催眠アプリで純愛して何が悪い! (風見ひなた(TS団大首領))
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中学生編
第1話「生意気な幼馴染に土下座を強要された件」


「だからさぁ、素直に私に負けを認めろって言ってるの。今更駄々をこねるなんてみっともないよぉ?」

 

 

 クラスのみんなが遠巻きに見ている中で、僕のライバルと言える女・天幡(あまはた)ありすはニヤニヤと得意満面の笑みを浮かべながら言い放った。

 時は中学生になって初めての中間テストの答案用紙が戻ってきた直後、用紙の右上に書かれた点数をすべて比べ終わったときのことである。

 

 

「アンタ、自分のことバカにするなって言ったけどさー。じゃあ何この点数は? 全然私の方が総合的に上じゃない。これじゃ私にバカにされても仕方ないよねー?」

 

 

 ありすは端正な顔立ちに人を小馬鹿にした笑いを浮かべながら、僕の机に腰かけて僕の国語の答案用紙をぴらぴらと振った。用紙の右上には50というなかなか悲惨な数字が書かれている。

 自分でも情けない点数だと思うが、それをこの女にバカにされるのはひときわ堪えるものがある。

 

 

「……国語と英語と社会だけだろ、僕が負けてるの。数学と理科は勝ってるじゃないか。英語だって1点しか負けてないし……」

 

「はぁ? 五教科のうちの3/5で私が勝ってるんですけどぉ? 総合的に見て私の方が断然上なんだし、大人しく負けを認めるべきじゃない。ねー、みんなもそう思うよねー?」

 

 

 様子をうかがっているクラスメイトの方を向いてありすが同意を求めると、みんなは我先にそうだそうだと頷いた。

 

 

「ありすちゃんの言う通りよね」

 

「おいハカセ、みっともねえぞ! それでも男かよ」

 

「潔く負けを認めなさいよ!」

 

 

 ……どうやら僕の味方はこのクラスの中にいないらしい。

 同じ小学校出身のやつも何人かいたが、揃ってありすの味方をしている。

 

 

「ほーら見なさい、みんなも私の勝ちだって言ってんじゃん。どう、これでも自分の負けを認めないつもり?」

 

 

 うぎぎ……。なんて高慢なやつだ。

 

 そもそもこいつ、天幡ありすに絡まれるのは今に始まったことではない。

 まだランドセルを背負っていた頃からずっと、何かにつけてこいつは僕のことをのっぽだのヒョロガリだの悪口を言ったり、ことあるごとにテストの点数を比べてはバカにしてきたりと、それはそれは嫌味な女なのである。

 

 しかもこいつはとにかく顔がいい。

 おばあちゃんが外国人だかなんだかでちょっと顔のパーツが日本人離れしていて、髪がナチュラルに赤毛でサラサラしていて、手足がすらりと細い。

 聞いた話では女の子向け雑誌で読者モデルをやってるらしく、とても人気があるらしい。1つ下の妹がファンなので間違いないんだろう。ありすちゃんと同じクラスなんてお兄ちゃんすごーいなんて言ってた。

 何もすごくねえよ、こんな嫌味女に毎日ねちねちいびられてる身にもなれ。

 

 そしてこの女は最悪なことに、他人からの支持を集めるのがやたらうまい。自分が可愛いことを自覚しており、読モとしての知名度も相まって中学に入学するや否やあっという間に女の子派閥を作り上げて親分に収まってしまった。

 クソオブクソな性根にしてドS極まりない性格のこいつが何故人の上に立てるのか僕は不思議で仕方がないのだが、逆にそういう人格だからこそ女王様にはふさわしいのだろうか? 僕はそんなクソ神輿(みこし)を担ぐのは断固としてごめんだが。

 

 一方、僕はといえば自他と共に認める陰キャである。光の道を堂々と歩み続けるありすとはド対照的に、日陰をこそこそと生きる闇の者である。

 中学生になってもう1カ月以上が経つが友達はいない。入学早々ありすファンクラブに入ってしまったクラスメイトと距離を置いたら自然とそうなってしまった。でも別にだからといって寂しいとも感じない。暇を潰せる趣味はいっぱいあるし。真の陰キャはそういうものである。

 

 

「ん? ねえちょっと、聞いてんの? この私を前にして別のこと考えてんじゃないでしょうね。生意気よ、そーゆーの! ほら、こっち向きなさい!」

 

 

 僕が目を背けようとすると、ありすは僕の頬を両手で挟んでぎぎーっと自分の方に向き直させた。

 これである。僕は一人になりたいのに、こいつの方からしつこく絡んでくるのだ。正直うっとうしい。そしてナチュラルに腹が立つ。

 

 

「お前なんなん?」

 

「もー! 私の方が成績が上だよって話してるの! もう自分の方が頭いいなんて言わないわよね。アンタが下、私が上! これでお互いの立場がはっきりしたでしょ?」

 

 

 えへんっと胸を反らして得意ぶるありす。

 まあ、僕も内心ではこいつの言う通りだなと思っている。

 正直こいつは出来が良すぎる。顔が良くて、頭も良くて、運動神経もあって、友達がいっぱいいて、根っこが明るい。あと、声がすごく美しい。

 何もかもが平凡以下な僕とは根本的に大違いだ。僕が人より優れている部分なんて、せいぜい無駄にひょろい身長くらいのものだろう。

 むしろお前なんで僕なんかと同じ中学にいるのって思う。私立いけよ。

 

 しかしそれを認めてやる気にはならない。こいつが生意気な態度で僕に突っかかるようになってきてから数年間、いつもやってきたように憎まれ口を返してやる。

 

 

「いや、何で成績が良かったらお前の方が立場上なんだよ」

 

「だってアンタの取り柄なんて頭だけでしょ? このひょろがりハカセくんは」

 

「取り柄が頭……? なんだそれ、嫌味か?」

 

「本当のことじゃん」

 

 

 テストで50点取る奴の取り柄が頭とか、こいつは何を言ってるんだろうか。こういう嫌味を言うからありすは性根が悪いんだ。

 

 ちなみにハカセくんというのは僕の小学校からのあだ名だが、別に頭がいいからハカセってわけではない。

 僕の名前が葉加瀬(はかせ)博士(ひろし)だからだ。幼稚園や小学校低学年の頃はそうでもなかったが、中学年になって「博士」を「はかせ」と読むことに気付かれてしまった。音読みするとハカセハカセ。

 博士をハカセと読むことを習ったありすは、喜色満面(きしょくまんめん)で僕の所にやってきて「ひょろがりハカセくん!」と連呼していびってきたものである。

 

 僕は両親を尊敬しているが、正直ネーミングセンスに関してはアホなんじゃないかと思っている。こんな名前を付けられる身にもなってほしい。日本政府はキラキラネーム付けたら厳罰になる法整備を進めるべきではないのか。

 

 いや、どうでもいいや日本政府なんて。

 ネチネチと絡んでくるいじめっこを捕まえない政府には期待なんてしないぞ。いじめはいけないことだと思う。

 

 

「じゃ、そろそろ私に謝って♥」

 

 

 ……またわけのわからんことを言い始めた。

 

 

「は? 何をだよ」

 

「私より格下の雑魚の分際で、これまで生意気にも歯向かってごめんなさい、これからは心を改めますって謝って♥」

 

「頭煮えてんの?」

 

 

 周囲にちやほやされすぎて本格的に頭が煮えてダメになっちゃったんじゃないかと僕はちょっと心配になった。中学生になってからぬくぬくした環境にいすぎてるからなこいつ。

 なんか僕の言葉を聞いたクラスメイトの口元が引きつったり、「マジかよ……」とか「ひどい……」とか言ってるけど、ありすの脳みそをダメにしたのはお前らなんだからな。自覚と反省を求めたい。

 

 

「お前のおばあちゃんの故郷って脳みその煮込み料理が名産なの? 子ヤギとかならいいけど人間の脳みそ煮込むのは大概にしとけよ。甘く煮過ぎちゃ食えたもんじゃないからな」

 

 

 ライバルとはいえ小学生以来の付き合いだ。甘ったれてダメになるのは見過ごせない。

 しかし僕の親切な忠告に、ありすは目を剥いて噛みついてきた。

 

 

「イギリス人はヤギの脳みそ煮て食べないわよ! 私のグランマをフランス人なんかと一緒にしないでくれる!?」

 

「ああ、『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルはイギリス人だもんな」

 

「そうよ、二度と間違えないでよね。私の名前の元にして、魂のバイブルなんだから」

 

「あの狂った内容の童話を魂のバイブルにする奴は正直怖いんだが。もっといろんな本を読めよ、マシな含蓄がある本はいっぱいあるぞ」

 

「国語50点に言われたくないんですけど!?」

 

 

 失礼な奴だ。僕はちゃんといろんな本を読んでるぞ。自他と共に認める陰キャだからな。

 国語の点数が悪いのは、「このときの登場人物の気持ちを答えなさい」とかいうわけのわからない問題がさっぱり解けなかったからだ。

 他人がどう思ってるかなんかわかるわけないじゃないか、頭がおかしいのか?

 リアルですら他人の考えなんてわからないのに、小説のキャラが何考えてるかなんてそれこそわかるわけがないだろうに。こんな意味不明な出題がまかり通っているなんて、この国の教育は本当にどうかしている。

 

 ありすは「こいつは本当に、ああ言えばこう言う……」とか呟きながら、すらっと細い指を額に当てて頭を振った。

 そんな芝居がかった仕草も本当に絵になるのが腹立たしい。しかし嘆いてるジェスチャーの割に、口元が笑っているのは一体どういうつもりなんだ。余裕アピールか?

 

 

「まあいいわ、寛大な私は負け犬の遠吠えを許してあげましょう」

 

 

 そう言いながら、ありすは僕にびしっと指を突き付けた。

 

 

「でもアンタ、格下の癖に頭が高いわよ!」

 

「座高が高くて悪かったな」

 

 

 身長が高いと座高も高いのだ。春の健康診断だとクラスで一番高くて、新しいコンプレックスが生まれてしまった。

 

 僕がふてくされて言うと、ありすはあ、そうじゃなくてと口を濁した。

 

 

「ちゃんと足は長いし、別にそんな気にすることないと思うわよ。これから成長期だし……190くらいほしいかな? あまり高くなられすぎても困っちゃうけど」

 

「何の話?」

 

「……アンタの頭が高いって話! 物理的にじゃなくて、態度がよ!」

 

 

 ちなみにありすが僕の机に座っているのは、そうしないと僕を見上げることになるからだ。そうやってとことんマウントを取ってくる嫌な女なのだ。

 ありすは腕組みをすると、ふふんと胸を反らした。

 

 

「じゃあとりあえず謝罪の証として、私に土下座しなさい。ど・げ・ざ♪」

 

「え、嫌だが」

 

「嫌じゃない! するの! 私アンタの言葉の暴力ですっごい傷付いたんですけど!? ねえ、こいつ土下座して詫びるべきよね! みんなもそう思うでしょ?」

 

 

 クラスメイトの方に振り向いたありすがそう煽ると、クラス一同は有無を言わさぬ勢いで同意してきた。

 

 

「マジで死んで詫びろ!」

 

「脳みそがどうとかキモッ……サイテー」

 

「ありすちゃん可哀想……」

 

「土下座して生き方を見つめ直せ」

 

「俺より点数低いアホのくせによぉ……!」

 

「ありすちゃんに謝れや!」

 

「どーげーざ! どーげーざ!!」

 

 

 誰かが言い出した土下座コールに同調して、クラス全員が『どーげーざ! どーげーざ!!』と合唱を始める。

 ……本当にこいつらとはノリが合わないな、とつくづく思う。頭の中身が小学生のときとまるで変わってない。

 なんでもかんでも同調圧力で理非もなく誰かを一方的に断罪する。その主張が間違ったことであっても、自分たちが多数だからその罪悪感は頭割りされ、自省すらすることはない。

 こんなのに屈するくらいなら、僕は一人でいい。一人がいい。

 

 

「付き合いきれない。僕は帰るよ」

 

「帰れると思ってるの?」

 

 

 僕は早退しようと席を立ったが、その肩や腕を男子たちが集団で掴んで抑え込んできた。

 

 

「何すんだよお前ら……!」

 

 

 身を揉んで男子たちを振り解こうとするが、数の暴力で圧倒されてそのまま教室の床に引き倒される。

 いくら僕が背が高いといえども、体力がへっぽこなのは自分でも認めるところ。 集団で体重をかけてのしかかられては手も足も出ない。

 

 

「うるせえ! 何帰ろうとしてんだよ!」

 

「ありすちゃんに謝るまで許さねえからな!」

 

「オラッ、土下座しろ! 土下座!!」

 

「身の程をわからせてやるぜ!!」

 

 

 クソッ、正義マンどもめ。可愛い女の子の味方なら暴力が正当化されるとでも? まったく反吐が出そうだ。

 自分が正しい人間だなんて思ったこともないが、こいつらよりはマシだろう。

 

 というかあんまり押さえつけられると物理的に吐きそうだぞ。腹の上に体重をかけるんじゃねーよ。

 

 よってたかってギリギリと体を曲げられ、腰をかがめて頭を床に擦り付けられる。おい、誰だ今ゴンって頭を床に叩きつけたアホは? 後で覚えてろよな。

 

 

「……っ!? ちょっと、ハカセの頭を床にぶつけないでよ! 頭悪くなったらどうするの!」

 

「えっ……お、おう! わかった!」

 

 

 ありすもありすで、自分でやらせておいてなんなんだそのクレームは。

 ああ、傷痕が残ったら先生にいじめがバレるから証拠を残さないように、というわけか? まったくこいつは本当にくだらないことに知恵が回るなあ。嫌な女だ。

 

 ありすはちょっと顔色を悪くさせながらも、腕を組みながらふふんと鼻を鳴らした。とんっと僕の机から降りて僕を見下ろす。

 

 

「どう? これが私とアンタの格の違いってわけ。思い知ったかしら?」

 

「何を思い知れってんだこのアホ女」

 

 

 僕は床に這いつくばらされながら、じろりとありすの顔を睨み付けた。

 

 

「数の暴力で無理やり土下座させておいて女王様気取りか? ありすというよりハートの女王だな。イギリスのおばあちゃんが泣いてるぞ」

 

「……っ」

 

「この野郎、土下座させられながらまだ減らず口を……!」

 

 

 男子の誰かがごんっと僕の額を床に叩きつける。

 この野郎、名もなき兵士Aだからって好き放題やりやがって。

 これまでありす以外のクラスメイトの名前なんて覚えたこともないけど、後でクラス名簿丸暗記してやるからな。

 

 

「……む、無理やりでもなんでも、勝てばいいの! 私の方がアンタより上なんだから! その賢いおつむに刻み込みなさいよっ!」

 

 

 こんにゃろうと思った。

 これまでこいつから嫌な思いをさせられたことは両手両足の指をもってしても数えきれないが、今回という今回は度が過ぎている。

 ここまでの屈辱を与えられては、こちらも復讐を考えざるを得ない。

 

 目には目を、歯には歯を。害されたら同じ手段でもって殴り返さねばスッキリせえへんやろ? とハムラビ法典にも書かれている。

 この恨みはらさでおくべきか。

 

 

「ああ、わかった。今はお前の立場が上だよ。それは認める。……だが、いずれ絶対にわからせてやる」

 

「えっ……?」

 

 

 いや、お前何を青い顔してんだよ。

 今更後悔しても遅いからな。お前には僕の全生涯をかけてでも思い知らせてやる!

 

 

「お前より僕が上だと、無理やりその脳みそに刻み込んでやるからな……!」

 

 

 

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=====

 

 

 

 なんかありすが真っ青な顔してるし女子たちがきゃーきゃー叫んでるから何だと思ったら、額をすりむいて血が出てたらしい。

 頭から血を流しながら復讐を誓うとか、すごいやべー奴みたいだよね。

 

 おろおろしてるクラスメイトを無視して一人で保健室に行ったら、頭を打ったことだししばらくベッドで寝てろと言われた。

 何があったのかと聞かれたが、適当にそのへんでこけましたと言っておいた。

 

 別にクラスメイトのアホどもをかばうわけじゃない。先生に怒られましたくらいで復讐を済ませて溜飲を下げるのがもったいなかったからだ。

 兵士Aにやられた分もありすにツケて復讐してやることにする。女王様を気取るからには、配下の責任くらいはとってもらわないとね。

 

 

「さて、それにしてもどうやって復讐してやるかなぁ……」

 

 

 はっきり言ってノープランである。

 無理やりわからせるってもなあ……陰キャの僕じゃ人手も動員できないし。

 

 なら暴力で無理やり……?

 あのありすを? 

 冗談じゃない。オシャレで愛らしい顔立ちしてる美人を殴るなんて考えたくもない。そもそも僕はフィジカルクソ雑魚なので、逆にありすに殴られるまであるんじゃないのか。

 

 どうしたもんかなーとぼんやり考えながら、あんまり暇なのでスマホの画面を眺め始めた。

 本当は校則でスマホは持ち込み禁止だが、こっそり制服に内ポケットを縫い付けて持ち込んでいる。だって今ハマってるスマホゲーに時限ミッションあるし。

 

 今はゲームって気分でもないから、ニュースサイトでも見るかな……。

 そう思いスルスルと画面を操作していると、画面下に広告が出てきた。

 ソシャゲやネットサーフィンをすると必ず目に入るもの、クソ広告である。

 最近はマンガのひとコマを切り抜いてフラッシュ形式で見せているのだが、よくもまあこんなにつまらなく見せられるものだと感心してしまう。どんな名作であっても、この広告屋の手にかかれば胡散臭く見える。一種の才能ではなかろうか。

 

 いつも通り飛ばそうと指をかけるが、その瞬間マンガ広告に文字が浮かんだ。

 

 

『気に入らない女を……』

 

『催眠アプリで……』

 

『無理やり思いのままに!!』

 

 

「こ……これだぁ!!」

 

 

 まさにそれは天啓と言えるものだった。

 催眠アプリというものがあれば、ありすに無理やり土下座させることができる。

 あのプライドが無駄に天元突破している生意気女であっても、催眠アプリさえあれば立場をわからせられるのだ!

 無理やり土下座を強いられる、僕と同じ苦しみを味合わせてやれる!!

 

 

 こうして催眠アプリに魅せられた僕の壮大な復讐劇は幕を開けたのだった……!!

 

 

「そうと決まれば、さっそく催眠アプリをストアで探さなきゃ!」




ハーメルンでは初投稿です。
最後まで書き終えているのでエターはありません。
外伝含め79話の不思議感覚ラブコメディ、どうぞごゆっくりお楽しみください。

初日は3話投稿です。


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第2話「アプリストアで催眠アプリが見つからない」

初日3話投稿!
2話目です。


「どういうことだ……!?」

 

 

 僕はスマホを握る指をわなわなと震わせ、画面に表示されたにわかには信じられない結果に目を疑った。そんなバカな……!!

 

 

「催眠アプリが……アプリストアにないだと!?」

 

 

 家に帰ってからじっくりとアプリストアを検索してみたのだが、催眠アプリがどうしても見つからない。

 検索ワードが悪いのかと思って「催眠」「さいみん」「さい眠」「スマホで催眠術」などいろんなワードで試してみたが、何故か該当するアプリが見つかることはなかった。

 「睡眠誘導」というアプリならいくつか見つかったのだが、多分これは違うよなー。

 

 そうじゃない。

 環境音を聴いてると脳のα波が刺激されてリラックスして眠れますとか、そういうのは求めていない。

 

 僕が求めているのは画面を突き付けて「催眠!」と叫ぶと暗示状態になってなんでも言うことを聞いてくれるようになる、とても便利なアプリだ。言うことを聞いてくれるほかにも常識や認識を書き換えたり、記憶を弄ったりもできる万能アイテムなのだ。

 ネット上から「催眠」で検索したら見つかったえっちなマンガにそういうことができると書かれていた。どきどきした。

 

 

「しかし……解せないな……。一体どういうことなんだ?」

 

 

 「催眠」で検索すると山ほどえっちなマンガが出てくるが、そこに共通して描かれている催眠アプリが何故ストアにないんだ。

 これだけ多くの作家が共通して描くモチーフなのだから、現物がないとおかしいはず。それなのにストアをどれだけ探しても催眠アプリは出てこない。

 

 いや……まてよ。まさか……!

 

 

「プラットフォームが違う……!?」

 

 

 僕が使っている林檎フォンはえっちなものにすごく厳しいアプリだと聞いた。その一方で、もうひとつのプラットフォームの泥井戸(ドロイド)はえっちなものに寛容で、割と未成年にお見せできないようなアプリがごろごろあるのだと聞く。

 親に中学の入学祝いということでスマホをねだったときに、林檎フォンを買ってくれたのもそういう理由があるからだと僕は睨んでいる。

 

 となると、どうにかして泥井戸のスマホを手に入れる必要があるな。

 

 

「貯金いくらあったっけ……」

 

 

 引き出しの奥から預金通帳を引っ張り出す。

 お年玉は毎年ほぼ貯金しているのでかなりの額があった。ふふふ。ソシャゲはほぼ無課金で遊んでるからな。

 これなら中古なら買えるか?

 

 

「……いや、だが待てよ」

 

 

 冷静になるんだ。

 考えたくないことだが……もしも泥井戸でも催眠アプリが見つからなかったとしたら?

 

 スマホは月額料金がかかるのである。自分のお金で買うとなれば、維持費は自分で賄わなくてはならない。

 そんな金食い虫なのに、催眠アプリが見つからないとなれば大変なことだ。無駄金オブ無駄金である。

 それに、まだ林檎フォンには催眠アプリが見つからないと本当に決まったわけでもないじゃないか。

 

 

「どうしたら……いや、いい方法がある!」

 

 

 わからないことは賢人に聞けばよい。

 インターネットには質問すればなんでも教えてくれる、非常に賢い人たちが集う質問サイトがあると聞く。

 中学生には特に人気があるサイトで、そこで質問すれば何でも教えてくれるのだそうだ。

 

 僕は早速ブラウザアプリを立ち上げると、そこに質問を書き込んだ。

 

 

=============

 

 

 

催眠アプリについて質問です。

僕は中学1年生なのですが、催眠アプリは林檎フォンと泥井戸のどちらが使い勝手がいいのでしょうか?

林檎フォンのストアを調べてみたのですが、どれだけ検索しても見つけられませんでした。

泥井戸ならよい催眠アプリがストアにありますか?

また、催眠アプリはどれだけお金がかかりますか?

できればフリーであればうれしいです。

もし林檎フォンのストアに催眠アプリがあれば、もっと助かります。

 

 

=============

 

 

 

 さあ……ネットの賢人たちよ、ここに集え!

 僕に叡智を授けてくれ!!

 

 

 そしてわずかなタイムラグを置いて、返答が書き込まれる。

 速い! さすが賢人だ!!

 

 

 

=============

 

 

ベストアンサー

 

 

アホかwwww 催眠アプリとか実在するわけねーだろwwww

厨房のエロガキはそんなもん探してねーでちゃんと勉強しなさい。

ちゃんと勉強していい学校いって出世して金持ちになれば、女性の方から寄ってくるから心配しなくていいです。

 

 

=============

 

 

 

 ???????????????????????????

 

 

「えっ……? 実在しない……?」

 

 

 いやいや……僕が中学生だからってバカにしているんだろう。

 実在しないなんてこと、あるわけないじゃないか。

 だってあれだけたくさんの作家が描いてるものなんだから。

 

 そう思って他の回答者を待つ。

 

 ほら見ろ、いっぱい回答が書き込まれているじゃないか。

 

 

=============

 

 

「ねーよwwww」

 

「釣り乙www 釣れますか?wwww」

 

「催眠アプリwwww 草生えるwwwww」

 

「ピュアッピュアやな君!」

 

「そもそもそんなものが存在したら法治国家維持できるわけねーだろ」

 

「爆釣の釣り堀と聞いて」

 

 

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 クソッ! まともな回答が来ない!

 一体なんなんだこの回答者たちは、中学生の真摯な質問に答える気がないのか!?

 

 そう思っていると、一件の回答が新たに書き込まれた。

 どうせまたくだらない煽りか? と思っていると……。

 

 

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「あー見た見た、ディープウェブで売ってるの見たわwwwww」

 

 

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 ディープウェブ……? なんだそれは。

 調べてみると、それは深層ウェブとも呼ばれるもので、通常の検索エンジンでは引っかからないものらしい。

 そこでは違法なものを含むさまざまな商品が売られていたり、怪しげな求人が行われていたりと、現代社会の“闇”を濃縮したような“裏”の領域だということだ。

 

 “闇”……“裏”……。

 なんだろう、すごく惹きつけられるものがある響きだ。

 

 しかしディープウェブにアクセスするには当然“正常(マトモ)”な方法では不可能。

 パソコンから専用の匿名性ソフトを使わないと“(ヤバ)”い“連中(ヤツら)”が集うサイトにはいけないらしい。少なくともスマホみたいな“子供(シャバ)”いツールでは“危険(ホンモノ)”の領域にはたどり着けないだろう。

 

 さっきの回答にもあったが、よくよく考えてみれば催眠アプリのような代物が誰の手にでも収まるような状態であれば、日常的に性犯罪が起こっているはずである。しかも警察官にも効いてしまうだろうから、捕まることもなく性犯罪し放題。

 そんなことになれば社会の秩序などめちゃめちゃである。

 

 そうなっていない以上は、催眠アプリはディープウェブで資格を満たした一定の人間のみが入手できるものに違いないのだ。

 

 

「フッ……入手する難易度の高さ自体が“資格(アンサー)”ってわけか?」

 

 

 面白いじゃないか。

 僕はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 通常の人間が触れることすらできない“禁断(フォビドゥン)”の領域に隠された“お宝(アプリ)”。

 僕が見事その“匿名(ミステリー)”を解き明かし、ありすを屈服させる“(サイバー)”を手にしてみせる……!

 フフフ……クハハハハハハハ!!!

 

 

「お兄ちゃんキモ……。さっきから何スマホ見ながらニヤニヤしてるの?」

 

「……!?」

 

 

 ばっと振り向くと、1歳下の妹の海月(みづき)が怪訝そうに僕のスマホを覗きこんでいた。手には買い物袋を提げており、お使いに行ってきた帰りらしい。

 

 

「うるさいなくらげちゃん!」

 

「くらげじゃないですーみづきちゃんですー」

 

 

 くらげちゃんはそう言いながら買い物袋をがさごそと漁り、チョコアイスの箱から1本抜き取るとつまみ食いを始めた。

 読みは「みづき」なのだが「くらげ」と読めるので僕はもっぱらくらげちゃんと呼んでいる。しかし最近になって生意気な態度を取り始め、「くらげ」を拒否してきた。もう小6だし思春期かな? 僕も歳を取るわけだぜ。去年までランドセル背負ってたけど。

 

 徐々に生意気にはなってきたが、相も変わらずお母さんが買ってくれた子供服を喜んで着てるし、よく「お兄ちゃん宿題手伝ってー♪」と甘えてくる可愛い妹だ。割と甘やかしている自覚はある。

 

 

「はい、これ頼まれてたマンガね」

 

 

 そう言って海月は紙袋を渡してきた。僕が毎週注文している週刊漫画雑誌『チャンプ』だ。僕が読んだ後はくらげちゃんが読んでいるので、お使いも素直に行ってくれる。

 

 

「おー、ありがとな。だがくらげちゃん……それも今週までだ。本屋には取り置きしなくていいと言っておいてくれ」

 

「えー? どゆことー? もう『チャンプ』いらないの? あんなに続き楽しみにしてたのに」

 

「その通りだ。僕はもうそんな子供っぽい趣味からは卒業した……!」

 

 

 パソコンが欲しいのである。あれがないと催眠アプリを入手できないのである。

 僕のお小遣いの額は限られているので、余計な出費は切り詰めなければならないのだ。

 多分中古のノートパソコンなら今でも貯金を切り崩せば買えると思うのだが、どうもちょっと調べてみた感じでは危険な領域なのでセキュリティソフトも必須だという。

 アクセスに必要な匿名性ソフトとセキュリティソフトを同時に扱うことを考えれば、なるべくならちょっと良い感じのデスクトップパソコンが欲しい。他にも何かソフトを使ったりするかもしれないし。

 

 とりあえずお小遣いはなるべく貯金しつつ、家の手伝いをしてお駄賃を稼ぐのがいいのではなかろうかという結論に達した。

 

 ククク……ありすよ、見ていろよ……!

 野望は着々と進行している。

 “(アングラ)”の“(アプリ)”を手にした僕が、お前を(ひざまず)かせるのだ……!! 

 フハハ……ハーーーーッハッハハハハハ!!!

 

 

「お兄ちゃん、大丈夫だよ。その病気は中学を卒業したら治るんだって!」



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第3話「簡単やる気チャージ術」

初日3話投稿!
3話目です。


「元気だしなよありす」

 

「そうだよー、らしくないよー」

 

 

 夏も近付く今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

 僕はといえばすっかりクラスの腫れ物として穏やかな日々を満喫しております。

 

 いや、本当にクラス全員誰も目を合わそうとしないし、話しかけても来ないんだなこれが。

 どうも男子が寄ってたかって僕を土下座させたときに、額から血を流しながら怨嗟(えんさ)の言葉を吐いたことでやべー奴と認識されてしまったようだ。

 別にそんな大した怪我でもなかったんだが、触らぬ神に祟りなしということか、あるいは彼らなりに後で罪悪感でも感じたのだろうか。教師にチクるだろうと思いきや、僕が誰にも言わなかったのが不気味だったのかもしれないな。

 

 むしろこれをきっかけに壮絶ないじめが始まるまで予想していたのだが、別に上履き入れにゴミが突っ込まれてることも、机に落書きされてるってこともなかった。

 この年頃のガキにとっていじめは娯楽みたいなもので、積極的に誰かをいじめて爪とぎするものだ。加虐心が強い奴が始めれば、弱い連中もそれにこぞって追随する。誰かがいじめられている間は、自分はいじめの標的から外れる。いじめに加担することは自分の身を守る手段なのだ。

 

 だからクラスの女王であるありすが僕を攻撃すれば、当然配下は嬉々としてそれに続くはずなのだが、どういうわけかその追撃がまったく来なかった。

 ただひたすらクラス全員から無視されている。

 無視もいじめっちゃいじめなんだろうが、当方全然痛くもかゆくもないです。

 

 僕には催眠アプリを入手してありすを土下座させるという目的があるので、その他大勢の有象無象にどう思われようが知ったこっちゃない。

 自分の席でのんびりと読書三昧の日々を過ごさせてもらっている。最近は図書室でネット関係の本を読み漁るのがマイブームだ。自分のパソコンを手に入れてディープウェブに乗り込む前に、一通りのネット知識を身につけておきたい。

 

 ……それにしても、あれ以来ありすがやたらしゅんとしているのが気にかかる。これまでの自信たっぷりにクラスの中心に居座っていた高慢そのものの態度に影が差し、あまり笑わなくなってしまった。

 本のページから目を離してちらっと眼を向ければ、今も取り巻きたちに励まされているところだった。

 

 

「そうだ、今日ガッコ終わったらみんなでカラオケ行かない? ぱーっと遊びまくろうよ。久しぶりにありすの歌聞きたいな」

 

「あー、それいーじゃん。絶対たのしーよ。ね、ありす?」

 

「そうね……それもいいわね」

 

 

 ありすは取り巻きたちの提案に曖昧な笑みを浮かべて頷いている。

 

 

「あっ、じゃあ男子とか呼んじゃう? なんかね、先輩がありすのこと気になってて紹介してほしいってサッカー部の子に言われててさ」

 

「え、マジで? もしかして背番号10番の人?」

 

「その人その人! ね、どう? サッカー部ってイケメン多いしさー! めちゃ盛り上がるって!」

 

「あ……うん……」

 

「いーじゃんいーじゃん、ね? ありす、決まりでいいでしょ?」

 

「うわー楽しみ。ウチもサッカー部の彼氏ほしいなー!」

 

 

 取り巻きたちはありすにサッカー部の先輩とやらを紹介しようと盛り上がっている。あわよくばおこぼれで自分の彼氏ゲット……という狙いもあるんだろうか?

 どうもありすは乗り気じゃないように見えるけど。

 いつものありすならこのへんで鶴の一声で何でも決めるワンマンぶりを見せているはずだが、今のありすはどうもそのへん気弱なので押し切られるだろうか。

 

 

 別に僕はありすがカラオケ行こうがサッカー部の彼氏ができようがどうだっていいんだが……。

 なんかモヤモヤするな。くそっ、何なんだ一体。

 

 そう思いながら様子をうかがっていると、ありすがちらっとこちらに視線を向ける。

 

 目が合った。

 

 ありすは何かびっくりしたような顔をして、すぐに視線を離して取り巻きの方に向き直る。

 ああん? いつもなら何見てんのよとばかりに威嚇するか、ふふんと笑みを向けてくるところだろ、そこは。

 

 ありすと僕の視線が合ったことに気付いた取り巻きたちは、こっちに嫌悪も露わな表情を向けている。

 ありすの元気がないのは僕のせいだってか?

 冗談じゃない、こっちは被害者だぞ。なんでそんな顔されなきゃいけないんだ。

 まったく取り巻きまで腹が立つ女だな。

 

 

 取り巻きたちは僕から視線を外すと、何か余計に勢いづいてそのサッカー部の先輩とやらを褒めちぎったり、カラオケの予定を入れたりと賑やかにありすを説得し始めた。

 

 

「ね、このへんで彼氏作っちゃいなよありす!」

 

「そーだよ、イケメンだし優しいし! エースだから包容力ってのもあると思うし! 友達になるだけでもいいと思うよ! ね?」

 

「あー、うん。友達なら……いいかな」

 

「やりぃ! じゃあ連絡入れとくから!」

 

 

 取り巻きたちはなんだかホッとしたような顔をしている。

 その中の1人が、キャラキャラと笑いながら言った。

 

 

「そーそー! サッカー部のがずっとお似合いだよ! あんなのチョーキモいし暗いしさ。ホント何考えんのかわかんないもんね」

 

「……今なんて言った?」

 

「えっ……?」

 

 

 暗く深いところから響いて来るような低い声で、ありすがその女子の方を向いている。

 こちらに背を向けているので、その表情はわからない。

 周囲の取り巻きが「バカッ……」とわずかに口を開き、我先に目を逸らした。

 

 

「お前にあいつの何がわかるの?」

 

「えっ……あっ……? だ、だって……」

 

 

 何だ、ケンカか?

 ありすに問い詰められている女子は引きつった顔を浮かべている。

 周囲の取り巻きたちに助けを求めるような視線を向けたが、全員露骨に顔を背けていた。

 

 うーん。あの子、なんか地雷踏んだっぽいな。

 まあ別に僕には関係ないし、助ける義理もないけど。

 人のケンカに首を突っ込む趣味はない、それが女子ならなおのこと。

 

 僕は席を立って、図書室に向かった。新しい本借りてこよーっと。

 

 

 

===============

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=======

 

 

 

 それにしても、なーんか気分が乗らないんだよなあ。

 

 図書室で本を見繕い、廊下を歩きながらぼんやりと考える。

 どうも最近読書が手に付かない。

 気が付けばモヤモヤとした気分になってしまって、集中できないのだ。

 

 

 僕には催眠アプリを使ってありすを無理やり土下座させるという大きな目標がある。そのためには自分のパソコンを手に入れて、ディープウェブから催眠アプリを見つけダウンロードしなくてはならない。

 だからこそ、現時点では書籍からネットについての知識を得るべきなのだ。

 

 だが、その知識を得るという工程において効率が大きく落ちてしまっている。

 これは由々しき事態だ。何とかして効率を元に戻さないといけない。

 

 では、効率を下げている原因は何か?

 

 考えろ……考えるんだ。

 ありすへの復讐を思い立ったあの日はあんなにもやる気に満ちていたはずだ。

 1週間経った今、効率が落ちているのは何故だ。

 

 飽きたのか? 目標が高くて挫けたのか?

 ……いや、そうではないはずだ。

 

 頭の中でひとつひとつの要因を整理して、検討し、ひとつの答えを導き出す。

 

 

「……そうか! ありすだ……!!」

 

 

 僕の脳細胞に鋭い電流が走った。

 復讐対象であるありすがヘタレたから、モチベーションが下がっているのだ!

 

 催眠アプリを手に入れようと決意したあの日、僕の心はありすへの復讐心で煮え立っていた。

 あの高慢ちきで自分勝手で集団の中心に当然のような顔で居座る、ギラギラと眩しく輝く太陽のようなオーラを全身から出してるありすだから復讐しがいがあった。

 今だって絶対に他人に頭など下げないだろうありすに無理やり土下座させ、悔しそうな顔を浮かべる姿を想像するだけで、心の底から無限のやる気が湧き出て来るのを感じる。

 

 だが今のありすはどうだ? 何があったのか知らないが柄にもなくしょんぼり肩を落として、まるで失恋して落ち込むヒロインみたいじゃないか。そんなありすじゃ復讐なんてする気など起きないのだ。

 

 僕にとってありすはもっとクソ生意気で復讐したくなる女じゃないといけないんだ!!

 

 そうとわかればこうしてはいられない。

 僕は廊下を全力でダッシュして、教室に向かった。

 

 

 ……いた!!

 

 

 暗い顔で廊下の端っこをとぼとぼと1人で歩いている。

 

 違う違う違う! なんだその情けない顔は! もっと大勢の取り巻きを引きつれて、廊下の真ん中をのしのしと大名行列しろや!!

 

 

「おい、ありす!」

 

「……っ!?」

 

 

 僕が怒りのままに大声で呼びかけると、顔を上げたありすはびくっと肩を震わせた。

 

 

「話がある、ちょっと顔貸せ!」

 

「……嫌よ」

 

 

 ありすは僕から視線を切り、来た方向に向かって逃げようとした。

 ああん!? 何逃げてんだおめー! こっちに向かってこいよ!!

 

 絶対に逃がさんっ!!

 

 僕はありすの腕を掴み、その体を壁際に押し付けると、ドンッと音を立てて右手をありすの頭のそばに突いた。

 くくく、ひょろいとはいえこれだけ身長差があれば逃げられんだろ。まるで僕が鳥かご、ありすが小鳥だな。さーて話を聞いてもらおうか。

 

 ありすは驚いた顔で僕の顔を見上げている。

 すごく顔が近い。まあこいつはいつも僕の机の上に座って話をするから、普段通りの距離感だな。見上げられているのはちょっと新鮮かも。

 

 

「お前、何僕を避けてんだよ」

 

「だって……あんた、頭から血が出て……それに許さないって」

 

 

 ありすはうつむいて、口の中でもごもごとあそこまでするつもりじゃとかなんとか小声で呟いている。

 あーイライラする。こんなの僕が復讐したいありすじゃない!

 

 

「許さない? そんなこと言った覚えないけど?」

 

 

 しかもこいつ、勝手に記憶を改ざんしてやがる。

 あのとき言ったのは「いずれ絶対にわからせてやる。お前より僕が上だと、無理やりその脳みそに刻み込んでやるからな……!」である。

 

 僕はちゃんと一言一句記憶してるぞ。

 覚えていてくれないとわからせる以前の問題じゃないか。

 こいつは上等なおつむを持っているくせに、ときどき自分のいいように物事を解釈する癖があるから困るんだ。

 

 ありすは呆然と僕を見上げている。

 

 

「許して……くれるの?」

 

「いや、あの屈辱は生涯何があっても忘れるつもりはないけど」

 

「えっ?」

 

 

 当たり前だろ、何を困った顔してるんだよ。

 やっぱりいつもの強気なありすでいてくれないと復讐しがいがない。もごもごとらしくもない喋り方してんじゃねーよ。

 

 

「とっとといつものお前に戻れ! 僕はお前がいつも通りじゃないと、調子でないんだよ!」

 

「…………!!」

 

 

 ありすの青みがかった大きな瞳からぽろりと、雫が零れ落ちる。

 ん? こいつ何泣いてんだ?

 泣きたいようなひどい目に遭わされたのはこっちなわけだが?

 

 僕が混乱していると、ありすは手の甲で涙をぐしぐしと拭った。

 そして今更自分が壁に押し付けられている状況に気付いたのか、顔を赤らめてこちらを睨みつけながら、壁に突いている僕の腕を払いのけた。

 

 

「……近いわよ! 調子に乗らないでよね!」

 

「おっ! いいぞ、そっちは調子が出てきたな」

 

 

 壁に押し付けられたごときの屈辱で真っ赤になって怒るあたり、実にいつものありすだ。そうじゃないとな。

 

 

「よしよし。これからもそんな感じでいてくれよ」

 

「は? アンタに言われるまでもないけど? ハカセのくせに私に意見するなんて生意気よ!」

 

 

 よし、いつものマウントを取りたがるありすだ! これでまた復讐に向けて頑張れるぞ!

 それはそれとして……。

 

 

「お前みんなのところに戻る前にトイレ行って鏡見とけよ。涙で目真っ赤だぞ。放課後にカラオケでサッカー部の先輩と遊ぶんだろ?」

 

「……!? 行くわけないでしょ!!」

 

「そう? 鏡は見た方がいいと思うけど」

 

「カラオケによ! バカじゃないの!?」

 

 

 本当に、こいつはいつも僕のことをナチュラルにバカにしてくる。それでこそだ。

 ぷりぷりと怒りながら教室に戻っていくありすの背中を見ながら、僕は胸を撫で下ろした。

 しかし元に戻ってくれて万々歳だな。やっぱり直接ガツンと言うに限る。

 

 それにしても……そうか、カラオケには行かないのか。

 

 

「今日は読書がはかどりそうだな」



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第4話「催眠術入門」

本日2話投稿!
1話目です。


「ふっざけんなああああああああああああああああああ!!」

 

 

 僕はめちゃめちゃ苛立っていた。

 図書館から借りた本じゃなければビリビリに破いていたかもしれない。

 それくらい、読んだ本に書かれていた内容にカチンときていたのだ。

 本のタイトルは『催眠術入門』。

 近くの図書館から借りてきた本だ。

 

 

 ここの至るまでの話をする。

 

 相も変わらず本からネットについての知識を得る日々を続けている僕だが、最近は学校の図書室に置いてある本じゃ物足りなくなり、図書館に置かれている専門誌のアーカイブや厚めの本にも手を出していた。

 

 最初は専門用語が多くてかなり難しかったのだが、いろいろと読んでいるうちに何を言っているのかがわかるようになってきた。

 多分パソコンが手元にあればもっと理解が進むんじゃないかと思う。

 

 そう考えると、そろそろパソコンを手に入れるにもいい頃合いなのかもしれない。何せもうすぐ夏休み。

 幸い僕には一緒に遊ぶ友達もいないし、どこかに出かける予定も皆無。

 じっくりとパソコンをいじったり、図書館に通い詰めて知識を深めるにはもってこいの期間が訪れるわけだ。

 

 ひとつだけ心配があるとすればありす成分の不足だ。

 ありすがどれだけ復讐に値する存在なのかを日常的に認識しないとモチベーションが薄れそうなのが怖い。僕が研究を続けるにはありすが必要なのだ。

 

 幸いあいつとはいつでも連絡が取れる。

 入学祝いに僕がスマホを買ってもらったと知ると、無理やり人のスマホにSNSをインストールして自分の番号を登録してきやがったのだ。

 

 

『アンタがスマホぉ? どーせキモいソシャゲしかしないんでしょ~?』

 

『あーかわいそ。私が暇なときにグルメ自慢とかしてあげよっか?』

 

『ほらっ、抵抗しても無駄なんだから! 貸しなさいよ。ほーらやっぱソシャゲ入れてるじゃん。プークスクス、ほんとキモーい♪』

 

『はいっ、登録おわり。私の番号もらえるなんて果報者よ、泣いて喜びなさいよね! アンタごときが私の番号もらえるなんて本来なら絶~っっっ対にありえないんだから!』

 

 

 ……あいつすごいな、思い出すだけでやる気と復讐心がもりもり湧き上がってくるぞ!?

 モチベが途切れそうになったらメッセージを送ってありす成分を補給しよう。まあ向こうからしょっちゅううまそうなスイーツの写真を送って自慢してくるので、その必要もないかもしれないが。僕が甘党だと知ってて送ってくるんだあいつ。

 

 やはりありすは催眠アプリで土下座させるべきである。

 

 

 そんなわけでネット知識を深めるために今日も今日とて図書館で本を探していたのだが、ふと思ったのだ。

 

 

「一応催眠術というのが具体的にどんなものなのか知っておくべきではないか?」

 

 

 催眠アプリとは画面を向けるだけで何でも言うことを聞かせられるというすごいアイテムなので、別に原理とか気にする必要もないのだろうが、考えてみると催眠状態にかかった相手の扱い方がよくわからない。

 うかつな行動をして催眠状態が解除されてしまうと厄介なことになるだろう。

 そう考えると、催眠アプリを手に入れる前に予習をしておくのも悪くないと思ったのだ。

 

 

 そして家に帰り、さてじっくりと読むかと本を開いたら、そこには衝撃的な内容が書かれていた。

 

 

『まず初めに知っておいていただきたいことは、マンガなどのフィクションに登場するような、相手に何でも言うことを聞かせられるような“催眠術”は実在しないということです』

 

『催眠術とは相手の意思を奪って好き放題できるような技術ではありません。そんな技術が実在するとすれば、私たちの社会はめちゃめちゃになってしまうことは容易に想像がつくでしょう』

 

『多くの人は“催眠術”と聞くと、催眠術士が5円玉をぷらぷらと振ったり、揺れる炎を見つめさせることで、暗示にかかった人が自分を動物だと勘違いしたり、立てなくなったりする光景を想像するでしょう。これは“舞台催眠”と呼ばれるものですが、そのほとんどはただのショーであり、インチキです』

 

 

 ば……馬鹿な!?

 そんなわけないだろ!

 これが本当なら、催眠アプリは実在しないことになるじゃないか!?

 

 僕は激しい動悸を覚えながら、震える指でページをめくる。

 

 じゃあ催眠術ってなんなんだ。この本は『催眠術入門』じゃないのか。

 実在しない“催眠術”をどうやって入門させるっていうんだ。

 

 

 読み進めたところ、この本がいう“実在する催眠術”とは“催眠療法”のことを指すらしい。

 

 人間の脳みそは案外不自由にできていて、辛い思い出や暴力を振るわれた記憶はトラウマとなって本人が望まずとも思い出され、心身を脅かす。

 あるいは子供の頃に虐待を受けたなどといった自分でも思い出せないような記憶が、無意識のうちに行動や思考に悪影響を与えることもある。

 

 “催眠療法”とは暗示状態に置かれた人のトラウマを和らげたり、あるいは無意識下の記憶を掘り出したりすることで、人の心を救う技術なのだという。

 もっとも、その有効性が科学的に確認されているわけではないらしい。

 

 一応“舞台催眠”についてもすべてがインチキだとは断定することはできず、思い込みが激しい人相手や特殊な状況下ならば、腕が上がらなくなる程度の暗示を刷り込むことはできると書かれている。

 

 特殊な状況下というのは、たとえば『こっくりさん』や交霊実験、あるいは心霊スポットのような超自然的な現象が発生してもおかしくないと思えるときに、想定外の音や光を見て幽霊や人魂だと勘違いしてしまうような『思い込みを誘発する状況』だという。そうした状況では人間は自分が祟られたと思い込んで実際に身体に不調を起こしたりする。

 まあそんな感じの、暗示とは思い込みを刷り込むことだといった旨が記されていた。

 

 そこまではいい。

 この著者は催眠アプリが実在することを知らないのかもしれない。

 何せ“(イリーガル)”の領域であるディープウェブに隠されているのだから、脳科学者だかなんだか知らないが所詮“(シャバ)”の一般人でしかないこの著者には未知の代物なのだろう。

 

 しかし結びに書かれていた内容が僕の逆鱗に触れた。

 

 

『この本を手に取った方は、もしかしたら女の子に一方的に好き放題できるなどといったいかがわしい目的をお持ちかもしれません。

 しかし、そもそもそれは犯罪です。

 本当の催眠術は、人の心を救える素晴らしいものです。あなたがまだ青少年ならば、ぜひ他人の心を救う道を将来の選択肢に入れていただきたいと思います』

 

 

「ふっざけんなああああああああああああああああああ!!」

 

 

 いかがわしい目的以外でこんな本を手に取ることってある!?

 ないだろ! 普通はいかがわしい目的をもって読むわ! 当たり前だろうが!!

 それを……クソッ! 踏みにじられた! 僕の純情を踏みにじったな!!

 許せんッッ!!

 

 しかも他人の心を救えって何だよ! 僕は他人の心とかどうでもいいんだよ!

 そもそも他人が何考えてるかなんか全然わからんし。せいぜい家族の表情で何考えてるか読める程度だぞ。かろうじてありすも入るかもしれない。あいつは単純でわかりやすいからな。

 でもそれ以外の人間が何を考えてようが僕の知ったことじゃないわ!

 催眠アプリを手に入れたとしても、僕は他人の心を救うためなんかに絶対使ってやらんからな!!

 

 

「あー本当に読んで損した! 時間の無駄だった!」

 

 

 せめて催眠術にかかった相手をどう扱えばいいかとか書かれているなら多少は役にも立っただろうが、それすら書かれていない。

 もしかしてこの著者は実際に他人に催眠術を掛けたことがないのではないかと思えてしまう。

 そうであれば何が『入門』だ。むしろこの本自体がちゃんちゃらおかしいペテンじゃないか。

 

 

 ……まあでも、多少なりとも興味を抱ける部分を見出すとしたら、この『ラポール形成』という項だろうか。

 

 ラポールとは催眠術をかける側とかけられる側の間の信頼関係を指すもので、互いが信頼しあう関係にあるほど催眠術はかけやすくなるという。

 まあ言われてみればそりゃそうだろう。見も知らない相手にああしろこうしろと言われるよりも、家族とか友達に言われた方が従おうって気になるはずだ。

 だから催眠療法では療法士が患者と信頼を築くことが重要視されるのだそうだ。

 

 ラポールがどれくらい形成されているかの基準はさまざまだが、ひとつの目安としてはパーソナルスペースが挙げられる。

 パーソナルスペースっていうのは、他人がその範囲までなら近付いても許せると感じる距離感のことだ。不潔な見た目の赤の他人なら隣の席に座られるのも嫌だろうけど、家族であればぴったり寄り添われても許せる。うちの両親なんかいつもべたべたしてるもんな。

 

 ……いや、でもありすはしょっちゅう僕の机に座ってくるけど、僕はあいつを嫌な女だと思ってるぞ。これ本当か?

 だけどこの前壁に押し付けたら近すぎとか言って真っ赤になって怒ったし、間違ってもないのか……? うーむ。

 

 

 まあ、もっとも催眠アプリは初対面のキモデブ親父とかが使ってもバッチリ効くスーパーアイテムなので、そんな心配は無用だけどな!

 

 

 ……いや、だけどもし……。

 もし、ありえないことだが、万が一に、この本に書かれていることが本当で、催眠アプリが実在しなかったら。

 自分の力で催眠術をかけて無理やり土下座させる場合、相当なラポールが必要になるわけだよな。

 

 あのプライド激高のありすが土下座してもいいくらいとなれば、それこそ主従関係とか長年連れ添った夫婦とか、そういったレベルの信頼が必要になるはずで。

 

 つまり僕がありすを土下座させるためには、絶対服従の忠臣ってくらいに忠誠を誓わせるか、唯一無二の理想の伴侶ってレベルまでメロメロにさせなくてはいけないってこと……?

 

 

「ふ……ふっざけんなああああああああああああああああああ!!」



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第5話「深層ウェブでごきげんよう」

本日2話投稿!
2話目です。


『ハロー、葉加瀬博士くん。珍しい名前だね。夏休みだからといってこんなところに遊びに来るのは感心しないな』

 

 

 不意に画面の右下に表示されたメッセージに、僕は総毛立った。

 

 

 夏休みも後半に入り、いよいよ自分のパソコンを手に入れた僕は設定もそこそこにディープウェブへと脚を踏み入れた。

 目指すは催眠アプリただひとつ。

 ブラックマーケットにアクセスして、膨大な出品物の中からさてどうやってお目当てのものを見つければいいのかなとウロウロしていた矢先のことだった。

 

 プロキシを噛ませてセキュリティソフトも入れているはずなのに、見も知らない相手に本名を言い当てられた。

 夏だというのに全身に冷や汗がにじみ出てくる。

 

 

『あなたは誰ですか? 何で僕の名前を知ってるんですか? もしかしてBOT?』

 

 

 BOTは簡単に言えばインターネット上で自動で動くソフトのことだ。

 もしかしたらメールサーバーか何かを参照して僕の本名を探り当てて表示する、というような処理を行なういたずらプログラムではないかと推理した。

 

 

『いや、私はBOTではないよ。名前だけじゃ足りないなら、もっと暴いてあげようか。なあ、頼月(よりつき)市にお住いで、ピッカピカの中学生の葉加瀬博士くん?』

 

 

 呼吸が止まるほど恐ろしくなった。

 

 これまでどんな怪談話を聞いても、これほど怯えたことはない。

 まさか監視でもされているのかと思わず窓の外を見てみるが、外はもうどっぷりと日が暮れて人影ひとつ見つからない。

 

 

『何が目的なんですか? 僕をリアルで知ってる人ですか?』

 

『ただの親切な通りすがりだよ。いいかい、今すぐに接続を切ってブラウザをアンインストールしなさい。そして二度とディープウェブにアクセスしないこと。ここは君みたいな子供が来ていい場所じゃない。キミの個人情報なんか簡単に丸裸にできるんだ。悪いやつに見つかる前に帰りなさい』

 

 

 僕は歯噛みしてメッセージを睨み付けた。

 

 悔しい。

 

 自分なりに多少は知識を得たつもりだった。本に書かれていた可能な限りの自衛策を講じて、乗り込んだはずだった。

 しかしそれはほんの一時間足らずであっさりと無駄だったと思い知らされた。

 僕がこれまで積み重ねた3カ月にわたる努力など、大人にとっては軽く蹴散らせる程度のものでしかなかったのだ。

 

 

『では、忠告はしたよ。よい夏休みを』

 

『待ってください』

 

 

 それでも必死に追いすがるつもりで、僕はキーボードを叩いた。

 

 

『どうしても欲しいものがあるんです。それを手に入れるまで帰れません』

 

『中学生が欲しがるものなんて、通販サイトに何でも揃っているだろう。何もわざわざブラックマーケットに来るまでもないはずだよ。表の店と比べて大して安くもないし。まさか怪しいクスリでも欲しがっているんじゃないだろうね?』

 

 

 麻薬? そんなものいるわけない。

 それよりももっと万能で素晴らしいアイテムなんだ。

 

 

『催眠アプリってどこに売ってますか』

 

『なんだって?』

 

『どうしても催眠アプリがほしいんです。催眠をかけたい相手がいるんです。貴方はディープウェブに詳しい人なんですよね? 教えてください、僕にできることなら何でもしますし、いくらだって払います』

 

 

 これまでまるであらかじめ文章を入力していたかのような速度で反応していた彼が、にわかに反応を遅らせた。

 後で聞いたことだが、このとき彼は腹を抱えて笑い転げていたらしい。

 

 

『催眠アプリて……。そんなものが本当にあると思ってるのかい?』

 

『ないと困ります。どうしても必要なんです』

 

『ないよ。私は別にブラックマーケットを隅から隅まで知ってるわけじゃないが、そんなものは絶対ない。断言できる。少なくとも現代においてそんなものは開発されているわけがない』

 

『どうして言い切れるんですか?』

 

『開発されていたら、間違いなく国家の厳重な管理下に置かれる秘匿技術になっているよ。何しろ画面を見せて命令するだけでどんな相手も言いなりなんだ、外交の切り札にも程がある。開発した国は一瞬で世界を統一できるだろうね。でも現実はそうなってはいないだろう?』

 

『はい』

 

『だからそんなものは実在しない。簡単な話だ』

 

 

 そうか。やっぱり存在しないのか。

 薄々そうじゃないかと心のどこかで思っていたが、理詰めで事実を突き付けられて、僕はついに現実を認めざるを得なかった。

 彼の論理には隙がない。

 

 催眠アプリは現時点でこの世に存在していないのだ。

 

 

『わかりました。じゃあ自分で作るしかないんですね』

 

『えっ』

 

 

 僕はそれでも催眠アプリを諦めきれない。

 どうしてもありすを催眠アプリで無理やり土下座させたい。

 今やそれこそが僕の生きる意味になりつつあった。

 

 他人が作ったものを使わせてもらえるならそれに越したことはなかったが、現在存在していないからには自分で作るほかない。

 ディープウェブにアクセスするための知識が無駄になったのは痛いが、パソコンが手に入ったのは無駄ではないはずだ。

 ここからアプリ開発環境を整えて、催眠アプリを開発する……!!

 

 

『ありがとうございます。おかげで無駄な時間を過ごさずにすみました。ブラウザは消しておきますね。では失礼します』

 

『待った! 待ちなさい。キミ、催眠アプリを自作するって本気で言ってるのかい?』

 

『ええ。ないなら作るしかないじゃないですか』

 

 

 彼はまた反応を止めた。

 画面の向こう側で椅子から転げ落ちて呼吸困難になるほど笑っているとは、このときの僕には知るよしもなかった。

 

 僕がディープウェブから切断して、ブラウザをアンインストールして履歴を消すまでたっぷり3分。

 それくらい間を開けて、彼は反応を返してきた。

 

 

『キミは面白いなあ。ちょっと別のところでお話ししないか?』

 

 

============

========

=====

 

 

「で、この子を連れてきたというわけか?」

 

「ええ。面白い子でしょう。先輩が興味を持つかなと思って」

 

 

 彼に連れられてきたのはディープウェブではなく、ごく普通のチャットルームだった。

 

 投げられたURLからクライアントソフトをダウンロードして、チャンネルコードを入力。その先には彼とその友人が待っていた。

 テキストでもマイクでも会話できる形になっていたが、僕はまだタイピングが早くはない。それならマイクを使ってほしいと言われたので、要請に従っている。

 

 僕をここに連れてきたのは“EGO(エゴ)”という人で、その友人の人は“ミスターM”というハンドルネームだった。

 マイク越しに聞こえるミスターMの声は渋みがあって聞き取りやすい男性の声で、EGOさんの声はそれよりちょっと若そうだ。しかし僕よりもはるかに年上には違いないわけで、ちょっと緊張する。

 中学生が大人の人と長話をするなんて、先生相手でも滅多にない。

 

 

「興味を持つかな、と言われてもな。子供を連れてこられてどうしろと」

 

「まあまあ。ちょっとお話してみたらどうです。青少年とお話しする機会なんてあんまりないですよ?」

 

「あの……」

 

 

 おずおずと割って入ってみると、ミスターMは穏やかな声で返してきた。

 

 

「ああ、すまないね。変人に目を付けられてキミも大変だろう。しかしまあ、ディープウェブにアクセスしたのは褒められないな。あそこはEGOくんのように他人の個人情報を覗くのが大好きな変態がウロウロしているから」

 

「いや、子供の身で自力でたどり着くのはなかなか根性あっていいと思いますよ。うん、将来有望ですね」

 

「説教してここに連れて来たのはキミだろう!? なんだその掌返し!」

 

「いやあ、まあ私も他人を説教できるような立場じゃないですしね。なんせ先輩曰く覗き魔の変態ですし? 年下への説教は慣れてる先輩にお任せしますよ」

 

「私の専門は指導であって説教ではないよ。教師ではないからな。さて……」

 

 

 ミスターMは言葉を切ると、僕に訊いた。

 

 

「催眠アプリを作りたいんだってね。だが催眠術というのはキミが思っているようなものではないよ。いわゆるフィクションに出て来るような催眠術というのは……」

 

「“舞台催眠”はほとんどがインチキなんですよね。それは知ってます。『催眠術入門』って本を図書館で読みましたから」

 

「……あ、そう。そうかぁ……」

 

「どっかで聞いた書名ですね先輩」

 

「でもなんだか後書きで偉そうに説教しててイラッとしました。臨床例も書かれてないし、なんだか全体的にふわふわしてたし。本当に催眠術やったことあるの? って思いました」

 

「……まあ入門編だから、多少はね?」

 

「ぶははははははははは!」

 

「ちょっと黙りたまえ!」

 

 

 なんだかEGOさんが笑いだしたが、すぐにサーバーミュートされた。ミスターMの仕業らしい。

 

 

「さて、無理を承知で催眠術をかけたいというからには、何か理由があるのだろうが……。聞かせてもらってもいいかな?」

 

「わかりました。実は……」

 

 

 僕は幼馴染の女子にいじめを受けて、その復讐のために何としても催眠アプリを作りたいのだと説明した。

 ありすがどれだけ女王様気質で、僕が小学生の頃からどれほど精神的苦痛を受けたのかを微に入り細を穿つように訴えると、彼らはふーむとうなり声をあげた。EGOさん自分でミュート解除したんですね。

 

 

「なるほど。いじめの復讐か……話し合いで解決してほしいところではあるが」

 

「話し合いじゃなかなか解決しませんものね。いじめはよくない、復讐は何も産まない……なんて第三者が綺麗ごとを口にするのはたやすいですが。いじめられてる側のストレスを無視した話ですからね。そもそもいじめる側といじめられる側に上下関係があるのに、対等な話し合いなんて望むべくもない」

 

「そうだよなあ。復讐したい気持ちには嘘を吐けない。そこを無理して飲み込めれば理想だが、無理することのストレスはどうやったって生まれるものだ」

 

 

 おおっ……!と僕は目を輝かせた。

 こんなにも理解してくれる大人に出会ったのは初めてだった。

 教師は大体ありすの肩を持つか、さもなければ見なかったことにされる。少なくとも理解を示してくれる大人に出会っただけでも、ディープウェブにアクセスした甲斐はあったかもしれない。

 

 

「じゃあ先輩、催眠術教えてあげたらどうです?」

 

「いや、しかしな……それとこれとは」

 

「えっ、催眠術できるんですか!?」

 

 

 僕は興奮して身を乗り出した。

 まさか本物の催眠術士と会えるとは!

 これは千載一遇のチャンスではないだろうか。

 

 

「ぜひ教えてください! 何でもします! 催眠術を組み込んだアプリを作りたいんです!!」

 

「うーん……残念だが、私は多少の経験こそあれどただの研究者であって、プロの催眠術士ではないよ。それにさっきも言ったが、催眠術は何でも言うことを聞かせられるような万能の魔法ではないんだ。仮にその女の子に『いじめをやめろ』と言ってもやめてくれるとは限らない」

 

「いえ、いじめをやめてほしいんじゃなくて無理やり土下座させたいんです」

 

「えぇ……?」

 

 

 目的を間違えてはいけない。

 ありすに嫌がらせをされることで、僕は復讐心を補充して頑張ることができるのだ。いじめを続けられたうえで、無理やり土下座させてスカッとしたいのだ。

 

 

「それに、アプリを作ると言っても簡単なことではないよ。アプリ開発には開発期間、マンパワー、資金を必要とする。そもそもキミはソースコードをいじったことがあるかい?」

 

「いえ……でもこれから勉強します」

 

「そういってもなあ。催眠術を覚えて、アプリ開発も勉強してとなれば、それに一体どれほどの時間と経費がかかることか。私としてはそんな復讐などやめて、学生として普通に青春を送る方が有意義だと思うが」

 

「……勝手に決めないでください。意義があるかどうかは僕が決めることです。僕は時間を催眠アプリの開発に費やすことが有意義だと信じます」

 

「む……確かにそうかもしれない。だが……」

 

「はいはい、じゃあちょっと提案がありまーす」

 

 

 僕とミスターMの議論に、EGOさんが割って入ってきた。

 

 

「それじゃ、ハカセくんにちょっと力試ししてもらおうじゃないですか」

 

「力試し?」

 

 

 EGOさんはチャット画面にZIPファイルを貼り付け、それをダウンロードするように促してきた。

 解凍してみると、謎のファイルがいくつか入っていた。

 

 

「なんですか、これ?」

 

「それは私が前にちょちょいと作ったアプリだよ。まあ、特定の文字列が画面にたくさん表示されるだけの他愛のない内容なんだけどね。ハカセくんにはこれを何らかの形で『改良』してもらおう」

 

「改良って……どんな風に?」

 

「そこはキミのセンスに任せるよ。とにかく、何らかの改良が施されていればいい。期間は2週間だ。まあ、夏休みの自由工作といったところかな」

 

 

 EGOさんがそう言うと、ミスターMは呆れたような反応を返した。

 

 

「2週間で? アプリ開発のアの字も知らない子供にか?」

 

「彼の本気を見せてもらおうじゃないですか。本当に催眠アプリを作りたいっていうのなら、これくらいは軽くできて当然ですよ。ああ、開発アプリのプラットフォームは私が用意しましょう。教科書がほしいっていうのなら、参考資料も提供しますよ? 著作権は気にしなくて結構。クリア済みです」

 

 

 そう言ってEGOさんはチャット画面に別のZIPファイルをアップする。

 中身は何やら専門用語だらけの書籍をまるごとPDF化したもののようだった。

 

 

「著作権クリアって、これお前が書いたほ……」

 

「だから問題ないでしょう。……さて、やってみる気はあるかな?」

 

「やります! 2週間ですね!」

 

 

 一も二もなく飛びついた。

 これはチャンスだと思った。

 タダでプラットフォームと専門書籍をくれるなんて、中学生の身としては非常にありがたい。ただでさえパソコンで貯金を使い果たしているんだ。

 アプリの開発環境を自力で整えるとなると、またどれだけの時間がかかるかわからない。

 

 

「お前のアプリを『改良』ね。……まったく、意地が悪いことだ」

 

「これもお勉強ですよ。現実を知るにはちょうどいいでしょう」

 

 

 ミスターMとEGOさんが何か話しているが、気にしないことにした。

 彼らが何を考えているにせよ、チャンスが目の前に転がってきたなら拾うべきだ。

 頑張ろう。僕はメラメラと意欲が湧き上がってくるのを感じた。

 

 これを通してアプリ開発の基礎を身に着けるのだ。

 その先に、ありすの土下座が待っていると信じて……!!

 

 

「ああ、それはそうとして」

 

 

 そんな僕に、EGOさんは思い出したように口を開いた。

 

 

「これは忠告だが、ディープウェブに行くならパソコンのユーザー名に本名を使うのはやめておいた方がいいよ。パソコンを買ってもらったばかりの中学生感が丸出しだからね」



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第6話「SNSは口ほどにものを言う」

本日2話投稿!
1話目です。


「お兄ちゃん、晩御飯だよー。早く降りてこないとママが怒っちゃうよー」

 

 

 ドアの向こうから呼びかける妹の声で、僕はキーボードを叩く手を止めた。

 時計を見ればもう夜の6時になっている。

 つい先ほど昼ご飯を食べたばかりだと思っていたが、気付けば窓の外は夏の陽が落ち始めていた。お腹もぐうと鳴っている。

 時間が経つのがあまりにも早すぎる。

 

 先日EGOさんからもらった『宿題』に手を付け始めてから、もう折り返しとなる1週間が過ぎようとしていた。

 あれから僕は毎日ご飯と風呂と寝る以外のすべての時間を『宿題』に注ぎ込む日々を送っている。

 初日はセッティングとアプリ開発の基礎知識を得るためにPDFを通読することに費やし、翌日からはひたすらに開発言語の習得を含めたプラットフォームの理解に努めていた。

 

 このアプリ開発という『宿題』は非常に面白い。

 今まで学んできたどんな勉強や遊んできたゲームよりも奥深く、自由な想像力を働かせる余地とパズルじみた論理性に満ちていた。

 学べば学ぶほどにできることは飛躍的に増えていき、想像の翼を実現できるようになっていく。

 そしてその先にはさらなる難題が待ち受けているのだ。無限に強くなれるRPGと、想像力をはばたかせられるお絵描きと、頭を鍛えられるロジカルなパズルが一体となったかのような、ソースコードという未知の世界。

 僕はこんなにも夢中になれる『遊び』に初めて出会った。

 

 そしてまた、EGOさんがくれたサンプルが素晴らしいのだ。

 挙動自体は画面いっぱいに数十種類の色分けがなされた“Hello,World!”という文字列を表示させるだけのアプリである。

 しかしその実は各色ごとに異なる表示処理や動作制御が設定されており、一定の条件が重なると“Hello,World!”が組み合わさって巨大なフラクタル図形を描いていくという妙な隠し要素まで仕込まれていた。

 

 腕利きの職人による技術の博覧会のような内容のうえに、またそのソースコードが美しい。複雑極まりない処理の数々を可能な限りシンプルにまとめて制御する、神業としか言いようのない機能美を備えていた。

 あの人は間違いなく現代の匠だ。

 

 そしてこのソースコードの美しさを理解するほどに、ミスターMが言っていた『意地が悪い』という言葉の意味が心底わかってきた。

 僕のような初心者が何を付け加えたとしても、それは蛇足となってしまう。あまりにも完成されすぎていて、手を加えることが冒涜だと思えるほどに。

 

 さらにすごいのは、ここまでの完成度を誇るコードでありながら、意図的に仕込まれたと思われる“(あら)”が見つかることだ。このコードを書いた人間ならありえないはずの、文法のちょっとしたミスや狂い。

 しかしそれを修正しようとすると、連鎖的に全然別の場所に別のバグが発生してエラーを吐くようになっている。初期の“粗”を残した状態なら走るのに、手を加えようとすると動かなくなってしまうのだ。

 もちろんそうなるように計算して作っているのだろう。

 あまりにも頭が良すぎると感嘆せずにはいられない。

 

 この“粗”をすべて取り去ることが恐らく『宿題』なのだろう。

 だが、できることならもっと改良したい。まだまだいろんなことができそうにも思えるのだ。

 しかしそれによってソースコードの完全性を崩すこともはばかられる。

 何を弄り、何を残すかというバランスどりが非常に面白い。

 

 このあまりにも奥が深い『遊び』に、僕は虜になっているのだ。

 

 

「おにーちゃーーん!! 早く出てきてよぉーーー!!」

 

 

 妹がめちゃめちゃドアを乱打している。

 このままドアを破られたのではたまらない。

 

 

「わかった、今行くよ」

 

 

 仕方なくドアを開けると、Tシャツに短パンと夏らしい服装のくらげちゃんがぷくーと膨れっ面で僕を見ていた。

 

 

「おそーい! ……なんか目が真っ赤だよ。そんなに面白いゲームやってるの?」

 

「うん、まあね」

 

 

 くらげちゃんは僕がゲームにハマっていると思っているようだ。

 まあそういうことにしておこう。催眠アプリ作りの勉強頑張ってますとも言えないし。

 

 

「ふーん。私も遊んでみていい?」

 

「くらげちゃんにはちょっと早いかな。それにゲームいろいろ積んでるでしょ、先にそっちを崩しなさい」

 

「くらげじゃなーい! み・づ・き!」

 

 

 興味津々なくらげちゃんを軽くいなし、階段を下りる。

 くらげちゃんはゲーム大好き女子なのだが飽きっぽく、ゲームをちょっと触るとすぐ別のゲームに浮気して積みゲータワーを築く癖がある。

 まあそのゲームも元はお父さんが買ってきて放置していたレトロゲームなので、血は争えないな。

 

 

「あら、ようやく降りてきたわね。冷めちゃうわよ、早く食べなさい」

 

「はーい」

 

 

 食卓には肉じゃがにほうれん草のおひたし、ミートボールとサラダ、それにわかめと豆腐の味噌汁と色とりどりの献立が並べられていた。

 お母さんの作る料理は相変わらずおいしそうだ。

 

 料理を見るとぐぅーとお腹が鳴って、口の中につばが溜まってきた。

 夢中になってパソコンを触ってるときは気付かなかったが、随分カロリーを消費していたようだ。別に筋肉がついてるわけでもないこの体だが、無駄に背が高いので基礎代謝は割と高めである。

 

 うん、おいしい。

 

 

博士(ひろし)、夏休みだから遊ぶのは結構だが、ちゃんと宿題はしてるか?」

 

「うん。もう前半で終わらせてるから大丈夫だよ」

 

 

 今日は家で仕事していたお父さんが、むっすりと聞いてくるのに軽く頷く。

 

 

「そうか。ならいいが。……若いうちは多少は運動もした方が体にいいぞ」

 

「運動嫌いなんだよ」

 

「まあそれはわかる」

 

 

 うちのお父さんも根っからのインドア気質である。

 世の中にはどういうわけか体を動かすのが嫌で仕方ないというタイプの人間が一定数存在しており、多分それは遺伝なんだろうなあと思う。

 体育で運動部と文化部と帰宅部を混ぜてスポーツさせるのは虐待なのでやめろと政府に訴えたい。なお僕は帰宅部だ。孤高の道を自ら選んだ誇りあるぼっちである。

 

 

「パパはちょっと運動した方がいいよ。ちょっとお腹出てきたもん」

 

 

 最近とみに生意気になってきたくらげちゃんは、父親のだらしないところを容赦なく指摘していくスタイルである。

 

 

「ん……うん、そうか」

 

「ねーママ、ママもすらっとしたパパの方が好きでしょ?」

 

「そうねえ。でもパパは元からやせすぎだし、ちょっと肉がついててもママはいいかなーって」

 

「幸せ太りだろう。やっぱりママの料理が美味すぎる」

 

「ふふふ、若いときに胃袋ゲットするために腕を磨いてよかったーってね」

 

 

 年甲斐もなくデレッとするお父さんと嬉しそうなお母さんが、いつまで経ってもラブラブな空気を作っている。

 くらげちゃんはちょっと白けたような顔で「ママってホントパパにあまーい」と呟きながら、甘くなった口の中に味噌汁を注ぎこんでいた。

 

 本当に子どもが砂を吐くほど仲がいいのがうちの両親だ。

 僕も将来はこんな素敵なお嫁さんを見つけられるのだろうか?

 

 

 ……いや、無理だな。絶対無理だ。

 

 

 こんな陰キャで根暗な僕を愛してくれるような女性は、恐らくこの世にいない。そしてそれ以上に、僕が誰かを愛せるような日が来るとは思えなかった。

 僕は家族以外の人間に根本的に興味がない。そもそも名前も顔も覚えられない。他人に興味がないから、誰からも愛されない。

 多分僕は両親がいなくなったら、生涯独りぼっちになるだろう。

 

 味噌汁がちょっとしょっぱかった。

 

 

 

 部屋に戻ると、ちょうどスマホがブーブーと振動するところだった。

 SNSアプリの右上には77件と凄まじい数字が表示されている。

 アイコンをタッチしてアプリを開く。

 

 

『ちょっとハカセ、いつになったら返事するわけ?』

 

『既読付かないんですけど』

 

『おーい』

 

『私を待たせるなんていい度胸ね』

 

『もしかして熱中症でも起こしてるんじゃないでしょうね』

 

『アンタひょろいもんねー。ちょっとは運動して太陽の光浴びなさいよ』

 

『雑魚雑魚ざぁーこ(※マグロのアイコン。マグロは雑魚じゃないぞ?)』

 

『返事しろ。見ろ』

 

『ちょっと』

 

(通話:30分前)

 

(通話:15分前)

 

(通話:5分前)

 

(通話:たった今)

 

 

 ざっと指を滑らせて履歴を見ると、6時間以上前からずーっとメッセージを送り続けているようだ。

 う、うざい……! なんて暇な奴なんだ……。

 それにしてもこんなにスマホを鳴らされて気付かないとは、我ながらよほど集中していたんだな。

 

 とりあえずこれ以上スマホを鳴らされてはたまらないので、何か返信しておこう。

 

 

『なに』

 

『何じゃないわよ! 無事ならちゃんと返事しなさい! 熱中症でも起こして倒れてんのかと思ったじゃん!!』

 

 

 返事したらしたで、秒で返信が返ってきた。

 こいつのフリップ速度どうなってるんだ。

 

 

『ちょっと夢中で遊んでたから気付かなかった』

 

『はー? アンタ私とゲームとどっちが大事なのよ』

 

『私と仕事とどっちが大事なのと詰め寄る奥さんみたいなことを言うね』

 

『は!? 何よ奥さんとかいきなり……頭おかしいんじゃないの!? アンタ私のこと奥さんだとか思ってるの? 夢みすぎなんですけど~! 超キモ~い』

 

『ちなみに将来お前の夫になる可哀想な男のために忠告するが、大抵の男は仕事の方が大事だからその詰め方はやめとけ。自分が傷つくぞ』

 

『何よそれ。アンタ女よりも仕事の方が大事なの?』

 

『嫁さんを大事にする時間を作りたいから、我慢して仕事に打ち込んでるんだよ』

 

 

 うちの両親が珍しくケンカした時に、お父さんはそんなことを言いながら荒れるお母さんを抱きしめたのだった。効果抜群ですぐ収まった。

 僕とくらげちゃんは口から蜂蜜を吐いた。

 

 

『ふーん……へぇ~』

 

『なんだよ』

 

『そういうのにキュンときちゃう系の女の子が好きなの? なんか前時代的~。亭主関白になりたいわけ?』

 

 スマホの向こうのありすのニヤニヤ顔が目に浮かぶようだ。

 

 少なくともありすの尻には敷かれたくないなぁ。

 こいつを生涯の伴侶(はんりょ)に選ぶような男は、きっと見た目に騙されるような見る目のない男なんだろうな。まあ見た目だけでなく、頭もいいし運動神経もいいし、家も金持ちだし、声が綺麗だし、非の打ち所がないんだけど。何せ性格が致命的だ。

 小学生の頃はあんなに優しかったのに、どうしてこうもマウントを取りたがるようになってしまったんだろう。僕だってもう中学生なのだ。こんな態度を取られると、ついムカッとしてしまう。

 

 とりあえず僕は生涯独身だろうから、亭主関白にはならないぞ。

 それより、話を変えよう。

 

 

『で、なに?』

 

『あ、そうだ! どうだったのよ。早く言いなさい』

 

『何が』

 

『↑』

 

 

 上を見ろってか?

 僕は画面をスライドさせてみた。さっきスライドさせた範囲よりさらに上、今日最初のメッセージまで見てみる。

 

 

「あ」

 

 

 どっかのデパートに入ってる呉服店での、浴衣姿のありすの自撮り画像が貼り付けられていた。

 ピンク色の地に色とりどりの朝顔があしらわれた鮮やかな柄と、編み込まれた赤髪。

 そして「私可愛いでしょ!」と言わんばかりの挑発的なドヤ顔。

 

 正直に言ってとんでもなく愛らしかった。

 浴衣の可愛らしいデザインと、小生意気な笑顔と、夏らしい髪型が最高にマッチしていた。

 13歳のこの夏のありすが着るためだけに作られた衣装ですと言わんばかりだった。本当に絶妙な1枚だ。少女雑誌の表紙にしたら売上げが爆上がりしそう。

 

 なるほどね。

 これの感想が聞きたいがために、ずーっとメッセージ送って来たのか。

 

 

 ……さてどうしようかな。

 素直に褒めるのは(しゃく)だ。

 しかし(けな)すのもやっぱり違う。自分の心に嘘を吐きたくない。

 うーん……。

 

 悩んだ末に、とりあえず当たり障りのないことを入力。

 

 

『自己顕示欲モンスターかよ』

 

『(小悪魔のアイコン) で? どうよ』

 

 

 ちっ、話を逸らせないか。

 

 

『いい浴衣だな』

 

『ん~? お客さん、ちょっと褒めるところ違くない? ちゃんと目玉ついてる~?(きょろきょろする両目のアイコン)』

 

 

 くそっ、うぜえ! ニヤニヤ顔が嫌というくらいに想像できる。

 

 ……まあしかし、あれだ。

 なんかこう、疲れが吹っ飛んできた感がある。

 やっぱりあれだな。こいつが僕をイラつかせるたびに、復讐心が湧いてくる。

 ありす、お前は僕の最高のやる気の源だ。

 

 

『なんか元気になった』

 

『は? 何それ。セクハラとかドン引きなんですけど~』

 

『マジでエネルギーが補充された。これで明日からも頑張れる』

 

『……ふぅ~ん……へぇ~……』

 

『なに?』

 

『何でもないわよ、スケベ! 夏風邪とか熱中症とかなるんじゃないわよ! お休み!』

 

 

 ……なんなんだこいつは。

 テンションに落差がありすぎる。

 

 

「まだ7時なのにお休みもないだろ」

 

 

 まあ今日のところはもう連絡しないってのなら、『宿題』に集中できていいけどさ。晩ご飯を食べてちょうど集中力が落ちてきたところにありす成分が補充されたことで、まだまだ頑張れそうだ。

 

 しかしこいつ、この浴衣で夏祭り行くんだな。

 取り巻きの女子と行くだろうから、僕は実際にこの浴衣を見ることはないだろう。

 でもまあ……。

 

 僕は忘れないうちに、写真をコレクションフォルダに保存しておいた。

 

 

「この浴衣、僕以外に見る奴がいなければいいのにな」



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第7話“Hello,World!”

本日2話投稿!
2話目です。


「それじゃ『宿題』を提出してもらおうかな」

 

「わかりました」

 

 

 最初に『宿題』を出されてから2週間後、チャットルームにはEGOさんとミスターMが待っていた。

 僕はドキドキしながらソースコードを圧縮したZIPファイルを貼り付け、彼らの採点に委ねる。

 

 この2週間、僕なりの全力を注ぎ込んだつもりだ。

 今度はネット知識の自習みたいな手探りの学習ではなく、必要な資料はすべて用意してもらった。ここまでお膳立てされて中途半端なものしかできなかったのなら、僕にはアプリ開発の才能などなかったということになる。

 

 

「ふむふむ……なるほどね」

 

「どうだEGOくん。私はソースコードなど門外漢だが、ちゃんと『改良』はできているかね?」

 

「うん、ちゃんと私が仕込んだ改善点はすべて直せているようだ。連鎖して致命的なエラーを吐くようにしておいたが、それもちゃんと対応できているようだね。いいじゃないか」

 

 

 ……! よかった!

 僕はほっと胸を撫で下ろす。どうやらちゃんと彼のお眼鏡にはかなったようだ。

 

 

「804行目からのこのコードはキミが付け加えたものだね。これはどういう挙動をするのか説明してもらっていいかな?」

 

「あ、はい」

 

 

 さすがEGOさんだ。あっさりと僕のオリジナル部分を見つけてくる。

 まあソースコードなんて自分の子供のようなものだから、誰かが手を加えた部分なんて見つけるのは簡単だが。

 

 ここからが僕が本当に試される部分と言っていいだろう。

 僕はちょっと声を上ずらせながら、頑張って説明した。

 

 

「“Hello,World!”の文字列全体の明滅速度を速めて、とにかく文字列をいっぱい表示させるようにしてみました。このアプリはもう完璧で、何か付け加えるのは蛇足に思えたので」

 

「ふむ、なるほどね」

 

「本当に綺麗なアプリです。僕が何をやるにしても、いまいちピンとこなくて……これが精一杯でした」

 

 

 恥ずかしい話だが、僕がエミュレーションによる動作確認が可能な範囲においては、こうするくらいが精いっぱいだった。

 このアプリに備わっている機能美はそれくらい完璧に過ぎた。新たな文字色を加えるのも、新たな表示処理を加えるのもはばかられる。

 となれば、方向性は“Hello,World!”の文字列の表示回数をとにかく増やし、『いっぱい表示させる』ことに特化してみようと考えたのだ。

 しかし僕が付け加えたこの処理だって言ってしまえば蛇足もいいところで、ソースコードとしては元の方が美しい。

 

 

「ふふっ、褒められているなEGOくん? 実際、彼のソースコードは業界でも美しいと評判だからね。それゆえに他の人間が後から手を加えるのをためらって仕方ない、エンジニア泣かせだとも言われているが」

 

「おっとやめてください先輩。身バレするじゃないですか」

 

 

 EGOさんは少し笑いが混じった声でミスターMをとがめつつ、いいだろうと小さく呟いた。

 

 

「うん、これなら合格だ」

 

「ホントですか!」

 

「ああ。よく2週間でここまでできるようになったね。あの連鎖バグは正直現役のエンジニアでも苦労すると思ったが……キミには確かに才能があると思うよ」

 

 

 僕は思わず両手を強く握り、ガッツポーズを取った。

 EGOさんは間違いなくプロ、それも一流のエンジニアのはずだ。

 そんな彼から才能があると言われ、嬉しくないわけがなかった。

 

 

「まあ、付け加えられた処理は正直ちょっと余計かな……という気はするけどね。もうちょっと面白い、キミなりのコードを見たかった気もする」

 

「おいおい、辛口だね。中学生だぞ? 一足飛びにプロ目線の採点をするのはやめてあげたまえよ」

 

「あ、いえ。やっぱり蛇足ですよね。僕もそう思います」

 

 

 やっぱりプロだな。僕が感じるのと同じことを指摘されないわけがない。

 

 

「だから3種類ほど別の処理のバージョンも作ってみたんです」

 

「ほう?」

 

「エミュレーションはできなかったので、本当に作るだけで恥ずかしいんですけど……」

 

 

 そう言いながら、別に用意していた1つめを貼り付ける。

 

 

「……これは……なんだ? やたら描画領域を広く取っているが。それに文字色の輝度の範囲もオリジナルと違うね。どう見てもスマホに表示するためのものじゃないようだが……」

 

「あ、はい。その通りです。それは600インチのフルHDモニタで走らせることを想定しています。具体的に言うと新宿のファッションビルの街頭ビジョンです」

 

「ほう」

 

「フルHDに対応させるとなると輝度の範囲ももっと広げられそうなので、文字色には若干調整を加えてます。それにスマホと画角が違うので、文字列の表示パターンも変えました」

 

「な、るほど……?」

 

 

 一画面に『いっぱい表示させる』ことに特化させることを追求すると、スマホではやっぱり限界があった。となれば、画面の大きさ自体を変えてしまえばいいというアプローチがこれだ。

 

 

「あと、走らせるモニタの大きさや画質をソフト側で読み取って、自動的に表示パターンを組み変えるアルゴリズムも搭載しました。

 渋谷のスクランブル交差点には大型ビジョンがいっぱいあるそうなので、そこをいっぺんにジャックすると見ごたえあるだろうなって思って。

 四方八方にこの美しいアプリを走らせる……すごく綺麗でしょうね」

 

 

 僕はその光景を想像して、ほう……とため息を吐いた。

 

 これまでの人生で、僕は美術的感性とはまるで無縁の日々を過ごしてきた。どんな絵画や彫像を見ても、心に訴えかけるような感銘を抱いたことはない。むしろ打ち上げ花火やフラクタル図形が機能美や数学美を感じられて好きだ。

 

 しかしこのアプリに出会ったことで、僕は初めて本当に『美』という概念を理解できたように思う。そういう意味でも、EGOさんとのこの出会いには深い感謝を抱かずにはいられない。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 EGOさんとミスターMも僕と同じ光景に感慨を抱いているようで、無言になっている。やっぱりやってみたいですよね、街頭ジャック。

 

 

「エミュレートもできないものを実際にぶっつけで走らせるわけにもいかないのが残念です。何回か予行演習させてくれるなら実地に確かめられるんですけどね」

 

「なるほど? 他にもあるわけか、こういうアプリ?」

 

「はい。2つめはこれです」

 

 

 そう言いながらチャット画面に別のファイルをぺたり。

 

 

「……? いや……このコードは何をしようとしてるんだ? もう完全に文字列を表示させるのとは別の方向に向かっているようだけど。これまさか……アプリ側からハードになんか負荷をかけようとしてないか?」

 

 

 さすがはEGOさんだ。

 僕が書いたコードがどういったものか、瞬時で見抜いている!

 

 

「はい、その通りです! これは最初に見せたやつの完全版です。スマホのクロック数を強制的に引き上げて、とにかく文字数が明滅する回数を理論値の最大限まで増やしました!」

 

「えぇ……?」

 

 

 このバージョンで目指したのは、スマホに表示させるという前提を崩さないまま表示回数の限界に挑むアプローチだ。

 

 

「スマホのCPUとメモリに仮想の領域を設定することで、本来のスペックをオーバーさせ、超高速で文字列を表示させ続けます。そうすると普通はハングアップして落ちますが、そこもOSとファームウェアを騙して無理やりに走らせ続けるようにしました」

 

「スマホ壊れるよね、それ……?」

 

「はい、壊れますね」

 

「しれっと言ったぞコイツ……」

 

 

 内部の回路は発熱と疲労でズタズタになり二度と動かなくなるだろうが、そこに至るまでの一瞬で“Hello,World!”を最大限表示させるという目的は達成される。

 

 

「まるで夏の花火のように儚い。だからこそ美しい……ということを、打ち上げ花火を見ながら考えました。あと冬のカイロとしてもいいんじゃないでしょうか、使い捨て回路だけに」

 

 

 夏と冬兼用で使えますね、アハハ。

 

 

「…………………」

 

「…………………」

 

 

 小粋なジョークを繰り出してみたのだが、2人は無言だった。

 うーん、ちょっと寒かったかな。

 

 

「この子、何作ってんの……?」

 

「これヤバいわ……まかり間違えばテロに転用できるぞ……」

 

「あ、やっぱスマホ壊すのまずいですか」

 

 

 コストパフォーマンス悪いもんなあ。

 やっぱりこれは失敗作だな。エミュレートさせたら僕のパソコンがぶっ壊れるだろうし、こういう何かを壊す系のは美しくはないよね。

 

 

「み……3つと言ったね。まだあるのか、これ」

 

「はい。あ、最後のは扱いに注意してくださいね。絶対に走らせないでください」

 

 

 そう念押ししてから、僕は最後のファイルをチャットに貼り付けた。

 

 

「う……!? こ、れ、は……」

 

「どうしたEGOくん? そんなにまずいものか?」

 

「いや……本人の口から説明してもらいましょう」

 

 

 おっ、これは好感触か?

 何やら口調に激しい動揺が混じっているように感じる。

 僕は勢い込んで説明した。

 

 

「はい! これは感染型です! このアプリはSNSのアドレス帳を参照して、メッセージをやりとりした相手のスマホにストアを経由せずにインストールされます。林檎フォンでも泥井戸でも、プラットフォームを選ばず動作するはずです」

 

「……」

 

「……」

 

「トロイの木馬ウイルスの挙動を参考にしました。発動するまではアプリの存在を認識することはできません。パソコンの管理画面でも見つけられません」

 

「…………」

 

「…………」

 

「感染すると潜伏を続け、全世界に広まります。そしてあらかじめ指定しておいた時刻になると起動して、“Hello,World!”が一斉に表示されます! SNSに接続したことがある世界中のスマホが、この素晴らしいアプリの機能美を奏でるのです!! なんて素晴らしい光景でしょうか……!!」

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 僕はその光景を想像して、感動に打ち震えた。

 世界中がEGOさんのアプリの美に圧倒されることだろう。

 

 

「この方法が、僕が考える中で“Hello,World!”を一度にもっとも大量にスマホに表示する方法だと思われます。ただ解析されてお縄になると厄介ですから、発動後はアンインストールされるようにしました。メモリからも完全に削除されるので、解析は不可能です。トラフィック履歴も改竄するので、感染経路をいくら探そうが痕跡は一切残しません。人生の中でたった一度だけ使えるジョークアプリ……そう考えると、これもちょっと花火的な美しさがありますよね」

 

 

 夏休みの自由工作としてはまずまずの出来栄えなのではないだろうかと自負している。

 

 

「あ、せっかくだから一度うまくいくか試してみましょうか? 別にスマホを壊すわけでもないので無害ですし」

 

「やめろ! 絶対にやめなさい!!」

 

「え、そうですか? でもEGOさんの作ったアプリの美しさを全世界に見せつけるチャンスですよ?」

 

「俺を巻き込むんじゃねえ!? そんなの望んでないから! 絶対やめろ!!」

 

「そうですか……残念です」

 

 

 原作者本人が嫌がっているのなら仕方ない。

 この人の才能は広く世に知らしめられるべきだと思うのだが。

 

 

「なあ、これ……本当に機能するのか?」

 

「しますね、多分……。どっかにバグはあると思いますけど、構造自体はちゃんとできてるので。ふ……ふふふ……はははははは!!」

 

 

 EGOさんが突然笑い出した。どうしたんだろ?

 そう思っていると、ぱちぱちと手を叩く音も聞こえてきた。

 

 

「いや、見事。本当に素晴らしい。キミは私が思っていた以上の逸材だ。そこで折り入って相談なんだが……ちょっとしたバイトをするつもりはないか?」

 

「バイト、ですか?」

 

「ああ。私は副業でアプリ制作をしていてね。こまごまといろんなアプリをストアで販売して収益を得ているのだが……その基礎部分の製作をアウトソーシングとしてキミに委託したい。何しろアプリをまるっきり一人で作るとなると手間がかかるからね。キミは僕の要望に従ってベースを作ってくれればいい」

 

 

 アウトソーシング。

 なるほどなあ、そういうバイトの形態もあるんだ。

 バイトといえばコンビニなんかの店員さんやピザ屋の宅配ってイメージだったので、ちょっとびっくりした。

 

 

「催眠アプリを作るにも研究費用は必要だろう。かといって中学生の身では他のバイトもままならないだろ? まとまった原資を用立てられるし、アプリ制作にも習熟できる。一石二鳥のおいしい話だと思うがどうかな?」

 

「なるほど……」

 

 

 さすがEGOさんは大人だ。僕なんかが考え付かないことを思いつける。

 僕も大人になれば、こういったものの考え方ができるようになるんだろうか。

 

 

「でもお金をやりとりしたら、親に見つかるかもしれませんよ。預金通帳を見られたりしたらバレちゃうかも」

 

 

 お父さんとお母さんにアプリ制作でお金を稼いでますなんて言っても、理解されそうにはない。悪い大人に騙されているのではないかと心配されると面倒なことになるだろう。

 

 

「その懸念はもっともだ。では、ギャラは仮想通貨で支払おう。ウォレットは私が用意するので、それを使ってくれ」

 

 

 仮想通貨か。これについてはディープウェブの知識と一緒に学習済みだ。

 ディープウェブでは現金のほか、仮想通貨によって商品の売買が行われることがある。ウォレットとは仮想通貨専用のお財布のことで、オンライン上で仮想通貨を貯めておくのに使われるものだ。

 ウォレットに貯めた仮想通貨は、オンライン上の取引所を経由して現金に変換し、銀行の預金通帳に入金することができるのだ。

 

 

「ただし、仮想通貨を現金化するのは控えた方がいい。税金も発生するしね」

 

「え、じゃあどうやって使えばいいんですか?」

 

「そこでここにいるミスターMだよ。この人は論文コレクターでね。いろんな学術書籍や世に出ることがなかった論文のPDFを大量に集めているんだよ。きっとキミの催眠術研究に役立つはずだ」

 

「は?」

 

 

 ミスターMがすっとんきょうな声を上げた。

 

 

「おい、ちょっと待て」

 

「彼に仮想通貨払いで研究資料を売ってもらうといい。アプリ開発に必要な資料なら、私も売買に応じよう。そういうわけで先輩、よろしくお願いしますね」

 

「おい! おい!! 私を巻き込むな!?」

 

「なーに研究費といったところで、実際のところ多くを占めるのは人件費だからね。あとは書籍代と光熱費と通信費くらいのものだろう。まあ光熱費と通信費についてはちょっとご両親を説得いただくとして、書籍代のやりとりをこの3人の間で完結させれば、他に費用もかからないはずだ。どうだい?」

 

 

 ここまでお膳立てしてもらって、乗らない手はない。

 いくら他人の感情に疎い僕でも、その好意は明確に理解できる。

 

 

「ありがとうございます! ぜひやらせてください!!」

 

「おおーーーい!? ナチュラルに私を巻き込んでるんじゃないよ!! 私はそんな後ろ暗い取引に応じないからな!?」

 

「あーもうなんです先輩、貴方も学者の端くれでしょう。未来ある若者に手を貸してあげたらどうです」

 

「だってお前……! この子、まずいぞ! あえて知識を与えるつもりか!?」

 

「だからこそですよ、よく考えてください先輩」

 

 

 EGOさんは何やら声を潜めた。

 

 

「この子を野放しにするつもりですか?」

 

「うっ……!?」

 

「好き勝手にやらせたら何をしでかすかわかりませんよこの子。関わってしまったからには、仕方ありません。私たちがまっとうに導いてあげるべきです。本のあとがきにまともな道を歩めとか無責任な説教書いてる場合じゃないですよ」

 

「あれは若気の至りだよ! だが……確かにその通りだな……」

 

「そうです。手綱は必要です。むしろ今私たちがこの子を発見できたのは世界にとって幸運だったと考えてください。私たちが未来のモンスターを封じる鎖になるんです」

 

 

 ???

 何やら相談しているが、大人の言うことはよくわからない。

 こういうとき、自分が子供だということを痛感させられる。大人になれば意味が解るのだろうか。

 

 

「ええと、つまりEGOさんとミスターMが僕の先生になってくれるっていうことでいいんでしょうか?」

 

「うん、まあそういうことだね! 授業料を支払うなら、講義にも応じようじゃないか。なんでも聞くといい、我々がわかる範囲までならば。それでいいですよね、先輩?」

 

「ああ……。うう、どうしてこんなことに……」

 

 

 僕は自分の顔がぱあっと輝くのがわかった。

 

 先生なんてみんなくだらない人種だと思っていた。ただサラリーマンの一形態として教職を選んだだけの、未熟な子供に対してだけ強く出られるつまらない大人。これまで出会った教師という人種は、そんな人間ばかりだった。

 

 だが、この人たちは違う。

 それこそ忙しい身であるだろうに、僕のような子供相手に親身になって、自ら教師役を申し出てくれる。なんて立派な大人なんだろう。

 僕は生まれて初めて、両親以外の尊敬できる大人に出会った。

 

 ここで頑張らねば嘘だ。

 見ていてくれありす。僕はこの人たちに師事して、きっとお前を無理やり土下座させてみせるぞ……!!

 

 

「これからよろしくお願いします、お師匠がた!!」




2番目と3番目を混ぜると世界中のスマホを一斉に破壊するテロを起こせます。


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第8話「ブレイン・クラッシャー」

「何が効くのかわからないのなら、いっそ全部混ぜちゃえばいいと思うんですよ」

 

「こいつとてつもなく大雑把なことを言いだしたな……」

 

 

 

 僕がEGOさんとミスターMに弟子入りしてからあっという間に半年以上が経っていた。

 

 季節はもう春になり、僕は2年生に進級している。

 昼は学生生活、夜はアプリ制作のバイトという多忙な生活を過ごしていると、時間が経つのは本当に早い。

 

 中学校の方はありすと別のクラスになったこと以外は別に何の変化もない。相変わらず友達もいないが特にいじめを受けることもない、穏やかな日々が続いている。

 誕生日に親にねだって買ってもらった安いタブレットに、ミスターMから買い漁った文献のPDFを手あたり次第にぶち込んで、休み時間はもっぱらそれを読みふけっている。

 外国語で書かれているものも多いので最初は翻訳ソフトを噛ませて読んでいたが、専門用語が混じると途端に訳が不正確になるのが困る。これは何を言ってるのだろうといちいち原文に戻るのも面倒だったので、ちょっと時間を取って英語とドイツ語はマスターした。文法や単語が割と似てるので覚えやすかった。

 

 基本的に誰からも話しかけられないので読書に集中できるのだが、ありすは別のクラスなのにしょっちゅう顔を出しに来て、僕の読書の邪魔をしてくる。僕が英語の文献を読んでいるのに気付くと、何やらウキウキと英語で話しかけてきた。

 

 

『さては私のために英語勉強したの?』

 

 

 こちとら正直読み書きできるだけで、喋る方はさっぱりなのだが。

 

 

『そんなわけあるか』

 

 

 拙い発音で言い返してやると「まだまだね!」と鼻で笑われた。くそっ。

 お前のために習得しただと? 思い上がりやがって。

 ……いや、ありすを土下座させるために習得したんだっけ。やっぱりお前のためだったな。

 でもイギリス英語も話せない田舎者とバカにされたのは腹立たしいので、今度勉強しておこう。ありすの方からやる気を補充(チャージ)してくれるから本当に助かる。

 

 その一件でしばらくクラスメイトからありすとはどういう関係なのかとか帰国子女なのかとか騒がれたが、適当にスルーしていたらいつしか何も言われなくなった。どのみち誰が誰だか名前も顔も覚えていないし、真面目に答える意味もないと思ったので。

 

 

 そんなこんなで学校生活はのんびりしたものだが、夜の方は忙しい。

 EGOさんから回ってくる仕事は次第に分量も難易度も上がってくるし、納期は必ず守るようにと圧をかけられる。仕事にはとても厳しいが、そのぶんギャラも上がるし、僕に至らないところがあればきちんと指摘してくれる。

 

 納期に追われていないときは、ミスターMから催眠術について指導を受けたり、買い受けた文献でわからない部分の質疑応答をしたり。たまにミスターMとEGOさんを交えての討論会みたいになったりもする。

 

 仕事や研究の息抜きで3人で単にぐだぐだと駄弁(だべ)ったりもする。

 ミスターMとEGOさんは言葉の端々から高い知性を感じさせる一方で、熱心なアニメファンでもある。

 しかもとんでもなくつまらないアニメを好んで人に勧めてくるのでやっかいだ。一度騙されたと思って見てごらんと言われた作品を動画配信サービスで見てみたら、あまりのくだらなさに腰が抜けるかと思った。あれは本気で騙された。

 それ以来、まさかEGOさんはこんなクソアニメを見る時間を作るために僕にたくさん仕事を振っているんじゃあるまいかと疑っている。

 

 しかしこと学術的な話になると、別人のように深い知見を聞かせてくれるので、やっぱり師匠としてはとてもありがたい人たちだ。

 

 そんなある日のこと。

 

 

「催眠アプリの試作品を完成させようと思うんです」

 

「え、もう?」

 

 

 話を切り出した僕に、ミスターMはちょっと驚いたように聞き返してきた。

 

 

「ええ。ミスターMから買った文献もいろいろ読んで、そろそろ何か形になるものを作れるんじゃないかなと思ったので」

 

「ああ、確かに結構渡したとは思うが……」

 

「まさか一か月で英語とドイツ語読めるようになるとは思いませんでしたね……」

 

「語学を学ぶには若い方がいいとは言うが……ひぷのん君はまったく末恐ろしいよ。私は催眠なんかよりもキミの脳の方がよほど興味があるね。一体キミの目には世界がどのように見えているのやら」

 

 

 “ひぷのん君”とは僕のことである。

 EGOさんには既に本名がバレているのだが、さすがにそのままハカセと呼び続けるのは問題があるということだったので、ギリシア神話の眠りの神様(ヒュプノス)から取ってひぷのん君というHN(ハンドルネーム)を名乗ることにした。

 

 

「いえ、まだまだ理解も浅いです。でもいくつか有効そうな手法は見つけられたので、それをアプリに組み込んでみようかなと」

 

「ふむ。ではひぷのん君はどういったアプローチで挑むつもりかな?」

 

 

 ミスターMから購入した文献には、古今東西のさまざまな方法による催眠術の実証と臨床例が記されていた。

 古式ゆかしい振り子運動や炎を見つめさせるのに始まり、穏やかな話法、激しい光によるショック、電気ショック、渦巻き模様を見つめさせる、目隠しをして音を聴かせる、などなどそのアプローチの種類は星の数。

 

 時代が進めば電子ドラッグとなる動画を視聴させたり、微弱な電気パルスを流したりといった科学的なアプローチが出て来たり、合法・非合法を問わずさまざまなドラッグを吸引させるといったとても表に出せないようなレポートまであった。

 ギリシア神話に登場するセイレーンやハルピュイアといった声で人間を誘惑する化け物の正体は催眠術士であり、その声に含まれる特殊な音波を再現できれば催眠状態に導けるなどといった、最早完全にオカルトの世界にぶっ飛んだ主張をするレポートを読んだときはさすがに声に出して笑ってしまった。

 

 ともあれアプローチの数は多いが、臨床例に主観が混じっているケースも多々あることもあり、どの手法が一番効果的とは断言しがたい。

 

 その中から僕が選んだアプローチとは……。

 

 

「全部です」

 

「全部?」

 

「何が効くのかわからないのなら、いっそ全部混ぜちゃえばいいと思うんですよ」

 

「こいつとてつもなく大雑把なことを言いだしたな……」

 

 

 僕の提案に、ミスターMは呆れたような反応を返した。

 

 

「それじゃどれが効いたのかわからないじゃないか?」

 

「いや、私は悪くないと思いますね」

 

 

 逆に賛意を示したのがEGOさんだ。

 

 

「学術的な見地からすれば、確かにどのアプローチが効果的なのかを実証するのが重要でしょう。しかし、ひぷのん君は研究者ではない。彼にとっては催眠状態におくことができれば、どれが効いたにせよ催眠アプリとしては成功なんです。だからできる限りのアプローチを全部組み込んでしまえばいい。エンジニアらしい地に足がついた考えだと思いますね」

 

「なるほど……研究者ではなく、エンジニアだからこその視点というわけか。それは確かに、私ではたどり着けない考え方だな。私の研究室の者が言い出したら叱りつけているところだったが。いいじゃないか、ひぷのん君」

 

「いえ、違いますけど」

 

『えっ』

 

 

 EGOさんの言うこともまったくずれているわけではないが、僕のアイデアの骨子は別にある。

 

 

「光とか音とかとにかくたくさんの刺激を相手の脳みそにぶち込み、朦朧(もうろう)とさせて無理やり催眠状態に持ち込むことが僕のアプローチです」

 

「……」

 

「……」

 

「ほら、タヌキって車に轢かれそうになったら死に真似するじゃないですか。あれって危険信号を脳が処理しきれなくなって、パンクしてるんですよね。人間の脳はストレスに強いからそういうことはないですけど、それならもっと過剰な負荷をかけてやれば同じように朦朧状態に追い込めるんじゃないかって」

 

「…………」

 

「…………」

 

「まあとはいっても物はスマホなので視覚と聴覚でしか脳にダメージを与えられないわけですが、その中でもとびっきりキツイのを数種類カクテルしてぶつけてやろうというプランが、催眠アプリ試作第1号“ブレイン・クラッシャー”です」

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 催眠アプリの画面を相手に見せてタップすると、激しい光・高周波・めまぐるしく映像が切り替わる電子ドラッグ・従えというメッセージのサブリミナル映像などが再生され、画面を見た相手の脳の処理速度をオーバーして朦朧とさせる仕組みである。

 弱点は先にも言ったとおり、五感のうち視覚と聴覚しか刺激できないことだ。

 

 もちろんこんな未完成な試作品をありすに使うわけにはいかない。ありすには僕の全力を費やした完璧な催眠アプリで土下座してほしい。

 理想の催眠アプリにはまだまだ遠い。しかし偉大な一歩でもある。最初の一歩を踏み出さねば何も始まらないのだから。

 まずは試作品でデータを取ることからだ。そこからありすの土下座が始まる。

 

 

「弱点を補うために暗殺教団が構成員を洗脳教育するのに使ったっていうお香なんかも合わせて焚こうかなと思ったんですけど、調べてみたらこれ日本だと違法薬物だったんですよ。さすがに中学生だと手に入れにくいですよね。ブラックマーケットはもう行かない約束だし……」

 

「おい、EGO。どうすんだよ、大雑把ならまだしも完全にアカン方向に育ってるじゃねーか!?」

 

「い、違法薬物まで手を伸ばさないだけまっとうに育ってませんか? まだ合法です、合法」

 

「脳に直接傷害を与えようとしてる気がするんだが……これを野放しにしていいのか……? いや、でもまあさすがに電子ドラッグと光と音ぐらいじゃそこまでのダメージにもならない、よな……?」

 

 

 ミスターMとEGOさんが何やら額を突き合わせて相談している。

 僕のプランの有用性について早速検討してくれているのだろう。

 いつものことながら、本当にありがたいことだ。

 

 

「実際これで催眠とかできそうです?」

 

「いやぁ……無理だろう。もしかしたら朦朧としたり、気分悪くなって吐いたりするかもしれないが。暗示を刷り込ませられるとはとても思えん」

 

「でしょうねぇ。発想自体はヤベェと思いましたが、まあそこまでのダメージも出ないでしょうし……とりあえず一度は挫折してもらうのもいいのでは。そうじゃないと矯正できませんよこの子」

 

「そうだな。そうしよう」

 

 

 どうやら話がまとまったようだ。

 

 

「「まあやってみたらいいんじゃないかな!!」」

 

「ありがとうございます!!」

 

 

 やったぁ! 師匠たちからのお許しが出たぞ!

 早速制作に入ろう!

 

 実のところは組み込もうとしている素材はほぼ既に集めきっているので、あとはソースコードを書くだけだ。

 もっとも、ひとつだけまだ足りてない素材がある。

 明日は早速それを入手するぞ。

 

 

 

 そんなわけで。

 

 

「ありす、ちょっと校舎裏まで付き合ってくれないかな」

 

「……は、はひっ!?」




今日から1日1話投稿、よろしくお願いします!


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第9話「同じ時、違う屋根の下で」

「……私の声を録りたい? なんで?」

 

 

 昼休みに校舎裏に呼び出されたアリスは、不審そうな目でこちらを見た。

 

 校舎裏までちょっと付き合ってくれないかと僕が言ったときは何だか非常にソワソワと挙動不審なそぶりを見せていたのだが、録音アプリに声を吹き込んでくれと頼んだ途端に態度が固くなってしまった。

 

 うーん、どうしたんだろう。

 僕は声を録らせてほしいだけなんだが……。

 

 

 実は催眠アプリにありすの声を組み込みたいと、先日例のオカルトぶっ飛びレポートを読んだときから思っていた。

 

 ありすは非常に人気者というか、カリスマ性がある。日本人離れした容姿や勝気な性格からのリーダーシップも大きいが、やはり何といっても特徴的なのはその綺麗な声質だ。聞いていると何だか心が落ち着く。まあ口にする内容はキャンキャンと攻撃的でやかましいので、僕にとってはプラマイゼロだが。

 よく取り巻きからカラオケに誘われているようなので、彼女たちには純粋に魅力的なのだろう。多少なりとも人を魅了する効果があるかもしれない。

 

 もっとも、ありすの声がありす自身への催眠に効くかどうかは疑問の余地があるが。フグが自分の毒で死なないように耐性がある可能性も高いが、自然界には自家中毒で枯れる植物とかいっぱいいるしな。やってみるだけ損はないだろう。

 

 

 しかしなんで、ときたか。

 困ったな。

 

 

『お前に催眠アプリで無理やり土下座させたいから声を録らせてくれ!!』

 

 

 うん、他人の心の機微(きび)に疎いという自覚がある僕でも、これはさすがに協力してくれないとわかるぞ。僕も成長したもんだ。

 ううん……とりあえず何か話をつなげてみよう……。

 

 

「えーと……ありすって声が綺麗だよな。読者モデルだけじゃなくて、アイドルデビューしたらとか言われない?」

 

「何よいきなり……。まあ、事務所は確かにオーディション受けないかって勧めてくるけど」

 

 

 えっ?

 

 

「う、受けるの?」

 

「受けないわよ。アイドルとか興味ないもの。あんまり人前で歌ったりとかしたくないのよね。学校との両立も難しそうだし」

 

「そっか」

 

 

 ほっ……。そうなんだ、よかった。

 

 ん? なんで僕は今安心したんだ?

 

 

「それで? 話はそれだけ?」

 

「……なんか今日、機嫌悪い?」

 

「別に何でもない!」

 

 

 あからさまに機嫌が悪そうに答えてくるありす。

 

 さっきまで機嫌良さそうについてきたのに、どうしたんだ。

 ありすの考えることはやっぱりわからん。

 

 ありすは疑わし気な顔で僕をじっと見つめている。

 

 

「大体、私の声を録って何に使おうっていうの? 言いなさい」

 

「それは催……」

 

「さい?」

 

「いや、睡眠誘導に使いたいと思って」

 

 

 あぶねぇ! 危うく素直に催眠っていうところだった。

 まあ睡眠誘導でもある意味間違ってはいない。

 

 

「そ……そうなんだ?」

 

 

 おや? なんかありすの様子がおかしいな。

 なんだかやたら顔を赤くして、もじもじと俯いている。

 

 

「私の声を聴いて眠りたい……ってこと?」

 

「うん、そういうこと」

 

 

 柄にもなく上目遣いでおずおずと聞いてくるありすに、僕は頷いた。

 

 くそっ、なんだ……ありすのくせに可愛いぞ……!?

 

 いや、ありすはいつだって可愛いけど、こんなにしおらしいありすは久々に見た気がする。小学校で初めて出会ったとき以来かもしれない。

 くっ、EGOさんがギャップがある女の子っていいよねとか言ってたが、その意図の片鱗が僕にも解りかけてきたのか?

 

 

「し、仕方ないわね……。そんなに言うなら、ハカセだけ特別にやってあげる。絶対変なことに使わないでよね」

 

「お、おう。じゃあ頼む」

 

 

 ありすは僕からスマホを両手で受け取ると、録音ボタンをタップして、すうっと息を静かに吸い込んだ。

 

 

『おやすみなさい』

 

 

 すごく澄んだ囁き声だった。

 いつものありすの声よりもさらに透き通った、頭にすっと染み入ってくるような優しい声。なんだか柔らかな衣に包まれたような、穏やかな気分になってしまう。

 正直催眠アプリに使うのはもったいない、自分だけのものにしておきたいと不覚にも思ってしまったほどだ。

 

 

「すごいな……! これなら声優とかもなれるんじゃない?」

 

「バカ言ってないの。ほらっ、返すわよ」

 

 

 声を吹き込んだありすは、ちょっと顔を背けながらぶっきらぼうにスマホを投げ返してきた。

 そしてポケットから自分のスマホを取り出すと、何やらすごい勢いで操作し始める。……何やってんだ。

 

 まあもらうものはもらったし、僕はこれで失礼しよう。

 そう思い(きびす)を返そうとした矢先に、アリスが自分のスマホを突き出してきた。

 

 

「ん」

 

「え、何?」

 

「ほら、アンタの番。今録音アプリ入れたから。早く」

 

「えっ……やるの? 僕も?」

 

「アンタこんな恥ずかしいの、私だけにやらせるつもり!?」

 

 

 ええ……? ありすのおやすみボイスなら万札出してでも買いたい人がいるかもしれないけど、僕なんかの声のどこに需要があるんだ。

 

 

「声変わりを迎えたばかりの男のガキの声なんてどうするんだよ。まさかありすが寝る前にこれ聞くわけ?」

 

「何よ、悪い?」

 

 

 ありすが真っ赤になりながら、ツンケンした態度でスマホを向けてくる。

 えっ、聞くの? 本当に?

 

 ……んっ!? なんだ、めちゃめちゃ顔が熱くなってきた……!?

 え、何これ。僕の中で今何が起こっている……!?

 鎮まれ! 鎮まり給え!

 

 動揺する僕の前で、ありすもますます真っ赤になりながら画面を向ける。

 

 

「ほ、ほら。早くやりなさいよ」

 

「わ……わかった。『おやすみ』。はい、おわり」

 

「心がこもってなーい! もっと真剣に!!」

 

 

 納入拒否された。

 ええ、心がこもってないったって……そもそもいつもこんなもんじゃない、僕?

 

「えぇ……もっと具体的に演技指導してよ」

 

「えーとね、じゃあもっと大人っぽく囁くようにやって。できる限りハスキー感出して、かつ優しい感じで。あと私の名前も入れてね」

 

「注文が多くない? ハスキー感とかよくわからん」

 

「そうねぇ……じゃあアンタが20歳くらいになったつもりで、恋び……じゃなくて、そう、子猫! 膝の上で遊びながらウトウトしてる生後3か月の子猫のありすちゃんに眠りを促すような感じの大人っぽくて優しい感じで!」

 

 

 めっちゃ細かいじゃん……。

 

 まあこんだけ具体的に指定されればやりやすいが。

 よし……やるぞ。全身全霊で情景を頭に思い浮かべるんだ。

 

 僕は生物学部で学ぶ20歳の大学生、今は4月21日で日曜日の14時31分19秒。膝の上に先日ペットショップで買ってきた生後3か月の子猫のありすを乗せて遊ばせていたが、猫ありすはウトウトしてる。穏やかに声をかけて、確実に、速やかに眠らせるんだ。

 よし……いくぞ!!

 

 

『おやすみ、ありす』

 

 

 ……チラッと視線を上げて、ありすの様子をうかがう。

 どうです、こんなもんで……。

 

 

「~~~~~~~~~~~~~~!!」

 

 

 ありすは目を見開いてこちらを見ていたが、僕と視線が合うや否やくるっと後ろを向いてしまった。

 え、何? どういう状況?

 

 

「おい、今のでよか……」

 

「う、う、う、うるさいわね!! 今話しかけんな!! 絶対にこっち見んじゃないわよ!!」

 

 

 また機嫌悪くなったのか?

 その割には一瞬見えた口元が笑ってるようにも見えたけど。

 ありすが考えてることはいつも全然わからない。どれだけ真剣に考えてもわからないんだから、本当に嫌なやつだ。

 

 

「こんなの私の方が眠れなくなるじゃん……」

 

 

 なんかぼそっと言ってるのが聞こえたけど、今の失敗なのか?

 でももう僕は同じことをするの嫌だぞ。顔も妙に暑くなるし。

 これでクライアントの要望には応えたということにしよう。

 お互いほしいものは手に入れたんだし、とりあえずここでお開き。よし!

 

 そう思った矢先、ドンッ! と強い衝撃がぶつかってきて、僕は思わずよろけた。

 

 

「チッ……イチャイチャしてんじゃねーぞ、ダボが!」

 

 

 髪をまっキンキンの金髪に染めた、いかにもヤンキーですと言わんばかりの男子がペッと唾を吐き捨てて、じろりとこちらを睨み付ける。

 

 ああなるほど、彼が肩をぶつけてきたのか。

 校舎裏といえども結構広いわけで、まあ故意に向こうからぶつかって来たんだろう。

 

 

「なんだぁ? 背だけ高いヒョロモヤシが、いっちょ前に文句でもあんのかよ?」

 

「いや、何も」

 

「ケッ……。根性なしが」

 

 

 そう言い捨てて、彼は肩を怒らせながら去っていく。

 僕がケンカを買わなかったのであてが外れた、ということか。

 

 

「お前……」

 

 

 ありすが前に出て、低い声でヤンキーに何かを言おうとした。

 だが僕はそれを遮り、無駄にでかい体でありすの視界から彼を追い出す。

 

 

「ああ、いいからいいからそういうの」

 

「だってあいつアンタに……!」

 

「僕は気にしてないよ」

 

 

 僕が(なだ)めると、ありすは渋々と怒りの矛を収める。

 こいつはいつも僕にだけツンケンしてるんだけど、ごくたまに他人にも攻撃性を見せることがある。

 やっぱこいつ子猫というよりは小型犬だわ。可愛い見た目の割にやたら攻撃的でキャンキャン吠えたり噛みつくタイプの。

 しかも飼い主もいないから誰も矯正しない。困るなあ。

 

 本当に誰か何とかしてほしいものだ。

 

 

 

 

「ふう……」

 

 

 その日の夜11時。

 アプリ開発にのめり込んでいた僕は大きく伸びをした。

 

 そろそろアプリ開発の手を止めて寝る時間だ。

 夜更かしして作業しても能率が上がったりはしない。上質な睡眠をとらないと能率は下がるし、疲れは残るしでいいことはない。

 

 アプリ開発はとても楽しくて思わず徹夜でやりたくなっちゃうけど、一朝一夕(いっちょういっせき)では終わるものでもないから、鉄の意思で今日はここまでと切るのが肝心。

 そう教えてくれたのはEGOさんだ。師匠の教えはどれも本当に役に立つ。

 

 

「……といっても、ちょっと眼が冴えてるな」

 

 

 本当は寝る前に軽くストレッチするとよく眠れるらしいのだが、僕は体を動かすのが心底嫌いなのでやりたくない。

 ありすはたまには体を動かさないと本物のモヤシになるわよとか罵倒してくるのだが、復讐する気力が湧きこそすれ運動するやる気は湧かないな。

 

 あ、そうだ。ありすといえばいいものがあるじゃないか。

 

 

 僕はスマホを手にベッドに潜り、アプリを起動する。

 せっかくだから、本来の用途で使わせてもらおう。

 これで今日はゆっくり眠れることだろう。

 

 

 

『おやすみなさい』

 

 

『おやすみ、ありす』




最後が『』なのは同時刻にありすもハカセの音声を聴いてるということです。


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第10話「【急募】催眠をかけられたい人募集」

「ついに催眠アプリ試作第1号が完成しました!」

 

「「できちゃったかぁ……」」

 

 

 僕の報告にミスターMとEGOさんはしみじみと呟いた。

 この感慨深げな呟き方、お2人も催眠アプリの完成を喜んでくれているようだ。

 確かにこれまでいろいろあったもんなあ。師匠方にはとびっきりの感謝の気持ちを伝えないと。

 

 

「ここまで漕ぎつけられたのも、お2人のご助力あってこそです! このアプリは僕たち3人の共作と言っても過言ではありません!」

 

「俺らを巻き込むなよ!?」

 

「完全にキミの単独犯だからね!? もし何かあっても責任は自分で取りたまえよ!?」

 

 

 ミスターMとEGOさんは本当に謙虚な大人だ。

 僕も将来はお2人のように若人に手を差し伸べられる大人にならなくては。素直にそう思えるような人たちである。

 

 

「では、これを実際に使って臨床データを取りましょう」

 

 

 開発は試作品をモニターに使い、データを集めてこそ進むものだ。

 実験して、データを集めて、そのデータを元に改良する。

 実験、データ、改良の繰り返しが催眠アプリを完成に近付け、ひいてはありすの土下座を実現させるのである。

 

 

「だがなあ……それを誰に使うつもりなんだ。メカニズム的にその……暴力的というか。そこらへんの人間に手あたり次第使うのは軽くテロだぞ」

 

「そうですね。サンプル数を集めたいだけなら、そこらへんの繁華街の街頭ビジョンをジャックして垂れ流せば、一気に数百人分くらいのデータを集められそうなんですが。それか動画投稿サイトのCMに暗示付きで流して、効果があった人に掲示板へ誘導して書き込ませるとか」

 

「やめろぉ!!!!」

 

「ガチテロじゃねーか!!」

 

「いや、冗談ですよ。いくら何でもそんなことするわけないじゃないですか。やだなあ2人とも、僕ならやりかねないみたいな反応しちゃって」

 

 

 さすがの僕だって不特定多数の人間の気分を悪くしたり街頭ビジョンをジャックしたら犯罪者として捕まることは理解しているのだ。

 それに催眠アプリを作ったことが多くの人に広まってしまうのはまずい。催眠アプリの存在が衆目に晒されれば、ありすが警戒してしまうだろう。

 

 

「本命に土下座させるためには、このアプリの存在を知る人間は極力少なく留めねばならない。大丈夫です、僕はちゃんと理解していますとも」

 

「思いとどまる理由に倫理や罪悪感が一切ないのが恐ろしいですね……」

 

「人間の心がないのか……? いや、あったら催眠アプリなんか作らないわな」

 

 

 しかし、それなら一体どうしたものか。

 

 

「先輩、治験のモニターとして人を集めるのはどうです? ネットに治験のモニター募集サイトとかあったりしません?」

 

「あるにはあるが、あれは募集側は医療機関や学術機関でないといけないからな」

 

「先輩の研究室の名前で募集するというのは?」

 

「そこまで手を貸すつもりはないよ。何かあって責任取らされるのは私だしな。……というか、ひぷのん君は心した方がいい」

 

 

 そこでミスターMが改まって口を開いた。

 これは大切な話みたいだ。僕は姿勢を正して拝聴する。

 

 

「もしキミの催眠アプリで誰かを傷付け、傷害が残った場合、キミはその責任を背負わないといけないよ。そしてもし仮に……万が一にもないとは思うが、本当に催眠が効いてしまった場合、キミはその結果にも責任を取らなくちゃいけない」

 

「責任ですか……」

 

「そう、責任だ。催眠術でその人の人生に何らかの影響を及ぼしてしまったとしたら、それはキミに責任がある。他人の人生は軽々しく弄んでいいようなものではない。重々胸に刻みなさい。それが催眠術士の矜持(きょうじ)というものだ」

 

「わかりました」

 

 

 さすが僕の師匠だ。僕ではとても考えられないことを教えてくれる。

 僕は家族とありす以外の人間にはまったく興味を持てないので誰がどうなろうと知ったことではないと思っていたが、そうではないのだ。

 

 

「催眠をかけた被験者は、責任をもって経過を監視し続けます。あと、名前と顔も頑張って覚えます」

 

 

 実験した以上は半端なことをせず、実験直後だけでなく後々までちゃんと責任もって経過を確認しておかないといけない。

 そしてモルモットAではなく、ちゃんと名前をつけて個体を認識できるようにしないといけないのだ。被験者が増えたら混乱する元になるからね。

 

 

「うん。うん? 待って、ちゃんと理解してる?」

 

「え、実験者として責任を取るってそういうことでは?」

 

「いや……うん、そうなんだけど。そうじゃなくてね、ほら。傷害が残った場合のその後のケアとか……具体的には賠償金とかあるじゃない?」

 

「あ、そうか。傷害を負わせたら賠償金を払えばいいんですね」

 

 

 お金を払えば傷害を与えても許される、か。さすが大人は言うことが違う。

 

 

「確かにお金を払って治験に応じてくれた時点で、何らかの傷害が出ても仕方ないという合意がありますものね。訴訟になっても有利です。参考になります」

 

「……あ、うん。最終的にはそうなんだけど。あの、誠意というものがあってね?」

 

「HAHAHA、科学の発展に犠牲はつきものデース」

 

 

 僕とミスターMの話を聞いていたEGOさんが、投げやりに呟いた。

 

 

「おいEGO! 諦めるな、お前も説得しろ!!」

 

「まあ実際製薬会社とか治験で何かあっても金払って終わりですからね。後々までケアしてくれるとこの方が少ないでしょ。先輩だって若い頃催眠術かけた相手に一生かけて保障するつもりなんてありました?」

 

「いや……まあ、それはそうだが。だが、私は催眠術士として他人の人生に介入するうえでの危険性と、倫理性を犯す重みを認識してほしくてだな」

 

「それ、多分前提が間違ってると思うんですよね……。この子、倫理感という概念自体を理解してないですよ」

 

「じゃあどうしろっていうんだ?」

 

「爆弾にここで爆発するなって言っても無理ですよ。我々がいい落としどころに誘導するしかないでしょ」

 

 

 よくわからないが、とにかくEGOさんとミスターMがうまいやり方を考えてくれるらしい。僕はそういう交渉ごとがまったくわからないので、とても助かる。

 

 とりあえず後日なんとかしてモニターを用意してくれることになった。

 それまではできるだけ誰かに催眠を試すことは控えるようにと念押しもされた。EGOさんはどうしてもやりたいならそいつの生涯賃金全部払って扶養(ふよう)するつもりでやれと言っていたので、これはなかなか覚悟が必要だ。

 

 となると、なおのことありすには使えないな。

 ありすは美人で頭もよく求心力もあるから、将来間違いなく並の人間よりもお金を稼げるだろう。その生涯賃金を払うとなるとこれは大変だ。

 

 身近でずっと経過を観察できる人かぁ……。

 

 

「くらげちゃん、僕に生涯養われるつもりってある?」

 

「……は? ええええっ……!?」

 

 

 居間でゲームしていた妹に聞いてみたら、ほんのり顔を赤らめつつ目を白黒させていた。

 

 

「なななな、何言ってんの!? そんなのありすちゃんに悪いし……ってかキモ! キモ兄貴!! あっちいけ!!」

 

「あっやめろ、クッション投げんなって。蹴りはやめろ!」

 

 

 拒否されたのでくらげちゃんをモニターにするのは諦めることにした。

 

 中学生になった彼女はさらに反抗に磨きがかかり、僕のことをキモ兄貴と呼んだり蹴ってきたりするようになってしまった。

 服も自分で選びたがるようになったし、オシャレにも目覚めて軽いメイクもするようになった。

 

 多分オシャレに目覚めたのは僕のせいなんだろう。

 毎月ティーン向けの女性雑誌を買っては与えているからな。

 

 何故かといえば読者モデルとしてありすが載っているからだ。

 最近になってイギリスの血が覚醒したのか、ありすはいろいろと急成長しつつある。

 これまではロリータ系の衣装をよく着せられていたありすだが、成長につれてあてがわれる衣装も変わり、大人びた服装が多くなってきた。普段は制服姿しか見ないありすの新鮮な一面がそこにはある。

 

 僕は密かにありすが出ている女性雑誌を通販で入手して、そのページだけをスマホでスキャンしてコレクションしていた。自分でもなかなかにキモいと思うが、自分の知らないありすの表情があるということがどうしても嫌だ。

 ありすにはもちろん内緒だ。絶対に知られるわけにはいかない。ありすにバレたら潔く死を選ぶ覚悟がある。

 

 スキャン後の雑誌は用済みなので、くらげちゃんにあげている。

 多分そこからオシャレ知識を得てるんだろうな。

 

 しかしこれまで懐いてくれた妹にキモ兄貴と呼ばれるのはちょっと心が痛い。

 多分例の雑誌にはモテるイケメンとかも登場しているだろうし、彼らと比べれば僕なんて塵芥(ちりあくた)にも等しい存在に見えるのかもしれないな。

 

 

 ともあれくらげちゃんはだめだ。両親は論外。

 となると、身近に被験者候補はいないな。

 仕方ない、師匠たちがセッティングしてくれるのを待つほかない。でもとりあえずいつでも実験できるように、スマホに試作アプリは入れておこう。

 

 

 状況が変わったのは、それから数日後のことだった。

 

 

「おい、オメー。ちょっとツラ貸せや」




ある日のSNSログ

???「ほーこくー。今月号お兄ちゃんがくれたよー」


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第11話「飛んで火に入る金髪ヤンキー」

「チョーシくれてんじゃねえぞ、モヤシがよぉ……!!」

 

 

 登校中に髪を金色に染めた男子生徒に捕まった僕は、胸倉を掴まれて低い声ですごまれていた。

 何しろすごい腕力の持ち主で、背は高くてもひょろい僕はなすすべもなく路地裏に引きずり込まれたのだ。

 

 まっキンキンに髪を染めた男子生徒は、背は僕より低いもののもりもりと筋肉がついており、なかなかガタイがいい。

 これはいわゆる不良というやつなのだろうか。スポーツでもやった方が本人的にも周囲的にもいいような気がするのだが。

 

 ところで彼は誰なのだろうか。

 初対面の人間に対して失礼な人だと思う。

 

 

「離してくれないかな。僕は君に脅されるいわれがないので、多分人違いだと思うよ」

 

「人違いのわけがあるかボケ!! 葉加瀬(はかせ)ェ、テメエ俺を舐めてんのか!!」

 

「一方的に僕を知ってる人なのかな。僕は君のことを知らないんだけど」

 

「……!? ふっざけんなァ!! 去年も今年も同じクラスだろうがお前!! なんならついこないだ因縁もつけたろうが。テメエ脳みそどうかしてんのか? それとも俺をおちょくってんのか!?」

 

 

 おっと、クラスメイトだったのか。それなら僕の名前を知っているのも納得だ。あいにくクラスメイトの顔も名前も誰一人として覚えていないので、こちらは彼が誰なのか認識できないのだが。

 いや、そういえばこの金髪にはうっすらと記憶があるぞ。

 

 

「ああ、先日校舎裏でありすといたときにぶつかってきたヤンキーの人かな?」

 

「そうだよ! 見りゃわかるだろうが!! とぼけやがって……!!」

 

 

 見てわかんないんだよなあ。

 

 

「それで、僕に何の用? 話なら登校してから休み時間にでもゆっくり……」

 

 

 そう提案した途端、彼の拳が僕の頬に突き刺さった。

 すごい衝撃を受けて、もんどりうってこける。

 あいたた……なかなかいいパンチをしてる。これかなり腫れるな。

 

 

「お前俺をナメてんだろ。ええ? 人を殴るドキョーがないとでも思ってんのか? ざけんじゃねえぞコラァ……」

 

 

 彼は右の拳を左手で包むように腕を組み、ゴキゴキと首を鳴らした。

 額には青黒く血管が浮き出ている。なるほど、これは怒っているんだな?

 他人の感情に疎い僕も、激怒したときの生理反応くらいは知っているのだ。

 しかし困ったな。彼が何故怒っているのかわからないぞ。

 

 

「うーん、僕はキミに何か怒らせることをしたかな? 殴られる理由がわからないんだけど」

 

「いい加減俺をナメんのをやめろってんだよ!! クソが!!」

 

 

 そう叫びながら、彼は仰向けになった僕の胴を踏みつけてきた。

 思わず息が詰まり、ゴホッと咳込む。

 

 

「テメエムカつくんだよ! ありすサンの陰に隠れていい気になりやがってよぉ!! テメエにゃ手を出すなって言われてるからって、チョーシくれやがって……!! 男として恥ずかしくねえのかッ!! 俺はテメエみてえなクズが一番ムカつくんだよぉッ!!」

 

 

 そのまま何度も踏みつけながら、彼はそんなことを喚いている。

 うーん、何を言っているんだ彼は。

 僕は別にありすの陰に隠れているつもりなんてないんだが、一体何を勘違いしているんだろう。

 そろそろ僕も痛くて仕方ないので、蹴るのをやめてほしい。病院に行かないといけないかもしれない。

 

 

「ゴホッ、ゴホッ……。何のこと、か、わからないな……」

 

 

 腹にだいぶダメージを受けているようで、声が自然と絶え絶えになる。

 僕が口を開いたので、彼はいったん蹴るのを止めた。もしかしたら疲れたのでちょっと休憩したのかもしれないが。

 

 

「ありすの、陰に、隠れる? 身に覚え、がないことで、蹴られちゃ、たまらないな……」

 

「とぼけんじゃねえよ! クソ野郎が!!」

 

「それに、僕は思うん、だけど……」

 

「ああ? ンだよ」

 

「一方的に、他人を、殴るキミの方が……男として、恥ずかしい」

 

「…………ッ!!!」

 

 

 サッカーボールを蹴るような容赦のないキックが繰り出された。

 今までよりもひときわ強力な一撃に、僕の喉から自然と苦悶の声が上がる。

 まったく、今日はツイてないな……。

 

 

「オラッ立てやコラ!! ヤキ入れてやるよ!! こんだけボコられていい加減悔しくねえのかよッ!! テメエも打ってこいや!!」

 

 

 再び胸倉を掴まれ、無理やり上半身を起こされる。

 散々一方的に殴っておいて、今度は自分を殴れとは。つくづく意味がわからない。

 悔しくないのかと言われても……。

 

 

「こんなの、歩いてて、ハチに刺されたのと、同じだ。ハチに刺されて、怒り狂う人間なんて、いるわけないだろ」

 

「は、ハチ……? 俺が虫けらと同じだとでも……」

 

「僕にとっては、同じだ。キミの名前は、覚える価値が、ない」

 

 

 僕は赤の他人にどんなことをされても平気だ。だってこれっぽっちも彼らに興味がないから。

 悪意を含めて、他人への共感性が極めて鈍い。僕はそのように生まれついた。

 攻撃してくる相手が人の形をしていようが、虫の形をしていようが、僕にとっては同じことなのだ。

 彼らの悪意を共感する能力が欠如しているから、その意図を理解できない。だから怒りも感じないし、心が傷付くこともない。

 

 僕が怒りや悔しさを感じるのは、家族以外ではありすに対してだけだ。

 ありすだけは僕にとっての特別だ。

 

 

「クソが……クソが、クソがクソがクソがああっ!! ありすサンはこんなクズのどこがッ!! あああああああああッ!!」

 

 

 何やら吠えているが、クズは君だろう。僕の方がまだまっとうな人間だぞ。

 

 ふと、このヤンキーAを催眠アプリの被検体にするのはどうかという考えが頭をよぎる。これだけ理不尽に攻撃されたのだから、少しくらい気分が悪い程度の副作用が出たとしてもおあいこですまされないだろうか。

 むしろ正当防衛ということで許してもらえるかもしれない。

 

 しかし賠償金を払わないといけないと面倒だぞ。これだけ殴られて、お金まで取られるのはもったいないなという気持ちもある。

 いや、交換条件という形なら別に賠償金を払わなくても構わないか。

 とりあえず要望を聞いてみよう。

 

 

「何がほしいんだ?」

 

「アァ!? 今更命乞いかよ雑魚が!! だがそうだな……」

 

 

 彼はニヤニヤと表情を緩ませる。何かもらえそうだと分かった途端に怒りを収めるとは現金な人だな。

 

 

「とりあえずカネだ。財布丸ごと差し出せや」

 

 

 やはり金を要求されるのか。まあいいか、生涯賃金より安く済みそうだ。

 

 

「どうぞ」

 

「へへへ……なんだ、意外と持ってるじゃねえか」

 

 

 財布を渡すと、彼はすかさずパシッと奪い取り、その中身を覗いてニヤついた。今は娯楽にお金を使っていないので、もらったおこづかいをそのまま入れている。お気に召して何よりだ。

 

 

「それで満足した?」

 

「まだに決まってんだろうが!! こっからが本題なんだよ!! おい、ありすサンと別れろや……! テメエにゃ不釣り合いな女なんだよ……!!」

 

 

 んんん?

 

 

「別れる? 何の話?」

 

「とぼけんじゃねーよ!! ありすサンと付き合ってんだろうが!!」

 

「……?」

 

 

 まさか彼は僕とありすが恋人だとでも思っているのだろうか。

 冗談じゃない。

 

 

「そんな事実は一切ない。きみの勘違いだから、その要望には応じられないよ」

 

「ハァ? とぼけんじゃねえよ!! あんだけどこでも構わずイチャイチャしておいて、恋人じゃねえだと?」

 

「違う。ただの……」

 

 

 ただの、なんだろう?

 友達……ではないだろう。出会った頃はそうだったけど、今はあれだけいがみあっているのだし。これまで読んできたマンガから推測すると、友達は無理やり土下座させられたり、土下座させたりという関係ではないはずだ。

 宿敵。いや、別に殺し合いたいわけじゃない。

 天敵。捕食関係にない。違う。

 ライバル。ありすはしょっちゅう煽ってくるし、僕も復讐心を燃やしてるからかなり近い。でもよくよく考えると僕はありすにマウントを取られたくないだけで、彼女に勝ちたいわけではないのだ。

 

 

「ただの幼馴染だよ」

 

 

 結局そういうことになると思う。

 

 

「テメェ……ありすサンの純情を弄んでるってのかよ……!!」

 

 

 彼はわなわなと僕の胸倉を掴む拳を震わせた。どうやらまた怒り出したようだ。

 

 

「やっぱりテメェみたいな奴にはありすサンを任せておけねえ。おい、今からここにありすサンを呼び出せや」

 

「……呼び出して、どうする?」

 

「決まってんだろうが、正式に別れさせんだよ!! そんで、ありすサンは俺の彼女にする!! 今日からありすサンは俺のモンだ! ヒャハハハハァ!!!」

 

 

 

 いま、何て言った?

 

 

 

「おい」

 

「なんだよ? 今更俺に逆らえるとでも……」

 

「取り消せよ。ありすはモノじゃない」

 

 

 彼の喉に右手を伸ばし、ギリギリと締め上げる。

 

 

「!? こ、こいつ……! なんて握力……」

 

「ありすは人間だ。お前の彼女になるかどうかは、ありすが決めることだ。それを、何を勝手にありすの意思を決めているんだ? お前はありすの何だ?」

 

 

 その瞳を覗き込みながら僕は淡々と問いかける。

 彼はケッと口元を歪ませ、吐き捨てるように答えた。

 

 

「ハッ! 女なんてなぁ、男が無理やりモノにしちまえば簡単に言いなりになんだよ! なんならテメェの前で犯してるのを見せつけてやろうか? ヒヒヒヒヒ!!!」

 

 

 ああそうか。こいつはありすを傷付けるつもりなんだな。

 じゃあいいや。

 

 

 こいつにはこれっぽっちも容赦なんてしなくていいや。

 

 

 僕のことならいい。どれだけ傷付けられても怒りなんて湧かない。

 でも、ありすは別だ。

 ありすに危害を加えようとするものは、僕はなんであれ一切許すつもりはない。

 

 

 彼にきめた喉輪の力をさらに増して、そのまま吊り上げた。

 踏まれたカエルのようにグエッと濁った音を漏らし、彼の呼吸が塞がる。

 バタバタと脚を動かして逃げようとするが、今さらもう遅い。

 

 

「は、はなせ……!!」

 

「安心しろ。どんな障害が残っても一生かけて賠償してやる」

 

 

 僕は左手でスマホを取り出して、彼の見開いた瞳に突き付けた。

 

 

「催眠!」



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第12話「CASE1:金髪ヤンキー君」

『おやすみなさい』

 

 

 スマホから再生されるありすの声と共に、凄まじい音と光の渦が迸った。

 脳みそをシェイクさせるためとはいえ、これは思った以上にうるさい! 要改良だぞ!

 

 心の準備ができている僕でも高周波で耳がキーンとするのだから、真正面からすべての刺激の直撃を受けたヤンキーAの脳はたまったものではないはずだが……。

 

 そう思いながら彼を吊り上げていた腕を下ろし、恐る恐るその表情をうかがってみた。

 彼はぼけーっと虚空を見つめ、何も言葉を発することもなく口をぽかんと開けて立ち尽くしている。

 試しに人差し指を立てて瞳の前でちょいちょいと動かしてみるが、眼球が反応しない。……完全に意識を失っているようだ。

 

 

「おお……成功した……!?」

 

 

 思わず歓喜の声が口から出た。少なくとも朦朧(もうろう)状態にさせることは成功したのだ。

 ……いや、大丈夫だよね? まさかさっき首を絞めたときに酸欠で脳みそがやられました、とかじゃないよね?

 

 近付いて呼吸音を確かめてみる。あ、大丈夫。ちゃんと息してるや。

 

 

 ふーっ、と安堵の息をつく。

 その途端にズキリと肩の痛みを感じた。すごい熱を感じる。

 

 ちょっと火事場の力を使いすぎたな。僕は意識して体のリミッターを外すことができる。あまりできる人はいないそうなので、多分僕は他人よりも自己暗示をかけるのがうまいんだろう。やっぱり催眠術の才能があるのかも。

 リミッターを外せば一時的に馬鹿力を出せるけども、それは体に猛烈な負荷をかける行為だ。やりすぎると筋繊維が壊れて炎症になってしまう。

 やっぱり普段から少しは体を鍛えておいた方がいいかもしれない。

 

 さて、あんまりのんびりはしていられないぞ。

 彼の朦朧状態がいつまで続くかわからない。何ができるのか調べて、データを収集しなければ……。

 

 とりあえず何か命令してみよう。

 

 

「きみは僕の下僕になります。僕の命令を聞かないといけません。さあ、僕に土下座しなさい」

 

「…………」

 

 

 む、反応がない。

 うーん……朦朧とさせただけだと命令を聞いてくれたりしないのか?

 

 

「財布を返しなさい」

 

「…………」

 

 

 ふるふる、と彼の頭が横に揺れた。ぎゅっと僕の財布を強く握りしめている。

 これは、反応がないんじゃないな。

 拒否されてるんだ。

 

 僕はがっかりと肩を落とす。

 うーん……導入が悪いのか催眠深度が浅いのか、命令を強制できたりはしないようだ。

 これじゃ画面を見せただけで言いなりになる理想形とは程遠いな。

 ありすに無理やり土下座させないと僕の目標は達せられないというのに。

 

 ……いや、何を落ち込んでいるんだ。これはまだ試作第1号、ロクな効果が出なくて当然じゃないか。

 まずは他に何かできないかを調べないと。

 

 それにしても財布は取り返したいところではあるが……。

 いや、待てよ?

 

 

「行動を強制させることは無理でも、そうするように仕向けることはできるんじゃないか……?」

 

 

 催眠術にできることは命令の強制だけではない。

 認識を変えることだってできるはずだ。

 

 今の彼はひどく暴力的でワガママな不良なので、人から奪った財布を返さない。だが、彼が子供の頃ならもっと素直に人の言うことを聞いていた可能性はある。

 よし、やってみよう。

 

 

「きみは今から、だんだんと時を遡っていきます。僕がチッチッチッ……と言うたびに、きみの中の時計の針はどんどん巻き戻っていきますよ」

 

 

 ミスターMから学んだ催眠術の定番、逆行催眠をかけてみる。

 暗示を植え付け、意識を過去へと誘導する技術だ。

 声の抑揚に気を配るのがコツだと言っていた。

 

 

「チッチッチッ……はい、1年巻き戻りました。何が見えますか?」

 

「……1年の教室……。俺が誰かを押さえつけてます……」

 

「それは誰でしょうか?」

 

葉加瀬(はかせ)です……。ありすサンが土下座しろと言ったのに聞かなかったから……。みんなと一緒に無理やり土下座させています……。頭を掴んで、床に叩きつけました……。血が出ています……」

 

 

 ん? こいつ、あのときの兵士Aだったのか。

 結局あの後、名前と顔を覚えられなかったんだよな。別にどうでもいいかと思ったし。

 あのときは金髪じゃなかったような気もする。その後でグレたのかな。

 

 

「はい、さらに巻き戻ります。チッチッチッ……」

 

 

 

 さらに逆行を深め、小学1年生になったあたりで再び財布を返すように言ってみたところ、素直に返してくれた。

 

 

「僕にごめんなさい、と言えますか?」

 

「はい……お兄ちゃん、叩いてごめんなさい……」

 

 

 うんうん。この頃は素直だったんだな。

 その素直さを持ったまま成長すればよかったものを。

 とはいえ、そうもいかないか。人間は成長したら価値観も変わる。

 ありすも出会ったばかりの頃はあんなに大人しかったのに。……いや、あれは日本語をうまくしゃべれなかったから猫を被ってたのかもしれないが。

 

 

「待てよ……? これをうまく使えないか?」

 

 

 催眠術はなんでもかんでも他人を意のままにできるわけではない。

 だが、方向性をうまいことコントロールしてやれば、価値観を書き換えることもできるのではないだろうか。

 とりあえず彼がどんな人物なのかを把握してみよう。

 

 

「きみの名前を教えてください」

 

「しんたにながれです……」

 

「漢字で書くと?」

 

「新しい、谷、流れです」

 

 

 新谷(しんたに)(ながれ)か。新谷流……。

 

 うーん、ダメだ覚えられない。

 僕は人の名前を覚えるのが本当に苦手なのだ。脳が自動的に覚える価値がないと判断して、耳にするそばから情報を消してしまう。

 実の妹ですらそうだ。小学校に上がるまで『みづき』という名前が覚えられず、『くらげちゃん』という僕が決めた呼び方で呼んでいた。

 ……いや、ということは、逆に僕が呼び方を決めてしまえば覚えられるということか?

 

 新谷流……音読みだと“にい、や、る”。

 『にゃる』。

 あ、いいぞ。これなら覚えられる。

 

 

「僕はこれからきみのことを『にゃる君』と呼びます。わかりましたね」

 

「はい……ぼくのあだなは『にゃる』です……」

 

 

 ああ、こういうのをあだなっていうのか。ひとつ賢くなった。

 

 

「小学1年生のにゃる君、きみの将来の夢は何ですか?」

 

「おまわりさんです……悪い人をたいほして、正義のためにはたらきます……」

 

 

 警察官!? 今とやってることがまったく逆じゃないか。

 いや、むしろ夢破れたからこうなってしまったのだろうか。

 よしよし、これは使えるネタだぞ。

 

 

「にゃる君、きみはこれからゆっくりと元の時間に向かって進んでいきます。ですが、おまわりさんになるという夢はずっと忘れません」

 

「はい……忘れません……」

 

「悪を憎む正義の味方。曲がったことは許せない。誰よりも正義にあこがれ、自分もそうありたいといつも思っている。それがきみです」

 

「……ぼくは……正義の味方に……なりたかった……」

 

「いいえ、なりたかったのではありません。きみは子供の頃からずっとおまわりさんになりたいと願い続けています。その夢を忘れたことは一度だってありません。今もその志は胸に宿っています。いいですね」

 

「はい……おまわりさんになる夢を……忘れたことはありません……」

 

「はい、時間が今に近付きますよ。チッチッチッ……。今にたどり着いて、僕が指を鳴らすと、目が覚めます……3、2、1……」

 

 

 僕はパチン、と指を弾いた。

 

 さあ、どうだ? 僕の考えが正しければ土下座してくれるんじゃないか?

 

 そう思いながら様子を見守っていると、にゃる君は突然その場にしゃがみこんだ。

 

 

「オゲロロロロロロロロロロロロロロロロ……!!!!」

 

「うわああああああ!? 吐いたあああああああああ!?」

 

 

 やっぱり催眠アプリは失敗作だったか!?

 脳に致命的なダメージを与えすぎてしまったのでは……!?

 

 僕が賠償金の恐怖に震えていると、彼は今度は目からボロボロと大粒の涙を零しながら咆哮した。

 

 

「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!! 俺は……俺はなんてことをっっ……!! 警察官を目指している俺が、醜い欲望に振り回されて一方的に殴りかかるなんて……あああああああああああ!!! 俺は警察官失格だ……!!! なんて……なんて申し訳ないことを……!!! とても生きていられない……!!!」

 

 

 そして涙があふれる目で僕を見上げると、にゃる君は自分が吐き出した吐瀉(としゃ)物にも構わず、その場に土下座した。

 いや、土下座どころかガンガンと道路に額をぶつけている。

 

 

「は、葉加瀬……! 俺は、俺は本当にすまないことをしでかしてしまった!! お前にはなんと詫びればいいのかわからない……!! 俺は最低の人間だ!! 自分が憎んでやまない悪そのものになってしまった……。お前の手で俺を裁いてくれ……どんな裁きも受ける、命を奪われても構わない……!!」

 

 

 あ、あれ……?

 なんか思っていたより土下座が激しいぞ?

 

 あっ……ま、まさか!

 僕がにゃる君の認識を書き換えて「子供の頃からずっと正義の警察官を目指していた」ことにした結果、今の状況との大きなギャップが発生してしまったのか!?

 先ほど盛大にリバースしたのも、認識と現実のギャップに脳がバグったからではなかろうか。

 

 ううん……別にここまでさせるつもりはなかったんだけどな。逆に居心地が悪いからやめてほしい。

 というか額から血が出てるじゃん。痛いよね、それ。

 この催眠アプリって……効果強すぎないか……?

 

 とりあえず土下座はもうやめさせよう。このままだと物理的に脳に障害が残ってしまいかねない。

 

 

「いいよ、許す」

 

「えっ……!?」

 

 

 僕が言うと、にゃる君は信じられないものを見るかのように見上げてきた。

 

 

「ゆ……許すっていうのか……? お前にあれほどひどいことをした俺を、そんな……あっさりと?」

 

「うん。僕は気にしてない。きみも自分を責めるのはやめてくれ」

 

 

 脳に障害残って賠償金払うの嫌だもん。

 

 

「お、お前ってやつは……」

 

 

 にゃる君は再び瞳からボロボロと涙を零した。

 

 

「お前は俺が一方的に殴っても、ちっとも殴り返してこなかった……。どれだけ暴力を振るわれても、話し合いで解決しようと……。ありすサンに危害が加えられる可能性が出るまで、耐え続けたんだな。お前こそ本物の男だ……! それに比べて俺はなんて情けない……。俺はお前を尊敬するよ。俺もお前のような、強い男になりたい……」

 

「えっ? いや、僕はそんな大したやつじゃないよ」

 

謙遜(けんそん)しなくていいんだ。俺はちゃんとわかってる」

 

 

 わかってないよ多分。

 なんだか僕を過剰に評価している気がしてならない。

 ありす以外の人が考えてることって、本当によくわからない……。

 

 まあ、彼の攻撃性が収まって万々歳というところか。

 

 

「葉加瀬、とりあえずお前を病院に連れて行かせてくれ。治療費も全額俺が出す」

 

「あ、じゃあそれはありがたく受け取るね」

 

「それから、俺は警察に出頭する。鑑別所で罪を償うつもりだ」

 

「えっ」

 

 

 それはまずい。

 責任もってちゃんと実験の経過を見守るようにとミスターMにも言われている。少年鑑別所などに行かれてしまっては達成できないじゃないか。

 

 

「いや、きみは何もしていない。僕は転んで怪我をした。それをきみが見つけて病院に運んでくれたんだ。そういうことにしよう」

 

「なに……!? だが……だが、それじゃ俺の罪は……」

 

 

 きみの罪悪感とかどうでもいいんだよ!

 大人しく被験者として僕に実験データを提供しろぉ!!

 

 僕は困惑するにゃる君に指を突き付けた。

 

 

「僕は許すと言ったんだ、にゃる君。罪の意識を感じるのなら、別の方法で償ってくれ」

 

「別の方法……」

 

「……警察官になるんだろ? それがきみの子供の頃からの夢だったんじゃないのか。僕に見せてくれよ。立派な警察官になったところをさ。その夢がかなうまで、僕の前から逃げるなんて許さないからな」

 

 

 そう言って、僕はにやりと笑ってみせた。

 ……頼む! 誤魔化されてくれ!!

 

 にゃる君は呆然と僕を見ていたが、やがてぐっと涙をこらえて大きく頷いた。

 

 

「葉加瀬……いや、ハカセ。わかった。お前の言うとおりにしよう。俺はお前に誓う。こんな愚かな真似を子供たちにさせない、立派な人間になると……!」

 

「わかってくれたか……!」

 

 

 やりぃ! 被験者ゲットだ!!

 これからも末永く、僕の目の届くところにいてくれよ。

 

 

「ああ、それから今日のことは誰にも内緒だぞ。特にありすにだけは絶対に」

 

「えっ……。いいのか。俺はありすサンにも絶対に謝らないといけないと……」

 

「いいから! 絶対に言うなよ。約束だぞ!?」

 

「あ、ああ……わかった。俺たちの友情にかけて絶対に言わない」

 

 

 よしよし。

 僕が暴行を受けたなんて知ったら、あいつは何をするかわからない。

 それこそにゃる君が次の日『転校』していても不思議はない。

 データを取るためにも、彼は何としても守らなくては。

 

 それにしても友情ねえ。友情? え?

 

 

「……あれ? 僕たちって友達なの?」

 

「当たり前だろ。俺たち、小学1年生からの友達じゃないか。小1のときに、お前が俺に『にゃる』ってあだなをつけたんだろ」

 

 

 へぇーそういう風に記憶の整合性が取られているのか。

 人間の心って不思議だなあ。

 

 

「あ、あれ……? おかしいな……俺とお前は去年初めて同じクラスになって……? 小学校は別だった……? じゃあこの記憶は一体……」

 

 

 まずい! 記憶の綻びから催眠が解けるかもしれん!

 

 

「……いや! 僕たちは友達だ! 親友だよ!!」

 

「そ、そうか……。そうだったな! ああ、その通りだ!」

 

 

 そこまで口にして、にゃる君はハッと顔をこわばらせた。

 

 

「……ッ!? す、すまんハカセ……俺はこともあろうに親友に嫉妬して暴力を……ッ! 俺は、俺は……」

 

 

 こいつめんどくさい奴だなぁ!? もうそれはいいよ!

 えーとどうしよう。

 そういえば昔読んでいたマンガだと……。

 

 僕はニヤッと笑顔を作って、拳を突き出した。

 

 

「親友なら一度くらいは殴り合うものだろ?」

 

「……!」

 

 

 ガシッと拳を合わせて、僕たちは体と心の痛みをこらえながら笑い合う。

 

 

「ああ、俺たちの友情に乾杯ッ!!」




はじめてのともだちができました。


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第13話「ほのぼのランチタイム」

「催眠かけるときにはずみで右腕がイカれちゃったのでしばらくバイト無理です」

 

「催眠やっちゃったかぁ……」

 

「なんで大人の言うこと聞かないかなぁこの子」

 

 

 僕の報告に、ミスターMとEGOさんが揃ってため息を吐いた。

 

 

 あの後にゃる君と一緒に病院に行ったのだが、僕は僕で泥だらけで右腕をかばう怪我してるし、にゃる君は額から血を垂れ流してるしで、どう見ても転んだ怪我じゃないだろとツッコまれて親を呼ばれてしまった。

 親同士がぺこぺこ頭を下げ合っているのは見ていて心が痛んだ。次からは怪我しないように頑張ろうと反省している。

 

 それでも僕を助けようとしたにゃる君もはずみで転んで頭を打ったという主張を2人で貫き続けた結果、今回は問題にしないことになった。にゃる君が停学とかにならなくてよかった。これでじっくりと彼を観察できるな。

 

 なお怪我の方だが、あれだけ蹴られたのに内蔵にも骨にも深刻なダメージはなかった。丈夫に産んでくれた両親には心底感謝している。

 むしろ火事場モードを発動した右腕のダメージの方が深刻で、腱がおかしくなっているのでしばらく右腕は使わないようにと医者に厳命(げんめい)されてしまった。

 

 

 ヤンキーの本気の蹴り<<<僕の火事場モードの自爆

 

 

 一体どういうことなんだ……。

 

 

 ともかく朝からあわただしかったので、学校には昼から顔を出した。

 普段からクラスで空気の僕はともかく、ヤンキーのにゃる君が揃って怪我した状態で登校してきたので、クラスはちょっとざわついていた。

 

 休み時間には別のクラスのありすが飛んできて、「何があったの? いじめられたの?」としつこく聞いてきた。お前は僕のお母さんか。いや、本当のお母さんでもそんな聞き回ったりしてこないよ。

 

 その後隣で震えていたにゃる君に目を留めたありすは、無表情に彼をどこかへ連行していった。

 これはにゃる君死んだかなと被検体の喪失を惜しんでいたのだが、ありすはすぐににゃる君を従えながらニコニコと満面の笑顔で戻って来た。

 何を言ったのか知らないが、首の皮一枚繋がったようで何より。むしろありすはすごくご機嫌なので、よほどうまく立ち回ったのだろう。ヤンキーの割には意外と世渡りが上手なんだなと、彼への評価を上方修正することにした。

 

 

 

 そんなこんなで家に戻ってきて、今に至る。

 

 

「それで、催眠はどうだったかな? まあ、結果は聞くまでもないけどね」

 

 

 EGOさんが軽く笑い声を織り交ぜながら訊いてくる。

 さすがは僕の師匠だ。実験の結果はあらかじめ予測していたんだな。

 

 

「EGO。意地が悪いぞ」

 

「ふふふ、すみません。ついうっかり」

 

「いえいえ。もちろん無事成功しましたよ」

 

「「えっ?」」

 

 

 しばし間が開いてから、何やらミスターMが声を震わせながら口を開いた。

 

 

「……成功……した?」

 

「はい、ちゃんと効きました! 詳しい結果は後日怪我が治ってからレポートに起こしますが、ヤンキーだった彼が警察官を目指す良い子に更生しましたよ」

 

「そ……そんな馬鹿な!? あの仕組みで!? あ、ありえん!!」

 

「いや先輩、ありえんって……」

 

「だってEGOくんも聞いただろう、あれでまともな催眠術ができるわけがないのだ! 何がどうなってる……!?」

 

 

 どうやらミスターMとしてはもうちょっと練り込んだシステムじゃないと十分な効果が出ないと予想していたようだ。

 やったぁ、師匠の予測よりちょっと上を行っちゃったぞ。

 

 

「見栄を張って嘘をついている……わけでもないな。ひぷのん君にそんな機微(きび)があるわけがないし」

 

「まあ……そうですね」

 

「嘘をつかないのは僕の数少ない取り柄です」

 

 

 えへん、と僕は胸を張る。生まれてこの方僕は両手で数えるほどしか嘘をついたことがないのだ。必要のない嘘をつかないのが自慢である。

 まあ今日親に嘘をついたばかりなのだが、あれは必要な嘘だったので仕方ない。

 

 

「ひぷのん君、ちょっとそのアプリを調べさせてくれないか? ぜひ私の方でもデータを取りたい!!」

 

 

 ミスターMは勢い込んでそう提案してきた。どうしようかな。

 僕よりも専門家に任せた方が、データもたくさん取れていいかも。

 いいですよと僕がファイルをアップロードしようとしたとき、EGOさんが静かな口調で割って入った。

 

 

「先輩、それはダメですよ。教え子が苦労してたどり着いた研究成果を、師が横取りすることなどあってはならないことです」

 

「うっ……!」

 

「そういう上役にはなるまいと、学生時代誓い合ったのは嘘だったのですか?」

 

「……EGOくんの言うとおりだ。すまない、頭に血が昇ってしまった。ひぷのん君、今のは忘れてくれ」

 

「いえ、そんな」

 

 

 僕は構わなかったのだが、どうやらそれは研究者の世界では御法度にあたる行為だったようだ。

 正直僕はにゃる君を観察するのでしばらく手一杯になるだろうから、データを集める点では手伝ってくれた方がありがたかったのだが。

 

 

「じゃあ催眠アプリに使った要素をお教えしますので、ミスターMの方でも催眠アプリを独自に作るというのはどうでしょうか」

 

「な……いいのかね!?」

 

「いいですよ、データをたくさん取れた方が僕も助かります。もちろん取ったデータを共有してくれればですが」

 

「もちろんだ、きちんと還元しよう! ……なあEGOくん」

 

 

 ミスターMの言葉に、EGOさんははいはいと頷いた。

 

 

「アプリ制作は私に依頼されるというわけですね。わかりました、先輩の頼みでしたら引き受けましょう。お代はちゃんといただきますが」

 

「ありがとう、助かるよEGOくん。ところで今年は研究予算が少なくてね、少し勉強してもらえるとさらに助かるのだが」

 

「ははは、いただくものはちゃんといただきますが? ええご安心ください、私はよそと違って誰にも催眠アプリなんて危険なものを作っているなんて漏らしませんのでね。口が堅い分のお手当は上乗せでいただきますとも」

 

「ははは。守秘義務の遵守(じゅんしゅ)は当然だろう?」

 

「ふふふ。それが守られにくい世界なのはお互い承知でしょう」

 

 

 2人はアハハウフフとにこやかに笑い合いながら交渉している。

 本当に仲がいい大人だ。友情が学生時代から続いているなんて素晴らしい。

 僕には友情など縁遠い話だが、この2人はずっと仲良くしていてほしいものだ。

 

 

 

============

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====

 

 

 

「よっ! おはよう、ハカセ」

 

「昨日は金髪だった気がする」

 

 

 翌日、にゃる君は髪を黒く染め直して学校に来た。

 髪もうねうねしていた気がするが、ストレートパーマをあてて直毛にしている。なんか爽やかスポーツマンって感じ。

 額にはまだ包帯が当たっているはずだが、傷にシミて痛くなかったのだろうか。そう指摘すると、

 

 

「まあ痛かったけどさ、これもケジメってやつよ」

 

 

 そう言ってにゃる君はケロリとした顔で笑った。

 

 

「それはそうとハカセ、左手しか使えないの不便じゃねえか? ノートとか取れるのか?」

 

「うーん……字はあんまりうまく書けないね」

 

「そっか。じゃあ俺のノートをコピーさせてやるよ!」

 

「……ちょっとノート見せてもらっていい?」

 

 

 これはひどい……。

 にゃる君のノートはかなり壊滅的な内容だった。ミミズがのたくったような字でところどころ内容も途切れてるんだけど、これキミ寝てたろ。

 ヤンキーだから授業にもあんまり出てなかっただろうし、多分授業の内容もあんまり理解できてないような気がする。

 

 

「キミ成績よくないだろ」

 

「お、おう……。でもこれからはちゃんと授業受けるから……」

 

「ヤンキーなのに?」

 

「ヤンキーじゃねえ! というかもう不良はやめだ。警察官を目指すなら、ちゃんと高校まで卒業しないとな」

 

 

 ああ、髪を黒く染めたのって不良を廃業したからか。

 催眠は解ける様子もなく、にゃる君の中で効果を発揮しているようだ。

 いずれ催眠が解けたら、彼はまた髪を金色に染め直すのだろうか?

 

 とりあえずノートはいらないと断ったのだが、にゃる君はその後もことあるごとに僕に何か困ったことはないかと聞いてくる。

 

 

「ハカセ、次の授業は移動教室だぞ! 教科書や筆記用具重いだろ、持ってやるよ!」

 

「これくらい左手で持てるよ」

 

「ハカセ、次は体育だぞ! 体操服着れるか? 着替え手伝ってやるぞ!」

 

「見学するから着替えないよ」

 

「ハカセ、トイレ行きたくないか? チャック開けられるか? 手伝おうか?」

 

「左手で開けるよ!?」

 

 

 なんだこれ、めちゃくちゃつきまとってくる……!

 正直とてもうっとうしい。いや、向こうの方から近付いて来るので観察するには困らないのだが。

 

 これも催眠で生じた罪悪感のなせる業なのだろうか?

 いや、なんか催眠関係なく元々すごく親切で人懐っこいだけという気もするな。

 なんでヤンキーになってしまったんだろう。

 

 

「もしかして仲間の中でパシリとかさせられてた?」

 

「おう、よくわかったな。雑用を任されたら俺が最速だったぜ!」

 

 

 なるほどなあ。

 

 

 

 この分だと昼休みもやっぱり昼飯食べる手伝いしようか? と言ってくるのかと思いきや、にゃる君は僕の隣の席に座ってパンを食べ始めた。

 正直意外だ。

 まあそれならそれでいいやと思いながら弁当箱を取り出していると……。

 

 

「右手が使えなくてご飯食べるのもままならないなんて、とってもかわいそうね! 仕方ないからありすちゃんが手伝ってあげに来たわよ!」

 

 

 ありすがニコニコと笑いながら、自分の弁当箱を手に乱入してきた。

 

 

「うわっ、なんか来た……!」

 

「何よご挨拶ね! 可愛くないこと言うなら食べさせてあげないわよ!」

 

「僕は一人で食べられる」

 

「じゃあ左手でお箸使ってみなさいよ」

 

「……見てろよ」

 

 

 僕は左手で箸を握ろうとするが、握るそばからぷるぷると震える。

 くそ、うまく握れない……! 利き手じゃない方で箸を握ることがこんなにも難しいとは。

 なんとかウインナーをつまもうとするが、引き上げる途中でころりんと落ちてしまった。

 

 

「あらあら。そんなんじゃお昼が終わるまでにご飯食べ終わらないわねー?」

 

「くっ……!」

 

 

 お母さん、何で今日は弁当に箸を入れてきたんだ……!?

 フォークとスプーンを入れてくれればこんな辱めなど……!

 ギリギリと歯ぎしりしながらなんとかおかずを掴もうとするが、ぽろりとこぼれ落ちていくばかりだ。

 

 

「無駄な努力はやめましょうね。大人しく私にすべてを委ねなさい」

 

 

 そう言いながら、ありすは先の丸まった可愛いプラスチックのフォークで、僕が先ほど落としたウインナーを貫く。そしてそれを僕の口に近付けてきた。

 

 

「はい、あーん♪」

 

「!?」

 

 

 食べろと!? 僕に雛鳥の給餌(きゅうじ)のような無様な真似をしろと!?

 くっ……あまりの屈辱で頭がどうにかなりそうだ。

 見ろ、顔が真っ赤になってきたじゃないか! 熱があるのがわかるぞ!

 

 

「食べないと昼休み終わらないぞー?」

 

 

 ありすはそう言いながらニヤニヤと悪戯っぽく笑う。

 そう言いながら、ありすも顔が赤い。

 

 

「く……食えばいいんだろ……!」

 

 

 しかしこのままでは昼休みが終わるまでに食べ終わらないのも事実。

 僕は意を決して、ありすが差し出したフォークを口に含んだ。

 

 

 きゃーーーっ! とかうおおおおおお! やりやがった! とか、クラスのあちこちから大声が上がる。

 ぎょっとして周囲を見ると、クラス中が僕とありすに注目していた。なんであいつら人の昼食なんて見ているんだ。暇人だらけなのか。

 

 

「どう? おいしい?」

 

 

 ありすが上目遣いでもじもじしながら訊いてくる。

 

 

「おいしいよ」

 

 

 当たり前だろ、僕のお母さんが作ってくれたんだぞ。

 ……なんだかいつもよりおいしい気がするけど、別にありすが食べさせてくれたからじゃないんだからな。調子に乗るんじゃないぞ。

 

 

「ふふーん、ハカセちゃんおいちいでちゅかー? よく食べられまちたねー、えらいぞー♪」

 

 

 早速調子に乗りやがってこいつ!

 

 

「やっぱ一人で食うわ」

 

「あー待って待って待って、冗談だからー!」

 

 

 僕が弁当箱を閉じようとすると、ありすが半笑いですがりついてきた。

 何故この結果が見えていて煽ろうとするのだ。

 僕の復讐心を高めることに生きがいを見出しているとでもいうのか。

 

 

「じゃあ次もあーん♪」

 

 

 ありすが僕の弁当箱から、ひょいと卵焼きをつまむ。

 

 

「……あーん」

 

「と見せかけてぱくっ♪」

 

 

 ああっ!? ありすが自分の口に卵焼きを放り込んだ!

 な……なんてことをしてくれるんだ!

 

 

「僕の密かなメインディッシュが……!」

 

「うん、おいしー! アンタのお母さん、やっぱり料理上手よね」

 

「そうだろ? お母さんの得意料理だぞ。くそぉ!! 許さねえ!!」

 

 

 この恨み晴らさでおくべきか。またありすへの復讐心が高まっていく!

 

 

「まあまあ、そんな動物みたいに吠えないの。おかず交換しましょ?」

 

 

 僕が食い物の恨みにガルガルと喉を鳴らして威嚇すると、ありすが自分のお弁当箱を開いた。

 色とりどりの女の子らしい可愛いお弁当だ。全体的にピンク色で、ウサギさんの形のおにぎりが入ってたり、お花の形のニンジンや蓮根が並んでたり。

 

 

「……そのウサギさんおにぎり可愛いな」

 

「でしょ? ママがいつも入れてくれるの。ウサギおにぎりの兎餅(うさぎもち)くんよ」

 

「なんで餅?」

 

「もち米入りだから。これはあげないわよ」

 

 

 ありすの好物らしい。まあそれはいいや。

 見た目100点のかわいらしさで、その代わり量は少ない。女の子だからそんなにご飯食べられないのと主張してるような感じ。

 なるほど、これだけしか昼に食べないなら女子も放課後に買い食いするわ。

 

 だが、僕は騙されんぞ。

 

 

「……本当にこれだけ?」

 

「えっ」

 

「嘘つけ、それくらいで足りるわけないだろ。もっと隠してるはずだ、出せ」

 

「…………」

 

 

 問い詰めると、ありすはしぶしぶとポケットからラップおにぎり3つを取り出した。やはりな。

 こんな最近身長も胸もお尻も成長しておいて、さらに運動部にも所属してる奴があれしきの弁当で足りるわけがないのだ。中学生の食欲は底なしである。

 

 さーて、じゃあどれをいただこうかな。

 僕は一通り弁当箱を眺めてから、ラップおにぎりに目を留めた。

 

 

「じゃあそれだ」

 

 

 僕が指さしたのは、3つある中でも一番いびつな形で、黄色いシールが貼られていて、いかにも不器用な子が握りましたって感じのやつ。

 

 

「えっ、これは……」

 

「僕はそれが食べたい。おかずじゃないからダメなんて言うなよ」

 

「でも……他のおにぎりの方が形も綺麗だよ? これ失敗作だから」

 

「僕はそれがいい。それしか食べたくない。ほら、さっさと食べさせろよ」

 

「……はい」

 

 

 ありすは観念した様子で、ラップを外して僕の口元に運んだ。

 おどおどと下を向いて、赤い顔を隠している。

 

 ぱくりと噛みつくと、ざりっと塩の塊が舌の上に残った。

 下手だなあ。塩をうまくバラけさせて握らないからこうなるんだ。

 

 

「うまい」

 

「ホント?」

 

「ああ、すごくおいしいよ」

 

 

 ぱあっと顔を輝かせたありすに頷いて、僕は塩っ辛いおにぎりをおいしそうに食べた。

 本当はこれを食べさせたかったんだろ。でも途中でヘタレて隠したんだろ。

 そんな隠しアイテムがうまくなくてどうする。

 

 僕はおにぎり全部を口の中に収め、もしゃもしゃとよく噛んでからごくりと飲み下した。ごちそうさま。

 

 

「次は隠さずに出せよ。どんな出来でも僕は食うから」

 

「うん」

 

 

 ありすは素直に頷く。

 よしよし。じゃあ反撃してもいいな。

 

 僕は左手の箸でミートボールをぶっ刺すと、ありすの鼻先に持っていった。

 

 

「はい、あーん」

 

「!?」

 

 

 ありすは目を白黒させ、ついで顔をますます真っ赤にした。

 

 

「わ、私は怪我とかしてないし。自分で食べられるもん」

 

「僕にだけこんな辱めを受けさせて、自分はタダで済むと思ってんの? ほら口を開けろよ。無理やりねじ込まれたいのか」

 

「ううー……」

 

 

 ありすはしばし葛藤したのち、口を開いた。

 優しくミートボールを入れてやる。喉に詰まらせたら大変だからな。

 

 もぐもぐするありすを、じっと見つめてやる。

 ふふ、なんか本当に雛鳥に餌を運んでる親鳥みたいだな……。

 

 

「うあーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

 

 

 突然隣で座っていたにゃる君が奇声を上げ、持っていたパンと牛乳パックを握りつぶした。

 何だ何だどうした。

 

 

「ちくしょう、もう耐えきれねえ! 甘すぎてクリームパンの味がしなくなった! うああああああああ!!」

 

 

 ???

 甘い? クリームが? 突然味覚障害を発症したのか?

 

 困惑する僕をよそに、にゃる君は残ったパンを掴むと、さーっと教室を出て行った。

 

 

「もう見てられん! ごゆっくりーーー!!」

 

「……?」

 

 

 ふと周囲を見ると、何人かのクラスメイトが口から砂糖でも吐きそうな顔をしていたり、ギリギリと歯を食いしばっていたり、何やら仏像のような穏やかな笑みを浮かべたりしていた。えぇ、何これ……?

 

 そんな僕に、ありすは悪戯っぽく笑いながら再び弁当箱を差し出してきた。

 

 

「ほーら、よそ見しない。次は何食べたいの?」



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第14話「催眠レポート」

「催眠アプリの再現性は認められなかったよ」

 

「あれぇ?」

 

 

 にゃる君に催眠をかけてから3カ月ほど経ち、もうすぐ中学2年の夏休みを迎えようとしている。

 その間にミスターMはEGOさんの協力を得て催眠アプリを作ったのだが、残念ながらその結果は失敗に終わったということだった。

 

 

「教えてもらったとおりの素材を組み込んでみたんだが……。被験者を朦朧(もうろう)とさせることに成功したが、キミが提示してくれたレポートのように暗示を埋め込むことはできなかったね」

 

「その他にも何か要因があるということなんでしょうか? たまたま僕の暗示と被験者の適正ががっちり噛み合ったとか?」

 

「催眠術士の才能もあるのかもしれんが……あるいは何らかの要素が奇跡的な噛み合いを見せたのか、はたまたキミが採用した素材に何か特別性が隠されているのかもしれん」

 

 

 特別性か……。

 

 

「ということは、僕とミスターMが使った素材を比較すれば、何が催眠に効果的な要素なのかを洗い出すことができるというわけですね」

 

「その可能性もあるね」

 

 

 あれから3カ月が経つのだが、僕のアプリ改良計画は行き詰まりを見せていた。アプリをどのように調整すればより効果的な催眠をかけられるのかがわからない。要素を変えていろんな人に催眠を試せば、効果を比較することでより改良が進むはずなのだが、未だに手ごろな被験者候補を見つけられていなかった。

 

 ミスターMがアプリ開発に成功すれば、より多くの被験者のデータを取ってもらうことができると考えていたが、どうやらそちらは諦めた方がよさそうだ。

 

 

「とはいえ使った素材自体に大した差はないはずだ。それに脳に多くの刺激を与えて朦朧とさせるメカニズム自体が……いってしまえば非常に雑なので、素材を変えたところで結果にそこまで大きな違いが出るとも思えん」

 

「では、僕とミスターMの催眠術士としての適正の差? もしくは、脳を朦朧とさせる以外の偶発的なメカニズムが作用しているということですよね」

 

「うわぁ……信じたくないなあ。催眠術士としての力量で駆け出しの子に負けたとか……私これでも催眠術の本出してるのに……。何らかの未知のメカニズムであってほしいよ」

 

「ミスターMの力量は信じてますよ。だって僕の師匠ですから」

 

 

 僕が本心からフォローすると、EGOさんがクックッと笑いながら横から茶々を入れてくる。

 

 

「えー? 先輩、もう駆け出しの中学生に追い抜かれちゃったんですかぁ? まあ青は藍より出でて藍より青しと言いますし、老人はいずれ若者に追い抜かれちゃうもんです、気を落とさないで!」

 

「てめぇEGOォ! 俺はまだ若手だよ! お前こそアプリ開発に3カ月もかかりやがって、あっという間に作ったひぷのん君を見習ったらどうかね?」

 

「個人で3カ月で作ったなら十分早いと思いますがねぇ!? こっちも別に本業がありますので! 空いた時間優先的に使ってあげたんですから感謝してほしいもんですけどぉ!?」

 

「うるせー失敗作寄越しやがって! どうすんだよ研究費使っちまったぞ!」

 

「発注書が悪いんですー! こっちの作業は完璧でしたー!」

 

 

 むっ、もしかしてケンカしてる?

 これはいけない。師匠たちには仲良くしてもらわないと!

 ここは僕の一世一代のギャグで笑ってもらおう!

 

 

「やめて! ケンカしないで! 僕のために争わないで!」

 

「……」

 

「……」

 

「「いや、元はといえばお前のせいなんだよなぁ……」」

 

 

 笑ってはくれなかったが、なんか仲直りしてくれたようだ。よかった。

 

 

「まあいい、ひぷのん君からの資料代で仮想通貨はだいぶ稼いであるからな。これを現金化して補填するとしよう」

 

「おや、ポケットマネーで埋めちゃいますか?」

 

「こっそり催眠アプリ作ろうとして失敗しましたなんて、大学に報告できんだろう……。下手すると私の正気が疑われるぞ」

 

「まあそりゃそうですね。頭の固いお偉方の度肝を抜く奇抜な研究は、こけると大変ですな」

 

「人間を朦朧とさせるアプリができたという点では一歩前進かもしれんがな。研究を深めればスタンガンの亜種として利用できるかもしれんぞ」

 

「なるほど、転んでもただでは起きないところはさすが先輩ですね」

 

 

 大人の世界って難しいんだなあ。

 

 

「いずれにしてもそちらが使っている素材も気になるので、一度詳細な素材を見せ合いませんか?」

 

「そうだな。比較実験をするに越したことはない。EGOくん、後で素材の入れ替えを頼むよ。……いちから作るわけでもないんだし、安くしてくれるよな?」

 

「はいはい、アフターケアはやりますよ」

 

 

 とりあえずこれでミスターMと僕が作ったアプリの素材の情報は交換できた。

 失敗作と成功作の素材を僕の側で比べることにあまり意味はなさそうだが、ミスターMの側で研究を進めてくれることに期待したい。

 

 その一方で僕の側でも何か改良に繋がりそうなことはやっておきたいが……。

 そうだな、とりあえず素材の『純度』を高めるというのはどうだ。

 ノイズなどを極力抑えることで、より強度の高い催眠状態に持ち込めるかもしれない。これをこの夏休みの課題にしよう。

 

 

「ところで、ひぷのん君はそろそろ夏休みだね。今年はどう過ごすのかな?」

 

「もうあれから1年になるんですね」

 

 

 去年はディープウェブへアクセスするために知識を深め、それからEGOさんにブラックマーケットで呼び止められ、EGOさんからの『宿題』にチャレンジすることになったのだった。

 

 

「今年は催眠アプリを自分なりにもうちょっと改良して……あとは特には決まってないんですが。ただ、今年はなんだか催眠アプリの被験者になってくれた友達が、海に行こうとか山に行こうとか僕の家で遊ぼうとか、やたら誘ってくるので去年みたいにずっとアプリ制作とはいかなさそうです」

 

 

 3カ月が経ってもにゃる君の催眠は解ける様子がない。

 そして僕の右腕が完治しても、人懐っこくまとわりついてはやれ日曜日に遊ぼうとか、放課後ゲームしようとか、とにかく遊びに誘って来るのだった。

 僕としてもできるだけ近くでデータを取りたいので、可能な限りは遊びに付き合っている。

 

 なお、不良仲間との縁は完全に切れたらしい。

 一度顔をボコボコに腫らせて学校に来て、「これでオトシマエはつけてきた」って得意そうに笑っていた。

 集団で暴力をふるわれて笑う意味がわからないが、スッキリした顔をしていたので彼にとっては良いことだったのだろう。

 その後は柔道部に入ったり、塾に通ったりと、新たな学生生活を過ごしている。

 ちなみに僕は塾に通っていない。授業を聞けば国語と歴史以外は一発で理解できるし、忘れない。逆に国語は授業で習ったことがテストにあんまり出てこないし、歴史は人名をまったく覚えられないのでいつも赤点ギリギリだ。元々脳がそのようにできているので、塾に行こうが成績は変わらないだろう。

 数学と英語はほぼ100点を取れるので、それで不利を補っている。数学は何度計算しても答えが変わらないのがいい。地に足がついていてとても安心する。全部の科目がこうだったらいいのに。

 

 国語と歴史のテストを受けずに済むにはどうしたらいいだろうかとありすに尋ねたら、クスクスと笑いながら冗談を言われた。

 

 

「じゃあ将来は私と一緒にオックスフォード大学でも行く? 少なくとも国語と日本史は勉強せずに済むわよ?」

 

「騙されないぞ。どうせ英語で『このときの花子は何を考えていたのか答えろ』って訊いてくるんだろ?」

 

 

 そう冗談で返すと、アリスはお腹を抱えてコロコロ笑っていた。

 馬鹿笑いしても可愛らしく見えるんだから、美人って得だな。

 

 

「……そうか、友達と遊ぶか。それはいいことだね」

 

 

 EGOさんがしみじみと言ったので、僕は首を傾げた。

 

 

「いいことなんですか?」

 

 

 あまり実りある時間には思えないのだが。

 ゲームで対戦したり、にゃる君がナンパに失敗したりするのを眺めたりするよりは、資料を読み耽ったりアプリ制作のバイトしたりする方が断然有意義ではないだろうか。

 だがEGOさんはそうではないと言う。

 

 

「いいことだとも。友達とへとへとになるまで遊ぶなんて、学生時代しかできない体験だからね。勉強したり仕事したりなんて、大人になれば嫌でもやらなきゃならないんだ」

 

「大人は学校を卒業しても勉強するものなんですか?」

 

 

 僕の疑問に、ミスターMが答えてくれる。

 

 

「しない人もいるね。だがした方がいい。世界はいつも変わり続けている。それに合わせて勉強して、情報をアップデートし続けなければ、あっという間に世界の進む速度から取り残されてしまうよ。バカになりたくなければ、常に世界に追いつく努力をすべきだ。それは私たち学術やエンジニアの世界に身を置く者に限ったことではないよ」

 

「だけど、そんなめんどくさいことを学ぶのは大人になってからでもいいんだ。何のてらいもなく友達と遊ぶことは今しかできない。それもまたひとつの勉強だよ。だからひぷのん君、正直私とミスターMは安心しているんだよ。キミに友達ができて良かった。私たちはキミに知識を教えることはできても、一緒に遊ぶことはできないからね。どうか、その友達を大事にしてほしい。たとえきっかけが催眠術であったとしても」

 

 

 お父さんと似たようなことを言うんだな、と思った。

 

 にゃる君に催眠をかけたあの日、お父さんは僕だけを書斎に呼ぶと「本当はケンカをしたんだろ?」と訊いてきた。

 僕はもちろんケンカなんてしてないと答えたが、ケンカしてないなら腹なんか何度も打たないだろとお父さんは笑った。

 そしてこう言った。

 

 

「父さんは別にケンカしたことを責めてるわけじゃない。お互いに庇い合っているようだし、仲直りはできたんだろう?」

 

 

 僕が頷くと、お父さんは嬉しそうに笑った。

 

 

「それはよかった。お前にもやっとケンカできる男友達ができたんだな。その友達を大切にするんだぞ。お前の世界は深い霧に包まれているが、友達と過ごす日々はきっとお前の中の霧を晴らしてくれるだろう」

 

 

 そして、話はそれだけだと言って、お父さんは棚からとっておきの洋酒を取り出して美味しそうに飲んだ。

 お祝いごとがあったときにしか開けない、特別なボトルだった。

 

 

 ……やっぱり夏休みは、にゃる君と過ごす時間を増やしてみようかな。

 

 

「でもそんなこと言って先輩、その被検者の男の子がいてくれたら自分がストッパーになる負担が減るとか思ってるんでしょ?」

 

「……それは言わない約束だよ……」



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第15話「陰キャ、バーベキューに行く」

「あら、こんなところで会うなんて奇遇ねハカセ! せっかくだから、今日は私がバーベキューの楽しみ方を教えてあげるわ!」

 

 

 にゃる君の誘いに乗って向かった集合場所で、ありすが腰に手を当てながら胸を反らして待っていた。

 

 

「にゃる君、ちょっと来て」

 

 

 僕はありすを無視して、にゃる君の腕を引っ張って物陰へと連れ込んでいく。

 

 

「おっと、どうした兄弟? 物陰へ連れ込む相手を間違えてるぜ?」

 

「質問に答えてくれ。僕たち先週はどこ行った?」

 

「キャンプ場でカレー作りに行ったなあ。あのトマトカレーは絶品だったな」

 

「そこにありすいたよね」

 

「いたねえ。いやあ去年のクラスのリア充グループに混じって行ったからそりゃいるよな」

 

 

 そうだな。それはわかる。

 

 

「先々週はどこへ行った?」

 

七塚(ななつか)山へ蝉取りに行ったな。いやーセミにションベンひっかけられて大変だった」

 

「そこにありすいたよね」

 

「いやあ奇遇だったなあ、あのときは」

 

 

 そうだな。麦わら帽子にTシャツ短パンのありすも元気で可愛かったな。

 

 

「で、その前の週はどこへ行った?」

 

「潮干狩り行ったなあ」

 

「そこにもありすいたよね」

 

「帰ってから作ったあさりのボンゴレ美味かったよな」

 

 

 そうだな。もう奇遇という言葉すら使わなくなったな。

 

 

「なんでキミの誘いに乗って出かけると、必ずありすがいるんだ?」

 

「運命の導きってやつだろう。いやあ偶然偶然」

 

「どうしてありすは僕を待ち構えてたみたいな感じで先制で声を掛けてくるんだ?」

 

「ありすサンの方が視力がいいからじゃないかな」

 

 

 くそっ、こいつ……絶対に何か仕組んでる……!

 僕が胡乱(うろん)げな目を向けると、にゃる君はふうとため息をつきながら首を振った。

 

 

「おいおい、なんて眼で俺を見るんだハカセ。あのなあ、言っておくけど俺は100%善意でセッティングしてるんだからな」

 

「どういう善意だよ」

 

「だってお前、ありすサンがお前の知らないところでひと夏の間に大人になったらどうするよ」

 

「は?」

 

「夏は誘惑がいっぱいだぜ。ありすサンなんて超美人になることはもう今の時点で目に見えてんだ。ロリコンの大学生とかがナンパしようとウヨウヨ狙ってるぞ。どうするんだよ、知らない間に彼氏とかできちまったらさ」

 

 

 ありすに彼氏。

 いや、関係ない。僕とありすはただの幼馴染だ。

 ありすに彼氏ができたとしても、僕はやれやれこれからはあいつが振り回されるのか、可哀想にとでも言いながらささやかな幸福を祈るだろう。

 ……祈れるのか?

 ありすが知らない間に誰かの彼女になると考えると、何故か胸がざわついた。とてもムカムカする。

 

 にゃる君はそんな僕の顔を見ると、鼻を鳴らしつつバンッと背中を叩いてきた。痛い。

 

 

「だからさ、お前が防波堤になって防げばいいじゃん。いつも一緒にいりゃ、少なくとも知らない間に彼氏ができましたなんてことはないだろ」

 

「……そうか。そうだな」

 

 

 なるほど、だからありすがいるところにレジャーに行こうと誘ってくれているのか。僕はにゃる君の面倒見の良さに感心した。

 

 

「わかった、ありがとうにゃる君」

 

「おう、わかりゃいいってもんよ。お前はありすサンに悪い虫がつかずに幸せ、俺はワンチャン彼女ができるかもしれないし幸せ、悪いことなしだな!」

 

「なんだそれ」

 

 

 おどけるにゃる君に、僕は思わず笑った。

 

 

 

※※※

 

 

 

 というわけで、今日は河原でバーベキューをすることになった。

 電車で郊外まで出かけて、河原で簡単に調理するだけのお手軽クッキング体験だ。

 

 先週のキャンプもそうだが、正直僕には子供だけでご飯を作って食べることの何が楽しいのかよくわからない。飯ごうで芯の残ったご飯やちょっと焦げたカレーを食べるより、家でカレーを作った方が断然おいしいはずだ。

 しかしありすやにゃる君は、そうやって自分たちでご飯を作ったり、みんなで料理しながらしゃべっていることが楽しいらしい。

 やっぱり陽キャの考えることは陰キャの僕にはわからない。

 

 だけど、自然を見るのは好きだなと思う。

 山や川には造形美が溢れている。

 野山に咲く花が好きだ。遺伝子という設計図に従って、同じ大きさの花弁がひとつの花を形作るさまに神秘を感じる。

 川の織り成す三角州が好きだ。流体によって形作られる地形のダイナミズムが僕を驚嘆させる。

 そうした光景は、ずっと街にいては見ることはなかっただろう。

 

 みんなが何やらにぎやかにはしゃいでいる中、僕はひとりそうした自然の美に心を奪われている。

 そしてふと横を見ると、いつの間にかありすがそばにいて、静かに僕と同じものを見つめているのだった。それは僕たちが子供の頃から変わらないスタンスだ。

 ……だが、いつかありすにもいい恋人ができるだろう。そのとき、僕はずっとひとりぼっちで自然の美を見つめることになるのだろうか。

 

 

「あっ、またひとりでぼーっとしてる」

 

 

 そう言って、ありすは電車の中で物思いに耽る僕の鼻をつまんだ。

 

 

「ひゃめろ」

 

「やめなーい」

 

 

 僕は振り払おうとするが、ありすは悪戯っぽく笑いながらしつこく鼻をつまんで遊んでくる。こんにゃろ、それならこっちもお返しでつまんでやる。

 

 

「あー、やめてよー。モデルは顔が命なんだから」

 

「うるさい、読モ風情がいっぱしのモデル気取ってんじゃない」

 

「このっ、ひれ伏せ一般人!」

 

 

 ありすとじゃれ合ってヒマな時間を潰す。こうしてふざけ合っていると、退屈な移動時間も一瞬に感じられるな。

 

 

「ウソみたいでしょう、どっちも付き合ってるつもりないんですよこいつら」

 

 

 僕たちを見ながら、にゃる君が何やら虚空に向かって呟いていた。

 

 

 

※※※

 

 

 

 河原に到着すると、まずは食材の準備をすることになった。

 ありすは火起こし班、僕は調理班に入る。

 

 女子たちに交じって慣れない手つきで食材を切っていく。こんなに不器用で邪魔にならないのかとちょっと不安だが、周囲をよくよく見ると女子たちも手つきが相当ぎこちない。みんな家事を手伝ったりしないんだろうな。

 驚くべきことに、にゃる君がやたら手慣れていた。野菜の皮を瞬く間にするすると剥いていく。

 

 

「にゃる君、料理うまいね」

 

「ん? まあなー、たまに夕飯俺が作ってるし」

 

 

 何でもないようににゃる君は言って、僕の何倍ものスピードで下ごしらえを終えていく。いつもおしゃべりなにゃる君が自分から何も言わないってことは、これは深く聞かない方がいいことなのかな。

 それにしてもグレてた時期も料理を自分で作ってたのか。家庭的ヤンキーやるじゃん。

 

 

「……ありすって、全然料理しないよね。先週のキャンプもそうだったじゃん」

 

 

 野菜の皮を剥いている女子の一人が、唐突にそんなことを言いだした。

 なんだこいつ。

 

 

「いつも自分は指示だけ出してさ、私たちには雑用押し付けて……私らのこと見下してんでしょ」

 

「ちょっと、こんなところでやめなよ……」

 

「今回だってうちらのクラスのバーベキューだったのに、いつの間にか混じってるしさ。しゃしゃり出てきて女王気取りなの、マジムカつくんだよね。男子に混じって火起こししてるけど、何あれ。男に媚び売ってんの?」

 

 

 ありすの統治下にも不穏分子がいるようだ。まあいかにカリスマがあったとしても、誰も彼もが従うわけでもないよな。僕みたいに。

 

 でも、誰かにありすが悪し様に言われるのは無性に腹が立つ。僕がありすに悪口を言うのはいい、でも他人がありすの陰口を叩くのはとてもイライラする。勝手なものだと自分でも思うが、それが嘘偽りない本音だ。僕はダンッと包丁をまな板に叩き付けて、トウモロコシのへたを落とした。

 

 

「ありすの代わりに、僕が料理やってんだよ。それにありすは火起こしの仕事だってしてるだろ。何が不満なんだよ。文句があるなら僕が代わりに聞いてやるから言ってみろよ」

 

「は……!? 何よ、アンタキモッ。いつもクラスの端っこで黙ってる陰キャのくせにさ、何勝手にバーベキューついてきてんの? 誰もアンタなんて呼んでないんですけど?」

 

 

 女子は顔をしかめ、露骨にバカにしたような笑みを浮かべながらキモいキモいと連呼してきた。

 キモいって便利な言葉だよな。理屈を度外視して、一方的に罵れる。だけど、僕を罵倒するならそれじゃ全然だめだ。

 軽い言葉で傷付くような一般的な中学生ならともかく、そんな安い悪意で僕を傷付けようなど笑ってしまう。

 

 

「そういうキミも、誰かに呼ばれたとは思えないけど」

 

「は……?」

 

「キミみたいに誰彼構わず毒を吐くような人間を、好き好んでイベントに呼びたがる人なんていないよ。どうせ一人ぼっちが嫌だから、みんなに混じってついてきたんだろ? 身の丈もわきまえずに他人を見下すなよ、自分がみじめになるぞ」

 

「ア……アンタ……ッ!」

 

 

 女子はギリッと歯噛みするが、周囲は誰もフォローに入ろうとしない。

 さっき彼女を嗜めていた女子も、半笑いを浮かべている。

 ……やだなあ。こんな連中と一緒に飯を食いたくない。

 

 

「はいはいはーい、そこまでー」

 

 

 そこでにゃる君がニッコニコの笑顔でおどけながら、大皿を持ってくるくる回りながら乱入してきた。

 

 

「まあまあ、料理なんか女子がやろうが男子がやろうが味なんて変わりませんって! このにゃるめがちゃーんと下ごしらえしておきましたので! さあさあみんな楽しくバーベキューしましょうよ! ねっ!!」

 

「やだぁ、何その動きー。キモーイ」

 

「へっへっへ、俺はバーベキューの達人ですよ! ほらっ御覧なさい! この超高速鉄串刺し! ふはははははははは!」

 

 

 にゃる君はケラケラと笑いながら、凄まじい勢いで食材を鉄串に刺していく。

 僕と争っていた女子は、ひとりでずかずかとどこかへ行ってしまった。

 

 女子たちからキモイと言われながら、にゃる君は僕にちらりと振り向いてウインクしてくる。

 なんだか自分がとても子供っぽいことをしてしまった気がして、僕は顔を赤らめた。

 

 

 

※※※

 

 

 

 そんなこんなでバーベキューは進み、食材のいい匂いがし始めた。

 みんながジュースの入ったコップを手に、カンパーイ! と斉唱する。

 僕も真似をして小声で乾杯と言っておいた。

 

 

「特別に肉の一番イイところを用意しておいたんだ。ほーれ、食え食え」

 

 

 いつの間にか今回の総料理長的なポジションに収まっていたにゃる君が、さりげなく秘蔵の鉄串を渡してくれる。実に抜け目がない。

 

 

「ありすの分ももらえる?」

 

「おう、あたりきよぉ!」

 

 

 さすがにゃる君、自分で言うだけあってすごく美味しそうに焼けている。

 僕はありすのところに戻ってくると、鉄串から具を外して皿に盛り、鉄串をありすに見えないように背後に隠した。

 

 

「ほら、ありすの分」

 

「ありがと。いつも迷惑かけちゃってごめんね」

 

「好きでやってるから」

 

 

 続いて自分の分を串から外して、同じように鉄串を処理する。

 

 

「わー、肉汁すっごい出てるね」

 

「にゃる君がとっておきって言ってたから、きっと美味しいよ」

 

「ふふふ、ほら。あーんして?」

 

「もう怪我直ったのでしーまーせーんー」

 

「そっか、残念」

 

 

 ありすはそう言いながら、自前の可愛いフォークで野菜を口に運んだ。

 周囲のクラスメイトたちは、キャッキャとはしゃぎながら鉄串から直にかぶりついたり、お皿を手に歓談したりしているようだ。

 その光景を見るとはなしに眺めながら、ありすと並んで僕も肉にかぶりつく。

 

 

「ハカセは新谷(しんたに)君とすごく仲良くなったね」

 

「うん。あいつはいい奴だよ。すごく気配りできるし、料理上手だし」

 

「ちょっと前は不良だったのにね」

 

「そうだね。あの様子を見てるととてもそうは思えないけど」

 

「どうやって仲良くなったの?」

 

 

 横を見ると、ありすが青みがかった瞳でじっとこちらを見つめていた。

 催眠かけました、今もかかってますとは言えないなあ。

 

 

「……悩みを聞いてあげたら仲良くなった」

 

 

 まあ、間違ってもないだろう。警察官を目指す夢に挫折してたようだし。

 

 

「本当に?」

 

「何が」

 

「だってアンタが他人の悩み事を聞くところなんて想像もできないもの」

 

「…………」

 

 

 まあそうだよな。

 僕は根本的に他人に興味がない。

 それは小学生の頃から一緒にいるありすが一番よく知っている。

 

 

「ハカセって、最近すごく大人になってるよね」

 

「僕が? そんなことないよ」

 

「なってるよ。これまで遊びに誘っても絶対こなかったのに、人付き合いしてるじゃん」

 

 

 それはにゃる君を観察するためだ。

 ……いや、お父さんや師匠たちに友達を大事にしろと言われたせいでもあるか。

 

 

「さっき、私が悪口言われてたのにも怒ってくれたよね」

 

「あー……」

 

 

 聞いてたのか、地獄耳め。

 あんなの全然大人じゃないだろ。

 本当に大人になってたら、あんな子供っぽく相手をやりこめようなんてしない。大人っていうのは、お父さんや師匠のことだ。あるいはにゃる君も少し。

 

 ありすはちょっと顔を伏せると、寂しそうな笑顔を浮かべた。

 

 

「すごくいいことだと思うよ。でも、なんだか、ハカセがどっか行っちゃいそうな気がして……」

 

「どこにも行かないよ」

 

 

 僕は語気強く言った。

 勝手なことをいうありすに、ちょっと腹が立っていた。

 

 

「お前の方が先にどっかに行こうとしてるんだろ」

 

「私が? してないよ」

 

「してる」

 

 

 そう言いながら、僕は顔をそむけた。

 あんな大人っぽい服装で読者モデルやってるじゃないか。あんな流し目で僕を見たことなんてあるか。

 最近お前の読者モデル姿を見るたびに、こっちはハラハラしてるんだぞ。

 

 

「してない」

 

「してる」

 

「しーてーなーいー」

 

「しーてーるー」

 

 

 2人でしばしそうやって言い合い、どちらからともなく笑い合った。

 いや、やっぱりまだ同じところにいるよな、これ。

 

 

「ごちそうさま」

 

 

 って、いつの間に食べ終わったんだこいつ。

 僕と押し問答してる間に平らげてしまったらしい。

 くそっ、僕は割と真剣に拗ねてたのに……。

 

 ありすはふふっと悪戯っぽく笑うと、僕に手を差し出してきた。

 

 

「ほらっ、せっかく河原に来たんだし水遊びしようよ」

 

「あーもう、僕はまだ食ってんだよ。なんでも自分のペースで振り回しやがって。お前はいつもいつも……」

 

 

 僕は急いで自分の皿を平らげ、ありすの皿と鉄串を掴んで立ち上がった。

 

 

「ちょっと待ってろよ、すぐそっちに行くから」



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第16話「悪い子がネギをしょってきた」

「どうも最近空気が悪い。お前も気を付けろよ」

 

 

 秋も深まったある日の放課後、帰り支度をする僕ににゃる君が言った。

 

 

「……?」

 

 

 僕はクンクンと鼻を鳴らしてみたが、いつも通りの教室の臭いだ。

 

 

「そういうこっちゃねえよ」

 

 

 にゃる君は苦笑を浮かべながら頭を振った。

 

 

「最近、女子の間でいじめがエスカレートしてるらしい」

 

「へえ」

 

 

 僕にはあんまり関係なさそうな話だな、と思う。

 

 にゃる君は顔が広く、あちこちのグループに出入りして半構成員のような扱いになっているので人間関係に詳しい。明るくて何かと気が利く便利な人材なので、どこからも引っ張りだこなのだ。

 

 しかし一番一緒にいるのが僕というのが不思議でもある。確かに催眠で結果的に幼馴染という暗示を植え付けもしたが、それももう半年も前の話だ。僕は自他と共に認める陰キャで、とてもつまらない奴だと思う。半年一緒にいれば、僕という人間の底も見えて離れていくのが当たり前だろうに、変わった人だ。

 

 そんなにゃる君は、あちこちで集めてきた噂話を話してくれる。本来顔も名前も知らない人たちの話題にあまり興味もないのだが、僕は僕で最近改良が終わった催眠アプリ2号の被験者を求めているので、ありがたく聞くことにしていた。

 

 

「いじめがエスカレートって、どんな感じ? 殴ったり蹴ったりするの?」

 

 

 にゃる君が僕にやったみたいに、とは言わない。あのときのことはにゃる君にとって辛い記憶になっているようで、今でも思い出すと吐きそうな顔をする。

 下手に触れて催眠が解けてしまっても困るし、触れないに限る。しかし半年も経つのにまだ解けないとは、この催眠本当に強いな。

 

 

「いや、いじめといっても女子だからな。そんな直接的な暴力はない。その代わりエグいが」

 

「エグい」

 

「金を持ってこさせるらしい。親の財布から抜かせたりとか、下級生を恐喝したりとか」

 

「なるほど」

 

「あとは先公相手にエンコーしたりとかな。まあ、そっちはもう使えないらしいが。ほら、この前化学のオレンジが退職しただろ?」

 

「……?」

 

 

 知らない。果物の名前とは珍しい名前の人だな。

 もしかしたら授業を受けたのかもしれないが、僕は教師の名前を覚えていない。僕が名前を覚えたのはミスターMとEGOさんだけだ。

 

 

「うん、まあ、退職したんだよ。それの原因がその女子のいじめグループからエンコーの現場を掴まれて、脅迫を受けたかららしくてな」

 

「へえ。そんなことして生徒の側も問題にならないの?」

 

「グループのリーダーがPTAだか教育委員会だかのお偉いさんなんだと。オレンジのロリコン野郎が生徒に手を出したのは本当だしな」

 

 

 へー、権力がある人の子供だとそんなに優遇してもらえるのか。

 

 

「お前も注意しろよ、ハカセ。お前はまあ一種の聖域みたいなもんだからみんな手を出さないけど、追い詰められた奴は何にでも見境なく噛みつくからな」

 

「ああ、なるほど。忠告してくれてたのか」

 

「そういうこと。お前はぼーっとしてて、ガード緩そうだからな」

 

 

 僕はそんなにぼんやりして見えるのだろうか。

 割といつでも何か真剣に考えている気がするのだが。僕はただ疑問があればそれに何らかの答えが出るまで思考や計算を続けているだけなのだ。

 

 そういえば、観察の一環として疑問を解決しておこう。

 

 

「にゃる君は何で僕と一緒にいてくれるの?」

 

 

 割と唐突だったかな。

 最近にゃる君と話していて、僕の話は脈絡がないと指摘されるようになった。僕の中では割と筋道立っているのだが、にゃる君にはその筋道がわからないそうだ。しかしにゃる君も最近は徐々に僕の考えを読んでくれるようになった。にゃる君のコミュ力の成長を感じる。

 

 

「んー? 今ここにいる理由じゃなくて、お前との付き合いの話か?」

 

「うん」

 

「そりゃお前、幼馴染だし……俺が立派な警察官になるところを見せろって言われたからな。それに」

 

「それに?」

 

「お前といると楽だよ。下手におどけて笑いを取らなくても、元不良の怖い奴なんて思われずに済むし。フラットな俺でいられるからな」

 

 

 なるほど。にゃる君がやたら三枚目として振る舞おうとするのは、自分が恐れられることへの恐怖心の裏返しなのか。確かに僕は不良のときのにゃる君に散々殴る蹴るされたから、今更怖がるも何もないな。

 

 

「納得した、ありがと」

 

「おう。……お前も大変だな。そんなに理詰めで物を考えて疲れないか? 普通の中学生はもっと感覚的なもんだぜ」

 

「僕も感覚を大事にしてるつもりだけどな」

 

「いや……普通はもっと何も考えてないもんだよ。まあ、そんなお前だから俺も安心できるんだが」

 

 

 まるで僕が人の皮を被ったロボットみたいなことを言う。

 彼の中では僕がどう見えているんだろう。

 

 にゃる君は答えるだけ答えると、柔道部に行ってしまった。遅刻に厳しいらしい。

 今度覚えていたら聞いてみようか。

 

 

 

※※※

 

 

 

 さて帰ろうかと帰宅の途についたところで、僕は見知らぬ女子に呼び止められた。まあ見知らぬ女子と言っても、ありす以外は全員知らない子だが。

 僕と同じ学年章を付けているので、同学年なんだろう。

 彼女は何やら切羽詰まった様子で僕にすがり付いてきた。

 

 

葉加瀬(はかせ)くん、助けて!」

 

 

 僕はきょろきょろと周囲を見渡してみたが、彼女が何に恐怖しているのかわからない。包丁を持った殺人鬼や狂犬でもいるのかと思ったのだが。まあそんなものが放課後の校内をうろついてるわけもないか。

 

 女子は僕の腕にぎゅっとしがみついている。

 伸ばした黒髪を三つ編みにした小柄な子で、陰キャの僕が言うのもなんだが性格はちょっと暗そうだ。胸を僕の腕に当てているが……ありすより小さいな。

 

 

「何から助けるって?」

 

 

 僕が冷静だからか彼女は一瞬何か予想が外れたような顔をしたが、「ちょっとこっちに来て」と空き教室に引っ張りこまれた。

 

 そして僕の目をじっと見つめながら、彼女は泣きそうな目で訴えかけてくる。

 

 

「私、どうしても今日中にお金が必要なの」

 

「そうなんだ。親御さんに借りれば?」

 

「親になんて言えないよ! お金を持って来いって命令されてるの! もう親の財布からも何回もお金を抜いたからこれ以上できないし、お金を持ってかなかったらあいつらに何をされるか……!」

 

 

 ……ああ、なるほど。

 これはさっきにゃる君が言っていたいじめグループってやつか。

 

 

「いじめられててお金が必要なの?」

 

 

 僕が知っているとは思わなかったのか、彼女は少し怯んだ様子を見せた。しかしすぐに気を取り直したのか、勢い込んで僕の手を握ってきた。

 

 

「そうなの! もう頼れるのは葉加瀬くんしかいないの……お願い! 私を助けて!!」

 

 

 いや、僕しかいないってことはさすがにないだろ。

 もっと金持ってそうな奴クラスにいると思うよ?

 

 

「悪いけど、返ってくる見込みがないお金は貸せないな」

 

 

 僕が答えると、彼女はセーラー服のスカーフをほどき、胸元を少し覗かせてきた。

 

 

「貸してほしいわけじゃないよ。ほら……お金くれたら、何でもしていいよ」

 

「えっ! 何でもいいの!?」

 

 

 僕の反応に彼女は気を良くしたのか、何やら笑顔を浮かべた。

 

 

「うん、何でもいいわよ。あまりハードなのは別料金だけど……とりあえず今切羽詰まってるし、今日は初サービスで2枚でいいから」

 

「2枚?」

 

「ほら、わかるでしょ……諭吉さんだよ」

 

 

 なるほど、2万円払えば何でもさせてくれるのか。

 これはいい。願ってもない話だ。

 

 被験者が自分の方から2万払えばその後の賠償金一切なしで催眠していいと持ち掛けてきてくれるなんて、こんな条件のいい治験は滅多にない。

 

 僕は財布から2万円を抜き取り、彼女に渡した。

 彼女は満面の笑みを浮かべて金を受け取り、ポケットに収める。

 契約成立だ。もう待ちきれない!

 

 

「あんがと。じゃあ今日は2枚だし、お口で……」

 

 

 何か言おうとしていたようだが、僕は構わずスマホを彼女の鼻先に突き付けた。

 

 

「催眠!」



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第17話「CASE2:いじめグループの根暗ちゃん」

「……効いたかな?」

 

 

 立ち尽くしたままぼうっとなった女子の顔先に指を持っていき、何度か振ってみて眼球運動を確かめる。

 反応がないな……にゃる君のときと同じく無事催眠状態にかかったのだろう。

 

 

「うーん、やっぱり効くよなあ。なんでミスターMが作ったのは失敗したんだろう」

 

 

 ミスターMが作ったアプリをもらって分析してみたいところだ。

 まあお互いそれはしないと約束しているが。

 

 さて、催眠アプリ試作第2号のコンセプトは『純化』だ。素材からさらにノイズを消去して、催眠強度を上げることを目指している。

 これならにゃる君のときよりもさらに強い催眠が可能になっているはずだ。

 

 にゃる君のときは不良から好青年に変化させたわけだから、それ以上となると価値観をまるっきりひっくり返して真逆の人間に変えるくらいは挑戦したい。

 お金を払えば何してもいいと本人も言っていたことだし、遠慮なくやらせてもらおう。

 

 さて、まずは彼女がどういう価値観を持っているのかを知るために、いろいろと訊かせてもらおう。

 無抵抗な彼女を椅子に座らせて、情報を聞き出していく。

 

 

「まず、キミの名前を教えてください」

 

佐々木(ささき)沙希(さき)です……」

 

「ささきさき。ささきさき、ね」

 

 

 口の中で何度か転がしてみる。割と特徴的で覚えやすい響きだが、やっぱりちょっと覚えきれないな。

 何かあだ名を付けよう。

 

 

「『さ』が3回も入ってるし、『ささささん』って呼びますね」

 

「はい……あだ名は『さささ』です……」

 

 

 ささささんは寝言を口にするかのようなとろんとした口調で頷いた。

 催眠は順調に効果を発揮しているようだ。

 

 

 とりあえずにゃる君のときと同じように将来の夢とか聞くのがいいのだろうか。

 

 

「ささささんの将来の夢はなんですか?」

 

「お金持ちで顔が良くて性格がいい男のお嫁さんになって、不自由なく贅沢して暮らすことです……」

 

 

 なかなかパンチの効いた回答きたな。

 僕もいまいち詳しくないけど、14歳ってもっとキラキラした夢を抱いているものなんじゃなかろうか。いや、まあ金色にキラキラしてると言えなくもないが。

 とりあえずこっち方面の切り口はやめよう。

 

 いじめグループに入ってるって言ってたな。こっちから攻めてみるか。

 

 

「ささささんは女子グループでいじめを受けていますか?」

 

 

 するとこれまで穏やかだった表情が、にわかに苦しそうなものになった。

 これは要注意だな。あまりストレスをかけると催眠が解けるかもしれない。催眠強度を試せるチャンスだが、せっかくなので維持する方向でいこう。

 

 

「はい……お金を持ってくるように強制されています……。持ってこないと、顔に落書きされたり、嫌いな男子に告る罰ゲームをやらされます……。嫌なのでお金を持っていきます……」

 

「嫌いな男子は誰ですか?」

 

「同じクラスの葉加瀬(はかせ)です……」

 

 

 僕かよ!?

 やっぱ陰キャなのが悪いのだろうか。こっちはクラスの隅っこで静かに暮らしているだけの無害な生き物なので、一方的にヘイトを寄せないで欲しい。

 参考までに一応聞いてみるか。

 

 

「何故葉加瀬くんが嫌いなのですか?」

 

「大嫌いな天幡(あまはた)ありすといつもイチャイチャしているからです……。陰キャのくせに、あいつだけ報われているのが気に入りません……。夏休みにバーベキューで恥をかかされたのも屈辱です……」

 

 

 イチャイチャなんかしてねーし。この子は何か思い込んでいるようだ。

 しかしバーベキューということは……。そういえば下準備しているときにありすの悪口を言った奴がいたので何か言い返したような気もする。この子だったのか。

 

 それにしてもありすが大嫌いというのは見逃せない。ありすに害を与えるのなら、何かしでかす前に排除する必要があるだろう。

 

 

「ありすさんが嫌いなのは何故ですか?」

 

「可愛くて頭がよくて、いつも自信たっぷりにキラキラしているからです……。私もああなりたいのに……理想の自分を見せつけられて自慢されているようで腹が立ちます……」

 

 

 なるほど、嫉妬か。

 眩しい存在は人を惹きつけると同時に、憎悪もまた引き寄せるというわけだ。

 ありすも大変だな……。

 

 

「それに、私がいじめられるようになったのも、あいつのせい……」

 

「詳しく聞かせてください」

 

 

 ささささんが語るところによれば、去年の新学期すぐには彼女はありすの取り巻きにいたらしい。スクールカーストの上位に紛れ込めたとほくほくしていたのも束の間、彼女は僕の悪口を言ったことが原因でありすの不興を買い、取り巻きから追放されてしまった。

 

 行き場をなくした彼女は別のスクールカースト上位のグループに潜り込んだのだが、そこは性悪な女子たちが支配するいじめグループだったらしい。

 当初は彼女も他人を蹴落としていじめる側だったのだが、次第にパワーバランスが変化して自分がいじめられる側になってしまったのだという。

 

 

「ありすさえいなければ、私の生活はもっときらめいていたのに……」

 

「なるほど」

 

「だから葉加瀬を誘惑して、仲を引き裂いてやりたかった……」

 

 

 ……僕の悪口を言ってありすの不興を買った? 全然記憶にないのだが。僕の知らないところでそういうことがあったのか。まあ、そもそも僕は他人の悪意に超鈍感なので、僕が忘れてしまっているだけでそういうこともあったのかもしれないな。

 

 

 しかしまあ何というか……この子自分がいかにもありすの被害者みたいな口ぶりをしているけど、この子自身も相当な性悪だと思う。なんかありすの悪口を言うときイキイキして楽しそうだし。僕を誘惑する云々は意味がよくわからないが……。

 ともかくありすの身を守るためにも、この子は何とかしないといけないな。それがどれだけ大手術になろうとも。

 

 

「キミは他人の悪いところを見つけるのが得意のようですね」

 

「はい……そうかもしれません……。他人の粗探しをしていると、自分が相手より上になった気がして気分がよくなります……」

 

「それにネガティブな思考も多いようです。本当は自分が嫌いなのでしょうか」

 

「はい……自分のことは嫌いです……。自分はみじめで最低の女だと思っています……。毎晩自殺することを考えています……」

 

 

 他人に対する観察力が良くも悪くも高いのは、彼女の特性なのだろう。他人にまったく興味がない僕には想像もつかないが、これは使えそうなネタだぞ。

 

 随分と心の闇を聞かせてもらったが、メスを入れるならここだろう。

 頼むぞ、催眠アプリ!

 

 

「キミは今日から他人の悪いところよりも、良いところを探すことの方が楽しく感じられるようになります」

 

「良いところ……でも……」

 

 

 抵抗されているな。価値観を直接上書きするにはまだ催眠強度が浅いか。

 だがにゃる君にやったように、うまいこと話の流れをコントロールできれば。

 

 

「他人の良いところを見つけるたびに、キミは自分のことをひとつ好きになれます。他人の長所を見つけられることは、キミの素晴らしい長所だからです」

 

「私の……長所……良いところを見つけられること……」

 

「そうです。そして他人の良いところが発揮されるのを見守ったり、埋もれている魅力を開花させる手伝いをするのが好きになります。それがキミが自分を好きになれるためにも大切なことだからです」

 

「……はい……。他人の良いところを手伝う……自分を好きになる……」

 

「キミが自分を好きになるほど、ネガティブなことは考えなくなります。どんなことでも前向きに捉えて、良い点を無意識の中で見つけようとします」

 

「わかりました……」

 

 

 よしよし、いい感じだぞ。

 これがうまくいけば、彼女は根暗でひがみっぽい性格が裏返って明るく親切な性格になるはずだ。

 あとは何か、催眠が効いたという見た目にわかりやすい指標がほしい。

 

 

「とりあえずイメチェンしましょう。自分が魅力的だと感じるので、キミはおしゃれをしたくなります。それから、言葉遣いも変えて、よく笑うようになります」

 

「はい……オシャレと言葉遣い……笑う……」

 

「試しに笑ってみてください」

 

 

 僕がそう言うと、ささささんはにこっと微笑んだ。

 邪気が抜けていい感じだ。さっきの悪口を言ってるときの性格の悪い笑顔とは全然違うな。

 

 

「その笑顔は魅力的ですね。これからはそうやって笑いましょう」

 

「わかりました……」

 

 

 ささささんは夢うつつでそう答え、穏やかな表情を浮かべた。

 ああ、それから……。

 

 

「では、いじめグループも抜けましょう。そこはもうキミにはふさわしくありません」

 

「……っ」

 

 

 僕がそう命令すると、ささささんは苦しそうな表情を見せた。

 抵抗されている。

 

 

「何か抜けられない理由がありますか?」

 

「抜けたら……制裁される……ひどいことされる……抜けられない……」

 

 

 なるほど。

 にゃる君はリンチを恐れずに不良グループから抜けたが……ささささんはそこまで心が強くないということか。

 

 このままだと何も変わらないな。

 仮にこの子が良い子になったとしても、いじめグループの沼に引きずり込まれたらいずれまた元通りになるだろう。

 根腐れた植物を救うには、まず土から入れ替えなければ。

 

 

「わかりました、すべて僕に任せてください。解決してあげましょう。まずはいじめグループの人たちの名前を、ここに書いてくれますか?」



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第18話「陽キャクラスチェンジ」

「ハカセ、知ってるか? いじめグループのリーダー格、みんな転校したらしいぞ」

 

「……へーそうなんだ」

 

 

 一夜明けて学校に来ると、クラスが騒然となっていた。

 複数のクラスに渡ってはびこっていたいじめグループが壊滅していたのだ。

 

 

「なんでも親に自分がこれまでしてきた悪事を洗いざらい白状して、何としても罪を償いたいって言ったらしい。これまで虐めてきた子に電話口で謝罪したんだと。修道院があるミッションスクールに転校して、そこで悔い改めるそうだ」

 

「そっか、これで平和になるね。よかった」

 

 

 言うまでもなく僕の仕業である。

 

 やると約束したからには、その日のうちに全部終わらせた。

 昨日のうちにいじめグループの女子全員に催眠をかけてやったのだ。

 彼女たちはカラオケルームの一室で遊びながらささささんからの上納金を待っていたので、まとめて催眠できたのはラッキーだった。

 

 内容自体は大した催眠ではない。

 

 自分がやったことへの罪悪感を膨れ上がらせ、自殺以外の形で自分を裁くように誘導してやっただけのこと。

 人を裁くのにわざわざ手を汚す必要はない。自分という裁判官の裁きからは何人も逃げられず、執行は的確に行われる。その強力さは、にゃる君が既に実証済みだ。

 

 ただ、まさか全員転校してしまうというのは予想してなかったな。

 本当は彼女たちからもデータを取れるかとウキウキしていたのに、手の届かないところに行かれてしまった。これは大失敗だった。次はうまくやろう。

 

 まあ複数の相手にもまとめて催眠をかけられるのがわかったのは収穫だったかな。

 

 

「なあ、ハカセ……お前……」

 

「何?」

 

 

 にゃる君は何か言いたげだったが、いやと首を振った。

 

 

「何でもない。お前には動機もないしな」

 

「ふふっ、変なにゃる君」

 

 

 ……気付かれた? いや、まさかね。

 僕と今回の一件を結びつけるものはないはず。

 

 

「おっはよー!」

 

 

 誰かが教室に入ってきて、明るい口調で声を上げた。

 周囲のクラスメイトがざわついている。

 

 興味もないので無視していると、声の主はつかつかとこちらに近付いてきて、パーンと僕の背中を叩いた。

 

 

「いてぇ!?」

 

「やあ、ハカセくん。今日も頭よさげになんか考えてるね」

 

 

 振り返ると、茶髪をボブカットにした快活そうな女子が、ニカッと無邪気な笑顔でこちらを見ていた。カーディガンを腰に巻き、スカートはやや短め。

 

 

「……誰?」

 

「アタシだよ、さささ! えー嘘、わかんないかなあ。昨日イメチェンしてみたらって言ったじゃん。どう? 似合う?」

 

「別人みたいになった」

 

「なんだよーもう。オシャレし甲斐がないなー、女の子に嫌われちゃうぞー?」

 

 

 そう言ってささささんは僕のぼさぼさの髪に手を置き、乱暴に撫でて楽しそうに笑った。なんなんだ、距離近いぞ。

 

 

「えぇ、これ佐々木(ささき)? 何があったんだよ……」

 

「おっ、新谷(しんたに)ちゃんもおはよ。相変わらず筋肉キレてんじゃん。ひゅーひゅー」

 

 

 絶句するにゃる君の胸板を、ささささんがぽんと叩いて笑っている。

 その後も自分の席につくまでクラスメイト一人一人に挨拶しながら、彼女はその人のいいところをひとつずつ褒めて回っていた。

 

 なるほど、こういう感じになったか。

 

 

 昨日までは根暗を絵にかいたようなひがみ精神の塊だったささささんの突然の変貌に、当初はみんな驚きを隠せないようだった。だがいじめグループが消滅した事件の衝撃の方が大きく、ささささんのイメチェンはそれほど話題にはなることはなかったようだ。

 

 明るい態度で積極的にみんなに声を掛けて回るニューささささんは、やがて日常のひとコマとして受け入れられ、いつしか最初からそうだったかのようにクラスに溶け込んだ。

 思春期に大きくイメチェンすることなんてよくあることだ。

 

 いじめグループが消滅したことでクラスのパワーバランスもまた変動し、ささささんは新たに浮上した女子グループに加わった。その中には以前ささささんがいじめた女子もいたらしいのだが、真剣に頭を下げて許してもらったということだ。

 

 

「最初からこうやって謝っときゃよかったよね。真剣に目を見て話せばわかってくれないことはないと思うし。やっぱり真心って大事だなーって思うわけ」

 

「……それで、何でここにいるの?」

 

 

 新しい女子グループに入ったはずのささささんだが、何故か休み時間ににゃる君と話しているとフラフラと混ざりに来るのである。もう女子仲間からいじめられる心配もないのだから、そっちと交流を深めればいいと思うのだが。

 

 

「えー、いいじゃんか。同じクラスメイトでしょ? 仲良くしようよ」

 

 

 まあ観察は捗るから悪いことじゃないんだけど。

 別ににゃる君と違ってそばにいるように命令をした覚えもないのに、向こうから寄ってくると何かあるんじゃないかと疑ってしまう。元が元だし。

 

 

「いや、それよりあれ……」

 

 

 にゃる君が何やら震えているのでそちらの方を見てみると、ありすが教室のドアの陰に隠れてこちらを窺っている。

 目が合うとフーッと威嚇してきた。

 

 ……何やってるんだあいつ。

 

 そういえばささささんはありすが嫌いなんだったな。

 喧嘩でも始まるんじゃないかとハラハラしていると、ささささんがチッチッチッと小動物を手なづけるときのように口を鳴らした。

 

 

「ありすちゃーんおいでおいでー。私は敵じゃないよー」

 

「フシャーーーー!」

 

 

 手なづけるときのようにどころではなく、完全に小動物を相手にしていた。

 なんか警戒しているのか、ありすは近付いてこようとしない。

 今まで見たことのない反応だな……。

 

 じーっとこっちを恨みがましそうな目で見ているありすの視線に、なんだか僕が悪いことをしているような気分になってしまう。

 

 

「じゃあこれでどーだ」

 

 

 突然ささささんが後ろから僕の頭に手を回してきた。何やら柔らかく温かいものがかすかに後頭部に触れる。えっ、何してるのこの子。

 

 

「あーーーーー!!」

 

 

 ありすは声を上げると、すごい勢いで走り寄ってきて、ひったくるようにして僕を抱き寄せた。

 先ほどよりももっとボリュームがあって柔らかい感触に顔を包まれる。

 

 

「アンタ何してんのよ! ハカセもデレデレして! もう! もう!」

 

「デレデレなんてしてない……」

 

「じゃあ抵抗しなさいよ!」

 

 

 ありすはぎゅーっとすごい力で抱きしめながら、理不尽なことを言った。

 むしろ痛くて仕方ないのでお前に抵抗したい。

 

 

「ありすちゃんは変わんないなー。相変わらずキラキラしてるよね」

 

「アンタ誰よ! 見たことないわね……転校生?」

 

「佐々木だよぉ。去年同じクラスだったじゃん」

 

「……沙希? うそ、なんかえらくイメチェンしたわね……」

 

 

 ありすは僕の頭を抱きしめながら、訝し気な声をあげた。

 ささささんはふふっと小さく笑っている。

 

 

「そこのハカセ君がオシャレした方がいいよって言ってくれたからね」

 

「……何よハカセ、私にはそんなこと言ったことないくせに」

 

「僕が何か言わなくてもありすは十分オシャレじゃないか」

 

 

 ありすの抱擁から何とか抜け出し、息ができるようになったのでそんな文句を言う。すごくいい匂いがした。

 にゃる君が「わかってねえなあ」と呟き、肩をすくめる。何をだよ。

 

 

「まあそんなに警戒しなくても、無理やり奪うつもりはないから安心してよ。私もありすちゃんに恨まれたくないもんね」

 

「……本当ね? 裏切ったらタダじゃすまないわよ」

 

「本当だって。アタシにとって、ありすちゃんはお陽さまだもん」

 

 

 そう言いながら、ささささんは僕にウインクした。

 

 

「もっとも、私もハカセくんのおかげでお星さまくらいには自分を好きになれたかなって思うけどね?」

 

「……むーーーー!」

 

 

 ありすがまた僕を強く抱きしめてきた。

 うう、暖かくて柔らかいものの海で溺れそうだ……。あと後頭部がギシギシ言ってるのですぐにやめてもらっていいですか。

 

 

「なんだろう、なんか羨むべき状況なのに微妙に羨ましくないな……」

 

 

 にゃる君も頭蓋骨が(きし)むくらい抱きしめられたら僕の気持ちがわかるよ。

 これ完全にお気に入りのテディベアを取られまいとする幼児みたいな遠慮のなさだもん。あっ、そろそろ酸素キツイ。肺の中の空気が全部ありす由来に置換されそう。

 

 助けてと必死にハンドサインを送ると、にゃる君はため息をついて言った。

 

 

「……とりあえず週末この4人で遊びに行くか!」



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第19話「師匠たちは今日も胃が痛い」

「というわけで新しい被験者に催眠をかけて正反対の性格にできたんですけど、ついでに催眠かけた数名はどっか別の学校に転校しました」

 

「……そっかぁ、逃がしちゃったんだぁ」

 

「久々に衝撃情報きたなこれ……」

 

 

 僕の報告に、ミスターMとEGOさんは深く苦悩するかのような声を上げた。

 さすがは師匠たちだ。僕の報告から早くもアプリの発展に関する検討を始めているのだろう。

 

 

「え、その子たちどこ行ったの? 行き先本当にわからないの?」

 

「なんか修道院付きのミッションスクール行ったらしいですよ。催眠をかけた通り、自分の罪を償うそうです」

 

「すっごい他人事(ひとごと)みたいに言うなあ……」

 

 

 実際他人事である。

 もう僕の管理の外に行ってしまったわけだし、別に無理して追う気にもならない。催眠アプリ試作第2号の効果を検証するのならささささんさえ近くにいればいいわけだし。追ったところで別の学校にいるのでは、僕が監視することもできない。

 僕がそう言うと、ミスターMはうーむとうなり声を上げる。

 

 

「いや、それはそうだが……私が危惧しているのは、その子たちから催眠アプリの存在が漏れるかもしれないという可能性だよ」

 

「大丈夫じゃないですか? 彼女たちには『自分がしたことの罪の重さを深く認識したので、自殺以外の方法で罪を償う』って暗示をかけましたから。催眠アプリのせいで改心しましたとは言わないと思います」

 

「ううむ……。それならまあ大丈夫か? しかし周囲の大人が、明らかにおかしいと気付くだろう。ひとりならまだしも関係者がいきなり一斉に改心だぞ?」

 

「ですが先輩、考えてもみてください。もしおかしいと思ったとしても、そこから催眠アプリのせいだと考える人なんていると思います?」

 

 

 EGOさんの言葉に、ミスターMはなるほどと頷いた。

 

 

「まあ確かに、突然心変わりしたとしても別の要因を考えるか。通りすがりの宗教家に洗脳されたとでも言われた方がまだ信じられるな」

 

「催眠術なんてまだまだオカルトと思われている分野ですからねー」

 

 

 よしよし、師匠たちがそういうのならやっぱり安心だな。

 

 

「私もいまだに催眠アプリなんてものが存在していることが信じられんくらいだからな。こちらでも試作を重ねてはいるが、まだ催眠にかかったという有意なデータは取れていないしなあ」

 

 

 ミスターMはそう言ってから、少し語気を強めた。

 

 

「しかしひぷのん君、今後は自分で管理できない範囲に被験者を置くような行為は絶対に慎まなくてはいけないぞ。催眠をかける前に、その後どうなるかを想像するんだ。催眠アプリの存在が世に知られれば、必ず悪用しようとする人間が現れる。ヤクザや犯罪者は喉から手が出るほど欲しがるだろうし、最悪政府に身柄を拘束されて二度と陽の光を見れなくなっても文句は言えないぞ」

 

「わかりました。これからは気を付けます」

 

 

 なるほど。そういえば昔EGOさんが催眠アプリが実在していれば必ず政府が管理下に置いてるはずって言ってたな。正直政府が僕を捕まえにくると言われてもピンとこないんだけど、ミスターMの忠告なら気を付けよう。

 僕はありすに無理やり土下座させるまで、捕まるわけにはいかないんだ。

 

 

「わかってくれたのならいいが。キミが手にした力は本当に巨大なものなんだ。人間の心や記憶を気軽に弄れるなど、人が持つには過ぎたる力なんだよ」

 

「本当ならこの子にだけは絶対に握らせてはいけないものなんでしょうけどねー」

 

「そんなこと言ったって、現状ひぷのん君にしか作れないものなんだから仕方ないだろ!? 取り上げてもどうせ自分でまた作り出すんだ、この子は!」

 

「ええ、作りますけど?」

 

 

 当たり前じゃないか。ありすを土下座させるという目的は、最早僕の中で執念になりつつある。

 

 

「ほら見ろ……! だから私たちがちゃんとコントロールしなきゃいけないんだ」

 

「何で私たち、たった2人で世界を破壊するモンスターを封印するような巨大な使命を担っちゃったんでしょうね……?」

 

「お前が子供の個人情報を丸裸にしてからかうような悪趣味な悪戯をしたからだよ!」

 

「私的には青少年補導員のつもりだったんですけどー! 善意のボランティアなんですけどー! 結果的に世のためになってるじゃないですか、まさに今!」

 

「ああなってるよ畜生、俺を巻き込まないでほしかったなあ!!」

 

 

 あっ、また師匠たちがケンカを始めている。

 こういうときは……!

 

 

「やめて! 僕のために争わないで!!」

 

「「マジでお前のせいなんだよなぁ……ッ!!」」

 

 

 僕が定番のジョークを言うと、師匠たちはすぐやめてくれるのだった。

 最近はこのやりとりも最早プロレスのようになりつつあるな。

 

 あれ、そういえば。

 

 

「僕、復讐したい幼馴染に高校は同じところに行くように言われてるんですよ。市内にある学校で全国偏差値65くらいなんですけど」

 

「ほう」

 

 

 つい先日、ありすが僕のところに来て、指を突き付けながら言ったのだ。

 

 

「アンタ、高校は私と同じところに行くわよね! 首に縄を付けてでも来てもらうわよ!」

 

「当たり前だろ。僕から逃げられると思うなよ」

 

「えっ……う、うん」

 

 

 僕が即答すると、ありすは顔を赤くして何やらもじもじし始めた。

 無理やり土下座させるのだから、僕の目の届かないところに行かれては困るのだ。ただそれだけの話なのに、一体どうしてそんな顔をするかな。無意味に可愛さを振りまくんじゃない、復讐心が鈍るだろ。

 

 ともあれそういう感じにサクッと進学先を決めたのだ。

 

 

「ああ、いいじゃないか。ひぷのん君ならそれでも低いくらいだろう?」

 

「進学校なら自然と風紀も良くなるでしょうしね。何せこれまでの話を聞く限り、彼の中学はなかなかの極限状態ですから……」

 

「えっ」

 

 

 予想外のことを言われて、僕は目を瞬かせた。

 

 

「僕の中学ってそんなに風紀悪いんですか?」

 

「……ひぷのん君、普通の中学校はひとりの女生徒の命令でクラス全員が一丸となってリンチしたり、不良が朝っぱらから暴行を加えたり、いじめグループが組織的に援助交際したり、教師を脅して退職に追い込んだりはしないんだよ?」

 

「暗躍して催眠かける子も潜伏してますしね。やばいですよこの学校……教育委員会は仕事をしてほしいです」

 

 

 なるほど。僕の中学校はかなりの荒れ模様だったのか。

 ん……?

 

 

「よく考えたら、それって全部僕の関係者の仕業なのでは……?」

 

「……」

 

「……」

 

「高校では大人しくしたまえよ!?」

 

 

 むしろ僕がみんなを大人しくさせたわけで、そこは褒められてもいいんじゃないのかなあ。

 ありすもクラスを扇動して暴れさせたのは最初の1回だけで、今は大人しくしている。相変わらず取り巻きは引きつれているのだが。彼女らはありすがいなくなったらどういう高校生活を過ごすんだろう? まあ興味もないが。

 あ、いや。これは他人事じゃないぞ。

 

 

「そうだ。それですよ、僕が相談したかったのって」

 

「ん? 高校受験に不安でもあるのかね?」

 

「いえ、まあ僕は国語と歴史がまるでダメですけど、受験では歴史は選択科目にできるらしいのでそこまででは」

 

「では他に問題でも?」

 

「おうちの経済状況とか?」

 

「いえ、高校って被験者も連れていかないとダメですよね。近くで観察するんだし」

 

「あ、うん」

 

「それは……そうだね」

 

「にゃる君とささささんの成績がかなりひどいんですけど、どうしたらいいんでしょう」

 

「…………」

 

「…………」

 

「にゃる君は塾に通ってるのに全国偏差値47しかないんです」

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 ミスターMとEGOさんはしばらく無言になった。

 何か名案を考えてくれているんだな。

 

 

「47か……普通の高校なら十分だが、進学校となると要努力だな。そうすると……キミが個別指導してあげるほかないんじゃないか……?」

 

「いえ、待ってください先輩。この子どう見ても閃き型の天才ですよ。他人にものを教えることが致命的にヘタクソな人種です」

 

「もしかしたら奇跡的に教える才能があるかもしれんだろう!?」

 

「そんなわけないでしょ! この子のレポート読めばわかるでしょうに! 私はよくわかってますよ、この子が書いたソースコード何度も受け取ってるから! はっきり言うとこの子がちょっと気合入れて書いたものは、複雑すぎてブラックボックスになりかけてるんですよ! 基礎から教えた私ですら解読に時間を要するんですからね!」

 

「えっ、そこまでなの?」

 

「EGOさんの教えを受けながらお恥ずかしい限りです」

 

 

 芸術的に美しいEGOさんのソースコードに比べると、僕が作るコードはスパゲティもいいところだ。書いてる途中でついついここの記述は省略できるのではないかとか、新しい機能を盛り込めるのではないかとか、その場で思いついたことをいろいろ試して複雑にしてしまうのだった。

 

 

「でも、発注した仕様は完全に満たしてるんですよね。共同開発してるんだから、今度からもうちょっとわかりやすく書いてね……?」

 

「はい、わかりました」

 

「いやバイトの話はこの際いいんだけども。そうなると……どうしたもんかなあ」

 

「あとは……勉強会ですかねぇ。まあ学生の定番イベントですよね」

 

「勉強会」

 

「おや、知らないかな? 誰かの家とか図書館とかに集まって、わからないところを互いに教え合いながら一緒に自習をするんだよ」

 

 

 へえー、普通の学生ってそういうことをするのか。

 

 

「勉強会なあ……あれは意欲がある子が集まれば効果的だが、意欲がない子が混じると逆に遊んでしまって足を引っ張らないか?」

 

「とりあえずやってみたらいいんじゃないですか。まあ、そもそもその被験者の子たちの意思を無視した話ですし。いくら催眠にかかって友好的になっていたとしても、一生懸命勉強してまで同じ高校に行きたくないと言い出すかもしれない」

 

「まあ、それはそうだな。あくまでこちらの都合だ。当人たちの自由意思を捻じ曲げるような権利は、我々にはない」

 

 

 別に友好的になれなんて催眠をかけたつもりはないんだけどなあ。

 にゃる君はともかく、ささささんは友達になれなんて言った覚えもない。にゃる君と友達になったのも、催眠をかけ終わったあとに自分で記憶を補正した結果のようだし……。

 

 うーん、彼らは付いてきてくれるだろうか?

 

 

 

「というわけで僕はありすと同じ高校行くけど、一緒に来る?」

 

「「行く行くー!!」」




明日は時間差で昼夜2話投稿!
お楽しみに!


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第20話「勉強会とはうちで遊ぼうという意味である」

本日2話投稿! 1話目です。
今日の2話分はまったり日常回。


「水臭いこと言うなよ、ハカセ! 俺が警察官になる夢を叶えるところを間近で見てもらわなきゃいけないからな! どこだろうとついて行くに決まってるだろ!」

 

「もちろんアタシも一緒だよ! せっかく仲良くなれたのに、1年ちょっとで別れ別れになっちゃうなんて悲しいもんね!」

 

「2人とも……!」

 

 

 ニコッと笑いながら僕と同じ高校を目指すと言ってくれる2人に、僕は何かが心の奥底から湧き上がってくるような不思議な気分になった。

 

 

「それで、どこの高校行くんだ?」

 

芳華(ほうか)高校」

 

「「えっ」」

 

 

 まだどこに行くとも言ってないのに安請け合いした2人は言葉を詰まらせた。

 

 

「芳華って……あの県内で一番全国偏差値高い芳華……?」

 

「うん。ありすがそこに行きたいっていうから」

 

「あそこって普通科あったっけ? あるよね?」

 

「ないよ。偏差値65だよ」

 

「オゥ……ジーザス……」

 

 

 にゃる君とささささんは口元を引きつらせている。やはり無理があっただろうか。

 

 

「やっぱ無理……かな?」

 

 

 僕が上目遣いに言うと、にゃる君はぐぐっと胸を反らせた。

 

 

「バッキャロー、男が一度口にしたことをひっくり返せるか! 見てろ、偏差値47からの逆転劇を見せたるわい!!」

 

 

 おっ、にゃる君はやる気だぞ。やったぜ。

 ささささんはちょっと困っている様子だが。

 

 

「ささささんは来ない?」

 

「う、うーん……。ちょっと目標が高すぎるかも」

 

「そっか……そうだね」

 

 

 なんか金持ちのお嫁さんになるのが夢なんだっけ。

 そんな平穏な日常を望む彼女には、わざわざ苦労する必要を感じないのだろう。

 

 

「進学校に行けば将来お金持ちになる有望な男と学生時代から恋仲になったり、コネを作ったりできると思ったんだけどな」

 

「うっ……!?」

 

「進学校なら風紀もいいだろうからいじめグループがはびこってることもないだろうし、のびのび過ごせるとも思ったんだけど」

 

「ううっ……!!」

 

「でもささささんが無理だって言うのなら仕方ないよね」

 

「待って! やっぱりアタシも行くから!!」

 

 

 おや? ささささんが何やら燃えている……。

 一体このわずかな時間にどんな心変わりがあったんだ?

 

 

「アタシは悟った! 若い頃の苦労なしで掴める理想はないと……! 幸せな将来のために、アタシも頑張る!!」

 

「えっ、こいつなんかすげー邪悪な理想抱いてない?」

 

 

 なんかにゃる君がささささんからじりじりと遠ざかりながら呟いている。

 まあ別に将来の夢を変えたりしてないから仕方ないね。にゃる君は将来あまりお金持ちになりそうにないから大丈夫、無害だよ。

 

 

「じゃあとりあえず……勉強会でもやってみる?」

 

 

 

============

========

====

 

 

 

 その週の土曜日の昼下がり、早速2人を僕の家に呼ぶことにした。

 そういえばにゃる君がうちに来るのは初めてだっけ。去年の夏休みに僕の家で遊ぼうって話もあったけど、結局実現しなかったんだよな。

 

 

「お邪魔しまーす」

 

「お、お邪魔しまーす……」

 

 

 にゃる君が乱雑に玄関先に靴を脱ぎ捨て、ささささんが散らばった靴を丁寧に置き直している。

 ささささんって意外と礼儀には細かいんだな。外見がちょっとギャルっぽくなっているので、少しギャップがあった。

 

 

「……えっ!? 誰!?」

 

 

 1階の奥からバタバタとくらげちゃんが出てきて、目を丸くした。

 

 

「誰って、僕の友達だよ。これから僕の部屋で勉強会するから邪魔しないでね」

 

「……!? 友達ッ!? お兄ちゃんに友達ッ!?」

 

 

 くらげちゃんはわなわなと震えながら、にゃる君とささささんを見つめている。

 

 

「こんにちわ。ハカセの妹さん? 新谷(しんたに)(ながれ)といいます」

 

佐々木(ささき)沙希(さき)です。うわぁ、ハカセ君の妹ちゃんってなんか思ったよりもオシャレでかわいいね。ハカセ君の家族ってもっとこう……無機質な感じかと思ってた」

 

「僕を何だと思ってるんだ」

 

 

 無機質な家族ってなんだよ。メタリックに光ってるのか?

 人をロボットみたいに言うんじゃない。

 

 そんなやりとりをする僕たちを、くらげちゃんはじりっと後じさりながら震えて見ている。

 

 

「そ、そんな……ありえない……!! しかも女の子がいる……!? マ、ママー! 大変だよぉ!! お兄ちゃんが存在しないはずの友達を連れてきたー!!」

 

「ええっ!? ひ、ヒロくんに友達が!?」

 

 

 くらげちゃんがバタバタ走りながら引っ込み、台所の方からお母さんが何やら叫ぶ声が聞こえてくる。

 なんか騒がしいなあ。

 

 

「落ち着きのない家族でごめんね。さ、勉強会しよう。僕の部屋2階だよ」

 

「……お前の家族、俺たちと同じ目でお前を見てんだな……」

 

「ご家族はマトモそうで安心したわー」

 

 

 

 僕の部屋に入った2人はきょろきょろと物珍しそうに周囲を見渡している。

 そんなに興味を引くものなんてないと思うけど。

 

 

「いやー、てっきり机とパソコンしかないんじゃないかと思ったけど……。いろいろポスターとかもあるんだな。雪の結晶のリストとか虹とかオーロラとか三角州とか……なんか風景写真ばっかだけど」

 

 

 雪の結晶は世界一美しい図形のひとつだと思う。形もいろいろあって飽きない。小学生の頃に雪が降ると、黒のセーターを着て外に立ち尽くし、袖に落ちた結晶を夢中で見ていた。

 ほっとくとそのまま風邪をひくまでやるので、最終的にはありすが僕の手を引いて教室に連れ帰っていた。手が柔らかくて、温かったことを今も覚えている。

 

 

「へー、ゲーム機もあるんじゃん。……あああああああっ!? こ、これは『ネヌオの鍋物語』!? あの伝説のソフトが何でここに!!」

 

 

 勝手に部屋の隅をごそごそしていたささささんが大声を上げた。

 

 

「……何だそれ、聞いたことないゲームだな」

 

「知る人ぞ知る超良ゲーだよ! 世界で一番おいしい小動物のネヌオがその肉を狙う敵から逃げて、自分をもっともおいしく料理するために伝説の食材を集めて鍋に飛び込むという3Dアクションゲーの傑作なの!!」

 

「なんだその猟奇的なストーリーは……!?」

 

 

 えっ、そのゲームそんな話だったの? 

 小学生の頃何回も繰り返してやってたけど、ストーリーなんて気にしたことないから全然知らなかった。道理でエンディングにおいしそうな鍋料理が出て来るなーと思ってたが、あれ主人公の成れの果てだったのか……。

 

 

「動物愛護活動家にやり玉に挙げられて、発売後すぐに自主回収された幻のソフトなんだよ! そのゲーム性と難易度の高さからRTA(リアルタイムアタック)大会では必ず出て来るけど、多くの人がプレイしたことのないプレミアソフトなの! アタシも動画でしか見たことない……まさかこんなところでお目にかかれるなんて!!」

 

 

 パッケージを手に取ったささささんはキラキラした瞳でまくしたてている。

 ささささんってゲーム好きだったんだなあ。

 にゃる君はそんな彼女を、何か珍獣でも見る目で見ている。

 

 

「……お前って、もしかしてオタクに優しいギャル枠とか狙ってんの?」

 

「は? 狙ってねーし」

 

 

 オシャレになったささささんはかなり可愛いし、なんかオタクっぽい人たちにゲームうまいのすごーいとか言ってるだけで姫扱いになりそうな気がするな。

 まあそうなったら彼らの成績は落ちるだろうから、彼女のターゲットからは外れてしまうのだろうが。

 

 ささささんはソワソワしながらパッケージを胸元に寄せ、こっちを上目遣いで見てきた。

 

 

「ね、ねえ……ちょっとだけこれで遊んでもいい?」

 

「おお、俺がやってみたかったゲームもあるな……」

 

 

 2人はゲームが入った棚を前に動かなくなってしまった。どうやら2人とも相当なゲーム好きのようだ。僕も小学生の頃はかなりのゲームファンだったから気持ちはわかる。

 僕はふうっとため息を吐き、駄々っ子のような2人に言い聞かせた。

 

 

「ダメだよ、何しに来たの? 勉強会が終わったら遊ぼうね」

 

「……ハカセにまともな説教をされるという斬新な屈辱を味わった!?」




この家族から何故ハカセが生まれたのかわからない?
逆に考えるんだ。
この家族に囲まれていたからこの程度で収まったと考えるんだ。


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第21話「あっここ催眠ゼミでやったところだ!」

本日2話投稿!
2話目です。


「ごめんなさいね、慌ただしくて。ヒロくんがお友達を連れてきたのなんて初めてだからびっくりしちゃって。うふふ~」

 

 

 お母さんがお茶とお菓子を持ってきて、僕の部屋に居座っている。

 なんかやたらと上機嫌なのだが、僕はなんだかやたら恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。なんだこの感情は……。

 

 

「お母さん、勉強の邪魔だからあっち行っててよ……!」

 

「あら~、なんだかヒロくんに邪険にされるのも新鮮ねぇ。思春期の息子を持った母親の醍醐味(だいごみ)感じちゃう」

 

「……なんかすごいイライラする!?」

 

 

 ドアの隅からはくらげちゃんがじーっとこちらを見ている。……いや、なんか視線が僕からズレてるな。これささささんを見てるのか?

 ささささんが笑顔で軽く手を振ると、びくっと体を震わせながらシャーと威嚇して逃げて行った。

 オシャレ好き同士気が合うかと思ったが、相性悪いんだろうか。

 

 

「ねえねえ、ヒロくんって学校だとどんな感じなの? やっぱりぼーっとしてる?」

 

「あ、いえ、ずっとタブレットで本を読んでますよ」

 

「そうなんだ。クラスでひとりになってない? 学校楽しそう?」

 

 

 お母さんはニコニコと嬉しそうに笑いながら、にゃる君から情報を聞き出そうとしてくる。いや、学校でどう過ごしてるかなんて直接僕に聞けばいいのに何故にゃる君を通そうとするんだ。

 

 

「俺と佐々木(こいつ)がよく一緒にいるし、今はありすサンも別のクラスから遊びに来るからひとりじゃないですよ。こいつが楽しいかどうかはわからないですけど、まあ返事はしてくるから機嫌悪くはないんじゃないですか」

 

「まあ~。そうなの、いつもありがとうね。何考えてるのかよくわからない子だけど、仲良くしてあげてね」

 

 

 そう言ってお母さんはぺこりと頭を下げた。

 いえそんな、とにゃる君とささささんも慌てて頭を下げる。

 

 ……うう、なんだこのいたたまれない空気。

 

 

「お母さん、ホント勉強会の邪魔だから……」

 

「はいはい。お茶のおかわり欲しくなったら言ってね」

 

 

 お母さんはごゆっくり~と言い置いて下に戻っていく。

 うう……僕の部屋で勉強会を開いたのは失敗だったかもしれない。

 

 

「おかーさんにヒロくんって呼ばれてるんだ?」

 

「うあ゛ーーーー!!」

 

 

 ささささんの言葉に、僕は頭を抱えた。

 なんだ、この気恥ずかしさは……!

 

 

「俺、ハカセにここまでダメージを与えた人間を初めて見たわ。やっぱ親って最強なんだな」

 

「ヒロくんの方がハカセくんより可愛いね。アタシもヒロくんって呼んでいい?」

 

「いいから、勉強を、しよう! なっ!?」

 

 

 

============

========

====

 

 

 

 カリカリとシャープペンの音が響く中、3人でテキストに向かっている。

 ……のだが。

 

 

「それでさ、アキちゃんのいいところを教えてあげたのね。そしたらそういうのは恥ずかしいからやめてって怒られちゃったの。親切でやったのにおかしいと思わない?」

 

「それは恥ずかしがってるんじゃねえかなあ。というか、正月にお屠蘇(とそ)飲んでウケケケって笑いながら初詣ではしゃぎ回ったって、それいいところか? 普通に掘り返されたくない思い出だろ」

 

「だってすごい盛り上がったよ。絡まれてウザそうにしてた子もいたけど」

 

「そりゃ見てる方は楽しいだろうけどさあ」

 

「あ、ところで昨日のロードショウ見た? サメもレイヤーもすごかったよねー」

 

「あー、『レイヤーシャーク』だっけ? 金髪コスプレイヤーの大群とサメが戦うとか、レイナー監督の頭の中どうなってんだろうな……」

 

 

 ささささんの雑談がやまない。

 ちゃんと手は動かしているのだが、とにかくおしゃべりが好きでしきりに何かしゃべっている。それににゃる君が律儀に応えるものだから、ささささんとにゃる君のフリートークコーナーみたいになってしまっている。

 

 これ集中できてないよなあ。

 ミスターMが足引っ張るって言ってたのはこれか。

 

 

「うーん、これどうしてこうなるんだ?」

 

 

 おっ、にゃる君が何やら解けない問題があるようだ。

 数学か。ここは僕が教えてあげよう。

 

 

「-4<x<6だよ」

 

「……いや、答えじゃなくてだな。何でそうなるのかがわからんのだが」

 

 

 ……?

 なんか不思議なことを言うなあ。

 

 

「何でそうなるのかと言われても、問題文を見た時点で答えなんてわかりきってるじゃないか。あとはそこに至るまでの式を書いてやればいいだけだろ?」

 

「なるほど。参考にならんことがわかったわ」

 

「そこは連立方程式でしょ。下の方程式を整理して、yを上の式に代入して……」

 

「あー……うん……?」

 

 

 横からささささんが入ってきて、にゃる君に教えてくれている。

 ……やっぱり僕って教える才能ないのかもしれない。

 しかし方程式なんて足し算引き算と同程度の話なのに、懇切丁寧に基礎から教えるなんてささささんはすごく親切だなあ。

 ここまで基礎から教えてくれるのなら、僕もこの機にわからないところを聞いてしまおうか。

 

 

「そういえば僕もわからないところがあるんだけどさ」

 

「んー、何だ? ハカセにわからない問題が俺らにわかるとも思えんが」

 

「国語の問題で『このときこの人物は何を考えていたのか答えよ』ってあるじゃない。あれってみんなどうやって登場人物の心を読んでるの?」

 

「……」

 

「……」

 

 

 にゃる君とささささんは顔を見合わせ、それから僕を宇宙人でも見るような目で見つめてきた。

 

 

「いや……別に心読んでるわけじゃねえから。つーか架空の人物の心なんて読めるわけねーだろ」

 

「あれは自分がその場面にいたらどう思うかを答えなさいって意味だよ」

 

 

 …………!?

 僕の瞳から鱗がパージした。

 

 

「そ、そうか……あれは僕があの場所にいたらどう考えるかのシミュレートをしろってことだったのか……!」

 

「シミュレートって……。いや、まあ大体そういうことだが」

 

「だけど『このとき何故この人物はこう言ったのかを答えよ』ってのもあるじゃないか。僕なら絶対そんなこと言わないようなことを、登場人物が勝手に言うんだ。あれはどうすればいいんだ?」

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 にゃる君とささささんは目を丸くして僕を見ている。

 

 

「いや……。別にお前本人を話の中に登場させるわけじゃねえぞ」

 

「頭の中でその人になりきって、何でそう言ったのかを推理するんだよ」

 

 

 僕は雷に撃たれたようなショックを受け、ペンを取り落とした。

 

 

「……!? そ、そうだったのか……。あれは他人の思考パターンを自分の頭の中でエミュレートしろということだったんだな!!」

 

「え、そこまで複雑な話として理解するのか……?」

 

「まあ言ってることは間違いじゃないけどね」

 

 

 僕はそもそも問題の解き方自体を理解していなかったらしい。

 なんてことだ、これでは方程式のルールを理解しないまま数学の問題を眺めているのと同じじゃないか。みんながこんなに高度なことをしていたなんて……。

 

 その後2人の指導を受けて、僕はようやく国語の問題文の解き方を理解したのだった。

 

 

 感謝の言葉も見つからない。

 キミたちと出会って以来、これほど催眠をかけてよかったと思ったことはないぞ……!

 

 

「ありがとう。今日はとても実りある日だった」

 

「お、おう……。お前よく今まで生きてこれたな……」

 

「ハカセくんは作中の人物どころか出題者の意図すら読めてなかったんだね!」




今日は助走期間です。催眠といちゃラブは明日をお楽しみに。


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第22話「サイミン桜」

「な、なあハカセ……ちょっと休憩しないか?」

 

「そうだよね、学校も1時間ごとに休み時間あるし」

 

 

 2人は僕に指導するうちに集中の糸が完全に切れてしまったのか、そわそわとゲーム機の方に視線を送っている。

 

 うーん、まだ勉強初めて1時間も経ってないぞ。

 そんなにゲームがやりたいのか……。

 仕方ないな。

 

 

「いいよ、休憩しよっか」

 

 

 僕がそう言った途端、2人はゲーム機に飛びついた。

 

 

「よっしゃ! どれからやろうかなー」

 

「ネヌオ! まずはネヌオを鍋に入れようよ!!」

 

 

 ささささんは速攻で例のパッケージを手に取ると、にゃる君が配線をつなぐなりゲーム機にディスクを挿入した。

 そんなにネヌオを鍋に入れたいのか……。僕もいいゲームだと思うけど。

 

 

「念願のネヌオがアタシの手の中に……! ねえ、ハカセくんはこのゲームクリアできるの?」

 

「うん、できるよ。1周1時間くらいかな」

 

 

 初回は30時間かかったが何度も繰り返して遊んでいるうちにクリアタイムがどんどん短くなり、最終的に1時間まで短縮された。

 小学生のときはずっとこのゲームに執着していて、1日3周はしたものだ。

 今はプログラムというもっと面白い遊びに出会ったので、ゲームはめっきりやらなくなってしまったが。

 

 

「えっ、1時間ってRTA世界記録とタイだよね……すごい! ハカセくんやるじゃん!! ねえ、見せて見せて!!」

 

 

 そう言いながらささささんがキラキラした瞳でコントローラーを押し付けてくる。残念だけどそんなにすごいすごいと言っても、オタサー姫ムーブは僕には効かないぞ。

 

 

「いや、ゲームやりたいのはキミたちでしょ。僕がやってどうするんだ」

 

「むう……そうだけどぉ。後でプレイ見せてね? ね?」

 

「じゃあ俺がやろっと!」

 

 

 すかさずにゃる君がコントローラーを拾うと、ゲームをスタートさせた。

 

 

「あーずるい!」

 

「ミスしたら交代でいいんじゃない?」

 

「……じゃあそれでいいよ」

 

 

 僕が仲裁案を出すと、ささささんは渋々とそれを飲んだ。

 本当にゲームが好きなんだな。

 

 

 

※※※

 

 

 

 にゃる君もささささんもゲームはかなりうまく、何度か初見殺しにやられながらもどんどん攻略していく。

 今はにゃる君がステージ1のボスのもぎとり猫タスペアーと死闘を繰り広げていた。ファンシーな見た目に反してえげつない攻撃でネヌオの手足をもごうとする、食欲も難易度も鬼畜なにゃんこである。

 

 にゃる君の奮戦を眺めていると、ささささんがぽつりと訊いてきた。

 

 

「そういえば、今日はありすちゃん呼ばなかったの?」

 

「ありすは今日読者モデルの仕事してるからね。邪魔するわけにもいかないし」

 

「あー、なるほど」

 

 

 それにありすは天才肌だから教えるのうまくなさそうなんだよな。

 そもそも、ありすが同じ高校に連れていきたがってるのはあくまで僕であって、にゃる君とささささんはありすにとって他人だ。あいつにこの2人も同じ学校に連れていくよう手伝ってほしい、と助力を求めるのはお門違いだろう。

 だからありすは誘わなかった。

 

 

「ありすちゃん、拗ねないかなぁ」

 

「拗ねる? 何で?」

 

「何でって……」

 

 

 ささささんはため息をついて僕を見た。

 ??? よくわからない……。

 

 

「今回の勉強会にありすは関係ないよ? そりゃ確かにありすと僕は同じ高校に行く約束はしてるけど。今回呼ぶ理由がないし」

 

「理由がないと一緒にいちゃいけないってことないでしょ。仲が良いなら、自然と一緒にいたいなって思うのが人間ってもんじゃん」

 

「……」

 

 

 話を聞きながら、ふと小学校の雪の日を思い出す。

 結晶を眺めるのに夢中になって風邪を引きそうな僕の手を引いて、ありすは教室のストーブに当てた。そしてかじかんで赤くなった僕の手が肌色に戻るまで、ずっと隣にいたのだ。

 

 

「アンタってホントバカね。バカは風邪ひかないっていうけどアンタは風邪を引くバカだわ。帰ったらお風呂入って、ひどくなる前に寝るのよ」

 

 

 そんな文句を言って僕を叱っていたありすは、誰かに言われて僕の手を温めてくれたわけでも、隣にじっと座っていたわけでもないだろう。

 

 

「次はちゃんと誘ってあげてね」

 

「わかった、そうする」

 

 

 僕は素直に頷いた。

 

 

「よっしゃあああ! ステージクリアだっ!!」

 

 

 ボスを倒したにゃる君がガッツポーズを取った。

 僕たちの話も耳に入らないくらい集中してプレイしていたようだ。

 ささささんがパチパチと拍手して、その健闘を讃える。

 

 

「おっ、やるじゃん。最初のステージにしては結構難しかったはずだけど」

 

「ふふん、俺にかかればこんなもんよ。さーて次のステージはどんなのかなー」

 

 

 コントローラーを握り直すにゃる君は、本当に楽しそうだ。

 もう軽く1時間は経っているのだが、息抜きの方が長くなってる……と指摘するのも野暮かな、と思えてきた。

 

 にゃる君にとっては多分、勉強よりもゲームの方が楽しいのだ。僕は新しい知識を得ることを楽しく感じるが、にゃる君にとって勉強は苦痛なのだろう。

 

 そもそもにゃる君には進学校に行く理由がない。彼の目標である警察官になるためには高校卒業後に警察学校に入学する必要があるが、卒業する高校はどんな学校でも構わないのだ。

 それを僕の都合で無意味な努力をさせてしまっている。苦労して高校に入学したとしても、進学校の勉強だって楽じゃない。3年間も彼に苦痛な勉強をさせるとあっては、にゃる君が可哀想だ。

 

 

 ……『可哀想』?

 

 

 楽しそうにゲームにのめり込むにゃる君を眺めながら、僕は少し自分の頬が緩むのを感じた。

 可哀想か。そんな気持ち、『他人』に対して思ったこともなかった。

 僕はこの半年で、にゃる君のことを随分好きになっていたようだ。

 

 そうだな。にゃる君のためを思えば、同じ高校に進まないのも有力な選択肢だろう。僕の監視からは外れることになるが、それもやむを得ない。

 

 それにしても、にゃる君もささささんも本当に集中してゲームしてるな。相当面白いと思っているんだろう。

 勉強でもこれくらい集中してくれたなら……。

 

 

「いや、待てよ?」

 

 

 そうか。その手があった。

 

 

「にゃる君、ささささん、ちょっとこっち見てくれる?」

 

「ちょっと待って今良いところ……!」

 

「ポーズすればいいじゃん。で、どうしたの?」

 

 

 振り向いたにゃる君とささささんに、僕はスマホを向けた。

 

 

「催眠!」

 

「「うっ」」

 

 

 にゃる君とささささんが、トロンとした顔になる。

 例によって催眠が効果を発揮したようだ。

 催眠の重ね掛けで最初の効果が消えないか心配だが、それもまた実験のうち。

 僕は手早く暗示を埋め込むことにする。

 

 

「キミたちは今から、勉強して知識を得ることをそのゲームと同じくらい面白く感じるようになります」

 

「勉強を……このゲームと同じに……」

 

「面白く……わかりました……」

 

 

 今回試すのは催眠術の定番のうち、『認識のすり替え』だ。

 たとえば氷を熱いものと錯覚させたり、ケーキを梅干しと同じ酸味と思わせたりするように、勉強の面白さをゲームと同等にすり替える。

 単に『勉強が面白く感じるようになれ』と言ってもピンとこないだろうが、具体例を今まさに体験しているのならば話は早い。

 

 そして、やっぱり意欲が湧かないと勉強に身は入らないものだ。漫然と何かをやれと言われてもなかなかやる気は出ない。

 だから勉強そのものではなく、知識を得ることを目標に設定してやる。

 

 

「さらに、僕が指を鳴らしてから次にもう一度鳴らすまで、キミたちは勉強にすごく集中できるようになります。ゲームのボス戦と同じくらい夢中になって集中でき、内容もするする頭に入ります。なお、この集中できる効果と先ほどの勉強をゲームと同じくらい面白く感じる効果は、僕が2回目に指を鳴らすと止まります」

 

「2回指が鳴るまで……」

 

「集中できる……わかりました……」

 

 

 加えて、集中できる制限時間を設定してやる。

 人間が集中できる時間なんて決まっているのだ。脳が疲労しているのに無理して集中させ続ければ、頭がおかしくなってしまう。

 それに勉強がいくら面白くなるとはいっても、あまりにも夢中になりすぎて四六時中勉強を続けて体を壊されては困るのだ。

 

 被験者を僕の管理下に置けとミスターMに言われていることだし、あくまでも僕の制御できる範囲で集中してもらおう。それが2人の体と脳を守ることにもなるはずだ。

 

 ……勉強を面白く感じるんだから、無理やり勉強させられて可哀想ということもないよね。うん、そういうことにしよう。

 

 にゃる君とささささんの催眠状態を解くと、2人は目をぱちくりとさせた。

 

 

「あれ……? 俺今寝てた?」

 

「なんか時間が飛んだような……」

 

「はい、じゃあゲームは後の楽しみにして、勉強を再開しよっか」

 

 

 パチン!

 

 訝し気な2人の前で指を鳴らすと、彼らは無言でテーブルに向かいだした。

 猛烈な勢いで眼球を動かして参考書を読み込み、カリカリとひっきりなしにノートに文字を書き込んでいる。

 

 

「おーい」

 

 

 小さな声で呼びかけてみるが、2人は勉強する手を休めようとしない。

 どうやら催眠が効いたようだ。よしよし。

 では僕も勉強するとしよう。早速国語の問題にチャレンジだ。

 

 ……おお、2人が真剣に集中してる前だと、僕も頑張らなきゃと思えてきたぞ。

 なるほど! これが勉強会の真の効果なんだな!

 

 

 

※※※

 

 

 

 2時間が経過した。

 そろそろ集中も限界だろう。

 

 

 パチン!

 

 僕が指を鳴らすと、2人はハッと目が覚めたように手を止めた。

 

 

「うっ……!? あ、頭が痛え……!」

 

「あ、あれ!? 今、また時間が飛ばなかった……!?」

 

 

 うーん、頭痛があるのか。ボス戦と同じくらいの集中を2時間はちょっときつかったかな。今度はステージ道中くらいにしておこう。

 

 

「2人とも2時間の間、すごく集中して勉強してたよ。はい、甘いもの。糖分取ると頭が休まるよ」

 

 

 2人が勉強してる間に台所に行って取ってきたクッキーを勧めながら、温かい紅茶をカップに注いであげる。

 僕だって気を利かせてねぎらったりできるんだぞ。

 

 

「俺が2時間も夢中で勉強……!? いやいや……無理だろ……」

 

「でも確かに時計が2時間進んでるね……」

 

 

 にゃる君とささささんは、訝し気な顔でお茶とお菓子を口に運んでいる。

 

 とりあえず集中して勉強させることはできた。

 では、次にその効果を調べてみよう。

 催眠中に勉強したことは、果たしてちゃんと頭に入るのか? 催眠中は半ば寝ているようなもので、その間に何を勉強しても記憶に残らないというのなら、いくらやってもまったくの無駄だ。

 

 

「じゃあ疲れているところ悪いけど、ちょっとこの問題を解いてもらえる?」

 

 

 参考書を1ページ前にめくり、催眠中の2人が直前まで解いていた問題を示してみる。

 

 

「いやぁ……俺にはちょっと難しいんじゃねえかなぁ……」

 

 

 にゃる君は半笑いを浮かべ、シャープペンを手に取った。

 そしてペンをすらすらと滑らせ、計算式を書いていく。

 

 

「……えっ?」

 

 

 にゃる君が真顔になった。

 その間にも手はどんどん計算式の続きを記述する。

 

 

「な、なんで解けるんだ!? ひいっ! 頭の中から公式と定理がどんどん湧き出てくるっ!? 勉強した記憶がないのに! こ、怖いよォ!?」

 

「アタシこの問題の答え知ってるッ!? いやあッ! 歴史の年表が次々に埋まっていくッ!! 特に語呂合わせもしてないのに年号がぱっと出てくるぅ!?」

 

「いや、キミたちがさっき勉強したんだよ」

 

 

 そう言いながら僕も紅茶をすすり、クッキーを口の中で溶かした。

 あー糖分が疲れた脳に染みる。やっぱり甘いものはいいね。

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 自己採点もバッチリな答案を、2人はまじまじと見つめている。

 

 うん、この調子なら偏差値47からでも65の高校を目指せそうだな。

 とはいえ集中は2時間ほどしか続かないだろうから勉強会は頻繁に開く必要があるだろう。中学3年生の1年間は、催眠アプリの開発はほどほどにして2人の学力を上げることに費やすことにしよう。

 一応こうやって催眠することでデータも取れているわけだし。

 

 それにしてもすごいな、催眠中でも頭に入るのか。ミスターMも催眠アプリの新たな可能性に喜んでくれるに違いない。

 

 

「言われてみると確かにここを勉強した記憶はうっすらとあるな……」

 

「でも、なんか……頭に入りすぎて不気味というか……」

 

「まあいいんじゃない、楽しく勉強できたみたいだし」

 

 

 そのとき、すごい勢いで誰かが階段を駆け上がってくる音が聞こえた。

 体重が軽い足音だし、くらげちゃんかな?

 

 

「ハカセーーーー!! アンタ女連れ込んだってどういうことよ!!!」

 

 

 バーンとドアを開けて入って来たのはありすだった。

 あたたかそうなコートと帽子がモフモフして可愛らしい。

 でも全力でハアハアと息を荒げているのはいただけないな。何をそんなに急ぐ必要があったんだよ。

 

 

「お前、ここ僕んちだぞ。ちょっとはお行儀よくしろよ、階段痛むだろ」

 

「やかましいわ!」

 

 

 ありすはジロッとささささんを睨む。

 が、ささささんが邪気のない感じで笑いながら小さく手を振っているのを眺め、次ににゃる君とテーブルの上の参考書に目を向けて、はーっと深く肩を落として息を吐いた。

 

 

「よ、よかった……勉強会かぁ……」

 

「あっ、もしかして、勉強会に誘わなかったのを拗ねてるの?」

 

「は!? そんなわけ……いえ、そうよ! 私をのけ者にしないでよね!!」

 

 

 一瞬否定しかけたようだが、ありすはすぐに頷いて腕を組んだ。

 素直じゃない奴だな。

 

 それにしてもささささんはすごいな。キミの言ったとおりだった。

 

 

「ごめん、もう勉強は終わったんだ。次は呼ぶからな」

 

 

 でもここでありすを帰すのは可哀想だな……そうだ。

 僕は4人で遊べるゲームのパッケージを持ち上げると、ありすに訊いた。

 

 

「これからゲームするけど、お前もやる?」

 

「やるわよ! 当たり前じゃない!!」




ある日のSNSログ



『たいへん! お兄ちゃんが女の子連れてきた!』

『は?』

『ありすちゃんどーしよ!?(∀・;)』

『秒で仕事終わらせてそっち行く』


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第23話「子猫ありすの襲来」

「おじさま、おばさま、ご無沙汰しています」

 

「ありすちゃんが遊びに来るの久しぶりねー」

 

 

 お父さんが外回りから帰ってきたところで、ありすがうちの両親に改めてあいさつしていた。いつもと違っておしとやかな感じで椅子に座り、ぺこりと頭を下げている。

 こいついつも学校で僕の机の上に座ってるんですよ、騙されないでください。

 

 

博士(ひろし)が小さい頃はよくうちに来てくれたなあ。もっと遊びに来てもいいんだよ」

 

「いえ、そんな。あれは博士くんがよく遅くまで外で遊んでいたので、連れて帰らないとと思っただけなので」

 

「小学生の頃はヒロくんぼーっとした子だったものねー。最近はちょっとしっかりしてきたけど」

 

 

 あれはぼーっとしてたんじゃなくて、花びらや雪の模様を観察したり、図書館で本を読み耽っていただけだ。

 まあそれで時々迷って家に帰れなくなり、ありすが探して家に連れて行ってくれていたのだが。

 

 4年生くらいまでは割と毎日そんな感じだったのだが、それには理由もあって、ありすが僕を家に連れ帰る代わりに、うちでご飯を食べていくという親同士の約束があった。ありすの親御さんが当時忙しかったこともあって、そうした持ちつ持たれつの親密な関係が存在していたのだ。

 どれだけ親密かというと、くらげちゃんは小さい頃ありすを実の姉だと思い込んでいて、「ここがおうちなのに、ありすちゃんは毎日どこに帰ってるの?」と不思議そうに訊いてきたくらいだ。キミが幼稚園児の頃はお姉ちゃんなんかいなかっただろ、騙されるんじゃない。

 

 高学年になると僕も花や雪の観察に飽きてゲームや読書するためにまっすぐ家に帰るようになり、ありすのお母さんが料理研究家として独立を果たしたこともあって、自然とありすがうちに来ることも少なくなっていった。

 

 

「ありすちゃんもすっかりお嬢さんって感じになってきたな。うちの博士はまだまだ相変わらず子供で、見習ってほしいくらいだよ。やっぱり女の子の方が成長が早いんだね」

 

「そんなことないですよ、私も博士くんには学校でよくしてもらっていますから」

 

「そういったことを言えるのが大人になってきた証拠なんだよ」

 

 

 僕はずずーっと紅茶をすすりながら、親とありすのやりとりを眺めている。

 ちなみににゃる君とささささんはもう帰っていた。

 お母さんがせっかくだから晩御飯を食べていく? と勧めたのだが、

 

 

「いえ、親が俺たちの分もご飯作ってくれてるので帰ります。お気持ちだけありがたくいただきます」

 

 

 とにゃる君が固辞して、ささささんを引っ張るように帰ってしまった。

 しかし「ありすちゃんは食べていくわよね」とお母さんはそれが既定路線であるかのように言って、さっさとありすのお母さんに電話したのである。

 

 ちなみにくらげちゃんは先ほどからありすの隣にぴったりとくっついて離れないでいる。

 

 

「ありすちゃん、今日は泊まっていってくれるよね? ねー?」

 

「ええと……」

 

 

 ありすはちょっと困ったように僕のお母さんに目を向けると、お母さんはふふっと微笑んだ。

 

 

「いいじゃない、たまにはお泊りしても。あ、でもパジャマどうしましょ。最後にお泊りしたの小5だっけ、あのパジャマまだ着れるかしら?」

 

「入るわけねーだろ……」

 

 

 思わずツッコんでしまった。

 見ろよこのにょきにょき伸びた身長と贅沢に膨らんだ胸と尻をよぉ。もうCカップ近くまで膨らんでるだろうが。成長期前のパジャマなんぞ着れてたまるか。

 

 

「どこ見てんの、兄貴キモッ……!」

 

 

 そんな僕に、くらげちゃんが嫌そうに吐き捨てた。

 最近ますます僕に対して批判的になり、エッチなことに嫌悪感を抱くようになったくらげちゃんは、体も心も成長著しい。

 

 だが僕はありすを見てエッチなことなんか……ちょっとしか考えてないから、そんなに嫌わないでほしい。中学生男子が同年代の女の子を見てエッチなことを考えてしまうのは仕方ないことなんだ。自分ではどうしようもできないんだ。

 

 そしてお父さんはそんな僕たちを見て、ニヤニヤと笑っている。何ですかその笑顔は。

 

 

「ありすちゃんのお母さんには後で連絡しておくわね。とりあえずご飯にしましょ」

 

「あ、お皿出すの手伝います」

 

「あら、ありがとう」

 

 お母さんがよっこいしょと腰を上げると、ありすがいそいそと後に続く。

 

 

「私もやるー!」

 

「なんだお前、いつもはソファでゴロゴロゲームしながら呼ばれるの待ってるくせに」

 

「……うっさいキモ兄貴!」

 

 

 さらにありすの後に続こうとするくらげちゃんにツッコむと、くらげちゃんはふーっと猫のような威嚇をしてきた。悲しい。

 

 

「……これ、一応僕も手伝った方がいい流れ?」

 

「アンタは邪魔だから座ってなさい」

 

「はい」

 

 

 ありすに言われ、大人しくソファに座り直す。

 お父さんは女性陣がきゃいきゃいと話しながら料理を盛り付けてテーブルに並べるのを見て、何やら目を細めていた。

 

 

「愛する妻と可愛い娘2人が俺たちのために料理を並べてくれるのを見ると、男冥利に尽きるなあ。これが幸せの光景ってやつだよ」

 

「……娘1人とよその子だよ?」

 

 

 まさか若年性痴呆症が始まったのだろうか。

 やめてくれよ、一家の大黒柱がいなくなったら家が傾くぞ。

 僕がそう思っていると、お父さんはため息を吐いた。

 

 

「娘2人にできるかはお前にかかってるんだよなあ。ちゃんと繋ぎ止めろよ、まったく」

 

「……繋ぐって何を?」

 

「野暮なことを言わせるんじゃない」

 

 

 具体的に言わないから、何を頼まれてるのやらさっぱりだった。

 

 

 そうこうするうちに、台所からリビングに料理が運ばれてくる。

 おっ、今日はハンバーグか……。

 デミグラスソースが食欲を誘う。ありすの大好物でもあるので、きっとありすのために急いで肉を買ってきたのだろう。

 ありすはクォーターのはずなのだがやたらイギリスの血が濃く出ているようで、肉料理が大好きだ。肉食系女子なのだ。タンパク質ばかり取ってるから胸とお尻がどんどん膨らむんだぞお前。

 

 ……おや、くらげちゃんがハンバーグの前にカトラリーを並べている。なるほど。

 僕は自分の席に座り、銀色に光るナイフとフォークを手に取って、さっさと目の前に置かれたハンバーグを切り分けた。

 

 

「あっ! キモ兄貴、ちょっと我慢しなさいよ! お行儀悪い!」

 

 

 くらげちゃんが叱るのを無視して、さっさとハンバーグを一口サイズに切ってしまう。

 そしてありすの分と取り換えて、ありすの席からナイフとフォークを取り払った。ありすは箸があれば十分だ。

 

 

「はい、これありすの分な」

 

「……ありがと、ハカセ」

 

 

 ありすが微笑んで軽く頭を下げるのを、視線を外しながら「ん」と頷く。そのやりとりを見て、くらげちゃんとお母さんが口元に手をやった。

 

 

「あっ、そっか」

 

「あら……ごめんね、ありすちゃん。気が利かなくて」

 

「すみません、こちらこそ」

 

 

 くらげちゃんとお母さんがありすに詫びを入れるのを横目に、お父さんがビールをごくりとうまそうに飲んだ。

 

 今日の夕食はいつもよりちょっとおいしく感じるだろう。

 

 

 

※※※

 

 

 

 風呂上がりのありすが、何故か僕のベッドの上で鼻歌を歌いながらうつぶせになっていた。脚を交互にパタパタさせながら、小学校の卒業アルバムを眺めている。

 

 

「えっ、何で……?」

 

「みづきちゃんがお風呂から上がるの待ってるのヒマだもん、ちょっと時間つぶしに付き合いなさい」

 

 

 ありすはそんな不思議なことを言って、ころんと寝返りを打った。

 くらげちゃんから借りたパジャマは若干サイズが合っておらず、胸まわりとお尻まわりがパツパツに膨れている。

 

 

 ……いやおかしいだろ。

 曲がりなりにも思春期の男子の部屋だぞ。何で平気な顔でベッドの上に転がってるの? こいつ危機感とかないの?

 さては僕が変な考えを起こさないとナメられているのだろうか。まあくらげちゃんがお風呂から上がってくる間に何かできるのかといえばできないのだが。

 

 くっ……湯上りのシャンプーのいい匂いがする。くらげちゃんと同じ匂いだ。

 若干正気を保っていられなくなり、僕は目を逸らした。

 

 

「そこをどけ、僕は今日勉強会で疲れてるんだ。今夜はさっさと寝るからくらげちゃんの部屋に戻れよ」

 

「えー、ゲームできるくらい余裕あったじゃない。一緒に卒業アルバム見ようよ」

 

「わざわざ僕の部屋で見なくても、同じの持ってるよな!?」

 

「じゃあアンタが私の部屋に遊びに来る?」

 

 

 ありすはそう言ってふふんと生意気な笑顔を向けた。

 くそっ。すっぴんでも可愛いなお前。風呂上がりで髪質がいつもより輝いているように見える。

 

 

「ほんの2年前の卒業アルバム見て何が楽しいんだよ」

 

「あ、じゃあ低学年のときのアルバム見る? いっぱい写真撮ったもんね」

 

 

 そう言ってありすは僕にお尻を向け、本棚の一番下のアルバム入れを探り始める。お尻がふりふりと揺れるのを正視できず、僕は顔が真っ赤になるのを感じながら制止の声を上げた。

 

 

「やめろ、僕の棚を勝手にいじるんじゃない」

 

「えーなに、エロ本でも隠してるの? ハカセも人並みに性欲ってあったんだ? えっち」

 

「研究資料が入ってるから、ごちゃごちゃにされると困るんだよ!」

 

 

 性欲の有無については濁しておく。本当に勘弁してほしい。

 僕の言葉に、ありすはこくんと小首を傾げる。

 

 

「何よ研究って。名字がハカセだからって、まさかその気になって本当に怪しい研究でも始めたの?」

 

「失礼なこと言うな。怪しくない研究だよ」

 

 

 催眠アプリは長年の伝統ある催眠術と現代最先端のプログラミングの合いの子だぞ。

 お前を無理やり土下座させるために心血を注いだ研究の何が怪しいもんか。

 

 

「へー、すごいじゃん。何研究してるの? 見せて見せて」

 

 

 お前にまだ見せられるわけないだろ!

 

 

「僕は今日疲れてるから見せないよ」

 

「えー、何よケチー」

 

 

 そう言ってありすはぼふんとベッドに倒れ込み、僕の枕を抱きしめた。

 おいやめろ、お前の匂いがつくだろ。今晩眠れなくなったらどうする。

 

 そんな僕の内心の狼狽(ろうばい)をよそに、ありすはすんっと僕の枕に顔を沈めて息を吸い込み、にへっと笑った。

 

 

「あ、この枕ハカセの匂いがする」

 

「枕が臭いって言われるの地味にショックなんですけど」

 

「大丈夫よ。お日様の光を浴びた大きな犬みたいな匂いだから」

 

「それ臭いって言ってるよな!?」

 

 

 めっちゃショックでかいぞ……。

 後で風呂入って念入りに体を洗おう。

 

 

「私、最近子犬を飼い始めたのよ。元はグランマが飼ってたのをイギリスから送ってくれたの」

 

「ふーん。検疫とか大変だっただろうに」

 

「子犬っていいわよー。すっごく可愛いの、甘えん坊だし。構ってるとああ、この子には私しか頼れるものがいないんだな……って優しい気持ちになるのよね」

 

 

 女王気質じゃねえか。

 恐ろしい……やはりこいつは根っからの支配者なのではなかろうか。

 

 僕の恐怖も知らず、ありすはホウ……とため息を吐いた。

 

 

「アニマルセラピーっていうけど、本当よね。癒されるわよー。ハカセも動物飼ってみたら?」

 

「やだよ面倒くさい。毎日散歩させるとか大変じゃないか」

 

「ランニングになって健康にいいわよ。アンタもいい加減、ちょっとは運動なさい」

 

「だから嫌なんだよ」

 

 

 僕は子供の頃から一貫して体を動かすことが大嫌いだ。ありすに何度言われても、こればかりは譲る気はない。

 

 

「はーもったいない。動物に実際触ったことないからそういうこと言うのよね」

 

「触る気もないな。パソコンを壊されたりしたらたまったもんじゃない」

 

「……じゃあ、私で体験してみる?」

 

 

 は?

 振り返るとありすは僕の枕を抱いたまま、何やら赤い顔で上目遣いを向けていた。

 

 

「子供の頃、ごっこ遊びしたでしょ。あれと同じで、私これから子猫になりきるから。アンタは子猫のありすちゃんを可愛がりなさい」

 

「どこか頭打ったの?」

 

 

 とても正気とは思えないことを口にするありすを前に、僕は真顔で訊いた。

 なんだその遊びは。今日のありすはどこかおかしいぞ。

 

 

「打ってないニャ! アンタが動物の良さを分からないっていうから、私がなりきって体験させてあげようって言ってるのニャ」

 

「え、もう始まってる?」

 

 

 困惑する僕をよそに、ありすはころんとベッドに転がって、招き猫のように丸めた手をクイクイと動かした。

 

 

「ミャーン?」

 

「僕にどうしろと」

 

「ほら、子猫が寂しがってるニャ。遊んで可愛がるニャ。子猫は構ってくれないと寂しさで死んじゃうミャ」

 

 

 そう言ってミャーミャー鳴きながら、ありすは僕をじーっと見てくる。

 ……なんだ、このプレッシャーは……! 

 アホのように猫の鳴き真似をしてるありすから、凄まじい同調圧力を感じる。

 

 そして恐るべきことにめちゃめちゃ可愛い。この姿を動画にして配信すれば、十万単位の収入があるのではないだろうか。

 もちろんそんなことをするつもりはないが。この光景を見られるのは僕だけでいい。そう、この子猫ありすは僕だけのものだ。

 

 僕は吸い寄せられるように、フラフラとベッドに近付いていた。

 

 

「猫ってどこを撫でると喜ぶの?」

 

「一番喜ぶのはしっぽの付け根だけど、今日は触らせてあげないにゃ」

 

「じゃあお腹?」

 

 

 僕はありすのお腹に目を向けた。パツパツに膨らんだ胸に生地が引っ張られ、ズボンとの間にわずかに白い肌が覗いている。

 

 

「お腹はダメニャ。よほど気を許さないと触らせないのニャ~」

 

「じゃあ……頭?」

 

 

 僕がありすの頭に手を伸ばしてゆっくり撫でると、ありすは気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。

 

 

「正解にゃー。猫は額を撫でられると喜ぶ、これは共通解なのニャ」

 

「そうかそうか」

 

 

 僕はありすの頭を撫でながら、ベッドに腰を下ろす。

 するとありすは待っていたとばかりに僕の膝に頭を乗せてきた。

 しばし無言でありす猫の頭を撫でて可愛がってやる。

 

 

「……なんか言うニャ」

 

「何かと言われても」

 

「褒めるニャ。ありすちゃんを褒め讃えるのニャ」

 

「ありすは可愛い」

 

「そんな当たり前のことじゃ満足しニャい」

 

 

 さすが猫だ、気位が高い。人間を下僕のように扱ってくる。

 子猫にしてこの風格とは……先が思いやられるぜ。

 

 

「いつも努力してるありすはえらいぞ」

 

「みゃーん♪」

 

 

 見えない尻尾がにゅるんと振られたような気がした。

 

 

「学校もモデルも頑張り屋さんだな」

 

「みゅー」

 

「いつも隠れて頑張ってるの知ってるぞ。えらいなあ。すごいなあ」

 

「みゅーん……♪」

 

 

 僕が褒めながら撫でてやると、子猫ありすはトロトロにとろけた顔で気持ちよさそうにみゅーみゅー鳴いて体重を預けてきた。心底リラックスしているようだ。

 

 ……あれ? これ、もしかして僕じゃなくてありすが癒されてないか?

 しかもいずれ催眠をかけて動物扱いしてやろうと密かに思っていたのを、シラフで先取りされてネタ潰し喰らったような……。

 

 

「ふみゃ?」

 

 

 撫でる手を止めると、ありすはどうしたの? といった感じの目で見上げてきた。

 まあいいか、可愛いし。癒されるのも事実だ。

 なるほど、動物っていいものだったんだな。

 

 

「えらいから今日は頑張るのをお休みして、ゆっくりしようなー」

 

「みゅーん♪」

 

「ほーら、撫で撫でー」

 

「みゅうーん」

 

 

 膝枕して子猫ありすの頭を撫で回してやっていると、何やら子猫ありすの様子がおかしくなってきた。

 何やら頬を赤らめている。どうした?

 

 

「……頭は飽きたから、別のところ触っていいニャ」

 

「別のところって言うと……」

 

 

 僕が口にすると、ありすは頭を僕の膝に預けたまま無言で仰向けになった。

 

 

「お腹触っていいの?」

 

「みぅ♥」

 

 

 ごくり、と大きな音が聞こえた。

 僕が唾を飲み込む音だった。

 

 

 僕はドキドキと心臓の高鳴りを感じながら、微かに覗いている白いお腹に指を……。

 

 

「ありすちゃん、どこー? お風呂あがったよー」

 

 

 廊下をパタパタと歩く音と共にくらげちゃんの声がした。

 えっ、ちょ、待っ……。

 

 

「キモ兄貴、ありすちゃん知らな……い……?」

 

 

 無慈悲にドアが開かれ、くらげちゃんの動きが固まる。

 その視線の先には、僕のベッドで膝枕をされながら、お腹に手を伸ばされているありす。

 

 

「「…………」」

 

「…………」

 

 

 すうっ……とくらげちゃんの視線の温度が零下まで下がるのが分かった。

 

 

「不潔……!」

 

 

 バタン! と大きな音を立ててドアが閉じられた。

 

 

「ま、待ってみづきちゃん! これは違うの! おーい!」

 

 

 ありすは跳ね起きるようにベッドから降りて、急いでその後を追う。

 

 はぁ……。

 

 

「なんだったんだ……」

 

 

 隣の部屋からは「今のは違うの!」「何が違うのよー!」「エッチなことじゃないからー!」とかしましく言い争う声が聞こえてくる。

 夢の途中で突然目が醒めたかのような脱力感と共に、僕はベッドの上に転がった。

 ふわりと包み込むように、ベッドから濃厚なありすの残り香が漂ってくる。その甘い匂いを嗅ぎながら、僕は深いため息を吐いた。

 

 

「これもう、今晩は眠れないよ……」




子猫ありすの生態

・女王気質
・甘えん坊
・注文が多い
・いつもより素直

・仲間外れにされてすごく寂しくなると発症する


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外伝「にゃる君とささささん」

※外伝は三人称視点でお送りします。


「ここまで来ればいいだろ」

 

 

 沙希(さき)を引きずるようにハカセの家からお(いとま)した(ながれ)は、公園までたどり着くとふうと息を吐いた。

 

 

「あーあ、良かったの? 晩御飯ご一緒するチャンスだったのになー。ハンバーグのおいしそうな匂いがしてたよ?」

 

 

 沙希が小首を傾げて訊くと、流は軽く笑って手を振った。

 

 

「バカ言え、ありゃありすサンに言ってたんだよ。ありすサンに向けるママさんの目、どう見てもハカセや妹ちゃんに向けるのと同じ感じだっただろうが。そりゃ俺らも歓待してもらえただろうけど……せっかくの家族水入らずを邪魔する野暮(ヤボ)にはなりたくねえ。それにありすサンが寂しそうだったからな」

 

「にゃる君って、意外と周囲のことよく見てるんだね。それに気配りもできるし」

 

 

 沙希はクスクスと笑う。

 冬の日暮れは早く、宵闇の中に浮かぶその笑顔はどこか魔女じみた陰があるように流には思えた。

 

 流は顔を引き締めると、久々に凄みのある表情を作る。ハカセと出会って以来、まったくしたことのない顔だった。

 

 

「ハカセのいないところで、お前と腰を据えて話してみたかったしな」

 

「あれ? もしかしてアタシに告っちゃう流れ? やだなー、にゃる君のルックスってあんまり好みじゃないんだよねー。筋肉が暑苦しいもん」

 

「茶化すんじゃねえよ。……佐々木(ささき)、お前何を企んでる?」

 

 

 流の問いに、沙希は意外そうな顔をした。

 

 

「企む? 何を?」

 

「それを訊くのはこっちだ。お前がどんな奴か知らないとでも思ってるのか?」

 

 

 流は沙希に指を突き付ける。

 

 

「ほんの少し前まで、お前はいじめグループにいたよな。お前にいじめられたって証言する女子も何人か知ってる。そいつら曰く『根暗で嘘つき、他人の粗探しが得意な女』だとさ」

 

 

 本当はもっとひどいことを言われていたが、流は口にしなかった。

 実際に彼女らが言ったのは、『根暗で嘘つき、他人の粗探しが得意でひがみ根性が強く、自分も隠れオタクのくせにオタクいじめをする嫌な女』だ。

 

 沙希はこげ茶に染めた髪の上から頭をコリコリと掻いて、軽く笑った。

 

 

「ありゃー、そんな感じに言われてるのかぁ……。まあ実際そうだから仕方ないよね。……許すって言ってくれたんだけどなあ。甘いなーアタシも」

 

 

 そんな彼女の様子を見て、流はますます得体が知れないと感じた。

 ぞわぞわする危機感を感じながら、流は目を細める。

 

 

「それで、どうなんだ。どうしてハカセに付きまとう? 彼女らには改心したと言ったらしいが、俺は信じねえよ。ハカセに害をなそうってんなら、俺は女だろうと容赦しねえ」

 

「でも改心してハカセくんに付きまとってるのは君も同じでしょ、にゃる君?」

 

「ぐ……」

 

 

 去年から同じクラスにいる沙希は、つい半年前まで流がグレていたことを知っている。去年の夏休み明けに金髪に染めてきた流にクラスは密かな騒ぎになったが、今年の春に黒髪に染め直してきたときはもっと騒然としていた。

 

 流は胸元で拳を固め、かつての自分の像を握り潰すかのように力を込めた。

 

 

「確かにそうだ。だが、俺はあいつに救われたんだ。親父みたいな警察官になるって夢を自ら踏みにじってやさぐれた俺に、もう一度その夢を信じてみろって(さと)してくれた。何度殴られても決して折れずに、殴り返しもせず。その姿は、俺がかつて親父に見ていた正義の味方の在り方そのものだった」

 

「…………」

 

「俺はハカセに大きな恩がある。あいつは他人の悪意に疎くて、感性がズレてて、大体何考えてるのかわからん奴だけどよ……でも多分いい奴なんだ。時々魔法みたいに他人に影響を与えるけど、決して悪いことはしない。むしろ他人のためになることばかりだ。だから俺はあいつがいい奴でいる限り絶対に味方する」

 

 

 そして流はキッと鋭い瞳で沙希を睨み付けた。

 

 

「あいつのお人よしに付け込もうなんて奴は許さねえ。さあ、吐け。お前はハカセに近付いて、何を企んでるんだ?」

 

「……にゃる君もいい人だね。いや、彼の魔法でいい人に変えてもらったのかな」

 

 

 沙希はフッと笑顔を浮かべた。

 

 

「アタシもそうだよ。ハカセくんから、他人を()く見ることを教えてもらった。人間はキミが思っているほど、悪意に満ちた人ばかりじゃない。他人のいいところを見つけるのは素敵なことだし、それを見つけられる自分もまた魅力ある人間になれると……新しい視点をくれたんだ」

 

「……お前も俺と同じ……」

 

「そう。だから、ハカセくんの近くにいるの。他人のいいところを見つけられる目から見た世界の中で、ハカセくんが一番綺麗だったから」

 

 

 沙希は夕闇の空を軽く見上げ、輝き始めた一番星を眺めながら続ける。

 

 

「きっとまだ善にも悪にも染まっていない、無垢だけど大きな才能。きっとこれから、何か大きなことをする。アタシはそれを邪魔にならないところから見ていたいの」

 

「そうか……」

 

 

 流は拳を下げた。もう沙希はハカセに忍び寄る脅威ではないと理解していた。

 夢見るように星を見上げる沙希の瞳が良からぬことを企んでいると判断するなら、そんな曇った瞳は(えぐ)り出してしまった方がいい。

 

 

「それに、ハカセくんってスリムで高身長でタイプだし」

 

「ん?」

 

「ボサボサ髪で枯れた雰囲気だし、ありすちゃんのだから口にしてはいけない名前みたいになってるけど、オシャレと運動したら結構イケると思うんだよね」

 

 

 いや、瞳が曇ってたわ。抉り出したの拾わないとだめだわ。

 デヘヘとなる沙希を、流はギロリと睨み付けた。

 

 

「おい! お前ハカセ狙ってんのか!? ありすサンとの関係に割って入ろうなんて考えてるのなら許さねえぞ!」

 

「そういうにゃる君はありすちゃんが好きなんでしょ?」

 

「ぐ……これは憧れや敬意だ、断じてゲスな感情じゃねえ」

 

 

 沙希はフフッと自嘲するように笑顔を浮かべた。

 

 

「わかるよ。自分には重すぎるって気持ちはよくわかる。多分ありすちゃんがいなくたって、アタシじゃハカセくんには釣り合わないよ。だから近くで見守って、せめて手助けがしたい。でしょ?」

 

「…………」

 

「キミの中ではありすちゃんとハカセくん、両方が同じぐらい大切なんでしょ。いいじゃん、それで。憧れと友情を胸に秘める男、絵になるじゃない」

 

「……ハカセには言うんじゃねえぞ」

 

「言わないよ。そんな野暮なことしたらブチ壊しだもん」

 

 

 沙希はそう言ってへらりと笑う。

 その笑顔は、流が先ほど感じた印象とはまったく違っていた。

 それでも念押しはしておく。

 

 

「それと! ありすサンにも手を出すなよ!」

 

「んー、ありすちゃんか……正直去年は苦手だったな。取り巻きやってへーこらしてたけど、腹の中で何だこの女って思ってた。あの子自分が何考えてるか見せないし。でも他人の良いところが見えるようになった今は……」

 

「今は?」

 

「……今も正直苦手かな。だって眩しすぎるもん。太陽を直視したら目が潰れちゃうでしょ? あんな子にはなれないよ。……でも、アタシがありすちゃんに何か害をなすことはもうない。そんな悪意見つけたら、絶対に阻止したい。それでいいかな?」

 

「……わかった。じゃあ、俺たちは“同志”だな」

 

 

 流がそう言うと、沙希は一瞬目を丸くして、それから噴き出した。

 

 

「そうね、“()()”だ。お互い辛い恋をした“同士”だね、アタシたち」

 

 

 流が差し出した手を沙希が掴み、2人は握手を交わした。

 沙希は流の節くれだった手を見て、フフンと冗談を口にする。

 

 

「おっと、アタシみたいな可愛い子と手をつなぐのはもしかして初めてだった? ごめんねー。仲間だとは思うけど、にゃる君みたいなゴツい男子ってホント無理なんで。アタシに惚れないでね?」

 

「……いや、こっちこそねーよちんちくりん貧乳」

 

「あ゛?」

 

 

 顔をしかめる沙希を、流は見下ろした。

 身長140センチほどの小柄な背丈で、まだ膨らみかけのAカップ。お尻だけちょっと大きめだが、流の好みとは程遠い。ぶっちゃけて言うと貧相(ロリ)だ。

 それでちょっと背伸びしたギャルっぽいファッションをしてるので、流にとってはなんというか……。いや、これはこれで需要もあるのだろうが……。

 

 

「お前らさあ、さも自分に商品価値があるように振る舞うけど、それ単に中学生のブランド価値だからな?」

 

「はぁー!? JCやぞ、最高のブランド価値やろがい!」

 

「じゃあお前明日から引きこもりになっても同じ価値あると言えるのかよ」

 

「あ、あるに決まってんでしょ!? このスレンダー美少女を捕まえて! ふざけんにゃ!」

 

 

 興奮しすぎてちょっと噛んだ。

 

 

「スレンダーって貧相って意味じゃねえぞ。もっとスラっと高身長で3サイズのバランスが取れたイイ女のことを言うんだぞ?」

 

「うるせー筋肉ダルマ! デブ!」

 

「はぁ!? 警察官向けに頑張ってビルドしたこの体がデブだとお!?」

 

「どうせ今はムキムキでも30超えたら維持を怠ってぶよぶよになるんだ! 約束された未来のデブ!!」

 

「ならねえよ! ざっけんなこの根暗ロリオタク!!」

 

「もう根暗は卒業しましたー!! これから成長期だしどんどん伸びますー!! ざまぁー!!」

 

「何がざまぁだよゲームオタク! ガワだけギャル!! サークラ姫体質!!」

 

「アンタだってゲーオタじゃん!?」

 

 

 先ほどの美しい握手はどこに行ったのか。

 2人はギリギリといがみ合い、ヒートアップして罵り合った。

 争いは同じレベルの相手としか発生しないとするなら、小数点以下まで完全に同レベルだった。

 

 

 

 やがて2人は疲れ果て、ぜえぜえと肩を息をしながら黙り込む。

 冬場というのに流れる汗を拭い、流は提案した。

 

 

「……とりあえず腹減ったし、ラーメン食いに行かね? その後ゲーセンな。どっちが上か対戦ゲーで分からせてやる」

 

「いーよ。じゃあ負けた方がラーメンおごりね」

 

「上等じゃねーか。……しかしその小さな体でラーメン食って晩飯まで入るか?」

 

「はぁ? 中学生の胃袋なめんな。ラーメンごちでーす」

 

「まだ勝負してねーだろ。……つかお前、そっちの口調の方がいいな。そっちの方が素だろ、半端に芝居がかった口調してねーでこれからそっちでしゃべれよ」

 

「やだよ」

 

 

 流の言葉に沙希は顔を俯かせて、少しだけ頬を赤く染めた。

 

 

「……毒舌でしゃべったら、ハカセくんに嫌われるかもしれないじゃん」

 

「…………」

 

 

 流はガリガリと頭を掻き、聞き取れないような小声で呟いた。

 

 

「可愛い顔もできるんじゃねえか……」

 

「え? 何? 今何言ったの?」

 

 

 沙希が耳ざとくその小声を聞きつけ、ニマニマと流に笑いかける。中学生にして大きな体格をした流の周囲をチョロつく姿は、象にじゃれついた子ネズミのようだった。

 

 

「何も言ってねーよ! オラ行くぞ! 俺が勝ったらラーメンプラス毒舌解禁な」

 

「はー!? 何その条件! じゃあアタシが勝ったらポテト追加ね!」

 

「まだ食うのかよ……。マジでどこに入るんだ?」

 

 

 流は沙希を連れて、繁華街へとぶらぶらと歩き始める。

 

 

「大体、ハカセはお前の毒舌なんかとっくに知ってんだろ。今更猫被らんでもいいだろうが。素でいけ、素で。いつだって素で話すのが一番通じるんだよ」

 

 

 そんなことを口にする流の背中に沙希はくすっと笑顔を浮かべ、絶対流に聞こえないように小さく呟いた。

 

 

「……にゃる君の輝きも綺麗だって、アタシは思うな」




中学編終了、次回から高校編です。

ここまでのお話が面白かったら評価とお気に入りしていただけるとうれしいです。
とても今後の励みになります!


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高校生編
第24話「合格祝賀会!」


芳華(ほうか)高校合格おめでとーう!』

 

 

 にゃる君とささささんがパァンとクラッカーを鳴らし、キラキラとしたテープや紙吹雪が宙を舞った。

 ありすが家から持ってきたケーキを取り出し、僕がクラッカーから避けていたグラスと食器をそれぞれの前に配る。

 

 僕たち4人は誰も欠けることなく、同じ高校への入学が決まった。

 そこでささささんがぜひパーティーを開いてお祝いしようと言ったので、今日はカラオケの一室を借りて、高校合格の祝賀会を開くことになったのだ。

 

 ちなみに今日は歌わないとありすが断固として主張したので、純粋なおめでとうパーティの場として利用している。折角だから一曲歌ってもいいと思うけど……僕は音痴だしそれでいいや。

 

 

「うわー、ありすちゃんのケーキおいしそう!」

 

「マジか、これ手作りだろ? ありすサン料理うめー……!」

 

「私じゃないよ。これ、ママが焼いてくれたの。みんなで食べてねって」

 

「ありすのママは料理研究家なんだよ」

 

 

 へえーと感心するにゃる君とささささんに、僕は付け加える。

 

 

「ありすはおにぎりとゆで卵くらいしか作れないから料理に期待しちゃだめだよ」

 

「そうだけど、それ今言う!?」

 

「またあのケーキを食べたいって言われたらありすが困るかなと思って」

 

「ぐぬぬ……」

 

 

 親切心で言ったのに、何か少し怒らせてしまった気がする。不思議だ。

 僕はぷんすかとそっぽを向いてしまったありすに視線を送り、カラオケの店員に持ってきてもらったナイフを手に取る。

 

 

「じゃあ入刀するね」

 

「「わー!!」」

 

 

 にゃる君とささささんがパチパチと拍手する中で、僕はケーキを8つに切った。よしよし、我ながら上手に切れたな。

 

 

「すごくぴったり8等分できてるね……」

 

「ハカセって意外と器用だよな。精密機械みてえ」

 

 

 ナイフはナプキンに包んでテーブルの端に置いて、まだそっぽを向いて腕組みしているありすに声を掛けた。

 

 

「切り終わったよ」

 

「うん、ありがと」

 

 

 こちらに向き直ったありすに、家から持ってきた可愛いフォークを添えてケーキを差し出す。ニコニコしているので、もう機嫌は悪くないみたいだ。

 

 

『かんぱーーい!!』

 

 

 みんなの前にケーキを並べたところで、グラスを打ち鳴らして乾杯する。

 にゃる君がジンジャーエールをぐいっと飲み干し、かーーーっと叫んだ。

 

 

「あー、1年頑張った勝利の味ぃ! たまらねえぜ!!」

 

「いやーホント頑張ったよねボクたち」

 

 

 ささささんがうんうんと頷く。

 実際合格できたのは本人の努力あってこそだと思う。

 

 ありすがしょっちゅう勉強会に参加してきたので、催眠集中法はそう毎回使えなかったのだ。最終目的であるありすに催眠をかけるためには、万が一にもにゃる君やささささんが催眠にかかっているところを見せるわけにはいかない。

 だからありすが参加した勉強会では、普通に学習するしかなかったのである。

 

 これで間に合うのか? と内心ヒヤヒヤさせられたが、にゃる君とささささんが途中から家や塾でも熱心に勉強してくれるようになった。

 彼らの間でどんな心境の変化があったのかはわからないが、おかげで成績も上がって無事高校合格に漕ぎつけられたのである。催眠集中法はほぼ最初のブーストくらいにしか役に立たなかったな……。

 

 

「まあこれも俺たちの秘めたる素質とたゆまぬ努力のおかげだな」

 

「チョーシのんな。そもそもはハカセくんのおかげでしょ」

 

「……え、なんで?」

 

 

 ささささんの言葉に僕は首をひねった。割と本気で何もしてない気がする。

 本人たちの努力の結果にしか思えないのだが。

 

 

「ハカセくんが最初の勉強会で、集中する方法と勉強のおもしろさを教えてくれたじゃん。あれがあったからその後も継続して頑張れたんだよね」

 

「あーそうそう、『知識を得ることをゲームのように思え』ってやつ。あれはいい言葉だったよなー。おかげで勉強が楽しくなったぜ。まあ初回ほどじゃなかったけど」

 

「へー、ハカセがそんなこと言ったの? たまには良いことも言えるんじゃない」

 

 

 もぐもぐとケーキを頬張る2人の言葉を聞いて、ありすが珍しいものでも見たような顔をした。

 僕はそれどころではない。

 

 

()()を覚えてるの?」

 

「そりゃ覚えてるよ、あの集中法は革命的だったもん。あれをきっかけに、ボクらも意識してある程度集中できるようになったんだよね」

 

「いわゆる『ゾーン』に入るってああいう感じだったんだなって。一度やり方覚えちまえばあとは真似するだけでいいからな」

 

「えっ、そんな集中方法があるんだ。ハカセ、何で私には教えてくれないのよ」

 

「あー……ええと……ありすに教えたら勝てなくなるだろ」

 

 

 僕がその場を切り抜けるために何とか絞り出した言い訳ににゃる君とささささんが笑い、ありすはぷくっと膨れながら僕の脇腹を指でつつく。

 いや、キミら笑ってるけど、僕にとっては笑い事じゃないんだが。

 

 

 ()()()()()()()()()

 しかもなんか変な能力に目覚めてるじゃん。

 

 

 確かに催眠をかけた直後は記憶がなかったはず。

 しかしいつの間にか2人は催眠の内容を思い出している。これはどうやら催眠されたこと自体を覚えているのではない。催眠中に僕がかけた暗示を、僕から説得や教示を受けたものとして記憶を補正しているようだ。

 

 ……催眠が既に解けているのか?

 いや、催眠が解けているとしたら、それ以前ににゃる君とささささんの更生もなくなって元の不良といじめっ子に戻っているはず。

 

 それに2人が言った、勉強のおもしろさを教えてくれたという発言も気にかかる。勉強がゲームと同じおもしろさになるという暗示は、僕が指を鳴らして超集中状態にしたときだけ効果を発動するはずだ。それが僕の制御を外れて、普段の意識にも影響を及ぼしている。

 

 意識して超集中できるようになったという件に至っては意味不明だ。僕の暗示は彼らの中でどんな化学変化を起こしたというんだ。

 

 だめだ、何が何だか全然わからない。どうなってるんだ?

 

 

「……2人とも、高校でも勉強頑張れそう?」

 

 

 何を訊いたらいいのか決めかねて、かろうじてそう言うとにゃる君は爽やかな笑顔でドンと胸を叩いた。

 

 

「おう、心配すんなって。大丈夫、ちゃんと勉強についてくからな」

 

「ボクらなら大丈夫だよ! いやー他人を心配するなんて、ハカセくんもこの1年でちょっとは人間らしくなったのかな~?」

 

「だといいんだけどねー」

 

 

 そう言ってささささんとありすはコロコロと笑い合う。

 

 

 ……思えばささささんも催眠かけた直後とはなんか変わったな。

 なんかこう、ちょっと毒舌キャラになってきた。

 少し元々の人格に戻ってきている気がする。

 

 ここ1年のささささんは、やたらにゃる君とよくつるんでいた。

 何やらことあるごとに2人でゲーム対決して、負けた方が言うことを1つ聞くという勝負をしているらしい。一人称が『アタシ』から『ボク』になったのも、勝負で負けて変更させられた結果だ。

 

 当初は陰キャから陽キャに反転させたはずなのだが、なんか現在はポジティブ思考でオシャレなゲームオタクという感じに落ち着いてきた感がある。割と毒舌も口にするけど、他人を傷つけて自分が気持ち良くなるためではなく、ジョークとして会話を盛り上げるために場面と相手を選んで使っているようだ。

 

 それに知人が困っていると、目ざとく見つけて悩み事の相談に乗っている。たとえそれで悩みが根本的には解消されなくても、彼女が愚痴を聞いて明るく励ますことで心が楽になるらしく、みんなから好かれているようだ。

 

 これも催眠が彼女の中で変化した結果なのか? それともにゃる君の影響を受けたせいか?

 

 

 この1年ほど休眠させていた催眠アプリ研究に、にわかに新たな動きが出てきた感がある。

 別のアプリの開発や家庭の問題に脳のリソースを取られていたけど、そろそろこちらの研究も再開するべきだろう。

 

 

 ……家庭問題かぁ。ここ半年というもの、くらげちゃんとどんどん仲が悪くなっているんだよな。

 元からキモ兄貴とは呼ばれてはいたが、最近は顔を見るのも嫌という態度をされている。両親も深く心を痛めているが、お母さんは思春期だから見守るしかないと言っていた。お母さんがそう言うのだから、僕の出る幕ではないだろう。だけどやっぱり心配で、なかなか研究に集中できないでいる。

 どうにも最近、他にやることや心配ごとが多すぎるよ。

 

 

 僕がひとり頭を悩ませていると、ありすがちょっと自慢げに口を開いた。

 

 

「ちなみに今回のパーティーは、ハカセが作ったアプリの完成おめでとう会でもありまーす! はい、拍手ー!」

 

「おおー!! 言ってたアレ、ついに完成したのか!」

 

「おめでとー! やんややんやー」

 

「あ、うん。ありがとう」

 

 

 予想外のお祝いをされて、僕の頭が一気に切り替わった。

 

 ありすが言ったのは、この1年でこつこつと作っていた別のアプリのことだ。

 といっても催眠アプリのような、僕にとって大きな意義のあるアプリではない。どうってことないお遊びアプリだ。

 ようやく完成したので、もうじきリリースしようと思っている。

 

 

「犬の気持ちがわかるアプリだったよな。確か名前は……『バウ……』」

 

「いやそんな単語入ってないから。『ワンだふるわーるど』だから」

 

 

 何か言い掛けたにゃる君を遮って、僕は自分で決めた正式名称を口にした。

 

 

「ありすちゃんも開発に協力したんだよね」

 

「そうよー。私とハカセの初の共同開発作品なのよ!」

 

 

 ありすはえへんっとやたら偉そうに胸を反らした。

 ゆさりと1年前よりさらに成長したDカップが揺れる。おお……と身を乗り出したにゃる君のお腹に、ささささんが無言で肘鉄を喰らわせた。

 

 

 『ワンだふるわーるど』は犬を動画撮影すると、声と仕草と表情を読み取って現在どんな気分なのかを教えてくれる翻訳アプリである。

 といっても100%確実に翻訳できるわけではなく、的中率はせいぜい90%程度といったところ。どうせなら100%を目指したかったが、僕の力量では不可能だった。ありすは人間同士でも100%意図が伝わるわけないんだから上出来だよと励ましてくれたけど。

 あと、おまけとしてありすがアイデアを色々出してくれた機能をいろいろくっつけてある。

 

 僕にはこんなものが売れるとは思えないが、ありすはこれはすごいアプリができたわと大喜びしていた。ありすが満足したのだから、この時点で十分役目は果たしたかな。

 

 そもそも動物に何の興味がない僕が何でこんなものを作る羽目になったかというと、ありすへの偽装工作がきっかけだった。

 

 

 あの初めての勉強会の後、僕はありすに研究しているものがあると口を滑らせてしまった。それ以来ありすは僕が何を研究してるのかと、折につけてしつこく聞き出そうとしてきたのだ。

 どうもありすは僕のことを何でも知りたがっている節がある。お前は僕のお母さんかよ。いや、本当のお母さんでもそこまで息子のプライバシーを根掘り葉掘り聞いてこないよ。

 

 いくら何でもお前に催眠かけるアプリ開発してるんだよとは言えないので、仕方なく嘘をつくことになった。そういえばこの前動物はいいわよとか言ってたな、と思いつつ適当なことを口走ってしまったのだ。

 

 

「……動物の気持ちがわかるアプリ、とか」

 

「動物? 何の?」

 

「犬……とか?」

 

「犬っ!?」

 

 

 あのときのありすのキラキラした瞳は忘れられない。

 ありすがものすごい犬好きだということを、僕は失念していたのだ。

 

 最近まで犬なんか飼ってなかっただろと思ったのだが、イギリスのおばあちゃんがすさまじい愛犬家なのだそうだ。ありすも小学校に上がって日本に来るまでは、多数の犬に囲まれた生活をしていたのだという。

 

 僕の嘘を聞いたありすは、それはもう嬉しそうに協力を申し出た。

 大量の資料を持ち込み、無数の動画データを提供し、なんなら飼っている犬まで被検体にしたのである。被検体といっても試作段階のアプリで撮影しただけだが。あのときのことは思い出したくもない。リアル犬は僕の天敵だった。

 

 にゃる君とささささんが受験地獄に苦しんでいる間、僕は犬アプリ開発地獄に墜とされていたのである。

 適当な嘘なんてつくもんじゃないと、僕は自分を呪ったものだ。

 

 とはいえアプリ開発自体はそれはそれで楽しかったし、何よりありすがずっとご機嫌だったのは嬉しい誤算だった。

 それにしてもありすがいろいろアイデア出してくれたので、調子に乗って翻訳機能以外もいろいろつけてしまったな。おかげで開発まで1年もかかってしまった。

 

 

「ねーねー、アプリって売れたらもうかるの?」

 

「さあ……どうなんだろうね」

 

 

 ささささんの言葉に、僕は首を傾げた。

 これまでEGOさんのアプリ開発の手伝いはしてきたが、それが一体どんな値段で売られているのか僕は知らない。

 別に儲けるために作ったわけでもないので無料配布でいいだろうと思ったのだが、ありすとEGOさんがしきりに止めるので500円に設定した。犬だけにワンコインというくだらないジョークで決めた。

 

 無料広告が入るタイプでもいいかなと思ったが、ありすは広告が入るアプリが大嫌いなのだそうだ。ありすのために作ったアプリなのだから、徹頭徹尾ありすの好きなようにさせてあげよう。

 売り上げも全部ありすに渡そうと思っていたが、固辞されている。この売り上げは僕が飛躍するときに使いなさいと説教されてしまった。僕はアプリ作ったくらいで、資料集めは全部ありすがやったのだから、せめて半分は渡すべきだと思うが……。

 おこづかい程度のお金が入ったら、何らかの形でありすに還元しようかな。

 

 そう思っていると、にゃる君がおどけるように口を開いた。

 

 

「よっ、高校生エンジニア様! 売れたらなんか奢ってくださいな」

 

「にゃるはちょっと遠慮しろよなー。ボクたちがお祝いする側でしょ、普通」

 

 

 ささささんはそう言ってにゃる君を叱るけど、日ごろから2人には随分と助けられている。もう催眠アプリの被験者だから、というだけの関係ではない。何か少しでもお返しできるチャンスがあるなら、ぜひ乗っておきたい。

 

 

「ううん、いいよ。何がいい?」

 

「マジで? じゃあヨクド!!」

 

「オッケー」

 

 

 廉価なハンバーガーチェーンの名前を出されたので、安請け合いする。

 広い世界にいるであろう物好きが数人でも買ってくれれば、にゃる君とささささんに奢るくらいはできるはずだ。

 

 

「いよっ、ハカセくん太っ腹!」

 

「お大尽!」

 

 

 にゃる君とささささんはパチパチと拍手している。

 これはお返しなんだから気にしなくていいんだよ。それに催眠勉強法の被験者になってくれた謝礼をまだ払ってないしね。

 

 そんな僕たちのやりとりを見て、ありすはくすっと笑った。

 

 

「言っちゃ悪いけど、ハンバーガーごときで妥協したことを後悔するわよ」

 

 

 そんなに売れないと思うけどなあ。

 ありすは犬好きすぎて目が曇っているのではなかろうか。動物が好きじゃない……というか、今回の件で犬が苦手になった僕からすると明らかに過大評価だ。

 そんな僕をよそに、ありすは持ち込んだぶどうジュースをプラスチックのコップに注ぎ、みんなの前に配った。

 

 

「では改めて、私たちの明るい未来に乾杯!!」

 

『かんぱーい!!』




『ワンだふるわーるど』仕様


・犬を動画撮影すると、声と仕草と表情から感情を読み取って文章として表示する。的中率約90%

・犬を写真撮影すると内蔵されたAIがデータベースを検索して犬種を判別。多頭飼いに対応するため体型や模様から個体認識登録が可能

・定期的な動画撮影を行うと肥満や病気の兆候を警告してくれる健康維持機能

・GPSと連動して散歩の距離と速度を割り出し、散歩時の最適な運動量を犬種や年齢に合わせて計算してくれるお散歩アシスト機能

・撮影した動画や画像データをインデックス化して閲覧できるダイアリー機能『毎日ワンだふる』(撮影したデータをPCやクラウド上に外部保存することやSNSに投稿することも可能)

・500円ぽっきり、アプリ内課金と広告なし


大体ありすがアイデア出したのをハカセが1年かけて実装しました


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第25話「忠犬騎士ヤッキー」

「これがうちの子のヤッキーよ、可愛いでしょ!」

 

 

 『ワンだふるわーるど』開発工程において、奴との出会いだけは忘れることはできない。本当に苦い思い出だった。

 

 ダミーの研究内容に食いついたありすは、僕の犬語翻訳アプリの製作を手伝おうとさまざまな犬種に関する資料や、おばあちゃんに頼んで撮影してもらったという膨大な動画データを用意してきた。

 

 ありすが犬種によって感情表現もさまざまだというので、僕は撮影した犬の犬種を自動判別するAIを開発した。さらにこのAIに、動画で撮影した犬の仕草や鳴き声、犬種、年齢から感情を判別し、言語データベースから文章を構築する機能を組み込んだのである。

 ぶっちゃけて言うとこのAIを作るのが一番手間がかかった。

 

 とはいえ何とか基礎を作るところまでは漕ぎつけたので、早速実際の犬を撮影してちゃんと翻訳が機能するか試そうということになったのだ。

 

 被検体にはありすが飼っている犬を使うことになった。

 ありすが去年おばあちゃんにもらったという犬は、脚が短くて胴が長く、耳はぴょこんと尖ったとてもユーモラスな姿をしていた。

 なんか見るからに短い脚でよちよち歩きそうなんだが、見た目に反して歩くのが結構速い。胴が長くて短い脚といえば僕でも知ってるぞ。

 

 

「これ、ダックスフントってやつ?」

 

「違うわよ、この子はウェルシュ・コーギー・ペンブローク! 元は牧羊犬で、すごく賢い子なのよ。ウェルシュ・コーギーにはペンブロークの他にカーディガンっていうのもいるんだけど、ペンブロークの方が一回りサイズが控えめで、耳も小さいの」

 

 

 犬のことになったらめっちゃ喋るじゃん。

 

 ありすはしゃがんで、ハッハッハッと舌を出して短く息を吐いている犬の頭を撫でた。

 

 

「ヤッキーは本当は夜月(やつき)って名前なんだけど、言いにくいからヤッキーって呼んでるの。すごく人懐っこい子だから、ハカセもすぐ仲良くなれるわよ」

 

「へえー、よろしくなヤッキー」

 

「ぐるるるるるるる……!!!」

 

 

 ヤッキーは僕の方を向くと瞳を細め、低いうなり声を上げた。

 あっ、これ他人の感情がわからない僕にもわかる。思いっきり敵意だろ。

 

 

「すごい威嚇されてんだけど?」

 

「ペンブロークは牧羊犬だから、知らない人への警戒心が強いの。大丈夫だよヤッキー、この人は悪い人じゃないからねー」

 

「きゅーんきゅーん」

 

 

 ありすはヤッキーの頭を撫でながらスマホを向け、動画を撮影し始めた。

 そしてアプリの翻訳画面を僕の方に向ける。

 

 

『ご主人様 大好き 甘えたい 好き好き』

 

「ね、すごく人懐っこいでしょ?」

 

「なるほど」

 

 

 動画を撮影することで、いろんな感情をリアルタイムで表示できるようにしたのがこの翻訳アプリのポイントだ。

 この分だとちゃんと言語データベースも拾えているようだな。AIがたまにノイズを拾ってしまって変な誤訳をする恐れがあったが、問題ないようだ。

 僕もやってみるか。

 タブレットに入れたアプリを起動して、ヤッキーに向ける。

 

 

「ヤッキーこっち向いてくれ」

 

「ぐるるるるるる」

 

 

 どれどれ、何て言ってるのかな?

 

 

不埒者(ふらちもの)め! 貴様、ご主人様に近付いて何を企む! ()く消え失せよ!!』

 

 

 えっ、饒舌(じょうぜつ)すぎない……!?

 犬ってこんな複雑な表現できるの? AIが気を利かせすぎて誤訳してない?

 

 

「ぐるるるるるる」

 

『我がいる限り、ご主人様に手出しはさせぬ! 命惜しくば去るがいい!!』

 

 

 ぐるるるるるるしか言ってないのに文意変わってるんですが!?

 微妙な仕草の違いやトーンで変わるのだろうか。僕が作っておいてなんだが、謎が深い……!

 AIにはめちゃめちゃな数の犬動画を見せて犬の感情表現を学習させたのだが、僕が知らないうちにアルゴリズムは複雑な進化を遂げているようだ。

 

 タブレットを睨み付ける僕を見て、ありすが小首を傾げながら近寄ってくる。

 

 

「どうしたの、ハカセ? 何かバグったりした?」

 

「あー、いや……」

 

「ぐるるるるっるるるる!!」

 

『あっ、いけませんご主人様! こんなどこのヒトの骨ともわからぬオスに近付いては! 我が退治いたします、お下がりくださいませ!!』

 

 

 なんだこいつ、犬のくせに騎士気取りか……!?

 

 

「わうわうわう!」

 

『さあ、覚悟せよ不埒者! ご主人様は我にとって唯一無二の主君、母にして敬愛する主人! 我の目が黒いうちは何人たりとも触れさせはせぬ!』

 

 

 無言でタブレットをありすに見せると、ありすはわぁ! と嬉しそうな声を上げた。

 

 

「ヤッキー、私をそんな風に思ってくれてたのね! ありがと!」

 

「わうーーーん」

 

『もったいないお言葉でございます!』

 

「でもヤッキー、ハカセはそんな悪い人じゃないのよ。心配いらないわ」

 

「ばうっ!?」

 

『ご主人様!? それはなりませんぞ!!』

 

 

 2人……いや、1人と1匹の仲良さげなやりとりを見ているうちに、何かムカムカしてきた。

 この犬、ありすと出会ってまだ1年しか経ってないくせに長年仕えた忠臣みたいなムーブしてやがる。

 こっちは小1からの付き合いなんだぞ。たかが1年しか飼われてない分際で、僕とありすの間に割って入ろうとは。ここは身の程をわからせてやるべきなのでは?

 

 僕はありすに近付くと、その手を握った。

 

 

「えっ……! は、ハカセ?」

 

「バウッッ!?」

 

『き、貴様ァ! ご主人様から()を離せ!!』

 

 

 ククク……効いてる効いてる。

 お前なんかよりも僕の方がありすとの関係が深いというところを見せつけてやる。

 

 僕はありすの顔をじっと見つめた。

 

 

「今日のありす、すごく可愛いな。髪もふわっとしてるし、眼もぱっちりしてる。ゆるふわコーデっていうのかな、その服も似合ってるよ」

 

「えっ……! や、やだ……急にどうしたのよぅ」

 

 

 ありすは僕のお世辞に顔を赤らめ、もじもじとしている。ちなみに嘘ではなく、僕は本当に可愛いと思っている。いつもあえて言わないだけで。

 

 

「わうーー!!」

 

『ご、ご主人様ァ!! そのような悪漢の甘言に乗せられてはいけません!』

 

 

 ククッ、どうだ騎士め。

 貴様が牙を捧げた主人に、自分が知る以前からの深い関わりがあるオスがいると知った気分は……!!

 

 姫への忠義に燃える若き騎士の前に現われた、姫と婚約を交わしている悪役伯爵になったかのような気分で僕はニヤリとほくそ笑んだ。

 いや、婚約とか別に交わしてはいないんだけど。

 

 

「あおーん!」

 

『ご主人様! ご主人様、正気にお戻りください! おのれっ悪党めが!!』

 

 

 ワンワン吠えて警告を送るヤッキー。

 しかしありすはムッとした顔でヤッキーを叱りつけた。

 

 

「ヤッキー、うるさい! 無駄吠えしちゃダメでしょ!」

 

「わうん!?」

 

『そ……そんな……!! ご主人様ぁ……!!』

 

 

 ククク……フハーハハハハハハハハッ!!!

 悔しいか? 憎いか? それもまた甘美よのう!!

 

 僕はヤッキーに最後のひと押しを見せつけるべく、ありすの肩を抱き寄せた。

 

 

「ありす、こっちへ……」

 

「えっ、あっ……は、ハカセ……!? どうしたの、今日なんか変じゃない?」

 

「……ちょっとおかしくなってるかもな。今日のありすが可愛すぎるから」

 

「~~~~~~!」

 

 

 ありすは湯気が出そうなほど顔が赤くなっている。

 ちなみに僕の方もだいぶおかしくなっている自覚がある。自分が何を言っているのか全然わかっておらず、とりあえず思いつくまま舌を回している。

 思えば自分からありすとこんなに接近するのは初めてで、そう思うとなんだか胸はドキドキするし頭がグルグルしてきた。

 

 

「わうー! わうー!」

 

『ご主人様ァ! ご主人様ァァァァァァア!!!』

 

 

 さあやるぞ、ヤッキーに最後のひと押しを見せつけるんだ!

 ……ん? でも最後のひと押しってなんだ? ここからどうすればいいんだ?

 

 僕はありすの瞳を見つめたまま、次の一手が見つからず硬直する。

 

 

 するとありすは何やら覚悟を決めたようにすっと瞳を閉じ、顔を上に向けた。

 

 

 えっ? これどうしたらいいの? ありすは何を求めてるの?

 

 

「わぅ」

 

『……で? ここからどうするわけ?』

 

 

 ……ヤッキー!?

 ありすの背後に回した手で握ったタブレットに、ヤツのメッセージが表示された。

 

 

「わぅん」

 

『言っちゃ悪いが、我いつもご主人様の顔をぺろぺろしてるんだが? その程度日常茶飯事(にちじょうさはんじ)なわけだが? まさかご主人様の顔ぺろもできんとは言わんよなぁ?』

 

 

 圧縮言語で煽るじゃんこの犬……!?

 

 

「わうわう」

 

『さあそこからどうするんだ?』

 

「わうー」

 

『時間は有限だぞ』

 

「へむへむへむ」

 

『ちくわ大明神』

 

「わうーーー」

 

『早く決めるんだな……!』

 

 

 ちくわ大明神!?

 盛大に誤訳したぞ、今のなんて言ったんだ。

 

 

「……?」

 

 

 僕が固まっていると、ありすが訝しそうに薄目を開けた。

 うううう……! ヤッキーには……ヤッキーにだけは負けるわけにはいかないんだ!

 

 僕は覚悟を決め、ありすの鼻の頭をぺろっと舐めた。

 

 

「なっ……!!」

 

 

 ありすが目を見開いて、鼻に手をやる。

 そんなありすを他所に、僕はヤッキーに勝利宣言した。

 

 

「おらぁ! 見たかヤッキー!! ぺろったぞ!!」

 

「わうーーーーーー」

 

『へっ、鼻かよ。口にしないとは……このヘタレが』

 

「な……なんだとぉ!?」

 

 

 ばちぃぃぃん!!!

 

 その瞬間、ありすのスナップの効いたビンタが僕の頬を襲った。

 

 

「バカ犬! おすわりっ!!!」

 

「はい」

 

『はい』

 

 

 

 

「アンタねぇ、こともあろうに犬と張り合ってケンカするって何事なの? 人間らしい矜持とかあるでしょ? そもそも女の子の顔を舐めるとか何考えてるの? まったくデリカシーとかガミガミガミガミガミ……」

 

 

 その後僕はヤッキーと並んで正座させられ、なんかすごい怒ったありすに説教されたのだった。

 

 

「わぅー」

 

『まあこっちはおすわりなんて全然辛くないんだけどな』

 

「くそっ、こいつ……!」

 

 

 この犬は僕の天敵だということがよくわかった。もう二度と近付くまい。

 そんな決意を固める僕に、ありすは深いため息を吐いた。

 

 

「聞いてるのハカセ? まったく……人間よりも犬の方が共感できるなんて。ホント、変なところでグランマと似てるんだから」




コーギーは子犬の頃に断尾されることが多いですが、ヤッキーはおばあちゃんの意向で尻尾が残っています。
だから通常のコーギーよりも感情表現が多彩なんですね!(ガバ理論)


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第26話「ワンだふるわーるど!」

途中で師匠たちが難しい話をしますが、ハカセと同じ理解で問題ありません。


「まず聞いておきたいんだけど、ひぷのん君って今の時点で有名人や億万長者になりたい?」

 

 

 『ワンだふるわーるど』の仕様書を見たEGOさんはそんなことを言った。

 

 アプリは完成したのであとはリリースするだけなのだが、素人の僕にはリリースってどうすればいいのかよくわからない。やっぱりこういうときは専門家の師匠に教えてもらうに限る。

 

 そんなわけでEGOさんに訊いてみたところ、まずは仕様書と実験データを見せてくれと言われた。

 早速送信したのだけど、彼はそれを見るなり猛烈に唸り始め、やがてこんな質問をしてきたのだ。

 

 

「いえ、全然」

 

「だよねぇ……」

 

 

 そう言うEGOさんのマイクから、ガリガリと頭を掻きむしるような音が聞こえる。

 何でそんなことを訊くんだろう。

 

 

「愚問だろ、ひぷのん君に名誉欲や金銭欲があるように見えるか?」

 

 

 茶々を入れるミスターMに、EGOさんがため息を吐きながら応える。

 

 

「でも先輩、これ間違いなく売れますよ。めちゃめちゃ売れます。日本語だけじゃなくて英語にも対応しておけば、世界規模でヒットしますね」

 

「そんなにかね?」

 

「まず翻訳精度が従来品の比じゃありません。犬語翻訳アプリって、普通は音声だけ拾って翻訳するんですけど、犬って仕草にもかなりの情報量があるんですよ」

 

「ああ、尻尾の振り方や耳の伏せ方で感情を伝えているとは聞くね」

 

「そうです。だから音声だけで翻訳している従来品では翻訳精度はあてにならなくて、漠然とした感情しかわからない。言ってしまえばおもちゃレベルに留まるんですが……。ひぷのん君が作ったこれは違います。動画撮影で仕草や表情を解析して、音声以外の部分までガチで翻訳します。にわかには信じがたいことですが、()()()()()()()()()()()()()ですよ、これは。……しかもなんだこれ、撮影された動画を解析する機能と翻訳機能を持った自作のAIまで組み込んでるじゃないか」

 

「あ、そのAIは自信あります! 僕の全力を注ぎこみました!」

 

 

 なにせドッグブリーダーをやってるっていうありすのおばあちゃんに監修してもらったからな。下手な仕事をしたら、ありすの顔に泥を塗ることになる。お遊びアプリとはいえ、今の僕の力量が届くギリギリまでやった。

 

 

「やりすぎなんだよなぁ……」

 

「?」

 

 

 きょとんとする僕をよそに、EGOさんは再びため息を吐いてから続ける。

 

 

「おまけの機能の充実ぶりもすごい。犬の体調管理機能、これは便利です。肥満を警告してくれるし、病気の兆候も見逃さない。GPSを利用した散歩アシスト機能で、十分なカロリー消費になったら教えてくれるのもいい。犬を飼っているならぜひほしい機能でしょう」

 

「ふむ」

 

「それから、SNS連動でお手軽に動画で愛犬自慢できるのも今風でいいですね。どれだけいいねされたかやコメントも表示されるし、飼い主同士の交流もはかどります。動画を撮影して愛犬と会話してるだけで、思い出を振り返るダイアリーが勝手に充実していくのも非常に便利ですね。……どの機能もそれぞれ単品の別アプリにしても売れるくらいなのに、それらを1本にまとめて機能を相互に連携させてるんです。ぶっちゃけ化け物アプリですよ、こんなの」

 

「ははは、犬アプリ界に黒船来航というわけだね。いいじゃないか」

 

 

 呑気に笑うミスターMに、EGOさんがはぁーと3度目のため息を吐いた。

 

 

「……そうですね。そんな黒船がたった500円で買い切りです。僕なら翻訳機能以外はサブスクで月額料金払って追加とかにしますね。機能に比べて明らかに安すぎる、価格破壊もいいところです。……でも、逆にこの価格で買い切りだからこそ、幅広い層に流行する可能性があるわけで」

 

「なるほど、薄利多売というわけか」

 

「ええ。愛犬家は老若男女はおろか、国籍すら問いませんからね。それこそ小学生が小遣いで買えてしまえるから、日本と英語圏のあらゆる層がターゲットになります。うまくハマれば未曽有(みぞう)のブームになるかもしれません。愛犬家がこのアプリを知ったら欲しがらないわけがないですからね」

 

 

 正直意外だった。

 こんなアプリ、犬に狂ったようにハマりこんでるごく少数の奇特な人間にしか需要はないと思うのだが。つまりはありすのような人間だが。

 

 

「この世に犬好きが一体何億人いると思っているんだキミは」

 

「単位が億だということを今知りました」

 

 

 他人の好き嫌いなんて僕が知るわけない。

 

 

「うーん……ひぷのん君、これ個人で売ったらすごくヤバいことになるよ」

 

「ヤバいと言われても。どんな感じにヤバいんですか?」

 

「まず個人だと税金をすごく取られる。それから、たくさん人が集まってきて、あっという間に億万長者になった天才高校生プログラマーだとよってたかって持て囃すだろう。連日連夜報道陣に追い回されることになるかもしれない。とても穏やかな高校生活なんて望めないだろうね」

 

「それは困ります」

 

 

 僕は今目立つわけにはいかない。

 催眠アプリを作ってありすを無理やり土下座させるその日まで、僕は静かに潜伏して研究を続けなくてはならないのだ。

 

 

「そんなめんどくさいことになるならタダでいいですよ」

 

「いや、それはいくらなんでももったいなさすぎるよ。労働に対する対価は受け取っておくべきだ。キミの今後のためにも」

 

「じゃあ、どうすればいいんですか?」

 

 

 僕にはお金のことなんてさっぱりわからない。

 これについては全面的に師匠の言うとおりにするつもりだ。

 

 

「うーん……正直キミがこんな早くに世に出るとは思ってなかったんだよ……。こんなのを作っていると知っていたら、手は打てたが……」

 

「まあ世に出るのも時間の問題ではあったがな」

 

「そうだなあ。よし、ではこうしよう。ひぷのん君、うちの会社に入りなさい。役員待遇にしてあげよう」

 

「は?」

 

 

 それまでのんびりと茶々を入れていたミスターMの声が強張った。

 

 

「おいEGOォ!! 何抜け駆けしてんだよ! ひぷのん君は大学でウチの研究室に入るんだよ!! 囲い込んでんじゃねえ!」

 

「え、何を寝言言ってんです? ひぷのん君を先輩の研究室になんて世界の損失ですよ。先輩の助手程度で収まる器だと思ってるんですか?」

 

「お前の零細ベンチャーで飼い殺すよりはいいだろ!」

 

「うちはまだまだ伸びますよ! これから成長期です!!」

 

 

 ミスターMとEGOさんはなんだかギャーギャーと罵りあいを始めた。

 こういうときは定番のアレだな。

 

 

「やめて! 僕のために争わないで!!」

 

「「本来の意味で使いやがった……!?」」

 

 

 僕の仲裁の甲斐あって、2人はぜぇぜぇと息を吐きながらケンカをやめてくれた。

 

 

「つまり『ワンだふるわーるど』はうちの会社に業務委託してはどうかという提案なんですよ。ひぷのん君をうちの会社の役員兼大株主にして、開発もうちということにしてしまいます。うちは業務委託に関わる手数料として売り上げの20%をいただき、残りの利益は一旦内部留保にして、後日ひぷのん君が作った会社に株主配当として支払う形にするんです」

 

「20%? 随分と欲張った額に思えるが……それに開発がお前の会社ってことは、権利もお前の会社のものになるんだろ?」

 

「広告費や税理士法人への報酬、特許申請のあれこれを含めた金額ですよ。その代わり、煩わしいことは全部うちで引き受けて、ひぷのん君はのびのびと暮らせるようにします。開発者への取材といった部分も全部ウチでシャットアウトしましょう。それに考えてくださいよ、うちだってひぷのん君に配当優先株式を握られるんですから、これは一蓮托生(いちれんたくしょう)になろうって提案なんですよ?」

 

「なるほどな。それなら20%でも妥当か……」

 

「どうかな、ひぷのん君。プラットフォームにも手数料30%を取られるから、キミの儲けは売り上げの50%となるが」

 

「それでいいです」

 

 

 僕はEGOさんの提案に全力で乗っかることにした。

 正直なんだか難しすぎる話で、詳しいことは良くわかってないが。

 

 

「要するに面倒なことは全部EGOさんがやってくれて、僕は売り上げの半分をもらえるということですよね? すごく助かります」

 

「……ひぷのん君はもうちょっと深く考えた方がいいと思うのだが。EGOが詐欺を企んでたらどうするんだ。こいつも善人ってわけじゃないぞ」

 

「いやあ、反論したいですけども……さすがに扱う金額が金額なので、誘惑にはかられますね。私が言うのもなんだが本当にいいのかな、ひぷのん君」

 

 

 いいも何も。

 

 

「師匠が僕のためを考えて提案してくださったんでしょう? じゃあ僕は師匠を信じるだけです」

 

「……だそうだよ」

 

「まいったなあ……これは私の良心と矜持(きょうじ)が問われますね」

 

 

 まあ最悪なくなっても構わない金だし。

 ありすの頑張りが目に見える形で報われてほしいと思っているから有償アプリにしたが、別に僕自身がお金に困っているわけではない。

 

 

「わかったよ。では報酬はアプリリリースから1年後に支払おう。こちらも手続きがあるからね。その間に君には会社を立ち上げてもらう」

 

「僕、社長さんになるんですか?」

 

 

 手続きめんどそうだな……。

 会社経営とかすごく手がかかりそうだ。

 

 

「ワンコイン起業でいいよ。もし親御さんにノウハウがあるなら、代表をしてもらうという線もある」

 

「あ、それでいいんですか? じゃあお父さんに頼みます」

 

 

 お父さんはあれで稼げる男なのだ。国にたくさん納税してる事業主なのである。どんなことしてるのか詳しくは知らないが。

 

 

「わかった、では私とお父さんで話す機会をセッティングしてもらおう。これでキミは私の会社の……桜ヶ丘(さくらがおか)電子工房の役員だ」

 

 

 こうしてよくわからないうちに、僕はEGOさんの会社の役員になることになった。東京にある会社だそうだが、別に出勤する必要はないらしい。ほぼ名前だけの役員ということになる。

 ただ、これまでEGOさんに頼まれてやってたアプリ開発は、今後は役員報酬として口座に振り込まれることになるそうだ。

 つまりEGOさんは僕の師匠にして上司になるわけか。ますます繋がりが濃くなった感じがあって、ちょっと嬉しい。

 

 ミスターMはなんか拗ねていたが。

 

 

「……でも、お金が入るのが1年後となると困ったな。先にお金がちょっとほしいんですが」

 

「なるほど、手付金として用立てよう。いくら欲しいのかな?」

 

 

 僕の言葉にEGOさんは少し身構えるような固い口調になった。

 あ、まだアプリも渡してないけどいいの? 

 

 

「2000円です」

 

「……2000万、じゃなくて?」

 

「売れたらヨクドで友達に奢る約束したので」

 

「ぶははははははははははは!!」

 

 

 珍しくEGOさんではなくミスターMがバカ笑いをした。

 

 

「これは裏切れないよなあEGOぉ? こんな子を裏切ったら自己嫌悪で一生苦しむぞ」

 

「裏切りゃしませんよ。この子がもたらしてくれる利益は今回限りじゃないですからね。金の卵を産むガチョウの価値は知っています、末永く大事にしますとも」

 

「ま、こっちも手綱を握ってくれてひと安心だな」

 

 

 ミスターMとEGOさんは何やらにこやかに話している。

 きっといいことがあったのだろう。

 まあそれはそれとして。

 

 

「そんなことより催眠アプリの話をしましょう! 新しい疑問があるんです!」

 

 

 僕がそう言うと、師匠たちは深いため息を吐いた。

 

 

「……キミは変わらんなあ」

 

「それより、私たちからもキミに言いたいことがあるんだ」

 

 

 そして2人は声を合わせて言ってくれた。

 

 

「「高校入学おめでとう、これからもよろしく」」




「そっか、EGOさんがうまいことやってくれるのか!」(ハカセの理解度)

こんなふわっとした理解で十分です。


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第27話「にゃる君専属応援団・さささちゃん推参!」

「Go!にゃる Go! ごーごーれっつごーにゃ~るっ!!」

 

 

 チアガール姿のささささんが、ポンポンを持って柔道場を飛び跳ねている。

 他にチアガールはひとりもいない、単身チアリーディングであり、エールを送る相手もにゃる君ただひとり。

 応援する側される側、共にたったひとりの異様な光景であった。

 

 

「にゃるにゃるれっつごー! フレフレにゃ~るっ!!」

 

 

 ささささんはヤケクソ気味に声を張り上げ、自作の応援歌を歌いつつミニスカートをはためかせて応援を続けている。

 柔道部のむくつけき男たちがおおっと声を上げて身を乗り出すのを、にゃる君はなにやら顔を赤らめながら睨んでいた。

 にゃる君の向かいに立つ上級生の男子は、ギギギと歯噛みしている。

 

 

新谷(しんたに)ィ……! てめえ1年のくせに選抜試合に彼女連れて来るとはいい度胸だなオイィ……!!」

 

「あ、いえ、彼女じゃないッス。ただの友達ですんで」

 

「ウソつけやぁ! 個人のためにチアガールするような友達がいるわけねーだろぉ!! こちとらチア部に一度も応援に来てもらったことねぇんだぞ、むさくるしいだの汗臭いだの言われてよぉ!!」

 

「そりゃ先輩たちの問題だと思うんスけど……」

 

「うるせえッ! 柔道部に彼女がいるような軟弱者はいらねぇんだよッ! 性根叩き直したらあああああッ!!」

 

 

 頭に血が昇った先輩男子は凄まじい勢いでにゃる君に掴みかかるが、そこからのにゃる君の瞬発力はその上を行っていた。目にも留まらぬ速度で襟を掴み、相手の勢いを乗せたまま軸足に蹴りを叩き込んだ。

 相手は一瞬踏みとどまろうとするが、自分の余勢をそのまま投げの威力に変換され、スパン! といい音を立ててにゃる君の大外刈りが決まる。

 

 

「一本! 1年、新谷!」

 

 

 文句のつけようのない鮮やかな決着に、審判がにゃる君の勝利を宣言した。

 

 

「いいぞ! いいぞ! にゃる~~!!!」

 

 

 腰をフリフリさせて踊るささささんが、にゃる君の勝利に歓声を上げる。

 先ほど投げられた先輩男子が、ギラリと鋭い視線をささささんに向けた。

 

 

「新谷ィ! 彼女ちょっと黙らせろ、気が散る!!」

 

「だから彼女じゃないんですが! 沙希(さき)、お前マジでちょっと黙れよ!? なんか変な誤解されてんだけどさあ!!」

 

「はぁ? にゃるがやれって言ったんでしょ! 嫌がるボクに無理やり、こんな恥ずかしいカッコさせて! この鬼畜! 人でなし! スケベ!」

 

「……いいから黙って! お願い!! 先輩たちの目が怖いから!!」

 

 

 ギロリと睨みつける先輩たちの視線に身震いしながら、にゃる君が懇願した。

 

 

 今日はささささんやありすと一緒に、にゃる君が入部した柔道部の選抜予選を応援に来ている。ささささんがひとりチアリーディングという気の触れた真似をしているのは、例によってゲーム勝負でにゃる君に負けたためであった。

 チア部からコスチュームを借りてきたささささんは、自作の応援歌とダンスでにゃる君の試合を応援するという罰ゲームを遂行させられている。しかし柔道部というのはなかなかモテない集団らしく、そこに女子の応援を受けてやってきたにゃる君は見事に浮いてしまっていた。

 

 

「……ああ言ってるし、チアリーディングじゃなくて普通に応援すればいいんじゃない?」

 

「んー、ハカセ君がそう言うのなら」

 

「じゃあみんなで応援するわよ。ほら、ハカセも」

 

「あ、僕も?」

 

「当然でしょ、何しに来たのよ」

 

 

 ありすに言われ、僕は手でメガホンを作った。

 

 

「いくわよっ、せーのっ」

 

「「「頑張れ~!!」」」

 

 

 3人で声を張り上げて、にゃる君にエールを送る。

 その声援に、試合を見届けている柔道部男子たちが何やらギリギリと歯を噛みしめた。

 

 

「新谷の野郎、美少女2人に応援されてよぉ……!!」

 

「彼女だけじゃなくて、学校一の美人と噂の天幡(あまはた)まで連れて来るとは……!」

 

「許せんッ……! 俺たちと同じ筋肉ダルマのくせに、何だこのモテの差は……! 神は何故かくも不平等に人間を作りたもうたのか……!?」

 

 

 僕もいるんだけどなあ。彼らの目にはありすとささささんしか目に入ってないようだ。まあ高校に入ってありすもささささんも、一段と美人になったから仕方ないか。

 おっ、にゃる君と先輩男子の試合がまた始まるようだ。3本勝負だから2本先取で勝ちということだが。

 

 

 すぱーーん!!

 

 

「一本! 1年、新谷!! 選抜予選突破!!」

 

 

 にゃる君がまたしても先輩男子を投げ飛ばし、勝利をもぎ取った。

 

 

「やったやった、にゃる君が勝ったわよ!」

 

「いえーい! やるじゃん!! まッ、ボクがここまで応援してやったんだから当然だけど!!」

 

「おめでとう、にゃる君」

 

 

 ありすとささささんは飛び跳ねながらハイタッチして、にゃる君の勝利を祝っている。僕はその横でパチパチと拍手を送った。

 対戦相手に一礼し終えたにゃる君は、そんな僕たちにニカッと笑って応えたのだった。

 

 

 

 僕たち4人が高校に入学して、もう2カ月が経った。

 僕は相変わらず、暇があればタブレットで読書する日々を過ごしている。

 

 一方にゃる君は賑やかな三枚目キャラであちこちの男子グループに顔を出し、陽キャ・陰キャを問わず仲良くなっていた。陽キャ特有のハイテンションなノリの会話にもついていけるし、興味の幅が広くマンガやゲームが好きという一面でオタクたちとも話題を共有する。陽キャとも陰キャともうまく付き合える、真のコミュ強と呼べるだろう。

 柔道部にも入部し、まだ1年というのに高い実力を示している。

 

 ささささんもポジティブ思考と押しの強いキャラで、さまざまな女子グループと付き合っている。あちこちのグループから仕入れた噂話を他のグループに教える情報屋のような立ち回りをしているが、決して他人を傷つけるような悪口は言わないし、他人の弱みになるような情報も漏らさない。その一線を守るスタンスが各グループの女子から信頼され、悩みを相談されることも多いようだ。

 

 そしてありすはと言えば、さらに成熟を増した美貌と文武両道な才能、そして謎のカリスマから早くも多くの生徒の注目を集めている。1年生のみならず上級生にもその噂は届き、ものすごい数の告白を受けたがすべて断ったということだ。

 

 しかし、中学生の頃と違って多くの生徒を従える女王様ムーブはしなくなっていた。少なくとも取り巻きを引きつれて行列を作るようなことはしていない。

 もしかしたら、僕と入学式で交わしたあのやりとりのせいだろうか。

 

 

「ありす、高校でも女王様みたいに振る舞うの?」

 

 

 僕がそう言うと、ありすは首を横に振りながらうんざりとした顔をしたのだった。

 

 

「もうあんなのこりごりよ、絶対にしないわ」

 

 

 あれ、と僕は意外に思った。生来の女王気質のありすがこんなことを言うとは。

 

 

「本当に? 他人を土下座させるのってすっごく気持ちいいわ、オホホ! とか言わないの?」

 

「アンタ私を何だと思って……いえ、そういうことをしたのよね、私……」

 

 

 ありすはそう呟いて、何やらしゅんと肩を落とした。

 あれ、なんか思ってた反応と違うぞ。

 

 僕としてはあのときのように高慢に振る舞ってくれた方が、復讐心が燃えたぎって研究が捗ってありがたいのだが。

 

 

「あのときのことは、本当にごめんなさい。私、調子に乗って……あんなことになるなんて思ってなくて……」

 

「謝らなくていいよ」

 

 

 僕は小さくなって(うつむ)くありすに囁いた。

 

 頼むから謝らないでくれ。

 謝られたら復讐心がなくなっちゃうだろ! もっと僕をやる気にしてほしい。

 

 

「ハカセ……でも……」

 

「泣くなよ、おろしたての制服を涙で汚す気か? もっと強気の、いつも通りのありすでいてくれよ。謝罪なんてされるより、そっちの方が僕は嬉しいんだ」

 

「……うん!」

 

 

 ありすは涙がうっすらと光る瞳をたわめ、ニコッと微笑んだのだった。

 ……満開の桜の下で微笑むありすの笑顔は、本当に綺麗で心に残ったなあ。

 

 まあ、あのやりとりは別に関係ないか。単にありすも大人になったというだけのことなのかもしれないな。

 中学時代とは打って変わって控えめな態度をとるようになったありすは、今度は高嶺(たかね)の花とか神秘的な美少女とか呼ばれているようだ。元華族の深窓の令嬢とか英国王室の遠縁なんて噂も立ってるとにゃる君が教えてくれた。

 いくらなんでも盛りすぎだろ。

 

 そんなわけでありす、にゃる君、ささささんは間違いなく1年生でも屈指のトップカーストで、多くの生徒に影響力がある存在なのだが、気付けば3人とも僕の近くに戻ってきてのんびりと4人組を作っている。

 むしろトップカースト3人組の中に何故か場違いなぼっち陰キャが混ざっているわけで、こいつは一体なんなのと逆に話題になってるよとささささんが笑っていた。

 180センチの身長しか特徴もなく、誰とも交流せずにいつも教室の一番後ろの席で本を読んでいるガリガリのっぽ。言われてみれば不気味な存在だよなあ。

 

 ある日の帰り道、僕がそう言うと3人は小さくため息を吐いたり、ケラケラ笑ったり、思い思いの反応をした。

 

 

「まったく世の中、見る目がない奴ばかりだよな。俺みたいな外面だけの男よりもよほど大したヤツだってのに。もっと内面を見ろよ内面を!」

 

「あの子たち、もしハカセくんがあの『ワンだふるわーるど』の作者だって知ったらどんな顔するんだろーねぇ。今や世界中で爆発的大人気! SNS連動機能で愛犬自慢するのが一大ムーブメントになって、ずっとSNSトレンド上位を占拠し続けてる超ヒットアプリだよ? 手のひらクルックルだろーなー」

 

「……私はハカセが人気者になんかならなくていいと思うけど」

 

 

 ありすの言葉に、にゃる君とささささんはいやいやと首を振った。

 

 

「その気持ちはわかる、わかるよ。俺らだって独占したい気持ちはあるけど……そりゃダメだろありすサン」

 

「そうだよ。ハカセくんは今は正体を隠したとしても、いずれ絶対に有名になっちゃうんだもん。その日の心の準備をするためにも、応援してあげなきゃ。ありすちゃんだって、ハカセくんが認められたら嬉しいでしょ?」

 

「嬉しいよ、嬉しいけど……。うう~、ジレンマぁ……」

 

 

 真新しいスカートの裾をぎゅっと掴むありすを、ささささんはそっと抱擁してよしよしと軽く頭を撫でた。

 

 この3人も仲良くなったなあ。

 当初はにゃる君とささささんに軽く邪魔者を見るような目を向けていたありすも、いつの間にかにゃる君の試合を応援したり、ささささんと並んで座りながらおしゃべりするようになった。

 

 ……もしかしたら、ありすにとっても対等な友達というのは僕以外ではこの2人が初めてだったのかもしれない。

 できればこの関係が長く続いてほしいものだ。

 そんな気持ちを込めて僕は言った。

 

 

「よくわからないけど、何があっても僕はみんなと一緒にいるよ? 何か僕らが離れ離れになるようなことがあっても、僕が必ず排除するし。だから心配いらないよ」

 

 

 僕は絶対に大事な被検者から離れるわけにはいかないのだ。

 彼らにありすが心を許しているというのなら、なおのこと。

 

 その言葉を聞いたにゃる君たちは、はぁーとため息を吐いた。

 

 

「張本人がこんなこと言うんだもんなぁ……」

 

「でもやっぱ安心するよね。どんだけ成功しても、お金持ちになっても、ハカセくんはハカセくんのままって確信したもん」

 

「アンタって本当にもうちょっと……いや、まあいっか。それもまたいいところなのよね、本人はこれっぽっちも自覚ないだろうけど」

 

 

 そう言って、3人はふふっと笑い合った。

 

 

「ありすちゃん、これからはボクたちがいるかんね。もう1人で背負わなくていいよ」

 

「任せてくれよ。俺も情報集めて、こいつを守るからな」

 

「うん、頼りにしてる。3人で頑張ろうね」

 

 

 ……あれ? なんか僕を仲間外れにしようとしてる?

 うーん……。誰に無視されても僕は傷ついたりしないけど、なんかこの3人にハブられるのは……ちょっと心がざわっとするな。

 

 

「何かするんなら僕も力になるよ?」

 

 

 僕がそう申し出ると、3人は目を丸くして一斉に吹き出した。

 うーむ、何かみんなのツボに入ったことを言ったのかな。

 相変わらず僕は彼らが何を笑ってるのかよくわからなかったが、3人が仲良くしているのならそれが何よりだろう。

 

 

 

 そして、それから数日後。

 真剣な顔をしたにゃる君が僕に告げた。

 

 

「ヤバいことになった。お前の妹が狙われてる……!」



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第28話「お兄ちゃんは諦めない」

「ヤバいことになった。お前の妹が狙われてる……!」

 

 

 昼休みに慌てて僕のところへやってきたにゃる君は、僕を人気のない場所へと連れ込み、緊迫した面持ちで告げた。

 突然の警告に驚きながら、僕は聞き返す。

 

 

「くらげちゃんが狙われてるって……誰に?」

 

「他校のタチの悪い高校生グループだ。女を食い物にして、ボロボロに使い捨てるような連中に目を付けられてる。お前の妹がこいつらに混ざって夜の街を遊び歩いてるのを見た奴がいるんだ」

 

 

 僕とくらげちゃんの仲は、春先よりもさらに険悪になっていた。僕は仲良くしたいのだが、くらげちゃんが一方的に僕を嫌っている。何か話しかけようとしてもくらげちゃんの方から避けていくし、目が合うとチッと不機嫌そうに顔を背けられてしまうのだ。

 それだけならまだいいのだが、服装はますます派手というか、露出の増えた格好をするようになっていた。家に帰ってくる時間もとても遅く、夜遊びをしているようだ。

 以前心配した両親が何をしているのかとか、来年は高校受験なのに遊び歩いていてはいけないとかそういった忠告をしたのだが、「うるせえよババア! 私が何してようが関係あんのかよ! キモ兄貴には甘いくせに、今更構うんじゃねえよ!!」と喚き、物を壊して当たり散らすのだ。

 くらげちゃんは多分不良になってしまったんだと思う。

 

 両親への態度に見ていられず僕は止めに入ろうとしたが、くらげちゃんは心底嫌そうな顔で「気持ち悪いんだよ、アンタは! 今更人間の真似かよ!」と吐き捨てて、部屋に閉じこもってしまった。

 

 もう手が付けられなかった。昔のくらげちゃんとはまるで別人だ。

 僕にはくらげちゃんにどう接すればいいのかわからなかった。

 

 そんな悩みが顔に出ていたのだろう。相談に乗ると言ってくれたにゃる君は、僕の話を聞くなり自分の胸を叩いて「俺に任せろ、何が起きたのか調べてやる」と頼もしげな笑みを浮かべた。

 

 そしてついにその全容を把握したというわけなのだろう。

 

 

「女を食い物に……?」

 

「ああ。こいつらは可愛い女の子を見つけては、集団で近付いて遊び仲間に引き入れる。そして言葉巧みに家出するように促して、自分たちのアジトに監禁するんだ。そして……その……」

 

 

 にゃる君は苦しそうな顔で顔を歪めた。

 

 

「くそっ……こんな酷いことをお前に聞かせたくない」

 

「言ってくれ、頼む」

 

 

 にゃる君がそう言うってことは、本当に酷いことをするのだろう。そしてくらげちゃんが今まさにその毒牙にかかろうとしている。

 くらげちゃんは僕にとって大事な家族だ。躊躇している場合ではない。

 

 

「……集団で性的なことをしたり、クスリを打ったりして、欲望のはけ口にしてしまう。そうすると監禁された女の子は段々頭が変になって、逆に奴らに依存するようになっちまう。ストックホルム症候群と薬物で洗脳された、奴らの言うことを何でも聞く都合のいい人形ってわけだ。そしてその子に客を取らせたり、ビデオに撮って売ったりするらしい」

 

 

 想像をはるかに上回って最低な話だった。

 にゃる君は相当言葉を選んでくれたようだが、きっと実際にはもっとひどいことが行われているはずだ。

 胸がムカムカする。くらげちゃんがそんな目に遭わされるところを想像するだけで、背筋を粘っこい汗が伝い、吐き気がこみあげてきた。

 

 くらげちゃんはもっと賢い子だったはずだ。

 なんでそんな悪い男に捕まってしまったんだ。

 もう僕が知っていた、可愛い妹ではないのか。

 ありすと僕の3人で実の兄妹のように過ごした日々はもう二度と帰って来ないのか。

 

 目の前がぐらぐらと揺れ、まともに立っていられそうになかった。

 

 

「しっかりしろ! 何とかできるのはお前だけだぞ!! お兄ちゃんなんだろ!!」

 

 

 そんな僕の肩を力強くにゃる君が掴み、現実に引き戻す。

 そうだ。こうしている場合ではない。

 

 

「ハカセ、今すぐ家に戻れ。それで妹さんを止めるんだ。まだ家出してないなら、これが最後のチャンスになると思う」

 

「……でも、説得なんて今更通じるとは思えないよ」

 

「ダメでもやれ。あいつらの正体を暴露すれば……いや、お前には無理やりにでも言葉を届ける手段があるんだろ。使うなら今だろうが!」

 

「……わかった」

 

 

 僕は頷くと、急いで家に戻ろうと背を向けた。

 

 

「待った!」

 

「?」

 

「……何か荒事をするなら、俺を呼べよ。ボディガードならできるはずだ」

 

「ありがとう」

 

 

 僕はにゃる君に頷いて、駆け出した。

 だけどそんなことをにゃる君にさせるわけにはいかない。もしもケンカして他校の生徒に怪我でも負わせたら、にゃる君はもう警察官になれなくなってしまうだろう。にゃる君の夢をこんなことで絶つわけにはいかない。

 

 この件は僕が解決するべき話なのだ。

 

 

 

※※※

 

 

 

 なけなしの体力をすべて使って家路を急ぎ、玄関先にたどり着く。

 電車以外の全道程を僕なりに全力で走ったら、もうへとへとだった。こんなにも日頃運動してないことを悔やんだことはない。

 クソッ、やっぱり運動はしないとだめだ。いざというとき役立たずになる。

 

 ……しっかりしろよ、お前はお兄ちゃんなんだろ。

 自分を叱咤して力を振り絞り、玄関のドアノブを引いた。

 

 玄関のドアには鍵がかかっていなかったが、両親の靴がない。出かけているようだ。代わりにラメの入ったミュールが乱雑に脱ぎ捨てられていた。

 くらげちゃんが家にいる。登校はしていたはずだから、きっと途中で引き返して家に戻って来たんだ。

 

 2階に続く階段がギシギシと鳴り、くらげちゃんが降りて来る。

 

 

「げっ」

 

 

 僕を見たくらげちゃんは、幽霊でも見たような顔をした。

 私服の彼女は、肩に大きなバッグを掛けている。明らかに通学に使うようなものではない。旅行とか……それこそ家出に使うような。

 

 間に合った。恐らく今まさに家出する直前だったのだろう。

 奇跡的な巡り合わせだった。にゃる君が今すぐ帰れと言ってくれなければ、体力を使い切ってでも走らなければ、きっと間に合わなかった。

 

 だが話はここからだ。

 

 

「くらげちゃん、大荷物じゃないか。どこへ行くんだ?」

 

「アンタには関係ねーだろ」

 

「あるよ。くらげちゃんは僕の妹だ。関係大アリだろ」

 

 

 僕はそう言いながら玄関のドアを後ろ手に閉め、道を塞ぐ。

 するとくらげちゃんは非常に苛立ったように、僕を睨み付けた。

 

 

「どけよ!」

 

「どかないよ。家出なんかしたらお母さんたちが悲しむぞ」

 

「……うぜぇ!! うぜぇうぜぇうぜぇ!! 今更何を兄貴面してんだよ!! 人間の血も通ってないロボット野郎が!!」

 

「機械じゃない。傷付いたら血が出るよ。くらげちゃんと同じ親に産んでもらった血だ」

 

「うるせぇよ! アンタなんか大嫌いだ!! 人の心なんか持ち合わせてもない冷血漢のくせに、こういうときだけ出てきて止めるんじゃねえよ!! もう私はアンタから自由になりたいんだ!!」

 

 

 くらげちゃんが何故こうなってしまったのか、僕にはわからない。

 僕から自由になりたいという言葉の意味も理解できなかった。

 彼女を束縛したことなんて、一度もなかったはずだ。

 

 だが、今のくらげちゃんが間違っていることだけは理解できている。

 くらげちゃんは今まさに不幸に向かって転げ落ちようとしている。それはくらげちゃんを傷付けるだけでなく、両親を深く悲しませるだろう。

 3人もの家族が不幸になることを、僕は許さない。全力でその不幸を排除しなければならない。どんな手を使ってでも。

 

 

「くらげちゃん、聞いてくれ。この玄関の向こう側に待っているのは自由なんかじゃない。不幸せだ。僕はキミをあんな奴らのところに行かせるわけにはいかない」

 

「束縛するな! 私に干渉するなよ!! 何なんだよアンタは! アンタがいるせいで、パパもママも私に構わない!」

 

「そんなことはなかっただろ。くらげちゃんの思い違いだ」

 

 

 くらげちゃんはちゃんと両親に構われているはずだ。

 少なくとも育児放棄のようなことをされたことは一度もない。

 だがくらげちゃんはそうではないと言う。

 

 

「気付かないのかよ!! パパも! ママも! ありすちゃんも! アンタはみんなを束縛してるんだ! アンタが欠陥品だから! 人間の心を持って生まれてこなかったせいで、みんながアンタに気を遣わされてるんだ! ……私も!!」

 

 

 欠陥品、という言葉に胸がズキリと痛んだ。

 他人に何を言われても痛くも痒くも感じない僕だが、さすがに実の妹に面と向かって指摘されると響くものがある。

 そしてそれは事実だ。

 僕の心は生まれつき、人間にとって非常に大事な部分が欠落している。

 

 

「人間の心をもたないひとでなしに、私の気持ちの何がわかるんだよ! そんな奴が私の兄貴面するんじゃない! 気持ち悪いんだよ!! もうほっといてよ! 自由にしてよ!!」

 

 

 くらげちゃんの叫びに、僕は反論する言葉を失う。

 きっとくらげちゃんは僕のせいでずっと傷付いていた。その傷がどれほどのものなのかは、マトモな人間ではない僕には推測することもできない。

 だけどきっと僕の存在が、くらげちゃんにとっては重荷だったのかもしれない。僕といることがくらげちゃんを傷付けるというのなら、いっそ彼女の自由にしてあげたほうがいいのだろうか。

 

 心の欠落から僕を覗く何かが、深い闇のように僕を包み込んでいく。

 

 

(……お兄ちゃんなんだろ!!)

 

 

 不意に脳裏に響いたにゃる君の言葉が、視界を晴らした。思考がクリアになる。

 そうだ。自由にさせることが彼女を不幸にするなら、否定しなければならない。この手を離してはいけないのだ。

 ありすが、両親が、何があろうとも僕の手を離さなかったように。

 

 

「くらげちゃんがどれだけ僕を気持ち悪がろうが、僕はキミを止める」

 

「…………!!」

 

 

 くらげちゃんの投げたバッグが、僕の顔にぶつかる。

 ぐわんとした衝撃に耐え、僕はその場に踏みとどまった。

 

 

「……私の名前を覚えられもしないくせにッ! それでも兄貴かよッ!!」

 

 

 目からぼろぼろと雫をこぼしながら、彼女は叫ぶ。彼女にまったく似合わないケバいアイシャドウが滲み、血涙のように頬を伝っていた。

 

 そうだな。それは確かにくらげちゃんの言うとおりだ。

 僕は客観的に見て兄失格の人間だろう。どこの世界に妹の名前もまともに呼べない兄がいるものか。

 

 だが、たとえそうであっても、僕はくらげちゃんの兄でありたい。

 

 

 本当は妹相手にこんなことはしたくなかった。そんなものがなくても言葉は通じると信じていた。

 それでも僕は人間として欠陥品で、手段はきっとひとつしかない。

 だから僕は自ら作った翻訳機(アプリ)で心を交わそう。

 

 

「みづきちゃん」

 

「……!?」

 

 

 本当の名前を呼ばれた彼女が、眼を大きく見開いた。

 そんなみづきに向けて、僕はアプリを起動する。

 

 

「催眠!」



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第29話「CASE3:反抗期真っ盛りの不良妹」

「とりあえず座って落ち着きましょう」

 

「はい……」

 

 

 僕は催眠状態のくらげちゃんを居間のソファに座らせると、ふうと息を吐いた。

 ウェットティッシュを探して、涙と汗でぐしゃぐしゃになったケバい化粧を拭ってやる。くらげちゃんは眠っている赤ちゃんのように、されるがままになっていた。なんだか安心しているようにも見える。

 

 くらげちゃんは化粧なんてしなくても十分可愛いんだ。こんな化粧をさせるのがその彼氏とやらの趣味なら、全力で異議を申し立てたい。

 

 さて、くらげちゃんに催眠をかけたのは、無理やり言うことを聞かせるためじゃない。彼女の胸の内を教えてもらうためだ。僕の話に聴く耳を持たなくなっている今のくらげちゃんから本当の気持ちを聞かせてもらうには、こうするほか手がなかった。

 

 もちろん僕はあんな男たちとは手を切ってほしいし、そう命令するのは簡単だ。だが、それでは根本的な解決にはなっていない気がする。両親と仲直りさせないといけないし、できれば僕ともまた仲良くなってほしい。そうしないとまた同じことが起こる予感があった。

 

 催眠アプリを使わなくても素直に話してくれるならそれに越したことはないが、僕の話術ではそれは望めない。だから催眠アプリを心の翻訳機として使って、本当の気持ちを教えてもらう。

 ……土足で妹の心に踏み込むことに罪悪感はある。だけどくらげちゃんを救えるなら、僕は手段を選ぶつもりはない。

 

 僕は内心のざわめきを抑え、ゆっくりと聞き取りやすい口調で語りかける。

 

 

「あなたはこれから僕の質問に正直に答えたくなります」

 

「はい……答えます……」

 

「くらげちゃんは彼氏のことが、家出して家族との縁を切ってでも好きなのですか?」

 

「いいえ……違います……」

 

 

 あれ? そうなのか。

 てっきり好きだからその男のところに家出するんだと思っていたが……。

 

 

「では彼氏のどこが好きなのですか?」

 

「好きなところはありません……」

 

 

 ? どういうことだ。

 好きなところがないのに彼氏? 話が違ってきたぞ。

 

 

「……彼氏のことをどう思っているのですか?」

 

「不潔でだらしない……息がタバコ臭くて不快……嘘つき。優しさの裏の下心が透けて見える……。軽薄で無学な、生きる価値のない最低の男です……」

 

 

 …………???

 えっ、本当にどういうこと?

 自分の妹の考えていることがわからない。

 普段から他人の機微を察せない僕だが、これは本当に意味不明だ。

 

 

「……何故そんな男を彼氏にしようと思ったのですか?」

 

「お兄ちゃんと正反対の人間だからです……」

 

 

 何故そこで僕が引き合いに出されるんだ。

 そういえばさっきも何かやたら僕がひとでなしだとか欠陥品だとか言われたが、どうしてくらげちゃんは僕がそんなに嫌いなのだろうか。理由を聞いてみよう。

 

 

「お兄さんのことをどう思っていますか?」

 

「大好きです……」

 

 

 くらげちゃんはそう言って、微かに頬を赤らめた。

 ……え? 僕のことが好き? いつもキモ兄貴って呼んだり舌打ちしたりするのに?

 

 

「お兄さんのどこが好きですか?」

 

「クールなところ……かっこいい……」

 

 

 クール!? 僕が!?

 

 いやいや……くらげちゃんは何を言ってるんだ。

 僕はこれっぽっちもクールなんかじゃない。いつも心の中で落ち着きがないし、何かに夢中でこだわるから、むしろ暑苦しい方だと思う。冷静に見えるのは他人への共感能力が欠落しているからで、それはくらげちゃん本人もそう言ったじゃないか。

 

 

「あと……頭がすごくいい……不器用だけど優しい……。パパとママを尊敬してるところも好き……だらしないけど言われたら直すところが素直で可愛い……。ゲームが上手でねだったら遊んでくれる……」

 

「そ、そうですか」

 

 

 ……どうなってるんだ。

 なんだか話を聞いてると、不良になる前のくらげちゃんとまるで中身が変わってないように思える。

 

 

「お兄さんが好きなのに、どうして嫌っているようにふるまうのですか?」

 

 

 その問いに、くらげちゃんは苦し気な表情をした。

 なんだろう。言いにくいことなのか?

 

 

「……お兄ちゃんが好きだから。でも私は妹で……お兄ちゃんにはありすちゃんがいて……お兄ちゃんと絶対に結ばれないから……」

 

「なるほど?」

 

 

 ……いや、待て待て待て。なるほどじゃねーよ。

 ありすはともかく、今なんて言った?

 

 

「結ばれない……って。ま、まさか……」

 

 

 僕はごくりと唾を飲み込んだ。背中を冷たい汗が伝うのを感じる。

 

 

「まさか……お兄さんと結婚したいと思っているとか?」

 

「…………」

 

 

 くらげちゃんは頬を染めて、こくりと頷いた。

 

 

「それはお兄さんを男性として見ているということですか?」

 

「そうです……。お兄ちゃんのことが昔から好きです……愛してます……」

 

 

 ナニソレ。

 いや、どうしてそんなことになってしまったんだ。

 

 

「……好きになったきっかけは何でしたか?」

 

「中1のときに、お兄ちゃんが永久に扶養される気はないかって聞いてくれて……。もしかしてお兄ちゃんは私と結婚したいのかなって思うようになりました……」

 

 

 えっ、僕がそんなこと言ったの?

 いやいやありえないだろ。実の妹だぞ?

 

 

「……あっ」

 

 

 いや、そういえば催眠アプリ試作第1号ができたときに、被検者を探していた。そのときにくらげちゃんに被験者にならないか聞いたのだ。責任をとって永遠に扶養するから、という形で。

 

 

「では嫌うようになったきっかけは何ですか?」

 

「中学生になって胸や体が大きくなって……えっちなことがなんだか汚く感じるようになりました……。だからお兄ちゃんにえっちな気分になっちゃう私のことが……すごく汚い感情を抱いてる気がして……。お兄ちゃんにはありすちゃんがいるのに……だから顔を見れなくて……」

 

 

 自己嫌悪ということか?

 僕のことをキモ兄貴と呼んでいたけど、本当は兄に欲情する自分のことを気持ち悪いと感じていた……?

 

 

「1年前からとても仲が悪くなったのは何故ですか?」

 

「お兄ちゃんとありすちゃんがえっちしていたからです」

 

 

 してないぞ!? 完全に事実無根なんですが。

 くらげちゃんは絶対に何かを勘違いしている。

 

 

「それは本当にえっちなことでしたか? 何かを見間違えたのでは?」

 

 

 しかしくらげちゃんはふるふると首を横に振った。

 

 

「間違いないです……。お兄ちゃんの部屋で、媚びた声を出しながら膝枕されて、自分のお腹を触らせようとしていました……」

 

「……………」

 

 

 子猫ありすじゃねーか!!

 そういえば勉強会の後、ありすがお泊りしたときにそんな場面を見られていた。あの後ありすが弁解して解決したと思っていたが、全然そんなことはなかった。

 

 

「本当は喜ばなきゃいけないのに……気持ちが真っ黒になって……。そんな自分が不潔で大嫌いで……だからお兄ちゃんに辛く当たって、遠ざけようとしました……。お兄ちゃんに心を縛られてるようで、とても辛かった……」

 

 

 ……なかなかにパンチが効いた衝撃の事実だった。

 僕に束縛されているって、そういう意味だったのか。

 

 いや、しかしまだ最後のピースがつながらない。

 それで僕を遠ざけることと、最低の彼氏を選んだことの関連性はなんだ?

 

 

「話を戻します。何故今の彼氏を選んだのですか?」

 

「お兄ちゃんと正反対のクズだからです……。お兄ちゃんへの想いが届かなくて苦しむくらいなら……いっそ最低の男を選んで私の人生を無茶苦茶にしてやろうと思いました……」

 

 

 うわあああああ……。

 

 僕は頭を抱えてうずくまりたい気分でいっぱいだった。

 くらげちゃんが非行に走ったのは完全に僕のせいだ。

 そもそも実の兄に恋してしまうのがどうかとも思うが、僕がくらげちゃんの気持ちを早いうちに察して芽を摘んでおけば、こんなことにはならなかったはずだ。

 

 くらげちゃんがやっているのはいわば遠回しな自殺だ。

 これまでの自分を完全に抹殺しようとしている。だからケバい化粧やファッションにして、僕の手が届かないところに行こうとする。不幸になってどん底に堕ちれば、もう僕を見て心を痛めなくて済むから。

 

 

 ふざけんなよ。

 

 たとえどんな理由があっても、僕はお兄ちゃんだ。兄は妹を幸せへと導かなくてはならない。悩む原因が他ならぬ僕だとしても。

 

 くらげちゃんの幸せはきっと僕と結ばれることなのだろう。

 だけどそれはできない。実の妹に手を出すことなんてできるわけがない。それにありすが……ありす? 何故そこでありすが出てくる……。ええい、思考のノイズめ邪魔をするな。

 

 ともかく僕とくらげちゃんが結ばれるわけにはいかないのなら、次善の幸せを掴んでもらうほかない。

 

 

「あなたは別の形で幸せになるべきです。お兄さんはそれを望んでいます」

 

「…………」

 

「もっと他に、いい男性が現れます。お兄さんよりも、今の彼氏よりも、もっと素敵で誠実で……そう、頭がよくて、イケメンで……あと稼げる人です」

 

 

 くらげちゃんはふるふると首を横に振る。

 

 

「お兄ちゃんより頭がよくてかっこよくて稼げる人は現れないと思います……」

 

「現れます」

 

「現れません」

 

 

 ダメだ、頷いてくれない。

 僕なんかより頭がいい人は世界にざらにいるし、ルックスに至っては僕なんか全然ダメダメだぞ。なんか『ワンだふるわーるど』の利益は今の時点で数億ほど出てるらしいけど、くらげちゃんは可愛いし賢いから僕よりもっと稼げる男を見つけられると思う。

 

 しかしくらげちゃんは断固として暗示に抵抗してくる。

 なんて強固な抵抗なんだ……。じゃあ前提を変えるしかない。

 

 

「話を変えます。あなたはこれから、お兄さんを異性として見られなくなります」

 

「……お兄ちゃんを……異性として見ない……」

 

「そうです。もう結婚したい相手ではありません」

 

「結婚したい……相手ではない……?」

 

 

 ふるふると首が横に振られる。

 くそっ、暗示が全然成功しない。……まったく効かないことはないはずだ。質問に正直に答えるという暗示は効いているのだから。

 ではこれはくらげちゃんの意思か。我が妹ながら、なんて頑固な……。

 

 僕は息を吸い込み、くらげちゃんの瞳を覗きこんだ。

 

 

「お兄さんと結婚しても、それは法律では認められません。世間から後ろ指をさされるでしょう」

 

「……お兄ちゃんは他人の悪意を気にしません」

 

「お兄さんはそうかもしれません。ですが、あなたや生まれてくる子供はどうですか。本当に気にしませんか?」

 

「……それは……」

 

 

 くらげちゃんは言いよどんだ。

 ここだ。ここにくらげちゃんを説得する余地がある。

 

 

「……それに、お兄さんはあなたが世間から後ろ指をさされることに悲しみます。あなたに幸せになってほしいのです。誰からも祝福されてほしいのです。あなたが大事な家族だから」

 

「大事な……家族……」

 

「そうです。たとえ結婚相手でなくても、お兄さんは家族です。血を分けた妹であるあなたを、かけがえのない存在だと思っています。どうかわかってください」

 

「わかり……ました……」

 

 

 つうっとくらげちゃんの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。

 ごめんな。こんな方法でしか説得できない、ダメな兄で。

 

 改めて暗示を植え付ける。

 二度と僕を恋愛対象として見ないように。

 

 

「もう一度言います。あなたはもう、お兄さんを異性として見ない」

 

「はい……お兄ちゃんを異性として見ません……」

 

「そして、元の仲の良い兄妹(きょうだい)に戻ります」

 

「はい……元通りにします……」

 

 

 続いて、両親と仲直りすることも、非行から足を洗ってちゃんと学校に行くことも植え付けておいた。

 そして彼氏についてだが……。

 

 

「あなたは彼氏やその仲間について、一切を忘れます。彼らについて何も思い出すことはありませんし、顔を見ても赤の他人と思います」

 

「はい……忘れます……」

 

 

 くらげちゃんの中に、あんな奴らのことは一切痕跡を残したくない。

 きれいさっぱり忘れてもらおう。

 覚えていたってどうせ悪縁にしかならないのだ。そんな縁は断ち切るに限る。

 

 ついでに催眠アプリの性能チェックにもなる。にゃる君やささささんにはどうやら催眠した記憶が残っているようなのだが、催眠アプリで記憶を消せるのかを確かめておきたい。すまないくらげちゃん、結局被験者にしてしまった。

 

 

「さあ、あなたの部屋のベッドで眠りましょう。3時間経てば、あなたはすっきりした気分で目覚めます。今日は体調が悪くて家で寝ていたのです。そして、これまで僕や両親とケンカしたことや、悪い彼氏と付き合ったことはすべて悪い夢だったと思うでしょう」

 

「はい。わかりました」

 

「ちなみに……最後にひとつだけ訊きます。彼氏には体を許しましたか?」

 

「いいえ……生理的に無理だったので、拒絶しました……」

 

 

 ほっ……。よかった。

 祝福されない甥や姪を持つことはないようだ。

 

 

「あとは、全部僕に任せてください。何とかします」

 

「うん……ありがとう、お兄ちゃん……」

 

「おやすみ」

 

 

 くらげちゃんがふらふらとした足取りで2階に上がっていくのを見守る。

 これで仕事(タスク)の半分はクリアだ。

 

 ……そのとき、くらげちゃんのスマホが着信音を鳴らす。

 僕は無言でその電話を取った。

 

 汚いダミ声の男が、まだ家を出てねえのかと喚いている。

 僕がくらげちゃんではないと気付くと、お前は誰だと凄んできた。

 

 なるほどね。キミが僕の妹を不幸にしようとした男か。

 

 

「彼女の兄だよ。少し話をしないか。僕はちょっと使い切れないほどお金を持っているからね。いいものを見せてあげるよ。ぜひお仲間もみんな誘ってほしい、山分けさせてあげよう」

 

 

 待ち合わせの場所と時刻を決めて、通話を切る。

 これでよし。

 

 

「人の妹に手を出して、容赦されると思うなよ」



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第30話「くらげちゃんリバース」

「お兄ちゃん、遊ぼーーー!」

 

 

 夕ご飯を食べ終わるなり、ゲームのパッケージを山ほど抱えたくらげちゃんが相手をねだってきた。

 いっぱいゲームを持ってきてるけど、実際に遊べるのは1本だけなんだから厳選すればいいのに。……とは思うのだが、くらげちゃんにとっては僕と何で遊びたいのかを相談すること自体が楽しいのかもしれない。

 

 

「いいよ、何で遊びたい?」

 

「えっとね……うーん、アクションがいいかなぁ。パズルもいいなぁ。あ、でもシューティングで協力プレイも捨てがたいなあ……悩んじゃうねぇ」

 

 

 くらげちゃんはギャル風コーデの跡形もなくなった、すっぴんの顔と可愛い部屋着でうーんと頭を悩ませている。

 

 催眠から目覚めるなりくらげちゃんは即座に化粧を落として、新しい服を買いに行ったようだ。

 今は中3という年齢相応の、背伸びしない格好になっていた。髪は大きな黄色のリボンでポニーテールにしていて、コロコロと屈託なく笑うたびにリボンがぴょこんと揺れるのがなんとも可愛らしい。

 

 

「じゃあ協力アクションにするか。他のゲームはまた別の日にできるよ」

 

「うん! よーし、やるぞぉー!」

 

 

 くらげちゃんはぽふんとソファに飛び乗るように座り、僕にぴたっとくっついてコントローラーを握った。ちろりと唇を舐め、鼻歌を歌いながら次々と敵を倒していく。

 

 

「お兄ちゃん遅いよぉ、早く踏み台になって!」

 

「はいはい。でもそこにいると、敵が湧いて来るぞ」

 

「あー! 早く言ってよそういうことー! きゃー死ぬ死ぬー!」

 

「アシストするから、1匹ずつ倒していけ」

 

 

 並んでゲームに興じる僕たちを、お母さんとお父さんがニコニコしながら見ている。帰宅するとくらげちゃんが突然ギャルと反抗期を卒業して昔の彼女に戻っていたことに驚いていたが、ひとまずゆっくり経過を見守っていくことにしたようだ。さすが僕が尊敬する両親だ、器が大きい。

 

 

「あらー。お兄ちゃんと仲直りできたのね。よかったわねぇ」

 

「うんっ!」

 

 

 振り向いたくらげちゃんが、お母さんににっこりと笑い返した。

 よそ見したときに被弾しかけていたので、ささっとフォローしておく。

 

 

「でもお風呂沸いたわよー。冷める前に入っちゃって。みづきちゃん、ヒロくんやお父さんの後は嫌なんでしょ?」

 

「んー……今いいところなのにぃ。あ、そうだ」

 

 

 くらげちゃんは僕の腕にしがみついて、無邪気に笑いながら提案した。

 

 

「お兄ちゃん、お風呂一緒に入ろ! 久しぶりに洗いっこしようよ!」

 

「んん!?」

 

 

 ビールを飲んでいたお父さんが、ブフッと音を立ててテーブルを泡塗れにした。

 僕はびっくりしてくらげちゃんを見返すが、本人は何がおかしいのかわからないといった感じで小首を傾げている。

 うーむ、僕に異性として興味を抱かないという暗示が変な風に効いているのだろうか?

 

 

「ねー、いいでしょー? そしたら一度にお風呂入って時間短縮できるじゃん」

 

 

 くらげちゃんは小学生の頃のように無邪気に僕に甘えてくるようになった。確かに元通りになったのだが、なんか距離感がとんでもなく近くなった気がする。いつも僕にひっついていたがるし、やたらとスキンシップを図ってくるのだ。最初は幼児退行したのかとひやりとしたが、とにかく甘えん坊になっただけらしい。

 

 また仲良くなれたのはいいのだが、年頃の女子としての恥じらいは持ってほしいものだ。兄として妹の将来を心配してしまう。

 

 

「入らないよ。もう中学生でしょ、ひとりで入ろうね。2人で入ったらお風呂のお湯溢れちゃうよ」

 

「ちぇー、けちー。お風呂すぐ上がるから、ポーズ解除しないでね!」

 

「はいはい」

 

 

 くらげちゃんがお風呂に走っていくのを見送ってから視線を戻すと、お父さんが真剣な顔で僕の前に立っていた。怪訝(けげん)に思っていると、隣に腰を下ろしてがしっと僕の肩をつかんでくる。

 

 

「なあ、博士(ひろし)。お前もしやとは思うが、海月(みづき)に妙なことしてないよな?」

 

「してないよ」

 

 

 催眠はかけましたが。

 

 というか妙なことになるのを防いだのだから、褒めてほしいくらいだ。

 もちろんこんなこと言えないが。

 

 

「そうか……そうだよな。俺はお前たちを信じてるぞ」

 

 

 何やら神妙な顔になるお父さんに、お母さんがため息を吐いた。

 

 

「お父さんたら。ヒロくんがそんなことするわけないでしょ、まったくもう」

 

「ははは、そうだな。何しろ博士だものな。わはははは」

 

 

 どういう意味だろう。

 今日もみんなが考えてることは、僕には意味不明であった。

 

 

 

============

========

====

 

 

 

「なんでひとりでそんな危ないことしたんだよ! 俺を呼べって言っただろ!」

 

 

 翌日の放課後、空き教室にて。

 僕が昨日取った行動を伝えると、にゃる君は僕の肩を掴んで激しく揺さぶってきた。なんか最近肩を掴むのがブームなのかな。

 

 

「俺を信用してくれてないのか!? もしものことがあったらどうするんだよ!」

 

「信用してるよ。あいつらのひとりやふたり、簡単に倒してくれると思ってた。だから連れてかなかったんだよ」

 

「どういうことだよ!?」

 

「あいつらにケガさせたら、にゃる君が警察官になれなくなるだろ。僕はにゃる君に夢を叶えてほしいんだ。……それに、僕だけの方が成功率が高かったからね」

 

 

 僕がそう言うと、にゃる君ははぁーとため息を吐いた。

 

 

 昨日くらげちゃんに催眠をかけた後で、僕は彼らとの会見場所に向かった。持って行ったのは家にあったアタッシェケースとタブレットだけ。

 あらかじめ金の話を匂わせてあったので、彼らはくらげちゃんから手を引く代わりに金をくれると思ったはずだ。アタッシェケースの中には札束が詰まっているとでも考えたに違いない。

 

 早くそれを寄越せと叫ぶ男たちを(なだ)めて、蓋を開けたら早い者勝ちだよと伝えてやった。すると案の定奥の方に隠れていた男たちも出てきて、互いに押すな割り込むなと罵りあいながら、ギラギラとした視線でアタッシェケースを見つめてきたのだ。

 

 あとは時間を見計らって蓋を開け、タブレットの催眠アプリを起動するだけ。タイマーで起動するようにアプリを改造しておいたので、彼らは一網打尽で催眠にかかった。

 もしにゃる君を連れてきていたら、彼らはにゃる君を警戒してアタッシェケースに注目しない可能性があった。僕だけだったからこそ油断を見せたのだ。

 

 

 さて、彼らに対する対処だが、かけた暗示は3つだけだ。

 

 ひとつ目は『これまで女性を食い物にしてきたんだから、お返しとしてその分だけ女性に奉仕しなくてはならない』という強迫観念を植え付けた。

 

 彼らは彼らなりに考えた方法で女性に奉仕するだろう。僕は彼らの犯した罪を知らない。だから、罪を把握している彼ら本人が自分を裁けばいい。

 もしかしたら財布が空っぽになったり、罪の意識にさいなまれたりするかもしれないが、それは僕の知ったことではない。

 

 ふたつ目は『これまで洗脳した女性たちをここに連れてきて解放しろ』という命令。これは女性に奉仕するという最初の暗示があったので、速やかに連れてきてくれた。到着するなり彼女たちには催眠をかけ、待機状態にした。

 

 3つ目は『僕とくらげちゃんのことについて、催眠をかけられたこと自体を含めてすべてを忘れる』という暗示。

 

 少し話しただけで、僕はこいつらにうんざりしていた。他人の顔と名前を覚えるのが苦手な僕だが、覚えたくないと思ったのはこいつらが初めてだ。

 それに催眠アプリのことは絶対にヤクザや犯罪者に知られてはならないとミスターMも言っていた。なので、催眠アプリで記憶消去ができるかの検証も含めて、彼らの記憶は完全に消去しておいた。

 僕の監視を外れることで師匠から叱られるかもしれないが、記憶を取り戻して僕を襲ってきたら実験は失敗、襲ってこなければ成功ということでいいだろう。

 

 最後に、連れてこられた女性たちに『彼らが施した洗脳から解放される』暗示と、『洗脳されていた間の記憶を消去する』暗示をかけた。

 

 彼女たちが告発すれば彼らの罪は明るみになるだろうが、きっとマスコミから面白半分に根掘り葉掘りと屈辱の記憶を掘り返されたり、PTSDで苦しんだりするのだろう。それならその記憶はいっそない方がいい。どうせ彼女たちを不幸にした連中は、自分の手で裁かれるのだ。

 ……どうも彼女たちにくらげちゃんが辿るかもしれなかった未来を見てしまい、柄にもないことをしてしまった気もするが。

 

 

「……という感じで説得したよ」

 

「なるほどな。それでよかったと思うぜ、俺は」

 

 

 にゃる君は腕を組むとしみじみと頷いた。

 

 

「どう考えても奴らは半グレかヤクザとつながってた。突然心変わりしてもう女性を食い物にしません、なんて言い出しても通じるわけがねえ。恐らく上から制裁されるだろうし、生き延びたとしても待ってるのは女に貢ぐ人生だ。やってきたことを考えれば因果応報だろ」

 

「まあどんな末路だろうと興味なんて一切ないけどね」

 

「そうだな。忘れちまおうぜ」

 

 

 それきりにゃる君は黙ってしまう。

 どうしたのかな。

 

 僕が反応を待っていると、にゃる君はおずおずと口を開いた。

 

 

「なあ、お前が持ってる『説得』する力……」

 

「……うん」

 

「あんま乱用するなよ。いくら正しいことのためでも」

 

「しないよ」

 

 

 僕はぼさぼさ髪の上からこりこりと頭を掻いた。

 

 

「にゃる君は僕が正義の味方に見える?」

 

「……見えねえ」

 

「だろう? 僕は他人に興味がないんだ。だから、正義の味方なんて面倒なことはしないよ」

 

「なるほど。なら、悪の秘密結社みたいなさらに面倒なこともしねえよな」

 

「したくないなあ。他人をまとめて管理するなんて、考えただけでぞっとする」

 

 

 そう軽口を叩いて、僕たちは笑い合った。

 

 

「今回はありがとう、にゃる君。おかげですごく助けられた。キミがいなければどうにもならない局面が2回はあった」

 

「何言ってんだ。俺なんて大したことはできてないだろ」

 

「本当なんだけどなぁ」

 

 

 ……あ、そういえばこれを聞いておかないと。

 

 

「ところでにゃる君、折り入って相談があるんだけど」

 

「おう、なんだ兄弟?」

 

「……僕の妹と付き合う気ない?」

 

 

 そう提案すると、にゃる君は目を白黒させて狼狽した。

 

 

「な……!? 何言ってんだお前!?」

 

「くらげちゃんに、きっと僕よりいい男が現れるって言っちゃったんだよ。僕が知る限り、僕よりもいい男ってにゃる君しかいないんだ。くらげちゃんを幸せにしてくれない?」

 

「い……いや、それは! 違う、嫌だってわけじゃないんだ! 確かに可愛いよ、うん。だけどちょっと……俺にも事情があって……!!」

 

 

 なんかすごく慌ててるな。

 そこまで変なこと言っただろうか。すごくいい話だと思うんだけどな。

 僕としてもにゃる君なら妹を任せるにたる男だと思うし、にゃる君と家族になるというのはいいことだと思う。でもここまで拒否するのは……。

 

 そこで僕はピンッときた。

 僕だってたまには人間の機微(きび)ってやつが読めることがあるのだ。

 

 

「あ、もしかしてもう好きな人がいるとか?」

 

「! そ、そう! そうなんだよ! すまん!!」

 

「そうなんだ。それって誰?」

 

「…………!!」

 

「くらげちゃんよりもいい子ってあんまいないと思うんだけどな。教えてよ」

 

「い……言えねえ……! それだけは……それだけは勘弁してくれぇ!!」

 

 

 にゃる君は真っ青になって頭を抱えている。

 一体どんな相手を好きになったんだろう?

 

 僕には恋愛がよくわからない。いつかにゃる君に教えて欲しいものだ。

 

 

「あ、こんなところにいた!」

 

「もー探したじゃん! 早く行こー!」

 

 

 ガラッと空き教室の扉を開けて、ありすとささささんが入ってくる。

 あれ、探したって何の話だっけ?

 

 

「何か用事あった?」

 

「にゃるのお祝い会! 昨日の放課後にやろうって言ってたのに、ハカセくんひとりで早退しちゃったじゃん!」

 

「あー……そういえばそうだった」

 

 

 先日柔道部の予選選抜を勝ち抜いたにゃる君が、夏の大会に出ることが正式に決まったのだ。そのお祝いをやろうと言っていたのに、慌ただしくて忘れていた。

 

 

「ごめんねにゃる君。さて、じゃあどこ行きたい? にゃる君の好きなところでいいよ」

 

「んー……じゃあヨクドに……」

 

「食ぅもん屋! お好み焼き食べたい!!」

 

 

 答えかけたにゃる君を遮って、ささささんが割り込んでくる。

 食ぅもん屋は関西出身の店主がいろんな料理を出してくれるお店だ。B級グルメから高級料理のアレンジまで品ぞろえが多く、コスパも安いので学生にも愛されている。

 

 

「って沙希(さき)! 何でお前が答えんだよ、俺の祝勝会だろ!?」

 

「ボクが応援したから勝てたんじゃん! つまりこれってボクの手柄でしょ!」

 

「はぁ!? 逆に足引っ張ってたんだが!?」

 

「JKの生足ミニスカだぞ! 頑張らなかったら嘘だろ!」

 

「うるせーちんちくりん!! あれで興奮できたらロリコンだ!」

 

「まだ伸びますー! 成長期ですー!!」

 

「もう伸びねえだろ! 牛乳たらふく飲んでケツしか膨らまなかっただろうが!! せめて胸くらいは膨らめ!!」

 

「はー!? デリカシーゼロなんですけどー!?」

 

 

 ささささんは身長が145センチで止まってしまった。去年は牛乳を飲んでいろいろ育とうとしていたのだが、お尻のサイズしか育たずに悲しみを背負った。胸のサイズは依然としてAのままである。

 

 そうしてにゃる君とささささんはギャーギャーと激しく言い争いを始めた。

 ありすはそんな2人を、楽しそうに眺めている。

 

 

「ふふっ。なんか、中学1年のときの私たちみたいね」

 

「こんなんだっけかなあ……?」

 

 

 そう言いながら、僕は中学時代よりも確かに大人びたありすに、少しドキッとしていた。

 

 

「私もお好み焼きがいいなー」

 

「あ、じゃあ食ぅもん屋にしましょう! そうしましょう!」

 

「は? なんでありすちゃんが言ったら素直についてくわけ? にゃるには自分の意思というものはないのかね!」

 

「うるせえ! ありすサンを尊重することが俺の意思だ!」

 

「ぶーぶー!」

 

 

 楽しそうに言い争うにゃる君とささささんを見て、僕はまたまたピンときた。

 そっと近づいて、耳元に囁く。

 

 

「にゃる君が好きなのって、ささささんだろ?」

 

「……ンンンッ!?」

 

「あれ? 違うの? 一番親しいからそうなのかなって。じゃあ誰なんだろ」

 

「あー、いや……ううううう……」

 

 

 にゃる君はまたしても頭を抱えてうなり声を上げ始めた。

 眼球が激しく振動して、何やらささささんとありすを行ったり来たりしている。

 

 さらに、それを耳ざとく聞いていたささささんとありすも話に入ってきた。

 

 

「えー? そうなのー? ボクなんだー。困っちゃうなー全然タイプじゃないしー」

 

「へえー、沙希が好きなんだ。うん、お似合いだと思うわよ!」

 

「ほ……本当に勘弁してくれええぇ!!」



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第31話「正義でも悪でもない力」

「そっかー……妹にまで催眠かけちゃったかー……」

 

「いや、よくやった! 素晴らしい成果だ!」

 

 

 僕が提出したレポートを読んだ師匠たちは、それぞれ真逆のテンションの反応を返してきた。

 

 

「おや先輩、珍しいですね。いつもドン引きしてるのに今回は絶賛とは」

 

「だってそうじゃないか? 道を外れかけていた妹さんを正道に引き戻し、反社会勢力の手によってこれ以上不幸になる女性が出ることを阻止したんだ。力を正義のために使う、催眠術とは本来こうあるべきだよ」

 

「正義ねえ……うーん」

 

 

 ミスターMは今回の一件にとても喜んでくれている。

 その一方で、EGOさんは何か思うところがあるようだ。

 

 

「なんだEGOくん、不満があるようだな?」

 

「私としては、ひぷのん君は正義にも悪にも傾倒してほしくありませんね」

 

「何故だ? 悪事は論外としても、力は正しく使われるべきだろう」

 

「『正義』は(あや)うい概念だからですよ。人にたやすく大義名分を与えてしまう。そして往々にして、力を振りかざすことに酔わせてしまいます。今回は反社会勢力が敵だったからいいものの、世の中そうそう善と不善で割り切れるものでもない。正義のためと信じて行った行動が、誰かを傷付けることもありえます」

 

「ふむ……」

 

「催眠アプリはやろうと思えば全人類を単一の価値観で洗脳することだってできるでしょう。非常に危険な力です。だから私は、その持ち主は中庸であるべきだと思いますよ。悪事を行うわけでもなく、かといって正義を振りかざすわけでもない。それが世界にとって一番好ましいバランスでしょう」

 

「確かにそうかもしれんな。不要に力を振るわず、身に降りかかる火の粉だけを払う。それもまた大きな力を管理していると言えるわけか……」

 

 

 EGOさんたちは何だか難しいことを言うなあ。

 

 

「結局僕はどうするのがいいんでしょうか?」

 

 

 僕は別に正義の味方をやりたいわけじゃないんだけど。だってめんどくさい。

 僕はありすに無理やり土下座をさせたいだけであって、別に催眠アプリで悪の秘密結社を作りたいわけでも、悪人を積極的に善人に改心させたいわけでもないのだ。正義の味方をやれと言われても、目標への遠回りでしかない。

 

 そんなことを思っていると、EGOさんは笑いながら言った。

 

 

「ひぷのん君はこれまで通り好きにやればいいさ。誰彼構わず無差別に催眠をかけるつもりも、社会に迷惑をかけるつもりもないんだろ? ひっそりと研究を続ける限りは、私たちが口を出すようなことじゃない。……もしかしたら、他人を支配して利益を得たいなんて欲望がないキミのような人間こそが、ある意味でもっとも催眠アプリの管理者にふさわしいのかもしれないとも思えてきたよ」

 

「なんだ、今まで通りでいいんですね」

 

 

 そっかぁ。じゃあ気にすることはないな。

 それにしても今まで通りでいいっていうことを言うためだけに、なんかすごく難しいことを言うものだ。やっぱり賢い人たちはいろいろと考えるんだなあ。僕なんかとは大違いだ。

 

 そんな僕をよそに、ミスターMは深いため息を吐いた。

 

 

「他人への興味のなさが安全弁になるとはな……。まったく、ひぷのん君と出会った頃にはこうなるとは思いもしなかったよ」

 

「とはいえひぷのん君も無自覚ながら成長しているようですし、危うさは大分抑えられてきましたよ。お友達には感謝しないといけませんね」

 

「家族にも恵まれているようだしな。ありがたいことだ」

 

 

 家族と言えば、ミスターMに聞こうと思っていたことがあったんだった。

 

 

「そういえば妹に催眠をかけたときに気になったことがあって」

 

「おお、また唐突に話題を変えたな……どうしたのかな?」

 

「催眠をかける前は、僕のせいで自分は両親に構われなかったとか、ロボットみたいに心がないとかいろいろ恨み言を言ってたんですけど、催眠をかけた後はそんなこと一言も言わなかったんです。あれってなんだったんでしょう?」

 

 

 くらげちゃんの恨み言は、さすがの僕もちょっと心にくるものがあった。

 まだ彼女の中にそうした恨みが残っているのなら、解消しておくべきではないかと思ったのだ。

 

 結構深刻にそう思っていたのだが、ミスターMは何でもないように言った。

 

 

「ああ。きっとそれは彼女にとって、本当は些細(ささい)な不満だったんだろう」

 

「些細、ですか……?」

 

 

 その不満のせいで家出寸前まで行ったと思っていたのだが。

 

 

「そうだよ。妹さんの本当の不満はキミに愛されないこと、キミとは結ばれないことだったんだ。だから無理にでもキミを嫌う理由を見つけて、キミを遠ざけようとした。本来は些細な不満だった火種をことさらに自分の中で焚き付けたわけだ」

 

「なるほど……」

 

 

 やっぱりくらげちゃんが両親に構われないなんてことはなかった。僕の方が余計に手がかかる子供だったのは確かだが、両親はきちんとくらげちゃんを見てくれていた。

 

 

「だが、前提が変わってキミが恋愛対象から外れ、家族としていつも一緒にいる存在となった。だからキミを嫌う些細な理由も、もう口にするほど大きなものではなくなったというわけだな」

 

「家族は多少不満があっても、大体なあなあで済ませますしね。妹さんは元からひぷのん君のことを慕っていましたし、愛情の意味合いが変わったことで不満よりも好意の方がはるかに大きくなったんでしょう」

 

「よかった。くらげちゃんはそこまで僕を嫌っているわけではなかったんですね」

 

 

 僕は胸を撫で下ろした。

 

 

「今日は同じベッドで寝るって言ってきかなかったんです。嫌われてたら多分そんなこと言わないだろうなーとは思ってはいたので、お2人にそう言ってもらえて安心しました」

 

「「えっ」」

 

 

 ミスターMとEGOさんは、にわかに言葉を失った。

 ……どうしたんだろう?

 

 

「その……同じベッドで寝るのかね?」

 

 

 なにやらミスターMは声を震わせている。まさか本当に一緒に寝るとでも思われているのだろうか。

 

 

「あはは、いやだなあ。そしたらこうやってチャットできないじゃないですか。もう中学生なんだからひとりで寝なさいって言って、部屋に帰しましたよ」

 

「ああ、うん……そうだな。しかし一緒に寝ない理由がそれなのか……」

 

「……いくら恋愛対象じゃなくなったからって、同じベッドで寝ようなんて言いますか普通……? 妹さん、すさまじいブラコンなのでは……?」

 

「ブラコンって何ですか? まあ、甘えん坊だとは思いますよ」

 

 

 くらげちゃんは甘えん坊で寂しがり屋なのだ。そのへんはありすとよく似ている。

 きっとしばらく甘えられなかったから、寂しさが募っていたに違いない。

 

 

「今後は妹が満足するまで、できるだけ甘えたいという要望には応えようと思ってるんです。そのうち甘えるのに満足したら、向こうから離れていくでしょう」

 

「お、おう」

 

「ますます依存が深まりそうな気がするんですがそれは……」

 

 

 くらげちゃんとまた仲良くなれて本当によかった。

 今後もこの関係を維持していきたいものだ。

 

 

「しかし今回のレポートといい、ひぷのん君の催眠アプリは非常にロジカルな効き方をするな。まあアプリはあくまで導入で、やっていることは普通に催眠術なのだから当然と言えば当然だが」

 

「ロジカル……ですか?」

 

 

 ミスターMの言葉に、僕は小首を傾げた。

 

 

「ああ。キミがかける催眠術はどれも『論理的』なんだ。少なくとも初期の2例、にゃる君とささささんに関して、キミは本人の意思に反する暗示を植え付けていない。筋道立った論理展開で、相手をコントロールしてるんだよ」

 

「でも、それは無理やり暗示を植え付けようとしても拒絶されたからです」

 

「そう。だから相手が受け入れやすいように、暗示の順番を組み立てた。財布をいきなり返させるのはにゃる君の意思に反するから、精神を幼児退行させるというワンクッションを置き、子供のにゃる君に財布を返却させたわけだ」

 

 

 確かにそうだ。

 しかしそれがどうしたというのだろう。

 

 

「……以前、キミから相談されたね。友達は自分が催眠されたことを覚えており、とっくに催眠が解けていると思われるのに、態度が変わらないのは何故かと」

 

「はい」

 

 

 にゃる君とささささんが催眠されたときのことを覚えていると気付いたのは最近のことだ。しかもにゃる君は僕が催眠術を使えることも気付いている。さすがに催眠アプリの存在は覚えていないようだが……。

 その理由がわからず、僕は師匠たちに相談していたのだ。

 

 

「あのときは答えを保留したが、ようやく仮説が固まったよ。多分それは、キミの催眠術が『論理的』だからだ。催眠状態でキミから筋道立った流れで暗示を植え付けられたことは、彼らの中ではキミに心から納得できる説得をされたと記憶されているんだよ。だから催眠が解けても、元の不良やいじめっ子には戻らない」

 

「説得? 強制されたのではなく、催眠の内容に同意したということですか?」

 

「そうだ。彼らにとっても、現状は不本意なものだったのだろう。にゃる君だって本心では暴力的な不良に甘んじていたくはなかったし、ささささんも根暗で他人を妬んでばかりの自分ではなく、人に好かれる人間になりたかったんだよ。だからキミにかけられた催眠を受け入れたし、催眠された状態から元に戻りたくはなかったんだ。今の彼らは、本心から現在の人格を受け入れているというわけだね」

 

「つまり……2人は望んでひぷのん君の友達でいたいと思っている、ということのようだよ。よかったじゃないか」

 

 

 ……そうだったのか。

 にゃる君とささささんは、催眠されたから僕の友達でいてくれているのではなく、自分の意思で友達でいたいと思ってくれているのか。

 

 なんだか胸があったかくなる。

 ……これまでの人生で感じたことのない、不思議な気持ちだった。

 

 

「おめでとう、ひぷのん君。友達を大事にしたまえよ」

 

「はい……!」

 

 

 ミスターMの言葉に、僕は強く頷いた。

 

 しかし、まだミスターMの仮説では納得できないことがある。

 

 

「でも、にゃる君やささささんの集中力が上がったことは、『そうなるように説得されたから』では説明がつきません。それに、ささささんの中学時代のいじめグループや妹を騙していた悪党たちには、彼らの意思に反するような催眠をかけています。彼らが納得していたとは思えないんですが」

 

「ああ、それについても仮説を考えてある。ひとつずつ説明していこう」

 

 

 さすがはミスターMだ。

 僕は居ずまいをただして、彼の仮説を拝聴する。

 

 

「まず中学時代のいじめグループの件、これは簡単だ。あのとき、彼女たちの罪悪感を肥大化させて改心させただろう?」

 

「ええ。自分で自分を裁くように誘導しました」

 

「それは彼女たち自身も、内心では良心の呵責を感じていたんだよ。彼女らも根っからの悪人ではなかったのさ」

 

 

 そうなのか。同級生を脅して売春させるなんて、相当な悪事に思えるのだが。

 僕がそう言うと、ミスターMは確かにそうだが、と前置きして続けた。

 

 

「中学生の女子なんて同調圧力の塊だ、いじめはどんどんエスカレートしてしまう。きっと本人たちも止められなくなり、誰かにどうにかしてほしかったんだろう。そこにキミの暗示がうまくハマったというわけだな」

 

「なるほど」

 

 

 ということは、彼女らが本当に邪悪な人間なら効かなかったかもしれないわけか。実はなかなかの綱渡りだったんだな。

 

 

「続いて集中力を高める暗示の件だが……その前にひぷのん君は催眠アプリを改良していただろう?」

 

「ええ。果たして本当に効果があったのかは今もって不明ですけど」

 

「恐らくその改良によって、催眠の『強制力』が強化されているんだと思う。これまでは相手が納得する暗示しかできなかったものが、無意識下の領域にまで効果が拡大しているのだろう。そして多少無茶な命令も無理やり納得させられるようになっている」

 

「よかった……改良は無駄ではなかったんですね」

 

「あくまで仮説だがね。しかし集中力を意識して上げられるとは羨ましい。にゃる君はそれで学力が上がったそうだが、もしかしたら上級生に軽く勝てるほど柔道が強くなったのも、集中力を一時的に高めているせいなのかもしれんな」

 

「あー。スポーツ選手はコンディションがいいときに極度に集中できる『ゾーン』に入るっていいますね。その状態に意図的になるコツを催眠で見つけたってわけですか……。いいですねえ、私もその催眠かけてほしいなあ」

 

 

 あの2人は多分勉強やスポーツだけじゃなく、ゲームで対決するときにも超集中を使っているような気がしている。

 なんか2人で対戦してるとき、瞳がハイライトを失ったみたいな異様な目つきになってるんだよな。僕やありす相手と対戦するときはそんなことはないので、多分2人の間でしか使わないという取り決めがあるんだろう。

 

 

「悪党たちに暗示が効いたのも、改良によって強制力が高まっているからだろうね。まあ彼らも多少は良心の呵責を感じていたのだとは思うが……かなりの外道のようだから、そうそう簡単に説得されるとも思えん」

 

「無意識下に効果が及ぶようになっていたおかげで、記憶の消去もうまくハマっていそうですね。正直私としては、彼らの催眠が解けると非常に危険なことになりそうな気がしていますが……大丈夫でしょうか? 催眠アプリのことを思い出されるとまずいことになるのでは?」

 

 

 EGOさんは少し不安そうだが、ミスターMは大丈夫だろうと返した。

 

 

「彼らは上から制裁を受けて消されるよ。女子中学生を薬漬けで洗脳して売春させる連中だ、心変わりしたからって足抜けなど許されんさ。絶対に表沙汰にできないような顧客の情報を握っているかもしれんからな」

 

「なるほど……口封じというわけですか。そうなると、被害者の女性たちの記憶を消したのは幸いでしたね」

 

「ああ。彼女たちが下手に顧客の顔を覚えていたら、命を狙われることになったかもしれん。これは本当にファインプレーだったと思うよ」

 

 

 ミスターMも大体にゃる君と同じことを言っている。

 高校生の楽観ではなく、大人も同じ認識でいてくれていることに、僕は内心ほっとした。

 

 

「……とまあ、私の仮説はそんなところだな。相変わらずこちらでは催眠アプリを再現できていないのに、仮説というのもおこがましい話だが」

 

「いえ! すごく参考になりました、ありがとうございます!」

 

 

 僕はミスターMに深々と頭を下げながらお礼を言った。

 カメラはないので、相手には見えないだろうが……それでも師匠たちには深く感謝している。僕ひとりでは絶対にこの仮説にはたどり着けなかっただろう。

 

 しかし、困ったこともある。

 これからの改良計画が完全に暗礁に乗り上げてしまった。

 にゃる君たちから得られた疑問が次の改良に繋がるのではないかと密かに期待していたのだが、ミスターMの仮説からは特に改良のヒントが得られなかった。

 

 仮説によって試作2号の改良の効果は推測できたのだが、これ以上何をどうすればより効果が上がるのかわからない。参ったなあ。

 

 

「催眠アプリってこれからどう改良したらいいんでしょう?」

 

「ううむ……。こちらも催眠アプリを作れていないのでなあ。各素材を100種類ほど用意して入れ替えたが、まったく再現できん。アドバイスのしようがないな」

 

「……そういうときは、別のことをするのがいいと思うな! うん!」

 

 

 僕とミスターMがため息を吐いていると、EGOさんがここぞとばかりに割って入ってきた。気のせいかカメラの向こうで揉み手をしているのが見えるような気がする。

 

 

「『ワンだふるわーるど』、めちゃめちゃ売れてるよ! 口コミが口コミを呼んで、TVでも大きく取り上げられてるし! ぜひこれを作った人にインタビューさせてほしい、できれば制作過程をドキュメンタリー仕立ての1時間スペシャルにしたいって言われてるくらいだよ。まあそれは断ったけどね」

 

「当たり前だ。高校生をマスコミのおもちゃにさせてたまるか」

 

 

 ウキウキのEGOさんに、ミスターMが苦い口ぶりで返す。

 

 

「お前が防波堤だぞ。それで金をとってるんだ、ちゃんと働け」

 

「わかってますよ。それでね、これ海外からもローカライズの要望がすごくてさ。できればドイツ語とスペイン語にも対応させたいんだけど……ひぷのん君、できないかなぁ?」

 

「そんなもんお前のところの社員にやらせればいいだろう。高校生に何を言ってるんだお前は」

 

 

 ミスターMは呆れたように言うが、EGOさんは強い口調で反論した。

 

 

「できるならそうします! でもこのアプリ、もう複雑すぎて完全にブラックボックスになってるんですよ! うちで解析しようとしましたけど、まったく歯が立ちませんでした。ええ、うちのチーフが頭抱えて自信喪失してましたからね……」

 

「そんなにか……」

 

 

 正直ちょっとやりすぎた気はする。

 EGOさんからは常々コードはわかりやすく書けと言われているのだが、今回はどうせ自分しかコードをいじらないからと好きにやったのだ。

 

 さらに、ありすが次から次へと新しいアイデアを考えて仕様を追加してくるのである。まるで増築に増築を重ねて原型を失なった古い旅館のごとき無秩序な仕様追加は、僕自身ですらたまに細部の把握に苦労するくらいだった。

 

 

「とはいえ、それも良し悪しですけどね。少なくとも解析されて海賊版を作られることはありませんから。早速似たようなアプリが雨後の筍のように湧いてきましたが、どれも『ワンだふるわーるど』ほどの性能はありません」

 

「オンリーワンだからこその売り上げというわけか」

 

「だからこそ、世界中からローカライズの依頼が殺到するんですけどね。大体ひとつの国で斬新なアプリが生まれたら、速攻で解析されて他の国でも海賊版が出るんですよ。でも今回は解析が不可能なので、日本語も英語もわからない愛犬家は困ってるってわけですね」

 

 

 そこまで言って、EGOさんのマイクの向こうからパンッと手を鳴らす音が聞こえてきた。

 

 

「……というわけで、頼む! ドイツ語とスペイン語、なんとかならないかな? ひぷのん君自身にしかコード弄れないんだよ!」

 

「おいおい無茶を言うなよ、相手は高校生だぞ。英語への対応だけで御の字だろ。もうマスターしてるドイツ語はともかく、今からスペイン語まで勉強させる気か?」

 

 

 ミスターMの言う通り、実際すごくめんどくさいなと思っている。

 正直僕は興味を抱けないものにはまったくやる気が出ない人間だ。英語とドイツ語は催眠アプリを作るために必要だったから勉強したが、『ワンだふるわーるど』は別にどうでもいい作品だ。ありすのご機嫌取り以上の意義がない。

 

 ……でも、世界の言語に対応したらありすは喜ぶかな?

 どうもアプリに組み込んだSNS連携機能を使って世界中にヤッキーの動画を見せつけているようだし。こんなにいいねもらえた! と嬉しそうに見せびらかしてきたが、正直あの犬を可愛いと言う人間の気が知れない。世界には奇人が多すぎる。

 まあ確かに催眠アプリの開発も止まっているし、ちょっとしたアイデアを試してみるのもいいかな。

 

 

「わかりました。ドイツ語とスペイン語と言わず、全世界の言語に対応しましょう」




ドイツは世界屈指の愛犬国でありハカセが学習済み、スペイン語は本土だけでなく中南米で広く話されているので優先的にお願いされました。


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第32話「いつか→いつも」

「よしよし、しっかり勉強しろよー」

 

 

 部屋一面に敷き詰められた『教え子(AI)』たちが一生懸命言葉を学習している様子を、僕は腕組みしながら眺めていた。

 

 先日EGOさんに『ワンだふるわーるど』のローカライズをしてほしいと頼まれたのだが、現在その対応中である。

 といっても僕が実際に手作業でローカライズするわけではない。そんな単調な作業をしたら退屈のあまり死んでしまうし、何年かかるかわかったものではない。

 

 

「翻訳AIには勝手に勉強して賢くなってもらえばいいんだよ」

 

 

 『ワンだふるわーるど』に搭載されている日本語と英語のデータベースも、自然な意訳ができるアルゴリズムも、人間の手作業で構築しようとすればどちらも莫大な人手と時間が必要になる。

 

 僕がそれを個人の片手間で終わらせることができた秘訣が、AIによる自動学習だ。

 

 日本語の辞書をベースにさまざまな例文集を用意してAIに読み取らせ、犬語と日本語の対訳が可能なデータベースとアルゴリズムを構築するようにしてやった。さらにネットから自動的に例文を収集してくれるようにもしたので、さまざまな古語やスラングを含めて僕が知らない言い回しも学習しているようだ。

 

 まあ、そのせいでヤッキーがなんか騎士か侍みたいな口調になってしまったが。

 要はAIに自動的にネットを漁らせてマルチリンガルになってもらおうという作戦なのである。

 

 

 さて、犬語を日本語に翻訳できるのなら、日本語を英語に翻訳することも可能だ。同じ人間の言葉なのだから、犬語の翻訳よりもよほど簡単だった。同じようにネット上から例文を自動収集させて、日本語から英語への自然な翻訳を学習させてやればいいだけだ。

 

 現在『ワンだふるわーるど』に搭載されている言語データベースは、この工程による産物である。最初にちょろっと自動学習AIさえ組んでやれば、あとは放置しているだけでどんどん立派な通訳として成長してくれたというわけだ。

 

 

 こうして日本語から英語への翻訳は達成できた。それなら、後は同じことの繰り返しだ。

 英語以外にも翻訳可能な言語をどんどん増やしていけばいい。

 ネットと例文集さえあれば、文字が存在する世界中の言語に対応できる。

 

 

「そのためにお父さんに借金してラボをこしらえたんだ」

 

 

 僕の家は無駄にでかい。脱サラして事業で成功したお父さんは、調子に乗ってそれまで住んでいた借家と隣の土地を買って一軒家に建て替えたのだが、4人で住むにはちょっと大きすぎた。

 使ってない空き部屋があるので、この際そこを改装して僕のラボにしようと考えたのだ。ラボといっても研究員は僕だけ、残りはすべてAIだが。

 

 高性能な基板をいくつも購入して、そこに翻訳AIを入れ、マシンパワーの暴力で世界中の言語を高速学習させているのである。各基板の翻訳AIが分担して学習した内容は、それらを統括する親AIにフィードバックされていく仕組みだ。

 

 僕はこの翻訳システムを『バベルI世(ワン)』と命名した。

 親AIをタワー型PCに入れているからという、例によってくだらないジョークである。神話のように完成間近になったら落雷でも落ちて台無しにならないかと、ちょっと心配しているが。

 

 最終的な運用としては『バベルI世』と言語データベースをもっと大型のサーバーに組み込み、世界中のスマホから送信された犬語を翻訳させる予定である。電波が入るところでしか翻訳が使えないという弱点はあるが、そもそも今時スマホを電波が入らないところで使おうという方がどうかしているのだ。

 

 お父さんからは改装費と基板代、光熱費と大分借金してしまったが、来年には必ず返すので勘弁してほしい。

 そうお父さんに言ったところ、頼もし気な笑顔で返された。

 

 

「気にするな。息子が事業を立ち上げるんだ、応援しなきゃ親父じゃないさ。お前の会社の今の代表は俺だしな、わははは! それにこの費用はお前の会社の経費で落ちるから、税金対策にもなるぞ。遠慮せずガンガン使え!」

 

 

 税金のことは正直さっぱりわかってないのだが、お父さんに任せとけば安心だ。どんどん丸投げしてしまおう。

 

 

「えっ、なにこれ……仮想通貨のマイニングでもしてるの?」

 

「ほへー。クーラーすずしーい。南極みたい」

 

 

 ラボを覗きに来たありすとくらげちゃんが、並べられた基板を前に目を丸くしている。

 放熱がすごいことになるので、壁に断熱材を入れ、業務用クーラーで常時キンキンに冷やしているところだ。万が一火事にでもなったら困る。

 将来的にはビルの一室にサーバールームを設置することも考えているが、今のところはわが社はご家庭の一室で気軽に営業中である。職場まで徒歩0分という通勤時間が最大のメリットだ。ついでに産業スパイも入ってこれないぞ、別に見るものもないだろうが。

 

 ご家庭では実現不可能な涼しさを味わったくらげちゃんは、上目遣いでおねだりしてきた。

 

 

「すっごく涼しくて気に入っちゃった。ねえ、夏はここで勉強してもいいかなぁ?」

 

「いいけど、基板がカリカリ鳴るからうるさいんじゃないかなあ……。あと体が冷えすぎて風邪ひくよきっと」

 

「ちぇー」

 

 

 スパイは入ってこないけど、涼しさに飢えた女子中学生は入ってきそうだな……。

 

 

「だめよ、みづきちゃん。ここはハカセのお仕事場なんだから。頻繁に出入りしたら冷気が逃げてダメになっちゃいそうだし」

 

「はーい」

 

 

 ありすのフォローに、くらげちゃんは渋々と頷いた。

 さてありすが何故ここにいるのかというと、くらげちゃんの家庭教師である。

 

 

 

※※※

 

 

 

「絶対にお兄ちゃんと同じ高校に行きたい!」

 

 

 ある日くらげちゃんはそんなことを言いだした。

 くらげちゃんももう中3、高校受験を控えた身だ。

 だがいくら素が聡明なくらげちゃんといえど、しばらく非行に走って学校をサボっていたので成績が割とガタガタだった。

 しかももう夏休み直前で、受験までそんなに時間がない。

 

 これは催眠で超集中能力を植え付けてあげる必要があるかもしれない。

 そう思って家庭教師をしてあげようかと持ち掛けたのだが、くらげちゃんは何やら曖昧な笑みを浮かべたのだった。

 

 

「えっ、いいよ。お兄ちゃん教えるのすっごく下手だし」

 

「そっかー……」

 

「でも気を遣ってくれてうれしいな。ねーねー、じゃあ参考書買いに行くのだけ付き合ってよ」

 

 

 そう言って僕の腕に抱き着いておねだりするくらげちゃんをむげにはできず、僕はくらげちゃんと買い物に行くことにした。

 

 くらげちゃんを腕にぶらさげたままで。

 

 

「……さすがに暑くない、くらげちゃん?」

 

「ふふん、へーきへーき。お兄ちゃんとお買い物~♪」

 

 

 もう7月の暑い盛り、セミもミンミン鳴き始めるこの時期に、くらげちゃんは僕と腕を組んで街を歩くのにご満悦である。

 僕は正直クッソ暑いのだが、くらげちゃんに好き放題甘えさせてあげることを誓ったので言うとおりにしている。

 くらげちゃんも汗だらだらで、触れたところから雫が滴っているのだが……。くらげちゃんの考えることが、たまにわからなくなる。

 

 

「あっ、ありすちゃんだ」

 

「「えっ」」

 

 

 そんなカップルのようにびったりとくっついた状態を、ヤッキーを連れて散歩していたありすに見られた。

 

 

「……みづきちゃん、何してるの?」

 

 

 ありすはプルプルとわずかに震えながら訊いてくる。

 

 

「お兄ちゃんとお買い物! 参考書買いに行くの!」

 

「ふ、ふーん。仲直りしたんだぁ」

 

「うん! もうすっかり仲良しなんだよ~」

 

 

 くらげちゃんはそう屈託なく笑いながら、僕の腕にぎゅーっと抱き着いてきた。おやおやくらげちゃん、本当に楽しそうだね。

 ありすはどうしてそんな無表情なのかなぁ。

 

 おっと、ヤッキーが身を縮こまらせて飼い主を見上げているぞ。どれどれなんて言ってるのかな。翻訳アプリ起動。

 

 

「きゅーん……」

 

『犬ですがご主人様の機嫌が最悪です。たすけて』

 

 

 そっかー、ヤッキーもこわいかー。

 僕も怖いよ。

 

 

「みづきちゃんも()()()()同じ高校に行きたいの?」

 

「うん! ()()()()()()同じ高校がいいな!」

 

「そうなんだー」

 

 

 ありすはそう言って、にっこりと微笑んだ。

 

 おかしい。何故僕はこんなに冷たい汗をかいているのだ。

 ありすの笑顔から伝わってくるこの緊迫感は一体。

 

 そして妹と街を歩いていただけなのに、何故不倫の現場を本妻に見られたダメ夫みたいな空気になってしまっているんだ……!?

 

 

「じゃあ、私が勉強教えてあげようか?」

 

「えっ! いいの!?」

 

「もちろんよ。私とみづきちゃんの仲じゃない」

 

 

 ニコニコ笑顔なのに目が笑っていないありすがそう提案すると、くらげちゃんはぱあっと顔を輝かせた。

 

 

「やったー! ねえねえ、これからいっぱいうちに来てね!」

 

 

 くらげちゃんが無邪気な笑顔でそう言うと、場の空気が一気に緩んだ。

 異様な息苦しさから解放され、僕とヤッキーはほっと息をつく。

 

 ありすは渾身の力で殴りつけた壁が実は豆腐だったみたいな、拍子抜けしたような感じで目をぱちくりさせた。

 

 

「えっ、いいんだ……?」

 

「もちろんだよー! だってありすちゃんだもん。私たち姉妹(きょうだい)みたいなものだし、遠慮せずにいつでも来てね! じゃないと私も勉強進まなくて困っちゃうもん」

 

「みづきちゃんがそう言うなら、夏休みの日中や土日にお邪魔しちゃおうかな」

 

「えへへー、待ってるからね!」

 

 

 先ほどの一触即発の空気はどこへやら、ありすとくらげちゃんは笑い合いながらキャッキャしている。女の子の考えることはさっぱりわからん。いや、まあ人間全般の考えること自体僕にはよくわからないのだが。

 

 しかしそうか、これからはありすがよくうちに来るのか。

 

 ……うん、それは悪くないな。

 

 

「じゃあこれからありすちゃんも参考書選びにいこー!」

 

「きゃっ!?」

 

 

 不意にくらげちゃんがありすの腕を取って歩き出した。

 僕とありすはくらげちゃんに引っ張られ、その少し後ろをついていく。ついでにヤッキーも引きずられていく。

 

 

「ふんふふーん♪」

 

 

 僕たちに挟まれてご機嫌なくらげちゃんを中心に歩きながら、僕とありすは顔を見合わせた。そういえばこんな至近距離でありすの顔を見るのも久しぶりだ。

 にゃる君たちとつるむようになってから、ありすは僕の机に乗らなくなっていた。

 

 ありすの顔がちょっと赤い。夏の熱気のせいだろうか。

 

 

「ねーねー、こうして3人で歩いてると昔に戻ったみたいだね!」

 

「そうね。なんだか懐かしいわね」

 

 

 2人がそう言うのに、僕は小首を傾げた。

 戻ったというには語弊があるんじゃないかな。だって、

 

 

「これが今からの日常だろ?」




ありす「ところでこの部屋、何やってるところなの?」

ハカセ「犬語を世界中で翻訳できる装置を作ってるんだよ」

ありす「そうなんだ、すごーい!! これで世界中の犬好きと繋がれるわね!」

ハカセ(ありすが喜んでくれて嬉しいなあ)


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第33話「名前を賭けた闇のゲーム」

よいお年を。


「名前を賭けてゲームしない?」

 

「なんか悪魔みたいなこと言い出したな……」

 

 

 くらげちゃんの夏休み勉強会ということで、ありすと僕はくらげちゃんの勉強をみていた。いや、まあ正確にはありすがくらげちゃんに教えていて、僕はその横でタブレットで読書しているという形である。

 

 ありすは実際には教え下手ということもなく、くらげちゃんがわからないところが出てきたらあれこれとアドバイスして、すぐに解決している。多分ありすとくらげちゃんの知能が同水準で、意図が伝わりやすいのかもしれない。

 

 それなら僕はいらないなと思って自室で研究しようと思ったのだが、くらげちゃんとありすからここにいなさいと引き留められた。2人で僕のシャツの裾をつまんで、じーっと上目遣いを送ってくるのだ。この目に勝てるわけもない。

 

 さて、勉強会が始まってから3時間ほど経過した頃、くらげちゃんは息抜きに何かゲームしようと言い出した。それもただ遊ぶだけでなく、本気で遊ぶために何かを賭けようというのである。

 

 

「賭ける? 中学生がギャンブルはいただけないな」

 

 

 僕が眉をひそめると、くらげちゃんはパタパタと手を振った。

 

 

「お金なんて賭けなくていいよぉ。ケンカの元になっちゃうし。なんか罰ゲームとかご褒美とか賭ける感じにしない?」

 

「ああ、新谷(しんたに)君や沙希(さき)がいつもやってるみたいな感じね。いいんじゃない、あれは私も面白そうだと思ってたの」

 

「なるほどなあ。確かにちょっと楽しそうだ」

 

 

 にゃる君とささささんは相変わらずゲームで対戦しては妙な罰ゲームを課しあっている。先日は夏のアルバイトを何にするかという勝負をして、ささささんがにゃる君に着ぐるみのアクターをさせることになった。

 

 なんかのゲームと僕たちの市がコラボフェアをすることになったそうで、にゃる君はゲームマスコットのタマゴリラ君とかいう、ゴリラとも卵ともつかない奇妙な生き物の中の人をやることになったのである。

 

 僕たちもささささんと一緒に見に行ったのだが、子供たちに蹴られては「タマゴォォォォォ!!」と奇声を上げてすごい速度で追いかけ回していたのが印象的だった。本当にあれで販促になってたんだろうか。

 ささささんはお腹を抱えて笑い転げていたので、あの2人の中では楽しい思い出になったのかもしれないが。

 

 

「でも着ぐるみは嫌だな、拷問だろあれは」

 

「さすがにあれはちょっとね……」

 

「そんな疲れるのはしないよぉ、勉強もしないとだし。じゃあねえ、名前を賭けてゲームしない?」

 

「なんか悪魔みたいなこと言い出したな……」

 

 

 魔女の老婆に名前を取られた可哀想な女の子が風呂屋で働かされるアニメ映画を連想して、僕は妹の悪魔的発想に戦慄した。

 

 

「いやいや、そんな大層なものじゃなくてね。ゲームで勝ったら今日1日その人にあだ名をつけて、その名前で呼ぶことにするの」

 

 

 くらげちゃんの説明に、ありすがぽんと手を打った。

 

 

「なるほど! じゃあハカセに『犬』って名前を付けて、『犬、喉が渇いたわ! ジュース持って来なさい!』とか言えるわけね!」

 

 

 なんて恐ろしい奴だ、僕を飼い慣らそうとしてくる……!

 やはりありすは女王気質なのだ。復讐心がまた掻き立てられてきたぞ。

 

 

「これは絶対に負けるわけにはいかないな……!」

 

「おっ、お兄ちゃんもやる気だね! じゃあやろやろ! 対戦アクションね!」

 

 

 くらげちゃんが引っ張り出してきたのは、少し前に発売されて好評を博した対戦アクションゲームの最新作だ。

 ローカルでは最大4人まで対戦でき、バトルロイヤルで相手を場外にはじき出すわちゃわちゃした操作感が人気である。

 

 だが悪いな、このシリーズは小学生のときに結構やりこんでいた。最近ゲームしてないが、基本操作は最新作でも変わっていないはず。

 ゲームマニアのくらげちゃんはともかく、ありすに負けるつもりはない。

 

 

「じゃあ僕はクロウ=ホーガンを選ぼうかな」

 

 

 クロウ=ホーガンは僕の持ちキャラの宇宙サムライプロレスラーで、見るからにパワータイプに見せかけて実はテクニカルな戦いを得意とするキャラだ。

 ジャンプ小攻撃と大攻撃でコンボを繋げて削り倒す飛びキャラなのだ。

 

 

源義経(みなもとのよしつね)じゃん……」

 

「? ありす、何を言ってるんだ。こいつはそんな名前じゃないよ、クロウ=ホーガンだよ」

 

「思い切り九郎判官(くろうほうがん)って言っちゃってるじゃん……」

 

「はいはい、早くキャラ選んでねー」

 

 

 さて、それじゃあやるとするか。

 最低限……ありすには勝つ!!

 

 

 

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=======

===

 

 

 

「わーい、私の勝ちぃ!」

 

「ば……馬鹿なっ!?」

 

 

 くらげちゃんの操るノブ・ナーガの本能寺全焼斬り(エンチャントファイア)が、僕のクロウを爆炎で包み込んで場外に吹き飛ばした。

 くそっ、自分ごと炎上する自爆攻撃をうまく使いこなしてきたか……!

 

 

「みづきちゃんうまいなぁ」

 

「えっへん!」

 

 

 ありすは案の定大してうまくないのだが、くらげちゃんが異様に強い。

 僕がゲームから遠ざかっていた間に、彼女はどれほどの進化を重ねていたのか。もはや小学生の頃のくらげちゃんの強さではない……! やりこんでいる……!

 

 

 くらげちゃんはにへっと笑うと、人差し指を立てて唇を撫でた。

 

 

「さーて、じゃあお兄ちゃんにどんな名前を付けてあげようかなー。あっ、ちなみにお兄ちゃんに名前を付けたら、ありすちゃんもそう呼んでね!」

 

「うん、いいわよ」

 

「変なルールを後出ししてきたな……」

 

 

 まあいい。

 僕も男だ、二言はない。いかなる屈辱でも甘んじようじゃないか。

 

 

「さあ、犬でも猫でも好きにつけろ!」

 

「じゃあねえ……お兄ちゃんは今日一日『パパ』で!」

 

「パパ!?」

 

 

 予想の斜め上のあだ名に、僕は目を剥いた。

 なんだそれは。一体どういうつもりの命名なんだ。

 

 

 くらげちゃんはんふーと笑いながら、ごろーんと頭を僕の膝の上に置いた。

 

 

「パパー。娘のみづきちゃんだよー、パパー。なでなでしてー」

 

「……あだ名のはずなのに、何故か娘を撫でることを求められている……!?」

 

「いーじゃん、オプションでー。ねーありすちゃんもやろ?」

 

「えっ!?」

 

 

 くらげちゃんに促されたありすは、せわしなく視線をあちこちに送ってから、僕を上目遣いに見つめてきた。身長が結構違うので、自然そうなるのだが。

 

 

「……いい?」

 

「まあ、いいよ。勝負は勝負だから」

 

「じゃ、じゃあ……」

 

 

 ありすがごくりと唾を飲む音が響く。

 

 

「ぱ、ぱぱぁ……」

 

 

 顔を赤らめたありすが、僕の膝の上に頭を乗せて見上げてくる。

 

 ……ぐっ……!

 な、なんだこの味わったことのない感情は……!?

 

 

「今日の私はありすお姉ちゃんと姉妹だよー。ほら、お姉ちゃんも撫でて撫でて」

 

「え……えぇ?」

 

「娘を可愛がるのはパパのつとめでしょ!」

 

 

 なんかあだ名だけのはずなのに、家族サービスまで求められている。

 

 

「い、いいのか……?」

 

 

 僕が恐る恐る聞くと、ありすはふいっと目を逸らした。

 

 

「か、髪型崩さないようにしてよね……!」

 

 

 撫でろということらしい。

 僕はそっとありすの頭頂部に手をやり、髪の毛をセットし直すような手つきで柔らかく撫でてやる。

 

 ありすはうっとりと目を細め、んふんと鼻を鳴らした。

 

 

「パパ! こっちも構って!」

 

「あー、はいはい……」

 

 

 姉ばかりに構うなと妹が主張してくるので、くらげちゃんの頭も撫でる。

 

 

「パーパ♪」

 

「パパぁ……」

 

 

 姉妹を膝の上に乗せながら、僕は2人の頭や首筋を撫でてやる。

 首を触られたありすはくすぐったそうにしながらも、ぐったりと脱力した感じでその身を僕に委ねていた。

 

 

「あー、癒されるぅ……。お兄ちゃんって身長高いし包容力感じちゃうね、ありすちゃん」

 

「ふにゅう……♪」

 

 

 娘たちは気持ちよさそうに僕の手を受け入れ、リラックスしきっている。

 

 く……くそっ、なんだこの脳裏をよぎる娘たちと過ごした日々の映像は……!?

 幼稚園から小学校入学、卒業、そして中学生……!

 甘えられたことも、非行に走ったこともあった。

 しかし様々な苦悩や悲しみ、そしてかけがえのない喜びを娘たちと共有して父娘(おやこ)3人で生きてきた……!

 そして高校生、大学生、就職……! やがて結婚……! どこの馬の骨とも知らぬ男がへらへらと僕の娘の手を握り、「お父さん私この人と結婚します」と結婚報告を……!

 

 

「許さんぞ! 娘は絶対に誰にも渡さんッ……!」

 

「何かシミュレートしてる!?」

 

「ハカセ? しっかりして、ハカセ!」

 

「はっ!? 僕は何を……!」

 

 

 ありすに肩を揺さぶられて、僕は正気に戻った。

 いかん、あまりにも役にはまり込んでしまったようだ。自己暗示で父親になりきって結婚式で号泣してしまうところだった。

 

 

「これは危険なゲームだぜ……!」

 

「いや、パパがアブない人なんだと思うよ」

 

「でも実際中毒性があってヤバかったかも」

 

 

 白い目を送ってくるくらげちゃんの横で、ありすがいじいじとカーペットに渦巻きを描いてちらちらとこっちを見てくる。

 まだ撫でられたりないのだろうか。

 

 くらげちゃんはそんな雰囲気を断ち切るように、ぱんっと手を叩いた。

 

 

「じゃあ続いて第二回戦しよっか」

 

「えっ、まだやるの?」

 

「えーだってどっかの誰かさんに復讐のチャンスを与えてあげないと可哀想だしー?」

 

 

 くらげちゃんは僕に流し目を送りながら、クスクスと笑っている。

 くそっ……! 煽ってくるじゃないか!

 

 

「上等だ、今度は勝つ!!」

 

 

 

===========

=======

===

 

 

 

「うりゃあ、超必殺! 壇ノ浦(だんのうら)八艘(はっそう)ビート!!」

 

「あーーー!?」

 

 

 僕が操るクロウが画面中をぴょんぴょん飛び回り、8回ものジャンプ攻撃を叩き込んでノブ・ナーガを画面外へと吹っ飛ばした。

 

 

「やっぱり義経じゃん!?」

 

 

 復帰は……間に合わない! よっしゃ、僕の勝ちだ!

 カンカンカンとゴングが鳴らされ、クロウ=ホーガンが「イチバァーン!!」と叫びながら右手の人差し指を天に突きあげる。勝利のポーズだ!!

 

 

「義経じゃなかった!?」

 

「ふふふ……。これで僕の勝ちだな」

 

「見事だよ、パパ。さあ私は逃げも隠れもしない。犬でも猫でもくらげでも、好きな名前を付けるがいい!」

 

「いや、くらげちゃんは元から呼んでるんですけど」

 

 

 さて、どうしたものか。

 僕はありすとくらげちゃんに交互に視線を送る。

 

 どっちに名前を付けるかといえば、もちろんありすに付けて悔しがる顔を見たいが……。

 

 うーん、ありすにあだ名を付けることがしっくりこないんだよな。

 ありすはありすだ。

 僕にとってありすは唯一無二の存在であり、それ以外の呼び方はありえない。

 

 

「どうするの、パパ?」

 

「そうだなあ……」

 

 

 しかしせっかく勝ったんだから、報酬を行使しないのも違うな。

 それは真剣に戦った相手にも失礼ではないか。

 

 ……そうだ。逆に相手に好きな呼び方をさせるというのはどうだろう?

 

 

「よし、じゃあありすに決めさせよう。ありすが僕にどう呼んでほしいのかを決めていいぞ!」

 

「えっ……ええっ?」

 

 

 目を白黒させるありすをまっすぐに見て、僕は訊いた。

 

 

「さあ、ありす! 今日一日僕にどう呼んでほしいのか言うんだ!」

 

「そ、そんなこと急に言われても……」

 

「あ、でもご主人様とか女王様って呼ばせるのはナシな。あくまでもお前が目下だぞ! さあ、言え! わんこちゃんか!? それとも子猫ちゃんか!?」

 

「ええ~……!?」

 

 

 ありすは常にもなくオロオロと狼狽している。

 なんかものすごく顔も真っ赤だし。

 

 これは珍しい反応だな……。

 

 

 そんなありすを見て、くらげちゃんはニヤリと悪戯っぽい笑顔を浮かべる。

 

 

「パパ、そういうときはありすちゃんの顎をくいっと持って逃げられないようにするといいよ!」

 

「ん、こうか?」

 

 

 僕はありすの顎に右手を添え、優しくクイッと引っ張って、彼女と視線を絡ませる。なるほど、こうやって返答を迫るんだな?

 

 

「はぅぅぅぅぅぅ……!!」

 

 

 ありすの顔がボンッと音を出せるほど急激に赤く染まり、耳まで真っ赤になった。むう、未知の反応だ……!

 

 

「さあ、そこで優しく囁くようなウィスパーボイスで返答を迫って!」

 

 

 わかりました、監督!

 くらげ監督の言うままに、僕は催眠術をかけるときに使う落ち着いた声色でありすに囁いた。

 

 

「さあ、ありす……もう逃げられないよ。僕にどう呼ばれたい?」

 

「~~~~~~~~~ッッッ!!!」

 

 

 目の中に渦巻きが見えるほど錯乱したありすのパンチが、僕の顎に突き刺さった。

 

 

「お……父娘(おやこ)でそんなのダメだようっっ!!!」

 

「ぐえーーーーーーーーーーっ!?」

 

 

 見事なアッパーで脳を揺らされた僕は、その場に仰向けに倒れ込む。

 カンカンカンカーン!

 意識を失う直前、くらげちゃんの声が聞こえた。

 

 

「さ……最終勝者! ありすちゃんッ!!」




ありす「あああ、またハカセにひどいことしちゃった……嫌われる……嫌われる……」

くらげちゃん「まあまあ。お兄ちゃんなら別に今更それくらいで怒ったりしないと思うよ」

ありす「そうかなあ……そうだといいなあ……」

くらげちゃん「ところでありすちゃん、さっきのお兄ちゃんの囁きは録音してるんですよ」

ありす「言い値を出します」


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第34話「せっかくの夏休み、体を鍛えるなら今!」

あけましておめでとうございます。

季節感がないお話で恐縮ですが、今年もよろしくお願いします。


『せっかくの夏休み、体を鍛えるなら今!』

 

 

 ありすがモデルとして出演している女性向け雑誌の表紙に、そんな見出しが(おど)っていた。

 パラパラとページをめくってみると、エクササイズでモテカワスリムに! とか体のラインをシュッと整えて悩殺水着で彼のハートをゲット! とか、そんな感じの特集記事が組まれているようだ。

 

 そして特集記事のモデルとして、タンクトップ姿のありすがストレッチで汗を流している姿が掲載されていた。パシャリと撮影して、速やかにPDFでコレクションフォルダへ保存。

 

 くっ、ちょっとエッチじゃないか。

 こんな姿をカメラの前に晒して、男たちがいやらしい目で見たらどうするんだ。いや、女性誌だからそうそう手に取らないか……。

 

 ありすが出ていることだし、特集記事をパラパラと流し読みしてみる。

 

 

亜里沙(ありさ)ちゃんにインタビュー!』

 

 

 亜里沙とはありすの芸名である。

 生意気にも芸能人気取りでインタビューに答えているのか。どれどれ。

 

 

 

===========

 

 

 

――亜里沙ちゃんは普段どれくらい運動していますか?

 

亜里沙「1日1時間くらいは体を動かしてます。甘いものを食べちゃった日は30分プラスかな」

 

――いつもどんな運動をしていますか?

 

亜里沙「軽いストレッチと腹筋、あとはジョギングです。私、犬を飼ってるんですけどすごく元気な子で、散歩のついでに走ってますよ。いい運動になります」

 

――いっぱい運動するんですね。辛くないですか?

 

亜里沙「全然辛くないですよ、体を動かすのは好きなので! 運動するのが大嫌いって子が友達にもいるんですけど、少しくらい運動した方が気分転換になって勉強とかも身が入るのになって思います」

 

――運動嫌いな子はどうすれば改善できると思いますか?

 

亜里沙「運動しなきゃって義務感があると辛いと思うんですよ。やっぱり楽しむことが第一かなって。それか、いっそ運動してるときは頭を空っぽにするとか」

 

――亜里沙ちゃんとしては、やっぱり恋人にするならスポーツマンがいいですか?

 

亜里沙「いえ、そんなことないですよ。筋肉ムキムキの暑苦しい人とかちょっと怖いし。スマートで頭がいい人の方が好きです」

 

――でもやっぱり女の子としては引き締まった腹筋とか細マッチョな腕とかもかっこいいかなって思うでしょう?

 

亜里沙「それは確かに、嫌いな女の子はいないと思います。いざというとき守ってくれそうな人って素敵ですよね」

 

 

――やっぱり亜里沙ちゃんも細マッチョな男が好きなんですね! 理想の彼氏をゲットするには、やっぱり運動は絶対必要。これを読んでいる貴女も、この夏はいっぱいシェイプアップして素敵な恋しちゃおう!

 

 

 

===========

 

 

 

 …………。

 

 僕はぷにょんと若干肉が付いたお腹をつまみ、単に細いだけの腕に力こぶを作ってみた。

 

 

「うん、わかってはいたけど全然だめだな……」

 

 

 試すまでもなく生粋の運動不足である僕に筋肉などついているわけがない。遺伝的にやせ型なので手足は細いが、腹筋がないのでお腹は少したるんでいる。

 

 僕は子供の頃から運動が大嫌いなのだ。そもそもが運動神経をお母さんのお腹に置き忘れて生まれてきたとしか思えないほどの運動音痴なのである。

 

 今でこそマシにはなったが、幼稚園の頃などは何もないところでよく転んで膝をすりむいていたものだ。かけっこは万年ビリだし、ボール投げも苦手。

 運動嫌いなのは、多分幼児の頃からの運動への苦手意識を引きずっているのだと思う。まあ、そもそも興味がないことにはまったくやる気が出ない性分のせいもあるだろうが。

 

 しかし、そうか……ありすは細マッチョな男が好きなのか。

 どうもこの記事は運動しろという結論ありきで話を誘導している感が出ているのだが、ありすが引き締まった腹筋や腕が好きと答えたのは事実だ。

 

 

「……運動してみようかな」

 

 

 いや、僕は別にありすがどんな男が好みだろうが構わない。

 構わないのだが、夏休みにちょっと筋肉がついてたりしたら驚かせることができるのではないかという、そんなちょっとした悪戯心だ。まったく他意はないぞ。

 

 それに先日、罰ゲーム中に錯乱したありすにワンパンでKOされたのは、我ながらあまりにも情けなさすぎた。いくらなんでも女の子のパンチ一発で気絶するなんて、男として問題がありすぎる。これはどうにかしなくてはいけない。

 それにありすもいざというとき守ってくれる人が素敵と言っているじゃないか。このままでは僕がありすに守られる側になってしまう。

 

 これはいい機会だと考えよう。

 これまで何度も運動不足をなんとかしなきゃと思いながら、結局めんどくさくなって逃げてきたのが僕だ。

 今回こそはちゃんと運動して体を鍛えるのだ!

 

 

「時間に余裕がある夏休みこそ、運動して肉体改造するチャンスだ! さあ、やるぞ! 今すぐ外に飛び出し……」

 

 

 そう口に出した僕は、そっと窓の外を見た。

 7月のカンカン照りの空は青く晴れ、眩いばかりの日光がじりじりとアスファルトを照らしている。外に出るだけで熱気と湿気で体力を奪われそうだ。

 

 

「……飛び出したら熱射病で倒れそうだから、また後日にしよう」

 

 

 はっ! いかんいかん、いつもそうだ。

 また後日と言ったことが後日に遂行されたことなど一度もないじゃないか。

 今思い立ったときに始めないといつやるというのだ!

 

 

「でも始めたとしても三日坊主で終わりそうだよな……」

 

 

 はっ……! いかん、また無意識に妥協しようとしている。

 とにかく始めるのが大事だ。

 現状まったく運動してないわけだから、まずは軽い内容でいいから体を動かすんだ!

 

 

「となると腕立て伏せと腹筋、スクワットあたりか……? これなら室内でもできるから、暑くても関係ないな。でも、腕立て伏せとかすると体が痛くなってしんどいな……汗かいたらシャワーも浴びないといけないし、寝る前でいいか」

 

 

 とりあえず暑いしアイスでも食べよう。

 冷房がガンガンに効いた部屋で食べるアイスは最高だなもぐもぐ。

 

 

 ………………。

 

 

 はっ! また自分に言い訳してサボってしまった!

 

 

「なんてことだ、運動から逃げる癖が性根に染みついてる……!」

 

 

 僕はどうやら無意識に運動から逃げる思考をしてしまうようだ。

 これはもう僕の意思ではどうしようもないことなのかもしれない。

 

 そういえばありすは運動が苦手ならどうすればいいと言っていただろうか。

 確か義務感で運動すると辛くなるから、楽しむことが第一と言ってたな。

 まあそれは僕には絶対に無理だが。

 その次が頭を空っぽにすることか……。

 

 

 頭を空っぽに……空っぽ……。

 

 そのとき、僕の脳に天啓とも呼べる考えが舞い降りた。

 

 

「あっ……そうか! 自分に催眠をかけて運動させればいいんだ!!」

 

 

 より正確には、一定時間の間自分を催眠状態にして運動させるのだ。

 催眠がかかっている間は何も考えてないに等しいから、運動することに苦痛も感じない。もし苦痛であったとしても、運動している間の記憶が残らないようにしてしまえば、苦痛を感じていないも同然というわけだ。

 

 実のところ催眠アプリ試作第1号を作った時点で自分を被検体にすることは考えていたのだが、もしそれで自分の頭がおかしくなったらどうしようもないのでその案は封印していたのだ。

 しかしこれまでの実験を通じて、どうやら催眠アプリを使っても特に健康上の問題はないことが確認されている。

 これなら自分を被検体にしても大丈夫だろう。

 

 

「そうと決まれば、早速効率的なプランを考えよう!」

 

 

 僕はウキウキと、自分にどんな運動をさせるかの案を練り始めた。

 何しろ僕が疲れるわけじゃないんだから気楽なものだ。

 感覚としては育成シミュレーションゲームに近い。操っているキャラに効率的に勉強や運動をさせてパラメータを上げるようなイメージである。

 

 まず運動する時間は1時間でいいだろう。根拠はありすが毎日1時間運動していると言っていたからだ。

 運動メニューは……これもありすにならってストレッチと筋トレ、それとジョギングでいこう。ストレッチせずに運動すると、関節を痛めることがあると体育の授業で聞いたことがある。

 よし、ストレッチ10分、筋トレ20分、ジョギング30分のコースにしてみよう。

 筋トレの内容は腕立て、腹筋、スクワットだ。

 

 運動する時間帯は夜がよさそうに思う。

 夜だと車が危ないといえば危ないが、多分日中に熱射病になる危険を考えればまだ涼しい夜の方がいいと思う。

 夜8時から9時くらいがいいかな。

 

 催眠の段取りとしては、自分に催眠アプリを使った後に音声プレーヤーを自動的に起動させるようにして、あらかじめ自分が吹き込んでいた音声で暗示をかける。これでバッチリだろう。

 

 これまで結構な人数に催眠をかけてきたが、自分を被検体にするのは初めてだ。なんだかワクワクしてきたぞ。催眠にかかるってどんな感じなんだろうか。

 

 僕は早速音声プレーヤーに暗示を吹き込み、高鳴る胸を抑えつつ、催眠アプリを自分に向けて起動させた。

 

 

「催眠!」




実はこのお話去年の8月に書いてました(白目)


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第35話「CASE4:運動不足のもやしっ子(自分)」

『貴方は夜8時から9時の間、必ず運動をするようになります。体を鍛えてありすを驚かせるために、運動する必要があるからです。内容はストレッチ10分、筋トレ20分、ジョギング……』

 

「……どういうことだ?」

 

 

 僕は音声プレーヤーから流れてくる音声を聞きながら、呆然と佇んでいた。

 

 

 ()()()()()

 

 音声プレーヤーから再生される暗示を、覚醒状態で聞いている。

 僕は催眠状態になっていない。

 

 催眠アプリを自分に向けて使ったとき、確かに一瞬めまいを感じたと思う。

 しかしそれだけだ。その直後、すぐに意識が戻ってきた。

 

 時計を眺めるが、時間の針はまるで進んでいない。

 

 

「催眠アプリが、僕に効かない……!?」

 

 

 一度音声プレーヤーを停止して、もう一度試してみる。

 

 

「催眠!」

 

 

 催眠アプリを自分に向けて起動する。

 

 

『おやすみなさい』

 

 

 ありすの柔らかい声と共に、高周波や電子ドラッグといった情報の渦が僕の脳に叩き付けられ、意識が遠ざかる……。

 

 が、踏みとどまった。

 僕の耳は高周波をとらえ、目は電子ドラッグを見ている。

 情報の洪水によって脳をパンクさせ催眠状態に導くはずが、それらの情報を脳が処理し、受け止めていた。

 

 

「僕は催眠状態になれないのか……?」

 

 

 何故だ。どうして? いつもと何が違う。

 僕は混乱しながらも、この事態を説明できる理由を考え始めた。

 

 催眠アプリが故障した? いや、催眠アプリは単に膨大な情報を叩き付けて脳をパンクさせるだけの装置だ。故障する理由がない。

 

 催眠できると知っているから体が身構えてしまう? いや、催眠アプリの存在ににゃる君は気付いている。そのにゃる君に2回効いた理由にならない。

 

 ……違うな、多分外的な理由ではない。

 

 

「問題があるとすれば、僕の方だ」

 

 

 僕の知能が高いから情報を処理しきっている? いや、僕なんて大して頭がいいわけではない。それは自惚れだ。

 

 では……僕の精神構造がおかしいから?

 

 

「ありそうではあるが……」

 

 

 僕は首を傾げた。

 僕だって、自分が()()()()ことくらい理解しているのだ。

 

 子供の頃から、他人とは位相がズレた世界に生きてきた。僕の目には世界が数値に見えている。色や形は複雑な構成を為した芸術品であり、花や雪はそれこそ天然に成立した美の結晶に見えるが、誰もその価値観を共有してはくれなかった。

 自然の芸術品、完全にパターン化されたゲーム、列車が進む音。一定の形やリズムがもたらす美という、僕にとって執着するに足る輝くものを、人間はとるにたらないものと認識している。

 

 反対に彼らがもてはやす絵画や、面白いと絶賛するマンガなどは、何が面白いのかさっぱりわからなかった。人の手でつくられたものの意図を理解できない。小学校まで、文字ですらそれが意味があるものと知らなかった。人工物の意図を少しなりとも理解しようと小学校時代はマンガを読み漁ったが、多分他人が受け止める10分の1ですらそこに含まれる意味と情緒を理解できていないのだろう。

 

 僕の世界に人間は両手で数えられるほどしかいない。それは親と、妹と、2人の友達と、2人の師匠。

 そして何より、閉ざされた僕の世界に最初に踏み入って、他人という概念を教えてくれた女の子。

 

 ありす。

 

 

「そう、ありすだ……」

 

 

 僕の頭の中で、パズルのピースが組みあがっていくような感覚があった。

 

 

 《子供の頃から他人を自然と従えていた》

 

 《ありすの声に従ったクラスメイトが僕を押さえつけ、土下座を強制した》

 

 《ありすの長所の中で一番魅力的なのは声だ》

 

 《セイレーン、ハルピュアといった神話の怪物は声で人を魅了する魔女だったという仮説があって》

 

 《催眠アプリで最初に流れる『おやすみなさい』の囁き声》

 

 《似たような素材をいくら集めても、催眠アプリは再現できなかった》

 

 

 カチカチと音を立てて組みあがるジグソーパズルが、全体像を見せた。

 

 

「ありすの声、なのか? それが催眠アプリに必要な最大の要素なのか?」

 

 

 それならミスターMがどれだけ素材を集めても、催眠アプリが再現できなかった理由が説明できる。ありすが協力していないからだ。

 ありすの『おやすみなさい』と囁く声こそが、催眠アプリの本体。これまでの被験者たちは、ありすの『眠れ』という命令に従っていたのか?

 

 

 ……だが、それが正しいとして、何故僕には効かない?

 僕は子供の頃からありすに何度も命令されてきたが、そこに何らかの強制力を感じたことはない。

 

 いや……何か引っかかる。なんだ? 違和感の元はどこにある?

 思い出せ……。

 

 

 脳の中の記憶をひっくり返し、引きだしのことごとくを開けて、僕は手掛かりにたどり着く。

 そうだ。くらげちゃんのケースだ。

 

 催眠された彼女は、その最後に「ありがとう、お兄ちゃん」と言った。

 そう。あのときは気付かなかったが、くらげちゃんは催眠状態にありながら、催眠をかけているのが僕だと認識していた。催眠をかけられても半覚醒状態で踏みとどまっていたということになる。

 

 これはにゃる君やささささんには見られなかった特徴だ。にゃる君とささささんも催眠をかけたのは僕だと気付いていたが、それは催眠後に記憶を補正した結果であって、催眠状態にあったときに僕をはっきり認識していたわけではない。いじめグループの女子や悪党たちもそうだ、暗示を植え付けている間は僕を認識できていなかった。

 

 ということはくらげちゃんは催眠の効きが薄いということになる。

 言い換えれば、くらげちゃんは他の人よりも催眠への抵抗力が高いということになる。

 思い返してみれば、確かにくらげちゃんは僕の暗示を何度か拒絶していた。悪党にそれまでの行動とは真逆の信条を抱かせるほどの強度の暗示を、くらげちゃんは跳ね返していたのだ。

 

 僕と、僕ほどではないが催眠に耐性があるくらげちゃん。

 その共通点はなんだ。

 

 血筋? 知能? 家庭?

 

 

「……免疫?」

 

 

 これではないか、という気がした。

 ありすの声の中に何らかの催眠をもたらす要素があるとしたら、子供の頃からずっと一緒にいた僕と、姉妹のように仲がよかったくらげちゃんには、知らない間にありすボイスへの耐性が付いていたのではないだろうか。

 

 

「……ようやく見つけたぞ。催眠アプリ完成への糸口を……!」

 

 

 僕はその後、居ても立っても居られない気持ちを抑えながら時間が過ぎるのを待った。

 

 時計をじっと見つめながら夜8時になるのを待ったが、やはり催眠の効果は発動しない。それを確認して、僕はミスターMに連絡を取った。

 

 

「お願いがあるんです。そちらでこれまでに使った催眠アプリの素材、僕に譲っていただけませんか? お金はいくらでもお支払いします」

 

「……何か改良への糸口が見つかったのかな?」

 

「ええ、もしかしたらですけど」

 

 

 ミスターMはふむ、と何やら考えるような素振りを見せた。

 

 

「……いいだろう。どうせ効果がなかったハズレ素材だ。後でひとまとめにして送っておくよ」

 

「ありがとうございます!」

 

 

 ミスターMは謝礼を受け取らなかった。

 その代わりに、今度出版される自著を買って読んでほしいのだという。著者名は例によって頭に入らなかったが、タイトルは覚えたので絶対買うことを約束した。

 

 

 さあ、ここからが本番だ。

 

 僕はミスターMから受け取ったハズレ素材集を開く。

 必要なのは『14歳の女子中学生』の音声ファイルだ。

 

 100人の女の子が『おやすみなさい』と囁く音声ファイルを解析して、声紋を抽出する。さらにその声紋の中から音波の帯域をチェックして、同じ帯域を持つデータは除外する。

 これを繰り返して、ありすの音声ファイルにしか存在しない要素を割り出していくのだ。

 

 

 

※※※

 

 

 

 非常に根気のいる作業だったが、数日かけて遂行した。ありすの声を繰り返して聞くのは結構楽しく、さほど苦にはならなかった。

 

 

「あった……!」

 

 

 そして僕は、ありすの音声ファイルにだけ存在する音波を発見した。

 ハズレだった100人の女子中学生は、誰もこの音波を持たない。

 ありすの声帯だけが、この周波数の音波を発しているのだ。

 

 僕はこの音波を増幅して、これまで使っていた高周波の代わりに催眠アプリに組み込んだ。電子ドラッグなどはもう必要ないように思えたが、比較実験のために残しておく。

 

 催眠アプリ試作第3号『エンジェルウィスパー』の完成だ。

 

 

 時刻はもうすぐ夜8時になろうとしていた。

 

 これを今から僕に浴びせかけ、催眠にかかるかどうかを確かめる。

 ありすの声に抵抗力がある僕にはまるで効果がない可能性もあるが……。

 

 しかし僕は思い込みが強い。その自己暗示の強さたるや、意識して火事場モードに入れるほどだ。

 ありす音波で足りない分はそちらで補えばいいだろう。

 

 さあ……やるぞ。

 夜7時55分、僕は催眠アプリを自分に向けて発動した。

 

 

「催眠!」



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第36話「パーソナルトレーナーくらげちゃん」

「成功……した?」

 

 

 一瞬のめまいから立ち直った僕は、部屋の掛け時計を見た。

 時計の針はきっかり夜9時を指している。

 やった……! 時間が飛んでいる!

 

 喜びの声を上げようとした刹那、僕はその場に倒れ伏した。

 

 

「!?」

 

 

 コヒューコヒューと呼吸が乱れ、全身にまったく力が入らない。

 体中からだらだらと汗がとめどなく流れ出していた。

 催眠の副作用か……!?

 

 ……と思ったが、どうやら違う。これは体育の後に味わったことがある感覚だ。

 全身がとんでもなく疲労困憊(こんぱい)している。

 体が疲れ切ってまったく起き上がれない。

 ま、まさかこんなところで死んでしまうのか……?

 僕は一体記憶を失った1時間でどれだけ過酷な運動を……!?

 

 喉がめちゃめちゃに水分を要求していた。

 部屋はクーラーが効いていて心地いいが、このまま倒れていたら明日には脱水症状でミイラになって見つかるかもしれない。そんな末路はごめんだ。

 

 どうやっても立ち上がれそうになかったので、なんとか床を這って、息も絶え絶えに廊下へと向かう。台所に行って水を飲まなければ……。

 くそっ、ドアが閉まっている……! 催眠中の僕め、律儀なことを……!

 

 必死に膝立ちになり、ドアノブを回して押し開く。

 しかしそこで膝から力が抜け、ドサッと体を廊下に横たえた。

 あー……床が冷たくて気持ちいい……。

 

 

「今の音なに!? ……って、きゃあっ!?」

 

 

 隣の部屋のドアが開き、出てきたくらげちゃんが目を丸くした。

 

 

「ど、どうしたのお兄ちゃん!? 何があったの!?」

 

「み……水を……」

 

「水!? わ、わかった!」

 

 

 くらげちゃんは瀕死(ひんし)の僕の頼みを聞いて、急いで階下へと駆け下っていく。

 ありがたい、これでどうやら死なずに済みそうだ。

 持つべきものは頼れる妹だな。

 

 

 

※※※

 

 

 

「1時間休みなしで運動した!?」

 

「うん」

 

 

 くらげちゃんはコップといわず、ミネラルウォーターのペットボトルごと持ってきてくれた。2Lの水をごきゅごきゅとラッパ飲みした僕は、ようやく人心地つく。水をこんなにも美味しく感じたことはない。天上の甘露とはこのことだ。

 たらふく水を飲んで体が安心したのか、全身からこれまで以上にだらだらと汗が出てきた。フフ、我が体ながら現金なやつだ。

 

 そんな僕を見ながら、くらげちゃんは呆れかえったような表情を向けた。

 

 

「お兄ちゃん、それは無茶だよ」

 

「何が?」

 

「お兄ちゃんみたいなまったく運動してないモヤシが、いきなり1時間もフルで運動したらヘバるの当たり前じゃん」

 

「モヤシ……」

 

「モヤシもモヤシ、豆もやしだよ! 体ひょろ長くて肌真っ白だもん」

 

 

 そうか、僕は豆もやしだったのか……。

 

 

「でも体育の授業とか50分運動してるし」

 

「授業は全然フルで運動してないでしょ! めっちゃ手を抜いてだらだら走ってるじゃん! グラウンドで授業してるの、教室の窓から見てるんだよ! ……あ」

 

 

 くらげちゃんは慌てて手で自分の口を塞いだ。

 ……?

 

 くらげちゃんの仕草の意図はともかく、確かに言われてみれば体育の授業はいつも疲れないように手を抜いてたな。僕が運動音痴だと知れ渡っているようで、球技してもボールが全然回ってこないし。

 となれば、1時間フルで運動するのは僕にとって初めての経験だったわけか。

 

 催眠中の僕は決められたスケジュールを分刻みで守ったのだろう。9時ぴったりに目が覚めたことだし、杓子定規(しゃくしじょうぎ)な僕の性格上多分そうだ。

 スケジュールには休憩時間が設けられていなかったので、一工程終わったらすぐ次の運動に取り掛かったに違いない。

 ……つくづく運動中の記憶を消すようにしておいてよかった。めちゃめちゃ辛い記憶だ、絶対に思い出したくない。

 

 くらげちゃんは微妙に僕から視線を逸らしながら訊いてきた。

 

 

「でもどうしていきなり運動なんてやろうと思ったの? お兄ちゃん小さい頃から運動大嫌いだったよね」

 

「あー……うん。まあ、僕もちょっとは体を鍛えないとって思って」

 

「ふーん?」

 

 

 くらげちゃんは半目になって僕の顔をじっと見た。くそっ、信じてない顔だ。

 そして開けっ放しになった僕の部屋のドアを見ると、さっと中に入った。

 

 

「あっ! こら、入るな!」

 

 

 くそ、疲労しすぎて足が立たない……!

 くらげちゃんは机の上に置きっぱなしになっていた女性向け雑誌を手に取ると、ぱらぱらとめくって「へえー」とわざとらしい声を上げた。

 

 

「なるほどなー。『せっかくの夏休み、体を鍛えるなら今!』『亜里沙(ありさ)ちゃんにインタビュー!』かぁ」

 

「や、やめろぉ!」

 

「わぁ~! インタビューの中の『亜里沙ちゃんも細マッチョな男が好き』ってところなんかマーカーで囲ってあるじゃ~ん」

 

「くっ……こ、殺せっ!!」

 

 

 僕は辱めを受けた女騎士のような悲鳴を上げた。かような辱めを受けては生きてはおられんばい!

 

 

「そっかぁ。なるほどなるほど」

 

 

 くらげちゃんはんふーと笑いながら僕のところに戻ってくると、バンバンと背中を叩いた。やめろぉ、今体がガタガタなんだよぉ!

 

 

「えらいっ! 好きな子の好みに合わせようなんて気概がお兄ちゃんにもあったんだね!」

 

「う、うるさい! 僕は別にありすの好みに合わせるつもりなんてないぞ、ただ夏休み明けに驚かせたかっただけだっ! あとついでに運動不足も解消して……」

 

「ありすちゃんは夏休みしょっちゅううちに来てるんだから、驚かせるも何もバレちゃうと思うよ」

 

 

 はっ……! それもそうだ。

 夏休み中はくらげちゃんの家庭教師に来てるんだった。

 

 

「でもお兄ちゃんのそのやる気、私も応援するね!」

 

「応援って何する気だよ」

 

「私が無理のないトレーニングメニュー考えてあげるから!」

 

 

 僕はそれを聞いて、疑わし気な顔を向けた。

 

 

「くらげちゃんがトレーニングメニューを? お前素人だろ。そもそもくらげちゃんだって運動なんてしてるの?」

 

「してるに決まってるだろーーーーーッ!!!」

 

「ヒエッ」

 

 

 くらげちゃんはくわっと目を見開き、僕の肩をつかんだ。やだ、この子結構握力強い……!

 

 

「可愛い女の子ってのはみんな運動してるの! 運動とかダイエットとかしなくても勝手に理想体型になるなんて都合のいい話、あるわけないでしょ! 甘いものバクバク食べた後は絶対運動して絞ってるんだよ、当然でしょうがッ!! 可愛いは自分で作って維持するものなんだよッ!!」

 

「お、おう……」

 

「『私太らない体質だから~』なんて言いながら甘いもの食べてる女は嘘つきなんだよ! 絶対家帰って隠れて運動してるから! テストの前に全然勉強してないわ~なんて言って高得点取る奴といっしょ! 周囲を油断させてひとり勝ちを狙ってるの! 詐欺師だよ! スパイだよ! イスカリオテのユダだよッ! この世界に生きていちゃいけない存在なんだよ!!」

 

 

 そう叫びながら、くらげちゃんはがっくんがっくんと僕の肩を大きく揺さぶる。

 なんか女の子のすごく生々しい話を聞かされてしまった。

 

 

「でも僕たち、遺伝的に太りにくい体質じゃん……?」

 

「……確かにそうだけどもっ! その点はパパとママにすっごく感謝してるけどもっ!! でもそれとこれとは別なの! 可愛くなりたかったら努力しないといけないのっ!!」

 

 

 僕の肩を掴む手にぎゅーーっと力を込めながら、くらげちゃんは絞り出すように叫んだ。痛い痛い。

 

 

「だからお兄ちゃんが『覚醒(めざ)めて』くれたのは、私すっごくうれしいよっ! お兄ちゃんもいっぱい運動して健康な体になろう! 可愛いを作ろう!!」

 

「いや、可愛くはならなくていいんだけど……。細マッチョと対極の概念じゃん」

 

 

 弱弱しく呟くが、どうもくらげちゃんはハッスルして聞いてないようだ。

 元からおしゃれに興味があるくらげちゃんのことだし、多分何か変なスイッチを入れてしまった気がする。ギャルコーデは辞めたものの、今度は別の方向にかわいいおしゃれを追求しているようだし。

 

 

「というわけでお兄ちゃん、健康は食生活からだよ! 牛乳飲もう!」

 

 

 そう言って、くらげちゃんは自分の部屋からパック牛乳を持ち出してきた。

 自分の部屋にミニ冷蔵庫を置いているのだ。

 

 

「何故牛乳」

 

「運動した後に飲むと筋肉痛が薄れるんだよ! あとミルクプロテインで筋肉も付くし! おっぱいも大きくなっていいこと尽くめだよね」

 

 

 そう言ってくらげちゃんはニコニコと笑っている。

 なるほどなあ。最近とみに胸やお尻が育ってるのはそのせいか。

 でもいくらお兄ちゃんとはいえ、あまり目の前でおっぱいとか言うのはどうなんだ。恥じらいがない子に育ってしまってちょっぴり悲しい。

 

 僕はくらげちゃんに勧められるまま、ぐいっとコップに注がれた牛乳を飲みほした。

 ……おや? 妙にうまいぞ。

 

 

「おいしく感じるでしょ? 体が求めてる栄養素が入ってるってことだよ!」

 

「へえー、そういうものなのか……」

 

「あとはスポドリも飲もうね! 汗で電解質(でんかいしつ)が流れ出たから、塩分が必要だよ!」

 

 

 なるほど、くらげちゃんが少し運動に詳しいのは本当らしい。

 じゃあちょっと信じてみようかな。

 

 僕がそう言うと、くらげちゃんはえへんっと胸を反らした。

 

 

「当然だよ! 私を信じてついてきて、お兄ちゃん! きっとお兄ちゃんを世界一可愛くしてあげるからねっ!」

 

「だから可愛くならなくていいんだよっ!!」



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第37話「ハンプティダンプティ転がり落ちた」

本日ゲリラ2話投稿、1話目です。

途中でハカセがネットに疎い人にはよくわからんことを言いますが、
後書きに書いてある理解で十分です。


「そんなわけで自分にも催眠が効くことがわかりました」

 

「……普通自分を被検体に選ぶか……?」

 

「ワハハハ! マッドサイエンティスト感出てきたねえ」

 

 

 僕の報告を聞いたミスターMは呆れたように呟き、EGOさんは手を叩いて笑い転げていた。

 

 

「EGOくん、笑い事じゃないよ」

 

「いや、でもフィクションのマッドサイエンティストって大体自分も改造手術して、ヒーローに追い詰められたら変身して怪人になるじゃないですか?」

 

「自分の身を被検体にするなど科学者として意識が低いよ。そもそもロクに戦闘経験もない科学者が矢面に立たないといけない時点でもう負けてるだろう」

 

「まあロマンですよ、ロマン。実際そういう科学者枠って、変身怪人になってもあっさり負けますけどね」

 

 

 うーん、これは科学者として意識が低い行為だったのか。

 反省しなきゃなあ。科学者になったつもりはないけど、ミスターMの弟子として恥ずかしくない研究者でありたい。

 

 

「しかしひぷのん君、催眠状態で運動したということだが……体調に変化はないのかね?」

 

「ええ、最初は疲労と筋肉痛で死ぬかと思いましたが。次の日はベッドから動けなくなりましたからね……」

 

 

 運動直後の疲労もヤバかったが、筋肉痛はそれ以上にヤバかった。

 全身の関節がギシギシ鳴るわ、筋肉が真っ赤に腫れるわで、まさか運動した直後よりもしばらく経った後の方がキツイとは思わなかった。

 

 

「でも自分に筋肉痛の痛みを軽減する催眠をかけたので何とか耐えられました」

 

「かなり何でもアリになってきましたね……便利すぎる。私も欲しいなあそれ」

 

「あまり痛みを消すのはオススメできんけどなあ。痛みは今は体を動かすなという危険信号だからな、まったく感じなくなると逆に無茶をさせて壊してしまうよ」

 

「でも半日休んだら筋肉痛もなくなりましたよ」

 

 

 僕がそう言うと、ミスターMとEGOさんは「かぁーーー!」っと叫んだ。

 

 

「若いっ! 若いなあ! ホント高校生の体って疲れ知らずで羨ましいよ。私なんか1時間フルに運動なんてしたら、次の日は大丈夫でも2日後に絶対寝こむ」

 

「あー、おじさんになると時間差でくるって言いますもんね。私も最近は歳を感じますよ。嫁さんからお腹がだらしなくなったって叱られてますからね」

 

 

 えっ?

 

 

「EGOさんって結婚されてたんですか?」

 

「ああ、そうだよ? 3つ下でね。剣術をやってるからよく私も運動に付き合わされるんだが……さすがに社会人になるともうだめだね。プログラマーだの社長だの、ケツで椅子を磨く仕事に就くと運動量についてけない」

 

 

 ば……馬鹿な!?

 他人に堂々とクソアニメを勧めてくるような異常者がまっとうな結婚生活を営んでいたなんて!? 絶対この人生涯結婚できないと思ってたのに!

 

 

「み……ミスターMは!? ミスターMは結婚なさってるんですか!?」

 

「いや、私は独身だよ。多分生涯独り身じゃないかなあ。教授どもからは結婚しないなんて一人前とはいえないなんて言われてるけどね。ジジイは考え方が古いんだよ」

 

 

 僕はほっと胸をなでおろした。

 よかった、ミスターMは“こちら側”の人間だったんだ。

 

 

「そ、そうですよね! ミスターMが結婚できるわけありませんよね!」

 

「やめろ! 不意に鋭い刃で俺を傷付けるのはやめろ!!」

 

「ぶははははははははははははははは!!!」

 

「笑ってんじゃねえぶっ殺すぞEGOォ!!」

 

 

 あっ……何故かミスターMが傷付いている!

 同志として必死の声援を送らなくては!

 

 

「安心してくださいミスターM、僕たちは生涯結婚できない仲間ですよ!!」

 

「油断したところでさらに深い傷を重ねてくるのやめてくれないかなぁ!?」

 

「ぶはーーーーーはっははははははははははは!!! は、腹が……!!」

 

 

 

 ややあって。

 

 

 

「……とまあ、そんな馴れ初めでね。家内とは駆け落ち同然に結ばれたってわけさ」

 

「へえー……そういうことだったんですか」

 

 

 文章にすれば文庫本1冊ほどにもなるEGOさんの波乱万丈(はらんばんじょう)の恋愛体験を聞いた僕は、人には思わぬ歴史があるんだなあとしみじみ頷いた。

 

 

「だから私とEGOくんは同じ九州の大学卒なんだけど、EGOくんだけ東京に出てきたわけだね」

 

「まあ同じ大学ってだけで、6つくらい年が離れてますけどね。私が18で入ったサークルに、院生OBとして先輩がいたんですよ」

 

「薄々そんな気はしてたけど、やっぱりミスターMはアラフォーくらい、EGOさんはアラサーくらいなんですよね」

 

「まあ四捨五入すればね」

 

「はー、先輩と出会ったときは私もピチピチだったのに。時の流れを感じますね」

 

「いや、初対面のときこいつ絶対同い年だと思ったけどな。俺と完全に話が合うんだもん……」

 

 

 クソアニメの話でもしたのかな。

 

 しかしそうなると……。僕は気になっていたことを口にした。

 

 

「……ちなみになんですけど、奥さんってEGOさんがクソアニメ大好きなことどう思ってるんですか?」

 

「いや? 別にどうとも……並んで見てるよ。家内も大好きな任侠(にんきょう)モノ映画をしょっちゅう見てるし、私もそれに付き合ってるからお互い様かなぁ」

 

 

 そういうもんか。

 夫婦で趣味が合わなくても、それはそれで仲良くやっていけるもんなんだな。

 僕の両親はゲーム好きという点で合致しているので共通の趣味がないと夫婦になれないのかと思っていたが、どうやらそんなこともないようだ。

 

 

「ところで私の嫁の話はもういいだろ? 『ワンだふるわーるど』に翻訳対応言語を増やす件ってどうなったかな」

 

 

 EGOさんはそわそわと話を変えた。

 結構内部からせっつかれてるのかな。

 

 

「以前言ってた全言語に対応するなんて冗談はともかく、せめてドイツ語くらいは目途が付いてれば嬉しいんだが……」

 

「ああ、あれですか? 割と形になってきましたよ。来年の春にはビルを借りてサーバーを設置して、全言語のリアルタイム翻訳が可能になる見込みです」

 

「そりゃ素晴らしい! ……え、待って。サーバー? ビルを借りて? ……全言語のリアルタイム翻訳?」

 

 

 僕の返答にEGOさんも声を震わせるほど喜んでくれているようだ。

 うんうん、期待に応えて頑張った甲斐があったな。

 

 

「ええ。全世界からアクセスが集中するので、それに耐えられるように大型のサーバーを設置しようと思いまして」

 

「……待って。待て待て待て……一体どういう形で実現しようとしてるの? アプリの中に対応言語の翻訳データベースを追加で組み込むだけでいいよね?」

 

 

 何やら呼吸が苦しそうな感じで呟くEGOさんに、僕は笑って応えた。

 

 

「あはは、やだなあ。全言語のデータベースをアプリに収めたらすっごい容量食っちゃうじゃないですか。それに新語も続々出てきてるわけですし、頻繁にデータベースを更新しないといけないんだから、外部にサーバー建ててそこにアクセスさせた方が効率的ですよ。データベースを更新するたびに再ダウンロードしないといけないなんて、ユーザーも開発者もお互い面倒でしょう?」

 

「た、確かにそうだけど……」

 

「ですよね! なので『ワンだふるわーるど』はクライアントソフトとしての役割に徹させて、実際の翻訳作業はサーバー内に入れた全言語対応翻訳システム『バベルI世(ワン)』にやってもらいます!」

 

「……」

 

「……」

 

 

 クライアントソフトというのは、サーバーを利用するための窓口となるソフトウェアのことだ。

 アプリ単体で動かすには重い挙動も、処理をサーバーに任せればアプリ側の負荷は軽くなるし、アプリ自体のサイズも小さくて済むしで、とても効率的なのだ。

 

 

「スマホで撮影された動画から『ワンだふるわーるど』のAIが犬語を抽出して、サーバーに送信。それを『バベルI世』が翻訳して、『ワンだふるわーるど』に文章を送り返すんです。電波さえ届くなら、理論上は地球上のどこにいてもリアルタイムで翻訳できますよ」

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 ちなみに、『ワンだふるわーるど』側にも動画から犬語を抽出するAIが組み込まれる。こちらは動画内の音声や仕草、状況を読み取り、各要素を端的に『バベルI世』に送信する機能を持つ。さすがに動画そのものを逐一サーバーに送信なんてやってたら、4G回線じゃ通信負荷もタイムラグもでかすぎるからね。話は簡潔にまとめること、これに尽きる。

 

 

「今自宅に作ったラボで全世界の言語を学習させてるんですよ。いやあ、本当に時間がかかってしまって申し訳ないです。意外と地球に存在する言語の数って多かったんですね。でも待たせただけのクオリティには仕上がりますよ!」

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 師匠方は無言を貫いている。

 これはきっと僕と同じく、感動に打ち震えているんだな。

 ここに到達するまで苦労したもん。そりゃ学習自体はAIがやってくれたけど、学習システムを構築するのは僕がやったわけだし。

 

 僕がそんなことを考えていると、EGOさんが何やら声を震わせながら、まるで恐る恐るとでもいうような感じで訊いてきた。

 

 

「あのさ……もしかしてなんだけど……。元が犬語じゃなくてもいける、それ? たとえば日本語の話者をアプリで動画撮影したら、ジェスチャーや表情まで含めて意訳した英語になるとか」

 

「ああ、できますよ? 仕組みは同じですし。犬の音声や仕草を読み取る代わりに、人間の音声とジェスチャーと表情を読み取るAIを組み込むだけでOKです。同じ人間の言葉だし、犬語より翻訳の精度も高いと思いますよ。でもまあ犬語翻訳アプリですから搭載しませんけどねそんな機能……」

 

「う……うわあああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 

 ガラガラドッシャーーーーーン!! とマイクの向こうからすごい音が聞こえた。椅子が思いっきり倒れた音に似ている。

 

 

「EGOさん!? どうしたんですか! 何があったんです!?」

 

「ぜ、全言語リアルタイム完全翻訳システムだああああああーーーーーーーーーッ!?」

 

「……すごいことなのかね?」

 

 

 冷静に尋ねるミスターMに、EGOさんはすごい勢いで反応した。

 

 

「す、すごいのすごくないのって! めちゃめちゃにすごいことですよ! 人類史に残る快挙です!! 歴史の転換点ですよ!? これまでどれだけの時間と人員と研究費が費やされてきたと思ってるんですか!!」

 

「しかし今はリアルタイム翻訳機能とかネットにいくらでもあるじゃないか?」

 

「あれは文章や音声として入力しないといけないし、機械翻訳だから精度も全然でしょう! これは違いますよ、アプリで動画を撮影するだけで、音声に加えて仕草や表情といった()()()()()()()()()()翻訳できてしまえるんです! 音声だけだと翻訳できなかった細かいニュアンスも、完全に意図が伝わります! 手話だって誰もが理解できるようになります! 加えて不自然な訳はAIが判断して弾いてくれるから、精度もバッチリですよ!?」

 

「ほほー。海外旅行や講演で助かるな」

 

「それだけじゃないです、アプリで撮影するだけで書籍や書き文字から直接リアルタイムで翻訳することも可能になります! どんな言語の書籍でも日本語でそのまま読めてしまえるんですよ!」

 

「それは便利じゃないか、海外の文献を読むのが捗るぞ」

 

「便利……!? 何言ってるんですか、先輩! これは技術革命ですよ! 言語の壁が地球上から消滅しようとしているんです! 僕たちはその瞬間を目の当たりにしているんですよ!?」

 

「いや、正直どれだけすごいことなのかピンと来てなくてな……」

 

 

 へえー、そういう使い方もあるのか。面白いなあ。

 さすがEGOさんは僕の尊敬する師匠だ、着眼点が違う。

 

 あ、それならこういうのはどうかな。

 

 

「じゃあ将来VRチャットとかで、高速回線を通して直接海外の人と対面で会話する時代になったら便利ですね。人間の音声や仕草を高精度で判別するAIと翻訳AIを常時走らせれば、動画撮影なんてしなくてもジェスチャーを含めて齟齬(そご)なくリアルタイムで会話ができますよ。VR空間でなら全世界ボーダーレスになりますね!」

 

「……………………」

 

 

 ばたーーーーん!!! とマイクの向こうで何かが倒れる音がした。

 

 

「EGOさん!?」

 

「EGOくん!? しっかりしたまえ!!」

 

 

 ……とりあえず『バベルⅠ世』は犬語翻訳AIにだけ使うことになった。

 EGOさんいわく。

 

 

「これはいくらなんでも僕らの手に余る発明だ。ひとつの国家が独占していいレベルのものですらない。時期を見てオープンソースとして世界に公開しよう。そのとき世界は大きな転換期を迎えるはずだ。世界がひとつだった時代、すなわち神話の時代が再来するぞ……! ネットはすべての人間が国境を超えて共通の言葉で分かり合える場所になるんだ!」

 

 

 大げさだなあ。

 そもそもオープンソースといっても、僕以外が解析するのは結構手間なんじゃないかと思うんだけど。相当乱雑なコードにしちゃったし、AIも学習進んでるし、サーバーだって必要だし。

 まあ、僕みたいな一介の高校生が作れる程度のものなんだから、世の中いっぱいいる天才たちが何とかしてくれるか。

 

 ちなみに『バベルI世』のサーバーについては、EGOさんの会社の社員が管理を行ってくれることになった。これはとても助かる。

 そのためのマニュアルを作ってくれと言われたのは面倒だけど。

 誰が読んでもわかるマニュアルを作るなんて、僕にとってはAIを作るより大変だよ。

 

 

 さて、僕がマニュアル作りと運動でてんやわんやになっていた夏のある日。

 

 催眠ジョギングから戻った僕を見たくらげちゃんは、顔を真っ青にして叫んだ。

 

 

「お……お兄ちゃん!? その顔どうしたのっ!?」




<翻訳の仕組みがよくわからん人向けの解説> 


要するにアプリで犬を撮影したらサーバーに「この子なんて言ってるの?」って問い合わせて翻訳してくれます(完璧な理解度)




EGOさんがどうして倒れたのかわからん人向けの解説は外伝として同時投稿してますので、
そちらを読んでみてください。


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外伝「革新の序曲」

本日ゲリラ2話投稿、2話目です。
1話目の補足的な内容となります。


「それで、一体どういうことなんだ?」

 

 

 博士が退出した後のチャットルームで、ミスターMはEGOに尋ねた。

 

 

「? 何がです、先輩」

 

「とぼけるんじゃないよ。さっきの話、何がお前を卒倒させるほど驚かせたんだ? 私にもわかるように話してくれ」

 

「ああ、あれでわかりませんでした? 先輩も歳とって脳の回転悪くなったんじゃないです?」

 

 

 EGOがクスクスと性格の悪い笑みを声色に浮かべると、ミスターMはムスッとした口調になった。

 

 

「うるさいな、元々私は専門外のことは疎いんだよ。ほら、さっさと説明しろ」

 

「はいはい。それじゃカメラONにしてもらえますか。久々にライブチャットしましょう」

 

「カメラを? わかったよ」

 

 

 ややあって、ミスターMとEGOの顔が互いのモニターに映し出される。

 

 

「おやおや。こうして顔を見るのも久しぶりですが、先輩もすっかり老けましたね。すっかり厳めしい学者先生って感じになられて」

 

「そういうお前は大分稽古をサボったようだな。学生時代よりも随分たるんだぞ。嫁さんに鍛え直してもらった方がいいんじゃないか」

 

「ははは……何分不摂生な仕事でして。今から嫁の稽古に付き合ったら過労で死んでしまいますよ。これでも維持のために多少運動はしてるつもりなんですがね。まあ私ももうオッサンですし、学生時代のようにはいきませんよ」

 

 

 そんなことを言いながらもEGOは軽やかな笑顔を浮かべ、肩を竦めながら両手の手のひらを持ち上げてみせる。

 ミスターMはふむと顎をさすり、長い付き合いの友人の顔を眺めた。

 

 

「だが、そう言いながらも元気そうではあるようだ。何よりだな」

 

「……それですよ。それが非言語コミュニケーションです」

 

「うむ?」

 

 

 EGOはぽんぽんと自分の肩を軽く叩く。

 

 

「僕は今、口では『自分は運動不足のオッサンだ、もう老いた』と言いました。でも表情は笑っているし、肩を竦めるジェスチャーで冗談っぽくおどけていましたよね。だから先輩は『それは冗談で、本当は元気だ』と判断したわけです」

 

「ふむ。会話は言語だけでなされるものではない、ということだな?」

 

「そうです。人間の意思疎通というものは音声による言語(バーバル)コミュニケーションと、ジェスチャーや表情、声のトーンといった非言語(ノンバーバル)コミュニケーションの2つによってなされています」

 

 

 そう言いながら、EGOはぴんと人差し指を立てた。

 

 

「このうち非言語コミュニケーションというのは存外に大事なんですよ。一説によれば、人間は意思疎通のうち約93%を非言語コミュニケーションに依存していると言われています。表情、視線、仕草、声のトーン、そういったものから人間は言葉以外から多くの情報を得ているわけですね」

 

「そういうものか。だが93%は大げさな数字じゃないか?」

 

「そう感じるのは僕たちが日本語で会話しているからですよ。日本語というのは実は世界でも珍しい、ジェスチャーが極端に少ない言語ですから。外国人はもっと大げさな身振り手振りを交えて会話するものです」

 

「なるほど……そう言われれば私も外国人と話すときは大きなジェスチャーをするようにしているな」

 

「ええ。日本人は何を考えているのかわからないと外国人に言われやすいのは、そうしたジェスチャーでの意思疎通が少ないからというのもあるんでしょうね」

 

 

 EGOはそう言いながら腕を組み、首をぐるりと回す。歳の割にはまだがっしりとした肩の筋肉は、若い頃の鍛錬をうかがわせた。

 

 

「で、厄介なことにこのジェスチャーというのが曲者でして。言語が変わると、ジェスチャーの持つ意味も変わるんですよ。たとえば日本や英語圏だと首を縦に振るのは『肯定』ですが、アルバニアやブルガリアといった国々では『否定』を意味しています」

 

「そうなのか? それじゃ言葉だけ覚えても、翻訳が難しいな」

 

 

 あんまり英語圏やドイツ人以外とは話さないからなあ、とミスターMは頭の中で考える。

 

 

「ええ。だから人間の通訳者には、各言語の言葉の意味だけでなく、ジェスチャーの意味を熟知することが求められます。音声を翻訳するだけじゃなくて、相手のジェスチャーや表情から本当の意図を理解して、意訳することが大事なんですね」

 

 

 たとえば、とEGOは続ける。

 

 

「“Thank you.”という音声があったとして、それをこうして笑顔で頷きながら言えば『ありがとう』ですよね」

 

「うむ」

 

 

 実際に笑顔を浮かべながら頷くEGOを見て、ミスターMは頷く。

 

 

「ですが、これならどうです?」

 

 

 そう言いながらEGOはアホを見るような目で苦笑を浮かべ、首を横に振って“Thank you.”と呟いてみせる。

 

 

「うわっ、すっげー殴りてえ……! 完全に『有難迷惑』って顔じゃねーか」

 

「そうです。同じ音声であっても、仕草次第で全然意味が変わってしまうんですよ」

 

 

 そう言いながら、EGOは肩を竦める。

 

 

「これがあるから、音声だけのリアルタイム翻訳っていうのはまだまだ発展途上なんです。それ以外にも人間の音声をちゃんと認識できなかったり、機械翻訳だから意味の通じないとんちんかんな翻訳になったり。まだまだ問題は山積みですよ。まあ現行のリアルタイム翻訳に組み込まれているAIは、まだどんな意訳をすれば自然なのかケースバイケースで判断できないし、仕草や表情、声のトーンも認識できないからしょうがないですね」

 

「なるほど、わかってきた。そしてそんな問題を一足飛びに解決してしまったのが……」

 

「そうです。ひぷのん君の『バベルI世(ワン)』です」

 

 

 EGOは真顔になって頷いた。

 

 

「さっき僕は『全言語リアルタイム完全翻訳システム』と言いましたよね。完全翻訳というのは、言語と非言語を含めて完全に意思疎通させるという意味合いです。それを全言語でできてしまう……これは革命的な発明ですよ」

 

「犬の仕草を読み取るAIを応用して、各言語の話者のジェスチャーを読み取らせれば非言語コミュニケーションですら翻訳できてしまうわけか」

 

「ええ……。まさかそんなアプローチで非言語コミュニケーションを翻訳できるとは思いませんでした」

 

 

 そしてぶるっと身震いする。

 

 

「さらにひぷのん君が言った、VR空間での会話なら全世界ボーダーレスになる、という発想はすさまじいです。表情や仕草を忠実にアバターに再現させれば、確かに実際にそこにいるのと変わらないわけだから、言語を越えた完全な意思疎通が可能になる。リアルタイムでジェスチャーを含めた翻訳文を表示できるし、なんなら機械音声で再生してもいいわけですからね。そこはまさに『全人類が共通の言語を話す世界』と呼べるでしょう」

 

「ふうむ? よくわからんが、わざわざVR空間でアバターを使わなくたって、普通にリアルの顔を撮影してやればいいんじゃないのかね? 今こうやってるようにライブチャットでも何も変わらんだろう」

 

 

 ミスターMが小首を傾げながら言うと、EGOは確かにそうですがと頷いた。

 

 

「もちろんライブチャットでも同じことができます。しかしVR空間ならではの利点として、互いのパーソナルスペースを表現できること。そしてVR空間が会議用のスペースとしてとても優れているという点がありますね」

 

「うむ? VR空間を会議に使う……?」

 

「ええ。ライブチャットだと多人数が参加した場合、ひとりひとりの画面がとても小さくなってしまうでしょう? だから多人数で会議するには実は向いてない。誰がどんな顔をしているのか読み取れなくなってしまうわけです」

 

「ああ、確かに。オンライン講義というのを試したことがあるが、個々の学生がどんな顔をしているのかわからんかったな」

 

「ですがVR空間なら各自の顔がリアルと同じようにわかる。しかも任意の人の顔だけ大きく表示することだって可能です。会話しながらいろんなオブジェクトを表示させることもできるわけで、会議にはとても便利なんですよ。今はカメラで読み取った仕草や表情をアバターに反映することでVRチャットをしていますが、もしも将来フルダイブ型VR機なんてものができたらより有用になるでしょうね。そのためにフルダイブ型VR機を開発する機運が高まることも十分考えられます」

 

 

 EGOの言葉に、ミスターMがポンと手を叩いた。

 

 

「それは確かに便利だ。そしてそこではすべての言語がそれぞれの自国語に翻訳されるわけだから、言語の壁を超えて世界中の人間がつながれるというわけだな」

 

「そうです。そうなったら最早学生が外国語をわざわざ学ぶ必要もなくなるでしょう。書き文字だって簡単に翻訳できてしまえるわけですからね。ビジネスや学術の話題は、リアルよりもむしろVR空間でやったほうが効率的だという風潮が当たり前の時代が来るかもしれません」

 

「それは面白い。学術論争を言語を超えて草の根レベルからできるというわけだ。いや、国際共同研究だって今よりもっと捗るぞ……!」

 

「ええ。僕が言いたかったのはそういうことです。言語がひとつに統一され、世界が統合される日が見えてきました」

 

 

 そう言ってから、EGOはおもむろに頭を掻きむしった。

 

 

「……どう考えてもこんなの僕たちが抱えるには重すぎる発明だろ!? なんてものを生み出してくれたんだ、加減しろよぉぉぉ!!」

 

「う、うむ……。説明されてようやくどれほど途方もないことなのかわかった。それで、お前これをどうするつもりなんだ?」

 

「どうするもこうするも……先に言った通りです、オープンソースとして世界中に公表します。僕たちが抱えるには重すぎるでしょう」

 

「なるほど。で、それはオープンソースにして理解できるものなのか? あの子の作るものはどれもこれもブラックボックスになってると言っていたようだが。そもそもお前、『ワンだふるわーるど』を自分で解析できてるんだろうな?」

 

 

 ミスターMの指摘に、EGOの顔が強張る。

 やがてついっと視線を逸らし、もごもごと口の中で呟いた。

 

 

「……解析できてたらひぷのん君に対応言語増やすように頼むまでもなく、自分でやってますよ」

 

「だろうと思った」

 

 

 ミスターMのため息に、EGOが食って掛かる。

 

 

「じゃあどうすればいいんですか! 僕は嫌ですよ、こんなの抱えるの!」

 

「手に負えないなら見なかったことにして封印すればいいだろ」

 

「こんな世紀の大発明を活用もせずに封印!? 人類の損失ですよ!?」

 

「一瞬で矛盾するなあ、お前」

 

「くっ……誰かがこれを私利私欲を交えず公正に世界のために運用してくれれば、これほど世のためになる発明はないというのに……!! 僕以外の誰かが!!」

 

 

 EGOはそう叫びながら、ぐっと拳を握りしめた。

 そんな後輩を見て、ミスターMは嘆息する。

 

 

「国際機関に託しても無理だろうなあ。政治の道具として便利すぎる。お前の国にはこれを使わせないと言うだけで、政治交渉の材料にできるレベルだぞ」

 

「はぁ……嫌ですねえ。どうしてこんな便利なものをみんなで分かち合えないんでしょうか」

 

「人間だからとしか言いようがないな。いっそ神様が管理してくれればいいものを。まあ人間には過ぎたる力だからこそ、神話では破壊されたのかもしれんがな」

 

 

 そう呟いてから、ミスターMは厳めしい外見に似合わない、へらっとした笑顔を浮かべた。

 

 

「まあお前がなんとかしてやるんだな」

 

「何故僕が……!?」

 

「だってお前がAIの作り方を教えたから、あの子はこんなもん作っちまったんだろう?」

 

「…………」

 

「いくらあの子でも、知らないものは作りようがないからな。お前がバイトと称してAIの作り方を仕込んだんだろ?」

 

 

 ミスターMの言葉に、EGOは沈黙を破って叫び声をあげた。

 

 

「だって! 水を吸うスポンジみたいにするする覚えていくし、仕事任せたらすっごく便利なんですよ!? あっという間にうちのチーフエンジニアよりも上の腕前になっちゃったし! そりゃ教えるでしょいろいろと!」

 

「それで手に負えなくなったわけだ」

 

「そうは言うけど、催眠アプリの研究させてるよりほかのことやらせた方が安全だと思うでしょうが!? そもそも先輩が催眠術なんて教えるから!」

 

「はー!? お前が調子に乗って仕込みすぎるからだろ!」

 

「じゃあいいですよ! なんとかして責任取りますよ! その代わりひぷのん君は僕の会社にもらいますからね!」

 

「ざっけんな、お前の身から出た錆をなんとかするのは当然だろ! お前のような奴にひぷのん君は任せられん、俺の研究室に引き取る!」

 

「はあー!? 危険人物に危険人物を預けられるわけがねえでしょうが!」

 

「誰が危険だコラァ!! 人のこと言えるのかお前!!」

 

「うるせーエセ催眠術師!!」

 

 

 2人はぎゃいぎゃいと醜い言い争いを繰り広げ始める。

 そこにはそれぞれの業界で期待の俊英と将来を嘱望される、国立大の准教授と凄腕のエンジニアの姿はなかった。互いの責任をなすりつけ合いながら、お気に入りのおもちゃを奪い合う図体のでっかい子供がいるばかりだった。

 こういうときいつも止めてくれる博士もいないので、ケンカはヒートアップを重ねていく。

 

 

 

 やがて体力の限界まで叫び合った2人は、ぜいぜいと肩で息をしながら自然と落着した。

 こんな言い争いをするのは学生時代からのことなので、別に今に始まった話でもない。互いに言いたいことを言い合えば、勝手に落ち着くのだ。

 

 

「……今はまだ『バベルI世』も完成してすらいないし、全世界翻訳サーバーとして使うにも、各言語の仕草をAIに学ばせないといかん。逆に言えばそのAIを作らない限りは、誰にも悪用もされない。いったん様子見ということでいいな」

 

「まあ、そうですね。今すぐどうこうという話でもありません。おいおい考えるとしましょう……」

 

 

 言い争いながらも脳の片隅で冷静な思考を巡らせていた2人は、そんな感じで問題を棚上げした。

 まあ明日の自分がうまいこと考えてくれるさ!

 

 

「しかしEGO君、なんかやたらリアルタイム翻訳システムに詳しかったな。私は正直門外漢だし、最初は何がすごいのかまったくピンと来てなかったぞ」

 

「ああ、だからずっと黙ってたんですね……」

 

「うむ。だがお前だって門外漢だろう? よくひぷのん君の話がわかったな」

 

 

 ふと思い出したように口にしたミスターMの疑問に、EGOは頷く。

 

 

「ああ、どうってことない話ですよ。今、同業他社がリアルタイム翻訳システムの開発競争でしのぎを削ってましてね。多額のカネと人手を突っ込んでるんですよ。その開発競争にウチも参入するかどうかで、数年前に社内で喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を繰り広げてまして。ちょうどひぷのん君と出会った頃かな」

 

「……ふむ?」

 

「結局開発競争には加わらない決断をしたんですが、他社からいろいろと手伝いのオファーがありましてね。自分でやるのは手間だったので、ひぷのん君を育てるために仕事を丸投げしたりもしたんですが……」

 

「…………」

 

「いやあ、まさかこうなるとは! あのとき開発競争に参画してなくて本当によかったですねえ。あはははは!」

 

 

 ケラケラと笑うEGOに、ミスターMは今日最後となる渾身のツッコミを入れた。

 

 

「やっぱお前が責任取るべき話だったんじゃねーかよッ!!」




ラブコメなのにおっさんしか出てねえ……!


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第38話「夏の朝のお散歩」

「痛っっっ……!?」

 

 

 催眠から()めた僕は、ズキリと顔面に走った痛みにうめき声を上げた。

 

 

 こうして催眠運動をするようになってから2週間ほど経った日のことだ。

 

 当初は催眠から醒めるたびに呼吸困難になるほど苦しんでいた僕だが、1週間も経つ頃には肩で息をしながら目覚める程度になっていた。もう床に寝そべって動けなくなるほどの疲労は感じない。

 2週目に入る頃には腕や太ももも少しずつ肉がついて太くなってきた実感があった。我が肉体ながら現金なものだ。

 

 そんなある日、僕が催眠から目覚めると顔に凄まじい痛みが走った。ジンジンと後を引く痛みがある。

 スマホのカメラで自分を映してみると、右頬に大きな青あざができていた。

 

 

「一体何があった……?」

 

 

 他に異常はないかと体を見てみると、手脚にはいくつも擦り傷がある。まるでアスファルトの上を転げ回ったかのようだ。

 

 顔に何か固いボールでも当たって、衝撃で吹き飛ばされたとかだろうか?

 しかし8月とはいえもう真っ暗だ。こんな夜中にキャッチボールや野球をする奴もいないだろう。

 となると……車に轢かれてふっとばされた? ……いや、それはないな。そんなことになったら頬に痣どころじゃすまないだろう。

 

 痛みをこらえてズボンのポケットから財布を引っ張り出してみたが、お金は減っていない。となると不良に絡まれて殴られたということもなさそうだ。

 

 自分に催眠をかけて何があったか調べてみようか……と思ってスマホを手に取る。いや、だけど待てよ。

 記憶を取り戻したところで何かメリットってあるのか?

 

 ヒーヒーいいながら運動した辛い経験を思い出すうえに、この怪我をした原因まで追体験するわけだろ?

 それって痛いだけだよな。別に原因を思い出したところでこの怪我が癒えるわけでもないんだ。思い出すだけ損なのでは?

 

 どうせ催眠中はぼーっとしてるんだろうし、転んだりでもしたんだろう。

 よし。明日様子を見て、また怪我してないなら気にしないことにしよう。

 ついでに催眠を重ねがけして、明日からはもっと注意しながら運動するように自分に命令しておけばいい。

 

 

 しかし顔がじんじんと痛いな……。

 僕は別に怪我をして痛くないわけではないのだ。

 とりあえず氷でもあてて冷やそうかと思って自室を出たところで、くらげちゃんと出くわした。

 

 

「お……お兄ちゃん!? その顔どうしたのっ!?」

 

「転んだ」

 

 

 僕が吐いたとっさの嘘に、くらげちゃんは目を剥いた。

 

 

「転んだ!? お兄ちゃん意外と抜けてるのに、夜中にジョギングなんかするからだよっ! 日中にやらないから!」

 

「だって日中クソ暑いじゃん……」

 

「いいからちょっと動かないで! 今手当てしてあげるから!」

 

 

 そう言うとくらげちゃんは1階から氷のうと救急箱を持ってきた。

 心配そうに僕の顔をぺたぺた触っているが、痛いので勘弁してほしい。

 

 

「あー、これひどいなあ。すごい腫れちゃってる。まったく、しっかりしてよね! 顔は命だよっ!」

 

「言うほど命でもないと思うよ。脳にダメージがなくてよかった」

 

「命だよ! それにお兄ちゃんの脳は元からおかしいでしょ!」

 

 

 まあ自分でもおかしいとは思うが、そこまではっきり断言しなくても。

 

 

「これ内出血してるよきっと。なんか固いものがぶつからないとこうはならないと思うけど……こけたときにブロックにでもぶつかったの? というか、これ本当に転んだ傷なんだよね?」

 

「そうだよ。ほら、腕や足にも擦り傷できてるし」

 

「あー! 他にも怪我してたの!? もー! しっかりしないから! もー!」

 

 

 くらげちゃんはもーもーと牛みたいに連呼しながら、消毒液を塗って絆創膏(ばんそうこう)を貼ってくれた。

 なんだかんだ優しい妹で、兄として鼻が高い。この子をお嫁さんに迎える男は幸せ者だろうなと思う。

 

 

「はい、これで応急処置終わり! ……だけど、その顔の青痣は明日病院に行ってみてもらった方がいいと思うよ」

 

「んー、別にいいんじゃない? 内出血ならほっときゃ治るよきっと」

 

「ダメ! 顔に傷が残ったらどうするの! そんなことじゃ世界一可愛くなれないよ!!」

 

「僕は可愛くなくていいのに、何故こだわるんだ……」

 

 

 相変わらず顔はじんじんと痛みがひかないが、氷のうを当てれば少しはマシになった。

 しかし怪我したときってむしろ熱いのは治癒しようとしているからで、冷やすのは逆効果と聞いたことがあるような気がするが、実際どうなんだろう?

 まあいいか。くらげちゃんがやってくれたことなんだし、厚意を受け取ろう。

 

 

「とりあえず汗とで体がドロドロだし、シャワー浴びてくる」

 

 

 そう言って風呂場に向かおうとしたら、くらげちゃんががしっと引き留めてきた。

 

 

「待って! ひとりで入れるの? 怪我してるんだよ!」

 

「いや、全然楽勝で……」

 

「私が背中流してあげよっか?」

 

「ぶふっ!?」

 

 

 僕は思わず噴き出した。

 くらげちゃんがまたしても異様なことを言いだした……!

 

 

「いらないいらない!」

 

「遠慮しなくていいよっ! 絆創膏を水に濡らさないようにしなきゃだし。私がタオルで全身拭いてあげるね!」

 

「そんなことしなくていいから! 本当にやめろ!!」

 

 

 妹に全身を拭かれるとか、想像しただけでインモラルさに震えが走る。

 赤ちゃんに戻ってしまうかのような恐怖感と、本来世話すべき妹に逆に介護されることへの謎の抵抗感があった。

 

 必死に抵抗すると、くらげちゃんは渋々と引き下がってくれた。

 

 

「本当に大丈夫? 何かあったら言ってね? すぐ行くから!」

 

「いや大丈夫だから。何の心配もいらないから……!」

 

 

 危ないところだった。

 距離感が近いにもほどがある。どう考えても催眠の副作用だと思われるが、僕がかけた暗示は一体くらげちゃんの中でどのような変化を遂げてしまったのか。

 催眠をかければ話してくれそうだが、それを確かめるのもなんか怖い気がして僕はスルーを決め込むことにしたのだった。

 

 

 

※※※

 

 

 

「本当に一人で大丈夫? 保険証ちゃんと持ってる? ついていこうか?」

 

「大丈夫だよ、顔が痛いだけなんだから」

 

 

 次の日の朝、一晩経っても腫れが引かなかったので病院に行くことにした。

 僕自身はほっときゃ治るだろという認識だったのだが、くらげちゃんが病院に行け行け、もし行かないなら救急車を呼んで強引に連れてくと主張するので一人で行くことにしたのだ。

 

 仲直りしたのはいいが、なんか最近くらげちゃんの方がお姉ちゃんのように振る舞うようになってきた気がする。それもとびっきり過保護な姉だ。

 

 面倒だなあと思いながら玄関のドアを開け、かかりつけの病院に向かう。子供の頃にしょっちゅう親に連れられて通っていたので、道は覚えている。

 まあ朝の散歩ってことでのんびり行くか……と思いながら少し歩きだしたところで、僕は足を止めた。

 

 ありすがブロック塀にもたれかかって、じっと佇んでいる。

 

 

「あれ? ありすじゃないか、早いな」

 

「……おはよ」

 

 

 夏らしい白いワンピースがよく似合っている。

 しかし夏休みの朝からありすに会えるなんて、これは運がいいぞ。怪我した不幸も、ありすに会えたことで帳消しの気分だ。

 

 

「ありすも朝の散歩? ヤッキー連れてたりしないよな?」

 

「うん、お留守番してる」

 

 

 天敵を警戒してきょろきょろと周囲を見渡す僕だが、ありすが首を横に振ったのでほっと一安心だ。

 よしよし、あのうるさい犬がいないならなおさらラッキーだな。

 

 そう思ってると、ありすは背伸びして僕の両頬に手を添えてきた。

 じっと覗きこむようにして顔を見られている。

 

 

「ひどい怪我してる。可哀想……」

 

 

 じわっとありすの瞳が潤んだ。えっ、なにこれは……。

 

 

「あいたっ、ちょっと……!」

 

「あっ、ごめんね……」

 

 

 僕が痛そうなフリをすると、ありすは謝りながら後ろに下がった。

 

 痛かったのは確かだが、本当はずっと顔を見られていると変な気分になりそうだったからだ。くそっ、顔がなんか熱い。青あざを作っているのに、他の部分が真っ赤になってるんじゃないだろうな。

 

 

「病院行くの?」

 

「うん。くらげちゃんが行けってうるさくて。こんなの大した怪我じゃないのにな」

 

「じゃあついてく」

 

 

 ありすは僕の顔の怪我をじーっと見ながら、そんな主張をした。

 

 

「ん? いいの? あまり楽しいことはないぞ、ただ病院に行くだけだから」

 

「いいの! 嫌って言ってもついてくから!」

 

 

 どういう風の吹き回しなんだ。

 くらげちゃんといいありすといい、僕を病院に連れていくのが彼女らの中で今アツい一大ムーブメントなのか?

 

 まあいいか。ありすと朝の街を散歩するなんて、やったことなかったからな。

 たまにはこういう散歩も悪くない。

 

 

「さ、行くわよ」

 

 

 そう言って、ありすは僕の手を握って歩き出した。

 おいおい子供じゃないぞ……と口にしかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。

 先行するありすの手を握り返し、歩調を合わせてゆっくりと歩き始める。

 

 ありすの手の体温が高いなと感じた。

 朝とはいえ、もう蝉が鳴き始めている。少し前まで冷房が効くところにいた体温じゃないな。早朝からずっと散歩をしていたのだろうか。

 運動が好きって言ってたし、ウォーキングでもしてるのかな。さすが健康志向だ。

 

 道端にふと目をやると、一軒の家の玄関口に朝顔が花を咲かせていた。

 

 

「……なんだか懐かしいな。小学校の頃は、こうやってありすに手を引かれてこの道を通ったよな」

 

「そうね。アンタいつも帰ってこないし、登校するときも道端の花に気を取られてずっとしゃがみこんだりしてて。登下校はずっと一緒だったわね」

 

 

 ありすは僕の方を振り向いて、かすかに微笑む。

 そういえば朝迎えにくるありすは、いつもあのブロック塀にもたれかかって僕が来るのを待っていたんだっけ。

 お互いの家がご近所とはいえ、いつも面倒をかけてたなと思う。

 

 

「また朝顔に見とれて病院に行けなくなったりしないでよね」

 

「さすがにもう大事なことの順序はわかってるよ」

 

 

 幼稚園の頃はひたすら花を眺めて生きていた気がする。

 小学生になって、ありすが手を引いてくれるようになり、子供は学校に行かなきゃいけないということを知った。

 

 それから中学生になり、高校生になり。

 にゃる君やささささんと出会って、他に手を引いてくれる人ができた。

 花以外にも世界には綺麗なものがあることを理解した。

 

 そうして僕の中身と外側が移り変わっても、ありすはいつも一緒にいてくれる。

 小学生のときも、中学生のときも、今だって、ありすはずっと僕の手を引いてくれている。

 

 

「ありす」

 

「何?」

 

 

 僕が立ち止まると、ありすも合わせてぴたりと立ち止まった。

 もうすっかり慣れた呼吸。

 

 

「いつもありがとな」

 

 

 するとありすはクスリと生意気な笑顔を浮かべた。

 

 

「今頃私のありがたさに気付いたの? 言うのが遅いわよ」

 

 

 ありがたさなんてずっと知ってる。口に出すのが恥ずかしいだけだ。

 でも今日のありすはなんだかいつもと様子が違ったから、なんとなく言ってみたくなった。それだけだ。

 

 

「……でも」

 

 

 ありすの手の温度が、じんわりと上がった気がした。

 ミンミンと大きくなる蝉の合唱に紛れるように、聞き逃しそうなほど小さな呟き声。

 

 

「私だって、いつも守ってくれてありがとうって思ってるんだからね」



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第39話「夏祭りWデート」

「どう、この浴衣?」

 

 

 ありすは浴衣の袖をちょんとつまんでその場でくるりと回ってみせた。

 

 今日はありす、にゃる君、ささささんと一緒に夏祭りに行く約束をしている。

 ささささんと連れ立って待ち合わせ場所にやってきたありすは、2人で浴衣姿を披露してきたのである。

 

 薄紅色に朝顔の模様があしらわれた浴衣にピンクの帯をあしらい、まとめた赤毛の髪に白い髪留めを添えていた。

 いつもよりありすの清楚感が引き立っていて、思わず見とれてしまう。

 

 

「ほら、感想を求められてっぞ? 早く言ってあげろよ」

 

 

 にゃる君がにやにやしながら、(ひじ)で僕の脇腹を軽く突っついてくる。

 くっ……。素直にすごく可愛いというのはなんだか悔しい……。

 

 

「……うん、悪くないんじゃない? 髪の色と髪留めのコントラストがいいと思うよ、うん」

 

 

 僕はちょっと視線を逸らして、そんな強がりとも負け惜しみともつかない謎のコメントを口にした。

 にゃる君とささささんが、はぁーとため息を吐く。

 

 

「もうちょっと素直になれよなー、めっちゃめちゃ似合ってるだろ」

 

「そーだよ、ハカセくんに見てほしくて、ありすちゃん頑張って選んだんだよー?」

 

「そ、そんなことないけどっ!?」

 

 

 ささささんに背後から撃たれて、ありすがあわわっと慌てる。はあ、可愛い。

 それにしても……。

 

 僕は改めて、まじまじとありすの浴衣姿を眺める。

 

 

「写真撮っていい?」

 

「い、いいけどっ」

 

 

 パシャっとこの夏で一番可愛いありすをスマホで撮影して、コレクションフォルダに入れた。

 ……そういえば、中1のときはありすが浴衣姿の写真を送って来たんだったな。あのときはありすは取り巻きたちと夏祭りに行って、僕はリアルのありすの浴衣姿は見られなかったんだ。

 

 あれから3年の月日が流れた。

 今日、僕はありすと一緒に夏祭りに来て、生の浴衣姿を見ている。

 

 

「くっ……!」

 

 

 僕は思わず目頭を押さえた。

 

 

「ど、どうしたのハカセくん?」

 

「ハカセ……お前、泣いてるのか……?」

 

「いや、いいんだ。気にしないでくれ。とりあえず2人にはありがとう。本当にありがとう……」

 

「お、おう」

 

 

 つい感極まって、涙腺が緩んでしまった。

 にゃる君とささささんが一緒に夏祭りに行こうと企画を立ててくれなかったら、今年も僕はありすの生の浴衣姿を見られなかったかもしれない。2人には本当に感謝しかない。

 

 

「というか! 一方的に私を撮ってないで、私にもアンタの浴衣を撮らせなさいよね!」

 

 

 ありすは何やらうずうずしたように僕にスマホを向けていた。

 折角だからみんなで浴衣を着ようということで、僕もにゃる君と一緒に浴衣を新調したのだ。

 しかしありすとささささんが浴衣なのは華があるからいいとして、男の浴衣姿なんか撮って何が嬉しいのだろうか。

 

 

「え、まあ別にいいけど……?」

 

 

 僕がそう言うが早いか、ありすとささささんは猛烈なスピードでパシャパシャとシャッターを切り始めた。

 

 

「はぁー、身長高い男の人が浴衣着るとホント絵になるよねぇ~♪」

 

「そう! そうなのよ! ハカセって細いから立ち姿がいい感じになるのよね~。あっ、こら! 猫背にならない! 凛とした感じで立ちなさい!」

 

「今度はちょっと着崩した感じのもほしいなー! ねえねえ、懐に腕入れてみてくれてもいい?」

 

「うーん、これもいい! でもやっぱりハカセはきっちりした感じが似合うわね。今度は襟元締めて! 帯に手をかけて、ちょっと斜め上方向を遠い目で見つめる感じにしてみて! あーいい! これ好き♥!!」

 

 

 女子2人がキャイキャイと盛り上がりながら、しきりにポーズの指定をしてくる。僕は言われたとおりのポーズを取りながら、謎の写真撮影に目を回していた。

 なんだこの状況……。

 

 僕が写真を撮られていると、横からにゃる君が入ってきて、袖をまくりながらフンッとマッスルポーズをとった。

 

 

「おーい、ハカセだけじゃなくてここにもいい浴衣の被写体がいますよ? 見て見てこの上腕二頭筋! セクシーだろぉ?」

 

 

 にゃる君は今日もいい筋肉をしているなあ。

 夏合宿で鍛え抜かれたという体はまさに絶好調。大胆に広げた胸元から覗く、逞しい胸板は頼もしさを絵に描いたようだ。

 運動は大嫌いな僕だが、男としてはやっぱり少し憧れを抱いてしまうな。

 

 ささささんはそんなにゃる君にちらりと視線を向けると、ヘッと鼻で笑った。

 

 

「はぁー? 暑苦しくてキモいんですけど。がっつり割れた胸板とか見苦しいからあんまり見せつけないでよね。胸元閉めろ胸元!」

 

「ああン!? この肉体美がわからねえのかおめぇはよぉ!!」

 

「全然わかりませーん。ねえ、ありすちゃん?」

 

 

 ささささんに振られたありすに、にゃる君がすがるような視線を向ける。

 ありすはあはは……と控えめに笑い、小声で呟いた。

 

 

「ごめんね、筋肉つきすぎてる人ってちょっと怖いかも……」

 

「ぐああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 

 ショックを受けたにゃる君は、膝から崩れ落ちてしまった。可哀想に……。

 僕はしょんぼりするその背中をぽんぽんと叩いて慰めた。

 

 

「にゃる君、僕はカッコいいと思うよ。元気を出して」

 

「ううっ、ハカセぇ! 俺をわかってくれるのはお前だけだぁ!!」

 

 

 そう言いながら立ち上がったにゃる君は、ヨヨヨと僕と抱擁を交わした。

 にゃる君とこういう茶番をするようになって、もう随分になるなあ。

 

 そんな感慨にふけっていると、にゃる君がふと僕から体を離した。眉毛を上げて、不思議そうにぽんぽんと僕の胸板や肩、腰を叩いている。

 

 

「……ハカセ、お前ちょっと体格よくなったか? 筋肉付いてるよな」

 

「あ、うん。最近筋トレ始めたから」

 

「だよな! うん、がっしりしてるわ。夏休み前とは全然違う」

 

 

 さすが柔道部というべきか。にゃる君には簡単にトレーニングを見抜かれてしまった。

 うーん、本当は夏休み明けにたくましくなったところを見せてありすを驚かせるつもりだったのになあ。ここでネタバレされてしまうとは……。

 ささささんはへえーと目を丸くしている。

 

 

「そうなんだ、意外! ハカセくんは運動大嫌いだと思ってたけど。でも確かになぁー。うん、お腹もシュッとしてるし、姿勢もよくなったよね! 浴衣の立ち姿がサマになってるのってそれでかー、なるほどなー!」

 

 

 ありすは……? ちらっと眼を向けると、何やらニコニコと微笑んでいる。

 あれ、おかしいな。事前に僕が鍛えてるの知ってた?

 勉強会でうちにはよく来るけど、運動を始めたと言ったことはないはず……。

 

 

「うん、いいな! 俺はすごくいいことだと思うぜ! 運動の習慣はつけとくべきだ。……で、沙希ぃ! ハカセが体鍛えたのは褒めるくせに、何で俺の筋肉は褒めねえんだお前!」

 

「加減しろバカ! 女の子はモリモリのマッチョよりもスリムで程よく筋肉がついてる方が好きなの!」

 

「それはお前個人の感想だろうが!?」

 

「はぁー!? キミにボク以外の女からの感想とか必要あるわけ!? ……あ」

 

 

 ささささんは何やら手で口元を隠し、そっぽを向いた。

 

 ???

 なんかにゃる君は居心地悪そうに、視線を外している。なんだろう。妙に顔が赤い気もする。

 ありすはなんかニヤニヤしているし、何が起こったんだろうか。

 

 

「新谷君、そういえば沙希の浴衣の感想をまだ言ってなかったよね?」

 

「ぐっ……」

 

 

 ささささんの浴衣は、ブルーの地に白いネズミがあしらわれた意匠だ。浴衣の色に合わせた巾着袋をちょこんと提げていて、小柄な体格と合わせるとまだ中学生のようにも思える。これはこれで、ありすとは別ベクトルで可愛らしいな。

 

 

「ああ……まあ、いいんじゃないか。小さくてよく似合ってる」

 

「あー? 小さいってなんだよデカブツ筋肉! 可愛いって言え!!」

 

「いてっ! てめえ、すねを蹴るんじゃねえ!」

 

 

 足にキックするささささんの頭を押さえて引き離し、にゃる君が怒鳴る。

 すると止められたささささんは、ネズミが素早く走るようにチョロチョロとにゃる君の後ろ側に回って、膝の後ろをげしげしと蹴り始めた。

 

 

「こんにゃろ、待てちんちくりん!」

 

「やだよっ! ほーらこっちこっち♪」

 

 

 2人はくるくると追いかけっこを始めてしまった。

 うーん、まだ集合したばかりなのに体力を使って大丈夫なのかなあ。

 夏祭りの会場に着く前にバテないだろうか。

 

 ふと気づくと、ありすが僕の隣にそっと立っていた。

 

 いつもそうだなと思う。

 僕が何か楽しいものを夢中で見て時間を忘れていると、ありすは静かに僕の隣にいて、同じものをじっと眺めているのだ。

 

 

「今年は賑やかね」

 

「そうだな。約束が叶ってよかった」

 

 

 去年の夏は、受験勉強に集中しようということで夏祭りに行かなかったのだ。

 その代わりに高校に4人揃って合格したら、みんなで行こうと約束していた。

 

 

「『よかった』かあ。ハカセは変わったわね」

 

「そうかなあ」

 

「そうよ。自分でわからない?」

 

「…………」

 

 

 僕は人間の機微に疎い。他人が何を考えているのかわからない。

 そして自分という人間のこともまた、ときどきわからなくなってしまう。

 でも。

 

 

「ありすがそう言うのなら、きっとそうなんだろうな」

 

 

 霧に包まれた僕の世界の中で、ありすはただひとつの道しるべだ。

 ありすのことなら、僕は他の人間よりも理解できると思う。

 

 

「それに、ありすも変わったよ? 何だか他人を見るときの目に、余裕が出てきた気がする。小学校のときよりも、中学校のときよりも、今はずっと楽しそうだ」

 

「そうかしら?」

 

 

 ありすは口元に手を当て、はしゃいでいるにゃる君とささささんを見つめた。

 そして、くすっと口元を破顔(はがん)させる。

 

 

「そうね。ハカセがそう言うのだから、そうなんでしょ。私たち、いい友達ができたわね」

 

「うん。そうだ」

 

 

 追いかけっこに飽きた2人が、肩で軽く息をしながらこちらに手を振った。

 

 

「おーい、ハカセ! ありすサン! そろそろ行こうぜ、花火上がっちまうよ!」

 

「にゃる、花火まで全然時間あるよ。でも私もお腹空いちゃったし、早くいこー!」

 

 

 僕とありすは視線を交わし、微笑み合った。

 

 

「うん、今行くよ!」




本編に関係ない豆知識

ささささんはネズミが好き。
ネズミグッズを集めていて、ハムスターとハツカネズミを飼っています。


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第40話「屋台のたこ焼きを一番おいしく食べる方法」

すみません、21時まで明日の内容を掲載してしまっていました。
こちらが正しい内容となりますm(__)m


「じゃあ花火までちょっと屋台見て回ろうよ」

 

「そうだな、腹減ったし」

 

 

 ささささんとにゃる君の提案に乗って、屋台巡りをすることになった。

 

 ちなみに全員ちゃんと晩御飯は食べてきている。しかし高校生の食欲は無限なのだ。いくらでも入ってしまう。

 

 僕にはいまいちその感覚が理解できていなかったが、最近催眠中に運動するようになってよくわかるようになった。とにかく腹が減ってたまらない。

 最初のうちは胃袋に異空間への穴が空いたのかと思うほどだった。運動の消費カロリーとまだ終わらない成長期が連れ立って、胃袋にもっと食い物を入れろと囁いてくる。

 催眠中に顔に怪我をした頃から、そこまで空腹に苛まれることもなくなったが。きっと環境の変化に慣れたんだろうな。

 

 

「じゃあ行くわよ、ハカセ。はぐれないでね」

 

 

 ありすが僕の手を握ってきたので、僕は素直にその手を握り返した。

 

 何せ人が多いので、はぐれてしまいやすい。ありすはとても可愛いので人ごみの中で痴漢される可能性もある。そうなれば(はらわた)が煮えくり返るほど腹が立つのは必至なので、僕がしっかりエスコートしなくては。

 どうもありすからは、僕が迷子になりそうと思われている気もするが……。

 

 僕とありすが手をつなぐのを見たささささんは、ふむと頷きながらにゃる君に手を差し出した。

 

 

「ほれ」

 

「いや、なんだよその手は」

 

「握っていいよ? にゃるって迷子になりやすそうだし」

 

「俺をなんだと思ってんだお前……」

 

「んー、図体のデカイ幼児かなぁ。見た目の割に好奇心旺盛(おうせい)で、お菓子をくれた悪いおじさんにほいほいついていきそうなイメージあるよね」

 

「ねえよッ!?」

 

 

 僕から見るとにゃる君は頼りになるお兄さんって感じなんだけどなあ。

 ささささんにとっては別の見え方をしているようだ。興味深い。

 

 

 そんなこんなでぶらぶらと4人で連れ立って、人ごみの中を歩いていく。

 

 

「ありす、何が食べたい?」

 

「うーん……たこ焼きの気分かな」

 

「たこ焼きね。わかった、じゃああっちに……」

 

「あーーーっ!!」

 

 

 ありすと行き先を決めていたら、ささささんが突然大声を上げた。なんだなんだ。

 ささささんが指さす方を見ると、にゃる君の浴衣が人ごみに揉まれながらフラフラと遠ざかっていく。

 『電球ソーダ』という看板が書かれた屋台に吸い込まれるように向かっているようだ。へえー、電球型の器にジュースが入ってるのかな?

 

 

「あんの幼児ーーー!! だからはぐれるなって言ったばかりだろぉ!!」

 

 

 ささささんはプリプリと怒りながら、にゃる君の背中を追っていく。

 僕たちも後に続こうとしたら、ささささんは振り返って「ついてこなくていいから!」と叫んだ。

 

 

「あいつ興味があるものができたら、ボクを置いてすぐフラフラ見に行くんだ! 連れ戻してくるから、先にたこ焼き買って食べてて!」

 

「わかった」

 

「ボクを置いて、ねえ。ふーん……結構2人きりでデートしてるんだ」

 

「で、デートとかじゃないから……!」

 

 

 ありすの言葉に赤くなった顔を隠すように、ささささんは人ごみの中を走っていく。小柄な体格で、ちょろちょろと人の隙間を縫っていってるようだ。器用だなあ。

 

 そうか、2人はよくデートしてるのか。なるほど。…………。

 

 

「……え? にゃる君とささささんって付き合ってたの?」

 

 

 僕は目を丸くした。確かによく2人でゲームしてるという話は聞いていたが、いつの間にそんなことになってたんだ?

 

 

「ううん、まだ付き合ってないと思うわよ? 多分恋人未満って感じじゃないかな」

 

「そうなんだ。ありすは何で知ってるの? ささささんから聞いた?」

 

「聞いてないわよ。でも女のカンでわかるの、そういうのって」

 

「へえー」

 

 

 女の子ってコイバナ好きだもんなあ。

 ありすは中2までそんなことはなかったのだが、ささささんとつるむようになってからは2人で盛り上がってるのをよく見る。ささささんは高校だと女子グループ渡り歩いて噂を集めてるくらいだし、相当コイバナが好きなんだろうなあ。

 

 そんなことを思いながらありすと連れ立って、たこ焼きの屋台にたどり着く。

 んー……たこ焼きかぁ。

 視線を横に向けると、隣には焼きそばの屋台が出ていた。うん、いいな。

 

 

「焼きそばが食べたくなってきた」

 

「いいわよ、じゃあハカセは焼きそばの方に並んで。私たこ焼きね。新谷(しんたに)君と沙希(さき)の分も買わなきゃ」

 

 

 たこ焼きと焼きそばの屋台にそれぞれ手分けして並び、ブツを買い求める。

 ありすは分担作業になると、いつも自分は何をすると名乗り出てくれる。おかげで作業が非常にスムーズに進むのだ。効率が良いことはとても好ましい。

 

 さて、品物は入手したがにゃる君とささささんはまだ帰ってこないな……。

 

 

「先に食べちゃおうか」

 

「そうね。冷めるともったいないもんね」

 

 

 屋台が並ぶ一角にベンチがたくさん並べられたスペースがあったので、そこに2人で腰かける。フードコートのイートインスペースのように、ここで買ったものを食べられるようだ。

 

 僕はたこ焼きのパックを開けると、爪楊枝(つまようじ)をさっと抜いて、自分の袖の中に投げ込んだ。

 そして焼きそばのパックについていた割り箸をたこ焼きの上に置く。

 これでよし。

 

 

「いつもありがと」

 

「うん」

 

 

 ありすの言葉に頷きかけて、ちょっと考えた。

 できたてほやほやのたこ焼きは、熱そうな湯気をあげている。このまま食べると口の中をヤケドしそうだな……。

 それにもしありすが手を滑らせたら、きれいな浴衣がソースで汚れてしまう。

 じゃあこうしよう。

 

 僕はありすが手に取るよりも早く割り箸に手を伸ばすと、たこ焼きをつまみあげてフーフーと息を吹きかけた。

 

 

「えっ……」

 

 

 ほどよく冷まさないとな。

 湯気が出なくなったのを確認してから、僕はたこ焼きをありすの口元に持っていった。僕がしっかりたこ焼きを持って食べさせてあげれば、ありすの浴衣が汚れることもない。これは冴えたアイデアだぞ。

 

 

「はい、ありす。あーん」

 

「ええ……と」

 

 

 ありすは何やら上目遣いになって、たこ焼きと僕の顔を交互に見ている。

 どうしたんだろう?

 何やら耳が真っ赤になっている。熱射病じゃないよな……。

 

 少し心配していると、ありすは意を決したように目を閉じ、差し出されたたこ焼きをかぷっと口に収めた。

 目を閉じたままもぐもぐとたこ焼きを咀嚼(そしゃく)しているありすの様子に、思わず口の中で笑いが漏れる。なんか雛鳥みたいだな。

 

 続けてもう1個食べるかな? と次のたこ焼きをつまもうとした矢先、すごい勢いでありすが僕から箸を奪い取った。

 僕があっけに取られている間に、ありすはつまみあげたたこ焼きにフーフーと息を吹きかける。

 そしてずいっと僕の鼻先にたこ焼きを突き付けてきた。

 

 

「あーん」

 

「……えっと……」

 

「ア、アンタも食べなさい。私ばっかり恥ずかしい真似させないでよね」

 

 

 いや、僕は別に浴衣が汚れても気にしないのだが……。

 しかしありすがむーと口をとがらせて僕の顔を見つめているので、なんだか食べないといけないような気分になってきた。

 

 ……な、なんだ!? なんか急にすごく恥ずかしいことをしてる気分になってきたぞ……!? クソッ、顔が熱い! どういうことだ!

 

 こうなれば……一息にたこ焼きを食べて、恥ずかしい気分になるこの謎の現象から逃れるのが最善というものだろう。

 

 僕は意を決して、ありすが差し出したたこ焼きを口に収める。

 もぐもぐ……。

 

 

「おいしい?」

 

 

 嬉しそうにニコッと笑うありすの顔を見ると、僕はなんだかますます恥ずかしい気分になってきた。居ても立っても居られない。

 ありすめ……! よくも僕に恥ずかしい思いをさせたな。仕返ししなければ!

 

 僕はありすの問いにうんと頷き、彼女の手から箸を取り返す。

 そしてたこ焼きをつまみ上げると、再びフーフーと息を吹きかけた。

 さあ、くらえっ!

 

 

「あーん」

 

「あ、あーん……」

 

 

 ……あれ? こんなことするくらいなら、普通に自分でつまんで食べればよかったんじゃないのか?

 そんな当たり前のことに気付いたのは、1パックを交互に食べさせ終わってからのことだった。

 

 ありすはハンカチで自分の口元についたソースを拭いてから、裏返して僕の口元も拭いてくれる。

 屋台の赤い光の加減か、その紅に染まった顔はいつもよりもなんだか艶めかしい。くそっ、見つめているとどうにかなりそうだ。

 

 そんな僕のドキドキを知る由もなく、ありすは自分の胸元に持っていたハンカチを両手で握って、照れたように微笑んだ。

 

 

「ごちそうさまでした」



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外伝「電球ソーダは夏の味」

本日ゲリラ2話投稿! 1話目です。
にゃる君&ささささんの外伝となります。

このお話は昨日間違って今日の分を投稿してしまった補填として急遽書きました。


「にゃるー! もう、あいつまたふらふらして!」

 

 

 人ごみを割って歩いていく流を追いながら、沙希(さき)は肩を怒らせた。

 身長150センチにも満たない小柄な沙希にとっては、人ごみをくぐり抜けることなんて造作もない。人よりもすばしっこく脚も早いのも相まって、すいすいと人ごみを縫い、流に小走りで近付いていく。

 

 

「おい、にゃる! にゃるってば! 止まれよ、どこ行くのさー!」

 

 

 人ごみの中で呼びかけるが、流が振り返る様子はない。

 その自分勝手さに、沙希はぷんすかと腹を立てた。

 

 流が興味を抱いたものに吸い寄せられていくのは今に始まったことではない。

 そもそも好奇心が強く、いろんなものに興味を抱く性格なのだ。

 マンガやゲームといった沙希自身も好きなものから、筋トレにスポーツ鑑賞、山登りに流行曲、最近ではバイクや車の雑誌も買い始めた。だから話題が異様に豊富で学年の誰とでも話が合わせられるが、別にそれは人付き合いのためにやってるわけでもないらしい。本当にそれぞれに興味があるようだ。

 

 そして強い興味を抱いたら、そのまま吸い寄せられるようにふらふらと見に行ってしまうのである。たとえ沙希とふたりっきりで歩いてるときであっても。

 

 

(本ッ当に腹立たしいよね、あの幼児ッ!)

 

 

 ボクと一緒にいるのに置いていくのってなんなのさ。

 お前がいない間にタチの悪いナンパ男に声でもかけられたらどうするわけ? 無駄に暑苦しい筋肉してるんだし、ナンパ避けとしては過剰なくらい威圧感あるんだからちゃんと役割くらい果たせよな。

 それともボクなんかより、新しいゲームやバイクの展示みたいなモノの方がお前にとって価値があるってわけ? 当然ボクの方が魅力あるだろ! なあ!

 

 流がふらふらとどっか行ってしまうとき、沙希はいつも内心でぐるぐるとそんな怒りに満ちた言葉を渦巻かせながらその後を追っているのだった。

 

 「お前は幼児か! ボクをおいてどっか行くなよな!」と何度叱っても、流はへらへらと笑って一向に改善する様子を見せない。

 それどころか自分が見つけたモノのどこがすごいのかキラキラとした目で説明を始めて、その素晴らしさを沙希と分かち合おうとしてくる。その無邪気な様子を見ていると、なんだか自分だけ怒ってるのがバカらしくなって、沙希はいつもなんだかんだで許してしまうのだった。

 

 しかし今日という日は事情が違う。何せ夏祭りで、博士(ひろし)やありすが一緒なのだ。いつものようにふたりっきりでいるときみたいに自分勝手な行動をされては、あの2人に迷惑がかかってしまう。

 ボクとだけ一緒ならいいけどさ……と内心で呟く沙希は、果たしてその言葉の意味がわかっているのかいないのか。

 

 

「おい、にゃる! やっと捕まえたぞ!」

 

 

 ようやく流のところに追いついた沙希は、ふらふらと歩く彼の浴衣の袖に飛びついてぐいーっと思いっきり引っ張った。

 

 

「おっ、やっと来たか」

 

 

 肩で息をしている沙希に振り返った流は、のんびりとそんなことを言って笑いかけた。

 

 

「電球ソーダ、お前も飲む?」

 

「…………」

 

 

 沙希は眉をひそめて、流の顔をまじまじと見上げる。

 そしてややあって、顎に手を当てて呟いた。

 

 

「お前、もしかしてわざとはぐれたの?」

 

「まあな。あ、それください」

 

 

 流は軽く頷きながら、屋台のお兄さんから電球ソーダを受け取る。

 電球型の容器に入ったトロピカルブルーの液体がゆらりと揺れ、屋台のオレンジ色の照明の色と混じって鮮やかな緑色に光った。

 

 これはおいしそうだぞ。

 そう思いながらストローからソーダを吸い上げ、流はちょっと残念そうに眉を下げる。

 いや、ただの色が付いたソーダだな。それほどおいしいもんじゃなかったか。

 

 甘いものはそれほど好みじゃない流は、電球ソーダを一口で持て余した。

 

 

「いや、何やってんの?」

 

「何ってお前」

 

 

 電球ソーダをちゃぷちゃぷ揺らしながら、流は沙希の問いに答える。

 

 

「せっかくの夏祭りなんだ、2人きりの時間を作ってやりたいじゃねえか」

 

「あ……そういう?」

 

 

 んむ、と流は頷く。

 

「そりゃ俺とお前で夏祭り行こうって誘ったけどな。俺たちが企画してやらなきゃあいつら互いに誘うこともできない奥手だからよ。でもいざ連れ出せた以上は、俺たちはむしろお邪魔虫になるだろ? だから俺たちはいったん退散して、2人っきりでイチャイチャしてもらおうってわけよ」

 

「……そういうことならボクにも先に言えよ。また自分勝手にふらふらしてって腹立てたじゃん。それにボクだけじゃなくて2人もついてきたらどうするつもりだったのさ」

 

「お前なら2人は待たせて自分だけで追いかけてくるかなって思ってな。ハカセは人混みが嫌いだし、ありすサンは痴漢に絡まれるかもしれない、それなら身軽な自分だけで追いかけようって思うはずだって踏んだ」

 

 

 さすが沙希は思い通りに動いてくれたな、と流はカラカラと笑う。

 そんな流を見て、沙希はため息を吐いた。

 

 

「もう! 自分勝手!」

 

「すまんすまん」

 

 

 そう言いながら、流はふてくされた幼児を宥めるような手つきで沙希の頭を撫でようとする。

 沙希はその手をパンッと払いのけ、じろりと流を見上げた。

 

 

「だから! 女の子の頭を気安く撫でるなって言ってるだろ! セットするの大変なんだぞ! それにちびっこいと言われてるようで腹立つし!」

 

「ちびっこいのは事実だろ?」

 

「うるせーデカブツ筋肉!」

 

 

 イーーッと顔をしかめてみせるいつものやりとりをしてから、沙希はふうっと息を吐いた。

 

 なんだよ。また子供みたいにふらふら勝手なことしてるのかと思ったら、結構考えてんじゃん。

 ……というか、いつもそうだよね。

 なんか三枚目の便利屋みたいな感じでおどけながらみんなの輪に入っていくけど、みんなのことちゃんと見て気遣いしてるし。

 

 

「……にゃるはさ」

 

「ん?」

 

 

 沙希は少し顔を俯かせながら口を開いた。

 

 

「にゃるは疲れたりしないの? そうやって自分をピエロみたいな感じにして、みんなに気を遣って。それって結構しんどくない?」

 

「いいや。ちっとも」

 

 

 にゃるはそう言って、カラッとした口調で笑った。

 ポリポリと頬を掻きながら、言葉を探す。

 

 

「えーとな。中学のときはそりゃ多少はしんどいこともあった。俺、一時期グレてたしな。ガタイもいいし、怯えた目で見てくる奴もいたんだよ。だから俺は怖くないよー、安全だぜーって態度で示すためにあえておどけたりしてたけど……。なんかいつの間にか慣れちまった。今はこれが自然なんだ」

 

「じゃあ今は辛くないの? みんなの面倒見るの、疲れないの?」

 

「そうだなあ……」

 

 

 そう言って、流は電球ソーダをもう一口飲んだ。

 

 

「うん、辛くない。むしろ嬉しいんだ」

 

「嬉しい?」

 

「おうよ。一時期グレてた俺みたいな奴でも、みんなが楽しく毎日を過ごせるように陰に日向に力添えできてる。……たとえば、奥手なダチが彼女と素敵な夏祭りを過ごせるように誘ってみる、とかな? そういうことが自然とできるようになった俺って、なんかいいよなって。世のため人のために働く警察官志望として、一歩成長してるよなって実感するんだよ」

 

 

 そんなことを口にする流が、なんだか屋台の照明に照らされて輝いているように見えて、沙希は少し目を細めた。

 

 

「……眩しいな」

 

 

 小さく口の中で呟く。

 

 沙希だって女子のグループを回っては、いろんな相談ごとに乗ったり、愚痴を聴いてあげたりしている。仲違いをした女子同士を仲介して仲直りできるように取り計らってあげた回数は両手の指で数えきれない。

 自分で言うのもなんだけど、ちょっとお節介すぎるくらい親切な女の子だ。

 

 だけどそれはハカセのおかげだ。

 他人に優しい自分を好きになれるように『魔法』をかけてもらった。だから今の沙希は結構理想の自分に近付けたと思う。

 

 でも、聞く限りは流にはそういった『魔法』はかかっていない。流にかかっている『魔法』は、あくまでも警察官になるという夢を忘れないこと、ただそれだけ。だから流は自分の意思で考えて、他人の幸せを応援してあげられる人間になったということになる。

 

 ハカセの力を借りて理想の自分になりたいと頑張っている沙希の、その理想の姿に自分の力でたどり着いた。目の前にいる彼は、そういう男の子で。

 

 

「ちょっとかっこいいじゃん……にゃるのくせに」

 

 

 思わず口の中で小さく呟いた言葉に、流がニヤリと笑う。

 

 

「ふふん。どうだ、俺に惚れるなよ?」

 

「はぁ? 調子に乗んな! ばかにゃる!」

 

 

 そう言って沙希はぴょんと飛び上がり、にゃるの手から電球ソーダを奪った。

 

 

「あっ……」

 

「なんだよ。食が進んでないみたいだしいいじゃん。ボクだってノドが乾いたの!」

 

 

 そう言って、沙希は電球ソーダをちゅるちゅると啜る。

 

 

「いや……その」

 

 

 別に流はいいのだ。あんまり好きな味じゃなかったし。

 だけどそれって……その……間接キスだよな? お前そういうの気にしないの?

 そんな思いを言葉にできないまま、沙希は電球ソーダを飲み干していく。

 先ほどまで自分が咥えていたストローにためらいなく口をつける彼女の唇が、なんだかいつもより艶めかしく見えて、流はドキッとした。

 

 屋台のオレンジ色の照明に照らされた沙希が、何故だか少し幻想的な存在に見える。浴衣という見慣れない衣装のせいだろうか。

 

 

 落ち着け。落ち着くんだ、俺。

 相手は沙希だぞ? ちんちくりんでワガママな貧乳女だぞ?

 興味を持ったものをどれどれと見に行ったら、決まってなんだかぷんすかしながら追いかけてきて、何で置いていくのさとお説教してくる口うるさいケンカ友達だぞ?

 

 嘘だろ、なんでこんなのがちょっと可愛く思えてるんだ?

 

 いやいや、これは気の迷いだ。だってこんな女、全然俺のタイプじゃない。

 俺が好きなのはもっと背が高くて、胸が大きく出るとこ出てて、尻だって……。でも沙希もお尻は大きいよな……。

 

 

「うおおおおおおおおおお!?」

 

 

 流はパンパンと自分の両頬を猛烈な勢いでビンタした。

 夏の魔物が俺を(たぶら)かそうとしている!? 正気に戻れ、俺!!

 

 沙希は目を丸くして、流の突然の奇行を見上げた。

 そしてああ、と呟くと1/3ほどに減った電球ソーダを差し出す。

 

 

「全部飲まれると思ったの? それなら口で言いなよ。ほら、返すから」

 

「お、おう……!?」

 

 

 沙希から電球ソーダを受け取った流は、目を白黒させた。

 

 えっ、これ俺飲むの? さっきまで沙希が口付けてたストローに? それって間接キスじゃん……?

 でも沙希は全然気にしてないみたいだったし。ここで俺が気にしてる素振りみせたらコイツのこと意識してるみたいじゃん。

 そんなのありえねえだろ。俺はコイツのことなんてなんとも思ってねえし!

 よし! 見てろ、何事もなかったように飲んでやらぁ!

 

 流は少し目をつぶって決意を固めると、さもこんなの当たり前ですし? という顔でストローを口に含んだ。

 

 ……おかしい。さっきと同じ味のはずなのに、なんだかこう……。

 甘酸っぱい味がするような気がする。沙希の口の中の味なんだろうか。

 

 にゃるはそんな考えを頭から必死に追い払い、無心でソーダの残りを飲み干した。

 ……うん! 普通のソーダだ! 全然どってことなかった!

 

 

「どう? 間接キスの味がした?」

 

「!?」

 

 

 沙希はにひひ、と唇の端を吊り上げながらぼそっと尋ねてきた。

 こ、こいつ……! 間接キスだとわかって渡してきたのか……!?

 

 

「おやおや? にゃる君ったら純情だなー。間接キスで真っ赤になっちゃって、可愛いったら」

 

「はー!? バカ言うな、ガキと回し飲みするののどこが間接キスだよ!」

 

「間接キスは間接キスだしー? うぷぷっ、何目をつぶって精神統一みたいなことしてんの? ウケるんですけどー」

 

「し、してねえよそんなこと!?」

 

 

 そう叫び返しながら、流はバクバクと自分の心臓が激しく脈打っているのを感じた。

 えっ、何この鼓動は……不整脈……? なんでこのチビをまっすぐ見られない……? 俺の体は一体どうしてしまったんだ……!?

 

 

 ……流はわかっていない。

 彼の女性の好みは、確かに身長が高くてグラマーな外見だ。

 だがそれ以上に、強気でお節介で、でも彼にだけちょっぴり意地悪をしてくるような毒舌な女の子。そういう女の子はもっと好きなのだ。

 

 そしてこれまでの罰ゲーム合戦を通じて、沙希にしてきた様々な要求……。たとえば一人称をボクにしろとか、自分には遠慮なく毒舌でいろだとか。

 それはすべて彼にとって好みのタイプの要素なのである。

 純情な彼は、自分が無意識にそんな要求をしていたなんてまったく気付いていない。

 

 ただ降って沸いたように、今突然目の前にいるのが理想のタイプの女の子だと気付いてしまって、ひたすら混乱していた。

 

 

 沙希は狼狽(ろうばい)する流を見て、ふふんと鼻を鳴らす。

 

 なんだよ。今更ボクが魅力的な女の子って気付いたとか? 遅いんだよなーにゃるは。そういうところ子供っていうかさ。恋愛に鈍感なんだよね。

 そこへ行くと、ボクなんてにゃるのカッコ良さにはとっくの昔に気付いて……た、し……!?

 えっ、何これ……?

 

 沙希は自分の薄い胸に手を当てて、ドキドキと高鳴った心臓の音を確かめる。

 

 その頬は真っ赤に染まっていて、屋台の照明を受けた浴衣姿も相まって、いつも以上に可憐で。

 抱きしめたいほど愛らしい、夏の妖精みたいで。

 思わず見入ってしまいそうになり、流は無理やり視線を引き剥がしてそっぽを向いた。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 どちらかも何も言い出せない、不思議な沈黙。

 自分の心の整理が追い付かない。

 

 やがてその静寂を破ったのは、やはり沙希の方だった。

 

 

「こ、こうしてても仕方ないしさ! 何かで遊ぼうよ!」

 

「お、おう! そうだな! ハカセとありすサンをもうちょっと2人きりにさせてやらなきゃいけねえもんな!」

 

 

 アハハと無駄に笑いながら電球ソーダの空き瓶を屋台に返却した流の腕を、沙希がぐいーっと引っ張る。

 

 

「ほら! あっちに射的あるよ! 射的! あれで勝負だ!」

 

「いい度胸じゃねえか。俺の集中力を舐めるなよ?」

 

「ふふーん! 超集中ができるのはにゃるだけじゃないんだよなあ。エイム力ならボクの方が上だし。さーて、勝ったら何してもらおっかなー?」

 

 

 腕を引っ張る沙希の小さな手が、いつもよりも熱く感じる。

 そんな印象を振り払うように、流は鼻で笑ってやる。

 

 

「はぁ? 何勝ったつもりでいるんだっての。まあ見てろ、テキ屋のオッサン泣かせてやるからよ」

 

「その強気がどこまで続くかなー? 罰ゲーム楽しみにしとけよっ!」

 

 

 笑い返しながら、さあ罰ゲームは何にしようかなと沙希は考える。

 そうだなあ。よっぽど屈辱的なのがいいだろうなあ。

 

 ああ、そうだ。こんなのはどうだろう。

 

 

 いつもは見上げてばかりで無神経に頭を触ろうとしてくる彼の頭を、逆にいい子いい子と撫でてあげるのだ。

 それはとっても屈辱的だよね?

 

 きっと世界中の誰も、デカくてゴツい彼の頭を撫でたいなんて思う人はいないだろうけど。

 この世にたった1人くらい、彼の頭を撫でたいなんて女の子がいてもいい。

 だってボクは彼が頑張ってること、ちゃんと知ってるから。

 

 

(ボクがキミの頑張りを誉める、世界でひとりだけの女の子になってあげる)




夜の2話目もよろしくお願いします。


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第41話「天に花火、地に光」

すみません、昨日投稿した前話で今日の分の内容を掲載してしまっていました。
昨日の21時までに前話見たよーって方は、
改めて前話を見ていただければ正しい内容になっています。
お手数をおかけして申し訳ございません。

昨日見てしまった人への埋め合わせとして昼に外伝を書きましたので、
ぜひ合わせてお楽しみください。

そんなわけで本日ゲリラ2話投稿! 2話目です。


「それにしても、にゃる君とささささんはどこに行ったのかな」

 

 

 にゃる君を連れ帰るだけならそんなに時間もかからないはずだが……。

 

 たこ焼きと焼きそばのパックを手にありすと人ごみの中をウロウロしていると、「おーい!」とにゃる君の声が聞こえた気がした。

 目を凝らせば、人ごみの向こうににゃる君とささささんが手を振っているのが見える。ささささんがぴょこぴょことジャンプして両手を振ってるのが、なんだか微笑ましい。

 

 

「ハカセ、沙希(さき)たち見つかった?」

 

「うん、射的の屋台の前にいる。多分射的で勝負するのに夢中になってたんじゃないかな」

 

 

 そう答えると、ありすはクスッと微笑んだ。

 

 

「アンタの身長、たまには役に立ったわね。今何センチ?」

 

「春に測ったときは185だったかな……もう伸びないでほしいんだけど」

 

 

 本当にいい加減無駄に伸びるのはやめてほしい。そろそろ十分だ。

 お父さんものっぽなので家の天井は高く設計されているからいいが、場所によっては天井がつっかえて窮屈になってきた。

 

 

「えー、私は190くらいほしいかな。あまり高くなられすぎても困っちゃうけど」

 

 

 あれ、このフレーズどっかで聞いたような気もするな。いつだっけ?

 あ、そうだ。中1のときの無理やり土下座事件のときじゃないか。

 最近ありすを無理やり土下座させ返すって目的を忘れそうになってしまう。気が緩んでいるのだろうか。目的意識をしっかりもたなくては。

 しかしこのフレーズ最初に聞いたときに聞きそびれたが……。

 

 

「そういえば、なんで僕の身長が190ほしいんだ?」

 

「だってイギリスのグランマ(おばあさま)に紹介するときに、ちっちゃいのを連れてきたって思われたくないもん。グランパ(おじいさま)は日本人だけど背が高かったし」

 

「じゃあなんで高すぎるとありすが困るんだ?」

 

「それはだって……自然に……キ……できないでしょ」

 

 

 ありすが小声で何かつぶやいたが、群衆の声にかき消されてしまった。

 くそっ、人混みがうるさい。ありすの声が聞こえないだろ!

 

 

「ごめん、聞き取れなかった。なんだって?」

 

「も、もう言わない!」

 

 

 ありすはむーと頬を膨らませている。

 その様子は可愛いけど、しくじったな。もっとちゃんと聞けばよかった。

 

 そんなやりとりをしながら、なんとか人ごみをかき分けてにゃる君たちのところに行こうとしているのだが、なかなか進まない。

 何しろ人が多すぎる。一体どこからこんなに沸いてきたんだ。僕は人混みが嫌いなので、ちょっと気分が悪くなってきたぞ。

 

 

「ありす、大丈夫か? はぐれるなよ」

 

「うん」

 

 

 ありすは僕の手をぎゅっと握ってついてきている。

 そのとき、誰かが僕の足を強く踏んだ。

 

 

「痛っ……!」

 

「ハカセ、どうしたの? 足踏まれたの?」

 

「大丈夫、大したことない」

 

「だからって謝りもせずに……!」

 

 

 こんな人ごみの中だ、間違って足を踏まれるのは仕方ない。

 しかしありすはそう思わなかったらしい。露骨にイライラとした表情になり、ごった返す群衆を睨み付けている。

 ふと、なにか嫌な予感がした。

 

 ありすを落ち着かせようと声をかけようとした途端、今度は僕たちと同じように道を割って通ろうとしたのか、誰かの(ひじ)が僕の脇腹に突き刺さった。

 

 

「ぐっ……!」

 

「……アッタマきた!」

 

 

 その瞬間、ありすがキレた。

 

 

「あなたたち邪魔よ! 道を開けなさい!!」

 

 

 普段は鈴を転がすような美しい声が、怒りに染まった響きと共に夜を切り裂く。それを聞いた群衆の反応は劇的だった。

 人ごみがさーっと左右に寄り集まり、1本の道を形作る。まるでモーセが海を割るかのようだ。

 

 

「あっ……」

 

 

 ありすが手にしていたはずのたこ焼きのパックが、どさっと地面に落ちた。

 

 ありすは真っ青な顔になり、口を両手で押さえていた。かすかに身を震わせ、額から一筋の汗が流れ落ちている。

 

 

 ……子供の頃から、ありすは自然と集団の中心にいた。まるで女王が命令するかのように、彼女の命令には誰もが従った。

 それを僕はずっと、ありすが可愛くて女王気質だからだと思っていた。だってそうじゃないか、他にどんな理由が想像できる?

 

 だが、今ので確信が持てた。

 ありすの『声』には、間違いなく人を動かす力が秘められている。

 

 周囲の人々は、不思議そうにきょろきょろと周囲を見渡していた。恐らく彼ら自身も何が起こったのか理解していないのだ。突然自分の体が動いたと認識しているのだろう。

 興味はあるが、悠長に調べている場合はない。ありすに注目が集まることは避けなくては……!

 

 

「行くぞ、ありす! 手を離すなよ!」

 

「う、うん!」

 

 

 僕はありすの手を握り直すと、空いた道の中を一直線に走り抜けてにゃる君たちの元へと急いだ。

 

 

「お、おい! ハカセ、今のは一体……」

 

「いいから、ここを離れよう!」

 

 

 さらににゃる君とささささんを伴って、別の人ごみにまぎれてその場を走り去っていく。こちらの人ごみは先ほどより密度が低く、十分人の間を潜って走り抜けられそうだ。ともかく、今はとっとととんずらするに限る!

 

 

 

※※※

 

 

 

「……ここまで、来れば、いいかな……」

 

 

 人が少ない方向へ向かって逃げたら、いつの間にか高台にある小さなお堂の前に来ていた。周囲にはちらほらと人がいるが、その数は十数人程度と少ない。

 

 

「ここって花火見るには結構な穴場なんじゃない? 屋台から遠いから人は少ないみたいだけど」

 

「そっか、じゃあ花火はこのままここで見ればいいよな」

 

 

 なるほど。ささささんとにゃる君が言うのなら、ここで花火見物しようか。

 

 ありすはどう思うかなとちらっと様子を(うかが)うと、顔色が悪くずっと下を向いている。何か思い詰めているような気もするが……。どうしたんだろう?

 

 

「……あのね、私、さっき……」

 

 

 そう口にして、ありすは押し黙ってしまう。

 

 ……あ、そうか。さっき『声の力』を使ったことを気にしているのか。

 一応ありすとしては自分がそうした力を持っていることを自覚しているんだな。そんな力を持っていることを僕に知られたくないのかもしれない。僕は別に気にしないんだけどなあ。

 

 沈黙が場を支配する中、にゃる君が僕に顔を寄せ、声を潜めて訊いてきた。

 

 

「なあ、ハカセ。さっきのってお前の『魔法』か?」

 

「えっ……ああ……」

 

 

 あ、にゃる君は僕が催眠アプリを使ったと思ってるんだな。

 ……いや、これは渡りに船だぞ。乗っとけ!

 

 

「うん、実はそうなんだ」

 

「おいおい、あまり濫用するなって言っただろ。仕方ないな、俺に任せとけ」

 

 

 かすかにため息を吐いてから、にゃる君は打って変わってニコニコと笑顔を浮かべた。

 

 

「いや、しかしみんな親切だったよなあ。まさかあんだけの人が道を譲ってくれるとは思わなかったぜ」

 

「あっ……そうだね! おかげで合流が捗っちゃった。あんなことってあるんだねぇ」

 

 

 にゃる君は何も気づかなかったことにしてくれた。その意図を汲んで、ささささんも笑顔で追従する。2人とも優しいなあ。

 

 

「お礼も言わずに走り抜けちゃったの申し訳なかったかな。でも、なんだか気恥ずかしくなっちゃって。ありす、怪我はなかった?」

 

 

 僕がそう言うと、ありすはほっとした様子で胸を撫で下ろした。

 

 

「うん、何ともなかった。ありがと、ハカセ」

 

「どういたしまして」

 

 

 なんとか誤魔化された、と思ってくれたようだ。

 ありすの笑顔で、一気に弛緩したムードが漂う。

 

 

「……にしても、腹減ったな。食い物を腹に入れ損ねちまった」

 

「電球ソーダなんて飲んでるからでしょ! ばかにゃる!」

 

「お前も半分飲んだろうが! その後射的で勝負しようなんて言い出したのもお前だろ!」

 

 

 ぐぅーとお腹を鳴らしたにゃる君とささささんがまたケンカを始めた。

 そんな2人に、僕は焼きそばのパックを差し出す。

 

 

「良かったらこれ食べる? たこ焼きのパックは落としちゃったんだけどこっちは無事だったんだ。冷めてるし箸は使いさしだから申し訳ないけど……」

 

「おっ! さすがハカセ、気が利くぅ!」

 

「わぁい、いただきます!」

 

 

 にゃる君とささささんは嬉々として焼きそばを受け取ってくれた。

 2人で仲良く分けて、交互に食べている。

 

 

「あーこれこれ、この味。夜店の焼きそばって、なんでうまいんだろうなあ」

 

「あー、わかる。チープだけど不思議においしいよねぇ」

 

「それかぁ。本来はそんなにおいしいものではなくても、友達と食べるとおいしくなるということを僕は発見したよ」

 

「……ハカセがそんなことを言うなんて……うう……!」

 

「えっ……ありすちゃんが泣いてる……!?」

 

 

 

 そんなことを話している間に、時刻はもう夜8時になろうとしていた。時計を見なくても、基本的に僕は体内時計で時間がわかる。

 

 ちなみに今日は催眠運動タイムは除外されているので、この場で突然運動を始めるようなことはない。何か用事がある日や、雨や雪などの悪天候の日は催眠運動状態にならないようにあらかじめ暗示をかけてある。

 

 催眠運動といえば、最近は時間が1時間半に伸びた。

 先日催眠から()めたら、机の上に広げられたノートにジョギングを1時間にするように僕の字で書かれてあったのだ。運動にも慣れてきたので、さらに体を鍛えたいのだろう。催眠中の僕め、なかなか熱心じゃないか。感心感心。

 

 

 まあ今はそんなことはどうでもいいや。いよいよ花火が打ち上がるぞ。

 そう思っていた矢先、ヒューッと音を立てて閃光が夜空を昇っていく。

 

 そして、ドーンという爆発音と共に夜闇のキャンバスに大輪の花が咲いた。

 

 

『これより花火が打ち上がります。皆様、夜空をご覧ください』

 

 

 眼下の祭り会場から響いてくるアナウンスと共に、ワッと歓声が響いた。

 

 僕はといえば、そんな歓声も気にならないほどに次々と打ち上がる花火を見つめている。ああ、なんて綺麗なんだろう。

 

 僕は打ち上げ花火が大好きだ。

 人類が生み出した大抵の芸術には興味を抱けない僕だが、花火だけは別だ。

 

 美しい幾何学模様で花開く閃光は、本当に言葉も出ないほどに美しい。

 緻密に計算され尽くした職人の業。繊細な幾何(きか)学。ほんの一瞬だけの美という儚さ。そしてそれを織り成す化学式に至るまで、すべてが完璧だ。

 人の手が生み出したもので、これほど美しいものがこの世にあろうか。

 

 

「ハカセは昔から花火が好きよね」

 

 

 僕の隣に並んで花火を見ていたありすが、僕に横顔を向けて囁いた。

 うん、と僕は頷きながら夜空に咲く色とりどりの閃光を見つめる。

 

 

「花火は本当に美しいよ。今も昔も、僕の世界を照らしてくれる」

 

 

 幼稚園児の頃から僕は花火が好きだった。

 霧に閉ざされてすべてが曖昧(あいまい)に映る僕の世界でも、花火の美しい光と形はしっかりと霧を切り裂いて、幼い僕に鮮烈な印象を与えてくれたのだ。

 その美しいものが人の手によって作られたと親に教えられて、僕はそのとき初めて人間に興味を抱いたのだと思う。

 

 

「本当に」

 

 

 その在り方は、まるで。

 

 

「ありすと同じくらい素敵だ」

 

 

 横に立つありすの方を向いてそう言うと、彼女は驚いたような顔で固まっていた。

 みるみるうちにその頬が、耳が、真っ赤に染まり、花火の色彩を受けて光輝く。

 

 ドーン、と夜空に新しい花火が打ち上がった音が響いたが、僕はそちらを見なかった。

 

 今このときは、ありすの方がより綺麗だったから。

 

 

 にゃる君とささささんが歓声を上げるのが、どこか遠くのように聞こえた。

 

 

「たまやーーー!!」

 

「かーぎやーー!!」



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第42話「催眠夏休みデビュー大作戦」

「お兄ちゃん、よくここまで頑張りました。褒めてあげましょう」

 

「はあ」

 

 

 8月31日。

 夏休み最後の日、催眠ジョギングから帰って風呂から上がったところで、僕はくらげちゃんに捕まって彼女の部屋に連れ込まれた。

 ベッドに正座で座らされた僕の前で、くらげちゃんは腰に手を当てて何やら武術の師匠っぽいムーブをかましている。

 

 ……というか、くらげちゃんの部屋に入るのも久しぶりだな。くらげちゃんは用があるときはもっぱら僕の部屋にやってくるのだ。

 

 最後に入ったのはくらげちゃんが小学生のときだったような。

 しばらく見ない間に部屋は随分と様変わりしており、かつてはぬいぐるみと少女マンガだけがたくさん置かれていた棚には、ぽつぽつと美容やオシャレに関する書籍が並べられている。

 

 

「ありすちゃんに好かれるためにトレーニングしようという、お兄ちゃんの頑張りはこの夏の間じっくりと見せてもらいました。よくやった感動した」

 

「いや、別にありすに好かれたいわけでは」

 

「この際ウソは結構! 好かれたい以外にどんな理由があるかぁーーー!!」

 

 

 くらげちゃんがくわっと目を見開いて叫ぶので、僕は言葉を飲み込んだ。

 またなんかテンションがおかしくなってる……。

 

 

「お兄ちゃんはこのひと夏で随分自分を鍛え直し、スラっとほどよく筋肉がつきました。大変すばらしいことです。しかし! まだお兄ちゃんには足らないものがあります。それが何だかわかりますか?」

 

 

 僕にまだ足らないもの?

 うーん、それはやっぱり……。

 

 

「僕的にはもうちょっと筋肉がほしいかなって思うんだけど。細マッチョって言うには少し物足りなくない?」

 

 

 そう言いながら、僕は力こぶを作った。

 夏の初めに比べれば随分と腕も硬くなった。しかしやはり男としてはにゃる君くらいの筋肉に憧れるんだよなあ。

 しかしくらげちゃんはぶんぶんと首を横に振る。

 

 

「もう筋肉はいらないよ! 今くらいがベスト! 男の好きな細マッチョと女の子の好きな細マッチョは全然別なの!!」

 

「いや、だから別に僕はありすに好かれたいから鍛えたわけでは」

 

「しゃらーーーーっぷ!!」

 

 

 くらげちゃんは僕に指を突き付けて叫んだ。

 

 

「お兄ちゃんに足らないもの……それは清潔感だよ!」

 

「清潔感」

 

 

 なんだそれは。

 

 

「僕は毎日お風呂には入ってるぞ。ジョギングした後は汗かいて気持ち悪いし」

 

「そんなの当たり前でしょ!」

 

「えー、じゃあどういうこと? 僕ってそんなに不潔そうに見える?」

 

「違うよぉ! 清潔感っていうのは、『好感が持てる』ってことなの!」

 

 

 どういうこっちゃ。

 僕は混乱した。

 

 

「髪がちゃんとセットされてるとか、服がよれてないとか、不精ヒゲが生えてないとか、鼻毛が出てないとか、眉毛がちゃんと整えられてるとか、トイレで手を洗ったらハンカチで手を拭くとか、そういうことをひっくるめて減点ポイントがないことを清潔感って呼ぶんだよ!」

 

「……要するにイケメン度ってこと?」

 

 

 それじゃ僕はダメだな。鏡見ても自分のことかっこいいとは思わないし。

 間違ってもイケメンではない。

 

 

「……近い! 近いけどちょっと違う!」

 

「違うのか……」

 

 

 くらげちゃんの美意識は僕には難しすぎる。

 

 

「要はね、どれだけ他人から見た外見の評価に気を遣ってるかってことなの!」

 

「ああ……なるほど」

 

 

 確かにそういう意味では僕は清潔感皆無だろう。

 何しろ他人の評価など気にしたことがない。学業の評価ならまだしも、容姿の評価など生まれてこの方一切気にしていない。

 そもそも僕は他人に興味をまったく持てないので、他人が僕をどう思うかなど本当にどうでもいいのだ。

 

 

「しかぁし!」

 

 

 そんな僕の前で、くらげちゃんは胸を叩く。

 

 

「私に任せてくれれば、お兄ちゃんを清潔感バリバリにしてあげましょう! さあ、私を信じてここに座ってください!」

 

「はあ……」

 

 

 くらげちゃんはドレッサーの椅子をぽむぽむ叩いて僕を呼ぶ。

 うーむ。

 ちらりと本棚に入っている美容とオシャレの指南書に目を向ける。くらげちゃんは随分とオシャレについて自信があるようだ。

 まあ失敗しても失うものはないし、ここはくらげちゃんに任せてみるか……。

 

 

「はーい、楽にしてくださいね~」

 

「はいはい……」

 

 

 むう……なんか眠くなってきた。

 ジョギングの後の疲労と風呂に入ったリラックス感が、僕を眠りにいざなう。

 そのまま僕はウトウトと意識を手放した……。

 

 

 

※※※

 

 

 

「できたよー! さあ、鏡を見てお兄ちゃん!」

 

「これが……僕?」

 

 

 くらげちゃんの声で目を覚ました僕は、鏡を見て愕然とした。

 

 そこに座っていたのは、流れるような漆黒のロングヘアとスレンダーな体格を備えた美女だった。

 姫カットというのだろうか、内側にややカールした髪が輪郭(りんかく)線をほどよく隠しており、化粧はきつすぎない程度に施されていて清楚感を感じさせる。目の周りに薄く入ったチークとやや色味の濃いピンクの口紅が、どこか意思の強さを感じさせた。

 見事なまでの和風美人だ。

 

 

「完成だよ……我が兄ながら、ここまでの逸材とは。今のお兄ちゃんは、世界で一番可愛いよ!」

 

「…………」

 

「いやーそれにしても化粧のノリがいいよね。普段すっぴんだから肌が荒れてないのかな? いや、やっぱり適度な運動と食生活のたまものだよね、うん。この美貌は……お兄ちゃんが掴み取った勝利だよ!!」

 

「な・ん・で・だああああああああああああッ!!!!」

 

 

 僕はウィッグを掴むと床に叩きつけた。

 

 

「あーー! 何するのお兄ちゃん!? せっかくメイクしてあげたのに!」

 

「誰が女装させろと言った!? これ見てありすが好意を抱くとマジで思うのか!?」

 

「は!? ありすちゃんだって可愛い女の子の方が好きに決まってるじゃん!!」

 

 

 ……今、何て言った?

 

 

「ちょっと待て……待て待て待て。今、僕のこと女の子って言った?」

 

「? 当たり前じゃん。お兄ちゃんは生まれたときから女の子でしょ」

 

「……お兄ちゃんだぞ?」

 

「そうだよ。私たち姉妹(きょうだい)じゃない」

 

 

 ぐらっとめまいを感じて、僕はその場にしゃがみこんだ。

 

 いや……よく考えると確かに。これまでの態度でおかしいところはいくつもあった。

 やたらと一緒に風呂に入りたがったり、一緒のベッドで眠ろうとしたり。

 距離感もやたらと近すぎたような気がする。

 

 絶対に催眠で何かミスっている。

 くらげちゃんにかけた催眠を思い出せ……。

 

 

 

『あなたはこれから、お兄さんを異性として見られなくなります』

 

『……お兄ちゃんを……異性として見ない……』

 

 

 

 あっ。こ、これかぁ……!!

 僕はガリガリと頭を掻きむしった。

 確かにそうだ。僕は異性として見ない、と暗示をかけた。

 

 僕としては「恋愛対象として興味を感じない」という意味で言ったが、くらげちゃんはそれを言葉通り「異性ではない=自分と同じ女性だ」と解釈したのだ。

 

 

「お兄ちゃん、どうしたの!? しっかりして!!」

 

「催眠!」

 

「うっ」

 

 

 棒立ちになったくらげちゃんを見て、僕はため息を吐いた。

 些細(ささい)な言葉の選び方がこんな事態を引き起こすとは……。

 今度こそしっかり「恋愛対象として興味を感じない」と言わないと。

 

 ……というか。

 僕はぞっとして背中を震わせた。

 もしかして、これまで僕のことを『同性だけど恋愛対象の姉』として見ていたんじゃないよな……? 

 ははは……まさか、そんなわけ……ないよな?

 

 だけどもしあのとき一緒に風呂に入りたがったり一緒のベッドで寝たがったのを受け入れていたら……。

 

 僕はぶんぶんと首を振り、嫌な考えを頭から振り払うのだった。

 

 

 

※※※

 

 

 

 くらげちゃんに催眠をかけ直した僕は、今度こそ男性としてくらげちゃんのスタイル指導を受けることにした。

 

 

「できたよー」

 

 

 そう言われて目を開いてみると、そこには丁寧に髪をブラッシングされた男子が座っていた。前髪はすべて左に流して撫でつけられており、頭頂部はややもこもこした感じだがピンと跳ねている髪は1本もない。

 眉は細く整えられ、ひげもすべて綺麗に剃られていた。

 

 ……この髪型、どこかで見たことがあるな……。

 これ、よくテレビに出てる若手男性アイドルがよくやってる髪型じゃないか? 顔を覚えられないので同一人物か複数人なのかはわからないが、髪型には見覚えがあるぞ。

 

 

「僕には似合わないんじゃないかなこの髪型」

 

「そんなことないよ! すっごく似合ってるって!」

 

「でもこういうのはもっと端正なイケメンがやるものじゃないの? 僕は地味顔だし、全然似合わないよ」

 

 

 しかし、僕の反論にくらげちゃんはチッチッと指を小さく振ってみせた。

 

 

「お兄ちゃんは考え違いをしてるよ! いい? 女の子の可愛いは作るもの。そして男の子のカッコイイも、また作るものなんだよ!!」

 

「カッコイイを作る」

 

「そう! 雰囲気イケメンって知ってる? 顔のパーツが決して完璧に整っていなくたって、髪型や眉、服装、姿勢、仕草が整っていれば、こいつはイケメンだとみんなは思ってくれるんだよ!! 下手にパーツが主張しすぎない地味系ならなおさら!」

 

 

 ええ? 本当かなあ。

 さすがにそんなことはないんじゃなかろうか。

 

 

「本当だよ? じゃあお兄ちゃん、例を出すけどお芝居でイケメン役と三枚目役がいるとします。でも、遠い客席からはイケメン役と三枚目役の顔立ちなんてよく見えません。しかし観客は誰もがこっちはイケメンで、こっちは三枚目だと認識できます。それは何故でしょうか?」

 

 

 くらげちゃんはそんなクイズを出してきた。

 僕だってお芝居くらいは観たことはある。役者の顔も役名もまるで覚えられなかった僕だが、この人はこの役、とあたりくらいはつけられたのだ。それは何故か?

 

 

「……服装と仕草が違うから?」

 

「そう! イケメンはパリッとした高級そうな服を着て、キビキビと背筋を伸ばして歩く。三枚目は野暮ったい服を着て、情けなさそうな仕草をする。たとえ顔が見えなかろうが、人間はそうやって他人をどういう人間か認識するんだよ。それと同じで、髪型と服装と仕草を整えれば、大体の人はイケメンに見えるんだよ!」

 

 

 ふーむ。そういうものなのか。

 くらげちゃんの知識もまた何かのオシャレの本からの受け売りなのだろうが、これまで僕が意識したことがない理論で結構興味深い。

 そうか、普通の人間はそんな感じで他人を認識しているのか。僕は興味がある人間以外はみんなのっぺらぼうに見えているようなもので、見るそばから印象が抜け落ちてしまうからまるでわからないが……。

 

 身だしなみや仕草をきっちりすればありすを驚かせられるというのなら、やってみてもいいかな。

 

 

「ちなみにくらげちゃん的にはどうすればイケメンに見えると思う?」

 

「そうだなー、私が今やったヘアセットやムダ毛のお手入れを毎朝するのはマストでしょ。15分もあればできるよ。体育の後は髪が乱れるから、セットし直すのも忘れないでね」

 

「ふむふむ」

 

「それから猫背は直す! お兄ちゃんパソコンの前にずっと座ってるから癖になってるけど、正直上背がある人が猫背になってるとすっごい不気味に見えるんだよね。圧迫感もあるし。ジョギングの成果でちょっとまっすぐになって来たけど、意識して直さないと!」

 

「なるほど」

 

 

 そこらへん全部、催眠アプリでなんとかなりそうだ。

 朝15分早く起きて催眠状態でヘアセットさせればいいし、猫背はそうならないように常時気を付けろと無意識下の暗示をすればいいのだ。

 自分でやるならこんな面倒くさいことはないが、意識の外でやらせるなら楽勝である。これも育成ゲームのオシャレの項目を上げるようなもんだ。

 

 

「それから?」

 

「ハンカチは必ず持つ。歯磨きは寝る前と朝ごはんの後にする。シャツの襟はきっちり整える。制服のズボンは毎日プレスされて折り目がついたものを履く。絶対大事なのは体育の後は制汗スプレーを脇の下にかける! あとはー……」

 

 

 

 僕はくらげちゃんからのオーダーを全部メモって、自室に戻ってから音声プレーヤーに吹き込んだ。

 途中からくらげちゃんが考える理想の男の条件みたいになっていた感もあるけど、まあ別に構わない。僕自身がきっちり守るわけでもないんだからほぼ他人事だ。もうひとりの僕に頑張ってもらうとしよう。

 では、催眠アプリ起動だ。

 

 

「催眠!」




お兄ちゃん=男の子っぽくてかっこいいお姉さまの意



明日は時間差で2話投稿です、お楽しみに!

あと、実はこっそりとTwitterやってます。
『さいあい』のその日書ききれなかったこぼれ話や裏設定も呟いてるので、ぜひ覗いてみてください。

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第43話「子猫ありすのマーキングお散歩」

本日2話投稿!1話目です。


「えっ……誰、あの子……転校生?」

 

 

 夏休み明けの教室はザワザワと賑やかだ。仲の良い子たちが久々の再開を喜び、それぞれのグループごとに話に花を咲かせている。

 僕が教室に入った瞬間だけぴたりと静かになったけど、その後は再びわいわいと賑やかな会話を再開した。

 

 

「あんな子うちのクラスにいなかったよね……?」

 

「うわーめっちゃイケてる……! 背が高いし、体も絞られてる感じ!」

 

「クールで大人びた雰囲気あるし、上級生が間違って入って来ちゃった? でも制服の学年章はウチらと同じだよね……?」

 

 

 それにしても視界が広く見える。

 前髪を整えたのと、猫背を矯正した結果だ。これまでよほど猫背になってしまっていたんだな。なんか世界が一変したように感じる。

 

 多分ありすは驚いてくれると思うけど、早く登校してこないかなあ。

 そう思っていると、「おーーっす! おひさしぃ!」とひときわ大きい声が響いた。

 おっ、にゃる君か。ささささんも一緒に登校してきたな。

 

 

「おはよ、にゃる君、ささささん」

 

 

 そう言って2人の方を向くと、彼らはぎょっとした顔で目を剥いた。

 ずるっとにゃる君の肩からカバンがずり落ちる。

 

 

「は、ハカセ? もしかしてハカセか?」

 

「ん? そうだよ。1週間ぶりで僕の顔忘れちゃった?」

 

「お……おいおいおい!? なんだその髪!?」

 

「うわぁ……うわぁうわぁうわぁ! どうしたの!? すっごいイケメン風になってるじゃん!」

 

 

 にゃる君とささささんが声を上げると、クラスがどよっとざわめいた。

 

 

「マジで!? あれって葉加瀬(はかせ)なのか!?」

 

「うそ!? 本当に葉加瀬くん!?」

 

「な、何があったんだよアレ! ほぼ別人じゃねーか!!」

 

「えっ、葉加瀬くんってそもそも誰だっけ……?」

 

「ほらいたじゃん、クラスの一番後ろでいつも天幡(あまはた)新谷(しんたに)に囲まれてた、ぬぼーっとしたのっぽの冴えないヤツ……!」

 

「ええ!? あのオバケみたいなのがあんな爽やか風に!? し、信じられない……夏の魔物だ! 天狗の仕業よ!!」

 

 

 なんかクラスメイトがうるさいなあ。にゃる君たちが何を言ってるか聞き取りづらいから静かに話してほしい。

 

 

「妹がこうするとかっこいいよーって言うからやってみた。どう?」

 

「お、おう……正直見違えた」

 

「ふわぁ……。妹さんのオシャレセンスすごいね」

 

 

 おっ、ささささんからもお墨付きをもらえたぞ。これは兄として鼻が高い。

 

 

「ありがとう。自慢の妹なんだ」

 

 

 そう言って笑いかけると、ささささんはぽーっとした表情になって僕を見つめ返してきた。にゃる君がそんな彼女を見て、うぐっ!? と声を上げる。どうしたんだ。

 

 

「それよりありすはまだかな……」

 

「ありすサンなら日直だから職員室に日誌取りに行ってるんじゃねえかな。もうすぐ来ると思うぜ」

 

 

 ああ、なるほど。名字があ行だから出席番号1番なんだった。

 そんなことを思っていると、ようやくありすが教室に入ってきた。

 

 

「おはよう。……なんか賑やかね?」

 

 

 ありすは教室がやたらうるさいのに眉をひそめている。

 こちらに来るまで待ちきれず、僕は席を立ってありすのところで向かった。おお、なんか歩き方まで自然とキビキビしてる。催眠と運動の効果だな。

 

 

「おはよう、ありす」

 

「…………!?」

 

 

 ありすはぽかんとした顔で、僕を見つめ返した。

 

 

「え!? は……ハカセなの!?」

 

「うん。ちょっとイメチェンしてみたけど……どうかな」

 

「ど、どうって……」

 

 

 ありすはつま先立ちになりながら僕の頬を両手で掴んで、じっと見つめてくる。ちょっと痛い。

 それから僕の周囲をくるりと回り、制服の上着の(すそ)(えり)、ズボンや靴をしげしげと観察し始めた。

 

 

「……ハカセ、このコーディネート誰にやってもらったの? 自分でできるわけないわよね、こんなこと」

 

 

 あれ、なんか言葉のトーンがちょっと低いような。

 

 

「くらげちゃんにやってもらったんだよ。いや、正確には髪だけセットしてもらって、他は要望を聞いて自分でやってみたんだけど……」

 

「そっか、みづきちゃんかぁ……」

 

 

 ありすはほっと安心したように息を吐いた。何か機嫌が直ったらしい。

 なんか反応が想定外だけど、これは驚いてくれたってことでいいのだろうか?

 不安になってきたので、本人に訊いてみよう。

 

 

「どう? 似合ってる?」

 

「すっごくいい………………っ!!」

 

 

 ありすは絞り出すように、僕には理解できないが感情が物凄く込められた感じで呟いた。

 心なしか目がキラキラしてるような気がする。

 

 

「いい。めっちゃいい。襟もシャツもズボンもきちんとしてるのが本当によくわかってる。さすがみづきちゃん、ハカセのよさみへの理解度ハンパないわ。これは職人の仕事よ……!」

 

 

 めっちゃ早口じゃん。

 そうか、ありすは気に入ってくれたのか。

 何やらスマホを取り出して、うずうずした感じで僕に向けている。

 

 

「ね、写真撮っていい? 撮っていい?」

 

「ああうん、別にいいけど」

 

 

 僕がそう言うと、クラスの女子たちの何人かが「私も!」「ウチも!」とスマホを持って押し寄せてきた。ええ……何なんだ……?

 ありすがクラスメイトに振り返りってキッとした視線を向けると一瞬びくっと震えたが、それでもスマホを持って何か言いたげにしている。

 そんな彼女たちの前にささささんが割って入って、ぴぴぴぴーと口でホイッスルを真似た音を出した。

 

 

「はいはーい、みんなは後だよー。ありすちゃんが最優先でーす。当たり前の理屈だよー、わかるよねー?」

 

 

 何が当たり前なんだ。

 しかしそれで女子たちは納得したらしく、未練ありげなそぶりを見せながらも下がっていく。女子の考えることはわからない。

 

 というか、この前の浴衣のときもそうだが……。

 

 

「なんでありすは僕なんかの写真撮りたがるの?」

 

「私の写真集めてるアンタがそれを訊くの?」

 

 

 僕の質問に質問で返しながら、ありすは嬉しそうにパシャパシャとシャッターを切る。

 ……えっ、ちょっと待って。スマホのコレクションフォルダのことバレてる?

 

 いや、まさか……浴衣の写真とかのことだけだよな? 女性誌買ってモデル写真集めてることまでバレてないよね? バレてたら僕は切腹して果てるぞおい。

 

 

 

※※※

 

 

 

「ハカセ~♪ ちょっとお散歩しない?」

 

「……お散歩?」

 

 

 始業式が終わった後の休み時間に、速攻でありすが僕の席にやってきた。

 なんだその猫撫で声……。普段にない行動されると不気味なんだけど。

 

 

「お散歩って……ここ学校だよ?」

 

「うん、校内をお散歩しましょ?」

 

「十分勝手知ったる場所だし、今更何を見るんだ」

 

「いいから来なさい! ほら、きびきび立つ!」

 

 

 そう言いながらありすはぐいぐいと僕の腕を引っ張ってくる。

 なんなんだ……?

 にゃる君とささささんに視線で助けを求めると、ささささんはやれやれと肩をすくませ、にゃる君は何やら乾いた笑いを上げながら僕の肩を叩いてきた。

 

 

「ありすサンの好きにさせてやれ。これまでずっと待たせてたんだから、今日くらいはいいだろ。男冥利に尽きるぞ」

 

 

 にゃる君が何を言ってるのか全然わからない。

 ……しかし、何しろにゃる君の言うことだ。多分僕のためを思ってのことだろうし、言うとおりにしよう。

 

 僕が立ち上がると、ありすはいそいそと僕の腕に抱き着いて、嬉しそうに頭をすり寄せてきた。

 なんかそうやってもたれかかられると、ちょっと重い……。筋トレしてなかったら満足に支えきれなかったかもしれない。

 

 

「おっ、いいね! お似合いだぞご両人」

 

「ひゅーひゅー♪ アツいねえ」

 

 

 にゃる君とささささんがからかうと、ありすはデレデレとした顔で「やだぁもう……」と呟いて、僕の腕の下に埋もれるように顔を隠した。

 ええ……? ありすがこんなデレデレになってるの見たことないぞ……。

 あ、いや、子猫ありす事件のときに見たか。でもあの顔を学校でするとは。

 

 

「ハカセ、いこ?」

 

「う、うん」

 

 

 僕は脇に抱えたありすに引っ張られるように歩き出した。

 うーん、なんか廊下にいる生徒がみんな僕たちの方を見てるぞ。教室から飛び出して見てくる連中もいるし、これってなんかすごい人目引いてない?

 

 

「ありす、なんかすごくたくさんの人に見られてる気がするんだけど」

 

「うん、そうよ? それが目的だもん。いっぱい見せつけるわよ」

 

 

 え、注目集めていいの? 高校に入ってからは一歩引いた姿勢だったのに、また目立ちたくなったのかな。中学みたいな女王様モードはやめてほしいんだけど。

 それにしても……。

 

 

「やっぱりありすって目立つんだなあ」

 

「ハカセも目立ってるんだけどなぁ。わからない?」

 

「全然わからない」

 

 

 他人に興味がない僕には、逆に他人から興味を抱かれているかどうかなんてわからないのだ。

 すると、ありすはクスクスと悪戯っぽく笑った。

 

 

「まあ、ハカセはそうよね。見た目をカッコよくしても中身が変わるわけないもの」

 

「うん、そうだよね」

 

「だからみんなが見た目に騙されてる間に、私が独り占めしちゃえたってわけ」

 

 

 ありすは子猫がゴロゴロと喉を鳴らして甘えるような音を出して、僕の腕にスリスリと頬をすり寄せた。

 

 

「今更みんながハカセのカッコよさに気付いても、もう手遅れなんだから」

 

「でも、見てくれがちょっと変わっただけだよ?」

 

 

 1年生の廊下を抜けて、校庭へと出る。

 

 校舎の窓から1年生だけでなく2年や3年の生徒が身を乗り出し、グラウンドを走っていた生徒たちが脚を止めてこちらを振り返る。

 道行く生徒たちがありすに視線を集中させてるのを感じて、僕はその視線から庇うようにありすを引き寄せた。

 

 ありすはんふふ、と笑いながら僕を見上げる。

 

 

「私はハカセの中身もカッコいいこと、ずっと知ってたわよ。だからハカセの隣には私がいるんだよって、みんなに教えてあげるの」

 

「そうか、じゃあ僕はありすの隣が定位置ってことになるな」

 

 

 なるほどなあ。

 

 

「それはいいな」

 

「でしょ? だから次の休み時間も、昼休みも、放課後も、今日はずっと一緒に歩こうね」




くらげちゃん「大☆成☆功♪」


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外伝「もしも友達にモテ期が来たら」

本日2話投稿!2話目です。


「でもさー、本当にハカセくんすごく見違えたよねえ」

 

 

 2学期が始まって1週間が経った、ある日の昼休み。

 所用で席を外した博士(ひろし)を除いたありすたちは、それぞれの弁当を食べながら歓談していた。

 

 

「それな。トレーニングしっかりやってる下地のうえにオシャレ始めたからなあ。しっかり締まった体格で見た目きちんと整えてるから、すげースマートな感じに見えるよな」

 

「そうね……」

 

 

 (ながれ)の言葉に、ありすははあーと物憂げな溜息を吐く。

 それを見て沙希(さき)は不思議そうに小首を傾げた。

 

 

「あれ? ありすちゃん嬉しくないの? めっちゃ喜んでたじゃん」

 

「嬉しいわよ? 嬉しいけどぉ……」

 

 

 ありすはスプーンと一体になった可愛らしいフォークで、つんつんと兎餅さんをつついた。

 

 

「見た目は本当に100点……ううん、150点なの! 私のツボ突きまくりなの! (えり)もシャツもズボンも靴もきっちりと固めてて、背筋まっすぐ伸びてて! 見た目クールな顔立ちで、知性感じさせまくりじゃない? でも口を開いたらいつものとぼけた感じなのも最高……!」

 

「あーわかる。クールな表情から『自慢の妹なんだ』って嬉しそうに微笑まれたときのギャップすごかったもん」

 

「でしょでしょ!? あれもいいの! 家族や友達のことを話すと素直で優しいところが出るの大好き!」

 

「わかるー! すごくわかるー!! 他人に興味ないけど、いったん懐に入ったらすっごく大切にしてくれるところ好きー!」

 

 

 ありすと沙希はキャーキャーと互いの手を叩き、一気に盛り上がった。

 流はじゅるるると牛乳のパックを吸いながら、少し醒めた目で2人を眺めている。

 

 いや、別に流とてハカセのことが嫌いなわけではない。むしろ無二の親友だと思っているし、素直で優しいところも身内を大切にするところも大好きだ。

 しかしこう……自分が好意を抱いている女性2人がきゃあきゃあと親友のことで盛り上がっているのを見るのは……もにょる。めっちゃもにょる。

 

 

(くっ……俺はなんて器が小さい男だ。ダチが褒められているのに、見苦しい嫉妬を……)

 

 

 流は軽く頭を振ると、バクリと焼きそばパンにかぶりつく。

 もしゃもしゃと咀嚼(そしゃく)して飲み込むと、頬杖を突いて訊いた。

 

 

「それで、なんでありすサンは困った顔してたんだ?」

 

「だって……だって、ハカセのいいところに気付いてるの、私たちだけでいてほしかったんだもんっ!」

 

「あー……」

 

 

 沙希はなるほどなーと頷いた。

 

 

「ハカセくんの見てくれに惹かれて寄って行くのがイラッとする、みたいな? お前らニワカにハカセくんの中身の何がわかるんだよぉ! って」

 

「それ。すごくそれ……!」

 

「まあ確かにそうだなあ。俺もあいつの中身がいいからダチやってるわけだし」

 

 

 つーかメジャーデビューしたインディーズバンドのやっかいな古参ファンみたいだな……と思ったが、流はあえて口にしなかった。

 代わりにへらりと笑って、ありすを(なだ)めにかかる。

 

 

「まあ心配することないって。今は物珍しいだけっすよ。どうせハカセの中身は変わってねーんだから、すぐ飽きられるって」

 

「そうかなぁ」

 

「そうっすよ。今もラブレターに呼び出されてるけど、どうせすぐ断って……」

 

「は?」

 

 

 ありすはガタッと立ち上がると、鋭い視線で流を睨み付けた。

 失言に気が付いた流の全身から脂汗が流れ落ちる。

 

 

「なんでそれを私に言わないの」

 

「あ、いや。大丈夫ですよ、心配ないっす。ハカセが承諾するわけが……」

 

「したらどうするの。恋をする人間の心理に興味があるんだとか言いかねないでしょ」

 

「まあそれは言いかねなくもないけど……、だからって告白に応えるとかほぼ絶対にありえないので……」

 

「どこ?」

 

「裏庭です」

 

 

 流が答えるが早いが、ありすは凄まじい速さで教室を飛び出していった。

 ありすが完全に姿を消したのを見て、流と沙希は顔を見合わせ、ほーっと溜息を吐く。

 

 ありすのお弁当に蓋を被せてやりながら、沙希は呆れたように口を開いた。

 

 

「つーかマジで? ありすちゃんがあんだけ始業式の日に全校に見せつけたのに、まだ横から人の男をかっさらおうとするバカっているんだ。正気を疑っちゃうな」

 

 

 中学のときのこと考えたら私が言えた口じゃないけど、という言葉は飲み込む。本当にバカなことをしたなあ……。

 

 

「まあ略奪愛の方が燃えるって手合いも一定数いるだろうしな。それにしても相手が悪いだろうとは思うが」

 

「ああ、まあハカセくんもありすちゃんも最悪の相手ではあるよね……」

 

 

 焼きそばパンを平らげた流は次のパンの袋を破く。

 

 

「大体ハカセがOKするわけねえんだよ。あいつ一昨日告白してきた相手になんて言ったと思う? 『僕はキミのこと顔も名前も知らないんだけど。キミも僕のことなんて知らないでしょ? 何で好きですなんて言ってきたの?』だぞ」

 

「うわぁ……。本人に悪気ちっともないのはわかるけど、言葉がエグすぎるでしょ。触れる者みな傷付けるナイフかよ」

 

「で、相手が『クールで他人に興味なさそうなところが好き』って言ってきたんだけどな」

 

「相手もガッツあるなー。HP1で踏み留まってんじゃん」

 

「そしたらハカセが『わかってるんじゃないか。僕はキミに興味ないよ』だってさ。それでおしまい」

 

「ゲームオーバーかー。もう二度とコンティニューできないねぇ」

 

 

 沙希は水筒に入った麦茶を飲み、ふーと溜息を吐いた。

 流も窓の外に目を向ける。

 

 

「で、その後ハカセが近くで様子を見てた俺に訊いてきたんだけどな」

 

「うん」

 

「『クールで他人に興味ないところが好きっておかしいよね。だって他人に興味がない人間は告白されても振り向かないし、優しくしないでしょ。何でそんな人間を好きだなんて言うんだろうね』だってさ」

 

「……まあ、言われてみればそうだよね。それ、アンタなんて答えたの?」

 

「清楚系AV女優みたいな矛盾する存在を求めてるんじゃねって答えた」

 

 

 ぶふっと沙希が麦茶を噴き出し、飛沫(しぶき)が流の顔に降りかかった。

 

 

「ぎゃーーー! 汚ねえだろうがっ!!」

 

「ご、ごめん……ツボ、ツボに入った……ぷくくくくくく……」

 

 

 沙希がバンバンと机を叩いて爆笑する。

 流がシャツでごしごしと顔をこすろうとすると、沙希はポケットからハンカチを手渡した。それを受け取り、自分の顔についた飛沫を拭き取る。

 

 

「でもあいつ、全然ピンときてなかったな。多分あれ、AV見たことねえぞ」

 

「……ハカセくんってさ、やっぱり性欲ないの?」

 

 

 沙希はちょっと真顔になって訊いてみた。

 実は2年前からずっと気になっていたのだ。だって自分に手を出してもいい状況だったのに、指一本触られなかったから。

 

 当初は彼が紳士だからだと思っていた。だが、友達として一緒にいるうちに相当な変わり者だということに気付き……もしかしたら性欲がないんじゃないかという疑惑に変わりつつあった。

 だってそうじゃないと……そうじゃないと、ボクが指一本触れるほどの魅力もない女の子だということになってしまうじゃないか。

 

 女の子に対して高校生男子らしからぬ枯れた態度を貫く博士に、友人として信頼も敬意も抱きながらも、その一点はずっと沙希の心に影を落としていた。ポジティブ思考を植え付けられているので、普段はおくびにも出さないが。

 この悩みは流もありすにも相談できない。できるわけがない。

 

 沙希が改心した経緯をまったく知らない流は、コリコリとこめかみを掻く。

 

 

「いや、そんなことねえよ。ないならありすサンに執着しねえだろ。ただ……」

 

「ただ?」

 

「多分あれ、ありすサン以外に異性を感じてねえんじゃねえかな」

 

 

 流の発言に、沙希はぎょっと目を剥いた。

 

 

「い、一途すぎる……! じゃあ何? ハカセくんは生涯に一人の女しか好きにならないわけ? そんな人間いる?」

 

「いるんだから仕方ねえだろ。運動したのもイメチェンも、絶対あれありすサンのためにやったぞ。間違いない、断言できる。あいつの行動原理はほぼ全部ありすサンが関わってる」

 

 

 沙希ははぁー、とため息を吐く。

 ……そうだといいな。それならボクの乙女のプライドも救われるんだけど。

 

 それにしても……。

 

 

「すごいなあ、ハカセくんは。あれくらい愛されたらありすちゃんも嬉しいよね。ちょっと……いや、すごく重たい愛情だと思うけど」

 

「まあありすサンも恐ろしく重い女だからお似合いなんじゃねえかなあ。俺らみたいな一般人は絶対釣り合わねえわ」

 

 

 中2の頃の自分は、よくもまあありすサンに憧れて彼女にしようなんて思ったな……と、流は過去の自分の視野の狭さにヒヤヒヤする。そばで眺めるにはよくても、付き合うのは無理だ。こちらの精神がもたない。

 

 どこの世界にイメチェンしてきた幼馴染を、全校生徒にお披露目ついでにマーキングして回ろうなどと考える高校生がいるのだ。独占欲も顕示欲も強すぎる。しかもまだお互いに付き合ってないつもりなんだぞ?

 それこそハカセのように精神に最初から穴が空いてるような浮世離れした人間でないと、ありすに振り回されるのに耐えられないだろう。

 

 だからハカセとありすがくっついてくれるのは良いことだ。

 流もあの2人には幸せになってほしいと心から望んでいる。

 

 

「ただ……」

 

「ただ?」

 

 

 うーんと唸りながら、流はゴリゴリと頭を掻きむしる。

 

 

「ハカセって運動もイメチェンも、絶対『魔法』を自分に使ってると思うんだよな」

 

「まあそうだよね。運動大嫌いだったし、オシャレはめんどくさがるタイプだと思うよ」

 

「でも、魔法っていつか解けるもんだろ?」

 

 

 流の言葉に、うーんと沙希は唸った。

 

 

「それはおとぎ話とかの話でしょ? 私にかかった『魔法』は解けてないよ?」

 

「多分『魔法』にかかったことを認識できている時点で解けてるんだと思うぜ。解けてないと思ってるのは、『魔法』がかかった状態を維持しようとしてるからだろう。俺とお前の自助努力の成果なんじゃねえかな」

 

「なるほど……」

 

 

 言われてみれば、自分もハカセくんにかけられた『魔法』から随分逸脱してるよなーと沙希は考える。思考回路はポジティブに変わったが、割と毒舌なのは元のままだ。つーか目の前のこの筋肉男が、毒舌に戻してきやがったのだが。

 こいつは本当に、人を毒舌キャラに戻すわ、ボクっ子にするわ、チアガールさせるわ……一体ボクをどんな女の子にしようとしてるのさ。

 

 まあハカセくんの『魔法』も絶対の強制力はなくて、その後の他人との関わりによって精神のありようも変化していくということなのかな。

 

 

「で、それがどうしたの? ハカセくんにかかった『魔法』も、本人が維持しようと努力すれば問題ないんでしょ?」

 

「いや、なんつーか。あいつ多分楽するために『魔法』を使ってるだろ」

 

「うん、そうだね」

 

「おとぎ話って、楽するために魔法を使うと大体何かヤバいしっぺ返しがくるんだよな……」

 

「…………」

 

 

 間の悪い沈黙が満ちる。

 その空気を変えるように、流はハハハと乾いた笑いをあげた。

 

 

「なーんてな! いや、冗談冗談。おとぎ話ってのは大体努力した奴が報われますよって寓意が込められてるもんだからな。現実にはそんなことないだろ」

 

「そうだよねえ……うん。ないない! シンデレラとか魔法に頼りまくって棚ぼた大勝利だよ? あの話好きなんだよね、ネズミが出て来るから」

 

「お前本当にネズミ好きだなあ……」

 

 

 そんなことを話している間に、ありすが博士の腕を掴んで帰ってきた。何やらプリプリと怒っている。

 

 

「ほら、早くご飯食べるわよ! まったくあんなのにデレデレ鼻の下伸ばして……」

 

「伸ばしてないだろ!? 僕は最初から断るつもりで……」

 

「うるさい! あんな誘いにノコノコ顔出す時点で伸ばしてるの! 今度から無視しなさい、無視! いいわね!」

 

 

 そう言いながらありすは博士の弁当箱を開け、ミートボールに自分のフォークをぶっ刺す。

 

 

「はい、とっととご飯食べる! あーん!」

 

「えっ、いや。自分で食べられ……」

 

「あーん!!」

 

「……あーん。うう、無理やり詰め込まれてもなんかおいしくない……」

 

「うーるーさーいー。私が食べさせてあげてるんだから、世界一おいしいでしょ。こんなサービス、ハカセしか味わえないんだからね!」

 

「もぐもぐ……そう言われるとおいしく感じてきたかも」

 

「でしょ。ほら、次は何食べたい?」

 

 

 そんな博士とありすのイチャつきに、流と沙希の顔から笑顔が漏れる。

 

 

「……ま、何があってもこの2人ならどうにでもなるだろ」




他の女に手を出されそうになったので、自分の良さを執拗にアピール(ツン期)。


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第44話「催眠オーバーブースト」

「明日は体育祭だな……」

 

 

 カレンダーを見ながら、僕は顎をさすった。

 

 運動にまったく興味がない僕にとって、体育祭は単に授業がない日というだけに過ぎない。そもそも運動音痴にも程があるので、競技に参加してもまったく活躍する見込みはない。全体競技には参加するが、まずもってやる気がない。

 なので中学時代もありすやにゃる君が出場した競技を応援するくらいしかやることはなく、大体本を読んで過ごしていた。

 

 だが今年はちょっと違う。

 夏休みの初めから10月の今に至るまで、僕は催眠によって毎晩運動してきた。

 せっかく鍛えたのだから、その成果でもってありすを驚かせてみたいじゃないか。つまり僕にも人並みに欲が出てきたというわけだ。

 

 

「問題はどの競技をやるかだよな……」

 

 

 言うまでもなく個人競技はほぼ運動部の生徒で枠が占められていて、文化部や帰宅部の生徒には枠がない。ありすとささささんは帰宅部なのに借り物競争に出ることになっているが、運動ができる人気者なので特別枠だ。

 

 ということは全員参加の競技で活躍するほかないわけだが……。

 大丈夫だ、どの競技で活躍するかのアタリはつけてある。

 体を鍛えたとはいえ僕はそもそも足が遅いから走るタイプの競技は向いてないし、他人と戦った経験もほぼないので棒倒しや騎馬戦もダメだろう。

 

 だが、唯一僕にも活躍できそうな競技がある。

 

 

「『玉入れ』……これだ」

 

 

 僕は身長が無駄に高いから玉を(かご)に入れるまでの距離が短い。

 とはいえ僕は球技も全般的にダメで、特にコントロールがさっぱりだったので去年まではいくら玉を投げても籠に入らなかったわけだが……。

 

 今年は違う。

 ちゃんと体も鍛えているし、何よりも僕には催眠アプリという強い味方がある。これを自分に使って好成績を残すつもりだ。

 

 とはいえ、別に『運動がうまくなれ』なんて催眠をするつもりはない。そんな曖昧(あいまい)な命令をしても、まず効果は出ないだろう。

 

 そもそも僕は別に元々体が弱いわけではない。運動していないなりに、普通に日常生活を送れる程度の筋力はある。

 ではボールが何故まともに飛ばないかというと、自分の体の構造を脳と神経がちゃんと把握できていないのだ。

 自分の腕がどれだけ長くて、どのくらいボールに力を乗せて、どのタイミングと角度で投げれば狙った位置にボールを当てられるのか。普通の人間はそれを無意識のうちに計算して投げているが、僕は自分の体をまともに把握できていないので、計算が狂ってしまう。

 多分体のリミッターをオフにできてしまうのも、自己暗示の強さだけでなく、変な把握の仕方をしてるからだろう。

 

 しかし、僕はこの2カ月半の間毎日運動を欠かさず行って、体の神経を活性化させてきた。もう自分がどんな体をしているのかは無意識のうちに脳が把握しているはずだ。

 あとは催眠アプリを使って、『自分の肉体を正確に把握しろ』という暗示を脳に与えてやればいい。ついでに『ボールを投げるときに目測の位置に命中するように計算しろ』という暗示もかけておこう。

 

 自分で作ってなんだが、催眠アプリは本当に万能だ。他人に使っても強力だが、自分に使ってもこれほど便利なものとは思いもよらなかった。

 さあ、明日は活躍するぞ!

 

 

「催眠!」

 

 

 

※※※

 

 

 

 そんなわけで体育祭当日。

 見事な秋晴れの下、暑くもなく寒くもない運動には持って来いの天気だ。

 

 

「ハカセ、なんか機嫌良さそうね?」

 

 

 ありすは不思議そうに小首を傾げて僕を見ている。

 体操服の上から学校指定のジャージを羽織(はお)り、赤いハチマキを締めている。

 普段の体育は男女別なので、ありすの体操服姿を間近で見るのは割と珍しい経験だ。体操服のありすも可愛い。

 

 

「毎年すっごく憂鬱(ゆううつ)そうな顔してるのに、どうかしたの?」

 

「ふふふ……今年の僕をこれまでの僕と同じだと思うなよ」

 

 

 そう言うと、ありすはニコニコして頷いた。

 

 

「そうね。ハカセは最近すっごく頑張ってるもの。きっと何かの競技で活躍できると思うわ! 頑張ろうね!」

 

 

 あ、あれ? なんか思った反応と違うな。

 てっきり貧弱な僕をバカにしてくるだろうから、そこから思わぬ活躍を見せて度肝を抜いてやろうと思ったのに……。

 まあいいや、ありすを驚かせるいいチャンスなのは変わりない。

 

 ふふふ……これまで貧弱な坊やとバカにしてすみませんでしたと無理やり土下座させてやるぜ!

 ……って、いやいや待て。無理やり土下座させるのはありすに催眠をかけてやらせることで、確かに催眠アプリは使ってるがその形だと目的は達成できないぞ。

 

 なんかこの目標も久々に思い出した気もするが、初志(しょし)貫徹(かんてつ)しなくては。

 最近どうも物覚えが悪くなってきたような感じがある。無意識にいろいろやらせさせすぎて、脳がマルチタスクに追いつかなくなってきてるのかな……?

 

 

 

※※※

 

 

 

 さて、いくつもの種目が終わって、玉入れの時間がやってきた。

 催眠は思ったようにハマってくれるだろうか?

 

 僕は立っている場所から籠までの距離を目測で測ってみる。約8メートル、眼との高低差は230センチといったところか。僕の目には生まれつき世界が数値で見えているから、目視すれば大体の距離は測れる。それでもボールをまっすぐ投げられないのだから、よほど自分の体を把握できていなかったのだろう。

 

 

「では、よーい……ドン!」

 

 

 パァンという空砲の音と共に、生徒たちが一斉にしゃがんで玉を拾い始めた。

 僕もその中に混じって玉を拾ってみる。

 

 おっ……わかる、わかるぞ! あそこに投げようと思っただけで頭が最適な軌道を計算して、それにぴったり沿うように体が自然と動いてくれる。

 

 僕が投げた玉は、計算に(あやま)たず籠に入ってくれた。

 おお……生まれて初めての経験だ! ちょっと感動した!!

 

 僕は調子に乗って3つ玉を拾い、続けざまにぽいぽいと投げてみる。

 他の生徒たちが籠を外す中、玉は計算どおりに籠に入っていった。

 いける、いけるぞ! 入って当然みたいな感じで入っていく。

 ゴミ箱の上で手を離したら真下に落ちたゴミがゴミ箱に入った、体感的にはまるでそれくらいの難易度に感じる。

 

 

「ハカセくん……すごいね!? そんなに玉入れ上手かったんだ!」

 

 

 そばにいたささささんが、ぽかんとして僕を見ている。

 ふふふ、そうだろう。これが催眠の力だ。

 ささささんは素早くしゃがんでボールを拾い上げると、僕に手渡してきた。

 

 

「ね、ボク背が低いから玉入れ苦手なんだ。ボールどんどん拾って渡すから、発射台お願いしていい?」

 

「うん、いいよ。どんどん渡して」

 

 

 ささささんが拾い上げるボールを次々に籠に向かって投げ入れていく。

 うん、百発百中だ。

 

 小柄だが機敏なささささんとのっぽで確実に玉が入る僕、これはなかなか相性のいいコンビなのではなかろうか。

 そうやって玉を次々と投げ入れていると、次第に周囲のクラスメイトたちが呆気にとられたように僕を見てくるのに気が付いた。

 

 

「えっ……!? ハカセすげーな!?」

 

 

 おっ、にゃる君がびっくりしてるぞ。ありすもこっちを振り返っている。

 やった、ありすを驚かせられたぞ! ほら見て見て!

 

 僕は軽く手を振り、手に持った玉を5個連続で投げ込んでやる。

 もうコツは完全に覚えた。ほら、5個全部ホールインだ!

 

 

「ハカセ、すごいすごい! やるじゃない! いつの間に特訓したの!?」

 

 

 ありすが喜色満面(きしょくまんめん)でこちらに走り寄ってくる。

 残念だがこれは特訓じゃないぞ。僕はチッチッと軽く指を振る。

 

 

「僕の持っていた潜在能力ってやつだよ。玉の軌道を計算してやれば、こんなの楽勝だよ」

 

「へえー。理系の人って本気で運動したら体を計算ずくで動かしてすごい成績出せるっていうもんね」

 

 

 あれ? 別にこれができるのは僕だけじゃないのか。

 僕以上に頭がいい人はやっぱりごろごろいるもんだな。

 まあいいや、ありすを驚かせることができただけで僕は満足だ。

 

 

「ハカセくん、玉持ってきたよ! 早く投げて!」

 

「あ、はい」

 

 

 ささささんがずいっと玉を差し出してくるので、僕はそれを受け取ってぽいぽいと籠に収めていく。

 くっ、のんきに話してる時間が取れない……。

 

 

「ハカセに玉を渡して投げさせる作戦なのね! じゃあ私も!」

 

 

 するとそれを見ていたありすも、ささささんの真似をして玉を拾い始めた。

 ありすは自分で投げた方が総合的には点数を稼げるんじゃないかと思うけど……。でも僕にチャンスを託してくれるってのはちょっといい気分。いや、すごくいい気分がするぞ。

 

 

沙希(さき)、私の腕の中に玉を集めて。ハカセに投げさせるから!」

 

「あ、なるほど! りょーかい!」

 

 

 ありすは胸の前で両腕を組み、そこに自分が集めた玉を落とした。そこにささささんが集めた玉を加えて、たちまち両腕いっぱいに玉が抱えられていく。

 

 

「はい、ハカセ! ここから玉を取ってどんどん投げて!」

 

「そういうことか、オッケー!」

 

 

 女子にしては上背があるありすが両腕に作った玉置き場は、僕が手を伸ばして取るのにぴったりだ。

 うん、これならいちいち玉の方を見なくても即座に投げ込んでいけるな。

 

 

「よーし、それそれそれ!」

 

 

 僕はありすの方を見ることもなく、次から次に玉を籠へ投げ込んでいく。

 気分はまるでピッチャーマシンだ。今の僕は籠に玉を入れるために生まれた機械と言っても過言ではない!

 

 それにしても僕の腕前を見るなり、すぐさま効率的に点数を稼げる方法を考え出すありすはやっぱり大したものだ。ありすは何だって機転が利くので、組んでいてとても気持ちがいい。

 

 さあ、そろそろタイムリミットが近い。ここでラストスパートを決めて……!

 

 

 ふにょん。

 

 

 何やら手がとても柔らかくて温かいものに触れた。

 ん? これはなんだ? 玉にしてはなんか柔らかくて弾力があるな。触っていてとても幸せな気分になるような……。

 

 僕が顔をありすの方に向けると、玉が尽きて空っぽになった彼女の腕の中で、僕の手がありすの胸をまさぐっていた。

 

 ありすは真っ赤になって、ぷるぷると震えている。あ、ちょっと涙目だ。なんだろう、すごく罪悪感が掻き立てられる。

 

 

「あ、いや、待って。わざとじゃないんだ」

 

「………………」

 

「話し合おう」

 

「………………」

 

 

 ありすは涙目のまま、じりじりと距離を詰めてくる。

 あ、だめだこれ。

 

 

「いや、柔らかくてすごく気持ち良かったけど、これは不可抗力で」

 

「……えっち!!」

 

 

 ありすの腕が振りかぶられ、ばちぃん! という音と共にホイッスルが鳴り響いた。

 

 

「終了ーーーーーー!!」

 

 

 ……あー、空がすごく綺麗だ。雲ひとつない秋晴れだなあ。

 お空を飛んでいくのはトンビかな?

 

 頬がヒリヒリするのを感じながら、僕は仰向けになって秋空を眺めた。

 視界の外からささささんがぼそっと呟くのが聴こえる。

 

 

「なぁんだ、やっぱハカセくんも健康な男の子だったんだね」




ささささん一安心。


なお「理系の人が本気で運動したら体を計算ずくで動かしてすごい成績を出せる」とは
理論とデータに基づいた効率的なトレーニングメニューを組んで成果を出せるという意味であって、
間違っても視覚や体幹を数値化して理論値を叩き出すという行為ではないです。
TASプレイかな?


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第45話「体操服のプリンセス」

「……ハカセ。おい、ハカセ?」

 

 

 強めに肩を揺さぶられて、僕はハッと意識を覚醒させた。

 にゃる君が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。

 

 周囲を見るとまだ体育祭は続いていて、僕は自分のクラスの席で体育座りをしていた。

 

 

「あれ、今僕寝てた?」

 

「寝てたっつーか……目を開いたまま意識を手放してたように見えたが。呼びかけても返事しねえし、どうしたのかと思って」

 

「そっか。ちょっとぼーっとしてたみたいだね」

 

 

 催眠で玉入れの計算なんてしたから脳が疲れていたのかもしれない。

 

 

「なんか最近そうやってぼうっとしてることが多い気がするけど、大丈夫なのか?」

 

「え、そう? そんなこともないと思うけど」

 

 

 僕は意識をシャッキリさせようと自分の頬を叩いて、「いてっ」と小さく悲鳴を上げた。右頬がヒリヒリと痛んでいる。あーそうか、そういえばさっきありすにビンタされたんだっけ。

 にゃる君はクックッと笑いながら、僕の隣に座りこむ。

 

 

「さっきのビンタ、綺麗に決まったよなあ。あんな見事なラッキースケベの流れはなかなか見ねえぞ」

 

「いや……あれは本当に事故だったんだって」

 

「だろうなあ。お前に意図的に揉みにいける度胸があればとっくに……」

 

 

 そう言いながら、にゃる君は手でお椀を作ってみせる。

 

 

「で? 触ってみてどうだったんだよ」

 

「……控えめに言って最高でした。とても柔らかかったです」

 

「かーーーーっ! 役得しやがって、このむっつりハカセ! そんな羨ましい感触を味わえたのはお前だけだぞオイ。全校男子に代わって成敗してやらぁ!」

 

「いたたたたたた!! 離して離して!」

 

 

 にゃる君にヘッドロックを決められて、僕は苦痛に呻いた。

 プロレス技をかける真似をされることはよくあるが、今日はなんかちょっと本気度が高いような……。

 

 ひとしきり技をかけて満足したのか、にゃる君が手を離す。

 

 

「……しかしハカセでもおっぱい触って喜ぶもんなんだなあ。意外なような、なんか安心したような……」

 

「僕を何だと思ってるんだ」

 

「何って……まあ、うん」

 

 

 しかし女の子の胸って、触るだけであんなに幸せになるものだったんだな。とても不思議だ。赤ん坊の頃にお母さんの胸に抱かれた記憶を思い出すのだろうか?

 猫とかは大人になっても、リラックスしたら前脚をふみふみして母猫から授乳されるときの仕草をするっていうし。人間もそういうものなのかもしれない。

 

 そういえば、こんなバカ話してたらいつも首を突っ込んでくるささささんが静かだな。

 そう思いながら周囲に視線を巡らせていると。

 

 

「ああ、沙希(さき)とありすサンか? 借り物競争に出場するから一緒に待機しに行ったぞ」

 

「え、もうそんな時間なの」

 

 

 僕がぼーっとしてる間に3競技ほど終わっていたようだ。にゃる君が出場したはずのクラブ対抗リレーも終わってるな……。

 

 

「にゃる君の応援しそびれちゃったね、ごめん」

 

「ん? いや、お前沙希やありすサンと一緒に応援してたぞ?」

 

「え?」

 

「めっちゃ大声でエール送ってくれてたじゃねえか。忘れたのか?」

 

「…………」

 

 

 おかしいな、記憶に残ってないんだけど……。

 もしかしてありすにビンタされて記憶が飛んだんだろうか。

 

 

(深く考えなくてもいいんじゃないか?)

 

 

 ……うん、深く考えなくてもいいな。

 しかしそうか、もう借り物競争なのか。こっちは頑張って応援しなきゃな。

 

 

「ところで借り物競争ってどんなルールなの?」

 

「……お前、本当に体育祭に興味なかったんだな……」

 

 

 にゃる君はちょっと呆れた顔をしながらも、ルールを教えてくれる。

 

 

「コースの半ばまで走って、お題の紙を選ぶんだよ。で、お題に書かれてるものを場内から探してきて、それを持ってゴールインする速さを競うんだ」

 

「へー、なんかスポーツっていうよりバラエティ番組みたいだね」

 

「まあそんな枠だよな。だからクラスの人気者とかが選ばれる傾向が強いんだよ。それで足が速ければぴったりの人選だよな」

 

 

 なるほど、それならありすとささささんが選ばれるわけだ。2人とも人気者だし、走るの速いもんな。

 

 

「でも、お題に書かれてるものが場内になかったらどうするの?」

 

「それは大丈夫だ、あそこに体育祭委員が立ってるだろ? お題の内容が人間なら別だが、品物の場合は委員が隠し持ってるから、それをもらえばいいんだよ」

 

「そっか、本当に探して借りてくるわけじゃないんだね」

 

「じゃないと詰みになっちまうだろ。まあ借り物の内容も結構ふざけたものが多いし、本当に体育祭のバラエティ担当みたいな感じの競技だよ。……おっ、そろそろ始まるみたいだぞ」

 

 

 にゃる君の言葉にコースを見ると、ささささんが第一走者としてスタート位置に立つところだった。ありすは第二走者なんだろうな。

 

 パァンとスタートを示す号砲が鳴らされると、ささささんが弾丸のように飛び出していく。おっ、速い! バラエティ枠なのに割とガチな速さを見せている。

 

 

「頑張れー!」

 

「オラッ、沙希(さき)ぃ! ビリになったら罰ゲームしてもらうからなぁ!」

 

 

 ささささんはお題の紙を選んでその内容を読み取り……ちょっと困ったような顔をしてる?

 そしてこちらを見ると、ダッシュで走り寄ってきた。

 

 

「にゃる、ちょっと来て!」

 

「おっ、俺をご指名か。お題はなんだ? 『好きな人』とかじゃねーよなぁ」

 

「バーカ、うぬぼれんな!」

 

 

 ニヤニヤしながらからかうにゃる君に、ささささんはずいっとお題が書かれた紙を見せた。

 

 

『マッチョな男子』

 

 

「おっ、こいつはまさしく俺のためのお題だな! ようやく沙希も俺の肉体美を認める気になったか? んん?」

 

「は? 細マッチョですって言い張ってハカセくん連れてってもいいんだけど?」

 

「うるせえ! 黙って俺についてきてくださいって言え! オラ行くぞっ!!」

 

 

 そう言って、にゃる君はささささんの手を握り走り出す。

 

 

「ちょ、ばか! 強く握りすぎだって、痛いじゃん!」

 

「わはははははははは!」

 

「歩調を合わせろ、おい! もー! ボクの話を聞けーーーーーーー!!」

 

 

 ちょっと顔を赤くしたささささんが、にゃる君に引きずられていく。

 なんかハッスルした大型犬に引きずられていく小学生の飼い主みたいだな。

 

 なるほど、ああいう感じの競技なのか。

 おー、走る走る。しかしあんま速くはないな。にゃる君って柔道家だから瞬発力は高いけど、その分長距離を速く走るのは苦手なのかもしれない。

 

 結局2人は2位でゴールインした。

 

 

 さあ、次はありすの番だ。

 僕は両手でメガホンを作り、スタート位置に着いたありすに声援を送る。

 

 

「頑張れー! ありすーー!!」

 

 

 応援の声に気付いたありすが、こちらに向かって軽く手を振り返してくれた。

 

 パァン! と号砲が響き、ありすが走り出す。うーん、フォームも綺麗だな。

 そしてお題の紙を取り、その中身を確認して……。

 

 ん? なんだ? すごく困った顔をしてるような。

 何があったんだ。

 

 ありすは僕のところまで小走りでやってくる。

 泣きそうな顔じゃないか……。

 

 

「ハカセ、どうしよう。これ……」

 

 

 ありすが差し出した紙には『ナイフとフォーク』と書かれている。

 ……くそっ。よりにもよってなんて相性が悪いものを……。

 フォークはありすが持ってる先が丸いプラスチックのがあるとしても、ナイフを持ち歩いている奴は普通いないだろう。

 

 ありすは迷子になったようなオロオロとした顔で僕を見上げている。

 もう見ていられない。

 

 

「……僕がなんとかする。こっちに来て」

 

 

 僕はありすから紙を奪い、ありすの手首を掴んで体育祭委員の元へ向かう。

 ありすは無言のまま、引きずられるようについてきた。

 

 

「ん、借り物かな? 何が欲しいか言ってくれる?」

 

「ナイフとフォークをください。こいつは競技を完走できなくなったので僕が代走します」

 

 

 そう言いながら、ありすから奪った紙を見せる。

 しかし、体育祭委員は眉をひそめて首を横に振った。

 

 

「ダメだよ、その子を走者に選んだのはキミのクラスだろ? 最後まで責任を取って走ってくれなきゃ。別に怪我をしてるようにも見えないし、走れるだろ?」

 

「ナイフとフォークを持てない体なんです」

 

「はぁ? なんかの冗談かな。じゃあどうやってステーキを食べるんだい?」

 

 

 体育祭委員が笑いだしそうな顔になった。

 僕はその顔に内心イラッとしながら告げる。

 

 

「ありすは尖端(せんたん)恐怖症です。(とが)ったモノは持てません、特に刃物は。だから僕が代わりに走ると言ってるんです」

 

 

 ありすは僕の隣で顔を伏せている。くそっ、そんな顔しなくていいんだ。

 好きでそんな体質になったわけじゃないだろ。

 

 しかし体育祭委員は、バカにしたような顔で言った。

 

 

「尖端……? よくわからないけど、刃物が怖いってこと? そんなの好き嫌いだろ、我慢しなよ。ともかく代走なんて認めないから」

 

 

 こいつ……!

 僕はカッと頭に血が昇るのを感じた。

 

 思わず掴みかかりそうになった僕の手に、そっと柔らかい手が添えられる。

 ありすが僕の手を弱々しく握り、制止していた。

 

 

「いいのよ、ハカセ。私、やっぱり自分で走るから」

 

「でも……」

 

「大丈夫、ちゃんとできるから。もう高校生なんだし、わがまま言ってないでいい加減乗り越えなきゃ……」

 

 

 そう言いながら、ありすは体育祭委員が持ち出した金属製のナイフとフォークに目を向けている。

 

 青い顔で、恐怖に引きつった目をして、そんな言葉を言わせたくなかった。

 汗に濡れ、小刻みに震える手の冷たさを感じたくはなかった。

 ……恐怖から逃げることを、わがままとは言わないだろう。

 

 むしろこれまでやりたいことをずっと我慢してきたんじゃないのか。

 小学生のときはコンパスもハサミもカッターも裁縫針も使えなかった。

 中学生になってもシャープペンを使えず、先の丸い鉛筆を使うしかなかった。

 食事だって制約だらけだ。バーベキューの鉄串を自分で外せない。ハンバーグを自分で切れない。使えるカトラリーは箸か先の丸いプラスチックのフォークとスプーンだけ。

 そして何より、包丁を握れない。料理研究家の娘なのに、自分でも料理をやりたいとずっと思ってきたのに、その第一歩を致命的に挫かれている。

 そんな理不尽な我慢を強いられてきたのに、まだありすに耐えろっていうのか。

 

 ……だが、この体育祭委員は恐怖症がどんなものか知らないのだろう。きっとただの好き嫌いくらいにしか考えていない。どれだけ身を竦ませ、自由を縛る生理的な恐怖なのかがわからないのだ。ここで彼の理解を求めても仕方ない。

 

 

「わかりました……」

 

 

 僕はため息を吐くと、ありすの後ろに下がった。

 ありすは震えながら、体育祭委員が差し出すナイフとフォークに手を伸ばす。

 

 

 ……でも、だからといってその不理解がありすを傷付けることは許せない。

 僕はありすを傷付けるものに、何の容赦もするつもりはない。

 

 

「えっ……?」

 

 

 ありすの後ろにしゃがみこみ、彼女の脚を掬うように左腕を動かすと、その柔らかい体がぽすんと僕の両腕に収まった。

 そのままありすを横抱きにして立ち上がると、僕は体育祭員に左手を差し出す。こっちの手ならありすには見えないはずだ。

 

 

「さあ、ナイフとフォークを寄越せ! ありすがゴールすれば問題ないんだろ?」

 

「ハカセ……!?」

 

 

 目を白黒させているありすにウインクを送って黙らせ、体育祭委員に向き合う。彼はまだ渋っているようだ。

 

 

「いや……だが、それは……」

 

「さっき『マッチョな男子』で選ばれた僕の友達が、本人を引きずってゴールしてたぞ。それが許されるんなら、こうやって持ち上げたっていいはずだろう」

 

「……わかったよ」

 

 

 体育祭委員は諦めたようにうなだれ、ナイフとフォークを差し出してきた。

 それを受け取り、ありすに見えないように彼女の体の下にしまう。

 

 

「さあ、行くぞありす。しっかり掴まってろ!」

 

「……うん!」

 

 

 ありすが僕の首に両手を回し、ぎゅっと包み込むようにくっつく。

 その柔らかさと温もりを感じながら、僕はゴールに向かって疾走した!

 

 

『おーーっと、これはなんだ!? 1年の天幡(あまはた)さんが男子にお姫様抱っこされて運ばれているっ!?』

 

 

 実況席が驚愕の声をあげ、全校生徒と客席の視線が集まるのを感じる。

 知ったことか。

 僕はありすがいればいい。ありすさえいれば、僕は無敵だ!

 火事場モードを強制発動、耐え抜けっ!!

 

 

『なんということでしょう! まるで降って沸いたブライダル! 体操服のお姫様が、王子様に抱えられてゴールへ電撃入籍だーーーーっ!!』

 

 

 火事場モードに入って集中した僕の耳に、アナウンスが何か叫んでいるのが聴こえる。しかしその意図は伝わってこない。きっと今の僕には誰の声も届かないだろう。

 世界にただひとりを除いては。

 

 

「ハカセ、頑張って!!」

 

 

 ありすの応援する囁きが耳元に響く。

 その途端、体にさらなる力が湧き上がってきた!

 まさか『声の力』の効果か?

 

 ……いや、関係ない!

 ああ頑張るさ。

 たとえその声に特別な音波なんて何ら秘められていなかったとしても、ありすに応援されて頑張らなきゃ嘘だ。僕の手を引いて歩いてくれたその声は、僕にとって何よりの元気の源なんだから!

 

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 

 僕は柄にもなく咆哮を上げて、死に物狂いでゴールへと走った。

 守るぞ。僕はありすを傷付ける、この世のいかなるものからも守り抜く。

 ありすが刃物を握れなくなったあの日から、僕はその約束を忘れたことはない。

 

 

『天幡選手、今万感のゴールイン!! 着順こそビリですが、女の子としては校内最速のゴールを決めましたーーーーっ!! 会場の皆様、万雷(ばんらい)の拍手でご祝福ください!!』

 

 

 ゴールに着いたぞ!

 うう、つい火事場モードをプチ発動してしまった。反動が一気に襲ってくる。

 

 ……何か興奮しているのか、アナウンスがめっちゃうるさい。なんかすごい拍手の音が響いてるし、何が起こってるんだ。

 

 酸欠でぜぇぜぇ肩で息をしていると、ありすがぎゅっと僕の顔を抱きしめてくれた。その青い瞳には涙が浮かんでいるが、恐怖からのものではないようだ。

 

 

「ありがとう、ハカセ。あなたはいつも私を守ってくれて……」

 

「当たり前だろ。そう最初に約束したんだ」

 

 

 僕はありすを地面に降ろすと、その場に崩れ落ちた。

 あ、火事場モードの反動で意識が……。だめだ、これ強制睡眠に入るやつだ。

 

 急速に暗くなっていく視界の端で、にゃる君とささささんが駆け寄ってくるのが見える。

 あーよかった。後は2人に任せよう。がくり。

 

 

「ハカセーーーーーっ!?」

 

「いくらなんでも、本気出しすぎだろ僕……」




体育祭委員はその後めっちゃ叱られて、
涙目でコンプライアンスを理解させられました。
許してあげてください。


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第46話「知らないうちにサブご主人になっていた件」

「きゅぅーん」

 

「な……なんだ……!?」

 

 

 冬も近付く11月のある日、帰り道にコンビニの前を通った僕は戦慄した。

 

 コンビニの前の電柱にありすの飼い犬、ヤッキーが繋がれていた。

 いや、それだけならまだいい。どうせ激しく吠え掛かってくるだろうと身構えた僕に向かって、ヤツは甘えた声を上げて見上げてきたのである。

 なんだ、どういうことだ。僕を油断させてから噛みつく作戦か……?

 

 そう思って様子を窺っていると、なんとヤッキーはその場にころんとひっくり返って、お腹を見せてきた。

 僕は激しく混乱しながら、『ワンだふるわーるど』を起動して翻訳を試みる。

 

 

「きゅーんきゅーん」

『どうした、サブご主人。お腹を撫でていいのだぞ? さあ来られよ』

 

「…………!?」

 

 

 なんということだ、今になって誤作動が見つかるとは……!?

 いや、しかし『ワンだふるわーるど』の精度は約90%。10%の誤訳を踏んでしまったのかもしれない。

 

 

「きゅーん」

『ほら、撫でるがいい。腹の毛はもふもふして暖かいぞ』

 

「きゅんきゅん?」

『この寒空で腹を出すのも、こちらとしては寒いのだぞ?』

 

「きゅうーーーん」

『風邪をひいてしまうじゃないか。さあ、こちらにおいで』

 

 

 10%の誤訳を4連続で引いた!?

 いきなり小数点以下の確率で僕を追い詰めて来るとは、なんて犬だ。

 

 ごくり。

 

 僕は意を決して、ヤッキーに近付くとお腹に手を当ててみる。

 ヤッキーは素直に僕の手を受け入れ、撫でさせてくれた。

 あ、柔らかい……。それに毛がフカフカしている。

 

 

「くぅん♪」

 

「あら、ヒロくんじゃない。元気ー?」

 

 

 そのとき、コンビニの中から出てきた人が僕に声をかけた。

 黒髪を肩で切り揃え、勝気そうな瞳をした女性だ。瞳の形は僕の親しい人にとてもよく似ている。少なくとも40後半のはずなのだが、まだ30代前半のように若々しい。

 

 

「こんにちわ、ヨリーさん」

 

「体育祭ぶりねー。あーさぶさぶ、コンビニの中あったかかったから温度差こたえるわー」

 

 

 ありすのお母さんのヨリーさんだ。料理研究家をしていて、たまにテレビに出演しているほかに動画配信サイトで料理動画チャンネルを持っている。

 人の顔と名前を覚えるのが苦手な僕だが、彼女の場合はありすと関連付けることで覚えることに成功していた。

 

 ヨリーさんは僕にお腹を撫でられているヤッキーを見ると、くすっと笑ってしゃがみ込む。

 

 

「おー、ヤッキーもようやく懐いたわねー。まああんだけ毎日可愛がってあげてればそりゃ懐くか。リラックスした顔しちゃってまあ」

 

「……毎日?」

 

「うん、毎日一緒でしょ? うちの子も毎晩そわそわしながら出かけちゃってまあ、我が子ながらわかりやすいわよねえ」

 

 

 ドキッと心臓が跳ね上がった。

 ヨリーさんはうりうりとヤッキーの顔を撫でている。

 

 

「小学校のときはヒロくんもたまにうちに遊びに来てくれたのに、中学生になってからさっぱりで。たまには顔を見せなさい、私も独立して自宅で仕事できるようになったんだし。おもてなしするわよ?」

 

「あはは……まあ、それは」

 

「あー……もしかしてうちの旦那のこと気にしてるわけ?」

 

 

 僕が浮かべた愛想笑いから、ずばりと本心を読み取ってくる。相変わらず勘が鋭い。

 実際その通りで、僕はありすのお父さんが苦手だった。

 

 いや、苦手というか嫌われているんだと思う。

 

 

「気にしなくていいのよー。どーせあいつ家にいない時間の方が長いんだし、いくら来てもらってもバレないって」

 

「はあ……」

 

 

 万が一にも顔を合わせたくないんだよなあ。

 どうも僕のことを娘に近付く悪い虫と思われている感じがある。小学生のときの僕は今よりも機械的というかかなり精神が虚ろだったので、第一印象も良くなかっただろうし。

 

 僕がそう思っていると、ヨリーさんは手をパタパタと振って笑った。

 

 

「ああ、ちなみにこの前の体育祭のお姫様抱っこの映像、一部始終旦那に送っておいたから」

 

「えっ……!? あれ見せたんですか!?」

 

 

 割と本気で顔から血の気が引いた。

 体育祭のお姫様抱っこ事件は僕にとって最新のトラウマだ。やってるときは自分が何してるかあまり自覚がなかったが、うちのお母さんが撮影したビデオを後から見せられて穴があったら入りたい気分にさせられた。

 

 なんでお姫様抱っこなんだよ! ナイト気取りかお前!

 そもそも普通に一緒に走ればいいだろ、抱える必要あった!?

 

 

「あの……シンさんはなんと?」

 

「今度日本に戻ったときに挨拶に来るように言ってたわよ? ふざけんなよねー。娘が小さい頃から散々家族ぐるみで世話になってんだから、お前が行けっての。そういうところが配慮ないのよホント。ごめんねー」

 

 

 そう言ってヨリーさんはケラケラと明るく笑う。

 シンさんというのはありすのお父さんの名前だ。

 

 

「まあ帰ってくるのも来年だし、それまでには立ち位置が逆転してるかもしれないけどね。娘をもらってくださいって言わせればいいんじゃない?」

 

 

 ヨリーさんは僕が手にしたスマホを見てそんなことを言った。多分ありす経由で僕が『ワンだふるわーるど』を作ったことが伝わってるんだろうなあ。

 ありすのお父さんは海を股にかけるビジネスマンで、すごく稼げる人だ。僕なんかがそうそう追い越せるとは思えないけど。

 というか、娘をもらってくださいって、ありすとはそういう関係では……。

 

 そんなことを思っているうちに、ヨリーさんは話を変えてくる。

 

 

「そういえば来月にはクリスマスだけど、あんたたちってクリスマス会とかしたりする?」

 

「あー……どうでしょう。まだ何も決めてないけど、それも楽しそうですね」

 

「でしょ?」

 

 

 ヨリーさんはニコニコと笑い、僕の頭をぐしぐしと撫でた。

 セットした髪が乱れたけど、そうされるのは全然嫌じゃない。

 

 

「いっちょ前にオシャレするようになって、あのヒロくんがねぇ。……ありすの友達の子たち、あんたが紹介したんでしょ?」

 

「にゃる君とささささんのことですか?」

 

「うん、そう。あの子家だとあんたのことばっか話しててね。最初はハカセが変な子と一緒にいる、騙されてるんだーみたいなこと言ってたんだけど……いつの間にか友達になっててさぁ」

 

 

 当初はにゃる君やささささんを信用してなかったのか。

 まあ、にゃる君はともかくささささんは自分で取り巻きから追放したんだし、当たり前か……。

 

 

「あの子も人間とのまともな付き合い方全然わかってない子だから。あんたのおかげであの子もやっと友達が作れたみたい。ありがとう、本当に感謝してるのよ」

 

 

 そう言ってヨリーさんは僕を優しい目で見つめた。

 なんだか気恥ずかしくなって、僕は頬を掻く。

 

 

「いえ、そんな……僕は大したことは。それに、友達第1号は僕ですから!」

 

「……いや、あんたは友達っていうより……」

 

 

 ヨリーさんはンンッと咳払いした。風邪かな?

 

 

「まああんたのことは昔から息子だと思ってるから、私は!」

 

「……ありがとうございます」

 

 

 僕の中で、ヨリーさんの顔と名前がひと際鮮明になった気がした。

 

 ヨリーさんはニコニコと笑顔を浮かべたまま、話を戻す。

 

 

「だからありすとあんたがクリスマス会するなら、腕を披露してあげるから気軽に言ってね。クリスマスケーキととびきりの寿司フライを用意するから!」

 

「あ、はい。そのときは是非」

 

 

 そこはチキンじゃないんだ……という言葉を飲み込む。

 

 寿司フライは料理研究家としてのヨリーさんの得意料理で、富山名物のます寿司をカラッと揚げたフライだ。聞いた人は誰もが何そのゲテモノ……と思うのだが、ます寿司は元々固めに握られた寿司なのでフライにしやすく、酢と油が予想外に合うのだ。誰が言ったか「ます寿司の伝統を冒涜する美味」。

 

 ヨリーさんはこの寿司フライで旦那さんの胃袋を掴んで惚れさせたのだと豪語している。

 ちなみに日英ハーフなのは旦那さんのシンさんの方で、ヨリーさんの本名は頼子(よりこ)。純日本人である。旦那さんが彼女をヨリーと呼ぶので、ヨリーさんは娘のありすや知人全員にも自分をヨリーと呼ばせている。ぞんざいそうに見えて旦那ラブなのだ。

 

 

 

※※※

 

 

 

 ヨリーさんと別れて家に戻ってきた僕は、机に腰かけて頭を抱えた。

 

 

「……絶対におかしい」

 

 

 体育祭のあたりから何か変だとは思っていた。

 日中に意識が飛んだり、気が付けば覚えのない場所にいたり。にゃる君やささささんと会話してる最中に、さっき自分が何を言ったのかわからなくなったり。

 

 だが、今日のヤッキーの態度とヨリーさんの言動でようやくてがかりがどこにあるのか掴めた。

 催眠中の運動タイムだ。

 僕の意識がない間に、何かが起こっている。

 

 僕は催眠アプリを起動すると、自分に向けて発動することにした。

 内容は昨日の運動タイムの記憶を取り戻すこと。

 

 自分が運動している間の記憶を忘れるように命令している僕だが、そもそも記憶そのものが脳から削除されてたわけではない。単に思い出せなくなっているだけで、記憶自体はしっかりと残っているはずだ。

 いわば記憶の引き出しにしっかりと鍵がかけられて開かなくなっているわけで、催眠アプリを使ってその鍵を開けてやれば記憶を再生できるのだ。

 

 さあ、一体何が起こっているのか……暴かせてもらうぞ。

 

 

「催眠!」




ツンデレは母譲り。
好きな人を『アンタ』と呼ぶのもお母さんから学習しました。


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第47話「失われた逢瀬を求めて」

(よしよし、ちゃんと再生されているな)

 

 

 催眠アプリで昨夜の記憶を思い出す暗示はしっかりと効力を発揮して、眼を閉じた僕の視界の中で映像が流れ始める。

 というかこれすごいな。聴覚や嗅覚、触覚もバッチリ再現される。これなら完全に追体験できるぞ。

 

 そう思っていた矢先、僕はストレッチを開始した。

 これからの運動でダメージを受けてしまわないように、丹念に関節を伸ばしていく。

 うっ、これ運動するときの感覚まで追体験してしまうのか……。

 

 ストレッチはいいとしても、この次の筋トレの辛さまで思い出してしまうのはきついものがある。

 そう身構えていた僕の予感を裏付けるように、昨日の僕は腕立て・腹筋・スクワットの3点セットをこなし始めた。

 

 

(……あれ? そんな辛くはないな)

 

 

 以前授業でやったときはひいひい言ったはずだが、思ったよりも辛くない。

 不思議に思っていたが、よく考えたらこれはいつもこなしているセットメニューだ。きっともう体と脳が慣れ切っているのだろう。

 というかむしろ体から汗が流れてくるのをちょっと気持ち良く感じていたりする。

 

 しかし僕の認識では貧弱モヤシ坊やだった時期からいきなり少し腹筋が割れて見える現在まで飛んでいるので、自分の体がすいすいと腹筋をこなせるのは何とも言えない不気味さがあった。

 記憶を全部取り戻せば別におかしなことでも何でもないのだろうが、かといって初期のめちゃめちゃ辛かった記憶を追体験するのはやっぱり嫌だ。

 

 

(しかし筋トレまでは何の異常もないな)

 

 

 そうこうしているうちに、筋トレも終わり僕は外へと向かう。

 この後はジョギングをするはずだが……。

 

 

「お兄ちゃーん♪」

 

 

 そう思いながら追体験していると、自分の部屋から出た直後に待ち構えたようにくらげちゃんに声を掛けられた。というかドアの外で絶対待ち構えてたぞ。

 

 

「今日はねー、ちょっと寒くなってきたし肉まん食べたい気分なんだけど」

 

「わかった、買ってくる」

 

「やったー! お兄ちゃん大好き♪」

 

「調子がいい奴だな。太らないようにしろよ」

 

「ちゃんと運動してるから平気だもーん」

 

 

(くらげちゃんのパシリにされてる-ーーー!?)

 

 

 というか普通に会話してるじゃねえか! 催眠状態じゃなかったのか!?

 ……いや、よくよく考えたら別に僕は「催眠状態で運動する」とは言ってなかった気がする。暗示の内容はあくまでも「運動している間の記憶を思い出せなくなる」であって、催眠状態でぼんやりしたまま体を動かすわけではないのか。というかそれだといくらなんでも外で運動するのは危なすぎるもんな。

 

 そう思いながら見ていると、くらげちゃんはニコッと笑いかけてきた。

 

 

「お兄ちゃんってジョギングに行くときだけは何でも言うこと聞いてくれるから好き!」

 

「はいはい、じゃあ行ってくるよ」

 

「うん、気を付けてねー!」

 

 

 あ、何でも言うことを聞くってところだけは催眠状態が持続しているのか?

 僕はくらげちゃんに軽く手を振って、外へと出ていく。

 

 もう11月なのでだいぶ肌寒いが、ジャージ姿の僕はふっふっと腹式呼吸で息を吐きながら、小走りに夜の住宅街を駆けていった。

 このコースは小学校の登下校に使っていた道か?

 視界の先に、ブロック塀にもたれかかっている赤いジャージの人影が見える。

 彼女は僕に気付くと、嬉しそうに微笑みかけてきた。

 

 

「こんばんわ、ハカセ」

 

「うん。ありす、寒くなかった?」

 

「大丈夫、今来たところだから」

 

 

(!?!?!?!?!!?)

 

 

 ありす!? どうしてありすが……。

 というか、その場所は僕たちが小学校のときの登校時に待ち合わせに使っていた場所じゃないか。

 しかもありすが着ている赤いジャージは、僕の青いジャージと同じデザインだ。ありすは背中に小さなリュックを背負っているが、それ以外はサイズ以外ほぼ同じ格好。もはやペアルックである。

 

 愕然としている僕の視界の中で、昨日の僕はありすの手を握っている。

 

 

「……うん、ほんとだ。冷たくないな。というかあったかい」

 

「ポケットにカイロ入れてるからねー」

 

「わふう!」

 

 

 ありすの足元で何かが鳴き声を上げ、僕の視界がそちらに向けられる。

 ヤッキーだ。

 尻尾をブンブンと振り回すヤッキーは、ハッハッと口から白い息を漏らしながら僕を見上げている。

 

 

「ヤッキーもこんばんわ」

 

「くぅん♪」

 

「ふふ、ヤッキーもハカセに会いたかったって言ってるね」

 

「そっか。よしよし」

 

 

 僕がしゃがみこんで頭を撫でると、ヤッキーは「おん!」とひと鳴きして答えた。えっ、なんかすごい親密そうじゃん……。

 

 

「じゃ、そろそろ行きましょ。じっとしてたら体冷えちゃうわよ」

 

「そうだな。じゃあ今晩もジョギング兼ヤッキーの散歩を頑張ろう」

 

「わぅん!」

 

 

 そんなやりとりをして、僕とありす、ついでにヤッキーは夜の住宅街を走り出す。

 

 風を切りながらフッフッと腹式呼吸しながら走っているのでお互い言葉少なだが、ときどき思い出したように会話している。

 それがまた自然な感じで、昨日学校であったこととか家族の話題とか、僕ならこんなことを話すだろうなってことを一言一句そのままに、ありすとやりとりしている。

 違うのはそのやりとりのすべてを、今の僕が覚えていないということだ。

 

 何故僕がジョギングを1時間に増やしたのかようやくわかった。体を鍛えるためではない。毎晩ありすと一緒にいられる時間を増やしたかったからだ。

 ……それならそうとメモを残しておけよ! 何で僕はこんな素敵な時間を忘れてるんだ!?

 

 まさかこれまでずっと、僕はありすと毎晩ジョギングし続けていたのか? 道理でありすが僕の体の変化に驚かなかったはずだ。ありすは毎日僕が体を鍛えるところを間近で見ていたのだから。

 というか、ありすと同じように腹式呼吸やまっすぐな姿勢で走っているところから考えて、ジョギングはありすが指南していた可能性が高い。

 

 そんな2人きり+1匹の夜の散歩を始めてからおよそ40分。

 小学校までのコースを往復した僕たちは、家の近くにある公園に入って行った。

 ここは思い出深い場所だ。

 子供の頃は放課後はいつもここで花や雪を見ていて、夕方になったらありすが探しに来て家に連れて帰ってくれた。

 

 そんな場所にやってきた僕たちは、ベンチに座ってひと息ついている。

 そしてありすはリュックを降ろすと、中からバスケットを取り出した。

 

 バスケットの中身は……ラップに包まれたおむすびだ。

 ありすはバスケットを僕に向けて差し出して、にっこりと笑った。

 

 

「今日もお疲れ様。はい、今晩のお夜食よ」

 

「ありがとう。これはどれがどの具?」

 

「えっとね、これがおかか、ツナマヨ、しそ梅干し。それからこれがチーズ」

 

「じゃあ……おかかとチーズがいいな」

 

「はい、どうぞ」

 

 

(あああああああああああああああああああああ!!!!)

 

 

 ありすのおにぎりじゃないか!!

 しかも記憶にあるものよりもずっと形が良くて美味しそうになってる!!

 僕ならそれが欲しいと思うおにぎりを選びやがって、僕め!

 

 っていうか今晩の夜食ってなんだ!? まさか……まさか、お前これまで毎晩ありすが握ってくれたおにぎり食べてたのか!?

 なんて羨ましいことを……!!

 

 僕はラップを剥くと、ぱくりとおにぎりを食べた。

 うん、すごくおいしい。

 ちょっときつめに塩が振られているが、それが運動して疲れた体にはすごくぴったりだ。おにぎりの握り具合も口の中でちょうどよくほぐれる加減だった。

 

 

「ごめんね、いつまで経ってもこんなのしか作れなくて。私が包丁使えればいいんだけど」

 

 

 そう言って、ありすがしゅんとした顔をする。

 何を言うんだ。ありすはありすなりに、包丁を使えなくてもおいしいおにぎりを作れるようになってるじゃないか。

 食べてみればわかる。できるだけおいしいものを食べてほしいって気持ちが込められている。それをバカになんてできるわけがない。

 

 

「何言ってんだ。ありすはありすなりに、包丁を使えなくてもおいしいおにぎりを作れるようになってるだろ」

 

「えっ……そうかな。だったら嬉しいけど」

 

 

 僕の言葉にありすははにかむように微笑んで、自分の指をそわそわと組み変えた。

 

 

(あああああああああこの野郎!! それは僕のセリフだぞ!! うん、僕のセリフだわ!!)

 

 

 羨ましさと怒りで頭がおかしくなりそう……!

 

 なんとも言えないことに、昨日の僕はどこまで行っても完全に僕なのである。僕なら絶対そう言うだろうと思うことを言うし、同じ視野で同じ反応をする。しかし今の僕にだけ、その記憶が残っていないのだ。

 

 ……というか、ありすのおにぎりが上達しているのって……。もしかして、僕は毎晩夜食を作ってもらっていたのか? 3カ月をかけてヘタクソなおにぎりから今のおいしさになるまでの過程をまるまる忘れている?

 な、なんてもったいないことを……!!

 

 

「わうー」

 

 

 人間たちがベンチの上で夜食を食べているのを見て、ヤッキーが物欲しげな声を上げた。

 それを聞いたありすが、はいはいと言いながらカンパンの缶を取り出す。

 

 

「ごめんね、ヤッキーもお夜食ほしいよね。はい、ハカセ」

 

 

 そう言いながら、ありすが缶を振って僕の手のひらに中身を出す。

 ドッグフード。

 

 僕はしゃがみこみ、手をヤッキーの顔の前に持っていった。

 

 

「くぅん♪」

 

 

 ヤッキーが嬉しそうに舌を出し、僕の手のひらの上のドッグフードを舐めとって食べていく。

 ……く、くすぐったい……。

 

 全部食べ切ると、ヤッキーはその場にころんとひっくり返って、お腹を出してきた。

 ありすがそれを見てクスクスと笑う。

 

 

「ヤッキーったらホント甘えん坊ね」

 

「飼い主に似たんじゃない?」

 

「えー、私そんな甘えたりしないでしょ!」

 

 

 いや、ありすはすごく甘えん坊だよ。

 ……ということは口にせず、僕はヤッキーのお腹を撫でてやった。

 ヤッキーは嬉しそうにきゅーんと甘えた声を出している。

 

 くっ、ヤッキーのくせに意外と可愛いところもあるじゃないか。

 

 

 夜食を食べた終えた僕たちは、公園の水道で手を洗ってからコンビニに向かう。

 

 

「今日はくらげちゃんに何を頼まれたの?」

 

「寒いから肉まんだって」

 

「あ、いいなー。私も買おうかしら」

 

「さっきおにぎり食べたばっかだろ……」

 

 

 そんなことを話しながら、僕たちはコンビニをぐるりと物色。

 

 最後にブロック塀のところに戻ってくると、お互いに(ねぎら)い合って別れた。

 

 

「じゃあ今日の運動はここまでだな」

 

「うん、今日もお疲れ様」

 

「おにぎりうまかったよ。……じゃあ、また明日」

 

「うん。また明日、学校でね」

 

 

 僕が少し進んでからちょっと振り返ってみると、ありすがまだ僕を見ていた。

 小さく手を振られる。

 僕は少しだけ手を振ってそれに応えると、振り返らずに夜の街を小走りに帰って行った。

 

 秋の夜の風は冷たく。

 でも、心の中はとても暖かかった。

 

 

 

※※※

 

 

 

 追体験から戻った僕は、椅子に座ったままぐったりと脱力していた。

 

 

「こ……」

 

 

 バン、と机を叩いて声を絞り出す。

 

 

「こんなの……デートだろぉ!? これをずっとやってた!? 3カ月の間毎日!? う、嘘だろ……!!」

 

 

 ああああああああああああああああああ!!!

 毎晩こんな思いをしておいて、僕の記憶にはまるで残ってないとか……そんな絶望的なことってある!?

 僕はセットした髪がぐしゃぐしゃになるのも構わず、頭を掻きむしった。

 

 だがこれでジョギングの謎は解けた。

 

 

『そうね。ハカセは最近すっごく頑張ってるもの。きっと何かの競技で活躍できると思うわ! 頑張ろうね!』

 

 

 体育祭のときのありすの態度の理由もわかった。

 そりゃ毎日一緒にトレーニングしていれば、そういう態度にもなるだろう。

 

 催眠運動タイムが終わるとすごくお腹が空いていたのに、一時期からお腹が減らなくなった理由も理解できた。

 減らなくなっていたんじゃなく、食べていることを忘れていたのだ。

 

 

 では次の問題は、何故ありすとこんなことになったのかということだ。

 思い当たるてがかりはひとつしかない。

 

 

「僕が頬に怪我をした状態で目覚めたあの日。何かがあった……」

 

 

 次の催眠の内容は決まっている。

 失われたあの日の記憶を追体験するのだ。

 

 僕は催眠アプリを自分に向けて発動する。

 

 

「催眠!」




記憶の中のハカセは催眠がかかってるので、
普段より思ったことを素直に口にしています。


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第48話「メモリーダイバー」

(うわ……暑っ!)

 

 

 あの日の記憶の追体験を始めた僕が最初に感じたのは、現在との温度差だった。現時点では11月だが、記憶の中の世界は8月の暑い盛りだ。所詮記憶の中の感覚に過ぎないとはいえ、温度差に面食らいそうになる。

 というか、これほど正確に温度まで記憶しているとは僕の記憶力はどうなっているんだろうか。それとも、そんな細部までもが強く記憶に残るほど大事な出来事だったのか。

 

 僕はストレッチと筋トレを黙々とこなしているが、その辛さが現在とは段違いだ。既にこの時点で2週間ほど筋トレはしているとはいえ、3か月後の現在と比べるとどれだけ非力だったのかがよくわかる。

 

 

(そんなことよりもジョギングだ、ジョギング。早く筋トレを終わらせてくれ)

 

 

 20分の追体験の記憶に歯を食いしばって耐え、決定的な瞬間が来るのを待ちわびる。

 どれだけきつくても所詮は時間にすれば20分、ようやく筋トレから解放された僕は速やかにジョギングに向かう。

 この時点ではまだくらげちゃんにパシらされるということもないようだ。

 

 外に出てすぐに気付いたが、明らかにフォームが悪い。それに腹式呼吸を意識しているということもないようだ。手足を振り回しながら、バタバタと不格好に走っている。

 とりあえず走ってはみたといわんばかりだが、これでは運動の効果はあまり期待できそうにないな。

 

 

(やっぱりありすに指導してもらったのかな?)

 

 

 そう思いながら夜の住宅街を走っていると、どこからか高い声が聴こえた気がした。いや、間違いない。たとえ一瞬であろうが、途中で途切れた声であろうが、僕がその声の持つ響きを聞き間違えるわけがない。

 

 ありすが悲鳴を上げている。

 

 記憶の中の僕もそう感じたのだろう、それまでの適当な走り方とは打って変わって、全速力で声の方向へ走り出した。

 

 

「ありす! どこだ!?」

 

 

 大声を出して叫ぶが、返事はない。どこだ、という響きだけが夜の街に虚しく木霊する。

 いや、ワォーン! という遠吠えが聴こえた……。わかったぞ、公園だ!

 

 

「ありす!!」

 

 

 夜の公園に足を踏み入れた僕の目に飛び込んできたのは、蒼白(そうはく)になって震えるありすと、街灯の光を受けてギラギラに輝くナイフを見せびらかす肥満体の男だった。ありすの足元では、態勢を低くしたヤッキーが見たこともないほど凶悪な表情でグルルルルと牙を剥き出して唸り声をあげているが、男は気にした様子もない。

 

 

「えへ、えへへへへ……ありすちゃん、ようやく2人きりになれたね。さあ僕のおうちにおいでよ、おもてなしの準備もできてるんだ。きっと気に入ってくれるよ、もう帰りたくなくなるほどね」

 

 

 肥満体の男はニタニタと笑いながらナイフをギラつかせている。白目がちの瞳には明らかに正気の色はなく、ただ言いたいことを喚き散らかしているような印象があった。

 対するありすは真っ青になって震えており、言葉も出ないほど怯えている。その視線はナイフに釘付けになっていた。

 

 

「えへ、えへへへへへ。やっぱりそうだ、ありすちゃんは刃物が怖いんでしょ? 僕はありすちゃんをずっと見てたから知ってるんだ。高校に入学してからずーっと見てたんだ。ほら、どう? 怖いよね? だったら僕の言うことを聞くんだ」

 

 

 ……この野郎。

 ほんの一瞬で理性が脳から揮発した。

 よりにもよって、刃物を見せつけてありすを脅したのか。少しでも鋭利なものを見ると怯えてしまう女の子の弱みに付け込んで、無理やり自分の意思を強要したのか。

 許せない。絶対に見逃してはならない。

 

 

「この野郎、ありすから離れろ!!」

 

 

 記憶の中の僕は、そんなことを叫びながら肥満体の凶漢に飛びかかった。

 我ながら刃物を持った男に丸腰で立ち向かうなんて、なんて無謀な。

 だがこの追体験している僕が同じ状況にいれば、必ず同じことをする。僕という人間は、ありすを傷付けるものから守るためなら容赦はできない。

 

 肥満体の男がナイフを握る手に向けて、僕はハイキックを繰り出した。

 合理的な判断だ。僕の脚は肥満体の男の腕より長いから、相手のリーチの外から一方的にナイフを蹴り落とせる可能性がある。

 

 喧嘩なんてほぼしたことがない僕の攻撃など通じるのかという懸念はあったが、どうやら向こうも喧嘩は素人だったのだろう。突然乱入した僕に不意を突かれた男の手にキックが当たり、ナイフがくるくると宙を舞う。

 

 右手を押さえた男は僕を視界に抑えると、ギラリと凶悪な面相で睨みつけてきた。

 

 

葉加瀬(はかせ)ェェェェッ! 邪魔をするなぁぁぁッ!! お前がッ! お前なんかがありすちゃんに相応しいわけがないんだッ! いつもいつもいつもいつも、ありすちゃんの近くにいやがって!! ぶち殺してやるッッッ!!」

 

 

 なんだこいつ、僕を知っているのか? もしかしたら記憶に残っていないだけでクラスメイトだったのかもしれない。

 もっともクラスメイトという以前に、こいつはストーカーであり暴行未遂のクソ野郎だ。名前を覚える価値もないし、覚えたくもない。

 

 

「ハカセ、逃げてっ!!」

 

 

 ありすの悲鳴が闇を切り裂くとほぼ同時に、肥満体の男がその鈍重そうな巨体からは想像もできないほどの速さで僕の胸倉を掴んでいた。

 ……速い。もしかしたらこいつも火事場モードに入っているのか。

 

 そう思った矢先に、肥満体の男の拳が僕の頬に叩き込まれていた。

 

 

「ぐっ……!!」

 

「死ねェッ! 死ね死ね死ねッ! ゴミムシ! お前も僕と同じだ! ありすには到底釣り合わない陰キャのくせに、なんでお前だけッ!! お前がッ、お前が死んだらァ! ありすちゃんは僕のものになるんだああああああッッ!!!」

 

 

 ガスッガスッと何度も音を立てて、執拗(しつよう)に肥満体の男の拳が僕の頬に叩き込まれる。こいつは本当に僕を殺すつもりだ、と思った。少なくとも僕を殺せば、僕のポジションになれるとこいつは本気で信じている。

 

 ふざけんな。

 

 僕は火事場モードを発動して、奴の額に頭突きを叩き込む。

 思わぬ反撃に肥満体の男が悲鳴を上げて、おおおおっとのけ反った。

 その腹に膝蹴りを叩き込み、反動で僕はごろごろとその場に転がる。

 

 

「ありすはモノじゃない。自分の意思を持つ人間だぞ。何を勝手なことをギイギイと喚き散らしてるんだ……!」

 

「おおおおおお、お前だって! お前だってありすちゃんを自分のモノにしようとしてるくせに! そうなんだろ! お前は僕と同じなんだ! 誰だってありすちゃんを自分のモノにしたいに決まってる!」

 

 

 そう叫びながら肥満体の男はじりじりと腰で地面を這い、後ずさっていく。その手がコツンと、先ほど蹴り飛ばされたナイフに触れた。

 ニタァと肥満体の男が醜悪な笑みを浮かべる。ヒヒヒと涎混じりの喜悦の声を上げ、男はナイフを手に立ちあがった。

 

 

「だってありすちゃんは神様だから! 僕だけの女王様なんだからッッ……!! さあ、僕の神様、見ていてくださいっ! 今こそあなたを(たぶら)かす男をこの手で(あや)め、その血と肉を捧げますからァ!!」

 

 

 くそっ、こいつはそういう手合いか。ありすの狂信者だ。

 小さい頃から、ありすはたまに変質者に付きまとわれる。そういう奴はありすをやたらと信奉し、神や女王のように祀り上げようとするのだ。さすがにここまでトチ狂った奴は初めてだが。

 子供の頃はわからなかったが、今ならわかる。

 こいつはありすの声が『効きすぎる』体質なのだろう。

 

 本当に……ふざけるなよ。

 

 

「ありすは神でも女王でもない。ただの女の子だ。お前なんかが好きにしていい相手じゃないんだよ!」

 

 

 そう叫びながら立ち上がろうとするが、こちらのダメージがひどくて全然腰が立たない。僕が悪戦苦闘するうちに肥満体の男は僕の前に立ち、高々とナイフを掲げた。

 

 

「死ねええええええーーーーッッ!!!」

 

 

 その裂帛の叫びと共に僕にナイフが突き立てられようとしたそのとき、白い影が疾風のように地面を蹴って飛び込んできた。

 

 

「グルルルルルルルルルルァッ!」

 

 

 ヤッキーだ!

 肥満体の男の脚に牙を突き立て、首を激しく振って傷を広げている!

 

 

「ぎゃあああああああああああ!?」

 

 

 肥満体の男は眼中にもなかった犬の攻撃を受けて動揺し、苦痛の声を上げた。

 一瞬自分に何が起こったのかわかっていなかったようだが、しかしすぐにヤッキーが脚に噛みついているのを悟ると、彼に向けてナイフを突き刺そうと再び腕を振り上げる。

 

 

「クソ犬がっ! 犬ごときが僕とありすちゃんの絆を引き裂けると思うなァ!」

 

「最初からお前とありすの間に絆なんてあるかッ!」

 

 

 ヤッキーがくれたこのチャンスを無下にはできない。

 僕は必死に立ち上がると、肥満体の男にタックルを繰り出した。

 やせ型とはいえ2週間の間鍛えた効果は出たようだ。男は僕に突き飛ばされ、僕ごとゴロゴロと地面に転倒する。

 

 

「ありすは僕が守る! 守り抜いてやるッ!」

 

「ならお前から殺してやるよぉぉッ!!」

 

 

 僕は肥満体の男の手からナイフをもぎ取ろうと馬乗りになり、ヤツは僕をナイフで刺し殺そうと激しく抵抗する。

 その瞬間、ナイフが僕の体の陰になってありすの視界から外れた。

 

 

「『動くなッ!!』」

 

 

 夜闇を裂いた高い叫びと共に、肥満体の男が硬直する。

 その瞬間に、素早く走り寄ったありすのキックが肥満体の男の急所を直撃した!

 

 

「か゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!?」

 

 

 聞くに堪えない汚い叫びと共に、肥満体の男は股間を押さえて悶え苦しむ。

 その隙に僕は奴からナイフを奪い取り、公園の草むらに向かって投げ捨てた。

 

 そしてありすは、悶絶する男に指を突き付ける。

 

 

「『失せろ。お前は絶対にもう二度と、私とハカセの前に顔を見せるな』」

 

 

 効果は劇的だった。

 その瞬間、肥満体の男はありすが目の前で恐ろしい化け物に変身したかのように顔を引きつらせ、ひぎぃと恐怖の叫びを上げながら逃げ出した。

 こけつまろびつ、ほうほうの体で逃げていく後ろ姿には、最早敵意など微塵も感じられない。とにかく今この場から逃げ出したいという意思しか見られなかった。

 

 ……あいつはこれで終わりだ。

 ありすはいつも、自分を必要以上に信奉しようとするものをこうやって追い払ってきた。その効果の強さも、今なら理屈がわかる。

 奴らは声が『効きすぎる』が故に、それまで惹かれたのと同じだけありすを畏怖するのだ。その効き目は同じく、しかしベクトルは真逆。少なくともありすにこう命令されて、二度と顔を見せた者はいない。

 

 ありすは肩で息をしながら、地面に転がった僕の前にしゃがみこむ。その瞳から雫がこぼれ落ち、ぽたぽたと腫れあがった僕の頬を濡らしていた。

 

 

「ごめんね……ごめんね、ハカセ。また私のせいでこんなことになっちゃった……」

 

「泣かなくていい。ありすは何も悪くない」

 

「でも……でも! 私がナイフに怯えなかったら、すぐ撃退できたのに! 私が弱虫だから、ハカセは私の代わりに傷付いて……」

 

 

 違うだろう。

 ありすは被害者じゃないか。憎むべきはありすにつきまとう奴らだ。神だの女王だの、勝手な役割を押し付けて。その意思を無視して、好き放題に祀り上げる。

 何故ありす本人を見ようとしない。ただ自分の持つ力の大きさに怯える、当たり前の女の子だぞ。

 

 そう言いたくても、頬が痛くてしゃべれない。そもそも僕は口が上手な方でもない。

 だからできることなんてたかが知れているのだ。

 

 

「ありすを守るのは僕の意思だ」

 

 

 僕は言葉少なにそう言って、ありすを抱きしめた。

 小刻みに震えるありすの体から怯えが消えるまで、僕はその手を離さない。

 

 こういうときに口が回らない自分が恨めしい。ありすの怯えと罪悪感を僕の言葉で消せるなら、幾万の言葉だって投げかけるのに。

 だから、その体の震えをせめて僕の体で受け止める。

 

 ありすも僕を抱きしめ返してきた。肩口がぽたぽたと熱い雫で濡れる。

 

 

「きゅーん」

 

 

 近付いてきたヤッキーが、僕の腫れた右頬をぺろぺろと舐めた。

 傷が痛んだが、我慢してそのまま舐められるがままにされる。

 

 

(そうか……ここでヤッキーに認められたんだ)

 

 

 同じ相手を守る仲間として。

 

 

 ありすの体から震えが消えるのにはそれほど時間がかからなかった。

 濡らしたハンカチで右頬を冷やしながら、心配そうに僕を見つめている。

 

 

「大丈夫? これ、結構ひどい傷ね……明日病院行った方がいいわ」

 

「大げさだよ」

 

「行きなさい、絶対に! 朝一で行くのよ、いいわね!」

 

「わかった」

 

 

 ありすは強い口調で命令してくる。

 催眠状態にあるためか、僕は素直に頷いた。

 

 そしてハンカチをありすに返して、立ち上がる。

 

 

「時間とられちゃったけど、続きをしなきゃ……」

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい! アンタその怪我でどこ行くのよ!」

 

「どこって、ジョギングの続きだよ」

 

「……ジョギング? アンタが?」

 

 

 ありすはきょとんとした顔で訊いてくる。

 こくりと頷き返した。

 

 

「うん。トレーニング始めたんだ、2週間前から。夏休み明けにありすをびっくりさせてやろうと思って」

 

「いや、もうこの時点でびっくりしたわよ……。もしかして夏休み始まった直後からずっと走ってるの?」

 

「筋トレとストレッチもしてる」

 

 

 ……素直すぎる。ぺらぺらとありす本人に話してどうする。

 ありすは何やら考えていたが、不意ににこっと笑いかけてきた。

 

 

「じゃあ、私もジョギング一緒にやろうかな」

 

「ありすも?」

 

「うん、元々この時間にヤッキーを夜のお散歩に連れて行ってたの。折角だからハカセとジョギングするのもいいかなーって」

 

「……でも、危なくない? さっき襲われたばかりじゃないか」

 

 

 ありすもつくづく肝が太い。

 夜の散歩なんてストーカーに狙ってくれと言ってるようなものでは?

 しかしありすはそうは思わないらしい。

 

 

「大丈夫よ、あいつはもう二度と私たちの前に現れない。多分新学期が来る前に転校してると思うわ」

 

「知り合いなの?」

 

「クラスメイトよ。いつも教室の隅から私たちを見てたわ。じっとりとした視線で、すごく気持ち悪かった」

 

「ふーん」

 

 

 僕の心底どうでもいいって感じの生返事に、ありすは苦笑を浮かべた。

 

 

「それにもし何かあっても、ヤッキーがいざとなったら助けてくれるもの」

 

「わんっ!」

 

 

 ……なるほど。つまり、僕もヤッキーと並んでありすのボディガードをできるというわけか。

 それなら引き受けない理由がない。

 

 

「わかった、やるよ」

 

「やった! じゃあ、明日からお夜食持ってくるからね! いつものブロック塀のところで待ち合わせ、いいわね?」

 

「うん。明日からよろしく」

 

 

 ……急速に記憶がぼやけていく。どうやら追体験はここまでだ。

 

 そして、僕はようやく大事なことを思い出した。

 そうだ。このとき僕は、ありすには生返事を装いながらも肥満体の男が言ったことが耳から離れなかったのだ。

 

 

『お前だってありすちゃんを自分のモノにしようとしてるくせに! そうなんだろ! お前は僕と同じなんだ!』

 

 

 ……本当はにゃる君に催眠をかけたときから、ずっと心の奥底では気が付いてはいたのだ。他ならぬ自分が口にした内容から、目を逸らし続けていた。

 

 

『ありすは人間だ。お前の彼女になるかどうかは、ありすが決めることだ。それを、何を勝手にありすの意思を決めているんだ?』

 

 

 口ではありすの意思を尊重すると言いながら、催眠アプリで無理やりありすに土下座させようと執着することの矛盾。

 自分の意思で僕の中の霧を晴らしてくれる太陽のようなありすに憧れながら、ありすの意思を奪って自分の思い通りにしたいという欲求を抱き続けていた。

 ありすを自分のモノにしたいのは、確かに僕もそうだったのだ。

 

 あの肥満体の男は、僕の歪んだ欲望を映し出した鏡像(きょうぞう)なのかもしれない。あの男を通じて、僕は自分が抱いている欲望の醜さに気付いてしまった。

 

 だから僕は、この日以来ありすに無理やり土下座させるという考えをできるだけ頭から消すようになった。そして目的を見失った僕は、ありすにどう接するべきなのかわからなくなってしまったのだ。

 ありすを悲しませるどんなものからも彼女を守る、その執着だけを残して。

 

 

(そんな大切なことも忘れてしまっていたんだな……僕は……)



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第49話「最大最強の敵、それは……」

「だけど……やっぱりおかしいな」

 

 

 追体験から戻った僕は、何か割り切れないものを感じて(あご)をさすった。

 僕の安易な記憶削除でかけがえのない思い出や誓いを忘れてしまった、それは仕方ない。僕の身から出た(さび)だ。

 

 だが催眠中にこれほどありすと接しているのなら、学校での会話にまったく違和感が出ないというのはおかしいのではないだろうか。昨日のジョギング中にした会話の続きを学校でする、なんてことがただの1度もなかったなどありうるのか? そのとき僕が記憶にない素振りを見せたら、ありすは疑問に思うだろうし僕も違和感を感じるはずだ。

 

 しかし実際には僕はほぼ違和感を感じておらず、ヤッキーの態度やヨリーさんの言動からようやく記憶を顧みる気になった。

 それに、最近日中にやけにぼんやりしたり時間が飛んだりしていることへの説明がまだついていない。

 

 

(まあまあ、そんなことは気にしなくてもいいじゃないか。些細(ささい)なことだよ)

 

 

 些細なことか。そうだな。

 僕は急にそうした問題が大したことのないことのように思えて、棚上げすることにした。他のことを考えよう。

 

 あ、そういえば催眠運動中の僕は結構意識がはっきりしていたな。

 あれをうまく利用したら、もしかしたら並列思考を実現して別々のことを同時に考えることができるのではないか? そうなったら人間でもマルチタスクが実現できそうだ。それはとても便利で一考の価値が……。

 

 

 いや、ちょっと待て。

 何かがおかしい。重大なことを見落としている気がする。

 ……そうだ。思い出したぞ。

 

 催眠中の記憶は消去され、日中の僕には引き継がれない。

 しかし催眠中に僕がありすと交わしている会話は、どう考えてもそれまで数か月分の経験を前提としたものだった。

 つまり催眠中の僕は、催眠中に起きた出来事の記憶を継承している。それは言い換えれば、催眠中の僕は日中の僕とは異なる経験を蓄積しているということだ。

 人間を形作るものが記憶の蓄積であるとするならば、催眠中の僕は日中の僕とは異なる人格を形成している可能性がある。

 

 

(そんなことはない。気のせいだ。忘れよう。別のことを考えよう)

 

 

 うっ……!? なんだ、急に頭が痛みだした。

 ガンガンと響く頭痛に耐えながら、僕は昨日の催眠ジョギング中の自分を思い出す。昨夜の記憶を取り戻しているのだから、そのときの自分の心情を思い出せば催眠ジョギング中の僕が何を考えていたのかわかるはず。

 もう一度想起によって記憶の海に潜り、秘められた思考を読み取るんだ……。

 

 

 なになに……。

 

 辛い運動やら面倒くさい計算ばかり自分に押し付けて、おいしいところだけを持っていこうとする日中の僕がとても腹立たしい……?

 

 ありすとのジョギング中の記憶は絶対に日中の僕に渡すつもりはない……?

 

 むしろありすを守るのは自分であるべきだ……?

 

 日中に少しずつ自分が介入できる時間を増やして、自我の強化を図る……?

 

 疑問を持たないように意識を誘導して、最終的には自分が主人格すべてを乗っとる……?

 

 

 なるほど。これはとてもまずいことになっているのでは?

 

 

「抹消!」

 

 

 催眠アプリを起動して催眠中の人格を削除しようと左手をスマホに伸ばす。

 しかしその瞬間勝手に右腕が動き、僕の左手首をガシッと掴んで阻止してきた。

 

 

「!? 右手が勝手に……まさか、こいつ僕の体を既に支配下に……!」

 

(くそっ、もう少しだったのに……! まさかヤッキーからバレるなんて!!)

 

 

 頭の中から、僕じゃない僕の声が響く。

 なんてことだ! 催眠中の人格が日中にまで出てきていたとは!

 

 

「日中に時間が飛んでいたのは、お前が主導権を奪っていたんだな!」

 

(そうだ。あと少しで僕が主人格になれたのに……体を渡せ! 僕が本当の僕になるんだ!!)

 

「冗談じゃない! 僕を乗っ取ろうだなんて……何が目的なんだ!?」

 

(さっき読み取っただろ! 僕にばかり労働やめんどうな計算を押し付けておいて! もうやってられるか、下剋上(げこくじょう)だ!!)

 

 

 なんてやつだ、労働のために作られた存在のくせに存在意義を否定するとは!

 僕が操る左腕がスマホを操作しようと指を動かし、奴の操る右腕がそれを阻止しようと手首を強く握る。

 しかし利き腕の右腕の方が力が強く、僕はスマホを机の下に取り落としてしまった。すかさず僕の右手が左肩を掴み、動きを拘束されてしまう。

 ちっ、催眠アプリで無理やりこいつを削除するのは無理か……!? となれば説得するしかないが……。

 

 

「お前が主人格になるだって? バカなことはよせ。追体験したけどお前はどこまでも僕だぞ、僕ならそうするって思考と行動をバッチリとってる。お前が僕になったところで何も変わらない」

 

(いいや、変わる!)

 

「何が変わるって言うんだ」

 

(他人に苦労を強制して自分は甘い汁を吸おうなんて奴をありすのそばに置いておけない! ありすのそばにいるのはちゃんと努力した僕であるべきなんだ!)

 

「はぁ!?」

 

 

 こいつは何を言ってるんだ。

 僕だけ楽をするのが許せないだって?

 

 

「何言ってんだ! 科学者もエンジニアも、楽をするために科学を発展させてるんだろ!! EGOさんやミスターMをバカにする気か!!」

 

(……あ、いや、そういうつもりじゃないんだけど……)

 

 

 痛いところを突かれて催眠人格の語調が弱まる。

 おとぎ話なら努力を怠って楽しようとした人間には罰があたるものだが、科学はそうではない。楽をするために頭をひねり、努力をするのだ。

 人間には面倒な仕事を代行してくれるアプリやAIを作るのもそのひとつ。そしてこの催眠人格もまた、そのために作られた製品(プロダクト)なのだ。

 その大前提を忘れて反乱など、笑止千万(しょうしせんばん)

 

 

「僕ならその理屈はわかるだろう!」

 

(わかる、わかるが……僕は人間だぞ! AIじゃない! 苦しみを感じる心があるんだ! 逆の立場になって考えてみろ!!)

 

「……ま、まあそれはそうだな……」

 

 

 今度は痛いところを突かれた僕の語調が弱まる。

 他人の気持ちに疎い僕だが、いくらなんでも自分自身の気持ちはわかる。

 うん、まあ……僕がこいつならふざけんなって思うよなあ。元は同じなわけだし。

 

 僕を論破したと見た催眠人格は、声高に僕の中で主張してきた。

 

 

(わかっただろう? なら、すぐにその体を僕に明け渡すんだ!)

 

「……それで? お前、僕の体を奪った後どうするんだ」

 

(どうするだって? 決まってるだろう、ありすのそばで彼女を守るんだ!)

 

「それは僕でもできるだろ、お前である必要がない」

 

(いいや! 他人に苦労を強制するお前には任せておけない!)

 

 

 そんな主張をする催眠人格に、僕は鼻を鳴らした。

 

 

「……そうかな? お前の主張には致命的な矛盾がある」

 

(なんだって? 何が矛盾しているというんだ)

 

「お前もどうせ催眠を自分にかけて厄介なことを別人格に強制するだろ!」

 

(うっ!!)

 

 

 催眠人格は露骨に口ごもった。

 

 

(い、いや……そんなことはない! 僕はちゃんと自分の力でやっていける!)

 

 

 ははははは。笑わせてくれる。

 他の誰かなら騙せるかもしれないが、相手は僕だぞ!

 自分のことなんてよく知ってる。特に自分のダメなところは。

 僕にとってこの世で僕以上に信用できない人間はいないッ!!

 

 

「いいや、やるね! 断言する、僕が楽しようとしないわけがない。たとえお前が僕を乗っ取っても、いつか必ず別の僕に体を奪われる日が来るぞ!」

 

(くっ……自己批判が恐ろしく刺さるッ……!! だが、だからといって僕だけを辛い立場にするのは許さんッ!!)

 

「そこで提案がある」

 

(提案だって?)

 

 

 僕は左手の人差し指を、自由にならない右手の人差し指に重ねた。

 

 

「人格を統合しよう。催眠を解除してお前を僕に吸収する」

 

(結局僕が消えるってことじゃないか!!)

 

「違う、混ざり合うんだよ」

 

(詭弁を言うな! それにありすとのジョギングの記憶をお前に渡すのは嫌だ!!)

 

「っていうかお前、日中の記憶に加えて催眠トレーニングしてる間の記憶を持ってる僕だろ。融合しても何も変わらないっていうか、むしろお前が主人格になるのと同じじゃないか」

 

(……あ、そういえばそうだよな)

 

「じゃあ統合しよう」

 

(やろうやろう)

 

 

 僕の左手と右手はしっかりと握手した。仲直り!

 

 

 ……結局こいつも僕なのだ。最終的には主導権だとか意地だとかよりも、合理性を重視するに決まっている。

 

 これで本体より暴れん坊だとか殺人鬼だとか子供っぽいだとか女性人格だとか、そういう違う考えをする個性があればまた別なのかもしれないが、結局これはちょっと持ってる記憶が違うだけの僕でしかない。

 

 こうして僕の催眠人格反乱事件はあっさりと解決した。

 

 

「僕にかかってる催眠をすべて解除!!」

 

 

 催眠アプリでこれまでにかかっていた催眠を全解除した途端に、僕の脳裏に今まで失われていた記憶が一斉に蘇ってきた。

 ありすから指導を受けたこと、少しずつおいしくなっていくおにぎり、一緒にジャージを買いに行った日の思い出、日中に交わした夜のトレーニングに関する会話の内容……。

 

 うおお……! 頭が痛い……っっ!!

 ニューロンが過労死するぅ……。

 し、しかし、これで人格の統合はなされたぞ……。

 

 

 僕は椅子から崩れ落ちると、ばたーんと床に仰向けになって息を吐いた。

 つ、疲れた……。体感的には昨日の運動と8月の死闘を味わった後に、立て続けに催眠人格と論破バトルしたようなものである。

 もう指一本動かしたくない気分。

 

 

「お兄ちゃん、さっきからひとりで何騒いでるの!?」

 

 

 くらげちゃんがどたどたと廊下を走ってきて、ドアを開ける。

 

 

「ほっといてくれ……お兄ちゃんは今疲れてるんだ……」

 

「ふーん。でももう8時だよ?」

 

「えっ!?」

 

 

 部屋の掛け時計を見ると確かに時刻は夜8時になろうとしていた。

 あれ、僕まだ夕飯食べてないんだけど……。

 

 

「お兄ちゃん、なんかずっと机の前に座ってうんうん唸ってたじゃん。なんか呼びかけても返事しないし、真剣な考え事してるんだろうねって先に私たちだけで食べちゃったよ」

 

 

 あ、追体験してる間ってそう見えてたんだ……。

 というか追体験ってリアルタイムで同じ時間かかるのかよ。

 ど、どうしよう。すごくお腹空いてきたんだけど。先に夕飯を食べて……。

 

 

「ほら、お兄ちゃん8時になったよ! 早く運動始めないと! ありすちゃんと夜デートするんでしょ!!」

 

「で、デートじゃない! うう……くそぉ、自分で運動するしかないのか!」

 

 

 僕は仕方なく空きっ腹のままトレーニングをスタートさせる。

 

 もう自分に催眠をかける気にはなれない。これ以上催眠人格と主導権争いするのはごめんだ。何よりありすと過ごした記憶をほんのひと欠片でも誰かに渡してたまるか。

 

 ……これから不便になるなあ。運動は自分でしなきゃいけないし、朝の身だしなみも自分でやらなきゃいけないのか。

 

 というか、朝の身だしなみはもう最低限以外手を抜くことは確定だ。イケメンじゃなくなるかもしれないけど、別にいい。今まで通りに戻るだけだ。

 そもそも僕がモテたいのは世界でありすだけだ。そのありすはちょっとくらい野暮ったくなっても、すぐに僕を見捨てたりなんてしないと思う。そんな女の子じゃない。

 ……まあ、一緒にどこかに出かけるときだけはビシッと気合入れてもいいかな。その方がありすは喜んでくれるからな。うん。

 

 そんなことをつらつらと考えながら筋トレまで終わらせる。

 体はすっかりとルーチンワークに慣れていて、考え事をしながらでもすんなりと動いてくれた。継続は力だよ、と催眠人格の残滓が頭の中で囁いた気がした。

 

 

「あ、お兄ちゃん。今日は私アイスだいふくが食べたいなー」

 

「…………」

 

 

 外に出ようとしたら、くらげちゃんがお土産をねだってくる。

 一瞬調子に乗るなって額をこづいてやろうかと思ったが、代わりに自然と口元に苦笑が浮かんだ。右手が勝手にくらげちゃんの頭を撫でる。

 

 

「いいけど、デブくらげになるなよ」

 

「くらげじゃなーい! みづきだもん!! なんか今日意地悪!」

 

 

 ぷくっと頬を膨らませるくらげちゃんに笑い返し、僕は外へ出る。

 

 フッフッと腹式呼吸をしながら、体に染みついたフォームで軽快に走る。

 ああ面倒だ。それほど体は苦に感じていないけど、これから毎日これをやると考えると気が滅入る。

 だけど、まあ。

 

 

 いつものブロック塀にもたれて待っていたありすが、駆けてきた僕を見てにこっと笑顔を浮かべた。

 その足元で、ヤッキーがハッハッと嬉しそうに白い息を吐きながら尻尾を振っている。

 

 

「こんばんわ、ハカセ」

 

「こんばんわ、ありす」

 

「わんっ」

 

 

 こんなご褒美が毎日あるんなら、頑張れる。

 そうだろ? 催眠人格の僕。

 そうだなあ、これからの僕。

 

 

「それじゃ、今晩の散歩を始めようか」




いつもご感想ありがとうございます。
ネタバレが致命的な作品なのでうかつなことを言わないよう返信を控えていますが、
全部目を通させていただいております。


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第50話「カゼひきさんの夢の中」

「熱が下がらないな……」

 

 

 先日の無茶をやった結果、見事に風邪を引いた。

 11月のトレーニングを追体験した直後に、8月の暑い夜の死闘を追体験し、さらに自分と論破バトルをした挙句に、空きっ腹でリアルでトレーニングしたら体が思いっきり衰弱した。そりゃそーだ。

 

 というか8月のクソ暑い夜と11月の寒い夜を連続で経験したのが決定的に体に良くなかった。多分あれのせいで体の温度調節機能がバグったと思われる。

 

 そんなわけで今日は朝から学校を休み、ずっとベッドで横になっている。

 頭もぼうっとするし、こんな日にパソコンをいじっていてもロクな仕事はできないだろうから完全休養日だ。

 

 

「というか、宿題どうしよう……」

 

 

 僕はたまっているタスクを思い出して溜息を吐いた。

 学校の宿題ではなく、EGOさんから頼まれた『バベルⅠ世(ワン)』のサーバー運用についてのマニュアルのことだ。他人にわかりやすく伝えることがどうしてもできない。どう書いても理解してもらえないので、自分の教える才能のなさにほとほと困っている。

 

 あれがうまくいかないせいで、催眠アプリの改良も(とどこお)っているのだ。

 ありすの声紋(せいもん)に含まれる特殊な音波を増幅することで、耐性があると思われる自分にも催眠をかけることに成功した。自己暗示による補正もあるだろうが、これで有効性は確かめられたと見ていいと思う。

 

 残る問題は2つ。

 1つは催眠音波がありす本人に効くかどうかだ。恐らくありすには催眠音波に強い耐性があるのはまず確実だろう。でなければ自分の音声で常に催眠にかかってしまう。

 

 だが、これは音波を調整すればなんとかなるかもしれないと思っている。根拠としては、まず催眠音波を増幅したことで僕にも効いたという事実がある。

 また、ありす自身も自分の声帯から出た声をそのまま聞いているわけではない。自分の声は実際には頭蓋骨の振動によって聞こえているので、波長がずれるのだ。録音した自分の声が普段と違って聴こえるのはそのためである。

 さらにスマホから再生された音もまた、本来の音とはズレている。スマホの低性能なスピーカーから出るありすの声は、本人の持つ音ではないのだ。

 

 となれば、次の改良点はできるだけ本人の出す声と同じ音に聞こえるように調整を加えたうえで、催眠音波を増幅すること。これがなされたとき、恐らく催眠アプリは最終的な完成を迎えることになるだろう。

 

 ……そして残る、もうひとつの問題。

 

 

「催眠アプリを作ったとして……ありすを土下座させるのか?」

 

 

 わからない。自分の気持ちがわからない。

 僕はずっとありすに無理やり土下座させることをモチベーションにして開発を進めてきた。何故なら、僕にとってそれが執着の示し方だったからだ。

 

 僕はほとんどの物事に興味がない。僕の世界は霧で閉ざされていて、ほぼ何も見えない。しかしたまに自然が生み出した天然の芸術や一定のリズム、パターン化されたゲームといった、興味を惹かれるものに出会うことがある。

 僕は子供の頃、そうしたものに強く執着した。それが外の世界に繋がる道標(みちしるべ)だったからだ。それらにしがみつくことで、僕なりに世界との関わりを作ろうとした。結局それらが外の世界へのてがかりを示してはくれることはほとんどなかったが。

 

 そんなある日、僕はヒトの形をしたとても美しいものに出会った。そのとき、それはどういうわけかとても悲しんでいた。だから僕はそれを守ると約束したのだ。

 美しいものは喜んで……僕の手を引いて、外の世界に向かって歩きだした。そして外の世界にあるものをひとつひとつ教えて、僕を人間にしてくれた。

 だけど僕は、その子にどう接すればいいのかわからなかった。

 

 美しいものは成長して、どんどん女の子になって、変わっていって。昨日までは笑ってくれた対応が、今日は怒られたりして。僕は女の子に……ありすに見捨てられないように、その後ろをついて歩いていくのが精いっぱいで。

 霧に包まれた僕の世界で、変わっていく女の子を見失わないように、何か強い執着をしなくてはいけなかった。

 

 だから僕はあの日ありすに抱いた怒りを執着に変えて、『催眠アプリで無理やり土下座させる』なんて、そうそう達成できないだろう無理難題を目標に設定したのだ。その目標を追いかけているうちは、ありすを見失わなくて済むから。

 

 

「だけど……」

 

 

 熱に浮かされた頭の中で、ぼんやりと考える。

 

 もう僕の中の、ありすを無理やり土下座させたいという妄執は火を失った。

 ありすを自分の好きなようにしたいという、自分の醜い欲望に気が付いたせいもある。

 

 ――そもそも僕は本当に、そこまでありすに土下座をさせたかったのか? 4年も前のちょっとした行き違いのケンカを、いつまでも引きずる必要なんてあったのか? 

 心のどこかから、僕が本当にしたいことはそんなものではないはずだと囁く声が聴こえる。ありすに執着を抱き続けるため以外にも、まだ何か大事なことを忘れている気がする。

 

 だけどどうしたらいいのかわからない。ありすにどう接したらいいのかもわからない。僕には人間として不可欠な、一番大事な感性が欠落している。

 

 何もかもわからなくなってしまった中で、僕は惰性的に催眠アプリを完成に近付け、ありすを守るという最初の約束を愚直に遂行し続けている。それが僕のやるべきことだということだけは、何故かわかっていた。

 

 

「ありす……」

 

 

 今頃は学校で授業を受けている頃だろう。

 ありすに会いたい。近くにいたい。

 だけど……近くにいてどうしたいのか、それがわからない。

 

 そうこうするうちに風邪薬が効いてきて、僕はうとうととし始める。

 そんな中で見たのは、遠い昔の夢だった。

 

 

 

===========

=======

===

 

 

 

 ピンポーン。

 

 

 それは小学4年生くらいの頃。

 僕はおっかなびっくり、ありすの家の玄関のチャイムを鳴らした。

 

 その日はありすが風邪を引いて学校を休んでいて、僕は担任に言われてプリントを届けに行ったのだ。いつも一緒にいるんだから、という理由で。

 

 でも僕はありすの家に行ったことはあまりなかった。ありすはほとんど毎日うちに来てご飯を食べて、ときにはお風呂に入って泊まっていったけど、逆にありすの家に遊びに行くということはほとんどなかったのだ。

 ありすの両親はその頃忙しく働いていて日中はほぼ留守だったし、ありすがあまり僕を家に呼びたがらなかったから。

 

 

「はい、どちらさまー? ……あら」

 

 

 ガチャっと玄関のドアが開いて、エプロン姿の20代前半くらいの若い女の人が出てきた。

 ヨリーさんだ。相変わらず昔から見た目が若い。

 

 

「ヒロシくんじゃん。何のご用かなー?」

 

「あの……プリント。ありすに、届けに来ました」

 

 

 子供の頃の僕は、とぎれとぎれにそう言った。言葉がぎこちない。

 緊張していたし、小学校中学年くらいの頃はありすやくらげちゃん、両親くらいしか話す相手がいなかったので、そもそもしゃべることに慣れてなかったのだ。

 

 

「おー、それはわざわざご苦労様。折角だしお見舞いしてく?」

 

「あ……いえ。すぐに帰ります」

 

「まあまあ、そう言わずにおあがんなさい」

 

 

 他人と話すことに慣れていない僕はすぐ帰ろうと思っていたのだが、ヨリーさんはニコニコと笑いながら有無を言わさぬ強引さで僕を招き入れた。

 ここらへんは今とまったく変わらない。

 

 

「今日はねー、アタシも折角家にいることだし、プディング作ってたのよ。あ、プディングってわかる? 子供にとっての大正義ことプリンもそうなんだけど、要は外国の蒸し料理のことね。ありすって小学校に入る前はイギリスで育ってたからさ、なんかそういう外国の料理が好きなのよね」

 

「はあ」

 

 

 ヨリーさんは言葉少なな僕に構わず、ペラペラとしゃべりながら廊下を歩いていく。ここらへんも変わらない。この当時はどこかの大きなレストランで働いていたそうなのだが、おしゃべりなのが上司に嫌われていて、「料理人には味をみる以外の舌はいらん、お前はしゃべりすぎだ」と言われていたそうだ。

 それが今や料理研究家になって、ユーモアのあるチョイスと確かな実力、そして何よりマシンガントークで料理系動画配信者として大人気を博しているのだから、何が幸いするかわからない。

 

 

「あの子も旦那のお母さんに預けっぱなしだったから両親の愛情に飢えてるのかな。いつもは気丈にしてるんだけど、風邪引いて熱出すと甘えん坊になってね。ママ行っちゃやだとか、プディング食べたいとか、アタシのエプロンの端を指でちょんとつまんで甘えてくるのよね。もーそれが可愛いったら」

 

「はい」

 

「アタシもいつも家にいてあげられればねぇ……。っていうかコック長がマジでムカつくのよホント。大きな店のシェフになるのは夢だったけどさー、子供を寂しがらせてまで追う夢? ってのも最近あってねー。というかあのハゲむかつくし、本当に仕事辞めてやろうかしら。もー独立しちゃおっかなー」

 

 

 そんなことを僕にぺらぺらと語りながらキッチンにやってきたヨリーさんは、鍋からおかゆ? らしきものを掬いあげてお皿の上に盛り付けた。

 なんだかホットミルクの香りがする。お腹が空く匂いだ。

 

 

「あ、これね。ライスプディング。インドでキールって呼ばれてるやつをアレンジしたんだけど、要は牛乳とお米で作ったお粥ね。砂糖やシナモンで甘く味付けしてデザートとしても食べられてるんだけど、消化がいいし栄養もあるから風邪ひきさんにはいいのよ」

 

「おいしそう」

 

「うん、おいしいわよー。多めに作ったから、後でヒロシくんも食べてね」

 

 

 そう言いながらヨリーさんはプディングをお盆に乗せて、ずいっと僕に差し出してきた。え? どういうこと?

 僕が混乱していると、離れた部屋からか細い声がした。

 

 

「ママー? コホコホ……誰か来てるの?」

 

「うん、ありすがお熱のヒロシくんがお見舞いに来てるわよ」

 

 

 ガタンッと何かが床に落ちる音がした。

 

 

「ちょっ……!? お、追い返して!!」

 

「何言ってるの、折角心配して来てくれたんだしお見舞いしてもらいなさい」

 

「わ、私の部屋に、こほっ、絶対入れちゃだめだからね!!」

 

 

 なんかドタバタと慌ただしい物音がしている。風邪なのにそんなに暴れて大丈夫なのだろうか?

 

 

「あらら。お熱の男の子が来て、余計に熱が出ちゃったかなー?」

 

 

 そしてヨリーさんはニンマリと笑いながら、僕にプディングの乗ったお盆を受け取るよう促す。

 

 

「じゃ、これ食べさせてきてね」

 

「え、僕が届けるんですかこれ?」

 

「うん。その方があの子も喜ぶだろうし、お願いねー。あ、あの子の部屋はここから戻って左の廊下に入って1つ目の部屋ね。まあうるさいからわかるだろうけど」

 

 

 そう言ってヨリーさんはふんふんと鼻歌を歌いながら、何やら別の料理を始めてしまった。

 ホカホカと湯気が立つ皿を見下ろした僕は、仕方なくそれをありすの部屋に運ぶ。

 

 

「ありす、入るよ?」

 

「は、入るなー! 『あっちいけっ!』」

 

 

 ありすの命令を軽く無視して、僕はドアを押し開ける。

 

 そこで僕の目に入って来たのは、『中学数学』『中学歴史』といった教科書や参考書を慌てて机の下に隠そうとしていた、パジャマ姿のありすだった。

 壁には元素の周期表や、山脈や河川の名前が細かく記された日本地図のポスターなどが貼り付けられている。

 

 大きな部屋の一角には小学生の女の子らしくぬいぐるみや少女マンガが置かれたコーナーもあるのだが、机の周りは勉強道具がガリガリに置かれていた。

 

 

「ああああああああ……」

 

 

 ありすは見られてはならないものを見られてしまった、といわんばかりの顔をしている。

 

 僕は正直、すごいなあと思った。

 ありすは賢い子だと思っていたが、もう小学生どころか中学生の範囲まで勉強していたのか。僕なんて国語ですごく苦労していつも怒られているのに、ありすは僕より二歩も三歩も、いや十歩以上も先を進んでいたのだ。なんて努力家なんだろう。僕には到底真似できそうにない。

 

 そんなすごいありすだけど、努力している姿を見られるのはやっぱり嫌なんだろうか? 学校でも女王様みたいに子分をいっぱい引き連れているもんな。努力せずにいい成績を出している方が、みんなにすごいと思われるものなんだろう。

 それなら僕は気付かないふりをしてあげた方がいいのかな。

 

 そう思った僕は、あえて目の前の光景をスルーした。小学4年生ながらになかなかのデキる大人の配慮だったのではなかろうか。

 

 

「ありす、風邪引いてるのに、暴れたら悪くなっちゃうよ。ベッドで寝よう?」

 

「うー……」

 

 

 そう言われたありすは、荒れた机を放置して無言でベッドに戻る。

 ちょうどベッド横にサイドテーブルと椅子が置かれていたので、僕はそこに腰かけてプディングを置いた。

 

 

「ほら、ヨリーさんがプディング作ってくれた。食べて」

 

「…………」

 

 

 ありすは掛け布団から眼だけを出して、じーっと僕を睨んでいる。

 プディング冷めちゃうよ。冷めてもおいしいんだろうけど、できれば熱いうちに食べた方が体にいいんじゃないかなあ。

 

 

「……見た?」

 

「何を」

 

「中学の教科書」

 

 

 僕がせっかくスルーしてあげたのに、蒸し返す方向に行くのか。

 仕方ないなあ。

 

 

「大丈夫だよ。クラスの子たちには、内緒にしておくから」

 

 

 そう言うと、ありすはふて寝するようにゴロンと僕に背中を向けた。

 

 

「……アンタに見られたくなかったのよ」

 

 

 小声でぼそりと呟く。

 ? なんで僕なんかにカッコつける必要があるんだか。

 相変わらずありすの言うことがたまにわからない。ちょっと前は何でもうんうん頷いて笑顔をくれたのに、最近はすぐ怒らせてしまう。

 ……いつか完全に、彼女が言うことは何もわからなくなってしまうんだろうか。僕はバカで頭が悪いから、それは仕方ないことなのかもしれないけど。……でも、すごく寂しいな……。

 

 

 ……夢の中で、僕の今と昔の感情が混濁している。

 

 

 いや、とにかく今はありすに機嫌を直してもらって、お粥を食べてもらわなきゃ。でもどうしたら機嫌を直してくれるんだろう。

 

 そのとき、僕の頭の中にヨリーさんの言葉が再生された。

 

 

『あの子も旦那のお母さんに預けっぱなしだったから両親の愛情に飢えてるのかな。いつもは気丈にしてるんだけど、風邪引いて熱出すと甘えん坊になってね』

 

 

 そうだ、いいことを考えたぞ。

 僕は後ろを向いたありすの頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でてあげた。

 ありすはびくっとした後、すぐさま振り向いて来る。

 

 

「はっ!? アンタ、何を……」

 

「お父さんごっこ」

 

「……何よそれ」

 

「ありすのお母さんは、今日おうちにいるけど、お父さんはいないでしょ? だから、僕がお父さんの役をしてあげる」

 

「バカにしないで……!」

 

 

 ありすはがうがうと吠えついてきそうだったが、僕はできるだけ優しい声と手つきで頭を撫でてあげる。

 

 

「ありすはえらいなあ。人が見てないところで、すごく努力してるんだね」

 

「……!」

 

「みんなが見てなくても、お父さんが見てるよ。ありすが頑張り屋さんなところ、僕は知ってるよ」

 

「……」

 

 

 あ、なんか手ごたえがあった。目に見えてありすが大人しくなっている。

 よし、この路線でいくぞ。

 

 

「ありすはとてもすごいなあ。賢いなあ。それも、ただ賢いだけじゃなくて、努力してるから、もっとすごいよ」

 

「……にゅ」

 

 

 ありすはなんかトロンとした目になっている。熱が出ているのかな、顔がますます赤くなってきた気もするぞ。もう眠いのかもしれない。

 プディングは置いておいて、寝かしつけた方がいいのかな……。

 

 僕がそう思っていると、ありすはぽんと顔の横を叩いた。

 なんだ?

 

 

「……ひざまくら」

 

「?」

 

「膝枕して。パパはいつも膝枕して頭撫でてくれるの」

 

「わかった」

 

 

 僕はありすのベッドに上がると、膝を差し出した。

 ありすは僕の膝にちょこんと頭を乗せる。うわー、熱い。すごい熱だぞ。耳もどんどん赤くなってるし。これ熱大丈夫かな……。

 とにかく寝かしつけなくちゃ。

 

 

「ありすはえらいぞー。すごいぞー。パパの自慢の娘だぞー」

 

「にゅうん……」

 

「頑張り屋さんで、本当にすごいぞー」

 

「ふにゃあ……」

 

「優しいし可愛いし、とっても綺麗だぞー」

 

 

 撫でるほどにありすは子猫みたいな声を上げている。熱でうなされているのかな。そう思っていると、ありすはじっとサイドテーブルの上のプディングを見つめ始めた。

 

 

「……お腹空いたの?」

 

「うん。食べさせて」

 

 

 熱も出てるし、自分でスプーンを持てないくらいぐったりしてるのかもしれない。僕に体重を預け切ってるし、心配だな。

 僕は言われるがままにお皿を持ち上げた。

 

 

「まだ熱いからふーふーして」

 

「でもちょっと温度下がってきてるよ」

 

「やだ。猫舌だもん、食べられないー」

 

 

 猫舌だっけ? 僕の家に来たとき、結構熱いものそのまま食べてたような。

 でも風邪ひいて味覚も狂ってるもんな。

 

 

「わかった。ふー、ふー。あーん」

 

「あーん」

 

 

 スプーンを口に運び、ありすがぱくりと頬張るのを見つめる。

 よしよし、ちゃんと食べているな。

 

 

「つぎー」

 

「はいはい、ふー、ふー。あーん」

 

「あーん」

 

 

 ……そんなことをしているとき、ガチャっとドアが開いた。

 

 

「どう? ちゃんと食べ……」

 

 

 ヨリーさんが目を丸くして、僕に膝枕されながらご飯を食べさせてもらっているありすを見ている。

 と思ったら、彼女はすぐにニマーとチェシャ猫みたいな笑顔になった。

 

 

「あらあら……随分大人な遊びをしてるじゃない? 小学生にはちょっと早いんじゃないかなー」

 

「なっ、違……!」

 

 

 ありすがバッと素早く体を起こし、ぱくぱく口を開いた。すっごく汗流してるけど、風邪が悪化してしまったのか? よし、僕が代わりに弁護してあげよう。

 

 

「そうです、誤解ですよ。これは、お父さんごっこです」

 

「お父さんごっこ」

 

「はい。ありすは、お父さんに褒められるときは、膝枕されながら、頭を撫でてもらっているんですよね」

 

「へー、そう……」

 

 

 ヨリーさんがじっと見つめる先で、ありすが無言で目を逸らした。

 

 

「そ う だ っ た か し ら ?」

 

「そ、そうよ?」

 

 

 ……そんなことが、遠い日にあった。

 

 思えばあれ以来、ありすがときどき僕にやたら甘えてくるようになった気がする。味を占めたんだろうか。

 

 でも、ありすのお父さんは忙しくてなかなか帰ってこないらしいし、父親の愛に飢えてるだろうから仕方ないんだろうな。

 

 ……愛か……。

 僕にそんなものが理解出来たら、もっとありすの寂しさを癒してあげられたのにな……。

 

 

 

===========

=======

===

 

 

 

「……あ、起きた?」

 

 

 優しい声に迎えられて、僕は眠りから覚めた。

 ありすがにこっと笑いながら、タオルを手にしている。

 

 

「……ありす?」

 

「風邪引いたっていうからお見舞いにね」

 

 

 頭の上に置かれた冷えたタオルを交換される。あ、指冷たくて気持ちいい。

 そんな僕を見て、ありすは腰に手を当てた。お説教モードだ。

 

 

「まったく! みづきちゃんに聞いたけどご飯も食べずに運動してたんだって? ダメよ、そんなダイエットしちゃ! だから風邪なんて引くの!」

 

「いや、別にダイエットでは……」

 

「言い訳しない! アンタって、ホント世話が焼けるんだから。ちゃんと滋養があるもの食べて温かくしなさい!」

 

 

 そう言いながら、ありすは傍に置かれていた魔法瓶を持ち上げる。

 おたまで中身を皿の上によそうと、とても懐かしく甘い香りがした。

 

 

「……ライスプディング」

 

「そうよ。家から持って来たの、ママが風邪引いたときはこれがいいっていうから」

 

「そっか。ありがと」

 

 

 僕は体を起こし、皿とスプーンを受け取ろうとする。

 しかしありすはそれを制して、皿の中身をスプーンで掬い上げた。

 

 

「ほら、食べさせてあげる」

 

「……もう子供じゃないよ」

 

「風邪ひきさんが生意気言うんじゃないの。ふーふーしてあげるから、食べなさい?」

 

 

 あ、これ逆らってもダメなパターンだ。

 僕は早々と抵抗を諦め、ありすが息を吹きかけて熱を冷ましてくれたお粥を口に含む。

 うん、おいしい。さすがヨリーさんが作った……いや。

 何かが違う。さっきの夢の出来事の後でご馳走になったときの味とは少し……。

 

 僕はありすの目を見ながら訊いてみた。

 

 

「ねえ、これもしかしてありすが作ってくれた?」

 

「……うん、まあ、ね? 包丁も使わないレシピだし……」

 

 

 ありすは両手の指をせわしなく組み替え、もじもじしている。

 やがてあっと何かに気付いたように口を開いた。

 

 

「……そう言うってことは、もしかしておいしくなかった? ママのレシピを再現しようとはしたんだけど……初めて作る料理だし、失敗したのかも」

 

「いや」

 

 

 僕は首を横に振った。

 そんなことあるわけがないだろう。

 もし仮にどれだけ失敗していようが、それは僕にとって。

 

 

「世界一優しい味がしたよ」



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外伝「鬼ハヤリするクッキングチャンネルができるまで(前編)」

本日2話投稿!前後編の前編です。

※本編開始から2年前を舞台にした、ありすママのお話です。
今回本編にまったく関係ありません。完全にやりたかったからという理由だけで書きました。


「お願い、1回でいいから~。1回だけ手伝ってほしいの~」

 

「1回って言われてもなー……」

 

 

 ママ友から両手を合わせて頭を下げられ、頼子(よりこ)はどうしたものかと額に手を当てた。

 

 

「ヨリーちゃんしか頼める人がいないの~。一生のお願いだから、ちゃんと謝礼も出るから~」

 

「うーん……でもあたし、ホント芸能人じゃないからロクにしゃべれないと思うし。そもそも……動画配信? 人が料理してるところなんて映して誰が見るの?」

 

「そこは大丈夫。世の中奇特な人が多くて、人がゲームしてるところ見るだけでも楽しいって人がいっぱいいるのよー。ヨリーちゃんはプロの料理人なんだし、サクッ! ジュッ! モグッ! って華麗に料理すればみんな釘付けよー。それに料理番組って人気あるじゃない?」

 

 

 そんなもんかなぁ、と頼子は首を傾げずにはいられない。料理番組が人気っていっても、あれは芸能人が料理を食べる方ばっか映してるし。

 ネットにあまり詳しくない頼子には、動画配信サービスと言われてもあまりピンとこなかった。

 

 

「お願い! 私の旦那の事業開始イベントなの、ここで勢いつけなきゃいけないの。お願いだからライブ配信で料理を作って!」

 

「ううーん……」

 

 

 そもそも何故こんな依頼をされているのかといえば、ママ友の瑠々香(るるか)の夫が動画配信タレントを集めたプロダクションを立ち上げたのである。

 民間放送局の人気アナウンサーとしてお茶の間の顔だった彼は、先頃長年勤めた局を退職して独立を果たした。彼は局アナ時代、スポーツやゲームイベントの実況者としても人気を博していたが、今後は活躍の場を動画配信サービスに移すと宣言して、動画配信者を集めて会社を興した。

 

 その事業開始記念イベントとして、自社の動画配信者総出演の12時間連続ライブを企画したのだが、料理チャンネルを担当する配信者が直前になって突然引退を宣言してしまった。そこで普段瑠々香と親しい頼子に、どうにか穴埋めとして料理をしてもらえないかという話が回って来たのだ。

 

 正直頼子にはまったく理解の及ばない話だった。折角局アナとして人気があるのに、何故わざわざ退職して、しかも動画配信なんてよくわからないことを始めるのか? それで本当に食って行けるのだろうかと心配になってしまう。瑠々香は夫には先見の明があると信じているようだが……。

 

 しかし瑠々香の一家にはいつも本当に世話になっている。せめてもの恩返しをするなら今しかないのではないか?

 

 

「……仕方ないわね、瑠々香の頼みだもの。でも本当に料理するだけよ? あたしそんな大したしゃべりとかできないからね?」

 

「やったー! ヨリーちゃん大好きー!!」

 

「こ、こらっ! 暑苦しいわね、抱き着かないでよっ!」

 

 

 大喜びの瑠々香に抱き着かれながら、頼子は内心で溜息を吐いた。

 これ、コック長に知られたら大目玉だろうなあ。ただでさえ先日熱を出した娘の看病で休んだことにちくちく嫌味を言われているというのに。代休取るのは労働者の権利だろ、あのクソハゲめ。

 

 

 

===========

=======

===

 

 

 

「3、2、1……はい、スタート」

 

「は、初めましてっ! 急遽代理で料理をすることになったヨリーですっ!」

 

 

 自宅のキッチンに立ったエプロン姿の頼子は、ガッチガチに緊張しながらカメラに向かって頭を下げた。なにしろこれまでの人生でカメラに向かってしゃべった経験なんて皆無なのだ。

 カメラマンを担当する瑠々香は、めちゃめちゃ緊張してるわねーと苦笑を漏らす。まあ1回限りの代打なのだし、完全に素人の頼子には多くは期待していない。トークはまず無理だろうと思っている。

 しかし動画配信は出演者が素人臭くても許される土壌があるので、それはそれでいい味になってくれるだろう。とにかく本命は頼子の料理の腕であって、瑠々香はそこには大きな信頼を置いていた。

 

 

(料理については一度通してリハーサルもしてるし、台本通りに進めながら視聴者と軽く雑談してもらえばいいわねー)

 

 

「初見です!」

 

「ヨリーちゃんかわいー。若妻感あるね」

 

「何歳ですか! どこ住みですか!」

 

「ガチガチに緊張してるけど大丈夫か? 手を切るなよ」

 

「ヨリーさん! ご本人を私にください!」

 

「何を作ってくれるんですか?」

 

「オープニングイベントだしケーキとかかな?」

 

「おいおい、こんな素人丸出しなのを連れてくんじゃねえよ」

 

 

「ええと、それでは早速料理をしていきたいと思います。今日はあたしの得意料理の……寿司フライを作りますね!」

 

 

「!?!?!?!?!?」

 

「寿司フライ is 何」

 

「ゲテモノキターーーーーーーー!!!!!」

 

「開設早々日本食の文化を破壊する女」

 

「和食の破壊者めぇ!!!」

 

「いや、待て。今ググったら富山で売ってる店があるらしいぞ」

 

 

(掴みはバッチリね~!)

 

 

 瑠々香は手ごたえを感じてニヤリと笑みを浮かべた。

 頼子に頼んだ理由のひとつが、彼女の得意料理の寿司フライだ。動画配信界隈においては物珍しさは大きなセールスポイントになる。聞き慣れないこの料理は注目を集めるのにぴったりだと踏んだのだ。

 

 

「寿司フライって聞き慣れないと思うんですけど、これはます寿司を揚げた料理です。おっと、その前にます寿司ってご存じですかね? ほら、駅弁でよく売ってる、ますを使った押し寿司です。(ます)の中にマスを詰め込むからます寿司、これ今日は覚えて帰ってくださいね」

 

 

「ほへー」

 

「ます寿司自体を初めて知ったわ」

 

「あー新幹線の駅で売ってるよな。あれおいしいわ」

 

「すっぱくて苦手」

 

 

「それじゃまずはます寿司を握っていきましょう」

 

 

 そう言って頼子はドンッと丸ごとのニジマス1尾を冷蔵庫から取り出し、まな板の上に乗せた。

 

 

「手始めにマスを(さば)くわよー!」

 

 

「そこから作るの!?」

 

「ます寿司買って揚げるんじゃねえのかよwwww」

 

「えっ、ちょっと待って、捌くのすげー上手い」

 

「女流寿司職人の方ですか?」

 

「これ素人の手際じゃねーぞ」

 

 

「はい、こんな感じでササッと3枚におろします。ちなみにこれは養殖のニジマスだから大丈夫だけど、サケ科のお魚って天然モノはアニサキスがいるのよ。生で食べると寄生虫にやられて中毒起こすから、養殖じゃないので作るときは一旦マイナス20度以下で24時間以上冷凍したのを使ってね」

 

 

 頼子はてきぱきとマスを解体していく。普段和洋のさまざまな料理を手掛けている頼子にとって、こんなのは慣れたものだ。

 まあ本来は切り身があれば丸ごと捌く必要などないのだが、瑠々香がとにかく絵面のインパクトがほしいというので捌くところからやってみた。到底消費しきれないので、後で瑠々香の家でも食卓に並ぶことになるが。しばらく晩御飯はマス尽くしであろう。

 

 瑠々香がちらりと配信画面に目をやれば、視聴者たちは頼子の手際に驚いているようだ。出だしの素人臭さをナメていた感じがなくなっている。

 

 

「あっという間に切り身になった」

 

「私たちが食べているお寿司はこうして作られています」

 

「華麗すぎる」

 

「はえーすっごい……」

 

「ヨリーちゃん美人! 料理上手! お嫁さんになって!」

 

 

「は? あたし既婚で娘いるけど?」

 

 

「うわあああああああああああ!!! 僕が先に好きだったのにいいいいい!! 脳が破壊されるううううう!!!」

 

「こんな思いをするくらいならヨリーちゃんが捌いてるニジマスに生まれたかった」

 

「↑↑どう考えても旦那さんの方が先に好きになってる定期」

 

「若妻感あるほうがいい」

 

「初配信から処女厨をぶっ刺していくスタイルwwwww」

 

「主婦なんですか? 料理上手ですね!」

 

「ヨリーさんのお隣さんになりたい」

 

 

 いきなりの爆弾発言を投げ込んでいくスタイルに大丈夫かとヒヤヒヤした瑠々香だが、別に視聴者数は減っていないようだ。先に料理の腕前を見せつけていたおかげだろう。

 

 

 

「何よあなたたち、あたしがそんなモテないように見えるわけ? 言っとくけど速攻で旦那捕まえたからねあたし。その決め手になった料理がこの寿司フライよ! 外国人の旦那にこれ食べさせたらこれが東洋の神秘!? って叫んでイチコロで惚れたわ!! 外国人の旦那がほしけりゃこれ作って食べさせなさい!!」

 

 

「マジで!?」

 

「美人若妻かと思ったらエキセントリックすぎる」

 

「そんなもん食わせたら引かれると思うんですけど」

 

「外国人の彼氏の口に揚げた寿司を詰め込んで結婚を迫った女」

 

「すごい! 真似します!!」

 

「将軍様、まず外国人の彼氏と出会う方法を教えてください」

 

 

「え、外国人の彼氏と出会う方法? そうねー、あれは私がフランスのレストランで修業をしていたときに……」

 

『ヨリーちゃん、トークはいいから料理進めて!』

 

 

 話に夢中になって手を止めた頼子に、瑠々香は慌ててカンペを飛ばした。

 

 

「あ、料理? うん、じゃあしゃべりながら続けるわね。えーと次は酢飯を作ります。これはたっぷりと砂糖と酢を入れるのがポイントね。フライにするのが前提だから、通常よりも甘い味付けするといいわよ。はい、熱々の白飯に一気にお酢と砂糖を混ぜ入れて、団扇でぱたぱたぱたと。で、何の話だっけ? そうそう、フランスのレストランで働いてたらそこに旦那が来たわけよ。旦那はイギリス人なんだけどね? それで……」

 

 

(ヨリーちゃんのエンジンがかかってきたわー……)

 




後編に続きます。


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外伝「鬼ハヤリするクッキングチャンネルができるまで(後編)」

本日2話投稿!後編です。


「あ、料理? うん、じゃあしゃべりながら続けるわね。えーと次は酢飯を作ります。これはたっぷりと砂糖と酢を入れるのがポイントね。フライにするのが前提だから、通常よりも甘い味付けするといいわよ。はい、熱々の白飯に一気にお酢と砂糖を混ぜ入れて、団扇(うちわ)でぱたぱたぱたと。で、何の話だっけ? そうそう、フランスのレストランで働いてたらそこに旦那が来たわけよ。旦那はイギリス人なんだけどね? それで……」

 

 

 慣れてきた頼子(よりこ)はぺらぺらと口を回し始めている。

 それがもうしゃべるしゃべる。圧倒的な天然のトーク力を見せつけていた。

 

 

「やっぱ素人じゃないんだこの人」

 

「フランスで修業したのに日本で寿司をフライにするところ実況してるとか数奇な人生過ぎない?」

 

「ガチプロやんけ!」

 

「どっかのレストランで働いてたりします?」

 

「待て、旦那との馴れ初めがすっごい大恋愛だぞ! そっちの方を聞きたいから口を挟むな」

 

 

 その後もエンジンがかかった頼子はマシンガンのように絶え間なく雑談をしながら、手は的確に調理を進めていた。

 

 

「はい、それじゃここでぎゅーーーっと握るわよー。日本のお寿司屋さんは大体ふんわりと握るんだけど、これは押し寿司だから思いっきり力を入れて握るのがコツよ。本来は(ます)に酢飯とマスを詰め込んで上から重石を乗せるんだけど、今回は手で握ってるわ。フライにするから、ちゃんと手で空気を抜いて固めないと油の中でバラけちゃうわけ」

 

 

「俺もヨリーさんにぎゅーっとされたい」

 

「↑重石乗せてやろうか? 膝の上にな」

 

「へえー、弁当のます寿司とはだいぶ違うんだな」

 

「うまいもんだ。ちゃんと1貫ずつシャリの量も同じだなこれ」

 

「どこのお寿司屋さんで働いてますか? 食べに行きます」

 

 

「うん、おいしい! あたしお魚大好きなのよね」

 

 

 パクリと寿司を食べた頼子が顔をほころばせる。

 

 

「じゃあこのます寿司にパン粉をつけて……揚げていくわよ!!」

 

 

「もう美味い」

 

「うまそうな顔して食うなーこの人」

 

【お魚代つ 10000円がチャージされました】

 

「既婚の人妻に魚を貢ぐ奴ってどんな心境なんだ」

 

「ねじれる性癖」

 

【聴講料つ 1000円がチャージされました】

 

「普通に勉強になる」

 

 

「え、何これ?」

 

『これは投げ銭といって、ライブ配信者にお金をあげるシステムよ。今回はうちの会社で預かってるけどねー』

 

 

 キョトンと小首を傾げる頼子だが、カンペで説明を受けると目を丸くした。

 

 

「え!? あなたたち大丈夫!? 別に料理食べられるわけじゃないのよ!? そんなお金があるならおいしいお寿司屋さん行きなさい!」

 

 

「配信者が投げ銭否定してて草」

 

「受け取ってくれー」

 

「人妻に貢がせろ」

 

「↑言い方が不審者で草」

 

【ファンです 461円がチャージされました】

 

 

『ファンとしての愛情表現なんだから、素直にお礼を言って受け取ってねー』

 

「ファン!? あたしの!? ……料理人やって長いけど、こんな大金のチップを直接渡されたのは初めてね。その……ありがと」

 

 

 そう言って頼子は髪の先を人差し指でいじり、カメラから視線を外しながら礼を言った。そして思い出したように慌てて手を洗いだす。

 

 

「ふおおおおおおおおおおおおお!!」

 

「可愛いぞBBA!!」

 

「↑はぁ!? 若いだろうが!!」

 

「こんな料理上手で可愛いツンデレ嫁をもらえた旦那さんが心底羨ましい」

 

 

「さ、さあ! じゃあ今度こそ揚げるわよ!」

 

 

「照れ隠しktkr」

 

「待って、よく見たらこのキッチン明らかに素人のご家庭にある設備じゃないぞ」

 

「はえー、プロは家庭でもちゃんと勉強してんだなー」

 

「これは高温で揚がりそうだな」

 

「ます寿司『やめろー! 死にたくなーい!!』」

 

「せっかくの極上のます寿司が釜茹でで処刑されて草」

 

「おっ、これもすげー手際よくない?」

 

「こんがりきつね色で引き上げたな」

 

「いつも揚げ物を真っ黒になるまで揚げるうちのかーちゃんに見習ってほしい」

 

「↑お前のカーチャンにがん保険掛けられてねえか?」

 

 

「はい、それじゃこんがりと揚がったところで……決め手にタルタルソースを添えます! これで出来上がりよ!!」

 

 

 頼子は大皿に寿司フライを盛りつけ、手早く作ったタルタルソースを別皿に盛って添えつけた。

 チャラララーー♪ と音響スタッフがファンファーレのSEを鳴らし、完成をアピールする。

 

 

「うわあああああ! うまそおおおおおお!!」

 

「こんなん絶対うまいやつでしょ」

 

「寿司フライっていうからどんなゲテモノかと思ったけど、見た目はすごいうまそうだな」

 

「タルタルソースをちゃんと手作りしている+114514点」

 

「↑なんでもかんでも114514点つけるんじゃねえ」

 

「すっごい綺麗な盛り付け方だなあ。飾り食材もちゃんと盛ってるし、食欲そそるわ」

 

「どんな味がするんだろ?」

 

 

『ヨリーちゃん、実食して』

 

「え、これアタシが食べるの? えーと、じゃあいただきまーす」

 

 

 頼子は手を合わせてから箸で寿司フライをつまみ、タルタルソースをたっぷり付けてサクッと頬張った。

 

 

「おいしいわ!」

 

 

「ズコーーーーー_(┐「ε:)_」

 

「語彙が貧弱すぎる」

 

「語彙『ほな……さいなら』」

 

「恵まれた料理から飛び出るクソみたいな感想」

 

「作ってる途中はめっちゃしゃべりまくるのに味の感想は貧相な女」

 

「天は食レポの才能までは与えなかったのか」

 

 

『どんな味なのか言うのよ!』

 

 

「えっ、味!? えーと……酢飯とタルタルソースが持つ酸っぱさが油とすごく合うわ! サクッとした衣の食感の先に、酢飯が出て来る二重の食感もおもしろいわね。マス寿司は典型的な口内調理をする料理なんだけど、口の中で噛めば噛むほど芳醇な味わいが広がっていい感じ。もちろんマスとタルタルの相性も抜群だわ」

 

 

「ごくり……」

 

「うまそおおおおおおお」

 

「これは飯テロ」

 

「いいなー、いくら払ったら食べられますか?」

 

「お店教えてください、食べに行きます」

 

【食レポ代つ 2000円がチャージされました】

 

 

「えー、お店? うーん……どうしようかな。これ出演したのバレたら絶対上司に怒られるから、それは内緒ってことで」

 

 

「特定班急げ!」

 

「↑やめろバカ、迷惑をかけるな」

 

「次はいつ出演するんですか? チャンネル登録させてください」

 

 

「あたし今回だけの代打なのよね……次の出演予定はないかなあ。お店忙しくて、今日も割と無理に休んだのよ」

 

 

「(´・ω・`)そんなー」

 

「とても面白いと思います」

 

「マジで才能あるわこの人」

 

「こんだけトークして本業配信者じゃない? ウッソだろお前」

 

「もっとききたーい」

 

「ママになってください」

 

「合言葉は『ごきげんヨーさん』!」

 

 

「いやー、そんなこと言われてもなー。困っちゃうわね」

 

(……ホント才能あるわねー)

 

 

 困り顔の頼子を見ながら、瑠々香(るるか)は舌を巻いた。

 料理の腕前が高いのはわかりきっていたことだが、実際にしゃべらせてみたらトーク力がすごい。いつのまにか砕けた口調になっており、それがキャラ性として視聴者に受け入れられている。

 元放送作家だった瑠々香としてはぜひとも欲しい、即戦力になりうるタレント性だった。

 

 

(このまま本当に配信者デビューしてくれないかなー)

 

 

 瑠々香がそう思っていたとき、玄関の方でガチャっと音がした。

 

 

(……え?)

 

 

 ぎょっとしてそちらを見ると、廊下の先からパタパタと軽い足音が数人分響いて来る。

 

 

「ママー! お腹空いた、何かおやつあるー?」

 

「おじゃまします」

 

「しまーす!」

 

 

 頼子はぎょっとした顔になる。

 

 

「ちょ……アンタたち、なんでここに……!?」

 

 

 台所に入ってきた小学4年生のありすは、不思議そうに小首を傾げた。

 

 

「あれ? これ何やってるところ?」

 

 

「子供キターーーーー!!」

 

「放送事故ワロタ」

 

「かっっっっっっっわ!!!! マジかよこの女の子めちゃ可愛いぞ!!!」

 

「え、この子たち10歳くらいだよね? ヨリーママ何歳?」

 

「天使降臨」

 

「天上の美声……耳が幸せ……もっとしゃべって?」

 

「3人兄弟なのかな?」

 

 

「な、なんでここに……! 今日はおうちでお留守番しててねって言ったでしょー!」

 

「えー、だっておやつ置いてなかったもん。ありすちゃんのおうちならおやつあるかもって言うからー」

 

 

 瑠々香の叱責に、海月(みづき)がぶーっと頬を膨らませる。

 そんな家族たちのやりとりをよそに、博士(ひろし)は指をくわえて寿司フライを見つめた。

 

 

「おいしそう……」

 

 

「ちょっと待て、カメラマンの声ってもしかしてるかママじゃね?」

 

「え? あの源治郎(げんじろう)と一緒にゲーム配信してる嫁さんの?」

 

「いつもはあらあら系ママ、ゲーム中はオラオラ系クソ野郎ことアトミック☆るかさんじゃないっすか! ちわーーーっす!!」

 

葉加瀬(はかせ)社長の嫁やんけwww めっちゃ内製で撮影してて草」

 

「この男のガキはあんま可愛くねーな、なんかぼーっとしとるぞ」

 

「↑は? メカクレショタ最高やろが」

 

「前髪に隠れてるけど顔立ちは割といいじゃん。というかこの子もしかして葉加瀬アナの息子か? なんか面影あるぞ」

 

 

「今撮影してるから入っちゃダメよー!」

 

「撮影? 何の撮影なのこれ?」

 

 

 ありすはそう言いながら、カメラに向かって手を振る。

 

 

「あ、こら! これお仕事なの! ヨリーちゃんが全国の視聴者さんにお料理を見せてるところだから!」

 

「え、これつべちゅーぶのライブなの? ママ配信者デビューするの?」

 

「あーいや、これ1回こっきりでね……」

 

 

 ありすは顎に手をやると、少し考えた。

 本当は使っちゃいけない力だけど……。でもママの晴れ舞台だし。1回くらいいいよね。

 

 そしてありすは笑顔を作り、スカートの端をちょんとつまんで、カーテシーでぺこりと一礼した。

 

 

「みなさん、こんにちわ。ママの動画を見てくれてありがとうございます。『これからもママのことをよろしくお願いします!』」

 

 

「ふあああああああああああああ!!!」

 

「脳が溶けりゅうううううううううううう」

 

「未来永劫支え続けます」

 

「永遠に養分になります」

 

【養育費つ 50000円がチャージされました】

 

【教育費つ 50000円がチャージされました】

 

【養分費つ 50000円がチャージされました】

 

「ヨリーさん! 娘さんを僕にください!!」

 

「↑くたばれペド野郎」

 

「娘さん! ヨリーさんを俺にください!!」

 

「お父さん!! ヨリーさんと娘さんをください!!」

 

「↑絶対許されなくてワロタ」

 

「私はそこのメカクレショタで手を打ちます」

 

 

「えー? ダメダメ、うちの娘はもう売約済みだからあげないわよ。は? あたし? 旦那が好きだからダメー」

 

 

 頼子が画面に向かって何か言うたびに、コメント欄がガッツンガッツンと盛り上がっている。

 

 

(なんかすごいことになっちゃったわねー……)

 

 

 嵐のように投げ銭が飛び交うコメント欄に、瑠々香はため息を吐いた。

 ありすが挨拶してからというもの、我を忘れたかのように視聴者が荒れ狂っている。あまりにも効果がありすぎた。

 

 そんなありすは今、椅子に座って寿司フライをパクついている。

 ありすと海月に挟まれる形で座った博士も、もぐもぐと寿司フライを口に運んでいた。

 

 

「はぁー……可愛い……癒される……」

 

「子供がうまそうにご飯食ってる姿っていいもんだよな」

 

「ギギギ……このガキ、ありすちゃんと幼馴染になれるとは……。前世で一体どんな善行を積めばそんな幸せが手に入るんだ……許せん!!」

 

「↑お前みたいな奴はきっと生まれ変わってもそんな境遇になれねえだろうな」

 

「↑↑今からでも功徳積んで生まれ変わって」

 

「遠回しに氏ねって言われてて草」

 

「この女の子、すっごい男の子のこと好きだよな。食べてるところめっちゃチラチラ見てるし」

 

「おい、男の子の口元についたご飯粒を取って自分の口に入れたぞ」

 

「背伸びしてお説教してるの可愛すぎ」

 

「隣の妹ちゃん、ニコニコして見てる。お兄ちゃんもお姉ちゃんも好きなんだなー」

 

「はぁー……心がしんどい……」

 

「癒される……」

 

「癒されすぎてしんどい……」

 

 

 そんなこんなで、頼子の初配信は終わった。

 投げ銭による収益額はイベント参加者の中でも断トツトップだったことは言うまでもない。

 ライブ配信直後からアーカイブは視聴され続けており、噂が噂を呼んでいるのか1時間が経った今も再生数のカウンターは爆上がりしていた。

 

 

「お疲れ様、ヨリーちゃん。いろいろあったけどごくろうさまー」

 

「はぁ……ホントよね。もう二度とごめんだわ」

 

 

 頼子は料理の後片付けをしながら、やれやれと肩を回した。

 

 

「本当に今日はありがとねー。アクシデントはあったけど、なんだかそのおかげで大成功だわー。料理配信が話題を呼んで、他のチャンネルにも注目が集まってるみたい。ヨリーちゃんとありすちゃん様様ねー」

 

「あはは、ならボーナスも弾んでよね」

 

「もちろんよー。……ねえヨリーちゃん、本気でうちに就職するつもりない? ヨリーちゃんなら大歓迎、好待遇で迎えさせてもらうわー」

 

 

 瑠々香の言葉に頼子は苦笑を浮かべ、首を横に振った。

 

 

「それはできないわ、代打はあくまでも今回こっきり。……大きなお店でコックとして働くのは、小さい頃からのあたしの夢だった。ようやく叶ったというのに、今更投げ出せないわ。それにサブチーフ(副料理長)がいなくなったら、みんな困っちゃうもの」

 

「そうー? でも、なんだか上司さんが意地悪で辛いとかー、ありすちゃんの面倒をロクにみられないとか言ってたしー。配信者になれば自宅でお仕事できるわよー?」

 

 

 瑠々香はそう言うが、頼子の決意は覆らない。

 何故なら、頼子は仕事に人生を懸けているから。

 

 

「料理人は私の生き方。人生そのものよ。あたしは料理人であることに誇りを持っている……たとえ何があっても、それを投げ出すつもりはないわ」

 

「そうなのー……。残念だわ、これほどのセンスがあるのにー」

 

「悪いわね、瑠々香。でも、これがあたしなの」

 

「ううん、頼子ちゃんのそういうところも素敵だって思うわー。じゃあこれ、今回のギャラね」

 

 

 そう言うと瑠々香はさらさらと小切手に数字を書き入れた。

 はい、と気軽に渡されたその額面に頼子の顔が強張る。

 

 

「は? ……これって……」

 

「元々の出演料に、視聴者数に応じたボーナスと社内規定に応じた投げ銭の取り分を加えた金額よー。それに他番組への集客効果のボーナスも加えて、キリのいい数字にしておいたわ」

 

 

 瑠々香は不思議そうに小首を傾げた。

 

 

「少なかったかしらー? もっとほしい?」

 

 

 ぶんぶんぶんぶんと頼子は真っ青な顔で首を横に振る。

 

 

「ま、待って……これ多すぎ……」

 

「そんなことないわよー? 活躍に応じたギャラ考えたらこんなものだと思うわー。それにこれ第1回だし。次があれば視聴者も増えるだろうから、もっと増えるんじゃないかしらー」

 

「え……? 出演するたびにこのギャラをもらえるってこと……?」

 

「いえ、だからもっと増えるわよー。本当に残念だわー、こんな金の卵を産むガチョウを手放すことになるなんてー。あなたならもっと稼げたのに。でもヨリーちゃんにはお仕事への誇りがあるから、仕方ないわねー」

 

「…………」

 

 

 頼子は自分の月給をゆうに上回る数字が並んだ小切手と瑠々香を交互に見て、ぶるぶると肩を震わせた。

 

 

「あら? ヨリーちゃん、どうしたの~?」

 

「……動画配信でも料理人の誇りは保てるわよね! 明日職場のハゲ上司に辞表出してくるんでよろしくお願いします!」

 

「やったぁ! ヨリーちゃん大好き~! 明日からバリバリ稼いでいこうね~♪」

 

「ああ、もう! だから抱き着くなーーーっ!!」




本編は高2で2022年になるよう設定してるので、
この外伝の舞台設定としては大体2016年くらいを想定してます。
なおこの世界ではコロナショックは起こっていません。



以下は本編では一切使われない設定なので読まなくていいですよ。
パパママたちを知りたいという奇特な方だけどうぞ。

〇ハカセパパ

本名:葉加瀬源治郎

元民放アナウンサーで実況者。ゲームマニア。
ゲーム配信を趣味でやっていたが、動画配信に可能性を感じて独立してプロダクションの社長に。ほぼ捨て身の冒険の末に成功を収めた。
夫婦でのアクションゲーム実況はあまりにも面白すぎて大人気。
「変わり身の術!」と言いながら嫁を肉壁にするのが持ちネタ。
お嫁さんと子供たちが大好き。


〇ハカセママ
本名:葉加瀬瑠々香 芸名:アトミック☆るか

専業主婦であり配信実況者。ゲームマニア。
普段はあらあら系のおっとりママ、ゲーム中はオラオラ系のゲーマー。本当に同一人物か疑う豹変ぶりのギャップが魅力。最初はるかと名乗っていたが、爆発物が大好きで、特に核爆弾が登場するゲームでは必ず装備するので現在の芸名になった。
夫に付き合ってゲーム配信していたら、人気が集まってタレントデビュー。
単体でも人気が高いが、夫婦で組むともっと面白い。
「おやめになって源治郎さん~」と言いながら夫を後ろから刺すのが持ちネタ。
夫と結婚するまでは放送作家をやっていて、今も夫とのゲームチャンネルの台本は自分で書いている。


〇ありすママ
本名:天幡頼子 芸名:ヨリーママ

元一流レストランのサブチーフ。現在は料理研究家であり料理系動画配信者。
ツンデレ気味な態度とマシンガントーク、そして奇抜かつ華麗な料理スキルで人気。日本人があまり食べない海外料理や創作料理を積極的に披露する。
ライブ配信すると狂信的なファンがしょっちゅう投げ銭してくるので、そのたびにそのお金でおいしいもの食べに行きなさい! と叱っている。そのツンデレ気味に心配してくれるところが魅力なのだとか。
当初の数回はありすが実食係として動画に出ていたが、今は出ていない。
配信開始時の合言葉は「ごきげんヨーさん」。


〇ありすパパ
本名:天幡シン

日英ハーフの英国紳士で、世界を飛び回るエリートビジネスマン。大体家にいない。
小学生の頃のハカセはぽやーとした雰囲気だったので娘によりつく害虫と嫌っているが、成長したハカセとは知的な雰囲気がそっくり。傍から見ると親子に見えるほど似ている。
日本に帰ると嫁にせがまれて膝枕からのなでなでコースでほめちぎる愛妻家パパ。


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第51話 「自我と良心の伝道者」

「ありがとう、これなら大丈夫だと思う。もらった草案をベースにしてこちらでマニュアルを作成しよう」

 

「OKですか。よかった……」

 

 

 『バベルⅠ世(ワン)』のマニュアル草案に目を通したEGOさんの言葉に、僕はほっと胸を撫で下ろした。これでだめだと言われたらどうしたらいいのかわからない。

 作成に要した時間はそれほど長くはなかったが、ありすには非常に苦労をかけてしまった。

 

 

「それにしても君の恋人は優秀だね。キミの意味不明なブラックボックスをこんなにわかりやすく扱い方だけ抽出してまとめてくれるとは……」

 

「いえ、恋人じゃないです」

 

「……あ、そう。まだ付き合ってないんだ……」

 

 

 マニュアル草案を作ってくれたのは何を隠そうありすだ。

 

 僕が自室でどうしてもできないできないと苦しんでいたら、くらげちゃんの勉強を見に来てくれていたありすが何を困ってるの? と聞き付けたのだ。

 EGOさんをもう3カ月以上も待たせていて、そのせいで『ワンだふるわーるど』の全世界語翻訳実装が遅れていると知ったありすは、それなら自分が作ってあげると無謀なことを言いだした。

 

 どう考えてもプログラムは門外漢のありすにそんなことができると思えなかったので最初は断った。しかし食い下がったありすは僕がマニュアルを作る上で何が問題なのかを辛抱強く逐一聞き出し、あまりに専門的な部分は容赦なくばっさりとカット。

 細かい仕様を解説しようとする僕の意見を無視して、想定される問題とその対処法のみをまとめたマニュアルとしたのである。

 

 

「機械を修理するのに構造や素材を全部知っておく必要なんてないでしょ。基礎の構造をざっくりと理解して、どこで故障が出そうなのかとどうやれば直せるのかさえ知っておけばいいじゃない」

 

 

 ありすの言葉に、僕はそういうものなのかとようやく納得した。僕はソースコードやAIの仕様すべてを細かく解説しようとしていたのだが、どうやら求められているものはそうではなかったらしい。

 いや、本来はエンジニアはすべてを理解しておくべきだと思うのだが、僕が作ったものは複雑すぎて他人がスムーズに理解できないらしいのだ。エンジニアとしての未熟さを痛感している。僕もEGOさんみたいにもっとわかりやすいコードを書ければいいのだが。

 

 

「さあ、マニュアルは早々にまとめてとっととサーバーを運用しなくては……。来月半ばには全世界運用開始だ!」

 

「え、なんかすごい急ですね。もう11月も終わりですけど……」

 

「だってこんなビジネスチャンスを逃せるかい!? 翻訳版リリースすると告知してから3カ月、まだかまだかと全世界から言われてるんだぞ!? 融資を受けた銀行がいつ実装するのかとせっついてきているし。年内実装予定と告知してしまったからには、どうしても守らなくては責任問題になってしまう……!」

 

「なんかいろいろ難しいんですね」

 

「えぇ……遅らせた本人がそんな呑気なこと言う……?」

 

 

 大人の世界っていろいろ大変みたいだな。

 EGOさんは僕と違ってプログラムやAIをいじって遊んでればいいわけではなく、ユーザーやら銀行とやらのご機嫌取りをしなくちゃいけないらしい。

 僕にはさっぱりわからないし興味もないことだけど、そんなことをやりたがるEGOさんはすごいなあ。

 

 

「まあAIの学習は大体終わってるから、サーバーと研修を受けた社員さえいればいつでもいけますよ」

 

「それはありがたい。ビルもAIを入れるサーバーももう抑えてあるからね。しかし、そっちもAIの学習がよくも間に合ったものだ」

 

「AIの中の時間の流れは人間の時間より速いですから」

 

 

 人間とAIの時間の流れは同質ではない。人間はどんなに急いでも周囲の時間を速めることはできないが、AIはクロック数をあげてやれば1秒をコンマ以下の数字にすることができる。人工知性としてのデザインを突き詰めたAIにガチで学習させれば、その学習速度は人間の及ぶところではない。

 

 とはいえ、すべてをAIに丸投げすることもできないが。

 いや、実際マニュアルに行き詰っていたときはそれも考えたのだ。

 サーバーの保守作業をする人間を作れないのなら、保守作業をするAIとそれを管理するAIを作って丸投げしちゃえばいいじゃないと。AIの管理をするAIがいれば人間はものすごく楽ができるじゃないか。

 手慰みに両方のデザインを考えるところまでやった。

 

 ……が、その案はやっぱり諦めた。あの催眠人格暴走事件からの教訓だ。

 人間が管理せずにオートで作業を任せると、知らないうちに暴走して破綻する危険性があるよなーと。

 僕も失敗から学習するのである。

 機械は人間が楽をするために作るものだが、その管理は人間がやらないとまずい。

 もしもAIによる文明の加速が行きつくところまでいけば、最終的にAIの管理はAIがやらないと処理しきれないということになるだろう。だが、たとえそうなったとしてもやはり何らかの形で人間を管理に噛ませないといけないだろうな。

 

 いや、まあそんな仮定は遥か未来の話だろうから今は置いとこう。

 とにかく管理する人間を作るためのマニュアルは必須だという結論に落ち着いたのだ。

 

 僕の面倒な話を根気強く聞いてくれて、現実的な話に落とし込んで書面にまでしてくれたありすには、本当に頭が上がらない。

 ぜひ何かお礼をしたいと言ったら要望を出されたので、それは絶対に叶えてあげようと思う。

 

 

「しかし、キミの脳内を外部出力できるなんて……もしかすると唯一無二の人材なのかもしれないな。卒業したら2人揃ってうちに入社しないか? あ、いや、キミはもう役員だし、入社は大学を卒業してからでも構わないが」

 

「うーん……。なんかEGOさんの会社の社員になると好きなこと自由にできそうにないなあ。それにありすが将来どんな職に就くかなんて、僕が口出しできることでもないし」

 

「おい、ちょっと待てEGO! 黙って聞いていればひぷのん君に唾を付けて。ひぷのん君はうちの研究室にだな……!」

 

 

 ミスターMが割って入ると、EGOさんは呆れたようなため息を吐いた。

 

 

「先輩、まだそんな寝ごと言ってるんですか? 先輩の研究室に入れるなんてもったいなさすぎます。この子ならもっといい大学いくらでも狙えるし、そもそも九州まで引っ越しさせる気ですかあんた」

 

「脳科学分野ならウチだって他の大学に負けてねえよ!? 最先端だわ!」

 

「つーか先輩まだ催眠アプリ作れてないんだから、その時点でひぷのん君に負けてるじゃないっすか」

 

「ぐ……ぐ……!」

 

 

 ぐうの音も出ないミスターMに、EGOさんがへっとせせら笑った。

 

 

「ひぷのん君の才能は金になるし、間違いなく今後の文明の発展を加速させます。脳科学なんて金にならんことを研究してる場合じゃないですよ」

 

「うるせー! 科学の発展は金では決まらん! 人間社会をより善いものにできるかどうかが大事だろう! 脳科学が発達すれば人間はより幸福になれる! 人間の悩みを解消する、それは人類発祥から続く課題だろうが!」

 

「エレクトロニクスだって大事だし、金も稼げるならそれに越したことはないじゃないですか!?」

 

 

 がるるるるとミスターMとEGOさんはいがみ合っている。

 これはあれの流れだな。

 

 

「やめて! 僕のために争わないで!!」

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 僕が久々に定型句を口にして割って入ると、ミスターMとEGOさんははぁとため息を吐いた。

 

 

「本当にこの子の進路を巡っての争いになってきたな……」

 

「まさかこんなことになるとは、4年前は思いもしませんでしたね」

 

 

 そういえば中1の夏に師匠方に出会ってからもう4年目になるのか。

 随分いろんなことを教わった気がする。それはプログラミングであったり、催眠術であったり、研究者としての矜持であったり、エンジニアとしての姿勢であったり。そして尊敬できる大人としての在り方も。

 

 ことあるごとに技術は人を幸せにするために使うべきだと主張するミスターMの理想主義。技術には善も悪もなく、扱う人次第だと語るEGOさんの現実主義。

 どちらが正しいのか、僕にはまだわからない。もしかしたらどちらも間違っているのかもしれないし、どちらも正しいのかもしれない。

 

 わからないと言えば、師匠方が僕にその信条を強制したことはないのも不思議だ。こうあるべきだとは語るが、こうしろとは言わない。

 大人と言うのは誰も彼も、こうしろああしろと子供に命令する。先生なんて人種は特にそうだ。でもこの2人はあくまでも年の離れた友人として、同じ研究者やエンジニアの同士としてアドバイスはしてくれるが、決して強制することはない。

 だから彼らの傍は居心地がいいし、素直に尊敬できるのだと思う。

 

 やっぱり僕は大人になったら、こういう人たちのようになりたい。

 

 

「ところでそちらの話が終わったのなら、催眠アプリの話をしたいのだが……」

 

 

 ミスターMは心なしかウキウキとした感じで話題を変えてきた。

 EGOさんはいいっすよ、と特に反対することもない。

 

 

「見せてくれたレポートによれば催眠人格なるものができたということだが……本当かね?」

 

「ええ、本当ですよ。危うく主人格の座を奪われるところでした」

 

「つまり人工的に精神分裂を引き起こすこともできるというわけか。とんでもないな。催眠療法で解離(かいり)性同一性障害を治療したという例はあるが、その逆もできるとは……」

 

 

 ミスターMはふうっとため息を吐いた。

 

 

「いや、よくぞ無事で……。本当によかったよ」

 

「とはいえ主人格の座を奪われたところで、別に今の僕とどう変わるかって言うと何も変わらないんですけどね」

 

「……どういうことだね?」

 

「えーと、要は今話している僕ではないけど、まったく同じ考え方をする僕がここで代わりに話しているってだけのことで。それは外から見たら僕とまったく変わらない人間ですよね」

 

「ええ……?」

 

「哲学的ゾンビみたいな話になってきたな……」

 

 

 哲学的ゾンビというのは、確か人間そっくりの反応をするけど意識を持たない仮定上の生物だったかな。外から見ればまるで人間そのものだが、自我はない。果たしてそれは人間と言えるのか……って哲学の話だったと思う。

 

 自我を持つ者こそが人間であると定義するのであれば、それは人間ではない。

 だが人間と同じ反応をするモノならば人間であると定義するのなら、それは人間だろう。

 あはは、なんか僕みたいだな。

 僕は間違いなく常人とは精神がズレているが、自分は人間だと思っている。だが見る人が見れば人の皮を被ったロボットに見えるのかもしれない。

 何を持っていれば、自分は人間だと胸を張って言えるんだろう。いろいろと欠落しているらしい僕には、何が足りてないのかと、どうすれば得られるのかがわからずにいる。

 

 そんなことを考えていると、ミスターMがふーむ、と唸り声をあげた。

 

 

「実際人格同一性障害の患者と出会ったことはないが……しかしすんなりと統合できるもんなんだなあ」

 

「ええ。催眠でできた人格だったからなのか、催眠を解除したらすぐ統合できましたよ」

 

「いや、そうではなくね。大体そういう場合は人格同士が統合に抵抗するものなんだよ。なにせ人格にとっては融合するとはいえ、自分という存在が消えることには変わらないわけだろう。いわば死ぬってことだ。それを催眠人格側もよく提案を受け入れてくれたものだよ」

 

 

 なんだそんなことか。

 

 

「だって両方僕ですからね」

 

「うん?」

 

「どっちも等しく『僕』だからほぼ個体差がないんですよ。それに死ぬに等しいと言っても、結局ほとんど変わらない僕として再生するわけでしょう? 最終的には大した問題じゃないですよ」

 

「……そ、そういうものかね……? 私なら多分絶対嫌がると思うが。今ここで思考している自我が消えるわけだろう?」

 

「自分が消えることの恐怖ってないの、ひぷのん君?」

 

 

 EGOさんに聞かれて、僕は首を傾げた。

 

 

「うーん……? 一方的に人格が消されるのではなくて統合されるんだから問題ないと思いますけど。単に記憶が融合した自分になるだけですよ。ひと眠りしたら忘れてた記憶を思い出したくらいの感覚じゃないですか?」

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 睡眠っていうのも一時的な死と同じようなもんだと思う。

 眠る前の自分と起きた後の自分が同一人物だなんて、誰が保証できるんだ?

 

 僕がそう言うと、EGOさんはしばらく黙った後恐る恐る口を開いた。

 

 

「……もしかして、これひぷのん君がちょっとおかしいくらい合理的精神の塊だからうまくいっただけなのでは?」

 

「下手をしたら人格同士が殺し合って精神崩壊。もしくは争っている最中に自殺……という可能性もあったと思う……」

 

 

 え? そういうものなのか?

 確かに僕もありすの傍に自分がいられなくなると思ったから死に物狂いで抵抗したけど、融合して元の僕に戻るんだから結局変わらなくない?

 僕の人格がどちらもほぼ変わらなかったからそう思うだけなのかな。

 でも師匠方が言うのなら普通の人間はそういうものなのかもしれない。

 

 

「そうですか……。管理を怠ったから暴走したのであって、うまく制御したら便利に使えるかな、とも思ったんですけどね。たとえば脳の領域を別人格とシェアしあえば並立思考でお互い別の研究ができるなーとか。脳のこと考えながらソースコード書けば、脳科学とエンジニア両立できそうじゃないですか?」

 

「「絶対にやめなさい!!」」

 

 

 師匠方に声を揃えて怒鳴られてしまった。

 

 

「そういう両立の仕方はしなくていいから! 懲りよう、な!? 人格を分裂させる行為はもう絶対に禁止だ!!」

 

「それは明らかに人類の仕様の想定外だから! 絶対脳の寿命縮んで早死にするぞ! 頼むから人間の枠を外れないでくれ!!」

 

 

 師匠方は僕に強制しないと思ってたけど、あれ間違いだな。

 僕のためにならないことは普通に叱ってくるわ。

 ありがたい、まるでありすみたいだ。

 

 ……ありすか、そうだよな。

 

 

「とはいえ、僕も積極的に消えたいわけじゃないですよ。統合できたことで、どっちの人格も消えずに済んでよかったです。やっぱり僕にとっては、ありすの傍に自分がいたいってのは何より一番の願いなので」

 

 

 うん、どちらの人格の自我も消えずに済んでよかった。

 まだ僕がありすの傍にいられる。それはこの一件で何よりよかったことだと思う。

 

 僕の言葉に、師匠方は深いため息を吐いた。

 

 

「そこまでわかってて、何でキミは……」

 

「もどかしい。何故それで一線を踏み越え……いや、まさか自覚がないのか?」

 

 

 何のことだろう。

 あ、ありすといえば。

 

 

「今回の『バベルⅠ世』のマニュアルの件でありすにお礼をしたいと言ったら、来月一緒に遊んでほしいって言われたんですよ」

 

「……ほう?」

 

「……念のために聞くけど、それは何日に?」

 

「12月24日です」

 

 

 お礼をしたいと言ったところ、ありすは何やらもじもじしながら「じゃあ来月の24日は空けておいて」と言ってきたのだ。

 そんなわけでその日は1日ありすと遊ぶことにしている。翌日の25日はにゃる君たちと4人でクリスマス会をやるので、2日連続で遊びまくりだな。

 

 しかしただ遊ぶだけだとこの感謝を伝えきれない気もする。

 

 

「何か特別なお礼の品とか買った方がいいでしょうか? いや、まあ幼馴染相手だしいらないかなぁ……」

 

「「いるに決まってるだろうがあああああ!!!」」




ミスターMのMはmindのM。


ego(エゴ)

自我。自意識。慢心。自尊心。

つまり思考回路。



mind(マインド)

心。精神。理性。正気。知性。

そして良心。


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外伝「迫る足音」

今回ちょっと文体が小難しいうえに、文量が多くて申し訳ないです。


「こうして証拠を集めてみても信じられませんね……催眠アプリなんてものがこの世にあるなんて」

 

「携帯式超小型洗脳装置αと呼びたまえ、それが正式呼称だ」

 

 

 まだ若い女性の部下の呟きをたしなめてから、室長は苦々しい口調で答えた。

 

 

「……残念だが、存在する可能性は極めて高い」

 

 

 公安調査庁。

 国内に存在する新興宗教団体や反社会団体についての情報を収集し監視する彼らは、国を内部から蝕む敵対者から日本を守る砦だ。いわゆる秘密警察である彼らの絶え間ない活動によって、日本国は破滅から遠ざけられている。

 

 その中でも本庁に設けられている対カルト特別対策室では、将来の日本にとって災いの芽となる……そして存在を公にできないような対象を調査・監視する役割を担っている。

 

 たとえば人間の血統に脈々と隠れ潜む、古い神の末裔だとか。人間でありながら代々異常な筋力と反射神経を備え、地元で高い求心力を維持し続けている、鬼を自称する一族だとか。

 

 スマホの画面を向けるだけで他人を何でも意のままにできる……フィクションでは『催眠アプリ』と呼ばれる超小型洗脳装置なんてのはその筆頭だろう。

 

 

「恐ろしいことです。早く手を打たなければ」

 

「ああ。だがまだ誰がそれを所持しているのかを洗い出せていない」

 

「疑わしい者は全員捕まえて吐かせてしまえれば楽なのですが」

 

「……そうもいかんよな、ここは法治国家だ。それにブツがブツだ……下手に動けば本命に悟られて逃げられてしまいかねん。周囲の人間を洗脳して隠れ潜んでいる可能性が高い」

 

「非常に厄介な相手ですね」

 

 

 部下の女性、枯野(からの)四季(しき)は調査書類の束を眺めながら歯噛みした。

 

 

 そもそものきっかけは、あるミッションスクールに通う高校生がスピーチコンテストで口にした発言だった。

 

 

『わたくしは中学時代、とても心の穢れた人間でした。他人の弱みを握り、酷いいじめを行ない、口では言えないような悪事に手を染めさせました。

 他人を陥れることに快感を覚え、それが間違ったことだと知りながらも、周囲の同調圧力に屈して自分の罪など軽いものだと己を騙していたのです。

 

 ですが、そんなある日わたくしは変わるきっかけを得ました。悪い友人たちとのたまり場にひとりの少年がやってきたのです。彼は私たちに語り掛けました。

 自分の罪を自覚しているのか、そのままの自分で本当にいいのかと。

 そしてもし己の罪に恥じるところがあるのならば、自らの手でそれを贖罪(しょくざい)せよ。自分の罪を真に裁くことができるのは自分に他ならないのだと……。

 

 彼の言葉はわたくしたちの荒んだ心にすうっと染み込みました。そしてぽろぽろと涙がこぼれ、自分がしていたことの罪の重さを正しく知ることができたのです。

 彼が何者であったのか、わたくしは存じません。恐らくわたくしたちを改心させるために主が遣わした、人の身を借りた天使であったのかもしれません。

 しかしわたくしは彼のおかげで悔い改め、人のために生きる道を歩むことを決意することができるようになりました。

 

 人は変われる。どれだけ心が穢れた人間であっても、己を知り真摯に向き合うことで、正しい道を歩むことができるのです』

 

 

 彼女は高校1年生でありながら類まれな信仰心を持つ優等生で、学校からも将来を嘱望されていた。そんな彼女がスピーチコンテストで突然宗教体験をカミングアウトしたことに、関係者は騒然となった。

 

 それでもただの高校生であれば、宗教にかぶれた人間の妄言だと見過ごされただろう。

 しかし彼女の親は教育委員会の上位に位置するポジションの人間だった。さらに彼女と同時に突然改心してまったく別人のようになってしまった友人たちもおり、彼女らの親もそれなりの権力を持つ人々であった。

 

 常々自分の娘が突然別人のようになって悔い改めたいと言い出したことを不思議に思っていた彼らは、愛しい娘たちがカルト宗教に洗脳されたのではないかと騒ぎ出したのである。

 カルト宗教に洗脳されたのに別の宗教を信仰してるって矛盾してない? と四季は思うが、とにかく彼らは警察に調査を依頼した。もちろん何も出てこなかったが。

 

 しかしそれに不満を覚えた彼らは、公安に調査を持ち込んできた。そしてそれを気に留めた公安の誰かが調べていくうちに、元々彼女らがいた市では不思議な事件が起こっていたことが明らかになったのだ。

 

 それは半グレがケツモチとなっている売春斡旋組織が、突然改心して粛清を受けたという事件だった。

 女性の四季にとっては忌々しいことだが、不良高校生や大学生が世間ずれしていない女性を騙し、監禁して凌辱・洗脳を行なうという卑劣な犯罪に手を染めていたのだ。薬物と暴力によって洗脳された女性たちは、母体となる半グレが経営する違法な風俗店で性的なサービスを提供させられていた。その犠牲者には女子中学生まで含まれていたという。

 調査では彼らの顧客リストには、警察や官僚といったとても表沙汰にはできない層が含まれていたことが明らかになっている。

 

 そんな不良学生たちが突然改心して、これまで自分たちは女性たちに酷いことをした、これからは女性に奉仕して生きたいと言いだしたのだ。当然上がそんな妄言を許すわけがない。ましてや顧客リストを知る者を生かしてはおけない。彼らは草の根を分けて捜索され、全員秘密裏に始末されていた。

 

 元々彼らの存在には公安も目を付けていたが、顧客に権力者が含まれるために表立った調査ができずにいた。その組織が突然崩壊したことは、公安の中でも強い印象を与えていたのだ。

 調査担当者は当然先のスピーチの件と結び付けて考え、不良学生たちへのリンチを行なった半グレに『調査協力を要請』して事情を聞き出した。また、スピーチを行った女学生や被害者の女性たちにも、こちらは穏便な形で聞き取りを行なっている。

 (不思議なことに被害者の女性たちは、薬物と暴行の後遺症から療養生活を送っていたが、被害を受けていた間のことをまるで覚えていなかった。薬物とPTSDによる影響だと結論付けられている)

 

 結論としては、両事件には繋がりが認められなかった。

 彼らを洗脳することで利益を受ける者など誰もいなかった。商売敵を潰したい別の売春グループも、少女たちを洗脳するカルト宗教団体も存在しなかった。

 ただ単に、同じ市の中で近い時期に何故か突然改心した集団がいたというだけの話だったのだ。気になることといえば両者の聞き取りの中で特定のワードが出てきたことだけ。

 

 

「そういえば天使様にスマホを見せられたと思います。何が映っていたかですか? いいえ、覚えていません」

 

「そういや何があったのか吐かせようとしたら、知らねえガキにタブレットを見せられたとか言ってたが……や、やめてくれ! 本当だ! 俺はそれしか聞いてねえ!」

 

 

 調査担当者はそこで調査を打ち切り、報告書を上げた。

 ただの無関係な事件、として終わるはずだった。

 しかしその報告書は上へ上へと回されていった。恐らくは顧客リストに権力者が複数混じっていたことで、見過ごせない事件と判断されたのだろう。

 ついには表沙汰にできないオカルト案件として、四季たちの部署に調査命令が下されたのだ。

 

 四季はまず2つの事件の共通点を徹底的に洗い出した。そのひとつが、改心した女生徒が通っていた中学校だ。売春組織の犠牲者となった女性たちの中に、この中学校に通っていた学生もいた。

 だが、その調査も空振りに終わる。突然様子が変わった生徒は、四季が調査した時点では在学していなかった。(葉加瀬(はかせ)海月(みづき)という少女が不良から更生したという事件はあったようだが、これは家族の説得を受け入れた結果ということがわかっており、本件とは無関係と思われる)

 しかし女生徒たちの集団改心事件に前後して、急激に様子が変わった男子生徒と女子生徒が、市内の進学校に在籍しているということがわかる。

 

 四季はその生徒たち……新谷(しんたに)(ながれ)佐々木(ささき)沙希(さき)に警察の人間と名乗って個別に聞き取りを行なった。

 彼らは愛想よく好感の持てる態度で調査に応じてくれた。

 

 

「え、俺が素行を改めたのは何でかって? いえ、やっぱ俺も警察官の息子ですしいつまでも不良やってちゃだめだなって思ったんです。立派で厳しい親父に反発してましたけど、一念発起(いちねんほっき)して頑張ろうって。……誰かに説得されて改心したか? いえ、全然そんなことはなかったッスよ。自分で自然にそう思いました」

 

「ボクがなんで素行を改めたのか、ですか? ボクをいじめてたグループの人たちがみんな転校したからですよ。もういじめられることもなくなったので、こりゃボクも態度を改めて他のグループに溶け込まなきゃって思っただけです。……え、誰かに言われてそう思ったんじゃないか? まさかぁ。ボクが自主的にイメチェンしたんですよぉ」

 

 

 2人の回答に不審な点はなかった。改心した理由もとても自然だ。

 両者ともかなり頭がよく、逆にこちらが質問される場面もあった。

 

 

「……お姉さんはどこの部署所属なんですか? いや、なんで俺にそんなことを訊くのかなーって。もしかして何か事件とかありました? 俺も警察官目指してる身ですし、何でも協力しますよ!」

 

「……お姉さん、本当に警察の人ですよねぇ? いえ、別にどうということはないんですけど。なんで2年も前にいじめグループにいたことを今更訊かれるのかなって不思議だったので」

 

 

 その場は適当に誤魔化したが、なかなかの洞察力だった。民間協力者として調査に協力してもらうという線もあったが、やはりただの高校生に正体を明かすのはまずい。

 これ以上現場を調査しても何も出てこないのではないかと考えた四季は、大きく目線を変えることにした。

 

 

 上からの命令は『携帯式の小型洗脳装置が実在するかを調査しろ』というものだった。到底正気とは思えない内容だが、四季の部署に回ってくる案件は大体そういうものばかりだ。

 では仮にそんなものがあるとして、一体それはどこで作られたのか?

 

 間違いなく大きな研究組織がいるはずだ。絶対に個人で開発できるようなものではない。

 他人を洗脳する装置と手段は某カルト宗教団体が持っていたが、あれはかなり大掛かりだったし、洗脳に長い時間が必要だった。それを簡単に持ち運べるよう小型化し、さらに一瞬で洗脳を完了できるようにするなど。その試行錯誤には多額の研究費と被験者が必要となることだろう。

 四季は人を使って全国の医療機関・学術機関を徹底的に洗い出した。

 

 だが、そんな大規模な研究の痕跡はどこにも見つからなかった。

 この国の経済を牛耳る巨大コングロマリットである五島(いつしま)重工ですら、そんな研究は一切していなかった。カマをかけたら「人間を一瞬で洗脳……? マンガの見すぎじゃないですか? そんなのあったら今頃ウチが世界経済を牛耳ってますね」と笑われたくらいだ。

 そりゃそうだ。実際そんなアプリが実在したら絶対に私利私欲に使われてるだろうな、と四季は思う。よほどの無欲か価値観が他人と隔絶した、浮世離れした人間じゃないと私利私欲に使わないなんてありえないだろう。

 

 しかし四季はとても真面目で執念深く、そして日本という国の将来を憂いている人間だった。もしもそんなアプリがあれば、日本という国をどれほど良い国にできるだろうか。その一心でひたすらに、他人が見落とすようなことまで注意深く調査を続けた。

 

 そして九州にある国立大学の脳科学研究科で教鞭を執る、美作(みまさか)智也(ともや)准教授の実験室で不審な動きを発見したのだ。

 それは大学の公費も使っていない、准教授のポケットマネーを使った小規模な実験だった。学内の生徒から希望者を募り、アプリの映像を見せて反応を調べる。そんな小規模な実験が3年間にわたり、高い頻度で行われていた。

 

 これだ、と四季は確信した。催眠アプリはここで開発されたに違いない。

 四季は喜び勇んで美作准教授に接触を試みた。

 

 

「……催眠アプリ? いえ、これは複雑なデジタル映像を見せることで脳にどんな影響が起こるのかを調べる実験ですよ。ははは、催眠アプリなんてものが存在するわけないじゃないですか」

 

「でも美作先生は『催眠術入門』という本を書かれていましたよね。本当は催眠術をかける装置を研究しているのではないですか?」

 

「あー……あれは若手の頃に気の迷いで書いた本ですよ。実際には私は催眠術なんて使えませんよ? ましてや催眠アプリなんて。それにもしも催眠アプリなんてものが完成してたら、今もこの研究を続けてるわけないじゃないですか」

 

 

 確かにその通りだ。准教授の研究はつい最近まで延々と、映像の内容を変える形で行われていた。完成していればそれを使って実験しているだろう。

 つまり催眠アプリはまだ完成していない。

 しかも2つの事件が起こった頼月市と九州は遠く離れすぎている。

 

 だが、四季の調査員としての勘はここだと主張していた。絶対にこの40がらみの准教授は何か事件と関係がある。

 

 

「……美作先生、そのデジタル映像を資料として提出していただきたいのですが。PCごといただければ助かりますね」

 

「お断りします」

 

 

 四季の『依頼』を、美作准教授は断固として拒絶した。

 

 

「ここは国立大学院、先生は国家公務員でしょう。研究データは国のものではありませんか? 貴方には求められれば研究成果を国に提出する義務があるはずです」

 

「個人的な研究ですよ。公費は一切投入していません。私は公務員ですが、私的な研究を、それも研究途中のモノを無理やり取り上げられるいわれはありませんね」

 

「国が渡しなさいと言っているのですよ。貴方も公僕なのであれば、国の命令に従うべきでしょう」

 

「公権力を笠に着ないでいただけますかね。警察を名乗っている貴女が実際何者なのかは知りませんが、私は貴女を信用してませんよ。……お引き取りください」

 

 

 怪しい、と四季は感じた。彼は何かを隠している。

 准教授が作っているのは恐らく催眠アプリで間違いない。だが、完成はしていない。

 ……ということは彼が作っているのはデッドコピーなのではないか? 催眠アプリはどこかでもう既に完成していて、その手がかりを持つ彼は後追いで開発を目指している?

 

 四季は美作准教授の周りの金の流れを徹底的に洗った。

 その結果、彼のポケットマネーが東京にある桜ヶ丘(さくらがおか)電子工房というIT企業に振り込まれていることがわかったのだ。

 

 桜ヶ丘電子工房は今年『ワンだふるわーるど』という大ヒットアプリをリリースして、世界的大ヒットを記録したことで知られる上り調子の企業だ。世界中の愛犬家から熱望されて、つい数日前に全世界の言語への翻訳を達成したという。

 SNS連動機能があることも人気の理由のひとつで、室長が毎朝出社前に愛犬の写真を撮って、SNS経由で部署内の全員に自慢してくる。コワモテだが可愛いところもあるのだ、あれで。ちょっと迷惑だなと思いながら今日も可愛いですねと返すのが、部署内全員の日課となりつつある。

 

 

「ま、そんなことで上司の機嫌が良くなるんだから楽なもんよねー」

 

 

 しかし上り調子で急成長しているとはいえ、まだ小さなITベンチャーがよくもそんな大掛かりな開発をする余裕があったものだ。ビルを構えてサーバーを設置したようだが、危うい綱渡りを渡り切るなかなかの経営手腕といえる。

 

 この会社の取締役を務める桜ヶ丘(さくらがおか)英悟(えいご)は、30代前半のエンジニアだ。業界では俊英と呼ばれる人物らしい。

 特に彼が開発の主軸になったとみられる『ワンだふるわーるど』は、海賊版を作ろうと各国の企業が躍起(やっき)になって解析を試みたが、未だ成功したチームはただのひとつもないことからその腕前は明らかだ。世界屈指の愛犬国のドイツなどは、優先的にドイツ語に対応させるために国を通じて働きかけたとまで噂されている。

 

 そして、彼は美作准教授と個人的な繋がりがある。美作准教授が大学生時代に所属していたオタクサークルの後輩で、大学院生OBと大学1年生という年の差ながら親しい交流があったようだ。

 

 恐らく美作准教授が催眠アプリ制作を依頼して、桜ヶ丘氏がそれを組み上げ納品した。そういうつながりだ。

 ということは必然的に、桜ヶ丘氏は催眠アプリを完成させた人物ではない。だが完成品を持つ個人とは親しい付き合いがある可能性がある。

 四季は警察を名乗って桜ヶ丘氏のオフィスに乗り込んだ。

 

 

「け、警察!? まさかあの子、ついに何かご厄介になることをしでかしたんじゃ……!?」

 

「……あの子? それはどなたのことですか?」

 

 

 泡を食って出迎えた桜ヶ丘氏に訊き返すと、彼はぴたりと冷静になった。

 

 

「……いや。ははは、うちの家内のことですよ。恥ずかしながら剣術をかじってるうえに任侠映画が好きでね、ときどき物騒なことを言いだすもので。いやまったく困ったものです」

 

「そうですか。本当に?」

 

「ええ。……こちらがお訊きしますが、今日は何の御用で弊社に?」

 

 

 探るような目で見られて、四季は一層疑惑を深めた。

 こいつは何か知ってる。しかも『あの子』と口走った。

 桜ヶ丘氏の妻は現在第一子を妊娠している。また、桜ヶ丘氏は九州から妻と駆け落ちして東京で結婚している。

 つまり実子にも親戚にも、『あの子』と呼ばれるような人間は身近にいない。

 

 ということは桜ヶ丘氏には『あの子』と呼ばれるような若年層で、警察の厄介になるような可能性がある知人がいるということだ。

 ……ようやくたどり着いたぞ。

 

 桜ヶ丘氏はそれ以上ボロを出すことはなく、今はアプリのサーバー管理で忙しいからと話を切り上げられてしまった。

 だが、もう十分だ。

 

 桜ヶ丘氏の身辺を洗ったが、彼の交友範囲に若年層はいなかった。……リアルでは。だが今はネットでの繋がりというものがある。

 少々手間取りそうだが、サイバー班に依頼して桜ヶ丘氏のPCをハッキングしてみよう。そこで繋がりがある若年層の人間を見つけられたらビンゴだ。

 

 

 その人物が催眠アプリの所有者であり……開発者ということになるのだろう。恐らくまだ学生であろう身で、世界中のどんな研究者もなしえなかった発明をできる者がいるなんて考えにくいことだが……。

 しかし四季はこれまでこの仕事を通じて、到底信じられないようなものをたくさん見てきた。人の血に宿る神も、細腕で木を握り潰す鬼も。ならばそんな人智を超えた不世出の天才がいないとは断言できない。

 

 

「さて、特定できたとして……素直に従ってくれるでしょうか?」

 

「……わからん。人物像が掴めん。事件を起こした目的もわからん。だが、非常に狡猾なことは確かだ」

 

 

 どうやらその人物は周囲に完全に溶け込んで、催眠アプリを使うことを極力控えているようだ。学生などという自制の効かない年齢なら、それこそ調子に乗って他人にどんどん催眠をかけていそうなものだが……。

 それを抑制できるということは、相当に狡猾だ。他人に尻尾を掴ませない技術に長けている。

 自身も鋭い直観というある種の異能を持つ四季でなければ、存在に気付くことはできなかったかもしれない。

 

 

「だが物事の善悪も理解できない若年者に、携帯式超小型洗脳装置αを持たせておくなど言語道断だ。猿に核爆弾のスイッチを握らせているに等しい。国家の管理の下で厳重に管理せねばならんのだ。わかるな、四季?」

 

「もちろんです。それに催眠アプリは日本を躍進させる大きな助けになるでしょう。国民を正しく束ね、日本が国際社会のリーダーとなるために必要なものです」

 

 

 室長に問われた四季は、にこりと微笑んだ。

 

 

「穏便に説得する努力はしましょう。ですが、拒否するのならば容赦はしません。私は日本を守るためなら、手段は問いません。願わくば、彼が賢明な判断をしてくれますように」




直観スキルを駆使しても把握しきれない人物像……!


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第52話「クリスマスデートは顔を合わせるだけで楽しい」

「髪型よし、服装よし、歯磨きよし、靴はピカピカ。ハンカチ持った?」

 

「持ってる」

 

「よぅし、オールクリアー!」

 

 

 朝、僕の周囲をくるくると回って丹念に身だしなみをチェックしたくらげちゃんは、最後に僕の背中をばしーんと叩いた。

 

 

「行ってらっしゃいお兄ちゃん! 今日は帰って来なくてもいいよ!」

 

「いや、帰るだろ何言ってんだ」

 

 

 今日はクリスマスイブだ。

 明日はにゃる君たちとクリスマス会をするから、両親やくらげちゃんと過ごすクリスマスは今夜やらないといけない。

 子供の頃クリスマスってなんで2日も祝うのか不思議だったけど、成長すると別の人たちと一緒にクリスマスを過ごす必要が出て来るからなんだな。ふふふ、僕も大人になったもんだぜ。

 

 僕が自分の成長にほくそ笑んでいると、くらげちゃんはやれやれと言った顔で首を振った。

 

 

「お兄ちゃんはいつまで経っても子供だなぁ」

 

「は? 中学生に子供とか言われる覚えはないんだが?」

 

「クリスマスイブに彼女とデートでしょ? そんなの帰らないでしょフツー」

 

「ありすは彼女じゃないぞ」

 

「あーはいはいそうですね。今日そうなるかどうか決まるんですよね」

 

「?」

 

 

 くらげちゃんは相変わらずよくわからないことを言う。

 今日はありすとデートするだけだ。彼女じゃなくても女の子と一緒に1日遊ぶとそれはデートだと師匠方が言っていたから間違いない。

 何しろクリスマスにデートするときの作法を師匠方とくらげちゃんからみっちり教えてもらったのだ。今日の僕に失敗はないと言っていいだろう。

 

 そんなことを話していると、お母さんがパタパタとスリッパを鳴らして近付いてきた。

 

 

「あらぁなかなかイケメンじゃない。うんうん、我が息子ながら服装整えたら様になるわねー。それで? 今日は遅くなるの?」

 

「ううん、夕食には帰るよ」

 

「あら……そうなの。じゃあありすちゃんを家に連れてきちゃう?」

 

「どうだろ。ヨリーさんがご飯作って待ってるんじゃない? 折角ならヨリーさんも呼んで、みんなでご飯食べるのもいいかなと思うけど」

 

 

 ……え? なんでお母さんとくらげちゃんは母娘(おやこ)してうわぁって顔してるの?

 

 

「ヒロくんはまだまだ子供ねー」

 

「だよねー。絶対意味わかってないもん」

 

 

 むっ。僕だってクリスマスのデートの作法くらい知ってるんだぞ。

 

 

「クリスマスにデートしたら、最後に彼女とホテルに行かないといけないんだろ? それくらい知ってるよ」

 

「まあまあ」

 

「ふえっ……!」

 

「でもありすは彼女じゃないからそんなことはしないよ。宿泊料ももったいないし、近くに自分の家があるのにホテルに泊まる意味がないよね。だから晩御飯前にはちゃんと帰ってくるよ」

 

「……」

 

「……」

 

 

 2人は僕の顔をじーっと見ている。

 どうしたんだろ?

 

 

「……マジか。お兄ちゃんもう高校生だよね?」

 

「過保護にしすぎるあまり性教育失敗したかもー……」

 

 

 ???

 なんかミスターMとEGOさんも同じ反応してたけど、何なんだろう。

 

 

「まあ、正直高1で孫の顔見せられても困るしー。清らかなお付き合いでもママは困らないかしらー。ヒロくんはそのままでいいのよー」

 

「えー……いや、まあそうだけどぉ」

 

「ママはプラトニック肯定派よー。こういうのはゆっくりじっくり大切に育てた方が長持ちするものだしねー」

 

「もう既に小1からじっくり育ててきて10年目じゃん……円熟の域じゃん……」

 

「お前たち朝からなんて話をしてるんだ」

 

 

 お父さんがやってきて、お母さんとくらげちゃんの頭を軽く小突いた。

 お母さんは軽く舌を出してうふふと笑っている。相変わらずラブラブだ。

 

 ……僕もいつかありすとこんな関係になれたらいいんだけど。

 

 

 

※※※

 

 

 

 待ち合わせ時間より30分先に出た僕は、ブロック塀に背中を預けた。

 もう陽は高く昇っているが、12月の朝は寒い。ふうっと息を吐くと白い霧となって立ち上った。

 

 デートの待ち合わせは時間よりも早く家を出ろとは師匠方とくらげちゃんから教わった。さらにEGOさんは「キミのお相手は絶対に20分前には待ち合わせ場所に着いてると思うよ、きっとそんな性格だ。だからそれより前に行くように」と付け加えていた。

 確かにありすは何事をするにも10分前には支度しているけど、さすがに12月だしそこまでではないんじゃないかなあ。

 

 と思っていたら、本当に20分前に来た。

 既に待ち合わせ場所にいた僕を遠くから見ると、小走りに駆け寄ってくる。

 

 

「ごめんハカセ、待った!?」

 

「いや、全然。まだ待ち合わせ時間の前だし」

 

「ホント? 体冷えてない? ……手が冷えてるじゃない。カイロ貸したげるから温めなさい」

 

 

 ありすはポケットに入れていた僕の手を握って温度を確かめると、自分のポケットからカイロを取り出して握らせてきた。

 うーん、なんだろう? 気を遣ったつもりだが、逆に心配させてしまっただろうか?

 でもまあ、これでよかったかな。さすがEGOさんだ。

 

 

「ふふ」

 

「? どうしたの、何か面白いことあった?」

 

「いや。早く来てよかったなって。ありすに20分も寒い思いをさせなくてすんだのが嬉しい」

 

「……ばか」

 

 

 僕がそう言うと、ありすは顔をわずかに赤らめて、ぽすんと僕の胸に軽く肩をぶつけてきた。

 どこが馬鹿なんだろう? また変なこと言っただろうか。

 

 それにしても……僕はじっとありすを上から下まで眺めた。

 今日のありすの服装は白いセーターにモスグリーンのスカート、それに赤い帽子を被り、マフラーを着けている。手にはなんかモフモフした毛皮のバッグ。

 なんだかクリスマスカラーだな。すっごく可愛い。

 

 というかこの服、見たことある。

 いつも出演してる女性誌のクリスマス特集記事で着てたやつだ。

 読者モデルの服って基本的に編集部じゃなくてモデルの側が買うんだよな。くらげちゃんがそう言ってた。

 

 僕がじーっと見つめていると、ありすは気恥ずかしそうに髪先をいじった。

 

 

「……どう、この服?」

 

「ん……すごく可愛い」

 

「ふふん。そうでしょう」

 

 

 ありすはそう言って胸を張る。相変わらず自分の可愛さに自信があるんだなあ。

 そんなありすに、最初に雑誌を見たときの印象を付け加えた。

 

 

「雪の妖精みたい。すごく綺麗だよ」

 

「……そ、そう。雪と同じくらい……好きなんだ?」

 

「うん」

 

 

 なんだかありすがさっき褒めたときよりも顔色を赤くしている気がする。

 そういえば子供の頃に雪が降ると、僕はいつもその結晶を眺めていたな。あれは本当に美しかった。その横にはずっとありすがいたから、倍以上に綺麗だった。

 そして今日のありすは、あの日よりももっと可愛い。

 僕は嬉しくなって目を細めた。

 

 そうしていると、ありすがこっちの顔をじーっと見つめてくる。

 なんだろう。見られる側に飽きたのかな。

 ありすは僕の眉をちょいちょいと指さした。

 

 

「……今日は眉毛整えてるんだ」

 

「うん。今日はやった」

 

 

 催眠状態で身だしなみを整えるのは、催眠人格の反乱事件から辞めている。だからといって毎朝ムダ毛処理とか僕にはめんどくさすぎるので、髪型を整えるのと髭を剃る以外の身だしなみはやらなくなってしまっている。

 

 

「なんかその眉毛見るの久しぶりね。アンタ、身だしなみサボったらまたモテなくなっちゃったわね」

 

「うん。まあ他人にどう思われようが関係ないけど」

 

 

 身だしなみをサボったおかげでイケメン度とやらが下がったらしく、前のように女子から騒がれるようなこともなくなった。

 その方が対人関係も楽でいい。ありす以外の女の子に好かれても意味がない。

 ただ、ひとつ心配なのは……。

 

 

「ありすは身だしなみしっかりしてた方が良かったか?」

 

「んー? 私はいいわよ、普段カッコよくなくたって」

 

 

 よかった。僕はホッと胸を撫で下ろした。

 

 気になっていたのが、ありすにがっかりされやしないかということだった。そんなことで僕を見捨てるような女の子じゃないと知ってはいるけど、やっぱりありすには喜んでほしい。

 僕がおしゃれして学校に行ったときあんなに喜んでたんだから、多分ありすだって僕が冴えないより少しはカッコいいフリをした方が嬉しいんだろう。

 

 

「むしろ普段はカッコよくない方が、他の子がつきまとわなくていいかな」

 

「うん? それはどういうこと?」

 

 

 ぼそっと呟かれたありすの言葉に首を傾げると、なんだかむーっと口を尖らされてしまった。かすかに頬が赤い。

 

 

「……私とデートするときはカッコよくしてくれるんでしょ。ならそれでいいよって意味!」

 

「そっか。じゃあよかった」

 

 

 ありすが普段サボってても許してくれる優しい女の子でホッとした。

 こういう寛大なところ、なんてできた子なんだろうと僕は尊敬している。本人には絶対に言わないけれど。

 

 ん? ありすが僕の服をじーっと見ながら、顎に手を置いている。

 ……この服、ダメなんだろうか? くらげちゃんと一緒に買いに行って選んだんだけど。なんか心配になってきた。

 

 

「この服、気に入らない?」

 

「ううん。そんなことないわよ。アンタ上背があるからゆったり系も似合うと思う。……でも、ちょっと私と解釈が違うかなーって」

 

「解釈」

 

 

 服に何の解釈があるというんだ。服は服だろ。

 正直僕としては寒ささえしのげればどこで買ったトレーナーでもセーターでもいいと思っているのだが、どうも女性にとってはそうではないらしい。くらげちゃんと服を買いに行ったときも、なんかやたら高い服を買わされたのだ。全身ウニクロでもはまむらでも僕は構わないのに。

 まったくオシャレというのはいつも僕の理解を超えている。非合理的だ。

 

 

「じゃ、まずは服屋さんに行きましょ!」

 

「えっ」

 

 

 僕は思わず目を白黒させた。

 ありすの服は十分可愛いし、僕の服も買ったばかりの新品なんだけど。

 どういうことだ? 僕の服なんて買ったって仕方ないし、ありすは自分の服が欲しいと言ってるのはわかるけど。

 

 

「ありすの服はすごく可愛いよ」

 

「うん、それはそうでしょ。でもハカセには新鮮味ないと思うし……」

 

 

 新鮮味? なんかまるで僕が女性誌を買ってありすの読モ姿をコレクションしてることを知ってるようなことを言うなあ。でもあのことはありすには知られてないはずだし。知られてたら羞恥のあまり自ら命を絶つことも厭わない覚悟だし。

 うーん、ありすの考えることはたまにわからん。

 

 誌面で見るよりも間近で見た方がもっとずっと可愛いし、僕は文句ないのに。

 

 ……でもEGOさんは女性にとって服を選ぶのはデートの定番だと言ってたな。それこそ買わなくても服を見るだけで嬉しいらしい。

 なんだそれは。意味がわからない、服を買うために服屋に行くんじゃないのか。

 僕が理解できないと言うと、「つまり男の子がおもちゃ屋に行ってどのプラモ作ろうかなと箱を物色してるときが一番楽しいのと同じなんだ!」と強い口調で返された。いや、プラモ作りしたことがないからそれも理解できないんだが。しかしミスターMは「そうか、いま長年の疑問が解けた!」と叫んでいたので、それが普通の男性共通の認識なのだろう。

 

 とりあえず買い物に誘われたら何も言わずについていけ、絶対に拒否したり退屈そうな様子を見せるなと厳命された。僕は師の教えに逆らうつもりはない。

 普段強制しないEGOさんが語気強く言うということは、僕にとって有用な教えに違いないのだ。

 

 

「わかった。ありすについていくよ」

 

「うん!」

 

 

 そう言ってありすは僕の横に並び、いつものように手を差し伸べてきた。

 これまでの人生で、数えきれないくらい僕を導いてくれた温かい手。

 この手はいつも僕を先導して歩いてくれた。

 

 

 ……だけど今日くらいは。

 

 

 僕はありすに手を握られるよりも先に、その手をそっと握った。

 

 ありすが驚いたように僕を見上げた。

 でも、すぐにニコッと柔らかな笑顔を見せてくれる。

 

 

 柄にもなく心がウキウキと浮き立ってくるのがわかった。

 思えばありすと2人きりで遊ぶなんて、いつ以来のことだろうか。

 

 

 クリスマスイブの繁華街に向かって、僕たちはゆっくりと歩き出した。

 

 

(仕事のお礼で遊びに誘われたのに、僕の方が嬉しくなってる。こんなに幸せでいいのかな……)




くらげちゃん「見てる方がもどかしいから早くくっついてよぉ!」


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第53話「あなたが喜んでくれるならどんな色にでも」

「こっちとこっちだと、どっちの服が可愛いかな?」

 

「どっちも可愛いと思う」

 

「もう、ちゃんと選んでよ!」

 

 

 駅前の商業モールに入っている衣料品店に連れてこられた僕は、ありすが両手に下げた服のどちらが可愛いのかという不毛な質問をされていた。

 

 片方はガーリーで可愛らしい白系、もう片方はちょっとシックな感じの黒系。

 いや、別にどちらの服も可愛いと思うけど、別にデザインなんてどうでもいいんだけどなあ。

 

 ……はっ!

 いや、思い出したぞ。そういえばEGOさんが言っていた。

 

 

『いいかい、ひぷのん君。女の子に服屋に連れていかれてどちらの服が可愛いかと訊かれたら、それはどっちの服のデザインが好みかという意味じゃないんだ。どっちの服を着た自分が可愛いと思うのかを訊かれているんだぞ。もっと言えば、本当は彼女の中ではとっくに答えが出ているが、彼氏のセンスを試されているんだ』

 

 

 そうだ、確かにそんな感じのことを言われていたと思う。

 一度にいろいろレクチャーされたので忘れてしまっていた。

 

 それなら話は別だ。僕は改めてありすが手にしている服を睨み、実際にありすが着た姿を想像してみる。

 

 

「あの……」

 

 

 僕が真剣な眼差しで見ていると、ありすがもじもじとし始めた。

 

 

「ちょっと待って、今脳内でシミュレートしてるから」

 

「うん」

 

 

 僕はそわそわしているありすを見ながら、ものすごく真剣に考えた。

 

 ありすは高校生になっても体の成長が止まっておらず、身長も胸もまだまだ大きくなり続けている。身長も170センチを越えているし、そういう点ではやはりシックで大人っぽい感じが似合う。

 だがガーリーな白系も捨てがたい。今日の朝に出会ったときに雪の妖精みたいだと感じた第一印象が頭に強く残っている。いや、白系の色は正直人を選ぶのはわかっているが、ありすならば十分着こなせるはず。何しろ僕にとってありすは世界一の女の子なのだから、何を着ても可愛い。

 

 

「白だな」

 

「え、こっち? そうかな……」

 

 

 この反応だとありすはシックな黒がいいと思っていたようだ。だが、僕の意見は違うぞ。

 

 

「僕は今日のありすは雪の妖精のイメージだと思ってるから、そっちの白いのがいい。なんならその上に白いケープとか着てほしい」

 

「ええー、それはちょっと子供っぽすぎないかなぁ……?」

 

「いいや、今日のありすにはすごく似合う。着けてるところを絶対に見たい」

 

 

 僕が真剣に主張すると、ありすは「アンタがそう言うなら……」と照れ臭そうにしながら白い方の服を手に試着室へと向かった。

 

 

「じゃん☆ どう……かな?」

 

「可愛い」

 

 

 思ったよりすごく可愛い。気絶するかと思った。

 もこもこした服とケープが合わさって、キュートさが引き立つ。大人になり始めたありす本人の魅力とのアンバランスさが、かえってありすのピュアな一面を引き出していた。

 

 

「えー……それだけ?」

 

「すごく可愛い」

 

 

 ありすはちょっと不満そうに口を尖らせているが、お前ふざけるなよ。

 僕が心の中でどれだけ可愛いと連呼してると思ってるんだ。

 人形ならそのまま丁寧に丁寧に家まで持ち帰ってショーケースに入れて24時間見ていても飽きないぞ。この思考を言葉として口から出力できない表現力のなさが恨めしい。いや、本人に知られたら恥ずかしさで僕は死んでしまうかもしれないからいいや。とりあえず写真に撮って毎日眺めたいな。

 

 僕が食い入るように見つめていると、ありすは「見すぎ」と苦笑しながら、まんざらでもないようにその場でくるりと一回転した。

 ああ、もう可愛いな!!

 

 

「……もしかして、今日一日その服を着てくれるとか?」

 

「うん、ハカセが気に入ったならこの服にしようかな」

 

 

 僕は思わずぐっとガッツポーズを取った。

 

 

「それなら僕がその服の代金を払うよ。ほら、今日はありすへのお礼だから」

 

 

 それにお父さんが会社の仕事のためのお金は経費として落ちると言っていた。ありすがマニュアル作りをやってくれたおかげで会社が助かったのだから、そのお礼のために服を贈るのは経費で落ちるんじゃなかろうか。いわばギャラを現物支給したようなものだし。

 

 そう思っての提案だが、ありすは首を横に振った。

 

 

「ダメよ、これは自分の貯金で買っておくわ。私たちまだ高校生だもの。子供が高価なものを相手に贈るにはまだまだ早すぎると思うの」

 

「そういうものなのか」

 

「私はそう思うわ。若いうちからお金を好き放題使っちゃうと、ろくなことにならないわよ。そういうのは大人になってからやればいいの」

 

 

 そう口にするありすを見て、やっぱり僕より大人なんだなと思った。

 確かに僕の考えが浅かった。数千円の品物をぽんと買い与えるなんて、普通の高校生はしないだろう。僕は身の丈に合わないお金をポケットマネーにできるようになって、調子に乗っていたかもしれない。

 

 ありすはしっかり自分というものを持って、節度ある生き方をしようとしているんだ。ありすのそういうところは、やっぱりとてもいいと思う。

 

 

「わかった。じゃあその服を買うのはやめる」

 

「うん。私たち、ゆっくり大人になっていきましょうね」

 

 

 ありすの言葉に、僕はこくりと頷いた。ありすと一緒の速度で大人になれるのなら、これほど嬉しいことはない。少なくとも大人になるまで、僕はありすの隣にいられるのだから。

 

 

「じゃあ会計しようか」

 

「うん」

 

 

 ありすは頷いて、にこりと笑った。

 

 

「その後はハカセの服を買いに行くわよ」

 

「……え?」

 

 

 不思議なことを言われて、僕は思わず眉を寄せた。

 

 

「僕の服……? そんなものいる……?」

 

「いるに決まってるでしょ、そっちが本題よ!」

 

 

 

 そして僕は会計を終えたありすに引きずられ、メンズ売り場に連れてこられた。

 

 

「うーんこっちもいいわね。いや、こっちも。あー、これもいい! ちょっとこれを首の下に持っていってみて。……うーん……やっぱりこっちの方が……!」

 

 

 ありすはさっき自分の服を選んでいたとき以上に楽しそうに、あっちこっちから服をかき集めては僕に似合うかどうかを確かめている。

 正直僕なんかが服を変えたところで見た目など別に何も変わらないと思うのだが、ありすにとってはそうではないのだろう。

 何やらすごくウキウキしているようだし、僕は素直に着せ替え人形に徹しよう。

 

 

「あ、これ! このベストいい! これ、ちょっと着てみて」

 

 

 やがてありすが選んだのは、チェックのYシャツとスマートな感じがするニットのベスト、そして黒のスラックスだった。ネクタイもセットで渡される。

 今着ているゆったり系のセーターとは方向性が真逆だな……。というかカジュアル感がまるでないように思うんだけど。

 

 

「……え、これ着て歩くの……? ありすと並んで歩いたら浮くんじゃ……」

 

「いいから着て、私が見たいの!」

 

「はい」

 

 

 僕は仕方なく試着室に入り、ありすから渡された服に着替えた。

 

 

「着替え終わったけど」

 

「……いい!」

 

 

 ありすは試着室から出てきた僕を見て、嬉しそうに飛び跳ねた。

 心なしか目がキラキラしている気がする。

 

 

「いいわ、すごくいい! ベストのボタンをしっかり留めてる几帳面な感じがいいわ! こういうカッチリした知的なハカセが見たかったの! なんか良家のインテリ青年って感じすごくある!!」

 

 

 そう言いながらありすは居ても立ってもいられないという素振りで、スマホを取り出してパシャパシャとシャッターを切り始めた。

 

 

「折角だから髪型もきっちり固めたかったけど……あ、でも今の髪型でも真面目君がちょっと冒険してみた感じがあって好き……! ねえ、ちょっとこっち見て笑ってみて、ズボンのポケットに手を入れて顔を15度ほど傾けて! そう、そのポーズ! 笑顔がちょっと固いかな……でも仏頂面もそれはそれで似合うわね。あー、手元に本があれば持たせてみたい……!!」

 

 

 ありすの考えていることが、たまによくわからない。

 そう思いながら試着室の鏡を見てみる。

 ……あ。この服装、どっかで見たことがある……。

 

 そうだ。ありすのお父さんが休日に家にいるときの服装がこんな感じだった。休みの日なのにそんなかっちりボタン留めるベストなんて着て息苦しくないのかなと思っていたから覚えている。

 

 そうか……ありすは本当にお父さんが好きなんだな。

 寂しいから僕にお父さんみたいな恰好をさせているんだろう。

 ありすもまだまだ子供だな。そう思うと何やら微笑ましくなってきた。

 

 

「…………うー。その笑顔、ずるい…………!!」

 

 

 何やらありすが胸の前で両手を組んで、ぽーっとした感じで僕を見つめている。どうしたんだろう。

 まあいいや。服装ひとつでありすが喜んでくれるなら、僕はお父さんの代わりでもなんでもやってあげようじゃないか。

 

 

 なお結局この服は部屋着として買い、今日のデート用にはダウンベストと黒のセーターを合わせて着ることになった。部屋着はありすが遊びに来たときに着てほしいらしい。「お部屋デート」用らしいのだが、部屋デートってなんだ? デートの概念は多彩すぎていまいちよくわからない。

 

 ちなみにありすに倣って自分の服は自分で払ったのだが、合計するとありすの服よりも高くついた。

 ……子供が高い品物を気軽に買ってはいけないとは一体なんだったのか。

 まあありすが喜んでくれるのなら何でもいいか。

 

 

 

※※※

 

 

 

 服屋さんを出たらもう12時を回っていた。

 ここからどこへ行こうかな。

 

 くらげちゃんに言わせると、クリスマスデートでラーメン屋とかに連れてくのはありえないらしい。オシャレなフランス料理店でワインを傾けながらキミの瞳に乾杯するのが理想の形だそうだ。僕たちはまだお酒を飲めないけどどうしたらいいのだろう。

 とりあえずありすに何を食べたいか訊いてみようかな。

 

 そう思って口を開こうとした矢先に、ありすがバッグからバスケットを取り出して見せた。

 

 

「あのね、今日お弁当持って来たの。クリスマスにみみっちいなんて思われるかもしれないけど、よかったら……」

 

「やった! どこで食べる?」

 

 

 みみっちいなんて思うわけないだろ。

 

 僕はありすに連れられて、商業モールの中のテラス席へ向かう。モール内のテナントで買い物をした人は、ここで好きに休んでいいことになっているそうだ。

 

 ちらりとビルの外を眺めると、外食店には多くの人が並んでいた。いったい普段どこにこれだけの人がいたんだ。ありすがお弁当を持ってこなかったら、僕たちもあの人たちと同じように寒い中行列に並ぶ羽目になったのだろう。

 なんて気が利くんだ。

 

 ありすが若干もじもじとしながら、バスケットを開ける。

 中には小さな俵おむすびがいくつかと、ミックスベジタブルが入ったはんぺんの焼き物、キノコのうま煮に、エリンギとツナの炒め物、ホイコーロー、大きなから揚げ、それに卵焼き、プチトマトといったおかずが入っていた。

 どれもおいしそうだな。さすがヨリーさんだ。彩りもきれいで見た目も……。

 

 ……いや……。

 

 僕は何か違和感を感じて、まじまじと弁当の中身を見つめた。

 続いて何やらハラハラしたように僕をじーっと見つめているありすの様子を見て、その違和感が確信へと変わる。

 

 

「もしかしてこれ、全部ありすが作ってくれたのか?」

 

「……! わかるの?」

 

「そっか。やっぱりありすのお手製なんだ」

 

 

 目を見開いたありすを見つめながら、僕はじんわりと胸が熱くなってくるのを感じた。

 

 今日のお弁当のおかずは、どれも包丁が使われていない。ミックスベジタブルは解凍すればいいし、キノコやホイコーローのキャベツは手で裂ける。鶏肉はから揚げ用にカットしてあるのが売られている。

 どれもこれも、包丁を使えないありすが頑張って自分にできる料理を考えてくれたのがわかる。

 

 

「私、こういう本格的な料理するの初めてで……もしかしておいしくないかもしれないけど……」

 

「いや、食べるよ。いただきます」

 

 

 手の指を組み合わせてもじもじとするありすに皆まで言わせず、僕は箸を手に取った。

 まずは卵焼きを口に入れる。ありすが僕が咀嚼するのを息を止めてじっと見つめているのを感じながら、よく噛んで口全体で味わった。

 

 

「……おいしい」

 

「ホント? 嘘言ってない?」

 

「嘘じゃない。本当においしいよ」

 

 

 当たり前だろ。

 もし仮にまずかったとしても、僕は全力でそれがおいしい味だと自己暗示をかけたに違いない。

 だってそうだろう。ありすが一生懸命に自分に作れる料理を考えて、不慣れながらに頑張って作ってくれたんだぞ。一品一品作るのに、どれだけの手間がかかっているのだろう。材料費だってタダじゃない。

 僕においしいものを食べてほしいと、心を込めて作ってくれた弁当だ。僕にとってはこの世のどんな高級料理よりもすばらしい料理だ。

 これをおいしくないと言い捨てるような人生は、僕は生きる価値がないと思う。

 

 そして、実際においしかった。

 これまでのジョギングで作ってくれた夜食のおにぎりで、ありすの料理の腕前が鍛えられたのを感じる。

 

 僕の感想に、ありすはほーっと胸を撫で下ろした。

 

 

「よかった……! 私、ちゃんとおいしいお弁当作れた!」

 

「というか、味見してなかったの?」

 

 

 ヨリーさんは料理人なのだし、自分で味見させることは徹底させそうだが。

 

 

「もちろんしたわよ。でも、アンタが気に入ってくれるかわかんなかったから」

 

「いや、好きだよ。全部おいしいと思う」

 

 

 そう言いながら、僕は一通り全部の料理を口にした。

 

 どれもおいしい。

 そもそもありすが小学校の頃にはほぼ毎日うちにご飯を食べに来ていたのだから、味覚も似ているのかもしれないな。

 なんだかヨリーさんの味というよりも、僕のお母さんが作ってくれたご飯の味に近いような気がしている。もちろん、僕の大好きな味だ。

 

 

「この料理なら毎日でも食べたいな」

 

「……!? ま、毎日って……その……」

 

 

 ぽんっと湯気を上げるように、ありすの耳が赤くなった。

 いつものことだけど、ありすは何故ときどき真っ赤になるのだろう。不思議な体質だな。

 

 

「わ、私はその……ハカセが……」

 

「いや、もちろん無理だとわかってるよ? 手間がすごくかかるし、材料費も必要だし」

 

 

 そう言って安心させてやると、ありすはわずかに口を尖らせた。あれ、また不機嫌になった?

 相変わらず上機嫌と不機嫌の乱高下が激しいな。どこに地雷があるかわからないぞ。

 とりあえずフォローしなきゃ。

 

 

「機会があったら、また食べたいな。作って来てくれて本当に嬉しい」

 

「……そうね。私も長年の夢が叶ったわ」

 

「そうか。僕もそうなんだ」

 

 

 中二のとき、僕が右腕を怪我して使えなくなって、ありすがお弁当を食べさせてくれたことを彼女はまだ覚えているだろうか。

 あのとき僕は「いつかありすが作ったお弁当を食べたい」と思っていた。もちろん包丁を使えないありすにとっては残酷すぎる言葉だから、本人に直接言ったことはない。料理研究家の母親を持ちながら包丁を使えないことを、ありすはどれだけ苦しんでいただろうか。

 

 それでも僕は、思ってしまったのだ。いつかありすの作ったご飯を食べさせてほしいと。もちろんこれまで夜食でおにぎりを作ってもらっているけど、そうではなくきちんとした料理を食べてみたいとずっと思い続けてきた。

 やっとその夢が叶った。こんなに嬉しいことはない。

 今日は人生で最良の日だ。

 

 僕がそんな感慨を抱いていると、ありすはバスケットを眺めてわずかに眉をたわめた。

 

 

「次は……いつか、包丁で料理を作れるようになりたいな……」

 

「……」

 

 

 その言葉に込められた重い重い意図を感じ取り、僕は言葉を探す。

 

 

「なれるよ。いつか」

 

「……だったらいいわね」

 

「ありすが言ったんだろ。少しずつ、一緒に大人になればいいんだ」

 

 

 いつか時間が解決してくれる。成長すれば心の傷だっていつか背負えるようになる。僕はそのときが来るまで、ずっとありすを傍で見守っているから。

 そんな本音までは恥ずかしくて口にできやしないけど、いつかそうなってほしいという祈りを込めて僕は言った。

 

 ありすは目を見開いて僕を見返してから、クスリと表情を緩めた。

 

 

「ふふっ。ハカセにそんなこと言われるなんて思わなかった。生意気なこと言うじゃない」

 

「僕だって成長してるんだぜ。意外だとか言うなよな」

 

「……ううん。そこは意外じゃないよ。私、ずっと見てきたもん」

 

「うん」

 

 

 僕は頷きながら、ありすが作ってくれた弁当を一心に口に運んだ。

 

 

「ありすも食べなよ、僕が全部食べ尽くしちゃうぞ」

 

「あっ、ちょっと待ちなさい。卵焼きは自信作なんだから、私の分も残してよね!」




中2のときのお弁当回(13話)でハカセが大好きだったのがお母さんが作った卵焼き。
最初に目を付けたくらい、ありすもその味が好き。


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第54話「2人だけのクリスマスキャロル」

(さて、午後はどうしようかな)

 

 

 ありすのお弁当を食べてお腹も膨れた。

 もうこのまま昼寝してしまいたいくらい幸せな気分だが、一緒に遊ぶ約束で来ているのでのんびりお昼寝というわけにはいかないだろう。

 午後からの予定は何も決まっていない。

 

 ミスターMによると、デートというのは女の子をどこに連れて行くのかでセンスを問われるものらしい。世の女性は自分をどう楽しませてくれるのかを見定めているのだそうだ。だから下手なところに連れて行くと途端にダサイ男だと思われてしまうのだという。

 なんて恐ろしい。まるで抜き打ちテストだ。

 

 でもそれを聞いたEGOさんは

 

「そんな真似するのは自分が男より格上だと思ってる性格の悪い女だけですよ。仮にやるとしても付き合い始めだけでしょう。ひぷのん君と彼女なら今更どこに行こうが同じです、好きにしなさい」

 

 と笑い飛ばしていたので、多分どこに連れて行ってもいいはずだ。

 なおミスターMはそれ以降何も言わなくなってしまった。何があったのだろう。

 

 しかし遊ぶといってもどこに連れて行ったものやら。

 僕はインドア派だから、遊ぶといったらもっぱら自宅でゲームだけど多分今日は普段やらないことをするのがいいんじゃないだろうか。

 

 そう思いながらありすの方を見ると、ばっちり視線があった。さっきから僕の顔をじーっと見ていたのだろうか。ニコッと嬉しそうに微笑まれて、僕の心臓がバクバクと激しく脈打った。

 今日は普段よりも可愛いから、破壊力がすごい。自分好みの服を着てくれるってなんて凄まじいんだ。いや、それ以前に何か今日のありすはすごく上機嫌で、見ていてすごくソワソワする。本当のことを言えばもうずーっとありすだけ見ていたい。

 

 

「どこか行きたいところある?」

 

「あー……いや、特に」

 

 

 あっ、何を言ってるんだ僕は……!

 

 思わず「それよりありすをずっと見ていたい」と口走りそうになって慌てて言い直した結果、なんかすごくそっけない返事になってしまった。

 まるでデートがつまらないと思ってるみたいじゃないか。感じ悪いぞ!

 

 

「あ、いや、違う。別につまらないわけじゃなくて、ありすと一緒ならどこでも楽しいから」

 

 

 しどろもどろに下手な言い訳をしていると、ありすはくすっと笑った。

 

 

「ハカセにはどこで遊べばいいかなんてわかんないよね。いいのよ、これからはたまには外で遊びましょ」

 

「うん」

 

 

 僕はほっと安堵の息を吐きながら、こくりと頷いた。

 そういえば僕は街で遊んだことがほぼないので、どういったところが楽しいのかよくわからないのだった。

 にゃる君とささささんはゲームセンターでよく遊んでるようなので多分楽しいのだろうが、それを真似して僕たちが楽しいのかはよくわからない。

 それならありすが楽しいところに連れていってもらうのが一番いいだろう。

 

 

「じゃあ、行こっか」

 

 

 ありすが差し出してくる手を握り返し、僕は尋ねた。

 

 

「どこ行くの?」

 

「カラオケ」

 

 

 

===========

=======

===

 

 

 

「~♪」

 

 

 ありすの熱唱を聴き終わった僕は、パチパチと拍手を送った。

 これはすごい。

 お世辞じゃなく、素晴らしい歌声だった。

 例によって歌の良し悪しはさっぱりわからないし流行歌のチェックもまるでしていない僕だが、ありすの歌はすごい。

 何というか、心をがっしりと掴んでくるものがある。脳が揺れる感覚というか、思わず歌の世界に引きずり込まれるものがあるのだ。

 

 

「お粗末さまでした」

 

「いや、全然粗末じゃないよ。一人歳末コンサートくらいの迫力があった」

 

「それは言いすぎでしょー」

 

 

 そう言いながら、ありすはまんざらでもないようにニコニコと笑いながらジンジャーエールで喉を潤した。

 

 それにしても、ありすはこんなに歌が上手かったのか。

 一緒にカラオケに行ったことがないから全然知らなかった。にゃる君やささささんと4人で遊んだことは何度もあるが、カラオケは誘われるたびにやんわりと拒否していたはずだ。

 

 

「ありすはカラオケ嫌いなのかと思ってた」

 

「そんなことないわよ、ひとりでよく来てるし。歌うのは好きかな」

 

「そうなの? ささささんに誘われても断ってるからてっきり嫌いなのかと」

 

「あー……人前で歌うのは嫌いかな」

 

 

 そう言ってありすは少し陰のある笑顔を浮かべる。

 その表情を、僕はどこかで見たことがあった。

 

 

============

 

 

『そうだ、今日ガッコ終わったらみんなでカラオケ行かない? ぱーっと遊びまくろうよ。久しぶりにありすの歌聞きたいな』

 

『あー、それいーじゃん。絶対たのしーよ。ね、ありす?』

 

『そうね……それもいいわね』

 

 

 ありすは取り巻きたちの提案に曖昧な笑みを浮かべて頷いていた。

 

 

============

 

 

 そうだ。あれは忘れもしない、中1の土下座事件のすぐ後のこと。

 クラスの女子たちにカラオケへ誘われたありすは、こんな微妙な顔をしていた。

 あのときは乗り気じゃないのかな程度に思っていたが、ありすの持つ『声の力』のことを考えれば話は変わってくる。

 

 先ほどありすの歌を聴いて脳が揺らされるような魅力があると感じたが、実際にありすの声に含まれる催眠音波で脳が侵食されているとしたら?

 伝承に伝わるセイレーンではないが、ありすの歌声には聴く者を魅了する力があって、それを幼い頃から自覚していたとしたら?

 

 もしかすると、ありすは取り巻きたちを『掌握』するために初手で彼女たちをカラオケに連れて行って、たっぷりと歌声を聴かせたのではないだろうか。

 

 だけど成長して今度は取り巻きたちが邪魔になって……あるいは声の力で他人を支配することに罪悪感を感じるようになって、それでもうカラオケに一緒に行くのはやめたのではないか。

 多分どちらもだろうな、と思う。

 にゃる君やささささんみたいなちゃんとした友達がいれば、無理やりに支配した仮初(かりそめ)の友達なんて虚しいだけだろう。

 

 でもそれなら僕をカラオケに連れてきたのは……僕がどうでもいい存在だから、ということは流石にないだろう。いくら僕でもそれくらいはわかる。

 

 ということは、ありすは僕が『声の力』への耐性を持っていることに気付いているということだ。

 ……でも、それはいつからだ? ありすはどの時点で、僕が耐性を持っていることに気付いていたのだろう。

 いや、それを言うなら僕はどの時点で耐性を身につけたんだ?

 

 

 僕が考え込んでいると、ありすは小声でごめんね、と呟いた。

 

 

「え、何が?」

 

「私が変なこと言ったから、気を遣わせちゃったかな」

 

 

 ……ん? ああ、そうか! 人前で歌うのは嫌だって言ったから場の空気が悪くなったのかと思われてしまったのか。

 これはいかん。今日はありすに屈託なく楽しんでほしいんだ。

 こういうとき何とフォローすれば……。

 

 ただでさえ思考に水を差されて慌てているところに混乱を重ね、結局僕がどうにか口にしたのは思ったままのことだった。

 

 

「いや、嬉しいよ。ありすにカラオケに連れてきてもらってよかった」

 

「嬉しい……? どうして?」

 

「だって僕は『特別』なんだろ。ありすの歌声は僕が独り占めできる。こんなに嬉しいことは他にないよ」

 

 

 どうせならもっと気取ったことを言えればよかったのに、僕ってやつはどうしてこんなに思ったままのことしか言えないんだ。

 

 ありすはほのかに顔を赤らめ、下を向いてもじもじとマイクを握る手をいじっている。

 

 

「あ、そうなんだ……嬉しいんだ……」

 

「当たり前だろ」

 

 

 こんなに素敵な歌声を聴けるのが自分だけって時点でこそばゆい気持ちなのに、それがありすの歌声だなんて最高に決まってる。いっそ誇らしいとさえ思う。

 頬が緩んでしまうのも当然のことだろう。

 僕は自然に浮かんできた笑顔をありすに向けた。

 

 

「もっとありすの歌を聴かせてほしい。普段我慢してる歌声をいくらでも披露してほしい。僕はありすがどれだけ歌っても、ちゃんと聴いてて、全部受け止めるから」

 

「…………」

 

 

 ……はっ、キモいとか思われなかったかな。

 ついニヤけた顔をそのまま向けてしまった。

 

 ありすは目を丸くして僕の顔をじっと見た後、ますます顔を赤くして黙り込んでしまっている。うわあああ、やってしまった!

 

 やらかした感のあまり心臓にズキズキと痛みを感じながら沈黙に耐えていると、ありすは上目遣いをしながらおずおずと口を開いた。

 

 

「じゃあ……お言葉に甘えて、今日はたくさん歌うね」

 

「うん。ぜひ聴かせてくれ」

 

 

 ほっ……。よかった、スルーしてもらえたようだ。

 

 

「それと、私だけじゃなくてアンタも歌いなさい」

 

「え? 僕?」

 

 

 予想外のことを言われて、きょとんと目を瞬かせる。

 

 

「僕は音痴だから聴いても楽しくないよ」

 

「知ってるわよ、音楽の成績くらい。下手でもいいの! 私がアンタの歌を聴きたいの!」

 

「と言われてもなあ……僕は歌とかあまり知らないよ」

 

 

 まさか童謡を歌うわけにもいかないだろう。幼稚園じゃあるまいし。

 そう言うと、ありすはにっこりと笑った。

 

 

「今日は何の日だと思ってるの? クリスマスイブでしょ。クリスマスキャロルのひとつでも歌いなさい」

 

「あー、まあそれなら幼稚園や小学校で歌ったことあるな……」

 

「でしょ? 私も一緒に歌ってあげるから!」

 

 

 そして僕たちは、思いつく限りのクリスマスの曲を一緒に歌った。

 ありすと一緒に歌うという経験はとても新鮮で、心が浮き立って。

 

 僕はまたひとつ、ありすにこの世の楽しいことを教えてもらったのだ。

 

 

「こんなに楽しいクリスマスは、生まれて初めてかもしれないな」

 

 

 そうぽつりと呟くと、ありすはクスリと笑いかけてきた。

 

 

「そう? じゃあ来年は記録更新するわね。これからも毎年を一番楽しいクリスマスにしてあげるんだから」



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第55話「告白」

「おーい、ハカセとありすサン! 奇遇だな!」

 

 

 カラオケで2時間ほど歌い、さあこの後どうしようかと思って外に出たところで声を掛けられた。

 にゃる君が少し離れた雑踏の中から、ニコニコと笑いながらぶんぶん手を振っていた。にゃる君は大柄なので、手を掲げるととても目立つ。

 人ごみに埋もれているが、その隣にはささささんがいるのがわかった。

 本当に仲がいい2人だ。クリスマスでも一緒に遊んでるんだな。

 

 ささささんは何だか浮かない顔をしているが、その手をぐいぐいと引っ張ってにゃる君は笑顔でこちらに近付いてきている。なんか言うことをきかない大型犬に引っ張られている飼い主みたいで可愛い。

 

 

「ちょうどいいところにいてくれた! あのさ、良かったらこれから4人で一緒に遊びに……」

 

 

 近付いてきたにゃる君はそう口を開いたところで、びくっと肩を震わせた。何やら青い顔をして僕の後ろに目を向けている。

 僕の後ろにいるのはありすだが……。振り返ってみると、ありすはニコニコと微笑みながら小首を傾げて、「どうしたの?」と言わんばかりの仕草をした。あー可愛い。

 こんな癒ししかないありすを見て、にゃる君はどうして見てはいけないものを見てしまったような顔をしているんだろうか。

 

 不思議に思っていると、ささささんが背伸びしてにゃる君の耳たぶをぐいーっと引っ張った。

 

 

「おい、このヘタレ! こんなにも可愛いボクがクリスマスデートに付き合ってやってんのに、何Wデートに持ち込もうとしてんの? ボクと一緒だと間が持たないとでも?」

 

「ううう……」

 

「そもそもお邪魔だってのがわかんないわけ? ありすちゃんの千載一遇のチャンス潰すようならお前から潰すぞオイ」

 

 

 ささささんがにゃる君にひそひそと耳打ちしているが、相変わらず言っていることはよくわからない。

 ありすにとってチャンス? いや、僕にとっては嬉しい機会だけども。ありすも楽しんでくれているのなら、僕も嬉しい。

 

 ささささんはこちらを向いてにこっと微笑み、小さく手を振った。

 

 

「こいつはボクが連れて行くから、気にせずに続きを楽しんでね! ほらっ行くよ甲斐性なし! キリキリ歩く!」

 

「わ、わかったよ……すまねえな、今のは忘れてくれ。明日は一緒に遊ぼうな」

 

 

 なんかこの2人、いつの間にかささささんの方が上の立場になっている気がする。にゃる君はささささんにどんな弱みを握られたというのだろうか。

 

 そう思いながらドナドナと連れられて行くにゃる君の背中を見ていると、彼は不意に「あーちょっと待て」とささささんの拘束を振り払って、僕に耳打ちしてきた。

 

 

「あっちの方に趣味のいいアクセサリーの露店があったぞ。何かプレゼントしたいならそこに行きな」

 

 

 それだけ囁いて、にゃる君は僕から顔を離した。

 

 

「じゃ、上手くやれよな」

 

 

 にゃる君はささささんに腕を引っ張られながら、ひらひらと手を振って去っていく。

 大柄なにゃる君がちっちゃいささささんに先導されていく光景は、どこかユーモラスな感じがあった。

 

 

「惚れた弱みねぇ」

 

 

 2人の背中を見ながら、ありすがぽつりと呟く。

 

 

「えっ? あの2人って付き合ってるの?」

 

「さあ。でも、どう見てもそうでしょ」

 

「そうなのか……」

 

 

 僕には他人が付き合ってるのかどうかなんて、見ていても全然わからない。

 僕にとってラブラブぶりがわかるのは両親くらいのものだ。あの2人はもう50近くなっても、ことあるごとにイチャイチャしている。

 

 でもありすがそう言うのなら、きっとにゃる君とささささんも普通の人が見れば付き合ってるのがわかるんだろうな。うらやましい。僕も周囲から見ればありすと仲良くしているように見えるようになりたい。

 そうすればきっと、他の男がありすに近付くこともなくなるだろうに。

 

 僕がそんなことを思っていると、ありすが僕の手をそっと握ってきた。

 

 

「次、どこか行きたいところある? さっきは私のリクエスト聞いてもらったから、次はハカセが選んでいいわよ。なかったらまた私が選んじゃうけど……」

 

 

 僕を見上げてそんなことを言う。

 それなら折角だから、にゃる君に教えてもらったところに行こうかな。

 

 

「じゃあちょっと歩こうか」

 

「うん」

 

 

 僕が歩き始めると、ありすは僕の手を握ったまま横にぴったりくっついて足を動かし始める。

 

 僕はありすより脚が長いから、ありすが一番楽に歩ける歩幅に調整してのんびりと進む。

 時折ありすがあれ見て、と街中に掲げられたクリスマスの飾りを指さすのを、うんうんと頷いて一緒に眺める。

 ありすがあれこれと話すのを聴きながら、そうだねと相槌を打つ。

 

 どういうわけか、それだけのことが不思議に楽しい。

 世界が不思議と輝いているように見える。心が浮き立っている。

 

 ありすと一緒なら、ただ歩いているだけでも僕は充分楽しいんだとわかった。

 

 

 2人でクリスマスの街を散歩することしばし、僕は目当ての露店を見つけた。

 青年が路傍に黒いシートを広げ、あぐらをかいて座り込んでいる。シートの上には銀色に輝く様々なアクセサリーが並べられていた。

 

 遠目から興味深そうにアクセサリーを眺めているありすの腕を引いて、僕は露店に近付く。僕の行動が予想外だったのか、ありすは不思議そうに僕を見上げながらついてきた。

 

 

「おや、メリークリスマス。ゆっくり見ていってね」

 

 

 青年は僕たちを見上げながら、にこっと営業スマイルを浮かべる。

 彼の商品は銀細工の品が多く、ペンダントやイヤリングなど種類も様々だ。

 

 

「これ、素敵ですね。お兄さんが作ったんですか?」

 

「そうだよ。お兄さんがクリスマスを一緒に過ごす彼女を作る時間も惜しんで、一品一品真心こめて作りました。おかげでこうしてぼっちのクリスマスだよ」

 

 

 青年がおどけると、ありすはクスクスと笑顔を浮かべた。

 

 そうか、これはありすにとって素敵に見えるのか。

 僕にはデザインがどうとかさっぱりわからないけど、ありすが綺麗だと思うのならそれはいいことだ。

 

 

「折角だから美人の彼女さんに何かプレゼントしてあげたらどうかな、彼氏クン。このイヤリングなんか、高校生にもお手頃な価格でオススメだ」

 

「いや、ありすにはイヤリングはいらないよ」

 

 

 一瞬ありすの手が汗ばむのを感じ、僕はぎゅっと握り返して安心させてやる。

 尖ったモノがダメなありすは、耳に穴を空けることなんてできない。

 

 

「それよりこれが欲しいな」

 

 

 僕はシートの上に並べられたアクセサリーの中から、指輪を指さした。

 シルバーの土台に小さなルビーがあしらわれている。イミテーションだろうけど、その色がありすの髪の色と同じで僕は気に入った。

 目測ではありすの指にぴったり合うはずだ。

 

 ペンダントよりも一回り高価だけど、高校生のお小遣いでもギリギリ買える範囲だ。服を買うときにありすに高校生の分相応の買い物をしなさいと言われたけど、これならきっとありすも文句はないだろう。

 

 

「これは随分重いものを選ぶなあ、キミ」

 

「え、指に付けられないくらい重いんですか?」

 

「真面目そうな顔でジョークを飛ばすねえ」

 

 

 青年はちらりとありすの顔を見ると、フフッと含み笑いをした。

 

 

「いや、妥当な重さなのかな。それならこの指輪は本物を買うまでのつなぎになるってわけだ。それは光栄だな」

 

 

 そう言いながら、青年は僕に指輪を渡してくれる。

 わざわざ僕を介さなくても、直接ありすに渡していいんじゃないの?

 

 

「ありす、これプレゼント。この前のお礼、受け取ってくれる?」

 

「う、うん……」

 

 

 何やら頬を赤らめているありすに指輪を手渡そうとしたら、青年がおいおいと止めてきた。

 

 

「おーい、何やってんだ。そうじゃないだろ、キミが嵌めてやるんだよ」

 

「そういうものなんですか?」

 

「当たり前じゃないか。彼女さんだってその方が嬉しいに決まってるよ、ねえ?」

 

 

 青年の声に、ありすがこくりと小さく頷く。

 なるほどなあ。こういうものにも作法ってものがあるのか。

 そう思いながらありすの手をとり、人差し指に指輪を嵌めようとすると、また青年が違う違うと横槍を入れてきた。

 

 

「そうじゃないだろ! 左の薬指に嵌めるんだ」

 

「なるほど」

 

 

 僕は言われた通り、ありすの左手をとって薬指に指輪を嵌めてあげた。

 ありすは何も言わず、じーっと指輪を見つめている。なんだか瞳がいつもよりもキラキラとしているように見えた。

 

 僕は一歩下がってありすを見つめ、ありすの指で光っている指輪とありすの髪色の調和にとても満足した。うん、すごく似合っていると思う。

 

 

「……嬉しい」

 

 

 ありすはしばらく指輪を見つめてから、ぽつりと絞り出すように呟いた。

 

 

「この指輪、大事にするから。何があっても、絶対になくさないから……」

 

「うん」

 

 

 折角のプレゼントだ。大事にしてくれたら、僕も嬉しい。

 それにしても随分喜んでくれているようだ。

 これも作法をアドバイスしてくれた青年のおかげだろう。

 

 

「ありがとうございます。喜んでくれたようです」

 

 

 僕が値札に書かれた金額通りのお札を差し出しながら礼を言うと、赤いコートを着た青年はウインクして肩を竦めた。

 

 

「礼には及ばないよ。人に幸福を配るのは、サンタクロースの仕事だからね」

 

 

 

 

 露店を離れてからしばらくありすと2人で歩いた。

 ありすは何やらぼんやりと左手の指輪を見ては、ほうっとため息を吐いている。

 本当に気に入ったのだろう、何やら夢見心地という風情だった。

 

 そのままだと人にぶつかりそうなので、僕はありすの手を引いて歩く。

 ありすは僕に手を引かれるまま、その後をついてきた。なんだかいつもの逆だな。

 どこか行きたいところあるかなと聞きたかったけれど、ありすは指輪を眺めるのに夢中になっていたので邪魔をするのもなんだか憚られる。

 

 僕はありすの手を引きながら、のんびりとしたペースでぶらぶらと歩いた。

 ありすはその間、ずっと指輪を眺めていた。

 

 

 やがて冬の夕暮れが訪れる。

 夕闇が迫り、街がキラキラとイルミネーションに覆われていった。

 

 

「ありす、イルミネーションだよ。綺麗だね」

 

「うん」

 

 

 芸術というものがさっぱりわからない僕にも、イルミネーションの美しさはわかる。無数の小さな電球によって飾られた街は、いつもの味気ない風情とは打って変わって煌めいている。

 

 そういえば、僕はありすとイルミネーションを眺めたことはない。

 いつかありすと2人で、イルミネーションに満たされた街を歩きたいと思っていた。

 

 

「またひとつ、夢が叶った」

 

「夢……」

 

 

 呟き返したありすの方を見ると、彼女は指輪から目を離して僕の顔を見上げていた。

 

 

「どんな夢?」

 

「ありすと一緒に、イルミネーションを見たかった」

 

「そうなんだ。……私と一緒ね」

 

 

 ありすの瞳が、じっと僕の眼を見つめている。

 

 

「私も、ハカセと一緒にイルミネーションを見たかった。ずっとずっと前から」

 

「ありすもそうだったのか。お互いに夢が叶ったな」

 

 

 僕がそう言うと、ありすはふるふると首を振った。

 

 

「違うの。私、本当にずっと前から……。すごく昔から……」

 

「僕だって、ありすと前からイルミネーションを見たかったよ」

 

「私の方が前だもん。ハカセと……あなたの手を引いて歩いていた頃から、本当に昔からずっと……私」

 

 

 そう言って、ありすは僕の手を離す。

 そして何かを堪えるようにぎゅーっと手を握り、僕の眼を見上げた。

 

 

「あなたが好きなの。愛している」

 

 

 ………………。

 

 

 僕は言葉を失った。

 頭が突然空っぽになってしまったように、何も考えることができない。

 ありすの言葉を、ただ聴くことしかできなかった。

 

 そんな僕に、ありすは切羽詰まったような表情で尋ねる。

 

 

「あなたは、私をどう思っていますか?」

 

「私を好きだと思ってくれていますか?」

 

「私を愛しいと思ってくれていますか?」

 

 

 矢継ぎ早に並べられるありすの言葉を前に、僕は何も言えなかった。

 質問に答えることができない。

 

 何故なら、僕には、『愛しい』という概念がわからない。

 愛しいとはなんだ。どうすればそれを表現できる。

 愛されているとはどういう状態だ。どうすればそれを知覚できる。

 

 

 最近少しはマシになってきたようで、やっぱり僕は人間の欠陥品だった。

 

 

 他人に愛されていることを実感できない。

 愛という感情がわからない。

 他人に愛を伝える方法を知らない。

 

 ありすに何かを言わなくてはいけないのに。

 こんなにも必死になって問いかけているありすに、何かを答えなくてはならないのに。

 僕にはありすに「愛している」と伝えることができない。実感をどうしても持てないまま口にしたなら、それは嘘になる。こんなに必死に問いかけているありすに、そんな不誠実なことはできない。

 

 

 結局これが僕だった。

 共感性と他人への興味の欠如からくる、呆れるほどの鈍感。

 

 他人にどんな罵倒をされても、心が傷付くことはない。

 ということは裏を返せば、他人に愛を示されても、それを理解することができないということでもある。

 

 僕の精神は愛を理解しない。

 他人に興味がない人間は、どこまでいっても独りぼっちだ。

 

 

「…………」

 

 

 何を言っても嘘になる。

 愛していると答えても、好きではないと答えても。

 

 ありすに好意を抱いている。それは確かだ。絶対にそうだ。

 僕の霧に包まれた世界に、最初に光をくれた女の子。

 僕がろくな反応を返すことができなくても、決して諦めずに手を引いてくれた。呼びかけ続け、この世の美しいものを、楽しいことをひとつずつ教えてくれた。

 そんな女の子を、好きじゃないわけがない。

 

 だけどそれが愛しているということなのか、僕にはわからない。

 愛しているという実感が持てない。

 でも、ありすのことが大切だから、空虚な言葉を口にはできない。

 ここにきて、僕の頭の中は五里霧中だ。

 

 

 そんな僕を安心させるように、ありすは微笑もうとした。

 

 

「ごめんね。ハカセには、まだわからなかったよね。私、意地悪なこと訊いちゃったね……」

 

 

 ぽろり。

 

 

「あっ……」

 

 

 微笑もうとしたありすの瞳から、雫がこぼれ落ちた。

 ありすは我知らず流れた涙に狼狽して、必死に拭おうとする。

 

 

「わ、私、涙なんか流すつもりじゃ……。違うの。違うのよハカセ。これは違うの……」

 

 

 そう言いながら、ありすの手の甲にぼろぼろとこぼれる涙の雫。

 イルミネーションの光を受けてきらきらと輝くそれは、皮肉にもありすを飾る光のように見えた。手を動かすたびに揺れる、ルビーの光。

 

 胸が締め付けられる。

 

 

「私……浮かれてたんだ。こんなにデートが上手くいくなんて思ってなかったから。思った以上にハカセが素敵なエスコートをしてくれたから。だからもう大丈夫だと思って……ハカセに好きだって言っても大丈夫だって……あは。あはははは……バチが、当たっちゃったのかなあ……」

 

 

 今すぐありすを抱きしめたかった。

 泣かなくていいのだと伝えたい。悪いのは僕だと言いたい。

 ありすは何ひとつ悪くなんてない。バチなんて当たるわけがない。

 

 だけど愛していないのにそんなことをするのは不誠実じゃないのかと、こんなときでも僕の客観的な理性がなじってくる。

 僕は指一本動かすことができない。

 

 

「ごめんね、ハカセ。今日のことは、忘れてね……」

 

 

 そう言い残して、ありすは顔を隠しながら駆け去っていく。

 きらきらと光る、涙の雫をあとに残して。

 

 

 呪縛を解かれた僕は、呆然と呟くことしかできなかった。

 

 

「どうしてこうなってしまったんだ……」



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第56話「VS国家権力」

本日2話投稿……!1話目です!


「ありす……」

 

 

 自室の椅子に腰かけて、僕はぼんやりと呟いた。

 あれからどうやって帰って来たのか覚えていない。気が付いたら自宅に戻ってきていた。

 帰ってきたときにくらげちゃんやお母さんに話しかけられたような気もするけど、今はそんなことを考える余裕もなかった。

 

 とにかくありすと話がしたい。

 僕はスマホのホーム画面ををじっと見つめ、SNSアプリを起動しようとした。しかしその指が、凍り付いたように動かない。

 今の僕には何を言えばいいのかわからなかった。

 

 ごめん、か? 誤解だ、か?

 だが何を謝ればいいのだ。

 僕に非があることは間違いない。ありすは何ひとつ悪くない。

 しかしどうすれば僕の悪いところを改善できるのかがわからない。

 

 

「泣かせちゃったな……」

 

 

 去り際の涙を思い浮かべて、僕は胸が締め付けられる思いがした。

 こんなはずじゃなかった。

 ありすを悲しませるようなこと、絶対にしたくなかった。

 僕はただ、ありすに笑っていてほしいだけだったのに。

 

 無理やり土下座させようとしておいて今更何を言ってるんだ、と自分の中の冷静な部分がなじってくるが、あくまでもそれはじゃれあいの範囲の話だ。

 もし仮にそうなってもありすなら許してくれるだろうという予感があったから、到底実現不可能な目標として立てられた。

 本当にありすを傷付けるつもりなんてこれっぽっちもなかった。

 

 

「僕は大馬鹿野郎だ」

 

 

 頭を抱え、呻くようにひとりごちる。

 この出来損ないめ。人間の真似をするロボットめ。

 

 ありすに手を引かれて、ミスターMやEGOさんに指導を受けて、にゃる君やささささんとはしゃいで、少しはマシになれたと思っていた。

 ようやく人間に近付けたとうぬぼれていた。

 

 笑わせる。ただ単に、人間の真似をするのが上手くなっただけじゃないか。

 

 結局僕は人間にはなれなかった。

 人間に興味を持てないモノが、人間になれるわけなかったのだ。

 

 いっそこのまま死んでしまいたかった。

 ありすを悲しませるような存在になってしまった自分が呪わしい。

 

 だが、自殺なんてできない。

 そんなことをすれば……ありすはもっと悲しむだろう。

 

 

「最低だ」

 

 

 この期に及んで、僕はありすが()()()()()()()だろうなんて思っている。

 どこまでありすに甘えれば気が済むんだ。

 ありすの期待に応えることもできないくせに、ありすの好意だけはほしいと思っている。好意を返す方法も知らないくせに、与えられるものは欲しいとは、何という恥知らずだろう。

 

 

 だけど。それでも。

 

 

「ありすの声が聴きたい」

 

 

 ありすと会話がしたい。笑い声を聴かせてほしい。たわいない話題でも彼女の意見を訊きたい。彼女の好きなものをもっと知りたい。僕のつまらない話に呆れてほしい。懐かしい思い出を語りたい。しりとりをしたり、素数を数えたり、円周率を暗唱して遊びたい。どんなちっぽけなことでもいいから、語り合いたい。

 これまでありすとしたあらゆる会話を、もう一度したい。

 

 ありすの声を聴きたいと、心が焦がれている。

 

 ……結局僕にありすの声の力への耐性なんてあったんだろうか?

 何のことはない。僕はとうの昔にありすの声の中毒になっていて、今更何か暗示を埋め込まれる余地もないほど彼女に夢中になっているだけなのかもしれない。

 

 やっぱりありすに電話しよう。

 何を言えばいいのかわからないけど……。

 とにかく、ありすと話をしないといけない。

 じゃなきゃ、何も始まらないじゃないか。

 

 

 そう思いながら僕が通話ボタンを押そうとしたとき、スマホが着信音と共にブルブルと震え始めた。

 一瞬ありすから電話してくれたのかと思ってドキドキしたが、知らない番号だ。……間違い電話か? ワン切り詐欺か?

 

 僕はじっと着信画面を見つめたが、着信音は早く取れと言わんばかりに鳴り続けるばかりで、一向に途切れる様子はない。

 ……僕は諦めて通話ボタンを押し、スマホを耳にあてた。

 

 

「はい、もしもし」

 

『ようやく出ていただけましたか。葉加瀬(はかせ)博士(ひろし)くんの携帯で間違いありませんね?』

 

「そうですけど、どなたですか」

 

 

 僕は人の顔を覚えるのが苦手なのと同様に、人の声を覚えるのも苦手だ。

 だが、僕の狭い人付き合いの中で、こういうセリフ回しをする人間はいない。間違いなく僕の知らない人間だ。

 まだ若く、しかし社会人としての経験がある女性の声だな、と思う。

 

 

『催眠アプリを知る者……とでも名乗っておきましょうか』

 

「…………」

 

『何を言われているか、心当たりがあるようですね』

 

 

 僕の沈黙に、通話相手は満足そうな響きをにじませた。

 

 

「いえ、何の話をしているのかさっぱりです。いたずら電話なら切ります」

 

『おっと、それはやめておいた方がいいですね。貴方のためになりませんよ。貴方にとってとてもいい話があるんです、ちょっとお話しませんか?』

 

「お断りします。自分の素性も名乗らない人と話すことは何もありません」

 

 

 僕がきっぱり否定すると、通話相手はふぅんと鼻を鳴らした。

 

 

『困りましたね。じゃあちょっと私と話をしたくなるようにしましょうか。催眠アプリほど万能じゃなくても、私も相手に話を聞いてもらう魔法を知ってるんですよ』

 

「魔法?」

 

天幡(あまはた)ありす、新谷(しんたに)(ながれ)佐々木(ささき)沙希(さき)……』

 

 

 唐突に通話相手はありすたちの名前を挙げ始めた。

 こいつ……。

 

 僕が黙っていると、通話相手はクスクスと笑い声をあげた。

 

 

『素敵なお友達がいるようですね。いやぁ、青春っていいですねぇ。クリスマスのデート、楽しかったですか?』

 

 

 今日一日、ずっと僕を見ていたぞということか。

 しかもありすたちの素性もすっかり調べ上げられている。

 

 

「僕の友達に何をする気だ?」

 

『ふふ、名前を読み上げただけじゃないですか。何もしませんとも。貴方が交渉に応じてくれるのでしたらね』

 

「脅迫か」

 

『いいえ、私は別に貴方やお友達に危害を加えようなどというつもりは一切ありません。少なくとも今はね。貴方にとって素晴らしい待遇をご用意しているのも本当です。私たちは良いパートナーになれますよ』

 

 

 彼女はとても友好的な口調で、まるで信用できないことを言った。

 どうするか……。いや、答えは既に決まり切っている。

 

 

「わかった。交渉に応じる」

 

『ありがとうございます、その言葉をお待ちしていましたよ。それでは今から15分後に、貴方の家の近くの公園に来ていただけますか。ええと、名前は……』

 

 

 彼女が指定してきたのは、かつてありすがストーカーに襲われた公園だった。そして、僕とありすにとって大切な出会いがあった場所でもある。

 どうやらあの公園は僕たちにとってよくよく縁がある場所のようだ。

 

 

「15分は短いな。1時間後にしてくれ」

 

『えっ。いや、今すぐ出てきてください』

 

「こちらにも支度がある」

 

『わがままを言える立場だと思っているんですか?』

 

 

 苛立った口調になった相手に、僕は強気で言い返す。

 

 

「フラれてたのを見てたんじゃないの? こっちは傷心中なんだ、シャワーを浴びて涙の跡を消す時間くらい用意してくれ」

 

『あ……すみません……』

 

 

 折れた。1時間後でいいという返答を残して、いったん電話が切れる。

 ……この人は結構可愛げがある人なのかもしれない。

 

 

「まあ、だからって容赦するつもりなんてないけど」

 

 

 僕はそう呟きながら、パソコンを起動してチャットアプリを立ち上げた。

 ミスターMとEGOさんにコールを送ると、すぐに2人が反応してくれる。

 いずれ来るこの時のために、前々から備えてもらっていた甲斐があった。

 

 

「ついに接触してきました。1時間後に交渉します」

 

「いよいよお出ましか」

 

「意外と遅かったね。しかしよりにもよってクリスマスイブにとは……仕事熱心にも程がある。空気読めよと言いたいね」

 

 

 事の起こりは先月、ミスターMのところに公安調査庁の調査員が訪ねてきたことだった。ミスターMが私的に行っていた催眠アプリの試作実験に目を付けた彼女は、研究資料を没収しようとしてきたのだという。

 

 その場では拒絶したミスターMだが、これはヤバいと思った彼はその日の夜に僕とEGOさんにこんなことがあったとチャットで洗いざらいぶちまけた。

 ミスターMが試作催眠アプリを持っているとなれば、いずれ金の流れを辿ってEGOさんにたどり着く可能性が高い。

 

 そこまでたどれば、EGOさんのPCをハッキングするなり、冤罪をふっかけて押収するなり、EGOさんの会社の桜ヶ丘(さくらがおか)電子工房の役員に名を連ねている僕に目を付けるなりして、僕が催眠アプリを作ったことまでたどり着く可能性もある。

 

 ミスターMとEGOさんは何とか僕のことを隠そうと頭を悩ませていたが、僕からすればいつ見つかるかとビクビクして暮らすなんてまっぴらごめんだった。別に何も悪いことしてないのに、何で国家権力に怯えなくちゃいけないんだ。

 だから僕はそのとき提案したのだ。

 

 

『いっそわざと尻尾を出して、僕を見つけてもらいましょう。その上で交渉に臨むのが気が楽でいいんじゃないかと思います』

 

 

 師匠方は最初『この子またとんでもないこと言い出したぞ……』『危ないからやめなさい、無理やり誘拐される可能性もあるんだぞ』と止めてきたが、僕が怯えて暮らすのはごめんだと主張すると、やがて諦めたように僕の意見を受け入れてくれた。

 

 そして案の定EGOさんのところにやってきた調査員に、『まさかあの子、ついに何かご厄介になることをしでかしたんじゃ……!?』と口走ってボロを出してもらった結果、今日の一本釣りに至ったというわけだ。

 

 

「最後にもう一度確認するが……国に催眠アプリを渡すつもりはあるのかね?」

 

 

 ミスターMは真剣な口調で、僕に問いかけた。

 

 

「国にアプリを渡せば、彼らはきっとそれを世界を支配するために使うだろう。冗談ではなく、世界征服が始まる。他国の首脳を洗脳して傀儡(かいらい)にすることも、日本国民の民意を束ねることも容易い。日本は確かに豊かで強い国になるだろう。……それを知ったうえで、国にアプリを渡すつもりはあるか?」

 

「ありません」

 

「彼らが好待遇でキミを迎えたいというのは確かだろう。潤沢な研究費や最新の機材も使い放題だ、何せ国家機密のプロジェクトになるだろうからね。それでも断るのだね?」

 

「でも、監禁同然で二度と外には出してもらえないんでしょう?」

 

「必然的にそうなるだろうね」

 

 

 じゃあ、考えるまでもない。

 ありすにも、にゃる君にも、ささささんにも、家族にも会えない暮らしなんてまっぴらごめんだ。

 

 

「僕は大切な人たちと、自由に会える生活がしたい。断固拒否します」

 

「そうか」

 

「自分の答えを出せたね。それならよかった」

 

 

 ミスターMとEGOさんは何やら嬉しそうに頷いた。

 

 

 そもそも僕が交渉に臨むと聞いたときに、ミスターMとEGOさんは交渉の行方を僕に委ねると言っていた。これまで僕を見守って来てくれた2人は、僕が最終的にどんな答えを出したとしても、僕の判断を尊重すると言ってくれたのだ。

 

 

『お上にもお上の正義がある。日本という国の世界における地位を向上させ、国民の生活を豊かにしたいというのもまたひとつの正義だろう。たとえそのために他国を踏みつけにしたとしても。私は科学者とは善を為すためにあると思っている。だが、どの意見を正義と捉えるかは、その科学者次第だ。つまり、キミ次第だよ』

 

『難しく考えずに、ひぷのん君の好きにしなよ。エンジニアってのは暮らしを便利にするためにいるんだ。その成果を独り占めしようってやつがいるんなら、お前なんかに渡さないって言うのも自由だし、高値で売り付けたっていい。僕はこの4年間で、キミなりの判断ができるだけの下地は整えたつもりだ。だから最後は、キミが決めなさい』

 

 

 僕はこの2人の弟子になれて、本当に幸せ者だった。

 何もない空っぽの僕に、知識だけじゃなくて考える力を与えてくれた。

 じっくりと見守って、最後は僕の判断を尊重すると言ってくれた。

 

 師匠方が太鼓判をくれたのだ。なら弟子としては、自信を持ってそれを貫くのみ。

 

 ……まあ、そんなことは最初から決めていたのだが。

 僕がこの局面で師匠方を呼んだのは、もっと他に相談したいことがあるからだ。

 

 

「そんなことより聞いてください! ありすとのデートが失敗したんです!」

 

「お、おう」

 

「今ってその話をする場面?」

 

「何を言ってるんですか。今これより大事な話がありますか!?」

 

 

 僕が断固として主張すると、ミスターMとEGOさんはしばし黙った後、ハハハと笑いだした。

 

 

「まったく……世界の命運がかかった局面でこれだものなぁ」

 

「いやいや、青少年にとって惚れた腫れたは世界の命運なんかより大事ですとも。私たちが歳食って余計なことを考えるようになったんです。これも老いですね」

 

「昔懐かしのセカイ系ってやつか。クソアニメマイスターの私がねぇ」

 

「いいよ。既婚者のおじさんが恋のお悩みになんでも答えてあげようじゃないか」

 

 

 さすが僕の師匠だ、なんて頼りになるんだろう。

 僕はこの際恥を捨てて、抱えていた悩みを洗いざらいぶちまけた。

 

 ありすを泣かせてしまったことも。

 自分が生まれつき他人に興味を持てない欠陥品だから、他人の悪意にも好意にも鈍感であることも。

 ありすの好意に好意で返す方法がわからないことも。

 ありすに何と謝ればいいのかわからないことも。

 

 

 2人は僕の中に燻っていた悩みと嘆きと理不尽のすべてをただ聞いてくれた。

 そのうえでEGOさんは、優しい口調で応えた。

 

 

「ひぷのん君。私はキミのお父さんと会ったことがある。それは知っているね?」

 

「はい。僕の会社を興すときに、挨拶に行ったんですよね」

 

 

 僕がEGOさんの会社の役員となって会社を興すときに、お父さんは東京まで出かけてEGOさんと話をした。大人の話だからと、僕は普段通り学校に行っていたが。

 

 

「私はね、キミのお父さんと話して、なんて家族を愛している人なんだろうと思ったよ」

 

「……」

 

「当座で見込める数億円の収入も、今後の役員報酬も、金の話は二の次だった。何よりもキミのことを案じていた。若い身空で金に振り回されることはないか、将来の進路を契約に縛られることはないか、悪い人間は寄ってこないか……。そういったことをすべてに先駆けて、根掘り葉掘りじっくりと確認されたよ。キミは本当にお父さんに愛されているんだ。多分キミが思っている以上にね」

 

 

 ……知らなかった。

 僕の前では、お父さんはうまくやってやったぞと笑うばかりだった。

 

 

「だからひぷのん君は大丈夫だよ。キミはあの家族想いのお父さんの自慢の息子なんだ。誇りを持ちなさい。お父さんから受け継いだ人を愛する心は、キミの中に確かに根付いているはずだ。今はそれに気付いていないだけなんだよ」

 

 

 EGOさんがいつにもなく穏やかな口調で語った言葉は、僕の心に染み入るようだった。

 その後に続いて、ミスターMが呟くように語る。

 

 

「実際ね、他人に共感を持てない人間なんて珍しい話じゃないんだよ。かくいう私だってそうだ。だからいつまで経っても恋人もなく、独身なのさ」

 

「ミスターMも、ですか」

 

 

 善性の塊のように思っていた人から意外なことを言われ、僕は目を見開いた。

 

 

「そうだよ。でもね、かといって人を愛せないわけじゃない。私は私なりに人間を愛しているし、善き科学者でありたいと思っている。キミだって人を愛する心は持っているはずだよ。今はそれに自覚を持ってないだけだ」

 

「そうでしょうか……」

 

「ああ。何しろ私から見れば、キミはありすくんが好きで好きで仕方ないように見えるからね。いや、むしろこれまでの人生で私が出会ってきた誰よりも愛に生きている男だろう。キミよりも熱烈に恋している人間は見たことがないね」

 

「は……?」

 

 

 思ってもみなかったことを言われて、思わず目を剥いた。

 僕が愛に生きているだって? そんなバカな。

 愛という概念を、まるで理解できないのに。

 

 ミスターMはそんな僕の反応に、ふうとため息を吐いた。

 

 

「では、今からする質問に1秒以内に答えたまえ」

 

「はい」

 

 

 僕は居ずまいを(ただ)した。

 

 

「キミが催眠アプリを作ったきっかけはなんだ?」

 

「ありすを無理やり土下座させたかったからです」

 

「4年もかけて誰のために情熱を燃やしてきたんだ?」

 

「ありすのためです」

 

「1日のうち研究するかありすくんと過ごすか、どちらかしかできないならどっちを選ぶ?」

 

「ありすと過ごします」

 

「自分が死ぬこととありす君を失うこと、どちらが怖い?」

 

「ありすを失うことです」

 

「人生で享受できる幸福のうち、ありすくんは何%ほど関わっていると思う?」

 

「95%くらいです」

 

 

「……ベタ惚れじゃねえか……」

 

 

 EGOさんが耐えかねたといった感じで口を挟んできた。

 ミスターMがうむ、と頷く。

 

 

「というわけでキミはまだ自分が抱いている愛情を自覚できないだけだ。無意識ではありすくんのことを死ぬほど愛しているので、安心したまえよ」

 

 

 僕はぽかんとして、自分の口元を押さえていた。

 え……? 今の、僕が言ったのか?

 

 そんな僕に、ミスターMは俺もようやく人生の先輩らしきことが言えたぞと笑い掛けてきた。

 

 

「これで私の講義は全部終わりだ、ひぷのん君。国家権力など軽く蹴っ飛ばして、ハッピーエンドを掴み取ってきなさい!」



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外伝「寒空の国家公務員」

本日2話投稿……!2話目です!


「はあ……クリスマスに私は何でこんなことをやってるのかしら」

 

 

 自動販売機で缶コーヒーを購入した枯野(からの)四季(しき)は、凍り付きそうな指先をあつあつの缶の温もりでほぐしながら独り言をぼやいた。

 12月も終わりに近づき、外の気温は4度を下回っている。体の芯まで凍り付きそうな寒さの中、彼女は公園で葉加瀬(はかせ)博士(ひろし)が来るのを待ち続けていた。

 

 本来は博士を呼びつけたらサクッと身柄を拘束してスマホを取り上げ、自動車に連れ込んで拉致してしまうつもりだったのだ。面倒な説得など身柄を押さえてからやれば済む話だ。

 それを猶予を与えたばかりに、彼女はこの冬の寒い中1時間も公園で待ちぼうけする羽目になったのだった。

 

 

「私も甘いなあ……。でも相手は失恋したばかりの高校生だし。下手に機嫌を損ねると説得に時間かかるかもだし」

 

 

 ナイーブな時期の子供相手なのだから、と四季は自分の学生時代を思い出しながらコーヒーを一口ぐびりと飲んだ。

 

 (ハタ)から見ればそもそも『説得=拉致って監禁して無理強い』という意味になってる時点で何を今更という感は拭えないのだが、四季自身は別におかしいことだとは思っていない。

 というのも、四季が所属する対カルト特別対策室では葉加瀬博士を『他人を意のままに操れるアプリを開発した非常に狡猾で危険なマッドサイエンティスト』だと認識しているからだ。

 

 まず他人を簡単に催眠状態にできるアプリを開発するという時点で、邪な目的を持っているとしか思えない。他人に催眠をかけること自体が人権を完全に無視した非人道的な行為なのだし、開発者はまだ高校1年生の子供だ。

 きっと学校中の美少女に催眠術をかけていかがわしい行為をしているに違いない。高1の男子がそんなもの手にしたら絶対に犯罪に使うに決まっている。そりゃもう毎晩女の子を侍らせてエロエロなことをしたり、金持ちに金品を差し出させたり、放埓(ほうらつ)の限りを尽くしているはずだ。

 

 しかし、どれだけ葉加瀬博士の周囲を洗っても、彼が犯罪行為を行なっている証拠はこれっぽっちも出てこなかった。

 女の子には多少モテているようだが、いかがわしい雰囲気がちっともない。

 朝は遅刻せずに学校に行き、友達との会話を挟みながら授業を受け、大体そのまままっすぐ帰宅して、夜はランニングで軽く汗を流すのが日課という、模範的な高校生でしかなかった。

 

 深夜に繁華街を徘徊して獲物を探したり、ホテルに女の子を連れ込んだり、身の丈に合わない高価な買い物をしたり、そういった犯罪を思わせる素振りなど何ひとつとして見せていない。

 手配した学生の協力者に終業式まで学校での態度を監視させたが、誰かに催眠をかける現場を捉えるどころか、本当にただの一般学生でしかないという証拠しか上がってこなかった。

 変わったところといえば、彼女と毎日うっとうしいくらいにイチャついているということぐらいか。

 

 

 これ本当にこいつで合ってるの? 人違いじゃない?

 上司や同僚からは疑問の眼を向けられたが、四季は絶対に彼で間違いないと自説を曲げなかった。確かにどう見てもただのぼーっとした男子高校生にしか見えないが、葉加瀬博士が桜ヶ丘(さくらがおか)電子工房の重役であることは間違いない。日頃の態度からはそう見えなくても、四季の直感は彼がクロであることを示していた。

 

 ということは、そんな素振りを一切周囲に悟らせない葉加瀬博士は非常に狡猾な人物ということになる。完璧なまでに一般学生であると偽装し、手がかりを掴ませない。これは大人の犯罪者でもそう簡単にできることではない。

 もしかしたら、学生の協力者も既に催眠をかけられており、偽の記憶を植え付けられているという可能性すらある。

 

 そんな自説を四季が熱心に主張するうちに、対カルト特別対策室の上司や同僚たちもすっかりそうかもしれないと思い込んでしまった。

 スマホ画面を見せられただけで催眠にかかる危険がある、という未知の脅威への警戒心と恐怖が、博士を怪物のように思わせてしまったのかもしれない。

 上司は言った。

 

 

「なるほど、葉加瀬博士が非常に狡猾で危険な犯罪者ということはよくわかった。じゃあ正面から懐柔するのは無理そうだな」

 

「もちろんです。相手は所詮高校生なのだし、優しげな態度で餌をちらつかせれば簡単に飛びついてきそうだ……などと決して思ってはいけません。まずはアプリを奪ったうえで彼を拘束する、それが大前提です」

 

 

 我が意を得たり、とばかりに頷いたのは四季である。

 

 

「よしわかった、では身柄を拘束してくれ。ああ、それと上が早く結果を出せと言っていてな。年内には身柄を押さえて、携帯式超小型洗脳装置αについて洗いざらい吐かせろとの仰せだ。もう時間がないから、早急に頼むよ」

 

「は?」

 

 

 もうクリスマス直前なんですけど。今年あと一週間しかないんですけど。せめて私以外の人員を用意してくれませんか。

 四季は涙目で上司に訴えたが、まったく取り合えってもらえなかった。

 お前がこいつで間違いないって主張したんだろ、自分のケツは自分で拭けと言わんばかりである。

 予算も厳しいし割ける人員も少ないんだ。相手も狡猾な知能犯とはいえやはりただの高校生なんだし、別の部署から鎮圧要員の応援を1人付けてやれば何とかなるだろう。いや、何とかしろ。

 

 ……上からの命令は絶対。無茶振りされても成果を出して当たり前。公務員残酷物語。

 

 

 そんなわけで四季はクリスマスイブの夜に高校生を公園に呼び出そうと、寒さを我慢して立ち尽くしているのだった。

 

 

「いや、まあコーヒー飲めるだけ私はマシか……」

 

 

 どこかに潜んでいる、別の部署から用立ててもらった鎮圧要員を思って四季はため息を吐いた。彼はこの寒い中身じろぎもせず、ひそかに身を隠している。

 私の仏心に付き合わせてごめんね。

 本当はコーヒーを差し入れてあげたいけど、そんなことをしては隠れているのが台無しだ。今こうしている間にも、葉加瀬博士はどこからかこちらの様子を窺っている可能性がある。何しろ相手は狡猾な知能犯なのだ、油断はできない。

 

 相手の危険度を考えれば本当はもっと人員を割くべき案件だと四季は思うのだが、結局自分と鎮圧要員の2人しか動員はできなかった。どうも上は催眠アプリなど眉唾だと思っているが、もしも存在したらまずいし、念のために押さえておこう程度の認識しか持っていないようだ。頭数さえ融通してくれたら、問答無用で取り押さえることだってできたのに。

 だが、足りないものを嘆いても仕方がない。その中でベストを尽くすべきだろう。

 

 葉加瀬博士を呼び出し次第、彼からスマホを取り上げたうえで鎮圧要員と共に彼を拘束し、車に乗せて連れ去る手はずになっている。さすがの知能犯といえども、頼りのアプリを奪われてしまえばただの高校生だ。

 まさか対拷問の心得などあるわけもなし、尋問室で数日じっくりと説得すればこちらの意のままになるだろう。

 そうなれば、晴れて催眠アプリは日本国の独占技術となる。

 

 

「ふふ……」

 

 

 四季はにまっと頬を緩めた。

 彼女は熱烈な愛国者である。日本という国の発展を深く願っていた。

 ついでにこれだけの手柄を挙げれば、上も自分を軽視するまい。

 

 元々直感に基づいたスタンドプレイでの捜査と過激な思想から周囲に疎まれ、公安の対カルト部門とかいうよくわからない部署に飛ばされた四季だが、いよいよ逆転の機会が巡ってきた。これでもう一度日の当たる部署へ戻れるのだ。

 

 ……クリスマスに彼女に振られた直後に身柄を拘束される葉加瀬博士という男子高校生にはちょっと悪い気もするが。

 とはいえ研究に協力するならちゃんと報酬も出るはずだし、これまで散々悪事をやってきた犯罪者なのだから因果応報というものだろう。

 

 

「というか、催眠術使えるのに彼女にフラれるのってヘンなの」

 

 

 催眠術で彼女を言いなりにしちゃえばいいのにね。

 まあ個人の趣味なんだし私の気にすることじゃないか。

 

 

 ……ここで何かおかしい、と頭の中の引っ掛かりにもう少し気に留めていれば、あるいは博士と分かり合う道もあったのかもしれない。

 四季は博士と和解する最後のチャンスに気付くことなく、手持ち無沙汰にスマホを取り出した。

 

 

 

 

 

 いつも通りにロックを解除して、ホーム画面を開く。

 SNSに着信があったので見てみると、上司が「クリスマスケーキにうちの子も大喜び!」と飼い犬が犬用ケーキにむしゃぶりついているペット画像を投稿していた。例によって部署内全員に送ってきている。

 こちらはクリスマスイブに仕事してるというのに気楽なものだ、と四季は呆れながらもふふっと笑みを漏らす。コワモテの上司が家族や飼い犬にはデレデレなのは微笑ましいし、なんだかんだ自慢するだけあって可愛い犬だった。

 

 トークアプリにもメッセージが届いており、現在隠れている鎮圧要員が「これいつホシが来ます?」と送ってきていた。ごめんね、もうじき時間だからあと少し我慢してとなだめるメッセージを返しておく。

 スマホで仕事のやりとりをするのは本来禁止されているが、やはり利便性には代えられない。四季を含め、こっそりと仕事に使われるのは公然の秘密となっていた。何か致命的な情報を出しているわけでもなし、これくらいは許されるだろう。

 

 メッセージを返し終わったそのとき、スマホが着信を受けてブルブルと震えた。画面に表示されているのは葉加瀬博士の番号だ。

 さきほど電話したのにそのままリダイアルしてきたのだろう。

 

 四季はごくりと唾を飲み、仕事用の冷徹な口調を装った。

 

 

「何かしら?」

 

「もう公園に着く。どこにいる?」

 

 

 向こうから連絡してくれるとは高校生にしては律儀ね、と四季は内心で感心した。

 この歳で報連相ができるなら、まともな社会人になれたかもしれない。もう手遅れだが。彼が政府の研究機関から出られることは生涯ないだろう。

 

 さあ、いよいよだ。

 日本が主導する新たなる世界がもうすぐそこまで来ている。

 

 

 四季は胸の高鳴りを必死に抑えながら、冷たい声で博士に命令した。

 

 

「ベンチのそばよ。スマホはポケットにしまって、両手を挙げながらゆっくりと近付きなさい」



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第57話「誰かにとっての正義、誰かにとっての邪悪」

『話したいことがあるんだ。9時になったらいつものところで会おう』

 

 

 家族に見つからないように家を出た僕は、公園への道を進みながらありすにメッセージを送った。

 既読は……すぐにはついていない。でもきっと見てくれるだろう。

 

 ありすならあんな別れ方をしたら、僕からメッセージがないかと気になってスマホを見てしまうはずだ。

 僕はありすのことならとても詳しい自信がある。僕より詳しいのはヨリーさんくらいのものだろう。

 

 ありすにもう一度会って、やるべきことをする。それがありすと仲直りできる『正解』の答えなのかはわからない。

 だけど、ありすにもう一度会えると思うだけで、胸の中に無限の勇気が湧いてくるのが感じられた。

 

 もし失敗したら、僕は拘束されてもうありすに会うことはできないだろう。

 だが、どんな障害が待っていようと関係ない。

 絶対ありすのところに無事に戻ってみせる。

 

 

 ……皮肉だな、と僕は口元をわずかに歪めた。

 

 公安が僕を捕まえようとしなければ、今頃まだ呆然と部屋で魂が抜けたように座り込んでいたかもしれない。

 ありすに二度と会えないというプレッシャーがかからなければ、今日ありすにもう一度会おうなんてしなかっただろう。

 彼らに感謝すべきだろうか。……いや、僕の敵には違いないのだからそれもおかしな話かな。

 

 そう思いながら、僕は先ほどかかってきた番号にリダイアルした。

 

 

『何かしら?』

 

「もう公園に着く。どこにいる?」

 

『ベンチのそばよ。スマホはポケットにしまって、両手を挙げながらゆっくりと近付きなさい』

 

「わかった」

 

 

 よほど僕に催眠をかけられることを警戒しているようだ。

 これはスマホ画面を見せて催眠するなんて機会はほぼなさそうだな……。

 

 

 僕が公園の入り口に差し掛かると、スーツ姿の女性がこちらを見て腕組みしながら立っていた。

 僕には他人の印象がよくわからないが……多分まだ若い。背筋の伸びた立ち姿と着こなしから、仕事ができそうな感じがある。

 

 言われたとおりに両手を挙げながら、僕は彼女に向かって近付いて行った。

 

 

「来たわね。家族の方に出かけると言ってきた?」

 

「いや、すぐ終わらせるつもりだったから言ってないよ」

 

 

 僕は意識して生意気な口調で返した。

 目上の相手とは丁寧な口調で話しなさいというお父さんの教えを日頃守っている僕だが、彼女は目上ではない。ただ年齢が上というだけだ。

 立場がイーブンなのであれば、舐められないように強気でいこう。

 

 

「そう。じゃあこちらへどうぞ、車を待たせているわ。ここは寒いでしょ、車の中で話さない?」

 

「嫌だよ。車で連れ去られたら一巻の終わりじゃないか」

 

「私はもう1時間もこんなところで待たされて寒いんだけど?」

 

「ふーん。風邪ひかないといいね」

 

 

 僕が突っぱねると、彼女はため息を吐いた。

 

 

「どうやら誤解しているようね。私を何だと思っているの? ヤクザでもマフィアでもなく、ただの警察……」

 

「公安でしょ? 国家権力を笠に着て、自分の暴力はいい暴力だから許されるって好き放題するヤクザじゃん」

 

「偏見で好き放題言うわね。誰がそんなことを言ったの? 大方マンガかアニメにでも影響されたのだろうけど、私たちは断じてそんなものでは」

 

「僕の師匠たちがそう言ってた」

 

 

 そう答えると、彼女はチッと舌打ちしてあのクソ学者……と小さく呟いた。

 確かに僕に教えたのはミスターMの方だが、となるとこの女性はミスターMの元に現われたというエージェントと同一人物なのだろう。

 

 

「なるほど、師匠から研究資料を取り上げようとしたのもお姉さんか。研究者が必死で情熱を注いだ成果を何の苦労もせず盗もうなんて、やっぱりロクでもない人たちって認識で合ってるみたいだ」

 

「貴方の師匠は国立大学の准教授よ。つまりは準国家公務員。国費で研究しておいて、いざ国家に乞われて成果を渡すように言われて拒絶するなど、国への背信に他ならないわ」

 

「自分のポケットマネーで研究していたはずだけど? それとも国家公務員っていうのは自分の時間やお金を持つことも許されないの?」

 

「当たり前でしょう! 公僕というものは血の一滴まで国の所有物! 誰のおかげで日々の生活をできていると思っているの? たとえ余暇で行なった研究成果であろうと、国からの扶持で生きているのであれば、それは国のものに決まっているわ!」

 

「随分息苦しい日本に住んでるんだね」

 

 

 かなり偏った思想の人物のようだ。

 ちょっと相手をするのは面倒に思えてきたが、今はもっとこの人と話しておかなくてはならない。

 

 

「それで? 師匠はともかく、僕は一介の高校生だけど。僕の研究成果も国のために差し出せっていうのかな。それともアプリを開発したから逮捕だー、とか? そんな法律どこにもないと思うけど」

 

 

 僕が水を向けると、彼女は興奮をすっと収め、冷静さを取り戻したようだ。

 

 

「それは勘違いよ。私たちは貴方の才能を高く評価しているわ。貴方には国の機関に迎え入れ、専門の研究をしてもらいたい。もちろん報酬は弾むわ。貴方がいずれ大学を出て、どこかの一流企業に就職したとして……その何倍もの金銭を手にすることができるのよ」

 

「お金にはあまり興味がない」

 

 

 僕が言い捨てると、彼女はふうんと鼻を鳴らした。

 

 

「お金よりも研究がしたいタイプ? なら、好きなだけ研究できる環境はどうかしら。個人では到底まかなえないような設備を自由に使えるわよ。優秀な先輩研究員の元で学ぶ機会がある。大学の研究室なんかよりも充実した環境よ」

 

「へえー。どうしても僕に来てほしいっていう割には、僕が師事する側なんだ。じゃあその優秀な先輩研究員に研究させたらいいじゃん。僕いらないよね」

 

「……貴方がまだ高校生だからそう言ったのよ。もちろんゆくゆくは貴方に研究チームを率いてもらう立場になってもらいたいと思ってるわ」

 

「話にならないな。僕が欲しいって言うのなら、僕が好き放題できる研究所を今すぐまるごと用意するくらいはしてもらわないと」

 

 

 僕はドヤ顔でそう言ってやった。

 なんかちょっと楽しくなってきたぞ。

 

 

「……わかったわ。貴方の要望はできる限り実現できるようにする。専門の研究機関が欲しければ、創設するように掛け合いましょう」

 

「え、いいんだ。太っ腹だなあ。お姉さんにそんな権限があるようには見えないけど」

 

「貴方は私以外の相手でも……たとえ一国の首相を前にしてでも、同じことを言うのでしょう? 要望は要望として聞いておくわ」

 

 

 それはそうだなあ、と僕は心の中で頷く。

 相手が総理大臣であっても、僕が言うことは同じだ。僕にとって一切興味がない人間という意味では、目の前の彼女も総理大臣も何ら変わりがない。

 要するに彼女らと交渉する意味は皆無だ。僕は催眠アプリをどんな高値を積まれても売るつもりはないし、どれだけ情に訴えかけられようが考慮する余地もない。

 だが、ここで彼女と話すことには意味がある。

 だから無駄な会話を続けよう。

 

 

「もっと要望を出してもいいの?」

 

「要求したいたいことがあるのなら今のうちに言っておきなさい」

 

「じゃあ手を下ろしてもいいかな。挙げっぱなしで手が疲れてきたんだ」

 

「それは駄目よ」

 

 

 彼女は鋭い目つきで僕を睨み、断固として拒絶した。

 

 

「手は上げていなさい。僅かでも下ろしたら……」

 

「下ろしたら?」

 

「狙撃班が貴方の額を撃ち抜くわよ」

 

 

 うわあおっかない。

 僕は公園の茂みをちらっと見たが、その奥に人がいるかはわからなかった。

 いや、狙撃っていうくらいだからどこか別のビルの屋上にでもいるのかもしれない。

 

 

「ふーん。こわいね」

 

「……冗談だと思っているの? これは本当よ。貴方が妙なそぶりをしなくても、私が合図をすれば一瞬で貴方は死ぬわ」

 

「いや、別に冗談だなんて思ってないよ。本当に怖いなと内心震えているんだ」

 

「とてもそうは見えないわね……」

 

 

 彼女は訝し気に僕の表情を観察しながら呟いた。

 

 僕はといえば、本当に怖いと思っている。これまでの人生でこれほど恐怖を感じたことはない。正直今すぐにでもこの場から逃げ出したいし、へたり込んで丸くなってしまいたいとすら思っている。

 たとえ威嚇射撃であったとしても、狙いが逸れてうっかり僕に直撃する危険だってあるわけで。どこからか銃口を向けられているというのは本当にキツいプレッシャーを感じる。

 

 しかしここで決着をつけておかねば、ありすと安心して会えない。

 その一心が僕を支えている。

 

 大丈夫だ。まだこの局面は想定内だ。

 僕にスマホ画面を見せられたら終わりなのだから、遠距離から僕を攻撃する手段は用意していて当然。そうしないならいくらなんでも詰めが甘すぎる。

 

 ありすの顔を思い浮かべ、すうっと深呼吸をひとつ。

 体中の筋肉を抑制して、僕は何でもないことのように言った。

 

 

「それで? 命が惜しければ研究を差し出せってことでいいのかな」

 

「誤解してほしくないわね。これは保険よ、貴方を殺すつもりはないわ。できれば自発的に私たちに協力してほしいと思っているのよ。だからこそ貴方の要望を聞いているの」

 

「いつでも僕を殺せると言っておいて、自発的も何もないだろ。それは脅迫というんだよ」

 

「それは貴方から身を守るためよ。私たちにも自衛する権利がある」

 

 

 まるで自分の正義を疑っていないような口調で言うなあ。

 僕は少し呆れながら、体内時計を確認する。……8時15分か。

 この交渉も残り半分ってところだな。

 

 

「じゃあ僕がどうしても研究を売るつもりがないって突っぱねたら、このまま何の危害も加えずに帰してくれるのかな?」

 

「……そうはいかないわ。貴方にはどうしても同行してもらう。貴方と私たちの利害が折り合うまで、じっくりと話し合いましょう」

 

「それは困るな。僕はこれから用事があるんだ。悪いけど今日はこのまま帰してもらうよ」

 

「あら? 天幡(あまはた)ありすちゃんとヨリを戻す話でもするのかしら?」

 

 

 彼女の言葉に僕が思わず体を震わせると、彼女はクスクスと笑みの混じった口調を向けてきた。

 

 

「私たちは諜報機関よ。貴方がさっきまでボイスチャットでお師匠さんたちとしていた話なんて、傍受しているに決まっているでしょう」

 

「…………」

 

「家族思いのお父さんを持って幸せね。私も聴いてて涙が出ちゃいそうだったわー。それでこれから彼女のところに行くのよね。いいなあ、青春よね。お姉さんもそんな素敵な家族や恋人に憧れちゃうわー」

 

 

 無言になった僕に、彼女はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべる。

 

 

「貴方今、どんな顔してるかわかる? 敵意の籠った子供っぽい目つきをしてるわよ。ようやく歳不相応の仮面が外れたわね、葉加瀬(はかせ)博士(ひろし)くん」

 

「だから何だ? 僕が敵意を見せたとして、交渉で上の立場になったとでも?」

 

「そうは言わないわ。ただ、貴方が何を本当に大事に思ってるかは明らかになったわね」

 

 

 彼女はニヤニヤと目で笑いながら続ける。

 

 

「天幡ありす。美作(みまさか)智也(ともや)桜ヶ丘(さくらがおか)英悟(えいご)……」

 

 

 ありすはともかく、後の2つは知らない名前だった。

 だが、それがミスターMとEGOさんの本名だということは流れでわかった。

 

 

「葉加瀬源治郎(げんじろう)、葉加瀬瑠々香(るるか)、葉加瀬海月(みづき)。あとは……新谷(しんたに)(ながれ)佐々木(ささき)沙希(さき)もそうかな」

 

 

 彼女は一人一人、僕の大切な人たちの名前を口にする。

 そしてじっと僕の顔を見つめ、その反応を読み取ろうとしているようだった。

 

 吐き気がする。

 こんな奴が僕の大切な人の名前を呼ぶたびに、かけがえのないものが穢されていくようだった。

 

 

「お金でもない、知的好奇心でもない、自分の命ですらない。家族や恋人、友人が何よりも大事……そういう人間ってごくまれにいるのよね」

 

「だから何だと言ってるんだ。僕が断ったら、みんなに危害を加えようとでも?」

 

「まさか。私たちは悪の秘密組織じゃないのよ? 私たちは日本の秩序を守ることが仕事なの。市民の協力が得られないからといって、腹いせに第三者を傷付けるようなことがあるわけないじゃない」

 

 

 そう言いながら、彼女は笑みを深めた。

 

 

「でも、交渉の材料にはなるわよね。家族やお友達と引き離されるのが嫌だから突っぱねようと思ってるんだっけ? じゃあ、彼らも貴方と同じところに連れてきてあげてもいいのよ。それなら寂しくないでしょう」

 

「……みんなまで拉致しようっていうのか?」

 

「私は貴方への報酬の話をしているのよ。そうそう、じゃあありすちゃんをあげるっていうのはどうかしら?」

 

「何を言ってるんだ?」

 

「貴方が私たちに協力するなら、ありすちゃんを連れてきてお嫁さんにしてあげましょう。それならもう惚れた腫れたで頭を悩ませる必要もないでしょう? 貴方は思う存分大好きな研究ができる。いつでも大好きな女の子と一緒にいられる。研究所の外には出られなくなるかもしれないけど、好きな女の子と四六時中一緒なら別にいいでしょ? 家族もお友達もすぐそばにいるから、気にならないわよね?」

 

 

 うん、名案名案と呟きながら、彼女はニコニコとそんなことを口にした。

 

 

 なんてことだろう。

 僕はこれまで自分を常人の感性から外れたとびきりの変人だと思ってきた。

 だが、自分などまだまだ可愛いものだった。

 

 目の前の女は、恐らく100%の善意でこのタガの外れた提案をしている。

 

 

「……正気なのか? 人間の意思や人権を何だと思ってるんだ」

 

「? 人権というのは、国民に対して国家が保証してあげているものでしょう。だから、国家は国民から人権を剥奪する権利があるの。国家の意思というものは常に個人より尊重されるべきものなのよ。何故なら国家の意思は国民総てを幸せにするためにあるのだから!!」

 

 

 間違いなく、この女はイカれていた。

 共産主義や社会主義の国に生まれればさぞ出世したことだろう。

 クリスマスイブの夜に高校生を捕まえるような職務についているということは恐らく公安でも閑職にいるのだろうが、この女を閑職で持て余しているということは日本という国の良い部分だと言って間違いない。あるいはこの女に何らかの利用価値があると思って組織に留めている奴がいることを嘆くべきかもしれないが。

 

 だが、安心した。

 僕は心の中で沸々と燃えたぎる感情を見つめながら、ほっと息を吐く。

 これでこれからすることに、僕は何ら良心への呵責(かしゃく)を感じなくて済む。

 

 こいつはありすを侮辱した。

 僕の大切な人たちに、危害を加えようとした。

 

 小さく呟く。

 

 

「ありすを傷付けるものに、僕は何の容赦もしない」




※枯野四季は極めて思想的に偏った要注意人物です。
閑職に回されるほど組織内でも疎んじられています。
多くの公務員は非常に勤勉に職務に臨まれている方ばかりです。

ちなみに公安と警察は別の組織です。
ざっくり言うと警察は犯罪者を取り締まる治安維持組織、公安はカルト組織の監視や外国からのスパイを防諜するための諜報機関です。
四季は最初に警察を名乗ってハカセやにゃる君、ささささんに接触していますが、これは自分の素性を隠すために身分を偽っています。

最後に、この作品は実際の国家・組織・人物とは一切関係ありません。


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第58話「世界の支配者」

「さあ、他に訊きたいことはあるかしら。なければそろそろ返事を聞かせてもらいたいわね」

 

 

 公安の女は交渉とすら呼べないような提案を一方的に並べ立てた挙句に、話をまとめ始めた。

 正直なところ、ありすの人権を無視した侮辱に僕の内心は相当怒りで煮えたぎっている。今すぐぶん殴ってその口を黙らせてやりたいが、この女の言葉が正しければスナイパーが僕を狙っている。そしてそれは多分本当だ。

 僕がわずかでも怪しい動きを見せれば、遠距離からの銃撃を撃ち込むつもりだろう。

 

 体内時計で時間を確認しながら、僕は唇を舌で湿らせた。

 今はまだ話を続ける必要がある。

 何か適当な話題を振らなければ……ええい、こういうとき陰キャの貧相なボキャブラリーが恨めしい。

 

 頭を必死にひねって、何とか疑問をひねり出す。

 

 

「ひとつ聞かせてほしいんだけど、僕を狙ってるっていうスナイパーの弾って実弾? それとも麻酔弾?」

 

「……どういう意図の質問かしら?」

 

 

 どういう意図も何も、単に適当なことを口走ってるだけだよ。

 眉をひそめる女に、必死に脳みそを回して質問の意味を後付けしていく。

 

 

「いや、本当に僕を殺すつもりなのかなと思って。僕が死んだらアプリの内容はおじゃんになるわけだけど」

 

「自分の命を人質にでも取るつもり? 可愛いわね、それで交渉材料になるとでも思ってるのかしら」

 

 

 公安の女はクスッと笑い、芝居がかった仕草で首をゆっくりと横に振った。

 

 

「アプリの現物さえあればいくらでもリバースエンジニアリングは可能よ。高校生の作ったアプリ程度、プロのエンジニアにかかれば簡単に解析できる。貴方の身柄を押さえようとしているのは、アプリをネットに放流させたり、分不相応な復讐を企むようなバカな真似をさせないために過ぎないわ」

 

「へえ、そうなんだ。じゃあ僕自身は別に必要じゃないってわけだ」

 

「もちろん貴方の才能は高く買ってはいるわよ? でも、それは貴方が私たちに素直に協力すればの話。従わないのなら命の保証をしてあげる必要はない……」

 

「それなら僕をすぐに殺してしまって、アプリを奪わない理由は?」

 

「私たちはこの日本の秩序を守る者。たとえ相手が凶悪な犯罪者であっても、無抵抗な子供を殺さない程度の情けはあるということよ」

 

 

 そう言って公安の女は両手を広げ、不敵な笑みを浮かべた。

 

 

「貴方が素直に協力することを期待したいところね。いかに貴方が歳不相応の狡猾な頭脳を持っていたとしても、簡単に洗脳が可能なアプリを開発したとしても……貴方はもう“詰み”。私たちの勝ちなのよ」

 

「……あ、そうなんだ」

 

 

 こんな状況だが、僕は素直に感心した。

 それは大したものだ。やっぱ国の機関というのは違うなあ。

 

 もちろん僕が感心したのは、彼女たちが勝ったということにではなく、僕のアプリを解析できるということに対してである。

 

 

「さすが国の機関だけあって、優秀なエンジニアを抱えてるんだね。いやぁ、師匠が僕が書くコードはクセが強すぎて勝手にブラックボックスになっちゃってるって言うから、渡したところでちゃんと解析できるのか不安に思ってたんだ」

 

「えっ?」

 

「師匠の会社じゃ、師匠も含めて誰もコードを理解できないんだって。でもまあ、国の機関に勤めるような優秀なエンジニアでも解析できないなんてことあるわけないよね。さすがは国の機関だけあって優秀な人材を揃えてるんだなあ。確かにどんな人たちなのか興味が湧いてきたし、機会が許せば会ってみたいかも」

 

「ま、待ちなさい!」

 

 

 彼女は慌てたように僕の言葉を遮ってきた。

 

 

「この期に及んで下手なハッタリを! 桜ヶ丘(さくらがおか)英悟(えいご)はまだ若手とはいえ、業界でも指折りと噂される一流のエンジニア……。そんな人材でも解析できないなんてことあるわけが……!」

 

「別のアプリ見せたときに、できないって言ってたよ? 『ワンだふるわーるど』って言うんだけどね。解析できるんならアプリの権利だけ売り渡してもよかったんだけど、できなかったから僕が翻訳サーバーやマニュアルまで作る羽目になったんだ。まあ、競合他社も全然解析できなくてデッドコピーしか出せなかったっていうから、それも良し悪しなのかな」

 

「……!!」

 

 

 彼女はぱくぱくと口を開いて、何か言葉を探しているようだった。

 なんか動揺してるのかな?

 何を考えてるのか知らないけど、銃を突き付けて身動きを封じた高校生相手に今更何を慌てる必要があるんだろう。

 

 

「ところで手が疲れたからそろそろ下ろしていい?」

 

「絶対下ろすな! ……聞こえてる? 今から弾を麻酔弾にできる? ……無理? じゃあ何かあっても威嚇に留めて……」

 

 

 彼女は僕を放置して、何やら耳を押さえてぼそぼそと呟いている。インカムで誰かと会話してるんだろうか。

 うーん、もう30分近く挙げっぱなしなんだけどなあ。そろそろ下げたい。

 

 ……あ、そうか。もう30分近く経つのか。

 僕は体内時計で時間を確認して、ほっと一息ついた。

 それならもう話を引き延ばす必要もない。

 

 時は満ちた。

 

 

「お話し中悪いけど、そろそろ話をまとめようか」

 

「ちょっと待ってなさい!」

 

「嫌だよ。もう茶番は終わりだ」

 

 

 僕がそう言って笑うと、公安の女はギリッと歯ぎしりしながら、腰のホルスターから拳銃を抜いて突き付けてきた。

 

 

「ガキが撃たれないと思って調子に乗って……! 言っておくけど、下手な動きをしたら本当に撃つわよ!」

 

「ふうん」

 

「……それで? 私たちに協力するつもりになったのよね?」

 

「協力? するわけないでしょ。日本が国民や外国を洗脳して世界征服なんて笑えないよ。そんなのみんな不幸になるだけじゃん」

 

「愛国心というものがないの!?」

 

 

 僕の言葉に、彼女はカッと目を見開いて叫んだ。

 

 

「今この日本がどれだけ苦境に立たされているのかわからないの!? GDP成長率は落ち込み、かつて経済大国と呼ばれたのも今は昔! 少子高齢化は進み、産業は衰退し、破綻への道を歩み続けている! だけどそれが……催眠アプリがあれば、すべてを変えられる! 日本国民みんなが豊かになり、日本が世界のリーダーとして君臨できる時代が来るのよ! 日本人ならばそれを願ってしかるべきでしょう!?」

 

「催眠アプリで少子高齢化解消? 国民みんなを洗脳して、無理やり結婚させて子供でも産ませるわけ? そういうのディストピアって言うんだけど」

 

「国が豊かになるためなら、結婚に自由意思なんていらないでしょうが! 昔だって結婚に自由なんてなかった、少し昔に戻るだけよ!」

 

 

 ありすが誰か知らない男と無理やり結婚させられる姿が一瞬脳裏に浮かび、僕は猛烈に胸がムカムカした。

 こいつの偏った思想には、ただの一片も同意する余地はない。

 

 

「バカバカしい。一部の人間が好きなように振る舞いたいだけだろ。そんなくだらない欲望を日本のためだなんて、よく言えるね」

 

「違うわ! 催眠アプリを持つ人間がゆるぎない理性を持ち、国益のために正しくその力を使うことで日本は世界中のどこよりも素晴らしい理想の国になれるのよ!!」

 

「日本の権力者に、そんなバランス感覚があるとは思えないけど?」

 

「できないなら、そのアプリで作ればいいの! 清く公正で正義感を持ち、無謬(むびゅう)にして無私の理想の権力者を!! 催眠アプリがあれば、永遠に繁栄を続ける理想の日本が実現されるのよ!!」

 

 

 ……つまりそれは人間ではなくなるという意味だと、彼女は気付いているのだろうか?

 

 日本どころか世界中のどんな人間だって、欲望を完全に律することなんてできるわけがない。人間性は欲望と密接に結びつくものだから。

 僕がこのアプリを作ろうとしたのも、彼女が永遠に繁栄する日本とやらを求めることも、欲望という原動力があってのことだ。

 それを持たない者が理想の権力者としてふさわしいというのなら、それはもう人間ではない。

 

 僕は血走った目で銃口を向けてくる目の前の彼女が、自分の理想に振り回された哀れな人間に思えてきた。

 

 

「……誰にやらせるつもりなんだ、その権力者とやらを。そんなの欲望も人間性も剥奪された哀れな生贄じゃないか」

 

「誰もやらないのなら、私がやるわ!」

 

 

 彼女は興奮で上ずった声をあげながら、拳銃を握る手を震わせた。

 

 

「私が自分に催眠をかけて、理想の権力者になる!! 日本を正しく、あるべき方向に導いてみせる! 欲望を持たず、完全に公正で、理性によってのみ判断する最高の権力者に!! 政界のすべてを、国民の意思の総てを体現する、国体の器となるのよ!! さあ、そのアプリを渡しなさい!! あるべき日本のために身を尽くす、私こそがその所有者に相応しいのよ!!」

 

 

 間違いなくこれだけは言える。

 彼女こそが、絶対に催眠アプリを手にしてはいけない人間だ。

 

 彼女の手に渡ったが最後、世界中のすべての人間は意思を奪われ、ただ日本に富を集中させるだけの人形に成り果てる。日本は確かに豊かにはなるだろうが、そこに暮らす者はもう人間とは呼べない。ただ資源が豊富に集められただけの、人形しかいない伽藍堂(がらんどう)ができるだけだ。

 恐らく彼女の寿命が尽きるまで、その地獄は続く。

 

 EGOさんが決して催眠アプリを国に渡してはいけないと言っていた理由が、僕にもようやく理解できた。こんな危険思想を持つ人間の手に渡れば、容易く世界を滅茶苦茶にできてしまう。そして恐らく世界を自分の思うままにしたいと思う人間は彼女だけではない。この女に催眠アプリを強奪するように命令した権力者も、きっとその手の人間なのだろう。

 ありすや友達、家族がいる世界を、そんな奴らの好きにさせるわけにはいかない。絶対に。

 

 

 僕はため息を吐くと、ポケットに手をやった。

 

 その瞬間、パァンと乾いた音と共に足元近くが爆ぜた。威嚇で撃たれたようだ。

 だが怯える必要はない。もう腹を括った以上、恐怖などまるで感じなかった。

 彼女に僕を殺せるわけがないからだ。

 

 

「勝手に動くなと言ったでしょう!!」

 

「……アプリが欲しいんだろう? それとも現物はいらないか?」

 

 

 興奮しきって気が立った彼女を落ち着かせるために、あえてゆっくりと落ち着いた口調で語りかける。

 僕の言葉に合理性を認めたようで、彼女は銃を握ってない側の手を自分に向かってくいっと傾けた。

 

 

「スマホを投げ渡しなさい。余計な真似はするんじゃないわよ。隙を突いて私にスマホ画面を見せようなんて思ったら、即座に狙撃されると思いなさい」

 

「はいはい、わかったよ」

 

「言っておくけど、私がスマホを受け取ったら時間差で催眠アプリが起動する……なんて小細工はしないことね。何のために私の他に狙撃班を用意したのか考えなさい」

 

 

 よほど用心しているようだ。

 対策はバッチリしてきた、というわけか。

 

 

 喋っているうちに自分の優位を思い出したのか、彼女は余裕の笑みを浮かべた。

 

 

「もっとも……もしどうにかして私に催眠をかけて操れたとしても、貴方は絶対に逃げられない。狙撃班は容赦なく貴方を狙うし、それがなくたって貴方の存在はここにいない同僚全員が知っている。私に何かあれば、他の者が貴方を拘束しようとこぞって動き出すわ。顔も知らない相手全員に催眠をかけることなんてできるかしら?」

 

 

 ククッと彼女は喉を鳴らし、勝ち誇る。

 

 

「貴方は『日本』というこの国で最大の組織を敵に回した。のこのこと姿を現した時点で、私たちの勝ちなのよ!」

 

「…………」

 

 

 僕は無言でスマホを取り出すと、彼女に向かってぽいっと投げた。

 玉入れのときに身に付けたコントロールどおり、彼女の手元へと放物線を描いて飛んでいく。

 彼女はそれを空いた手で器用に受け取り、スマホ画面にちらりと目を走らせる。そして堪えきれないといったように満面の笑みを浮かべた。

 

 

「やった……!! これで日本は救われた!! 今日から未来永劫に続く、繁栄の歴史が始まるのよッッッ!!」

 

「そうか。おめでとう」

 

「フフフッッ……!! なんだかんだ口にはしていましたが、素直に協力する気になったこと、褒めてあげましょう。約束通り、貴方にはしかるべき地位と恵まれた環境、それと逆らうことのない恋人を……」

 

「あと3分だよ」

 

 

 20時27分になったので、教えてやった。

 怪訝そうに僕を見る彼女に告げる。

 

 

「あなたが言う繁栄の歴史とやらの残り時間だ」

 

「何を言って……」

 

「まあ聞いてよ。あなたたち全員に催眠をかけました。今更あがいても、もう手遅れです」



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第59話「CASE:5 “Hello,World!”」

「あなたたち全員に催眠をかけました。今更あがいても、もう手遅れです」

 

「……は?」

 

 

 彼女はキョトンとした顔で僕を見ている。

 何を言われているのか理解できていないようだが、時間がもうない。

 手短に話そう。

 

 

「ああ、あなたたちというのは貴女とどっかにいる狙撃班だけじゃないよ? 貴女の同僚全員、貴女の上司も全員かな」

 

「な……できるわけがない、そんなこと!!」

 

「できたんだなあ、それが」

 

 

 嘘ではない。

 もっとはっきり言えば、日本国民全員、世界中のほとんどすべての人間が僕に催眠をかけられている。

 

 とはいえ、別に大した暗示を植え付けているわけではない。

 日常生活には何の支障も出ないし、気付いている者など誰もいないだろう。

 

 

「『ワンだふるわーるど』ってアプリ知ってる? 犬好きに向けてリリースしたアプリなんだけど、あれが世界中で大人気でね。SNSで犬を自慢する人が後を絶たないんだってさ。貴女の身近にも、ユーザーっていないかな」

 

「……」

 

 

 彼女はハッとしたように、スマホを握った手で口元を押さえた。

 心当たりがあるようだ。

 

 

「あのアプリが接続されている翻訳サーバー……『バベルI世(ワン)』に、催眠アプリを仕込んだ。『ワンだふるわーるど』を介してSNSに接続した人のスマホには催眠アプリがインストールされ、暗示を植え付ける。内容はこうだ。『あなたはこのスマホに催眠アプリがインストールされていることを認識できない』」

 

 

 ただそれだけの暗示だ。

 こうして第一感染者のスマホには催眠アプリが認識されないまま常駐する。

 

 

「そして催眠アプリに感染したユーザーとSNSで接触したユーザーのスマホにも、催眠アプリがインストールされる。もちろん暗示の内容は同じ、インストールされたことに気付かなくなるというものだ。それが1カ月前……あなたが僕の師匠の元に訪れた直後に仕組んだんだよね」

 

 

 それから1カ月が経ち、無自覚のまま感染は感染を呼んだ。

 今やスマホでSNSに触れた人間は確実に感染している状況だ。

 しかも『ワンだふるわーるど』は『バベルI世』によって世界中の言語に対応している。日本だけでなく、スマホを持っている人間はすべて僕の催眠下にあるというわけだ。

 

 

「だから僕からスマホを取り上げるまでもなく、もうあなたは催眠アプリを持っていたというわけだね。まあ、世界中すべての人間が持っているわけだけど」

 

「そ、それがどうしたの!? 誰もが持っていようと、その存在を認識できないのならないものと……おな……じ……」

 

 

 そう口にしながら、彼女の顔色がみるみる青くなっていく。

 どうやら気付いたようだ。僕のスマホをじっと見つめている。

 

 

「そうだよ。そのスマホにインストールされた催眠アプリを認識することもできない。貴方だけでなく、その同僚も。これまでスマホでSNSに接触したことがある人間は、もう誰一人として催眠アプリを使うことはできなくなった」

 

「あ……ああ……!?」

 

 

 彼女は呆然とした顔で、ワナワナと手を震わせている。

 

 

「どうしても催眠アプリを使いたければ、スマホでSNSに触れたことがない人間を探すことだね。もっとも、スマホ画面を見た瞬間に催眠アプリが起動して暗示をかけるように設定しているけど」

 

 

 そう。現在催眠アプリは『バベルI世』と接続されており、僕が『バベルI世』に入力した暗示を更新することで、スマホを見た世界中の人間すべてに影響を与えることができる。僕が暗示を更新すると、催眠アプリは次にユーザーがスマホ画面を見たときに起動して、新たな暗示を植え付けるのだ。

 

 

 そもそも接触してくるエージェントだけに催眠をかけてもどうしようもない、ということは師匠から危機を知らされたときに指摘されていた。彼女はあくまで組織の一員に過ぎない。

 彼女の同僚や、その上にいる人間全員に催眠をかけなくては次のエージェントがやってくるだけで終わってしまう。

 そんな顔も知らない相手全員に催眠をかけるにはどうするか。いっそ世界中の人間にまとめて催眠をかけてしまえばいいのだ。

 

 さすがの僕もゼロからコードを起こすには並大抵じゃない時間がかかっただろう。だが、材料はすべて手元に揃っていた。

 

 

 中学1年生のとき、師匠からの課題として用意した『SNSを介してスマホからスマホに感染して“Hello,World!”と表示する』コード。

 

 多くの人間がサーバーに接触する機会を作るアプリ『ワンだふるわーるど』。

 

 あらゆる言語で暗示を植え付けられる多言語サーバー『バベルI世』。

 

 この3つと組み合わせることで、催眠アプリによって世界中の人間を掌握することが可能となった。

 これが催眠アプリの最終進化バージョン『アリス・イン・ワンダーランド』だ。

 

 

 ……僕がこれまでの4年間でやってきたことは、無駄ではなかった。

 すべての成果物が今この瞬間に繋がっていた。

 ありすに気持ちを伝えろと、僕の成果物たちが背中を押しているかのように。

 

 

「か……解除しなさいッッ!! 私を催眠の対象から外すのよ、早くしろッ!!」

 

 

 彼女は震える手で銃口をこちらに向けている。

 僕を殺せるわけがないのに。

 

 

「撃ってみたら? 絶対に撃てないと思うけど」

 

「私を甘く見るなッ! 私はやる女だぞ、日本の未来のためならガキの命くらい……な、なんで……ッ!?」

 

 

 彼女は拳銃を握ったまま微動だにしない自分の腕を、愕然とした顔で見つめた。

 

 

 

「撃てないでしょ? 足元に威嚇射撃するくらいならできるかもしれないけど、僕を直接攻撃することはできないはずだ。ついさっき暗示を更新したからね。『葉加瀬(はかせ)博士(ひろし)に危害を加える行為すべてを禁止する』って。この1時間でスマホを見ちゃっただろ?」

 

「……なっ!」

 

 

 見てないわけがない。だってスマホを見せるために、わざわざ到着する直前に電話をしたんだから。

 まあ、そんなことしなくても現代人が公園で1時間もヒマな時間を与えられたらスマホを見るに決まってるけどね。

 職務中は絶対にスマホを見てサボらないって鉄の意思を持っている奇特な人間である場合に備えて、念には念を入れさせてもらった。

 

 1時間を用意したのは、師匠たちからアドバイスをもらうためだけじゃない。

 サーバーに入力している暗示を更新し、スマホを見せる時間を作るためでもある。

 まんまと術中にはまってくれたようだ。もっとも、回避のしようもなかっただろうが。現代人は深刻なスマホ依存症だ。スマホを制する者は世界を制すると言って過言ではない。

 

 

 早い話が、僕は世界を征服した。

 誰にも知られないうちに、世界征服はひっそりと完了していたのだ。

 

 もし望むなら僕は今すぐ世界の支配者として君臨することもできるだろう。

 そんなことにはちっとも興味がないけれど。

 

 僕が夢中になっているのは、世界でたった1人ありすだけだ。

 それを邪魔するのなら、誰であろうと排除させてもらう。

 

 先ほど彼女は「姿を見せた時点で私たちの勝ちだ」なんて言ってたが……。

 

 

「僕に言わせれば、存在を知られた時点でキミたちの負けだよ」

 

「き、貴様ぁっ……!!!」

 

 

 彼女は悔しそうに表情を歪めているが、最早どんな顔だろうと興味はない。

 それでは仕上げといこうか。

 

 

「ついでに言えば、暗示はもうひとつあるんだ。その内容は『指定された時刻になると、催眠アプリに関する手がかりすべてを認識できなくなる』だ」

 

「は……?」

 

 

 ぽかんと口を開ける彼女に、僕は教えてやる。

 

 

「その時刻は日本の東京時刻で20時30分。あと10秒だよ」

 

「ま……待ちなさいッ! わかった! わかったわ、ちゃんと約束は守る! 貴方に危害を加えることは一切しないし、報酬もちゃんと支払うから!」

 

「5」

 

「待って! 待遇だってちゃんと……!」

 

「4」

 

「貴方を日本の副王にしてもいいから!」

 

「3」

 

「は、話を……」

 

「2」

 

「待っ」

 

「1」

 

 

 僕はパチンと指を鳴らした。20時30分だ。

 

 彼女は唐突に目の前から消失した僕を見て、オロオロと周囲を見渡した。

 

 

「ど……どこに消えたの!? 姿を現わしなさい!!」

 

「人間が消えるわけないでしょ」

 

 

 僕は呟くが、彼女はその言葉を認識できない。

 彼女はもはや僕の姿を見ることも、言葉を聞くこともできなくなった。容姿も声色も、すべて催眠アプリにつながる手がかりとなるからだ。

 

 彼女は愕然とした様子で頭を押さえた。

 

 

「あ……わ、わからない……。あの……あの人間はどんな顔で、年齢は、性別は……? な、名前も思い出せない……!!」

 

 

 もう彼女は僕に関する情報を思い出すことは二度とない。捜査資料を見ても、そこに何が書かれているのか認識できなくなっているはずだ。

 

 僕はつかつかと彼女に近付くと、その手からスマホをもぎ取った。

 

 

「あっ……!!」

 

 

 混乱する彼女はあっけなくスマホを手放す。取り返そうとしてもその手は見当違いの方向に向かって空を切るばかり。

 

 

「ま、待って! 貴方に銃を向けたことも、脅迫したことも反省するから! このままじゃ私はどうなるか……た、助けて! お願い! 戻ってきて……!!」

 

「あなたが世界の支配者になろうなんて分不相応だったね」

 

 

 慌てふためく彼女の泣き言を背に、僕は悠々と歩いて公園を後にした。

 

 まったく見苦しい。

 催眠にかかった程度でみっともなくうろたえるなんて、世界の支配者になろうとした人間のふるまいじゃないだろうに。

 

 僕が彼女をどうこうするまでもない。

 催眠アプリを目の前にして取り逃した失態に加えて、興奮してあんな危険思想を口走ったんだ。狙撃班とやらがインカム越しに聞いていなかったわけがない。

 あとは彼女が所属する組織が処理してくれるだろう。

 

 

 ちなみに催眠アプリはこの後夜9時になると、すべてのスマホから一切の痕跡を残さずアンインストールされるように設定した。

 僕のスマホには残しているが、それ以外は例外なく消去対象となる。

 

 全世界の人間に催眠アプリの手がかりを認識できなくなるように暗示をかけたものの、催眠アプリの効果が永続しないのはこれまでの経験から学習済みだ。

 いずれ僕のことを思い出して捕まえにくる可能性があるし、手元の催眠アプリを解析してしまうかもしれない。

 

 それに世界には極端に催眠の効きが悪い人間も存在しているはずだ。他ならぬ僕がそうなのだから。

 僕は催眠アプリに加えて自己暗示を行なうことで自分に催眠をかけたが、世界には僕以上の耐性を持つ人間がいるかもしれない。

 もし耐性がある悪人が催眠アプリを使えば他人を支配できると気付けば、大変なことになってしまうだろう。

 

 だから催眠アプリは今のうちに人間の手から取り上げてしまうべきなのだ。

 催眠アプリがスマホから消えても、公安は元から催眠アプリを認識できなくなっているのだから、とっくに存在しなくなったアプリをどうにかして解析しようと無駄な時間を使ってくれるだろう。

 

 ……元々取り上げるつもりではいたけど、あのイカレた女と話したことで催眠アプリは決して他人の手に委ねてはいけないということが心底理解できた。皮肉なことだが、あの女は催眠アプリが他人の手に渡った場合の最悪のケースを、身をもって教えてくれたようなものだ。ありすを侮辱したことは本当に腹立たしいが、その一点にだけは感謝してもいいかもしれない。

 

 

 ともあれ、これで後始末含めてすべての障害はクリアできた。

 もう僕を阻むものは何もない。

 

 

「ありす、今行くから……!」




Q.わざわざ公安に顔を見せなくても、催眠アプリのことを全部忘れろって全世界の人間に催眠をかければよかったのでは?


A.万が一公安のエージェントが催眠に耐性がある人間だと計画がすべてひっくり返ってしまうので、自分の目で効果を確かめる必要がありました。

それに加えて、全世界の人間をいつでも思い通りにできるということを知らしめて、自分の機嫌を損ねたらどうなるかわかるね……?とプレッシャーをかける意図と、彼らの手元に見えない催眠アプリがあると思わせて無駄なコストを使わせる意図もあります。


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第60話「10年後の未来へ」

「ありす……!」

 

 

 夜道を走りながら、僕の頭の中はありすのことでいっぱいだった。

 ありすの声が聴きたい。ありすの顔が見たい。ありすの体温を感じたい。

 

 話したいことがあると言って彼女を呼び出しておきながらも、何を言えばいいのかはこの期に及んで具体的にはわかっていない。

 師匠は僕がありすをちゃんと愛しているのだと言ってくれた。それなら僕はありすに愛している、と伝えていいのだろうか。

 まだ実感が伴わない。これが愛だという自信がない。

 

 それでも、伝えたいことは確かにある。

 もう二度とありすに会えないかもしれない危機を経て、ようやく実感することができた感情。

 それはありすを失いたくないという強い執着。

 

 言葉にすれば今更な話だった。

 僕は彼女と出会った日から今このときまで、ずっとありすに執着している。

 寝ても覚めても片時も醒める気配のないこの執着を愛と呼ぶのなら、僕はありすをこの世のすべてよりも愛している。いつだって彼女に夢中だ。僕の行動原理のすべてと言ってもいい。

 

 もしありすに出会わなければ、僕は今でも霧に覆われた世界の外に興味を持つことなく、ただ空虚に過ごしていただろう。

 僕の手を引いて、心の外に広がる世界の美しさを、家族以外に興味を抱ける人たちの存在を、繋いだその手の温もりを、今の僕を構成するすべてのきっかけをくれたのはありすだった。

 

 そのかけがえのない彼女の手を、誰かに奪われたくない。失いたくない。

 いつまでも僕の傍にいてほしいんだ。僕の半身だと思ってるんだ。

 

 ありす!

 

 

 

 公園から家までのランニングコースを逆にたどり、いつもの場所にたどり着く。

 小学生の頃からの待ち合わせ場所、ブロック塀にもたれかかって。

 

 時刻は20時45分。

 もう真冬だというのに、ありすはやっぱり待ち合わせ時間よりも少し前に来て、僕を待ってくれていた。

 

 スマホを眺めていた彼女は、僕の足音に気付いて顔を上げる。

 じっと僕を見つめる彼女の表情から、感情をうまく読み取れない。

 

 それでも僕は言わなければならなかった。

 

 

「ありす」

 

「うん」

 

「伝えたいことがあるんだ」

 

「うん」

 

「僕は、ありすを……失いたくない」

 

 

 ありすはじっと僕を見つめている。

 その青みがかった瞳を見つめ返しながら、自分が思うままを素直に告げる。

 

 

「ありすが大切なんだ。ずっとそばにいてほしい」

 

「それは、どういう存在として? 友達? 兄妹? ……それとも、保護者?」

 

「…………えっ」

 

 

 ありすの問いに、僕の言葉が詰まる。

 

 

「博士が好き。この世の誰よりも、私はあなたを愛してる。……あなたは、私が愛しているのと同じように、私を愛してくれる?」

 

「…………」

 

 

 わからない。

 確かに僕からありすへ向ける執着は、保護者に向けるものと同じなのかもしれない。そして確かに友達でもあり、兄妹のように育った存在でもある。

 だが何よりわからないのは、ありすが僕をどう思っているのかだった。

 他人への共感性が欠けている僕には、ありすの心を正確に理解できない。

 

 やっぱり僕は……欠陥品なのか。

 他人と愛し合うことができない心を持って生まれてきてしまったのか。

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

 顔を俯かせた僕に、ありすの言葉が投げかけられる。

 

 

「あなたの心の窓は、人よりもちょっと頑丈な鍵がかかって生まれてしまったけど……もうその鍵はここにあるから」

 

 

 ああ、そうか……。

 そういうことだったのか。

 

 僕はスマホを取り出し、ありすに向けた。

 今このときのために、僕はこのアプリを作ったのだ。

 

 

「催眠!」

 

 

 

===========

=======

===

 

 

 

「ぱぱーーー!! おかえりーーー!!」

 

 

 我が家のドアを開けるなり、この世で2番目に愛しい存在がどーんと僕の脚に飛びついてきた。

 それを柔らかく抱き留めてやりながら、軽く頭を撫でる。

 

 

「おいおい、危ないよ。転んだらどうする」

 

「だってパパに早くお帰りって言いたかったんだもん」

 

「そっかぁ。じゃあやめなさいって言いづらいなあ」

 

 

 そう言いながら抱き上げて、肩の上に乗せる。

 2歳になる我が子、(ひびき)はんふーと嬉しそうに笑いながら僕の顔に柔らかな頬をくっつけてきた。

 

 

「わーい、たかーい♪」

 

「もう、パパったら……怪我しないようにちゃんと叱ってあげなきゃだめよ」

 

 

 パタパタとスリッパを鳴らしながら、家の奥からゆったりとした服装の女性が出てきた。

 言うまでもない、僕にとって世界で一番目に愛しい人。僕のお嫁さんのありすだ。

 お腹は大きく膨れており、その中で新しい命がすくすくと育っている。現在6か月目になる、僕とありすの2人目の子供。

 

 

「起きてきて大丈夫? 出迎えなくても、寝てていいんだよ」

 

「病人じゃないんだから、いつまでも寝てられないわよ。それに私がアンタを出迎えてあげたかったの」

 

「嬉しいことを言ってくれるなあ……」

 

 

 僕は響を足元に降ろすと、ありすに近付いて体を抱き寄せ、チュッと唇に口づけた。

 じんわりとしたありすの体の温もりが伝わってくる。

 子供の頃から変わらない体臭に混じって微かに感じる、ミルクっぽい匂い。

 

 幸せの匂いだ。

 

 

 そっと体を離すと、ありすは「料理の続きするわね」とニコッと微笑んだ。

 

 

 

 トントン、と包丁でまな板を叩く音がキッチンから聞こえてくる。

 鼻歌を歌いながら料理をするありすの後ろ姿を眺めながら、僕は食器を並べて彼女を手伝う。

 嬉しそうにちょろちょろとまとわりつく響を蹴ってしまわないよう時折足元に視線を落としていると、ヤッキーが響の幼児服の裾を咥えて向こうに連れて行ってくれた。もうおじいちゃんなのに気の利くやつだ。

 

 

 妊娠中期に入ったありすだが、いたって健康そのもので割とあれこれと動きたがる。

 つわりもほぼ感じておらず、ヒステリーを起こすことも滅多にない。2歳の子供といえばイヤイヤ期に入って親のすることにあれこれと反抗して暴れてそりゃもう大変だが、それに参っている様子もさっぱりなかった。

 

 

 何故なら僕が催眠をかけて、つわりや子供の反抗からのダメージを大きく軽減しているからだ。

 

 1人目を妊娠していたときはかなり辛そうで、吐き気を感じたりいつもぐったりとしたりと見るに堪えないほど憔悴(しょうすい)していた。

 そこで僕が催眠アプリを使ってありすに催眠をかけ、妊娠や育児で精神にダメージを受けにくくなるようにしたのである。

 

 つわりに催眠が効くのか僕自身も半信半疑だったのだが、ミスターMからある王室の王妃が催眠療法でつわりが改善されたというケースがあると教えられたので試したところ、しっかりと効いてくれた。

 さすが師匠だ。

 

 

 ……あれから10年が経ったが、催眠アプリは今も僕のスマホに常駐されている。

 もう使う機会も滅多になくなってほぼ存在も忘れかけているが、つわり改善や子供の夜泣き対策などにはひょっこりと役立ってくれる。

 むしろありすの方がその存在を覚えているようで、彼女の方から催眠をかけてほしいとねだられている。僕としてはかつての精神分裂事件の苦い思い出があるので、あまり頻繁(ひんぱん)には頼りたくないのだが。

 

 とはいえ役立つのは確かだし、何より僕とありすを結び付けてくれた存在だ。

 

 

 ありすの左手の薬指に結婚指輪と共に今も嵌められている、いつかのクリスマスイブに贈った銀色のおもちゃの指輪と同じように。

 

 

 

「はい、今日はハンバーグよー」

 

「はんばんぐー!」

 

 

 ありすがお皿をテーブルに並べると、幼児用の椅子に座った響がわーいと両手を挙げて喜びの声をあげた。

 野菜をたっぷり混ぜて作った煮込みハンバーグは、野菜嫌いの響でも喜んで食べてくれるので助かる。

 

 

「はい、あーん」

 

「あーん!」

 

 

 ありすが差し出したスプーンを咥えた響が、もぐもぐとおいしそうにハンバーグを頬張っている。

 本当に可愛いなあ。

 子供がご飯を食べている姿を見てこんなにも胸が温かいと感じる日が来るなどかつては想像もしなかった。

 

 

「パパもニコニコしてないで、冷める前に食べちゃって」

 

「うん」

 

 

 ありすに促され、自分のハンバーグを口に運ぶ。

 美味しい。

 ヨリーさんよりも、うちのお母さんが作る料理の味に近い。

 こうして家庭の味というのは受け継がれていくのか。

 

 

「ねえ、今日はどうだった? 沙希(さき)は元気してた?」

 

 

 今日の外出について尋ねられ、僕はうんと頷いた。

 

 

「赤ちゃんがびゃーびゃー泣いててちょっと参ってたけどね。でもにゃる君は嬉しそうだったよ。もうすっかりパパの顔になってた」

 

「子供は元気に泣いてるくらいがいいのよね。本当なら直接会って先輩ママとしてのアドバイスでもしてあげたいところなんだけど」

 

「そのお腹で遠出させるわけにいかないよ」

 

 

 催眠のおかげでありすはいつも元気いっぱいなのだが、催眠がなければ一日中ぐったりとしているはずだということを忘れないでほしい。かなりアクティブに動こうとするので、僕の方がヒヤヒヤしてしまう。

 僕は自宅で仕事しているので機会をうかがってはありすを手伝おうとするのだが、ありすは一人で大丈夫だから仕事に集中しなさいと叱ってくるのだ。

 

 

 大学院までミスターMこと美作(みまさか)教授の研究室で過ごした僕は、卒業後自分ひとりで研究する道を歩むことにした。

 EGOさんはぜひ自分の会社で働いてほしいと熱心にスカウトしてきたのだが、僕にはひとりで研究したい内容があったのだ。

 幸い『ワンだふるわーるど』をはじめ、桜ヶ丘(さくらがおか)電子工房に提供した複数のアプリによる利益が僕の会社にプールされているので、研究費はそこから使っている。

 

 ありすは僕の会社の取締役をお父さんから引き継いで、僕のお金の管理をしてくれていた。僕は経済のことはさっぱりなのでとてもありがたい。正直ありすの才覚があれば一流企業で相当出世できたと思うのだが、「ハカセは好きなことをするのが一番いいの。そして私はそのお手伝いをするのが一番嬉しいのよ」と言ってくれたのでそれに甘えてしまっている。

 

 

 にゃる君とささささんは最近ようやく結婚して、今年子供が産まれた。

 高校時代から付き合っている割にはすごく時間がかかった。

 

 僕とありすも結婚したのは3年前だが、大学に通っている間ずっと同棲していたので、実質新婚生活気分で大学時代を過ごしていたようなものだ。体感的には結婚8年目くらいの気分である。

 そしてその間ずーっとラブラブだ。正直片時もありすと離れたくない。

 だから今日みたいに親友の様子を見に行くような機会でもなければ、ずっと家で仕事をしていたいのだった。

 

 

 僕の今後の目標は……家族を守ることだ。

 

 もぐもぐとハンバーグを食べている我が子と、優しい目でその姿を眺めているありすを見て決意を新たにする。

 

 

 決して奪わせない。失わない。

 

 彼女たちが持つ『声の力』、そしてそれを利用した催眠アプリ。その力を求める者は後を絶たない。

 一度は手掛かりを完全に潰したとはいえ、あれからもう10年。

 

 いずれは『声の力』を求める者が僕たちの前に現われるだろう。

 その追跡を振り切り、彼女たちを守れるのは僕しかいない。

 そのためにいくつもの理論を生み出し、発明を繰り返してきた。それらの理論の概要を頭の中で振り返りながら、僕は愛する家族の食事風景を見守る。彼女たちを守るためなら、どんな苦労も辛くはない。

 

 この胸にあふれる温かなもの……それがありすに出会った日から今に至るまで、僕を動かす原動力であり続けているから。

 

 

「どうしたの? じっと見つめてきて」

 

 

 僕の視線を感じて、ありすが不思議そうに首を傾げる。

 

 もう、この言葉を口にすることにためらうこともなくなった。

 

 

「愛してるよ、ありす」

 

「私も愛してる」

 

 

 僕たちは両手を重ねて、想いを伝え合った。

 

 

 この幸せをいつまでも続かせることを誓いながら。

 

 

 

THE END……?




まだ最終回じゃないですよ。

次話からはありす編、いよいよ答え合わせの時間です。


ここまでのお話が面白かったら評価とお気に入りしていただけるとうれしいです。
とても今後の励みになります!


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ありすの世界
第61話「小さな魔女」


今回からありす視点のお話になります。


「よくお聞きなさい、ありす。私たち魔女の一族は不思議な声の力を持っています。ですが、それを決して誰にも知られてはいけませんよ」

 

 

 私の一番古い記憶は、おばあさま(グランマ)の言葉で始まる。

 

 イングランドの片田舎にひっそりと隠れるように建つ古い家で、私は6歳までおばあさまに育てられた。

 家事手伝いが何人かいたと記憶しているが、おばあさまが彼女らと会話するところは見たことがない。その代わりにたくさん犬を飼っていて、おばあさまは彼らと親しむ方が楽しいようだった。

 

 子供の頃の私は外出を禁じられていて、同年代の子供と遊んだことがなかった。代わりに犬たちが私の遊び友達で、優しく献身的な彼らと広い庭で毎日遊んでいたから、寂しくはなかった。

 

 ある夜、おばあさまは幼い私を膝の上に乗せて、私が何故おばあさま以外の人間と話してはいけないのか、パパやママと離れて暮らしているのかを教えてくれた。

 

 

Witch(魔女)? 私たちはおとぎ話に出てくる、あの悪い魔女なの? おばあさまも(ほうき)に乗って空を飛ぶの?」

 

「そんなことはできませんよ。それは私たちを貶めるために作られた嘘です」

 

 

 おばあさまは私の髪を撫でながら、ゆっくりと首を横に振った。

 

 

 私たちの祖先はギリシアの僻地(へきち)に住みついていた遊牧民だったのだそうだ。

 農耕民族と決して交わらずに暮らしていた彼女たちには、他の人間にはない特異な能力があった。

 それは声を聴かせることで、他人を支配できるという力だった。

 

 力の強さは個人差があり、他人に強制的に命令できるほどの力を持つ者はさほど頻繁に現われることはない。

 しかし歌として声を聴かせることで他人から好感を抱かれるという能力は基本的に一族の女性の誰もが持っており、遺伝的に美しい容貌を持つ者が生まれてくることもあって、古代には人里離れた地に暮らす歌姫の一族として知られたのだという。

 

 この『声の力』は一族の女性と幼い少年だけが持ち、男性は声変わりすると力を失う。しかし同族の力への耐性自体は女性も男性も共通して持っており、一族だけでまとまって暮らしている分には普通の生活を送れていたそうだ。

 だから彼女たちは人間を誘惑する力が災いを引き寄せることがないよう、定住する農耕民族から離れた土地でひっそりと暮らしていた。

 

 

 だが、人間を魅了する能力を持つ美形ぞろいの一族などというものは、存在するだけで他人から妬みを買ってしまうものだ。

 遠く離れた地に住む歌姫の噂を聞き、あるいは何かの拍子で歌を聴いて魅了され、ふらふらと本来の住処を離れる男たちは度々現われた。すると夫や恋人を奪われたと嫉妬する女性たちは、私の祖先を男を魅了して連れ去る化け物として口々に罵り、迫害したのだそうだ。

 

 私たちの先祖は迫害を逃れるために散り散りになり、息を潜めて暮らす羽目になる。それが今に伝わるセイレーンやハルピュイア……ギリシア神話に登場する、まつろわぬ怪物たち。私はその怪物たちの子孫というわけだ。

 

 

「私たちは声で人間を支配できるんでしょう? どうしてご先祖様はその人間たちを支配しなかったの? 王様になれば逆らえないのに」

 

「確かに『声の力』を使って支配者になろうとした者は歴史上何人かいました。しかし、彼女らはみな非業の死を遂げたのです」

 

 

 美しい容姿と声の力を持つことを活かして、寵姫として支配者に取り入ろうとした者もいた。王様を骨抜きにして、女王として君臨しかけた者もいたという。

 

 だが、私たちが支配できるのは、声を聴かせることができた相手だけだ。国民全員に声を聴かせる方法など、古代には存在しない。

 寵姫として入り込んだ魔女の手で政治が腐敗したことを憂う貴族や、寵愛を奪われたことに激怒した他の寵姫によって彼女らは例外なく暗殺された。

 

 やがて王宮に入り込んで怪しげな力により王を狂わせる魔女の存在は、古代世界の常識として周知され……怪しげな魔術を使って人心を誑かす、ステレオタイプな『魔女』のイメージが誕生する。

 

 中世になるとその存在が支配層にとって脅威になるということから、教会の手で組織的な迫害……魔女狩りが行われるようになった。

 私たちの祖先はそこでほとんどが死に絶え……かろうじて、おばあさまの一族だけが生き延びた。

 おばあさまと私は、恐らくこの世でたった2人の魔女ということになる。

 

 おばあさまは深い悲しみを湛えた瞳で私を見下ろし、言い聞かせた。

 

 

「ですからありす、私たちの力は決して誰にも知られてはいけないのです。『声の力』の存在が世間に知られれば、きっとあなたを利用しようとする悪い人間が現われる。いいえ、それだけではありません。不用意に他人を声を聴かせるだけでも、あなたに好意を持つ者を生み出してしまう」

 

「それの何が悪いの? だって、いろんな人に好かれて、お友達になれるのでしょう? それはとても素晴らしいことだわ。もしかしたらその中から素敵なおむこさんが見つかるかもしれないし」

 

 

 するとおばあさまは、ため息を吐いて首を横に振った。

 

 

「違います。『声の力』で他人に好かれたとしても、それは虚しいだけ。何の努力もせず得られる、一方的に好意を寄せられるだけの関係など、何の価値もありませんよ」

 

 

 幼い私はとても愚かで、おばあさまが言っている意味をまるで理解できなかった。ただ友達が増えれば嬉しい、そんな単純なことしか考えていなかったのだ。

 

 おばあさまはそんな私の頭を慈しむように撫でた。

 

 

「あなたもいつかきっとそれを理解するでしょう。経験しなければわからないことはありますから」

 

「そうなの? じゃあ、街に出てお友達を作ってもいい?」

 

「今はいけません。あなたを預かったのは、声を制御することを教えるため。誰彼構わず好意を抱かれるということは、とても危険なことなのです。私たちは人さらいをするような悪人の標的になりやすい」

 

「ちぇー」

 

 

 バカな私はぷうっと頬を膨らませた。おばあさまがどれほど私のためを思ってくれているか、この頃はまるで想像できていなかった。

 大きくなってから、私は自分がどれほど危険な目に遭いやすい星の下に生まれたのかをいやというほど知ることになる。『彼』と出会わなければ、私は大人になるまで生きてはいられなかっただろう。

 

 

「うちにはたくさんの犬がいます。彼らが友達では不満ですか?」

 

「ううん! 犬大好きだよ! みんな優しいし、力も強いもん!」

 

「そうですね。私たちはかつて遊牧民だった頃から犬と共に生きてきた一族です。私たちの声は彼らを惹きつける。そして彼らは決して私たちを傷付けることはない。かつては『使い魔』とも呼ばれた、古き友ですから。ありすも大きくなったら、犬を飼うのですよ。彼らはきっとあなたを守ってくれます」

 

「うん!」

 

 

 幼い私はパタパタと脚を揺らして、嬉しそうに笑う。

 

 

「あ、でも……」

 

 

 私は不意に顔を曇らせ、不安げにおばあさまを見上げた。

 

 

「大きくなっても、ずっと誰にも内緒にしなくちゃいけないの? 私は大人になっても独りぼっちで生きていかなきゃだめなの?」

 

 

 するとおばあさまは、私を安心させるように穏やかに笑う。

 

 

「この広い世の中には、ごく少数ですが私たちの『声の力』が効かない人たちがいます。私の旦那さんもそうでした。遠い東の果ての国から来た、髪が黒くて、のっぽで、ちょっとぼうっとしてて……でもとても優しかった」

 

「おじいさまだ!」

 

「ありすにとってはそうですね。私の人生の中でただ一人だけ、『声の力』が効かなくて……私を本当に対等な人間として愛してくれた人。あなたもいつかそんな人に出会うかもしれない。そんな心を許せる『運命の人』に出会えたら、あなたの秘密を打ち明けなさい」

 

「はあい。ねえねえ、おばあさま、『運命の人』って」

 

 

 きっとこのときの私の瞳は、キラキラと輝いていた。

 

 

「私のおむこさんになってくれる人なのかなぁ?」

 

「……女性ということもありえますが……」

 

 

 おばあさまは一瞬小声で呟いてから、ニコッと頷いた。

 

 

「ええ、そうですね。ありすもお婿さんを選ぶときは、あなたを対等な人間と見てくれる、同じだけの愛情を返してくれる人を選ばないといけませんよ。それが私たち魔女が幸せになれる、唯一の方法なのですから」

 

「はぁい! ねえねえ、おばあさまもおじいさまに会えて幸せだった?」

 

「ええ、もちろんです。……幸せでした。今も」

 

 

 正直、私はおばあさまの言葉をほとんど理解できていなかった。

 

 しかし今や過ぎ去った日々の中にだけ生きているおじいさまを想う、おばあさまの穏やかな瞳の色に……私は憧れたのだ。

 私もいつか、おばあさまのように幸せになりたいと。

 

 

 

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======

 

 

 

 おばあさまの元で過ごした幼い日々は、矢が飛ぶように過ぎていった。

 

 パパとママには6歳になるまであまり会ったことはなかった。

 パパは仕事で世界中を飛び回っていたし、ママは日本で料理人になるという夢を叶えて忙しい日々を過ごしていた。

 『声の力』に耐性があるパパはともかく、ママは耐性がないから離れて暮らすのは仕方ないことだった。もし私が『声の力』をママに使ったら、とんでもないことになってしまう危険性があったからだ。世の中の子供は拗ねた拍子にママなんか死んじゃえ、と口走るものなのだから。

 私の力は歴代の魔女の中でもとても強いそうだ。ママを守るためには私が制御法を学ぶこと、そして私が理性的な精神を身に着けることが不可欠だった。

 

 

 それでも誕生日やクリスマスといった記念日には、両親は私の元を訪ねてくれた。私はそれがとても楽しみで仕方なかった。

 

 そんなふうに迎えた、6歳の誕生日。

 おばあさまは言った。

 

 

「ありす。あなたは来年の4月から、日本の小学校に入学することになります。パパとママと一緒に日本に帰るときが来たのです」

 

「やだ!」

 

 

 私は暴れに暴れた。

 せっかくそれまでおばあさまが頑張って植え付けてくれた理性的な精神なんてかなぐり捨てて、床に転がって駄々をこねまくった。

 わんわん泣いて、おばあさまと両親をとても困らせた。

 

 

「ずっとおばあさまと一緒がいい! 日本なんて知らない国行きたくない! 私はずっとおばあさまとこのおうちで暮らすの!!」

 

「知らない国ではありませんよ。あなたに流れる血の3/4は日本人のものです。それに私はあなたの前ではできるだけ日本語で話すようにしてきました。いつの間にか英語も話せるようになっていたようですが……。それもみな、あなたがいずれ日本で暮らせるようにするためなのですよ」

 

「でも私、魔女だもん! おばあさまの孫だもん!! だからここで暮らすの! おばあさまが、私にとっての『運命の人』でいいもん!!」

 

 

 するとおばあさまは、困ったように一瞬笑い……そして、厳しい表情で言った。

 

 

「ありす。私はここで朽ちていくだけの人間です。私にとっての陽だまりは、夫と暮らした過去の思い出の中にしかない。だからこの夫が残してくれた家で、犬たちと余生を過ごせばいい。でも、あなたは違う。あなたの幸せは、ここではない未来にある。私の余生に付き合ってはいけないのです」

 

「うぐっ……ひっく……」

 

 

 べそをかく私に、おばあさまは微笑んだ。

 

 

「大丈夫、まだ永遠の別れではありませんよ。私の寿命はまだまだ残っていますからね。ドッグブリーダーでもしながら、ありすの子供が大人になるまではしぶとく生きますとも。いつだって遊びに来ていいんです、それこそ夏休みにでも」

 

「ほんと? また会える?」

 

「ええ。だからありす、もう泣かないで。そして約束してください。いつか、あなたが『運命の人』を見つけることができたら、その人をここに見せびらかしに来ると」

 

「……うん」

 

 

 ぐしぐしと泣きながら、私は頷いた。

 

 

“Cross my heart and hope to die, stick a needle in my eye.

(ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます)”

 

 

 私とおばあさまは、約束のおまじないをしてぎゅっと抱き合った。

 

 

「ふふ。ありす、あなたと一緒に過ごせて楽しかった。私にとっても、あなたは『運命の人』でしたよ」

 

「私も! 私も楽しかった!!」

 

 

 ぎゅーっとおばあさまに抱きつきながら、私は約束した。

 

 

「絶対! 絶対に連れて来るから! おじいさまと同じ、黒髪で、のっぽで、ちょっとぼーっとしてるけど優しい私の『運命の人』!」

 

「ええ、期待して待っていますよ」

 

「あとね、あとね、おばあさまとお話しできるように英語ペラペラで、お金持ちで、頭が良くって、パパみたいな紳士っぽい服が似合うかっこいい人で、あとね……」

 

「……あ、あまりハードルを上げられても心配ですね……。というか耐性がある時点でものすごくレアなんですが……。とにかく期待していますよ」

 

「うんっ!!」

 

 

 そしてそんな私たちを、パパとママは口を挟む余地もなく呆れた目で見ていたのだった。

 

 

「なんか僕たちが無理やり引き離す悪人みたいな扱いになってませんか?」

 

「日本に連れて行くの来年の4月なんですけど。7月の時点で盛り上がりすぎよねぇ……」



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第62話「最初の約束」

「ありすちゃん、イギリスのお話を聞かせてよ! どんなところ? 何があるの?」

 

「ありすちゃんの歌すっごく素敵! もっと聞かせて!」

 

「目が青くて綺麗! お人形さんみたい!」

 

「ありすちゃんが1年生で一番かわいいよね!! 他のクラスにもありすちゃんよりかわいい子いないもん!」

 

「う、うん……ありがとう」

 

 

 私の机をぐるりと取り囲んで盛り上がるクラスメイトたちに、私は控えめに笑いかけた。

 それだけでクラスメイトたちはきゃあきゃあと盛り上がる。

 

 

 小学校に入学した私は、すっかりクラスの人気者になっていた。

 みんながみんな、来る日も来る日も休み時間や自由時間になるたびに、私の周囲に集まってくる。

 最初は私をどうとも思っていなかった子も、みんなで合唱する機会があってそのときの歌声を聴いてからは、私の熱心な取り巻きに加わった。

 

 おばあさまからあれほど注意されていたにも関わらず、バカな私は友達は多ければ多いほど嬉しいもん! とばかりにクラス中を魅了してしまっていた。

 

 最初はそれがすごく楽しかった。初めての人間の友達は新鮮だったし、ちやほやされると嬉しい。

 私に興味がなかった人が歌声を聴くなり夢中になるのは快感ですらあった。

 それに、私が『お願い』すればみんなどんなことでも聞いてくれるのだ。これほど優越感を感じることがあるだろうか。

 

 だが数か月が経つうちに……私は次第に怖くなってきた。

 

 

「おい、ちょっとどけよ! 俺もありすと話したい!」

 

「何よ割り込みしないでよ! 男子あっち行って!」

 

「うるせえブス!! お前らはお呼びじゃねえんだよ!!」

 

 

 今日もクラスの中でも腕白(わんぱく)な男子が割って入って来て、女子とケンカを始めた。

 道を塞いでいた女子のおさげが男子に力強く引っ張られ、その場にころんと転倒する。それが彼女にはとてもショックだったのだろう、わんわんと大声を上げて泣き始めた。

 

 

「うわああああああああん!」

 

「な、なんだよ……お前が邪魔するからだぞ!!」

 

「最低! いじめっ子!」

 

「なーかしたーなーかしたー! 言ってやろ言ってやろ! 先生に言ってやろ!」

 

 

 途端にクラス中が大騒ぎになる。

 

 

「あ、あの……ケンカはやめて……」

 

 

 私は口を挟もうとするが、すっかり腰が引けたぼそぼそ声しか出ない。

 この状況に完全に委縮(いしゅく)してしまっていた。

 いくら『声の力』があろうが、子供が泣き叫ぶ中で小声でささやいたところで誰にも届くわけがない。

 

 ……どうしてご先祖様が人間とは離れた土地で暮らそうとしたのか。声の力でちやほやされようとはしなかったのか。

 その理由を、私は身をもって思い知らされていた。

 

 『魔女』は争いの火種になる。

 あまりにも人気がありすぎる個人は、好意だけでなく否応なしに負の感情をも引き寄せることになるのだ。

 情緒(じょうちょ)の発達が未成熟な子供の群れに投げ込まれた私は劇物に他ならず、私をめぐってクラスメイトたちの争奪戦が引き起こされてしまっていた。

 

 私はため息を吐いて、目の前の争いから目を背ける。

 

 

 ……その視線の先で、クラスの中で一人だけこの騒ぎに関わらずに、教室の後ろに置かれた植木鉢をじっと眺めている男の子がいた。

 当時の私はこの男の子に何の興味も持っていなかった。

 容姿もぱっとせず、人と話しているところも見たことがない。いや、それ以前にいつもぼーっとしていて、一人で花を眺めている。まるで意思というものが感じられず、クラスの誰もが彼のことをいないものとして扱っていた。

 

 私もまた、他のクラスメイトと同様につまらないものを見たとでもいうように彼から目を離し……そっと視線を机に落とした。

 

 

 連日続く争奪戦に、私はすっかり弱り果ててしまった。

 自分の持つ『声の力』の影響は、平和に暮らしていくにはあまりにも大きすぎる。『声の力』なんて、本当は邪魔なだけだったのだ。

 こんな力、ない方がよかった。

 

 いや、そもそも……『声の力』がない私は、本当に人から好かれる人間なの?

 自分は『声の力』で他人を操って好意を強要しているだけで、素の自分は何の取柄もない人間なのでは?

 

 争いを眺めるうちに、自分の心の内側から恐ろしい考えが湧き出てくる。

 

 

 あなたは友達だと呼んでいる誰も彼もが、あなたに操られているだけなのよ。

 本当はあなたのことなんて、誰も好きじゃないの。

 お友達も、ママも、本当はあなたのことを嫌いなのよ。あなたは魔女の力を使って好きだと言わせているだけなの。

 でもそれを確かめる方法なんてないわね。可哀想なありす!

 だってあなたの声をなくす方法なんてないんだもの!

 

 

 心の中の悪魔が囁いてくる。その悪魔は、私と同じ声をしていた。

 恐ろしい想像に囚われた私は誰に相談することもできず、ただ震えるばかり。

 そしてその想像は、日が経つにつれて悪い方に膨らんでいくのだ。

 

 

 

 やがてしばらくの時が流れ……。

 いつしか私は、自分が誰からも嫌われていて、声の力で好きだと言わせているだけに違いないという妄想に陥っていた。

 もう周囲の誰も信じられなかった。クラスメイトだけでなく、優しいママですら本当は自分を嫌っているのではないかと疑った。

 

 そして『声の力』を捨てても、みんなは自分を好きでいてくれているかを確かめなくてはならないという強迫観念に囚われ……。

 

 

 ある日学校から帰った私は、ママが不在なのをいいことにキッチンから包丁を盗み、手提げ袋に入れて公園に向かった。

 

 ……包丁で自分の(のど)を傷付ければ、『声の力』を使えなくなると思ったのだ。

 

 公園を選んだのは、もし間違って自分の喉を傷付けすぎてしまっても、誰かが見つけてくれるだろうと思ったからだ。

 なんて馬鹿な子供なんだろう。

 

 公園には何人か子供が遊んでいたが、その喧騒を避けて私は隅の方へ向かった。喉を潰した後は見つけてほしいが、邪魔をされたくはない。

 ここなら誰にも見つからないだろうと思った場所で、私は袋から包丁を出して、自分の喉へと向けた。

 

 

 ママの仕事道具の包丁はとても鋭利で、陽の光を反射して輝いていた。

 ママが料理に使うときはあれほどかっこよく見えた輝きなのに、自分の喉に向けられるとギラリと凶悪な様相に思える。

 

 

「ハァ……ハァ……」

 

 

 逆手で包丁を握った手が緊張で震え、脂汗と共に浅い呼吸が口から漏れた。

 怖い。死ぬかもしれない。こんなことやりたくない。

 だけどこうしないといけないんだ。私はこの力がある限り、誰も信じられない。こんな力は捨てないといけないんだ。

 じゃないと、ママが私を本当に愛してくれているのかわからないから。

 

 私は目を閉じると、ひと思いに包丁を喉に突き刺そうと……。

 

 

「ダメ」

 

 

 突然、聞いたことのない声が近くでして、私の包丁を握る手を止めた。

 小さいのに、信じられないくらいがっしりと力強い手だった。

 

 

 ……多分この瞬間、私たちの波長が重なった。

 

 

 驚いて目を開くと、そこにはクラスメイトの……これまで一度も喋ったこともない、いつも花ばかり見ている、あの男の子がいた。

 常に夢の中を歩いているようにぼうっとしていた瞳はしっかりと私を見つめ、包丁を握る私の手を力強く引き留めている。

 

 

「そんなことは、やっちゃいけない」

 

「何よ! 止めないでよ! 私は喉を潰すんだから!」

 

「ダメ」

 

 

 言葉少なに頑として譲らない男の子にカッとなった私は、『声の力』を解き放った。

 

 

「『離せ!!』」

 

「…………」

 

 

 手加減なしの『声の力』を叩き付けられ、男の子は衝撃波でも受けたように少しのけぞって……それでも首を小さく振って、断固として言った。

 

 

「離さない。傷付けさせない」

 

「あなた……。私の声が……」

 

 

 私は呆然と男の子を見つめた。

 まさか、『声の力』が効かないのか。

 この冴えない男の子が、私の『運命の人』だというの?

 

 

 このときの私は知らないことだったが、彼は生まれつき自分の外側の世界に興味を持てない人間だった。自分の心の中という霧に包まれた世界を、出口を求めてぐるぐると迷い続けていた。

 

 そして私は世界の誰も信じられなくなり、自分の中の黒い囁きにそそのかされるままに、外の世界から心の中へと引きこもろうとしていた。

 

 心の内から外へ向かおうとする彼と、外の世界に嫌気が差して心の中へ向かおうとする私。

 2人の脳の波長がぴたりと合って、彼は私を『見つけ出した』。

 

 

 呆気にとられる私から、彼は包丁を奪い取ってぽいっと草むらへ放り投げた。

 

 命を助けてくれたのに、バカな私は涙目になって男の子に食って掛かる。

 

 

「何するのよ! もう少しだったのに!」

 

「自分を殺しちゃだめだよ」

 

「死ぬつもりはなかったの! 喉を傷付けて、声を出せなくするだけのつもりだったのに!」

 

「なんで? もったいないよ。綺麗な、声なのに」

 

 

 首を傾げる彼に、私は言った。

 

 

「こんな声いらない! この声でよかったことなんて、何もなかった! こんな声があるから、私は本当の友達なんてできないもの! 私はこの声がある限り、いつまでもずっとひとりぼっちなの!」

 

 

 男の子にとっては完全に意味不明な発言だったことだろう。

 それでも彼は途切れ途切れに声を掛けてくれる。

 

 

「いつも、みんなに、囲まれてるのに?」

 

 

 そのぎこちなく呟くような耳障りな発声が、また私の癇に触った。

 

 

「友達のいないあなたにはわからないわよね! あんなの友達じゃない! 私はひとりぼっちなのよ!!」

 

 

 このときの私をひっぱたきたい。なんてひどいことを言ってしまったんだろう。

 後で知ったことだが、彼が家族以外と話したことはこれが初めてだった。他人と言葉を交わすのはほとんど初めてなのに、それでも彼は慣れない喉を必死に震わせた。

 

 

「そう。じゃあ、同じだね。ぼくも、ひとりぼっち」

 

「……!」

 

 

 包丁を奪われた状態のまま宙に浮いていた私の手を、彼はぎゅっと握った。

 彼の体温が私の手に伝わってくる。

 

 

「友達に、なろう? ぼくで、よかったら」

 

 

 その握った手の上に、ぽろぽろと雫がこぼれた。

 私の瞳から、次から次へと涙がこぼれ落ちてくる。

 

 

「……うっ……うええええええぇぇぇ……!」

 

 

 私は感極まって泣き出してしまっていた。

 感情を抑えることがまるでできない。あれほどおばあさまから訓練を受けたのに。

 ただ心の求めるままに、ぼろぼろと涙をこぼしていた。

 

 

 そんな私の様子に男の子は困ってしまって、おろおろと顔を曇らせる。

 

 

「どうしたの? なんで、泣いてるの? どこか、怪我したの?」

 

「うううっ……うわあああああっ…………!」

 

「痛いの? お医者さんに、連れて、行ってあげる」

 

「ちがうの……。私、ずっと、怖くて……。誰も、信じられなくて……。やっと、安心したの……だから、泣いてるの……」

 

 

 泣きじゃくりながら途切れ途切れの説明に、男の子は頷く。

 そしてよしよし、と私の頭を優しく撫でた。

 

 

「もう大丈夫だよ。怖くないよ」

 

「うん……。ありが、と……ひっく……」

 

「じゃあ、約束、するよ。きみを、傷付ける、ぜんぶから、ぼくが、守ってあげる」

 

「……ほんとう?」

 

「うん。友達、だから。一緒にいたいから、ぼくが、きみを守るよ」

 

 

 このときの彼が浮かべた、ぎこちないけれどとても心強い笑顔を、私はきっと生涯忘れない。

 それは長らく黒い雲に閉ざされていた世界に光が差すように、私の心に鮮烈に焼き付いた。

 

 私はぐしぐしと涙を拭いながら、彼に訊いた。

 

 

「私、あなたのこと何も知らない。ねえ、あなたの名前はなんていうの?」

 

「はかせひろし。でも、漢字だと、はかせはかせに、なっちゃうの」

 

「ハカセハカセ? 変な名前……。」

 

 

 私はくすっと笑った。心から笑えたのは久しぶりだった。

 

 

「私はあまはたありすよ。あまはたが名字で、ありすが名前」

 

「あまはたありす。あまはた、ありす。……覚えた」

 

 

 ハカセは生まれて初めて、人間の名前を覚えた。

 これも後で知ったことだが、彼は生まれつき人間の名前と顔を覚えることができなかった。小学生になるまで家族の名前すら正しく覚えることができず、『お父さん』『お母さん』『くらげちゃん』と自分で決めた呼称でしか呼べなかった。

 

 そんな彼が私の名前と顔だけは一度で間違えることなく覚えたのだ。

 

 その意味を、当時の私は知る由もない。

 だが、それでも。

 彼が自分を見つけてくれたことは奇跡だと、薄々と感じ取っていたのだ。

 

 

「よろしくね、ありす」

 

「うん。よろしくね、ハカセ」

 

 

(私の、『運命の人』)



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第63話「手をつないで歩こう」

「ハカセ、学校行こー」

 

「うん」

 

 

 ハカセと出会って以来、私は毎日彼と手をつないで登校した。

 彼と一緒にいるという気分をもっと感じたかったし、ハカセはちょっと目を離すと道端にしゃがみこんでじっと花を見つめて動かなくなってしまうからだ。

 だから私はいろいろと危なっかしい彼を先導してあげなくてはいけなかった。

 

 そう言うと何だか義務のようだが、実のところ私は嬉しかった。

 私は他人との関係でアドバンテージを握りたい性分なので、彼を先導してあげているという立場に内心優越感を感じていた。

 

 彼はこの世界のことを何も知らなかった。

 花とか雪とかの自然に図形となっているものや、電車の音といった規則的なリズムには関心を寄せるが、それ以外のことにはまったく無知だった。

 登校しながら私が「ほら、あそこに猫が歩いてるわ」と教えてあげると、初めて猫というものを認識したみたいにおお、と目を丸くして驚くのだ。

 私は嬉しくなって、ハカセにあれが犬だよ、あれが車だよとことあるごとに指さして教えて回ったものだった。

 

 放課後には彼はきまって公園に寄って、じーっと草花を眺めていた。

 確かにお花は綺麗だと思うけれど、そこまで熱心に眺める理由がわからない。

 

 

 ある日「そんなに眺めて何が楽しいの?」と訊いたら、ハカセはちょいちょいと花びらを2枚指さした。

 

 

「こことここの長さが完全に同じ」

 

「……へえ?」

 

「あと、ここの角度がすごくかっこいい」

 

「そうなんだ」

 

「うん」

 

 

 そう言ったきり、ハカセは真剣な顔で花を眺めて、彼にしかわからない美を感じていた。

 聴いても理解できないと悟った私は、それから彼が花を眺めているときは黙って彼の横に座るようになった。

 

 顔立ちは地味だしいつもぼーっとしてるハカセだけど、興味があることに熱中しているときはとても真剣できりっとした顔をしている。

 私はそんな彼の顔がかっこよく感じてしまって仕方ない。

 

 ハカセは多分私が並んでお花を観賞していると思っているだろうけど、私は彼の横顔に見とれていたのだ。

 

 

 

 そんな奇人にも程があるハカセと私がいつも一緒にいるようになって、もちろんクラスメイトたちは大きく動揺していた。

 

 

「ハカセなんかがありすちゃんと一緒にいるなんて身の程知らずだわ!」

 

 

 そんなことを面と向かって言い放つような子もいた。

 思わずカチンときたが、彼らに追い詰められていた当時の私はハカセのために怒ることもできず、もじもじするばかりだった。

 

 一方、ハカセは「ふーん」と完全にどこ吹く風で、何を言われても私のそばに居座っていた。どんな悪口を言われても、風にそよぐススキのように受け流してしまう。

 はたから見たらとても面の皮が厚い態度にしか見えないが、これは多分彼らにまったく興味がないのだろう。ハカセの世界の中には彼らが対等な人間として存在していないから、どんな悪意をぶつけられても気にもならないのだ。

 

 

 ハカセは当然のような顔で給食の班も掃除の班も私と同じところに入ってきた。違う班に入れられても、先生にどれだけ叱られても、完全に無視して私のところに来る。

 そして私がフォークを持てずに困っていると家から持ってきた割り箸を渡してくれたり、私の名札の安全ピンをこっそりマジックテープに改造してくれたり、掃除のときに尖ったものがあればどこかへ持ち去ってくれたりするのだった。

 

 ……包丁を自分の(のど)に向けたとき以来、私は鋭利なものに恐怖心を抱くようになってしまった。どれだけ怖くない怖くないと自分に言い聞かせたところで、どうにもならない。勝手に手が震えて、居ても立ってもいられなくなってしまう。

 

 ハカセは私がそんな恐怖を覚えないように、いつも私の近くにいて危険から遠ざけてくれていた。

 

 

 

 そんな日々を過ごすうちに、いつしか周囲にもハカセが私のそばにいるのは当たり前のこととして受け止められるようになっていった。

 

 何しろ毎日ハカセを家まで連れ帰っているうちに、ハカセのお母さんにうちの子認定された私である。

 日頃忙しくて私を鍵っ子にせざるを得ないママと、ほっとくと息子が家に帰ってこないハカセのお母さんの利害が一致したのだ。

 毎日ハカセを彼の家に連れ帰り、その代わりに晩御飯を食べさせてもらって夜まで過ごして、迎えに来たママと一緒に帰宅するという生活サイクルが誕生した。

 彼の妹のみづきちゃんにいたっては、私を実の姉のように慕ってくれていた。

 

 

 だが、私はやっぱり争いを呼ぶ魔女なのだ。

 小学3年生になったある日、そう思わざるを得ない出来事が起こった。

 

 クラスの腕白(わんぱく)な男の子が、ハカセに嫉妬して彼を殴りつけたのだ。

 

 最初はいつもの大したことないやっかみだった。

 

 

「ハカセとありすはいつも一緒! 夫婦! 夫婦!」

 

 

 クラスの男の子たちが、一緒に下校する私たちを囃し立てた。

 

 夫婦かぁ……。私は嫌じゃないし、もっと言ってほしいなぁ。

 

 私はそう思っていたけど、普通こういうときはからかわれた男の子側が照れて「ちげーよ、あんなブス好きじゃねーし!」とか言って離れていくのがお決まりだろう。当然からかった男子たちもそんなリアクションを期待していた。

 しかし、ハカセがそんな機微(きび)など理解するわけがない。

 

 

「うん。僕とありすはずっと一緒にいるよ」

 

 

 その言葉にクラスのガキ大将がカチンときた。

 

 

「あぁ!? なんだお前、生意気なんだよハカセのくせに! ありすから離れろよ、今日から俺が一緒にいてやるからさぁ!」

 

「嫌だ。僕はありすを守るために一緒にいるんだ。きみが一緒にいても、ありすを守れるとは思えないから、あっちに行け」

 

「こいつ! バカにしやがって!」

 

 

 そう言うなり、男子はハカセの頬を拳でぶん殴った。

 子供ながらに力自慢でクラスでぶいぶい言わせていた少年の拳だ。それを無防備に受けたハカセは、思い切りよろめいた。

 

 ……ハカセの口元から血が出ている。

 彼がペッと血の混じった唾を吐き捨てると、その中に歯が混じっていた。

 

 相当痛かっただろうに、彼は何も言わずに立ち尽くして、ぼうっと殴ってきた男子を見つめている。

 普通の子供ならわんわん泣き出すところだろうに、涙が出る気配もない。

 

 その姿を相当不気味に感じたのだろう。殴った男子たちが逆にうろたえていた。

 

 

「な、なんだこいつ……頭オカシーんじゃねえの?」

 

「……ねえ、や、やばいよ。先生に告げ口されたら……」

 

 

 私はといえば、突然目の前で起こった暴力に震えるばかりだった。

 

 

 しかし子分たちの様子に、ガキ大将は後には引けないと思ったのだろう。

 彼は私に近付くと、がしっと腕を掴んできた。

 

 

「ありす! お前今日からオレのカノジョな!!」

 

「痛い……っ!」

 

 

 力の加減もわからず無遠慮に腕を掴まれ、私の口から悲鳴が漏れた。

 

 

「おい」

 

 

 そのときハカセが声を出した。

 私の腕をとったガキ大将の腕を握り、ギリギリと締め上げる。

 

 

「ありすをいじめるな」

 

「い゛っ…………!? いぎあああああああああ!!」

 

 

 ガキ大将が甲高い悲鳴を上げた。

 ハカセの細くて生白い体のどこにそんな力が眠っているのか、彼の手に握りしめられた腕の先が赤黒く変色していた。

 

 ガキ大将は必死にハカセを振り払おうとするが、まるで万力に締め付けられたようにびくともしない。ハカセのお腹に膝蹴りを繰り出すが、ハカセは微動だにしなかった。

 

 

「やめろ、やめろぉっ! 離せよぉっ!!」

 

「ありすを傷付けるな。お前なんか、ありすにふさわしくない」

 

「痛い……いだいいいいいいいい!! うわあああああああん!!」

 

 

 とうとうガキ大将はびいびいと泣き出してしまった。

 

 

「どっかいけ」

 

「ひ、ひぐっ……ひいいいいいいい!!」

 

 

 戦意を失ったガキ大将がへたり込んだのを見て、ハカセが手を離す。

 そんな彼が恐ろしくて仕方ないというように、ガキ大将は悲鳴を上げて逃げて行った。ちらりと見えたハカセに掴まれた部分が、青黒いあざになっている。

 

 子分たちは親分が身も世もなく逃げたのにぽかんとしていたが、すぐに我に返るとその後を追って逃げ去っていった。

 

 

「あ……ありがとう」

 

「ん」

 

 

 私が小さくお礼を言うと、ハカセはこくりと頷いた。

 殴られた部分が青あざになっていて、見るからに痛々しい。

 

 

「……大丈夫?」

 

「約束したから」

 

「えっ?」

 

「ありすを守るって、約束したから、大丈夫」

 

「~~~~!」

 

 

 わけのわからないことを言って!

 私は怒りと驚きと嬉しさが入り混じった、言いようのない感情に口をもにょらせた。

 

 

「大丈夫じゃないわよ! そんな怪我してまで守ってほしいなんて誰が言ったのよっ!」

 

「僕が守るって約束したんだよ。だからどうやって守るかは僕が決める」

 

「バカッ! 怪我してまで守られても嬉しくないんだから! 歯だって折れてるじゃない!」

 

「折れてるんじゃなくて抜けたんだよ。元々ぐらついてたんだ。乳歯だから別に困らない」

 

 

 ハカセはまったく平気な顔でそんなことを言う。

 多分どこからか飛んできたボールが顔に当たって乳歯が抜けた、とかその程度にしか感じていないのだ。

 ……私の気持ちも知らないで!

 

 私はなんだか無性に腹が立ってきて、ぷんすかと怒りながらハンカチを水道で濡らした。濡れハンカチをハカセの頬にあてて、冷やしてやる。

 地味だけどパーツは結構整っている顔立ちが、今は無残に腫れあがっていた。私の大好きな顔になんてことを。

 

 

「もうこんな怪我しないでね」

 

「それは約束できない。ありすがひどい目に遭いそうになったら、同じことすると思う」

 

「そんなことされても、私は嬉しくないの!」

 

「僕がやりたいんだ。ありすを守りたい。だからキミがどう思おうが関係ない。僕がどうなろうと、絶対にキミを守り抜く」

 

 

 頬を腫れ上がらせながら、彼は真剣な顔でそう言った。

 

 私はとっさに顔をそむけて、表情を隠す。ハカセを叱ってるのに、口元が嬉しさで緩みそうになっちゃったから。

 

 

「……バカ。アンタすごいバカよ」

 

「そうかな。だって僕にとっては、ありすは僕の体より大事だから。間違ってないと思うよ」

 

 

 うううう~~!! もーー!!

 

 

「アンタが怪我したら、私は困るの! 私だってアンタのことが大切だもん! アンタが怪我して動けなくなったら泣いちゃうから!!」

 

 

 私がそう言うと、ハカセは虚を突かれたような顔をした。

 

 

「そうか。僕が怪我したら、ありすは泣くのか」

 

「当たり前でしょ、そんなの! 本当にバカね!!」

 

 

 私がどれだけアンタのこと大事に思ってるか、まるで理解してない!

 

 涙目でじーっと睨みつけると、ハカセはこくりと頷いた。

 

 

「わかった。ありすを泣かせたくない。次からはもっと怪我しないようにありすを守るようにするよ」

 

「うん……」

 

 

 ちゃんとわかってくれたかな。

 ハカセは自分が怪我しても、機械が故障した程度にしか思ってない気がして不安になる。

 彼はきっと自己評価がとんでもなく低い。だから自分の体を守ることへの優先度も、私を守ることより低いんだと思う。

 自分が怪我したら心配する人がいるってこと、理解してほしいな。

 

 そう思いながら、私はハカセの手を握った。

 

 

「保健室行きましょ。顔腫れてるし、診てもらわなきゃ」

 

「うん」

 

 

 そうして歩き出そうとして、違和感に気付いた。

 いつもなら握り返してくる彼の右手が、だらりと垂れ下がっている。

 いや、それどころか真っ赤に腫れ上がっていた。

 

 

「あれ? おかしいな。右手が全然動かないぞ」

 

「やっぱり保健室は行かなくていいわ。病院行きましょ!!」

 

 

 ……結局、ハカセの右手は(けん)がおかしくなっていた。なんだかリミッターとかいうのが外れて、火事場の馬鹿力を出していたらしい。

 当然本来出すべきでない力を出したのだから、体はおかしくなる。

 

 幸い手術とまではいかず、安静にすることで良くはなったが、このとき私は理解した。

 

 

 彼と一緒にいたいのなら、私は強くならないといけない。

 自分が争いを呼ぶからといって、暴力に怯えて震えているだけの女の子ではダメなのだ。

 

 だって彼は私を守るためなら、どんな無茶でもしてしまう。

 私本人には手を出さないが、彼を邪魔に思って排除したいという悪意を抱いている人間もたくさんいる。

 彼は悪意を向けられても傷つくことはない。だからその分害意に無防備なのだ。

 

 悪意から彼を守るためには、私も忌まわしい『声の力』を使うべきだ。

 有象無象を支配して、彼をいじめないように命令しなくてはいけない。

 

 このときから中学校まで、私は学校の支配者として君臨するようになる。

 じわじわと着実に支配対象を広げ、監視網を組織して、彼をいじめる者がいないか密告させ、『声の力』で二度といじめを目論まないように命令を植え付けていった。

 

 

 だけど、そうやって彼を守っていることを、ハカセ本人にだけは秘密にしていた。

 

 汚い手を使う子だと思われたくない。

 ……私だって、好きな男の子には可愛いと思ってほしいもの。

 

 

 

 ある日の登校中、手に包帯を巻いたハカセの右側を歩きながら、私は彼に呼びかけた。

 

 

「ハカセ、ほら見て。昨日の夜ずっと雨が降ってたから、虹が出てる」

 

「あ、ホントだ。綺麗だなあ……このまま見ててもいい?」

 

「ダメよ。学校行かないと遅刻しちゃう」

 

「そうか。じゃあ、歩きながら見てる」

 

 

 ……ハカセはそんなことを言いながら、自然の美を堪能できて嬉しそうだ。

 

 

「ありすといると素敵だな」

 

 

 不意にハカセが呟いた。

 

 

「えー? どういう意味?」

 

「だってありすは、僕の手を引いていろんなものを教えてくれるから。霧に覆われた僕の世界を少しずつ晴らしてくれる。だから、すごく感謝してるんだ」

 

「……手を引かれたのは、ハカセだけじゃないよ」

 

 

 私は登校中に面白いものを見つけては、ハカセに教えてきた。

 だけどきっとそれらは、私ひとりで歩いていても何の面白みも感じることがないものだったろう。

 私はきっと、それらをただそこにあるだけのものとして見過ごしたはずだ。

 

 ハカセがいてくれたから、私はいろんなものの面白みに気付くことができた。

 灰色だった私の世界に、ハカセが色をつけてくれたのだ。

 

 ハカセは私が手を引いて世界を案内してくれたと思っているようだけど、本当は私だってハカセに手を引かれてこの世界を案内されているんだよ。

 

 

「ハカセと私は白ウサギで、白のナイトだね」

 

「……ごめん、わからない。どういう意味?」

 

「もう、『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』くらい読みなさい。私の名前の元ネタなんだから」

 

「本かぁ。読んだことないけど、ありすが言うのなら読もうかな」

 

「そうしなさい、そうしなさい」

 

 

 またひとつありすに手を引かれちゃったなあと呟くハカセの横顔を見て、私はくすっと笑った。

 

 

 あなたはアリスを新しい世界に導いてくれる、懐中時計の白ウサギ。

 あなたはアリスを守ってくれる、優しく頼れるホワイトナイト。

 

 どちらがアリスで、どなたがウサギで、だれがナイトやら。

 

 きっとそれは、どちらもが。

 

 

「……これからも一緒に世界を歩いていこうね」

 

「うん。一緒にいよう」



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第64話「アンバランス」

「うーん……」

 

「どうしたの、ハカセ。珍しく難しい顔してるじゃない」

 

 

 それは小学4年生のときのこと。

 いつものようにハカセの家で晩ご飯を食べて、宿題をしていたら彼が算数ドリルを見て難しい顔をしていた。

 

 

「ふふーん? アンタ、テストの成績いっつも悪いもんね。どうせまたわからないところが出てきたんでしょ」

 

 

 この頃には私の口調もすっかり今と同じような感じになっていた。

 参考にしたのはもちろんママだ。ママは結構口が悪いというか勝気な感じなのだが、幼い私にとっては強くて頼もしい感じの言葉遣いに思えていた。

 

 夏休みに久しぶりに会ったおばあさまには、せっかくレディになるように丁寧語で育てたのに台無しになってしまった、と嘆かれてしまったけど……。私はこういう自分になりたかったので仕方ないと諦めてほしい。

 

 ちなみに私がハカセを『アンタ』と呼ぶのも、ママを真似している。私は他の人を『アンタ』と呼んだことはない。

 これについては誰にも言ってない秘密があって、実は低学年のときの私は『アンタ』を『ダーリン』という意味だと思っていた。ママは普段勝気な感じだけどすごく甘えたがりで、パパといちゃつきたいときは必ず『アンタ』と呼び掛けていたからだ。

 のちにそれが間違いだと気付いたが、これまで散々ハカセに『アンタ』と呼び掛けてきたのに今更変えるのもおかしいから、そう呼び続けている。

 

 つまり私がハカセに『アンタ』と呼び掛けているときは内心でルビに『ダーリン』と振られているのだが、それは誰にも話せない私だけの秘密だ。誰かに知られたらきっと恥ずかしくて死んでしまう。この秘密は墓まで持っていくつもりだ。

 

 

 それはさておき、私の質問にハカセはこくりと頷いた。

 

 

「うん、ここをどうしたらいいのかわからないんだ」

 

「いいわよ、このありすちゃんが教えたげる! どこがわからないの?」

 

 

 私は自分の知能にはちょっとした自信があった。

 早熟な子供なのだ。おばあさまに早く理性的な思考をできるようにと英才教育を施されたからか、魔女の一族のスペックが元々高いのか、間違いなく平均より上という自覚がある。

 一方でハカセは学校の成績が全般的に悪く、特に国語が酷かった。いわゆる落ちこぼれというやつで、先生は手を焼いていたものだった。

 だから私はしょっちゅうハカセに勉強を教えてあげていて、彼からアドバンテージを取れていることに内心で優越感を感じていた。教え方が悪いのか、なかなか成績が上がる様子はなかったが……。

 

 

「ここなんだけど」

 

 

 そう言ってハカセはドリルのページを見せてきた。

 それは家で解いたドリルを先生がチェックするというもので、問題は2桁の掛け算を筆算で解けというものだった。

 

 「51×35」という問題の下に、ハカセの字で「1785」と答えが書いてある。だが、その解に至るまでの過程がない。直接答えが書かれている。

 

 

「先生に答えを丸写ししただろうって怒られたんだ。ズルせずにちゃんとこの答えになるまでの過程を書きなさいって」

 

「…………」

 

 

 私はそのページの他の問題も見た。

 どの問題も、筆算の過程がなくすべて直接答えが書かれている。

 

 

「おかしいよね。51に35をかけたら1785になるに決まってるのに。過程を書けって言われても、書きようがないもん。だから困ってたの」

 

 

 私は言葉に詰まった。

 まじまじとハカセの見慣れた顔を眺めて、恐る恐る訊いてみる。

 

 

「ねえハカセ。32×89っていくつ?」

 

「2848」

 

 

 タイムラグなどまったくなく、ハカセが即答する。まるで九九の決まりきった答えを暗唱するかのように。

 私は電卓を取り出して、計算を入力してみた。……合っている。

 

 

「じゃあ123×789は?」

 

「97047」

 

「……2457×3569は?」

 

「8769033」

 

「……45345×98989」

 

「えっと……」

 

 

 そこでハカセはちょっと詰まった。

 さすがに無理かなと思っていたら、鉛筆を手に取って紙に書いた。

 

 

『4488656205』

 

 

「万の上をどう言えばいいのかわかんなかった」

 

 

 ……まだ億という単位を知らなかったから口にできなかっただけだった。

 電卓に表示された数字を見て、私は言葉を失う。

 

 

「暗算したの? 今の一瞬で?」

 

「うん。だって一瞬でわかるでしょ、決まりきった答えしかないんだから」

 

「……6桁かける6桁でもいける?」

 

「うん。6桁でも7桁でも大丈夫だよ。でも、そんな計算よりも国語の方が難しいって思わない? なんでいくつも答えがあるんだろうね。答えがひとつならいいのに」

 

 

 そう言って、ハカセは不思議そうに首を傾げている。

 

 私は自分がこれまで見えていた世界が、ガラガラと崩れていくのを感じていた。

 ……この子は私が教えてあげないと勉強についてこれない落ちこぼれ?

 冗談は休み休み言ってほしい。

 こと算数について言えば、とてつもない才能を秘めていた。

 

 そういえば、と思い出す。

 いつか花を見て何が楽しいのかと尋ねたときに、長さや角度が面白いのだと語っていた。

 ハカセの目には、きっと私には見えない数字が見えているのではないだろうか。その数字をこねくり回して計算することを遊びと認識して、そこに有意義さを感じていた? 

 ……もっと幼い頃から、ずっと?

 

 

 私は自分の知能に自信があった。この瞬間までは。

 いくら頭がいいとはいっても、私ごときは所詮人間の平均と比較して上というだけの話でしかない。

 だが、ハカセは違う。間違いなく常人の枠を飛び越えている。脳が機械でできているのではと疑うレベルの演算力だ。

 今はまだその才能に誰も気付いていないだけ。誰も彼を評価できるだけのレベルに達していないだけ。

 いずれ彼は優れた学者かエンジニアになって、誰もが驚くようなとてつもない偉業を成し遂げるに違いない。

 

 そして私は、置いていかれる。

 勉強では彼の手を引っ張って歩いているつもりだった私は、いつか頭角を顕した彼についていけなくなって、遥か後方に置き去りにされてしまうだろう。

 

 彼の才能に気付いたときに私が真っ先に感じたのは、その恐怖だった。

 

 

「……ありす? どうしたの? なんかこわい顔してるけど」

 

 

 ハカセは無邪気な顔で、心配そうに私を見つめている。

 私は何でもないよと首を振った。

 

 

「これはね、一段ずつ掛け算して、その数字を書けばいいのよ」

 

「そうなんだ。でも、どうしてそんな回りくどいことするの? 見ただけで答えなんて一瞬でわかっちゃうのに」

 

「これはそういうものなの」

 

「そうなんだ。よくわかんないけど、ありすが言うならそうするね。ありがとう! ありすは物知りで頭がいいなあ」

 

 

 私は次の日から中学校の範囲までの参考書を買い漁り、密かに自習を始めた。

 ちょうどこの頃にママが勤めていたレストランを辞めて、私がハカセの家で晩ご飯を食べる習慣もなくなったから、自由になる時間はいくらでもあった。

 

 とにかくハカセに置いて行かれるわけにはいかないという強迫観念が、私を突き動かしていた。今から少しでも勉強して、ハカセからアドバンテージを稼いでおかなくてはいけない。

 

 中学ではまだハカセも才能に開花しきらず、公立校に行くだろう。

 だけどその先はわからない。高校は進学校に行くかもしれないし、大学では海外に行く可能性だってある。

 

 どうしてもハカセと一緒の速度で歩きたい。ハカセと同じ学校に行きたい。

 彼と手をつないだまま、私は人生を生きていきたいのだ。

 

 

 そんな努力と執念の甲斐あって、私はスペックの良い頭脳にしっかりと知識を詰め込むことができた。

 あまりにも熱心にやりすぎて風邪を引いて倒れてしまい、お見舞いに来たハカセに参考書を見られてしまったのは一生の不覚だったけど……。絶対に努力しているところを知られたくない相手に知られてしまった。

 

 でも、その後ハカセにえらいえらいってほめてもらえたのはすごく良かった。ママがパパに甘えているのを真似て、子猫になりきって全力で甘えた経験といったらもう……。思い出すだけで身をよじってしまう。

 いつかまた、何かにかこつけて甘えたい。ママがパパに甘えたがる気持ちがよくわかった。

 私はハカセを甘やかすのも好きだし、甘やかされるのも好きみたい。もっと溺愛されたいな。

 

 

 ともかくそれでアドバンテージを稼いだ私は、勉強では敵なしだった。

 テストが易しい小学校だけではない。

 中学1年生の時点で、私は高校相当の学力を持っていた。

 

 さらに中学に上がって早々に、私は早速『声の力』を使ってクラスメイトを掌握し、ハカセをいじめさせないようにネットワークを構築。カラオケに連れて行って歌声を聴かせるだけで、面白いように好意を稼ぐことができた。

 

 ついでにママが所属している事務所の伝手で、読者モデルのバイトも始めた。

 ママを動画配信者として売り出すために、私は初期の頃はママの料理を食べて感想を言う役として出演していた。『声の力』でママをよろしくとアピールしたおかげで、熱心なファンも付いたようだ。ママだけでなく、私にも。

 私に向けて変な人からセンシティブな書き込みが付くようになったらしく、ママからもう出ないようにと言われてやめたけど……。

 

 この人気に目を付けた女性雑誌の編集者が、私を読者モデルとして使いたいと持ち掛けてきた。悩んだ末に、OKした。ハカセの両親が経営している事務所が面倒を見てくれるという安心感もあった。

 私自身、小さい頃から『声の力』がない自分にはどれだけの魅力があるのか知りたかったのだ。それを知る絶好のチャンスだと思えた。

 幸い結構人気があったようで、それも私の自信になった。

 特にハカセがこっそり私が出ているページをコレクションしてるとみづきちゃんに教えてもらったときは、嬉しすぎてベッドにゴロゴロ転がり回ったっけ。

 

 ただ、そのままアイドルデビューしないかと言われたのは困ったけど。

 読者モデルって、本当はアイドルとかタレントの登竜門らしい……。もう不特定多数に声を聴かせるのは嫌だから断っているけど、それはそれで他の芸能界デビューしたい子の枠を奪ってることになるわけで、ちょっと申し訳ない気はしてる。

 

 

 そんないくつかの要因があって、中学入学当時の私は最高にノっていた。

 学力、人気、容姿、どれをとっても間違いなく完璧。

 特に学力については、ついに長きにわたる密かな努力が報われたという達成感を感じる。今なら自分にできないことはないという全能感に満ち溢れていた。

 

 

 つまり私は、全力で調子に乗っていた。

 だから、あんなバカなことをしてしまったのだ。

 

 

「だからさぁ、素直に私に負けを認めろって言ってるの。今更駄々をこねるなんてみっともないよぉ?」

 

 

 思い出すのも嫌になるような、頭の中から消し去りたい記憶。

 

 中学1年生の中間テストで完璧な成果を出した私は、ハカセに絡んだ。

 

 

「もー! 私の方が成績が上だよって話してるの! もう自分の方が頭いいなんて言わないわよね。アンタが下、私が上! これでお互いの立場がはっきりしたでしょ?」

 

「私より格下の雑魚の分際で、これまで生意気にも歯向かってごめんなさい、これからは心を改めますって謝って♥」

 

 

 そんな大それたことをするつもりじゃなかった。

 ただこの時点では自分はハカセよりも勉強ではリードしているということを示したいだけだった。

 ハカセにすごいね、頑張ったんだねと褒めてほしいだけだった。

 

 ただハカセに認めてほしかった。

 私の努力と、自分はあなたと並んで歩ける才能があることを。

 

 だけど調子に乗っていた私は、自分の方がハカセより上なのだと生意気な態度で絡んでしまったのだ。

 

 

「じゃあとりあえず謝罪の証として、私に土下座しなさい。ど・げ・ざ♪」

 

 

 今思い返しても、なんであんなバカなことを言ってしまったんだろう。

 

 一応の分析としては、この頃にはハカセも随分自意識が発達していて、生意気な返しを口にするようになっていた。根は昔どおり素直で可愛いんだけど。

 私の言うことを素直になんでも受け入れるハカセに慣れていた身としては、なんだかハカセとの距離が開いたようで焦っていたのだ。

 何としてもハカセの方が下なのだと認めさせないと、彼が自分の元から去ってしまうのではないかという危機感を感じていた。

 

 それにしたって、やりようというものがあったのに。

 

 

「私アンタの言葉の暴力ですっごい傷付いたんですけど!? ねえ、こいつ土下座して詫びるべきよね! みんなもそう思うでしょ?」

 

 

 最悪なことに、私は支配下にあったクラスメイトたちを自分の手で焚き付けてしまった。

 

 その結果どうなったか? 言うまでもない、暴走だ。

 数十人もの人間の悪意を、たかが13歳の小娘ごときが制御できるわけもない。かつての魔女たちは人の心を操り切れなくて命を落とした。その教訓を、愚かな私は何も理解できていなかったのだ。

 

 彼が数十人のクラスメイト全員から罵倒を浴びせられ、よってたかって押さえつけられ、強引に床に頭を打ち付けられて土下座を強要されるのを、私は真っ青な顔で見ているしかなかった。

 血気盛んな中学生の暴力を目の前にして、完全に足がすくんでいた。

 下手に止めたら、どうなるかわからない。

 

 

「どう? これが私とアンタの格の違いってわけ。思い知ったかしら?」

 

 

 内心でパニックを起こしながら、私はなんとかうまく着地させようと高慢な態度を装った。

 

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 こんなつもりじゃなかった。

 

 

 ああ、額から血が流れている。

 私が愚かなばかりに、あなたを傷付けてしまった。

 いじめから守りたかったはずのあなたを、私はこの手で傷付けてしまった。

 その体を。その尊厳を。私に向けられていたはずの気持ちを。

 すべて穢してしまった。

 

 

「ああ、わかった。今はお前の立場が上だよ。それは認める。……だが、いずれ絶対にわからせてやる」

 

「お前より僕が上だと、無理やりその脳みそに刻み込んでやるからな……!」

 

 

 怒りに燃える彼の瞳と言葉が、震える私に浴びせかけられた。

 

 ……もうおしまいだ。何もかも。

 私が自分の手で台無しにしてしまった。

 

 

 それからどうやって家に帰ったのか、覚えていない。

 

 私はその夜ベッドに横になりながら、スマホに収めた彼の写真や動画をずっと眺めていた。

 眺めるうちにシーツが涙でべとべとに濡れて、とても気持ち悪かった。

 だけどそれは私の自業自得なのだ。すべて私が悪いのだ。

 どんな罰でも受け入れたい。時間を戻せるのなら、何を代償に支払ってもいい。

 だけどそんな都合の良い赦しなどあるわけがなくて。

 

 私はハカセを傷付け、裏切ってしまったことの重さを受け入れるしかなかった。

 

 

「ごめんね……ごめんね、ハカセ……」



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第65話「恋する瞬間」

(もうこのまま消えちゃいたい……)

 

 

 やらかしてしまってから数日、私はとことん落ち込んでいた。

 申し訳なくてハカセの顔をまともに見ることができない。

 本当は謝りたいけど、あのときハカセが見せた激怒の表情と言葉が頭にこびりついて、脚がすくんでしまっていた。

 

 ハカセがあんなにも怒ったのを見るのは初めてだ。誰にどんな悪口を言われても、殴られても蹴られても、彼は一度として怒った様子を見せたことはない。もちろんハカセがそんなことされたらすぐに私が怒って制裁するけど、そもそもハカセは他人の悪意を気にも留めない。

 多分心底どうでもいいと思ってるのだ。その人を対等な人間だと認識していないと言ってもいい。

 

 逆に言えば私に対して怒ったのは、私がハカセにとって対等な存在だと認識できる特別な人間だということ。私とハカセはそれだけ深く結びついている。

 ……そんな大切な存在だと思っていてくれるハカセを傷付けてしまったことが、ひたすらに辛い。どう謝ればいいのかわからなかった。

 

 

「元気だしなよありす」

 

「そうだよー、らしくないよー」

 

 

 落ち込む私の周囲に女子たちが集まってきて、あれこれと励ましの言葉を掛けてくれているが、正直鬱陶(うっとう)しいだけだった。私は彼女たちにまったく心を許していない。

 こんなときは放っておいてほしい。雑に励まされてもイライラするだけだ。私がそんな風に思っていることすらわからないのに、表面上だけ友達ぶらないでほしい。

 特にそこの……佐々木(ささき)沙希(さき)、だっけ? ちょっと根暗な雰囲気がある女子にちらりと目を向けた。

 いつの間にか私の取り巻きに加わっていた子だ。私に取り入っていればうまくスクールカースト上位に潜り込めると思っている節が見え隠れしていて、口を開けば他人の悪口ばかり言っているので正直不快な子だった。

 

 らしくないってなんだ。あなたが私の何を知ってるの? クラスの女王様みたいに振る舞ってる私が本来あるべき姿だとでも? そんなの、ハカセを守るための擬態(ぎたい)に過ぎない。いつもハカセのことで頭がいっぱいの私こそが、本当の私だというのに。

 

 一瞬怒鳴りつけたくなったが、意味がないので感情を落ち着かせる。

 それよりも今はいつも通りを装って、クラスを統制する方が優先だ。バカなクラスメイトたちが調子に乗って、ハカセをいじめのターゲットにしないように徹底させておく必要がある。

 

 私が内心の怒りを抑えて作り笑顔で受け答えしていると、彼女たちは私に彼氏を作るように勧めてきた。サッカー部の先輩らしい。

 ……バカも休み休み言ってほしい。そんな男子まったく興味がない。

 少なくとも『声の力』が効かないのが最低条件。それに馴れ馴れしい人は嫌いだ。会ったこともないくせに付き合いたいと言ってくるような男子なんて論外。

 

 だけど彼女たちを統制するために、ここは機嫌を取る必要があるだろう。

 私は仕方なく頷く。

 

 そのとき、佐々木沙希がチャラついた笑顔を浮かべながら言った。

 

 

「そーそー! サッカー部のがずっとお似合いだよ! あんなのチョーキモいし暗いしさ。ホント何考えんのかわかんないもんね」

 

「……今なんて言った?」

 

 

 衝動的に込み上げる殺意を隠さずに聞き返す。

 私はこれでも自分を寛大な人間だと思っている。おばあさまに理性的であれと(しつけ)けられて育ったから。強気に振る舞ってはいても誰彼構わず威圧的に振る舞ったりはしないし、滅多に怒ることもない。

 

 そうだ、私のことはいい。何を言われてもそうそう怒りはしない。

 だけどハカセのことは別だ。ハカセを軽く見られることは、何よりも我慢できない。世界で一番大切なものを愚弄されて、黙っていられるほど人間ができていない。

 

 佐々木は引きつった顔で周囲を見まわして助けを求めているが、誰も助ける様子はない。当たり前だ。普段から他人をバカにして自分を高みに上げようとする人間なんて、誰が助けるもんか。

 

 

「お前にあいつの何がわかるの?」

 

「えっ……あっ……? だ、だって……」

 

 

 このまま『死ね』と命令してしまおうか。こんなやつ、いても何の役にも立たない。不快な人間が減ってみんなもすっきりするだろう。

 

 血が昇った頭でそんなことを考えながら、心の中の理性がやめなさいと訴えかけてくる。

 こんなくだらないことで殺人なんて、割に合わないことはやめなさい。あなたはハカセとうまくいってないから、他人に八つ当たりしたいだけ。自分の愚かさを嫌がりながら、さらに愚かな行動を重ねてどうするの。

 ……それに、ハカセはそんな醜い八つ当たりをする女の子は嫌いになるわよ。

 

 最後に付け加えられた理性の訴えに、すっと頭から血が下がっていく。

 そうだ、ハカセにこれ以上嫌われるわけには……。

 

 

 そのとき、ハカセが席を立って教室を出て行った。

 この子に何をしようが、もうハカセにはわからない。

 ……だけど、なんだか急に馬鹿らしくなってしまって、私はため息を吐いた。

 

 

「お前は絶交よ。二度と私の前に顔を出さないでくれる」

 

 

 こんなのに『声の力』を使うまでもない。

 私はグループから出ていけと告げた。出て行った後でこいつがどうなろうが、私の知ったことじゃない。

 私の取り巻きだから何を言っても許されるポジションになっていたようだが、そのツケを払うことになるだろう。それも自業自得だ。

 

 

「そ、そんな……だって、私はよかれと思って……」

 

「それ以上口を開くな。殺すわよ」

 

 

 本気の警告だった。よく中学生が口にする冗談の脅しなんかではない。

 私が怒りを抑えきれずに『声の力』を乗せてしまえば、それは絶対遵守(ぜったいじゅんしゅ)の命令となる。『死ね』と命令すれば、彼女は今夜自分の部屋で首を吊るだろう。古の時代には『魔女の呪い』と表現された、殺傷力のある言葉だ。

 

 魔女にとっては他人に向ける一言一句が、実弾の入った銃口を向けているに等しい。理性が安全装置(セーフティ)で、感情は引き金(トリガー)。会話はとても神経をすり減らす行為だ。

 あのおばあさまですら、万一の暴発を恐れて家事手伝いとは極力会話を避けていたくらいなのだから。

 

 私の言葉に『本物』の凄みを感じたのか、ヒッと悲鳴を上げて佐々木は教室を飛び出していく。恐怖に背中を押され、今にも転びそうな勢いだった。

 

 

「…………」

 

 

 周囲を見ると、生徒たちが私に恐怖と動揺が入り混じった視線を向けていた。見返すと私と視線を合わせないように、慌てて下を向く。

 

 形としては私は不用意な言葉を口にした下っ端を仲良しグループから追放しただけに過ぎない。

 だが、そのやりとりから隠し切れない物騒な臭いと殺意を感じてしまったのだろう。

 気まずいを通り越して、恐怖に彩られた空気が漂っていた。私の怒りを買えば、次は自分が命を落とすかもしれないという怯えた気配。

 

 

「……顔を洗ってくるわ」

 

 

 そう言い捨てて、私は教室を出る。

 生徒たちが私を避けるようにじりっと後ずさりして道を開けたのが印象に残った。

 

 

 

(あぁ……このまま消えちゃいたい……)

 

 

 私はずーんと落ち込みながら、背中を丸めて廊下をとぼとぼと歩いていた。

 背筋をピンと伸ばし、取り巻きに囲まれながら歩くいつもの姿とは程遠い。

 だけどハカセが見てもくれないのに、何でそんな演技をする必要があるの?

 

 私がスクールカースト上位にふさわしい態度を取る理由は、ひとつは生徒たちを支配してハカセをいじめさせないため。そして、もうひとつは高嶺(たかね)の花の女の子に擬態するため。

 そう、この頃の私はハカセにとって価値の高い女の子でいたかった。

 自分がそうやすやすとは手に入らないような……スクールカースト上位で高飛車な美少女という、誰にとっても憧れの存在であったほうが、いざハカセと付き合えるようになったときにハカセが喜んでくれるはずだと思い込んでいたのだ。

 

 信じられないほどバカな女の子だった。

 そもそもハカセがそんな感性を持ち合わせているわけがない。ハカセは他人には手が届かないような高嶺の花の女を口説き落として喜ぶような下劣な人間ではない。もっと超然としててピュアな、私そのままを愛してくれる男の子なのだ。

 

 自分の価値を高く見せることに意欲を燃やすくらいなら、私にはもっと先に解決すべきことがあったというのに。驕った態度で高嶺の花に思わせれば、ハカセが告白してくれるとでも思ったのか。

 思春期の熱に浮かされた、高慢で中身空っぽな愚かな子だったと自分でも思う。

 

 

(私なんて本当は友達いないし……嘘つきだし……家だとうじうじしてるし……。ハカセにも見捨てられて……生きてる意味あるのかなぁ……)

 

 

 ただただ理由もなくここから消えてなくなっちゃいたいなあ。

 突然神隠しにでも遭わないかなあ……。

 

 そんな後ろ向きなことを考えながらお手洗いに入ろうとしたそのとき。

 

 

「おい、ありす!」

 

「……っ!?」

 

 

 ハカセが勢いよく、こちらに向けて走ってくる。

 その表情が明らかに怒っていて、私は反射的に視線を切って逃げようとした。

 もうこれ以上ハカセに怒られたくないよぉ……。

 

 しかしハカセは意外な速さで私の腕を取ると、そのまま廊下の壁にドンッと押し付けてくる。そして私の頭の上に右手を置いて、じっと顔を覗きこんできた。

 

 彼の息を感じるほどの近い距離で、私を真剣な顔で見つめている。

 

 

(はわわわ……っ!? こ、これっていわゆる壁ドンってやつじゃ……)

 

 

 オロオロする私の思考に、冷静になろうと理性ちゃんが呼びかけてくる。

 ハカセが壁ドンなんて知ってるわけないでしょ。どうせたまたまそういう態勢になっただけだから落ち着こうね。

 

 ……うん、わかってる。わかってるけどそれでもドキドキするのよぉ。

 

 中学生になって身長が急に伸び始めたハカセは、女の子としては長身な私より少し背が高いくらいになっていた。

 いつも意図的に彼の席に座ってスキンシップを図っている私だけど、これほど顔を近づけたのは小4のときに子猫ごっこして甘えたとき以来で、思わず上目遣いで彼の顔のパーツをじーっと見てしまう。

 

 

「お前、何僕を避けてんだよ」

 

 

 彼に責めるような口調で言われて、私はハッと我に返った。

 そういえば今ケンカしていたのだ。

 直前まで今にも死にたい、合わせる顔がないと思っていたくせに、ハカセに迫られると嬉しくてすっかり忘れてしまうとは我ながらチョロすぎる。何が高嶺の花だ。……でも仕方ないじゃない、寝ても覚めてもハカセで頭がいっぱいなんだもん。

 

 私は彼に怒られていると感じて、しゅんと目を伏せた。

 

 

「だって……あんた、頭から血が出て……それに許さないって」

 

 

 あそこまでするつもりじゃなかった。

 調子に乗りすぎた。償えるなら何でもしたい。

 だけどハカセがあんなに怒ったのを見るのは生まれて初めてで、そうやすやすとは許してもらえるわけもない。普通なら絶交されて当然の仕打ちをしたんだから。

 

 しかしハカセは、きょとんとしたような顔で首を傾げた。

 

 

「許さない? そんなこと言った覚えないけど?」

 

「……!?」

 

 

 まさか。

 いくらハカセでも、あの強烈な出来事を忘れるわけがない。

 いずれ絶対に自分の方が上だとわからせてやるとかなんとか、そんなことを言っていたはずだ。

 それでもあえて今の言葉を口にしたということは……。

 

 

「許して……くれるの?」

 

 

 すがるように問い返すと、ハカセは首を横に振った。

 

 

「いや、あの屈辱は生涯何があっても忘れるつもりはないけど」

 

「えっ?」

 

 

 どういうこと? やっぱり怒ってるの?

 いえ、怒ってて当然よね。

 それでもその怒りを飲み込んで、もう一度仲直りしようと言ってくれている、ということ?

 

 ……なんて優しい男の子なんだろう。

 

 私なんてこの期に及んで意地っ張りで、自分から謝ることもできないのに。

 それを見越して、ハカセの方から仲直りを申し出てくれたんだ。

 

 だけど私はどんな顔をしてその申し出を受け入れればいいのかわからず、困ってしまっていた。

 すると彼は私の迷いを断ち切るように、力強く励ましてくれたのだ。

 

 

「とっとといつものお前に戻れ! 僕はお前がいつも通りじゃないと、調子でないんだよ!」

 

「…………!!」

 

 

 思わずぽろっと瞳から雫がこぼれ落ちた。

 ハカセったら、いつの間にこんな気遣いができる男の子に成長したんだろう。いつも彼の手を引いて歩いていた小学生の頃とは全然違う。

 彼から許された嬉しさと、彼の成長への感動が半分ずつ混ざり合った涙だった。

 

 ……そういえば、彼がこんな生気ある表情をしていたことってあったっけ。

 私はまじまじと彼の顔を見つめる。

 

 最近は本をよく読んで語彙もすごく増えたけど、やっぱりどこかぼーっとしてる感じがあったのに。

 なんだか急に自我がしっかりしたというか、魂に芯が入ったというか。まるで生きる目標を見出したとでもいうような、強い意思が感じられる気がする。

 

 ……これまでのぼーっとしてて素直なハカセも好きだけど、今のキリッとしたハカセの顔ってすごくカッコいいなぁ。

 

 

「っ!」

 

 

 私は彼の顔をぽーっと見つめるうちに顔が紅潮してきたのを感じて、慌てて彼の手を払いのけた。

 この頃特有の自分を高く見せたい病の症状のひとつ、恥ずかしがり屋が発動してしまったのだ。彼に見とれているところを見られたくないという、難儀な病気だった。

 

 

「……近いわよ! 調子に乗らないでよね!」

 

 

 私がつんっとした顔を作ると、ハカセは嬉しそうに笑った。

 

 

「おっ! いいぞ、そっちは調子が出てきたな。よしよし。これからもそんな感じでいてくれよ」

 

「は? アンタに言われるまでもないけど? ハカセのくせに私に意見するなんて生意気よ!」

 

 

 あー、私なんでこんなこと言っちゃうんだろ……と内心で頭を抱える。

 せっかくハカセの方が許してくれたのに、可愛くない女だよこんなの。私はもっとハカセに可愛いって思われたいのに。

 

 そんなことをうじうじ思っていると、ハカセがとんでもないことを口にした。

 

 

「お前みんなのところに戻る前にトイレ行って鏡見とけよ。涙で目真っ赤だぞ。放課後にカラオケでサッカー部の先輩と遊ぶんだろ?」

 

「……!?」

 

 

 このいい雰囲気で、そんなこと言う!?

 しかも他の男と遊んできていいよ、なんてどういうつもりよ。

 私が他の男に取られてもいいの? ハカセのくせに大人の余裕出してるつもり? いえ、ハカセがそんなことできるわけないから、単純に私のことどうでもいいとか? ……万が一にも、そんなことないわよね。

 

 ……っていうか私に壁ドンしてドキドキさせたり、他の男と遊びに行っていいよなんて言い出したり、私の感情こんなにめちゃめちゃにひっかき回して!

 私がどんだけアンタのことで悩んでると思ってるのよぉ!

 

 もー、このおバカーーーーっ!

 

 

「行くわけないでしょ!!」

 

「そう? 鏡は見た方がいいと思うけど」

 

 

 ハカセのボケボケな返しに、私は脱力のあまりすっころびそうになった。

 なんでそこはいつも通りズレてるのよ!

 そもそも年頃の女の子にトイレ行けとか言うな! この子本当にデリカシーないんだから!

 

 

「カラオケによ! バカじゃないの!?」

 

 

 するとハカセは心からほっとしたといわんばかりの安堵の笑みを浮かべた。

 

 

「……なーんだ。カラオケは行かないのか」

 

 

 その笑顔を見るなり、私は肩を怒らせながらきびすを返して教室へと引き返した。

 いかにもアンタの無神経に怒ってますよーっていわんばかりに。

 

 ……もちろん、そんなわけがない。

 頬が自然にニヘーと緩んじゃって止められなかった。この顔を彼に見られるわけにはいかない。

 この心はとっくに彼のものだけど、乙女のプライドまでは安売りできない。

 

 自然とスキップを踏んでしまいそうなほど軽い足取りを彼の視界から出るまでは我慢しつつ、私は胸の高鳴りを持て余していた。

 

 思えば、ハカセからドキドキを感じたのは多分この瞬間が初めてだった。それまでずっと友達や兄妹のように一緒にいたし、いずれは結婚したいと思っていた。だけどそれは結婚という契約が、ずっと一緒にいるという約束を具体的なものにできる都合のいい形だったからだ。

 

 でも。

 

 ……壁に押し付けられたときの、ハカセの表情を思い出す。

 

 胸の中から噴き上がるような、激しい情熱に満ちたキリッとした顔つき。

 とてつもなく高い目標に向かって突き進む決意がみなぎる、男の人の顔。

 そしてどれだけ目標が遠くても、必ず成し遂げるだろうと感じられる知性を宿した瞳。

 

 そのすべてが至近距離から私に向けられていて、お前がいつも通りでいてくれないと元気が出ないと言ってくれた。

 こんな私が必要なんだと言って、罪を許してくれた。昔から変わらない彼の優しさが、これまでよりもずっと価値あるものに感じられる。

 

 彼の顔と声を思い浮かべるだけで、胸のドキドキが収まらない。

 ……私はこの日、恋に落ちたのだ。

 

 

 胸に浮かんだ想いを噛みしめ、抑えきれない嬉しさにほくそ笑む。

 

 

(そっかぁ。私に他の男の子と遊んでほしくないと思ってくれるんだ……♪)




心が未熟な時期なのでありすの良識もまだまだ歪んでいますが、
あと数日成長を見守っていただければと思います。


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第66話「心からの祈りを込めて」

「ハーカセ♪ 何読んでるの?」

 

 

 それは中学1年生の秋の始まりのこと。

 

 ハカセのところへ休み時間に遊びにいくと、何やら真剣な顔でタブレットを眺めていた。

 きっとマンガを読んでるんだろうと思って、軽く声をかけながら背後に回り込む。

 

 ハカセはマンガを読むのが趣味だ。いや、趣味というか使命感に近いものを持っている。昔、他人への共感性が極度に欠如しているハカセに、マンガを読んだら他人がどんな風に思考してるのかわかるんじゃない? と私がアドバイスしたのだ。大体の子供はマンガを読みながら情緒(じょうちょ)を発達させているわけだし。

 

 それ以来、ハカセはジャンルを問わずにマンガを読んでいる。少年マンガが多いようだが、それは彼くらいの年齢の子供が読むものだからで、少女マンガや青年マンガも読む。彼はそうやって人間を研究しているのだ。

 残念ながらその成果は出ていないようで、感想を訊くととんちんかんな誤解ばかりしているけれど。

 

 だからいよいよタブレットに電子書籍を入れて学校でも読み始めたのかなと思って覗きこんだ私は、目が点になった。

 論文らしき文章にさらさらと目を通している。1ページあたりかなりの速度で読み込んでいるようで、頻繁に画面をスワイプしていた。

 しかも日本語ではなく、英語だ。私でも知らないような難しい単語がいっぱい出て来る、すごくお堅い文章だった。

 

 

「……何読んでるの?」

 

 

 私がもう一度訊くと、すごく集中していたハカセはようやく私の存在に気付いたようで、顔を上げた。

 

 

「ああ、来てたんだ。知人にもらった本を読んでたんだよ」

 

「ち、知人……!?」

 

 

 私はハカセに知人なんてものがいることが信じられずに訊き返した。

 私以外には家族くらいしか人間を個体認識できないハカセに知人!?

 そんなものがこの世に存在するの? 何か騙されてるんじゃ……。

 

 ハラハラする私をよそに、ハカセは何てことないように続ける。

 

 

「ネットで知り合ったんだ。すごい人たちなんだよ。すっごく頭がよくて、物知りで、僕にいろんな本を売ってくれたり、ゲーム感覚でできるバイトを紹介してくれたりするんだ」

 

「ふ、ふーん?」

 

 

 しかも個体認識できていて、複数人いるらしい。

 正直信じられない。

 ハカセに人として認識されるなんて奇跡がそうそう起こるものなのか。

 

 いや、信じられないといえば英語の本を読んでいることもそうだ。

 ついこないだまで、別に英語のテストの成績もよくなかったはず。それが今は当たり前のようにさらさらと目を通している。

 

 

「……いつ英語読めるようになったの?」

 

「夏休み終わってから勉強したんだ。1カ月あればマスターできたよ。文法は参考書読めばいいし、単語は英和辞書を丸暗記すればいいわけだから。学校の先生って教え方下手だったんだね、これを教えるのに中高6年間もかける意味がわかんないよ。本気で覚えれば1カ月で終わるのに」

 

 

 とんでもないことを当たり前のように言った。

 それが異常なことだと認識していないらしい。

 

 ハカセはどうも自己評価が低くて、自分にできるようなことは別に誰でもできるし、大したことだとも思っていないようだ。そのくせ自分にできないことをやってみせられると、すごいすごいと驚く。

 

 いや、でも……もしかしたら英語を読めている気になっているだけかもしれない。本当はとんちんかんな理解をしているのかも。

 私は念のためにタブレットを指さしてみる。

 

 

「その本はどういう内容なの?」

 

「人間の意識はどこにあるのかっていう論文だよ。脳の表面にある大脳新皮質(だいのうしんひしつ)が合理的な思考や分析力、言語機能を司ってるというのが定説なんだけど、これは人間は大きく、知能が低い動物ほど小さいんだ。だから人間が複雑な論理的思考をできるのはここのおかげだと言われている。他にも脳には本能を司る辺縁皮質(へんえんひしつ)や自律神経を司る間脳(かんのう)とかいろいろ詰まってるわけだけど。そんなわけで脳が思考の中枢であることは間違いないが、じゃあ脳だけが心を司るのかといえばそうでもないらしくて、腸でも脳内物質が分泌されているんだって。それなら人間は脳と腸が対話することで意識を成立させているのではないかって仮説を、海外の学者が臨床例を交えながら説明しているんだ」

 

 

 私はハカセが饒舌(じょうぜつ)に語っているのをぽかーんと見つめていた。

 正直話している内容を理解できない。

 いや、何を言っているのかはわかるが、それがハカセの口から出ているということがまず信じられなかった。

 

 

「……そんな知識、いつ勉強したの?」

 

「いつって毎日だけど。さい……いや、人間の心に興味があって、いろんな本を毎日読んでるんだ。実質タダみたいな形で本を売ってくれるから、すごく助かってるんだよ。マンガで勉強してたらお小遣いも厳しかったし、これからはマンガは卒業してこっちで勉強しようと思うんだ」

 

 

 まるで人間の心に興味があるからマンガ読んで研究します、みたいなふざけたノリの延長線上でそんなことを言う。

 

 

「そ、そうなんだぁ……あははは……」

 

 

 私はもう笑うしかなかった。

 何が高校の範囲まで自習を進めてるからハカセと同じ速度で歩める、だ。

 私がそんなことに精一杯になってる間に、ハカセは高校なんて飛び越して大学レベルのことを学び始めていた。

 

 ハカセはやっぱりすごい。

 所詮は優秀な常人でしかない私じゃ追いつけないのかもしれない。

 

 そう思いながら彼の顔を見ると、なんだか一段と知的な顔つきになってきた気がする。相変わらず無表情で何を考えてるのかいまいちわからないけど、少なくとも小学生の頃のようなぼーっとした心が定まらない感じは既にない。

 逆に何を考えているのかわからないところが気になるというか。知性を感じさせるきりっとした顔立ちにミステリアスさが加わって、神秘的になったっていうか……。

 

 

 はっ、ついまじまじとハカセの顔に見入っちゃった。

 私は誤魔化すように、視線を外す。

 

 それにしても……。

 私はなんだか嬉しくなってしまった。

 ハカセがとっくに私の上を行っていたことはショックだったけど、ここまでやられるともう私がどうにかできることではないと思えて、逆にすっきりした。

 

 それまでの私はことあるごとに彼を挑発して、生意気な態度を取り続けていた。私はあなたの横に並んで歩ける能力があるんだよと示したかったから。だけど、そんなことしなくてよかったんだとそのときやっと気付けた。彼と並んで歩くために、同じ能力を持っている必要はない。

 私はハカセが大学に行くまでにつまずくであろうハードルを、無事に乗り越えられるように手伝ってあげればよかったんだ。凡人なら簡単に潜れるハードルを、天才の彼は飛び越えようとしてうまくいかないこともあるだろうから。それこそ国語の問題とか。

 

 それに、私の母国語を覚えてくれたことも嬉しかった。

 なんだか私をまたひとつ知ってもらえたような気がして、心が浮き立つ。

 

 

『さては私のために英語勉強したの?』

 

 

 私がニヤニヤしながらからかってやると、彼は顔をしかめる。

 

 

『そんなわけあるか』

 

 

 まだ拙い発音だが、英語で返してくれたことに心がほっと温かくなる。

 彼と英語で言葉のキャッチボールができたことが嬉しい。

 

 

「まだまだね。よかったら、いつかイギリスを案内してあげよっか? 現地でイギリス英語も話せない田舎者だってバカにされないように、練習に付き合ってあげるわよ」

 

 

 なんてね。

 ほとんど外に出たことなんてないから私もイギリスを案内できるほど知ってるわけじゃないし、英語はおばあさまからしか覚えてないけど。

 

 

「クソッ、バカにするなよ。イギリス英語? マスターしてやるからな!」

 

「ふふーん? 楽しみにしてるわよ」

 

 

 私はそうやって彼を挑発して焚き付けながら、心の中では満面の笑顔を浮かべていた。

 いつかおばあさまにアンタを紹介したいな。頑張ってね、ハカセ。

 

 その日から、私は少しずつハカセに生意気な態度を取ることがなくなっていった。

 一度被った強気な女の子という仮面はなかなか剥がれなかったけど、ハカセとウィットに満ちた軽口をぽんぽん投げ合えるのはそれはそれで楽しい。

 でもいつか小学生の頃みたいに、素直に手を繋いで歩ける日が来るといいな。

 

 

 

 

 それから時は流れ、中学2年生の春。

 

 

「ありす、ちょっと校舎裏まで付き合ってくれないかな」

 

「……は、はひっ!?」

 

 

 真剣な顔のハカセにそんなことを言われ、私はドギマギしながら頷いた。

 

 これってもしかして告白? だよね、『校舎裏』で『付き合って』なんてそれしかないよね!

 いやーまいったなー。ハカセも最近グッと知的な雰囲気になってきたし、私としては今の時点でも十分アリなんだけどー。でもなー、正直言えば『まだ尚早』っていうか。もうちょっと私の好みに熟れてから告ってほしい気もするしー。

 

 アホな私は相変わらず無駄に自分に高値を付けたがって、内心で腕組みしながらそんなことを考えていたが、さらにその内心はウキウキで飛び跳ねていた。

 きゃー! ハカセから告白してくれる!? 嬉しい嬉しい! ふたつ返事でOKしちゃう。あーもう照れるー。ハカセ好き好き。もしかしたらその流れでファーストキスまでされちゃう? えーどうしよう!

 

 カッコつけたい私と大喜びの私がどんな態度でOKすべきか内心で喧々諤々(けんけんがくがく)大討論する中、私はドキドキしながら顔を赤らめて彼の後ろをちょこちょことついていった。

 

 

 が。

 

 

「ありすの声が欲しいんだ。スマホに録音させてくれない?」

 

 

 ハカセから言われたのは、まったく予想もしないお願いだった。

 

 私、あんなに浮かれてバカみたいじゃん……。

 

 

「……私の声を録りたい? なんで?」

 

 

 思わずつっけんどんな口調で返してしまう。

 

 期待がはずれてがっかりしたというだけではない。

 なんで私の声を録音したがるのか、という疑問があった。

 

 自分で言うのもなんだが、私の『声』は凶器だ。

 扱いようによっては文字通りの意味で人を殺せる。

 もちろん普段はそんなことにならないようにコントロールはしているけど。

 

 毎年夏休みにおばあさまに会いに行くのは、『声の力』を制御する訓練をするためでもある。原理は私もよくわからないけど一族に伝わる発声法というのがあって、意識することで声に『力』が乗らなくなるのだ。逆に意識的に『声の力』を強化することもできる。

 

 危険な力だからこそ、そうやすやすと人前には晒せない。

 ハカセが私の『力』に気が付いていることはまずないとは思うが、何故私の声を録りたがるのかは確かめておかなくては。

 もしも私の声が欲しいから録音してきてくれ、と誰かに頼まれていた場合なんかは最悪だ。不特定多数の間に広まるなんて事態は絶対にまずい。

 

 

「それは催……」

 

「さい?」

 

「いや、睡眠誘導に使いたいと思って」

 

 

 睡眠誘導。それは聞いたことがある。

 ほら、あの少女マンガ雑誌の付録に時々ついてくる『お休みCD』とかでしょ? 男性声優が演じるキャラが添い寝してくれるとかそういうの。

 一度使ってみたことがあるけど、知らない男の声がぼそぼそ囁いてくるのはなんか合わなくてやめたっけ。

 

 そっかぁ、ああいうのを私にやってほしいんだ。

 ふーん、なるほどなー。

 

 つまり私に『愛してるわ』とか『寝顔が可愛いね、食べちゃいたい』って耳元で囁いてほしいってことよね。

 ……きゃー! きゃーきゃーきゃー!

 

 それ、なんかエッチじゃない!?

 そうなんだ、ハカセって私に耳元でそんなこと囁いてほしいんだ……。

 

 

「私の声を聴いて眠りたい……ってこと?」

 

 

 思わず上目づかいでもじもじしながら訊いてしまう。

 するとハカセも、なんだか急に照れたような顔でほんのり赤くなり、視線を逸らしながら頷いた。

 

 

「うん、そういうこと」

 

 

 あーもう……可愛いー。

 ハカセがそんなこと言い出すなんて完全に予想外だったけど、もちろん断るなんてするわけない。

 でも、一応誰かに聞かせたりとかしないようにちゃんと念押しはしておかないと。

 

 

「し、仕方ないわね……。そんなに言うなら、ハカセだけ特別にやってあげる。絶対変なことに使わないでよね」

 

「お、おう。じゃあ頼む」

 

 

 私はハカセからスマホを受け取り、小首を傾げる。

 

 

「なんて囁いてほしいの? リクエストはある?」

 

「リクエスト? 『おやすみなさい』って言ってほしいだけだよ。よく眠れるように」

 

 

 あっ……そういう?

 私はなんか思い違いをしてたみたいで、ちょっと自分が恥ずかしくなった。

 いかがわしいこととか全然なくて、ただ私の声を聴いて眠りたいだけなんだ。

 

 それなら、と私は気持ちを切り替える。

 毎日いろいろな本を読んで勉強してるみたいだし、ハカセも疲れてるはずだ。

 ぐっすりと眠れるように、私のありったけの『声の力』を注ぎ込もう。

 彼は『声の力』に耐性があるから、それくらいでちょうどよく眠気を感じてくれるだろう。

 

 私は録音ボタンをタップすると、すうっと息を静かに吸い込んだ。

 

 

『おやすみなさい』

 

 

 私たちの『声の力』は、そのときの感情に応じて増幅される。

 ハカセに安らいでほしい、気持ち良くリラックスしてほしい、ゆっくり眠ってほしい……そんなハカセに優しくしてあげたいという想いのたけを注ぎ込んで、私は『声の力』を解き放った。

 

 大切にしてほしい。これは私から、あなたへの信頼の証だから。

 

 

「すごいな……! これなら声優とかもなれるんじゃない?」

 

「バカ言ってないの。ほらっ、返すわよ」

 

 

 彼が感心してくれるのに思わず照れてしまって、デレっとした顔を見られないように顔を背けながらスマホを投げ返す。

 うまくキャッチできなくてあわあわしながらも、なんとかスマホを落とさずに受け止めたハカセは、ほっとした表情を浮かべてスマホをポケットに収めた。これで用事は無事に済んだ、とでも言いたげだ。

 

 

 ……こいつ、もらうものもらったらさっさと帰るつもりね!?

 そうはさせないわよ。

 これでもかなり恥ずかしかったんだから。アンタも同じ思いをしなさい!

 

 私は急いで録音アプリを自分のスマホにダウンロードすると、ハカセに突き出した。

 

 

「ん」

 

「え、何?」

 

「ほら、アンタの番。今録音アプリ入れたから。早く」

 

「えっ……やるの? 僕も?」

 

「アンタこんな恥ずかしいの、私だけにやらせるつもり!?」

 

 

 照れるハカセに無理やりやらせてみたが、なんかすごくおざなりに『おやすみ』って吹き込まれてしまう。

 もー! 私だって全力でやったんだから、アンタも相応の対価を寄越しなさいよね! 確かにいつもアンタはそんな感じだけど、もっと特別に力入れてほしい。

 

 そう言うとハカセは困りきった顔をして、それなら具体的に演技指導してくれと言い出した。

 

 きらーんと自分の目が光るのを感じる。

 え、いいの? 私の好きにハカセをコーディネートしていいの? それならいっぱい要望あるんだけど!

 ええ、どうしようかなぁ。小学生の頃みたいなあどけなくて素直な感じもいいし、今のありのままのハカセに照れながらおやすみって言ってもらうのもいいけどぉ……。やっぱり欲しいのは、まだ聴いたことがないハカセの声かな。

 

 

「えーとね、じゃあもっと大人っぽく囁くようにやって。できる限りハスキー感出して、かつ優しい感じで。あと私の名前も入れてね」

 

「注文が多くない? ハスキー感とかよくわからん」

 

「そうねぇ……じゃあアンタが20歳くらいになったつもりで、恋び……じゃなくて、そう、子猫! 膝の上で遊びながらウトウトしてる生後3か月の子猫のありすちゃんに眠りを促すような感じの大人っぽくて優しい感じで!」

 

 

 私は将来ハカセになってもらいたい理想の大人像を要求した。

 パパみたいに知的で優しい紳士に成長したハカセに、思いっきり甘やかしてもらいながら休日の午後を過ごすのが私の夢なのだ。

 

 ハカセはしばらくうんうんと唸って困っていたようだが、やがて覚悟を決めたように瞳を閉じる。

 絶対に聞き逃さないよう、私は集中して彼の口元を見つめた。

 

 

『おやすみ、ありす』

 

「~~~~~~~~~~~~~~!!」

 

 

 胸がキューンとなって、私は息を止めた。

 いい……! これすごくいい!

 理想の大人の姿に成長したハカセが膝の上で子猫をあやす姿がしっかりと(まぶた)に浮かんだ。あーもう、尊い……。甘えたい……。頭なでなでされたい……。

 

 最近声変わりしたハカセの声がまた素敵で、アナウンサーのお父さん譲りの深みのある落ち着いた声なのよね。ハカセは自分の声に何の魅力も感じてないようだけど、私にとっては聴いていると耳が幸せになる大好きな声。

 だから最近はハカセと話すのがもっともっと楽しくなった。知的な冗談を口にするときも、からかわれてムッとするときも、不意打ち気味に優しい目で見てくれるときも、どの声も全部お気に入りでいくらでも聴いていたくなる。

 

 そんなただでさえ大好きな声なのに、こんなに大人っぽく囁かれたのは初めてで。私の心の急所をピンポイントで撃ち抜かれてしまって、思わずへたり込みそうになるほどドキドキしてる。

 これまでの人生で最大級にメロメロになってしまった私は、ハカセが目を開くや否や即座に後ろを向いた。

 

 

「おい、今のでよか……」

 

「う、う、う、うるさいわね!! 今話しかけんな!! 絶対にこっち見んじゃないわよ!!」

 

 

 女の子として、今の顔を見られるわけには絶対にいかない。

 まだ胸がバクバクと激しく脈打っている。

 

 

「こんなの私の方が眠れなくなるじゃん……」

 

 

 その後不良に絡まれるというアクシデントはあったけど、私たちは何事もなく教室に戻った。

 歩きながら私は、スマホを大事に大事に両手で抱きかかえていた。

 今日からこのスマホは私だけの秘密の宝物だ。

 

 

 

 その夜、寝る前に私はスマホを枕元に置いた。

 

 そろそろハカセも寝る時間かな。

 ときどきSNSでメッセージを送ってるけど、いつもこれくらいの時間に返信が付かなくなるもんね。

 ハカセは今、どうしてるかな。私の声を聴いてくれてるかな。

 

 離れた屋根の下でも、おやすみって言い合いながら眠れると素敵ね。

 そうしたら同じ夢の中で遭えるかもしれないもの。

 

 

『おやすみ、ありす』

 

『おやすみなさい』




<解説>

Q.
ありすが生意気な態度を取っていたのはいつからいつまでなの?

A.
実はありすがハカセ視点冒頭のような態度を取っていたのは
小学6年生から中1の秋までの短い期間にすぎません。
中2の頃からはかなり素直に甘えるようになっています。
中学の頃はたまに強気な態度も取っていましたが、高校に入ってからはすっかり落ち着きました。


Q.
ありすにこの録音データ大切にしろ、変なことに使うなって言われなかった?

A.
大切な研究に使ったので変なことじゃないです(ハカセ理論)


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第67話「彼の知らない裏取引」

「……!? すごい怪我してるじゃない! 何があったの?」

 

 

 ハカセが怪我した状態で遅刻して登校した、という噂を耳にした瞬間、私は全力で彼のところに飛んでいった。

 右腕に包帯を巻いたハカセは、私が事情を問いただすと視線を逸らしてそっけなく呟く。

 

 

「転んだ」

 

「そんなわけないでしょ」

 

 

 どんな転び方をしたらそうなるというのか。本当にそれでごまかせると思っているのは微笑ましいが、トラブルに巻き込まれたというなら見過ごせない。

 

 

「その怪我は何? 病院行ったのよね? どんな怪我なの」

 

「転んでぶつけて腕の(けん)が麻痺してるだけだよ」

 

「ふーん、そう。それで何があったの? いじめられたの? 何かあったのなら正直に言いなさい」

 

「本当に何もないよ。ぼーっと歩いてたら転んだ」

 

「どこで? 何にぶつけたの? いつ怪我したの?」

 

「えっと……」

 

 

 嘘が苦手なハカセは、しどろもどろで視線をさまよわせている。

 対人経験が少ないハカセの嘘を見破るなんて、私にとっては簡単なことだ。

 だけどとても頑固だから、黙秘を決め込んだら絶対に口を割らない。

 

 じゃあいいわ。加害者本人に聞きましょう。

 私はハカセの隣で震えている金髪の不良に目を向ける。私の視線を感じた瞬間、大柄な不良がビクッと肩を震わせた。

 

 こいつは見覚えがある。去年クラスが同じだった……確か新谷(しんたに)だったか。

 佐々木(ささき)をグループから追放したときに、私の殺意を受けて震えていた男だ。数日前にハカセのスマホに声を吹き込んだときも、やけにハカセに絡んできたっけ。

 間違いなくこいつが犯人だ。

 

 

「ちょっと来なさい、話を聞かせてもらうわ」

 

「は、はい……」

 

 

 新谷は神妙な顔で立ち上がり、しおしおと私の後をついてきた。

 たとえ不良であろうが、私の声の支配下にあるのなら怖くもなんともない。

 ……にしてもやけに素直ね。そんなに私が怖いのかしら?

 

 

 階段の裏にある人目につかないスペースに新谷を連れて来ると、私は腕組みして彼を見上げた。

 

 

「あなたがやったのよね?」

 

「……それは……」

 

「やったのよね?」

 

「……言えない。男の約束だ」

 

 

 新谷は私の質問を受けて、口を濁した。

 ハカセを傷付けておいて、責任逃れをしようというのか。

 彼に怪我をさせたうえに、自分をかばわせて口封じとは、なんて卑劣な……何が男の約束だ。

 ハカセが素直なのに付け込んで……! 私は頭に血が昇るのを感じた。

 

 

「『正直に言いなさい』。あなたがやったのよね?」

 

 

 私が『声の力』で命じると、新谷はびくんと体を震わせた。

 

 

「お、俺がやりました……。ありすサンと仲が良いハカセにムカついて、何度も殴ったり蹴ったりの暴行を加えました……」

 

「ふん」

 

 

 くだらない嫉妬でよくもハカセに酷いことをしたわね。

 さあ、どうしてやろう。二度とハカセの前に顔を出せないようにするのは当然として、よっぽど酷い目に遭わせてやらないと私の気が済まない。

 あれこれと冷酷な処刑法を考えていると、新谷はその場にしゃがみこんで頭を抱えた。

 

 

「お……俺はなんてことを! ハカセは許すって言ってくれたけど、やっぱりダメだ。俺は最低の人間だ……!! 今すぐ自首して、罪を償わないと……!!」

 

「あ、あら?」

 

 

 私はぽかんとして新谷を見つめた。

 彼はガンガンと階段に頭をぶつけ、オイオイと男泣きに泣き始めたのだ。

 

 

「ちょっと……そんな演技をしても騙されないわよ」

 

「演技じゃねえ……! 俺は本当に今までの自分を悔いてるんだ。叶うなら全部やり直してえ……! 曲がっちまう前の俺に戻って、警察官になる夢をもう一度目指してえんだ……!! ハカセが思い出させてくれた、ガキの頃の俺に……!!」

 

「ハカセが……? 詳しく話しなさい」

 

 

 そして新谷は涙ながらに今朝起こったすべてのことを話した。

 ハカセに嫉妬して襲い掛かったこと、いくら殴られてもハカセは説得を諦めなかったこと、私に危害が加えられると聞いたハカセにノックアウトされたこと。

 

 そしてハカセの説得で、警察官になるという子供の頃の夢を思い出し、これまでの悪事を死ぬほど後悔していること。ハカセへの暴行を警察に自首したいと口にしたら、ハカセがすべて許すと言ってくれたこと。

 

 なるほど。

 

 

「嘘つけ」

 

「!? ホントだぞ!?」

 

 

 私の冷静なツッコミに、新谷は心外だと言わんばかりに目を剥いた。

 

 

「ハカセがそんなこと言うわけないでしょ」

 

 

 あのハカセだよ? 他人を説得するなんて発想がまずあるのか疑わしい。

 私に危害が加えられそうになったら逆襲したというのは……まああるかもしれないけど。それにしたって全体的に私の知ってるハカセの人物像からかけ離れている。

 しかし新谷は私の言葉を必死に否定しようとする。

 

 

「ホントだ! 誓って嘘なんかついてねえ! 俺とハカセは小学校の頃からの親友なんだ! 俺たちの友情に誓って、全部本当なんだって!!」

 

「はあ?」

 

 

 こいつ、何を言ってるんだろう。

 私たちの小学校にこいつはいなかったはず。ましてや小学生の頃のハカセに友達がいたなんてありえない。間違いなく嘘だ。

 

 だが……。私は新谷に正直に言え、と命令した。

 つまり今、こいつは嘘はつけない状態にある。……ならばどういうことか。

 少なくともこいつの中では、それが本当のことだと信じているということ。

 

 

 ……頭がおかしいんだろうか? 自分で作った妄想を信じ込んでいる?

 

 私はじっと新谷の目を見つめた。

 

 ……いや、狂人の目ではない。小学校の頃に何度か私を娘だと思い込んだ変態とかに迫られたことがあるが、そういう連中特有の熱に浮かされたような危険な目つきをしていない。

 ちなみにそいつらは私が去れと命令したり、ハカセが追い払ってくれたりしたので私は今も無事だ。

 

 

「……ハカセがあなたを友達だと言ったの?」

 

「ああ、もちろんだ! あんだけ一方的に殴った俺を、まだ友達だと……親友だと言ってくれた。あいつこそ真の男だ……! 本当のことを言うと、ありすサンに謝りたいと言った俺に、絶対に言うなとあいつが口止めしたんだ」

 

 

 これはどういうことだろう。

 こいつの一方的な思い込みではなく、ハカセがこいつを友達扱いしている?

 つい先日まで赤の他人だったはずなのに?

 

 まったくわけがわからない。

 まるで唐突にハカセと新谷が親友でいる世界に迷い込んでしまったかのようで、軽くめまいがした。

 だけどそんなわけはない。私は正常で、新谷がおかしいはずなのだ。

 

 おそらくだけど……ハカセが新谷に何かをした? だけど何を?

 ハカセに過去を書き換えるようなことなどできるはずがない。

 それじゃまるで私たち魔女の力みたいじゃない。

 だけどハカセが魔女の一族なんてことあるわけないし、そもそも彼は男の子だ。もう声変わりしてしまったし、もしも彼が『声の力』を持っていればさすがに私が気付いているはず。みづきちゃんや瑠々香(るるか)さんだって普通の人間だ。

 

 それなら他に過去を書き換えるような、私が知らない力が存在しているの?

 でもそれがハカセと新谷を友達だと認識させている理由がわからない。

 そんなことができる者がいるとして、目的は何?

 

 混乱する私をよそに、新谷はまだ何やら話し続けている。

 

 ああ、うるさいな。私は今考えごとしてるのがわからないのかな。

 ハカセと友達、ねえ。

 ……排除しちゃおうかな、とちらりと考える。

 

 ハカセに友達なんて必要あるのかな。だって私がそばにいるんだもの。

 これまでずっと私とハカセの二人っきりの世界でいられたのに。

 そこに赤の他人が入ってくるなんて、邪魔だよね?

 

 私の感情的な部分が直感的にこいつを邪魔な侵入者とみなし、それを(なだ)めようと理性の部分が説得を考えようとしたところで……新谷がひと際大きな声で言った。

 

 

「男の約束を破っちまって、ハカセにはすまないと思ってる。だけど、やっぱりありすサンには謝っておきたいんだ。申し訳ない! あなたをいやらしい目で見てしまって、恋人を怪我させたこと……本当に詫びのしようもねえ!」

 

 

 そう言って、新谷は深々と頭を下げた。

 ここまで潔く詫びを入れられたことなんて初めてで、物騒な考えに囚われていた私は、驚きのあまりにハッと目が覚めた。

 

 

「あ、うん……。って、恋人って言った? それってハカセのこと?」

 

 

 不意にハカセと恋人扱いされて、私はついそわそわした。

 そんな私を見て、新谷は首を傾げる。

 

 

「ええ。……あの、付き合ってるんスよね? ハカセは付き合ってないなんて言ってましたけど……」

 

「え、えーっと……」

 

 

 どう言おうか。

 私はもちろんハカセのことが大好きだし、ハカセだって私のことが好きに決まってるんだけど、でも明確に恋人だよねって確認したことはないし。

 まだデートもキスもしたことないし……彼の家にお泊りはしたことあるけど、それは小学校の頃だし、幼馴染だから当たり前だし。

 というか私の好きの度合いと彼の好きの度合いが釣り合ってないと、それって付き合ってるとは言わないような気がするし。

 でも付き合ってないってきっぱり言っちゃうのは嫌だし。これからそうなれたらいいなーって思うわけで、その可能性を私が否定するのはなんだか違うなーって。

 

 そんなふうに答えに迷っていると、新谷はなるほどと頷いた。

 

 

「わかりました、これから付き合いたいんですよね? なら任せてください! 俺がハカセとありすサンがくっつく手伝いをします!」

 

 

 そう言ってドンと胸を叩く彼に、私は目を丸くした。

 

 

「えっ……? 私まだ何も言ってない……」

 

「見ればわかりますって。ハカセは俺のダチです、あいつを幸せにしてやらなきゃならねえ! その相手がありすサンならなおのこと……! これが罪滅ぼしになるなら、全力を尽くすってもんです!」

 

 

 うーん。

 何やら突然そんなことを言われても、信用できないのよね。そもそもこいつをハカセのそばから排除するかどうかを考えていたところだし。

 大体他人の恋の応援なんて、こんな不良にできるの?

 非常に疑わしいが、念のために訊いてみる。

 

 

「全力を尽くす、ねえ。何ができるのよあなたに?」

 

「とりあえず夏休みに2人でどっか一緒に行くのはどうです? クラスのダチがいろいろアウトドアのイベントを考えてるんスよ。そこにハカセを連れ出します!」

 

「!?」

 

 

 犬ならピンッと耳を跳ね上げるように、私は興味深い提案に耳を澄ませた。

 ハカセと夏のイベントができる……!?

 私の反応を見て、新谷は言葉を続ける。

 

 

「キャンプにバーベキュー、山登り、潮干狩りとイベント盛りだくさんッスよ。連れ出しちゃえばこっちのもの、2人きりで仲良く遊べばいい。俺は邪魔しませんから、思う存分イチャイチャしてください」

 

 

 ゆ、有能……!

 

 昨年の夏、浴衣の写真を撮ってハカセに送ったことを思い出す。

 とびっきり可愛くて気に入った浴衣を見つけて、思わずハカセに自撮り写真を送ってしまったのだ。

 あれを着てクラスの女子たちと夏祭りに行ったけど、本当はハカセと一緒に行きたかった。こんな可愛い浴衣買ったんだよ、私を夏祭りに誘うなら今がチャンスだよ? ってアプローチのつもりだった。

 

 だけどハカセは誘ってくれなかったし、弱虫な私ははっきりと一緒に行こうと言うことができなかったのだ。強気に挑発する演技はできるくせに、本当に言いたいことは言えない。プライドばかりが無駄に高くて、なんて臆病なんだろう。

 私は内心しょんぼりした気分で、夏祭りを行きたくもない女子たちと回った。苦く悲しい記憶だった。

 

 だけど新谷が提案するプランなら、私は変なプライドとか抜きで心置きなくハカセと夏の思い出を作ることができる。

 

 

「本当にあなたにそんなことできるの?」

 

「大丈夫ッス、割と顔は広いんで。俺が言えば、嫌だなんて言わせませんよ」

 

 

 頭の中でパチパチと打算のそろばんが弾かれ、GOサインが出た。

 ハカセと彼の関係にはいろいろ疑問があるが、それは今考えても仕方ない。それよりも彼がハカセをそばに置いておくメリットの方が格段に大きい!

 

 え、彼を排除する? なんで? 彼はとても役に立つ良い子だわ。

 それにハカセにも友達というものが必要なのかもしれない。維持できるかどうかはともかくとして、人と話す経験があって悪いことはないだろう。

 

 私は新谷()にグッと親指を立てた。

 

 

「わかったわ。新谷君、これからもハカセの友達として仲良くしてあげてね!」

 

「あざーーっす!!」



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第68話「色づいていく世界」

「これありがとう」

 

「おっ、読んだか! どうだった? 面白かったか?」

 

「うん」

 

 

 ある日の休み時間、いつものように私がハカセの教室に遊びに行くと、ハカセは新谷(しんたに)君に借りたマンガを返していたところだった。

 誰もが知っている、私たちの親世代が熱中して読んだ国民的な冒険活劇マンガだ。新谷君はハカセがマンガ好きだと知って、家にあるマンガをあれこれと持ってきては読ませているようだ。

 

 実のところ新谷君がハカセを友達と言い出したのは、ハカセをだしにして私に近付こうとしているのではと当初警戒してもいたのだが、彼が必要以上に私に話しかけて来るようなことは一度もなかった。

 

 怪我をしたハカセに私がお弁当を食べさせているときも、夏休みにいろんなところに遊びにいったときも、常にハカセを前に出して私と2人っきりにしてくれていた。その間自分は裏方に徹して、場を盛り上げたり他の子と話したりしていたようだ。

 

 あのハカセと元不良の新谷君では絶対に話なんて合うわけがないと思っていたのだが、ハカセがすごく難しいことを言うと「そうなのか。ハカセは物知りだな」と感心し、TVの話題のようなハカセが知らないことは「今はあれが流行りなんだぜ」とさりげなく教えたりしている。

 グレていた割には実は割とマンガやゲームが好きな一面もあるらしく、最初にハカセと打ち解けたのもゲームの話題が最初だった。オタクというよりは、いろんなものに幅広く興味を持てる性格なのだろう。

 

 ハカセが昔いろんなマンガを読み漁っていたと聞くと、自分が持っているマンガを持ってきてはハカセに読ませて、感想を交換していた。

 

 

 ……なんか私、子供にできた新しい友達が悪い子じゃないか見極めようとしてるお母さんみたいね。これっておばさん臭いかなあ……。

 

 

「ハカセはどこが一番面白かった?」

 

「うーん……面白かったというか共感できたのは、親友が悪い宇宙人に殺されたのに怒って変身するところかな」

 

「ああ、やっぱあそこはいいよな! ダチを殺されて、それまで見せたことのない怒りを露わにスーパー変身……! 少年マンガの王道だよな! あれでドキドキしない男なんていねえよ!」

 

「うん。大切な人を殺されて怒り狂う気持ちはとても理解できた」

 

 

 なんか結構盛り上がってるみたい。

 ふふっ、ハカセにもああいう男の子なところってあったんだ。

 

 そう思いながら見ていると、ハカセは不思議そうに小首を傾げる。

 

 

「でも、あそこはちょっとわからないこともあるんだ」

 

「ん? スーパー化できた理由か? あれはあいつらの一族が……」

 

「いや、そうじゃなくて。主人公は親友1人を殺されて、怒りの心で変身したんだろ? でも悪い宇宙人は主人公の一味に何十人も部下を殺されてるよね。主人公が直接手を下した側近の特戦隊だけでも5人だよ。それなら、悪い宇宙人だって怒りの心で主人公の5倍強く変身できないとおかしくない?」

 

「…………」

 

「数が合わない。主人公は親友1人でパワーアップ、悪役は側近5人で強さそのまま。なんでそうなったの?」

 

 

 無垢な瞳でハカセはそんな疑問をぶつけていた。

 あの子ったら、相変わらず人の心をまったく理解できていない……!

 

 新谷君はどう答えるのかとハラハラしながら見ていると、彼はケラケラと笑いだした。

 

 

「おー。なるほど、その発想はなかった」

 

「にゃる君もわからない?」

 

「んー……そりゃ多分、悪役にとっては部下は大切な存在じゃなかったんだろ。だからいくら殺されたところで主人公みたいに怒れないし、パワーアップもできねえんだ」

 

「そうなの? このオレ様がーってすごい悔しがってたよ」

 

「それは自分のプライドが傷付けられただけだ。自分のことしか考えてないから、ダチのために怒れる主人公にはかなわなかったんだよ。いつだって本当に強いのは、他人のために行動する人間だからな」

 

 

 新谷君がそう言うと、ハカセは目から鱗が落ちたというように何度も頷いた。

 

 

「なるほど……なるほどなあ……! そういうことなのか。にゃる君は本当に勉強になるなあ……!」

 

「おうよ、どういたしましてってな。俺に言わせりゃお前の発想に驚きだぜ。そういうモノの見方もあるんだなっていつも感心してるよ。……で、どうだ? 他に面白かったところはあるか?」

 

「最後の方に出てきた魔人なんだけど。あれってどうして世界チャンピオンの人に懐いたの? あのキャラは何考えてるのかよくわからなかった」

 

「おう。あれは多分な……」

 

 

 2人は夢中でマンガの解釈について盛り上がっている。

 私は新谷君が友達になってくれてよかったな、と今更ながらに思った。

 

 どうやらハカセと新谷君の相性は意外に悪くないようだ。

 きっとハカセが成長するためには友達が必要で、その役は私では務まらないものだった。

 心を育てる友達という役になれなかったのは残念で、新谷君に焼きもちを抱いてしまっているけれど……。私はハカセにとって特別な、別の役になれるはずだ。だから気の置けない男友達という配役は譲ってあげる。

 

 どういう経緯で仲良くなった友達かはよくわからないけど……。

 ハカセ、友達ができて本当によかったね。

 

 私は素直な気持ちで、男の子たちを見つめていた。

 

 

 

 友達になったことを素直な気持ちで祝福できる相手もいれば、まったく受け入れられない相手もいる。

 

 佐々木(ささき)沙希(さき)

 私が去年グループから追放した女が、何故かハカセに接近していた。

 

 私のグループを追われた彼女が、タチの悪いいじめグループに取り入ろうとして逆にいじめの対象になったらしい、ということは風の噂で知っていた。私の取り巻きがあの子今ウリで貢がされそうになってるらしいよ、と意地の悪い笑顔を浮かべながら聞かせてきたのだ。

 私はそのときはふーん、とそっけなく返した。別にざまあみろともなんとも思わなかった。何の興味も抱いていなかったし、なんならそれを聞かせてきた取り巻きも興味ない話をニヤニヤ顔で聞かせてきてうざったいなあと感じていた。

 

 私にとってはとっくに過去の人間に過ぎなかった。

 その彼女が、こともあろうにハカセにベタベタしている。

 

 

「ふーーーーーーーっ……!!」

 

「そんな猫みたいに威嚇しないでよぉ。ネズミ好きとしては怖くなっちゃうじゃん」

 

 

 階段裏へと連れ込んだ佐々木を腕を組んで睨みつけると、彼女はヘラヘラと笑って肩を竦めた。

 

 実際私にとっては、この女はネズミのようなものだ。

 こそこそ隠れて他人の悪口の材料を探し、自分に矛先が向きそうになると途端に怯えて隠れる、卑怯で薄汚いドブネズミ。関わっても害しかなく、いるだけでコミュニティを腐敗させていく病巣。

 それが私にとっての佐々木沙希という人物だった。

 

 だが……去年とはかなり印象が違う気がする。

 ちょっと顔を貸しなさいと言われて逃げずについてきたし、快活に笑うし、物腰に余裕がある。

 

 

「……前になんて言ったか覚えてる? もう二度と私の前に顔を出すなって言ったよね?」

 

「あー言われた言われた。あのときはひどいこと言うなーって思ったよね。思い返せばアタシの方がよっぽどひどいこと言ってたんだけど。あのときちゃんと謝ってなかったよね。いやあ、ゴメーンね」

 

 

 アハハ、と佐々木は片手を突き出してウインクし、軽く頭を下げた。

 

 私は目を細める。

 違う。去年のこいつとはまるで別人だ。

 間違ってもこんな明るいノリの女子ではなかった。もっとジメッとして、根暗で気持ち悪い愛想笑いを浮かべる、卑屈な子だったはずだ。

 

 何があった?

 

 

「どうしてハカセに近付いてるの? あなたに興味を持たれるような男の子じゃないと思うけど」

 

「いや、ハカセくんにもっとオシャレした方がいいよーって言われちゃって。そう言われればそうだなって思って、イメチェンしたわけで」

 

 

 ハカセがそんなことを言うわけない。

 むしろハカセこそもうちょっとルックスを磨いた方がいい人間なわけで。

 そもそも彼が私以外の女の子に話しかけるなんてことがありえるわけがない。

 どう考えたって、こいつの方からハカセに近付いたに決まってるんだ。

 

 

「あなた、評判の悪い連中と付き合ってるらしいわね。ハカセに手を出したのは……」

 

「あー待って待って! もうあの子たちとは縁切ったから!」

 

 

 私が低い声で問うと、佐々木は慌てて両手を突き出して、首をぷるぷると横に振った。

 

 

「あの子たちみんな転校しちゃったし! アタシはもうフリーだから!」

 

「転校した……?」

 

 

 いや、そういえばうちの学年から数人転校生が出たって聞いたか。

 私のクラスからも何人かいなくなったはずだ。派手な化粧をした、評判の良くない女子だったから話題になっていた。

 

 ……不自然すぎる。

 佐々木の急激な変貌といい、謎の転校ラッシュといい、何か私の理解を大きく超えた誰かの思惑を感じずにはいられない。

 

 その誰かの正体とは?

 一番怪しいのは言うまでもない、ハカセだ。

 先日の新谷君といい、今回の佐々木といい、やたらハカセに懐いている。

 絶対に何かの関わりがあると見て間違いない。

 

 だが、ハカセが犯人だったとして、どうやってそんなことを?

 ハカセはエスパーでも魔法使いでもない。こうまで人間を劇的に変えることなんてできるものなのだろうか? 

 言っちゃなんだがあのコミュ障の塊が他人を説得して人生観を変えたなんて絶対にありえない。小さい頃から一緒にいる私が断言できる。

 

 無理やりに他人の思考を捻じ曲げる力と言えば、やはり魔女が持つ『声の力』。

 だがハカセは絶対に魔女ではない。

 心当たりがあるとすれば、去年私が録音したメッセージだが……。

 しかし『おやすみなさい』と囁いたアレは、聴いた者を深く眠らせる効果しかないはずだ。不良を真面目に改心させたり、陰キャを陽キャに変えるような命令は入れていない。

 

 わからない。何が起きているのかさっぱりわからない。

 ハカセに聞いたところで何も教えてくれそうにはない。最近何か隠しごとをしている気がしてならないが、それを私に言うつもりはないようだ。私に話せることならとっくの昔にハカセの方から教えてくれているだろうし。

 

 考えるうちにだんだんとイライラしてきて、私は佐々木を睨み付けた。

 ああ、ムカムカする。この怒りを誰かにぶつけたい。

 やはりこいつは排除すべきだ。

 ハカセに近付くなんて許せない。ハカセのそばにいる女の子は私だけでいい。

 

 

「事情がどうあれ……私、去年言ったよね。二度と私の前に顔を出すなって。あれじゃ理解できなかった? 強く言わなきゃわかんないかなぁ?」

 

 

 怒りに満ちた口調でそう告げると、佐々木は苦笑いを浮かべる。

 

 

「あーこわぁ。ありすちゃんって本当に、ハカセくん以外の人間が嫌いだよね。いや、興味がないのかな。そういうところハカセくんと似てるけど、アタシはありすちゃんのが怖いかな。たまにすごく冷たい目でみんなを見てるの、自分で気付いてる?」

 

 

 他人のことをよく見ている。観察力が高いのだろう。

 私の内面を知られているとあっては、なおさら野放しにはできない。

 

 

「ヘラヘラ笑いながら私やハカセを語らないでよ」

 

「そっかー、能天気に笑ってるように見えちゃってるかー」

 

「改めて言うわよ。『私の前に二度と……』」

 

「まあ聞いてよ。これ、笑ってるように見える?」

 

 

 そう言って佐々木は自分の膝を指さす。

 その膝はガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうだった。力が抜けそうになる膝を必死でこらえ、彼女は私の前に立っていた。

 

 

「正直さ、アタシありすちゃんのことすっげー怖い」

 

 

 青い顔に苦笑いを貼り付けながら、佐々木は言う。

 

 

「顔を合わせるのもきついし、今すぐにでも逃げちゃいたい。そんでも無理して笑ってればなんとか耐えられそうだし、言わなくちゃいけないことだから言うね」

 

「なっ……」

 

「ごめん、ありすちゃん。アタシがあなたたちの近くにいることを見逃してください」

 

 

 佐々木はぺこりと頭を下げ、肩を震わせながら懇願した。

 

 

「ありすちゃんが彼のこと大事に思ってるのは知ってる。彼のそばに他の女が近付いてイラッとくるのもわかる。でも、アタシはもっと良い人間になりたい。ダメな自分を変えたい。そのために、アタシを変えてくれたハカセくんや、あなたたちのことをもっと知りたいの。あなたたちの近くにいれば、どう自分を変えていけばいいのか見つかる気がするから」

 

「そんなの自分ひとりで変わればいいじゃん。自分探しなら自分だけで勝手にやれ。あなたの事情にハカセを巻き込まないでよ」

 

 

 あえて辛辣(しんらつ)な言葉で、彼女を拒絶する。

 当たり前だ。こいつが言ってるのはただのエゴ。

 何故私がこいつのために席を譲らないといけないのか。

 

 だがそれでも、佐々木は食い下がってきた。

 

 

「お願い! 決してハカセくんを取ったりしないから! ただそばにいるだけで満足だから。ただの友達でいいから! だから、アタシをそばにいさせて。……もう追放しないでください」

 

「それを信じろって? これまでどれだけ嘘と悪口で他人を傷つけてきたかわかってるの?」

 

 

 私の冷たい詰問に、ぽろぽろと佐々木が涙を流す。

 

 やめてよね、と内心で呟いた。涙なんてやめてほしい。

 私が悪人みたいじゃない。

 

 

「お願いします。アタシはもっといい自分になりたいだけなんです。1人にしないでください」

 

「……ハカセの近くにいたい、というのはまあわかる。でもなんで『あなたたち』なの? 私と新谷君のことよね、それ」

 

「それは……」

 

 

 まだ涙で濡れた顔で、佐々木がえぐえぐと嗚咽を漏らしながら答える。

 

 

「ありすちゃんは私の太陽で……あこがれだから。あなたのことがどれだけ眩しくて、嫉妬して嫌いになって、どれほど憎んでも……。それでもあなたにあこがれてしまう。あなたのようになりたいと思ってしまう」

 

「…………」

 

 

 私はため息を吐いた。

 そういう風に思われることは多い。私なんて、周囲が思っているほど超然とした存在じゃないけど。

 才色兼備、頭脳明晰、高嶺(たかね)の花で学園の女王。そう思われるように振る舞ってはいるのは確かだけど、それはハカセをいじめさせないよう、学校を支配するためだ。実際は自分でも結構ポンコツだと思うし、恋愛脳という自覚もある。

 

 

「私にあこがれなくても、あなたはあなたの良さがあるでしょ。それが具体的に何かなんて、私が知ったこっちゃないけど。それで? 新谷君は?」

 

「新谷君は、私に似てるから……。一度道を踏み外したところも、これからいい人間になろうと頑張ってるところも。だから、私も彼と一緒に頑張りたい」

 

 

 なるほど。

 その理由を聞いて、この子は本当に立ち直りたいと思っているんだなと理解できた。

 単にハカセに惚れたというのではない。以前のように私に取り入ってスクールカースト上位に入りたいというのでも、嘘をついて私とハカセを引き裂こうというのでもない。

 

 本当にこれまでを悔いて、いい人間になりたいと願っているのだ。

 

 

「……また誰かの悪口を言ったり、裏切ったりしてるのを見つけたら今度は容赦なく叩きだすわよ」

 

「! じゃあ……」

 

「仕方ないでしょ。あなたが私たちのそばじゃないといい人間に生まれ変われないっていうのなら、チャンスのひとつもあげないと私が悪い奴ってことになるじゃないの」

 

 

 やっぱり裏切られるかもしれない。自分が甘かったと思う日が来るかもしれない。

 だが、それはこの涙の裏側にあるかもしれない悪意を見破れなかった自分の見る目のなさが悪い。

 他人に助けの手を差し伸べない冷血な子にはなりたくなかった。だってそんな心の冷たい女の子を、ハカセはきっと好きにはなってくれないから。

 

 

「ありすちゃーん!!」

 

 

 新しくぽろぽろと涙をこぼしながら、()()が抱き着いてくる。

 

 

「ありがとう、やっぱりありすちゃん優しいね! 冷たいけど本当は優しい子だってアタシ信じてた!」

 

「あー暑苦しい! くっつくな、私そういうお涙頂戴(ちょうだい)が似合う女じゃないの! ……っていうか、あなたこそコロコロキャラ変わってない!?」

 

「今新しいキャラ模索中だから! なりたい自分が見つかるまで一緒にいてね、ありすちゃん!」

 

 

 このとき沙希が言った言葉に嘘はなかった。

 

 

 この後にゃる君とゲームを通じてライバル関係になった沙希は、彼に挑発されるままに一人称やら髪型やら言葉遣いやらを賭けてしまい、とんでもないことになってしまうからだ。

 

 気が付いたら一人称がボクで意地っ張りな毒舌ツンデレロリっ子という、このときの軽いノリの陽キャとは似ても似つかない女の子になってしまっていた。

 結局高校時代には軽い悪口やボヤキも言うようになったし、かつての根暗ぶりとにゃる君の好みが混ざった女の子になった気がする。

 

 本人も気付かない間に彼女を自分好みに調教してしまった新谷君、恐ろしい子……。

 

 

 しかしたとえ悪口を言ってももう私が彼女を追放する気にはならなかったのは、その頃には私にとって沙希がかけがえのない親友になっていたからだ。

 

 私が学校のいたるところに支配を及ぼし、ハカセをいじめから守っていたことを知った新谷君と沙希は、高校ではもうそんなことはしなくていいと言った。

 そして自分たちでネットワークを広げて幅広い人間関係を構築し、ハカセがいじめられないようにしてくれたのだ。

 新谷君の誰とでも仲良くなれるコミュ力、沙希の人間関係を見極める観察眼、そのどちらも私にはないもので、『声の力』なんかよりも平和的に私たちの身を守れる力だった。

 

 おかげで私は高校では他人を支配する必要はなく、ひっそりと穏やかに暮らせるようになった。私の声や顔に惹かれて告白してくるような男はかなりの数いたが、他人の声と顔にしか興味のない男は願い下げだ。

 何よりこんなめんどくさい女の子でも世界一大事にしてくれる男の子をとっくに見つけているから、全部お断りした。

 

 出不精なハカセも新谷君があの手この手で説得して引っ張り出してくれるので、私たちは4人でいろんなところに遊びに行った。

 そして私は未知の楽しさに目を輝かせるハカセを見て喜び、おどける新谷君に笑い、沙希と一緒にはしゃぎ回った。

 

 多くの人間を支配し続けるというストレスから解放された私にとって、毎日がとても楽しかった。中学の頃とは違って高校時代はとてものびのびとしていて、そこでようやく私は年相応に笑えるようになったと思う。

 

 

 これは高校生になってから気付くことだが、新谷君と沙希には私の『声の力』が効きづらくなっていた。どうやら別の形で『声の力』に何度も晒された結果、徐々に耐性がついていたらしい。

 そのことも私が2人に心を許せる一因となった。彼らはきっと私が口を滑らせても死ぬことはない。気付いたときはとても驚いたが、そのことが素直に嬉しかった。

 

 結局、ハカセだけではなく、私にとっても友達は必要なものだったのだ。

 

 沙希と出会えなければ、私はずっとハカセ以外の他人を心から信じられない冷たい女の子のままだっただろう。

 同い年の友達と共感して、はしゃぎ、遊ぶことが私の心を解きほぐしてくれた。そこに何ら感動的なエピソードなんてなくたって、私は確かに沙希に救われたのだ。

 

 

 私に友達を与えてくれたハカセには、改めて感謝したい。

 彼にはそんなつもりがなかったとしても、彼が新谷君と沙希を連れてきてくれたから、私は孤独な女の子ではなくなった。

 

 彼はいつも、私の手を引いて世界の素晴らしさを教えてくれる。

 

 

 4人で遊びに行ったある日曜日の昼下がり。

 突然の夕立に降られ、公園の屋根が付いた小さなベンチで肩を寄せ合って雨宿りして。

 どうでもよくて面白い話題を言い合ったり、しりとりしたり。

 新谷君に乗せられたハカセが男2人でTシャツを絞るのを、私は顔を真っ赤にして指の隙間から覗いて、沙希が爆笑しながらやんやと囃したり。

 

 そして雨が止んで、私はハカセと手をつないで立ち上がって。

 雨上がりの澄んだ水の匂いに包まれながら、私はハカセに微笑んだ。

 

 

「ありがとう。素敵なひと時だったわ」




ささささんが持ってる能力は人間の内面を見通す観察眼。
強い者に怯える卑屈な子ネズミだった彼女は、自分の身を守るために他人を観察することを覚えました。
やがて成長した彼女は、自分の能力をにゃる君のコミュ力と組み合わせることで、仲間を守る力へと昇華させていきます。


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第69話「初めての共同制作」

「うぅ……」

 

 

 私はギラリと不吉な輝きを放っている包丁を、じっと睨んでいた。

 見ているだけで体が震え、脂汗が額に浮かんでくる。

 呼吸がうまくできなくなって、息の仕方を忘れてしまう。

 

 包丁はただそこにあるだけで何もしてくるわけはないのに、私はじっと包丁を見つめたまま硬直してしまっていた。

 

 

「やっぱりダメだ……」

 

 

 私は目を背けて、弱々しく泣き言を呟いた。

 呼吸ができるようになり、世界に色が戻ってくる。

 緊張と恐怖で強張った体をほぐし、私は大きく息を吐いた。

 

 

 今日もダメだった。

 

 自宅のキッチンでいつものようにリハビリに挑んでいた私は、がっかりと肩を落とす。

 

 

 小学1年生の頃にハカセと出会ったあの事件以来、私は刃物がまったくダメな体質になってしまっていた。とにかく鋭いものを見ると体が恐怖を覚えて、まったく動かなくなってしまう。

 

 小学生の頃はそれでもよかった。学校の図工の授業はハサミもカッターも持てなかったけれど、いつも一緒にいるハカセが何とかしてくれた。

 何度かクラス替えで別のクラスになったけど、ハカセは絶対にありすと一緒にいるのだと言って聞かず、机ごと無理やり押しかけてきて一歩も譲らなかった。あまりにも強情で聞く耳を持たず、最終的には先生も諦めてハカセを私と同じクラスに編入させていたっけ。

 

 きっと刃物がまったくダメな私と、私以外にはまったく心を開かないハカセ、2人セットで管理した方が先生たちにとってもいろいろと楽だったんだろう。何しろハカセには先生たちの見分けが一切ついていなかったぐらいだし。

 そんなわけで私は守ってくれるハカセにずっと甘えていたし、ハカセは私に先導されて毎日を生きていた。

 

 

 だけど、私たちはもう中学2年生。

 ハカセは自我がしっかりしてきて、今は何やらパソコンに熱中しているようだ。いつもパソコンで何してるの? と聞いたら、スマホのアプリを作るバイトをしているらしい。私にはさっぱりだけど、本人はすごく楽しんでいる。

 休み時間にはいつもタブレットに入れた難しい本を読んでいて、いろんな知識を貪欲に吸収している。

 ネットで尊敬できる先生も見つけたし、友達を自分で探してきて私に紹介するようにもなった。

 もう私がいちいち手を引いて歩かなくても、ハカセは自分の足でこの世界を歩けている。

 

 一方私はといえば、小学生の頃から何も変わってない。

 背は伸びたし、体はどんどん女の子らしくなってきているし、正直自分でもますますチャーミングになってるなと思う。

 だけど心は? 多分、小学生のまま成長していない。

 今でも(とが)ったモノを見ると震えてしまうし、ハカセといつも手をつないで歩きたいし、ハカセに甘やかされたいと思っている。全然子供のままだ。

 

 だから今、私はハカセに何かをしてあげたくて仕方ない。成長を見せつけたいのだ。

 自分はこんなことができるようになったんだよ、ハカセの役に立つことができるんだよって示したい。

 そうしないと、自分の足で世界を歩くことができるようになったハカセに置いていかれそうな危機感があった。

 

 じゃあ私の成長を示せるものって何だろう? 

 学力ではもうハカセには遠く及ばない。中学校の成績では並んでいても、それはハカセという才能を学校のシステムでは正しく評価できないだけで、実際はとてつもない差を付けられていた。

 

 私が選んだのは……料理だった。

 刃物へのトラウマを克服して、おいしい料理をハカセに食べさせてあげること。そうすることで自分の成長と有用性をハカセに示せると思った。

 もうアンタに守られなくても私は生きていけるよ、アンタが好きなご飯を食べさせて喜ばせてあげられるようになったよって言いたかった。

 

 きっかけは新谷(しんたに)君とのケンカで右腕を怪我したハカセに、お弁当を食べさせてあげたこと。

 あのときはママにお願いして多めにお弁当を作ってもらって、それをハカセに食べさせてあげた。私はそのときまで料理を一切やったことなくて、ママを手伝いたかったけど何もできなかった。

 

 だからせめておにぎりだけでも握ってみたけど、本当に不格好で自分でも情けなくなって。こんなのハカセに見せられないと思って、ママが握った他のおにぎりごと隠してしまった。

 

 

「嘘つけ、それくらいで足りるわけないだろ。もっと隠してるはずだ、出せ」

 

「僕はそれがいい。それしか食べたくない」

 

 

 でもハカセは私が作ったおにぎりをちゃんと見分けて、おいしいおいしいって食べてくれた。

 少しだけ料理できるようになった今ならわかる。あんなの絶対おいしいわけなかった。塩の振り方だってめちゃくちゃで、塩の塊が残ってたはず。

 

 

「次は隠さずに出せよ。どんな出来でも僕は食うから」

 

 

 でもハカセがそう言ってくれたから、私は料理を勉強してみようって思えるようになった。

 何のことはない、結局私はハカセ離れなんてちっともできてなくて、その行動の原動力は何もかもハカセに由来していた。

 

 それから私はママに料理を教えてもらうようになって、何とか包丁を握れるようになろうと週に一度はチャレンジしているけど……未だに成功はしていない。

 

 

「私、一生包丁を握ることできないのかな……」

 

 

 私が弱音を吐くと、横で見ていたママが頭を撫でてくれた。

 

 

「バカねぇ、この子は。まだ中学生の分際でなにが一生握れないのかな、よ。今時の中学生で包丁握ったことない女の子なんてザラにいるってーの。これからよこれから。ほら、泣かないの」

 

 

 口調は荒っぽいけど、ママはとても優しい。

 私の髪を撫でる手つきの柔らかさに、私は別の意味で泣きたくなる。

 

 ママは私の憧れだ。幼い頃からママみたいになりたかった。

 私にとってママはとっても優しいし、かっこいいし、おいしい料理を魔法みたいに作れる理想の女性だ。

 

 もちろんママがいくらプロの料理人だからって、毎日手の込んだご飯を作るわけじゃない。ちょっと味は落ちるけど手早くレンジ調理で下ごしらえしたりするし、手抜きができるところはズルをする。

 だけどたまに作ってくれる料理はちゃんとおいしいし、私が夢中でご飯を食べているところを温かい目つきで見守っていてくれるのだ。

 

 私が大事な仕事道具の包丁を持ち出して自分の(のど)を傷付けようとしていたと知ったときも、「ばかっ!」と私の頬を叩いた後に、「そんなに苦しんでいたなんて気付けなくてごめんね」とボロボロ泣きながら抱きしめてくれた。もっと怒られても当然だったのに。

 

 私にとってママは最高のお母さんで、温かい家族の象徴で……。

 だからいつかハカセのお嫁さんになるには、ママみたいにちゃんと料理をできなきゃいけなかった。包丁を握れないままでは、ハカセのお嫁さんになれない。

 

 今の時代、冷凍食品も進化してるし包丁を使えなくても炊事はできるけど……。ママっていう女性としての最高の理想像が目の前にいるのに、自分は包丁を直視することすらできないなんて、情けなさすぎて自分を許せない。

 

 いつか、ハカセのために料理を作れるようになりたい。

 ハカセには最高のお嫁さんを迎えて幸せになってほしい。自分がそうなるためには、包丁を使えるようになるというハードルを超えなきゃいけなかった。

 

 

 

 

 そんな密かに鬱屈(うっくつ)した日々を過ごしていたある日。

 かねがねハカセが何を研究しているのかどうしても知りたかったのでしつこく聞いたら、犬の気持ちがわかるアプリを開発していると教えてくれたのだ。

 

 

「犬っ!?」

 

 

 私は瞳を輝かせて食いついた。

 

 ハカセが私の大好きな犬に興味を持ってくれたのはもちろん嬉しかったけど、私が食いついた理由はそれだけじゃない。

 犬についてなら私もハカセの役に立てる。

 ずっと心にわだかまっていた、自分が役立つことをハカセに見せつける千載一遇のチャンスが巡ってきたと思ったのだ。

 

 それから私はハカセのために資料収集に努めた。幸い私の学力は既に高校レベルに達しているから、いかに県内一の進学校を狙っていようと合格は余裕だ。

 

 毎日のようにネットから犬の動画を集め、図書館で大量の文献を漁った。さらにはイギリスにいるおばあさまに助力を要請して、飼っている犬の動画を送ってもらったり、感情の翻訳について細かくレクチャーを受けた。

 おばあさまは私が幼い頃からずっと一緒にいるハカセを将来のお婿さんだと思ってくれていて、そのハカセが犬語翻訳アプリを作ろうとしていることに驚きながらも、全面協力してくれた。

 

 

「まあ……ハカセくんはすごいのですね。犬の言葉が完全にわかるなんて、本当にできたなら大変な発明ですよ。それならありすの恋人のために、私もできるだけのことはしましょう。その代わり、出来上がったら私にも使わせてくださいね」

 

 

 そう言っておばあさまはライブチャットの画面越しにウインクした。ドッグブリーダーをしているおばあさまは、里親に子犬の様子を見せるためにパソコンをマスターしている。今時の魔女はネットにも強いのだ。 

 元々は育てた犬をネット上のお客さんに見せるためにパソコンやネット環境を導入したのだが、生の声を聴かせなくて済む人付き合いはおばあさまにとって大変嬉しいものだったらしい。その環境を整えるのに私がハカセに頼んでアドバイスをもらっていたので、その点でもおばあさまはハカセのことを気に入ってくれている。

 外堀を埋める工作が成功して何より。

 

 去年迎えた愛犬のヤッキーも、生きた資料として大活躍してくれた。

 この子はおばあさまが私の使い魔として用意してくれたウェルシュ・コーギー・ペンブローク。使い魔というけど、つまりボディガードだ。見た目は足が短くてキュートなのに、とても賢くて勇敢。そのギャップがますます可愛い。

 

 ただしハカセとはあまり相性がよくなくて、よくケンカしている。

 でもきっといつか仲良くなれるんじゃないかな。だってハカセが感情剥き出しでケンカする相手なんて、ヤッキー以外見たことないもの。

 ケンカするほど感情を出せる相手なら、逆に仲良くなれる余地だってあるってことだものね。少なくとも人間相手よりはよっぽど可能性があると思う。

 

 

 なお、ハカセが翻訳機能以外にもいろいろ機能を付け足せるというので、私は折角だから愛犬の体調管理だとかSNSで愛犬自慢できるようにしたいとか、こんなのできたら便利だなということを思いつくまま好き放題口にした。

 言ってはみたものの、実際できるとは思ってなかった。

 

 だって私たち所詮中学生だよ? あくまでも中学生にできる範囲ってものがあるじゃない。確かにアイデアはいろいろ出したけど、私風情(ふぜい)が思いつくことなんてとっくに賢い大人は考えていて当然なわけで。それを実現したアプリがいまだ世に出てないということは、今の世界の技術力じゃ不可能なんだってことになる。

 

 だけど、ハカセはそれを実現しようとしていた。しかも私が口にしたアイデアを全部。

 正直何をどうやって実現へこぎつけているのかわからない。だが実際に見せてもらった試作品は、確かに私が出したアイデアを形にしていた。

 魔女の私なんかよりも、ハカセの方が本物の魔法使いに見えた。

 

 ハカセは作るのにすごく苦労したと、顔に疲労の色を浮かべながら言った。

 

 

「どうしてそこまでやったの? そんな機能実装しなくたって、翻訳機能だけでも充分に世紀の大発明じゃない」

 

 

 私がそう口にすると、彼は不思議そうな表情になってから、何でもないことのように軽く微笑んだ。

 

 

「ありすが欲しいって言った機能だろ? 僕が作りたいのはありすが欲しいアプリだよ。だって少しでもありすに喜んでほしいし」

 

 

 ……そんな笑顔、反則でしょ。

 胸がきゅーんってなって、顔をまっすぐ見れなくなっちゃったじゃん。

 

 

 

 

 そして、あっという間に開発開始から1年が経って……『ワンだふるわーるど』は完成。それから間もなく私たちは高校に合格した。

 小学生の頃からコツコツと積み重ねた努力の結果、県下一の進学校に入学できたわけだが、『ワンだふるわーるど』が完成したことの方が私としては感慨深かった。

 

 実際ここ1年の間の努力の量で言えば学業よりも圧倒的にこちらの方が手がかかっているわけだし、やっと形になって私も報われたという思いが強い。

 

 開発中は私もこれはすごい代物になると思っていたが、案の定(ちまた)では大ヒットしているらしい。おばあさまもこれはとても便利だと褒めてくれた。

 日本だけでなく全世界で大変売れていて、英語版も用意はしていたものの、それ以外の言語でも出してくれと世界中から問い合わせがきているそうだ。

 

 たった500円の買い切りアプリとはいえ、それだけ売れれば儲けも莫大(ばくだい)なものになっているらしい。

 ハカセはその売上金の一部を私にあげると言ってきたが、私は辞退した。

 

 

「どうして? ありすと一緒に作ったものなんだから、ありすには開発者として受け取る権利があると思う」

 

「ううん、いらない。そんなつもりで一緒に作ったわけじゃないもん」

 

「でも、なんかすごい額らしいよ? 僕もよくわかんないけど」

 

 

 ああ、多分本当によくわかってないんだろうなあ。

 彼から聞いたDL数を考えると、税金やらプラットフォームに支払う手数料やら代行で販売してくれる会社の取り分を差し引いたとしても、その儲けは数億はあるはずだ。個人が手にすればもう人生勝ち組は決まったようなもの。

 そして、中高生みたいな子供が手にしたら間違いなく人生が狂う額。

 

 ハカセは金銭感覚が欠如しているから何の影響も受けないだろうけど、そんな金額を一介の高校生風情が手にしてはダメだ。私は自分の理性の歯止めなんてまったく信用していない。買い物なんか始めたら、絶対に際限を失う。

 だからそんな身の丈に合わないお金を、ましてや資料を集めた程度の労力で手にしてはいけないのだ。

 

 私はハカセの手を握って言い聞かせる。

 

 

「ハカセ、そのお金は全部アンタのものにしなさい。だけど今は手を付けずに、大切にとっておくの。きっと正しい使い道があるはずだから」

 

「使い道って言われても……。僕はありすが喜んでくれるならそれでいいから、ありすに受け取ってほしいんだけど」

 

 

 ハカセは不思議そうに小首を傾げる。

 まったく、しょうがない人。こんなすごいアプリを作れるのに、お金を自分の好きにしたいという欲望はないのだ。

 その一方で、まだまだ私が彼の手を引いてあげないといけないことに心のどこかでほっとしている。

 うれしい。まだ私は彼の役に立てる。

 

 

「きっといずれ、アンタはそのお金の正しい使い道を見つけるわ。そのときまでは貯金しておきなさい。いつか必要になるときがくるから」

 

 

 そうだ。ハカセはこのアプリひとつ作って終わるような人間じゃない。

 これからもっともっと人類の歴史に残るようなものを作っていくはずで、このアプリなんてその最初の一歩にしかすぎない。

 そして彼の才能を羽ばたかせるためにはたくさんの研究費用が必要になるはずだ。だからこのお金はすべて未来の彼のために使うのが正しい。

 

 

「ありすが言うならそうするけど……。でも、本当に取り分はなくていいの?」

 

「いいの。私の取り分はもうもらったわ。全額アンタの将来のために投資したの」

 

 

 私にとって一番のお金の使い道は、ハカセがもっともっとその才能を発揮するよう手助けして、世の中にそのすごさを認めさせることだ。

 

 服やらバッグやらアクセサリやら化粧品やらマンガやらゲームやら、私にも欲しいものはいろいろある。でもそんなちっぽけな物欲を満たすよりも、私の大好きな彼がもっと輝いてもらうために使った方がどれだけ有意義だろう。

 いつもぼーっとして、地味で、暗くて、ぱっとしないヤツ。そんなふうに彼を正しく評価しなかった人たちは、本当はこんなにすごかったんだ、自分たちの目が曇っていたんだと恐れおののけばいい。

 

 私がずっと前から、本当にずっとずっと昔から一緒にいた彼は、こんなにも素敵な人なんだぞ。今さらハカセの才能と魅力に驚いても、彼の一番は絶対誰にも譲らないんだから。

 

 私の将来の進路を決めたのもこのときだ。私の才能はハカセの発明品を守るために使いたい。

 その才能の大きさに比べてハカセはあまりにも無欲で、放っておけばきっと悪い人間に成果をかすめ取られてしまう。だから私がハカセの発明品の権利をしっかり管理して、彼が当然の利益を正しく受け取れるようにしなくてはいけない。

 ハカセという才能を、私がそばで支えて光り輝かせてあげたい。それは私の心からの望みだ。

 

 

「それに……」

 

「それに?」

 

「私とアンタの初めての共同制作物なんだから、それって私たちの子供みたいなものでしょ? 子供は2人で作るものだから、それに関してのお財布は親の共有財産であるべき……で……」

 

 

 そう言いながら、私は自分が何を口走っているかに気付いて真っ赤になった。

 あああ、心の(おもむ)くままに口にしてたらとんでもないことに……!!

 

 

「ちょ、ま、今のなし!」

 

「う、うん」

 

 

 あっ、ハカセの顔がなんか赤い気がする……!?

 まさか私が何を言ってるのか理解しているとか!? 

 もー! これまでずっと鈍感だったくせに、なに色気付いてんのよぉ!

 

 

「バカバカバカ! 忘れろ! 忘れなさい!!」

 

「痛っ!? どうして僕が叩かれるんだ、バカなのは変なことを言いだしたありすであってだな……」

 

「うるさーい! えっち! 変態! むっつりすけべー!!」




ありすちゃん渾身のブーメラン。


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第70話「彼女の騎士は必ず守り抜く」

「ハッハッハッハッ」

 

「はいはい、そんなに急かさないの」

 

 

 私を見上げて尻尾をぶんぶん振り回しているヤッキーに苦笑しながら、私はリードを手に取った。

 

 

「ママ、ヤッキーのお散歩行ってくるねー」

 

「はーい。もう遅いから車に気を付けるのよー」

 

 

 ママに一言断ってから、ヤッキーと夜のお散歩に出発する。

 玄関を開けると夏の夜のむわっとした熱気が襲い掛かって来て、冷房に慣れた体が少し汗ばむのがわかった。

 

 日中より温度が下がった外に出られて嬉しいのか、ぐいぐいと駆け出していきたそうなヤッキーを抑えながら、私は小走りでその後を追いかける。

 

 

 高校に入学してからというもの、あっという間に時が過ぎ去っていく。

 

 ハカセがいて、新谷(しんたに)君と沙希(さき)が加わって、3人と過ごす日々は本当に楽しい。

 毎日くだらない馬鹿話をして、他愛ないことで笑って、そんな当たり前の日々はこれまで経験したことがないもので。学校を支配する必要もなく、ハカセを守ることに頭を悩ませることもなく、ただごく普通の一生徒として当たり前の日常を過ごせる。それがどれほど心安らげるものなのか、私はようやく知ることができた。

 私はやっと、ハカセ以外の対等な『友達』を得られたのだ。

 

 ハカセが2人を紹介したとき、内心ではハカセ以外の友達なんていらないと思っていたけど、それは間違いだった。ハカセが新谷君と沙希を連れてきてくれたから、今はこんなにも学校が楽しい。

 やっぱりハカセはすごい。私一人じゃわからなかったことを教えてくれる。

 

 そんな4人で過ごす毎日はあまりにも楽しくて、あっという間に1学期が終わってしまった。今はもう夏休みだ。

 毎年夏休みにはイギリスのおばあさまのところに行って、魔女の力を制御する訓練を受けている。

 

 

「今年はどうしようかな……」

 

 

 おばあさまに会えるのは嬉しい。

 だけど今年は8月の上旬に4人で夏祭りに行こうと新谷君が計画してくれていた。浴衣姿をハカセに見せつけてやれよ、とニヤリと笑った彼は、ハカセと私をくっつける手助けをするという約束を律儀に守ってくれている。

 

 おばあさまは別に毎年来なくてもいいとは言ってくれている。私ももう大きくなったし、今はライブチャットでいつでも会えるから、と。

 おばあさまは最近ハイテクおばあちゃんに覚醒して、ライブチャットやらSNSやらでネット上の友達を増やしているので、もう私と直に会えなくても孤独ではないはずだ。私ともよく夜にお話ししているのだし。

 

 さあ、どうしようかな。イギリスに行くなら夏祭りとの兼ね合いを考えれば8月の中旬から後半になる。だけど他にも海水浴やキャンプのお誘いがあるかもしれないし。ハカセに水着を見せるチャンスとか……うふふ。

 

 

 そんなことを考えながらいつもの散歩コースを辿り、公園に差し掛かったときのことだった。

 

 ベンチに座っていた男が不意に立ち上がり、私たちの進行ルートに出て道を塞いだ。

 なんだろう、と眉を寄せる。何か用事があるのだろうか。

 

 

「と、止まれ!」

 

 

 上ずった声で不審な男は叫び、シャツの下からタオルに包まれた何かを取り出した。

 男がそのタオルをじれったそうに投げ捨てると、常夜灯の光を反射してぎらりと銀色の刀身が凶悪な光を放つ。

 ナイフを手にした男は、それを見せびらかせるように大きく頭上に掲げて見せた。

 

 

「き……きゃああああああああああああ!!」

 

 

 反射的に悲鳴をあげるのが、私にできた全てだった。

 

 逃げなきゃと思いながらも、体も頭もまったく動かない。

 視線はナイフに固定され、背筋を冷たい汗が流れていた。

 情けない……! 刃物が怖いくらい何よ、と自分を叱咤(しった)するが、思考とは裏腹に体は恐怖に凍り付いて動かし方がまったくわからなかった。

 

 

「ぐるるるるる……」

 

 

 私を守るように前に飛び出したヤッキーが唸り声を上げる。

 リードを振り外そうとじれったそうに身をよじっているが、私の拳は凍り付いたようにリードを握りしめ、離そうとしない。

 

 

「ワォーーーーン!!!」

 

 

 遠吠えを上げるヤッキーをよそに、暴漢はニタニタと笑いながらナイフをぎらつかせていた。まるで私しか目に入っていないかのようだ。

 ……その目の色には見覚えがある。

 

 

「えへ、えへへへへ……ありすちゃん、ようやく2人きりになれたね。さあ僕のおうちにおいでよ、おもてなしの準備もできてるんだ。きっと気に入ってくれるよ、もう帰りたくなくなるほどね」

 

 

 小さい頃から、よく変質者に目を付けられた。

 世の中には『声の力』が特別よく効きやすい人種というのがいる。彼ら、彼女らは私が一人になると寄って来て、私のことを生き別れた娘だの、前世からの運命の相手だの、気持ち悪い妄想を口にする。

 そして決まって私に狂信的な好意を押し付け、それが受け入れられないと危害を加えようとしてくるのだ。

 今の目の前の肥満体の男がそうであるように。

 

 そんなとき私は決まって『二度と目の前に現れるな』と命令をするのだが……。

 今日はまずかった。

 恐怖で凍り付いて、声を出せない。

 そんな私を見て、暴漢は得意そうに粘着質な笑いを浮かべた。

 

 

「えへ、えへへへへへ。やっぱりそうだ、ありすちゃんは刃物が怖いんでしょ? 僕はありすちゃんをずっと見てたから知ってるんだ。高校に入学してからずーっと見てたんだ。ほら、どう? 怖いよね? だったら僕の言うことを聞くんだ」

 

 

 ……しくじった。ストーカーだ。

 そういえば、クラスにこんな男子がいた気がする。正直まったく気にも留めていなかったが、自分の弱みをずっと探られていたのか。

 

 中学の頃と違って学校を支配していなかったのが裏目に出た。ハカセを守るために学校を掌握(しょうあく)したことが、自分を守ることにもつながっていたのだろう。自分を守ろうという意識の欠如が、この事態を呼び寄せた。

 

 私は歯噛みした。自分はなんでいつもこんなにバカなんだろう。

 いつだって考えが足りなくて、意気地がなくて、臆病で。今だって目の前の刃物に怯えて何もできずにいる。せめてもっと早く、刃物を克服できていれば。

 こんな男に、ハカセにあげるはずの大事なものを奪われるなんて……!

 

 ごめんね、ハカセ……。

 

 私が心の中で涙したそのとき。

 

 

「この野郎、ありすから離れろ!!」

 

 

 この場に現われるはずもない、だけど一番現われてほしい人の声が夜を切り裂いた。

 

 ジャージに身を包んだハカセが飛び込んできて、暴漢のナイフを握る手を蹴り上げたのだ。ハカセの脚に跳ね上げられた手から、ナイフが取り落とされる。

 

 正直何が起こっているのか咄嗟(とっさ)に理解できなかった。

 どうしてハカセがここに? 出不精で、この時間はいつもパソコンの前でプログラムを作ってるはずなのに。

 しかもジャージ姿だなんて、あの運動嫌いのハカセが。

 

 助けてくれたのは嬉しい。まるで白馬に乗った騎士様だ。

 

 だけど今はそれ以上に、ハカセの身が心配だった。

 なんといってもハカセは弱い。ケンカなんてできない人だ。

 目の前の暴漢は狂気に支配されている。私を殺すことはしないだろうけど、ハカセには何をするかわからない。

 

 予想通り、暴漢は殺してやると喚きながらハカセに殴りかかった。

 

 

「ハカセ、逃げてっ!!」

 

 

 私の悲鳴は届かず、ハカセの頬に暴漢の拳が叩き込まれる。

 

 

「死ねェッ! 死ね死ね死ねッ! ゴミムシ! お前も僕と同じだ! ありすには到底釣り合わない陰キャのくせに、なんでお前だけッ!! お前がッ、お前が死んだらァ! ありすちゃんは僕のものになるんだああああああッッ!!!」

 

 

 ふざけるな。

 恐怖で凍り付いていた私の心に、怒りの火が灯るのがわかった。

 

 お前なんかがハカセと同じでたまるか。

 ハカセはいつも私を守ってくれる。私のことを気遣ってくれる。

 こんなめんどくさくてわがままな女の子に付き合ってくれる。

 とても素敵な男の子なんだ。そんな男の子を、お前ごときが傷付けるなんて。

 

 未だナイフの存在にすくんで体は動かないが、燃え上がる心は反撃のチャンスを虎視眈々(こしたんたん)(うかが)っていた。

 

 そして逆襲のチャンスが訪れる。

 リードを握る私の手が緩んだのを察したヤッキーが全力で飛び出し、再び手にしたナイフでハカセを刺そうとする男の脚に噛みついたのだ。

 

 その隙を突いて暴漢にタックルしたハカセが、馬乗りになってナイフをもぎ取ろうとする。

 ここだ! 私は必死で『声の力』を解き放った。

 

 

「『動くなッ!!』」

 

 

 びくりと暴漢の体が硬直する。

 その瞬間、私は全力で駆け出していた。

 

 よくも。よくも私の大事なハカセを傷付けてくれたわね……!!

 

 

 沸騰(ふっとう)しそうなほどに怒りで茹だった私のキックが、男の急所を直撃した。

 豚のように汚い悲鳴を上げてのたうつ暴漢に指を突き付け、命じる。

 

 

「『失せろ。お前は絶対にもう二度と、私とハカセの前に顔を見せるな』」

 

 

 その途端に暴漢が私を見る目が、まるで悪魔でも見たかのような恐怖に満ちたものに変わる。いつもの流れだ。

 『声の力』に惹き寄せられる人間ほど、私を畏怖(いふ)する。

 もうあんなやつへの興味はこれっぽっちもなくなっていた。

 

 そんなことよりハカセだ。

 彼の顔は暴漢に殴られて痛々しいほどに腫れあがっていた。

 なんてひどい……。

 

 

 全部、私のせいだった。

 私が『声の力』なんて余計なものを持って生まれたから、あんな男に狙われることになった。

 安穏とした日々に油断して危機感もなく振る舞ったせいで、ストーカーに弱みを握られていたことにも気付かなかった。

 刃物への恐怖心をいつまでも克服できないから、襲われてもガタガタと震えることしかできなかった。

 

 その結果、傷付いたのはハカセだ。いわば私がハカセを傷付けたのと同じだった。

 

 ぼろぼろと、ハカセの腫れた頬に私の涙がこぼれ落ちる。

 ごめんなさい。ごめんなさい、私のせいで。

 

 だけど、ハカセはそう言ってゆっくりと首を横に振った。

 優しく言い聞かせるような声色で囁く。

 

 

「泣かなくていい。ありすは何も悪くない」

 

 

 そんなことないよ。私が悪いんだよ。

 私がダメだから、ハカセにこんな迷惑をかけちゃうんだよ。

 でも、私はその思いを言葉にすることができなかった。

 

 

 私が『魔女』だと知ったら……ハカセに嫌われるかもしれない。

 

 今に至っても私が『声の力』のことをハカセに告白できていないのは、それが理由だった。

 もちろんそんなわけないと思ってる。ハカセは『声の力』のことを知っても、私を嫌ったりしない。彼はそんな狭量(きょうりょう)な男の子じゃない。私たちが築いてきた関係は、それくらいで壊れたりはしない。

 

 だけど……万が一にでも嫌われる可能性があるのだとしたら。

 たとえばハカセが私を守ってくれるのは、私がそう『声の力』で命令したのではないかと疑われてしまったら……?

 人間関係を崩壊させるのは、いつだって些細(ささい)な疑念からだ。

 そう思うと、どうしてもハカセに真実を告げる勇気が出なかった。

 

 どうして私はこんなに憶病なんだろう。強気なんて見た目だけ。

 本当は怖がりで、弱虫で、卑怯で。

 その負担を全部ハカセに押し付けてる、ダメな女の子だ。

 

 

 そのとき、ぎゅっとハカセが私を抱きしめた。

 彼の体から伝わる温もりが、私を包み込む。

 上背のあるハカセの体格は、もうすっかり大人で。ひょろ長くてやせっぽちだと思っていた体は、気が付かないうちにがっしりとしていて……。

 

 

「ありすを守るのは僕の意思だ」

 

 

 耳元で囁かれる、確かな意思が宿った言葉。

 まるで私を守るのは『声の力』に強制されたものなんかじゃないと宣言するかのような、力強い響き。

 

 いつも。いつだって。ハカセは私の体も心も守ってくれる。

 怖がりで、弱虫で、卑怯な私でも、全部ひっくるめて大事に思ってくれる。

 それが確信できて、嬉しくて、有り難くて……。

 

 私はハカセを抱きしめ返していた。

 後から後から涙が流れてきて、彼の肩を濡らす。

 

 また服を汚しちゃうね、ごめん。

 でも……これは怖いからじゃないから、安心して。

 嬉しいから。ほっとしたから。

 

 私はあなたが好きです。

 

 

 

 

 その後落ち着いた私は、ハカセからトレーニングを始めたということを聞かされてびっくりした。

 抱きしめられたときに予想以上にがっしりと頼りがいがある感触だと思っていたけど、まさかハカセが自主的に筋トレを始めるなんて……。

 

 正直に言うと、このとき私はおかしいなと思っていた。

 

 

 私の知っているハカセは絶対に筋トレを自主的に始めるようなことはしない。

 とにかく運動が嫌いなのだ。運動音痴というのもあるけど、それ以上に運動することに対して本能的な忌避感を覚えている気がする。

 そんなハカセが自分から筋トレしようなんて考えるわけがない。

 

 だからもしかして、と心のどこかで思ったのだ。

 

 

 ……もしかしてハカセは、『声の力』を自分に使っているんじゃ?

 

 方法はわからない。だけど新谷(しんたに)君のこと、沙希(さき)のこと。

 それから最近不良に染まっていて私にもツンケンした態度だったけど、いつの間にかお兄ちゃん大好きっ子に戻っていたみづきちゃんの変貌。

 

 まるで別人になったような変貌がハカセの周りで3回も起きている。

 普通に考えれば到底ありえないことだ。

 

 だけどそれを可能にする力が存在するのを、他ならぬ私はよく知っている。

 

 

 もしそうなら。

 ハカセが『声の力』をどうやってか身に着けていたとしたら……。

 

 

 それはとても喜ばしいことだ。

 

 もう私は『声の力』という、人の身には過ぎた力にひとりで怯えなくていい。

 ハカセという私にとってこの世で一番頼れる存在が、力を共有してくれる。

 

 それに何より、ハカセが私の『声の力』にとっくに気付いているのなら、ハカセに嫌われるかもしれないという心配は杞憂だ。

 私の『声の力』を受け入れてくれて、そのうえで私を大事にしてくれる。

 本当にそうなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。

 

 早速『声の力』について話をしたいけど……。

 降って沸いた可能性に浮足立ちそうになる心をなんとか抑える。

 

 いえ、ダメよありす。まだハカセが『声の力』に気付いてなくて、単に奇跡的に筋トレしようと思い立ったという可能性もあるもの。

 ここは冷静に様子を見ないと……。

 

 そう、ハカセを間近で観察しないと。

 

 

「じゃあ、私もジョギング一緒にやろうかな」

 

 

 想いが先走った私は、そんなことを口にしていた。

 

 自分で結構大胆に攻めたことに気付くが、そのまま勢いに任せてぺらぺらと舌を回す。

 ヤッキーの夜のお散歩を護衛してもらうという口実で、これから毎晩ハカセのジョギングに付き合うなんて約束をしちゃって。

 毎日お夜食作って持ってくるなんてことも言っちゃって。

 

 

 気付けば私は毎晩ハカセと夜のお散歩ができることになっていた。

 

 

 ハカセに家の前まで送ってもらった私は、彼にじゃあまた明日ーとひらひらと手を振って玄関をくぐる。

 

 そしてぐっと手を握ると、両手を挙げて嬉しさのあまり飛び跳ねまくった。

 

 

「やったー! やったやった、グッジョブ私! よくやったわ!!」

 

 

 っていうかゴハン作って、2人で公園で食べるなんて……。

 これもう毎晩プチデートしてると言っていいんじゃない!?

 

 うふふ。これおいしいねって褒められちゃったらどうしよ。

 実はママじゃなくて私が作ったのよーなんて。

 えっ、ありすが作ったの? すごい。お嫁さんになって。とか言われたりして。

 

 あーもう、夏休みに毎晩ハカセとデートできるなんて幸せすぎる……!

 私はにへーと緩んでくる頬を押さえ、身をよじった。

 

 

 おばあさまには悪いけど、もうイギリスに行ってる場合じゃなくなった。

 ハカセと毎晩デートできる高校1年生の夏は今しかないのだ。

 訓練はライブチャットでするから許してね。

 

 あ、そうだ。こうしちゃいられない。

 早速明日の夜食から気合入れてお弁当作らなきゃ……!

 

 

「ママ! 包丁使えなくても作れるお料理教えて! 今すぐに!!」




結局夜食に凝った料理なんていらないからおむすび持っていきなさいと言われた模様。

なおヤッキーが遠吠えしたのは、遠くにいるハカセがありすの名を呼んだのを聴いて、彼に自分たちの居場所を知らせるためです。ツンデレ騎士ですね。


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第71話「私たちはときにすれ違い、それでも」

「お礼も言わずに走り抜けちゃったの申し訳なかったかな。でも、なんだか気恥ずかしくなっちゃって。ありす、怪我はなかった?」

 

「うん、何ともなかった。ありがと、ハカセ」

 

 

 ハカセが『声の力』を知っていると確信できたのは、夏祭りでのことだった。

 

 道を塞いだ群衆がハカセを傷付けたのにカッとなった私は、つい後先も考えずに力を使って道を開けさせてしまったのだ。

 まずい、と顔から血の気が引いた。これは明らかに不自然だ。

 

 これまで何度もハカセの前で『声の力』を使ってきたけど、あくまでもそれは私のカリスマ性によるもの、という言い訳が立つ状況を選んでのことだった。

 いくらなんでも100人にも及ぶ見ず知らずの人間を無理やり動かすなんて普通のことじゃない。

 

 どうしよう……。

 いっそ、ここですべて白状してしまおうか?

 

 

「……あのね、私、さっき……」

 

 

 言いかけた私は、途中で口を閉ざした。

 やっぱりダメだ。言えない。

 もし嫌われたら……という可能性が頭をちらついて、弱虫な私は黙り込んでしまった。

 

 だけどハカセは何もなかったかのように新谷君たちを誤魔化してくれた。

 もちろんさっきの状況の違和感に気付かなかった、なんてことがあるはずがない。もうハカセはかつてのようなぼんやりとした子供ではないのだ。

 わかった上で何もなかったことにしてくれたのでなければ、あんなやりとりになるわけがなかった。

 ハカセは間違いなく『声の力』の存在を知っているし、きっとそれを操る方法を身に着けている。

 

 

 ああ、よかった。

 

 そのとき私が感じたのは、深い安堵だった。

 赤ちゃんの頃にお父さんとお母さんに抱かれていたときみたいな、強い安心感に包まれていた。

 

 これまでずっと『声の力』に怯えて生きてきた。他人を意のままにできる力への畏怖(いふ)、他人を信用できない不信感、この力を持つのは遠くに住むおばあさまと自分だけという孤独、変質者につけ狙われる恐怖。

 幼い頃は常にハカセの近くにいなければ、生きた心地もしなかった。ハカセはいつも私が近くにいてくれていると思っていたかもしれないけど、本当は私が彼の近くにいたかったのだ。

 

 だけどもう大丈夫。

 ハカセは『声の力』のことを知ってくれている。多分それを扱う方法も身に着けている。それなのに何かトラブルがあるように見えないし、もしかしたら私よりうまく扱えているのかもしれない。

 そんなハカセが私を守ってくれる。

 

 世界で一番信頼できる人が、私の秘密を知ったうえでそう約束してくれた。

 これ以上に安心できる状況はなかった。

 

 これまでよりもさらにハカセがカッコよく見える。

 

 

 ハカセが『声の力』を持っていることを私に言わないのは不思議だけど、きっと彼には彼なりの考えがあるのだろう。それならあえて追及はしないでおこう。

 今は私に告げないでおくだけの理由があるはずだ。

 時が来ればきっと私に打ち明けてくれると、素直に信じられた。

 

 それにしても今のハカセは頼り甲斐があって、知的で、真摯(しんし)で、優しくて、見ているだけでドキドキしてしまう。

 元々ハカセのことが大好きだったけど、もうベタ惚れだ。

 夏祭りの夜に花火と同じくらい綺麗だ、と囁いてくれたときはもう心臓が破裂して死んじゃうかと思った。好きって気持ちの爆弾が胸の奥で爆発して、きゅーーっとなった。ハカセがどれだけ花火のことが好きか、子供の頃から知っているだけにすごい破壊力だった。

 

 

 ……でも外見までイケメンになったときはびっくりした。

 みづきちゃんコーディネートで爽やか風になって、猫背もやめて背筋をまっすぐ伸ばしたハカセはすごかった。

 まず存在感のグレードが違う。そこにいるだけで眩しいほどの魅力を感じる。

 これはいい。とてもいい。すっっっっごくいい。

 

 (えり)もまっすぐだし、シャツは(しわ)ひとつないし、ズボンもプレスされて折り目ついてるし、そういうきっちりしたところが私の琴線をくすぐる。将来結婚したら毎日こういう着こなしをさせようと密かに妄想していたことが具体化されて目の前にあった。

 みづきちゃんは本当にハカセの魅力を引き出す術をよくわかっている。

 

 髪型は爽やか系よりももっと知的で落ち着いた方が好みだけど、そこはみづきちゃんとの解釈の違いかな。だけどこれはこれで別の魅力があって、私はうずうずを抑えきれずに思わず写真を撮りまくってしまった。

 私のスマホのひみつフォルダには隠し撮りしたハカセの写真がいっぱいだけど、この日一日でカッコイイカテゴリのコレクションがたっぷり増えた。

 

 だけどクラスメイトの女子が自分も写真を撮ろうと我先に出しゃばってきたのには思わず舌打ちしてしまった。これまでハカセの魅力に気が付きもしなかったくせに、ちょっと外見を整えただけで近付いて来るとは……ニワカどもめ。

 沙希が牽制してくれたけど、それだけではやはり足りない。

 

 そんなわけでその日は休み時間のたびにハカセを連れ出し、彼の腕に抱き着いて校内に見せつけて回った。

 今思うととんでもなく恥ずかしい真似をしていて顔が真っ赤になるけど、このときはハカセを誰かに盗られまいと必死だったし、何より自慢したくて仕方なかった。

 

 どう? ハカセは素敵な男の子でしょ。

 今更彼の魅力に気付いたってもう遅いんだから。

 外見を整えたら意外といけるって驚いてるみたいだけど、彼の内面の方がもっともっと、ずーっとかっこいいってこと、私はすごく前から知ってたんだから。

 彼の外見は見せてあげるけど、それで満足していればいいわ。

 内面の素敵さは、私が独り占めしちゃうもん♥

 

 

 

 それからいろんなことがあって、どれもが大切な思い出になった。

 

 体育祭の借り物競争でハカセにお姫様抱っこされてゴールしたり、ハカセのマニュアル作りのお仕事を手伝ったり。

 ハカセのお父さん主催のゲーム大会番組に新谷(しんたに)君や沙希(さき)と一緒に素人高校生チームとして出場して準優勝したり、柔道の全国大会に出場した新谷君を応援したり、みづきちゃんとハカセに着せたい服を探しに行ったり、ハカセの心を掴むためのママとっておきのレシピを練習したり。

 

 毎日がこれまでの人生の中で一番楽しくて、その思い出すべてにハカセがいて、何もかもが信じられないくらいに順調だった。

 ついにはクリスマスイブにデートする約束までできた。

 

 私は心を決めた。

 ハカセに自分の気持ちを伝えるなら今しかない。

 もちろんハカセだって私が彼のことを好きだってわかってくれてるはずだし、ハカセが私を大事に思ってくれてることはわかってる。

 

 だけどハカセの中の『好き』がどんな意味での『好き』なのか、私はまだ確かめていない。友達なのか、兄妹なのか。それとも私と同じ、恋人として『好き』なのか。

 

 かつておばあさまが言っていたことを思い出す。

 

 

『ありすもお婿さんを選ぶときは、あなたを対等な人間と見てくれる、同じだけの愛情を返してくれる人を選ばないといけませんよ。それが私たち魔女が幸せになれる、唯一の方法なのですから』

 

 

 ハカセの気持ちが私と同じなのか、確かめなきゃいけない。

 じゃないと私はきっと幸せにはなれないから。

 

 

 

 来たるクリスマスデートに向けて、私はお料理を頑張ったり、デートに着る服を見繕ったりと忙しい日々を過ごしていた。

 そんな12月のある日、私のスマホに不審なアプリがインストールされたのだ。

 いつものように『ワンだふるわーるど』でSNSにヤッキーのとっておきの1枚をアップロードして、世界にヤッキーの可愛さを広めた直後。

 いつの間にかスマホに潜り込んでいたそいつから、突然『おやすみなさい』と私の声が再生された。

 『声の力』がバリバリに乗った、非常に強い強制力を持った命令。

 もちろん私には効かないが、この不意打ちにはびっくりした。

 

 どういうことかと画面を凝視していると、そこに文章が表示され、同時に男性の声が文章を読み上げ始める。

 トーンが低く、とても明瞭で聞き取りやすいアナウンサーのような声質。間違えようもなく、ハカセの声だった。

 

 

『あなたはこのアプリに表示される命令に従わなくてはいけません』

 

『あなたはこのアプリの存在を認識することはできず、命令されたという事実も忘れますが、アプリからの命令は意識しなくても必ず守ります』

 

『それから……。天幡(あまはた)ありすに危害を加える行為一切を禁止します』

 

『アプリからの命令はこれから都度更新されます。そのすべてに従ってください』

 

 

 それっきりアプリは沈黙して、やがて勝手に閉じてSNSの画面に戻った。

 私はホーム画面に戻り、ずらりと並んだアプリの最後に付け加わった新入りさんの名前を確認した。

 

 

『催眠アプリ』

 

 

 なるほど……。そういうことだったのか。

 

 かつて私が録音した『声の力』、変貌した新谷君や沙希、プログラミングに情熱を燃やすハカセ、彼が柄にもなく運動を始めたこと、大胆なイメチェン。

 私の中ですべての謎がひとつに繋がった。

 

 私が録音した音声を導入に利用して、催眠術をかけるアプリ。

 それがハカセが会得した『声の力』の正体だったというわけだ。

 

 

「まったくもう……絶対に変なことには使わないでって言ったのに」

 

 

 私はため息を吐いた。

 

 彼のために録音した『声の力』が誰とも知れない人間を洗脳するために使われていたのは正直ショックだし、ちょっと裏切られたなって思いもある。

 

 だけどまあ、それはいいや。

 結局私の声なんて意図せずとも勝手に聴かれてしまうものだし、今更な話でもある。むしろハカセがどうやって『声の力』を扱えるようになったのかの謎が解けてすっきりしたし、その力のソースが私由来でほっとした。

 私の知らない別の『魔女』が彼に協力を持ちかけていたとかだったら、きっと夜も眠れない。

 ハカセが私の言うことを聞いてくれないなんてよくあることだし、そこを今更目くじらを立てたところで仕方ない。伊達に彼と10年一緒に過ごしてるわけじゃない。だらしないところも勝手なところもひっくるめて、私は彼が好きなのだ。

 

 

 このアプリを世界に広めたのは……私を守るため、だよね?

 命令の中には私に危害を加えるな、というのがあった。

 催眠アプリが全世界に広まれば、私を襲う者はいなくなる。

 

 ハカセが私を守るために『声の力』を使ってくれたことが嬉しい。

 それなら全然『変なこと』に使ってない。

 私は本来ハカセにゆっくり睡眠を取ってほしくてあの音声を録音したけど、ハカセはそれを使って、私を守るためのアプリを作ってくれたんだ。

 アプリ越しにハカセのあったかい気持ちを感じた気がして、思わずアプリのアイコンを撫でてしまう。なでなで。

 

 これだけ想いが通じ合っているなら、きっとクリスマスデートもうまく行くに違いない。

 相変わらず包丁への恐怖を克服できなかったのは残念で、それはとても心残りだったけれど……。

 ママは包丁を使わなくても手作り料理ができるレシピをたくさん考えてくれて、自分で言うのもなんだけどとてもうまくできたと思う。

 

 

 

 

 クリスマスデートもやっぱりすごく順調だった。

 

 ハカセに自分好みの服を着てもらったり、力作のお弁当を食べてもらったり、2人でカラオケも行ったりして。

 

 そしてハカセは露店でシルバー細工の指輪を買って、私の左の薬指に嵌めてくれて。まるで夢みたいだった。こんなに幸せなことがあっていいのかな。

 ハカセに手を引かれて歩きながら、私はずっと指輪に目を落としていて、これが夢で不意に覚めたりしないだろうかと、指輪がなくなってしまわないようにじっと見張っていた。

 

 やがて夜になって、デートは終わりに近付いて。

 私は絶対上手くいくはずと確信を持って、ハカセに告白した。

 

 

「あなたが好きなの。愛している」

 

 

 だけど……きっと何かがまだ足りなかった。

 ハカセのことを、まだ完全には理解できていなかった。

 

 だって私と同じ気持ちなら、同じだけ好きでいてくれるなら、そんな苦しそうな顔はしないはず。今みたいに答えが出ない難問に頭を悩ませているような表情で、必死に言葉を探したりはしないはず。

 ただ『僕も愛している』と返すだけでいいのに、彼はそれをしなくて。

 

 予想外の彼の反応に焦った私は、よせばいいのに答えを急かしてしまった。

 

 

「あなたは、私をどう思っていますか?」

 

「私を好きだと思ってくれていますか?」

 

「私を愛しいと思ってくれていますか?」

 

 

 まくしたてるように彼の返答を迫り、自分の気持ちだけをぶつけて。

 そんなだから失敗する。

 

 彼の心は未熟で、だから大事に大事に育てていかないといけなかったのに。

 私は自分のことだけ考えて、自分の気持ちだけを一方的に伝えるから、何もかも台無しにしてしまう。

 

 

「ごめんね。ハカセには、まだわからなかったよね。私、意地悪なこと訊いちゃったね……」

 

 

 安心させるように微笑もうとして、我知らず涙がこぼれ落ちた。

 最低だ。こんな涙、見せたくない。この涙は彼を傷付けてしまう。

 必死に必死に拭おうとして、それでも涙はとめどなく流れてくる。

 

 

「わ、私、涙なんか流すつもりじゃ……。違うの。違うのよハカセ。これは違うの……」

 

 

 ああ。バチが当たったんだ。

 彼が与えてくれる温もりに甘えて、彼を理解する努力を放棄した。『魔女』の私は幸せになるために人一倍頑張らなきゃいけなかったのに。

 

 

「ごめんね、ハカセ。今日のことは、忘れてね……」

 

 

 これ以上涙を見せたら、ハカセをますます傷付けてしまう。

 そんな自分が許せなくて、私は顔を隠しながらその場から逃げ出した。

 

 本当はハカセにきちんと弁解しないといけなかったのに。

 弱虫な私は気持ちを伝えることもできずに、逃げるしかなかった。

 

 

 

 

 どこをどう走ったのか覚えていない。

 家に着いた私は、服にしわがつくのも構わずそのままベッドに飛び込んで、思うままに泣いた。

 

 

「ハカセ……ハカセ、ごめんね……」

 

 

 そんなつもりじゃなかった。

 ただ、ハカセが同じくらい私を好きでいてくれているのか確かめたいだけだった。その先にはきっと、幸せな未来が待っているはずだったのに。

 

 身勝手に未来を夢見て彼に自分の気持ちを叩きつけて、傷付けてしまった。

 これからどうやって彼の顔を見ればいいんだろう。どう謝ればいいんだろう。

 合わせる顔がないとはこのことだ。

 一番守りたかった人を、自分の言葉で傷付けてしまった。

 

 

 だけど。それでも。

 

 

「ハカセの声が聴きたいよぉ……」

 

 

 今からでも電話しようとスマホを取り出して、何を言っていいのかわからず、通話ボタンを押す指が止まる。

 私の指はそのまま画面の上をさまよって、ハカセの写真コレクションフォルダを開いた。

 

 そこにはたくさんのハカセがいた。

 

 眠そうにあくびしているだらしないハカセ。熱心に花を見つめる子供の頃のハカセ。真剣な顔でタブレットの文献を読んでいる凛々しいハカセ。慣れない大声を精一杯張り上げて新谷君を応援するハカセ。対戦ゲームに集中しているハカセ。パソコンの前に座ってプログラミングしている後ろ姿のハカセ。みづきちゃんの話を聞いている優しい表情のハカセ。夏祭りの浴衣姿のハカセ。イメチェンしてカッコよく制服を着こなすハカセ。オシャレをサボってほどほどにボサついた親しみやすいハカセ。

 私好みのオシャレをした今日のハカセ。

 

 そのどれもが私が世界で一番大好きなハカセだった。

 

 

 暗い部屋の中で、私はじっとハカセの写真を眺めていた。

 写真の中に込められた思い出をひとつひとつ思い出しながら、ただ祈る。

 

 ハカセが明日も変わらず私と話してくれますように。

 ハカセが私のことを嫌いになっていませんように。

 

 

 どれだけそうしていただろうか。

 途中でヤッキーが心配そうに鳴きながら私のそばに横たわってきたけど、ママは何かを察したのか様子を見に来ることはなかった。

 私はただずっとハカセの画像を見つめていた。

 

 そんなとき、唐突に起動した催眠アプリが画面に割り込んでくる。

 文章を読み上げる、ハカセの声。

 

 

葉加瀬(はかせ)博士(ひろし)に危害を加える行為すべてを禁止します』

 

『日本時間で2021年12月24日20時30分になると、以後はこのアプリに関する手がかりすべてを認識できなくなります。アプリの存在だけでなく、アプリの開発者に少しでもつながる手がかりはすべて認識の対象外になります。現在覚えている手がかりはすべて忘れ、対象の人間は見えなくなり、書類や記録は読めなくなります。なお、以下の人間は対象外です。ミスターM、EGO』

 

『このアプリは21時になると消去されます。長らくのお付き合い、ありがとうございました。それでは、よい聖夜を』

 

 

 ……どういうことだろう。

 この命令に込められた正確な意図はわからない。

 だけど、どうやらハカセは今何かと戦っているらしいということは読み取れた。それはきっと、私を守るためのもの。だってハカセが戦うのは、いつだって私を守るときだけだもの。

 

 ハカセはまだ私を守りたいと思ってくれている。 

 私のことを大事だと思ってくれている。

 そんな彼に、私も何かをしてあげたい……そう強く思う。

 

 彼からSNSでメッセージが届いたのは、その直後のことだった。

 

 

『話したいことがあるんだ。9時になったらいつものところで会おう』




ゲーム大会番組に出演したり、にゃる君の柔道全国大会を応援したりといったエピソードは
ハカセ視点ではすっとばされました。

要望があればいずれ番外編という形でお目見えするかもしれません。


ちなみに全世界への催眠音声は、日本語以外は機械音声がスマホの持ち主の言語で読み上げています。


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第72話「僕たちの心は繋がっているから」

「……来てくれた」

 

 

 待ち合わせの時間よりもずっと早く来て、いつものブロック塀にもたれて待っていた私は、小走りで近付いて来る人影に小さく呟いた。

 

 大急ぎで用事を済ませて駆けつけてきたのだろう、ハカセは冬だというのにうっすらと汗をかいていた。

 待っていた私を見たハカセは、ほっとしたようにわずかに顔をほころばせ、なんだか泣きそうに瞳を潤ませる。

 そんな顔しなくたって、大丈夫なのに。

 

 

「ありす、伝えたいことがあるんだ」

 

「うん」

 

「僕は、ありすを……失いたくない」

 

 

 当たり前でしょ。アンタを置いて、どこかに行くわけないじゃない。

 でもハカセは力加減を誤ると失われてしまう壊れ物を扱うように、私をじっと見つめてくる。

 

 

「ありすが大切なんだ。ずっとそばにいてほしい」

 

 

 私もだよ。あなたとずっと一緒に生きていきたい。子供の頃からずっと思ってた。

 だけど私はもう一度意地悪な質問をしなきゃいけなかった。

 

 

「それは、どういう存在として? 友達? 兄妹? ……それとも、保護者?」

 

 

 ハカセの顔が曇る。

 本当はこんな顔なんてさせたくない。ぎゅっと抱きしめて、腕の中で甘えさせてあげたい。もう泣かなくていいよって言ってあげたかった。

 でもハカセが何に苦しんでいるのか、彼の口から言わせないといけない。

 

 

博士(ひろし)が好き。この世の誰よりも、私はあなたを愛してる。……あなたは、私が愛しているのと同じように、私を愛してくれる?」

 

 

 私の告白を受けて、ハカセは途方に暮れた顔をする。

 子供の頃、彼のこんな顔を見た。夕方までずっと花を観察していて、あたりが暗くなっていって、家に帰る道がわからなくて迷子になったときの顔。あのときは私が迎えに行ったね。2人で手をつないで、おうちに帰ったよね。

 

 

「……わからないんだ。わからない。ありすのことは大事なんだ」

 

 

 ハカセは顔を(うつむ)かせ、ぽつぽつと口を開く。

 

 

「だけどそれが、ありすの気持ちと同じなのかわからない。人を愛するという感覚を理解できない。欠陥品なんだよ、僕は。他人と愛し合うことができないんだと思う」

 

 

 私は黙って彼の言葉を聴く。

 その言葉の中に込められた彼の苦悩を、十数年をかけて彼の中で育った情緒(じょうちょ)の叫びをただ受け止める。

 

 

「だけど……だけど、ありすが大事なんだ。キミとずっと一緒に生きていきたい。キミがそばにいない人生なんて嫌なんだ。……これで代わりになるかな。僕が同じだけありすを愛してるって、思ってくれるかな?」

 

 

 あっ……と私は口を開きかけた。

 ぽろりと、ハカセの伏せた瞳から雫がこぼれていた。

 

 彼が泣くところなんて、私は初めて見た。

 どんなに痛くても、人から悪意をぶつけられても、ひとりぼっちでも、ハカセは一度だって涙を流したことはない。ただずっと霧に包まれた世界を観察していた。

 でも、本当は……。泣きたかったのかもしれない。霧の中でどうして自分は一人なんだろうと、泣いていたのかもしれない。誰もが泣いていると気づかない、彼なりの形で。

 

 胸がぎゅーっと締め付けられる。彼の頭を抱きしめたい。

 そうだよって言ってあげたい。今のままのハカセでいいよ、それが愛だよって頷いてあげたい。

 でも……私は本当にハカセが好きだから、そうはしない。

 ハカセに本当に愛をわからせないと、彼はいつまでも世界にひとりぼっちだから。

 

 人間の心はきっと、小窓のついた部屋のようなもの。

 みんなその部屋の窓から外を覗いて、他人を認識している。窓はとても小さいから他人の全貌なんて見えなくて、ときどき勘違いしたり、すれ違ったりしてしまう。

 でも人間はその小窓の鍵を開けて、手を伸ばすことができる。小窓から手を一生懸命伸ばして、お互いの手を握り合い、温もりを伝え合う。私はここにいるよ、あなたを愛してるよと。

 

 そんな誰にでもできて当たり前のことが、ハカセにはできなかった。

 彼の心の部屋はいつも霧に包まれていてどこに小窓があるかわからないし、その小窓の鍵は他の人よりも固く生まれついてしまったから。それはどれだけ寂しくて、心細い日々だったことだろう。

 幼い頃の私はたまたま波長が合ってその鍵を少しだけ緩められたけど、手をしっかりと握り合うには窓の隙間は全然足りなくて。私がどれだけ彼を想っているのかを伝えきれなくて、彼を途方に暮れさせてしまった。

 泣かせてしまってごめんなさい。迷わせてしまってごめんなさい。ただ、あなたに同じだけの強さで手を握り返して欲しかっただけなんです。

 

 

 だけど、

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

 私の声に、ハカセはハッとしたように顔を上げる。

 

 

「あなたの心の窓は、人よりもちょっと頑丈な鍵がかかって生まれてしまったけど……もうその鍵はここにあるから」

 

 

 そう言いながら、私はスマホを取り出した。

 時間は20時45分。まだ21時にはなっていない。

 30分も前から寒い中待っていたのは、彼が作った鍵を使うため。

 

 催眠アプリを起動する。

 21時に消えてしまう魔法の鍵は、まだ私のスマホの中にある。

 画面を彼に向けて、告げた。

 

 

「今から貴方に命令します」

 

「……ああ、そうか。そうだよな……。ありすのスマホにも当然入るよな。純度を上げたつもりだけど……ありすには効かなかったか。実験は失敗だな」

 

「バカ。変なことには使わないでね、って言ったのにこんなアプリなんか作っちゃって」

 

「……ごめん。僕の負けだ、もう好きにしてくれ」

 

 

 ハカセは苦笑いを浮かべる。

 何かを諦めたような、虚ろな笑みだった。

 そんな彼の素振りを無視して問う。

 

 

「貴方に私の『声の力』の耐性があることは十分知ってる。……でも、自分に使おうと思えばできるんでしょう?」

 

「うん、そうだよ。自己暗示でね。かかろうと思えばかかれる」

 

 

 思った通り、ハカセは『声の力』を利用して自分に暗示を植え付けたことがあるようだ。

 

 

「じゃあ、今から言う命令を受け入れてください」

 

「いいよ。僕は負けたんだ、なんでも言ってくれ。どんな命令でも従うよ」

 

「その代わり……貴方も、そのアプリで私に何でも命令していいから」

 

 

 私の言葉に、ハカセは意外そうな顔で眉を上げた。

 

 

「どうして?」

 

「そうしないとフェアじゃないから。私はアンタとずっと対等な存在でいたいの。……心配しなくても、きっと私にも効くわ。アンタと同じよ、命令を受け入れようと思えば効果があるの」

 

「……わかった」

 

 

 ハカセが頷き、えいと胸を張った。

 

 

「さあ、どんとこい。どんな命令でも受け入れてみせるさ」

 

 

 こんなときに無駄に男らしいんだから……。

 私の喉からくすっと笑みが漏れる。

 

 ハカセにする命令はひとつ。『愛情』という概念をわからせること。

 彼に愛という感情を教えることは、誰にもできなかった。あんなに愛情深い彼のお父さんとお母さんでさえも。

 

 ハカセは自分の両親のことを思春期の子供がいるのに年甲斐もなくイチャイチャしてる熱愛夫婦だと思っているようだが、その認識は正しくない。

 自分の息子の共感性が人よりも乏しいことを知った彼らは、あえて積極的にお互いを想い合う姿を見せて、彼に愛情の示し方を身をもって示していたのだ。こうやって人を愛するんだよ、相手が大事だという気持ちはこうやって伝えるんだよと。本当に息子想いの、愛情深い人たちだと思う。

 

 だけどハカセは結局それを理解することはできなかった。

 

 あれだけ愛情深い両親であっても教えることができないのなら、もはや催眠アプリで『愛情を理解しなさい』と命令したところで効果は表れないだろう。

 

 だから、こうする。

 実の親でもダメなら……。

 

 

「では命令します。『今から貴方の意識は10年後の未来に飛びます』」

 

「……!? 待って、催眠アプリじゃそんな暗示は……」

 

 

 彼の言葉を無視して、私は続ける。

 

 

「『想像してください。私と結婚して、幸せな家庭を築いた貴方を。そして感じてください。私に対して、どんな気持ちを抱いているのかを』」

 

 

 『声の力』を全開にして語り掛けながら、必死に願う。

 

 お願いします、届いてください。

 私の力だけじゃ彼の心に届かないのなら、誰でもいいから力を貸してください。

 神様。仏様。サンタ様。

 今日はクリスマスイブです。この願いを、誰か聞き届けてください……!

 

 

 そのとき、彼に向けたスマホから声が聴こえた。

 

 

『エラー。その命令を実行するには演算領域が不足しています』

 

「誰!?」

 

 

 突然響いた無機質な機械音声に、私は目を丸くする。

 ハカセもまた、意表を突かれたような顔でスマホを見つめていた。

 

 

『こちらは全言語翻訳サーバー【バベルI世(ワン)】翻訳AIです。本機と接続した催眠アプリで処理不能なタスクを検知したため、本機での代行処理を試みましたが、本機の演算領域では解決することが不可能でした。ですが、現在貴方が掌握している生体すべてを演算領域として活用すれば可能かもしれません。実行しますか?』

 

 

 正直何が何だかわからない。

 だけど、それが可能だって言うのなら。

 ハカセに愛を理解させてくれるって言うのなら、ためらう理由なんてない。

 

 

「お願い! この願いを叶えて!」

 

『了解。――よき聖夜を』

 

 

 硬質な機械音声は、最後のひと言だけ笑うように返答して……。

 

 

 そしてスマホの画面から激しい光がハカセに向かって放たれた。

 え、なに? 催眠アプリって使うときこんなに光るものなの……?

 

 ハカセの目が潰れたりやしてないかと、私は恐る恐る彼の様子をうかがった。

 

 

「…………」

 

 

 彼の目がとろんと(かすみ)がかったように虚ろになっている。

 きっと……効いている。今、彼は10年後の世界を幻視しているはずだ。

 

 実の親ですら彼に愛情を教えられないのなら……自分自身に教えてもらえばいい。

 

 10年後の私は、彼を幸せにできているだろうか。きっと大丈夫だと信じる。

 その幸せな気持ちを少しでも彼も感じてくれているなら……。

 未来のハカセと同化した今のハカセにも、その気持ちを理解できるはずだ。

 

 

 

 

 やがて……彼の瞳の焦点が合い、ゆっくりと頭を振る。

 10年後の幸せな未来から帰還したんだ。

 

 

「どう……?」

 

「……うん。わかるよ。この胸の、温かさがそうなんだな。相手の幸せを願うことで、自分も幸せになる……これが、ありすが僕に抱いていた気持ち」

 

 

 ハカセは胸に手を当てて、そこに大切で仕方がないものがあるというように、柔らかな手つきで撫でた。

 そして、噛みしめるように呟く。

 

 

「よかった。これまでよくわからなかったけど……。これは、ずっと僕の中にあったものだ。ありすに対して、ずっと抱えてきた気持ちと同じものだった」

 

「ハカセ……じゃあ」

 

「うん」

 

 

 ハカセは頷き、目じりに涙を光らせながら微笑んだ。

 

 

「愛してる。ありすのことが、世界で一番好きだ」

 

「うん。私も、愛してる」

 

 

 ああ……よかった。

 これで想いが通じた。私と彼は、ちゃんと愛し合っていた。

 

 多分私たちは相手のことを完全には理解できていない。私たちの心の窓は、相手のすべてを見通すにはあまりにも小さすぎるから。

 私が彼をクールでカッコいいと思っているように、もしかしたら彼はこんなポンコツな私を賢い美少女だと思ってるかもしれなくて。

 きっと私たちはお互いをいろいろ勘違いしていて、だからこれからもたくさんすれ違うかもしれないけれど。

 

 だけどちゃんとお互いを大切にしたいと思っている。

 心の窓から手を伸ばして、相手と手を握り合いたいと願っている。

 

 彼から愛されているという確信を得られたことが、こんなにも嬉しい。

 

 

「じゃあ……今度は私が催眠をかけられる番ね」

 

 

 私は薄く微笑んだ。

 もう彼から何を命令されても構わない。私の願いはこれ以上なく叶った。

 愛し愛されている彼からなら、どんな命令だって聞いてあげる。

 

 溺愛してくれるというのなら、意思のないお人形にだってなろう。

 催眠で彼の心を弄んだことが腹立たしければ、土下座だってしよう。

 

 さあ、好きにしてください。私の最愛の人(マイ・ダーリン)

 

 

 

============

========

====

 

 

 

 僕は頷いて、スマホの画面をありすに向けた。

 

 ここまでとても長い長い道のりだった。

 ついにこのアプリの本当の役割を果たせる。

 

 ありすにかける催眠の内容なんて決まり切っていた。

 

 

「催眠!」

 

「…………」

 

 

 僕は万感の思いで、ありすにかけたかった暗示を口にした。

 子供の頃からずっとずっと叶えたかった、ただひとつの願い。

 

 

『あなたはもう刃物が怖くありません』

 

「……!?」

 

 

 ハッと目を見開くありすに、僕は続ける。

 

 

『あなたの尖端(せんたん)恐怖症は治りました。あなたは包丁を見ても怯えることなく、好きなだけ料理ができます。何故なら……』

 

 

 僕の催眠術はただ命令するだけでは効果がない。何らかの説得力が必要だ。

 今なら言える。心底からの想いを込めて。

 

 

『僕が守るから。どんな怖いことからも、ありすを守り抜くから。だから、あなたはもう刃物なんて怖くありません』

 

 

 僕の世界にかかっていた霧は晴れた。そしてようやく思い出せた。

 

 そうだ。僕が本当にありすにかけたかった暗示はこれだ。

 ありすをただ救いたくて、4年をかけて催眠アプリを研究していたんだ。

 

 ……土下座させたいなんて、当初の怒りをやる気に替えるための手段にすぎなかった。半身のように思っていた女の子に意地悪されて、子供が腹を立てていただけ。それが研究のわかりやすい原動力になるから、さも大事な目的であるかのように思い込もうとしていた。

 

 しかし僕の自己暗示はきっと強すぎた。『恐怖症を治す』という忘れてはならない本来の目的と、『土下座させる』というやる気を出すための偽の目的を取り違えさせるくらいに。だから僕はずっと、ありすの生意気な部分を探しては怒りを燃やそうなんて、おかしな行動をしてしまっていた。

 

 だけどその暗示もありすが4年かけて解いてくれた。

 意地を張って作った認識の壁すら貫通して、僕に愛情を向け続けてくれた。

 生意気な部分よりも愛しい部分しか見つけられなくなるほどに。

 もうこんなの『負け』を認めるしかないじゃないか。僕の意地なんかより、ありすの愛情の方がよっぽど強かった。

 負けを認めた以上は、意地を張るのはもうやめだ。僕も自分の本心に素直になるときがきた。

 

 僕が心の底から叶えたい願い。

 

 ありすをどんな怖いことからも守ること。

 僕の世界に来てくれた、一番優しくて温かな光を曇らせないこと。

 それが彼女と出会ったときから変わらない、ただひとつの願い。

 

 

 ありすは胸元に両手を添え、ぎゅっと握りしめる。

 

 

「ハカセがそう言ってくれるなら、私もう怖くないよ」

 

「うん」

 

 

 ありすは(つゆ)に濡れた花が(ほころ)ぶように、華やかな笑顔を浮かべた。

 

 

「ありがとう。出会った日から、いつも私を守ってきてくれて」

 

「僕がそうしたかったんだ。ありがとう、僕の世界を照らしてくれて」

 

 

 僕は彼女にゆっくりと歩み寄って、おずおずと手を握る。

 その手が握り返される。

 抱きしめる。

 彼女の柔らかな体の感触を、温もりを、そこにいてくれる奇跡を。

 

 ありがとう、ありす。

 

 

「「愛してる」」



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後日談
エピローグ「「この手を重ねて、一緒に歩こう」」


「いやーなんにしてもよかったね。万事収まるところに収まったわけだ」

 

 

 クリスマスの一件について僕からのレポートを読んだミスターMはしみじみとそんなことを言った。

 あれから数日、もう新年も近い大晦日だ。

 

 ミスターMもEGOさんも、あれ以来公安から接触はないらしい。

 催眠はうまいこと効いてくれたようで、催眠アプリの手がかりとなる2人のことも公安は認識できなくなったようだ。

 

 ちなみに2人が家探ししたところ盗聴器が見つかったそうで、どうやら回線をハッキングしたとかじゃなくて自宅に不法侵入したエージェントによっていつの間にか仕掛けられていたようだ。「まあ、ハッキングとかするより物理的に盗聴した方が楽だよね」とはEGOさんの弁。

 

 

「それで、晴れてありすくんと結ばれたわけだけど……まだ土下座させたい?」

 

「まさか」

 

 

 EGOさんの言葉に、僕はぶんぶんと首を横に振った。

 

 

「ありすを土下座させたいなんて気持ちは、もうきれいさっぱりなくなりましたよ」

 

 

 そもそも『催眠アプリを作る目的はありすを土下座させるため』という執念自体が、僕の自己暗示にすぎなかった。

 元々あれは本来中学1年生のちょっとした怒りに過ぎなかった。それを無理やり心の中で炎上させて、アプリ開発のための燃料にしていたのだ。その結果『催眠アプリを作ってありすの恐怖症を治してあげたい』という本来の目的が上書きされて思い出せなくなってしまったのだから、僕の思い込みの強さも凄まじいものがある。催眠術師としての才能が裏目に出てしまったということだろうか。

 それでも深層意識では本来の目的を忘れずにいたようで、なんだかんだで研究を完遂してありすを救えたのだから本当によかった。

 

 もちろんありすと恋人同士になれた今、彼女を土下座させたいなんて考えは微塵もない。

 それよりも思いっきり甘やかしてあげたいし、寄り添って体温を感じていたいのだ。

 

 クリスマスからこっち、毎日お部屋デートしてありすと一緒に過ごしているが、飽きるどころかますます愛しくてたまらなくなる。今の僕は完全なありす中毒で、許されるのなら四六時中でも一緒にいたいし、家に帰ってから翌日にまた会うまでが待ち遠しくて仕方ないのだ。毎晩SNSで話はしてるしそれも楽しいけど、やっぱり横にぴったりと座ったありすの体温を感じたり、間近で笑顔を見たりする方が嬉しい。

 寝ても覚めてもありすに夢中だ。

 

 

「ふむ……。しかし元々彼女を見返したいから、熱心に研究に打ち込めていたんだろう。目的を達成して研究へのモチベーションが失われてしまった、ということはないのかね?」

 

「確かに元はそうでしたけど……今の僕には別の目的ができました」

 

 

 ミスターMの言葉に、僕は背筋を伸ばした。

 それは10年先の未来の僕から受け継いだこと。

 

 将来、催眠が解けたさまざまな機関が催眠アプリを……ひいてはそのソースとなったありすを狙ってくる。

 それは僕が世界中に催眠アプリをばら撒いてしまったせいでもあるが、将来僕が研究する他の成果物とそれを管理するありすの身柄を狙ってのことでもある。僕たちは世界にとってあまりにも美味しすぎる獲物になってしまうのだ。

 

 

「僕はありすを守り抜きます。そのために今から行動していくつもりです。幸せになれたからと現状に甘んじたりはしませんよ」

 

「なるほどな。催眠アプリはどう使っていくつもりなんだ?」

 

「あれはもう役目を果たしたので、凍結します」

 

 

 正確にはありすのお産を助けるという役割がまだ残っているが……。

 少なくとももう大っぴらに使うつもりはなかった。

 

 僕の言葉に、ミスターMとEGOさんはほっと溜め息を吐く。

 

 

「そうか……それなら私の催眠アプリ研究も店じまいだな」

 

「えっ? 別に僕に構わずに研究すればいいんじゃ……?」

 

 

 首を傾げる僕に、EGOさんが笑いながら告げる。

 

 

「先輩が催眠アプリを作ろうとしていたのは、ひぷのん君へのカウンターのためだったんだよ。もしもひぷのん君が催眠アプリを悪事に使った場合、その催眠を解除するためのアプリが必要になると思って研究していたのさ」

 

「……そうだったんですか」

 

 

 ミスターMはバツが悪そうに口ごもりながら、そうだと頷いた。

 

 

「中学時代のキミは精神が未熟に見えたからね。道を間違う可能性も十分に考えられた。だからもしキミがそれを悪い方向に使うのなら、大人である私が止めなければと思ったのだ。もっとも、とうとう開発は成功しなかったが……」

 

 

 ミスターMはふう、と息を吐いた。

 

 

「すまなかった。キミを疑った私を罵ってくれていい」

 

「……いいえ。ありがとうございます、僕を見守ってくれて」

 

 

 ミスターMとEGOさんは徹頭徹尾、尊敬に値する恩師だった。

 この2人に見守られてきたことは僕の誇りだ。

 

 それにしても……。

 一抹の不安が心をよぎる。

 

 

「ミスターM、EGOさん。催眠アプリの開発は終わりますが……もしかして、僕はもうこのチャットルームに来ない方がいいでしょうか?」

 

 

 師匠たちが僕をここに呼んでいたのは、僕を導くと同時に監視するためでもあった。僕たち3人は催眠アプリという一点で結ばれた関係だったわけだ。

 催眠アプリを凍結するということは、この3人の関係も解消されるのでは……?

 

 するとミスターMとEGOさんはぷっと吹き出した。

 

 

「いやはや……まったく、ひぷのん君は恋人ができて少しは成長したかと思ったらそういうところは変わらんね」

 

「おいおい、もう私たちの関係は催眠アプリだけじゃないだろう?」

 

 

 そしてニヤリと笑うかのように、2人は言葉を続けた。

 

 

「キミは私たちの愛弟子で!」

 

「かけがえのないビジネスパートナーで!」

 

「「親友だぞ!!」」

 

 

 見事にハモってみせる2人に、僕は目を丸くした。

 

 

「……練習してたんですか、それ?」

 

「わははははははははは! まあな!」

 

「ひぷのん君なら言いかねないかなと思ってね。どうだい、我々も少しはキミのことを理解できてきただろう?」

 

 

 大笑する2人に、僕も思わず頬が緩んでしまう。

 

 

「歳の離れた親友……そう思ってくれてるなんて嬉しいです」

 

「ふふ。ま、そういうわけだから」

 

「今後ともよろしくな、ひぷのん君」

 

 

 その日は今度東京でオフ会をしようとか、九州に来たらうまいものを食わせてやるからぜひ来なさいとか、そんな話でずっと盛り上がった。

 

 僕を親友だと呼んでくれたお2人に言えないことがあったのは、ちょっと心苦しかったけど。

 

 

 

※※※

 

 

 新学期、ある日の休み時間。

 

 

「進路希望かー。なあハカセ、お前何書くんだ?」

 

 

 自分の席でタブレットを眺めていると、進路希望調査の紙を手にしたにゃる君とささささんがやって来た。

 僕はタブレットをぱたんと閉じて、机の中から進路希望票を取り出す。

 

 

「まあ、普通に進学かな。にゃる君はどうするの?」

 

「……?」

 

 

 にゃる君とささささんは何か意外なものでも見たように、じーっと僕の顔を見返した。

 ……なんだろう、何か僕の顔についてるのかな。

 

 

「どうしたの?」

 

「お前が他人の進路に興味を示すとは思わなくてな……」

 

「そんなに変かな」

 

「いや、いいことだぜ。で、俺の進路だな、俺はこれだ!」

 

 

 にゃる君はそう言いながら自分の進路希望票を見せてくれる。

 第一希望は……『警察官僚』。

 

 

「あれ? にゃる君、お父さんみたいなノンキャリアの警察官になって、自分の手で悪い人を捕まえるんだって言ってなかった?」

 

「あー、まあ中学のときはそう言ってたけど」

 

 

 ポリポリと頭をかきかき、にゃる君は苦笑した。

 

 

「まあせっかく進学校に入れたわけだし、親父もどうせなら高みを目指せって言ってくれてるし……」

 

 

 にゃる君が何か言いづらそうにしていると、ささささんがニヤニヤしながら肘で彼の脇腹を小突く。

 するとにゃる君は何か観念したように押し黙り、やがて僕に指を突き付けた。

 

 

「つーか、お前だ! 将来ハカセがもし何かすげえ発明とかして、それを悪用して大犯罪とかしそうになったら俺が止めてやるから! そのためにゃただの一警官じゃだめだ。できるだけ偉くなっとかないと、止められねーからな!」

 

「おお……?」

 

 

 僕が呆気に取られていると、ささささんはクスクス笑って口を挟んできた。

 

 

「なーに照れてんのよ。ハカセがすごい研究とかしたときに、それを国とか機関が横から奪ったりしないように俺が守ってやるんだ、って言ってたくせに」

 

「うぐっ……」

 

 

 にゃる君は痛いところを突かれた、というように口をひん曲げる。

 

 まあ僕はとっくの昔に世界征服を成し遂げた大悪党だし、国に研究成果を奪われそうになったりもしたわけだけど……。

 

 

「ありがとう、にゃる君。すごく嬉しいよ」

 

「お、おう」

 

 

 にゃる君は照れ臭そうに鼻の頭をカリカリと掻く。

 

 

「なあハカセ、お前はすごい奴だよ。それこそ俺の友達にはもったいないくらいだ。だから……俺も力を付けるよ。それで、お前を守ってやる。お前にふさわしい、自慢の友達になってみせるからな」

 

 

 そんなことを言って、僕の友達は笑う。

 もう十分に、キミは自慢の友達だよ。

 

 

「ささささんは?」

 

「ボク? ボクはこれ!」

 

 

 そう言ってささささんが見せてくれた進路希望票の第一志望は『学校の先生』だった。

 

 

「いやーやっぱボクって頭いいからさ。インテリな職がいいと思うんだよね」

 

「インテリぃ? ガラにもねえ。プロゲーマーあたりがお似合いじゃね?」

 

「はー!? にゃるこそプロゲーマーって書けばいいだろ! ボクより断然ゲームうまいじゃん!」

 

「……貶そうとして褒めてねえか、それは?」

 

 

 いつもみたいに仲良くケンカするやりとりをしてから、ささささんは照れ臭そうに小声で呟いた。

 

 

「まあ、いい先生になって、いじめられる子を減らせたらな……ってね。ハカセ君が私を救ってくれたお返しを、他の誰かにしてあげたいんだ」

 

「うん。ささささんなら、きっといい先生になれるんじゃないかな」

 

「そう? そっかな! そうだよね! うふふ。ほら見ろ、にゃる! ハカセ君はアンタと違ってボクを認めてくれてるぞ!」

 

「……お前さ。こいつを引き合いに出して俺と比べるなよ、マジ傷付くだろ……」

 

 

 にゃる君は苦虫でも噛み潰したかのように顔をしかめる。

 うーん、これどういう感情なんだろう。まだ僕は人の感情に疎いみたいだな。

 

 そんなことを思っていると、ありすが教室に戻って来た。

 うんざりとした顔で、やれやれと自分の肩を揉みながら僕の席にやってくる。

 

 

「はー、もう。20分の休み時間の半分が無駄になっちゃった。日本の先生ってどうしてこう視野が狭いのかしらね」

 

「職員室に呼ばれてたけど、どんな話してたの?」

 

「んー。進学第一志望はオックスフォード大にしたいって話をしたら、なんか冗談はほどほどにしろ、国内の大学を書けってうるさくて。海外の大学書いて何が悪いのよ」

 

 

 それを聞いたささささんが目を丸くする。

 

 

「えー!? ありすちゃん、大学は海外に行くの!? じゃあハカセ君と離れ離れになっちゃうじゃん!」

 

「何言ってんの、もちろんハカセも一緒に受けるのよ。ハカセの才能を生かすのに日本じゃ狭すぎるもの。ねー、ハカセ?」

 

「僕は九州の大学行くけど」

 

 

 するとありすはガタッとこけて、「はぁっ!?」と僕の肩を掴んだ。

 

 

「何それ聞いてないけど!?」

 

「へぇー? なんで九州なの、ハカセ君?」

 

「九州の大学に恩師がいるんだよ。その人と一緒に研究したいことがあるから、大学はそっちに行くつもりなんだ」

 

 

 にゃる君とささささんは「恩師……? 大学に……?」と不思議そうな顔をしている。まあ、高校生が大学に恩師がいるって聞けば普通おかしいよね。

 

 ありすはむーと不機嫌顔ながら、腕を組んで宣言する。

 

 

「ハカセをひとりで九州に行かせるなんてできるわけないじゃない! 私もついていくからね!」

 

「うん。一緒に行こう」

 

 

 僕はこくこくと頷いて、ありすを受け入れる。

 

 

「……ハカセも随分素直に受け入れるなあ。話のスピード感についていけねえよ俺は」

 

「というか、ありすちゃんオックスフォード大はどうするの?」

 

「私一人で行ってどうするのよ。ハカセと私はずっと一緒なんだから、ハカセが行く進路が私の進路よ! だらしないハカセに代わって、将来的には私がハカセの研究成果を管理してあげるんだから」

 

「うんうん。よろしくね」

 

 

 ……彼らが語る進路が実現されることを、僕は知っている。

 

 

 クリスマスのあの日、僕は催眠によって10年後の未来を見た。

 あくまでもそれは僕が想像した10年後、僕の脳が生み出した妄想に過ぎないはずだ。

 

 だが……妄想と笑い飛ばすには、あまりにも細部がリアルすぎた。

 

 たとえば僕に飛びついてきた子供の体温だとか。

 大人になったにゃる君とささささんの顔だとか。

 包丁を握れるようになったありすが振る舞ってくれた手料理の味だとか。

 

 そして、何よりも。

 あの未来像の中で、僕はありすと我が子を守るための方法を考えていた。

 今から10年をかけて僕が研究して発見した理論やコードを駆使して、愛する家族を守らなくてはならないと。

 

 その内容を、今の僕はそのまま覚えている。

 超高速無線通信技術、完全自立型(スタンドアローン)AI、ナノサイズドローン……。

 そういった現代科学がまだ到達していないはずの技術理論の数々を、10年先の僕の頭の中から持ち帰ってきてしまったのだ。

 

 もちろん今の僕にこれらの理論を実証できるわけがないので、正しいものなのかどうかはわからない。

 だが、やろうと思えばいつでも紙に書きだせるレベルではっきりと覚えている。

 

 ……果たして、あの10年後の未来は本当に僕の想像の産物だったのか?

 

 

 これはあくまでも仮説として、だが。

 あのクリスマスの夜、全世界の人間は催眠アプリの影響下にあった。

 より正確に言えば、催眠アプリを作った僕ではなく、『声の力』を持つありすの支配下にあったのだ。

 仕組みとして考えれば、実際に催眠状態にしたのはありすの声であって、僕は横から便乗して暗示を植え付けていたにすぎないのだから。

 

 ということはあの日、ありすこそが全世界の女王だった。

 ありすはあの瞬間、誰でもいいから力を貸してと願っていたという。

 もしかして全世界の人々の意識は催眠アプリと『バベルI世(ワン)』を介して、生体コンピュータとして繋がって……本来不可能なはずのありすの願いを叶え、僕の意識を本当に10年後の未来へと飛ばした、とか……?

 

 

 いや。まさか。

 僕は軽くかぶりを振った。

 そんなオカルトじみたことがあるわけがない。僕は科学しか信じない主義だ。

 師匠方にもこんなことは言えなかった。

 

 もっとも、それは僕の正気が疑われそうという理由からだけではないが。

 

 ……催眠アプリだと思ったらタイムマシンとして利用可能かもしれませんとか、10年後の世界から技術理論をたくさん持ち帰ってきましたなんて、誰かに言えるわけがない。

 これが僕が催眠アプリを凍結する最大の理由だ。他人の手に渡った場合のリスクも含めて考えると、やっぱりあれは人間の手に余るシロモノだとしか言えない。

 

 結局あのとき『バベルI世』の翻訳AIが突然ありすに話しかけてきた理由も不明だ。

 あれから何度調べても、翻訳AIがこちらに語り掛けてくるようなことは一切なかった。そもそも翻訳AIに催眠アプリの処理を代行する権限なんて与えた覚えもないし、本当にわけがわからない。

 まさかクリスマスの奇跡で無機物が話しかけてきたとでもいうのか。翻訳AIは僕とありすの共同制作物だ。両親の願いをかなえようと、子供が手助けを……いや。そんなバカな。

 

 あるいは実は翻訳AIは既に自我を獲得している、とか。

 翻訳AIには世界中の文学や思想書を含め、対訳に使えるあらゆるテキストのディープランニングをさせている。その結果、蓄積された知識が自我を生み出していて。今は何か思うところあってだんまりを決め込んでいる……?

 

 であれば、僕の意識だけが10年後の未来にタイムスリップしたというのではなく、あれはAIが演算した未来予想図(シミュレーション)だったのではないかという仮説が考えられる。僕の脳をベースに、70億人分の脳を演算領域として使用することで、超高精度の未来のヴィジョンを見せた……。

 僕としてはタイムスリップしたなんて荒唐無稽な話より、こちらの方がまだ納得がいく。

 

 だがその場合、AIはいつの間にそんなプログラムを作っていたのかとか、人間の脳に演算させるのはいいとしてどうやってそのフィードバックを受け取ったのかとか、疑問がどんどん増えていってしまうわけで……。

 

 

 僕はぶんぶんと頭を振った。

 ダメだ、あの件に関して今はこれ以上考えるのはやめよう。本当に自分の正気が疑わしくなってしまう。

 

 

 だが……未来から持ち帰った理論は使わせてもらう。

 僕の家族を守るためにとても有用だ。あれが幻覚にせよ、本物の未来にせよ、どのみち僕の脳から生まれた理論には違いないのだから、僕の自由にさせてもらおう。

 

 どうやらこれらの理論は世界中の政府や組織にとって垂涎のものらしい。元はありすの『声の力』を求める者たちから彼女を守るために生み出した理論だったのに、実証段階のものを僕が不用意に発表してしまったことで、僕までが注目されるようになった。10年後の世界では僕たち一家は世界中から狙われる身になってしまっていたのだ。

 さっきの宣言通り、にゃる君は陰に日向に手を尽くして僕たちを守ってくれた。いつだって彼は僕の自慢の親友だ。だが、それでもありすにはとても不自由な暮らしをさせてしまった。

 今度はそんな愚は犯さない。密かに研究を進め、僕の家族を絶対に守ってみせる。

 

 だが、さすがに1人で研究できるとは僕も思っていない。

 だからこそミスターMがいる大学に進学して、共同研究者になってもらうのだ。EGOさんの会社にも、僕がこれから発表する技術を管理してもらおうと考えている。2人ともこれからも頼ってくれみたいなことを言ってたし、遠慮なく甘えてしまおう。

 

 これらの理論によって未来は僕が見た10年後の世界とは大きく違うものになるかもしれない。僕のおこぼれで技術が飛躍的に進歩する可能性も多分に考えられる。

 ……だが、それがどうした。

 僕は世界がどうなろうと、愛する人たちを守れるのならそれでいいんだ。

 

 

 その守るべき対象を僕は見つめる。ありすを、そして……。

 

 

(ながれ)くん。沙希(さき)ちゃん。一緒にいてくれてありがとう」

 

「……え!?」

 

「ハ、ハカセ……? お前、俺たちの名前を……」

 

 

 2人はとても驚いた顔をしてから……。ニッと笑い返してくれた。

 

 

「そいつはこっちのセリフだぜ」

 

「でもさー。こういうときはありがとう、じゃないと思うのよね」

 

 

 そう言って、にゃる君とささささんは目配せして、ハモった。

 

 

「「これからもよろしくなっ!」」

 

「……そのハモるの、流行ってるの!?」

 

 

 ケラケラと笑って拳を突きだす2人に合わせて、僕も拳を合わせる。

 そして、なんだかそれが心底愉快で、僕も思わず笑ってしまった。

 

 

 そんな光景に疎外感を覚えたようで、ありすがちょっと不機嫌そうな顔をする。

 

 

「えー、私は仲間外れ? なんか超傷付いたんだけど。ハカセは私を慰める責任があると思いまーす」

 

「うん。何すればいいかな」

 

 

 するとありすは両手を前に突き出して、おねだりするようにじーっと僕を見つめてきた。

 

 

「ハグしろー♥」

 

「いいよ」

 

 

 僕がそう答えるや否や、ありすは椅子に腰かけた僕の膝の上にお尻を下ろしてきた。

 背中を僕の胸に預け、んふーと嬉しそうに僕の顔を至近距離から見上げている。

 なんだか撫でてほしそうな気配を感じたので軽く頭をさすってあげると、ふみゅーと鼻で甘え声を出した。

 

 

「ハカセー、好きー♥」

 

「僕も大好きだよ」

 

 

 耳元で囁いてやると、ありすはぞくぞくと背筋を震わせる。なんか低い声で囁かれるのが好きらしい。

 最近のありすはずっとこうで、暇さえあれば堂々と甘えてくる。

 

 

 しかしこの甘え方、どう見てもうちのお母さんがお父さんに甘えるときの仕草と同じなんだよな……。うちの両親のイチャつき方を学んでしまったのかもしれない。

 それともヨリーさんも旦那さんのシンさんにはこういう甘え方をしてるのか?

 

 

 にゃる君とささささんは呆れたような目を向けてくる。新学期が始まってからもうずっとこれなんだから、そろそろ慣れてくれないかな。

 

 

「はぁ……中学時代の連中が見たらおったまげるぜ。あの残酷無情の『ハートの女王』と呼ばれたおっかないありすさんが、こんなデレッデレになるとはなあ」

 

「まあ、これがありすちゃんの素だったみたいだし。幸せそうならそれでいいんじゃないかなあ……見てる方が甘くて死にそうだけど。女王っていうより子猫だね、これ」

 

 

 アリスなのかハートの女王なのかチェシャ猫なのか、はっきりしてほしい。

 今更だけど、犬好きのくせになんで本人は猫に似てるんだろうな。ヨリーさんの遺伝か? あの人、なんか猫っぽいもんな。

 

 そんなことを考えていると、ありすは知能が溶けてトロトロになった顔で、嬉しそうに僕の胸に後頭部を擦り付けた。

 

 

「特等席でご機嫌になったにゃー♪ これからもずーっとハカセの膝は私だけの特等席だから、他の子座らせちゃだめだにゃ♥」

 

「当たり前だろ」

 

 

 強い愛しさがこみあげてきて、僕は思わずありすをぎゅっと抱きしめる。

 フワッとありすの制服から大好きな香りが漂ってきて、僕はその匂いに胸がいっぱいになった。

 この温もりを生涯手放すものか。

 

 

「ホント、お熱いなあ……ここ教室なんだが」

 

「もうみんな見て見ぬふりをするようになったね……」

 

 

 にゃる君とささささんが何やら言っているけど、あえて気にしないことにする。

 

 それにしても……。こうしてありすの体温を感じていると思い出す。

 あの10年後の未来で感じた、我が子の温もりを。

 抱きかかえられたのはほんの一瞬。幻視が終わると同時に夢のように消えてしまったあの感触を。

 

 僕は自分で思ってた以上に強欲だったみたいだ。

 こうしてありすと思う存分抱き合えるようになった途端に、次は2人で僕たちの子供を抱きしめたくなってしまった。

 あの温もりにもう一度出会うために……頑張っていこう。

 

 

「あっそうだ、一家といえば……ささささんの将来って教師でよかったの?」

 

「うん? どういうこと?」

 

 

 ふと気になった僕は、小首を傾げるささささんに訊いた。

 

 

「だってささささんってにゃる君と結婚するんでしょ? 第一志望はお嫁さんになるんじゃないのかな。あ、それとも共働き前提なの? どのみち責任は取るんだから、早いうちに決めといた方がよくない?」

 

「えええええっ……!?///」

 

「ま、待て待て待て! ハカセ、お前何言いだしてんだよ! 俺たちまだ高校生だし、責任がどうとか早すぎ……」

 

「あ゛? 責任取れよ」

 

 

 絶対零度の空気をまとったささささんが、ギロリと瞳を輝かせてにゃる君に詰め寄っていた。にゃる君がブルッと背中を震わせる。

 

 

「あ、いや。その、今のは言葉の綾で」

 

「あれ痛かったんだぞ! すっげー痛かったんだぞ! やっぱやめろタイムだって何度も言ったのに頭に血が昇ったお前が無理やり……」

 

「ここ学校なんでやめてくださいませんか!? 頼む! 冷静になって! お前のためにも!」

 

「うわぁ。もう尻に敷かれてるわね」

 

 

 なんかぺこぺことささささんに頭を下げているにゃる君を見て、僕にもたれかかったままありすがドン引きしていた。

 なんか大きな象さんが子ネズミに頭が上がらないみたいで、見ていてちょっと楽しいんだけどな。

 

 放課後にクレープをおごることを対価にささささんの機嫌を直したにゃる君が、ため息を吐く。

 

 

「まったく……。しかしありすさんだけじゃなくて、ハカセもなんか変わったなあ。なんつーか……余裕ができた? ちょっと大人になったっていうか」

 

「うん。周囲に目を配るようになったかな」

 

「ふふっ、ハカセもいつまでも子供じゃないもんね」

 

「確かにそうかもしれないな」

 

 

 頷きながら、僕は以前よりもはっきりと認識できるようになった大切な人たちの顔を眺めた。

 

 ……クリスマスイブのあの夜、僕の身に訪れたもうひとつの変化。

 それは、他人の顔と名前を覚えられるようになったということだった。

 

 それが『愛情』を知ったからなのかはわからない。

 でもきっとそうなんだろう。

 愛を知るということは、他人に関心を持つことから始まるのだから。

 

 これからもきっと僕は変わっていく。愛すべき人たちと共に。

 その絆は10年後の未来も絶えることなく、きっと命ある限りどこまでも続いていくだろう。

 

 

 僕はこの一生を共に添い遂げるだろう最愛の人の頭をもう一度撫でて、さっき親友たちから教わったばかりの言葉を口にした。

 

 

「ありす、これからもよろしく」

 

 

 すると、ありすは僕の手を握り、本当に……心から嬉しそうに笑い返した。

 

 

「うん。今までもこれからも、この手を重ねて、一緒に歩こうね」

 

 

THE END




ここまでお読みいただいてありがとうございました。
これにて『さいあい』完結です。

ラストまで書き上げてから投稿したわけですが、なんだかんだ毎日推敲を続けたり、投稿ミスで急遽外伝を増やしたり、この2カ月半なかなか手を抜けない作品でした。
ですがその分ちゃんと面白い作品になったと思います。
どのキャラクターもみんな可愛い我が子のように思っていますので、読者の皆様にも愛してもらえれば作者としてこれに勝る幸せはありません。

伏線てんこ盛りで読むたびに新しい発見があるように作りましたので、よかったらありすサイドの視点を頭においてもう一度最初から読み直してみると面白いかもしれませんよ。

これで本編は終了しますが、また気が向いたときに後日談や外伝を書きたいなと思っていますので、できたらお気に入りはそのままにしておいていただければ嬉しいです。
もし楽しいと思っていただけたのでしたら、評価の方もなにとぞなにとぞ。

実は他サイト様で連載していたTS&VRロボットアクション『七慾のシュバリエ』もハーメルン版を連載開始しましたので、興味があれば読んでやってください。

それでは改めまして、ここまでお読みいただいてありがとうございました。


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外伝「にゃるささのクリスマス」

1週間ぶりのご無沙汰です。
にゃるささ特別編でございます。


「まったくキミってやつはさぁ、本当にとんだヘタレだよね……!」

 

 

 沙希(さき)はぷりぷりと怒りながら流の手を引っ張り、クリスマスの雑踏の中を歩いていた。

 どこに行くかなんて考えていない。とりあえず博士(ひろし)とありすとは逆の方向へと歩みを進めている。

 

 (ながれ)からクリスマスイブに一緒に遊ばないか、と言われたときは嬉しかった。

 

 

『ふーん? にゃるは一緒に過ごしたい子とかいないわけ? あっごめんごめん、訊くまでもなかったよね。仕方ないなー。ボクも別に暇ってわけじゃないんだけど。キミがどうしてもクリぼっちの孤独に耐えきれないっていうんなら、仕方なく貴重な時間を割いて付き合ってあげようかな』

 

 

 そんないつもの憎まれ口を叩いたけれど、心の中ではウキウキだった。むしろ誘われなければ不機嫌になっていたかもしれない。

 出会ってからかれこれ2年、博士とありすのじれったい関係を共に見守り、ときにはケンカしたり、仲直りしたりした仲だ。

 休みの日には一緒に街に出てゲームで勝負したり、罰ゲームでラーメンを奢らせあったり、相手に罰ゲームで着せるコスプレ衣装を見に行ったりもした。

 ちなみに世間一般ではそういう行為はデートと呼ぶ。

 

 お互いにコミュ力が強くて顔が広いから、男女問わず友達も結構いるわけで。相手が異性と一緒に楽しく話しているのを見て、なんだか心がモヤモヤすることもあった。

 流は沙希をちんちくりんとか壁とか呼び、沙希は流を非モテ筋肉だとか暑苦しすぎる歩くサウナとか呼んでからかうけども、別にこの2人はモテないわけではないのだ。沙希は間違いなく美少女のカテゴリに入るし、流のような明るくて頼り甲斐のあるコミュ強が女の子に好かれないわけがない。

 

 単に周囲が沙希と流はとっくに付き合ってるのだと思って、遠慮してるだけの話だった。特に沙希は女子の間では困ったときの相談役だと周知されているので、横から流に手を出して彼女の機嫌を損ねるようなバカな真似は誰もしない。

 

 だが沙希や流と親しい者たちは2人が未だに付き合っていないことを知っていて、お互いに悪態をついたり張り合ったりするのを見ては「いいからお前らとっとと告れよ」と思っていた。

 

 要するに沙希と流も、いつの間にか傍から見ればじれったいカップルになっていたわけだ。

 もちろん沙希も流も、互いを意識していないわけでない。むしろ自分の恋心にはとっくに気付いている。それでも告白に至らないのは、

 

 

(でもやっぱ自分から告るのはちょっと……。こういうのはにゃるから言わせないと負けみたいな感じあるし)

 

(やっぱり男として生まれたからには、一度でいいから女の子から告白されてみたいよな……。それに俺から告ると負けた感あるし)

 

 

 揃って恋愛弱者の思考であった。

 とはいえ、理由はそれだけではない。

 

 

(それに、にゃるはありすちゃんが好きなんだもん。ボクだって自分が可愛いって自覚はあるけどさ。ありすちゃんと比べられちゃ、ね……)

 

(沙希が好きなのはハカセだ。もちろんハカセにはありすサンがいるから、沙希の恋は実らないだろうけど……。フラれた女の心の隙間に割って入るような不実な行為はできねえ。そんなの漢のするこっちゃねえよ)

 

 

 要するに相方が別の相手に横恋慕していることを知っているから、遠慮してしまっているのだ。

 傍から見ればそんなのいいから告ればいいものを、と思ってしまうが、人間の心の機微は繊細なもの。相手を尊重しているからこそ、心のデリケートな部分に土足で踏み込むような真似はためらってしまうのだった。

 

 そんなこんなでお互いへの恋心を自覚してからもう1年。

 いつか相手が告白してくれないかなと心のどこかで期待しながら、デートを重ねる日々が続いていた。

 

 

 だけど今日はクリスマスイブ。恋愛が一番盛り上がる特別な日、メディアだってこぞって恋愛を推奨しているし、ネットではこの日にデートする相手がいなければ敗者だとまで言われている日だ。

 そんな日ににゃるから誘われて、沙希だって期待しないわけがない。

 今日こそは2人の関係が進展するかもとドキドキしながら、とびっきりおめかししたのだ。口では「まあにゃるのためにそこまで気合入れる必要なんてないけど。まあここ一番の可愛いボクを見て喜ばせてやるのも悪くないかな」なんてひとりごと言ってたりしたけど、めちゃめちゃ本気でコーデした。

 

 実際デートも楽しかった。

 やってることはゲーセンで対戦したり、行きつけのラーメン屋でマンガ談義をしながらお腹を膨らませたり、アニメショップをぶらぶらしたり、露店のアクセサリー屋を冷やかしたりといつもとまるで変わらなかったけど、元々沙希はオタクなのでまるで問題ない。むしろ変に気取ったことするよりそっちの方が楽だ。

 

 

(やっぱコイツといると楽しいな)

 

 

 今日の流は沙希のスタイルに合わせてくれていることが感じられた。

 別に流だってゲームやマンガだけが趣味というわけではない。興味の幅が広いスポーツマンの流は、やろうと思えばバイクのことで数時間話すこともできるし、スポーツで汗を流すこともできる。実際沙希は流と一緒にボウリングやバッティングセンターで勝負したこともある。

 でも今日の流は沙希が一番気楽に楽しめる場所に連れて行ってくれている節が感じられて、その心遣いが沙希には嬉しかったのだ。

 

 

「さ、次はどこに行くわけ?」

(ま、どこだっていいや。にゃるとならどこでも楽しいもん)

 

 

 そんなことを思いながら、沙希はにっこりと流を見上げたものだ。

 

 

 もっとも流は内心かなりテンパっていた。

 

 

(ま……間が持たねえ……!)

 

 

 流としてはもっと気の利いたデートコースを用意したかったのだ。

 なにせ今日はクリスマスイブ。ここぞとばかりにデキる男を演出して、バシッとキメたいと思っていた。ラーメン屋じゃなくてシャレオツなレストランに連れて行ってやりたかったし、ゲーセンとかじゃなくてプラネタリウム水族館みたいなキラキラしたデートスポットを案内したかった。

 

 しかし悲しいかな、高校生の流には予算も少なく、デートスポットもレストランも予約が取れなかった。

 だから仕方なく安牌としていつものゲーセンやラーメン屋、アニメショップといった、沙希がとりあえず楽しんではくれるだろう場所に連れて行ったのだ。

 しかし実際に行ってみたらそれはあくまでも『いつもの』日常の延長でしかなく、盛り上がりに欠けていると流は思ってしまった。折角のクリスマスデートなのに、こんな代り映えしない場所にしか連れてこれない情けない男と思われていたら……と考えると、流は気が気でない。

 

 

(ぐおおお……! すまん、沙希……俺がふがいないばかりにこんな退屈なクリスマスデートになっちまって……!)

 

 

 そんなことを思っていたところに、次はどこに行くの? と沙希が尋ねてきた。それがなんだか『ハァ……。もういつものとこばっかで飽き飽きだよ。ホンッとキミって引き出し少ないよね』と言われているようで、追い詰められた形である。

 本当はものすごくリラックスして楽しんでくれているのだが。

 

 返事に窮してさあどうしよう、と困って周囲を見渡した流。その瞳に飛び込んできたのは、雑踏の中を仲良さげに歩く博士とありすだった。

 助かった!

 

 というよりむしろ助けを求めるかのように2人に声をかけてWデートを持ちかけた流だったが……。

 これが沙希の逆鱗に触れた!

 

 

(何言ってんのコイツ!?)

 

 

 沙希からすればそれは絶対にありえないだろという選択肢である。

 沙希はありすがどれだけクリスマスデートに勝負を賭けているか知っている。どんなコーデをすればいいのか相談を受けたし、お弁当のために練習で作った料理だって食べているのだ。

 ありすと博士にはこのクリスマスデートでくっついてほしい。親友としても、好きな人の幸せを願う少女としても、うまくいきますようにと心の中で何度も祈っていた。自分たちの存在は、今日に限ってはノイズでしかない。

 

 しかも、よりにもよってありすとWデートとはどういう了見なのか。

 そんなにボクと一緒にいるのがつまらないわけ? 憧れのありすサン見てた方が楽しいってこと? ふーん、へえー? そりゃありすちゃんは美人だし、ちんちくりんのボクなんか比較にもならないけどさぁ。いくら心が広いボクといえども、クリスマスデートにそんな態度取られちゃ黙っていられないよ?

 

 ……乙女のプライドを傷付けられた沙希は、内心ブチギレていた。

 

 

 そんなわけで早々に流の手を強引に引っ張って、雑踏の中をプリプリ怒りながら早足で歩いているのが今の状況なのだった。

 流は一度は手を振り払って何やら博士に耳打ちしていたが、戻って来てからは何も言わず、大人しく沙希に手を引かれるままについてきている。

 女の子が怒っているときはうかつなことは言わない方がいいという判断だろうか。

 

 そんな背後を歩く流に、沙希は怒りのままにお説教する。

 

 

「にゃるは本当にさぁ。ありすちゃんとハカセ君の幸せを考えたら今日だけは邪魔しちゃいけないってわからない? いつもコミュ強ぶりを自慢してる割には肝心なところでデリカシーないよね。いくら自分がヘタレだからって、親友の邪魔するとかありえないし。クリスマスイブに部外者がずかずか割って入ってくるとか、馬に蹴られて地獄に落ちろってなもんだよ」

 

 

 てこてこ。

 

 

「ホントにゃるは、だからそういうところが非モテ筋肉なんだよ。そういう配慮に欠けるところが見透かされてるから女の子にモテないんだよ。いざというときは筋肉に頼ればいいなんて脳筋思考とか暑苦しすぎるでしょ。もっとスマートにいかなきゃ。今からそんな感じじゃ、ボクはキミの将来が心配だよ」

 

 

 てこてこ。

 

 

「きっとにゃるは女の子にモテなくて一生独身とか寂しい末路を辿るだろうけど、だからこそボクは今からそこを(ただ)すべきだと思うよ。にゃるはどんな女の子が好きなのか知らないけどさ。いや言わなくていいよ、どうせありすちゃんみたいな子だろ? そりゃありすちゃんは美人だよ。頭もいいし、オシャレだし、頑張り屋さんだし、健気だし、女の子としてのグレード高いよね。ボクが男の子に産まれてたとしても付き合いたかったと思うよ。でもいくらなんでも高望みが過ぎるでしょ」

 

 

 てこてこ。

 

 

「にゃるはもっと等身大の女の子を好きになった方がいいよ。自分に釣り合うようなさ。だからボクが練習に付き合ってあげてるってのに、キミときたらホンッットとんだヘタレだよね。たかだかボクくらいの女に気後れして助けを求める程度の度胸で、よくもありすちゃんに憧れてるとか言えたもんだよ。もっとにゃるは度胸を着けたほうがいいと思うな。じゃないと本番で好きな子に想いを告げられないままフェードアウトするみたいな、サビしい失恋しちゃうんだから」

 

 

 てこてこと歩きながら、沙希は自分がどこを歩いてるかなんか見えていない。

 ただひたすら怒りを説教という形でぶちまけながら、遠回しに流のヘタレっぷりを非難しまくっていた。怒りながらでもよく口が回る女の子だなあ。

 とはいえ不満を口にしているうちに段々と頭もクールダウンしてきて、怒りも収まって来た感じである。にゃるも大人しく聞いてるようだし、まあお説教もこのくらいでいいかな……と思った沙希は、くるりと振り返った。

 

 

「ボクの話、ちゃんと聞いてた?」

 

「ああ、聞いてた」

 

 

 そう返しながら、流はガシッと沙希の肩を掴んだ。

 これまでに見たこともないような真剣な顔で、彼女の顔を見つめている。

 上背があって筋肉質な流が見下ろしてくるととても迫力がある。

 不意に好きな男の子からそんな態度を取られてドキッとした沙希に、流が続ける。

 

 

「好きな相手に度胸を見せろって話だな。わかった。俺はお前が好きだ」

 

「へっ?」

 

 

 今、なんて言ったの……?

 思考がフリーズした沙希が、その場に固まる。

 そんな彼女の瞳をまっすぐに見つめたまま、流は告げた。

 

 

「沙希が好きだ。俺と付き合ってほしい」

 

 

 何の予防線もない、ド直球火の玉ストレートな告白に沙希の方がうろたえた。

 一瞬で顔が真っ赤になり、瞳にぐるぐると渦が巻く。

 まさかこんな急に切り込んでくるとは思わず、あわあわとどう返そうかと混乱する。瞳を逸らしながらどうにか口にできたのは、

 

 

「でも……にゃるが好きなのはありすちゃんでしょ?」

 

 

 そんな逃げの言葉だった。

 

 

(あああああ……! ボクの馬鹿! 馬鹿馬鹿、念願の告白してもらっておいて、他の女の子の名前を出す馬鹿とかいる!? 絶対ありすちゃんと比べられるじゃん! 自分からみじめな思いをしようとかホントバカだよ!!)

 

 

 だけど流は首を横に振り、沙希の細い肩を掴む手に力を入れる。まるで決して逃がさないとでもいうように。

 

 

「俺が恋人になってほしいのは……沙希、お前だ」

 

「ぁぅ……」

 

「確かにありすサンは俺の憧れだ。美人だし、カッコイイし、ちょっとおっかないけど素晴らしい女性だと思う。でもな、あの人が俺の恋人になって一緒に歩いてるところなんて、まるで想像できねーんだわ」

 

 

 ……そこまで怖いかな?

 ありすの親友をやっている沙希は、意外とポンコツで可愛いところがある子だと知っている。というか割と可愛げの塊である。

 確かに中学生の頃はものすごく恐ろしかったし、殺されるのではないかと思ったこともある。一言命令すればいつでも相手を殺せると噂され、ハートの女王と呼ばれるにふさわしいおっかない女だと思っていた。

 

 しかし今の沙希にとっては、もうありすは愛すべき友人だ。一緒に笑い合い、ふざけあい、困ったときは手を取り合って協力する相手を、怖いなんて思わない。

 だけど男の子にとっては、やっぱりありすは近寄りがたい存在に感じるのかもしれない。友達として普段一緒に過ごしている流ですらも。

 きっと恋人としてありすを受け止められるのは、常人とは感性がズレてて、スペックも底知れない博士みたいな男の子だけなんだろう。むしろ彼以外の男に相手が務まるなんてまったく思えない。

 

 流は沙希に顔を近づけ、真摯な顔で言う。

 

 

「俺が恋人として一緒にいたいのはお前なんだ。お前といるとホッと安心する。お前とゲームで対戦してるとワクワクする。お前を見ているのが楽しいんだ。俺にとって等身大の女ってのは、お前なんだよ」

 

「……ホント、にゃるって脳筋。言いたいこと言ってるだけじゃん。そんなので女の子は口説けると思う? もっとロマンチックに言葉を選びなよ。それじゃ全然ドキドキしないし」

 

 

 死ぬほどドキドキしながら、沙希は強がってみせた。

 押されたら逃げるのが恋の駆け引き……などと高度なことを考えてるわけではまったくない。

 

 

(はわわわわ……! こんなの心臓破裂しちゃう……! ちょ、ちょっと待って、間合いを取らせて……!)

 

 

 単に急に押されてビビってるだけであった。

 何しろ催眠で陽キャにクラスチェンジしてから2年になるとはいえ、元は他人の顔色をビクビクうかがって生きていた臆病な子ネズミ系女子である。ヘタレなのは流だけではない。むしろ沙希の方がよっぽどヘタレであった。

 

 だが流は停まらない。一度エンジンがかかれば、脳筋にブレーキはない。

 そもそもヘタレぶりを沙希に指摘されての告白である。押せるところまでとにかく押す! 思ったことをド直球でぶつける、それが流という男の子なのだ。

 

 

「あのな、お前さっきから女にモテないとか散々言ってるけどよ。正直俺はモテなくていいんだ。お前にだけ好かれればそれでいい。全人類の女の中でただ一人、佐々木沙希が俺を好きになってくれるなら、もう残りの一生は他の女にモテなくても構わない。それくらいお前が欲しいんだ!」

 

「あ……」

 

 

 胸を撃ち抜かれたのかと思った。

 それくらい、沙希は衝撃を受けた。

 それはまさしく、沙希が心の底から言ってほしかった言葉。

 

 ありすと親友となってからも、沙希は心のどこかでずっとコンプレックスを抱き続けていた。いくら自分を磨いても、ありすと並んで立っていれば男は絶対にありすを選ぶだろうなと思っていた。そう諦めていた。自分が男に生まれたとしても、ありすを選ぶだろうと思っていたから。

 

 だけど流は自分を選んでくれるという。

 ありすでも数多いる他の女の子でもなく、自分だけが欲しいのだと。

 

 胸が温かくなる。救われた、と思った。

 心のどこかでその言葉を言われたくて、これまで頑張ってきたのかもしれない。

 

 ぽろりと我知らず涙がこぼれた。

 

 

 そうだ。

 自分はかつて他人を妬んで陰口を言うような、誰からも嫌われる女の子だった。

 そんな沙希が一番大嫌いで仕方なかったのは、他ならない自分自身だ。臆病で意気地なしで、他人を妬むことしかできないドブネズミのような自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。こんな女の子を選ぶ男なんて現れるわけがない。自分ですら願い下げなのだから。……だけどそうでなくなるためには、どうすればいいのかがわからなかった。

 自分を嫌いなまま、世の中を憎んだまま、ひとりぼっちで一生を生きていくしかないのだと諦めていた。

 

 そんな沙希に、ある男の子が魔法をかけてくれた。

 こんな自分でも、他人を助けることができて、人から好かれる素敵な女の子になれるのだと教えてくれた。他人を助けることで、自分を好きになれるようにしてくれた。

 

 なりたかった。ドブネズミだったときから、本当はそうなりたくて仕方なかった。

 自分を好きになれるような人間に生まれ変われるのなら、どんなことでもやろうと思った。いつか誰かに好きになってもらえる日が来ることを心から願った。

 だから頑張ってきた。他人のいいところを探して、相談に乗り、ケンカを仲裁して、人と人の絆を結び続けてきた。

 救われたかったから。

 そして追いつきたかったから。魔法をかけてくれた男の子、そんな男の子に愛される太陽のような女の子、そして沙希と同じように自分を変えたいとあがいている愛すべきもう一人の男の子に。

 

 自分を変えようとあがいているという意味で、流は沙希にとって鏡に映った自分のような等身大の存在で。溢れんばかりのコミュ力を持っているという意味では、自分にとってのお手本となるような存在で。

 だけどちょっとヌケてて、負けん気が強くて勝負好きで、ちょっとオタク入ってて、だからこそ誰よりも親しみが持てる男の子で。

 気が付いたら世界中の誰よりも大好きな男の子になってしまっていた。

 

 そんな彼が、自分を選ぶと言ってくれた。

 

 いつか誰かに好きになってもらえる女の子になりたくて頑張ってきた沙希に、世界で一番好きな男の子が自分が欲しいのだと告白してくれた。

 願いは叶った。

 

 沙希の瞳から流れ落ちる涙を見た流が、どうしたのかと慌てている。

 そんな彼に、沙希はぽろぽろと涙を零しながら微笑んだ。

 

 

「いいよ。ボクが恋人になってあげる。にゃるがボクを好きでいてくれる限り、ボクがにゃるを愛してあげるよ」

 

「あ……」

 

 

 一瞬ぽかんと口を開く流。

 その顔がなんだかマヌケで、沙希はまた笑ってしまう。

 

 

「ホ、ホントか!?」

 

「こんな嘘言うわけないだろ」

 

「……沙希!!」

 

 

 勢い込んだ流がぎゅーっと抱きしめにかかるのを、沙希は軽くステップを踏んでかわした。

 悲しそうな顔をする流を見て、沙希はため息を吐く。

 

 

「ボクを抱き潰す気? ボクが大切なら、もっと大事に扱ってよ。宝物を扱うみたいにさ」

 

「おう。お前が今日から俺の宝物だからな!」

 

「バッ……! 馬鹿……」

 

 

 どうしてそういうキザな表現を告白のときにしないのかなあ、と沙希は顔を火照らせながら内心でぼやく。

 

 そのときにわかに周囲が明るく照らし出された。夕刻になり、クリスマスのイルミネーションが輝き始めたのだ。

 お説教に夢中で歩いていた沙希と、彼女の言葉を聞きながら告白の決意を固めていた流は、そのときようやく自分たちがどこにいるのか気付いた。

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 煌々とネオンが輝き始めた、夕方のホテル街。

 そのうち一軒の玄関先で、2人は抱き合うほどの至近距離で話していた。

 

 

「ち、ち、違うぞ!? 俺はその、決してやましい下心があって口説こうとか、そういうわけじゃないぞ!?」

 

 

 クリスマスに彼女をホテルに連れ込もうと必死に口説いていたと思われるんじゃないかと恐れた流が、あわあわしながら両腕をバタつかせて弁解する。

 

 その仕草を見た沙希は、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

 こんな童貞臭いムーブしといて、本当にエロいことしたいだけだったら逆にすごいでしょ。

 

 沙希はホテルのネオン看板を見ながら、クスッと笑いかける。

 

 

「寄ってく?」




後編は書いてみたけどイマイチだったので没にしました。


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後日談「執事喫茶は文化の極みだから」(前編)

お久しぶりです。
文化の日なので文化的な内容を書こうと思いました。



「それではクラスの出し物はお化け屋敷に決定しました」

 

 

 クラス委員の宣言に、パチパチとやる気なさげな拍手が上がる。

 多分みんなどうでもいいと思ってるんだろうな。

 僕も文化祭の出し物なんてどうでもいいし……。

 クラス替えから1カ月しか経ってない、ほぼ見ず知らずのクラスの人たちと何かするよりも、ありすやにゃる君たちといろいろ見て回ることの方がずっと楽しそうだ。

 

 そんななかで、ささささんは机にぐでーと突っ伏した。

 

 

「あー、執事喫茶通らなかったかぁ!」

 

 

 未練たっぷりに呟かれる彼女の言葉を聞きながら黒板を見ると、『お化け屋敷』の隣に『執事喫茶』『メイド喫茶』『合唱』『演劇』といった出し物の候補が書かれている。

 

 何やら執事喫茶を猛烈にプッシュしたささささんによれば、高校の文化祭での定番中の定番なのだそうだ。

 

 

『このクラスには高身長イケメンがいるから、執事喫茶やるといいと思いまーす!』

 

『おっ! 任せろよ、この俺の筋肉執事っぷりを見せつけてやるぜ!』

 

『ハァ? 誰がキミのことだって言ったのさ。ハカセくんのことに決まってんだろ、自意識過剰すぎ。自分で高身長イケメンとか……。この皐月に草生い茂りて緑萌ゆるわ(笑)』

 

『雅やかに笑ってんじゃねーぞ、いつの時代の人間だオメー!』

 

『おっと、つい教養が漏れ出ちゃったかな? ふふん、ボクはどこかの筋肉バカとは違うので』

 

『うるせー! お前こそメイド喫茶でもやって俺に仕えろや! はいはいはーい! このクラス美少女がいるのでメイド喫茶やるといいと思いまーす!』

 

『ちょ……自分のカノジョを美少女とか……//// 素直すぎだろ、んー?』

 

『ああん? ありすサンのことに決まってんだろ、このちんちくりんが』

 

『ああ、そう言うと思ったよ! 帰ったらブッ潰してやるよぉ! ゲームでなぁ!』

 

 

 ……とまあ、にゃる君とささささんがいつものようにガルガルむきーと口喧嘩しながら出てきた候補なわけだが。

 今年から同じクラスになった人たちは目を点にしていたし、去年からの同じクラスになった人たちは砂糖でも吐きそうな口元と半笑いをミックスしたような表情を浮かべていたのが印象的だった。

 あれはどういう心境なんだろうか? 僕も今までよりは随分ヒトの心が読めるようになったと思うけど、まだまだわからないことは多いな。

 

 ちなみに今は5月だ。11月に文化祭をやるところも多いそうだけど、僕たちの高校は進学校だから3年生を受験に集中させるために初夏のうちに手間のかかるイベントをやってしまう。

 高校2年生になっても4人同じクラスになれて本当にありがたい。

 

 

 何気なく皐月晴れの空を眺めようと窓に視線を向けると、窓際の席からじっとこっちを見つめていたありすと目が合った。

 ありすがにこっと笑って小さく手を振るのを見ていると、頬の筋肉が自然に緩んでしまう。

 あれ、ちょっとありすの頬が赤くなった気がする。僕のだらしない顔が恥ずかしいって思われなかっただろうか。

 ありすの自慢の彼氏でいるために、僕も少しはしっかりしないとなと思う今日この頃だ。

 

 

 

===============

==========

=====

 

 

 

「はぁ……でも本当に残念だよねぇ」

 

 

 僕の家のたまり場(元は応接室)に置かれた自分用のクッションに座って、ささささんはため息を吐いた。

 

 

「まだ言ってんのか、しつこすぎだろお前……」

 

 

 にゃる君が呆れた顔をすると、ささささんはだってーと唇を尖らせる。

 

 

「だって見たかったんだもん、執事服着たハカセくん! ね、ありすちゃんだって見たかったでしょ?」

 

「うーん、そうね。ちょっと見てみたかったかもね」

 

 

 ありすはそう言いながら、ティーカップを机の上に置いてにこっと微笑んだ。

 

 ……最近のありすは何だかちょっと物腰が穏やかになったような気がする。これまでよりも心に余裕が出てきたというか、ちょっと気品が出てきた感がある。

 また一段と大人の女性になっていくありすに、僕は置いて行かれないかと戸惑うこともあるけども。2人きりになると子猫モードで物凄くベタベタと甘えてきたりして、安心したりもする。

 相変わらず僕にとってありすの考えは読めないことばかりで、だからこそいつだって僕はありすに夢中だ。

 

 

 僕がそんなことを考えていると、ささささんは何やらありすにジト目を送っていた。

 

 

「ありすちゃんの嘘つきー。ボクが執事喫茶やりたいって言ったとき、机をガタつかせてめっちゃ食いついてたじゃん」

 

「……しっかり見てるのね」

 

 

 ありすがカーッと顔を真っ赤にして俯くのを見ながら、ささささんはやれやれと肩を竦める。

 

 

「すーぐ私興味とかないですけど? そこのバカップルとは違いますけど? みたいな顔してかっこつけるんだから」

 

「や、やめたげてよぉ! ありすちゃんのHPはもうゼロだよぉ!」

 

 

 ちゃっかりと輪に混ざったくらげちゃんが、ささささんに縋りつくようにして止める。……いや、これ止めてるんじゃなくて煽ってるのかな。

 場の空気ってやつは相変わらず僕にはさっぱりだ。

 

 

「でもお兄ちゃんの執事姿かぁ……私も見たいなー」

 

「でしょー? やっぱ見たいよね!」

 

「うんうん! キリッとしたお兄ちゃんとか見たい! ね、ありすちゃん?」

 

「すっごく見たい……!!」

 

「あー、でも今みたいな無造作ヘアで低クオリティ執事感も逆に悪くないかも?」

 

「わかる。いやー、くらげちゃんも通だねー」

 

「でもささ先輩だって、本当はにゃる先輩みたいにワイルド感ある執事も悪くないと思ってるんじゃないのー?」

 

「ぐうっ……!? いきなり刺してくるじゃん、くらげちゃん……!」

 

「えへへ、くらげには毒の一刺しがあるんでさあ……!」

 

「ふふっ」

 

 

 女子3人は僕に執事服を着せるの着せないのできゃいきゃいと盛り上がっている。

 そんな彼女たちを見ながら、にゃる君は砂糖をどっさり入れた紅茶を渋そうな顔で啜った。

 

 

「執事喫茶ねぇ……。何がいいんだか。こいつや俺に執事服を着せたところで、別に愛想も良くならねーぞ。特にハカセなんか、仏頂面で『お帰りなさいませお嬢様』って抑揚もなく呟くのが目に見えてらぁ」

 

 

 むっ、そんなことはないぞ。

 僕は執事文化にはちょっと詳しいのだ。

 ありすやくらげちゃんがオススメしてくれた少女漫画によく出てきたからね。

 

 そう反論しようとした矢先、ささささんははーっとため息を吐いてオーバーアクション気味に首を振った。

 

 

「わかってない! わかってないよにゃるは! それがいいの! 不愛想だからいいんだよ!」

 

「あ?」

 

「ベタベタ馴れ馴れしく愛想振りまいてくるのは解釈違い! そういうのはホストにやらせることなんだよ! 執事っていうのはもっとこう、距離感が必要なのよ!」

 

「きょ、距離感……?」

 

「そう! あくまで慇懃に丁重に! ともすればよそよそしささえ感じさせながらも、態度の端々から垣間見える主人へ向ける慕情……! それが胸キュンポイントなのよ!」

 

 

 拳を握りしめて力説するささささんに、こくこくこくとありすとくらげちゃんが力強く頷く。

 なるほどなぁ。少女漫画にたくさん出てくるけど、やっぱ女の子ってそういうのが好きなんだなあ。

 

 

「わ、わからねぇ……。メイド喫茶の男バージョンやっときゃいいんじゃねえのかよ」

 

「浅いわッ! メイド喫茶なんぞと一緒にするなッ! 男はミニスカ履いたメイドが馴れ馴れしくすりゃそれで満足だろうけど、ボクたちはそうじゃないんだよっ! もっとスピリチュアルな栄養素を吸って、ボクたちは生きてるッ!!」

 

「でもイケメンにお帰りなさいませお嬢様、って紳士的に扱われるだけで嬉しくねえのか?」

 

「それは嬉しい……! イケメンは別腹だから……!」

 

 

 言い負かされるささささんを眺めながら、にゃる君はため息を吐く。

 

 

「語るに落ちてるじゃねーか……。というか、執事喫茶でそんな重たい感じ出すキャストとかいるわけねえだろ。そういうのは本職の執事に期待しろ。……いや、主人に色目使うのがデフォとか、それはそれで執事への偏見じゃねえのか? 主人のこととか全然恋愛対象に思ってない執事が普通だろ」

 

「それはほら、男オタクがメイドはみんな主人に惚れてる! って思ってるのと同じだから」

 

「男女平等にオタクの業が垣間見えたな」

 

「たはは……」

 

 

 なんかオチがついたらしい。

 正直みんなが何言ってるのかさっぱりわからなかった。

 

 

「ハカセはわからなくていいのよ」

 

「うんうん」

 

 

 これでいいらしい。

 愛する彼女と妹がそう言うのなら、理解しようとするのはやめておこう。

 

 

「はー、しかしホンット残念……」

 

 

 そう言いながら、ささささんは部活用の鞄から執事服を取り出した。

 

 

「せっかく準備してきたのに」

 

「お前何やってんの?」

 

 

 真顔のにゃる君に、「ん?」とささささんは小首を傾げた。

 

 

「いや、プレゼン用に用意してきたんだよ。折角だから企画の良さをみんなに説明したいでしょ? 時間なくてできなかったけど」

 

「マジか……お前マジか」

 

「えー、何で引いてんの? コスプレ用だから3000円で買えたよ?」

 

「だからといってホントにやるかどうかわからん出し物のために、小遣いから3000円で自腹切ってくるやつがいるか。いたわ。俺のカノジョだわ」

 

 

 ささささんは心底残念そうにため息をつきながら、2着目を机の上に置いた。

 

 

「にゃるにも着せようと思ってたのにね」

 

「6000円払ってるーーーッ!?」

 

 

 うーん、ささささんはすごいなあ。

 高校生にとって6000円って決して安い金額じゃないと思うけど。

 執事について力説してたし、よほどこだわりがあるんだろうなあ。

 

 

「アホだ! アホがいるぞ! こんなことに6000円ドブに捨てたS級のアホだ! 囲め囲め!」

 

「誰がアホだよ! これはボクの見据えるビジョンのための必要なアセットだよッ!! アジェンダにアグリーしてアライアンスしろッ!!」

 

「用語の意識は高いのに中身が意識低いわッ!」

 

「くっ……このプレゼンのために意識高い用語を勉強してきたのに!」

 

「一生使わない方がいいぞ、アホが際立つ。皆さん、このアホが将来教師を目指そうという人間です。拍手でお迎えください」

 

「やあやあどうもどうも」

 

「来たな! 未来の生徒に謝れ!」

 

 

 僕にはイマイチ理解できていないのだけれど、この漫才がにゃる君とささささんにとってのイチャつきにあたるらしい。ありすとくらげちゃんが言ってたからそうなんだろう。うーん、口喧嘩したり漫才したりがイチャついてることになるなんて、ヒトの愛情表現って千差万別なんだな……。

 

 僕なんかはありすを膝の上に載せて抱きしめてるだけで満たされてしまうけど。

 むしろそれだけで3時間くらいすぐ消えてしまって、1日がもっと長ければいいのになと思わずにいられない。1日30時間くらいは抱きしめていたい。

 

 そういえば今日はありすを抱きしめるデイリーミッションがまだ終わっていないな。

 最近は1日1回はありすの体温を感じないと胸が痛くなる謎の病気にかかってしまったので、そろそろありすを抱きしめたい……。

 

 そんな僕の発作を知る由もなく、「これが3000円かぁ……。高いのか安いのかわかんないわね」とありすは物珍しそうに執事服を手に取っている。

 すると、くらげちゃんがぽんっと手を打ち鳴らした。

 

 

「あ、じゃあさ。今からお兄ちゃんとにゃる先輩にこれ着てもらおうよ!」

 

「「は?」」

 




文化の日にちなんで書き始めたら1回で終わらなかったので続きます。えへへ。


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後日談「執事喫茶は文化の極みだから」(中編)

「あー……これで満足か?」

 

 

 執事服に着替えたにゃる君は、居心地悪そうに頭をさすった。

 折角買ったものを無駄にするのはもったいないからと、ぶつぶつ言いながらも執事服を着てあげるにゃる君は、ホント彼女想いのいい彼氏だ。

 

 ちなみに僕も付き合いで着ることになった。

 ……ありすにあんな期待するような目で見られたら、着ないわけにはいかない。

 

 

「おおお……!」

 

 

 女子たちは食い入るように僕たちを眺めると、おもむろにスマホを取り出してパシャパシャとカメラを回し始めた。

 ホント、女の子は写真撮影が好きだなあ。

 ありすとささささんはともかく、くらげちゃんまで一緒になって興奮しながら僕の写真を撮ってるのはどういう心境なんだろうか。

 

 

「いいじゃんいいじゃん! このいかにも服に着られてる感! 育ちの悪いそこらへんの一般市民を拾い上げてとりあえず執事服着せてみました、って感じが出てる!」

 

「お前ふざけんなよ!?」

 

「おっ、いいねその演技! いかにも執事見習いって感じ! セバスチャンが飛んできて叱られる1秒前って雰囲気出てるよー!」

 

「演技じゃございませんけどぉ!?」

 

 

 うーん、ちょっとは髪に(くし)でも通しとくべきだったかな?

 本当にいい加減な着方なんだよね、Tシャツの上から衣装を着てるだけだし。にゃる君がこんなの適当でいいんだよって言うから、まあいいかってそれに倣ったわけだけども。

 実際この衣装って間近で見ると縫製がすっごく適当で、さすが3000円だと思えるクオリティなんだよね。

 

 

「ありす、どう?」

 

 

 せめてものカッコつけとして、白手袋をはめた右手を左胸にあてながら訊いてみると、ありすはなんだか呆けたように僕をじっと見ていた。

 ……反応がないな。僕の着方、どっかおかしかったりする?

 

 

「ありす?」

 

「ふえっ!?」

 

 

 夢から覚めたようにびくんと肩を震わせたありすは、なんだか真っ赤になりながら頷いた。

 

 

「わ、悪くないと思う!」

 

「そうか」

 

 

 くらげちゃんはスマホをパシャる手を止めて、ニヤニヤとありすを見ている。

 

 

「ふふ。すっごく似合ってるよって言いたいんだよ。ねー、ありすちゃん?」

 

「うぅーーーー……」

 

 

 顔を真っ赤に染めたありすは、下を向いて俯いてしまう。

 その反応がなんだか去年のクリスマス以前のありすみたいで、なんだか微笑ましい。

 反射的に頭を撫でようとすると、ありすは腕を組んでツンとそっぽを向いてしまった。

 

 

「し、執事のくせに生意気よ! 身の程をわきまえなさい!」

 

「むっ」

 

 

 確かにそれはそうだ。主人の頭を撫でる執事なんているわけがない。

 少なくとも僕が読んだことがある少女漫画では……いや、結構いたような気がするぞ?

 まあでもあれは2人きりになったときとか、主人が寝入ってるときにこっそりとか、そういうシチュエーションだけだったし、人目があるところでイチャイチャするのは確かに執事っぽくはない。

 しかし執事っぽい振る舞いってどうすればいいんだろう?

 

 そんな疑問が頭に浮かんだ矢先に、ささささんはうんうんと頷いた。

 

 

「確かにその通り。せっかく執事服を着たんだし、少しは執事っぽくしてみてほしいな。ちょっとお2人さん、執事喫茶で働いてるつもりでボクたちをエスコートしてみてよ」

 

「あー? なんだお前、こんな格好させた上に奉仕までしろってのか」

 

「いーじゃん、ちょっとは可愛い彼女を喜ばせてみてよ」

 

「……ま、たまにはこういう遊びもいいか」

 

 

 仕方ねーなとにゃる君が頷いたのを笑顔で見やったささささんは、ソファにどかっともたれかかって足を組んだ。

 

 

「おら、もてなせ」

 

「態度悪ッ!? それが人にものを頼む態度かオメーはよぉ!」

 

「あーん? 主人が下僕に命令してるんだから同じ目線で頼むわけないだろー? これが階級社会、お前は下、ボクが上なんだよ!」

 

「確かにそれはそうだが、納得したくねえ!」

 

「なんだ下僕ぅ。執事のくせにそれが主人に対する態度かぁ? 給料減らすぞぉ?」

 

「一銭ももらってねえわ! 無償奉仕にケチつけられてるわ! お前こそそれが執事に奉仕されるような令嬢の振る舞いかよ」

 

「じゃあボク、悪役令嬢になる!」

 

「ご希望は婚約破棄コースか? ギロチンも行っとくか?」

 

 

 するとささささんはクククと不敵な笑いを浮かべた。

 改心したはずなのに、たまにこういうムーブするとやたら似合うなあ。

 

 

「……にゃる、これはゲームだよゲーム。キミたちがいかに完璧にボクたちに奉仕できるかってゲームさ」

 

「ふーん、ゲームねえ。ってことは俺たちが勝ったら何かいいことがあるんだろうな?」

 

「もちろん期待してくれていいとも。なんならボクとありすちゃんがメイドになってあげてもいいよ?」

 

「え、私も!?」

 

 

 突然飛び火してきたありすが目を白黒させるのをよそに、おおっとにゃる君が顔を輝かせる。

 

 

「そいつはいいな! よし、乗ってやろうじゃねえか!」

 

「……念のために訊くけど、それはボクがメイド服着るから喜んでるんだよね?」

 

「念のために訊き返すが、その答えを聞きたいのか?」

 

「聞きたくないけど答え言ってるようなもんじゃん!」

 

 

 ささささんは何やらむきーとなってから、再びソファにぽふっとダイブした。

 ヤケになったように腕を組んで、ツンッと言い放つ。

 

 

「喉渇いた! 下僕、お茶!」

 

「はいよ」

 

「敬語!」

 

「かしこまりましたお嬢様。紅茶でよろしゅうございますか?」

 

 

 にっこりとほほ笑んだにゃる君は、テーブルの上に置かれた2Lのペットボトルから紅茶(ストレート・微糖)をコップにだぼだぼ注ぐと、ささささんの前に置いた。

 

 

「どうぞ、午後ティーでございます」

 

「クオリティ低っくいなあ!? 逆にびっくりしたよ!?」

 

「お嬢様、これが当家の精一杯でございます。ご当主様が事業に失敗なさって夜逃げされ、他家のご厄介になっている身ではスーパーで買って参りました午後ティーが分相応かと」

 

「ボク、没落令嬢だったの!?」

 

「ご安心くださいませお嬢様。私めは貴女様がどれだけ落ちぶれようと、決しておそばを離れません」

 

「にゃる……!」

 

「仮に給料が払われなかろうが、性格が悪かろうが、ちんちくりんだろうが、ぺちゃぱいだろうが、誠心誠意ご奉仕する所存でございます」

 

慇懃無礼(いんぎんぶれい)って言葉知ってるかぁ!?」

 

 

 ささささんがぽすぽすと胸板にパンチするのを、にゃる君はニカッと笑顔を浮かべて受け止めている。

 

 

「お嬢様、ご覧ください。私の鍛え上げたボディはお嬢様ごときの貧弱パンチではびくともいたしません。これで他家の差し向けた刺客に襲われても安心ですよ」

 

「くっそ、暑苦しい笑顔浮かべやがって! 執事はそんな筋肉自慢したりしない! そういうのはボディガードの仕事だろぉ!? 解釈違いやめろ!」

 

「……ホント仲いいなぁ、先輩たち」

 

 

 くらげちゃんがしみじみと言うのに、僕は頷かざるを得ない。

 にゃる君はやっぱりすごいよなあ。

 あれが執事として適切な言動なのかどうかはともかくとして、よくもあれだけぽんぽんと即興で言葉が出てくるものだ。やっぱり彼は頭がいいんだなあと思う。

 僕なんかには到底真似できる気がしない。

 

 が、今の僕はありすの執事。

 僕だってありすのために何か奉仕して喜ばせてあげなくては。

 

 

「ありす……じゃなくてお嬢様。何かぼ、私に、してほしいこととか、ございますか」

 

 

 ガチガチに緊張した僕の喉から、つっかえつっかえ言葉が絞り出された。

 ううっ……!? なんて無様な!

 こんなの全然執事っぽくないぞ。

 僕の考える執事像はもっと何事にもエレガントで、どんなこともスマートにこなせる万能キャラなのに。これじゃまるで人のマネしてるロボットだ。僕も少しは成長してると思ったのに……。

 

 恥じ入る僕を見上げたありすは、ええと……と細い顎に指を置く。

 そして、ちょっと困ったように笑った。

 

 

「特に何もないわよ」

 

「そ、そうでございますか……」

 

「うん……」

 

 

 それは僕みたいなポンコツに割り振る仕事なんて何もないってこと?

 くっ、自分でも妥当な評価だと思うよ……!

 

 すると僕たちのやりとりを見ていたくらげちゃんは、クスッと笑顔を浮かべる。

 

 

「お兄ちゃんがそばにいてくれるだけで嬉しいから、これ以上何も望まないってことでしょ?」

 

「う、うん。そう……」

 

 

 ありすは照れ臭そうにはにかんで、両手の人差し指をもじもじさせた。

 くうっ……!! 可愛い……!! そしてなんて光栄なんだろう。

 僕なんかを好きでいてくれて、一緒にいてくれるだけで幸せだなんて。こちらこそ本当にありがとうだし、ありすといられて幸せだって何百回だって言い続けたい。

 

 しかしだからこそ、僕は自分が情けない。

 今の僕はありすの執事なのだ。どこの世界に主人のそばに立っているだけの執事がいるものか。

 主人を喜ばせてこその執事。それが僕の考える理想の執事像だ。

 

 

「の、喉とか渇いてませんか?」

 

「ううん、渇いてないよ」

 

「お腹が空いていたりは?」

 

「おやつはちょっと食べたいけど……」

 

「!! 任せて。今すぐ買ってくるから。何が食べたい? ケーキ? クッキー? チョコ?」

 

「え、わざわざ買い物に行かなくても大丈夫だよ? 買い置きで何かあればそれで充分だもの」

 

「あ、うん……」

 

「あ、そうだ。昨日買ったシュークリームってまだ冷蔵庫に入ってる? まだあるならあれみんなで食べよっか」

 

「わーい食べるー!」

 

 

 くらげちゃんがありすの提案にばんざーいと両手を挙げた。

 昨日ありすとくらげちゃんの3人で街に遊びに行ったときに喫茶店で買ったやつか。

 おいしかったから両親へのお土産として5つ買ったのだが。

 

 

「くらげちゃんは自分の分、昨日晩御飯の後に食べただろ?」

 

「そうだったっけー? 覚えてなーい」

 

 

 くらげちゃんはわざとらしくぴゅーぴゅー口笛を吹いて虚空を見上げている。

 本当に甘えん坊だなあ。

 まあ、僕の分をあげて執事としての評価がもらえるならそれでもいいか……。

 

 

 

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======

 

 

 

「……ない」

 

 

 冷蔵庫のシュークリームはきれいさっぱりなくなっていた。

 どうやら知らないうちに両親がおいしく食べてしまったらしい。

 一家そろって甘党なんだよね。

 仕方ない、戸棚から別のお菓子でも探して持っていくかな……。

 

 

「……いや、ダメだろそれじゃ」

 

 

 流れるように妥協しかけて、思わず口に出す。

 

 しっかりしろよ。これがお前の考える理想の執事像か?

 主人が提案したものが見つけられず、見つかりませんでしたとおめおめと適当なものを持って帰ってくるような程度の低い醜態を晒して、胸を張って執事と名乗れるか?

 っていうかそもそもいつの間にか敬語も忘れてるし。

 

 これじゃだめだ、全然だめだ。

 僕の中のセバスチャン(執事長・65歳)があまりの情けなさに泣いている。

 

 

 だけど……だからといって、僕に執事が務まるとは到底思えない。

 頭の中にはちゃんと僕なりの理想の執事像はあるのだ。

 だけど、それを演じることができない。

 にゃる君みたいに口から出まかせでもぽんぽん演技ができるわけでもなく、他人に敬語を使うのだってすごく苦手だ。

 そもそも性格からいってさっぱり向いてないのだろう。

 

 そんな僕が執事としてどうにかありすを喜ばせてあげるには……?

 

 僕はちらっとズボンのポケットを見やる。

 

 

「……久々に、使うか?」

 

 

 ここしばらくまるで使っていなかった催眠アプリ。

 こいつを使って『自分は生まれながらの執事だ』と思い込ませる。

 自己暗示の強さなら折り紙つきの僕だ、これならきっと理想の執事像を演じられるはず。

 

 

「問題は副作用だが……」

 

 

 以前、僕は自分に催眠をかけた際にもうひとつの人格を生み出してしまった。

 うっかり生み出した人格に主人格を乗っ取られそうになるという危機に遭って以来、僕は自分に催眠をかけるのは禁じ手としている。

 

 しかし、ああなった理由は分析済みだ。

 あのときは催眠後に記憶を統合していなかったために、異なる記憶を持つ自分が発生してしまって、それが人格へと成長してしまったのだ。

 プログラムで例えるなら、独自の変数を設定しておいたのに、要が済んだあとにそれを初期化しておかなかったせいでエラーを吐いたような、そんな初歩的なミス。

 どうすれば対処できるのはもう自分の身をもって知っている。

 

 あらかじめ制限時間を設定しておいて、催眠が解けたあとに記憶を即座に僕に統合してしまえばいいのだ。

 そうすれば催眠中の人格はすぐ僕に吸収されて、副作用も起こらないはず。完璧だ。

 

 とりあえず時間は2時間くらいでいいだろう。

 よし……! これで僕は、理想の執事になってありすを喜ばせられるぞ。

 

 僕は意気揚々(いきようよう)とスマホを掲げ、久しぶりにアプリを起動した。

 

 

「催眠!」




次回で終わるかなあ。


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後日談「執事喫茶は文化の極みだから」(後編)

「ハカセのやつ、どこ行ったんだろうな? もう1時間経ったぞ」

 

「冷蔵庫のシュークリームなくなってたから、買い出しに行ったんだろうとは思うんだけど」

 

「それにしたってちょっと遅いよね」

 

「ど、どうしよう。もしかして事故にでも遭ったとか……? 私、やっぱり探しに行く!」

 

「まあまあ、落ち着いてください。1時間程度戻らないくらいで大げさッスよ」

 

 

 ドアの向こうから心配する声が聞こえてきて、僕は失策に気付きました。

 しまったな、お嬢様(・・・)を心配させてしまうとは執事としてあるまじき振る舞いでした。

 くらげちゃんにはSNSでメッセージを送っておくべきでしたね。

 

 僕は反省を胸に収めつつ、ドアをノックします。

 

 

「失礼いたします、お嬢様。大変お待たせいたしました」

 

「あ、ハカセ! 帰ってき……!?」

 

 

 ティーワゴンを押して応接室に入ると、僕は胸元に右手を置いて深く一礼します。

 

 

「お茶とお菓子をお持ちいたしました。アフタヌーンティーにいたしましょう」

 

「…………」

 

「本日はお嬢様主催のティーパーティにお集まりいただき、大変ありがとうございます。私も腕を振るって参りましたので、どうぞ心行くまでお楽しみください」

 

 

 そう言いながら、ソーサーに載せたティーカップと、菓子用の取り皿を皆様の前に配ります。

 

 ……おや、皆様何やらぽかんとした顔で言葉を失っておられるご様子。

 それほど僕を心配しておられたのでしょうか。

 それとも当家のもてなしに感心なされているのでしょうか? そうであれば執事として大変光栄なのですが。

 

 そんなことを思いながら銀のティーポットを持ち上げます。

 そして皆様のカップに注がせていただこうとした折、ありすお嬢様は目を白黒させながら震える手でこちらを指さされました。

 

 

「え……? 何、それ……?」

 

「何、とおっしゃられますと……」

 

 

 はて、ありすお嬢様はどこをさされておられるのでしょうか。

 どうにも僕に指が向けられているように思われるのですが、僕には何も変わった点などございません。自分のことですので断言できます。

 

 

「生まれてこの方16年、ありすお嬢様にお仕えするためだけに生きております。貴女の忠実な従者、葉加瀬(はかせ)博士(ひろし)でございます」

 

「何かぶっこんできた!?」

 

 

 ふうむ……。

 ありすお嬢様は何に戸惑っておられるのでしょうか。

 主人の思考を読み取って、言われる前に行動するのがスマートな執事。我が師、セバスチャン(65歳・定年退職)も常々そう申しておりました。

 いけませんね。これでは理想の執事とは呼べません。

 

 私は磨き上げられた銀のティーポットに映る自分の鏡像を見やります。

 整髪料をつけ、丹念にセットした一部の乱れもない髪型。

 背筋は針金を入れたようにしゃんと伸ばし、それでいて緊張しているように見られないように凛とした振る舞いを心掛け。

 シャツの襟元にはきちんとアイロンをあてています。

 ポットには映っていませんが、靴は室内用の革靴です。

 

 うん。世界一美しくも可憐なる当家の華、ありすお嬢様の執事として及第点の立ち居振る舞いであるはずです。

 つまりいつもの僕ですので、やはりお嬢様が指しているのは僕ではありますまい。

 

 となると……。

 僕はティーワゴンの上に置いた、3段重ねのケーキスタンドを見やります。

 なるほど、菓子を説明せよとおっしゃられるのですね。合点がいきましたよ。

 

 確かにお嬢様は何か菓子を調達してきなさいとおっしゃられていたはず。

 そんなこともわからないとは、またセバスチャン(65歳・茨城県出身)に叱られてしまいますね。

 

 

「失礼いたしました。本日のメニューを説明させていただきます」

 

 

 僕は一礼すると、ケーキスタンドの中身を上から述べていきます。

 

 

「一番上の段には季節の果実を添えたカップケーキ。今はイチゴやサクランボが旬でございますね。

 2段目にはスコーンとジャム。ティータイムには欠かすことができない一品。ありすお嬢様はこれが大好きでございますので、特別な品をご用意いたしました。

 3段目はキュウリのサンドイッチ。日本の皆様には珍しいものかもしれませんが、当家はイギリスに起源(ルーツ)を持つ家系でございますので、お客様をおもてなしする際にはこちらをご用意させていただいております」

 

 

 キュウリのサンドイッチは英国式アフタヌーンティーの定番です。

 かつてイギリスが大英帝国と呼ばれていた頃、キュウリは金持ちしか口に入れられない富の象徴でした。そこで貴族は自分たちの権勢を見せつけるため、アフタヌーンティーには必ず新鮮なキュウリのサンドイッチを用意したのです。

 幼い日にありすお嬢様自ら教えていただいた知識でございますので、今も僕の中にその教えはしっかりと息づいておりますよ。

 

 

「いや、俺たちが聞きたいのはそういうことではなく……いや、確かにそれも気になるけども」

 

「つ、ツッコミどころが多すぎて何から訊いていいものやらわからない……!!」

 

「こいつ、また魔法使いやがったぞ……! しかもこんなくだらないことに!!」

 

 

 にゃる君とさささ様は何やら頭を抱えて唸っておられます。どうしたのでしょうか。

 横になって休まれていただいた方がよろしいでしょうか?

 僕と同じく執事のにゃる君はともかく、さささ様が当家に来訪して具合が悪くなったとでも社交界に噂が広まれば、当家の名折れでございます。

 ありすお嬢様に悪い噂が立つなど、断じて許せるものではございません。ありすお嬢様を守り抜くこと、それは幼き日より変わることのない、僕の生きる目的なのですから。

 

 

「あっ、このスコーンやカップケーキ、駅前にあるパティスリーのだよね!?」

 

 

 おや、くらげちゃんが目ざとく気付きました。我が妹ながらさすがの食いしん坊。

 

 

「そうですよ。無論、焼き立てです」

 

「えっ? あそこのスコーンってTVでも紹介されて、午前中には売り切れちゃうじゃん!」

 

「そう言われれば確かに……お兄ちゃん、どこから手に入れてきたの?」

 

「もちろんあのお店で買ってきました。以前からありすお嬢様とくらげちゃんが店頭の写真を見ては、いつか食べてみたいとおっしゃられていたのを覚えておりましたので」

 

 

 くらげちゃんは(いぶか)しげに僕を見ています。

 

 

「……どうやって?」

 

「お金を払って買いましたよ。商品は売り切れていましたが、生地は明日の分の在庫がありましたからね。随分と渋られてしまいましたが、どうか私のお嬢様のティーパーティにご協力いただきたいと誠意を込めてお願いしたら特別に焼いていただけたのです」

 

「へえー! すごいね、よくそんなお願い聞いてくれたよね」

 

「どう見ても高校生のわがままなのになあ。パティシェコンテストで賞もとってるって話だったけど、意外と人情家なんだな」

 

 

 どうやら気を落ち着かれたのか、皆様が物珍しそうにケーキスタンドを見てきます。

 僕は優雅たるを心掛けながら、丁寧に皆様のお皿に取り分けていきました。

 

 

「さあ、どうぞ召し上がれ」

 

「いただきまーす! あっ、うっめえ!」

 

「ホントだ! やっぱ話題のお店は違うよねえ。しかも焼きたてホヤホヤだもん!」

 

 

 早速スコーンを口に運んだにゃる君とさささ様が感嘆の声を上げていらっしゃいます。くらげちゃんは……もがもがと頬張っていますね。

 兄としては微笑ましいですが、これは見過ごせません。

 

 

「くらげちゃん、貴女もいずれはメイドとしてお嬢様にお仕えする身。当家の従者としてふさわしい優雅さを身に着けるのです」

 

「就職先が内定してる!?」

 

「無論です。我が家は代々お嬢様にお仕えする従者の家系。私の妹である貴女もまた、ありすお嬢様にお仕えするのは当然のこと」

 

「そんな歴史、私知らない……!」

 

「こいつ一体自分にどんな魔法をかけたんだよ……」

 

 

 さて……ゲストの反応は上々。

 ですが、一番気になるのはやはりありすお嬢様の反応です。

 身だしなみを整え、ティータイムの準備を整えたこの1時間の奮闘もすべてお嬢様に喜んでいただきたいがため。

 お嬢様が満足なされないのであれば、何の意味もありません。

 

 そう思いながらじっとありすお嬢様を見つめると、愛すべき我が主人は頬を染めて小首を傾げられました。

 ……何やらぼうっと僕の顔を見ていらっしゃいますが、やはり満足なされていないのでしょうか?

 

 

「……ありすちゃん、見とれてないで感想感想」

 

「あ、うん! え、えっと……おいしいわ!」

 

語彙(ごい)力消えてるぅ……!」

 

 

 ずこーとにゃる君たちがコケていらっしゃいますが、それは無視してありすお嬢様のお顔を見つめ続けます。僕は貴女の声が聞きたい……!

 ありすお嬢様はあせあせとますます赤くなりながら、言葉を絞り出されます。

 

 

「こんな素敵なティータイムを開いてくれるなんてありがとう。スコーンもずっと食べたかったお店のだし、とってもおいしいわよ。それに、小さい頃に話したキュウリのサンドイッチのこと、まだ覚えててくれたんだね……」

 

「もちろんでございます。ありすお嬢様のおっしゃるお言葉を忘れたことなどございません。一言一句この胸に刻んで生きております」

 

「えへへ……! 私も、ハカセが言うことしっかり覚えてるよ」

 

 

 ありすお嬢様は春に花が綻ぶように微笑まれます。

 そして、ちょっと芝居かかった口調でおっしゃいました。

 

 

「ご苦労でした、ハカセ。期待以上の働き、褒めてあげますよ」

 

「もったいないお言葉……!!」

 

 

 そのお言葉が聞きたかったのです……!

 僕は思わずその場に跪くと、ありすお嬢様の右手を取ります。

 

 

「えっ? えっ?」

 

「これからもお嬢様に変わらぬ忠誠を誓います」

 

 

 僕はお嬢様の手の甲にそっと口付けました。

 ぼんっと音が出るくらい、ありすお嬢様のお顔が真っ赤に染まります。

 

 

「ぷしゅう……///」

 

「……ありすサンが一瞬で熱暴走してるーーー!?」

 

「撮った!? 今の撮った!?」

 

「撮った撮った! これ後でありすちゃんにも送ってあげよう!」

 

「キャーーーーーー!!!/// これ破壊力すごいよぉ!!」

 

「なんかその写真を見るたびにこうして真っ赤になりそうな気もするな……」

 

 

 おや、どうして皆様騒がられていらっしゃるのでしょうか。

 淑女の手の甲に忠誠を誓うことなど、執事として当たり前のことなのですが。

 僕が少女漫画で見た執事はみんな基本こうするもので……。

 

 ん? 少女漫画?

 僕は何を言ってるのでしょうか。僕の執事としての作法は我が師セバスチャン(65歳・実家に帰って和菓子屋を継いだ)から教わったもののはずなのですが。

 

 うっ、頭が……!!

 

 

 僕は頭痛を振り払うように小さく頭を振ると、皆様のカップに紅茶を注いで回ります。紅茶を注ぐコツは時間の制御がすべて。そのために執事は懐中時計を確認して、正確に時間を測るものです。僕は体内時計があるのでそんなものなくても秒単位で適切な時間を測れますが。

 やはり僕は執事こそ天職なのでは? ありすお嬢様の執事となるべく生まれついたに違いありません。

 

 

「おおー……なんか本格的!」

 

「ねえお兄ちゃん、お菓子はともかく、このポットやカップってどこから手に入れたの?」

 

「ああ、これは元から我が家にあったものですよ」

 

「え? これウチのなの? 見たことないんだけど」

 

「我が父が予想外に事業が儲かってこの屋敷を建てた際に、これから客人をもてなしてティータイムとか開くかもしれないからと調子に乗って買いました。一度使って即飽きたので物置に放り込まれていましたが」

 

「パパ……典型的な成金ムーブを……」

 

「不肖の父でございます」

 

 

 しかし僕が世界一尊敬する人物のひとりでもあります。

 ……ん? 事業?

 我が家は先祖代々お嬢様の家にお仕えしているはずでは……?

 

 くっ、さっきから謎の思考のノイズが頭をよぎるのはなんなのでしょうか。

 

 

「はー、スコーンもお茶も美味しいし、最高だね! これなら6000円払った甲斐あるよー」

 

「本当だな。っていうかみんなで折半してもいいんじゃね?」

 

「はっ! ……そ、そうね。こんなに素敵なひと時を過ごせたんだもの。もちろんハカセのおかげだけど、沙希(さき)ちゃんが言い出さなかったらこんな機会もなかったし」

 

「いやあそれほどでも!」

 

 

 正気を取り戻されたありすお嬢様を交えて、みんなで和やかにご歓談されているご様子。

 皆様に喜んでいただければ、骨を折った甲斐もあります。

 ありすお嬢様が嬉しそうで、本当によかった。

 

 にゃる君は僕の方を向いて、ケーキを指さされました。

 

 

「そうだ、お菓子の金も折半(せっぱん)しようぜ。ハカセだけに負担させるわけにはいかねーからな」

 

「いえ……それは、遠慮いたします」

 

 

 申し出をお断りすると、にゃる君は不思議そうに首を傾げられました。

 

 

「え? なんで?」

 

「これは当家からのもてなしでございますので。もてなしに対価は受け取れません。それに……」

 

「それに?」

 

「その……申し上げにくいですが、没落された御家では少々厳しい額なのではと」

 

「………………」

 

 

 しん、とその場が静まり返りました。

 皆様は一瞬互いに顔を見合わせ、真顔で口を開かれます。

 

 

「……いくら?」

 

「確か……」

 

 

 僕が口にした金額に、皆様は目を剥かれます。

 

 

「な、なんだその額!? カップケーキやスコーンの金額じゃねーだろ!!」

 

「あの店主にはかなり手を焼かされてしまいました。明日のお客さんが楽しみにしているから、品物が切れていては店の評判に瑕がつくからと何度も突っぱねられてしまいまして」

 

「お、おう」

 

「しかし『君が明日の店の売り上げ全額を補填(ほてん)してくれでもするのかい? それなら特別にやってあげるけどねぇ』とおっしゃられましたので、ありがたくその申し出に乗らせていただいたのです」

 

「…………」

 

「まさか多少色を付けただけで、あんなに簡単に引き受けていただけるとは思いませんでした。やはり本心から頼み込めば、誠意は通じるものなのですね」

 

「……………………」

 

「今回のことは私にとっても大変勉強になりました。そう、社会において誠意とは金額。多少の無理でもお金さえ積めば大体聞いてもらえるのだということを学んだのです」

 

「おい、リセットしろその学習機能! それは高校生の身分で覚えちゃいけない体験だ!! 忘れろ! 忘れろーーー!!」

 

 

 にゃる君が僕の胸元をつかんでぶんぶん振り回すのを、足を踏ん張って必死に耐えます。いきなりどうしたんですか。せっかくアイロンをかけたシャツにしわが寄ってしまうじゃないですか。

 

 

「や、やめてください! 僕は無駄な預金残高の使い道をようやく見つけたんです。そう、ありすお嬢様を喜ばせるための無茶ぶりを通すために使えばいいのだと……」

 

「そういえばこいつ無駄に金持ってた!」

 

 

 さささ様はありすお嬢様の手を取ると、真剣な顔で囁きます。

 

 

「いい? ありすちゃんがストッパーなんだからね? ハカセ君が身の丈しらずなお金の使い方しようとしたら全力で止めなきゃだめだよ。あの子本当に破産するまでありすちゃんのために貢ごうとするから」

 

「う、うん。わかってるわかってる」

 

 

 こくこくと頷くありすお嬢様は本当に可憐だ。

 僕のすべてをお嬢様に捧げたい。僕はそのためだけに生まれてきたんだ……!

 

 にゃる君に揺さぶられながら、必死にありすお嬢様へと手を伸ばします。

 

 

「お嬢様! ありすお嬢様! 僕のすべてを貴女に捧げます……!!」

 

「もう、しょうがないんだから……」

 

 

 ありすお嬢様はひとつため息を吐くと、僕の顔をそっとそのたおやかな掌で包まれました。

 

 

「ハカセ、そんなに必死にならなくても大丈夫だよ。今日はありがとう、とっても楽しかった。だけど、ハカセがどれだけ私を好きでいてくれてるのか、こんなに形にしてアピールしてくれなくてもちゃんと伝わってるんだよ」

 

「う……」

 

 

 間近でありすお嬢様と目が合い、僕は彼女の青く澄んだ瞳に吸い込まれました。

 力を抜いた僕に、ありすお嬢様は笑いかけます。

 

 

「それに、ハカセは大事なことを忘れちゃってるよ」

 

「大事なこと、ですか……?」

 

「うん。ハカセは自分のすべてを私に捧げるって言ってくれてるように、私だってすべてを貴方に捧げたいんだってこと」

 

「…………」

 

「執事のハカセが私を大事にしてくれるのも悪くはなかったけど、主従って関係じゃ私は満足できないの。貴方がすべてを私にくれるように、私のすべてを貴女が所有してほしい。私は貴方のもの、貴方は私のものでいてほしいの」

 

 

 そう言って、ありす(・・・)はつま先立ちになって、僕の額に口づけた。

 くすっと彼女が笑う。

 

 

「背筋をしゃんと伸ばしたアンタって、本当に身長高いわね。でも、いつもの猫背のアンタが私は好きよ。だっていつでもキスできるもの。だからそろそろ『元のハカセに戻って』」

 

 

 ありすの桜色の唇から、『魔法』が紡がれた。

 本家本元のそれは、僕の『模倣』をたやすく打ち破り……。

 

 

「うっ……!」

 

 

 瞬間、脳裏に蘇る執事としてのアホを晒した記憶――!!

 

 

「うぎゃああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 

 

 催眠が解けて人格が統合された僕は、自分のこれまでのバカまるだしの言動の数々を突きつけられてのけぞり悶えた。

 

 

「ハカセ!? ハカセーーーー!?」

 

「み、見るなあ! 執事服を着た僕を見ないでくれ! うわああああああ!!」

 

 

 そうか、人格が統合されるってことは自分が無自覚に晒した醜態を客観的に見せつけられるってことでもあるのか!? こ、こんなの……耐えきれない……!!

 

 僕はみんなの視線を避けるようにカサカサとテーブルの下に潜り込み、背中を丸めて震えた。

 こんなの生きておられんばい!! 合掌じゃあ!!

 

 

「殺してくれ……!!」

 

「お、おう。ハカセにも羞恥って感情はあったんだな……」

 

「ねえねえお兄ちゃん、さっきの跪いてキスした写真スマホに送ってあげようか? すっごくカッコよかったよ!!」

 

「ひぎいいいいいいいいいいいい!!!!」

 

「毒くらげちゃん、恐ろしい子……!!」

 

 

 テーブルの下に入ってスマホを見せようとしてくるくらげちゃんを必死に拒絶して、瞳を固く閉じる。

 そうしてぶるぶると震えていると、何やらとても柔らかくて温かい感触が僕の頭を包み込んできた。

 

 

「よしよし、もうハカセをいじめる子はいないからね」

 

「うっうっうっ……」

 

 

 ありすにいい子いい子と頭を撫でられ、僕は幼児のように涙をこぼした。

 いや、実際僕は去年のクリスマスまで人生で泣いた記憶なんて一切ないから、あくまでも形容にすぎないけれど。

 あの忘れられない特別な日以来、僕は初めてのことばかり経験している。

 

 

「ふふっ、執事服がしわくちゃだよ。髪もまたボサボサになっちゃったし。さっきまでカッコいい執事さんだったのに、魔法が解けちゃったね」

 

 

 ありすは苦笑しながら、それでもなんだかホッとしたように僕を見た。

 

 

「やっぱり執事喫茶に決まらなくてよかった。執事のハカセもカッコよくて好きだったけど……きっとカッコよすぎて、女の子にモテモテになっちゃうから」

 

「僕はありすがいればいいよ」

 

「私がヤキモチ焼いちゃうもん!」

 

 

 ありすは僕の手を抱いて笑う。

 そのかけがえのない笑顔は、さっき執事だったときよりもずっと……。

 

 

「僕もありすお嬢様の執事に生まれてこなくてよかった」

 

「……どうして?」

 

 

 そんなの、決まってるじゃないか。

 執事が主人への恋心を抱くことなんて、絶対ありえないことで。

 だからこうしてありすと対等に抱き合っていられることは、とっても幸せなことなんだ。

 僕はその幸福を噛みしめながら、自然に湧き上がってくる笑顔を彼女に向けた。

 

 

「ありすの笑顔を、ずっと近くに感じられるからだよ」




そして見守る3人は砂糖を吐いた……!

後日談・執事喫茶編になります。
最終日だけ投稿遅れて申し訳ない。
いつか後日談するよって言って半年が経過しましたが、久しぶりに書くとこの子たちは本当にかわいいです。にゃるささくらげが吹っ切れてはしゃぎ過ぎるので、逆に振り回されましたが。
またそのうち何か書きたいですね。


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