ネクタイノオモテウラ (建月 創始)
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第1話 夢

シャニP×樋口円香の完全4年後IFです。
完全に自己解釈のみで書いているので解釈違い注意です。

本来短編で終わる予定だったんですけど、ちょっと長くなりすぎたので複数話構成になりました、許してください。
よろしくお願いします。


ノクチル。

それは、283プロダクションより発表された、4人組アイドルユニットの名だ。

誰よりも透明で、綺麗で。

彼女達のパフォーマンスは老若男女、誰もを魅了した。

そのノクチルが、本日のラストライブをもって4年の活動に幕を下ろした。

ラストライブの会場は日本有数の大規模ドームであったにも関わらず、満員御礼。

更に会場の外にはその空気感だけでも味わおうと、多くの人が押し寄せた。

まさに大団円といった様子で彼女らの“ノクチル”としての活動は終えた。

 

そう、ノクチルは終わったが、そこで彼女らの人生が終わるわけではない。

ある雑誌でノクチルについて語られた言葉を借りるとこうだ。

 

「かつて誰よりも透明であった彼女らの翼は、各々の色でついに色を付けた、それならば誰からでも見えるように大空へ、はたまた大海原へ、彼女らならば、もうどこへでも行けるのだから。」

 

そう、4人のアイドルはそれぞれ自分自身にあった道へと、歩みを進めたのだ。

 

浅倉透はそのルックスを武器にオールラウンドに活動するタレントに。

市川雛菜はそのインフルエンサーとしての才と若者からの絶大な信頼を存分に発揮することができるモデルに。

福丸小糸はタレント業は続けながらかねてより在学していた名門大学にて学問に励む学生へ。

 

そして、樋口円香は……。

 

_______________________________

 

「本当に……良いのか?」

 

戦々恐々としながらプロデューサーは質問を投げる。

 

その雰囲気を感じているだろうに、彼女は顔色一つ変えずに答える。

 

「はい、夢は充分に見ましたので」

「そうか……その意志を俺は尊重する、ただ、何故“アイドル”から“プロデューサー”になろうと思うのか、その理由をしっかりと聞いてからじゃないと駄目だ、大体円香には……」

 

話が長くなりそうな雰囲気を察知した円香は告げる、端的に、真っ直ぐに。

 

「貴方のようになりたいから」

 

真っ直ぐに向けられたその視線の先でプロデューサーは目を丸くする。

 

「……ははっ、少し聞き間違えたかな、もう一度言ってもらえるか?」

「貴方のようになりたい、なってみたいからです」

 

いつもなら溜息と共に飛んでくるはずの皮肉は今日は無い。

返ってくるのは一つの答えのみ。

きっと、何度聞き返しても違う答えは出てこない。

そのことを円香の眼差しは語っていた。

 

静かに深呼吸をして、プロデューサーは言う。

 

「詳しく聞いてもいいか……?」

「はい」

 

円香は一呼吸置いてからいつものトーンで語り始める。

 

「最初は本当にただ浅倉が騙されていると思って、事務所を訪ねました、そこで初めて貴方と出会いましたね」

 

事務所を訪ねてみて、出てきたプロデューサーは若く、どこか腑抜けていて、まるで浅倉を任せられないと思ったこと。

まるで絵空事のようなことをさも当然かのように語っていたこと。

暑苦しいくらい自分の仕事に誇りを持っていること。

 

私を呼び止めてスカウトしようもしたときの目が輝いていたこと。

 

その目を裏を暴こうと思ったこと。

 

その目を信じてみようと思ったこと。

 

まるでプロデューサーに初めに語られた絵空事のように、次々語られるプロデューサーと樋口円香のアイドルとしての記録。

4年という月日が流れたとしてもその日々は鮮明に焼き付いていた。

忘れることなど出来ないかのように。

第一忘れる気など毛頭ない。

 

そして、彼女の主張は次の言葉をもって、締めくくられる。

 

「……次は私が夢を誰かに語ってあげられる、思い出をあげられる、そんな存在になりたいんです」

「ははっ……そうか、そう、か……」

 

本人の気づかぬうちにツーッとプロデューサーの頬を涙が伝う。

そのことに気づいた彼から急に嗚咽が漏れ出す。

その嬉しそうな涙の姿はまるであの時、WINGを優勝した時のように綺麗で。

 

……その顔に。

その笑顔に救われてきました。

その立ち姿に勇気を貰いました。

不器用ながらもその真っ直ぐな力強さに背中を押してもらいました。

だから裏の姿を見たいと思ってしまいました。

でも“アイドル”の私達にその姿は絶対見せてくれなくて。

だからそのネクタイを緩められるようになる、その日まで、私は。

ワタシは。

 

「私の話はまだ終わっていませんよ」

「あぁ……もう大丈夫、泣き止むよ」

 

そしてまた、眩しい笑顔をこちらに向けた。

 

『あぁ、出てしまう』

いつも誰かのために歌っていなかったあの歌のように。

『歌いたい』

いつの間にか誰かを想いながら歌うようになったあの歌のように。

『言ってしまう』

アイドルという枠組みから飛び出すように。

『言ってしまいたい』

我慢ができないほどに我儘に。

『言ってしまえ』

誰よりも貪欲に。

 

「私は貴方のことが好きになってしまったんです」

 

まるでトリガーを引かれた銃弾のようにその言葉は飛び出した。

 

言葉の弾丸の火花に当てられたかのように全身がぼう、と熱くなるのを感じる。

頬が、耳が紅潮しているのが考えずともわかる。

 

でも、自分だけその顔を見られるのは癪だから。

彼女は飛び込む。

まだなんと言われたか信じられないように目を白黒させている、その男の胸に。

飛び込んで抱き締める。

まるで子供が、お気に入りのぬいぐるみに向けてこれは自分のものだと主張をするように。

 

「まど……か……?」

「なんですか?まさか、聞こえてなかった、なんて……」

「言わない」

 

今回ばかりは最後まで言わせない、言わせてなるものか。

そう言わんばかりに強く彼女の少し華奢な抱き締め返した。

互いの心臓の鼓動がシンクロするように早鐘を打つ。

 

「本当に、良いのか?」

 

投げかけられた最後の質問、その返答は言葉ではなく頬へと返された。

 

そして、一度離れて彼女の顔を見る。

これまでにないくらいとても赤い。

 

そしてプロデューサーの顔を見て彼女はいつものように微笑む。

 

「まるで秋の紅葉みたいですね、ミスター旬男」

「ははっ、そっちは熟したのりんごみたいだぞ」

「なら美味しく食べられるうちに」

 

返ってきた返答は年下とは思えないほど挑発的で少し面食らったが、その挑発に乗るようにぐっと引き寄せて唇を重ねる。

一瞬円香の身体が強張ったのを感じ、怖がらせてしまったと思ったプロデューサーは唇を離そうとする。

がしかし、円香にジャケットの襟を掴まれており、離れることは許されなかった。

その円香の手を見ると小さく震えていた。

そのことに気がついたプロデューサーは反射的にその手を優しく握ってやった。

すると円香の体の強張りは消え、自然体へと戻れたようだった。

 

どれだけの間キスをしていたのだろうか、と、そう思ってしまうほど長い時間に感じた、そのキスを終えた二人は見つめあう。

笑顔が更に緩む、仕事中に張り付いた仮面が崩れ落ちる。

そしてひとしきり笑いあい、向き直った円香の前に居たのは、“プロデューサー”ではなく。

樋口円香の見たかった、一人の青年“一色翼”だった。

 

_______________________________

 

一色翼の朝は早い……とは言い切れない。

実は朝にはめっぽう弱く、学生時代は遅刻1分前ギリギリに教室に入ってくることで有名だった。

なので大体早出の仕事ではない日に起きるのは7時過ぎだ。

その時間に起きて、まず朝ごはんのコーンフレークと共にドリップコーヒーを1杯を飲み眠気を覚ます。

スーッと鼻を通り抜けるのはいつの間にか身体に染み付いてしまった無糖の香り。

コーヒーを腹に流し込み、洗面台で洗顔、歯磨き、髪のセットをノロノロと行う。

クローゼットの中から適当にワイシャツとスラックスを手に取り、着る。

そしてお気に入りのネクタイを手に取り、慣れた手付きで結び、キュッと首元を締める、その瞬間、スイッチが押されたかのように意識が“一色翼”から“プロデューサー”へと切り替わり、行動の優先順位が変化する。

自分ではなくアイドルを最優先事項に、283プロダクションのプロデューサーとして、アイドル達に恥をかかせるわけにはいかないから、スーツで“自分”を覆い隠して。

家を出る前に鏡で一度口角を上げてみて、そこに写った屈託のない笑顔を浮かべる顔を確認してから彼は家を出た。

_______________________________

 

樋口円香の朝は本当に遅い。

といっても「樋口円香は朝に弱い」というのは実はもう円香のこと知っている人間はほとんどが周知の事実として認識しているため、もはや驚くこともないことだ。

……知られる原因となったバラエティ番組の透の発言はまた別のお話としておこう。

 

さて、円香自身はそのことについてとても苦労しているのだが、もはや本人の特性として根付いてしまっているため半ば改善は諦めてしまっている。

だからこそ、一度起きてからの行動は最早神速と言える速度で進行する。

洗顔、化粧水などでスキンケアを済ませると、本来最も女性の準備で時間を食うことこの上ない化粧を、アイドル時代にメイクさんに教えてもらった順序で効率良く行い、なんと数分で済ませる。

クローゼットを開け、私服の方ではなく女性用のパンツスタイルのスーツに手を伸ばし、身に着ける。

スケジュールの書かれた手帳を片手に母の用意してくれていたトーストとコーンスープを食べる。

 

(浅倉は、今日はバラエティ番組の撮影のあとは午後から雑誌の打ち合わせ…これには同席しないと、雛菜は……何度も一緒に仕事をしたことあるカメラマンだから大丈夫でしょ、小糸は2限の後に迎えに行って定期放送のラジオのパーソナリティ、うん、これぐらいなら)

 

一人でも出来る。

 

そう思い、母に「ごちそうさま、行ってきます」と告げて彼女は家を出た。

その横顔には緊張の色が残っているが、円香はそれに気が付かないフリをした。

 

_______________________________

 

「おはよう、円香」

「おはようございます」

 

向かい合わせのデスクの近くでお互いに挨拶を交わす。

そしてまだ業務時間になっていないというのに忙しそうにパソコンのキーボードを叩くプロデューサーは口を開く。

 

「円香、今日のみんなの活動なんだけど…」

「把握しています」

「流石だ、ただ雛菜の撮影に心配な点が一つできたから聞いてほしい」

「はい」

「今回の撮影、いつもの人が撮ってくれる予定だったんだけど、ちょっと体調が優れないらしくてさ、代打で同じ出版社の別雑誌のカメラマンが出ることになった」

「カメラマンの変更ですか、なにか問題が?」

「そのカメラマンさん、ちょっと過激な写真を撮りたがる人でさ、しかも今回は少し若年層向けの漫画雑誌の撮影っていうことで過激な注文が無いとは言い切れない」

「そこで私が撮影に赴いて、釘をさせと?」

「直接的には言わなくて良い、あくまで雛菜が明らかに嫌がる注文が飛ばないように上手くコントロールしてくれれば良い」

「……失敗した場合のリスクは?」

「大丈夫、そのときは俺がなんとかする」

「答えになってない……私一人がなんとか出来る範囲じゃないとあなたの仕事が増えるだけでしょ?それじゃあ、あの3人の仕事を任せてもらった意味がない」

「……そうだな、悪かった、端的に言うと、カメラマン一人に嫌われる程度じゃ仕事が激減するわけじゃないからリスク的には問題ないし、もし何かトラブルになりそうになっても円香なら切り抜けられると考えてる」

「ありがとうございます、それがわかっただけで充分です」

 

メモ帳から目を上げ、プロデューサーの顔を見る。

その顔は少しバツが悪そうな顔をしていた。

 

「どうしたんですか?」

「ははっ、いやぁ、円香の成長具合はすごいなと思ってさ、あと数ヶ月もすれば俺を追い越しちゃうんじゃないか?」

 

円香はその言葉に微笑する。

 

「私はあなたの真似事をしているだけです、だからその先はまだ望めませんよ、ミスターお手本」

「お、“まだ”か、っていうことは、いつかは俺を追い越してくれるってことだな?」

「そういう返答は嫌われますよ」

「ははっ、それはそうだな、気をつけることにしよう」

「この指摘実は何度もしてるけど」

「……まぁそれだけ円香には期待してるってことだよ」

「……もうそろそろお互い出る時間ですよ、アンティーカのロケの打ち合わせで地方へ出張でしたよね、頑張ってきてください」

「あぁ、円香に追い越されるわけにはいかないからな」

「まだ言いますか、ミスターリピーター?」

「ははっ、それじゃあ行ってきます、今日もお互いに頑張ろう!」

「はい」

 

「頑張りましょう」

 

……

………

 

雛菜の撮影については特に心配してたようなことは起きず、順当に終わり、小糸のラジオ、透のバラエティ、雑誌の打ち合わせも特に大きな変更点は無く、今日のタスクは全て終了した。

静かに呼吸を吐き、胸を撫で下ろしたところで携帯が鳴った。

携帯の画面に映るのは事務員のはづきさんの連絡先。

いつも通りに応答する。

 

「はい、もしもし樋口です」

「円香さん!!プロデューサーさんが…!!!!」

 

慟哭。

その表現が似合いなほどはづきさんの声は動転していて、いつもの声色はどこにもなかった。

そして、円香はその口から語られる言葉の内容について上手く理解が出来なかった。

いや、信じられない、信じたくないように蓋をしようとした。

しかし、その蓋をこじ開けて情報は嫌でも入ってきてしまった。

 

プロデューサー……一色翼は出張先の交差点で信号無視をして突っ込んできた車に事故を起こされ、現在、意識不明の重体になった。

 

カランッ。

いつの間にか手を抜け落ちた携帯が地面に当たり音を立てる。

しかし円香にその音を気にすることが出来るほどの余裕は残されていなかった。

もちろん、その音を聞いて心配が更に深まり最早叫び声のようになってしまった、はづきさんの声でも、通話用スピーカーを通してしまえばあまりにも小さすぎる。

 

円香には。

なにも。

何も聞こえない。

唯一聞こえるのは悲鳴に似た自分の泣き声だけ。

しかし、彼女はそのことにすら気がつけていなかった。




次回もよろしくお願いします。


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第2話 存在

え〜〜〜〜〜〜その〜〜〜長らくお待たせしました…。
はい。その、筆がね?あ〜いえ、なんでもないです……。

さて、プロデューサーが事故に遭ってしまってさぁ大変な283プロダクション、一人になってしまった“樋口円香プロデューサー”はどうなってしまうの〜〜??!!

それでは、2話よろしくお願いします。


夢を見た。

それは楽しくて、嬉しくて、とても幸福な夢。

 

夢を見る。

それは今すぐに幸せを感じられることは叶わなくなってしまった夢。

 

夢を見る。

それは、その全てがガラスがひび割れる様にバラバラに壊れてしまう、そんな夢。

 

「……ッ!!」

 

あまりの寝苦しさに樋口円香は深夜に目を覚ます。

季節は冬、更に今年は寒波に襲われているため寝苦しさを感じることなどは滅多にないはずだ。

ならなぜこんなに汗をかいているのか。

少し考えるだけではその問いの答えはすぐには出ない。

悪い夢でも見たのだろうか、と考えるが、その内容は思い出せない。

ただ、胸に残る気持ちの悪さは延々と残ったまま、抜けることはない。

 

ただただ。

 

「気持ち悪い…」

 

彼女はそう言い、汗でぐっしょり濡れた服を脱いだ。

 

_______________________________

 

プロデューサー……一色翼が事故に遭ってから1ヶ月が経ち、景色はすっかり暖色の秋模様だ。

彼は今も眠っている。

 

この1ヶ月間、円香は翼の代わりにプロデューサーとして業務を行った。

そこで体感したのは彼がどれだけの仕事を一人で行っていたか、どれだけの責任を一人で負っていたか……どれだけ283プロダクションは彼の能力に依存していたか、だった。

 

それが顕著に現れたのは彼が居なくなってから2週間が経った頃。

 

3人から25人へ面倒を見る人数が増えたことによる極度のストレスによる睡眠不足、それは確実に彼女の身体を蝕み、苦しめていた。

突然の強い目眩に襲われた円香は倒れ、病院にて目を覚ました。

まだ意識が朦朧とする重たい頭を起こし、点滴のついた腕へと目を向ける。

すると視界の端で見慣れた姿が小動物のように動く。

見紛うこともない、その動きは福丸小糸のそれだった。

 

「ま、円香ちゃん?!大丈夫?!」

「……小糸?」

「う、うん!!お医者さん、呼ばないと!」

 

小糸は慌てた様子でナースコールのボタンを押す。

 

ノクチルのメンバーで看病をしてくれていたのだろうか。

小糸以外は真面目に看病してくれなさそうだ、と妙に頭は冷静に状況を整理する。

その冷静な思考はすぐに仕事の方向へと向ける。

 

「……みんなは?…私は……どれぐらい寝てたの」

「ね、寝てたのはそんなに長くなかったよ…!!2時間ぐらい!!」

「そう……ならまだ、大丈夫……」

 

のそのそと動き出そうとした円香の肩を掴んで小糸は言う。

 

「だめだよ!!今日は休まなきゃ……!!」

「……でも」

「円香ちゃん!!」

 

小糸の甲高い怒鳴り声が頭痛のする頭に響いて脳を揺らす。

その不快感に思わず顔をしかめる。

 

「ぴゃぁ?!」

「……ッ……ごめん、ちょっと一人にして」

「……ご、ごめんね」

 

小糸はそう言い残し、明らかに落ち込んだ様子の背を向けて病室を出ていった。

 

どうしても体調が悪いと他人に当たりそうになってしまうのは悪い癖だと思う。

今はそんなことでイライラしている場合ではないのに、あの人が居ないのに……。

小糸にはあとで謝らないと……。

 

急にまとまらなくなった思考に嫌気が差しすぐに考えることをやめる。

 

小糸が病室を出てからすぐ、医者が入ってきて結局一人にはなれなかった。

今の気分や体調などを聞かれたが、正直に「最悪です」だなんて答える訳がなく、無理をして一言告げた。

 

「大丈夫です」

 

と。

 

_______________________________

 

更に2ヶ月が経った。

季節は冬、駅前の並木道はすっかりイルミネーションにより鮮やかな景色へと変わり、その中を手を繋いだカップルが歩いていく。

その横を円香は早歩きで通り過ぎる。

 

今は色恋に花を咲かせているわけにはいかない、そう思いながらも、そのカップルに目線を向けてしまい、彼女は静かに唇を噛んだ。

 

……彼はまだ目覚めていないのに。

 

円香が倒れてからは各々のユニットで適任者を選び、活動の方針決めと仕事の選別を手伝ってもらうことになった。

実は、これは最初に283プロのアイドルそれぞれから提案されていたものの、円香がそれぞれの活動に集中してほしい、と突っぱねた案だった。

そのためこのことが決まった際、円香はバツが悪そうな顔をした。

自分の不甲斐なさを戒めるように拳を強く握って。

 

イルミネーションスターズからは風野灯織、放課後クライマックスガールズからは有栖川夏葉、アルストロメリアからは大崎甘奈、アンティーカからは三峰結華、ストレイライトからは黛冬優子、シーズからは緋田美琴が選出された、円香はその6人のフォローをしながら、引き続き旧ノクチルの3人の面倒を見る。

また、その6人には、はづきさんより現在の案件依頼が共有され、案件を受けるか受けないかの判断が委ねられた。

 

そして、そのやり方は成功を納めた。

 

流石に何年も活動をしている彼女達の仕事選びの勘とリスク管理は完璧で、大きな問題を起こす、または起こされることもなく時間は進んだ。

そして、仕事が順調に進むようになり、段々とこなす仕事の量は増えていく。

まるで、プロデューサーへの気掛かりな気持ちを隠そうとしているようだった。

 

そして、大忙しだった年末年始が終わり。

智代子の提案で事務所の近くの居酒屋にて行われた打ち上げも盛り上がり、その盛り上がりが最高潮に達したところにはづきさんが息を切らしながら転がり込んできて、一言笑顔で告げた。

 

「み、皆さん!プロデューサーさんが!目を覚ましたって!!今、電話で!!」

 

その夜は大騒ぎのまま幕を閉じた。

_______________________________

 

「……遅い」

 

円香は携帯の画面を見つめてそう呟く。

彼と約束をした時間から、そろそろ10分が過ぎようとしている。

といっても、円香も10分程度待てないわけではない、なぜ不満を持っているか、その理由は簡単だ。

彼女は待ち合わせの30分前に待ち合わせ場所に着いてしまっていた。

待ち合わせ場所に到着し、我に返った瞬間、自分が嫌になり踵を返しそうになったが、流石にそこまではしなかった。

 

……ということで、今彼女の精神状態は自分への羞恥心と、待ち合わせに遅れてくる彼への苛立ちでとんでもないことになっている。

そこに火に油を注ぐように走って登場するはもちろんこの男、プロデューサー、もとい一色翼だ。

電車を降りてからここまで走ってきたのだろう、いつもの“彼”なら絶対に崩れないであろう髪はもはや見るに耐えない状態だ。

 

「わ、悪い!遅れた…!!」

 

円香がその言葉に返すは静寂と鋭い視線。

 

「あー、えと、これには深……くはない……な…??だけど理由が…!!」

「何?まだ何も言ってないですが」

「け、敬語はやめてくれると……」

「……まぁ、理由ぐらいは」

「楽しみすぎて昨日寝れなくて……」

「もう良いです」

「は、はい……すみません……」

 

円香はその会話の心地の良さに微笑みを浮かべる。

 

「ふふ……冗談、私も早く来すぎてたから」

「あははっ、寛大な処置、助かります……遅刻に関しては本当に反省しておりますゆえ……」

「もう良いから……行きましょう」

「あぁ、行こうか」

「まずはカフェにでも行く?その様子なら朝ごはんも食べてきてないでしょ?」

「あ、確かに、走るのに必死で気づいてなかった…けど、腹減ったな」

「ちょっと待ってて調べるから」

「おっとその必要はない、ここら一帯のコーヒーの美味い店は誰よりも知ってるつもりだから……もちろんブラック以外も」

 

少し誇らしげに胸を張る彼に向かって手を差し出し、こう言う。

 

「ん……それなら連れて行って」

「もちろんだ」

 

翼は円香の手をできるだけ優しく握り、横に並ぶ。

ところで、どれぐらいの時間待ってたんだ?なんて他愛ない会話を始めて、一歩を踏み出した。

瞬間。

身体が沈む。

視界が揺らぐ。

先程まで繋がれていた手が簡単に解ける。

沈む円香には目もくれず、彼が遠ざかっていく。

記憶の中の私と共に。

そこで円香は気づいた。

あぁ、いつもの夢か、と。

今日はガラスが割れるんじゃないのか、まぁいつもワンパターンではつまらないか。

 

不思議と思考は妙に冷静で、その冷静さが気色悪く感じる。

その気色悪さと共に意識が底なし沼にハマったかのように沈んでいく。

そしてその感覚の中、円香は目を覚ました。

 

「……はぁ」

 

いつも通り、汗で体はベタベタだった。

 

_______________________________

 

円香は相も変わらず、パソコンに向かって書類を作っている。

現実はドラマのように上手くは行かず、彼と会えるのはまだ少し先らしい。

身体検査や事情聴取、などイベントが盛りだくさんだそうだ。

 

心の奥底にある会いたいという感情を押し殺し、キーボードを叩く。

その叩く力は少しいつもより強く、割と大きな音を立てている。

 

実際に会えるとなっても、まずは親族優先で話が回るはずだ、まだ付き合い始めて数カ月の恋人など優先度はあまり高くないだろう……まぁ知り合ってからはそれなりに長いが。

ただ円香は彼がまず最初に会いたい、と言ってくれることに少し期待をしていたりするため、完全に待ちの姿勢に入っている。

 

まず呼ばれてもいないのに駆けつけるなんて……。

いや、実際会えるとなったら、駆けつけてしまうのだろう、と考え、見舞いの品は何が良いだろうか、とか、いつ頃退院できるんだろうか、など先のことで頭が一杯になり、仕事が手につかなくなった彼女はやれやれと頭に手を当て、給湯室へ向かう。

そして、慣れた手付きでコーヒーのドリップバッグをマグカップにかけ、お湯を注ぐ。

上がる湯気に乗り、鼻孔をくすぐる香りは微糖ではなく無糖の香り。

相変わらず味は苦手だが、ごちゃついた頭を整理するのには最適であると最近知った。

 

……彼もこのために好んでブラックを飲んでいたのだろうか。

 

いや好きじゃないとあんなに飲まないでしょ、とすぐ首を振り、苦笑いを浮かべながら淹れ終わったコーヒーを口に含む。

 

「んぅ、苦……」

 

その一言は誰かに反応されるわけでもなく、給湯室の空間に溶けて消えていった。

_______________________________

 

一色翼との面会が可能になった。

 

その報告はアイドル達への報告と共に円香にも伝わる。

もうすっかり容態は安定し、仕事への復帰も1週間後にはできるほどの状態まで回復したらしい。

医者が言うには意識不明の状態が長く続いたのにも関わらず、後遺症が見られないのは奇跡に近いらしい。

相変わらず神に愛されているのかいないのか……と円香は苦笑を浮かべ、安堵の表情を浮かべる。

その表情を見てアイドル達……主にアンティーカは急にわざとらしく慌てて口を開く。

 

「あ、あ〜〜!!用事ば思い出したばい!!」

「おぉ、そうだった!!この後に絶対に外せない用事があったね」

「ふふ、用事さんっ」

「用事〜〜?ふふ〜、そんなのあったかなぁ〜〜」

「ふぇ、摩美々ーー?!?!」

 

もはやお決まりと言った流れまで行き、わちゃわちゃとし始めた所で三峰がおもむろに円香の前に躍り出る。

 

「アハハッ、ってことでアンティーカはちょいとここらへんで退散させてもらいますよ〜〜Pたんのことよろしくね〜〜!」

 

と、ウィンクをして「ほらほらアンティーカいくよ〜」と事務所を出ていく背を見て、その背を追うように各々下手くそな嘘をついてぞろぞろと事務所を出ていった。

 

残ったのは元ノクチルの面々のみ。

 

「あはー、みんな行っちゃったねー」

「ふふ、うちらもつくか、嘘」

「ぴぇ!う、嘘だって言っちゃだめなんじゃ…」

「それじゃ、円香先輩、雛菜達の代わりにプロデューサーの様子見てきてよー」

「きてよー」

「お、お願いするね!」

 

そんなくだらない茶番を繰り広げ、遂にそのメンバーですら事務所を出ていった。

 

客観的に見ればみんなに置いてかれたような様子だが、実際のところは円香は誰よりも先頭にいる。

そのことを自覚しているから彼女は一人微笑み、こう呟いた。

 

「ばかみたい」

 

その瞳を潤す涙が彼女の頬を伝うことはない、今はその時ではないから。

そうして、彼女は見舞いの品を買いに事務所を最後に後にした。

 

 

元々、お見舞いの品には目をつけており、特に迷うことなく買い物は終わり、病院に辿り着いた。

 

一歩一歩、病院に近づく。

そうするたびに心が浮きたち、足取りが軽くなる。

その様子はまるで過去のステージの上のようだ。

多くの観客の為ではない一人の観客の為に踊る“アイドル”だ。

 

受付を済ませ、病室へ向かい、ドアの前でひと呼吸を起き、ノックする。

 

コンコン、という音に返ってくるのは「どうぞ」という、あのうるさくて暑苦しい、でも温かい彼の声。

上がる心拍数に気づかないフリをしながら、一歩を踏み出した。

 

そして見えてきた彼は元気そうな顔を円香へ向けた。

 

「円香!来てくれたのか!」

「はい、みんなが譲ってくれて、これお花とお見舞いの品です」

「わざわざありがとうな!嬉しいよ」

 

いつもの元気な彼の姿を見て目が涙に覆われて世界が歪む。

彼が無事で良かった、本当に無事で……。

そうして、感情に呼応するように円香のその瞳から涙の線が一つ二つと落ちる。

 

「無事で……無事で良かった……!!」

 

そうしてゆっくりと身体を労るように優しく彼の身体を抱きしめた。

 

「ま、円香?!」

「心配で……心配で……!!ずっと、目覚めなくて……!!」

 

そこまで口に出したところで、急に感情に理性が追いつく。

 

……なんだろう、少し、違う……?

 

突然のことに驚いたような彼の反応、先程から崩れない“プロデューサー”としての口調、言動、その全てが円香心の中で引っかかる。

 

まるで、前に戻ってしまったような…。

 

そう、思ったところで彼の口が開かれる。

 

「こ、こんな状況、誰かに見られたらどうするんだ……!!」

 

え。

 

「え……何を……」

 

嫌。

 

「言って……」

 

そんな。

 

残念なことに円香の心情は汲み取られず、残酷に“プロデューサー”は告げる。

 

「円香はアイドルなんだから」

 

そうか、そうだったのか。

神に愛されていないのは彼じゃない、私だったんだ。

 

そこに遅ばせながら、担当医が歩いてきて、円香に現在の彼の状況の説明が始まる。

 

正直まともに聞いていなかった為、全ては聞き取れなかったが、一つ聞き取れることがあった。

それは。

 

「一色翼さんは現在、所謂記憶喪失になっています」

 

ということ、だった。




さて、遂に楽しくなって参りましたね、書きたいことを書いてるときの筆の乗り方は異常です、楽しくて楽しくて仕方がありません。

さぁ、プロデューサーは帰ってきたものの、一色翼は帰ってきていない、この状態に円香は一体どうなってしまうのか。

次回の更新をお待ちください。
(次は本当に早く投稿できるようがんばります)


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第3話 ドラマチック

忙しいとそもそも書く時間がないのがなんとも悩ましいですね!!え?何で忙しかったか??そらぁ……んと……えと……えぇい!!!VALORANTめ!!!ゆ"る"さ"ん"!!
さぁ!!大変遅れましたが第3話よろしくお願いします!


医者より少し話がしたい、という旨の要望を受け、円香は別室へ移動した。

 

「現在一色翼さんは事故のショックにより、危険を感じた脳が自分にとって特に大切な記憶を閉ざした状態にあるものと思われます」

「大切な記憶」

「はい」

「事故の衝撃で無くさぬようにと、固く鍵をかけて」

「…ッ」

 

忘れないために、思い出せなくなるなど、なんと皮肉なことだろうか。

 

「彼にとって、それだけの価値のある記憶だった、ということを忘れないでください」

「……」

 

じわじわと円香の視界が歪み、ピントが合わなくなる。

そうして遂に瞳から、一滴、二滴と涙の粒が川のように頬を伝う。

 

そんなの、私が覚えていたって。

彼と過ごしたこの数ヶ月は私にとって、かけがえのない時間だったのに。

それを事故のショックなんかに奪われて。

そして、記憶喪失の原因が彼自身の防衛本能だなんて。

 

この憤りを私はどうしたら……。

 

拳を強く握りしめ過ぎたせいで爪が食い込む、その痛みも今はどうだって良くなっていた。

彼はもっと痛かったのだから。

 

そんな様子の円香に、医者は深く深呼吸をしてこう言う。

 

「樋口円香さん、私はノクチルの、あなたのファンでした」

 

突拍子のない言葉。

それがどうしたの?

 

「……」

 

沈黙という返答に医者は臆することなく語り続ける。

 

「色々、ありましたよね、例えばデビューした年、なんかの歌番組で口パクを指摘されたり」

「ッ……」

 

思い出したくもない、本当に苦い記憶だ、なんだってそんなことを今。

 

そんな円香の心情など露知らず、医者の口から次々と語られる、それはそれは酷く苦い記憶達。

浅はかで稚拙な反抗、けれどもあの頃の自分達にとっては間違いようのない“正解”の一つだった反抗。

 

聞けば聞くたびに、その記憶たち(ノクチル)はやけに眩しく輝きを増していく。

そして、その輝きの側には必ず彼が居た。

 

暑苦しくて、頑固な彼が必ず近くに居てくれた。

 

そして、締めと言わんばかりに彼はこう言う。

 

「僕は、あの反骨精神ばかりの貴方達に救われたからこそ、今こうして医者を続けられています、これはちょっとした恩返しなんです」

 

そして、医者は急に破顔し、茶化すように若干声色を変えて円香に語りかける。

 

「あらあら、そんな顔、僕がファンだったときは見たことなかったんですがね」

 

気づけば涙を流しながらも頬が緩んでいたようだった。

 

「ッ……すみません、つい」

「良いんです、人は笑ってる時が一番良い時間ですから、それに、今見れたので僕に思い残すことはありません」

 

さて、と医者が手を合わせて、話を続ける。

 

「……何が言いたいかと言いますとですね、彼の記憶を取り戻してみませんか」

「何か方法があるんですか」

 

つい食い気味になってしまい、少し恥ずかしかった。

しかし、記憶を取り戻せるならば、それ以上に良いことはない。

とにかく今はその少しの希望に縋っていたい。

 

興味を示した円香に医者が良い顔になった、と呟き、話を続ける。

 

「えぇ、勿論です、それに樋口さんのあんな良い笑顔を引き出せる思い出を忘れるなんて、あまりにも傲慢っていうやつです、ファンが聞いたら間違いなく怒りますね、判断基準は主に私ですが」

「優しいんですね」

「えぇ、ファン……もといオタクですもの、応援している人の力になりたいと思うのは当然です」

 

胸を張り、その胸をトントンと叩いてみせると彼は自信満々といった表情のまま笑ってみせた。

 

そんな彼に円香は微笑み、本題からまた少しズレてしまった話の軌道修正を行う。

 

「それで、私が彼の為に出来ることは?」

「それはですね」

 

ニヤニヤと彼は言い放った。

 

「一緒に居ること、です」

「は?」

 

なんだか久しぶりに言ったような気がしたその言葉の切れ味は未だ健在だったようで、医者は少したじろぎながら返事をする。

 

「おぉっとふざけてなんかいませんよ、というかそれ聞くのも久々ですね、ファンの一部でとっても人気でしたよ」

「話、それてます」

「これは失敬」

 

若干わざとらしく咳払いをして見せ、再度彼は話し出す。

 

「先程、一色翼さんは脳が記憶を守っている状態にある、と言いましたよね、その理由がこちらです」

 

ペラ、と薄いフィルムのようなものをトレース板に貼り付ける。

 

「これは、脳のCTスキャン画像ですか」

「よくご存知で」

「まぁ、健康番組とかで見たことありますので…」

「さて、説明に戻りますと、なんと今回の事故で奇跡的に脳の損傷は見られないんです、神にでも愛されているのでしょうね、だから」

「その守っている記憶の中に居る私と一緒にいれば記憶が戻るかもしれない」

「流石ですね、その通りです、それに彼もわかっているはずなんです、スッポリと抜けた時間があることを」

「ふっ……なんだか、ドラマみたい」

「えぇ、これはドラマチックですよね、しかし、今現在僕達が居るのは現実です、脚本も監督も居ないんです」

「えぇ、だから結果がどうなるかは……」

「えぇ、わかりません……が、どうとでもなりますよ、全ては私達の行動の中にあるんです、どうです?」

 

医者は手を差し出し、決め台詞っぽくこう言った。

 

「僕に翼さんとあなたの幸せを賭けてみませんか」

「……ふっ、なにそれ」

 

その反応に、やっぱりクサかったですかね、と彼は照れくさそうに笑った。

その様子はよそに、円香はデビューしたての頃のことを思い出し、ポツリと呟く。

 

「昔、勝算のない賭けに興じていたんです」

「……えぇ」

「勝てるわけがない、きっとディーラーの裁量次第ですぐに負けてしまうような、そんな賭けに人生を……命を賭けていました、そして彼にこう言ったのを覚えています」

 

「勝算のない賭けに興じるなんて、って」

 

本当にそう思ってたんです、と。

そこまで言って円香は微笑み、顔を上げた。

 

「でも、彼と共に歩いて、WINGの出場が近づいて……怖かったけど、悪くないって思えた」

 

だから。

今度は。

 

「だから今度はきっと私の番なんです」

「樋口さん…」

「私はどれだけ小さな可能性でも必死に掴もうとする彼に憧れたんです、だから今度は私が同じことをする」

 

らしくなく、少しぐっ、と拳を握り呟く。

 

「それだけです」

「〜〜〜〜〜ッ!!樋口さん!!」

 

医者の瞳からはとんでもない量の涙が滝のように流れていた。

そして彼はそのままのテンションで告げる。

 

「全くもって幸せですね!僕の“弟”は!!」

「は?」

 

涙と鼻水をティッシュで拭きながら、医者は続ける。

 

「やっぱり、あの時名乗ったのに聞いてなかったんですね、ならばもう一度名乗らせていただきますね」

 

少し落ち着いた様子で向き直り、彼は言う。

 

「改めて一色陽向と申します、弟がご迷惑をおかけしております、これからもどうか見捨てないであげてください」

 

そう言うと彼とよく似た笑顔で笑ってみせた。

 

事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、目の前で起きていることに目眩さえ感じてしまった。

しかし、事態が好転しているのには間違いがない、その事実を素直に喜ぼう。

 

そう考え、ふぅ…とひと呼吸を置き口を開く。

 

「……まぁ、しょうがない人なので、あの人は」

 

そして、笑った。



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第4話 ワガママ

4話よろしくお願いします!


「で?してるんだ、同棲」

 

隣同士のカウンターで透が横から問いかけてくる。

それにスマホから目を離さず円香は返事をする。

 

「してるけど」

「ふふ、おもろいね、なんか」

「おもろないし」

 

そんな会話をしながら、円香が目を離さないスマホの画面を透は流し目で覗き込む。

 

「なにそれ?」

「ちょっと調べもの」

「ふーん」

 

透はそう言うとズゾゾゾと音を立て、ドリンクを飲み干した。

そして軽く伸びをして言う。

 

「しゃー、行くか、午後の仕事」

「もうそんな時間?」

「あーうん、一応早く行っとく」

「おけ、いってら」

 

ぷらぷらと手を振り、店から出て行く透を見送る。

 

流石の浅倉透と言えど、もう昔と同じではなく、もう立派な業界人だ、昔とは意識も仕事との向き合い方もかなり変化して、成長している。

そのため、円香は透の仕事に同行することは最近だとほぼない。

今日は珍しくランチの時間が合ったから一緒に食べただけだ。

 

さて、見送りをし終わり、もう一度スマホの画面に目を落とす。

画面に映る内容は「事故の後遺症」についてだった。

 

なぜこのようなことを調べているかというのはもう野暮だろう。

プロデューサー……一色翼のためだ。

 

これを調べる理由は今朝に巻き戻る。

___________________________________

 

翼が退院してから数日後、円香は翼と一つ屋根の下で生活し始めた。

担当医である一色陽向の掲げた治療法『一緒にいること』を遂行するために。

 

それから更に数日普通に彼と生活をし、本当に記憶をなくしていることに絶望を味わいながらも、なんとか記憶を戻す手かがりがないかを探っていた。

 

そして彼も仕事に復帰する予定の今日の朝に驚くことが起きた。

 

「……できない」

 

ポツリとそう一言翼は呟いた。

どうしたの、と問いかける円香に翼はどこか弱々しく言葉を続ける。

 

「ネクタイが……結べないんだ、結び方は知ってるのに、実行しようとすると頭にモヤがかかって……何故か結べないんだ、はは、変だよな」

 

そう言って彼はまたネクタイを結ぼうと試行錯誤を続ける、しかし、遂にそのネクタイは結ばれることはなかった。

試行錯誤を重ねるうちに彼は泣き出してしまった、何故こんなことも出来なくなってしまったのかと、他の事は全て上手くできるのに、と。

 

そう子供のように泣きじゃくる彼を円香は少し戸惑いながら優しく抱き寄せる。

 

「大丈夫、私に任せて」

 

そう耳元で告げ、彼の結ぼうとして不格好な形となったネクタイを一度解く。

どうやら焦るうちにネクタイが表裏逆になっていたようだった。

ネクタイをもう一度彼の首に掛け、他人のネクタイを結んだことなど無いながらもなんとか少し不格好だが、結ぶことができた。

 

「ふぅ……出来た」

「……ははっ、円香はすごいな!」

「別に、そんな褒めることでもないでしょ」

「いや、助かったよ、ありがとう、円香」

 

そして、太陽のように眩しい笑顔を円香に向ける。

その笑顔に円香はモヤっとした感情を覚える。

 

前の彼なら……。

 

そう考えたところですぐに思考を止め、口を開く。

 

「そんなことよりも、仕事の時間ですよ、ミスター働き蟻」

「お、そうだな!行くか!」

 

そして共に彼の部屋を後にしたのだった。

___________________________________

 

そして、今に至る。

とりあえずネットで手に入れた情報としてはそのような症状は割とあるらしく、大事なのはその『出来なくなった』という事実から、心を病まないようにケアをすることらしい。

それを見て、朝の自分の対応は間違えていなかったのだと内心ホッとする。

 

人にとって、過去に出来ていたことが出来なくなるということは酷いストレスだろう。

特にネクタイを巻くことなど、比較的簡単で、毎日行っていた事だ。

それが出来なくなった、とわかった瞬間の絶望感は正直なところ計り知れない。

 

なれば尚更のこと、彼の隣に居てやらなければならない。

今の彼は何が引き金になってポッキリと折れてしまうかわからないのだから。

 

……本当にそうなのだろうか。

本当に私が支えるべきなのだろうか、“今”の彼にはもしかしたら私は必要なくて、また一人の足で歩き出すのではないか、歩き出せるのでは……一色翼……いや”プロデューサー”という男は

 

そう思うと共に急な自尊心の低下を感じ、気分が下がる。

どこか今の状況に酔っていたような自分に気が付き嫌気が差す。

まるで彼の記憶の喪失を理由に自尊心を満たそうとしていた自分がとてつもなく惨めに感じた。

 

……今日の仕事はもうあらかた片付いているのだし、今日は直帰して、家で残りにカタをつけよう。

 

そう思い、席を立つと後ろから声がした。

 

「お、円香!偶然だな!」

 

確認をするまでもない、彼だ。

朝の様子とは打って変わり相も変わらずの好青年ぶりを発揮して、ランチをトレイに乗せて歩み寄ってきた。

 

「朝の様子とは大違いですね、ミスタースロースターター?」

「あぁ、久しぶりに現場の人達と話してな、元気をもらったよ」

「……へぇ、良かったですね」

「ははっ、間接的にだけど円香からも貰ったぞ、俺が寝てる間、頑張ってくれてたんだってな、ありがとう」

「体調を崩して、迷惑をかけましたが」

「……まぁそれはそれとして、まさか本当に円香が俺に憧れてプロデューサーになってくれてるなんてな、夢みたいだよ」

「……」

 

その言葉につい円香は苦虫を潰したような顔になり、固まる。

 

あぁ、嫌だ、本当に“はじめから”なんだ。

 

この数ヶ月で積み上げてきたもの、その全てが彼の主観からではなく、第三者の客観から評価されるのが今の円香にはとても辛かった。

 

私は彼から褒められたいのに。

積み上げが更地となった今、彼自身からの称賛は得られないのだ。

 

自分の行動原理が彼からの承認欲求であることを再認識し、円香は己の醜悪さに嫌気が差す。

“プロデューサー”の彼はつくづく円香の調子を崩す、それは4年前から何も変わっていない。

結局変わったのは円香の方で。

 

いつから私はこんなに“ワガママ”な女に……。

 

そう思ったころには口から悪態が吐かれてしまった。

 

「そのお眼鏡に叶ったようで良かったです、第一、色眼鏡かもしれませんが」

 

はっ、とし円香はプロデューサーに向き直る。

 

違う、私は……。

 

彼は……笑っていた。

“あの頃”と何も変わらない笑顔で。

 

「ははっ、色眼鏡をかけていても、いなくても、円香はいつだって頑張ってるのを俺は知ってる、だから大丈夫だ」

「どうして」

「ん?」

「どうして?私を、このワガママになってしまった私を、対等でありたいと思いながら貴方に褒めてもらいたい私を、貴方ではない“貴方”を見ている私を……大丈夫だなんて」

 

気づけば何故か溢れ出している涙、幸い店のカウンターの端席でその涙を見ている者は彼しかいない。

 

その涙にプロデューサーの彼は優しくハンカチを使い円香の涙を拭う。

そして、こう言う。

 

「……ごめんな、軽率だった、そうか本当に今の円香は俺の記憶の中の円香とはもう違うんだもんな」

「ちっ、違っ」

 

あなたが謝ることじゃない、と円香は否定しようとするも、しゃっくりに邪魔をされて上手く声が出せない。

そして彼はなおも言葉を紡ぐ。

 

「お互い、知ってる相手が違ってるんだ、でも……そうだな、円香は何も悪くないよ」

 

いや、悪いのは私だ、だって今だって勝手に泣いて勝手に迷惑を。

その否定もまた円香から発されることはない。

 

「人はさ、ワガママになれる相手を常に探してると思うんだ」

「……え?」

「俺達が居るのは全部が全部思い通りに行く世界じゃない、何かをするために何かを必ず犠牲にしなきゃいけないこの世界で、“我儘”なんていうのはかなり難しい願いだろ?それを他人に願える……なんてのは、信頼関係の現れだと思う」

「……」

「俺はさ、今とても幸せなんだと思う、記憶はないけどきっと幸せな時間を過ごして、他人の我儘を聞けてさ……いや、他人っていう表現は失礼か……?」

「……はい“私”にとっては」

 

一生懸命話す彼に少しまたワガママを鼻を啜りながら円香は言う。

 

「ははっ、それは申し訳ないなぁ!」

 

手を頭の後ろに回し朗らかに笑う彼に円香は腫らした瞼になんとか力を込めて微笑む。

 

「だからさ、俺は今幸せなんだ、俺じゃない“一色翼”って人間はさ、ちゃんと樋口円香という女性と恋人をやれていたんだ、ってそう実感できることがとても今の俺にとって幸福の種なんだ」

「種?」

「そう、種」

「その心は?」

「この種を発芽させるには俺じゃ駄目なんだ、この“プロデューサー”の俺じゃ」

「……ッ!!」

「悔しいことに今の俺は植えることはいくらでも出来る、でも多分きっと育てるのには水を遣りすぎる、種を知らず知らずに腐らせる、それがわかるんだ」

「その理由も、教えてもらえますか?」

「今、円香を泣かせた、それが理由だよ、たった一つの、とても大きな」

 

……私、泣きませんので。

 

過去に自分が言った言葉が急速にフラッシュバックする。

そして彼の言葉を理解し、円香は納得する。

 

「貴方は……プロデューサーの貴方は、手を抜けませんもんね」

「ははっ、そこが取り柄だったりするんだけどな」

「取り柄が必ずしもプラスの意味だとは限らないの典型ですね、貴方は」

「ははっ……だから円香、信じてくれ」

「はい」

 

彼は覚悟を決めた顔で宣言する。

 

「俺は記憶(もう一人の俺)を取り戻す、取り戻してもう一度円香が気軽にワガママを言える俺になるよ、それで」

 

彼は彼なりの”ワガママ”を告げた。

 

「今度は俺から『告白(好きだ)』って言わせてくれ」

 

返答はもちろん、はい、の一言だった。



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第5話 スタート

「なるほど、できていたことができなくなっていた、と」

「はい、彼が少し前に話していたんです」

 

____ネクタイを締めるとさ、みんなの為に頑張らなきゃなって、そういう想いが湧いてきて、無力な俺に力をくれるんだ。

 

「あの人にとって、ネクタイを結べなくなったというのはなにかスイッチが壊れたようになっているのではって、そう思ったんです」

「……そのスイッチを治してあげれば、記憶が戻るかもしれない…と、うん、十分に一考の価値ありですね」

「本当に?ただの思いつき程度ですが」

「いえ、そういうふうに一つずつ思い当たるものをシラミ潰しに潰して行くことが大事なんです、実際にそれを思い当たるまでの数日間は思い出の場所を巡ったりしたんでしょう?それと今回のものも一緒です」

 

そう、実際行ったのだ、大型ショッピングモールや二人行きつけのエビグラタンの美味しいお店、お気に入りのカフェなど、様々なところへ。

しかし。

 

___すまん、思い出せない……どれもこれも。

 

でもどれも楽しかったし、美味しかったぞ、と付け加える彼の申し訳のなさそうな顔はもう思い出したくもない。

もちろんその瞬間の私の顔など、もう誰にも見せたくなどない。

 

だからこそ、この可能性にどこか賭けている節がある。

ここのところずっと賭けてばかりだ、と思うがそれほどに自分が追い詰められているということを思い知ってからは全身で縋り付いている。

今度こそ、今度こそ、と。

 

「それじゃあ、樋口さん、一旦は翼と一緒にネクタイの結び方についてリハビリする形で進めていきましょう、大丈夫、きっと上手く行きますよ」

 

そうして、その日の面談は終わり、円香は診察室を出ていった。

彼女を見送り、自分の診察室に入った彼は椅子に思い切りもたれかかった。

 

___本当に?ただの思いつき程度ですが。

さりげない会話の一言、その言葉が一色陽向の頭の中を何度も木霊する。

なぜならその一言を放った彼女の顔は今にも心が折れそうな顔だったから。

 

「これが、ラストチャンス……かな」

 

正直なところ本当に記憶を戻す手がかりはこれが失敗に終わると、いよいよ無い。

もしかしたら一生戻らない可能性だって……

そう考えたところで駄目だ、と首を振り胸ポケットから煙草を取り出そうとするが。

その指が煙草の箱を掴むことはなかった。

はぁ……という深いため息を吐き、天を仰ぐ。

 

___煙草を吸っている貴方はどこかへ勝手に消えてしまいそう。

消えないさ。

___えぇ、そうね、消えるのは……。

やめるんだ。

___ふふっ、ごめんなさい。

君のことは俺が必ず。

___ありがとう……あ!そうだわ、どうかしら、私が良くなるまでは禁煙するっていうのは

……あぁ、勿論。

 

「俺はいつまで禁煙すれば……良いんだろうな」

 

その一言は誰に届くでもなく部屋の隅へと消えていく。

 

「せいぜい、(アイツ)が俺の二の舞にならないようにしてやらないと」

 

そう思い、もう一度デスクへと向かう。

陽向の昔の記憶は苦くて、不味くて、ちっとも美味しくない、けれどそのヤミツキになる香りは今もたまに彼の鼻孔をくすぐるのだった。

___________________________________

 

「ということで」

「はい」

「ネクタイの準備はいいでしょうか?」

「もちろん」

「……嘘でしょ?」

 

円香は思わず頭を抱える。

 

「ネクタイの表裏が逆」

「おっと、これは失敬」

 

落ち着いた様子だがきっと彼は今もなお焦っているのだろう、指がもたついている。

そして表裏を直してバツの悪そうな顔で笑い言う。

 

「ははっ、なんだかネクタイを前にすると妙に緊張しちゃってな……!」

「……どんなふうに緊張を?先生に相談するので教えて下さい」

「あ、あぁ……なんて言えばいいんだろうな……ん〜上手く認識できないっていう表現が一番適切かもしれない、手元が急に暗くなったり、モヤがかかったり……」

「なるほど、伝えておきます」

 

翼は、兄と円香の相談に同席することを認められていない。

何故か、と兄に聞いたときの「マジかお前」という言わんばかりのあの顔で見られたときは流石に自分のデリカシーの無さに情けなくなったのを覚えている。

 

とりあえず、今はこのリハビリを続けるしか手はないのだ、と手元に意識を戻し、リハビリを開始した。

 

しかし、なかなかどうして言われた通りに巻くことができない、一つ一つのプロセスが大きな壁となり翼の精神を追い詰め、更に手元を狂わせる。

 

そして、完成したのは、こんな状態で取引先に行こうものなら失望待ったなしの不格好で醜いネクタイのような何か。

軸はブレ、ノットの三角は右肩上がりに歪んで緩い、大剣が短いせいで小剣がみっともなく大剣の下から伸びている。

 

情けない、そう思っている翼を円香の笑う。

 

「ふふ、いいんじゃないですか?」

 

そして、はいチーズと呟き携帯のカメラでそのネクタイと翼の写真を撮った。

 

「良くないさ……前はもっと、こう」

「良いんです、これから上手くなれば良いんだから」

 

そして、円香は翼の不格好なネクタイを解き、結び直した。

共に仕事をする、彼のために。

 

___________________________________

 

さて、仕事だが。

正直アイドル達の練度が上がった今、プロデュースという観点から言うとその手の仕事をする必要が少なくなった。

やることと言えば舞い込んだ仕事の精査、スケジュール管理と現場への送迎付き添い程度。

正直283プロの発足時と比べると格段に楽になっている。

為だろう。

 

「天井社長、これはつまり」

「あぁ、その通りだ」

 

手元の資料をもう一度目を落とし、表題を黙読する。

 

project originality。

そう書かれていた。

そしてこれが意味することは……。

 

「樋口円香に次期プロジェクト

“project originality”のプロデューサーを任せたい」

「……円香に聞かせる前に、少しだけ……考えさせてもらえますか」

「あぁ勿論だ、ぜひ熟考して、より良いものと出来るようにしてほしい」

 

期待しているぞ、と言った天井社長に一礼し、翼は社長室を出た。

 

勿論、良いか悪いか、で言えばとても良い話だ。

事務所の事業拡大に、円香自身のキャリアアップも図れる。

しかし、ある一文が翼の心に引っかかる。

 

新世代男性アイドルプロジェクト。

 

そしてそれを再度一瞥し、なるほど、と気づく。

記憶を無くしていても、心に居着いているのだ『独占欲』なる感情が。

 

勝手だ。

とてもじゃないが仕事中に発揮するべき感情ではない。

しかし、確かな不安感に今、翼は襲われている。

 

その不安感は次第に言葉を依代とし、脳裏に酷くこびりつく。

 

『今こそ好いてくれては居るが、若い男が近くに居れば離れていくかもしれない。』

 

『自分も円香には半ば一目惚れのような感情に襲われてスカウトしたじゃないか。』

 

『俺は28歳で円香は21歳、7歳差だ、それに対して新しく入ってくることとなる男性アイドル達はどうだろう。』

 

うるさい、と次々と出てくる御託のような不安を払いのけ、自らの根底にある感情と対峙する。

 

『記憶が戻らなかったら、円香は俺のことをきっと嫌いになるだろう。』

 

ひどく寂しげな言葉。

そして対峙した結果、悔しいが頭の中に浮かぶのは納得のニ文字だった。

 

今はリハビリをしている最中で面倒を見てくれてはいるが、いよいよ記憶が戻らないと知ったなら彼女はどのような感情を抱くだろう。

答えは決まっている。

自らの徒労に対する哀れみだ。

あれだけやったのに、あれだけ尽力したのに。

という自分へのリターンの少なさに唖然とするはずだ。

優しい彼女でもそれは例外ではないだろう。

 

そして彼女は優しいからこそ、静かに俺の前から消える。

俺をこれ以上傷つけまいと、前の関係性に戻れば“この俺”は間違いなく“一色翼”たり得るのだから。

 

そうでなければ、一層苦しむのは彼女の方だから。

 

気づけば企画書には皺が深く入っていた。




最近リアルが忙しいせいでマジで書く気力が起きないんだが??助けて魔ノめぐる……(白目)


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第6話 泥人間

円香から受けた情報を紙に軽くまとめて陽向は渋い顔をする。

 

「……良い傾向…です」

「嘘」

 

鋭い指摘にビクッと肩を震わせ、わざとらしく彼は誤魔化す。

 

「ネクタイのことです」

「……そうしておきます、それで記憶の方は?」

「先程、二人で話をしましたが……今のところは」

「そうですか」

 

円香は深呼吸をしたあと「次の手を」と小さく呟き、唇を強く噛んだ。

 

それもそうだ、この一月の間、リハビリを続けての結果がこれなのだから。

翼の結ぶネクタイの完成度は、正直以前と同等ほどまで近づき、円香が教えることはもうなくなるところだ。

そこまで来たのに、残念ながら記憶が戻る気配は微塵もなかった。

 

___ははっ、すまん、円香。

 

ここ最近で聞き飽きた、その謝罪の言葉。

それが頭を木霊し、ズキズキと痛ませる。

気分は……最悪だった。

___________________________________

 

最悪だ。

状況も俺も。

そう、病院の廊下のソファに腰掛けて頭を抱える。

 

この一月で何も得られなかった。

 

もはや円香に謝る際の作り笑いすら出来なくなってきた自分に向けて嘲笑う。

 

「俺は誰なんだろう」

 

もう診療時間を過ぎてしまっている病院の廊下にその証明をしてくれる人間など居るはずもなく。

自らの問いが耳に返ってくる。

 

一体、今の俺は誰なのだろう。

きっとそこに仕事の関係者が居れば「急に何?」というような顔をして言うだろう。

 

一色翼だ、と。

 

いとも簡単に己を定義してくれることだろう。

しかし、それでは駄目なのだ。

駄目なのだ、と彼女は言った。

 

記憶が無い今の俺にとって、彼女から発される一色翼が全てだ。

彼を取り戻して円香に幸せになってもらうのが全てだ。

 

それなのに“俺”はそれがたまらなく怖かった。

記憶を求めるたびに、求めた末に俺は居ないような気がして。

それが嫌で。

 

そう、いつだって薄汚い独占欲の矢印は常にこちらを指していた。

 

「恋敵は俺自身だなんてな……」

 

どうしようもない三角関係の一角となってしまったことを最近になって理解した。

 

だから、円香に対しての罪悪感が肥大化を始め、自分自身の首を絞める。

 

そしてそこに追い打ちをかけるように若干皺が寄った企画書がバッグから見え隠れをする。

 

project originality.

 

あぁ……本当に、最悪だ。

___________________________________

 

刻一刻と、その時は迫っていた。

もう、目を背け続けることも、そのような余裕も何もなくなった。

 

あれから半月が経ち、翼はもはや自身の輪郭がボヤけ始めていた。

 

反芻するのは自分は誰なんだ、という自問自答の言葉。

 

なるほど、人間というのは。

誰かが己を定義したとしても、それを己であると理解ができなければ。

理解を“しなければ”。

自己の確立など簡単に手放せてしまうのだと知った。

 

しかし、それももう、やめよう。

 

彼女(樋口円香)から逃避するのは、もうやめだ。

これでは彼女も、俺もシアワセにはなれない。

 

だから。

 

対面に座る円香に企画書を差し出す。

あの皺の寄った企画書ではない、朝に刷った新しい企画書を。

 

まるでこれまでの自分の葛藤をひた隠すように。

まるで少しの迷いもなかったかのように。

 

笑顔で差し出した。

もう形も忘れてしまった彼女への新たなシアワセとして。

 

「円香に大きな仕事だよ」

「……」

「どうしたんだ?気分でも」

 

「煽りですか?ミスタースワンプマン」

 

ビリッ。

と音を立てたように空気が変わるのがわかった。

 

いや、音は鳴っていたか。

目線を下げると対面のデスクの上で無残に破かれた企画書の表紙があった。

 

あ〜、企画書が……。

とどこか呑気な自分を無視しながら目線を再度上げる。

 

泥人間、と。

所詮貴様は雷から生まれ、同じ動きをしているだけの泥人間だ、と翼を呼んでみせた彼女はひどく恐ろしい顔をしていた。

 

「なんですか、これは」

「これ、って?」

「ふざけるのも大概にしてください」

「ふざけてなんかいないよ」

「そうですか、じゃあ貴方は今正気だと?そう言いたいんですか?」

 

円香はまくし立てるようにそう言う。

しかし、どこまでも正気な“彼”は答える。

 

完璧で(不完全でも)取り繕っていなくて(一生懸命に)飾っていなくて(笑わなくちゃ)

ただ今の状況に最も適しているであろう笑顔で(これまで何度も何度も着けてきた仮面を)

笑う(貼り付ける)

 

「ははっ、正気だよ」

 

その笑顔を見た円香は。

酷く顔を歪ませていた。

 

怒り、悲しみ、苛立ち、恥、恐怖それら全てを内包した顔をしていた。

 

それでも円香を。

俺は。

綺麗だな、と、そう思った。

 

そう思ったとき、円香はもう会議室には居なかった。

 

最後に彼女は何か言っていた気がするが、最早それを理解する能すら彼には残されていなかった。

 

もうそこは無機質な空間と空っぽな人間が在るだけだった。

___________________________________

 

事務所で仕事をしていると、テレビにそれが映った。

 

project originality.

ニューシングル、オリコン1位。

 

円香は今幸せだろうな、とそう思った。

 

軽快で爽やかな音色が心地良くて、テレビを消した。



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第7話 恋からの逃避行

どれだけモニターと対峙していただろうか。

もはや時間の概念などどうでも良いような気がしてきた頃。

そんなふうに考える。

 

そろそろ休憩?

 

いや、さっきの打ち合わせの議事録がまとめきれていない。

これは今日中に仕上げておきたい。

 

今週のうちに仕上げる書類はいくつある?

 

6つ。

議事録を合わせれば7。

大丈夫、時間はあるし、焦らずやらなければミスなんて到底しない。

 

それに。

 

それに誰も俺のことなど気にも留めていないだろうから。

こんな俺のことを気にかけ続けてくれる人なんてもう信じられなくなってしまったから。

 

湯水のように湧いて出てくる仕事とその書類の山。

少し前ならば吐き気すら催してしまうその光景に今は少し、安心を覚える。

それを片付ける役割が俺にはある。

それが俺に課された仕事だから。

俺が283プロ(ここ)に居て良い理由だから。

 

この書類の山を消した先にある自由など今はもう必要(欲しく)はないのだから。

 

「あと、一踏ん張り、だな」

 

軽く伸びをして一色翼はまたキーボードへ手を乗せ、カタカタと軽快な音を立て始める。

 

5度目の“あと一踏ん張り”。

視界の端にはアイドル達からの付箋付きの労いの品。

彼はそれらから目を背け続ける。

それは贖罪のつもりか。

はたまた自己防衛か。

それは彼自身ですらわからない。

 

なぜなら彼は自らの行動に疑問も何も抱いていないのだから。

___________________________________

 

電話が鳴る。

ちょうど良かった。

ちょうど休憩に入ろうと思っていたから。

一体何についての電話だろうか。

仕事の話であることは大前提として……。

 

鳴っている携帯は仕事用の携帯ではなく。

デスクに伏せてある個人持ちの携帯だった。

 

ふ、と電話を取る気がなると同時に、なんだ、と心底落胆する。

もはや誰からの電話であるかどうかもどうでも良くなり、発信元を確認することなくキーボードにまた手を乗せる。

 

そういえば何度か携帯が鳴っているような気がしていたが、原因はこれだったか。

良かった、客先には迷惑はかかっていないようだ。

本当に良かった。

 

しかし、今回は様子がおかしかった。

 

鳴り止まないコール音、机を震わせ続けるバイブレーション。

コール音が切れてからまた鳴り出すスパンがどんどんと短くなっている気がする。

 

もしかして、アイドルの誰かが事件に……?

 

いやありえない、緊急の連絡先は全てあっち(仕事用)の電話番号で統一している。

 

ならば誰が……?

 

胸のうちに立ち込め始めた不安感に突き動かされるように。

携帯電話へと手が伸びる。

 

その伸ばしている時間にも着々と不安感は募る。

一体誰が。

酒に酔った友人がイタズラ電話をして来ている、ならば結構なのだが。

しかしそのように生半可な剣幕ではない。

なにか重大なミスを犯してしまったのだろうか。

なにか悪いことでもしたのだろうか。

 

携帯電話を掴んだその瞬間。

 

脳裏に一人の女性の顔がフラッシュバックする。

若干赤みがかった茶髪のショートボブ。

ほんの少し垂れ目がちな視線に、魅力的な泣きぼくろ。

____樋口円香。

 

どこか慌てた様子で画面を裏返したとき。

先程まで耳をつんざくように鳴っていた音が、机だけでなく空気でさえもビリビリと震わせていたようだった振動音が、事切れた。

 

画面に映るのは。

兄、一色陽向からのおびただしい量の不在着信履歴と一つの留守電だった。

 

少し指先を震わせながら留守電のマークをタップする。

 

すると再生されたのは。

 

『今日、仕事が終わったのなら俺の診察室に来い』

 

という短く端的な言葉だった。

 

___________________________________

 

車を降り、呼び出された診察室へと向かう。

その面持ちは神妙で緊張に包まれている。

前へと歩みを進める足は重たく、今にも歩みを止めたい気持ちになる。

 

それは、もうこれから何が起きるか分かっているから。

過去に『正しい』と思い、下したその選択を否定されることが。

今の俺を、否定されることが。

その相手が他人ならば何も気に留めることなどない。

自分の生き方に指図される言われなど無いから。

 

しかし、それが親族、さらに兄だとしたならばそれはどうだろう。

正直、兄という生き物は人生において目標であり、天敵である。

当然翼の人間性(こと)など熟知しているはずで今回呼び出した、ということは翼のウィークポイントを間違いなく突いてくるはずなのだ。

それがとてつもなく翼にとっては怖くてたまらない。

 

そんなことを考えながら歩いているとものの数分で兄の診察室へと着いてしまった。

 

「ふぅ……」

 

深く、深く深呼吸をしてドアをノックする。

コンコンコン、という渇いた音がその時は嫌に長く響いているような気がした。

 

そして、「どうぞ」という兄の声を聴いてドアを開ける。

 

ドアを開け、視界に写った兄は酷くやつれているような気がした。

少し斑色のようになった髪の毛に無作法に伸ばされた髭、そして、手には狼煙のように上へ上へと煙が上がる煙草が握られていた。

 

そしてその様子の彼は煙草を吸い、呟く。

 

「ほう、来たのか」

「ははっ、あれだけ電話をされれば流石に来るよ」

「流石に……ねぇ…」

 

人を嘲笑うかのようなカカッという渇いた笑いと共に、煙が陽向の口から溢れ出す。

そして、おもむろに彼は灰皿に煙草を押し付け、立ち上がる。

凝った様子の首を左右に振り、前へと歩き出した。

 

一発目だ、と。

瞬間的に思い、翼は目を閉じる。

 

そして、次の瞬間にはおでこにピンッ!という甲高く鋭い衝撃が走った。

 

「そこまで落ちぶれちゃいねぇよ、おら、行くぞ」

 

そう言い残すとスタスタと歩き去る陽向の後ろを翼はついて歩く。

どこへ行くのか、と聞いても陽向は答えず前だけを見据える。

 

その態度は黙って俺について来い、と言わんばかりだった。

 

歩いて行き着いたところは、会社の車。

つまり翼が乗って来た車だった。

なんとも拍子抜けというか、なんというか……。

間抜けな表情のまま固まった翼に陽向が、ん、と手を前に出す。

 

「な、なに?」

「おい、マジで仕事のし過ぎでおかしくなってんのか?鍵だよ、車の」

「いや、これ社用車」

「良いから出せ」

「……」

 

若干の苛立ちを込めながら兄に向かって鍵を下投げで渡す。

彼はサンキュ、と言いながらその鍵を使って車に乗り込んだ。

それに合わせて翼も車に乗る。

 

「さて、どこに行くか」

「え?」

 

ハンドルを握り、そんなことを呟いた運転手に対して、極めて素頓狂な声が喉から漏れ出た。

その反応にニヤッと笑い返した兄の顔はまるで少年のようだった。

そしておもむろにドライブに入れると、車を発進させた。

 

「まぁ、いっか」

 

そんなことを言って。

___________________________________

 

あれからも何度か相談は受けていた。

ただ、こちらとしてももうお手上げと言ったような状況で……。

思考を回せど、最早良い案は出てこない。

 

彼は消えてしまった、と言ってしまえばこの人は下がってくれるだろうか。

 

考えるが、そんなことはしない。

それではあまりにも報われない。

まだなにか出来るだろう。

まだなにか、あと一つ。

 

電話の先で女性がぼそっと呟く。

 

その一言を男は聞き逃さなかった。

それだ、と呟き立ち上がると。

電話をかける。

一色翼へと。

弟へと。

しかし、何度かけどもかけども繋がらない電話に若干の焦りを込めて。

ショートメッセージを送る。

 

『今日、仕事が終わったのなら俺の診察室に来い』

 

と。

男は……一色陽向はコンビニで煙草を買うことにした。

勢いを殺すわけには行かない。

 

禁煙は、終わりだ。

___________________________________

 

車は走り出した。

行く宛もなくとにかく前へ前へと。

 

そのまるで青く晴れた空が似合いの様子とは裏腹に、翼の内心は疑問で一杯だった。

それが流石に言葉となって飛び出した。

 

「そろそろ、流石に何が目的か聞いても?」

「目的?兄弟水入らずのドライブじゃダメかよ」

 

ごもっともすぎる回答に翼は思わず口を噤む。

ただ、今日呼び出した理由はそれだけじゃないのもわかっているため、安易に納得したりはしない。

 

「い、いやまぁダメじゃないけど……流石に唐突すぎる」

「まぁまぁあんま考えすぎんなって、仕事で疲れてんだろ?景色見ときゃ時間なんか過ぎていくさ」

「誤魔化すのと理由を話すのは全然違う」

 

その言葉を聞いてから少しして、それもそうだな、と言いたげな表情を浮かべ陽向は口を開く。

 

「……まぁ勿論、今回呼び出したのはドライブだけが理由じゃない、ただその話をするなら、ドライブ中が最適だと思った」

 

それだけだ、と彼は誤魔化す様子なく言った。

ならば、と翼は質問を続ける。

 

「じゃあその話っていうのは」

「だから急くなって、童貞か?」

「どっ……」

 

そこで、はっとする。

俺は、“もう一人”の俺は、一度でも円香と身体を重ねた経験があるのだろうか。

少なくとも、俺の中には円香以外でそのような関係まで到達した相手は思い当たらなかった。

 

もし、過去の自分がそこまで行っていたなら。

 

そう考える所まで行って、横から飛んできた笑い声に思考を止められた。

 

「今、羨ましく思ったろ?」

「う、うるさいな」

 

まるで思考を読まれたかのような感じがして少々苛立ちながら答えた翼に対して、悪い悪い、と微笑しながら兄は続ける。

 

「たださ、こういう話は診察室(あそこ)じゃできないだろ?」

 

確かに、と思う。

医者としての立場がある兄はそのしがらみから離れる必要があったのだ、と理解し、今の彼が素の一色陽向であることを再認識した。

 

陽向はおもむろに語り出す。

自分の全てをさらけ出す様に。

 

「兄ちゃんな、禁煙やめたんだ、なんでだと思う?」

 

翼は陽向がヘビースモーカーとは行かないまでもまぁまぁの本数を1日に吸っていたことを知っている。

しかし禁煙についての理由については全くもって知らなかった。

 

首を傾げるとその情報を補足するように陽向は話し始めた。

 

「前の恋に固執することを辞めたんだ、いわば吹っ切れたってやつだな」

「前の恋?」

 

そう聞き返した弟に対して、まぁ聞き流してはくれないよな、と言わんばかりにバツの悪そうな表情を浮かべ、話を続けた。

 

「研修医のときな、担当した患者に一目惚れして、入れ込んで……先に逝かれて、自分の自惚れを知ったっつー面白みもない昔話……そんなの聞きたくもないだろ?」

「その表情でそれじゃ、聞いてくれるなって言ってるようなもんだろ」

「それがわかってるのなら良し、聞いてくれるな……さて、そこでな約束をしたんだ……『私が良くなるまで禁煙』ってな」

 

先程のあらすじによると、その約束の相手は。

 

「ひでぇ約束だよな……全く、自分の命の灯火が消えそうなのを感じてさ、青少年の心を弄んだんだ」

 

そこまで話して渇いた笑いをこぼし、兄は言う。

 

「そして、その約束にずっと縛られて生きてきたって訳よ、一途だよなぁ」

 

そんなふうに自分を嘲笑する陽向のことを、翼は笑えないでいた。

この人を笑ってはいけない、と兄とは真反対の神妙な面持ちで話を聞く。

 

んで、とまだ陽向は話を続ける。

 

「今日もさ相談を受けてたわけ、誰とは言わないけど」

「円香……?」

「言わないって、まぁ勝手に解釈してもらって構わないけどさ」

 

そして何やらペラペラと喋り始めた陽向の話を他所に、どこか引っかかる点があるのを感じる。

 

今の話の脈絡で何故急に円香の話が出てきたのか。

何故俺にそんな話をする必要があるのか。

何故過去の悲劇を、笑えるのか。

何故前の恋から吹っ切れることが出来たのか。

 

次々と疑問が乱立する、しかし、その全ての疑問は長考をすることなく結論へと達した

 

まさか。

そんなことは。

 

兄さんが。

 

「俺、樋口さんのこと好きになっちまったんだよな((円香を好きになるなんてことは))

 

思考が到達したのと同時に、その言葉は鼓膜に直撃した。

 

「なっ……」

 

動揺が抑えきれず、思わず声が漏れた。

 

今度はその反応を見ても、笑わなかった。

その表情は、真面目なときのそれだった。

 

しかし、恋人である弟の前でこの兄は一体何を……。

 

Project originality.

 

突然その単語が頭の中でフラッシュバックする。

そして、そのフラッシュバックは今の俺が詰んでいること知らせに来た。

 

あの企画書を彼女へ提示した瞬間。

俺と円香は“別れたも同然の関係”へと変化してしまっていた。

 

静かに俺と円香を結びつけていたネクタイが綻び、解けていくのを感じる。

しかし、何故か解けていっているのに呼吸には首を絞めた時のような息苦しさと痛みが伴う。

 

苦しい呼吸をなんとか続け、考える。

 

もし。

もし、この息苦しさと痛みをあの企画書を渡した瞬間に彼女も感じていたとしたら。

 

『ミスタースワンプマン』

 

その言葉を思い出し、なるほど、と思う。

確かに日々の何気ない仕事の一部としてこのような痛みを与えた俺は、人の痛みを理解していない“偽物”である。

それはもう泥人形(スワンプマン)と何ら遜色ないだろう。

 

全て自分が蒔いた種なのだ、諦めるべきだ。

 

そう思ったとき。

声がした。

 

諦めるな。

 

と。

耳からではなく、頭に直接“俺”の声が響く。

 

諦めたくないはずだ。

彼女に一度も好きだ、と伝えることのないままに今のお前は諦めることなど出来ない。

 

と。

 

“今度は俺から『告白(好きだ)』って言わせてくれ”

 

過去に彼女に言ったその言葉。

それは記憶が戻ったら、という前提で言った言葉だ。

だからこそ、今の俺には言う権利がない、とそう思っていた。

 

ただ心の内には常にその好きだという気持ちがあって。

あったからこそ記憶の戻らないことが後ろめたくなって、円香にそんな姿を見せたくなくて、結果的に手放すこととなってしまった。

 

そして仕事に逃避した。

 

そんなことをした俺が、彼女に今どう思われているか、それを知るのはとても怖い。

でも、チャンスがなくなる前に彼女が遠くに行ってしまうのはもっと怖い。

 

諦めたくない。

 

とにかく今は振られても良い、罵倒されても良い。

ただ、ただひたすらに自分の気持ちを伝えたい。

結果はどうでも良い、ただ今のように未練がましく生きたくは無い。

 

諦めたくない。

諦めない。

 

気がつくと口が言葉を紡いでいた。

 

「あと一週間時間をく」

「一週間〜?」

 

口から飛び出たその言葉に更に覆い被さるように兄の声が重なる。

 

「だ〜めだな、俺は明日にでも告白する、今日はその宣戦布告なんだからな」

 

カカカッ、と愉快そうに笑う兄の挑発に乗せられるように勢い良く翼は言う。

 

「そんなの、今日しかないじゃないか!」

「今日行けよ」

 

静謐。

前を向きながら言ったはずのその言葉はフロントガラスに反射することなく、真っ直ぐ翼を突き刺した。

その冷ややかさはまさに「今決めないならもうチャンスは与えない」と語っていた。

 

思考を回す。

なんとか時間を引き伸ばすことは出来ないか、兄を止めることは出来ないか。

 

出来るわけ無い。

恋は情動的な感情だ。

そう自覚した瞬間に言葉として吐き出したくなる、そんな感情。

兄は今その最中に居るのだ。

止められるわけがない。

 

なら本当に、今日しかない。

それにかくいう俺自身もこのわだかまりを抱えたまま、一週間も待てるわけがない。

 

ふぅ、と軽く、しかし、確かに決意を込めて息を吐き、言う。

 

「……わかった、今から連絡する」

「英断だな」

 

挑発的な態度に戻った兄の顔は見ずに携帯を取り出し、電源をつける。

 

目に入るはロック画面にポツンと残る白いバナー。

見慣れたそれはチェインの通知だった。

そこにはこう書いてあった。

 

『事務所で待ってます。』

 

差出人は。

円香だった。

 

程なくして兄は事務所へ向け、舵を切った。

その横顔を見て、翼はまんまと乗せられた、と思う。

その顔は……たまらなく嬉しそうな顔をしていたから。




ラストスパート、頑張ります。
なので最後までご愛読いただけると幸いです。


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第8話 もう解けない

『必ず連れてくるので、大船に乗ったつもりで居てください』

 

陽向が言ったその言葉を円香は頭の中で反芻する。

正直半信半疑だったけれど、一応事務所には来たし、翼に連絡を入れた。

ただ会ったところで、あんなこと(泥人間呼ばわり)をしてしまった以上、気まずくなるに決まっている。

だから彼は来ないし、来てほしくなかった。

それなのに。

 

「……本当に来るなんて思わなかった」

「ははっ、俺もまさか本当に居てくれるなんて思わなかった」

 

彼は来た。

今、目の前にバツの悪そうな顔をして立っている。

 

どこか胸の奥で高鳴る感情を押し殺すように左腕で右腕を体に寄せる。

 

矛盾している?

そんなの、知ってるし。

わかっている。

だから、嫌。

 

彼が口を開く。

 

「……こうしていてもなんだ……飲み物を入れよう、何が良い?」

 

同感だった。

第一、一度飲み物で流してしまわないと今は何を言い出すかわからない。

 

「コーヒー、ガムシロップ付きで」

「わかった、すぐに用意する」

 

そう言うと足早に給湯室へと彼は向かっていった。

 

そこで初めてふぅ……と全身の力を抜くことができた。

力が抜けたからか、ふとあの日のことを思い出す。

Project Originality.の企画書を渡されたあの日。

 

彼は酷い顔をしていた。

いや、一見彼の外見的には何も問題はなかった。

ただ円香にはわかる。

自分以外にわかってたまるものか。

彼が心の底から笑えては居なかったことなど。

 

そして、わかってしまった。

原因を作ったのは間違いなく自分であることが。

私のワガママが彼にとって重荷となっていることが。

そのことがわかったというのに。

私はどこまでも自分勝手で。

彼の心情を顧みずに酷いことを言ってしまった。

 

ただ彼は。

表情を歪ませた私に向けて笑ったのだ。

ステージ袖で向けてきた笑顔で。

私の拒絶を持って。

心の底から笑ったのだ。

 

その瞬間、円香は自分の行動の幼稚さに気が付き、思わずその場から逃げ出した。

遠くへ、行ってしまわなければいけないと思った。

彼の笑顔の障害となってしまうのならば、と。

彼が私に縛られないように。

 

雨の降る中、駆けた。

走りづらいパンプスは早々に脱ぎ捨て、何処かへ投げ捨て、駆けた。

どこでも良いと、駆けた。

スーツに跳ね返った泥はクリーニングに出してしまえば消える、気にせず駆けた。

アスファルトの表面はザラザラとしていた、初めて感じるそれは足の皮膚を確実に傷つけているのがわかった、それも知らないふりをして駆けた。

駆けて。

とにかく駆けて。

どこか、私が居て許される場所。

それを求めて。

辿り着いたのは。

一色陽向の勤める病院だった。

 

なんだ。

 

『助けを求めに来た』

 

結局。

 

『一縷の想いを賭けて』

 

彼のことが好きだ、ということか。

 

『たすけて』

 

抑えていた涙が溢れ出した。

視界はぼやけて、涙と雨が混じり合い、頬を川となって流れる。

 

『私は一色翼を諦められない』

 

それを思い知らされてしまった。

この行き場のない感情は静かに胸を締め付けた。

誰か受け取ってはくれないか、とも思う程に。

しかし、それは出来なかった。

自分自身が許してはくれなかったから。

相変わらず円香の恋心は一度覚えた甘美を忘れられず、永遠に求める貪欲さに塗れていて、今も心の底でそれを欲している。

他の誰(理性)よりもワガママだった。

 

ならば、と思った。

ならば諦めてたまるものか。

その欲に支配されることも厭わないこととしよう。

これは私のワガママが原因で始まったことなのだから。

 

恋はワガママを押し通した者勝ちだ。

もう、完璧を求めたりなどしない。

5割でも、3割の達成度でも良い。

とにかく彼を、好きな人(一色翼)を離さないことを目的とする。

 

だからまずは邪魔なしがらみを取り払わなければならない。

Project originality.

私と彼を分かつ理由となったそれを少しでも良いから、とにかく一度軌道に乗せきってみせる。

彼が安心できるように。

私の価値を彼に知らしめるために。

 

そう決めてから数ヶ月、死ぬ気でやって、遂に1つのユニットを実際に軌道に乗せ切ることに成功した。

社長が先んじて選別してくれていた、ユニットのメンバーには少し無理を掛けたが、その結果としては上々、といった売上も上げている。

 

しかし、翼から祝いの言葉はなかった。

やっぱり見てくれてはいないのか、と思うと悔しかった。

ただ今回のブレイクはプロジェクトとしては目を見張る程の成長。

きっと彼の視界の端には映ったはずなのだ。

私の、私とメンバーの頑張りが。

 

そう自負することができたから今日、初めて陽向に相談した。

どうすればいいだろうか、と。

少しやさぐれたような様子となっていた彼からは、直接対面で話すのが一番、だと返された。

その場も用意してやるとも言ってくれた。

とても頼もしかった。

 

……ただそれが今日だとは思わなかったが。

 

「おまたせ」

「ありがとうございます」

 

そうこうしているうちに、翼がコーヒーを持ってきた。

そのコーヒーをみて円香は首を傾げた。

 

「ガムシロップは?」

「ん?入れたけど……」

 

何を突然、と言いたげな表情を翼は浮かべコーヒーを口に含んだ。

それに同調するように若干怪訝な表情を浮かべながら円香も飲む。

 

「……え……?」

 

どこか弱々しくそう呟いた円香に翼は視線を向けた瞬間にギョッとする。

 

彼女の瞳から涙の雫が一つ二つと落ちる。

円香が、泣いていた。

 

予想外の自体に頭が混乱する。

 

なにかしてしまっただろうか?

苦すぎてしまっただろうか?

 

頭の中でグルグルと思考を回すうちに円香の涙は粒から一本の線へと変化していく。

その様子に翼は慌てながら口を開く。

 

「えっと、ごめん、ガムシロップ1.5個じゃなかったか……?」

「ちが、ちがう…、ちがわないけど……」

 

若干の嗚咽を漏らしながらそう言う円香に翼は更に焦る。

焦って落ち着かなくなっていく翼とは対照的に少し息を落ち着かせた円香が言う。

 

「私が…ッ、好きなガムシロップの量を教えたことなんて、あった?」

 

そう言われ、翼はハッとする。

 

「教えてもらってない……」

「私が教えたのは、あなたと付き合ってから、だから」

「“俺”は知らないはず」

「そう」

 

それはつまり、と恐る恐る翼は言う。

 

「記憶が断片的に、戻り始めて……る?」

 

その言葉を聞いて円香は微笑んだ。

その表情は安心と慈愛に満ちていて。

 

すきだ。

 

気がつくと、翼は円香のことを抱き締めていた。

そして、口を開く。

 

「今までごめん、たくさん迷惑をかけた、ありがとう」

「今聞きたいのは、懺悔の言葉じゃない」

 

わかってる、と呟き、再度告げる。

 

「円香、愛してる」

「私も愛してます」

 

幸せに鼓動が高鳴る。

 

「記憶はさっきの分しか、多分戻ってない」

「それは私が観測できてないだけ、きっと、もっと戻っています」

 

一人では手にできなかったこの感情。

 

「もう離したくない」

「こちらとしても離れるつもりは毛頭ありません」

 

好きだ。

 

「好きだ」

「好きです」

 

何者にも変え難い、変えさせない。

 

「暑苦しいか?」

「心地良い」

 

瞳が潤む。

 

「泣きそう」

「泣いていい、私はもう泣かない」

 

あなたの一挙手一投足を見逃さない為に。

 

「ありがとうございます」

「礼は、いらないよ」

 

いいえ。

 

「私のワガママなので押し付けます」

 

キスした。

初めて私から。

彼は私からが初めてだと気づいてくれるのだろうか。

どうでもいいけれど。

彼のファーストキスを飾れたのなら、それで。

 

キスをされた。

初めて円香から。

それが直感的にわかった。

正確な記憶はないけれど。

これが俺の円香とのファーストキスだ。

 

長い沈黙を経て、二人の唇は離れる。

 

互いに顔は紅潮し、少し息を切らしている。

 

そして、もう一度。

ネクタイを結ぶように唇を重ねる。

結び方は正しく、簡単に解けないように。

しかし、ネクタイの表裏なんて、些細なことはもう気にはしない。

歪な模様でも良いのだ。

少し個性的なだけなのだから。

___________________________________

 

「するんだ、ケッコン」

「ん」

「やは〜円香先輩照れてる〜?」

「照れてない」

「円香ちゃん!おめでとう!」

「ありがとう、小糸」

 

彼と最近見つけたカフェの海辺の景色が一望できるカウンター席に座って他愛もない話する。

他愛もない話、と言ったが結婚という点においてはかなり大きな話になる。

あの夜から実に3年間の交際を経て、遂に先日プロポーズを受けた。

 

正直一日丸々オフにして出掛けようと言われた時に勘付いていたため、どれほど暑苦しい情熱的なプロポーズをしてくれるのだろうか、と若干期待していたのだが、実際のところはシンプルにディナーの席で。

 

「結婚してください」

 

という言葉と共に、指輪をプレゼントされた。

そして私は断るわけもなく、了承して、上品に宝石で装飾された指輪は美しく今も薬指で光り輝いている。

 

「円香先輩ニヤついてる〜〜」

 

ニヤついてないし。

 

「おー樋口……いや一色円香、今しあわせー?」

 

乗るな。

 

「ぴぇっ、そういえばもうすぐ樋口は旧姓になるんだもんね……!」

 

それはそう。

 

この人生で何度聞いたかわからない、この会話。

でも今日私が返す言葉は違う。

 

「幸せ〜」

 

キャラじゃないことだって言ってしまいたくなるほど幸せだから。

___________________________________

 

翼は兄の元を訪れていた。

 

「本当にありがとう、兄さん、何度もお世話になりました!」

「良いんだよ、兄としての勤めを果たした、それだけだから」

「兄さん……」

 

それに協力したのも3年前じゃねぇか、と笑うと、わざとらしくネクタイを締めるような所作をしながら陽向は言う。

 

「……それにしても親戚に推しが入るってのは、こう……なんとも背筋が伸びるな……」

「ははっ、常に伸ばしてればすぐに兄さんなら買い手がつくさ」

「お〜?言ったな?……でも残念、背筋を伸ばさなくても、もう買い手はついてま〜す」

「え?!」

「え?!とはなんだ、え?!とは兄は高学歴高収入の女子の求める2Kを持つ人間だぞ〜?」

「ははっ、それは違うな」

「ほう、どう違うか言ってみろ」

「高学歴高収入で格好良い、3K揃ってる」

「こいつめ」

 

小さな診察室に笑い声と団欒の空気が満ちた。

これも一つの幸せの形だ、と翼は思った。

___________________________________

 

「よし、行くか」

 

ネクタイをしっかりと締め、翼は円香へ語りかける。

 

「はい」

 

それに円香は応え、彼の顔を見据える。

 

そして二人は玄関から外へと踏み出す。

 

これから二人は一つだ。

何者も解くことはできない。

もしもいつか解けてしまうとしても、それはまた結ぶための予備動作に過ぎないのだから。




ネクタイノオモテウラ、完結です。
拙い文章ではありましたが、本当にここまで読んでいただきましてありがとうございました。
良ければご感想をいただけると嬉しいです。



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