無論、人間の医学をそのままウマ娘に適応できるかどうかは議論の余地が残るがね。いやはや、しかし君、私のトレーナーとしてはギリギリ合格点といったところだよ。まぁいい……さて、じゃあ超光速の粒子とはどういうことかわかるかい?」

「えっと、すごく速い……あ、光より速いってやつ……?」そうは言ってみたものの、「光より速い」というのがどういうことなのかは全然わからない。

「そう――特殊相対性理論に矛盾することなく、光速度より速く動く仮想粒子の存在は、いまだ完全に否定されてはいないのだよ。フ、たまにはウマ娘の身体に関する医科学を離れて純粋に量子力学の話をするのもオツなものだろう」タキオンはなんだか楽しそうだけど、自分にはさっぱり理解できない話がいつものように始まってしまう。こっちはスポーツ科学の勉強だけでも精一杯だというのに。

「毎秒約三〇万キロメートル、光はこの宇宙で最も速く移動する。『タキオン』はその光速度を超える速さで移動するとされる、いわば量子力学上の仮説的存在なのだよ。ある程度速く移動する乗り物、例えば新幹線やスペースシャトルに乗っていると歳をとるのが少しだけ遅くなるという話くらいは君も聞いたことがあるだろう?」

「あー……うん、多分」

「無論スペースシャトル程度の速さでは微々たる違いしか現れないがね。だが、仮に途方もない速さで移動する宇宙船に乗って窓の外を眺めるところを想像してごらんよ」

 言われた通りにその様子を思い浮かべてみる。

「するとどうだ、窓の外の星々は一瞬で過ぎ去っていくが、しかしそこで逆にあたかも時間がゆっくりすぎているように感じはしないかい? 速く移動すればするほど時間の流れは遅くなるのさ。さぁどんどん加速していくところを想像しよう。光速度を目指して加速していくんだ。すると時間はますます遅く流れる。そして光速度に到達した瞬間、時が止まる」

「なるほど……」そうは言われても、それが一体どういうことなのかはやっぱり見当がつかない。

「さぁて、話はここからだよ。特殊相対性理論のその先の仮説さ。光速度に至った瞬間に時が止まる。だがもしその光速度という壁の向こうに、光速より速く移動する物体『タキオン』が存在するならば、そこでは時間が逆向きに流れるようになるんだ。何、理屈としては複雑ではない。いわば鏡の向こう側の世界の話だよ。我々が加速を続ければ時間の方は減速し、時間の速さがゼロとなる点を超えると今度はそれが()()()()()()()()()()ということさ。無論これは理論上の仮説に過ぎないがね」

「……そうなったら一体なにがどうなるの?」彼女が話していることが全然わからないから、思わずそんなことを訊いてみる。

「良い質問だねえ、モルモット君! うん、例えばタイムトラベルができるよ」

「タイムトラベル? そんな……SF映画みたいな?」

「アッハッハ! その通りだよ。無論、物質、それも意識を持った生命体をそのまま過去に転送するのは途方もなく難しいだろう。一番簡単に送れるのは情報やメッセージだ。例えば過去の誰かに向けて信号やメールを送るといったようにね。だが、だとすれば問題が出てくるのは当り前だ。宝くじや賭け事の結果を知らせるくらいならまだしも、政治や歴史、経済を巻き込んだ大事件が起こるだろう。いわば親殺しのパラドックスの一種さ。そして、そうしたことが今起こっていないのならば、つまり未来から情報が送られてきていないのならば、それはつまりあの超光速の粒子にはそうした実用性はないということさ。存在自体が完全には否定されていない、としてもね。それこそが『タキオン』が量子力学の仮説的存在である所以だよ」

「なるほど……そういう例を出してくれるとわかるかもしれないけど……」

「まぁいいとしよう。さてモルモット君、もしも仮に過去の自分にメッセージを送ることができるならば、君ならどうする?」

 「過去の自分に……?」頭を振り絞って彼女の話についていこうとしていたのに、急にそんなことを聞かれるからちょっとびっくりしてしまう。「うーん、宝くじはまずい気がするし……事件や事故に巻き込まれないようにとか、悪いことが起こらないように注意を送る、とかかな?」

「不幸の回避、いわば起きたことをなかったことにするということか。いや、しかしなんとも無難だねえ。例えば幸福な報せを過去の自分に送ってやるとかしないのかい? 皆元気でやっている、とか、長らく待っていた物がようやく届いた、とかさ。アッハッハ! 君、ロマンがないなあ!」と言って彼女はあっけらかんとした様子で笑う。

「ええ、なにそれ……」と思わず声が出る。

「おやおや? まぁ、あまり気を悪くしないでおくれよ」

「じゃあタキオンだったらどうする?」

「……さぁて、どうだろうね」

「……たとえばプランAとプランBのこととか?」

「さぁねぇ」

 

 自分が「モルモット」から「モルモット兼助手」に昇格した頃、タキオンは彼女の用意している「プランA」と「プランB」のことを話してくれた。

 彼女が言うには、彼女の脚には天性のスピードが備わっているのにも関わらず、同時に脆さも兼ね備えているのだという。ウマ娘の脚が達することのできる限界速度を自分自身の脚で試してみたいのに、少しの無理もできない。「エンジンばかりが立派で機体が脆い」のだと彼女は言っていた。

 だからプランAとは彼女の脚の補強をしながら彼女自身の脚で限界へ到達するのを目指すこと、そしてプランBとは自分の脚で限界へ到達することを諦めて、他のウマ娘を代わりに到達させるための研究やサポートを指すのだ、と。

「プランAだよ」と、気づけば彼女が話を終える前に熱っぽく口走っていた。彼女の走るところが見たい――もちろん、彼女が言うプランBの理想はわかっていたつもりだ。実績や研究の成果の積み重ねの上に人々の夢を乗せ、これまでのウマ娘の先をゆくウマ娘が結晶のように生まれる。それはわかっている、しかし――

 するとタキオンは少し困ったような顔をしていたけれど、「約束はできないけど……まぁ善処しよう」と言った。

 タキオンがプランAのことを話してくれたとき、「私には走る才能がある」と、彼女はほとんどぶっきらぼうに言った。それはまるで単なる事実の確認に過ぎないかのようで、奢りや慢心は感じられず、その彼女の様子にすっかり魅せられてしまった。「だからこそ、自分の目で、脚で到達したい」とつづけて彼女が言ったとき、それを手伝えるのならなんだってしたい、と思った。

 

 二年目のクラシック級に入ったいま、まずは二ヶ月後に行われるGⅡ弥生賞、それからその一ヶ月後のGⅠ皐月賞に照準を合わせている――皐月賞を緒戦としてクラシック三冠制覇だ。クラシック級とシニア級、これから二年間を彼女と共に駆け抜けるのだ。そう考えながら模擬レース会場で真冬の冷たい風を浴びると気が引き締まる。

「模擬レースも終わったことだし、私たちもラボに戻るとするか。スカーレット君は後程労うとしよう。さぁ、実験の続きといこうじゃないか」そう言ってタキオンは早々と歩きはじめる。

「あ、ちょっと待って」持参した資料のうちの数枚が風に吹かれて飛んでいってしまう。タキオンはそれを拾って目を通す。

「ふぅン……いや、君は中々個性的な字を書くねえ」

「あはは、最近ちょっと忙しかったからさ、まとめる時間がなくて」殴り書きのメモが書かれた資料を彼女に見られてちょっと恥ずかしい。自分でもあまりよくわかっていないその資料の一部をタキオンから受け取ると、慌てて彼女についてゆく。

 

Ⅱ――三年目の十二月

 

「はい、今日のデータはこんな感じ。悪くないと思うよ」と言ってタキオンに資料と上着を手渡すと、コースから戻ってきてジャージの上着を羽織った彼女がデータに目を通す。ふたりで並んでグラウンドに座ると十二月の空気が冷たい。

「ふぅン……今日のグラウンドのコンディションからすると比較、参照すべきデータはどうなるかな?」

「それなら先月の三週目にとったデータが役に立つと思う。気温、湿度とコースの状態が近いからね。あともちろん去年の十二月との比較も大きな流れを掴むために必要だよね。データはすぐパソコンから出せるし、必要なら印刷して渡すよ」

「フム……うん、中々よくまとまっているじゃないか」

 

 有マ記念も終わった年の瀬だからトレセン学園の中も静かだ。その日はタキオンと()()()でのサンプルをとってデータに残すためにグラウンドに出ていた。予報外れの雨が明け方に降ったからグラウンドのコンディションはあまり良くなかったけれど、それも含めての記録として残すなら申し分ないだろう。

「ひとまずこれで最後か。整理は必要だね。まぁ、いずれにせよ……どうせラボなど誰も使わないのだから、トレセン学園からすぐに追い出されるということもないだろう。今後は外部の研究機関が使えるかもしれない。こちらには豊富なデータと研究成果があるのだからね」

「データ」とはこの一年半以上のあいだに彼女とふたりでかき集めてきたもののことだ。

 

 一年と八ヶ月前、皐月賞で四勝目を上げたあとに彼女の左脚に故障が発覚したのだ。

 

*****

 

 タキオンは三戦目と四戦目のレースを快勝した。実況に「一人舞台」と言わしめたGⅡ弥生賞、つづくGⅠ皐月賞を勝ったときには世間は期待を込めて「まずは一冠」と囃し立てた。

 二つのレースはエアシャカールに頼んで事前にタイムの予測を算出してもらっていた。どちらのレースも予測からわずかコンマ数秒の遅れで、検証は成功と言えたはずだ。

 しかし皐月賞では異変があった。いや、異変と呼べるほどのものではなく、誰も気づいていなかったかもしれない。だがたとえ予測通りだったとしても、彼女本来の走りではない、最後の直線でもう少し伸びるはずではないか、と直観的に感じられたのだ。レース後にそう伝えると「君も知っての通り今のところ我々の実験と検証に抜かりはない。しかし、いや、これは……。少し様子を見よう」と彼女は言った。

 

 二週間後にわかったのは、彼女の左脚に炎症が現れているということだった。彼女の血筋に由来する脚の脆さが出てきたのだ。

 しかし遅かれ早かれそれが現れるのは仕方ないとふたりとも考えていたから怯まなかった。むしろここからだ、と思った。さあここからどうするか。もともとタキオンの脚に不安があるとはわかっていたから、時限爆弾が破裂するのかしないのか、もしするとしたらいつなのか、したとしたらどう補えるのか、ふたりで綿密に予測と対策を立てていたのだ――というかそれがプランAの内実の大部分を占めていた。

 当然、五月末の日本ダービーは出走を取り消さなければならなかった。タキオンと争った同世代のライバルがダービーウマ娘の座を手にした。もともとの計画ではたしかにクラシック三冠を目安にしていたし、もちろんふつう才能のあるウマ娘と担当トレーナーにとってはそれが目標となる。だけど、その「ふつう」、つまり賞を制するのはふたりの目的ではなかった。タキオンと目指していたのはあくまで「限界の果て」を見ることだったのだから。だからレース復帰を目指したのも、ライバルの集う最高峰の舞台で走ってこそ彼女の能力が最大限に発揮されるはず、というただそれだけのことだった。それがプランAだった。

 だから当然のようにしてふたりでプランAを続けた。出走を目標とするレースは変更し、遅らせざるを得なかったけれど、それはただそれだけのことだ。

 その頃、同僚のトレーナー仲間が気にかけて声をかけてくれた。しかし、気にしてない、クラシック三冠はどうってことない、と説明すると、彼らは少し戸惑ったような表情を浮かべていた。だけどふたりでやっていることに疑いはなかった。

 

 そうしてタキオンと実験と調整を続けながら数ヶ月経った。

 次第に周囲から落胆の声も聞こえてきた。「まずは一冠」と言われたアグネスタキオンは日本ダービーどころか十月下旬の菊花賞出走さえも危ういと噂されるのを聞いた。そういう声を意識していなかったと言ったら嘘になる。当然自分だって彼女が大舞台で走るところは見たいに決まっている。皐月賞を勝った彼女が、日本ダービーに、それに続くGⅠレースに出ていたらどうだったか。

 けれどタキオンは黙々と実験と検証を続けていた。

 彼女の同期は活躍を続けていた。エアシャカールもしばらく勝利からは遠ざかっていたものの、名だたるレースに出走しつづけ入着を重ねていた。

 しかし十月の菊花賞どころか、結局タキオンはその年後半のレースのどれにも出られずにクラシック級は終わっていった。その年の菊花賞と有マ記念は同期のマンハッタンカフェが制した。

 

 年が明けてシニア級に入ると「アグネスタキオンはもう終わった、クラシック級どころかシニア級もトゥインクル・シリーズはもう無理だろう」という噂を耳にした。「よくやった、わずか四度の戦いで伝説になった」と言う人もいた。

 ふざけるな、と思った。そういう噂を見聞きしたとき、心のうちを悟られたのかタキオンには「やめたまえよ、時間のムダだ。有象無象のことなぞ気にしていても仕方ないさ」と言われた。

 ふたりは実験と検証、調整と試行錯誤を続けていた。 

 タキオンとの関係は、トレーナーと担当ウマ娘との関係を超えていたかもしれない。彼女とはほとんど一緒に暮らすようにして過ごし時にラボに寝泊まりした。彼女は実験と調整を続け、自分はその他のことをできる限り全て担当した。それでもカバーできないことについては栗東寮でタキオンと同室のアグネスデジタルにずいぶん助けてもらった。彼女もハードな出走スケジュールをこなしていたのだから申し訳なかったけれど、ありがたかった。

 視聴覚室から借りて昔のウマ娘のレースを見漁り、それからアグネスデジタルにも頼み込んで彼女の持っている貴重な資料を借り、ウマ娘たちの身体の使い方、フォームや動き、筋肉のつき方、怪我や病歴を研究した。古今東西の名だたるウマ娘たちのレース映像を見返して研究していると、自分がトレーナーになった時のことを思い出して刺激されもしたけれど、それでも数万人の観客の前で走るウマ娘よりも、自分だけしか見る者のいない中グラウンドを走るタキオンの姿、その瞳の方が何倍も魅力的だった。

 だから、トレーナーとしてスポーツ科学についてはできる限り学ぼうとしたし、少しでもタキオンの研究の役に立てればと思ってそれ以上のことも学ぼうとした。すると取り寄せた本や実験道具が山積みになり、ラボに積まれた資料はもう彼女のものなのか自分のものなのか、だんだん区別がなくなっていった。

 タキオンの身体のことなら隅から隅までわかっているつもりだった。彼女が被験体である自分の身体についてなにもかも知っているように。

 だから、ありとあらゆる医者を訪れて診てもらったときも、「時間をかければ最大で元の八〇から九〇パーセントの力を発揮できるでしょう」なんて言われた瞬間にふたりで席を立って離れた。「ちょっと!」と呼び止める声は無視した。なぜならタキオンとふたりで目指していたのは単に再びレースに出られるようになることではなくて、かつての一〇〇パーセントの力を発揮することができるようになることですらなく、その先へと行くことだったのだから。

 人の話をあまり聞かなくなった。

 トレーナーのふるまいとして問題があると学園関係者からたびたび注意を受けた。どうでもよかった。

 マンハッタンカフェ、エアシャカールとそのトレーナーたちが陰で生徒会や学園側に掛け合ってくれたという噂も耳にした。申し訳なくて情けなかったけど、ありがたかった。それからやはりシンボリルドルフもきっとタキオンのことを気にかけてくれていたんだと思う。

 

 ふたりは実験と検証を続けていた。グラウンドに出てデータを取り、何度も分析を繰り返す。大舞台で躍進を続ける同世代のウマ娘たちの活躍とは違って、それはなんらドラマチックなものではなく、ただ静かな日々の繰り返しだった。まるで長く静かな長距離走のようだった。これまでどんなウマ娘も走ったことのないような超長距離のレース――いや、もはや誰かと勝利を争って競うレースですらないような孤独なマラソン――それをタキオンは走りつづけていて、自分は彼女の不甲斐ない伴走者だった。

 ふたりで追っているものを――少なくとも自分が彼女の中に見ているものを――どう呼べば良いのかよくわからない。それは「夢」や「理想」と呼ぶには泥臭すぎるし、「情熱」や「狂気」と呼ぶにはあまりにも静かだった。

 タキオンとの三年目はそうやって少しずつ過ぎていった。

 

 その頃、一緒に過ごす時間が多かったからかタキオンとは色々な話をした。

 ある時、彼女がまた例の超光速の粒子の話をしてくれた。それは過密なスケジュールの実験と検証が続いているときで、グラウンドから帰って来るなりラボでふたりともぐったりしていたけれど。

「あの超光速の粒子にはこんな仮説がある。あれは()()()()()()()()()()()()()()()()()そうだよ」

「……どういうこと?」

「鏡の向こう側の世界では何もかもがこちら側とは反対に作用するというわけさ。通常、物質はエネルギーを失えば当然減速するだろう? その反対で、あの粒子は理論上エネルギーを失うと加速するということさ。何、理屈は単純だよ。想像するのは難しいがね。こちら側の世界の物質はエネルギーを与えると加速するが、光速度を超えることはできない。向こう側の世界のあの粒子はエネルギーを失うと加速し、光速度より遅くなることはない」

 タキオンがどういうつもりでその話をしたのかはわからないし、彼女も「何、私だって量子力学は専門外さ」と言って笑っていたけれど、それはまるで彼女自身のことを表しているように思えた。

 

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 しかし、当然こちら側の世界の人間である自分はエネルギーを失えば減速を繰り返し、息を切らしながら彼女についてゆくので精一杯だった。

 いつか彼女が言っていた。「君も知っての通り、コンディションを整えるのだって実験に必要不可欠なのだから私は適切なストレッチや休息を受けている。それに比べて君はどうだい? あまりに不摂生が過ぎるんじゃないか?」それから彼女は少し考えるような様子をしてから俯いたまま付けくわえる。「なぁ、君だって重要な被験体なのだから、その自覚を持ってもらわないと……」

 だけどタキオンだってなにかしていないと落ち着かないようだった。休養をとっているときだってデータや資料に目を通さずにはいられない――彼女は冷静を装っていたけれど、本当は悔しいのが痛いほどわかった。

 

 しかし光の速さを超えることは当然できず、時間が巻き戻ることもなく、タキオンがレースに出ることができないまま、ただただ時は流れさっていってしまった。

 

 それは三年目の秋もすっかり深まっていった頃で、天皇賞の歓声が学園の隣のレース場から聞こえてくるかのようだった。もう当然タキオンより一つ下の世代が活躍していたけれど、エアシャカールも走りつづけていた。

 その日もラボにいたふたりはすっかりくたびれていた。タキオンはソファに身体を預けて、自分はオフィスチェアーを彼女の方に向けて、ぐったり天井を眺めていた。そろそろ電気をつけた方がいいかもしれない――部屋は薄暗くなってきて、窓の外から茜色の夕日が差し込んでいる。

「さてトレーナー君、君もよく分かっているとは思うが、ひとまず()()()()といったところだろうね。ここから年末にかけては、これまでの研究の成果をまとめるべく、取りこぼしているデータを集めて整理してゆく段階に移ることになるだろう」

「そうだね……あともう一踏ん張りだ」

 落胆や失望などはなかった。彼女も以前話していた通り、たとえトゥインクル・シリーズで記録を残せなくとも、それ以外にも強いウマ娘たちが出走するレースはある。彼女はプランAを続けられる。まだ走りつづけている途中で、振り返る暇も落ち込む必要もない。

 タキオンとはこの一年半をなりふり構わず駆け抜けてきたけれど、彼女は同時に状況に対して冷静でもあった。

「いや、しかしこの一年半は長かったね。故障の前から数えれば二年以上か」とタキオンが言う。「君もよく頑張ってくれたよ」

「うん、長かった……」ぼんやり天井を眺めたまま彼女に応える。「忙しくてあっという間だったけど、すごく長かったようにも感じるよ。あ……すごく速く移動すると時間の流れが遅くなるってやつだ……それに、ほら『体内時計と現実時間の差異に関する考察論』ってやつ……」疲れで頭はまったく働いていなかったけど、自分でもなにを言っているのかよくわからないまま、タキオンとの会話の中で何度も出てきた言葉がいくつも口を突いて出てきた。

「ククッ、君は本当に優秀なモルモット君だよ」そう言って彼女が笑みを浮かべるのがわかる。

「……確かに疲れたけど、すごく楽しかったな。今も」なぜだかふとそんな言葉を口にしていた。

「ふぅン」とタキオンは言って、しばらくなにか考えている様子を浮かべ、それから微笑むと、「……それ、もしたとえば薬の副作用で二人して発光どころか点滅したことなんかを指しているのだとすると、君、ヤバいぞ! だいぶ麻痺してきているな」と言って大笑いするから、こちらもつられて笑ってしまう。

「あれはひどかったね。あの時もふたりしてハイになってたのか、なんだか笑えてきちゃってさ」

「大体君は時間がないとなれば三本でも四本でも薬品を一気に飲んでしまうんだから……あれは中々衝撃的だったな。あぁ、たしかあの時は時間がもったいないからといって点滅したままもう日暮れのグラウンドに出て測定していたら、さすがにフジ君に止められてしまった。思えば彼女にも世話になったな」

「フジキセキ、色々見逃してくれたりしたね。門限のこととか。いつかお礼言わなきゃね」

「何、あの時は彼女が一〇分ほどうたた寝していただけのことさ、彼女本人の言葉を用いるならね」と言ってタキオンはまた笑う。

 

 そんなふうにタキオンが笑っているのを見て、ああそうだ、この歳月はきっと楽しかったんだ、と思った。

 周りの人たちにはずいぶん迷惑をかけたし、どうにも奇妙なことをやっているおかしなトレーナーとウマ娘にも見えただろう。それから当然苦しみ、もがきながら走りつづけてきたけれど、それでもきっと楽しかったんだ、と思った。一年半の間に二度の春と二度の夏と二度の秋が過ぎ、数えきれない夜をラボで明かし、数えきれない量の紅茶をタキオンのために淹れた。自分のために用意したコーヒーに彼女が間違えて口をつけて渋い顔をして文句を言うなんてことが何度もあった。もう灯りの消えた廊下の一角にふたりの笑い声だけが響いた、そんな夜が何度もあった。

 

「……はぁ、笑った。確かに、苦しいだけの日々ではなかったな。充実していたよ。おかげでデータもこれだけ集まった」タキオンはそう言ったあと、少し間を置いてから続ける。「君は憶えているか分からないが、昔、あの超光速の粒子に乗せて過去の自分にメッセージを送ることができるならどうするか、聞いたことがあっただろう?」

「もちろん憶えてるよ」

「今の君ならどうする?」

 今の自分ならどうする?

 もし過去の自分になにか伝えられるなら……? ぼんやりした頭で考えた。ふたりのプランについてなにかアドバイスするだろうか。タキオンの脚の具合を考慮した上での距離適性の問題がまずある。距離を変えることでレースに出ることはできるかもしれない。いや、しかしそれではふたりが求めるデータが取れない。力の温存には意味がなく、ただレースに出れば良いわけではない。だけど自分はタキオンがレースで走るところが見たい。いや、しかし、もし早々とプランBに切り替えていたら、そもそもこの一年半彼女が味わった苦しみを回避することができたはずだ。走るだけがウマ娘の人生ではない、それはトレーナーとしてもよくわかっている。なによりタキオンならプランBに絞ったとしても後進の育成のためにすごい成果を出せるだろう。だけど――

「……言うよ」気づけば言葉が出ていた。声が震えるのが止められなかった。「もっと頑張れよって言うよ。死ぬほど頑張れって言うよ。勉強も実験も検証も、もっと本気でやれって言うよ。寝るなって……」口をついて出てきた言葉は自分でも驚くほど拙く月並みもので、それから同時に涙と鼻水も出てきた。タキオンが慌てた様子で立ち上がるのがわかった。

「情報が送れるんだったら、この一年半で二人で集めた情報を全部送る、それを足しにしてもっと先に進めって言うよ」いい大人が情けなくて仕方ない。デスクの上のティッシュ箱に手を伸ばしてむしり取ったティッシュを顔にあてたのは、恥ずかしくて彼女に顔を見せられないからだった。彼女がこちらに近づいてくるのがわかる。「なんだってしてあげたいんだ……本当は、それでタキオンの脚が良くなるのなら、自分の脚で良いなら一本だって二本だってあげたいよ。そんなの意味ないってわかってるけど……関係ない話でごめん」涙と鼻水でむせてしまって、またティッシュをむしり取って顔を拭く。

 すると白衣の袖に包まれたタキオンの両手がこちらに伸び、自分の顔を持ち上げると、彼女と目が合った――窓から差し込む夕日に照らされた彼女の瞳は赤く輝いているように見える。そして真剣な表情で彼女が言う。「いや、変なことを訊いてすまなかった……そういえば、君はそういうやつだったね」

 それから気づくとタキオンの腕が自分の頭を包むようにして抱いていた。「君の瞳はあの頃からずっと変わっていないようだね。全く、君は本当に狂ったモルモット君だよ……だが私も全く同感だよ」彼女の声が少し低くなる。「君が私のトレーナーでよかったと、心底思うよ……思えば私は君のようなトレーナー君が現れるのをずっと待っていたのかもしれない」

 彼女の胸に顔を埋めていたから、そう言ったときに彼女がどんな表情をしていたのかはわからなかった。

 

「……ごめん、タキオン、白衣に涙が、鼻水もついちゃったね」少し間を置いて、呼吸を整えてから顔を上げる。

 すると彼女は「なーに、構わないよ。洗濯は当然君の仕事だからね」と言って笑った。

 

*****

 

 グラウンドで隣に座ったタキオンが最後のデータに目を通しているあいだ、なんとなく空を眺めていた。秋まで張りつめていた緊張感とはうってかわって今の自分がずいぶん放心しているのがわかる。

 数日前の有マ記念をエアシャカールとファインモーションが走るのをトレセン学園内のテレビでぼんやり眺めていたことを思い出した。テレビの中の中山レース場はどんよりした曇り空だった。それに比べて今日の空は晴れわたっていて、雲ひとつない。年の瀬の空気は冷たいけど、太陽の日差しは温かく感じられる。

 

「うん、良いじゃないか」資料を読み終わったタキオンが言う。「さて、これより先私はトゥウィンクル・シリーズ以外のレースを検討することにするよ。プランAは続行。それにこれからはプランBに割く時間ももっと増やせるだろう」

 そう言い終わると彼女も空を見上げる。

 

 するとなにかが空中を漂っているのにふたり同時に気がついた。目を凝らしてみるとそれはどうやら四つか五つ束になった風船が空を昇ってゆくところのようだ。

「フム、風船だね」

「風船だ」

 風船が昇ってきた道すじをたどるようにして視線を下ろすと、グラウンドの反対側でゴールドシップが数人の子供たちに風船を配っているのが見える。

「ゴールドシップ君だね」

「ゴールドシップだ」

 トレセン学園でイベントの開かれる日でもないけれど、休日だから近くの子供たちが遊びに来ているのかもしれない。それにしてももう冬休みなのだからグラウンドで練習しているウマ娘もぽつぽつ見える程度だ。ジャージ姿のゴールドシップがなぜ風船を子供たちに配っているのか、一体どこからその風船を持ってきたのかはもちろんわからない。でも、まあゴールドシップのやることだからな、と思っていると「ゴールドシップ君は子供に好かれるからねえ」と、のんびりした調子のタキオン。

 

 それからふたりとも黙って腰を下ろしたまま、風船が空高くへと昇ってゆくのを長いあいだ眺めていた。五分だったか一〇分だったか、それとももっと長いあいだだったのか、それはわからない。朝の雨で空気は澄み切っていたから、ずっと風船を目で追うことができた。

 ここしばらく考えていたことをタキオンに伝えるならきっと今なんじゃないか、とふと思った。

「ねえタキオン」

「なんだい、トレーナー君?」

「三年が終わってさ、これから別のウマ娘を担当することになるだろうけど、でもタキオンさえよければこれまでと同じように助手としてタキオンの研究を手伝いたいと思ってる。そういう掛け持ちがトレセン学園側から許可が降りるかわからないけど、とにかく掛け合ってみるつもりでいるよ」

 すると彼女は一瞬驚いた顔をしたようにも見えたけど、すぐに「アーッハッハッハ!」と笑う。

「真剣な顔をしていると思ったら、なんだそんなことか。そんなの当たり前じゃないか。君は私のモルモット兼助手なんだからね、アッハッハ!」いつもの彼女らしい様子になんだかほっとする。「君は変わらないね、相変わらず狂っている。大体私だって本来は早々とプランBに切り替えても良かったのだが……カフェや他のウマ娘のサポートに回ることだってできただろうし。だが、非合理的なことに……いやこれはなんでもないさ」

 

 それからタキオンはもうほとんど見えなくなっていた風船を再び眺める。風船がどこまで飛んでゆけるのかはわからない。鳥に突かれてしまうかもしれないし、ひとりでに割れてしまうかもしれない。それとももしかしたら宇宙まで飛んでゆけるのかもしれない。

「例の光速度より速く動く仮想粒子――あの話にはもうひとつだけ続きがあるんだ」とタキオンが唐突に話をはじめた。

「つづき?」

「そう。以前にも話した通り、あれはあくまで理論上の仮説で、いわば鏡の中の世界の話さ。しかし、これは以前ある物理学者の講演の映像を見たときに彼が言っていたのだが……あぁ、メモとペンをくれたまえ」

 鞄に入れているノートや筆記具とは別にシャツのポケットにもメモ帳とペンを入れて持ち歩くのが自分でも気づかないうちに当たり前になっている。タキオンが必要なときにいつでもすぐに渡せるように。

 ペンとメモ帳を手にしたタキオンはなにか英語でさらさらと文章を書いた。彼女に手渡されたメモ用紙を見ると、そこにはこう書かれていた――

 

――Nothing can travel time but “nothing” CAN travel time.

 

「ナッシング・キャン・トラベル・タイム・バット……?」

「その物理学者はそう言ったんだ。前半はわかるだろう?」

「ええと、『時間を旅行できるものはなにもない』……?」

「そう、その通りだ。後半はどうだい?」

「うーん、前半と同じようにしか見えない……。カッコと大文字が違うみたいだけど」

「フム、さすがにこれは難しかったか。何、いかにも英語らしい言葉遊びのようなものさ。前半は君が言ったように『何ものも時を旅することはできない』だ。そして後半は「だが『ナッシング』は時を旅することができる」ということ。つまり『無』というものは時間を超えられる、ということさ」

「『無』というものが時間を超えられる……?」話があまりにも難しいから、ただ復唱するだけになってしまう。「それってどういうこと?」

 すると彼女は「そんなの私にだって分かるわけないじゃないか!」と言ってあっけらかんと笑った。「量子力学は私の専門ではないのだし、もとよりその講演も一般向けだったからその物理学者だってどれ程本気でその表現を用いていたのかは疑問が残るねえ」

「ええ……なにそれ……」呆気にとられてそんな言葉が漏れる。

「いや、しかしだね。いいかい、トレーナー君。『タキオン』はあくまでこの世界には存在しない、ないし実用化不可能な仮説的存在に過ぎないんだ。もし超光速の粒子によって過去へと情報が遅れてしまえば歴史にパラドックスが起きてしまう、だからそれはあり得ないというわけだ。だが、情報ではないようなもの、『無』というものは過去や未来へと届けることができるかもしれない」

「よくわからないよ……じゃあタキオンはその『無』ってやつが例えばなんだと思うの?」

「物質でも情報でもないようなもの、」するとタキオンは少し黙って言葉を選ぶようにしてから「それは例えば『想い』のようなものじゃないかな」と言った。

「『想い』……?」そんな言葉が彼女の口から出てくるのは意外だったから、またしてもおうむ返しになってしまう。

「アッハッハ! 何、私にだってわからないよ。カフェの言う通り、見えなくとも存在するものはあるのかもしれない。まぁ、こんなことを言っていてはまたシャカール君にロジカルじゃないだのロマンチストだのと言われてしまうだろうがね。しかし、君と研究を進めてゆくうちに興味が出てきたんだよ、社会的動物の根源的な部分についてさ。とどのつまり『感情』だよ」

 なにも言えないでいるとタキオンは手にしていたメモにもうひとつなにか書きくわえていた。それからメモを破り取って、どこか満足気な様子をしている。

「それは一体?」

「何、これは何でもないさ……さて、そろそろ昼食にしようか」と言って彼女は立ち上がる。

「え、あ、うん……!」

 タキオンは足早に歩きはじめる。

 

「やぁやぁゴールドシップ君。今日も元気そうだねえ」グラウンドの反対側まで回るとタキオンはゴールドシップに声をかけた。周りの子供たちは風船を手にしていて、ゴールドシップは残った風船を片手に持ち、反対の手ではシャボン玉を飛ばしている。

「おっ、タキオーン! こないだは大量の水を一瞬で凍らす薬、ありがとなーっ!」

「何、なんてことはないさ。実験の副産物だったからね。ところで、風船、ひとつもらってもいいかな」

「しゃーねーなー。子供じゃなきゃ一個につき一〇〇万ゴルシドルとってたとこだけど、まあいいぜ! 薬の礼もあるしな。つーわけでコレ、ほらよ」

 ゴールドシップからひとつ風船を受け取ったタキオンは先ほどなにか書きくわえて破り取ったメモ用紙を取り出す。それからそれを細かく折り畳んで風船の紐にくくりつけるとそのままさっと腕を上げ、こちらが思わず「えっ」と声を出す間もなく手放してしまった。

「タキオン、わざと放すのはダメだよ!」風船はみるみる高く昇ってゆく。

「あ!? タキオン! オメー、子供の前でそーゆーことすんなよな、流石のゴルシちゃんも許さねーぞ!」

「アッハッハ!」とタキオンは笑う。「いや、今回ばかりは許しておくれよ」それから彼女は子供たちの方に身をかがめて、本気とも冗談とも取れない調子で言う。「いいかい、実のところこれはね、非常に重要な実験の一貫なのだよ」そう聞かされた子供たちは当然ぽかんとしている。「あー、しゃーねーなー……」とゴールドシップ。

 

 宙を昇ってゆく風船を少し眺めたあと、タキオンはゴールドシップに訊ねた。

「ゴールドシップ君、君はここトレセン学園からはずいぶん遠いところからやってきたらしいじゃないか」

「おうよ! ゴルゴル星から来たからな」

「それはどれくらい遠いのかい?」そう訊くタキオンの調子はやはり本気なのか冗談なのかわからない。

「だいぶ遠いけど、ラップ越しに遠くの空を眺めると見えるぜ、ゴルゴル星」と言ってゴールドシップは遠くの方を指差す。そちらの方に目を向けると「ってオイ、見ようとすんじゃねえ、感じろ! ドントシンクフィール!」とゴールドシップに言われる。

「どうやってここまで?」なんだか自分も思わず訊ねてみたくなって口を挟んでみる。ゴールドシップを見ていて肩の力が抜けたのかもしれない。

「んなのワープに決まってんだろーが!」と言ってゴールドシップは笑う。

「アッハッハ! 実に興味深い。今度詳しく聞かせておくれよ。それにしても、何故わざわざここにやってきたんだい?」とタキオン。

「そうだなー。うん、こっちに来たらおもしれーヤツがいるんじゃねえかって、なーんか思ってなー。ゴルゴル星でもヒマしてたってわけじゃないんだけどな」

 すると突然ゴールドシップはグラウンドの彼方に目をやり「……おお!? ゴルシレーダーに反応アリ! ()()()、良いところにきたぜ!」と言うからその視線の先を追うと、グラウンドの外周をメジロマックイーンが黙々と走っているのが見えた。彼女もまた休養からの復帰を目指して調整を重ねている。

「わりぃ、ゴルシちゃん用事ができちまった。じゃッ! またな!」と言って風船の残りを子供たちに手渡すと、ゴールドシップはまだ少し湿ったグラウンドの土を蹴り上げながら猛スピードで走り去ってゆく。「オラァーッ! マックちゃーんッ!! ヒャッホホーイ!」そう叫ぶゴールドシップの声が年末の乾いた寒空に響く。

 

 子供たちが三々午後に帰ってゆくのを見送ると「私たちも昼食としようじゃないか」とタキオンは言って近くにあるベンチを指差した。「さてさて、弁当を出しておくれよ」

「弁当? ここで?」

「勿論だよ。用意しているのだろう? ほら、さっさと出したまえ」

「いや、持ってきてないけど……」

「えー!? なんだって!?」

「もちろん作ってはいるよ! タキオンの分はラボに置いてきたから、いつでも好きなときに食べてくれたらいいかなと思って」

「私の分は……って君、自分の分はどうしたんだ?」

「今日は事務関係のデスクワークがあっていつ食べられるかわからないからトレーナー室に置いてきたけど……もしかして外で食べるつもりだったの?」

「勿論じゃないか! 朝そう言っただろ!」

「あー……」思いかえせば今朝タキオンは、昼には晴れて暖かくなるらしい、昼食が楽しみだと言っていたような気がする「あれはそういう意味だったの?」

「当り前じゃないか! 気づかなかったのかい? もう三年もの付き合いだというのに、全く君というトレーナー君は! 適切な量の日光を浴びることで分泌されるセロトニンが及ぼす心身への効果についてはこれまでも散々話しただろう?」

「あー……なるほどね」

「それに私の分だけラボに置いてきただなんて……君は私にひとりで食べろって言うつもりなのかい? 大体、他者感情による心理的効果というものがあってだな、君もそれくらいのことは理解していると思っていたのだが……いや、これはまあいい。ともかく、一旦ラボまで戻らなくてはならなくなったじゃないか。いや、この際ラボで昼食というのはいいとして……とにかく時間は有限なのだよ、トレーナー君!」

 そう言ってタキオンは校舎の方へと駆け出す。

「ごめんごめん、ほら、今日のお昼のおかずにはタキオンの好きなアレも入ってるからさ」と彼女の背中に声をかけると、彼女の耳がピンと立って反応するのがわかる。

「そんなことで私の機嫌を取れると思ったのかい? 全く、君というやつは……」と彼女は不満そうに言うけれど、尻尾はパタパタと揺れていて、だから喜んでいるのがわかる。でもそう言うときっとまた面倒なことになるから、だから言わないでおこう。

「全く、なんだい、やけに嬉しそうにして。ほら、急ぎたまえ」と、こちらを振り向いた彼女が言う。「ほら、はーやーく!」そう言って彼女は手を叩く。

 

 もう一度空を見上げるとタキオンが放った風船はもうずっと高くまで昇っている。だけどそれは真昼の太陽の光に包まれて、それで眩しくてもう見えなくなった。

 

 

Ⅲ――()()()()()()

 

 ふと空を見上げるとそろそろ近づいてくる春の日差しが眩しい。手で顔を覆いながら模擬レース会場のスタンド席をタキオンと一緒に降りてゆく。

 タキオンは三戦目のGⅡ弥生賞を数日後に控えていて、レースに向けた最終調整の段階に入っている。負荷のかかるトレーニングは避けて、心身ともにコンディションを整える段階だ。体力、気力ともに十分、仕上がりは上々。ふたりでつづけている研究に抜かりはない。

 今日行われる練習会をダイワスカーレットが見学するという話を聞いてタキオンも興味を持ち、顔を出すことにしたのだ。模擬レースの会場に足を運ぶのはダイワスカーレットに誘われて彼女とウオッカが走るのを観にきて以来だからちょうど二ヶ月ぶりになる。特に今日の模擬レースはトレセン学園入学を目指すウマ娘たちが入学試験を受ける前に参加する定期的な練習会で、たまにはそういうのを観るのも刺激になるかもしれない。

 

「やぁやぁスカーレット君、待たせたね」

「タキオンさん!」と、ダイワスカーレット。スタンド席の待ち合わせのエリアに着くと、彼女の隣にはエイシンフラッシュがいる。

「おや、これは驚いた。今日はフラッシュ君も一緒なのかい」

「そうなんです! この前休みの日に買い物に行ったら急な雨に降られちゃって。そしたら偶然フラッシュさんがいて、傘に入れてもらったんです。それで今日はそのお礼も兼ねて。今日はフラッシュさんの親戚の子が走るそうなんです」

「天気予報は外れたましたが、その日も急な雨への準備は万全でしたから支障はありませんでした」と、エイシンフラッシュ。

「ククッ、さすがフラッシュ君だねえ。いやはや、それはどうもありがとう」

「いえ、それほどのものではありません……ですがどうしてタキオンさんがお礼を?」

「いや何、大したことではないんだ。なんだかスカーレット君は他人の気がしなくてねえ」

 そんなふうに話しているうちに練習会の準備が進んでゆく。遠くからやってきたエイシンフラッシュの親戚の子はいずれトレセン学園の入学試験を受けるつもりらしい。こうした定期的な練習会で学園の関係者は入学希望のウマ娘たちの走りを視察する。

 

 次々に行われてゆくレースを、タキオン、ダイワスカーレット、エイシンフラッシュとともに眺める。若いウマ娘の走る姿をタキオンも興味深そうに眺めている。ここから未来のスターウマ娘が現れるのかもしれない。

 ひととおり目星のレースが終わると、ダイワスカーレットとエイシンフラッシュが席を立つ。今日はこれから練習会を終えたエイシンフラッシュの親戚の子と食事をするそうだ。ダイワスカーレットは「タキオンさん、今週末の弥生賞頑張ってください! 中山レース場まで応援に行きますから!」と言うと、何度もこちらを振り向いて手を振りながらエイシンフラッシュと一緒にスタンドを上って行った。

 

 それからもうすこし練習会のつづきを眺めたあと、「フム、本格化前の未成熟なウマ娘の走りを観察するというのも中々興味深いものだったね。さあ、私たちも戻ろうか」と、タキオンが言ってふたりで席を立つ。

 するとダイワスカーレットがスタンドを駆け降りて戻ってくるのが見えた。

「いっけない、ちゃんと持ってきたのに渡すのを忘れるところでした! いつもタキオンさんにはお世話になってるからなにかお礼がしたくて」そう言うとダイワスカーレットはリボンでラッピングされた包みを取り出す。「タキオンさんの好きな甘いお菓子をフラッシュさんに相談して選ぶのを手伝ってもらって……えへへ、あと、メッセージカードも入れてます」ダイワスカーレットはどこか照れ臭そうに言う。「おやおや、これはすまないねえ」とタキオン。

 タキオンより少し背の高いダイワスカーレットがスタンドの一段上から包みを手渡すとき、タキオンは腕を伸ばして、それはまるで空から降りてきたプレゼントを受け取るかのようだ。ダイワスカーレットは少しはにかんで笑うと、またスタンドを駆け上がっていった。

 

 ダイワスカーレットから受け取った包みをしばらく見つめたあと、タキオンが言う。「さてさて、トレーナー君、私たちもこうしてはいられない。ラボに戻るとしよう。そうそう、次のレースにはカフェも出ることは知っているね? いやはや、楽しみだねえ。初めてレースでぶつかるのがクラシック三冠の前哨戦となるGⅡレースというのも中々オツなものだろう? 距離適性から言えば今回は私の方が有利だろう。まあ彼女とはこれから色々なコースを共に走ることになるさ」そう語る彼女はなんだか嬉しそうだ。

「あぁ、それから」と言ってタキオンは持参したファイルからクリップでまとめられた数枚の資料を取り出す。「まあ見てくれたまえよ。次のレースからは事前にシャカール君にタイムの予測を導き出してもらうことにしたんだ。何、私も彼女にデータを提供しているのだから、その見返りというわけだよ。天気によってコンディションが変わるから複数の予測を用意してもらっている。今のところ予報によれば当日は午前中に雨が降り午後には晴れるようだが、バ場の状態はそれほど良くないだろう。その場合の予測がこれだというわけさ」

 手渡された資料に目を通してみる。エアシャカールが作成した複雑な数式やグラフが並び、それらを目で追ってゆくと、最後に導き出されたタイムは――

「二分五秒七、か」

「そう。君はどう思うかい、トレーナー君?」

 レース場の特徴、出走する予定のウマ娘たちの特性とそこから予想されるレース展開、今のタキオンのコンディション……トレーナーとしての経験から言ってもその数字はおおむね妥当のように見える。それはそうだけど、いや、しかし――

「ふむ、何か言いたげな顔をしているね? なんだい、気になるな。ほら、口にしてみてごらんよ」とタキオンが訊ねる。

「いや、うーん……」あまり確証のないことを軽率に口にすべきではないとはわかっているけれど、それでもやはり彼女には思ったことを伝えるほかないのだろう。「えっと、これは勘なんだけど……タキオンならもっと先に行ける気がする、と思って」

「アッハッハ! なんだ! いやはやそれでこそだよ、モルモット君!」と言って彼女は笑う。「私も同感だよ――確定的な未来なんて誰にもわからないのだから。それに天気予報だって外れるかもしれないしね」

 それから彼女は「ならば決まりだ、行くとしようか。今日はどんな実験をしようねえ。天気は晴れ、湿度も良好! 実験日和だ! ほら、早くしたまえ」と言うと、珍しくその場で軽く跳ねてみせ、そしてスタンドを駆け上がりはじめる。

 

 タキオンの脚は速い。自分の、人間の脚では、軽やかに足取りを進める彼女に息を切らしながら必死についてゆくのが精一杯だ。春の日差しに照らされてスタンドを駆け上がりながら光の方へと向かってゆく彼女は、なんだかそのまま空へと飛んでゆくことさえできるように思える。

 タキオンなら、タキオンと一緒なら、()()()()も置き去りにして、()この瞬間にも光の速さのその彼方へと飛んでゆける、そんな気がする。彼女と一緒に駆け抜ければやがて時間は止まり、この今が永遠となる――そしてふたりはきっとさらにその先へと進むだろう。

 するとタキオンはふと足を止めて振り向く。「モルモット君、」こちらに片手を差し伸べると笑って、そして彼女は言うのだ――さあ、可能性を導き出そう、と。

 

(「超光速の粒子に乗せて」了)

 



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