明けない夜を希う。 (write0108)
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不思議な少女


終電を逃した。

友人との飲み会の末、酔い潰れて眠ってしまった俺は、どうやら置いていかれてしまったらしい。

辺りの景色は、まるでこの世界のものではないみたいにぐるぐる回っている。

酷い倦怠感で一人暮らしのアパートに帰る気にもなれないので、まずは状況を整理しようと思った。

 

明かりのついていない駅舎。その前の、24時間営業のコンビニの駐輪場の隅っこに、俺は座り込んでいた。

 

何をやっているんだろうなぁ。

一人になるとどうしても焦り、考え込む。

生きている理由とか、何をしなきゃいけないのか、とか。

そんなことは今考えるべきじゃないのに、優先度の低いはずの疑問を、必死になって思考する。

 

しかし何度悩んでも答えは出ない。未来は今の空模様のように真っ暗で、そこに明かりを灯す事は、今の俺には出来ないことのような気がする。

 

溜息をひとつついて立ち上がる。取り敢えずは薬を飲もう。コンビニで買ってきた水で酔い止めを流し込む。こんなこともあろうかと、事前に購入しておいたのが功を奏した。

 

少し楽になったような気がするが、それも気のせいだろう。きっとすぐに世界は回り出すし、夜の街のネオンがうざったくて、また空を見上げる。

 

空き缶を背負ったホームレスと、階段に座り込む風俗嬢と、寝転びだすサラリーマン。この世の闇みたいなものが、全部詰め込まれているようなこの場所。

 

電池の切れてしまった携帯を、ポケットに仕舞い込む。ここにいても何も解決しないので、アパートへのひたすらに長い帰り道を歩いてみる事にした。

 

下を向きながら歩く。たまに照らす外灯以外に大した光のない世界。月が綺麗ですね、なんて言葉も言えないほどの曇天だ。…そもそも、言うべき相手もいないんだけど。

 

まだ冷たい春の夜風が体を貫くので、俺は体を覆うように腕を回す。それでも空気の読めないそいつは、勢いを増して吹き付ける。

どうしようもないのに、募る苛立ち。

 

馬鹿らしい。もう何周もしてきた季節なんかに思考を奪われていることが。でも同時に、そんなことを考えているうちは、何となく絶望していないような気がして。

 

何だか今を生きているみたいで、嫌いにはなれない感覚だった。随分後ろ向きなポジティブだ。

 

俺は近くにあった公園のベンチに座り込む。肩掛けのバッグから煙草を取り出して、火を付ける…のだが、風のせいでなかなか付かない。

 

何度も何度も、ヤスリ部分を擦る。それでも火は付かない。

俺が煙草を諦めようとした時、目の前からライターが差し出された。

 

「たまたま持ってたから、あげるね」

 

少女の声俺は顔を上げる。

そこには珍しい服を着た少女がいた。

丈の長い緑色のスカート。淡い黄色の、袖口の広い上着。

 

そして何よりも、コードのようなもので繋がる暗い色をした何か。

ポーチか何かだろうか。それにしては重力を無視しすぎているように思う。

デザインも、本物の瞳が閉じられているようなもので、少々気味が悪い。

 

俺はありがとうと言って、ライターを受け取って擦る。

付いた火は、やはりすぐに消えてしまう。

何度も、何度もヤスリ部分を擦る。

その間、少女はじっとそれを眺めていた。

 

ようやく煙草に火を付けて、待ち侘びた煙を深く吸い込む。

脳まで響くような、重みのある味がする。溜め込んで、吐き出す。

 

「おいしいの、それ」

 

作り物みたいな笑顔で、少女は問う。人形みたいな容姿をしていることも相まって、やはり少々不気味だった。ウェーブのかかった短めの髪は、明るい緑色をしている。その髪を包む、大きな黒い帽子。

 

「まぁ、うん。おいしいよ」

 

答える。どう美味しいのかなんてあまり分からないが、取り敢えず美味しいのだ。

 

「そっか」

 

そんな短い会話があって、また無言に戻る。じりじりと燃えていく煙草をぼーっと眺める。

少女も同じように、でも俺と違って興味津々に、煙草を眺める。

 

「…家、帰らないのか?」

 

二口目を吸って吐いて、俺は問う。

 

「気が向いたら帰る。お兄さんは?」

 

端的に返され、問われる。

 

「これ吸い終わったら帰るよ」

 

そう答えると、少女は隣に座り込んだ。

 

「じゃ、それまで待ってるね」

 

なんで?と思ったが聞きはせず、また煙を吸い込む。

それを見つめる少女の瞳には、光はない。でも闇だというわけではなく、ただただ無。貼り付けられた笑顔と、明るいトーンの声。

 

この子は一体、何なのだろうか。

もしかしたらネグレクトだったりするのだろうか。

だとしたら、あまり関わりたくない気もする。面倒だし、家庭にとやかく言う義務はないだろうし。

 

ただ、警察に通報くらいはした方がいいのだろうか。微妙な所だ。気が向いたら帰るとも言ってたし、家がこの辺なら、送るくらいはしよう。たばこの火を消す。

 

「家、近いなら送ってやるよ。どこだ?」

 

少女はきょとんとした顔をしている。

 

「遠いよ、私の家」

 

家出か…?それとも、閉め出されたとか?どれにしろ、この時間じゃ危ない。やはり警察に通報した方が良さそうだ。

 

「…お兄さんは、帰るんでしょ?ばいばい」

 

少女の言葉が終わるか終わらないかくらい。そんな短い時間で、少女は俺の視界から消えた。

 

「えっ」

 

思わず声が出る。

何度目を擦っても、目の前に少女はおらず。

ただ脳裏に映るのは、去り際見せた寂しそうな顔で。

 

それでもこれは夢なんだ。そう割り切って、暗い夜道を淡々と帰る。

 

彼女は何者なんだ?

考えれば考えるだけ、謎は深まる。

 

少女のような容姿。…の割に落ち着いた、まるで全ての悲しみを見てきたみたいな瞳。

そして、去り方。

 

はた、と足が止まる。

まさか俺は、見てはいけないものを見てしまったんだろうか。

この辺で有名な妖怪とか?はたまた、この地に封印された地縛霊!?

…なんて、下らないことを考えてみる。

そんなわけはないよな。きっと、本当にそんなものを見た事がある人だって、そんなわけないって思って、無かったことにして生きていくんだろう。

 

兎にも角にも、帰るのが先決だ。ふらふらとまた歩き始める。

消えてしまった家の灯り。悲しげに照らす街灯。まだ明るいコンビニ。俺は蛾のように、明るい方へ明るい方へと歩いていく。

 

月もないような夜がただ、俺の将来みたいだった。



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目が覚める。ここはどうやら自分の家で、俺はベッドに寝転んでいた。

 

ということは、無事に帰ってこれたということだ。ズキズキと痛む頭を抱えて、乾き切った喉を潤すべく、ベッドから立ち上がる。

 

ふと、テーブルの上に無造作に置かれたタバコの横に、見慣れないライターがあるのを発見した。変わった形をしていて、どうやって擦るのかもわからない。こんなライター、いつ買ったんだろう。…昨日の記憶がほとんどないので、これは悪酔いの産物だろう。多分、変な露店で結構な額を出して買ったんじゃないかと思われる。

 

こんな物を買うくらいだったら、お酒は控えた方が良さそうだな。…まぁ、お酒が入っていなくとも、こういう物を買ってしまう時はあるだろうけど。

 

コップに注いだ水を一気に飲み干す。体温が下がるのを感じる。俺はまた、ベッドに倒れ込んだ。

見慣れた、見慣れきった天井をぼんやりと眺めていると、時間の流れなんかを感じることができる。…昨日はどうやって帰ったんだっけ。

 

コンビニの前で座り込んで、空を眺めていたことまでは覚えている。だけど、その先が思い出せない。何か、衝撃的なことがあったような気がするんだけど。

 

…まぁどのみち、思い出せないことは考え込んでも思い出せない。俺は思考を投げ捨てることにした。そもそも、まともな思考ができる状態ではないのだ。

 

形容しがたいいくつかの思考が同時に襲いかかってきて、そのどれを選び取ることもできずに、全てに見ないふりをする。そうやって、この苦痛に耐えている。

そうしている内に眠りについてしまうことや、全てがどうでもよくなってしまうことに期待をして。それが俺の、二日酔いの時のルーティーンになっていた。

 

時計の音だけが響く部屋に寂しさを感じて、テレビをつける。どうでもいい旅番組が流れている。俺は笑いも悲しみもほとんどないそれをBGMに、目を閉じてみる。

当たり前に視界は真っ暗になる。何も見えない分、テレビの音がよく聞こえる。文章を咀嚼しようとしていないから、風のように通り過ぎていくだけだけど。

 

こうしていれば、見ないふりではなく確実に見なくて済む。見たいものも見たくないものも関係なく、全てを見ないでいられる。…後ろ向きが過ぎる思考だが、それも悪くない気がした。

 

辛いことも、楽しいこともない真っ暗な世界で、何かに怯えることもなく、何かを強いられることもなく生きる。それはきっと、素敵なことなんだろう。

 

そこまで考えた所で、ふと思い出した。閉じた瞳のような入れ物のこと。そしてその持ち主の、不思議な少女のこと。

そういえばこのライターはあの子に貰ったものだ。昨日は付けられたのに、今日はどうして付け方がわからないんだろう。

 

「…あの子は誰だったんだろう」

 

俺の記憶では、ばいばい、と言って消えてしまったのだが。そんなはずはないので、きっとまだ完全には思い出していないんだろう。

不思議な子だったなぁ。多分、しばらく経てば忘れてしまうけど。

 

忘れたくないことも、忘れたいことも。同じように少しずつ攫われていく。ずっと大事に握りしめていたはずの宝物も、いつか無価値に思えてくる。

忘れてしまうと分かっているから、忘れないように努力することはできない。いつかは忘れてしまう景色だから、今を大切に思えない。

 

「おはよう、お兄さん」

 

突然声がして、俺は驚きのあまりベッドから転げ落ちる。そんな俺を見て、声の主はけらけらと笑う。

 

それは間違いなく、昨日会った子だった。大きめの帽子を被った、不思議な少女。

聞きたいことは沢山あった。なぜここが分かったのか。どこからここに入ってきたのか。そもそも、なんで俺に会いに来たのか。

そのどれも言葉にはならず、俺はぱくぱくと口を動かした。

 

「挨拶されたら、ちゃんと返さなきゃダメでしょ?」

 

少女はそんな俺の仕草を気にも留めず、俺の手を取った。引っ張られて、やっと立ち上がる。

 

「その前に、人の部屋に勝手に入ったらダメだろ」

 

そう返すのがやっとだった。少女は悪びれもせず、またけらけらと笑った。

何なんだ、この子は。俺の知っているどんな人間も、昨日あっただけの人間の家に勝手に上がり込まない。

 

ましてや、玄関も窓も開いていないはずの部屋に入る方法を知っている人間もいない。

俺の脳みそは有り得ない仮説を立て始める。俺はそれを否定するために、玄関に向かう。鍵は閉まっている。

 

「…どこから入ってきた?」

 

俺は震える声でそう聞いた。

 

「昨日から、ずっといたけど?」

 

さも当然、と言った感じで、少女はそう言った。例えば酔って部屋に招いてしまったとしても、今の今まで全く気付かなかったなんてことがあるだろうか。それでも、ずっといたと考える方が、辻褄は合うような気がする。

 

「お兄さん、私が見えなくなったのに平然と帰るから、こっちがびっくりしちゃった」

 

昨日は酔っていたから無かったことにできたものの、一晩寝て冷静になってしまった頭では、この状況を飲み下すことはできそうになかった。段々と背筋が凍るのを感じる。

 

「…君は、一体何なんだ?」

 

漠然とした、答えにはたどり着けそうにない、それでも一番心の中の声に近い疑問文を投げかける。少女は少し考える素振りをして、それから答えた。

 

「私にも、よく分からないよ。そんなの」

 

今までに見た事のない、悲しみに充ちた笑顔だった。俺はそれ以上何も言えなくなる。何か言ってしまうのが、間違っているような。なけなしの情みたいなものが、喉まで込み上げていた台詞をゆっくりと溶かした。

 

「逆に聞くけど、お兄さんって何なの?」

 

少女は俺に問いかける。

 

「…どこにだっている、普通の青年?」

 

俺の答えに、少女は満足したように頷く。それから口角を上げて、口を開く。

 

「それは、誰かがそう保証してくれるからだよね?戸籍とか、親がつけてくれた名前とか、色んなものが。それが全て無くなって、自分で自分が何者なのか考えなきゃいけなくなったとしたら、お兄さんって何なんだと思う?」

 

俺は言葉に詰まる。確かに俺がここに存在するのは両親が俺の生活を保証し続けてくれていたおかげで、国が俺の身分を保証し続けてくれているおかげで、周りの人間が俺の存在を保証し続けてくれていたおかげだ。…それが無くなったら。

 

「…何なんだろう」

 

少女はまた、陰りのある表情に戻る。

 

「ね?何も分からないでしょ。私と同じ」

 

吸い込まれそうに深い瞳が、まっすぐ俺を見つめている。その目に映る俺は、不安や恐怖に包まれて、今にも崩れてしまいそうに見える。

 

「私はね、お兄さん。私みたいに見える人が好きなんだ」

 

なーんにもない、からっぽな人が。少女はそう言って、にっこりと笑った。俺はただ、目の前で起きている現実が処理できずに、ぼーっとそれを眺めていた。



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「あ、でもね、ちゃんと名前はあるよ。誰が付けたのかもよくわからないけど、私が私だって証明してくれる名前が」

 

俺が立ち尽くしているのを気にも留めずに、少女は言葉を発し続ける。…何故かそれが、焦りのようなものなんじゃないかと考えた。

 

「古明地こいし。それが私の名前。ちゃんと覚えてたら、また会えるかもね?」

 

そう言って、少女はまた消えた。もう一度見る光景は、やはり現実感がなくて。昨日のように酔いのない今の頭では、まるで処理しきれなかった。

目の前で起こったが故に投げ出すこともできない、だけど飲み下すこともできない現実に出会ってしまった。

 

俺は逃げ出すように外に出る。事件現場を目撃してしまったかのような足取りで。

どうしてか逃れられないあの瞳から、あの吸い込まれそうな程に何もない瞳から、どうにか目を逸らしたくて。

 

いつもよりも早足で、歩き慣れたアスファルトを踏み締める。やはりここは現実で、夢の中ではない。当たり前に理解していることを確認してみたりする。

 

考えないようにすればするほど、少女のことで頭はいっぱいになる。

最後に聞いた名前や、その去り方のことを考える。

 

忘れていなかったらまた会えるとは、どういう意味なんだろう。

またどこからともなく現れて、どこかへ消えていくんだろうか。少女が立っていたはずの場所には、特に痕跡になるようなものが落ちているわけでもなかった。

 

…あの子は、どうしてあんな目をしているんだろう。

一見とても明るく見えるあの少女の瞳は、忘れられないほどに脳裏に焼き付いている。

 

大きさも形も、まるで違うのに。俺と少女の瞳は、とてもよく似ていると思った。少女が私みたいに見える、と言ったのも、きっとこの目のことだろう。

 

「空っぽ、ねぇ」

 

似合いすぎた表現だな。そう思って、少し笑う。

いつの間にか、足取りはいつも通りになっていた。

 

少女の貼り付けたような笑顔や、どこからともなく現れては消える在り方に対する恐怖心は、完全に消えたわけではない。

だけど、その目から感じる温度の無さや、期待を押さえつけるような悲痛さに、なぜだか親近感が湧いた。

 

もちろん、怖くなくなったわけじゃない。それでもなんとなく、本当になんとなく、救いを待っているように見えてしまって。

 

助けの求め方や、関係性の築き方を。誰に習う訳でもない人間が殆どなのに、それが全くできない人間がいる。距離感を間違えたり、喉まで上ってきてしまった言葉を飲み下したりして、それに後悔して。そういうことを、何度も繰り返してしまう。

 

俺には、少女がそういうタイプの人であるように見えた。色んなことを考えているのに、考えていないみたいに取り繕っている…そんな人間の、空っぽな笑顔だったから。

 

「古明地、こいし…か」

 

俺は忘れないように名前を呼んだ。聞いた事のないような響きなのに、どこか懐かしさを感じさせる字面。不思議な魅力がある、素敵な名前だと思った。

 

「なぁに?」

 

また急に現れた少女に、俺は驚いて尻餅をついた。初めて会った時と全く同じ動きで、少女はけらけらと笑った。歩くことや、箸を使うことみたいに、コンディションに関係なく、いつでもできる仕草のように。

 

染み付かせたような、そんな動作に、貼り付けたような笑顔。…本当の部分は、何パーセントくらいなんだろうか。そんなことを考えていると、少女は手を差し伸べてきた。

 

俺はその手を掴んで立ち上がる。柔らかくて、暖かい手だった。

やっぱり、子供みたいな容姿だ。急に目線が高くなったので、よりそう思う。

 

なのに、なぜ少女はこんなにも哀しい目をしているんだろう。冷めた目をして、口角だけが上がった少女の表情は、何度見ても胸が痛くなる。自分に重ねているからなのだろうか。そんなものよりもっと、深い所に刺さってしまっている杭を、無遠慮に弄られているような。そんな痛みだと思うんだけど。

 

…まぁ、考えても仕方がない。分からないものは分からない。俺は考えることをやめて、少女に礼を言う。

 

「私が転ばせたのに。変なの」

 

少女は初めて、笑顔以外の表情をした。俺はそれが面白くて笑う。

心外だと言うように、少女はそっぽを向いてしまう。

 

俺はごめんごめんと謝りながら、何となく周りに目を配る。いつの間にか帰路についていることに気が付いて、少し逸れた道を選ぶ。

 

…なぜだか、そうしたかった。家に帰りたくないと思ったのはいつ以来だろう。活発的で、見方によってはまともに思える感情。湧き上がるというよりは、降って湧いたような気持ち。

 

なぜ俺は、あんなにも恐れていた少女と一緒にいるんだろう。言葉にはしづらいが、不思議と嫌ではない、そんな暖かな疑問に包まれる。…時に、自分でもなぜこんなところに?と思う場所で発見した失せ物のように、心は不具合を起こす。

 

しかし、その疑問もやがて他の感情に書き換えられる。

 

明らかに知らない場所に出て、俺は足を止める。少女は楽しそうに、俺の先を歩き始める。

 

「昨日、送ってくれるって言ってたよね?」

 

少女の目には、珍しく光が灯っていた。それが灯篭のような、朧げな外的な光によるものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 

気づけば俺は、日の光の差さない場所にいた。誘蛾灯のような確かな光ではない、火元がどこかも分からない、朧げな輝きに誘われるように、奥深くへと落ちていくように、不確かな足取りで歩いていく少女を追いかけることしかできなかった。

 

「…ここが、私の住む街。というよりは、私が見れる世界の全て、なのかな?」

 

相変わらず、少女は笑う。儚げで、寂しげな笑顔で。俺はやはり、その笑顔を怖いとも、繋ぎ止めておきたいとも思う。

 

「お兄さんは、こっちの方が幸せに暮らせると思うなぁ」

 

俺はただ願っていた。今度は少女が消えないことを。この世界に、俺だけを取り残してしまわないことを。…帰りたいとは、思わなかった。目の前のものに縋って生きること。俺が選び取ってきた選択肢を、こんな時に自覚させられる。

 

声も出なくなってしまった俺の手を取って、少女は深く深く進んでいく。訳の分からない光景はより妖しさを増して、全方位を囲い込む。

 

「…ねぇ、私と一緒にさ」

 

純粋無垢な…それでいて、希望のない淡白な響きの声だ。それは握る手の温かさにも、歩き進めていく歩幅にも、目線の高さにも、どれにも似つかわしくない。

 

「いつか終わるまで、ここにいようよ」



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不思議な世界


物事には始まりがあって、それはいつか終わる。終わらせたいことは早く終わらせて、終わらせたくないことは、先延ばしにしていくしかない。終わらない、終わらせないと意気込んでみても、自分の命と一緒で、いつかは終わってしまう。

 

だからきっと、ここにいることも、いつかは終わる。それが早いか遅いかだけが、俺の中で気がかりだった。

 

「…で、こいしにここに連れてこられたと」

 

少女が私の家だと紹介してきた屋敷に入るや否や、少女と同じくらいの背丈の、紫色の髪の毛をした女性にそんなことを言われた。俺は何が何だか分からなくて、ただ固まってしまう。

 

「あぁ、自己紹介が遅れましたね。私は古明地さとり。この屋敷の主です」

 

女性の容姿は、年齢的には少女と変わらないくらいに見える。しかしその立ち振る舞いや声の落ち着き方は、成人女性のそれのように感じた。

 

「その様子だと、私達のことも何も聞いていないようですね。全く、あの子はいつもいつも…」

 

女性は頭を抱え、深いため息をつく。…あの子、というのは、多分少女のことなんだろう。

 

「落ち着け…と言って、はぁそうですか、と聞き流せる話でもないかもしれませんが、とにかくここのことや私達のことについて説明しますので、まずはそこにかけてください」

 

指定された椅子に腰かけると、女性は話を始めた。それは俺にとって、半分も理解できないような話だったけれど。

 

ここは地霊殿という名前のお屋敷らしく、俺は今幻想郷という場所にいるらしい。俺の住んでいた街ではないどころか、俺の住んでいた世界ではないとのことだ。

 

「幻想郷は、少し異質な世界です。私達にしろ、私達以外の住民にしろ、様々な人や、人でないものが住んでいる。誰かさんの言葉を借りて言うなら、全てを受け入れる残酷な場所…と言えるのでしょうか」

 

この屋敷は幻想郷の中でも更に奥深くの、地底と呼ばれるエリアにあるらしい。ここは日の光が届かない為、いつでも夜のような雰囲気があるのだという。

 

「そして、私達のことですが…」

 

…先程から気になっていた、大きな目のようなものに触れて、女性は言う。

 

「これは『サードアイ』という、私達覚妖怪にしかついていない器官です。この目で人を見ることで、心の中を全て見透かすことができる。同じものが、妹であるこいしにもついています」

 

落ち着いた、それでいて圧迫感のある目。俺とずっと目線が合っていて、瞬きすらしない。…でも、少女にもついているというのに、俺はこの目を初めて見る。

 

「…こいしの目は、彼女が自分で閉じたんです。泣きながら瞼を縫い合わせて」

 

何故そんなことを?と聞く前に、答えが返ってくる。

 

「私達覚妖怪は、人の嘘や秘部までを暴いてしまう。それが故に、私たちは嫌われていました。だけどあの子は…こいしは、人から愛されることを諦められなかった」

 

ずっと平坦だった女性の声が、少し上擦る。

 

「あの子は、普通に生きたかった。妖怪としてでなく、ひとりの少女として。永久に近い時を生きる妖怪である彼女が、今も尚見た目相応の少女として振る舞うのは、まだその願いを諦めていないからなのでしょう」

 

…少女の目に光がない理由も、時折大人びた言動をとるのも、なんとなくは理解できた。

 

「…でも、あの子が目を閉じたところで、世界は何も変わってはくれなかった。だからあの子は貴方のように、全てを諦めてしまっている人に惹かれていく」

 

そして…こちらの世界に連れてくる。そう言うや否や、女性は俺に深々と頭を下げる。

 

「妹のわがままでこんな所まで連れてきてしまい、大変申し訳なく思っています。貴方はここから出たいと願っていないだけで、ここに来たいとも思っていなかったはずです」

 

俺は…実際、どうだったんだろう。確かに来たいと思っていたわけではない。だけど、あそこに留まっていたいと思っていただろうか。

 

確かに友達はいた。仕事もあったし、別に不幸だったわけじゃない。

だけど、幸せかと言われれば。俺はあそこで、幸せになれたんだろうか。

 

「…はぁ、お人好しなんですね」

 

女性は溜息をつきながら、俺にそう言った。そういえば、心を読めると言っていた。なんだかむず痒い感じだ。多分、人と関係を深めて、初めて自分の過去に触れる時のような。

知って欲しいけれど、それによって嫌われるのは怖い。そんな相反する感情のせめぎ合い。

 

慣れれば何とも思わなくなっていくのだろうか。…俺に、そんな時は来るのかな。

 

「とにかく、貴方に与えられた選択肢はここに留まることだけ…なのですが」

 

申し訳なさそうな態度を崩さないまま、女性は続ける。

 

「元はと言えばあの子のせいなのですし、貴方にとっては身寄りもないでしょうし…お詫びと言っては何ですが、貴方がここにいる間は、ここは自由にしていただいて構いません」

 

確かに、ここでこの提案を断る理由はない。この場所は知らないことだらけだし、女性の話す通りの場所なら、1人でフラフラするのは危ないだろう。俺はよろしくお願いします、と頭を下げた。

 

提案を了承され、女性はほっとしたような表情を浮かべる。…妹思いな姉だ。どんな世界でも、やはり繋がりというのは大事なものらしい。

 

「お話終わった?」

 

俺の背後から、少女がひょっこりと現れた。気配が全くしなかったので、飛び上がりそうなほど驚いた。何度体験しても慣れる気がしない。

 

「えぇ、終わったわ」

 

女性は何か注意しようとして、それが意味のないことだと諦めて、溜息混じりに少女に言った。

 

「こいしも、あまり羽目を外さないようにね。こういう人ばかりではないのだから…」

 

その台詞を聞いているのかいないのか、少女は部屋の外に出ていってしまう。俺も追って、部屋を後にした。…何だか、凄く疲れた。初めて見るものだらけの世界にも、人と話すことにも。

 

「客間はこっちだよ」

 

そんな俺とは正反対に、ほとんど走るようにして、少女はこの屋敷を案内してくれた。俺は客間を好きにしていいらしい。高そうな家具や、大きな本棚が目を引く部屋だ。

 

ソファに腰かけると、途端に眠気が襲ってきた。電池が切れたように、その場から動けなくなる。俺はその眠気の波に身を委ねて、目を瞑る。

 

これから何が起こるか。そんなことを気にするよりも。

今日まで起こったことの無価値さを思い知らされた気分だ。新しい環境に活かせる何かを、全くと言っていいほど会得してこなかった。

 

眠りに落ちる直前に思い浮かんだのは、そんな後悔だった。俺にとっては慣れた感覚だけど。



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目が覚めても、これといって変化はない。カーテンから漏れる光も、ざわめき出す街の声もない。…地底というのは、こういう場所なのか。太陽が昇らないという言葉の意味を知った気分だ。伸びをして立ち上がる。

 

とても寝心地のいいベッドだった。ただ一つ、少女が入り込んできて暑苦しかった以外は。俺が注意する度に嬉しそうな顔をするので、途中からはされるがままだった。

 

まだ少女はすやすやと眠っているので、起こさないように慎重に動かなければならない。こちらの気分も知らずに世界を照らす太陽のない朝というのは、なかなかに気分のいいものかもしれない。…が、無理にでも立ち上がらないと、際限なく眠ってしまいそうだ。

 

「…おはよう」

 

そんなことを考えていると、少女はようやくのそのそと目を覚ました。

 

「おはよう。寝癖、大変そうだな」

 

少女は若干…いや、かなりの癖毛のようで、髪の毛はそれぞれが意志を持っているかのようにバラバラな方向に流れている。

 

「手伝って」

 

少女は寝起きがいいようで、ベッドからぴょんと跳ねて、タンスから櫛を取り出した。…そんなことを言われても、髪の梳き方なんて分からない。俺はとりあえず、上から下へまっすぐに櫛を下ろして行く。

 

「…なかなか上手くいかないもんだな」

 

どんどんおかしくなっていく髪型を見て、俺はため息をつく。そんな俺とは対照的に、少女は楽しそうに笑う。

 

「なんでもいいよ、髪型なんて」

 

少女が笑えば笑うだけ、それに嘘臭さを感じてしまう。なぜそうまでして笑うのかは分からないし、理由を聞きたいと思ったこともない。…いや、聞きたくないのかもしれない。少女のことをこれ以上知ってしまうことを、怖いと思っている。

 

昨日聞いた話のせいで、俺は少女に同情的になっている。あれだけ異質な能力を見せられたのにも関わらず。それがどれだけの怪異なのかも分からないのに、いい奴なのかもしれないと思い始めるのは早計だという気がしていた。

 

「髪はもういいや。ばいばーい」

 

そう言って、少女はどこかへと駆けていく。何を考えているのか、一つも分からない。何がもうよかったのかも、これからどこへ行くのかも。

 

もう少し、少女についての情報が欲しい。…というよりも、この世界について。昨日の説明で、はいそうですかと納得できるような紙一重な思考は、俺は持ち合わせていなかった。

 

「ちょっと出掛けます」

 

女性に声をかけると、お気をつけて、と返ってきた。やはり危険であることは間違いないようだ。

 

外に出てみても、やはり太陽も月も出てはいなかった。代わりに灯篭のようなものが、誘蛾灯の如く至る所に設置されていた。…妖しげな光だ。ゆらゆらと灯るそれを見ていると、なんだか気分がざわついた。

 

まるでずっと、救いを求めているかのような。静かに灯り続ける火に、そんな心情を見出してしまう。…そんなわけはないのに。不思議な心の動きだ。

 

ただぶらぶらと歩いているだけでも、気分転換にはなる。何かを考え直すきっかけになるし、それが知らない場所であればあるほど、体も心も充足感で満たされていく。

 

昨日時点で説明に対して何も質問をしなかったのは、全てに納得したからではない。ただ、人を疑うことも信じることも、どちらも面倒だと感じ続けていた今までの人生が、取り敢えず飲み下すことを選んだだけ。それを分かっているから、女性も俺が外に出るのを止めなかったのだろう。

 

そんなことを考えていると、橋の向こう側に少女を発見した。向こうは俺に気付いていないようだ。…何をしているんだろう。俺は好奇心でその橋を渡る。

 

橋の真ん中ほどで、人がいるのを見つけた。金髪で、目は緑色。遠くを見詰めて、何かを思い悩んでいるように見えた。

…人生、色々あるんだろう。俺はなるべくじろじろ見ないように、その人の横を通り過ぎる。

 

「何してるの?」

 

ついさっきまで橋の向こうにいた少女が、後ろから話しかけてくる。俺は凝りもせず、飛び上がりそうな程に驚く。それを見て、少女はけらけらと笑う。…ある種、これがお決まりになりつつある。俺は平静を装い、注意をすることなく話しかける。

 

「橋の向こう側にいるのを見つけたから、何をしてるのかなと思って」

 

俺の言葉に、少女はにやりと笑う。

 

「そんなに私とお話したいの?」

 

俺は大きく身振り手振りをして否定する。実際、知らない世界に飛ばされて、偶然知り合いに会ったら声を掛けたい。少女の言葉が図星であるが故に、わざとらしい否定になる。

 

「あはは、そんなに否定しないでよ」

 

すぐに進み出してしまった少女の後を追いかける。…気分転換だ、と言いながら、結局少女と行動を共にしてしまっている。何だか釈然としない気持ちだ。

 

「どこ行くのか、聞かないの?」

 

少女は俺の方を振り向いて言う。

 

「別に、そんなに危険な場所には行かないだろうし」

 

俺がそう言うと、少女はけらけらと笑った。それが何故だか、俺には分からなかった。

 

少女は遠くまで行くのだろうか。…どこまで行きたいのだろう。ぼんやりと考える。俺の知らない場所から、俺のよく知る場所まで来た少女は、本当はどこまで行けるのだろう。もしかしたら、誰の想像をも超えた場所まで行けるのかもしれない。

 

…それでもなお、歩き慣れているはずのこの世界を歩くのは、何故なんだろう。疑問に思うものの、それを口にすることはなく、少女の目的地に辿り着いた。

 

「…ここは?」

 

俺でも知っているような、有名な場所のように思えた。思ったよりも狭い川だ。

 

「三途の川だよ」

 

俺の思い描いた場所の名前と、少女が口に出したここの名前は同じだった。背筋が凍るような感覚だ。少女の言うことが本当なら、俺は生と死の境にいるようなものだということになる。

 

「そんなに身構えなくても、渡らなくちゃいけない時はもっとちゃんとした道順があるから」

 

少女は俺の肩をポンポンと叩き、励ましの言葉のようなものを掛けてくれた。

 

「こんな時間じゃ、もう誰もいないね」

 

ありふれた、見たことのある川のように、自然に囲まれているわけではない。かと言って、血の池地獄のような、見るからにおどろおどろしいわけでもない。言葉にできないような、荘厳とも言える雰囲気が、この場所が間違いなくその川であるという証明になっていた。

 

「…死ぬのが、怖いんだね」

 

俺を見て、少女は初めて、情緒を感じる表情を浮かべた。慈愛のような、同情のような表情。

そりゃ、死ぬのは誰だって怖い。俺の生きる理由なんて、その大部分が死への恐怖だ。生への執着というよりは、死への恐怖。死んだらどうなるかなんて、誰にもわからないからこその、不安や怯え。

 

「いつか終わりは来るって分かってても、それが今じゃないって思いたい?」

 

見透かしたように、少女は言う。俺は頷いて答える。

 

「…そっか。私も」

 

それだけ言って、少女は川に視線を戻す。俺も同じように眺めてみる。

やはり、思っていたほど川幅が広いわけではなかった。

 

「意外に狭いんだな、この川」

 

俺が呟くと、少女はまたけらけらと笑った。

 

「やっぱりそう思うよね、お兄さんも」

 

少女は俺の方を向き直して言う。

 

「この川はね、見る人によって広さが違って見えるんだって。振り返る過去が多ければ多いほど、広く見えるんだよ」

 

…俺の人生の幅なのか、これが。

 

「…でも、それが普通なんだよ。思ったより濃い人生だったなんて人はいないんだから」

 

何かを頑張って、何かを成そうとして。結果としてそうなっていく人はいても、緩慢に日々を生きて、振り返れば濃い人生だったなんて人は、確かにいないだろうと思う。

 

「この先、どうにでもなるよ。私達ほどじゃないけど、先は長いんだし」

 

少女にも人を元気づけようとか、そういう気持ちがあるようだ。それがおかしくて、俺はついつい笑ってしまう。

 

「なんで笑うの!」

 

少女は少しムッとして言う。俺は笑いながら謝って、また川を眺める。

…こんな風に、少しでも楽しい日々を送れたら。また、そうなる努力を怠らなかったら。この川の幅は、あとどれくらい広がるんだろう。そんなことを考えられただけでも、ここに来てよかったと素直に思えた。

 

少女に連れられて屋敷に帰ると、初日も足を運んだ応接間のような部屋に呼ばれた。

 

「…さて、突然ではあるのですが」

 

女性はこほんと咳払いをして、それから言った。

 

「貴方が現世に帰る準備を始めてもらえることになりました。ちょうど巫女も暇だったようで、思ったより早く帰れそうですよ」

 

それは朗報とも思えたし、現にそうであるはずなのに。

俺の心には、何となくもやもやとしたものが、確かに存在していた。



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「あ、巫女の説明をしていませんでしたね」

 

女性は多分、俺の気持ちが分かっている。分かっているのに見ない振りをして、説明を続けている。

全く話が入ってこないまま、ただ立ち尽くしている。

 

俺は、帰らなきゃいけないんだろうか。少女は、終わるまでここにいようと言った。…終わる?

言葉の意味を考える。女性はそれを待っていたかのように、俺の頭の中の疑問に答えた。

 

「…貴方は、ここにいるべきではありません」

 

こいしからは何も聞いていないと思いますが、と続いた話は、今までの話の比ではないほどに、耳を疑うものだった。

 

「このままここに留まり続ければ、貴方は人ではなくなってしまう。思考や感情のない、本能のまま生きる低級妖怪として、その人生を終えることになってしまうんです」

 

低級妖怪…?聞いたこともない言葉だ。

 

「人間、というより全ての生物の根源は魂です。魂の力によって、生を得ているんです」

 

女性は窓際に移動して、話を続ける。

 

「生物としての人間は、魂の力が強い。それが執着や根気の元になっています。…ここまで言えば分かると思いますが、貴方はその力が弱い」

 

思い当たる節があった。頑張ることや耐えることから逃げ続けた人生。それが俺の魂の弱さという訳なのだろう。

 

「だから貴方はこいしに惹かれた。そしてここで…人生を終えようとしている」

 

俺の中に、嫌悪感は沸かなかった。ここで妖怪になって、知性や理性を失ってしまうことに。

 

「私は今まで、それでもいいと思っていました。本人がそれでいいなら、ここで果てさせてあげてもいいんじゃないかと」

 

女性は俯いて、絞り出すように呟いた。

 

「でも、あの子は…こいしはそうじゃない。受け入れたという顔をして、その実悲しみを覚えている。だからこそ、他の人で埋めようとするのでしょう」

 

慰めの言葉は、一つも浮かばなかった。俺の一生より長い時間を悩んで、それでも解決しないものなんだろうから。俺に言えることなんて、何もないと思えてしまう。

 

「…すみません。とにかく、私は貴方を帰さなくてはいけない」

 

女性は胸に手を当てて、落ち着きを取り戻そうとする。

俺も何となく、女性が背負っているものの大きさを理解できたような気がする。

 

確かに成り行きでここまで来たのだし、俺は別にこのまま帰ってしまってもよかった。寧ろそうするべきなのは理解できたし、そうした方がいいとも思う。

 

「…分かりました。俺、帰ります」

 

思えばこの女性の前で声を出したのは、これが初めてだ。心を読まれるというのは会話の必要がなくて楽だ、くらいに捉えていたから。

 

「……ありがとう、ございます」

 

女性は俺に深々と礼をした。きっと伝わってしまったんだと思う。その言葉を、わざわざ口にした意味が。俺は何も言わず、ただ今日を終えることにした。

 

寝室に戻ると、そこには誰もいなかった。…当たり前の風景だ。これまでだって、いつもそうだった。それなのに、寂しさを感じてしまう自分がいる。

 

俺はあと何日、ここにいられるのだろうか。そんなことを考え始めると、眠れなくなってしまった。なんとなく、窓から外を眺める。日が昇らないこの世界には、時間感覚は存在しないのかもしれない。昼も夜も誰かが騒いでいたり、誰かが働いていたりする。…蚊帳の外にいる気分だ。

 

俺がもし、あの人達だったら。そんなことを考えずにはいられない。考えた所で、何の意味もないのに。

 

煙草を吸おうとして、ポケットに手を入れてから気付く。そういえば、この世界には俺の吸っている銘柄はない。諦めて寝ようと振り向く。

 

「ばぁ!」

 

目の前に少女が現れて、俺は飛び上がりそうな程に驚いた。いい加減慣れたらいいと思うのだが、こういうものは慣れでどうにかなるものではない。

 

けらけらと笑う少女を眺める。この表情が見れるのも、あと幾度かしかチャンスはない。…帰ったらあの家も引き払ってしまうし、少女との繋がりが一つ一つ絶たれていくのを感じる。

 

「…どうしたの?浮かない顔して」

 

何でもない、と首を振る。少女は納得せず、さらに問い詰めてくる。…伝えるべきなのは分かる。けれど俺の口からは、その言葉は出てきそうになかった。

 

いつ以来なんだろう。別れが辛くなってしまうのは。俺はこの気持ちをどんな風に発散すればいいのか、その方法を知らなかった。

 

さようならの伝え方を、俺は学んでこなかった。

 

「まぁ何でもいいや。じゃあ、また明日ね」

 

そう言って、少女は消えていった。俺はただ立ち尽くしたまま、今まで少女がいた空間を眺めている。…あと何度、こんなに辛い思いをしなきゃいけないんだろう。そう思うと少しだけ、早く帰りたいと思うことができそうだ。

 

「…おやすみ」

 

何もない空間にそう告げて、俺は眠りについた。



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不思議な夢


…今思えば、もう一ヶ月前の出来事なのか。新生活もようやく落ち着いてきて、少しだけ過去を振り返る時間ができた。結局俺は、少女に黙ってあの世界に別れを告げた。女性は、俺のそんな気持ちを汲んでくれたようだった。

 

あの人達はどうしているんだろう。元気にやっていて欲しい。他人にこんなことを思えるようになっただけでも、一歩成長したような気がする。

 

こんなことを思い出したのも、きっと全部、あの夢のせいなんだろうと思う。今日見た、不思議な夢のせい。

 

夢の中で、俺はよく知らない場所にただ一人座り込んでいた。そこは満ちた月が綺麗に見えるのに、星は全く見えない空が広がっていた。…例えるなら、絵本の中のような。その月は静かに、俺を見下ろしているようだった。

 

月を見上げる俺に、男性が話しかけてきた。その男性は見たことのある表情で、俺にこう聞いてきた。

 

『君はあの子のトモダチ?』

 

急に声を掛けられた驚きで言葉が出ない俺に、男性は同じ言葉を続ける。

あの子、というのが誰かも分からないので、俺は首を振る。不思議そうな顔をして、男性は俺の目の前を通り過ぎていく。

 

続けて、今度は女性が話しかけてきた。さっきの男性と同じ表情で、全く同じ言葉を投げ掛けられる。

 

『君はあの子のトモダチ?』

 

俺はまた首を振る。不思議そうな顔をして、女性も俺の目の前を通り過ぎていった。

 

『君はあの子のトモダチ?』

 

様々な年齢、容姿の人物が、俺にそう聞いてくる。俺は疑問に思う。皆が言うあの子って誰なんだろう。そう質問してみても、返ってくるのは同じ言葉だけ。…頭がおかしくなりそうで、俺はその場から離れる。

 

『君はあの子のトモダチ?』

 

どこに行っても、どんな人と会っても、皆口にする言葉は同じだった。…誰もが、同じ方向に歩いていく。辺りを見渡してみて、ようやく気付く。俺が見た事もないほどの数の人々が、一点に集まっていく。

 

その真ん中にいるのは、誰なんだろう。ここからじゃ遠すぎて、人の波しか見ることができない。俺はただ、この異様な景色から目を逸らしたくて、月を見上げる。

 

その瞬間、声がした。

 

『ねぇ、あなたは私の────』

 

…その夢の中の人々の表情は、よくよく思い返してみれば、あの子と全く同じだった。どこか達観していて、どこか諦めていて、どこか見下している…のに、何かを期待している目。

 

俺はまだ、あの夢のような日々から抜け出せていないのだろうか。幾日にも満たないあの経験が、それでも俺の人生の中に大きく横たわっている。

 

不思議な少女のこと。不思議な世界のこと。この先の人生でとても経験できそうにない、あんな非日常のこと。

何度思い出しても、やはり不思議という言葉で片付いてしまう。理解の範疇を超えていることを言い表す言葉は、俺にはなかった。

 

「何だったんだろうなぁ、あの日々は」

 

呟いてみても、答えがあるわけではない。新しい部屋のベランダで、月を見上げる。綺麗な三日月だ。街灯の明るさに怯えるように遠慮気味に、それでもそう生まれた自分を誇るように堂々と、空に浮かんでいる。

 

…こういう何もない日が積み重なっていくことが、全ての原因だったりするんだろうなぁ。一歩踏み出す方向性すら分からないのを理由に、間違っていると思いながら留まり続けていることが、俺があの日々に囚われている理由の大部分だと思う。

 

何かが…想像もできないような何かが、自分の身や世界に起きることを想像する。隕石が降るとか、戦争が起こるとか、そんな大それたものではないにしろ。ただあんな風に、訳の分からない物事に巻き込まれたりするような。毎日が楽しくなる何かを、俺はずっと待っている。

 

あの夢の中だって、本当はもっと幸せな世界なのかもしれない。俺の常識からずれているだけで、真意はもっと別の所にあったのかもしれない。

 

これだってきっと、都合のいい解釈だ。現実から逃れるための手段で、明日も生きる為の方法。この世界はつまらないと断じてしまえば、どれだけでもつまらなくなるから。

 

…こんなことを考えながら、また突然、少女が現れるのを待っているのかもしれない。いつでも腰を抜かして驚くのを、笑われたいと思っているのかもしれない。

 

だけど、それは失ったからこそ強く思うことだ。意味のない記号みたいなもの。

どれだけ待ってもあの日、俺の前に現れた少女は、もういないんだ。

 

煙草の火を消して、ベランダから立ち去る。暖房はついていなくても、部屋の空気は少し暖かくて、俺はやっぱりこの部屋で暮らしているんだと感じる。呼吸をして、睡眠をとって、飯を食べて。ここが俺の世界のほとんどで、ここが俺の終点のように感じる。

 

ベッドに寝転がって、目を瞑る。できればあの夢の続きが見たかった。あの夢で最後に聴こえた声が、新しい可能性なのかもしれないから。

声の主が誰だか分からないからこその可能性。望んだような世界じゃなくても、それでもいい。

 

ただこの退屈から俺を救って欲しいと思いながら、意識を夢の世界へ放り投げた。



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……あぁ、またこの夢か。昨日も見た背景と、どこかに群れていく人々。何かを諦めたように、何かを失ったように、ただどこか一点へと向かっていく。

 

光の宿らない目にも、覚束ない歩き方にも、そんなに執着するなにかはなさそうなのに。俺も同じように、そのどこか一点を目指してみることにした。

 

乾いた風が俺の頬を撫でて、どこか遠くへと流れていく。不規則な足音以外は、何も聴こえない街だ。それなのに何ら変わらない日常があるかのように、建物や街路灯は光を灯している。

 

同じ場所に向かって歩いているからなのか、昨日とは違い誰かに声をかけられることはなかった。…だからなのか、昨日よりも孤独を強く感じる。

一歩踏みしめるごとに、不安に駆られるような感覚がある。

 

何故だか、長い間一人でいたような。自分の人生なんかよりも、もっと長い時間を、たった一人で歩かなくてはいけなかったかのような。そんな感覚が、俺の心を支配していく。

 

俺はそこで、歩くのをやめてもいいと思った。立ち止まって、踵を返して、そうでない方向へ歩いていくのも、正解なんじゃないかと思った。

ぬるま湯みたいな空間で、何となくの不安と戦うことでも、生きている実感は得られるから。

 

俺が踵を返すと、大量の人々が押し寄せてきた。昨日よりも数が多いように感じる。何かに取り憑かれたように、ただ俺とは逆の方向を目指していく。

 

俺はそれに巻き込まれるように、後ろ向きのまま押し流されていく。風景は遠くなって、気がついた頃には、周りの人間はもう立ち止まっていた。

 

「…ねぇ、貴方は私の友達?」

 

よく知った、溌剌とした声色ではなく。ただぽつりと、湿った存在感を持って。その言葉は、聞いた事のある響きをしていた。

 

俺が前を向くと、少女がそこに立っていた。笑顔はない。幾分か、目に光が宿っている。

 

「私は、貴方にとって、何?」

 

声はゆっくりと問い掛ける。いつもの破天荒さは欠片もない、よく考えて答えを出すことを前提としたような問い掛け。

 

「…私は、救われたいわけでも、傷付けたいわけでも、消え去りたいわけでもない。ただ、誰かを愛して、誰かに愛されたかっただけ」

 

息を呑む。夢なんかではないみたいに、少女は俺の知らない一面を見せ続けている。

 

「私はただ、貴方や…貴方達と、仲良くしたかった。喧嘩したり、すれ違ったりしても、いつか笑い合える。そんな関係性が作りたかっただけなのに」

 

少女の目からは光が消え失せていく。…やがて見知った、何も宿らない瞳で、少女は笑う。

 

「それすらも、私達には許されない。こんなことなら、私は人間になりたかった」

 

いつも通りの笑顔。悲痛な叫びには似つかわしくない、満面の笑みが、俺の胸を刺した。

 

「今どこにいるの?なんで何も言わずにいなくなってしまうの?嫌なら嫌って、帰りたいなら帰りたいって、そう言ってくれればよかったのに」

 

…温度のなかったはずの少女の言葉は、未だかつてないほどの熱を持って、俺の耳にこびりつく。

 

「…なんで、さよならも言わずに消えてしまうの?」

 

俺は手を伸ばす。手繰り寄せたい手ではなく、ただ空を切って…そして、目が覚めたことに気付いた。

 

俺にとっての終点。その端にあるベッドの上で、俺はただ手を伸ばしていた。

あれだけリアルだったのに、結局夢だったのか。伸ばした手の隙間から覗く見知った天井が、より無機質に見えた。

 

あれはやはり、間違いなく俺の夢で。都合のいい妄想以外の何物でもない。上がったままの腕はやがてベッドに落ちて、その感触はより一層今の夢の意味のなさを引き立てる。

 

目標もないのに現実を見れなくて、妄想なんかに逃げてしまう自分の子供っぽさに嫌気がさす。どうしてこうなってしまったのかに興味なんてないが、なぜこうなのかと苛立ちが募る。

 

体を起こすと、時刻は朝9時を回っていた。一気に体が芯から冷えるのを感じる。震える手で上司に電話をかける。

 

「すみません、寝坊してしまいました!すぐ向かいます!」

 

電話の先では溜め息が聞こえる。あぁ、また失敗した。急いでね、とだけ告げられ、電話はそこで切れた。

 

俺はとにかく急いで準備をして電車に乗る。学生と、身なりの整った社会人が入り混じる空間で、俺だけが落ちこぼれているように思う。俺だけが失敗をして、俺だけが周りの足を引っ張っている。そんな考えに頭を侵食されながら、とにかく早く会社の最寄り駅に着くことを願う。

 

すると、電車は急に止まった。慣性の法則で投げ出されそうになりながら、それでも何とか体制を整える。

 

何事かとざわざわし出す車内。俺はまた遅れるのかと肩を落とす。何を言ったらいいのか分からない。寝坊をした上に電車が止まってしまうなんてトラブル、想定もしていなかった。

 

『え〜、トラブルによりしばらくの間停車致します』

 

随分と焦った車内放送の声も、急に止まってしまった電車も、最悪の可能性を考えさせるのに充分だった。

 

俺は上司にメールを送る。暫くして心配したような文面が届いて、やっと事態の大きさに気付いた。

 

人身事故だそうだ。しかも全国放送に乗るほどの。車内からは外の状況は全く分からないが、ニュースアプリの情報だと、駅どころか踏切ですらない場所での事故らしい。

 

原因、というか被害者の心情が全く理解できないような状況での事故だったらしい。クソッ、何でこんなことになるんだ。考えても仕方のないことばかりを考える。被害者の年齢だとか、その死の理由だとか、そんなことを考える余裕はない。

 

それは俺の周りの人間もそうらしく、車内は依然落ち着きのない人ばかりだ。

 

何時間遅れても大丈夫だから、というメールに安心感を覚えつつ、空いている席に座る。気付きもしなかったが、この時間の車両はやけに空いていた。

 

前日のリプレイのような人生を送っていると、そんなことも視界の外になってしまう。俺はもう少し周りを見た方がいいのかもしれないな、などと楽天的に考えた。

 

目の前の焦りがなくなると、急に冷静になる。頭が回るのを強く感じる。車窓の外はたった今人身事故が起こったとは思えないほどに穏やかで、人気は感じなかった。

何だかあの日、俺が酔い潰れて座っていたあの場所のような、妙な寂寥感がある。

 

まだ懐かしむほどの時間は経っていないはずなのに。自分自身の時間感覚の緩さに少し笑うと、強い衝撃音がした。

 

驚いてその方向を見ると、血塗れの小さな人影があった。車窓にべったりと張り付いたその顔には、見覚えがある。気を失いそうになりながら、なんとか合わせた視線の先では。

 

少女の口が僅かに動いていて、俺の知っている限りそれは。

 

「見つけた」

 

そう動いているように見えた。



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車内では悲鳴が上がり、人々はバタバタとその場から離れていく。

俺だけが一歩も動けないまま、その様を視界の端に捉えていた。

 

血塗れの少女は窓ガラスに張り付いたまま、もぞもぞと動いている。人ではない何かのように、ガラスの地面を這い回っている。

 

俺はただ目の前で起こった事象を捉え続けることしかできなかった。突然殴られたみたいに、頭の中は文章にならない疑問で埋まってしまうから。

 

俺の口から出た言葉は、一つだけだった。

 

「なんで…」

 

体中の力が抜けて、膝から崩れ落ちる。痛みはまるでなかった。絶望でも歓喜でもない強い感情がその言葉と共にせりあがってきて、俺は訳の分からない涙を流した。

 

少女はいつも通り、笑っていた。初めて見た時と同じように、口の端だけで。

人間の体では曲がらない方向に、殆どの関節を曲げながら。それでも俺の方だけを一点に見据えて、笑っていた。

 

やがて俺は、どこからかやってきた駅員さんに抱えられるようにして車両を移った。

いつの間にか、涙は止まっていた。

 

俺の連れていかれた車両は、少女の様子を撮影しようとしている人達が大勢いた。

止めたかったが、体が動かなかった。全身に力が入らないまま、ただ座らされた座席で、その様子を眺めていた。

 

その人達は、別に楽しそうではなかったし、怒ってもいないように見えた。

ただ珍しいものを見たという目で、少女を連写した。

 

好奇心、という奴だ。強い興味ではない、かといって執着でもない何かが、この人達を突き動かしている。

 

やがて駅員さんに止められて、シャッター音は止んだ。

その人達が席に着いてからも、俺はただ眺めていた。

 

友達と今その場で起こっている光景について話をする学生や、見に行こうとする子供を止める母親や、時計を一瞥してため息を着くサラリーマン。

 

全員が全員、少女自身ではなく、この状況について何かを考えていた。当たり前なのに、それにすごく違和感を覚えた。

 

きっとその目で見られることが、一番辛かったはずなのに。それでもその方法で俺を探しに来たのは、一体なんでなんだろう。

 

いつの間にか思考はまともになっていた。…思考自体はまともじゃないかもしれないけれど、どちらにせよ、何かを考えることはできるようになっていた。

 

こちらの車両まで少女が追いかけてくることはなかった。後から来た警察官、もしくは消防士の誰かに引き剥がされるまで、俺がいた車両に張り付いて、一点を見つめていた。

 

次の駅で強制的に降ろされたので、俺は上司に電話をかけた。

 

「すみません、先程メールでもお伝えした通りトラブルがありまして…」

 

そう伝えると、上司は心配そうに今日はもう休みなさいと言ってきた。どうやらこの様子は生中継されていて、俺が少女を見て膝から崩れ落ちたのも見られていたらしい。

 

「…明日は必ず行きます」

 

それだけ言って電話を切る。俺は一刻も早く外に出たくて、走って改札口に向かう。

周りの人は、今から出勤するものだと思ったのか、俺に道を開けてくれた。そんな心遣いが、今はもう辛い。

 

とにかく一人になりたい時ですら、誰かの助けを得てしまう。逃れられない苦痛だ。俺はただ、誰かにとって何でもない、路上の石ころになりたいだけなのに。

 

それを叶えるには、一人で野垂れ死んでしまう以外に方法はなくて。だけど、それだけは何でか選べなくて。早く死にたい自分が背中を突き飛ばしても、生に縋る自分が手をついてしまって。

 

また明日以降も生きる言い訳を重ねて、ただ歳だけを取っていくんだろうと思う。

改札を通り抜けるまでの間、そんなどうにもならないことを考えた。…不思議と、皆がこんな気持ちを抱えているとは思えなくて。それが、この世界で俺が孤立していると思うには充分な理由だった。

 

全て自己完結だ。誰かの声を聞いた訳でもないし、聞きたいとも思えないから。風もないのに、朝の空気は尖っていた。

そういえば、少女はどこへ連れていかれたんだろう。あの子のことだし、どこかへ消え去ってまたニュースになっていたりするんだろうか。

 

スマホを開くと、SNSは今日の事件についての呟きで持ち切りだった。流石に良心が痛むのか、少女の写真はなかった。

 

ニュースサイトを見ても、やはり今日の事件を取り上げていた。当然ながら、少女についての情報はなかった。素性の分からない誰かが、電車に飛び込んだことが書かれているだけだった。

 

俺は今電車で辿った道を、線路沿いに戻ってみることにした。この辺りは閑静な住宅街で、聞いた話によると土地代も相当高いらしい。都心へのアクセスも抜群で、買い物にも困らなくて、その上喧騒はない。そんな街だそうだ。

 

ここに住むことを目標にしている人達もいたりするのかな。俺には関係のないことだけど。

肝心の事件現場は、すぐに分かった。黄色いバリケードテープが車道まで張り巡らされていて、沢山の野次馬がその周りを囲んでいる。

 

あの場所で少女は轢かれたんだろうな。ブルーシートを見つめながら、そう思った。

 

何を思って、少女は電車を止めたんだろう。俺を探しに来たとして、それはこんな事件を起こす必要のあるものだったとは思えない。

また、少女の様子が脳裏を過る。

 

あの時、やはり少女は「見つけた」と言ったのだろうか。分からないというほかないのに、それでも考えてしまう。

声を掛ければよかっただろうか。さよなら、また会えたらいいね、そう伝えてあげれば、こんなことにはならなかったんだろうか。

 

…でも、少女に声を掛けていたら。俺はこの世界にいただろうか。帰ってきても好きになれないこの世界に。

 

いっそ何も考えない人だったモノに成り代わってしまって、それの何が不都合なんだろう。…俺自身がそう思うから、女性は一刻も早く俺を帰したかったんだろうけど。

 

ふと、ぬるりとした感触があって、俺は右手を見る。…赤黒く、べったりとした液体が、手全体に付着していた。

 

声にならない悲鳴を上げる。いつの間にか周りには誰もいなくなっていて、どこか分からない真っ暗な場所に、俺は一人で立っていた。

 

「見つけた」

 

真後ろで声がして、俺は飛び上がるようにして驚いた。

 

目の前にいたのは、正真正銘、少女だった。初めて見る笑顔だ。光沢のある眼で、口角を吊り上げて、少女は笑っていた。…さっき見た時と同じように、血塗れで。

 

「なん、で…」

 

俺が言うと、少女はさらに口角を吊り上げる。

 

「聞きたいのはこっちだよ、お兄さん」

 

血塗れの手で、顔に触れられる。

 

「なんで、何も言わずにいなくなったの?」

 

…精算の時間、なんだろうか。

俺は飲み下しづらい唾液を飲み込んで、口を開いた。



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不思議な生活


少女を目の前にして、あまりにも後先を考えない行動だったのかもしれないと悔いる。それで事態が好転する訳じゃないのに、ただ中毒みたいに自分を責めていく。上手くいかない理由を見つけて、落ち込みながら舞い上がる。

 

訳の分からない感情に、とりあえずそれらしい説明を付けているうちに、少女の方から話し始める。

 

「でももう、そんなことどうでもよくなっちゃった」

 

少女の目からはやがて光が消え、俺にとっては馴染み深い、いつもの表情になる。

 

「ここで会えたんだから、それでいいよね。帰ろう?私達の世界に」

 

少女は俺に手を差し伸べる。俺はすぐにその手を取れなかった。人生に及ぼす影響が大きい選択肢だと思った。躊躇う俺の手を、少女は強制的に掴む。

 

「…どうせ、逃げ場なんてないんだよ。お兄さんにも、私にも」

 

諦めの滲んだ声。俺はそれに共感できてしまうから、付き従う以外ないような気がしてくる。

少女の手は、俺と同じようにべったりと血で濡れていた。

 

「一つだけ聞いてもいいかな」

 

俺が言うと、少女は小首を傾げて俺の言葉を待った。

 

「…なんで、あんな危ないことしたの?」

 

少女は少しだけ考える仕草をして、それから答える。

 

「あれが、お兄さんを取り戻すには一番だと思ったから?」

 

疑問形。後先を考えないように見える少女からすれば、不自然ではない言動なはずなのに、何故かモヤモヤする。

 

「なんでそんなに俺にこだわるの?」

 

少女は悪戯っぽく笑う。

 

「一つだけって言ったでしょ?ほら、行くよ」

 

右手…というか右腕に、強い力がかかる。あぁ、このまま連れていかれてしまう。それは悪いことじゃないはずなのに、踏み留まろうとする気持ちがある。

 

「…ちょっと待って」

 

振り向いた少女の目は、やはり爛々と輝いていた。…この子は、一体何を隠しているんだ?不気味さは加速していく。

 

「俺が帰らないって言ったら、どうする?」

 

背筋が冷えるのを感じながら、俺はそう質問する。

 

「…なんで?」

 

少女の声が低くなって、目は輝きを増す。…俺は、もしかしたら関わっちゃいけないモノに手を出してしまったんじゃないだろうか。今更ながらに、そんな後悔をする。

 

「今の生活に満足していて、そちらに行くよりここにいる方が幸せだったらっていう、もしもの話だよ」

 

情けなく保険をかける。少女の目の輝きは元に戻って、それからすぐに答える。

 

「…全部を否定してあげる。今感じてることが、考えてることが、全部一時の気の迷いだって、ちゃんと教えてあげる」

 

…やっぱり、おかしい。こんなに余裕のない子じゃなかったはずだ。俺に声をかけたのも気まぐれで、俺を連れ去ったのも気まぐれだったと信じられるのに。今はそんな余裕も全くないように見える。

 

それが何故なのか、そして何故そうまでして俺ごときにこだわるのか、ひとつも分からない。

 

ただ夢の中とリンクする表情だけが、俺の脳裏には焼き付いていた。

 

「もしかして、だけど。逃げようとしてる?」

 

俺の右手を掴む華奢な手からは、その見た目からは想像もできないほどの力が加えられている。

 

体温が急激に下がる感覚があって、顔が引き攣る。ダメだと分かっている方に手を伸ばしそうになる。

 

それでも手を伸ばす理由があるとするならば。それは今この瞬間、この子は俺の事を求めてくれているということだ。今まで得たことのない感情が心を支配している。

 

「…ねぇ、答えてよ」

 

極度の緊張で喉はからからに乾いていて、言葉は出そうになかった。…ただ、何か言わなくちゃと思うばかり。

言葉に詰まりただ見つめる少女の目に映る俺は、揺らいでいて頼りない。

 

「…俺、は」

 

口を開く。永遠にも感じられる数秒間を経てやっと絞り出せた声は、やはり掠れていた。

 

あの女性に言われたことや、今日までの人生で思ったことが、頭の中を渦巻いている。それはまるで走馬灯のようで、今ここが大きな分岐点になることを示唆しているみたいだった。

 

「俺は……」

 

そこまで言ったところで、突如現れた白い手に頬を撫でられる。

 

「駄目よ。こちらには来させない」

 

…聞き覚えのない声だ。やがてどこか分からない空間から、続きの言葉が聞こえた。

 

「…残念だけど、貴方は来るべきじゃない」

 

俺はその白い手に…よく分からないどこかに、引きずり込まれていく。

振り返ると、少女が必死に俺を呼んでいた。抵抗できないまま遠のいていく景色は、やがてぴったりと縫い合わせられるように見えなくなった。

 

…次に光を感じたのは、よく見慣れた景色だった。ここで死ぬと思っている空間。天井も壁紙も、家具の配置も。そこはまさしく俺の部屋だった。

 

「ふぅ、ここも安心とは言えないけど」

 

知らない女性が俺の隣に座っている。

 

「初めまして。私は八雲紫。あの世界の…管理者?みたいなもの。まぁ、肩書きはどうでもいいけれど」

 

まるでこれが日常であるかのように、女性は微笑みを湛えながら話す。

 

「それにしても、面倒なのに目を付けられちゃったわね」

 

面倒どころではない気がするが、普通でないのは確かだ。

 

「あの、何でここに…?」

 

俺が聞くと、女性は面倒くさそうに呟いた。

 

「幻想郷の治安維持…まぁ、仕事の一つよ。折角暇だったのに」

 

ため息をひとつ付いて、それから俺に向き直る。

 

「何でも受け入れる…とは言ってもね、やっぱり災いの芽は摘んだ方がいいから。ほら、貴方も聞いたんでしょう?あの子のことは」

 

…聞いた、と言っても、自己紹介程度の情報しか知らない。ただあの子は人じゃなくて妖怪だということを知っているくらいで。

 

「なるべく自由にはさせてあげたい…というか、してもらっていた方が私としても楽なんだけど。あの子の不安定さは今に始まったことじゃないし」

 

何だか適当な人…のように見えるが、何か考えはあるんだろうと納得するに足るオーラのようなものがある。

 

「今まで何回か見過ごしてきたけど、その度に不安定になっていってるみたいだから。何か問題を起こされる前に手を打っておこうというわけ」

 

女性はベッドに寝転んで、それからまた話始める。

 

「貴方だって、何かに巻き込まれるのは嫌でしょう?」

 

…まぁ、平穏である以上に求めるものはない。

 

「それにしても、何であそこまで人間にこだわるのかしらね。妖怪相手だって、あの子の求めるものは得られるでしょうに」

 

女性は足をバタバタさせながら呟く。それは俺が一番聞きたい。そんなちょっとした不満が頭をよぎった瞬間に、女性は突然立ち上がる。

 

「ま、そういうわけで、今後貴方にはあの子を避けて生きてもらうことになるわ」

 

どういう訳なのかは分からないが、特段驚きはしなかった。今日は逃げられたが、今後も俺を見つける度に電車を止められては敵わない。

 

「私と私の従者もサポートするし、多分大丈夫だとは思うから。とにかく今は協力していただけるかしら」

 

俺が頷くと、女性は礼を言いながら消えていった。…あの人といい少女といい、どういう理屈で移動しているんだろう。人間の科学力では証明できない何かを用いられる度に、脳が処理容量を超えそうになる。

 

ベッドに横たわると、急に体から力が抜けた。…そりゃそうだろうなぁと思う。俺どころかおそらく殆どの人間が経験することのない恐怖や体験を、今日だけで幾つこなしたのだろう。

 

それでも変わらず、頭に浮かぶのは少女の顔だった。あの子は今もまだ、あそこにいるんだろうか。すぐに帰ってしまうのも、まだあそこにいるのも、両方想像ができる。それくらいに俺は少女のことを知らないし、理解ができないと思っているのに。少女は俺に何を求めて、あそこまで執着するんだろう。

 

…あの時止められなかったら、俺は何を言ったんだろう。よく考えたはずなのに、何を言ったか想像もできない。どれにしろ、助けがなかったら無事ではなかっただろうけど。

 

あぁ、もう頭が回らない。今日は疲れてしまったし、明日のことは明日の自分に決めてもらおう。目を瞑り、責任と意識を丸投げした。



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いつか買ったポータブルスピーカーで好きな音楽をかけながら、俺は家事に励んでいた。暮らすために必要不可欠なことなので、励むというのもおかしい気がするのだが、俺にとってはその表現が一番的確だ。

 

少女が再び俺の前に現れてから3日が経つが、今日まであの出来事は夢だったんじゃないかと思うほどに何事もなく時間が流れていた。

 

仕事の方は当面の間リモートワークということになった。…なんだかよく分からない圧力でも働いたのかもしれない。あの女性は、一体何者なんだろう。少なくとも俺なんかには計り知れない存在だとは理解しているが、その影響力に驚くばかりだ。

 

食器をすすぎ終えて手を拭くと、時刻は21時半だった。音楽を止めて、リビングのテレビをつける。つい最近あんな事があっても、もう他の事柄についてのニュースしかないのを見ると、時の流れの早さを感じる。

 

一人の人間にとっての大事件なんて、その集合体からしたら瑣末な出来事なのかもしれない。世間に置いていかれるような感覚というよりは、世間に見過ごされていくような感覚だ。いないものとして、またはいても価値を感じないものとして、誰かの興味の網をすり抜けていく。

 

テレビを消して、ベッドに寝転がる。

するとしんと静まり返った空間があって、それを感じる度に孤独になっていく。

 

孤独とはなるものではなく、気付くものなのだと思う。いつか隣で自転車を漕いでいた友達の連絡先を知らないだとか、満たされた日々を送っている人と自分を比べた時になんかに。

 

「は〜い、元気?」

 

そんな俺のどうでもいい思考は、突如耳元で響いた声によって吹き飛んでしまう。俺が大袈裟に反応するので、声の主は満足気だ。

 

「いつもいい反応をするわね、貴方は」

 

口元に手を当てながら、女性はくすくすと笑った。

 

「…こんばんは、八雲さん」

 

俺が座り直して挨拶をすると、女性は少し不満げにした。

 

「なんか、距離感を感じるのよね。名前で呼びなさい」

 

そりゃ最近会ったばかりなんだし距離感があって当然だと思うのだが、この人に反論する手間を考えると素直に従っておく方がよさそうだ。

 

「…紫さん」

 

俺がそう呼ぶと、紫さんは満足そうに笑う。そういえば、人を名前で呼ぶのは久しぶりな気がする。それほどまでに踏み入られることも、踏み入ってしまうこともなかったから。

 

「さて、今日の本題だけど」

 

紫さんは真剣な顔をする。俺も姿勢を正して話を聴く。

 

「…あの子、どうやらこの近くまで来ていたみたいなのよ。やっぱり貴方を職場に行かせなくて正解だったようね」

 

…少女は、まだ俺を探しているようだ。

 

「あの子は、どうして俺なんかに執着するんでしょうか」

 

俺が聴くと、紫さんは少し考えてから返事をくれる。

 

「…永い時を生きていると、色々なことがあるものよ。良くも悪くもね」

 

やっぱり、よく分からない。真実を暈されているような、それでいて、それ以外の言葉では説明がつかないような。そんな微妙な感覚だ。

 

「まぁ、分からないわよね。貴方達の人生は、私たちにとっては短すぎるもの」

 

考え込んでしまった俺に、紫さんは柔らかく微笑みかけた。…似たような経験でもあるのだろうか。そう思うものの、深くは考えないことにした。

 

「…とりあえず、今後も気を付けてね。気を付けろって言ったって、難しいかもしれないけれど」

 

紫さんはそう言って笑いながら、またどこかへと消えていった。しんとした部屋が帰ってきて、俺は不思議な気分になる。

 

ついさっきまでここに誰かがいた。そんな余韻ごと持って行ってしまうように、紫さんの去り際は鮮やかだ。それはいつものことなのに、そんなことですら疑問に思ってしまう。

 

…あの人達と俺は、一体何が違うんだろう。話す言語も、見た目も、ほとんど差異はないはずなのに。何か決定的に違っている部分があって、そのせいで俺と少女は離れ離れにならなくてはいけなかった。

 

考えるだけ無駄そうなのに、それでもそれをやめられない。思考に依存して、答えを与えたいと思っている。…おかしな癖だ。俺は張り巡らせた思考を投げ捨てるように、天井を見上げる。

 

部屋の明かりは暖色とも寒色とも言えない微妙な色で、でも確かな光だ。俺が誘い込まれ、少女に手を引かれた、あの頼りない光ではない。

 

…あの光の正体も、未だに分からないままでいる。分からないことしかない世界で確かに得たものは、俺があの場に相応しくないという事実だけ。それが何故なのかも、本当にそれでいいのかも、全く分からないまま。

 

このまま何かに流されるようにしながら、紫さんの言う所の短い人生の幕を閉じていくんだろうか。…それなら、もうそれでいいような気もする。

 

俺に少女は救えないし、少女にも俺は救えない。ただ傷を舐め合いながらお互い堕ちていくだけなら、一緒にいない方がいいんだ。自分を納得させられるような理由は、それしか思い浮かばない。

 

『誰かを愛して、誰かに愛されたかっただけ』

 

少女の言った言葉が、掛け値なしに本音なのだとしたら。だからこそ、自分に近しい何かを愛するべきなんじゃないか。そんな人に振り向いてもらう努力をすべきなんじゃないか。…俺なんかでは、役に立てないんじゃないか。

 

こんなことを考えている限り、俺が少女の隣に立つことはできない気がする。何よりも自分自身が、自信を持って少女を愛せる気がしないから。

 

こんなことを考え始める時点で、情があるのかもしれない。俺は未練を振り払うように目を瞑って、意識を投げ捨てる努力をした。



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「それにしても、何でかあの子はこの辺りには出没しないわね」

 

紫さんは退屈そうに部屋の戸棚を漁っている。…あれ、俺のお金で買ってるお菓子なんだけどな。そう言いたい気持ちを抑え、話に耳を傾ける。

 

「そろそろ来てもいい頃だと思わない?」

 

まぁ確かに、来てもおかしくないとは思う。実際俺の使っている路線がバレている以上、少女がここに気付くのも時間の問題だろうと覚悟を決めていた。そうなった場合の避難場所なんかの話も聞いたし、準備をしていない訳でもない。

 

「…あるいは、気付いても近寄らないのかもね」

 

紫さんは意味ありげに呟く。…が、それにあまり意味がないとわかっているので、深く考えることなく、俺のお菓子を持ってどこかへと消えていくのを見送った。

 

実際、深い意味のある発言なんて、その義務が発生しない限りはしたくないものだろう。意味のない会話をして、意味もなく笑って、意味もなく楽しいと感じる。その当たり障りのなさを気の置けない、なんて表現して、冗談のセンスが近い人間を面白いと思う。…本当の所なんて、本当は誰にも分かりはしないもんだ。

 

なんとなくパソコンを立ち上げて、なんとなく動画サイトを閲覧する。こんなものでも生活の支えになったりするのだから、ないよりマシだ。

 

…ないよりマシ、か。実際、少女が俺に執着する理由も、本当はそんなものなんじゃないかと思う。いないよりいるほうがいい。それだけで充分、依存する理由なんだろうと思う。俺にはわからないだけで、そうやって生きている人間だって沢山いるはずなのだ。

 

自分にとって相手だけで、相手にとっても自分だけで。それは美しい関係性だと思うが、実際の所、人は人を好きになれるようにできている。毎日顔を見合わせなきゃいけないだけの関係性が友達付き合いに繋がったり、同じ学校に通っている人を好きになったり。運命の相手だから近くにいたんだと言うよりは、知っている人間からしか選ぶことができないものだと思う。

 

あの時あの場所で出会ってしまった時点で、この未来は確定したのかもしれない。そう思えば思うほど、それが不運であり幸運であったと、微妙な感情を抱いてしまう。

 

何百年孤独でいても、結局人の選び方は変わらない。妖怪でも人間でも、そんな部分に差異はない。そう思うとより少女が人間らしく感じてしまって、自然に口角が上がるのを感じる。

 

「気にしなくたって、あの子はあの子らしく、人らしく生きているのになぁ」

 

できることなら少女に届くようにと声に出してみる。…しんと静まり返った部屋があるだけで、返答はもちろんない。俺はパソコンを閉じて、ベッドに入る。

 

また、夢を見た。今度は俺以外誰もいない世界の夢。それが夢だと気付くのに時間がかかるくらいの、精巧な俺の暮らす世界。いつも通り歩いていると、蹲った子供を見つけた。

 

その子は泣いていて、俺はどうしていいかわからなかった。声をかけ、手を差し伸べても、顔も上げてはくれない。

 

その子はあの少女なんだと、なんとなくわかった。少女そのものというよりも、少女のなりたかったものなんだろうと思った。弱くて、情けなくて、人に縋らないと生きられない命。それが、少女の望んだものなんだろう。

 

俺はその子の頭を撫でる。顔を上げたその子は、よく見知った目をしていた。

 

「…やっぱり、君は人間らしいなって思うよ」

 

俺の言葉に、少女は苦笑する。随分と大人びた、くたびれたような表情だ。

色々なことを笑顔で飲み込むしかなかった人の、染み付いてしまった表情。

 

少女は頭の上に乗った俺の手を持ち上げて、自分の頬へと手繰り寄せた。

 

「ずっと、このままいられたらいいのに」

 

身の回りの問題も解決しないまま、何の変化もないまま。この世界にいられたら、それはどれだけ幸せなことだろうか。文字通り、夢みたいなこの場所で、ずっとこうしていられたらいいと、俺も思う。

 

進展や進歩を望まない俺達にとって、何も変わらないこの空間は、何物にも代え難い幸福だと分かっている。…だからこそ、これが続くわけじゃないことも。

 

「…お兄さんは、自分が思うよりずっと前を向いて、ちゃんと何かを選び取りながら生きてるよ」

 

少女の目からは、涙が一筋零れ落ちた。

 

「それこそ、私なんかとは比べ物にならないくらい。…よく考えたら人間にとって、立ち止まっていられるような猶予なんてないんだよね」

 

なんでこんな事にも気付かなかったんだろう、と呟く少女の声は震えていた。

 

それは…少女にとって、直視しづらい現実だったのだろうと思う。あまりにも長く、永く横たわる時間の流れの中で、少女は恨むことではなく、それに憧れることで、人と共存しようとした。

 

それでも、少女は人ではなかった。

 

人らしく生きても、少女の見た目と相応の振る舞いをしても。その差は埋まることはないどころか、広がっていく一方だったのだろうと思う。

 

「…ずっと、時間が止まってしまえばいいのに」

 

俺の口からは、今まで思っても言えなかった言葉が漏れ出していた。そうしてそれに、少女は静かに頷いて答えた。

 

この夜が、ずっと明けなければいいと思う。明けない夜の中で、静かに朽ちていきたいと思う。進み続ける生命の流れから逸脱して、この時間を繰り返して。

瞬きひとつに一喜一憂しないこの夜に、ずっと2人きりで。

 

そう思う度、明けない夜を希う自分自身の後ろ向きな思想に、いつまでも大人になれない責任を求めてしまう。

 

「私はお兄さんから、あの場所まで奪っちゃいけないと思ってた」

 

少女は話を逸らすように、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

「あそこにいたくないと思うのなら、連れ去ってしまってもいいと思った。…でも、そうじゃないんでしょ?」

 

夢の中の風景は変わって、ここは少女と出会った場所。

 

「…ここからは逃げ出したいと思っていたのに、あそこにはいたいと思えたのは、なんで?」

 

深く考えてもみなかった。

 

懐かしい風景を目の前にして、ここには戻りたくない理由。俺に、そんな理由はないように思う。

 

だけどあそこにいたいと思う理由は、あの場所に執着する理由は、何となく思い浮かんだ。

 

「さぁ、なんでだろうね」

 

…それは俺もまた、立ち止まりたくないからなんだ。

進み続けて、変わり続ける環境に身を置いていたいから。しがらみのない場所だというわけではない、妥協で選んだ土地でさえも、進み続けていることに変わりはないから。

 

俺はまだ、この人生に満足しているわけじゃないから。

少女にとっては短すぎる、人間としての時間を、ちゃんと過ごしていたいから。

 

この夜も思い出になっていく。そして、時間が経てば忘れてしまうんだろう。それこそが、明けない夜なんてないことの証明で、進み続けなければいけない理由だ。

 

「花が咲いて、葉をつけて、それもまた枯れて」

 

見上げれば、もう花は散ってしまった桜がある。

 

「…それでもまた来年、花が咲くんだ」

 

少女は同じ桜の木を見上げる。…何を考えているかは、わからない。

 

「そっか。…そうだよね」

 

人では辿り着けない永遠や永劫に、少女は足を伸ばしていく。同じ歩調で歩いていても、俺にはいつか止まらなければいけない時が来る。

 

だから…明けない夜は、望むべくもないんだ。

 

「…じゃあ、ここでお別れだね」

 

俺が頷くと、少女は立ち上がった。俺の肩にすら達しない背丈で、この子は幾つもの何かを背負ってきた。それを肩代わりすることはできなくても、ここで出会えて、そして別れたことが、この子にとっていい経験になればいいと、心から思った。

 

「さようなら、お兄さん。…もしまた出会ってしまっても、変わらないでいてね」

 

保証できないな、と言うと、少女は嬉しそうに笑った。…もう、急に目の前から消えることにも、驚くことはなくなっていた。

 

一人取り残されたよく見知った世界で、この夜が明けるのを願った。



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不思議な日常


目が覚めると辺りは明るくて、当たり前に朝が来たんだと分かった。

ベッドの上には俺以外誰もいないし、恐らく今後、あんなことに巻き込まれることもないんだと思う。

 

静まり返った部屋は、ベランダで囀る雀の声が聞こえるほどだ。今までも聞こえていた気がしないでもないけど。

 

それにしても気持ちのいい朝だ。空は晴れ渡って、雲一つない…とは言えないが、それなりの晴天だ。

久しぶりに散歩でもしようと思って、準備をする。何度も繰り返してきた日常の動作。時計を見ると、時刻は7時半。日付は土曜日だった。

 

在宅勤務が多くなると、日付の感覚がなくなってしまう。今ではこのデジタル時計やスマホだけが、俺に日付を意識させるものになってしまっている。歯を磨いて口をゆすぐ間、そんなくだらないことを考えた。

 

適当な服に着替え、履きなれた靴を履く。玄関のドアを開ける。…今までも何度も見てきた景色なのに、いつもより輝いて見えるのはなぜなんだろう。何を見るか、よりも、どんな気持ちで見るか、の方が大事だということなのかもしれない。

 

数ヶ月経ってやっと見慣れてきた景色のはずなのに、やけに居心地のいい空間に感じる。それにも特に、理由なんてないんだろう。住めば都。説明できる言葉があるとすればそれだけだ。

 

短時間の散歩を済ませて部屋に戻ると、人の気配があった。どうせあの人だろうと思って、靴を脱ぎながらおざなりに挨拶をする。

 

「おはようございます。今日は早いんですね」

 

おはよう、とご機嫌な声がして、俺は慌てて部屋に戻る。

 

「来ちゃった」

 

えへへ、と笑うのは、間違いなく少女だった。状況が理解できず、言葉が出ない。

 

「せっかく長く生きられるんだし、色んなものに抗ってみることにしたの」

 

少女の表情は急に大人びて、何かの決意を固めたように見える。

 

「とりあえず、私とお兄さんが一緒に生きられない、っていう運命に抗ってみようと思うの!」

 

…何を言っているのか理解できない、というよりあまり理解したくもないが、どうやらそういうことらしい。

少女の中で、やはり諦めきれないということなのだろう。

 

少しは前向きに捉えられるようになったのだろうから、結果としては…まぁ、及第点なんじゃないだろうか。

 

俺は少女の頭を撫でる。

 

「頑張ろうな、色々と」

 

少女は満足気に頷いた。…いつもなら大体このくらいでいなくなってしまうのに、今日の少女はそうではなかった。俺のしている作業を眺めて、時たま悪戯なんかをしながら、俺の部屋に居続けている。

 

「…帰らないの?」

 

俺が聞くと、少女は笑って答える。

 

「お兄さんと一緒に生きる、って言ったでしょ?」

 

俺は苦笑して、パソコンを閉じる。いつの間にか、時刻は昼下がりだった。

 

「お腹空いてない?何か作るよ」

 

少女がなんでもいいというので、冷蔵庫にあったものを取りあえず炒めて中華ペーストで味をつけるという、雑かつ美味しいことが決まっている料理を出す。…もはや料理とも言えないんじゃないだろうか。

 

少女と俺はご飯を食べながら、色々なことを話した。少女の覚えている限りの小さな頃の記憶とか、俺の昔の話とか。

 

こうやって、お互いを理解する時間を設けられるのは、俺達にとってはいい事だと思った。何も知らないまま、ただ似ているという理由だけで一緒にいようとした頃に比べれば。

 

ご飯を食べ終わり、午後の作業に取り掛かる。終わる頃には少女はベッドで俺の蔵書を読んでいた。…いつの間にか、辺りは暗くなり始めている。

 

「…これ、続きないの?」

 

差し出された本は、4年も前に読むのをやめてしまったものだった。俺は多分何巻かは出てるんじゃないかなぁ、と返して、その本の詳細を調べる。…俺が読むのをやめてすぐ、それは打ち切りになってしまっていた。

 

「ほとんどないみたいだよ、続き」

 

俺がそう言うと、少女は本を棚に戻して、背表紙を少し撫でた。

無言の時間が流れる。…それは特に気まずくもない、なんとなく心地のいい時間だった。

 

…打ち切り、か。俺はあの本を読まなくなった時のことを思い出す。

あれは確か、仕事が突然忙しくなった時。つい発売日を逃してしまった瞬間に、なんだかどうでもよくなってしまったんだった。

 

もしあの時、発売日にあの本を買えていたら。それがとても面白くて、感想ハガキなんかを書く気になっていたら。俺一人の力なんかじゃどうにもならないかもしれないけど、でも少しは違ったりしたんだろうか。

 

もしも。

人生にはそんな可能性が溢れていて、俺はその上に立って生きている。何かを選び取ったり、選び取らないままなのに選ばされていたりしながら。その選択肢の分岐で、幸せだとか満足だとか、不幸だとか不満だとかが決まっている。

 

じゃあ今、この瞬間はどうだろう。俺の選択は、どうだったんだろう。そういうことを考え始めると、普段は止まらなくなってしまう。…だけどまぁ、なんとなく。

 

こんな風に、何でもない日常を少女と過ごしていけるのは、過ごしていこうと足掻くことができるのは、幸せなんじゃないだろうか。

 

まだ終着点ではないにしろ、これから先苦悩することになるにしろ。少なくとも、そこに向かっていこうと思えるくらいには。

 

夜は明けてしまう。けれど、日が沈めばまたやってくる。そんなことを繰り返しながら、日々を積み重ねていく。その中で少しずつ、前に進んでいけばいい。

 

「なぁ、こいし」

 

名前を呼ぶと、少女は嬉しそうにこちらを向いた。意識的に名前を呼んだのは、これが2度目のような気がした。…それほどに、共に過ごす想定なんかをしていなかったのだと思う。

 

「…明けない夜はない、よな」

 

少女はこくりと頷いた。

 

「明けない夜なんてないよ」

 

俺はその返答に満足して、立ち上がる。

 

「買い物行かなきゃ」

 

俺と少女は、揃って玄関のドアを開ける。外はもう真っ暗だった。街灯の光を頼りに、俺達は真っ直ぐに歩いていく。

 

夜の空気。昼よりは幾分か温度の落ちた、少しだけ棘のある風。遠くを見ても、空と地面の境界が分からない暗さ。そういうものを、俺は愛おしいと思う。

 

明けていく夜の中で、こんな日々が…こんな夜が続けばいいと思いながら過ごす行為を、やがて日常と呼ぶんだろうな。暗い道の先にある目的地を目指しながら、いつもより強く一歩を踏み出した。




ありがとうございました。


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