呪われた剣を押し付けられ、装備が外れないようです〜虐げられた男は理不尽を呪い殺す〜 (フライドポテサラ)
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1.獣臭さを取り除きたい

細々とやっていきます


 呪い。それは怨念、あるいは緊縛。

 世の理に反する術を、しかし人々はあまり認知していなかった。その浮世離れした性質故に、存在は常に闇の中である。

 

 今までも、これからも。その(たが)が外れるまでは。

 

 

 

 

「グルルル……」

 

 見るからに獰猛そうな獣と、それと対峙する少年。齢は9つほどである。

 

 その狼型の獣は通常の動物とは違い、自然発生し人に害をなす、総じて魔物と称される存在だった。

 その魔物は遠くの草木の影から姿を現し、獲物を見つけたとばかりに小さく唸りながら少年――ニルスとの間を詰める。

 ほんの少し開いた口。牙の隙間から涎が流れ落ちていく。

 

 対する少年は、腰に下げていた棒切れを構えながら、手先の感覚が消え、体が冷えていくのを感じていた。

 もはや全身が空気の流れさえ感じることを拒むようだ。

 

 だが悲しいことに、これは錯覚ではなく現実だった。

 

 彼は――呪われている。

 

 

 通常呪いとは、物に宿るものである。特に多いのは武器や防具だ。人の生き死にに関わりやすいそれらは、人々の怨嗟が乗り移り易い。

 

 そしてニルスも例外ではなく、呪われた剣を、その背に負っていた。

 この剣が、ニルスの所作を尽く阻んでくるのだ。

 

 剣を象っているにも関わらず、その呪いは戦いにおいて不利になるものばかりである。それ故か、彼が手にするのは剣ではなく少し頑丈なだけの木の棒であった。

 果たして剣の切れ味が如何ほどなのかニルスは知らないのだ。

 

「グァウッ!」

 

「ぐっ――」

 

 痺れを切らした狼――フォレストウルフが堪えきれず襲い掛かかり、噛み付いたニルスの腕には噛み跡が鮮明に残る。

 同時に凄まじい激痛が走るが、それは本来の痛みよりも倍加したものであった。

 

 これも呪いによる効力。ニルス曰く、幾分かマシな呪いであり、むしろ助かっているとのことだ。その理由は戦闘になると消えてしまう触覚の代わりになってくれるからである。

 

「ハアッ! ハアッ!」

 

 魔獣は口を開け、息を切らしてニルスを見上げる。気分は最高潮、といったところか。

 ニルスは噛み付かれた左腕を押さえながら息を整えて集中する。

 痛いのはいつもの事、しかし何よりも恐ろしいのは損傷を与えられ続けることだ。

 

 理由は一つ、傷の治癒が出来ないからである。これももちろん呪いによる障害だが、その影響は両親があらゆる手法で治療を試みたもののついにはそれを成し遂げることができなかったほどだ。

 

 一つ幸いだったのはどういう原理か睡眠時だけは自然的に治癒すること。こればかりはニルスも自分を残酷な運命へと突き飛ばした神にも感謝した。

 

 

 そこで魔物が突然に飛びついてくる。それをニルスは目で追おうとするも叶わず、瞬きした次の瞬間には眼前にいた。

 まるで、瞬間的に移動したように。

 

 当然ながら魔獣が実際に一瞬の合間に動いたわけではなく、呪いにより視覚では事物の流れが捉えられなくなってしまうのだった。

 

 ニルスはすぐに狼の攻撃を躱し、手に持った木の棒を握り直す。ロブストという頑丈な木材であしらわれた戦闘用の棒ではあるが、その手にずっしりと重い。

 軽いことが売りの商品であったが、そのような材質の特徴すらも呪いは台無しにし、武器を数倍重くさせてしてしまうのだった。

 

 そして、呪いはもう一つ。

 

「はあっ!」

 

 飛びつきの反動で体勢が崩れている狼に向けて、握ったロブストの棒を振り下ろす。

 

 しかし、それは直撃に至らず、それどころか振り上げられた腕は微動だにしていなかった。

 最後の厄介極まる呪いは、攻撃というものが一切できないというもの。

 まさに致命的欠陥。ニルスは日頃より克服すべく特訓を重ねてはいるが、身になったことは一つもなく、たった今も気合を入れて試したものの全くの無意味だった。

 

「くっ!」

 

 そしてニルスの攻撃が飛んでこないことに対して不思議そうに首を傾げていたフォレストウルフが、再び飛びかかってくる。

 今度は避けきれず、鋭く伸びた牙が眼前に迫る。その危機にニルスは咄嗟に両手を前に出した。

 無意識に魔物の襲撃に抵抗し、思わず掴んだのは狼の首元。

 気道を塞がれ呼吸もままならなくなるものの、魔獣は必死に抵抗し、ニルスの体に爪による創傷をどうにか増やす。

 

「つッ」

 

 痛みのあまり狼を掴んだまま投げ飛ばし、地面に倒す。その衝撃で魔獣は苦しげな表情を作り、抵抗も弱まる。

 その様子にニルスは考えた。相手に損傷を与えるのは、なにも攻撃とは限らないのではないか、と。

 その考えに至ったニルスの行動は早かった。左手はそのままに、右手を狼の胸近くに当て、村の神父を模倣して祈りの言葉を告げながら目を瞑る。

 

 ニルスは自身に言い聞かせるように脳内で繰り返す。これは心臓を抜き取り新しく臓器を入れ替える医療行為の過程、あるいは行く手を阻む鬱蒼と生い茂った雑草を取り払う除草作業だと。

 

 そのまま手を押し進める。次の瞬間には肉の潰れた感触が手に伝わり、同時に何か硬い物質が触れた。ニルスはそれを掴み、魔物の肉の内側から引きずり出した。

 取り出したそれは、血によってくすんで見えるが太陽にかざしてみれば確かな輝きがちらりと見えた。魔石だ。

 

 魔物はその身に生命維持の核となる魔石を宿しており、それを取り除いてしまえば魔物の生命活動は停止するのだった。ニルスは朧気な知識ながらも魔物の弱点を見極めてとどめを刺してしまった。

 結果、足元には温もりだけが残った抜け殻が一つ。

 

 幼いながらも彼は理解する。自身の行動を攻撃と断定しないことで、損傷は容易に与えることができるのだ、と。

 

 このニルスという少年、なぜこのような危険に見を晒しているのかと言えば、呪いの影響により自分だけでなく親や兄弟まで被害を被ることが増え、自らの意思で村を出たためである。

 

 そんなニルスは、初めて町という場所に訪れる。そこは鍛冶が盛んな工業街で、元々炭鉱だった場所にそれを精錬、加工する者が集まり、やがて流通も発達し、ここまで大きくなったのだという。

 

 見るもの全てが目新しく、思わず町のあちこちを見回していると、道端のゴミ箱に蹴躓いてしまった。

 

「あ……」

 

 慌てて散乱してしまったゴミをかき集め、元通りに近づけると、目の端に少女が映り込む。建物と建物の隙間、そんな薄暗い場所で独り、立ち竦む彼女の短い銀髪は場所と不相応に煌めいていた。

 

「なに……?」

 

「あ、いや、何でも……ない」

 

 なぜこんな場所にいるのか、何か困っているのか。こんな状況ならそう話しかけるべきだったのかもしれない。それでもニルスは言葉を取り繕う術を知らず、ただ、訪れたばかりのこの町の魅力を語った。

 

「……この町はいいところだね。うちの村と違ってこんなにも活気に溢れてて、働く人皆が輝いてるみたいだ」

 

「…………僕、この町は嫌い」

 

「え……? あ、そうなのか」

 

 そんなこと言われてしまってはニルスも黙るしかない。結局それ以上会話が進むこともなく、彼女がなぜそこで突っ立っていたのか、その日は分からず仕舞いだった。

 

 

 旅を始めてからずっと続けていた野宿を、その夜も変わらず行う。何か襲って来ようものならすぐにニルスの呪いで感覚が麻痺することによって知らせるため、それを枕に、安心して熟睡することが出来た。

 

 食料は野生の魔物、狼や猪などをいただく。家畜で、味付けされたものとくらべるとかなり味は落ちるが、食べるものがあり尚且つ少しでも美味しいならば文句は言えない。

 

 

 そのようにして、その日も寝込みを襲ってきた狼を次の日の食材にすることに決め、朝を迎えた。

 

 

――――――――

 

 

「あ……」

 

 その日も銀髪の少女は同じ場所にいた。

 

「何なの? 追い人?」

 

「え、追い人って?」

 

「ある一人の人を四六時中付け回すひと。犯罪者」

 

「いや違う違う! もしかしたら今日も君がいるかと思ってさ」

 

 世の中にはそれほど気色の悪い行為をする人がいるのだと、学んだ瞬間でもあった。

 

「犯罪者、汚らわしい。近寄らないで」

 

 彼女は嫌悪感を含んだ目でニルスを見つめてきた。それがニルスにとってこの上なく衝撃的で、彼は頭を掻きながらそそくさとその場を立ち去ったのだった。

 

 人気のなくなった町の隅で、少女が建物の間から見える狭い空を仰ぐ。その頬には、温い雫が伝っていたのだった。

 

 その日以来、ニルスはあの場所に立ち寄ることをやめた。それでもこの町は居心地が良く何日も居座ることになってしまっていた。

 自身を見て問答無用に殴りつけてくる者も、少なくとも今はいない。

 この町に生まれていればどれだけ幸福だったかとも思う。

 

 

 そんなある日。その日は何気なくいつもとは違うものを口にしたくなったニルスは、市場に出向いて食材を選んでいた。

 すると背が高く大柄の男性がいつかの少女を連れていた。

 

「む……」

 

 そしてニルスを見るなり睨みつけてくる彼女。随分と嫌われてしまったものだとため息をつく。

 

「アシュ、行くぞ。こんな所で油を売っている場合じゃない」

 

「はい……」

 

 アシュと呼ばれた少女はお前のせいだと言わんばかりに去り際にニルスを鋭い目つきで睨むと、すぐに父親らしきその人物の後ろを歩いていった。

 その姿のどこか気の進まないような、肩の落ち込んだ格好が妙に気になるのだった。



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2.犯罪者じゃない!

 その後、食事のために狩りを続けていたニルスだが、その副産物として魔石が思いの外貯まってきた。そこで彼は思い切って全て換金し、宿をとることを決断した。

 久しぶりのベッドの感触は今までに味わったことのないほど柔らかく、外出させる意欲をまるで削いでしまった。

 しかし全く日を浴びないというのもどこか気持ちが悪いと感じたので、辺りを散歩していると、いつかの場所からすすり泣く声が聴こえたのだった。

 

 しゃがみ込んだ少女の顔はよく見えないが、膝にかかった銀色の髪が彼女だと告げている。

 嫌悪感を抱かれているとは理解していたがニルスは無視する気になれず、ついに声をかけてしまった。

 

「大丈夫……?」

 

「え…………あっ、犯罪者さん」

 

 彼女はそう言って、さっと身構える。そういった反応はニルスとて予想していた。にしても、その呼び名はなんとかならないものか。

 

「いや……あの、女の子に涙は似合わないよって……ああ」

 

 宿屋にて、隣の部屋より聴こえてきた男性の言葉を借りたが、少し気取りすぎているような気がして、ニルスは声に出してから後悔した。

 

「え、女の子……?」

 

 しかし彼女の反応と言えば、驚いた顔を浮かべていた。いつものように気味悪がられると思っていたというのに。

 

「僕のこと、女の子だって思う?」

 

「……? 当たり前じゃないか」

 

「……そう。そう言ってくれたのは君がはじめて」

 

 ニルスの言葉を聞いて肩を下げた少女は、嬉しいような表情をしていた。初めて言われたというのは本当だろうか、とニルスの疑問が頭に浮かぶ。

 

 よく見ると確かに髪型も格好もニルスと同年代の男子のような風体をしているが、それでもどう考えても目の前の相手は女の子以外の何者でもないと感じた。

 その理由として、腹部より上および首の下方に備わる僅かな膨らみ……もとい、細かい仕草の一つ一つが、女子のそれだと感じたことが大きい。

 

「君の名前、教えて……?」

 

「俺はニルス」

 

「そう……改めてよろしく。犯罪者さん」

 

 真っ直ぐに見据えた目でそう告げる彼女に、そこは名前で呼ぶべき場面だろうと、ニルスは少々面食らってしまった。

 そんな少女は口元を押さえて可笑しそうに小さく笑った。ほら、やっぱり女の子じゃないか、と彼は自身の目に狂いが無かったことを密かに誇りに思った。

 

「そういえば、僕の名前……」

 

「うん」

 

「アシュ……レイって言うの」

 

「ん? ……ああ、アシュレイね」

 

 彼女は自身のことをアシュレイと称し、ニルスはそれに一瞬引っかかったようだが、頷き返した。

 彼女がそう言うのならば、ニルスはそう呼ぶだけである。

 

「……今日はありがと」

 

 アシュレイはやや憂いを含んだ表情を作るも顔を上げ、明るく見せて去っていった。胸の前で小さく手を振った少女はどことなく肩の荷が下りた、そんなような、作り笑いながらも前向きな笑顔だった。

 

 

 

 そして翌日、彼女はまた同じ場所で……涙を零していた。

 

「え……どうかしたのか?」

 

「う……ん? ニルス……?」

 

 アシュレイはニルスを見るなり、慌てて涙を服の袖で拭い、見上げてきた。取り繕おうとしているものの、その表情は悲しみを隠しきれていない。

 

「そういえば昨日も……何かあったんだな?」

 

「……大丈夫」

 

「そんなわけないだろ。じゃなきゃ、こんな場所で泣いてたりしない」

 

「そう……だよね」

 

 ニルスからの指摘で再び俯く。彼女の笑顔は好きだが、偽りのそれを見続けるのは胸が締め付けられるようで辛い。ニルスはそのまま、アシュレイの隣に座った。

 

「あ……」

 

「辛い事があるんなら話してみなよ。俺じゃ務まらないかもしれないけど」

 

「それは……言えない。ニルスには、言えない」

 

「そっか」

 

 彼女がそう言うのであれば、これ以上追及しないでおこう。そう思ったがアシュレイは続けて口を開く。

 

「嫌なんじゃなくて……ニルスには嫌な思いをしてほしくないから」

 

「そんなの、気にしなくていいけどな」

 

「…………でも、いい。ニルスと会って元気が出たから。じゃあね」

 

 少女は立ち上がって、銀色の髪を煌めかせながら去っていった。どうやら簡単には話してくれないようだ。

 

 

 昼になると、この町は金属を打つ音と喧騒で溢れる。道を歩いているだけでも活気の中で一つになれたようで心地よい。いつか、鍛冶も体験してみたいものだとニルスは作業を横目で見る。

 

「少年、前を見て歩きなさい」

 

「あ、すみません……」

 

 余所見をしていたために男性とぶつかってしまう。後ろに二人連れている体格のいい、肩を出した親分気質な男性だった。

 衝突した拍子にニルスの腰に下げていた袋が落ち、中の魔石が無機質な音を立てて転がり出た。

 

「魔石……? 冒険者の真似事でもやってんのか?」

 

「はっ、まだこんなに小せえのによ」

 

「笑ってくれるな。ほら、これは大事に持っとくんだよ」

 

 下品に笑う後ろの二人を諌めながら、その男性は魔石を拾い集めてニルスに持たせる。

 

「ありがとうございます」

 

 頭を下げるとその人物は立ち去りながら背中越しに手を降った。先程笑っていた若い二人も遅れながら駆け足で追いつき、歩調を合わせた。

 ニルスはその人物を随分と男気のある人だと憧れを抱きそうになるが、その様子を眺めているとどうだろう。

 出歩いている女性が彼の出身と比べて著しくその割合が小さく見かけても肩身を狭くして端を歩いていることもそうだが、それを見る男性二人の発した声に驚いた。

 

 何しろ「女の癖に道のど真ん中歩いてんじゃねえ」とのことで、先程の親方だけでなく町を歩く人々はそれに対して気にする様子もなく、無関心だった。

 恐らくあれがこの町の「普通」なのだろう。

 

 ニルスの村ではどちらかといえば体の弱い女性の方を何かと優遇する体制が取られていたのだが、町並みが違えば文化も違う。

 結局あの男性は誰彼構わず手を差し伸べるわけではないのだ。そう思うと突然に落胆が襲ってきた。

 

 それと同時に、頭の端にアシュレイのことが思い浮かぶ。何のことはない、彼女こそ女性なのだ。この町において卑下される対象、そして見てくれだけは男子を装っている。

 それから、誰も見つけられないような場所での、涙。

 

 考えついた答えはどれも推測の域を出ないが、少女の言動を思い返してみるとどうも現状に苦しんでいる気がしてならない。

 ニルスは頭を掠める嫌な予感に思わず走り出した。

 

 

 ニルスはその日、あらゆる場所を探してみるがそう都合もよく見つかるはずもなく、あるいは運がなかっただけなのか、結局その日は諦めることを決め、眠れない夜を過ごしたのだった。

 

 

――――――――

 

 

 ニルスは翌日から、一度町で彼女を見かけたことがある市場の通りにて張り込みを始めた。道行く人や商人達がこちらを訝しがることもあったが、子供の遊びだと思ってかすぐに無関心へと戻るのだった。

 

 それでも中々彼女には巡り会えない。そんな中、ついにある人を町で見かけることができた。

 アシュレイと以前町を歩いていた、大柄の男性だ。恐らく、父親だと思われるのだが……

 

「すみません、アシュレイのお父さんですか?」

 

「そうだが……ひょっとして息子について何か知っているのか!」

 

 その男はニルスの肩を掴んで揺すってくる。体格の差とニルスの呪いもあって絞られるような鈍い痛みがニルスを襲う。そのあまり思わず顔に出してしまいそうになるが、堪えて声を絞り出す。

 

「息子……? 彼女は女の子ですよね」

 

「君はそれを知って……」

 

 父親はハッと息を呑むとニルスの口元に手を当てて騒げないように塞ぐと、どこか人の目につかない場所へと連れて行こうとしているようだった。

 そして、ニルスに助けを呼ぶ意思がないことを悟ると、彼は静かにニルスを地面に下ろす。

 

「娘の事は、口外したり……?」

 

「いえ、誰かに話してはいないですが……」

 

「そうか……」

 

 そう言うと安心したような表情で額の汗を拭う。押さえられていた手が離される。ニルスはどうにか、解放されたようだ。

 

「誰かに知られては拙いんですか?」

 

「君はこの町の出身ではないな。エレロで女性の立場はないに等しい、それは知っているか?」

 

 エレロというのはこの町の名称だ。ニルスは問いに頷きながら答える。

 

「まさか、それが理由でアシュレイを男として育ててるとか?」

 

「……まあ、そういうことだな」

 

「彼女の意思は?」

 

「娘もそれを望んでいる」

 

 男は声に抑揚をつけずそう言った。嘘だ、とニルスは思う。だったらなぜ女の子と言われてあんなにも嬉しそうにしたのだろうか、と。

 それは恐らく女性として生きることを、心の内では望んでいるから。幼いニルスでも、いや、幼かったからこそ彼女の想いと同調したのかもしれない。

 

「……あなたは、娘さんのことを何も分かっていない」

 

「なに?」

 

 ニルスはつい、口に出してしまった。幼さゆえに、視点もアシュレイにしか合わせることができず、父親の苦悩など理解できるはずもなかったのだ。

 この、アドルフという人物は良識ある人間であった。しかしながら一介の父として、その尊厳を貶されたことに黙ってはいない。すぐにニルスの腕を掴み、顔を近寄せる。

 

「今何と言った?」

 

「何度でも言いますよ。あなたにはアシュレイの気持ちなんか分からないんだ!」

 

 そしてニルスは掴む腕に渾身の頭突きを食らわす。しかしその力では大の大人の拘束を剥がすことはできない。

 

「くっ」

 

 対してアドルフは怒りを抑えきれず、平手でニルスの頬を打つ。彼はそれなりに、力を入れたつもりだった。それなのに、あろうことか少年は避ける意思も見せず敢えて受けた。

 

 みるみるうちに赤くなる肌は明らかに痛そうなものだが、彼はそれを口に出さず、ただアドルフの目を見ていた。その真っ直ぐな目に、自身の心の内を見透かされそうな気がして、思わず手を離してしまった。

 

「……すみませんでした」

 

 ニルスは無言の末一言謝り、その場を走り去っていった。ニルスとて、自分が一点からしか物事を見つめられていないことに気づいていたのだ。

 

 怒りは一度発散してしまうと急に萎んでしまうもの。それはニルスに限らず、アドルフも同じだった。

 

 

 

 少年がいなくなった路地裏、彼は一人立ち尽くす。父親として、子のためにできることはしていたつもりだった。彼が妻を娶った時、他の女性と同じ待遇を取られることは分かっていた。

 

 アドルフも当然のように妻をこき使い、機械のように動かした。そんな中、元々病弱だった彼の妻は日頃の過労により倒れてしまう。

 すぐに治療院に運ばれるものの差別の影響は至る所で絶えない。結局彼女は身籠っていた娘を出産し、そのまま息を引き取ってしまった。

 

 出産の看護を取り持った治療院で働く女性達は祝福の言葉を言いながらアドルフに赤ん坊を手渡すものの、その目は全く笑っていなかった。

 まるで、ゴミでも見るかのように。

 

 その瞬間、彼は自信が妻を愛していたことに気づく。失ってから、どうしようもない虚無感に襲われたのだった。

 こうなったのはなぜか。それは女性を蔑むこの風潮のせいだ。しかしそれをまるごと変えてしまえるほど、自分は影響力のある人間ではない。ならばどうするか。

 

「この娘を、男として育てよう」

 

 そう思ったアドルフは大切なものを二度と失わないために、抱えている娘を男として育てることを誓ったのだった。

 

 

 怪しかった雲行きが、ついに灰色の雲を呼び込み雨粒を降らせていく。その冷たさに彼の意識は現実へと引き戻され、顔を上げる。建物の屋根の隙間を縫って吹き込んできた雫がたちまちアドルフの衣服を黒く濡らす。

 彼は空を見上げたまま、立ち竦むのみだった。



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3.大人って悲しい生き物ですね

「痛ってええええ!」

 

 ニルスは自室の床で転げ回り、頬を押さえながら痛みを訴えている。この薄い壁では下の階まで響いているに違いなかったが、押し寄せる苦痛の波にそんなことは微塵も考えられなかった。

 

 アドルフは容赦しなかったのだろう、ニルスの頬は赤く腫れ上がっていた。その加減は落ち着くまでかなりの時間を要したほどだ。

 

「ふう……く……うぅ」

 

 落ち着いたとはいえ、痛みは尾を引く。ニルスはかろうじて床から這い上がり、そばにあった机に手をついてゆっくりと立ち上がる。

 

「アシュレイを……探さなきゃ」

 

 先程アドルフに声を掛けたとき、彼は「息子について何か知っているか」と尋ねていた。

 息子、という単語が気になって訊けぬままになっていたが、アシュレイの身に何かなければあのように問い質してきたりはしないだろう。

 

 きっと何か危険な目にあっているに違いない。ニルスはすぐに外へ飛び出す。とはいえ、手がかりも何もない状態で如何にすればいいのだろうか。

 そんなことを考えていたからか、出口から飛び出た瞬間に別の少年とぶつかり合ってしまった。

 

「つッ!」

 

「あ、ごめんね」

 

 互いに尻もちをつくがニルスは痛みですぐには立ち上がれず、同じく走ってきた少年に手を貸されて立つ。

 

「ありがとう」

 

「うん。じゃあ」

 

 少年はすぐに去っていく。こちらにも非があったにも関わらず謝り、手助けしてくれた爽やかな少年だった。

 だが彼は何故か切羽詰まったように慌てて駆けていってしまった。

 

 そこでニルスははっとして彼を呼び止める。その必死さには何か自身と共通する部分があったからだ。

 

「君! アシュレイって知ってるか?」

 

「え、あ……それってアシュのことかな? 実は大変な事になってて……」

 

 ニルスの言葉に少し緊迫感が緩んだ少年は瞳に涙を浮かべる。

 

「大変な事って?」

 

「よく分からないんだけど……大人の人がいじめてるみたいで」

 

 いじめている、とは彼なりの表現だが要するにアシュレイと彼らとの間に何か揉め事があったのだろう。

 

「場所は⁉」

 

 ニルスは尋ねる。少年も本来は答えるべきでない回答を緊迫した様子の彼に気圧されてしまった。

 

「町を離れたところの小屋だけど……」

 

「そうか、ありがとう!」

 

 その小屋の場所には覚えがあった。以前魔物を狩っている時に偶然人気のない小屋を借りて逃げ隠れたりもした。そう思ってニルスは素早く走り出す。

 

「あっ、危険だよ!」

 

 少年は呼び止めようとするも、ニルスは振り返ることなく目標を一点に定めて走っていく。

 

「こういうの、蛮勇っていうんだっけな」

 

 呟いたニルスには元よりアシュレイを救い出す力はない。そう思っていた。ただ、空回りした勇気のようなものが自身を突き動かしている。そんな感覚だけがあった。

 

 少年もそれ以上追いかけはせず、自分がすべきことを今は達するのみと、また走り出すのだった。

 

 

 そしてすぐにその山小屋へは辿り着いた。ニルスは乱れた呼吸を整えながら中の様子を見る。

 

「やっぱりこいつ、女だったなあ! これが知れたらアドルフの所も終わりだな」

 

「長い間奴を失脚できないかと考えていたが、まさかこんなに近くに恰好の材料があったとは笑えるぜ」

 

 そこには下卑た笑みを浮かべる二人の男、あれは確か昼間にからかいを受けた男達だっただろうか。そして部屋の隅には衣服を破られて蹲っているアシュレイの姿があった。

 

「この町一番の鍛冶師はエドメの旦那で決まりだな」

 

 二人の笑いが起こる。

 男達は鍛冶師エドメの弟子だった。彼らは師が腕の一二を争うアドルフを陥れようと画策して、アシュレイの性別を知るまでに至った。

 それを公言したところでアドルフの腕が落ちるわけではないが、彼の評判が落ちるのは火を見るより明らかだった。

 女児を男として育てていたことはもちろん、この町では工場に女性を立ち入らせることは禁忌とされていた。

 

 それが知れ渡れば、アドルフは現状を維持したままではいられない。そう思うと、笑いが止まらないのだった。

 ニルスは思わず小屋へ飛び込んだ。

 

「アシュレイを……離してください!」

 

 そして彼は真っ向から懇願した。

 彼女が女だと知れればその身に危険が及ばないわけがなかった。たとえ、女の子として生きたいというアシュレイの願いが結果的に叶えられたとしても、その決断は彼女自身にしてほしかった。

 

「誰かと思えばいつかのガキじゃねえか」

 

「はっ、小さな勇者がお姫様を助けに来たってか?」

 

 冗談を言うと二人はまとめて腹を抱えて笑う。その傍らで不安そうに座り込むアシュレイがニルスの目の端に映り込むと、ニルスは笑顔を向けて頷いた。

 

「あー、おもしれぇ」

 

「いいぞ、俺達は今すごく機嫌が良い。遊び相手になってやるぜ」

 

「えっ、ちょっと交渉を……」

 

 ニルスは拳を構え出す大人達に戸惑いながら後退る。

 

「行くぜ」

 

 問答無用とばかりに一方が近づいてきてニルスに蹴りを入れる。長い脚を活かした重い攻撃は、ニルスの横腹に突き刺さったのだった。

 

「ニルス!」

 

 アシュレイはその様子に堪らず声を上げる。男達はその声に振り向きながらも下品な笑みを浮かべることをやめない。

 

「お姫様に心配してもらえてよかったなあ!」

 

 男は言葉尻に合わせて拳でニルスの頬を叩く。

 しかし痛くはあるが、アドルフのものほどではない。そして実際の損傷も大したことはなかった。

 

「あんまり、痛くないですね……」

 

 ニルスは強がった。アシュレイに危害を加えることを厭わない存在が目の前にいる、その事実に沸々と怒りが湧き上がってきたためだ。

 

「何だとこのガキ!」

 

 ニルスの言葉に怒りを顕わにした男がまたしても蹴りを入れる。それにも関わらず、ニルスは平然としていた。

 

「俺をガキだと馬鹿にするほど、お兄さん方は偉いんですか? それほど痛みを背負ってきたんですか?」

 

「は? なんだこいつ、恐怖でチビッちまったのか?」

 

 男は声を低くしたニルスを指差して笑う。しかし先程から何故だろう、情緒が安定しない。

 そんな彼に構うことなくニルスは近づいていく。

 

「俺と同じ痛みを味わってもらいますよ」

 

 片手で男の手首を掴み、もう片方を彼の指に添える。そして不思議なことに、彼は抵抗するが引き剥がせない。

 先程から何かおかしい、こんな子供に力負けするはずがないのに。彼は内心、動揺していた。恐怖していたとも言う。

 

 そしてニルスは手首を掴んでいる左手を自身の体へ引き、右手は反対に押し出していく。

 力は拮抗する間もなく、メキメキと男の指の骨が音を立てる。

 

「ぎゃあああああ!」

 

 悲鳴を上げる男をよそにニルスは更に押し込み、骨を砕くような音とともに動作を止めた。

 骨を折られた男はその場に倒れ込み、指の代わりに手首を押さえて苦しむ。そしてズボンの股関あたりには染みが広がる。「チビって」しまったのはニルスではなく彼だった。

 

「おい、ジャックに何をした!」

 

 もう一人の男、エディは異変に眉をひそめてニルスの肩を掴む。しかし彼はそれに答えず、エディの顔に付いている中央の出っ張りを手で右に曲げる。

 

「ぐぎゃッ!」

 

 奇妙な声を立て、折られた鼻に手を当てる。その目には涙が浮かんだ。そんな彼の鼻を親切にもニルスは元に戻してやるのだった。

 

「ああッ!」

 

 彼は短く叫んだ後、呻きながらしゃがみ込んでしまった。

 ニルスは手を払いながら二人を見下ろす。

 

「少しは伝わりましたかね、俺の痛みが」

 

 当然、二人にその声は届いていなかったが。

 

「アシュレイ、無事か?」

 

「……うん」

 

 アシュレイは彼の一連の行動に驚きつつも、その呼びかけに応える。

 そして彼を見上げて気づく。

 

「その頬」

 

「ん? ……ああ、お揃いになっちゃったな」

 

「あ、そっか……」

 

 彼女は自身の頬に手を当てて思い出す。触れた部分に電撃でも受けたように、痛みが走った。

 

「それは、家で出来たものか?」

 

「……うん」

 

「そっか。アシュレイのお父さんとも一度話をしないとかな」

 

「ううん、それは――」

 

「アシュ君っ! 大丈夫⁉」

 

 ほどなくしてニルスに居場所を教えた少年――ルイがアドルフとエドメを連れてやってきた。当事者の登場にやや乱れていたニルスの精神も落ち着きを取り戻す。

 

「アシュレイ!」

 

「お父さん……」

 

 アドルフがアシュレイにいち早く駆け寄って抱きしめる。

 

「すまなかった……俺がお前を男として育てたばかりに」

 

「ううん、僕のことを考えていてくれたって、分かってたから」

 

 そして親子は和解した。ニルスを通して、二人の想いがようやく互いに届いたのだった。

 

 一方のエドメは床を舐める二人の男を見ていた。

 

「これは君が……?」

 

「あ、まあ一応」

 

 その言葉にエドメは申し訳無さそうな顔を作る。その後ろでルイが驚愕を浮かべていたが、ニルスには見えない。

 

「私の弟子がすまなかったね。キツく言っておくよ」

 

 しかしこの男、今回の事件を企てた張本人でもあった。

 

 エドメは狡猾な人物だった。誰に対しても分け隔てなく紳士的な態度で接する。その人当たりの良さは周囲に人を集めていく。もちろんそれは演じてのことであったが。

 しかしそんなことをニルスが知るわけもなくほんの僅かに生じた不審感とともに「こちらこそすみませんでした」と頭を下げる。

 

「私も初耳だったが、その子、まさか女だったとはな。しかしどうする? このまま隠しておいても私の弟子達がうっかり口を滑らせてしまうかも分からん。もちろんこいつらには言い聞かせておくがね」

 

 エドメは内心笑いながら「全く、人間というのは分からないものだよ」と発した。

 

 そしてアドルフは考えた。公表してしまえばやはり娘は苦しい思いをするのではないかと。

 同時にニルスも考えていた。公表だとか、隠匿だとかいう話ではない。エドメの、全てを見透かしたような言葉が心に引っかかったのだ。

 

 ニルス自身勘が鋭い訳ではないが、彼の口振りはまるで誘導するようだったと気づく。

 

「えっと、エドメさん……でいいんですかね?」

 

「おや、どうして私の名を?」

 

「さっきそこの人達が教えてくれました」

 

「へえ、なるほど」

 

 エドメの口調は依然穏やかだが、その目は鋭い。どうやら、ニルスがどこまで知っているのか尋ねているようだった。

 

「全部……教えてくれましたよ」

 

「全部、とは何のことかな?」

 

 彼らは互いに探り合う。そしてエドメはハッタリが通用するほど甘くはなかった。

 穏やかながら威圧を与えてくるエドメに、ニルスは後退りしそうになるが耐える。彼について知っていることなら一つあるのだ。

 

「アドルフさんのことです。エドメさんはアシュレイのお父さんと鍛冶師としての頂点を争っているそうですね」

 

「どうやらそうらしいね」

 

「でも、あなたはアドルフさんを陥れようと以前から探りを入れていた。そしてアシュレイが女の子だと知った」

 

「まさかこれは私が仕組んだことだとでも言いたいのかな? とんでもない、私は実力でここまで上り詰めた。それを今更こんなやり方でのし上がったりはしない。全ては、私の弟子が独断で仕出かしたことだよ」

 

 ここまできても、エドメの余裕の表情は崩せない。もはや苦しいか、とニルスが声を上げる。

 

「弟子の行動が、あなたと全く関係ないとでも? 師の指示を仰がずに、人を失脚させるなんて大それたことをあの人たちが――」

 

「もういいよ、ニルス」

 

 しかしそれを断ち切ったのはアシュレイだった。

 

「いいの、ニルス。もう……いいの。僕……いや、私は、女として生きていくから」



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4.さて、家に帰るか

 彼女はその場にいる全員を見渡して、特にその目を父親に強く向けて「女として生きること」を宣言した。

 その決意に満ちた表情にはニルスも眩しさを感じたほどだ。

 

 しかしその沈黙を破ったのはエドメだった。

 

「くくく……いや、いいね。その勇気を讃えて一つ教えてやろう」

 

 それはまるで別人かと疑うほどの豹変ぶりで、低く笑っていた。

 

「全てはそこの少年の言った通りだ。なに、君達に話したところで足がつくはずはない。そういった根回しもきかせているからな」

 

 彼はどす黒い笑顔でニルス達を眺める。

 

「何……?」

 

「言っただろう、私は彼女の勇気に感動したんだよ。まあ、とはいってもゴミ溜めの中から這い出した程度のものだがな」

 

「ゴミ……? 人の勇気を馬鹿にできるなんて、あなたはよほど偉い人のようですね! アシュレイは過酷な環境の中必死に生きてきたというのに!」

 

「おお怖い怖い。だが私はその小娘以上に苦労してきたんだ。それを尽くアドルフは私の道を遮って……はっきり言って目障りだったんだよ、だから私は彼の息子が本当は女だと聞いて歓喜した。やつを引きずり下ろせるってね」

 

 アドルフは始めから鍛冶に秀でていたわけではなかった。彼が頭角を現したのは、妻を亡くしてから。

 取り返しのつかない事象がこの世にはあるのだと気づいてから、アシュレイに生きる術を教えるべく自身も鍛冶に打ち込んだ。

 

 エドメからしてみれば、着実に積み上げていった地位を、アドルフが一瞬にして何の努力もなしに揺るがしたと見えたのだ。

 

「はははははっ、しかしそれも既に達成した。私は仕事の依頼が尽きないのでね。失礼するよ」

 

 ニルスは、怒りに滲んだ瞳で去っていくエドメを睨んだ。対する彼はひらひらと手を振りながら小屋をあとにしたのだった。

 

 

 

「助けに来るのが遅くなってごめん」

 

 その帰り、ニルスは彼女に謝罪した。探していたとはいえ、その方法というものがあった。自身の情報収集力に反省する。

 

「ううん。助けに来てくれただけで嬉しかったから。……でもニルスって、恐い戦い方するんだね」

 

 アシュレイは遠くを眺めるようにして彼に告げた。その言葉に他意は無かった。ただ、呪いを受けていると知らずに、そんなこととは思いもよらずに感じたままに呟いただけだった。

 そんなアシュレイの言葉にニルスは衝撃を受ける。確かにあの時は我を失いかけていた部分があった。

 

 あのような戦い方ではアシュレイを怯えさせてしまう。ならば二度と、弱点を付け狙ったような攻撃はしないと誓ったのだった。

 

 同時にアシュレイも後悔する。そのようなことを言ってはニルスが戦い辛くなるだけだ。慌てて訂正しようとするも、黙ったままの彼を見るとそれ以上の言葉は出てこなくなってしまうのだった。

 

 

 

 そしてアドルフとその娘の事実は瞬く間に町中に広まり、アドルフは地位を失ってしまった。

 それからニルスが町へ滞在してまた月日が経ってのことだ。

 

「こんなの、どうかな……?」

 

「うん! すっごく女の子っぽいよ」

 

 アシュレイは白のワンピースを恥ずかしげに同室のニルスとルイに見せる。髪の銀色と相まって透き通るような印象をルイは受け、率直な感想を述べる。

 彼らの交流は、アドルフが安上がりな賃貸に身を寄せることになっても、以前に増して盛んになっていた。

 そして反応を窺うようにアシュレイがニルスを目を向ける。

 

「ニルスは?」

 

「うーん、別に無理してそういう格好しなくていいんじゃないかな。アシュレイっぽくないし」

 

 しかし彼の反応は芳しくなかった。アシュレイは確かに女性として生きていくことを望んでいたが、それは形の話ではない。

 

「アシュレイはアシュレイらしくいればいいんだよ」

 

「……そうだね」

 

 ニルスがそう言うとアシュレイはどこか嬉しそうに顔を綻ばせて頷いた。

 

「ところでニルス君はこれからどうするの? ずっとここにいる予定?」

 

「いや、一度家に帰ってみようと思ってるんだけど……」

 

 尋ねてくるルイにニルスは腕を組みながら考える。今回の件でアシュレイとその父の愛情に感化され、急に故郷が恋しくなったのだ。

 

「そうした方がいい。……寂しいけど」

 

 アシュレイも賛同する。やはりこんなところにいては駄目なのだ。両親と過ごしてこそ、受け継いでいくものもたくさんあるというものだ。

 

「そっか、ここに留まる気ならずっと宿屋住まいなのもなんだし、僕の家にでも誘おうかと思ったんだけど……それなら仕方ないね」

 

「だめ」

 

 アシュレイがルイの顔を睨みながら短く言い放った。突然の豹変ぶりに彼は「な、なにが」と戸惑い問う。

 

「ニルスはうちに泊まってもらう。そこは譲れない」

 

「は、はあ……じゃあ、僕はニルスくんの意見に従うけど」

 

 そしてルイはニルスを見る。どうやら返答を求めているようだった。

 ニルスの視線は自然とアシュレイの方向へと行く。女の子から誘い出てくれるとあればこのような機会は二度とないのではないか、と。

 

「え……っと、じゃあアシュレイの所で」

 

「勝った」

 

「え、じゃあ負けた、のかな?」

 

 何故か勝ち誇った様子のアシュレイに二人は苦笑を浮かべたまま互いを見合った。

 そしてアシュレイは表情に自信を含ませて口を開く。

 

「ニルスが帰ってくる頃には、私も立派な鍛冶師になっているから」

 

 この町で本来は女性の進出が許されていない鍛冶、それを実現させていく道など険しくないはずがなかった。

 それでも、幾ら困難が待ち受けていても、エドメに何度陥れられようとも、アシュレイの決意は揺らぎようがなかった。

 

 それは町内ではその地位も失墜した父親のためか、はたまた彼女自身の責任感のためか。それは彼女にもまだわからないことであった。

 ただ、ニルスに出会ったことにより止まっていた自身の内の歯車が、再び動き出した。そんな気分だった。

 

 

 一方ニルスが歩む道といえば――

 

「ん……?」

 

 目を覚ますが、頭に布袋を被せられているようで何も見えない。手もいつの間にか繋がれており、完全に自由を削がれていた。

 

「あのー! これは一体どういうことでしょうか」

 

 幸い口を塞がれてはいないようだったので、異常がないか発声を混じえながら状況を尋ねた。

 

「うるせえな。後もうちょいで着くから静かにしてろ」

 

 前方からしわがれた男の声が聞こえてくる。よく感覚を働かせてみると馬の蹄の音、時折地面が大きく揺れる。どうやらニルスは馬車に乗っているようだった。

 

「ったく、こんなガキなんか売りつけやがってよ。こっちは子守を請け負っちゃいねえっての」

 

 男は御者台にて馬車を動かしながら呟く。

 売りつける、その単語に顔をしかめるニルス。彼の最後の記憶はといえば、アシュレイやルイと会った後、夜道を歩いていた時のことだ。

 

 ニルスは感覚が消え去ると同時に何者かが自分を付けていることに気づいた。

 しかし彼が対処する暇もなく、背後からの足音とともに『スリープ』と聞こえた途端、激しい睡魔が襲ってきたのだった。

 それから気がつけば馬車の上、状況の説明を求めるのも当然と言えた。

 

 すると目的の場所へ到着してか、体を揺らす馬車の動きが止まる。

 

「おう、収穫はあったか?」

 

 円状の建造物、その入り口の門番が声をかける。

 

「全くねえ。せいぜいエドメさんの弟子とかいうやつに押し付けられたガキが一点」

「はー、お前も苦労してんな」

 

 御者を担う男はエドメと顔見知りであった。その弟子の頼みとあれば断るわけにはいかず、半ば押し売りのような形でニルスを渡されてしまった。

 

「まあ頑張れよ」

 

 門の男に素っ気なく返答して、彼は馬車ごと建物へ入っていった。

 

 

――ガシャン!

 

 ニルスの枷と頭の袋は外され、金属の檻でできた牢屋に放り込まれる。朝も静かな獄内に金属製の錠がなされる音が響く。その音に数名が起き上がる。

 

「何だぁ? 新人が来たか?」

 

 がさつだが逞しい声、相手の顔が見えない状況でもニルスは大男が声を発しているのが分かった。

 

「あの……ここってどこなんでしょうか」

 

 ニルスは単純な疑問を投げかけた。新人という言葉にも気になっていた。

 

「まあ、知ってここに来るやつぁいねえな。……お前もそのうちわかるさ」

 

 男は全てを話はしない。だが、年長者の慈悲なのか助言らしきものを残してくれるのだった。

 

「ただな、新人はいなくなりやすい。それだけは気をつけろ」

 

「けっ、そいつの肩持ってどうすんだ」

 

 別の牢から声が聞こえてくる。細身の男だが声色には自信に満ち溢れているような雰囲気があった。

 果たしていなくなりやすいとはどういうことなのだろう。ニルスは考えてみる。単純に使い物にならないか、はたまた自分が想像している通りか。

 

 

 しばらくすると先程の男がニルスを牢から連れ出してどこかへ向かう。どこへ、とはもう聞かない。何も答えてくれないことはわかったのだ。

 

 そして訪れたのは一つの部屋。壁付近には様々な武器が立てかけられている。何か軍備のようなものだろうか。しかしそれにしては手入れが全くされていない。

 そんな事を考えていると男が口を開く。

 

「好きなものを選べ」

 

「いや、俺にはこれがあるので」

 

 ニルスは気づいた。ここが互いに武器を手に戦う闘技場のような場所だということに。彼は鉄格子から覗く黄色く広大な地面とそれを取り囲むように高所から観客が見ているのを見た。

 

「ん? 何故武器を持っている!」

 

 そう言って男は呪剣を取り上げる。考えてみれば武器を持って牢屋に付き放たれるというのもおかしな話で、恐らく服の下に隠すように背に掛けていたので気づかれなかったのだろう。

 ロブストの棒はしっかり持っていかれたというのに。

 

「後がつかえてんだ。これを持ってさっさと出ろ」

 

 苛立ちを見せながら男がニルスに適当な剣を持たせて格子より突き出す。その瞬間からつねるような痛みが体に走り出す。呪いの剣を身から離したことによる弊害が、その身に電撃を与えたのだ。

 そして呪剣がその持ち主との別離を拒否するように、それは距離が離れるほど強くなっていくのだった。

 

 しかしそんなことも気にならないほどに、建物の大きさに驚いていた。戦いの場であるグラウンドを取り囲む円状の建造物、その上に座っている人々もまた、その多さでニルスを感嘆させたのだった。

 

「早くしろ」

 

 向かいに立つ男がニルスにだけ剣呑な視線を送りつけてきた。彼はここで人気の剣闘士。豪腕で相手をねじ伏せる、そのダイナミックな戦闘方法は見る者を爽快にさせた。

 

 この闘技に合図などない。互いにその時を見極めて、一歩を踏み出す。しかしニルスにはそのような緊張感を感じ取れず、落ち着きもなく辺りを見渡し、対する彼もタイミングなど関係がない様子でニルスを眺めていた。

 そんな時、戦いの火蓋は突然に切って降ろされた。



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5.辛いのは君らじゃなくて呪いのせいだから!

 剣闘士の男、ブレーズはすぐに剣を振り下ろす。直前、ニルスは感覚が消え去ったのを確認してすぐ横へ跳ぶ。

 ブレーズの剣を危なげなく躱し、そして攻撃へ転じる。が、しかし腕は動かない。 

 ニルスとてこうなることは分かりきっていた。ただアシュレイの、「恐い」と言った戦い方はもう二度とするものかと決めていたのだ。

 

 いくら呪いだろうがまともに攻撃できなくて何が冒険者だ、とかつて自分を笑った鍛冶師達の顔を思い出して自身を鼓舞した。

 

 そんな動きの止まった彼をブレーズが斬る。慌ててニルスが剣で受けるものの、体格差もあって地面に押さえつけられるようにブレーズは体重を乗せてくる。

 ニルスは辛うじて剣で力を逃がしながら体をひねって抜け出す。次の瞬間、男の剣が地面と当たることによる地響きが起こる。

 

 モーション大きく反動を受けるブレーズに一撃をお見舞いする最大のチャンス。しかしニルスの剣はやはり動かない。

 そうしていると再び彼からの一撃。それを避けて力を込める。それでも攻撃は、できない。

 

 そのようにして試合は進展のないまま、試合時間の半分が終了した。

 

「やる気あんのかー!」

 

「とっとと決着つけろよ!」

 

 観客もそんな退屈極まりない試合を観戦しにきたわけではない。そんな野次を聞いてか、ブレーズはようやくその巨体を動かし、地を揺らすことでニルスの動きを止め、彼を蹴り地面に押さえつけた。

 その演出にどっと歓声が上がる。

 

「殺してしまえ!」

 

 誰かが叫んだ。さらに周りが同調するように伝染するように次々に叫びだす。それを聞いたブレーズは望み通りにしてやろうとばかりに錆びついた刃をちらつかせる。

 そしてニルスに押し付けられる刃先。ブレーズ違和感を感じたのはそんな時だ。

 

 指先にまるで針でつくような僅かな痛みが訪れた。顔を顰めるものの、原因の探りようもなく、結局ブレーズは気にすることをやめた。

 

 その隙を見てニルスは逃げ出そうとするが腹部を足で押さえつけられてしまう。その瞬間、先ほどよりも大きな痛みがブレーズの足に響く。

 その奇妙な感覚を不思議に思いながらも、ニルスが逃げられないようにその剣先を足へ振り下ろす。

 

「ぐあああっ!」

 

 切れ味の悪いそれでは一度で肉を断ち切ることはできない。そのためブレーズは再び剣を振り上げ、何度も足へ斬撃を叩きつける。その度にニルスは苦痛に叫んだ。

 その様子で観客はようやく荒立ちも収まって喜びの声を上げた。すると、

 

「あああああッ!」

 

 ニルスが一際大きな声で鳴いた。ついに足は切り離され、その場から動くことができなくなった。続いて男は身動きの取れなくなったニルスの胴に剣を叩き込む。

 再び腹から絞り出すような苦悶の声が上がる。剣闘士は体を分断すべく刀剣を打ち続けるも、徐々に先ほどから無視を決め込んでいた違和感が大きくなっていく。

 

「つっ……」

 

 男は突然斬り込むのを止め、ニルスを見つめた。眉間にはしわが寄っている。憤怒しているのではなく、ただただ不気味だという表情だった。

 

「おい、どうした」

 

「さっさとぶった斬っちまえ!」

 

 観客の野次は男に聞こえていない。彼はそのまま剣を投げ捨て、踵を返して会場から去っていく。

 ざわめく観衆。彼らからしてみれば一瞬の出来事、ブレーズが自身の勝利が見えた試合を分けもわからず放棄したようにしか見えないだろう。

 

「何が起きたんだ?」

 

「そんなの分からないわよ。でも、あんな子が出るほどだから何か裏でもあるのかしら」

 

「どっかのお偉いさんの息子とかで、試合中に脅されたとかな」

 

「まっさかー。あんなにみすぼらしかったじゃない」

 

 観客は口々に言い合い、そのほとんどは試合放棄に対しての訴えを叫んでいた。冷静に話を続ける者などごくわずかしかいない。

 

 喧噪の中ニルスは控室へと引きずられていく。そのまま彼はすぐに治療を受けさせられる。例え役立たずとしても当て馬の役割がある、そのための人材を彼らは無駄にするつもりはなかった。

 

「ん? こいつ治癒力が著しく低いのか」

 

 男の一人がニルスの癒えない体を見ながら呟く。それを横で聞いていた男が腕を組んだ。

 

「使えない、か。なら今回の余興にでも出すかな」

 

 そう言って彼を連れ戻すこともせず、その場に置き去りにした。

 

 その昼、ニルスは会場の中心に立てられた丸太に括られていた。その体は一度睡眠をとったことにより全身の再生能力が活性化し、元通りの状態になっている。

 そう、呪いによって身体への治療を意味する行為は全く受け付けられなかったが、睡眠は例外だった。さらに、起床中に回復しない反動か、どうも治癒の幅が一般のそれではなく足の2本などすぐに治ってしまった。

 

 運び出した男はその姿に一瞬驚きを見せるものの、治療魔法の効き目が遅かっただけだと結論付けるのだった。

 

 そして会場に剣闘士が入場する。そして槍で一頻り串刺しにしてから満足そうに帰っていく。

 

 全身に穴を開けられるニルスの叫びに観客は歓声を上げた。

 先程の男は余興と言っていたが本来はニルスの処刑という見世物となる予定だった。それもそのはず、治癒すらできない役立たずを置いておく必要などあるはずがない。

 

 しかしながら急遽変更があった。ニルスにはやはり緩慢とはいえ体を再生させる力はある、それならば別の使い所があると結論を出したのだ。

 彼には剣闘士達の意欲向上の、そして本来の目的であった余興の一環としてひたすら甚振られるための有用性があると考えたのだった。

 

 

 それから剣で切り裂かれ、斧で分断され、魔法では焼き尽くされた。いずれも殺してしまう手前まで痛々しい演出は続く。そうして、時は過ぎていった。

 

 

 

「ああああああああッッ!」

 

 一際大きな叫び声。ニルスは直感で呪剣が更に遠くへ離れたのだと気づく。

 元々少しずつ自身の体から遠くなっていてはいた。しかし今回は馬車でも使ったのか、その締め付けるでもない言い表しようのない力が急激に大きくなったのだ。

 まだ辛うじて我慢できたところをさらに鋭い苦痛で襲われると、もう声を抑えることなどできなかった。

 

 檻の中の住人達はそれに顔を顰めつつ起き上がった。口々に文句を言っていくがニルスには聞こえない。

 そしてそれが毎晩続くものだから堪ったものではなかった。

 

 やがて彼らはニルスを追い出してほしいと管理者に訴えると、闘技の質を落としてしまわないためにも必要な処置と、ニルスは個室へと移されることとなった。

 特別待遇にも関わらず、彼に歓喜は訪れない。ニルスは一日中、枯らした喉で声を上げ続けた。

 しかし時折意識を失ってその場に倒れる。それは痛みが許容量を超えたためか。

 

 そして起きた頃には持ち前の治癒力で荒れていた喉も綺麗に治してしまい、状況と対照的に健康的な声で叫び始めるのだった。

 

 

 その時から、彼の周りで変化が起き始めていた。

 いつもの通り余興として使われる彼だが、ニルスを直接攻撃しようものならば直後に体に電流が走り剣闘士達は卒倒する。

 これは恐らく、ニルスの受ける電撃が外界にも作用しているためだろう。きっとニルスと始めに闘ったブレーズもこれを直接足に受けたに違いない。

 

 ここのところ、ただでさえニルスに刃が通らなくなったというのに、今度は攻撃を与えたものが倒れていく。これには観客も騒然とした。

 電撃を受けた者は全て試合続行不可、彼は知らないところで闘技を滅茶苦茶にしてしまっていた。

 

 そんな彼は闘技を管理する者にとって完全にお荷物となってしまった。不要となった者が陥れられる末路は一つだけ。

 処刑だった。

 

 管理者はニルスが魔力的な技を用いて触れたものを気絶させることは理解していたつもりのため、弓士と魔法を使える者を集わせ、一斉に処刑を始める。

 無数の矢がニルスを襲う。しかし彼には突き刺さらないどころか、硬い音を立てて弾き返される。さらに頭上からは魔法によって生み出された巨大な岩石が降ってくるがニルスはそれをものともしない。

 

 魔力だけではない、その重量を持った岩さえ耐えしのいでしまったことに、一同は戦意を失ってしまった。

 

 しかしニルスにとってそれはどうでもいいこと。今は電撃の痛みに耐える、それだけで精一杯だったのだ。今も声を抑えることに注力していないと声が漏れてしまいそうだ。

 

「ええい! 『ギラティーン』!」

 

 すると今度は成人男性の体長ほどもある大型の刃物がニルスの頭の上に出現する。重々しくも真っすぐにニルスを目掛けて落ちてくる。

 

「へっへっへ、死ね!」

 

 魔法を放った主が笑い声をあげる。しかしその直後――

 

「『アイス』」

 

 どこかからか氷の塊が飛んできて刃物に当たり、その軌道を僅かに逸らすとニルスのすぐ背後に落とさせる。重量のある金属が音を立てて地面に突き刺さった。

 

「アシュ……レイ……?」

 

「タイミングばっちり」

 

 現れたのはアシュレイだった。彼女は両手を腰まで持ってきて自信ありげに胸を張った。

 どうせなら矢が当たる前に助け出した方がタイミングが良かったものの、ニルスを傍観する余裕がアシュレイにはないので、到着直後に救い出す今回の方法が彼女にとっての「ばっちり」なタイミングだった。

 

 ニルスはそんな顔見知りと久々に相見えてそれだけで安堵が押し寄せてきた。それも当然、檻の中でどこの誰かもわからない中年男性と共に過ごしていたのだから。

 

「囚われたヒーローを救う私はまるでヒロイン?」

 

「いや、それは何か違う……」

 

 アシュレイは取り違えた何かで嬉々とした表情をつくるものの、ニルスに指摘されて我に戻る。

 

「さあ、早く逃げよう」



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6.一緒に旅をするってつまりそういうこと

 アシュレイに連れられニルスは闘技場から抜け出すことに成功する。彼女が脱出口を開いておいたため衛兵にも追われずに逃げることができた。

 ニルスの今まで逃げ出す意思が希薄だったとはいえ、ここまで簡単に建物から出られるとは思っていなかった。

 

「ニルス、こっち」

 

 アシュレイは追手の可能性を考えてニルスの手を引いて走る方向を変えようとした。だが、彼の体には高圧の電流が流れている。

 触れた瞬間、バチッと大きな音を立てたかと思うとアシュレイが気を失い、ニルスにもたれかかった。

 

「あ……」

 

 しまったと思いつつもこのまま接触していてはアシュレイの身が危ない。ニルスは一先ず安全そうな場所に彼女を横たわらせ、再び闘技場へと戻った。

 

 建物の中ならば何か回復のための道具があるだろうと踏んでのことだ、ニルスの感じているところではここに自身の脅威になるような人物はいなかったのも、わざわざ戻ってきた理由だ。

 

 目的のものはすぐに見つかった。円錐状のガラス瓶に入れられた鮮やかな緑色の液体。管理する者たちが回復飲料と呼んでいたそれを一つ掴み、出口へと駆け出した。

 少しでも早く彼女に届けなければ。しかしその願いはすぐに叶わなくなる。

 

「いたぞ! 捕らえろ!」

 

 衛兵が通路から出てきて叫ぶ。戦う術を持っていないニルスは仕方なく道を曲がり、追跡を逃れるためにさらに加速した。

 すると曲がった先には壁。どうやら行き止まりだったようだ。慌てたニルスは急いでスピードを殺すが、長い投獄生活の中、走り慣れていない体のため転げてしまった。

 

 彼はそのまま壁を突き破り外へと転がり出る。それによって入り口付近は崩壊し、おそらく中にいた衛兵たちは押しつぶされてしまった事だろう。

 

「私、来る必要なかったかも」

 

 気が付けば目を覚ましていたアシュレイが彼の隣で唖然としている。自身の手を見れば先ほどまで掴んでいた瓶は割れて持ち手のみしか残っていなかった。

 ニルスはそれを投げ捨て、アシュレイを見た。

 

「急いで逃げよう」

 

 

 

「そういえばなんでアシュレイは俺のいる場所が分かったんだ?」

 

 逃げることに必死で思わず忘れかけていたが、アシュレイがここにいること自体不思議だった。

 ニルスが彼女を見るとこの2年の間に随分と成長したようで、身長はニルスを僅かに越していた。

 

「聞き出した。平和的に」

 

 その表情からは多くのことは読み取れない。だが、少々悪びれた様子にニルスは訝しげな視線を向ける。

 

 実際にはエドメの弟子であるエディにニルスの居場所を問い質したのだが、その方法が平和的と言うには幾らか語弊があるかもしれない。

 エディがその後数日間もの間立つことがままならなかったのだから。

 

「……アシュレイ、下がって」

 

 ニルスが真っ先に敵意のある視線を感じてアシュレイを後ろへ下げようとする。

 

「大丈夫、私に任せて」

 

 ところがアシュレイは前へと出て剣を構えた。相対するのは小鬼の魔物、それらは棍棒を振り回しながら近づいてくる。一般的な冒険者はあれをゴブリンと呼ぶのだった。

 

「グギャアアア!」

 

 ゴブリンは奇声を発しながらアシュレイに突撃してくる。それを華麗に彼女は躱し、一閃。

 その魔物は断末魔の叫びを上げながら真二つに切り離され、目を見開きながら倒れた。

 

「クギィィ!」

 

「ゴギャァァ!」

 

 後ろに隠れていたもう二体も、アシュレイは舞うような動作で瞬く間に斬り捨てた。

 

「……この程度、造作もない」

 

 何か恐ろしいことを言っているが、ニルスはその見覚えのある戦い方に頭を痛めていた。すぐに思い出せないということは昔に見た記憶なのか、それはいくら捻っても出てこないのだった。

 

 

 そもそも、以前の彼女ならゴブリンほどの強さであったエディに為す術もなかったはずではないか。

 

「戦い方を学んだ、とか?」

 

「うん。ニルスのお母さんから」

 

 それはまた衝撃の一言だ。聞いていくとニルスの母親はエレロを訪れていたらしい。それも、ニルスを探すために。

 

 女性を蔑む町にて彼の母は同様に性質の悪そうな男性に目をつけられてしまい、それを拒むような意思を見せると男は横暴に出てきた。

 しかし彼女は男を見事に返り討ちにしてしまったのだ。その時丁度、居合わせていたのがアシュレイだという。

 

 ニルスの母は元々戦いに身を置いていた。その鮮やかな立ち振る舞いで華麗に撃退する姿に、アシュレイは見惚れてしまったらしい。

 その末、アシュレイは思わず弟子入りを志願したとか。

 

 始めは断られてしまうものの、アシュレイがニルスとの関係性を示すとあっさりと了承してしまったのだ。

 そんな母の心変わりの早さに呆れるニルスだが、突然に気分が悪くなる。

 

「うっ……」

 

 話の途中で、突然ニルスが倒れた。

 今までずっと何事もない顔をして歩いてきたが、常に電気を帯びている状態、その身に負荷を抱え続けていたのだ。

 

「ニルス!」

 

 アシュレイが近寄り、思わず触れてしまいそうになるが、先ほどの電撃を思い出す。あれがなければ膝枕でもできたのに、とアシュレイは残念に思った。

 そんな場違いな思考に耽られるのもニルスの穏やかな表情にあった。倒れたとはいえ、疲労過多による一時的なものに過ぎない。

 

 今は睡眠という名の休息をニルスの体が無意識に取っているのだ。

 

 無理をしてアシュレイの歩調に合わせていたことも限界の訪れに拍車をかけたのだろう、彼はしばらく起き上がらなかった。

 

 

 

 幾らか時間が経ち、目を覚ますと立ち姿のアシュレイがニルスの目に映る。

 

「あ、大丈夫だった?」

 

「ああ……ってうわっ⁉」

 

 見ると辺りには魔物達が倒れていた。剣による斬り痕があるものとそうでないものが多数無残に横たわっていた。

 

「寝てるニルスは魔物を集める。初めて知った」

 

 アシュレイは感心した様子で告げる。ニルスとしてはそのような事実は嬉しくもなかったが、アシュレイが満足そうに佇むのでそれには触れない。

 

「これをアシュレイ一人で?」

 

 数が多いゆえに苦戦を強いられただろうが、精強な魔物がいなかったことが救いか、アシュレイには目立った傷は見られなかった。

 

「勝手にニルスに当たってやられていくから、途中で私の出番はなくなった」

 

 それに気づいた彼女は魔物と戦うことを放棄したと言う。確かにニルスには意図せず敵から体を守ってくれる魔力を纏っている状態といっても良かったものだが。

 ただ、損傷がないとはいえ一人ではニルスを守りきれなかったことにアシュレイは落胆を感じずにはいられなかった。

 

「それにしても……寝たらいくらか体が軽くなったな」

 

 ニルスは腕を回し、時には跳んで体を動かす。彼は呪剣がいよいよ近くなっていると予感したが、実際には徒歩では途方もない時間がかかるような位置に彼らが目指す場所はあった。

 体が軽くなったのには、電流に対する耐性がついているためにほかない。それを彼は呪剣が近づき効果が薄れたと勘違いをしてしまったのだ。

 

 

 

「こっちのような気がしたんだけどな……」

 

「別にこのまま到着しなくてもいい。こうして一緒にいれば二人の仲は深まっていくから」

 

 首を傾げるニルスに、もはやアシュレイは旅を終わらせる気もなしに言い放った。

 あれから月日は流れた。ただの旅の予定だったのが、なにぶん頼れるのはニルスの勘だけという、何とも不確定要素の多く、蛇足も多い旅となってしまった。

 

 確かに、ニルスの勘、もとい感覚は始めは頼りになるものだったかもしれない。しかし近づけば近づくほど宛になる電流の大きさは緩くなっていく。

 時が経つにつれて耐性もついていくため、馬車を用いるような距離になるころには感覚で辿り着くには至難の業になっていた。

 

「あ……ここだ」

 

 そしてようやく、目的の場所に到着した。

 

「着いちゃった……今まで何度も同じ部屋で寝てたのに結局一度も襲われなかった。……なんで」

 

 ニルスの隣で呟く彼女は心底残念そうだった。こうなった原因は自分に魅力が無いせいだと自責するほど。

 背もいつの間にやらニルスに抜かし返されていたこともあり、やはりもう少しプロポーションにも気を使わねばならないのかもしれないのか、と。

 

「俺達の年齢を考えてみてくれ」

 

 闘技場を抜け出してから、一年はたっただろう。月が姿を変えて12度、やはり一年だとニルスは考えた。

 

 そもそも「月」というのは現代での呼称であって古代に生きた人々にはムーンやルナなどと言われていた。

 日と月は表裏一体の存在で、日は空に打ち上げられた大きな球型の魔石だという説があるが、いずれにしても地上を漏れなく照らし出してしまうほどのエネルギー、魔石以外の物質では再現不能だった。

 日、あるいは陽、また一部の人はその大きさを讃えて太陽などと呼ぶが、それは時間が経つと内包するエネルギーを燃やしきるように赤、橙色へと変化し、やがて光のほとんどを放たなくなる。

 その状態に至った日を昔の人々は「ムーン」、もしくは月と呼んだのだった。

 

 月となった魔石はそのエネルギーを蓄え、再び光を放ち始める。人はその時間を単位とし、一日と定めた。

 また月は魔石の熱変化による影響か、定期的にその光を放つ部分を変える。その間隔はおよそ30日ごと。

 そのことから30日を一月とし、12種の形の変化に合わせて12ヶ月を一年とした。

 

 そうして日は循環していく。ニルス達は生まれてより12年、つまりは12歳となったのだ。

 

「歳は関係ない」

 

「それでも、物事には順序というものがありまして」

 

 そもそも、ニルスが電撃を纏っていればまともには触れられないだろうに。

 だがそんなことはアシュレイにはまるで関係がないようで、必死に一定の距離感を保とうとするニルスにぐっと身を寄せる。

 

「その順序、ニルスとなら辿ってもいい」

 

 その言葉に、ニルスは面食らってしまう。



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7.うわ……私の戦闘力、弱すぎ……?

 ニルスはアシュレイの言葉に肝を冷やした。彼自身、アシュレイの人生を変えてしまうほどの衝撃を与えたことに、無自覚だったのだ。

 対する彼女は、自身に多大な影響を与えたニルスはかけがえのない存在だと、恥ずかしげもなく口にできた。

 

「ニルスが望むなら」

 

「ちょっと、今は困るって」

 

 迫るアシュレイにニルスは訴えながら指を差すと、腰に刃渡りが大きめの剣を下げている男が岩壁の中から透過するように出てきた。

 

 呪剣の反応も同じ場所からきているようで、目的地はその隠された場所で間違いないようだ。とはいえ、ここまで来るのに時間がかなりかかってしまったのは反応の正確性に欠けていたからに違いない。

 

「あそこがそうなの?」

 

「恐らくな」

 

 アシュレイが尋ねるとニルスは入口へと歩いていく。魔力によって隠されたそれは周囲の岩肌と同化し、居場所を知りさえしなければ容易に侵入できそうになかった。

 まさに何かを隠すには最適な場所だった。

 

 中は洞窟らしく、岩の無機質な凹凸が目立つ。先ほど男達が警戒しながら出入りしていたのもあり、ニルス達は見つからないよう、息を潜めながら奥へと入っていく。

 内部構造は蟻の巣のようになっており、通路の脇には小部屋が幾つか存在した。

 掘り進められた箇所もあり、狭い通路で突然に出くわすことがなければ咄嗟に隠れることもできそうだった。

 

 しかし案の定、通路の間隔に足を取られ、ただ前方からやって来ただけの巡回員に見つかってしまう。

 

「侵入者だ! お前らは周囲を警戒しつつ、排除するんだ! それからお前はボスに伝えてこい!」

 

 真っ先にニルス達を見つけた男が大声で指示を出す。どうやらそれなりに立場のある人物らしい。彼らはそれに従い、迅速に行動を開始した。

 前から迫る武器を持った男性達、一見すると脅威ではなさそうに思えた。

 

「ニルス、こっち」

 

 するとアシュレイに手を引かれて逃げ込むと、小部屋へと出た。しかしそこは行き止まりで、追ってきた3人に距離を詰められてしまう。

 

「二人だけで攻め込むなんて無謀な。……迷子か?」

 

「剣を返してほしいんだ」

 

「剣?」

 

 眉間にシワを寄せる男に尋ねられ、ニルスは両手を広げて表現する。

 

「このくらいの大きさなんだけど」

 

 大きさとしては一般の長剣とは変わらないものの、ニルスが背中で優に掛けられるようになったのは9歳になってからだった。それだけに扱いには苦労したと、彼の記憶には残っている。

 

「そんくらいのは多く盗んできたからなあ……」

 

 彼らはどうやら盗賊のようだった。見れば全員が身軽な格好、盗みを働くには最適と言えた。

 その呟きに今度はアシュレイが答える。

 

「禍々しいオーラを放ってるやつ」

 

「ああ、それなら……」

 

「見たことあるよ、な」

 

 遠慮もなく彼女が紹介すると、よほど印象に残っていたのだろう、組織の末梢である彼らが一々覚えてもいない盗品を記憶していたのだ。

 

「しかしその在り処が知りたいなら俺達と共に盗賊稼業を始めにゃな」

 

「だめ。ニルスが盗んでいいのは私の心だけ」

 

 ニルスが考えるまでもなく、彼女が男を睨みつける。そのアシュレイの言葉からするに、既に心は彼の元とばかりに関係性を公言するようだった。

 不機嫌そうな彼女にニルスが呆れていると盗賊の小隊長が笑い声を上げる。

 

「なっはっは! 面白えことを言う嬢ちゃんだ。しかしよお、それを断ればこの場所を知ってるお前らを生かして返す訳にはいかないんだがなあ」

 

 それを聞いてニルスはこの状況のまま逃げ切れるかと考える。盗賊団は彼らだけなはずがない、恐らくこれの5倍から10倍、場合によってはそれ以上に渡るはずだ。

 それを払い除けつつアシュレイを守れるものかどうか。そして目的の物を取り返せるか。

 

「それに中々に整った顔立ちをしてやがる。へっ、こりゃいい」

 

 すると一人の男が下卑た笑みでアシュレイに近づく。咄嗟にニルスは彼に飛びかかろうとするが、体が動かない。その完全な敵意と攻撃的な視線に、呪いがニルスを制限するのも納得と言えた。

 

「ほう、すぐに飛びかからないとは少々見所あるじゃねえか」

 

 思わぬ高評価を得てしまったが、本意でないことにニルスはさらに盗賊の男を睨みつける。

 ところが次の瞬間、予想外なことにアシュレイが剣を抜きさって振り上げていた。

 金属音が、響く。

 

「私が誰に心を寄せているか、さっきの会話で分かってたはず」

 

「太刀筋も悪くねえ、これはますます手に入れたくなったぜ」

 

 アシュレイは内心、思い上がるなと呟いた。こんな、他人の物を盗んでしか生きられない集団の下っ端に、ニルスの母の剣術が負けるはずないと。

 その勢いよろしく、アシュレイの剣は体重を乗せて男の剣を弾き、脇腹に傷を入れる。

 

「なっ!」

 

 剣に有るまじき軌道、その柔軟にも思えた剣は男には捉えきれず、思わず驚きの声を上げてしまう。それがニルスの母の剣技だった。

 そして彼女は隙を逃さず、剣を一薙ぎする。男はすぐに剣で防ごうとするものの、緩急のつけられた剣さばきに己の剣と思考を揺さぶられ、押し負ける。

 

 アシュレイは一閃、男を斬った。とはいえ切り口は浅く、すぐに治療を受ければ致命傷でない程度のものだ。

 

「ふう……」

 

 彼女は軽く息を吐き、ニルスの方向へと目を向ける。するとそこには二人を相手に苦戦を強いられているニルスの姿があった。

 

「くそっ! こいつ化物かよ!」

 

 しかし苦戦とは言っても齟齬があった。彼は向かってくる刃を止めようと手を伸ばし、咄嗟に折ってしまったのだ。

 盗賊達は折れた剣で懸命にニルスを斬ろうと奮闘するもその手を途轍もない力で押さえ込まれて動けない。

 

 そして対するニルスも、攻撃すること叶わずそこで立ち止まってしまっていた。

 否、攻撃を繰り出そうと意識はしていたのだが、呪いにより動かずにいたのだ。

 

 そこへアシュレイが容赦なく斬り込む。彼らは一瞬のことに何事かわからず、衣服に血を滲ませながら仰向けに倒れた。

 

「ニルス、怪我は無……さそうだね」

 

「ああ。アシュレイは?」

 

「大丈夫。でも初めて人を斬った感触、忘れられそうにない」

 

 アシュレイは俯き、心傷を感じているようだった。しかしすぐに顔を上げて扉の先を見据える。

 

「ここからはニルスが受けて私が叩く」

 

「え?」

 

 彼が受ける、とはそのまま、盾になるという意味合いだったが、突然の提案にニルスは間抜けな声を出してしまう。

 

「さっき程度なら私でも余裕だけど、ここから先どんなに強いのが出てくるかわからない」

 

「なるほど合理的」

 

 そうは言っても、ニルスは腑に落ちなかった。

 

「そこまで無理していくべきか?」

 

「剣を取り戻さないことには、ニルスだけじゃなくて私にも害がある。このままニルスに触れられないのは耐えられない」

 

 呪剣との距離が近づいたとはいえ、ニルスの体には未だに電気が流れている。何の訓練も施されていない者が触れ続けていれば、すぐに失神するのは免れなかった。

 

 ここで引き返せば、彼に近づける者は余程魔術に耐性を持った人物だけとなる。彼としてもそれは避けたかった。

 

 だがアシュレイは、逃げ帰るという選択を完全に捨てたわけではない。

 

「もし、その痛みが恋の痛みと言うのなら、私は甘んじて受けるけど」

 

「いや、行こう。アシュレイには剣一本も触れさせない」

 

 彼女がこれほど想ってくれているのならばニルスもそれに応えないわけにもいかなかった。そして彼は部屋の端に転がっていた木の棒を拾い上げる。

 

 それは以前愛用していたものと同じ種類のロブストの棒だった。ひょっとすればあの時呪剣と同じ経路を辿って来た、ニルスのそれかもしれない。

 どうやら運んできたものの用途がなく、放置されていたようだが。

 彼はその棒を握り、警戒を強めながら歩みを進めた。

 

「……私がもっと強ければ本当はニルスを守ったのに」

 

 距離が近いためにアシュレイの呟きが耳に入ってきた。彼女はニルスの母から剣技を教わりはしたが師の腕を見るに、たった一年では到底追いつけないと感じたのだった。

 そんな自信のなさが表れてしまった。ニルスはそんなことを気にせずともいいのにと思うのだが。

 

 そこへ、さらに数人の足音が近づいてくる。その雑多な足音にニルス達は顔を顰めながらもそれぞれの武器を構えた。

 

「あいつらか! 捕らえろ、いや殺してしまえ!」

 

 盗賊の一人が仲間の死体、もとい死にかけの体を見て判断を下した。その号令を聞き、一斉に10人ほどが襲い掛かってくる。

 

 振り下ろされる剣、その中のタイミングが遅れたそれを音で感じ取り、アシュレイを庇いながら攻撃を防ぐ。

 そこを逃さずアシュレイが一突き。さらにニルスが両腕を広げると左右にいた二人の武器が折られ、透かさずアシュレイの素早い剣戟でうち一人が斬られる。

 

 それだけで、彼らの顔には動揺が表れていた。

 

「怯むな! 取り囲め!」

 

 再び成される指示に、ニルスも動く。ニルス達は部屋の中、盗賊はそこへ入り口より駆け込もうとしていた。

 そのため彼は通路を塞ぐべく突進の体勢をとる。すると勢い余って一人を突き飛ばし、壁に埋め込むとともに気を失わせてしまう。

 

 やはり、意図していない所で危害というものは加えられてしまうらしい。日常ではこのようなことが起きないよう、常に力加減に注力しなければならないことも、ニルスには煩わしさでしかなかった。

 

 しかしニルスは自分の思うように動かない体に対しての不満を、相手にぶつけることもできず、ただアシュレイに次々と斬られていくのを見ているしかなかった。



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8.イチャイチャ斬

 その後も同様にして盗賊達を斬り捨てていくと、一際豪華な部屋があった。装飾は金色が多く、あまり趣味が良いとは言えないものの主張としては悪くなかった。

 

「あぁん? あいつらは何やってんだ」

 

 このような場所までむざむざ侵入を許してしまうとは、そこまで使えない部下だったかと頭目は眉間に皺を寄せる。ましてやこんな、まだ子供から片足を抜け出したばかりの彼らに。

 

「……殺る気は十分みてえだな」

 

 しかしやはり盗賊団を統括するものとして彼はそれなりに頭が使えた。人は見かけによらないものだと理解し、ニルスに舐めてかかり、無闇に襲ったりはしない。

 

 ニルスが睨んだために頭目は静かに立ち上がったのだが、ところが実際にはニルスが見ていたのは奥の壁に掛けられている呪剣だった。

 

 その呪われた剣は盗賊団にとって価値のない物だった。気づいた団員の一人が危うく捨ててしまうところを、頭目が装飾として気に入り、部屋に飾った。まさにドス黒く他人の所有物を盗むことを生業としている彼らにはお似合いだっただろう。

 

「賞金首が偶然いたとありゃラッキーだぜこれは。……って坊や達はなんだ?」

 

 すると部屋へ立ち入ってきたのは茶色くシックな色合いの羽根帽子と腰に鞭を下げた青年だった。

 

「まあいいや、俺はあんたの首をもらいに来たんでね」

 

「はっ。次から次へと、いつの間にここはパーティ会場に変わったんだ?」

 

 頭目を見ながら口角を上げる青年に、彼は皮肉を言いつつ机を飛び越えた。

 そして右手を上に向けると白色の光が集まり、剣を象る。賞金稼ぎらしい青年も今気づいたことだが、今まで得物を手にしていなかったのだ。

 

「何だ……? 魔法か?」

 

「これを知らないようじゃ、あんちゃんは大したことねえな」

 

「なんだか知らないけど、物凄いものってのは理解した」

 

 彼は目つき鋭く、腰から打ち出した鞭で牽制する。それに合わせて振り下ろされた頭目の白色が革を断ち切ってしまう。

 

「……切り口が焼けたように、ってことはその剣、凄く高温なのかね」

 

 冷静に分析を加えつつも警戒は怠らない。口に出したのはわざとで、推測が当たれば動揺を、外れても慢心が誘えると見込んだ。精神が揺らげば隙が生じる。彼はそれを狙った。

 

「外れだな。ま、観察眼はたいしたもんだ」

 

 頭目は率直な感想を述べる。その表情に変化が見られないことから、簡単に油断は誘えないらしいことが窺える。

 

 その最中、ニルスは二人が争っている間に呪剣へと近づく。しかし見逃されるはずもなく、先程と同じ白色に近い色合いのナイフが飛んでくる。

 不思議なのは時折、ナイフが何色とも取れない、虹色のように見えることだ。

 それを瞬時にニルスは右手で受け止める。すると掴んだ部分から力が抜けていくような感覚に陥った。

 

「ほう、幼いのにマナの使い手か。どうりで奴らがやられるわけだ」

 

 どういうわけかナイフを手に取ったニルスを見て頭目は感心していた。ニルスには心当たりはまるでないというのに。

 さらに手の中にあったはずのナイフもいつの間にか霧散してしまった。

 

「故意でなくよそ見をしてくれたとあれば、攻撃するしかないな」

 

 透かさず賞金稼ぎが前へ出る。一般的な人種ならば武器を切ってやるだけで戦意を失うものだがこの男は一味違うようだと頭目は警戒を強める。

 繰り出される右手。その手には松明の光を反射して鈍く輝くナイフが握られていた。頭目は怯みもせず作り出した剣で迎え討つ。

 

 しかし次の瞬間、攻撃の軌道を変えて身を低く青年が脇腹を切り裂いた。それでもその動きに僅かに身を反らし、対応してしまう頭目の身体能力は眼を見張るものがあった。損傷は僅かに衣服が切れた程度。

 

「なっ!」

 

 突然彼は振り向いて飛び退こうとする。決して警戒を怠っていたわけではない。それなのにそよ風のような僅かな動きで強大な力を操るとは何事か、と開いた口が塞がらない。

 瞬間、地を伝う大きな揺れ。呪剣をアシュレイに支えられながら掴み、地面に亀裂を入れるニルスが、そこにはいた。

 

 攻撃はそれだけで止まない。強く叩きつけられた剣により体勢を崩した頭目に、アシュレイが呪剣を手放し素早く肉薄、その胸に剣を突き立てた。

 頭目は黄の剣を不定形に変えるとアシュレイの剣先に持ってくる。硬い物質らしく、それだけで刃は通らなくなった。

 

 今度はニルスが剣を捨て、アシュレイの手に重ねて自らも押し込んだ。自身が直接攻撃を加えることはできない。だがこうして支えて力を入れることならば、容易だった。

 

 ニルスの呪いという際限の見えない空間で育まれた筋力が、頭目の防御をかいくぐる。甲高く何かが割れるような音がしたかと思えば、その剣は既に肉を貫いていた。

 

「マナを、使わず……?」

 

 盗賊団の首領は目を見開いて驚愕を浮かべ、その表情のまま倒れ込み、動かなくなった。

 

「マナ、か。確か大気中に含まれる魔素のことを言うんだっけ。それをどうして『使う』って話になるのかね」

 

 青年が告げる。知識の中にその名はあっても、やはりあの男の言動はわからないものだった。

 

「おっと失礼。俺は賞金稼ぎのエリック、君らは同業者かい?」

 

「いや、違います」

 

「ただ返品の催促に来ただけ」

 

 催促にしては随分と派手に暴れていることに、エリックは少々苦笑しながらも続けた。

 

「なら、こいつの首はもらってくよ」

 

「はあ、どうぞ」

 

 とどめを刺したのは自分ではないのに、おこがましく手柄を全て持ち去ろうとするあたり、賞金稼ぎという人種はこういうものかとニルスは皮肉にも感心した。

 

 彼はすぐに立ち去り、ニルス達もそれに準じ、目的を達成したため早々に帰ることにした。

 

 

――――――――

 

 

「いらっしゃいませ! おや、人間さんですか。こんなに遠くまでようこそ。ぜひぜひ旅の疲れを当宿で癒やしていってくださいね。それで、どちらからいらしたんですか?」

 

 よく喋る少女だ、とニルスが気後れしているとアシュレイが素っ気なく答えた。

 

「知らない」

 

「えぇ! 知らないだなんてそんなぁ! 私、何か怒らせちゃいました?」

 

「ごめん、そういうわけじゃなくて……。一応、エレロの町から来たってことになるかな」

 

「エレロですか? エレロって確か、王都からより遠いじゃないですか! それはまあ、さぞお疲れでしょう。早く休んで……あ、先に宿泊の手続きですよねすみません」

 

 そう言って代金を要求したり、宿の簡単な説明を始めた少女の頭をニルスは見る。羊の角を生やしている彼女は、一纏めに言うと魔族という分類になるらしい。

 

 ここ、ベスティアは魔族の領地に位置する村で、王都へは比較的最も近くに存在するため王都の商人や冒険者にもよく利用される。

 

 魔族には人間を忌み嫌う者は多くない。その大半が中立的、次いで穏健派が見られる。その実、人間を敵と認識しているのは魔族を統べる王、読んで字のごとく魔王とその側近ぐらいのものだろう。

 

 問題は人間側で、休戦協定が結ばれた今はいいとしても、王都の人間はいつ動き出すか分からない。そのような会話が受付の奥から聞こえてくる。

 恐らく、ニルス達が訪れたためであろう。「俺達は関係ないんだから平和に暮らしてえよ」と嘆いている。

 

「ねえ、さっきの子、どう思う?」

 

 ニルスが考えに耽っていると鍵を握ったアシュレイが問いかけてくる。

 

「え? 話好きなのかなとは思ったけど……」

 

 アシュレイの突然の問いに、ニルスは戸惑いながらも答える。そんな彼にアシュレイは突き詰めるべく質問を重ねる。

 

「可愛いかった?」

 

「まあ、可愛らしいとは思ったけど」

 

「見た感じニルスに気があった。もし言い寄られたらどうするの?」

 

 始めのうちはニルスも質問の意図がわからないでいたが、それを理解するとアシュレイに向き直って告げた。

 

「断るさ。俺にはアシュレイだけで十分すぎるよ」

 

「知ってる。ニルスは一途だから」

 

 アシュレイは目線を逸しながら僅かに紅潮する。普段から呪いを克服しようと励む姿に、彼の性格が浮き出ていたのだ。実際は彼をからかってみただけだったものの、言葉にして伝えられれば嬉しいものだった。

 

「でも、私がニルスのものみたいな言い方、気に食わない」

 

「え……」

 

 ニルスは動揺する。もっと言葉を選ぶべきだったか。

 

「一方向じゃない。私にだって、ニルスは大切だから」

 

 そんなことを平気で言ってしまう彼女に、ニルスはたまらなく愛おしく思った。

 

「あの、そういうのは他でやってもらえませんか? 終始まる聞こえだったんですけど。後ろ並んでますし早く部屋に行ってください」

 

 目の前で勝手に繰り広げられる訳のわからない劇に受付の少女は不快だった。とはいえ最後まで止めなかったのは彼女なりの良心というところか。

 

 

 

 部屋へと追い払われてしまい、ニルスが仕方なく寝る仕度をしているとアシュレイがぽつりとこぼした。

 

「本当に私でよかったの?」

 

 ニルスはアシュレイを見る。窺うようなその表情は不安気な雰囲気を帯びている。

 

「私は、この手で人を殺してしまった。あの子みたいに女の子らしく振る舞うこともできない、野蛮……」

 

 見ると手が小刻みに震えている。先に手を打たねば殺されていた、そう考えればその時は本能でどうとでもなったが今になって肉を切る感覚が呼び戻り、どうしようもなく精神を蝕んだ。

 ニルスはそんな彼女の手を上から手を重ねる。

 

「俺はアシュレイ自身に惹かれたんだ。それがたとえ野蛮だからって考えを変えたりしない。アシュレイのためなら俺はどんな悪事でも働いてみせるくらいにさ」

 

「極端すぎ。……でも、嬉しい」

 

 そしてすぐに「この雰囲気のまま押し倒される?」と口にしたアシュレイを安静に寝かせ、ニルスも床についた。

 

 今抱いている思いはいつか大きくなったときに、そう考えた。アシュレイもニルスがそのような反応をすることは分かっていたため、今はすべきことを少しでも早く達成できるようにしよう、と心に決めた。



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9.私語多くない……?

 朝に目覚めると、心地よい風が頬を掠める。ニルスは朝日の眩しさに目を細めながら寝起きの体を労りつつ起き上がった。

 見ると、部屋の窓がいくつか開け放たれ、陽の光を取り入れるようにカーテンも一束に纏められている。どうやらアシュレイが早くに起きて開けていったようだ。

 

 彼は洗面台にて備え付けの青色の魔石に魔力を通し、流れ出た水で顔を洗う。魔石が一般的に使われるのはごく少量の魔力さえあればその恩恵を受けられるという点のためだろう。

 ニルスは全くと言っていいほど魔力をその身に宿していなかったが、それでも魔石を使うことに不自由はなかった。

 

 彼は姿の見えないアシュレイを探して食堂へ赴くと、そこに彼女はいた。彼女と同様に料理の並べられたテーブルの向かいには昨晩受付で働いていた少女が話をしている。

 半ば煩わしそうに話を聞くアシュレイは、やってきたニルスに気づくとほんの僅かに微笑む。

 

「おはよう」

 

「あ、お兄さん。昨晩はお盛んでしたね」

 

「ん?」

 

 突拍子もない少女の言葉にニルスは戸惑う。少々聞き方が直接的ではないかとも思う。示唆のつもりだとでも彼女自身思っているのだろうか。

 

「あ、あれ? 違いました? おかしいですね、カップルが泊まると必ずすること済ましてくるので今のように聞くとドギマギとわかり易く反応してくれるんですが」

 

「焦燥と時期尚早は良くない、プエンテも。ほら、ニルスが座るから早くどいて」

 

 無愛想にアシュレイは彼女をプエンテと呼んで椅子から退けてニルスに明け渡す。どうやら用意された食事はニルスのものらしかった。彩り豊かな野菜と白身魚に穀物、健康的な朝食である。

 椅子に腰を下ろしながら、魔族の村の朝も普段のものとさして変わらないものだと感心しているとアシュレイが誇らしげに口を開く。

 

「ニルスの健康を思って私が選んだ。私も中々家庭的」

 

「作ったの私ですけどね。というか、時期尚早ってどういうことですかっ! 私の言葉が年相応じゃないっていうなら残念でしたね、お姉さんたちの倍以上は長く生きてますけど!」

 

「でも精神年齢は同じくらい」

 

「うぐっ……」

 

 ニルスが訪れるまでの会話の中で、アシュレイはプエンテが見た目相応に興味を持ち、振る舞いを見せていることを見抜いていた。

 実際にも魔族は人間と比べると寿命は長いが、その分成長速度が遅い。プエンテもそれに例外でなく、人間でいう12歳の精神を持ち合わせていた。

 

 そんな彼らを尻目に、ニルスは黙々と食事を始める。

 

「……美味い。料理が得意なんだな」

 

「あ、そうですか? ありがとうございます。良かったです、わざわざ遠くから食材を仕入れた甲斐がありましたよ」

 

「受付もしてるのにそこまでするのか?」

 

 宿の人手不足を疑うほどの彼女の働きぶりに、ひょっとすると人間界との文化の違いを垣間見ているのかもしれないとの予感に少々の興味も湧く。

 

「まあ、調理できるの、私ぐらいしかいませんからね。食材もここらでは手に入れられませんし」

 

「……どういうこと?」

 

 アシュレイは微かに眉をひそめた。プエンテの話を信じるならば、魔族はどこで食材を調達し、調理しているというのだろうか。

 

「あれ? 知りませんでした? 魔族は食事を必要としないんですよ。それこそ、何かの祝い事でなければお肉なんか見ることないでしょうね」

 

「……知らなかった」

 

 まさか食事を摂らないとは思ってもいなかった。ならば生きていくためのエネルギーはどこで体内に摂取しているのかが不明だ。

 

「食べないで、どうやって生きてるんでしょうね。どこかの学者さんが研究してるとかどうとか」

 

 それはプエンテ、いや魔族全体でさえ知らざる事実であった。言ってしまえば魔族も人間もその歴史は浅い、明らかになっていない事象など山ほどあるのだ。

 

「へえ、じゃあ、プエンテ……も普段は何も食べないのか?」

 

「え、ええ。それは、まあ」

 

「嘘。さっきつまみ食いしてた」

 

「うっ……!」

 

 プエンテは衝動に駆られたものの、食事に手を付けたことは気づかれていないと思っていた。しかしアシュレイにしてみれば料理の前を往復し、それを凝視していれば犯行を見逃さないほうが無理のあるものだということだった。

 

「ほ、ほら、あれはほとんど嗜好品みたいなもので」

 

「でも、魔族の人は調理すらしないんでしょ」

 

「えっと……味覚があまり発達してないらしくて」

 

「なんで他人事?」

 

 プエンテは困惑した。盗み食いを見られていたのもそうだがあまり言い争いに慣れていなかった。とはいえ、アシュレイは疑問を口にしていただけだったが。

 

「ま、まあ私のことはいいじゃないですか! 歓迎されないかもですけど、このベスティアにも観光スポットはたくさんありますよ!」

 

「歓迎されないならここでプエンテの話を聞いている方が土産にもなる」

 

「えぇ……」

 

「アシュレイ、プエンテも困ってるしもういいじゃないか?」

 

「分かった」

 

 言及してきた割にはやけにあっさりと引き下がったアシュレイを見て、それを制したニルスにプエンテは内心感謝するが、彼女の惚気ぶりに呆れも隠せない。

 

「それじゃ、ごちそうさま」

 

「悔しいけど、美味しかった。私もいつかあれくらい作れるようにする」

 

 そして立ち去っていく二人の姿を疲弊した様子で見送るプエンテ。すぐそばにあった椅子にもたれかかり、しばらくの間休息を必要とした。

 

 

――――――――

 

 

「通行人をあんまり見るんじゃない」

 

「だって気になる。どうやって動いてるのか」

 

「そんな、ゴーレムじゃないんだから」

 

 魔法で象った人型の人形を、ある程度魔力の高い魔術師は操って見せるらしいが、ニルスは見たことがなかった。彼自身、そんなことをするくらいなら自分で動いた方が早いとまで思っていたが。

 すると、ふと露天商で気になる物が目に入る。

 

「アシュレイ、ちょっと」

 

「ん?」

 

 ニルスに呼び止められついていくと、水色の宝石が輝く首飾りがあった。ニルスが思わず近寄ったのは彼女の銀髪に相まってよく映えそうだと思ったためだ。

 

「やっぱり似合うな。これ、ください」

 

 ニルスは提示されている金額を差し出し、首飾りを受け取る。そしてアシュレイに向き直る。

 

「はい」

 

 そして首元にそれを掛けてやると、嬉しそうな表情とともに宝石が煌いた。いつもは無表情で分からないが、こうして笑顔を見るたびに随分と温かく柔らかな顔をするものだとニルスは思う。

 

「ありがとう」

 

「旅のついでみたいで、申し訳ないけど」

 

「ううん。ニルスから貰うものだったらなんでも嬉しい」

 

「例えばどんな?」

 

 そう聞いて、質問がやや意地悪だったかと反省する。しかしそれは杞憂だったようで、

 

「そこら辺の石でも喜べる」

 

「いや……」

 

 いつに無く真剣な、いや無表情と言うべきか、そのような眼差しで見つめられ戸惑う。そんな時は石を贈ろうとした正気を疑ってほしいものだが。

 

「実際のところは、どうかな……剣までだったら許せるかも」

 

「剣?」

 

「うん。あんまり女の子っぽくないと、悲しい。鎧とか渡されたら落ち込むと思う。あ、でもそれでニルスを守れって言われるなら、ありかも」

 

 結局結論は変わらず、やはり何を渡されても喜んでしまうだろうと彼女は思う。普段に比べて饒舌なのも、彼女の本音が表れているためなのだろう。

 

「まあ……気に入ってもらえたようで良かったよ」

 

「うん。……ん」

 

 するとアシュレイはニルスの手を取り、宝石を握らせるとともに自身の手を重ねた。

 

「なにを……?」

 

「……」

 

 ニルスの問いに彼女は答えない。目を瞑り、何やら集中しているようだった。

 やがて、無意識の内に止めていた息を吐き出し、肩を上下させた。

 

「はあっ……はあっ……何となく、呪いが付けられるような気がして。でも、駄目みたい」

 

「呪いなんて碌なものじゃない」

 

「でもやっぱり、ニルスと同じがいいから」

 

 こんなことを考えてしまう自分はわがままだろうかと、アシュレイは恥ずかしげに俯く。しかしそこで塞ぎ込んでしまう彼女ではない。

 

「ここで、あなたが私にニルスから離れられなくする呪いをかけてくれるって言ってくれたら本望。鼻血出そう」

 

 アシュレイの暴走具合とニルスに要求する部分が多くなってきたことにニルスは苦笑する。

 そもそも既にその呪いならかかっていないでもない気がした。

 

「ごめんアシュレイ。俺はやっぱり家に帰らないといけないと思うんだ」

 

 アシュレイの思いに応えることは容易だ。だがその前に罪を償い、自分自身がすべきことを見つけたかった。はっきり言ってこれはエゴだ。

 

 アシュレイにもやらねばならぬことがあるのを理解していたが、それでも今は別れを選んだ。胸を張って彼女の隣に立っていられるように。

 

「……うん。私も、まだニルスと結ばれるには足りない」

 

 結ばれるとはまた迫った関係だ。彼女はどこまで自分に心酔しているのか気になるところではあったが、自身に感じる不足を含めて思いは同じだった。

 

 

 

 その後ニルス達は意外にも淡白に別れを告げた。それぞれの目的へと歩みを進め、また胸を張って再会できるような、そんな日を想って。

 



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10.活躍の場は……なさそうだな

 それからは何の闘争もない、平和な時を過ごした。

 3年ぶりに訪れた故郷は変わりなく、思い出が良いものかどうかはともかく、懐かしさに胸が熱くなる。

 ニルスが帰ると、両親と弟のユーリ、さらにはリナという妹が彼を出迎えた。

 

 出迎える側は、ニルスの突然の帰宅に驚きを隠せない。当時はまだ幼かった妹は、よく分からずに首を傾げているが、2歳差の弟は例外でなく長男の姿に目を見開いていた。

 

 ユーリは幼い頃、兄の去っていく姿を見たことがある。その時は言いようのない寂しさに自身が襲われたことを覚えている。

 

 ニルスはいつも一人だった。呪いがかけられた彼は村人からは厭われ、仕事の忙しい両親からはあまり日常の中で話をする機会がない。

 ならば自身が兄の心の拠り所となればいい。ユーリは子供ながらにそう思ったが、実際には彼の感じるところはニルスとは違ったようで、結局ニルスが両親に負い目を感じる形で終わってしまった。

 

 兄がいなくなってから呪いをかけた正体が魔石教団の仕業だと知るのには、そう長い時間を要さなかった。

 魔石教団、彼らは魔石を狩ることを忌避し、信仰の対象とする新興宗教。ニルス達の村に住み着いていたらしく、道端で見かけるとやかましいほどに魔石を敬えだのの文言を謳っていた。

 

「お隠れになった御姿をどうして引きずり出すような真似ができようか」

「生命の源。即ち母! 魔石とは我々の母なのだ!」

 

 隠れる、とは魔物の核を担っている魔石の事を指しているのだろう。

 そんな彼らがニルスを呪ったのには、ひとえに彼の両親に脅迫ををかけるためだった。

 

 どうやらここ、カンポ村が魔石を使って発展を始めようとしていることに警告しようとしているようだった。見せしめ、戒め、そのような言葉で阻止を企てていたのだ。

 

 しかしそれはユーリが耳にした信者の端くれ達の立ち話。

 崇めるべき魔石を道具のように扱うなど不遜だ、という理念が彼らにあるらしいが、本当のところは何か別の理由があるのかもしれない。

 だが、まだ未熟なユーリにはそれ以上情報を掴むことができなかった。

 

 

「あのやかましいの、何とかなんないのか」

 

「言ったところでお構いなしだと思うよ」

 

 今は二人、外で魔石教団の騒々しい様を見ながら歩いている。思えばニルスが幼少の頃から変わっていない、変わらぬ町並みが見られたものだが、正直これに関しては嬉しくもなんともないのだった。

 

 そんな彼らは両親の勧めにより武術の道場へと足を運んでいた。そこは以前よりユーリが通っていた道場でもあった。

 

 荘厳な建物に珍しがりながらニルスは足を踏み入れる。しかし待ち受けていたのは侮蔑の視線。

 理由は彼が呪い持ち、ただそれだけのことであった。その忌避のされようは凄まじく、何の呪いも持たない弟のユーリでさえ待遇が劣悪だったほどだ。

 

 

 ユーリは始め、門下生達にことごとく苛め抜かれた。

 門下生達だけではなく、その長からもまともに扱ってはもらえずにいた。

 さらに村での最も権力のある、村の管理者として通っている父親を持っていたという点が大きかった。

 前任者によって指名された彼の父には、それを妬むものが多い。その例となるのが道場長だった。

 

 来る日も来る日も、道場の掃除ばかりをさせられ、休憩になると決まってやってくるのが門下生達。道場で鍛えられた身体と技とでユーリを袋叩きにしてくるのだった。

 

「可哀想になぁ! 毎日毎日こんな雑用。しょうがないから俺達が構ってやるよ!」

 

 そう言って問答無用に殴ってくる門下生。拳を食らったユーリは横向きにふっとばされる。

 

 それでも彼は相手の姿を黙って見ていた。今、反撃をしたところで彼には敵わないことがわかっていたからだ。基本すら教えてもらえない今は、あの動きを見て、奪う事が優先だ。

 状況を打開するにはそれしかない、当時はそうやって、必死に歯を食いしばった。

 

「可哀想だから特別にオレが教えてやるよ。体に直接なぁッ!」

 

 その後も何度も入れ替わりで叩かれ、殴られ、痛めつけられた。

 

 そしてある日からかユーリにも武器を持たせて試合形式での「特訓」が始まった。

 ユーリは当然経験が足りずに勝つことは叶わないが、回避する技だけは着々と身についていた。

 

「弱い弱い。お前が俺達に敵うわけないっての」

 

 ユーリに攻撃を躱され続け、最終的に有効打を数打ほど与えられたことで勝ちを得た門下生の一人が鼻で笑った。結局のところ彼らは優越感に浸りたいだけなのだ。

 だが彼らの言うお遊びの特訓がユーリにとって本当の特訓になっていることを彼らは知らなかった。

 

 

 道場長のその人もユーリに向けて豪腕を振るう。彼はそれを軽く身を屈ませて避けるだけ。直後に髪の毛が拳圧で揺れるところを見ると威力は中々にあるようだった。

 相手の動きを見切り、次々と攻撃をくぐり抜けていく。それに激昂した道場長はタイミングを僅かにずらし、ユーリの崩れた体勢に拳を打ち込む。

 

「ぐっ……!」

 

 飛ばされ、地面に転がるユーリだが、その口元には僅かに笑みが現れていた。

 道場長はその姿を見て舌打ちをし、帰っていく。折角のストレス発散なのにこれでは快勝とは言い難い。結局気分が晴れず終いになってしまった。

 

 

 それから今の今まで、数少ない交戦の機会からもユーリは着実に力を蓄え続けてきた。

 そしてニルスが道場へ入門した初日、ユーリは自身の腰を持ち上げることに決めた。

 

 だがそれよりも先に動いたのはかの道場長である。その道場長はニルスの実力が分かっていないのか、標的を見つけたとばかりに不気味な笑みを浮かべて詰め寄るのだった。

 

「元はといえばお前らの父親が!」

 

「ぐっ!」

 

 豪腕がニルスの腹へと直撃する。踏み込みや助走の一切ない、それでいて鋭く重い一撃。

 

「管理者など引き受けたりするから!」

 

「がッ!」

 

 続けて殴る。そして道場長は踏み込み、拳を腰だめに置く。そこから放たれる拳。

 

「俺は未だにこんなちっぽけな道場で……道場長なんかやってるんだッ!」

 

「うっ……!」

 

 道場長の容赦のない攻撃をニルスが受ける。が、彼は苦しそうにするばかりで変化はない。

 

「……ふう、痛いだけで大したことないかな」

 

「なにっ!」

 

 ニルスが言うと彼は再び何度も拳を打ち出す。それをニルスは避けようともしない。代わりに、一歩ずつ前へと足を踏み出していった。

 

「ぬっ!」

 

 男は徐々に近づいてくるニルスを拳で押し返すことができず、壁まで追い詰められてしまう。

 

「くそ……くそッ!」

 

 道場長は悪態をつきながら去っていく。今度こそ自身の胸くそ悪い気分を無くすことができると思ったのに、予想外の結果である。

 

「ユーリはこんな道場長の下で鍛えていたのか?」

 

 身体能力的にも精神的にもあの闘技場にいた者たちとさして変わらない。それがニルスの単純な感想だった。

 

「まあ、一応は世話になっているからね」

 

 少なくともユーリが今があるのは、道場で理不尽にも鍛えられたからだ。他の者と同等に指導されていたのでは程度の低い道場ではすぐに伸び悩んだことだろう。

 その点においてはユーリも多少感謝はしていた。

 

「それより、折角だから今日で終わりにしようと思うんだ。兄さんにも見ていてほしい」

 

 ニルスは何のことか分からずにいたが、その真剣な様子にただ頷いた。久々に会った弟が願い出ているのだ、断る理由はなかった。

 

 

「これより試合を始める」

 

 道場長が告げてユーリと剣を構えるその先輩の試合が幕を開ける。先に動き出したのは相手、ゆっくりと歩いて剣を振り上げる。ユーリが取るに足らない相手と思っているための行動だろう。

 彼はその攻撃を軽くいなして逸らす。

 

「こんのっ!」

 

 先輩の男は今までまともに避けてこなかったユーリの今日の動きに憤ったらしい。動きも無駄が増え、闇雲な攻撃が目立ってきた。

 

 ユーリは瞬時に鍔迫り合いへと持ち込み、緩急をつけて相手の隙を揺さぶって作ってやる。急激に訪れた手応えと振動に狼狽えた先輩の剣が打ち払われる。

 ユーリはその一瞬で腹への一撃を放つ。腰を、腕を、手首を、全身を使った一撃だ。

 

「ぐッ!」

 

 そのままよろけた門下生に突きの構えで迫り手首の力で首を打つ。

 その数秒後には床に打ちつける音が、道場に響き渡った。門下生が敗れたのだ。

 

「しょ、勝者、ユーリ!」

 

 道場長は酷く驚いているようだ。何も教えなければ強くならないとでも思っていたのだろうか。それまで笑っていた門下生達も、その時は顔から笑みが消えていた。

 

 

 その後も様々な武器を使う門下生と剣を交えたが、あまり手応えがあるとは言えない戦いに、ユーリは歯痒ささえ感じていた。

 

「次は俺が相手になろう」

 

 最後には道場長が剣を振り鳴らしてやってきた。今までユーリを鴨にして保っていた調和を乱さないために、彼を打ち倒し取り戻すつもりなのだろう。

 だがユーリ自身も彼が出てくることを望んでいたのだ。彼は意気揚々と木剣を構えた。

 

「待て、この試合ではこれを使え」

 

「真剣……?」

 

「本気で来い」

 

 どうやら徹底的に潰すつもりらしい。

 すぐに、道場長が仕掛けてくる。予備動作の少ない、しかしながら正確な鋭い一閃。

 

 ユーリはそれを同じく剣で受け止め、右方へ流す。ところがその瞬間に道場長は手を緩め、反動を減らすとともにユーリへ切り返してきた。

 すぐに彼は足を地面から離して回転するように跳んで避ける。

 

 さらに続けざまに相手は攻撃を繰り出してくる。ユーリが着地するために取った前傾の姿勢、その一瞬の隙を突いての攻撃だ。

 不利な体勢で何度も受ける剣撃。そして極めつけは上から押さえつけるようにして鍔迫り合いに持ち込んでくる。

 

「おお……!」

 

「流石道場長だ……もう決着がつくぞ」

 

 外野から何か聞こえてくる。ユーリはそれを聞き流しつつ剣の重心をずらさずに足払いをした。

 剣により制御がかかってしまったため威力は出ず、道場長も軽く動いた程度だった。

 

 それでも隙を作るには十分だった。

 僅かに浮いた剣を押し返し、そのままの動作に僅かな回転をかけ、相手の腹を斬った。道場長の腹あたりに血が滲んでくる。しかしあれではまだ浅い。

 

 わざわざ真剣で勝負をしようと言ってきたのだ、致命傷を与えねば降参する気にもならないだろう。すると道場長は剣を胸の前で立てて構え、自身は直立する。

 

 一見隙があるようで、全身に張り巡らされた感覚と、無駄な力を一切入れないことで瞬間的に剣を振るうことができる、彼の父が言っていた言葉だ。

 

 あの状態からはユーリまですぐに接近することも、ユーリが襲いかかってきたところにカウンターを入れることも可能。きっとここで決着をつける気なのだろう。

 

 構わずユーリはゆっくりと前へと踏み出した。そして助走をつけて道場長へと剣を叩きつける。それに対峙するは体重をかけながら迎え討つ道場長。

 剣が交差する刹那、激しい衝突によって剣が、砕け散った。

 

「え……」

 

 予想もしない瞬間だった。もはや誰が声を上げたのかすらわからない。

 破片が宙を舞う。一片一片が光を反射して煌めく、そんな様子がスローモーションでユーリの目の前で繰り広げられた。

 

「うそだろ……」

 

 そう呟いたのは門下生の一人。なんと、ユーリの剣だけでなく道場長のそれも、見事なほどに欠けていたのだった。



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11.ハッピーエンド直行便はこちら

「ちっ!」

 

 剣を砕かれた道場長がそれを捨てると同時に殴りかかってきた。体術で決着をつけようと言うのだろうか。

 だが遅い。ユーリはそれを上体を少し逸らす程度で躱す。

 

 そして切り返すように道場長の腹目掛けて拳を突き出した。寸前に道場長の拳が彼の頬を通過し、風が巻き起こっているのを感じながら、ユーリは自身の手刀が相手の腹にめり込む感触を得ていた。

 

「ぐっ!」

 

 それを受けた道場長はその場に蹲り、苦しそうに倒れた。何のことはない、内臓器官に強く衝撃を与えただけだ。

 そのように正当法でない戦い方で勝つという点では、ニルスと似ていると言えた。やはり兄弟、妙な所で似てしまうものだ

 

「馬鹿な……道場長が負けるなんて……」

 

 門下生の一人がそんなことを口走りながら驚愕を浮かべていた。

 

「ば……化け物だ」

 

 誰かがポツリとそう呟いた。それを皮切りに、他の面々も続いて逃げるようにして出口へと走っていく。

 それだけ、道場長の力量は揺るぎないものだと確信していたのだ。

 

「呪いの、化け物だあぁ!」

 

「うわあああ!」

 

 凄まじい叫びとともにやがて訪れたのは静寂。道場にはユーリとニルス、それから気を失った道場長のみを残して誰もいなくなってしまった。

 

「ユーリ……強くなったな」

 

 目の端に憂いを僅かに浮かべたニルスが静かに告げる。かけるべき言葉を迷い、一先ず褒めることにしたのだ。

 旅に出る前、ユーリはただ優しい少年だった。病弱そうな体つきで心配に思っていたが、体格はさして変化は見られないものの強くなったことは確かだ。それにはニルスも称賛する。

 

 ただ、ユーリの言動の節々から伝わる優しさという指標は随分と小さくなっているように思えた。月日というものはその為人でさえ変えてしまうものだと、どこか寂しくなった。

 

「うん。それを見せたかったんだ。……結果は少し散々かもしれないけど」

 

「いや、よくここまで頑張ったよ」

 

 一方ユーリは母から兄のことを頼まれていた。呪いを受ける彼は一人で生きるには背負う物が大きすぎる、と。

 

 だからこそユーリは強くあろうと誓った。旅に出る兄を引き止められなかったことさえ弱いことを原因だと決め込んで、ひたすら鍛錬に励んだのだ。

 

「だから兄さん、たまには僕にも頼ってよ」

 

 久々に見たユーリの笑顔は3年前と変わらず優しいものだった。その言葉につられて笑みを浮かべたニルスは黙って頷く。

 

 全てが変わってしまった訳ではない。また、やり直すことだってできるはずだ。この時は、そう思っていた。

 

 

――――――――

 

 

 それからというもの、道場に人の足が途絶え、閑散としてしまった。これは紛れもなくユーリを恐れた門下生達が顔を出すことを拒んでいたためだった。

 

 道場長もそれに気づき、ユーリを卒業と称して無理矢理追い出した。するとどうだろう。今まで息を潜めていた門下生達が次々と戻っていく。

 

 しかし元よりユーリやニルスにとってこの場所にはもう用はなかったため問題はない。

 むしろ道場公認で抜けさせてもらえるならば両親にいらぬ心配をかけることもない。ユーリとしては万々歳だった。

 

 

 そう思った矢先。

 

「気持ち悪いんだよ、この呪い野郎が!」

 

「旅なんかに出て成長したつもりか? 舐めやがって……!」

 

 ユーリは偶然路地裏で兄が蹴りなどを受けている場面に出くわした。彼の目には痛々しい姿の兄が映るが、ニルスが相手の顔をじっと見据えていることには気づかなかった。

 

「兄さんから離れろ」

 

「あ?」

 

 思わずユーリが前に出て、睨みつけるとその少年はユーリを見るなり挑発的に拳を構えて小刻みにその場を跳んでいる。

 

「そいつは俺を倒してから言うんだな」

 

 ふっ、と息を吐いてユーリへと握った拳を伸ばしてくる。彼はそれを難なく躱して顎に一撃。少年が少しだけ浮き上がって、そのまま地面へ力なく倒れる。

 

「もう一回言うけど……兄さんから離れろ」

 

 もう一人にそういってやると、その人は一目散に走り去っていった、それも一人だけで。相方という、大きな忘れ物を残していったのだ。

 

「あー、こういう場合はありがとうって言った方がいいのか? ……だけど、別に助けなくても良かったんだ」

 

 ニルスは自身の拳を見つめる。

 

「この旅で、何故かは知らないが刃物で多少斬りつけられても傷つかなくなったんだ」

 

「本当だ……」

 

 兄が破れた衣服の下の肌を見るが、その傷は赤くなっている程度。ニルスは見せながら「ま、めちゃくちゃ痛いんだけどな」と笑う。

 

 そしてニルスは的があるのをいいことに、ずっと攻撃を食らわせようと拳に力を入れていた。呪いでさえいつか克服する、そんな思いからだった。

 ニルスに何かと文句をつけていた輩の、そのようなニルスとの思想の程度が違いすぎる様子にユーリは滑稽に思えて仕方なかった。

 

 しかしそれにしても寝ている間の治癒力といい、攻撃を食らっても傷つかない強固な体といい、兄は何かがおかしい、ユーリは同時にそう思った。

 今の兄を形容するならばまさに化け物が相応しいと。

 

 

 そんなニルスは面識の少なかった妹のリナとも交流を深めていった。記憶の中では赤ん坊だったはずの彼女はすくすくと育ち、今もニルスの前で活発に遊んでいる。

 

 彼女の母リゼットは薬草の知識や魔法を身に着けてほしいようだったが、リナはわがままに兄から体術を教わるのだった。

 

「リナ、中々言うこと聞いてくれないんだよねぇ」

 

「自由奔放って感じだな」

 

「リナには覚えてもらわないといけないことがたくさんあるってのにさぁ」

 

「母さん、もしかしてさ、ユーリを道場に通わせたのもリナに薬草の知識や回復(・・)魔法を教えるのも同じ理由で――」

 

「ははっ、バレちゃってた?」

 

 ニルスが尋ねようとすると彼女は清々しいほどの笑顔で言った。男勝りな母のその言葉にニルスは呆れる。

 

「俺が寝る以外じゃ回復できないって知ってるだろうに……」

 

 彼の母も父も、全てはニルスのためを思って行動していたのだ。それでも、自分達はどうしても思うように動けない。

 

 ならばせめて息子の兄弟達だけでも彼の助けになれば、その一心で、戦い方や治療法を託して呪いを受けた息子を手助けしようとしていたのだ。

 

 呪いをむざむざ与えさせてしまったことに負い目を感じているのか、食後のデザートがニルスだけ多いなどという一端も、日常の中に見られた。

 

「そんなの分かんないって。あたしはニルスがいつも呪いを克服しようとしてるの、知ってんだからね」

 

 母親にはお見通しであった。密かに思っていたことを知られていたことにニルスは苦笑いし、それに合わせてリゼットも白い歯を見せて快活に笑った。

 

 

――――――――

 

 

「あー! なんで私のは少ないのー?」

 

 リナが配り分けられたケーキの大きさに不平を言う。自身とニルスの量を比べてその差に気がついたのだろう。僅かな差ではあったが、それを見分けてむくれてしまうリナにニルスは苦笑する。

 

「なら、兄ちゃんと半分ずつ食べような」

 

「ほんと? ありがとう、兄ちゃん!」

 

「父さんからもあげよう」

 

 ニルスに乗じてその父スティードも分け与えようとする。彼はとても娘に可愛らしい眼で感謝されているニルスが羨ましかったのだ。

 

「だめだめ。それ以上リナがわがままになったらどうすんの? ニルスも今後、勝手に上げたりしたらだめだから」

 

「いいじゃないか。リナも嬉しそうなんだし」

 

 そう言って一口分をすくってリナに食べさせるスティードに、リゼットはため息をついた。リナがこのまま自分の思いばかりを押し通す子に育たないか心配だった。

 

 リゼットには経験があった。自身がわがままを貫いたばかりに、周りだけでなく自身も傷ついたことが。娘にまでそのような思いをしてほしくはなかった。

 

「リナ、あんまりわがまましてるとお父さんもお母さんもいなくなっちゃうよ?」

 

「大丈夫! 私のそばにいっつもいてくれるもん! そうでしょ?」

 

 その言葉にリゼットは再びため息をついた。それと同時にどうしようもない気持ちになる。まるでこの世を憂いているかのような表情にニルスは疑問に思うのだった。

 

 

 

「……ニルス。私達に何があろうと迷わず二人のこと、助けてあげてよ」

 

 その夜、月明かりに照らされてニルスが一人で鍛錬に励んでいるとリゼットが静かに横から声をかけてきた。

 

「母さん? 突然どうして……」

 

 そんなことを言うのかと問いかけてから黙る。その神妙な面持ちには何か決意めいたものを感じた。

 

「分かった」

 

「……ありがとう」

 

 ニルスはそんな母を前にして、それ以上聞き出すことはしなかった。

 だがリゼットの言葉に、まるで平和な日々が長くは続かないことを示唆しているような気がして、ニルスは思わず呪剣を持つ手を強く握った。

 

 

 それからニルスの父は管理者の立場をいよいよ追われてしまう。それには魔石教団と関わるところが多かったからだろう。

 予てからニルスのことで手一杯になっていたスティード達は管理が回っておらず、さらに以前より魔石教団との関係性が疑われていたこともあり、辞職へと追い込まれた。

 

 実際には彼らは私利私欲のための接触でないばかりか、脅迫を受けるというむしろ被害者であったが、そんなことは村人達に関係ない。

 

 見かけにも魔石教団と繋がりがある、それだけで十分に彼らを長の座から引き剥がす理由になるのだ。

 

 するとそれなりに充実していた生活風景も貧相な暮らしへと変貌を遂げる。住居も食事も、今までとは比べ物にならないほど質が落ちていった。

 

 

 ある時、魔石教団の幹部らしき男が訪ねてきた。彼が言うにはこの村を立ち去るから、次に来るまでには村中の魔石を全て回収しておけとのことだった。

 この村の魔石保有量は高く、そしてそれはユーリの父親、母親共に実績ある冒険者であることに起因する。

 

 冒険者、住民に危害を与える魔物の駆除などを専門的に行う者のことだが、その組合、冒険者ギルドでは赤色まで登りつめたとユーリに言っていた。

 

 そんな彼らは村人達に魔石を売ることで金を得ていた。村を賄う程の魔石量、見返りも非常に大きかった。いや、大きかったはずだ。だが生活は今のように豊かさからは程遠い。魔石教団による何かが働いているのか。

 

 しかし魔石教団がこの収入源を知っているならニルス達に何らかの危害を加えたり更なる脅しをかけるはずだ。

 母は狩りをする時は他人に知られないよう隠密行動を努めていると言っていたうえに、数も多少は減らしているとのことだった。ならば魔石教団とは別の理由があるのか、ニルスには分からなかった。

 

 しかし何より問題なのは、ニルス達はそれなりに食事ができるのに両親がまともな食事をとっている姿を見かけないということだ。

 問い質しても食事は別で摂っている、と誤魔化され、そして資金の使い道についても彼らは言わなかった。

 

 

――――――――

 

 

 そんな生活が続き、幾年か経った。変わったことと言えばリナがスティードの指導の下、体を動かすことに没頭しはじめたことだ。

 

 ユーリ自身も道場通いの時から両親に稽古をつけてもらってはいるが、最近は彼が優勢になる機会が増えてきている。

 それはユーリの成長によるもの、だけだったら良かったが、実際には違うのだろう。

 

 

 更に時は経ち、ユーリはついに両親を試合において負かせるまでになっていた。正直、万全の状態でない父達に勝ててもユーリは嬉しくはなかった。

 

 

 そんな時だった。町に逃げる準備が整ったと、スティードから全てを聞かされることになったのは。



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12.人生って

「みんな、よく聞いてくれ。お前達にはいずれ、早くて来月、町へと旅立ってもらう」

 

「え?」

 

「町へ……? そんなの急すぎるよ!」

 

 神妙な面持ちの両親と、わけがわからないような表情の兄弟達。彼らの心情の差が、溝と称せられるばかりに広がっていく。

 

「皆の言いたいことは分かっている。……これから全て話すから、よく聞くんだ」

 

 

 それからスティードは今までの出来事を淡々と語り始めた。

 それは端的に言ってしまえば、ニルスに呪剣を与えたのは、治療師に扮した魔石教団の団員だったこと。そしてリゼットの占いによるとこの村はいずれ滅ぶという内容だった。

 

 そもそも母親に占いが出来たという事実すらニルス達にとって初耳だったのだが、突然の独白に事態を受け入れられない。

 

「村が滅びる……?」

 

 真っ先に顔をしかめたのはユーリだった。この村に良い思い出があるわけではないが、それでも生まれ故郷を失うというのは些か大きいことのように思えた。

 

「ああ。だから近い内にお前達はここを出ていくんだ」

 

「そんな、冗談だよね?」

 

 ユーリは信じられないといった表情でスティードを見る。そもそもなぜそれほど重大な事実を淡々と述べられるのか。

 

「はは、俺は今でもそうであってほしいと願ってるけどな」

 

 その口振りからすると運命からは逃れられない、諦念にも似た感情のようなものがそこにはあった。

 だからこそ、あらゆる感情は捨て去ったのだろう。息子達を逃がすという優先事項に専念するために。

 

「ただの旅行だよね? お父さんもお母さんも、準備ができてるんだよね?」

 

 続けてリナが懸命に訊いてくる。狼狽が表れてか、自身でも言っていることの意味を見失いつつあった。ただ、村に残るつもりでいる両親にも共に逃げてほしかった。

 そう思っての懇願だった。

 

「あたし達はここに残って村を守るよ」

 

「どうして⁉」

 

 願い叶わず、リナは叫ぶ。

 いつだって、両親とは一緒だった。今までも、これからも、だから彼らのいない日常など想像もできない。

 

「リナ、ごめんな。これは俺達のわがままなんだ」

 

「わが……まま……?」

 

 リナは目に涙を浮かべて父を見上げた。それは、自分がしてきたことの通り返しなのかと、小さく胸が響いた。

 

「一度は冒険者として戦いに身を置いた以上、俺達にとって戦いから逃げることは死んだも同然なんだよ」

 

「それにさ、久しぶりにこういう試練みたいなのが与えられると体が震えちゃったりすんのよ」

 

「それは……恐怖で、だよね」

 

 自身の拳を見ながら武者震いをするように笑うリゼットに、ユーリが確認するように尋ねた。

 もし恐怖を感じているのであればやはり共に逃げてほしいと祈るが、両親は答えず、話を続けた。

 

「父さん達のわがままを許してくれ」

 

「そんな……そんなプライドみたいなもののために命を捨てることなんかッ――」

 

「お前にもわかる日が来るさ」

 

 両親はそれだけ言って、彼らの元を去っていった。できることなら彼らと共に居てやりたい、だが、リゼットの占いには彼ら両親が村の壊滅とともに死ぬことも予言されていたのだ。

 

 当然、占いが絶対というわけではない。回避の術はないこともないが、自分達が子供達といることで彼らにも危害が及ぶことを恐れたため、苦しくも離別の道を選んだのだ。

 振り返った彼らはやるせないような悔しい感情に表情を歪ませた。

 

 

 そして一月も経たずしてその時は訪れる。

 

 

 ニルスが昼食をとっていると、村の入口付近で爆発が起こった。

 すばやく立ち上がったのは両親。彼らはいざという時のために作っておいた森への隠し通路へ息子達を誘導する。

 

「こっちだ」

 

 その気迫に彼らは黙ってついていく。ただただ、恐怖を感じていた。

 

「ニルス、まずどこへ行くか、分かってるな」

 

「分かってるけど……」

 

 逃げ出す際の引き取り先は既にニルスに伝えてあり、彼もそれを了承していた。

 しかしニルスは最後まで逃げる気のない両親に困惑する。村人にも疎まれているここには、未練と呼べるものもないだろうに、それほどこの村を愛しているのだろうか。

 

「僕は戦うよ」

 

 言ったのはユーリだった。彼は下を向きながら剣を持つ手に力を入れている。

 とはいえその手は震え、迷いが全く無いようには思えなかった。

 

「駄目。あんたがいなかったら誰がリナとニルスを守んの?」

 

「……」

 

 だから、ユーリの決意はリゼットの言葉で簡単に揺らいだ。

 続いてリナが前に出て泣きながら訴える。

 

「お母さんは⁉ 一緒に逃げないの……?」

 

「うーん、リナちゃんのわがままが直ったら母さんも一緒に逃げられるかも」

 

「うん、いい子にする……! もうわがまま言わないからぁ……」

 

 リナは嗚咽を漏らしながら苦しそうにも声を絞り出した。こんなことならいい子に過ごしていれば良かったと後悔した。

 

「よしよし。それが約束できるんなら母さんもすぐ追いつけるように頑張るよ」

 

 リゼットがリナの頭を撫でると、少女はこくこくとしきりに頷いた。

 

「ニルス、この子達を頼む」

 

「……分かった」

 

 ニルスはどうにも納得できないでいたが、リナに危険を負わせてしまうのも事実。父からの言葉を素直に受け取り、涙を拭うリナの手を引いて家を去った。

 立ちすくんだままのユーリに父が声をかける。

 

「ニルスのこと、頼んだぞ」

 

「あの子はあんな体しといて無茶するからね」

 

 そう言って両親は家の外へ出ていく。ユーリがそれを追おうとすると、腕を掴まれた。

 

「いまさら説得しようとしても無駄だ。早く逃げないと俺達まで巻き添えを食らう」

 

 そうだ。本当に生き延びてほしいならばこの数日間、必死に説得すべきだった。ユーリは、自分が今更都合のいいことを言っているだけに過ぎないと、気づいた。

 そして彼は見た。兄が一番悔しそうな表情をしているのを。自分の事ばかりを考えていては駄目なのだ。ユーリは頭を振って顔を上げた。

 両親に言われた通り、兄を、支えなくては。

 

「急ごう」

 

 ニルスが先導し、村から離れた場所にある、森林地帯まで地下道を進んだ。

 いつの間に両親はこのような手の込んだものを作っていたのかと彼は思うが、スティードが既に逃げる算段をつけたと言っていたのはこのことも含めてだったのだ。

 ここまで掘り進めるのは中々に骨の折れる作業ではあったが。

 

 

「おやおや、こんなところに……」

 

 森林から出てしばらくして背後から声が聞こえてきた。振り返ると体長がユーリの身長の2倍ほどもある魔獣と魔石教団の白い外套を羽織った団員らしき人物が立っていた。

 

「狼の鼻というのはやはりよく利きますね。始めはあらぬ方向へ行くので何事かと思いましたが」

 

 その者の言っていることは理解できる。だが酷く場違いであるような気がした。まるで、ペットの散歩中のような緊張感の無さにユーリは少し苛立ちを覚える。

 もっともこちら側は迫る死の恐怖から逃れようと必死になっているため、温度差があって当然のようなものだったが。

 

「ほう、しかも呪剣の方でしたか。そしてその兄弟と」

 

 彼はニルスの背負う剣を見てどこか嬉しそうに告げた。そしてユーリ達を舐め回すように視界に収める。

 

「まさかここまで逃げているとは。全く、親子共々厄介な相手ですね……」

 

「親子……? 父さん達をどうしたんだ!」

 

 親、その単語が出てきた直後にユーリの間欠泉は突破される。無意識か、剣が抜き去られその切っ先が団員へ向けられる。

 

「殺しましたよ。我々の指示に従わなかったのですから」

 

「……嘘だ。そんな簡単に父さんがやられるはずない!」

 

 ユーリは冷静でいられなかった。その理由の一つにリナが得体の知れない魔獣を見て泣き喚いてしまっていることもあったのだろう。

 

「ええ。それは分かっていましたから、数を揃えて襲ってあげましたよ」

 

「……嘘、だろ?」

 

 もし、ユーリが冷静になれていたら、相手の言っていることに囚われず、嘘だと決めつけて戦っただろう。感情に飲まれては戦いもままならない。

 それ故に、端から交戦が目的であるならば、事の正否ではなくいかに精神を安定させるかが重要なのだ。

 

「冥土の土産に教えてあげましょう。あなた達の両親は数体のケルベロスに囲まれ、その無尽蔵の体力にやがて勢いを失って倒れた。最後まで睨んできましたがねぇ。それで、なぜ体力が尽きなかったか知りたくありませんか?」

 

「黙れ!」

 

「魔石ですよ。村に貯蔵されていた魔石を食わせたんです。この種のケルベロスは魔石を体内へ飲み込むと、その魔力を吸収して自らの力と変えてしまいますからね」

 

 魔石教団団員が不敵に口端を上へ持ち上げる。

 彼ら自身、魔石を使うことを禁じるべきと訴えるのに、自分達のこととなると眼をつぶるのだった。

 だがその矛盾に気づけないほどにユーリは冷静さに欠いていた。

 

「黙れと言ったはずだッ!」

 

 彼は真っ直ぐにその信者へと地を蹴った。しかし彼はずっと同じ表情でこちらを傍観したままだ。

 

「危ない!」

 

 その声がユーリの耳に届いた時には既に遅かった。目の前に魔獣が、凄まじい速度で迫っていたのだ。

 次の瞬間、ユーリは鈍い音とともに勢い良く飛ばされ、木へと体を打ち付けられる。

 

「うぐっ……!」

 

 呻いたのはユーリではない。ケルベロスに腕を噛まれるニルスが発したものだった。

 ニルスは怒りで我を忘れた弟を突き飛ばして、代わりに魔獣からの攻撃を受けた。そして噛まれた方の腕とは反対の腕でケルベロスの首を押さえた。

 

「兄さん!」

 

 ニルスが押さえている間も三つ首の魔獣は未だ自由の利く頭部で噛み付いて抵抗している。

 兄のお陰で幾らか頭の冷えたユーリは魔獣と魔石教団の立ち位置を確認する。やや標高の高い、全体を見通せるような場所で傍観する彼は自ら戦闘の手段をもたないのか。

 

 ユーリはそう思うが、違うようだ。

 

「安心してください。殺し切るつもりはありませんから。まあ、殺さない保証もありませんが」

 

 ユーリは彼の狙いがわからないでいた。彼の「全てはあなたの活躍次第ですよ」というニルスへ向けた言葉からすると、呪いと関係があるのかもしれなかった。

 ただ、クククと奥歯で笑う魔石教団信者を見ていると異常なほどに腹が立ってくる。

 

 ユーリは深呼吸をし、精神を整えることにした。次で、必ず決めると。



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13.欠けているからこそ幸せで埋められるんだってさ

 ユーリは、傍観するべく木の上へと身を軽く飛び上がった魔石教団を追う。

 

 音を立てずに忍び寄ろうと努めていたのだが、ほんの少しの違和感に気づいたのか信者のその男は彼を見逃すことなく鋭く目を光らせてきた。

 

「こちらへ来てはいけません。試験の最中なのですから」

 

 試験、とは何のことかと尋ねる暇もなく男は地面に手を向けて何かを唱える。すると毛が逆立つかのような膨大な魔力が高まり、柱状に撃ち出された野太い光がユーリの近くの地を抉った。

 

 まるで、いつでも殺せる準備が出来ていることを見せつけるかのように。

 

「それでも……!」

 

 ユーリはそれを見届ける間もなく、木の上へと身を翻らせた。あれが自身を葬り去るのに十分な威力を持っていることは、ユーリにも分かりきっていた。

 しかし彼がこれを試験と呼ぶならば、それを受けて合格すればいいだけ。状況を察するに問題はどうやって排除するべきかだろう。そして今それができるのはどうやらユーリだけのようだった。

 

「愚かな。自分から死にに来ることなどないのですよ」

 

「それはどうかな」

 

 ユーリは彼に聞こえるようにそう言うと、その場から飛び降りた。排除すべき対象は、ケルベロスなのだ。

 

「ガアアアッ!」

 

「なっ!」

 

 剣を突き立ててケルベロスの背に着地すると、魔獣が声を上げて悶える。魔石教団の彼もその行動には驚いたようだ。

 ユーリがまともに試験とやらを受ければ、あわよくば見逃してくれるだろうか、そんな一縷の望みにかけた。

 

 すると重力を乗せたユーリが渾身の一撃をお見舞いしたにも関わらず、ケルベロスが必死の抵抗を見せた。残りの首が、彼に襲いかかってきたのだ。

 

「ユーリ! 一旦退け!」

 

 ニルスが剣で噛み付いたままのユーリに叫ぶ。その言葉とともに彼のケルベロスを締める腕に力が込もり、ケルベロスが苦しそうにのたうち回っている。

 

 それを見たユーリは咄嗟に兄の持て余した力の使い方を閃く。

 

「兄さん、もう一つの首も押さえて!」

 

 ニルスは、一度ユーリの顔を見ると黙ってもう片方の腕でケルベロスの首を締め上げた。すると魔獣の動きは更に遅くなった。

 

「ケルベロスを力技で押さえ込んだ……?」

 

「今っ……!」

 

 驚く魔石教団員を尻目にユーリは剣を大きく振り上げ、動きの鈍ったケルベロスの首目掛けて振り下ろした。

 

「ァァオォ……」

 

 ケルベロスの声にならない悲鳴が木々の中で木霊する。どうやら頭の一つでも失うと生命活動を停止するようで、魔獣はニルスの腕の中で力をなくした。

 

 続いて聞こえてきたのは、拍手だった。

 

「まさかこれほどとは。よろしい、文句なしの合格としましょう。これからも精進してくださいね」

 

 魔石教団の男はそう言って森林の中へ姿を眩ませてしまった。結局、彼の目的はわからずじまいであった。

 

 

「父さん、母さん……!」

 

 この場所からでも村に火の手が上がっているのを難なく視認できる。ユーリが思わず戻ろうとするところを、ニルスが阻んだ。

 

「俺達は町へ行こう」

 

「なぜ? あいつの言っていたことを兄さんは信じるの?」

 

「そうじゃない。父さんが何のために俺達だけを逃したと思う?」

 

 ユーリが答えられずにいるとその兄は町の方向へ歩を進めながら言った。

 

「自分より子供達の命のほうが大事だったからだよ」

 

 だから、ニルス達に危害が及ばぬよう逃がし、万が一がないよう村に残って食い止めるつもりだったのだろう。

 案の定、ユーリ達を狙って魔石教団の一人が襲ってきてしまったが。

 

 ユーリはその兄の言葉が理解できなかった。分かろうとはしていたが深く考えれば頭が痛くなってくる。

 

「俺達が戻ったところで父さんは喜ばない」

 

 ユーリが村から渋々出てきたのは、自身が分かっているつもりになろうとしたからだった。だが、彼はもう考えることに限界を迎えていた。

 

「そういう、自分より大切とか、喜ばないとか何なんだよ! 今行けば助けられるだろ⁉」

 

 激昂するユーリに、ニルスは足を止めてこちらへ向き直った。

 

「お前は……」

 

 しかしながら彼は何かを言いかけるも、酷く悲しげな表情でその口を閉じた。

 そのようなユーリを、今まで見たことがなかった。彼は今までも人の心が分からないような人間だっただろうか。

 長年の虐げられてきた生活の影響による精神の亀裂か、あるいは他の要因があるのか。

 

「何だよ……僕は行くよ!」

 

 ユーリは兄の手を振り払って踵を返した。その時、後頭部に強い衝撃を受けて意識が突然に途絶える。視界が途切れる直前、最後に「すまない……」とだけその耳に聞こえてきた。

 

 

 

 体を揺する少し大きな振動にユーリは目を覚ます。気がつけば簡素な造りの箱の中、何処かへ運ばれていた。

 

「馬車……?」

 

「あっ、ユーリ兄ちゃん!」

 

 声の方向を見るとリナが目を覚ました彼に嬉しそうな顔を向けている。その声にニルスも彼を見る。

 

「起きたか?」

 

「……うん」

 

 目的としていたエレロの町までは距離もあったため、商人の操る馬車に乗せてもらい、町はすぐそこまで迫っていた。

 

 偶然、エレロへ向かう馬車が通りかかったのには奇跡を感じた。歩いても辿り着かないこともなかったが、到着しても腰を落ち着けられるか分からない以上、便乗しない手立てはなかった。

 

 

 そして到着したエレロは、以前と比べて変わりなく活気づいていた。

 

「わー! ここがニルス兄ちゃんが前に来た場所なんだね!」

 

 リナが走り出して街を眺めながら感嘆する。その様子はもはや両親が亡くなったという報せを受け入れていないようにも見えた。

 

 しかし確かに、彼女の心には異常なまでにその言葉が張り付いていた。そんな彼女を無理にでも健気なように奮い立たせているのは最後に聞いた母の言葉だった。

 

 母はこうして自分が良い子に過ごしてさえいれば帰ってくるのだと、そう思い込むことにしたのだ。

 

「リナ、あまり離れたらだめだ」

 

 ニルスはリナを呼び止める。ここには他とは違う、差別的な動きがあったはずなのだ。そう、以前まではあったはずだった。

 しかし周りを見るに、道の中央を女性が歩いても蔑まれることはなかった。たとえ、視線の中に恨めしげなものがあったとしても、それを大衆の前で行動に移すことはなかった。

 

 

「あら、リゼットちゃんとこの! それは遠いところからご苦労だったね」

 

 両親に真っ先に訪ねろと言われた家屋から、快活な女性が出てきて応じる。母との古くからの友人とのことだったが、いかにも彼女と気の合いそうな人物に、ニルスは内心懐かしみを覚える。

 その女性に促され、席へ座るやいなやニルスが事の顛末を告げると彼女は同情するように涙を流した。

 

「それは大変だったね……」

 

 そして静かながらもひとしきり涙を流すと、ニルス達に真剣な面持ちで話を始める。

 

「あんたたちの両親にはとても世話になったよ。感謝しきれないほどね」

 

「それで、これを渡せと言われて……」

 

 ニルスは次いで手紙を取り出して渡す。それはスティードが(したた)めたもので、住居の件が記されていた。

 

「うん。内容は大体分かってるよ。そういうことなら王都に建てた家を使うといいさ。ま、元々はあんたらのお父さんの物だし、返すと言ったほうが正しいかねぇ」

 

 女性は納得した様子で手紙を閉じ、苦笑を浮かべた。

 以前、ニルスを探しにこの町へ両親が訪れた時、彼らは女性の虐げられるこの町から出ようと考えているこの見知った仲の女性に王都での居住先を確保するべく、資金を援助していた。

 

 今回、ニルス達を避難させるにあたって必要だったのはその受け入れ先である。

 元々は知人に一時的に預かってもらう予定だったが、何度かその話を手紙で交わすと、丁度持て余していた一軒家がエレロの町に残っているから代わりに住まないかと返事が来た。

 しかしそれはすぐに取り止めると続けて送られてくる。

 

 近日中に女性を差別する文化は見られなくなっていたエレロへ引き返し、まだ新しいと言い切れる王都の住居を渡す提案をしてきたのだ。

 当然スティード達もその方が良いと応じた。ここへ来たのはほんの挨拶のためだったのだ。

 

 しかしエレロの町の体制が動いたのは統治する者の交替があったことによる。そしてそれまでは取り決めのなかった女性への扱いについて、明確に定められた。

 

 それにより定めの上では女性は平等で暮らしを続けることができるようになった。

 その中に、女性ながらも鍛冶師を務め、幼い頃から積み上げられた確かな努力と技術でその町の内外に影響を与えたアシュレイという人物も功労者と存在していたが、ニルスは町中で彼女を見かけることはなく、ついに町で会うことはなかった。



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閑話 女神と天使ちゃん

「あぁ……」

 

「いきなり奇妙な声を出さないでください」

 

 天界には女神が住んでいると、地上の誰かが言った。天界と言ってもそれは空の上なのか、それよりも遥か遠くにあるのか、はたまた存在しないのか。

 そのような議論は予てから続いている。だが、ここには確かに存在しているのだ。

 

「世界はこんなにも……美しいのですね……」

 

 女神は手を合わせ、感嘆を述べる。その姿は神々しささえ感じさせ、感動の涙は虹の海を作るまであった。

 

「……妙ですね。女神様がまともなことを言うなど……おや?」

 

 女神に対して訝しげに様子を窺うのは、背に大きな白い羽を生やした中性的な顔立ちをした、言うなれば天使だった。

 

「何を見ているかと思えば、また男ではないですか」

 

「あなたも気づきましたか。彼の素晴らしき容貌を」

 

「話を勝手に進めないでいただけますか?」

 

 天界にやや怪しげな空気が漂い始める。女神は本当に、皆の思い描く女神なのだろうか。

 

「彼は幼い頃から苦労を重ねていました。そのせいかいつも思い悩んで……」

 

 女神は胸に手を当て、慈愛に溢れたオーラを放つ。

 

「しかし、それを彼は乗り越えました。力を使いこなしたとは言えませんが凛々しく成長し、感情を爆発させる姿もどうでしょう、勇ましくて格好良かったでしょう? ああ、年齢的には今が食べご……いえ、肉体的にも精神的にも成長の一途を辿っています。どうにかして私のものに……」

 

「いつもどおりなようで、逆に安心しました」

 

 女神の性質的に欠陥がある部分が垣間見えてしまった。天使は呆れを通り越してむしろ日常の光景に安心を覚えていた。

 

「む、また私を敬う心を失っていますね」

 

「仕方ないと思いますが」

 

「敬えビーム! ……それはともかく、あの青年にはどうやら勇者の資格があるようですね。どうか、女神の加護が彼を守ってくれるよう祈りましょう」

 

「加護を与える張本人が何を仰っているのか。とはいえ、少し感動しました」

 

 女神は何やら変わった動作をしたあと、何事もなかったかのように視線を戻した。もはや指摘する気も起きない天使。

 

「急造したアレが上手く機能してくれると良いのですが……それはそうと、本当は顔の良さが全てと思っていますよ」

 

「知っていました」

 

「いつか美男子の楽園を作るのが夢なのです。その誰よりも天使ちゃんが一番ですけどね」

 

「うわ、今日は来ないと高を括っていたばかりに飛び火してきましたか。私のその呼び名も、どうにかならないものでしょうか……」

 

 言いながら、天使は肩を落として目の前の惨状に目も当てられない思いになった。いつか自分が、女神の権限で好き放題されてしまう未来がちらついて仕方がない。

 

「末恐ろしいので私はこれでお暇します。御用があればまたお呼びください」

 

「あー! 天使ちゃん行かないでください! 折角私も天使ちゃんへの愛を抑えていたというのに! でもやはり溢れ出てしまったようですね。女神すらも超える愛の力、これはもしかしなくても大発見では……?」

 

 人々がこれを見たら、想像とのあまりの差に失望するだろうか。いや、ただの人が女神などと邂逅する機会などないのだから、考えるだけ不毛である。

 

 天界は今日も騒がしい声が響く。



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14.こじつけでも当人がいいなら運命だよね

「来たか……」

 

 全身の感覚が消え去る。それは、敵意むき出しの誰かがニルスに近づいてきた証拠でもある。しかしこの呪いももはやニルスは便利な道具代わりとしか考えていない。

 

「グルルルル……」

 

 そして現れたのは狼の魔獣。いつしか戦った時には正攻法で対峙できなかったものだが、今朝はいかにか。

 狼は他と違わず、獲物を見つけたとばかりに小さく唸りながらニルスとの間を詰めてくる。見かけには魔獣は瞬間移動をしながら近づいているようでも、彼が積み上げてきた月日は、そんなものを厭う感覚など残さなかった。

 

 以前は目を瞑っていたものだが、それもやめた。視覚情報はやはり重要である。しかしそれでもニルスは目で追うなどという安直な真似はせず、気配や音で相手の位置を探る。

 そして視界に捉えるは攻撃を加える一瞬のみ。

 

「くっ!」

 

 動きの止まる自身の腕に抗いながら、ニルスは歯を食いしばる。すると僅かに、距離にして指一本分だろうか、その手に握られたロブストの棒が動いた。

 

 しかしそのささやかな動きでも、狼が飛び込んできた瞬間に合わせ、脳天へと直撃させる。

 

「キャインッ!」

 

 予想外の突発的な痛みに驚いてか、その魔獣は幼いかのような悲鳴を上げて身を翻す。

 

 本来ならば呪いの精神作用によって動きが漏れなく封じられるはずだったが、ニルスはその許容量を超えるほどの力をもって破ってしまった。

 今一度精神とは如何なるものか、考え改める必要があるだろう。

 

 だがそれは紛れもなくニルスの努力の賜物、幼い頃から繰り返していた単調で成果の見えない作業は、彼の筋力を恐るべきまでに高めていた。

 

「ガウウッ!」

 

 魔獣が再び牙を剥き、ニルスの懐へ一直線に走る。彼はそれを難なくロブストで受け、その顎を叩く。

 動きは微小だが、呪いを力ずくで相殺してしまうのには疲労が伴う。

 

「うぐっ!」

 

 動きのやや遅れたニルスにフォレストウルフが噛み付く。その箇所に傷は全く見られないものの焼き付けるような痛みが走る。

 

 彼の身体の強度もまた、剣闘を経て大きく発達していた。尤も、あの場所でのニルスの意図するところはなくただ攻撃を受けるのみだったが、何度も受けた苦痛に耐える内に次第に攻撃が通り難い体が出来上がってしまっていた。

 その腕には噛み痕すらない。

 

 しかしながらあの頃から変わっていないことが一つ、痛覚はどうにも克服できないものだった。感覚は無くなる癖に痛覚は数倍にも鋭くなってしまっているとは、一体何の嫌がらせだろうか。

 それでも実際に負う傷は大したことがないのでニルスは魔獣に左腕の咀嚼を許したままにする。

 

 やがて狼には脳への損傷が次第に蓄積されていく。

故に、あと一息で体ももう限界を迎えるのだ。

 

 ニルスがとどめを刺すべくロブストを添わせたその時――

 

「ん?」

 

 直後に聞こえてくる三つの貫通音。真横を通り抜ける三本の氷の槍がフォレストウルフの腹を鈍い音で貫いたのだった。

 そして魔法が放たれた位置から誰かが駆け寄ってくる。そよいだ風に乗せられて、ほんの少し甘い香りがした。

 

「大丈夫?」

 

「アシュレイ!」

 

 顔を向けるとそこには、長めの銀髪を風にそよがせながら、美麗な女性が立っていたのだった。

 

「邪魔しちゃったかも……でも、ニルスが痛そうにしてるのは耐えられないから」

 

 傷はないはずだが、痛みだけはその主張激しく未だに残っている。つい、ニルスは顔をしかめてしまう。

 

「痛む? ちょっと見せて」

 

 そう言って彼女は徐ろにニルスの腕を自身に寄せ、その箇所を布で縛る。慣れた手つきで素早く、それでいて丁寧な作業だった。

 目に見えた怪我ではなかったが、ニルスは彼女に甲斐甲斐しく世話をされ、日々の疲労さえ消えてしまうように感じた。

 

「……応急処置だけど」

 

「ありがとう」

 

 彼女は真っ直ぐニルスを見据えて口を開いた。表情が思わず綻んでいる。

 

「本当に、久しぶりだね」

 

「そうだな」

 

 言葉こそ少ないが、再会を喜ぶ気持ちは変わらず、二人は笑ってみせた。今こそ約束を果たすべき。

 

「アシュレイ――」

 

「はい、これ」

 

 ニルスが言葉を紡ぎかけるとアシュレイから突然に金属の輪を指に嵌められる。

 

「これは……?」

 

「エンゲージリング。大丈夫、それをもう一度交換して嵌め直さないと何ともないから」

 

 そう言って、アシュレイはニルスの表情を窺ったまま、黙った。どうやら答えを待っているようだった。

 しかしそんなもの、ニルスにはとっくに決まっていた。

 

 彼はただ、自身の指輪を外し、アシュレイの指に嵌めた。同様に彼女が元より嵌めていた同じ品もニルスの指に渡される。

 

 これにて契約完了。この婚姻の指輪は特別な絆で結ばれた二人を祝福するための儀礼的なものだったが、その愛の形を示すにはこれ以上のものはなかった。

 

「私という呪いの贈り物。気に入った?」

 

「ああ。この上なく」

 

 その指輪は二人の距離が近ければ近いほど外れない。まさに呪いとして等しいため、アシュレイはそう表現したのだった。

 ニルスが彼女のような呪いだったらいくらでも被ってもいいと思えてしまうほどの彼女の笑顔だった。

 

 

 突如、ニルスの感覚が遮断される。どうやら、こんなタイミングの悪い時でも魔物は登場するようだ。

 

「敵か……」

 

「ん、ちょうどいい。私がニルスの戦い方をサポートする時」

 

 彼女がそう言った直後のことだ。森の木々を掻き分けて魔獣が重い足音を立てて歩いてきた。

 

「あれは……」

 

 全長が人間の2倍を優に超える巨体を持つ熊が、目の前に迫っていた。そのムーンベアーと呼ばれる魔物は、大木を引き抜けるほどの豪腕でありつつも、俊敏さを兼ね持つ獣だった。

 

「速い……」

 

 油断のため、その魔獣の姿を見失ってしまう。彼女が呟く程に素早かったのだろう。ニルスが意識を向けると勝ち誇ったような咆哮が横から聴こえてきた。

 

 慌ててその方向を見定めると熊が大きな腕を振りかざしてニルスを仕留めようとしていた。その腕力を武器に幾人もの冒険者を犠牲にしてきたことだろう。

 ニルスはそれを咄嗟に左手で受け止める。

 

「流石にニルス、このくらいじゃびくともしない」

 

「ところでサポートって何のことだ?」

 

「グルゥ……」

 

 平然と会話を続ける彼らにムーンベアーは戸惑いの声を上げる。するとそれを意にも介さず喉目掛けて一突きが飛んでくる。

 首を打たれた魔獣は苦悶の声を上げることさえできず、後退る。

 

「えっと、攻撃の仕方を教えようと思ったんだけど……できてる?」

 

「力を込めたら少しだけ動くんだ」

 

「呪いってそんな簡単に無視できるの……?」

 

 アシュレイは困惑気味だった。

 そんな彼らに憤りを覚えたのか再び熊が腕を振り上げた。力量の差が分からないとはやはり魔獣だと言うべきか。

 同時にニルスはロブストの棒を持つ手に力を込める。

 

――瞬間、アシュレイがほんの少しニルスの手に触れた。

 

 彼女の動作に、一瞬だけニルスの意識が攻撃することから逸れた。それが引き金となり魔法が解けたように腕は動き出し、ムーンベアーへの綺麗な一直線を描いていった。

 

 すると、目の前の肉塊が弾ける音が響いた。まるでスライムでも斬ったかのような手応えの無さ。それほどまで素早く、動きを阻害することを許さない一撃。

 

「え……?」

 

 困惑したのはニルスの方だった。確か、似たような経験を呪剣を取り戻しに行った時にした覚えがある。枷が外れたような解放感に、その時は考えが及ばないでいた。

 

「単純な話。『攻撃』を意識しないためには、攻撃する相手から思考を逸らせばいい」

 

 それで、アシュレイはニルスの手に触れたのだ。それにより呪いで制限されている部分、つまり本来の力でもって魔獣を排除したのだった。

 

「本当ならニルスはこのことに気づいていたはず。でも、それを私の言葉で制限してしまった。ずっと言い出せなかったことも含めて、ごめん……なさい」

 

 アシュレイが謝罪したのは初めてニルスの戦う姿を見た時の話。彼のその戦い方が怖いと言ったことだ。彼女自身、それがニルスに多大な影響を与えてしまったことを理解し、負い目を感じていたのだ。

 

 しかしニルスにはアシュレイの本音を聞いたことで、それまでの考えが呪いを是が非でも克服してみせようという揺るぎない信念に変わったのだ。

 

 だからこそ彼は例えそれが偏った戦い方であろうと正攻法に拘った。結果、呪いの制御を力づくで破ってしまうほどの精強さを得たのだ。

 彼女が謝罪する理由などないと、ニルスは柔らかく笑う。

 

「顔を上げてくれ。あの時、路地裏で塞ぎ込んでたアシュレイが本当のことを言ってくれた、それだけでも俺は嬉しかったんだ」

 

 アシュレイはその言葉に思わず顔を上げる。ただ、やはりニルスに苦行の道を追いやったのは自分だと、素直に喜ぶことはできない。

 そんな彼女の様子にニルスは付け加える。

 

「……それに、せっかくまた会えたんだからもっと楽しい話をしよう」

 

 アシュレイはその意見には頷かずにはいられなかった。ニルスとはもっとこれから、未来に向けて楽しい日々を育んでいきたい。そう思った彼女はようやく笑顔を取り戻した。

 

「うん……!」



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