しばふ村より (Y.E.H)
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第一章
【第一章・第一節】


「うへぇっ!」

「あぢぃ~」

シャトルランが終わると、校庭に座り込む者や待ちかねた様にボトルを咥える者など様々だ。

 

(そこまでキツイとは思わないけどなぁ)

 

そう思いながら、隼太は校舎側にある水道に走ると、頭を下げて蛇口からの水をかぶる。

 

(あー生き返る♪)

 

うなじにあたる水は少々生ぬるいのだが、それでも何とも言えず心地よい。

教師からうるさく言われているので、すぐに蛇口を捻って水を止めると、ブンブンと頭を振って飛沫を振りまく。

そうしておいてから顔を上げるが、いかにも自然な風を装って校庭の隅にある花壇をチラッと盗み見る。

言うまでもないことだが別に花壇が見たいわけでもなんでもなく、その手前にしゃがみ込む後姿こそが彼の視線を惹きつけてやまないのだ。

 

(お願い! ちらっとだけでいいから振り返ってよ!)

 

期待を込めてもう少しの間だけ念を送るが、当然のことながらそれが届いたりする様子は無かった。

 

「隼太ぁ、どこ見てんだよぉ」

背後から清次の声が響いたので、思わずびくっと仕掛けたのを懸命に我慢すると、いかにもと言った風情で振り返る。

「なんかさぁ、この角度にすると首痛ぇ感じなんだよなぁ」

「え~マジか、オレの爺ちゃんみてぇなこと言うなぁ」

「そんなんじゃねぇって、なんか引っ掛かるみてぇな感じすっだけだって」

そう言いながらクキクキと首を動かしてみせる彼の様子にはさして関心が無いのか、清次は蛇口に手を伸ばすと勢いよく顔を洗い始める。

彼――木俣清次(きまたせいじ)は隼太のクラスメイトだ――の祖父はいくつだったろうかと思いながら再度さりげなく花壇を見やると、そこにはもう誰もいなかった。

 

(ちぇっ、お前のせいだぞ)

 

別に声をかけられなかったらと言って彼の望むとおりに振り返ってくれる保証など何もないのに、なんとなく心の中で八つ当たりして見せる。

とにかくどんな些細なことでもいいので切っ掛けが欲しいのだが、少なくともこのひと月或いはふた月ほどの間、隼太の身の上にはそれが舞い降りてくる気配もなく時間ばかりがいたずらに過ぎていき、次第に焦りを覚えつつある彼は少々苛立っていた。

 

「隼太君!」

 

不意に明るくとても朗らかな女子の声が響き、今度はどんな風にごまかそうかと思いながら振り返るが、声をかけられたのは確かに彼のはずだと言うのに、振り返った時にはたった今までザバザバと威勢よく顔を洗っていたはずの清次がなぜかちょっとキリッとした顔で直立していた。

「もう練習終わりなの?」

「と、とりあえず全トレは終わりっす!」

 

(なんでお前が返事してんだよ……)

 

と心の中で彼に突っ込んではみたが、理由など考えるまでもない。

声をかけてきたのが吹輪(ふきわ)いぶきだったからだ。

「え~、じゃあ木俣君はまだ個別やってくの?」

「う、うっす! やっぱ、秋に向けての追い込みなんで!」

 

(お前がそんなに真剣にジュニア選手権目指してたとか聞いたことねえぞ?)

 

それ以外にも、なぜいきなり語尾に『っす』とかついてるんだ? 等々色々突っ込みたいところなのだが、相変わらずキリッを崩さない清次は、そんな隼太のことなどまるで最初から存在していなかったかの如く会話を続けようとする。

にもかかわらず、その努力とは裏腹にいつの間にか周囲にはわらわらと男子――しかも学年を問わずだ――が群がり始め、彼はその他大勢の一人に埋没していく。

「どうしてこう、うちの男どもはどいつもこいつもいぶきが好きなのかしらね~」

横に来た村越が、腕組みをしながら半ば呆れたような声を出す。

「全員ってわけじゃないだろ」

「へぇ~、それはつまりあんたとかって事?」

(なっ――)

図星を突かれてギクッとしたのを無理矢理押さえ込み、平静を装って彼女の顔を見ると、まるで『あんたが考えてること位、全部お見通しよ!』と言わんばかりのまなざしに突き刺されて再びギクッとしてしまう。

 

(ホンとにやな奴だな~)

 

彼女――村越美空望(むらこしみくも)――もまた彼のクラスメイトだが、辛辣で口が悪く男子のうけは良くない。

しかし、容姿だけ見れば黒髪ロングの完璧美女なのだ。

村越の父親は神社の禰宜であり、年末年始や秋の例祭の折などには彼女も巫女装束に身を固めて手伝いをしている姿を見掛けるが、そんな時はハッとするほど美しい。

いわゆる残念美人というのは村越のことを言うのかも知れない。

それにくらべたらそこまでの美女ではないものの、相当可愛くかつ明るくて親しみやすいいぶきに男子の人気が集中するのは仕方ない様な気がする。

 

(まぁ、それでもほとんど全員ってのはどうかと思うけどさ♪)

 

なにせ彼らと同じ二年男子だけならまだしも、三年や一年の男子にまで人気があるのはちょっとどうなんだろうとは思う。

思うものの、先ほど村越に看破された通り自分は違うという気持ちがあるので所詮は他人事でしかなかったし、こんな風に皆が彼をほったらかしてくれる状況というのは逆にとても都合のよいことなのだ。

いぶきを囲んで盛り上がる男子生徒たちの喧騒に背を向けて、スッと抜け出そうとする彼の背に「フン!」というどこか軽蔑した様な村越の鼻息が響くが、無視してそのまま校舎横に向かってスタスタと歩き去る。

一応校舎内にあるロッカーに行くという建前ではあるが、わざわざ校舎横を通り抜けていくのはそこに園芸用の物置があるからだ。

ひそかな期待を抱きながら物置の前までくるが、残念なことにそこには誰の人影もなく、全身が脱力するほどガッカリする。

 

(やっぱりダメかぁ~もしかしてもう帰ったかな……)

 

思わずため息が出るが、こればかりはどうしようもない。

ここまで来て引き返すわけにもいかないので、今日はもうあがるつもりでロッカーに行きかけるが、ことのついでと思い直して校舎裏のトイレに行こうと回り込んだその時だった。

 

(あっ! あっ! ああっ!)

 

つい声が出そうになるのを必死でこらえるが、雲一つない晴れた空から何の前触れもなく雷鳴が鳴り響いた様な驚きと興奮その他いろいろが一気に溢れてきて、挙動不審になってしまう。

 

(お、お、お、落ち着け! 落ち着け、オレ!)

 

誰も居ない校舎裏に一人切りで居たのは、この数ヶ月――つまり二年になってからずっと――隼太が二人きりになるチャンスが欲しいと希い続けてきた五十田穂波(いそだほなみ)だった。

彼女もまた同級生だったが、大人しく前に出たがらない性格らしく、クラスの中ではかなり目立たない存在である。

とは言え隼太の同級生の女子たちといえば、たった今もグラウンドでその人気振り(彼女が斯波中№1であることに誰も異存はないだろう)を発揮している、可愛いうえに明るく朗らかないぶきや、口が悪い残念美人の村越の他にも、成績優秀で堅物のクラス委員だがいぶきに負けないほど可愛く教師うけ抜群の白石雪乃(しらいしゆきの)など、かなり目立つ存在ばかりなので地味な五十田が目立たないのは仕様がないのかも知れない。

 

(でもそれがいい♪)

 

かくいう隼太とて一年の時は五十田に何の関心も無かったのだが、二年の始業式の日に桜の舞い散る中に佇む彼女の姿が突然銃弾の様に彼の胸を打ち抜いたのだ。

 

(あれは――ほんとに奇麗だったよな……)

 

その時の感動を表現することが出来ないのがもどかしいが、村越の美しさやいぶきや白石の可愛さとは全く異なる、可愛さと美しさとが同居した中に不思議な色香を漂わせた彼女は、魅力と言うよりも桜の花びらとともに虚空に消え去ってしまいそうな儚さを帯びていた。

隼太が彼女に抱いた気持ちを恋だと言ってしまえばそれまでだが、もっとストレートに表現するならば、五十田の手をしっかりと握って彼のもとにとどめておかなければ、遠からず幻の様に失われてしまうかも知れないと言う焦りにも似ていた。

そしてたった今、とうとう初めてのチャンスが彼のうえに巡ってきたのだ。

 

(あの袋は――)

 

五十田が一人で格闘していたのは、村営の処理施設から届けられるコンポストの袋だった。

本来は物置に運び込まれていなければならないそれは、どうしたことか校舎裏に無造作に積み上げられたままになっており、彼女はそれを台車にのせて運ぼうとしているらしい。

 

(隼太! これは絶対しくじるなよ⁉ 落ち着いていけ!)

 

彼女が悪戦苦闘している袋にははっきり25kgと書かれており、どう考えても華奢な五十田が持ちあげられそうなものではない。

にもかかわらず、彼女はそれを引きずってなんとか台車にのせようとしていた。

――そう、どう考えてもまたとないチャンスだった。

2、3秒で決心を固めると、思い切って声を掛ける。

「それ重そうだよね、手伝うよ」

「――えっ、あっ、はや――あの、敷島君」

幸いにも落ち着いた声が出せたせいなのか、五十田は必要以上にびっくりするでもなく彼を振り返ってくれる。

「これ、全部物置に運ぶの?」

「う、うん、そう――そうなんだけど、でも――」

「気にしない気にしない♪ だって、どう考えたって五十田さん一人じゃ無理だよ」

隼太がそう口にした瞬間、彼女は心の底からと思われる嬉しげな笑みを浮かべてはにかんだのだが、目の前のことに必死になっている彼は、それに気づかないままいそいそと袋に手を掛ける。

「あ、あの――敷島君ありがとう」

「全然! 全然だいじょぶだから♪」

実際、心が浮き立っているせいなのかその袋の重さなどほとんど感じられない。

さっさと5袋ほど積み込むと二人で物置まで台車を押していき、彼女が扉をあけてくれる。

「し、敷島君、わたしも手伝うから――」

「でも持つのはやっぱり無理だから、五十田さんは台車押さえててくれる?」

「う、うん」

どこかしら遠慮がちでおどおどしている様にも見えるが、それでも行動はテキパキとしており、あれこれ説明しなくてもちゃんと隼太の意図するところを理解してくれている。

 

(ゴメン、五十田さんのこと、もっとトロい子だと思い込んでたよ……)

 

心中でひそかに彼女に詫びつつ彼はコンポストの袋を積みかえ続け、さらにもう一度往復するもののそれは思いのほか早く終わってしまい、五十田が物置の鍵をしめてしまうと、後は隼太がもうひと踏ん張りしなければこのまたとない機会は終了してしまうことにハタと思い当たる。

 

「あ、あのさ――」

「あ、あの――」

 

何とかしなければと口を開いたのだが、偶然なのか五十田もまた同時に口を開こうとする。

「あっ、ご、ごめんね」

「う、ううん、こっちこそ――」

「それで、その――なに?」

「ううん、敷島君から言って?」

「あ、うん――五十田さんは、もう帰るの?」

「うん、もう終わりにしようかなって――」

「そ、そしたらさ、あの、えっと――い、一緒に帰る?」

ありったけの勇気を振り絞って必死に捻り出したその言葉に彼女が一体どんな反応を示すのかなどと、予想して身構える様な準備は全くできていなかった隼太にとって、直後に訪れた十数秒間の静寂は永遠と言ってもいいほど長いものだった。

 

(お願いです! ど、どうか断らないで……)

 

彼の緊張が限界に達する寸前に、遂に五十田がか細い声を出す。

「き――」

「えっ?」

思わず聞き返してしまい、しまったと焦りかけた隼太の前で五十田はさらに俯いてしまうものの、それでもとても小さな声ではあるが言葉を続けてくれる。

「着替えてくるまで待っててくれたら……」

「えっ、あっ、あっ、うん、うん、もちろん待ってるから! ていうか俺も着替えてくるから!」

「う、うん、わかった――その、自転車置場に行くから――」

「それじゃ、あとでその――自転車置き場で」

その言葉が終わるか終らないかのうちに、彼女はまるで逃げるように走り去っていく。

一瞬それを見送りかけた隼太も、我に返るとこれまた一目散にロッカー目指して階段を駆け上がるが、正直に言ってところ構わず転げ回りたいほど舞い上がっていた。

 



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【第一章・第二節】

 冷静に考えると、自転車置場で待ち合わせと言うのは非常に危険だと言うことに気付いた隼太は、しばらくは離れたところから様子をうかがっていた。

だが、どうやら多くの男子達はまだ校庭で個別練習に励んでいるらしく(いぶきに引っ掛かっているだけかも知れない)、五十田が出てくるまでに三年生を一人やり過ごしただけで済んだ。

「あっ、あの、待たせちゃってごめんなさい――」

「まさか! 全然、全然そんなことないから、ウン」

そうきっぱりと言い切ってみせると、彼女は内側からにじみ出る様な笑顔を浮かべる。

 

(うわ、可愛い――)

 

ただでさえ舞い上がっている隼太の心臓はさらにテンションを上げて暴れはじめ、全身の血管に血が勢いよく流れる音が聞こえてきそうなほどだ。

「じゃ、じゃあ帰ろっか」

「う、うん」

揃って頬を紅潮させた二人は、それでも慎重に周囲をうかがいながらそそくさと通用門を出る。

暫く無言のまま急ぎ足に歩いた彼らは、道を回り込んで校舎が見えなくなった途端同時にほーっとため息をついてしまい、思わず顔を見合わせる。

 

「……」

 

「……」

 

「うふっ――」

 

「はは――」

 

「うふふふふふ」

「ハハハハハハ――――ひょっとして、緊張してた?」

「うん――敷島君も?」

「すごく緊張してた!」

「ドキドキしたよね」

「そうだね♪」

全部で60人弱しかいない全校生徒の中で、親類や近所同志でもない男子と女子が二人きりで帰ったりしていれば、あっという間に噂になってしまうのは目に見えており、できれば目撃されたくないと思う(とはいうものの隼太としては望むところではあるが)のが人情と言うものだろう。

「清次とかに見られたら、何言われるか分かんないよ」

「そうだよね――木俣君ってちょっと苦手……」

「あ、わかるな~、男同志だから平気だけど、あいつ何でも勢いだけだからなぁ」

「うん、班学習の時とか全然ペース合わせられなくて――」

「仕方ないよ~、どう考えてもそれ五十田さんのせいじゃないし」

「あ、ありがとう――でも、やっぱりわたし、人に合わせるの苦手だから……」

「五十田さんがそんなこと言ったらさ、もっとトロい子とかどうすりゃいいの? 誰とは言わないけど♪」

「――あっ、誰か分かっちゃった――敷島君ひどい♪」

「別に誰って言ってないからひどくないよ!」

「うふふ、そうだったね♪」

彼女の声はやや小さいものの、隼太のいう事にとても素直に反応してくれるだけでなく、楽しそうな笑顔も見せてくれている。

 

(ひょっとして喜んでくれてる? これって少なくとも嫌われてないってことだよな⁉)

 

そう思っただけでもう今にも体が勝手に踊りだしそうなほど高揚してくるが、そんな自分を必死に抑え込んで何とか普通の会話を続ける。

「五十田さんは園芸とか好きなの?」

「好き――なのかどうか自信ないけど――でも誰かお世話してあげなきゃかわいそうだし、それにお花や木はペースとか合わせなくてもいいから……」

 

(人に合わせられないの、本当に気にしてるんだ……)

 

「五十田さんは気にしてるけど――でも、そんなに遅いとか合わないとか思わないけどなぁ」

「ありがとう、だけど……やっぱりなんだか置いてかれちゃうみたいな気がするから……」

「そう思う人もひょっとしたらいるのかも知れないけど、俺はさっき一緒にコンポスト運んで、全然そんなこと感じなかったよ? まぁその、俺が言ったくらいで急に気が楽になったりしないだろうけど♪」

彼のその言葉を聞いた五十田は頬を少し桜色に染めてはにかみ、心底からの笑顔を見せる。

「敷島君――、とっても、とっても嬉しいよ、本当にありがとう♪」

急に隼太の胸の中に何かがしみ込んでくるような気配が生じ、体の芯がしびれる様な不思議な感覚に包まれる。

彼女の笑顔と言葉が全身を満たしていくような気分で、味わったことのない幸福感が体中に満ち溢れるようだ。

「そ、そ、そんなこと言われるとさ、――なんか、その――めちゃめちゃ落ち着かないよ」

「ご、ごめんなさい、――でも、本当に嬉しいの」

 

(いや、俺の方が絶対嬉しいと思う――ウン)

 

それは今最も確信を持って言えることだ。

なんと言っても、間近で見る五十田は日ごろはほとんど見せないその笑顔も相まって本当に可愛く、しかも彼との会話にもとても屈託なく応じてくれているのだから。

「うん、やっぱり嬉しいよ」

「えっ」

「あっ、いやっ、ご、ごめん、今の独り言だから!」

「そ、そうなの?」

「うん、五十田さんとこんな風にしてるとさ、なんか嬉しくてたまらなくなっちゃって、つい……」

「えっ、えっ、――も、もうやだ、恥ずかしいよ……」

顔を赤らめて俯く彼女がまたどうにも可愛く見えて、隼太は今にも錯乱しそうだった。

 

「あ、あのね?」

「え、な、なに?」

わずかな沈黙を挟んで彼女が口を開いたので、錯乱寸前の状態からいくらかは正気に戻る。

「敷島君は、どうして陸上やってるの?」

「あ……、うん、実はね、五十田さんと同じような理由かなぁ」

「わたしと?」

「うん、人と合わせるのが辛くなったからだよ」

「……本当に?」

「そうだよ、小学校まではサッカーやってたんだけどさ、最初は自分が下手くそなんで迷惑かけたりミスしたりしない様に必死で練習してたんだよ。そしたらさ、そのうち自分がある程度できるようになってきたなぁって思い始めたら、今度は他の誰かがミスったり練習不足だったりするのがすごく気になっちゃってね」

「それでサッカーやめたの?」

「うん、それなりには好きだったんだけど、そんなこと思うようになってきたらなんだかあまり楽しくなくなっちゃって……で、中学からは陸上に変えたんだよ」

「陸上だったら、人のこと気にしないで済むから?」

「まぁ、陸上でも別に自分の好き勝手やるってわけじゃないけどね♪ それでも、自分の競技に集中できるからいいかなぁって思ってるけど」

「そうだったんだ、知らなかった……」

「そりゃそうだよ、ほんとの事話すのは五十田さんが初めてだからね」

「あっ、そ、そうなんだ――ありがとう敷島君。そんな事話してくれて――」

「ううん、五十田さんが自分のことを話してくれたから、あぁ同じようなこと感じるんだって思っただけだよ?」

「それでもいいの、そんな風に普通に話してくれるのが嬉しいから……」

 

(ひょっとしたら、これまでちょっと寂しかったのかな)

 

一年の時も含めて、五十田が特に孤立しているとかいじめに遭っているとかは無いのだが、彼女は大人しいしあまりはしゃぐのも好きではないだろうと誰もが勝手に思い込んでいたかも知れない。

現に今隼太は、彼女が普通に楽しげなお喋りができるのを目の当たりにして意外に感じているくらいなのだ。

だから、本当は皆と一緒に楽しく過ごしたいと思っていても、周囲の思い込みのせいでその輪に入れずにいたのだろう。

「なんか――ごめん」

「や、やだ、なんで謝るの?」

「だって、これまで五十田さんのことよく知らないのに、あんまり喋るの好きじゃなさそうだとか勝手に思い込んでたから……」

「そんなこと言わないで、敷島君が悪いんじゃないから、わたしそんなこと思ってないから――」

彼女の眼差しが急に真剣さを帯び、まるで彼にそんな気持ちを抱かせたことを恐れているようにも見える。

つまらないことを何気なく口にしただけのつもりだったが、それは彼女にとって大事なことだったようだ。

「わかったよ、そのことはもう謝らないようにするから、だから心配しないで?」

「う、うん……敷島君は、本当に優しいね」

「えっ! いやっ! そっ、そんなこと言われたの初めてだよ、なんかすっごく照れるなぁ」

「でも、ほんとだよ」

「いや~、その、ははは……」

 

それ以上返す言葉が無く、二人は思わず沈黙してしまい、そのまま暫く黙って歩き続ける。

ところがそれはあまり長く続かず、間もなく田んぼの際の分かれ道に差し掛かる。

 

「あの、敷島君、わたし帰り道こっちだから……」

「そ、そうだね、俺はこっちだし、その……」

「う、うん……」

 

家に帰るにはここから分かれていくしかないのは当然なのだが、どうしても隼太はこのまま帰りたくなかった。

心の底ではずっと、このタイミングが来た時なんと言うべきなのか考え続けていたのだが、結局なにも思いつかないままここまで来てしまっている。

それはそれとして意外だったのは、五十田もまたこのままそれぞれの家路につくのを躊躇っているらしいことだ。

 

(おい、なんとかしろ! これって結構いい感じだぞ⁉ こんなチャンスもう二度と巡ってこなかったらどうするんだよ⁉)

 

必死に何か良い言葉が無いものかと脳みそをギリギリと音が出るほど絞り上げるが、悲しいくらいに何も出てこない。

しまいには力を振り絞り過ぎて軽いめまいがしてきたその時、突然彼の視界に金色の光が差し込んでくる。

 

(あっ……)

 

夏の太陽は、まだ夕暮れには至らないものの西の空に傾いており、鮮やかな黄金の光が目前に開けた田園地帯をやや茜掛かった金色に染め上げていた。

隼太の目の前に立つ五十田の背後には、すでにたっぷりと穂を付けた稲田が広がり、いくらか涼しさをはらんだ風が、その稲穂をまるで波打つ海の様に揺らしている。

この稲穂が黄金に色づくまでにはまだひと月ほどはかかるはずなのだが、ありったけの光を放つ太陽は、それを一足早く鮮やかな金色に輝かせていた。

 

(い、五十田さん……)

 

彼女の名前は穂波――まさに今、彼が目にしている金色の稲穂の波そのものだった。

そのまばゆいほどの黄金の輝きに包まれて立つ彼女は、輪郭がぼやけてはっきりしなくなっている。

以前聞いたことのある神話に出てくる稲の女神の名前はとっくに忘れてしまってはいたが、それでもたった今彼の目に映る五十田の姿こそは、まさしく彼にとっての女神そのものに見えた。

 

(やっぱり、やっぱり君はいつか――)

 

この地上にひと時降臨した彼だけの女神――もしそれが五十田なのだとしたら、彼が全身全霊をかけてそれを引き留め様としない限り、この金色の輝きとともに手の届かない彼方へと飛び去ってしまうかも知れない。

そんなことだけは絶対にさせるわけにはいかなかった。

数ヶ月の間ひたすらにチャンスを待ち続けた彼にとって、今こそが伸ばしたその手が彼の女神――五十田に届く最後の瞬間になるかもしれないと言うのに、躊躇している場合では無いのだ。

そんな少々現実離れした焦りは、無意識のうちに彼の口をこじ開けて驚くべき言葉を紡ぎ出してしまう。

 

「――ここに――いて欲しいんだ――」

 

「えっ⁉」

 

「――どこにも、行かせたくない――好きなんだ――」

 

「あっ、えっ、えっ、――――あの…………」

 

「…………」

 

「あの――――し、敷島君――」

 

「はっ! えっ! あっ、あっ、お、俺、今そのっ―― ら、らづもねごど……」

 

突然現実に引き戻された彼は、今更ながら自分が何を口走ったのかに気付くと同時に頭が真っ白になってしまう。

もちろんまさか出てしまった言葉を引っ込められるわけもなく(しかも、間違いならともかくこれが本音なのだから余計だ)、ただただ絶句したままその場に立ち竦むことしか出来なかった。

そんな隼太を前にした五十田も、それこそ高熱にでも浮かされているかのように真っ赤な顔で俯いていたが、やがて稲穂が風に揺れる音にかき消されそうなほど小さな声を出す。

 

「あ、あの――――、お、お、おれも敷島君のこど――す、好ぎだ…………」

 

「……………」

 

「………………」

 

 

 

「…………えっ?」

彼女が発した衝撃的な言葉を理解できるまでに、かなりの時間を要した隼太がやっとの思いで聞き返す。

がしかし、それを聞いた瞬間、五十田は見たこともないような素早い行動を見せた。

「し、敷島君! ま、まだ、明日(みょうにち)ね!」

そう一声叫ぶなりさっと一動作で自転車に跨ると、スカートを翻しながら飛ぶような速さで畦道を走り去っていく。

 

「えっ――えっ――、なにその――、まさか――――空耳じゃないよな? ――――えっ?」

 

 

次第に赤味を増す夕暮れの太陽に照らされながら、まるで独り言をつぶやき続ける怪しい立像の様に、彼はその場に立ち尽くすばかりだった。

 



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【第一章・第三節】

 昨日放心状態で帰宅した隼太は、家族から何を言われてもろくに反応もできず、半ば夢うつつのままに一夜を過ごした。

今朝目覚めてからもずっとそんな状態が続いたまま、とにかく良く分からない義務感と彼女に会いたいその衝動のみにかられて練習にでてきたのだが、案の定全く集中できる気配もない。

彼の体は一応トレーニングらしき動きはしているものの、その視線(というか意識)はただただ五十田の姿を追って行ったり来たりするばかりであり、それを周囲に気付かせないようにごまかすこと以外には何もしていないも同然だった。

やがて彼女の姿が見えなくなると、もうここにいる理由がなくなったと感じたからなのか急にけだるくなって走る気も失せたので、さっさと練習をあがる支度をはじめる。

 

「ちょっとぉ、あんた一体何しに来たの?」

昨日に続いてまたも、やや呆れ気味の村越が声を掛けてくる。

「何って――、トレーニングに決まってるだろ」

「何がトレーニングよ、こんな腑抜けたなりでいくら走ったって何の足しにもなりゃしないわよ!」

「だからもう上がるんだよ、集中できないんだから仕方ないだろ?」

「フン! 何が集中できないんだか! 他のことにばっかり集中してたんじゃないの⁉」

 

(なっ――、なんだよ、ほんとにやな事ばっかり言う奴だなぁ)

 

例によって腹の中を見透かしたような彼女の言葉が突き刺さり、ムカッとしてしまうものの本当のことなので言い返せない。

結局いつものごとく無視をするのが精一杯で、口をへの字に結んだまま手早くトレシューをバッグに突っ込むと、さっと立ち上がり校舎に向かって歩き始める。

 

「ちょっと本当の事言われたくらいで、なにカリカリしてんのよ!」

彼女の言葉が背中を追いかけてくるように投げ掛けられるが、すでにそれに取り合うつもりは全くなかった隼太は振り向きもしない。

 

 

「なによ――――バカ……」

 

村越のとても小さな呟きは、無論彼の耳には届くはずもなかった。

校舎内に入った途端に彼は走りだし、一目散にロッカーに辿り着くと急いで着替えをはじめ、秒速で着替え終わるなり昨日と同じ場所で息を潜めながら自転車置場の様子をうかがう。

そして数分と経たないうちに五十田が現れると、意味もなく偶然を装って彼女のもとに駆けつける。

「お、お疲れ♪」

「あっ、あのっ、し、敷島君もお疲れ様……」

どうにかそれだけを口にした二人は数秒間口を噤んでしまうが、ここに長居するのはやはり危険だというのはどちらも分かっていることなので、なんとなく互いの空気が伝わる。

 

「あ、あのね――」

 

「う、うん、帰ろうか」

 

「――うん」

 

そして再び彼らは昨日と同じ行動をなぞり、校舎が見えなくなったと同時にため息をつく。

 

「うふふふっ」

「ハハハ」

 

「これじゃ、昨日とおんなじだよね♪」

「そうだね、おんなじ♪」

 

「明日も――同じがいいな」

 

「う、うん、同じね♪」

 

「2学期始まっても――同じがいいな……」

 

「ずっと――同じがいいね……」

 

思わず五十田の顔を見ると、一瞬だけちらりと視線を絡ませた彼女はそのまま俯いて頬を染める。

隼太の胸の奥に曰く言い難い喜びが湧きだし、たちまちのうちにそれが溢れそうになる。

 

「ずっとだよ――ずっと同じがいい」

力を込めてそう言い切ると、わずかな沈黙の後で頬を赤らめたままの彼女が小さく、

 

「嬉しい――とっても嬉しい……」

 

と呟く。

が、例によって奇声を上げたくなるほどの喜びを感じていた彼は、反射的に死ぬほどくだらない反論をしてしまう。

「言っとくけど、俺の方がずっと嬉しいからね!」

「えぇっ、そっ、そんなことないよ、わたしの方がずっと嬉しいもん」

「いいや違うね、それよりももっとずぅっと俺の方が嬉しいね」

「そんなことないよ! 絶対、絶対わたしの方が嬉しいから!」

 

「――やっぱりそうだね、五十田さんの方がずっと嬉しいよね」

「えっ、あっ、やだ、敷島君ずるい♪」

「ハハハハハ」

「うふふふふ」

 

(あ~夢みたいだ――本当にまだ信じられないよ……)

 

たったの24時間前にはまだ二人ともただのクラスメイトでしかなかったのに、今はもう特別な関係になっているなんて!

 

「でもね――」

「え、なに?」

「やっぱりちょっと不思議」

「そ、そんなに不思議かなぁ?」

「だって――いぶきちゃんや美空望ちゃん、雪乃ちゃんなんかはすごく綺麗だし、男子はみんないぶきちゃんが好きなのに、わたしなんかのこと好きだって言ってくれるなんて……」

と言われても隼太はそれを何も不思議には感じていないし、むしろ五十田が彼のことを好きだと言ってくれたことに奇跡を感じてしまっているくらいだった。

「それでも俺、やっぱり五十田さんがいいんだけどな~」

「えっ、あっ、あの、あ、ありがとう敷島君――」

 

真っ赤な顔をした彼女が恥ずかしそうに俯くのが可愛すぎて、頭の芯が痺れてくる。

 

(待て待て! 今倒れてる場合じゃねぇぞ⁉)

 

幸せに浸っているのはまだ早い、このラッキーをもっとしっかりとした現実にしておきたいのだ。

「あのね、お願いあるんだけど――いいかな?」

「な、なあに?」

「うん、――そ、そのぉ――ほ、穂波ちゃんって呼んでもいい?」

「あっ……」

 

桜色ほどにまで回復していた五十田の顔が、再び真っ赤に染まる。

 

「だ、だめ?」

「う、ううん、その――あの――」

 

聞き返したくなるのをじっと我慢して彼女の返事を待っていると、やがて少しずつ赤味が薄れ始めたその顔が上がり、恥ずかしそうな小さな声で応えてくれる。

 

「二人の時だけだったら――」

「あ、う、うん! 二人の時だけだよ、約束するよ」

「うん、お願い――わたしもね、隼太君って呼ぶから……」

 

(は、隼太君……)

 

彼が女子から名前で呼ばれるのは、別に五十田が初めてなわけではない。

たとえば吹輪いぶきはいつもごく自然に『隼太君』と呼びかけてくるし、彼女の性格のせいなのかあまり不自然さを感じない。

それにいつ頃までだったかは忘れてしまったが、村越は彼のことを『隼太!』と呼び捨てにしていたこともあった。

同じ陸上部だと言うこともあったのかも知れないが、それがいつの間にかなくなり、最近では『あんた』呼ばわりがほぼ定着している。

 

(でも、なんか――ときめかないよなぁ~)

 

それに比べると、いま五十田――いや、これからは穂波ちゃんだ! ――が口にした『隼太君』の響きのなんと甘いことか!

もしもう一度恥ずかしそうにそう呼ばれたら、そのまま溶けて水になってしまいそうなほどだ。

思わずにやけて顔面が土砂崩れを起こしそうになるが、それを必死で我慢すると何とか会話をつなげる。

「わかった、二人の間だけで使うって約束するよ――穂波ちゃん」

そう言った途端彼女はみたび真っ赤になったうえに、今度はそれだけではおさまらず、立ち止まって俯くと消え入りそうな声を出す。

「恥ずかしい――すごく恥ずかしいよ――だけど――すごく嬉しいの――隼太君……」

 

(ど、ど、どうしよう――俺もめっちゃ嬉しい……)

 

「あ、あのさ、――今度こそ俺の方がずっと嬉しいからね!」

「おんなじだよ――おんなじくらい嬉しいよ――、隼太君とおんなじ」

「うん、――そうだね、おんなじだね――穂波ちゃんとおんなじくらい嬉しいよ♪」

「うん♪」

 

さっきから二人は同じ同じと連呼しているだけだと言うのに、それがたまらなく嬉しい。

彼の言葉に一つ一つ反応してくれる穂波がいてくれることの喜び、彼女の笑顔が可愛くてどうしようもない喜び、そして穂波が自分だけの特別な存在になってくれたことへの喜び――数え上げていけばきりがないその喜びが、隼太の全身を嬉しさ一色に染め上げていた。

 

 そして何を話したのかもよく分からない時間は飛ぶように過ぎ去り、瞬く間に二人の帰り道が分かれる時が来る。

ここで昨日は名残惜しげに立ちすくんだわけだが、今日の二人にはすでになすべきことが分かっていた。

生徒手帳のメモ欄を破いた紙に、彼らは互いの端末アドレスを走り書きして交換する。

これで二人は学校と言う場を介さずとも連絡が取れるようになったわけで、いわば互いに特別な関係になった証の様なものだ。

 

穂波がその証を大事そうに胸に抱いて帰っていくのを見送った隼太は、やはり同じようにその紙切れを大切に持ち帰る。

食事や風呂と言う日常を気もそぞろに通過した彼は、その夜自室の机の上で、いささか緊張しながらそのアドレスを登録する。

余談になるが、隼太が幼いころまではスマホというものが普及しており、今の彼の年頃の中学生たちはみなそれを持っていて、家と言わず屋外と言わずどこででも通信アプリを使ってメッセージや通話のやり取りをしていたのをかすかに覚えていた。

しかし戦争によって社会情勢が大きく変化した結果、現代では携帯可能な端末と言うのはごく限られた人しか使用できないものになっており、彼らの通信手段はもっぱら各家庭の電話回線にぶら下がる形で設置されている個人用の通信端末へと変化していた。

 

(――あっ!)

 

彼がアドレスを登録し終わったのを見ていたかのように、穂波からのメッセージが届く。

『隼太君、今日はありがとう』

『穂波ちゃんこそありがとう♪』

『明日も練習行くの?』

『そのつもりだよ、穂波ちゃんも行く?』

『うん』

『じゃあ、明日も一緒に帰れるのかな』

『うん、だけど、待ち合わせ場所考えないとね』

『当分自転車置き場で良いよ! 俺、ずっと待ってられるいい場所知ってるから♪』

『うふふ、隼太君なんか怪しい♪』

『あ、怪しくないよ!』

 

しばしそのやり取りに夢中になっていた彼らは、またしても時間をすさまじい勢いで消費してしまったことに気付く。

『あっ、もうこんな時間』

『あ、やべ、まずい』

『それじゃあね隼太君、また明日ね♪』

『うん、おやすみ穂波ちゃん』

『おやすみなさい、隼太君』

 

その最後のメッセージを、彼は長い間じっと見つめていた。

ただその顔はシリアスとは程遠く緩みきっており、見つめていたなどと言うちょっと文学的な要素など何もなく、ひたすらニヤついていただけではあったが……。

とにかく、こうして彼の生涯で最も幸福であろう一日は過ぎていった。

 



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【第一章・第四節】

 そして翌日も彼らはひそかに待ち合わせると、二人だけの帰り道を辿る。

話題が昨日から大きく変わったわけではないが、それでも二人は1秒1秒を惜しむかのように話し続け、この日もまた同じように瞬く間に分かれ道にまで来てしまう。

「あっ、もうここまで来ちゃったんだ」

「本当――、いつの間に……」

 

「なんか、時間経つの早いね」

「うん、すごく早くてびっくりするよね」

「やっぱりさ、楽しい時間ってあっという間に過ぎるって言うから?」

「そうだね、ひょっとしたらそうなのかな♪」

「穂波ちゃんもそう思う?」

「うん――だって、楽しいから」

「えへへ、俺もすっごく楽しい」

そう言った隼太の顔を見上げた穂波は、再びあのにじみ出てくるような笑顔を浮かべる。

 

(なんだろう――なんでこんなに可愛いんだろう♪)

 

彼女を好きだからそう見えるのか、それともそれ程可愛いからこそ好きになったものか、すでにその魅力の虜となっている彼にとってはおそらく命ある限り結論の出ない問いかけかも知れない。

 

「来週、もう始業式だね」

「そうだよな~、2学期始まっちゃうんだよねぇ」

「なんか――ちょっと緊張しちゃう……」

「あっ――そうだよね、学校にいる時はなるべく気を付けるからさ」

「う、うん、わたしも気を付けるね」

とは言うものの、きっとバレるのは時間の問題だろう。

在学中に一切誰にも知られることなく交際していて、卒業してからはじめてそれがわかったなどと言う先輩の話なども伝え聞いているものの、こんな風に一緒に下校していればどれだけ秘密にしたくても1ヶ月ともたないかも知れない。

 

(俺は別に平気だけどな……)

 

言うまでもないことだが、隼太の問題ではなかった。

他の生徒達からの好奇の視線にさらされることは、大人しく引っ込み思案の穂波にとってはたいへんな苦痛のはずだ。

「あのさ、やっぱり一緒に帰るのはやめとく?」

 

「――ううん、それはしなくてもいいよ」

「でも、多分すぐばれちゃうと思うよ」

「それでもいいの、隼太君と一緒に帰りたいから……」

 

(うわっ、――ど、どうしよう)

 

理性も何もかもかなぐり捨てて、今すぐはにかんだように俯く彼女を力一杯抱きしめたいという衝動が体の奥から湧き上がってくる。

後年、今よりもかなりボキャブラリーが充実した彼は、はじめてこの時の感情が『愛おしい』気持ちなのだと懐かしく思い出すことになるのだが、それはまた随分先の話になる。

とりあえずたった今の隼太は、その狂おしい気持ちを必死で抑え込まなければならなかった。

 

「わかった、穂波ちゃんがそう言ってくれるんだったら、俺ももうバレるの気にしないよ」

「――うん♪」

 

そう言ってこくんと頷く彼女の表情は、これまで隼太が知っていたよりもずっと明るく見える。

彼と付き合い始めたと言う事実が穂波を少しずつ変えていることは間違いないのだが、さすがにそれを敏感に感じ取れるほど隼太は鋭い方ではない。

とにかくこれで心構えができたと感じた二人は、そのまま朗らかに分かれてそれぞれの家路についた。

そしてもちろん夜になれば互いの端末でチャットを続け、それは週末も続いた。

 

 そんな彼の様子に家族が気づかぬはずもなく、夕食の席で義姉が話を振ってくる。

「隼ちゃん、なんがおもしぇこどあったのが?」

「えっ! ――ん、んにゃ、なんもね」

「隼太は、昔がらうそこぐのが下手ぐそだねぁ」

兄がにやにやしながら言うのでムカッとした隼太が言い返そうとすると、それと察した母が先手を打つ。

「鷹雄も、人んこど言えだ義理でゃーねぁに」

「あぃやー、あっぱにゃかなわねぁーな、ハハハ♪」

カラリと笑った兄に隼太がムカっ腹を鎮めたのを見計らった義姉が、突っ込んだ言葉を投げかけてくる。

「ひょっとしで、隼ちゃん彼女でも出来たんでゃねぁが?」

 

(なっ!)

 

図星を突かれた彼は、思わず絶句する。

「なぁんだ、やっぱりそだったんがぁ、隼ちゃんはもでっからより取り見取りだな♪」

実は義姉のこの言葉は村の女たちにとって単なる事実に近かった。

彼が斯波中の女子に結構な人気があるのはこの辺りの女達の間では知られたことなのだが、彼女達は目立つわかり易いことをするわけではないため、隼太自身を含めて村の男達でそのことに気が付いている者はほとんどいない様だ。

なので、彼は義姉にからかわれたのだと思ってムスッと仕掛けたのだが、そこに今まで話しに入れずにいた浪江(なみえ)が突然声を上げる。

「ほんどが? あんちゃんはそったらもでるのが⁉」

「ほんどだぞぉ、隼ちゃんはうんともでるんだぞぉ♪」

「あんちゃん、あんちゃんはすげえな!」

 

無邪気な笑顔でそう言われては、隼太も怒るわけにはいかなかった。

「んだぞぉ、おめもあんちゃんのこどでゃあ好ぎだもんな♪」

そのうえ、義姉にそう振られた彼女が頬を赤くして俯くのも悪い気はしない。

浪江は兄夫婦の一人娘で今はまだ9才だったが、幼い頃からあんちゃんあんちゃんと隼太にまとわりついてきたこともあり、彼にとっては実の妹も同然の存在だ。

強いて言うなら地味でごく普通の顔立ちであることがやや残念なくらいだが、だからといってもしも浪江がびっくりするほど可愛かったりしたら、それはそれできっと落ち着かないのだろう。

 

「誰だべなぁ、やっぱクラスの子が?」

「あれだ、一番めげぇいぶきちゃんでねぁーの?」

「それぁこどだ♪ そったらこどしだら、男子全員からやがねるぞぉ」

楽しげな揣摩臆測を続ける兄夫婦に肴にされ続ける隼太は次第に腹が立ってくるが、そんな彼の様子を見計らったものか、それまでずっと無言だった父がごく短く口をはさむ。

「鷹雄、そんぐらいにしどげ」

普段口数の少ない父の言葉は彼ら家族にとっては絶対だった。

兄は一瞬で口を噤み、義姉も少し居住まいを正したほどだ。

「ほにほに、浪江も気が気でねぁーよな♪」

そしていつものことだが、母が絶妙のタイミングでフォローを入れてくるのもまた彼らにとっての予定調和だ。

実際浪江はホッとした様な顔で母と隼太の顔を見比べており、そのいかにも邪気のない様子に食卓の空気も再び和む。

 

(こんなこと言ってくれるんだな……)

 

彼は心中ひそかに父に感謝する。

それから幾許もなく夕食は終わり、それなりに心穏やかになった隼太は自室に戻ると再び机にかじりついた

 



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【第一章・第五節】

 一夜明けた翌日、約ひと月ぶりに制服を着て登校する。

始業式での校長の話をうわの空で聞き流した彼にとっては、その話の中で触れられた現在の戦況や戦争の先行きについてのことなど存在しなかったも同然だが、彼に限らず海から遠いこの土地にあっては、戦争そのものに対する関心はお世辞にも高いとは言えなかった。

とは言うものの、斯波中全員がそうだと言うわけではないらしい。

 

式を終えて教室に戻った彼らは、久しぶりに全員が揃った教室のその空気のせいなのか、わずかな休憩時間にもかかわらず夏の思い出話に花を咲かせる。

「それにしても、敷島君ほんとに真っ黒ね」

「ほとんど毎日練習きてたからなぁ」

そう言う白石もうっすらと日焼けしている様だ。

「でも、白石さんもちょっと焼けてない?」

「あっ、わかる? 結構日が経って褪めてきたと思ってたんだけど」

隼太が指摘したことの何が良かったのか分からないが、彼女は少し嬉しげな笑顔で応じる。

1学期のあいだ成績優秀な白石が隣の席だったおかげで、あまり勉強熱心とは言えない彼はずいぶん助けられたと思っており、普通にと言うかそれなりに好意的に接しているが、特にいぶき派の男子達から彼女は過剰なまでに『堅物』扱いされている様に感じる。

 

(でも、なんかそこまでは思わないんだけどな~)

 

こんな風に雑談も普通にするし、見ようによっては皆が寄ってたかってちやほやするいぶきよりも可愛いのではないかと思うほどなのにだ。

「ひょっとして、どっか旅行でも行ってたの?」

「まさか! 夏に旅行なんて無理よ♪」

無論彼もそれを知らないわけではない。

田に稲がある間に家を空けて旅行する家庭はまずないだろう。

それは白石の家族であっても変わらないはずだが、一応聞いてみただけだ。

「でも、旅行じゃないけどちょっと出かけてきたのよ」

「へ~、どこに?」

「あのね、海軍主催の体験会とボランティアに行ってきたの」

「えっ⁉ 海軍の?」

「そうよ、仙台港に軍艦が入港してて、艦内見学や軍務体験をした後で避難訓練のお手伝いをしたのよ♪」

「避難訓練って?」

「敷島君、もしかして知らないの? 避難訓練は国民の義務なのよ?」

「あっ、いやぁその~――、ごめん、知らなかった……」

 

叱られると思っていた彼の予想を裏切って白石は逆ににっこりと笑顔になり、

「敷島君はやっぱり素直なのね、大事なことなんだからちゃんと覚えててね♪」

などとまるで家庭教師(もちろん、ドラマなどで見たやつである)の様な事を言う。

だがこれは特段に珍しいことでは無く、1学期の間を通じて隼太と白石の会話は概ねいつもこんな調子であり、あまり出来のよろしくない生徒と優しく熱心な家庭教師の関係とさしたる違いは無かった。

 

「あのね、沿岸部の自治体とそこに住んでいる市民は、年に1回以上は敵の襲撃に備えて避難訓練を実施することが法律で決まってるの。その訓練のお手伝いをするボランティアもしてきたのよ」

「それって、市民が全員参加で一斉にやるの?」

「そうよ、法律で認められた理由のある人以外は全員よ、自治体ごととか地区ごとに日を分けてやるんだけど――っていうか敷島君はちょっと無関心すぎるわね♪ 今は戦争中なのよ、わかってる?」

「う、うん、そのまぁ一応は……」

「一応だなんて――軍の人に言ったら叱られるわよ? 毎年たくさん戦死者が出てるのに、私達も何かできることでお手伝いするのが――」

「なんだよ、また説教してんのかぁ白石は~」

 

彼女の言葉をさえぎって、清次が割って入ってくる。

「隼太もいちいち全部聞いてやらねぇでもいんだぞぉ、委員様に任しときゃいんだからよぉ~」

 

いぶきに対する態度と比べると、正反対と言っていいほどひどい言い草だった。

さすがにちょっとたしなめてやろうと彼が思った矢先に、今しがたまでとは打って変わって厳しいまなざしを清次に投げかけた白石が固い声を上げる。

「木俣君は論外ね! 敷島君はただ知らないだけでちゃんと素直に聞き入れてくれるのに、頭からバカにして聞こうとしないなんて全く処置なしだわ⁉」

「へいへい、それで全然ケッコーだし~、まぁせいぜいお国のために頑張ってくれりゃいんでねーのぉ」

太々しいその態度は、いくらなんでも度を越している。

「おい、いい加減に――」

「ナニ寝ぼけたこと言ってんのよこのバカ清次! お国どうこう以前にあんたがそもそも斯波中のお荷物の癖に!」

 

そう隼太が口に仕掛けた言葉をさえぎって、耳に突き刺さる様な鋭い叱声が背後から飛んできたので思わず振り返る。

そこには腕組みをして仁王立ちになった村越が、親の仇でも見るような目つきで清次をにらみつけていた。

「お~こえこえ、神さんにまで叱られちまったぁ♪ 隼太ぁ、おめーはなんで平気でしゃべってられんだぁ? なーんかよくわかんねぇわほんとぉ」

 

そんなことより、彼にとっては清次がなぜ白石や村越に嚙みつかれても平然としていられるのか、しかもそのすぐ目の前でいぶきにデレまくれるのはなぜなのかということの方が全く理解不能だった。

「フン! 全く、何度言われても懲りないヤツよねぇほんとに!」

「うふふ、でもありがとう村越さん」

「別にいいのよ、それにしても普段からあんないい加減なことしてて、いぶきの前でだけ取り繕って恰好つけて見せてたら好かれるとか本気で思ってるのかしらね」

「ほんとね、バカみたいね♪」

「『みたい』じゃなくて本物のバカよ!」

 

(うぅ、こわっ! ……でも本当だから仕方ないか♪)

 

白石と村越が特別に仲が良いわけではなくて、クラスの女子同士はみなそれなりに仲が良く、彼ら男子たちの一挙手一投足はほとんど筒抜けなのだ。

それを知っていればこんなあからさまな手のひら返しなど無駄な努力どころか、かえって嫌われることぐらいわかりそうなものだが……。

 

「それはおいとくとしても、こいつにあまりためになる話とかしても無駄だと思うわよ? さすがにあのバカほどじゃないけど、それでも結構なおバカなんだから」

「おい、言い過ぎだろ⁉ なんかついでみたいにバカバカ言うなよ!」

「そうよ村越さん、敷島君のこと同じ扱いしたらいくら何でもかわいそうだわ♪」

なんと白石は笑顔で隼太のことを擁護してくれる。

ありがたいと思う反面、彼にとってはたいへん意外だった。

「やれやれね♪ 雪乃も買い被り過ぎよ、こいつだって十分ロクなもんじゃないと思うわよ? ま、いいんだけど」

一体彼が村越に何をしたというのだろうか?

ずいぶん嫌われたものだが、これといって心当たりがあるわけではない。

まぁ彼女の口の悪さは今に始まったことではないので、彼にとってもこの期に及んで真剣に悩んだりすることではなかった。

「おら~席さつげー」

その時担任が声を上げながら入ってきたので、彼らは慌ただしく席についた。

 

 その後は新学期にお定まりの課題提出や連絡事項などのほかに、これまたお定まりの席替えが行われた。

もちろん彼の関心は穂波の席がどこになるのかだけであったが、それでも隣の席になりたいと思う反面、もしそうなったらどう接すれば良いのかについてモヤモヤしているのも事実だ。

 

(そうなんだよな~、最初からばれちゃってたらもう気にする必要もないんだけどな……)

 

などと心配していたのだが、結局それはただの取り越し苦労に終わる。

穂波の席は彼の右斜め後ろというなんとも微妙な場所になり、白石やいぶき、清次らは遠ざかり、左隣に村越が来るというこれまた微妙な配置になった。

 

「なんか心配して損したぁ~」

「でも良かった♪ 隣とかになったらどうしようって思ってたから」

 

再び帰り道で自転車を押しながら、彼らは席の感想を言い合う。

「そうなんだよな~隣り同士になりたい様なそうでない様な――って感じだったからさぁ」

「って言うか、わたしは隣にならないでってずぅっと祈ってたよ」

「え~でもなったらなったでそれは嬉しくない?」

「ううんやっぱり無理。だってみんなの前でこんな風にお喋りとかするわけにいかないし、だからって無視して知らん顔してたらすっごく不自然だし――どうしていいのか分からないから……」

「なるほどねぇ、確かに穂波ちゃんの言う通りだな~、不自然じゃないくらいに当たり障りなくしゃべったりとかしなきゃいけないって言われると、結構むずかしそうだね」

「うん、だからちょっとホッとしちゃったの」

「でもさ、それってつまり公認になっちゃえばもう迷う必要ないってことだよね」

「ええっ! そ、そんなの恥ずかしいよ――」

「ははは、やっぱり無理かぁ♪」

「そ、そうだよぉ」

 

ただ、そう言いながらも穂波はどことなく嬉しそうで、恥ずかしいのは間違い無さそうなのだが隼太と付き合っていることを誰にも知られたくないと固く思っている様ではない。

「でも――いつかは分かっちゃうんだよね……」

「そうだね、そんなに先の話じゃないよね」

「そうなったらどうしたらいいのかな――本当に毎日どうしたらいいのかな……」

「成り行きでいんじゃないかなぁ」

「えっ、そんな成り行きなんて……」

「だってさ、自然とか不自然とかって悩んでたら楽しくないよ。せっかく穂波ちゃんと付き合えるようになったのにさぁ」

思わず彼が本音を口に出すと穂波はわずかに頬を染めて視線を泳がせるが、数秒後には顔を上げて笑みを見せる。

「隼太君の言う通りだね。わたしもやっぱり楽しいほうがいいな、いっぱい楽しいことしたいね」

「そうだよ! だからさ、あんまり考えすぎないようにしようよ♪」

「うん♪」

その明るい声に気が緩んだ隼太は、まだ切り出すつもりのなかった事をつい口にしてしまう。

「い、一緒にさ、その、どっか行きたいな……」

 

「あっ――、う、うん、そうだね……」

 

さすがに早すぎるんだろうか?

でも付き合いはじめてどの位経てばこんな話を切りだしていいのか、教えてくれる相手がいるわけでも無い(兄に聞いたりすればまたからかわれるだけなので何があろうと聞くつもりは無い)ので、彼女の好意を信じて正直に振る舞う以外の方法は思いつかなかった。

 

「ご、ごめんね、やっぱりまだ早いよね――」

 

「そ、そんなことないよ! わ、わたしも隼太君とどっか行きたいよ――でも――」

 

「でも――?」

 

「父と母にちゃんと話してからじゃないと……」

 

「そ、そうか、そうだよね! お、俺もちゃんと言っとかないとなぁ」

「そうだよ、隼太君もご両親にちゃんと話してね、わたしもちゃんと話しするから」

「えへへ、ひょっとして猛反対されたりして――」

「うふふ、絶対そんなことないよ♪ ちょっと驚かれるかも知れないけど」

ただし穂波のこの心配は杞憂だった。

彼らが二人で下校する姿はすでに目撃されており、穂波の母親にそっと告げた者がいたからであるが、それはまだ斯波中の生徒達が知るところでは無い。

どちらにせよこれで隼太もまた彼の両親に穂波のことを話さねばならなくなったのであり、彼にとっては少々悩ましいことであるのには違いなかった。

 

(まぁ、お袋に話しとくかぁ)

 

父がそもそもこんな話に興味を持つとは彼には到底思えなかった。

 



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【第一章・第六節】

 その週末、母が一人の時を見計らって隼太は穂波との約束通り話をしたのだが、あまりにもあっさりとした反応に拍子抜けしてしまった。

 

(何だよ、まるで知ってたみたいだなぁ~)

 

もちろん彼の勘は正しく、穂波の母親からすでに連絡が入っていたのだが、それは全く表には出すことなく一通り話に耳を傾けた母は微笑しながら口を開く。

「そかぁ、隼太は穂波ちゃんのどごがよがったんだ?」

「えっ、どごってかぁ……」

 

しばし口を噤んだ彼は、やがてとても正直な答えを返す。

「どごとか言えねけど、なんもしねぇでいたら遠くさ行っちまうみでぇな気がしだんだ」

それを聞いた母はなぜかウンウンと頷くと笑顔のままで隼太に言葉を投げ掛ける。

「そかぁ~、そだったらうんとしっがりつがまえとがねどなぁ♪」

「う、うん、わがった」

どうにかそれだけを言って母の前から下がったものの、何もかもを承知しているかのような母の振る舞いに首をかしげるばかりだった。

 

(でもなんか嬉しそうだったなぁ)

 

実際のところ母が喜んでいるのは間違いない。

村の女達の間では、派手さがなく草花の世話を丁寧にする穂波の評価はとても高く、我が息子が眼先の華やかさに囚われることなく、母の目から見ても恐らくベストと思われる選択をしたことが誇らしかったのだ。

内心では、このまま数年の後には穂波が息子のもとへ嫁に来てくれれば良いとまで思っているものの、さすがにそこまで先走って期待するわけにも行かなかった。

 

 そんな大人達の思惑をよそに、隼太と穂波は互いに結果を報告しあいながら早速どこへ出掛けようかと心浮き立つ様な相談をしていた。

「あのさ、あれ観に行かない? 今やってるやつ」

「えーっ⁈ あれってすっごく切ないやつでしょ?」

「うん、なんかラストでめちゃめちゃ泣けるって言ってるよね」

「あのね、花巻の従妹の子が観に行ったんだって」

「へ~そうなの?」

「うん、そしたらね、ラスト近くで彼女を抱き締めようとするんだけど、その腕の中からスーッと消えて行っちゃうんだって……そこでもうボロ泣きしちゃってその後よく覚えてないって♪」

「あっ、そうなんだ、それってマジで泣きそうだなぁ」

「でしょう? わたし、今でももう涙目だもん」

「やっぱりさぁ、それ観に行こうよ、泣いてる穂波ちゃん見てみたいな~」

「やだ、隼太君のいじわるぅ」

「ハハハ、でも泣いてる穂波ちゃんもすっごくかわいいんだろうなって思っちゃうからさぁ♪」

「も、もうやだ、隼太君ったら……」

 

二人の楽しげな相談はその週末だけでは終わらず平日の帰り道に持ち越しとなったが、結局初デートは1週間後に盛岡の街で映画を見ることに決まった。

 

『あ~ダメだ、楽しみ過ぎてどうにかなりそうだよ~♪』

『うふふ、わたしもだよ♪』

 

彼らだけの楽しい秘め事にのめり込んでいる二人にとって、その1週間はまさに飛ぶように過ぎていっただけに思えたが、彼らの周囲には微妙な変化がおきつつあった。

例えば、毎日必ず聞くことができるいぶきの『隼太君!』が心なしか以前より増えており、いぶき派の男子達は少々心穏やかではない。

また、清次が白石に絡む事も少しばかり多くなり、そのたびに村越をはじめとする女子達から激しい非難を浴びせられていたが全く意に介していない様だった。

そしてその影響なのか、席が離れたにもかかわらず白石が隼太にたびたび話しかけてくるようになり、しかも時折なにやら恨めしそうな眼差しを向けられることもあった。

とは言え隣の席の村越などは相変わらず彼の言動に対してケチをつけたり辛辣に突っ込んできたりするので、それに応じて言い返したりしながら通常運転を続けている隼太にとって、それらの変化は感じ取れるほどの大きさではなかった。

 

そして瞬く間に日々は過ぎ、待ちに待ったその日はやってくる。

 

 前夜はそれなりに早く床に就いたもののまともに寝付くこともできなかった彼は今朝も早々に目が覚めてしまったが、気持ちの昂ぶりからか全く寝不足を覚えなかった。

顔を洗いに1階に降りると、やけに半端な時間にもかかわらず母が朝食の準備をしているので思わず聞いてしまう。

「誰のあさまご飯、支度してらんだが?」

「そったなの決まってら、おめのあさまご飯だぁ」

 

(えっ……)

 

父と兄は既に田に出ておりとっくに朝食を済ませているが、普段であれば義姉と浪江及び彼の朝食はもう少し後のはずである。

(わざわざ俺のために用意してくれてるのか……)

そもそも今朝は朝食をあきらめていた隼太だったが、母がここまで気遣ってくれることに驚くとともに、何より穂波との交際を後押ししてくれているということにも気づく。

 

(ひょっとすると、穂波ちゃんって大人受けするのかな?)

 

その想像が果たして正しいのかどうかいちいち確かめることまでするつもりもなかったが、母(の反応を見ている限りではおそらく父も)が穂波を認めてくれていることはもちろん交際にも否定的でないことはとてもありがたかった。

もっとも、あまり積極的に後押しされるのはさすがに抵抗はあるのだが……。

ともあれ「しっかり食っていぎな~」という母の勧めに従ってがっつり腹を満たした彼は、少々武者震いしながらいそいそと家を出る。

ところが、いざ出発しようとしたところに離れから義姉と浪江があらわれ、明らかにどこかへ出かけようという様子を見て取った浪江がさっそくまとわりついてくる。

「あんちゃんどこさ行ぐ⁉ 浪江も行ぎで!」

「今日はあんべわりぃでへでがれね、まだ今度へでぐすきゃ~」

当然だがここでゆっくりかまっていられるほどの余裕はなく、まして彼女を連れて行けるわけもないのであっさりといなして出ていこうとするが、浪江はそう易々とは離してくれない。

「なしてだ? なしてわがねだ? 浪江が行げねぁ所か?」

子供には違いないものの浪江は別にバカではないので、彼がこれから盛岡や花巻辺りの街に行こうとしていることくらいは予想がついているのだ。

ただ、いくら浪江相手とは言っても目的をはっきり言うのは少々気恥ずかしく、隼太は一瞬躊躇する。

そんな様子を感じ取った義姉が横から助け舟を出してくれた。

「隼ちゃんはこれがらデートだがら、おめはへでがれねんだ~」

と言うと浪江は一転して、

「あんちゃん、デート行ぐのか⁉ ひょっとしで穂波とが⁉ チューとがもすんのが⁉」

と彼が赤面するようなことを口走る。

「ばっ、バカ言ってんでね! んなわげねだぁ!」

思わず必死に打ち消すとさすがに義姉も呆れたように、

「こらぁ、からこしゃくなこどばぁか言ってんでね! 隼ちゃんが弱ってるでわらすはおじょってな!」

と強くたしなめてくれたので不承不承ながら浪江も引き下がる。

内心胸をなでおろした隼太は、義姉に礼を言ってさっさと自転車に飛び乗ると待ち合わせ場所に急ぐ。

 

 神社の一の鳥居前につくと、穂波はすでにそこで待っていた。

「ごめん! 待たせちゃったかな?」

「ううん、そんなことないよぉ今来たところだし――それにまだ待ち合わせ時間じゃないよ♪」

「あっ、そ、そだねぇ」

「うん♪」

そう言ってにっこり笑った穂波は、袖が開いた純白のカットソーにマリンブルーのジャンパースカートという、いかにも彼女らしい大人しくも涼しげな姿で、真っ白な襟元と幾分か日焼けした小麦色の素肌のコントラストが目に沁みるほど眩しい。

 

(可愛いい……可愛いすぎるよ……)

 

彼女を見つめているうちに、顔面の筋肉が全て溶けてしまい顔のパーツが流れ出してしまったような錯覚に陥る。

「は、隼太君、あんまりじっと見ないで……」

「はっ、あっ、その、えっとごめん――穂波ちゃんがあんまり可愛いからつい……」

「えっ、やっ、やだ隼太君たら……」

ひとしきりそんなやり取りをした彼らは、間もなく最寄り駅に向かって出発する。

最寄りとはいっても自転車で30分以上はかかるのだが、これから始まる一日を思って心が湧きたっている二人にとってはその前置きにすらならないほどあっという間だった。

駅の横にある駐輪場に自転車を止めるが、二人の自転車をチェーンで一緒にロックするのが地味に嬉しい。

「なんか変だよね、こんなことで嬉しくなっちゃうなんて……」

「えっ、変なの? 俺、素で嬉しかったんだけど」

「うふふ、そんな風に喜んでくれることの方が嬉しいよ♪」

「えへへへ♪」

ひょっとすると傍目にはただのキモいやつなんだろうかなどと思わないでもないが、嬉しいのだから仕方がないと開き直る。

そもそもほんの数週間前までは、他人のこんな様子を見て羨ましいやら腹が立つやらのやるせない想いをしていたのだから、少しくらいは調子こいたって許されるだろう(と隼太は勝手に思っている)。

 

もともと乗降客の少ない駅で、しかもまだ少し早めの時間ということもあってホームには彼ら二人以外の人影はない。

間もなくやってきた二両編成の各駅停車もそれなりに空いていて、クロスシートに座った彼らは車窓を流れていく田園風景を眺めながらとりとめもないお喋りを楽しむ。

「わたしね、この風景が好きなの」

「うん、俺も好き」

「隼太君もなの?」

「うん、なんてゆーかさぁ――妙に安心するんだなぁ」

「そうだよね、なんかホッとするよね」

「別に何があるってわけでもないんだけど――でもこの景色がいいんだよな~」

確かに目の前に広がるのはただただ田んぼばかりで、その中にぽつんぽつんと小さな森や民家が点在し、それらの向こうには奥羽山脈の山々がある緑豊かではあるが少々単調な風景だった。

でもそれは彼らにとって退屈な存在ではなく、故郷なのか、家なのか、常に帰るべき場所なのか、あるいはそれら全てなのか、適当な言葉では表現しがたい存在なのだ。

しばし二人は無言になり、その穏やかな眺めに心を委ねる。

とは言えそれは感傷に浸るほど長い時間ではなく、やがて民家や建物が増え始めたと思う間もなく列車は新幹線の線路をくぐり、雫石川を渡る鉄橋に差し掛かる。

「あっ、もう着いたのか」

「ほんとだ、あっという間だったね」

彼らの地元駅とはさすがに違い、県庁所在地の中心駅らしい喧噪の中をかいくぐって出た駅前のロータリーは、まだ夏の名残を感じさせる陽射しがいっぱいに降り注いでいた。

「じゃ行こう! 今からならあさイチの上映にぴったり着けるよね」

「うふふ、だってそれに合わせてきたんだよぉ♪」

「いやそれはそうなんだけどさぁ~」

「行こう隼太君、こんなに映画見るのが楽しみなの初めてだよ♪」

「うん、俺も♪」

二人はそれこそ地面から10センチほど浮いているのではないかと思うほど軽やかな足取りで、白い鉄橋を渡っていった。

 



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【第一章・第七節】

 市内で唯一のシネコンはそれなりに賑わっているはずだがあさイチの上映だけにかなり空いており、そのおかげで彼らはかなり良い席を取ることができた。

ただしあくまでも彼らにとっての良い席なのであって、スクリーンの見易さよりも他の客に煩わされることなく二人きりの上映時間をゆっくり楽しめる席であることの方が重要だったが。

 

「あっ、ここってさぁ――」

「うん、これって伏線だよねぇ♪」

 

上映が始まると、二人は時折小声で言葉を交わしながらも徐々に映画の中身にのめり込んでいく。

ストーリーが進み、主人公たちが互いの気持ちに気付くとともに親密になり始めると、隼太と穂波はその姿を次第に自分たちに重ね合わせ始める。

 

「盛岡にあんなとこあるかなぁ」

「たぶんないよねぇ」

「でも――あんなのしてみたいね」

「う、うん、わたしも……」

 

だが、間もなく主人公達の想いとは裏腹に避けがたい悲しい運命へとストーリーが変わりはじめるころになると、二人はすっかり無口になり画面の中の物語に吸い込まれてしまう。

そして登場人物たちの感情が彼らにも染みてきて、このまま離れ離れになってしまうのではと言う根拠のない不安と切なさにいつの間にかどっぷりと浸りこんでいた。

そんな昂った感情の中で映画はクライマックスを迎え、永遠の別離に引き裂かれる主人公とヒロインの身悶えする様な悲哀が彼らを包み込み、そのせいで家族や同性の友人たちと来た折には経験したことのないような感覚の中に投げ込まれる。

エンドロールが流れ始め、二人が我に返って互いを見つめると隼太は両目に涙をにじませ、穂波は幾筋もの涙を零していた。

しかし彼らがもっと驚いたのは、いつの間にか互いの手をギュッと握り合っていたことだった。

 

「あっ――」

「あっ――」

 

同時に声を上げた二人は慌てて手を引っ込めるが、軽く跡がつくほど固く手を握っていたことに気付いて赤面する。

 

「ご、ご、ごめんね」

「う、ううん、い、いいの」

「でもほんとに嫌だったんだ、穂波ちゃんがあんな風に消えたりしたらどうしようって……」

「わたしもだよ、隼太君と二度と会えなくなったらどうしようって……」

 

「…………」

 

「…………」

 

「あ、あのね?」

「なに?」

「その――別に嫌じゃ無いよ、わたし……」

 

「えっ、あっ、えっと、うん! 俺もやっぱり――つなぎたい」

「う、うん……」

 

ザワザワと周囲の客が席を立って出口へと向かう中、遅れて立ち上がった二人は改めてぎこちなく手を繋ぐ。

先ほどは全く無意識だったものだからギュッと握っていたその感覚を何も覚えていないのだが、それが残念でたまらない程に彼女の手は柔らかく繊細で、その上どういう訳かちょっとひんやりとしている様に感じられた。

もしこの手が頬をそっと包み込んでくれたらどんなに心地よいだろうかと想像してしまった隼太の顔が、一瞬だらしなくにやける。

「隼太君、なにニヤニヤしてるのぉ」

「あっ! いやその、えっとぉ――やっぱり嬉しくて……」

「うふふ、ほんとにぃ?」

「ほ、ほんとだよ!」

実際もし出来るならスキップでもしたい気分だった。

これから盛岡一番の繁華街に繰り出して、まるで他人に見せびらかすかのように穂波と手をつないで歩き回るなど想像しただけでも嬉しさや誇らしさで倒れそうだ。

それでも確認せずにはいられなかったのでそうっと横目で斜め後ろにいる穂波の顔を盗み見る(別に堂々と見ればよいのだが……)と、少し顔を赤らめた彼女は恥ずかし気にやや俯いているものの口の端が少し上がっており、いかにも嬉しそうに見える。

 

(穂波ちゃん――)

 

その時、まるで彼の心の中の声が聞こえたかのように彼女が視線を上げ、互いの目が合うとはにかみながら笑みを浮かべる。

 

(!!)

 

その表情の可愛さと脳がとろけるような幸福感が隼太の意識を蒸発させてしまい、そのあとはいつの間にビルを出たのかどころか、さっきあれほど感動したはずの映画の中身すら思い出せない始末だった。

「は、隼太君、大丈夫?」

「え、いやぁ――あんまり大丈夫じゃないかも♪」

「えぇ~でもわたしも同じだよぉ♪」

「と、とりあえずどっかでランチしようか?」

「うん、そうしようね♪」

こんな時やたらに舞い上がってしまっている隼太からすると、あまり派手にはしゃがない穂波の存在が地味にありがたい。

二人が手をつないで漫ろ歩くアーケードは真夏の余韻を感じさせる人いきれに溢れており、軽くのぼせたような熱に浮かされたような頼りなさの中で、しっかりと握った彼女の手の感覚に表現しようのない安堵を覚える。

少しだけ背伸びしてみたくて子供っぽくない飲食店を探しかけたりもしたが、結局あまり混雑していなかったハンバーガーショップに入ることにする。

「子供のころはさぁ、もっと混んでたよね」

「そうだね、わたしも覚えてる」

「やっぱりあれ? チキンじゃハンバーガーっぽくないからかな?」

「ハンバーガーっぽいかどうかわからないけど、ハンバーガーもナゲットも同じお肉だからかな♪」

「あっ、なるほどね~そう言われたら確かにそれ淋しいよね♪」

「鶏肉おいしいけどなぁ」

「うん、俺も普通に好き」

「うふふ、わたしも♪」

 

普段戦争を意識することもない彼らも、こんな時にはそれを少しだけ感じ取れる。

数年前から牛肉を使ったハンバーガーは販売されておらず、ほぼ全て鶏肉あるいはそれを使用したパテに切り替えられており、その所為なのか彼らが幼い頃には盛況だったハンバーガーショップも今では空いていることが多くなっていた。

とは言うもののたった今の隼太にとっては、牛肉だろうが鶏肉だろうがどちらでも構わなかった。

彼にとっては恥ずかしそうにハンバーガーを食む穂波を見ているだけで満足であり、何も食べなくても満腹になりそうなほどだったからだ。

 

(おふくろの言った意味、よ~く分かったよ)

 

出かける前にしっかり飯を食わせてくれたおかげで、彼は心置きなく彼女を見つめていることができる。

その穂波から抗議されなければという前提ではあるが……。

 

「は、隼太君、あんまりジロジロ見られたら恥ずかしいよぉ」

「ご、ごめんね、そうだよね、食べてるとこジロジロ見られたら落ち着かないよね」

そう言いながら今まで手に持っていることすら忘れていた己のハンバーガーに、まさに思い出したがごとく一気にかぶりつく。

「あっ、零れてるよ♪」

そう言った穂波が紙ナフキンで彼の口元を拭ってくれる。

「うー気付いてなかったよ~」

「ううん、いいよぉ、いつでも拭いてあげるから気にしないで食べて♪」

「う、うん」

思わずもう一度零そうかなどとろくでもないことを考えてしまう。

彼女の繊細な指がほんのわずかな動作ではあるものの口もとを撫でていく感覚は、そんな不埒な考えをついおこさせるほど嬉しい。

幼い頃に幾度となく母や義姉、さらには幼いなりで大人のまねごとをしたがる浪江までが同じことをしたはずなのだが、それらはほとんど記憶に残らない程ぼんやりしているというのに、穂波が同じことをするとなぜこれほど違うのだろう?

傍目から見ているものにとっては何とも分かり易過ぎる話ではあるが、すでに恋の魔法に掛かってしまった彼にとって、それは永遠の謎でしかなかった。

余談にはなるが、彼がもう少し注意深い性格であれば自分自身が女性達からやたらに世話を焼かれる傾向にあることに気が付いたかもしれない。

特別にだらしないわけでもないのに、周囲の女性達は彼のちょっとした粗相も見逃すことなく手を差し伸べてくるし、村越やクラスの女子達はまるで見逃してはならないとばかりに口を出してくるのだった。

 

「隼太君が食べるとそのハンバーガーすごくおいしそうに見えるよ」

「えっ、でもほんとにおいしいよ?」

「うふふ、そうだよぉ、隼太君がおいしいって思ってるのすっごくわかるよ♪」

「そ、そうなの?」

「うん、隼太君はね、裏表がないから」

「やっぱり単純だからかなぁ~」

「単純と裏表がないのは違うよぉ」

「そっかなぁ?」

「単純っていうのはね――」

「あっ! 分かった分かった、言わなくてもわかるよ♪」

「うふふふ♪」

こうした他愛のない会話の端々から感じることだが、わずか数週間の間に穂波はずいぶん朗らかになっている。

もちろん隼太以外のクラスメイト達の前ではこうはいかないが、どこかしらおどおどした様な雰囲気がなくなり、容姿も心なしか明るく生き生きとしているように見える。

 

(穂波ちゃん、俺のこと信用してくれてるのかな)

 

それはとても嬉しいことであるのみならず、なにより彼自身にとって既に穂波は無くてはならない存在になりつつあった。

 

 それからもしばらくランチタイムを楽しんだ二人は、やがて店を出ると再び手をつないで繁華街を歩く。

まだ中学生の二人にとって実際に気ままな買い物を楽しむようなことまではできないが、穂波と二人でいればただ眺めているだけでも心が浮き立つほど楽しい。

そのまま二人は繁華街を抜けると城跡公園の中をウロウロし、それからこんな時でなければ行くこともない官庁街を歩いて岩を割って繁る桜を興味深そうに眺め、そのまま足に任せてひたすら街中を歩き回る。

走る車は電気自動車ばかりでその数も決して多くないことから街は静かなのだが、公共交通機関が利用しにくくなっているためか多くの市民が徒歩や自転車で盛んに往来していた。

二人にとってもこの位は気楽な散歩に毛が生えた程度なうえに、手を繋いでお喋りしながらの楽しさが時と疲れとを忘れさせてくれており、間もなく彼らは市内で最も大きな大学の前にまでたどり着く。

 

「隼太君は大学に行きたいの?」

「うん、行きたいなぁーとは思ってるんだけど」

「田圃はお兄さんがするの?」

「そだなぁ、うちはもう兄貴が継いでるから俺は別に好きなことしてもいいかなぁって」

「うふふ、だったらもうちょっと勉強しないとね♪」

「あうっ! 穂波ちゃん厳しいなぁ~でもそうなんだよな~」

「隼太君もちゃんとわかってるんだよね」

「うん、一応そのつもりなんだけどさぁ――なんかどうするのがいいのかなぁとか基本的なことがね――ちょっとね……」

「あのね、雪乃ちゃんみたいにはいかないけど少しくらいは教えてあげられるよぉ」

「あ、そうか! そうだった俺には穂波ちゃんがいるんだ!」

「やだ、大げさだよぉ――でも――わたしもね、隼太君と一緒に大学行けたらいいなぁって思うから……」

 

(穂波ちゃんと一緒に――)

 

彼の胸の中で、その言葉はまるできらきらと光り輝く様に何度も何度も反響し続ける。

「穂波ちゃん、俺なんだかすごくやる気出てきたよ」

「うれしい♪ わたしもね、隼太君と一緒に行けるように頑張るね」

「うん」

明るく夢を語る二人にとって、やはり戦争はニュースの中で見るずっと遠い出来事でしかなかった。

 



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【第一章・第八節】

 楽しい一日はあっという間に過ぎ去り、西日が彼らの頬に照り付ける頃二人は再び盛岡駅に戻ると、往路よりは多少乗客が多くなった列車に乗り込む。

弾んだ気持ちそのままにお喋りを楽しんでいた彼らは、気が付くと最寄駅のホームに降り立っていた。

 

「あー楽しかった!」

「うん、すっごく楽しかったね♪」

「今度はどこがいいかなぁ」

「うふっ、そうだね」

 

しかし、二人の会話は駅前に出た途端にふっと途切れる。

駅前の小さなロータリーには彼らが初めて見る濃紺色の大柄な車が二台停まっており、その傍らには白い制服姿の男性が数名、いかにも規律正しい様子で立っていたからだ。

さすがに立ち止まってジロジロ見つめるようなことはしないものの、いくら初めて見るとは言ってもその男たちがどうやら軍の関係者らしいということぐらいは予想がつく。

駐輪場から見るとはなしに見ていると、おしゃべりに夢中で気が付いていなかったが、どうやら彼らと同じ電車に乗っていたらしい真っ白な制服に身を包んだ男女二人組の乗客が改札から出てくると同時に、男達が一斉に姿勢を正す。

「お疲れ様です!」

はっきりと聞き取れたのはその一声だけであとは何かを言っているくらいにしかわからなかったのだが、彼らが驚いたのはその男女が車に乗り込んでからであった。

バルンッっという聞きなれない音を立てて身を震わせた二台の車は、何やら焦げ臭いにおいを振りまきながら走り去っていく。

「穂波ちゃん、あれって――」

「隼太君、覚えてる?」

「うん、ちっさい頃うちの車もあんな感じだったと思う――自信ないけど」

「でも多分そうだよね、あれってエンジンの付いてる車だよね」

「じゃあやっぱり――」

「海軍なのかな――」

 

ガソリンや軽油を使って走る車を一般の市民が維持することは、10年ほど前からほぼ不可能になっていた。

いまでも車庫などに大切に保管している家庭があるのはよく聞く話だが、どこへ行ってもそもそもガソリンなどの燃料を補給するスタンドがないため、燃料が無くなれば個々人が石油などを取り扱う企業から直接(しかも驚くほどの価格だと聞く)入手して補給するより手がないからである。

今の日本でもっとも潤沢に石油系の燃料を保有し使用できる組織はおそらく海軍だろう。

とは言うものの、こんな農村に海軍は一体どんな用があるのだろうか?

そればかりは二人にとって全く想像のしようもなかったが、ただ隼太の耳の奥では白石の言葉がこだまのように再生されていた。

 

『今は戦争中なのよ、わかってる?』

 

その響きに漠然とした胸騒ぎを覚えながらも、まだこれから村まで約10㎞の道のりを家路につかねばならないことに頭を切り替えた彼は、穂波とともに駅を後にする。

 

 そして西空が燈色を帯びる頃、朝待ち合わせをした一の鳥居前に帰り着いた二人は改めて顔を見合わせる。

「今日はありがとう、本当に楽しかったよ」

「ううん、隼太君が誘ってくれたからだよ♪ こんなに楽しかったの本当に初めて……」

「うん、もっともっと色んなとこ行きたいね」

「うん、とってもとっても楽しみだよぉ」

「そうだね♪」

「うん」

 

「……」

 

「……」

 

本来ならここで普通にさよならと言って別れるだけなのだが、出発直前の浪江の言葉が脳裏をよぎった隼太はさよならと言ういとも簡単な言葉を発するタイミングを失してしまい、思わず無言で見詰めあってしまう。

 

(おいこら! なに余計なこと考えてるんだよ! 穂波ちゃんを困らせるなよ⁈)

 

おのれ自身に懸命に突っ込みを入れるが、同時に穂波との(もちろん彼にとって初めての)キスという抗いがたいほどの甘い魅力に満ちたキーワードが彼を金縛りにしていた。

そのままどんどん時間が過ぎていくかに思えたが、隼太が葛藤している間に穂波が先に動き出す。

どうやら彼女は隼太が何を考えているのかを理解したらしくおずおずと近づいて彼の手を取り、下から見上げるように彼の瞳を見つめる。

 

(あ――)

 

一瞬緊張した彼はあらぬ期待をしてしまうが、無論そんなわけもなく、彼女のいかにも済まなげな声が響いて現実に引き戻される。

 

あのね――まだおしょすくてでぎねがら……今日はこらえてけろ

 

とても小さな声ではあったが、彼にとっては神のお告げにも等しい神聖な言葉だった。

彼女に対してそんな下心を抱いたことに対する自己嫌悪がどくどくと湧き上がってくるのと同時に、何も言わなくても彼のその下心を察して気遣いをしてくれた穂波に対する申し訳なさが彼を金縛りから解き放つ。

「穂波ちゃん、ごめん! 俺、バカなこと考えてたよ、ほんとにごめんね」

きっぱりそう言い切って頭を下げる隼太の頭にふわりと穂波の髪が触れる。

ハッとして顔を上げると、彼女はあの内側からにじみ出るような笑顔――それはまさに女神の慈愛に満ちた微笑だ――を浮かべて口を開く。

 

「ううん、いいの。ありがとう隼太君……好きよ」

 

(穂波ちゃん!)

 

全身に感動と不思議な感情(すでに述べた通り、まだ彼のボキャブラリーには存在しない『愛おしさ』である)が充満し、思わず涙が出そうになった彼のその純粋な感情がストレートに口をついて出る。

「お、俺もだよ! 穂波ちゃん大好――」

いつまでそんなことしてるつもりなの? さっさと帰りなさいよ!

 

危うく心臓が口から飛び出すところだったが何とかこらえてゴクンと飲み下し、胸の定位置に戻すと恐る恐る背後を振り返る。

そこにはデニムのショートパンツにTシャツというおよそゆるい普段着姿の村越が逆さにした竹ぼうきを杖のように地面に突き立て、空いた片手を腰に当てて立っており、またしてもあの鋭いまなざしで彼を睨みつけていた。

「全く――そんなとこでいちゃつかれたらおちおち掃除もできやしないわ⁉ さっさとやることやって帰ったらどうなの⁉」

「なっ――」

そのあまりに身も蓋もない言い草に隼太は思わず絶句してしまい、穂波は真っ赤な顔で俯いてしまう。

「バ、バカ言うなよ!」

どうにか気を取り直して言い返してはみたものの、村越はそもそも彼を相手にするつもりは無いのかその反論には全く取り合わず、彼を飛び越して顔を赤らめている穂波に話し掛ける。

「穂波、余計なこと言うようだけどあんたも余り甘い顔しちゃダメよ⁉ 好きだなんだって口で言うのは簡単だからいくらでも言えるけど、結局男はどっかに下心を隠してるもんなんだからね!」

『男』と一般論の様な言い方をしたものの、彼女の言い方は露骨に隼太を名指ししているも同然だった。

村越にクソミソに言われるのはいつものこととは言え、穂波に対してまでこんな言われ方をするとはとことん嫌われたものだと少々呆れてしまう。

ところがいつもと少々違ったのは、穂波が下手にでながらも彼のために反論してくれたことだ。

「美空望ちゃん、でもね――男の子にはみんな下心があるんだったら誰でもみんな同じってことでしょ? だったらね、我慢してってお願いしたらこらえてくれるのはいい人って考えちゃいけないの?」

正直に言って踊りだしたくなるほど嬉しいが、本当に嬉しそうにしたら村越を不必要に刺激しそうな気もするのでじっと我慢してみていると、その言葉を聞いた彼女はハアッと深いため息をつく。

「はいはい良くわかったわよ――邪魔者はさっさと退散するからあんた達もさっさと帰んなさいよ。でも、言っとくけどうちの参道でキスとかするのはやめてよね! もちろんもっと他のこともだけど!」

そう言い捨てた彼女はくるりと二人に背を向けると、ほうきをブンブンと振り回しながら二の鳥居に向かって歩き去っていく。

こういうストレート過ぎるもの言いは確かに村越の身上かもしれないが、それにしてもいつも以上に辛辣に聞こえるのは気のせいなのだろうか?

とにかくまた赤面してしまった二人は、すっかり毒気を抜かれた体で顔を見合わせると互いに苦笑いする。

「うふふ、美空望ちゃんに叱られちゃったね♪」

「っていうかもろバレしちゃったかぁ」

「仕方ないよ、場所が場所だもん」

「良く考えたらそうなんだよなぁ、待ち合わせし易いから何も考えてなかったよ~ごめんね」

「ううん、いつかは分かっちゃうし、それに美空望ちゃんは言い触らしたりしないから」

「そうだよね――それじゃ穂波ちゃん、暗くなるといけないから気を付けてね」

「うん、隼太君もね」

「ありがとう、それじゃまた明日」

「うん、明日ね♪」

そう言いかわすと軽やかに手を振って穂波を見送った隼太も、間もなく自転車に跨って家路につく。

 

遠ざかっていく彼の背中には、憂いを帯びた寂しげなまなざしがひたと注がれていた。

 




第一章はこれで完結です。
年末年始を挟んで、次回からは第二章を投稿する予定ですのでよろしくお願いします。


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第二章
【第二章・第一節】


第二章の投稿を開始します。
村に海軍の使者がやってきたことで、隼太と穂波達の運命は大きく変わり始めますが……。


 生まれて初めて経験した充実感と幸福感に包まれた心地良い疲労から昨夜はぐっすりと眠った隼太は、翌朝まれにみる爽快さとともに目覚める。

朝食の最中も絶好調の彼を母や義姉が揶揄するが、それにも全く動じない上機嫌さにあんちゃん大好きな浪江まで一緒にはしゃぎだす始末だった。

そんな勢いのまま意気揚々と登校した彼ではあったが、それでも昨日はもろバレしたこともあって教室に入る時は若干慎重になり、さりげなく周囲の様子をうかがいながら着席する。

とはいえ穂波が言った通り昨日のことがクラス内に広まった様な気配はなく、やや安心した彼は多少の感謝の意を込めて左隣の村越を顧みたものの、彼女はチラッと視線を投げかけただけで「フン!」と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。

 

(なんだかなぁ……悪いやつじゃないんだけどな)

 

村越とは同じ小学校の出身でもあり、その気性は以前からそれなりに知っているつもりである。

口は悪いもののサバサバとしていて陰険なところがなく、少々辛辣なことを言われてもあまり本気で腹が立つことは無かったのだが、近頃はやたらに突っ掛かってこられるのでそれにはいささか閉口していた。

そのまま何事もなくその日は始まり、午前の授業が終わるといつも通り昼食を慌ただしく掻き込んだ隼太らは、サッカーボールを抱えて校庭に飛び出していく。

 

(あっ!)

 

ふと彼の視界の端を気になるものがかすめ、思わず立ち止まる。

校舎裏の職員駐車場には普段は教職員の車や小型のトラックが止まっている程度なのだが、今日は一番隅の方に濃紺色の大きく武骨な車が止まっていたのだ。

それはもちろん、昨日駅前で彼らが見掛けた海軍のものであろう車両に間違いはなかった。

 

(えっ、なんでうちの学校なんかに――)

 

「隼太ぁ! 早く来いよぉ~ボールが来なきゃはじまんねえぞぉ」

校庭の方から清次の大きな声が響く。

「わかったって、今行くから!」

とにかく見ていても仕方がないので、大声で叫び返した彼はその場をひとまず後にする。

だが昼休みの終わりにもう一度その場を通りかかった時には既に車はなくなっており、改めてゆっくり確認することはできなかった。

 

その日の放課後、部活を終えた彼はいつもの様に穂波と落ち合って帰り道を辿るが、車のことを口に出すと彼女もまたそれを見つけていた。

「ちょっとびっくりするよねぇ」

「ほんとだよね――、いったい何しに来たのかな……」

「ひょっとしてあれかな? 白石さんが夏休みに行った避難訓練のボランティアの勧誘に来たとか?」

「……」

 

気軽にそう言ったのだが、穂波はずいぶん不安そうに黙っている。

「どうしたの? なんか不味いこととかあるの?」

「ううん、でも――本当に隼太君の言った通りだったらいいのにな……」

「え、まさか海軍の兵士募集とか? でもそれだったら中学じゃなくて高校だよね?」

それにも応えなかった彼女は、しばらく逡巡したあとやや沈んだ声で話し始める。

 

「隼太君も、艦娘のことは知ってるよね?」

「ああ、元は沈んでる軍艦だったとかいうあれだよね? なんか不思議だよねぇ~」

「違うよ、その人達のことは『オリジナル』って言うんだよ」

「えっ、そうなの? でも前は『艦娘』って言ってなかった?」

「うん、でも人間の艦娘が採用され始めてからは、同じ呼び名じゃややこしいからってオリジナルって呼ばれてるんだよ」

「あ、そうか! そう言えばニュースか何かで見たことあるよ、なんか線の繋がったランドセルみたいなのを背負ったら海の上をスケートするみたいに滑れるようになるやつだよね!」

「今はもう線とかつながってないんだよ、ランドセルみたいなのは背負ってるけどオリジナルの人たちみたいに戦えるんだって」

「すごいなぁ……なんかいつの間にそんなことになってたんだ……」

「昨日今日の話じゃないよ、もう何年も前から人間の艦娘の人も戦争に行ってるんだよ」

「――ごめんね、それは知らなかったよ――でも候補者とか集めてるっていうのは聞いたことあるなぁ」

「そうなの、志願する人達には適性検査とかして適性のある人を採用してるみたいなんだけど……」

「誰でもなれるわけじゃないんだとは聞いてたけど今はあれなのかな、人間の艦娘の方が多いのかな?」

「そうじゃないらしいよ……」

「えっ、そうなの?」

「うん……」

 

再び口が重くなった彼女の様子を見て、どうやらその辺りに不安の原因があるらしいとは分かったもののまだピンときているわけではない隼太は、少々言葉に気を付けながら問い掛ける。

「穂波ちゃんは、海軍が艦娘のことで来たと思ってるの?」

「――うん、そうなの」

「志願して欲しいとか言いに来たってこと?」

「ちょっと違うんじゃないかなぁって思ってるけど……」

「どういうこと?」

「あのね、艦娘になれる人ってすごく少ないんだって。だから、志願者だけに適性検査してるだけじゃ全然候補者が集まらないんだって聞いたの」

「すごく少ないって――どのくらい?」

「1000人に1人くらいなんだって」

「えぇ~そんなに少ないんだ、知らなかったぁ」

「だからね、志願者がすごくたくさん来てくれても全員適性なしとかって普通にあるらしいよ」

「そりゃそうだよね、1000分の1じゃあなぁ――だったらやっぱり人間の艦娘って少ないんだね」

「うん、だから最近海軍は方針変えたらしいって……」

「ほんとに?」

「伯父さんが知り合いの人から聞いただけなんだけどね、海軍の人がね、全国で適性検査を受けてもらえるようにお願いして回ってるらしいって……」

「えっ――それじゃまさか、うちの学校に適性検査のお願いに来たっていう事?」

「まだ分かんないけど――でも、もしかしたらそうなんじゃないかなぁって思ったの……」

 

そう言って不安気に俯く穂波に何と言えば良いのか分からなかった彼は、素直に感じた通りのことを口にする。

「でもさ、まさかうちみたいな小さな村の中学校からそんな艦娘の候補者なんて見つかるわけないよ。そう言うのはさ、もっと都会の大きな中学や高校とか行かないと無理なんじゃないかな?」

「ほんとにそうだと良いんだけど……」

 

穂波の不安を取り除いてやれないもどかしさを感じながらも、結局彼にはそれ以上にしてやれることがなかった。

全く関心がなかったとはいえ、艦娘とオリジナルの区別すらついていなかった程度のいい加減な知識では彼女に言ってあげられるようなことがあるとも思えない。

朝のテンションがまるで夢の中の出来事でもあったかのように、二人はモヤモヤとしたものを抱えたままでそれぞれの家路についた。

 

 翌朝、ホームルームで担任が言い出したことで穂波の予想が的中してしまったことを彼らは知る。

海軍からの申し入れがあり、学校としてはそれに応じるが詳しいことは別途説明するとのことで1限目は3学年の女子全員が体育館に集められ、男子はその間自習しておけという事になった。

男子の大半はお気楽に喜んだものの、無論のこと隼太には喜ぶ理由が何もない。

ただ少々意外だったのは、こんな時真っ先にお気楽全開になると思っていた清次がなにやら不機嫌そうにむすっとしていたことだ。

 

(清次のやつ、虫の居どころでも悪いのかな)

 

一瞬そうは思ったものの、それ以上の関心は特に湧いてこない。

たった今体育館で膝を抱えながら不安そうに教師の説明を聞いている穂波の姿に脳内を占領されている彼には、余計なことに頭を使っている余裕などなかったからだ。

そうこうするうちに1限目が終わり、それとともに女子全員がぞろぞろと教室に戻ってきたので早速彼女達(と言う体だが実際にはいぶき)にどんな話だったのか聞きたがる男子が続出したものの、それを察したものかチャイムが鳴る前に入ってきた教師が全員を席につかせてあっさりとそれを説明してしまう。

曰く、適性検査はあくまでも強制では無く体調が優れなかったり検査を希望しない者は参加しなくて良いこと、検査自体はそれほど時間がかかるわけでは無く斯波中の女子全員程度なら半日もあれば終わること、場所は近隣の大学病院であること、すでに県内の他校のうち一部では検査が開始しており斯波中の順番は3日後と決まっていること――などなどであった。

これを聞いた男子達は皆静かになってしまい、その後もごく普通に授業が始まるがもちろん彼らがその説明に満足して納得したわけではなかった。

昼休みになり、いつもの通りであれば校庭に飛び出していくはずの男子達は、サッカーに対する興味を今日は全く失ってしまったかのようにいぶきの周りに何やらもの問いたげな様子で集まってくる(当然隼太を除いてだが)。

いぶきもまた彼らの期待に応える義務を感じているのか常日頃の様な朗らかな笑顔を浮かべ、

「あのね、昨日海軍の人が来てね――」

と喋り始めたもののその途端に

「駄目よ、吹輪さん!」

と鋭く声がかかる。

その場にいた全員が振り返ると、その視線を受けて立ち上がった白石が腰に軽く手を当てながら、

「ベラベラ喋っては駄目って言われたでしょ⁈ 変なことを言ってしまって海軍から咎められるのはあなただけじゃ無くて関わった全員なのよ⁈ 余計なことはしないで!」

とピシャリと言い渡す。

一瞬で冷え切ってしまった空気に横から傍観していた隼太ですら少々心配してしまったが、そこはやはり手慣れた様子のいぶきは苦笑いしながら男子達に向き直り、

「ほんとに、特に変わったこととか無かったから大丈夫だよ♪ だからそんなに心配しないでね」

と笑い掛ける。

そのいかにも自然な笑顔と可愛さにいぶき派の男子達が鼻の下を伸ばしたのはもちろん、これといって彼女に興味があるわけではない隼太ですら、

(さすが斯波中№1の笑顔だなぁ、やっぱり可愛いよ……)

と感心するほどだった。

それに比べると、気の毒だが白石はまた一段と男子達の間で株を下げてしまったことだろう。

どんな話があったのかはわからないものの、おそらく白石の言っていることは正しいのだろうがタイミングも言い方も彼女の『堅物』ぶりを更に印象付けるのには十分過ぎる。

 

(白石さん、あんなに可愛いのになんか勿体ないよなぁ――まぁでも白石さんはそもそもそんなこと関心ないか)

 

などとぼんやりと考えていた隼太だったが、彼には珍しく微妙な視線の気配を感じる。

何気なく振り返ってみたところ、その視線の主は拗ねた様な顔でこちらを睨んでいる穂波だった。

 

(えっ⁉)

 

目が合った瞬間、なにか見えない手で喉元を握りしめられたような錯覚に陥って思わずドキリとする。

 

(まさか――穂波ちゃん、俺の考えてたこと分かってるの?)

 

先輩や兄などから聞かされていた『彼女(嫁)に隠し事は出来ない。どう言うわけか何もかもばれてしまう』という教訓めいた愚痴を鼻先で受け流していた彼は、今になってそれが本当のことであることを思い知る。

慌てて

(ち、違うからね⁈ 可愛いとかいうのは一般論だよ⁉ 俺の一番は穂波ちゃんだからね!)

などと口に出してそう言うわけには行かないながらも心の中で必死にそう弁解しながら視線を合わせ続けていると、やがて彼女は、

『もうっ、しょうがないんだから……』

とでも言いたげにプッと軽く頬を膨らませて見せた後に普通の表情に戻って軽く視線を逸らす。

(はぁ~後であやまっとこう……)

安堵のため息を吐きながら元の姿勢に戻った隼太だったが、またも不穏な視線を感じたので左を向くと村越が横目で睨みつけていた。

 

(うっ……もちろん分かってるんだよな)

 

これまでにも何度となく彼の内心を見透かす様な鋭い突っ込みを浴びせてきた彼女のことでもあり、穂波との無言の遣り取り位は容易に察していることだろう。

苦笑いでもしてみようかと一瞬思ったものの、ただでさえ非難がましい視線を投げかけている彼女がより一層不機嫌になりそうな気がしたので、少し真顔で声を出さずに(ゴメン)と口を動かして見せる。

それを見た村越の反応はこれまで見たことのないものだった。

隼太の顔を改めてひと睨みしたその瞳には複雑な感情の色が踊り、そのまま目を伏せるとどこか悲し気に顔を背けてしまう。

 

(え……)

 

しかしたいへん残念なことに彼にはその反応に秘められた村越の胸の裡が伝わることはなく、ただただ戸惑うばかりだった。

 



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【第二章・第二節】

 3日後の朝、学校前に純白の車体に大きな赤十字マークを描いたバスが横付けし、引率の教員らとともに整列した女生徒全員を乗せると検査場となる近隣の大学病院へと走り去った。

後に残された隼太ら男子生徒達は、半日の間自習という事になって本来は羽を伸ばせるはずだったのだが、どうしたことか全くそんな気分にはならなかった。

穂波のことが心配な隼太はともかくとして、男子全員がそんな空気になっているのは少々不思議なことでもあったが、なんだかんだ言っても女子がいない教室はなんとも張り合いのない場だったようだ。

そのうえ、午後には戻ってくるはずだった彼女たちは検査が長引いたものか結局放課後まで戻ってこず、ほぼ丸一日に渡って退屈な自習を続ける羽目になる。

その後彼らはいつもの通り部活の練習をはじめたものの、隼太を筆頭に女子のことが気になって身が入らず、学校前の道路ばかりちらちら見ている有様であった。

結局再び赤十字マークのバスが戻ってきたのは日が西に傾く頃であり、校庭からその様子を見つめている男子達の期待も空しく、女子達はそのまま解散して全員帰宅してしまう。

それを見届けてすっかりやる気の失せた彼らは間もなく早々と練習を切り上げてしまい、みな不機嫌そうに黙りこくって家路についた。

 

 その夜、端末に向かって入れた穂波へのメッセージに対して彼女はすぐに返事を返してくれたものの、なにやらもの言いたげな歯切れの悪いもので、今日の出来事に対する不安や迷いが透けて見えるようだった。

もちろんそのことが気になって仕方ないのは隼太も同じだったので、思い切って

(穂波ちゃん、明日出掛けられるかな?)

と誘ってみる。

すると間髪を入れずに

(隼太君は大丈夫なの?)

と返事が返ってくるので、彼女は会って話したいのだと確信する。

(もちろん大丈夫だよ! でも、サイクリングになっちゃうけどね)

(ううん、全然へいきだよ♪ 隼太君ありがとう、会って話がしたかったの……聞いてくれる?)

(うん、何でも聞くよ! それに話したくないことがあったらそれは言わなくてもいいからね)

(ありがとう♪ 隼太君がいてくれて良かった)

 

もうこの時点で彼は、ついさっきまで言いようの無い不安に苛まれていたのが嘘のようにテンションが上がっている。

頼りにされているというそのことだけで、それこそ天井知らずに有頂天になるほど彼女の虜になっていたからであるが、それが自覚できるほど隼太は自己分析が出来る性質ではなかった。

とにかく二人は明日の待ち合わせ場所と時間を手早く決めてしまうと、その夜はそれぞれの思いを抱いて眠った。

明くる朝母に出かける旨を伝えると、例によってしっかり飯を食っていけと言われる。

すでにその有難味を経験した隼太はそれこそ夜までもたせる勢いで腹を満たし、またしても置いてきぼりにされることを知って、恨めし気な上目遣いで彼を睨んでいる浪江の頭をポンポンと叩いておいてから家を出た。

安直な待ち合わせ場所を選んでしまったためにあっさりもろバレしてしまった苦い経験から、今度は少々集落から離れた場所でおち合った彼らは、先日とは反対方向である花巻に向かって自転車をこぐ。

あちらこちらで刈り取りが進みつつある田園地帯を縫って走る二人は、時折とりとめのない言葉を交わしながら北上川沿いを南へと向かい、小一時間ほどで周囲を田圃に囲まれた小さな空港へとやってくる。

自転車を止めてターミナルビルに入った二人は展望デッキに上がり、眼前に伸びる滑走路を眺めるが、実のところこの滑走路を飛行機が発着することはほぼ無くなっていた。

石油系の燃料を大量に消費する飛行機は、10年以上前から一般市民が利用する国内の交通に使用されなくなっており、その代わりに今ではソーラーパネルから得られた電力で推進する飛行船が使用されている。

各地にあった海辺の飛行場は安全のために使用されなくなっているが、ここ花巻空港の様な内陸部の飛行場はほとんどが飛行船の発着場として利用されていた。

そのため以前は広々として遮るもののなかった滑走路の周辺には特大サイズの体育館のような格納庫が立ち並んでおり、時折そこからずんぐりとした葉巻状の飛行船がゆっくりと引き出されてくると少数の乗客を飲み込んではゆったりと空へ舞い上がっていく。

「穂波ちゃんは乗ったことある?」

「うん、1回だけ」

「俺も1回だけあるなぁ」

「なんかふわーっとしててすごく楽しかったの覚えてる、時間が長いなぁって思ったけど」

「そうだよね新幹線より大分遅いよねぇ、飛行船の方が安いらしいけどね」

「伯父さんが言ってたけど、九州くらいまで行ったら新幹線でも10時間近くかかっちゃうし飛行船の2倍くらい料金かかるから、長距離は飛行船の方がいいんだって」

「でも、本当だったらリニアモーターカーっていうの作るはずだったんだよね」

「それが出来てたら、九州まで新幹線の半分の時間で行けるようになってたはずなんだって聞いたけど――中止されちゃったし――」

「やっぱり戦争かぁ……」

「うん……」

 

そう言った切り沈黙してしまった二人だが、そもそも今日は穂波の話したいことを聞くのが目的だったので、隼太は少々気を使いながら話を切りだしてみる。

「昨日のこと、話せる?」

「うん、どうしようかなって……」

俯き加減でそう応じた穂波は、チラチラと左右に視線を走らせる。

彼らのいる展望デッキは、賑わっていると言うほどでは無いものの他の客の姿が絶えることはなく、彼女はそれが気になる様だ。

「だったらさ、あそこに行く? 賢治の丘。あそこなら人もあんまり多くないんじゃない?」

「うん、ありがとう隼太君、そうしてもいい?」

「もちろんだよ! んじゃ行く前にちょっと下も見て行こうか」

「うん♪」

にっこりと笑いあった彼らはターミナルビル内の売店や飲食店を見て回ったが、空港というところは中学生の財布にはそぐわないところであることを再確認しただけであった。

「あのソフトクリームがこの値段なんだ……」

「うん、ちょっと無理って感じ」

「お腹空いてない?」

「全然大丈夫だよぉ朝ご飯しっかり食べてきたから」

「へへへ俺も♪」

そう言い交わすと、結局二人はビル内を一通り見て回っただけで空港を後にする。

彼らが次に目指すのは、そこから少し東にある丘陵地帯だ。

とある児童文学の作家を記念する公園は、無料で利用できる施設も多く彼らの様な中学生には敷居が低い。

最後の坂道は自転車を押して上がった隼太と穂波は、予想通り人影がまばらな公園の一角でベンチに腰を下ろす。

「ここなら大丈夫?」

「うん、聞いてくれる?」

「もちろんだよ! 話したいこと全部話してくれたらいいよ」

そう言うと穂波は嬉し気な笑みを浮かべた後、少し躊躇いながらも話し始める。

「あのね、検査結果とかは後日また連絡するって言われて帰ってきたんだけどね」

「うん」

「だけど、検査の結果が出るのに時間がかかるっていうわけじゃなさそうだったの」

「へぇ、なのにやっぱりすぐには知らせないんだ――どうしてかな?」

「――どうもね、意外な結果が出てたみたいなの」

「えっ、もしかしてそれで帰りが遅くなったの?」

「はっきりとはそう言われなかったんだけど、検査終わったのに少し待たされたからひょっとしたら関係あったのかも……」

「……でも――意外なってどういうこと?」

「うん――なんだかね、検査している人達とかの様子が変だったの」

「どんな風におかしかったの?」

「あのね――みんな、なんだかすごく興奮してる感じでね――」

「興奮って――どういう事?」

「よくは分からないんだけど、あり得ないようなすごい結果が出てたみたいだよ」

「えっ――それはつまりすごい結果を出した子が誰かいたってこと?」

「ううん、そうじゃないみたい」

「じゃあ一体……」

「うん……あたし、聞いちゃったの」

「…………何を?」

「検査が終わってね、控室に戻る途中で、偶然検査室の裏のドアが開くときに前を通りかかったの。そしたらね、中から聞こえてきたの」

「……」

「『こんなに見つかるなんてあり得ない!』って言ってたのよ」

「えっ…………」

 

先日穂波から話を聞いたあとで彼がネットで調べてみたところ、やはり彼女の言った通り検査で見つかる艦娘候補者というのはせいぜい1000人に1人くらいだとされていた。

その数字通りであれば、斯波中の女子全員の中から候補者が見つからなくても全く不思議ではないし、むしろ見つからなくて当たり前といったところだろう。

しかし、もし穂波の聞いたことが勘違いなどでなければ、それは候補者が見つかったことを示しているはずだ。

ただ、『こんなに』という言葉をたった一人に対して使ったりするだろうか?

こんな時に白石でもいてくれたなら『普通は対象が複数でなければそんな表現を使ったりしないはずよ?』とでも言い切ってくれただろうが、今この場には彼と穂波だけであった。

 

(まさか……ほんとにまさかだよな……)

 

隼太の心に過った不安は、どうやら穂波の抱いている不安そのもののようだ。

 

「もし、適性があったら――」

「ま、まさか、それこそあり得ないよ!」

「うん――でもみんなあわせても30人なのに、その中で2人以上に適性があったってことでしょ? だったら15分の1以上の確立だもん」

「それはそうかも知れないけど――でも、そういう選ばれた素質ってもっとずば抜けた様な人のことじゃないの?」

「適性とね、例えば運動能力だとか他の能力とかとの関係って今のところ全く見つかってないんだって、検査の時に説明されたの――それに活発とか大人しいとかの性格みたいなものとも関係ないって……」

「で、でもさ、もし万が一適性があったとしても艦娘になるのは強制じゃないんだよね?」

「だけど、適性があるのに断った人ってほとんどいないらしいの。病気だとか小さな子供がいるお母さんだったとか、特別な事情じゃなかったらみんななるらしいって……」

「えぇ……けどさぁ、穂波ちゃんもみんなも中学生なんだよ? 義務教育なんだから、それをほったらかして艦娘になるのは無理なんじゃないの?」

「それがね――軍の人がお願いに来た時に説明があったんだって。横須賀にはちゃんと学校があって、艦娘になるっていってもそこに通いながら少しずつ訓練とかをして行くように今はなってるからって――」

「そんなことになってるんだ……」

 

話が袋小路に入ってしまったようで、俯いた穂波が黙り込むと彼も次に何を言えばいいのかわからなくなり、思わず一緒に黙り込んでしまう。

 

(やっぱり海軍は候補者集めに必死なんだ……)

 

隼太達が実際の戦いそのものを目にすることがないのはもちろん、ネットやニュースなどでその様な映像が流れることもほとんどなかったことから、これまで彼はこの戦争の成り行きにあまり関心を持ったことは無かった。

だが、現実には民間船が外洋を航行する場合は必ず海軍の護衛が必要とされ、護衛無しで航行できるのは沿岸から目視できる範囲――具体的には4㎞以内――と決められていたし、その沿岸部に住む一般市民には、深海棲艦の攻撃があった場合に備えて年1回以上の避難・救助訓練の実施が義務付けられていた(白石に注意されたのでネットで調べてみたのだ)。

戦争が始まる前にはフェリーや連絡船が国内やあちこちの離島の間を定期的に運航していたが、いまや定期船が運航しているのは瀬戸内海のみであり、航空機の離発着ができない離島の中には住民が去って無人島になるところも出てくるなど市民生活に大きな影響が出ているにもかかわらず、海から離れた内陸部にある斯波府村においては、せいぜい国の帰農奨励策により転入者が増えているくらいしか実感できることは無かった。

しかしそれは昨日までのことであって、彼にとってはこの戦争が急に現実を伴って目の前に立ちふさがったようなものだった。

 

(もしも――もしも本当に穂波ちゃんが艦娘になったら……)

 

体育の時間に見ている限り穂波は決して運動音痴なわけではないが、だからと言って得意そうには見えないし、何よりも大人しくて前に出たがらない性格のせいなのだろうが、球技などではしばしばついていくだけで精一杯のように見える。

そんな彼女が命の危険に直にさらされる戦場に立って、あまつさえ(人間でないとはいえ)敵を倒すために戦うことなどできるのだろうか?

 

(いくらなんでも無茶だよ――そんなこと)

 

だからと言って彼には何ができるのだろう?

彼女を説得して艦娘になるのを辞退させるべきか?

そう思って顔を上げると、彼女の心細げな瞳が見つめていた。

「穂波ちゃん、俺、考えるよ」

「えっ?」

「今はまだ思いつかないんだけど――でも、もし万一穂波ちゃんが艦娘になるかもしれないんだったら、俺に何ができるのか考えるから」

「隼太君……」

「大したことは出来ないかも知れないんだけど、でも穂波ちゃんのために俺ができることは何でもするから、必死で考えるから……」

「……ありがとう隼太君――とっても嬉しいよ」

そう言って、彼女はこの日初めて彼の好きなあの笑顔を見せてくれた。

 

(穂波ちゃん……)

 

改めて彼女が傍にいてくれることの大切さを感じた隼太は、やはり穂波のために自分ができることを真剣に考えなければと心に誓うが、いつまでも思い詰めていると穂波の気持ちも沈んできそうなので意識して他愛もないことを口にする。

そんな彼の気持ちを理解しているのか穂波も楽し気に笑顔で応えてくれ、やっと二人の間には和やかな空気が戻ってくる。

彼女の手を引いて立ち上がった隼太は公園内をぶらぶらと歩き、記念館の展示を眺めたり売店の店先をのぞいたりしながら束の間艦娘のことは忘れて二人の時間を楽しむ。

しばらくしてそれにも飽いた二人は、この丘陵地帯の頂上付近にある神社の参道を上る。

境内まで上がるとそこからの眺望は格別で、広大な田園地帯の中をうねる北上川の緩やかな流れが一望できた。つい1週間ほど前、互いになんとなく好きだと言い交わしたその景色を見下ろす二人は、再びどちらからともなく手をつなぐとそのまま無言で眼前に広がる故郷の景色を見つめ続ける。

 

「やっぱりここがいいよね……」

 

「うん、そうだね……」

 

「……」

 

「……」

 

「ずっと――ここに居れば良いよ」

「でも、みんなが行くって言ったら自分ひとりだけ断れないよ……」

「だけど、どうしても嫌だったらそう言った方が良いよ――だって戦争なんだよ?」

「うん――やっぱり怖い――怖いけど、でも――ひとりだけ断るのはもっと憂鬱……」

「けど――みんなもやっぱり嫌なんじゃないかなぁ、穂波ちゃんだけが嫌なわけじゃないと思うんだけど――。だからみんなで嫌だって言えば何とかなるような気がするんだけどな」

 

「……」

 

「どうしたの?」

「あのね――」

「うん」

「そうじゃないみたいなの」

「えっ⁉」

「いぶきちゃんはね『もし艦娘になったら頑張って活躍しちゃう』って言ってたよ」

「吹輪さんが?」

「うん、それにね、雪乃ちゃんも『今は戦争なんだし、現に命がけで戦っている人達がいるんだからわたし達がもし選ばれたなら進んで協力するべきだわ』って言ってたの」

「白石さん――なんか堅いなぁ……」

「美空望ちゃんは『戦争は嫌だし誰かが死ぬのも嫌だけど、でも自分達が戦わなきゃどうにもならないって言われたら正直迷うわね』って……」

「なんか――――らしい言い方だな」

「だからもしみんなに艦娘の適性があったらね、みんな断らないんじゃないかと思うの……」

 

さすがに隼太も返す言葉がない。

なにより彼女らの積極的とでもいうのか前向きな姿勢に驚かされる。

 

(やっぱり、女の子って強いのかな)

 

だが現に目の前にいる穂波は悩んでいるし、彼としては何としてでもそのどうにもならない悩みを一緒に受け止めたかった。

「みんなと話してみたいな」

「えっ?」

「そこまで言ってるんだったらそう簡単に気持ちを変えてくれるとは思わないけど、でも……一度は話してみたいよ。全員が全員戦争に行かなきゃならないなんてやっぱり納得いかないよ……」

 

「……ありがとう、隼太君」

 

そう言って彼女は少し俯くが、つないだ手にはギュッと力がこもる。

一瞬ドキリとした隼太も同じように穂波の手を強く握り返すと、彼女の顔が少し上がる。

急に緊張感が襲ってきて思わず動きがぎこちなくなってしまうが、それでもたいへんな努力をして穂波に向き直ると、彼女もまた桜色に頬を染めて目だけを動かして隼太を見つめる。

周囲の音が聞こえなくなり、ただ自分の心臓の音だけがドクンドクンと頭の中に響き渡るなか、彼は錆びついてしまったような自身の体を全力で動かし、とても少しずつ彼女との距離を縮めようと奮闘する。

彼の必死の努力を見て取った穂波は次におこることを脳裏に思い描いたのか、刹那真っ赤な顔になり視線を落とすが、それでも再びそのまなざしを隼太に向けると恐る恐るといった態で目を閉じる。

 

(ほっ、ほっ、穂波ちゃん! 穂波ちゃん!)

 

心の中で絶叫している隼太は、今や田植え前の田の泥の様にまとわりついてくる空気をかき分けかき分けしながら、それが彼の人生のゴールでもあるかのように穂波の唇にたどり着こうともがく。

 

(そ、そういえば俺はいつ目をつぶれば良いんだろう?)

 

そんなくだらない疑問が脳裏をよぎるがすでにネットで調べることも出来ないので、もうここまで来たら間違えないだろうというほどに彼女の顔に近づいてからギュッと目をつぶり唇を突き出す(きっと、とんでもなく見苦しい顔になっていただろう……)。

そしてこれまでの人生よりもはるかに長い長い時間が流れたのちに、とうとう彼の唇に信じられないくらいに柔らかく、温かく、そして艶めかしく濡れた、味わったことのないほど甘く濃厚な何かが触れたその瞬間、突然ガヤガヤとした賑やかな声が風に乗って彼らの耳に届く。

 

「あっ!」

「あっ!」

 

同時に短く声を上げた二人は咄嗟に1歩後じさり、お互いに視線が絡み合う。

心臓が何度か拍つ間、隼太は驚きで目を見開いたまま、穂波は真っ赤な顔で彼を上目遣いに見つめたままだったが、拝殿の向こうからガヤガヤとした喧噪の当人たちの集団が現れると突然金縛りが解けた二人は、思わずくるりと半回転してまた横並びの体勢に戻る。

 

「ご、ご、ごめんね穂波ちゃん……」

「い、いいの、別に、その……」

 

それからあとはもう何を言っていいのか分からず、二人は黙ったままだった。

それでも日が西に傾きだすころ、二人は再び自転車にまたがって丘をあとにする。

夕暮れが辺りを燈色に染めはじめる中、別れ際の二人は、

「そ、それじゃ、また月曜日ね」

「う、うん、それじゃあね」

とだけやっとの思いで口に出すと相変わらず頬に軽い火照りを覚えながらそのまま家路についたが、今朝までとは全く違う何かが互いの間にできたような感覚を味わっていた。

 

(で、でも、もうちょっと長くしたかったな……)

 

ほんの一瞬だけしか味わうことが出来なかった彼女の甘い唇の感触は、その夜隼太をいつまでも寝付かせなかった。



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【第二章・第三節】

 明けて月曜日、十分に解消しきれなっかった寝不足と幸福感とで少々ぼーっとした朝を迎えた彼は、その状態のまま結局一日を過ごしてしまい、夕方には穂波といつものように帰り道を辿る。

いつもよりもいくらか口数の少なくなった二人だが、それでも互いの距離感は先週までよりもずっと近づいたようで、自転車を押していなければ手をつないで歩いていたかもしれない。

いつもの分かれ道でそっと手と手を触れあわせて別れた二人は、何の根拠もなくこの幸せがいつまでも続くような錯覚に陥っていた。

 

 しかし、その幸せはたった2、3日しか続かなかった。

木曜日の朝、再び彼らの学校に紺色の大型車が訪れ、彼らに非情な現実を突きつける。

またしても男子生徒達は教室で自習させられ女子生徒だけが体育館に呼び出されるが、今度はひたすら待ちぼうけにはならず、せいぜい30分ほどで彼女達は席に戻ってきた。

 

だが、そこには吹輪いぶき、村越美空望、白石雪乃、そして――穂波の姿はなかった。

 

(穂波ちゃん――まさか、まさか、本当に――)

 

居ても立っても居られない隼太は、今すぐ席を立って体育館に駆けつけたい気分だったが、それでも必死に自分を押さえつけてひたすら時間が経つのを待ち続ける。

間もなく休憩時間になり、チャイムが鳴るのと同時に勢いよく立ちあがった彼の耳に、ガラッという扉を開ける音が響いた。

驚いて――彼だけではなくクラスの全員が――振り返ると、いぶきを先頭に4人が室内に入ってくる。

最後尾にいた穂波の姿を認めた彼は、辛うじて声をかけそうになるのを思いとどまるが、クラスの中からは彼女たちに声がかかった。

にもかかわらず4人はそれに対してかすかな反応すら見せず、穂波はもちろんのこといつも朗らかないぶきや、あのクールで辛辣な村越ですら口を真一文字に固く結び、軽く蒼ざめた様な緊張した面持ちで自分達の席に向かい、押し黙ったまま慌ただしく帰り支度を始める。

彼に限らず、声を掛けたクラスメートたちも彼女らの異様な様子に気圧されたのか、ただただ無言でその様子を見守るばかりだ。

やがて帰り支度を終えた彼女ら(やはり穂波は一番最後だった)は、一言も口をきかないまま教室の出口に向かうので、たまらなくなった隼太は思わず

「穂波ちゃん!」

とクラス全員の前であることも忘れて声をかける。

その声にビクンと反応して立ち止まった穂波は弾かれたように彼の方を振り返ったが、そのまなざしが隼太の視線と交わった瞬間、今にも泣きだしそうな心細さを溢れさせ、

「隼太君……」

と縋り付くような声を出す。

体の奥からどっと感情が湧きあがってくるのを感じた隼太は、自分が何をしたいのかも覚束ないまま彼女に駆け寄ろうとするが、彼が動き出すのと同時に堅物の白石――ではなくてなんといぶきがズイと進み出るなり、キッときつい視線を穂波になげかけ、

「ダメよ穂波ちゃん! 話してはいけないって言われたでしょ⁉」

と強い口調で言い放つ。

 

(ふ、吹輪さん――)

 

彼だけでなく、クラス全員がいつものいぶきとのあまりの違いに面食らってしまい、黙り込んでしまう。

「さあ、行くわよ⁉」

「う、うん……」

相変わらず厳しい物言いのいぶきが穂波の腕をつかんでくるりと背を向けさせると、その様子を見た村越が一瞬顔をそむける。

そして普段とは全く逆に白石が隼太に向き直り、

「ごめんね、何も話さずに帰宅の用意をしてきなさいって言われているの。だからこらえてあげてね」

と、通常であればいぶきが言いそうなことをいかにもすまなげに口にして、視線を落とすと彼に背を向ける。

そのまま彼女達は教室の後ろ扉を出て、最後に村越がちらっと隼太を一瞥してからガラガラと音を立てて扉を閉める。

後に取り残された隼太達は、ただただ茫然とするばかりだった。

 

 その夜、隼太は穂波の端末にしきりにメッセージを送るが一向に音沙汰がない。

じりじりしながらも、あまりしつこくして穂波がプレッシャーを感じないように気を付けながらなおもリアクションを待っていると、そろそろ寝ようという時間になって、

 

『家でたくさん話さなきゃならないことがあるの……だから、少しの間はごめんね隼太君……』

 

と、いかにもすまなげな彼女の顔が浮かぶような返事がある。

 

(穂波ちゃん……俺、何にもしてあげられなくてゴメン……)

 

そう思った彼は、実際にその様な返事を返してそのまま床に就く。

彼女のために何かをやらねばならないものの、それが何なのか何をすべきなのかという迷路のような想いがぐるぐると果てしなく脳裏を旋回していた。

 

 翌日、4人は揃って学校を休んでいた。

全くそんなつもりもないのに、気が付くと穂波のいない席をちらちら振り返っている自分に気が付いてしまう隼太ではあったが、いつもであればそれを思いきり突っ込んでくれる村越もまたいないのだ。

そんな状態でまともに授業が頭に入るはずもなく、ただ席に座り続けているだけの存在になっていたものの、それは彼ばかりではなくクラスの男子達もほぼ全員が似たような挙動不審者と化しており、残った女子達もみなそわそわとして落ち着きがない。

そんな様子を見て取った担任が、さすがにこのままでは不味いと思ったのか終業時のホームルームで、

「いいか、絶対にべらべらしゃべるな。約束できん奴がいるならこの話しはなしだ」

と言い出した。

もちろん約束できないなどと言う者はおらず、少し緊張気味の担任はおもむろに話し始める。

曰く、これまで10年以上に渡って海軍は適性検査を実施してきたが、たった30人程の被験者の中から一度に4人も適格者が見つかったことなどただの一度もなかったことだという。

無論、単なる偶然だという事は簡単だが、どう控えめに見たところで偶然では片づけられないこの結果について、海軍内部でも相当な議論があったらしい。

とはいうものの、この結果に対する調査は後々のこととして、今回実際に適性が明らかになった4人については、艦娘に志願するかどうかについて家族とよく話し合って決めて欲しいとのことで、それは彼女達に伝えられると同時に家族に対してもすでに連絡しているという。

従って今の時点ではまだ何の結論も出ていないが、4人とその家族の意思が固まるまでは学校を休むことになるので、その間皆にはノートやプリントの配布などについて協力してほしいとのことだった。

ただ、候補者不足に悩んでいる海軍からは、もし志願してくれるなら、可能な限り彼女達が希望するタイミングを優先するもののできることなら今すぐに受け入れたいし、そのための環境整備は惜しまないと言われたようで、実際すでに住環境や教育環境などが整備されている横須賀で受け入れる準備を整えているとまで具体的に説明を受けていた。

それらをひとしきり説明した後で、担任はこう話を締めくくる。

 

「君らにとって戦争は遠いところで起こっている話かもしれんが、現に戦争は続いているし、しかも特殊な能力も何もない男の兵士ではむざむざ殺されるだけになりかねないから、どうしても艦娘に頼らなければならないのが現実なんだ。だからもし彼女らが志願してくれるなら、我々も村を上げてその後押しをしなけりゃならんだろう」

 

その言葉が終わった後の教室は、全員が呼吸する音しか聞こえないほど静まり返ってしまい、話をした当人である担任ですら居心地悪そうにキョロキョロしてしまう。

その空気の中で発言することは本来大変な努力がいりそうなのだが、今の隼太にとっては黙っていることの方が却って苦痛だった。

「先生!」

「なんだ敷島」

「でも、それじゃあもし断りたいと思ってても断れないじゃないですか」

「そんなことは無いぞ、もし嫌だったら断っても構わんと海軍からははっきり言われとるんだ」

「だって今、後押しするって言ったじゃないですか、それに海軍は返事も聞かないうちからどこで受け入れるかまで決めてるんでしょう? そんな中で断るなんて本当にできるんですか?」

「――まぁ――、確かに全員で断りでもせんかったら、少々居心地の悪い思いもするかもしれんが……」

「居心地悪いどころじゃないですよね⁉ 結局、全員志願するか全員断るかどっちかしかできんと言う事ですよね⁉」

 

憤然と言い切った彼の声が教室内に響いた後、再びその場は水を打ったように静まり返ってしまい、担任はもとよりクラス全員の沈黙が重苦しく彼らの上にのしかかる。

それでも教師としての義務感を発揮した担任は、苦しげにしながらも再度口を開く。

 

「敷島、お前が言いたいことはよく分かるし、お前の気持ちもわかっとるつもりだ。――ただな、さっきも言うた通り艦娘でなければ満足に敵と戦う事すらできんのだ。だから、もしも艦娘のなり手がおらん様になったら、じきに船を出すことすら出来んようになってしまう。社会の授業でもちゃんと言うとる通り、日本の国や国民が日々生活していくためにはどうしても海外の資源や物産が必要だし、海外の市場で製品を売らなければ企業は成り立たん。今、日本はオリジナルや艦娘のおかげで何とか船で海を行き来できとるが、もしそれが叶わん様になれば確実に破綻するだろう。現にいくつもの国がこの15年ほどの間に破綻しとるんだ……。そうなりたくなかったら何とかして敵と戦うしかないし、それができるのはオリジナルと艦娘だけだ。我々ができることは、ただ裏方として彼女らを支えて送り出す以外には無いんだ……」

 

生徒たちの前で、校長を含めた教師の誰かからこんな素の言葉が出るのは、おそらく初めてだっただろう。

担任の言葉尻には、何とも言えない無力感がこもっていた。

 

(でも――それでも――)

 

思わず隼太は唇をかむ。

 

(だからって――何もしないでいるなんて――俺にはできない――やっぱりできないよ……)

 

確かに、戦争の事にしても日本の国の事にしても今の隼太にできることは何も無いのかも知れないが、ただ穂波のためにならばまだ何かできることがあるはずだ。

そう思った彼は、一つの行動を起こす決意を固めた。

 



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【第二章・第四節】

 週末をじりじりしながら過ごした彼は、翌週クラスの女子に頼み込んで吹輪いぶきの端末アドレスを教えてもらった。

今回の騒ぎでクラス中に隼太と穂波が付き合っていることはバレてしまったわけだが、状況が状況なだけに誰からも冷やかされたりすることはなく、特に女子達はかなり同情的だった。

おかげでずいぶんすんなりと教えてもらえたわけだが、このことは穂波には言わないで欲しいと付け加えることも忘れなかった。

隼太が何をしようとしているか分かってしまえば、彼女を不必要に心配させてしまうことは明らかだったからだ。

そして一夜、緊張気味にいぶきのアドレスを入力した隼太は、内臓がせりあがってくるような不快感に抵抗しながら、じりじりと彼女の返事を待ち受けていた。

 

(隼太君! 突然どうしたの? あたしのアドレスなぜ知ってるの?)

(吹輪さんと話がしたかったから、無理言って教えてもらったんだ……たいへんな時にごめんね)

(ううん、そんなことないよ! 隼太君から連絡貰えてうれしい♪ それに苗字じゃなくていぶきでいいよ!)

(ありがとう、それじゃいぶきちゃん、出来たら会って話したいんだけど出来るかな?)

(いいよ! 土曜日で良い?)

(うん、ゑびす記念館の碑の前とかだめかな?)

(え~一緒に盛岡行きたいなぁ~、ねぇ行こうよ♪)

(こんなたいへんな時にダメだよ! そんなことさせるわけにはいかないよ)

(あたしは別にいいのにぃ、ほんとにそこでいいの?)

(うん、無理言って悪いんだけど、2時にそこでいい?)

(わかった、じゃあ土曜日ね!)

(ありがとう、よろしく!)

 

やり取りを終えた瞬間、彼は期せずして深いため息を吐く。

何気なく額に手をやってみてはじめて気が付いたが、いつの間にか汗びっしょりになっていた。

とは言うものの自分でも無理のない話だとも思う。

何様いぶきは志願に積極的なのだから、それを否定するような意見をそう簡単に聞き入れるとも思えない。

だが彼女以外の2人について言えば、村越は明らかに志願には消極的な様だし、白石は彼らと価値観は違うものの、日頃接している限り自分の主張を一方的に押し付けるタイプではない。

となれば、やはり一番志願に乗り気だと思われるいぶきを説得することができない限り、全員が志願せずにこの村に残るという選択は不可能だろう。

 

(けっぱれ、俺! 穂波ちゃんのためなら何だって出来るだろ⁈)

 

懸命におのれを叱咤しながら、隼太は土曜日を待った。

 

 そしてその朝、緊張のあまり早くから目を覚ました彼は、部活の練習に出て2時間ほど汗を流したあとでさっさと切り上げて自宅に戻る。

昼食のテーブルを囲んだ家族は、隼太の内心を気遣ってか当たり障りのない話題をしてくれているが、そんな空気を読み切れない浪江だけは、

「あんちゃん、またデート行ぐのが? 穂波が艦娘になる前にデートしどぐのが?」

と、彼の感情を逆なでするようことを口走る。

一瞬カッとなりかけた隼太より一歩早く義姉が

「こらぁ! 隼太兄ちゃんの気もしらねぇで生意気ばあか言ってんでね、こんわらすは!」

と窘めてくれたので大声を出さずに済む。

ところが、言われた浪江はキョトンとした顔で

「なんでだ? 穂波は艦娘にならねのが? 嫌なのが?」

と不思議そうに問い返す。

このリアクションにあっけにとられ黙ってしまったのは隼太ばかりではなく、食卓を囲んでいた大人たちも同じだった。

やがて兄が真顔で

「浪江、おめ怖ぐねのが? 戦争さ行ぐんだぞ? 死ぬかも知れねぇぞ?」

と聞き返すと、彼女はなにやら憧れの入り混じった表情で、しかも少々得意げに

「だってぇ艦娘はすげぇんだぞ、そんなに簡単にゃやられね! そん前にやっつけちまうんだぞ? おれだって艦娘になってみで!」

と無邪気に応じる。

 

(いぶきちゃんだけじゃないんだ、浪江までこんなこと平気で言うんだ……)

 

やはり女性はみな強いのだろうか?

だとしたら、穂波が戦場に行ってしまうかも知れないというだけで居ても立っても居られない自分(も含めた男達)とは一体何が違うのだろう?

隼太がそんな疑問を抱きかかった時、突然義姉が大きな声を出す。

「馬鹿言ってんでね! おめが死んじまったらどうすんだ! おれがなんで行かせるだ!」

そう叫ぶように言って涙を浮かべる。

「ほら落ち付け、浪江がいぐわけじゃねだぁ」

そう言った兄がその肩に手をまわしてやると、大声を出されて驚いた浪江も急に悲しくなったものか涙を溢れさせ、

「なしてだ、なしてわがねだ――おれがわがねのか……」

と言いながら俯き、机の上に涙を滴らせる。

母が立ち上がって傍らに寄り添い、その両肩を抱くと浪江は母にしがみついてすすり泣く。

なんとも気まずくなってしまったその場の空気に耐えられなくなった隼太が立ち上がると、父が顔を向けてくる。

「隼太、けっぱれ。五十田さんのこど好きなんだったら、うんとけっぱれ」

静かだが強いその言葉に背中を押されたように感じた彼は、ぐっと腹に力を入れて応える。

「うん、俺けっぱる、うんとけっぱるから」

そう言い残して食卓に背を向ける。

今はとにかく当たって砕けるしかないという思いが全身にみなぎっていた。

 

 すでに10月になっていたが、まだ寒くなるというには程遠い陽気の中、待ち合わせ場所に自転車を走らせる。

そして間もなく彼が碑の前に辿り着くと、いぶきは既に到着しており所在無げにぶらぶらしていたが、彼の姿を見るとパッと輝くような笑みを浮かべる。

全身から喜びをあふれさせて

「隼太君!」

と呼びかけて駆け寄ってくる彼女が、いくら穏やかな陽気とはいってもちょっと季節外れなのではないかと思えるほど開放的な服装をしているのに気づく。

胸元が大胆に空いた上衣から覗く素肌や、挑発的に切れ上がった様なホットパンツからのぞく太腿がやたらに眩しい。

思わずどぎまぎしてしまう隼太の様子をいぶきは見逃さず、歩みを緩めてゆっくり近寄ってくると一瞬ちろりと舌を出して唇をなめ、上唇で下唇を咥えながら上目遣いに見上げてくる。

「うふっ、ちょっと大胆だったかなぁ♪ 隼太君はこういうのあんまり好きじゃなかった?」

そんな筈は無かった。

同年代の女子のこんな恰好と積極的な好意が嫌いな男子などいるわけもなく、ましてやそれが明るく可愛いいぶきなのだから、これが隼太でなくいぶき派の男子であればこの時点でもうメロメロになっているところだ。

だがどうしたことか、目の前にいるいぶきの姿に重なるように、穂波のどこか心許なげな姿が浮かび上がってくる。

 

(穂波ちゃん――)

 

一瞬揺らぎかけた隼太の自我はここで改めて踏ん張り直し、抵抗しがたいほどに蠱惑的だったいぶきが普段学校で見かける時と同じように見えてくる。

 

(よ、よし! けっぱれ隼太! やるぞ!)

 

必死におのれを鼓舞する彼の瞳に自身の姿が映っていないのをどうやら確認したらしい彼女は、少々残念そうな表情を浮かべたものの、すぐにいつもの愛想の良い笑顔に切り替えてくる。

「それで? 話しってどんなことなの?」

そう水を向けられた彼は、昨夜からさんざん反芻してきた言葉を慎重に引っ張り出す。

「あ、あのね、いぶきちゃんはもうどうするのか決めたのかな?」

この様な質問は予め想定内だったらしく、いぶきは笑顔を浮かべたままで

「ううんまだだよ? 気になるの?」

と、再び彼の瞳の奥を覗きこむように問い返してくる。

「うん、気になるよ。だって戦争に行くってことだよね? それって、命の危険もあるってことなんだしさ」

これを聞いた彼女は、先程一旦は仕舞い込んだ積極的な好意を再び漂わせながら

「わたしのこと心配してくれるの? 嬉しいな――ありがとう隼太君♪」

と呟くように言うと、くるっと背を向けて碑のぐるりを回るように歩き始める。

「うふっ、隼太君にそんなこと言われちゃったら迷っちゃうなぁ~――どうしよっかなぁ……」

「え――それじゃいぶきちゃんは、艦娘になるつもりなの?」

「だってぇ、普通の軍隊じゃ深海の敵と満足に戦えないんでしょ? でも、艦娘にはそれが出来ちゃうなんてすごいと思わない? なんかそういうの憧れるなぁ~って思ってたの」

「で、でもさ、本当の戦いになったらさ、敵の弾も飛んでくるんだよね? もし中ったら大けがしたり、し、死んじゃったりするかも知れないよ? いぶきちゃんは怖くないの?」

「正直に言うとねぇ~――実はそのことあんまり考えてなかったの、えへへっ♪」

思わずあっけにとられるほど、いぶきは能天気な返事をして見せる。

 

(これって真面目に言ってるのかな? それとも――なんかはぐらかされてる? 分からないよ……)

 

彼女の真意がなんなのかは図りかねるものの、なんとなく想像できることはあった。

いぶきに見えているのは、ひょっとすると艦娘になって戦場に立つ自分の姿ではなく、横須賀という都会で暮らす姿なのかも知れない。

いぶきに限らず、斯波中の生徒達で都会への憧れを持たない者はおそらく少数派だろう。

隼太は子供のころに一度だけ東京に行ったことがあるが、彼にとって大都会の忙しなさや騒がしさは良い印象としては残っていない。

同じ都会でも小学校の修学旅行で行った仙台の街の方が良いと思ったし、さらにそれよりも盛岡の方が良いと感じるくらいなので、自分には東京や横濱と言った場所に対する憧れは無さそうだと思っている。

そして、穂波もまた彼と同じ考えを抱いていることを知って互いに強いシンパシーを感じたくらいなので、いぶきが多数派に属していてもなんら不思議ではないからだ。

 

「でもね」

すこしタメてから口を開いたいぶきは、焦らすようなゆっくりとした足取りで隼太に近づいてくると、少し背中を丸め気味にしながら斜め下から見上げるように彼の眼を見つめ、

「隼太君がぁ本当に心配してくれるんだったらぁ――わたしぃ、やっぱり断っちゃおうかなぁ♪」

とひどく思わせぶりに言葉を切る。

 

(い、いぶきちゃん……)

 

彼女の服はやや垂れ下がり気味で、大きく開いた胸元は一層ひろがっており、その奥にはやや控えめながらも真っ白な二つの膨らみが彼の視線を誘い込むかのように揺れていた。

その強烈に刺激的な光景に心臓は肋骨を突き破らんばかりに暴れまわり、背中ににじんだ汗が水滴となって背筋を伝っていく。

この手のことにあまり敏感な方とは言えない隼太であっても、さすがにここまでの露骨なサインを見落とすことはあり得なかった。

信じられないことだが、彼はいぶきに好意を持たれているのだ。

斯波中男子達からはおよそ引く手数多のはずの彼女が、一体なぜよりによって彼女にあまり関心を示さない自分に好意を持っているのかひどく意外かつ不思議ではあったが、ともかく目の前のいぶきは紛れもなく現実だった。

 

(いぶきちゃんが――俺のことを……)

 

しかしながら、その驚くべき事実もやはり彼の望みを変えてしまうほどのインパクトは持っていなかった。

 

(でも……俺はやっぱり穂波ちゃんがいいんだ)

 

そう改めて確認してみたものの、どう考えてみたところでたった今隼太に好意を露にしている彼女に向かって『ほんとに大事なのは穂波ちゃんなんだ』などと言おうものなら、その場で話が終わってしまうことは明らかだ。

 

(それじゃ何しにここに来たのか分からないよ――なんて答えたらいいんだろう……)

 

今すぐこの話を中断して、続きはまた明日と言うことにできたらどれほど良いだろうか。

穂波への想いを確認したばかりではあったものの、それでももしいぶきが1日待つと言ってくれたなら、それはそれで彼女を好きになってしまいそうなほど必死で悩むが、いつまでも待たせることは不可能だった。

とうとう観念した隼太は、今彼が思いつく最善の返事をする。

「本気で心配してるよ、いぶきちゃんに戦争に行ってほしくないんだ」

少なくともこれは嘘ではない。

彼女だろうが白石であろうが村越であろうが大切なクラスメイトであることにかわりはなく、戦争になど行って欲しくは無い。

ただ、一番行って欲しくないのは穂波なのだがそれを言わなかっただけだ。

そう何とか己に言い訳をした隼太の七転八倒は、これで終わるどころか今正に始まるところだった。

その言葉を聞いたいぶきは、突然真夏の太陽が出現したような眩しい笑顔を見せて、

「隼太君! わたし嬉しい!」

と叫ぶように言うと、ドンと体をぶつけてくる。

 

(う、うわ!)

 

彼女は何のためらいもなく隼太の首筋に顔を押し付けて、手を心臓の真上にぴたりと当ててくる。

「隼太君、隼太君がそう言ってくれるならわたしどこにも行かないよ⁉ ずっと傍にいるよ! 信じていいんだよね隼太君⁉」

部活の一番きついメニューを10連続でこなしたとしても、これほど動悸が激しくなったりはしないだろう。

彼の体は焼き切れる寸前で、それほど長くはもちそうになかった。

なんとか口を開いて彼女の問いかけに応えようともがくが、まともに声が出せない。

 

(けっぱれ! けっぱれ、俺!)

 

再三再四自分を叱咤して、なんとか言葉をまとめると声を絞り出す。

「もちろんだよ、いぶきちゃんにどこにも行ってほしくないよ」

そう力強く答えたつもりだったのに、一瞬声がしゃがれて震えてしまう。

 

(し、しまった!)

 

そう思った時には既に手遅れだった。

 



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【第二章・第五節】

 たった今まで喜びを溢れさせていたいぶきが急にすっと体を離し、射抜くように彼の瞳を見つめてくる。

「ねえ、隼太君――――ひょっとして嘘ついてる?」

ほんの数秒前まで真夏だった彼女の季節は一気に真冬に進んでしまったようで、その声は凍りつきそうなほど冷え切っている。

「う、嘘なんかついてないよ⁉ ほんとにそう思ってるよ!」

ひょっとすると、必死で否定するほど嘘臭くなるのかも知れないと一瞬思ったのだが、だからと言って他にどうすればよいのか咄嗟にはなにも思いつかない。

「ふーん嘘じゃないんだ、じゃあ教えて? もしも4人の中で私だけが艦娘になるのを断って、他の3人は艦娘になるって決めたらどうするの? それでも隼太君は嬉しいってことなんだよね?」

昔話に登場する雪女の眼差しと言うのは、こんな感じなのだろうか。

実際彼の体はすでに凍りついてしまったように動けなくなっているのだが、彼女が意図して凍らせなかったものか残念ながら口だけはちゃんと動くために、厭でもその問いに応えなければならない。

「もちろん嬉しいよ――でも、4人が全員断って残ってくれる方がもっと嬉しいと思う……」

どうにかひねり出したその言葉を、いぶきは慎重に吟味しているようだ。

少し間があいたあとで、彼女はいくらか雪女から人間の少女に戻って彼を見つめる。

「隼太君――嘘ついたんじゃないってことは信じてあげる。――でも、ほんとの事は全部言ってないよね?」

急に空気が薄くなったようで、息苦しくて眩暈がしてくる。

彼女の次の言葉が恐ろしくて仕方ないのだが、凍り付いてしまったままの彼はその場から一歩も動くことが出来ない。

「ねぇ、正直に言ったら? ほんとは戦争に行ってほしくないのは穂波ちゃんなんでしょ?」

彼女の言う通り、正直にそう言えたならどれほどスッキリするだろう!

そうしてしまって楽になりたいという誘惑と必死に闘いながら、全身で唯一凍っていない口を懸命に動かす。

「さっきも言った通りだよ、五十田さんもいぶきちゃんも4人とも全員残って欲しいと思ってるよ」

そう言ってはみたものの、口に出してしまってから、いぶきが聞きたいのはこんな堂々巡りの答えではないんだろうなと思いなおして情けなくなる。

そんな彼の感想そのままに、彼女はあてこするように大きなため息を吐いて見せた。

「あーあ、何だかすんごくがっかり――――つまんないよ、ちーっとも面白くない!」

それは隼太も同感だったが、そもそもそれを覚悟のうえでここに来ている以上、面白くないからと言って終わりにするわけにはいかない。

そんな彼にまだまだ何かを言わせたいらしいいぶきは、さらに動揺を誘うような言葉を続ける。

「もう嫌になっちゃったなぁ、さっさと決めちゃって4人で一緒に横須賀に行った方が楽しいだろうなぁ~」

 

(おい隼太、黙ってないで何か言えよ! ……でも、何て言ったらいいんだ?)

 

駆け引きというものの性質上、相手が何かを言わせたいと思っているときに口を開くのは概ね良くない結果を招くものだが、この場合隼太の側には交渉できる材料は何もないので、このまま何も言わずに黙っていても良くない結果になるのは目に見えている。

結局彼は口を開かなくてはならないのだ。

「でも、ただ都会に行くだけじゃないんだよ? ここにもう一度無事に戻って来れる保証もないんだよ?」

出来るだけ彼女の思惑に絡むことなく、しかもちゃんと引き留める理由になっていることを捻り出すだけでもたいへんな苦労だ。

テストの時でもここまで脳みそを酷使したりしないだろうとは思うが、残念ながら彼の努力が評価された気配はほとんどない。

「へぇ~、隼太君ってここが一番好きなんだぁ♪ 変わってるよねぇ、ここに戻ってきたいって思うんだねぇ~、でも、ここで待っててくれる誰かがいなくてもやっぱりそうなのぉ? わたしはなんか違うなぁ~」

「いぶきちゃんは、ここが嫌いなの?」

「ううん、別に嫌いじゃないよ? でも、せっかく艦娘になって都会に行けるチャンスなのに、それに乗っかりたくなるのって普通じゃない?」

「普通――なのかな……」

彼がそう応じると、いぶきはいくらか常日頃の様な朗らかな口調に戻って答える。

「隼太君は、自分の未来が予想できるのが嫌じゃないの? わたし、きっと中学出たら斯波高とか行って、もしうまくいけば大学とかいくかも知れないけど、そうじゃなかったらさ、家の手伝いだよ? そして、やっぱりこの辺りに住んでる誰かと仲良くなって――」

ここで言葉を切った彼女は、意味深に彼を見つめてからさらに言葉をつなぐ。

「そして結婚して農家やるんだよ? でさ、そのまま年取って子供が大きくなって、またその子が農家継ぐんだよ? ――隼太君はそんな未来の方が良いの?」

そう問いかけたその瞳には曇りも翳りもなく、いつもの明るく可愛い彼女そのものだった。

 

(それが、いぶきちゃんの本当の望みなんだ――俺は今とほんの少し先だけしか見ていないのに、君はもっとその先を見ているんだ……)

 

彼女は確かに斯波府村を嫌っているわけではないが、そこに――自分が良く知っているその世界の中にうずもれたくないと願っていた。

ここよりもずっと広い世界に羽ばたき、予想できない未来の自分が見たいと希っているのだ。

そんな彼女にとって、自分が艦娘になれるというこの事実は、無限の可能性を秘めたまたとないチャンスなのだろう。

「どう? わたしが艦娘になりたいって思うの、隼太君には理解できない?」

「い、いや、よく分かったよ……」

 

(ってバカ! なにあっさり認めてるんだよ⁈ 説得しに来たはずなのに説得されてどうすんだよ!)

 

必死におのれにセルフ突っ込みを入れてから慌てて言い繕おうとするが、彼の予想とはかなり違ういぶきの反応を見て口をつぐむ。

どういうわけか、彼女は隼太を言い負かして喜ぶどころか逆に再びハァっとため息を吐いて見せ、またも意味ありげな様子で近寄ってくると息が掛かりそうな微妙な距離で立ち止まり、改めて視線を合わせてくる。

「けどね――隼太君、もう分ってるよね? せっかく目の前にめぐってきたチャンスだけど、それ見逃しても構わないって思ってるんだよ?」

さらにその後に言葉が続くものだと思っていたが、彼女はそれを言わずに止めてしまう。

もちろんどんな言葉だったのかはさすがの隼太にも想像はついているが、それに対してどう応えればいいものかさっぱり分からない。

そんなわけで芸のないことだが黙ったままでいると、次第にいぶきの様子が変わってくる。

瞳に不機嫌そうな光がチラチラと躍るのが見え、真っ白な前歯が軽く下唇を噛んだ後すぐに引っ込められたと思ったら、わずかな間が空いた後で唇が真一文字にむすばれる。

 

(えっ……)

 

強い光がやどったまなざしが突き刺さった瞬間、隼太は全身の神経が逆立つ様な感覚を覚える。

どうやら彼女は、何か重大な要求――夢を現実のものにしてくれる絶好の機会を見送るその代償――を突き付けることに決めた様だ。

「ねぇ、隼太君が何を願ってるのか、わたし、ちゃんと分かってるからね? だからそれを叶えてあげてもいいんだよ?」

そう話すいぶきの瞳は、相変わらず抵抗できないほど強い光を湛えており、そのきらめきは彼を金縛りにしている。

彼はただただ無防備に、次にやってくる恐ろしい言葉を受け止めるしかなかった。

「どうしても穂波ちゃんを戦争に行かせたくないんだったらね、隼太君、わたしと付き合って? もしそうしてくれるんだったら、艦娘になるの断ってあげるよ――ううんそれだけじゃないよ、わたしが雪乃ちゃんと美空望ちゃんを説得してあげる。確実に全員が断るようにしてあげるよ――わたしなら、してあげられるんだよ?」

再三繰り返しにはなるが、まだこの時の隼太のボキャブラリーはかなり乏しいために、この場を的確に表現できる言葉を持っていない。

しかし後年になってから彼は、このきわめて印象的な瞬間こそ正に『魅入られて』いたのだと回想することになる。

それほどにいぶきの言葉は怖ろしくも魅惑的だったのだ。

「それにね、わたし、穂波ちゃんに負けない位素敵な彼女になってあげられるよ? ――もしね隼太君がね、その――色んなこと興味あるんだったらね、――いっぱい――許してあげてもいいんだよ♪」

今、彼の瞳には、ほんのりと頬を染めて眼だけを動かしてこちらを見ているいぶきが、この世のものとは思えないほど可愛いく映っていた。

こんなに可愛い彼女に『いっぱいゆるしてあげる♪』などと言われたら、エロティックな想像をしてしまうのは当然の結果だろう……。

隼太が明らかに自身の言葉に反応しているのをちらりと確認した彼女は、ダメ押しとばかりにスッと距離を詰めてくる。

「うふっ♪ ――隼太君のエッチ♪ ――でもいいんだよ、彼女なんだからそれくらい当たり前だよね。 ――――ね、分かるでしょ? 普通に考えたらどうするのが一番いいのかすぐ分かるよね♪ 隼太君はな~んにも損しないんだよ?」

その甘美な言葉はほぼ彼の心に止めを刺しかけていた。

確かにいぶきの言う通りで、もしも彼女が艦娘になることを選択すれば、穂波が手の届かないところに行ってしまう事は避けられない。

ただの田舎の中学生である隼太が穂波のあとを追いかけるすべなど無く、ただひたすら無事に戻ってきてくれることを願って何年も待ち続けるしかないだろうし、最悪の場合彼女を喪ってしまうかも知れない。

だが、今いぶきの条件を受け入れるならば穂波は戦争に行かずに済むことになる。

確かに穂波とは付き合えなくなるが、永遠の別れという最も残酷な運命から彼女を守ることは出来るし、自分にはちゃんといぶきという彼女も残るのだから、何も損をしないというのは間違いない……

間違いないはずだ……

はずなんだ……。

 

今や彼の目と鼻のさきにあるいぶきの顔が満面の笑みを浮かべている。

しかしそれは、彼女が大好きな相手にだけ見せる無邪気な笑顔というだけでは無く、自らの勝利を確信した笑顔でもあった。

 

(――いぶきちゃんの勝ちだ――でもそれで穂波ちゃんは救われる――だからこれでいいんだ、これで……)

 

彼がそう思って抵抗をあきらめようとしたその瞬間、突然いぶきの笑顔の向こうに広がる田園風景が歪み始め、みるみるうちに見慣れた眺めに変わっていく。

 

(あっ⁈)

 

垣間見えたのは、あり得るかも知れない未来の光景だ。

いつもと同じクラスの眺め――そこには目の前のいぶきはもちろん村越も白石もいて、皆が戦争に行かずに済んだことが分かる。

そして――そう、穂波もちゃんといた。

今にも消えてしまいそうなほど、儚な気で寂し気な眼差しで、明るく笑う隼太といぶきを見ている穂波が……。

 

(違う! 違う!)

 

胸の中に彼自身の声が響き、再び陽の光に照らされた風景がよみがえってくる。

 

(俺が望んだのはこんなことじゃ無い! これじゃあ穂波ちゃんに別の不幸を押し付けてるだけだ!)

 

それは甘っちょろい理想なのかもしれないし、たとえ最善ではないにしろいぶきの提案はより現実的なのかも知れないが、少なくとも彼が望む解決策では無かった。

「ごめん、やっぱりそれは出来ないよ」

「えっ?」

彼女は言っていることがとっさには理解出来ないといった顔で隼太を見つめるが、それ以上なんと言って説明していいものか見当がつかないので、またしてもただじっと黙っていた。

とは言えその沈黙は数秒ほどで終わり、いぶきの顔が次第に険しい敵意に塗りつぶされていく。

「ちょっと意味わかんない――隼太君、自分が何言ってるのか分かってる? わたしが艦娘になるって言ったらそこでお終いなんだよ? 穂波ちゃんを戦争に行かせたく無いんじゃないの?」

それはイやというほど良く分かっていたが、彼にはどうしても出来ないことなのだ。

「ねぇ、もう一回ちゃんと考えてから返事してね? 今隼太君が一番欲しいものをあげられるのはわたしなんだよ? ――それに一応言っとくけど、わたし、穂波ちゃんに嫌がらせしたいと思ってるんじゃないからね?」

それが嘘ではないらしいことはなんとなく理解出来た。

彼女は隼太と付き合いたいがためにこの機会を利用しようとしているだけで、穂波に対する悪意や邪念めいたものは伝わってこない。

それだけに余計理解できないのだが、一体いつ頃からいぶきはそんな強い好意を抱いていたのか、彼にはさっぱり思い当たるフシが無かった。

「隼太君、もう一回聞くね? わたしと付き合ってくれるよね? そうしたらわたし、隼太君のために艦娘になるの断ってあげるよ? それでいいよね?」

一体なにが変わったのだろう?

つい先ほどのいぶきは抵抗するのが難しいほどの魅力を溢れさせていたはずだったのに、今の彼女の言葉は教室でかわす他愛のない雑談と何ら変わりがない。

「いぶきちゃんがそう言ってくれるのはすごく嬉しいけど、でもやっぱりそれは出来ないんだ、ごめんね。だけど何とか考え直して欲しいんだ。いぶきちゃんも村越さんも白石さんも五十田さんも、誰も戦争には行って欲しくないんだよ、本気でそう思ってるんだ」

彼自身も何が変わったのかよく分からないが、今はなぜか落ち着いていて頭もちゃんと回転している。

ただとても残念なことに、彼が落ち着いて発したその言葉は全くいぶきの琴線に触れなかった様だ。

「そう――よく分かった、それが隼太君の答えなのね。じゃあもうこれ以上話すことなんにもないから、わたし帰るね」

その声と言い表情と言い、まるで氷の世界の住人ではないかと疑うほど凍てついていたが、それでもただそれを見送って終わりにするわけにはいかない。

「ま、待ってよいぶきちゃん! 頼むからもう一度考え直してよ! お願いだから!」

とっさに立ちふさがった隼太の瞳を突き刺すように睨みつけた彼女は、やはり氷のままで応じる。

「その言葉そっくり返してあげる。どう? 考え直してくれるの?」

彼女が本当に期待している答えはいくら分かっていても返し様がない。

それでもなお、彼が諦めてしまえばそこで全て終わってしまうことははっきりしていた。

「どうしてもって言うんだったら時間が欲しいんだ! そうしたらいぶきちゃんが言ったこと真剣に考えてみるから! だからいぶきちゃんも考え直してよ、頼むよ!」

その必死の言葉は今度は少しいぶきの心に届いたらしく、束の間彼女は探るように隼太の瞳を見つめる。

ただ、それは大して長続きせず、再び冷え切った視線を投げかけたいぶきは冷たい声で断じる。

「ううん駄目よ、その時間で穂波ちゃんと相談するつもりなんでしょ? 悪いんだけどそんなことさせるわけにいかないの。さっきも言ったけど、わたし別に穂波ちゃんに意地悪したいわけでもなんでもないのに、そんなことされたらすっごい悪者になっちゃうじゃない?」

「えっ、で、でもさ――」

「それでも穂波ちゃんに言いたいんだったら別に言ってもいいよ。でもね、もしこれから一緒に戦争に行くかも知れない時に、わたしと穂波ちゃんが仲悪い方が良いと思うの? いくら隼太君だってそれくらいわかるでしょ?」

「……」

悔しいが全くその通りだと思った。

もし本当に艦娘になって戦争に行かなければならないのであれば、4人が仲良く助け合っていける方が良いに決まっている。

 

(それは――それはそうなのかも知れないけど――)

 

自分が男だからなのだろうか?

いぶきの割り切った答えは隼太にとって理解しがたいものがある。

もし彼がいぶきの条件を呑んだときは、当然のことだが穂波に何があったのか全て知られてしまうのに、うまくいかなければ知られたくないと言うのは明らかに筋が通らないように思えてならない。

どちらにせよ、既にそんな疑問をぶつけられるような状況ではないので、彼が抱いた素朴な疑問に対する彼女の答えを聞く機会は、おそらくもうやって来ないだろう。

「一応今日の夜までは待ってあげてもいいけど、それより後はもうないからね。それじゃあね隼太君」

言葉とは裏腹に、彼の変心などかけらも期待していないという空気を振りまきながら、いぶきは自転車の前カゴからパーカーを取ってサッと羽織ると、そのまま振り返りもせずに走り去っていく。

あとに残された隼太は、しばし呆然とその後ろ姿を見送るばかりだった。



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【第二章・第六節】

 意気消沈して重い足取りで帰宅した隼太の様子を見た家族は、彼の試みが不首尾に終わったことを悟って、皆何も言わずにそっとしておいてくれる。

いつもは煩い浪江も、昼に義姉に大声を出されたせいなのか何も言わずに黙っていた。

家族と一緒に夕食を取るのは苦痛だったが、母が「黙って俯いていても構わんから一緒に食べな」と言うのでその通りにするつもりで食卓を囲む。

実際、いつもの食事時であればあり得ないほど静かな夕食になってしまったが、黙って素知らぬ振りをしてくれる大人たちと違って、浪江だけは時折ちらちらと隼太の顔を見る。

相手にできる気がしなかったのでずっと無視していたものの、さすがになんとなく可哀想になってきた頃、やおら母が声を上げる。

「浪江、あんちゃんに聞きでこどあんだったら素直に聞いてみ」

その言葉に、声をかけられた浪江は救われたような顔になり、どうしたものかと思っていた隼太も少々ほっとする。

「あんちゃん、あんちゃんはやっぱり穂波に艦娘になって欲しぐねのか?」

やや恐る恐るだがはっきりとした声音で語られたその言葉に、意外なほど冷静に反応できる自分が少し意外だった。

「そだ、おれは行って欲しぐね」

「なんでだ? 穂波が死ぬかも知れねがらか?」

「んだ、戦争なんだがら、何があってもおかしぐね」

「艦娘でもか?」

「艦娘でも弾があだったら死ぬのは同じだ、だからどうしでも行かせたぐねがったんだ」

「……でも、行がなきゃなんねのか?」

「そだ、多分……」

「……お、おれのせか? おれが余計なこど言ったからか?」

 

(浪江……)

 

何とも言えず済まなげで不安げなその顔が急に可愛らしく思えてきた隼太は、出来るだけ優しい声で応える。

「んでね、おめが言ったこどとは関係ね。おめは心配すんでね」

それを耳にした途端浪江の顔が嬉し気に輝き、やっと笑顔が戻る。

彼女なりにその小さな胸を痛めていたのだと思うとそれがいじらしく思えたので、そのままもう少し話し掛けてやる。

「浪江は、やっぱりまだ艦娘になってみでのか?」

「んだ! おれはやっぱり――」

と言いかけたのだが、途中で気が付いて口を噤むと義姉の方をちらとうかがって俯いてしまう。

「おめがなんがに憧れんのがわがねていうわげでゃあねぁ、あっぱはおめがでぇじだけぁ、死なせだぐねぁど思ってくらえただけだ」

兄が優しい口調でそう言うと、浪江は目だけを動かして義姉の顔を見る。

視線を合わせた義姉が頷いてみせると、浪江もおずおずと頷く。

「なんぼなりでど言ってもなれんのは1000人に1人だきゃ、浪江がなれっとは限らねぁし」

隼太がそう口をはさむと、母も

「んだな、まずむりだべな」

と相槌をうち、浪江は少々残念そうな顔をする。

「それにしだっで穂波ちゃんはせずねぇな、なんどがすけれねぁごったが」

兄がそう言いながら隼太の顔を見るが、彼もどうすればいいのか分からないのは同じだ。

ところが、ここで意外なことに父が口を開く。

「隼太、おめさえよげればおれから五十田さんの親御さんにそったる。行ぎたぐねのに皆の手前だけで行がねばならんごと、なんぼしだってむじぇな」

確かに父から穂波の両親に話してもらえれば、当然娘を戦場に行かせたくないと思っているご両親は、何とか断る方向で彼女と話あってくれるだろう。

そうなると逆に問題になってくるのは穂波自身の方だ。

いくら周囲が気遣ったところで、結局は彼女自身が自分だけが断ったという(一応まだそうと決まっているわけではないが)その負い目に耐えられるかどうかに掛かっている。

「おれ、もっかい穂波ちゃんと話してみで。それから頼んでもえが?」

「わがった、決めたら言え」

それだけ言ってしまうと、父はまた何の興味も無さそうな顔で食事に集中し始める。

それは彼ら家族の見慣れた光景でもあった。

 

(ありがとう、親父)

 

さすがに口に出すのは少々気が引けたので、心の中で言うだけにしておいた。

 

 その夜、早速穂波を誘ったところ彼女も隼太の意図を察してくれ、翌日会ってくれることになる。

こそこそとする理由も無くなったとは言うものの、やはり家の近所では落ち着いて話しにくいので、北上川の支流の川縁まで自転車を走らせた二人は、静かな川面を眺めながら話し合う。

「ご両親と話してどんな感じ?」

「うん、でも父も母もわたしと同じだったの」

「やっぱり自分だけ断るのは難しい?」

「うん……」

「――でも――命とは引き換えに出来ないよ……」

「――うん……」

「戦争に行った事は無いけどさ、弾とか避けようと思って避けられるものじゃない事位は分かるよ。だから恐ろしいんだ、もしそれが穂波ちゃんだったらって思ったら……」

「――わたしも怖い……」

「だったらやっぱり断るべきだよ。穂波ちゃんもお父さんお母さんも辛いだろうけど、もし死んじゃったらもう後悔すら出来ないよ――俺も、もし本当に穂波ちゃんがいなくなったりしたら――そしたら――それでも生きてられるかなって……」

「――わたしもだよ、隼太君とずっとずっと一緒にいたいよ――お別れなんて絶対に嫌だよ――だけど――」

「――だけど?」

「ひょっとするとね、美空望ちゃんは一緒に断ってくれるかも知れないけど、いぶきちゃんはもう行く積もりみたいだし、誰か行くんだったら雪乃ちゃんはきっと断らないと思うの」

「じゃあ、全員が断るっていうのはもう――」

「――うん、多分ないと思う……」

「もしそうなんだったらさ、穂波ちゃんと村越さんだけでも断るべきだよ、全員じゃないのは辛いけどでも――」

「隼太君」

「え、なに?」

「さっきね、避けようと思って避けられるものじゃないって言ったでしょ?」

「う、うん」

「誰か一人とか二人とかで戦場に行くのとね、四人で行くのとだったらどっちが良いと思う?」

「あ……」

「できたらね、全員で断りたいよ――でもね、それはもう無理かもしれないの。だったらね、一人だけとか二人だけとかで戦争に行かせるのっていいのかなって……四人で行ったからって弾に中らなくなるわけじゃないけど、でも四人が一緒にいれば、誰かが弾に中っても助けられるんじゃないかなって……」

「穂波ちゃん……」

 

情けなくて何も言えなかった。

彼は勝手に、穂波が自分の意見をはっきり言い出せない事が一番のネックなんだと決めつけていたのだ。

 

(情けない……俺は自分の事しか考えてなかった――穂波ちゃんは友達の事を考えてたのに……)

 

「ごめんね穂波ちゃん、俺恥ずかしいよ――自分の事しか見えてなくて、本当に恥ずかしいよ……」

「そんなこと言わないで、隼太君がわたしのこと本気で心配してくれるのすごく嬉しいよ。だからね――だから友達の事も考えられるんだよ、わたしの分まで隼太君が心配してくれるからだよ――隼太君がいてくれるからだよ」

そう言った穂波は彼の手をギュッと握りながら見つめてくる。

その瞳を見つめ返した隼太は、またしても自分が見えていなかったことに気付く。

彼女が朗らかになったとか明るくなったなどと(随分上から目線な言い草だと反省しているが……)軽く思っていたが、それはただ上っ面を見ているだけだったのだ。

 

(穂波ちゃんは明るくなったんじゃない、強くなってるんだ!)

 

そして彼女は隼太がいてくれるからだと言ってくれたのだ、だからこそ自分は強くなれるのだと……。

「穂波ちゃんは凄いな、俺ももっともっと頑張らなきゃいけないな」

「そんなこと無いよ! だって、偉そうなこと言ってるけどわたし――怖くて仕方ないよ――怖くて怖くて泣きそうだよ……」

「それでもやっぱり――しっかりしろよ俺! って思っちゃうよ、だって俺は穂波ちゃんが遠くに行ってしまうっていうだけでこんなに怖くて仕方ないんだから」

「ううん、一杯そう思って欲しい」

「え?」

「隼太君に一杯一杯そう思って欲しい――そうしたらまた、ちゃんと隼太君の傍に戻って来られると思うから……」

「もちろんだよ! 俺、穂波ちゃんの事何時でも考えてるから――24時間ずっと考えてるからね」

「うふふ、寝てる間もそうなのぉ?」

「うん、夢の中でも穂波ちゃんのこと考えてるよ!」

さすがに少々誇張はあるが、彼がしばしば穂波の夢をみるのは事実だった。

もちろんその大半は彼女に話せない様な中身ではあったが……。

 

「ありがとう隼太君――まだ決まったわけじゃないけど、でも――隼太君が思ってくれるだけ私も頑張れるよ」

「穂波ちゃん――」

互いの握った手に力がこもり、見つめあう瞳が輝く。

非常に不謹慎ながら思わず期待が盛り上がった隼太だが、間の悪いことに背後の駐車スペースに車が入ってきてしまう。

 

(ええ……)

 

「もう、隼太君⁈」

心中がっかりしたその落胆の色をつい顔に出してしまい、穂波が咎めるような声を出す。

「ご、ごめんよ」

素直に詫びる隼太の瞳をじろっとひと睨みした彼女は、片手の人差し指と中指を自分の唇に当てると、その指をそのまま彼の唇にサッと押し当てる。

 

(あっ!)

 

「今日はこれで我慢してね♪」

さらりとそう言い渡して微笑を浮かべる。

「う、うん」

あらためて思うが、何時の間にか彼女は強くなっていた。

 



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【第二章・第七節】

 隼太が帰宅すると、母が待ちかねたように小走って出迎えてくれる。

そのまま居間に向かった彼は田を兄に任せて待っていた父と母に対座すると、穂波は戦争に行きたくないとは思っているものの、誰かが断ることで戦場に向かうことになる友達をより危険な目に遭わせてしまうかも知れない、行くなら4人一緒の方が少しでも助け合って危険を乗り切れるかもしれない――と考えていることを話し、それ故に自分は説得をあきらめると告げた。

「なんたら、穂波ちゃんはほにいい子だなぁ」

母は余程感動したのか、手で目頭を拭っている。

「隼太」

「あ、はい」

父が改まった声を出すので、彼も少し居住まいを正す。

「おめも覚悟決めたんだな」

「うん、そのつもりだ」

「だったら、おめはこれがら五十田さんのために何がでぎっがよぉぐ考えろ」

「わがった、考えてみる」

それを聞いた父はそのまま無言で立ちあがり、何事もなかったかのように玄関の方に向かって歩き去ってしまう。

 

「さっぎなぁ」

「うん」

「あぎらめるつったべ」

「うん」

「穂波ちゃんのこどもあぎらめるつもりかぁ」

「ほんでね、俺はあぎらめね」

隼太がきっぱりそう言い切ると、母は如何にも嬉しげな笑顔になる。

「んだなぁ、あぎらめちゃなんねぞぉ」

「うん」

とは言ったものの彼はまだ何も思いついたわけではなかったし、それどころか穂波達が艦娘になるのかどうかすらまだ本当に決まったわけではなかった。

それでも母はしきりにウンウンと頷きながら、立ち上がる隼太を目を細めて見つめていた。

 

 翌日登校すると、クラスの雰囲気はまるで葬式のようだった。

4人が艦娘になって村を去ってしまうことは決定したわけではないものの、どうやら全員に雰囲気は伝わっているらしい。

いぶき派の男子達は皆泣きそうな顔で黙りこくっており、いつもは何やかやと声を掛けてくる清次もぶすっとしたまま窓の外ばかり眺めている。

そんな中にあって一人隼太の雰囲気だけは少々違って見えているらしく、休憩時間になると女子達が話しかけてくる。

「敷島君、何かあったの?」

「そうだよねぇ、会って話とかしたんでしょ?」

と言いかけた彼女はちらっと他の男子達に視線を投げかけて見せ、その誰かの名前を出さずに問いかける。

「いやぁダメだった」

「えっ、そうなの?」

「うん、やっぱり艦娘になってみたいんだってさ」

と言いながら、彼は自分の口からスラスラと無難な答えが出るのを不思議に感じていた。

「え~敷島君でも駄目だったんだ」

「それじゃあやっぱりもう無理なんだねぇ」

ひょっとするとクラスの一部の女子にとっては、いぶきが彼に好意を持っているというのは周知のことだったのだろうか?

直接聞いてみたいという衝動を懸命に抑え込んで、もう少しだけ話をつなぐ。

「みんなも説得してみたの?」

「うん、でもダメって感じ~」

「美空望ちゃんはまだ迷ってる感じだけどね~」

「それよりさぁ――」

そう意味ありげに口にした彼女達は声を低くして顔を近づけてくる。

「穂波のことどうするの? 全力で引き留めちゃうの?」

「そうだよー、敷島君どうするのかな~ってぇ」

「あのさ、無理には引き留めないことにしたんだ」

「えーっ!」

彼女達が声を揃えて大きな声を出したので、一瞬クラス中の視線が集まってしまう。

慌てた隼太は彼女らに目配せして教室の外に出る。

「ちょーっと、大声は勘弁してよ~」

「ごめんね~、でもさぁ――」

「さすがにびっくりしちゃったんだもん、まさか穂波のことあきらめちゃうなんてぇ……」

「いや、あきらめたりしないよ」

「えっ」

「なになに、どーゆーこと?」

「うん、正直言ってまだどうすればいいのか思いついてないんだけどさ、でも引き留めないっていうだけだよ。なんか彼女のために俺に出来ることがあるはずだって思うから――だからそれを見つけ出して何とかするつもりだよ、絶対に」

「え~、何その純愛っぽい言い方ぁ~」

「そうだよぉ~、なーんか悔しい! 妬ける―」

「なんでだよ!」

「だってぇ――」

「ねー」

そう言いながら、彼女らは互いにアイコンタクトを交わすと意味ありげな視線を隼太に投げかける。

 

(えっ……なに? どーゆーこと?)

 

しかし、ちょうどその時廊下の向こうから教師が近づいてきたために話はそこで終わってしまい、なにやら釈然としない思いを抱えたまま隼太は席に戻った。

 

 それから間もなく、彼女ら4人が両親ともども集まって話し合うことになったと穂波から知らせが入る。

さすがに急転直下全員が断ることになる様な大逆転など起こるはずもなかったが、それでも結果が分かるまで隼太は落ち着かない時間を過ごす。

そして当日の夜、穂波からはほぼ予想通りの結果になったと連絡があった。

4人全員が海軍の依頼に応じて艦娘候補となるべく横須賀に行くことになったという訥々としたそのメッセージを見て、そのそっけなさにかえって彼女の気持ちを感じ取った彼は、本人達の気持ちはどうだったのかと聞いてみたところ、どっと堰を切った様に返信がかえってくる。

曰く、村越の意見はまるで打ち合わせたかのように穂波と全く同じで、全員で断れるものなら断りたいが、誰かが行くと希望するなら自分も行くということだったが、彼の予想通り白石の意見もやや控えめなもので、行きたいという希望はあるものの、もし全員で断るということであれば自分もそれに同意するというものだった。

そんな彼女達の中でやはりいぶきの意見は際立っており、他人がどうあれ自分は艦娘になってみたいと明言したという。

最後は本人たちを除いた親同士での話し合いになったが、いぶきの両親は相当申し訳なさそうな苦し気な様子だったらしい。

 

(いぶきちゃん――やっぱり村から出てみたかったんだな……)

 

あの日、いぶきが彼に出した交換条件は果たしてどこまで本気だったのだろうか?

結局彼女は隼太の気持ちを試してみたかっただけで、本当に彼と付き合おうとはそれほど思っていなかったのではないのか――。

そう思いかけた次の瞬間、彼はある可能性に思い至ってハッとする。

もしそうだったのならば、隼太が彼女の条件を断ったがために、いぶきにとっては艦娘になるという以外の選択肢がなくなったのではないか。

彼女もまた、艦娘になってみたいという思いとその希望が友達を巻き込むことになるという思いとの間で葛藤しており、夢を諦めるための理由を求めて、あのような大胆な条件を持ち出したのではないのかと。

 

(もし――もしそうだったとしたら……)

 

だとしたら、たとえあの時隼太が条件を飲んだとしても、ただ揶揄ってみただけだと笑い飛ばして終わりにしてしまったのではないか。

彼がにべもなく断ってしまったがために、かえっていぶきの背中を押してしまったのではないだろうか……。

 

『隼太君?』

思わず脳内の迷路に入り込んでいた彼は、穂波の書き込みにビクッとすると慌てて反応する。

『ゴメンちょっとボーっとしてて……で、なに?』

『あのね、わたしは別に後悔してないからね。確かにすごく怖いけど……でも誰かのせいでこうなったとか恨んだりするつもりもないからね』

 

(穂波ちゃん……)

 

彼がいぶきと会って話し合ったことを無論彼女は知らないし、クラスの女子も彼の頼みを違えてまで真相を告げたりはしていないだろう。

それでも穂波は彼が何かをしたことに気付いている様で、しかもそのことと4人が艦娘になることとは関係がないからと言ってくれている。

『ありがとう穂波ちゃん。あのさ、俺ほんとはね――』

『待って!』

隼太が書き込みかけたのを彼女が遮る。

『何? どうしたの?』

『言わないで隼太君。なんにも、なんにも言わなくていいの』

『でもさ――』

『お願い、何も言わないで欲しいの。もし何か聞いちゃったら我慢できなくなるから……このままずっと隼太君の傍にいたい、この村で隼太君と一緒に暮らしたいって思っちゃうから……決心できなくなっちゃうから……』

 

急に目の前に彼女の顔が浮かんでくる。

それは初めて言葉を交わしたあの日のままの、どこか少し不安げでおどおどとした穂波だった。

 

『穂波ちゃん、俺、何も言わないよ。何も言わずに穂波ちゃんのことだけ考えるよ、たとえ遠くにいても会うこともこんな風に話することも出来なくても、それでもずっと穂波ちゃんのことだけ考えてるよ、穂波ちゃんがどこにいても変わらないよ、ずっとずっと一緒だよ』

 

長い間が空いた。

にもかかわらず、彼はそれをじっと待つことができた。

 

『ありがとう、隼太君……会いたいよ、すごく会いたいよ』

『俺も会いたいよ、でも――準備とかいっぱいあるよね、だから我慢するよ』

『あのね、来週美空望ちゃん家のお祭りあるよね』

『うん』

『夜神楽――見たいの』

『一緒に行ける?』

『うん、行きたい』

『行こう、一緒に』

 

『うん……』

 

『隼太君』

 

『なに?』

 

『大好きだよ』

 

『俺もだよ、大好きだよ』

 

小さなスクリーン上に表示されたその文字は、まるで濡れたように滲んで見えた。

 



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【第二章・第八節】

 月曜日のホームルームで、明日4人が登校して全校集会で話をすると知らされる。

既に何が話されるかを知っている隼太にとって特にリアクションすべきことは何も無かったが、クラス中のざわめきは中々収まる気配もなく、皆の動揺がひしひしと伝わってくる。

 

「なぁ、おめーは知ってんだろ?」

放課後、着替えてグラウンドに出る途中に清次が話しかけてくる。

「ああ、一応な」

「結局どうなったんだよ」

「言ってもいいけど、俺の口から今聞く方が良いか?」

そう言うと彼は黙ってしまい、しばらくの間無言で立ち尽くす。

 

グラウンドでは三々五々練習が始まってはいるが、お世辞にも真剣味が感じられず、村越がここにいたら一刀両断にされそうなくらいに集中力を欠いている。

 

「しょうがねぇなぁ……明日直に聞くかぁ」

「それがいいぞ、一日早く聞いたってなんの得にもならねえからな」

「隼太ぁ、なんか落ち着いてんなぁ」

「今更じたばたしたってしょうがねえからだよ、別に落ち着いてはねえよ」

「じゃあ、それまではじたばたしてたのかぁ?」

「してた、――まぁほとんど無駄だったけどな……」

 

「そっかー、そうなんかぁ……」

 

「ああ……」

 

「……」

 

「てことはよぉ」

「うん」

「明日の話しってのはそう言うことだよなぁ」

「お前だって想像ついてただろ?」

「まぁなあ~、なんせ全校集会で話すってんだからよぉ」

「そりゃそうだ、わざわざ集会で話すんだからそう言うことだよ」

「そうだよなぁ……」

 

「うん……」

 

「……」

 

「そうか、じたばたしてたのかぁ……」

「ああ、でも――」

「でもなんだよ」

「これからも、じたばたじゃねえ事を何かする積もりだけどさ」

「何するんだよ」

「まだちゃんと思いつかねぇ」

「そうか――もし思いついたらよぉ」

「うん」

「教えてくれるかぁ」

「別にいいぜ」

「そっか、済まねえけど頼むわ」

「なんだよ、珍しいな」

「別に――珍しかねぇよ!」

ここで会話を続けるのが急に億劫になったらしい清次は、殊更に空元気を振り絞ってグラウンドに飛び出していく。

 

(いや、やっぱり珍しいだろ!)

 

心の中でそう突っ込んだ隼太も、その後を追って勢いよく飛び出していった。

 

 翌日、朝の短いホームルームの後で体育館に他の生徒ら共々移動した隼太は、舞台の上で緊張した面持ちで座る穂波ら4人とその家族の姿を見て、いよいよこの時が来たのを改めて実感する。

校長が一頻り経緯を説明したのち、4人が海軍の要望に応えて全員が艦娘となるために横須賀に赴くこと、そしてその出発は2週間後であることを告げる。

「ええーっ!」

「そんなに早く――」

「ありえないよぉ~」

「信じらんない――」

「急すぎるよ!」

生徒達から一斉に様々な声が上がり、そのどよめきはいつまでも続く。

とは言え、さすがに何時までもそのままにしておく訳にもいかずに教頭が大声で制止するとすぅっとそれは小さくなり、そのタイミングをとらえて校長が4人に話を振る。

それをうけていぶきを先頭に立ちあがった彼女らは、一人ずつ校長が場所を譲ったマイクの前に立ち、挨拶の言葉を口にする。

 

「みんな! こんなお知らせになってしまってごめんなさい。でも、やっぱり自分にその才能があるって分かったら我慢は出来ませんでした。だから――わたしは艦娘になろうと思います!」

いぶきのよく通る声が生徒達の頭上に響き渡り、全員の視線が彼女に集まる。

そのまま言葉を繋ぐかに見えたいぶきは、何かを言おうとして喉を痞えさせると、不意にその瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

「今日まで――本当に――ありがとうございます。――斯波中のこと――いつまでも忘れません――みんなのために――精一杯頑張ってきます!」

それだけ何とか口にした彼女は一歩下がってマイクの前を空けるが、いぶき派の男子達を中心にすすり泣きが漏れ始め、次第に重苦しい雰囲気になっていく。

 

(いぶきちゃん……俺は間違えたのかな――君になんて答えたら良かったんだろう……)

 

彼が今更取り戻し様もないことに思いを馳せているうちに、続いてマイクに向かった村越は、不思議に淡々とした様子で口を開く。

「結果を知らされてからこの結論を出す迄に随分迷いましたが、4人一緒に行く方が良いと思い、艦娘になることにしました。斯波中を卒業する迄待ってからとも思ったんですが、少しでも早くから始める方が経験を積めるからいいのかなと考えました。これからどんな未来が待っているのか分かりませんが、無事に役目を果たせる様に皆さんに祈って貰えたら嬉しいです」

いぶきと違って淀みなく発せられたその言葉にはどこか感情がこもっておらず、しかも彼女の視線は目の前にいる生徒達ではなく、体育館の壁を突き抜けてどこか遠くに向けられていた。

言い終わった彼女はぴょこんと一礼してそのまま引き下がったが、多くの生徒たちはそれを見ていたのかいなかったのか、相変わらずすすり泣くばかりだ。

 

「あ、あの――」

マイクに向かった穂波は、いつも彼が見ていた大人しくてちょっとおどおどとした穂波そのものに戻っていた。

「こ、こんなわたしが艦娘になるとか――まだ全然実感が湧かないんですけど――4人が一緒だったらきっと助け合えると思って決めました。戦争に行くのは正直とても怖いです。でも――誰かの役に立てるかも知れないことだから、出来る限り頑張ってみたいと思います。そして――いつか必ずまた村に戻ってくる積もりです」

その時穂波の視線が下がり、隼太と真っすぐに見つめあう形になる。

 

(穂波ちゃん!)

 

口に出す訳にいかなかったので心の中で大声を出し、胸の前でグッと拳を握って見せる。

その声はどうやら彼女の心の中にも届いたようで、表情に一瞬澄みが出るとともに顔が上がり、しっかりとした声が出る。

「だから、無事に戻ってこられるようにどうか応援してください、よろしくお願いします!」

 

思わずと言った様子で教師たちからパラパラと拍手が沸き、女生徒達の中からも

「穂波!」

「頑張って穂波!」

と声が上がる。

胸が熱くなってきた隼太は、声を掛けてくれた彼女達と一緒になって大声を出したかったが、まだ多くの生徒はすすり泣いている状況なので、そんなことをしたら浮きまくるのは目に見えていた。

そんなわけで握り拳にぐっと力を込めて我慢していると、穂波が引き下がって白石がマイクに向かう。

 

「お願いです皆さん、どうか泣かないでください」

 

凛とした声が響き渡り、生徒達だけでなくその場にいた全員の顔が上がるとともに視線が集中するが、それを受け止めた彼女はぐっと胸を張って言葉を続ける。

「私も最後まで迷いましたが、こうして行くことを決めた以上は村の代表として戦場に赴くつもりです。もちろんわたし如きにどれ程の働きが出来るのかすら定かではありませんが、それでも決してこの村と皆さんに恥じないように精いっぱい努力する積もりです。ですから、私達4人が胸を張って戦場に赴けるように力強く送り出して頂きたいんです。どうかよろしくお願いします!」

 

信念のこもった力強い言葉にうたれた一同は一瞬沈黙して彼女を見つめるが、マイクから一歩後ろに下がった白石が深々と礼をすると、目が覚めたかのように拍手が沸き起こる。

 

(すごい! 白石さんやっぱりすごいな)

 

そう思った隼太も力一杯拍手をしたが、その割れんばかりの拍手の中で清次が

「なに格好つけてんだよチキショウ――知らねえぞ……」

と吐き捨てるように呟くのが聞こえてしまう。

 

(いや、思ってても口に出すなよ……)

 

注意してやろうかと思いかけたものの、清次はそれだけ言って黙ってしまったので、とりあえずそのまま見逃すことにした。

なにより隼太だけではなく周りの生徒達にもそれが聞こえてしまっており、彼の前にいたクラスの女子は露骨に顔をしかめていた位なので、今更言っても仕方のないことではあった。

そのあと、さすがに校長は万歳三唱しようなどとは言い出さず、改めて教師や生徒達が全員で拍手をする中、4人とその家族は彼らの横を通り過ぎてそのまま体育館を後にする。

残った生徒達には、例の最寄駅から彼女達は出立する予定なので、詳しい日時等が決まり次第別途連絡があるとの説明があり、見送りを希望する者はそれに合わせて集合するようにとだけ告げられて解散となる。

教室に戻ってからも、興奮が冷めやらぬクラスメイト達はざわざわと落ち着きがなかったが、その中にあって一人清次は不機嫌そうに不貞腐れていた。

 

(気持ちは分かるけど、白石さんにあたるのは筋違いだろ)

 

もっとも、普段からあれほど白石のことを『堅物』呼ばわりしていたいぶき派の男子達までもが一斉に拍手していたことからすれば、そこは随分ブレずに徹底しているともいえる。

 

(まぁ、そこはどっちかっていうとブレるとこだけどさ)

 

清次がどう思おうが、白石の態度が立派だったことは間違いない。

彼女や穂波、村越ら3人は結論を出すまでにとても苦しんだことだろうし、途中から前のめりに決意を固めていったいぶきですら深く葛藤していたことは、先程のあの涙を見ても分かる。

それでも行くと決めた以上は彼女達を全力で支えることが隼太たちの役目だというのは、確かにあの日担任が言った通りなのかも知れない。

 

(俺は――どうするんだ? どうやって穂波ちゃんを支えるんだ?)

 

心の中で思うだけというのではどうにも納得できないが、だからと言って彼女と一緒に行くことが出来るわけでもない。

戦争で親を喪った家庭を支援する募金活動やボランティアは見掛けたこともあるが、それに協力するというのは余りにも間接的すぎる気もするし、艦娘を直接支援する募金やボランティアがあるとも思えなかった。

 

(なんか違うんだよなぁ……俺は――俺はそんな事をしたいんじゃないんだ、もっとストレートに穂波ちゃんを支えたいんだ)

 

彼に出来ることで直接穂波を支えるにはどうすれば良いのか。

もちろん今すぐそれが出来ない事は既にはっきりとしている。

ならばどうするのか――脳裏にはぼんやりとした絵が浮かび始めてはいるのだが、この時の隼太はまだ己の迷いを十分に振っ切れてはいなかった。

 



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【第二章・第九節】

 日が西に傾くと、茜色の空は急速に光を失いはじめる。

いつの間にか季節は移ろい、日一日と夕暮れはその早さを増していた。

 

(もうすっかり秋だよな……)

 

僅か2ヶ月ほど前、はじめて穂波と二人で辿った帰り道はまだ金色の太陽に照らされていたはずなのに、あの時とほぼ変わらない時刻にもかかわらず、辺りは宵闇に包まれている。

その時カチャリと控えめな音がしたため、物思いから引き戻された隼太は慌ててそちらに向き直る。

傍らに停めた自転車とともに彼が今立っている場所は五十田家の玄関前であり、開いた扉から現れたのは、恥ずかし気に頬を紅潮させた穂波と彼女の母親であった。

「ごめんなさいね、お待たせしちゃって」

「い、いえ! 全然そんなことはありません!」

実際待たされるというほど時間が経ったわけではないが、秋の日は釣瓶落としと言うその言葉の通り、みるみるうちに辺りが薄暗くなり始めただけのことだ。

「勝手なお願いで申し訳ないけど、穂波のことよろしくお願いします」

「あ、はい! 必ずお約束の時間までに戻りますから!」

そう言って勢いよく頭を下げた隼太に満足してくれたのか、それとも気を遣わせないように早めに切り上げてくれたものか、穂波の母は

「それじゃ二人とも気を付けてね」

とだけ言い残してスッと扉の向こうに姿を消してしまう。

思わず肩の力が抜けてため息を吐く隼太の様子に穂波が苦笑する。

「ごめんね、緊張した?」

「うん、ちょっとね♪」

「うふふ――でも、ありがとう迎えに来てくれて」

「そんなの! ぜんっぜん気にしないでね」

そう言い切ると、彼女はあの内側からにじみ出るような笑みを浮かべる。

 

(穂波ちゃん――奇麗だな……)

 

彼女は縹色の浴衣の様な着物に身を包んでおり、夏の名残の様な日焼けが退いたあとの色白の肌とのコントラストは、どんな言葉で表現すれば良いのか戸惑うほどだ。

「それって、浴衣なの?」

「ううん、袷っていうの」

「そうなんだ――でも、すごく綺麗だよ」

「あ、ありがとう……」

 

「……」

 

「そ、その、い、行こっか」

「う、うん」

 

はにかみながら俯く穂波を乗せて、隼太は出来るだけそっとペダルを漕ぐ。

腰に回された彼女の腕の温もりが、足にかかる重みを忘れさせてくれる。

秋の虫達の鳴き声に包まれた薄暗い農道を、彼らと同じ方向を目指して漫ろ歩く人影を何度か追い越し、或いは斯波中生と思しき自転車に追い越されたりしながら駆け抜けた二人は、間もなく一の鳥居前にたどり着く。

臨時の駐輪場と化している鳥居脇の空き地に自転車を止めると、今や隠し立てする必要もなくなったので、自然に手をつないで参道を奥へ進む。

ところどころに篝が焚かれてぼんやりと照らし出された境内には、里人達が集まって立ち話などをしながら時を潰していた。

そんな大人達の中には、手を繋いで歩く二人に目を止めて何やら痛まし気な表情を浮かべる者もおり、今夜の神楽が例年とは違った特別な意味を持つことを漠然と感じさせる。

神楽殿の周囲には既に人集りができていたが、その中には斯波中の教員も交じっており、二人の姿を認めると、

「二人とも、こごさこ!」

と言ってわざわざ場所をあけてくれる。

「すいません!」

「ありがとうございます」

口々に礼を言って小走った二人に、教員だけでなく周囲の大人達も最前列の良い場所を譲ってくれる。

それを有難いと感じながらも、それと共に既に里全体が彼女達を戦場に送り出すというその事実を共有しており、今夜の神楽はいわばその送別の宴なのだという事を感じ取った二人は、思わず互いに握った手にぐっと力を籠める。

「親御さんも複雑だろなぁ」

「んだなぁ、奥さんもさぞがっかりしとるだろうに」

大人達の会話が切れ切れに聞こえてくる。

「今日は村越さんが舞うんだよね」

「うん、本当は来年からの積もりだったんだって」

「じゃ、急遽練習したの?」

「練習は前からしてたんだって、だから急いで仕上げの練習をしたみたいだよ」

「そっかぁ、でも凄いよなぁ」

「うん、すごく緊張するよねぇ」

四隅で篝が焚かれた神楽殿の周囲は既に里人で埋め尽くされており、この場で舞う緊張感はちょっと想像がつかない。

改めて周囲を見回すと、斯波中の生徒達もかなりの人数が見て取れる。

清次をはじめとする男子達に囲まれたいぶきやクラスメイトと一緒の白石の姿も見えるが、なんと性懲りもなく清次はわざわざ白石のところに絡みに行っていた。

 

(何考えてんだよあいつは……)

 

とは言え、彼女はもう慣れっこになっているのかほとんど相手にしておらず、クラスメイトに文句を言われた清次も程々にいぶきの傍に戻っている。

「隼太君」

「あっ、う、うん」

穂波が促すほうを見ると、神楽殿の壇下に設えられた神紋が染め抜かれた幔幕の中で人がうごめく気配がしていた。

周囲のざわめきが徐々に静まっていき、境内に散っていた里人達が神楽殿の周囲に静かに集まってくる。

あちらこちらでしわぶきが起こっては消え、間もなく辺りはパチパチと篝の爆ぜる音ばかりが響く様になる。

その時唐突に幕がサッと割れ、狩衣に身を固めた村越の父親が姿を見せる。

静々と殿上に上がった彼は拝殿に向かって舞を奉納する旨の祝詞を唱え、それを終えて片隅の胡床に腰を下ろすと、篠笛を取り出して無言で控える。

周囲の里人達が固唾をのむ気配がすると共に再び幕が割れ、これまた装束を身に着けた村越の母親が現れると幕の中央を房で留める。

その房の下から艶のある黒髪を篝に閃かせた村越が姿を現すと、集まった里人達から一斉におおと声が上がる。

シュッシュッと衣擦れの音を響かせながら殿上に昇った彼女は拝殿に向かって恭しく礼をすると、その後集まった里人達に向き直って一礼し、スーッと面を上げる。

 

(む、村越さん……)

 

その神々しさに思わず絶句したのが彼ばかりでないことは、その場の雰囲気ですぐに分かった。

白銀に煌めく小忌衣には目にも鮮やかな碧色で鶴と亀とが描かれ、それは燃え立つような紅の胸紐で純白の衵の上から緩やかに結ばれている。

篝に照らされた緋の袴の腰から松があしらわれた長い裳を引きずる様に立つ村越は、その美しい黒髪に黄金の天冠を閃かせ、揺らめくような篝火の明かりの中でこの世ならぬ美しさを湛えていた。

その姿を唖然と見つめる隼太の脳裏に、突然小学校時代の記憶が蘇ってくる。

 

 国語の時間に自分の名前の意味を調べて発表するという宿題が出され、教師にあてられた彼女がスッと立って(そう言えば、その時も村越は隣の席だった)美空望というその変わった名前の由来を説明した時のことだ。

「うちの神社のご祭神は天之御中主神様といって、天空の神様です――」

神職である彼女の父親が、その神様に肖って空にかかわる名前を付けてくれたのだということだった。

しかしながら、並の小学生にとってそれは特別に興味を引くような事柄ではなく、担任のお定まりの寸評だけを挟んですぐに次のクラスメイトの発表に移っていたはずだ。

 

(不思議だな――なんでこんなこと覚えてるんだろ……)

 

これまで一度も思い出したことすらなかった遠い日の情景が自身の中に眠っていたことに、何の前触れもなく気付かされて戸惑いを覚える彼をよそに、殿上では村越の舞が始まろうとしていた。

いきなり鳴り響いたタンッ、タンッという甲高い音に意識を引き戻される。

村越の母が、手にした小振りの撥で締太鼓を叩いて拍子をとっているのだ。

それに合わせて彼女の両手がゆっくりと両脇から斜め前に差し上げられ、そのまま暫く静止する。

間もなく村越の父が手にした篠笛を口許にあて、周囲の空気を震わせるような喨々とした音色を奏でると、まるでその調べと同調しているかの様に彼女の体や手足が滑らかに旋回していく。

その流れる様な動きは決して止まることがなく、それでいて激しい動作や急な身のこなしなどは一切ない。

抑制された肉体の動きが纏った衣をはためかせ、或いは翻し、そのたびに篝の揺らめきが四方八方に陰影を投げかける。

時折差し挟まれるシャリーンという透明で金属的な響きは、村越の右手に握られた金色の神楽鈴のものだ。

手を振っている様には見えないのでよく見ていると、舞の動作の中で手首をくるっと捻る様に鳴らしている。

こうした所作の一つ一つを何度も練習して身につけていったのだろうか。

 

(すごいよな――それに比べたら、俺はお気楽過ぎる……)

 

思わずため息を吐いた隼太だったが、そう思いながらも彼女の動きを目で追っているうちに次第に舞に引き込まれていく。

 

篝に照らし出された村越の姿は既に十分すぎるほど美しかったが、

次第にそれは人間離れした神さびたものとなり、

それとともに周囲の闇が濃く深くなっていく。

 

明るい輝きに満ちた殿上は天空から降臨した女神のために用意された舞台となり、

周囲で見守る里人やいぶきや白石、清次らの姿は

それを陶然として見守る八百万の神々の姿に重なり、

次第に幽玄の暗に溶け込んでいく。

 

女神が身に纏った金色の天冠や様々な装飾が燈色に煌めき、

体の動きに合わせて光の尾を曳きながら、

漆黒の闇を背景にして複雑な模様を描く。

 

終にはこの世の全てが暗黒の中に沈み込んでしまい、

ただ村越だけがその世界の中で光を纏って舞い続けていた。

 

それは永遠に続くのではないかと思いかけたその時、次第に彼女の舞が収束しはじめたことに辛うじて気付く。

篠笛と締太鼓の囃子も調子が変わっており、舞は終わりに近づいていた。

四方に向かって祓のような動作をしてそのたびにシャリーンという鈴の音を鳴り響かせた村越は、やがてその身を折り畳む様に屈み気味になって目を伏せるが、それはちょうど彼のところからはっきり見える角度だった。

次の瞬間、何の前触れもなく彼女の視線が跳ね上がり、真っすぐに隼太の瞳を捉える。

 

(あっ⁈)

 

いつも彼を見るときの射貫くような視線とは違い、

何かを強く訴えかける様なその眼差しに、

突然彼女の両手が伸びてきて胸板を貫き、

心臓をぐっと包み込まれたような錯覚を覚える。

 

(村越さん、君は――)

 

(美空望よ!)

 

(えっ!)

 

不意に頭の中にはっきりと彼女の声が響き、

その驚きとともに彼女の瞳が潤んでいることに気付かされる。

 

(なんで――なんで、そんな目で俺を見るんだよ? 君は、君は一体――)

 

その時、それまでどこか哀切な音色を響かせていた篠笛がすぅっと静かになり、締太鼓のひときわ高いターンという音が響き渡る。

途端にハッとして我に返った隼太の様子を見て取ったのか、村越は悲し気に視線をそらし、そのまま面を伏せて舞を終える。

囃子を終えた彼女の両親も立ち上がり、彼女とともに拝殿に向かって恭しく礼をするが、その両親の瞳にも光るものが浮かんでいる。

そして彼らが里人の方に向き直って一礼すると一斉に拍手が巻き起こり、それは長く長く続いた。

隼太も穂波も一緒に惜しみなく拍手を送ったが、彼の心の中にはあの村越の眼差しが焼き付いていた。

 

 

 ひんやりとした夜気の中、背中に穂波の体温を感じながら彼はゆっくりとペダルを漕いでいた。

彼女の母親と交わした約束の時間までにはまだ余裕があり、特段に急ぐこともなかったし、何よりもたとえほんの少しであっても二人一緒の時を過ごしたかった。

 

「隼太君」

「なに?」

「何時かね――何時かまた、こんな風に一緒に神楽見に行けるのかな……」

「行けるよ、絶対に」

「本当に?」

「うん、この世界が終わらない限り、穂波ちゃんは必ずここに戻ってこれるよ、俺が迎えに行く」

「来てくれる?」

「うん、またこんな風にして一緒に帰ろう」

「うん……」

 

「……」

 

「美空望ちゃんのご両親、泣いてたね」

「そうだったね」

「美空望ちゃんも泣いてたね」

「うん」

「本当に――本当にこれで良かったのかな……」

「穂波ちゃんが選んだことだから、何も間違ってなんかないよ」

「うん――」

「それでももし、間違いに気が付いたらさ、その時になおせばいいと思う。神様じゃないんだから、いつも絶対に間違えないことなんてあり得ないよ」

 

「――――ありがとう、隼太君」

 

呟く様にそう言った穂波は、キュッと彼の背中に顔を押し付けた。

思わず彼は歯を食いしばり、ハンドルを握る手にグッと力を込める。

穂波が顔を押し付けたその場所から暖かな何かが浸み込み、それが次第に広がっていく。

 

「――俺、誓うよ――どんなことがあっても絶対に穂波ちゃんを迎えに行くから……」

 

「――――うん……」

 

月明かりに照らされて仄かに光る道、

 

虫達の声、

 

川のせせらぎと水の匂いを運ぶ風、

 

草のざわめき、

 

そして穂波の涙

 

――――この刹那の全てを、隼太は生涯忘れることはなかった。

 



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【第二章・第十節】

 それからの一週間は、まるで時の流れを早送りにしたかのように過ぎていった。

 

 早朝に目覚めた隼太は、長い時間自室の窓からずっと外を眺めていた。

それから制服に着替えると、特にそう意識したわけではないが無言で家族と朝食を囲む。

母や兄、義姉は彼の心中を慮って他愛のない話をしてくれていたが、浪江だけは何度となく彼の顔をちらちらとみては何か言いたげにしながらも、結局は最後まで何も言い出さずに黙っていた。

そしていよいよ出かけようというその時、玄関口で靴に足を通した彼の前に父と母が現れる。

「隼太、気ぃ付げてげ」

「うん」

母の言葉に頷いた彼にさらに父が声を掛ける。

「えが、うるでで困らねぁよに伝えねばなんねごどは用意しどげ、わがったな」

「うん」

もちろん彼は何を言うべきなのかずっと考え続けていたが、正直に言ってまだ言葉に纏める事が出来ずにいた。

何が本当に最善のことなのか迷い続けていたのだ。

父の言葉を反芻しながら自転車に跨ろうとした彼のもとに、浪江が駆け寄ってくる。

「あんちゃん!」

「どした浪江」

「あんちゃんは穂波見送りにぐのが?」

「んだ」

「穂波に――穂波になんで言う?」

 

浪江の目は妙に真剣だった。

少し穏やかな気持ちになった隼太は、とても正直な応えを返す。

 

「まだはっきり決めでね、迷ってる」

「そか――そか――んだったら、何言っだか教えでけろ!」

「わがった、教えでやる」

そう言って彼女の頭を撫でると、サッとペダルに足をかけて勢いよく漕ぎ始める。

 

「約束だぞ!」

背中を追いかけてくる浪江の声は、なぜか湿っている様な気がした。

 

 駅に着くまでの間、彼の頭の中はぐるぐると回り続けていた。

彼にできることは何か、そしてその中で穂波のために最善の選択は何なのか。

彼女ははっきりこうして欲しいという希望を言ったわけではないが、それでも彼には何となく穂波が望んでいることは感じ取れた。

穂波の希望とは、隼太がこの村に止まって彼女の帰りを何時までも待っていてくれる事なのだろう。

しかし、それは彼が望む最善の選択とはとても言えそうにない。

ただ何もせずに穂波を待ち続けることは出来そうになかったし、彼女の支えや助けになる事が何か出来るはずだという強い気持ちがあった。

穂波の望まないことまで無理矢理にする気はないが、それでも隼太に負担を掛けたくないと思う余りに、言い出すことが出来ない本当の望みがありそうに思えてならない。

 

(俺は――俺は、俺に出来るベストな事がしたいんだ――穂波ちゃんの支えになれる事が……)

 

にもかかわらず、結局明確な結論が出る前に彼は駅前にたどり着いてしまう。

指定の時間にはまだ間があったせいか、駐輪場は満杯にはなっていなかった。

鉄道会社の計らいにより斯波中の生徒達は無料で駅構内に入れて貰えるとのことで、彼も生徒証を提示して改札内に入る。

穂波ら4人とその両親、既に到着していた生徒達、教員の他に見慣れないスーツ姿もちらほら見えるが、その集団から更に少し離れたところには、黒の制服に白い制帽をきちんと身につけた数名の男女が威儀を正して立っていた。

 

(わざわざ迎えに来たんだ――やっぱり特別なんだな)

 

彼らの姿を見て我知らず武者震いの様な衝動が湧いてきた隼太は、何とかそれをぐっと抑え込んで、4人に挨拶をしなければと彼女達に目を戻す。

既にいぶきの周囲には男子達が集まっていたが、笑顔の彼女とは裏腹に両親は何やらやつれた様子で硬い表情だ。

穂波から話し合いの様子を聞いているだけにその心労も頷けると思った彼は、まず最初にいぶきの所に行くことにした。

「こんにちは、敷島隼太です!」

スタスタと両親に近づいてさっと礼をすると、彼らはやはり疲れた様な困った様な態で、

「敷島さん、お見送りありがとうございます」

と言葉少なに応じてくれるので、彼も出来るだけあっさりと、

「吹輪さんのご活躍とご無事をお祈り致します」

とだけ言って再度礼をする。

すると両親が答礼してくれたのはともかく、横で男子達に囲まれていたいぶきが近づいて来て、

「隼太君! 見送りに来てくれたのね、どうもありがとう」

と朗らかに話しかけてくる。

それは何時も学校で見かける姿と全く変わりはないのだが、それでもあの日の彼女の氷の様な表情を鮮明に覚えている彼にとっては、素直に受け入れ難いもののはずだった。

「うん、吹輪さんも健康に気を付けて頑張ってね」

 

(あれっ、俺普通に話してる……)

 

「もうっ! 隼太君⁈ いぶきでいいって言ったでしょ!」

「あ、ごめんねいぶきちゃん、活躍出来るように祈ってるからね!」

「ありがとう! 隼太君も元気でね」

そう言った彼女は自ら隼太の手をとり、ギュッと握りしめてにっこり笑う。

 

(なんでだろう、なんでこんなに何事も無かったみたいに……)

 

やはり彼女は、自身の中の葛藤に答えを求めていただけなのだろうか?

彼のことを本気で横取りしようなどとは全く考えていなかったのではないのか……。

そんな迷路に再び迷い込み掛けたのだが、居並ぶ男子達から投げ掛けられる『なんでお前はそんなにフレンドリーにして貰えるんだ?』と言わんばかりの視線に気付く。

いつまでも躊躇っている場合でもないので、とにかく一通り挨拶していかなければと思いなおして一礼し、その横にいた白石の許に近づくと、彼が両親に挨拶をする前に白石が自ら近づいてきてくれる。

「敷島君、お見送り有難う!」

明るい笑顔でそう言った後、彼女はすっと笑いをおさめると如何にも済まなげな表情になる。

「でも、本当にごめんなさい。敷島君にはとっても辛い結果になってしまって――」

「待ってよ白石さん」

頭を下げる彼女を思わず遮る。

「白石さんのせいでもないし誰かのせいでもないよ。だってこれは話し合って決めた事なんだから」

「――有難う――敷島君はやっぱり優しいのね――わたしに出来ることがあったら言ってね? 出来るだけの事する積もりだから」

「そんなのダメだよ、白石さんはこれから命がけの戦場に行くんだからその事に集中して頑張ってよ、応援してるからね」

そう言って右手を差し出すと、彼女は少しはにかんだ様などことなく恨めし気な様な複雑な表情になり、そっと握手するとほとんど聞き取れない程の小さな声を出す。

「正直言って羨ましい……」

「えっ?」

「ううん、何でもない! 敷島君本当に有難う、わたし精一杯頑張るからね!」

そう明るい声を出す白石を挟み込むように、彼女の両親が前に出てくる。

「敷島隼太さんね? お名前はいつも聞いてます」

と声を掛けてきたのは彼女の母親だ。

「あ、こちらこそ白石さんにはいつも勉強とか教えて貰ってました!」

「ええ、娘がいつも貴方を誉めてましたよ♪」

「ちょっとお父さん⁈」

「でも、本当のことよね♪」

「もう、お母さんまで――」

「あの、応援する位しか出来ないですけど、白石さんのご無事とご活躍、心からお祈りします」

彼がそう言って礼をすると、優し気な両親と顔を赤らめた白石が揃って答礼してくれる。

なんだか妙にホッとした隼太は、隣でスーツ姿の男性と立ち話をしている村越の両親と美空望のもとへと足を運ぶ。

彼が近づくのを見て、両親は立ち話を中断してこちらに笑顔を向けてくれるが、当の村越はそっぽを向いていた。

「ご無沙汰してます。敷島隼太です」

「いいえ、ちゃんと先週も見に来てくれてたのにご無沙汰だなんて」

村の鎮守の神職でもある村越の両親は村内に知己も多く、特に小学校時代の同級生でもある隼太は、村越の母親とは何度も面識がある。

「隼太君、見送り本当にありがとう」

村越の父親は温厚そうな人物であり、祈祷の時に朗々と祝詞を唱える様子と普段の会話に随分ギャップを感じる。

「いえ、応援する位のことしか出来ませんけど、村越さんのご無事をお祈りしてます」

隼太がそう言って頭を下げると、彼は深々と答礼してくれた後、顔を上げて苦笑しながら娘の方に顔を向ける。

「こら、せっかく見送りに来て下さったのにいい加減にしなさい」

そう窘められた村越は、いかにも渋々と言った体で(両親に背中を押されて)隼太の前に出てくる。

「わ、わざわざ来てくれて――ありがと」

「そんな事ないよ、村越さんこそこれから大変だと思うけど頑張ってね、応援してるよ」

「まぁ、程々に頑張るわ」

「うん、それがいいよ、本当に頑張るのは自分達の命を守る時でいいんじゃないかな」

「そうね、そうする事にするわ……」

 

「――あのさ」

「なによ」

「その――神楽、凄く綺麗だったよ……」

「バ、バカ! 何言い出すのよいきなり!」

そう言った村越は、慌てふためく様にくるりと背を向けると両親の間を通り抜けてホームのフェンス際で顔を覆ってしまう。

「あっ、ご、ごめん――その、済みません……」

「いいのよ、本当にありがとうね」

「あ、はい――」

村越の態度とは全く反対に、両親はにこにこしながら礼をしてくれるので、少々きまりの悪さを感じながらも礼を返す。

そして最後に穂波のもとに行こうと向き直ると、ちょうど彼女と話をしていたクラスの女子二人がちらりとこちらを見て、笑顔で場所をあけてくれる。

彼女達に笑顔を返した隼太は改めて穂波とその両親に向かい、まずは型通りの挨拶をする。

「敷島隼太です。父と母からも言付かって参りましたが、穂波さんのご無事を心からお祈り致します」

そう言って頭を下げた彼が顔を上げると穂波の両親と目が合うが、彼女の母親は心なしか瞳を潤ませている様だ。

「隼太君、色々とお気遣いありがとう。こういう結果にはなったけど、これからも娘のことを応援してもらえたら有難いです」

穂波の父はやや線が細く落ち着いた印象の男性で、控えめな物言いながら言葉に誠実さを感じる。

「あ、いえ、もちろんその積もりですし、自分に出来ることはどんなことでもする積もりです」

何をするとはっきり言いきれないのがもどかしいが、それでも今の気持ちを素直にそう口にすると、穂波の母が涙を浮かべて思わず口許を押さえるので、横にいた穂波が

「お母さん――」

と言いかけてその肩に手を伸ばす。

「穂波、いいから隼太君と二人で話をしてきなさい」

穂波の父がそう言って二人を促すので、彼も両親に頭を下げて少し離れて穂波と向き合う。

「穂波ちゃん――」

「お見送り――ありがとうね」

「ううん、でも、お父さんお母さんも心配だね」

「そうなの、昨日からお母さんなんかちょっと……」

「だって、穂波ちゃんが戦争に行っちゃうんだからね――お母さんもしんどいだろうなって思うよ」

「やっぱり、隼太君の言う通りにしておけば良かったのかな……自分の気持ちに正直じゃなかったのかな……」

 

そう言って穂波は俯いてしまうので、彼は思わず手を伸ばして穂波の手を両手で握りしめる。

「穂波ちゃん、もしもたった今間違いに気が付いた、だから訂正したいって思うんだったらね、俺も一緒に言ってあげるよ」

「隼太君――」

「この間も言ったけど、絶対に間違えない事なんてあり得ないよ、だから直したいときは何時でも声を出していいと思うんだ。俺も手伝うからね」

きっぱりとそう言い切った隼太は、まだお互いに特別な存在になる前の姿に戻ってしまった彼女の瞳をひたと見つめる。

しかしそれもほんの僅かな間だけのことで、見る見るうちにその瞳に輝きが戻り始め、握った彼女の手に力が戻り彼の手を握り返してくる。

「ありがとう隼太君、でもやっぱり今はいいの、自分で決めた事だしもう少しだけ頑張ってみるから」

「うん、前にも言ったけど、穂波ちゃんのこと24時間いつでも応援してるからね」

「うん♪」

あのにじみ出る様な笑顔――隼太の大好きなその笑顔を浮かべた穂波の顔が輝いて見える。

 

(俺は支えになれているんだ――穂波ちゃんの支えに――)

 

その時教頭の声が響き、4人とその家族を呼び集めている。

どうやら見送り希望者の集合時間が迫ってきたらしい。

「隼太君、また後でね」

「うん」

軽く手を振って両親のもとにもどる彼女を見送る隼太の背中に、聞きなれない声がかかる。

 

「ねえ、あなた――」

「はい?」

振り返ると、そこに立っていたのは黒の制服に白い制帽姿の女性だった。

言うまでもなく、先程から片隅に控えていた海軍からの迎えと思われる一団の中の一人であり、遠目には若く見えていたが、すぐ近くで見ると少々年齢を感じさせる深みのある瞳が印象的だ。

「あなたは五十田穂波さんの同級生かしら?」

「はい、そうです」

何事だろうかと訝しく思いながらも素直に返事を返すと、その女性は意味ありげにフッと笑みを漏らし、

「ふふ、ごめんなさい、ただの同級生じゃないわよね――彼氏よね」

と言いなおす。

「あ――いえ、その……」

「どうしたの、違うのかしら?」

「いえっ! そうじゃないんですけど――」

「だったら堂々と言った方が良いわ♪ 女の子はね、男の子にそうはっきりと言って欲しいって思ってるものよ?」

「そ、そうなんですか?」

「そうよ、もっとも、あなたの様にちゃんと気遣い出来る様な人ほど、そういう事を躊躇っちゃうみたいだけど」

そう口にして一瞬遠くを見る様な素振りをした女性は、少し容を改めると再び口を開く。

 

「あなたや、ご家族の方々には苦しい決断をして頂くことになってしまって申し訳ないと思ってるわ。でも、私達には一人でも多くの戦う仲間が必要なのも事実なの。だからね、手前勝手なことを言う様だけど、あなたにはどんな形であってもいいから五十田さんやそのお友達の支えになってあげて欲しいの。これから暫くは直接話すこともメッセージの遣り取りも出来なくなるから、無茶なお願いなのは重々承知してるんだけど――」

 

「その積もりです」

 

「――えっ?」

 

「彼女の支えになる積もりです」

 

なぜだろうか、先程までどうするのが最善なのかと迷い続けていた筈なのに、この女性と言葉を交わしていたその僅かな間に胸の中の曇りがスッキリと晴れていた。

その気持ちのままにきっぱりと言い切った隼太を改めて見つめたその女性は、とても優しげな笑顔を浮かべる。

「ありがとう、とっても嬉しいわ。それに――ひょっとしてあたしの言った事をすぐに実行してくれるのかしら?」

「あ、はい、どうする積もりなのか、後ではっきり伝え様と思います」

「そう――そうなのね……ねえ、あなたの名前を教えてくれないかしら?」

「敷島隼太です」

「あたしは横須賀教育隊教育部の斑駒よ、――もしかすると、あなたとは何時かもう一度会う事になるのかも知れないわね」

そう言った斑駒は改めて笑顔になると、彼に対してサッと挙手の礼をしてくれる。

それに応えて一礼した隼太は、踵を返して穂波らのもとへと馳せ戻った。

 

 斯波中の生徒達はほぼ全員が集まっているらしく、この駅のホームにこれほどの人が集まるのを見るのはおそらく初めてだろう。

例によって穂波ら4人とその両親が並んだその横で、校長が激励の弁を振るっているところだった。

それが一頻り終わると今度は校長がスーツ姿の見慣れない男性(老人と言った方が良かったかも知れない)らを次々に紹介するが、それで初めて隼太は自分の村の助役と村議会議長、及び教育長の顔を知ることになった。

もっとも、すぐに忘れてしまったのだが……。

そして彼らの挨拶の後、最後に海軍の代表に挨拶が振られ、それに応じてマイクを握ったのはなんと先程言葉を交わした斑駒だった。

彼女の話の内容はつい今しがた隼太に話してくれた事と基本的に同じだったが、改めて耳にすると校長や助役らの言葉に比べて随分歯切れがよくきびきびとしていることに気が付く。

 

(やっぱり、これが軍隊なんだな)

 

そう思うと、やはり穂波のことが少し心配になってくる。

果たして彼女は、この軍隊の一員となって戦場に出ることが出来るのだろうか?

 

(心配したって仕方がないか、俺が支えるって決めたんだしな!)

 

そう改めて己の決心を確認しなおした隼太は、一通りの挨拶が終わって見送りの生徒達からもみくちゃにされている4人のもとへ近づくべくその人波に割って入る。

いぶき派の男子達が一人ずつ彼女に握手してもらっているのを横目に見ながら穂波に話しかけようとするが、まだ他の女子達が彼女を取り囲んでいるので少しタイミングを計っていると、いぶきとの握手を終えた清次がよせばいいのにまた白石に絡んでいる。

「いよいよお国のために働けるなぁ、でも、なんだかんだ言って弾が飛んで来たら怖くて逃げて帰ってきちまうんじゃねえのかぁ」

「木俣君と話す事なんて何も無いから、放っといてくれるかしら⁈」

「いい加減にしなさいよ、このバカ清次! 少しくらい時と場所を弁えなさいよ!」

先程は思わぬリアクションをして彼を戸惑わせた村越が、すっかり何時もの調子に戻ってまくし立てると、周囲の生徒達からもそうだそうだと声が上がる。

ところがどういう訳か、いつも通りニヤニヤして受け流すと思った隼太の予想を裏切って、彼はニコリともせずにしつこく食い下がる。

「強がってばかりいねえで、怖いときは怖いって言った方がいいぜぇ、だって戦争なんだからよぉ」

とは言っても今更白石がそんな言葉に耳を傾けるはずもなく、何事も無かった様に無視されてしまう。

それでもなお口を開こうとした清次を遮る様に駅のアナウンスが響き渡り、間もなく列車がやって来ることを告げる。

 

「ごめん、話がしたいんだ」

穂波を囲んで別れを惜しんでいる女子達に思い切って声を掛けると、振り返った彼女達はすぐに場所を譲ってくれる。

「それじゃ穂波、元気でね!」

「頑張って!」

口々に別れを告げる彼女達に笑顔を返した穂波だったが、隼太に向き直るとその目にたちまち涙が滲む。

「隼太君……」

 

「穂波ちゃん、どうしても言わなきゃいけない事があるんだ」

「なあに?」

 

すぐに言おうとしたのだが、一瞬言葉に詰まってしまう。

そこで一度深呼吸をして周囲の目も気にせず彼女の手をしっかり握ると、落ち着きが戻って来て再び喋れる様になる。

 

「あのね――俺も一緒に戦うよ」

「えっ⁈」

「高校出てからになるから、何年も先の事になっちゃうけど――でも、俺、海軍にはいるから」

「隼太君――」

 

その時再びアナウンスが入り列車の到着を告げるが、構わず話を続ける。

なにがあろうが、言わなければならない事は今全部伝えるしかない。

 

「海軍に入って、穂波ちゃんと一緒に戦うから――だから、先に行って待ってて欲しいんだ」

 

「――待ってる――待ってるよわたし!」

 

列車がホームに滑り込んでくる。

 

「俺、絶対に穂波ちゃんの許へ行くから、同じ戦場に立って一緒に戦うから!」

 

穂波を除く3人とその両親達が一斉に動き始める。

 

「隼太君が来てくれるの待ってるから! 何時までも待ってるから!」

 

彼女の両親が、気を利かせて荷物だけを先に列車に載せてくれる。

 

「何時までも待たせたりしないよ! 高校出たらすぐに行くから!」

 

列車の扉口に立って頬を紅潮させた穂波が彼を見つめ返す。

 

「約束だよ! 絶対に来てね!」

 

ベルが鳴り響き、シューッと音を立てて扉が閉まる。

 

「約束するから! 絶対に、絶対に行くから!」

 

扉に顔を押し付けた穂波の瞳から涙が零れていた。

 

動き始めた列車を追いかける隼太は、もう一度力一杯に叫ぶ。

 

 

「必ず行くよ! 俺の、俺の命に懸けて誓う!」

 

 

速度を上げた列車が遠ざかっていき、

見送りに集まった生徒達の喧騒が、スーッと引潮の様におさまっていく。

 

にもかかわらず、彼の胸の中には沸き立つ入道雲の如く決意と闘志が漲っていた。

「そっかぁ、そうだよなぁ――やっぱそれしかねえよなぁ……」

 

いつの間にかすぐ背後に立っていた清次が、気のせいか少々嬉しそうに呟く。

 

「そうだよ、それしかねえよ」

思わず両手をぐっと握りしめる。

 

レールのカタンカタンと言う響きが、何時果てるともなく続いていた。

 




第二章はこれで完結です。
次回からは、少し時間をいただきますが第三章を投稿する予定です。
よろしくお願いします。


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第三章
【第三章・第一節】


第三章・第一節を投稿します。
高校を卒業した隼太は故郷しばふ村を離れ、穂波のいる横須賀へと旅立ちます。
新章も引き続きよろしくお願いします。


 車窓を流れていく田園地帯にはまだ緑は少なく、ところどころで代掻きが行われている。

この地で桜が咲く迄にはもう少し季節が進む必要があるが、それを見ることはこの先当分は出来ないだろう。

それでも彼の心には翳り一つすら無く、これから始まる新たな日々を思うと心躍る思いに満ち溢れていた。

 

(やっぱり早いな……)

 

自費であれば飛行船を使うところだが、この度の旅費は軍が支給してくれる事もあり、遠慮なく新幹線を利用させて貰ったのだ。

 

「敷島先輩って無口なんですね、意外でした♪」

唐突に声を掛けられた隼太は、物思いから引き戻される。

「昔はよぉ、そうでもなかったんだぜ、まぁ今でも別に無口って程じゃねえけどなぁ」

声を掛けられたのは彼の筈なのに、何故か清次がそれに応じるのは相変わらずだった。

昔は声を掛けてくるのがいぶきだからだと思っていたのだが、実は相手が女子なら誰であってもそうするのではないかと近頃は思っている。

「わたし、別に木俣先輩には聞いてませんよ、でも何となくだけど分かっちゃいました。実は敷島先輩が特に無口だっていう訳じゃないみたいですね♪」

人気者としての自覚があったいぶきは、周囲の男子達に対して辛い物言いをすることは無かったが、綾瀬真奈美(あやせまなみ)はそうでは無い様だ。

「ひでぇ、これでも付き添いなんだからよぉ、も少し優しくしてくれたっていいんじゃねえのかぁ?」

「仕方ねえだろ、聞かれて無いのに応えてんのは事実なんだし」

「そうです、それにちゃんと付き添い感謝申し上げてますよ、ねえ浪江ちゃん♪」

「えっ、あっ、あ~うん、そうね」

話を振られた浪江が、いかにも不得要領な曖昧な返事を返す。

「うふふ、浪江ちゃんも敷島先輩とおんなじ♪ さっきから外ばっかり見てるのね」

綾瀬の言葉通り、隼太の横に座った浪江は先程からひたすら窓の外の景色ばかり、それこそ食い入るように見つめていた。

 

(それにしても、まさかこんな事になるとはなぁ)

 

 4年――いや、4年半前のあの適性検査の衝撃は、海軍はもとより政府をも動かしてしまい、斯波府村には軍や政府機関による調査や視察が何度も行われていた。

そのため村は酷くざわめき、学校や村役場の関係者達は振り回されて右往左往し、あまりの心労に斯波中の校長が体調不良を訴えて引退してしまう始末だった。

その後も適性検査は実施され、再び新たな候補者が見つかる状況は続いたが、軍が統制していたのかニュースなどでそういう事柄が報道されることは無かった。

言うまでもなく、本来艦娘の適性があるという情報はもちろんのこと、その当人が実際に志願したのか否かという類のことは個人情報に直結するデリケートな事柄でもあったし、海軍としても大切な艦娘の候補者を供給してくれるかも知れない村や地域に無用な波風が立つことは避けたかったのだろう。

 

そんな環境の中で浪江も成長して斯波中に入学し、かつての隼太達と同じ中学2年生の秋に適性検査を受けたところ、なんと艦娘の適性があることが判明し(てしまっ)たのだ。

予ねてより艦娘に対する憧れを抱いていた彼女にとっては正に天恵そのものだったわけだが、これまた予ねてから浪江の希望に反対していた義姉は当然猛反対し、両者は全くの決裂状態となり、板挟みとなった兄が何とか取りなそうにも全く歩み寄りは見られなかった。

しかし浪江の意思は非常に固く、このまま喧嘩別れとなってでも艦娘になりたいという主張を頑として曲げなかった為に、結局翌春に隼太が海軍に入隊する時まで待つという事で義姉が渋々折れたのだ。

巻き込まれた彼としては良い迷惑であり、義姉からは恨みがましい視線を浴びせられ、浪江からは「隼兄ぃ(いつの頃からか浪江は彼をこう呼ぶようになっていた)がちゃっちゃど入隊しでくれねがらおれがうざねはぐ」と可愛げの欠片もない物言いをされる始末だった。

 

 そのうえ、更に隼太の肩に余計な荷物を載せる者迄いたのだから堪ったものではない。

てっきり冗談だろうと思っていた位に何の緊張感もなく高校生活をのほほんと過ごしていた清次が、高2の夏休み前に実施された進路希望に海軍と書いて提出したのだ。

それも只の任期制海士でも目指すならともかく下士官候補生に応募すると言い出したのだから、身の程知らずとしか言いようがない。

穂波とともに戦うために海軍を目指している隼太は、そもそも艦娘と行動を共にすることが目的なので任用先希望が出来なければ意味が無いものの、士官候補生を目指すには国防大学を卒業するか一般の大学を卒業してからでなければ実質的には応募出来ないので、高校卒業の時点では下士官候補生の選択しかなかった。

来るべきその日のためにせっせと勉強と体作りに励んでいた彼としては、それが決して簡単なものでは無い事も実感していたので一応軽く窘めたところ、『おめぇが居るんだから何も心配してねぇ』とさも当然の如く言い放たれて呆れかえってしまう。

 

(ダメだ――こいつやっぱり本物のバカかも知れん……)

 

改めて白石と村越が正しかった事を思い知らされた隼太だったが、結局最後の最後まで彼の尻を叩き続ける破目になってしまった。

その甲斐あってか清次は超低空飛行ながらなんとか合格し、こうして今彼と浪江、そして浪江の同級生でありやはり艦娘の適性ありと判定された綾瀬とともに一路横須賀へと向かっていた。

 

(それにしても、ちょっと意外だよなぁ)

 

中学の頃、あれほど寝ても覚めてもいぶきの周りを取り巻いていた男子達の中で、海軍に入ったのは清次だけなのだ。

ひょっとすると引越して行ったり他の高校に進学したごく少数の生徒の中に誰かいるのかも知れないが、少なくとも合格者向けのオリエンテーションの場には知った顔はいなかった。

当時の隼太の目から見れば、いぶきに対して清次よりも遥かに強く入れ込んでいたとも見える者が少なからずいた訳で、それを思えば彼らの情熱と言うのは中学の頃の一過性のものに過ぎなかったのだろうか。

 

(まぁ、お前のその気持ちがいぶきちゃんに伝わればいいけどな)

 

清次がこれ程真面目にいぶきを想っていたのは確かに意外ではあったが、隼太としてはその気持ちが実れば良いと思うだけで特に他意は無く、強いて言うなら『そこ迄想ってたんだったらもう少し自分で努力しろよ!』と声を大にして突っ込みたい。

何様、穂波と共に戦うために努力していた彼ですら、そのモチベーションを維持するだけで必死だったのに、人の尻馬に乗って自分の想いを果たそうとはなんと調子の良いことかとつい思ってしまう。

 

 今やすっかり遠くなってしまった別れのあの日、斑駒と名乗ったあの海軍士官が言ったことは全く掛け値なしに本当だった。

この4年半の間、彼は愛しい穂波に会うことはもちろん電話すらも出来ず、年に2度面会のために上京する彼女の両親に手紙を託し、それに対する返事を持ち帰って貰うという一体何時の時代なのだと呆れるほどの細々としたコミュニケーションしか出来なかったのだ。

確かに思春期の女子を戦場に出すという事自体が艦娘登場以前にはあり得なかったし、彼女達が不用意に外部と接触することで起きるかもしれないトラブルの芽を徹底的に摘む必要があると海軍は考えたのだろうが、傍目に見れば世の中から隔離されて監禁されている様にも見えてしまう。

言うまでもなく、穂波がくれた手紙にはそうではない実情が書かれていたのでそれなりには安心していられたのだが、そうでもなければ重大な人権侵害だと騒ぐ家族がいてもおかしくない程の徹底ぶりだった。

 

(いや、何だかんだ言ってよく頑張ったよ俺♪ 本当に良くここまで来れたよな)

 

穂波がくれた10通にも満たないその手紙の存在だけを心の支えにして今日の日迄たどり着いた隼太にとっては、出来ることなら誰にも邪魔されずにたった一人でその感慨に浸りたい気分なのだが、彼におんぶに抱っこの厄介な連れ(厳密にいえば綾瀬は違うが)達が許してくれなかった。

 

「でもよぉ、なんで艦娘になりたいんだぁ? 戦場に出りゃ敵は手加減してくれねぇんだぜ? 怖くねぇのかぁ?」

清次が投げかけた質問に対して、綾瀬はちょっと考える様な顔をした後でそれに応じる。

「うーん、わたしは別に戦場に出てみたいと思ってる訳じゃないですね。ただ、艦娘になれるってすごく特別なことですし、自分にどんなことが出来るのか試してみたいなぁっていう程度ですよ」

「だからよぉ、それが分からねぇんだって。試すだけの積もりが弾に当たって死んじまったら元も子もねぇんじゃねぇのかぁ?」

「最初からいきなり実戦に出るとかだったら断わったと思いますけど、教育期間中と一般修学施設の在学中は実戦は無いって聞いてますし――、それに、自分に向いてないなって思ったら辞める積もりですから」

「何だよそりゃあ♪ 随分割り切ってんだなぁ、まぁそう都合よく行きゃあいいけどよぉ」

 

今日の清次は柄にもなくまともな事を言う。

更に言うなら、それが分かっているという事は彼もまたその覚悟で軍人になろうとしている筈なのだ。

 

「けど、浪江ちゃんはそうじゃないのよね」

「へぇ~、そうなのかぁ?」

またしても窓外を飛び去って行く景色に釘付けとなっていた浪江は、義姉の前で見せていた強硬な態度は一体どこの誰だったのかと疑いたくなるほど覚束ない様子で、振られたその問いに言葉少なに応じる。

「う、うん、そうなんだけど――」

「なんだよ、全然そんな風に聞こえねぇぞぉ」

「浪江、お前ひょっとして不安になったのか?」

これまでの浪江であれば、隼太がこんな聞き方をすれば間違いなく『なに言ってんの⁈ そんな訳ないじゃん!』とむきになる所だが、今日の彼女はやはり何時もと違っている。

「不安って言う訳じゃないんだけどさ、でも、今になって思っちゃうんだ。何でこんなに艦娘になりたかったんだろうって……」

「おいおいマジかよ、まさか今からやっぱり止めますってかぁ?」

「浪江ちゃん、どうしちゃったの? 敷島先輩の言う通り、不安になっちゃったんじゃない?」

突っ込み半分、そしてかなり真面目な心配半分で問い返した二人に対して、再び外の眺めに視線を戻した浪江は、どこか冷めた様な返事を返す。

 

「いやその――ちゃんと艦娘になる積もりだけどさぁ、――初めて艦娘の話し聞いた時からずーっと艦娘になりたいって思って来て、もうすぐその通りになるって実感が湧いてきたら――急によく分かんなくなっちゃって――別に戦争したくて仕様がない訳じゃないし、自分の力を試したいって思ってる訳でもないのに……」

さすがに返答に困ったらしい二人は思わず口を噤んでしまったが、隼太にはいくらか腹に落ちるものがあった。

 

(そうか、お前もいぶきちゃんと同じだったのか)

 

浪江にとって艦娘というのは、まだ見ぬ広い世界の象徴だったのかも知れない。

だからこそ今、自分がなぜその衝動に突き動かされていたのかよく分からなくなってしまったのではないか。

 

「浪江、お前村で艦娘になれるんだったら艦娘になったか?」

「えっ⁈」

「いや、例えばだけどさ、村に港があって海軍基地もあってそこで艦娘になれるんだったら、お前やっぱり艦娘になって見たいって思ったか?」

「あっ――う、う~ん……」

彼女はいくらか俯き加減で逡巡したのち、これで何度目になるのか、改めて窓外に眼差しを向けながら口を開く。

 

「そんなに必死にはならなかったと思う――多分だけど――」

「なんだ、それじゃぁよぉ、ただ村から出たかっただけだってのかよ?」

「そういう単純な事じゃねぇんだよ、たださ、自分がまだ知らない村の外の世界にはさ、ひょっとしたら今とは違う自分の居場所があるんじゃないかって思っちまうんだよ。だから今、その答えが見えそうになってきたんで、本当に自分が望んできた答えなのかどうかちょっと掴みどころが無くなっちまった――って事なんじゃねぇかな」

 

隼太がそうまとめて見せると期せずしてその場は静まり返ってしまうが、やがて当の浪江が少々不服そうに口を尖らせて呟く。

「なんか、そうなのかも知れないけどさぁ――隼兄ぃに言われるとちょっとムカつく――」

「え~でもすごく納得したんだけど! やっぱり先輩は違いますねぇ、すごいわぁ♪」

両手を胸の上に軽くあてた綾瀬が少々上目遣いに彼を見ながらそう言うと、清次が自棄気味に声を上げる。

「チキショウ、だから隼太と一緒はやだったんだよ! 全部おめーが一人で持ってっちまうからよぉ~」

「ナニ言ってんだ、それはこっちの台詞だよ、俺は別に自分一人だって海軍に入る積もりだったのに、なんでお前の面倒まで見なくちゃならねえんだっての!」

「んなの仕方ねーだろ? おめーが手伝ってくれなきゃどうにもならなかったんだからよぉ」

「木俣先輩、なんか言ってること滅茶苦茶ですよ?」

「うん、何つーか隼兄ぃが大分マシに見えてきた気がする」

「ひでぇな二人とも! くっそ気に入らねぇ~、俺ぁもうフテ寝すっからな! 起こすんじゃねぇぞ⁈」

「分かった分かった、ちゃんと東京に着いてもそっとしといてやるからよ」

「いや、そこは起こせよ!」

清次が突っ込むと、それを聞いた二人がケラケラと楽しそうに笑う。

 

(やっと笑ったな、浪江)

 

彼にとって横須賀へのこの旅は、長い長い忍耐の日々に終わりを告げる晴れやかなものの筈なのに、仏頂面をして微妙な空気のまま何時間も揺られていくのは勘弁して欲しかった。

とにもかくにもここまで辿り着いたのだから、今更余計な重荷を載せられた事に恨み言を言う積もりも無いので、彼らとの道行が楽しいものであった方が良いに決まっている。

 

(どうせ俺達は、これから戦争に行くんだからな……)

 

こればかりは先程清次が(柄にもなく)看破した通りで、戦場に立つ限り次の瞬間には己の命が消し飛んでいるかも知れないのだ。

だがそれは他ならぬ彼自身が――更に言うなら今ここにいる4人全員が、たとえ覚悟があろうがなかろうが己の意思で選択した道であることに間違いはない。

 

(それでも俺は行く、穂波ちゃんが待っているその戦場に)

 

胸の奥の昂ぶりが、徐々に隼太の全身を満たしていった。

 



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【第三章・第二節】

 東京で在来線に乗り換えて更にもう一度乗り換えた後、彼ら4人は横須賀に予定通り到着した。

その足で総監部に出頭した彼らは、本人確認の書類提出とともに入隊手続き諸々を済ませるとはや夕方となり、翌朝の出頭時間を指示されてから放免され、市内のビジネスホテルで1泊する。

こんな体験が初めての浪江と綾瀬は大はしゃぎで、夕食後もなかなか宿に戻りたがら無かったが、こんな所で何かトラブルでも起こしては元も子もないので程々にして宿に戻る。

何より保護者面をしている隼太と清次にしたところで、こんな経験は精々2,3度目に過ぎないのであって、経験豊富な案内役を演じること自体が不可能だったからなのだが。

そして翌朝、指定された時間に再度総監部に出頭した彼らは、一旦下士官候補生の二人と艦娘候補の二人とに引き離される。

会議室の様な所で、同じ下士官候補生達数十名に交じって訓示と今後の予定を聞いた隼太と清次は、教育隊に所属する旨の辞令を受け取った後に間もなく総監部前に横付けされたバスに乗り込むが、横では浪江と綾瀬、それに見知らぬ女子2名が濃紺色のワンボックスカーに乗り込むのが見える。

 

(あの娘達も艦娘候補なんだな――それにしてもやっぱり少ないな……)

 

咄嗟の事だったので他にも居るのかどうかまで確かめられなかったが、たった4人のうち2人が斯波府村出身者なわけで、比率で考えれば確かにあり得ない様な割合だ。

とは言えここ横須賀にやってくる艦娘候補生は、原則として18歳未満のいわゆる修学年齢の者に限られており、それよりも上の年齢の候補生は他の教育隊などでも受け入れているため、総数としてはもっと多いはずだった。

 

(でなきゃ継戦能力なんて維持出来ないよな、誰も戦死したり戦闘不能になったりしないなんてあり得ないんだし)

 

何気なくそう考えるが、それは想像するだに怖ろしいことでもあった。

彼らや彼女ら自身にとって、命とはたった一つの掛け替えのないものの筈だが、軍にとって(国にとってと言い換えても同じことだが)は数多くあるその中の一つにしか過ぎないのだ。

無論軍や国が殊更に非情なわけではなく、敵が或いは戦争そのものが非情なだけだ。

今日ここに辿り着くまでの間、彼の心の中には常に拭い難い不安の影がさしていた。

ある日突然穂波が戦死したという報せが飛び込んで来るのではないか、いや、たとえ命は助かっても二度と目覚める可能性の無い昏睡状態に陥った姿を目の当たりにするのではないか――そんなゾッとする様な報せが入らない事だけを彼はひたすら祈り続けていたし、やはり娘のことを心配する彼女らの両親達に交じって村越の父に祈祷をして貰ったりしていたのだ。

 

(でも、やっと間に合った――これからはもう何処か知らない所で穂波ちゃんが恐ろしい目に遭ってる――そんな心配をしなくても良いんだ!)

 

言うまでもなく、それは少々ご都合主義に過ぎるのかも知れない。

隼太が来たと言うことは、同時に穂波達も教育隊内の修学施設を卒業すると言う事であり、それは取りも直さず容赦の無い実戦に晒されると言う事だ。

それでも己の全く知りえない何処かで、不可抗力と言う名の悲劇的な運命に穂波が襲われることを恐れ続けていた彼が、同じ場所に立ったという安堵感に思わず浸ってしまうのは無理からぬことだった。

 

 そんな彼を乗せたバスは、1時間足らずで海辺の基地に到着する。

ここがつまり、彼らがこれから少なくとも半年間所属する教育隊と言うわけだが、彼にとってはそれより遥かに重要な意味のある場所――即ち穂波と再会できる場所だった。

抑え切れない興奮を力尽くで捻じ伏せながら、とある建物の前で停車したバスから降りた彼は、いつの間にか浪江らを乗せた車がいなくなっていることに気付く。

もちろん、彼らの様な普通の兵員と艦娘候補生達の教育施設は別々のため、基地内の別の場所に行ってしまったのだろう。

 

(浪江達は、まずは一般修学施設に入るんだよな……)

 

おそらく二人は、其処で彼よりも一足先に穂波達と再会する筈であり、彼にとってはいわば露払い役の様なものだ。

 

「こらぁ! さっさとせんか!」

いきなり大きな怒声が響いて現実に引き戻された隼太は、慌てて目の前の建物に入ると前に演壇が設えられた大きめの部屋で整列するが、その間も今にも鉄拳が飛んできそうな勢いで叱責され続けていた。

間もなく数名の士官が折り目正しく制服に身を固めて入ってくると、正面の演壇を挟んで左右に整列するが、演壇のすぐ横に立ったのは紛れもなくあの日彼の名を訪ねた斑駒だった。

あの日と同じように彼女が演壇に立って話をするのだろうかと思っていると、斑駒は演壇の横に控えるように立って誰かの到着を待つ様だ。

間もなく「気を付け!」という号令がかかると共に後方から誰かが入ってくる気配がして、寸分の隙もなく軍装を整えた士官が一名ツカツカと横を通り過ぎて演壇に近づく。

そのまま流れるように演壇に立ったその士官は、あまり軍人らしからぬ――言い方は悪いが何だか頼りなさそうな空気を漂わせていたが、進行役と思しき見るからに厳つい士官が大声を張り上げたので、その人物こそが当教育隊の司令だとわかる。

「只今より、横須賀教育隊渡来司令よりお言葉を頂く、全員傾聴!」

 

(司令ってことは大佐なんだよな……)

 

にも関わらず、演壇に立って挨拶を述べる渡来の言葉は随分優し気で、なおかつ司令というにはかなり若く見える。

うっかりすると隼太の兄よりも若いのではないかと勘違いするほどで、横に控えた斑駒の方が年嵩に見えた。

だがその若々しい外見と優しげな物言いのせいか候補生達の間に少々弛緩した様な空気感が漂い、それに気を緩めたのか隣の清次が小声で耳打ちしてくる。

なんかよぉ、いい感じの司令だよなぁ

 

(バカ! 何考えてんだ、ここは学校とは違うんだぞ⁈)

 

咄嗟に制止しようとしたが、百戦錬磨の軍人たちがそんな不届き者を見逃す訳が無かった。

次の瞬間には演壇の渡来は既に口を噤んでおり、進行役の士官が雷鳴の様な怒声を発する。

貴様ナニをやっとる! 前へ出ろ!

 

その威力たるや大したもので、雷に打たれた様に硬直した清次はそのまま故障寸前の二足歩行ロボットよろしくぎくしゃくした動きで列から出ると、素直に演壇の前に進んで気を付けする。

 

(はぁ……)

 

心中深く溜息を吐いた隼太は、一瞬だけ躊躇った後に出来るだけ素早くしかし走りはせずに清次の横に立つ。

「貴様は関係ない! 列に戻れ!」

再び怒声が飛んだが、彼は既に腹を括っていた。

「申し訳ありません、しかしながら彼は私の友人であり私に話し掛けて来ましたので、この場に一緒に立つことをどうか許可して下さい」

出来るだけ冷静にそう申告すると、その士官は一瞬演壇に立った渡来に視線を投げかけるが、彼が軽く頷いて見せるとやや普通の声を出す。

「では、特に許可する!」

「有難うございます」

一礼した隼太は頭を巡らせて司令の方に向き直るが、その時一瞬斑駒の視線をかすめる。

 

(やっぱり来たわね)

 

明らかに彼女の眼差しがそう言っていた。

束の間、胸の奥で記憶が巻き戻されあの日の情景が蘇る。

4年半と言う時間を超えて、彼は穂波との誓いを果たすことの出来る場所へと辿り着いたのだ。

その思いに包み込まれた彼は何故か突然肚が太くなり、たとえこの場で鉄拳制裁位の目に会おうが易々と乗り切れる様な気がしていた。

「名乗りたまえ、君からだ」

先程来と特に変わらない調子で渡来が清次に命じる。

「き、木俣清次であります!」

さっきはいい感じだなどと余裕を見せていた筈の彼は、すっかりガチガチになっている。

それとは対照的に、渡来は全く表情を変えることなく視線を隼太に向けたので、彼もまたキビキビと名乗る。

「昨日、下士官候補生の辞令を頂きました敷島隼太です」

「よろしい、では木俣候補生、先程敷島候補生になんと言って声を掛けたのか」

「そ、それはその……」

内容が内容だけに清次は言い淀むが、全く表情も口調も変えない渡来はさらに命じる。

「答えなさい」

「は、はい! い、いい感じの司令だと話し掛けました!」

途端に居並ぶ候補生達から笑いが漏れ掛けるが、

「静かにせんか貴様ら!」

と再び雷が落ち、一瞬で辺りは静まり返る。

その静寂の中で、やはり表情も声も一切変えない渡来が淡々と言葉を続ける。

「敷島候補生、間違いないか」

「はい、間違いありません」

「そうか、では君達を含めた全員にはっきり言っておこう、君達はとても不幸なのだ。私と言う『いい感じ』の司令のもとで軍務を開始することで、君達は死と言う逃れ難い恐怖がこの先に存在することを忘れてしまうからだ。だが、死はいつも君達の目と鼻の先にあり一切の手加減をしてくれない。戦場に出たその瞬間から死は君達のすぐ背後にいて、一瞬で君達を彼岸へと連れ去ってしまう。それこそのんびりと『いい感じだ』などと感想を言っている間にだ。分かるか?」

先程まで『いい感じ』に見えていた渡来が、今はもう既にに全く違う印象へと変わってしまった事に隼太は気付く。

当たり前のことだが彼の姿形は何一つ変わっていないのに、二人を見下ろした眼差しを覗き込んだその一瞬、その心の内が垣間見えたように感じたからだ。

渡来の瞳には奇妙な冷えがあり、その奥には数多の別離を見つめて来たであろう哀しみが湛えられていた。

「は、はい!」

相変わらずギクシャクとした清次が声をあげたので、隼太も続いて返答する。

「肝に銘じておきます」

「よろしい、では敷島候補生、教育期間を通じて木俣候補生の管理監督を命じる。怠りなく務めるように」

「はい!」

「では列に戻れ」

「はい!」

駆け足で二人が列に戻ると渡来は何事も無かったかの様に訓示を再開するが、一旦弛緩しかけた候補生達の空気はすっかり吹き飛ばされており、全員が息を殺しているかの様だった。

その後、候補生達は教育隊の中を駆け足で引き摺り回され、どこに何がありどの様にして此処で過ごしていくのかを叩きこまれ、生まれてこの方食べたことも無い様な不味い食事を摂らされ、居室を割り当てられ、着替えさせられ、入浴させられ――そして眠った。

言うまでもない事だが隼太と清次は夕食の前にグラウンドに引き出され、鬼の様な下士官に追い回されながら全力疾走させられた。

まるで短距離走の様な勢いでみっちり走らされた二人は今にも吐きそうになりながらどうにかそれを終えたものの、へたり込む暇も与えられず食堂に追い立てられて再び不味い食事を出された。

とは言え一口も食べられる気がせず、結局彼らはその夜空腹に悩まされながら固いベッドに横たわる羽目になった。

 

「隼太、済まねえ」

消灯前のわずかな時間に清次が頭を下げる。

「この位覚悟してたに決まってんだろ」

「そっか、じゃあこれからも管理監督よろしく頼むわ」

「遠慮なくダメだしすっからな」

「ひでぇな! ちょっとぐらい大目に見てくれよ」

「そしたら俺も連帯責任になっちまうだろ! ガタガタ言わずにきちっとやれよ」

「しょうがねぇなぁ――ま、やるしかねぇか」

「当たり前だ、それで給料貰うんだからな」

 

こうして教育隊の最初の一日は過ぎて行った。

明日はどうか今日よりもいい日であります様にと心中祈りながら隼太は床に就き、夢の無い眠りに落ちて行った。

 

 ブラインドの隙間からすっかり暗くなった外を見つめていた斑駒は、たった今初めて気が付いたかのように、デスクで眉間に皺を寄せながら画面を見つめている渡来を振り返る。

「どう、なかなかいい面構えじゃなかった?」

「まぁそれは認めますけどね……」

話を振られた彼は、画面に視線を据えたまま余り気乗りしない様子で返事を返す。

「けど――なによ」

「動機が少々頂けませんよ」

その言葉にフッと笑みを漏らした彼女は心なしか艶めいた仕草で歩み寄ると、これ見よがしにデスクに尻を半分方のせてみせる。

「確かにそうよね、オリジナルの皆の願いを叶えるためとか、父親に反発してだとかいう理由に比べたら随分不純な動機かも知れないわね♪」

「そんな事を言う積もりはありませんよ、動機が不純だろうが清純だろうが、良い兵士の条件には関係ないでしょう」

そう応じた彼が殊更に画面を凝視しようとしているのを見て取った斑駒は、更に片腿を軽くデスクにかけたような大胆な姿勢をとってみせる。

デスクサイドの小さな照明だけに照らし出される薄暗い室内では、露になった内腿の白さがやたらに際立つ。

「あら、じゃあどういう意味?」

「彼は大切な誰かを――五十田穂波を追いかけて軍にやって来たわけです。だから、彼女がもし戦場を去ることがあれば、彼もまた軍を去ってしまうという事ですし、その逆も起こり得るという事ですよ」

「さすがは司令ね♪ つまり、あの2人のどちらかを喪えば2人とも喪ったのと同じ事になってしまうからってことね」

「何も戦死すると迄は言ってませんよ」

「ナニ言ってるのよ、もう散々思い知らされて来たくせに」

あくまでも無視し続けようとする渡来の様子に業を煮やしたのか、彼女は画面の前に片手をつき、グッと顔を近づけてその瞳を覗き込もうとする。

「ここは営内ですよ」

「でも、とっくに勤務時間外だわ」

「だからと言って規則に抵触しない訳じゃありませんよ、隊の司令と副長が堂々とやっていいことじゃ無い筈です」

「あの子達を見てたらウズウズしてきちゃったのよ♪ それとも、今更まだあいつに義理立てする積もりなの?」

「そういう言い方はやめてくれませんか、葉月は――」

そこまで言いかけた時、唐突にデスク上の小さな端末から電子音が響いて来訪者を告げる。

「誰か」

間髪を入れずに端末に向かって声を掛けた渡来を、ムッとした彼女が不機嫌そうに睨みつける。

『私だ』

響いてきたのは長門の声だ。

「どうぞ」

言いながら素早く端末に触れようとするその手を斑駒がギュッと抓ったものの、僅かに顔をしかめた彼はそのままドアロックを解除する。

ガチャッと扉を開けて大股に室内に踏み込んできた長門は、こんな光景をあらかじめ予想していたのか、この場に似つかわしくない不謹慎な体勢のまま抗議の視線を投げかける斑駒の存在を無視するかのように口を開く。

「帰宅する前に相談がある、少し良いか?」

「どんなことです?」

「今後のオリジナルの配置についてだ。教育訓練担当を大幅に入れ替えるのに伴って、長期的にはかなり考え方を変えて臨む必要があるのではないかと思うが」

「そんなに至急の要件には思えないん――」

「分かりました、行きましょう」

横から口をはさんだ斑駒を遮る様に声を上げた彼は躊躇うことなくサッと席を立ち、コートハンガーに手を伸ばして制帽を取るとドアを一動作で引き開けて室外に消える。

その後ろをすぐに追い掛けると見えた長門だったが、ドアを潜る直前に立ち止まり、背を向けたまま声を出す。

「副長殿」

「なにかしら?」

「しっかり戸締りをお願いする。今日に限った事では無いがな」

それだけを言って素早く室外に出た彼女の背後でバタンとドアが閉まり、薄暗い室内に一人取り残された斑駒は、

「随分目端の利くお目付け役だこと」

と忌々し気に吐き捨てると、緩めかけた衣服を整えてからわざと乱暴にドアを閉めて立ち去った。

 



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【第三章・第三節】

 それからの数ヶ月間は、隼太にとって文字通り地獄のような日々だった。

基礎訓練や座学をはじめとする教育内容自体は全て覚悟していたものばかりであり、キツく無いとまでは言わないもののまあ耐えられる範囲だったが、ここでも彼は清次の面倒を見続けねばならなかったのだ。

とは言えさすがの清次も1、2ヶ月ほど経つと隼太の手を煩わせる事も滅多に無くなってきたので、強いて言うならそれも目を瞑れる範疇だと言えた。

結局のところ、何が辛いと言って目と鼻の先にいる筈の穂波に会うことは勿論、声を聞くことも姿を見ることも全く出来ないままに毎日が過ぎていく以上のことは存在しなかった。

幾ら何でもオフの日にちょっと会うことが出来るだとか何か位はある筈だと思っていたのに、彼ら候補生の教育ゾーンと艦娘達のゾーンの間には正しく鉄のカーテンが存在するかの様で、僅か数百メートルのその隔たりは、故郷の斯波府村と横須賀の間より遠いのではないかと思う程だった。

 そんなのたうち回る程のもどかしさと焦りの中で過ごした日々が、とうとう終わりを告げたのはつい昨日の事だ。

「にしてもよぉ」

話しかける清次の声にもウキウキとした響きを感じる。

「まさか本当に教育隊に配属されるとは思わなかったよなぁ、ちょっと出来過ぎだぜ」

「全くそう思うよ、普通、軍では近親者同士が同じ隊に配属される様な事ことはあり得ないんだがな」

そう応じたのは隼太らと共に教育隊配属となった箕田勉(みのだつとむ)だ。

大卒である彼は隼太らよりも年上で、もともと士官候補生を目指していた(が、本人曰く『己の力不足を痛感した』との事で、一旦下士官となってから改めて士官を目指す事にしたそうだ)だけあって、候補生達の中でも一際優秀だった。

「けど、それは『近親者』の話しやろ、同郷者とはまた別なんちゃうの? ――まぁ知らんけど」

「知らねえのに随分自信ありそうな言い方じゃねぇか♪」

「それこそ知らんがな、ヒトの口癖いちいち揚げ足取りな! 難儀なやっちゃなほんまに……」

今でこそ関東在住だがもともとは関西出身の河勝龍一(かわかつりゅういち)は、性格的に清次とウマが合うのかこういう掛け合いの様な会話になりがちだ。

もっとも地方出身の隼太や清次に較べれば彼は随分社交的で要領もよく、いかにも世渡り上手と言った印象だった。

 

(確かに出来過ぎてるよな――ひょっとして本当に配慮があったとか……さすがにそれは無いか)

 

清次の言う『出来過ぎ』には二重の意味があった。

実は教育隊所属のオリジナルや艦娘達の異動について直前に隊内公表があったのだが、なんと穂波ら4名を含む数名の艦娘が、教育隊所属として一般修学施設に在籍中の艦娘候補生達の教育指導を担当することになったからだ。

聞くところによれば、増加する一方の艦娘候補生の教育体制の見直しの結果、これまでオリジナルが多く受け持っていたところを候補生と同じ人間である艦娘が主な教育指導をする体制に置き換えて、より円滑な指導を図るとともにオリジナルを少しでも多く前線に配置するためであるらしい。

 

(つまり人間の艦娘はあくまでも防衛用の戦力にするんだな)

 

それは戦力としての可用性からしても合理的な方針ではある。

これといった補助手段を必要とせずに特殊な能力を発揮出来る(とは言え、能力強化のための装備は一応しているが)オリジナルは、航空機やヘリなどで戦場に移動してそのまま海上に降下して戦闘することも可能だが、特殊な装備を身につけなければ能力を発揮できない人間の艦娘は、陸上基地や艦艇からでなければ出撃出来ない。

しかも外部からの電力供給が無い場合、彼女達の戦闘継続時間は精々2時間程度であり、長時間にわたる作戦行動は実質的に不可能なので計画的な運用が求められる。

柔軟な運用と素早い展開が可能なオリジナルを一人でも多く前線に配置するために人間の艦娘と入れ替えるのは大きなメリットがある。

 

(でも、『運用』なんて言ったらいけないよな、あくまでも『協力』なんだもんな♪)

 

日本国政府、或いは海軍にとって人間の艦娘を保有戦力と考えるのは何ら問題はないが、オリジナル達はあくまでも自由意志によって協力しているだけなのだ。

確かに報酬が支払われてはいるが、彼女達にとってそれは別に協力すべき理由でも何でもない。

現代の世界には深海棲艦と戦う術を持たない国が多数あり、その様な国々にしてみれば、もし彼女達オリジナルを雇用出来るのなら破格の好待遇を提供しても構わないと考えるのは自明のことだ。

彼女達が望みさえすれば幾らでもその様な待遇を得ることは可能な訳だが、そうしたオリジナルが今日迄一人も居ないのは、彼女達が自分の母国に愛着を持ってくれており、国(軍)もまたその愛着に応え、信頼を損なわない様に注意を払っているからに他ならない。

その現状に関連して教育期間に聞き及んだ話の中でも最も興味深い(と同時に余りはっきりしない)ことは、そのオリジナルとの信頼関係を維持するうえで、隊の司令である渡来大佐が果たしている役割が非常に大きいという事だ。

 

(なんなんだろう? どんな事情なのかちょっと想像つかないよなぁ)

 

そんな事を考えながら隼太は3人と一緒に司令部建屋に入り、指定された会議室に入るとそこでは隊の副長である斑駒と三曹の階級章を付けた下士官が待ち受けていた。

素早く入室した彼らは駆け足で二人の前に横一列で整列して挙手の礼をする。

2人がそれにキビキビと応じたのを見計らって、彼ら4名の代表として箕田が声を出す。

「箕田二等海士、河勝二等海士、敷島二等海士、木俣二等海士、命により只今出頭致しました!」

「本日は渡来司令が軍務で不在なので、私が代理であなた達に辞令を交付するわ。それから後のことはこちらの坂巻(さかまき)三曹からレクチャーを受けて頂戴ね。本日只今よりあなた達は正規兵です、常に全力をもって任務に精励する様に」

「はいっ!」

彼らが揃って返事をすると、斑駒は満足した様子で箕田から順に一人ずつ辞令と一等海士の階級章を手渡していく。

隼太は何か言われるのだろうかと思っていたが、曲がりなりにも上級士官であり副長でもある彼女がそう易々と他人の前で誰かを特別扱いする様な事はしなかった。

とは言うものの正面に来た斑駒はしっかりと目を合わせてきたし、(期待しているわよ?)と脳裏に声が響いたような気がした。

ともあれ、一通り全員に交付し終えた彼女は改めて短い訓示を述べた後で、最初の言葉通り坂巻三曹を残して退出していく。

「さて、それでは改めて当隊配属に当たっての諸注意を伝達するので、しっかり頭に叩き込んで欲しい。メモすべきことはメモして、分からない事は直ちに確認する様に」

4人を着席させた坂巻はそう前置きして喋り始めるが、どことなく司令である渡来と似ている様な印象を受ける。

教育期間を通じて彼らを扱き倒した下士官達に比べると、かなり優し気な物腰なのだ。

「――つまり当隊付属の艦隊には常時4隻の艦艇が在籍しており、各艦に指導役兼正規配備艦娘2名と、艦娘候補生1または2名が乗り組むことになった。昨年度までは各艦に1名ずつのオリジナルが――」

彼の話は分かり易くしかも丁寧だったので、彼らの中にはこれからの勤務に対する安堵感や坂巻に対する信頼感が徐々に膨らんで居たのだが、突然それらを一気にぶち壊すような事態が起きる。

会議室の扉が突然ノックもなく乱暴に引き開けられると二人の女性が――厳密に言うと一人のしかめ面をした女性が、もう一人のややのほほんとした女性を従えて――いきなり室内に踏み込んでくる。

「済みません、只今彼らの受け入れ教育を――」

「そんな事位よく分かってるわよ!」

口を開き掛けた坂巻をあっさり一喝して黙らせてしまったその女性は、見たところ隼太達と同年配にしか見えなかったが、酷く高飛車な物言いをする。

 

(それにしても美人だな……)

 

やや目が小さく丸顔だがその顔立ちは絶妙なバランスを保っており、裾が軽く跳ねた栗色の長い髪がそれをより一層引き立てている。

こんなに怖そうなしかめ面ではなくにっこり笑ったら、それだけで悶絶する男が続出しそうだ。

にもかかわらず、残念な事に彼女はその表情を全く変えないままで彼らをちらりと一瞥し、

「あなた達、少しだけそのまま待っててちょうだい、すぐ終わるから」

と愛想のかけらもなく一方的に申し渡す(一応断りを入れてくれたと思っていいのだろうか?)。

「何か至急の御用ですか大井さん?」

 

(あっ、これが大井さんか!)

 

隼太だけでなくおそらく4人全員がそう思ったであろう。

彼女は桁外れに強く、そして神経質でとても怖いオリジナル――つまり人間そっくりだが人間ではない――として隊内では知られていたが、実際に顔と名前が一致した状態で見るのは初めてだ。

「至急もクソもないわよ! あんた、あたしの艤装の予備バッテリー、全部満タンにしとくって言ったわよね⁈」

「ええ、しておきましたけど……」

「だったら、なぜ№2が92%になってるのよ!」

「もう放電してましたか、やはり少々――」

「もうじゃないわよ! 劣化してるんだったらちゃんと交換しとくのがあんたの役目でしょ⁈」

「いや、それはそうなんですけど、今艤装用のバッテリーは供給不足なんで、予備まで全部――」

「なんなの⁈ 下僕(しもべ)の癖にあたしの命令が聞けないわけ⁈」

「いや、これは下僕(しもべ)どうこうとはまた別じゃ――」

「口応えするんじゃないわよ! 明日までにちゃんと点検して交換しておきなさいよ! いいわね⁈」

彼女は坂巻の言い分には全く耳を貸さずにぴしゃりと言い渡すと、

「あんた達、邪魔したわねっ!」

とついでの様に言い捨てて大股に部屋を出ていく。

「そいじゃお邪魔さ~ん、ちょっと待ってよ~大井っち~」

部屋の後ろで突っ立っていた黒髪お下げの女性が、見た目そのままの緊張感のない物言いをしながらその後を追って出ていくと急に室内は静かになる。

ハァっと溜め息を吐いた坂巻が歩いて行き、ドアを閉めて再び戻ってくると苦笑しながら何事も無かった様にレクチャーを再開したのだが、最前迄の良い雰囲気はすっかり一掃されてしまった後であった。

 

「なんや先が思いやられるわほんま……強烈やったなぁ」

「てか、下僕(しもべ)ってなんだよ下僕(しもべ)って――まさか俺達もあんな扱いされんのかぁ?」

「さすがにそれは無いだろう、単なる言葉の綾じゃないか?」

幾らなんでも言葉の綾で『下僕(しもべ)』は無いだろうと思うが、少々箕田の地頭が良かろうとも彼女のあの立ち居振る舞いを擁護するのはさすがに難しそうだ。

兎にも角にも1日目のレクチャーが終了し、4人は食堂で夕食を摂りながら感想を言い合っていたのだが、どうしても話題は大井に集中してしまう。

「ほんでも大井さん言うたら、オリジナルん中でも上から数えた方が早い位の強さやとは聞くしなぁ――少々好き勝手言われても、教育隊に居てくれるだけましやからこらえてんと違うか?」

「いや、強さだけが理由じゃないだろう。実戦的な教育指導が上手いからとは聞いたぞ?」

「マジか、教わる奴が鬱になりそうだったぞぉ?」

「あの勢いでやられたら、ドロップアウト続出しそうやな♪」

「まさかずっとあんな調子じゃないだろう、第一、それじゃ本人もストレス溜まりそうだしな」

「まぁ、そらそやなぁ」

箕田のいう事が本当であれば、彼女のあの態度はあくまでも勤務外(とは言え今日は明らかに勤務中ではあったが…)のものであって、通常の指導現場などではきちんと使い分けているのかも知れない。

少なくとも隼太としては、坂巻への当たりがきつかったのは事実としても横に居た自分達にはそう言う接し方をした訳ではなく、なんとなく一定の弁えがある様な印象を持っていた。

「ひょっとしたら、あれは気安い相手に対する態度だったんじゃないのかな」

「えぇ、どういうことだよ」

「気安い言うんとは程遠かったで?」

「いや、確信がある訳じゃねえけど、大井さんが本気で腹たてて怒鳴り込んで来たんだったら、俺達にもきつく当たってたんじゃねえかなと思ってさ。なんか、言い方はきついけどちゃんと線引きはしてる様な感じだったからな」

「よく見ているな」

 

突然背後から全く違う声が響いたので驚いて――隼太だけではなく他の3人も一緒にだ――振り返ると、そこには長い黒髪を湛えた長身の女性が立っていた。

ところが、その形容し難いほどの美しさが彼らの常識をひっくり返してしまうほどの域に達していたが為に、全員揃って声を失ってしまう。

均整の取れた卵型の顔に散りばめられた目・鼻・口といった夫々のパーツは、これ以上はあり得ないという程の精妙な形と大きさで相互に引き立てあう様に配されており、敢えて表現するなら最高の芸術家と最高の技術者との共同作品とでも言えばいいだろうか。

しかもただ美しいというだけでなく、涼しげでありながら強い意志を湛えた輝く瞳やきりっと引き締まった口許は凛々しい武人を思わせる精悍さだ。

そのうえ体の線などほとんど出ない筈の軍服にも関わらず、まるでギリシャ彫刻の様な完成されたそのプロポーションはこうして間近に居るだけで動悸が激しくなってくる。

 

(信じられない――この世にこんな綺麗な人が居るなんて……)

 

こうして4人が呆けたように彼女を凝視していると、件の女性は口許を緩めて苦笑し、改めて口を開く。

「今日配属になった新兵のようだな。一応言っておくと、大井は口は悪いが軍務を疎かにする様な奴ではないし、誰彼構わず尊厳を傷つける様な非常識な奴でもないぞ。覚えておくことだ」

そう言った後で彼女は隼太に視線を落とし、

「名は何という?」

と問いかける。

この言葉で呪縛が解けた彼は、サッと立ち上がると出来るだけ落ち着いて名乗る。

「本日教育隊に配属されました、敷島1等海士です」

「そうか、長門だ、期待しているぞ」

そう短く口にした彼女――長門はサッと髪を翻すと、凡そ無駄を感じさせないしなやかな動きで歩き去っていく。

残された4人は更にもう少しの間絶句したままその後姿を見送っていたが、彼女が食堂の扉の向こうに姿を消すと全員が期せずして大きな溜め息を吐く。

「あれが長門さんかぁ~、なんか凄ぇもん見ちまったって感じだなぁ」

「ほんまやでぇ――あれはちょっとあり得へんわ、人類史上最高のレベルやて……」

「うん、あんな美人が存在するなんてまだちょっと信じられねえよ」

「しかもお前、おもきし名前聞かれとったがな! クソ羨ましいゆーか腹立つやっちゃのぉ♪」

「こいつは昔っからそうなんだよ、み~んな持ってっちまうんだぜ?」

「おるおるそういう奴♪ ……って、勉ちゃんどないしてんな、黙ってしもて」

「そうだよ、なんか目の焦点あってねえぞ?」

清次と河勝が突っ込んでも箕田は反応せず、魂が抜けた様に虚空を見つめたまま固まっている。

「どうしたんだよ、まさか長門さんに妙な気起こしたんじゃないだろうな」

隼太がそう言うと、残る二人も代わる代わる窘める。

「えぇっ! 勉ちゃんそれはあかんて、誰がどう考えてもあの人だけは絶対無理やで」

「そうだぜ、幾らなんでも現実離れし過ぎってもんだ」

しかし彼は3人の言葉が耳に届いているのかいないのか、放心状態のままで独り言の様な声を上げる。

「――美しい……」

「おいおいマジかいな~、大概にしときやぁ?」

それでもやはり反応せずに口を半開きにしたまま宙を見つめている箕田の様子には、さすがの彼らもお手上げだった。

「ダメだこりゃ」

「うん、完全にイカれちゃってるよな」

結局彼らはその後、無理矢理箕田を立たせて下膳を済ませると彼を引き擦って宿舎に戻る羽目になった。

 



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【第三章・第四節】

 そして、待ちに待ったその日がついにやって来た。

 配属が決まると同時に、隼太と清次は隊の総務課を通じて穂波ら4人に面会を申し込んでいた。

彼ら一般兵と艦娘及びその候補生達の生活空間は厳格に区別されており、任務以外では余程の偶然でもない限り接触しない様に管理されていたため、こうする以外に確実な方法が無かったからだ。

そして配属後最初の週末に、総務課員立ち合いの上で隊内の厚生棟内に設けられた面会室での面談が許可されたのだった。

 

「なんか緊張するなぁ」

そう何気なく清次に声を掛けた積もりだったが、何の返事も返って来なかったので振り返ってみると、今にも窒息して倒れるのではないかと心配になる程ガチガチの顔がそこにあったので、さすがに驚いて立ち止まる。

「おい、幾らなんでも緊張し過ぎだろ?」

「そっ、そっ、そんな事――ねぇよ」

そう言うだけでも必死の形相を浮かべている彼を見て、隼太は突っ込むのをやめた。

 

(やっぱり分かんねぇヤツだな――お前、そんなにいぶきちゃんのこと好きだったのか?)

 

とは言え、一杯一杯になっているその姿を見た事で落ち着きを取り戻せたのは有難かった。

横須賀にやって来てからの数ヶ月も含めると、実に約5年振りに穂波に会えるこの機会を緊張して無駄に過ごしてしまっては泣くに泣けない。

何様ここまで厳しく管理されているのでは、この先も碌に会えるかどうかすら保証がないのだから。

厚生棟に入って面会室の方へ向かうと、居合わせた他の兵や下士官達の視線がちらちらと降ってくるのを感じる。

言う迄もないが彼らも艦娘に対して一方ならず関心はあるものの、だからと言って闇雲に面会申請をしたところで問答無用で却下されてお終いなのだ。

そんな訳で、一体どんな連中が面談を許可されたのかとばかりに注目の的になってしまっているらしい。

 

(参ったな……)

 

好奇の視線が刺さってくるのをグッと堪えて先に進むと、面会室の前に総務課の名札を付けた女性の下士官が立っているのでその前に進み出る。

一瞬躊躇したが、これを言わなければ始まらないので敬礼して口を開く。

「面会を申請しました敷島1等海士、木俣1等海士です」

名乗りながら身分証を提示する(多少手が震えていたものの清次も一緒にだ)と、その女性は素早くそれを手に取って確認した後、

「よろしい、では入りなさい」

と事務的に言うと横の扉を指し示す。

「失礼します」

そう言って扉を開けた隼太の耳に、斯波中時代と何ら変わりない声が響く。

 

「隼太君! 、清次君!」

そう叫んで満面の笑みを浮かべながら立ち上がったのは、5年前のあの日とほとんど変わらない姿をしたいぶきだった。

「え、本当に吹――いや、いぶきちゃんなの?」

「す、すげぇ、本当にあの頃のまんまだ……」

「うふふ、そうだよ! でも、隼太君と清次君はすっかり大人になっちゃったね――それに――ちょっと格好良くなったよ♪」

そう言って笑う彼女がもし軍服ではなく斯波中の制服を着ていたならば、まるであの頃に戻ったのかと錯覚しそうだ。

 

(それにしても――まさかここまでなんてな……)

 

実のところ、彼らは教育期間にちゃんと教えられていた。

艤装(あくまでも通称であって正式には36式特殊戦闘装備などと言う名称だ)を装着し続けると、その副作用が色々と着用者に発現する事が知られており、その最も顕著なモノの一つに老化(成長と言うべきか)の大幅な遅延があった。

しかし座学で習っただけのその副作用も、こうして目の当たりにする迄は全く実感出来なかったのだが、今彼らの目の前にいるいぶきは最後に見たあの日の姿とほとんど変わりがなかった。

そしてそれは、もちろん彼女だけではないのだ。

 

「敷島君、本当にお久し振りね。来てくれて凄く嬉しいわ♪」

そう言って立ち上がりながら右手を差し出した白石もまた別れたあの日そのままの笑顔であり、相変わらずいぶきとタメを張るほど可愛かった。

「有難う、白石さんも元気そうだし――それになんだか落ち着きっていうのか、歴戦のオーラ感じるよ」

「えっ! いやだ敷島君たら――」

そう言って赤面しかけた彼女に、約5年振りだというのに全く空気を読まない清次が突っ掛かる様な事を言う。

「へへへ、そうだよなぁ、なんか如何にも古参兵って感じだぜ」

途端に今迄の笑顔をスッと引っ込めて真顔になった白石が、隼太に対するのとは全く違う固い声を出す。

「木俣君がどんな進路を選ぼうがそれは自由だけど、私達が居るのは戦場なんだからね。それがちゃんと分かってるんならいいんだけど⁈」

「こりゃまた厳しいお言葉だなぁ、有難く頂いとくぜぇ」

 

(なんだかなぁこいつは……)

 

さっきまであれ程ガチガチだったというのに、もう既にあの頃のままの太々しい清次に戻ってしまっていた。

「なんなのよその言い草! ――全く、あんた、なんでこんなバカを軍に迄連れて来ちゃうのよ! ちゃんと辞めさせるのがあんたの役目じゃないの⁈」

その言葉の響きも全くあの頃のままであり、相変わらずの『あんた』呼ばわりもそのままだった。

しかし、村越の容姿は到底あの日のままとは言えない。

そう、まさかこんな事が彼女の身に起こるとは……。

 

「む、村越さん、どうしたのその髪……」

彼女の長い髪は別かれたあの日そのままではあったが、艶のある美しい黒髪は、僅かに青味を帯びた銀色に変わってしまっていた。

「ど、どうもこうもないわよ、副作用でこうなっちゃったんだから仕方無いでしょ! 教育期間に習ってるわよね⁈」

そう、確かにそれはその通りだ。

先程も言った様に艤装の連続装着の副作用は色々あるが、その一つに着用者の髪や肌などに色素異常が起きる例が報告されてはいる。

とは言うものの、幾ら何でもこんなコスプレの様な髪色をした村越は、余りにもイメージが違い過ぎた。

 

(でも――こうなってもやっぱり美人なんだな)

 

イメージが変わってしまったのは間違いないものの、彼女の美しさはあの頃のままであり、この新しい髪色も相まってファンタジー系のヒロインの様な趣があった。

特に、4人の中でも一番上背があるだけに、その派手な長い髪が良く映える。

4人の中でも――

 

4人の――――

 

突然彼の視界がグーッと狭まり、

村越や白石、いぶきも清次も、

そして部屋の隅でしかつめらしい顔つきで座っている監視役の総務課の女性隊員も、

それら全てを含めた周囲の光景が遠くなっていく。

 

四角く愛想のない面会室の内部は

不自然に歪んだような奇妙な形に変化していき、

彼を取り巻く世界全体は

靄が懸かった様なおぼろげで頼りない眺めに塗り潰されていったが、

彼の目の前の僅かな空間だけは色を失うことなく――

もう少し正確に言うなら、まるで古い映画の様な

どことなく温かみのある懐かしい色合いに変化していた。

 

「隼太君……」

 

それはとても小さな声だった筈なのだが、

一瞬その言葉が大きく広がって全身を包み込んだ様な錯覚に陥る。

目鼻耳口はもちろん、体中の毛穴からその声が浸み込んでくる感覚に支配された隼太の体は、

頭で考えるよりも先に口が動いて言葉を形作っていた。

 

「穂波ちゃん……」

 

口にした途端に胸の奥から感情が溢れ出し、

熱いものが頬を伝って流れ落ちる。

そして穂波もまた、

キラキラと輝く真珠の粒を幾つも零しながら、

彼の瞳をひたと見詰めてくる。

二人はまるで磁石が互いに引きあう様に歩み寄ると、

ぎこちなく両手を差し出ししっかりと握りしめる。

 

(同じだ――あの日と――あの時の君の手と同じだ……)

 

温かい筈なのに何故かしらひんやりと心地よい、

柔らかく繊細なその手は紛れもなく穂波のものだった。

 

(俺は来たんだ――やっと――やっと君のもとへ辿り着いたんだ――長い長い歳月を超えて――やっと……)

 

見詰める彼女の瞳が、不意に金色の輝きを帯びる。

それは忘れもしないあの日、穂波を包み込んでいた稲穂の輝きそのものだ。

その瞳に吸い込まれる様な錯覚に陥った隼太の心は、

時空を飛び越えてあの日の村へと舞い戻っていた。

 

二人は固く手を取り合って、

そよ風に吹かれてさやさやと鳴る金色の稲穂に囲まれていた。

朝日とも夕日ともつかない煌めく太陽は、

あの日、必死に繋ぎ止めなければ永遠に飛び去ってしまいそうだった穂波を、

紛れもない一人の人間の少女として照らし出している。

 

(そうだ、俺は――

俺は――君をこの地上に――

この村の大地に繋ぎ止めておきたかったんだ……

だから――だから俺は、

いつの日か必ず――君を連れて帰る――

俺達の故郷に連れて帰るんだ、必ず……)

 

そのままどれくらい時が経ったのだろうか。

言葉もなく只々互いの手を握って涙を流す彼らにとって、既に時間は意味の無いものになりかけていたが、やがて立会いの総務課員が目頭を拭いながらも聞こえよがしに咳払いをして見せる。

 

「あ……」

「あ……」

 

期せずして全く同じ声をあげて我に返った二人は周囲を顧みる。

が、涙を滲ませていたのは当の総務課員だけでなく、その場にいた全員(なんと清次までも)だったので思わず赤面してしまう。

改めて顔を見合わせた彼らに、立会の総務課員が意識的に感情を抑えた低い声で告げる。

「原則として面談に限って許可しています。以後は注意する様に」

「は、はい!」

「済みません、気を付けます」

彼女の配慮に感謝しながらも二人がそう返答すると、涙を拭いながらいぶきが明るい声を出す。

「本当にもうっ! な~んかやられっ放しで妬けちゃうよね、ね清次君♪」

「う、うす! でも、隼太には昔からずっとやられ続けなんでもう慣れっこっす♪」

どういう訳か、清次は昔からいぶきと話すときの語尾は『っす』なのだった。

「でも――無事に再会出来て本当に良かったわ――敷島君も五十田さんも」

「まぁ~そーよね、あんまり要領良くない同士だから、随分余計な心配させられたわね♪」

白石と村越がそう言って顔を見合わせると、砕けた雰囲気が戻ってくる。

 

「みんなごめん――それに有難う。正直に言うけど、ここ迄本当に長かったよ。随分遠く迄来たんだなぁって今思ってる」

隼太がそう言うと、いぶきがあの頃そのままに明るく応じる。

「そうだよ! あたし達も隼太君と清次君もこんなに遠く迄来たんだよ、これからまだまだずっと遠く迄行くんだからね!」

彼女の屈託のない笑顔を見た隼太は、内心ホッとしていた。

やはりいぶきにはこの朗らかな笑顔が良く似合う。

5年の月日が彼らの関係を再びあの日以前に戻してくれた事に心の底から感謝していた。

「吹輪さんはそうなのかも知れないけど、私はやっぱり故郷があってこそ今の私達があると思ってるわ。だからね、何時かは必ず村に戻る積もりよ、敷島君と五十田さんもそうじゃないの?」

白石がそう話を振ってきたので彼はチラッと傍らの穂波に視線を投げ掛けるが、その眼差しに改めて言葉は不要だった。

「うん、その積もりだよ」

「え~、やっぱりそうなんだ、ひょっとして美空望ちゃんもそうなの?」

「あたしはまぁ、どっちでもいいかな――でも、バカが居なくなって少しは静かになったんだろうから、何時かは戻るのもいいかもね♪」

村越が皮肉を込めてそう言うと、どうやら自覚があるのか清次が声を上げる。

「へいへい、それにしてもこの4年位はよぉ、口煩い誰かがいなくなったんで村は静かで快適だったぜぇ♪」

「その代わりにここが快適じゃ無くなっちゃったけどね⁈ ったく~、あんたって本当にお人好しよね! 何が嬉しくてこんなバカの面倒見てやるんだか気が知れないわ⁈」

彼女の口の悪さは相変わらずだが、隼太に向かって投げ掛けられた視線に棘はなく、どこか懐かしさを帯びた柔らかいものだった。

「そうよね、木俣君、言っとくけど私達ちゃんと聞いてるからね? いきなり司令に注意された事も敷島君に迷惑掛けた事とかもね。もし同じことを戦場でやったら多くの人が死ぬんだってこと、肝に命じておいてくれるかしら⁈」

白石の口調の厳しさは格別だった。

隼太がもしこんな調子で叱られたら立ち直れないかも知れない。

「さすがベテランの言うことは違うなぁ、俺の上官になって貰いたいぐらいだぜぇ」

 

(こいつの心臓だけは大したもんだよ本当に)

 

「まぁ、こいつの世話代はそのうちまとめて請求して、皆に還元するからさ」

清次を放っておくと白石や村越の機嫌が悪くなりそうなので、程々に話題を収め様とすると穂波が上手く違う話題を振ってくれる。

「ねぇ、正式な配属は何時になるの?」

「うん、来週中には配属だって聞いてるけど」

「今回の新規配属は他にあと2人なのよね、やっぱり各艦1人ずつになるのかしら」

「多分そうよね! あたし達の艦に隼太君と清次君が配属されるといいなぁ」

「浪江と綾瀬さんはどこで研修してるの?」

「そっか、あんた達にはそれも知らされて無いのね~」

「あのね、浪江ちゃんは『かすが』で真奈美ちゃんは『うさ』だよ」

「へ~、ちゃんと一緒にしてくれてんだなぁ」

「渡来司令と斑駒副長がね、配慮して下さってるみたいなの。だからと言って、敷島君と木俣君が同じ様に扱って貰えるとは限らないから、まだ何とも言えないわね」

「少なくとも、特別な事情が無かったら隼太君と浪江ちゃんは一緒にならないと思う。だから『かすが』の配属にはならないんじゃない?」

おそらくは穂波の言う通りだろう。

箕田も言っていた事だが軍は同郷者には寛容でしばしば意図的に同郷者を集めることもあるが、血縁者に対してはナーバスである事が多い。

「敷島君も心配だと思うけど、私達に任せておいてね。立派な艦娘になれる様にちゃんと鍛えてあげるから。でも、最後は本人の頑張り次第なんだけど」

「まぁ、本人が希望してた事なんだから、頑張らなかったら嘘だろうね」

「哨戒実習はまだ始まったばかりだから、これからなんだけどねぇ」

「でも実習って言ってるけど、敵と遭遇したら当然即実戦になるんだよね?」

「勿論よ、海の上には線なんて引かれて無いから、ここから向こうが戦場だなんて境界線も無いわ」

「へへ、綾瀬のヤツがなんて言ってんのか聞いてみたいぜ♪」

清次がそう言って隼太に視線を投げ掛けると、意外な事にそれにはいぶきが反応する。

「それってもう聞いちゃったかもね♪」

「え、本当に?」

「真奈美ちゃん言ってたよぉ『話が違います』って」

「じゃあちゃんと指導してやったのかぁ、そんな都合のいい話はねえってよぉ♪」

「そんな事言わなくても分かってたよ! 『でも、よく考えたら当たり前のことですよね』って自己完結してた♪」

「へ~、辞めるとか言い出さなかったんだ」

「うん、なんか切り替え早くて凄い子だなぁって思っちゃった♪」

「浪江の奴は大丈夫なのかな~、少なくとも皆の足を引っ張らない様にはなって欲しいな……」

「そんな事言ってると、そっくりそのまま自分に跳ね返って来るわよ」

昔は村越の辛辣な言い草にいちいち反論せずにはいられなかったのだが、今こうして聞いていても不思議にそんな気分にはならなかった。

「いや、そうだよな。自分がそうならない様に気をつけるよ」

「やっぱり敷島君ね♪ その心掛け、とっても大切よ」

にっこり笑った白石があの頃そのままに彼を褒めてくれるが、話を振った村越はどういう訳か少々残念そうな顔だ。

刹那、隼太の胸の奥で5年前の記憶が呼び起こされる。

あの夜、彼を見つめたその瞳は何を訴え様としていたのだろうか。

 

(美空望よ!)

 

声なき声が脳裡に木霊し、彼女の言葉に出来なかった想いを伝え様とするが、やはり今の彼にはそれが理解できなかった。

「まぁ、2人共すぐに実戦経験するから、そしたら色んな事が分かるようになるよ!」

「吹輪さんの言いたい事は分かるけど、それはちょっと楽観的過ぎるんじゃないかしら? 私達、最初の実戦が唯一の経験になった人も見て来たのに、敷島君と木俣君がそうはならない前提で話は出来ないわ」

 

白石の言葉はこれといった躊躇いもなくスラスラと発せられた為にそのまま聞き流してしまいそうになるが、実はとんでもなく重たいことを言っていた。

その証拠に(先程注意されたにも関わらず)穂波が思わずといった様子で隼太の腕をギュッと掴み、それからまた慌てて離すと小さな声を出す。

「雪乃ちゃん――あんまり怖いこと言わないで……」

「ごめんなさい、五十田さんのこと脅かしたい訳じゃないけど、それでも1分でも1秒でも長く生き残って貰う為には実戦がどれだけ苛酷なものか知っておいて貰う方がいいと思ってるの。だって、私達だってそうでしょ? こうして4人揃って敷島君達と再会出来た事だって、幸運に恵まれたからだわ」

「確かに雪乃の言う通りだけど――本当に容赦が無いわね♪ でも、多分今言って聞かせてもまともに頭には入らないんじゃないの? 実際に配属になって、日頃あたし達が海の上で何をやってるか経験してからじゃないと……」

「私が心配し過ぎなのかしら? でも、何度考えても同じ結論になっちゃうのよ。海の上には隠れる所も無いし自分で身を守る術もないんだから、生き残る為には一秒でも早く敵を見つけて先に叩くしか無いわ。しかも、私達と違って敷島君達は自分で敵を見つけることも反撃することも出来ないんだしね」

「あのさ、どんな風に敵の姿や弾が見えたりとかするの?」

「座学で習ってるんじゃないの? あたし達の特殊な能力の時間ってあるでしょ?」

「いや、けど、全然実感わかねぇっすよ」

「私達の感覚と座学で教えられる事じゃ確かに全然違うでしょうね。座学では『脳内にイメージが浮かぶ』みたいに言われるのよね?」

「そうだね、本当にそのフレーズで教わったよ」

「でも、あたし達にとってはそれが実際に『見える』としか言い様がないのよ。潜水艦の航行音や雷走音なら実際に『聞こえる』の。技官や医官からはそうじゃ無いって説明されても、あたし達の感覚はその説明とは違ってるのよ」

村越の言葉に、穂波を顧みた隼太に向かって彼女は自分の言葉で説明してくれる。

「弾が飛んでくる時にね、頭の奥でパチッて火花が弾けるみたいな感じがするの。それと一緒に方向が分かって、そっちを見たらユラユラした陽炎みたいなものが飛んでくるのが見えるんだよ」

「そうそう! 魚雷の時もパチッていうの、でもその時見えるのは白い雷跡だけどね」

「それで――そんな風に見えるから避けられるの? 魚雷はまだ分かるけど――」

「そうだぜ、弾なんて音速の倍位の勢いで飛んでくんだろぉ、幾ら見えたってよぉ、そんなもん避け様がねぇんじゃねえのかぁ?」

「でも、それが出来てしまうの。私達には実感出来ないけど、近くで見ていると突然私達の姿がぼやけて見えるらしいわ――それを間近でしっかり観察して報告できた人はほとんどいないんだけど……」

またしても白石が途轍もなく重たい事を言うので、一瞬その場がシンとしてしまう。

 

「雪乃、あんまりやると穂波に恨まれるわよ♪」

苦笑した村越が突っ込むと、どうやら本当に意識していなかったらしい白石はハッとした様に隼太の顔を見ると、

「ご、ごめんなさい、敷島君と五十田さんのこと脅かす積もりは本当に無かったのよ? つい口に出ちゃって……」

と言いながら赤面する。

しかし、毎度の事ながら止せばいいのにこういうタイミングを何故か外さない清次が、またも彼女の神経を逆なでする様に口を挟む。

「へへ、そいつはいいや。だったらよぉ、俺がそのちゃんと見届けて報告する奴にまだなれるんだよなぁ?」

 

(何考えてんだよこいつは!)

 

心の中でそう突っ込んだ隼太の案の定、白石が真冬の軒端に垂れ下がる氷柱の様な冷たく尖った声を出す。

「可能性が零じゃないだけの話だわ。第一、そんな風に実戦を舐め切ってる様な人にはそんな機会なんて巡って来たりしないから」

「いいじゃない雪乃、もしあたし達の艦にこのおバカが配属されたら思う存分扱き倒してやればいいのよ」

「それもそうね、精々思い知って貰いましょ」

「おお怖えぇ怖えぇ♪ お手柔らかに頼むぜえ」

「もうっ! 清次君もいい加減にしときなよぉ」

さすがにいぶきに窘められるとスッと大人しくなるものの、多分その態度が白石と村越には余計に気に障るんだろうなと思った隼太が何かフォローしておこうと口を開き掛けると、幸か不幸か立会いの総務課員が立ち上がって面談終了5分前を告げる。

「5分前となったので、これにて面談を終了します。参加者全員は、退室後本面談の内容についての守秘義務を厳守のこと」

「はい!」

全員が異口同音に応じると、彼女は満足した様子で隼太と清次に向き直る。

「では、退室しなさい」

「隼太君、清次君、配属楽しみにしてるからね!」

「さっき言った通り、厳しく扱いてあげるから覚悟しときなさいよ♪」

「それじゃあ、またね……」

 

彼女達の言葉に送られながら面会室を出て扉を閉めると思わず大きな溜息が出てしまうが、ちょっと驚いたのは、傍らの清次が溜息ばかりか膝に手までついて肩で息をしていたことだ。

「おい、大丈夫か?」

「な、何でもねぇよ」

例によって空元気で返した彼に向かって突っ込んでやろうかと仕掛けた矢先、またしても好奇の視線に晒されていることに気付いた彼らは、そそくさとその場を後にした。

 



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【第三章・第五節】

 翌週彼らの配属が正式に通知され、即日各配属先に出頭することになった。

もっとも『うさ』と『あつた』に配属された隼太と箕田はともかく、既に哨戒訓練に出港していた『かすが』と『たかちほ』に配属された清次と河勝は、両艦が帰投して来る迄は構内雑用を命じられて凹んでいた。

接岸している『うさ』に向かって歩く隼太の目が、舷梯の前で腕組みしながら立っている厳つい中年の下士官の姿をとらえる。

 

(えっ、まさか……)

 

その下士官が彼を待っている事を直感したので、慌てて駆け足で近寄るとその目の前で敬礼しつつ大声を出す。

「敷島一等海士、只今出頭致しました!」

それを聞いた男は矢鱈に迫力のある団栗眼をカッと見開き、ギロリと隼太を睨み付ける。

「貴様が敷島か、我が艦の五十田を追い掛けて軍に入ったというのは本当か?」

 

(ええっ⁈ いきなり――で、でもまぁその通りだしな……)

 

「はい、間違いありません!」

「ほう、随分あっさりと認めたな。だが貴様、それだけの覚悟はあっての事だろうな?」

「どのような覚悟でしょうか」

「そんなもの決まっとる、敵の弾には一切何の温情もない。いつ何時、貴様の目の前で五十田が吹き飛ぶかも知れんし、その逆に貴様が五十田の目の前で吹き飛ぶか知れん。それだけの覚悟は出来ているのかと聞いとるんだ!」

「覚悟はしておりません!」

「なんだと⁈」

男が今にも火を吐きそうな形相で睨みつけたので思わず身体の奥で何かが縮み上がるが、ここが正念場だと思ってグッと腹に力を入れなおす。

「自分は共に戦う為に入隊致しました。ですから、どちらかが死ぬ事を覚悟はしておりません。生きるも死ぬも一緒だという覚悟はしている積もりですが、それでも易々と死ぬ積もりはありません。石に噛り付いてでも共に生き残る積もりです!」

その場の勢いとは言え、さすがにとんでもない啖呵を切ってしまったと後悔したものの、今更言葉を引っ込める訳にもいかず言うだけ言ってしまって口を噤む。

と、件の下士官はなおも彼を食い殺さんばかりの迫力で睨みつけていたが、やがてふっとそのオーラを畳み込んだ。

「分かった、では貴様が意地と覚悟だけでどれだけ生き残れるのか俺が見届けてやろう。しかし、言っておくが海の上には貴様が噛り付く石なぞ何処にも無いからよく覚えておけ」

「はい!」

「その代わりに貴様が噛り付く仕事をくれてやろう、四六時中好きなだけ噛り付いていられるだけのな。ついて来い!」

「はい!」

結局、その下士官は名乗りもせずに隼太を引き連れて『うさ』の艦内を駆けずり回り、彼がこれから勤務し、場合によっては命を預ける事になる場所と、そこで彼がなすべき事を徹底的に詰め込んだ。

途中で隼太は脳味噌も膝もパンパンになってしまい、最後は何をやっているのか分からなくなってしまったが、それでも日暮れに解放される前に分かったのは、その下士官は彼がこれから所属する『うさ』の艦娘支援班の班長だという事であり、艦長である斑駒の最も信頼の篤い乗員の一人だという事だ。

「いいか、艦長は隊の副長も兼務しておられるんだ。一々こまごました事で艦長を煩わせる訳には行かん。我々乗員は艦長が必要とされる事を必要な形で何時でも提出出来る様にするんだ、完璧な形でな」

「はい!」

「返事だけは一人前だな、1秒でも早く中身もそれについて来れるぐらいにしろ。命令じゃないぞ、それが出来なければ死ぬだけだ。貴様だけじゃ無く俺達全員がな」

「はい!」

「明日は0800に離岸だ。貴様が良いと思う時間に来い、分かったな?」

「はい!」

「では、とっとと風呂に入って飯を食って寝ろ、解散だ」

「有難うございました!」

とにかく勢いだけでそう挨拶して艦を後にするが、舷梯を渡って岸壁に降り立った途端に膝が嗤ってその場に崩れ落ちそうになる。

何くそと力を振り絞ってそれに耐え、よたよたと歩き始めると幾らも行かない内に同じ様によたついた人影に追い付く。

誰かと思えば、それはやはり今し方『あつた』から解放されたらしい箕田だった。

「お、お疲れ」

「あ、ああ敷島か――お疲れ」

「どう? しっかり頭に入った?」

「最初はいけてる積もりだったんだがな……途中からどんどん抜けていくんだよ――気がついたらほとんど抜けていった気がする」

「へ~、人が違っても結果は同じかぁ」

「下らない事感心してる場合じゃ無いぞ? 明日からどうしたらいいんだか……」

「明日はそっちも0800に離岸かな?」

「ああ、0700迄に来いって言われたよ」

「え、俺は何時に来いとは言われなかったなぁ」

「そんな訳無いだろ、聞き逃してるだけじゃないのか?」

「いや、『お前がいいと思う時間に出て来い』って言われた」

「何だいそりゃ、随分変わった上官だな」

「まぁいいや、どうせだから俺も同じ時間に行くよ」

あまり深くは考えずに結論を出した隼太は、班長の言葉通りにサッサと風呂に入って夕食を摂る。

余談になるが、彼らが最初その不味さに辟易して「エサ」だの「口から打つ点滴」だの悪態をついていた隊の食事も、毎日の様に食べている内にいつの間にか慣れてしまっていた。

もっとも、彼らの間では「食事ではなく作業」だという認識で意見が一致していたのだが。

 

 食事を終えた彼が宿舎に戻って日課の掃除や洗濯をしている所に、如何にもげっそりした様子の清次が戻ってくる。

彼らはそれぞれ『かすが』と『たかちほ』が帰港したのでそちらに出頭していたのだが、大方隼太や箕田と同じ洗礼を受けて来たのだろう。

「おい、お前も詰め込まれて来たのか?」

「ダメだ、もう全部忘れちまったよ、最低だ俺は……」

「ハハハ、俺も似た様なもんだぜ」

「つってもよ、何だかんだでお前ぇは乗り切っちまうんだろ」

「なに言ってんだよ、明日俺はぶっつけ本番なんだぜ? お前は明日一日復習出来んだからまだいいだろ」

「まぁそうだな、仕方ねえから明日が初めての積もりでやるしかねぇか」

珍しく前向きな事を口にした彼は、軽く笑顔すら浮かべて大嫌いな筈の日課に取り掛かる。

 

(何だよ、随分やる気出してんだなお前♪)

 

心の中でそう突っ込んだ隼太も、何時もより少し念入りに日課を終えて床に就く。

まだ短い経験ではあるが、こういう時にこそ台風がやって来るものだという事は何となく予感がする様になっていた。

 

 翌朝、起床ラッパより少し早目に起き出すと、まだいびきをかいている清次を尻目に身支度を整える。

同じく少し早目に顔を出した箕田と共に食事を済ませると、0700より僅かに早目に『うさ』に駆けつける。

が、舷梯の前では昨日と全く同じ態勢で班長が腕組みをしており、隼太の顔を見るなり

「遅い!」

と一喝する。

「申し訳ありません!」

何も言わずにいきなり謝った彼に向かって班長はまたしても団栗眼をカッと見開き、禅問答の様な言葉を投げつける。

「今申し訳ないと言ったな? そう思うならどうしてもっと早く来ないんだ?」

「班長が遅いと仰ったので申し訳ありませんと申し上げました! 自分はこの時間で良いと思っておりましたので、早く来ようとは思っておりませんでした」

「なんだと? 貴様はどれだけ優秀な積もりなんだ? 離岸前にやっておくべき事を済ませるのにこれだけあれば十分だってのか?」

「いえ! どんな事をどれだけすれば良いのか頭に入っておりませんので、時間の見積もりが出来ませんでした! ですから1時間の根拠はありません!」

「何でもはっきり言やあ良いってもんじゃねえぞ、この馬鹿野郎! じゃあ今からもう一回叩き込んでやる、来い!」

「はい! よろしくお願い致します!」

この珍妙な遣り取りはもちろん周り中に聞こえており、早足で舷梯を渡る隼太の耳にもWave達がクスクス笑う声が聞こえている。

しかし逆にそれで肩の力が抜けた彼は、昨日と同じく怒涛の勢いで言葉と命令を流し込んで来る班長の勢いに逆らう事なく無心で向き合うことが出来た。

 

(なんか昨日よりも少しは分かる気がするな~)

 

とは言うものの、どうも彼の理解力や吸収力が向上した訳では無さそうだ。

少なくとも離岸する迄の間に隼太が理解したことは『とにかく雑用は全部やる』という事に収束したのだった。

 

「隼太君! やっぱりうちの艦に来たんだね!」

いぶきの明るい声が響き、振り返った彼の目に艦娘専用スーツにプロテクタージャケットを身につけた彼女と穂波が舷梯を渡ってくるのが映る。

「これから一緒に頑張ろうね! 困った事があったら、先輩に何でも相談しなさい♪」

そう言って自分の胸を叩いて見せるいぶきの朗らかさはおよそ軍の雰囲気には似つかわしくなく、一瞬ここは斯波中なのではないかと錯覚するほどだ。

「頑張ってね隼太君……」

穂波が大人しいのは良く分かっている積もりだが、それにしても彼女のどことなく素っ気ない言葉や態度は、只大人しいという言葉では片付けられない微妙なニュアンスが漂っている。

 

(穂波ちゃん、どうしたんだろう)

 

と思い掛けたものの、それをゆっくり掘り下げるどころか返事をする余裕すら無かった。

「敷島ぁ! 鼻の下伸ばしとる場合か!」

「はいっ、申し訳ありません!」

別に本当に鼻の下を伸ばしていた訳でもないし、返事をしたり手を振った訳でも無いのに随分理不尽な話だとは思ったのだが、まさかそんな事を言う訳にもいかないので謝っておく。

どちらにせよ、穂波達艦娘に直接接触する様な作業は原則として全てWaveが行う事になっており、彼をはじめとする男達は、例え上級士官であっても緊急事態でもない限り彼女達に物理的に接触する事は禁止されていた。

「お早うございます、本日もよろしくお願い致します!」

数ヶ月ぶりに耳にした綾瀬の声には、随分落ち着いたというか現場の雰囲気に良くなじんだ響きがある。

先程怒鳴られたばかりなので、他の乗員達にあわせて『おはようございま―す!』とやるだけにしておきたかったのだが、目敏く隼太を見つけた彼女はわざわざすぐ傍までやって来ると、

「お久し振りです先輩! これからは訓練の時はご一緒出来るんですね♪ よろしくお願いします!」

と親し気に挨拶してくれる。

「あ、うん、よろしく」

また班長に怒鳴られると思って身構えながら出来るだけ愛想のない返事をするが、次の瞬間ハッと悟る。

 

(そうか! そういう事か――そうだった……)

 

先週末の面談時の光景が甦ってくる。

多くの兵達にとって艦娘が関心の的なのは何も勤務外だけに限った事ではなく、この艦上に於いても同じ事なのだ。

配属されたばかりの新入りがその艦娘達と個人的な知り合いであり、親し気に声を掛けて貰っているというだけでもひどく悪目立ちしているだろう事は容易に想像出来る。

ましてその新入りが彼女達と馴れ馴れしく雑談などし始めようものなら、どれだけ反感を買う事になるか想像するだけで背筋が寒くなる。

 

(だから班長はわざわざ怒鳴ったのか――それに多分、穂波ちゃんも気遣ってくれたんだ……)

 

にわかに彼らの振る舞いが肚に落ちた隼太は、次に何がやって来るのかを予想する事が出来た。

「敷島ぁ! ボサッとするな、これを運べ!」

「はいっ!」

少し腰を浮かせて待っていた彼は、班長の怒声に間髪を入れずに反応して脱兎のごとく飛び出す。

 

(うん、うん、気をつけろ⁈ こんな事で躓いてられないぞ、俺!)

 

そう自らに言い聞かせながら身体を動かす事に集中する彼の耳に離岸を告げる鐘が鳴り響く。

いよいよ艦上勤務が始まろうとしていた。

 

 



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【第三章・第六節】

 離岸した『うさ』は暫くの間「あつた」と同航するが、城ケ島沖でそれぞれ西と東に別れて独航による哨戒に遷る。

言う迄もなく彼らは教育隊なので、哨戒そのものを目的としている訳では無く教育訓練の一環として実施しているのだが、神出鬼没の深海棲艦に対する警戒はどれだけ厚くしてもし過ぎることは無いため、かなり以前からこの様な形が定着していた。

独航開始後間もなくスピーカーを通じて艦娘哨戒準備の号令が掛かり、それと共に隼太が所属する艦娘支援班の動きが慌ただしくなる。

支援班は海軍内でも特にWaveが多い部門だが、艦娘に直接接触する必要がある為にそうならざるを得ない。

しかもその最も重要な業務として艦娘達への艤装の装着がある事から、体格に恵まれた屈強な者が特に選抜されていた。

隼太も教育期間中に艤装に触れた事があるが、バッテリーを装着した状態では40kg以上にもなるそれは、男であっても持ち上げるのが精一杯の代物だ。

それを中学の頃とほとんど変わりない体格の穂波やいぶきらが背中に背負う訳で、普通にしている限り自力では立ち上がる事すら難しいだろう。

今しもプールの縁で始まったその準備は、艦娘一人に付きWaveが二人掛かりで行われる作業だ。

 

そうだ、プールについても触れておかなければならないだろう。

『プール』或いは『艦娘プール』と言うのは艤装と同じく通称であって、正式な名称はただ単に貫通部だとかいう如何にも素っ気ないものだった筈だ。

しかし現在海軍で使われている艦艇のほとんどに設けられているだけでなく、一部の外航用の民間船舶にも設けられている程広く普及している船体構造であり、艦娘運用の為にはなくてはならないものとも言える。

『うさ』をはじめとするほとんどの艦艇では、艦尾の直前付近に孔が開いた様な形で設けられており、落下防止のための鉄格子はあるものの海中に向かって素通しになっている。

この開口部の海面に立っている限り艦娘は普通に哨戒が可能だし、砲撃による応戦も可能だ。

また、艤装のバッテリーによる稼働時間は最大でも2時間が限度であるが、プールに立っていれば有線接続で電源を供給出来ることから長時間の哨戒も可能になる。

現代の艦艇が装備しているレーダーやソナーにとっては、深海棲艦も艦娘も人間大の小さな物体としてしか捉えられないため近距離で無ければ捕捉出来ず、それまで一方的に攻撃されてしまう事から圧倒的に不利な戦闘になってしまう。

もちろんドローンによる索敵やレーザーマーカーによる標的補足などの対策も導入されて久しいが、互角に闘うには程遠い。

結局その深海棲艦の攻撃に備えるためには、艦娘やオリジナルの哨戒・索敵能力に頼らざるを得ないのだ。

そう言った必然性から艦艇設計に取り入れられている構造は、実はプールだけではない。

例えば『うさ』の様な海軍艦艇のほとんどは、スクリューではなくハイドロジェット推進が採用されている。

これは艦娘やオリジナルがソナーを使用する際に出来るだけ妨げにならないためで、低速での効率の悪さは犠牲にされているが、それでもなお深海棲艦による攻撃或いは接近を出来るだけ早く察知する方がより重要視されているという事だ。

 

話を艦娘達に戻そう。

今しも穂波といぶきがプールの縁に座って艤装を装着しているものの、先程も言った様にそのままでは立ち上がる事すら覚束ない訳だが、ひとたび艤装が稼働し始めればそれは一変する。

「装着完了しました!」

それぞれ担当のWaveがほぼ同時に作業終了を申告すると、それを受けて班長から指示が飛ぶ。

「起動最終点検掛かれ!」

この指示と共に艤装が通電状態になり、艤装自身のシステムチェックと装着した艦娘達のバイタルチェック、そしてそれらを監視し制御する艦艇側のシステムチェックが行なわれるが、異常でも無い限り5分も掛からない工程だ。

「全点検項目異常なし!」

これは各艤装=艦娘1名当たり1つずつ設置されているコンソールに取り付いている兵達からの申告であり、これまたほぼ同時だった。

「起動完了、全機能異常なし! 艦娘、有線機動準備完了しました!」

班長のこの申告は艦橋に対して行われたもので、それに対して副長のものだろうと思われる声がスピーカーから響く。

「了解、艦娘は哨戒訓練予備行動を開始されたし」

先程も触れたようにこれはあくまでも訓練なのだ。

副長の持って回った様な言い方はそれを象徴しているが、それと実戦とを区切ってくれる都合の良いラインなど無いのは白石が看破した通りで、建前だと言ってしまえばそれ迄かも知れない。

「五十田、吹輪、哨戒訓練予備行動開始します!」

 

(あ、そうなんだ……)

 

意外な事に、いぶきでは無く穂波が二人を代表して応答したのだ。

だが意外に感じたのはどうやら隼太だけの様で、その場に居合わせた全員が(もちろんいぶき自身も含めてだ)何事もなかったかの様に淡々としていた。

2人はそれぞれ艤装が接続されたコンソールのある側に応じて両舷に別れてプールの海面に立ち上がり、プールサイドから繰り出された手摺を掴んで定位置に就く。

「両舷、水上索敵及び水測を開始します」

穂波の落ち着いた声が響き、彼女達が艦娘の特殊能力を発揮して周辺の監視を始めた事が分かる。

海面に立っている二人は今隼太がいる甲板から1m近くは下にいる訳だが、そんな状態にも関わらず『うさ』を中心とした半径約十海里前後の海上を見渡す事が出来るのだ。

それだけでは無くソナーによる音響監視もある程度は可能なのだが、こちらの方は『うさ』がもっとゆっくり航行するなどして環境を整えなければ、それ程遠く迄索敵が出来る訳ではない。

それでも、艦艇に装備されたソナーで深海棲艦のたてる水音を探知し様とするよりはずっと良く、特に雷走音を探知するのは彼女達で無ければ不可能なのだから、艦艇の生残性を高める為にはなくてはならないものだと言える。

 

「敷島」

「はいっ」

雑用に駆け回っていた隼太が待機の態勢に入ったのを見計らってか、班長が普通の声音で声を掛けてくる。

「よく見ておけ、いずれ貴様にはあれをやって貰う」

そう言った彼が顎をしゃくって見せたのは、穂波の偽装に接続されているコンソールだった。

「あ、はい!」

それこそ隼太が望んでいた事だ。

戦う穂波を直接サポートする事が出来る願ってもない役割である。

その気持ちが声に出ていたものか、班長は如何にもと言ったシニカルな仕草で口元を少し歪めて(当人は苦笑している積もりなのだろうか……)見せると、幾らか声を低める。

「貴様を見ている限りではどうやら分かってはいる様だが、改めて言っておくぞ。何があろうと絶対に調子に乗るな、大袈裟な位に謙虚にしていろ。例え理不尽な言い掛かりだろうが、戦場で仲間を信用出来ない状態になる事を思えばそれ位は我慢しろ、いいな?」

「有難うございます! 絶対に守ります」

「ふん、それでいいぞ、その調子だ」

「はい」

「――これは興味本位の質問だ、嫌なら答えんでいい」

「どんなことでしょう?」

「五十田と吹輪、白石、村越は全員貴様の同級生だったのか?」

「はい」

「そうか――貴様の目から見て4人はどうだ、昔と変わっていたか?」

「変わって――、性格だとかそういう事でしょうか?」

「まぁそんな所だ。雰囲気の様なぼやっとした意味でも構わん」

「――――その――まだ1回面談しただけなので自信はありませんが――皆ほとんど変わっていないと思います」

「そうか――変わっとらんか……」

「何かあるんでしょうか?」

隼太が思わずそう聞き返すと、今度こそ班長ははっきりと口許に笑みを浮かべる。

「いや――さっきも言った通りよく見ていろよ、その内色々と分かってくる。貴様をあそこに就けるのは、その辺りが飲み込めてからだ」

「はい!」

いささか含みのある物言いで会話を打ち切った班長が一旦艦内に消えた後、彼は言われた通り穂波達や他の班員達の様子をそれこそ目を皿の様にして見ていた。

穂波といぶきはもし何か異常を感知すればその都度直ちに報告をする訳だが、そうでなければどうやら30分に一度定時報告をする様だ。

「左舷方向、水上索敵異常なし、水中に不審音源の感知なし」

「右舷方向、同じくです!」

穂波の報告に続いていぶきも申告するが、それを聞いた穂波は少しばかり困った様な顔をしてインカムのマイクを跳ね上げ、いぶきに向かって何事か声を掛けている。

「えっ? あっ、うんそうだったね!」

無線が活きたままのいぶきの声だけがスピーカーから響いたのち、一瞬静寂が挟まれたその後から再度彼女の声が流れる

「右舷方向、微弱な不審音源を感知していますが、状況から海洋生物と思われます!」

「了解しました、引き続き予備行動を継続されたし」

副長の応答があって定時連絡が終了すると、いぶきが穂波に向かって『ごめんね!』と言う様な仕草をして屈託のない笑顔を浮かべ、穂波も笑顔でそれに応じるが、周囲には一瞬弛緩した様な微妙な空気が流れてすぐに消える。

それから間もなく今度は綾瀬が機動準備に入り、一頻り先程と同じ手続きが繰り返された後に彼女もまた穂波らと同じ様にプールの海面に立ち上がる。

「起動完了、全機能異常なし、訓練生、有線機動準備完了しました!」

「了解、艦娘及び訓練生は、哨戒訓練を開始されたし」

その指示に従ってどんな風に訓練が始まるのかじっと目を凝らしていると、ここでも役割分担が明確になっている様だった。

まず穂波が哨戒範囲の確認をし、その中から索敵範囲を指定するとそれに従って指導役のいぶきが旗艦、訓練生の綾瀬が麾下の艦艇となって当該範囲の索敵を実施する。

その後今度は穂波から不審音源の指定があり、再びそれに従って二人が……という事を何度か繰り返すのだ。

 

(あれかな、何回か毎に交代するのかな?)

 

何となくそう思いながら一部始終を見ていたのだが、案に相違して何時迄経っても穂波といぶきは交代しない。そうこうする内にふと気が付くとチンチンチンと鐘が鳴り、昼食の準備が出来た事を告げる。

「敷島、貴様先番で行って来い」

「はい!」

班長の指示に従ってサッと立ち上がった隼太がちらりと顧みると、穂波がプールサイドに腰掛けて艤装を脱着して貰っている。

 

(穂波ちゃんと一緒なら良かったのにな)

 

しかし残念な事にそうは行かなかった。

ここでも艦娘には専用の控室が用意されており、彼女達はそこで乗員達とは別に食事を摂るのだ。

そんな訳でさっさと食堂に向かった彼は、他の乗員達でごった返す中同じ班のWaveの後ろに並んで暫く待ったのち、トレイを受け取って空いた席を探し掛けると先程のWaveから声が掛かる。

「敷島、こっち来なさいよ!」

見るとそのテーブルはWaveばかりで、空いているのは端では無く彼女達の真っ只中だった。

 

(ええ……)

 

さすがにそれは遠慮したいと思ったものの、まさか本当に断わる訳にもいかない。

ここは一つ、肴になりに行くより他ないだろう。

そう腹を括った隼太は出来るだけ愛想よく返事をする。

「はい! ありがとうございます!」

そう言って思い切りよく席につくと、機先を制して

「いただきます!」

と挨拶して勢いよく食べ始める――が、そんな勢いだけで乗り切れる訳もなかった。

同じ班のWaveが箸を振りかざしながら尋問口調で話し掛けてくる。

「で、やっぱり敷島もあれなんだ、やっぱり成熟した女よりもロリッ娘が好きなのか?」

「えっ……」

「だって付き合ってんだよね? あの娘とさ」

虚を突かれた彼が絶句するその間隙をぬって、他班のWaveが突っ込んでくる。

「いや、その――」

「なーんだよぉ、素直に認めちまえばいいだろう?」

これに合わせてそうだそうだと他のWaveも騒めくのだが、彼としては当たり前の答えしか返し様が無い。

「いや確かにそうですけど――でも、自分は彼女と同級生で同い年なんですが……」

 

この言葉は、内容の平凡さに対してそのもたらした効果は絶大だった。

それ迄沸き立つ様な空気感に覆われていたその場が一瞬にして静まり返り、数秒間それが続いた後で彼女達全員が一斉に笑いを爆発させる。

「ダァッハッハッハ、違いない! 確かに違いないよ!」

「言われて見りゃそうだよ! お前はあの娘を追い掛けて来たんだもんな!」

「あたしらだって昔はロリだったんだからな! そりゃそうだ、ハハハ!」

もちろん彼も一緒になってここぞとばかりに大笑いして見せたのだが、実の所は彼を挟んで両側に座ったWaveが力任せにバンバン背中を張り飛ばすので、到底飯を食ってなどいられなかっただけだ。

実際その夜風呂場で確かめて見ると、背中一面が晩秋の紅葉よろしく真っ赤な手形だらけだったくらいだ。

言う迄もなくこの一角には食堂中の全ての視線が注がれていたが、彼女達はそんな事を毛の先程も気にする様子は無い。

「いや~、あたしらもすっかり勘違いしてたよ、せっかく生きのいい若いのが入って来たと思ったらまーたロリコンかよってウンザリしてたとこさ♪」

「全くだよね~、ここはやっぱり扱き倒して大人の女の魅力ってやつを徹底的に叩き込んでやるぜって気合入れてたんだぜこいつ♪」

「ちょっと待って下さいよ、あたし一人悪者すかぁ?」

 

(やれやれ、皆凄いよな……やっぱり男よりも女の方が強いんだな)

 

とにもかくにも隼太としては、ひたすら彼女達の勢いに上手く合わせながらこの場を乗り切るより仕方がない。

「まぁしかしさ、お前の彼女が五十田だってとこはまぁ好感度ちょっと高かったよ」

「え、そうなんですか?」

「ああそうさ、なかなか渋いチョイスするじゃねえかって話さ♪」

「渋い――ですか?」

「そりゃそうだろ、あたしらが知ってた男子共にしたって、みーんな可愛くて愛想の良い八方美人の娘に群がってたんだぜ?」

「そうそう、あたしらなんかは見向きもされねえのな♪」

「え、そんな事ないでしょう?」

一応気を遣って隼太がそうフォローすると、隣に座ったWaveがニタァ~っと笑うと肩に手を回し、

「何だよ嬉しい事言ってくれんじゃん♪ そんな可愛い事言われたら本気にしちまうぞぉ♪」

と冗談とも本気ともつかない様な事を言う。

 

(えっ……)

 

実の所この構図は諸にセクハラ行為ではあるのだが、彼としては十分受け流せる範囲の事ではあったし、それよりもどうすればこの場を無難に切り抜けられるのかの方が遥かに重要だった。

しかしそんな心配にかられていることなど全く頓着しない彼女達は、そのまま話し続ける。

「マジな話さ、艦娘は強いに越したことはないけど、あたしらにとってはそれだけって訳にはいかないんだよ」

「その、それはやっぱり――」

「そうだよ、こちとら只の人間だからね、戦って勝つ事よりもまずは生きて逃げ帰る事の方がずっと大事だろ? だから一秒でも早く敵を見つけてくれる事、そしてそれをいつ何時でも確実に同じ様にやってのけてくれる事の方がず―っと有難いってことさ」

「つまりあれですか、彼女がそれを一番確実にやれると……」

「そゆこと! お前の彼女が一番信用出来るってこった♪」

「そうなんですね――初めて知りました」

「なんだい、自分の彼女の癖に分かって無かったのかよ」

「いや、そう言う理由で好きになった訳じゃ無かったんで……」

「ハハハ、さすがにそりゃそうか♪」

「けどあれだな、可愛いとか美人だとか見た目にコロッとやられる連中に比べりゃ、お前はまだしも女を中身で見てるって事だ」

「そ、そういうもんですか――」

隼太がそう返し掛けたその瞬間だった。

「こらぁ! 貴様ら何時迄うだうだと油うっとるんだ! さっさと後番に席を譲らんか!」

厨房から顔を出した給養班長が大声で一喝すると、途端に彼女達は返事もそこそこに飯を掻き込み始める。

思わずホッとした彼もまた一緒になって勢いよく飯を口に放り込む。

 

(なんか――色々とありそうだな……)

 

一心不乱に箸と口を動かしながら、先程の班長の意味深な物言いの答えはこの辺にありそうだと感じていたが、ただ一点だけは全力で(無論、心の中だけではあるが)否定しておかなければならなかった。

 

(まるで穂波ちゃんが可愛くないみたいな言い方だけどさ、言っとくけどすげえ可愛いからね!)

 

 



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【第三章・第七節】

 結局その後も、訓練が終了するまで穂波は哨戒の主軸から外れることは無かった。

『うさ』が反転して帰路についたその途上では、プールから出て数百メートル程離れた海上で戦闘機動訓練が行われたのだが、訓練生である綾瀬の教導役を務めたのはまたもいぶきだった。

穂波はと言えば、相変わらず艦橋からの指示に応答して訓練の開始や終了をコントロールするものの、訓練そのものは全ていぶき任せで、自身は最初から最後までずっと哨戒態勢のままだった。

 

(穂波ちゃん、本当に哨戒担当なのか……)

 

そう思うと少々複雑な気分になる。

戦闘機動訓練に従事するいぶきは非常に生き生きとして見え、無線から響いてくる彼女の声も溌溂としていた。

ただ、同時に少々驚いたのは訓練生である綾瀬の落ち着き振りだ。

2人の遣り取りは逐一無線で支援班のもとに聞こえているし、それと共に海上を自在に駆け回る彼女達の姿を目で追う事が出来るため、それこそ何時迄でも見ていられる位に飽きないものだが、ずっと見ている内に細かな違いが分かり始めるようになる。

いぶきはとにかく行動が速く、穂波の指示が出ると同時に動き始めており、動きながら命令の復唱をしている程だが、それに対して綾瀬は復唱が終わるまで動き出さない。

しかし決してのんびりしている訳では無く、動き始めるとその動きには非常にキレがあって鋭くかつ正確だ。

一度などはいぶきが動き始めた後に綾瀬が指示に対して独自に確認を行った為に、教導役と訓練生が違う動きをしそうになった(さすがにいぶきが自身の機動を修正したが……)位だ。

思わずそれに見入っていた隼太は時間が経つのを全く忘れており、気が付くと訓練は終了していた。

3人が艤装を外して控室に引っ込んでしまうと、支援班は終了後のチェックと後始末に入る。

訓練中余りやる事が無かった彼にもたくさんの雑用が回ってきたが、どれも捌き切れない程ではなかった。

そうこうするうちに水平線の彼方に艦影が見え始め、間もなくそれが『あつた』である事が分かる様になる頃には前方に再び城ケ島を望むことが出来るようになり、航海の終わりが近付いているのを知らせてくれる。

 

「どうだ」

支援班全体が概ね待機状態になった所で、班長が何の前置きもなしに短い問いを投げ掛けてくる。

「はい! 初めて見る事ばかりでしたが、とても勉強になりました!」

「分かった分かった、その余所行きの返事はまぁともかくとしてだ、どう思ったんだ?」

さすがに一瞬躊躇ったのだが、班長には誤魔化しなど通用しないだろう。

正直でいるに越した事はなさそうだ。

「――指示や命令を確認する前から行動に移すのは良い事なんでしょうか?」

「戦闘中などで一瞬を争う様な時と場合にはな」

「つまり、それ以外は――」

「軍規に触れると迄は言わんが、まぁそういう事だ」

「そうですか……」

「それだけか?」

「その――なんて言って良いのか分かりませんが、経験と素質みたいなものが――どの位関係するんでしょうか?」

「ほう、面白い事を言うな。それを言うなら練度と適性だな」

「練度と適性ですか……」

「そうだ、貴様はどう思ったんだ?」

「練度と適性はどちらの影響がより大きいんでしょうか? 自分には良く分かりませんが」

「当たり前だ、今日いきなり貴様に分かられたら俺達は立つ瀬がないだろうが」

「あ、はい」

「だがな、教えておいてやろう。いいか、練度とは詰まるところ精度を上げることだ。しかし適性は違うものだ」

「違うものですか――」

「そうだ、練度に対して適性とは正確さを引き上げてくれるものだ。この二つは似ている様だが全く違うものだ」

「そうですか……」

「いいか、そいつが理解出来るまで黙って目を皿の様にして見ていろ。その内見えて来る筈だ。貴様が使いものになる奴ならな」

「はい、分かりました!」

隼太の返事を聞いた班長は例によってシニカルに口許を歪めて見せ、スタスタと歩み去る。

 

(なんか分かった様な分からない様な複雑な気分だよ、穂波ちゃん……)

 

彼女と2人切りで話す事が出来たらどれ程簡単だろうと思うが、少なくとも当分そんなチャンスは巡って来そうになかった。

 

 こうして最初の訓練航海兼日帰り哨戒は終わり、この日を皮切りに概ね1日おきの訓練航海が始まった。

班長の指示通り、彼は常に穴の空く程訓練の様子を見つめ続け、その合間に甲板上で発生するあらゆる雑用に駆け回り、そしてWave達の肴になり続けた。

その甲斐あってか、彼はまず『うさ』のWave達に仲間として受け入れられると共に、どうなる事かと思っていた男の兵士達からもどうやら受け入れられた様だ。

但しそれはかなり偏った事情からで、とある古参の海曹曰く『お前が来てくれたお陰で俺達への風当たりがおさまった』からだそうである。

 

(そんなに困ってたとは知らなかったな♪)

 

とは言うものの多少肚落ちするところはある。

隼太が直接面識のない『あつた』や『たかちほ』乗組みの艦娘達も含めて確かに皆可愛いことは認めるのだが、やや男達の関心は度が過ぎている様にも思える。

今のところ彼自身咎められてはいないものの、本来は艦娘との交際は原則として禁止されており、どれだけ男達がちやほやしたかろうが出来ない相談なのにも関わらずである。

しかも彼女達は実年齢に比較してかなり若い(幼い)外見をしているので、それこそ彼や清次の様な事情でも無い限りは少々特殊性癖と見られても仕方ないことも含めてなのだ。

そんな彼らのいささか行き過ぎた艦娘への関心は、同性であるWave達から見れば不愉快なのは間違いないだろうし、日常的な当たりがきつくなるのも止むを得ない様な気がする。

ただ幸いにも彼女達はその憤懣を艦娘達にぶつける様な理不尽な事はしていないため、これ迄のところ穂波達がとばっちりをくらった様な実害は発生していないようだ。

兎にも角にも無事に『うさ』の一員として認められた事で、彼はより穂波らの訓練にのめり込める様になった。

それと同時に清次や箕田、河勝を通じて、白石らや他の艦娘達の様子についても情報が入って来る様になり、少しずつだが教育隊付属艦隊の全体像が見えて来るようになった。

『かすが』所属の白石と村越(但し『うさ』とは違って駆逐艦『白雪』『叢雲』呼びされる事が多いそうだ)は、穂波といぶきとは違って哨戒も教導もほとんど平等らしい。

清次曰く2人の訓練振りに目に見える程の差はなく、僅かに白石の方が教導が上手い様に見える程度だそうだが、誤差範囲の様にも思うとも言っている。

箕田が乗組む『あつた』所属の艦娘は初雪と深雪だが、この2人はどうやら穂波といぶきの様にはっきりタイプが異なるらしく、哨戒に専念する事が多い初雪と教導を務める深雪とに分かれていると言う。

穂波達と少々違うのは、能力や適性の違いというより初雪と深雪の性格の相違による所が大きそうだというのが箕田の感想だ。

そして一番不満たらたらな河勝が配属された『たかちほ』に所属しているのが浦波と薄雲だ。

この2人は仲も良くチームワークも良好と聞こえてくるが、河勝に言わせると『見た目おもきし田舎の子やで?』だそうである。

もちろん実際の年齢が見た目通りで無いのは彼女達も同じなのだが、外見が余りに素朴過ぎて彼のストライクゾーンには全く掠りもしないらしい。

 

(そもそもストライクゾーンだとしたってどう仕様もないだろ!)

 

河勝は穂波といぶきを追いかけてきた隼太や清次を事ある毎に揶揄している位なのだから、もとより交際が禁じられている艦娘達が幼くても何の関係もないだろうに、結局のところ彼もまた少なからず艦娘に個人的な関心があるという事なのだろう。

 

(まぁ、特殊な能力で戦う女性って考えれば、結局男が関心持つのは仕方ないのかな)

 

彼にとっては艦娘の入口がいきなり穂波なので、基本的に河勝らとは彼女達に対する意識が違い過ぎて何とも言えないが、おそらくはそうなのだろうと思う。

しかしそんな関心の高さとはまるで反比例するかの様に、海軍が彼女達の処遇その他に大変な注意を払っているのをひしひしと感じる。

なにせ隼太達の様な一般の兵員は、ある程度配属の希望を聞いて貰えるとは言っても、いざ配属されてしまえばどんな仕事をするのも全て命令通りにするのが当たり前だ。

それに比べれば、穂波達は適性はもちろん性格の違い迄配慮されて任務に当たっている。

更に言うなら、班長の言葉を借りれば軍規に抵触する程では無いとはいえ、多少問題のある行動であっても見逃がされる位に気を使われているのを見ても、軍がいかに艦娘達を重要視しているか良く分かるというものだろう。

 

(なんか、今更だけど納得したよ穂波ちゃん)

 

軍に入隊するまでの数年間、彼は一般人として艦娘に特別な関心を寄せてきた積もりだったが、ごく普通のニュースメディアなどで彼女達の実際の姿を目にした事など数える程しかなかった。

そのうえ穂波と連絡を取りあう事すらさせて貰えなかったのは、全て海軍が彼女達の取り扱いに極めて神経質になっていた結果だったのだ。

斯波中で過ごした遠いあの日、担任の教師が言った言葉を思い出す。

『艦娘のなり手がおらん様になったら、じきに船を出す事すら出来ん様になってしまう』

この言葉がどこ迄真実なのかは分からないが、少なくとも海軍はそう考えている。

穂波達は海軍の――いや、日本にとっての虎の子であり命綱なのだ。

 

(何だかちょっと雲の上の存在みたいに思っちゃうよ……でも、例えそうだとしても俺はその雲の上迄追い掛けていくからね)

 

それは、配属された最初のひと月弱の内に隼太が感じ取り、そして同時に決意したことだった。

 

 



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【第三章・第八節】

 配属後一ヶ月が経過したが、相変わらず彼は雑用に駆け回りながら穂波といぶき、そして綾瀬ら候補生達の哨戒訓練をひたすら見つめ続けている。

そして何となく班長の言った事が少し分かり掛けて来たと感じていた矢先に、それを更に決定的にする出来事があった。

 

 その朝、隼太が離岸準備のために岸壁にやって来ると、班長が久し振りにしかめ面で腕組みをしている。

「お早うございます!」

こういう雰囲気の時は、逆に少し大袈裟に挨拶をする等して班長の肚の内を推し量るやり方を身に付けつつある彼はそれを実践したものの、その反応は予想外のものだった。

「貴様、オリジナルの艤装を見た事はあるか?」

「はい! 教育期間中に実物教育を受けましたし、坂巻三曹のお手伝いとして大井殿の34式特殊戦闘装備のバッテリー交換をしました!」

もちろん偶然なのだが、先週の在港勤務日に坂巻から頼まれて箕田と共に手伝いをしたのだ。

「よし、ならば今日は貴様の雑用は免除してやる。お前には今日一日接待係を命じる」

「接待係――ですか?」

「そうだ、それも我が教育隊付属艦隊一の美人のだぞ、光栄に思え」

 

(えっ……)

 

もうこの瞬間に嫌な予感がしていたのだが、残念な事にその予感は1ミリ足りとも外れてはくれない。

舷梯の前で待つこと暫し、例によってと言うべきか否か何故か坂巻三曹を従えて悠然と現れたのは大井だった。

「お早うございます! お待ちしておりました!」

「別に、そんな心にもない事言わなくてもいいのよ?」

いきなり辛辣な言葉を投げつけられるが、かつて村越に鍛えられていた隼太にとっては十分にスルー可能な範囲だ。

「敷島と申します、本日はよろしくお願い致します!」

「はいはい良く分かってるわよ。勤務中に鼻の下伸ばしてたりしたら承知しないわよ」

「申し訳ない敷島君、今日は宜しく頼むよ」

横合いから坂巻がフォローしてくれるが、それがまた大井は気にいらないらしい。

「あんたが申し訳ながる事なんて何もないでしょ⁈ 学校か何かじゃあるまいしちゃんと命令しなさいよ!」

「命令ならもう彼の上官がしてますよ、僕はただ彼に妙な言い掛かりをつけるのは――」

「言い掛かりじゃ無くて注意してるんでしょ⁈ あんたこそあたしに言い掛かりつける気なの⁈」

これは危険だと思った隼太は、思い切って割って入る事にする。

「大井殿、こちらではなんですからひとまず控室でお休み下さい! 坂巻殿! 戦闘装備を受領致します!」

数秒間の沈黙が流れた後、はぁっと軽く溜め息を吐いた大井が、

「ええ、そうさせて貰うわね。それとあたしに『殿』はやめてちょうだい、分かったわね」

と言い捨ててスタスタと舷梯を渡っていく。

残された彼らは顔を見合わせて思わず苦笑する。

「これが彼女の艤装だ、よろしく頼むよ。それと『大井さん』でいいからね」

「はい! 承知致しました」

敬礼を交わして、カラカラと台車を押しながら去って行く坂巻を見送ると、改めて大井の艤装をプール脇のスタンバイボックスへ運び込む。

オリジナル用の艤装は艦娘用とは全く違い、ランドセルよりもまだ小さいうえにバッテリーを含めても10kg前後しかない。

しかもこれだけ小さく軽いのに戦闘継続時間は4~5時間かそれ以上にも達するのだから、艦娘との差は歴然としていた。

そんな事を考えながら顔を上げると、穂波といぶき、それに綾瀬が珍しく3人一緒に現れる。

何時もの様に挨拶しながら乗船して来た3人は、隼太の姿を認めると真っ直ぐに近付いてきたので、彼もまた歩み寄ってサッと敬礼する。

「大井さん、もう来てる?」

「はい! 控室に入っておられます」

班長の注意を守って他人行儀な応答をする彼に軽く含み笑いをして見せたいぶきだったが、穂波らを顧みると互いに小さく頷きあって迷わず控室に向かう。

 

(やっぱり挨拶に行くんだ――まぁ仕方無いよなぁ)

 

何様班長からして敬遠する位なのだから、おそらく直接指導を受ける彼女達が緊張するのは当然かも知れない。

その点新米として特に失うものがない隼太は、オリジナルの実際の機動を見るのは初めての事でもあるので、どちらかと言うと興味の方が優っていた。

 

「いい⁈ 余計な事なんか考えてる間に敵はあんた達の息の根を止めに来るのよ⁈ もっと集中しなさい!」

「はい!」

道中の哨戒訓練から既に大井のパワーは全開だった。

繰り返しにはなるがあくまでもこれは訓練であり、実際に深海棲艦の接近やその予兆である不審な音源を探知している訳では無い。

とは言うものの、この付近の海域では海流の影響なのか所謂境界面反射が起こり易い他、鯨などの生物による音源もかなり頻繁に探知される様で、彼女はそれを穂波達がいかに正確に捉えているのかもチェックしている。

「2時方向、距離概ね5,000以上に不審音源あり、おそらく境界面反射と思われます!」

「それで?」

「えっ?」

「だ・か・ら・そ・れ・で?」

「いえ、その……」

「全く……五十田さん、あなたはどう?」

「あ、はい。8時方向、距離概ね8,000以上にごく微弱な不審音源あり、こちらは海洋生物の可能性があります」

「距離はもう少し近いわね、もっと注意深く判定しなさい。必要なら複数で確認するのは常識でしょ?」

「はい、注意します」

「吹輪さん、あなたもっと真面目にやりなさい! これが敵なら船ごと全員心中してる所よ? 分かってるの?」

「はい、申し訳ありません!」

「それじゃ、もう一回最初から全員でおさらいよ、はじめ!」

「はい!」

 

(なんか、見てるだけで疲れてくるな~)

 

今は穂波といぶき、それに綾瀬の3人に加えて大井もプールに立っているのだが、3人が通常と同じ様に手摺を掴んでいるのに対して、大井は何も掴まらずに腕組みをしたまま器用に同じ立ち位置を維持している。

 

(大したもんだな……)

 

艦は定速で航行しているとは言え、その速度も進路も厳密に一定な訳では無いはずなのに、彼女はほとんど微動だにしていないのだ。

しかもその状態のままほぼ完璧に周囲を監視しつつ水測もしながら穂波達を叱り飛ばしているのだから、ちょっと次元が違っている。

そうこうしている内に昼食の時間が近づいて来たので隼太は一足早く食堂に走り、給養班長から直々に大井の食膳を受け取って控え室に運ぶ。

しかし意外だったのは、彼女の食事は特別食でも何でもなく他の乗員と全く同じメニューだった事だ(但し、隼太達が受け取る様な雑な盛り付けではなく、班長自らの手による芸術的とも言える盛り付けだったが)。

そして食事の用意が出来た事を伝え様とプールに戻り掛けると、彼女はそれを見計らっていたものか、隼太が口を開くより早く声を上げる。

「それじゃ午前の訓練はここ迄にするわよ! 午後の機動訓練は全員一通りやるからその積もりでいなさい!」

「はい!」

三人が声を揃えて返事をすると、大井は自ら艤装の着脱操作をしながら滑る様に斜め横に移動し、そこで待ち構えていたWaveに背中を向けて艤装を外してもらう。

艤装が軽いのもさる事ながら、オリジナルである彼女は艤装無しでも平然と海面に立っていられるのでこんなことが可能なのだ。

そのまま海面とデッキの境界など何も無いかの様にスタスタとプールから上がって来た大井は、支援班の面々に軽く声を掛けておいてからこちらに向かって歩み寄ってくる。

隼太は先にたって控え室の水密扉を開けると、その傍らに立って口上を述べる。

「お疲れ様でした! お食事の用意が出来ておりますのでお召し上がり下さい!」

「ええ、有難う」

厭味の一つも言われるのだろうかと構えていたのだが、以外にあっさりとした反応に少々拍子抜けしてしまう。

「他に何かご入用でしたらお申し付けください!」

「そうねぇ、じゃ北上さんをお願いできるかしら?」

「えっ――」

「なによ、ご入用なものを申し付けていいんじゃなかったの?」

「申し訳ありません! それはご用意出来兼ねます……」

「なぁんだ、せっかく北上さんとお喋りしながらお昼に出来るかと思ったのにがっかりだわ」

冗談なのか本気なのか判断に悩むことを言いながら控え室の椅子に腰を下ろした大井は、用意されたナフキンで手を拭う。

ひとまず退散しようと扉に手を掛けた隼太だったが、次の瞬間彼女が口にしたことで思わず面食らってしまう。

「それじゃ、到底北上さんの代わりにはならないけど、あんたが話し相手になってくれるかしら?」

「じ、自分がですか?」

「そうよ、何でもいいけど扉くらい閉めなさい、ちゃんと教育受けてるんでしょ?」

「は、はい!」

言うまでもなく規則だから閉めはするが、彼としては出来ることなら中からではなく外から閉めたかった。

室内で大井と二人切りになってしまうだけでなく、話し相手になれ等と言われた日には緊張で胃がどうにかなりそうだ。

だが、そんな事には全く頓着すること無く彼女は食事に箸をつけながら平然と口火を切る。

「あんた、あの子達と同じ村で育ったのよね」

「はい」

「なぜ五十田さんを好きになったの? 他の子じゃなくて」

「――何故かは自分でも分かりません。でも――」

「でも、なに?」

「4人の中から選んだ訳じゃありません。自分には彼女しか見えていませんでした」

「そう……そういうものなのね」

「あ、はい……」

 

しばらく沈黙が続いた後、再び彼女が口を開く。

「好きになった子をこんな風に軍まで追い掛けて来るのって普通な事なの?」

「――よくは分かりません――でも、普通にある事じゃないかも知れません」

「多分そうよね――幾ら好きでも、命と引き換えて迄そうするのって普通じゃないわよね」

「で、ですがその――」

「なあに? あんたはそうじゃないって言いたいの?」

「そう言う訳ではありません! しかしその、ただ死ぬ積もりで来た訳では――」

途端に彼女はフンと嘲るような鼻息で彼の言葉を遮る。

「何を甘ったれた事言ってるのかしら? 命が保証されてる戦場なんてこの世の何処にあるの?」

「そ、それは……」

「それともあんた、ひょっとして気合だの根性だので弾が止められるの? 魚雷が止められるの? そんな凄いこと出来ちゃう彼氏だなんて五十田さんも幸せ者ね♪」

「――いえ、そんな事は出来ません……」

「そんなの当たり前でしょ! いい? 人間は弾に中ったら死ぬのよ? あんたがどんなに嫌だと言っても、五十田さんだろうが他の誰かだろうが弾に中れば死ぬの! あんたの目の前でね。あんた、その時どうする積もりなの?」

「――自分は――その……生きるも死ぬも彼女と一緒だと覚悟してきた積もりです、ですから――」

「後を追って死にますって?」

「……」

大井が吐き捨てるようにそう言ったので、思わず口篭ってしまう。

これに較べれば、あれほど辛辣に思えた村越の言葉は遥かに優しさに満ちたものだったとしか言いようが無い。

そしてまた沈黙が流れるが、黙って突っ立っている隼太とは違い、彼女は当たり前の様に食事を続けている。

よくもこんなトゲトゲした空気の中で普通に食事が出来るものだと感心してしまう。

「じゃあ聞くけど、あんたがもし戦死したら、やっぱりあの子に後を追って死んで欲しいと思うわけ?」

 

(あっ……)

 

そんな訳など無かった。

彼にどんな事があろうと穂波には生き延びて欲しい。

生きて彼の分まで人生を全うして欲しい、深く考える迄も無くそう思える。

「いえ、そうは思いません」

彼がそう答えると、先程とは少々ニュアンスの異なる『フン』で応じた大井は、やれやれといった調子で話し始める。

「あんたたち人間には命は一つしか無いのよね。そのたった一つの命を誰かの為に使いたいと思うのは仕方無いけど、自分の為にたった一つの命を捨てて欲しいと思う人間ってどれだけ居るのかしら?」

「その――多分ほとんど居ないんじゃないでしょうか……」

「そう思うんだったらもう少し真剣に考えなさい? 命の安売りなんかしたって誰も喜ばないわよ」

「あ、はい!」

隼太の返事に満足したのか、彼女は残り少なくなった食事の残りを優雅に平らげてしまうと、先程のナフキンできちんと口元を拭っておいてから宣言する。

「どうもご馳走様、後片付けお願いね」

「まことにお粗末さまでした!」

「食事はそうでもなかったわよ、でもお喋りの方が随分お粗末だったわね」

「も、申し訳ありません……」

「あ~あ、早く帰って北上さんとゆっくりお話したいわ、あんたも余計な手間掛けさせない様にちゃんと協力しなさいよ?」

「努力致します!」

そう言いながらドアを開けると、大井は再び悠然と控え室を出て行く。

残された彼は、溜息を吐きながら食事の後片付けに掛かった。

 

 



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【第三章・第九節】

「ちょっと! 無駄な動きが多過ぎるわよ⁉ 一体どこ迄行く積もりなの⁉」

「はい!」

「さっきから返事ばっかりでちっとも実行が伴わないじゃない! ただ闇雲に駆け回れば良いってもんじゃ無いわよ⁉ 分かってるの?」

「はい!」

「ほらまた言ってる傍から! なんでそう雑な事しか出来無いのかしら⁉」

「申し訳ありません!」

 

(だ、ダメだ、もう見てられないよ……)

 

昼食前に宣言した通り、哨戒コースの折り返し点を過ぎてからの戦闘機動訓練は、大井といぶき達のマンツーマン形式で開始されていた。

最初に選ばれたのは候補生の綾瀬だったが、大井は彼女に対してかなり手厳しい指摘をしたものの、物言いは意外な程穏やかだった。

普段の訓練を見ていた隼太はあれ程綾瀬の動きに切れの良さを感じていたのに、確かに大井が指摘した通り、彼女と一緒に戦闘機動をしているのを見ると話しにならない程ギクシャクとしてスムーズさに欠けて見える。

 

(やっぱり桁違いなんだな――オリジナルって凄いんだなぁ)

 

特に違いを感じるのは動きの制御だ。

高速で移動している場面から急減速して出来るだけ小さな旋回半径で回頭する様な挙動をすると、同じ位の速度に迄落ちている筈なのに大井の旋回半径は綾瀬の半分程しかなく、しかも立ち上がりの加速は段違いだ。

そのうえ、綾瀬は強い遠心力を出来るだけ吸収する為に非常に大きな動作で体を傾けており、立ち上がりに元の姿勢を取り戻す迄にどうしても一瞬の間が空くのに対して、同じ挙動をしている大井は相変わらず胸の前で軽く腕組みをしたままで、流れる様に姿勢を変えつつも彼女達に対して指示を飛ばし続けている。

とにかくその異次元の動きに見とれていた隼太は、綾瀬と交代したいぶきの訓練も同じ様に見ていられるものと安易に思い込んでいたのだ。

 

「謝ってる暇があるんだったらもう少し動きを修正しなさい! あなたの体じゃないの⁉」

「はい、分かりました!」

「って、ちっとも分かって無いじゃない! 速度を落としすぎよ! 中てて下さいってお願いしてる積もりなの⁉」

「すみません!」

 

(頼むよ、早く終わってくれ……)

 

綾瀬の時とは打って変わって、一体いぶきの何が憎いのかと疑いたくなる程大井の言葉は辛辣だった。

確かに普段から彼女はややオーバーアクション気味だとは感じていたが、それでも綾瀬と並んで動いている時のいぶきは非常に豪快で勢いを感じさせてくれた。

班長の言った『練度と適性』を常に考える様になっていた隼太にとって、いぶきの戦闘機動は明らかに『適性』を感じさせてくれるものだった筈だ。

実際、清次や箕田達が仕入れて来た噂話や同僚のWave達の評判などを聞いている限りでも、どうやらいぶきは艦娘の適性が高いらしく、穂波達4人の中では最も高い能力値を叩き出している(ただ、それらのデータを知る事が出来るのは厳格に士官以上に限定されていたので、実際には確認出来無いのだが)様なのだ。

にも関わらず、今目の前でいぶきは大井にこれでもかと言うほどに罵倒されまくっている。

しかも何が辛いと言って、大井はただ罵倒している訳ではなくその指摘がほぼ全て的を射ているのだ。

 

(でも――そりゃ大井さんと比較したら、幾らなんでも酷だよ……)

 

彼女の完璧な迄に制御された機動と並べてしまえば、いぶきが見劣りしてしまうのは如何し様も無いのではないか。

隼太の目には、大井が余りにも高い次元を求め過ぎており、そのためにいぶきに対して半ばいじめにも等しい事をやっている様に見えてならない。

そんな訳で、先程からこの耐え難い時間が一刻も早く終わって欲しいとひたすら祈り続けていた。

 

「時間も限られてるんだからこの位にしとくわよ! 今言ったこと、忘れないで一つ一つ直していくのよ、分かった⁉」

「はい、分かりました! 有難うございます!」

 

(やっとだ――やっと終わった……)

 

ホッとした次の瞬間、彼は自分の馬鹿さ加減に途方にくれる。

「それじゃ最後、五十田さんよ!」

「はい! よろしくお願いします」

 

(――――あ、当たり前だろ! 何油断してんだよ俺! ああ――バカだバカだ――俺は大バカだ……)

 

普段、穂波が機動訓練に参加しない事に慣れ切っていた彼は、ちゃんと昼前に大井が『全員一通り』と宣言していたのを完全に忘れていた。

 

(どうしよう――もし穂波ちゃんがあんな風に苛め倒されたら――最後まで我慢出来るのかよ俺は⁉)

 

緊張の余り体が震え出しそうだ――いや、本当に震えていたのかも知れない。

そうでなければ、こんな風に声が掛かる事など無かっただろう。

「そんなに心配すんなって♪」

「えっ――」

 

最初の日に彼にセクハラ行為を働いたあのWaveから声が掛かり、反射的に顧みた彼に向かってニヤッと笑ってみせる。

「お前の彼女なんだろ? ちったぁ信用してやんなよ」

「あ、はい……」

 

取り敢えずそう返事はしたものの安心出来る筈も無く、両手を硬く握り締めたまま、固唾を呑んで来るべき怖ろしい光景を待ち構えるばかりだった。

 

ところが――である。

 

「だめよ、もう少しブレを抑えなさい!」

「はい!」

「そこは滑らかさを意識し過ぎだわ、もっとメリハリを付けなさい!」

「はい!」

「急減速し過ぎよ、射撃姿勢を崩さない様に加減して!」

「はい!」

 

(あれ……何だか……)

 

大井の厳しい物言いは相変わらずなのだが、明らかに指示の内容が違っている。

いぶきに対しては徹底的にダメ出しをし続けていたのに、穂波に対してはかなり具体的な指導が多く、頭ごなしの否定がほとんど無い。

 

(さっきとは随分違うぞ? 一体……)

 

だが、間もなくその自問も必要のないものになって来る。

そんな事は考える迄も無く、穂波の機動を見ているだけでどんどんその理由が分かって来たからだ。

緊張から解放された落ち着いた目で見ていると、穂波の動きは綾瀬ともいぶきとも明らかに違っていた。

2人に較べれば派手さの全く無い地味な動きの様に見えていたが、次第にそれが極めて無駄の無い合理的な機動である事に気付き始める。

 

(どうしてだろう、安心して見てられるよ穂波ちゃん……)

 

大井から指示が出る度にそれを一言一句間違いなく復唱し、1ミリの無駄も無く指示通りの機動をこなしていく穂波は、何と言うのだろうか抜群の安定感を感じさせる。

「そうよ、そこはもっと一気に加速していいわ、思い切ってやりなさい」

「はい!」

「前回注意した様に修正出来てるわね、後もう少し蛇行を抑えるのよ」

「はい!」

 

(すごい――凄いよ穂波ちゃん!)

 

もちろん大井の完璧な迄の機動とは比較にならないものの、穂波は急な機動の際にも余り姿勢が崩れず、急減速急旋回といったどうしても負荷の掛かりそうな挙動も小さく纏めている。

手足がバタつかず無駄な体重移動が無いからなのか、うっかりするとまるでフィギュアスケート選手の演技を見ている様な錯覚に陥りそうだ。

 

「な♪ だから言っただろ」

「あ、はい!」

 

先程のWaveが心なしかドヤ顔でそう言うのに対して、今度は隼太も余裕を持って応える事が出来た。

 

「あたしらはさ、航海が無い時の閉水路訓練も見てるからね。それを見てりゃ一目瞭然さ、お前の彼女は本当に頭が下がるくらい訓練にゃ熱心だよ。大したもんだ」

「そうだったんですね……」

 

教育隊の岸壁の横には護岸で仕切られた訓連用の閉水路が設けられているが、その周囲は全て目の細かなネット状の仕切によって外から目隠しされており、特別な際でない限りは基本的に男子禁制のゾーンである。

航海が無い日にはしばしばここで自主的な訓練を行なう事が認められており、その際にはWave達は在港時点検よりもこちらのサポートが優先とされていた。

穂波もまた以前は大井から罵倒紛いの指導をされていたかも知れないが、それらを次第に訓練の中で吸収し、克服していったのだろうか。

大井の言葉尻からは、そこはかとなくその過程が読み取れるように感じる。

 

「それじゃあ、この辺でお開きにしましょ。五十田さん、今日注意した所、次回また見せて貰うわよ」

「分かりました、どうも有り難うございました!」

 

思わず穂波に向かって拍手したくなるのを必死で我慢した隼太は、再び優雅に艤装を外して歩いて来る大井を敬礼しながら迎える。

「お疲れ様でした! 控え室でお休み下さい」

「はいはい、言われなくてもそうするわよ、それと――」

「はい、何でしょうか?」

「鼻の下伸ばすなって注意したわよね⁉」

「えっ――」

つい咄嗟に顔に手をやってしまう彼を流し見た大井は、如何にも仕方ないヤツと言った風情で溜息を吐き、

「下らない事でいちいち一喜一憂してるんじゃないわよ! あんたはもっと必死にならないとあの娘に一生追いつけないわよ⁉」

「はい、分かりました!」

「全く――何が分かったのかしらね」

そう言い捨てて彼女は控え室に消え、今度は話し相手になれと言われずに済んだ彼は、外からそっと扉を閉める。

色々とホッとしながら改めてプールの方を見やると、先程徹底的に罵倒されたいぶきがいつも通り明るく朗らかに振舞っているのを見て感心してしまう。

 

(いぶきちゃん、凄い強メンタルだな~。俺だったらもうどん底になってるよ……)

 

穂波もまたいつも通り淡々と振舞っているが、綾瀬は何やら少々落ち込んでいる様にも見える。

大井から指摘された事が応えたのだろうか、そこ迄キツく言われていた様にも感じなかったのだが……。

そうこうするうちに、間もなくいつも通りに「うさ」は「あつた」とランデブーして隊に帰投する。

隼太が控室の脇で待機していると、穂波ら3人がやって来て同じ様に控える。

そのタイミングを計っていたかの様にハンドルが動くので、そっと扉を引き開けると物憂げな大井が姿を見せる。

「お疲れ様でした! 下船準備完了しております」

「いつも思うんだけど、途中で下りて自分の足で帰った方がずっと早いのよね」

「申し訳ありませんが、どうかそれはお控え下さい!」

「そんなの判ってるわよ、だからちゃんと大人しく待ってるでしょ」

「はい! 有難うございます」

そう馬鹿正直に応じると、彼女はこれ見よがしにハァッと溜息を吐く。

 

「大井さん、本日はご指導有難うございました!」

 

その間隙を縫う様に、一瞬出来た空白を捉えて3人が声を揃える。

「ええ、あなた達もお疲れ様」

先程の訓練で言うべき事は言い尽くしてしまったのだろうか、大井は淡白にそれだけを返し、さっさと岸壁に渡された舷梯に向かって歩き出すので隼太も彼女の艤装を抱えて後に続く。

岸壁では既に坂巻が台車の傍らに立って待ち受けており、さながら大井の当番兵か何かの様だ。

「大井さん、お疲れ様でした」

彼がサッと敬礼しながら声を掛けたにも関わらず、大井は見事な迄に全く無視してその脇を通り過ぎ、真っ直ぐに『あつた』に掛けられた舷梯に向かう。

 

「お疲れさんだねぇ~、大井っち~」

例によって緊張感の無い調子で声を掛けながら北上が下船して来る。

「北上さん! 北上さんこそ本当にお疲れ様だわ、何事も無かったかしら?」

「いや~変わった事は無かったよ~、ただちょっと艤装外す時にしくじっちゃってね~」

「どうしたの! まさか怪我でもしたのかしら⁉」

そう言って血相を変えた大井は『あつた』の班員達に向かって金切り声をあげる。

「あんた達! 北上さんに怪我なんかさせてどういう積もりなの⁉ 班長を出しなさい、班長を!」

「ちょっと大袈裟だよ大井っち~、ほんのちょっと擦り剥いただけだしさぁ~」

「程度の問題じゃ無いわ! 北上さんに怪我をさせて知らん顔してる事が問題なのよ!」

「まぁそんなに目くじら立てないでさぁ~、それにあたし、結構お腹空いてんだよね~」

「ああ、御免なさいねあたしったら――あんた達! 感謝しなさいよ⁈ じゃあ行きましょ、本当にお疲れ様♪」

「それじゃみんな、お疲れさんでした~」

軽く『あつた』を振り返って声を掛けた北上は、舷梯の脇で少々蒼褪めた顔で直立不動の箕田に向かって軽くウィンクして見せる。

その瞬間彼はホッとした様な顔になり、その場に崩れ落ちそうになるが、何とか持ち堪えると北上の艤装を載せた台車をガラガラと押し始める。

 

(あいつも接待係だったんだな♪ まぁでも北上さんだしなぁ)

 

いつものほほんとしてマイペースな彼女は概ね一般兵達に対しても鷹揚であり、そのコケティッシュな容姿も相まって隊内では人気がある。

何より彼女は『艦娘』なので、隼太達と同じ人間である事もあって大井の様に恐れられたり腫物に触る様な扱いはされていない。

そんな事を考えていた隼太に、坂巻が声を掛けてくれる。

「一日中付きっ切りでお疲れさんでした」

「あ、いえ! とても勉強になりました、有難うございます!」

そう言って彼が押して来た台車に大井の艤装を置き、立ち上がってサッと敬礼すると彼もまた答礼する。

「彼女は真剣だっただろう?」

「はい! 少し怖ろしい位でした」

そう応じると坂巻は笑顔になり、

「僕もまだ怖いよ、大分慣れたけどね♪」

と言い残すとくるりと背を向けて、そのまま朝と同じ様にカラカラと台車を押しながら去って行く。

 

(なんか不思議な関係だな……)

 

配属初日のあの『しもべ』呼ばわりの印象が強烈な彼にとっては、坂巻がそれに対して特段の不満を示す様子のない事が理解出来ずにいる。

 

「敷島! 何ボサッとしとる、まだ仕事は終わっとらんぞ!」

デッキから班長の怒鳴り声が響く。

「はい!」

大声で返事をしながら、隼太はデッキに駆け戻った。

 

 



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【第三章・第十節】

 翌朝、在港時点検の為に何時もの様に出頭した隼太は早速雑用に精を出すが、幾許もしない内に班長から声が掛かる。

「貴様、昨日は勉強になったそうだがどうだ、本当に勉強になったか?」

「はい!」

「ほう、一体どんな事が分かったんだ?」

「はい、その――自分には練度と適性だけでは説明出来ないことがあるという事が分かりました」

彼がそう答えると、班長は例によって口元を歪めて見せる(くどい様だが多分ニヤリと笑っている積もりなのだろう)とさも面白そうに言葉を繋ぐ。

「成程な、貴様も思ったよりは飲み込めて来た様だな。だが、まだ大事な点を見逃がしているぞ」

「大事な点――どんな事でしょうか?」

「貴様は説明出来ない事があると言ったが、練度と適性でちゃんと説明が付くんだ、残念ながらな」

「えっ――でもお言葉ですが――」

「適性が高い筈なのに何故機動に問題があるのか説明出来ない――と言いたいのか?」

「問題があると迄は思っていませんが――」

「そら分かっとる、端的にそう言った迄だ」

「あ、はい……」

「フン――いいか、貴様が言っているのは艦娘としての適性と練度の話だ、しかし軍人としてはどうだ?」

「あっ! ……」

 

思わず隼太が声を上げると班長は一つ咳払いをして腕組みをし、水平線を見詰めながら改めて口を開く。

「貴様の同級生達4人の中で艦娘としての適性が最も高いのは、貴様も知っての通り吹輪だ。練度も決して高いとは言えんがまぁ標準的なレベルだろう。それに対して白石、村越、五十田はやや適性は低いが練度は高い、どうしてか分かるか?」

「その――訓練の熱心さとかでしょうか?」

「そんな事位で差がつく程、貴様が知っている吹輪は不真面目な奴だったのか?」

「――いえ、違います……」

「まぁ当たり前の事だ。そんなにサボったり手抜きをする奴が生き残れる程実戦は甘くない。事実、実戦で吹輪は敵を撃沈するなどしてちゃんと戦果も上げとる。しかしな、現実には練度の差が少しずつだが見えて来とるんだ」

「それが――軍人としての適性によるんですか」

「そうだ、昨日貴様もその一端を見たんじゃないのか?」

「――自信はありませんが――見たと思います。凄い強メンタルだなと感じましたから」

「吹輪が本当にメンタルが強いのかどうか、俺は専門家ではないので分からん。だがな、あの性格があるからこそ精神的に追い詰められても高い能力を発揮出来るとも言えるが、逆に言えばその所為で反省や葛藤から何かを掴み取って己の糧としていく力が弱いとも言える」

「では彼女は――」

「そうだな、今のままではもう伸び代がほとんど無いだろうな」

「――やはりその――大井さんはそれを分かっているからなんでしょうか?」

「それは俺にも分からんな。ただ、五十田などと指導の仕方を変えている辺りを見ていると、わざと過剰な接し方をする事で本人に気付かせ様としているのかも知れんし、そんな事は考えとらんかも知れん」

「……」

「ただな、一つ確実に言える事は、最初は皆厳しく指導されて涙を流していたんだ。だがその段階を高い適性によって乗り切った者と、歯を食いしばってひたすら練度を高めて乗り切った者とが居たという事だ」

「では、他の3人は――これからも更に練度を高めて行けるんでしょうか?」

「自ずと限度はあるがな、それ位は貴様も想像が付くだろう?」

「はい、何となくですが……」

「前にも言った通り、練度は所詮精度を高めてくれるものに過ぎん。10発撃って3発当てる能力のある奴が、どんな時でも確実に3発当てられる様になるだけであって、それが5発も6発も当てられる様になる訳じゃ無い。だからあいつらが元々持っている適性からくる能力以上に強くなることは無理な話だ」

「それが正確さですか」

「そうだ、それこそが適性がもたらしてくれる恩恵だ」

「そう言う事ですか、それ程の恩恵があるのにそれを十分に生かせないとしたら――」

隼太がそう言い掛けると、班長は腕組みをしたままこちらを顧みて(今度ははっきりと)ニヤリと笑って見せる。

「どうだ? 貴様らが一体何を期待されているのか少しは見当がついたか?」

 

(――そうか――そう言う事なのか……)

 

やはり配慮はあったのだ。

無論、配慮されたのはあくまでも貴重な戦力である艦娘を有効に活用する為であって、彼らの個人的な感情のためでは無かったが……。

 

「我が付属艦隊に所属している艦娘は『うさ』『かすが』『あつた』『たかちほ』に各2人ずつの8人だが、その半分が貴様の村の出身な訳だ。残る4人の内2人も貴様らの村の近隣の出身者だ。東北のあの辺りに一体何があるのかは知らんが、貴様の姪達の様にこれからも同郷の候補者は出て来るんだろう。貴様らの様な同郷の兵士を工夫して運用すれば、決して潤沢とは言えん戦力をより活かす事が期待出来るかも知れんのだから、試して見ようというのはごく自然な事だ。そうは思わんか?」

「はい、そう思います」

その返事を聞いた班長は再び水平線を睨み付けるとフンと鼻息を漏らす。

「いいか、最初に注意した事は勿論忘れてはならん、しかし貴様に期待されている事は彼女らとのコミュニケーションでもある。どうにかしてそいつを両立させろ、分かったか?」

「はい、やって見ます!」

「見ますでは無い、やれ!」

「はい!」

「明日からはコンソール係の横に付いて、何をやっとるのか全部頭に叩き込め。特別に1週間やろう」

「あっ、有難うございます……」

「そりゃあそうだろう、俺は優しいからな」

それは班長にとって格別に気の利いたジョークだったのだろうか、僅かに小鼻を膨らませながらくるっと向きを変えるとそのままスタスタと艦橋に向かって歩み去る。

暫しその背中を見送った隼太の胸中に様々な感情が湧き上がってくる。

 

(いよいよだ――いよいよだよ穂波ちゃん、でも――ちょっと無理難題だよなぁ……)

 

幾ら5年の歳月が流れたとはいえ、いぶきに対する苦手意識迄も都合よく流れ去った訳ではない。

「敷島ァ! こっち来て手ェ貸しなよ!」

例によってWave達から声が掛かる。

(――悩んでる暇なんてないか、なる様にしかならないんだしな♪)

「はい! 今行きます!」

出来るだけ大声を張り上げた隼太は、甲板規則に触れないギリギリの駆け足で走り出した。

 

「なる程なぁ、そう言われると確かに納得できるよ」

「まぁそやなぁ、但し若干1名除くやけども♪」

「煩ぇよ、所属の艦娘がガキっぽいとか文句垂れてる奴には言われたかねぇな」

「そない言うからには自覚がある訳やなぁ♪」

河勝の切り返しに思わず清次が口を噤むと、彼以外の3人から笑いが漏れる。

「これでも、思ってたよりは上手くやってる見たいでちょっとホッとしてるんだぜ?」

「さすがにそろそろ管理監督役は卒業してもいいんじゃないか♪」

隼太が一応フォローすると、箕田が後を続ける。

「それは教育期間中だけの話だろうがよ!」

口を尖らせた清次がそう返すと、改めて笑いが起きる。

「でもさ、俺達がそうだって事は2人だって似た様な事を期待されてるって事なんじゃねぇのかな」

「そらそやろ、なんせこれ程の気配りの達人を活用せえへんのは海軍の損失やしな♪」

「自分で言ってりゃ世話ねーよ」

「そうだなぁ、それに『眼が怖い』とか言われてるらしいしな」

「ちょ、ちょっと勉ちゃん人聞きの悪い事言わんとってんか! 第一そんなん誰が言うん?」

「俺も聞いたぜ? 浦波ちゃん薄雲ちゃんだけじゃ無くてWaveからも言われてるってな」

「おいおい、隼太迄一緒なってこんな好青年を陥れ様ってかぁ~、何とも世も末やのぉ……」

「一体どこの世の話だよ」

清次の突っ込みに再び場が湧いた後で、箕田が少し真面目な調子で口を開く。

「しかしこれ迄の数年間、艦娘との直接的な意思疎通の役割はWaveに期待されて来た訳だろ。ここに来てその方針を転換するんだから、考え様によっては非常に重要なターニングポイントなのに、こんな所でひっそりとしかも我々が――って言うのはどんなものだろう」

「どんな事でも最初はこんな感じと違うんかな? それに若干1名は兎も角として――」

「しつけぇよ」

「話の腰を揉みな! ――って、少なくとも海軍公認の実例が一つ出来た言うんは間違い無い訳やし、そのタイミングがたまたま今やっただけと違うか?」

さすがに『海軍公認』等と言われてしまうと落ち着かない気分になるが、河勝の言う事はもっともな話だ。

単に同郷者を採用する程度の事ならば軍は計画的にやってのけるだろうが、元々知人や友人であると迄ハードルを上げてしまうとそうおいそれとはいかないだろう。

しかも、効果が立証出来ていない様な段階からそれらを計画的に実行するのが容易でない事位は、隼太にも想像が付く。

「成程ぉ、以前から計画されていた訳じゃ無くて、今回の採用時点で初めて判明した事実を上手く生かそうとした結果だっていう解釈か。そう考えれば妥当な所なのかな」

「いや寧ろかなり柔軟な気がするなぁ。良く分かってる訳じゃねえけど、軍ってもっと腰が重くて融通が利かないって印象だろ? そう思えば尋常じゃ無い位素早い対応なんじゃねえのか」

「確かにな、ひょっとしたらその辺の柔軟さが今の司令や副長の手腕言うか持ち味なんかも知れへんで」

「そいつが詰まりアレかぁ、オリジナルからの信頼が篤いっていう例の噂の元ってかぁ?」

「そんな単純な話だけでは無いだろう、多分以前からの色々な経緯はまたあるんだろうと思うな」

おそらく箕田の言う通りなのだろうが、それについては何か確証のある話を聞いた訳でもない。

だが、少なくとも隼太はあの日渡来の瞳を見ていた。

あの哀しみを湛えた眼差しは一体何を見て来たのだろうか?

ひょっとすると、想像したくもないが隼太が穂波を喪う様な、そんな残酷な別離をも目の当たりにして来たのだろうか?

 

(もし俺にそんな事が起こったら……やっぱりあんな目になっちまうんだろうか?)

 

一瞬そんな想像を仕掛けた隼太だったが、忽ち激しい震えに襲われそうになったので急いで脳内からそれを追い出す。

「どうしたんだよ、隼太ぁ」

内心の動揺が表に出ていたのか、清次に気を遣われる。

「いや、ちょっと縁起でもない事考えちまっただけだよ」

「そっかぁ、ま~そんな事考えちまうのは仕方ねえけどよぉ、考え始めたらキリがねぇぞぉ」

「アレなんちゃうか、いっその事彼女説得してさっさと除隊して地元に戻る事考えた方がええんと違うか?」

「おいおい、それじゃあ我々に期待されてる事と全く真逆だろう」

「そうは言うけどな勉ちゃん、それはそれこれはこれってヤツやで」

「有難う、そう言ってくれて有難いけど、実はその辺はもう5年前に一度通って来た道なんだよ」

「なんやそうかいな、もう既に色々あった後か」

「ああ、でもこっちに来てから一度も2人切りで話した事が無いんで、たった今はどういう気持ちでどんな状況なのかは分からねえんだけどさ」

「ほうか、何にしても出来るだけ早よに話合うた方がええと思うで」

「こらこら程々にしとけよ。あまりそういう事を熱心に勧めるのはどうかと思うぞ」

「ご心配なく、外出許可申請とかしてるけどさ、きっちり付き添い有りでしか許可出来ないって言われてるよ♪」

「なんだよ、総務課ってのは余っ程暇なんだなぁ」

「アホか、暇やから付き添うんとちゃうがな、それが仕事やからやで」

「うん、艦娘との交際厳禁の原則は今も別に変ってないから、事実は事実としてルールは曲げないんだろうな。それは仕方ないだろう」

「それでも良いんだよ、付き添い有りだろうが許可申請は取り下げないし」

「そうだぜ、それがいい」

他の事はいざ知らず、穂波との事について言えば清次は全面的な支持者であるのだが、意外な程河勝も理解を示してくれているのは有難かった。

とは言え今もやや堅いことを言っている箕田にしても、先日は長門の美しさに我を忘れるほど魅入られていた位なので、まぁそれ程偉そうな事を言えた義理でも無さそうである。

 

(俺の気持ちはあの時から何も変わってはいない――でも――それでもやっぱり、一日でも早く穂波ちゃんと2人だけで俺達の未来の事、話がしたいんだ……)

 

彼女の傍で一緒に戦う――その場所にやっと辿り着いた隼太にとって、2人の未来図はまだまだ靄の向こうで遠く朧げなままだった。

 

 




これで第三章は完結です。少し時間を頂きますが、次回からは第四章を投稿予定です。引き続き、どうぞよろしくお願いします。


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第四章
【第四章・第一節】


第四章の投稿を開始します。
本章には長門が登場し、前作『陸奥と僕のこと改』の登場人物等に触れる部分も書く予定です。
引き続きよろしくお願いします。


 前回の面談から、気が付くと既に2ヶ月近くが経っていた。

彼らはその間もずっと面談申請は出していたのだが、さすがに隊内への示しもあってかそう簡単には面談許可が下りたりはせず、これ程経ってからやっと許可が下りたのだ。

 

「隼太君はいよいよコンソール係本番だね! どう? 何とか出来そう?」

「いやぁ、まだまだマニュアル無しじゃ全然駄目だよ。ちょっと手順から外れた事し様とすると頭真っ白になるなぁ」

「最初は皆そんなもんよ、とにかくひたすら繰り返して頭と身体に叩き込む事と慣れる事ね」

「大丈夫だよ、隼太君の事信じてるからね」

穂波の眼差しが何とも言えず心地良い。

大袈裟な言い方にはなるが、生きる気力が身体の奥から湧き上がって来るのを感じられるのだ。

 

「それにしても――」

白石がハァッと一つ溜息を吐いてから、堅い声音で話し始める。

「――敷島君がコンソール係をやるのはとても納得できるし頼もしく感じるわ。でも、木俣君が同じくコンソール係をやるだなんて全く理解出来ない。艦長は一体何を考えておられるのかしら?」

「雪乃ちゃんちょっと酷いよぉ~。清次君だってちゃんと真面目にやってるよね?」

「う、うす! まだまだだけど何とか取り組んでるっす」

「真面目にやるのなんて当たり前の事だわ。味方から信頼される様になる迄にどれだけ真摯に取り組まなければならないか、その欠片位は分かってるなら良いんだけど?」

 

(うはぁ~相変わらず厳しいな……)

 

この分では白石は、それこそ清次が誰かの身代わりとなって戦死でもしない限り彼に対する見方を変えないのではないかと思う程だ。

「へへ、毎度厳しいご指導を頂いて有難いぜぇ。これからもビシビシ頼むわぁ♪」

 

(まぁこれじゃ仕方ないよな……)

 

当の清次が相変わらずこの言い草では、白石の印象が変わる筈もない。

事実、この不敵な言葉を聞いた彼女はキッと清次を睨み付けると、そのままフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。

ただ昔から感じていた事ではあるのだが、これ程露骨にかつ辛辣に詰られているのに、どういう訳か彼はいつも少し嬉しそうに見えるのだ。

 

(こいつまさか、そっち系の性癖でもあるんじゃねぇだろうな――だとしたら、確かに白石さんと村越さんは好きなだけ罵ってくれるだろうけどさ♪)

 

そんな風に下らない想像を膨らませ掛けた隼太の脇がツンと突つかれる。

アッと思って顧みると、軽く頬を膨らませた穂波が上眼遣いに睨んでいる。

 

(ご、ごめんよ穂波ちゃん)

 

すぐにその意図を察した彼はひとまず目で詫びておき、改めてその場の雰囲気をフォローする。

「うん、清次もそう言ってることだし、白石さんも村越さんも一切手加減無しでこれからも扱いてやってよ♪」

「ひでぇな! そこはもう少し加減しろとか言えよ~」

「お前ぇが自分でそう言ったんだから間違いないだろ。自分の発言には責任持てよ」

隼太が間髪を入れずに突っ込むと笑いが起き、白石も表情を緩めてくれる。

 

(やれやれ♪)

 

とは言え、彼にとっては嬉しいことでもある。

あの斯波中で過ごした頃と変わりなく、穂波は隼太の内心をほぼ的確に読み取ってくれている。

5年もの間遠く離れていたのに、今も何一つ口にする事なく心が通じ合えているというその事実は、彼に例え様もない充実感をもたらしてくれる。

 

「まぁ、何時迄もおバカの話してても仕方ないし、ちょっと気に入らないんだけど聞いてあげるわ」

村越が思わせ振りに話を振っておいてから彼を一瞥する。

「えっ、何かな?」

「決まってるでしょ! あんた達、外出許可申請してるんじゃないの? 何時なのよ♪」

言葉は確かに道化て居るものの、意外に口調は辛いので思わずドキッとさせられる。

「えっと、そのぉ……」

「そうだわ、認められたら初めてのケースになる筈よ? 本当に決まったのかしら」

半ば揶揄っている村越と違って白石の物言いは真面目なので、軽く躱せる様な雰囲気ではない。

「い、一応ね、許可は出たの……」

横で穂波が俯きながら小さな声を出す。

「う、うん、付き添い有りでなんだけど――」

「そんなの当り前じゃない、これ迄ずっと交際厳禁で来たのにいきなりあんた達だけ全面解禁しちゃったら洒落にならないでしょ!」

 

(何故だろ? 滅茶苦茶緊張するなぁ……)

 

箕田や河勝らと喋っている時は全く普通だったのに、彼女達に向かい合うとまるで尋問で罪状を白状させられている様な感覚が半端ではない。

「え~何時に決まったのぉ? ねぇ教えてよぉ」

「い、いや、あのさ――」

何とか返事を絞り出そうとしたその時、横で穂波が意を決した様にごくりと唾を飲み込んだ後、やや低い声で彼の言葉に被せる。

「あのね――24日に決まったの……」

えーっ⁉

 

3人が一斉に大声を出したので、思わず椅子から飛び上がりそうになる。

 

(や、やっぱりか……)

 

「ちょっと何よ! なんでそんな事なってんの⁉ 信じられない!」

「そんなのズルい! 絶ーっ対にズルい! クリスマスデートなんて許せない!」

「幾ら何でも隊の秩序が保てないんじゃありませんか⁉ ねぇ如何なんですか⁉」

いぶきと村越は兎も角、余りこういう話題に突っ込んで来ないと思っていた白石迄も一緒になって大声でまくし立てたばかりか、立ち合いの総務課員に迄絡む始末だ。

絡まれた総務課員もさすがに困惑して、

「そ、それは課内にて付き添いの調整等を含めて案を作成し、司令のご裁可を頂いた結果であって何も問題はない」

と思わず真正面から応じてしまう。

「問題大有りですよ! どうしてそんな依怙贔屓が罷り通るんですか⁉」

「そうです贔屓です! 特別扱いですよこんなの!」

「公序良俗に反する決定ですよ⁉ 許可日程をずらすべきです!」

3人の余りの剣幕に隼太は却って少々滑稽な気分になって来たのだが、横で穂波が身の置き所もない様に小さくなっているのに気が付き、周囲から見えない様にそっと固く握りしめられたその手に自分の手を重ねると、彼女がギュッと握り返してくる。

 

(弱ったなぁ、仕方ないから再申請し直すかぁ……)

 

いささか残念ではあるが、4人の仲が気不味くなるよりは良いだろう。

そう肚を決めて口を開こうとしたその時だった。

「あの~、ちょっとで良いんで話聞いて貰えないっすか」

唐突に清次が声を上げたので、その意外性もあってかヒートアップしていた3人も一瞬静かになる。

常日頃はろくに空気というものを読まないにも関わらず、そのタイミングを巧みに捉えた彼はかなり下手に出た物言いで言葉を続ける。

「いやぁ確かにちょっと不公平だし羨ましい気もするんすけど――でも、隼太は5年間この日をひたすら待ってたんすよ。で、多分それは五十田さんも同じだろうと思うんす」

ここで一旦言葉を切った清次は、改めて徐々にテンションが下がりつつある3人の顔を見回してから言葉を締めくくる。

「だから、ここは一つさっぱりと『本当に良かったね』と言ってやって欲しいんすよ。俺もそうし様と思ってるんで――頼んます、何とか丸く収めて欲しいんす――いやマジで」

あの清次がこんなものの言い方が出来るのかという驚きが彼女達の顔にありありと表れており、室内は水を打った様に静まり返る。

一体どれ位それが続いたものかはっきりとはしないが、間もなくとばっちりで巻き込まれた立会いの総務課員がオホンと軽く咳払いをする。

「木俣海士の言う通りだ。戦友に対してはもう少し寛容であるべきと思うぞ」

言っている事は尤もらしいのだが、その声音からは明らかにホッとした雰囲気が伝わって来る。

流石にここ迄冷や水を掛けられても騒ぎ立てる程、彼女達は執念深くもなければ厚顔無恥でもなかった。

ハァッと思い切り大きな溜め息を吐いた村越が、どこか自棄気味な声をあげる。

「はぁ~あ、おバカに窘められるなんて白けるどころの話じゃないわよね! ええ、良く分かったわよ、これでもう文句は言いっこ無しにするわ」

「何だか凄く自己嫌悪……五十田さん敷島君、つい興奮しちゃって本当にごめんなさい」

「い、いやそんな――」

「う、うん、雪乃ちゃんも本当にごめんね……」

「あ~でも、やっぱりすっごく羨ましいよぉ~。ねぇ清次君、あたし達も外出申請しよ?」

「えっ、いやその、それはちょっと不味くないっすか?」

「そんな事無いよぉ~、申請するだけして見ようよぉ」

このいぶきの言葉に、当の清次は嬉しそうにする処か少々困った様に立会いの総務課員をちらりと一瞥する。

「申請したからと言って直ちに認められる訳ではないし、何より既に翌月度分の申請も締め切られている」

やっと本来の立ち位置を取戻した彼女は冷静な声でそう応じたのだが、いぶきはそう易々とはあきらめない。

「え~何かがっかりぃ~、じゃあさ、2月の申請考えようよ、バレンタインデートなんてどう?」

「いや、えっとあれじゃないすか? まずはこのメンバーとかで外出許可申請するとかから始めた方が良くないすか?」

「え~」

 

(何だよ、おかしな奴だなぁ――いぶきちゃんから誘ってくれてんだからも少し喜んでも良いんじゃねぇか?)

 

とは言うものの、たった今彼に助けられた隼太としては、何か助け舟を出してやる義務があるというものだ。

「うん、一度清次の言う通りにして見たらどうかなぁ。複数名での申請の方が通り易いですよね?」

どうせなので総務課員を利用させてもらう。

彼女としては不本意だろうが、話が話なので言質がある方が都合が良いのだ。

「一概にそうとは言えないが、原則禁止の男女1対1に比較すれば許可され易い筈だ」

「有難うございます、だからさ、一度皆で出掛けられる様に申請してみようよ。なんかそういうの昔だってやらなかったんだし良いんじゃないかな?」

隼太が勤めて明るくそう勧めてみると、白石が良い反応を返してくれる。

「わたしは、敷島君や皆と一緒に外出出来たら――多分楽しいと思うし、良い気分転換になると思うわ……」

「まぁ、あたしも別に反対って訳じゃないけどね――」

そう言い掛けて言葉を切った村越は、彼にちらりと視線を投げてから言葉を続ける。

「一緒に行くのはあんただけの方が良いのよねぇ~」

 

(げ、やっぱりそう来るのか……昔っから相性悪かったしなぁ)

 

斯波中の頃から兎に角彼女は清次と反りが合わないらしく、それは今でも変わっていない様だ。

しかし当然の事ながらいぶきが黙っていない。

「もうっ! また美空望ちゃんたらそんな酷いこと言って! 駄目だよ、絶対清次君も一緒だからね⁉」

「はいはい良く分かりました! あたしが我慢すればいいんでしょ⁉」

「ごめんね美空望ちゃん……」

「いやぁね、やめてよ。穂波が謝る事じゃないわよ」

そう言ってかぶりを振って見せた村越は、こちらに視線を合わせると苦笑して見せる。

 

(有難う、助かったよ)

 

視線でそう応じた隼太は、このまま深入りする前に話題を切り替える。

「まぁそれはそれとしてさ、最近疑問に思ってた事があるんだけど」

「なによ、聞くなら教えられる事にして欲しいわね」

「いや大した事じゃないよ。なんで『うさ』では吹輪さん、五十田さん呼びなのに、他の艦では駆逐艦叢雲や白雪呼びなのかなぁ~って思ってさ」

「それだったら簡単よ、艦長の方針だからよ」

「えっ、何か決まり事があるんじゃないの?」

「実は明確なルールがある訳じゃないらしいの。実際に五十田さんと吹輪さんも、斑駒艦長になられる以前は駆逐艦磯波、吹雪と呼ばれていたわよね」

「そうだったの?」

隼太が傍らの穂波を顧みると、彼女は頷く。

「あのね、司令と斑駒艦長は名前呼びにすべきと考えておられるみたいなの。でも、各艦でこれ迄の慣習もあるだろうからって、命令はされてないみたい」

「そいつは知らなかったなぁ、でも何が違うんだぁ?」

「これ迄艦名呼びが一般的だったのは、艦娘に対して余り慣れ親しむ様な空気を醸成しない為だと聞いてるわ。もちろん理由は説明不要ね」

「でも司令と副長はそう考えておられない――」

「そうね、そういう意味ではお二人とも以前の司令や副長とはお考えが違うみたいね」

「でも、あたしは名前で呼ばれるのも好き! これ迄ずっと『吹雪』って呼ばれてたから、自分の名前が新鮮!」

「けど、北上さんは絶対嫌だって言ってるみたいだよぉ」

「え、そうなの?」

「そうらしいわね、まぁ理由は分からないけど」

「まぁ個人的な事情ってヤツじゃねぇのかぁ」

と、ここで前回と同様に立会いの総務課員より5分前が告げられる。

が、前回と違ったのは少し続きがあったのだ。

「それと付け加えておくが、課員はあくまでも立会い者なので、必要以上に会話に巻き込むことは禁止だ。次回以降は注意する様に」

「はーい!」

「了解しました」

思わず笑いが漏れそうになるのをちょっと我慢する。

さすがに今回は巻き込まれてさぞ閉口したのだろう。

「それでは有難うございました!」

「どうも失礼します」

「清次君、隼太君! 申請頼んだよ♪」

「ま、余り気は進まないけど仕方ないわね」

「じゃあ今度ね、隼太君」

「あ~あ、やっぱり羨ましい~」

「ははは、ゴメンね……」

とは言ったものの、彼としては楽しみで仕方がなかった。

付き添いがいるとは言え、2人で話す事の出来る機会を精一杯利用しようという意気込みで満々だった。

「清次、お前本当にいぶきちゃんと外出申請しなくていいのか?」

「お前ぇじゃあるめぇし、そんな柄じゃねぇよ!」

「そっか、まぁいいけど今日は助かったぜ」

「いいって事よ♪」

 

(本当におかしな奴だよ、お前は♪)

 

心の中でそう突っ込んでおいてから、彼らはまたも好奇や羨望が入り混じった視線を浴びながら面談室を後にした。

 

 



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【第四章・第二節】

 12月も半ば近くなり、時にはかなり冷たい風に晒されることも多くなる。

こうなって来ると、艦娘達も長時間に渡って屋外の閉水路訓練を行うのはやはり体力的にも厳しくなってくるらしい。

かといって屋内のプールではさすがに狭すぎて満足な訓練は出来ないので、それ以外の活動に従事することも多くなってくる。

そんな訳で、今日は朝から穂波といぶきが『うさ』にやって来て、艤装との接続チェックなどを実施していた。

新米のコンソール係である隼太にとって在港時は貴重な復習の機会でもあり、そんな折に穂波が来てくれるのは実務的にもモチベーション的にも二重の意味で有難い。

 

「こっち、メインスイッチ入れたよぉ」

「了解、それじゃマスターリンク起動――」

「駄目だよぉ、最初の通信環境チェック忘れてるよ」

「あっ、そうかゴメン。通信環境チェック開始、平均転送速度――24.2Gbps、エラーチェック正常――通信環境チェックよし!」

「艤装側も良好だよ♪」

「うん、それじゃ改めてマスターリンク起動」

「――艤装側、シンクロ開始確認、OKだよ」

「同期確認――よし! 電力供給――よし! 現在値1.98」

「もう少し下げて、信号電力だけのチェックモード動作にした方が良いよぉ」

「うん、電流値下げ――現在値0.41」

「それ位で良いよぉ♪ 回路負荷が全然違うからね」

「有難う、メモしとくよ――それじゃシステムチェック開始するね」

「うん」

「えーっと、艤装動作確認――現在チェックモード動作中――サンプリングシステム正常、信号増幅システム正常、フィードバックシステム正常、ビーコン正常、非常用バッテリーチェッカー正常、緊急フロート起爆回路正常――」

「全機能、正常同期中だよ」

「有難う、艤装全システム動作確認――よし!」

「次はバイタルだね――えっと――艤装側リンク正常だよ」

「うん、それじゃバイタルチェック開始――心拍数、正常範囲内――血圧、正常範囲内――現在体温――あれ?」

「な、なに?」

「穂波ちゃん、ちょっと体温高いみたいだけど――大丈夫?」

「あっ――やっぱり……あ、あのね――」

「うん」

「隼太君がバイタル読み上げるとね――ちょっと恥ずかしいの……」

「あっ……ご、ごめんね」

「う、うん……」

もう駄目っ! 2人ともイチャイチャし過ぎっ!

突然いぶきが割って入って来た為に、すっかり2人の世界に没入していた隼太と穂波は飛び上がる。

 

「言っとくけど勤務中なんだよ! なのに2人ともさっきからず―っとイチャイチャしてばっかり!」

「いや――決してそんな積もりじゃ……」

「ご、ごめんねいぶきちゃん……」

「穂波ちゃんの分の起動時点検は終わったんでしょ⁉ だからもう交代! 隼太君、あたしの起動点検してよ!」

「いや、そんな無茶だよ~」

「そ、そうだよ、いぶきちゃんのコンソール係は曽根さんなんだから――」

「違うよ! これは隼太君の訓練のためだよ⁉ 数をこなした方が練習になるでしょ!」

「そんな訳に行かないよ~」

「ハハハ、良いじゃねぇか、少し位は大目に見てやりなよ」

横からWaveが助け舟を出してくれるが、やはりいぶきはそう簡単に引き下がらない。

「そんなの駄目ですよ! だって元々交際厳禁だったのに特例として認められてるだけなんですから! ねぇそうですよね班長⁉」

しかし、どうやら自分に飛び火する可能性が高いと踏んでいたのか、班長は既にこちらに背を向けて急な用事でも思い出したかの様にそそくさと立ち去る所だった。

 

(班長、良い勘してるなぁ……さすがベテランは違うよ)

 

とは言え、そんな事に感心している場合では無い。

こういう時のいぶきはひたすらグイグイ押してくるので、如何にかして矛先を逸らさなければ……。

「敷島ァ、直に飯だぞ。リンクの立ち下げしときな!」

「あ、はい!」

非常に有難い事に再びWaveが助け舟を出してくれるので、取り敢えず昼休み時間はどうやら乗り切れそうだ。

しかしその後の事は彼が何とかしなければならないだろう。

「隼太君! じゃあ午後はあたしの起動点検だよ♪」

「いや、お願いだからそれはちょっと待ってよ。また後で話しよ?」

「え~、もうっ! それじゃお昼食べてからね!」

 

(はぁ~――いぶきちゃん、相変わらず押しが強いなぁ……)

 

しかし今のポジションで勤務する以上、彼女に対する苦手意識を克服する必要がある。

彼としては当面の最重要課題だった。

思わず溜め息を吐くと、穂波が気遣ってくれる。

「大丈夫? もう立ち下げ出来る?」

「あっ、うん大丈夫だよ。立ち下げしちゃおう」

「分かったよぉ♪ それじゃあまずチェック履歴の同期からだよ」

「了解、チェックログ同期確認――」

 

 どうにか午前の作業を終えた隼太は、例によってWave達と一緒に(と言うよりも半ば既成事実として半強制的に)昼食を摂っていた。

「お前、吹輪のこと苦手なんだろ?」

「えっ、分かりますか?」

「たりめーだろ、見てりゃすぐ分かるよ」

「いやぁ~駄目なんですよね、どうも」

「そうか、吹輪みたいなタイプは嫌いなのか?」

「まさか、嫌いな男の方が珍しいんじゃないですか」

「まぁそりゃそうか、吹輪はさぞモテたんだろうなあ」

「そうですね、うちの中学のナンバーワンでした」

「やれやれ、どこに行っても男って奴ぁ代わり映えしねぇな」

彼女の言葉通り、ここでもいぶきは可愛いとの評判が男の兵達の間で定着していた。

斯波中と違うのは、ここ海軍においては可愛いかろうが何だろうがそもそもちやほやする事すら禁じられていると言う点だ。

「まぁ、あたしらとは対極の人生歩んで来たってぇことさ♪」

「いや、さすがに対極は言い過ぎですよ」

「へへへ、有難よ♪ でもなぁ、やっぱり男は華奢で可憐な少女のが好みなのさ」

それが真実かどうかは兎も角として、ここにいるWave達が皆がっしりとして体格に恵まれた者ばかりなのは事実だ。

「まぁでも、お前も苦手だなんて言ってられねーんだろ?」

「ええ、正直ちょっと気が重いんですけど」

「仕様がねぇだろな、何せ艦長殿と司令の肝煎りなんだろ?」

「そうだよ、間違っても出来ませんなんて言ってられねぇぞ」

「プレッシャー掛けないで下さいよ~、一応悩んでるんですから」

「一応かよ、大した事ぁねぇな♪」

一斉に笑いが起きる。

何時もながら彼女達の勢いは大したもので、こうして一緒に昼飯を摂っているだけで何だか元気が貰える様な気がする。

「またお前らは長々と飯食ってやがるな、いい加減にしろ!」

丁度トレーを持った給養班長が通り掛かり、これも毎度の如く怒声を上げるが、今日は艦上ではないせいか彼女達もゆったり構えている。

「今日は厚生(食堂)なんすから良いじゃないですかぁ」

「そうすよ、大目に見て下さいよ」

「ったく――敷島! 貴様がいちいちご丁寧に相手してやるからこいつらが長っ尻になるんだぞ⁉ 少しは無愛想にしろ!」

「済みません! 努力はしますが、さすがに無愛想には出来ません! 申し訳ありません」

「ハハハ、そりゃあそうだろ」

「分かったよ、お前の顔も立ててやらなきゃな♪ さぁ皆とっとと食っちまえよ!」

「うーい」

「了解っす」

そう応じながら彼女らは食事の残りを平らげに掛かり、給養班長もそれ以上の説教は諦めて立ち去る。

もちろん隼太も彼女らと一緒に食事の残りに専念する事にしたのだが、内心では感謝していた。

 

(いや、まさかこんな風になるとは思って無かったけどさ――でも、有難いよ本当に)

 

一旦仲間として受け容れてくれた後の彼女達はとても義理堅く、何かにつけて彼を助けてくれる。

彼女達に認められていることで、艦娘達と少々親し気に接していてもまぁ仕方が無いと他の兵士達からは受け止められており、一種の免罪符の様な効果もあった。

とは言え、彼はほとんど毎日の様に彼女達の昼食に同席を要求され(本人達は強制などしていないと言うのだろうが)る事が定着してしまっており、他の兵士達と食事時の雑談が出来ないという難はあるのだが。

 

 昼食を終えて『うさ』に戻ってくると、まだ穂波といぶきは戻っていなかった。

軽くプール周辺のモップ掛けなどしながら、一体どうやっていぶきの押しを躱すか考えるものの、そんな上手い言い訳などある筈も無い。

結局は正面から彼女を説得して分かって貰うか、諦めて彼女の起動点検に付き合い、コンソール係の曽根に詫びを入れるしか無いのではないかという結論に辿り着き掛けた頃、穂波といぶきが戻って来るのが見える。

「隼太くーん♪」

わざわざ遠くから名を呼んで手を振る彼女を見ていると、緊張が高まって来るのを感じる。

「本当に大したもんだよな~」

「あれじゃまるで、五十田じゃなくて吹輪の方が彼女みたいじゃねーか♪」

Wave達が半ば呆れ、半ば面白そうに寸評するが、残念ながら一緒に笑える程の余裕は彼にはない。

そうこうする内に2人が舷梯を渡って乗船してくるが、その時別の人影がちらっと視界の端に映る。

「おや~? ありゃ総務課の涌井じゃねぇか?」

「何だい、うちらに用事かぁ?」

彼女達が当て推量を口にする中、その総務課員は舷梯の前で立ち止まると声を張り上げる。

「敷島海士! 敷島海士は何処か!」

「あ、はい! ここです!」

反射的に応じて早足で近付くと、何かを感じたのだろうか穂波も一緒になって近寄って来る。

舷梯を渡り、総務課員の前に立ってサッと敬礼を交わすと、前置き抜きで彼女は事務的に口を開く。

「先般申請のあった外出許可の件だが、隊内の業務都合により当月24日の付き添いが困難になった。従って許可日程を次月以降に延期するが、延期後の日程については追って連絡する」

 

(えっ……)

 

いきなりの事で反応出来ずに固まってしまうが、その総務課員(確かに『涌井』と言う名札は着けていた様だが……)は全く頓着せずにクルリと背を向けて立ち去ろうとする。

しかし呆気に取られている隼太(と穂波)の代わりに、『うさ』のWave達が口々に抗議してくれる。

「おいおい、それで終わりかよ」

「折角こいつらが楽しみにしてたってのに、そりゃねえだろ」

「もっともらしい理由付けてっけど、自分達がパーッとやりたいだけじゃねえのか?」

さすがにこれには反論する必要があると思ったのか、彼女は振り返ると若干気色ばみながら固い声を出す。

「これは地域護衛隊群司令部の要請によるものだ。何ら問題はない」

そう言い切ってしまってから、彼女は『しまった』とでも言う様に顔をしかめる。

本来ならば隼太や同僚のWave達に伝える謂れのない筈のことだが、どうやらつい口を滑らせてしまった様だ。

もちろん、古参のWave達がそんな動揺を見逃す訳もない。

「へぇ~、そんなお偉いさん方がクリスマスに一体何のご用なんだぁ?」

「総務課の綺麗どころは総動員だってか?」

「え? 綺麗どころ? その綺麗どころって奴ぁどこすかぁ?」

このあからさまな揶揄に彼女達は爆笑し、この騒ぎを面白がって見物していた『うさ』や岸壁の反対側にいる『あつた』の乗員達も釣られて笑い出す。

これには、いわば嗤いものにされた態の総務課員も収まりが付かず、顔を赤らめて大声を出す。

「いい加減にしろ! この件は司令に報告するぞ⁈」

だがその恫喝も明らかに逆効果だった様だ。

ピタッと笑いを収めた『うさ』のWave達が急に迫力のある声でそれに応じる。

「いい加減にするのはそっちだろうがよ」

「そうだぜ、偉いさんの都合優先で下っ端はプライベートも捻じ曲げられて当然ってか?」

「つまりはあたしらだって同じ扱いってこったろうが、そうじゃねえのか?」

この言い分には『うさ』と『あつた』の艦上からもそうだそうだと言う声が上がる。

いかに教育隊付属の艦隊とは言え、艦上勤務の兵達にとっては命の保証など無い前線に身を晒しているわけで、そのことに強烈な自負を抱いているのだ。

それだけに、如何に高官相手とは言え自分達が蔑ろにされる様な事に対する反発は当然だろう。

この真っ当な言い分に対しては反論も難しかろうし、強圧的に出れば益々事態は悪化するばかりだ。

どうするのだろうと思って見ていると、その課員は意を決した様に顔を上げ、此方を振り返って真っ直ぐに隼太のところへ戻ってくる。

「敷島海士」

「はい」

「延期は避けられないが、何か要望する事はあるか」

「あ、はい、延期後の日程について希望を聞いて貰えますか?」

「分かった、再申請という形で希望の日程を申し出る様に。可能な限り応じる様に考慮する」

「有難うございます、よろしくお願いします」

この遣り取りとともにサッと敬礼を交わした彼女は、今度こそ振り返らずに大股で歩き去って行く。

「いいぞ、思いっ切り恩着せてやれよ!」

「そうだぞ、付き添い無しで外出させろ位言ってやれ♪」

「この際だ、外泊許可申請に切り替えちまえ!」

Wave達から威勢の良い声が掛かり、『あつた』からもやれやれと囃し立てられる。

「すいません、本当に有難うございました!」

隼太(といつの間にか横に来ていた穂波)が『うさ』と『あつた』両方に向かって頭を下げて礼を言うと、期せずしてバラバラと拍手が起こり声援が飛ぶ。

 

(うわ、嬉しいけど恥ずかしいな……)

 

横で穂波が真っ赤な顔をしているのでひと先ず舷梯を渡って艦上に戻るが、居合わせた兵士や下士官達に肩と言わず背中と言わずバシバシ引っ叩かれる。

彼らにペコペコ頭を下げながらどうにかプール脇に戻ると、如何にも極まりの悪そうな顔でいぶきが待っていた。

「隼太君、穂波ちゃん――なんかゴメンね」

「いや、いぶきちゃんが謝る事じゃ無いよ」

「そうだよぉ、謝らないで」

「いや、だってね――この間3人で色々と言っちゃったでしょ? 何か関係ありそうな気がしちゃって……」

「まさか、今も聞いたけどずっと上の方の事情だって言うんだから関係ないよ」

「うん、だから気にしないでね」

「うん分かった――けど、残念だったね」

「まぁね、がっかりはしてるけど――」

「でも、こんなに皆に応援して貰えたし――それでいいかなぁって」

「あ~あ、やっぱり公認っていいなぁ~」

「その公認ってやめてよー」

「うん、凄く恥ずかしい……」

「なんで⁈ 凄~く羨ましいよ! あたしも公認目指して頑張っちゃうからね!」

 

(いや、もうちょっと別の事頑張ろうよ……)

 

と、口に出して言わなければならないのだが、その言葉が心の中で止まってしまう。

これからも、こんな一言を要所要所で口に出せるようになる迄悪戦苦闘しなければならないのだろうか。

 

(仕方ないな――それに、これで当分は凌げるだろうしなぁ)

 

と自分を納得させてみたものの、さすがにいぶきの押しを躱す代償に失うのが穂波と過ごすクリスマスというのは、少々犠牲が大き過ぎると思わずにはいられなかった。

 

 



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【第四章・第三節】

 つくづく軍というのはままならないとでも言うのか、予想が付かないことが事が起こるものらしい。

数日前に延期の通告を受けた穂波との外出許可について、隼太が改めて希望の日程を申請するべく総務課の窓口を訪れたところ、一体どうしたことか延期の取り消しを言い渡されたのだ。

「え? 如何いう事でしょうか?」

「詳しい説明は当課からは出来ない。兎に角当初の許可通り、24日は所定の時間に集合する様に」

「え……あ、はい分かりました、有難うございます……」

そう言って引き下がったものの、喜びというよりも釈然としない気持ちの方が大きかった。

 

(当課からは説明出来ないとか、おかしな事言うなぁ)

 

そう思いながら、先日の事もあるので班のWave達にその事を報告して礼を言う。

「そうか、そいつぁ良かったじゃねぇか、精々楽しんで来な♪」

「本当に有難うございます、先輩方のお陰です」

「ハハハ、感謝しろよ! っと言いたいとこだが、多分関係ねぇだろうなぁ」

「え、そうなんですか?」

「まぁ実際の所は蓋を開けてみなけりゃ分からねぇけどさ」

「そうだぜ、曲がりなりにもここは海軍だからな、一度出したものをそう易々と引っ込めたりはしねぇよ」

「じゃあ一体――」

「中身は分からねぇけどよ、こいつはイレギュラーってやつさ」

「イレギュラーですか……」

「ああ、普通はめったに起こらねぇこった」

「でも、近頃のうちの隊じゃあ結構な確率で起きる様な気はするぜ」

「それってやっぱり渡来司令と斑駒副長の――」

「貴様ら、休みの事は休みにしやがれ! 今は勤務中だぞ!」

隼太の言葉を遮って班長の怒鳴り声が響く。

「はいっ! 申し訳ありません」

「了解っしたー」

「おーし、安全装備点検すっぞ~」

「へいへい」

まるで最初からそう言う予定だったかの様にさっさと持ち場へと散って行く彼女達と共に、彼もプール脇に戻ると穂波がチラリと視線を合わせて来る。

(よく分からないけど――でも、良かったね♪)

(うん、やっぱり嬉しい♪)

声には出さなくても目と口の動きだけで十分に意思を通じ合えることが、僅かに感じていた違和感を自然に拭い去ってくれる。

 

(まっ、事情はさておき折角元通りの予定に戻ったんだからな♪)

 

ときめく気持ちが少しずつ膨らみ始めるのを感じて、思わず笑みが零れていた。

 

 そして瞬く間に24日がやって来る。

緊張しながら正門近くの所定位置に赴くが、そこには穂波だけではなく、ある意味当然の事なのだが今日外出許可を得た他の兵士達も集合していた。

 

(うわぁ……これはキツイなぁ)

 

隼太と穂波の指定場所は一番端なのだが、そのせいで逆に良く目立つ。

言う迄も無く、男女が1対1で外出を許可されるのは初めてなので、居並ぶ兵士達からの様々な意図が籠った視線にイヤと言う程晒される。

頬を赤らめて俯いている穂波の盾になる様に立った隼太は、それこそ必死で平静を装い続けなければならなかった。

そうして何とか耐え忍んでいる内に点呼が始まり、服装点検が終了した者から順に正門へと消えていく。

ところが、どれだけ待っても2人の付き添い担当が姿を見せない。

「どうしたんだろ? 実はやっぱり間違いでしたとか無いよね?」

「分かんないけど――でも、ここ迄来てるし……」

「まぁ、業務の関係で遅れてるのかな」

「うん……」

そう言いながら更に2人は待ったが、とうとう彼ら以外の全員が正門に向かってしまってもまだ誰も姿を見せない。

 

(ええ――どういう事だよ……)

 

さすがに確認せねばと思った隼太の所に、点呼担当の総務課員が近づいて来る。

「敷島海士、五十田穂波、点検用意」

「あ、はい!」

「よろしくお願いします」

そして型通りの点検が終了すると、その課員は何事も無かった様に告げる。

「ではこれより外出を許可するが、帰隊時刻を含めた外出時規則を厳守のうえ、節度ある行いを常に心掛ける様厳命しておく。以上だ」

「あの、付き添いの方は――」

「正門に行け。行けば分かる」

それだけを言って課員はさっさと立ち去ってしまう。

「何だかなぁ~、とにかく行こうかぁ」

「うん、行って見ようね」

そう言い躱した彼らが正門に向かうと、警衛所前にひときわ異彩を放つ姿を認める。

 

(うわわ、長門さんだ!)

 

横に穂波が居るというのに、思わず心中でテンションが上がってしまう。

隼太よりもわずかに背が高いであろうその姿は、確かに平均的な日本女性よりも長身ではあるが、衆目を集める程桁外れな訳ではない。

だが、彼女の圧倒的な迄の美しさやその身からごく自然に放たれる鮮烈なオーラは、存在感の塊そのものだ。

しかも今日の彼女は軍服ではなく私服姿である。

ただし、暗灰色のニットの上に鉄紺色のPコートを羽織り、栗皮色のパンツに黒い飾り気のないブーツという軍服とさして変わりない様なコーディネートではあるが。

 

(でも――でも、それがいい!)

 

こんな服装に身を包んで居ながらも、彼女の魅力は全く色褪せないばかりかますます光輝いて見える。

以前河勝が評した『人類史上最高レベル』という言葉が全く大袈裟に聞こえないのだ。

と、すっかり当初の目的を忘れて目前の光景にのめり込んでいた隼太の脇腹に刺すような痛みが走る。

「痛っ!」

思わず声が出しまうが、とっさに顧みたその目に穂波の責める様な眼差しが突き刺さる。

「あっ、穂波ちゃん――」

そう言ったのだが彼女は全く反応せず、彼の瞳から視線を外さない。

もちろん先程の脇腹の痛みは穂波に抓られたからなのだが、今もその場所がヒリヒリしている事からしても、どうやら全く手加減無しに思い切り抓られた様だ。

「ご、ごめんね、もう絶対にしないよ、約束する」

真顔でそう言った隼太に、やっと穂波は表情を和らげると拗ねたように言葉を繰り返す。

「約束だよ?」

「うん、約束だよ」

彼がそう応じると、改めてその瞳を見つめた彼女はフッと視線を逸らして俯くと小さな声を出す。

隼太君は――わたしだけの隼太君でいて欲しいの――わたしだけの……

5年前に感じたあの感覚が鮮やかに蘇って来る。

胸の中に泉が湧き出る様に喜びが満ちていくのがはっきりと分かった。

彼女は初めて隼太を独り占めしたいと言ってくれたのだ。

それは歳月と距離とを超えて穂波を追い続けた彼にとって、女神の与えた祝福にも等しいものだ。

「約束するよ、君だけの俺になるから」

しっかりと口に出すと、頬を染めた彼女が小さく応じる。

「うん――信じてるよ」

 

(穂波ちゃん……)

 

気持ちが昂って来た彼は、今この場で彼女に愛を告げたいという情熱が抑えられなくなってくる。

しかし、そんな前後の見境も無い行動に出そうな彼の手綱を引く必要があると感じたのだろうか、いつの間にか長門が歩み寄っていた。

「こらこらお前達、ここはまだ営内だぞ♪」

この言葉で一瞬のうちに血が冷えた隼太は、焦って頭を下げる。

「あっ、はい、申し訳ありません――」

「長門さん、お早うございます」

「お、お早うございます」

5年前と変わりなく、余り慌てない穂波がきちんと挨拶をするので彼も何とか一緒に挨拶する。

「ああ、お早う。それにしても、恋仲にある男女と言うのは何処に居ても簡単に2人だけの世界に入り込めるものの様だな♪」

「どうも済みません……」

「お見苦しいところをお見せしてしまいました」

「なに、そればかりは何時になっても誰であっても同じだ、お前達だけが特別という訳ではないよ♪」

そう言った長門の瞳が、一瞬どこか遠くを見つめる様に宙に向けられる。

思わずその視線の先を追いそうになった隼太が沈黙する横で穂波が会話を繋いでくれる。

「あの、長門さんも今日はどこかへお出掛けでしょうか?」

その問いに、視線を彼らに戻した長門は意味有り気な微笑を浮かべると、驚くべき答えを返す。

「ああ、そうだ。――お前達と一緒にな」

「えっ⁉……」

「――す、すみません、どういう事でしょうか?」

何を言っているのか理解出来ない2人に向かって、彼女は全く事も無げに応じる。

「如何という程の事ではないよ。偶然お前達の外出許可が延期される事情というのを聞いたのでな、それなら私が付き添ってやると言った迄だ」

「そ、そんな事を――まさか――」

「――長門さんにお願いできる様な事なんでしょうか?」

余りにも彼女が平然と応じるもので、呆気にとられた2人がそう言葉を連ねるが、長門は相変わらず楽しそうに微笑したままだ。

「何を言っている、お願いなどされてはおらんぞ。これは私が自ら申し出たことであって、私自身の息抜きも兼ねているのだからな。それも含めて司令が承認したことなのだ、問題なぞあろう筈がない。そうではないか?」

「あ、はい……」

「でも――本当によろしいんでしょうか……」

申し訳無さそうな穂波の言葉に、微笑を苦笑に切り替えた長門は殊更に張りのある声を出す。

「よろしいに決まっているではないか♪ さあ、そんな事より何時まで此処に立ち止まっている積もりなのだ? 時間を無駄遣いしてはならんと言うのは海軍精神の重要な柱の筈だぞ!」

「はい! 仰る通りです」

「どうかよろしくお願い致します!」

その勢いに連られた2人がきびきびと応じると、満足気な顔をして見せた彼女は先に立って歩哨に身分証を提示し、大股に歩き始める。

慌ててその後を追った2人だったが、その胸中はいつの間にか弾む様な期待に満たされていた。

 

(何だろう、凄く楽しい1日になりそうな気がするよ♪)

 

そう思って傍らの穂波に目を落とすと、彼女がにっこりと微笑み返してくる。

聖夜に笑いさざめく街が、5年振りに2人の時間を過ごす彼らを待っていた。

 

 



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【第四章・第四節】

 実の所、隼太と穂波は今日の外出先について十分に計画していた訳ではなかった。

勤務時間外で2人が意思を通じ合う手段は、総務課が配送してくれる隊内通信こと手紙の遣り取り位しかないからだ。

ただ、在港時であれば勤務時間中は比較的傍に居られる機会もあり、少々の雑談位は交わせる事から若干の摺り合わせをした程度である。

無論そんな折はいぶきも一緒に居るのだが、彼女からは『絶対横濱だよ~、横濱しか無いよね!』と頻りに謎のプッシュ(おそらくは彼女自身が横濱デートを目論んでいるのだろう)をされており、それもあって何となく目的地を横濱として申請していたのだ。

 

「そうか、で横濱の何処へ行きたいのだ?」

長門からこう問われた彼らは、以上の様な経緯を正直に話した。

それを聞いて軽く笑った彼女は、続けて質問する。

「敷島は横濱に行ったことがあるのか?」

「いえ、通り過ぎた事しかありません。これ迄に外出した先は横須賀と――逗子と鎌倉です」

「まぁそんな所か、五十田はどうだ?」

「1回あります。中華街と元町と山下公園とかには行きました」

「成程な――で、その辺りに行きたいか?」

「いえ、特にそこ迄は――」

「他にどんな所があるかよく知りませんので……」

この至って正直な物言いに軽く笑みを漏らした長門は、些かの迷いも見せずに結論を出す。

「では、お前達さえ良ければわたしが少しばかり手伝ってやろう。さぁ行くぞ!」

「はい!」

こうして彼らは、付き添いならぬ引率者となった長門に連れられてバスから電車へと乗り換え、程なく横濱の中心街に程近い駅に降り立つ。

ただ、そこは確かに都会の賑やかさを感じさせてはくれるものの、彼らが抱いていたお洒落な華やかさ等とは余り縁の無さそうな街並みだ。

思わずキョロキョロしてしまう隼太と穂波を顧みた長門は、視線を前に戻して歩きながら話し掛ける。

「そうだ、ここは所謂繁華街などではない。市民が暮らす普通の街とでもいう場所だ」

「あ、はい」

「一つお節介な事を言わせて貰うが、今日は何処かで昼食を摂るのはやめておけ。その時間を空けておく方が良いぞ」

「そ、そうなんですか?」

「長門さんがそう仰るのでしたら……」

「ハハハ、信用して貰って有難い事だ♪ しかし、只昼を抜くのでは腹が減るばかりだ。なので、これから行く処で少々小腹を満たして行こうと思ってな」

「有難うございます」

「ご配慮頂いて済みません」

「何を大袈裟な♪ 何より、お前達が気に入るかどうかすら未だ分からんのだぞ」

そう言いながらも、長門は何処か楽しそうな笑みを崩さずに歩を進める。

そして彼此10分足らずというところだろうか、やはりお洒落とは程遠いものの活気のあるアーケードの入り口に辿り着く。

確かに観光客が訪れたり若い男女がデートコースに選ぶような佇まいでは無いものの、クリスマスらしく飾り付けられたその様子も相まって、決して印象は悪くない。

「こちらですか?」

隼太のその問いには彼女は応えず、そのままつかつかと入り口近くの店舗に無造作に歩み寄っていく。

と、店頭のガラスカウンターの向こうに居た中年の女性がそれに気付き声を上げる。

「あらまぁ、長門さんお久し振り!」

「すっかりご無沙汰しているな女将、元気そうで何よりだ」

「いーえー、こうして忘れずにお越し頂いて有難うございます♪ それに今日は何だか可愛らしいお連れさん迄いらっしゃって」

 

(か、可愛らしい? ――ああ、俺じゃなくて穂波ちゃんか……)

 

すっかり見慣れてしまっているが、軍装こそ着ているものの穂波の外見は中学生そのものなのだ。

斯波中の頃と変わらぬ2本のお下げ髪を首の後ろに下げたその姿を、可愛らしいと言われるのも仕方の無い事だろう。

「ああ、今日はな、この連れ達に旨いものを食わせてやろうと思ったのでな」

「イヤですよ、それならもっといいお店が他にあるでしょうに」

「何を言うか♪ 格式や値段の高い店が必ず旨いものを食わせる訳ではないぞ。まぁとにかく何時ものヤツを3つ揚げてはくれまいか」

「はいはい、ちょっとお待ち下さいね」

どうやら此処は長門の馴染みの店の様だ。

とは言え、どう見てもこの商店街と長門は釣り合っていない様に見える。

 

(ただとんでもない美人だってだけじゃないよな、収入だって……)

 

公開されている訳でも無いので噂に近いレベルだが、オリジナルに支払われている報酬は上級士官どころか将官級かそれ以上だとも言われている。

事実、長門が身に付けている一見地味な装いも、近くで見ると極めて上質な逸品なのが(彼の目では辛うじてだが)分かる。

「はい、お待ちどう様」

「おおこれだこれ、お前達、何はともあれこれを食ってみろ♪」

「あ、はい――」

「済みません、いただきます」

正直なところ彼女がやたらににこやかなので、却って半信半疑でそれを口にする。

「えっ! 旨っ⁉」

「本当、凄く美味しい――」

「あらぁ~、有難うね♪」

「ハハハ、そうこなくてはいかん。では女将、今日はこれだけで済まんが、この連中に一通り味見をさせてやる積もりなのでな」

「いいえー、またゆっくり来て下さいね~」

そう言って別れを告げた長門は、自身もまだ口を動かしながら歩き始めるので、隼太と穂波も慌てて後に続く。

「長門さんは、良くこちらへ来られるんですか?」

「いや、良くと言う程ではないな。だが、私は観光地や繁華な街というのはあまり得意ではないのだ」

「でも、凄く意外です、こんな所へいらっしゃるだなんて――」

「おっ! 一体どこの別嬪さんかと思や長門さんじゃねぇか!」

「おお大将、相変わらず元気そうだな。それに何時もながら世辞が上手いことだ♪」

「世辞な訳ねぇじゃねえか、兄ちゃんもそう思うだろ?」

海鮮の焼ける香ばしい香りに包まれた店頭から威勢よく声を掛けた初老の男性は、そう言って隼太に話を振る。

「あ、はい! 自分もそう思います」

「こら、少しは私に気を遣ってはどうだ?」

「ハハハ、勘弁してやってくんな、兄ちゃんは正直なだけさね」

「やれやれ、仕様のない事だ。それはさておき大将、旨いところを見繕って3串焙ってはくれまいか」

「あいよ、ちょっと待っててくんな!」

 

こんな風にして、長門はアーケードのあちらこちらに立ち寄っては店主達の歓迎を受けつつ、2人を連れ回す。

そしてこの活気のある商店街を抜ける頃には、2人の小腹が満たされるどころか、たとえ昼食に高級料理を振舞われてもそれが入る余地もない程になっていた。

「どうだ、少しは腹がくちくはなったか?」

「いえ、ほとんど満腹です」

「もう、これ以上は食べられません……」

「そうか、ならば良かった。そう言うことならば少々腹ごなしがいりそうだな」

そう楽しげに言った彼女は、再び先頭に立って歩き始める。

「で、でも全部出して頂いたままでは――」

「そうです、幾ら何でもそこ迄して頂いては……」

「まぁそう言うな、若い者に奢ってやるのは私の楽しみの一つだというのに、それを奪おうとは酷な事を言う♪」

「あ、はいー―」

「ほ、本当に有難うございます……」

そんな風に言葉を交わしながら歩く彼らは、やがて賑やかな歩行者道路に出る。

そこは先程迄の生活感溢れる街並みとは違い、如何にも繁華街という風情に満ちていた。

「この通りを港に向かって真っ直ぐ歩いていくと、所謂馬車道になる」

「あ、ここがそうなんですか」

「やっぱり人が多いんですねぇ」

「それはそうだ、何せ今日はクリスマスイブなのだからな」

そう言った長門は、2人の背中をグイっと押し、

「さぁ道案内は幾らでもしてやるが、そろそろ付き添いの立場に戻らせて貰うぞ♪ お前達が好きな様に歩け」

「あ――はい!」

「一応一言言っておくとだな、この通りをずっと行った先が横濱で最も華やかな処の一つだ」

「確かそうですよね――ネットで調べただけですけど……」

「だからこそ、お前達が実際に行って確かめてみろ♪」

「はい」

そう言い交わして再び歩き始めた3人は、次第に街の雰囲気の中に埋没していく。

あちらこちらの店頭からは楽し気なクリスマスソングが、赤と緑、そして金と銀に飾り付けられた通りに響き渡る。

思い思いに着飾って歩く人々の中には男女の2人連れの姿も目立ち、手を繋いだり腕を組んだりして歩く様子が嫌でも目に入る。

最初の内こそ背後の長門の存在を意識していた隼太と穂波だったが、先程迄とは打って変わって気配をすっかり消してしまった彼女の存在が次第に意識の中で遠のき始める。

 

(あれは、まだ秋の初め――いや、夏の終わりだったよな)

 

穂波の手をしっかりと握って歩いた盛岡の目抜き通りは、彼らにとって希望と幸福に満ちた世界だった。

 

(でも――今だって同じだ、俺の隣には穂波ちゃんがいる――俺はやっと取り戻せたんだ)

 

そう思って彼女に目をやると、穂波もまた彼を顧みる。

その眼差しは彼の想いに応えているのか、それとも彼女自身の想いを伝えようとしているのか、胸が高鳴るような煌めきを湛えている。

 

(穂波ちゃん……)

 

その瞬間、彼は周囲の全てを忘れていたが、それはどうやら彼女も同じだった様だ。

隼太がそっと伸ばした手を、穂波は大切な物でも扱う様に触れると、そのまま優しく包み込むかの如く握りしめる。

暖かいのに不思議にひんやりとした柔らかいその手の感触が隼太の脳裏を支配し、目に見える景色を変えてしまう。

遠い横濱の地にありながら、そこはあの日彼女と2人で歩いた懐かしい街だった。

鼻の奥がツンとする様な郷愁と、年月を経て再び巡り合ったその愛おしさが綯い交ぜになった不思議な感情に、後頭部が痺れる様な感覚を覚える。

恥ずかし気に少し俯いた穂波は、あの日彼が見たそのままの姿で彼の隣にいた。

そして隼太もまたいつしかあの日のままの姿に戻っていた。

2人は遠いあの日のままの若さと好奇心とに任せて漫ろ歩き、その目に映るもの全てが彼らに約束された幸福そのものの様に見えた。

間もなく遊歩道は終わり、鉄道の高架下を潜ってやや狭い通りの両側に広々とした歩道が現れたが、それでも2人の足は止まらない。

まるで夢の中にいるように疲れを知らぬ隼太と穂波は、やがて広々とした通りに出る。

「お前達は本当に楽しそうだな」

 

(あっ!)

 

それ迄全く空気の様に気配を消していた長門が声を掛けたので彼らは一瞬の内に横濱の街に戻り、しかも再び5つ程歳を経っていた。

「す、すみません」

「長門さんのこと、何も考えていなくて……」

「ハハハ、付き添いとはそう言うものだろう♪ お前達がそう言ってくれたと言う事は、私は立派に付き添い役が勤まっているという事ではないか」

相変わらず彼女は楽しそうで、それでいてとても泰然としている。

 

(何なんだろうこの(ひと)は――器が大きいっていうのか、余裕があるっていうのか……)

 

「さぁお前達はどちらへ行くのだ? 真っ直ぐか? 右か? 左か?」

微笑した長門にそう問われた2人は顔を見合わせる。

「あのね?」

「うん」

「こっちは行ったことがあると思うの」

「じゃあ、こっちだね」

「ふふふ、では行こう。お前達の興味の赴くままで良いぞ♪」

「はい!」

三度(みたび)歩き始めた彼らはやがて橋の上を過ぎ、真っ白な帆船が係留された公園に差し掛かる。

傍らには見上げると首が痛くなる程の高層ビルがあり、如何にも都会といった情景だ。

「凄いよねぇ」

「うん、でも結構古そうな感じ」

「でも、この船の方がずっと古そうだよね」

「うん」

そんな会話を交わしながら歩く2人は、例によって長門の存在を忘れ掛けていたのだが、ふと振り返った穂波が声を上げる。

「あれ?」

「どしたの?」

「長門さん――どこかなぁ」

「えっ? あっ、あそこじゃない?」

「あ、そうだね、どうしたのかな……」

公園の一隅に立ち止まった彼女は、何やら角張ったものを片耳に当てて口を動かしている。

 

(そうか、長門さんは持ってるんだ)

 

既に述べたように、一般人がスマートフォンや携帯電話の様な移動体通信を利用することはほぼ出来なくなっており、公的機関や一部の業務用でしか見ることは無くなっていた。

しかし、やはり長門のような要人はそれを所持することが許されているのだろう。

そしてどうやら彼女は誰かと通話中の様だ。

やがて、通話を終えたらしい彼女は被りを振りながら2人の許へと近づいてくる。

「どうかされましたか?」

彼女の顔が先程迄とは違って少々しかめ面になっているのを見て取った隼太が声を掛けると、長門はやはりその表情そのままの口調で応える。

「いささか面倒なことになった」

「え、どうされたんですか?」

「いや急な用事でな、どうしても行かねばならん所が出来てしまったのだ」

「そうなんですか?」

「それじゃ、急ぎ隊へ戻りましょう」

「馬鹿を言うな、せっかくお前達が許可された外出を無駄にする訳にはいかんぞ」

「ですが――」

「大丈夫だ、行く先はここからの方が近いし、それ程長時間ではないからな」

「でもわたし達がお邪魔する訳にはいかないんじゃ無いですか?」

「ああ無論だ。お前達にはまことに済まん事だが、私が外している間は細心の注意を払って行動して貰わねばならん」

「えっ……」

「これもまた重要な教育の一環と考えて、慎重に行動するのだぞ。戦場においてはいつ何時予期せぬことが起こって、その場で適切な判断と行動が求められる事もあるのだからな」

「長門さん……」

「私は13時には用件を終えて戻ってこれるだろう。その時間にここで再び落ち合うことにしよう。いいか、時間厳守だぞ?」

「は、はい!」

あまりの事にまだ頭がついていかないままにそう返事をした彼らに向かって、長門は急にあらぬ方へ顎をしゃくって見せる。

「とは言っても、付き添いの私が外している間にどんなトラブルに巻き込まれるかも知れんからな。それを避けるためには、あの様な人と接触せずに済むような場所で出来るだけ時間を過ごすようにする事だ。不便を掛けて済まんが大目に見てくれると助かる」

事態がよく呑み込めないまま振り返った2人の目に映ったのは、どう見てもこの地区のランドマークとも言うべき大観覧車だ。

 

(まさか、長門さん……)

 

さすがに彼らも長門の意図を悟る。

彼女は如何にも別件が出来たような顔をして、隼太と穂波が2人切りになれる時間を作ってくれているのだった。

「あ、有難うございます!」

「お気遣い頂いて申し訳ありません」

慌てて口々に礼を言ったものの、相変わらず渋面を崩さぬ長門は素っ気なく応じる。

「一体なにを誤解しているのか知らんが、私には重要な要件があるのだ。では約束の時間を忘れるなよ」

それだけを言い残すと足早に歩き去っていく彼女を見送る2人は、思わず同時に溜息を吐く。

「長門さんって――何だか凄いよね……」

「本当だよ~あんなとんでもない美人の上に、こんな心配り迄出来る人なんて絶対どこにもいないよ……」

「……」

「……」

「あのさ――」

「そうだよね――」

「うん、海軍精神だよね」

「――うん♪」

せっかく長門が作ってくれた時間を無駄にする訳にはいかない。

そう短く確認しあった隼太と穂波は、公園を突っ切って運河に係る橋へと向かう。

その軽やかな足取りは、正に遠いあの日の2人そのものだった。

 

 



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【第四章・第五節】

 観覧車の順番を待つ列に並んだ時、彼らはまた新たなことに気が付いた。

前後に並ぶ他の客達の話によれば、昼時はどうやら列が短いらしいのだ。

おそらく昼食を優先する者が多いからなのだろうが、更に言うならこの観覧車は日が暮れてから街の夜景を見る目的の客が多いらしく、それもあってこの時間は待ち時間が少ない様だ。

「つまり、長門さんは最初からここ迄考えてたってことだよね?」

「うん、そうなんじゃないかなぁ」

「だったら何だかもう頭上がんないっていうか、なんて言ったらいいか分かんないよ~」

「本当にそうだね♪」

改めて彼女の配慮に感謝しつつ順番を待った2人は、程なくしてゴンドラに乗ることができた。

 

先に乗り込んだ隼太は、穂波に向かって手を差し出す。

「足元気を付けて」

「あっ、う、うん」

昔もそうだったが、彼女は決して運動神経が鈍いわけではないものの、性格なのかやはり一瞬躊躇ってしまう様だ。

 

(戦闘機動の時は、普通にキビキビしてて素早いのになぁ♪)

 

その辺りが如何にも穂波らしいところだろうか。

とは言え余り時間が掛かると危ないので、自分が受け止めるつもりで空いた片手を伸ばしてグイっと体ごと引っ張りあげる。

「きゃっ!」

「ほら大丈夫♪」

そう言いながらも、倒れこんできた彼女の勢いを吸収するためにストンと背後のベンチシートに腰を落とす。

「は、隼太君――」

意図した訳ではないのだが抱きかかえた状態になってしまったので、穂波が戸惑ったように声を上げる。

「ごめんね、怖かった?」

「あ、えっと――ううん、平気だよぉ」

そう言って笑顔を浮かべた彼女は、数秒間逡巡した後にそっと隼太の胸に体を預けてきた。

昔の隼太であれば、これだけでもう心臓が破裂しそうな程動悸が激しくなったところだが、今は全く違っていた。

 

(何だろう、この感じ……)

 

全身に何かが充填されていく――熱くもなければ冷たくもない、とても滑らかでいてそして同時にしっとりとして簡単には揺るがない――摩訶不思議な液体の様な何か――。

 

(充実――そうだ、俺は今充実してるんだ……)

 

そう俄かに悟った彼は、迷わず穂波を抱いたその腕にスッと力を籠める。

それを感じ取った彼女が束の間身を固くするが、一瞬の後にはその緊張を解いていた。

 

「ずっと――ずっと待ってたんだ――」

 

「うん――」

 

「何時か、何時かこんな時が来るのを待ってたんだ――ずっとね……」

 

「――わたしもだよ――ずっと、待ってたよ……」

 

「やっと来れたんだ――やっとここ迄来れたんだ――君の許へ」

 

「信じてたよ、何時かきっと来てくれるって……」

 

そう言った穂波の手が彼の腕をキュッと握りしめる。

 

遠いあの日、まだそれを表現する言葉を持たなかった彼が感じたその気持ち――愛おしさが体の奥から噴き上げてくる。

 

彼女を抱き寄せながら見つめると、潤んだ様な瞳が見詰め返してきた。

 

何かを言おうと思ったのだが、何も言葉が浮かんでこない。

 

いや、浮かばなかったのではなく必要が無かっただけなのだろう。

 

彼の腕の中で穂波がそっと目を閉じたその刹那、それは確信に変わった。

 

己の唇が、彼女の甘く蕩ける様な唇に触れるとともに、新たな情熱が湧いてくる。

 

まるでドアをノックするかの様に舌で彼女の歯に触れると、それ迄どこか遠慮がちに半ば閉じていたその口が開いて彼を受け入れる。

 

そして暖かく滑り、うねる様な舌がおずおずと彼を迎え入れ、欲望に身を任せるかの如く絡み合う。

 

互いの唾液が交じり合うのを感じると、体の奥から言い知れぬ昂ぶりが満ちてきて、更に強く互いを求めずにはいられなくなる。

 

一体どれ程の間そうしていたのか、少しずつ潮が引くように興奮と熱情が退いていく感覚の中で、2人は名残惜し気に身を離す。

 

酩酊から覚めたように上気した顔で見つめあった彼らだったが、互いの視線がしっかりと交わった瞬間穂波が真っ赤になり、隼太の胸に顔を埋める。

 

先程とは違い今度は力を入れずに優しく抱き締めると、胸の中で彼女が呟く。

「恥ずかしい……けど――とっても嬉しい……」

「俺だって嬉しいよ、っていうか俺の方がずぅっと嬉しいからね」

「そんなことないよ、わたしの方がずっと嬉しいよぉ」

「ふふふ」

「うふふ」

「ハハハ♪」

「うふふふ♪」

「――やっぱり同じだね」

「うん、おんなじ」

そう言った穂波が、少し顔を上げて上目遣いに彼を見つめる。

「大好きだよ」

「うん、俺も大好き」

そう言い交わした2人は、ここで初めてゴンドラの外に目を向ける。

とても長い時間が経った様な気がしていたが、まだ彼らは眼下に広がる横濱の街の風景の中を上昇していくところだった。

 

「どうしよう、他の人に一杯見られちゃったかな……」

「そうかも知れないけど、きっと皆そんなに気にしてないんじゃないかなぁ」

「でも――やっぱり恥ずかしい」

「ごめんね、嫌だった?」

「ううん、そんな事ないよぉ――只ちょっと恥ずかしいだけ」

そうはにかむ様に言うと彼女は隼太の手を取り、互いの指を絡ませる。

「とても長かった様な気もするけど――でも、今振り返ったらほんの少ししか経ってない様な気もするよ」

「うん、本当にそう……」

「正直に言うとね、俺、最初の穂波ちゃんからの手紙読んだ時さ、泣いちゃったんだよ」

「――わたしもだよぉ」

「本当に?」

「うん、凄く凄く隼太君に会いたくてね、一生懸命我慢しても涙が止まらなかったの」

「俺もそうだよ、穂波ちゃんに会いたくて仕方がなかったから大声で叫んで我慢しようとしたんだ」

「うふふ、本当にぃ?」

「うん、浪江のヤツが部屋の扉ドンドン叩いてさぁ、『あんちゃん! あんべわりぃんが⁉』って大声出すんだよ」

「そんなのわたしだって言っちゃうよぉ♪」

「本当に、穂波ちゃんだったら良かったのに♪」

「うふふふふ♪」

屈託なく笑った穂波がしな垂れ掛かってくる。

 

「でも、まだちょっと信じられない――隼太君とこうしていられるなんて……」

「俺は信じられるよ、夢の中の穂波ちゃんじゃなくて正真正銘本物の穂波ちゃんに会う為に5年掛けたんだから」

「わたしもだよ――最初はね、辛くて寂しくて何度も泣いたけど、でも、何時かきっと隼太君が来てくれると思って我慢してたもの……」

思わず彼女に回した腕に力が入る。

「もう大丈夫だよ、俺は君のすぐ傍にいるから――どんな事があっても一緒だからね」

「有難う――でも――これが夢でも幻でもなくて本当の事だって思えば思う程ね、怖くなって来ちゃうの」

「――それは――やっぱり、2人とも何時戦死してもおかしくないって思うから?」

「――そうなのかも知れない――けど、何だかそれだけじゃないような気もするの」

「それって――何か分からない?」

「――――うん……」

掴み処のない不安に苛まれるその華奢な体を、もう一度しっかり抱き締める。

「さっき言ったのはね、嘘でも空元気でもないよ」

「うん」

「何があっても穂波ちゃんを独りにはしないからね」

「うん」

「海の上で、弾に中る瞬間が何時来るのかは分からないけど、でも――それでも俺は君と一緒だから」

「――うん……」

 

黙ったままで2人は抱き合い、暫くの間互いの心臓の鼓動と息遣いだけを感じていた。

 

やがて彼女の腕から力が抜け、ほーっと長い吐息が漏れる。

 

「嬉しい――隼太君が傍にいてくれて、とっても嬉しい……」

「……」

「……」

「――あのね、穂波ちゃん」

「なあに?」

「これから――どうする?」

「あ――うん……」

「河勝にさ、言われたんだよ」

「なんて?」

「穂波ちゃんと話し合ってさ、1日でも早く一緒に除隊して村に戻ること考えた方が良いんじゃないかってね」

「……」

「そんなの無理?」

「ううん、そんなことないよ――だって――本当はわたしだって1日でも早くね、隼太君と一緒に村へ帰りたいもの……」

「でも――今すぐには――やっぱり出来ない?」

「――うん……今はまだ……皆の事置いて行けないよ……」

「まだ、時間がいる?」

「うん――それが時間なのか――もっと違う別の何かなのか――それは分からないけど……」

「白石さんや村越さんはもう心配無い様に思うけどなぁ――いぶきちゃんはちょっと気になるけど」

「隼太君たら酷いよぉ、浪江ちゃんや真奈美ちゃんの事は心配じゃないのぉ?」

「あ、忘れてた♪ でも綾瀬は大丈夫な感じだよねぇ、浪江は確かに気になるけど」

「浪江ちゃんの事、何か聞いてる?」

「実はね、この間ちょっと聞いたよ」

「うちの班長さんとかね、学校の教官の人達が何時も言ってたの『適性があるのも良し悪しだ』って」

「適性かぁ、でも浪江と綾瀬だったら適性には差が無いとか聞いたけど?」

「うん――でも、真奈美ちゃんのこと見てたら何となく分かるでしょ?」

「うん、分かる。あれで練度が上がったらひょっとして凄いヤツになるんじゃないかって思うよ」

「実際ね、そう言われてるらしいよぉ」

「そっかぁ、それに比べたら浪江のヤツは――」

「あのね、内緒だよ?」

「うん?」

「何だかね、ちょっといぶきちゃんに似てる感じ」

「あっ……それってさ、ちょっと不味い?」

「うふふ、知らない♪」

クスクス笑った彼女が胸に顔をギュッと押し付けてくる。

「こらっ♪」

そう言って力一杯抱き締めると、胸の中で軽く暴れた穂波はモガモガといった後で

「降参! こうさんだよぉ♪」

と声を上げる。

「ふふふ、参ったか♪」

「もう、参ったって言ったよぉ♪」

口を尖らせる彼女は、またどうしようもない程可愛かった。

我慢出来ずにスッと顔を寄せると、先程よりもずっと自然に彼の腕に体を預けた穂波は、軽く小首を傾げて目を閉じる。

微かに開かれたその唇に吸いつくように唇を重ねると、ゆっくり味わう様に互いの舌を舐め合う。

その艶めかしい感触を十分に堪能したと感じた彼らは、チュッと音を立てながら顔を離すが、今度は暫く見つめ合いながらキスの余韻を楽しむ。

「2回もしちゃったね♪」

「でも、もっともっとしたいよ」

「うふふ、隼太君のエッチ」

彼の胸元にその頬が軽く押し付けられる。

 

「――ちゃんと、考えるからね」

 

「うん」

 

「だからね、もう少しだけ待っててくれる?」

 

「待ってるよ、こうして傍にいれば何時まででも待てるよ」

 

「――ありがとう……大好き」

 

「でもね、俺の方がずっと好きなんだ」

「違うよ、おんなじだよぉ」

「同じだね♪」

「うん♪」

 

いつの間にか地上が近づいていた。

僅か20分の逢瀬だったが、それは彼らにとってこの上もなく満ち足りた時間だった。

 

 



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【第四章・第六節】

 それからも暫くの間2人だけの時間を楽しんだ隼太と穂波は、長門との待ち合わせ場所に余裕を持って到着した。

そして丁度5分前になったと思ったその時、彼らの背後から声が掛かる。

「うむ、5分前行動が徹底出来ているな、それでいいぞ♪」

「あ、はい!」

「長門さん、お帰りなさい」

「いやいや、お前達にはすっかり迷惑を掛けてしまったな」

「迷惑だなんて、そんな――」

「そうです、本当に楽しかったです」

そう口々に言う彼らに微笑だけで応えた長門は、サッと遠くに視線を走らせると話題を切り替える。

「それでお前達はこれからどこへ行きたいのだ?」

「あの――特にここへ行きたいという処は……」

「まだ少し時間がありますから、どうしようかとは思ってましたが」

「そうか、ではお前達さえ良ければ少し私に付き合ってくれるか?」

「はい!」

「お供して宜しいところですか?」

「ああ、無論だ――が、念のために聞いておこう。お前達、甘いものは苦手ではないか?」

「はい、結構いける方だと思ってます」

「とっても好きです」

「ならば何の心配も要らんな、では行こう」

かくて3人は再び引率者となった長門を先頭に歩き始める。

 

繁華街から離れて比較的静かな街に向かった彼らは、程なくして落ち着いた雰囲気のカフェと言うべきか喫茶店と言うべきなのか――の前に立つ。

「こちらですか?」

「ああ、そうだ、少々久し振りなのだがな」

 

(なんか、甘いもの出す様なお店に見えないな)

 

そう思っていると穂波もまたそう感じたらしく、彼をちらりと一瞥する。

しかし彼らが目語しているのに気を留めることも無く、長門は淡い色合いのタイル張りの低い段を上がってドアに手を掛けていた。

少々年季が入ってはいるものの小ざっぱりとした構えに似つかわしい、チリンチリンと言う控え目な音色と共に彼女は店内に足を踏み入れる。

外観と同じく余り飾り気の無いやや古びた店内に居たのは、老境に至って久しいと思われる白髪の男性だった。

「おお、これはいらっしゃいませ長門さん」

「いや、随分無沙汰をしているなマスター、1年振りか、それとももっとだろうか」

「いえいえ、私の様な老人にとっての1年など昨日の事みたいなものですよ」

「またその様な事を♪ マスターにはまだまだ長生きして、この店を続けて貰わねばならんのに」

「ええ、体が続く限りはやらせて貰いますが、それが何時迄なのかは神様任せですな」

「それは奥に居る神様の事かな?」

「どちらもですよ、長門さん。そちらのお連れ様方も同じものでよろしいので?」

「ああ、もちろんだ。その為に来たのだからな」

そんな会話を続けながら、その『マスター』は窓際の4人掛けテーブルにコースターを3つ並べて奥へと下がっていく。

「さぁ、とにかく座れ」

「はい」

「失礼します」

穂波と並んで、コートを脱いだ長門と向かい合って腰を下すが、窓の外に心なしか眩し気な視線を投げかける彼女の姿に形容し難い不思議な感覚を覚え、言葉が出てこなくなる。

 

「あの――長門さんはこちらには良くいらっしゃるんですか?」

やはりどんな時でもペースを乱さない穂波は、隼太がつい口を噤んでしまっても不自然な間が空いて仕舞わない様に無難なフォローをしてくれる。

「そうだな、最近は色々あって足が遠のいてはいたがな」

「そうなんですね、でもちょっと意外です、甘いものがお好きだなんて」

「まぁ、私もこの店を知ることが無ければ、そうはならなかったかも知れんな」

「何だか凄いものが出てきそうですね、楽しみです」

「凄いかどうかは分からんな♪ ただ、私は最初にここに来た時、陸の上にはこんなとんでもないものがあるのかと衝撃を受けたのは事実だな」

「それってかなり以前のお話って言う事ですか?」

やっと話に追い付いて会話に参加した隼太に向かって、彼女は軽く微笑みながら応える。

「ああそうだ、もう20年以上も前の事になる」

 

(あっ、まただ……)

 

先程感じた不思議な感覚――表現し難いのだが、まるで彼女以外の誰かがその場にいる様な――。

 

「――済みません、ひょっとしてお聞きしてはいけないことでしたか?」

穂波も何かを感じ取ったのか、口調が変わっている。

「いや、そんなことは無いぞ、ただ昔の事を思い出しているだけの事だ」

「そうですか、失礼でなければいいんですが……」

「長門さんに限って、その様な心配はご無用だと思いますよ」

突然横合いから違う声がしたのでハッとするが、そこにはいつの間にか先程のマスターが立っていた。

彼は使い込まれた真鍮製のトレーを手にしており、その上には複雑な輝きを見せる色ガラスの容器に盛り付けられたパフェと思しきモノが3つ載せられている。

「美味しそう――」

思わずといった調子で穂波が呟く。

「そう思うだろう? 私も一遍で病みつきになってしまってな」

「お褒めを頂いて光栄ですが、こんな寒い時節によろしかったのやら」

「いえ、寒い時に冷たいもの食べるのとか嫌いじゃないですから」

実際彼らのテーブルは陽射しの温もりが感じられ、比較的寒さが穏やかなこともあって場違い感は無い(とは言えホワイトクリスマスが全く期待出来そうに無い点は残念だが……)。

コトンコトンと控えめな音と共に3人の前にそれらを配したマスターが一礼して引き下がると、再び長門が口を開く。

「さぁ、話は後から幾らでも出来る。何はともあれ食ってみろ」

「あ、はい」

「頂きます」

器に添えられた洋銀製の匙でそっとプディングとクリームを掬い取って口に運ぶ。

「うわ――」

「美味しい……」

感想を言おうとした隼太の言葉を遮る様に発せられた穂波の言葉は、彼女が意識することなく自然に発した様だ。

横を見た彼の目に映ったのは、子供の様にキラキラと輝く瞳だった。

「穂波ちゃん、そんなに?」

「うん――こんなの食べた事ない……」

答えるのももどかし気に、彼女は更にもう一匙口に運ぶ。

「ふふふ、最初にここへ来た時の私も、おそらくそんな表情(かお)をしていたのだろうな」

「そうだったんですね――確かにちょっと経験したこと無い美味しさです」

「そうだろう、そう来なくてはな♪」

楽しそうに応じた長門の瞳も星の様に煌めいている。

その余りの美しさにドキリとした彼の目に、一瞬彼女の姿が別の姿と二重になった様に映る。

 

(なんだ、一体?)

 

「どうかしたのか?」

「あっ、いえ、その――目がおかしくなったのかも知れません――錯覚かな……」

「――いや、一概にそうとは言えんかも知れんな」

「えっ、どういう事ですか?」

「ひょっとしてお前の目には私ではない別の姿が重なって見えたのではないか?」

「え――そ――そうです! 何かご存じなんですか?」

 

だが彼女はそれには応えず、黙って再び窓の外を眺める。

その眼差しは遥か遠くに――おそらくは彼らが生まれるより以前の過ぎ去った日々へと向けられていた。

 

「申し訳ありません――やはりお聞きすべき事ではありませんでした……」

いつの間にか手を止めていた穂波が申し訳なさそうに詫びるが、窓外に視線を向けたままで長門が応じる。

「そんなことは無い、そうでなければ、お前達をこんな処へ連れて来たりはせんよ」

そう言った彼女は、遠い時の彼方へと向けていた瞳を彼らへと戻し、フッと口許に笑みを浮かべる。

「それにしても、お前達は本当に2人で1人の様に話すのだな♪」

「い、いえ、その……」

「ほな――いえ、彼女が自分をフォローしてくれてるだけです、自分は思い付きで喋ってるだけですから……」

「そうか、だがな、やはりお前達はどこか似ているのだ。姿形は似ても似つかんのだがな……」

咄嗟に『誰にですか?』と聞きそうになったのだが、穂波が腕を掴んだので辛うじて思い止まる。

とは言え長門にはすぐ分かったらしく、苦笑されてしまう。

「お前達を見ていると、本当にあの頃を思い出す――20数年前の事だというのにな――――あの日食べたこの味を特別なものにしてくれたのは、傍らに我が妹が居てくれたからなのだろう……」

 

「妹さん……」

 

「――陸奥さん――ですね……」

 

「――そうだ」

 

彼らはもちろん、陸奥の名は聞いていた。

軍の教育課程では必ず学ぶ、深海棲艦との戦争に先立つ前史とでも言うべきものだ。

『ファースト・コンタクト』として語られるオリジナル(但し当時は『艦娘』と呼ばれていた)と人類との最初の接触において必ず出る名前であり、これ迄に地上に存在した全てのオリジナルの中で最初にサルベージされて天上に去ったのが彼女なのだ。

ファーストコンタクトから10数年後に現在の艦娘が登場し、それから少なからぬ数の穂波の様な人間の女性が艦娘となったが、今のところ陸奥の適性を持った艦娘は一人も出現していない。

ただの偶然なのかも知れないが、それでも今後もきっと現れないだろうとまことしやかに語られる程、その存在は神秘的だ。

 

「あ、あの――」

「どうした、そんなに固くなる必要は無いぞ」

「あ、はい、先程言われた別の姿と言うのは陸奥さんの事なんでしょうか?」

「私が見た訳ではないので断言は出来んが、そうだと言った者も過去には居たのだ」

「それはつまり、彼が初めてではないという事なんですね」

「うむ、合理的な説明は全く出来んのだがな」

「そうですか……」

「ただ、私はこう思っている。我が妹は確かに天上に去りはしたが、同時にいつも我々の傍に寄り添ってくれているのだとな。だからこそ、思いの通じる者はその姿を見てしまうのだと……」

 

「……」

 

「……」

 

暫し沈黙が流れた後で長門がフッと表情を緩める。

「折角美味しいものが目の前にあるというのに、徒に手を止めさせてしまったな♪ さぁ、溶けてしまわぬ内にちゃんと味わっておこう」

「はい」

実際それは特別に甘党な訳でも無い隼太にとっても、得も言われぬ程の体験そのものだ。

ましてそれが女性であれば、それこそ長門の言う様に病みつきになっても不思議はないだろう。

ただ、今の彼は先程の説明不可能な体験もあって、陸奥にかかわる話が気になって仕方が無い。

そんな訳で、一頻りカチャカチャと匙を動かした後、頃合いをみてつい質問を重ねてしまう。

「その、やっぱり陸奥さんは――」

「もう、隼太君⁉」

こんな時は躊躇する様子も見せない穂波が彼の太腿をキュッと抓り掛けるので、慌てて詫びる。

「ご、ゴメン」

「しつこく根掘り葉掘りしたら駄目!」

「ハハハ、もう敷島は五十田に頭が上がらんのか。ますます似ていることだ♪」

「そ、そうなんですか?」

「ああ、そうだ。もっとも、お前はそれ程優柔不断な訳では無さそうだがな」

「優柔不断な方――なんですか? その何方かは」

「そうだな、さっき我が妹は我々の傍にいてくれると言ったが、それは別に私が心配な訳ではないだろうな、その優柔不断な男が心配で仕方がないのだろう♪」

まるで傍らに本当に陸奥その人がいるかの様な口振りで笑った彼女は、心なしか楽し気だった。

 

「陸奥さんは――その方をとても大切に思っていらっしゃったんですね」

 

「――その通りだ、我が妹がこの地上でただ一人、心から愛した男だ」

 

(あっ!)

 

突然何の脈絡もなく隼太の脳裏を過ったもの――それは、あの日見上げた渡来司令の瞳だった。

 

あの哀しみを湛えた眼差しのその理由とはひょっとして――。

 

しかし、彼の心の動きは穂波に筒抜けの様で、口を動かす前から釘を刺されてしまう。

「隼太君、もう駄目だからね?」

「ほ、穂波ちゃん――分かったよ、もう聞かないから」

「本当に気を付けて? 失礼だよ!」

「敷島よ、生殺しの様なことをして済まんが、私も時には誰かに話したくなってしまうのだ。赦しては貰えまいか♪ 五十田もどうか敷島を勘弁してやって欲しい」

微笑をまた苦笑に切り替えた長門が可笑しそうに言うと、穂波が2人を代表して答える

「はい、長門さんがそうおっしゃるのでしたら♪」

「それは有り難いことだ、良かったな敷島よ♪」

「あ、はい、恐れ入ります……」

「ハハハハハ♪」

「うふふふ♪」

 

(なんだかなぁ――まぁ仕方ないか)

 

いささか煙に巻かれてしまった様で、なんとなくモヤモヤとはするのだが、此処まで長門と穂波に楽しそうに笑われてしまっては蒸し返すことなど出来そうにない。

そんな訳で、彼としてはパフェの残りを平らげることで一先ず満足するしかなかった。

 

 



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【第四章・第七節】

 夢の様に楽しい一日が終わり、彼らはどうやら門限迄に帰隊した。

「今日は本当に有難うございました」

「長門さんに付き添って頂いて、楽しく過ごすことが出来ました」

「そうか、それは何よりだ。私もお前達のお陰でリフレッシュをさせて貰えたしな」

「いえ、そんな――最初から最後迄ずっとご配慮を頂いてばかりで申し訳ありませんでした」

「そう恐縮するな、その分本来の職務に精励してくれれば良い事だ♪」

「はい」

「忘れずに心掛けます」

「うむ、何れ機会があればまたこの様に共に過ごすこともあろう。その時迄くれぐれも自愛するのだぞ」

「承知しました!」

「有難うございました!」

口々に応じた2人に満足したのか、微笑を浮かべた長門はさっと身を翻すと構内を歩き去っていく。

その後姿を暫く見送った隼太と穂波だったが、やがて同時にほーっと溜息を吐いて顔を見合わせる。

「長門さんには本当に感謝だねぇ」

「うん、――でも隼太君、失礼な事しちゃ駄目だよぉ」

「ごめんね、これからは気を付けるよ」

「わたし達もね、余りはっきりとじゃないけど随分色々な事があったって聞いてるし、やっぱり土足で踏み込まれたくない事もある筈だからね」

「うん、分かったよ。これからも、うっかり口滑らしそうな時は注意してくれるよね♪」

「うふふ、一杯してあげるよぉ♪」

そう笑いあった彼らは、艦娘やその候補生達の居住区画へと向かう。

 

彼ら一般兵のゾーンと穂波達のゾーンはフェンスで区切られており、営内にはその区画に出入りするための門が設けられていた。

隼太はそこ迄穂波を送ってから自分の宿舎に戻るだけの積もりだったが、間もなく余計なことをしなければ良かったと後悔することになる。

件の門に向かう途中、厚生棟から凡そ軍に似つかわしくない華やかな一団が出てくるのに鉢合わせしたからだ。

 

「あぁー! なんですかなんですかぁ~♪」

そう言いながら駆け寄ってきた幼い姿は文谷夏樹(ふみやなつき)だ。

『うさ』で哨戒訓練を実施する候補生は綾瀬だけではなく、この文谷と更にもう一人が交代で乗艦している。

「夏樹ちゃん、駄目だよお邪魔したら……」

気弱そうなもの言いながらもちゃんと文谷を止めに掛かってくれるのがそのもう一人、宇野詩織(うのしおり)だ。

「え~、だってぇ、五十田センパイと敷島さんは海軍コーニンカップルなんだよぉ? 別にへーきですよねぇ♪」

「いや、頼むから公認は勘弁してよ~」

「ほら――敷島さんも先輩も困ってるから……ね?」

止めてくれるのは有難いのだが、いかにも押しの弱い宇野の言い方ではどこまでも無邪気で天真爛漫な文谷を止められそうにない。

「でも、詩織ちゃんも羨ましいって言ってたでしょぉ? えへぇ、文谷もすごーく羨ましいですぅ♪」

「夏樹ちゃん、それ言わないでって言ったでしょ……」

「ふぇぇ~そうだっけー? じゃあ、敷島さんみたいなステキな人が彼氏だったらいいのにって言ってたのもぉ?」

「ちょ、ちょっと夏樹ちゃん!」

急に宇野の声が甲高くなるが、それ以上に隼太がドキッとさせられていた。

ただでさえ彼女はつぶらな瞳とセミロングの黒髪が目立つ美少女なうえに、どことは言えないがとても立派なモノをお持ちで、隊内に熱狂的なファンを抱えているのだ。

そんな宇野から素敵な人などと言われたら、大抵の男はあらぬ期待をしてしまうだろう。

しかし、彼の心の動きがかなり正確に穂波に伝わってしまうのは既に検証済みであり、彼女の指が腿の肉をキュッと摘まむのを感じて震えあがる。

「そ、それよりさ、今日は皆でクリスマスパーティとかだったのかな?」

必死で話を逸らそうとしたのだが、結果的にこれは失敗だった。

さっさと往なして穂波を門迄送ってしまうべきだったのだが、焦っていたとしか言いようがない。

「そうなんですよぉ~、副長がねぇ、みんなでパーティしましょ! って言って下さったんですぅ」

「娯楽室を借り切って会場にして下さったんです。チキンやケーキとか一杯用意して頂いて……」

無事に話が逸れてホッとしているのは彼だけでなく宇野も同じ様で、口調が元に戻っている。

「そうだったのね、斑駒さんにお礼言った?」

「はい、皆でプレゼント渡しましたよ、先輩にもカンパして頂いた分です」

「あっ、あれ今日渡したのね、有難う」

「文谷はぬいぐるみが良いって言ったんですよぉ、でも却下されちゃいましたぁ~」

「そりゃ、副長に縫い包みはちょっとなぁ」

「ふえぇぇ~そうなんですかぁ?」

こんなにのんびり会話をしていては当たり前の事なのだが、後続の集団が余裕で追い付いて来てしまう。

 

結局2人は艦娘とその候補生全員に晒し者状態になってしまった。

「うわぁ本当に公認デートだったんだぁ、すげー♪」

いきなり大きな声で口火を切ったのは『あつた』所属の三森由紀恵(みもりゆきえ)だ。

彼女は見た目そのままにサバサバとしたボーイッシュな性格なのだが、その口調には心なしか羨んでいると思しき響きも混じっている様だ。

「由紀恵ちゃん、寒いし早く戻ろうよ……穂波ちゃんだって弄られたくないと思うし」

三森の同僚の初田悠希(はつたゆうき)は普段からやけにテンションが低く、休日にも滅多に外出しない事で知られている。

たった今も隼太らを弄って楽しもうなどとは更々思っていない様で、寒さが苦手な事もあって宿舎に戻りたくて仕様がないらしい。

「何だよ悠希は張り合いがねぇなぁ、あたしらだってさぁ、こんな風に公認デート出来るかも知れねぇんだぜ、なぁ?」

そういった彼女が同意を求めたのは『たかちほ』所属の臼井久美子(うすいくみこ)だ。

「えっと、うん、自分が公認デートするかって言われたら分かんないけど……でも、やっぱりちょっと羨ましいかな」

「だよなぁ~、な~んか特別感あるよなぁ」

正直な感想を口にした臼井は遠野の出身で、隼太や穂波とはいわばお隣さん的な同郷者だ。

ほっそりとして色白な彼女は、艤装装着の副作用で髪が灰色に変色している事も相まって淡白な印象を与える。

「でも、素直に羨ましいだけとは言えないなー。だって前線に大切な人と一緒に出るなんてちょっと不安じゃない? どうなんですか?」

臼井に輪を掛けて率直な意見を返し、それでも飽き足らずに穂波に迄話を振ったのは臼井の同僚の浦戸三奈(うらとみな)だ。

彼女は真面目で『純朴』という表現がぴったりくるような性格だが、その所為もあってかこんな風に返答に困る様な事も平然と聞いてしまうところがある。

「えっ、う、うん、それは確かに不安だけど……」

「やっぱりそうですよね、ただ嬉しいだけじゃ無いんじゃないかなぁ~って思ってたんです」

浦戸は確か雫石の出身で、臼井ともども彼らの同郷者であり穂波とも同い年の筈だが、何故かタメ口ではなく敬語を使う。

『たかちほ』では彼女は駆逐艦浦波の呼称で通っており、穂波の以前の呼称である駆逐艦磯波の妹に当たるので、それを意識しているのだろうか。

「三奈ちゃん、そんなこと聞かれても『不安じゃないよ、とっても嬉しい!』とか言えないでしょ――五十田さんも敷島さんも困ってるよ」

「あっそうか、そうですね! どうも済みませんでした」

「あ、いやその、大丈夫だよ……」

「う、うん……」

次第に2人はどう応じればいいのかよく分からなくなってくる。

此処迄の間、斯波府村組の面々は後ろの方でニヤニヤしながらこちらの見物を決め込んでいた。

 

(くっそ~、面白がってないで何とかしてくれよ~)

 

彼のその思いが伝わったのか、やはり後方で見守っていた斑駒が歩み寄って来て助け舟を出してくれる。

「五十田さん、これさっき皆から貰ったわ、本当に有難う」

そう言って手にしたプレゼントの箱を差し出して見せる斑駒は正に救世主だ。

「いえとんでもありません、何時もわたし達にご配慮頂いてますから……」

「フフフ、それでもこんな事して貰えるのってとっても嬉しいわよ♪ それで、今日は2人とも十分に楽しめたのかしら?」

「あ、はい! 本当に有難うございました」

「じゃあ、これでまた明日から業務に精励できるわね♪」

「はい!」

「それにしてもあなた達、意地悪しないで助けてあげなさいよ♪」

言いながら彼女が斯波府村組を振り返ると、こういう時は暗黙の了解の様に白石が応じる。

「申し訳ありません♪ 意地悪の積もりはないんですが、皆やはり今回の事にとても興味があった様ですので、少しは会話をする時間があっても良いなと思ったからです」

そう真面目に思っていたのは多分白石だけだろう。

村越といぶきは明らかにニヤニヤしていたし、例によって浪江はそっぽを向いていたのだから。

「まぁ、そういう思い遣りだったのなら仕方無いわね♪ さぁ、それじゃそろそろ宿舎に戻るわよ」

「はーい!」

「敷島さん、お疲れさまでした」

「うん、有難う」

「先輩! 今度またお話聞かせて下さいね」

「えっ、それはちょっと勘弁して欲しいなぁ」

「え~、ちょっと位いいじゃないですか、ねぇ浪江ちゃん?」

屈託のない綾瀬が止せばいいのに浪江にそう話を振るが、当たり前のように彼女は無視しようとする。

「浪江、ちゃんと真面目にやっとけよ? 積み重ねって大事だからな」

隼太がそう言うと、案の定むきになって言い返してくる。

「そんな事隼兄ぃに言われる迄もないよ⁉ ちゃんと分ってるに決まってるじゃん!」

「だったら良いけどさ、訓練っていざという時出来るもんじゃないから、普段の時にこそ――」

「もう! 隼兄ぃだって新米の癖に偉そうなこと言わないでよ⁉」

彼の言葉を遮ってそう言い放った浪江は、プイと明後日の方を向いて殊更に早足で行ってしまい、綾瀬が済まなそうに一瞥してその後を追う。

 

(はぁっ……)

 

心中思わず溜息を吐いた彼に、斑駒が声を掛ける。

「敷島海士」

「あ、はい!」

「あなたの気持ちは分かるけど、多分逆効果だと思うわ」

「そうなんでしょうか」

「ええ、あなたの言ってる事は全くその通りだと思うし、今のあの子にとって一番大切な事なのは間違いないわ。でも、それをあなたが言っても聞き入れないでしょうね」

「やっぱりそうですか……」

「姪御さんの事が心配なのは分かるけど、教官達はもちろん白石さんも村越さんもその辺りは良く理解してる筈よ。だから、今は我慢して見守ってあげる事ね」

「分かりました、出過ぎた事をして申し訳ありません」

「何言ってるのよ、軍人にはそれはとても大切な資質よ? 何が起こっても黙って見て見ぬふりをする様になったらその部隊はもうお終いだわ」

「あ――はい!」

「分かったら急いで戻ることね、さもないと入浴出来なくなるわよ♪」

「本当だ! 有難うございました副長! これにて失礼致します!」

「ほら、急いで駆け足、駆け足!」

「はい!」

そうキビキビと返事をして宿舎に馳せ戻る隼太の背中を見送った斑駒は、フッと息を漏らして空を見上げる。

急速に暗くなり始めた空には、まるで糸の様に細い月が掛かっていた。

 

 




これで第四章は完結です。
また少し時間を頂いて、次回以降は第五章を投稿する予定ですので、引き続きよろしくお願いします。


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第五章
【第五章・第一節】


第五章の投稿を開始します。
実戦の洗礼は隼太達を掠めてゆき、それぞれの想いが交錯します。


 その日も、いつもと変わらぬ平凡な一日だった。

今日の哨戒担当艦である『かすが』と『たかちほ』は、常日頃と全く変わりなく午前8時に出港していく。

そして隼太と穂波らが乗り組む『うさ』と箕田や三森、初田らが乗り組む『あつた』は通常の在港時点検と訓練に従事していた。

午前中一杯、甲板掃除や備品整理などに精を出した隼太達艦娘支援班は、それらが一通り片付いた午後から自身の持ち場点検に移っていた。

徐々に馴染み始めたコンソールに取り付いて日常点検をはじめた隼太の隣では、穂波といぶきが同じく艤装の日常点検をはじめている。

「お正月も結局雪降らなかったね」

「そうだよね! やっぱりこっちは冬でも暖かいよねぇ」

「うん、俺は雪が降らない正月なんて初めてだから、新鮮だったよ」

「そうだよねー、あたしも初めて横須賀に来た年にね、何時まで経っても雪が降らないから不思議だったもん」

「たまに降っても積もらないよねぇ」

「でも、2、3年前かな? 雪で都心が麻痺とかニュースでやってなかった?」

「うん、やってたけどねぇ」

「そうだよね、ちょっと薄っすら積もった位で1日で無くなっちゃったよね」

「そんなにちょっとだったんだ――やっぱりこっちは違うなぁ。クリスマスに雪が降らないのも普通なんだな」

「それが当たり前なんだね」

「そうだね! ホワイトクリスマスにならなくて残念だったね~♪」

「あっ、いや! そ、そういう意味じゃ無くてねその……」

「う、うん、寒くなくて良かったねっていう事だから……」

「え~本当にそうなのぉ~♪ まぁでも、そこ迄ロマンチックになっちゃったらさすがに妬けちゃうけどね♪」

「いや、何て言うのかその……」

「ご、ごめんね……」

「やだ、そんなんじゃないよ! でもやっぱりクリスマスっ! て感じの横濱の街でラブラブデートなんて、羨ましいんだもん」

「まぁ――楽しく無かったって言ったら噓になるけど……」

「そ、そうだよね……」

思わず口籠る隼太と穂波だったが、軽く溜息を吐いたいぶきは表情を少し切り替えて口を開く。

「ねぇ、隼太君」

「え、なに?」

「清次君ってさぁ、なんか遠慮してるのかなぁ?」

「いやぁ――あいつに限ってそんな事は無いと思うけど?」

「そうだよね、中学の時とかあんなに奥手だったイメージ全然ないよね!」

「俺もそう思うよ」

「だったらさぁ――この間みたいに誘ってあげたらもうちょっとノリのいいリアクションとかあってもおかしくないと思わない?」

「うーん、正直言ってちょっと不思議だったけどね」

「でしょう? 『皆で外出するとかの方が良くないっすか?』とか言っちゃって――何であんなに慎重なのかなぁ?」

「何でだろうなぁ、あいつがそんなに複雑な事考えてるとも思えないし――」

「ひょっとしてさ、高校の時に何かあったの?」

「いや、思い当たる様なこと何も無かったけどな……」

いぶきが不思議がるのも無理はなく、隼太にとっても清次の振る舞いは理解出来ない。

中学時代、人気者のいぶきと1対1でデート出来た者など誰もいなかったのだ。

それを思えば、今こうして競争相手が誰もいなくなった状況は独り勝ちもいいところである。

しかもそのいぶき自身から誘われている訳で、本来なら二つ返事でOKするのが当たり前なのではないのか。

 

(じゃなきゃ、何の為にここまで追い掛けて来たんだよ)

 

「あのさ――」

そう口を開き掛けたその瞬間だった。

「こら、敷島ぁ!」

「は、はい!」

班長の怒声が後甲板に響き渡る。

「口を動かす暇があったら手を動かさんか馬鹿者!」

「はいっ! 申し訳ありません!」

そう叫んで慌てて目の前の作業に戻る隼太を見てクスクス笑った穂波といぶきも、すぐに自分の作業に戻る。

 

それから暫くして、2人がWaveの手を借りながら艤装を台車に載せてその場を離れると、班長が腕組みをしながら近づいてくる。

「貴様、暮れに艦長殿と話したそうだな」

「あ、はい!」

「そんなに姪っ子の事が心配か?」

「はい、ちょっと噂とかも聞いていたもので」

「だが、貴様のその様子では言いたいことが全く伝わった風ではないな」

「はい、艦長殿にもそれを指摘されました」

彼がそう応じると、例によって口元を歪めた班長はフンと鼻息を鳴らして、コンソール脇の作業用椅子に腰を下ろす。

「艦長殿が何と仰ったのか詳しい事は知らんが、耳に痛い話であればある程家族や肉親の言葉というのは届かんものだ。貴様もそうじゃなかったか?」

「はい、何となくですが分かります」

「しかもだ、元々艦娘に対する憧れもあったんだろう?」

「はいそうです」

「俺達凡人には分からん感覚だが、想像してみることは出来る。貴様がもし、ある日突然海上を自分が艦艇そのものになったが如くに自由に駆け回り、腕を振り上げただけでこの艦を真っ二つに出来る砲を撃っ放すことが出来る様になったらどんな気分だ?」

「そうですね――多分自分が途轍もない凄い奴になったと思うでしょうね」

「それが万能感というヤツだ。自分が神にでもなった様な感覚に近いだろう」

「神ですか……」

「ああ、そうだ。しかもあの年齢の娘がそんな神の様な力を持ったと感じたらどうなる? 必死で想像する迄もなく理解出来る筈だぞ」

「あ、はい」

全く班長の言う通りだった。

おそらくは浪江も、最初は不安で一杯だったことだろう。

しかしおっかなびっくりで訓練を始めたものの、すぐに艤装の扱いに慣れ始めると自分が振るえる強大な力に酔い痴れてしまう事は容易に想像出来た。

「唯でさえ、あの年頃の子供は大人に反発したがるのが当たり前だ。しかも、自分は神の様な力を振るう事が出来るのに、そんな力を持たない普通の人間から何か説教されて耳に届くと思うか?」

「それでは、自分だけではなくて教官殿や上官殿の言うことも――」

「まぁ、そこ迄言うと極論だがな。しかし、内心では小馬鹿にして真面目に受け止めていない事位はやりかねんだろうな」

「では、ちゃんと指導するにはその――」

「そうだ、より強い力を振るえる者が指導をする。原始的だが非常に有効な方法だ」

 

(あっ、そういう事か……)

 

「また少し分かった様だな、貴様の姪がこの艦ではなく『かすが』で実習するのにはちゃんと意味がある。何も貴様と一緒にしないだけじゃないぞ」

「綾瀬や宇野が本艦で実習するのも、ちゃんと組合せが考慮されているんですね」

「もちろんだ、だが綾瀬の様な候補生はさすがに予想外だったがな」

班長がここまではっきり言うからには、やはり彼女は並外れた非凡な存在の様だ。

実際綾瀬の卓越しているところは、ただ適性が高いとかその能力を存分に使いこなしているだけではない。

哨戒行動や戦闘行動の際に注意すべき点やチェックポイントを一通り飲み込んでしまうと、まるでマシンの如くそれらを正確にこなしていくその姿は、隼太の様なまだ未熟な目でみても異次元の存在だ。

穂波やいぶき達も常々『何を教えてもどんどん自分のものにしていく』『あっという間に追い付かれそう』

などと言っているが、彼女達のみならず指導教官らも『とんでもない逸物かも知れん』と評価しているのは先日も穂波から聞いたところだ。

近頃、省略行動や近道行動といった危険な兆候が目に付く様になったと言われる浪江とはえらい違いだった。

 

(浪江のやつも、もうちょっとそう言うところ見て欲しいんだけどな……)

 

ただ班長の言った通り、彼女を指導してくれるのは必要であれば厳しく注意してくれる白石と村越なので、少なくとも今のところはまだ抑えられている様だ。

と、そこへ再び穂波といぶきが台車を押しながら戻ってくる。

「さて無駄話は終わりだ、仕事に戻れ。いいか、コミュニケーションしろとは言ったが、度が過ぎる雑談迄許した覚えはないからな」

「はい!」

とは言っても、かなり大目に見て貰っているのは隼太にも一応分かっていたので不服はない。

穂波といぶきが班長に一礼しているのを横目で見ながら、彼の脳内は様々な事が目まぐるしく回転していた。

穂波との事は、彼女の決心が固まる迄待つしかない。

浪江の事で彼に今出来ることはどうやら無さそうだ。

ではいぶきとのコミュニケーションはどうする?

彼女は清次に本気でアプローチする積もりらしいが、何故か清次は今一つ消極的だ。

現状改善のためには積極的に後押しをするべきか?

 

(分かんないよなぁ、清次の奴に一度聞いてみるか……)

 

傍らでは穂波らとWave達がワイワイ言いながら、基本機能点検が終わった艤装をスタンバイボックスに収納している。

それを聞きながら、今日も何事もなく一日が過ぎていく筈だったのだ。

 

「TPV121、TPV123、出港準備! 出港準備!」

突然けたたましい警告音が鳴り響き、護岸の端に設置されたスピーカーから緊迫した声が降ってくる。

「えっ!」

「おいおいやべぇんじゃねぇかこいつは?」

「なに⁈ なにがあったの⁈」

「いぶきちゃん! とにかく準備しよう?」

「そうだ、お前ら急いでスタンバった方がいいぞ!」

班のWave達といぶきや穂波達の声が慌ただしく交錯する。

そんな中でも、やはり穂波は比較的落ち着いていた。

中学の時もそうだったが彼女は余り浮足立つことがないので、それを耳にしている隼太も落ち着いて出港前点検に取り掛かれる。

が、頭の中に大量の疑問や不安が一気に湧き上がって来るの迄は抑え様が無い。

 

(敵襲なのは間違いないよな――民間船からの通報? いやいや、それなら教育隊じゃなくて地方隊か緊急防備隊に警報いくよな――て事はまさか『かすが』か『たかちほ』からか⁈)

 

そうしている間にも、艦長である斑駒が上級士官を引き連れて護岸をこちらに向かってくるのが見える。

そしてその一団の中には北上も交じっており、彼女の艤装を乗せた台車がガラガラと音をたてながら付き従っていた。

 

(くそっ、どうもマジだなこれは……)

 

言うまでもなく、彼女が一緒に乗り組むという事は彼女の戦力が必要とされる事態だからだ。

しかも、候補生が誰も来ていない事もそれを裏付けている。

そう、今から『うさ』と『あつた』(と隼太達)が向かうのが戦場だからなのだ。

にわかに緊張感が襲ってきた彼は思わず武者震いするが、気が付くと甲板も震えているのが分かる。

出港後必要に応じてすぐに全力運転できる様に、主機が既に動き始めていた。

「敷島来なっ!」

「はい!」

班のWaveから声が掛かったので、間髪を入れずに立ち上がってその後を追う。

そのまま駆け足で舷梯を渡り、護岸に降り立って北上の艤装を受け取ると、もう一方の舷梯から斑駒らが駆け足で乗艦していくのが見える。

「ちょっとお邪魔するねー、頼んだよ~」

こんな時でもマイペースな北上は、相変わらず緊張感の無い調子で彼らに声を掛けて来た。

スタスタと事もなげに舷梯を渡る彼女の後を追って艤装を運び込むと、スタンバイボックスに一先ず収納する。

間もなく艦上と護岸の両方でパトライトが回り始め、出港準備が整ったことを知らせる。

陸上要員と乗員が共同で舫を解くと、後はもう離岸するばかりだった。

 

(愈々か? ――でもそうだよな、絶対にそうなんだよな)

 

静々と岸壁を離れていく『うさ』と『あつた』に向かって陸上要員が帽振れをしているのが、今日は殊更に目につく。

プール脇の待機スペースでは、穂波といぶきが口を真一文字に結んだまま徐々に離れていく隊の宿舎を見つめていた。

「まぁそう緊張すんなって、今日の晩飯の事でも考えてりゃいいのさ」

「あ、はい……」

班のWaveがそう声を掛けてくれるが、胸の奥で膨れ上がってくる不安の塊の様な掴み処のない感情ばかりはどうする術もなかった。

 

 



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【第五章・第二節】

 『うさ』と『あつた』は岸壁を離れるとともに真っ直ぐ外洋に向かって速度を上げる。

艦内全域には警戒態勢が発せられていたが、これはそもそも通常の哨戒態勢時も同じなので、その意味では何も特別な事では無い。

出港後まもなく穂波といぶき、そして北上は出撃準備を整えると、艦娘プール脇のスペースで待機状態に入っていた。

隼太の属する艦娘支援班も一通りすべての準備を整えてしまうと、班長以下やはり警戒態勢のままで待機する。

毎度の如く腕組みをして難しい顔で艦橋の方角を睨んでいる班長の様子を見る限り、彼もこの急な出港の意味を知らされていない様だ。

飄然とした態で待機用の椅子に腰掛けて足をブラブラさせている北上は、おそらくは事情を知っているのだろうが一言も口を開かず静かにしている。

 

真冬の冷たい風が容赦なく肌を叩いていくが、そのことで艦が何時もよりずっと速く航行しているのを感じ取る。

そんなヒリヒリとした緊張感に包まれながら時が流れていく内に、やがて艦内放送のスイッチが入るバチっという音が響く。

一瞬その場にいる全員の神経が峙ち、普段ならば気にも留めない筈の小振りなスピーカーを固唾をのんで凝視する。

波を蹴立てる騒音が支配する僅かな時間ののちに、彼らの上に斑駒の落ち着いた声が響き渡った。

「全艦に連絡――一五二二に『かすが』より緊急連絡を受電しました。内容は戦力等の詳細は不明ながら敵と交戦中とのことでした。その後連絡が途絶したものの、沿岸警備の無人機より『かすが』らしき艦影を補足したとの連絡を受け、現在はその座標に向かって進行中です。これより本艦は戦闘態勢に移行します、全員直ちに戦闘態勢取れ!」

 

(来たっ!)

 

とうとうこの瞬間がやって来たという思いが全身を駆け抜けていく。

彼にとっては訓練以外ではじめての戦闘態勢なのだ。

すぐさま班のWave達が穂波らの傍に集まり、艤装の装着に取り掛かる様子を見ながらコンソールの接続準備を整える。

そうしておいてから艦艇戦闘服を身に着けた班長に一旦コンソールを譲り、隼太も急いで救命胴衣やヘルメット等諸々の装備を身につける。

「こんな時に大井っちがいてくれたら良かったんだけどね~、まー言ってもしょうがないからあたしが代打って事で~」

全員にただならぬ緊張感が漂う中、北上は相変わらず飄々とした口振りで自身の立ち位置を説明してくれる。

大井は今日は『たかちほ』に乗り組んでおり、隼太らが向かっている方向とは正反対の海域にいる筈だった。

間もなく彼女らの艤装装着が完了し、隼太のコンソールにも穂波の艤装が接続され、Wave達が何時もよりやや硬い声で申告する。

「装着完了しました!」

「よし、起動最終点検掛かれ!」

心なしかそう指示を飛ばす班長の声にも常日頃とは違う響きが隠れている様だ。

 

(通信環境――ヨシ! マスターリンク起動――ヨシ! 電源供給――ヨシ! ――――)

 

自分自身に懸命に冷静さを保つ様言い聞かせながら、一つ一つ入念にチェックしていく。

見たところ落ち着いている様に見える穂波も、やはり緊張はしている事がバイタルの数値に現れていた。

しかしそれを目の当たりにした隼太は、何故かしら浮付き掛けていた腰がストンと座った様な感覚を覚える。

表現し難いのだが、まるでコンソールを通じて穂波と直接繋がった様な不思議な感じだった。

 

(出来るよ――これで俺は、君と一緒に戦えるよ――そんな気がするんだ)

 

そんな奇妙な確信と共に、彼の口から自然に声が出ていた。

「全点検項目異常ありません!」

それは申し合わせたかの様に他のコンソール担当と全く同時で、戦陣に臨む兵士達の上にしばしば起こるシンクロ現象を思わせた。

「起動完了、全機能異常なし! 艦娘、有線機動準備完了しました!」

班長の申告はもちろん何時も通りに艦橋に対して行われたものだが、単に申告と言うよりも彼ら全員の戦闘態勢が整ったという宣言に近かったかも知れない。

穂波がチラリと隼太を見た時、彼はそれを全く自然に感じ取って視線を合わせることが出来た。

 

(一緒だよね、隼太君)

(うん、一緒だよ穂波ちゃん)

 

眼差しだけで意思を通じ合った2人は、小さく頷き合ってまた視線を戻す。

今やプールの中央には北上が立ち上がり、その斜め後方に穂波といぶきが立っている。

哨戒訓練の時には彼女達はほぼ直立した姿勢をとっているが、今日はより速度が出ているせいか手摺りを掴んで軽く前屈みになっている様だ。

「了解! 艦娘は直ちに索敵行動を開始されたし」

スピーカーから副長の指示が飛び、それに対して今日は北上が応答する。

「了か~い、磯波と吹雪はそれぞれ両舷水測~、本艦は水上索敵を開始しま~す」

何度聞いても緊張感の欠片も無いのほほんとしたその口調は、凡そこの場の雰囲気にそぐわない。

また、相変わらず彼女は穂波達を本名ではなく艦娘としての艦名で呼んでいた。

 

(やっぱり本名はイヤなんだな♪ まぁ北上さんの本名知らないけど)

 

間延びしたマイペースな物言いや本名呼びを過度に嫌がるなど独特な個性を発揮している彼女だが、よく見ているとその仕草にはそんな個性とはまた異なる本心の様なものが見え隠れしている事に気が付く。

実艦当時水偵を搭載していた彼女は航空索敵が可能であり、今もどこか宙を見つめる様な眼差しでプールの手摺りを掴んでいたが、その手に白く筋が浮き出るほど力が入っているのが見て取れる。

 

(本当は緊張してるんだな――あんな言い方をするのはわざとなのかな?)

 

ひょっとすると、彼女は内心の緊張を他人に悟られたくないのだろうか。

そして本名で呼ばれる事(或いは知られる事?)を嫌がるのは、本当の自分の姿の様なものを知られたくないのだろうか。

その意図するところが何かまでは知る由もないが、兎に角彼女は決してマイペースの仮面を外そうとはしないのだ。

 

「へへへ、な~んか来た来たって感じだよな」

「あっ、何かはっきり言えませんけど何となく分かりますそれ」

Waveに声を掛けられた隼太は、そんな風に落ち着いて応える余裕がある事に自分でも気付く。

「だろう? 死ぬのはもちろん御免だけどよ、こういう一体感みたいなヤツはやっぱり嫌いじゃないぜ」

「そうなんですね、自分はこういうの初めて経験します」

「どうだ、悪かないだろぉ?」

「はい」

「こら! 無駄口叩いてる奴には真っ先に弾が中るぞ!」

班長の怒鳴り声が響くが、Waveは冗談でそれに応じる。

「いや、多分大丈夫っすよ。なんせ班長が一度も中ってませんから♪」

「馬鹿野郎! 貴様らと一緒にすんじゃねぇ!」

その応酬にパラパラと笑いが漏れる。

緊張しているのに固くはなっていない不思議な感覚――これが一種の高揚感なのかも知れないと考えていると、穂波らが定時報告の声を上げる。

「左舷方向、水上索敵異状なし、水中に不審音源の感知なし」

「右舷方向、同じく水上索敵異状なし、不審音源の感知ありません!」

「了解しました、航空索敵の状況はどうか」

「現在のところ異状無~し、艦影捕捉無し、不審物体の感知無し」

「了解です、引き続き索敵と水測を継続されたし」

遣り取りが一通り終わってしまうと、周囲には再び船体が波を切り裂いていく音だけが残される。

しかし最初に感じた緊張感はなく、彼ら全員の闘志が少しずつ場を満たして行く様な感覚があった。

 

 そして凡そ十数分程が過ぎた頃だろうか、北上が突然張り上げた声が場の空気を打ち破る。

「おっ、艦影発見!」

一瞬マイペースの仮面を被るのを思わず忘れたかの様に、張り詰めた甲高い声だ。

とは言えその数秒後に再度口を開いた彼女は、何時もの間延びした口調に戻っていた。

「あ~『かすが』だねぇー、間違いないよ。周囲に敵影及び他の艦影無し、不審物体の感知も無し」

「詳細を報告して!」

スピーカーから響いたのは副長ではなく艦長である斑駒自身の声だ。

反射的に口が出てしまったのだろうが、兎に角その口調には切迫感があった。

もちろんその指示に応じて北上は淡々と状況報告を続ける。

「距離~概ね35、12時方向にあってほぼ正対コースで接近中~、速度は15くらい~? 被弾損傷している模様、メインマストと……プール付近かなー」

彼女の報告が正確ならば、あと1時間もしない内に『かすが』とランデブー出来るという事だ。

更に言えば『かすが』が撃退に成功したのか敵が追跡を諦めて去ったものかは不明だが、少なくとも針路上では交戦の可能性がグッと下がったらしい。

そう思った途端、隼太の心の中にはこれ迄とはまた異なる様々な感情の雲が湧き上がる。

 

(浪江、お前は無事なのか? 白石さんと村越さんは? ――清次、まさかお前死んだりしてねぇよな?)

 

彼の記憶が確かならば、今日の哨戒訓練に参加しているのは浪江の筈だ。

しかも先程の北上の報告によれば、『かすが』はプール付近に被弾しているらしい。

となれば、4人の内の誰か(或いはその全員)が負傷したり、最悪の場合戦死していても全くおかしくはないだろう。

敵と交戦する危険が低下したように感じたからなのか、先程迄の高揚感が急速に萎み始め、同時に全く取り留めのない焦燥感がそれに置き換わり始める。

「道理で連絡が取れない訳ね、そのまま触接を維持し続けて! 五十田さん、吹輪さん、現在の水測状況は?」

やはり斑駒は艦娘達を本名で、しかもごく自然に呼んでいる。

そんな扱いを好ましく受け止めている穂波達に対する場合と、それを嫌がる北上に対しては違う対応をサラリとやってのける斑駒はやはり器が違うと思わされる。

「左舷方向、不審音源の感知ありません!」

「右舷方向も同様です!」

「了解、そのまま水上索敵及び水測監視を継続して!」

「はい!」

一連の遣り取りが終わった甲板上は急に静かになってしまう。

先程も言った様に、この時点でどうやら敵との戦闘の可能性がぐっと下がったためなのか、隼太が感じたのと同じく高揚感が薄れてしまったらしく、若干空気が重くなり皆無口になってしまった。

とは言うものの通信設備を損傷しているらしい『かすが』とは今の所連絡を取る手段がなく、このまま進んでランデブーする以外に良い方法は無さそうだった。

 

(いやぁ、何だか急に焦れったくなって来たなぁ――)

 

今しがた迄の時間の流れと今の時間の流れは全く違ってしまった様で、気のせいか急に船足迄落ちた様に感じられる。

そう思っていると、ふと班長がプール脇の甲板とその一段上の甲板の段差に足を掛けて立っているのが目に入る。

 

(あっ……)

 

よく見るとその足は小刻みに貧乏揺すりをしていた。

 

(何だ、班長もイライラしてたのか……俺と同じなんだな)

 

その事に気が付くと、如何にもならない焦れったさが少しだけ楽になった様に感じたのだが、それでもまだ彼の思いに比べて時の流れは精々1/10にも満たない程でしかなかった。

 

 



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【第五章・第三節】

 『かすが』は隼太が想像していたよりも損傷がひどかった。

先程迄は『あつた』が横付けして負傷者を移送しており、『うさ』はその周囲を警戒中だったが、移送が終わった『あつた』は今し方最大戦速で帰途についていた。

傷ついてほとんど無防備の上に船足の遅くなった『かすが』を単艦で放置する訳にはいかないので、今は『うさ』がエスコートしながら帰投している途上である。

プールでは引き続き北上と穂波といぶきが周囲を警戒し続けており、戦闘態勢もそのまま継続していた。

とは言え『かすが』からの報告で少なくとも交戦していた敵を撃退した事ははっきりしていたので、あくまでも念のための対応と言える。

それでも艦上に粛然とした空気が漂っているのは、この戦闘で少なからぬ死傷者が出てしまったからだ。

目の前のコンソールに集中し様と努力しているのだが、少し気を抜くとつい待機スペースの方をちらりと見てしまう。

そこには、傷ついた『かすが』から移乗してきた村越と浪江がいた。

戦闘でプール付近の設備を損傷してしまった『かすが』では彼女達の作戦行動が出来ないため、いざという時のためにこちらに移乗しているのだ。

そう、村越と浪江だけなのである。

 

(白石さん……)

 

詳細は分からないのだが、彼女は重傷を――推測を交えて言うなら瀕死の重傷を――負って、『あつた』に移送されていた。

村越と浪江は見たところ軽傷であり、こちらに移乗している事からも非常時には戦闘可能と判断されているのだろうが、残念ながらその様には見えない。

少なくとも見る限りでは村越は問題ないだろうが、例え本当に『いざ』という時が来ても浪江は全く役に立ちそうになかった。

 

(そんなに怖ろしかったのか、浪江……)

 

彼女は待機スペースの片隅に蹲っていたが、移乗してきた時からずっとしゃくり上げている。

村越や一緒に移乗してきた『かすが』のWaveが傍に付いて落ち着かせようとしてくれてはいるのだが、その甲斐も無く小刻みに震え続けていた。

心配しても仕方がないと己に言い聞かせてみても、彼女の泣き声が殊更に耳についてしまう。

高速で航行していれば艦が波を蹴立てる絶え間ない轟音に掻き消されてしまう筈だが、ゆっくり航行している所為で艦上が静かなのだ。

そして彼の耳に聞こえている位なので、少なくともこの場にいる全員に聞こえているのは確実だった。

 

「敷島」

その時突然班長が声を上げる。

「はいっ!」

慌てて返事をして顔を上げた彼を見ながら、班長は浪江の方に向かって顎をしゃくって見せる。

直ぐにその意を悟った隼太であったが、さすがにまだ戦闘態勢が解かれてもいない中であり、思わず問い返す。

「ですが班長――」

「構わん、行ってやれ」

言葉少なにそう言って、再び視線を戻した班長の考えている事が彼にもなんとなく分かった。

こんな風に放っておく事は、本人にとっても周囲の全員にとっても何一つメリットがない。

「有難うございます」

立ち上がってそれだけを言うと、プールを回り込んで待機スペースに近づく。

言葉を掛ける迄もなく、村越がこちらに向かって顔を上げるとややホッとした様な眼差しを投げ掛けてくる。

「お願いするわ、控室、使うわよね?」

「うん――迷惑掛けてゴメン」

そう言うと彼女はフッと鼻を鳴らす。

「いいのよ、皆通る道だし」

短い言葉ではあったが、彼女の深い思い遣りが感じられた。

少し暖かな気持ちになった隼太は、そのまま浪江の横に膝をつくとその肩に手を掛ける。

「浪江、ちょっと控室に行こう」

だが、しゃくり上げながらも彼女は抵抗しようとする。

「い――イヤだ――ここに――いる」

 

(なに、こんな時に責任感発揮してんだよお前は)

 

そう思ったものの、同時に少し安心した。

残念ながら全く空回りしてしまってはいるものの、浪江はただパニックに陥っている訳ではなく責任感に縋る事で何とか恐慌を克服し様ともがいている。

「後で戻って来ればいい、今はここにいちゃ駄目だ」

少し低い声でそう言って二の腕をグッと掴んで立たせると、浪江は束の間それに抗い掛けた。

しかしその様子を見た村越が見上げて目を合わせて見せると、急に項垂れてスッと力が抜ける。

そのタイミングを捉えて肩に手を回し、備品庫脇の控室に向かって歩き始めると彼女は素直に従った。

 

「ほら、とにかく座れ」

控室の扉を開けて壁に折畳まれていた椅子を引き出し、そう声を掛けておいてから扉を閉めると、突然背中に浪江がしがみ付いてくる。

俄かに胸の奥から懐かしい感情が染み出して来た隼太は、一呼吸おいてから向き直り、まだ小刻みに震えているその華奢な体を抱き締めてやる。

 

「――あんちゃん……」

 

もう何年も聞いていなかったその呼び名は、彼女が幼かった頃の記憶を呼び起こさせる。

今ここに居るのはすっかり生意気になってしまった浪江ではなく、確かにあの頃の『あんちゃん』の助けを必要としている浪江だった。

 

「何があったんだ?」

出来るだけ優しい声でそう聞くと、震える様な絞り出す様な答えが返ってくる。

「――先輩が――、白石先輩が――」

「重傷らしいな――白石さんがどうしたんだ?」

 

問い返した隼太の腕の中で、浪江が身を固くする。

甦ってくる怖ろしい瞬間の記憶と闘っているのか、それとも自分の中の何かに抗っているのだろうか。

 

「今でなくていいぞ、話せる時でいい――」

 

「ううん、今――今、話す……」

 

改めて回した腕にギュッと力を入れると、それに応じるように彼女は深く息を吐き出し、幾つか心臓の鼓動を数えた後に話し始める。

 

「哨戒訓練中にね――――、敵が撃って来たんだ」

「うん」

「それでね――応戦してたら――反対側から――魚雷の音がして……」

 

深海棲艦の潜水艦は、一般の船舶にとっては勿論艦艇にとっても危険極まりない相手だった。

雷走音を捉えるにせよ雷跡を発見するにせよ、それらが出来るのはオリジナルか艦娘だけなのだ。

 

「水上艦から攻撃して注意を惹き付けておいて、反対側から雷撃して来たのか」

「うん――だけど――、間一髪でそれは回避できて――」

 

実際、潜水艦が襲撃する場合はひっそり待ち伏せして不意打ちする方がずっと効果的な筈だ。

だがそうしなかったという事は、こちらに艦娘が乗っている為に不意打ちが困難である事を知っていたのではないのか。

 

「それで――村越先輩が出撃して――、爆雷で攻撃してたんだけど――」

「うん」

「あたしは――水測で補助してて――、そしたら――」

「どうしたんだ?」

「弾が――飛んできて――真っ直ぐ飛んできて――」

「お前にか?」

「うん――でも――どうにも――どうにも出来なくて――」

 

どうにも出来ないというよりどう仕様も無かったのだろう。

浪江はプール上に居た筈なので、自身が直撃を回避する事は出来てもその弾は船体に命中するだけだからだ。

そう考えるのと同時に、怖ろしい情景が脳裏に浮かんでくる。

 

「浪江、まさか白石さんは――」

 

腕の中で浪江が大きく身震いする。

 

「そう――、そうなんだ――先輩が――白石先輩が――あたしの前に出て――、その弾を――――右手で――右手で――――」

「もういい、もう言わなくていいんだ」

 

思わず彼女をきつく抱きしめていた。

 

話を聞いているだけの隼太ですら、その瞬間を想像すると震えが襲ってくる程だ。

 

(白石さん……なんて事を……)

 

自分だったらそんな事が出来るだろうか?

いや、どう考えてもそんな真似は出来そうに無い。

彼女は、『かすが』と浪江を救う為に咄嗟に自らを犠牲にしたのだ。

到底常人に出来る事とは思えなかった。

 

「偉かったな――頑張ったな、浪江」

「あたし――何もしてないよ――、何も――何も出来なかった――ちっとも――ちっとも――偉くないよ……」

「何言ってんだ、お前と村越さんで敵を追い払ったんだろ?」

「あたしじゃないよ――先輩が――全部、村越先輩が――やったの――、あたしは――水測と――白石先輩を――看てただけで……」

 

「村越さん――そんなに凄かったのか?」

「凄かった――本当に凄かったよ――、1人で潜水艦も――もう1隻も……あたしなんて――、全然ダメで――、違い過ぎて……」

「違って当たり前だろ」

「でも――でもさ――」

「白石さんも村越さんも5年やって来たんだ、実戦経験だって積んでる。訓練始めたばっかりのお前が敵わなくて当然じゃないか」

「違う――違うよ――、あたしは――5年経っても――あんな風になれないよ――、絶対――無理だよ……」

 

それもまた当たり前の事なのだと隼太は思う。

5年後の浪江は今の白石や村越は勿論の事、5年後の綾瀬ともまた違っている筈だ。

良し悪しや優劣は所詮他人が決める事だし、まして必要とされない者が何時迄も軍に居続けたり実戦を生き延び続けられたり出来るほど甘くは無いだろう。

 

「同じになれなきゃダメか?」

「だって……」

「気持ちは分かるけど、同じじゃなくたって誰かから必要とされる様になれればそれで良いんじゃないのか?」

「それでも――それでもやっぱり――あたしは……あたしは……」

「もし本当にそれもなれないって言うんだったら、自分の中で納得する迄考えてから結論を出せばいい。急ぐ事じゃないさ」

 

それを聞いた浪江は黙ってしまう。

暫くの間、腕の中の小刻みな震えは続いていた。

しかし、やがてそれが静かになっていくのに気付く。

 

「――狡いよ、あんちゃんは狡い――自分の事じゃ無いからそんな事言えるんだ」

 

その声音は、震えた弱々しいものでは無くなっていた。

何時も通りとは到底言えないものの、先程よりは幾らかしっかりした声に聞こえる。

「当たり前だろ、俺はお前じゃない。けど、お前も村越さんじゃないし白石さんでもない。何処迄行ったってお前はお前、俺は俺だ」

そうきっぱり言い切ってみせると、それ迄痛い程にしがみ付いていた両腕からスッと力が抜ける。

隼太もまた回した腕を緩めると、一歩後ろに下がった浪江が何処かしら不服そうだが落ち着いた眼差しで見つめ返して来た。

 

「――何だか損した……」

「何がだよ」

「隼兄ぃにこんな事喋って損した」

「決まってるだろ、俺がそう易々と浪江を得させたりしねぇよ♪」

「フン!」

勢いよく鼻を鳴らしてそっぽを向いた浪江は、ほとんど聞こえない位小さな声で何か呟く。

「え、何か言ったか?」

「何にも言って無いよ!」

「そうか、だったら良いんだ」

 

「――もう戻る」

「大丈夫か、戻るって事は万一また襲撃があったら応戦するって事だぞ?」

「そんなの分かってるよ」

「じゃあそうしよう、迷惑にならない位にはちゃんと挨拶するんだぞ?」

「それも良く分かってるよ! 隼兄ぃに言われなくたってさ」

そう言い捨てるなり、浪江は彼を押し除ける様にして控室の扉に手を掛けるので、苦笑しながらクイックハンドルを廻してやる。

それがまた気に入らなかったのか、膨れ面になった彼女はさっさと扉を開けると隼太を置き去りにしてスタスタとプールに向かって歩いて行く。

「ご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした!」

大きな声で詫びるとピョコンと頭を下げ、そして如何にも何事も無かったような顔で待機スペースに腰を下ろす。

その後姿にまた苦笑させられた隼太に向かって、村越がチラッと振り返り目で嗤って見せた。

 

(有難う)

 

やはり目でそう礼を言うと、急いで持ち場に戻る。

班長に一言礼を言おうと思ったのだが、彼はわざと視線を逸らして見せたので止めておいた。

 

(白石さん――頼むから無事でいてくれよ……)

 

彼女を乗せた『あつた』はそろそろ帰投した頃だろうか。

今はまだ浮足立った様子を微塵も見せない村越もいぶきも、そして言う迄も無く穂波もさぞ心中穏やかでない事だろう。

それでも目の前の任務に対して淡々と取り組み続ける彼女達は、確かに浪江の言う通り到底追い付けなさそうなほど軍人になり切って見える。

 

(俺もそうならなきゃいけないんだ――、一緒の戦場に立ち続け様とするなら……)

 

グッと奥歯を噛み締めて、視線をコンソールに戻す。

そんな彼の横顔を何処かしら寂し気な眼差しで村越が見詰めていたが、隼太自身を含めてそれに気付いた者は誰も居なかった。

 

海上には、急速に宵闇が迫っていた。

 

 



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【第五章・第四節】

 『うさ』の入港後点検と後始末が一通り終わり、どうやら隼太は解放された。

風呂と夕食の時間は過ぎているが、こんな時は厚生施設が時間外対応してくれるし、例えそれを抜きにしても今は白石が優先だ。

損傷をうけた『かすが』の周りには多くの陸上要員が群がっており、この分では清次が下船して来るのは無理そうに見えたが、思い掛けず彼が舷梯を渡って来るのが見える。

どうやら配慮があったらしく、清次を含めて少々青褪めた顔の兵士達や軽傷と思われる者達が下船して来た様だ。

彼は隼太の姿を認めると護岸を急ぎ足で近づいてくる。

「おい、もう行けるのか?」

「ああ」

そう返事をした清次が照明の下に来たのを見て思わずハッとする。

遠目には少々蒼褪めた位に見えていたのだが、明かりの下で間近に見た彼はそれ処ではなく顔面蒼白と言った態だった。

「おい、大丈夫か? 何か腹に入れた方が良くないか?」

「いや、いらね」

即答したその声はやたらに硬く、別の事を薦める雰囲気ではない。

「そうか、だったら直ぐ行こう」

それだけ言って、2人は早足で医療棟に向かう。

以前であれば傷病者は漏れなく総監部近くにある海軍病院に搬送されていたらしいが、今では教育隊と同じ敷地内にその分院が設置されており、白石をはじめ今回の負傷者はそこに運び込まれていた。

棟内に入ると『かすが』の副長や隊の総務課員などが早くも負傷者の状況確認に来ていたが、それよりも更に奥の手術室近くの待合スペースに穂波ら艦娘達の姿を見出す。

 

「お疲れ様、どんな様子かな?」

取り合えずそう問いかけた隼太だったが、彼女達の表情は暗い。

特に浪江は、身の置き所が無いと言った様子で俯いたまま唇を噛んでいる。

 

思わず近くに座っていた穂波の顔を見ると、彼女は不安げに眉を寄せて口を開く。

「あのね、先生がまだいらっしゃらないの」

「えっ⁈」

「海軍病院から移動中らしいんだけどね、まだ到着しないみたいなのよ」

そう付け加えた村越の口調にも苛立ちが感じ取れる。

「もうっ! 先生早く来てよぉ~、雪乃に何かあったらどうすんのよぉ……」

いつも朗らかないぶきも、さすがに焦りを隠せない様だ。

 

(マジかよ――白石さんの生命(いのち)が掛かってるって時なのに……)

 

皆の焦燥がひしひしと伝わって来てついギュッと拳を握り締める。

その張り詰めた雰囲気と白石が自分を庇って倒れたのだという罪悪感とに耐えられなかったのか、俯いていた浪江が静かに嗚咽を漏らす。

「浪江ちゃん、大丈夫だよ……」

横に座った綾瀬が膝の上できつく握り締めたその拳を両手で包み込みながら声を掛けるものの、その彼女もまた涙を浮かべていた。

「ちくしょ~、やっぱりちょっと見て来るわ!」

「わたしも行く!」

堪え切れなくなったのか三森が立ち上がると浦戸も続いて立ち、2人は事務所と思しき方向に早足で消える。

彼女達が動き始めたのに少し遅れて穂波が立ち、泣いている浪江の横に座って肩にそっと手を掛けると反対側に座っていた臼井も間を詰めて綾瀬に寄り添う。

歯を食いしばるようにして耐えていたいぶきや、腿の間に両手をギュッと挟み込んで俯いていた初田も何時しか瞳を潤ませていたが、さすがに気丈な村越だけは唇を噛んで何とか踏ん張っていた。

 

(くそぉ、何とか出来ないのかよ……)

 

そう思ったその時、背後からツカツカと足音が響く。

「どうしたの? まだ手術が始まらないの?」

挨拶抜きでいきなり口を開いたのは、北上を伴った斑駒だった。

隼太と清次はさっと向き直って敬礼し、一瞬遅れて穂波らも立ち上がって敬礼する(綾瀬と浪江はさらにワンテンポ遅れはしたが……)と彼女もキビキビと答礼する。

「まだ先生が到着されない様です」

彼女達に口を開かせるよりはと、いち早く隼太が報告する。

「そうなのね――分かったわ、大方移動に手間取ってるんだろうとは思うけど、出来るだけ催促して来るからあなた達はとにかく気を静めて待っていなさい」

「はい!」

「ただし、臼井さん、初田さん、あなた達は宿舎に戻りなさい、三森さんと浦戸さんは何処かしら?」

「様子を見て来ると言って事務所の方へ行きましたが――」

「それじゃ、あなた達もそちらに向かって2人と一緒に宿舎に戻ること。いいわね?」

「はい……」

「分かりました」

彼女達がいささか後ろ髪を引かれながらそう肯うと、小さく頷いた斑駒は隼太達に向き直る。

「あなた達は特別にここで待つ事を許可してあげるけど、それでもちゃんと日課は済ませて消灯時間を守るのよ。分かったわね」

「はいっ!」

彼らが声を合わせてそう応じると、斑駒は傍らの北上に顔を向け、

「あなたは?」

と短く問いかける。

「多分大井っちが来ると思いますんで、それから戻ります」

余り間延びした感じでもなく幾らかは普通に応じた彼女の返答に納得したのか、斑駒はサッと踵を返して足早に歩み去る。

そして臼井と初田も席を立ってしまうと、再び廊下はひっそりとしてしまう。

 

「あ~、い-よ座んなよ~」

自身は突っ立ったままの北上が気を遣ってくれたものかそう声を掛けたので、隼太と清次以外は軽く会釈をしてまた腰を下ろす。

「分院造ってくれたのは良いんだけどさ~、そもそも医官の数が足りてないんじゃちょっとね~」

彼女の誰言うともない独り言は全くその通りなのだが、残念なことに今この場にはそれに相槌を打てる余裕のある者がいなかった。

そんな訳で少々気不味い空白が生まれてしまったものの、例によって北上はそれを気にしている様な素振りを見せない。

何よりも、その空白はほんの僅かしか続かなかったのだ。

 

「北上さん⁈ 北上さんはどこ⁈」

この場に全く似つかわしくない甲高く耳に障る声が響き渡り、当の北上ですら苦笑いを浮かべる。

「ああ北上さん! 良かったわ、無事だったのね!」

「ちょっと大袈裟だよ~大井っち~、出撃はしたけど戦闘にはならなかったんだしさ~」

「本当に御免なさいね、あたしが居なかったばっかりに――」

「いや~、それも大井っちの所為じゃないからさ~、まぁ兎に角ここは引き上げようよ」

「そうね、そうしましょ」

 

(何だかなぁ、幾ら強いとか凄いとか言っても、これじゃ大井さんはやっぱりちょっとヤバいヤツと思われても仕方無いよな……)

 

心中溜め息を吐いていると、北上がこちらに向き直って声を掛ける。

「それじゃあね、ちゃんと副長の指示は守るんだよ」

「はいっ」

正面に立っていた隼太と清次が返事をして終わりになると思った次の瞬間、チラッと浪江らに向かって視線を投げ掛けた彼女が発した言葉にその場が凍り付く。

 

「あんまり言いたか無いけどさ~、あたしらは兵士でここは戦場なんだよ? そんなにメソメソしてんの見ちゃうとさぁ、毎日が死と隣り合わせなんだっていう覚悟が足んないんじゃないのって思っちゃうよね~? ま、いいんだけどさ」

 

(――何だと?)

 

頭の片隅でカチンという金属的な感触がして、急に血の温度が上がった様な感覚に囚われる。

 

(それって、今言うべき事か? 違うだろ?)

 

彼女達や浪江の為にも何か反論し様と言葉を探し掛けたが、背中にドンと何かが当り、注意を引き戻される。

 

「おい――」

清次の低く据わった声が響くと共に、隼太の脳内で警報が鳴る。

 

(不味いぞ、こいつキレる!)

 

「待てよ清次」

咄嗟に振り返って彼の肩を掴んで押さえるが、同時に穂波達の反応も目に入る。

刺す様な強い眼で北上を睨んでいる村越といぶき、涙に濡れた恨めし気な眼差しを向けている浪江と綾瀬はもちろん、激しい感情を見せたことのない穂波ですらありありと不快感を漂わせている。

 

(そりゃそうだよな、なんでこんな煽る様な事を……)

 

浪江と綾瀬はともかく穂波達は既に十分実戦経験も積んでいるし、目の前で他の兵士達が倒れる姿も目の当たりにして来ているのだから、今更覚悟が出来ていないだの何だのと言われる筋合いはない。

しかし、例えどれ程経験を重ね様が覚悟が出来ていようが、友達を喪いたくないというその想いには何ら変わりがない筈だ。

 

(くそっ! 何わざわざ喧嘩売りに来てんだよ、俺が何とか言い返して抑えられるか?)

 

焦りながらも何とかせねばとそう思った次の瞬間の事だった。

全く思いもよらない方から声が上がる。

 

「駄目よ北上さん、そういう事言うの良くないわ」

 

大井の声は、先程と同一人物とは思えない位静かで落ち着いていた。

 

「でもさ~大井っち~、こういう事はさぁ、誰かが――」

「いいえ、今はこの娘達の大切な友達が生きるか死ぬかという時なのよ? 少し位取り乱したからと言って、それを殊更に責めるだなんて正しいとは思えないわ。今の言葉、取り消してあげて?」

「何だよぉ~、あたし何も間違った事は言ってないよ~?」

「言ってる事が間違ってる訳じゃないわ、でもね、あたしの北上さんにはこの娘達の痛みや辛さをちゃんと分かってあげられる人であって欲しいの。だからちゃんと謝ってあげて、お願いよ?」

 

彼女の物言いは優しく静かではあったが、何処か抗い難い迫力があった。

 

それに気圧された北上は言葉に詰まってしまい、暫し逡巡する様な素振りを見せた後でプイとそっぽを向くと、不服そうにしながらも謝罪を口にする。

「無神経な事言って悪かったね――白雪の無事、祈ってるからさ」

それだけ言ってしまうと彼女はくるっと背を向けて足早に去っていく。

その姿を軽く目で追い掛けた後で大井はこちらに向き直り、なんと彼らに向かって頭を下げる。

 

「あなた達には不愉快な思いをさせてしまったわね、――でもね、北上さんにとってこの戦場は死にに行く為の場所じゃなくて生きる為の大切な場所なの。本音を言えば怖ろしくて仕方がない筈だけど、そんな自分を奮い立たせる為にあんな風に振舞って見せているだけなのよ。あなた達と何も変わりはしないわ……。きっと腹を立てているだろうけど、それだけは分かってあげてくれないかしら。――白石さん、きっと助かるわ、あたしもあなた達と一緒に祈ってるからね」

 

隼太と清次が思わず呆気にとられる程、優しく温かい言葉だった。

現れた時とは別人の様に静かに去っていく彼女の後姿を見送っていた彼らは、やがて同時にほーっと溜息を吐く。

「今の、本当に大井さんだったのか?」

「俺には……一応そう見えたぜ?」

「そうだよな――」

 

「大井さん……優しいと思うよ」

穂波が口をはさんだので、2人が顧みるといぶきと村越もそれを肯う。

「確かに訓練とかでは凄く厳しいんだけど――」

「でも意地悪されてる雰囲気じゃないわ、寧ろ細かく気遣ってくれる感じよ」

「そうなんだ……」

 

会話が続いたのはそこ迄だった。

白石を執刀する医官が来てくれないという現実が、彼らの上に重く圧し掛かっていたからだ。

息が詰まる様なその時間は永遠に近い程長く感じられたが、実のところは大井らが立ち去ってから20分程度の事だった。

斑駒の催促が功を奏したものか、手術衣に身を包み手袋を引っ張りながら急ぎ足に歩いてくる医官がとうとう彼らの前に姿を現したのだ。

「先生――」

思わず隼太が声を掛け様としたその時、彼を遮って大声を出す者がいる。

 

「白石の手術をして頂く先生でしょうか?」

突然そう言って一歩前に踏み出したのは清次だった。

「――む、私がそうだが、君は?」

 

唐突なその様子に少々訝し気にしながらもその医官は応じてくれるが、それを聞いた清次は全く思いもよらない行動に出る。

 

彼は医官の前に進み出ると、なんといきなりその場に土下座してしまう。

「き、君! 何の積もりだ?」

「私は『かすが』乗組みの一等海士で木俣と申します。先生にお願いがあってお待ちしておりました!」

「おい清次、やめろ――」

「白石の手術にあたって、もし血が必要であれば私の血を使って下さい! 白石の血液型はA1、Rh+です。私はA3、Rh+ですから輸血出来ます! もしも体の一部や臓器が必要であれば私のものを使って下さい! 例えそれが心臓であっても構いません、それで白石が助かるのであればお使い下さい! 私はどうなっても構いません、ですから、どうか、どうか白石を――白石を助けて下さい! お願い致します! …………」

 

(清次、お前!)

 

余りの事に固まってしまったのは、どうやら隼太だけではなかったらしい。

その場は束の間静寂に包まれ、先程まで漂っていた焦燥感が何処かへ吹き飛ばされてしまった様だ。

しかし、そんな中にあってやはり医官だけは冷静だった。

 

「君、彼の顔を上げさせてやってくれないかね? 私は今何かに触る訳にはいかんのだよ」

「あ、はい……」

 

そう声を掛けられて金縛りが解けた彼は、清次の横に膝をついて顔を上げさせる。

 

「木俣君と言ったね」

「はい――」

「私は神様では無いので『必ず助ける』という約束は出来ないが、私のベストを尽くすと約束しよう、それで許して貰えるかな?」

 

その医官はもちろん初対面なのだが、にも関わらず若造の彼らに向かってそこ迄誠実な言葉を掛けてくれた事に、危うく涙が零れそうになる。

傍らにいた隼太が既にそんな心境だった位なので、当事者である清次が我慢出来る筈もなかった。

 

「あ――有難うございますっ!」

 

言い終わると同時に彼は床に突っ伏して啜り泣き始める。

「よろしくお願い致します」

辛うじてそう言った隼太に軽く目で微笑すると、その医官は手術室に通じる自動ドアを颯爽と潜っていく。

 

その後暫くは誰も口を開く事もなく、ただ清次の聞き苦しい啜り泣きだけが聞こえていたが、やがてハァッと溜息を吐いた村越がボソッと呟く。

「本当――如何し様もないバカよね……」

その言い草はやはり何時もの彼女そのままだったが、今日は少しだけ『バカ』のニュアンスが柔らかい様な気がした。

 

 



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【第五章・第五節】

R指定をする程ではないと思いますが、若干性的な描写を含んでいますのでご注意ください。


 冬の日は短く、西の空が茜色に染まってから辺りが夜の闇に包まれる迄はほんの束の間の事だ。

戦死者の遺族に対する弔慰の手続きをしながら、傍らで欠員の補充手続きを進めかつ傷ついた『かすが』のドック入りの手配と、その間の乗員達の臨時再配置もせねばならない。

無論、それ以外にもやるべき事は目白押しなので、隊の副長でもある斑駒にはどれだけ時間があってもあり過ぎる事は無い位だった。

 

(でもまぁ、何とか片付けてしまわないとね)

 

片付けてしまわなければ何かと困るのだ。

 

(直ぐに余計な事したがるんだから――困ったもんだわ)

 

彼に初めて出会った頃の事をふと思い出して苦笑する。

只のウジウジした頼りない学生だった筈なのだが、頼みもしないのにタダ働きして斑駒の仕事を横取りしておいて楽しそうにしていた。

それは隊の司令となって彼女の上官になった今でも何ら変わっておらず、しばしば彼女の領分である事柄にまで自ら手を突っ込もうとする。

 

(まぁ、それが良い処でもあるんだけど♪)

 

斑駒は今でも自分には彼を亭主にする正当な権利があると信じている。

狡いやり方で彼を横合いから攫っていったのは葉月の方であって、共に支え合いながら戦ってきた自分には非があろう筈も無い。

とは言うものの、今となっては彼を奪い返してやろうとか葉月との離婚を迫ろうとかいう気は失せていた。

彼の自分に対する愛情は今の関係であっても十分に感じられるし、立場上も司令と副長という言わば実質的な女房役でいられることは大きい。

唯一納得しかねる事があるとすれば、どう言う訳か長年の戦友であり彼らの一番の理解者でもある長門が、何かにつけて自分と彼の関係を邪魔し様とする事位だろうか。

 

(正直理解不能だわ――それとも、高雄さんやあいつは良くてあたしは駄目な理由が他にあるのかしら? ――まぁそんな事ある訳無いわよねぇ)

 

大方物堅い彼女の事なので、この様な関係は道義的に宜しくないとでも思っているのだろう。

そんな事をつらつら考えながらすっかり暗くなった構内を司令部建屋迄戻って来ると、案の定司令室の灯りが目に入る。

 

(やれやれ、思った通りだわ♪)

 

部下に戦死者が出た時は何時もこうだった。

幾ら上官だとはいっても、部下の戦死の責を直接負わなければならないケースなど、余程の怠慢か致命的な過失でもない限りはあり得ない(と斑駒は思っている)。

だが、彼はそんな風に割り切ることが出来ないらしい。

 

衛兵と礼を交わして建屋内に入り、さっさと階段を上がって真っ直ぐに司令室に辿り着くと迷わず(スイッチには触れずに)ノックをする。

数秒後、カチッと小さな音がしてロックが解除されたことが分かると無言でハンドルを回して室内に身体を滑り込ませ、静かに後ろ手に扉を閉める。

そうしておいてから改めて仄暗い室内を見回すと、彼は画面にのめり込む様にして何かを一心不乱に打ち込んでいた。

 

「随分忙しそうね」

そう声を掛けると、どこか他人事の様な虚ろな言葉が返ってくる。

「報告を纏めてるんですよ」

「司令が自分で作成する報告書なんて、そんなに幾つもあったかしら?」

しかし、その問いかけに対する返事はなかった。

 

苦笑した斑駒は遠慮なく歩み寄ると、彼が必死になって打ち込み続けている内容には目もくれずに、キーボードに伸ばされた彼の腕を尻で押しのけてデスクを占領してしまう。

「邪魔するんでしたら出て行って下さい」

「あら、じゃあどうして誰か確かめもせずに入れてくれたのよ?」

「――――貴方だと、分かったからです」

「それはつまり、こんな時間にやって来たあたしが、業務連絡だけ済ませてあなたの邪魔をせずに大人しく退室すると思っていた――って事かしら?」

「そうして欲しいと願っています」

「あら、だったらそれは指示命令ではなくて貴方の願望と言う事なのね♪」

「必要とあれば命令もしますよ」

「そう、貴方の副長を命令違反で査問に掛けたいのならどうぞそうして頂戴。そこ迄されたらさすがに諦めるかも知れないわよ?」

斑駒にしてみれば、いい年をした女が何をしているのかと冷静に言われたら赤面する位の猫撫で声を出してお道化て見せているのだから、少しはそれに応えて甘い睦言でも口にして欲しい処なのだ。

にも拘らず、そんなくだけた様子など微塵も見せずに、彼はガックリと項垂れてしまう。

 

「――如何してなんですか――如何して僕を放っておいてくれないんですか――貴方にとって、僕は頼り無くてウジウジしたみっとも無い男だった筈なのに――如何してそのままにしておいてくれないんですか……」

 

彼の声は悲痛そのものだが、長年それを聞いている側としては、そんな弱さを自分に見せてくれるその事に好ましさを感じてしまう。

 

(そうね、これだけ年月が流れてもやっぱり貴方はあの頃のままの貴方なのね……)

 

確かに彼の言う通りであるのは間違いない。

初めて会った頃の彼は、斑駒にとって到底魅力的な異性ではなかった。

しかし海軍(当時はまだ違う名称だったが)に入って来ると同時に戦争に巻き込まれ、七転八倒しながら日本と艦娘達の為に奮闘する彼を傍で見ている内に、何時の間にかそうでは無くなっていたのだ。

 

(あたしが自分でも不思議な位なんだから、貴方がそう思うのも無理無いわ)

 

「そんな風に蒸し返されるのも何度目なのかしらね♪ でも、やっぱりこうとしか言い様がないわ……、何時の間にかね、好きになっちゃったの」

そう言って固く握り締められた拳をそっと片手で包み込むと、短く刈り込まれた頭に顔を寄せる。

 

「貴方だって、此処迄来る間に何度も生死の境を潜り抜けて来たでしょ? 現にあたしは傍でそれを見て来たんだから――今、その頃と立場が変わったからと言って、急に全ての責任を背負い込む必要なんてあるのかしら」

 

「僕は司令だ――彼らを死地へ送り出したのは紛れもなく僕だ――それだけはどう言い繕っても動かし様が無い――そうじゃないんですか」

 

「地球上の海で今、死地じゃ無い場所なんてあるの?」

 

「そんな――理屈――――そんな事が聞きたいんじゃない! そんな理屈なんてどうだって――」

彼の腕にグッと力が入るのを感じた次の瞬間、身体を起こした彼に押し倒される。

 

ディスプレイがガタンと音を立てて倒れ、書類がバサバサと床に散らばるのを耳にしながら、彼女は説明し様のない不思議な安堵を感じていた。

 

「何故僕を責めないんですか、――何故卑怯者と詰らないんですか――あの日、貴方はそう言ったじゃないですか!」

「確かにそう言ったわよ――でもね、残念だけどもうそんなこと言う気分じゃ無くなっちゃったの」

「――だったら――それなら何故、僕を放っておいてくれないんですか――」

「さっきも言ったでしょ? 貴方が好きなの――貴方はあたしの大切な男だからよ」

「そんな勝手な――、勝手過ぎますよ――」

 

彼がギリッと歯軋りをする。

 

年齢を余り感じさせない若々しいその顔に優しさや頼り無さを見る者は多いが、彼が過ごして来た歳月を知っている斑駒にとっては、深い悲しみが滲んで見えた。

 

(ごめんなさい――でも、もう強引に奪い取る必要なんてなくなったからよ――あいつに負けない位、貴方に愛されているのはもう良く分かったから……)

 

男の手が彼女の脚に伸ばされ、屈辱的な格好に折り曲げられる。

 

如何に実戦部隊で無いとは言え、仮にも海軍の司令室内のデスクの上であられもない姿態で組敷かれている自分を想像すると、身体の奥に火が点いたような感覚を覚える。

 

ひょっとすると、自分はこうなる事を期待して彼を煽っていただけなのだろうか?

 

彼を思い遣っていると言いながら、実の処は己の肉欲を満たしたかっただけではないのか。

 

しかし男の手が下着に掛かると、そんな些細な事はもう如何でも良くなってしまう。

 

自ら腰を浮かせてそれを手伝ってやると、露になった秘所にヒヤリとした夜気を感じるが、その感覚をゆっくり味わう間もなく彼の指が強引に分け入ってくる。

 

「もう――、またそんなところ……」

「嫌なら僕を――突き飛ばしてみたら如何ですか? それとも――人を呼びますか? 少し手を伸ばすだけで、簡単に出来ますよ?」

 

もちろん、そんな事をする必要など無かった。

これは斑駒が望んだ通りの結果であり、それを強いられた彼に与えられて然るべき、ちょっとした征服欲を満たす機会でしかない。

 

艶めいた仕草をして見たくて両手を伸ばし、彼の頬にそっと触れてみる。

 

「あたしはとっても意地悪なの♪ だからね、絶対にそんな事してあげないわ」

 

「なら――、何故はっきり言わないんですか? 言えばいいじゃないですか――、お前は間違ったと――あの時、葉月ではなく貴方を選ぶべきだったと……」

 

もしそう言っていれば、彼はあいつを捨てて自分の許に来てくれたのだろうか?

 

ひょっとしたらそんな今があり得たのかも知れないし、更に言うならそんな未来を手にする事もまだ十分に可能なのかも知れない。

 

だが、改めてそんな言葉を胸の内で弄んで見ても、何も心に響いてくるものを感じなかった。

 

「5年前なら確かにそう思っていたし、きっとそう言ったわね……でも――今はもう、そうじゃ無くなったのよ」

 

我ながら何の返答にもなっていない繰り言だとは思ったが、そもそも彼ですらまともな返答など期待していた訳では無さそうだった。

 

落ちてきた雫が頬にあたって弾けるのを感じるのと同時に、彼自身が押し入って来る感覚が全身に甘い痺れをもたらす。

 

(愛しているわ――これは嘘じゃない――本当よ……でも、今は――今はこれが欲しいだけなのよ――明日には――いいえ、ほんの一瞬の後には、あたしは貴方の手の届かない処へ行ってしまうかも知れない――だから――だから今だけは――赦してくれるわよね? あたしの可愛い泣き虫さん……)

 

優しいだとか情に篤いとか言う評判が聞こえて来る度に、どこか聞こえのいい美辞麗句にしか思えなかった。

 

そんな評判など、斑駒にとっては如何でも良い事だ。

 

どこか優柔不断で頼りない、そのくせ諦めが悪く不器用なまでに頑ななこの男が、どうにも愛おしくて仕方がないだけなのだ。

 

 



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【第五章・第六節】

 「捧げーっ、銃!」

長い笛の音と交錯して号令が飛び、儀仗兵姿の古参の下士官達がきびきびと小銃を掲げて哀悼の意を表す。

『かすが』の犠牲者を送る葬送の儀式は、沈鬱な空気の中で粛々と進んでいく。

隼太らはあくまでも裏方であり、各班長らの指示(声を出す事は殆ど無く、大抵の場合目配せや合図)に従って右へ左へと走り回っていた。

実戦部隊ではない教育隊に所属している練習艦隊に死者が出るのは、そうしょっちゅうある事では無い。

しかしながら、この戦争に於いては海から遠い内陸部でもない限り絶対に安全という場所は無い訳で、彼らとしては改めてそれを思い知らされたのだ。

 

「それにしても、こんな近海で本格的な遭遇戦になるのは只事じゃあ無いよな」

艇庫脇での短い待機時間に箕田が低い声で呟く。

「いや~、正直ちょっと緊張するわぁ――気ぃ抜いてられへんでほんまに」

「そんなの当たり前ぇだろ、死ぬときゃ本当一瞬だぞ」

 

彼らの中で唯一実戦を経験した清次の言葉は、以前よりも随分重たいものになっている。

とは言うものの、彼の表情はそれなりには明るい。

言う迄も無く、白石が無事に一命をとりとめて危険な状態を脱した事が分かっているからだ。

 

(ったく――お前はとんだ食わせ者だよ)

 

3日前、手術室前で見せたあの思い掛けない態度から、隼太は清次が追い掛けて来たのはいぶきではなく白石だったことを確信した。

そんな訳で、取り敢えず彼女の容態が無事に峠を越えた事でもあるので、出来るだけ早く事の次第を白状させてやろうと考えている処だ。

 

「全くその通りだなぁ。情けない事を言うけど、自分で海軍に入っておきながら、何時でも死と隣り合わせなんだって言う覚悟が足りて無かったとしみじみ思うよ」

何処かで聞いた様な言葉を箕田が漏らすと、豈図らんや清次が反応する。

「何だい、誰かにそう言われでもしたのかよ」

まだ記憶の新しい彼の言葉には少なからぬ棘があったが、箕田はそれを感じ取った風では無い。

「ああ、この間北上さんから指摘されたんだよ。いや、痛い処を突かれたと思ったな、うん」

「やれやれ、勉ちゃんは相変わらず真面目やなぁ♪」

「いや真面目も何も、自分が何時の間にか何事も無い日常に慣れ切ってた事が原因なだけだよ。それを改めて気付かせてくれた彼女には感謝しなきゃな」

「そうかよ、まぁ俺は幸いそのお世話にならずに済んだって訳だ」

 

彼の言葉が一層刺々しくなったので、一応隼太としては軽くその肩を叩いておくが、空気を読んだ河勝もわざと箕田を弄る様な話題を振ってくれる。

「何や、勉ちゃんの中で北上さんの評価爆上がりかいな♪ 憧れの長門さんにひょっとして並んだってか?」

「それは違うぞ、長門さんは凛々しく美しい方だがやはり要人でおられるしな。その点、北上さんは我々と同じ兵士としてその心情に通じる処があるんだよ」

「それに可愛いし?」

この際なので隼太も一緒に箕田を弄っておく事にする。

「いやっ、決してそんな事は言ってないぞ? 確かにそうなのは認めるが、だから評価してるとかそういうのとは違うぞ? 違うからな?」

何とも分かり易い反応に、不機嫌だった清次もニヤニヤする。

 

(もう長門さんへの熱は冷めちまったのか……何か惚れっぽい奴だなぁ)

 

箕田の違う一面を発見した気分だが、余り褒められた性質ではなさそうだ。

 

「いいか、第一そんな軽口叩いて脱線して良い時じゃないぞ、今は仲間の追悼をしてるんだからな?」

「了解~」

「分かってるよ」

照れ隠し半分で強引に話題を終わらせた箕田だったが、言っている事は正にその通りなので、彼らも素直に口を噤む。

しかし隼太の心中では、違う方向に思いが飛んでいた。

 

(もしこれが、俺と穂波ちゃんの上に起こったとしたら……)

 

あの日、観覧車のゴンドラの中で彼女は不安を口にした。

もし本当に、彼女の目の前で自分が吹き飛ばされる様な事が起こったら如何なるのだろうか?

おそらく彼自身はどうもこうも無いだろう事は直ぐに分かる。

気が付いた時にはもうあの世にいる筈であり、俗界の悩みから永遠に解放されているだろう。

その時残された穂波はどうするのだろうか。

 

(いや待て――まさかそんな……)

 

深海棲艦の弾や魚雷を普通の人間が感知するのは不可能だが、オリジナルと艦娘にはそれが出来る。

つまり、弾が飛んで来てそれが隼太を吹き飛ばそうとする時、傍にいれば穂波はそれを『見る』事が出来るのだ。

そして正に白石がやったのは、咄嗟に自分自身がその弾に当たりに行く事だった。

 

(ダメだ、穂波ちゃんにそんな事はさせられない)

 

とは言うものの、彼が穂波に『絶対にそんな事はしないでくれ』と頼み込んだ処で、その通りにしてくれる保証はない。

そんな状況を知覚出来るのは彼女であって隼太では無いので、事前に防ぐこと自体が不可能だからだ。

そこ迄考えて、初めて彼は清次の心中を少し知ることが出来た様な気がした。

言う迄も無く白石が庇ったのは浪江であり『かすが』そのものなのだが、状況からしてもし白石がそれをせずに浪江もその弾を避けてしまえば、それは『かすが』のプール付近に弾着して清次を含む艦娘支援班の誰かの命を奪っただろう。

つまり彼は、結果的に白石に命を助けられたのだ。

もし彼が隼太と似た様な思いで白石を追い掛けて来たのであれば、今頃はおそらく自身の無力さに打ちのめされている事だろう。

今の処それを表に出さない清次は、何だかんだ言っても昔のままのどこか幼稚さの抜けない勢いだけの彼では無くなっているのかも知れない。

 

(まぁでも、事情位は聞かせて貰っても良いよな)

 

「漕艇準備掛れ!」

その時珍しく口頭で指示が飛んで来たので、彼らは揃って飛び出して行く。

葬送の儀礼も最後の段階に差し掛かっていた。

 

 

「なぁ清次」

「何だよ」

 

その夜、消灯前に幾らか時間に余裕があったので、彼は自身の疑問を多少なりとも解決する事にした。

「一体何時からなんだよ」

 

「――――中学からだよ」

「んな事は分かってんだって、中学の何時からだよ」

 

少しの間躊躇していた清次は、やがて窓の方に顔を向けながら低い声で話し始める。

 

「最初はよぉ、違ったんだ」

「へぇ」

「単純に吹輪って可愛いよなぁだったんだ。――でもなぁ、何時の間にか『いぶき派』みてえな変な感じになっちまってよ」

「そりゃ俺も知ってる」

「それだけでも何々だこりゃって思ってたのによ、そいつらが矢鱈下げに掛かるんだよ、あいつの事をさ」

「堅物だってか?」

「もっと酷ぇ事言う奴も居たよ、正直何の恨みがあってそんな事するのか理解出来なかったぜ」

「俺も理解出来なかったな」

「でよぉ、腹が立つからよ、あいつだって同じ位可愛いじゃねぇかとか、凄ぇ賢いし真面目だろとか、それにあいつの親父さんやお袋さんって凄ぇ感じのいい人だろとか、――そうやって言い返してやろうと思ってよ、一生懸命あいつの良いとこ探してたんだ、――そしたらよぉ――」

 

「そしたら?」

 

「そのさ――何時の間にかよ……」

 

「好きになってたってか?」

隼太がそうフォローしてやると、彼は黙って頷いて見せた。

 

「――何かよぉ、一度そうなっちまうとさ、止まらねぇんだな――――不思議だけどよ」

「そう言うもんじゃねえのかな? まぁ偉そうに言う程の経験は無えけどさ」

 

「だからよぉ」

「うん」

「海軍が来たって聞いた時は、何て事しやがるんだ! ってマジ思ったぜ」

「まぁそれは俺もだなぁ」

「普段からあれだけ言ってたからよ、もし艦娘になれるなんて言われたら絶対すっ飛んでっちまうだろうなって思って――凹みまくったぜ」

 

「だったら何で説得しなかったんだよ? 頼むから行かないでくれって言やあ良かったんじゃねえのか?」

「馬鹿野郎、お前ぇじゃあるめぇしそんな事言える訳無えだろ! 第一よ――」

 

「第一、何だよ」

「俺の言う事なんざ聞いてくれ無ぇよ……」

 

そう言ってカーテンの隙間から覗く暗闇を見詰めた清次の横顔は、遣る瀬無い寂しさを漂わせていた。

彼は自分が白石に嫌われている事も承知していたと言うのに、こうして遥々軍に迄彼女を追い掛けて来た位なので、その想いの深さは隼太にも想像がついた。

 

(全く――何時からそんな純情になっちまったんだか……)

 

「でもさ、今度こそはお前の気持ち、通じたんじゃねえか?」

 

「――もう遅ぇよ……」

 

「そんな事はねぇだろ」

「何言ってんだよ、あいつはよぉ手を失くしちまったんだぜ? もう艦娘じゃ居られ無くなっちまうんだぜ? 今更如何しろってんだよ?」

「だからって人生終わっちまう訳じゃねえだろ? 白石さんも俺達もまだ二十歳にすらなって無えのにさ、遅いとか決めつけんなよ。これからは、一緒に戦う訳じゃ無くてもお前が白石さんの支えになる事だって出来る筈じゃねえのか?」

 

それを聞いた清次は黙ってしまい、そのまま無言で窓の方を見詰めていた。

が、やがて俯くとハーッと深く溜息を吐く。

 

「―――――そうだよな――お前ぇの言う通りだな……」

「決まってんだろ、後はもう一息気合入れてさ、その事を白石さんに伝えるだけだぜ」

 

「――ああ、そうだな、――何とかやってみっかぁ――気合入れてな」

「おぅ」

 

その時、消灯5分前を告げる鐘が鳴り響く。

いそいそとベッドを整えた2人は、ざっと室内を点検した後に灯りを消して各々のベッドに飛び込んだ。

そして暫しの沈黙の後、消灯時間迄の僅かな間に清次が小声でぼそぼそと呟く。

 

「――あん時よぉ、お前ぇが海軍に入るって言ってくれて、――真剣(まじ)でホッとしたぜ」

 

「そういうお前こそ、もう自分の中で決めてたんじゃねぇのか?」

 

「出来なかったんだよ、一人でやれる自信が無くてよ」

 

「へぇ」

 

「だからよ――そのぉ――――お前ぇが居てくれて本当に良かったよ――有難な……」

 

数瞬の沈黙が流れた後で消灯の鐘が鳴り、巡回当番が各部屋を点検して回る物音が一頻り続く。

 

間もなくそれも遠ざかっていくと、室内は静寂に包まれる。

 

(お前だけじゃねえよ、俺だってお前に助けられてるさ♪)

 

心の中でそう告げると、隼太は穏やかな気分で目を閉じた。

 

 



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【第五章・第七節】

 彼らが白石を見舞うことが出来たのは、その後2週間以上経ってからのことだった。

それでも特に配慮された上でのことであり、今回も許可されたのは斯波府村出身者に限られていたため、三森や浦戸達からはどんな様子だったか必ず教えてくれと念を押されていた。

手狭ながらも個室のリクライニングベッドに横たわり、上半身を起こした彼女は予想していたより遥かに血色も良く、健康を取り戻している様に見える。

とは言っても、やはり保護具に覆われたまま不自然な短さで途切れてしまっている右腕が痛々しい。

 

病室に入った直後、それを目の当たりにした一同は思わず無言になってしまったが、間もなく白石が笑顔を浮かべて口を開く。

「みんな、来てくれて有難う」

それを聞いた途端、彼女達の感情が一斉に弾ける。

 

「雪乃! 良かった――ほんとに良かったぁ――」

「ごめんね雪乃、あたし本当に何もしてあげられ無くて――」

「雪乃ちゃん、もうこんな無茶しないでね! 絶対だよ!」

「みんなごめんね、迷惑掛けて本当にごめんね」

「何言ってんのよ! 何で雪乃が謝るのよ――謝るのはあたしの方なのに……」

「有難う、こんな風にまた皆と一緒に会えるのが本当に嬉しい! 皆居てくれて本当に有難うね……」

 

4人が涙ながらに喜び合い、そして手を取りあう姿を隼太達はじっと見守っていた。

5年の月日は彼女達を互いに掛け替えの無い戦友にしており、その絆の確かさを感じて思わず目頭が熱くなってくる。

ただ、ここにはその気分に浸って共に分かち合う為に高いハードルを越えなければならない者もいた。

1人は先程から身の置き所が無い様な態で病室の片隅に縮こまっている清次であり、もう1人は隼太に両肩を支える様に掴まれ右手を綾瀬に握られて俯いている浪江だ。

 

(まぁ、お前は自力で頑張ってくれや)

 

心の中で清次にそう言い渡すと、彼の前に立つ浪江に注意を戻す。

無論白石が彼女を責めたり詰ったりする事はあり得ないものの、浪江としては白石に詫びてその赦しを得なければ今回の事を乗り越えて行くことは出来ないだろう。

そんな訳で4人が感涙に咽んでいる間、彼としては浪江が緊張の余り倒れてしまわぬ様支えていてやらねばならないのだ。

かくする内に次第に4人の高揚が治まり始め、言葉の遣り取りも一段落して雰囲気が落ち着いてくる。

 

「浪江」

低く小さな声で呼び掛けると、彼女の肩にグッと力が入る。

束の間浪江の返事を待つかと思われたのだが、すぐにそれを待つ迄も無いと感じ取ったらしい綾瀬が声を上げた。

「白石先輩、よろしいですか?」

それを聞いた穂波達は夫々に涙を拭ったりしながらも場所を開けてくれ、迎える白石も軽く顔を拭いながら目を向けてくれる。

隼太が軽く押し出すようにして手を離すと、浪江は一瞬ハフっと息を吸い込んだ後に思い切って声を出す。

 

「せ、先輩、――私が、――私がボケっとしてた所為で――こんな大変な事になってしまって……本当に申し訳ありません!」

痞え痞えではあったものの、彼女は何とか事前に練習した通りに言う事が出来た。

ただ、それを言うだけで一杯一杯になってしまい、後は微妙な沈黙が流れる。

にも関わらず、白石は軽く笑顔を浮かべながら声を掛けてくれた。

「敷島さん、ここに来て?」

白石がベッド脇のスツールを指差すので、促された浪江はおずおずと腰を下ろす。

「敷島さんが謝る様なことは何も無いし、ボケっとしてた訳でも無いわ。だからそんな事何も気にしなくていいの、でもね――」

そう言いつつ彼女は左手を伸ばすので、戸惑いながらも浪江が手を差し出すと、その手を取ってなんと短くなってしまった右腕に触れさせる。

思わず硬直した浪江に向かって、彼女は言葉を続けた。

 

「ひょっとすると、この腕は敷島さんの命そのものだったかも知れないし、他の誰かの命だったかも知れないわ。戦場では、一瞬の迷いや判断の遅れがそのまま誰かの命に直結してるの。私はね、誰かの命を喪うかも知れないその一瞬を、この右手に変えるチャンスを掴み取っただけよ」

 

それは、横で聞いている隼太が身震いする程に神聖で冒すべからざる言葉だった。

 

果たしてこの洗礼に浪江は耐えられるのだろうかと心配になったが、彼女は肩を震わせながらも白石の言葉を全身で受け止め様と努力していた。

 

「だからね、敷島さんはこの事を絶対に忘れないでね。それが何時か必ず、敷島さんや誰かの命を助ける事になるから」

 

「――――はい――――絶対に――忘れません……」

 

辛うじてそう応じた浪江は、堪え切れずに顔を覆って啜り泣き始めるが、それを見詰める白石の表情はとても穏やかだった。

これで終わったと感じた隼太は、泣いている彼女の肩を掴んで立たせる。

「本当に有難う、白石さん」

おそらく浪江は、彼女の言葉を一生忘れないだろう。

そしてそれは正に白石が言った通り、何時の日にか必ず浪江自身を救ってくれる事だろう。

 

そう思ってとても暖かな気持ちに浸っていると、相変わらず穏やかな微笑を浮かべたままの白石が声を掛ける。

「ねえ、私もう一人お話を聞かなきゃいけない人がいるの♪ 敷島君、呼んで来てくれないかしら?」

その言葉の調子につい笑みが零れてしまった彼は、啜り泣いている浪江を穂波達に任せておいてからニヤッと笑って応じる。

「うん、ちょっと待っててくれる? 今呼んでくるから♪」

と言いながらくるっと背後を振り返り、病室の隅で置物の様に固まっている清次の許へ近づく。

「おい、出番だぜ」

「む、無茶言うなよ……」

「何が無茶なんだよ、白石さんが話聞きたいって言ってくれてんだぞ?」

「どの面下げて話しすんだよ――俺は何にも出来なかったんだぜ? 白石は右手を失くしちまったのに、俺はこんな無駄にピンピンしてるんだぜ? 情けなくて顔向け出来ねぇよ……」

 

最後は消え入りそうな細い声だった。

 

(お前、本当に白石さんのこと好きなんだな――だったら、尚更その気持ち伝えるべきだぞ)

 

そう思った隼太が彼の肩に手を掛けて口を開こうとしたその時だった。

機先を制するかの様に、白石の張りのある凛とした声が響く。

 

「清次君、傍に来てちゃんと顔を見せて?」

 

その途端、それ迄背中を丸めて縮こまっていた清次が、まるで背骨にスプリングでも入っていたかの如くビシッと背筋を伸ばして直立する。

そして、ポンコツの重機よろしくガクガクしながら半回転すると、途中で止まってしまいそうになりながらもどうにか白石の枕元まで辿り着く。

あたかも磁石で吸い付けられたかの様に例のスツールに腰を落とした彼は、そのまま微動だにせず停止してしまった。

その様子を目にして苦笑した隼太だったが、俄かに一つの事実に気が付く。

彼女は今確かに『清次君』と呼び掛けたのだ。

例え親しい友達であろうが常に姓で呼び掛ける白石が……。

 

しかし、そんな些細な事に彼が驚いている間に、白石は全く自然に清次に話し掛けていた。

 

「私を執刀して下さった先生がね、教えてくれたのよ、清次君が何て言ってたのか」

「えっ!」

 

素っ頓狂な声と共に顔を上げた清次は、その拍子に彼を見詰めていた白石と目が合ってしまい、赤面して俯く。それに対して白石は変わらず穏やかな微笑を湛えており、そのまま言葉を続ける。

 

「わたしね――――とっても嬉しかった」

 

彼女の左手がスッと差し出される。

それを見てしまった清次は、普通の人間がこれ程スローモーションで動けるのかと感心する位恐る恐る手を伸ばし、とても微かにその手に触れる。

 

「で、でも、――俺は白石の傍にいたのに何も出来なかった――、白石の為に、この体と血を使って貰う事すら出来なかった――。俺は――俺は、一体何の為に海軍に入ったのか分からねぇよ――、こんな積もりじゃ無かったのに……」

 

俯いたままの彼は、絞り出す様にそう言うと再び黙ってしまう。

がしかし、逆に白石はニッコリと笑顔を見せ、幾らかお道化た様な明るい声を出す。

 

「生意気な事言うんじゃないの♪ わたしはね、自分に備わった艦娘の力とわたし自身が経験で身に着けた力の全てを発揮したのよ? その力で敷島さんや村越さんや『かすが』の皆と、それに――清次君を守る事が出来たんだからとっても満足してるの。これで傷病除隊にはなっちゃうけれど、胸を張って村に帰れるわ♪」

 

彼女のその最後の言葉に反応した清次は、ビクンと顔を跳ね上げると先程よりもずっとしっかりした声でその想いを告げる。

「俺も――、俺も一緒に帰る! こ、これからは俺が白石を支え――」

駄目よ!

 

一瞬、隼太はあの斯波中の教室に舞い戻った様な錯覚に陥る。

清次の言葉を強く遮った白石の固く厳しい声は、正にあの頃の彼女そのままだ。

 

「で、でも、お前はそんな体で――」

駄目なものは駄目!

 

清次は必死に食い下がったものの、こんな時の白石には全く通じない。

そればかりか病室内はすっかり彼女の気迫に飲まれてしまい、シンと静まり返ってしまう。

 

「いい? 男ならちゃんとやり遂げて見せなさい! 折角頑張って下士官候補生になったんでしょ? それなのに、下士官にもならずに除隊なんかして如何する積もりなの? そんな中途半端な事する清次君は嫌いよ⁈」

 

まるで自分が叱られている様な気持ちになった隼太は、清次が今どんな心境なのかと思うとさすがに同情を禁じえなかった。

返す言葉が無いとはこういう事なのだろう。

たった2ヶ月程前にもそれが健在である事を示したばかりの、あの頃と同じ太々しさは何処へ行ってしまったのか、彼は口を噤んで俯いてしまう。

今迄彼女の左手に微かに触れていた筈のその手は、何時の間にか膝の上で筋が浮き出る位固く握り締められていた。

 

(お前、良く頑張ったよ――でも、やっぱり白石さんには敵わないよな)

 

静まり返った室内で問答無用とばかりにこっ酷く叱り付けられて小さくなっている彼が可哀想になって来た隼太が、如何にかして助け舟を出してやれないか考えていたその時だった。

 

白石がその厳しい顔をふっと緩めると、左手を伸ばして清次の頬に優しく触れる。

 

「心配しなくても大丈夫よ。わたし――ちゃんと待ってるから――――、立派になった清次君がわたしを迎えに来てくれる迄、ちゃんと村で待ってるからね」

 

隼太が――いや、おそらくそれを聞いていた全員が――軽い痺れを覚える程、慈しみと労わりと――何よりも深い愛情の籠った言葉だった。

 

この世に聖母が存在するのなら、こんな声で喋るのだろうか。

 

そしてその声は、清次の数年越しの思いが報われた事を告げたのだ。

 

彼は震えていた。

 

震えながら顔を上げると、そこにあったのは慈愛に満ちた眼差しだった。

 

何かを言わなければという義務感に追い立てられる様に彼は唇を戦慄かせ、

 

やっとの思いで途切れ途切れの言葉をなんとか捻り出す。

 

「や――約束――するよ、俺――やり遂げっがら――か――必ず白石を――迎えにぐがら……」

 

言いながら清次は大粒の涙を零しはじめ、どうにかそれだけを言い終えるとそのままベッドに突っ伏して男泣きし始める。

 

「うぉおおぅっ――おっおっ――おうっ――ぅおぅっ、おおおぉぅ――」

 

まるで吠える様な激しい嗚咽は、胸の奥底に抱き続けて来た強いその想いがやっと蒼天の下へと解き放たれた故なのだろうか。

 

言葉に言い表せない安堵や喜びの様な混ざり合った激情が彼を包み込んでいた。

 

(良かったな……本当に良かったな……)

 

何か言ってやりたいと思った隼太だったが、心の中でそう呟くのがやっとだった。

 

何よりも号泣する清次を愛おし気に撫でてやる白石は、本当に聖母が降臨したのかと勘違いしそうな位に得も言われぬ表情で、それを見ているだけで止めどなく涙が溢れてくる。

 

何時の間にか穂波が彼の腕をギュッと抱き締めていたが、彼女の瞳からも大粒の涙が幾筋も零れ落ちていた。

 

「本当に――――バカには敵わないわ……」

 

これ迄で一番柔らかく『バカ』と言った村越もまた涙を零している。

 

浪江も綾瀬も、そしていぶきもまた涙を滲ませていた。

 

(こんなに良い気分にさせやがって……、全く、お前は禄でもない食わせ者だよ♪)

 

そう思ってしまった隼太は勿論、この場にいる全員がその良い気分を共有しているものだと思い込んでいた。

 

それ故に、誰も気付くことが出来なかったのだ。

 

涙を浮かべたいぶきが、血が滲む程強く唇を噛み締めていた事に。

 

 




これで第五章は完結です。少々間が開いてしまうかも知れませんが、次回からは第六章を投稿する予定です。引き続きよろしくお願いします。


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第六章
【第六章・第一節】


第六章の投稿を開始します。白石が欠けてしまった教育隊付属艦隊には様々な変化が訪れますが、彼らがそれを乗り切っていくだけの時間は無いかも知れません。


 青い空に白い雲が浮かんではいたが、風は身を切る程に冷たく、穏やかというには程遠い。

早春の海は青というよりも灰色に近く、もし無防備に投げ出されたなら、例え浮いている事が出来たとしても生き存えるのは不可能だろうと思わせるには十分過ぎる程だ。

 

「定時報告、両舷水測異常なし!」

「了解です、そのまま監視を継続されたし」

「はいっ!」

穂波と副長のキビキビとした無線のやり取りが、隼太の注意を引き戻す。

『うさ』のプールには今は穂波だけが立っており、そのプールを挟んで反対側には清次がいた。

彼は隼太と同じ形のコンソールに齧りついており、その視線の先には『うさ』から数百メートル離れた海上で対潜機動訓練に携わっている村越、文谷、そして浪江の姿があった。

さきの交戦で被弾した『かすが』は現在ドック入りしており、戻ってくるには相当程度の期間が必要だ。

海軍には僅かながら予備艦が存在するものの、教育隊の付属艦隊に適した艦艇はなく、『かすが』が戻ってくる迄乗員達は船無しで待つしかない。

とは言えその間中沿岸哨戒無し、艦娘の訓練も中断、としてしまうのは影響が大き過ぎることから、彼女達と乗員の一部は交代で健在の3隻に乗組むシフトが組まれていた。

そのシフトに従えば、今日は指導役兼哨戒担当の艦娘3名に候補生2名の体制になる筈なのだが、ここには本来居てしかるべき姿が一つ欠けている。

そしてそれは昨日今日に突然起こったことでは無かった。

 

(やっぱり関係あるよな……)

 

内心そう思っているのは無論彼だけではない。

この事実を知っている者全員がそう思っていると言い切っても、恐らく過言ではないだろう。

白石が正式に傷病除隊して行ったのは2月半ばの事だったが、その前から既にそれは始まっていたのだ。

 

あの日以来、いぶきは体調不良を訴える事が多くなっていた。

それはちょっとした不調の事もあれば今日の様に勤務を休む程の事もあり、その時その時によって浮き沈みが激しい。

だがその様な体調の差は些細なことと言い切ってしまえる程に、彼女は変わってしまった。

以前のいぶきを知っている者であれば、今の彼女は別人かと勘違いする位朗らかさを喪っており、物憂げな覇気の無さが際立っている。

 

(村越さんがいてくれ無かったらどうなってたんだろう……)

 

当初穂波といぶきの補助としてシフトに入るだけだった筈の村越が、今やピンチヒッターどころかメインの働きをしてくれていた。

実際のところ指導を受ける候補生達の評判も良く、物言いに手加減の無い綾瀬などは一度『村越先輩の方がずっといいです!』などと口走ってしまい、村越自身に窘められる始末だった。

 

(でも――こういうのって凄く良くないよなぁ……)

 

こんな事を続けていては、いざ元の体制に復帰したとしてもいぶきの居場所がなくなってしまうかも知れない。それとも、ひょっとして彼女もまた除隊してしまうのだろうか?

いぶきは斑駒の指示に従って海軍病院を受診した様で、もちろん詳しい診断内容などは彼には伝えられないものの、どうやら適応障害との事らしい。

ただWave達に言わせると『適応障害なんてのは、他に適当な診断が出来ねえときに出す所見ってヤツさ』だそうで、平たく言えば原因不明に近いニュアンスらしい。

 

(原因なんて分かってるみたいなもんだけどさ――それは病名には出来ないよな)

 

事実、清次は宿舎で2人切りの折にはしばしば『俺の責任だ。俺が誤解される様な事をして来た所為だ』と口にする様になっており、少なからず落ち込んでいる様だ。

だからと言って彼に出来る事は今のところありそうにない。

ましてや清次がいぶきに謝罪する様な真似でもしたら、益々事態が悪化しそうだ。

 

(まぁでも、悪い事ばかりでも無いしな)

 

いぶきの事は確かに頭の痛い話だが、その代わり隼太にとって大きな心配事の種であった浪江の事がほぼ解決したのは素直に有難い。

あれ以来、浪江の訓練全般に現れていた危険な兆候はピタリと止み、見違える程規律正しく謙虚な振る舞いが出来る様になっていた。

さすがに綾瀬と並んでしまうと少々見劣りがしてしまうものの、少なくとも安心して見ていられる様になったのは、本当に白石のお陰としか言い様が無い。

そんな事を考えていると、穂波がチラリと視線を投げ掛ける。

 

(また2人で話がしたいね)

(うん、俺もだよ)

 

簡単な意思の疎通はすっかり目だけで出来る様になった彼らではあったが、ここ迄事態が変わってくるとやはり対面で相談がしたくなってくる。

無論2人での外出申請は相変わらずしているが、そうそう簡単に許可が下りるものでは無いし、何より前回は長門の計らいがあったからこそ2人切りになれたのだ。

それを思えば、寧ろ在港時点検などの折の方が邪魔されずに会話が出来るかも知れない。

 

そんな事を取り留めも無く考えている内に対潜機動訓練が終了し、村越達が戻って来る。

「せぇんぱい、どうも有難うございましたぁ」

「有難うございました!」

文谷のふわふわした挨拶は相変わらずだが、浪江が明るくキビキビ挨拶しているのを聞くだけで何となく嬉しくなって来てしまう。

 

(こう言うの親馬鹿とか言うんだっけな――俺、親じゃないけど)

 

そう心の中で苦笑した隼太であったが、これはどうやら父性の為せる処では無く身内故の感情らしい。

一般論で云うならばだが、目の前にいる2人を比較すれば父性を呼び起こされるのは明らかに文谷の方だからだ。

 

「それにしても夏樹ちゃんには驚かされるわ、対潜機動の速さと正確さはナンバー1なんじゃない?」

これは村越の素直な感想の様だ。

「えへへぇ、でも文谷はぁ火力で勝負にならないからぁ、対潜とスピードを鍛えるしかないんですよぉ♪」

「そう思って実践出来てるのって、やっぱり凄いと思いますよ先輩!」

浪江のその言葉通り確かに文谷の方が歳上なのだが、見た目は明らかに逆にしか見えない。

「でも、浪江ちゃんはまだ一芸を伸ばそうとか、そういう方向に努力する時期じゃないわよ。今はバランスよく練度を上げて能力を存分に発揮できるようになることが優先ね」

「はい!」

 

(いや~、何か結構いい雰囲気なんだけど……でも、不味いんだよなぁ)

 

村越がしっかりしている程、ますます状況が悪く見えて来てしまうという袋小路の様なものだ。

実際そう感じているのは隼太ばかりでは無い様で、先程から班長は苦り切った顔であらぬ方向を睨みつけている。

また『うさ』のWave達も務めて何気なく振舞っているものの、その心中は複雑な様だ。

 

(そりゃそうだよな、何だかんだ言ってもいぶきちゃんはうちの所属なんだからな)

 

そしてその意識を彼もまた共有し始めているのは間違いない。

彼にとっては村越も偶然に同郷の同級生であるからまだしも、もしこれが例えば三森や初田に置き換わったならば、今の班長やWave達に共通するようなモヤモヤとした違和感を感じていただろう。

有能だとかどうかには関わりなく、彼らにとってはいぶきもまた同じ艦で戦う同僚であり仲間意識を共有する存在なのだ。

 

(俺に何か出来ることがあるんだろうか……)

 

彼女が精神的なダメージを少しでも克服出来るように、彼がやれる事を何か考えねばならない。

しかしそのためには医師なのかカウンセラーなのか、某かの専門家に助けて貰う必要がありそうだ。

 

(いや~、それってハードル高いよな、その前に別の誰かに相談してからだなぁ)

 

そんな事を考えていると、突然文谷が地雷を踏みに来る。

「それにしてもぉ、今日も吹輪センパイはお休みなんですかぁ? 文谷もちょっと心配になっちゃいますよぉ~」

一瞬誰もそれに対して反応できず、微妙な沈黙が流れてしまう。

隊内には彼女の事を『天使』などと呼ぶ兵達も多いが、言う迄も無くその幼い容姿そのままの無邪気な言動を指しての事だ。

とは言うものの、残念なことにその天真爛漫さは時として諸刃の剣ともなるのだった。

 

どうなる事かと固唾を飲んでいると、村越が当たり障りのない物言いで何とかそれに応じる。

「夏樹ちゃんだけじゃないわ、あたし達も他の皆もやっぱり心配だけど、心の問題だとしたらそう簡単じゃないでしょうね」

「やっぱりそぉなんですかぁ~? でもでもそうですよねぇ、自分で乗り越えないとぉどうしようもないんですね~」

「あら、ちゃんと分かってるんじゃない♪ そうよね、他人が如何こうしてあげられる事って限られちゃうわよね」

「先輩も、ひょっとして挫折を乗り越えた経験とかあるんですか?」

 

(おっ、浪江もナイスフォローじゃないか♪)

 

上手く話が逸れていきそうだと思ったのだが、残念ながら天使は更に手強かった。

「文谷は経験ないよぉ~? でもぉ、やっぱりおんなじ乙女なんだからぁ、そこはちゃーんと分かっちゃうだけだよぉ。浪江ちゃんだってそうでしょぉ?」

「えっ? そ、そうなんですか? 乙女って?」

「そうだよぉ~、恋に破れた乙女はねぇ~海よりも深ぁ~く傷ついちゃうんだよぉ。とってもとっても深ぁ~いんだよぉ」

 

隼太の視界の向こうで、清次が硬直しているのが見えてしまった。

周囲には『あ~あ、一体どうすんだよこれ……』とでも表現するべき空気が充満しており、それが正常な地球の大気をどこかへ押し遣ってしまった様な息苦しい空間になっている。

しかし、これまで一度も見た事のないものが見られたのも事実だ。

 

(村越さんでもあんな顔するんだな……)

 

目が点になるとはよく使われる表現だが、まさか本当に――しかもそれが村越と浪江なのである――目が点になっているところを見られるとは思いもよらなかった。

しかもその状況を作った当の本人は少々ドヤ顔迄しているという、ちょっと日常生活では到底出会えそうもない稀有のシチュエーションだ。

とは言うものの、何時迄もこのまま放っておいて良いわけもないだろう。

何かして空気を変えなければと思った矢先に、気持ちが通じたのか穂波が声を上げてくれる。

「夏樹ちゃんも浪江ちゃんも、そろそろ終了点検掛からないと駄目だよぉ」

「そ、そうね! さぁ2人とも終了点検よ、支援班の皆さんもよろしく!」

「は、はい!」

「はぁ~い」

やっと周囲の空気が正常に戻り、時間も元通りに流れ始めた様だ。

プールの反対側で清次がコンソールに突っ伏しており、一緒に乗り組んできた『かすが』のWaveに肩を叩かれている。

 

相変わらずしかめ面をした班長が歩いてくると、隼太の斜め後ろに立って低い声を出す。

「貴様、出来るだけ早くあの色男と相談でもして何か出来ることを考えろ」

「あ、はい、何とか考えます」

とにかくそう答えると、彼はフンと鼻を鳴らして応じる。

清次が色男かどうかはさておくとしても、これで何か出来ることを考えて報告しなければならなくなったのだ。

 

(相談つってもなぁ――まぁ、あいつとだけ相談してても埒は開かないだろうな……)

 

心の中で溜息を吐いた彼の頬には、相変わらず早春の冷たい海風が吹き付けていた。

 

 



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【第六章・第二節】

『かすが』が欠けて3隻体制となった付属艦隊は、以前の様な2隻が哨戒、2隻が在港のローテーションが出来なくなり、今は1隻が哨戒、2隻が在港でシフトが組まれていた。

『かすが』が復帰するのに何ヶ月掛かるのか明確な見通しは立っていないが、再び4隻体制に戻る迄はこのシフトを続けるしかないだろう。

その朝、離岸していく『たかちほ』を見送った隼太は、何時もの通りプール周りのモップ掛けをしていると、穂波とともにいぶきが現れる。

「お早うございます!」

意識的に声を張って挨拶すると、彼女も

「お早うございます」

と返してくれるものの、何とも生気のない平板な声だ。

以前の明るく朗らかで積極的だった彼女に苦手意識を持っていた隼太だったが、こうなって見ると元通りのいぶきに戻ってくれないものかとつい思ってしまう。

しかしそんな奇跡など起こる筈もなく、そのまま続けて声を掛けられるのを拒む様に顔を背けた彼女は、無言で控室へと去ってしまう。

 

(いいさ、それでもやることに変わりはないしな)

 

今日のシフトは清次が来ないことが予め分かっていたし、それならいぶきが出て来る可能性が高いと思って待っていたのだ。

 

(あ~でも、緊張するのはするんだよなぁ)

 

5年前のあの日の感覚を思い出して、我知らず武者震いが出る。

あの時の隼太には全くと言っていい程余裕がなく、彼女の一挙手一投足に振り回されてジェットコースターの様な目まぐるしい時間だった。

でも、今の彼にはいぶきに対して隠しておかなければならない事など何もない。

彼女を今以上に傷つけてしまう様な愚かな事さえしなければ、あの日と同じく当たって砕けるだけだ。

 

 プール周りの清掃と備品の整理が終わると、早速スタンバイボックスから艤装を搬出して起動時点検の準備に掛かる。

と、そこへ控室から穂波といぶき――に加えて班長が出てくる。

もう顔面の筋肉が固まってるんだろうなと思ってしまう程の仏頂面をした彼と少々困った様な顔をした穂波とは対照的に、いぶきは全くの無表情だ。

一体どんな会話が交わされたものか凡そ想像はつくが、ここ暫くの状況からすれば安直な事にはなり様がない位ここにいる全員が分かっているだろう。

それでも何食わぬ顔で起動時点検の準備を整えて待っていると、彼女達がプール脇にやってくるのでこれも何時も通り敬礼で出迎える。

 

「隼太君、違うわよ?」

開口一番、低く感情の籠らない声でいぶきが指摘するが、もちろん予想通りだ。

「はい、本日は互換確認を兼ねています」

「互換確認? 何故このタイミングでやるの?」

「現在の暫定シフトに代わってからは初めてなので」

「……はい、分かったわ」

納得など欠片もしていないだろうが、淡々と応じた彼女は艤装脇の点検椅子を引き出して腰を下ろし、能面の様な顔のまま機械的に起動時点検に掛かる。

「主ケーブル接続」

「主ケーブル接続――よし!」

「艤装メインスイッチ押下」

「メインスイッチ押下――確認! 通信環境チェック開始、平均転送速度――24.5Gbps、エラーチェック正常――通信環境チェックよし!」

「艤装側確認――通信環境良好」

「マスターリンク――起動」

「――艤装側、シンクロ開始確認」

「同期確認――よし! ねぇ、いぶきちゃん?」

「……」

「チェックモード動作にして点検する?」

「……自分で決めれば?」

「艦娘には、一応艤装の状態維持義務があるんでしょ? いぶきちゃんの意見を無視して勝手には決められないよ」

「……通常電流値にして」

「了解! 電力供給――よし! 現在値2.01」

「電流値確認、2.01、正常」

「チェックモードにしなかったのはなぜ?」

「……分からないの?」

「ひょっとして、互換確認だから?」

「そんなの決まってるじゃない、実働負荷を掛けなきゃ互換確認にならないでしょ」

「成る程――、教えてくれて有難う、メモしとくよ♪」

「…………馬鹿見たい」

「『見たい』で良かった。村越さん見たいに『バカ』って断言されたら立ち直れないよ♪」

「――嘘ばっかり」

「嘘じゃないよ、俺今でもはっきり覚えてるけどさ、昔いぶきちゃんに『嘘吐いたんじゃ無い事は信じてあげる』って言われた時本当にホッとしたよ?」

「……詰まんない事、覚えてるのね」

「詰まんない事じゃないよ、俺の一生で最大のピンチだったよ」

「……そう――そんなにイヤな奴だったの」

「イヤな奴だったら苦労したりしないよ、何とか嫌われない様に、それで戦争にも行かせずに済むようにしなきゃいけないからピンチだったんだよ~」

「……調子のいい事ばっかり」

「そうだね、あの時は調子のいい事考えてたなぁって今は思うよ」

「――今だってそうじゃない」

「今はもう、そんな無理な事考えなくて済むだけだよ。結局穂波ちゃんもいぶきちゃんも俺も皆此処にいるんだから」

「だったら、恨んでるでしょ」

「恨んでるように見える?」

「…………でも、わたしのこと邪魔でしょ」

「なんで? 俺は穂波ちゃんと上手くいってると思ってるのに、いぶきちゃんが邪魔になる理由がなくない?」

「――だったら、邪魔じゃないだけね。わたしなんかいてもいなくても同じね」

「もしもいぶきちゃんが最初から俺の近くに居なかったんなら別だけど、そうじゃ無いでしょ」

「でも――穂波がいればそれで良いんじゃないの?」

「中学の時の俺はどっかでそう思ってたかも知れないなぁ。でも、やっぱり色んなものがまだ見えてなかったんだと思うね」

「……やっぱり嘘ね」

「もう一回言うけど嘘じゃないよ。だってあの時さ、いぶきちゃんが彼女になってくれるって言われてマジでグラついたんだからね」

「……しつこいのね、まだ嘘吐くの?」

「まぁ、信じて貰えないのは仕方ないけどさ、あの時は本当に『いぶきちゃんも彼女になってくれるんだし穂波ちゃんの事は諦めるしかないか』って思ったんだよ」

「……」

「あの時、一体なぜそのまま『うん』って言わずに断ることが出来たんだろうって思ってるよ。なんか突然違う未来が見えた様な気がしたんだよなぁ」

「……決まってるじゃない、それだけ穂波の事好きだったんでしょ」

「うん……好きだよ、だからここ迄来たんだよ」

「――わたしの前でそんな事、平気で言うのね」

「いぶきちゃんに生半可な嘘は通じないって、身に染みて知ってるからね♪」

「イヤな言い方ね」

「いぶきちゃんだけじゃ無いよ、穂波ちゃんだって傍に居るだけで俺が考えてる事何でも分かっちゃうんだからね」

「……それ、わたしに当てつけ?」

「――あのさ、今から話す事はまだ穂波ちゃんにも話したこと無いんだけど……」

「そんな事、わたしに話してどうするの?」

「後で穂波ちゃんにも話しとくよ」

「……フン」

「実は高校の時にさ、告られた事あるんだ」

「……」

「中央の娘でさ、東雲秋帆ちゃんって知らない?」

「……知ってる、中央で一番可愛いって……」

「うん、実際可愛いかったよ。だから、最初は何が起こったのかと思っちゃったよ」

「――何なの? 自慢したいの?」

「もしそうだったら、いぶきちゃんにする意味が無いよ~」

「……」

「でもね、不思議な位何も感じなかったんだよ、本当に」

「――何が言いたいの?」

「いぶきちゃんから『わたしと付き合って』って言われた時はさ、正気を無くしそうな位にぐらっと来たのに、何でこんなに違うんだろ? って思ってね」

 

「…………もういい」

「えっ?」

「もう聞きたくないって言ったの」

「ご、ごめん、そんなに嫌だった?」

「……ううん、違うわ」

「え、それじゃあ――」

「次に隼太君が何て言うのか、もう分かっちゃったからよ」

「そっかー、やっぱり俺単純なんだなぁ♪」

「違うわ、裏表が無いだけよ、単純なのとは違うの……」

 

一瞬、隼太の脳裡にあの日の穂波の言葉が過る。

5年の月日を隔てて、その同じ言葉がいぶきの口から出たのだ。

 

「い、いぶきちゃん――それって――」

 

「……だからね――好きだったの……」

 

息が出来なかった。

 

それどころか、心臓まで止まってしまったかの様だった。

 

しかし、どうやら彼女はそうではないらしい。

 

「――安心してね、今はもう大嫌いだから」

 

「――斯波中の皆の事もそう?」

 

「……うん」

 

「やっぱり――許せない?」

 

「そんな事、言う積もり無い、でも――」

 

「でも――?」

 

「――男の子なんて、皆嫌い……」

 

一体どう返事をしたら良いのか見当もつかなかった。

いぶきが何を言いたいのかはイヤと云う程分かるのだが、今は既に隼太もまた憎むべき存在になっているのだ。

 

(でも――本当に誰も本気な奴はいなかったんだろうか?)

 

確かに、彼女を追い掛けて来た斯波中生は誰もいなかったが、だからといってそこ迄やらなければ本気ではない等と言われる筋合いの事でもないだろう。

 

「いぶきちゃんの事さ、本気で好きだった奴もいるんじゃないかな」

「そんなの関係ないわ――誰からも告白なんてされてないもの……」

 

清次の言葉が蘇って来る。

『――いぶき派みてえな変な感じになっちまってよ――』

結局彼らは、互いに牽制しあって誰もまともに告白すらしなかったのだ。

 

(ひょっとして、あの日俺に付き合ってと言ったのは……)

 

自分の事を本気で想ってくれる人は誰もいない――いぶきに特別な関心を示さない隼太だからこそ、そう訴えたかったのだろうか。

この世の何処かに、自分を好きだとはっきりそう言ってくれる誰かがいる筈――彼女は村の外の世界にそれを求めていたのかも知れない。

 

「ごめんね――俺、いぶきちゃんがどう思ってるのかなんて、何も分かってなかったよ……」

 

「――やめてよ、謝って欲しいなんて思わない」

 

「うん、謝るのはこれで終わりにするよ。でも――また、話聞かせてくれないかな」

 

「――何? わたしのこと好きになったの? 言っとくけどわたしは嫌いよ」

 

「分かってる積もりだよ。それでもいいからさ……」

 

「…………気が向いたらね」

 

「――有難う」

 

「――如何でもいいけど、いい加減に仕事したら?」

「あっ! うん、そうだね、互換確認やらなきゃね、ごめんよ」

「今、謝った?」

「いやっ、その、今のは違うよ? 本当だよ?」

「フン――バカみたい」

 

そう言った切り、彼女は艤装に視線を落として事務的な対応に戻ってしまう。

とは言え、隼太の心許ない感触だけではあるものの、何か取っ掛かりを掴めた様に感じられたのは事実だ。

 

(焦るな――今日は最初の一歩でいいんだ。少しずつ少しずつ時間を掛けていけばいいさ)

 

そうやって、いぶきの心を少しずつ解き解して行けるかも知れない。

彼一人だけではなく皆も協力してくれるのだから、時間を掛ければきっとやり遂げられる筈だ。

その確信を胸に、再び隼太は目の前の仕事に戻る。

 

 

だが――時は――彼が思う程には――優しく無かった。

 

 



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【第六章・第三節】

 「やっぱりかぁ~、まー仕様が無ぇなぁ」

「そうですね、まぁ想定内ですよね……」

「馬鹿野郎! 仕様が無いかどうか貴様らが決めることじゃねぇぞ!」

「んな事言ったって仕方ありませんよ班長~」

「そうっすよ、吹輪がしんどいって言ってるのを無理矢理引き摺ってくる訳にいかないでしょう」

「そんな事位は、貴様らに講釈垂れて頂かなくたって重々分かっとる!」

分かっているのと機嫌が悪いとの間に相関関係は無さそうである。

班長の気持ちは良く分かるのだが、腹を立てても解決しないこともまた確実なので、憤懣の遣り場は何処にも無いのだ。

 

(やれやれ、そろそろこっちに火の粉が飛んで来そうだな)

 

隼太がそう思っていると、案の定お鉢が回ってくる。

「敷島! 貴様も何時迄悠長にやっとる積もりだ! さっさと結果を出さんか馬鹿者!」

「申し訳ありません! ですが、やはりもう少し時間をください!」

「ほ、本当に申し訳ありません!」

横から一緒になって清次も声を上げるが、どうやら本気で恐縮しているらしい。

「喧しい! 貴様の様な色男に頭下げられても何も嬉しくねえ!」

因みに清次には、班長独特の言い回しがあるので、こう言われた時は『お前が悪いんじゃないから謝る必要は無い』という意味なのだと解説してある。

その所為か、最初の頃は怒鳴られる度に一々震えあがっていたのだが、近頃は多少慣れて来た様だ。

とは言え班長の癇癪は中々おさまらず、これはまだ長引くかと諦めかけた矢先、斑駒が士官らを伴って乗艦してくる。

 

「お早うございます、艦長殿!」

敬礼で迎えた一同を代表して班長が挨拶すると、答礼した彼女は口許に笑みを浮かべながら口を開く。

「朝から随分ご機嫌斜めの様ね、班長♪」

「はっ、申し訳ございません。訓練態勢に穴を開ける事となってしまいました」

「仕方無いと片付ける積もりは無いけれど――でも、如何し様も無いわね」

「まことに、小職の不徳の致すところで――」

「貴方の所為では無いし、そちらの色男さんの所為でも無いわよ」

そう言ってチラリと流し見られた清次は、思わず直立不動となり

「はっ!」

と一声上げるのがやっとだった。

「兎に角、今日は戦闘機動訓練は中止して哨戒訓練のみとします、全員出港準備掛かれ」

「了解しました! 直ちに出港準備掛かれ!」

班長の復唱に応じて、班員全員が一斉に動き出すのを満足気に見やった斑駒は、そのまま踵を返して艦橋へと消える。

待機していた陸上要員も同じく離岸準備に入ると、結局は何時もと変わらぬ光景となった。

 

(まぁ、さすがにまだ無理だろうとは思ってたしな)

 

今日のシフトの巡り合わせが悪い事は、前から分かっていた事だ。

清次がシフトに入る日はタダでさえ出勤率が下がるのに、その上に今日の候補生は綾瀬と浪江なのだ。

そもそも、いぶきを村の出身者以外の者と組ませる様に再配置することが検討されているというのに、此処迄固まる様な日を作ってしまえば駄目なのも当然の様に思う。

そんな日に村越がシフトから抜ける予定を当ててくるなど、わざとやっているのだろうかと疑いたくなる位だ。

『かすが』の乗員で、あの日負傷した者や戦死者のチームメイトやすぐ傍に居た者等には定期的なカウンセリングが行われている。

それはそれで良い事かも知れないし、実際数日前には浪江もカウンセリングを受けているのだが、村越は以前から『あたしはカウンセリングされる方が却ってプレッシャー感じるわ』と零す位気乗りしていなかった。

しかも寄りに寄ってそれをこのシフトの日に入れてしまうわけで、改めて軍という処は何処迄も杓子定規なものだという事を思い知らされる。

今の司令と斑駒の様に柔軟な者が指揮官に就いていても、こう言った事は容易には改善しないらしい。

 

 離岸して間もなく何時もの様に先ず穂波が哨戒態勢に入り、続いて浪江と綾瀬が訓練態勢に入ると、これもまた何時もの様に往路の哨戒訓練が始まる。

何時もと違うのは、これが復路も続くというだけだ。

「綾瀬候補生、敷島候補生、両舷水測!」

「綾瀬、右舷水測入ります!」

「敷島、左舷水測入ります!」

歯切れの良い遣り取りが交わされている時は、彼女達がリラックスしているサインでもある。

隼太の周りの班員達も同じくリラックスしている様子で、あれ程癇癪を爆発させていた班長ですら、少々ムスッとしている程度に迄は機嫌を直している様だ。

しかし気を抜いて良い訳ではない。

『かすが』が襲撃を受けたのは、例の海洋生物や境界面反射によるノイズが多い海域でのことなのだ。

言う迄も無く、その様な条件下では不審な音源の探知が遅れたり確認し辛かったりする可能性がある訳だが、何より怖ろしいのは深海棲艦がそれを利用しようとした事だ。

約20年前に深海棲艦との実質的な戦争が始まった当時は、彼女達(表現が正しいのかどうか悩むところだが、女性の様な姿をしているのでこう呼んでおこう)には組織などはなく、一緒に行動している様に見える者達も精々実艦時代の繋がりがある同士程度と思われていた。

だが年月の経過と共に、彼女達がどうやら人類側の情勢を冷静に観察しているらしい事や、相手構わず闇雲に襲い掛かる訳ではなく弱い部分を確実に叩きに来る処など、何らかの組織だった行動とそれを支える高い知性とを備えている事が次第に分かってきている。

世界の国々の中でもこと深海棲艦に対する戦力が最も充実しているのは日本なので、今の処彼女達は正面切って大規模な戦いを挑んで来ることはないが、それ以外の各国に於いても徐々に艦娘の配備は進んでおり、何時迄この状態が続くのかは見通せない。

来るべきその日の為に、こうして新たな世代の艦娘を戦力として育成していく事が必要なのだが、ひょっとすると深海棲艦達がこの教育隊付属艦隊などにちょっかいを出してくるのは、それを妨害する糸口を探しているのかも知れない。

 

 やがて『うさ』は警戒すべき海域に入り、穂波達を含めた一同の上にも多少ながら緊張した空気が流れる。

「9時方向、距離凡そ7,000付近にに微弱な音源を探知、状況から判断して海洋生物と思われます」

「2時方向、距離5,000以内にやや弱い音源を探知、境界面反射の可能性が高いと思われます」

定時報告以外にも、時折報告の声が上がるたびにサッと気が張り詰めるものの、報告の内容からしてすぐにそれは引いていく。

とは言え、こんな時コンソール係である隼太らは余りその雰囲気に振り回されることはない。

彼らが見守るコンソールには穂波達のバイタルが常に表示されているため、報告の内容を全て聞く前から彼女達のバイタル値に大きな変化が無い事が分かっているからだ。

 

(でも――いざその時になったら怖いだろうな……突然穂波ちゃんの心拍数跳ね上がったりしたら、俺の心臓が止まりそうだよ)

 

しかし、それが本当に起こるかどうかすらもまだ分からない。

隼太が見ている限りでも、穂波は驚いたり慌てふためいたりという挙動がほとんど無く、隊内の所属艦娘の中でも最もメンタルが安定して落ち着いていると評価されていた。

因みにもう1人数値がほとんど動かないと言われるのが『あつた』所属の初田だが、彼女の場合はどちらかというとメンタルが安定しているというより、自分の好きなこと以外にはほぼ感情を動かされないダウナー系だという評判が定着している。

そうこうする内に彼らはその海域をどうやら抜けて、幾許もなく通常コースでいう処の反転ポイントが近付いてくる。

昼食準備完了を知らせる鐘が鳴ると、まず穂波から昼食休憩の準備に入る。

有線機動の立下げが終了して彼女がプール脇の所定位置に腰を下ろし、班のWave達に艤装を外して貰っている間に隼太もコンソールの始末を終える。

「先番、行って参ります!」

「さっさと戻って来いよ、給養班長に説教でもされやがったら承知しねえぞ」

「了解っす~」

班長や先番組のWaveらと一頻り遣り取りをしてから、プールの反対側で相変わらずコンソールに噛り付いている清次に

「お先!」

と一声掛けると、

「うす!」

とこれも一声で応じる。

「へへ、色男もうちの雰囲気に馴染んで来やがったな」

「そうですね。まぁ、まさかあいつのあだ名が『色男』になるとは思いませんでしたけど」

「そりゃ仕様がねぇだろ、結果的に吹輪を袖にしたのは間違いねぇんだからよ」

「ええ、あいつは彼女の事を好きなんだとばかりずっと思ってましたからねぇ」

「中々大した奴じゃねぇか、そういう一途なのって嫌いじゃないぜ」

実際の処、今度の件はWave達の間でもどちらかというとポジティブに評価されているらしい。

ただ、班長をはじめ管理者側から見れば困った事をしてくれたと思われている様で、そこは少々隼太も心配なところではある。

 

(まぁでも、あいつもちゃんと分ってる見たいだしな♪)

 

それ迄も別に清次が不真面目だった訳では無いものの、白石の除隊が決まってからの彼は勤務態度と言い振舞いと言い、誠実さが際立っていた。

もちろん、彼にとっては『一日でも早く下士官となって白石を迎えに行く』という人生の一大目標が出来たのだから、それに向かって脇目も振らずに努力しているだけなのだろう。

「白石さんは大物やな、あんながしんたれを一夜で模範生にしてまうんやから」

とは河勝の評だが、その言葉に違わず何れ清次は白石の尻に敷かれるのかも知れない。

 

 班長に釘を刺されたからではないが、さっさと昼食を終えて戻ってくると穂波も丁度控室から出てくるところだった。

二言三言位は話し掛けられそうだと思った矢先、綾瀬に先を越されてしまう。

「先輩、確認お願いできませんか?」

「どうしたの?」

「はっきり分からないんですけど、音源っていうのかノイズなのかものすごく微かな何かが聞こえるんです――って言うかそんな気がするんです」

彼女がそんなあやふやな言い方をする位なので、余程微弱な反応なのか或いは本当に気のせいなのだろう。

「分かったわ、確認しておくからご飯行って来てね」

「有難うございます!」

「確認できなくて申し訳ありません」

綾瀬と浪江が口々にそう言って立下げに掛かるので、入れ替わりに穂波の起動準備に入る。

「穂波ちゃんお疲れ様だね」

「ううん、大丈夫だよぉ」

「分かった、それじゃ――通信環境チェック開始――」

何時もの様に起動確認を始めるが、穂波と息が合っている事もあり、日に日に所用時間が短くなっていくのを感じられる。

そんな訳で、浪江達がやっと脱着を終えて立ち上がった処だというのに、早くも起動完了した穂波はプールに立っていた。

「起動完了、全機能異常なし! 艦娘、有線機動準備完了しました!」

「了解、艦娘は哨戒を開始されたし」

「五十田、両舷水測開始します!」

すっかり当たり前になった遣り取りを耳にしながら、彼女の横顔をチラリと見る。

落ち着いたその表情に癒されるものを感じながら、コンソールに視線を戻したその数秒後の出来事だった。

 

突然、穂波の心拍数と血圧が跳ね上がったのだ。

 

「穂波ちゃ――」

 

思わず口に出掛かった言葉が、彼女を顧みた瞬間に喉の奥で凍り付く。

見た事も無い様な、白く緊張した面持ちの穂波は只ならぬ気配を漂わせていた。

更にその直後、隼太は初めて彼女が大声を出すのを耳にする。

 

「4時の方向に不審な音源を感知! 距離、凡そ20,000以内! 複数です!」

 

その怖ろしい言葉は、辺り一帯を静寂に包み込む。

――が、それは一瞬しか続かなかった。

正に間髪を入れずという勢いで、スピーカーから副長ではなく艦長である斑駒のこれも大声が響く。

 

「総員、戦闘態勢取れ! 戦闘機動に備えよ! 繰り返す! 総員、戦闘態勢取れ! 戦闘機動に備えよ!」

 

食事に行き掛けた後番組と浪江と綾瀬が慌ててプール脇に馳せ戻ってくる。

隼太も慌ただしく艦艇戦闘装備を身に着けるが、その間にも主機が唸りを上げ、艦がグンと増速する。

「五十田さん! 触接は維持してる⁉」

先程の様な大声ではないものの、斑駒の緊迫した声が再び降ってくる。

「維持しています! 方位、距離とも凡そ変わらず! 数は3乃至4と思われます!」

「何とか維持して頂戴! 綾瀬さん敷島さん! 貴方達は射撃準備と水上索敵よ!」

「了解!」

「了解しました!」

穂波達の緊迫した遣り取りが続く中、斜め横で思わずといった調子で班長が呟く。

「畜生め、とうとう来やがったか……」

その独り言を聞いた隼太は、改めて己の中の覚悟を確かめる。

 

(俺は――俺は――今、穂波ちゃんの傍にいる――そうだ――とうとう来たんだ――一緒に戦うその瞬間が……)

 

今、この瞬間に彼が掴むことが出来るのは、どうやらその己自身の覚悟だけの様だった。

 

 



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【第六章・第四節】

 五十田が第一報を叫んだ時、最も素早く反応出来たのは斑駒自身だった。

部下達が別に無能な訳では無く、彼らには迷いや遠慮が有っても自分にはそれが無いと言うだけだ。

躊躇なく戦闘態勢を命じたのも、一刻も早く増速して敵を振り切るチャンスを掴むためでしかない。

 

「隊より受電しました!」

副長が声を上げる。

「報告して!」

「はっ、本艦からの緊急連絡を受電し『あつた』『たかちほ』に緊急離岸準備を下命済み、また陸軍に大井殿のヘリコプター移送を依頼中とのことです」

「分かったわ、航空支援の方はどう?」

「はい、厚木基地からの応答は未着です」

「仕方無いわね、何とかして振り切るわよ」

「はい!」

敵が大型艦や潜水艦であれば十分に振り切れるだろうが、巡洋艦や駆逐艦であればそれは困難になる。

此方の持っている反撃手段は火砲が1門と数発のSSM程度であり、3、4隻の相手と正面から渡り合うのはそもそも無理があるので、味方が駆け付けてくれる迄逃げ切るしかない。

 

彼女が改めてそう肚を括り直したその時、前方に巨大な水柱が4つ立ち上がる。

「弾着!」

見張担当が声を張り上げるが、それよりも大事なことがあった。

「すぐ次が来るわよ⁉」

その言葉が終わると同時に、更に4つの水柱が前方に立つ。

「大きいですね」

「そうね、これは戦艦だわ。こんな近海で何をやってるのかしらね」

そう言いながらも、心中ではこれなら何とか逃げ切れるとも思う。

今の弾着地点を見ても此方の速度をかなり見誤っており、逃げに掛かったのを見て慌てて撃って来たのだろう。

後は随伴の駆逐艦などをどうやって躱し切るかだ。

 

「報告を修正します! 音源の数は3! 繰り返します、音源の数は3です!」

「艦の大小は推定できる⁉」

「お待ちください――推定で宜しければ――大1、小2と思われます!」

「有難う、十分だわ、そのまま触接を維持して!」

「はい!」

 

(さすがね――頼りになるわ、五十田さん)

 

束の間、脳裏に5年前の敷島隼太の姿が浮かぶ。

あの日、斑駒が抱いた予感は的中し、4年半後彼は五十田を追って海軍にやってきたのだ。

 

(この子達は、果たしてこの先も戦い抜いて行けるのかしら? あたし達の様に……)

 

そう思った後で『あたし達』に自分で苦笑してしまう。

葉月が聞いたら憤然として否定するだろうか?

 

(例えそうだとしても――関係無いわよね、何を今更だわ)

 

誰に認められる必要も無い。

軍人は軍人らしく自らの手で戦い抜き、彼との未来を掴み取るだけの事だ。

その時再び見張り員が叫ぶ。

「弾着!」

今度は先程よりもやや近いものの、少々右舷側に逸れた様だ。

「修正して来ましたね」

「そうね、でもやらせる訳には行かないわ。その前に振り切るわよ」

『うさ』はほぼ最大速度に達している。

これなら駆逐艦クラスはともかく、足の遅い戦艦は十分振り切れる筈だ。

 

 

 次の弾着は、先程のものよりもかなり近くなっていた。

隼太が初めて見るその水柱は、信じられない位に巨大なものだ。

 

(こんなのが命中したら、1発で粉々だよな)

 

しかし班長もWave達も、そして穂波も淡々としている。

彼と同じ様に水柱が立つ度に反応しているのは、浪江と綾瀬、そして清次位なものだ。

 

「五十田さん、現況を報告して!」

「はい! 音源小2は現在4時方向、概ね17,000以内、音源大1は4時から5時方向、概ね20,000以内と思われます!」

「どういう事? 大を引き離せていないの?」

「はい、推定距離にほとんど変化ありません!」

「――分かったわ、綾瀬さん、敷島さん、敵はまだ捕捉出来ない?」

「はい!」

「まだ捕捉出来ておりません!」

「捕捉出来次第、報告して!」

「了解!」

 

斑駒の声には気持ちを落ち着かせてくれる効果がある様だ。

胸の中で落ち着きを無くしていた心臓が、少し大人しくなる。

 

(それにしても、穂波ちゃんは凄いな)

 

彼女達の遣り取りを聞いていても、穂波が如何に斑駒(だけでは無く、おそらくは全乗員からだ)から信頼されているかが良く分かる。

しかも、この凄まじい状況の中でも彼女はかなり正確に敵の動きを水測で把握し続けているのだ。

普通に考えれば、巨大な水柱が立つ様な弾着やほぼ最大速度に達している艦が波を蹴立てる轟音の中で、20kmも遠くの深海棲艦が立てる航行音など感知出来る訳がない。

だがそれこそが艦娘の特殊能力であり、それをどんな状況でも正確に使いこなせる穂波の高い練度がなせる業なのだろう。

隼太が見詰めるコンソールに映る彼女のバイタルは、先程一気に跳ね上がった時よりは落ち着いているものの、相変わらず緊張が続いている事を示している。

だからと言って、彼に出来ることがある訳では無かった。

リラックスさせる為に話掛けるなどはもっての外だし、お茶を出したり肩を揉んだりする事も出来ず、只ひたすらに穂波とその艤装が正常に機能し続ける様に見守るばかりだ。

 

(仕方無い――それが俺の仕事――俺が戦う方法なんだ)

 

そう改めて思ったその時だった。

先程よりも更に近くに水柱が立ち上がり、『うさ』はそこへ向かって真っ直ぐに突っ込んで行く。

「大分寄せて来やがったな下手糞め!」

班長が忌々し気に叫ぶのとともに小山の様な水柱が甲板に向かって崩れ掛かり、一帯を水浸しにする。

 

「あ~あ、これでまた風呂が潮臭くなるじゃねえかくそっ垂れがよぉ♪」

「全くだ、お陰でまたいい女になっちまったぜ」

そう言ったWaveに肩を叩かれた隼太も、何とか会話に参加する。

「えっ、どの辺にイイ女要素ありましたか?」

「バカ野郎、昔っから言うじゃねえか、水も滴るいい女ってよぉ」

「いやそれ、いい男だと思いますよ? 多分ですけど……」

「多分なら、女かも知れねぇだろ!」

期せずして辺りに笑いが起きる。

張り詰めた表情だった浪江と綾瀬にも笑顔が浮かび、何よりも穂波の口許に小さな笑みが浮かぶ。

 

(穂波ちゃん!)

 

まるで胸の中に小さな灯りが灯った様な救われた気分になった彼に、穂波はチラリと視線を投げ掛ける。

ほんの一瞬2人の視線は絡み合い、同時に互いの心が深く通じ合うのをはっきりと感じる。

 

「一緒だよ」

「うん」

 

意識することなく自然に口を衝いて出た言葉に彼女が応じ、その短い遣り取りで2人は満たされる。

そんな、生きている実感の様な不思議な感覚を共有した彼らの上に、再び斑駒の声が降ってくる。

「これより本艦は回避運動に移る、総員、急激な機動に注意せよ、繰り返す、本艦は回避運動に移る、総員、急激な機動に注意せよ」

 

「貴様ら聞こえたな! しっかり掴まっとけよ! じゃなきゃ帰って晩飯食えねえぞ!」

「うぃっす!」

「了解しました!」

「アイアイサー♪」

 

斑駒の指示を享けて班長が叫ぶと、全員が思い思いに叫んでそれに応じる。

言う迄も無く、その場にいる全員がじりじりと追い詰められつつある切迫した状況を理解していたが、それでもなお彼らは意気軒高だった。

 

 

 五十田の報告を聞いた瞬間、副長をはじめとした艦橋内のクルーに動揺した様な空気が広がったが、その程度の事で一喜一憂している場合ではない。

「落ち着きなさい! 我々がやるべき事は何も変わらないわ!」

そう一喝すると、一瞬浮足立ち掛けたその場の空気がピタッとおさまる。

「申し訳ありませんでした、しかし本艦はほぼ最大速度で航行していますので、理解が追い付いておりません」

「もう少し頭を柔らかくすれば直ぐに分かる事よ、相手が何者なのかね」

その言葉に束の間沈黙した副長は、僅かな間の後に『あっ』という顔になる。

「それではまさか、追尾してくるのは――」

「そうよ、きっとあいつ――いえ、あいつらだわ」

「――しかし、一体なぜ我々付属艦隊などに手を出してくるのでしょうか?」

「それこそ、あいつらに聞いてみなければ分からないわ。けど、どちらにせよ生きて帰れたならば、直ちに海軍としての対策を練る必要があるわね」

「最悪の場合に備えて、もう少し沿岸に寄せるべきでしょうか?」

「馬鹿言わないで、あいつらを沿岸に侵入させてどうするの? 艦砲射撃でもされたらそれこそパニックになるわよ?」

「はっ!」

 

その時、通信担当が声を上げる。

「隊より受電! 一三〇三に『あつた』『たかちほ』が離岸、ランデブーは一四三〇前後の見込みとのことです! 更に、陸軍による大井殿のヘリコプター移送は一三〇五に離陸、一三四〇前後に下田警備部に到着予定とのことです!」

 

「彼女が来てくれるのでも50分以上先という訳ね――」

報告を聞いた斑駒が独り言ちたその直後、『うさ』の前方に何度目かの弾着があり、艦はその水柱が崩れ去る前にまともに突っ込んでしまう。

「相当寄せて来ていますね」

「そうね、次は夾叉されてもおかしくないわね」

そう言って数秒間前方を睨みつけた後で、彼女は副長の顔を見る。

「厚木からの航空支援は? もう出たかしら?」

「はっ! お待ち下さい――――トランスポンダによる現位置確認――ほぼ予定通り離陸済みです。到着予想時刻は一三二五」

 

「――では、それ迄もう少し引き伸ばしましょ。航海長!」

「はっ!」

「回避運動用意、パターンC準備」

「了解しました! パターンC準備――ご命令を待ちます!」

 

彼の応答を確認した斑駒は艦内放送のスイッチを入れ、落ち着いた声で指示を出す。

「これより本艦は回避運動に移る――――」

その間、ブリッジクルーは神妙な顔つきで待機していたが、彼女の言葉が終わり放送のスイッチが切られると全員が一斉にこちらを顧みる。

その視線をグッと受け止めた斑駒は、努めて平静な顔をして指示を出す。

「航海長、それじゃ一つだけ指示を出しておくわね、この際操艦教本に書いてある事は全て忘れて、速度を一切落とさずに回避運動をして見せて頂戴。貴方の腕前、存分に見せて貰うわよ――それでは、回避運動始め!」

「了解しました! 回避運動パターンC、開始します!」

 

主機の唸りが一段と高くなり、斑駒の視界がグーっと傾く。

と、次の瞬間には巨大な力で引き摺られる様な加速度を感じると共に、体が反対側に飛ばされそうになる。

艦長席のハンドルを力一杯握りしめてそれを耐え抜くと、今度は再び反対方向から見えない手で首根っこを掴まれた様な激しい力が掛かる。

 

「弾着!」

見張りの叫び声と共に水柱が立ち上がるが、それは明らかに左舷方向に大きくズレており、どうやら追跡者の狙いを外す事に成功したらしい事を教えてくれる。

 

(とは言っても、所詮は一時凌ぎよね――これで稼ぎ出せる時間は――精々15分てとこかしら♪)

 

それでも構わない――いや、それで十分だとも言えた。

敵を振り切れない事がはっきりした以上、本当に生きて帰るチャンスを掴み取るためには、ただひたすら逃げ続けるだけでは駄目な事位は良く分かっている。

 

(自分の未来は自分の手で勝ち取るものよ――ねぇ、そうでしょ? ――仁……)

 

胸の中に浮かんだ彼の姿をそっと抱き締めてみる。

 

その感触は、彼女の腕の中で微かに暖かかった。

 



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【第六章・第五節】

 『うさ』は決して大きな艦艇では無いが、それでも全長は100m近くある。

それがまるでモーターボートか何かの様に、右へ左へと激しく転針するのは隼太の想像を超えていた。

「良く見とけよ、こんな操艦が出来んのはうちの航海長位なもんだぜ」

「えっ、そうなんですか?」

「ああ、そうさ、艦長共々散々修羅場を潜って来たお人だからな」

「貴様ら、無駄口叩いてっと舌噛むぞ!」

「はい、申し訳ありません!」

「大丈夫っすよ、班長よりは舌短いっすから♪」

「ったく、口の減らねぇ連中だな!」

班長の自棄糞な物言いに再び笑いが起きる。

どれ程絶体絶命の状況に追い込まれても、彼らは決してその態度を改めはしないだろう。

それは前線に身を晒す者達の意地の様なものかも知れない。

 

「4時の方向に敵影を捕捉! 距離、凡そ16,000、数は2!」

綾瀬が声を上げるが、そこには悲壮な響きはなく、寧ろ溌溂としている様だ。

「敷島さんも捕捉出来てる?」

応答する斑駒の声にも何処かしら勁さを感じる。

「はい、捕捉しています! 付け加える情報はありません!」

「では、2人とも距離15,000で砲戦開始の事。目標設定は貴方達に任せるわ、砲戦開始の指示は出さないから、貴方達のタイミングで開始してね、分かった?」

「はい!」

「了解しました!」

「では、期待してるわよ!」

 

音声が途絶えた後でちらっと彼女達の顔を見たが、2人とも頬を紅潮させて瞳を輝かせていた。

 

(頼もしいな、浪江)

 

ほんの1,2ヶ月程前、彼にしがみ付いて震えていた筈の浪江が、今目の前で全身に闘気を漲らせている。

自分たちは勿論の事、艦に乗り組む全員の命を背中に背負って戦いに臨もうとしているその姿を見ていると、胸が熱くなってくる。

 

「浪江ちゃん、どっちにする?」

「う~ん、左かなぁ何となくだけど」

「わたしもそう思ってた! やっぱり左よね!」

「そうだよね、何か動きが鈍そうな感じするもん」

「じゃあ決まり! 左の奴ね、絶対に当てようね!」

「うん、絶対当ててやるもん♪」

 

思わず苦笑が漏れてしまう。

 

(やれやれ、頼もしい処じゃないな、末怖ろしいって言うヤツかな♪)

 

そう思ってふと横を見ると、清次が目を上げてやはり苦笑いして見せる。

 

(お前もかよ♪ でも分かった気がするよ、こんな風にして艦娘は強くなって行くんだな)

 

それでも、自分は置いて行かれる訳には行かない。

生死の境を突き進んで行く穂波に、必死でついて行く以外に方法はないのだ。

 

 

「下田警備部から入電! 陸軍のヘリ到着迄凡そ20分とのこと。また、到着次第警備部から巡視艇2隻を沿岸に出して警戒に当たるとのことです!」

「骨は拾ってくれるという訳ね、好意は有難く受け取っておきましょう♪」

斑駒がそう応じるとクルーから笑いが漏れる。

「無人機の現在位置を確認!」

「はっ! 確認中です――現位置確認、到着迄凡そ5分です!」

「了解」

それだけを言って、手元の放送スイッチを一つだけONにする。

「五十田さん、聞こえるかしら?」

「はい! 聞こえています」

「出撃して、本艦と共同で作戦行動をとれる?」

心臓の鼓動を幾つか数えた後に、彼女のしっかりとした声が問い返してくる。

「反撃するのでしょうか?」

「ええそうよ、このままでは逃げ切れないわ。5分後に無人機2機が到着するから、そこが一つのチャンスだと思ってるの」

「――――全力を尽くします!」

「有難う、ではこれだけは命じておくわね。あなたは必ず本艦の右舷側に2,000m以上の距離をとる事、そしてもしも本艦が被弾しても絶対に戻って来ては駄目よ。下田から大井さんが向かって来る筈だから、そちらへ離脱して彼女とランデブーを図る事。いいわね?」

今度は数秒間の間があった。

 

「分かりました……」

固い、覚悟した様な声だった。

 

(辛い事を命じてしまって御免なさいね……でも、きっと貴方達は生き延びるわ)

 

一瞬そう口に出そうと仕掛けたのだが、指揮官として部下達を惑わせる事になるのではと思い直して止めておく。

「それでは、出撃準備が整い次第離艦して所定の位置を確保してね。可能であれば指示は出すけど、基本は貴方の判断に任せます。本艦は、無人機と共に敵戦艦への攻撃に集中するから、貴方はその援護に務めて頂戴」

「了解しました!」

それでも、スイッチをOFFにした途端つい溜息が出てしまう。

「艦長殿」

副長が声を掛けてくるので、気を取り直して顔を上げる。

「我々全員は艦長殿のご判断を信じております。どうかお言葉を」

 

「――――有難う、ではそうさせて貰うわね」

そう応じて、改めて全艦放送のスイッチをONにする。

「全艦に連絡、本艦は間もなく反転し、数分後にランデブーする無人攻撃機2機の援護の下で敵艦隊に反撃します。五十田さんは出撃して本艦と共に作戦行動を取り、綾瀬さんと敷島さんは艦上から反撃に加わって貰います。この反撃によって敵艦隊に打撃を与える事こそが、間もなく駆け付けてくる味方が到着する迄の時間を稼ぐことも出来、かつ我々が生還する事を可能にする唯一の道であると確信しています」

 

ここで一旦言葉を切った彼女は、己をひたと見詰めているクルーの視線に応じると、改めて口を開く。

 

「我々は必ず帰還して、再びこの足で我が隊の土を踏み締めるわ、それ迄の間全員の命を私に預けて!」

 

刹那、まるで艦全体をビリビリと震わせるかの様に、言葉にならない咆哮が一斉に上がる。

それこそが、斑駒の呼び掛けに対する全乗員の意思表示だった。

 

(皆誇らしいわ――貴方達の艦長になれて、あたしは幸せ者ね……)

 

そんな感慨に耽りそうになったものの、直ぐにそれを仕舞い込んで指示を飛ばす。

「無人機到着1分前を以て反転します。航海長、タイミングは任せるわよ!」

「了解しました! 1分前を以て反転します」

「主砲、光学照準射撃用意! 目標は現在一二〇方向より接近する小型艦艇、艦娘の報告に合わせて修正せよ!」

「了解しました! 艦娘の報告に合わせて目標補正します!」

「ドローン、アルファからデルタ迄射出! 目標は現在一三五方向より接近する大型艦艇、レーザーマーカー標的モードに補正せよ!」

「了解しました! ドローン4機射出します、目標、一三五方向の大型艦艇!」

「無人機の現在位置を確認!」

「確認致します! ――――無人機、到着迄3分です!」

 

(愈々ね――見てなさい、手痛い一発を喰らわしてあげるから)

 

水平線の向こうにいる敵――斑駒の予想が正しければ、それはおそらく戦艦の筈だ――に向かって、そう宣言してやる。

敵がこちらを高々練習艦1隻と侮っているのであれば、それを後悔させてやる迄だ。

 

 

「主バッテリー及び補助バッテリー装着状態ヨシ!」

「ビーコン動作確認――よし! 非常用バッテリーチェッカー動作確認――よし! 緊急フロート起爆回路動作確認――よし!」

穂波の無線機動準備は容赦なく進んでいき、もちろんコンソール係である隼太も次々に確認を済ませていく。

 

(もう――もう終わってしまう――確認が――正常に終わってしまう……)

 

自ら作業を進めながらも、彼の心の中はその思いで一杯だった。

どこかで不具合が出てくれないか、異常が発見されないか――そんな微かな期待を抱いている自分が情けないと思うものの、それを止めることが出来ない。

それどころか、こんな事になるのなら普段からチェックを手抜きしておけば良かったなどと馬鹿な事を考えてしまう程だ。

 

(俺達は戦うんだ――戦って生き残るんだ――2人で……)

 

しかし、間もなく穂波は出撃してしまう。

彼女がプールに居て戦っている限り一緒に戦っているという意識が感じられたが、例え叫んでも届かない程のところへ行ってしまうという事が、途轍もなく怖ろしく感じられてならない。

それはどうやら穂波も同じ様で、先程からその表情は固く強張っている。

斑駒が『艦が被弾しても戻ってはならない』と指示したその意図は、余りにも明白だった。

深海棲艦の目で見れば『うさ』は全長100m近くの大きな目標だが、穂波は人間一人の大きさしかない小さな目標だ。

海上で戦っていれば、人間一人の大きさなど波が高い日にはそれに隠れてしまう程でしかなく、何もしなければそれを遠距離から狙って砲撃したり雷撃したりする事は不可能に近い。

つまり戦闘になった場合狙われるのは圧倒的に艦艇の方なので、極めて目標にされ辛い穂波に対して『万一の時は自分達を顧みる事無く、味方の許へ逃れよ』と命じたのだ。

 

「全機能異常なし! 艦娘、無線機動準備完了しました!」

 

その瞬間は、とうとう来てしまった。

 

「了解! 艦娘は作戦行動を開始されたし!」

 

スピーカーから響く副長の声が、この世の終わりを告げるラッパのように聞こえる。

 

(俺は――俺は――)

 

だがその時、穂波が意を決した様に立ち上がり、硬い声で告げる。

 

「五十田、出撃します!」

 

彼女の背後についたWaveが艤装の主ケーブルを外すと、隼太の前のコンソールからパッと詳細表示が消え、緑色に輝く艤装の状態表示灯と穂波のバイタル表示灯、そしてビーコンの方向表示灯のみに変わる。

無線機動下ではバッテリーの損耗を最小限に止める為、ごく僅かなデータしか送信されないのだ。

 

思わず顔を上げると、穂波が真っ直ぐにこちらを見ていた。

 

その視線に惹かれるように立ち上がった隼太は、しっかりと彼女を見つめ返す。

 

突然、周囲の音がすべて消え去り、場所の感覚を喪失する。

 

たった今まで彼らは『うさ』の艦上に居た筈なのだが、今や周囲の景色は一変していた。

 

隼太と穂波は夕日に照らされた草原――いや、金色の稲穂の海に立ち、互いに見つめ合っていた。

 

夏の夕風がそよそよと稲穂を鳴らし、彼女の髪も微かに靡いていた。

 

まるで幻の中の様にスーッと滑るが如くに引寄せあった2人は、金色の波が打ち寄せるその静かな空間で、互いの手を取り合う。

 

「どんな時も――一緒だ」

 

「どんな時も――一緒ね」

 

彼らにそれ以上の言葉は必要なかった。

 

互いに手を広げて、しっかり抱き合う。

 

隼太の腕の中で、穂波はとても小さかった。

 

彼の腕の中に隠れてしまう程だった。

 

(なのに――それなのに――俺は――俺には――君を護る――力すらない――俺は……)

 

次の瞬間、激しい振動と轟音が鳴り響き、彼らは『うさ』の甲板上に引き戻される。

 

またしても至近距離に弾着があったのだ。

 

彼の背に巻き付けられていた穂波の手からすっと力が抜ける。

 

隼太もまた抱きしめていた腕を緩めると、彼女が顔を上げて見詰める。

 

「……」

 

「……」

 

何か言葉を発し様としたのだが、彼らは何も口にする事が出来なかった。

 

プールの海面を滑る様に穂波が遠ざかっていき、

 

思わず手を伸ばすと彼女もまたその手を一杯に差し伸べる。

 

だが、その手は再び触れ合うことはなく、

 

彼女は艦尾に開けられたゲートを、

 

戦場の見えない力に吸い込まれて行く様に通過し、

 

みるみる小さくなっていく。

 

「艦娘、離艦しました!」

 

報告の声が上がっても、隼太はまだ呆然と立ったまま凍り付いていた。

 

「五十田を信じろ」

 

背後から強い声が響く。

 

「班長……」

 

「そして、貴様自身をも信じろ――信じて、信じて、信じ抜け。――そうすれば、その信念は何物をも貫く」

 

「――――分かりました、やって見ます」

「馬鹿者! 何度言えば分かる、見ますでは無い、やれ!」

 

「はい!」

 

その返事を聞いた班長は、例によってしかめ面をしてフンと鼻を鳴らすと、一段高い甲板に上がり怒鳴り声を上げる。

 

「いいか貴様ら! 我々は全員一人も欠ける事無く隊に帰還し、そして何時もの通り厚生の糞不味い晩飯を喰らう! それだけは肝に銘じておけ!」

「ハイ!」

「了解っすー!」

「分かりました!」

「晩飯だけは、何とかなりませんかね~」

「何ともなって堪るか! 天地が裂け様が、あの不味い飯を食うのが俺達の義務だ!」

「え~マジっすか~♪」

ドッと笑った彼らの上に、斑駒の声が響く。

 

「これより本艦は反転します、急速転舵に備えよ、繰り返す、急速転舵に備えよ!」

 

「さぁ愈々だ! 気合い入れてくぞ!」

班長の掛け声に、彼らは一斉にオーッっと応じる。

生きるか死ぬかの大勝負に挑むまさにその瞬間に、彼らの様な仲間達と共に居られることに隼太は秘かに感謝した。

 

 



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【第六章・第六節】

 轟音と共に、既に何度目なのか数え切れなくなった水柱が立ち上がる。

最初の頃彼らを襲っていたものに比べればかなり小さなそれは、おそらく駆逐艦クラスの主砲弾である事は容易に想像できる。

とは言うものの、それは『うさ』が1門しか持たない主砲のそれと同じ口径であり、やはり1発でも直撃されれば致命傷になりかねない事には変わりはない。

 

「弾着位置、右約45分!」

「了解、右45分」

 

先程から時折綾瀬が声を上げ、その度に艦橋から応答がある。

主砲の弾着点を観測して報告しているのだが、綾瀬は自身も砲撃をしながらであり、その働き振りには舌を巻くばかりだ。

当然、射撃指揮所でも同じ様に弾着観測をしながら砲撃している訳だが、何せ10km以上離れた人間大の標的に向かって撃っているので、十分な正確さを得るのは難しい。

従って、艦娘の特殊能力による観測結果と照合して補正する事で、正確さを高めているのだった。

その隣で、浪江は射撃に集中している。

彼女は綾瀬の様に複数の事を並行して捌いて行ける様な器用さは持ち合わせていないものの、集中力は高く射撃の素質があると評価されていた。

 

「弾着確認――今! 夾叉です!」

「浪江ちゃん! やった⁉」

「――ううん違うよ、あれは先輩の弾だよ!」

 

(!)

 

先輩、つまり穂波の放った弾という事だ。

反射的にコンソールを睨み付けるが、そこには緑の表示が2つと方向表示が瞬いているだけだ。

 

(せめて一言だけでも話せたらなぁ……)

 

出撃した艦娘との間で無線は使えるのだが、戦闘中にこちらから発信するのは緊急事態以外は禁止だ。

彼女からの発信を待つか、士官を通じて呼び掛けて貰うより他ない。

 

「先輩はやっぱり凄いね!」

「うん、よく何もない海上からあんなに正確に狙えるよねぇ」

「先輩、落ち着いてるからね」

「あたしらも頑張ろう? 1発でも当てなきゃ」

「うん、頑張ろ!」

 

相変わらず、2人の会話は生死を分ける戦いの最中とは思えない程朗らかだ。

 

(頼りにしてるからな、2人とも)

 

今の隼太に出来る事はほとんど無い。

もちろん艦が損傷した場合等の緊急事態になれば、持ち場を離れてその処置に当たる訳だが、今の所穂波の状態を監視し続けるばかりだ。

と、そんな彼のインカムに突然穂波の声が響く。

 

「左舷方向に雷走音感知!」

 

(穂波ちゃん!)

 

艦から離れていても、しかも敵にあれ程正確な射撃を浴びせていても、彼女は自身の特殊な能力の網を張り巡らせて周囲を監視し続けている。

 

「了解! 左舷方向に雷走音を感知! 繰り返す、左舷方向に雷走音を感知!」

隼太が声を張り上げて報告すると、艦橋からの応答よりも早く綾瀬が射撃を止めて聞き耳を立てる様な水測態勢に入る。

艦橋にあるモニターには艦娘プールの様子は映っているので、おそらくそれを確認したのだろうが、スピーカーからの応答は無かった。

長い長い沈黙が続き、もうこのまま魚雷が命中して仕舞うのではないかと思った頃にやっと綾瀬が声を上げる。

 

「三〇〇から三〇五に掛けて雷走音確認! 数は8! 繰り返す! 方位三〇〇から三〇五、数は8!」

「了解! 総員、急速転舵に注意! 急速転舵に注意!」

 

その声が降ってくるのと、突然巨大な力に頭が持っていかれそうになるのとはほぼ同時だった。

ギィーっと船体の軋む音が響き渡り、『うさ』は巨人の手で捻じ曲げられるかの様にその向きを変え始める。

左右を見渡すと、隼太のいるプール甲板からは2段ほど高い上甲板に手摺りを握りしめて立つ甲板員が、今にも落っこちそうになりながら海面を睨んでいた。

 

「雷走音接近! 11時から12時方向、1,000以内!」

「総員、衝撃に備えよ! 衝撃に備えよ!」

スピーカーから聞こえる叫ぶ様な張り詰めた声に応じて、ギュッとコンソールの手摺りを握り締める。

歯を食いしばってその怖ろしい一瞬を待つが、それは何時迄経ってもやって来ない。

 

(――行ったか?)

 

恐る恐る顔を上げた隼太の耳に、綾瀬のホッとした様な言葉が飛び込んで来る。

 

「雷走音、通過しました!」

 

途端に周囲から一斉に、あぁとかおぉと言った言葉にならない何かが吐き出される。

 

「全く、冷や冷やさせやがるぜあん畜生共!」

そんな全員の気持ちを代弁するかの様に、班長が殊更に大声を出す。

それに触発された訳では無いが、急に感情が込み上げて来た隼太は思わず浪江に向かって呼び掛ける。

 

「浪江! 一発かましてやってくれ、頼む!」

「任せといて、隼兄ぃ!」

 

つい声を出してしまった自分にも驚くが、それ以上に威勢よく応じた浪江にも驚かされる。

 

(もう直ぐお前も、俺では追い付けない処へ行ってしまうのか……)

 

唐突に寂しさの様な不思議な感情に襲われた彼の頭上に、またも弾着の水柱が崩れ掛かる。

 

(クソっ、頼んだぞ浪江!)

 

心の中で叫んだ隼太だったが、その瞬間胸の中に去来したのは、茫々とした海上で独り戦い続ける穂波の小さな姿だった。

 

 

「何とか間に合った様ね! 良くやってくれたわ航海長!」

「はっ、有難うございます!」

「さぁ、そろそろ此方からも当てに行くわよ!」

残念ながら既に無人機1機は大破して攻撃能力を喪い、一か八か敵に体当たりを仕掛けたものの躱されてしまっていた。

しかしまだ1機は健在であり、『うさ』から射出されたドローンも間もなくセットポジションに着けられそうだ。

一度レーザーマーカーのセットに成功さえすれば、1機や2機撃墜されても外す事はあり得ない。

 

(あたしは往生際が悪いのよ、覚悟しなさい!)

 

肉眼では見る事の出来ない水平線の向こうにいる敵――推測が間違っていない限り、それこそはおそらくこの長い長い絶望的な戦乱を引き起こした張本人の1体であり、人類に対して激しい憎悪を燃やす存在だ――に向かって改めて啖呵を切る。

目下の最優先の目的は、敵に一撃を浴びせて味方が駆け付けて来る時間を稼ぐ事ではあるが、それにも増してどうしても意識してしまう事もある。

この戦争の原因をつくったのは残念ながら人類側の落ち度であり、当事国が事実上壊滅してしまったが為に詳細は不明であるものの、推測されるその経緯からすれば深海棲艦側の怒りも十分に理解出来る。

それでも、現在迄に人類側は既に数千万もの犠牲を出しており、経済的な破綻等による二次的な犠牲者迄含めればその数は億を超えていた。

この未曾有の災厄を甘受せねばならない程に、人類は悪しき存在だと彼女達は言うのだろうか?

斑駒にとってそれだけはどうしても受け入れ難い事であり、理不尽極まりない言い分としか思えない。

彼女が、その元凶と真正面から対峙する事になったのは偶然なのか否か神のみぞ知る事ではあるが、この虚しく勝者の無い戦いを引き起こしたその相手にどうしても一矢報いてやらねばとも思うのだ。

 

「弾着! ――やりました! 命中! 命中です!」

ほんの数秒間の事だったが、そんな思いを馳せていたその耳に見張り員の興奮した声が響く。

「やったの⁉」

「はい! ――おそらく五十田の砲撃と思われます!」

 

(素晴らしいわ……有難う、五十田さん!)

 

「敵1体速度低下! 離脱せんとしている模様!」

「やりましたね」

「ええ、そうね。これで次はあたし達の番よ!」

「はい! 絶対に当ててやりましょう」

 

そう副長が応じたのも束の間、再び見張り員が叫ぶ。

「弾着! ――再び命中です!」

「今度は誰!」

「はい! 敷島か綾瀬と思われます!」

「やってくれるじゃない、あの子達も♪」

「弾着! ――更に命中! ――敵影――消えます――海没する模様――撃沈です、敵艦撃沈!」

 

すかさず全艦放送のスイッチを入れて斑駒は叫ぶ。

「敵小型艦、1隻撃沈!」

途端にゥオーっという咆哮が艦全体から上がる。

スピーカーからやったやったという叫びも聞こえてくる。

 

「さぁチャンスよ! 今こそ当てに行きましょ!」

「はい!」

 

士気が上がっている時は、何をやっても上手くいってしまうものだ。

そのタイミングで次なる――そしてこれこそが本命の――一撃も成功させねばならない。

 

「ドローン、標的に到達! マーカーセットに遷ります」

「了解、VLS、1番から3番点火準備」

「VLS、1番、2番、3番点火準備ヨシ!」

「逐次点火セット、間隔は1.0」

「了解! 1番、2番、3番 逐次点火にて発射、間隔は1.0――セットヨシ!」

 

「ドローン、デルタ、通信途絶!」

「まだまだ! 3機いれば十分だわ」

「了解! マーカーセット開始します!」

レーザーマーカーのセットには、どうしても一定の時間が必要になる。

その間は敵艦にかなり接近した状態で低速で飛行せねばならず、どうしても対空火器などで撃墜されてしまう危険性が高い。

 

じりじりしながらセット完了の報告を待つが、その間にも次々に『うさ』の周囲には敵弾が降り注ぎ、その度に激しい動揺が襲う。

「ドローン、アルファ、通信途絶!」

「マーカーセット継続! 但し、ドローン4機追加射出準備はしておいて!」

「了解! セット継続、ドローン4機追加射出を準備!」

 

(間に合わないの? いや、そんな事はないわ、きっと勝って見せる――仁、貴方の力を貸して!)

 

胸にしっかりと手を当てて、彼の姿に向かってグッと念を込める。

20年以上前、2人がまだ若かったあの日、彼は遥か数千浬彼方にいた陸奥とその心が通じ合ったという。

 

(あたしだって――同じくらい貴方の事を想ってるわ――だから、お願い!)

 

正にその時、斑駒の祈りが通じたのか、報告の声が艦橋内を駆け抜ける。

 

「マーカーセット完了! 標的、捕捉しました!」

 

(来た! 有難う、仁!)

 

「座標データ、転送確認!」

「――データ転送確認! 射撃準備ヨシ!」

「VLS点火!」

「了解! VLS点火!」

 

次の瞬間、背後からズズズズッという腹の底に響く音とも振動ともつかない何かが響き渡る。

「1番点火! SSM、初弾発射!」

そして1秒後、更にその1秒後に同じことが繰り返され、3発のSSMが無事に発射されたことを確認する。

「無人機の映像を転送!」

「了解! 転送します!」

艦橋内のモニター表示がパッと切り替わり、1機残存している無人機のカメラに切り替わる。

そこには小さくて見えにくいながらも海面に立つ青白い姿と、その周囲を飛行するドローンの姿が映し出されている。

 

「弾着迄 10秒! ――5,4,3,2,1、今!」

小山の様な水柱が立ち上がるが、それはほんの僅かに青白い姿を逸れていた。

「クソっ、外れた!」

「まだよ! 次があるわ!」

「――次弾、弾着――今!」

しかし、無人機が旋回のタイミングに入り、映像から敵の姿が外れる。

「ドローン、ブラボー、通信途絶!」

「早く映像を!」

副長の思わずといった声が上がる。

 

「――弾着――今!」

 

その報告と、無人機のカメラの角度が変わって敵が映し出されるのはほぼ同時だった。

彼ら全員が見詰めるその画面の中で、今度こそは水柱ではなく明るい黄白色の閃光が走った後で、赤黒い塊が爆発的に膨れ上がっていく。

 

「命中! 命中です! 命中しましたァ!」

「やったわ!」

「やりました! 艦長、やりましたね!」

艦橋中に歓声が満ち溢れ、皆思い思いにガッツポーズをし、互いを叩き合う。

 

副長としっかり握手を交わした斑駒も、艦内放送のスイッチを入れ、明るく弾んだ声で戦果を告げる。

 

「全艦に連絡! 我々は――」

 

しかし、その言葉を続ける事は出来なかった。

 

まるで、巨大なハンマーで一撃された様な衝撃とガーンという耳をつんざく様な大音響に包まれ、昼だというのに辺りが真っ暗になる。

 

(何なのこれは! 何が起こってるの⁉)

 

そう叫んだ積もりだったのだが、何故かそれは声にならない。

 

たった今迄艦橋に立っていた筈なのに、斑駒の足元には何も無く、体が宙に浮いている様に軽い。

 

辺りを見回しても一面の暗闇で、何も見えないままだ。

 

(一体どうしたって言うの! あたし達はやり遂げた筈じゃないの⁉ 何でこんな事になってるのよ! 誰か応えて⁉)

 

そう力一杯に――声にならぬ声で――叫ぶと、それに応えるかの様に頭上に何かが現れる。

 

(仁! 仁なの⁉)

 

彼の姿を見間違える筈も無かった。

 

にも関わらず、何故かその姿は今や教育隊の司令となった彼ではなく、斑駒が初めて出会った頃の、若く、頼りなく、そしてとても優しい笑顔を浮かべた仁だった。

 

(いやよ! そんなに優しく笑わないで……あたしが――あたしが好きなのは――戦友の貴方よ! だから――お願い――この手を掴んで? あたしが何処へも行かない様に……)

 

彼の姿に向かって、精一杯手を伸ばす。

 

それは仄かな金色の光を帯びており、

一面の暗闇に暖かな光を投げ掛けていた

 

だが、

 

彼女が掴むことが出来たのは、

 

虚ろな、

 

それでいてそっと包み込んで来るような、

 

その金色の輝きだけだった。

 

 



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【第六章・第七節】

 虫達の声がとても心地よかった。

何処からか、川のせせらぎが耳に届く。

ついこの間迄夏の陽気だったのに、季節はその足を早めて里全体を秋色に変えて行く。

 

ゆっくりと自転車を漕ぐ彼の体には、穂波の腕がしっかりと巻き付けられていた。

「今日は楽しかったね」

そう話し掛けるが彼女は答えない。

代わりに巻き付けられた腕に少しだけ力が籠り、背中にその体温をはっきりと感じる。

 

(穂波ちゃん……)

 

背中に顔を埋めているのは恥ずかしがっているのだろうか?

そんな風に想像してしまうと、どうしても確かめたくなって来て後ろを振り返る。

ところが、一体どうした事かそこには誰もいない。

 

(えっ⁉)

 

驚いて自転車を止めると、何時の間にか穂波が少し離れた所に立って、何処か悲し気に此方を見ていた。

 

「どうしたの?」

 

そう声を掛けても黙ったままで反応してくれず、此方を見つめるばかりだ。

よく見ると、穂波は見た事も無いぴっちりとした群青色のスーツの様な服を身に着けていた。

近付こうと足を踏み出すと、何故か彼女は首を左右に振って拒む様な仕草をする。

まるで、来てはいけないと言っているかの様だ。

 

「どうして? 訳を言ってよ!」

 

我慢出来なくなった隼太がそう呼び掛けて更に近付こうとすると、突然彼女の横に影の様な何かが出現してその腕を掴む。

「おい待てよ! お前誰だ!」

慌てて駆け寄ろうとしたが、その影と穂波は滑る様に急速に遠ざかって行く。

「待て! 穂波ちゃんをどうする気だ! 逃げろ、穂波ちゃん!」

手を伸ばして全力で追い掛け様とするが、足がもつれて思うように走れない。

その時、強い力で腕を掴む者がいる。

あっと思って振り返ろうとしたが、突然周囲の景色がぼやけて何処からか彼の名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 

ハヤタ――ハヤタ――はやた――はやた――隼太……

 

「――――隼太、おい隼太! しっかりしろ、聞こえるか?」

「あんちゃん! しっかりしてくれあんちゃん!」

 

眩しい光が世界に満ち溢れ、急に彼は自分が何者なのかを覚る。

 

目を開けると、そこにあったのは清次と浪江の顔だった。

 

「良かった――気が付いたか隼太ぁ……」

「心配したぞあんちゃん!」

 

背中の硬い感触で、ようやく此処が何処なのかを思い出す。

そう、確か自分は『うさ』のプール甲板でコンソールを睨みつけて居た。

穂波や浪江、綾瀬達の奮戦で敵を1隻撃沈して――そして、水平線の向こうで閃光が走ったのを見た――筈だ。

そして――そして――――

 

「――穂波ちゃん――穂波ちゃんは?」

 

そう口にした途端、彼を見詰めていた2人の表情が曇る。

「おい、まさか――」

思わずガバッと体を起こすと、頭がズキンとする。

「痛っ!」

「無理すんなよ、頭ぁ打ってんだぞ!」

「そうだぞ、あんちゃん」

痛んだところを触ってみたら瘤が出来ていた――が、少なくとも激痛が襲って来る様子は無く、骨に異常は無さそうだ。

 

「何があったんだ?」

「直撃されたんだよ……」

沈んだ声でそう言った清次が視線を走らせた方向を見て息を呑む。

艦中央部にあった煙突が拉げてしまっており、その前の――艦橋も、半ば潰れてしまっていた。

 

(斑駒艦長!)

 

「今よ、応急処置班が様子を確認してるんだけどよ……」

「――ダメ――なのか?」

 

清次と浪江が力なく頷く。

改めて気が付いたのだが、艦は動力を喪っているらしく漂流状態の様だ。

 

(そういう事か……)

 

浪江が艤装を下ろして彼の横にいるのも、プールの反対側で綾瀬がWaveらと共に倒れている兵士の様子を見ているのも、動力を喪失したために電力供給が途絶えてしまったからなのだ。

 

ハッとなって、すぐ脇にあった彼のコンソールに飛び付くが、勿論それも表示が消えてしまっている。

 

(いや――非常電源がある、起動できる筈だ)

 

「おい隼太、あまり動くんじゃねぇぞ」

「大丈夫だよ、吐き気や目眩はしてねえし」

 

そう応じながらコンソールの基部にある非常電源への切り替えスイッチを弄り、カバーをこじ開けて電源を切り替える。

 

(やった!)

 

コンソールのパイロットランプが点灯し、直ぐにシステムが再起動する。

 

「敵はどうなった? 撤退したのか?」

システムが立ち上がる迄の間を捉えて問い掛けるが、歯切れの悪い返答が返ってくる。

「それが――良く分からねぇんだ」

「直撃されたら、急に弾が飛んで来なくなっちまったんだぞ? それに電気なくなっちまったから、何も分からなくなったし……」

「じゃあ、やっぱり撤退したんじゃねぇのか?」

「いや、砲撃はもう少し続いてたんだ、何か大分狙いが外れてたんだけどよ」

「うん、あっちの方に」

浪江が指差すのは、概ね陸に近い方向だ。

 

「待てよ――それってもしかして――」

隼太がそう口に仕掛けると、清次と浪江もアッと口を開ける。

「まさか敵は――」

「先輩を撃ってたのが⁉」

 

その時システムの再起動が完了し、コンソールの表示が薄暗い節電モードながらも復活する。

 

(穂波ちゃん!)

 

そこに映し出されたのは、ぼんやりと不吉な赤色に灯る艤装の状態表示灯とバイタル表示灯だった。

突然、脳内に映像がフラッシュする。

 

来てはいけないと言う様に首を振る穂波――そして彼女を連れ去ろうとする謎の影……。

 

「――行かなきゃ……」

 

「何か言ったか隼太ぁ?」

「ああ、穂波ちゃんのところへ行かなきゃならねぇんだ」

「何だって! お前――」

「気が付いたか敷島!」

 

その声に顔を上げると、班長が此方を見下ろしていた。

「はい! ご迷惑お掛けしました」

「誰も迷惑なんぞ被っとらん、それより体調は問題無いのか」

「はい、ちょっと瘤が出来たくらいです――それより班長、申し上げたい事があります!」

「なんだ、余程大事な事か?」

「はい、ほな――五十田が危険なんです。救援の許可を頂け無いでしょうか?」

「先輩を助けに行かせて下さい! 予備バッテリーで艤装を動かしたいんです!」

事態を察した浪江も横から口を挟む。

 

だが、その申し出は班長にあっさり一喝される。

「馬鹿者! この状況が目に入らんのか貴様ら! そんな事が許可出来るか!」

「ですが、班長――」

「いいか、本艦は今全く無防備な状態だ。そんな時に予備のバッテリーを消費した上に、候補生を出撃させられると思うか! そんなことは絶対にさせんぞ!」

「それはそうですが――」

「間もなく味方が駆け付けて来る、後精々数十分の辛抱だ。それ迄にこの俺もやる事が山の様にある!」

「あ、はい……」

「いいか! 確かにあの小型機動艇にはビーコントラッカーも積まれているし、独りで操船が可能だ。だが、貴様にそんな事を許可する訳にはいかん! 今言った通り、俺は忙しいんだ! 余計な手間を掛けさせるな!」

そう言い放った班長はくるっと背を向けて離れて行ってしまう。

 

(えっ……?)

 

彼の言動に不自然なものを感じ取った隼太は事態が呑み込めず戸惑うが、そんな彼の背後からWave達が声を掛けて来る。

 

「班長がああ言ってるんだ、これ以上邪魔すんじゃねぇぞ」

「そうだそうだ、確かに機動艇はラチェット1つ外すだけで簡単にリリース出来るけどなぁ」

「何事も無きゃあ30分もありゃ何とかなるかも知れねぇが、絶対やっちゃぁいけねぇこった」

 

それだけを言い捨てた彼女達もまた、振り返った彼とは目を合わせる事無くそのまま散っていく。

 

(班長――皆……)

 

彼らの心遣いを察して、胸が熱くなってくる。

 

(有難うございます!)

 

口には出さずに心の中で礼を言うと、すくっと立ち上がって小型機動艇を釣ったダビッドの方へ歩き始める。

 

「おい待てよ、隼太ぁ」

「何すんだあんちゃん!」

慌てて清次と浪江が追い縋ってくると、プールの反対側からそれを見止めた綾瀬も立ち上がって駆け寄って来ようとする。

 

(ダメだ、来るな)

 

目でそう言って首を振って見せると、彼女はピタッと立ち止まり、唇を尖らせて恨めしそうに彼を睨む。

 

「俺も行くぜ、一緒に五十田を助けに行こう」

「あんちゃん、おれも行ぐ!」

「駄目だ、命令違反をするのは俺だけで十分だ。お前達は行かせられない」

「何言ってんだよ! お前ぇを1人で行かせられるかよ」

「馬鹿言うな、お前は白石さんと約束したんじゃねぇのか? 今お前に命令違反なんかさせたら、俺、白石さんに刺されちまうよ」

「こんな時に、何ふざけた事言ってんだよぉ!」

 

「聞いてくれ清次、俺は穂波ちゃんと約束したんだ――必ず俺が迎えに行くって――だから、俺に行かせてくれよ」

 

そう静かに言って聞かせると、見る見る内に彼の顔がクシャクシャになり、突然驚く程の強い力で両肩を掴まれる。

 

「チクショウ! いいか! 今――此処で俺に誓え! 必ず――必ず、2人で生きて帰ってくると誓え! ――じゃなきゃ、お前ぇとは絶交だ!」

 

そう叫んで大粒の涙を零す彼を見ていると、自然に涙が溢れて来てしまう。

 

「分かったよ――誓うよ――お前に絶交されちゃかなわねぇからな♪」

 

そう応じると、彼らははじめてしっかりと抱き合う。

 

「あんちゃん! 絶対、絶対帰って来てくれよ!」

 

腕を緩めた彼の服を、涙を浮かべた浪江がギュッと掴む。

 

「分かってるよ、必ず帰ってくるから」

「絶対だぞ? ――帰って来なかったら――許さねぇからな⁉」

「そんな顔すんなよ、浪江に許して貰えるように、ちゃんと帰って来るよ」

言いながらロープを掴んで小型機動艇に飛び乗り、ダビッドの金具から釣り下がっているラチェットハンドルを軽く跳ね上げると、締め具が緩んで一気にロープが繰り出され、彼は小型艇ごと海面に落下する。

 

「約束だぞ!」

 

遠いあの日と同じ、背中を追い掛けて来る様に発せられた浪江の叫びに軽く手を上げて応えると、躊躇う事なく起動スイッチを押しエンジンを掛ける。

ゆっくりと動き出した艇の操作パネルのスイッチを入れるとトラッカーの電源が入り、画面上にビーコンの発信方向を示す矢印が灯る。

これが点灯しているという事は、少なくとも穂波の艤装はまだ海上にあるという事だが、実際にどうなっているのかは行って見なければ分からない。

 

(でも――俺は信じてる――穂波ちゃんはきっと無事で、俺が迎えに行くのを待ってくれている――必ず……)

 

グッと歯を食いしばると、右手で舵を操って矢印が艇の進行方向に向くように調整しつつ速度を上げる。

トラッカーの表示を見る限り、それは高々数千メートル程の距離の筈だ。

しかし未だに付近には敵が遊弋しているかも知れず、更に言うならば、彼の見たあの幻は敵の目的が『うさ』ではなく穂波である事をも予感させる。

 

(俺は――俺は、このために此処に来たんだ――どうか――間に合ってくれ――頼む……)

 

だが、彼の願いに応えてくれるものは何も無く、冷え冷えとした早春の空気がただただ頬を切り裂いていくばかりだった。

 

 



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【第六章・第八節】

 トラッカーの指し示す方向にひたすら機動艇を走らせていると、間もなく画面上にもう一つのビーコンが表示される。

 

(あれっ?)

 

暫くそれが何なのか理解出来なかったが、その方向や接近してくる速度を見て初めて合点が行く。

 

(大井さんか……)

 

陸軍によって空路下田にある海上警備庁の支部迄移送された彼女は、そこから彼らが交戦している海域に駆け付けて来る途上だったのだ。

艤装を装着した彼女は40ノットを遥かに超える高速で海上を移動出来るので、無人機を除けば誰よりも早く戦場に到達する事が出来る筈だったのだが、それすらも既に手遅れとなってしまった。

 

(仕方の無い事だったんだろうか――運命ってやつなのかな……)

 

無力な一人の人間である隼太には、その真理は知る由もない。

今はただ、彼に出来る事――一刻も早く穂波の許へ辿り着くこと――を無心に為すばかりだ。

意識を前方に戻し、改めてトラッカーの表示を確認すると、彼女のビーコンの位置は既に1,000m以内にある様だ。

舵をキープしたまま立ち上がって前を見渡すと――――

 

「あっ!」

思わず声が出てしまう。

艇のかなり前方に、小さな物体が波間に漂っているのが見える。

 

(あれだ、間違い無い!)

 

胸を突き上げて来る激しい動悸を抑え込んで艇を操る内に、その小さな物体に蛍光色のオレンジ色が混ざり始め、間もなくその色が2つに分かれ、そして更にオレンジ色の塊の上に載った人型の物体が見えてくる。

 

「穂波ちゃん!」

 

我慢できずに叫ぶが、全く反応する気配がない。

 

(まさか――そんな、まさか……)

 

今やはっきり見えてきたその姿は、間違いなく穂波だった。

彼女が背中に背負った艤装は緊急時の水没を防ぐためのフロートが一杯に膨らんでおり、正しく機能している事は分かるのだが、その上に横たわった彼女は全く動かない。

 

(頼むから――頼みます――神様……)

 

速度を落としてそっと艇を動かし、最後はエンジンを止めて惰性で接近する。

 

「穂波ちゃん! 穂波ちゃん!」

そう呼び掛けながら海面に手を突っ込んで水を搔き、艇を止めると彼女はもう目と鼻の先であった。

逸り立つ気持ちを必死で抑えながら、海上救難教本の一節を懸命に思い出す。

 

まずは艇に備え付けのハーネスを取り出し、それを装着してベルトの一端を艇中央のフックに固定する。

これでしっかりと踏ん張れるようになったので、舷側から精一杯身を乗り出して艤装の上に付いているハンドルをしっかりと握る。

力を込めて引き付け様としたその時、彼女の顔にグッと自身の顔が近付くが、その額に微かに生暖かい空気が吹き付ける。

 

(これは――ひょっとして――)

 

そう思ってもう一度その口許に頬を近づけると、今度は間違いなく呼気が当たるのを感じる。

 

(息をしてる!)

 

その瞬間、彼の全身に力が漲ってくる。

 

艤装と穂波自身を合わせた重量は軽く80㎏を超えているのだが、今の彼にとっては何程もない重さだ。

火事場の馬鹿力というのは正にこの事を言うのだろうか、信じられない事に、彼は只でさえ嵩張る艤装ごと一気に彼女を艇の上に引き摺り上げていた。

 

「や、やった――なんで――こんな事――出来たんだろう……」

 

座り込んで荒い息を吐いた彼はつい独り言を口にするが、のんびりしている訳にはいかないと直ぐに思いなおす。

何はともあれまず艤装を固定しているハーネスを外し、プロテクタージャケットとスーツの前を開けて、彼女の細い呼吸を少しでも楽にする。

そうしておいてから、穂波が何処か傷を負っていないか確認し様としたその時、彼はのけぞりそうになる。

 

(嘘だ、そんな事……!)

 

穂波の左足が――――膝から先が、無くなっていた。

 

ぬらぬらと血に塗れたその傷口からは骨も見えている。

だが、これも訓練と――そして何よりも穂波に対する強い想いの故なのか、彼はパニックに陥る事なく応急処置をすることが出来た。

 

艦娘が着用している専用スーツには特殊な機能があり、強い力が加わって破れたり切断されたりすると、その周辺が強く収縮する様に作られている。

どうやらその機能は完璧に発揮されている様で、彼女の失血を防いでくれていた。

艇のメディカルボックスから必要な物を急いで取り出した隼太は、まず切断された脚にしっかりと止血帯を巻き付け、次に傷口に消毒フォームを吹き付ける。

これは傷口の消毒のみならず、空気に触れると固化して傷口を保護してくれるものだ。

それが固まり始めるその上から、四肢の切断時に使用する保護袋を被せて口をベルクロで止めると、取り敢えず出来る事は終了した。

 

「待っててね、穂波ちゃん。直ぐに連れて帰ってあげるからね」

応急処置の痛みでも意識を取り戻さない事からしても彼女の衰弱は激しい様で、一刻も早くちゃんとした治療を受けさせる必要があった。

念のためにもう一度彼女の全身を見回して、重大な傷の見落としが無いか確認し終えたその時、背後にチャプンと小さな水音がする。

 

(大井さん!)

 

てっきり彼女が来てくれたものと思い込んで振り返った隼太は、今度こそ全身が凍り付いてしまう。

 

そこにいたのは大井などでは無かった。

 

死体よりもまだ不気味な青白い肌に、雪の様に真っ白な髪をした、女によく似た姿をした異形の者が2人、血の様に赤く爛々と光る怖ろしい眼差しで、射抜くように睨みつけていた。

 

(これが――深海棲艦……)

 

頭の中に言葉は浮かぶものの、口も含めた体中が硬直してしまって身動きも声を出す事すらも出来ない。

 

「キサマ、アノフネカラキタノカ?」

 

2人の内、背の高い方がくぐもったおどろおどろしい声で問い掛けて来る。

その身長は隼太よりも少々低い位で、事前の彼の予想に反してごく普通の大きさだったが、よく見るとその身に着けた奇妙な衣服は大きく裂けており、全身あちこちから毒々しい色の気味の悪い体液の様な何かが流れ出していた。

傍らにいるもう1人は穂波と余り変わらない位に小柄で、見た処ほとんど無傷の様だ。

 

兎に角何とか応じ様としたのだが、どうしても言葉を発する事が出来なかったので、仕方なく何度か頷いて見せる。

 

「ソウカ、デハイノチダケハタスケテヤル。ソイツヲオイテサッサトタチサレ」

 

そう言って穂波の方に向かって顎をしゃくって見せたその女が、一瞬何を言っているのか良く理解出来なかった。

しかし、数秒ほど掛かってやっとその言葉が脳内に沁み込んで来た彼は愕然とする。

この女達が見逃してくれるのは自分だけで、止めを刺す積もりなのか連れ去ろうとしているのか分からないが、穂波を置いて行けと言われている事をやっと理解したのだ。

 

「嫌だ、それは出来ない!」

急に声が出せる様になった隼太は、無我夢中で拒む。

 

にも関わらず、女達は彼の言葉に全く関心を示さない。

 

「ウルサイ、ソイツヲオイテハヤクイケ、ジャマダ」

 

そう感情の籠らない冷え切った物言いを、無感動に繰り返すだけだ。

 

ここに至ってやっと頭が回転し始めた彼は、例え僅かでも時間を稼ぐ必要がある事に思いを至らせる。

もう少し粘る事さえ出来れば、大井はすぐ傍迄来ているのだ。

そう思って、渾身の勇を奮い起こして再び口を開く。

 

「何故だ? 彼女も俺と同じ日本人だ、助けてくれるというなら彼女の命も助けてくれないのか?」

 

「ウソヲツクナ、オナジニホンジンダトイウナラ、ナゼワレワレトオナジチカラヲモッテイル?」

 

思わずハッとなる。

深海棲艦達は、艦娘がどういう存在なのか分かっていないのだ。

 

(やっぱりそうか! 奴らの狙いは艦娘だったんだ……)

 

とは言え、それが分かった処で如何すればこの場を言い逃れる事が出来るのか、彼にはさっぱり見当もつかない。

 

(クソっ! 結局俺は何時もこうだ――こんな事ばっかりだ……)

 

そう思ったものの、今は誰の助けも得られない事に変わりはなく、肚を括るしかなかった。

 

「彼女が特別なんじゃない、彼女に特殊な力を与えているのはこの機械だ」

 

艤装の事で嘘は吐いていない、ただ穂波が1000人に1人の選ばれた存在である事は言わない方が良いと思っただけだ。

 

「ニンゲンドモハ、ソンナモノヲドウヤッテツクッタ、ソレハタクサンアルノカ?」

 

「どうやって作ったのかは俺にも分からない、数も良くは知らないが、これからはどんどん作れるだろう」

 

出来るだけ平静を装って返答するが、緊張の余り汗が伝って来るのが分かる。

 

女達は暫く沈黙していたが、やがて再び感情の籠らない不気味な声を出す。

 

「キサマガホントウノコトヲイッテイルホショウハドコニモナイ、ドチラニセヨココデシマツシテオクシカナイヨウダナ」

 

「待ってくれ! 機械を壊せというなら目の前で海に捨てる! 彼女だってもう戦場に出る事は出来ない! だから、どうか見逃してくれ!」

 

「イマサライノチゴイスルクライナラ、ナゼサキホドタチサラナカッタノダ? オロカモノメ」

背の高い方の女が嘲る様にそう言うと、傍らのもう1人もまるで嘲笑する様に歯を見せる。

 

「駄目だ、それだけはどうしても出来ない! 彼女を置いていく事だけは絶対に出来ない」

 

「ゴチャゴチャトウルサイヤツダ、キサマニトッテ、ソノオンナハイノチヨリタイセツダトデモイウノカ?」

 

「命よりも大切なものだってある! 俺は誓ったんだ! だから彼女だけは絶対に渡さない!」

 

彼の胸に何かがひたひたと押し寄せて来る。

大井や味方が駆け付けて来てくれない限り、この絶体絶命の危機を逃れる事は彼の力ではやはり無理だったのだろうか?

思わず彼は穂波を抱き起こしていた。

 

「バカナヤツメ、セッカクタスケテヤルトイッタノニ、ワザワザイッショニコロサレルミチヲエラブトハナ」

 

そう冷たく言い捨てて片手をすっと上げるその女に倣って、傍らの小柄な女も同じ様に手を上げる。

 

(ここ迄か――ごめんよ、穂波ちゃん――俺の力が足りなかったよ……)

 

今はこれ迄と覚悟した彼は、しっかりと彼女を抱き寄せ、これが今生で最後の意地だと思い、精一杯に叫ぶ。

 

何と言われようが、俺は絶対に彼女を放さない! 俺の命を捨ててでもそれだけは絶対にしない!

 

(清次、浪江……約束守れなくてごめん、親父、お袋、兄貴、義姉さん……無事に帰れなくてごめん、穂波ちゃんの親父さん、お袋さん……穂波ちゃんを連れて帰れなくて済みません、村越さん、白石さん、いぶきちゃん、綾瀬、河勝、箕田、班長、みんな……本当にごめん……)

 

心の中に浮かんで来た顔に一人ひとり別れを告げて、ギュッと歯を食い縛る。

最後の瞬間とは一体どんなものなのか見当もつかないが、少なくとも彼の腕の中には穂波がいた。

共に生きて帰る事は叶わなかったが、こうして一緒に死ねるだけでもましなのかも知れない。

そう思って彼女の体を大切に抱き締めると、目を瞑ってその瞬間がやってくるのをじっと待っていた。

 

 

――――――ところが、何故か何時迄待ってもその瞬間がやって来ない。

 

一体どの位の時間が経ったのだろうか。

恐る恐る目を開けると、そこには相変わらず穂波の顔があり、細いが規則正しい息をしている。

 

(どうなってんだ? 此処はもう、死後の世界か何かか?)

 

そう思った時、背後から声がしてビクッと反応してしまう。

 

ところが――その声は、先程とは全く違っていた。

 

そう――まるで、普通の人間の女性の様な――しかも、とても悲し気な――声だった。

 

 

「そうデスカ……だったら、精々大切にしてやるネー……」

「そうまで言うて貰えるとか、なんかちいと羨ましいのぉ……」

 

 

胸を衝かれた彼が振り返ると、その不気味な姿こそ変わりは無いものの、先程迄爛々と燃えていた血の様に赤い瞳は、彼らと変わりない普通の人間の様な瞳に変っていた。

 

そして何よりも、その瞳の奥には、胸を突き刺すような深い哀しみが湛えられていた。

 

(どうして――、そんなに哀しそうな目を……)

 

言葉を喪った彼が見詰めるその前で、2人は静かに背を向けると、そのまま滑る様に遠ざかっていく。

 

抱き締めた穂波の心臓の鼓動を感じながら、隼太は呆然とそれを見送る事しか出来なかった。

 

 



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【第六章・第九節】

 「待って⁈ 待って下さい!」

 

背後から、今度は聞き覚えのある別の叫び声が聞こえる。

何事かと振り返ると、それはやはり大井だった。

初めて見る必死の形相で近付いて来た彼女は、ほとんど速度を緩める事無く隼太達の許迄やって来るが、そのまま艇の横を素通りしつつ再び大声を出す。

 

「お願いです! 待って下さい! 金剛さん! 浦風さん!」

 

(えっ!)

 

大井の言葉に、思わず背中を蹴飛ばされた様な衝撃を覚える。

現在海没中の旧海軍艦艇のほとんどは日本に帰国しており、いわゆる『オリジナル』として暮らしている。

しかしながら日本に好意的でないごく一部の国が、深海棲艦と実質的な戦争状態に突入する迄に彼女達の捜索を認めなかった為に、帰国出来なかった艦艇が僅かではあるが存在していた。

それら艦艇達は、現在はおそらく深海棲艦側の一員となって人類側と敵対している筈――いや、既にその一部は実際に確認されている。

その全てが頭に入っている訳では無いが、教育課程でも習う有力艦位ははっきり記憶していた。

そしてその筆頭が戦艦金剛と駆逐艦浦風なのだ。

更に付け加えて言うならば、今ここにいる大井もまたかつては深海棲艦であり、極めて稀な『奪還組』だった筈だ。

 

脳が目まぐるしく回転している隼太の前で、なおも追い縋ろうとする大井に対して青白い姿をした女達――大井の言葉を信じるならば金剛と浦風――は、背中を向けたまま冷えた声を発する。

 

「止まりなさい、大井」

「うちら、大井さんを撃ちとうないけんね」

 

その言葉を聞いた彼女は、突然凍り付いたようにスッと静止する。

 

「何故ですか⁈ 折角こうして出会えたのに、戻って来ては貰え無いんですか?」

「そんな、簡単な話しではありません」

「簡単じゃない事位は、分かってる積もりです! でも――それでも、わたしは戻って来て欲しいし、皆も同じ気持ちの筈です!」

「うちらかて、ほんまは戻りたいんじゃけえの」

「だったら――」

「戻りたいから戻れるなら、どれ程良い事かと思いマース、でも、そうはいかないネー」

 

「そんな、何故そこ迄――」

うちは忘れとらんけえ

 

小柄な――おそらくは浦風であろうと思われる方の――女が、凍てつく様な冷え切った声で大井の言葉を遮る。

彼女がハッと息を吞む微かな音が響いた後、その場を沈黙が支配する。

長い静寂が続いてから、金剛と思われる――そう言えば酷く傷ついていた筈だ――女が徐に話し始める。

 

「大井は一体どう思ってマスカ? 人間達の働いた悪事など、もう忘れてしまいましたか? それとも、彼らはもう充分罪を償ったと思うのデスカ?」

 

聞いている隼太が歯痒くなる程に、冷たく――しかも皮肉に満ち溢れた不快な物言いだ。

彼が知っている大井に向かってこんな言い方をすれば、多分只では済まないだろう。

だが、此処での彼女はそうではなかった。

苛立つ様子一つ見せずに、真正面から説得し様としている。

 

「金剛さんも、良く分かっている筈です! どれ程犠牲を払おうが、もうこれで十分などと言う事はあり得ない位は――――だからこそ、赦すことは尊い事なんじゃありませんか?」

 

大井の必死の言葉が胸を打つ。

彼の言葉にこの半分でも説得力があれば、これ迄経験して来た事にももっと違う展開があったのかも知れない。

にも関わらず、彼女らには全く響いた様子がない。

金剛に代わって口を開いた浦風の言葉には、侮蔑とも嘲りともとれる悪意が充ちていた。

 

「大井さんにゃあ――ぶち大切な人がでけたんじゃねぇ」

 

(何なんだよ、その言い方は!)

 

これ程迄に下手に出て懸命に説得し様としているのに、金剛と浦風は全く聞く耳を持たないばかりか、却って煽る様な言動をする。

さすがの大井も一瞬言葉に詰まり、隼太の耳にはギリリと歯噛みをする様な音が聞こえた。

だが、再び彼女はそれに耐えて、悲痛な声を振り絞る。

 

「例えそうだとしても――わたしにとって仲間は同じ位大切なものよ⁉ お願いだから、わたしと一緒に日本に戻って――そして、どうか人間達の謝罪を受け容れて下さい!」

 

今更ながら、彼女が人間達にこれ程優しい眼差しを注いでいた事に気付く。

やはり自分は上辺ばかりを見て、その胸の奥の本心を見ていなかったのだろうか。

しかしながら、大井の説得は功を奏する事無く終わりそうだ。

結局金剛と浦風の態度が変わることはなく、彼女らは背中を向けたままで酷薄な言葉を投げ掛ける。

 

「もしそうさせたいと思うのなら、実力で私達を倒して見れば良いのデス。かつて大井自身がそうだった様に」

「もし今、大井さんにそれがでけるんじゃったら、何時でもそうして貰うてええよ」

 

何故ここ迄して金剛と浦風は、大井を挑発するのだろうか?

これはもちろん推測に過ぎないが、大井の能力から言えば、例え金剛と浦風2隻を相手にしたとしても決して引けは取らないだろう。

今の彼女は、艤装によって本来の能力を大幅に強化されており、しかも全オリジナル中でもトップクラスの増幅値を叩きだしている程の実力者なのだ。

見たところ浦風はほぼ無傷の様だが、金剛はかなりの深手を負っている様であり、もし本当に彼女達が対峙したならば大井が勝利する可能性は高いと思える。

 

(そうか――そうなのか……)

 

そこ迄考えて、漸く隼太は気が付いた。

大井が重いハンデを――隼太と重傷を負っている穂波という、非力な存在を――背負っている事に。

もしもたった今、この場で彼女達が果し合い紛いの戦闘を始めてしまえば、彼ら2人は余程運が良くない限り脱出する事は出来まい。

金剛と浦風は、そこ迄自分達の事が大切だと言うのであれば、目の前にいるこの人間達の命など意に介さない筈では無いのかと迫っているのだ。

そして彼女達は、言外にこう言っていた、『やれるものならやってみろ、この裏切り者め!』と……。

 

大井はそれには返答する事無く黙っていたが、よく見ると彼女の両手がきつく握り締められ、ブルブルと震えている。

間違いなく彼女は、隼太達を戦闘に巻き込まないために、金剛らの侮辱にも等しい態度を耐え忍んでくれていた。

 

(大井さん――済みません、俺達のために……)

 

誇り高い彼女が、如何に必死で己を押し殺しているかと思うと、つい歯を食い縛ってしまう。

 

その耐え難い時間が何処まで続くのかと思い始めた頃、背を向けたままの2人が再び声を上げる。

 

が、それは先程迄とは異なり、心なしか寂し気な別れの言葉だった。

 

「何時の日にか、もう一度共に海原を駆ける日が来ることを祈ってマース……」

「皆には、よろしう伝えてつかあさい……」

 

それだけを言い残すと、彼女達は急速に遠ざかって行く。

 

大井は既にそれを見ようともせず、ただ俯いたまま握り拳を震わせていた。

 

しばし茫然とそれを見ていた隼太だったが、突然大井に怒鳴り付けられたので思わず飛び上がりそうになる。

 

「いつまでボサッとしてるつもりなの⁈ その娘を助けに来たんでしょう⁈」

「は、はい!」

「分かったらさっさと戻るわよ⁉ 付いて来なさい!」

「はい!」

 

こうして彼らは帰途についた。

 

 

大井と共に『うさ』に辿り着いた隼太は、班の仲間達が開けてくれた艦尾のゲートからそのまま艦娘プールに進入して接舷する。

直ぐに担架が用意され、まず穂波が艇から担ぎ出される。

『あつた』と『たかちほ』は既に10分余りの距離迄接近しているとの事なので、以前の白石の様に移送されるのだ。

例によって腕組みをしてしかめ面をした班長がプール甲板に仁王立ちしているので、艇をWave達に預けてその前に進み出る。

少し離れた所から、清次と浪江が心配そうに此方を見ていたが、どういう訳か綾瀬は膨れ面をしてそっぽを向いていた。

 

「敷島、戻りました! 命令に背き持ち場を離れ、軍の装備を無断で使用した事については、如何なる処分を受けても異存ありません」

自分で思っていたよりも、冷静に申告することが出来た。

そして、班長のリアクションもほぼ想像通りだった。

「馬鹿者! そんな事は当たり前だ! 今更しおらしい事を言うな!」

 

が、そう怒鳴っておいて言葉を切った彼は、小さく低い声でこう言ったのだ。

 

「――よくやった」

 

その言葉を聞いた途端、胸の奥から感情がドッと溢れてくる。

涙が零れて止まらなくなるが、何とか必死に堪えて直立不動を保ち続ける。

「後悔する位なら、命令違反など犯すな、未熟者め! ――こいつを用具室にぶち込んでおけ」

班員達を顧みてそう言うと、彼は立ち去ってしまう。

 

両腕を掴まれて用具室に連行されながらも涙の止まらない彼に、Wave達が話し掛ける。

「お前、きっと凄ぇ体験したんだろうな、何時か聞かせろよ」

「――は、はい――必ず――お話しします……」

「あーあ、あたしが死に掛けた時も、誰か助けに来てくんねーかなぁ……なぁお前、五十田に内緒で来てくれよ?」

「だ、黙っては――行けませんけど――許可して貰えたら――何とかします……」

「へへへ、言うじゃねーか♪ その言葉ぁ忘れんなよ」

「はい……」

 

彼女達が外側から鍵を掛けた用具室の中で、独りになった隼太は己の涙の意味を噛み締める。

穂波の容態は一刻を争う重症なのだが、何故か彼には不思議な確信があり、全く不安な感情は沸いてこない。

彼の心に溢れている感情の正体は、これまでに経験して来た穂波との想い出そのものだった。

初めて彼女を意識した、あの中学二年の始業式の日の事、グラウンドを駆けながら盗み見た、花壇の前にしゃがみ込む後ろ姿――そこから始まる、懐かしくも大切な日々の記憶だ。

人は死を迎える時やそれを覚悟するような瞬間に、過去の思い出が走馬灯の様に蘇ると聞いたことがある。

隼太は走馬灯も見た事は無いし、実際にそんな経験もしたことがないが、たった今の状況は正にそうなのだろうか?

しかし、彼は死に掛けている訳でもないし、穂波を喪おうとしている訳でもない。

それどころか、仲間達や大井の助けを得て穂波を死の淵から救い出したという達成感すらある。

 

(そうか――終わったのか……)

 

俄かに彼は覚った。

彼が5年間追い求めて来た事――穂波と共に戦場に立ち、そして生死の間を共に潜り抜けて彼女と共に故郷へ戻る事――が、今終わりを告げようとしているのだと。

10通にも満たない手紙の向こうの彼女を追い続け、現実の彼女に追い付いてからは多くの新たな仲間達と過ごした日々――それは掛け替えのない充実した日々だった。

 

隼太の瞳から溢れ続ける涙は、その日々に対する追憶なのだ。

 

(有難う――皆本当に有難う――俺は――俺は、皆のお陰で、辿り着けたんだ……)

 

あの激しい戦闘が夢であったかの様なゆったりとした揺れを感じながら、彼はただ無心に涙を流し続けた。

 

 




これで第六章は完結です。
次回からは、最終章である第七章を投稿する予定です。
最後までどうぞよろしくお願いします。



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第七章
【第七章・第一節】


最終章である第七章の投稿を開始します。
処分を受けて教育隊を去る隼太は、多くの者達が生きる為に葛藤する様を垣間見ます。

本章では、拙作『陸奥と僕のこと改』及びそれからの作中での時間経過を含めた背景が、前置き抜きで多数登場します。
やや消化不良になるかも知れませんが、どうか最後までお付き合い下さい。


 2度、3度とパネルに触れ、更にはノックもしたのだが、室内からは何の反応も無い。

夜も更けて、歩哨の者と宿直担当以外はほとんどが退出してしまった司令部建屋内では、そんな音ですら耳障りな程に響き渡る。

 

(仕方あるまいな)

 

長門には高いレベルのセキュリティパスが交付されており、このドアもロックを解除することは可能だが、普段はその様な事をする必要が無いだけだ。

セキュリティキーを取り出してパネルをスッとなぞり、カチリと小さな音がしたのを確認してドアを開ける。

 

「私だ、入るぞ」

そう声を掛けたのだが、やはり何の応答も無い。

ぐるりと見渡した室内は灯りが点いておらず、ブラインドの隙間から差し込む月光だけが、冷えた光条を投げ掛けていた。

もし、何の物音もしていなければ無人なのかと勘違いする処だが、微かに漏れる押し殺した呼吸が、この部屋の主の存在を辛うじて示していた。

 

規則通りに制帽を被って、デスクの上に固く握った拳を二つ置いたまま身動き一つしないその姿は、まるでその様に設えられた彫像の様だ。

 

(胸の痛む事だ――陸奥よ――お前ならば、こんな時に如何声を掛けてやるべきか、答えを知っているのだろうな……)

 

今この瞬間も自分達の事を見守っているであろう妹に、心中でそう話し掛けてみたものの、当然ではあるがその応えが返って来る事は無かった。

 

溜息を吐いた長門は、諦めて己の言葉で話しかける。

「そろそろ帰宅してはどうか――司令」

 

予想通りと言えばそれ迄だが、やはり彼は反応しない。

 

「此処にいても、もう出来る事はあるまい。逝く者を悼むのであれば――」

「副長を喪ったというのに、その司令がさっさと帰宅していいものなんですか」

 

「そうだ、――そう言っているのだ」

 

彼女の言葉を遮って口を開いた渡来に向かって、きっぱりと言い切る。

「それにもう少し付け加えるならば、既に『さっさと』などと言う時間では無いぞ」

 

「時間なんて関係ありませんよ――彼女にはもう、その時間すら無くなったんですよ? まだ沢山遣り残した事があった筈なのに――」

「じゃあ仁は、駒ちゃんが消えて無くなったと思ってるの?」

 

突然全く違う声が響いたので、さすがの彼も思わず顔を上げる。

 

「――子の日……」

 

「子の日は、姉様も長良ちゃんも高雄ちゃんも――それに陸奥さんも、皆天国にいると思ってるよ? 何時でも仁の事を見守ってると思ってるよ? 仁はそう思ってないの?」

 

「――そんな事無いよ――皆、何時も見守ってくれていると思ってるよ……」

「でも、駒ちゃんは別なの? 駒ちゃんは人間だから違うの? 仁のお父さんやお母さんもそうなの? ――仁もそうなの? 死んじゃったら――無になるの? ――――陸奥さんが言った事、忘れちゃったの?」

 

重い沈黙が流れる。

彼女の言葉に抗う術などあろう筈も無かったし、彼が何か適切な言葉を絞り出す迄じっと待っている積もりも無かった。

 

「その位にしておいてやれ、子の日よ」

 

「――うん――ねぇ仁、今頃駒ちゃんはね、皆ともう再会してるよ、皆と一緒に笑ってるよ? 仁ったら、またあんなに大泣きしちゃって――ってね」

 

「――良く分かったよ――子の日の言う通りだよ、そうでなきゃおかしいよね――僕自身が信じていた事なのにね……」

 

「分かったら、もう帰ろ? 正門のとこで葉月が待ってるよ」

 

「――でもね、僕は葉月にあわせる顔が無いよ……」

「仁だって知ってるでしょ? 葉月はずっと前から何もかも知ってたって」

「うん――――だからね、あわせる顔が無いんだよ」

「もし葉月が何か言ったらね、子の日がちゃんと言ってあげるから――今日迄何故黙ってたの? って――仁が辛い思いするのは分かってたでしょ? って……」

 

そう言いながら近付いてきた彼女は、肩から下げたポーチから見覚えのあるナフキンを取り出して、彼の顔に手を伸ばす。

暫し、顔を拭われるのに任せていた渡来は、それが一頻り終わると弱々しい笑顔を浮かべて口を開く。

 

「有難う、――何時も迷惑ばかり掛けてごめんよ……」

 

だが、そう言われた彼女は不服そうな顔になり、唇を尖らせる。

「子の日、その言い方嫌ーい」

「えっ、あぁ、その、ゴメン……」

 

「仁は何時も謝ってばっかりなんだから……あのね、一緒に暮らしてもう何年経つと思ってるの? 子の日は、仁のお母さんやお父さんよりも長く一緒にいるんだよ?」

「うん、そうだね――本当に、そんなに時間が経ったんだね……」

 

「それにね――言っとくけど、子の日は葉月の事――許した積もり、無いからね」

 

そう言った一瞬、如何にも年端のいかぬ幼い姿の彼女の瞳に、女の情念の様な焔が揺らめいて消えた。

それを目にした長門は、改めて子の日が心の裡に秘めている感情に思いを巡らせる。

 

(結局、お前も私と同じ事を考えているという訳か――そしてそれ故に、塔原葉月を許せぬのだな……)

 

長門にとって、この優しく誠実ではあるが何処か頼りない男の生涯を見届ける事は、天上へと去った我が妹に対する誓いでもある。

しかし子の日もまた、その動機は異なるにせよ同じ思いを抱いているのだろう。

そしてそれが簡単では無い事も、彼女はその幼い容姿とは裏腹にちゃんと心得ている様だ。

 

(現に、斑駒殿はそれを果たせぬままに去ってしまった……)

 

愛する者を次々に喪うのが、この男の背負った宿命なのだろうか。

だとすれば、自らの誓いを果たすためには、どうあってもその宿命に巻き込まれる訳にはいかない。

そう思ったその時、ちらりと視線を上げた子の日と目が合う。

 

「長門さん?」

「うん、何だ?」

 

「きっと駒ちゃんはね――知らずに逝ったと思うよ……」

 

「――――そうだな、そうかも知れんな……」

 

「何の話ですか?」

 

コートを羽織り、鞄を手にした渡来が問い掛けるが、何もかも答えてやるという筋合いの話では無かった。

 

「何でも無いよ、仁は知らなくていいの」

「そうだな、お前は知らぬ方がいいな」

 

「――分かりました、聞かない事にしますね」

そう言った彼は先に立って扉を開け、2人を先に出る様促す。

 

扉が閉まる最後の瞬間、暗い室内に人影が見えた様な気がした長門の胸に、幾つもの懐かしい声が響く。

 

(後は頼んだわよ? お目付け役さん♪)

(長門さん、彼の事よろしくお願いします)

(ほほ、頼りにしておりまするぞ)

(傍に居られなくて御免なさい――姉さん……最後迄、お願いね)

 

もとよりその積もりなのだ――そう、あの夏の日以来ずっと。

 

 



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【第七章・第二節】

 査問が開かれる迄の2週間弱、隼太は普段使われていない寮の空き部屋に軟禁されながら、何度となく事情聴取を受けていた。

彼としては嘘を吐く理由も無いのでほとんどの事を正直に話したが、班長や仲間達が謂わば『片目を瞑ってくれた』事だけは一切言わなかった。

金剛と浦風が艦娘の実態を理解していなかった事に付いては、一言一句を正確に思い出す様に求められたので出来る限り応じたが、聴取に来た見慣れない徽章を付けた隊外の士官達は、反応を見せること無く淡々としていた。

 

聴取とは別に総務課員などが面談に来たが、彼らは何もかもでは無いものの隼太が気になっていた事を教えてくれた。

『うさ』のブリッジクルーは、やはり艦長である斑駒を含めて大半が戦死してしまったとの事だった。

しかしながら、今回の様な僅かな戦力で敵駆逐艦級1隻撃沈、敵戦艦1隻撃破というのは破格の戦果であり、乗組員全員に特別賞詞が授与される見込みとの事らしい。

そしてなんとそれは隼太にも授与されるとの事だったが、有難いという以上の感想を持ち様が無かった。

それよりも、穂波が無事に一命をとりとめ、順調に回復していると言う報せの方が遥かに嬉しかった。

切断された左脚についても、膝関節がほぼ完全に残存している事から回復後の運動機能喪失も最小限に抑えられると伝えられた時、我知らず涙が零れていた。

彼は既に穂波を生涯支えると心に決めてはいたが、それでも肉体の一部を喪ってしまうという激しい喪失感に苛まれているであろう彼女の傍に、寄り添うことが出来ない己の現状が情けなかった。

 

しかしそんな彼の心情を察してくれたのか、面談に訪れた坂巻が言葉を掛けてくれた。

「心配だとは思うけど、もう少しの辛抱だよ。査問が終わって処分が決定すれば、ちゃんと会える様になるからね」

「有難うございます――ですが、処分が重ければそうはならないんじゃありませんか?」

「それは悪質な場合だよ。君はごく短時間で原隊に帰還しているし、艦娘本人の救命と装備の回収にも成功している。何よりも、君が原隊を離脱している間の行動を証言してくれる目撃者もいるんだからね」

「大井さんには、本当にご迷惑をお掛けしてしまって……」

隼太がそう言うと、彼はふと視線を宙に投げ掛けた後でこう言った。

「君が迷惑を掛けた訳じゃ無いよ、でも――とても辛い思いをしたみたいだけどね」

 

(この人も不思議な人だよな……一体、大井さんとはどういう関係なんだろう?)

 

だが、相変わらず坂巻は人の良さそうな笑顔を浮かべているばかりだった。

 

 その2日後、隼太は査問に臨んだ。

同僚のWave達や清次、浪江達はそもそも出席を許されていなかったが、班長は出席しており、証言を終えてから陳述を希望して壇上に立った。

隼太の処分に対しては、この時までに複数の嘆願書が出されていたので、てっきり彼もまた擁護の弁を述べてくれるのかと思っていたのだが、その内容はある意味で全く逆だった。

曰く、自分が部下から目を離さなければこんな事は起きなかった、従って自身の管理不行き届きであり職務怠慢である、また部下の教育に於いて規範意識を醸成する事が出来ていなかったがために部下は規則を軽視した、従って自身の指導力不足であると。

こう述べた後で彼は、敷島海士が処分を受けるのであれば、自身にも相応の処分が科されるべきだと結んで下壇した。

 

(班長……)

 

一つ間違えば、自身のキャリアに傷をつけかねない事を彼は言っていた。

勝手に発言することが許されていない為に隼太は黙っていたが、彼が発言を終えた時にただ深く礼をした。

それ以上どうしていいのか分からなかったのだ。

その後も査問は進んで行ったが、最後に登壇した坂巻が、欠席している大井の陳述書を代読した。

彼女は、軍或いは国家にとって計り知れない重要性を持つ艦娘とその装備を、深海棲艦の手から身命を賭して守り抜いた敷島海士の行為は、自身が目撃した限りにおいても正規の任務であれば戦時特進に値するものであり、命令違反についても、指揮系統が事実上破綻していた状況にあったことが斟酌されるべきであると擁護してくれていた。

 

(大井さん……本当に、有難うございます)

 

軟禁状態が解かれたら、何はともあれ彼女や皆の許に礼を言いに行かねばならない――今の彼にとってはそう誓う以上の事が出来なかった。

そして、それら全てが終わった後に下された彼の処分は、坂巻の言った通り『任意除隊処分』という穏やかなものであった。

懲戒による強制除隊を覚悟していた隼太にとっては非常に温情のあるものであり、それは全て仲間達や大井のお陰だとしか思えなかった。

 

こうして一先ず軟禁を解かれた彼は、正式な除隊迄の数週間、隊内で清掃などの雑用に携わる事となった。

処分を受けた身としてこれ迄の仲間達と共に行動することは許され無かったが、これ迄同様に休憩時間も自由時間も与えられたので、その時間を使って皆に挨拶をして回る事にする。

もちろん、真っ先に行きたいのは穂波の所ではあるが、彼女はまだ回復途上にあり、そもそも面会そのものが許されていなかったのでもう少し待つより他無い様だ。

それを傍らに於いて次に行くべき処は、やはり戦死した斑駒の許しかないと思い、隊内に仮に設置されている祭壇に行くことにした。

 

厚生棟奥の一室には、線香の香りが立ち込めている。

室内には壇が設けられ、戦死した『うさ』の乗員達の遺影が並べられていたが、その最上段に一際大きく斑駒の遺影があった。

 

「斑駒艦長……」

 

心の中で言った積もりが、つい口を衝いて出ていた。

5年前のあの日、斑駒が隼太に声を掛けてくれなかったら自分は今どうしていたのだろうか。

彼女と話した事で、彼は迷いを振り払うことが出来たのだと今も思っている。

壇に備え置かれた線香に点火し、香炉にそっと立てて改めて口を開く。

 

「貴方に声を掛けて頂いた事で、自分はここ迄来ることが出来ました。本当に有難うございました……」

そっと手を合わせて目を瞑り、祈りを捧げていると背後でドアの開く音がする。

 

「あっ!」

驚いたことにそれは班長だった。

慌てて後ずさって敬礼するが、何時もの様にしかめ面の彼は、これは何時もと違って静かな声を出す。

「馬鹿者、戦死者に対する礼を途中でやめる奴があるか、しっかり最後まで礼をしろ」

「は、はい」

改めて手を合わせる隼太の横で、班長も線香を灯して手を合わせる。

暫し無言で祈りを捧げた彼らは、どちらからともなく目を開けて手を下ろす。

 

「――俺は昔、隊のはみ出し者でな」

「え、本当ですか?」

「そうだ、とにかく上官や同僚達のやる事為す事が鼻についてな、何かというと噛み付いてばかりいたもんだ」

「まさか、命令に――」

「馬鹿を言え――と偉そうに言うのは何だが、まぁギリギリその線は踏み越えてはおらん。だからこそ嫌がられたんだがな」

「――済みません、でも、何となく想像がつきます」

「フン、利いた風な口をきくな。――だが、結局その所為で俺は艦から下ろされる羽目になった」

「え、そこ迄されたんですか?」

「ああ、余程煙たかったんだろうな、俺は資材の入出庫係をやる事になった。来る日も来る日もひたすら倉庫番だ」

「ええ……」

「だがな、ある日突然艦長が――もちろん当時はまだ違ったがな――やって来て言われたんだ、教育隊のフネに乗る気は無いかとな」

「そんな事があったんですか」

 

「――正直に言うがな――本当に涙が出そうだった、俺を理解してくれる人が海軍にはいたんだ――ってな」

「理解者――でしょうか」

「いいか、よく覚えておけ、『士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者の為に装う』だ」

「己を知る者の為に……」

 

「――だがな――俺は死ぬことが出来なかった……艦長が先に逝って仕舞われた……」

 

「……」

「……」

 

「あの……」

「何だ?」

「もしも――ですけど、斑駒艦長は、死んではいけないと仰るんじゃないでしょうか……」

 

「――――そんな事位、分かっている。貴様に言われなくともな」

「申し訳ありません……」

「艦長殿であれば、きっとこう仰る、『自分の分まで人生を全うして欲しい』とな……」

 

それは、彼自身が穂波に対して抱く思いと何も変わりが無かった。

「貴様も同じ事を誰かに対して思うだろう、誰しもそれは同じだ――本当に護るべき何かを持っている者は、誰しもな」

「――はい」

 

暫し彼らの間には沈黙が流れ、線香からの煙が揺蕩う。

どうし様かと思い掛けた隼太だったが、やはり礼を言わねばと思い至る。

 

「短い間でしたが――本当に有難うございました」

「という事は、貴様はもう軍には戻らんという事か?」

「あ……」

 

そう言われて初めて気が付いた。

元々懲戒除隊を覚悟していた彼にとって軍には二度と戻れない処だった筈なのだが、任意除隊と決まった今では、除隊から2年が経過すれば再び軍に戻る事も可能になっている。

 

(俺が――海軍に……)

 

入隊から1年、配属されてからは僅か半年であるが、何時の間にか自分にとって海軍は大切な場所になっていた事にも改めて気付く。

 

「――分かりません――今の今迄、復帰の事は考えても見ませんでした……」

「そうか、では然るべき時が来たらもう一度考えてみろ、そして五十田と相談しろ」

「はい――ですが班長、自分は戻って来るべきなのでしょうか」

 

ついそう問い返した隼太に向かって、何時もの様に彼はフンと鼻を鳴らし腕組みをする。

「それは貴様が決める事だ。軍は貴様であろうが他の誰かであろうが分け隔てなく評価し、是非を判断する事しかせん」

そこで言葉を切ると、相変わらず不機嫌なのか笑っているのか判断が付きかねるしかめ面をして見せる。

 

「しかしだ――もし貴様が戻って来たら、その時はもう一度新兵として一から鍛えなおしてやるから安心しろ」

 

「あ――はい!」

 

隼太の返事を満足気に聞いた彼は、くるっと背を向けてそのまま退室していってしまう。

 

(班長、有難うございます)

 

バタンと閉まった扉に向かって頭を下げる。

彼にとって最も大切な事はと言われれば、穂波を支える事だと迷わず答える処だ。

だが、もしそれと両立出来る事ならば、再び海軍に戻って来る事も考えるべきなのだろうか。

どちらにせよ、まだ穂波にも会っていないと言うのに結論など出せる訳も無いが、それでも彼の中でその言葉は重みがあるのも事実だった。

何れよく考えて見よう――そう思って頭を上げたその時だった。

 

「期待してるわよ♪」

 

突然背後から斑駒の声が響き、ギョッとする。

 

「か、艦長殿?」

 

だが振り返った彼の目に映ったのは、言う迄も無く彼女の遺影だけだ。

ところが、何故か写真の中のその顔に先程と違って笑みが浮かんでいる様な気がしたので、敬礼して別れを告げる。

「時が来れば真剣に検討致しますので、どうかそれ迄見護って頂けましたら幸いです!」

 

5年前のあの日と同じ様に、胸の中がすっきりと晴れている。

説明出来ない不思議な軽やかさを覚えながら、隼太は部屋を後にした。

 

 



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【第七章・第三節】

 総務課に予定を確認していたところ、大井に確実に面会出来るタイミングを掴んだので、迷わず挨拶に行く事にした。

金剛らの挑発に堪えて命を助けてくれた上に、彼を巧みに擁護する事迄してくれた彼女に礼を言わない訳には――もっとも、大井がそれを喜ぶとは思えないが――いかないだろう。

 

夕刻、彼女専用の控室の前に立って、ドア脇のセキュリティパネルに触れると直ぐに応答がある。

「何方?」

「敷島海士です! お休みのところ申し訳ありません」

それに対する返答はなく、ただ小さなカチッという音がしてロックが解除されたことが分かる。

 

「失礼致します」

そう声を掛けてからドアを開けると、こじんまりとした部屋の窓際に、此方に背を向けて立つ大井の姿があった。

しかし彼女は振り返る気配もなく口を開く様子も無いので、先ずは報告からだと思い、少し声を張って処分内容を告げる。

「自分は今月末日を以って任意除隊を申し渡されました。査問に於いては格別のご配慮を頂き、誠にありがとうございました!」

 

「――そう、懲戒にならなくて良かったわね。五十田さんもホッとしてるでしょうね」

「まだ会えてはおりませんが、そう思ってくれていれば良いなと思っています」

彼がそう応じると大井はハァッと溜め息を吐き、毎度の如く仕様の無い奴と言わんばかりに口を開く。

「あんた、まさかそれ本気で言ってないでしょうね?」

「えっ⁉ あ――いえ、その……」

「身体を張って自分の命を助けてくれた男の事を、気にも留めない女なんていると思ってるの? あの娘はそんなに薄情なの?」

「そんな事はありません!」

「だったら、そんな余所行きの言葉は何処かに捨てて行く事ね。これからのあんたの人生、何に使わなきゃいけない位はもう分かってるんでしょ?」

 

相変わらず容赦のない物言いだが、その中身は隼太が考えている事そのものであり、まるで何もかも見透かしている様なその鋭さに舌を巻く。

返事の言葉が見つからずに思わず沈黙してしまうと、幾らか間をおいて大井は再び喋り始める。

 

「あんた見たいにね、好きな女の為にに命令違反はするわ、命を粗末にするわの様な手合いに軍は向いていないわ、それ位自分でも分かるでしょ?」

「はい……仰る通りです」

「今回、たまたま運良く温情のある処分になったのは幸運だったと思いなさい、これに懲りたら安直に戦場に近づこうだなんてしないことね」

「は、はい……」

 

軍への復帰を考え始めるようになった隼太だったが、いきなりそれを否定されてしまい、思わず口籠る。

だが、どうやら彼女はそれも見透かしている様だ。

再び溜息を吐きながら口を開いたその言葉に、思わず唸らされる。

 

「あんたが、今一番しなければいけないことは何なのよ?」

「そ、それはつまりその――あの、プライベートな事で申し訳ありませんが――」

「そんな事位良く分かってるわよ! 体の一部を喪った痛みや傷は癒えても、その事で負ってしまった心の傷を癒すのが簡単じゃない事位、あんた身に沁みて分かってるんじゃないの?」

「は――はい! 間違いありません」

「全く……本当に男って奴は如何し様も無いわね――いい? あんたがまず第一に考えなきゃいけないのはあの娘の幸せでしょ。身の振り方なんてその後の話じゃないの?」

 

返す言葉が無いとは正にこの事だ。

彼女は、余計な事を考えるのは後にして、今はとにかく穂波を支える事を最優先にしろと言っていた。

たとえ口には出さなくても、彼が心の中で軍への復帰だの何だのに思いを巡らせていれば、間違いなく穂波はそれを感じ取ってしまうだろう。

それは、これ迄穂波やいぶきと接していて幾度となく経験して来た事だった筈だが、なかなか頭の中に定着してくれないものらしい。

しかし大井は、それに気付いてわざわざ忠告してくれていた。

 

(はぁ……俺なんかじゃ、この(ひと)には一生敵わないんだろうな)

 

最初から最後まで頭が上がらなかったが、彼女が自分達に注いでいる眼差しの暖かさに気付かされたのもまた事実だった。

神経質で高飛車なその仮面は、ひょっとすると照れ隠しなのかも知れない。

 

「――何から何迄本当に有難うございます。大井さんに教えて頂いた事は、何があっても忘れない様に努力します」

改めて彼がそう言うと、窓の外を見ながら背を向けたままの彼女が応じる。

 

「――それが言葉だけにならない様に注意しなさい――大切な何かを喪ってしまう、その前にね」

 

「――肝に銘じておきます……」

 

それに対する返事は無く、大井はそのまま口を噤んでしまう。

どうしたものかと幾らか逡巡した隼太だったが、これ以上付け足す言葉も思いつかなかった。

 

「それでは、お時間を頂き有難うございました。失礼致します」

「いいえ、わざわざ有難う」

相変わらず背を向けたまま応じる彼女に一礼すると、彼はそのまま退出した。

 

 

隼太が退室した後も、暫く窓の外を見つめたままの大井だったが、程なくコンコンコンと少し変則的なノックが響く。

無言でロックを解除すると、幾許も無く

「失礼します」

という言葉と共に坂巻が入ってくる。

 

「今し方、誰か来ておられた様ですが――」

 

「――今度、除隊になるあの子よ」

 

それを聞いた彼は、幾らか悄然として口を開く。

「そうでしたか……残念ですね、良い軍人と言うか我々の信頼出来る仲間になってくれるものと期待していましたが」

「仕方無いわ、あの子は軍人になる為に此処へ来た訳じゃなかった、大切な誰かを守りたい、支えになりたいという一心で軍に来たんだもの。例え今でなくても、何時かは去って行く事になったでしょうね」

 

そう呟くように言った大井は、腕組みをしたまま無言で窓外を見つめている。

2人の間には暫し沈黙が流れるが、それは思わぬ出来事によって突然中断される。

何の前触れも無く彼女の両手に力が籠り、自身の二の腕をギュッと掴むと、まるで何か激痛に耐えているかの様に体を折り曲げる。

激しい力が加わっているからなのか、或いは逆にそれを押さえようとして力を入れているのか、全身が小刻みに震えていた。

「大井さん!」

叫んだ坂巻が駆け寄り、その肩を包み込むように掴むと、俯いて歯を食い縛ったその隙間から彼女が声を絞り出す。

 

「――そう――――じゃない――――もっと――強く――もっと……」

 

その意を察した彼は、背中から両腕を回して強く抱き締める。

その腕の中で、大井の体は苦痛に耐え兼ねるかの様に強張っており、息をするのすら儘ならぬ様だ。

他にどうする事も出来ないまま、ひたすら言われた通りに抱き締め続けていると、何時の間にか窓外の夕暮れが消え去り、宵闇がそれに取って代わる頃、少しずつ彼女の体から力が抜け始める。

 

「――大丈夫ですか……?」

 

恐る恐る掛けたその声には応じず、少しだけ力を緩めた彼のその腕の中で、大井は悲痛な声を絞り出す。

 

「――人間は――人間達は――まだ、殺され続けなければいけないの……? どれ程殺され続けようが――黙ってそれに甘んじなければならない程――邪悪な存在なの……?」

「大井さん……」

 

坂巻は答える術を知らなかった。

20年近く前、当時アジアの覇権国家を自称していたC国の海軍が、台湾海峡に沈んでいる駆逐艦浦風に対して行なった非道な行為がこの戦乱の始まりだと考えられているが、既にそのC国は崩壊していた。

深海棲艦の執拗かつ徹底的な攻撃によりC国の沿岸部は焦土と化し、強力な海軍も壊滅してしまった為に、国内が大混乱に陥ったからだ。

しかし、C国が崩壊しても深海棲艦は人類に対する敵対行為を止めなかった。

全世界の海上交通は実質的に途絶し、海中にあったものは油田だろうが、海底ケーブルだろうが根こそぎ破壊されてしまった。

そんな未曽有の大惨事にも関わらず、日本が何とか国民生活を維持出来ているのは、他国に比較して遥かに多くのオリジナルがいてくれたからだ。

 

彼が何と応じて良いものか分からず沈黙していると、再び彼女が口を開く。

 

「人間が――それ程迄に罪深いのなら――幸せになる事なんて、許されない程罪深いのなら――それを赦しているあたしは――只の裏切り者なの……?」

 

まるで血を吐く様な痛々しい言葉と共に、その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

 

「そんな――そんな訳ありませんよ! そんな事間違ってます!」

堪え切れずに無我夢中で叫んだ坂巻だったが、その言葉にも彼女の涙は止まらない。

 

「――でも――そう考えている者達が――現にいるのよ? 幾らあたし達が道理を訴えても――理解してはくれないのよ? ……どうしてなの?」

 

「それでも――それでも、貴方は裏切者なんかじゃない! 一体、貴方が何を裏切ったと言うんですか⁉ 貴方だけじゃない、長門さんや、オリジナルの皆さんも裏切者なんですか⁉ ――僕ら人間には確かに落ち度はありますが――貴方を裏切者呼ばわりする事だけは、断じて受け容れられませんよ!」

 

思わず頭に血が上って捲し立ててしまったが、直ぐに馬鹿な事を言ったと思い、口を噤む。

そのまま暫く大井は彼の腕の中で荒い息をしていたが、少しづつそれが穏やかになり始め、強張ったまま折り曲げられていた体も次第に力が抜けて元に戻って来る。

それに合わせて腕の力を抜いた坂巻だったが、何かを言おうとするとまた興奮して余計な事を口走りそうなので、グッと堪えて黙っていた。

 

「――人間の罪は認めるのよね……」

 

「――はい、正確には分かりませんが、彼女達を怒らせる様な事があったのは間違いないと思ってます」

 

「――だったら――殺されても文句は言えない?」

 

「そんな事を認める積もりはありません――それに、最初に悪事を犯した者達のほとんどは、既に殺された筈です。残された我々は、謝罪して彼女達のために何かをする必要はあると思いますが……」

 

「――何かって?」

 

「――済みません、具体的に考えている訳じゃありません……」

 

「それはやめろって――何時も言ってるでしょ」

 

「あ、は、はい……」

 

そう返答した彼に対して暫く無言だった大井は、やがてフッと息を吐き出すといくらか軽い声を出す。

「司令はね、具体的な事を既にお考えなのよ」

「そ、そうなんですか?」

「ええ、幕僚監部におられる篠木海将と、――それに斑駒副長と話し合っておられたわ……」

 

「――司令は、悲しんでおられるんでしょうね……」

 

「あんたも知ってるの?」

「事実はともかく、噂だけでは……」

「司令と副長と篠木海将――それに長門さんや赤城さん加賀さん達は、皆20年以上前からの戦友だった――その上に、副長は司令にとって掛け替えのない大切な存在でもあったのよね……」

 

「ずっと――前からだったんでしょうか?」

「そうじゃないみたいだけど――奥様との間に、何かあったのかしらね」

「それは――今の奥様という事ですよね? 高雄さんではなくて――」

「そうね、少なくとも高雄さんがおられた頃には、そんな様子は無かったわね。何より、司令は心の底から高雄さんを愛していたと思うわ――今の奥様を愛してないとは思わないけど」

「――そうなんですか……」

 

「なによ?」

「いえ――その、司令は不思議な方だな~と――なぜそんなに次々――その……」

言い難そうに口籠った坂巻の反応に、大井はフンと鼻を鳴らして少し悪戯っぽく口を開く。

「なあに? あんた、まさか妬いてるの?」

「ち、違いますよ! そんなんじゃありませんから絶対に!」

「そんなの当たり前でしょ! しもべの癖に、ご主人様以外の女に目移りなんかしたら海に沈めるわよ?」

「勿論です! 誓いますから」

 

「ふふっ――――だったら、まぁ大目に見てあげてもいいかしら♪」

「あ、有難うございます……」

 

そう言って再び口を噤んでしまった彼の様子に微笑した大井は、首を微かに傾けて彼の胸元に頬を寄せると、艶のある栗色の髪が彼の肩から胸に流れ落ちる。

 

「――――有難う――傍にいてくれて……」

 

長い長い沈黙が流れた後、坂巻が低い声で呟くように応じる。

 

「――――傍にいます――例え、この身が灰になっても――ずっと……」

 

 



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【第七章・第四節】

 休日一日を潰して、箕田、河勝、清次が彼と話をする機会を設けてくれた。

厚生棟の一角にある娯楽室で、彼らはビールの代わりにジンジャエールで乾杯をする。

「それにしても、ほんまに良かったなぁ軽い処分で」

「ああ、有難う、皆が出してくれた嘆願書のお陰だよ」

「いや、我々の嘆願書の所為じゃ無いだろうな、敷島の行為は指揮系統が正常ならば正規の任務として行われるべきものだったからだよ」

相変わらず箕田の物言いは堅いが、おそらく事実には近いだろう。

「あん時よぉ、皆が何も示し合わせもせずに目ぇ瞑ってくれたの見てよ、何か羨ましいなって思ったぜ」

「そうだな、俺も『うさ』のクルーで良かったなと思ってるよ」

「いや、ええよなぁその話、何かこう人情感じるなぁ」

「おいおい、余り礼賛するのもどうかと思うぞ? 命令違反を黙認する様な話だからな」

「まぁ、勉ちゃん基準ではそうやろな♪」

「あれはどう見ても緊急事態だったから仕様がねぇよ。命令出せる状態じゃなかったからな」

「査問で、大井さんもそう言ってくれたよ。陳述書でだけどな」

「ほんまかいな、なんや、大井さん実はめっちゃええ人説はほぼ確定やな」

「俺の中じゃ、もう確定済みだよ」

「そうだなぁ、俺もそれは賛成だなぁ」

「そうなのか、残念だけどまだ一つも目の当たりにしてないから、実感湧かないな」

「まぁそやろ、勉ちゃん的には北上さんが至高なんやろしなぁ」

「うーん、それはまた違う話だとしか言い様がないな、我々や北上さんの様な人間とはまた違う事情を抱えてるんだしな」

その口振りは、明らかにまた彼の嗜好の矛先が変化したらしい事を告げている。

 

(えっ、また別の誰かが良くなっちまったのか?)

 

「どないしてんな、また新たに魅力的な女性出現かいな~」

「いや、そんなんじゃないんだ。ただな、今回敷島が遭遇したっていう深海棲艦の話を聞いて、彼女達がとても哀し気な眼をしていたって言うのがひどく印象に残っててなぁ」

「おいおい、今度は深海棲艦かよ……」

「でも、興味を惹かれないか? 彼女達は人類を憎んでいる筈なのに、敷島が身を挺して五十田さんを護ろうとしたその姿に感じる処があった訳だろう? 我々が真摯に手を差し伸べたら、それに応えてくれるかも知れないんだぞ? うん」

「何ちゅうかその……まぁ程々にしときいや~」

「別に止めねぇけどよ……」

さすがに清次も河勝も、これには少々呆れ気味の様だ。

 

(くれぐれも馬鹿な事だけはすんなよ……) 

 

「まぁそれはそれとしてや、まだ彼女には会えてへんのやなぁ」

「うん、容体はもう落ち着いてるらしいんだけどさ、まだ細菌感染とかのリスクを用心してるらしいんだ」

「そうなのか、白石ん時より時間掛かんだなぁ」

「白石さんはさ、負傷して直ぐに応急処置が出来たけど、彼女は暫く海水に晒されてたからとか見たいだな」

「成程、海水中の微生物とかの事だな、そういう事なら仕方無いだろうな」

「でもよ、早く会ってやりてぇよなぁ」

「うん、体の一部を失くして、きっとショックだろうなって思うしさ」

「ほんまに……これさえ無かったら、彼女と2人して除隊で目出度く故郷へ――ってとこやのになぁ」

「まぁでも――俺がやるべき事はもう決まってるし、出来る事を精一杯やるだけだから」

「――そう言い切れる強さが羨ましいよ、自分はどうしてこう芯見たいなモノが無いんだろうって反省ばかり湧いてくるから」

「勉ちゃんは目移りし過ぎやで♪」

「そうだそうだ」

「えっ、そこなのか?」

「いや、関係あると思うなぁ~」

「そうか、そうなのか……」

彼の反応に思わず笑った彼らは、その後も多くの事を語り合った。

隼太にとっては久し振りに気楽な会話を楽しむことが出来、胸の中に風が吹き抜けた様に朗らかな気分だった。

 

午後も遅くなって来る頃、他の用事がある箕田に合わせて会はお開きとなった。

娯楽室内を元通りに片付けた彼らは厚生棟の外に出たところで別れる。

「それじゃあ敷島、また除隊の当日にな」

「ああ、有難う、その時もう一度ちゃんと挨拶するよ」

 

手を振って彼と別れた3人は宿舎へ戻ろうとするが、向こうから北上が歩いてくるのに出くわす。

「――隼太ぁ、悪ぃけど俺はパスな」

「分かったよ、でもちゃんと普通に礼ぐらいはしろよ」

「自然にやれや、自然になぁ」

「――出来るだけな」

 

とは言ったものの、やはり幾分は無理があった様だ。

「お疲れ様です!」

近付いてきた彼女に、隼太が真っ先に声を上げて敬礼すると、河勝と清次も一緒にサッと敬礼する。

例によってマイペースな彼女は、ややのんびりとしたテンポで答礼しておいてから直ぐにそれを切り上げ、

「ま~今日は休日なんだし、そう鯱張らなくていいからさ~」

と言い掛ける。

だが、その言葉が途切れた途端に清次は、

「失礼します」

と一言宣言して立ち去ってしまう。

 

(はぁ……あれが限度か……)

 

心中思わず溜息を吐いていると、気を遣った河勝も何とかその場を言い繕う。

「申し訳ありません、あいつ、ちょっと急いでましたんで」

「いやー良いんだよ~別にさぁ。あたしが嫌われる様な事しちゃったんだしねぇ~」

「いえ、そんな――本当に申し訳ありません……」

「やめなよぉ~、君が謝る事じゃないしさぁ。――それに、あん時彼がキレそうになったのちゃんと止めてくれたよねぇ、感謝してんだよ♪」

 

(あっ、やっぱり……)

 

マイペースなポーズとは裏腹に、彼女は細かなところもよく記憶してくれている。

やはり素顔の彼女は、普段見せている表情とは違って繊細なのだろうか。

「隼太は、アイツの管理監督担当ですからね♪」

こういう時の河勝は相槌を打つのが上手く、巧みに雰囲気を変えてくれる。

ところが、どういう訳か北上はそれに乗って来ない。

「いや~、でも何つーかさぁ、そう言うのって凄く羨ましかったりすんだよねぇ」

「え、何でですか?」

「君達同期が仲良くしてんのとかさ、敷島君達のさ、故郷の同級生の間柄っての? ――そんなの、凄く憧れるっつーかさ、――――あたしにも、そんなのあったら、――もっと違う人生あったのかな……なんて、思っちゃうんだよね~」

 

「……」

 

幾らか遠い目をしながら、何時もと変わらぬのほほんとした口調のままで陰のある話をし始めた彼女に、彼らは戸惑いを覚える。

 

「済みません、北上さんは――」

 

北爪美佳(きたつめみか)

「えっ?」

「北爪美佳って言うんだ――苗字言うとさ、あ~あの辺の出身かー、って北関東の人は分かっちゃうんだけどね~」

 

「北爪美佳――さん……初めて伺いました……」

「うん、もうねー『北上』に為りきっちゃえばいいか~、ってずっと思ってたんだけどさー」

 

「なぜ――そう思われたんですか?」

「おい、隼太、止めとけや――」

「気ぃ遣ってくれて有難ね~、でも別に良いんだよー、あたしが話したいだけなんだしぃ」

「そ、そうですか……」

 

北上――いや北爪は、ふふっと自嘲する様に嗤った後で、そのまま言葉を続ける。

「――まぁ~自慢じゃないけどさ、山ん中の田舎でさー、ご多分に漏れず農家の娘な訳よ。それでもさー、中学までは平和に過ごしてたんだよね~♪ それなりに友達いたりなんかしてさ~」

「――でも――そうじゃ無くなったんですか……?」

「うん、なんかね……ほんとさー、今でも全然理由分かんないんだけどさぁ~、高校入って、1学期も終わんない内にねぇ、始まっちゃったんだよねー……アレがさぁ……」

 

どうやらそれは、自ら口にしたい言葉では無いらしい。

概ね想像がついた隼太は、慎重に口にしてみる。

 

「あの――ひょっとして、いじめ――ですか?」

 

それを聞いた彼女は、かなり間を置いた後で小さくコクリと頷いて見せる。

そのまま暫く彼らの間には沈黙が流れ、誰も口を開かない。

こんな時に上手に合いの手を入れてくれる筈の河勝も、何故か口を真一文字に結んだまま黙っていた。

 

やがて北爪が此方にくるりと背を向けると、少し上を向いて喋り始めるが、その声は微かに震えていた。

 

「――ほんとさぁ……一体あたしが何したって言うんだろうね――訳わかんないままさ~、いきなりシカトとかされちゃってさぁ――友達だって思ってた娘達迄さ……幼馴染だった娘だって居たんだよ? それなのにさぁ…………」

 

「誰も――味方してくれなかったんですか?」

 

「――そうだねぇ、親だけだったよ~、教師にも言ってくれたんだけどさぁ、あいつら『暴力を振るわれたり、金銭を取られたりはしてないんですよね?』とか言っちゃってさ――何にもしてくれなかったよ……」

「それじゃあ――見て見ぬ振りですか……」

 

「君も知ってると思うけど――田舎ってさぁ、逃げ場が無いんだよね――高校だって一つしかないから、転校する先も無いしさぁ……親はねぇ、畑あるから引っ越す訳には行かないけど、あたしが独り暮らしする気なら、離れた別の高校にも行かせてやるって、言ってくれたんだけどさ――」

 

「――それは、しなかったんですね」

「もし――転校した先でもいじめられたらどうし様って思ったらさぁ、出来なかったよ……独りでそんなの耐えられる訳ない――って思ってさ……」

「怖ろしいですよね……」

 

「一度ね、帰り道で偶然中学で一番仲良かった娘とさぁ、ばったり会ったんだよ――周り誰もいないからさ、思い切って聞いたのさ、『あたし何か悪いことした?』って」

 

「そ、それで――?」

 

「そしたらさ~、何にも言ってくんなくて、一言だけ『ごめんね』って言われて、逃げるみたいに置いてかれちゃったんだよ~……。あれはほんとに応えたわー、あーもう終わったって感じでさ~……」

 

「……」

 

「そこから家に帰る途中でさ、橋を渡るんだよ――結構高さあってさ~……あーこっから飛び降りたら楽になれるんだろうなぁ――ってさ……もうね――ほんと死ぬしかないって思ってたんだよ――あん時はさ……」

 

「――でも……死ななかった……」

 

「高校にさ――司令と副長が来てくれたんだよ――適性検査実施してくれって……聞いた瞬間にさ、もうこれしかないって思ったんだ……これでもしダメだったら死のうって…………もしも神様がいるんなら、きっとあたしを助けてくれる筈だ――ってね」

 

「――いたんですね……神様」

「本当にさ――信じられなかったよ……あたし一人だけだよ? ――もう絶対に、神様が助けてくれたんだ――生きろって言ってくれてるんだって確信したね。親はさぁ、自分達が何もしてやれなかったから、戦争なんかに行かせてって泣いたんだけどさ――あたしは死にに行くんじゃない、生きる為に行くんだって――そう言って出て来たんだよねぇ」

 

隼太の脳裏に、あの日の大井の言葉が蘇る。

『――北上さんにとってこの戦場は死にに行く為の場所じゃなくて生きる為の大切な場所なの――』

 

「――大井さんが言われた事――初めて分かりました……」

 

彼がそう口にすると、北爪ははにかむ様な視線をチラリとこちらに投げ掛ける。

「大井っちにはさぁ、ほんと感謝してるよ~。最初にさぁ、『あたし絶対に死にたくないから、ビシビシ鍛えてくれ』って言ったらね、『訓練で死んでも知らないわよ』とか言って、ほんとに容赦なく扱き倒されてさ♪」

「大井さんらしいですね」

「うん、でもさぁ~そのお陰で今日迄生き残って来れたからねぇ~……、海軍と、司令と、副長と――それに大井っちがさぁ、あたしの生きる場所をくれたんだよ」

 

そう言った彼女が、まるで少女の様な笑みを浮かべる。

それこそがおそらく『北上』ではなく『北爪美佳』の本当の顔なのだろうか。

 

「あん時はさぁ~、つい君達の事羨ましくなっちゃってさ♪ 本当、大人気ない事言っちゃって悪かったねぇ」

「そ、そんな、謝らないで下さい――それに、北爪さんが本当に故郷を無くしちゃった訳じゃないですよ……」

「いや~、だとしてもさぁ、もう只の親が住んでる場所って言うだけだよねぇ……あんな奴ら顔も見たくないしさ……」

 

「――顔なんか見に行かんでもええやないですか――」

 

それ迄珍しく黙りこくっていた河勝が突然言葉を発したので、驚いて振り返る。

彼は、隼太がおそらく初めて見る真剣な表情で、斜め前方の地面を睨みつけていた。

「顔なんて見に行く必要ないですよ――あたしはこんなに身ぃ削って戦ってる、お前らには到底出来ん事をやってる、悔しかったら同し様にやって見さらせ! 言うて、その蛙みたいな面踏ん付けに行ったったらええんですよ……」

 

よく見ると、彼の両手がギュッと握り締められている。

そう、まるで彼自身の怒りをぶつけるかの様に……。

 

「あれぇ~、ひょっとしてさぁ――君もサバイバーだったりする訳ぇ?」

 

(河勝、お前!)

 

頭の中で、多くの事実が急速に繋ぎ合わされていき、それを追認する様に彼は口を開く。

 

「俺もな――未だになんでいじめに遭うたんか全然分かれへん――でも、あいつらが総出で俺をはみ子にしに来よったんだけは事実なんや――教師は何もしてくれへん、昔からの連れも思切し掌返しや――ほんまに味方してくれたんは親だけや……」

「それで、東京に引っ越したのか?」

「せや、親父は普通のリーマンやったけど、会社に掛け合うて東京に転勤してくれたんや――折角、課長やったのに、それを捨ててなぁ」

「いい親御さんだねぇ」

「親父とお袋にはほんま、感謝してます。せやから、少しでも早う自立せなと思て、高卒で世間から大事にされる職業言うたら、やっぱり軍人やろと思たんです」

「立派だよぉ~、ちゃーんと親孝行してんじゃん――だったらさぁ、もう詰まんない連中の事なんか忘れちゃった方が良いよぉ――そんな奴ら、最初から日本にいなかったと思えばぁ?」

「お、俺の事はどないでもええんですよ! でも――でも、きた――美佳さんはこんなに功績残しとんですよ⁉ 地元の阿保どもの鼻明かしたったってええやないですか! ――――俺が、手伝いますから……」

 

話の成り行きに付いて行けない隼太が思わず黙ってしまうと、北爪が、はにかんでいるのか、面白がっているのか、はたまた戸惑っているのか、いわく言い難い――それでいて何だか嬉しそうな――笑顔を浮かべる。

 

「あれれ~――何この空気ぃ♪――あたしぃ、まさか、告られてたりするぅ?」

 

途端に河勝は真っ赤な顔になるが、それでもファイトを見せて言葉を続ける。

 

「やっぱ――あれですか、年下は頼んないですか……?」

「うふふ、そんな事無いよぉ~、でもさぁ、お互いに傷の舐め合いになっちゃうじゃん? それにさぁ――言っとくけどあたし、重いよぉ♪ 受け止める覚悟ある~?」

「重いの歓迎です! 鬱展開上等ですよ。とことん頼りにされて、依存されて見せますから!」

「いいねぇ~、その意気やヨシ♪ じゃあ、ちょっとお試しから始めちゃう~?」

「は、はい!」

 

(やれやれ、すっかり河勝に持ってかれちまったなぁ♪)

 

「すいません、お2人ともどうかお幸せに……」

「あっ、す、すまん隼太! お前の除隊の挨拶が優先やのに、つい……」

「君、今月末だったねぇ~、今更余計な事だけどさ~、2人で帰れる故郷があるってのはさぁ、とっても幸福な事だよぉ~」

「はい! 有難うございます」

「ま、こっちはこれから色々手探りしてくからさぁ~、後日談とか期待しといてね~♪」

「はい! 清次に逐一報告させますから♪」

「隼太、余計な事はせんでええからな!」

「はいはい、良く分かってるよ♪」

 

そう言った河勝も、北爪もとてもいい笑顔だった。

それらを包み込む春の宵が、少しづつ彼らを覆い始めていた。

 

 



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【第七章・第五節】

 そして、とうとう穂波と面会できる日がやって来た。

様々な配慮をして貰った彼らは、少なくとも1時間は誰にも邪魔されずに2人だけで話せることとなった。

 

緊張しながらそっと病室のドアをノックすると、ドアフォンから『はい』という穂波の声がする。

「俺だよ、入ってもいい?」

「うん、待ってたよ隼太君」

何故だろうか、その声の調子に言葉に出来ない違和感を感じるが、彼女に会いたい気持ちの方が優り、病室の引き戸を開ける。

2ヶ月ほど前に白石を見舞ったのと同じ造りの病室に、穂波はいた。

ベッドの上にしっかりと半身を起こした彼女は、幾らか上気した面持ちで此方を見詰めている。

 

「傷はどう? まだ痛む?」

「ううん、もう痛みは無いよ――でもね、時々左脚が痒くなったりくすぐったくなったりする時があるの……」

 

(あ……)

 

四肢を喪った者のほとんどが経験するという――幻肢という現象だった。

穂波の脳は、未だに喪った左脚の感覚を覚えており、おそらくそれは彼女に否が応でもそれを永遠に喪ってしまった事を思い知らしめるのだ。

 

「ごめんよ、穂波ちゃんが辛い時に傍にいてあげられなくて……」

「ううん、そんな事無いよぉ――だって、隼太君が助けに来てくれなかったら、もうこの世にいなかったかも知れないんだよ? だから、そんな事気にしないでね」

そう言ってくれる彼女の言葉には、やはりどこかしら作った様なぎこちなさを感じる。

 

(どうしちゃったんだろ――穂波ちゃん……)

 

「――除隊処分――になっちゃったね……」

「うん、でも任意除隊だからさ、ちゃんと賞与や退職金だって出るよ? まぁ雀の涙位だけどね♪」

「だけど――隼太君、とっても真面目に勤務してたのに――司令や艦長さんにも――班長さんにだって、凄く期待されてたのに……」

「ありがとう――でも、そんなに期待されてたとかは聞くの初めてだなぁ♪」

「――皆ね、言ってたんだよ? 隼太君は間違いなく最短コースで三曹に上がるって」

「ははは、それは残念だったかな~♪」

「そうだよぉ……わたし、隼太君にとんでもない事させちゃって……」

俯いて沈んだ声をを出すその姿を見て、どうやら先程から感じていた違和感の正体が少し分かった様な気がした。

 

(穂波ちゃん――俺が処分される事に責任を感じてるんだな)

 

正に大井が指摘した通り、自分を助けた事によって隼太が喪ったものを気にしてくれているのだ。

「でもね、穂波ちゃん」

「――なあに?」

「あの時、君を助けに行かないなんて選択肢、俺には欠片も無かったよ」

「――それでも――もう少し時間があれば、ちゃんと許可を貰えてたかも知れないんでしょ?」

「もちろん、そうだよ。大雑把にだけど、大体1時間以内位には正規の任務で捜索に行けたかも知れないよ――でも、きっともう穂波ちゃんには会えなかっただろうね」

「……」

「――今でも信じてるんだ、あれがギリギリのタイミングだったって。それは皆も同じだったと思う、だからこそ、わざと片目を瞑って俺を行かせてくれたんだと思ってるよ」

「……」

 

すっかり黙ってしまった穂波の様子が気になって来た隼太は、一旦言葉を切ってから改めて問い掛ける。

「ねぇ、覚えてる?」

 

「――――ひょっとして――夜神楽の日の事?」

「うん、そうだよ――あの日約束したよね、俺が必ず迎えに行くって――俺が自分で言った事なんだからさ、約束守るの、当然だよ♪」

出来るだけ優しくそう言って笑い掛けて見せる。

真面目な彼女は自分で自分を追い込んでしまうので、それを少しでも軽く出来ると思ったからだ。

ところが、それは残念ながら彼の思惑とは全く逆方向に働いてしまったらしい。

突然穂波が、その瞳から涙を溢れさせる。

「穂波ちゃん! どうしたの?」

我ながら、もっと気の利いたことが言えないのかと嫌になるが、今は冷静にそんな事を考えられる時では無かった。

両手で顔を覆った彼女が、途切れ途切れに声を絞り出す。

 

「――ごめんね――本当に――本当に、ごめんね――隼太君の――言う事、聞かなくて……」

「待ってよ! 穂波ちゃんが謝る理由が無いよ⁉」

「そんな事――無いよ――だって――隼太君は――ずっとずっと――言ってくれてたのに――

いう事――聞かなかったの――わたしだもの……」

「そんなの! 俺は何時だって、穂波ちゃんが決めた事を全力で支えるだけだよ⁉」

「だから――だからわたし――甘えてたの――隼太君に甘えて――ずるずる引き伸ばして――

隼太君に――命令違反迄させて――脚まで無くしちゃって――

全部――全部わたしが――甘えてたから――」

 

穂波の悲しみと後悔が胸に染みて来て、何も言えなくなってしまう。

隼太が言い続けた事が正しいなど所詮結果論に過ぎないし、何より彼自身が穂波の選んだ道を精一杯応援し支えると誓っていた。

だが蓋を開けてみれば、彼女の選択が2人にとって悲しい結果をもたらしたのは事実であり、穂波が自分を責めてしまうのは避けられない事かも知れない。

 

「わたし――ずっと――夢見てたの――

何時か――何時か、隼太君の――お嫁さんになって――2人で村で――暮らすって――

でも――わたしの所為で――隼太君に――命令違反させて――

それに、こんな――こんな脚の無い――お嫁さんなんて――

全部――全部わたしが――隼太君に――甘えてたから――こんな事に……」

 

(穂波ちゃん……分かったよ、全部聞くからね)

 

先程、ぎこちない様子の正体が理解出来たように感じたのは、まだまだ中途半端にしか彼女の本心を掴めてはいなかったのだろう。

そう感じた彼は、容を改めて言葉を紡ぐ。

 

「穂波ちゃんの辛さを、一緒に受け止め切れなくて本当にごめんよ」

「――隼太君の――所為じゃ無い――全部――わたしが――」

「だとしても、俺の努力が足りなかったんだと思ってる――だから、穂波ちゃんが胸の奥に溜めてる事は全部言って欲しいんだ」

「――隼太君……」

「5年前に誓った事は、今も何一つ変わってないよ。後からあれが正しかった、これが間違ってたなんて最初から俺は関心ないからね」

「――でも――でも、隼太君に――これ以上――甘えられないよ――

折角、皆から――期待されてたのに――それ棒に振って――助けに来て――くれたのに――それなのに……」

「命令違反をしなければ、穂波ちゃんと二度と会えなかったんだ。そんなの迷うとか以前の話だよ」

「隼太君は――優しいから――そう言って――くれるけど――でも――

脚の無い――お嫁さんなんて――隼太君が――不幸になるだけだよ――」

「脚があるから、穂波ちゃんを好きになった訳じゃないよ」

「でも……最初から――わたしに脚が無かったら――隼太君は――好きになってくれた? 

――――やっぱり――違うよ……

隼太君が――好きだって――言ってくれたから――どこまでも――優しくしてくれたから――

だからそれに――甘えてただけなの――隼太君に無理ばかりさせて……」

「好きな娘のために無理するのなんて、誰でも同じだよ。好きだから無理をするんだよ」

「――そうなの――隼太君は――何時もわたしの為に――無理してくれるから――

だから――調子に乗って――隼太君の言う事――聞かなかったの……

こんな――こんな事になる迄――それに気付かなかったの……

本当に――ごめんなさい……」

 

(有難う穂波ちゃん……今度こそ良く分かったよ)

 

彼女の悲しみに寄り添う覚悟は出来ている積もりだが、穂波はそれを自分のエゴが為さしめる事だ思っているのだろう。

それだけは、彼女が何と言おうが否定しておかなければならない。

 

「それじゃあね、これだけは聞いて欲しいんだ。俺はもう決めてるんだよ、一生穂波ちゃんの左脚になるって」

 

「そんなの――駄目だよ――」

 

「今迄はね、穂波ちゃんの選ぶ道を全力で応援して来た積もりだけど、今回だけは譲れないからね。これからは、俺が君の左脚になるんだ、不自由な思いなんてさせないよ――俺の大切な大切なお嫁さんに、そんな思い絶対させないからね」

 

こう言い切ると、再び彼女は黙ってしまう。

 

暫くの間、顔を覆ったまましゃくりあげていたが、隼太はじっと待っていた。

 

やがて顔を覆っていた両手が下がると、やや俯き加減のままで涙を零し続ける彼女に、懐かしいあの日と同じ事が出来るのに気付く。

制服の後ろポケットからハンカチを取り出すと、涙でクシャクシャになったその顔をそっと丁寧に拭う。

「あの時さ、俺の口拭いてくれたよね、やっと同じ事を穂波ちゃんにしてあげられたよ」

そう言った彼の顔を、涙に濡れた瞳が見詰める。

 

「あのさ、俺がもし穂波ちゃんとはもうこれで別れる――なんて言ったらさ、清次の奴がなんて言うと思う?」

 

「……」

 

「あいつの事だからさ、『お前ぇがそんな下衆野郎だとは思わなかったぜ!』とか言ってぶん殴られるだろうなぁ」

 

「――今の……ちょっと似てた……」

「当たり前だよ、もう7年近くも一緒にいるんだから覚えちゃったよ♪」

 

「――もう――そんなになるんだね……」

 

「そうだよ、長い長い旅だったよ――――俺にとってはさ、一生に一度の大冒険の旅だったよ……」

 

「――本当にいいの? そんな長い長い旅がね――片脚の無いお嫁さんを貰って終わり、でいいの?」

「ハハハ、穂波ちゃん、そのセリフは突っ込み待ちなの?」

「え? なにが?」

「決まってるよ、そんな風に言っちゃったらさ、必ずこう突っ込まれるんだよ『これは終わりじゃない、新たな旅の始まりだ!』ってね♪」

 

一瞬狐に摘ままれた様な顔をした彼女は、次の瞬間ぷっと吹き出す。

「ハハハ」

「うふふ」

 

軽く笑った2人は、改めて見つめ合う。

 

「――なってくれるよね? 俺のお嫁さんに」

 

「――隼太君は、本当にそれでいいの? わたしなんかがお嫁さんでいいの? ――無理してないの?」

 

「――俺はね、君じゃなきゃ嫌なんだ。――今日迄ずっとその為に努力して来たんだから、悪いけどそう簡単には諦めないからね♪」

 

幾らかお道化てそう言うと、穂波の瞳から眩い程に煌めく雫が一粒零れ落ちる。

 

「――隼太君がね――お嫁さんにしてくれるなら――わたし、一生懸命頑張るからね――

これ迄隼太君に支えて貰った分――いいお嫁さんになれるように、一杯頑張るからね……」

 

「――一緒に帰ろう――俺達の故郷に……」

 

「――うん……」

 

潤んだ瞳で彼を見つめるその肩を抱き寄せると、彼女は隼太の腕の中にいた。

 

しっかりと、だが優しく抱きしめると、穂波は安心し切った様に体を預けて来る。

 

「さっきはね、あんな風に突っ込んだけどさ――」

 

「うん」

 

「俺はずっと、こんな旅の終わりが――ゴールが夢だったんだ――――だから今、凄く幸せだよ……」

 

「――わたしも幸せ……隼太君に出会えた事が、わたしの一番の幸せだよ……」

 

「――やっぱり――俺達は同じなんだね……俺もそうだよ」

 

「――こんな風に、同じ幸せを貰えるなんて――隼太君と同じ幸せを、掴めるなんて……」

 

(そうだ――この瞬間の為に――俺はずっと努力して来たんだ……とうとうやり遂げたんだ……)

 

隼太の――いや、2人の耳に、遠くさやさやという響きが伝わってくる。

 

彼らを包み込む金色の稲穂の波を、夏の仄かな夕風が優しく撫でていた。

 

だが、それはもう幻想では無く、彼らが還るべき故郷の声であり、歓呼の木霊そのものだった。

 

(俺は誓った……君を、あの村の大地に、この手でしっかりと繋ぎ止めておくと……)

 

その誓いを稲の女神は祝福し、彼の手に穂波を委ねてくれた。

 

そして同時に、彼は悟った。

 

彼女と共に故郷の大地を踏みしめる、その聖なる瞬間の為に、もう一つだけ必要な言葉があることを。

 

それは、彼らの純粋な想い以外のなにものでも無かった。

 

 

 

「――愛してるよ……」

 

「――愛してます……」

 

 

 



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【第七章・第六節】

 静かに将来を語り合っていた2人の耳に、ノックの音が響く。

急いで体を離すと、穂波がドアフォンに向かって応答する。

「はい」

「あたしよ、もう入っていいかしら?」

「美空望ちゃん、待ってたよ」

その言葉が終わって一呼吸の間を置いた後、病室のドアが開いて村越が姿を見せる。

「どうかしら? 一応話は終わった?」

「うん、もう大丈夫だよぉ」

「そう。――だって、早く入んなさいよ」

彼女が後ろを振り返ってそう呼び掛けると、緊張した面持ちのいぶきが顔を出す。

 

(あっ)

 

確かに硬い表情ではあるものの、その顔は最近の生気の無い無表情なそれとは全く違っていた。

そして同時に、彼女が今日此処へ何をしに来たのかも直ぐ分かったので、立ってベッド脇の場所を開けてやる。

 

「有難う、隼太君」

しっかりした声でそう言ったいぶきは、彼に向かって深々と礼をする。

「俺、外に出てようか?」

「――ううん、いいの。気にしないで」

そう言いつつスツールに腰を下ろした彼女は、待っていた穂波の瞳に真っ直ぐ視線を合わせる。

 

「――穂波ちゃん、怪我はどう? もう痛みは無い?」

「うん、もう痛みは無いよ。大分落ち着いて来たから、もう少ししたら海軍病院に転院するの」

「そう――じゃ、リハビリとかするのね」

「うん、そうだよ」

「――義足――付けるんだよね……」

「うん――当分はね、仮義足だけど」

「何時迄――仮なの?」

「最低でもね、1年位掛かるんだって」

「――そう――やっぱり、随分掛かるのね……」

「仕方無いよぉ、成長ホルモンの分泌が落ち着くのに、それ位はやっぱり掛かるみたいだよ」

「そうなのね……」

「――うん……」

 

「――――あのね、穂波ちゃん」

「なあに?」

 

「――――わたしが――わたしが、あの日ずる休みとかしたせいで、こんなに大変な事になっちゃって――――本当に、本当にごめんなさい!」

 

如何にもいぶきらしく思い切りよく発せられた詫びの言葉は、周囲を音の無い空間に変化させてしまう。

体を折り曲げて、ベッドに頭が付く程に深く頭を下げた彼女は微かに震えている様に見える。

 

暫し沈黙が続いた後、穂波が穏やかに口を開く。

「いぶきちゃん、もう頭を上げて?」

 

その言葉にとてもゆっくりと反応したいぶきはそろそろと顔を上げ、自分を見詰めている穂波を見詰め返す。

 

「今ね――いぶきちゃん『ずる休み』って言ったでしょ?」

「――うん……」

「――本当にそうなの? ――いぶきちゃんだってしんどかったんでしょ? それは、ずる休みって言わないんじゃない?」

「――でも、わたし――」

「謝ってくれたのはね、とっても嬉しいよ? ――でも、本当にいぶきちゃんが悪いの?」

「……」

 

黙ってしまった彼女の視線が下がり、俯いてしまう。

どうなる事かと見守っていると、やがて再び顔を上げたいぶきは、改めて穂波と視線を交わす。

 

「――わたしね――、ずっと穂波ちゃんが羨ましかったの……。隼太君みたいな彼氏がいて、海軍迄追い掛けて来てくれるなんて――本当に羨ましかったの……」

 

「でも――わたしの事も、清次君が追い掛けて来てくれた――って思い込んじゃって――そしたら、只の勘違いで――糠喜びしちゃって――恥ずかしくて――馬鹿みたいで……」

 

一つ一つ、噛み締めるように訥々と話す彼女に、穂波は黙ったまま静かに相対していた。

隼太もまた、いぶきの本音を一言も聞き漏らすまいと思い、じっと耳を傾けていた。

 

「元々、そんな事は忘れる積もりで、艦娘になったのに――誰も、本気で好きになってくれる子なんていなかったし、――艦娘になれば、そんな事も忘れて、違う人生歩き出せるって――思ってた筈なのに――」

 

「――なのに、そこでもまた上手くいかなかったの。――わたしも、皆と一緒に頑張ってる積もりなのに――適性も高いって、評価して貰えた筈なのに――」

 

いつしか彼女の瞳には涙が溢れ、それが幾筋も幾筋も零れ落ちていた。

 

「でも、わたしが一番厳しく指導されて――一生懸命やってる積もりなのに――どんどん差がついちゃって――なんで、わたしってこうなんだろうって――」

 

「――なんで、こんなに何もかも上手くいかないんだろうって――まるで、世界がみんな敵みたいで――それでも――どこにも行けなくて――今更村に帰るなんて出来ないし……わたしの居場所なんて――もう何処にも無いんだって……」

 

一体何を思って、彼女の事を強メンタルだなどと思い込んでいたのだろう。

いぶきは誰にも言い出せない、その自身の思いに葛藤し、苦しみながら日々を過ごして来たのだが、あの日を境にその限界を超えてしまったのだろう。

 

「――ごめんね――いぶきちゃんの辛い事、聞いてあげられなくて……」

 

そう言った穂波も涙を一杯に溜めていたが、その眼差しには慈愛が籠っていた。

 

「ううん、――だって、今聞いてくれてるじゃない――穂波ちゃんは脚を無くしちゃったのに――わたしが、肝心な時に――役に立たなかった所為なのに……」

「いぶきちゃんの所為なんかじゃないよぉ、それは皆、良く分ってるからね」

「ごめんね――本当にごめんね――わたしが――わたしが……」

 

後はもう言葉にならなかった。

 

穂波に縋りつくようにして、いぶきは号泣していた。

 

そんな彼女をしっかりと抱き締めた穂波も泣いていた。

 

だが、それは悲しみの涙では無く、ずっと抑え続けてきた濁った感情を吐き出した後で、それらを洗い流す浄化の涙だった。

 

(ごめんよいぶきちゃん――俺は結局、何にも君の助けになれなくて――でも、俺の代わりに、穂波ちゃんが君を助けてくれた――こんなに嬉しい事は無いよ……)

 

隼太も涙が溢れてくるのを感じたが、それもまた重たいものでは無かった。

またも彼女達の絆が、互いを救う場面に立ち会うことが出来た――その感動に胸が熱くなっていたのだ。

 

「――本当に――」

 

そう村越に向かって言った積もりだったのだが、そこにいる筈の彼女の姿が無く、口を衝いて出掛けた声が引っ込んでしまう。

 

(あれ? ――いつの間に……)

 

確かに村越の姿は病室から消えていた。

隼太が2人の会話に集中している間に、病室を出て行ったのだろうか。

 

首を捻りながら、抱き合って泣いている彼女達を残して、そっと病室から出る。

廊下に出て左右を見渡すと、廊下の突き当りの窓から一杯に日が射し込んでいるのが見える。

 

その光の中に、滲むような長い髪の人影があった。

 

(村越さん――どうしたんだろう……)

 

彼が長い廊下を歩き始めると、窓から射し込む日の光がゆらゆらと揺らめき、まるで陽炎の様にその姿がぼやけては揺れる。

 

程なく此方に背を向けたその人影に近付くと、それはやはり彼女だった。

光の射す窓に顔を向けた村越は、時折手で顔を拭う様な仕草をしており、やはり彼らと同じように泣いていたらしい。

 

「村越さ――――」

 

彼女に呼び掛けようとしたその瞬間、突然脳裏にあの夜の――神楽を舞い終えた彼女の眼差しと、そして声なき声が蘇る。

 

『美空望よ!』

 

(――――そうか――そうだったのか……)

 

あの眼差しの意味は――――

 

そして脳裏に響いた彼女の声は――――

 

「全く――――情けなくて、本当に泣けてくるわよ!」

 

「…………ごめん……」

 

「あんたが情けないんじゃないわよ! ――あたしが情けなくて涙が出てくんのよ!」

 

再び脳裏には別の情景が蘇る――

 

小学校のあの日――

 

彼の隣に立った村越は、自分の名前の意味を発表していた……。

 

「――天之御中主神様――――だったよね…………」

 

そう呟くと、村越は顔を覆って嗚咽を漏らす。

 

だが、その涙を止める事は、既に隼太には出来なくなっていた。

 

後戻り出来ない選択をした事を、彼ばかりでなく彼女もまた知っていたのだ。

 

それに――、何よりも、彼女はとても気丈だった。

 

まるで最初から、彼の手など差し伸べる必要すら無いかの様に……。

 

「本当に――本当に、情けないったらありゃしないわ…………なんであたし――こんな鈍い奴――好きになっちゃったんだろ……」

 

言う迄も無く、情けないのは彼女では無く隼太の方だ。

 

たった今迄、彼はかつての自分が、村越を好きだった事にすら気が付いていなかったのだから。

 

「何だってのよ――もう、絶対確信あったのに――なのに――いきなり何、穂波とかに浮気しちゃってるわけ⁉ ――本っ当、最悪だわ⁉」

 

「ごめんよ、本当に気付いてなかったんだ――自分の事なのに……」

 

「謝る位だったら、あたしの初恋、返してよ!」

 

「――もしも――返せるんだったら返したいよ……自分につくづくガッカリしてるよ……」

 

「――言葉に気を付けなさいよ――」

 

「えっ?」

 

「あんたがそう言った――って、穂波に言いに行くかも知れないわよ⁉ それでもいいの⁉」

 

「――君はそんな事、しないよ……だからこそ、俺は多分、君のことを――」

 

「何分かった風な事言ってんのよ! そんな台詞、穂波を振ってからにしなさいよ! ――穂波に『この薄情者!』って、横面張り飛ばされてから言いなさいよ!」

 

「――もしも何時か――そんな日が来たら――その時はそうするよ……」

 

「フン! そんな『何時か』なんて来やしないわよ、こんないい女がそうそう売れ残ってる訳無いでしょ⁉ その時になって後悔したって、後の祭りよ!」

 

「うん――後悔だけはしない様に、気を付けるよ」

 

「当たり前よ! ――いい? 穂波の事、死ぬ気で好きになるのよ――愛して愛して愛し抜くのよ、分かってる⁉」

 

「――そうするよ――約束する」

 

「――ちょっとでも気を抜いたら――その時は、容赦なくあんたを奪い取ってやるからね! ――穂波の事、泣かせたく無かったら――死ぬ気で愛しなさい!」

 

「誓うよ……必ずそうする」

 

隼太がそう言ってしまうと、後はお互いに躱す言葉も無く黙りこくっていた。

 

暫くしゃくり上げていた村越も、やがて静かになり、手で何度も目頭を拭う。

 

今日迄ずっとその想いを胸に秘めたまま、彼女は隼太と穂波を見つめ続けていたのだ。

どれ程憎らしかったことだろうか――いや、そんな感情を抱く事を恥じる性格の村越にとって、彼らがすぐ目の前にいたこの半年間は耐え難いものだった筈だ。

 

そう思うと、再び詫びの言葉が口を衝いて出そうになるが、辛うじてそれは踏み止まる。

 

「あのさ――村越さ――」

 

「一度ぐらい、名前で呼んでくれたって罰はあたらないんじゃないの⁉」

 

「あ――うん……今日迄本当に有難う――美空望ちゃん……」

 

そう呼び掛けてみて初めて、昔彼女をそう呼んでいた事を思い出す。

小学校の低学年の頃ではあったが、確かにそうだったのだ――それもまた忘れてしまっていたのだが……。

 

「――全く……本当に馬鹿みたいじゃない! あたしばっかりそんな事覚えてるだなんて――みっとも無いったらありゃしないわ⁉」

 

「――でも、俺は嬉しいよ――そんな事、全部覚えてくれてたなんて……本当に有難う」

 

「あんたと言い、あのバカと言い――結局は似た者同士なのよね! いちいち他人(ひと)を踏み付けにしないと、嫁も見つけられないんだから!」

 

こればかりはぐうの音も出なかった。

が、また謝ると噛み付かれそうなのでそれはしない事にして黙っていると、やがて村越がくるりと振り返る。

 

「いい? 少し間をおいてから戻ってくるのよ、分かったわね?」

「うん、分かったよ」

 

その返事を聞いた彼女は、如何にも普通にスタスタと隼太の横を通り過ぎて――行く筈だった。

ところが、突然目の前に何か火花が散り、一瞬何が起こったのか理解できず面喰らう。

 

「な、なんだ?」

 

思わずそう言った瞬間、何が起こったのか理解出来た。

何の前触れも無く、彼女に頬を引っ叩かれたのだ。

 

「あ~あ、これでちょっとスッキリした♪」

「――いや、おい――幾らなんでも酷いだろ!」

 

さすがに抗議すると、更に彼女は信じられない行動に出る。

彼の腕を掴んで軽く背伸びをすると、耳元で小さな声を出す。

 

「ごめんなさい――」

その言葉と共に、引っ叩かれたその頬に、暖かく、柔らかく、濡れた何かがチュッと触れる。

 

「っておい! 何すんだよ!」

「うふふ、今日はこの位で勘弁しといてやるわ♪ 何時か必ず、あんたには思い知らせてやるから覚悟しときなさいよ!」

 

そう言い捨てて、心なしか楽し気に美空望は歩き去っていく。

 

「――何だかなぁ――これもみんな俺が悪いってのか?」

思わずそう独り言ちてしまうが、それでもまぁ仕方が無い事かとも思う。

 

幾らかジンジンする――それでいて手で触れるのが惜しい様な――不思議な甘さとほろ苦さを噛み締めながら、隼太は窓際に突っ立って病室に戻るタイミングを計っていた。

 

 



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【第七章・第七節】

 その日は朝から良く晴れ上がった清々しい天気だった。

荷造りを終えた隼太は、居室に施錠するとその鍵を返却するために総務課へと向かう。

無論、鍵以外にも返却する物はあるのだが、彼にとって大事なのは返すものでは無く受け取る方なのだ。

今日を持って無職となる身としては、何を置いても先ず職探しをせねばならず、そのためには除隊票を貰わねば話にならない。

 

そんな彼を窓口で受け付けてくれたのは、あの日外出許可の延期を伝えに来た涌井と言う課員だった。

「それにしても、まさかこんな事になるとはな」

「申しありません、ご迷惑をお掛けしてしまって」

「馬鹿な事を♪ 何も迷惑など被ってはいないよ。それに、あの時面倒な事をさせたのはこちらの方だ」

「いや、面倒は面倒でしたけど、涌井さんは業務だった訳ですから……」

「それは随分有難い事を言ってくれる♪ まぁ、結果的には丸く収まったことは良かったし、我々の業務にも支障は出なかったしな」

「そうですか、そちらも無事にその――業務といいますかその――」

「おいおい、まさか連中の与太話をまともに受け取ってるんでは無いだろうな?」

「――あ、すいません、さすがに違いますよね?」

「勿論だ、あの日は幕僚監部より各幹部士官に招集が掛かっていたのでな、各隊の総務はそれが終了する迄職場待機だったよ」

「え、本当ですか? それじゃひょっとして遅く迄……?」

「心配するな、深夜勤務手当が付く前には待機は終了したよ♪」

「――そうだったんですね……何か済みませんでした。でも、業務上の理由がおありなのに何故――」

「それこそ決まっている、緘口令が出ているものを、べらべらと喋る訳にはいかんよ。今はもう解けているから、君にもこの程度は喋ってやれるがな♪」

「ですが、それじゃあ涌井さんは悪者にされたままですよね」

「総務が悪者になって、前線の兵達の結束が強まるのであればそれで良いじゃないか。それに、あんな風に振舞って見せてはいるが、やつらもそこ迄馬鹿ではないしな」

そう言って笑顔を浮かべる彼女はとても爽やかで、しかもあの日よりも遥かに美しく見えた。

 

(俺は確かにまだまだ未熟者だったな……こんなに何もかも上っ面しか分かってなかったなんて……)

 

「最後まで本当に有難うございました。いろいろ勉強になりました」

「いや、こちらこそ教えられることは多かったよ。――さぁ、これが除隊票だ、存分に活用してくれ」

「はい!」

「では、正門迄同行しよう。確認は我々総務の業務だからな」

「はい、よろしくお願いします」

そう言って総務課を後にした彼らは、そのまま司令部建屋を出て正門に向かおうとするが、木立を廻り込んだその先で唐突に兵達の一団に囲まれる。

 

「よう、とうとう三寸下は地獄から卒業だなぁ♪」

「全くだ、何だか晴れがましい顔しやがってこの野郎」

「えっ――どうしたんですか皆さん――今、勤務時間中じゃあ……」

「心配せんでもええって隼太」

「そうだぜ、俺達は業務の一環で此処にいるだけだからよぉ」

「お前たち迄何やってんだよ――」

思わず隼太が問い掛けると、例によって箕田が困った様に応じる。

「いや、その――自分としてはこれで本当にいいのかという思いは拭えんのだがな? しかし、命じられたのは事実だし――」

「相変わらず、この兄ちゃんは堅ぇなぁ♪」

「そうだぞ、あんまり堅いと女に嫌われっぞ」

Wave達から口々に突っ込まれた彼は、首を振りながらも黙ってしまう。

 

「どうだ? 私が言った通りだったろう♪」

そう言って涌井がニヤッと笑って見せる。

「あ――はい! その通りでした!」

「涌井、手前ぇ~こそこそ若ぇ男に粉掛けてんじゃねぇぞ♪」

「そう心配して貰わなくても大丈夫だ。私はお前達とは違って、ガツガツしなくてもそれなりには異性に関心を持たれる方なのでな♪」

「ほほぉ~、大したもんだよ、その根拠の無ぇ自信はよぉ♪」

 

(成程なぁ~、つまり、日頃からこういうプロレスをやってたのか♪)

 

艦艇に乗り組む兵士達の自負は勿論あるのだろうが、それは他科の兵を見下す事の上に成り立っている訳では無いのだ。

今更ながらそれに気付いた彼は、やはり今日を限りにそれらに別れを告げる事に対して、後ろ髪を引かれる思いがしてしまう。

 

「なぁ清次」

「なんだよ」

「大井さんには叱られたけどさぁ、やっぱり考えちまうんだよ……」

「良いんじゃねぇか? 先の事だとして思うんならよぉ」

「せやで、今はやめとけって言うだけの話やろ? 先の事はまたそん時の事やで」

「――有難う、そう言われて少し気が楽になったよ」

彼がそう応じると、『うさ』のWaveが可笑しそうに口を挟む。

「けど、あたしははっきり言っとくぜ? わざわざこんな飯の不味いとこに戻って来るこたぁねぇよ♪」

「随分な言い様だな、まぁ事実は事実として認めるがな♪」

「えっ、ほしたら総務の皆さんも不味いと思てはるんですか?」

「当たり前だ、我々は別に味音痴な訳では無いぞ」

涌井がそう応じると、ドッと笑いが起きる。

「な、分かったろ? だからよ、悪い事は言わねぇから、戻って来んなら飯の旨いとこにしとけよ♪」

「はい!」

 

明るくそう返事をして本部棟の角を曲がると、正門前の警衛所の横で坂巻が候補生達と共に立っているのが見える。

「おっ、この野郎――全く隅に置けねぇなぁ♪」

「いや、そうなんすよ、こいつは昔っからこの調子なんです」

「そうかよ、お前さんの『色男』もやっぱり返上しなきゃならねぇなぁ」

「ほんまにそうですよ、こいつの『色男』はめっさ違和感ありまくりですよ♪」

「余計なお世話だよ!」

彼らの遣り取りにまた笑いが起きたそのタイミングで、坂巻が近付いてくる。

 

「やあ敷島君、今日迄お疲れ様でした」

「いえ、こちらこそ本当にお世話になりました」

「早速だが、君とお別れの挨拶をしたいという彼女達の希望でね、許してくれるだろうか」

「許すだなんてそんな――除隊処分の身に、お気遣いを頂き有難うございます」

「いや、そんな事は無いよ――さぁ皆、敷島君に挨拶をしよう」

候補生達を顧みた坂巻がそう声を掛けると、もう既に顔をくしゃくしゃにした文谷が駆け寄って来る。

 

「せぇんぱい――ほんとに、ほんとに行っちゃうんですかぁ⁉」

「そうだよ、今日迄本当に有難う」

「そんなの、イヤですよぉ――文谷はまだ、センパイにいて欲しいですぅ」

「ごめんよ、さすがにそういう訳にはいかないんだよ――でも、俺は何時でも君の事を応援してるからね」

「ダメですよぉ~、センパイはぁ、ちゃんと文谷の見えるとこにいてくれなきゃダメですぅ……」

「夏樹ちゃん、お別れの挨拶しに来たんでしょ? 敷島さんの事困らせちゃ駄目だよ」

見かねた様子の宇野が、文谷の顔をハンカチで拭いながら優しく諭す。

「でもでもぉ~……」

「傍に居てあげられなくてごめんよ、でも、離れていても君達の事は絶対に忘れないからね。それで許してくれるかな?」

「――――うん、約束ですよぉ?」

「約束だよ」

「敷島さん、有難うございます。これからも私達の事忘れないで下さいね」

「勿論だよ、宇野さんもいよいよ卒業だしね」

「あっはい、有難うございます。でも――」

 

宇野は今春一般修学課程を卒業して、正式に艦娘として配属される予定だった。

「わたしに本当に務まるんでしょうか――ちょっと不安です……」

「大丈夫だよ、今日迄真面目に積み重ねて来たんだから、宇野さんなら立派な艦娘になれるよ」

「敷島さんにそう言って頂けるの――とっても嬉しいです。ちょっぴり頑張れそうな気がします♪」

「うん、何時でも応援してるからね」

「はい」

そう言って彼女は一礼して引き下がるが、その後いささか不自然な間が空いてしまう。

 

それは、今日もまた皆の後ろに下がってそっぽを向いている綾瀬が原因なのだが、さすがに此方から声を掛けに行くのは気が引ける。

どうしたものかと思っていると、浪江がニヤニヤしながら近付いてくる。

「隼兄ぃ、やっぱり気になる?」

「そりゃなるに決まってるだろ――でも、まぁ気が進まないんだったらさ、仕方無いしな」

「そうだねぇ、あたしからちゃんと伝えとくから、それで良い?」

「ああ、そうだな」

そこ迄言い掛けた時だった。

唐突に綾瀬が此方を向いて、ズカズカと彼の目の前までやって来る。

「――綾瀬――」

「浪江ちゃん、ちょっと横どいてて。わたし、先輩に話あるから」

隼太の言葉を遮って、彼女は浪江に申し渡す。

「了解、下がってますよ~」

笑顔で脇へ寄る浪江を見ていると、まるで以前の2人の立場が逆転した様で微笑ましい。

 

「今日迄ほん――」

「先輩黙って、話があるのはわたしですから」

やや上目遣いに彼を睨みつけた綾瀬は、問答無用とばかりに彼に命令してくる。

「分かった、聞くよ」

「いいですか、先輩は――先輩は、狡いです! 卑怯です! 本当にどう仕様もない人です!」

藪から棒に何を言い出すのかと驚いた隼太だったが、凄い剣幕のままで彼女は捲し立てる。

「一体何なんですか! 任務中だって言うのに――艦が被弾して漂流中だって言うのに――後輩がこんなに不安になってるって言うのに――それを全部放り出して、好きな女の子を助けに行くとかどういう積もりなんですか⁉」

「……」

「深海棲艦に襲われたんですよね⁉ 一つ間違えば、死んでたかも知れないんですよね⁉ 全く、何考えてるんですか⁉ 本当に――人の気も知らないで……」

話の流れが良く分からなくなって来るが、綾瀬の勢いは止まらない。

だが、よく見ると彼女は涙ぐんでいた。

「結局除隊処分とかなっちゃって――どうする積もりなんですか⁉ 貴方の後輩を放り出したまま、村に帰っちゃうとか何なんですか⁉ 無責任過ぎませんか⁉」

「――いや――その、ごめん……」

「今更謝っても遅いですよ⁉ 言っときますけど、わたしは絶対に許しませんから! 土下座して謝っても、許してあげませんからね⁉」

ぽろぽろ涙を零しながら、彼女は最後の言葉を投げつける。

「それに、五十田先輩にも言っといて下さいね! わたし、嫉妬してますからね⁉ 凄く凄く嫉妬してますからね⁉ いいですか⁉ 分かりましたか⁉」

「わ、分かったよ――伝えとくよ……」

半ば呆気にとられた隼太が辛うじてそう応じると、綾瀬はダッと駆け出し、そのまま走り去ってしまうのかと思いきや厚生棟の手前で立ち止まり、しゃがみ込んで嗚咽を漏らし始める。

 

(うわ、参ったな――本当にごめんよ、綾瀬……)

 

宇野と文谷が、彼に一礼して綾瀬の許に駆け寄っていくと、改めて浪江が近付いてくる。

 

「言っとくけど、真奈美ちゃんは隼兄ぃにはあげられないよ~」

「そんなの当たり前だ、あいつはこれから海軍の至宝になるんだろ? 俺なんかに感けてる暇は無いよ」

「悪かったねぇ、あたしは至宝じゃなくてさ」

「馬鹿言うな、至宝にならなくたってお前は皆から頼りにされる艦娘になるんだろ? 頑張れよ、何時でも応援してるぞ」

「――本当に? 本当に、あたしも応援してくれる?」

「何言ってんだ、お前の事忘れてどうすんだよ。また面会出来る様になったら必ず来るからな」

「――約束だぞ? 約束したからな? おれ、忘れねがらな……?」

 

急に浪江の姿が心細気に見えて来る。

――それは、あの頃の浪江だった――何時も「あんちゃん」に纏わりついていた、あの頃の浪江だった。

 

「ああ、約束だ、絶対ぇおめのこど忘れず会いにぐっからな」

「――絶対ぇだぞ⁉ 約束破ったら承知しねぞ⁉ 絶対ぇだぞ⁉」

そう言った彼女が抱きついてくるのをしっかりと抱き締める。

「ああ、信じろ――おめのあんちゃんを信じろ――俺は何処にいだっでおめのあんちゃんだ」

「――あんちゃん、見ででくれよ――何時でも見ででくれよ――絶対ぇだぞ――絶対ぇだからな……」

「ああ、絶対ぇだ――あんちゃんは嘘こがね――絶対ぇだ……」

彼の胸に浪江の涙が染み込んで来る。

 

(ごめんな、結局お前を独りで残してく事になっちまったけど――でも、此処なら大丈夫だよ)

 

此処には信頼出来る仲間達がいる。

この隊ならば、浪江は安心して経験を積んでいける事だろう――言う迄も無く、戦いを潜り抜けていければではあるが……。

 

やがて彼女の腕から力が抜け、隼太も腕を緩めると、坂巻が一歩進み出て浪江の肩にそっと手を掛ける。

「敷島君、浪江さんの事は僕が責任をもって預かる積もりだよ。だから、この娘達の事を何時迄も応援してやってくれないか」

「はい! 必ずお約束します。――浪江と綾瀬の事、どうかよろしくお願い致します」

 

そう言って頭を下げると、清次や河勝、箕田やWave達から口々に声が飛ぶ。

 

「隼太ぁ、村の事頼んだぞ! こっちの事はまた知らせるからよ!」

「ええか、余計な事考えんのは暫くはお預けやぞ! あんじょうやれや♪」

「離れていても、俺達は何時でも仲間だ! 忘れないでくれよ!」

「いいかぁ、約束忘れんじゃねぇぞ! あたしはその積もりで待ってるからな!」

「でもまぁ予感はするぜ、そのうちまた顔合わせる事になるってな、そん時迄精々嫁孝行すんだぞ!」

「敷島海士、君の将来は君の物だ! どんな未来を選ぶのか期待してるぞ!」

「どんなに立場は違っても、僕らの目指すところは同じだ! それを成し遂げる迄頑張ろう!」

 

彼は明るくそれに応じ、ビシッと敬礼して決める積もりだった。

しかし、胸の奥からありとあらゆる感情が溢れかえって来て、何も言えなくなってしまう。

 

涙が溢れて、彼らの姿が見えなくなる。

拳で両眼を必死に拭うが、どうしてもそれを止める事が出来ない。

 

(駄目だ――ちゃんと言え! 最後の別れ位――ちゃんとしろ!)

 

だが、どう頑張っても言葉は出てこなかった。

 

他にどうする事も出来ず、止む無く深々と頭を下げる。

ただただひたすらに頭を下げる。

 

そんな彼に向かって、集まった仲間達は拍手と声援を送ってくれた。

それに勇気を貰った隼太は、どうにか別れを告げるだけの力を得て、声を張り上げる。

 

敷島は――これで――除隊致します! 皆様の――ご武運を――心より――お祈り致します!

 

そして最後の敬礼をすると、仲間達は答礼してくれる。

その彼らに向かって、今度こそ心の底からの礼を言う。

 

「有難うございました!」

 

その言葉と共に、彼はくるりと踵を返し、大股に門をでて隊を後にした。

 

故郷へと、還るために。

 

 



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【第七章・第八節(最終節)】

 公民館の駐輪場に自転車を止めると、既に白石の車が停まっていた。

「こんにちは~」

受付に一声掛けておいてから会議室のドアを開けると、席についていた穂波と白石が迎えてくれる。

 

「敷島君、お疲れ様!」

「いや、白石さんこそ有難う、穂波ちゃんのことおくってくれて」

「そんなの全然構わないわ、通り道なんだし」

「でも、雪乃ちゃんありがとうね。やっぱり車あるといいなぁ」

「五十田さんは、今買わないだけでしょ♪ 敷島君との新生活が決まってからよね」

「いや~、その積もりなんだけどさ♪ なかなか厳しいよ……」

「あっ……じゃあ、今度も駄目だったの?」

「うん、何せ同じ給料のとこに大卒者とか応募して来てるしね」

「やっぱり、正社員は狭き門なのね」

「――仕方無いよ、また今度頑張ろうね」

「まぁね、お陰様でバイト仕事には事欠かないしね。――それよりさぁ、今日は誰が来るとか聞いてる?」

「いいえ、聞いてないわ」

「うん、地本の人から海軍の方が見えるって言われただけだよぉ」

「ふーん、でも何だろうな?」

そう言いながら穂波の隣に腰を下ろす。

この1年で、彼女は10cm以上背が伸びている。

その速さに肉付きが追い付かず、一時は随分ほっそりとしていたが、最近は伸びが落ち着いて来たせいか再びふっくらと丸みを帯びた女性らしいスタイルを取り戻しつつある。

そしてそれは白石もほぼ同じで、どうやら肉体の成長が実際の年齢に追い付きつつある様だ。

 

(艤装って不思議なものなんだなぁ――こんなに人間の成長に影響が出るんだ……)

 

そんな思いに耽っていると、受付の方で声がする。

「あら、お見えになったんじゃない?」

「そうだね」

そう言葉を交わす間にも廊下で足音がするとともに、ドアがノックされる。

「はい、どうぞ! お待ちしてました」

隼太が立ち上がって声を上げると、それに応じて

「失礼します」

という声と共にドアが開くが、そこに立っていた姿を見て彼らは仰天する。

 

「し、司令!」

「一体、どうなさったんですか?」

 

そこに立っていたのは、1年前迄彼らの上司であった渡来大佐だった。

隼太はもちろん、穂波と白石も反射的に直立不動になってしまうが、渡来はにこやかに打ち消して見せる。

「いや、どうか座って下さい。もう既にあなた方との間には上下関係は無いのだから」

そう言いながら、これがざっくばらんな場である事を示すためなのか、制帽を脱いで机上に置く。

 

「あ、は、はい……」

少々不得要領ながらも彼らが腰を落とすと、渡来もまた自然に腰を下ろす。

 

「いや、名乗りもせずに訪問して申し訳ない。正直に言うと、余計な肩肘を張る事無く会いたかったので、こんな形を取らせて貰いました」

「ご配慮頂き恐れ入ります」

白石が歯切れよく応じると、渡来も笑顔を浮かべる。

「白石さんもお元気そうで何よりです。新しい義手の装着はまだですか?」

「先週からテストを始めたところです」

「そうですか、五十田さんはもうそろそろ仮義足は付け替えられそうですか?」

「はい、お医者様からあとひと月程様子を見ましょうと言われています」

「お2人ともご不自由をお掛けしてしまって、本当に申し訳ありません」

「いえ、そんな――」

「費用も全部軍に負担して頂いてますし……」

「それはいわば当然の事ですよ。今のままではお2人とも日常生活は勿論、新たに働く事もままならないでしょうから」

「そうですね、何れは――と思ってはおりますが」

「そうでしょうね。――因みに敷島君は、再就職の方はどうですか?」

「いえ、お恥ずかしいですが、まだです」

「良く分かります、大都市圏であっても決して就労機会は潤沢とは言えない状態ですからね」

「もう暫くは、アルバイトをしながら職探しになりそうです」

「そうですか――因みに、軍で働く気はもうありませんか」

「えっ?」

思わずそう反応してしまうが、渡来は黙って笑みを浮かべたままだ。

 

(どういう事だ? まさか、司令は俺に隊に戻って来いと言いに……?)

 

そんな彼の心中を察しているのか、何時もの様に穂波がそれを代弁する。

「それは、教育隊への復帰という意味でしょうか?」

「そうではありません。――実を言いますと、今日あなた方に会いたかったのは、この話をしたかったからなのです」

どうやらこれからが本題という事らしい、隼太もいささか緊張してしまう。

「実は以前から構想していたのですが、傷病除隊された元艦娘の方々の為の療養施設を作りたかったのです。ですが、軍の予算にも限りがあり、中々着手出来ませんでした。しかし、今春調査設計の費用が認可されたのです」

「療養施設ですか……」

「ええ、白石さんや五十田さんの様に身体の一部を喪失してしまった方もそうですし、心を病んでしまう方も少なからずおられます。そう言った方々のケアが十分に出来なければ、今後艦娘の候補者が減ることはあっても増える事はまず無いでしょう」

「確かに仰る通りですね」

その時、やっと渡来の言葉の意味が分かった隼太は、思わず口を開く。

「司令、もしかしてその施設を作る場所というのがその――」

「ええ、その通りです。私はその施設を建設する場所として、この斯波府村が最も相応しいと考えました」

「あの――何故? とお伺いしてもよろしいですか?」

「勿論ですよ。――あなた方も故郷というものの有難味をよく存じておられると思いますが、単にそれは自分が生まれ育った場所だというだけでは無く、其処にいてその空気に包まれているだけで心身を癒される様な所だと思います。しかし、全ての方に合わせて夫々の故郷に施設を設ける事は出来ませんし、中には故郷を喪ってしまった方もいるでしょう」

 

(あっ――司令はご存じなのか……)

 

隼太のその感情が顔に出ていたものか、渡来は微かに笑みを浮かべてこう付け加える。

「支え合う相手を見つけてくれたことは、とても喜ばしい事だと思っていますよ。ですが、常に危険と隣り合わせである事だけはどう仕様もない訳ですしね」

「そう思います……」

「それに、――少なくとも1名、心を病んでしまうのではないかと心配している方もいます。――その方は、故郷には簡単に帰れないと強く思っている様です」

「司令! それはひょっとして――」

「いぶ――いえ、吹輪さん――ですね」

 

彼らがそう問い掛けると、渡来はやや視線を落とした後で、隼太達の顔を見ながら肯う。

「吹輪さんは、一見元通りの明朗さを取り戻されました。ですが、明らかに過剰な責任感に囚われている様で、休みなく任務や訓練に勤しむだけでなく、些細なミスですら許されないかの様に振舞っているとのことです。あなたの元上司からも『極めて危うく見受けられる』との報告が上がって来ていますよ」

 

(班長がそこ迄言うんだ……)

 

「村越さんからのお手紙で、少し不安には感じていましたが、司令のところに迄報告が上がる程とは思っておりませんでした……」

「それは当然の事です、良識のある方ならば必要以上に他人のネガティブな面を触れ回る様な事はしたくないでしょうから。――村越さんには本当に良く助けて貰っていますよ、素晴らしい艦娘です」

「あの――皆に手紙を書くとかだけでもしたいんですが――宜しいでしょうか?」

「そう言って頂けてとても有り難く思います。是非そうして下さい、私宛に直接送ってくだされば、お仲間の皆さんに届く様にしましょう」

「有難うございます」

「それはさておき、本題の話に戻りますが、私はここ斯波府村こそが、戦いで傷ついた全ての艦娘の皆さんにとっての故郷に相応しいと思っています。この地で傷ついた心身を癒し、再び元の日常を取り戻す――その為の施設を設置する場所として理想的だと考えています」

「そのお考えを、海軍も承認なさったという事なんですね」

「ええそうです、少なくとも数ヶ月以内に建設準備室を村内に設置する予定です。まずはあなた方にはそちらの嘱託職員になって頂きたいのです。その後、来年度には建設が始まると思いますし、施設の開設後は軍が雇用する施設の職員として働いて頂ければと考えています。――お引き受け頂けますか?」

「私達でよろしければ、お手伝いさせて下さい」

「よろしくお願いします!」

隼太がそう応じると、はじめて渡来は満面の笑みを浮かべる。

「有難うございます、今日こちらにうかがった甲斐がありましたよ♪」

「こちらこそ、有難いお話を頂いて喜んでいます。これからも引き続きよろしくお願い致します」

「ええ、先の事になるでしょうが、後任の者には良く引き継いでおきますよ」

「えっ……」

「どういう事でしょうか?」

「あなた方にお願いする以上、黙っておく訳にはいかないと思いますので、個人的な事ですがお話しておきます。私は実戦部隊への転出を願い出ていますが、おそらく受理されるでしょう。ですから、来春には後任に司令を引き継ぐことになると思っています」

 

(やっぱり、斑駒副長が戦死なさった事がショックだったのかな……)

 

その言葉を聞いた彼が何気なくそう思った時、一瞬渡来と視線が交錯する。

 

(あっ!)

 

それは、あの日――入隊の訓示を受けた時に彼の瞳の奥に見えたもの――数多の別離を目の当たりにして来たが故の深い哀しみの色だった。

 

そして、それと共に彼の胸の中に長門の言葉が蘇って来る――『我が妹がこの地上でただ一人、心から愛した男だ』――。

 

「司令、自分は少しだけですが伺った事があるんです。互いに愛し合う2人が、その想いの故に引き裂かれてしまった事を――」

「隼太君! 駄目だよ⁉」

 

直ぐに彼が何を言おうとしているのか察した穂波が制止してくる。

「あ、ご、ごめん、でもさ――」

 

「良いんですよ、五十田さん」

 

「ですが、司令――」

 

「いえ、本当に良いんです。

――――敷島君、それはね、只の物語だよ――――

二度とは取り戻す事の叶わない――歳月の彼方にだけ存在する、只の物語なんだよ……」

 

「は、はい……」

 

それ以上、何かを聞くことは出来そうになかった。

 

そして、相変わらず渡来は、穏やかな笑みを浮かべたままだった。

 

 

 

 

『教育隊の皆さんへ』

『私達が退役してからもう1年以上が経つのかと思うと、時間の流れの速さに驚かされます。皆さんはお変わりありませんか? 私達はお陰様で元気に日々を過ごしています』

『村越さん、何時も皆の近況を知らせてくださって有難う。貴方の活躍振りをお聞きしてとても嬉しく思います。どうかこれからも、隊の皆や後輩達の模範であり続けて下さい』

『綾瀬さん、敷島さん、先輩艦娘の皆さんや教育隊の方々の指導を受けていれば、必ず2人とも立派な艦娘になることが出来ます。その時迄どうか頑張ってくださいね、辛い事があれば何時でも相談してください』

『吹輪さん、私は貴方の持っている高い適性がとても羨ましかったんです。だから、少しでもそれに追い付けるように一生懸命に訓練をしていました。でも、今思えばその努力の方向は正しいとは言えませんでした』

『どんなに努力しても適性を身につけることは出来ませんし、ましてや誰かを追い越すために努力している訳でもありません、当時の私はそれをちゃんと理解出来ていなかったと思います』

『今、吹輪さんも必死に努力している事と思いますが、時には立ち止まって振り返ってみてください。本当に必要な努力は、多くの罪も無い方達だけでなく貴方自身の命をも守ることに注がれるべきだと思うからです。どうかよろしくお願いします』

『それと清次君、無駄遣いは絶対にダメよ? 余計な事にはお金を使わずに、しっかりと貯金しておきなさいね♪』

 

『いぶきちゃん、お元気ですか? 除隊してからのこと、少し聞きました。正直に言ってとても心配しています』

『責任感の強いいぶきちゃんは、どうしても自分に厳しくしてしまうんだと思うけど、そんな時はちょっとだけでも肩の力を抜いてみてください。悪い事は、何もかも自分の所為なんかじゃないと思います』

『独りで出来る事なんてほんの僅かしかありません、何時も誰かが支えていてくれるから出来る事だと思います。だから、仲間や教育隊の皆さんと辛い事やしんどい事を分かち合って欲しいんです。お願いしておきますね』

『浪江ちゃん、真奈美ちゃん、学校の勉強しながらの訓練はとても大変だと思います。それに、いろいろ優しくして下さった斑駒副長もおられなくなって辛い事と思いますが、坂巻さんが一生懸命にお世話をして下さってると聞きました。これからも、隊の皆さんに色んなことを相談しながら、少しでも楽しく訓練を積み上げて行って下さいね』

『木俣君、これからも隼太君の大事な友達でいて下さいね。それと皆の事をよろしくお願いします』

『美空望ちゃん、何時もありがとう、またお手紙下さいね。――でも――ごめんなさい、どうしても譲れない事はあります。これだけはゆるして下さいね……』

 

『皆、在職中は本当に有難う。こちらは相も変わらずバイトの身ですが、どうにか健康でやっています』

『清次、お前の事だから変わらず元気にやってるんだと思う。ただ、出来ればもう少し余計に手紙を書いてくれないか? お前が筆不精なのは良く知ってるけど、だからと言って通話やチャットもそう簡単には出来ないんだしよろしく頼む。北爪さんと河勝は上手くやってるのか? 勉ちゃんはもう深海棲艦への熱は冷めたんだろうな? また教えてくれよ』

『いぶきちゃん、そちらにいる時はほとんど力になれなくてごめん。そのうえ、こんなに離れた所から偉そうに言える事も無いけれど、もし出来るなら、昔の事を思い出してみて欲しいんだ』

『こっちにいた時から、君は何時も周りの人達のために気を遣っていたし、今も周囲の皆のために笑顔で頑張っているんだと思うけど、でも本当はそれが辛かったからこそ、艦娘になって違う未来を見たくなったんだと思う』

『精一杯に手足を伸ばし切って誰かの為に力を出し続けたあげくに、君自身が倒れてしまうんじゃ元も子もないよ。最初の志の様に違う人生を歩く自分をもう一度見つけ出して欲しい』

『それでもどう仕様もないと思ったら、時には逃げ出して欲しい。そして念のために言っとくけど、此処は何時でも遠慮なく逃げ込んでこれる所だよ。俺だけじゃなくて、村の皆がそれは保証するからね』

『村越さん、色々と有難う。君にはなんて礼を言ったらいいのか分からないけど、少なくとも謝る事だけはしない様に注意するよ。でも、頼むから大目に見てくれると嬉しいな――それに、名前で呼ばなくても良いよな? 昔の俺に免じてお願いしておくよ……』

『綾瀬、変わりなく精進してくれているだろうか? 俺は只の一般人の一人として、海軍の至宝になった綾瀬を見れる日が来るのをとても楽しみにしてるし、綾瀬ならきっとそこ迄行けると思ってるから』

『浪江、元気でやってるか? 兄貴と義姉さんが、お前に会いに行っても冷たくされるし手紙も禄に書いてくれないってボヤいてるぞ。色々気に入らない事もあるかも知れないけど、お前の大切な家族なんだからな』

『それでも、どうしても我慢できない事があればこっそり俺に言え、必ず何とかしてやるから。それだけじゃない、そっちで辛い事やどうしたら良いか分からない事があったらいつでも相談して来てくれ。必要ならそっちに飛んでいくからな』

 

『最後になるけど、皆にもう一度言っておきます。此処は今も、そしてこれからも皆の故郷です。どんな辛い苦しい事があっても、此処に戻ってくれば必ずそれを癒してくれる大切な故郷です。此処へ戻って来て俺はそれを改めて実感しました』

『だから、どうかその事だけは忘れないでいて下さい。そして、何時でも戻りたい時は何も考えずに戻ってきて欲しい。どんな時でも、此処は皆を無条件に迎え入れてくれる唯一つの場所だから』

 

『いつか、皆の元気な姿を見られる日を、心から楽しみにしています。その日が来るまで、どうかくれぐれもご自愛下さい。

 

 

――――――しばふ村より』

 

 

 





『しばふ村より』は、一先ずこれで完結します。
長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。


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