シンボリルドルフに逆らえないトレーナー君の話 (くまも)
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番外
ルドルフの尻尾の毛は綺麗だな【1】


トレセン学園ではトレーナーとウマ娘にそれぞれ寮が与えられている。

 

勿論入寮については強制ではなく、実際に実家や下宿先から直接学園まで通うトレーナーや生徒もいるわけだが、それでも大半の者は寮を利用しているようだ。かくいう私もその一人である。

トレーナー寮が学園の中にあるので通勤が楽という事情もあるが、なんと言っても設備が素晴らしい。セキュリティは言わずもがな、洗濯機や冷蔵庫、テレビや電子レンジといった家電も備え付けで、おまけに最新式なのだ。

防音も過剰なほどしっかりとしていることから、夜中であっても気軽に洗濯機や乾燥機を回すことができるし、シャワーも浴びることもできる。服や体が汚れることも多く、また夜遅くまで業務に勤しむ我々にとってはありがたいことこの上ない。さらにはハウスクリーニングを始めとした各種サービスも格安で利用することも可能だ。

もっとも、これらの福利厚生はすなわち学園からの期待の裏返しでもあるわけだが。これだけの待遇を用意してやってるのだから、ちゃんとしっかり結果を出せというメッセージを含んでいるのだろう。もっとも、その程度の圧力で折れてしまうようでは中央トレーナーという職業はやっていけないし、私自身特に気負うような所もない。そもそも誰に言われずとも、トレーナーというのは常に結果に追われている生き物なのだろうが。

 

そして、それと同じぐらい充実しているのがウマ娘寮だ。食事やらなんやらの補助も入れれば、あるいはトレーナー寮すら凌駕するだろう。日本最先端かつ最高峰のレース環境を標榜し、なにより徹底したウマ娘ファーストを掲げるこの学園においてはある意味で当然の話かもしれない。衣食住が欠けてしまえば、そもそもレースどころの話ではないからね。

そんなウマ娘寮は、さらに二つの名前に分けられる。一つは栗東寮、そしてもう一つが美浦寮だ。入寮を許可された生徒がどちらに所属するかは学園が決定し、その通達に従って正式に荷運びと入寮手続き、相方との顔合わせが行われることになる。この振り分けについてはなにやら基準があるらしいが、生憎一介のトレーナーの耳にはとんと入ってこなかった。

 

私の担当であるルドルフとシービーは、二人とも美浦寮に所属している。

 

そして今、私がひっそりと入り口を潜ったのも、まさにその美浦寮なのであった。

扉を開き、玄関で靴を脱ぐととりあえず目立たないよう脇に揃えて置いておく。いくら多数の者が利用する場所とはいえ、流石に革靴が堂々と放置されていては目立つことこの上ない。別に後ろめたいことなど何一つとしてないが、生徒ではなくトレーナーであり、それ以前に男である私はこの寮において異物そのものなのだから。なるべく存在を消しておきたいと思うのが道理だろう。

受付のカウンター脇に掲示された名簿を確認する。ここには美浦寮に所属するウマ娘全員の名札が掲げられており、それをつけ外しすることによって誰が外出中かを一目でチェックできる仕様だ。あくまで自己申告のため必ずしも正確な情報とは限らないものの、少なくともこれを見る限り二人とも今はこの寮にいないらしい。恐らくルドルフは生徒会の関係で、シービーもシービーでなんらかの用事があるのだろう。なんであれ好都合だ。

 

受付の来訪者名簿に名前を記入し、私はさらに奥へと進んでいく。ホールを抜けて奥手にあるエレベーターに乗り込み、上へ向かうボタンを押した。目指すは四階、この寮の最上階にあるルドルフとシービーの寮部屋だ。私の担当になる以前から、奇遇にも二人は同じ美浦寮に入れられており、さらには部屋まで同じものを与えられていた。

エレベーターの扉が開くと、目的の部屋は丁度目の前。入り口から真っ直ぐ進むだけというかなり便利な配置なのだが、生憎ルドルフはともかくエレベーターの苦手なシービーはこれを活かせていない。どんなに急いでいる用事があっても、わざわざ廊下の両端にある階段を利用している始末だ。見かねたルドルフが部屋の変更を申請しているそうだが、生憎許可の通る見込みはないらしい。

 

預かっていたカードキーをスライドさせて解錠し、ノブを引いて中に立ち入る。

扉を潜ると、そこから続くのは一本の廊下。脇にはトイレとキッチンが備え付けられている。部屋風呂はなく、入浴は共同の大浴場で済ませているらしい。廊下の先には広い一部屋の寝室があり、両脇にはそれぞれベッドが据え置かれている。二人のウマ娘を一つの部屋に収容するというのは、見方によってはトレーナー寮のそれより過酷と言えなくもないが……仮にも二千人という生徒を抱えている以上、致し方のないことだろう。天下のトレセン学園といえど、その保有する敷地の面積は無限ではない。

 

「しかし、だいぶ散らかっているな……」

 

私が今日ここに訪れた理由は部屋の掃除。今朝二人から頼まれたのだ。

 

誤解のないように言っておくと、ルドルフもシービーも本来かなり几帳面な性格である。自分のことは大体自分でやってしまうし、あまり他人の手を煩わせるといったことを好まない。個人的にはもっと頼って欲しいと思うのだが、こればっかりは気質の問題だからどうにかなるものでもないだろう。

しかし、今私の目の前に広がる光景はおよそ几帳面からはかけ離れている。汚部屋という程のものでもないが、あるべき所にあるべきものが収まっていない感じ。おおよそ長期間かけて徐々に徐々に散らかっていった結果、いよいよ手に終えなくなったといった所だろうか。

………最近のルドルフは忙しいからな。生徒会を一人で切り盛りするのは尋常なことではない。シービーだって暇じゃないわけだし。なんにせよ、さっさと片付けてしまおう。

 

手始めに、換気のために日光の射し込む大きな出窓を両開きに開放する。最上階なだけあって、ここからの眺めは中々のものだ。

ざぁっと、つめたい秋の風がこちら側に吹き込み、私の前髪は涼しげに揺らされた。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……こんなもんでいいでしょ」

 

とりあえず本来の場所に物を戻し、床を掃き、角やサッシに積もった埃を拭き取って、ついでにベッドのシーツも整えておく。洗濯物については触れないでおいた。流石に年も性別も異なる人間に触れられたくはないだろうし。自分達でちゃんと洗濯機に放り込んでおくよう指示しておこう。

 

窓の外を見ると、もうだいぶ薄暗くなってしまっていた。季節も季節だから日が落ちるのも早い。風もだんだんと冷たさを増し、部屋の温度も下がってしまっている。私は窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。

 

温かい風が吹き込んでくる。それにあたりながら、私は椅子なんかより余程心地いいルドルフのベッドに腰掛けた。他人の部屋のベッドに勝手に座るのは行儀の良くないことだが、ここは一つ掃除の報酬として見逃して欲しい。

 

「…………………ん」

 

ふと、ベッドの端にキラリと光るものが目に映る。取り上げて見てみると、それは細く滑らかな一本の鹿毛。とても長く、それでいて丈夫さと柔らかさを兼ね備えているもの。これは間違いなく、ルドルフの尻尾の抜け毛だろう。夕焼けに照らされて黄金色に輝いており、その感触も相成って絹糸のような印象を抱いた。

他にもないかと目を凝らして探してみると、さらに数本同じものが見つかった。掃除が行き届いてないというより、そもそもの数が多いのだろう。この時期になると、厳しい冬に備えてウマ娘達は換毛期と呼ばれるサイクルに入る。細くて柔らかな毛が抜け落ちて、代わりに固くて丈夫な毛が生え始めるのだ。ただでさえ膨大な食糧を必要とするウマ娘という生き物。実りの乏しい冬という季節において、体温の低下を抑えて少しでもエネルギーの消耗を減らそうという生存の知恵である。

この様子を見るあたり、既に換毛期も終わりを迎えているのかもしれない。今度、ハウスクリーニングでも要請しておこう。

 

「ふふ………」

 

数本の鹿毛を人差し指と親指でつまみ、そのままくるくると回してみる。キラキラと、角度を変えるごとに美しい光沢を放っている。今度は趣向を変え、両端を指で摘まんで回転させてこよりを作ってみる。完成したそれを左右に引っ張ってみるが微動だにせず、さらに数秒間本気で張力を加えることでようやく真ん中からぷつんと切れた。これは、ともすれば銅線より丈夫なのではなかろうか。

大したものだ、と素直に思う。柔らかくて、滑らかで、美しくて、それに極めて頑丈。それはやはり絹糸のようで、人間に存在するどんな体毛とも異なる異質な存在。

 

好奇心に駆られて、シービーのベッドからも数本尻尾の抜け毛を採取する。先程と同じようにこよりを作って引っ張ってみると、こちらもまた同じぐらい頑丈なようだ。まぁ、同じウマ娘かつ歳も近いのだから当然だろう。

 

 

 

そうやって私が二人の尻尾の毛で遊んでいると、不意に部屋の扉が開かれた。

 

「お帰り、二人とも。言われた通りやっておいたよ」

 

「お、ありがとうトレーナー。最近結構ヤバい感じだったし、中々アタシ達も腰が動かなくてね。やっぱりキミに頼んで正解だったかな」

 

「ただいま、トレーナー君。すまない、本当なら私達も加わりたかったのだが、どうしても時間を食われてしまった。………ところで、なにをしていたのかな?」

 

「ああ………二人の尻尾の毛で遊んでたんだ」

 

ルドルフの問い掛けに、頷きながらそう答えを返す。ついでに指で摘まんだそれもヒラヒラと振ってやった。果たして二人からちゃんと見えているかは分からないが。

 

「尻尾の毛って………トレーナー、キミはそういうのが好きなの?まさかトレーナー室でもこっそり収集していたり?」

 

「そう言えば、世の中にはそういった趣味もあると聞くが……君もそういう人種だったのか」

 

「違う。本当にただ単純に、好奇心に駆られていただけ」

 

その私の言葉に、意味が分からないといった様子で小首を傾げる二人。彼女達にとっては生まれた時からずっと当たり前のように付き合ってきたものだから、そこに好奇心とか言われた所でピンとこないのだろう。

 

「私達ヒトにはないものだからね、尻尾というものは。この毛についても、例えば髪の毛などとはまるで手触りが違う。だからどうしても特別感を持ってしまうんだ」

 

「未知なる故の神聖視というものだろうか」

 

「かもしれないね。なんにしても、ウマ娘の尻尾というのは古来一つの象徴でもあったから」

 

ヒトとウマ娘の間における、外観上の最も大きな違いは耳と尻尾。ただし、形状が異なるとはいえ耳と呼ばれる器官については我々にも備わっているのに対し、尻尾やそれに類似した器官は存在しない。だからこそ、ヒトは昔から彼女達の尻尾というものにある種の信仰心を抱いてきた。

ウマ娘の尻尾の毛を入れたお守りは弾除けになるとか、悪戯で尻尾を踏みつけた人間が祟られて死んだだとか、そういった逸話などそれこそ履いて捨てる程あるのだ。

 

「………特別感、か。なら、トレーナー君ももし生やせるなら尻尾が欲しいのかな?私達ウマ娘と同じような尻尾が」

 

「そうだね。うん……欲しいかな。手触りもいいし、なにより冬でも暖かそうだからね」

 

「別にアタシ達だって、わざわざ自分の尻尾で遊んだりなんてしないけどね。そりゃ確かに手触りはいいかもしれないけど」

 

「とはいえ冬の間は暖かいというのはトレーナー君の言うとおりじゃないかな。もっとも、後ろについている以上あまり暖をとるには向かないかもしれないが」

 

「実用性の面でいうなら虫を追い払うぐらいだよね、それこそ。とはいえ、冬の間は羽虫も飛ばないわけだからあんまり役に立たないかな。……なのに一丁前に換毛だけはするから、ホント部屋だけ汚れて困っちゃうよ。手入れのお金だってバ鹿にならないからね」

 

私の感想を聞いてやや否定気味のシービーと、顎に手をやりなにやら思考に浸っているルドルフ。概ね私の主張に対する共感は得られなかったらしい。換毛を筆頭に色々手間もかかるだろうし、持たざるが故のお気楽な意見と捉えられても仕方ないだろう。

 

「ともかく、やることはやったからね。時間がないのも分かるけど……今夜からはなるべくこまめに掃除しておくんだよ」

 

「了解した。感謝する、トレーナー君」

 

「分かったよ。ありがとうね……ママ」

 

「誰がママだ」

 

夜も近い。いくら許可をとったとはいえ、暗くなった後もここに残るのは良くないだろう。そろそろヒシアマゾンが巡回を始める時刻だから、それまでには寮を出てしまいたい。

 

そう考えた私は、二人との尻尾談義を切り上げて足早に部屋を後にした。

 



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トレーナー君に贈り物をしたいルドルフ【2】

カチャカチャと、部屋の中で編み針のぶつかる音が響く。

 

今日の授業の復習も終わり、あとはもう寝るだけの時間。カーテンの閉められた寮部屋の中で、私は編み物にいそしんでいた。

 

「~~♪~~~♪」

 

呑気な鼻歌と共に、私の手の中で徐々に形が組上がっていく。今作っているのは手袋。勿論、トレーナー君にあげるためのものだ。

パチン、と手ハサミで尻尾の毛を根元から切り落とす。細く、時間も経って劣化の進んだ夏毛とは違う。太くしなやかで、換毛を終えたばかりの新鮮な冬毛。当然保温性もバッチリだ。

このために尻尾の洗浄には念には念を入れてきた。元々手入れを欠かさない自慢の尻尾であるが、この一週間は化学由来の製品は一切使わず、尻尾専用の石鹸で念入りに汚れを落とすことを心掛けてきた。当然、洗浄後にドライヤーをかけながら揉みほぐし、最後に櫛を通すことも忘れない。

そうして出来上がった私の尻尾は、まるで今にも勝手に動き出しそうな程艶やかで生き生きとしていた。学園で尻尾コンテストでも開催されれば、間違いなく優勝出来る自信がある。

 

 

私はトレーナー君が好きだ。

といっても、別に私と彼は将来を誓い合った仲でもなければ恋人でもない。あくまでトレーナーとその担当ウマ娘という間柄だ………少なくとも、今のところは。なので、これは私が一方的に彼に対して抱く恋心。

その想いを伝えるつもりはまだない。今は私にとっても彼にとっても大事な時期だ。そこに余計な感情を持ち込んで混乱を招きたくないという気持ちの方が強かった。受け入れてもらえた場合ならまだしも、拒絶されてしまった日にはまともに精神を保てる自信がない。そんな状況でトゥインクルシリーズを制覇するなど夢のまた夢だ。

私には理想がある。彼が共に見たいと言ってくれた世界を実現するためにも、私は負けるわけにはいかない。こんな所で折れている場合ではないのだ。

 

しかし、そうは言っても私も三冠バである以前に一人の女なわけで。意中の相手に好かれたい、良く思われたい、そのためにアピールしたいという気持ちはある。

元々、私は独占欲が強い気質だ。それに人並み外れて欲深いという自覚もある。たとえ告白しないにしても、だからといってただ指を咥えてトレーナー君を眺めているつもりは毛頭なかった。

 

「……随分ご機嫌だね、ルドルフ」

 

「ああ、すまないシービー……うるさくしてしまったかな?出来るだけ音は抑えているつもりなのだが」

 

鼻歌の切れ目を縫うように声をかけられ、目をやるとそこには毛布を被って丸まったシービーの姿。まだ夜も早い時間だが、彼女はもう眠る体勢に入っている。

私がこの作業を初めて数日経つが、丁度それを開始したあたりからシービーはさっさと寝るようになってしまった。

集中しているが故に彼女も気遣ってくれていたのかもしれない。単純にやることがなくて暇なだけかもしれないが……夜が更けて眠くなるまで私で遊ぶのがシービーの日課なのだ。

 

「別に、そこまで騒がしくないから大丈夫だよ。ただ、キミが相手してくれないから暇でね。ちょっとお話しないかな?」

 

「別に構わないが、片手間になる以上そこまで楽しい話も出来ないと思うよ」

 

「大丈夫大丈夫。ルドルフに面白さなんて期待してないから……アタシも眠くなったら勝手に寝るからね」

 

「いつも通りじゃないか」

 

いつもいつもシービーの方から私に絡んでくる癖に、私がどれだけ気を効かせた返しをしてやったところで、彼女は自分が眠くなったら勝手に眠ってしまうのだ。

前にそれについて不平を述べたところ、なんでも私の話は睡眠導入剤代わりとのこと。まるで、プール後の数学の授業のように聞いているとぐっすり眠れるらしい。そう知ってから、私は彼女への受け答えも適当にやることにしているが、それでも前と同じぐらい面白いと言うのだから度し難いことこの上ない。

 

「見た感じ手袋を作ってるんでしょ?先週のトレーナーとのお話で思いついたんだね」

 

「ああ。ようやくトレーナー君の好みについても知ることが出来たからね。それにこれから寒さも本格的になってくるから、時期的にも丁度いいだろう」

 

「まぁ、タイミング的にはいいかもしれないけど………それにしてもよくそんな発想が出てくるね。自分の尻尾の毛で手袋を編もうだなんて」

 

「トレーナー君には前々からなにか贈り物をしたいとは考えていたんだ」

 

「どうして?」

 

「………日頃の感謝を込めて、といった所かな」

 

「………ふーん」

 

プレゼント、というアプローチについては前々から考えていた。しかし、実際になにを送ろうかといった段階で煮詰まってしまい、中々実行に移すことが出来なかった。

トレーナー君がなにを貰うと喜ぶのかについて、よく分かっていなかったためだ。彼の好みや欲しがっているものについて聞いてみたことは何回かあるが、いずれもはっきりとした答えは返ってこなかった。はぐらかされていたわけではなく、どうやらトレーナー君本人ですらよく分かっていないらしい。まぁ、いきなり「なにか欲しいものはあるか」なんて聞かれたところですぐに思い浮かぶ人は少ないだろうから、これは私の聞き方が悪かったと思う。

生憎私はまだ子供であり、成人男性の好みや嗜好というのは理解の及ばない領域である。トレーナー君が人の好意を無下にするような人物でないことは理解しているものの、それでも折角贈るからには喜んで貰いたい。

 

目だけを動かして部屋全体を眺める。

以前とは見違えるように綺麗になった私達の部屋。ちょうど一週間前に、トレーナー君が一人で片付けてくれたのだ。トレーナーとして忙しい身であり、いくら担当とはいえプライベートの世話までさせるとは筋の通らないお願いであるにも関わらず、彼は快よく引き受けてくれたのだ。

掃除の後、私達は彼とウマ娘の尻尾についてお喋りをして……その話の中で彼は自分にも尻尾が欲しいと言っていた。その言葉を聞いたとき、私はピンときたのだ。

 

「それに、昔こんな童謡を聞いたことがあってね。名前は忘れてしまったのだが、確か冬の寒さに震える夫を憐れんで、ウマ娘である妻が自分の尻尾で手袋と脚絆を作ってあげる唄だったかな」

 

「あ、それアタシも聞いたことがあると思う……でもそれって、妻から夫じゃなくて母親から息子じゃなかった?」

 

「そうだったかな?」

 

なにせよ、だいぶ幼い頃に触れたきりだったのでよく覚えていない。マタギの夫婦のお話だった気がするのだが……私の記憶違いだろうか?あるいは地域ごとにバリエーションがあるのかもしれない。しかし私は千葉の生まれであるから、北海道出身のシービーよりも雪国に縁は遠いと思うのだが……。

せめて唄の名前ぐらいはちゃんと憶えておくべきだったかな。先程の鼻歌はまさにその童謡のメロディーだったのだが、そちらも記憶が曖昧で所々誤魔化してしまっている。もし知っている人が聞いていたらお笑いだろう。

 

もぞもぞ、と毛布の中で蠢くシービー。

 

……どうにも落ち着きがないような気がするな。話をしたいと言ってきたのは彼女の方だが、ともあれ音が鳴っていると眠りにくいのも事実だろう。これ以上編み棒の音を抑えることは出来ないが、鼻歌については自重しておこう。

 

「まぁ、相手が夫であれ息子であれ……寒がってる人間の男相手に尻尾で暖めてあげるってのは憧れるシチュエーションだよね。実際、手袋については昔はよく作られていたっぽいし」

 

「本当は片時も離さず一緒にいてあげたい。しかしそれは無理だから、せめて手袋という形で一緒にいたいということだな」

 

「そう。それに、ウマ娘の毛で編まれた手袋は体を暖めるだけじゃない。ちゃんと、私達の苦労までが継承されるんだ」

 

私達の苦労。それはつまり、美しい尻尾を保つ苦労という意味だ。

髪は女の命と言うが、私達ウマ娘にとっては尻尾もそれに当てはまる。触ればふかふかで、暖かくて、手で鋤けばサラサラと流れるような尻尾。それを作り出し、尚且つ維持していくには大変な時間とお金がかかる。ましてやそれが、技術も道具も遥かに乏しい昔であれば尚更だろう。

そして、そういった苦労はこの手袋にも受け継がれるのだ。ウマ娘の尻尾の毛は服飾の素材として最高峰であり、その肌触り、頑丈さ、保湿性、保温性、通気性いずれも他のどのような素材をも凌駕する。その一方で非常に繊細であるため、適切な管理を怠れば容易く劣化してしまうのだ。

 

「だからそれで夫の浮気を見抜けるんだって。手袋の痛みが激しかったら、それは夫の心が離れかけている証ってこと」

 

「伴侶のことを心から愛しているのなら、その身と時間を削って編んでくれた手袋を粗末に出来る筈がないからな」

 

「そうそう」

 

ウマ娘にとって、尻尾は自分そのものと言っても過言ではない程大切なものだ。だからこそ手入れは妥協しないし、自身の尾には誰であれ誇りを持っている。それに触れることが許されるのは、ウマ娘が真に心を許した者だけ。それを切り落とすというのは、文字通り我が身を削る作業なのだ。

そうして作られた手袋は、文字通り私達の分身。その手入れの手間すら惜しむような男は、最早生涯添い遂げるに値しないということだろう。

 

「実際、結婚する時にウマ娘の妻が夫に手袋を贈るって風習もあるらしいよ。結婚指輪みたいだね」

 

「将来を共に寄り添う覚悟の証明というわけだな。死が二人を別つまで、自身の身代わりを相手に預ける……少々おっかないような気もするが」

 

「『貴方を永遠に愛します』というより、『死ぬまで絶対に離さない』という意思表示だよね。そう考えるとだいぶ重いね」

 

「そうかもしれないな。特に夫側はそう思ってしまっても仕方がない」

 

「仕方がないというなら、その儀式自体が仕方がないことだと思うけどな。それがウマ娘を娶るってことでしょ?」

 

「ああ。その通りだ」

 

ウマ娘というのは元来闘争心が強い生き物である。この学園においても顕著であるが、しかしそれは決してレースだけに向けられる特徴ではない。

レース外……それこそ恋愛を始めとした、男女関係においても凄まじい執着心を発揮するのだ。その身体的能力差も合間って、ウマ娘同士やウマ娘と人間の間で事故が起きてしまうことも多々ある。また、伴侶だけでなく子孫についても執着心が強い。単体では繁栄できないウマ娘の性といったところだろうか。

なんにしても、ウマ娘と結ばれるというのはそういうことなのだ。根底にある価値観、ないしは習性の相違。異類婚姻譚の多くが悲恋で終わるのも、そういったウマ娘と人間同士のすれ違いの歴史が反映されているからだと聞く。

結局のところ、手袋の儀式は両者の違いを発露し擦り合わせる工程の一環なのだろう。妻には自らの欲求をさらけ出す度胸が、夫にはそれを受け入れる器量が求められる。最もそんな事、人間同士の婚姻においても同じであると私は思うが。

 

「でも最近はそういうのやらなくなっちゃったらしいね。時代の変化ってやつかな」

 

「産業革命以降、モノ作りは大量生産・大量消費の時代になった。個人によって長さや太さ、質から痛み具合まで異なるウマ娘の尻尾の毛は、機械で扱うには向かなかったのだろう」

 

「だからこそウマ娘の毛で作られた衣装は貴重だし高値で売れるわけだけど。手作業でしか作れないし、なにより一点モノだからね。……とはいえ、高級品だろうがなんだろうが結局すっかり姿を消しちゃったあたり、それが現実だったと思うけどな」

 

「手編みの方が趣があって良いと思うけどね、私は」

 

自らの分身というなら尚更、最初から最後まで我が身一つで作り上げるのが筋ではないだろうか。別に機械によるモノ作りを見下しているわけではないが、こういうのは自分の手で作る方がより気持ちが籠ると思う。

パチン、と部屋に響くハサミの音。

敷かれた新聞の上に、ハラハラと私の分身が舞い落ちる。

 

「そもそも難易度が高いからね。作りたくても作れない子だっている。ルドルフはどこでやり方を教わったのかな」

 

「実家だよ。幼い頃から教養の一つとして習っていたんだ。それっきりだと思っていたけど、まさか本当に役立つ日が来るとは思わなかった」

 

普通の手編みと違って、複数の糸を組み上げる以上かなり特殊な工程を踏む。故になにかしら手解きを受けていなければ作成は困難だ。

私自身、習っていたとは言ってもまだ学園に入る前のことだから、上手く作れるかは正直言って自信がなかった。しかし実際にやってみたところ、思っていたより遥かにスムーズに進んで安心している。これも師に恵まれたお陰だろう。

 

 

 

「ところで、ルドルフは右手と左手、どっちを作るつもりでいるのかな?」

 

「?……普通に、両手でワンセット用意するつもりでいるが」

 

「いやいや、流石にそれは量が間に合わないでしょ。自分の尻尾を見てごらんよ。走りに影響しない範囲で、もう一個分作れそうには思えない」

 

「……………むぅ」

 

……シービーの言うとおり、若干先行きが怪しい気がする。切断後の見映えを考えて慎重に場所を選んではいるものの、既にボリュームがなくなっている。

見た目ならアレンジすれば誤魔化せるが、あまり切りすぎるとバランスにまで影響するかもしれない。レースにおいて、特にカーブを曲がる際などは尾のバランスと空気抵抗も意外とバ鹿にならない。彼女の言うとおり、ここは自制しておくべきか。

 

「……仕方がない。もう一方は元通り生え揃ってから取り掛かろう」

 

「……それだとたぶん、今年の冬は終わっちゃうよ?春になってから渡すか、それか一年後まで自分で管理しておくしかない」

 

「それは嫌だな……」

 

「見通しが甘かったね。そもそも昔の人が二週間そこらで作れたのも、特に尻尾の重心とか気にする必要がないからだし。私達……ルドルフとは前提が違ったんだよ」

 

「だが、流石に片方だけ編んで渡すというのは如何なものだろう。トレーナー君も困ってしまいそうだ」

 

「あれ?もしかしてルドルフ知らない?手袋を片方贈る風習と、その時のルール」

 

「………なんだそれは。聞いたことない」

 

手袋を片方贈る風習?そんな奇特な風習なんて果たしてあっただろうか?ともすれば嫌がらせとも受け取られかねない。それとも、北海道にはそういった風俗があるのかな。

 

「といっても日本じゃなくて、古代ギリシャの風習だけどね。愛している相手に対して、その左手の手袋だけを贈るんだよ。……なんでも心臓が感情を司っている器官で、その心臓に繋がる血管が左手の薬指にあるなんて考えられていたらしい。だから、意中の男性の心を掴むために左手だけの手袋を贈るんだってさ。結婚指輪と同じだけど、それが手袋にまで反映されるんだ」

 

「成る程。左手の手袋でその血管を掴むわけか……なら、その手袋は送り主の左手のメタファーということになるわけだな」

 

「そうそう。自分の尻尾で手袋を編んでるルドルフにはぴったりじゃない?だからルドルフ、トレーナーには左手の手袋だけを贈りなよ。それなら間に合うでしょ?」

 

「そうか、それがいいだろう。了解した。ありがとうシービー。君は博識だな」

 

「どういたしまして。……アタシはもう寝るからね。電気はつけたままでいいよ。あ、あと鼻歌は続けて欲しいなー。おやすみ」

 

「……?ああ、おやすみシービー。良い夢を」

 

私と離している内に眠気が訪れたのだろう。シービーはそのまま頭まですっぽりと布団に潜ってしまった。裾からひょっこりと彼女のウマミミだけが覗いている。

 

 

 

「~~~♪~~♪」

 

シービーのリクエストに従って、私は拙い鼻歌を再開する。

これも子守唄代わりなのだろうか。しかしシービーの方を見る限り、歌に合わせてミミがひょこひょこしているし、毛布ももぞもぞと動いている。どう見ても安眠を妨害しているようだし、やめた方がいいのだろうか。

 

「続けて?」

 

「あ、ああ」

 

しかし途中で止めた途端、シービーから催促が届く。まぁいいか。他でもない彼女自身が続けて欲しいと言ってるわけだし、もし止められたらそうすれば良い。

 

「~~♪~♪………ん?」

 

ふと、目に映るのは毛布から飛び出したシービーの尻尾。そのままゆらゆらとベッドから垂れ下がっている。

 

「シービー、君も尻尾のデザインを変えたのか。それに、心なしか毛艶も良くなっている気がするな」

 

「…………………」

 

私の言葉には反応せず、彼女はそのまま尻尾をしゅるりと引っ込めてしまった。ウマ娘はその尻尾からある程度体調を推し測ることも出来る。あの艶を見る限りシービーの調子は良さそうだし、それを私には悟られたくなかったのかもしれない。

少々無神経だったか。それはそうと、今度シービーと対決する時は警戒が必要だな。

 

 

 

「~~♪~♪~~~♪」

 

すっかり夜も更けた深夜の寮部屋。

その中で私の鼻歌と、気のせいかちょっとだけ大きくなった気がする編み棒の音だけが響いていた。

 

 

 

 

 

 

「いいのかな。こんな貴重なものを貰ってしまっても」

 

「勿論。トレーナー君のために作ったのだから、遠慮せず受け取って欲しい」

 

「そうか、ありがとうルドルフ。……嬉しいよ。絶対に大切にする」

 

「ふふっ……どういたしまして。私も君に喜んで貰えて嬉しいよ」

 

あの夜から三日後。

トレーニングの後、ついに完成した手袋を私はトレーナー君に渡していた。この前の部屋の掃除のお礼だとか適当に理由をつけて。受け取って貰えるか不安だったが、喜んでくれたようで一安心だ。

トレーナー君はさっそくそれを左手に嵌めて、数回手の平を開閉して見せてくれた。幸い、サイズはぴったりのようだ。

 

「おお、暖かい。それでいて蒸れないし、肌触りもいい。話に聞いていたとおりだ……手入れは難しいらしいけど」

 

「トレーナー君の出来る限りで構わないよ。仮に傷んでしまったら、また私が新しいのを作ってくるよ。どのみち、半年で抜け変わる毛なのだからね」

 

手袋で浮気を測るとも言うが、別に私はトレーナー君と男女関係にあるわけではない。彼を拘束するつもりもないし、職業柄あまり時間をとれないのも分かっている。ただ、出来ればマメに手入れをして長く使って貰えると嬉しいと思う。

 

「……ところで、どうして左手しかないのかな。やっぱり冬毛の量が足りなかったとか?」

 

「それもあるが、シービーからある言い伝えを聞いてね。なんでも古代ギリシャにおける逸話らしいのだが―――」

 

そう前置きして、あの夜彼女から聞かせられていた話を披露する。トレーナー君も興味深そうに頷きながら耳を傾けており、その様子を見る限り彼もこの風習については知らなかったようだ。

トレーナー君も大概博識であるが、そんな彼ですら知らない話を仕入れているとは。相変わらず底の見えないウマ娘だと、内心シービーの知識量に舌を巻く。

 

「……そうだったのか。その話は私も聞いたことがなかったな。シービーもあの時どうして教えてくれなかったんだろ。ともあれ、これはちゃんと使わせて貰うよ。これからどんどん冷え込んでくるからね」

 

「そうか!!そうしてくれると私も嬉しいよ」

 

受け取って貰えただけではなく、実際に使ってまでくれるとは。トレーナー君はなんて優しいのだろう。

早朝、トレーナー寮から外に出るとき。他チームのトレーニングやレースの見学。地方への視察。そんな私がいない瞬間も、彼の左手に私の分身があると思うと心が満たされる。あるいはインタビューに答えるとき、記者会見を行う時はその手袋も全国の視聴者の目に晒されるのだろうか。それは……少し恥ずかしいな。

 

「しかし、実際に使うとなるとやはり左手だけでは不便だろう。片方だけ別のものを買ってくるわけにもいくまい。やはり、もう一つ私が作った方がいいだろうか」

 

「いや、その必要はないよ。つい今朝、右手だけの手袋を受け取った所でね。丁度良かった………これで両手が暖まるな」

 

「…………え?」

 

そう言ってトレーナー君がジャージのポケットから取り出したのは、右手だけの手袋。それは明らかに私が贈ったものと同じ……ウマ娘の尻尾の毛で編まれた手袋だ。

私と同じ鹿毛……しかしその色は、私のそれよりも少し暗め。この色には見覚えしかない。

それを慎重に嵌めて、両手を二度三度開閉して見せてくるトレーナー君。色違いの手袋が仲良く並んで私の目の前で揺れている。

 

「シービーからね、朝練の前にこれを貰ったんだ。この間の掃除のお礼だって。二人で片方ずつ編んでくれたんだね……ありがとう」

 

「ど、どういたしまして……。ところで、シービーは右手だけを贈る理由としてなんと言っていたのかな?」

 

「確か、右手は握手でも用いられるように親愛を象徴する手で、お互いの縁えにしを結ぶものであるから……愛しい相手に手袋を片方贈るのであれば右手が相応しい………だったかな」

 

「そ、そうか…………」

 

 

シービーめ…………謀ったな。

 

 



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ルドルフがトレーナー君を補食する話

「大輪の花が薄曇りの京都レース場に大きく咲いた!我が国のウマ娘史に名を刻むクラシック三冠が達成されました!」

 

興奮に駆られた実況の叫び。それすら塗り潰さんとするかのような、万雷の歓声が京都レース場に響き渡った。

それを一身に受けながら、こちらに向かって腕を掲げる私の愛バ。その先には三本の指が立てられている。

あまりにも多くの観客が詰め寄せたこの菊花賞。これまでにない程の人の数と、そこから向けられる膨大な熱狂を前にしてなお涼やかにほほえむその冷静さと胆力は流石といったところだろうか。

 

共に観戦していたウマ娘や同僚、さらには見知らぬ観客までもが興奮冷めやらぬ様子で私の背中を次々に叩く。なにしろ二年続けて排出された三冠バ、それも史上初の無敗での三冠ともなれば感動もひとしおだろう。だからといってそれを私にぶつけないで欲しいが。目の前の、かの皇帝の奮戦にこそ捧げられて欲しいものだ。

 

クラシック三冠最終戦、菊花賞。

皐月賞、ダービーに続いてこれを制したウマ娘は三冠バの称号を与えられる。

 

ふぅ、とため息を溢しつつ私は空を仰ぐ。

正直なところ、感動よりも安心したという気持ちの方が強い。彼女の歩む覇道において、この三冠というのは大前提に位置するものであり、絶対に落としてはならない記録だった。

決して口に出すことはしないが、ルドルフの実力を鑑みれば勝てて当然のレースだったようにも思う。基礎的な身体能力から動体視力、反射神経、頭脳、判断能力、精神力……競争バに求められるおよそ全ての能力において、彼女は同世代の誰よりも抜きん出ていた。レースに絶対はないが、彼女には絶対がある。私はルドルフなら、菊花賞も絶対に獲れると信じて疑っていなかった。

だからこそ、私達にとって目指す場所はまだまだ先であり、この勝利はあくまで通過点なのだ。なんと傲慢なと思われるかもしれないが、いやしくも皇帝を名乗るウマ娘であるならそれも当然だろう。

 

視線をターフに戻す。

その瞬間、三本指を掲げるルドルフと目があった。いや、もしかしたらさっきからずっと、彼女は私の方を見ていたのかもしれない。私と視線がぶつかったのを認識した瞬間、ルドルフはゆっくりとその笑みを深める。その瞳の奥で煮えたぎる、まるで獣の牙のように獰猛な熱。

………ああ、私は勘違いしていたらしい。地鳴りのごとき熱狂が渦巻くこの京都レース場において、誰よりも狂っていたのは彼女だったのだ。ああ、これはまた面倒なことになるかな。

 

ルドルフから視線を切り、私は一足先に控え室へと向かう。今頃記者団が大急ぎで会見の準備を進めている筈だ。会場の設営が終われば、私もルドルフもそこへ引き摺り出されることになる。ウイニングライブを控えているルドルフはともかく、トレーナーである私はまず解放されることはないだろう。

 

鳴り止まない歓声に背を向けて、私は一人観客席を後にする。背後から突き刺さる視線については、今は気付かないふりをしておいた。

 

 

 

 

 

 

控え室に戻り、とりあえずこの後のスケジュールを確認する。ついでに昨晩のうちにまとめておいた、この後の会見に出席する記者の名前と所属の一覧、そこから予想される質問についても再度目を通しておく。それから夜に行われるライブの歌詞と振り付け、ステージと観客席の配置についてももう一度見直しておいた。後でルドルフとも共有しておこう。

本日の主役は皇帝シンボリルドルフだ。日本全国……いや、世界のレース関係者が彼女に注目することになる。ここで不手際を晒すわけにはいかない。勝った後だからこそ、さらに気を引き締めていかなければならない。

 

 

コンコン、と控え室の扉が丁寧に……しかしかなり大き目の音で叩かれる。

 

「私だ。開けろ」

 

ぶっきらぼうなルドルフの声。

ともすれば唸り声にも聞こえるようなそれは、まさしく今の彼女の荒れた内心を示している。苛ついた扉のノックに簡素な命令。紛れもなく余裕を失っている者のそれであり……要するに、ルドルフは大層不機嫌だということ。

 

「分かった。今開けるよ」

 

「……さっさとしろ」

 

ドン、と一際大きく叩きつけられる拳。これでも極限まで自制している方なのだろう。もし彼女がその気になれば、こんな鉄の板一枚なんてひとたまりもない。

こんな状態のウマ娘を、自ら部屋の中に招き入れるなんて愚の骨頂だ。そんなことぐらい、いくら私とはいえ理解している。

それでも、拒絶するなんて選択肢はある筈もなかった。

 

ガチャリの鍵を開ける。

ノブを引いた瞬間、物凄い力でドアが内向きに開かれた。

 

「ッ!!」

 

「おい、逃げるな」

 

その勢いに気圧されてたたらを踏んだ瞬間、ぬっと前から伸びてきた腕が私の襟元を掴み上げる。ほんの数歩分、私達の間に生まれていた距離は一瞬にして詰められていた。そのまま、凄まじい膂力で前へと引っ張りこまれた。

反射的に目を閉じる。それと同時に、唇に接触する柔らかい感触。

 

「む………ぐ、うん……んっ」

 

「ん………ちゅ……ふっ、う……」

 

襟元を掴み上げる腕とは反対側の腕で、彼女は私の後頭部をがっしりと掴み上げる。まるで、拒絶しようものならこのまま潰してやるといわんばかりに。明らかにただの脅しではないそれに、最初の頃こそ怯えていたものだったが……今はもう慣れてしまっていた。

私の視界には、血走ったルドルフの双眸が揺らいでいる。水晶のように透けた紫色を湛えている彼女の瞳孔も、今や完全に収縮してしまっていた。その恐ろしさに、本能的に目を瞑ってしまう。

それに気付いた瞬間、私の襟を離してそのまま背中ごと腰を抱き寄せるルドルフ。慌てて目を開けるが、既に手遅れだった。

 

「ぐぅっ……!!」

 

ぎゅうっと、物凄い力で抱き締められる。うっかり千切ってしまわないよう、慎重に力をコントロールしているのだろうが……それでも骨が軋み、内臓が圧迫される。思わず飛び出てしまった悲鳴を聞いて、彼女の瞳が愉しげに揺れた。

後頭部を掴む力がますます強くなる。普通、こういった時には相手の髪を撫でてやったりするものなのだろうが、ルドルフはそういったことはしない。愛撫のためでも、感触を楽しむためですらなく……ただ、獲物を逃がさないために拘束することだけを目的とした行為。愛情を交わすわけでもなく、ただ一方的に衝動を押し付けるだけの彼女の口づけ……それは、まさしく補食だった。

 

「ふ、むぅ………ッ」

 

声を漏らし、私の口が一際開かれた隙を突いて、ルドルフが舌を捩じ込んできた。そのまま舌を絡め、歯茎の裏をなぞり、唾液を送り込んでくる。

不味い、意識が薄れてきた。抱き締められたことで肺から空気が抜けた上に、これでは新しく酸素を取り込むことも出来ない。いや……仮に取り込めたところで、内腑を圧迫されたこの状況では肺を膨らますことすら叶わないだろう。……そんな私の姿を見て、それなりに気が晴れたのだろうか。ルドルフが口づけを切り上げて、ゆっくりと顔を離していく。

 

「どうした、トレーナー君。もう限界かな?」

 

「………はぁ、っ……はあぁ……」

 

ただし、胴を締め上げる力は据え置きのまま。なのでいくら必死に喘いだところで、ほんの僅かにしか呼吸が続かないでいる。

息苦しさに恥も外聞も捨てて、涎を溢してみっともなく喘ぐ私を眺めながら、ルドルフは後頭部に添えられていた手を私の額に置いた。おもむろに前髪をかきあげくる。そうしてさらけ出された私の瞳に、涙が浮かんでいることを確認した所で……ようやく彼女は私を解放してくれた。

とうに力の抜けていた私は、支えを失ったことで耐えきれず踞ってしまう。

 

「ははっ。みっともない顔じゃないか、トレーナー君。君を慕っている子達が見たらどう思うだろうね」

 

口元を勝負服の袖で拭い、整った顔にありありと嗜虐心を湛えながら、その場で丸まった私を見下ろしてくるルドルフ。

彼女の言うとおり、今の私はさぞ酷い有り様だろう。瞳には涙を浮かべ、鼻水と唾液で顔を汚し、大口を開けてぜぇぜぇと意地汚く酸素を取り込んでいる。それでも、こうして惨めな姿を見せなければ、彼女は口づけから解放してはくれないのだ。

 

「満足、した……かな?ルドルフ……?」

 

「まだまだ。道程の中程とはいえ、ようやくクラシック三冠の栄光をこの手に掴んだ……私の衝動はこんなものでは治まらない。それとトレーナー君、二人きりの時はなんと呼ぶのだったかな?」

 

「ルナ……」

 

「ふふっ。そう、よく出来ました!!」

 

まるで幼子をあやすかのように、ルドルフは先程とはうって変わって笑顔で私の頭を撫でてくる。

この状況を仕切り直そうと、彼女の背後にある開けっ放しの扉を指差した。今はまだ廊下に誰もいないが、そのうちレースの関係者とか、先走った報道陣とか、あるいは暴走したファンなんかが押し掛けてくるかもしれない。こんな場面を見られるわけにはいかなかった。

 

「ルナ、悪いけど、その……扉を閉めてくれないかな?」

 

「いいじゃないか、誰もいないだろう?……分かったよ、仕方ない」

 

水を差されたと思ったのだろう。ルドルフはまた不機嫌そうに耳を寝かすと、バタンと足で乱暴にドアを蹴り戻す。私から視線を切らないまま、手探りで扉の鍵をかけた。

 

「さぁ、トレーナー君。続きをしようか」

 

「…………あぁ」

 

ルドルフと、こういう事をするようになったのは……確か、皐月賞を勝ったあたりのことだったか。

レースで勝てるウマ娘というのは、総じて闘争心が強い。普段は穏やかなウマ娘であっても、いざゲートを出ると人が変わったらように豹変するものだ。特に、G1戦線で活躍するようなウマ娘であれば尚更。

勝負の世界というのは残酷だ。全員がどれだけ実力があったところで、勝者となれるのはただの一人だけ。その栄光を掴むためには、否が応でも他者を蹴落とさなければならない。

加えてレースは、勝負内容それ自体に危険が伴う競技でもある。熾烈なポジション争いや追い抜きをかける場面において、他のウマ娘と接触が起きる可能性を常に孕んでいる。ただでさえ凄まじい速度で走るウマ娘のこと。ぶつかったり、その結果転倒したり、ましてや後続に踏みつけられでもしたら……大怪我は避けられない。最悪致命傷に至るリスクもあろう。だからこそウマ娘達は、そういった不安や恐怖に闘争心で蓋をしなくてはならないのだ。そうして初めて自らの全力を出すことが出来るわけだから、競争バには必須の素養でもある。

 

そして、かの皇帝シンボリルドルフは……その素養においてもまた、当たり前のように他のウマ娘を遥かに凌駕していた。

ルドルフの戦法の一つとして、競合するウマ娘の能力を著しく下げるというものがある。元々差しを得意とする彼女。中団やや後方に位置づけるわけだが、その結果として最終コーナーに入る時点で前方のバ群は高い確率で崩壊する。背後からルドルフの闘争心、プレッシャーに晒される続けることで、ペースを崩してしまうらしい。

真偽の程は不明だが、恐らくルドルフ自身も無意識にやっているのだろう。彼女からしてみれば、相手の方から勝手に失速していくようなものなのかもしれない。なんにしても、自分の走りを見失ったウマ娘がルドルフの天凛の末脚に対抗できる筈もなく……かくして、彼女は最強となった。

 

 

そこで終われば、あるいはトレーナーである私にとっては喜ばしいだけの話だったのかもしれない。

 

 

 

「さ、トレーナー君。今度は君が私をぎゅっと抱き締めてくれ。力一杯にね」

 

「こうかい?」

 

「そう……いや、もっとだ。もっと。大丈夫、人間の力で精一杯抱き締められたところで、私は苦しくないから。さっき、私がやったのと同じことを君もしてくれ」

 

「分かった」

 

言われた通り、全身の力を振り絞って彼女を抱擁する。必然的に密着するお互いの身体。露出の少ないルドルフの勝負服であるが、それでも女性特有の柔らかさは十分に伝わってくる。そして、その脂肪の下にある極限まで鍛え抜かれた筋肉の硬さもまた。

 

「どうだろう、トレーナー君……感想は」

 

 

「ああ…………熱いな」

 

「ふふ。そうだろう」

 

ウマ娘というのは、元々人間より体温が高い。雨の日のレースなんかは、その周りに蒸発した水分で靄が生じるほど。

ましてやレースの後……それも3000という長距離を走り終えた直後のルドルフの体温は、まるで熱した鉄のような熱さだった。うなじや首もとの隙間から、むせる程濃い匂いが立ち上がってくる。汗と彼女本来の香りの混ざったそれが鼻腔を突き刺し、否が応にも男としての本能を煽られる。

密着した服越しに伝わってくる、破裂せんばかりの心臓の鼓動。その体温と合間って、ルドルフの桁外れの生命力が垣間見える。

 

「トレーナー君?私がやったのと同じことって言った筈だ……まだ全然、足りていないぞ」

 

皆まで言わせるな、とばかりにこちらを睨み上げるルドルフ。そのミミは変わらず後ろに寝かされ、足はざりざりと床を前掻きしている。バサリと尻尾が大きく揺れて、彼女の体臭をこちらまで送ってきた。

それに促されるように、私は空いたもう片方の手でルドルフの後頭部を押さえつけ、口づけし舌を入れてやる。不機嫌そのものだったルドルフの表情は、またしても一転して今度は恍惚としたものになった。

一見すれば、私がルドルフを拘束して手籠めにしている光景。しかしその実、これもまた彼女による補食の一環である。結局のところ、全ては彼女自身の欲求を充足させるために過ぎないのだから。

 

 

ルドルフは闘争心が強い。否、強すぎた。

 

そのあり余る狂暴性は、ルドルフを勝利へと導くものであるが……同時に彼女自身の理性をも侵食する諸刃の剣であった。

ひとたびその闘争心を解放すれば、ルドルフ本人ですらそれを抑え込むことが出来ないほどに。並外れた精神力を以てしてもコントロールすることの出来ない衝動。誰かにぶつけて発散させる他ない。

それでもメイクデビューからしばらくはどうにかなっていた。聞くところによると、そもそも闘争心を解放するまでもなく勝利出来ていたからだそうだ。だがそれも精々G3までの話。皐月賞を迎えてからはそうもいかなくなった。

彼女のトレーナーとして、皇帝の杖として……ルドルフは私にこの体を差し出すことを要求し、そして私はそれを受け入れた。彼女の底無しの闘争心を解消するには、誰かがババを引かなければならない。

 

「ふぅ……ありがとう、トレーナー君」

 

「そうか。もう大丈夫なのか」

 

「うん。まだ少し体は火照っているが、問題はないだろう」

 

チュッと、リップ音を立てて私とルドルフの唇が離れる。見れば、彼女の頬の紅潮が心なしか引いている。今回の高揚は治まったらしい。

最後にルドルフはおもむろに私のシャツをはだけると、その剥き出しなった首筋に吸い付いてきた。チクリと歯が立てられ、温かい液体が一筋伝っていくのを感じる。それをしばらく舐めとった後、彼女はようやく顔を上げた。

 

「ごちそうさま」

 

さっと私から離れて、汗で濡れた服を一枚一枚脱いでいく。ルドルフに密着していた私もまたシャツに汗が染み込んでしまっていたので、彼女に倣ってボタンを外していった。

 

「どうかしたのかな、トレーナー君。そんなに私の方を見つめて。……私の裸なんて、見ていてそれほど楽しいものでもないだろうに」

 

「そんな事ないけど……いや、ただその体の傷がね。懐かしいと思っただけだよ」

 

「……ああ、これか。まぁ滅多に見せるものでもないからな」

 

言いながら、その場でくるりと一回転して見せるルドルフ。露になった上半身の、主に首もとと脇腹、背中のあたりに目に見える傷痕が所々残っている。さらに近づいて観察すれば、細かい傷も多数見つかるだろう。

これらは、彼女が幼い頃に作った傷の名残。曰く、昔のルドルフは今とは似ても似つかない程気性が激しく、流血沙汰など日常茶飯事だったという。トレセン学園に入学し、本格的にレースに挑むようになってからは落ち着いたと聞くが……思うに、もて余した闘争心の解消手段がレースに移り変わっただけなのだろう。ルドルフの勝負服が他のウマ娘と比べて露出が少ないのも、こういった傷を隠すためなのだろう。

 

「それに、トレーナー君だって私とそっくりに見えるよ」

 

「そうだね……もっとも、これはルナにつけられたものだけど」

 

「そうだったね。しかし、自分のものに印をつけておくのは当然だろう?手放す気のない大事な杖には、しっかりと名前を書いておかなければ」

 

私の胸元や脇腹にも大小細かな傷痕が残っている。たぶん、首筋なんかはもっと凄いことになっているだろう。全て、ルドルフにこの身を捧げた時につけられたものだ。もっとも私の場合は彼女と違って目立つものでもないし、いくらでも誤魔化せる範疇ではあるのだけれども。

 

つうっと、首筋から液体の伝う感触。ああ、そういえばこれもどうにかしなければならなかったな。シャツを脱いでいたことで、汚れずに済んだのは幸いだった。

 

「おや、最後まで食べ尽くしたつもりだったのだが。……まだお残しがあったとはね」

 

それを見咎めたルドルフが、ゆったりとした足取りでこちら私の胸に顔を埋めてくる。衣服を介さず、直に触れ合う私たちの素肌。

 

 

 

「いただきます」

 

 

 

外界の興奮から隔絶され、静まり返った控え室。その中で、ルドルフの舌がゆっくりと私の肌をなぞる音だけが響いていた。

 

 



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ポッキーゲーム(仮)

トレセン学園の購買は、ちょっとしたコンビニ程度の規模がある。いや、品揃えという点では凌駕すらしているかもしれない。

 

外出に制限のかかる生徒達を慮ってのことだ。日頃から生徒の出入りがあるためともすれば忘れてしまいそうにもなるが、学園の外に一人で出掛けるときは、予め事務室に申請書を届け出なければならない。基本的に敷地内で寮生活を送るものであり、また芸能活動を行う以上一般の学生にはない危険も抱えているからだ。居場所は管理できないとしても、せめて学園の中にいるのかどうかは把握しておく必要がある。

 

もっとも、届け出といっても精々学年と名前、毛色、外出目的を記入する程度の簡易なものではあるが。記載内容に明らかな間違いや空白でもない限り、認められないことはまずない。とはいえそれすら面倒くさいと考え引きこもりたがる子もいるにはいるし、届け出が許可されずいつまでも学園から出られないといったケースも理論上はあり得るので、こうして学園内部まで物資を調達してくる必要に迫られるのである。

 

食糧、衣類、化粧品から小物に生理用品といった生活必需品だけでなく、菓子をはじめとした嗜好品まで。簡単なカードゲームとかボードゲームまで揃えていたりもする。

それだけでなく、地方出身者も多いことから定期的にご当地フェアなんかも行われていたりするし。またそれぞれの季節や特別な日に合わせた商品を販売することもある。あるいは店員の気まぐれなんかでも。

 

 

 

「うわっ……また凄いことになってるな……」

 

15時を過ぎた頃、珍しく午後の業務があらかた片付いた私は、校舎一回にある購買へと足を運んでいた。この後生徒会に顔を出すつもりであり、その時にルドルフ達に差し入れでも持っていこうと考えたからである。

購買の敷地内に足を踏み入れた瞬間、視界いっぱいに埋め尽くされるポッキーの箱、箱、箱……。数だけでなく、よく見ればその種類も凄まじい。通常見かけるようなバリエーション違いは当たり前のように揃っているし、それだけでなく全く見たことがない……恐らく地域限定ものの商品まで。さながら資料館か博物館のような様子を呈している。ここはポッキーの生産工場の中の購買かなにかだろうか。私も実際に行ったことはないのでよく分からないが。

 

「圧巻だろ?これでもだいぶ減った方なんだよ」

 

「うわぁ……こんにちは先輩」

 

ポッキーの山を眺めていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、アグネスタキオンのトレーナーが膝から上までピンクに輝いている。この人もまた凄いことになっているな。

細身で背が高く足の長い彼がそうして光っている様は、まさに目の前にあるイチゴ味のパッケージを彷彿とさせた。この購買の様子に感化されたのだろうか。成る程、あの内向的なマッドサイエンティストにも意外とミーハーなところがあるらしい。

 

「なにがうわぁだ。俺が好き好んでこんな姿してると思ってんの?」

 

「いえ、思っていませんが……というかだいぶ減った方ってなんですか?これで?どう見ても発注ミスとしか思えませんが」

 

「なら値段の方を見てみろよ。な?」

 

「………あぁ、本当だ」

 

そこらのコンビニの値段と全く同じ。これだけの量を前に投げ売りをするでもなくこの価格とは、かなり挑戦的だと言う他ない。

 

「去年はあっという間に枯渇したからな。だから今日の朝なんてこれの倍以上の量があった」

 

「ウチの生徒、二千人しかいませんよね?」

 

「トレーナーコースの実習生なんかを入れたらもっと増えるだろ。それに、買ってくのは別に生徒だけじゃないからな。一人一箱ってわけでもない」

 

「確かに……だとしても、なんでよりにもよって今日こんな大量に」

 

「いやいや……お前、今日がなんの日か分かってないのか?日付だよ日付」

 

「日付?……あぁ、言われてみればそうでしたね」

 

今日は11月11日。世間では所謂『ポッキーの日』などと称される日付であり、それになぞらえてポッキーゲームとかいう遊びが流行る日だ。流行りに敏感な年頃の少女達が集まる学園なだけあって、それはもう飛ぶように売れるのだろう。

 

「言われてみればって……ポッキーの日以外になにかあったっけか。それともお前にとって特別な意味でもあるのか?」

 

「私にとってというより、私とルドルフにとってですね。菊花賞です」

 

「……あぁ、そういえばそうだったな。にしてもポッキーの日より先に出てくるとは、トレーナーの鑑だな」

 

そりゃ、部外者からしてみればそうかもしれないが。私達二人にとっては忘れたくても忘れられない日付である。これで真っ先にポッキーの日が出てくるようでは、ルドルフにはっ倒された所で文句は言えない。

 

まぁ……それでも、流行りに乗っかってみるのも悪くないだろう。タキオンのことをミーハーだとか言っておいてなんだが、私もこういったお祭りの雰囲気は好きなんだ。

とりあえず普通のチョコ味を三つとってカゴに入れておく。あの三人の菓子の好みについてはよく分からないが、一般的なものであれば間違いはない筈だ。

 

「あ、先輩。この後私とも一発やりません?」

 

「やだよ。男とイチャつく趣味なんてないし。それにお前とそういうことするとタキオンが怒る」

 

「………男なのに?」

 

「だって見た目がなぁ……うん、誤解を招くでしょやっぱ。いくら大人同士と言ってもな。ああ、タダでくれるってんなら貰っとくよ?勿論お前の支払いでな。あとゲームはやんない」

 

「ですよね……私だってやりたくありませんし。先輩に近寄ると眩しくて目が潰れますから」

 

「なに、拗ねてんの?」

 

「拗ねてませんよ。ただ、ここまでばっさりいかれるとは思わなかっただけです」

 

「面倒くささならタキオンとタメ張れるよ、お前」

 

そういう余計な一言が巡り巡ってタキオンのミミに届くから酷い目に会うんですよ、先輩。

……なんて言える筈もなく、私はさっさと会計を済ませるためにレジへと向かった。先程の言葉は嘘ではない。本当に、彼の近くで会話を続けたことで頭の奥がクラクラしてきている。次からは、もう少し目にマシな光……柔らかい緑色にでもしたら良いと、タキオンに進言でもしておこう。

 

 

 

 

コンコンと軽くノックをした後、私は生徒会室のドアを開ける。

中に入ってすぐ目の前には、机を挟んで対面に据え置かれた高級そうなソファがあるが、そこにいつもの三人が腰かけていた。私から見て右手にルドルフ、左手にエアグルーヴとブライアンといった配置。机の上には資料とノートパソコンが広げられ、奥の方には購買の袋が転がっている。

 

「失礼する。三人とも、根詰め過ぎてはいないだろうね」

 

ルドルフは言わずもがな、エアグルーヴも放っておくとかなり無理をしてしまうタイプだ。ブライアンはそのあたりの調節が上手だが、一方で必ずしもストッパーになるとは限らないため、こうして度々様子を見に来る必要がある。

 

「……ああ、トレーナーか。もうこんな時間だったとはな」

 

私の声かけからやや遅れる形で、エアグルーヴが返事をくれる。二、三度目をしばたかせ、目頭を軽く押さえているあたりやはり疲労が溜まっているらしい。

とはいえ、そのことは他でもないエアグルーヴ本人が一番良く分かっているらしく、どうやら休憩をとることに決めたようだ。

 

「会長、編集は一旦切り上げましょう。三時間毎に休憩をとると今朝約束したばかりでしょう」

 

身を乗りだし、キーボードを叩くルドルフの肩を揺さぶるエアグルーヴ。流石副会長なだけあって、会長の無理を見越した約束を取り付けていたらしいが、しかし肝心のルドルフは従おうとしない。

 

「ん………分かったエアグルーヴ。あと少し、あともう少しだから……」

 

「なにも分かっていないじゃないですか。会長!!………ルドルフ!!」

 

「ん、んんぅ…………」

 

………駄目だ、これは。完全に自分の世界に入ってしまっている。エアグルーヴは頭を抱えてしまい、ブライアンに至っては初めから無理だと決めつけているのか二人の方を見向きもしない。

もともと、二人が加わる以前は一人で生徒会を切り盛りしていた彼女のこと。『あの頃と比べれば』という考えが頭の片隅にあるのだろうか。エアグルーヴや他の生徒会の生徒との交流の結果、自らを酷使する働き方もだいぶ改善されてきたように思うが、それでも時々こうして入れ込んでしまうことがある。

単純に人手が増えた以上、負担が減ったのは間違いないだろうが……そのぶん休憩を削ってしまうようでは元の木阿弥。エアグルーヴの助けを求める視線に従って、私はルドルフの隣に腰掛ける。

 

「ルドルフ。もう午後の三時だよ……きっちり休む時は休む。エアグルーヴと約束してたんだろう?守らないと」

 

「うん……トレーナー君。でもあと少し、あともう少しだから……」

 

………親にテレビゲームを止めろと叱られた小学生かな?しかし彼女の場合はそんな甘いものではない。職業病と言ってしまえばそれまでだが、実際この悪癖のせいで寝不足でトレーニングに支障をきたした前科もあるわけだし。ここはトレーナーとしても見過ごせない。

しかしどう止めたものか。とりあえず、膝の上でゆらゆらと揺れる尻尾を掴んでしごいてみる。

 

「………………………………」

 

 

おぉ、凄い。普通、ウマ娘はこうして尻尾を弄られると悲鳴を上げるものだが。ルドルフは悲鳴どころか眉一つ動かさない。大した精神力ではあるが、あまり褒めてばかりもいられないだろう。

 

「ほら、ルドルフ。差し入れも持ってきたから皆で食べようか」

 

「ん……トレーナー君、君が食べさせてくれないか」

 

試しに食べ物で釣ってみようと購買の袋を掲げて見せたものの、返ってきたのはこの返事。強情な奴め。

作業を中断するまでお預けとしてやっても良いが、そうしたところで彼女が態度を翻すこともないだろう。ならいっそ、お望み通りにしてやってもいいかもしれない。それでなにかが変わるというのであれば。

 

ピッと袋の口を破り、中からポッキーを一本取り出す。それを横からルドルフの口の中へ、ゆっくりゆっくりと差し込んでいった。

ポリポリとそれを削っていくルドルフ。口に送りこんだ時点で私の役目はおしまいなのか、咥えたポッキーを一人で噛み砕きつつ口に含んでいく。しばらく頬を膨らませてモゴモゴとさせた後、ごくんと彼女の喉が上下するのが分かった。

 

「…………………………」

 

私は無言で袋から二本目のポッキーを取り出し、再度ルドルフの口に差し込んでやる。全く先程と同じ動きでそれを咥えこみ、咀嚼し飲み込んでいくルドルフ。

彼女の表情は微動だにもしない。感想を述べることもなければ、続きを催促してくるようなこともない。ここで私が食べさせるのを切り上げたところで、きっと彼女は文句すら言わないだろう。そもそもその事にすら気付かないかもしれない。

たまたまそこにあったから食べた。なにか差し出してきたから咥えた。そんな彼女の様子は、不謹慎にもどこか可愛げがあった。

 

「ふふ……………」

 

「おい、貴様。まさか楽しんでいるわけではあるまいな?」

 

「ソ、ソンナコトナイヨ……!?」

 

まるで学園で飼育しているウサギに似ているなぁだとか、そういえばあのウサギも葉っぱをやるとこうしてモゴモゴ食べていたなぁだとか、そういう不埒なことを考えていたわけではありません、副会長。

しかしなんというか、こうして手渡しで食べ物を与えられる様が妙に堂に入っているというか……ひょっとしたら、前世のルドルフは牧場か何処かで飼われている動物だったのかもしれない。もしそうだとしたら、きっと沢山の人に愛されていたんだろうな。

 

「……なら、どうして先程からそんなにニヤついている?」

 

「え?」

 

指摘されて、口の周りをペタペタと探ってみる……本当だ。自分でも気付かないうちに、邪な内心が顔に出てしまっていたらしい。やはり滅多なことを考えるものではない。

しかし、どうして……か。ひょっとしたら、これを上手く使えばルドルフの集中力を切り崩せるかも。

 

「いや……なんでもない。少し、この間のことを思い出してしまってね」

 

「それは一体なんのことだ?以前にも会長とこういったことをした経験があるのか?」

 

「あるけど、今言っているのはそのことじゃなくてね……実は、前に休みを使って樫本さんと二人で牧場に行ったことがある」

 

「…………ほぅ」

 

すぅっと、細められるエアグルーヴの眼差し。場の温度がやや下がった気もするが、どうやら興味津々らしい。

樫本理事長代理……もとい今は樫本トレーナーだったか。元URA幹部かつ現中央ベテラントレーナーという、つまり私から見てとても偉い人のことである。なんでそんな人とわざわざ牧場になんて行ったんだったか……確か、割引券の消化だったな。牧場にも割引券があるというのは中々意外に感じた記憶がある。

 

「そこで、何頭か牛を見て回ってね……それから飼育員さんに勧められて餌をあげたんだ。餌といっても乾草とか稲とかだけど……こうやって口元に差し出してやるとムシャムシャ食べてて可愛かったんだよ」

 

「ほぉ………つまり貴様は、会長が牧場の牛と同じに見えると?」

 

「別にルドルフが牛だと言いたいわけじゃないけどね。ただ、そういう連想が出来ると思ったことを言ったまでだよ」

 

さぁ、どうだ。ルドルフに秘密で樫本さんと二人きりで牧場で遊び、おまけに彼女と家畜の牛が似ているなんていう私の暴言。いつもの彼女であればかなり堪に障るに違いないが。

 

「……………駄目か」

 

全く。こちらに見向きもしてくれない。ウマミミや尻尾にすらなんの反応も顕れていなかった。怒る怒らない以前に、そもそも会話の内容が頭に入っていなかったらしい。

それよりも先程からエアグルーヴがやけに不機嫌なのが気にかかる。やはりいくらトレーナーとはいえ、敬愛するルドルフを牛呼ばわりするのは不味かったか。

 

「そうかそうか。私達がチームファーストとの決戦に備えて一丸となって練習に励んでいる最中……トレーナーであるはずの貴様は、こともあろうに相手の首魁とデートに興じていたとはな。失望したぞ」

 

「いや、デートというか……そもそも首魁じゃなくてただのトレーナーだし。理事長代理だからただのじゃないか。それに私は君たちを信じてたよ。シービーとルドルフ、エアグルーヴとブライアン、マルゼンと……それにオグリ。まぁ、勝てるよね」

 

「このたわけ!!勝ち負けの問題ではない!!そもそも貴様には、チームのトレーナーとしてあるべき姿がだな……」

 

「……おい、トレーナーと副会長。そんな下らんこと言い合ってる場合なのか」

 

いきり立つエアグルーヴに横槍を入れる形で、ブライアンが脇から口を挟む。ソファの背中に腕を回し、ぐでっと顔を反らしながら咥えた葉っぱで時計を指し示した。

 

「三時半だ……トレーナーが来てからもう三十分経っている。休憩させたいならさっさとルドルフを起こしてやれ」

 

「ブライアン。貴様も見てないで少しは手伝ったらどうだ。この状態の会長がテコでも動かないことは知っているはずだ」

 

「知っているから動けないんだろう。私にはどうすることもできん……どうにかできるのはトレーナーだけだ」

 

なぁトレーナーと、瞳だけ動かして私を睨んでくるブライアン。心なしか彼女も機嫌が悪そうだな。

しかしまぁ、ブライアンの言うとおりこのままでは埒があかない。ルドルフのことだ。休憩時間を経過してしまえば作業を中断させることはほぼ不可能だろう。

 

「………仕方がない。気は進まないが、"奥の手"を使うことにする。二人は先に食べていてくれ」

 

「そうか。分かった」

 

「いや、私は待つことにする」

 

促されるまま差し入れのポッキーに手をつけるブライアンと、とりあえず私達を待つエアグルーヴ。こういったところでも、二人の性格の違いが如実になるのは面白い。

 

とりあえず、私は袋から残りのポッキーを全て取り出し一つにまとめる。先程とは比べ物にならないほど太く大きくなったそれを、おもむろにルドルフの口へとあてがった。

 

「ほらルドルフ。あ~ん」

 

「……………あ~」

 

「それっ!!食えっ!!!」

 

「むごっ??!!」

 

突然想像以上の太さの物体を突っ込まれ、目を白黒させるルドルフ。頭の理解が追いついていないのか、反射的にムシャムシャと食べ進めていく。

ポッキーの束のうち、チョコの部分が半分近く削られたところで……私はルドルフの口からそれを無理やり引き抜き、今度は自分の口に放り込んで見せる。

 

「え……な、ぇ……トレーナー、君……!?」

 

「もごもご」

 

呆然とし、次いで顔を朱くするルドルフの目の前でゆっくりとそれを咀嚼し飲み込んだ。クッキーの欠片がかなりパサパサしていてキツイ。自分からやっておいてなんだが、よくルドルフはそんなあっという間に飲み込めたものだ。やはりウマ娘なだけあって、飲み込む力も人間を凌駕しているのだろうか。

 

「トレーナー君……そ、それは私の食べかけだぞ……!?それを君が口にするだなんて……」

 

「ポッキーゲーム」

 

「……………は?」

 

「だから、ポッキーゲームだよ。ルドルフ」

 

まぁ、ポッキーゲームはこんな遊びじゃないわけだが。とはいえポッキーを使ってドキドキさせるのだから、そう間違っているものでもないだろう。たぶん。

ルドルフは暫くの間、唖然とした様子で私の方を見つめていたが……やがて目を反らし、パタンとノートパソコンを閉じた。

 

「あ、ルドルフ。やっと休憩する気になったのか」

 

「ああ。すまなかった……約束したにも関わらず、ついつい熱が入ってしまったよ。だから、そのお詫びとして………」

 

私の手元から菓子の箱をかっさらい、もう一つの袋を開封する。中からポッキーをごっそり取り出すと、私の顎をがっちり摘まんだ。

 

「………私が君に、本物のポッキーゲームについて教えてあげよう!!」

 

「や、約束したのはエアグルーヴなんだから、お詫びなら彼女の方に……」

 

「はい、トレーナー君。あ~ん」

 

「無理無理、そんな太いの入らなっ……むごっ??!!」

 

頭をがっしりと押さえ込まれ、口の中に先程のものよりさらに太いものが捩じ込まれる。私に突っ込まれたのはチョコのかけられた側。反対側の、クッキーの剥き出しになった部分に口を近づけていくルドルフ。

 

「会長。ポッキーゲームとはそのような遊びではなかったと記憶していますが……」

 

「ポッキーの端と端を男女が咥えこみ、お互いに両方から食べ進めていく……まさにこのことだろう?さぁトレーナー君。一年ぶり三回目の菊花賞といこうか」

 

「え……まさか会長とトレーナーは、これを毎年やっておられるのですか……?」

 

「むぁう、むーむ!!」

 

ドン引きした顔のエアグルーヴと、我関せずとポッキーを齧るブライアン。

違う、そんなわけあるか!!去年も一昨年も、ちゃんと本来のやり方でやっていたのに!!

 

「さて、それでは……始めようか。トレーナー君」

 

「むむひへ!!うおうふ」

 

「ふふっ!!……無駄だよ……」

 

私の抵抗なんて歯牙にもかけず、もう一方の端を咥えて食べ進めてくるルドルフ。うわっ、思っていた三倍ぐらい食べるのが速い。口いっぱいのクッキーに悪戦苦闘している間に、既にお互いの前髪が触れあう程にまで顔が接近している。

情緒もへったくれもないポッキーゲーム。二つの意味で胸がドキドキしている。たまらず棒を折って難を逃れようと試みるが、太さが太さ故に中々噛みきることすらできない。

 

「むぐぅ……!!?」

 

結局、あっという間に私達の唇は触れ合って……大半を、ルドルフに食べられてしまう結果に終わった。

 

「はい、私の勝ち。これで三年連続で私の勝利だな……ご馳走さま、トレーナー君。お味はどうだったかな?」

 

「あ、甘かったです……」

 

「ふふ、そうだろうね」

 

勝ち……そういえば、ポッキーゲームに勝ち負けのルールなんてあったっけ……?どうにもルドルフは、より多くのポッキーを食べた方が勝ちだと認識しているらしいが。

 

「さて、それじゃあトレーナー君。三回戦を始めようか……そんな顔しなくても、次こそはちゃんとまっとう・・・・にやるさ」

 

「だけど、私が持ってきたのはこれで全部だよ……」

 

「問題ない。君だって、あの購買の様子は目にしただろう?私達がアレを買い求めていないというのはおかしな話じゃないか。お菓子なだけにね」

 

ふふっと笑いながらルドルフは机の奥にある袋に手を伸ばすと、その中身を取り出して見せる。色とりどりの箱。言うまでもなく、それらの中身は全てポッキー。

そのうち一つを開封して、ルドルフはゆっくりと私をソファに押し倒した。

 

「さ、トレーナー君。今度は君の未勝利戦を始めようか」

 

「………………はい」

 

 

 

 

 

 

 

「……おい、私達はあと三十分も目の前でコレを見せられ続けるのか?」

 

「三十分ではない。一時間だ……会長は、休憩は毎回一時間とると約束されていたからな」

 



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私達、結婚しました

「私達、結婚しました」

 

昼下がりの生徒会室。いつも通り午前の業務を終えて、息抜きに談笑にでも興じていた時間。高らかに、そんな突拍子もない宣言が発せられた。

ぴし、と空気の凍りつく音が確かに聞こえる。

 

どうしてこんなことになったのだろう、なんてどこか他人事のように頭を巡らせる。急変にも程がありすぎる場面展開に頭が追いつかず、自分がそこにいるという現実を受け入れられない。

むに、と右腕上腕に触れる柔らかな感触。見ると、私の右腕に自らの両腕を絡ませたシービーがその胸をぐにぐにと押し付けてきている。それを見て、みるみる視線が鋭くなっていく目の前のルドルフ。そして、そんなルドルフを興味深げに眺めるマルゼンスキー。確か、いつものこの三人とお喋りしていたのだったな………つい先程までは。

パキン、と不穏な音が私達の間になる。それは凍った空気に亀裂の走った音か、それともルドルフの手に持つカップに罅の入った音か。わなわなとおののく彼女を見て『やーん、まいっちんぐ!!』と何故か嬉しそうにはしゃぐマルゼン。よくもまぁ、あの至近距離でルドルフの威圧を受けながらそこまで笑えるものだ。剛毅とか豪胆を通り越して、ルドルフとは違う意味でまた恐ろしさを感じてしまう。

 

「これ、私の旦那です」

 

相変わらず胸をぐりぐりと押し付けながら、私の胸にすりすりと頬擦りをしてくるシービー。やや緑がかった独特の鹿毛が私の顔スレスレで踊り、柑橘系の甘酸っぱい爽やかな香りが鼻腔を満たす。

その姿はどこか猫を連想させた。飼い主に構って欲しくてすり寄ってくる気紛れな飼い猫。もっとも、今シービーが秋波を送っているのは私ではなくルドルフなわけだけど。

 

「嘘です」

 

「いいえ本当です」

 

「おめでとうシービー。でも事後報告なんてちょっと寂しいんじゃないかしら?お姉さん悲しいわ」

 

「ごめんねマルゼン。いつまで経っても旦那が腹を括らなくてさ、やっぱり男ならここ一番で意地を見せないといけないよね……ねぇアナタ」

 

胸から顔を上げると、そのほっそりとした指で私の頬を撫で上げてくるシービー。悪戯心に溢れた微笑みに、窓から射し込む光に照らされてキラキラと輝く次縹色の瞳がよく映える。うわぁ……本当に顔がいいなこの娘。

 

「まぁ、そういう所も含めて愛してるよアナタ。これから夫婦になるんだから、多少駄目な夫でも妻が支えていけばいいだけの話だからね」

 

「駄目とか言うな」

 

「大丈夫。たとえどれだけ甲斐性なしで人の心が分からないヘタレでチキンのおとぼけだったとしても、それでもアナタのことは私が一生かけて大事にするから」

 

頬を撫でていた手を外し、今度はぐるりと首の後ろに両手を回す。そのまま体全体を密着させてきた。ウマ娘特有の、人間よりも高めの体温が直に伝わってくる。

 

「成る程、大した殺し文句だな。それで?そうやって何人の生徒に粉をかけてきたんだシービー。えぇ……このグッドルッキングホースガールが」

 

「そんなの一々数えてるわけないでしょ。キミはこれまで食べたパンの数を覚えているのかな?それに、シリウスよりはだいぶマシだと思ってるんだけど」

 

「他所は他所。うちはうちです」

 

「それにあの子はちゃんと釣った魚には餌を与えているじゃない。愛想だけ振り撒いていくシービーの方がよっぽどたちが悪いと思うわ」

 

「えぇ~~」

 

酷いなぁと口ではぼやきながら、シービーは一向に体を離そうとしない。それどころかますます密着を強めてくるが、絶妙な力加減によって不思議と息苦しさは感じなかった。

ピョコンと飛び出している二つのウマミミが、まるでもぐらたたきかなにかのように私の顔を連打しまくる。はっきり言ってうざったいことこの上ないが、抗議したところでやめるどころかますます攻勢を強めてくることは目に見えているので仕方なくスルーしておく。

 

「さ、旦那様。ルドルフとマルゼンへの顔見せも済んだとこだし、早速式場の下見にいこうか。あ、先に種類は決めておいた方がいいよね。教会式か神前式か、それとも仏前式か………ウェディングドレスには憧れるけど、白無垢も捨てがたいと思うなぁアタシは」

 

「普段あれだけ自由人を標榜しておきながら、そういう所だけはきっちり伝統に則るんだな……」

 

「あれ、キミもノリノリな感じ?でもそうだよね、人前式で好き放題やるのも面白そうかな。参加者全員勝負服着用で。神父役はルドルフにやってもらおう。病める時も健やかなる時も~ってアレね。『さぁトレーナー君そしてシービー。ここに誓いのキスを』」

 

「ねぇねぇシービー、私は?私はなにを任せて貰えるのかしらん」

 

「マルゼンにはスピーチをやってもらおうと思っているんだ。聞いている方が半分も内容を理解できないような、とっておきのスピーチを」

 

「……?よく分からないけど、いつも通りやればいいのね!!分かったわ……もうそこまで考えていただなんて、流石シービーは準備が早くてチョベリグね。トレーナー君も幸せ者だわ……こんなしっかりものの奥さんを捕まえちゃうなんて」

 

「いいや。浮気性なウマ娘は嫌いだよ私は……妻の不貞行為は婚姻関係解消の一因として認められるからね。だから、この後向かうのは式場ではなく裁判所だな」

 

「あぁん、いけず~。勿体無いわよ、こんな良物件をみすみす手放しちゃうだなんて」

 

「ホントだよね。キミはシリウスと違って釣った魚には餌を与えないタイプなのかな?」

 

「そもそも釣った覚えはないが。勝手に陸に飛び込んできて口をパクパクさせている魚だろう君は。それが餌をくれだなんてまったく烏滸がましい」

 

「ふぅん?」

 

不服そうに頬を膨らませながら、ますますミミの連打を加速させるシービー。同じゲームでももぐらたたきじゃなくてあれだな、太鼓をバチで叩くゲーム。それもたぶん、難易度が一番高いやつ。そういうとこだぞ、シービー?

 

 

 

「………それで、今度は一体どういうつもりの冗談なんだろうか。シービー?」

 

「あれ、ルドルフいたんだ。ゴメンすっかり忘れていたよ」

 

「君って奴は」

 

これまで黙りを決め込んでいたルドルフが、ようやく冗談であると理解したのか重々しく口を開いた。両手で顔を覆い、深々としたため息と共に天井を仰ぐルドルフ。隣に佇むマルゼンが、ぐにぐにとそのミミを弄った。

 

「ほら、ルドルフに嘘だってバレちゃったじゃん……全く、トレーナーのノリが悪いからだよ。あーあ」

 

「いや、最初から無理があっただろうに」

 

「……マルゼンはともかく、君がここに来てやることといえば私にちょっかいをかけるぐらいだ。シービー。私をからかうのはそんなに面白いか?」

 

「うん。それはもう……ねぇマルゼン?」

 

「モチのロンよシービー!!年下の子をからかうのは姉の特権よね」

 

「へぇ、キミに妹がいたとは知らなかったな。てっきり一人っ子なのかと」

 

「あら、ここにいるじゃない。それはもうおっきくて生意気な妹が!!」

 

「くっ……………」

 

からから笑いながら、マルゼンはポンポンとルドルフの肩を叩く。それに対し、最早なんの反抗も示さないまま嵐が過ぎ去るのを待つだけのルドルフ。

なんというか、この三人が揃った場合にルドルフが主導権を握れたことは殆どないような気がする。毎回シービーがちょっかいを出し、マルゼンがそれに乗っかってルドルフの反応を窺う形だ。まれにルドルフからやり返すことがあるものの、毎回それ以上に痛烈なカウンターを貰うのであまり効果は出せないでいる。

 

もっとも、それ以上に立場が低いのが私なんだけれども。大抵の場合、ルドルフへのちょっかいのダシに使われて終わりなだけなのだから。現生徒会におけるヒエラルキーは、上から順にシービーとマルゼン、次にルドルフ、最後に私である。これは、シービーを会長としてそれをルドルフとマルゼンが支えていた前生徒会からまるで変わっていない。一度序列が決まってしまえばそこから抜け出せないなんとも恐ろしい制度である。

 

「それで、なんでこんなことをしたのかだって?」

 

嘘と見抜かれるや否や、シービーはパッと私から離れてスタスタと部屋の真ん中へ近づいていき、ドカッとそのソファに身を沈める。流石は元この生徒会室の主なだけあって、そんな何気ない仕草ですらやけに堂に入っていた。

 

「ほら、日付だよ日付。今日は11月22日……11(いい)22(ふうふ)の日ってことだからさ。私もトレーナーと夫婦になってみようかなって」

 

「そんなホイホイと夫にされてたまるか」

 

「そう?でもホントはトレーナーだって、満更でもなかったりするんじゃないの?」

 

にやにやと、こちらを挑発するような笑い。……確かに、シービーのような見た目麗しいウマ娘に迫られて、なにも思わないところが無かったと言えば嘘になる。が、それを認めるのも癪なので、ここは断固として否定しておいた。……おい、どうしてそんな悲しそうな表情をする?こういう時だけそういう顔を見せるのはちょっとズルいんじゃないか。

 

「……まったく。そういう遊び心を否定するわけではないが、だからといって勝手にトレーナー君まで巻き込むのはいかがなものだろうか」

 

「あれ、よりにもよってルドルフがそんなこと言う?つい十日程前、まさにこのソファでキミとトレーナーがナニをやっていたのか……アタシが知らないとでも思ってるのかな」

 

「………さぁ、なんのことだか」

 

「アタシさ、ポッキーゲームって普通恥じらいながらやるものだと思ってるんだけど。あっという間に淡々と一箱空にしてるルドルフは一体なんなの?大丈夫?あのゲームをちょっと変わった食事方法の一つかなにかだと勘違いしてない?トレーナーはポッキーを固定するための食器とかじゃないんだよ?」

 

「ぐ…………」

 

まさかの弱点を突かれて、顔を真っ赤にしながらシービーを睨み付けるルドルフ。抜き身のナイフのようなその視線を、なんでもないかのように彼女は受け流す。

それにしても、あの時の部屋の中には確かに私とルドルフしかいなかった筈なのに、シービーはそれを何処で見ていたのだろう……?おおかた机の下に隠れ潜んでいたというところだろうが、念のため後で隠しカメラとか盗聴器の類いも探しておくことにする。

 

 

「それにしても、いい夫婦って一体どんな夫婦なのかしらね?」

 

ぽつりと、マルゼンがそんなことを呟いた。

確かに、一口に『いい夫婦』と言われたところで、それが具体的にどんなものかははっきりと導き出せないだろう。そんなことが出来るなら、世の中の破綻する夫婦の数はもっと少なくなっている筈だ。お金であったり、家であったり、あるいは子供であったり……一般的に幸せの条件とみなされるものは沢山あるが、それが欠けていたところで円満に暮らす男女は数え切れない程いるだろう。その逆も然りだ。

 

「ふとカレンダーを覗いた時に、11月22日という日付を見つけて……それが自分達を祝ってくれていると思えるのなら、それこそがまさしくいい夫婦の証明だろう」

 

「あら!!思っていた以上にお洒落な答えね。見直しちゃったわトレーナー君。それなら、貴方にとっての理想の夫婦は具体的に誰と誰なのかしら」

 

「それは………」

 

咄嗟には出てこない。私の知り合いには既婚者も多いが、だからといってその夫婦生活まで事細かに情報が伝わってくるわけじゃない。酒の席で愛妻自慢をするような知人友人もいないわけだから。

 

「生憎、今の私にはよく分からないな。結婚したこともなければ、結婚しようと行動したこともないからね」

 

「なら、トレーナーのお父さんとお母さんならどうなのかな?」

 

「いや……そもそも両親の記憶は私にはないな。顔や名前すらも出てこないし、ましてやいい夫婦かどうかなんて分かる筈もない」

 

「孤児ということだな」

 

「まぁ、そんなところだよ」

 

だからといって、今更夫婦とか家族なんかに執着や未練があるわけでもない。元々好きあって結婚したのだから、お互いを尊重しあえばいい夫婦のままでいられるんじゃないかというのが私個人の見解だ。

……こういう甘い思考をいつまでも抱いてるあたり、私に結婚なんてイベントはいつまでも訪れない気はするが。とはいえ互いの人生を賭ける以上、そんなに焦ってやるべきものでもないだろう。

 

それに……そもそも家族とか夫婦等と言われた場合、私が連想するのは実の両親ではなく、むしろ彼女の方で。

 

「ルドルフ。君のご両親はどうだろうか?変わらず元気にしてらっしゃるかな」

 

「心配しなくとも、この先百年は連れ添い続けると仰っていたよ。ふむ……確かに私の考えるいい夫婦とは、まさにあの人達のことかもしれない」

 

「あれ、トレーナー。ルドルフの親御さんと会ったことあるの?……まさかご挨拶に伺ったりとか?」

 

「やだ。トレーナー君ったら……思っていたよりずっと大胆じゃない。手が早いわね」

 

「なにを勘違いしているのか知らないが、ずっと昔の話だよ。それにご両親だけじゃなくて、兄弟姉妹とも面識はあるし。……妹の方は、恐らく私のことは覚えてないだろうが」

 

「へぇ。お姉さんがいるのは知ってたけど、ルドルフには妹もいたんだね。正直イメージと違うというか、意外だな」

 

「ルドルフは一人っ子か末っ子って感じよね」

 

「確かに、だいぶ長いこと末っ子をしていたからね。事情を知っているトレーナー君はともかく、マルゼン達がそう思うのも無理はないかもしれないな」

 

ルドルフの両親、そして兄弟姉妹か。

家族と聞いて真っ先に頭に浮かんでくるあたり、私もだいぶ彼女たちに入れ込んでしまっているらしい。もっとも、向こうはどうせ私のことなんて記憶に残っていないだろうが。

……しかしそんな私の考えは、続くルドルフの言葉によって掻き消された。

 

「そういえばトレーナー君。私の母が、『いい加減家に顔を出せ』なんて言っていたよ」

 

「ルナさんが?」

 

「うん。君がトレーナーになったと聞いて、てっきりすぐに顔を見せるかと思ったらいつまで経っても来やしないから、いい加減業を煮やしたらしい」

 

「………怒ってる?」

 

「さぁ、どうだろうね」

 

……怒ってるな。怒られると分かっているのに足を運ぶのは気が重い。そもそもシンボリのお屋敷は名門なだけあってやたら構えが厳めしいし、敷居が高すぎるのが悪いと思う。場違いもいいところだ。そういうのを気にしない人間もいるらしいが、生憎私はそこまで肝が太くない。

 

「まぁ都合がついたら考えておくよ」

 

「ああ。我々一同、色よい返事を待っているよ」

 

 

 

「あ、これ絶対行かないパターンだよね。こういうのって先延ばしすればするだけ厄介なのに、トレーナーも学習しないね。絶対この後予定入れまくるよ」

 

「ケツカッチンで逃げちゃうつもりね。だからシービーにへたれって言われちゃうのよ。このおたんこなす」

 

 

相変わらずきゃいきゃいと騒ぐ二人を尻目に、私は生徒会室を後にする。

………とりあえず、今後の日程の見直しをしないとな。

 



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問題児達の王【1】

明日のトレーナー会議で提出するための資料をとりまとめ、校舎を出た時には既に陽も落ちていた。

肩を撫でる突き刺すような夜風にぶるりと身を震わせ、すっかり秋も深まってきたことを再認識する。ぽつぽつとまばらに立ち尽くす街灯が道を照らしてくれるが、その青白い光はかえって私に一層の寒々しさをもたらすばかりだった。

 

道に沿って学園の敷地内を横断する。この地域にしてはとんでもない面積を誇る学園。今でこそ我が家の庭のように闊歩しているが、着任して最初の一週間などは案内なしにはまともに動けなかった。大まかな配置を頭に入れていたところで、実際に歩いてみるとまるで感覚が異なるのだ。おまけに全く同じ複数の建物が規則正しく並んでいるので、うっかりすれば自分の現在地点そのものを見失ってしまう。

この学園を一人で迷わず歩けるようになって初めて半人前卒業だということだ。私もサブトレーナーだった頃、先生にそう教わっている。

 

 

「………………ん?」

 

広場まで出たとき、ふと見知った顔が目に入った。

腰の下まで伸ばされた長い鹿毛に、煌々と輝く朱い瞳。その眉は自信たっぷりに引き絞られており、緩やかに腕を組んで佇んでいる。顔には挑戦的な笑みを湛えており、その尻尾も堂々とした様子で左右に揺れている。溌剌としたその姿は、この夜の薄暗さの中ですら圧倒的な存在感を放っていた。

 

「シリウス」

 

彼女の名前はシリウスシンボリ。海外を主戦場としてきたダービーウマ娘であり、ここ中央においても指折りの実力者である。

私自身、昔から付き合いがあることも相まって彼女にはそれなりに思い入れが大きい。しかしどうも、近頃のシリウスは学園の問題児達を束ねており、他の生徒並びに生徒会ともトラブルを起こしているという。仮にも生徒会長のトレーナーである私としては、そんなシリウスとあまり深く関わり合うわけにもいかず、お互い顔を合わせない日々が続いていた。

……とはいえ、人目のないこの時間帯なら大丈夫だろう。シリウスの方はどうか知らないが、私としては彼女と疎遠になりたいつもりもないわけだし。せめて挨拶ぐらいはしておこうか。

 

そう考え、おもむろに数歩歩み寄った瞬間、シリウスの向かいにいるもう一人誰かの存在に気づく。校舎の影に隠れて見えていなかったが、そこには私にとって最もよく見知ったウマ娘の姿。

 

「―――なのでシリウス、今後の活動は少し控えてもらいたい」

 

「へぇ……?」

 

「君が大勢の生徒を従えて、度々コースを占拠していることは耳に入っている。批判も集まっているよ……君なりに考えがあってのことだろうが、それは他の生徒の成長を妨げる理由にはならない」

妨げる理由にはならない」

 

……ああ、そういえばつい先程もそんな小競り合いが起きていたな。生徒たちのみならず、トレーナーの間でも苦情が聞かれるようになった。ただでさえ綿密にプランを組んでいる育成メニューのこと。担当の怪我や不調ならばともかく、他のウマ娘の都合で一方的にトレーニングに制限をかけられてしまっては敵わない。

生徒会長たるルドルフにとってもおよそ看過出来ない事態である。なのでわざわざこうして出張ってまで自制を促しに来たのだろう。

もっとも、そんな事ではいそうですかと折れるようなシリウスではない。

 

「なら、私がアイツらを仕切るのをやめたとして、だ。その後アイツらの面倒は誰がどう見るつもりなんだ?」

 

そう投げられたシリウスの問い掛けに、対応策を提示するルドルフ。それを聞いたシリウスは、更に批判を重ねていく。

堂々巡りだ。議論は平行線のまま……これでは、どれだけ時間をかけたところで妥協点など見つからないだろう。いや、そもそもルドルフはともかくシリウスの方は最初から譲歩するつもりなんてないのかもしれない。

 

「……なぁ、"皇帝"サマ。アンタはなにも分かっちゃいない」

 

あくまでお互いの譲歩にこだわるルドルフ。そんな彼女の姿を前に、問題児達の王はそう嘯いた。

 

「大抵のヤツはな、生まれながらに何かしらの問題がある。そういう問題は突発的に振りかかってくるんだ。レースやトレーニングがあるか否かに関わらず。優等生のアンタと違って、アイツらに『次』なんかないんだよ。なら、目を向けるべきは『今』。そして個々に目を向けなければ『今』は見えてこない」

 

「ふむ……つまり個々に合わせた対応策をとるべきということか。一理あるが、現実的ではないのも事実。個々の生徒に合わせた結果、全体がおろそかになったり、ましてや一部の生徒を優遇するようでは本末転倒。だからこそ、均等な機会を設けることこそ最善だろう」

 

議論は平行線のまま、一向に決着がつく気配も見えず。どうしたものかと窺っていると、不意にシリウスの目がこちらを向いた。

 

「………ハァ、これ以上話していてもラチがあかねぇ。おいアンタ。さっきからコソコソ聞いてたんだろ。どっちが正しいか言ってみな」

 

見つかっていたか。隠れているつもりではいたのだが、流石にウマ娘のミミやハナは誤魔化せないらしい。

シリウスに促されるまま、私も広場の中心へと歩み寄る。そんな私の姿を見て特に反応もしないあたり、どうやらルドルフもこちらの存在を認識していたらしい。

 

「私の意見なんて聞いてどうする?さっきから聞いていれば、お互い平行線のまま……なにを言ったところでその溝は埋まらないと思うけど」

 

「いいから言えよ。別に採決をとろうってわけじゃない。ただ、アンタがどう考えているのか知りたいだけだ」

 

「それは私も気になるなトレーナー君。私達の議論を聞いた上で、君はどちらの意見に賛同する?」

 

「議論ね……」

 

果たしてアレを議論と呼べるのだろうか。確かにルドルフはそのつもりだったかもしれないが、シリウスの方は正直言って彼女の追及をかわす事自体が目的のように見える。シリウスの個人重視な意見と、ルドルフの全体重視な意見。いずれにしても、どちらに共感するのかと問われれば、私の答えは既に決まっている。

 

 

「ルドルフの意見に賛成する。個々に目を向けるのは大事だが、それだけでは学園は立ち行かない。その結果、いの一番に困るのは君たちの方だろうに」

 

「なるほど、アンタも管理する側の意見ってわけだ」

 

真っ向から自分の主張を潰されたにも関わらず、シリウスはどこか楽しげな笑いと共に私を見つめる。

私とて、シリウスの意見には一理あるとは思う。親もなく、社会の溢れものとして生きてきた私にとっては、彼女の言う今しかないという言葉には共感できる所もある。故に、私がシリウスの肩を持たないのは、その意見の内容ではなく彼女の姿勢そのものが理由だ。

 

「君は王道なやり方と言ったけど、少なくともルドルフは代替案を出していたからね。なら、シリウスの方からも歩み寄るのが筋ってもんじゃないの?」

 

「ハッ、筋ねぇ。アンタもだいぶ理屈っぽくなったもんだな。上からものを言われるのは気に食わねぇが、ここはアンタの顔を立ててやるよ」

 

シリウスはひらりと身を翻す。その先の道は美浦寮に続いている筈だ。今日のところはここで切り上げるつもりらしい。時間も時間だし、頃合いといった所だろうか。

 

「……ただし、次はアンタもろとも沈めてやるよ。そっちの堅物と一緒にな」

 

そんなことを言い残して、彼女は颯爽と広場から去っていった。怒らせてしまったかもしれない。最初は距離を縮めるつもりで声をかけようと思っていたのに、結局こういった結果になってしまったことに、ほんの少しだけやるせなさを覚えてしまう。

 

「シリウスは、明日もコースの占拠を続けるつもりだろうか」

 

そっと私の隣に並んでくるルドルフ。その瞳は私ではなく、徐々に小さくなっていくシリウスの背中を追っている。

 

「そのつもりだろうね。妥協するつもりなら、さっきのルドルフからの提案の時点で首を縦に振っていた筈だ。つまりシリウスは、最初からまともに話し合う気はなかったんだろう」

 

「……私は体よくいなされただけということか」

 

「まぁ、少なくとも私にはそんな感じがした」

 

そう告げると、ルドルフは落ち込んだ様子で顔を伏せてしまう。おおかた、生徒会長としての自分の力量が足りていなかったとでも考えているのだろう。昔ならそんなシリウスの態度にむしろ激昂していただろうに、随分と人が変わったものである。変わったというより、そういう仮面を被っているだけなのかもしれないが。

 

「おやすみ、トレーナー君」

 

「あ、ああ………おやすみ」

 

そうルドルフは短く挨拶を残すと、身を翻して反対側の道を行く……のではなく、目の前の道を進んでいく。ルドルフもシリウスも同じ美浦寮所属。最終目的地が同じなので当然といえば当然のことだが。

あの速さでは前を行くシリウスに追いついてしまいそうだが、俯いているルドルフはそのことに気づいていない…………案の定、あっという間に接触して、道の中ほどでまた一悶着起きている。

介入した所で余計な火種にしかならない気がするので、私は逆方向にあるトレーナー寮を目指すことにする。なんというか、最初から最後までぐだぐだで締まらないやり取りだった。真面目な話、シリウスはこの問題についてどこに着地点を置こうと考えているのだろう。お互い見知った間柄なわけだし、私にできることなら力になってあげたいものだが…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………なんて、そんなことを考えていた自分を殴りたい気分だよ。やっぱりあの時、もっとルドルフに入れ込んでおくべきだったかな」

 

「ハハッ。今更そんなこと言ったって遅いだろ。それに言っただろ、アンタもろとも沈めてやるって」

 

「てっきりただの捨て台詞なのかと。それにあれからまだ1日しか経ってないよ」

 

「考えが甘かったな。私のことを甘く見すぎだ」

 

けらけらと満足そうに笑いながら、地面に伏せる私の尻を叩いてくるシリウス。後ろ手に縛られている上に、背中に彼女が乗っかっているため足掻くことすらできない。

唯一動く首を振って辺りを見渡すと、どうやら使われていない器具庫のようだ。無機質な蛍光灯の光が部屋を照らしている。頬に密着するコンクリートの冷たさに、思わず身を震わせた。

 

「どうしてここにいるのか分かるか?」

 

「ああ。シリウスシンボリと愉快な仲間たちが私を無理やり拉致してきたんだろ。人間一人相手にウマ娘五人がかりで手を出すとは」

 

トレーナー会議を終えて、昨日みたく学園の敷地をほっつき歩いている最中。これまた昨日のように広場の中ほどまで来たところで、不意に視界が真っ暗になった。

ズタ袋を被せられたのだと、気づいた時には既に手遅れだった。数でも力でも勝る相手に抵抗出来る筈もなく、あれよあれよという間にここまで連れてこられたのである。まぁ、ここがどこなのかは私自身よく知らないわけだけど。

 

「そういう意味じゃない。問うてるのは経緯じゃなくて動機の方だ。ああ、念のため言っておくが皇帝サマなら助けに来ないぜ。アイツらに生徒会室へ陳情に行かせたからな。今頃、お得意の平和的解決案でも披露してくれてるだろうよ」

 

「そんな解決案すら出せなかったのが君じゃないか。ルドルフの理想につけ込んで無理やりイーブンに持ち込んだだけだろ」

 

「最後に口を閉じたのはルドルフの方だろ」

 

「それは君が一方的に話を切り上げたからじゃないか。結局のところ、君はルドルフから逃げたんだ」

 

「………ほぅ」

 

がしっと上から頭を鷲掴みにされる。そのまま横向きにコンクリートの床へと押し付けられ、徐々に圧力をかけられていく。

 

「それだけ啖呵切れるタマは大したもんだな。だが、よくこんな状況で私に喧嘩を売れたもんだ。墓の手前で生きてんのか?言っておくがな、私はルドルフ程甘くはないぞ」

 

ミシミシと、絶妙な力加減で頭部を圧迫される。ライオンに押さえつけられるシマウマになった気分だ。

これは不味い。流石に煽りすぎたか……幼なじみの縁もあって、ついついルドルフを引き合いに出してしまう。普段からシリウスにとって爆弾のそれは、とりわけこの状況においては核地雷も同然だ。

 

「う、うぐぅ~~」

 

完全に押さえつけられているせいで、既に首も動かすことができない。懸命に眼球を動かして、床に胡座をかいている彼女……この部屋にいるもう一人のウマ娘に助けを求める。

 

「た、助けてくれフェスタ!!このままじゃ石榴になる!!」

 

そんな私の情けない哀願を聞いて、フェスタ……ナカヤマフェスタはゆっくりと私の方を向いた。その手に握られた、三つのサイコロが地面に落ちる。

 

「アンタもおかしなことを言うな。この状況見れば分かるだろ?私はシリウスに手を貸してるのさ……なんでアンタを助けなくちゃならない」

 

「ぐ………!!」

 

くるくると、鍵を指で回してみせるフェスタ。プレートがついていないあたり、この器具庫は学園の管理下にない……既に放棄された施設であるらしい。おおかた彼女がそれを通電させて秘密の拠点にでもしているのだろう。よくよく周囲を見渡せば、コーンやマットといった道具や資材ではなく、生活臭のある小物ばかりが目についた。

 

なるほど、ここは完全に敵地ということらしいが……しかし話を聞く限り、シリウスはあくまでフェスタに助力を請う立場。思うに、この場で最も力が強いのはフェスタなのではなかろうか。だとするなら、彼女さえ押さえれば状況を一変させられるかもしれない。必死に頭を巡らす。

 

「今は14時55分……あと5分でルドルフから定期の連絡が入る。お互い現在地の把握と業務の進行について共有する、ほんの十数秒の電話だけ……陳情の最中でも、一旦は席を外してくる筈だ」

 

「それで?」

 

「その電話を無視する、あるいはその時の私の返事次第ではルドルフがここへ向かってくるぞ。当然、この部屋の存在は露見する……そうなれば、この施設の鍵は没収。シリウス共々君も処罰されることになるな」

 

「脅しのつもりか?別にアンタに無理やり嘘の報告をさせてもいいんだぞ」

 

「そうしたいならそうすればいいさ。それでルドルフが騙されると思っているならね」

 

「……だからアンタを無条件でシリウスから解放しろと?」

 

「違う。チャンスをくれと言っているんだ」

 

そう言って、目線でフェスタの足元に落とされた三つのサイコロを指し示す。

私の意図を理解したのか、フェスタは仏頂面から一転してさも可笑しげに笑いを溢した。

 

「ハハッ、いいね……アンタの言ってることがホントかどうか知らないが、分の悪い賭けは嫌いじゃない。乗ってやるよ、その勝負」

 

ゆっくりと腰をあげると、フェスタはそのサイコロを再び拾い上げる。さらに部屋の棚から大きめの丼を取り出して、私とシリウスの方へと近づいてきた。

 

「どいた方がいいか?」

 

「いや、そのままでいい。ただ縄は解いてやってくれ。どのみち、ソイツ一人じゃここから逃げるなんて無理なんだから別にいいだろ」

 

「ハイハイ」

 

ブチリ、と縄を引き千切る音と同時に私の両腕が解放される。それほど長い時間拘束を受けていたわけでもないが、やはり若干腕や肩も痺れている。伸びをしたいが、この状況ではそうも言ってられないだろう。

 

「おいトレーナー。チンチロリンは知っているな?役目は分かるか?」

 

私にも見えるように目の前に丼を置き、フェスタがそこにサイコロを放り込んだ。

 

「勿論」

 

「いいだろう。私に勝てれば、アンタの脱出に手を貸してやる。もし負ければ、私は一人でこの部屋を立ち去る……こんな部屋別に没収されてもいいが、捕まるのはご免だからな。それから親は私だ」

 

「分かった。その条件でいこう」

 

「チャンスは一度きりだ……なら、始めようか」

 

フェスタは慣れた様子で丼を振っていく。カラカラと音を立てるそれはやがて静止し、私達の目の前でその数を露にした。

 

「……3のアラシか」

 

「良かったなトレーナー?親で決まらなくて……ほら、背中は解放してやるから早く振れよ」

 

シリウスに促されるまま、私はフェスタから丼とサイコロを受けとる。三つのサイコロを中に放り込み、一意専心に丼を振った。

 

そうして飛び出した、私の運命は………

 

 

 

 

 

 

「…………………………………」

 

「うわぁ………ひっど」

 

 

 

無情にも並ぶ、1と2と3の連番ヒフミ。

………即負けだ。

 

 

 

 

 

 

 

「私の勝ちだな」

 

カランカランという虚しい音を響かせながら、私の最後の希望は無情にも目の前で片付けられていった。代わりにどっかりと、シリウスが再び私の背中にウマ乗りになってくる。

 

「じゃ、そういうことで。私はもう行くから、終わったらちゃんと戸締まりしとけよ。あと、会長が来ても私の名前は出すな」

 

「分かってるさ。もっともあの堅物のことだから、その気になれば本当の管理者ぐらい執念で調べあげるだろうがな。私はそこまで責任は持てないぞ」

 

「……チッ」

 

恐らく自分と繋がるような物品でも詰まっているのだろう、いつの間にか大きなバックパックを背負っているナカヤマフェスタ。最後にシリウスへ無造作に器具庫の鍵を放り投げて、一足早く部屋を出ていってしまった。

 

 

それをぼうっと眺めていると、唐突に体をひっくり返される。

仰向けになった瞬間、蛍光灯の光が飛び込んできて目に焼きついた。しかしそれも、覆い被さる影によってすぐに消えてしまう。

 

「さて、久しぶりに折角二人きりになれたことだしな。少し話しでもしようじゃねえか。その生意気な態度がどこまでもつか試してやるよ」

 

「シ、シリウス……」

 

「そう怯えるなって。私とアンタの仲だろうが」

 

なぶるように口ずさみながら、シリウスは舐め回すように私の体を観察する。

光源を背負い、にたにたと笑うシリウス。影に覆われた彼女の顔の中で……鈍く光る牙だけが、ゆっくりと顔を覗かせた。

 



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堕ちた一等星【2】

私の目の前で、トレーナーの顔からみるみる血の気が引いていくのが分かる。

 

まったくバ鹿な奴だ。こんな人気のない、学園の手から離れた部屋にウマ娘と閉じ込められた時点で、自分が完全に詰んでることぐらい分かるだろうに。瞬時にあの場の力関係を見極め、フェスタの勝負師な性格につけこもうとしたのはいい判断だったが……結果として救済を取り逃がしているのだからどうしようもない。フェスタも言った通り、弱者に与えられるチャンスなど一度きりだけなのだ。

弱者と強者では用意できるカード、切れる手札の数自体に違いがあるのだ。折角だから、このシリウスシンボリが直々に強者の戦い方というものについて教えてやろうと思う。

 

「フェスタとのチンチロは惜しかったな。面白いものを見せてくれた礼を言ってやる」

 

「嫌味か?シリウス」

 

「いいや。実際あの場で講じる手段としては最適解だったろ。フェスタの性格は不合理で破滅的だし、それでも私はアイツの言うことに従わなくちゃならない……この部屋の中では、の話だけどな。だから、アンタのやり方も間違っちゃいない。それが……」

 

トレーナーの肩を掴み、浮き上がっていたその上半身を再び床へと押さえつける。そのままお互いの鼻が触れあう程まで顔を近づけた。

 

「………成功していたら、の話だがな。フェスタも言っただろ。『チャンスは一度きり』だ。アンタみたいな弱者には『次』なんてない。『今』こそが重要なのさ」

 

「どこかで聞いたような話だな。それが、溢れものを率いてターフを一人占めする言い訳になるとでも」

 

「言い訳なんてどうでもいい。そんなもの後からいくらでもくっつけられる。問題は実際にどう行動に移すかということだ。弱者に与えられる選択肢は少ない」

 

「だから、どんな手を使ってでも這い上がれということか。『チャンス』とやらを掴めと」

 

「そうさ。だからアンタはさっき、どんな手を使ってでも勝たなきゃいけなかった。たとえサマをカマしてでもな。今だってそうだ……アタシを蹴っ飛ばしてでもここから逃げなくちゃならない。正当防衛でも教育的指導でも、言い訳なんて後からいくらでもでっち上げられる。そうすれば、こんな冷たいコンクリートにキスしなくて済んだのにな」

 

「できるわけないだろう、そんな事……担当じゃないとはいえウマ娘を、それも友人に暴力を振るうなんて」

 

「ハハッ、ほんと甘ちゃんだなアンタは。今アンタを監禁して押し倒してるのは、その友人のウマ娘だぜ……そんなんだから私にも、ルドルフにもいいようにされるんだ。弱い癖に意地なんて張るから、怖い狼に真っ先に目をつけられるんだよ」

 

そう告げると、私はトレーナーから腰を外して立ち上がる。勿論、解放してやるつもりはない。続いて立ち上がろうとした彼の足を払い、よろめいたところを抱き上げる。

 

「ほら、捕まえた。もう逃げられないぞ?」

 

「ぐっ……この」

 

「おっと、やっぱり力だけはあるなアンタ」

 

左手を背中に回し、右手を膝の裏に通して……いわゆるお姫様抱っこという格好でトレーナーを運搬する。普通の人間よりは強い力で抵抗されるが、鍛えられたウマ娘の腕力には到底抗える筈もない。その必死の抵抗にかえって加虐心を刺激される。反発すればするだけ相手を喜ばすこともあるのだと、いい加減このトレーナーは学習するべきだと思う。そこについてはあえて教えてやらないが。

 

「よっ……と。ホントになんでもあるなここ。やべぇブツは全部フェスタが持っていっちまったが」

 

隅で丸まっていたマットを足で引っ張りだし、そのまま床へと広げる。その上にトレーナーを放り投げて再び上へと股がった。

コンクリート打ちっぱなしの壁と床を、無機質な蛍光灯が照らす倉庫。その中央に敷かれたマットに寝かせられるトレーナーと上にのしかかる私……自分でやっといてなんだが犯罪的な光景だな。でもコイツ、見た目は女そっくりだし……ならいつも通りか。

 

「なんのつもりだ」

 

私と同じ事を考えていたのか、えらく緊張した面持ちで私を見上げてくるトレーナー。言っている中身は威勢がいいものの、両手首を掴まれて磔にされた格好では説得力がない。

 

「別に……いつまでも固い地面に寝かせておくのも可哀想だから、わざわざ床を敷いてやっただけだぜ。長い話になりそうだからな。優しいだろ?まぁ、アンタの返答次第によっちゃあそういう・・・・使い方になるかもしれねぇがな」

 

「ふざけるな。シリウス……こんなこと、たとえ学園が許しても私が許さないぞ」

 

「ハハッ、そんな情けない抵抗しかできない口でなにを言ってるんだか。みっともなく体を震わせて、お好きにどうぞって感じだな」

 

トレーナーを嘲笑いながら、私はいっそう手首を拘束する力を強める。スマートじゃないが、結局のところ相手に言うことを聞かせられる一番のやり方はコレだ。甘い言葉や耳障りのいい道徳よりも、圧倒的な力にこそ人は従う。

 

「んじゃ、本題に入ろうか。さっき言いかけて止めた、ここにトレーナーを連れてきた理由だが……単刀直入に言う。アンタ、私達のトレーナーになれ」

 

「そんなことだろうと思ったよ。無理に決まってるだろ……何人いると思ってるんだ。とてもじゃないが全員の面倒なんて見切れない」

 

「別に正式なトレーナーになれって言ってるわけじゃない。ルドルフやシービーとの契約を切れって話でもない。時間を作って、私達……というよりアイツらのトレーニングを見てやってくれればそれでいい」

 

「トレーニングのアドバイスをつけるぐらい、中央のトレーナーなら誰だってできるさ。それこそ今年入ったばかりの新人でもな。まだ担当を捕まえられていないトレーナーもいるでしょ?そういう人に頼んでよ」

 

「それじゃ駄目なんだよ。アンタだからこそ意味があるんだ。分かんねぇかな」

 

他チームのウマ娘共と同じように、殆どのトレーナーもまた眉をひそめて私達のことを見ている。しかし、中には自分達の方から声をかけてくる奴もいた。でもソイツらは全員トレーナーの言うような新人か、あるいは数年目にして担当の捕まえられないうだつの上がらない連中だった。

走っている子達に才能を見出だしたとか、このまま腐らせるのは勿体ないだとか、聞こえの良いことばかり言っていたが一目見りゃ分かる……あれは私狙いだ。おおかた、私にまたG1をとらせることで自分達の格を上げようって心算だったのだろう。その証拠に連中は私だけにしか話かけてこなかったし、私に断られるとそのままあっさりと引き下がっていった。いくら褒めそやしたところで、結局私以外のウマ娘なんて厄介な腰巾着か、私を勧誘するためのダシ程度にしか捉えていなかったに違いない。

そんな有象無象を掴まえたところで意味はない。やっていることが同じなら尚更、それを誰が行うかにこそ大きな違いが生じるわけだから。

 

「そこらのへっぽこと組んだところで、落ちこぼれ同士傷を舐めあっていると思われるのが関の山だ。揃って除け者にされるだけさ。だからトレーナーにはなるべく影響力のある奴が望ましい。それにアンタは」

 

「シンボリルドルフの担当トレーナーだから。……とでも言うつもりか?」

 

「……そうだ。私達に文句をつける連中は全員生徒会の、ルドルフの味方だ。なのにそのトレーナーが、私達の面倒を見始めたらどうなると思う?」

 

「私が全方位から叩かれまくるだろうね」

 

「安心しろ。そうなったとしても私が守ってやるよ。……アンタには指一つ触れさせない」

 

トレーナーから押さえつけていた手を離し、私はポケットからウマホを取り出す。電源を入れて、ディスプレイに表示された現在時刻を確認した。

 

「説得力が無くなるのさ。連中の文句にも、ルドルフの言葉にも。皆、なにが正論でなにが詭弁なのか分からなくなる。中には手の平を返す奴も出てくるだろう。そこにつけ入る隙が生まれるわけだ」

 

「そんな台詞が出てくるってことは、自分の言っていることは詭弁だと分かっているわけか」

 

「まぁな」

 

ルドルフがその気になれば、私達のことは力ずくで対処できるだろう。かといって、ただでさえ嫌われ者の私達がへたれればそこで終わりだ。だからこそ、ルドルフが本腰を入れないギリギリでのらりくらりとやり過ごすしかない。単純に、アイツの上からなやり方に従ってやるのが癪だという気持ちもあるが。

 

「それが目的なら、別に私じゃなくても問題ないだろう。先生にでも頼めばいいじゃないか」

 

先生、というのは彼がサブトレーナーだった時代に師事していたチーフトレーナーのことで、かつて私を担当していたトレーナーでもある。あのシービーに三冠をとらせたイケイケのトレーナーだ。確かに彼女でも似たような効果は狙えるかもしれないが……。

 

「駄目だな。お願いしたところであの人が引き受けてくれるとは思えない。それに今もチーム組んでんだろ」

 

「私は引き受けると思ってるのか?」

 

「ああ、アンタはチョロいからな。幸薄く尻に敷かれる才能がある。そもそも『対案を出せ』つったのはそっちだろうが。言われた通り、私は歩み寄りの姿勢を見せてやってるつもりだぜ?それと、一つ勘違いしてるみたいだが……私はアンタにはお願いをしているつもりはない」

 

「っ…!!」

 

トレーナーの手首から両手を離し、すかさずシャツの襟首を握り込む。腰を少し後ろにずらして、その勢いのまま彼の上半身を引きずり起こした。シャツのボタンが弾けとび、肌蹴てその下にある肌着が開放される。

 

「命令してんだよ」

 

近づいてきた顔をがっしりと捉え、お互いの口と口とを重ね合わせる。トレーナーはしばらく目を白黒させていたが、やがて唇を奪われたことに気づくと私を突き飛ばした。

口元を拭いつつ、私を睨みつけてくるトレーナー。その反抗的な態度に高揚しながら、私は再び彼に命じた。

 

「聞き分けの悪いアンタのためにもう一度言ってやる。私達のトレーナーになれ」

 

「断る。せいぜいルドルフに怯えながら、自分たちだけで好き勝手やるんだな。私まで巻き込むな」

 

「ホント、減らず口だけは一人前だな。とはいえこの状況でどうにもならんだろ。だからアンタはさっき、フェスタに一つ嘘を吐いたんだ」

 

私はトレーナーにウマホのホーム画面を見せてやる。そこに示された時刻は14時59分。

 

「あのチンチロから明らかに5分は経ってるよな?なのになんでまだ15時にもなっていないんだ?適当な時間を吹いてフェスタを焦らせようって寸法だったんだろ?必死だな」

 

「くっ……!!」

 

「ああ、ホントは嘘は一つだけじゃないのかもな。一応待ってみるか。ルドルフから電話が来るかどうか。ほら……15時になったぞ」

 

そのまま私達の間を沈黙が支配する。やがてディスプレイに映し出された数列の右端、0が1へと移り変わる。

……スマホのコール音は響かなかった。

 

「やっぱりブラフか。残念だったな……これでもう、私が躊躇する理由はなくなった。最後にもう一度だけ聞いてやる。私達のトレーナーになるつもりは?」

 

「ない!!」

 

「………そうか。なら、覚悟しろよ!!」

 

 

ぶわりと全身の毛を逆立ててみせる。一度抱き起こした彼の上半身を再度押し倒し、さらに私もその上に覆い被さる。

密着する私達の肉体。もしかしたらルドルフにも同じようなことをされているのかもしれないが、私はアイツよりもスタイルには自信があるんだ。

 

「シリウス……!?」

 

たがの外れたウマ娘に組み敷かれたトレーナーの歪んだ顔が目に入った瞬間、私の嗜虐心が一気に昂るのを感じた。

人目はない、外部からの接触もない……誰かを襲うには絶好のシチュエーション。私はこのままコイツを―――――

 

 

 

 

 

 

―――――どうすればいいんだ?

 

 

 

 

 

 

はた、と宙で静止する私の両腕。

 

 

 

「シリウス……?」

 

「う、うるさい!!黙ってろ」

 

 

……分からない。こういう時、相手を押し倒した後どうすればいいのか分からない。

 

学園では王子様だとかなんとか散々持て囃されているけれど、別にそういう知識や経験が豊富というわけじゃない。

しまった……よく考えればコイツは男だった。ウマ娘を相手にする時と同じノリで迫ったところで、言うことを聞く筈ないじゃないか。

 

「う…………」

 

先程までの昂りは嘘のように消え失せ、代わりに焦燥が私の心の中で首をもたげる。

不味い。このまま固まっているのは不味い。せっかく主導権を握ったんだ、早くなにかしなければならない………でもなにをすればいいのか分からない。

 

キスか?キスすればいいのだろうか。でもさっきコイツはキスをされても意思を曲げなかった。これまでの女は皆、キスどころか視線をくれてやるだけで黄色い声をあげていたというのに。

 

「違うよシリウス。嘘でもなんでもそれらしいことを言わないと。こういう時はね、こうするんだ……」

 

「え……?」

 

そんな私の姿を見かねたのか、トレーナーがこちらの首に腕を回して思い切り引っ張った。

完全なる不意打ちに抗う間もなく胸の上に崩れ落ちる。ぎゅうっと頭の後ろを押さえつけられてしまい、その上にある筈の顔を見上げることもできない。

偶然か、それとも意図した結果だろうか。私のウマミミは丁度トレーナーの顔とぴったり重なって……彼はそれにピトリと口をつけながら、聞き取りやすいように丁寧に囁いた。

 

 

 

 

『可愛いねシリウス。愛してるよ』

 

 

 

 

「~~~~~~!!!??」

 

 

 

ゾクゾクっと、背筋を駆け抜ける甘い奔流。

そのまま、私の意識は真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「昔からそうだったもんね、シリウス。一匹狼を気取っている癖に、その実すごく面倒見が良かった。私がルナに虐められた時も、いっつも庇ってくれたのは君だもんね。ごめんねシリウス?最近は中々会いに行けなくて……でも君のことが大好きなのは本当。それは分かってくれるよね?」

 

 

「あっ………あっ…………あっ……」

 

 

私の胸の上で、シリウスは完全に動かなくなってしまった。試しにゆさゆさと揺さぶってみるものの、まるで糸の切れた操り人形のように手応えがない。そんな中で、唯一ミミだけがバラバラにあちこちを向いて動き回っている。こちらの言葉に返事こそ返しているものの、その中身まで頭に入っているかどうかは甚だ疑わしい。

 

 

「こんなもんか」

 

正直、彼女に押し倒された直後はどうなることかと狼狽したが。まさか自分からドツボに嵌まってくれると思わなかった。この様では二度と私のことをチョロい等とは言うまい。

おおかた、常に責める側にいたせいで責められることに慣れていないのだろう。その責めについても、恐らくキスぐらいが限度なのだろうが……それで無双できていたのだから恐ろしい。飛び抜けた才能は、かえって弱点までもたらすということか。何事も程々が一番というわけだな。

 

「それにしても……今日は私に運が巡ってきている感じがする」

 

窮地からここまで華々しい逆転を掴みとったのは久し振りだ。あれがルドルフやシービー相手だったら今頃食べられていただろう。チンチロリンでは少しだけ不甲斐ない結果に終わってしまったが、ひょっとしたらあの時使われなかった運が貯まっていたのかもしれない。

 

動かなくなったシリウスを脇にどけて、私は素早く立ち上がる。そのまま念願の伸びをした瞬間、肌寒さに大きく身を震わせた。そういえばシャツのボタンが無くなったせいで、前が閉じられなくなったのだった。

一瞬迷ったが、一応最後に彼女にも声をかけておく。万が一にも、こんな光景をルドルフに見られるわけにはいかない。ましてやその場しのぎとはいえ、シリウスを口説いていたなどと知られたらとんでもないことになる。もっとも、彼女が生徒会室にいる以上は杞憂に過ぎないのだけれども。

 

「シリウス……シリウス!!私はもう出るからな。君もいつまでも寝てないで、さっさと帰るんだよ」

 

「あ……待ってくれトレーナー。私も一緒に帰る」

 

ようやく精神が復活したのか、シリウスも立ち上がって後ろについた。ちょこんと、私のシャツの裾を摘まんでいる。そのミミがペタンと倒れ、顔も項垂れてしまっているのが心配といえば心配だが、元通りになればまた監禁されるだろうからこのままでいいのだろう。

 

器具庫の扉に指をかけ、勢いよく左右に開いた。ぶわりと冷たい秋の風が吹き入れる。数十分ぶりの外の空気がとても懐かしく感じる。ゲームクリアだ。

この施設は思ったより学園の中心に近かったらしい。遠くには青々としたターフが広がっており、こちらに向かって両脇に規則正しく街頭が並んでいるのが見える。そして目の前では、シンボリルドルフが固く両腕を組みながら私達を睨みつけていた。

 

 

 

「ひっ…………!!!??」

 

 

 

咄嗟に、あるいは本能的に全力で扉を閉める。いざ閉じようとする寸前、ガッとなにかに挟まって妨害された。

見下ろすと、そこには扉と扉の間に差し込まれているルドルフの靴先。彼女の両手が扉にかけられ、閉まりかかっていたそれが凄まじい力で再び開放される。

 

 

「トレーナー君?私の顔を見るなり悲鳴を上げるとは酷いじゃないか」

 

メキメキと、鉄製の扉から鳴ってはいけない音が響く。一歩、一歩とこちらに侵入してくるルドルフ。それにつられて、私達もまた一歩一歩と後ろへ下がる。

何故だ。またしても状況が詰んでいる。対抗しようにもルドルフに啖呵を切れる数少ないウマ娘はたった今、私が駄目にしてしまった。

 

「ルドルフ……ど、どうしてここが分かった?」

 

「私が会長に通報したのさ」

 

ルドルフの後ろから、ひょっこりと一人のウマ娘が顔を出した。

 

「フェ、フェスタてめえ……裏切ったのか?」

 

「そんな怒るなよシリウス。アンタには言ってなかったがな、そもそもこの部屋はちゃんと生徒会の許可を貰って使用していたものだ。バレるもなにもないんだよ」

 

「なっ………!?」

 

「だから問題なのは、そこでなにをしているのかということさ。勝手に火種を持ち込んだのはアンタの方だぜ。なら、その尻拭いも自分でやってくれよ。それで……会長?」

 

「ああ、今回の件については不問とする。ただしナカヤマフェスタ、あのバックパックの中身については話は別だからな。後日しっかり話を聞かせてもらうとしよう」

 

「…………了解」

 

とんでもなく嫌そうな顔をしながらフェスタは脇に逸れる。

それとタイミングを合わせるかのように、さらに一歩こちらへと踏み込んでくるルドルフ。

 

「さて、そもそもシリウスがなにかやろうとしているのは私にもおおよそ分かっていたんだ。なにせ、これまで私に近づこうともしなかった君の仲間が、今日になって続々と生徒会室に押し寄せてきたのだからね。それが長々と話をしだすようなら、時間稼ぎと考えるのが自然だろう」

 

「……アイツらはどうした?」

 

「ちゃんとお話をしたら帰ってくれたよ。物分かりのいい子達ばかりで助かったな。それよりも……」

 

ルドルフは素早く私の後ろに回り込むと、手慣れた動きでシリウスを捕獲した。彼女の腰に腕を回して、がっしりとホールドする。

 

「トレーナー君もまだまだやり方が甘い。どれだけ歯の浮くような文句を並べ立てたところで、口だけの誘いに人は乗らないんだ。口説くのなら、しっかりと行動でも示さないとね」

 

「な、なにを………んむぅ!?」

 

シリウスが抗議をしかけた瞬間、空いた腕でその顎を掴んでルドルフは口づけを落とす。それも、先程シリウスが私にしたものとはまるで別次元の強烈な接吻。

シリウスの足と尻尾が震えたかと思うと、唐突に全身の力が抜ける。崩れ落ちる彼女の背と足をとり、ルドルフはお姫様抱っこで部屋の奥まで運んでいって……そのままマットの上に放り投げた。

倒れ伏すシリウスの上にウマ乗りになるルドルフ。一部始終を見ていたのではないかと思うぐらい、その動きは私達のものと全く同じで。

 

「フェスタから聞いたよ。君は私ほど甘くはないんだって?シリウス……なら、それが本当かどうか試してみようか。楽しみだな」

 

「フェスタぁ……この裏切り者ぉ……」

 

「最近の君はいささか目に余る。私も旧知の間柄だからと甘くしすぎたのかもしれない。『個人個人と向き合う』ことが重要だと君は言ったな。なら、私も今から君と向き合うとしよう」

 

「ふざ……けるなぁ……」

 

息も絶え絶えに喚くシリウスの頭を押さえ込むルドルフの姿は、まさに今にも獲物にかぶりつかんとする獅子の姿そのもので。恐ろしさのあまり直視することもできない。

 

「こら、トレーナー君。目を伏せては駄目だろう。しっかりと予習しておくといい………これが済んだら次は君の番だからな」

 

「……………はい」

 

ああ、どうして私は調子にのってしまったのだろう。かえすがえすも悔やまれる。私にツキが流れてきたことなど、一度たりともないというのに。

 

 

 

「………おつかれさん」

 

ガラガラ、と後ろで扉が閉められる。

振り返り、最後に見えたものは……憐れみを孕んだ藤色の瞳だった。

 



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トレーナー君と寝たいんだ

トレーナーと一口に言ったところで、その仕事の内容は多岐に渡る。

トレーニングメニューの考案を筆頭に、レース場やウマ娘の調査、関係者との連絡やアポイントメント、記者会見の準備とその実施、定例会議と議事録の作成、他のトレーナーや学園との交流、新人研修、資料研究等々やるべきことは山程ある。

 

 

担当ウマ娘の遠征に同行するのもまた、トレーナーとして大事な仕事の一つだ。

 

 

今夜も私は、東京から遠く離れた都市のビジネスホテルに泊まっている。明日の交流レースにルドルフが出走するので、事前調整も兼ねて早めに現地入りを果たしていた。

当たり前だが、私とルドルフの部屋は別々である。といっても非常事態が起きた場合に直ぐに対処できるよう、私達の部屋は常に隣接しているのだが。角部屋かつ非常口に最も近い部屋をルドルフにとり、その隣の部屋を私がとる。これが遠征における私達の宿泊ルーチンだ。

 

「ふぅ………」

 

ベッドに腰掛けた私は棚からリモコンをとり、部屋の角に据え置かれた薄型テレビの電源を入れる。流れてくる地方のローカルニュースでは、どこもかしこもルドルフの話題で持ちきりだった。テレビだけの話ではない……新聞でもラジオでも、ここら一帯でシンボリルドルフの名を聞かない日はなかった。

売店で買ってきたレース雑誌を脇に放り投げ、ため息混じりに電源を落とす。そのまま同じようにリモコンも脇に放り、勢いよくベッドに身を沈めた。

 

「疲れた………」

 

実は遠征において、トレーナーに最も負荷がかかるタイミングはレース本番ではない。現地入りからパドック入場直前までの数日間なのだ。

この期間の間にこなさなければならないタスクは非常に多い。最優先に取り掛かるのはレース場や他の出走予定ウマ娘、宿泊予定地やその周辺等々についての情報収集。勿論ある程度の情報は事前に調べをつけているが、バ馬の状態やウマ娘の細かな仕上がりなど実際にこの目で見ないと分からない事情もある。当然他のトレーナーも同じように探りを入れてくるため、極力こちらの情報を隠滅あるいは偽装しつつ、相手の手の内を暴く駆け引きを強いられるのだ。必要であれば作戦を見直し、再構築させ、それを即座に担当と共有し反映させなくてはならない。

また、現地のファンや記者への対応もトレーナーの役割だ。本来こういった顔見せにはウマ娘が伴うものだが、レース直前という不安定な時期にはトレーナーが単独で矢面に立つことになる。他にもレース関係者や支援者、地元の有力者との交流も求められ、場合によっては中央への取り次ぎも同時進行で行わなければならない。

さらに重要なのが、出走予定の担当ウマ娘との最終調整。長時間の移動によって疲労が溜まったり、急に環境が変化することで精神のバランスを崩してしまう子もいるため、心身共に徹底したケアが欠かせない。また、事前情報と現実との間における乖離、あるいは突発的なトラブルの発生により大幅な作戦立て直しを迫られることもあるので、一瞬たりとも目が離すことは許されない。

担当するウマ娘を完璧な状態でターフへと送り出すことこそトレーナーに課せられた最大の使命。なればこそ、ウマ娘にとっての戦場がレースであるように、この数日の準備期間こそが我々トレーナーにとっての戦場なのかもしれない。

 

ルドルフには悪いが、今は彼女の名前など見たくもない。ここ数日間、うんざりするほど連呼されて耳にこびりついていた。毎回毎回、同じような質問をされて同じように答える。テレビでも雑誌でもどうせ報道されている内容は同じだろう。

ルドルフの勝利……明日の交流戦について早くもそういった声があちこちで流れており、巷では諦感に近い雰囲気すら漂っている。いくら重賞ではないとはいえ、中央地方問わず全国から選りすぐりの猛者が集う一大レースであることに間違いはないのだが、どうやら彼女の勝利は半ば確定事項らしい。

……もっとも、最終調整を終えた私もまた同じことを考えているわけだが。担当という贔屓目を抜きにしても、明日のレースにルドルフの敵はいないだろう。いつものように走り、いつものように勝つだけ。つまらないだのなんだの言われようと、これが私達の戦い方なのだから。

 

トレーナーとしてやるべきことは全て終わらせた。後はルドルフに委ねることにしよう。

 

靴を脱ぎ、部屋の電気を落とす。

寝るには少々早い時間だろうが、睡眠は多くとっておくに越したことはない。最後にスマホで目覚ましを設定し、腹まで毛布を引き上げて私はベッドに丸まった。

 

 

 

 

 

 

 

ピンポンと軽いチャイムの音に目を覚ます。

眠気で重い頭を振っている中、控えめにコンコン、と部屋の扉が叩かれた。

 

「トレーナー君……私だよ」

 

「ああ、分かってるよルドルフ。今開けるから」

 

彼女の呼び掛けに返事をしながら、急いで玄関に向かって扉を開ける。そこには、寝間着に身を包んだルドルフが枕を抱いて立っていた。

 

「すまない。既に寝ていたのなら起こすべきではなかったな」

 

「構わないよ……今はルドルフが最優先だ。それに来るだろうとは思っていたから」

 

「そうか。なら、今夜もお願いできるかな?」

 

「いいよ……おいで、ルドルフ」

 

私の誘いに応じて素早く部屋の奥へと進んでいくルドルフ。その背中を見届けると、念のため部屋の外の廊下を点検しておく。記者やパパラッチの姿がないことを確認した後、部屋へと引っ込んで鍵を閉めた。

ベッドに戻ると、その上では既に靴を脱いだルドルフが膝立ちになっている。毛布の上に放置された雑誌を手に取り、ペラペラと興味深げにその中身を改めている。

 

「む……トレーナー君。これは私の特集だろうか?まだレースも始まっていないというのに気が早いな」

 

「どこもかしこも君の話題で持ちきりだからな。この機会に一気に売り抜こうという魂胆だろう。実際中身は殆どネットや新聞からの切り貼りさ」

 

「粗製乱造というわけだな。……ふむ。確かに所々誤りもあるようだ。解説欄に私のコメントも載せられているようだが、この出版社のインタビューに答えた記憶はないぞ。記者の顔にも見覚えがない」

 

「写真の君か机にでもインタビューしたんだろう。もっとも、読み手だってそんなもの最初から真に受けていない……いわばプロレスのようなものだな。まぁ、目に余る誤記や捏造には後で抗議を入れておこうか」

 

「酷い講義に抗議するというわけだな……ふふっ」

 

「そうそう」

 

適当に相槌を返しつつ、ルドルフの手から件の雑誌を取り上げる。大切な試合前の夜に、こんなもので時間を潰されるわけにはいかない。

スマホを立ち上げると、そこに表示された時刻は丁度日付を跨ぐ手前といったところ。私はともかく、レース前夜のウマ娘が活動するには少々遅すぎる時間だろう。

 

「ほら、ルドルフ……早く寝るよ。こんな時間まで起きているのは良くない」

 

「分かっているとも。交流戦とはいえ、皇帝として不甲斐ない走りを見せるわけにはいくまい。だからこそ、こうして人目を忍んでトレーナー君の部屋を訪れたのだからね……」

 

毛布をどけた瞬間、そこに生まれた隙間にすっぽりと潜り込むルドルフ。私もベッドに横になり、元通り毛布を被せると丁度二人揃って抱き合う形になる。丁度、ルドルフの頭頂部に私の顔が埋まる形。柔らかなシャンプーの香りが肺を満たしていく。おもむろにその背中に手を伸ばして、肩甲骨の間を背骨に沿って軽く撫でてやった。

そうしていると、ルドルフもまた私の脇腹に手を伸ばし、手探りでシャツの裾を掴んでくる。私の胸のあたりに沈んでいるその顔は既に瞼が閉じられており、夢と現の境目にいるようだ。どうやらこの部屋を訪れた時点でだいぶ眠気に襲われていたらしい。

 

「おやすみ……トレーナー君……」

 

「ん。おやすみ………ルドルフ」

 

そう私に囁いた直後、ルドルフは静かな寝息を立てながら夢の世界へと旅立っていった。起こさないようにそっと、丁寧に彼女の髪を梳いてやる。

 

祭りの前夜は眠れないと、そうルドルフが私に告げたのはいつの頃だっただろうか。確か、駿台祭のあたりだったように記憶している。

祭りというのは、つまるところなにか大きなイベントのことを指すらしい。そういった日の前の晩はベッドの中で目が冴えてしまい、思うように寝つけなくなってしまうのだそうだ。遠足の前日に興奮で眠れない感覚と言えば微笑ましく聞こえてしまうが、恐らく彼女の場合、生徒会長として重責を負うが故の気苦労が原因だろう。

問題は、それがレース当日の前夜にも当てはまるということだ。特に七冠を達成し、名実ともに皇帝の看板を背負って以降、以前にもまして眠りが浅くなってしまったらしい。常に迅速かつ的確な判断の求められるレースにおいて、睡眠不足は致命的だ。故に、こうして私が添い寝することでルドルフの眠りを補助しているのである。

 

時々もぞもぞと動いて、私の方へ身を擦り寄せてくるルドルフ。ただでさえ、人間と比して体温の高いウマ娘である彼女に毛布の中でここまで密着されると、正直熱が籠って暑いのだが……毛布をどけてその体を冷やしてしまうわけにもいかないので我慢する。かつてのジャパンカップにおいて、それがルドルフの敗因に繋がったことは今だに記憶の底に根深く突き刺さっていた。私にとってトラウマと言っても過言ではないかつての失態。二度と同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。

 

離れるよう口頭でお願いすることもしない。せっかく眠りについた所をわざわざ起こすわけにはいかないし、それにお互いお喋りは禁止だと予め約束を交わしているためだ。そうでもしないとルドルフが延々と私にジョークを披露してくれるので、まるで休息がとれなくなってしまう。曰く毎晩ベッドの中でジョークを考えており、普段からシービーにそれを披露しているらしいが………彼女のスルースキルはそこで磨かれたものなのだろうか。

 

「……………ん」

 

ルドルフが寝返りを打つ。その瞬間、僅かに私を拘束する力が緩むのが分かった。その隙をついて体を起こし、仰向けに転がるルドルフを覆い被るような格好で覗き込む。

起こさないよう慎重に、その前髪をかきあげて顔を覗き込む。血色も良く、唇の色も悪くない。瞼の様子にも異変はなかった。そのまま視線を下へと下ろし、尻からはみ出した尻尾の様子を確かめる。表面には見事な艶があり、指で掬い上げると傷みもなく流水のようにさらりと流れていく。最後にズボンの上から軽く触って、トモの様子を観察する。張り、柔らかさ共に異状なし。鍛えられた鋼の筋肉の上に適度に脂肪が乗っかっており、指の沈む感覚と弾かれる感覚という相反する二つの触感が見事に調和していた。総じてまさに理想的な仕上がりと言えるだろう。明日を見据えた徹底的なトレーニングと調整の賜物であり、いっそ芸術的とも言える完成度に我ながら惚れ惚れしてしまう。もっともそれはひとえにルドルフの途方もない才能と努力あってのものだから、あまり自惚れるわけにはいかないが。

 

ルドルフと同衾することによって得られた最大のメリットがこれだった。彼女が寝静まった後、その仕上がりを隅々まで確認することができる。勿論起きている時でも点検自体はできるのだが、彼女が無意識に違和感を誤魔化してしまうこともあるのだ。こうして意識のない自然体の状態で見て初めて分かるものもある。その結果、故障を危ぶんで出走を回避したことまであるが………この仕上がりならなにも心配はいらないだろう。

 

「ん……トレーナー………」

 

「ああ……すまない」

 

………寝言か。しかし、このまま隙間を作っていては空気が流れ込んで冷えてしまうな。そっと毛布を戻し、ルドルフの肩を優しく抱いてやる。

 

「うー…………」

 

それにつられたのだろうか。彼女は再び寝返りを打って、またしても私の懐に潜り込んできた。そのまま背中に腕を回して、ぎゅうっと強めに抱き締めてくる。

正直怖い。ウマ娘が力をセーブする感覚についてはよく分からないが、少なくともこのままルドルフが全力をかければ私の肉体など容易く二つ折りになるのは確かだ。世の人間とウマ娘の夫婦が平和に暮らせている以上、恐らく睡眠中でも無意識に力の加減はできるのだろうが……それでも、怖いものは怖い。

心臓がドクンドクンと、不自然に大きな音を立てる……いや、違う。これはルドルフの鼓動と合わさっているからだ。密着した互いの胸の内で、同じように心臓が早鐘を打っているのが分かる。

ぎゅっと、私からも強く彼女を抱き締め返す。一層強くなる彼女の鼓動……先程よりも体温が高くなり、しっとりと汗ばんできているのを感じる。さらにそれに伴って、一段と強くなるルドルフの甘い香り。果たしてこれは、添い寝で毛布が温まったことだけが原因だろうか。

 

「ルナ」

 

目の前のウマミミに口づけてそう囁いた。瞬間、それらはピクンと反応し、やがてバラバラな方向を向いて固まってしまう。

枕の間に挟まってしまったそれを優しく引っ張り出してやると、少しだけ肩を震わせたルドルフが私の胸にぐいぐいと頭を擦り付けてきた。

 

「もう寝るからね。おやすみ」

 

「…………………………」

 

もう一度、最後に挨拶をしてあげる。

ルドルフの頭がこくんと頷くのを確認して、私もゆっくりと瞼を閉じた。

 



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担当に浴室へと連れ込まれる話【1】

トレセン学園は徹底したウマ娘第一主義を掲げている。

それはレースやライブに直接関係するもののみならず、食堂の利用や周辺施設との提携、学費や生活費の補助といった場合でも根底の指針となっているものだ。

ウマ娘寮における設備の充実もまたその一環である。この学園には二つの寮があるが、そのどちらも基本的には二人部屋かつ風呂トイレ共同といった待遇は同じであり、その整備の程度もまた変わらない。風呂トイレ共同と聞くといかにも古寂びたアパートなんかを連想してしまいがちだが、勿論そんなこともなくむしろちょっとしたリゾートホテルのような雰囲気すら醸し出している。

生徒の中には富裕層出身者もかなりの割合で存在しているので、その生活水準を過度に落とさせるわけにはいかないのだろう。仮にもここはお嬢様学校なわけだから。

 

 

……だがしかし、そんな万全な設備も壊れてしまう時は壊れてしまうわけで。

 

 

 

「あら、お疲れ様ですトレーナーさん。本日のお仕事は終わりましたか?」

 

「えぇ。だいたいのところは。今日は珍しく案件が少なかったもので……いつもこうなら助かるんですけどね」

 

午後の六時。時刻としては夜の入りといったところだが、季節故に日は一時間前には沈んでしまっている。真っ暗な学園の敷地内で、街灯と地面の誘導灯が懸命にその道を照らしていた。

トレーニングも一旦は落ち着き、各々が寮へと帰還する時刻。しかし今日は多くの生徒が我先にとここ正門を抜けて外へ走っていく。

そんなウマ娘達の姿を、肩を並べて見守る私とたづなさん。

 

「なんというか、こういうのも中々見られない景色で新鮮ですね。こんな時間にウマ娘達が揃って外出して、それを貴女が捕まえるでもなく見送るとは」

 

「何人かは捕まえることになるかもしれませんけどね。私としてはお仕事が増えてしまうぶん、はしゃいでもいられませんが……仕方ないです。幸い、行き先ははっきりしていますから。相手方にも事情の説明は済んでいますので」

 

「たしか、目的地は学園近辺のスーパー銭湯……でしたっけか」

 

「はい……美浦のお風呂、壊れてしまいましたから」

 

ほぅと悩ましげにその手を頬にあてて首を傾げるたづなさん。その憂いを帯びた視線が、去っていくウマ娘達の背中に投げ掛けられる。

つい二時間前のこと、美浦寮の大浴場からお湯が出なくなってしまったらしい。配管にちょっとした異常が生じたに過ぎず、三時間程あれば復旧が可能らしいが……タイミングが悪かった。午後六時には大半の生徒がトレーニングを終了し、シャワーを浴びたり入浴を済ませるというスケジュール上、三時間の復旧ですら少々遅すぎたのである。

今日だけは栗東の大浴場を使用させるという案もあったが、流石に人数が倍になる以上収容に無理があるので見送られた。かといって、汗をかいたままの生徒に順番待ちをさせておくのも良くない。師走に近い気温まで冷え込んだこの日、それも日没後とあってはいくら体温の高いウマ娘とはいえあっという間に体が冷えてしまう。

故に本日限りで、行き先を銭湯に絞った上での外出自由化が認められたのだ。

 

「生徒の皆さん、風邪を引かなければいいのですが」

 

こちらに会釈してくれる子に挨拶を返しながら、たづなさんは憂鬱げにそう呟く。

ただでさえ汗をかいた状態で向かい、帰宅する際にも湯冷めの危険があることを考えればその気持ちも分からないではないが……ウマ娘はそこまでやわな生き物ではないだろう。

しかしとりわけウマ娘の怪我や不調に敏感な彼女は、どうしても不安が拭えないらしい。

 

「それよりも、生徒達がちゃんと帰ってくるかの心配をした方がよろしいのでは?これ幸いとばかりに好き勝手ほっつき歩く者も出てくるかもしれませんし」

 

「外出の制限時間は一時間……午後七時までと決められているので大丈夫です。それを過ぎれば美浦も復旧しますからね。七時以降に出歩いている生徒には捜索がかけられる他、ご近隣の方々にも通報をお願いしています」

 

「たった一時間ですか。かなり慌ただしくなりそうですが」

 

「日の短いこの時期ですから仕方ないのです。それにウマ娘の足なら往復はあっという間ですし、足りなければ改めて寮で入り直せば良いでしょう……それよりも」

 

パンッと軽快に隣で柏手が打たれる。

見ると、先程の表情から一変して楽しそうなたづなさんが、小首を傾げて私の方を見上げていた。

 

「折角こんな早くにお仕事が終わったのですから、今日は久し振りに一緒にお出かけしませんか?トレーナーさん……お互い積もる話もあることですし」

 

「いえ、私は………」

 

今日は早く寝たいので、と断りを入れようとした瞬間、たづなさんの目がすうっと細まった。無意識か否か、彼女の右足が僅かに前掻きを行い……ざり、ざりと地面を蹴る音が耳に届く。

……なるほど、どうやら私に拒否権はないらしい。それに積もる話の大半は、十中八九彼女から私に向けられる類いのものだろう。

これはかなり荒れると見えるが……情けないことに、私は首を縦に振るしかなかった。かかってしまった彼女の恐ろしさについて、私はたぶん理事長の次に知っているはずだから。

 

「ふふっ、ありがとうございます!!それでは、二時間後にこの正門で……楽しみにしていますから」

 

『逃げるなよ』と聞こえた気がするのは恐らく気のせいだろう。

私は微笑むたづなさんに軽く会釈して、足早に自分の寮に戻ることにした。後でいやという程顔を合わせることになるのだから、わざわざこんなところで貴重な時間を潰しているのは勿体ない。

 

 

 

 

 

 

トレーナー寮に戻ってくると、何故か部屋の扉は開いていた。それどころか中の電気までつけっぱなしになっている。

リビングに目を向けると、朝出た時にはなかった筈のものが転がっていた。二本の水筒に、同じく二人ぶんのバックと汗で濡れたタオル。見慣れたデザインのそれは、どうやら私の担当二人のものらしい。まぁ、この部屋の合鍵を預けているのはあの二人しかいないので分かりきっている話ではあるが。

そういえば、シービーとルドルフも美浦寮の生徒だったな。だとしたら、トレーナー寮に荷物を放ったまま銭湯に出掛けてしまったということになる。

もしかしたらそのまま寮へ直帰するつもりかもしれないから、念のため取りに戻るよう連絡を入れておこう。

 

「……いや、だからといって電話をかけるのは良くなかったな」

 

ジャケットからスマホを取り出し、とりあえずシービーの電話帳を呼び出してコールした後にふとそんなことを思う。二人の速さを考えれば、六時きっかりに学園を出ていればとっくに銭湯に着いている時間だ。そこに電話をかけてしまえば迷惑になるかもしれない。メッセージアプリを使うべきだったか?

しかしそんな私の心配はどうやら杞憂だったようで、ほんのワンコールの後シービーはこちらの電話に出てくれた。

 

『やっほー、ミスタートレーナー。今どこにいるのかな?……アタシ?アタシはお風呂にいるよ?』

 

「知ってる。さっき緊急会議で連絡が回ってきていたからな。それよりもシービー、私の部屋に荷物起きっぱなしにしてるだろう。学園に帰ったらちゃんと取りに戻ってきてよ。洗い物も洗濯もやってやらないからな」

 

『えぇ……ケチだねトレーナーは。こんなにも可愛いお年頃ウマ娘ちゃんの使い倒したタオルとか水筒とか、普通の男なら役得だと思って喜んでお世話するものなんじゃないの?やっぱりアタシ達のトレーナーはヘタレでチキンで甲斐性なしなんだ』

 

「なんとでも言え。お年頃のウマ娘はね、男にこういったブツの処理を任せたりなんてしないんだよ……ルドルフにもそう伝えておいてくれないか。近くにいればの話だが」

 

『……大丈夫だ、問題なく聞こえていたよ。……それに私達だって誰彼構わずそんなものを預けるわけじゃない。最も信頼する君だからこそだよ、トレーナー君』

 

私達の会話に割り込んだルドルフが、なにやらご機嫌そうにそんな気持ちのいいことを囁いてくれる。

急に近づいたためか、ちゃぽんとお湯の跳ねる音が電話越しに聞こえてくる。

 

「………なぁルドルフ。まさかとは思うが、浴室の中にまでウマホを持ち込んでいるわけじゃないだろうな?」

 

いや、まさか。シービーはともかくルドルフに限ってそんなことはあり得ない……はず。

どこの銭湯にしても、故障や盗撮防止のため浴室内に電子機器の持ち込みは禁止されている。補聴器等活動に不可欠なものは別だろうが、流石にウマホはその例外にはあたらないだろう。

だとすれば、仮にもトレセン学園の生徒会長と元生徒会長ともあろうものが、そんな規則以前のマナー違反を犯したということか?お願いだから聞き間違いであってくれ。

しかしそんな私の祈りは、いとも呆気なくルドルフによってぶち壊される。

 

『大丈夫だトレーナー君。これはシービーのウマホだし、わざわざ手元に置いていたのも彼女だからな。なにやら防水機能がついているらしいから、きっと壊れることもないだろう』

 

「いや、そういう事を言ってるんじゃなくて。普通に犯罪だぞそれは……周りの人の迷惑になるし、規則で禁止されているだろう」

 

『……そんなことないよトレーナー。ここには私達二人しかいないし、そんな規則も初めからない。嘘だと思うならキミもここまできて確かめてみなよ』

 

「そんな屁理屈が罷り通るとでも……」

 

『屁理屈なんかじゃないよ。そもそもトレーナー、アタシ達は銭湯にいるなんて一度も言った覚えがないんだけど』

 

ばしゃんと、強く水を叩く音が両耳から聞こえる。私はスマホを左耳にあてているわけだから、右耳からも遠隔地の音が聞こえてくるのはあり得ない。つまり彼女達は、私のすぐ近くにいるということで。

脱いだジャケットを椅子の背にかけ靴下を脱ぎ捨てた後、私はリビングを出て右手に向かう。目の前には木製の引き戸があり、そしてこの先にあるのは……

 

『アタシはお風呂にいるって言ったんだ』

 

戸を開くと、目の前に広がるのは明かりのついた洗面所兼脱衣所。向かいにある両開きの脇に据えられたかごの中には、やはり二人ぶんの制服と下着が綺麗に畳まれて行儀よく並んでいる。

扉の向こうもやはり電気がつけられており、ぱちゃぱちゃという水音と共に磨りガラス越しに人影が見える。その長い髪と丸みを帯びたシルエットは、間違いなく女性のそれだ。

 

『ほら、早くこっちに来なよトレーナー』

 

その勢いのまま両開きの扉の向こうへ飛び込もうとし……寸前で思い止まる。

よく考えれば、彼女達はただ担当トレーナーである私の部屋の風呂を使っているだけじゃないか。家主に断りもなく勝手に使うのは頂けないが、そもそも彼女達に鍵を預けたのは私であるし、夜道を歩いて湯冷めされるよりはよっぽどいい。

第一いくら教育的指導のためとはいえ、自分の受け持つ生徒の風呂場に乱入するなど、およそトレーナーのすることではないのだ。たとえその生徒本人から挑発されていたとしても、鋼の意思で自らを律しなくてはならない。

 

「危ない所だった……」

 

冷静さを取り戻した私は、頬を叩いて磨りガラスに背を向けた。たづなさんとの待ち合わせまでまだ時間はあるから、とりあえずあのタオル共々洗濯ぐらいはしてやろう。

 

「シービー。上がったらちゃんと」

 

 

 

『トレーナー逃げるよ!!ルドルフ!!』

 

「そうはさせん」

 

バン、と勢いよく開く扉。

振り返ることも駆け出すことも敵わないスピードと力強さで、背後から伸びてきた手にあっという間に浴室へと引きずり込まれてしまった。

 

「ぐぇ」

 

蛙の潰れるようなみっともない悲鳴をあげて、これまた轢かれた蛙のような格好とともに浴室の床へと仰向けに転がされる。

私の前でピシャリと扉が閉められた。まるで逃げ道を塞ぐように、全裸のルドルフがその手前で仁王立ちで腕を組んでいる。微塵も隠そうとすらしない漢らしいその立ち姿は、鍛え上げられた全身の筋肉と合間って凄まじい威圧感を放っていた。

 

「ひぇ………」

 

「アハハ。ルドルフったらそんなに威嚇しなくてもいいのに。どうせトレーナーは逃げられっこないんだからさ」

 

慌てて立ち上がろうとした瞬間、浴槽から身を乗り出したシービーに上から胸を押さえつけられた。

大して力を入れる様子もなく、壊れ物を扱うようなという表現がしっくりくる動きでそっと私に手が添えられる。たったそれだけ……ただそれだけで、私は床から数センチも背を離すことが出来ない。技巧もなにもない、並外れた身体能力と体重のみを駆使した拘束技。もっとも、それが出来るようなパワーを身につけさせたのは私なわけだが。

 

「は、離してくれないかな?シービー」

 

「嫌だ。それにトレーナーだって、ジャケットと靴下は脱いでるあたり本当は入ってくる気まんまんだったんでしょ?」

 

「違う。いやそうだけど……あの時はちょっと、冷静さを欠いていたというか」

 

「常に冷静さを失わず、周囲の状況と自分のとるべき行動の把握を怠っては駄目だってトレーナーいつも言ってるよね?だったら担当にそんな言い訳は許されないってアタシは思うんだけど」

 

にまにまと、その透き通った唇を楽しげに歪ませる。美しい濡れ羽色の髪から滴る水滴が、規則正しく私の顔を叩いてきた。

それから反射的に目を逸らした先には、両膝をついてこちらを覗き込んでくるルドルフの姿。私と視線が交わった瞬間、なにを思いついたのか悪戯っぽく目を細める。

 

「それはそうとトレーナー君。スーツが濡れてしまっては大変だろう?風呂場にシャツやズボンなど必要ない。どれ、私が脱がしてあげよう」

 

「待つんだルドルフ。君達と風呂に入るつもりはないんだから、ちょっと注意したらそれで終わりのつもりで………あ、こら!!ベルトを返しなさい!!」

 

「よいではないかよいではないか」

 

「嫌よ嫌よも好きのうちというやつだよ、トレーナー君。浴場で程よく情を交わらすということだな……ふふっ」

 

「程よくない!!全然程よくないから!!」

 

楽しそうなシービーに両腕を押さえつけられるまま、あっという間にルドルフに身ぐるみを剥がされてしまう。

私の抵抗をものともせず手早く取り上げたシャツとズボンをこれまた丁寧にその場で畳み、丸めたベルトと一緒に脱衣所にあるかごの中へとしまわれてしまった。

お情けで肌着と下着だけは残してもらえたが、およそ犯罪的な光景であることに変わりはない。ましてや一糸まとわない美少女二人がすぐ隣にいるわけで。いつぞやのペットプレイより遥かに危機的状況であると今更ながらに気がつく。その事実に身を震わせた瞬間、先程まで脱衣所を見ていたルドルフの瞳がついと私を捉えた

 

「その二枚は私達に残された最後の良心とでも思って欲しい。それさえ身につけていれば、ここから出て救助を求めることだって出来るだろう。もっとも、君が私を力ずくで押し退けて逃げられたらの話だがね」

 

「うぅ………」

 

「それと、逃げ出そうとすれば当然ペナルティも与えるからな。捕まえる度に一枚ずつ剥いでいく。つまりトレーナー君の残機は残り二つしかないわけだ」

 

「……残機が0になると何が起きるんだ?」

 

「当然ゲームオーバーだ。そこから先の話も聞いておきたいかな?」

 

「………結構です」

 

遠回しなルドルフの降伏勧告に、私は氷が溶けるように床へと崩れ落ちる。

そういえば先程から濡れた浴室に横になっていたせいで、服にもかなりのお湯が染み込んでしまっている。先程までならまだしも薄着一枚になった今ではかなりの寒さが肌をなぞり、ぶるると本能的に身を震わせた。

そんな私の様子を目敏く見咎めたシービーが、心底愉快そうに提案を持ちかけてきた。

 

「ほらトレーナー。いつまでもそんな格好のままじゃ辛いでしょ?早く脱いじゃいなよ。ついでにアタシ達の背中も流して欲しいな……チームの親睦を深めるためにもね」

 

「どうしてそこでそんな言葉が出てくるんだ。深まるのは周囲からの疑惑と疑念だけだろ」

 

「あれ、トレーナー知らなかった?今日は11月26日……11(いい)26(ふろ)の日かつ11(いい)26(チーム)の日なんだ。今日大浴場が壊れたのもある意味タイミングがよかったと思わないかい?」

 

「シービー、お前まさか………」

 

「いや、私がお風呂壊したわけじゃないからね!?」

 

わたわたと手を振るシービーを後目に、ルドルフが両手首を掴んでゆっくりと引き起こしてくる。そのまま浴槽の縁に置かれた桶に入っているタオルをこちらに押しつけてきた。

 

「さて、それでは始めようか」

 

そうして彼女は私の横をすり抜けて、バスチェアに静かに腰を下ろす。

胸の上までかかる長い髪の毛をばさりと手で払った後、ふいっと肩越しにこちらへ視線を寄越してきた。

 

「最初は私からだな………トレーナー君?」

 

「………はい」

 

ルドルフがこちらへ背を向けている状況、逃げるなら今しかないかもしれないが……都合の悪いことに、後ろの扉は引き戸だ。そもそも目の前の鏡越しにこちらの動きは丸分かりだし、体の向きとは反対にルドルフのウマミミは揃って私の方を向いている。

それでも動かない私に業を煮やしたのか、ぴしゃりと彼女の尻尾に足を叩かれた。普段でさえ鞭のように強力なウマ娘の尻尾。ましてや水を含んで重みを増した今となっては、たとえ手加減されていてもかなりの脅威となる。

諦めてタオルにボディーソープを垂らす。それをよく泡立てた後、私はおもむろにルドルフの背中へとついた。

 

「……それじゃあ、失礼するよルドルフ」

 

「うん、よろしく頼むよトレーナー君」

 

とても嬉しそうなルドルフの声。出来るだけ鏡から目を逸らしているため顔こそ見えないが、それだけでもどんな表情をしているのか分かってしまう。実際にそれを見たらしいシービーが、苦笑とともに下を向いてしまった。

 

椅子の後ろで膝立ちになり、がっしりとしたルドルフの両肩に指を掛ける。

さらさらと水を含んで艶やかな鹿毛が、くすぐるように私の手の甲を撫でていった。

 



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愛バを洗ってあげるトレーナー【2】

ルドルフの両肩に手を置いたところで、さてどうしたものかと一瞬思案する。

勢いに流されてここまで来てしまったが、しかしどこから手をつければよいのだろうか。思えば人の背中を流すという行為自体、実際に行うのはこれが初めてのことだった。

 

「どうしたトレーナー君?早く洗ってくれないと体が冷えてしまうよ」

 

「あ……ああ、分かった」

 

あれこれ悩んでいたところで仕方がない。どのみちただでここから出られる筈もないのだ。ここは一つ腹を括って、彼女を満足させられるよう奉仕するほかないだろう。

彼女の体越しに鏡の横へ手を伸ばし、ホルダーからシャワーヘッドを取り上げる。栓を開き、手の平に当てながらお湯の勢いと温度を予め調整しておく。

十分具合が整ったところで、私はルドルフに頭を下げさせた。

 

「それじゃあ、失礼するよルドルフ」

 

「ああ、よろしく頼む……わぷっ!?」

 

頭頂部から水流をぶっかけ、最初はお湯だけで髪全体を慣らしていく。水の跳ねた瞬間ルドルフのミミがペタンと伏せられてしまうが、それも指で摘まんで引っ張りあげると縁の部分を優しくくにくにと解してやった。

そうしている内に、彼女の肩がだんだんと震え出してくるのが分かる。白々しいと自覚しながらも、手を止めずに労りの言葉をかけてやった。

 

「大丈夫かなルドルフ?痛かったり痒い所があったらちゃんと手を挙げて言うんだよ」

 

「い……痛くはない。痛くはないんだ。だが、くすぐったいと言うかなんと言うか……決して大丈夫というわけでは」

 

「はい大丈夫だね。続けるから」

 

「ああっ」

 

手を挙げないということは問題ないのだろう。

先程から必死に私の指を押し退けて顔を伏せてしまいそうになるウマミミをなんとか自立させる。人間より遥かにパワーが上回るウマ娘相手といえど、流石にミミ相手に力負けしてやるつもりはない。

ウマミミはその構造上、走っている最中に飛んできた砂や埃が中に溜まってしまいがちになる。それを防止するためにメンコをつけてトレーニングするウマ娘も多いが、生憎ルドルフはそうではない。だからこそ、入浴の際はこうして隅々までしっかりと洗わないといけないのだ。

放っておけば周囲の音が拾い辛くなったり、中で炎症を起こしてしまう危険もあるほか、ヒトのそれよりも脳に近いため最悪菌が頭にいってしまう可能性もあるため、ウマミミの洗浄は極めて重要なことである。決して私にそういう趣味があるだとか、ルドルフを虐めたいだとかいうわけではないのだ。

 

「……ん。ちゃんと中までしっかり綺麗にしているね。感心感心」

 

「あんまりルドルフのミミは洗いごたえないでしょ。いつもこれでもかというぐらい、念には念には入れて手入れしているみたいだからね」

 

「なんだ、同室だからって風呂まで一緒に行動してるんだな君達は……。それはそうとシービー、君のミミはどうなんだろうな?」

 

「さぁ?自分では綺麗にしてるつもりだけど、一人じゃ上手くできてるかよく分からないからね。後でトレーナーが直々に確かめてくれればいいよ」

 

「はいはい……」

 

やはりというかなんというか、シービーも体を洗ってもらうことが前提になっているらしい。少しは恥じらいがないのかと言いたくもなるが、目の前で堂々と湯船に浸かっているあたり今更だろう。

 

「さて、まだ終わりじゃないよ」

 

「はいぃ……」

 

気を取り直して再びミミに取りかかる。

中までしっかりと洗浄する必要があるが、かといって直接奥まで水をかけるわけにもいかない。指を十分濡らした上で、丁寧に中の汚れを掻き出していく。といっても目立つようなものも殆どなく、せいぜい今日のトレーニングの中で潜り込んだのであろう細かい砂ぼこりがほんの僅かに見つかるだけであったが。

 

あらかたミミを手入れし終えると、今度はシャンプーで髪を洗い流していく。量が量だけに、一通り汚れを落としていくだけでもかなりの重労働だ。水をたっぷりと含んでいるぶん、手で掬って乗っけるだけでもずっしりとした重みが手首にかかる。

 

「相変わらず綺麗な鹿毛だね。軽く指で鋤くだけでもあっという間に下まで抜けていくよ。かなり手を込めて育てているんだろう?」

 

「あ、あぁ………髪は、女の命とも言うぐらいだからね。それに私達は芸能の世界で活躍しているわけだから、尚更おざなりにするわけにはいかないだろう」

 

「それもそうだろうが……具体的にはどんなことをしているんだ?」

 

「それは………」

 

ルドルフが次々とシャンプーやリンス等々の名前を挙げていく。それらを聞きながら部屋の備品を頭で探ってみるが、生憎ここに用意されているようなものはなかった。

そもそも私と彼女では髪の事情も異なるわけだから、使用する薬液の種類に差違が生じるのも当然の話だろう。思えば化粧水や保湿クリームについても、あるにはあるが数や品質はだいぶ差が出てしまうように感じる。彼女達も部屋から持ってきているわけではないようだし、今日のところは私の乏しい備品で我慢してもらうことにしよう。

 

「あ、ルドルフ。髪は終わったからちょっと持ち上げといてくれない?背中洗うのに邪魔だから」

 

「構わないが、先程綺麗と褒めたその口で邪魔と言うとはね」

 

ぼやきつつも両腕を上げて髪を保持してくれる。おかげで二の腕から肩のライン、左右の腋から脇腹までの部分と背中全体が一気に露になる。

いつ見ても思わず惚れ惚れとしてしまう程美しい肉体美だ。全体的に引き締まっているが、つくべき所に筋肉がつき、それでいて余分な場所には一切見当たらない。取捨選択を突き詰めた上で、ただひたすら速さだけを追求し設計された極限の機能美がそこにはあった。

背中から尻尾の付け根まで指を這わせると、筋肉の上に薄く脂肪が乗っかっているのが分かる。ちょっとだけ力を込めて押し込んだぶん、確かな弾力をこちらに返してくれた。

 

「ふふ、どうだろうトレーナー君。私の体は……感動のあまり声も出せないかな?」

 

「あぁ、全くもって素晴らしい筋肉のつき方だ。徹底したトレーニングは言わずもがな、生まれもっての配置が整っていなければこうはならない。眼福という他ないよ」

 

「それは男としてかい?それともトレーナーとしてかい?」

 

「どっちもかな」

 

タオルを再度ごしごしと泡立てて、筋肉の流れに沿って丁寧に洗い流していく。冷静に考えてみれば、裸の若い女性の体を流しているという状況なわけだが、不思議と変な気分はしなかった。どちらかといえば、美術品を磨いているような緊張感が心を占めている。

もっとも、彼女達においては体が資本という言葉がそのままそっくり当てはまるわけで。万が一にもこれに傷をつけてしまったらという事態を考えると、そういった緊迫感を抱かないという方がおかしい話かもしれない。

肌は全体的には白磁のように白く透けて滑らかだが、そのぶん所々に残っている傷痕が目立つ。とはいえ、そこを指でなぞったところで少しも反応しないあたり、もうとっくの昔に癒えた傷なのだろう。

 

「トレーナー君は中々洗うのが上手だな。もしかすればの話だが、他の誰かとこういったことをした経験でもあるのかな?」

 

「実際の経験そのものは無い。ただ、ウマ娘の洗身はトレーナーにとっては必修分野だからね。知識として知っていただけだ」

 

「ほう」

 

レース内外における負傷によって、ウマ娘が一人では満足に入浴が行えなくなるケースがある。そういった場合でも、他の生徒や保険医、サポーターの力を借りることになるのだが、合宿中や遠征先等そういった介助の難しい状況に備えてトレーナーにも対応力が求められるのだ。

もっともそのような事例など実際には殆どないし、まず前提としてウマ娘とトレーナー間における強固な信頼の構築が求められるため、この仕事をしていて役立つ場面はおよそ皆無なテキスト上の知識である。私自身、必修だからととりあえず適当に受け流しただけに過ぎない。

それがまさか、こういった場面で役立つ日が来るとは思わなかった。……別に来て欲しくもなかったのだが。

 

「はいルドルフ、終わり。言われた通り背中は流したから、前はちゃんと自分でやっておいてよ」

 

「ああ。ありがとうトレーナー君。といってもそっちは問題ないよ。元々君が来る前に体を洗うのは済ませておいたのだからね」

 

「おい」

 

じゃあ何か。一度終わらせた筈の作業をもう一度私にやらせたということか、この娘は。しかもわざわざズボンとシャツまで脱がせていくなんて。

 

ルドルフは椅子から立ち上がり、のっそりとした様子で浴槽の中に入っていく。そして、それと入れ違いになる形でこちらに寄ってくるシービー。ルドルフもそうだが少しは隠す努力というものをして欲しい。

浴槽から出た瞬間、ぶるぶるっと濡れた犬のように体を振ってあたり一面に水滴をばらまく。私がそれに目を瞑った一瞬の隙を突いて、目の前の椅子の上にすっぽりと収まった。

ルドルフと同じように、そのたっぷり水を含んだ尻尾でべしべしと足を叩いてくる。

 

「さ、トレーナー。次はアタシの番だよ。ちゃんと全身隅から隅まで丁寧に洗って欲しいな」

 

「どうせ君だって、ルドルフと同じで既に体を洗うのは済ませてあるんだろう」

 

「それは当然。お湯に浸かる前に体を綺麗にしておくのは誰かとお風呂に入る時のマナーでしょ?」

 

「そうだね。それから浴室内にウマホを持ち込まないのも立派なマナーだと思うよ。たとえ防水加工がしっかりなされているものであってもだ」

 

浴槽の方を見ると、湯に肩まで浸かっているルドルフの脇の縁にシービーのウマホが立て掛けられているのが目に入る。たったワンコールで応答したあたり、最初から私が電話をかけてくるのを見越した上での企みだったのだろう。

 

「でもそのお陰でトレーナーはこうして私達の入浴に乱入できたんだからいいじゃない。男からすれば天国みたいな状況なんじゃないのかな?ほら早くキミも素っ裸になっちゃいなよ」

 

「脱がない。それにそういうことは自分で言うようなものでもないし、せめてタオルで隠すぐらいはして欲しい」

 

「別に見られて恥ずかしい体してないし。それに、浴室内にタオル持ち込むのもマナー違反だよね……なんでもいいけど。ほら、早く洗って頂戴よトレーナー」

 

「はいはい」

 

これはなにをどう言ったところで無駄だろうな。彼女を口でのやり取りでどうこうできる気もしない。

ルドルフにやったように頭頂部からお湯をぶっかけ、髪の毛を鋤きながら流していく。こちらも腰まで伸びる長髪なだけあって、やはり全体を処理するのは一苦労だ。

先程彼女に言われた通り、ウマミミの中も直接洗っていく。綺麗にしているという本人の言葉に間違いはないようで、あれだけ土埃を巻き上げていたにも関わらず汚れは殆ど見当たらなかった。

 

「シービー」

 

「は~い。これでいい?」

 

髪を終えると次は背中だ。ルドルフと同じような格好をとらせて、露出した背中と腕、腋の部分を綺麗にしていく。もっとも、既に洗身を済ませていただけあってやることは殆どないのだけれど。洗いすぎもかえって肌には良くないわけだし。

肌といえば、シービーの肌は剥き身の卵のようにつるりとしていて傷一つ見つからなかった。ウマ娘の健康状態は肌にも顕著に表れるから、肌荒れの兆候が微塵もないこの艶は嬉しい限りである。

筋肉のつき方もルドルフとはだいぶ違う気がする。こちらは初見では華奢というか、細っこい印象を受ける類いのものだろう。筋肉の肥大を目指すのではなく、むしろギリギリまで絞られている。ルドルフの肉体がライオンのように屈強な一方で、シービーのそれはまるで豹のようにしなやかだった。細くても貧相からはかけ離れており、節々からは力強いバネが感じられる。

 

「ほら、シービー。背中まで洗ったからもう終わり。私ももう出るからね」

 

「待ってよトレーナー。まだこっちが終わってないでしょ……アタシは隅々まで洗ってって言ったんだから、背中だけで満足するわけないでしょ」

 

そう言いながら、くるりとその場で半回転し、私に体の前面を向けてくるシービー。

未だに両腕は髪の毛を保持しており……つまり隠すべき場所がなにひとつ隠されていない。その顔はあたかも素晴らしいことを言っているかのように自信に満ち満ちている。それがなんとなく癪に触ったので、顔面にシャワーをぶっかけてやった。

 

「わぶっ!!?」

 

額からお湯を流し、その顔をごしごしと洗ってやる。シービーは最初こそ悲鳴を上げていたが、やがて慣れたのか舌をペロペロさせて流れるお湯を掬っている。

全く懲りていなさそうだったので、早々に切り上げて椅子ごと再び半回転させてやった。諦めたのか、彼女は元通りの格好に戻る。気のせいか否か、こちらに体を向けたルドルフが若干非難がましい目でシービーのことを見つめている。

 

「じゃあね……実はこの後まだやることがあるから、あまり付き合ってもいられないんだ。ここは好きなだけ使ってくれていいけど、ちゃんと門限までには寮に戻るように。あと自分達の荷物はしっかり持ち帰っておいてよ」

 

「やることってなんなの?」

 

「もう一度トレーナー同士での緊急会議だよ。あくまで美浦に席を置くウマ娘の担当トレーナーだけが集まるものだけど。万が一にも生徒間、ないしは生徒とトレーナーの間で事件やトラブルが起こらないようにね」

 

嘘だ。本当はそんな会議の予定などない。

とはいえ、こういった大人の事情さえ引き合いに出してしまえば生徒である彼女達はもうなにも言い返せなくなるので楽なものである。暫くは付き合ってあげたんだから二人とも満足しているだろうし、この程度の嘘は許されるだろう。

そんな私の思いが通じたのか、彼女達の間にさして不機嫌そうな雰囲気はない。上手く行けば、このまま見逃してもらえそうな予感さえする。

 

「トラブルならたった今ここで起きてる所だけどね」

 

「君が……というより私達がそれを言うのか、シービー。ところでトレーナー君、その後にはもう何も用件は入っていないのかな?誰かと会う予定などは?」

 

「入っていない。後はここに帰ってきて寝るだけだよ」

 

たづなさんとの約束についても勿論明かさないでおく。そんなことがバレてしまえば、意地でもここから出してもらえないのは目に見えてるわけだし。

どうも彼女達は前々から、私がたづなさんと度々お出かけしていることに厳しい視線を向けているらしかった。あえてその虎の尾を踏みにいくこともないだろう。

 

浴室の扉に指をかける。両開きのそれを押し開けようとした瞬間、不意にルドルフから声をかけられた。

 

「……ところでトレーナー君、一つ頼みがあるのだが。後でたづなさんに会った時、予算案の提出は明後日になると伝えておいてくれないか?」

 

「分かった。飲みに行くついでに伝えておくよ…………あっ」

 

………己の過ちに、気付いたときにはもう手遅れだった。後ろから伸びてきた腕にあっという間に床へと引き倒され、仰向けに転がされる。慌てて立ち上がろうとした瞬間、腕が動かせなくなってしまう。

そして私の目の前には、固く腕を組んだ全裸のシービーがこちらの逃走を阻むかのように扉の前で立ち塞がっていた。……ついさっき、これと同じような光景を目にしたばかりのような。

 

 

 

「やはり・・・たづなさんか。君は隠しているつもりだったのかもしれないが、先程の視線や指の動きから妙に焦りが感じられたよ」

 

 

 

声の方向を見ると、浴槽から身を乗り出したルドルフが私の両腕をがっしりと掴んで床に縫い付けている。これにもやはり見覚えがある。

 

「だいたいそういう時ってたづなさん絡みだもんね。トレーナーそんなにあの人のことが怖いのかな」

 

「なんにしても、愛バを放って他所の女と遊びにいくのは感心しないな。……延長を希望するよトレーナー君。それからやはり君も脱ぐといい」

 

「やっぱりチームの絆っていうなら裸の付き合いをしてこそだよね。アタシも延長を希望するよトレーナー。だけどやってもらってばかりじゃ悪いから、今度はアタシ達がキミを洗ってあげる」

 

 

 

「や、やめ――――」

 

こちらへ覆い被さり、残された二枚の良心すら剥ぎ取りにかかるシービー。彼女一人相手ですら敵う筈もなく、ましてやルドルフに抑えられたこの状況では話にもならない。

 

 

結局、このバスルームに引きずり込まれた時点で完全に詰んでいたのだ。そのことを改めて理解して、私は諦感と共に目を閉じた。

 

 

願わくはたづなさん以外の誰かが、この状況を察して助けに来てくれますように……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………こんなところで裸の男女三人、一体なにをされておられるのでしょうか?ご説明願えませんか。シービーさん、ルドルフさん、それから……………トレーナーさん?」

 

 

 

 

「…………やっば」

 

「こんばんは、たづなさん。私も丁度貴女とお話したいことがあったんですよ………『トレーナーと学園事務員との間にあるべき関係性について』ね」

 

「奇遇ですね。私も貴女達とお話したいことがあります。『トレーナーとその担当ウマ娘との間にあるべき関係性について』………………ねぇ、トレーナーさん?」

 

 

 

 

………………はい。

 



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地下室の四人【3】

トレセン学園は学校施設である。

 

なにを今更と思われるかもしれないが、所属するウマ娘にとっての活動の中心はレースとライブであり、また学園の外部からもそのようにみなされているため、実のところ本校の教育の分野に目を向けられる機会というのはあまり多くはない。

とはいうものの、実際のところはしっかりとカリキュラムが定められ、文科省の監督も受けている歴とした中高一貫校なのだ。

世間一般の生徒より限られた時間で一定水準以上の教育を施さなければならないため、むしろ教育者の質は全国において指折りと評価しても過言ではないのではないだろうか。

 

これは決して名門としての威信だとか、中央としてのプライドだとかいうだけの話ではない。個々のウマ娘により違いはあるものの、およそ彼女達がレースの世界で生きていける時間は限られている。なればこそ、生徒達が幸せに生きるためにはその"先"を見据えた上での知識の定着が欠かせないからだ。

 

………そう、トレセン学園は学校なのだ。

故にここにも、学校を舞台にした定番のオカルト………所謂『七不思議』と呼ばれるものが存在する。もっとも、この学園におけるそれは一般によく聞かれるものとは少し色合いを異にするが。

 

この七不思議にはトイレの花子さんだったり、あるいは動く二宮金次郎像だったりというようなありきたりな逸話は含まれない。須らくトレセン学園ならではの独自色がある。

それは例えば、三女神像の前を通ることで別のウマ娘の力を引き継ぐことができるという話だったり、午前2時になると発走機に首のないウマ娘が現れ、それを見た生徒のトレーナーには不幸が訪れるという話だったり。そんなこんなで七つのうち六つもの逸話がレースに関係しているらしい。

いかにも競争バの聖地らしい、個性溢れる『トレセン学園七不思議』と言えるだろう。

 

 

 

 

………ところで、そんな七不思議にもただ一つだけ、レースとはおよそ無関係な怪談が名を連ねている。

 

 

 

 

「………トレセン学園の秘密の地下牢、か。暴れたり重大な粗相をやらかしたりしたウマ娘が、保護と折檻を兼ねて放り込まれるとかいう曰くつきの場所。ねぇトレーナー、キミはこの牢獄の存在を知っていたのかな?」

 

ガシャガシャと鉄格子を揺らしながら、まるでテーマパークにでも遊びに来たかのように弾んだ声でシービーはそう問いかけてきた。

彼女は柵を引っ張ったり、間に巻き付けられた鎖同士を擦り合わせたりして遊んでいたが、しばらくすると飽きたのだろうか、そそくさと牢の奥に引っ込んでしまう。

斜め向かいにある格子の向こう………姿の見えなくなってしまったシービーに向かって、私はため息混じりに言葉を返してやる。

 

「………知らなかったよ。てっきりただの作り話か、噂話に尾ひれがついた程度のものだと考えていたからね。こんなけったいな施設が人知れず眠っていたとは思いもしなかった」

 

「人知れず、ね。でもここら辺の牢屋とか、かなり最近まで使われていたような痕跡があるけど。過去に入れられた経験のあるウマ娘からネタバラシはなかったのかな?」

 

「あったんだろう。しかし誰もその話を真に受けるようなことはなく、都市伝説の一つとして広まった結果が七不思議になったんじゃないのかな。仮にタキオンがこの牢屋の存在を告発したとして誰が信じる?」

 

向かい合う私達の牢の間にある通路に転がった、微かな光に照されてキラキラと輝くガラス片を指し示す。

 

「………あー確かに。あの子は告発者としては少し信憑性には欠けるだろうね。問題児の筆頭みたいなところだから」

 

粉砕というにはパーツの大きすぎるそれは、頭の中で組み合わせてみれば確かにフラスコの形をしている。おまけにその周囲の床や壁、さらには天井の一部までもが黒く焼け焦げている有り様。

このような危険な薬品を携帯しているようなウマ娘を一人、私は知っている。彼女は最低でも一度はここに収容されており、尚且つ脱走に成功しているのだろう。近くにある牢の鎖が焼き切れ、その鉄格子が無惨に溶けて歪んでいるのを見る限りは。

 

彼女がここに連れてこられる意味は大いにあるだろうが、せめて身体検査はしっかりやっておけと言いたい。天下のトレセン学園のセキュリティがこの体たらくでは、我々トレーナーとしても先が思いやられる。今現在取っ捕まっている私が言えた義理でもないだろうが。

 

「それにしても………正直なところかなり度しがたい施設じゃないのか、ここ。一方的に連行して監禁とは、人道的にどうかと思うしなんなら法律も抵触しかねないでしょ、これ」

 

「人道、倫理、法律。…………規範というものは、得てして力の弱い立場の者を保護するために存在するものです。ここでいう弱者とはすなわち、トレーナーをはじめとした学園におわす人間のこと。彼らの身の安全を保障するために、力のあるウマ娘にはある程度の制約が科されなければなりません。そのような薄皮一枚、薄氷の上で我々の共存は成り立っているのです」

 

「そうですか。なるほど確かに、今の貴女の姿を見ているとよく分かりますよ。たづなさん」

 

「………誤解のないように申し上げておきますが、私はこの措置に不服を感じてなどいません。トレセン学園の秩序維持のためには致し方ないことです」

 

私から見て真正面の牢の中、ぷいと頬を膨らませて彼方を向いてしまうたづなさん。

首から上だけ見ればとても可愛らしいが、そこから下は重厚な拘束具のために得体の知れない威圧感を放っていた。

革のバンドが、上半身を丸ごと包むかのように何重にも巻かれている。その端と端は分厚い鋼鉄のリングで繋がれ、さながら納棺直前のミイラのような様相を醸し出す。この状況でも頑なに帽子を外さないのは流石といった所だろうか。

 

一見すればやり過ぎだと思わなくもないが、先の乱闘事件における当事者の片割れだという事情を考えればやはり妥当だろう。

その余波でバスルームが全壊し、この寒い中あと一週間は銭湯でやりくりせざるを得ない私が擁護する理由だってないわけだし。

とはいうものの、その潔さには見習うべきところもあるだろう。

 

「流石は理事長秘書さんですね。この学園のことをよく見ていらっしゃる………それはそうと」

 

振り返り、乱闘のもう一方の当事者の顔を睨みつけてやる。

先程から限界までこちらに首を伸ばし、その鼻面を背中に押し付けてきていた鹿毛のウマ娘は、私と目があった瞬間居心地悪そうに顔を逸らしてしまった。

その頭を両手で鷲掴みにしてやり、無理やり元の方向へ戻してやる。潤んだアメジストの瞳が一瞬大きく揺らぎ、やがて諦めたように私の視線を捉えた。そのミミはしんなりと、生気の抜けきったように垂れて下を向いている。

 

「ルドルフ。生徒会長ともあろう君が、どうしてトレーナー室を壊したりなんてするんだ。私はまだ寒さを我慢すればいいだけだけどね………修繕費も学園から下りるし。まぁ、だからと言って許される話でもないけどね」

 

「ほへんひゃひゃい………」

 

猿轡を噛まされた口で、たどたどしい謝罪の言葉を口にするルドルフ。

彼女に科せられた拘束は、たづなさんのそれよりもさらに一段と厳しいものだった。上半身こそ同じようなミイラ状だが、それに加えてやたらと太い鎖で壁と繋げられている。口は猿轡で戒められており、なにか言葉を発する度にその端からよだれが溢れてしまっていた。下半身を見るとその両足もまた、やたらとぶっとい鎖で床に繋げられている。

 

たづなさんが介入した際、バスルームで最も大暴れしたのがルドルフであった。故に、この拘束もやむを得ないのかもしれないが………あんまりといえばあんまりな姿ではないだろうか。

ここまでしなければ繋ぎ止められない彼女と、正面から互角に渡り合ったたづなさんも大概どうにかしている。とりあえず、汚れた彼女の口元は拭っておいた。

 

 

「はぁ……………………………」

 

 

結局、私達は四人とも揃って朝までここに抑留か。

 

 

………どうしてこうなった?

 

 

事の発端は、ルドルフとシービーの所属する美浦寮の大浴場が故障したことだった。

それでシービーとルドルフが私の風呂場に侵入して勝手に湯浴みを行い、挙げ句に私を連れ込んで服を脱がさせた。………そこで間が悪く、生徒の所在を点検中のたづなさんが乱入したのだったな。

 

遺憾ながら、当時は酷く焦燥していたこともあって記憶が上手く引っ張りだせない。

再び顔を寄せてくるルドルフの鼻息にうなじを撫でられながらうんうんと頭を絞っていると、引っ込んでいたシービーが再びひょっこりと顔を覗かせてきた。

 

「ねぇ、トレーナー。アタシはトレーナー守るために結構頑張ったと思うんだけど。褒めてくれるよね?」

 

「ん。あぁ、勿論………よく頑張ってくれたね。私が今のところは五体満足なのは間違いなく君のお陰だ。ありがとうシービー」

 

「えへへ………」

 

嬉しそうに照れ笑いするシービー。事実、彼女がいなければ私の収容先はこの監獄ではなく学園の医務室だっただろう………そちらの方がマシなんじゃないかとは言うまい。

 

たづなさんの乱入で肝を冷やしたのか、寸前で冷静さを取り戻したシービーはそのまま私を回収して浴室の隅で丸まっていた。

出来ればそのまま逃げて欲しかったところではあるものの、生憎その時の我々はお互い全裸であったし、そうでなくとも爪に難を抱えた今の彼女があの二人を振り切るのは極めて困難だっただろう。

そういう意味では、あの場で即座にとりえる最善の行動を為したと言える。

 

「それに比べてルドルフはすぐに暴れちゃうんだから。アタシ達がこうして籠の鳥になってるのも、大半がキミのせいだからね?」

 

「ひ、ひーびー………ひゃからほへんははいっへ……」

 

「あーあー。なに言ってるのかよく分からないかな。ルドルフ、もう少しはっきりと声に出してくれる?」

 

「ほ、ほめんなはいっ………ううぅ」

 

反対にすぐさまかかってしまったのがルドルフだった。

 

一体なにが彼女の逆鱗に触れたのかは知らないが、たづなさんを見た瞬間ミミを倒していきり立ってしまった彼女。極めて性質の悪いことに、ルドルフは感情と行動をある程度切り離してしまえるウマ娘だった。

たづなさんと相対しておきながら、一瞬たりとも私からマークを外さず牽制されていたため、争いの隙をついて逃げ出すことすらできなかったのだ。結果として、目の前で繰り広げられる破壊活動をただただ眺めているのが精一杯だった。

なにしろ本人に浴室を破壊するつもりが微塵もなく、有り余った力の余波としてそうなってしまっている以上説得も通用しない。

 

「駄目ですよシービーさん。そんなにルドルフさんを虐めては………一応彼女自身も深く反省していらっしゃるようですから」

 

二人のウマ娘のやり取りを傍で見ながら、どこかのほほんとした様子でそう諭すたづなさん。

 

ルドルフのヘイトを一身に稼いでいたという点では、彼女もある意味で私の救世主と見なしてもいいかもしれない。

元はといえば彼女が私にあんな約束を取りつけたことが全ての原因だった気もするが、なんにしてもかかったルドルフと単騎で拮抗したその剛腕は流石と言うほかないだろう。

それでも不満を挙げるとするなら、その行動の全てが見切り発車だったという所に尽きる。

 

「しかしたづなさん。貴女が予め他の職員に報連相を回してくれていればこうはならなかったのでは……?」

 

「近くの部屋にいる別のトレーナーさんが通報してくれるだろうと思いまして。結果的にその通りにはなりましたが………私まで乱闘と破壊行為の容疑者にされるのは誤算でした」

 

「それを言ったらアタシ達だってこんな所に放り込まれる理由が分からないけど。たづなさんは容疑者というか、器物損壊はともかく乱闘の当事者ではあるから納得できるけど、アタシとトレーナーは隅っこで大人しく震えてただけじゃない?」

 

「勝手に納得しないで下さい。えぇ、貴女達につきましては裸で抱き合っていたことが理由でしょうね。………男女七歳にして席を同じうせず。なにやら勘違いしておられるみたいですが、世間では成人男性と女子高生が入浴を共にするのは一般的に受け入れられ難いことなのですよ。ねぇトレーナーさん?」

 

「それは誤解です。私は私の部屋の浴室に本来あるべき姿で立ち入っていたものであり、今日はたまたまそこにルドルフとシービーがいただけなのです。それに同じチームの仲間として、時には裸の付き合いも悪くないとは思いませんか?」

 

「個人の主義主張を一概に否定するつもりはありませんが、そのような思想の持ち主を世間一般的になんと称するのかご存知でしょうか?」

 

「なんでしょう」

 

 

 

「…………………変態、と」

 

 

 

酷く冷たい視線が突き刺さる。

なるほど、それが私が今このような辱しめを受けている理由というわけか。しかしそうだとすると、一つだけ納得のいかない部分が出てくるのではないか。

 

「しかしたづなさん。貴女はつい先程、この施設が学園における弱者………すなわちトレーナーを筆頭とした人間を保護するためにあると言いましたよね。にも関わらず、どうして私はルドルフの牢に一緒に入れられているのでしょうか。他にも牢はいくつかありますが………まさか、いざという時は私がルドルフを取り押さえろとでも?」

 

「当たらずとも遠からずと言ったところでしょうか。本来であればトレーナーさんは、ここに収容される謂れはありませんからね。故に、その目的は万が一のための備えということになります。もっとも、貴方の役割は看守ではありませんが。強いて言うなら………」

 

「生け贄、あるいは人身御供といったところかな。そうでしょたづなさん?」

 

「………ええ、おそらくそのような理解で問題はないかと。つまりトレーナーさん、万が一ルドルフさんが脱走しかけた時にはその身を捧げて時間を稼ぐのが貴方の役割であり、そうして同じ檻に閉じ込められている理由となります」

 

「……………嘘でしょう」

 

どうやら私には人権というものが適用されないらしい。これでは飢えたライオンの檻に放り込まれた羊そのものではないか。ここに連れてこられた時、警備のウマ娘がやけに優しかった裏にはそんな事情があったなんて。

こうしてはいられない。明日の朝に理事長がここに来るまでの辛抱だと思って耐えていたが、いよいよそんな悠長なことは言ってられなくなった。

なにかないかとジャケットの内ポケットを探ると、都合のいいことにミーティングルームの補修に使うはずだった針金が一本入ったままだった。それを取り出して適当に曲げてみる。

 

「ふーん。トレーナーってピッキングも出来るんだね」

 

「昔とった杵柄でね。といってもあまり難しいことは無理だけど、ここの牢の鍵ぐらいならたぶんいけるだろう」

 

見たところ、頑丈さこそ非常に気を遣っているようだが、一方で施錠関連についてはそこまで重視していないらしく見張りの姿すらない。単純に人手が足りないのか、あるいはそこまでやる気がないかのどちらかだろう。

鉄格子に巻ついた鎖を手繰り寄せ、その先にある南京錠の穴に針金を差し込む。手探りで解錠を試みること数分、ごとんと物々しい音を響かせて錠前が地面に落ちた。

封印の解かれた鉄の扉を押してみると、その見た目の重厚感に反して案外簡単に外側へと開く。

 

「出られたな」

 

「やったね。その調子でアタシ達の檻も開けてちょうだい。いい加減寮に帰って寝たいから。あ、その前にご飯も食べたい。トレーニングの後すぐお風呂入ってここに来たから、昼からなにも食べてなくてお腹空いてるんだよね」

 

「はいはい…………あっ、しまった」

 

針金がその中程でぽっきりと折れてしまっている。

錠前が想像以上に頑丈だったか、それとも解錠の際に力を入れすぎてしまったか。なんにしても、この短さでは二度とピッキングには使えないだろう。

 

やむを得ず針金を放り捨てる。

悲しみに膝から崩れ落ちるシービーを横目で見ながら、今度はたづなさんが指示を飛ばしてきた。

 

「…………そこの、通路の床から少し上の部分に小さい扉があります。中にレバーが収まっているので、それを右に引いてください」

 

「こうですか」

 

言われた通りレバーを引くと、ガコンと一斉に全ての牢の扉が解錠される。

数秒前の意気消沈はどこへいったのやら、シービーが喜色満面に牢から飛び出してくるのが見えた。その後ろで、役目を果たせなかった南京錠が虚しく鎖にぶら下がって揺れている。

 

それに続いて、ギィと目の前の扉も開く。

いつの間に拘束を解いたのやら、緩く伸びをしながらたづなさんがこちらへ歩み出てきた。

数時間監禁されていたとは思えない、どこか余裕のある彼女の立ち姿。ひょっとしたら、これ以外にも奥の手を用意していたのかもしれない。

 

「あれは火災発生等の非常事態において、一斉に牢と拘束具を開放するための安全装置です。いちいちそれぞれの鍵を開けて回っていては時間が足りませんから」

 

「なるほど。しかしよくあれの存在に気づきましたね」

 

「当然です。そもそも、この施設の作成を指示したのは私ですから。昔はやんちゃな生徒も多くて手を焼いたものです」

 

………だからここの存在意義にも理解が深かったのだな。だからと言って、設計した本人が閉じ込められるというのも間抜けな話だ。

 

「そのわりには、まだルドルフが出てこれないみたいだけど。というよりあれ、拘束具が外れていないんじゃないかな」

 

「本当ですね。大暴れしていたこともあって、彼女には特別な措置がとられているようですが……どうしましょうかトレーナーさん。ルドルフさんも解放して差し上げますか?」

 

「やるとしてもどうやってですか?見たところ恐ろしく強固な拘束のようですが、どのようにして外すのです?」

 

「それは、私達全員が力を合わせれば………あるいは、上にいる人達から鍵をとってくるのも一つの手です。どちらも相応のリスクが伴いますけど」

 

「ひゃふへへ!!ほへーはーふん!!!」

 

「そうですね………」

 

改めて、牢の中に収まっているルドルフの全体像を眺める。

ベルトにより全身を戒められ、無理やり膝まずかせられながら涙目でこちらを見上げる少女。呂律が回らないながらも必死に哀願を繰り返すその姿は、否応なしに私の中にある庇護欲のようなものを駆り立ててくる。

そんな愛バを目の前にして、私が導きだした結論は…………

 

 

 

 

「………放っておきましょう」

 

「ほへーはーふん!!??」

 

「よろしいのですか?」

 

「えぇ。私の経験上、一度かかってしまったルドルフはその闘争心を抑えきれない傾向にあります。これまでは私がその発散に付き合ってきましたが、もしかしたら拘束という別のアプローチがあるかもしれません。ルドルフをここまで抑え込む手段がなかったので、無理やり大人しくさせて寛解を待つという対処をとることが出来なかったのです」

 

「故にこの折角の機会で試してみたいと。………他には?」

 

「………ここは折檻も目的の一つなのでしょう?ルドルフに鞭が与えられるのは珍しいので、これもいい経験になるかと。精々、一晩空腹に冒される程度でしょうからね」

 

「つまり日頃の仕返しだと」

 

「ひょんな………ひほい……ほへーはー……」

 

私の宣告を受けて、がっくりと項垂れるルドルフ。

その小さい背中に罪悪感が込み上げてくるが、必死の思いでそれに蓋をした。思えば、私が彼女に主導権を握れる数少ないシチュエーションなのだ。ここで甘えを見せてしまえば、今後二度とルドルフに逆らえなくなる予感がしてならない。

 

 

「…………わはった」

 

「ん?」

 

 

 

「ほへーはーふんがほのつもりなら、わらひにもはんはえがあるはらな!!!」

 

 

バッと彼女の顔が私を見据える。

その瞳の奥に揺らいでいるのは業火。気づけば先程まで萎びていたウマミミはピンと立ち上がり、次第に後ろへと倒れていった。

ふーっふーっとうってかわって荒い呼吸が口から漏れだしている。バチンバチンと、鞭のように地面を叩きつける尻尾の音が牢に反響した。

 

ペキペキパキパキと、巻ついたベルトの間から軋むように漏れだしてくる断末魔。壁と床まで繋がっていた四本の鎖は錆びた悲鳴をたてながら擦れ合い、ゆっくりとねじ曲げられていった。

パリパリと、電気の走るような衝撃音が空気を震わせる。心なしか、彼女の姿が光を放ちつつあるようにも見える。

 

「…………ねぇ、トレーナー。ちょっと不味くないこれ」

 

「不味いどころじゃない………ルドルフがかかった!!!」

 

見覚えがある。あれは、重賞を制した直後のシンボリルドルフだ。その有り余る闘争心を開放させ、自らを律することすら敵わなくなった状態。

ああなってしまったルドルフは容赦がなく、体面を取り繕うことすらしなくなる。ましてやここは秘められた地下牢。およそ助けなんて期待できない場所だ。

 

「逃げるぞシービー、それからたづなさん!!ここももう長くはもたない!!」

 

「ふふ、あんな姿を見せられてしまうとワクワクしてしまいますね………私も久し振りに走りたくなってきちゃいました」

 

「言ってる場合ですか!!」

 

「シービーもたづなさんもどこへなりとも行けばいい。だがトレーナー君は駄目だ。君が誰のものなのか、もう一度しっかりと骨の髄まで分からせてやらねばな……」

 

ゴムの張り裂けるような破裂音と共に、とうとうルドルフがその猿轡を噛み千切る。

そのままぺっと床へ吐き出し、ゆっくりと長い犬歯を剥き出しにさせた。バチンバチンと、強靭な顎がトラバサミのように開閉する。

 

 

 

 

 

「ちょっと予想外の展開ではあるけど、そもそもトレーナーの判断が直接的な原因だと思うからね。ここはやっぱり、キミに本来の役割を演じてもらった方がいいんじゃないかな。ねぇ、たづなさん」

 

「猛り狂う獅子へ捧げる生け贄、人柱、人身御供といったところですね。それでは」

 

「はっ?」

 

後ろから背中を押され、私は元いた牢の中……ルドルフの眼前へと放り出される。

鉄の扉が閉められた直後、ガシャガシャと鎖が格子に巻き付けられる音。抗議をしてやりたいが、振り返るのはおろか声を出すことすら出来ない。私という存在の全てが、目の前の怒れる獣へ釘付けにされてしまっている。

 

「ふふ…………もう逃げられないぞ?」

 

叫び続けていた四肢の鎖がついに限界を迎える。最初に右足の鎖が、次いで左足の鎖が根本から崩壊し、束縛されていた両足が自由となった。

徐々に遠くなっていく二人の足音。対照的にこちらへとにじり迫ってくるルドルフ。

 

「知っているかいトレーナー君。儀式における生け贄というのはね、往々にして対象の渇望を満たすためにあるんだ。食欲、情欲、支配欲…………飢えを満たす供物に目をとられている隙に、生け贄ごと一つの空間に閉じ込めるんだよ。ちょうど、彼女達が君にそうしたようにね」

 

「…………それで?」

 

 

 

 

 

「私は今、とてもお腹が空いているんだ」

 

 

 

 

 

ばきんと、残った二本の鎖も勢いよく弾けとぶ。

 

 

ついに自由を得たライオンが、ぬうっとその両腕を伸ばしてきた。

 



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魔を射落とす祓いの儀

駿大祭でルドルフが流鏑馬を奉納するらしい。

と、そんなことを私が聞かされたのはつい今朝のことだった。

 

駿大祭というのは毎年秋に開催されるウマ娘たちの祭典のことで、レース界の発展とウマ娘たちの無事を願う古くから伝わる伝統行事である。

レースを走る競争ウマ娘たちは言うに及ばず、それを主催する学園やURA、多数のウマ娘団体、さらにはトレーナーにとっても極めて重要な一大行事だ。

それだけでなく、地元の商工会からスポーツに関連する事業を展開する企業、大手広告代理店までもがこぞって協賛している。なんとも商魂逞しいものだと思うが、祭りが盛り上がるならそれはそれで良いことなのではないだろうか。

 

 

「トレーナー君は、駿大祭にはどの程度参加したことがあるのかな?初めて見に行った時の思い出があるなら是非とも聞かせて欲しい」

 

「参加……というのがどの程度のものを指すかはよく分からないが、屋台を見て回ったり神事を参観したりした経験なら沢山あるよ。初回の記憶なんて、それこそ大昔のことで思い出せないな」

 

自動車のハンドルを回しながら、隣に座るルドルフからの問い掛けにそう答える。

集中して頭を捻れば初めて見に行った時の思い出ぐらいは呼び起こすことができるかもしれないが、生憎今は慣れない土地の運転に四苦八苦している最中なのでやめておく。

ひたすら似たような景色が続く、カーナビすら当てにならない郊外の山林。ルドルフの案内のお陰でなんとかスムーズに走れてはいるものの、気を抜けばあっという間に現在地が抜けてしまうだろう。

幸いなことに道自体はしっかりとしているが、迂闊に進路を取り違えた挙げ句にバックで戻る羽目に陥るのは御免被りたいところだ。

 

「そうか。トレーナー君は小さい頃もウマ娘が大好きな男の子だったんだね。お祭りに参加したのもやはり有名なウマ娘が目当てだったのかな?」

 

「ちょっと誤解を招きそうな言い方だけど……まぁ間違ってはいないかな。駿大祭それ自体、いちファンからしてみれば中央のウマ娘たちと直接触れ合える貴重な機会だ。みすみす見逃すような手はないよ」

 

「なるほど、確かに駿大祭はファンとの交流を目的としているところもあるからね。レースの発展やウマ娘の安全について神に祈願することも大切だが、我々の活動が多くのファンや支援者の方々に支えられているものである以上、彼らにも目を向けなくてはならない」

 

ふと気紛れで訪れた駿大祭をきっかけに、レース競技やウマ娘そのものに魅入られる者も多いと聞く。

巨大な神輿を引いて往来を練り歩く曳神輿、三女神に感謝と祈りを捧げる奉納舞、そして厄に見立てた的を射る流鏑馬等々、神に奉られるはずのそれらはこの世の存在をも魅了するのだ。

元来祭りというものは大衆統合や娯楽追求の側面もあるという。なればこそ、彼女らの神事が人々の心を掴むのも当然の成り行きかもしれない。もっともそれは、演者がその日のために積み上げてきた自己研鑽と修練があってこその話だが。

 

「お客様として参加するのも楽しかったけど、実際に運営する側として立ち会うことができるのはトレーナーとしての醍醐味かな。いや……『シンボリルドルフのトレーナー』としての醍醐味か」

 

いかにウマ娘の祭典といえど、流石にトレセンの生徒全員が運営に携われるわけではない。

学園の生徒を統括する生徒会、その長であるルドルフだからこそ祭りの中核となれるのだから。

名誉なことである一方、当然相応の責任も求められる。学生には重すぎる筈のそれを軽々と担ってみせるあたり、彼女の指導者としての優れた器量を感じさせた。

 

「ふふ、ならば私も君を失望させるわけにはいかないな。元より駿大祭とは、ウマ娘がレースへかける覚悟を一新する機会ともなる祭礼だ。故に私は皇帝として、生徒の模範として在るべき姿を見せつけねばなるまい」

 

「だからこうして、わざわざ僻地の山奥にまで足を運んだというわけか」

 

「そうだ。勘を取り戻すにはうってつけの場所があったことを思い出してね。ああそこ、その道を真っ直ぐ左に向かって………ほら、着いたよ」

 

木々を抜けると、切り拓かれた山の中腹に出た。

車が通れる程度に道が整備されていたことから薄々予感はついていたが、やはりかなり人の手が入っている場所らしい。

そのわりには道とこの広場以外およそ手つかずのようだが、あえて自然の状態を維持しているのだろうか。

 

広場まで車を侵入させると、できるだけ隅の方に寄せてブレーキをかける。

一足早く車から降りたルドルフを追って、私もエンジンキーを抜いてから外へ出た。

 

「トレーナー君、私の弓はどこにあったかな?」

 

「後ろのボックスの中に入れてあるはずだ。念のため外側にクッションを詰めてあるから分かりづらいかもしれないが……」

 

「ああ、大丈夫だ。見つかったよ。では一緒に射的場へと向かおうか………案内しよう。こっちだ」

 

どこか弾むような足取りで、ルドルフは私を先導する。

勘を取り戻すと言っていたあたり、恐らくここ最近は訪れていなかった場所である筈だ。にも関わらず、すいすいと目的地まで歩いていけるのは流石の記憶力といったところだろうか。山の中の景色など、季節や時間の流れによってあっという間に変化してしまうものだというのに。

 

「しかし、どうしてルドルフが今回の流鏑馬奉納を担当することになったんだ?抽選か、それとも君から立候補でもしたのか」

 

「URAからのご指名だよ。駿大祭における流鏑馬の演者は二人………まずそのうちの一人をURAが選んで通達を行い、選ばれたウマ娘がもう一人を選ぶ決まりになっているんだ」

 

「それで、君は相方として誰に声をかけたんだ?」

 

「最初はシービーに受けてもらうつもりだった。しかし彼女は以前に奉納舞を演じたことがあるようで、それを理由に断られてしまったよ。多くのウマ娘が顔を見せる方が好ましいという考えあってのことらしい」

 

確かに、ファンとの交流だけでなく演じるウマ娘の顔を売る舞台でもあることを考えれば、なるべく重複を避けることが望ましいだろう。

しかしそれが断り文句だとすると、シービーにも弓の心得自体はあるということか。おかしな話ではないが、少し意外だ。

 

「シービーは『キミは魔を祓う英雄役も似合うね』なんて他人事のように言っていたが、私は彼女の方が適任だと思うかな。トレーナー君はどう思う?」

 

「そうだね……確かに彼女はヒーローと相性が良い気がするな。ルドルフはどちらかといえば退治される方だ。英雄にどう負かされるかに注目が集まる怪物だろうな」

 

「おや、君も言うようになったね。しかしそうなると、今年の流鏑馬は怪物が二人顔を見せることになる」

 

「となると、君が選んだもう一人とはオグリキャップのことかな」

 

「残念、不正解だよ。怪物は怪物でも、芦毛の怪物ではなくシャドーロールの怪物。私はブライアンに任せることにした」

 

それは意外だな。ブライアンがこういった催しの花形を勤めるとは思わなかった。

格としては十分だろうが、あまり表に出たがらない印象がある。実は駿大祭における演者の正式発表はまだ先のことであり、トレーナーの間でも盛んに予想が行われている最中であったのだが、その中でも彼女の名前はなかったように思う。

 

「理由を教えてもらってもいいかな?」

 

「先も言ったが、この駿大祭はレースに向ける覚悟を新たにする一つのきっかけでもある。だからこそ、演じる者は見ている者たちの気持ちを高揚させ、その内に秘めたる闘争心を掻き立ててやらねばならない。本能を否が応でも刺激される、この私と鎬を削るに相応しいウマ娘………彼女こそがそれに値すると考えた」

 

「そう言われてみれば、確かに適任のような気がするな。それにしても、ものぐさなブライアンがよく引き受けてくれたものだ」

 

「初めこそ渋られたけどね。最終的には承諾してもらえたよ………もっとも、代わりとして一つ条件を出されたが」

 

「条件?それは一体………」

 

 

ルドルフは私の疑問には答えず、その場で足を止めると羽織っていたコートを脱ぎだした。

その下から現れたのは、サラシの似合う和装の勝負服。そういえば以前、ルドルフと勝負服の別デザインについて議論を交わしたこともあったが、そこで私が出した案と限りなく近いものだった。

 

「実は一昨日初めて着付けしたばかりのものなんだ。………うん、トレーナー君の意見を参考にさせてもらったよ。本当ならその場で見せるべきだったのだろうが、折角だから弓の腕と共に御披露目したいと思ってね」

 

「そうだったんだな。しかし手前味噌になってしまうかもしれないが、本当によく似合っているよ。全体的に涼しげで、祭りの雰囲気にもよく合うだろう」

 

「ふふっ、ありがとう。祖父にもよく似合っていると言われてね……曰くフランスでも人気が集まりそうだと。さて、そんな機会は訪れるのやら……」

 

そう話しながらも手を止めることなく、今度は背負った袋から弓を取り出す。私も持ち運んでいたケースから射的用の矢を一本取り出し手渡した。

 

「的はどこなのかな?」

 

「あそこだ」

 

そうルドルフの指差す先に目を凝らせば、確かに木々の間にひし形の的が吊るされている。

よく見ればその背後には砂の詰め込まれた袋がいくつも積み重ねられており、命中しても外れても容易に回収できる造りになっているようだ。

 

さらにその隣には、真っ赤なペンキで大きく矢印の描かれた看板が立て掛けられている。

 

「あれを目印に、コースを周回しながら道なりに用意された的を順番に射っていくんだ。本来なら火を焚いてそれを目印にするところなんだが、今は明るいし火事の危険もあるから止めておこう」

 

「いや、コースと言われても……木と岩しかないじゃないか。これ、到底走破できる地形じゃないだろう。昔の流鏑馬ならともかく、今時の祭りで行われるものからはかけ離れている」

 

「その通り。駿大祭における催しはもっと簡易的だった………昨年まではね。トレーナー君、これがブライアンから出された条件だよ」

 

「流鏑馬の在り方を、従来の………というより原始のやり方に戻せと」

 

「その通り。温故知新、更なる盛り上がりが欲しいのならかえって古いやり方に立ち返るのも一つの手だというわけだな。やはりブライアンの発想には目を見張るものがある………さて」

 

ルドルフが弓を構え、おもむろに矢をつがえる。

 

 

 

「私の手並み、とくとご覧に入れよう」

 

 

 

地面に両足をしっかりと食い込ませ、背筋をピンと正し、そのままゆっくりと引き絞った。すうっと、大きく息を吸い込んで目を開く。

一連の動きは思わず目を奪われる程滑らかで、流れる清水のように一点の淀みもなく美しい。

 

数秒の静止の後、彼女の指が筈から離れる。

放たれた矢は澄んだ空気を切り裂きながら一直線に的へと飛んでいき、それを真っ二つに叩き割った。

 

 

 

「お見事」

 

「正射必中、といったところかな」

 

手を叩いて称賛すると、どこか嬉しそうにルドルフははにかむ。

尻尾をゆらゆらと揺らしながら木々の間へ走っていくと、貫通して袋に突き刺さった矢と壊れた的の破片を回収して戻ってきた。

 

「正射必中か………正しい姿勢で射られた矢は、必ず当たるという意味だったかな。言葉の通り随分と綺麗な射法だった。相当打ち込んでいたみたいだね」

 

「もともと教養の一つとして祖父に習わされていたのだが、私自身も上達していく中で楽しくなっていってしまってね。過去に何度か大会にも出たことがあるんだ。最近は触れる機会も殆どなかったが………そういえば、この話はトレーナー君にはしていなかったな」

 

「初めて聞いたよ。射撃の心得があるという話については聞いていたが、あれは確か祖母に連れられてのことだったな」

 

「そう、よく覚えているね。その時語ったのはアメリカでの実銃体験の思い出だったが、実はここにも射撃場があるんだよ。なにしろ人気のない山の中だし、ここら一帯もシンボリ家の所有地だ。誰にも迷惑がかからないぶん、実射にもうってつけというわけだな」

 

通りで案内に迷いがなかったわけだ。

見たところ銃と弓の訓練以外に用途はなさそうだが、それだけのために山一つ買い占めるとは資産家のやることは違うな。あるいはその逆で、もともと持っていた山にどうにか利用価値を見出だした結果かもしれないが、どちらにしてもスケールの大きい話だ。

 

「しかしルドルフが銃だけでなく弓の扱いにも精通しているとは意外だな」

 

「おや、それはどうして?」

 

「いや………なんとなく、君はいざとなったら剣か拳一つで戦いそうなイメージがあったから。てっきり近接格闘タイプだと思っていたら、まさかの遠距離狙撃タイプとは」

 

「私はそんなことを思われていたのか………。まぁ、確かに感謝祭でフェンシングを披露したことはあるし、いくつか武道のようなものも修めてはいるが。しかしそれはそれとして、弓の用途を戦いだけだと考えるのは感心しないな。トレーナー君、特に我々ウマ娘にとって弓術は特別な意味を持つものだ」

 

「まさに流鏑馬の話だろう。レースと並んで数少ない、ウマ娘のみに行うことの許された弓術」

 

「うん。一時期廃れたこともあれど、流鏑馬はその源流を辿れば日本書紀にまで遡れるほど歴史のある弓術。神事であれ催事であれ、弓の披露はウマ娘にとって名誉の一つなんだ。それこそ昔、軍バと呼ばれる種族が活躍していた時代なら尚更」

 

「故にウマ娘の教養の一つとして習われていたのだったか。少し前までは嫁入り修行の一つとしても行われていたらしいが、今はめっきり廃れたものだと」

 

「ウマ娘の花形がレースへと移ったからね。それでも弓を嗜んでいるウマ娘というのは存外いるものだよ。私やブライアン、シービーだけじゃない。もしかしたら、君の知っている他の娘の中にもいるかもしれないね」

 

「全く話に聞いたことはないけどね」

 

「無闇にひけらかしたくないというだけかもしれないぞ。それに弓にも走りと同様、向き不向きというものがあるからね。………さて、お話はここまでにしよう。日が暮れたら的も見えなくなるし、足元も危険になる。明るいうちに数をこなしておきたいからな」

 

ルドルフに促されるまま、ケースに残っていた全ての矢をまとめて渡す。

彼女は受け取った内一本を弓につがえ、残りは全て腰に提げた矢筒に装填する。

額に手を置き、もう一度改めてコースとやらの道なりを確認する。ぽつんぽつんと的や砂袋、矢印の看板は目に入るが、その間をつなぐ整備された道はない。獣道すらない。本当にただの木と岩と山肌の連なりだけ。

 

「なぁ、ルドルフ。本気でこれに臨むつもりか?はっきり言って危険どころの話じゃないでしょ。いや、ヒトとウマ娘では感覚に違いがあるのかもしれないが」

 

「大丈夫。危険だと思うのは私も同じだ。怖いと感じる気持ちもある………だからこそだろう」

 

じゃり、と開始地点に向かうルドルフの下駄が土を噛む。軍服を模した通常のものとは違う、肌の露出が大きい勝負服。

これで山を駆け巡り、縦横無尽に的を射って廻るのはおよそ正気の沙汰とは思えない。レースにも事故や落命のリスクはあるが、これはそれとは根本から性質を異にする。自らその命をさらけ出し、死線の際で雌雄を決する過酷な儀式。

 

「だからこそ、見る者の心は揺り動かされるんだ。我が身の危険を省みず、困難な道を乗り越えてこそ人々は感動し神は願いを聞き届ける。もとより、神事としての流鏑馬とはそういうものだろう」

 

 

 

言うや否や、ルドルフは凄まじい速さでコースに飛び入ってしまった。

木々の間を縫い、岩を駆け抜け、川を飛び越える。その後ろに引かれるのは、真っ二つに叩き割られた木の的という轍。

 

 

 

 

「はぁああああああっっ!!」

 

 

 

 

鹿毛の怪物が雄叫びと共に断崖を駆け昇る。

勢いのまま壁を踏破し、空中へ背面飛び。逆さで射たれた矢は風を切り裂き、一気に二つの的を貫いた。

 



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生徒会最後の日【1】

トレセン学園におけるタイムスケジュールというものはおおよそ決まっている。

起床、朝練、朝食、午前授業、昼食、午後授業、トレーニング、夕食、夜練、就寝のルーチンだ。

 

もっとも、たとえば私は午前授業か午後授業あるいはその両方を生徒会の業務にあてたりもしているし、トレーニング内容についても個々の生徒ごとにメニューが異なるため多少時間にバラつきは出るのだが。とはいっても、ほぼ全ての生徒がこの流れに沿って学園生活を送っていることは事実である。

 

ホールの壁に嵌められた時計の針をさりげなく確認する。現在時刻は夜の8時。だいたいの生徒が夕食を済ませており、あとは夜練をするか寮に戻るかといった時間帯。

そのためこのカフェテリア前の廊下にも、今や人の通りは殆ど無かった。もっとも、あえてそういうタイミングを狙ったのだから当然といえば当然ではあるが。

 

「なぁ、君…………ちょっといいかな?」

 

食堂から抜け、廊下を向かってくる一人の生徒に声をかける。なるべく距離がある状態から声をかけ、まるでお互い夕食後に偶然ここで出会ったように装ってみたつもりだった。

 

 

 

 

「え………えっ!?はい、え、えと……シンボリルドルフ会長さん……ど、どんなご用でしょうか……?」

 

「………そう畏まらなくていい。君に頼みたいことがあってね。たまたまその顔を見つけたので声をかけさせてもらったんだ。少し時間をもらってもいいかな?」

 

「そ、そうですか………はい、私はその、大丈夫です」

 

「そうか、ありがとう。なるべく手短に終わらせるようにしよう」

 

「え、お、終わらせるって………!!?あの、もしかして私なにかやってしまいましたか!?それで、中央除籍からの地方差し戻しとか………」

 

「いや、そういうわけではないんだ。むしろ君はよくやっているよ。最近はトレーナーや学園の教職員の中でも、君の名前がたびたび上がるようになったと聞いている。是非ともこの調子で励んで欲しい」

 

「あ、ありがとうございます………」

 

 

…………駄目か。

 

全く緊張が解けていないどころか、あたかも口に銃でも咥えさせられたかのような窮途末路とした表情で私を見上げている。

誰がどう見ても、和やかに話し合いのできる雰囲気ではないだろう。むしろ大人が幼い子供を叱りつけている絵面に近い。

 

「ふむ…………」

 

思えば昼間に別の娘に声をかけた時もそうだった。

ただ、その時は相手の周りに友人とみられる生徒も多く、他にも周囲には多数のウマ娘がいたので無駄にざわめいた空気になってしまったという事情もあった。

なので今回はその反対で、周りに誰も人がいない状況で声をかけてみたのだが、ものの見事に全く同じ反応である。

 

誰一人いないというのがかえって不味かったのだろうか?よくよく考えてみれば、自分一人しかいない場所で、あまり関わりの無い人物から声をかけられたら誰だって警戒してしまうはずだ。人が多すぎるのは問題だが、逆に全くいないのもよろしくないのではないか。

焦るあまり、少々思考が極端になってしまっていたか………反省せねば。

 

 

 

「あ、あの………会長さん?それで、ご用件とは一体……?」

 

「ん?ああ、すまない。最近少し疲れ気味でね………ぼうっとしていたよ」

 

「そうですか………その、私なんかがこんなこと言うのは生意気かもしれませんけれど………無理はなさらないで下さいね?最近の会長さん、なんだか凄く大変そうですから」

 

「ああ、ありがとう。生意気だなんてとんでもない。こうして労ってもらえるだけでも、日々の疲れが洗い流される気分だからね」

 

話しかけておきながら呆けている私の姿を見かねたのか、おずおずといった様子で目の前の少女に気遣われてしまう。

 

バ鹿が、なにをやっているんだ私は!!

 

彼女が怯えているというのは分かりきっていたことだろう。ならば今やるべきことはその緊張を解してやるか、それが無理ならさっさと要件だけ伝えて話を切り上げてやるのが筋であり、ましてやこちらから呼び止めておきながら喋らず突っ立っているなんて言語道断だ。

 

仮にも頭を下げる立場でありながら、相手を困惑させるどころかいらぬ気遣いまでさせてしまうとは、およそ生徒会長としてあるまじき失態ではないか。

 

「さて、単刀直入に言わせてもらうが………ベルノライト。君に、我が生徒会の副会長を任せたい。多忙な身であるのは重々承知しているが、どうか受けてもらえないだろうか」

 

「…………え、私が……ですか?でも私はトレーナーでして、この学園で直接レースを走っているわけでは」

 

「競技ウマ娘であるか否かは生徒会役員としての要件ではない。ここ中央トレセン学園所属の生徒であればそれでいいんだ。君は養成課程こそ修了しているが未だに生徒としての籍は残っているから、入会する資格は十分にある」

 

「でも私、あまりそういう運営側のお仕事はやったことがなくて………会長さんの足を引っ張ってしまうような……」

 

「いや………新人とはいえトレーナーとして活動を許されている時点で、君の処理能力については確実に保障されているだろう。それに実家はスポーツ用品店で、君もまたその分野に精通しているそうじゃないか。加えてトニビアンカやオベイユアマスターからも、外国語が非常に堪能だったと聞いているよ」

 

「え、えぇ……はい。それはそうですけど……」

 

「私自身、君のそういった能力については高く評価しているつもりだ。なに、いきなり重い仕事を押し付けるようなことはしない。あくまで渉外の部分で私の補佐をしてもらいたいだけさ。どうだろうベルノライト、引き受けてもらえないかな」

 

「会長さん直々に声をかけて頂けたのは嬉しいですけど、やっぱり無名の私には少し荷が重いといいますか………」

 

「最終的な責任は私が持つし、いざとなれば手助けだって出来るだろう。もともと私一人で回しているわけだからね。その程度は雑作もない」

 

「そ、そうでしたね。会長さん一人だけで生徒会の全てを……それは忙しいはずですよね……」

 

「勿論無理強いをするつもりはない。気が進まないなら断ってもらっても構わないし、それによって君が今後なんらかの不利益を被ることもないと約束する。………ただ、私とて誰にでも誘いをかけているわけじゃない。他ならぬ君だからこそ声をかけたんだ。君にその気があるなら、どうか私を助けてはくれないだろうか。この通りだ」

 

腰を折り、深く頭を下げる。

その瞬間、ベルノライトが息を呑んだのが分かった。慌てふためいた様子で私の肩を揺さぶり、無理やり頭を上げさせてくる。

 

「こ、こんなところで私に頭なんて下げるのは止めて下さい!!誰が見てるかも分からないんですよ!!ただでさえ、会長さんは有名人なんですから」

 

「それでベルノライト………私の用件は以上なわけだが。返事を聞かせてもらってもよろしいかな?」

 

「そうですね……会長さんの言うことを否定するわけではありませんが、やっぱり学園の代表である以上、実績と人望を兼ね備えた生徒の方が相応しいように思います。それこそ――――」

 

 

「――――トレーナー、まだこんな所にいたのか。探したぞ」

 

ベルノライトがなにか言いかけた瞬間、廊下を挟んで向かいにある玄関から一人の芦毛のウマ娘が顔を覗かせる。

脇にある階段が壁になるせいで、誰かと話していることに気付かなかったのだろう。声をかけてきた直後、私の姿を認めた瞬間ぎょっとしたように目を見開いた。

 

「マーチさん」

 

「済まない、フジマサマーチ………君のトレーナーと少しばかりお話をしていてね。ちょうど終わった所だ」

 

「えっ………」

 

振り返ったベルノライトの背中をそっと押してやる。

フジマサマーチの顔を見て少し冷静になった。こちらが言うだけ言ったままその場で返事を求めるのは酷だろう。いくら補佐とはいえ、これまでのタイムスケジュールが変わる以上は担当とも直接話し合う機会を設けるべきだった。

 

本当に、つくづく自分から余裕が無くなってきていることを自覚する。以前の私なら、こうして事を焦って強引に物事を進めるようなことはしなかった。やはり疲労が蓄積しているのかもしれないが、所詮それはただの言い訳だ。

 

「………いいのですか、会長?見たところまだ話の途中かと思いますが。私に聞かれると都合が悪いものなら、とりあえず外で待機していても……」

 

「いや、本当にもう終わったところだよ。感恩戴徳、私が伝えたかったことは全て言わせてもらえたからね。もうじき夜も更けるだろう……君たちも夜の練習に励むなり、寮に戻って身を休めるなりするといい」

 

「………はい、分かりました。ごめんねマーチさん、待たせちゃって。じゃあ、行こうか………それではお先に失礼します。おやすみなさい、会長」

 

「ああ、おやすみ。色よい返事を期待しているよ」

 

二人は深々と私に一礼したあと、肩を並べて足早に玄関から立ち去っていった。

すっかり垂れ込んだ夜の帷の中へ、彼女達の姿が溶けて無くなっていく。その背中の様子からして、きっと私はまた振られてしまったのだろう。

 

とはいえ、くよくよしている暇はない。

勧誘だけが私の仕事ではないのだ。今日一日スカウトに時間を使ったぶん、デスクに積まれた仕事が残ったままなのだから。

 

肩が重い………心なしか、腹の中に張るような違和感もある。

 

ここ最近、ずっと目頭にこびりついている鈍い痛みを指で押さえながら、私は生徒会室へと踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

「なるほどね。そうやって片っ端から声をかけ続けた挙げ句に、皆して断られちゃったわけか」

 

「………片っ端からというわけではないさ。私とて、しっかり一人一人の能力を見定めた上で声をかけている」

 

「ふーん」

 

どうでもいいような生返事を投げつけながら、アタシは応接間のテーブルに積み上げられた書類にさらさらと筆を走らせる。

 

一人一人の能力を見定めて、という彼女の言葉が嘘でないことはよく知っている。嘘ではないというか、文字通りそのままの意味だ。

全校生徒2000人に加えて、トレーナー養成課程や研究課程、警備課程等々を含めた全ての生徒を対象にルドルフは調べをつけていた………らしい。単純なレースでの成果や知名度だけでなく、学業における成績や得意分野について、学園に保管されたデータから周辺人物までもあたって分析を行ったそうだ。

その中でめぼしいと思った生徒のうち、何十人かにあたってきたようだが………見事に玉砕したんだと。

 

「なぁ、シービー。いったい私のなにがいけなかったんだろうな」

 

「顔と普段の振る舞いでしょ。だって愛嬌がないもん」

 

愛嬌がないというより、怖い。

 

自分がどういったウマ娘なのかをちゃんと理解出来ているのだろうか。恐らく、これまで圧倒的な格上という存在に出会った経験がないから分からないのだろう。

立場を越えて仲良くしよう、打ち解けようなんていうのは普段からの交流あってこその言葉だ。

これまで遥か遠い雲の上にいた筈の存在に、いきなり懐に潜り込んでこられたら誰だって怖じ気づくだろう。

 

ナチュラルに傲慢というか、強者視点というか……。

間違いなく人望はあるのだが、それは親愛ではなく畏敬や崇拝といった類いのものであることを分かって欲しい。

対等だと思っているのはキミだけだよ、ルドルフ。

 

「そもそもベルノライトってたしか、中央にきたばかりの頃にルドルフに脅しをかけられた子なんだよね?オグリからそう聞いてるよ」

 

「脅したつもりはなかったのだが……本人が言っているのならそうだったのかもしれない……」

 

「かもじゃなくてそうだったんだよ。なのにそんな相手にさ、いきなり腹心やれって言われて頭を下げられたら誰だって竦むでしょ」

 

「むぅ………ちゃんと理由も添えたのだが。しっかり学園の生徒全員を調べた上で選んだことを伝えた方がよかったのだろうか」

 

「絶対にやめときなよ、それ。ドン引きされるだけだから」

 

そんな超人にいきなり右腕になってくれと誘われたところで、はい喜んでと尻尾を振ってついてくる者がいるのだろうか。

いるならいるで面白そうだから是非見てみたいとは思うけども。

 

なんにしても、今日の成果は0なわけで。

このままではラチがあかない。

 

「はぁ………」

 

こうなるならルドルフについていった方が良かったかな。いっそのこと、アタシ一人で勧誘をかけた方がまだマシだったかもしれない。

これで明日もまた、彼女が書類仕事に手をつけられなくなることが確定してしまったわけだ。それをこちらが肩代わりすることも。

いや………やっぱり、明日こそアタシが足を運ぶことにしよう。

 

細々とした数値に目を通し、あらかた間違いがないと認めたところで判子を押す。

昔さんざんやらされた仕事とはいえ、やはり一向に好きになれない。半ば騙すような形で会長職を押し付けてきた先代への怒りが再びムラムラと湧き出してくる。

もっとも、アタシが今やらされているのは次代の尻拭いなわけだけど。

 

「それにしても、君が事務処理を手伝ってくれるとは思わなかったな。感謝するよシービー」

 

「本当は遊びにきただけのつもりだったんだけどね。だけど放っておいたらルドルフはともかく、トレーナーが死んじゃうでしょ?今ですらあの調子だし………お気に入りの二人がバテちゃうとアタシも悲しいからね」

 

机越しに対面のヒトガタに目を向ける。

 

アタシよりもさらに盛りだくさんと積み上げられた書類の束を掻き分けながら、生気を失った目でパソコンのキーボードを叩くトレーナー。つい先程まで「うん」と「いいや」は言えていたのだが、とうとうなにも喋らなくなってしまった。

アタシがここに来たのはだいたい5時間ほど前のこと。それまでの間はずっと、トレーナーが一人で生徒会の業務を回していたのだ。

いや、今日だけではない。少なくともここ数週間はずっと、彼が副会長のよう立ち回りをこなしている。それもトレーナーとしての業務と平行しながら。

はっきり言って、もういつ倒れてもおかしくはない。

 

これがルドルフのサボりの結果ならまだ現状改善の余地はあったが、基本的にルドルフとトレーナーの二人三脚でコレなのだ。

それを見かねたルドルフが今日丸1日スカウトに部屋を空けたことで、かえってトレーナーの負担が倍増したわけだけど。それでなんの成果も上げられなかったのだから救いようがない。

 

そもそもルドルフ一人で回しているのが異常だし、それを一応は籍が抜けたアタシとそもそも生徒ですらないトレーナーが補佐しているのもやっぱり異常だ。

組織として大変よろしくない。

 

 

「……これは思っていたより遥かに危機的状況なんじゃないのかな。ルドルフ」

 

「…………分かっているよシービー。最低でも3人は欲しかったのだが、私の不手際の結果だな………ふぁ……」

 

とうとう堪えきれず欠伸を漏らしてしまうルドルフ。ここ数日で、明確に彼女にも疲れが見え出している。

今はまだ大丈夫だが、そのうちレースにも影響がでるかもしれない。止めるべきトレーナーはご覧の有り様だ。

 

そもそも、どうストップをかけるというのか………無理やり止めてしまえば、その瞬間生徒会の全機能も停止するわけで。そうなればいずれにしてもレースどころの話じゃなくなる。

実際それが分かっていたからこそ、ルドルフはトレーナーからの休息要請にも頑として従わなかったのだ。トレーナーとしても自身に権限のない生徒会の存亡に関わる事案であり、尚且つルドルフ自身がしっかりトレーニングもこなしているともなれば打てる手はない。

結果として、こうして自主的にその仕事の一部を肩代わりするやり方に落ち着いた。

 

しかし………かといって、このまま放っておけば二人が倒れてしまうのも時間の問題だろう。そうしたらやはり生徒会は機能しなくなり、レースを含めた学園の運営そのものに甚大な被害が生じることになる。

 

以上のことを総合的に考えるなら、やはり無理やりにでも二人を止めた方が良いのではないだろうか。

生徒会の機能不全が避けられないのなら、せめて学園の顔である皇帝まで潰れるという最悪の事態だけは回避するべきだ。

 

 

 

「不味いね………」

 

 

 

 

既に生徒会の崩壊を前提として事態が動いてしまっている。

恐らくトレセン学園生徒会の発足以来、最大の窮地に立たされているのだと今更ながらに気がついた。

 

ルドルフには自分一人で物事を抱え込んでしまう悪癖がある……が、それを看過してきたのはアタシ達だ。

 

彼女とはそれなりに親しい関係を築いてきたつもりだが、結局はアタシも大多数の生徒たちと同様『皇帝シンボリルドルフ』への神聖視が抜けきっていなかったらしい。

学園の生徒の代表として強力な権限と膨大な職務を抱える生徒会………それを一人で回すなんて本来不可能なこと。それでも心のどこかで彼女ならそれが出来ると思ってしまった。そして事実、一時的にとはいえルドルフはそれを成し遂げた………成し遂げてしまった。

そうして現実から目を逸らし続けてきた結果、溜まりに溜まったツケがいよいよ牙を向こうとしている。

 

いくらシンボリルドルフといえど、不可能なことは本当に出来やしないのだ。

たとえどれだけ超人的で、皆から神のように崇め奉られていようと………彼女は超人でもなければ神でもない。

 

そんな当たり前なことぐらい、もっと早くに弁えておくべきだったのに。

 

 

 

「ルドルフ!!!!!」

 

 

トレーナーの怒声が生徒会室に響き渡る。

あまりにも久し振りに聞いたようなその声に、反射的に顔を振り上げた。

 

見上げた先にトレーナーの姿はない。

慌ててて周囲を見渡すと、彼はスマホを片手に生徒会長のデスクに突っ伏したまま動かないルドルフの顔を覗き込んでいた。

 

隙間から見える彼女の顔は、まるで眠っているように穏やかで。

しかしまるで死人のようなその顔色と、いくら揺らしても近くで大声をたてても一向に目を覚まさない様子から、たんに寝落ちしたわけではないのだと分かる。

 

「ルドルフ………」

 

救急車を呼ぶトレーナーを押し退けて彼女の元へと駆け寄り、その脈を測る。

………とりあえず異常はない。止まっているわけでも、極端に不規則な動きを示しているわけでもなかった。

その事実に一先ず胸を撫で下ろし、アタシはウマホを取り出して電話帳を立ち上げる。

 

「シービー、救急車なら呼んだぞ!!」

 

「分かってる!!その後の話だよトレーナー………それでも生徒会を守りたいなら、もうなりふり構っていられないでしょ」

 

生徒会経験者の最古参はアタシだ。

 

しかしそれはあくまで生徒の中ではの話。トレセン学園生徒会そのものは、アタシがここに入学するずっと昔からある。いくら過去の人物とはいえ、仮にも会長を勤めた者なら事務仕事ぐらいはこなせるだろう。

 

気紛れな彼女達がこの事態の打開に手を貸してくれることを祈りながら、震える指で呼び出しをかけた。

 



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旧生徒会談義【2】

「過労です。今日明日は安静に養生した方がよろしいかと」

 

そう告げられた医師の言葉に、アタシもトレーナーもただただ黙って頷くほかなかった。

ルドルフの失神は、過労によるストレスに伴う迷走神経反射が直接の原因らしい。なんにしても、これ以上彼女に仕事をさせてやるつもりもなかった。

 

「今後のレースに響くような後遺症は残るでしょうか」

 

「現時点ではそのような心配は不要かと。ですが、今の生活環境を改善しない限りは同じことの繰り返しでしょう。それを積み重ねていった結果、心身に取り返しのつかない異常が生じることも十分に考えられます」

 

アタシ達のここ一週間における実態を把握した上で下された宣告に、これまたアタシとトレーナーはなにも言葉を返すことが出来ない。

ルドルフをバ車ウマの如くこき使う現状をどうにかしなければ、早急な生徒会人事の再編成と見直しが必要だ。

 

「では、ルドルフのことをどうかよろしくお願いします。先生」

 

「貴殿方はこれからどうなさるので?」

 

「現状の見直しと改善を。彼女が戻ってくる前に形だけでも整えなければ話になりませんから………行こうか、シービー」

 

「………うん」

 

トレーナーに促されるまま、アタシ達は二人揃って席を立つ。

そのまま肩を並べて引き戸へ向かおうとした瞬間、先程まで控えていた看護師さんが行く手を遮った。

正確には、トレーナーの進路の真ん前に立ち塞がっている。

 

「………あの、私になにか?」

 

「ミスターシービーさんはともかく、トレーナーさん………貴方は駄目です。シンボリルドルフさんと同じく、早急な検査と療養が必要となります。シービーさん、少し肩を押してもらえますか」

 

「こう?」

 

医師の指示に従って、後ろからトレーナーの肩を押してやる。

恐らく人間から見てもそれほど大したものではないその力に彼はあっさりと屈し、体勢を崩してそのまま床へと膝をついた。

それでもなんとか立ち上がろうと試みてはいるものの、思うように四肢に力が入らないらしい。生まれたての小鹿のように震えている。

結局看護師に肩を貸されることでどうにか起き上がり、一人だけ再び椅子に座らされている。

 

「過労ですね。今すぐ入院して下さい」

 

「ま………待ってください。私は別に、ルドルフほど業務に没頭していたわけでは………」

 

「いくら貴方が成人男性で相手が未成年とはいえ、ウマ娘と人間の基礎体力が同じなわけがないでしょう。それにただでさえ、トレーナーという職業は過労がつきものなんですから……」

 

やいのやいの後ろで騒ぐ人間達を刺激しないよう、そっと扉を開けて病室を辞する。

個人差には医師の見解に賛成なので、取り立てて助け船を出してやるようなことはしない。人の振り見て我が身を直せとよく言うのに、トレーナーはルドルフの入院を完全に他人事だと捉えていたみたいだし。

こうでもしなければまともに休もうとはしないだろう。なら無理やりにでもベッドに放り込んでやるのが本人のためだ。

 

 

かつかつと、人もまばらな夜の病棟を歩く。

 

 

普通ならこの総合病院の規模ならまだ来客もいるだろうが、ここはウマ娘専用の病棟だ。

トレセン学園付属なだけあって、わざわざウマ娘専用に独立した施設まで作られている。当然対応にあたるのも、きちんとウマ娘医療看護の免許の交付を受けた医師や看護師だけ。

その方が診察や治療の面で効率的であるし、なにより不躾なファンやマスコミも一斉にシャットアウトすることが出来るからだ。人気や知名度が図抜けており、ファンもアンチも多い中央のスターウマ娘が足しげく通うこの病棟は、原則付き添い以外は立ち入り禁止となっている。

療養中うるさくつきまとわれては治るものも治らないので当然だろう。

 

望もうと望まざるとに関わらず、現役アスリートのプライベートは原則として秘匿されるべきだ。

ましてやそれが、かの皇帝シンボリルドルフなら尚更。

 

 

 

そんなことをつらつらと考えていたその時、不意に後ろから肩を叩かれる。

 

「はぁい、シービー。ルドルフの調子はいかがかしら?」

 

「ただの過労だったらしいよ……少なくとも今のところは。ルドルフと、それからトレーナーはこの先数日間は駄目そうかな。学園の様子は?」

 

「一応公言はされてないけど………『誰か』が救急車で運ばれたことと、それに貴女とトレーナー君が同乗したことはかなりの子達に目撃されていたらしいわ。だとするなら、その『誰か』があの子だって事も皆察しがついてるでしょうね」

 

「可能な限り人目は忍んだつもりだったんだけどね。それで、キミもここまで車を飛ばしてやってきたわけだ。マルゼン」

 

「えぇ、そんなとこかしらね。さぁシービー、一緒に学園へ帰りましょ。まだまだやることはあるんでしょう?のんびり走って帰る暇なんてないわよ」

 

「あぁ…………うん、そうだね。お願いしようかな……」

 

「モチのロン!!お姉さんに任せなさいな」

 

 

…………正直、彼女の助手席に座るのは気が進まないことこの上ないのだが。

とはいえ背に腹は抱えられない。時間も圧している以上、マルゼンの提案に乗ることにする。

 

確かに時間的な面で言うなら、レーンを走って帰るよりもそちらの方が早く着くわけだし。

本当に気は乗らないけどね。でもまさか市街地のど真ん中をかっ飛ばすなんて真似は流石に……ねぇ?

 

 

………信じてるからね、マルゼン?

 

 

 

 

 

 

「………と言われて、まさか本当に安全運転で帰るウマ娘がいるとはね。このネタ振り潰し」

 

「なにか文句でもおありかしら?シービー」

 

「なんにも。強いて言うなら、普段からこれぐらいお見事に走って欲しいと願うばかりだよ」

 

「嫌よ。それじゃあ気持ち良くないじゃないの」

 

いけしゃあしゃあと、後ろを歩く彼女はそんなことをのたまう。

マルゼンの運転はそれはもう素晴らしいの一言で、滑らかなハンドル捌きで夜の街を最短距離で突っ走ってくれた。曰く今日ばかりは万が一にも警察にパクられないように気を遣ったらしいが、それが出来るなら最初からやって欲しいとしか言えない。

アタシ自身、免許自体は持っているものの真似することなど不可能だろう。そう断言できるレベルで確かなテクニックはあるというのに、これでは宝の持ち腐れだ。もったいない。

 

本校舎の階段を足早に駆け昇り、そのまま二人揃って廊下も駆け足で突っ切ると、たどり着いた生徒会室の扉をバカンと勢い良く開く。

 

 

 

「む?」

 

「あらん?」

 

その瞬間、応接間のソファに腰かけている顔と目が合った。

 

 

「前トレセン学園生徒会長ミスターシービー並びに前副会長マルゼンスキー、ただいま戻りました」

 

「お疲れ様です。秋川理事長、たづなさん、それから………安心沢さん」

 

 

 

つい先程までアタシとトレーナーが座っていたその場所では、代わりに二人のウマ娘が向い合わせで書類に取り組んでいた。

彼女達はペンを止めないまま、視線だけこちらへ向けて返事をしてくれる。

 

 

 

 

「帰還ッ!!病院への付き添いご苦労だった!!ミスターシービー、それからマルゼンスキー」

 

一人は秋川理事長。

流石というべきか、流れるような手際で次から次へと書類を捌いていく。ここを出る前にデスクに積んでおいた紙の山は、既に大半が削り取られていた。

その矮躯からは想像もつかないが、この年で栄えある中央トレセン学園を一手に統括している辣腕家なのだ。元々同じ運営側であることも相まってか、生徒会の事務仕事など彼女にとっては苦でもないらしい。

普段はこちらを振り回しがちな彼女だが、この状況下では頼もしいことこの上なかった。

 

 

 

 

「あら、おかえりなさ~い。随分早かったじゃないの?最近の子は車もよく使うのねぇ」

 

そしてもう一人は、赤のドレスに白衣を重ね着した妙齢の女性。いつもの奇妙な形をしたサングラスは今日はつけていないらしい。

 

彼女の名前は安心沢刺々美。自称笹針師で、度々医務室に出没しては応援と称して生徒に針治療を行う危険人物。

学園のセキュリティ部門並びに警視庁騎バ隊、それからオグリキャップの天敵である。

 

「ふ~ん。今時の会計処理はだいぶ楽になったのね。あたしが現役の頃にもこうだったら良かったのに」

 

などとぼやきつつ、これまた流れるような手捌きでノートパソコンに数値を入力していく。

部外者に学園の中枢たる生徒会の会計を取り扱わせているというかなり目も当てられない構図なのだが、OGかつ二代目生徒会長という経歴から無理やり自分を納得させておいた。

そもそも目の前に理事会のトップがいるのだから、仮に問題が起きたところでアタシの責任にはならないだろう。呼び出したのはアタシだけど。

 

 

と、そんなアタシ達のところへ生徒会長のデスクから飛んでくる凛とした声。

 

 

「……そんなことを言っていると一気に年を食って見えるそうですから、気をつけた方がいいですよ。シンザン」

 

「安心沢です。その台詞、やっぱり貴女が言うと説得力が違いますね………いつまでそうやって若作りしているつもりですか?ミノル会長」

 

「私は駿川ですがなにか?」

 

「………いえ、なんでもないです」

 

特徴的な緑の帽子と制服に身を包みながら、こちらもパソコンになにやら叩き込んでいるのは駿川たづな理事長秘書。

かつてこのトレセン学園生徒会を作り上げた張本人であり、初代生徒会長でもある。そういう意味では今起こっている事態の元凶とも言えるかもしれない。

アタシの視線に気がついたのか、ふと上目遣いにこちらを見上げる。

 

「報告については結構です。先程、お医者様の方からお電話を頂いたところなので」

 

「そうですか。なら、アタシ達も残りのお仕事を手伝わせてもらいますね」

 

「ええ、よろしくお願いします。そちらの応接間のデスクに積んであるので、適当に抜き取って処理しておいて下さい」

 

「ほらシービーちゃん。あたしの隣にいらっしゃい」

 

「………では、失礼致します」

 

促されるままアタシが安心沢の隣に座り、マルゼンは向かいの理事長の隣へ座る。

そのまま仕事に取りかかろうとしたところで………既に殆ど消化されていることに気がついた。

流石というかなんというか、余りにも処理が早すぎる。夕方あれだけ苦労していたのが嘘のようだ。

こちらは二人がかりだったとはいえ、流石に理事長とたづなさんのコンビには手も足も出ないらしい。

彼女達とて日中激務をこなした後だろうに、微塵も疲れを見せないのは大したものだ。

 

「あたしは?ねぇシービーちゃん、あたしは?」

 

「えぇ、貴女もとてもよくやって下さっていると思いますが………勝手に人の心を読まないで下さい。それとアタシから呼んでおいてなんなんですが、そんなスムーズに対照表仕上げられるとそれはそれで気味が悪いです。どうしてウチの歳出と歳入の内訳を完璧に把握してらっしゃるのでしょうか」

 

「そりゃあ、時々ここにお邪魔させてもらってたからに決まってるじゃない。シービーちゃんと違ってルドルフちゃんはそれなりに歓待してくれるのよ。あとマルゼンちゃんも」

 

「そうね。シービーが来そうになるといなくなっちゃうから、貴女が知らないのも無理ないわね」

 

安心沢の衝撃の告白と、それに趣向の意を示すマルゼン。

全く知らなかった。影すら踏ませないその逃亡術はいっそ見事なものだが、それが神のウマ娘とまで呼ばれた競争バの本領発揮だと考えるとどこか虚しくなってくる。

 

それを誤魔化すように申請書にサインをし、備考を記した付箋を張ってトレイに入れる。

そうして次の書類に手を伸ばしたところで………先程のそれが最後の一枚だったことに気がついた。

 

「………終わりましたね。皆さんお疲れ様でした。息抜きにお茶でも入れてきますね」

 

さっと立ち上がり、給湯室に向かっていくたづなさん。

仮にもこの中では最年長であり、助っ人として呼んだ彼女にお茶汲みまでさせるのは気が引けるものの、その隙のない動きに口を挟むことは出来ない。

ここは大人しくお言葉に甘えるとしよう。

 

「しかし、シンボリルドルフが倒れてしまうとは……。私の管理監督の不行き届きが原因と言うほかない。猛省………」

 

「いえ、それ以前に現生徒会の組織体制にこそ問題があるでしょう。これまではアタシやマルゼンにトレーナー、今日は貴女方の手も借りさせて頂きましたが………結局ルドルフ一人のままでは自転車操業です。早急に、新しいメンバーを加えいれなければ」

 

「アテはあるのかしら?」

 

「………遺憾ながら、全く」

 

厄介なのが、既にルドルフがどれだけの生徒に声をかけているのか分からない点だ。まさか寝ている彼女を叩き起こして聞き出すわけにもいくまい。

 

………もういっそのこと、シリウスでも引き込んでしまおうか。

反生徒会勢力の筆頭である彼女のこと。いかにルドルフといえど流石に声をかけていないだろうし、仮にそうしていたとしても、再度声をかけられた所で萎縮するようなタマじゃないだろう。

面倒見の良い彼女はどうやら取り巻きをいたく大事にしていると聞く。そこをつっつけば言うことぐらいは聞かせられる筈だ。

思えばルドルフのストレスの何割かはシリウス由来なのだから、その穴埋めを彼女自身がするのが道理というものだろう。

 

「そもそも最初の生徒会の指針そのものに欠陥があると思うのよね。『最も強き者が生徒会を継承すべし』ってカンジだし。そこのところ、あたしにただ強いからってだけの理由で二代目を押し付けた初代生徒会長様はどのようにお考えでしょうか?」

 

「………仕方ないでしょう。当時と今とでは状況が違うんです」

 

給湯室から帰ってきたたづなさんがアタシ達全員の前に湯呑みを置き、自らもお盆と共に再び会長席へと腰掛ける。

そのまま一口含んだあと、気だるげに言葉を付け足した。

 

「当初の生徒会の存在意義は理事会から生徒の権利を擁護することであり、加えて当時の運営は今より圧倒的に力が強かったのです。故にそのような相手にも言葉を通せるような、圧倒的な人気と実力を誇るウマ娘が生徒会には求められた。数より質だったのですよ」

 

「そんなに手強い相手だったのかしらね?当時の理事会っていうのは」

 

「えぇ、マルゼンスキーさんでも少し想像がつかないかと思いますが……。と言いますのもあの時代のレース競技には賭博的な要素もあり、その関係で様々なしがらみがあったんですよ。そういった要素を廃して代わりに欧米にならってライブを取り入れ、一躍日本有数のエンターテイメントとして発展したのはもう少し先の時代のこと。たしかシンザン、貴女が主導したのでしたか」

 

「安心沢です。………するわけないでしょうそんなこんなこと。レースもトレーニングも、何事も程々にがあたしのモットーですから。そんな面倒臭そうなことはしません」

 

 

「………そういえば、お二人がそうして姿と名前を偽られているのもそれが理由ですか?」

 

 

とっさに頭の中に浮かんだ疑問。

よく吟味しないままそれを口にした瞬間、二人の瞳が僅かに揺らいだような気がした。

しばしの沈黙のあと、おもむろにたづなさんが口を開く。

 

「………先程も申し上げました通り、過去には様々なしがらみがありましたから。それは当時大規模なレースや学園を運営していく為に不可欠であった以上、悪いこととはいいません。ですが影響力も大きく、運営側と真っ向から対立していた私達は少々、引退後も目の敵にされることが多かったのです。名も姿も騙り続けて早二十年近く。今更元に戻すにも気が引けると言いますか………」

 

「あたしは今の姿もそれなりに満足してるわよ。もっともあたしと違って会長が捨てたのは名前と姿だけじゃ―――」

 

「シンザン」

 

「………はい。すみませんでした」

 

すごすごと引き下がる安心沢を尻目に、私も一口お茶をすする。

濃すぎず薄すぎず、ちょうど良い口当たり。生徒会も流石に歴史が長いだけあって、脈々と受け継がれてきた伝統のようなものがある。この給湯室の茶の入れ方もその一つだ。

しかし私ではここまで上手くはいかない。まだまだ生徒会長の肩書きを名乗るには不十分なのかな、なんて辞した今更思っても仕方がないのだけれども。

 

「限界ッ!!ともかく、なにがなんでも新しい人員を補充するしかなかろう。シービー、ルドルフ不在の今は君が代行となるのだ」

 

「なるのは結構ですけど、それにしたってアテがいないんですよ理事長。根本的に生徒会は人気がないので」

 

「貧乏くじだってすっかり知れ渡っちゃってるものねぇ。どうしましょうシービー。最悪私達がまた出戻るとか?」

 

「それだと対処療法にしかならない気がするのよね………」

 

昔と今では色々変化した部分があるといえど、未だに生徒の顔という役割に違いはない。

だからこそ、新しい風が必要だ。いつまでルドルフが在任するのかは知らないけど、たぶんアタシ達はその最後まで面倒見ることは出来ないだろうし。

 

「ちなみに、シービーちゃんはどんなウマ娘が役員として相応しいと考えているのかしら。人を選ぶにあたって、どんな条件を柱とする?」

 

「そうですね…………」

 

こういう時に限って、真っ先に脳裏を横切るのはあの憎たらしい筈の先代の顔。

レースでの実力、世間における知名度、あるいは優れた実務能力等々。

色々と条件はつけたい所だが、それでも一番に出てくるのはやはり――――

 

 

 

 

「………人気でしょうか。多くの人々を魅了して、夢を見せて、そしてどんな期待にも応えてしまえるような………誰からも愛されるウマ娘が欲しい」

 

 

 

 

 

 

 

「話は聞かせてもらったで!!!!」

 

 

 

 

 

けたたましい音を立てて扉が開かれる。

 

 

慌てて振り返ると、そこにはこれ以上ないほど自信たっぷりの笑みを湛えて腰に手をあてている芦毛。ちょこんと覗いた八重歯が愛らしい。

 

さらにその後ろには、最近ちょっとした話題だとかいう地方出身のトレーナーと、その担当である芦毛のウマ娘。

 

そしてその隣では、頭に灰を被ったような芦毛のウマ娘がぼんやりとした瞳でアタシ達を見つめている。どうやらいまいち状況が理解出来ていないらしい。

 

「タマモクロス………とその愉快な仲間達」

 

「なんやシービー、水くさいやんか。そんなアホみたいな状況になっとるんやったらもっと早めに相談せんかい。それに、人気のあるウマ娘いうたら丁度ええのがおるやろ!!」

 

「タ、タマ………その、やっぱり私では生徒会長は難しいと思うのだが……」

 

「違うよオグリ。お前がやるのは副会長で、私達はそのサポートだ」

 

「そ、そうだよオグリちゃん。私達がちゃんとお手伝いするからさ、会長さんのこと助けてあげよう?会長さん疲れて病院に行っちゃったみたいだから………」

 

「む………ルドルフのためか。それなら仕方ないな」

 

「お、流石やなオグリ。ウチはよう知らんけど、いつの間にルドルフと仲良しになっとったんや」

 

ドヤドヤと騒ぎ立てながら、我が庭と言わんばかりに部屋の中へ侵入してくるタマモクロス一行。

途中で理事長を見つけて早速仕事を寄越せと迫るが、つい先程終わったばかりだと聞かせられて頭を抱えている。

 

そんな光景を眺めつつ、なるほどと納得いったように頷く安心沢。

通りすがらオグリキャップから寄せられた警戒の視線はどうやら見なかったことにしたらしい。

 

「ほむほむ、確かに人気ってのは大事みたいね。一匹釣っておまけを沢山引っ掛かけるやり方は嫌いじゃないわっ!!何事も効率的なのが一番ね!!」

 

「いえ、アタシが思っていたものとはだいぶ違いますが………まぁ、一気に四人も確保できたので良しとしましょう」

 

 

 

 

「あの~私達もいるのですが………」

 

 

 

解放された扉の陰から、おずおずと様子を伺うように顔を覗かせてくる者がさらに三人。

豊かな鹿毛を後ろで三つ編みにしたウマ娘と、狐のお面を頭に乗っけたウマ娘と、それから………前髪を左に分けた、ボブカットのウマ娘が一人。

 

「スーパークリーク、イナリワン………それから、ええと…………」

 

見たことはある。名前も聞いたことはある。

あるのだが中々それが組み合わさって出てこない。確か期待の新人とか持て囃されていたような気がするから、たぶん中等部生なのだろうが。

 

言い淀むアタシを余所に、彼女はつかつかとこちらの方へ歩み寄ってくる。

そのままぐるりと周囲を見渡して呆れたように溜め息を一つ溢したあと、あたかも親の仇を見るような目でアタシのことを見下ろしてきた。

 

「会長が倒れたと伺い、さてどのような有り様になっているものかと不思議に思って来てみれば………秋川理事長やたづなさんのみならず、かの悪名高き不審者の手まで借りていたとは。呆れたものです。ミスターシービー先輩」

 

「…………へぇ」

 

あのクリークとイナリワンを差し置いて入室した挙げ句、このアタシに直接ダメ出しとは。

いや、あの二人やアタシだけじゃない。他にもマルゼンスキーやタマモクロス、オグリキャップといった中央における最上位層が一同に会すこの状況で、さらには理事長も眼前に控えている中そこまでの啖呵を切るとは。この新入生、ただ者じゃない。

 

いたずらに虚勢を張るでもなく、淡々とただ思ったことだけを述べるその姿は人並み外れた胆力の賜物だろう。

 

「ルドルフはキミにも声をかけたのかな?」

 

「はい。ですが辞退させて頂きました。会長ご自身の判断のみで生徒会の人事を決定するのは、およそあるべき姿とは言えませんから」

 

「あるべき姿とは?」

 

「学園の顔、ウマ娘の模範としての姿です。生徒会が生徒の代表である以上、その役員は生徒によって選ばれるべきだ。ましてやこのような、一時的にとはいえ部外者の手を借りるなどあってはならないことですから」

 

「…………つまり?」

 

 

 

「『選挙』をしましょう。シンボリルドルフ会長と、オグリキャップ先輩と、それから私。全生徒から最も信任を受けた者が長を勤める。そうして初めて、この歪な組織構造が生まれ変わるのです」

 

 

胸に手をあて、そう高らかに宣言する彼女の溌剌とした姿はどこかルドルフを彷彿とさせた。

 

『皇帝』シンボリルドルフ。新入生であるにも関わらず、それと対をなす二つ名で呼ばれるウマ娘がそういえば一人いたな。

 

 

 

 

 

 

 

「『女帝』エアグルーヴ………そうだった、それがキミの名前だったね」

 

 

 

 

 

 

「………ええ、その通りです。以後お見知りおきを」

 

 

 

凍てついた湖のごとき彼女の鉄面皮が剥がれ落ちる。

ピシリピシリと、まるで罅が走るかのようにゆっくりとその笑みを剥き出しにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……タ、タマ。もしかしてこれは私にも関係があるのだろうか?」

 

「………あ~あ、えらいことなったでオグリ。こうなったらもう諦めて腹括れや」

 



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波乱の幕開け【1】

「ファン感謝祭の出し物………ですか。そこで先輩のチームは喫茶店をやると」

 

「ああ。といってもただの喫茶店じゃなくて、従業員全員が執事のコスプレをして給仕するっていう、所謂執事喫茶のような形にする………らしい。カフェから聞いた構想だとそんな感じだった」

 

「ほぅ………」

 

先輩の言葉に頷きを返しながら、私は手渡された企画書のページをペラペラと捲っていく。

ファン感謝祭………聖蹄祭においてはこのように、運営委員会のみならず各々の生徒やトレーナーもまた出店や出し物を立案し実行することがある。

基本的にこのような企画書を作成して運営委員会に提出し、判子を貰うことで誰でも自由に執り行うことが出来るのだ。

 

イメージとしては学校の文化祭に近いだろう。

しかしそこはやはり日本屈指の名門、中央トレセン学園のこと。大勢の有名ウマ娘が一堂に顔を見せるだけあって、こういった催し物における話題性も集客力もそこらのイベントを遥かに凌駕している。

一部にはウマ娘だけではなく、特定のトレーナー目当てで来訪するファンもいるわけだし。

 

ある意味で学園の威信がかかっているわけだ。私達にしてみても、自分の担当を積極的にアピールすることで新しくファンを捕まえる機会でもある。レース以外の場面で全く新しい顔と触れあえるのは貴重なチャンスなのだ。

だからこそ、その催し物の内容というのもまた必然的に凝ってくるわけだが………。

 

「………それにしたって、かなり手の込んだ企画書ですね。なんなら重賞直前の作戦表と同じぐらい仕上がってません?」

 

「当然だろ。なんたってカフェ直々の提案なわけだからな。仮にも妹の頼みとあらば力を入れないわけにはいかない」

 

「律儀ですね」

 

ずっしりと分厚い企画書の上下横にはびっしりと付箋が貼られており、至る所に補足や注釈が書き込まれている。

その中身は予定参加者や希望するブースといった申請における要項だけでなく、用意する機材の名称や個数から設営の手順、内装や服装のデザイン案、珈琲や紅茶、スナック菓子の調理方法から原材料の発注先、来客並びにコストと利益の見積り等々………膨大なテキストやら数字やら表やらグラフやらが、これでもかというぐらいに並べられていた。

 

運営委員会の許可がどうこうというレベルの話ではない。

新しく喫茶店を起業するにあたっての経営計画といわれても信じてしまいそうなほど。

 

「これ全部先輩一人で作ったんですか?仕事の合間に?」

 

「ああいや………勿論タキオンやシャカールにも手伝ってもらった。というか、後ろの方にあるデータと分析の部分は全部あの二人がやったやつだ」

 

「あ、確かに………いかにもあの二人が得意そうなことですもんね。こういった出し物に積極的なのは少し意外ですが」

 

「だろ。頑張って説得したんだぜ」

 

 

 

「………違います。皆さんを説得して回ったのはこの私です。勝手なこと言わないで下さい……兄さん」

 

 

手元の貸借表に目を落としていた最中、不意に頭の上から声が飛んで来る。

見上げると、漆黒の髪を長く垂らしたウマ娘がひっそりと佇んでいた。私と目が合うと、ゆっくりとその場で一礼してくれる。

 

「いや、カフェは珈琲喫茶にするか紅茶喫茶にするかであれこれ揉めてただけだろ。コスプレについては俺が説き伏せた筈だけど?」

 

「紅茶がいいとゴネていたのはタキオンさんだけです。他の方は概ね賛成してくれましたから、後は衣装についてお話するだけでした」

 

首を傾げつつ下から彼女を睨め上げる先輩と、同じく首を傾げながら眉をひそめるマンハッタンカフェ。

ああだこうだと言い争う二人を横目に見ながら、私は企画書の最後のページを読み終える。あくまでざっと読み流しただけだが、それでもおおよその内容は頭に入っている。

だからこそ、どうしても気になった事が一つ。

 

「ところで先輩、どうしてわざわざこれを私に見せたんですか?添削ならしませんしする必要もないと思いますよ。この出来なら……」

 

「いや、別に推敲をして欲しかったわけじゃない。一つ頼みたいことがあって………そういえばお前、既に出し物の内容は決まってるのか?」

 

「いえ、今はまだ……ちょうど明日あたりにウチの連中とも話し合おうとは考えていまして。流石にこの時間では二人とも寮に戻っているでしょうし」

 

「別にメッセージアプリでも使えばいいんじゃないか?」

 

「まぁ、それはそうですけど。ただそこまでする必要も感じられないといいますか………」

 

「余裕だな。まぁそれもそうか。なんたって抱えてんのがあの二人だもんな」

 

危機感がないというのはその通りだ。

ただでさえ圧倒的な人気を誇るミスターシービーにシンボリルドルフ。しかもそのうち片方は、つい先日の駿大祭でそれはもう見事な流鏑馬を披露して見せたばかりだという。

いまや時の人といっても過言ではなく、感謝祭でなにをやろうが大ウケ間違いなしの状態なのだ。なんなら適当に並走をして見せるだけでも人が集まるだろう。

 

もっとも、だからといって手を抜くつもりは微塵もないが。学園の看板として恥のない舞台を二人に用意する責任が私にはあるわけだし。

基本的にクオリティを上げれば上げるほど新規ファンも増えるだろう。ただでさえ十二分に集めてはいるが、やはり応援してくれる人は多ければ多いほど良い。

 

「ちなみにどういった感じにするか、大体の構図なんかは頭にあるのか?」

 

「とりあえず、先日の流鏑馬に関連した出し物を用意しようかとは………なにせSNSはあの時の話題で持ちきりですからね。カレンチャンがこれでもかと広報に腕を振るってくれましたから」

 

「去年のメイド喫茶の続きなんかは考えていないのか?」

 

「いや…………どうでしょう。流石に二年連続で同じ出し物をやるわけにもいきませんし、今年は応援も来てもらえるかどうか。だからといって執事喫茶にでもしたら、今度はそちらと被っちゃいますからね」

 

別にメイド喫茶をもう一度やっても凄まじいことになるとは思うが………去年のアレはとんでもなかった。

ただ個人的に、二番煎じは許せないのだ。むしろノリにノッてる今だからこそ、さらにインパクトのあるものを出したいという気持ちもあるわけだし。

 

頭を捻らせながら背もたれに深く身を沈める。その勢いで後ろに逸れた視線が、たまたま金色の瞳と交わった。

どこかおどおどと不安気な様子で瞳を揺らすカフェ。目と目があった瞬間、意を決したように口を開く。

 

「…………怒ってます?」

 

「なんで?」

 

「私達、去年は大失敗してしまったので………ですからその、まるで成功していたトレーナーさんのチームのアイデアを盗んだように見えるかもしれませんから。実際に参考にさせて頂いたところもありますし」

 

「ああ、去年ってそっちは確か………タキオンの公開実験だったか」

 

「はい。『マッドタキオンのびっくりドッキリ研究室ラボ』……です」

 

「そうそう………そうだったね」

 

一年前に彼らが主催した参加型の実験教室。

確かに狂気ビックリドッキリの三拍子が全て揃っていたし、そういった意味では看板に偽りなしかもしれないが。

私含め子供向け教室を想像して訪れた人間には、少しばかり刺激が強すぎたかもしれない。………とはいえ思い返してみれば結局のところ、最大の厄災はむしろ観客の方にあったのだけれど。

やはりあの人の顔が見えた時点で逃げておくべきだったのだろう。私が得た唯一の、そしてかけがえのない教訓である。

 

「いや、別にコスプレ喫茶なんてありふれたものをパクリだなんだと言うつもりはないよ。だって学園祭の定番みたいなものでしょ。全然気にしてないよ」

 

こんな立派な企画書を仕上げてくるあたり、むしろ参考にされることを申し訳なく感じるぐらいだ。

私含め今の時期の資料や見通しなど、総じて頭の中だけにあるかせいぜい要項だけを簡潔に書き連ねるぐらいが関の山だろうに。

是非とも今年こそは成功させて欲しいものだ。

 

「そうか。その言葉を聞けて安心したよ。それなら本題に入らせてもらうが………単刀直入に言う。そちらの担当をうちに貸してほしい。というより、俺たち二チーム合同で出し物をやって欲しい」

 

「合同ですか。たしかそちらのメンバーは、カフェとタキオン、シャカールにフジキセキでしたか」

 

「そうだ。そこにシンボリルドルフとミスターシービーも加えた上で、全員に執事の格好で給仕をさせる。ちなみに、そっちの二人には既に許可を貰ったところだ」

 

「なら私は良いですよ。流鏑馬とは関係ありませんが去年との繋がりはありますし、かといって新鮮さもありますからね。しかしそれは………」

 

………大変なことになりそうだ。

いや、具体的にどれ程大事になるかははっきり言って全く予測がつかないのだが、とりあえずただでは済まないことだけは分かる。

 

ふと、先程の資料に全期間を通じた客の総見込み数についても分析があったことを思い出す。

机の上に放った企画書を再び手に取り、該当ページを開く。件の項目に載せられた数値とグラフには、およそこれまでのファン感謝祭において見たこともないような数字が並んでいた。

 

「ちなみにこの試算の根拠はなんでしょう」

 

「なんでも去年のそっちの売り上げから算出したらしい。だから実際の来客数と一致するかはかなり怪しいそうだが、まぁあくまで予測だからな。とはいえ大盛況は間違いなしだそうだ………母さんが来なければ、の話だが」

 

「………ところでその場合の予測もあるんでしょうかね?」

 

「算出結果は『予測不能』らしい。どうやってその答えを導きだしたのかは知らないが、シャカール曰く自明だと」

 

私の手にあるグラフを覗き込むように、机越しに身を乗り出してこちらへ頭を寄せてくる先輩。

さらりと、長く伸ばされた漆黒の鹿毛が紙にかかる。まるでミルクでも溢したかのように散った流星と、その下で光る金色の双眸。

後ろの彼女と余りにも似通ったその姿に、ふと余計な一言が口から溢れ出る。

 

「先輩も出るんですか?」

 

「は?」

 

「いえ、執事喫茶………全員に執事の格好をさせるんでしょう?なら、先輩もその格好で給仕をすると?」

 

「…………どうだろうな」

 

彼は腕を組み、そのまま自分の背もたれへと身を預ける。しばし宙を睨んだあと、やがて溜め息混じりに自分の顔を両手で擦った。

 

「そもそもさ、大感謝祭の主役はウマ娘なんだよ。そりゃトレーナーでも積極的に顔出しする奴はいるし、別にそういった連中を否定するつもりもないが、少なくとも俺は基本裏方に徹するべきだと思う。厨房にでも引っ込んでるよ」

 

「勿体ない。親がウマ娘なだけあって顔は良いんですから、むしろ前に出てきた方がウケが狙えると思いますけど」

 

「ならお前がやれば?」

 

「え?」

 

擦る手を止め、指の間からギョロりとこちらに視線だけ向けてくる。

いつものやる気のない様子とは真逆の、至って真剣そのものな金色の眼に睨まれた瞬間、まるでピンで刺し留められたかのように体が硬直してしまう。

 

「ウマ娘のハーフどうこう言うならお前だって同じだろ。皇帝と一緒に学園の広報やってるぶん、知名度ならむしろお前に分がある。表に出てみろよ………その方が『ウケが狙える』ぜ」

 

「でも、私は先輩と違ってそこまで背も高くありませんし、見映えもしませんから………」

 

「別にウマ娘と比べりゃ変わらないだろ。だいたいお前は昔から、それこそ義務教育の頃からチビだったのに今更見映えがどうこう言うのか?本当に見た目が悪けりゃ広報なんて任されないっての」

 

「私もそう思います」

 

ぽすん、と両肩に優しく手が乗せられる。

振り仰ぐとカフェが、今度は柔らかな微笑みを湛えながら私のことを見下ろしていた。

 

「カフェ?君までなにを」

 

「……折角ですから私達と一緒に楽しみませんか?トレーナーさんは有名ですから、貴方に会うために来てくれるお客さんもいるかもしれません」

 

「カフェ、俺は?俺もそこそこ有名だと思うんだけど。テレビとかぱかチューブとか結構出てるし」

 

「……兄さんは駄目です。発光する人間がホールにいられては去年のトラウマが蘇りますから。それから………トレーナーさん。私達と一緒に参加してくれますか?」

 

「そうだな………」

 

 

 

 

 

「私も彼女達の意見に賛成かな、トレーナー君。全国に向けた広報の機会でもあるのだから、やはり君は表に出るべきだろう」

 

 

突如、私達の間に割り込んでくる凛とした女性の声。

体ごと後ろへと振り向くと、カフェの背後にある談話室の出入り口からルドルフが尻尾を揺らしつつこちらへと近づいてくるのが見えた。

 

「こんばんは、マンハッタンカフェ。それからトレーナー殿。私のトレーナー君に緊急の用件があるので悪いが貰っていくよ」

 

「……こんばんは会長。大丈夫です……どうぞ」

 

 

ルドルフはそのまま私の腕を掴むと、くいと引っ張ってくる。それと同時にカフェに背中を押された。

まだ話の途中だったが、緊急事案というのであればそちらが最優先だ。事前にメッセージも入れず直接寮から出向いてくるあたり、相当切羽詰まった状況であるに違いない。

大人しく彼女達の誘導に従って席を立ち、ルドルフの後ろにつける。

 

「ああ、そうだ。忘れるところだった」

 

退室する間際、ふと立ち止まって先輩の方へと振り返るルドルフ。

 

「すみません。昼の時点では参加者三名と伝えていましたが、実はもう一人増えることになりそうです」

 

「執事服はどうしますか。こちらで用意しているぶんも増やした方がいいでしょうか」

 

「いえ、今のところ数に変更はありません。残りについてはこちらの方で調整させて頂きますから、ひとまずは人数の変更だけ計画に入れておいて下さい」

 

「了解」

 

それだけを告げると、ルドルフはそのまま部屋を出て先へと行ってしまう。

私も手を上げる後ろの二人に会釈だけ返すと、足早にその背中と続いた。

 

 

 

 

 

 

ルドルフに連れてこられたのは、美浦寮の四階にある彼女の自室。

まさかとは思うが、シービーの身になにかあったのだろうか?いや、そうだとするなら私よりも先に救急課に通報が入っている筈だし、そのような報告を事務局からは受けていない。

 

「ああ、そんなに心配しなくても大丈夫だ。別に私達に何かがあったわけじゃない。詳しい話は中でしよう………入ってくれ、トレーナー君」

 

「あ、ああ………お邪魔する」

 

招かれるまま、開かれた玄関から中に立ち入る。

土間を見下ろすと、そこには私とルドルフを除いて三人分の靴があった。扉一つ挟んだリビングからは複数人の話し声も聞こえてくる。

靴そのものは学園指定のローファであり、恐らく他の生徒でも迎えているのだろう。しかしそこに私まで呼び出すとは、まさか喧嘩の仲裁でもさせる気なのだろうか。

 

玄関の戸を閉めて鍵とチェーンをかける。

靴を土間に脱ぎ揃えた私が横に並んだことを見届けたルドルフが、勢いよくリビングへと続く扉を開けた。

 

 

果たしてその向こうに見えたのは ―――――

 

 

 

 

 

 

「ただいま戻ったよ。さぁシリウス、お望み通りトレーナー君を連れてきてあげたぞ……早速続きを始めようか」

 

 

 

 

「おかえり~」

 

「ご苦労さん。あ、それもうちょっと斜めに積んでくれ」

 

 

持ち運び式の麻雀卓と敷かれた座布団。

 

その上に胡座をかきながら牌を並べるシービーとナカヤマフェスタ。

 

 

 

 

 

 

「うぅ…………ぐすっ。好きにしろよぉ………」

 

 

 

 

 

 

………そして、ベッドの上で下着姿で震えるシリウスシンボリの姿だった。

 



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【幕間】シリウスシンボリの憂鬱【2】

今日の私は腹の虫の居所が悪かった。

その原因はやはりあの憎たらしい幼馴染、生徒会長シンボリルドルフとそのシンパ共である。

 

元々私は学園の中でも異端児だ。あるいは厄介者とも言えるかもしれない。

落ちこぼれや鼻摘み者と揶揄されるような連中を束ねるようになって久しいこの頃。私自身、いつからか『問題児たちの王』として一際周囲の白眼視に晒されるようになっていた。

 

この蔑称には二つの意味が含まれている。

一つ目はこの私、シリウスシンボリに向けられたもの。かつてダービーを制して欧州を渡り歩き、かの皇帝にすら匹敵し得る傑物と評された私が、よりにもよってあんな学園の掃き溜めのような輩とつるんでいることに対する好奇と困惑だ。あるいは同じく一集団の指導者たる皇帝と比較して、率いる配下たちのお粗末さを嗤われているのかもしれない。

二つ目は言わずもがな、私の仲間たちに向けられたものだ。人気も実力もない上に学園の和を乱し、他の生徒の足を引っ張る癖して私がいないと一つにまとまることすら出来ない愚図。それがアイツらに対する周囲からの評価である。

 

そういった侮蔑自体は別にいい。

ここは勝負の世界だ。実力で劣るアイツらが肩身の狭い思いをするのはある意味当然の話であるし、私達が他の生徒の邪魔になっていることも事実なのだから。無理で道理を押し通しているのだから、周りから貶されるのも元より覚悟の上である。

 

気に食わないのは、自分の力でどうにかしようともしないことだ。

口はあんなにも達者なくせして、実際にはなにも行動に移さない。私達のことを消えて欲しいと願っていながら、直接排除するでも話し合いに来るでもなく、それどころか面と向かって文句を言うわけでもなく、ただ陰でうぞうぞとしているばかり。

その陰口の中身すら人任せだ。大抵私の引き合いに出されるのはシンボリルドルフとその仲間たち。たまに得意げに披露しているご高説も、よく聞けばアイツらの言葉を借りているだけである。

利己的だろうが自分の言葉で動いているぶん、私たちの方がはるかにマシな生き物なのではないだろうか。

 

………そしてそんな連中が、ここ最近にわかに活気づいている。

理由は単純。先日の駿大祭における生徒会長と副会長の流鏑馬が、SNSを中心にバ鹿みたいな旋風を巻き起こしていることにある。

お陰であの二人の人気はうなぎ登りらしい。とっくに天井を叩いているものだと思っていたが、どうやらまだその先があったようだ。

さらに言えば、駿太祭は秋のファン感謝祭………聖蹄祭の前哨戦でもある。当然そこでも大々的に指揮をとらなければならない生徒会にとっては、これ以上ない程の理想的環境とも言えるだろう。

そんな求心力にあてられて、より一層心酔と義務感を拗らせたシンパが考える事など一つ。生徒会の敵わたしたちの排斥だ。

 

 

ああ全く、本当に忌々しい――――

 

 

 

 

「………リウス。シリウス!!聞いているのか?」

 

「ん?ああ………悪ぃな。聞いてなかったわ」

 

目の前で眉をひそめるルドルフを見ながら、私は投げやりにそう言い捨ててやる。

はぁ、と疲れた溜め息と共に肩を落とすルドルフ。チラリと壁に掛けられた時計に目をやると、このソファに腰掛けてからゆうに三十分以上経過していた。なるほどそんな演説をまるで無視されていたとなれば流石のコイツでも嫌気がさすか。別にどうでもいいが。

 

「………まったく。言いたいことがあるなら直接言いに来いと伝えてきたのは君じゃないか。であればそれなりの態度というものが必要だろう」

 

「よく言うな。わざわざ生徒会室にまで引っ張りこんでおいてよ。思いっきり私のアウェーじゃねぇか」

 

「仕方ないだろう。この時間帯では、ここ以外に人目を避けて話せる場所もないのだから………だからこそ、わざわざエアグルーヴとブライアンにも席を外させているというのに」

 

「一対一だから文句ないだろうってか?私は別にアンタら三人がかりで説教してくれても構わなかったんだがな」

 

嫌気がさしてんのは私も同じだ。さっさと帰らせて欲しいところだが、だからと言って体面だけでも取り繕う気力すらない。

今日一日、散々しょうもない奴らにケチつけられて気が立っていたんだ。それでもどうにか一日をやり過ごして、夕飯も食ったことだしさっさと寝て切り替えようとした矢先にこれだ。

コイツに生徒会室まで無理やり連れ込まれて、欠伸の出るようなお説教を頂いている。子守唄なら百点満点だが、今の私は自分の部屋で眠りたいんだ。

 

「説教なんかじゃないさ。私は君と話し合おうと言っているんだ。君が私達を敵対視しているのは分かっているが、それでもお互い無視し続けていては意味がないだろう?」

 

「意味がないって言うならその話し合いとやらがまさにそれだぜ。アンタがあのトンデモ理想論を掲げている限り、私はそこに突っ込んでいれば負けないんだからな……なぁ『ルナ』ちゃん」

 

壁時計から目を外し、組んでいた足をほどいてぐいとルドルフの方に身を乗り出す。

困惑したように目尻を下げてるその顔を、至近距離から睨み付けてやる。

 

「アンタは一々やることが極端なんだよ。だいたい、よくもまぁそんな常識人ぶっていられるもんだ。生徒会長なんてやってるうちに牙が抜けたか?人に飼われたライオンはネコみてぇに懐くそうだな………もっともアンタの場合、猫の被り方を覚えただけか」

 

「なにが言いたい」

 

「人気取りにご執心の生徒会長サマなんかに私は歩み寄るつもりもないってことさ。そうやって一人で勝手に目標掲げて、一人で勝手にもがいていればいい。自縄自縛ってヤツだ。人気のない私らはこれまで通り好き勝手やらせて貰うよ。アンタと違って失うものも抱えるしがらみも少ない」

 

「人気…………」

 

「最近ネットでも大人気らしいじゃねぇか。お陰でこっちはやたら鬱陶しく絡まれていたところだ。世の中正しいか正しくないかじゃない。人気があるか否か、どれだけ声がデカいかで物事が決まるんだ」

 

私達が正しいかどうかはさておいてな。

そんでそういう人気やら声の大小を無視して、無理やり己を通してきたのが私であり、そして昔のコイツだった。

はっきり言って、アンタは自分で思ってる以上にずっとこちら側だと思うんだがな。

 

「いずれにせよ、アンタと私達じゃ前提条件が違うんだ。人気者で目立つアンタは、発言力がある代わりに大胆な行動がとれない。私達は日陰者であるからこそ今みたいに好き勝手出来るのさ。だからこれからも目立たない舞台袖で程々にやらせて貰うよ。半端に人気がついたところで息苦しいだけだからな」

 

衆目を集めれば集めるだけ、どうしても人の目を気にせざるを得なくなってくる。それはコイツのお説教よりも余程厄介なものだから。

表に出ない日陰者だからこそ自由に反体制派なんてやってられるのだ。下手に喧伝されたり祭り上げられるようなネタは徹底して抑えてある。

 

身軽だからこそ、私達は生徒会をのらりくらりとかわせるのだ。これまでも、そしてこれからも。

 

「じゃあな」

 

「ま、待ってくれシリウス……!!」

 

席を立った瞬間、ルドルフに腕を引き留められる。

しかしそのまま彼女は口を閉じてしまった。どう説得すればいいか考えが浮かばないのだろう。

 

 

その姿を見て、私の頭に一つアイデアが閃いた。

………閃いてしまった。

 

 

「なぁ、会長サマよ。会話じゃ決着がつかないってならここは一つ、白黒はっきりつくもんで勝負しないか?」

 

「勝負……レースでもするつもりか?」

 

「違う。コンディションやらに左右されない、もっとお互いに公平な………ゲームでもしようか。負けた方が勝った方の言うことをなんでも聞く」

 

私が負けたところで、コイツは精々グラウンドの占拠をやめろとか、自分の指示に従うようにとでも言ってくる程度だろう。

それはそれで嫌なものだが、それ以上に報酬の方に頭が向く。ルドルフになんでも言うことを聞かせられる権利………ただでさえ学園の看板であり、今現在ノリにノっている彼女にとっては致命的だろう。

上手くいけば、今後生徒会と対等以上に渡り合えるだけの弱みを手に入れられるかもしれない。

 

いや………なんだかんだ言ったところで、結局は今日のストレスをルドルフで発散したいというのが本音だったのだろう。

なんでもいいからコイツを負かして溜飲を下げたかった。

 

背負うものも失うものも大きすぎるルドルフにとっては余りにも分が悪すぎるゲーム。

しかし、ルドルフは即座にそれを受け入れた。

 

「いいだろう。ただしその代わり、場所は私の寮部屋ということにさせてもらう。結果の保証人が必要だからな」

 

「シービーね。たしかにエアグルーヴじゃ立ち会いは受けてくれないか………もっとも、それならこちらにも保証人をつけさせてもらうぜ。アンタ一人だけはフェアじゃない」

 

「構わないよ。それで、肝心のゲーム内容は?」

 

「それもこっちで決めさせてもらう。アウェーでやらされるんだから、それぐらいのハンデは設けてもらわないとな」

 

「分かった」

 

ルドルフは鷹揚に頷くと、そのままさっさと生徒会室を出ていってしまった。真っ直ぐ寮に向かったのだろうが、随分とフットワークの軽いことだ。

 

自分が負けることを少しでも考えないのだろうか、彼女は。

まぁ、それならそれでいい。逃げられるよりよほど好都合だ。この機会に、獅子の手綱をこの私が握ってやることとしよう。

 

 

 

 

 

 

「……………で、その結果がこれってわけだ。儚い夢だったねシリウス。そもそも脱衣麻雀を持ってきた時点でなんか予感はしてたけれど」

 

「う、うるせぇ!!そもそも提案したのはフェスタだろうが」

 

嘲笑うようなシービーの言葉に咄嗟に反応するが、しかし目の前の現実は変わらない。

彼女の手元で倒された倍満。たった今私の捨て牌でロンしたものだ。

手持ち無沙汰に字牌をくるくる回している彼女の姿は、今のところ下着にシャツ一枚とソックスといったところ。何故か一番始めにスカートから脱ぎ出したのがコイツだった。

ちなみに頭に乗っけてある白い帽子は、たとえ全裸になっても外すつもりはないらしい。

 

 

「なんだ?シリウス、ゲームの案出せっつったのはアンタだろう。そもそもこのボードにしたって私が提供したものなんだ。もっと感謝してくれよ」

 

「………だからって、別に服まで脱ぐ必要はなかっただろうが」

 

「その方がこっちは楽しいんだよ。リスクは大きければ大きいほど張り合いがある」

 

カラカラと飴を咥えながら、フェスタはカチャカチャと手元のビデオカメラを弄くり回す。それもボードと一緒にフェスタが持ち込んできたものだ。

 

「なんだよフェスタ、そのカメラ………まさか私を撮るって言うんじゃないだろうな!?」

 

「そのまさかだよシリウス。安心しろ。誰かが下着んなったら今度はお前に撮らせてやるから」

 

「んだよ、それ………それもリスクの一環とでも言うつもりかよ……」

 

「よく分かってんじゃねぇか」

 

飄々とした様子で頷いている彼女の脇に積まれているのはニット帽とソックスだけ。

つまり殆どノーダメージだということだ。その二回はそれぞれシービーとルドルフが速攻でアガった時のものである。

 

 

「今更かもしれないが言わせてもらおう。シリウス、てっきり私は君がチェスとか将棋とか、そういったゲームを持ってくるものだとばかり思っていたんだ」

 

チェスという言葉にフェスタのミミがピクリと反応する。

それが向いた方向………フェスタの上家かつ私の対面には、胡座をかいて鎮座するルドルフの姿があった。

その脇の床に放置されているのは、ミミ飾りとソックスと胸のリボン。フェスタとシービーのアガりに一回づつ巻き込まれ、さらにシービーに一度刺されたという形になる。

まぁ、ほとんどノーダメージといって良いだろう。

 

「それがまさか、こんな多分に運の絡むゲームを持ち込んでくるとはね。おまけに脱衣までルールに加え入れてしまうとは………そのような君の姿を、世間一般になんと称するか知っているかい?」

 

「…………なんだよ」

 

「鴨が葱を背負ってやってきたと言うんだ………ほら、今回も君の負けだよ。さっさと脱いでくれ」

 

「ぐぅ…………」

 

 

屈辱と羞恥に歯を食い縛らせながら、私は一つ一つシャツのボタンを外していき………乱暴にそれを脱ぎ捨てた。

最早、今の私には上下の下着しか着けられていない。

 

「おぉーやっぱいい体してるねキミ。スタイルならルドルフにも負けてないんじゃないの?」

 

「そんな恥ずかしがんなよシリウス。むしろもっと見せていけよ勿体ない………しかしなんで今日に限って、そんな派手な下着着けてんだろうな」

 

「本当は期待してたんじゃないのかい?それはそうと、前よりも腹斜筋のつきかたが変わっているね。ちゃんとトレーニングの成果も出ているらしい」

 

「こ、このぉ………」

 

どいつもこいつも好き勝手言いやがって…!!

思わず目を逸らした先に転がるのは、私のミミ飾りとソックスと胸のリボン。それからシャツと肌着とスカートだ。

他三人と比べて明らかに存在感を放つそれは、紛れもない敗北の証。

 

「よし、もう撮り終わったから服着てもいいぞシリウス。それで会長、この画像も後でちゃんと買い取ってくれるんだろうな?」

 

「勿論だとも。この私の前で裸に剥かれたなどと、仲間に知られたら果たして君の立場はどうなるだろうなぁ………シリウス?」

 

嬲るような口調でそう囁いてくるルドルフ。

そうなれば彼女が脱衣麻雀に興じていた事実も明らかになるので、実際そんなことが出来るわけもないのだが………私の弱みとなることに変わりはない。

アイツの弱みを握ってやる筈が、気づいたら私自身の弱みを握られる羽目になっていた。

 

駄目だ………こんなところでまだ終わるわけにはいかない!!

 

「ルドルフ……もう一回、もう一回だ!!次こそは私が勝つ!!」

 

「何回やっても変わらないとは思うが……どうするシービー、フェスタ?私はどちらでも構わないぞ」

 

「私はパス。この後用事が入ってるからな。自分の部屋に戻る………終わったらボードと牌はコイツに持たせてやってくれ」

 

「あ、帰る前に並べるのだけ手伝ってよ。手積みは時間かかるんだから。それでルドルフ、次からはサンマにしようか?」

 

「それでもいいが………折角だ。シリウス、新しくもう一人だけ巻き込みたい面子はいないか?さっきは余りにも君の一人負けだったから、そのぐらいのハンデをつけた方がかえって新鮮だ」

 

余裕たっぷりにそんなことをのたまうルドルフ。

情けをかけられるのも屈辱だが、今はそんなこと言ってられる状況じゃない。

 

「………アンタの、シンボリルドルフのトレーナーだ。フェスタが抜けるならアイツを連れてきてくれ」

 

「………ほぅ」

 

あの器具庫での出来事を思い出す。

自分の生き死にのかかったチンチロで、一発で即負けを引くツキの悪さ。あのトレーナーが加われば、本来私に集中する筈だった被害を分散させ………あるいは勝てるかもしれない。

トレーナーさえ負けてくれれば、私とルドルフはお互い勝負不成立のドローで流せるかもしれないのだ。一回目の負けは見なかったことにしよう。

 

「いいだろう。私が連れてこよう………シービー、ここでシリウスを見張っててくれ。あと、私達が戻ってくるまで彼女に服を着させるな。その方が説明が手っ取り早い」

 

「はいはい。これが積み終わるまでには帰ってきてね」

 

 

両脇をルドルフに抱えられ、そのままベッドに放り投げられる。脱いだ衣服は手の届かない所まで移動させられてしまった。

肩を抱いて震えていると、不意にフェスタと目が合った。彼女はどこか愉しそうな様子で口を開く。

 

「おい、シリウス。どうせアンタはあのトレーナーを生け贄に、自分だけはどうにか助かろうとでも思ってんだろ?」

 

「………だったらなんだってんだよ」

 

 

 

「断言する。アンタは助からない………次の勝負の決着は二人負け。当然敗者はアンタとトレーナーさ」

 



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トレーナー君の執事研修【3】

「ロン。リーチ一発ドラ3ダブ東發混一に裏を乗せて数え役満だな」

 

パタン、と牌の倒される音。

私の対面に座るルドルフが、落ち着いた声で勝負の終わりを告げた。

それに支払えるだけの点棒は既にない。私の敗北でこのゲームは終了だ………いや。私とシリウスの、か。

隣にあぐらをかくシリウスの顔を横目で見やると、まさしく苦虫を噛み潰したような表情で自らの手牌を眺めている。たぶん、私も似たようなものだろう。

 

「さて、トレーナー君。現実的でトップは私ということになるが……シリウス共々、一つだけ言うことを聞いてもらおうか」

 

「分かってるよ。そういう約束だったからね」

 

まぁ、ここはもう諦めて受け入れよう。

この部屋に着いたとき、既に服を剥かれたシリウスの姿を見た時は肝を冷やしたが、結局このゲーム自体は普通の点棒を使用するルールで行うこととなった。

もっとも、ルールが正常であることと勝てるか否かはまた別の問題なのだが。とはいえ事前にある程度覚悟は出来ていたのでそこまでショックでもない。

自分で言うのもなんだが、こういった運で戦う勝負に滅法弱いのだ。私は。

そしてそれは、私だけでなく隣の彼女にも当てはまること。

 

「よくもまぁ、こんな無茶な勝負を仕掛けたものだなシリウス。シービーならいざ知らず、私達ではあまりにも分が悪いだろう」

 

シリウスの対面には、呑気にあくびを晒しているシービーの姿。

ルドルフのような派手な大勝ちこそあまり見せていないものの、コツコツと点数を積み上げ確実に自らの足元を固めるあたりは流石の勝負強さと言ったところ。

レースにおいてルドルフとシービーの好む戦い方が、別の種目において逆転するのは中々面白い傾向だと思う。

 

「仕方ないだろ。あの時は私もどうかしていた。それに今日は苛ついてたんだ。ルドルフのシンパ共があれこれ煩くてよ」

 

「いつもの事だろう。どうしてそれを今日になって………ああ、駿大祭のせいか」

 

「ああ。お陰でシンボリルドルフの株は青天井だ。嫌われ者の私達はしばらく縮こまっているしかないな」

 

うんざりした様子で首を振るシリウス。

彼女とて自ら引き下がって大人しくしているのは本意ではないだろうが、ここは一過性のブームと割りきっているらしい。

現状を客観的に把握し、自らの置かれている立場を把握した上で取るべき行動を取れるのは間違いなく彼女の長所だ。伊達に一組織の長を務めているわけではないということか。

 

「それで?ルドルフ……約束は約束だ。さっさとなにがお望みなのか言ってみろよ。私とトレーナーに一体なにをさせるつもりだ?」

 

「なに、そう身構えることもない。本当にちょっとしたことさ」

 

そう言うとルドルフはおもむろに立ち上がってベッドの方へと向かう。

その下から衣装ケースを取り出すと、透明なカバーに包まれた衣服を取り出してこちらに寄越してくる。

 

「トレーナー君は既に話にも聞いていると思うが、今度の感謝祭ではマンハッタンカフェの出し物を私とシービーも顔を出すことになってね。折角だから君達にも手伝ってもらいたいんだ」

 

ガサガサと、慎重にカバーを取り除いて中身を取り出して広げてみる。上等な生地で作り込まれているそれは、まさしく執事服と呼ばれるものだった。

 

「なんだ、これ……。私達にこれを着させて給仕でもさせようってつもりか?」

 

「ああ。もっとも、執事の格好をするのは私も含めた他の参加者達も同じだけどね。俗に言う執事喫茶というものらしい。そうだろう、トレーナー君?」

 

「ああ。少なくとも私は先輩からそう聞いている」

 

「ふぅん」

 

いまいち釈然としない顔をしながらも頷くシリウス。確かに、あまり彼女には誰かに奉仕するイメージといったものがないからな。私だって給仕の心得なんかないし、これを着ている自分も想像出来ない。

とはいえ、たまにはそういった役を演じてみるのも面白そうだ。普段とは違う自分になれるのがコスプレの醍醐味だろうし。

 

そう気持ちを切り替えて、ゆっくりと執事服の生地を撫で回す。

適度に薄く、それでいてしっかりとした作りなのが指からも伝わってくる。凄いな……まるで本物みたいだ。もっとも、本物の執事服というものを私は知らないけども。

 

「コスプレ用の衣装にしては随分と手が込んでいるな」

 

「当然さ。元々私達の実家で使われていたものだからね。この機会に一式取り寄せてみたんだよ。予め二人の寸法については確認していたから、サイズもぴったりな筈だ」

 

「へぇ」

 

それは尚更気が抜けないな。

余興ではなく本職として、これを身につけて役目をこなしていた人がいたわけだ。それは言うならば勝負服のようなものであり、それに袖を通す以上無様な真似は見せられない。

 

「なぁルドルフ。折角だから私からも君に一つお願いをしてもいいかな?」

 

「ん。構わないよ……なにかな、トレーナー君?君からそういったことを申し出るのは珍しいね」

 

「ああ……といってもこれも別に大したことではなくてね。一通り給仕の手順というか、やり方のようなものを教えて欲しいんだ。君ならそういったものにも明るいだろう?」

 

「勿論だとも。そもそも私が声をかけられたのも、頭数の確保と同時に指南役という側面もあったからね。とはいえ折角のトレーナー君からのお願いだ。君には一足先にトレーニングを施すとしよう」

 

「ああ。ありがとうルドルフ」

 

「どういたしまして……シリウス、君もだ。早く着替えてくれないか」

 

「はいはい」

 

ルドルフの指示のもと、早速私達は服を脱ぎ、代わりに与えられた執事服に袖を通していく。

 

そういえば、幼い頃のシリウスはいつもルドルフの側にいたらしいが。

彼女はそういった礼儀作法には精通していないのだろうか?

 

 

 

 

 

 

「ロイヤルアールグレイで御座います。ルドルフ……お嬢様」

 

「結構。中々様にはなってきたじゃないか。あとは恥ずかしがらずに、堂々とこなせるようになれば言うことなしなんだけどね」

 

「………難しいな」

 

ベッドの端に腰掛け、優雅に足を組みながら微笑むルドルフ。

私と違って微塵も恥ずかしがるような素振りを見せず、気品溢れる仕草でそっとカップに口をつけた。

 

ポットを両手で抱えながら、そんなルドルフの隣でひっそりと佇む。

初めは中々息苦しかった筈のこの服も、いつの間にかだいぶしっくりくるようになっていた。彼女の言うとおり、サイズはぴったりだったらしい。

どこで私達の採寸の情報を得たのかは知らないが。

 

やがてカップから口を離すと、少し顎を上げてついと目線をこちらに流してくる。

それに従って、ベッドの脇にあるデスクの上にそっとサンドを置く。これもまた、この寮部屋に保管されていたものだ。

包装を見る限りかなり上等な品らしいものの、ポットと同様に普段使いしているものと思われる。あまり彼女が散財している記憶もないから、きっとごく一部の趣味にこだわるタイプなのだろう。

 

彼女はうんうんと頷くと指でサンドを摘まみ、口の中に放り込む。

そのまま暫くの間目を瞑って咀嚼すると、やがてゆっくりと飲み込み再び紅茶で口直しをする。

 

「うん。トレーナー君もそれなりに板についてきたね。その執事服もよく似合っているよ。たとえ明日が本番でも自信を持って送り出せるだろう」

 

「流石にそれは買い被りじゃないかな」

 

「正当な評価だとも。君は物覚えがいい……優秀な生徒だな。それに、こう言ってはなんだが十全十美に全てを瑕疵なくやり遂げなければならないわけでもないんだ。あくまで余興……これは雰囲気を楽しむものだからね」

 

「もし失敗したとしても……」

 

「それもまた一興というところさ。来客もむしろそういった拙さを目的としている所もあるだろうからね」

 

ふふっと可笑しそうにルドルフは笑いを溢す。

稚拙さを、演者の至らなさこそを楽しむイベントだということだろう。

そう割りきってしまえば少しだけ、気持ちが落ち着いたような感じがした。

 

「もし仮に失敗してしまったとしても、私がカバーするから心配はいらないさ。恐らく同じシフトになるだろうからね……君は自分の正しいと思うことをやればいい」

 

「正しいことか。自分なりに最大限、お客様を楽しませろと」

 

「そうそう。そして、今ここにいるお客様は私なわけだが……さぁトレーナー君。紅茶と茶菓子だけでは私は満足出来ないぞ。他にはなにをしてくれるのかな?」

 

「そうだな………」

 

カップを皿ごとデスクの上に置き、代わりに緩く腕を広げて見せる。

その顔には期待の笑みが浮かび、ミミがピョコピョコ、尻尾がゆらゆらと弾むように揺れている。

 

そんなルドルフの姿を見て、私は近くの化粧台からブラシを手に取った。

 

「尻尾を梳いて差し上げましょうか、お嬢様?」

 

「ふむ、悪くないね。いや……君がしてくれるのならなんだっていいとも」

 

私もルドルフの隣に腰掛け、そっと彼女の尻尾を手のひらにのせる。

ふかふかと柔らかい尻尾。しかし一日の終わりなためか、ところどころ跳ねてしまっている部分もある。

そういった所を中心として、全体的にブラシで整えていく。どうせこの後入浴するわけだし、その後に本格的に手入れもするのだろうが、そこはご愛嬌ということにさせてもらおう。

 

隙を見せれば勝手に手から離れていってしまいそうになる気紛れな尻尾をなんとか捕まえながら、丁寧にその形をならしていった。

ルドルフは平気な顔で紅茶を啜っているが、時折落ち着かなさげにミミをバラバラと動かしている。くすぐったいのだろうか。

 

 

「………へぇ」

 

ルドルフの隣に座り、彼女と同じ方向を向いたことで、必然的に対面のベッドに腰掛けるシービーとも目があった。

彼女は興味津々といった様子で私達の方を眺めていたが、やがて堪えきれなくなったのか傍らに佇むもう一人の執事に同じ事をせがむ。

 

「はは、いいね。アタシにもあれをやって頂戴よシリウス」

 

「かしこまりました。シービーお嬢様」

 

そんな注文に嫌な顔一つせず、むしろ気取った笑みさえ浮かべながらテキパキと彼女の尾に取り掛かるシリウス。

同じ執事服を着ているといえど、シリウスの動きは私なんかより遥かに洗練されている。ただでさえ美人の多いウマ娘の中でも突出したその美貌と相まって、その姿は思わず見とれてしまう程に美しいものだった。

 

奉仕する姿が想像出来ないとさっきまで思っていたが、そんな思い込みが一瞬で覆る程度には衝撃的なもの。

普段は野性的な彼女といえど、やはり相応の教養は叩き込まれているのだろう。私が少しだけ劣等感も抱いてしまうぐらいには。

 

「……んだよ、トレーナー。さっきからジロジロと私の方ばかり見て。一目惚れでもしたのか?」

 

「ああ、そうかもしれない。正直ビックリしている………本当に格好いいよ。シリウス」

 

「なっ………!?」

 

格好いい、なんて彼女からすればミミにタコが出来るぐらい聞いた陳腐な褒め言葉だろうが。

しかしシリウスはそれを聞いた瞬間声を詰まらせると、口を二度三度パクパクさせた後に結局なにも言わず尻尾に目を落としてしまった。

 

完璧だった執事シリウスシンボリが初めて見せた隙。

なるほど、確かに見ていて面白いものがある。拙さを楽しむというのはこういうことなのだろうか。

それこそ精密に、機械の如く奉仕する姿を見ても感嘆こそすれ楽しくはないだろうからな。

 

 

「………むぅ」

 

ピシャリと、強めに手の甲を尻尾で叩かれる。

思考を現実に引き戻され、慌てて隣を見るとそこには半目でこちらをじとりと睨むルドルフの顔。

 

「トレーナー君?今の君のご主人様は一体誰だったかな?」

 

「シンボリルドルフお嬢様です」

 

「そうだろう?主人の尾を預かっている最中、他の従者に目を奪われるのは感心しないな。片手間で扱える程、私の尻尾は甘くはないぞ」

 

「す、すみませんでした」

 

「続けて頂戴。もっと隅々までしっかりと、ダンスパーティーに出しても恥ずかしくないぐらいにね」

 

「はい……」

 

気を取り直して尾を掴むものの、これまで以上に好き勝手跳ね回ってしまう。私は怒っていますと目一杯に主張しているよう。

付け根に指を滑らし、全体を撫でるようにあやしながら、丁寧に丁寧にブラシを通していった。

 

 

真似事といえど執事も難しいものだ。

せめて本番では、給仕はともかく尾の手入れをする事態にはならなければ良いのだが………。

 



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MANHATTAN_Café【4】

ルドルフとの麻雀対決に敗れ、シリウス共々出し物の手伝いを命じられてから数週間後。

ついにファン感謝祭当日がやってきた。一年で最もトレセン学園が盛り上がるハレの日である。

 

府中近隣の住民のみならず、中央に在籍する生徒の親族のほか地方トレセンの関係者、一般のファンまで全国から詰めかけているものだからえらい騒ぎだ。

レース雑誌の出版社から商魂逞しい地元の商工会の方々までもがひっそりと顔を覗かせている。

 

ふと廊下に目をやると、来客でごった返す合間を縫って腕に生徒会の腕章をつけたウマ娘達縦横無尽に駆け回っているのが見えた。

ルドルフに呼び出しがかからないあたり、実際はただの巡回活動なのだろうが……それにしても忙しいことだ。

 

「忙しいのは私達も同じです……先程からお客さん、たくさんいらしてますから」

 

私の頭の中を読み取ったのだろうか。カウンターで珈琲を注ぐカフェが、こちらに目を向けないままそう呟く。

 

彼女の言葉の通り、ここ執事喫茶『MANHATTAN_Café』は開店早々とんでもなく盛り上がっていた。

他の出し物と比べてもかなり規模が大きい上に、学園でも屈指の知名度を誇るそうそうたる面子が集まっているのだ。

独自のコンセプトはあれどやっていることはオーソドックスな飲食店なので、ある種安牌と思われている部分もあるのかもしれない。誰だって開始早々にハズレを引きたくはないだろう。

 

「この先もしばらくは人が捌けないだろうね。このまま何事もなくやっていければいいんだけど」

 

「はい。それに『お友だち』も、おかしなお客さんは追い払ってくれているので……しばらくは大丈夫だと思います……」

 

忙しいのは間違いないのだが、それでも今のところは目立ったトラブルもなしに運営出来ていた。

これもひとえにエアシャカールとタキオンによる徹底した見積りの賜物だろう。

どこか現実離れしたこの盛況すら彼女達による予測の範疇であり、それに応じた準備を整えていたことからスムーズにやってこれたのだ。

 

ちなみに肝心のその二人といえば、今はどちらも裏方に引っ込んでいる。

シャカールは先輩と共にキッチンで調理を担当しており、タキオンはキッチンもホールも安心して任せられないのでとりあえず売上確認と在庫管理に回されることとなった。適材適所というものだろう。

 

「………こちらの珈琲とお菓子、2番のテーブルのお客様にお出しして下さい」

 

「了解」

 

カウンター越しに差し出されたそれらを受け取り、慎重に慎重にゆっくりと目的地目指して運んでいく。スマートさの欠片もない、のっそりとした牛歩の歩みで。

 

釈明させてもらうが、別にこれは私の体幹が弱いからではない。ただひたすらに量が多いのだ。

ラスクにビスケットにパウンドケーキ、クッキーからサンドまで盆に所狭しとぎっしり並べられ、二次元では足りなくなったのかさらに縦にまで積まれている。ポットも通常のものより二回り程大きい上に、限界まで中身が入っているので大変重たい。

その全てを揺らさず運ぶのは最早曲芸の域といっても過言ではないだろう。これはこれで、一つの出し物として披露出来そうな気さえする。

 

それでもなんとかえっちらおっちらと進んでいると、見かねたルドルフが隣に寄り添ってきた。

 

「トレーナー君……これまた重そうだね。君もとんでもないものを押し付けられたものだ。こういう時こそ私達に任せてくれれば良いだろうに」

 

「私の担当だからね。こうまで人が集まってしまうと中々キャストの融通も利かないから」

 

「とはいえもし転んでしまったら大変だ。その様子では前もよく見えていないだろう。私も手伝わせてもらうよ」

 

「ああ、助かるよ。ありがとう」

 

自分の空いた盆に幾つか皿を移し、ついでにポットもひょいと取り上げていくルドルフ。

たったそれだけで、一気に腕にかかる負担も楽になった。カフェはよくこんなものを気軽にカウンター越しに渡してきたものだとつくづく思う。

どこか儚げに見える彼女も、やはりれっきとしたウマ娘の一人ということだろう。

 

「ほら、トレーナー君。お客さんが私達を見ているよ。はは、君も随分と人気者になったものだ」

 

「ルドルフが目当てなんじゃないか?正確に言えば私と一緒にいるルドルフか。こっちはあくまで付加価値にすぎないよ」

 

「それを本気で言っているのだとしたら、君も大概にぶちんだな」

 

そう言ってルドルフは私越しに視線を流し、そっと微笑んで見せる。その瞬間、ざわついていた女性客の団体が一斉に黄色い声を上げた。

直接声を交わさずとも、その立ち振舞いだけで相手を魅了するのは見事としか言い様がない。とてもじゃないが、見よう見まねで出来るようなものではないだろう。

一通りファンサービスをこなした後、彼女はすいすいと先へ進んでいく。そういえば目的地については説明してなかったような気がするが………まぁ、誰の目から見てもそんなのは一目瞭然か。

 

私も並んでホールを横切り、入り口近くに設けられた2番テーブルへと辿り着く。

茶菓子の皿が既に目一杯に積み上げられたそのテーブルは、混雑極まる店内においてなお一際存在感を放っていた。というより、皿にのせいで最早座っている者の顔まで隠れてしまっていた。

顔の見えない接客ほどやり辛いものもないが、仕方がないので気持ち大きめに声をかけてやる。

 

「お嬢様。ご注文の品をお持ち致しました……空いたお皿もお下げ致しましょうか?」

 

「おん!ほんならお願いするわ。さっきからテーブルが狭くて狭くてやってられへん。なぁオグリ?」

 

ひょっこりと、皿の横から一人の少女が顔を出す。

丸いポンポンのついた髪飾りとメンコが特徴的な芦毛のウマ娘……タマモクロス。

こちらに負けじとばかりに軽快なダミ声を張り上げているが、その顔がどことなくげんなりして見えるのは気のせいだろうか。

 

「では、失礼します」

 

とりあえず許可が出たので皿の山を片付けたいが、そのためには今運んできたものをどうにかしなければならない。

生憎テーブルには置き場の欠片もなかったので、仕方なくルドルフがポットと茶菓子を再び私に預けた後、空になった盆に片っ端から皿を回収していく。

とりあえず乗せられるだけ乗せきった所で、彼女はキッチンの方へそれを運んでいった。

 

ルドルフが去った後には、だいぶ背の縮んだ山だけが残っている。

あれだけ下げたにも関わらず、まだそれなりに残っている空き皿に囲まれながら、ようやくこちらに気がついたかのようにオグリキャップは私を見上げた。

 

「む。待っていたぞトレーナー……待っている間にまたお腹が空いてきてしまったな」

 

「なぁオグリ……ここそういうお店ちゃうねん。菓子だけが目当てでここに来てんのたぶんアンタだけやで。そんなに腹減ってんならそろそろ別の店いこか?」

 

「しかしタマ、私がたくさん食べればこのお店もいっぱい儲かるのだろう?もうしばらくここにいるべきではないだろうか」

 

「アホ!アンタのおかげで材料が減ってむしろ困っとるわ!………なぁトレーナー、アンタも関係者やろ?なんとか言うてやったらどうなんや」

 

ぎゃいぎゃいと騒ぎ立てるタマモクロスと、あくまでマイペースに食事に取りかかるオグリキャップ。

らちが明かないと考えたのか、話の矛先が私の方にまで向かってくる。

 

「私から申し上げることは御座いません。お嬢様方にはこれまで通り、心行くまでお食事をお楽しみ頂ければと」

 

「せやけどアンタ、こんなペースじゃそろそろ在庫だって底を尽きるんとちゃうか」

 

「いえ、なにも気を遣われることはありませんよ。予めオグリキャップ様のご来店を見越した上での準備をして参りましたので」

 

もっとも予想したのは私ではなくあの二人だが。

オグリキャップのためだけに用意しておく材料の数を当初から倍近くまで増やしていたので、むしろ食べて貰わなければ困る。

予想通り彼女がこの店に顔を出した瞬間には、安堵で思わず涙すら出てしまいそうになった程だ。流石に一番乗りしてくることまでは予想出来なかったことも含めて。

 

なんだかんだ言いつつも、心の片隅では気にかかっていたのだろう。

私の言葉に安心したように頷いたオグリは、早速私の淹れた珈琲に口をつけると、新しいパウンドケーキの皿に指を伸ばす。

その様子を、感心しているのか呆れているのかよく分からない表情で見守るタマモクロス。

 

「なるほどな、アンタらなりにちゃあんと考えとったわけか。せやけどこの出し物の趣旨からは思いっきりかけ離れとるやないか」

 

「所詮コンセプトの一つに過ぎませんから。楽しみ方は人それぞれで御座います。タマモお嬢様」

 

「あとその喋り方気持ち悪いから止めぇや。いつも通りでええねんいつも通りで」

 

「えぇ…………」

 

ひどい。この執事喫茶の存在意義を真っ向から否定している。それなら彼女は一体なんのためにこの店を訪れたのだろうか。

 

ただ……正直なところ、自分でもやってていい加減キツいと思っていたところなので、むしろ丁度良かったかもしれない。

執事らしいキャラ作りも全く求められないし、配膳の難に目を瞑れば彼女達の担当で良かったと思う。

 

 

そんな後ろ向きな私の考えを嘲笑うように、背後でわっと爆発するような歓声が響いた。

 

 

「うん、なんだ?」

 

振り向くと、部屋の反対側で優雅に珈琲を淹れるルドルフの姿。その隣で、恭しくシリウスが腰を折っている。

彼女達を取り囲んで悲鳴を上げているのは……恐らくシリウスの取り巻き達だろう。普段は尊大なリーダーとそのライバルが揃って自分達に傅いている現実に思考が追い付いていないらしい。陶然とした表情で声にならない声を上げている。

さらにそれを取り囲むようにして、他の来客も一心不乱に各々のスマホやウマホのフラッシュを炊いている。その中には生徒会の腕章をつけている者までいた。

 

「ははっ、相変わらずどえらい人気やなルドルフ。それにシリウスもな。見てみいトレーナー。普段あんだけあの二人に突っかかってる連中が骨抜きやで。さながらこの店のエースっちゅうわけか」

 

「この店にエースなんていないよ。それぞれの魅力を極限まで伸ばしてるようなウマ娘ばかりだからね。その証拠に………ほら」

 

タマモクロスの後ろを指で示す。

彼女が振り返った先には、同じく給仕に勤しんでいる二人の執事服のウマ娘……フジキセキとシービーの姿がある。

片やエンターテイナー、片や演出家を名乗るだけあって、彼女達の動きはどこか芝居っぽさがある。ただしそれは決して現実から浮いたものではなく、むしろ現実を自分達の色に染め上げているかのようだ。

 

確かに二人にはそれぞれこういった、自らの動きで場を支配する異才のようなものがあったが………それが相乗するとこうなるのか。まるで舞台の上でスポットライトでも当てられているかのよう。

そんな彼女達をこれまた大勢の客が取り囲んでいるが……それらはルドルフ達の囲いとは反対に、ほんの少しも声を漏らしていない。ただただ無言で食い入るように執事の所作に見惚れている。

冷静に遠くから見れば、いっそ不気味とすら思えるほどの静寂。タマモクロスが見落としたのも無理はないだろう。

 

 

 

「あの…………」

 

そう外野からスター達の活躍を見守っていたところ、不意に後ろから執事服の裾を引っ張られた。

振り向くと、そこにはウマ娘の少女が三人。

服装を見るにこの学園の生徒ではないのだろう。それぞれウマホを手に提げながら、興味津々といった様子で私の顔を見上げている。

 

私の担当はこのテーブルとはいえ、彼女達もまた大切なお客様であることには変わりない。

膝を折り、三人と目線を合わせて返事をする。

 

「はい。私にどのようなご用でしょうか。お嬢様」

 

「あの!私達ずっとシンボリルドルフさんのトレーナーさんのファンでして……ですので、一緒に写真を撮ってくれませんか!」

 

「ええ、もちろん構いませんよ。いつも応援ありがとうございます」

 

「ははは!なんや、トレーナーもモテモテやな!おっかないなオグリ……この面はとんだ人たらしの面やで。アンタもうっかりしとるとガァブッと食われちまうから気ぃつけぇや、な?」

 

「ん、む?……ふんふん」

 

ここぞとばかりに背後から飛んでくるタマモクロスの冷やかしと、それを意にも介さず食事に取りかかるオグリキャップ。

 

一先ずそれらは置いておいて、三人のウマ娘達の中心に収まる形で一つにまとまる。

自撮り棒は携帯していなかったため、画角の都合上どうしても収められる範囲は狭くなる。故に、こうしてある程度密着してしまうのも仕方ないというものだろう。

 

 

「……………………………………………」

 

 

だからルドルフ。無言で抗議してくるのは止めてくれ。

視線をこちらにやらず、それどころか身体すらこちらに向けず、私にだけ伝わるようプレッシャーをかけるとはなんと高等な技術だろうか。どこで習得したんだ、それ。

どうせ怒られるのならいっそとことんまで突っ切ってしまおう。そう割り切って私は笑顔を作る。

 

 

「はいチーズ、321……はい、ありがとうございました~!」

 

あまり長く拘束するのも悪いと遠慮してくれたのだろうか。

彼女達は一枚だけ写真を撮ったあと、きゃいきゃいと色めきながら自分達の席へと帰っていった。

 

それを見送ったあと、再び自らの担当へと向き直る。

相変わらずニヤニヤと、まるで友人の告白を覗き見した後のような悪戯な笑みを浮かべているタマモクロス。私と目があった瞬間、より一層その唇の端を吊り上げて見せてくる。

 

なんとなく分かった気がする。彼女はまさにこういったネタを期待して店に来たのだろう。それでいてなにも言わず、ただただ私を眺めているだけ。

 

それから目を逸らすのも負けた気がして癪なので、私の方からもなにも喋らず彼女の瞳を睨みつけてやる。

 

「おかわり」

 

かたん、とオグリが最後の皿を空にした音だけがテーブルに響いた。

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございました」

 

深々と腰を折り、タマモクロスとオグリキャップが揃って店を後にするのを見送った。

まさしく当初の見積り通り、オグリは彼女以外の全ての客の食事の総量を一人で平らげた。一つ一つは小さな茶菓子とはいえ、明らかに彼女体積を上回っている量の筈だが、それについて考えるのは意味が無さそうなのでやめておく。

タマモクロスは珈琲一杯とラスクを二枚目摘まんだだけだった。ただでさえ少食なうえ、オグリの暴食を目の前で見たことで腹が一杯になったらしい。彼女にしてみれば、私をからかうネタが一つ手に入った時点で満足なのだろう。

 

 

さて、客は彼女達だけではない。

早く次のテーブルに向かわなければ。

 

そう気持ちを切り替え、入り口からホールを見渡す。

そこでようやっと、私は店の中で起きている異変に気がついた。

 

「多いな………」

 

……客が、多い。多すぎる。

 

余裕をもって寛げる空間にしたいというカフェの意向に沿って、私達は基本的に客同士が隣り合わないように案内している。

それぞれ座っているテーブルの間に一つ、空のテーブルが挟まる形だ。

 

勿論、来客の人数によってはその限りではない。混雑してきた場合にはやむを得ず隣り合わせて座らせるマニュアルにはなっている。

しかし、だからといって空いてるテーブルが一つもないなんてことはあり得るのだろうか?既に客が溢れ、タキオンが整理券を発行している始末。

開店から数時間経っており、本来なら一段落ついてる筈の頃合いなのに。

 

「おい。すまないが、一つ頼まれてくれないか」

 

呆気に取られて見渡していると、不意に先輩に肩を叩かれる。

困ったように、申し訳なさそうに眉を下げて私の顔を覗き込んできた。本来キッチン担当でホールには出ないと宣言していた彼がわざわざ顔を見せるあたり、猛烈にイヤな予感しかしない。

 

「なんですか、先輩。ここはキッチンじゃありませんよ」

 

「分かってる。そう嫌な顔をするな………いや、いくらでもしてもいいからある客を体よくさっさと追い出して欲しいんだ。つい先程来たばかりの客だ」

 

「そんな厄介な客ですか?そういった連中はカフェの『お友だち』が追い払ってくれる筈ですが」

 

「心配いらない。別に暴れているわけでもなく普通さ………今のところは。ただ厄介なのは間違いない。なにせ『お友だち』でも対処できないんだから」

 

「いや、そんな化け物私だって歯が立ちませんって!先輩のチームの店なんだからそっちで対処して下さい!」

 

「俺達が向かった所で却って火に油注ぐだけだ。去年のがあるからな。お前が一番穏便に対処出来るだろう………頼んだぞ!商品は全部タダにしていい。程々に満足させて早々に帰らせろ。あとこれを持っていけ」

 

「分かりましたよ………テーブル番号は?」

 

「7だ。といっても、見れば一発で分かるだろう」

 

無理やりインカムと珈琲のポットを持たせられ、グイグイと背中を押されながら追いたてられる。

先程オグリへ提供したものよりもさらに大きめのポット。これが尽きるまでに帰らせろというメッセージだろう。

 

インカムを耳につけ、ポットを手で抱えながら目的のテーブルを目指す。

この店の一桁番号のテーブルは、全て壁沿いに配置されている。7番は確か部屋の最奥……開口窓を出た先のテラスにあったはずだ。そう頭の中で整理しながら、私はホールを真っ直ぐ通過する。

その途中、客の退いたテーブルを拭いているシービーとかち合った。

 

「あ、トレーナー。暇ならこっち手伝ってくれないかな?」

 

「ごめんシービー。ちょっと別の客の対応を押し付けられることになった。どうしても人手が必要ならタキオンを呼んでくれ」

 

「いや、流石にそれは………保健所が来ちゃうって。それはそうと、念のためセキュリティでも呼んでおこうか?」

 

「まだそこまでする必要はない………と思う。一応こっちにもウマ娘は揃っているわけだし、時間稼ぎぐらいなら出来るだろう。もし何かあったらインカムで呼び出す」

 

「分かった。一応ルドルフにも伝えとくね」

 

拭き終わると、そのまま空いたばかりのテーブルに客を誘導するため入口へと向かっていくシービー。

その背中を見送った後、私は開口窓をくぐってテラスへと出た。

 

 

そこには誰もいない。

 

 

テラスは広く、十を越える数のテーブルが余裕を持って並んでいる。しかし誰も座っていない空きテーブルだ。

なるほど、ここに客を案内しなかったからホールがあそこまで詰まっていたのか。だとしても何故。

 

 

「…………ん?」

 

いや、違う。

この開口窓から一番遠いテーブル……7番。テラスの隅っこに据え置かれたその席に、一人だけ誰かが座っている。

 

だらんと椅子の背もたれにもたれ掛かり、体重で傾けて二本足で立たせている。その両足は無造作にテーブルの上に投げ出されていた。

ほとんど水平に近い格好であったために、対面であるこちらからは見えなかったのだろう。

 

なるべく相手を刺激しないように、なるべく動きを小さくしつつ真正面から接近する。

テラスを半分ほど横切ったあたりで、私の存在に気づいたらしく足を下ろして身を起こす。そのまま今度は体を横に傾けると、不遜な態度で両足を組み頬杖をついてこちらを見上げてきた。

 

 

近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてくる。

 

 

マンハッタンカフェに酷似した容姿。ただしその流星だけは先輩に似て、まるでミルクを溢したかのように青鹿毛の上で踊っている。

身長は低く、長い髪を腰まで流していた。前髪も同様に長く垂らされており、その間から爛々とした金色の瞳が舐めるようにこちらを覗く。

裂けるように吊り上がった唇の間から鋭く白い歯が姿を現しており、満月のような瞳孔と相まって凄まじい凶相と化していた。

 

彼女は頭頂部に一対の耳を生やし、尻尾を携えるウマ娘と呼ばれる生き物。

しかしその姿はどこか大鴉を彷彿とさせた。それも何千年と生きることで、この世あらざるものへと変性した魔物。

 

 

 

………ついでに、昨年のタキオンの出し物を壊滅させた張本人でもある。

今年も来るとは予想していたけれど、その結果についてはまるで予測出来なかった。オグリの食事量を完璧に弾き出したあのシャカールとタキオンですら。

今年こそは台無しするわけにはいかない。とりあえず、こういう時は手っ取り早く誰かを槍玉に上げるのが鉄板だろう。

 

「自分の母親を厄介客扱いして隔離したうえに、その後始末を弟分にやらせる度し難いトレーナーがこの学園にはいるみたいですよ。どう思います………お嬢様?」

 

これでもかと不服を込めた切り出しに、ほんの少しだけその口角が吊り上がった。

ちらちらと、まるで暖炉の火が踊るように金色の瞳が揺らめく。

 

 

 

「気持ち悪い呼び方してんじゃねぇよクソガキ。俺のことはこう呼べっつってんだろうが………"サンデーサイレンス様"ってな」

 

誇らしげに自らの名をそう歌い上げて。

くつくつと、彼女は私を嘲るように笑った。

 



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生ける伝説【5】

サンデーサイレンス。

アメリカのレースにおいて二冠を達成、さらにはG1を6勝し米国年度代表ウマ娘にも選ばれたスターウマ娘。

この異国の地においてなお、レース競技の関係者の中で知らないものはいないと言っても過言ではないだろう。既に引退してかなりの月日が経っているにも関わらず、だ。

私自身、トレーナーを志して以降も幾度となくその名前を聞かされてきた。

 

「チッ。このサンデーサイレンスがわざわざ顔を出してやったってのに、出迎えの一つもないのかねこの学園は」

 

「予め連絡の一つでもくれていれば幾らでも人は寄越しましたよ。抜き打ちで来られたところでどうしようもない。一体何人が今日この学園にいると思ってるんですか」

 

「顔見りゃ分かんだろうが。秋川のチビとも途中ですれ違ったんだぜ」

 

「おおかたカフェと勘違いしたって所じゃないですかね。そもそも顔すら見てなかったのかも」

 

「そうかい。なら俺はもう完全に昔の人ってわけだ」

 

つまんな、と唇を歪ませながら再び椅子を傾ける。ぐいっと顎を反らして天を睨むが、縦に裂けた瞳孔はおよそ何者をも捉えていないように見える。

 

彼女がどういう経緯で日本に渡ってきたのかは知らない。

理事長が少しだけ語った話によれば、彼女の母親である先代理事長が自らアメリカにまで足を運んで引き抜いてきたらしいが、その詳細についてはとんと掴めずにいた。

いくら当時のスーパースターとはいえ、まだ引退したばかりのウマ娘をトレーナーとして招聘する意味が分からないのだが………辣腕として名を馳せた先代のことだ。きっと予感じみたものでもあったのだろう。

 

彼女の期待どおり、あるいはそれすら越える結果をサンデーサイレンスは叩き出し、文字通り日本レース競技の歴史を根本から変えてみせた。

競技者としても、トレーナーとしても類稀な傑物というのがウマ娘サンデーサイレンスの評価である。

競技者としては天才でもいざ指導する立場になるとパッとしない、あるいはその逆のウマ娘が殆どを占める中で、彼女の功績はいっそ異次元とすら言えるだろう。

今だって、ちゃんと手続きさえ踏めば盛大に迎えてもらえるだろうに。そういうのを嫌がる癖して、いざ構ってもらえないとそれはそれで拗ねるのがサンデーサイレンスなのだ。

 

要するに、とても面倒くさい。

まだ死ぬ気はないので絶対に口には出さないが。

 

「この国に来たばっかりの頃は、そこらの有象無象がこぞって俺を拝みに来たもんだ。それがなんだ。どいつもこいつも知らん顔して素通りしていきやがってよ」

 

「先程ご自身も仰ったとおり、貴女は既に過去のウマ娘ということでしょう。サンデーサイレンスの名を知らない者はいないとはいえ、一瞬すれ違っただけの顔から導き出すのは難しい」

 

トレーナーとして圧倒的な手腕を披露したものの、ここに骨を埋める覚悟まではなかったのだろう。世間的にはまだまだ若手と言える歳で彼女は学園を去っていた。その後の行方は公にされず、現在サンデーサイレンスは完全に表舞台から姿をくらましている。

少なくとも今この学園に在籍しているような生徒にとっては、半ば神話か伝説のような認識だろう。

 

そんな彼女は今では東京から少し離れた地方で孤児院兼レース関連の私塾を経営している。身寄りのないウマ娘の子供や親がウマ娘の子供なんかを対象にしている施設であり、かくいう私自身もそこで育った一人である。

故に私にとっては育ての親ともいえる人物であり、幼い頃のルドルフとも多少面識がある。なにを隠そう、ルドルフがかの理想を掲げるようになった一因でもあるわけだし。

 

 

私とカフェ、先輩は共にこのウマ娘の庇護下で幼少期を過ごしてきた。

 

 

それでも私が母親と呼ぶと、彼女はあまり良い顔をしない。しかしそれ以外にどんな呼び方をすれば正しいのか私には分からなかった。

……少なくとも"サンデーサイレンス様"でないのは確かだろうが。

 

「日本に来たばっかりの頃は、そこらの有象無象がこぞって俺を拝みに来たもんだ。この国に八百万も神様が湧いた理由が分かった気がしたな」

 

「皮肉ですね。神を嫌う貴女が神様扱いとは」

 

「それがなんだ。さっきからどいつもこいつもまともに目すら合わせてこねぇ。揃いも揃って腑抜けた面ばかり晒しやがって………特にお前」

 

ただぼんやりと宙を踊っていた彼女の瞳が、不意にぐるりと私の顔を睨む。

バサバサとした青鹿毛の隙間から、一対の金色の光がぴたりとこちらを射抜いてきた。

 

たったそれだけで、まるでショットガンの銃口を押し付けられたかのような威圧感が体を襲う。

その感覚にどこか懐かしさすら抱きつつ、負けじとなんとか彼女の眼を睨み返してやる。

 

「葬式みてぇにシケた面しやがって。あれか?俺には来て欲しくなかったわけか?」

 

「いえ、決してそういうわけではありませんが……」

 

「言っておくがな。去年のアレはどう考えてもあのフランケンシュタイン気取りのせいだろうが。一足早くクリスマスの装飾にされて笑える奴がいるなら教えてくれよ……なぁ?どこのどいつだ?」

 

「貴女の息子さんです」

 

「…………そういやあのアホはどこにいった?まぁ、どうせ俺に会いたくなくてキッチンにでも引き籠ってんだろうな。カフェも同じ。そんでお前がその身代わりってわけだ」

 

子供達に避けられてる現状について、サンデーサイレンスなりに思うところがあるのだろう。彼女が足を揺さぶるたび、ガタガタと椅子が荒々しい音を立てながら震えて動く。

ふんっと一つ鼻を鳴らすと、彼女はテーブルの真ん中にあるカップを無造作にこちらへと押し付けてきた。

 

「ほら、いつまでつっ立ってんだ羊野郎。さっさと注いでくれよ。別に心配しなくても取って食いやしないさ」

 

「畏まりました。お嬢……サンデーサイレンス様」

 

「そうそう。相変わらず物分かりだけはいいなお前。昔からそうだったもんなぁ?まぁそう育てたのは俺なんだが」

 

先程までの不機嫌な表情から一転、にたにたとこちらの反応を期待するような目で私を見つめてくる。

 

まるで獲物を前にした猛禽のようなそれから目を背けようとして……止めた。

 

そうだ、彼女の言うとおり別にとって食われるわけじゃない。

だいたい米国二冠G1六勝だかなんだか知らないが、所詮もうとっくの昔に引退した古バなのだ。現役の七冠バを一から相手にしてきた私がなにを恐れることがある。

そんな想いを込めて、もう一度サンデーサイレンスの眼を見つめ直して張り合ってみせる。

 

「へぇ………ははっ、いいねぇ。やっぱり面白いなお前。だがそんなんじゃ長生きできねぇなぁ」

 

その瞬間、彼女の口がまるで引きつるように不気味に歪んだ。その目元も裂けるかのようにゆっくりと三日月を描く。

チラチラと太く立派な犬歯を見せつけるかのようなその表情は、笑みというにはあまりにも攻撃的すぎて。むしろ自分の武器をこれでもかと見せつけているよう。

私達を中心にぴぃんと、一気に空気が張り詰める感覚。少しでも身動きすれば全てが崩壊する予感。

脳が警告の鐘を打ち鳴らし、反射的に足がこの場から離れようとする。それを寸での所で食い止めたのは、店員としての義務感やこの場を任された責任感ではなく、彼女に背中を見せてはいけないというだけの本能的な恐怖心だった。

 

その矮躯から解き放たれ、膨れ上がっていくサンデーサイレンスの殺気。

それに間近で晒された私は、自分でも気づかないままにポットに目を落としてしまった。

 

「ハァ………………あーあぁ」

 

そんな私の姿を目にした瞬間、見た彼女は失望したような溜め息と共に頬杖をつき、トントンとテーブルの縁を人差し指で叩き始める。

 

言いたい事は分かるが……仕方ないではないか。怖いものは怖いんだから。

自分から怖がらせておきながら、相手が怯んだ瞬間一方的に幻滅するのは彼女の悪い癖だ。アメリカ時代からの習慣らしく、そうやって手当たり次第喧嘩を売って回っていたそうだが、よくぞこれまで無事に生き残ってこれたものだと思う。

 

気を取り直し、皿からカップを持ち上げてポットの口をつける。

珈琲の一つとっても淹れ方に技巧があるらしいが、幸いこの喫茶ではそこまでのクオリティは求められていない。カップの外に跳ねたり、間違っても落としたりしないよう慎重にポットの中身を注いでいく。

 

注ぎ終わると、カップの中で揺れる珈琲からなんとも香ばしい湯気が漂ってくる。

彼女の好みに合わせてカフェが自ら注いだ、深めに焙煎した豆を使ったアメリカン・コーヒー。その香りを味わうことで、少しづつ私の中にあったはずの冷静さが甦ってくる。

気を張り過ぎてもろくなことがない。折角ルドルフに稽古をつけて貰ったのだ。あのときと同じように、練習どおりにやればいい。練習は本番のように、本番は練習のようにとよく言うだろう。

 

「サ、サンデーサイレンス様。ロイヤルアールグレイでございます」

 

「どこがだよ。どっからどう見てもアメリカン・コーヒーだろうが。それとも日本のアールグレイはこんな色してんのか?」

 

「ありがとうございます」

 

「いや褒めてないが」

 

サンデーサイレンスはおもむろに皿を持ち上げると、カップを取り上げてその中身を口に含む。

そのままゆっくりと咀嚼するように目を瞑ると、やがて満足いったのかそれらを机に戻した。流石カフェがその記憶と経験を元に作り上げただけあって、しっかりサンデーサイレンスの中の合格ラインを越えてきたようだ。

 

それにしても、彼女の飲み方も中々に洗練されていると思う。ルドルフやシリウスの振る舞いに見受けられたような気品を、彼女の一連の所作からも感じられた。

勿論、ルドルフのように完璧に整えられた仕草ではない。しかし彼女はそれが出来ないというより、理解した上であえて崩しているような感覚がする。

粗野な言動こそ目につくが、これでも教養自体はそれなりに身につけているのだろう。こうして仕草の節々に滲ませるのではなく、もっと全面的に押し出していけばいいものを。

 

再びカップに口をつけつつ今度は立て掛けてあったメニューを広げると、そのうち幾つかをついと指で示して見せてくる。

そのままインカムで注文を伝えると、若干がっかりしたような声で返事が飛んできた。大方珈琲だけで満足して帰ってくれることを期待していたのだろうが、そうは問屋が下ろさない。

さて、一体誰が注文の品を届けにくるのだろうか。

 

「………そういやお前。年末はウチに帰ってくんのか?あのガキ二人は帰るっつってるから後はお前の返事待ちだぜ」

 

「あぁ。そういえばもうそんな時期でしたか」

 

「今年はお前の担当も有馬には出ないんだろ?どうせお前らトレーナーは年末年始もひたすらトレーニングのことばっか。それなら何処にいたって同じだろうが」

 

「それを言ったら、貴女こそ年がら年中ずっとトレーニングのことばかり考えているでしょうに。中央に戻ってくるつもりはないんですか?」

 

「ないね。俺がやってんのはあくまでガキ共のお守りだ。アイツらが走らせろ走らせろ言うから仕方なく稽古つけてやってるだけだ」

 

「………今年もあのレース教室の出身者、重賞勝ちしたそうですよ」

 

「伸びる奴は勝手に伸びるし、戦える奴は一人でも戦える。アイツは勝つべくして勝ったんだ………俺自身がそうだったように」

 

そう言い切ると、サンデーサイレンスはテラス越しに学園の中庭を見下ろす。

その先には色とりどりの屋台が広がり、学園の生徒や親子連れが列を為して並んでいた。生徒会が今年新たに呼び込んだ地元商工会の祭り屋台はどうやら大盛況のようだ。

 

私なんかよりずっと長くレースの世界に身を置いてきた老兵は、移ろいゆく古巣の姿を見てなにを思うのだろうか。

僅かに伏せられたその瞳からは、生憎なんの思考も感情も読み取ることは出来なかった。

 

「……………………ん」

 

ざぁっと、不意に吹いた冷たい秋の風がテラスを一撫でした。バサバサと、その真っ黒な長い髪を押さえることもなく踊らせながら、彼女は心地良さげに目を細める。

そんなありふれた姿から、しかし私は不思議と目を離すことが出来ずにいた。

 

実の両親にすら醜いと嘲笑われたサンデーサイレンス。

殆ど手入れもしない髪と尻尾に、やや背中の丸まった細身の体。両足は内向きに曲がっており、その目は映るもの全てを睨むかのようにつり上がっている。歯は鋭く長く尖り、少し上で燃えるように爛々と輝いている双眸。

お世辞にも美しいとは言えないウマ娘。しかしそれでも彼女には人の目を奪うだけのなにかがあった。

それはカリスマと呼ぶのだろうか?ルドルフのように、ただそこにいるだけで人を惹き付ける異才。しかしルドルフのそれとはまた異なる雰囲気がある。

昔から私はその正体を知りたいと願い、そして未だ掴めずにいた。

 

ずっと、それこそ物心ついた頃から、サンデーサイレンスというウマ娘は私の心の隅で根を張っている。

それは絆というよりも、最早呪いに近い根深さだった。深く深く、私ですら知り得ない奥底まで突き刺さり巣食っている。

 

「………なんだ、お前。俺にここへ戻ってきて欲しいのか?」

 

外を眺めていたサンデーサイレンスが、ふと私に視線を戻してそう問い掛ける。そのままにたりと笑ってみせた………まるで悪戯を思いついた子供のように。

ついでにカップに口をつけ、いつの間にか中身が空になっていたことに気がつくと、無言でそれを差し出してきた。

 

それを受け取り、最初よりは慣れた手つきで新しく中身を注ぎながら、私は慎重に言葉を選んで答える。

 

「ええ。私だけじゃありません。先輩も先生も、皆が貴女の帰りを待ち望んでいますよ。"サンデーサイレンス"は我々トレーナーにとっても憧れですから」

 

「俺は今お前の話をしてたつもりなんだがな。それに『帰りを待ち望んでいる』だぁ?出鱈目こいてんじゃねぇぞ。俺が復帰してパイが減るのはお前らだろうが」

 

優秀な新米ウマ娘という名のパイがな、と彼女は続ける。

 

その通りだ。

トレセン学園は………というよりレース競技そのものが、その本質においてパイの奪い合いである。

レースで勝者となれるのは一人だけ。優れた素質を持つ金の卵とも言えるウマ娘も、経験豊富で実績のあるベテラントレーナーも数は限られている。繰り返される熾烈な椅子取りゲームを制し続けた者にこそ勝利の女神は微笑むのだ。

故に、実力と実績のある彼女に復帰されては困るのだ。生徒からすれば喜ばしいことこの上ないだろうが、トレーナーからしてみればただでさえ少ない椅子をごっそり持っていかれる結果になるだろう。

 

「つまり、だ。お前は俺に『トレーナーとして』ここにいて欲しいわけじゃないんだよ。思い出してみろ………お前は昔、その目で俺の走りを見てなんと言ったか」

 

それは私の幼い頃の記憶。

恐らく私が生まれて初めて見たウマ娘という生き物の本領。まだトレーナーの存在すら知って間もないような私に、サンデーサイレンスが一度だけ披露した本気の走り。

彼女がターフを去ってから既に十年以上。今にして思えば目につく所ばかりだし、トレーナーとなってからは優れた走りなどそれこそ掃いて捨てる程出会ってきた。

 

それでも当時、私の心を占めた感情は一つだけで――――

 

 

「俺の、このサンデーサイレンスのトレーナーになりたいって言っただろうが。他のウマ娘なんて考えられないってな。もっともそれは………叶わぬ夢だが」

 

 

 

――――それはきっと、初恋だった。

 

 

くだらない、まるで大きくなったら母親と結婚するとのたまう男児のような、本当にくだらない想いではあったけれど。

それが私のトレーナーとしての原点であることを、恐らく彼女は知っているのだろう。

 

にやにやと、さも面白くて堪らないといった表情で私のことを眺めるサンデーサイレンス。

明らかに私を小馬鹿にしている様子であり、それに内心むっときた私は突き放すように先の言葉を否定する。

 

「………もっとも、それはあくまで当時の感想ですよ。ものを知らない子供だから言えた世迷い事です。今の自分には当てはまりません」

 

「あっそ。だったらなんも心配はいらねぇな………あっははははっ!!!良かったなシンボリのガキ!!お前もちゃあんとコイツの眼中に入ってるらしいぜ。俺の代替ってわけでもないらしい………『今は』な」

 

けたけたと腹を抱えて笑うサンデーサイレンスが、震える指で私の背後を示す。

 

「……………はっ?」

 

振り返ると、そこにはラスクが一皿乗った盆を抱えるルドルフと、その後ろに落ち着かない様子で控える先輩の姿。

おおかた応援のつもりでここまで駆けつけたのだろうが………先輩はともかく、ルドルフは信じられないようなものを見た顔で固まっている。

 

「ふふっ、はははははっ…………あー笑った笑った。去年はクソそのものだったが今年の見せ物は中々だったな。満足したから帰ってやるよ。お望み通りな」

 

カップの中身を一気に飲み干したサンデーサイレンスはのっそりと立ち上がり、猫背でこちらへと近づいてくる。

ルドルフの盆からラスクをまとめて口の中に放り込み、一瞬で噛み砕いて飲み込むとそのまま私の肩を叩いてすれ違っていった。

 

「じゃあな。来年もまた来るぜ………帰省すんのかしないのかはまぁ、今日中に返事を寄越してくれれば良い。俺はコイツと学園デートしてるから、お前もそこの皇帝サマとよろしくやってな」

 

そう言い残してサンデーサイレンスは去っていく。

ついでに肩を引っ掴まれた先輩もまた、なす術もなく校舎の中まで連れ込まれていった。このまま今日一杯は付き人をさせられるのだろう。

 

150台半ばの彼女が、180センチ近い先輩を一方的に引きずり回す光景はかなり見物だったが、しかしそれを気にしていられるような状況ではない。

面白くなさそうに、ルドルフが目を細めて私を睨みつけているのだ。そのウマ耳が若干、後ろを向きかけているのに気づいて動悸が止まらない。

 

「ルドルフ………その、ごめん。怒ってる?」

 

「怒ってなどいないさ。話の内容はよく分からなかったが、恐らくずっと昔のことなのだろう?最終的にトレーナー君が私の隣にさえいればそれでいい」

 

「そ、そうか…………」

 

「だが、そうだな…………ううん」

 

ルドルフは少し首をかしげ、彼方を見つめながらなにやら逡巡している。

そのままチラチラと私の顔と空を交互に眺め、やがて決心がついたのか一つ頷いて口を開いた。

 

「トレーナー君。ごめんと謝るぐらいなら一つお願いを聞いてくれるかな?」

 

「いいけど………なんだ?次はメイド服でも着て給仕をやればいいのか?」

 

「それも大変魅力的だが、また今度にさせてもらう………なに、そう大したことじゃない。ただ、折角のお祭りだから私も学園を回ってみたくてね。君も付き合ってくれると嬉しいんだが」

 

こほんと一つ咳払いをし、上目遣いで私の反応を窺ってくるルドルフ。

ざり、と彼女の右足がテラスの床を前掻きし、ほんのりとその顔が赤く染まった。

 

「サンデーサイレンス殿の言う『学園デート』というやつだな。どうだろう、トレーナー君……?」

 

「勿論。地獄の果てまでお付き合い致しますとも………ルドルフお嬢様」

 

自分の今の格好を思い出し、そんな歯の浮くような台詞と共に腰を折って見せる。

 

 

「………ふふっ!」

 

パタパタと、嬉しそうにルドルフのウマ耳が左右に動いた。

 



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君は私だけの従者だろう【6】

「では、そろそろお暇させて頂きます。すっかり日の入りですが、まだまだ祭りは長い。最後までお付き合い頂ければ幸いです」

 

「ええ、勿論ですとも。私達も天下のトレセンで商売できる機会は中々ありませんからね。また来年もお呼びいただけると嬉しいですな」

 

「ええ、こちらからも是非」

 

テントから出てきたルドルフが、最後にもう一度頭を下げた。

そのまま自然な動きで入り口から離れると、無言で側に立っている私の腕を引いて広場を歩き始める。

 

 

出し物が終わり、私達が学園を自由に回れるようになった頃には既に辺りも暗くなっていた。

肌寒さまでは感じないものの、こうも日が短くなると本格的に冬の到来を実感できる。

あらゆる意味で節目といえる行事なのだ。駿大祭とこの聖蹄祭は。学園が総力を上げて取りかかるのもさもありなんと言ったところ。

 

「ほら、トレーナー君。ぼうっとしていてはいけないよ。まだまだ回らなければならないお店はたくさんあるのだから」

 

「はい、ルドルフ様」

 

日が傾きかけているとはいえ、依然として学園の熱気は収まらない。いや、むしろこれからが本番とも言えるだろう。

フリーで動いていた生徒はともかく、私達のように出し物に携わっていた者達がようやく動き出せる時間なのだ。

逆にまだ企画を続けているチームもあるし、我々をターゲットにして商工会主催の屋台はさらに盛り上がってすらいる。見所には事欠かない。

 

………もっとも、ルドルフの活動は祭りの堪能からは少しズレたものであったが。

 

「さて、次はどちらにご挨拶をしようか。先程の金魚すくいがEブースの4だったから、このまま5に向かうべきかな」

 

「いえ、その店は30分程前に撤収を済ませているようです。なので向かうべきはEブースの6ですね。本日の出店は30店舗だったので、次で最後となります」

 

「そうか、30分前………少し遅かったな。単純にAの1から回るのではなく、一度先方のタイムスケジュールを全て確認しておくべきだったか」

 

「そういった情報は全て運営部の所轄ですからね。あそこは対応が遅いですから、確認を取りにいった所で時間切れとなることに代わりはありませんよ。それにご挨拶なら先日既に済ませているでしょう」

 

「そうだな……いや、しかしそれなら今朝………」

 

ぶつぶつと、自己反省に突入してしまったルドルフを横目に見ながら、私はそっとため息をつく。

 

確かに商工会を呼び込んだのは生徒会であるし、長であるルドルフがそれぞれの出店に顔を見せるのも大事かもしれないが、それにしても彼女は少々気負いすぎているきらいがある。

各々の責任者との顔見せと挨拶自体は昨日のうちに行っているし、エアグルーヴやブライアンもまた顔を覗かせていた筈だ。故にあの店も早々に店じまいとしたのだろうが………どうも彼女は、自らの計画性の至らなさが招いた結果だと恥じているらしい。

 

かさり、と私の抱える大判焼きの詰まった紙袋が音を立てる。

先程サービスとして頂いたものだ。時間が経ち少し冷めかかってしまっているが、彼女は全ての挨拶が終わるまではと手をつけようとしない。

学園デートと口にしたのだから、少しは肩の力を抜いて欲しいものだが。しかしこうなってしまったルドルフは相当に頑固なものだ。

 

生徒会長として、ブライアンやエアグルーヴばかりに任せてはいられないというのが彼女の本心だろう。

せめて今日限りの従者として、私も最後まで付き合ってやろう。

 

「Eの6……ここですね。たしか商店街にあるメンコの専門店でしたか。生徒を対象としているだけあって、まだまだ営業は続けるつもりのようですね」

 

「ここの店主は学園とも関係が深い。私の招致にも真っ先に承諾をくれた人だ。後回しになってしまったのは申し訳なかったな………トレーナー君、行ってくるよ。君はここで待っていてくれるか」

 

「了解致しました。ルドルフ様」

 

私の返事に鷹揚に頷くと、ルドルフはそのままテントの暖簾を潜って中に入っていってしまった。

 

彼女の指示通り、入り口のすぐ側で大判焼きの紙袋を抱えながら待機する。

ここはトレセン学園のちょうど真ん中に位置する中庭。各所に道が続いているため、適当に敷地内を散策していると自然とここへ辿り着く。

いわばターミナルのようなものであり、ここを中心に出店や屋台を展開するのはいい判断だろう。まさに今この瞬間も、大量の人間とウマ娘でごった返している。祭りはまだまだ終わりそうにない。

 

遠くには屋台でたこ焼きを焼いているタマモクロス。あの特徴的な声を限界まで張り上げた呼び込みは、祭りの喧騒の中でもより一層際立って聞こえた。その脇ではオグリキャップが材料の仕込みをしているが、時々耐えきれなくなったのかタコの切れ端をこっそり口に放り込んでいる。

あのままではたこ無しのたこ焼きを作る羽目になりかねない。後で大判焼きを分けてあげよう。

 

その向かいではお面を売っているイナリワンの姿。タマモクロスに負けじと声を張り上げているが、その商品は全て自身のものと同じデザインのキツネばかり。それでもかなり順調に売れているあたり、恐らくイナリワン自身の人気をウリにした戦法なのだろう。

 

さらにその奥では、なにやらウマ娘を膝枕をしているスーパークリーク。どうやら耳掻きをサービスとして売り出している出店らしい。

よく見れば膝枕されているのはシリウスのようだ。私達と同じく、彼女も祭りを見て回ることにしたのだろう。その様子を覗き込んでからかっていたシービーが不意に顔を上げる。私と目が合い、ウインクしながら軽く手を振ってくれた。

 

それに手を振り返していると、さらに向こうの通りを駆け抜けていく生徒会の腕章をつけたウマ娘達の集団が目に映る。

それを先導しているのはエアグルーヴだった。とっさに追いかけようとしたものの、あっという間に人混みの中へと消えていってしまったので諦める。

ブライアンの姿は見えないが、恐らく彼女も午前中は哨戒の任務にあたっていた筈だ。ルドルフの代行として、生徒会の指揮を執っていたのが彼女達だった。

 

そうやってぼんやりと人の流れを目で追っていると、たまにチラチラと複数の視線を感じることがあった。

敵意とか警戒とは異なる、どこか好機に近い視線。無視しなければならない類いのものではないだろうと結論を出し、暇潰しにその発信源を辿ってみる。

 

そう時間もかからず、いくつかある発信源のうちの一つを見つけ出した。

ニットとフレアスカートに、薄手のコートを羽織ったウマ娘。頭にはイナリワンの屋台のお面を斜めに被っている。恐らくここの生徒ではなく、外部からの来訪者だろう。

私と目があった瞬間、どこかいぶかしむような様子で佇んでいた彼女は、意を決した様子でこちらへと近づき声をかけてきた。

 

「あの、もし間違いでしたら失礼ですけど、あのシンボリルドルフさんのトレーナーさん………ですよね?さっきからルドルフさんと一緒に歩いていましたし。その、服装から少し判断がつかなくて………」

 

「はい、その通りです。この服装につきましては、ルドルフからの提案といいますかなんといいますか………まぁ、トレーナーとしての仕事です。たぶん」

 

そう言いながら、私は自分の着ている服に目を落とす。

黒を下地に白いエプロンを重ね、所々にフリルのついた女性用の給仕服………俗にメイド服と呼ばれるもの。

また今度と言った自らの発言をあっさりと翻したルドルフに着せられて、折角だからとそのまま学園中を連れ回されているのだ。

私自身の迂闊な発言が招いた結果ではあるが、そもそも執事喫茶にも関わらずこんなものを彼女が持ち込んでいたあたり、遅かれ早かれこうなる運命だったのだろうと思わなくもない。

 

不幸中の幸いと言うべきか、こんな女装をした私をかのシンボリルドルフのトレーナーだと即座に見破られる場合は少ないのだが、時たま目の前の少女のように目敏い者もいる。

まぁ、すれ違うだけなら兎も角、静止している姿をじっくりと観察されれば無理もないか。

 

「あ、あはは………そうなんですね。でもその、とっても似合っていると思いますよ。可愛いです。ね、みんな?」

 

少女が振り返り、人混みに向かってそう呼び掛けると、なにやらこちらを見ながらざわざわしていた観客が一斉に色めき立った。

最前列では少女とお揃いのお面を被った数人のウマ娘が、目を輝かせながら私にウマホのカメラを向けている。中にはトレセン学園の制服を着ている者もいた。恐らく友人同士連れだって動いていたのだろう。

さらにそれを取り囲むようにして、野次馬達も次々と集まっている。人が人を呼び込んだのか、いつの間にやら結構な規模の集団と化していた。本来こういった人混みを整理する筈の生徒会の生徒すらちらほらと混ざっている。

 

自分で言うのもなんだが、私はそれなりに顔が知られている。かの皇帝のトレーナーというだけで、良くも悪くも衆目を集めることになるのだ。

ましてやそれが、女装して往来を闊歩していたとあれば余計に。間違いなく今夜にでもネットの海にこの痴態が流れるのだろう。

 

「その……トレーナーさん。こう、くるって回ってもらってもいいですか!?スカートがふんわりとなる感じで!!」

 

想像以上の注目を浴びたことで気が大きくなったのか、少女が興奮した様子でそう詰め寄ってくる。

ブンブンと、千切れんばかりにその尻尾が激しく右に左にと振り回される。

 

恥ずかしいのは恥ずかしいが、ここまで来てしまえばもうなにをやったところで同じだ。

そんな半ば投げやりな気持ちで、私は彼女の言う通りにその場でくるりと一回転する。

 

「こ………こうかな」

 

遠心力で広がった裾から空気が入り込み、ふわりと丸いシルエットを浮かべて膨れ上がる。踝まで覆うような丈の長いスカートで助かった。ちなみにこれも、元々シンボリ家で使われていたものだったらしい。

回転が終わり、紙袋を片手に抱えながら手を振って見せると、まるで爆発するかのように群衆から黄色い声が降り注いだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

口を揃えて可愛いだのなんだの言われたところで、あくまで男である私からしてみればあまりパッとこない。まぁ、笑われるよりはずっといいかな。

 

「いい………いいです!!凄い可愛い!!めっちゃ可愛いです!!とにかく可愛い!!」

 

目の前の少女といえば、可愛い可愛いと、壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返しながらさらに激しく尻尾を振り回している。

バタバタと狂ったようにウマ耳を暴れさせたせいで、折角のキツネのお面が額までずり落ちてしまっていた。

その後ろで少女の友人達もまた負けず劣らず取り乱しているのだから手に負えない。祭りで浮き立っているせいで、いとも容易く興奮が伝播するのだろう。

 

あまりにも異常な空気に圧され、思わず一歩後ろに退く。

と、突然なにかに背中がぶつかり、振り返る間もなく肩を掴まれた。

 

 

 

「そうだろうとも。私のトレーナー君はいつだって愛らしいんだ。そして格好いいし頼もしくもある。この皇帝の半身なのだから当然だろう」

 

「ルドルフ……?」

 

最後の挨拶も片付いたのだろう。

 

いつの間にかテントから出てきていたルドルフが、なんとも威風堂々とした立ち姿で群衆を見つめている。

その姿を認めた瞬間、ざわめいていた観客が徐々に静まると、好奇と期待の入り交じった瞳で一斉に私達を見つめてきた。さながらG1のパドックにでも立たされたかのような気分。

流石というかなんというか、ルドルフはそんな熱視線をまるでものともせず、うんうんと幾度か頷くとまるで見せつけるかのようにその口元を歪める。

 

「しかし残念だったな。彼は私のものなんだ。これまでも、これからもずっとね。誰であろうとも……たとえ母親であろうとも、そこに割って入れる余地なんて何処にもない」

 

まるで宣言するかのように、高らかとそんなことをのたまう皇帝。

あたかも演説のようでありながら、彼女の瞳は人だかりを飛び越えてどこか一点だけをしかと睨み付けていた。ゲート入りした直後のような、あるいはそれ以上の殺気が放たれみるみると膨らんで空気を圧迫する。

 

その気迫を察知出来たのは、これ以上なくルドルフに密着していた私と、観客よりも少しだけ私達の方に近かった少女だけだった。

彼女は興奮を醒まし、ウマ耳を垂らしつつ無意識に一歩二歩と、後ずさりながら友人達との合流を試みている。

 

そんな少々の姿には目もくれず、ルドルフはぼそりと低い声で囁きかけてきた。

 

「随分とまぁ、人気者になったものだ。執事の君も良かったが、そのメイド服も中々どうして様になっている」

 

「あ、ありがとう………?」

 

「他ならぬトレーナー君自身の魅力さ。胸を張るがいい」

 

私の肩から手を離したと思った瞬間、もう片方の肩をより強い力で握り締められる。

そのまま空いた手で腰を掴まれ、ぐいっと彼女の体へとたぐり寄せられた。私が観客に背を向けて、ルドルフに正面から抱き締められる格好。

私の肩の上にルドルフが顎を乗せ、そのままこてんと傾げて見せた。群衆は期待どおりの光景にまたもや爆発するような歓声を響かせる。

 

それにかき消されてしまわないよう、ぴとりと私の耳に唇を圧し当ててルドルフがぼそぼそと言葉を紡ぐ。

まるで外界の音を塗り潰すような、凛とした低い声に脳を揺らされた。

 

「………だが、浮気性なのはいただけない。主人のいぬ間に人を誘惑するような悪い従者にはお仕置きが必要だ。そうだろう?」

 

「………………はい、皇帝様」

 

「ふふ、そう………それだ。本当に悪い子だな君は。しっかりと、首輪をつけておくのが主人の義務というものだろう」

 

ふわっとルドルフの髪が私の顔を撫でる。

それに目を瞑った瞬間、勢いよく唇に突き立てられる獅子の牙。

 

 

歓声が、絶叫へと変わった。

 

 

 

 

 

 

「ヒュウッ!!優等生ぶってる癖して中々やるもんだ。このままファックでもすりゃあいよいよ百点満点だな。なぁカフェ?」

 

「………お外でそういう、品のないことは言わないって約束した筈です。聞いた人も嫌な気持ちをしますから………やめて下さい。お母さん」

 

「んだよ、お前まですっかり優等生気取りか?正直に言えよ。『大好きな幼なじみが取られて殺したい程ムカついてます』ってよ。なァ?血に飢えた猟犬―――」

 

 

「黙っていてください!!!」

 

 

一瞬カフェの瞳孔が細まり、殺気すら伴って俺を睨み付けた。が、数秒と経たないうちに元に戻ってしまう。

あの二人の方を見たくないのか、その場で顔を伏せたまま動かなくなった。

 

そんな姿を見て、俺は盛大にため息を漏らしてやる。それでいきり立つようならまだ見込みはあるだろうが、やはりコイツはなんの反応も示さなかった。

 

「素直になれよ。『欲しけりゃ噛みついてでも奪い取れ』がウチの家訓だろうが」

 

「知りません………そんなの。初めて聞きましたし、聞きたくなかったです………」

 

「あるんだなそれが。なのにまぁ、お前らときたらどいつもこいつも肝っ玉の小さい奴らばかりで………」

 

カフェはまぁまだマシな方だが、よっぽどの事態にならんと自分からは動かねぇ。

肩に担いでるこのクソガキは、科学者気取りウマ娘のおもちゃにされてるらしい。もう一人のアホチビは、今まさに担当ウマ娘に噛みつかれてる真っ最中だ。

ちなみにそいつはさっきからずうっと俺の面にガンくれてやがる。ムカつくが、その意気だけは買ってやらんこともない。その爪の垢を煎じてガキ共に飲ませてやりたいぐらいだ。

 

「あーあ。一体どこで育て方を間違えたんだろうな。コイツもあんまり言うこと聞かねぇからちょっと〆てやったらずっと寝てやがる。イブの七面鳥だってもう少し根性あるぜ」

 

「そういうところですよ、お母さん。………反面教師というものです」

 

「んだよ。子は親の背中を見て育つんじゃなかったのか。また秋川のババアに騙されたわ」

 

これ以上はなんの収穫もなさそうなので、俺はさっさと踵を返して中庭を後にする。

この学園から出ていって十年以上経つが、未だに建物の配置は変わっていない。元々東京にバカでかい土地を買っておっ建てた箱庭だ。そうそう模様替えなど出来ないのだろう。

道すがら手頃なベンチを見かけたので、担いでいるガキを放り投げておく。

 

「兄さん!!!!」

 

後ろから追いかけてきていたらしいカフェがすぐさま回収していった。

こういう時ばかり行動が早いのに、どうしていつも後手後手に回るのか。なんて、一言くれてやろうかと振り返った時にはあっという間に彼方へと小さくなってしまっていた。

 

まぁ無理もないか。あの歳なら親の小言なんて耳に入れたくもないだろう。そもそも俺は言われたことすらないので全く分からねぇが。

あれでいて律儀に正月には二人揃って顔を見せるそうなので、今は取り立てて構ってやるつもりもない。

 

 

相手にしなきゃならんのは、後ろから寄ってきているウマ娘の方だ。

 

「………相変わらずですね。久々に顔を覗かせたと思えば、自由気ままに好き勝手やり放題。まぁ、去年よりはだいぶ丸くなったように見受けられますが」

 

「アンタのために大人しくしといてやったんだぜぇミノルちゃん。今年は俺を出禁にするしないで揉めずに済みそうで良かったなァ」

 

「庇ってもらう立場で随分と偉そうですね、貴女は。事前に連絡の一つでも頂ければ、こちらからお出迎えぐらい寄越しますのに」

 

「あの陰気な黒服集団どもか?どうせお目付け役だろ?冗談じゃねェって。………ハハッ、にしても言ってることそっくりだなアンタら。流石血の繋がった親子ってところか?」

 

俺の問い掛けにトキノミノルはなにも答えず、ただ神経質にズレてもいない緑の帽子を整えている。

コイツが"なにか"を誤魔化したい時に無意識に見せる昔ながらの癖だ。その"なにか"が何なのかはとうに分かりきった話だが、それについてわざわざ突っ込んでやるような真似はしない。

 

一人で勝手に悩んでいればいい。進んで手を差し伸べてやるほど俺は優しくはないからな。

自分を救えるのは自分だけだ。それは人間だろうがウマ娘だろうが変わらない。

 

「……………あん?」

 

ブルブルと、俺のウマホに着信が入る。

コートのポケットから取り出して立ち上げると、そこにはメッセンジャーアプリからの着信報告。

ここ最近はとんと見ることもなかった名前が、簡潔なメッセージと共に液晶の中央に陣取っている。そういえば、今日中に返事を寄越せっつったのは俺の方だったな。

 

「………なぁミノルちゃん。ウマ娘と担当トレーナーのベストな正月の過ごし方ってなんだと思う?」

 

「なんですかいきなり?………そうですね、重要な節目ですから新年に向けて二人揃って気持ちを新たにすることが望ましいのではないでしょうか。お互いプライベートでも良好な関係を築けていることが前提ですが」

 

「なるほどねぇ………やっぱ似てんなアンタら。そうさ。だから決して俺の教育が行き届いていなかったわけじゃない。血の繋がりには勝てなかったってだけの話だぜ」

 

「……………………?」

 

わけの分からないという顔をしているトキノミノルを眺めながら、俺は思わず笑みを溢す。

 

欲しけりゃ噛みついてでも奪い取れ。

常に相手の上をとり、イニシアチブをとり続けることが重要なのだ。競技ウマ娘にとってもそうだが、とりわけ人間のトレーナーに不可欠な姿勢である。

でなければデカいパイも手に入らないし、例え手にしたところで食い切れない。俺が競技ウマ娘として、そしてトレーナーとして争う中で見出だしてきた真理のうちの一つだ。

 

ま、アイツには届かなかったようだが。

杖だかなんだか知らないが、せいぜいあのクソガキに好き勝手振り回されて苦労すればいい。もしかしたらその結果、別の真理に辿り着くのかもしれないわけだし。

 

「よく分かりませんけど、拗ねてます?」

 

「ンだよ、別に拗ねてねェよ!!せいぜい担当のご機嫌とって勝手に皆に好かれる偉大なトレーナーにでもなんでもなればいいだろうが」

 

そんな投げやりな考えを頭の隅に焦げ付かせながら、俺はディスプレイのキーボードを叩く。

 

さて、どんな皮肉と嫌味をぶつけてやろうか。とりあえず、ありったけの小言でも送りつけてやろう。

 



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ミスターシービーは飛行機が怖い

当たり前の話だが、中央レースはなにも東京だけで行われるわけではない。

北は北海道から南は福岡まで、日本全国津々浦々におよそ10箇所のレース場が設けられており、各々の日程に合わせて府中から現地入りすることとなる。

 

その移動手段についても様々だ。

交通費に関しては学園側から補助金が貰えるため、基本的に費用の大小よりも担当ウマ娘に合うか否かで選択することになる。

とりわけレース直前のウマ娘は精神的に張り詰めているため、いらぬ負担をかけないように移動一つとっても細心の注意を払うのがトレーナーとしての役目なのだ。

 

とはいうものの、大抵の場合はそこまで悩むようなものでもない。数時間で向かえる程度なら電車や高速バス、あるいは自家用車。それ以外では新幹線やフェリー等を使うのがセオリーとなる。

いくら補助が降りるとはいえ、コンパクトに済ませられるなら済ましたいというのが正直な気持ちというもの。それに使い慣れた移動手段の方が、本番を控えたウマ娘としても緊張せずに済むだろうから。

 

 

もっとも、あまりにも遠く離れた場所だとそうもいかない。

とりわけ北海道ともなると、用いる交通機関は専ら飛行機となる。たとえ、ウマ娘自身がそれを拒絶しようとも。

 

「ねぇ、トレーナー。ねぇって………やっぱり止めない?新幹線で行こうよ。それかフェリーでも」

 

「駄目だ。余りにも遠すぎるし時間もかかる。目的地に着いたらゴールの旅行じゃないんだ。むしろ到着してからがスタートなのに、行きだけで体力を使ってどうする」

 

「うぅ~」

 

イヤイヤと頭を振りながら、必死で私の腕にしがみついてくるのは、私の担当である三冠ウマ娘ミスターシービー。

トレセンを出発してからここ羽田空港に着いた後までずっとこの調子だ。運転中も助手席からひたすら私のスーツの裾を摘まんでいたし、下車して歩き始めてからはタコみたいにしつこく引っ付いてくる。

だからといって引き返すわけにもいかないので、私はズルズルと彼女を引き摺りながらエントランスを進んでいった。

 

シービーがその気になれば私を引き留めることなんて訳ないので、彼女とて本気で抵抗しているけではないのだろう。

現実を受け入れつつも、最低限反抗の意を示さなくては気が済まないといった所だろうか。

 

「ならバスとかさ………ほら、あそこにたくさんバス停あるじゃん。ね、待ってればすぐに来るよ」

 

「来るだろうけど、その中に札幌行きのものは一つもないと思うぞ。それに尚更時間もかかるだろうに」

 

「じゃ、じゃあ駐車場まで戻ろっか。トレーナーの車で札幌まで」

 

「駄目だ。長期休暇の一人旅じゃあるまいし。そもそも君の場合、ようやく爪の具合も良くなった所なのにあんな狭い席に長時間押し込むわけにはいかないだろう。下手したらまた走れなくなるぞ」

 

「そ、それは………そうだけど……でも」

 

その後に続く言葉はなく、シービーはただ力なく項垂れて黙り込んでしまった。

 

菊花賞の後からどうにも彼女は爪の具合が悪かったらしい。少なくとも私のチームへと移籍した時点においては、レースパフォーマンスにかなりの影響が生じる程度にまで達していた。

かなりしつこく根を張っていたその故障も、懸命な治療の甲斐あってようやく寛解へと至ったところ。再びレースに挑むことが出来るのは大変喜ばしいものだが、ここで再度悪化してしまえば元も子もない。

故に今回の遠征では慎重に慎重を期して、移動時間の少ない上に余裕をもって足を伸ばせる飛行機の席を買っていた。それに伴う心理的負荷と衡量した上で、なおこちらの方がマシという判断である。

 

自分の体のことだ。そんなことは他ならぬシービー自身が一番よく理解している筈だ。

それでもこうして駄々をこねるのは、ひとえに彼女の苦手意識によるものである。

 

「ほら、アナウンスもかかっているから……さっさと行くよ。ここ搭乗口から結構離れてるんだから、いつまでもひっつかれていると間に合わないかもしれないでしょ」

 

「!!……つまり、ずっとこうしてひっついたままなら飛行機乗らずにすむってことなの?なんだトレーナー、それならそうと早く言ってくれればいいのに」

 

「そしたらレースにも出走出来ないけどね。ほら、いい加減諦めるんだ。折角の君の復帰試合なんだから」

 

「むぅ~~!!」

 

シービーは、飛行機が苦手だ。

 

正確には飛行機に限らず、地面から浮くもの全般が怖いらしい。パラグライダーは言わずもがな、ロープウェイや遊園地のジェットコースターに観覧車、果ては学園のエレベーターに至るまで。さらに飛行機程ではなくとも、地面ではなく海上を走る船舶もまた苦手としている。

基本なんでもそつなくこなせる彼女において、およそ唯一と言ってもいい弱点がこれだった。

 

その点ルドルフは図太いというかなんというか、飛行機でも狭苦しいバスの席でも涼しい顔で長距離移動に耐えられるので全く手を焼かないのだが。シービーの場合は遠征においても一定の配慮が求められる。

もっとも、逆にルドルフが散々駄々をこねる注射についてはシービーは全く抵抗しないので、別に彼女だけが特別手のかかるウマ娘というわけではないのだけれども。

 

「こっちにはマスコミが張り込んでなくて助かったな。危うく君の情けない姿が週刊紙の三面を飾るところだった」

 

「ふん。別に撮りたきゃ撮らせておけばいいのに。そうすればトレーナーの鬼畜な正体が全国に暴かれたのかもしれないのにね?」

 

「どこが鬼畜だ。どこが」

 

ゲートが見えてきたので、ジャケットから搭乗券を取り出し一枚をシービーに押しつける。のろのろとした動きで彼女はそれを受け取り、何度もじっくりとそれを眺めた後そっとため息をついた。

この飛行機で向かう先は新千歳空港。そこにはスポーツ関係のメディアが顔を揃えて待ち構えているのだろう。府中から乗り込んでくるウマ娘が目的だが、中でもシービーは最大の獲物に違いない。

 

少なくともそこに着くまでには、いつものシービーに戻ってもらわなければならない。

もっともそのために私が出来ることなど、精々隣の席にいてやることぐらいしかないのだが………。

 

 

 

 

「当機はもう間もなく離陸致します。座席の上のランプが点灯している間は席を立たず、しっかりとシートベルトを締めて頂きますようお願い申し上げます」

 

無機質なアナウンスが機内を包み、それと同時に吊り下げられたテレビが一斉に起動する。

流れているのは緊急時の対処方法。天井から酸素マスクが降下するので、それをつけてどうのこうのという説明が流れ続ける。学生時代に修学旅行で初めて搭乗した時から全く変わり映えのしない映像。

今となってはなんの感慨も湧かないものだが。しかし当時はそれを見てやんやと囃し立てたものだ。丁度、隣に座っている彼女のように。

 

「緊急時の対応だって。でもあんな高いところから落ちちゃったらさ、もうマスクがどうのっていうより完全に運だよね」

 

ケロッとした様子で適当なことをのたまう隣のシービー。もう完全に引き返せない所まで来てしまったため、一周回って吹っ切れたらしい。

気持ちとしてはマルゼンスキーの車に乗せられ、シートベルトを締めた直後といったところだろうか。どうせ逃れらぬ現実ならいっそのこと楽しもうという心持ちは大変よく分かる。確実にその後になって後悔するところも含めて。

 

期待と興奮故にはしゃいでいた学生時代の私とは異なり、彼女のそれは無理やり自らを活気づけるためのものだ。

その奮闘を汲み取って、こちらからも気持ちの紛れるような話題を提供してみることにした。

 

「そういえばシービー、君もたしか北海道出身だったな」

 

「そうだよ~。といっても、南の方だからあまりトレーナーには馴染みもない場所だと思うけど」

 

「そうか。なんにしても一度は顔を見せておきたいものだな。折角札幌まで行くんだから、レースのついでに寄ってみるのもいいかもしれない」

 

そう告げた瞬間、シービーが呆れた様子で私の顔を覗き込んできた。

探るような目でこちらをしばらく観察した後、どうやら本気らしいことを悟って信じられないとばかりに首を振る。

 

「………前にもね、アタシが自宅療養していた時のことなんだけど。ルドルフも似たようなこと言っていたよ。結局あの子は数日がかりでこっちまで来てくれたけどね。いずれにしても"ついで"で寄れるような場所じゃないようちは」

 

「あぁ、やっぱり距離が………。でも裏を返せば、時間さえかければ君の実家までは行けるというわけか」

 

「なにトレーナー、そんなにアタシの実家に行きたいの?お父様もお母様も一度会いたいって行ってたから、きっと歓迎してもらえると思うよ。でも、わざわざ数日かけてやるのが実家帰りというのも………他に行きたい所とかない?案内するよ?」

 

「そうだな………やっぱり北海道といえば、ばんえいレースも見ておきたいかな。帯広には空港もあったはずだし」

 

「あるにはあるけど、これまた一大遠征になるね。アタシとしては二回目だから別にいいけど……」

 

「二回目?」

 

「さっき言った、ルドルフが家に来たときもね。同じこと聞いたらやっぱりばんえい見に行きたいって。ホント二人とも似た者同士だね」

 

「ああ~そうか。そういえば、ルドルフもそんな感じのこと言っていた気がする」

 

そうだ、思い出した。

以前二人で地方レースについて議論を交えていた時、参考までに実際のばんえいレースの様子を教えてくれたことがあったんだった。

二人ともお忍びなので、そこまで近くでは観ることが出来なかったらしいが。まぁ、中央の三冠ウマ娘二人が揃って訪れたと分かれば間違いなく大騒動になるので仕方ないだろう。

 

 

「きゃっ!!」

 

そう記憶を漁っていると、不意にシービーが小さく悲鳴を溢した。

ハッとした様子で口元を両手で押さえつけ、横目でこちらを確かめる。聞かれていたと分かった瞬間、頬を赤くして廊下側に顔を背けてしまった。

 

そんな彼女の姿など意にも介さず、ゆっくりと飛行機は滑走路を進んでいく。

空港の建物を正面に捉え、そのまま横を向いて通過し、一度だけ管制塔を視界に納めた後………翼を揺り動かしながら、ついに地面から脚を離した。

そのことを確認して、窓の日除けをしっかりと下ろす。これで、少なくとも私達の席からは外の様子は目に入らない。

 

「ほらシービー。窓からはもうなにも見えないから……こっちを向いた方がいい。その方向だと反対側の窓から空が見えるぞ」

 

「うん、分かった。そうする。ありがと」

 

くるりと反転し、そのまま彼女の淡い青色の瞳がこちらを向いた。水面のせせらぎのように、不規則に細かく揺れてその不安に満ちた内心を露にしている。

 

「そういえば、詳しく聞いたことはなかったな。シービー、どうして君はそこまで飛行機を怖がるんだ?昔事故に遭ったわけでもないんだろう?」

 

そういった、いわゆるトラウマになり得る事故や事件の有無は担当契約時にトレーナーへと伝達がなされるものである。

しかし私の知る限りにおいて、彼女には乗り物に関連した遭難の記録はなかった筈だ。彼女自身が隠している場合であればまた話は別だが。

 

「うん………別に嫌なことがあったわけじゃない。ただ落ち着かないんだ。なんというか、こう、地に足の着いていない感覚が堪らなく怖い」

 

「それは、君がウマ娘だからかな?」

 

「たぶん。足はアタシ達にとって最大の武器だから、それが使えなくなったら本当に怖いんだよ。丸裸で戦場に放り出される気分。なにか起きても、逃げることすら出来ないから………それにほら、トレーナーだって守れないし」

 

「別に、自分の身ぐらい自分で守れるよ……。私だってほら、大人だから」

 

「どうだか。トレーナーは目を離すとすぐどこかに行っちゃいそうだもの」

 

クスクス、とからかうように笑うシービー。しかしその顔色はどうにも優れない。

あくまで彼女の爪次第ではあるが、次からは陸路での移動方法をしっかりと模索しておこう。時間や費用についてもまぁ、学園側に一度話を通せば問題にもなるまい。その程度の発言力は、この数年間でしっかりと獲得しているつもりだった。

 

そっと、彼女の膝からその手をとり、少し強めの力でぎゅうっと握りしめてやる。

人間にとっては少々痛いぐらいの力加減であっても、ウマ娘である彼女にとってはなんでもないようだった。

それでも全くの無関心とはいかないようで、ほんのりと彼女の顔に色が戻っていく。

 

「なら、君のトレーナーがいなくなってしまわないように。しっかりと手を繋いでおいてくれるかな、ミスターシービー?」

 

「……ふふ。うん、もちろん。勝手にどこかに消えちゃうなんて許さないから。アタシ達の足がもう一度土を踏むまで、ずっとこうしておいてあげる」

 

そう笑いながら、シービーもまたその手を力強く握り返す。そのままこてんと、隣に座る私の肩に頭をもたれてきた。

 

ゆっくりとこちらの頭に押し当たる、ミスターシービーのアイデンティティたる白い帽子。

その隙間を縫うようにして、ピシャリと彼女のウマ耳が私の頬を叩いた。



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序章
シンボリルドルフとの出会い


あらかた設定も煮詰まったので本編開始です


 

ミンミンと蝉が煩い真夏の昼下がりのこと。

少しでも風の涼しさを感じようと、僕は廊下を足早に渡っていた。

 

素足で踏むたび、ギシギシと床板が不快な金切り声を立てる。いい加減張り替えたらどうかとも思うのだが、母曰くこの方が防犯上都合が良いらしい。

まぁ、十中八九業者に頼むのが面倒くさいだけだろうが。そもそも偏屈な彼女のことだから、極力他人を住居に上げたくないというのもあるのだろう。

………よくそれで孤児院を運営出来ているものだとつくづく思う。

 

廊下を二度曲がり、ちょっと階段を下れば目的地の襖はもう目の前。大きすぎず小さすぎず、絶妙な力加減で襖をノックする。

襖をノックというのもこれまたよく分からない行為だが、とはいえこの家において重要なルールである。母が昔を過ごした国での習慣らしい。

それなら洋室にすれば良いものを、意地でも和室に構えているあたりやはり偏屈というほかない。

 

「御呼びでしょうか?母さん」

 

ノックの後、すかさず中で待っているであろう相手に声をかける。

 

「………………」

 

「母さん?ただいま参りました」

 

「…………………」

 

黙して反応を伺うも返事が来ない。

耳をそばだてると微かに衣擦れの音が聴こえるあたり、中にいるのは間違いないのだろうが。

まさか暑さで倒れでもしたのだろうか。

 

「あの………母さん?」

 

「………あ"ぁ~……ああ。入れ」

 

「はい。失礼します」

 

襖越しにようやく許しを得られたので、断りを入れると共に襖を開く。

丁寧に襖を閉め、振り返るとそこには肌着の裾を摘まんで扇ぎながら立て膝をつくウマ娘の姿があった。

半開きになった口からだらんと舌をはみ出させ、金色の瞳だけをギョロりとこちらの方へ向けている。

 

「今日はいつにも増してお疲れの様子ですね」

 

「………おい。どうしてこの国の夏はこんなに湿気てんだ?それに今年は冷夏の筈だろうが」

 

「そんなこと言われましても」

 

とうとう膝すら崩してしまい、その視線も宙に浮いてしまった。

海を渡って少なくとも十年は経つのだから、いい加減こちらの気候にも慣れて欲しいものだが。もっとも毎年のことなので、僕は別に今更気も遣わない。

 

「エアコンでもつけたらいかがでしょうか。この部屋だけならそこまで冷房代もかさみませんし」

 

「いい。こんぐらいなら薄着でまだ耐えられる」

 

扇ぐ隙間からチラチラと素肌が覗くが、同時に刺青も見え隠れするため扇情感よりも先に物騒さが際立っている。

矮躯に似合わぬ威圧感と、無駄に凝った部屋の造りのせいでその姿は未亡人というより極道のそれに近い。

 

「いつもはケチケチしてる癖に、こういう時はやけに気前がいいよなお前」

 

「また素っ裸で歩き回られても困りますからね。カフェや兄さんの前ならともかく、僕の前でもお構い無しですし」

 

マンハッタンカフェとその兄は共に目の前のウマ娘の実子であるが、しかし僕はそうではなかった。

あくまで彼女の手掛ける孤児院に厄介となっている子供の一人だ。そのわりに家計簿を任せられたりと、かなり深い付き合いとなってはいるが。

 

「まぁ、ウチの大蔵省のお許しが下りたからには我慢することもねェか」

 

母は脇に放ってあったリモコンで冷房を入れると、直にぶつかる冷気に心地良さそうに目蓋を閉じる。

そのままお互い黙って向き合っていたが、しばらくして彼女はブルブルッと身を震わせた。

 

「やっぱこの風は好かねぇ。骨に突き刺さる感じがして気持ちわりぃんだよな」

 

「あれも嫌だこれも嫌だと我が儘な人ですね貴女は。外の暑さよりずっとマシじゃないですか」

 

「まぁ、そのクソ暑いお外に今から出る羽目になるんだがな。お前が」

 

よっこらせ、と口に出しつつ母は立ち上がり、部屋の隅にある小棚の中をガサゴソと漁り出す。

やがてあったあったと小さく呟きながら、大きな茶封筒をこちらに投げて寄越した。

 

「お前、ちょっとお遣いに行ってきてくれ」

 

封筒を開けると、そこにはクリアファイルに閉じられた十枚程度の書類。

びっしりと数字が書き込まれており、所々に母のサインが並んでいる。どれも僕が普段扱っている家計簿とは大きく桁の違うものだった。

 

「どうしてこんなものを僕に?どう見ても業務用ですよね」

 

「あぁ。今からちゃんと説明してやるから黙って聞け」

 

封筒の入っていた棚とは別の棚をしばらく漁ったあと、それを乱暴に足で閉めてこちらに戻ってくる。

その両手にはウィスキーの瓶とキャロットキャンディーの箱詰めが握られていた。

 

どっかりと座布団に胡座をかき、キャンディーを一つ取り出して包み紙を剥がす。

そのまま口の中に放り込みバリバリと噛み砕くと、ストレートのウィスキーで喉の奥へと流し込んだ。

そうして口元を拭った後、ようやくこちらを向いて口を開く。

 

「お前、シンボリって名前の一族があんの知ってるか?」

 

「ええ。といっても聞いたことはあるという程度ですが」

 

とりわけ競技レースの世界においては名の知れた名家だったと記憶している。

もっとも僕のような人間とはおよそ最も縁の遠い存在であるため、直接的な関わりなどは一切なかった。

 

「シンボリはウチの出資者だ。といってもウチだけじゃなくて、他の孤児院やら養護施設やらにも金を出しているがな」

 

「慈善事業というわけですか」

 

いくら彼女がやり手とはいえ、流石にレース教室一つで孤児院を運営していくのは難しい。

その活動資金の出所は専ら行政や篤志家、それからこういった富裕層からの援助によるものだ。

 

「つってもアイツらだってバカじゃねぇ。いくら金をもて余しているとはいえ、その使い道は選ぶ。そうやって年一で決算上げねぇと打ち切られるんだわ」

 

「といっても大体仕上がっているように見えますが。あとはこれを提出するだけでは?」

 

「それと最後の詰めだな。その交渉、お前がやってこい」

 

キャロットキャンディーをカラカラと舌で転がしながら、母は瓶の口でこちらを指し示してくる。

あまりにも気の抜けたその姿は、どこからどう見ても我が子にスーパーへの買い出しを命じるがごとき気安さだった。

 

「いやいや、無理ですって!!」

 

「問題ねェ。契約更新の話自体は既にまとまってる。あとは向こうの代表とちょっくらお喋りしてサインなりハンコなりを貰うだけだ」

 

「なら貴女が自分で行けばいいじゃないですか。こちらの代表でしょう?」

 

「アイツら話長ェんだよ。ちょいとサインすりゃそれで終わんのに、何時間も説教くれやがる。だがまぁガキ相手ならそうはならんだろ」

 

苦々しい記憶を思い出したように顔をしかめ、二個目のキャンディーもバリンと噛み砕く。

それもウィスキーで流し込んだ後、苦しそうにもう一度顔をしかめて見せてきた。

 

「カフェは、あー………クラブの強化遠征だったか。アイツはダチとツルんで勉強会だな。残ったのはお前だけなんだよ」

 

「だからって、あまりにも突然すぎます」

 

「ま、安心しろ。向こうだって厳つい大人ばかりじゃねェ……ちゃんとガキもいるさ。お前よりちょいとばかし小さいがな」

 

母は短パンのポケットからヨレヨレの写真を取り出して飛ばしてきた。

なんとかキャッチすると、そこには幼いウマ娘の少女が写っている。

 

「この子は?」

 

「シンボリ……なんだったか、たしかルドルフとかいう名前だったな。連中の秘蔵っ子らしいぜ。このサンデーサイレンス様に向かって世界を取れる器だとかなんとかぬかしやがった」

 

前髪に流れる一筋の流星が、二色の鹿毛によく映えている。

明るい碧のイヤーアクセサリーを右耳に下げ、椅子に深く腰掛けながら澄まし顔でこちらを見据えていた。

なんとも大人しそうな、十に満たない齢とは到底思えない気品溢れる姿。深窓の令嬢という言葉がぴったりくる。

なるほど母の言うとおり、かの家で相当大切にされているらしい。

 

「なんだ。穴が開きそうなほど見つめて。そんなにそのガキのことが気になるか?まさか惚れたか」

 

「とんでもない。到底僕なんかが釣り合う相手じゃないでしょうに」

 

名門の令嬢ともなれば、直接付き合える人物そのものが限られてくるだろう。

シンボリルドルフとやらがこの先どんなバ生を送るにせよ、それは僕とは一切関わりのない世界であるに違いない。

 

「まぁ、向こうに行けば実際に顔を合わせる機会もあるかもな。せめて顔と名前ぐらいは覚えといても損はないぜ」

 

「結構です。どうせ一晩経てば忘れますよ」

 

僕の仕事はあくまでシンボリ家の代表者との交渉だ。具体的になにをやるのかは知らないが、その場にシンボリルドルフが現れることもあるまい。

名家の子息令嬢同士の顔見せ交流というわけでもなく、ましてや向こうがこちらに顔を売る必要もないのだから。

 

「用件というのはこれだけですか」

 

書類をクリアファイルに入れて封筒に戻し、脇に抱えて立ち上がる。

写真の方は迷ったが、一応皺を伸ばしてポケットに入れておいた。

 

「お、やる気になったか。感心感心。流石この俺が見込んだだけのことはある」

 

「違います。僕は諦めただけですし、貴女は押し付けただけでしょう。それに昼間からお酒に溺れるような人に任せてはおけませんから」

 

「言うねぇ」

 

ウィスキーの瓶底で畳を叩きながらケラケラと笑う母を尻目に襖に向かう。

引出に指を掛けたところで、ふと大事なことをまだ聞いていないことに気がついた。

 

「そういえば、交渉はこちらから相手方に出向くんですよね?場所はどこですか?それから日時も。流石に明日明後日だとまだ心の準備が……」

 

「場所についちゃ問題ねェ。あっちが迎えを寄越してくれてる。そんで日時についてだが……今すぐに、だそうだ」

 

「へ?」

 

パンパンと母が手を打つと、目の前の襖が勢いよく開いた。

その向こうにいたのは、天井にまで頭の届きそうな恐ろしく背の高いウマ娘。上背だけでなく、ぴっちりと着込んだスーツの上から強靭に盛り上がった筋肉も見てとれる。

競争バである母とは違う、ばんバと呼ばれる種類のウマ娘だった。それが三人も詰めかけている。

 

こちらの頭など彼女達の胸にも届かない大きさ。

その体格からくる圧倒的な膂力に抗う術もなく、まるでボールでも拾うかのようにあっさりと抱き抱えられてしまう。

 

「おう、そいつが俺の名代だ。くれぐれも丁重に扱えよ」

 

「かしこまりました、サンデーサイレンス様。当家との契約更新にあたって、当事者として最後に確認しておきたいことでもございましたら……」

 

「ないな。ルナの奴と………それからあの"皇帝"サマにでもよろしく伝えといてくれ」

 

頭越しに繰り広げられる大人同士の会話。

当事者の一人であるにも関わらず、僕はそこに加わることすら出来ない。

さらに一言二言交わした後、ばんバ達はこちらを抱えたまま礼と共に部屋から下がり襖を閉めた。

 

「さ、屋敷へご案内します。奥様もきっと喜ばれますよ」

 

「…………はい」

 

 

代理でこんな子供を寄越されて、一体誰が喜ぶというのだろう。

そんな当たり前の疑問にすら答えは貰えず、僕は引きづられていく。

 

 

 



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ネゴシエーター

 

あのまま送迎車へと乗せられ、道路を飛ばすこと数時間。

郊外に佇む大きな屋敷に僕は辿り着いていた。表札の類いこそ見当たらないが、シンボリ家の本邸であるに違いない。

 

「さ、どうぞ邸内へ。手をお貸ししましょうか?」

 

「いえ、結構です。どうもありがとう」

 

道中脇を固めていたばんバ達に先導されながら、門を抜けて庭の中を進んでいく。

広大な庭はよく手入れこそされているものの、あまり目立つような装飾品は置かれていない。といっても虚しさやみずぼらしさとは程遠く、むしろ心地よい解放感をこちらに伝えてくる。

 

さらに玄関を抜けて屋敷の中へと進み、そのまま応接室へと案内された。

扉をくぐると目の前には上等な家具や美術品で設えられた一室が広がっている。

 

「奥様をお呼び致します。こちらで腰掛けたままお待ち下さい」

 

「分かりました」

 

促されるまま中央のソファへと腰掛け、封筒を大理石のテーブルの上に置く。

目の前に出された紅茶に口をつける気にはなれず、車中で着替えさせられた慣れないスーツとネクタイの窮屈さに顔を眉をひそめる。

 

ばんバ達が部屋を出てから数分後、再び応接室の扉が開いた。

 

「お待たせ致しました。当家代表のスイートルナです。わざわざ遠方からご足労頂けたことお礼申し上げます」

 

「ええ、こちらこそ」

 

入ってきたのは妙齢のウマ娘。豊かな鹿毛を背中に流し、きっちりとスーツを着こなしている。

およそ母とは対極に位置する人物だというのが第一印象だった。なるほど確かに、これは彼女とウマが合わないのも至極当然といったところか。

 

「して、サンデーサイレンス殿はどちらに?」

 

「サンデーサイレンスは連日の猛暑により体調を崩しておりまして。なので私が代理として参上したという次第であります」

 

まさか説教が厭わしいから名代を遣わしたなどと言えるはずもない。

 

「………迎えにあたらせた者曰く、極めて壮健な様子で声を荒げていたそうですが」

 

「口から産まれたようなウマ娘なもので。夏風邪程度で大人しくなるような可愛げもございません」

 

「そうでしょうとも。次に顔を合わせた際には覚悟しておくよう忘れず伝えておいて下さるかしら?」

 

「承りました」

 

僕の任務はあくまで書類にサインを貰うことまでだ。その後の説教の回避までは命じられていないのでこれで良いのだろう。

 

幾らか世間話を交わしたあと、気を見計らって茶封筒を手渡す。

彼女はそれを受け取り、中身を取り出して項目を改めつつ、ぼそりと不服を口にする。

 

「本当なら今日だけは彼女に足を運んで頂きたかったのですけどね。本当に、間の悪いというかなんというか………」

 

「申し訳ございません」

 

「いえ。貴女に言った所で仕方ありません。お気になさらず」

 

そのまま彼女は口をつぐんでしまった。

ここまできたら僕に出来ることは全くないので、大人しくしたまま部屋のそこかしこに目を泳がす。

 

程なくして、扉の脇に控えていた黒服のウマ娘と目があった。

彼女は僅かに微笑み会釈をくれた後、また直立不動の体勢へと戻る。一瞬見間違えかけたが、このウマ娘もばんバと同じく競争バとはまた別の種類だ。

 

(いつの間に…………)

 

スイートルナが入室した際には気づかなかった。見落としていただけか、それとも気配を殺して入ってきたのか。

 

僅かに首をひねり、視界の端でこちらの後方を伺う。

そちらにも同じように、黒服を着こなしたウマ娘が数人立ち尽くしていた。いずれもやはり競争バではない。

 

「気になりますか?」

 

きょときょとと周囲を窺う僕の姿を見かねたのか、スイートルナが書類から目を上げてこちらを覗きこんでくる。

 

……しまった。流石に露骨すぎたか。

これだけの家の重鎮が顔を見せるともなれば、護衛の幾らかが同席するのも当たり前の話だろう。

 

「出来る限り目に入らないよう配慮したつもりですが。もし気に障るようでしたら下がらせましょう」

 

「いえ、そういう意味で見ていたわけでは。ただ、珍しいと言いますか………軍バというものを初めて目にしたもので」

 

競争バとばんバの中間に位置する体躯。

頑強かつスタミナに恵まれており、死や怪我に対する本能的な恐怖の制御に長け、なおかつ痛みと爆音に強い耐性を持つウマ娘。

 

その名の通り軍隊や警察において歓迎される種族だが、不思議と近年ではめっきり数を減らしていた。

それを何人も保有しているあたりこの家の勢力も随分なものだが、問題はそこではない。

恐らく相応の訓練を積んでいるであろう、戦闘に特化した軍バが複数控えているこの状況そのものがあまりにも不穏だった。

 

「遠目に一瞬見ただけで彼女達の種族を看破するとは。ウマ娘についてよく勉強しておられるようで」

 

ほぅと感心したように一つ嘆息すると、スイートルナは何度もうなずいて見せた。

 

「ありがとうございます。幼い頃から職業としてのトレーナーに関心があるもので」

 

「トレーナー………と言われても私にはサンデーサイレンスの印象しかありませんが。あの人もまぁ、かつては中央で随分腕を鳴らしたものですからね」

 

そう口では称賛するものの、彼女の顔は苦虫を噛み潰したかのように歪んでいる。

英雄の理想と現実といったところだろう。同じく一度はサンデーサイレンスというウマ娘に憧憬を見出だした者として頷ける。

 

「………やはり、母が原因でしょうか。その、彼女が万が一にでも錯乱した場合に備えてということでは」

 

家での会話が本当だとすれば、彼女は少なくとも一度はこの部屋で長々とした説教を貰った経験があるということだ。

そして僕の知る限り間違いなく、サンデーサイレンスは言われたまま黙っていられるようなウマ娘ではない。

 

しかしその予想は外れたようで、スイートルナは僕の言葉に首を振って否定した。

 

「いえ、そうではないのです。確かに彼女は凶暴ですが、しかし時と場所を選べる程度には狡猾さも兼ね備えています」

 

「そうでしょうか」

 

「そうですとも。それに彼女の暴走に備えて講じた対策であるとするならば、貴女一人と分かった時点で下がらせておく筈です」

 

「それは………その通りですね。しかしだとすれば何故、あの方達を控えさせているのでしょう?」

 

「貴女から私を守るためじゃない。むしろ貴女自身を守るためです。万が一、外から誰かが乱入してきた場合に備えて」

 

「…………その、誰かというのは?」

 

スイートルナはその問い掛けになにも返さず、書類をテーブルに放ってこちらへと身を乗り出してきた。

 

「ところで貴女、この度のサンデーサイレンスの代理として遣わされた件についてはどのようにお考えでしょうか?」

 

「どのように、と言いますと?」

 

「率直に言って、彼女に怒りを抱いていないのかということです。聞くところによれば、ほんの直前になってこの仕事を命じられたとか。私の目から見ても横暴というほかありません。激昂して然るべきでは?」

 

睨むような彼女のアメジストの瞳からは、どこか切迫詰まっているようにも感じられる。

こちらを慮っているというわけでもなく、純粋に答えを求めているようだ。

 

「特には。腑に落ちない所もありますけれど、怒りという程のものはありません。母がそういう無茶をする人物であることなど十も承知ですから。それに………」

 

「それに?」

 

「………貴家からのご支援は、私の生活にも直結する事柄なので。自分の食い扶持は自分で稼ぐのが道理ですから」

 

僕がそう告げると、スイートルナは少し悲しそうな顔をした。

ゆっくりとソファに戻り、手持ち無沙汰に万年筆をくるくると回して見せる。

 

「随分とまぁ、殊勝な心がけですね。言葉遣い然り、佇まい然り、この国においてその齢で同じ事を出来る者は少ないでしょう」

 

「ありがとうございます」

 

「………とはいえ、けして喜ばしい事でもありませんが。貴女には本来まだ子供でいられる権利がある筈です。そして大人には、それを支える義務がある。我が子が不自由なく、のびのびと、健やかに成長出来るように」

 

どこか詰るような口調でそう彼女は呟く。

話の流れからすれば、それは僕の育ての親たるサンデーサイレンスに向けられたものだろう。

………しかしそう捉えるには、どこか引っ掛かるものがあった。

 

そんなもの、黙って心の片隅に仕舞っておけばよかったものを。それでも僕はどうしても、その違和感を口に出さずにはいられなかった。

それはたんなる好奇心ゆえか。あるいは頭のどこかで、母親を貶められた怒りがあったのかもしれない。

それとも………自らが可哀想な存在と見なされた不甲斐なさか。

 

「お言葉ですが申し上げます」

 

「いいですよ。言ってみなさい」

 

「先の言葉、本当は貴女自身(・・・・)に向けられたものではないのでしょうか」

 

その言葉を聞いた瞬間、彼女は不意を突かれた様子で口を閉じる。そのまま目を瞑って腕を組んだ。

 

そこに至ってようやく、僕も自分の言葉が行きすぎていることに気がついた。

そんなこと年上の、それも初対面の相手に向かって指摘するようなものではない。ともすれば挑発とすら受け止められかねないものだ。

 

「申し訳ございません!!先程の発言は撤回を―――」

 

「する必要はないわ。事実だもの」

 

しかしスイートルナは怒りもせず、崩れるようにテーブルへと突っ伏してしまった。

そのまま絞り出すような呻き声を低く漏らした後、僅かに顔を上げて上目遣いにこちらを見上げる。

 

「………私にもね、娘がいるのよ。でも貴女とは全然違うわ。ウマ娘で、年は十にならないぐらい。親に反抗的で、お遣いどころか夏休みが始まって以来部屋からも出てこないわ」

 

「あまり活発ではない子供だと」

 

「まさか。それはもう元気はあり余るぐらい。元気がありすぎて、見知らぬ人間が屋敷にきたらついうっかり(・・・・)噛みついてしまうかも」

 

「ひょっとして、私を襲うかもしれない誰かというのは」

 

「…………………………」

 

スイートルナはなにも答えない。しかしその沈黙こそが、なによりも雄弁に僕の推察を肯定していた。

 

「………本当に走るのが好きな子で、いつもは上の兄姉に面倒を見てもらっていたのだけど。あの子達が家を空けてからずっとその様子。他に付き合ってあげられる子は誰一人いない………」

 

「走るのが好き………ひょっとしてシンボリルドルフさんのことでしょうか?」

 

「あら、知ってるの?」

 

「ええ、顔と名前だけは」

 

ポケットからあの写真を取り出し、目の前に突っ伏すスイートルナに手渡す。

彼女はそれを数秒眺めたあと、ペタンとテーブルの端に伏せてしまった。

 

「この写真はどこから?」

 

「母からです。もしかしたらこちらで顔を合わせる機会があるかもしれないから、覚えておいて損はないと」

 

「へぇ………サイレンスが」

 

のっそりと上半身を起こし、一転して含み笑いを見せてくる。

嫌な予感がして思わず腰を浮かしかけた瞬間、恐ろしい速さで両肩を掴まれ無理やり座らされた。

 

「ねぇ、貴女。一つお願いがあるのだけれど」

 

「シンボリルドルフの脱引きこもりのお手伝いならお断りですよ」

 

「あら、話が早いわね。それじゃあ早速部屋に案内させてもらうわ。頑張って交渉して頂戴な」

 

「だからやりませんって………」

 

「本当に?」

 

「本当です」

 

「本当の本当に?」

 

「本当の本当です」

 

「本当の本当の本当に?」

 

「………本当の本当の本当です」

 

「本当の本当の本当の本当…………」

 

「しつこいですよ!!やりませんったら!!」

 

どうにか振りほどくと、スイートルナは渋々といった様子で元の場所へと戻る。

諦めたかと思いきや、手にした万年筆でコツコツと書類を叩いて見せた。

 

………そういえば、僕の交渉の任務はまだ終わっていない。

 

「………ズルいですよ」

 

「たぶん貴女が思っている程危険なものでもないわよ。扉の外からお話してくれるだけでもいいの」

 

「そんなので向こうは出てきますかね」

 

「やらないよりはマシよ。年の近い女の子同士でウマが合うかもしれない。勿論タダでとは言わないわ。成功か失敗かに関わらず、一時間あたり10本でどうかしら?」

 

「それだけですか?」

 

「………貴女があの子の相手をしてくれている限り、そちらの施設への援助も無条件で更新しましょう。場合によっては増額も」

 

はっきり言って無茶苦茶な提案。

援助を受ける立場のこちらから吹っ掛けるという有り得べからざる交渉。あまりにも得られる利益が大きすぎる。

 

「……分かりました。その条件で引き受けましょう」

 

「ありがとう!!助かるわ!!」

 

そして、だからこそ興味が湧いた。

実の母親を、ひいてはシンボリ家そのものをここまで動かすシンボリルドルフというウマ娘は一体何者なのか。

いくら秘蔵っ子とはいえ、あまりにも周囲に与える影響が大きすぎる。そういった人物は大抵、その内面も平凡ではない。

 

恐らく、僕の今後の人生でも二人と出会わないような人物だろう。記念に一言二言交わしておくのも悪くないのではないだろうか。

 

「ただその前に一つ、訂正と確認しておきたいことがあるのですが」

 

「あら、なんでしょう」

 

「私は………僕は女性ではなく男性です。それでも構わないのですね?」

 

「えっ」

 

ぎょっとしたように息を飲んだ後、彼女は少しの間だけ僕を観察する。

顔を見て、胸を見て、下腹部を見て、最後にもう一度顔を眺めた後、ごめんなさいと一言呟いて書類にサインをした。

 

「勿論、構わないわ。あの子の友達になれるのなら男でも女でも関係ない。………ただ、股間はしっかりと守っておきなさい」

 

「どうして?」

 

「食い千切られちゃうかもしれないから」

 

「ひぇ………」

 

 

………本当に大丈夫だろうか?

 

 

 



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天の岩戸

 

応接室を出て、シンボリルドルフの籠る部屋へと向かう。

廊下を次々と曲がりながら、ひたすら階段を下へ下へと降りていった。

 

「屋敷が広すぎるのもそれはそれで困り者でして。中々スムーズに目的地へ辿り着くことが出来ないのです」

 

先導していた青鹿毛の軍バがこちらを振り返り、少し困ったように眉を下げてみせる。

先程扉の脇に控えていたウマ娘だが、どうやらこの家における警備隊の隊長らしい。タイトなスーツから零れ落ちた尻尾が、ゆったりとした動きで揺れている。

 

「私としては新鮮で楽しいものですけどね。我が家も中々の大きさですがここにはとても及ばない」

 

「そう言っていられるのも今のうちですよ。明後日にもなればほとほとうんざりしますから」

 

「まるで私が明後日になってもここにいるような口振りですね」

 

「少なくとも奥様はそうお考えでいらっしゃいますよ?」

 

ひょいと片耳を上げ、今度は落ち着かなさげに尻尾を揺らす。

淡く輝く琥珀色の瞳が不思議そうに僕の顔を窺ってきた。

 

「引き受けたからにはちゃんとやりますけどね。とはいえ相手を部屋から引っ張り出した後のことまでは知りません。私はさっさと帰らせてもらいますから」

 

「その引っ張り出すこと自体が大変困難なのです。これまでも当家の多くの者が挑み、そして敗れてきた」

 

大きくため息をつき、隊長は肩をすぼめてしまう。

すっかり気落ちした様子を見るに、彼女もまたその一員であるに違いない。

 

「それをどう攻略するので?なにか策でもあるのでしょうか?」

 

「そんな大それたものはありませんけどね。思うに、彼女は親しい者のいない孤独感で閉じ籠っているのです。外に居場所を用意してあげればいい」

 

「そんなことが貴方に出来ると?」

 

一階の廊下を突き進み、両開きの扉を潜る。

その先には、地下深くへと長い階段が続いていた。

吊るされたカンテラの灯りだけを頼りに、つまづかないよう慎重にそれを降っていく。

 

「出来るかどうかなんて現段階で分かるはずもありません。とにもかくにもまずは話をしてみないと」

 

「お嬢様が素直に応じて下されば良いのですけれど。気紛れな方ですから、私ですら行動が読めないのです」

 

「こんな地面深くに部屋を構えているのも、その気紛れ故ということでしょうか。この規模の屋敷なら、他にいくらでも部屋はあるのでは?」

 

一階の入り口からもかなり距離があり、しばらく階段を降りたところでようやくその扉が見えてきた。

 

地下というだけあってやはり薄暗く、隠しきれない圧迫感が身を包む。

いくら広さがあるといっても、好き好んで私生活の拠点にしようとは思えない。

 

「上層階ではどうしても人の往来がありますからね。誰かと顔を合わせるのを嫌ったのでしょう。人嫌いな側面があるものですから」

 

「難儀なものですね」

 

「昔お辛い経験をなされたようで。本来のお嬢様はとても聡明で快活。決して我儘というわけではないのです……着きましたよ」

 

長い道のりを踏破した先には、広々としたロビーとそれに面した一つの扉。

お嬢様の私室というわりには優雅さに欠けるというか、なんの変哲もない木製の扉だった。

 

「この先にシンボリルドルフがいると?」

 

「ええ、間違いなく。もしお嬢様が部屋を出られた場合、センサーが反応して全隊員に発報されるプロトコルなので」

 

「猛獣かなにかですか彼女は」

 

とりあえず、シンボリルドルフと言葉を交わさなくてはならない。

試しに扉を軽くノックしてみるものの、思っていた通りなんの反応も返ってはこなかった。

諦めずもう一度拳を振り抜くと、横から隊長に手首を掴まれて制止される。そのまま彼女は諦めたように首を振ってみせた。

 

「無駄です。この一週間、こちらからお伺いを立てて出てきて頂けた試しはありません」

 

「ではどういう場合に出てくるのでしょう」

 

「彼女の兄姉が訪れた時ぐらいです。少なくとも学校が始まるまでの間は、ずっとここに籠るおつもりでしょう」

 

「なら風呂やトイレはどうしているのですか?まさかほったらかし出しっぱなしというわけでもないでしょうに」

 

「ご心配なく。全てこの部屋の中に揃っています」

 

「ホテルかなにかですか。……なんにしても、それでは扉越しに話も出来ませんね」

 

とりあえずノックはやめて、扉の様子を観察してみる。

部屋の扉というよりも玄関の構造に近い。覗き穴と内外を繋ぐ受け取り口まであった。

ただしそれは郵便受けとは異なり、床すれすれの低い場所に開いている。

 

「これは?」

 

「 食事の差し渡し口です」

 

「これじゃホテルというより刑務所の独房ですね。ですがそれなら話は早いでしょう。食事を差し入れなければ良い」

 

ウマ娘といえど霞を食って生きているわけではない。

元々生命維持のために莫大なエネルギーを必要とする生き物だ。そう時間も経たないうちに干上がって出てくるだろう。兵糧攻めは攻城の基本だ。

 

「明日にでもなれば、音を上げて向こうから出てきますよ。ライフラインを握っているのはこっちです」

 

「……それは以前にも試しました。しかし結局功を奏しなかったのです。三日目で奥様の方が音を上げました。このままでは死んでしまうと」

 

「ハンストですか。一応確認しておきますが、彼女まだ十歳ですよね?」

 

「いえ九歳です。あと半年もすれば十歳ですが。もっともお嬢様の場合、年齢などなんのあてにもなりまんけどね」

 

「ホント厄介ですね」

 

仕方ないので、予め用意しておいた発煙筒とズタ袋を取り出す。

袋の方を隊長に押しつけ、差し渡し口の幅と発煙筒の口径を見比べる。幸い問題なく入りそうだ。

 

「ちょっと待ってください。お嬢様を燻製にするおつもりですか」

 

「ウチから金借りたままトンズラこいて居留守使う連中は全員これで出てきました。逃げ出してきたところをその袋で捕獲するのです」

 

「可愛い顔して随分おっかないことをしますね貴方。そんなことする人、前職でもそうそう見かけませんでしたよ」

 

「以前はどこにいらっしゃったので?」

 

「警視庁騎動隊です。成り行きでこちらに引き抜かれましたが」

 

「なら、逃げる相手を取り押さえるのはお手のものでしょう。お手並み拝見といきましょうか」

 

「いや、やりませんからね?」

 

隊長はこちらにズタ袋を投げ返す。ついでに発煙筒まで取り上げられてしまった。

そのまま真ん中でへし折って使い物にならなくされてしまう。

 

「もう、さっきから否定しかしてないじゃないですか貴女。そっちもなにか案を出して下さいよ」

 

「そ、そんなこと言われましても……私もあまりこういった経験も知識もなくて」

 

「脱引きこもりの知識ってなんですか。神話にあやかって扉の前で裸躍りでもするんですか」

 

「貴方がやってくれるなら私は見たいですね。……あっでも、そういえば小学校の時、学校に来れない子をクラスの皆で励まそうって先生がやってたのは記憶にあります。皆で色紙を書いて送るんですよ。……結局その子は来ませんでしたけど」

 

「そりゃそうでしょう。それ送られた側の被るダメージ考えたことあります?」

 

とりあえず彼女も僕も全くアテにならないらしい。

いよいよ後もなくなってきたので、ズボンのベルトに挿していたバールを引き抜いて扉とドア枠の隙間に宛がう。

 

「こうなれば最後の手段です。破壊して突入しましょう」

 

「だから一々物騒なんですって貴方は。そんなことをしてただでさえ人間不信気味のお嬢様が怯えてしまわれたらどうするんですか」

 

「そんなタマじゃないでしょうシンボリルドルフは」

 

「いくら大人びているとはいえまだ九歳ですし、そもそも名門シンボリ家の箱入り娘ですよ。もしその身になにかあったら文字通り我々の首が飛びます」

 

「そんなに不安ならいっそ貴女がやって下さいよ。元警官でしょう?」

 

「警察をいったいなんだと思ってるんですか貴方………ッ!!」

 

そう言い争っていると、不意に隊長の動きが固まる。

ピンッとウマ耳が同時に天を突き、直後に扉の方を向いた。ややあってその琥珀の瞳もまた木製の扉の、さらにその向こうを探るかのように凝視する。

 

「隊長?」

 

恐る恐る声をかけるも、人差し指を唇にあてて声を出さないように指示される。

そのままジェスチャーで離れていろと命令された。極力扉を隔てた少女を刺激しないようにとの判断だろう。

 

僕とは反対に彼女は扉へと近づき、覗き穴を塞ぐように立ちはだかった。

 

「………誰?ルナの部屋の前でなにしてるの」

 

僕でも隊長でもない、第三者の声が耳に届く。

扉の向こうから投げかけられたそれは、想像していたよりずっと穏やかで優しいものだった。

 

「おはようございますルドルフお嬢様。その、お体に変わりはございませんか?」

 

「別に。心配することはなにもないよカストル。それに、ルナが話しかけたのはお前じゃない」

 

ドン、と扉が内側から強く叩かれる。

 

感情の発露というわけでもない、ただこちら側の注意を引くためだけの行為。

にもかかわらず、その衝撃はまるで威圧するかのように僕達の足をその場に縫い止めた。

 

「聞こえてたから。そこのお前………誰?ルナの部屋の前でこそこそと、一体なにを企んでいる?」

 

最初に感じた穏やかさはそのままに。

しかし確かな棘を孕んだシンボリルドルフの声は、まるで獣の唸り声のようにも聞こえた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

『ウォーミングダウン終了です。これで全てのメニューが達成されました』

 

ピーッという機械音と共に、ランニングマシンが徐々に減速して停止する。

画面に映し出されたタイムと心拍数の平均、消費カロリー等とノルマを見比べた後、いつも通り日記帳の今日のページに詳細に記録した。

 

日記帳とペンを床に放ると、マシンから降りてタオルで汗を拭う。

冷蔵庫に水でも取りにいこうか。いや、まだそこまで体力も消耗してないからやめておこう。

大量に消費して、また外から差し入れてもらうのも癪だ。

 

代わりに部屋の扉へと向かい、その脇にあるパネルを操作する。

空調の温度を一気に下げると、途端に冷たい風が部屋を満たした。おかげであっという間に全身の汗が引いていく。

地下室なだけあって、夏場でもそこまで暑くならないのがこの部屋の良いところだ。今頃地上はきっと夏の炎天下で蒸しかえっているのだろう。

生憎ここには窓がないので、はっきりしたことは分からないけども。

 

「…………ん?」

 

パネルから顔を離しかけた瞬間、ふと一瞬誰かの声が耳に届いた。

扉の向こうで、なにやら二人ほど話をしている者達がいた。すぐに静まったが、片方は間違いなくこの家の警備隊長。もう片方は全く聞き覚えのない………恐らく、男性の声。

少なくとも兄さんや姉さんではない。

 

正直、またかと思った。

 

男の方が誰かは知らないが、どうせ新しく雇われた使用人かなにかか。

カストルが一緒にいるあたり、どうせ母から私の"引き出し"でも命じられたのだろう。あるいは顔合わせでもさせに来たのか。

そんなことしなくても顔なんてすぐに覚える。元々この屋敷にいる全員の顔だってとっくに覚えているというのに。相手の方は知らないが、私の顔も分からないようならクビにしてしまえ。

とはいえ、これでもシンボリのウマ娘としての自覚はある。挨拶程度には応じてやろう。どの程度の奴か私も見定めておきたい。

 

「………誰?ルナの部屋の前でなにしてるの」

 

覗き穴越しに外を窺っても、そこに映るのは見慣れたカストルの姿だけ。肝心のもう一方の姿はどこにもない。

なにをこそこそとしているのか。どうせろくでもない企みをあれこれと講じていたに違いない。

 

そんなに私を外へと引きずり出したいのか。

閉じ籠っていてはつまらないと彼らは言うが、私にとっては外も同じぐらいつまらなかった。

一人は寂しいと言ったところで、どうせ外に出ても私は一人ぼっちだ。唯一対等に付き合ってくれた兄さんも姉さんもどこかへ行ってしまった。

 

部屋にいても面白くないけど、部屋から出ても楽しくない。

でも外には私がいないことで楽しめる人達がいる。なら私だけがここにいる方が幾分マシなはずじゃないのか。

 

「おはようございますルドルフお嬢様。その、お体に変わりはございませんか?」

 

カストルお決まりの台詞。

彼女がこうして私の様子を伺う時は、決まってなにかを隠している。

そのなにかをさっさと私に教えろ。

 

「別に。心配することはなにもないよカストル。それに、ルナが話しかけたのはお前じゃない」

 

ピトリとウマ耳を扉にくっつけ、その向こうの気配を探る。

僅かにだが感じる違和感。やはり、そこにはまだ誰かがいるのだ。折角自ら応じてやろうと思っていたのに、急速に気持ちが萎えてしまった。

 

耳を離し、代わりに扉へ拳を叩きつける。

お前がいるのは分かっているぞというメッセージを籠めて。このまま試されることもなく立ち去るつもりか?

 

「聞こえてたから。そこのお前………誰?ルナの部屋の前でこそこそと、一体なにを企んでいる?」

 

木の板一枚隔てた向こうから、徐々に気配が近づいてくるのを感じる。

覗き穴の視界に映るか移らないかといったところで、慌てたようにカストルがそれを押し退けた。

 

「カストル……。ルナの、私の邪魔をするつもり?」

 

「違います!!その、お嬢様と少しだけお話をするようにと、奥様がこの方に……なので、少しでいいから出てきて下さいませんか?」

 

「なにそれ。引きこもりの惨めな娘に友達でもあてがってやろうってこと?」

 

「そんな言い方……!!」

 

「………なんでもいいけどさ、話したいならそっちから入ってきてよ。カストルなら障子紙みたいなものでしょ、そんな扉一枚」

 

「…………………………」

 

カストルは黙り込んでしまう。

当然、彼女にそんな真似が出来る筈もない。

 

「……………ふん」

 

シンボリカストル。

シンボリ家で生まれ育ち、紆余曲折ありながらも今なおこの家に仕え続けている忠義者。

真面目で忠誠心の高い彼女のことだ。たとえこんな板切れ一枚といえど、我が家のものを意図的に破壊出来る筈もない。

 

そして、それは向こうにいるもう一人にも言えること。

母さんが呼んできたということは、やはりシンボリの新しい使用人なのだろう。そんな新顔が、他でもないこの私相手に強行手段なんてとれるわけがない。そもそもなんの変哲もない扉とはいえ、容易く人間が突破出来るものか。

そう理解していながら、なおも私はソイツに声をかける。

 

「……ほら、カストルが無理ならもう一人でもいいよ。話をしに来たんでしょ?扉を蹴破ってみたらどうなの?」

 

……返事はない。

当然か。このまま二人とも諦めて引き下がるのだろう。強いていうならこれが私達の顔見せだ。

彼は私がそういうウマ娘なのだと察し、そして二度と積極的に関わるまい。いつものことだ。

 

 

だが、そんな私の甘えた目論見は、いとも簡単に切り崩されることとなる。

 

 

「なら、お言葉に甘えて。危ないから下がってろ」

 

「………え?」

 

「ちょ、ちょっと……本気ですか!?」

 

「本人が良いって言ってるんだから良いでしょう!!修理費の宛名は『サンデーサイレンス様』でお願いしますよ」

 

ガキン、となにかが扉に挟まる音。ドンっと、なにかが力強く叩きつけられる。

戸惑う私の喘ぎと、必死に制止するカストルの叫び。そしてそれに言い返す、やはり聞き覚えのない男性の声。

 

それら全てを塗り潰すようにして、ベキベキベキッと破滅的な怪音を奏でながら扉が曲がっていく。

蝶番が辛うじて枠と板を繋いでいる程度にまで歪んだところで、爆撃のような破壊音とと共に扉がこちらに蹴り抜かれた。

 

「え………」

 

およそ数日ぶりに拝むホールの景色。

 

そこに立っていたのは、涙目でうろたえる青鹿毛のウマ娘と、片足を振り上げてついでにバールも振り上げたスーツ姿の男。

歳は想像していたよりも若い。やや茶色がかった黒髪に深い緑色をした瞳と、およそ常人離れした美貌。

それに道具の力を借りたとはいえ、この短時間でここまでの破壊を行える身体能力………母親がウマ娘なのだろうか。

 

「それで?言われた通り扉を開けたわけだけど………入っていいかな?」

 

コンコンと、バールの先端で石畳を叩きながら男は申し訳なさそうにそうお伺いを立ててきた。

あれだけ躊躇なく暴力を振るっておいて、ここでしおらしくなるとは一体何事なのだろう。

よく分からない奴だ。

 

「ふふっ」

 

「?」

 

……そして、それなりに面白そうな奴でもある。

 

少なくともこの部屋に籠っているだけでは会うことのない人間だ。なら、話ぐらいはしてやってもいいかもしれない。

 

元々、会いたいのならそっちから来いと挑発したのは私の方だ。

なら、こちらからの返事なんて一つしかないだろう。皇帝たるもの、自分の言葉に誠実でなくてはなるまい。

 

 

「ええ、どうぞお入り下さい。"皇帝"シンボリルドルフの玉座にようこそ」

 

 

 



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小さな暴君

 

「それでは、私はこれにて」

 

警備隊長が頭を下げ、そのまま足早に階段を昇っていく。

彼女の尻尾が闇の中に溶けて消えるのを見送った後、僕は扉りの無くなった部屋の中へと踏み込んだ。

 

 

広々とした地下室の半分には、ソファやベッド、テレビ、冷蔵庫といった生活用品が備え付けられている。さらにもう半分にはトレーニング器具が整然と並び、床にはマットまで敷かれていた。

ホテルの部屋とトレーニングジムを折衷させたような奇妙な空間。これが彼女が玉座と呼ぶものなのか。

 

「随分と広いものだな」

 

「昔は防空壕だったからね。本当は家族ごと暮らすための部屋だもん」

 

「なるほど。どうりで空調もしっかりしているわけだ」

 

「適当にそこら辺座ってていいよ。ちょっと散らかってるかもしれないけど我慢して」

 

シンボリルドルフはそう言い残すと、こちらには目もくれずランニングマシンの方へと歩いていってしまう。

分かってはいたことだが、積極的に会話をするつもりはないらしい。この部屋に招き入れたこと自体が彼女にとって最大級の譲歩ということだろう。

僕としても楽しく話を弾ませようという気分ではなかったので、勧められるがままにソファへと腰かける。

 

彼女の言ったとおり、ソファやテーブルの周辺はそれなりに散らかっていた。

 

試しに近くに転がっていた本を手にとって見ると、それはトレーナー向けの教本だった。入門編ということもあってか、脚質や距離適性といった基本的な事項について解説されている。

その隣には、恐らくこの本の続きであろう、より深く踏み込んだ内容の教本も積まれている。部屋の壁に固定された本棚を見ると、似たような物が百冊近く詰まっていた。

さらに教本や指南書のみならず、中央トレーナー試験のための対策本やテキスト、さらにはスポーツ生理学の参考書や医学書まで置かれている。

適当に選んでざっとページを開いただけでも、所々にページの折り跡や引き線が残されているあたり、伊達や酔狂で取り揃えているわけではないらしい。

 

ふとテレビの方に目をやると、ビデオデッキの上にテープがうず高く積み上げられているのも見える。

背中のテープに記されている名前はクラシック三冠にJC、有馬記念……過去の主要なレースを撮った映像だろう。どれも色褪せて剥げかけているあたり、擦りきれるほど繰り返し再生したに違いない。

 

中央トレーナー志望の受験生かなにかか。

勉強に専念するため地下に引き籠っているというなら大したものだが、しかし現実の彼女はまだ小学生である。

 

「お節介を承知で聞くが、ちゃんと夏休みの宿題には手をつけているんだろうね?」

 

「本当にお節介だね。言われなくてもそんなのとっくに終わってるよ。一週間前に。ほら」

 

ウマ娘にしては軽い速度で肩慣らしをしつつ、シンボリルドルフは面倒くさそうにベッド横の棚を指差す。

それを閲覧の許可だと解釈し、中を覗いてみるとそこには懐かしの『夏休みの友』が保管されていた。

 

「うわっ懐かし…………」

 

算数と漢字のドリル、読書感想文、それに理科と社会のテキストか。

彼女が通っているのは所謂進学校と呼ばれるような場所なのだろう、所によっては中学生レベルの問題も見受けられるが、それらも含めて全て完璧に解き終わっている。日付を確認すると、それは夏休みが始まる前日のことだった。

 

配られたその日のうちに全て課題を消化し、それ以降は全てトレーニングに充てていたということか。

夏休みの宿題の趣旨にいささかそぐわないと思わなくもないが、やるべきことをやってる以上口を挟むものでもないだろう。そもそも一ヶ月離れた程度で知識が抜けてしまうようなウマ娘ではあるまい。

……ただ、一つだけいくら探しても見当たらない宿題があった。

 

「そういえば、夏休みの日記は?君の通う学校にはそういうものはないのか」

 

「………そこ」

 

徐々にペースを上げながら、シンボリルドルフは今度は床を指差す。

ランニングマシンから少し離れた床の上には、A4サイズのノートとシャープペンシルが乱雑に放り投げられていた。

 

「読んでもいいかな?」

 

「さっきから散々私の宿題漁ってるじゃん。好きにしたら」

 

「なら、遠慮なく」

 

ノートを拾い、表紙をはたいて中を見ると、そこには日々の記録が残されていた。

 

ただしそれは日常生活の記録ではない。彼女が毎日行っているトレーニングについての記録だ。

今日の思い出についての欄には予定していたメニューの内容を。感想の欄には実際に行った運動の中身と消費したカロリー、心拍数の平均、先日の記録及び初日から合算した上での平均数値との比較と検討が詳細に記入なされている。

欄外にはその日摂取した食事とそこに含まれる栄養素、一日で補給した水分の総量、就寝直前の体重について記録されていた。

 

なるほど大した完成度だ。担任の先生からさぞ高い評価をもらえることだろう。

……この課題が『自由研究』だったらの話ではあるが。

 

「これが『夏休みの思い出』とは到底思えないな。普通は外で友達の何人かとでも遊んでるものじゃないのか?」

 

「………………………」

 

シンボリルドルフはなにも答えない。

ただ虚空だけを見つめながら、一定のペースで足を動かす。

 

彼女の走りにブレはない。無駄な動作など微塵もなく、それはまるで教科書に出てくるお手本のような走法だった。

いや、いくら専門書といえど、この齢のウマ娘に焦点を当てて論述しているものなどそうないはずだ。あってもそれは学術的見地に照らした考察であり、実際の走り方について指南するようなものではない。

普通、このぐらいの歳ではまだ走法の追求ではなく基礎を培う時期というか、近所のレース教室にでも足を運んでレースの感覚を養うというのが精々だろう。当然彼女はそんなものに通っていない。

 

となると、このシンボリルドルフの走りは独学で編み出したものだということか。

様々な文献や映像記録を参考に、我流として構築し磨き上げたもの。まだ未成熟な己の肉体と向き合った上で、模倣ではなく一つのスタイルとして確立させた。

 

(……凄いな)

 

それが全て事実だとしたら、シンボリルドルフは紛れもなく天才だ。

本来ならトレセン学園に入学し、担任トレーナーを得てようやく二人三脚で取り組んでいくようなレーススタイルの構築という課題に対して、知識だけを頼りにたった一人で答えを出した。それも、ほんの九歳という若さで。

天稟の才に桁違いの努力が伴って初めて成し遂げられる偉業。シンボリ家の秘蔵っ子と謳われるのも頷ける。

 

「……なに?さっきからルナのことジロジロ見て」

 

「え?あ……いや、その」

 

あまりにも注視し過ぎていたためか、シンボリルドルフは走りながら視線だけをこちらに投げ掛けてくる。

素直に褒めても良いのだが、どうせ彼女のことだからどんな賛辞も耳にタコが出来るくらい聞き飽きているものだろう。それよりも、先程から一つ気になっていたことについて指摘してみる。

 

「君、僕たちがここに訪れる前から既に走っていただろう」

 

「……………………」

 

またしても彼女はなにも答えない。

だが、そのジャージ姿は明らかに今運動を始めた様子ではなかった。それに走っている最中も、少しペースが遅すぎたように見える。

あくまで僕の主観から言わせてもらえば、彼女のウォーミングアップにはやや不足しているだろう。

 

日記帳を捲り、一番新しいページを開く。

トレーニング後の記録が残されているそのページには、やはり今日の日付が記入されていた。

 

「君の組み上げたメニューは元々かなり過酷なものだ。九歳のウマ娘にとっては、の話だけど」

 

「…………つまり?」

 

「このままのペースで続けていけば、明らかにオーバーワークだ。その歳で故障でもしたら一生響くぞ。休憩するべきだ」

 

「へぇ」

 

その言葉を聞いた瞬間、シンボリルドルフはマシンを停止させた。

だが、僕の言うことをそのまま聞き入れるつもりではないらしい。

 

マシンから降り、ゆっくりとした足取りでこちらへと近づいてくる。

移動の最中、こちらから片時も離さない視線は明確に苛立ちを湛えていた。ウマ耳や尻尾にこそ一切の変化はないが、恐らく感情の露出を抑えているだけだろう。

ほんの数歩で目の前まで来ると、しゃがんで日記を広げる僕を淀んだ瞳で見下ろした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「なに、お前………ルナのトレーナーにでもなったつもり?思いつきで適当なこと言ってるわけじゃないよね?」

 

「まさか。少なくとも君よりは多少知識はあるつもりだよ。そういう環境に身を置いてきたから」

 

百冊程度の学問書ぐらい、僕とてとうの昔に目を通している。過去のレースの記録だってそれこそ飽きるほど見てきた。その距離と天候、バ馬状態に各ウマ娘の枠番と着順、着差から実況に至るまで全て諳んじられる程度には。

 

元中央トレーナーの側でレース教室の手伝いもしてきたのだ。その方面では彼女に劣っているつもりはない。

 

「ふぅん。でもルナにはそんなもの必要ないから。シンボリルドルフの覇道にお前たち(トレーナー)の居場所なんてどこにもない」

 

「ウマ娘の実力だけで勝負が決まるわけじゃない。レースに勝つには綿密な作戦と個人に合わせた育成計画が不可欠だ」

 

「作戦なんて私一人で立ててみせる。育成計画だって問題ない……ほら」

 

シンボリルドルフは僕の横を通りすぎ、夏休みの宿題の一段下からクリアファイルを取り出すと、その中の冊子をこちらに寄越して見せる。

 

「これは……通年のトレーニングプランか」

 

「そう。ルナが一人で考えたの」

 

自慢する様子もなく、淡々とそう言い捨てる。

彼女がトレセン学園に入学するまでの、具体的な道筋がそこには示されていた。

 

以前、母が現役時代に作成した物を見せてもらったことがある。それと形式が酷似しているあたり、トレセンで普遍的に採用されている仕様を基にしたのだろう。

はっきり言って、母のそれと比べたらかなり稚拙な出来具合だ。しかしそれは裏を返せば、中央において一流を掲げるトレーナーの作品と比較できる程度には仕上がっているということ。

入学前における最低限の体作りと考えれば、あるいは今この状態でも通用するかもしれない。この先彼女が知識を蓄えていけば、さらに洗練されることだろう。

 

「勿論、レースに出るためにはトレーナーが必要だから担当は見つけるけどね。でも、それは別に誰だっていいの」

 

「たとえそれが、研修を終えたばかりの新人でも?」

 

「そうだよ。実力があるトレーナーは別の子のところに行けばいい。トレーナーがいなきゃ勝てないような子のところへ」

 

僕の手から冊子を取り上げ、再びクリアファイルへと戻す。

その動きは妙に小慣れていて、過去にも似たようなやり取りが行われていたであろうことが窺えた。

 

「……今だってそう」

 

それを元あった場所へとしまった後、彼女は後ろ手を組んで僕の方へと振り返る。

 

「お前はウマ娘やトレーニングの知識があるのかもしれない。なら、それが必要な子のところへ行ったらどう?お前がいなきゃ勝てない子がいるかもしれないのに」

 

「いるじゃないか。今まさに目の前に……たった一人で、潰れかけているウマ娘の子供が」

 

「お前……ルナのことバカにしてるの!?」

 

さらに苛立ちを深めたシンボリルドルフは、勢いよく僕に迫ると力ずくで床に押し倒す。

 

そのまま腹の上を跨いでウマ乗りになった。そのウマ耳は先程と違って完全に後ろに倒れており、正面からはもう見えない程。

完全に彼女の逆鱗に触れたのか、最早感情を隠す冷静すら欠いているようだった。

 

「さっきの話聞いてた?ルナは強いから一人でも勝てるんだから!!お前なんかいなくても充実してる!!」

 

「その結果がこの日記帳か?こんなつまらない、部室の壁にでも掛かってそうな数字の羅列が君の充実した夏休みなのか?」

 

こちらへ顔を寄せる彼女の視界一杯に、今日書かれたばかりの日記の一面を突きつける。

 

「…………ッ!!」

 

「この部屋に閉じ籠って一週間。君は誰に勝った?それで何を得られたんだ?失ったものの方が大きいんじゃないのか?」

 

「それ、は……………」

 

先程の威勢はどこへ行ったのやら、シンボリルドルフは唇を噛んだまま俯いてしまった。

後ろに寝かされていた耳は力なく垂れ下がっており、その流星に暗い影を落とす。

 

その両肩を掴みながら、ゆっくりと上体を起こすと彼女はあっさりと腹から退いてくれた。

 

「なぁ、シンボリルドルフ」

 

「……………ルドルフでいいよ」

 

「ルドルフ。外に出てみないか?一人でいる方がよっぽどつまらないだろう。君はどちらも同じだと言うだろうけど」

 

「同じだよ。どこにいてもルナは一人だから、どこにいたって同じ」

 

「なら、僕がずっと側にいてあげる。君を楽しくしてみせるよ」

 

僕は、いったい何を口走っているのだろう。

 

あくまでルドルフと話をしてやるだけという依頼だったはずだ。

それこそ扉越しにでも、一言二言交えればそれで十分だと考えていたはずだった。それで、さっさと報酬だけ受け取って帰ろうとでも思っていたのに。今の発言は冗談だと述べて、そのまま彼女とさようならをしても僕はなにも困らないのに。

 

それでも何故か、僕はどうしてもその選択をとれなかった。

 

「……お母さんも、カストルも、屋敷の皆も全く同じこと言ってたよ。結局みんな、ルナより大事なものがあったけど」

 

「なら、今度こそは上手くやってみせるとも」

 

「本当にそのつもりなら、なにか違うことを言ってみせてよ」

 

違うこと、か。正直そう言われたところでなにをどうすれば良いのか分からない。

そこまで豊富に引き出しがあるわけではないのだ。出来ることといえば精々、ニュアンスを変える程度だろうか。

 

 

「僕が、ルドルフを幸せにしてみせるから」

 

 

………そう告げた瞬間、ルドルフはその大きな目をまん丸に見開いた。

数秒間固まった後で、何度か瞬きすると途端に笑いをこぼす。

 

「ふっ、はっはっはっは!!なにそれ、ただのプロポーズじゃん!!本当に初めて言われたよ、そんなセリフ」

 

「プロ、ポーズ……?」

 

………不味い。そう言われると本当にそうとしか思えなくなってきた。下手に原文に拘ったのがかえって仇となったか。

このままでは、十歳にもならない少女に求婚した犯罪者予備軍の烙印すら押されかねない。

 

取り乱す僕を脇において、しばしの間ルドルフは笑い続ける。

ようやくそれも収まった後、己を誇示するかのようにその胸に手を置きながら宣言した。

 

「なら、私も。もし本当にお前がルナのことを幸せに出来たのなら、ルナもお前のことを幸せにしてあげる。お望みとあらば一生でも」

 

「ルドルフが、僕を………?」

 

「ルナは"皇帝"だからね。一方的な施しは受け付けないの。いいでしょう?天下のシンボリ家、その虎の子の寵愛なんだから………だから、そっちも覚悟を決めてよ」

 

にぃと、まるで獅子のような笑みを浮かべながら、ルドルフは座り込む僕にその手を差し伸べてきた。

ようやく見られた彼女の笑顔だが、こうもおっかなくては中々感慨にも浸れない。

 

とはいえ、今更こちらも退くつもりはない。

賽は投げられた。自ら踏み込んだ道だ。このまま最後までやり抜いてみせようか。

 

「交渉成立………だな」

 

ルドルフの小さな手を掴む。

ぐいっと、これまた獅子のような力強さで床から引き上げられた。

 

 



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ルナちゃんのなつやすみ『1日目:昼』

 

灼熱の太陽に晒された屋敷の外は、それはもう茹で上がるような蒸し暑さだった。

暑いのではなく蒸し暑い。水分を含んだ空気がべっとりと肌にまとわりつくような不快感。同じ猛暑でも乾いていた昨日の方がまだマシだった。

 

「ほら、さっさと歩く!!やっと街に出たところでしょ?」

 

「あ、ああ………分かったから、そうはしゃがないで」

 

「あんまり遅いと置いてっちゃうから」

 

「はいはい」

 

「はいは一回!!」

 

「はい………」

 

そんな炎天下でも、僕の三歩前を進むルドルフは溢れんばかりの生気を原動力に歩道を跳ねる。

ウマ娘という生き物はヒトよりも体温が高く、寒さに強い一方で高温多湿な環境を苦手としている。故に、この天候だと本来であればあっという間にバテてしまうものなのだ。母がそうであったように。

 

しかし彼女の活気は一向に衰える気配を見せない。

警備隊長の制止も聞かず屋敷から徒歩で飛び出して三十分、その足が止まることはついぞ無かった。一週間ぶりの真夏の日光で体調を崩すのではないかと気が気でなかったが、どうやらいらぬ心配だったらしい。

 

「本当に引きこもりだったのか君?ああ、ずっと涼しい部屋にいたから逆に体力が有り余ってるのか」

 

「トレーニングの成果だと思うけど。そっちこそ、ずっと外にいた癖にバテるの早すぎでしょ。そんなに暑いのが嫌い?」

 

「好きか嫌いかと言われれば大嫌いだよ。とはいえこれでも、暑さ寒さにはかなり強い自信があったんだけど」

 

「ふぅん」

 

ルドルフは気のない返事を残してたったかと街中を進んでいく。ついてこられなければ置いていくというのは脅しでも冗談でもないのだろう。僕も必死でそれに食らいついていく。

 

ミンミンととにかく喧しいセミの鳴き声を背景に、視界の中で揺らめく蜃気楼。

竹林のごとくそびえ立つ建物へと覆い被さるように果てしない青空が広がり、肥え太った積乱雲が僕たちを天高くから見下ろしている。

道路を車が通りすぎるたび、熱風がこちらに吹き込んできて汗がにじむ。真っ白いガードレールが陽の光を反射してその存在を主張していた。

 

「暑い………」

 

もう目に入る全てが暑苦しく感じる。この世のなにもかもが僕を苛んでいるようにすら思えた。

 

いや、ルドルフだけは唯一の例外だろうか。

今の彼女はジャージから薄いワンピースへと着替えており、頭にはウマ娘用の麦わら帽子を被っている。真っ白な服から二の腕と両足を惜しげもなく晒したその姿には確かな涼しさがあった。

これで彼女の毛色が芦毛だったなら、さらに清涼感があったのだろうけど。

もっとも、視覚だけで涼がとれるならこの世に冷房など存在しない。今は切実に本物の冷風が欲しい。

 

「ほら、あそこ行くよ。この前オープンしたばっかりのやつ」

 

「ああ……ゲームセンターか」

 

そんな僕の内心を知ってか知らずか、彼女は歩道を逸れると脇にあるショッピングモールの一角を指差した。そのままこちらの手首をとり、半ば引きずるようにして店の入り口へと進んでいく。

僕としても、このうだるような熱気から逃れられるなら最早どこであろうと良かった。いかにも子供らしい施設でちょっとだけ安心はしたけれど。

 

自動ドアを潜ると、セミの鳴き声に代わって騒々しい機械音が迎え入れてくれる。

同時に全身を撫でる爽やかな風が、自然と僕の足を奥へ奥へと向かわせた。あれだけしつこく纏わりついていた汗が、一気に引いていくのを肌で感じる。

 

「随分と大きいんだな。東京に出てもこれ程の規模のものは中々ないだろう」

 

「むしろ地方だからじゃないの。東京なんて小ぢんまりした店が密集してて、全然広くなんてなさそうだし」

 

「そんなものかな」

 

「そうだよ」

 

さもわけ知り顔でルドルフは頷くが、その言い種からして彼女自身ほとんど都心に出たことはないのだろう。それでここまで言い切れてしまうのも、彼女らしいというかなんというか。

 

かくいう僕も、そこまで東京について詳しいわけではない。せいぜい繁華街を二、三度ぶらついたことがあるといった程度のものだ。

 

「それで、入ったからにはなにか目的の台があるんだろう?」

 

「普通、ゲームセンターって入ってから遊ぶ台を選ぶものじゃないの?そうやって適当に店の中を見て回るものだと思ってたけど」

 

「あー………確かに、なにも考えずに頭空っぽでとりあえず覗いてみるような場所ではあるか」

 

「そこまでは言ってないけど………あ、ほらあれやってみようよ!!クレーンゲーム」

 

またしても手首を引かれながら連れていかれたゲームセンターの最奥には、横に長いガラス張りのボックスが据え置かれていた。

横だけでなく奥行きもかなりある。それ以外はいたって普通のありふれたクレーンゲームだが、そのサイズのおかげで妙な威圧感を醸し出していた。

 

「景品は……ぬいぐるみか。それもウマ娘の」

 

「中央のウマ娘のね。ぱかプチって言うんだって。これ作ってる会社の人が前にもウチに挨拶に来てたよ」

 

「へぇ。それにしては見たことも聞いたこともないんだけど。こんなの売ってたらウチの子供達だって真っ先に飛びつく筈なのに」

 

「クレーンゲームの景品専用だからね。普通の店には出回ってないの。欲しかったら自分の力で取るしかないね」

 

ガラスの中では、およそ底が見えないほどにぎっしりとぱかプチが詰まっている。その上にもさらに数体が膝を揃えて並んでいた。

小脇に抱えられる程度のものから、ルドルフがやっと両手で抱えられるほどの大きさまで、そのサイズにもいくつかの種類があるらしい。

なるほどこれらを全て詰め込むとなれば、ここまでケースが大きくなるのも当然だろう。となると、もしかしたらこのクレーン台自体がぱかプチ専用のオーダーメイドなのかもしれない。とんでもない力の入れようだ。

 

「まぁ、どうしても欲しかったらお父さんに頼めば会社から貰ってきてくれるだろうけど。このゲーム作るのにお金出したのもお父さんだし」

 

「それじゃあつまらないだろう。こういうのはちゃんと正規のルートで取るから愛着が持てるんだ」

 

「へぇ……なら、お前がなにか取ってみせてよ。お金なら私が出すから」

 

「いいよ。このぐらい自分でも払える」

 

ルドルフを横に退けると、僕は財布から300円を取り出して硬貨口へ投入する。

とたんに軽快なメロディーが流れ出し、操作ボタンが明るく点滅した。

 

「さて、それじゃあルドルフ。なにが取りたい?」

 

「え?ルナが選んでもいいの?」

 

「いや、ここで君一人を放ってゲームに興じるわけないでしょ……」

 

ルドルフはつま先立ちでガラスの中を覗き込むと、少し首を傾けながらぱかプチ達を吟味している。

流石に過去に走ったウマ娘の全員を実装しているわけではない。強豪集いし中央においてもなお、ことさら抜きん出た優駿のみだ。セントライト、クリフジ、トサミドリ、トキノミノル、ハクチカラ、セイユウ………その中にはルドルフの縁戚である、海外遠征の開拓者スピードシンボリの姿もあった。

 

「ん。決めた!!アレが欲しい」

 

しかしそうルドルフが指差した先にあったのは、彼女ではなくまた別のウマ娘。

背中に流された長い鹿毛と、丸みを帯びた流星が特徴的だ。その顔は他のぬいぐるみと同じく満面の笑みを張りつけている。

 

「シンザンか。クラシック三冠ウマ娘にして史上唯一の五冠バ」

 

「そう!!トレセンに入ったらルナも三冠とってやるんだから。それに五冠も、さらにそれ以上だって」

 

「ふふっ……それは楽しみだね」

 

「あ、今笑ったでしょ!?なに、ルナには無理だって言いたいの?」

 

「違う。逆だよ逆……君ならきっとなれるだろうさ」

 

「とーぜん!!ルナは"皇帝"だから!!」

 

シンザンが三冠を達成してから、既に十年以上も月日が流れている。しかし、その間に三冠の栄光を掴んだウマ娘は誰一人としていなかった。

決して短くはないトレセン学園の歴史。それでも現時点における三冠ウマ娘は、セントライトとシンザンのたった二人だけ。『シンザンを越えろ』という合言葉が示すとおり、彼女と肩を並べるウマ娘は未だに現れない。

 

しかし、それでもルドルフであれば……あるいはかのウマ娘に匹敵し、超越し得るのではないかと思う。

少なくとも、それに足るだけの素質は備えているはずだ。

 

「将来、君の担当になるトレーナーはさぞ大変だろうな」

 

もっとも、素質があるとはいえそれを開花させられなければ意味はない。自身の本当の力を発揮できぬままターフを去るウマ娘など、それこそ掃いて捨てるほどいる。

 

だからこそ、これほどの金の卵は手元に置くだけで重荷になるだろう。願わくは将来、それに耐え卵を孵化させられるようなトレーナーに出会えますように。

 

「ほら、早く動かさないと時間切れになっちゃうよ」

 

「ん?ああ、本当だ……危ない危ない」

 

操作盤のモニターに映し出されたカウントダウンは、既に10を切っている。

これが0になると勝手にアームが動き出してしまう。慌てて頭の中で理想的な軌道を弾き出し、慎重にボタンを操作した。

 

シンザンの真上を若干通り過ぎたあたりで移動を停止し、そのままアームを下ろしていく。

ぱかプチの頭頂部に沈み込んだあたりで開いていたツメが絞られ、その首根っこをがっちりと掴み取った。

 

「ちゃんとネジが締まってるなこのクレーン。最近の奴はどれもこれもゆるゆるのガバガバだったけど」

 

「ぱかプチ作ってる会社の人がそういうのやめて欲しいって言ったんだって。元々クレーンでしか取れないぬいぐるみだから」

 

「へぇ……それはまた太っ腹なことだな」

 

クレーンが上へと戻っていく。

そのまま引き抜かれたぱかプチは、ゆらゆらと危なげに揺れながら受け取り口へと運ばれていった。持ち上げられた際、その両腕にも一個ずつ別のぱかプチが引っ掛かっていたが、それらは移動の振動で振り落とされてしまっている。

逆に言えば、落ちてしまっていなければそのまま一度に三つも獲得出来ていたということか。本当に気前のいいことだ。これは流行るかもしれない。

 

ごとん、と大きな音をたてて、とりあえず本命のぱかプチはしっかりと受け取り口の中に放り込まれた。メロディーが高らかにそれを祝福する。

 

「ほら、お目当てのものが取れたよ」

 

「ん………ありがと」

 

ルドルフはしゃがみこむと、邪魔な麦わら帽子を脱いで取り出し口へと体を突っ込む。

それなりに大きさがあるため、手足が引っ掛かってしまっているのだろう。少しの間ぱかプチと格闘した後、無事にそれを中から引っ張り出した。

 

「本当に、よく出来てるぬいぐるみだな。市場に乗せないのが勿体ないぐらいだ」

 

縫い合わせはかなりきめ細かく、中にも十分綿が詰まってしっかりとした作りになっている。

店頭に並べれば結構な値段をつけても売れるだろうに。先程のクレーンの話を聞く限り、端から営利を追求しているわけではないのかもしれないが。

 

「……ウチもお金は出してるけど、一番関わっているのはURAなんだって。プロモーションの一環だから、あまりお金が入らなくてもいいのかも」

 

「レース競技の振興か。そのために過去のウマ娘も極限まで利用しようとするのは相変わらずらしいというか……。使用料とかは貰えるのかね」

 

「お祖母ちゃんは結構貰ったって言ってたけど、具体的なことは教えてくれなかった。まぁ、あと5年もすれば分かるよ」

 

「君にも使用料が入るようになるというわけか」

 

「そういうこと」

 

自信満々に胸を張るルドルフは、自らもまた優駿の一人としてこのケースに並べられる日が来ることを欠片も疑っていないようだった。

そのまま麦わら帽子を被り、てっぺんに開いた穴から両耳を外に出す。

 

 

 

「あっ……飾りが」

 

 

……その瞬間、彼女の右耳にある緑のイヤーアクセサリーが根元で千切れ、床に落ちてしまった。

経年劣化が進んでいたところに、たまたま帽子の鍔が当たったことでついに限界が来たのだろう。

 

ルドルフはそれを拾い上げると、俯いたまま手の平の上で転がす。

帽子のせいでその表情はこちらからは見えない。両腕に抱かれたシンザンのぱかプチだけが、貼り付けた笑みを僕へと投げかけている。

 

「根っこの方が傷んでいたんだな。そんなに長く使っていたのか?」

 

「………うん。ずっと前に、お母さんが作ってくれたの。初めてレース大会で優勝したお祝いにって」

 

「折角だから、他のお店も見ていこうか。これだけのショッピングモールなら、イヤーアクセサリーを扱ってる所もあるはずだ」

 

「…………うん」

 

脱落した部品の繋ぎ目は尖っていて危険だ。

ルドルフから一体それを取り上げると、プレートから宝石だけを取り出して彼女に返す。壊れた金属部分は僕のポケットの中にしまっておく。

ルドルフはなにも言わずに宝石を受け取ると、ぎゅうっと大事そうにそれを握りしめた。

 

「さて、それじゃあ行こうか」

 

「あ……ちょっと、待って」

 

「?」

 

反対側にあるエレベーターへと体を向けると、ルドルフにシャツの裾を引っ張られて引き留められる。

 

「どうした?まだ他にとって欲しいものでもあるのか?」

 

「ううん、ルナはもういいんだけど……お前もぱかプチとってよ。二人で来たのに、これじゃただの側仕えみたいだよ」

 

「みたいって…………」

 

……元々僕としてはそのつもりだったのだが。

 

まさかデートというわけにはいくまい。まだ幼いルドルフに付き添って、さながら保護者のつもりでいたのだが、しかしそこは令嬢である彼女のことだ。やはり側仕えと表現した方がしっくりくる。

こんなこと聞かれたら、あの警備隊長にひっぱたかれるかもしれないけれど。

 

「まぁ………うん。分かったよ」

 

とはいえ、このまま帰ってしまうのも確かに勿体ないかもしれない。

僕とてゲームセンターに立ち寄る機会もそうそうないのだから、一度ぐらいは自分本位に遊んでおくのもいいだろう。

 

「お前はなにが欲しいの?」

 

「迷うね。僕は別に……特別推してるウマ娘もいないからな」

 

正直どれでもいい。これだけ出来の良いぬいぐるみなら、なにを貰ってもそれなりに満足出来そうだ。

……どうせだから、先程見かけたあのウマ娘にしよう。毛色や瞳の色が僕と同じで、不思議と親近感を抱いていたところだった。

 

ケースから一歩身を引き、全体を俯瞰しながら彼女を探す。

 

「……………あっ」

 

……その最中、あまりにもよく見慣れた、長い青鹿毛に点々と流星の浮かんだウマ娘の姿に目を奪われた。

 

 

もっとも、その満面の笑顔については……僕は全く見覚えがなかったけれども。

 



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ルナちゃんのなつやすみ『1日目:夕方』

 

ゲームセンターで遊び、他の店にも一通り足を運んだ後、ショッピングモールから外に出た時には既にだいぶ日も傾いていた。

まだまだ暑さも厳しいが、それでも日中のようなベタつく不快感は既になりを潜めている。

穏やかに流れる風にも心なしか冷たさを含んでおり、だいぶ過ごしやすい環境へと変わっていた。

 

そんな帰り道を、僕とルドルフは連れ立って歩く。

彼女はその両腕一杯にシンザンのぱかプチを抱きかかえ、僕は左腕にサンデーサイレンスのぱかプチを抱きつつ右手に紙袋を提げる。中身は勿論ルドルフの新しいイヤーアクセサリーだ。

 

「どうせなら袋も貰っておけば良かったね。こうやって抱えて持って帰るのも大変だし」

 

「あー……そういえば受付に頼めば貰えるんだったな。もうだいぶ行ってないから忘れてた」

 

「その辺のコンビニで買ってこっか?」

 

「いや、そこまですることもないだろう。そもそもこの大きさからして、たとえ袋に入れても抱えて持ち運ぶことには変わりない」

 

「それもそうだね」

 

うんうんと頷いて、ルドルフは僕の少し前をトコトコと歩く。ガードレールがあるからいいものの、目を離した隙に遠くへ行ってしまいそうで気が気でない。

行きと違って荷物もあることだし、帰りは屋敷から迎えを呼ぶことも提案してみたが断られた。どうにも彼女は自分の足で歩くことにこだわりがあるようだ。

ほんの些細な外出でも運転手を使いたがるのが僕の中での箱入り娘のイメージだったのだが、ただの偏見に過ぎなかったのだと認識を改める。

そのフットワークの軽さを前に、僕は一日中振り回されるばかりだった。

 

「ところで、お前はそのぱかプチはどうするの?」

 

「どうするって……普通に、部屋にでも置いておくつもりだけど」

 

「折角だから抱いて寝てみたらどう?こういう一番大きいぱかプチってそうやって使うんだって。学校で聞いたの」

 

「抱き枕か。確かに柔らかいし丈夫だし、悪くない使い道だとは思うけど」

 

僕はぱかプチを両手に持ち直すと、ひっくり返してこちらに正面を向かせる。

ぱかプチは大きさと同様に、表情にもいくつか種類があるらしい。基本的にどれも笑顔なのだが、目を開けて軽く微笑んでいるものから破顔の笑みを浮かべているものまで。

そして、僕の取ったこのぱかプチはまさに後者だった。目をつむり、大口を開けながら朗らかにこちらに向けて笑っている。

 

「………不気味なんだよなぁ」

 

母のこんな表情は見たことがない。まず彼女の表情筋にこれを為せる機能があるのかどうかすら疑わしい。

これに近いものなら何度か見覚えがあるものの、どれも朗らかからは程遠かった。加えて僕の記憶が正しければ、それは暴力の予備動作に他ならない。

つまるところ僕の知る限りにおいて、サンデーサイレンスにとっての笑顔は威嚇とほぼ同義であった。

 

「朝になって目が覚めた時にこれが目の前にあったら、たぶん心臓がいくつあっても足りないと思う」

 

「目覚まし代わりに丁度いいじゃん。抱き心地はいいしうるさくないしでむしろ上等でしょ」

 

「そう言われればまぁ……使えなくもないだろうけど」

 

無理やり用途を捻り出すのもそれはそれで違う気がするが、そこらに放っておくよりマシかもしれない。

下手に扱ったら祟られそうな気もするし。なら最初から取るなという話だろうか。

 

「…………ん?」

 

再びぱかプチをひっくり返して小脇に抱えると、僕より数歩前でルドルフが立ち止まっているのが見えた。道沿いのフェンス越しにその中を覗いている。

行きも帰りも片時だってその歩みを止めなかった彼女が、ここにきて一体どうしたというのだろう。

 

「おい……どうした、ルドルフ?」

 

「……………………」

 

こちらには一切目もくれず、ルドルフは心ここにあらずといった様子で立ち尽くしている。

 

その視線の先には、広々としたターフとそこで走る大勢のウマ娘たちの姿があった。

走り込みを繰り返しているものの、その年齢も様々。ようやく走れるようになったぐらいの幼児から、恐らく中学校への入学間際であろう児童まで幅広い。

見たところ、ボリューム層はルドルフと同じ十歳前後のようであった。

 

「ウマ娘の子供向けの公共グラウンドか。地方にしては考えられないぐらいの大きさだな」

 

「これも、シンボリがお金出したから」

 

「へぇ……流石はレース競技界の名門。視野が広いというかなんというか」

 

幼いウマ娘にとっての練習環境というのは、実はそう恵まれていない。

 

一般的なものとしては私設のレース教室だとか、小学校での部活動などがある。

しかしレース教室にしたところで、必ずしも優秀な指導者がいるとは限らない。確かに引退したG1ウマ娘や中央トレーナーがそういった職に携わることは多いが、その絶対数からして限られているのだ。全国に幅広く展開できるような余裕はない。

そもそもウマ娘自体が少ない地域もあるのだから、そんなとこで開いても採算が取れなくなる。結果、有力なレース教室の大半は大都市に集中していた。

部活動なんて尚更だ。わざわざ数少ないウマ娘のためだけに専門の教員など雇うはずもなく、場合によっては部活そのものが無い学校すらある。

 

残酷なことだが、トレセン学園入学時における実力というのは結局のところ、生まれ持った才能や成長環境に大きく左右される。

家でも充実した指導を受けられる名家の生まれだったり、あるいは質の高いレース教室に通えたりでもしなければ、後は自身の才能のみを頼りに自力で実力を磨いていくほかない。

このあたり、中央の競技者において裕福な生まれの者が多い理由でもある。その例外がいるのも事実だが、傾向としては明らかだった。

 

だからこそ、地方にここまでの練習環境が整えられているのは本当に珍しい。

メジロ王国である北海道然り、名門のお膝元だとこういう利点があるのだろう。

 

「はーい、もう一本!!ふぁい、おー!!」

 

「ふぁい、おー!!」

 

あの猛暑の中で既に何本もこなしていたのだろう。

出し尽くした気力をさらに絞り出さんとばかりに、先頭を走るウマ娘が枯れた声を一段と張り上げる。彼女の背中を追うウマ娘たちもまた、へろへろになりながらもそれに続いた。

流石というべきか、環境が優れていればそこで励む者たちの士気も段違いということか。

 

 

「………………………………」

 

ルドルフはただ、そんな彼女たちの姿を黙ったまま見つめている。

なに一つ声に出さないが、彼女がそれに混ざりたがっていることなど火を見るより明らかだった。

 

正直なところ、安心した。

自閉的な一面こそあるものの、決して他者との交わりそのものを拒絶しているわけではないらしい。

走法の追求も悪くないが、やはり他のウマ娘との並走経験を積むのも重要なことだ。練習効果の意味でも、情緒育成の意味でも。

 

「おや、お兄さん興味がおありで?どうですか、一つ見学なされていっては」

 

暫くの間二人でターフを眺めていると、それを見咎めた受付の係員から声をかけられた。

柔和な笑みを浮かべた初老のウマ娘が、わざわざカウンターから出てきてこちらに歩み寄ってくる。

 

実際に走るのはルドルフなのだから彼女にも挨拶をさせようと思ったが、しかし一瞬の隙に僕の背中へ貼りついて隠れてしまった。

意外だが、あれでいて人見知りをする子だったのか。

 

「ああ、すみませんね。わざわざ暑い中……ええ、これほど大きなグラウンドは初めて見るもので、少し驚きました」

 

「でしょう。実はこの近くに大きな家がありましてね、所謂地元の名士というものです。そちらが気合いを入れて音頭をとって作られたのですよ」

 

「気合いといえば、練習している子達も随分やる気に溢れていますね。まるでトレセン学園のようです」

 

「そう言って頂けると嬉しいですね。あの子たちはまさに、その中央への入学を目標に練習に励んでおられますから」

 

「未来のスターウマ娘の卵というわけですか。将来が楽しみですね」

 

「ええ、それはもう」

 

係員は額の汗を拭いながら、その笑みをますます深くする。

彼女がどれだけの間ここに勤めているのかは知らないが、やはり毎日努力している姿を見ていれば愛着も沸くのだろう。

 

「それで、今日はお兄さん一人で?それとも保護者の方でしょうか………まさかお兄さんが走られるわけではありませんよね?」

 

「はは、まさかそんなわけ」

 

悪戯っぽそうに微笑む係員に、僕も笑みを返す。

 

「今日立ち寄ったのはたまたまです。とはいえ見学させて頂けるなら、下見がてら是非お願いしたいですね」

 

「下見というと、妹さんかなにかの代わりに?それとも近くにおられるのですか?」

 

「ええ。妹ではありませんが、まぁ……知り合いの子供ですね」

 

体を横にずらし、後ろに隠れていたルドルフをさらけ出す。

その小さな背中を押して、係員と対面させた。

 

「この子です。歳は九歳。名前をシンボリルドルフと言います」

 

 

 

「あっ…………」

 

「…………ッ」

 

 

そう僕が紹介した瞬間、顔を合わせた二人が同時に息を呑み込んだ。

ルドルフは毛を逆立てたまま硬直し、係員は顔を引きつらせる。

 

「ルドルフさんが……その、先程の言葉は忘れてください」

 

係員はすぐさまルドルフから顔を背けると、申し訳なさそうに僕の顔を覗き込む。

そしてはっきりと、拒絶の言葉を口にした。

 

「 大変申し訳ございません。シンボリルドルフさんは、当施設の利用を禁止されています」

 

「……………はぁ!?いや、ちょっと、意味が分かりませんよ」

 

どういうことだ。年齢には引っ掛からない。金についても言うまでもなく問題にはならない筈だ。

それがどうして拒絶されなければならない。

 

「名前を紹介したぐらいで出禁にされたらたまったもんじゃありませんよ」

 

「いえ……実はルドルフさんも、以前にこの施設を利用していたことがあったのです。ただ、他のウマ娘たちの保護者の方から苦情がありまして」

 

「あ、あー………そうだったんですね。これは失礼しました……」

 

この歳の子供がやることにいくつも苦情が寄せられ、出禁にすら至るとはただ事ではない。よっぽどなにかとんでもないことをしでかしたのだろう。

 

他の利用者絡みとしたら暴力行為だろうか。聡明なルドルフのことだから、そんな蛮行をやらかすとは考えにくいものの……あり得ない話ではない。

 

「ですが、今度は私がつきっきりで監督していれば……」

 

「いえ、そういうわけにはいかないのです。そもそもシンボリルドルフさん自身は規則に従って、普通に走っていただけですから」

 

「……なら、どうして苦情なんか入るんです?」

 

「その際に、この子と並走したウマ娘が全て潰れてしまったからです。だから、そんなウマ娘が我が子と同じターフにいられると迷惑だと」

 

「いや、潰れるって……それなら、並走だけを禁止すればいいじゃないですか。なのに施設から一切締め出すなんて」

 

「ルドルフさんの姿を見ただけで怖がるウマ娘もいるもので。それに、保護者が目を離した隙に無理やり並走に付き合わされるかもしれない……という不安の声もあります」

 

真相は、およそ僕の理解を遥かに越えたものだった。

 

確かに、競技者としてレースを走る中で、彼我の差を思い知り潰れていくウマ娘というのは聞くが。こんな野良試合ですらない、ただの並走で潰れるなんてそうそうあったもんじゃない。

ましてやルドルフは今もまだ九歳で、ここを利用していた当時ならもっと幼かったはずだ。それに引き換え、このスタジアムで励んでいるであろうウマ娘たちといえば。

 

「さっき、ここにいるのは中央を目指すウマ娘ばかりって言ってたじゃないですか」

 

「だからこそですよ。自分より遥かに年下のウマ娘相手に、並走ですらついていけない。同い年の子なら尚更です……順調にいけば将来、自らがターフで合間見えることになるのだから。自分が頂上に立つことは決して叶わないのだと思い知ってしまう」

 

「だからルドルフを追い出したんですか。そんなの、ただの現実逃避でしかない。敗れるべくして敗れたんだ」

 

いやしくもトップアスリートを目指している者が、その道の強者から目を背けてどうしようというのだろうか。

それにたとえ中央に入ったところで、立ちはだかる壁はルドルフだけではないというのに。

 

そんな僕の恨み節を咎めることもせず、目の前のウマ娘はただ苦々しげにその顔を歪める。

 

「……レース競技とは夢ありきの世界です。夢があるからこそ、どんな苦しい練習にも耐えることが出来る。だからこそ、夢亡くした時点でその世界にはいられません。それが、潰れるということです」

 

「勝負の世界とはそういうものでしょう!?敗者は黙ってターフから立ち去るべきだ。出ていくべきはその子供たちの方だろう」

 

「我が子のこととなると、そうはいかないものです。まだ本格化も迎えてないうちに、こんな場所で潰れてしまうなど耐えられないのでしょう。それに、ルドルフさんは実家が恵まれていますから……」

 

「だから、家に籠って一人で練習していればいいだろうとでも?」

 

「………………………」

 

答えはない。

しかしその沈黙こそなによりも雄弁な肯定だった。それが彼女の……というより、この施設の関係者全員の総意なのだと分かってしまう。

 

「それに貴女、ルドルフが件の名士の関係者だってことも当然分かっていますよね?その上で出禁にしてるわけですか」

 

「申し訳……ございません」

 

なにも弁解せず、係員はただ私たちに深く頭を下げる。

 

一連の様子からして、彼女とてこの措置は不本意極まりないと見える。そもそも最大の支援者たるシンボリ家のウマ娘を、こんな理不尽な理由で排除するなどあり得ない。

それでもなお、こうせざるを得ないような状況だったということか。恐らく寄せられた苦情の数にしても、到底一つや二つでは片付かないのだろう。

ルドルフ一人を排斥することで、あとは万事丸く収まるといったことか。

 

それほどまでに、幼いシンボリルドルフはここにいる皆から嫌われているのだ。

このスタジアムに彼女の味方は誰もおらず、居場所なんてどこにもない。

 

 

………どこにいても一人ぼっちと、たしかこの子はそう言っていたな。

 

 

「ねぇ、もう行こう……いいよ。私はもう、いいから」

 

「ルドルフ」

 

「しょうがないでしょ。お客さんがいなきゃこのスタジアムは潰れちゃうんだから。そしたらみんな困るでしょ?だから、もういいの」

 

「………そう、か」

 

その"みんな"に君は入っていないだろうに。

 

ルドルフは俯いたままシンザンのぱかプチを強く抱き締めると、そのまま僕の袖を引いて先へと進む。

地面と平行になるぐらい頭を下げている係員に見送られながら、今度は二人並んで帰路に戻った。

 

 

「次も声だしていこー!!ふぁい、おーおー!!」

 

「ふぁい、おーおー!!」

 

 

遠く後ろに流れていったフェンスの向こうから飛んでくる、威勢のいいかけ声が僕たちの背中を押す。

つい先程まで感心していたその声も、今は微塵も心に響かなかった。

 

でも、ルドルフにとってはそうではなかったみたいで。弾かれるように僕の袖を離すと、代わりにこちらの手を握ってくる。

とっさに絡ませてきたその指は、ほんの僅かに震えていた。

 

「……いいのか?」

 

「なにが?」

 

「あ、いや………」

 

意図せず口をついた言葉に返事されて、僕は思わず口ごもる。

よくないと言われたところで、僕にはどうすることだって出来ないのに。余計な気遣いはかえって惨めになるだけだと、身に染みて理解していたはずなのだけれど。

 

しかしルドルフは気に障った様子も見せず、日中のような自信に満ちた笑みで僕を仰いだ。

 

「……大丈夫だよ!!だってルナは"皇帝"だから!!"皇帝"は一人でなんでも出来ちゃう、完璧な存在なんだから」

 

「でも、並走は一人じゃ出来ないだろう?君と一緒にいても潰れず、むしろ手を繋いで歩けるような相方が必要だ」

 

「へぇ……じゃあ、お前がルナと並走してくれるの?」

 

「だからそう言ってるだろう」

 

その瞬間、ルドルフは目をまんまるにして僕を見つめる。

 

「………走れるの?」

 

「人並み以上にはね。あの扉を壊した時もそうだったろう。たとえ二十歳を越えた男のヒトでも、あんなことは出来ない」

 

「でも、ウマ娘は男のヒトよりもっと速いよ?」

 

「本格化前のウマ娘相手ならわけないよ。なんだったら、ちょっとしたレースぐらいになら付き合ってあげても」

 

嘘だ。そんな余裕はなく、どうにか食い下がることが出来る程度でしかない。

しかし情けないことに、今の僕に出来ることなど精々そんな見栄を張るぐらいしかなかった。

 

「本当!?じゃあ、ちゃんとレースもやってもらうから。手を抜くことは許さないからね」

 

「はいはい」

 

「はいは一回!!」

 

「はい。それで、そのレースに勝ったら僕は一体なにを貰えるんだ」

 

「え、そんなの考えてないけど……でもそうだね。そしたら私、幸せになっちゃうかも」

 

「はは、そうか。そういえばそういう約束だったな」

 

「うん。お前は幸せになりたくないの?」

 

「まぁ、なれるというならなりたいかな」

 

「なにそれ。変なの」

 

ルドルフはパッと手を離すと、麦わら帽子の位置を整えてまた僕より前へと駆けていく。どうやら少しは調子を取り戻したらしい。

 

「あっ…………」

 

「おっと」

 

数メートル進んだ瞬間、彼女のワンピースのポケットから壊れたアクセサリーの宝石が零れて転がり落ちた。

たまたまそれは僕の足元へと流れてきたので、ぱかプチで塞がった視界に悪戦苦闘しながらもどうにか拾い上げて見る。

 

「どうしたの?」

 

「いや、アスファルトに落ちても傷一つないなって。随分丈夫だな」

 

「とーぜん!!だってお母さんが選んでくれたものだもん」

 

「ああ、初めて大会で優勝した記念にだったか」

 

「うん!!ルナが初めて参加した大会でね。あのスタジアムで、一緒に走ってくれたみんなもいっぱい褒めてくれ………て………」

 

その声は蚊の鳴くように細く小さくなり、やがて消えてしまう。

帽子の鍔を一層深くして、くるりとこちらに背を向けた。

 

僕はポケットにしまっていた残りの部品を取り出して、手にした宝石と併せて見比べた。

 

「手作りなぶん構造自体は単純だな。これならどうにか出来るかもしれない………治してみようか、ルドルフ。折角だから」

 

「うん………ありがと」

 

 

今にもひぐらしの声に溶けてしまいそうなか細さで。

 

顔の見えないままドルフはそうお礼を言った。

 

 

 

 

 




【日づけ】7月26日(月)

【てんき】はれ

【今日のできごと】

あたらしい人が私の家にきました。男の人です。
名前はふつうだったけれど、そのすがたはふつうではありませんでした。力もとてもつよいです。お母さんがウマむすめなんじゃないかと私は思います。
今日は二人でいっしょにまちまでお出かけしました。あたらしいウマむすめのぬいぐるみと、耳につけるかざりをかってもらいました。 帰りみち、その人は私とレースをしてくれるといいました。でも、ヒトはウマむすめといっしょに走れるのかな。

【かんそう】

ひさしぶりに、走ることをまったくかんがえない一日でした。でも、たまにはこんな日があってもいいと思います。

またいっしょにお出かけしたいな。



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ルナちゃんのなつやすみ『2日目:朝』

 

昨日ルドルフの部屋へ案内された時は、さぞ贅沢なものだと感じたものだった。

だが、その認識はどうも甘かったらしい。よく考えれば、防空壕を改造したというあの地下室なんかよりも、屋敷のちゃんとした部屋の方が優れているのは当たり前の話だったか。

 

そして僕は今、そんな数ある部屋の中でもとりわけ上等な客室で朝を迎えた。

 

カーテン越しに鳥の鳴き声が鼓膜を揺らし、徐々に意識が水面へと浮上していく。

どうにも首の座りが悪く感じて、仕方なく重い瞼をこじ開ける。

 

「………うわ」

 

その瞬間、視界いっぱいに広がるサンデーサイレンスの満面の笑顔。

思わず心臓が跳ね上がり、異常事態を察知した脳みそが凄まじい勢いで冴え渡っていく。なるほど、目覚ましとして期待以上の性能だということか。

 

完全に目を醒ました僕は、指を組み両腕を限界まで持ち上げて伸びをした。

昨日まではしつこく残っていた肩の重みも、この客室で一晩過ごしただけで嘘のように消えてなくなっている。

正直、ルドルフよりも扱いがいいことに若干の居心地の悪さを感じなくもないが、とはいえ彼女は自分の意思であの環境を選んだのだから気にしても仕方がないか。

 

「お目覚めでしょうか」

 

体をほぐし終えた直後、丁度いいタイミングで部屋の扉がノックされる。

慌てて着崩れていた寝巻きを直しながら返事をする。

 

「……どうぞ」

 

「失礼します」

 

顔を見せたのは、昨日僕を案内してくれたあの警備隊長。

朝からきっちりとスーツを着こなし、腕には着替えを一式抱えている。

 

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 

「ええ、それはもう。それはそうと、貴女は警備隊長の他に侍女も兼ねてるんですか?」

 

「いえ、ちゃんと侍女なら他にいますよ。私の仕事はあくまで警護と治安維持なので。ただ、奥様が見知った顔に側仕えさせた方が気疲れしないだろう、と」

 

「つい昨日顔見知りになったばかりですけどね。そもそも私は貴女の名前すらまだ知りませんし」

 

「シンボリカストルと言います。以後お見知りおきを……ああ、貴方の自己紹介は結構ですよ。既に奥様から伺っていますから」

 

「そうですか」

 

「あ、着替えここ置いておきますね。どうぞごゆっくり」

 

「ええ、ありがとうございます」

 

彼女が退室したのを見計らって、新しい服に袖を通す。

用意されたのは昨日までのシャツとズボンではなく、ジャージとランニングシューズだった。恐らく、昨日ルドルフと交わした約束が既に他の者にも知られているのだろう。

 

カーテンを開き、窓から外を覗くと空には薄く雲がかかっている。

今日はあの直射日光に晒されずに済みそうで少し安心した。晴でも雨でもなく、太陽だけが隠されたこの曇り模様は、外で走り込みをするには絶好の天候に違いない。

靴を履きかえ、スマホをジャージのポケットに突っ込んで僕も部屋の扉を開ける。

 

「おはよ」

 

「わっ」

 

その瞬間、横から思いきり抱きつかれる感覚。

見ると、僕と同じくジャージに着替えたルドルフが腰のあたりにしがみついていた。

初対面の時と全く同じ格好だ。

 

「あっ、ここウチで一番いい部屋じゃん」

 

「やっぱりか。だとしてもどうしてそんなものを僕に」

 

「お客様だからじゃない?丁重にもてなされてるんだからありがたく受け取ってよ」

 

「ありがたいにはありがたいんだけど若干重いんだよな」

 

「わがままだなぁ」

 

彼女は腰に抱きついたまま横から前へと回り込むと、今度は僕の腹に顔を埋めてぐりぐりと押し付けてくる。

傍から見れば小さい子が甘えている可愛らしい光景だが、しかしそこは幼くともウマ娘であるルドルフのこと。臓腑にかかる圧迫感がとんでもない。

まだ朝食前の、胃の中になにも入ってない状態でつくづく助かった。

ぽんぽんと、タップアウトのように彼女の背中を叩く。しかしその手はあえなく尻尾で払い除けられてしまった。

 

「ぐ……ちょっと、ルドルフ。苦しいから離れてくれるかな」

 

「や!!」

 

「わっ……!?」

 

ルドルフはそのまま目一杯突進し、僕を力ずくで部屋の中まで押し戻す。

二人の体が完全に扉を潜ってもその勢いは止まらず、しまいにはベッドの上にまで押し倒されてしまった。

若干えづきながら上半身を起こすと、抗議する間もなく彼女は再び部屋を出ていってしまう。

なにがしたいのかと訝しみながら見守っていると、すぐにキッチンワゴンを牽きながら再びこちらに戻ってきた。通りすがらに手早く扉を閉めて鍵をかける。

 

「感心しないな。仮にも男女が鍵のかかった部屋で二人きりなんて」

 

「襲うような度胸お前にはないでしょ。もしあったところでヒトの男なんか返り討ちにしてやるから」

 

ワゴンの上でポットから茶を注ぎ、朝食の乗ったプレートと共にこちらへと渡される。

ベッドの上で手をつけるわけにもいかず、とりあえず近くのテーブルまで移動して座ると、ルドルフもまた自分の分を用意して対面に腰かけた。

 

揃って手を合わせ、朝食にありつく。

二人きりで食事をとるのは少々居心地が悪かったので、それを誤魔化すためにテレビを点けると、丁度今日の天気予報の真っ最中だった。

 

「夕方からは雨か。まぁそれまではずっと曇りだから別にいいけど……あんまり湿気ているのもそれはそれでキツいな」

 

「昨日の夜も降ってたみたいだからね。だから昨日よりはもうちょっと涼しいと思うよ」

 

「そもそも夏自体、あまりレースやトレーニングには向いてないと思うんだけどね」

 

「だからといってサボってるわけにはいかないでしょ。そういえば、トレセン学園だとこの時期はどうしてるの?」

 

「あー……たしか、夏合宿があるとか聞いたことがあるな。各自トレーナーの引率で学園管轄の合宿所に遠征するらしい。その近くには海もあるんだとか」

 

「へぇ……海か。ルナも行きたいな」

 

「意外だな。海に行ったことがないのか君は」

 

「違う違う。海水浴なら何回も行ったことはあるよ。そうじゃなくて、今年の話。まだ一回も行ってないから」

 

ニンジンを頬張りながら、どこか思い出に浸る様子でそんなことをぼやくルドルフ。

先日から薄々感づいてはいたが、やはり彼女の本質はかなり活発で外向的だ。引き籠るという行動自体が、少なからず精神的ダメージを与えてはいないかと心配になってくる。

 

「お前は海には行ったことがあるの?」

 

「何回かね。ただ日本よりもアメリカで見たことの方が多かったかな。まぁどちらも太平洋だったから、見てるものは同じだけど」

 

「ふぅん。ルナも西海岸なら何度も行ったことがあるよ。お祖父ちゃんが連れてってくれたの」

 

「僕の場合は母さんだったけど」

 

「母さん……って誰なの?やっぱりウマ娘?」

 

その疑問に、僕は無言でベッドの上にあるぱかプチを示してみせる。

ルドルフの提案通りに抱き枕となったそれは、相変わらず陽気な笑顔を湛えながら枕の隣で横たわっていた。

 

「ほんと?それにしては目の色が全然違うけど。髪だって青鹿毛じゃないし」

 

「血の繋がりがあるわけじゃないからね。あくまで育ての親ってだけだよ」

 

「へぇ……なら、本当のお母さんはどうだったの?その人もやっぱりウマ娘だったのかな?」

 

「顔も名前も知らないからなんとも言えないけど……まぁ僕としては十中八九そうなんじゃないかと思う。隔世遺伝という可能性も、なくはないかもしれないけれど」

 

「会いたい?」

 

「いや………特には。僕には母さんがいるから、別に」

 

「ふぅん」

 

よく分からないといった様子で頷くルドルフ。

血の繋がった家族に囲まれて成長してきた彼女には、理解の及ばない話なのかもしれない。

 

とはいうものの、別に僕自身とて愛情に飢えながら生きてきたわけではない。

母もあれでいて彼女なりに愛情は注いでくれているし、カフェや兄さん、他にも孤児院やレース教室の生徒たちだっている。それら全てをひっくるめて一つの大家族のようなものだから、むしろ他者との交流は人並み以上のものがあった。

そう考えると、使用人含め大勢の者が生活するこの屋敷もまた一つの大家族といえるのではないだろうか。その意味では、僕とルドルフは実のところ似た者同士なのかもしれない。

 

「そういえば一つ、今の話で引っかかったところがあるんだけど」

 

「なに?」

 

「よく僕と母さんの瞳の色が違うって分かったな」

 

ベッドの上にあるぱかプチは両目を閉じているから、毛色と違ってその瞳の色までは分からないはずだ。

たまたま昨日、別の表情のぱかプチを見つけていたか……それとも、本物を写真や映像で見たことがあるのだろうか。

あれでも有名人だから、そんなことがあっても全く不思議ではないが、少し気になる。

 

「数年前に一度だけ、本物を見たことがあるから。遠くから一瞬だったけど……目の色はたしか、金色だった」

 

「正解。それにしても数年前か、よく覚えてるな」

 

「私は一度見た顔は絶対に忘れないの。そういえばその後、お母さんが約束してくれたっけ。ルナがもう少し大きくなったら、今度はちゃんと会わせてあげるって」

 

「会ってどうするんだ。そんな楽しいものじゃないぞ」

 

「楽しいよ。一緒に走ってもらうの……昔アメリカで随分活躍してたんでしょ、そのウマ娘」

 

「………ひょっとして、その今度が昨日のことだったりする?」

 

「そうかもね」

 

思い返せば、スイートルナは最終交渉の場に母がいないことがかなり不服そうな様子だった。

しかしあんな、母の言ったとおり形式的にただサインを貰うだけの場面において、果たして本当に本人が必要だったかについてはいささか疑問が残る。

 

つまり彼女の真の目的は、他ならぬサンデーサイレンスにルドルフの引き出しを任せることだったのではないか。

そしてそれを予め察知していた母が、無理やり僕を身代わりとして交渉の場に向かわせた……と。

契約の更新はしたいものの、かといってそんな面倒は真っ平ごめんな彼女にとっては都合のいい人選。そういえば、ルドルフの写真を寄越してきた時に、屋敷で会うことがあるかもしれないとかなんとか言っていた記憶がある。

 

「嵌められた………」

 

「なに、どうしたの?」

 

「いや……ところでルドルフ。やっぱり昨日は僕よりサンデーサイレンスが来た方がよかったのかな?」

 

「え?うーん……どうだろ。でも、優しそうだからお前の方がいい気がする。あの人はなんか猫背だし、目つき悪いし、いつも機嫌悪そうだし」

 

「でも僕と違って足が速いし、いっぱい走れるぞ?」

 

「お前だって走れるでしょ。なんのためにジャージに着替えたと思ってるの?」

 

それは、僕にサンデーサイレンスと同じ程度の走りを期待しているということだろうか。

ニワトリに空を飛べと命じるに等しい所業だと言わざるを得ない。しかしルドルフは平気でそんなことをしそうな印象もある。とりあえず、足だけは絶対に壊さないように気をつけよう。

 

彼女には悪いが、こんなことのために体を潰す気まではさらさらない。

ヒトはウマ娘と違って走りたがりな本能もないわけだし。

 

「まぁ、それは食事の後ということで……。折角だから、ルドルフの家族のことも聞かせてよ。たびたび話に出てくる兄姉のこととか」

 

「姉さん達のこと?いいよ」

 

デザートのリンゴを頬張りながらルドルフは縦に首を振る。

昨日買ったばかりのアクセサリーが、それにつられて耳元で揺れた。

 

「といっても、兄さんの話はあまり面白くはないと思う。いずれ家のお仕事を継ぐから、別にトレーナー目指してるわけでもないし」

 

「ならお姉さんは?ウマ娘なのか?やっぱり中央で走ってたりするのかな」

 

「少しだけね。全然結果が出ないからすぐに辞めちゃったけど……代わりに今は中央トレーナー目指してるんだって」

 

「まぁ、よくある話だな。競技者として芽が出なくても、指導する側に回れば花開くウマ娘は多い」

 

「その逆も多いけどね。姉さんは今、友達と勉強会の合宿中」

 

「トレーナー試験に向けた対策かな?僕の兄さんもそういえば泊まりがけの勉強会だったな」

 

彼も中央のトレーナーを目指しているわけだが、まさか同じ合宿に参加しているのだろうか。

……流石にそれはないか。いくらなんでも世界が狭すぎる。

 

「そのお兄さんとは血は繋がってるの?」

 

「いや、兄さんと………その妹もいるけど両方血は繋がってないよ。どっちも母さんの実の子供」

 

「へぇ、あの人に娘がいるの。その子はウマ娘なの?」

 

「うん。母さんと同じ金色の目と青鹿毛のウマ娘。名前はマンハッタンカフェと言って……彼女も中央を目指してるよ」

 

「ふぅん……なら、あと数年したら会えるかもね。トレセン学園で」

 

「その時は仲良くしてあげてよ」

 

「それは向こう次第だけど……どうせあの人に似て変わったウマ娘なんでしょ。なら付き合うのもきっとおかしなウマ娘だけだよ。類は友を呼ぶって言うでしょ?」

 

初めて名前を知った相手に、これまた随分な言い様だ。

少なくとも現時点において、ルドルフには友人すらいないわけだが。

 

「その言葉、そっくりそのまま返ってこないといいけどね。学園に入れば君も変わった友人に振り回されるかも」

 

「冗談。ルナをからかえるウマ娘なんて存在するわけないでしょ。将来の姉さんのトレーナーバッジを賭けてもいい」

 

「実の妹に勝手に担保にされるとは……お姉さんが知ったらなんと思うか」

 

「知らない。ルナに妹はいないから」

 

「なら、君にも妹が出来れば少しは落ち着いた性格になるのかな。想像つかないけど」

 

「いいねそれ。お母さんにクリスマスプレゼントに頼んでみるよ。『ルナは妹が欲しいです』って」

 

最後のリンゴを口の中に放り込むと、数回咀嚼して胃の中へと流し込んでいく。

少々欠片が大きすぎたのか苦しげに顔をしかめた後、何度か胸を叩いてルドルフは椅子から立ち上がる。

 

既に食べ終わっていた僕もまたそれに続き、彼女のプレートと重ねてワゴンの上に置いておく。

あとはこの家の使用人に任せておけばいい。

 

「んじゃ、行こっか。雨になる前に、一秒でも長く走り込まないと」

 

「はいはい………お手柔らかに頼むよ」

 

「はいは一回!!」

 

「はい」

 

落ち着いて食事をしているように振る舞いながらも、本当は今すぐにでも走り出したくて堪らなかったのだろう。

軽快なステップで僕の背後に回り込んだルドルフが、今度は逆に部屋の外へと押し出してくる。

 

背中側で助かったとその凄まじい圧迫感に八分目の自分の胃を省みながら、僕は突き飛ばされるように部屋の外へと躍り出た。

 



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ルナちゃんのなつやすみ『2日目:昼』

 

名門の……というよりシンボリ家の勢力、その精到さについてやはり僕は考えが甘かったらしい。

その敷地の広大さについてはよくよく理解していたつもりだったが、まさか芝のコースが丸ごと完備されているとは思わなかった。

それともレース競技界の重鎮ともなれば、この程度の設備は自前で用意できて当たり前なのだろうか。それこそメジロでも同様なのか、将来そちらの関係者と繋がりを持てた際には是非確認をとりたいと思う。

 

彼女の並走やレースに付き合うといったところで、所詮家の庭で収まる程度だろうと楽観していた。

その庭の認識がおよそ現実と乖離していたことについて、今更悔やんだところでもう遅い。

 

「ほら、あともう一本いくよ!!」

 

「ぐ……はぁ……あ、あい……」

 

気持ちよく汗をかいたといわんばかりの清々しい表情のまま、僕の隣で足の腱を伸ばすルドルフ。

その姿を横目に見ながら、ただただ必死で息を整えていた。こうして膝に手をついたのは、一体どれ程ぶりになるだろうか。

 

「大丈夫?無理ならもう一回休憩挟もうか?」

 

「いや、大丈夫……ただ、ちょっと自分が情けなくなって」

 

「情けない?」

 

「ああ。井の中の蛙だったんだな……と」

 

これでも一応、自分の体力と脚力にはそれなりに自信があるつもりだったのだ。

 

走りという分野において、僕がこれまで全く手も足も出なかったのは母だけだった。とはいえそれも、相手が成熟したウマ娘であり、さらには米国二冠バという実績も鑑みればいくらでも言い訳は立つ。

それ以外の、もっと僕と近しい立場の人間……それこそ同じ学年の生徒なんかは、たとえば陸上部の主将であろうと下してきたし、同じくウマ娘を母に持つ兄との並走でも互角に食い下がっていけた。

故に、心のどこかで慢心していたのだろう。いくら天才とはいえ、この歳のウマ娘相手ならなんとかなるだろう、と。

 

もはや体面を取り繕う余裕もなく、大口を開けて全力で酸素を肺の中へと送り込む。

二、三度か地面を蹴るように足で掻くことで、ようやく失われかけていた感覚も戻ってきた。

そんな僕の様子を見かねたのか、ルドルフがやや悩ましげに眉を下げる。

 

「………やっぱり休もっか?」

 

「いや………ああ、そうだな。次の一本が終わったらそうしようか」

 

ルドルフに倣って僕も準備運動を済ませると、再びスタートポジションにつく。

隣に並んだルドルフが靴紐の点検を済ませたところで、先程から考えていたことを提案してみる。

 

「なぁ、ルドルフ。最後の一周についてなんだが……今度は3000メートルでやってみないかな?」

 

「え………ルナはいいけど、お前は大丈夫なの?せっかく2000メートルに慣れてきたところだったのに、いきなり1.5倍にするなんて」

 

並走を行うにあたって、僕たちは2000メートルを一セットとしていた。

そこに特に深い理由はなく、せいぜい最もスタンダードな中距離であるからとか、クラシック初戦の皐月賞と同じ距離だからとかいう程度のものである。

 

結局のところ、今日の並走の目標は僕とルドルフがそれぞれ自身の勘を取り戻すというところにあった。

そもそも普段レースに向けて運動しているわけではない僕は言わずもがな、一人でのトレーニングに傾倒していたルドルフにとっても大切なプロセスである。

ランニングマシンで走ることと、ターフで他人と走ることとではやってる行為は同じでも必要とされる感覚がまるで異なるためだ。

こんな状態ではレースどころの話ではないため、とにかく最初は並走で感覚を取り戻すことが優先だった。僕としてもようやく、体力の配分や足の使い方を思い出せてきた所である。

 

そんな最中にいきなり1000メートルにも及ぶ延長。

ルドルフが驚くのも無理のない話だろう。

 

「折角だから、長距離でのルドルフの実力も見ておきたい。無理そうだったら途中で切り上げるから、君は気にせず前だけ見て走ってくれればいい」

 

「ふーん……ん。分かった」

 

一つ頷くと、スタートライン手前でやや前傾気味に構えるルドルフ。僕もまたそれに倣う。

 

既に半日もこれを繰り返していたためか、最早僕たちの間にかけ声は必要ない。合図すら出さないまま、全く同時にコースへと飛び出した。

 

「ふっ………!!」

 

細く息を吐き出しながら、ルドルフはまるで泳ぐように芝の上を駆け抜けていく。

その飛び出しに迷いはない。構えた際に溜め込んだ力を筋肉に乗せて、まるで銃弾が発射されるように一切の無駄なく真っ直ぐに飛び出した。

それは最早、天性のセンスによって成し遂げられる領域だろう。

とはいえ、これはあくまでも並走。まだお互いに技術をこらして競い合うような場面でもない。事実、今のところは僕でもまだ食らいつけている。

 

ルドルフの脚色は衰えない。

何度かコーナーを曲がり、2000メートルへ至る最後の直線。先程までならここで終わりだが、今回はさらにその先がある。

 

レースにおいて、距離とは走りに最も大きく作用する要素だと言っても過言ではない。

根幹距離と非根幹距離の得意不得意はまさにその顕著な例だろうか。たとえば根幹距離である秋天2000メートルと非根幹距離であるエリザベス女王杯2200メートルでは、距離の差異はたったの200メートルしかないものの、その影響は数字以上に大きい。

たった200メートル違うだけで、走法や呼吸法も大幅に勝手が違ってくるからだ。故に、根幹距離で実績を残しても非根幹距離では全く振るわないウマ娘も多いし、その逆も同様である。

 

当たり前だが、突然の1000メートルの追加はそれの比ではない。

そもそも長距離へと区分すら変わるのだから、中距離で慣らしたばかりの体では普通は満足に走れまい。

今はそれでも良かった。そんな状況の中で、一体ルドルフがどのような走りを見せるかにこそ興味がある。

 

「っ!!…………ぐっ……」

 

……言うまでなく、それはそっくりそのまま僕にも当てはまることではあるが。

膝から下、特に地面と接する足の裏が痛む。繰り返された並走の末に、両足に馴染んだ距離の感覚から逸脱した結果、重い負荷となって僕の体を苛んでくる。

最終コーナーを曲がる際も、その遠心力にほんの一瞬だけ足元がふらついてしまった。

 

そんなこちらの様子にチラリと目線をくれるものの、しかしルドルフは一向にスピードを緩める様子はない。バテる気配もなく、淡々と最後の直線を駆け抜けていく。

そのまま僕を背中で見つつ、鋭いスパートをかけながら彼女は3000メートルの距離を踏破した。

 

「はぁ………う、ふぅ………」

 

それでも疲れるものは疲れるのだろう、乱れた呼吸を整えながらルドルフは遅れてゴールした僕の方に寄ってくる。

萎んだ肺を必死に膨らまそうと天を仰ぐ僕の手を引いて、近くにある木陰へと導いた。

 

「ほら、やっぱりいきなり長距離は無理があるって……はい、タオルとお水」

 

頷いて礼を返し、手渡されたタオルで首筋に流れる汗を拭う。ペットボトルの温いミネラルウォーターを勢いよく胃の中に叩き込むと、ようやく幾らか調子が戻ってきた。

いくら直射日光のない曇り空とはいえ、それでも夏の盛りであることには変わりない。次からはもう少し環境を整えてみようと、頭の中で今日の振り返りと反省を行う。

 

「それで、どうだった?ルナとの並走」

 

「どう……というと?」

 

「もう……なにかないの?走ってて楽しかったとか、私の並走相手として感想の一つぐらいあるでしょ?」

 

尻尾をブンブンと振り回しながら、膨らませた頬を僕へと近づけてくるルドルフ。

普段は好き勝手動くくせに、こういう時ばかりすり寄ってくるのはまるで猫みたいだなと、不意にそんなことを思った。

 

「感想か。当然、僕としても思ったことはある」

 

「本当!?……なに、なんなの」

 

最後の3000メートルも含めて、今日ルドルフとこなした並走の記憶を全て洗っていく。

トレーナーでもなんでもない、あくまでアマチュアとしての見解に過ぎないが……彼女の走りの特徴というものが、朧気にでも掴めてきたような気がした。

 

「君はかなり万能だが……強いていうなら長距離向きだな。最後のレースでも、伸びた距離を見越した上で的確にスタミナを配分していた」

 

恐らくだが、最初から完璧に体力の割り振りを構築していたわけではないだろう。

スタミナの消耗度合いと残されている体力について、実際に走っていく中で想定との違いを把握し折り合いをつけて完成させた。

ポジション争いに前後の動きの予測、作戦の実行と修正を同時並行で絶えず繰り返すことが求められるレースにおいて、スタミナ管理の巧みさはまさしく長距離に必須の能力である。

その点において、ルドルフには確かな素養があった。

 

「…………………………」

 

ルドルフは何も言わない。

無表情のまま、僕の感想に耳を傾ける。

 

「脚質は……分かり辛いけど、一番適正があるのはたぶん差しだ。レース中、周囲にも目を向けられる冷静さと、それに引き摺られない図太さ。特に末脚には目を見張るものがあるから、それを生かすためには先行よりももっと後ろに陣取った方がいい」

 

「…………………………………」

 

「ただ、かといって先行自体が苦手というわけでもなく、むしろそれも適正になり得るかもしれない。逃げや追い込みも同様に……だとすると、君の脚質は自在というのが一番適切かも………」

 

 

「……あの、さ」

 

 

現時点において僕の持つ知識と照らした並走の感想。

しかしそれは、ルドルフの欲しかったものとは全くかけ離れたものだったようで。

 

「私は、並走相手として(・・・・・・・)お前の感想を聞いたつもりだったんだけど。なに………もう一度聞くけど、お前はルナのトレーナーにでもなったつもりなの?」

 

「いや………そういう、つもりでは」

 

「だってそうじゃん。みんなの代わりにルナとの並走に付き合ってくれるって言ってた癖に……結局お前は、私の隣では走っていなかった!!ただの一度も!!」

 

無表情だった顔をみるみる歪ませ、ルドルフは両腕で僕の体を突き飛ばす。

幼いとはいえ、ウマ娘の全力に抗えるはずもなく……僕はたまらず地面に仰向けへと押し倒されてしまった。

手元から弾き飛ばされたペットボトルが、その中身をぶちまけながら彼方へと転がっていく。

 

「つまりお前は、ルナのことをただの……ちょっとかけっこが得意なウマ娘程度にしか見ていなかったんだ。良かったね?トレーナー試験のいい勉強になったでしょ?」

 

「ルドルフ………」

 

「それとも、最初からこれが目的だったのかな?お前はそんな、無償で引きこもりの社会進出を手伝ってやる程お人好しには見えないもの。お母さんから聞いてるよ………一体いくら掴まされたの?」

 

仰向けに空を見上げる僕の腹へとウマ乗りになり、ずいと顔を寄せて睨め上げるルドルフ。

開かれた瞳孔に、唇の間から鋭い犬歯の覗くその姿は最早ウマ娘ですらなく、伝説に出てくる化生かなにかのように思えた。

 

 

「ねぇ………教えてよ。答えて……答えろ!!!」

 

 

「ぐ、くぅ………」

 

僕は………見誤ったのか。

ルドルフのことを、優れた能力を備えながらもそれ故に厭世的な……どちらかといえば大人しいウマ娘だと踏んでいた。妙に大人っぽいというか、声を荒げるようなことはしないだろうと。

 

隠していただけだったのだ。

己の獣性、狂暴な本性に蓋をして仮面をつけて。ルドルフは断じて穏やかなウマ娘などではない……その攻撃性は比類ないものだろう。

あるいはそれを闘争心というのだろうか。事ここに至って、ようやく気づいた僕も間抜けという他ない。

 

「さぁ……よく、覚えていないな……」

 

「そう。やっぱりお金のやり取りしてたのは事実だったんだ。ちょっとカマをかけてみただけなんだけど」

 

「今年の契約更新もかかっていたからな」

 

「ああ、確かそっちの施設への援助だっけ。そのためにここまでする?ルナなら絶対にごめんだけど……そんなにお金が欲しいわけ?」

 

「欲しいね。それがなくちゃ生きていけないからな……僕がこの歳で、働きもせずのうのうと学校に通うためには、ね」

 

「………そのために、こんな茶番に付き合わされたルナの気持ちがお前には分かるの?私が昨日まで、どんな気持ちであの地下室に一人でいたのか!!」

 

「知らないね。分かるはずがないだろう、そんなこと」

 

目の前のルドルフに額をくっつけて、そのまま力ずくで上体を起こす。

地面に座り込む僕と、その腿の上に跨がるルドルフとで正面から睨み合うような格好になった。

 

「君だって分からないだろうさ。絶対にごめんなんて言葉が許されないものの立場が。僕だって、出会って一日のウマ娘の気持ちなんか分かるはずもない。だから、それでいいんだよ。なにもかもが君の理解の範疇にあるとでも思っているのか」

 

「なに、を………」

 

「それに、茶番とさっき言ったな?少なくとも僕は、ただの小遣い稼ぎのために君に付き合っているつもりはなかったんだが」

 

靴と血の滲んだ靴下を脱ぎ、ジャージのズボンを捲ってその下にあるものを露出させる。

足の裏は皮がふやけ、完全に下の肉から剥離してしまっていた。とりわけ負荷の大きかった親指の爪は内出血でどす黒く変色し、見るに耐えない様相を呈している。

シューズと擦れ合う足首の部分は赤く皮が剥け、うっすらと血も滲んでいた。

 

たんなる小遣い稼ぎ、あるいは興味本意の物見遊山……最初はそのつもりだった。

それがまぁ、よくもここまで入れ込んだものだ。

 

「え……なに、それ。大丈夫なの……?」

 

露になった惨状に息を呑むルドルフ。

若干腰が引けたところをすかさず横に押し出し、彼女を腿の上から退ける。

 

「見た目だけだよ。どうせ明日にでもなれば元通りだ。僕は人より体が丈夫だからな……まぁ、それでも君が余裕で走るこの距離で、ここまで消耗するのが現実だけど」

 

「………………………っ」

 

「だから、分かるはずがないと言っただろう。僕だけじゃない……過去の並走で潰された子やその親の気持ちだって、君には理解できないだろうが」

 

「それは………そうだけど」

 

「そして、彼女達もまた君の気持ちを分かっちゃいない。だからこそ、お互いに歩み寄るしかないんだ」

 

おもむろに立ち上がり、脱ぎ捨てた靴下を拾い上げる。

血と汗で汚れたそれらにもう一度足を通すのも躊躇われたので、仕方なく素足のまま靴に指先を突っ込んだ。

もう今日の並走は切り上げだろうし、これで妥協しよう。

 

「ルドルフ。明日もう一度、あのグラウンドに行ってみないか?いい加減ここも走り尽くしたし、そろそろ環境を変えてみたい」

 

「でも、ルナは入っちゃ駄目だって」

 

「あんな一方的な出禁に効力なんてあるものか。それにズルいかもしれないが、あの係員ならやり方次第で幾らでも絆されてくれそうだし」

 

「……行ったところで、どうせ私は誰からも相手されないよ。一緒にいるお前だって」

 

「分からないぞ。もしかしたら一人ぐらい、僕たちに絡んでくる輩がいるかもしれない」

 

木陰から一歩踏み出した瞬間、不意に強く鼻先を叩かれる。

見上げると、空は分厚い鉛色の雲で覆い隠されていた。そこからぽつぽつと、大粒の雨が溢れ落ちて顔を突き刺す。

それはみるみる内に勢いを増し、すぐにバケツをひっくり返したような凄まじい豪雨と化し世界から僕たちの姿を覆い隠した。

 

「いこっ。早くお屋敷の中に戻らないと」

 

「こら、そんなに腕を引っ張るんじゃない。こっちは怪我してるんだから、もう少しゆっくり……」

 

「濡れたくないもん。それに見た目だけなんでしょ?ほら、染み込むと傷に障るから早く」

 

強すぎる雨はまるで靄のように視界を遮る。

それでも、遠く屋敷の窓からカストルが手を振っているのは見えた。

 

彼女を目印に、僕たちは二人並んで屋敷の玄関を目指し走る。

正真正銘、本日最後のルドルフとの並走だった。

 



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ルナちゃんのなつやすみ『2日目:夕方』

◆◇

 

昼に降り始めた雨は日が暮れても一向に収まる様子を見せず、それどころかますます勢いを強くしているようだった。

このぶんでは、どのみち明日は庭のターフは使い物にならなかっただろう。

 

夕食を済ませた僕とルドルフは、今は二人揃って屋敷の地下室にいる。

どうせ部屋の中に籠るなら、こんな土の下よりも上階に戻った方が快適だと思うのだが、彼女はなにがなんでもここから動くつもりはないらしい。

あれだけ意地を張っていた手前、もう引き返すことすら出来なくなっているのかもしれない。難儀なものだ。

 

ソファの上で横になりながら、テレビの映像をただぼうっと眺めていく。

地方の祭りが盛況だの、海開きで今年も大勢の観光客で賑わっているだの、雨でも幼児とお年寄りは熱中症に注意だの、たいして目ぼしい情報もないニュースコーナーが終わったと思ったら、今度は天気予報の時間。

全くも面白くもないが、とはいえチャンネルを変えることすら億劫なので好きに喋らせておこう。

 

「明日は………晴れか。止むんだな、ちゃんと」

 

雨天だからといって、恐らく僕たちの並走が中止になるわけではないだろう。ルドルフがそれを許さないと思う。

そもそも実際のレースからして、雨の日でも雪の日でも当たり前のように行われるものだ。台風でも直撃したならともかく、この程度の雨で練習は切り上げられない。せいぜい時間が短くなる程度だろうか。

そんな無茶が通用するのも、ひとえに彼女らウマ娘の体温の高さのによるものである。彼女たちの体表では、雨水もその体温により蒸発し靄となって全身を覆う程である。少し激しい程度の雨なら、むしろ涼しくて大歓迎だとこの時期なら言うかもしれない。

それもまたウマ娘という存在が、極めてヒトに酷似しながらも、その根底において決定的に異なる生物であることの証左だろうか。

 

そんなことをつらつらと頭の中で思い浮かべながら寝っ転がっていると、ソファの後ろにある扉が音を立てて開かれる。

 

「お待たせ。お風呂空いたよ」

 

「いや、僕は使わないからね?ここに来る前に大浴場を借りてきたところだし」

 

「せっかくお湯張っておいたのに。まぁルナが使った後だけど……もう一回入ってきたら?」

 

「やだよ。一時間に二回もなんて」

 

この家の主人たっての勧めということもあり、お言葉に甘えて久しぶりに長い時間浸かってきたところだったのだ。

そうでなくとも日中あれだけ激しく体を動かしたことだし、これ以上汗をかくようなつもりはない。

 

「お風呂なんて入れば入るだけいいものじゃないの」

 

「肌が荒れるだろ。人間にとってはわりと一大事なんだよ。まぁ、君たちには縁のない話かもしれないけども」

 

「まさか。ウマ娘だって肌荒れぐらいするよ普通に。じゃなきゃウマ娘専用の化粧水なんて売ってるわけないでしょ」

 

呆れたようにその形の良い眉を下げるルドルフを前に、僕は少しだけ感慨深いものを覚えていた。

彼女たちにもそういう悩みがあるとは知らなかった。なにせ日頃、あれだけ不摂生している母には微塵もそういった兆候が見られない。単純に、彼女だけが異常なウマ娘だったということなのだろうか。

 

ぶかぶかのタンクトップに袖を通し、タオルを首から提げたルドルフは、冷蔵庫から水を取り出すと軽快な動きでソファを飛び越えてくる。

そのまま僕の隣に着地すると、スリッパを履いた足でどいてとこちらを軽く小突いてきた。

 

「仮にも人の部屋だというのに、よくもまぁそこまでふてぶてしくくつろげるね」

 

気楽にしろと言ったのは彼女の方だろうに。

横たえていた身を起こすと、そこに埋まれた空間にルドルフはすっぽりと収まる。タオルで水気を拭うたび、爽やかなシャンプーの香りが鼻を貫いた。

 

「ちゃんとドライヤーで乾かしたのか?水気が残ったままだと寝癖が酷くなるぞ。特に君は毛量が多いから」

 

「えー面倒くさい……じゃあ、お前がルナの髪の面倒を見てよ。せっかくここにいるんだから」

 

なにが折角なのかは分からないが、どうやら彼女は僕のことをとことんまでこき使うつもりらしい。

 

今度はこちらがソファから立ち上がり、その後ろへとまわる。

つい先程彼女が出てきたその扉を開き、脱衣場へと続く途中にある洗面台を覗いた。

すぐにボックスの上にぽつんと寂しく横たえられたドライヤーを見つけたので、ケーブルをコンセントから引っこ抜いてぶら下げたまま居間へと戻ると、その隙にルドルフはだらしなくソファの上に寝っ転がっていた。

 

頬杖をつき、ちびちびとペットボトルに口をつけながらテレビを眺めるその姿には、およそ少女らしい可憐さや純朴さは欠片も見受けられない。

僕とは比べものにならないぐらいのふてぶてしさというか、いっそ貫禄じみたものすら感じられた。要するに親父臭い。

 

「……これは将来が心配だな」

 

「なに?なんか言った?」

 

「お付き合いで苦労しそうだと言ったんだ。別に女の子らしくおしとやかにしろなんて時代錯誤なことを言うつもりはないけどね……君と懇ろになる殿方はさぞ大変だろうよ」

 

「もしそうなってもお前が貰ってくれるんでしょ?なら、今の内に慣れておきなさいよ。一生幸せにして頂戴な」

 

頬杖を崩し、頭の後ろで手を組んでごろんと仰向けになると、ルドルフはにやにやとした笑みを浮かべながら楽しそうな口振りで僕をからかう。

その尻尾がゆらゆらと揺れたかと思うと、まるで蛇のように片足へと巻きつけてきた。

 

相変わらず弁が立つというかなんというか、どうも口のやり取りでは彼女には敵わないらしい。

それでも黙って引き下がるのは癪なので、手にしたドライヤーの持ち手でその頭を小突く。

 

「このっ」

 

 

「ぎゃおおん!!!!」

 

 

効果覿面。

まるで尻尾を踏まれた猫のような鳴き声を上げながら頭を抱えてしまった。

体を丸めたついでに尻尾の戒めも解かれたので、これ幸いとばかりにルドルフの小さな体を抱き上げる。

 

「ちょっと、なにするの!!お父さんにもぶたれたことないのに!!」

 

「なにって、髪の手入れをしろと命じたのは君の方だろうが。ならちゃんと大人しくしていろ」

 

「だからって、こんなペットサロンのカットみたいに雑に扱わないで!!」

 

「ペットサロンのペットの方が、今の君よか何倍も聞き分けがいいだろうよっ……!!」

 

涙目でこちらへ振り向きながら、その細い手足をじたばたとさせるルドルフ。

たかが九歳と侮るなかれ。これまでの人生で抱え上げてきたどんな生物にも勝る強敵に違いない。幼く華奢な肢体にこれほどまでの力が詰まっているとは、それもある種の生命の神秘だろうか。

 

抵抗するルドルフをなんとか拘束し、生まれたソファの隙間へとすかさず身を滑り込ませる。

どうにか膝の上に彼女をのっけることに成功すると、近くにあったコンセントにドライヤーのケーブルを突っ込んだ。

ついでにウマ娘用のブラシも用意する。両方とも手の届く範囲にあったのは幸運だった。

 

「ほら、今度こそちゃんと大人しくしててよ。じゃないと引っこ抜けるからな」

 

「……はーい」

 

むくれた様子で頬を膨らませながら、僕の膝の上で両足をプラプラとさせている。

二人の間に挟まった尻尾だけが、せめてもの反抗の意を示すかのように手首へと巻きついてきた。

 

それを振りほどきながら、温風で水気を飛ばしつつ丁寧にその鹿毛をブラシで鋤いていく。

ドライヤーの出力を徐々に強めてみると、その風が当たってくすぐったいのかパタパタと両耳を上げ下げしている。

ウマ娘の耳はヒトのそれよりもデリケートだ。さらに側頭部ではなく頭の頂上に並んでいる構造上、水滴が中に入りやすく乾きにくい。かといって、放っておけば最悪炎症にも繋がりかねない。

ヒトよりも耳の位置が脳に近いウマ娘にとって、炎症を始めたとした耳の病はそのまま命に関わりやすい。菌が容易く脳へと到達してしまうからだ。故に、手入れはことさら入念にしておく必要がある。

 

基本的にヒトより優れるウマ娘といえど、決して良いことばかりではないのだ。

その頑丈さに胡座をかいていると、後から手痛いしっぺ返しを食らうことにもなりかねない。

 

「あっ………やめて。そこ、くすぐったい……」

 

「我慢してくれ。ちゃんと乾かさないと駄目なんだから」

 

「う………うぅん……」

 

暴れまわるウマ耳を摘まんで固定すると、その表面をタオルで拭っていく。

流石に奥深くまで指を突っ込むわけにはいかないので、優しく息を吹き掛けてやるとルドルフの体が小刻みに震えた。

 

「はぁっ………」

 

それでも諦めず世話をしていると、ついに耐えきれなくなったのかルドルフは前のめりにその上半身を丸めてしまう。

 

その瞬間、サイズの合っていないタンクトップの隙間から、彼女の白い背中が露になった。首筋から肩へ、さらにその先の腕へ流れる曲線も外界へと晒される。

美しい、彫刻のようなという表現すら陳腐に思える程の見事な肉体美。まだ未成熟な、少女独特の危うさを醸し出す一方で、その性能を極限まで突き詰め昇華させたがごとき機能美も垣間見える。

未熟と完成、矛盾するそれらの要素を同時に兼ね備えた……いっそ非現実的とすら思える肉体。

 

だが、僕が目を奪われたのはそれではない。

その表層に刻まれた無数の傷痕、数多の瑕疵がどうしようもなく気になって……思わず、指先でつうとなぞってしまう。

 

「や………はぁっ、うんっ……」

 

「おい……さっきから変な声を出すな。大人しくしていろと言っただろう」

 

「お前が変な所ばかり触るからでしょ!!それでも大人しくしてたじゃん!!おかしいのはそっちの方でしょ!?」

 

確かに。そう言われればその通りだ。

今のは僕が悪かっただろう。

 

僕の手からドライヤーとブラシを取り上げ、威嚇するように毛を逆立てるルドルフ。

口元を吊り上げ牙を剥き出しにしたその姿は、やはり幼くとも皇帝というべき確かな威厳がある。

こうして見ても、やはり数秒前まで彼女はきちんと自制していたに違いない。

 

「ああ……そう、その通りだな。ごめんルドルフ、僕が悪かったな」

 

「で?なんでルナの背中をなぞったりしたの?そういう悪戯は私好きじゃないんだけど」

 

「いや、悪戯していたわけじゃなくて。ただその、傷痕が気になったんだよ。見たところだいぶ前のものだろう」

 

「ああ……これ?」

 

ルドルフは限界まで首をひねり、自らの肩や腕周りを確かめる。さらにはタンクトップの裾を引き上げ、その腹も外に出して見せた。

腹直筋のほか、脇腹の周辺にも所々傷痕が見える。痕にならない程度に完治したものも含めれば、彼女の負ったであろう傷は相当な数に昇るだろう。

 

その経緯を想像し冷や汗をかく僕の顔を見たのか否か、少し恥ずかしげにルドルフは笑いながら頬を掻く。

まるで、若気の至りを思い返すかのように。

 

「ちっちゃい頃、ちょっとね。喧嘩とか色々しちゃったことがあって……。でも、今はもう大丈夫だよ!!お母さんもルナのこと『丸くなった』って言ってたし」

 

「今は……なんだって?」

 

「丸くなったって」

 

なるほど、これでもだいぶ落ち着いた方だというわけか。

ぶたれたことにあれだこれだと言っていたが、明らかにぶたれる以上の経験を積んできただろう。真に恐ろしいのは、喧嘩でここまでやり合う人物が他にもまだいるということだ。

恐らく両親ではなく、かといって使用人もあり得ないとなるとそれはつまり。

 

「ちなみに、そんな喧嘩の相手は一体誰なんだ」

 

「姉さん。母さんは構ってくれなかったから」

 

「そんなことだろうと思った」

 

スイートルナがあれだけ恥も外聞もなくすがりついてきた意味が分かったような気がする。

実の母親ですら十分に制御できず、あまつさえ威嚇されているようでは全くお話にならない。

 

成長環境によって、あるいは急激な本格化に伴うストレスによって気性が荒くなるウマ娘は多い。

しかしルドルフのそれは、間違いなく生まれ持った気質によるものだろう。彼女はこの世に生を享けたその瞬間から、勝つことに憑かれているのかもしれない。

 

「君のことは猫みたいだと思ってたけど、これではまるでライオンだな」

 

「ライオン……ふふ、いいね。そう呼ばれたのは初めてかも。二つ名としては悪くないんじゃないの」

 

「二つ名?」

 

「そう。歴史に名を残したウマ娘にはよくあるでしょ?三本足、老雄、天バ、神の子……まぁ、ルナにはもう皇帝があるけど」

 

シンボリルドルフ。

その名は神聖ローマ帝国の初代皇帝、ルドルフ一世にあやかったものだろうか。

かの皇帝によりハプスブルク家は初めて歴史の表舞台に姿を表し、やがて空前の大貴族として中欧を支配するに至った。

彼女もまたシンボリ家の皇帝として、その名と家名を中央の歴史に刻むのだろうか。

 

シンボリは名門ながら、その戦績はいま一つ物足りないとも言われているらしい。

その停滞に終止符を打つ鬼札として、シンボリルドルフの背負わされた重圧は想像するに余りある。

その上でなお、自らを"皇帝"と臆することなく称して見せる彼女の器は……やはり僕ごときには、到底図りかねるものだった。

名は体を表すとは、まさにこういうことを言うのだろう。

 

「……そういえば、二つ名といえば思い出したことがあるんだけど。さっきお風呂で考えてたこと」

 

膝の上で冷房の風を仰いでいたルドルフが、不意に床の上へと降り立つ。

そのまま身を翻してこちらを向くと、満面の笑みでびしりと人差し指を突きつけてきた。

 

「お前にも名前が必要よね!!いつまでも"お前"呼ばわりじゃ可哀想だもの」

 

「………いや、なら普通に呼んでくれればいいじゃないか。というか名前が必要だと言われたところで、僕にはれっきとした名前が既にあるんだけど……」

 

「違う違う。人間としての名前じゃなくて、ウマ娘としての名前。お前は今日からウマ娘になるの」

 

「はぁ……でもどうしてそんなことを」

 

なれと言われてなれるものでもあるまいに。

ウマ娘らしい名前を名乗ったからと言って、ヒト耳が取れて代わりにウマ耳と尻尾が生えてくるわけでもないのだから。

そもそもウマ娘と人間の名前では全く違うが、一人一つであることには変わりない。

 

しかしルドルフはそんなの知ったことかとばかりに、自信満々でその薄い胸を大きく張る。

 

「私と一緒に並走するんだから、やっぱりウマ娘『らしさ』は必要だからね。耳と尻尾がないぶん他の部分で取り繕わないと」

 

「それが、名前の変更だと?」

 

「名前だけじゃなくて。そうだね……例えば一人称。これからは『僕』じゃなくて『私』って名乗ること。分かった?」

 

「まぁ、それぐらいなら別に」

 

それはウマ娘らしさというより、女らしさだと思うが。

とはいえこれまでだって、畏まる時はそれで通していたのだから、別にそれほど拒否感はない。そのぐらいでルドルフが満足するなら安いものだ。

 

……しかし、ウマ娘らしさとは本当に一体なんなのだろう。

 

「ただ一つ言わせてもらうなら、ウマ娘でも一人称がボクの子はそれなりにいると思うんだけど」

 

「キャラ付けでしょそんなの。もし素でやってるとしたら、相当へんな奴だよソイツ」

 

「……また随分と酷い言い種だな。もし将来、君の子供がそう名乗っていたらどうする?」

 

「その時はその時。それよりも、肝心の名前を考えないとね」

 

腕を組み、うんうんとうなり出すルドルフ。

風呂場で考えたとか言っておきながら、実際の名前についてはなにも用意していなかったのか。

 

コンコンと、スリッパの爪先で床を叩きつつ黙考する彼女をただただ見守る。

ルドルフのネーミングセンスは未知数だ。ただ先程"ライオン"でご満悦だったあたり、あまりそのクオリティについては期待できない。

良く言えば年相応、悪く言えば安直といったところだろうか。願わくは、極力無難なものを寄越して欲しい。

 

目も当てられないものを出された場合に備えて、僕も必死で対案を頭の中から捻り出していると、ふとなにかを思い付いた様子でこちらを見上げるルドルフ。

おっかなびっくりそれを尋ねてみる。

 

「……なにが出てきた?」

 

「ん。お前はウマ耳もない。尻尾もない。なのに目と髪の色と、あと顔立ちがウマ娘とそっくり。どこまでも中途半端なんだよね」

 

「いや、滅茶苦茶言ってくれるね君」

 

「でも、だからこそ、名前だけは立派なものをつけるべきでしょ?そんな半端さを打ち消すぐらい」

 

再びあの満面の笑みを浮かべる。

同じように人差し指をこちらに向けながら、ようやく彼女はその名前を口にした。

 

 

「パーフェクト!!お前の名前はパーフェクトだよ!!」

 

 

完璧(パーフェクト)か………」

 

なんとまあ、けったいな名前を付けてくれたものだ。

なにもかも不完全なウマ娘(人間)が、その名を冠すること自体が滑稽極まりないのだが……とはいえ、僕としても妥協できる範疇だろう。

いい意味で安直というか、変に奇をてらったものでもなく……それはまるで、僕の心の土壌にするりと染み込むかのようで。

 

 

……それは私にとって、狂おしい程に懐かしい名前だった。

 

 

「どう!?気に入ってくれた!?」

 

「ん?ああ………うん。とても気に入ったよ。ありがとうルドルフ」

 

「えへへ……」

 

その頭を撫でてやると、心の底から嬉しそうにルドルフは笑う。

そのままふと思い付いたように僕の右手をとると、そのまま少し下げて自分の胸へと押し当ててきた。

 

「……ルドルフ?」

 

「そういえば、パーフェクトにはまだ教えていなかったね。私の幼名……といっても、もう知ってるとは思うけど」

 

「ああ、(ルナ)……で合ってるよね?」

 

「そう。私の両親と、兄さんと姉さんにしか呼ばせない名前。でも、パーフェクトにはそう呼んで欲しいと思う。ね、ルナって呼んでくれる?」

 

「ああ、勿論。これからもよろしくね、ルナ」

 

「うん。私からもよろしく。パーフェクト」

 

自らの胸に当てていた手を再び上げて、ルドルフは僕の右手の平に頬を擦り寄せる。

 

しばらくそうしたまま抱き合っていたところ、唐突に部屋中に鳴り響いたチャイムの音が二人の空間を塗り潰した。

否、この地下室だけでなく、外のホールやそこに繋がる階段でも反響している。恐らく地上でも同様だろう。

 

「ルナ……これは?」

 

「使用人のシフト交代のチャイム。あと、私にとってはもう寝る時間だってこと」

 

「そうか。なら僕……私はもう自分の部屋に戻らないとね」

 

流石にルドルフと一晩寝床を共にするわけにはいかない。

そもそも僕は言うまでもなく、ルドルフだって今日の並走でかなり体力を消耗しているはずだ。明日もまた走ることを考えれば、今夜十分に休息をとってもらわなければならない。

僕にとって最悪な事態とは、自分ではなくルドルフが潰れてしまうことだった。それだけは絶対に避けなくてはならない。

 

「じゃあ、私はもう帰るからね。ルドルフも、あまり遅くまで起きてちゃいけないよ。まだ明日もあるわけだし」

 

「分かってる。言われなくても、今日はもうあとこれを書くだけだから」

 

ルドルフはベッド横のデスクから一冊を取り出して見せてくる。

それは夏休みの日記。ああそういえば、今の彼女には既に書けることがあるのだったな。この先も出来るだけ、その思い出を増やしていきたいものだ。

欲を言えば、彼女一人でもそれを埋められれば最高なのだが。僕とていつまでもこの家にいるわけにはいかないのだから。

 

ルドルフはさっそくソファへと腰掛け、目の前のテーブルに日記帳を広げる。

右手にシャープペンシルを持ち、今まさに課題に取りかかるところだろう。なら僕はその邪魔をしてはならない。

さっさと退散してしまおう。

 

「おやすみ、ルナ。いい夢を」

 

「うん。おやすみ」

 

背中越しに彼女が手を振るのを見届けて、僕は地下室から退出し扉を閉める。

 

夜だからか、雨だからか、それとも深く地面の底だからか……地下室前のホールは、季節に似合わずどこかひんやりしっとりとしている。

いつの間にかチャイムも止まっており、再び静寂を取り戻した長い階段を踏みしめながら昇っていく。

一歩一歩進むたび、周りの空気が徐々に湿っぽく、熱の籠っていくように感じる。やはり、地上は蒸し暑いのだろうか。

 

 

 

ずきりと、私の脳みそに割れるような痛みが走った。

 

 




【日づけ】7月27日(火)

【てんき】くもり のち あめ

【今日のできごと】

今日は、昨日あそんだ人といっしょに走りました。
そのヒトはやっぱりふつうのヒトではないみたいで、私よりも足はおそいけれど最後まで走ってくれました。
でも、その人の足は私とちがってもうボロボロです。それに気づかないで、私がひどいことを言ったので怒られてしまいました。私には、相手の気持ちをかんがえる力がたりないみたいです。
前みたいにみんながあそんでくれなくなってしまったことについて、私はなにがわるいのかずっとかんがえてきました。

でもやっぱり、私がわるいのだと思います。

【かんそう】

ゲームであそぶのもたのしいけれど、やっぱり走るのが一番たのしいです。
今日はとてもいい一日だったので、お礼にその人にあたらしい名前をおくってみました。私は相手の気持ちをかんがえる力がたりないので、その人が本当によろこんでくれたかは分からないけれど、それでもあたまをなでてもらえました。

わたしにはその人がどうして家にきたのかも、なんで私とここまであそんでくれるのかも分かりません。なにがほしいのかも分かりません。だから、今の私にできることはこれぐらいしかありませんでした。

私からのはじめてのおくりもの。よろこんでくれていたらいいな。


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ルナちゃんのなつやすみ『3日目:朝』

◆◇

 

天気予報の通り、夜も明けるとすっかり夏の晴れ空が戻ってきた。

あの時と同じ茹だるような灼熱の中、セミの大合唱に背を押されて僕たちはグラウンドのゲートを潜る。

 

入り際、やはり一悶着こそあったが最後は向こうが折れてくれた。

元々の後ろめたさもあったのだろうが、それ以上に僕が付き添って走るということが決定打となったらしい。

ルドルフとの並走に対する忌避感が事の発端なのだから、最初からその相手がいるなら妥協できる範囲内だったのだろう。もっとも、その結果次に潰されるのは僕自身かもしれないのだが、それはこちらが負うべきリスクである。

……とはいうものの、実はそのリスクについてはさほど気にしてはいなかった。少なくとも、今のところは。

 

「ねぇ、パーフェクト。足は大丈夫なの?一晩寝れば元通りとか言ってたけど……」

 

「ああ、問題ない。それどころか、前よりもずっと足が軽くなったような感覚さえする」

 

今の僕はすこぶる調子がいい。

 

足どころか、全身が羽の生えたかのように軽い。

一昨年と同様かそれ以上の猛暑日であるにも関わらず、屋敷からここへ来る最中も全く息が上がらなかった。疲れていないわけではないのだが、それ以上に体力の上限が大幅に上がった感じだ。

肉体だけでなく、頭も午睡の後のように澄み渡っている。朝から高揚が止まらなかった。まるで生まれ変わったかのような気分。

まさに絶好調そのままであり、今ならなにをやっても上手くいきそうにすら思えてしまうほど。

 

「昨日の並走が効いたのかな。久々に体の感覚を取り戻せたのかもしれない」

 

「ふぅん。てっきり冗談か誇張してるものだと思ってたんだけど」

 

彼女の言葉は正しく、昨日は多少見栄を張ってしまっていた。

後に引くことがないのは確かだが、流石に元通りというわけにはいかないだろうと。あくまで今日の走りに影響しない程度の治癒を見込んでいた。

しかし現実に起きたのはそれすら上回る、いっそ異常とすら思える再生。不気味と言えば不気味だが、しかし今の僕は抵抗なくそれを受け入れていた。

とにかく朝から気分が良いのだ。本当に。

 

ルドルフに手を引かれながら、ようやくスタジアムへ繋がる通路を抜ける。

観客席の合間を縫うように階段を降りていくと、ターフの青々とした芝が視界一杯に広がっていた。

大雨で荒れたバ場のリカバリーのためか、何人かグラウンドキーパーの姿も見える。その脇を駆け抜けていく、幾つかのウマ娘の集団。

まだ太陽が顔を見せたばかりの時刻にも関わらず、随分と熱心なものだ。

 

「見ての通り、あそこがコース。あとはゴール脇に泥落とし用の簡易シャワーと、さらにその先を進んで屋内に入るとちゃんとした流し場もある。ついでに自販機と、この時期だと扇風機も」

 

「ちょっとしたレース場ぐらいはあるな。私設のグラウンドとしては申し分ない」

 

「さて、さっさと始めちゃおうか。基本的に早い者勝ちだからね。あまりぼさっとしてると中々やりたいこと出来ないし」

 

尻尾をふりふりとさせながら、跳ねるようにルドルフは僕を先導する。

最後の一段を終えてコースまで続く通路へと降り立ち、そして大きく踏み出す一歩。

 

たった一歩。

ルドルフが舞台へと上がり、辺りを睥睨した瞬間。

 

 

スタジアムにおける全ての視線が、一斉にこちらへと向けられた。

 

 

観客席から練習を見守っていた者、ついさっき泥を流し終えてターフに戻ろうとしていた者、柵に腰掛けてドリンクを片手に談笑に興じていた者、ベンチでラップトップにデータを入力していた者、そしてたった今コースを駆けている最中の者に至るまで、全て。

 

ほんの一瞬、ルドルフがその姿を現しただけで動揺する彼女たち。

驚愕、焦燥、困惑、警戒……その視線に籠められた様々な想い。各々に違いはあれど、全てが彼女の存在を拒んでいることには変わりない。

限界まで膨らませた風船のような張り詰めた空気。ほんの些細なきっかけ一つで、拒絶は排斥へと変わるだろう。

 

突き刺さるような敵意に晒されながら、しかしルドルフは微塵も歩みを止めない。

降り注ぐ視線をまるでスポットライトかなにかに見立てて。ランウェイを渡るモデルのごとく堂々と、迷いなくコンクリートの道を進んでいく。

そして芝へと上がると、柵に刻まれた目印に従って立ち止まった。僕もまたそれに続く。

 

「ほら、ここ。ここがスタートだから、パーフェクトは内に並んで」

 

「今日はバ馬が荒れてる。特に内側はかなり芝が悪いから、出来るだけ膨らむように曲がった方がいいだろう。まぁ、そのあたりは私が上手くやるから……ルナはそれに合わせてくれればいい」

 

「ん、分かった。距離はどうしようか?2000か3000か」

 

「3000で」

 

「……了解」

 

軽めに屈伸し、足の筋肉を解すルドルフ。

僕もまた腕を伸ばし、肩を回して二度三度その場でジャンプする。やはり、嘘みたいに体が軽い。

 

スタートについても相変わらず、僕たちは注目の的だった。

ただし、その中身は大きく変わってきている。先程までは専らルドルフに向けられていた関心の矛先が、今度は僕の方にも突きつけられていた。

……もっとも、それらは決して心地の良いものではなかったが。

単純にこちらの意図を探ろうとする好奇の視線から、同情、憐憫、そして嘲笑の類いのものまで。

 

不愉快とはいえ、仕方のない話ではある。いくら幼いとはいえ、普通ヒトはウマ娘と競わないものだ。

勝負云々以前に、生き物としての規格が違う。ちょっとしたじゃれ合いや戯れなら兎も角、ターフでお互いジャージを着込んで並んだ姿は端から見てさぞ滑稽なことだろう。

 

「気にしないの。別にどうでもいいでしょ、外野がなにしてようが……今のパーフェクトが見なくちゃいけない相手は私だけ。違う?」

 

「ああ。君の言う通りだな……さて、それじゃあ始めようか。芝長距離3000、天候は晴れ、バ馬状態は重バ場。私の調子は絶好調で、そちらは?」

 

「同じく。ならいくよ………用意」

 

 

スタートのかけ声と共に、僕たちは全く同時に足を踏み出した。

これ以上ない完璧な出走。歩幅は僕の方が大きいが、しかし相手はウマ娘だ。そんな差はアドバンテージにすらならない。

 

ターフは重くぬかるんでいる。

強く地面に踏み込むたび、吐き出された水がシューズと足首を濡らした。このぶんでは、恐らく水しぶきのようになってしまっているだろう。

技術の蓄積と幾度もの改良の結果、現在の芝は排水能力がかなり高い。多少の雨では水は溜まらない。

それでもなお、ここまで荒れまくっているバ場が、昨晩の豪雨の凄まじさを端的に表していた。

 

泥が跳ね、滑りやすく足を取られやすい危険なコース。

競り合うには極めて酷な環境であり、相応の技量とセンスが求められる場面であるが。

 

 

「ふっ……ふふ、はは……!!」

 

 

楽しい!!

 

それでも、私は堪らなく楽しいと感じていた。

心臓が暴れ狂い、脳漿が沸騰しているかのようで……高揚などという言葉では到底収まらないぐらい。

 

笑いが、勝手に口から溢れる。

はしたないから抑えようとして、直後に思い止まる。そんなことより目の前のレースに集中したい。

景色が回り、色が流れて消えていった。まるで、世界が私のスピードについてこれていないかのように。

音が失われ、代わりに聞こえてくるのは騒々しい自らの鼓動。不意に全方位を見渡してみたい衝動に駆られる。なんとなく、幼い頃に訪れた遊園地のジェットコースターを思い出した。

思考すら追いつかない、影すら振り千切るような速さ。芝で編まれたレールの上を疾走するのは、機械仕掛けのゴンドラではなく私自身だった。その動力源は位置エネルギーではなく、自分自身の二本足。

 

足が軽い。絡みつくような重バ場の芝ですら、かえって私の靴裏を持ち上げてくれているかのように思う。顔面に飛び散るはずの水飛沫も、全身に巻き散らかされるはずの泥の粒も、今の私にはなんの障害にもなりやしない。

否、そもそも飛んですら来なかった。気がつけば、ルドルフは私よりだいぶ後ろにいるらしい。

 

直接を終えて、最初のコーナーを曲がる。

……それはもしかしたら二回目かもしれない。それとも三回目か、あるいは最後のカーブだったのかも。

距離はなんだったか。たしか長距離だった気がする……3000だろうか。

どうでも良かった。それが許されるのなら、地面の続く限りどこまでも走っていける気がする。走りたい。

 

コーナーの内側が荒れているのが見える。

柵には泥が飛び散り、芝は掘り返されたかのように乱れている。その隙間から顔を覗かせるぬかるんだ土壌。あたかもダートのごとき様相だった。

 

……関係ない。それが芝だろうが土だろうが、私にとってなんの違いも在りはしない。躱すために膨らむ手間すら煩わしくて、速度を緩めることなく踏破していく。

 

懐かしい、土と砂の感触。蹴るようにそれを足で握り、湾曲で衰えた推進力を補う。

コーナーを曲がりきり、再び直線へと突入。

 

 

「はぁっ………ぅぐ、はぁ……………ッ!!!」

 

 

目の前には緑の大海。

それに覆い被さるように広がる青空と、そこで煙を吐く大きな入道雲が妙に近く見える。もう少し近くに寄って手を伸ばしたら届きそうな気がして、試してみようとさらにスピードを速くした。

熱風が顔を叩き、直射日光が剥き出しになった首筋を焼く。それでも私の足は止まらない。

 

 

思考が、鈍い。

 

狂奔だけが脳髄を支配し、まともにものを考えることが出来ない。否、考えることは出来るが、より全力で、より速く走るという結論に帰結するだけだった。

私は酒を飲んだことはないが、しかし酩酊というものを理解出来た気がする。成る程、世の大人がそれを求めるのも無理のない話だろう。

 

聞こえない。

 

風の音も、足音も、そう言えば隣にいた誰かの喘鳴も、もうなに一つ届かない。

この世界に私一人になったような気分。しかしそれがもたらすのは孤独ではなく、骨の髄まで染み渡るような途方もない全能感と支配欲だった。

 

先程とはうって変わって、視界だけが鮮明になる。

高速で回転していた景色はいつの間にか停滞し、世界はその色を取り戻す。

私に釘付けになる人々の顔。その一つ一つを私の目は捉えていた。驚愕、期待、興奮……懐かしい、そして忌まわしいそれら。私たちをずっと苦しめてきたものたち。

 

そう言えば、奴らは私のことを嘲笑っていたな。

走りに対する評判は、走りによって覆されるべきだ。なら、私がやるべきことは一つだけ。

 

 

「………ップ!!……」

 

 

もっと私を見せつけてやろうと、さらに軸足に力を込めて上体を前へと傾ける。

 

限界まで引き絞ったところで、溜め込んだ力を一気に解放し――――

 

 

 

「……トップ……ストップ!!終わ、り!!も、もう……終わりだ、から……」

 

「なっ………!?」

 

 

急に袖を引かれる。

 

こちらを停止させるのではなく、徐々に減速させるような力具合。お陰でバランスを崩すこともなく、なんとか勢いを殺すことが出来た。

そこまで疲労感はないが、暑さのせいで吹き出た汗を手の甲で拭いながら後ろを振り向いた。

 

「はぁ………やっと、止まってくれた……。私の負けでいいから……もう終わりにして」

 

「ルナ………?」

 

彼女は両手を腿に置きつつ、掠れた息を吐き出しながら苦しそうに喘いでいる。

額が溢れ落ち、濡れた芝に受け止められる滝のような汗。飛び散った水飛沫と泥を全身で被ったのか、ウマ耳のてっぺんからシューズの先までドロドロに汚れてしまっている。

およそ僕が初めて目にするルドルフの満身創痍な姿だった。

 

そうだ、これはあくまで彼女との並走だった。

並走相手の存在すら忘れるほどに、自分の走りだけに熱中するとは度しがたい失敗だ。久々の本格的なコースを前に舞い上がってしまったのか。

 

「その、悪かった……ルナ。とりあえず、泥を落としにいこうか。続きは一体休憩した後で」

 

「続き……まだ走るつもりなの?というより、ルナはともかくパーフェクトは走れるわけ?」

 

「いや、だってまだ3000一本しかやってないだろう。ようやくウォーミングアップが終わったところじゃないか」

 

「ウォーミングアップね………」

 

ようやく一段落収まったのか、ルドルフは伏せていた顔を上げる。

いつまでもゴール付近にいては邪魔になると考えたのか、こちらの手を引いてターフ外のシャワーを目指し歩きだした。

ぜえぜえと乱れた呼吸を整え、少しばかり肩を震わせたかと思うと、泥だらけの顔で僕を見上げながら苦笑する。

そのまま皮肉げな口調で、とんでもない事実を告げて見せた。

 

 

「重バ場、長距離芝8800(・・・・)メートル……確かに、ウォーミングアップには十分かもね。少しだけ行き過ぎちゃった気がしないでもないけど、ね」

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

外のシャワー室の構造は極めて単純だ。

シャワーのノズルが壁にずらりと並べられ、間を板で仕切られた程度のもの。服は脱がず、上から直接水をかけて汚れを落とすものだった。

実に豪快というか、割り切ったやり方というか。体温が高く、頑丈で抵抗力の強いウマ娘なら効率的なのかもしれないが、ヒトの場合このまま放っておくと風邪を引かないかと心配になってしまう。

 

……もっとも、今の僕はそんな風邪ごときに心を砕いている余裕はないわけだが。

 

 

「あ"ぁ"………痛い"………これ、ヤバいかも……」

 

「だろうね……ヒトの足で、あの距離をあんなスピードで走ったらそうなるよね……」

 

 

人目のないベンチに腰掛け、両足のズボンを捲り外気に晒す。

少しでも冷やしたいという一心だったが、生憎肌に当たるのは生ぬるい夏の風だった。

僕の前に膝まづいたルドルフが、自販機で買ってきた冷たい水のペットボトルを二本当ててくれる。その顔は若干ひきつっているが、その視線の先を確かめる気にもなれなかった。

 

とにかく痛い。地獄の責め苦が僕を苛む。

 

昨日の並走後も痛いのは痛かったが、それは爪の出血や足首の擦り傷に因るものであった。単純かつ表層的で、根性で耐えられる部類のもの。

この痛みはそれとは異なり、もっと深層……筋肉や骨から響いてくるような痛みだった。内側から熱した金槌でぶん殴られているような熱さと衝撃が直に脳へと響き渡る。

逆にルドルフには疲弊以外、まるで消耗した様子が見られない。やはり僕と彼女とでは、生物としての規格が異なるのだろう。

 

「ごめん、ルナ。やっぱり今日の練習はもう終わりにして……」

 

「今日っていうか、せめて一週間は止めた方がいいんじゃない?家の主治医に聞けばちゃんとスケジュール立ててくれると思うけど、今は学会への出席とかで海外だし……」

 

「まぁ、暫くは大人しくする。それに今日、だいぶ感覚が掴めた気がするし。並走はあともう一回で十分かもしれない」

 

地を駆けるというよりも、まるで空を飛ぶに近いあのレースの感覚。異常な昂りと解放感。

もう一度、せめてあともう一度だけでもあれを経験出来れば……僕は、なにか決定的に変わることが出来る気がする。

 

拘束が解けたような、あるいは欠けた部分が埋まっていくような感覚。

それはまるで、僕の魂が在るべき形に戻るかのようで。

 

「そうすれば、ルナとも本当に……ちゃんとしたレースが出来るかもね。出走者、二人しかいないけど」

 

「それは、ちょっと寂しいかもね。せっかく走るなら、いっぱいで走った方が楽しいもの」

 

「確かに、二人だけでレースというのも無理があるかもしれないが。ぶっちゃけそれ、ただの並走な気もするし…………」

 

 

 

 

 

「なら、そこに私も混ぜてくれよ。アンタら相手なら多少はマシなレースが出来そうだ」

 

 

 

 

……不意に、横から誰かが割り込んできた。

 

甲高い、まだ幼い少女の声。

遠くから僕たちの会話を拾う聴力と、そもそもここにいることからしてきっとウマ娘なのだろう。

ざりざりと、コンクリートの隙間に挟まった砂利を踏み散らしながらこちらへ近づいてくる。

 

「アンタらの並走、見させてもらったよ。面白かったぜ。特に男の方……ハハッ、人間の癖して中々やるもんだな」

 

「僕のことはどうでもいい。君は、ルドルフと一緒に走るつもりか?」

 

「だからそう言ってんだろうが。なんだ、足だけじゃなくて耳までぶっ壊れたか?」

 

「そうか」

 

……しかし、一体何故?

 

ルドルフは、ここに通うウマ娘から敬遠されているのではなかったか。

彼女のことを全く知らないというならまだしも、その走りを実際に見た上でなお勝負を挑みに来るとは。

僕たちにとってここはアウェイだ。故に絡まれることは覚悟していたが、こういった絡み方をされるのは予想外だった。

 

振り返り、声の主の正体を確かめる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

ルドルフと同じ鹿毛に、前髪に浮かぶ一筋の流星。

右耳に独特の飾りをつけ、燃えるような赤い瞳が印象的なウマ娘。

声色の通りやはり幼く、ルドルフと同じか若干下回るぐらいだろうか。

 

ジャージ姿で腕を組みながら、不敵な笑みを浮かべて私たちを見つめていた。

その発言と、口調と、ややつり目気味の双眸が相成って……彼女の姿はとても強気で、自信に満ち満ちている。

 

それが気に障ったのか、耳を倒し牙を剥き出しにしながら大きく唸るルドルフ。

そんな様子を見て、少女は嘲笑うようにフンと鼻を鳴らしてみせる。

 

「……君、名前は?」

 

そう問いかけた瞬間。

目の前のウマ娘はこれでもかと胸を張りながら、自らの全存在を誇示せんと高らかに名乗りを上げた。

 

 

「シリウスシンボリ。よく覚えとけよ……いずれ世界の頂点に立つウマ娘の名前だからな」

 

 



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ルナちゃんのなつやすみ『3日目:夕方』

◆◇

 

ウマ娘という種族は走ることに貪欲だ。

単純な趣味嗜好を超えて、本能の奥深くにまで根付いている衝動なのだろう。放っておくといつまでも走り続ける。

一体何がそこまでさせるのかと、問いただすこと自体がそもそも野暮なのだろう。彼女たちは走れるから走るのだ。

たとえそれが、照りつく夏の太陽の下であっても。

 

 

首に提げたホイッスルを鳴らし、ゴールラインを通過したルドルフを停止させる。

彼女はしばらくその場で立ち止まり身体を落ち着けた後、ターフから上がってこちらへと歩み寄ってきた。それなりに満足したのか、ひとまず休憩を挟むつもりらしい。

 

あれだけ水をたっぷり含んでいた芝といえど、流石にこの炎天下で半日もすればすっかり干からびてしまったようで、ルドルフのジャージは泥と水飛沫の代わりに砂ぼこりで汚れている。

小さな手で懸命に払ってはいるものの、かえって巻き上がった砂塵が顔に当たったのか鬱陶しそうに頭を振っていた。

 

レース中はそんなものがかかっても気にせず、むしろ自分から突っ込んでいくぐらいの気迫を見せてくれるものだが。それもまた、彼女の備える頭抜けた集中力の賜物だろうと内心舌を巻く。

 

「お疲れ。派手に砂を被ってたけど大丈夫か?」

 

「う~、耳に入った……」

 

両耳に指を突っ込んで必死に中身を掻き出している。広くて長いウマ娘の耳では人間以上に苦労するだろう。

 

そのうちメンコでも用意した方がいいかもしれないな、とあれこれ思案しつつ彼女の顔を拭いてやる。

汗と土が混じり合い無惨な様相。折角の可愛い顔が台無しだが、そんな小さなプライドなど母親の腹の中にでも置いてきてしまったに違いない。

 

『汚れるのが嫌だから全力で走れません』などという心構えでは競技ウマ娘など夢のまた夢なので、当然といえば当然の話ではあるが。

 

「これもうタオルじゃ落としようがないな……。さっさとシャワーで綺麗にしてきなさい」

 

「さっき洗ったばかりだよ?」

 

「とっくに乾いてるだろう。この暑さの中あんなスピードで走り続けてたんだから」

 

さながら乾燥機のようなものだろうか。

それにあのシャワーは汚れを落とすだけでなく、身体の熱を冷ます役割もあるわけだし。いくら合間合間に休憩を挟んでいるとはいえ、彼女たちが延々と走り続けていられるのもそうした排熱のおかげだ。

付き合わされる身としては、あまり有り難いとは言い切れないのだけれども。

 

なんとか耳から砂を取り除き、タオルをブンブン振り回しつつ洗い場へと向かっていくルドルフの背中を見送る。

 

いくら大人びていたところで根っこは子供なんだなと、その仕草からすこしばかりの感慨に浸っていたところ、僕の隣にもう一人のウマ娘が大きく音を立てて座り込んだ。

 

「随分とご執心なんだな。アイツの付き人かなにかかアンタ。あんま甘やかすと付け上がるぜ」

 

「ご忠告どうも。負けた腹いせはみっともないぞ、シリウス」

 

「うっせ」

 

大股を開いてベンチに腰を沈め、天を仰ぎながらシリウスはぶらぶらと両足を遊ばせる。

 

いかにも不貞腐れた様子。

今朝、初めて声をかけてきた時のような不遜さや覇気はすっかり鳴りを潜めていた。

 

「食べるか?」

 

「………どうも」

 

脇に抱えていたクーラーボックスを開けて、中にある氷菓を一つ取り出しシリウスに手渡す。

 

彼女は黙ってそれを受け取ると、カップの蓋を破り中からボール状の氷を何個も掴んでそのまま口に放り込んだ。

バリバリと、これでもかとばかりに咀嚼音を張り上げながら足を揺らす

 

同じ席に着いているにもかかわらず、到底話しかける気にはなれなかった。

やはりというべきか、彼女はたいそう機嫌が悪いらしい。

無理もない。結局、シリウスはただの一度もルドルフに勝つことが出来なかったのだから。

 

今朝から始めて、既にどれほどの模擬レースを繰り返してきたことだろう。途中で休憩や昼食を挟んでいたとはいえ、それでも両手両足の指では到底足りない本数はこなしてきたはずだ。

その全てにおいてシリウスは負け続けてきた。

ただの一度も先着はなく、ターフの上ではずっとルドルフの背中しか見ていない。

 

「………チッ」

 

そんな彼女の様子を見守っていると、沈黙に耐えかねたのか横目で僕の顔を睨み付けてきた。

 

「アンタも、なんとか言ったらどうなんだ。調子こいて突っかかってきたガキがみっともなく惨敗してよ。腹の底でバカにしてんだろ?」

 

「そんなことはない。むしろ感心していたところだ。あのルドルフに正面から喧嘩を売ってくるだけのことはある」

 

どういう意味だと、ベンチの背もたれから頭を起こすシリウスに、ボックスの隣に立て掛けていたバインダーを差し出す。

 

挟んだ紙に記録していたのは、各レースにおける彼女達のタイムと着順、その着差。

一番上の欄に記入された自分の名前と、その下にずらりと並ぶ"2"の数字に顔をしかめつつ、シリウスは全ての数値に目を通していく。

 

「これは、私らのレースを全部計っていたのか?」

 

「いや、記録をとれたのは午前中のものと、あと午後の最初の二本だけだ。そこから先は記入欄が尽きたから止めたけどね」

 

元々、僕自身の走りについて後で検討するために持ち込んだものだ。かさばるのも嫌なので極力持ち込む量を抑えていた。

しかしこんなことになるなら、もっとちゃんと準備しておくべきだったと後悔している。

 

「で、君の記録についてなんだが……ルドルフと競り合う中で確実に成長している。これはあくまで予測になるが、最後の一本のタイムなら最初のルドルフのそれを上回っているはずだ」

 

「それ、たんにアイツの走りが分かってきただけじゃないのか」

 

「それも成長だろう。このスタジアムで、他に同じことが出来る者が果たして何人いるか」

 

恐らく一人もいまい。

 

ルドルフとシリウスが競い合っている最中、それに加わろうとするウマ娘は誰もいなかった。

皆遠巻きに見守るか、最初から存在しないものとして扱うだけ。この二人以外のウマ娘とは、絶えず相手をとっかえひっかえして並走していたというのに。

 

あくまで素人目に過ぎないと前置きして言わせてもらうが、ルドルフとシリウスの実力は明らかに頭一つ抜けている。

彼女自身それを理解しているからこそ、あえて僕たちに絡んできたのではなかったのか。

でなければここまでの成長に説明がつかない。

 

「だから、惨敗ではあったけど……みっともない負けではなかったよ」

 

それに、世界の頂点を掴むとシリウスは言っていた。

それを大言壮語などとは言うまい。多くの者が中央への入学を一つのゴールとしている中で、さらにその先を見据えていること自体が評価に値する。

 

選りすぐりのエリート2000名しか入学が許されない中央トレセン学園。

日本だけでなく、海外からの留学生も広く受け入れていることから、その選抜は熾烈を極める。まさに狭き門であり、そこに籍を置くこと自体が一つの誉れですらある。

 

しかしながら、中央の選抜試験突破はあくまでスタートでしかない。

入学したが最後、今度はその篩にかけられ残ったウマ娘との過酷な生存競争に晒されることになる。

そこで生き残るためには、並外れた才能と胆力が不可欠だ。それが日本一であれ世界一であれ、中央入りしたさらにその先の目標がなければやっていけない。

 

その点において、シリウスには確かな素質があった。

 

「なら、次こそはその評価も覆してやるよ。惨敗とは言わせねぇ……惜しいなんて慰めもいらない。私が勝ってやる」

 

「まだルドルフと戦うつもりなんだ。あれだけこっぴどく負けておきながら」

 

「あんなのただの準備運動だろ。今のうちに好き勝手ふかしておくんだな」

 

氷を口の中で転がしながら、シリウスは毅然とそう宣言をする。

その姿に挫けた様子はなく、潰れる兆候もない。本当に、いつかの勝利のためにルドルフに挑み続けるつもりらしい。

ここまで敗北を積み上げても、なお。

 

「ふっ」

 

「おい、今笑っただろ!?この距離で聞こえないと思ったのか。なんだ、調子に乗るなとでも言うつもりか?」

 

「いや、違う。本当に、今日ここにルドルフを連れてきて正解だったなと。たぶん、君が一番の収穫だった」

 

共に競い合える者がいない、隣で走れる者がいないことがルドルフの心に影を落としていたというのなら、恐らく彼女はその光となれる存在だ。

真にルドルフに必要だったのは、僕ではなく歳の近いウマ娘。

ならばきっと、シリウスこそが最適解だったのだろう。たまたま今日、彼女とここで出会えた幸運に心の中で感謝を捧げる。

 

ただ、一つだけ文句を言わせてもらうとするなら。

ルドルフがかつてここに通っていた時に出会わせて欲しかったものだが。

もっと早くに二人が巡り合っていれば、こうも事態が拗れることもなかっただろうに。

 

 

と、そこまで考えて、僕はふとあることに気がつく。

 

シリウスシンボリ。

 

ルドルフと同じく"シンボリ"を名前に冠しているウマ娘……となると、シリウスもまたシンボリの縁者なのではないだろうか。

ウマ娘同士のこういった名前の被りは往々にしてあることだが、ここがかの家のお膝元だと考えるとただの偶然では済まされない気もする。

もしかしたら二人は、元から顔見知りだったのではないだろうか。そうでなくとも、なんらかの関係性があってもおかしくはない。

 

「シリウス。君は、ルドルフと会ったのは今日が初めてなのか?」

 

「ああ……いや、正確には前に一度話したことがあるらしいが、私は覚えてないな。アイツはその時のことも記憶してるみたいだが」

 

「そうなると、やはり君もシンボリの関係者なのか。だとしたら、その歳の近さで一度だけというのも気になるけど」

 

「別に大したことじゃない。アイツは本家で、私は分家で生まれたっていうただそれだけの話だ。ウチみたいにデカいとこだと色々複雑なんだよ」

 

「そうなのか。あまり想像がつかないな」

 

これ以上は深入りになりそうなので止めておく。

 

成る程、大きければ大きいなりの大変さというものがあるのだろう。

気にならなくもないが、あまり他所様の家庭に首を突っ込むべきではないと判断する。既に手遅れな気がしなくもないが。

 

「……そう言えば、これ貰っちゃって良かったのか?これアンタのぶんなんだろ?」

 

溶けた氷で濡れた指を舌で舐めとり、ジャージで手を拭くとシリウスはカップの中身を見せてくる。

その中に入っているのは、外気に晒され溶けはじめた氷が一つだけ。

この期に及んでようやく言うことがそれなのか。

 

「構わないよ。水分補給用に持ってきたものだけど、僕は最初の一本しか走ってないからな。それほど汗をかいているわけでもないし」

 

なにせ足が駄目になってしまったので、朝からずっとベンチに座りっぱなしだった。

お陰でだいぶ痛みは引いたが、ほとんど体を動かせていない。暑さで失われる水分の補給など、自販機の水で十分だった。

 

「ほらやっぱり、自分用に持ってきたんだな。見ろよ、コイツもアンタに食ってもらえなくて泣いてるぜ」

 

シリウスはカップに指を突っ込み、最後の一つを取り出して近づいてくる。

ポタポタと、溶け出した氷の水滴が僕と彼女のズボンを濡らす。

これを涙と表現するセンスには少し感心しなくもないが、それ以上ににじり寄ってくるシリウスになにかよくないものを感じる。

 

とっさに身を引こうとするも、いつの間にか後ろに伸びていた彼女の腕に後頭部を掴まれ固定されてしまった。

そのまま僕の膝上にまたがる形で、身を擦り寄せてくるシリウス。

 

「寄るな、汗臭い」

 

「黙れ。せっかくだからな、私が食べさせてやるよ。一方的な施しは性に合わねぇ」

 

固く閉じられた僕の唇の間に、グリグリと氷のボールが押しつけられる。

幼くとも流石はウマ娘といったところか。僅かな隙間にもう片方の手の指も突っ込んで、今まさに開口させられようとしていた。

 

完全にシリウスのマウントポジション。

このままでは氷か、でなければ僕の歯が砕かれてしまうだろう。

仕方なく、彼女の指を受け入れようと思った瞬間……ふと拘束が緩んだ。

 

ミリミリと、今まさに唇をこじ開けんとしていた圧力も取り払われる。

 

 

「こら、シリウス。なに勝手にルナのパーフェクトに餌を与えようとしているの?」

 

 

いつの間にシャワーから戻ってきたのか。

僕の脇に立ち、恐ろしく冷たい瞳でシリウスの腕をねじ上げるルドルフ。

そのまま取り上げた氷の塊を、小さな唇の中にするりと滑り込ませ………バリバリと、見せつけるように咀嚼する。

 

……それはさながら、組み敷いた獲物のあばら骨を噛み砕かんとする獅子のごとき様相だった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

結局、あの後も二人は模擬レースを繰り返し。

斜陽が鮮やかに空を焼いたあたりで、私たちはようやくグラウンドを後にする。

 

というより、シリウスの母親が迎えに来たために解散せざるを得なかったのだが。

 

ベンチでの会話以降、妙に距離感の近くなったシリウスと、それにやたら噛みつくようになったルドルフ。

あのままでは日が落ち、月が昇ってもお構いなしに、体力が尽きるまで続けていたことだろう。そして私にはそれを強制的に止めさせる方法がない。

なので、母親という絶対的存在が介入してくれたのは幸いだった。

 

その後はルドルフと二人、来た道を同じように肩を並べて帰り……入浴をして、夕食を頂き今に至る。

 

自室に戻り、サンデーサイレンスのぱかプチを枕にしつつスマホを弄っていると、突然電話のコールが鳴り響いた。

呼び出し人は、今まさに頭に敷いているかのウマ娘その人だ。そろそろそんな時期だろうとは思っていたので、特に慌てることもなくそれに応じる。

 

「あー……もしもし?」

 

『いつまで油売ってんだお前はよ。一筆サイン貰うのがそんなに難しいことか?』

 

「難しいっちゃ難しいですね。少々ややこしい条件を出されてしまいました」

 

『契約書ならサインされた原本がちゃんとこっちまで郵送されてる。今朝のことだ……だからもう、そっちには用はねェはずだろ』

 

「その、契約締結の時にですね……相手方、つまりシンボリ家とちょっとした約束をしていまして」

 

『それはアレか?例のガキの遊び相手か』

 

答えに窮していると、それを肯定と受け取ったのか、母は電話越しに大きくため息を溢す。

ついでに喉を鳴らす音も。この時間だからどうせ酒でも呷っているに違いない。

 

『………あー……まァ、お前がナニしてようが基本どうでもいいけどよ。子供が無断で外泊するのはどうかと思うぜ俺は』

 

「都合のいい時ばかり子供扱いして……。小学生じゃあるまいし、この歳なら許容範囲でしょう。ましてや相手の素性もこれ以上なくはっきりしてるんですから」

 

『子供は子供だろ。口ばっかり達者になりやがって……反抗期か。それにお前、夏休みの課題はどうした?』

 

「そんなもん、休みが始まる前に既に終わらせてますが。やっぱり私の認識、小学生からアップデートされてない」

 

そのあたり、私もルドルフのことをあれこれ言えた立場ではないのだろう。

もっとも私の場合は他にやりたいことがあるわけでもなく、たんに用事を後に回すのが嫌いな性分であるだけだが。

 

『……そうかい。まァ、いずれにしても一回戻ってこい。それにルナの奴からお前らの話聞いてるとヤな予感がして堪らない』

 

「またあれですか、ウマ娘には深入りしすぎるなっていう……まぁ、分かりましたけど。流石に今からは無理ですが」

 

『明日早朝、そっちのヤツにお前を送らせる。今晩のうちに支度しておけよ。シンボリのガキとは……挨拶は止めといた方がいいだろうな』

 

「了解」

 

母の指示に返事をしながら、私は部屋にある自分の私物を改める。

といっても、元々身につけられる程度のものしか持ち込んでいない。加えていい加減呼び出しがかかる頃だろうと踏んでいたので、予めまとめられる範囲でまとめてあった。なにも問題はない。

 

まぁ、私としてもぼちぼち帰らなければならないと思っていたところだった。

いい頃合いだろう。今後どう動くにせよ、一度は母と相談もしておきたいわけだし。元々こちらの代表者は彼女であり、あくまで私は代行に過ぎないのだから。

 

 

幾つかの指示を残して、母からの電話は切られてしまう。

それを踏まえた上で、明日以降の予定を頭の中で練り直しながら、私は再びベッドに身を沈めた。

 

 

 




【日づけ】7月28日(水)

【てんき】はれ

【今日のできごと】

今日も、昨日あそんだ人といっしょに走りました。
ただ、その人はとちゅうでケガをしてしまったので、かわりに私たちに声をかけてきたウマむすめとレースをしました。

私はその子とむかしお話をしたことがありましたが、しかし私の顔はおぼえていてもらえなかったみたいです。
それはいいのですが、その子はあの人にもちょっかいを出してきました。人のものにかってに手をだすのはいけないことだと思います。
今はゆるします。でも、しょうらい私たちが大きくなってもまだ同じことをしていたら、ちょっとゆるせないかもしれません。

【かんそう】

ひさしぶりに、ほんとうにひさしぶりにウマむすめとレースをしました。
あの子は気にくわないところもあるけれど、それでもいっしょにいてたのしいと思います。

これからも私たち三人で、いっしょにもっとあそんでいきたいと思いました。


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ルナちゃんのなつやすみ『4日目:朝』

 

私は昔から、走ることが大好きだった。

 

昔から……という言葉を、まだ幼い私が使うのはおかしな話かもしれない。

でも、そう表現するしかなかった。少し大人っぽく言ってしまえば、最も適切な名状というものだろうか。

 

私にとっての昔。

もはや省みることすら出来ない過去。

 

この衝動の原点が一体なんなのか、果たしてどこから生まれたのか思い出すことすら叶わない。

もしかしたらそれは、初めて自らの両足で大地を踏みしめた直後だろうか。

それとも、ようやく母親の腹から這い出てきた瞬間だろうか。

あるいは、そこに宿ると同時の事だったのかもしれない。

ひょっとすれば、さらにそこから遡って……私にとっての、前世と呼ばれる時代の残滓なのかもしれないだろう。

 

走りに対する渇望は、それほど昔から我が身と共にあったのだ。

その欲求に手足が生え、口が開いて喋り出したのがこの私……シンボリルドルフなのではないかと、そんな滑稽な妄想を抱くぐらいには。

あるいは、それを本能と呼ぶのだろうか。

 

 

だから、私はこの家に生まれて幸せだった。

 

 

ここには私の求める全てがあった。

金も、知識も、技術も、人脈も……最速を極めるためならば、どんな資本だって降って湧いてくる環境だった。

家族は惜しげもなく私に全てを与えてくれたし、求めればどんな願いにも応えてくれた。

きっと、私は彼らにとってそれ程までに価値のある存在だったのだろう。

 

この名に託された悲願については勿論知っている。

それを重荷であると人々は私を憐れむけれど、私はそうは思わなかった。どうでも良かった。

この渇望を満たすついでに果たせる程度の些事だったから。むしろそんなもの、いくらでも気の済むまで積んでしまえばいいと思う。

それが私の役目であり、生まれ育った家の礎となるならいくらでも引き受けてみせる。

そのぐらいの覚悟はとうの昔に決めていた。

 

 

たぶん、私は満ち足りていたのだろう。

そこで満足出来なければ、きっと罰が当たってしまう。

 

 

……だけど、やっぱり私は強欲なもので。

 

それ以上を求めてしまった。

一人は嫌だ。隣で走る仲間が欲しいと。

 

あまりにも傲慢で、能天気で、身の程知らずな我が儘。

それでも欲望は叶えられた。

ちょうど私の肉体が成長を一段落終えた後、近所に新しく作られた大規模な私設グラウンド。ウマ娘の子供たちはこぞってそこに詰めかけた。

 

彼女たちもまた、私と同じく中央を視野にいれているウマ娘。故に、その輪に入れてもらうのは簡単だった。

私たちはライバルだったが、同時に同じ道を志す同士として仲間意識のようなものがあったのだろう。

それぞれの持つ技術や知識、ノウハウを惜しみなく分かち合って、ターフの上でお互いを高め合う。

競争相手でありながら、誰よりも大切な仲間たち。それこそまさしく、チームと呼ぶべき集団なのだと思った。

まぁ、私の一方的な勘違いだったのだけれど。

 

 

それが変わったのは、私のバ生において初めてとなるレースでのこと。

どういう内容のものだったかは、正直なところもう覚えていない。私が出走者の中で一番歳が小さくて、人気も一番下だったことだけは記憶している。

 

それでも私は勝ってしまった。

劇的とは程遠い、泥臭い競り合いの果ての辛勝だったが、それでも勝ちは勝ちだ。私が初めて経験する勝利の味。

母は大層喜んでくれた。以前から私がねだっていた耳飾りをお祝いに手作りまでしてくれて、それは今でも最高の宝物だ。

 

それと同じぐらい嬉しかったのは、二着につけたウマ娘も褒めてくれたことだった。

その子はたしか、あの時いたメンバーの中でも最年長で、皆のリーダーみたいな存在。歳の離れた私のことを一番に気に掛けてくれて、私にとって二人目の姉さんみたいな存在だった。

 

だから一緒に走ってくれて、褒めてもらえて本当に嬉しかったのに。

 

レースの翌日から、その子はぱったり姿を消してしまった。

 

 

視野が広くて、面倒見が良くて、誰からも頼られ好かれていたあの子。

そんな彼女を酷い目に会わせる奴はみんなの敵だ。敵は退治されなければならない。

 

そいつは先日、最年少でレースを勝利し、あの子の自信に不可逆な傷を負わせたウマ娘。

 

 

かくして、私はみんなの敵になった。

 

共に競い合う仲間ではなく、打ち倒すべきウマ娘。

それを得たことで、彼女たちの団結はますます強固になった。

中央トレセン学園という私たちの目標は、いつの間にかシンボリルドルフの打倒へと成り代わっていた。当然、そこに私の居場所はない。

 

今にしてみれば、彼女たちの根底にあったのは恐怖だったのだろう。

私への憎しみでも、あの子に対する弔いの情でもなく、ただシンボリルドルフというウマ娘の存在そのものを忌み嫌い恐れた。

実際に隣で競ったあの子だけじゃない。それを見ていた大勢のウマ娘たちもまた、自らの努力と才能を否定された気分になったのか。

そんな挫折は、私を打倒することでしか覆されない。思うに、あの勝利はたまたまであるという確証が欲しかったのだろう。

 

あの時の私は、そんなことすら理解出来ず。

愚かにも、その解決手段をレースに見出だした。

もっともっと強くなって勝利を重ね続ければ、いずれ彼女たちも私を認めてくれるだろうと。

 

彼女たちは私に挑み続け、私はそれを下していく。

どれほど頂に立ったところで、既に私を褒めてくれる者は誰一人としていなかった。

 

みんなの喝采を、称賛を、労いを一身に受けるのは常に二着や三着のウマ娘たち。一歩及ばずとも、あのシンボリルドルフに肉薄した健闘を人は誉め称える。

もっとも、その子たちもすぐに姿を消してしまったけれど。その度に、より一層強くなっていく残されたみんなの団結。

 

 

一人は嫌だった。

 

ただ隣で走る仲間だけが欲しかった。

 

 

それでも最初から与えられなければ、こんなに苦しまずに済んだのに。

一度知ってしまった私は、それを取り戻すためだけに走り続けた。走り続けて、勝ち続けて……本当に欲しかったのはそれではないのに。

 

……だけどどれだけ足掻いたところで、私の居場所はとっくに失われていて。

 

 

そしてついに今日、私は楽園を追われてしまった。

 

 

使い古した運動着と、代えのランニングシューズと、ロッカーに預けっぱなしだった小物を抱えてグラウンドを後にする。

みんなの並走するかけ声を背中で聞きながら、一人歩く夕焼けの帰り道。

振り返ったところで、フェンスに遮られた中の様子は見えないから。

 

グラウンドの前に走る道は大きい。

それに地方にしては珍しく、ウマ娘専用の柵で区切られたレーンがある。

贅沢だな。そういえば、ここの整備もシンボリが援助したのだったか。

あの家は、私の望むもの全てを与えてくれた。

私はかつて、一緒に走る仲間を求めて……たしか、あのグラウンドもシンボリが金を出したと聞いている。

 

それも、私のためだろうか。

だとすれば、この結末も当然の結果だと言える。

 

過ぎたる願いを乞うたが故に報いを受けたのだ。

なにもかも満たされたあの家で、ただ一人玉座に腰かけているのが分相応というものなのだろう。

 

 

 

身の丈というものを思い知った。

 

これは、そんなとある夏の終わりのお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

目を開けると、目の前には見慣れたコンクリートの天井。

 

腹にかけていたブランケットをどかすと、私はゆっくりと頭を振る。

この地下室は居心地はいいが、朝になっても陽の光が射さないのが玉に瑕だ。鳥の鳴き声も聞こえない。

ただでさえ朝が弱い私だが、さらに寝起きが悪くなってしまう。

 

 

 

懐かしい、夢を見ていた。

 

もう久しく見ることもなかった夢。

それが今になって。

 

私はそれを覆した。願いを叶えたんだ。

シリウス、それにパーフェクト。私が諦めた後になって、ようやくこの手に転がりこんできた者たち。

 

……ああ、それだからかもしれない。

浮かれた私の姿を見咎めて、身の程を弁えろと説教でもくれているつもりなのだろうか。

 

苛立ち紛れに、ベッドに拳を振り下ろす。

ぼすんと、手応えの薄い反動と共になにやら湿った感触。見ると、マットが寝汗で濡れてしまっている。

寝間着も取り返しのつかない様子だった。

不快だが、しかしシャワーを浴びる気にはなれない。着替える気力もない。

喉がいがいがして堪らないが、冷蔵庫から水を取り出すつもりにすらなれなかった。

 

ベッドから飛び降り、乱暴にスリッパを履くと一直線に扉を目指す。

ホールを抜けて、昇り階段を上がって屋敷の廊下に出る。カーペットの上を早足で通り過ぎると風で寝間着が体に引っ付いて気持ち悪いが、それも無視して先を急ぐ。

最上階まで階段を駆け抜ける。目指すはこの屋敷で最も上等な客室。

 

そうだ、私にはもう仲間がいるんだ。

突き当たりの扉、あれを開けた先には彼がいて、きっと私のことを困り顔で迎えてくれるはず―――――

 

 

突き破るようにして扉を開く。

 

 

絨毯の端につまづいて、思わず顔から転んでしまう。

こんな姿見られたら一生笑い者にされてしまうと、慌てて鼻を押さえつつ立ち上がり部屋を見渡した。

 

ソファ、デスク、ベッドの上、シーツの中、トイレ、個室風呂……クローゼットの裏、ベッドの下、タンスの中、部屋の扉の裏側。

 

誰もいない。

隅々まで整えられ、埃一つない清潔な部屋。

ウマ娘の聴力に嗅覚を以てしても人の気配はなく、微かに漂う彼の匂いだけが、決して部屋を間違えたわけではないことを示している。

 

 

「…………ああ、そっか。そうだよね」

 

 

そうだ。

きっと、彼は自分の家に帰ったのだろう。

 

当たり前だ。

彼はあくまで来客。帰るべき場所は別のところにあるのだから。

ずっと側にいることなんて叶わない。いつか来るはずだった別離……それが今朝だったということに過ぎない。

 

だけど、挨拶ぐらい残してくれたって良かったのに。

 

未練がましく、部屋の全てに目を凝らす。

滲んだ視界では、書き置きの一つも見当たらなかった。

 

 

「………帰ろう」

 

 

私も帰ろう。

本来、自分がいるべきであるあの穴蔵へ。

 

なにを悲しむことがある。

ただ全てが元通りに戻っただけじゃないか。

 

 

廊下に出て、扉を閉めた瞬間、耳元でなにかが揺れた。

触ると、そこにあるのはいつもの耳飾り。

いや……違う。これは一昨昨日、街で彼に買ってもらったものだ。

その前まで身に付けていたものはあの時壊れてしまった。

 

私が初めてレースで勝った時、母が贈ってくれた一番の宝物。

唯一の温かい思い出だが、失なってしまった。

 

なんだ、全く元通りではないじゃないか。

与えられたものは、次々と私の手の平から零れ落ちてしまった。

 

最初から知らなければ苦しまずに済んだのに。

 

だけど、知ってしまった今となってはもう。

 

 

 

 

「ぐ……うぅ………ぐす…………うえぇ……」

 

 

 

 

……ああ、私はどこまで愚かなのだろう。

 

 

 

過ぎた我儘には相応しい天罰が下ると、身に沁みて理解していた筈だったのに。

 

 

 

 



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ルナちゃんのなつやすみ『4日目:昼』

 

◆◇

 

数日ぶりに踏みしめる我が家の廊下は、やはりギシギシと床板がやかましい。

それよりも耐え難いのは暑さだった。体感で倍近く気温が跳ね上がっているような気さえする。

別にこの家とて特別みすぼらしい造りをしているわけでもないのだが、やはりシンボリのお屋敷の完璧に整えられた環境には敵わない。

一度その恵みを知ってしまった以上、そこから生活のクオリティを下げるのは大変難儀なことだ。

 

角をいくつか曲がり、足早に廊下を抜けて、目的地である居間にたどり着く。

 

「ただいま戻りました」

 

帰還の挨拶と同時に、その襖を静かに開けた。

居間の中心には大きなちゃぶ台。

その上にはこれまた大きなボウルが載せられ、中には真っ白な素麺が盛られている。

 

それを四つの人影が囲んで箸をつけていた。

 

「おー、お疲れさん」

 

「お疲れ様です……兄さん」

 

そのうち入り口から見て左右に座る二人が返事をくれる。

向かって右では、合宿から帰ってきたのであろう兄が畳の上に胡座をかいており、左ではこれまた遠征から戻ってきたカフェが、座布団に正座になりつつこちらに会釈を寄越す。

 

さらにその間、つまり私のちょうど真ん前で胡座をかく母もまた、無言のまま手を上げて返事をした。

相変わらず、肌着に短パンとラフな格好。

 

その後ろで全開にされた窓の先には庭が広がり、そこから吹き込む風がチリンと縁側に提げられた風鈴を鳴らす。

片手に箸を持ち、もう片方の手で団扇を扇ぐその姿は、見ているだけでこちらも涼しくなるようだった。

たびたび外国育ちをアピールしているわりには、もうすっかりこの国の文化に適応しているらしい。

 

「ンで、どうだった?シンボリ童貞卒業の感想を言ってみろ」

 

「お金持ちって凄いなと思いました。あとこれお土産です」

 

脇に抱えていたぬいぐるみをちゃぶ台越しに投げ渡す。

 

母は不運にも自身に背中を向ける形で……すなわち周りの全員に見せびらかす形で抱き止めてしまう。

結果としてサンデーサイレンスのぱかプチは、その愛くるしい笑顔をここにいる全員に惜しげもなく振り撒いた。

 

「うわ、可愛すぎかよ」

 

「………気味が悪いです。あの子も、嫌がっています」

 

子供たちにも中々に好評な様子。

 

裏返してそれを確かめた母は、心底不愉快そうに顔をしかめると、不意にその鼻先を近づけて匂いをかぎとる。

そのままぎろりと、黄金の瞳がぱかプチ越しに私を睨み付ける。

 

「……なンか、お前の匂いがすげェんだけど」

 

「そりゃ、三回も抱いて寝ましたから」

 

「…………………………」

 

母はひっくり返してスカートの中身を確認し、ついでに先程から口を押さえて震えたままの兄をぱかプチでぶん殴るとそのまま投げ返してきた。

 

とりあえず彼女の中ではギリギリ許容範囲だったらしい。

ならこれからも目覚ましとして末永く活躍してもらおう。もう少し面白い反応が見られると思ったのだが、この狂犬も丸くなったのだろうか。

 

……それとも、客人の前だからある程度は自制しているのか。

 

「冗談は程々にして……賓客としてもてなして頂きましたよ。それはもう快適でした」

 

「そうかい。俺もガキの頃はああいうでっかい屋敷に住んでたんだがな。そんなに気に入ったならお前も向こうの子になっちまうか?」

 

「結構です。客人と関係者ではまた扱いも違うでしょうし……その辺、ウチはあまり大差ないように見えますけどね」

 

自分に水を向けられていると察したのだろう。

私に背を向ける最後の一人が、僅かにその肩を震わせた。

 

腰まで流れるような鹿毛の長髪。

他三人が毛色どころか容姿まで瓜二つなのも相まって、その姿は背中だけでも確かな存在感があった。

畳に敷かれた座布団の上で綺麗に正座している。

尻尾がズボンから垂れ下がっているところを見るにウマ娘なのだろう。

カフェとのクラブ仲間だろうか。それにしては、あまりにも歳が違いすぎるような気がする。

 

恐らく私よりもさらに歳上だろう。

それに彼女の纏う雰囲気は、どことなく昨日まで一緒にいたあのウマ娘を想起させる。

今まで会話に混ざらなかったのは、私たちのやり取りに水を差さぬよう配慮していてくれたのだろうか。

振り向きざまに、ようやくその口を開く。

 

「……そんなことはありません。ここもしっかりともてなしてくれていますよ。確かに、我が家よりも多少質が劣ることは否めませんが」

 

 

「低レベルで悪かったな。せっかくこの国の伝統料理で迎えてやったってのに」

 

「素麺で張り合うのはやめて下さい……お母さん」

 

奥で騒いでいる母とカフェには目もくれず、そのウマ娘はただ私だけを見つめている。

 

前髪には一筋の流星がなびき、その下に暗く揺らめく紫の瞳。

口元には笑みを湛えているが、しかしどこか歪だった。世の全てを嫉み、それ以上に自分自身を嘲笑うかのような。引き攣った、へなりとした微笑。

それはまるで、生きながらにして地獄を見ているかのようで。

 

……彼女に似ていると、一瞬でも感じたのは気のせいだったのだろうか。

少なくとも私の知るルドルフの笑顔は、こんな濁った表情には程遠い。

 

訝しげに自らを凝視する私の姿に、嫌悪感を示すどころかいっそう笑みを深くしつつ……少女はその勘違いを肯定した。

 

「向こうでは随分、妹が世話になったらしいですね。あの子に代わってお礼申し上げます」

 

「やはり、貴女はルドルフのお姉さんの」

 

「ええ。シンボリフレンドです。昔は中央で走っていましたが、今は引退してトレーナーを目指しています……以後お見知りおきを」

 

そう言い終えると、彼女はくるりと私に背を向けてしまった。

それと交代するようにして、黙って見守っていた兄がおもむろに言葉を繋ぐ。

 

「フレンドも俺と同じ合宿に参加してたんだ。まぁ、それ以前から顔見知りではあったけど」

 

「ああ。たしか、トレーナー試験を対象にした勉強会……でしたよね」

 

「そう。いずれお前の先輩になるかもしれないからな。今のうちに顔を売っておいた方がいい」

 

ルドルフからそんな話を聞いたとき、もしかしたらと思ってはいたが。

まさか本当に同じ場所にいたとは……思っていた以上に世界は狭いらしい。

 

それに我が家とシンボリの繋がりも、思っていた以上に深いようだった。

たんなる出資者の一つに過ぎないと思っていたので意外である。

 

「なら大先輩の俺にはもっと顔を売るべきじゃねェのか?なァ、そもそも俺に助けを乞いにきた分際で……」

 

「別に助けを求めてるわけじゃありません。アドバイスを貰いに来ただけです」

 

「……同じことだろうが。ホント、最近のウマ娘ときたらどいつもこいつも揃いも揃って」

 

そんな母の小言には欠片も耳を貸さず、一人黙々と素麺を啜るシンボリフレンド。

 

あまりにも肝が座っているというか、ふてぶてしいというか、心臓に毛が生えているというか。

そういうところはルドルフそっくりだと言えなくもないが、しかし彼女の図太さは自信に基づくものである一方、フレンドのそれはどこか投げやりだ。

それはあたかも、その結果なにが起きても構わないといった様子で。

 

そして母もまた、そんなフレンドの姿に口では不満を垂れつつどこか面白がっているようだった。

もっとも、サンデーサイレンスに気に入られることが果たして幸運か否かは定かではないが。

 

「いい加減……兄さんもこちらに座ったらどうですか?昼食は……これからですよね?」

 

先程から入り口で立ったままの私を見かねたのか、カフェが自分の座布団をずらして誘ってくれた。

 

「ん。ああ……ありがとう」

 

襖を閉め、ちゃぶ台の横を通り抜けて彼女と母の間に作られた空間に足を運ぶ。

 

そこに腰を下ろした瞬間、ふと怪訝な表情でカフェが私の顔を覗き込んできた。

 

「………気のせいかもしれませんが。どこか……体調が優れませんか」

 

「別にそんな……いや。そうだな、朝から少し頭が重い。風邪でも引いたかな」

 

それに鈍く痛む。

倦怠感や吐き気、寒気、発熱や下痢といった症状は全くないため、とりたてて気にすることもなかったが。

こうも暑いと体調の一つぐらい狂ったところでおかしくないわけだから。

 

しかしカフェはそれで納得せず、長く垂れた前髪越しに私の顔を睨み付けるように観察する。

しばらくそのまま固まった後、やがて小首を傾げながら元の位置へと戻っていく。

 

「どうだ。やっぱりおかしいか?ソイツ」

 

母が手にもった器と箸をちゃぶ台に置き、私の頭越しにカフェに尋ねる。

 

カフェもまた、胡乱な瞳で首をひねりつつ答えを出した。

 

「おかしい……です。具体的なことは全く分かりませんけれど、なにか……ヒトじゃないモノが、ヒトの振りをしているみたいで」

 

「そりゃなんだ、ゴーストかナニかか?お前が普段見えてるアレ」

 

「どうでしょう……お友達にも、少し近いかもしれません。でも、外には出ていなくて……」

 

 

「そうかいそうかい。それでいい……十分だ。オイ、お前ちょっと付き合え」

 

 

いきなり立ち上がり、横で見上げる私の頭をむんずと鷲掴みにするサンデーサイレンス。

呆気にとられる三人を残して、そのまま私を引き摺りながら悠々と居間を後にした。

 

足で襖を開け、廊下に出ても尚その歩みは止まらない。

やがて私の部屋まで辿り着くと、突き飛ばされるように放り込まれて無理やりベッドの端に座らせられる。

 

「もう、いきなりなんなんですか。連行するにしても、もう少し手心というものがあるでしょうに」

 

「いや、なんだ。まだお前の口からなんも報告が上がってねェことを思い出してな」

 

私をベッドに座らせたまま、正面まで椅子を持ってきて前後を逆に腰かける彼女。

 

背もたれに両腕をかけて、そこに顎を乗せながら……らしくもない真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。

 

 

「さてさて、ながーい思い出話を聞かせてくれよ……お前とルナちゃんのなつやすみについて、な」

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

あの三日間に起こった出来事、始まりからその顛末までをまるごと全て聞き取った母は、そのまま黙ったまま俯いてしまった。

その長い前髪の先端を指先で弄りながら、なにやらずっと考え込んでいる。

その様はなにかを企んでいるというものでもなく、ただ得られた情報を頭の中で整頓しているようだった。

 

お互い一言も発さず、静寂が場を支配する。

 

緊張と不安が加速度的に高まっていく。

母は頭の回転が早い。

とりわけ情報の処理と取捨選択の速さには目を見張るものがある。これはレースに強いウマ娘全般に当てはまる特徴ではあるが。

 

いずれにしてもそんな彼女が、こうして思考に時間を割いているという事実そのものが異常に思えた。

なにか、気づかぬ間に致命的な間違いを犯してしまったのだろうか、私は。

 

そうやきもきしながら見守っていると、ようやく結論が出たのか母が重々しく口を開く。

 

「いや……すまん。悪かったな。お前を向かわせたのは完全に俺のミスだった」

 

そこから飛び出したのは謝罪の言葉。

 

思わず頭が真っ白になる。

このウマ娘が自ら非を認め、詫び言を口にするなどそうそうあったものではない。

ましてやその原因が、自分では全く理解出来ていないものであれば尚更。

 

「いや、謝られてもなんのことか……」

 

「お前はもう、あの家には行くな。いや、行ってもいいが……シンボリルドルフとはもう顔を合わせるな」

 

「そんなことを言われても、まだ別れの挨拶だって済ませてないのに。そう指示したのはそっちでしょう!?」

 

「ああ、そうだ。それで正解だったよ……もし挨拶でもしていたら、お前はきっとこっちに戻ってはこられなかっただろうからな」

 

「なにを…………」

 

訳の分からないことを。

 

「それに、私はまだルドルフやシリウスとの約束を果たしていない」

 

レースをしなければ。

 

レースで、彼女たちに勝たなければ。

 

そうして初めて、私はこの世に生まれ落ちることが出来る。

 

私は勝たなければならない。

 

 

勝ち続けなければ。

 

 

「無理だ。諦めろ。走る走らないの問題じゃねェ……"走れない"んだよ。お前は、もう」

 

母は椅子から降りて、私の前に跪く。

そのままズボンの裾を上げて、露になった両足を指でなぞってきた。

 

「8800メートルを時速70km越えで走って、それでヒトがただで済むとでも思ったか?オマエの足はとっくに限界を越えている。折れてないのは奇跡に過ぎない」

 

「でも、もう痛みは引いて……」

 

「それすら感じなくなってるだけだ。そこまで消耗が酷い……さっきも歩き方が微妙におかしかった」

 

強くふくらはぎの辺りをつねられる。

 

痛みはない。

否、あるにはあるが……あまりにも小さすぎる。

本来受けとるべき、正常な感覚が脳へと伝わってこない。

彼女の言葉がそのまま現実のモノとして突きつけられる。

 

「走るなんてもってのほかだ。歩くのもな。もしお前が俺の担当だったら、半年は寮に軟禁してただろうぜ」

 

強く胸を押される。

抵抗する間もなく両足ごとベッドの上に寝かせられ、頭にぱかプチを投げ込まれた。

 

「俺が良いと言うまで大人しくしてろ。トイレと風呂以外、そのベッドから降りるんじゃねェ。この先の人生、車椅子で過ごしたくないならな」

 

絶対に否定を許さない、威圧的な母の言葉。

しかしその命令もまた、彼女の知識と経験に基づくものであり………

 

 

僕はただ、それに頷くしかなかった。

 



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ルナちゃんのなつやすみ『4日目:夕方』

一匹狼。

 

という言葉には、まるで他人を必要とせず己の力のみで生き抜く強者の風格があるが、実際のところ彼らは負け組らしい。

オオカミの社会において馴染めず、あるいは闘争に敗れて追い出され淘汰された個体だという。

一匹でも生きていけるというより、一匹で生きていかざるをえなくなった者だということ。

 

だとしたら、今の私を表すにはこれ以上なくぴったりの言葉だと思える。

 

ヒトもウマ娘も、その本質において群れる生き物だという。

その群れに馴染めず、どこにも居場所を作れなかった私はまさしく一匹狼なのだ。

好むと好まざるとにかかわらず、きっとこれからも一人で膝を抱えながら生きていくのだろう。

 

「……」

 

ごろり、とソファで寝返りをうつ。

 

背もたれにくっついていた顔がテーブルへと向き、その上に放られたリモコンがふと目についた。

それに手を伸ばそうとして、しかし体が反応しない。精の尽きた肉体は最早私の支配下になく、動作はいつまでも思考の中で完結するのみだった。

まぁ、別に観たい番組があるわけでもないのですぐに諦める。ほんの少しでも、自分を慰めるなにかが欲しかっただけのことだ。

 

電池の切れたように動かない私の体。

その中で唯一稼働する眼球をのたりと動かし、部屋の奥に鎮座するランニングマシンを捉える。

こういう気持ちの沈んだ時は、決まってあそこで体を動かしたものだった。走りに没頭している最中、私はどんな悩みからも解放される。

もっとも、今はそんなつもりにはなれなかった。

リモコン一つ持ち上げられないこの体たらくでは、そもそもマシンまで辿り着くことすら出来ないだろうが。

 

なにもしない……本当になにもしない一日というのは、これが初めてだった。

 

いや、一日かも分からない。

今は何時だろうか。眼球の稼働範囲内に時計はなく、ウマホも手の届く場所にはない。

ひょっとしたら、まだ太陽が真上に来たばかりかもしれないし、あるいはもう地平線の彼方に沈んでしまったのかもしれない。

この穴蔵に逃げ込んで数分しか経っていないような気がすると同時に、とっくに何日も経過していたところでおかしくない気分もある。

 

日の当たらないこの地下室において、時間の経過を把握するのは至難の業だ。

飢えや渇きは、あるいは一つの指針になるかもしれないが……生憎そんなものこれっぽっちも感じられなかった。

朝に目が覚めたとき、あんなにもいがついていた喉の渇きすら、今では嘘のように引いている。

あるいは引いたのではなく、最早感じられない程に消耗が激しい故かもしれないが。

なにせ起きてからパンの一欠片、水の一滴も口に含めていないのだから。

 

一歩も動かず、ずっとソファの上で寝転がっていれば当然だと思う者もいるかもしれない。

だがそれは人間における場合の話だ。

それより遥かに燃費が悪く、息をするだけでも膨大なエネルギーを消費するウマ娘という生き物においては通用しない。

人間とて、寝たきりであっても食事を必要とするのだ。たとえそれが病に冒され、衰弱した老人であっても同様に。

 

肉体を維持し、ただ生き長らえるためだけに食べなければならない。

ましてやそれが、健康で育ち盛りのウマ娘であるなら尚更。もとより生物としての規格が違うのだから当たり前の話だろう。

それすら求めない私の姿は、既に死んだも同然だと言える。

 

私は、死んでしまうのだろうか。

このまま誰にも看取られず、気付かれもせず、省みられないまま地の底で朽ち果てていくのがお似合いなのかもしれない。

そういえば、今日は食事の差し入れも一度だって無かったわけだし、とうとう見棄てられたのだろうか。

 

「…………ふぅ」

 

いけないいけない。

少し自虐的になりすぎたか。

 

みっともないと体を起こしかけて……やっぱり思い止まる。

 

みっともないからなんだというのだろう。

どのみちこの部屋には私しかいないのだから、どんな醜態を晒そうがどうでもいいじゃないか。

それに情けないのは今に始まったことじゃない。

 

一人でなんでも出来ると思っていたあの頃。

なんにでもなれると思っていたあの頃。

 

初めてパーフェクトに会ったあの時。

この部屋で、私は彼になんと言った?

そういえば、私にはトレーナーなんて必要ないとかそんなことをふかした気がする。メニューの構築から作戦の立案まで、全て私一人で賄えるからと。

その言葉に嘘はない。今は無理でも、トレセンに入学する頃にはきっと可能だろうという確信はある。

それだけの能力が私にはあったし、そしてそのための知識も技術もまた習得してきたつもりだった。

 

でも、それは一体なんのために?

本来トレーナーがやるべき仕事なら、ただ任せておけばいいのだ。彼らはそのためだけに知識を詰め込み、技術を磨き、経験を積んだ果てに中央に至るのだから。

その領域にかかずらう暇など、本来私には無い筈だった。

限られた時間で少しでも研鑽を重ね、競技者としての力を伸ばすべきだ。私の目指す勝負の世界は、そんな無駄を楽しめるほど甘くはないというのに。

 

だけど私はそうしなかった。

それはたぶん、私がトレーナーという自分以外の存在を、その能力について、心の底から信じることが出来なかったからで。

そしてそれ以上に確証が欲しかったから。

私は他人を必要とせず、自分自身の力だけで勝ち続けることが出来るのだと。

 

それはまさしく、群れを追われた狼の在り方に他ならない。

ああ……ずうっとこうだったなぁ、私は。

 

 

 

そんな思考に浸っていると、どこからか軽い音が聞こえてきた。

 

 

 

視線をそちらに向けるが、生憎ソファの背もたれに遮られてよく見えない。

機能を閉じた脳みそを叩き起こし、必死に回転させる。

記憶が正しければ、たしかそこにはつい三日前に付け替えられたばかりの新しい扉があった筈。

 

だとすれば、それはノックの音か。

新調がてらちょっとお高い木材を使ったお陰か、前と比べて少しだけ上品に聞こえる。

どうでもいいことだが。

 

「……………誰?」

 

「おや、おはようございますお嬢様。お体に変わりはございませんか?」

 

ああ、なんだカストルか。

いつかと全く同じ挨拶をこちらに寄越してくれる。

 

毎度毎度、私の引き出しに付き合わされてご苦労なことだ。

一度は上手く運んだそれがあっさり振り出しに戻って、いくら彼女でも流石に辟易していることだろう。

あるいは特別な役職と手当てでも貰っているのかもしれない。"ルナちゃん係"みたいな。

 

「なに、カストル。今度はいったい誰を連れてきてくれたのかしら」

 

「おや、よくお分かりになりましたね。今日は扉のすぐ手前にはいないようですが」

 

「別に………」

 

なんらかの確信があったわけではない。

ただ単純に、今さら彼女一人でここに来ることはないだろうと思っていただけだ。

食事なら黙って差し入れ口から投入していくだけだろうし。

 

「そう言うわけで、早速ですがこの扉を開けて頂けませんか?こうなると思ったから新調するのは止めようって、散々私が申し述べたのに聞き入れてもらえなかったこの扉を」

 

「………やだ。面倒くさい。動きたくない。開けるなら勝手に開けて頂戴」

 

コチコチに固まった体を、どうにか腹筋の力で上半身だけ持ち上げる。

頭の血が一気に下まで流れていき、代わりに襲いかかる不快な目眩と全身を包み込む倦怠感。

腰をひねり、扉の方を向いた瞬間、パキパキと背中の凝った筋肉がほぐれていく音。のっそりと肩を回し腕を伸ばしてみれば、これまた不穏な解凍音が鳴り響く。

 

もうそれだけで、辛うじて残されていた体力がカラカラに干上がっていくのを感じた。

こうして話をするだけでも苦痛なのに、どうして自ら鍵を開けなくちゃならない。

 

振り返ったことで、私たちの間……扉とソファのちょうど真ん中にぱかプチが落ちているのが目に入る。

シンザンのぱかプチ。朝この部屋を飛び出た際に床に落としてしまったのだろうか。

大切な宝物であるが、しかしそれすら拾いにいく気にはなれなかった。

 

「私がまた引きこもると思ってたんでしょ。なら、合鍵の一つぐらい用意してるんじゃないの?」

 

「ありませんよそんなもの。それでは扉の意味が無くなってしまうじゃありませんか」

 

「へぇ。それは……迂闊だったね」

 

頼むから帰って欲しい。

私に話しかけてこないで欲しい。

 

おおかた母さんが直談判にでも来たのだろう。

あるいは姉さんが戻ってきたのかもしれない。そういえば、昨日合宿を終えて今日帰ってくるなんてことを言っていた。

 

だけど、今はその二人とも話をする気にはなれなかった。

せっかく起き上がったことだし、最後の力を振り絞ってベッドに向かおう。それで今日は終わりだ。

 

「お嬢様」

 

「………なに」

 

本当にしつこいな、カストル。

別れの挨拶ならいらないからもう放っておいてくれないかな。

 

「私が予測していたのは、お嬢様が再び部屋に籠られることではありません。いえ、それも予測していましたが、その上で危惧していたのは……」

 

「なッ………!!?」

 

ミシミシと扉が揺れ、取っ手が外れてネジが飛ぶ。

 

歪んだ隙間から次々に走る亀裂。脱落する蝶番。

一際、ドア板が大きくたわみ ――――

 

 

 

「……もう一度、この扉が壊されるだろうということです」

 

 

 

―――― 凄まじい音を立ててこちらへ飛んできた。

 

「ぎゃん!!」

 

まるで手裏剣かなにかのごとく、横に回転しながら風切り音と共に突っ込んでくるドア板。

慌ててソファに伏せた瞬間、背もたれを掠めるように飛来したそれはそのまま地下室の最奥へとぶち当たり、木っ端微塵に砕け散る。

ドア板だったものは木片と金属片の集合体と化して床へと崩れ落ち、三日間という短い生涯にあっけなく幕を下ろした。

 

つい数秒前まで私と私の部屋を守ってくれていた相棒。

その無惨な亡骸をただ茫然と眺める。

 

やがて事態を把握し、恐る恐るソファから身を出して入り口の様子を窺ってみると、既にカストルの姿はそこにはなく、代わりに一人のウマ娘が立っていた。

短パンのポケットに両腕を突っ込み、その足を大きく振りかぶっている。

 

私と同じぐらいの歳で、同じ毛色の長髪。

前髪には一筋の流星が踊り、右耳には独特の飾りをあしらっている。

燃えるような紅い瞳が印象的なウマ娘。

 

「よぉ、ルナちゃん。こんばんは……ハハッ、こんな洞穴が本家のお嬢様の私室かよ。私以下じゃねぇか」

 

「シ、シリウス………」

 

見間違いようもない。

そいつはシリウスシンボリ………もとい、今まさに私を殺しかけた張本人。

 

まるで蛇のように、その目を細めて薄く笑っている。

にやにやと、にたにたと。それは私という存在を丸ごと絡めとろうと狙っているかのようで。

 

「カストル!!カストル!!……どこにいったの!?早く……早くこいつをつまみ出しなさい!!」

 

あの警備隊長は一体なにをしているのか。

今まさに不審者が目の前にいるではないか。はやくその職務の本懐を果たせ。

 

生存本能を刺激された脳みそが凄まじい勢いで回転し、私の思考から離れて舌を動かす。

かつてない程の敏捷さでソファから飛び跳ね、素足で床に降り立った。最早スリッパを探す時間すらもったいない。

死体のようだったこの肉体は、今や完全に活気を取り戻していた。

 

「チッ。ピーピーうるせぇ奴だな……あんな木の板一枚ぐらいどうでもいいだろうが。あん?」

 

取り乱す私の姿に悪態を吐きながら、シリウスはポケットに手を突っ込んだままこちらへと近づいてくる。

 

視線は真っ直ぐ私を捉えたまま離さない。

にやにやと笑みを浮かべながら、足元も見ずに大股で突っ込んでくるシリウス。

 

 

「ぶっ!!」

 

 

……ちょうど中頃まできた瞬間、派手にずっこけて顔から床に転がった。

 

「あっ……!!」

 

それと同時に、宙へと跳ね上がるシンザンのぱかプチ。

派手にきりもみしながら彼女の後ろ、地下室の手前に広がるホールの隅へと飛んでいく。

ぽすん、と虚しい残響だけが、遮るもののなくなった入り口越しにウマ耳へと流れてきた。

 

それが、まるであのぱかプチの悲鳴のように思えて。

ぎり、と私は強く拳を握り込み、歯が下唇を鋭く噛み締める。

 

「シリウス……また蹴った。私のモノを。パーフェクトが私にくれたぬいぐるみを。謝りなさい……ルナに。頭を擦り付けて」

 

うつ伏せに転がるシリウスに向かって、舌が勝手に呪詛を紡ぐ。

道端でトラックに轢かれたカエルのような、なんとも惨めで無様な格好を晒しているが、それだけでこちらの気持ちの昂りは収まらない。

 

なんなんだコイツは。

昨日もいきなり絡んできて、散々こてんぱんにしてやったにも関わらずまた絡んできて。

挙げ句私の部屋にまで押し掛けてきたかと思えば好き勝手やり放題。

 

「はぁ!?あんなとこに放ったらかしておく方が悪いんだろうが。オマエのせいで転んだんだから、むしろオマエが私に謝れ」

 

しかしシリウスは微塵も懲りた様子を見せず、鼻を押さえながら逆に私を責め立ててくる。

両手が塞がっていたぶん、顔面から諸にぶち当たったのだろう。

涙を湛えたルビーの瞳は哀しそうに揺らいでおり、形のいい眉もハの字に垂れてしまっている。

 

なまじ口先の威勢がいいぶん、いっそ憐れみすら覚えてしまうその姿。

同時に私より一つ年下のくせして大した精神力だと内心舌を巻くが、しかしそれでもやはりこちらの気は晴れない。

 

「ふん」

 

飛んでいったぱかプチを回収するため、私はずかずかとホールへ向かう。

 

途中、倒れたままのシリウスの背を踏んづけてやることも忘れない。

ぐぇ、とこれまた轢かれたカエルそのものな悲鳴を聞くと、少しだけ溜飲の下がったような気がした。

 

螺旋階段の脇に転がったシンザンを見つけ、そっと優しく拾い上げる。

流石綺麗に掃除されているだけあって、埃の一つもついていないが、念のため何度か手の平で払ってやった。

軽さが幸いしたのか、こちらは扉と違って悲惨な最期を遂げずに済んだようだ。鹿毛の前髪の下で、私を見上げる綺麗な青色の瞳。

 

「ハッ……そんな大事なら、床の上に転がしておくんじゃねぇっての」

 

「うるさい。今転がってるのはお前でしょうに……って、あれ?」

 

「?」

 

愛しいぱかプチとの再会に、水を差すシリウスの嘲笑。

それに思わず反応して顔を上げた瞬間、ぽっかりと開いたドア枠のすぐ隣に、バスケットが一つ置かれているのが目に映る。

 

蓋を開けてみると、その中には二人ぶんのサンドイッチ。

 

……くぅ、と朝からなにも入れてない胃が高らかに鳴った。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

「へぇ。帰ったんだアイツ。なんだ、つまんねえの」

 

タオルでわしゃわしゃと水気を払いながら、あっけらかんとした口調で相づちを返すシリウス。

腰まで届く長い髪では乾かすのも苦労するのだろう。慌ただしくドライヤーのコードをコンセントに差し込むと、全体を膨らませるように温風を当てていく。

 

こいつは本当に遠慮というものがない。

当たり前のように用意されたサンドイッチを平らげ、そのまま断りもなく部屋の風呂に入ってしまった。

順番など省みない、家主を差し置いて堂々の一番風呂である。ゆっくりと長風呂に浸かり、ようやく上がったと思えば全裸で部屋を闊歩している。

 

それを止めない私も私だが。

単純にシリウスの行動は新鮮というか、見ていて飽きないものがある。

こうして誰かに好き勝手やられるのは初めてだった。自分で言うのもなんだが、普段こうして自由奔放に振る舞うのは私の方だったから。

 

「……まぁ、勝手にお風呂に入ったのは許すけど。せめてシリウス、服を着なさい」

 

「いいだろ女同士なんだしこれぐらい。今日も外はかんかん照りでクソ暑いんだよ。地下籠りのアンタにゃ分からんだろうが」

 

「シリウス」

 

「チッ……はいはい」

 

なんとか髪と尻尾も整え終わって、やっと彼女は寝巻きに袖を通す。

言うまでもなく、それも私のクローゼットから持ち出した私物だ。流石に下着までは許さなかったが。

 

「そんで、アイツがいなくなって寂しいルナちゃんは部屋で一人泣いてたわけだ」

 

「別に、泣いてなんかないし。やることないから部屋にいただけだもん」

 

「よく言うぜ。そんなガラッガラの声してる癖に。聞いてるこっちまで喉が痛くなりそうだ」

 

そう指摘されて、思わず自分の喉を上から指でなぞる。

朝のあの不快感をずっとほったらかしにしてきたのは確かだが。

 

「……そんなに酷い?」

 

「ケツひっぱたかれた雌ウシみたいな声」

 

踏んづけたことへの仕返しだろうか。

とんでもない評価を私にくれると、シリウスはごそごそとベッドの中へと滑り込む。

 

やはりこいつ、このままこの部屋に居座るつもりらしい。

そもそも分家である彼女がこちらまで出てきたいきさつは知らないが、ここに足を運んだということは元々屋敷に泊まる予定だったのだろう。

彼女とてシンボリのウマ娘である。どの部屋で寝ようが基本は自由なのだ。

たとえそれが私の部屋であったとしても。

 

「……なにぼさっとしてんだぁ?アンタも風呂入ってさっさと寝ろよ。明日に響くだろ」

 

「………明日?明日って、なにを」

 

「なにって、走るに決まってんだろうが。なんのために私がわざわざこの部屋まで来たと思ってんだ」

 

「だけど、パーフェクトはもう………」

 

「パーフェクト?ああ、アイツのことか。そういえばアンタはそんな名前で呼んでたな」

 

一つ眠たげに欠伸を溢すと、シリウスはごろんと寝返りをうって私に背を向ける。

そのままもぞもぞとブランケットの中で蠢いたあと、するりと尻尾を外に垂らしてみせた。

 

「別に、この先二度と会えなくなるわけじゃないんだろ。てか報告に戻っただけじゃねぇ?自分は使いだって言ってたぞアイツ」

 

「でも、私になにも言わないまま出ていっちゃったし」

 

「なら、戻ってくるよう三女神様にでも祈っとけよ。アイツも半分はウマ娘だから、ひょっとしたら効果あるかもな」

 

「シリウス………」

 

「それに戻ってこなくても私がいればいいだろ別に。確かにアイツは凄いっちゃ凄いが……それでも所詮はヒトだ。私には敵いっこない。違うか?」

 

違わない。

一緒に競う相手と見るなら、彼女の方がよっぽど上等だろう。

 

それでも、割り切るつもりにはなれなかった。

たった三日間とはいえ私の初めての親友だったし、それに自ら名前を贈った愛着もある。

 

……なにより、私はまだ彼に約束を果たしてもらっていない。

 

塞ぎ込む私に居心地が悪くなったのか、はみ出した尻尾をせわしなく揺らすシリウス。

 

「……そんなに来て欲しいなら、来るって信じていてやればいい。そうやってウジウジされているのが一番気に障る。アイツも、それに私もな」

 

「……うん。そう、だね」

 

そうだ。

ここで一人膝を抱えていてもなにも始まらない。

 

所詮は大人同士の都合で始まったことなのだ。

なら、子供の私がどれだけいじけて喚いたところでなにも変わらないのだろう。

それはきっと、時間の無駄だ。

 

シリウスの言うとおり、もう少しだけ待ってみよう。

それでも来ないなら、今は諦めよう。

将来、私がもう少し大きくなったその時に、今度はこちらから迎えにいくことにしよう。

 

そう考えると、嘘みたいに心が軽くなったような気がした。

 

そうだ、私たちにはまだ先があるんだ。

ならいつか、彼と再び出会うその日まで、私は前に進み続けるしかない。

こんな歳で止まった私など、きっと彼は目もくれないだろうから。

 

「……ありがとう。シリウス」

 

「黙れ。さっさと風呂入って寝ろ。あと電気は消しとけ」

 

ぶら下げていた尻尾をするりと引っ込め、シリウス

は腹にかかっていたブランケットを胸まで引き上げる。

そうしてすぐに、微かな寝息を立て始めてしまった。

 

そんな彼女を見届けたあと、私も自分の寝巻きとバスタオル、それからドライヤーを抱えて脱衣場へと向かう。

 

さて、まずはゆっくりとお湯に浸かりながら、一つしかない枕をシリウスからどう取り戻すか考えることとしよう。

 

 




【日づけ】7月29日(木)

【てんき】はれ

【今日のできごと】

今朝、起きたらあの人がやしきからいなくなっていました。
たぶん自分のいえにかえったのでしょう。彼は別のいえの人なのでしかたないかもしれませんが、せめてあいさつとか、手がみの一つぐらいはほしかったです。
これではいつもどってくるのかも、それとももどってこないのかさえ分かりません。

それから、夜になるときのうあそんだウマむすめの子がやってきました。
これまで走ってきたどんなウマむすめともちがって、その子はなんど私にまけても全然へこたれません。ずっと生いきなままです。
いっしょにいてたのしいけれど少しだけはらが立ちます。それにすぐモノをこわしたりもします。

やっぱり私があの子のたづなをにぎらないといけないみたいです。私の方がおねえさんだし。


【かんそう】

あの人がいなくなってしまったことはやっぱりかなしいし、さびしいです。
でも、いつまでもなやんでいたところでしょうがないとおもいます。ちゃんと前をむいていきたいです。

ただ、それでもやっぱりもどってきてほしいので、ベッドに入るまえに三女神さまにおいのりをささげました。
あの人もはんぶんはウマむすめなので、ひょっとしたらウマむすめのたましいをつかさどるという三女神さまのごかごがあるかもしれませんし。

はんぶんはウマむすめといえば、昔からひとつ気になっていたことがあります。
ウマむすめが男の子を生んだとき、その子が母おやのとくちょうをうけつぐことはよくありますが、なのにどうしてその子たちにはウマむすめらしい名まえがつけられないのでしょうか。

前に私の母にそれをたずねてみたところ、『きんき』だからといっていましたが、『きんき』ってどういういみだろう……?


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■■■■■■■■■■■『■■■:■』

 

ガコン、と大きな音で目を覚ました。

 

突風が顔に突き刺さる中、ゆっくりと瞼を持ち上げていく。

肺が伸縮を繰り返し、心臓がやかましく鼓動を張り上げた。つんざくような歓声と、重く鳴り響く足音の数々。地面が揺れる。

 

……ああ、それにしても本当に風が強い。

 

荒磯にたたずむ岸壁といえども、ここまでの猛威は知るよしもないだろう。

匂いも違う。塩気を孕んだ海の香りではなく、土と、芝と、そして人の匂い。

 

ようやく完全に開いた視界で、私はその正体に気がついた。

 

…そうか、私は駆けているのか。

 

脚を振り上げる。

前へ前へと、狂ったようにその先へ。

私の眼前に広がるのは、なにも遮るもののない茫洋とした緑の大海。

それは先頭の景色。両手の指ほど目にしたそれは、しかしこれっぽっちも飽きることなどなくて。

当然だろう。そのためだけに、私たちは全てを賭けたのだから。

 

集中の果てに、まるで世界の全てが溶けて混ざり合っていくように感じた。

極限まで研ぎ澄まされた五感が、全身を叩きつける風を、今にも崩れ落ちてきそうな青空を、鳴動のごとき声援を鮮明に受け止める。

 

それらが、どうしようもなく不快だった。

 

激痛と化して久しい脚の痛みに顔をしかめ、それでも私は前へと走る。

割れるような膝の痛み。裂けるような爪の痛み。

今更、それを省みるようなことはしない。慣れたものだった。生まれてこのかた、これらは私の脚と常に共にあった。

それと騙し騙し付き合って、思うように練習をこなせたことすら一度たりともない。

 

私はまだ本気を出していない。

世代最強を争うこの舞台において、その在り方が全く相応しくないことは理解している。

 

限界のさらにその先、自身も知らない豪脚。

時代を作るウマ娘は皆それに至るというが、未だに私はその領域を知らない。それを知るべきなのは今ではないのだ。

とどのつまり、この瞬間すら私にとっては過程だった。いつの日かふと思い出し、束の間の感慨に浸る程度の轍でしかない。

 

本当に、なんと傲慢なのだろう。

 

風を不快と詰り、空を不気味と見上げ、歓声に耳を逆立て、痛みに歯を食いしばり。

私は一体、なにを望んでターフを駆けるというのか。

 

決まっている。他の誰でもない、私のために、私たちのために、この命と魂の半分である彼のためだけに私は走るのだ。

拳を付き合わし、笑みを交わして、私たちは見果てぬ夢を見た。

それを託された今、私に折れることなど許されない。

瑕疵なき三つ目の冠を戴くまで、私は負けるわけにはいかない。

 

勝ち続けなければならないのだ。

ただそれだけが、私に残された唯一の正義だった。

 

……だから、こんなところで終わるわけにはいかないのだ、私は。

 

不意の衝動に背中を押されて、とっさに私は前へと手を伸ばす。

今度こそ、その先を知る必要がある。ウマ娘としての本領、限界を超えた先の自分を。

 

見なければならない。今度こそ私は、この夢の続きを――――

 

 

 

 

◆◇

 

 

 

目を開けると、私は見知らぬ場所を歩いていた。

 

ざりざりと、びっこを引きながら坂を上る。

 

視線を少し下ろせば、そこには砂の混じったアスファルトが続いていた。

ガードレールで仕切られた歩道は幅が狭く、所々に乾いた泥が飛び散っている。

隅で根を張るタンポポはとっくに枯れ果て、水分の抜けきった葉っぱが茶色く萎びていた。その隣で、足をたたんで仰向けに干からびたセミの亡骸。

どれもこれも、夢で見たあのターフからは程遠い。

 

いや、それともこれが夢なのだろうか。

現実の私は今も芝の上を駆けているのかもしれない。

夢と現実を判別するには、よく頬をつねって痛むか確かめると聞くが、幸い今の私にはその手間もいらなかった。

 

ミシリミシリと、足が音を立てて痛む。

それはあたかも骨と肉が共に喰い合って自壊しているかのようであって、同時に私にとって歓迎すべき痛みでもあった。

神経の麻痺していた足が感覚を取り戻している。

すなわち寛解に向かっている証であり、そう遠からず再び全力で走れるようになるはずだ。もう一度……あの走りをもう一度。

 

坂の上から、一陣の風が吹き込む。

それが膝を撫でた瞬間、まるで肉を削ぎ落とされ、つられて骨がパラパラと剥離していくような錯覚。

思わず顔を上げると、ガードレールの向こうに青い道が平行して続いてるのに気づいた。

 

ウマ娘専用レーン。

全身の力を振り絞ってなんとかガードレールを乗り越え、そこに進路を取ることにする。

ペンキで適当に区切られたものではない、しっかりと整備されているあたり、ここは都心なのだろうか。

 

のたのたと、おぼつかない足取りで坂を上り終える。

目の前に掲げられた看板。デフォルメされたウマ娘のイラストが描かれており、その隣に大きな矢印。

指し示す先には、大きなスタジアムが構えていた。それは、あの日ルドルフと訪れたグラウンド。そうか、私は帰ってきたのか。

 

いや、違う。

帰ってきたのではなく、帰っている最中なのだ。目的地はここではない。グラウンドを素通りして、さらにその先の道を進む。

ああ、ようやく見覚えのある景色だ。彼女に腕を引かれて二回も歩いたのだったな。

 

行く手に阻むものはなにもない。

歩く人間も、走るウマ娘も、自転車も、車も、バイクもなにもなかった。道端をつつくカラスも、うろうろと彷徨うドバトの一羽すらいない。

ああ、これだけはあの夢で見た光景と一緒だな。

沸き上がる衝動に駆られて走り出すも、しかしほんのニ、三歩進んだところで激痛に白旗を上げた。

 

骨肉から脂肪に腱に神経まであまさずミキサーにかけられている感覚。

頭の中で、潰れたトマトのイメージが鮮烈に浮かぶ。拳で叩き潰される熟れた野菜。

そっと手をどけると、じゅくじゅくした残骸との間に真っ赤な糸が引く。

 

「う……ぐ、ぉ……え"ェ……」

 

胃からせり上がるものを必死に押し留める。

口一杯に広がるすえた臭いと不快な酸味。それを寸でのところで飲み下した。

胸がむかつき、消化液が食道を焼く。ほとんど中身が無くなっていたのは幸いだった。母は、これを見越して夕食に粥を作ったのだろうか。

いくら衆目がないとはいえ、こんな場所で吐き捨てていくのはあまりにも申し訳ない。

 

しばらく目を瞑って空を仰ぐと、なんとか気持ちも落ち着いてきた。

頃合いを見計らって、ようやく行進を再開する。

 

先程までは下向きだった視線を、今度は宙に浮かして固定した。

いくら収まったとはいえ、また下を向いては再び喉元からせり上がってきそうな予感があるから。

道のりについては問題ない。一度でも通った道ならどれだけ複雑でも正確になぞることが出来る。記憶力には自信があった。

 

 

それにしても、どうして私は外を歩いているのだろう。

 

 

たしか昨日は家に帰った後、自分の部屋に籠ってそのままベッドの上で過ごした筈だ。ルドルフから預かった耳飾りを弄りつつ眠りに落ちたのではなかったか。

それがどうしてこんなところに。そもそも今の時刻すら判然としない。

 

熱に冒されたような視界では、たとえ空を見上げたところで大した情報も拾えなかった。

昼間のように明るい気もするし、逆に夜明け前のようにも思える。太陽が覗いているのか、それとも雲に覆われているのかすら分からない。

夢で見た、青々と不気味に広がる空だけが目蓋の裏に焼きついている。

 

「あっ………」

 

そんな風に空を仰ぎながら歩いていると、不意に硬いなにかにぶつかってしまった。

 

とっさに身構えつつ視線を戻すと、目の前にそびえ立つのは鉄柵が絢爛に編まれた両開きの門。

 

ああ、これも見覚えがある。とうとう目的地についたようだ。

両腕で柵を掴み、上半身の力で思い切り押してやる。勢いよく内向きに開放され、私は転がるように中へと飛び込んだ。

 

その際たたらを踏んでしまうが、もう痛みに立ち止まるような真似はしない。

眼前いっぱいに広がる芝の海。それだけに心を奪われていた。

一歩、また一歩と慎重に全速力で歩みを進める。

足裏の感触はなく、ただ肉体に染み込んだ基礎的な動きを頼りに前へと突き進む。両足は震え、腿から下の感覚もまたとっくに失われていた。

 

言うことを聞かない足に、それでも懸命に鞭を入れて歩く。

綺麗に整えられた芝を横切って、屋敷の角を曲がったところ、庭のターフで戯れる二人のウマ娘の姿が目に入った。

 

やっと、やっと辿り着いた。

私は帰ってきたよルドルフ。さぁ、レースを始めようか。

 

彼女たちに手を伸ばしながら、最初の一歩を大きく踏み出し―――――

 

 

 

 

「行かせねェよ」

 

 

 

 

―――――誰かが、その行く手を阻んだ。

 

 

 

私の前に立ち塞がるそいつは、真っ黒なスーツを着込んでいて。

青鹿毛の長髪が尻尾の付け根まで伸ばされ、前髪も同様に長く垂れ下がっている。

宵闇のような漆黒の隙間から、満月のように爛々と輝く黄金の瞳が覗いている。縦長の瞳孔はチラチラと揺らめきながら、足を引きずる私を見下ろしていた。

 

「……母さん」

 

「言ったよな、俺は。許しが出るまで部屋のベッドから降りるなって。俺がいつお前に外出を許可した?」

 

「退いてください」

 

そう突き飛ばそうと試みるも、しかし目の前の矮躯はぴくりとも動かない。鍛え上げられた体幹の賜物か、大地の奥深くまで根を下ろしているかのようにすら思える。

 

あっさりと腕を払われ、逆にこちらの襟首を掴まれ捻り上げられてしまう。

 

「退かして、それでどうすんだよ?あいつらとレースでもしようってのか?」

 

「いけませんか?」

 

「駄目に決まってんだろ!!昨日の話をもう忘れたのか!?お前は二度と走れねェんだよ!!この先一生、死ぬまでずっと」

 

彼女は前髪が触れあうぐらいまで私に顔を寄せ、刻みつけるように一語一句、はっきりとそう告げる。

 

「……でも」

 

それでも、私は大人しく引き下がるつもりにはなれなかった。

足が痛むからといって、傷ついたからといってそれがなんだというのか。彼女もあのボロボロの脚で走っていたんだ。なら、私だってきっと。

 

「……駄目だこりゃ。全くお話にならない。まるでレミングだな」

 

そんな思考を読み取ったのか、母は顔を離すと諦めた様子で首を振った。

一瞬そのまま解放されるかと期待したものの、かえってますます締め上げる力は強くなる。

 

「自分から水に突っ込んでいく。寄生されたカマキリみてェなモンか。脳ミソからしてまともじゃない」

 

「そんな、人を病人みたいに……!!」

 

「病気だろ。医者じゃ治せないぶんさらに悪質だがなァ。こういう、内側に巣食う奴は決まってタチが悪い。ウィルスとか寄生虫みたいなもんでな」

 

襟首を拘束していた彼女の手は、いつの間にか私の首そのものをひっ掴んでいた。

辛うじて息の通る程度にまで気道を圧迫されたことで、呼吸に追われ言葉を繋げる余裕すらなくなる。

 

どうにか振りほどこうと全力で抵抗を試みるが、両手を駆使しても指の一本すら剥がすことが出来ない。

こんな痩せ細った肉体のどこにこれ程までの力が秘められているのだろうか。

 

「……本当に、物分かりの悪い。カフェよかさらに重症だなこれは」

 

そんな無意味な足掻きにいい加減嫌気が差したのか、母は力ずくで私をその場に跪かせた。

並んでいた目線の均衡が崩れる。

 

「なら、最後に一つ。諦めがつくように教えてやる」

 

「なに、を」

 

「お前が理解していない、あるいは理解していながら尚……目を背けていたであろう事実。その一片について」

 

押さえつける力はそのままに、彼女は腰を折って私を見下ろすように視線を合わせた。

瞬きすらしない、見開いた瞳孔のまま淡々と宣告する。

 

「もしもの話。お前の足が完治して、アイツらとレースしたとする……それでも、お前は万が一にも勝てねェよ」

 

「どう……して」

 

「足が脆すぎるのさ、お前は。それでもヒトとしちゃ十分すぎるだろうが、ウマ娘としちゃ全くお話にならない。並走ならともかく、ガチのレースで通用するわけがねェ」

 

そう言いながら、彼女はもう片方の手で自分の脚を叩いてみせる。

 

「血の宿命なんだ。お前の母親だってそうだった。もし将来お前がガキを作って、そいつがウマ娘だったとしたら……そいつもきっと、ガラスの脚を持って生まれてくることだろうよ」

 

「母……親?」

 

今、母はなんと言った?

 

私の母親……ウマ娘であろうその人物について、彼女はなにも知らないと言っていた筈。

きっと、夢の中で見た競争バについて、その正体を知っているということか。

 

そう察した瞬間、私を押さえつける力がまたしても強くなる。

結果、彼女に真偽を問い質すことすら叶わず、ただその言葉に耳を傾けるしかない。

 

「……俺もそうだった。生まれつき脚が曲がってて、まァ、それでも現役の頃はトレーニングでカバーしてきたが……今となってはとうとう骨盤まで歪んじまった」

 

ざり、と芝を掻く彼女の脚。

その両膝と爪先は大きく内を向いており、何よりも雄弁に今の言葉を証明していた。

 

脚部に不安を抱えるウマ娘は少なくない。

たとえ、それがG1で戦う一流競争バであったとしても。

重要なのは、その不足をどう補うかということだった。それは専用のトレーニングだったり、あるいは幼少期のマッサージであったり。レースにおいても、独自の走法や作戦が求められる。

当然、ヒトとして生きてきた私にそんなものがある筈もなく――――

 

 

「そういえば昔、お前にも見せてやったことがあったな。俺の今の走り」

 

「……は、い」

 

今でも鮮明に思い出せる。

私がトレーナーを志すきっかけだったか。

 

酸素の欠乏した頭でその記憶を振り返る私に、母は決定的な事実を突きつける。

 

「ターフを去って数年間。肉が落ち骨は歪み、スタミナも衰えた。そんな"終わった"ウマ娘の出涸らしみてェな走りに魅せられる……それがお前の"限界"なんだよ」

 

「………………」

 

「だからもう眠れ。お前のいるべき場所はこっち(・・・)じゃない」

 

首を掴む手に一気に力が込められた。

 

血管が閉塞し、脳への血流が完全に遮断される。

 

「ガッ……ァ……」

 

 

「……ガキ共には俺から説明しといてやる」

 

息が止まり、目の前に飛び散る火花。

力が抜けそのまま崩れ落ちる四肢。視界は急速に靄がかって狭まっていく。

 

 

意識を手放す直前、閉じかかった目蓋の隙間から、こちらへ駆け寄る二人の姿が見えた気がした。

 




【日づけ】

【てんき】

【今日のできごと】







【かんそう】






私のせいだ









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【幕間】そのモノの名は

無駄にデカい屋敷だ、と俺はここにくる度いつも思う。

それにデカいだけじゃない。床の敷物から額縁に天井の照明、階段の手すりに至るまでまぁ凝ってるのなんの。

 

シンボリぐらいの資産家ともなれば、そうやって着飾るのも仕事だと分かっちゃあいるが、どちらかと言えば機能美を重視したい俺にとっては肌に馴染まない。

成金、とは到底言えないほど伝統も格式もあるのだから、もうちょっとそれを前面に出すべきだと思う。悪いことではないが、純粋に勿体ない。

 

初めてこの屋敷に招かれた時、旧家の名門だと聞き及んでいた俺は、さてどんな武家屋敷がお出ましになるかと内心期待していたものだから、この有り様を見て本気でがっかりしたんだったな。

コイツら外国に影響され過ぎだ……なんて、すっかり日本かぶれした俺が言ったところで、なんの説得力もありゃしないだろうが。

 

「こちらです。サンデーサイレンス様」

 

「どうも」

 

警備隊長とやらに先導されて、俺はこの屋敷の中でもとびきり立派な扉の前に到着した。

分厚い両開きの扉に真鍮の取っ手。

まるで見る者を威圧するような……いや、実際威圧しているのだろう。舐められたら終わりというわけか。ご苦労なことだ。

 

ま、俺にはちゃんちゃら無意味だがな。

特に気後れすることもなければ、畏まるつもりなどさらさらない。

そんなしおらしさなどとうの昔に小便ひっかけて便所にでも流してしまった。下水道を流れて今頃とっくに海の底だろうさ。

 

なにか言いたげな案内人を脇にどかして、厳ついそれを突き飛ばすかのごとく盛大に開け放つ。

 

 

「よォルナちゃん!!邪魔すんぜぇ……お望み通り、この俺が直々に来てやったよ」

 

挨拶は全ての基本だ。

開口一番、元気な声を投げ掛けてやると、部屋の主は視線だけをこちらに寄越してくる。

さらさらとした前髪の下で、アメジストの瞳が鈍く揺れていた。

 

なにかトラブルに直面した時、あるいは後悔や苦悩を抱えている時、極端に寡黙になる癖がコイツにはある。

昔からの癖だ。あるいは悪癖と言っても良いかもしれない。本人にどういった意図があるにしても、極端な沈黙というのは得てして牽制に繋がるもんだ。場の雰囲気も悪くなる。

ましてや社会的地位も権力も兼ね備えたヤツなら尚更だろう。

コイツだってそんな事は理解している筈だが、矯正出来ないらしい。難儀なことだ。

 

まぁ、それもまたこの俺にはちゃんちゃら関係のないことだがな。

サンデーサイレンスにとって、場の雰囲気なんてものは自分で支配するものなのだ。いついかなる時であっても。

 

ずかずかと部屋の中を突っ切り、スイートルナの腰掛ける対面のソファにどっかりと尻を沈める。

そのままスーツの懐に手を突っ込み、愛用の携帯酒瓶を取り出して蓋を開ける。

そのまま逆さに振って、勢いよく中身を喉の奥へと流し込んだ。骨太かつスパイシーな、ストレートのバーボンの風味が喉を焦がす。

 

テーブル越しに真ん前のウマ娘が呆れたような、咎めるような視線をこちらに寄越すが、そんなの知ったこっちゃない。

文句があるならまずは喋れ。大股で開いていた両足も、ついでにどっかりと組んでやった。

 

まだ日の高い内にと言ってくれるな。これでも俺は疲れているのだ。

あのバカが部屋から消えたと知った直後、そのままおっとり刀でスーツに着替えてここまで走ってきたんだからな。

さしものサンデーサイレンス様とはいえ、流石に一晩中歩き続けた人間に追いつくのは容易ではない。寸でのところで間に合ったのは僥倖だった。

 

そんな俺の、どうしようもない姿にかえって毒気も抜かれたのだろう。スイートルナは大きくため息を溢す。

しばらく目頭を揉んだかと思えば、突然に深々と俺に向かって頭を下げた。

 

「この度は申し訳ございませんでした。当主代理として深くお詫び申し上げますわ」

 

「あん?」

 

てっきり小言の一つでも飛んでくるかと思えば、まさか詫び言とは。

面を上げたルナの顔色はやはり優れない。普段は結構図々しいというか、腹黒いところもある癖に、こういう肝心な時に開き直れないというのも損な性格だな。

 

「私の監督不行届でした。個人的な都合であの子を引き留めたばかりに………」

 

「んなことをいつまでも引きずってンのか。ファーストコンタクトはともかく、そっから先はアイツが自分の意思で居残ったんだろうが」

 

アイツがこの屋敷に何日も滞在することになったいきさつ、曰くややこしい条件の中身については既にすり合わせが済んでいる。

なんてことはない。扉越しどころか直にシンボリルドルフと話をして、しかも外に連れ出すことに成功したのならその時点で切り上げるべきだったのだ。

あの二人の間でどのような約束が交わされたにせよ、アイツの頭ならどうとでも誤魔化すことは出来ただろう。

 

にも関わらず、アイツは深入りした。

それが単なる金目当てだったのか、あるいはそれ以上に無視出来ないなにかがあったのかもしれないが、なんにしても関わりすぎた。

全部アイツが自らの意思で行ったことだ。

なら、その結果について責任を負うのもまたアイツ自身ということになる。

 

「それに、ルナちゃんがしっかり"監督"していたところで、どうせ結果は変わらなかっただろうさ」

 

「………そう、でしょうか」

 

「だからいい年こいた大人がいつまでもショボくれた顔してんじゃねェよ。見苦しい」

 

仕方ないので、少しだけフォローを挟んでやる。

本当ならスイートルナの後ろめたさを奇貨として、さらに契約の内容を盛るか、せめて将来を見据えた貸しの一つにでもしておきたい所なのだが。

しかし長年の付き合いであるウマ娘を前にして、それをするのは少しだけ躊躇われた。

 

それに、監督の不行き届きという点では俺も言い逃れ出来ないわけだし。

夢を見ながら出歩くなんて、あんな夢遊病みたいなことをしでかすとは流石に予想がつかなかった。

日頃のアイツの従順さに油断していたのかもしれない。外から塞いで監禁するか、いっそベッドにでも縛り付けておくべきだったのだろう。

 

あるいは、ウマ娘との関わり方についてもっとしっかりと教育しておくべきだったのかもしれない。

と言っても、自分ではそうしてきたつもりだったのだが。

 

ウマ娘という種族自体、元から闘争心や執着心の激しい生き物なのだ。精神的に成熟した大人ならともかく、まだ心身のコントロールが十分にこなせない相手では勝手が違う。

そして、まだ子供のアイツが関わるのはそういった幼いウマ娘が主になる。浅い付き合いに留めておけと、日頃から忠告してきた筈だったのだが。

仕事柄、ウチにはそういったウマ娘が多くいる。チビ共の世話をする中で、アイツ自身どこか甘く見ていた所があったのだろうか。

 

それに、俺が懸念したのはそういったウマ娘由来のトラブルだけじゃない。

アイツ自身にも、中々どうしてやっかいな特性が存在する。

 

 

「ウマ娘とは、別世界に存在するとある者たちの名と魂を受け継ぐ存在。こんな話は、勿論お前だって聞いたことあるよな?」

 

「?……ええ、はい。まぁ」

 

ありふれた言い伝えだ。

おとぎ話と言ってもいいかもしれない。いつ誰が言い出したのかは知らないが、似たような逸話は世界中に存在する。

似たような、というか言い回しが異なるだけで全く同じだ。ウマ娘がこの世に生まれて以来、普遍的に存在してきた価値観なのかもしれないが。

 

「その言い伝えがどうしました?」

 

「いや。お前は信じてるのかなって」

 

「は?」

 

まるで要領を得ない俺の言葉に、彼女は不可解な様子で首を傾げる。

そりゃそうか。あまりにも脈絡が無さすぎるし、突拍子のない話である。

 

頭でっかちなコイツのことだから、てっきりガキの夢物語と鼻で笑って切り捨てるもんだと思っちゃいたが。

しかし意外なことに、クソ真面目にしてはそれなりに柔軟な答えを寄越してきた。

 

「あり得ない……とは言い切れないのではないでしょうか。真偽の程は不明ですが、それらしきものを体感したという者の話を聞いたこともあります」

 

「へぇ………それはどんな?」

 

「かつて、私が中央にいた頃。なんでも三女神像に呼ばれて前を通ると、唐突に過去のウマ娘の姿を幻視したとかなんとか」

 

「あー……てかそれ学園の七不思議そのままじゃねェか。たしか続きがあるんだったか?」

 

「えぇ。曰くそれは『継承』であって、件のウマ娘の力を受け継ぐことが出来るのだと。実際、それを教えてくれた子は直後に才能を開花させました」

 

驚いた。

ひょっとしなくてもコイツ、俺よりよっぽどロマンチストなんじゃないのか。あんな都市伝説をどうやら本気で真に受けているらしい。

俺からしてみればそんな都合のいい話、仮にも元トレーナーとして信じる気にはなれないんだが。

 

「眉唾だな。そのウマ娘にもプライドってもんがないのかね……神様のお陰でもなんでもなく、ただ自分の努力に結果が追いついただけかもしれないのに」

 

「そう割り切ってしまえばそれまでですが。しかしその子は三女神様の祝福だと喜んでいましたよ」

 

「祝福ね……俺の目には、どちらかと言えば呪いに映るが」

 

勝手に魂を弄られて、いつの間にやらパワーアップしてたなんて気味が悪い。

ましてやつい今朝、あんなことが起きたばかりなわけだし。

 

「にしてもビックリだな。お前にもオカルトを解する程度の柔軟さがあったとは」

 

「そんなコチコチの石頭になったつもりはありません。オバケの一つや二つぐらい、学生時代にも見たことはあります。覚えてますか?私の高等部二年次の夏合宿でのこと」

 

「あー……そういやそんなこともあったな」

 

トレセン所属の合宿所、そこから南へ真っ直ぐ100メートル程離れた場所にある砂浜。

いや、そこからさらに進んで山に入った所だったか。肝試しがてら訪れたそこで、まぁ随分とけったいな思いをしたモンだった。

 

ただ俺としては、卒業記念に泊まった温泉旅館の方を思い出してほしかったんだが。

この俺が皆を守るため、拳一つで怪物キョエエ鳥を退治したってのに誰も褒めちゃくれなかった。

あろうことか陰で俺をホラ吹き呼ばわりしたこと……今でも忘れてないからな。

 

「それに、貴女こそ随分非科学的な視野をお持ちのようですが。だからこそ、わざわざあんなおとぎ話を引き合いに出したんですよね?」

 

スイートルナはやや前屈みになり、薄く笑みを浮かべながらこちらを覗き込んでくる。

いい加減、あの問いが本題に絡んでいることを察したらしい。

 

……少々話が逸れすぎたか。

会話のテープを巻き戻して、話を本筋へと戻すことにしよう。

 

「俺の娘のことなんだがな」

 

「たしか……マンハッタンカフェさんでしたか。彼女がどうかしました?」

 

「どうもそういう、『まともじゃないヤツ』が見えてるらしい。カフェはソレのことを『お友達』なんて呼んでる」

 

俺とてオカルトを全肯定するつもりはないが、『お友達』に関しちゃ話が別だ。

よくある写真の端に映るだとか、そんなチャチなもんじゃない。物理的に害を為す存在だから。

 

カフェがまだほんの小さい頃、随分とまぁそれに悩まされたもんだった。

宿主を守ってんのかなんだか知らないが、『お友達』は無駄に俺に当たりが強い。結局カフェが成長し口を利けるようになるまで、その猛威には手を焼かされっぱなしだった。

 

……いや、別に『お友達』はカフェを守っていたつもりではないのかもしれない。純粋に、俺のことが気に食わなくて堪らないだけだったのだろう。当然か。だってソイツは――――

 

「ソレは、俺と同じ姿をしているんだと」

 

「……母親である、貴女の真似をしているということでしょうか」

 

「どうだろうな。しかもソイツは、どうやら俺の記憶もそのままそっくり持っているらしい。事実、カフェは教えたつもりのない俺の思い出を丸ごと知っていた……曰く、その『お友達』が語り聞かせてくれたという」

 

「本かなにかで、貴女の過去を知ったという可能性は?」

 

「冗談だろ。俺は初めて来日した夜の財布の中身についてまでインタビューに答えたつもりはないぜ。25歳のクリスマスイブに食ったチキンの数もな」

 

そもそも俺は、自分の過去についてはなにも語ってこなかった。

調べるぶんには好きにさせているが、それに手を貸してやったことは一度もない。俺の日米での活躍をまとめた、映画の出演オファーですら断じて受けることはしなかった。

 

誰も知る筈がないのだ。

公に記録された活動ならともかく、過去のプライベートにおける思い出なんて。

俺自身の口から聞かされでもしない限りは。

 

「『お友達』の正体に関する俺の答えはこれだ。『サンデーサイレンス』……つまりソレは、俺自身の魂なんだよ」

 

「魂………ですか」

 

「ゴーストというほどグロテスクでもない。スピリットというほど神聖なものでもなく……そうだな、やっぱりソウルが一番しっくりくるだろう」

 

「ウマ娘のソウル……ウマソウルというわけですか」

 

「……絶妙にダサいな、それ。だがまァ丁度良い。便宜上そう呼ぶことにする」

 

なんともぶっ飛んだ答えかもしれないが、それでも俺の用意した推察の中では最も筋の通ったものだった。

非現実が確かに存在するこの世界において、非科学的という言葉は否定を為さない。

 

それを言うなら、ウマ娘という生き物そのものが非科学的なのだから。

ヒトと近似した構造でありながら、陸生動物としてトップクラスのスピードを生み出す原理について、未だ科学で解明なされていない。

ウマムスコンドリアなるものの存在も示唆されてはいるが、所詮超科学の範疇を出ない程度のものだし。

 

「例のおとぎ話の通り、ウマ娘の魂というものがあるとしたらだ。別におかしい話じゃないだろう?子が親の魂を受け継いだとしても」

 

「……血の繋がり、とりわけ母子関係というものが極めて特別視されているのは事実です。世界のどんな宗教、伝説、伝承、逸話を紐解いても」

 

「なんせ元々は一つの肉体だったわけだからな。出産を契機として、我が子を依り代にその『ウマソウル』とやらが母体から剥離するのも……まぁ、感覚的には受け入れられる」

 

机上の空論もいいところだが。

俺だって、カフェの『お友達』の一件がなければこんな結論に思い至りもしなかっただろう。

あるいは辿り着いたところで、一笑に付していたに違いない。

 

「そして、それが今朝アイツに起こった異変の根源だと俺は考える。三本足から受け継いだ魂が、そのままアイツに悪さした。乗っ取ろうとしたんだ」

 

そして、それもまた俺の監督不行届の一つだろう。

 

俺が『ウマソウル』の片鱗を見たのはカフェと『お友達』だけで、息子の方にはなにも無かったもんだから、てっきりヒトには関係ないものだと油断していた。

警戒していなかったわけでもないが、その結果が他所のウマ娘に深く関わり過ぎるなという、ありきたりな忠告では意味がない。

 

「その原因とはなんでしょう。ルナと一緒に走ったから?」

 

「それもなくはないだろうが、たぶん最大のきっかけは名前なんじゃねェかな。あの娘、勝手に名付けたろう」

 

「いえ、初耳ですが。ちなみに、それは」

 

「パーフェクト……ハハッ、ホントに大した偶然だよな。アイツのツキの無さは筋金入りだぜ」

 

果たしてどういう経緯でそれが選ばれたかは知らない。ゼロから考えたのか、それとも既存の名前をそのまま持ってきたのか。

仮に後者だったとしてもだ。世の中に星の数ほどある名前から、よくもまぁそれを引き当てたもんだ。

もしそれも三女神の悪戯だったとしたら……やはり、呪いとしか言いようがない。

 

それがきっかけだったのだろう。

これまで奥深くに眠っていた魂の欠片が顕在化した。

 

「ルナにはちゃんと教えておくべきだったわね」

 

「"ウマ娘から生まれた男子にウマ娘の名を授けるな"……ああ、アレは教訓だったのか」

 

これもまたよく聞く言い伝え。

てっきり縁起が悪いとか、社会に馴染まないとかその程度の意味だと思っていたがまさかこんな裏があったとは。

 

スイートルナとて、それが分かっていればちゃんと言い聞かせたことだろうに。

恐らく曖昧な忠告だったのだろうが無理もない。

具体的に教えないのではなく教えられなかったのだ。彼女もそれを知らなかったから。

 

「まァ、過ぎてしまったモンは取り返しがつかねェ。さっさと次の手を打つべきだ」

 

「なにをするおつもりで?」

 

「決まってるだろう。神社で祓うのさ。アイツの中に巣食うソレを。あの夏合宿の時も、そしてカフェの時にもやったことだ」

 

幸い、それで効果はあった。

『お友達』は消えこそしなかったものの、それまでと比べて見違えるように大人しくなったわけだし。

 

今回それで上手くいくのかは分からないが、しかしやれることと言えばそのぐらいだ。

超自然的なモノを相手取るには、やはり尋常ではない手段が必要となる。

 

「この世から消し去る、ということですか」

 

「除霊でも鎮魂でも、大人しくなってくれればなんでもいい。場合によっちゃそうなるかもしれないがな」

 

そう聞いた途端、にわかに表情を曇らせるスイートルナ。

まぁ、言いたいことなんて薄々こちらも分かっちゃいるが。

 

「そうなると、彼とあの人との繋がりも……今度こそ完全に失われることになりますね。恐らく今となっては、唯一残されたものであるそれが」

 

「しょうがねェだろ。そもそも繋がりなんてのはあればあるだけ良いってモンじゃなくて、しかもアレは悪縁というヤツだ。バッサリ断っちまうに限る」

 

「しかし………」

 

「いいか、魂っていうからさも高尚なモノに思えるんだ。アレは病気さ。重篤なアタマの病気だ」

 

コンコンと、俺は自分の頭を拳で小突いて見せてやる。

実際、現実にもたらす効果という点では殆ど変わりがない。むしろ医学で対処できないぶん、こちらの方がよっぽど悪質で厄介だと思える。

アレがオカルティックななにかなのか、それともウマ娘という理外の種族に基づく生理的な現象なのかは不明だが、いずれにしても危険な状態というのは確かだろう。

 

「ヒトの体でウマ娘の走りを求め続ければ、行き着く結末は二つだけ……一生満たされない渇望に気が触れるか、自らその身を破壊するか。あれはそんな、救いようのない絶望に至る病だ」

 

「……まるで自死衝動ですね」

 

「アイツはもうそれになりかかってる。完全に足がイカれたせいか多少は落ち着いてるようだがな。とはいえ、決断するなら今だ」

 

「魂なんてものを鎮めるにせよ引き剥がすにせよ、ただで済むとは思えませんが」

 

「今ならせいぜい、記憶を失う程度で済むだろうよ。例の異変が顕在化した、ここ四日間程の記憶をな」

 

「四日間………」

 

それはつまり、アイツとシンボリルドルフとの思い出がごっそり失われるということで。

 

気が向かないが、致し方ない。

思い出なんてこれから先いくらでも作っていける。俺にとって重要なのは今だった。

 

とはいえ……せめて最後の思い出ぐらいは作らせてやろうか。

どのみち忘れ去られる運命だとしても、それだけで過去が無かった事になるわけではないのだから。

 

 

ああ、それにしても本当に今日はくたびれる一日だ。

 

 

ヤケクソ混じりに俺はもう一度酒瓶を呷ると、別のポケットからキャロットキャンディーを一つ引っ張り出した。



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私は未だその名を知らず

屋敷の厨房にある蛇口の位置は、私には少し高い。

蛇口だけでなく、オーブンの取っ手からコンロのスイッチまで全てがそうだった。

 

子供がうっかり手を触れないようにという配慮だろうか。

実際、この家に住む私ぐらいの年齢の子供が、大人の付き添いなしで調理を行うことなどあり得ないので妥当な設計かもしれないが。

とは言うものの、こういう時になると不便で仕方がない。ただ水を汲むという仕事一つとっても苦労する。

 

「んしょ」

 

隣の部屋から手頃な椅子を引いてきて、桶を抱えつつその上に立つ。

シンクの底に桶を置いて、やっと胸の位置まできた蛇口の栓を目一杯解放した。

バシャバシャと、飛沫を飛ばしながらあっという間に八分目まで満たされていく。

勢いの止まらない水流に慌てて栓をして、私は随分と重くなった桶を抱えて慎重に椅子から降りる。

 

いくら子供が両手で抱えられる程度の大きさとはいえ、水をたっぷり含めばやはりそれなりの重さにはなる。

ヒトの女児ならあっという間に体勢を崩してしまうであろうそれも、ウマ娘である私の膂力にかかればどうということはない。

元来成長の早い種族なのだ。

生後一年で立ち上がり、言葉を解するようになる。九年も生きれば、体格はともかく単純な力では成人男性に匹敵し、あるいは上回っていた。

 

両手で桶に一杯に入った水のバランスを取りながら、ゆっくりとした足取りで厨房の出口を目指す。

その途中、キャビネットから清潔なタオルを確保していくことも忘れない。

これまただいぶ高い位置にある扉の取っ手をどうにか引いて、私は朝陽の射し込む廊下へと踏み出す。

目指すはここから反対側、お屋敷の一回にある医務室だ。

 

早朝の心地よい静寂に包まれた一本道は、私の見知った屋敷とはどこかかけ離れた印象がある。

もっとも、この屋敷はいつも通りで変わったのは私の方なのだろうが。

寝起きの悪い私がこんな時間に廊下を出歩くこと自体がおかしいのだ。勿論朝練となればもっと早い時刻に外に出ることもあるが、そんな時に周囲の景色を観察している余裕などない。

思えば外と部屋をひたすら往復するような毎日だった。

 

別に今とて、あんな不便な厨房を使わずとも水ぐらい自分の部屋で汲んでくれば良かったのかもしれないが。

とはいえ、水に満たされた桶を抱えてあの長い階段を昇る気にはなれなかったので、結局こういう形に落ち着いた。

それに、あの地下室のベッドには今も腹を出して眠りこけているシリウスがいる。無駄に野性味溢れるというか、感覚の鋭い彼女は水の音であっという間に目を覚まして邪魔してくるに違いなかった。

ベッドの主導権争いで私に全敗しているものだから、今のシリウスは気が立っている。

 

えっちらおっちらと廊下を渡りきると、医務室は既目の前。

ゆっくりとノブを引いて、彼を起こさないよう静かに身を滑り込ませる。

慎重に扉を閉めてから振り向くと、いつも主治医が腰かけている椅子にちょこんと腰かけている女の子が見えた。

 

「誰?」

 

この時間に医務室を訪れるのは自分ぐらいの筈だ。

緊急時でもなければ、主治医がここに来るのももう少し先になる。

医師不在時にも応急手当なら自分で出来るよう、基本的に鍵は開けられているので人がいること自体は不思議ではないのだが。

 

「……おはようございます。そして初めまして」

 

私と目が合うと、椅子に腰かけたままペコリと頭を下げて挨拶してくれる女の子。

 

腰まで伸ばされた青鹿毛の長髪と、これまた長く垂れ下がった一房の前髪。頭頂部から跳ねた流星がくるりと後ろを向いている。

金色の瞳に、ふさふさとした尻尾。そして一対の長い耳。私と同じウマ娘の子供。

不審者ということもないだろうが、しかし私にとっては見覚えのないウマ娘だ。この近辺に暮らしているわけではないのだろう。

 

「マンハッタンカフェ……です。兄さんの……お見舞いで来ました」

 

兄さん、とは彼のことだろうか。

そう言えば、この子についての話も聞いたような覚えがある。

そしてそれは彼女も同じなのだろう。お互い初対面にも関わらず、どうやら私のことをある程度知っているようであった。

 

それにしても、どこか不思議なウマ娘だ。

静かでゆっくりとした喋り方。大人しいといえば大人しいのだろうが、それは内向きというよりむしろ落ち着いているように思える。

歳はシリウスと同じぐらいか、やや下といったところだろうか。あの喧しいウマ娘と数日も寝食を共にしてきたぶん、なおさら彼女の静謐さが際立っていた。

草木いう程の存在感もなく、かといって道端の石という程には無機質ではない。そのどこか儚げな存在感は、柳の下に佇む幽霊かなにかを彷彿とさせる。

 

「……貴女の名前は伺っています。シンボリルドルフさん……ですよね?」

 

「うん、そうだけど……でも、大丈夫なの?こんな朝早くから一人でこんなところにいて。お家の方は?」

 

ここは病院ではない。

もっとも下手な病院よりも安全な場所かもしれないが、しかし彼女にとってはあくまで他人の家であることに変わりはない。

こんな小さな子供が、いくら見舞いとはいえ一人で来ていい場所には思えないが。

 

そんな私の懸念に、しかしどこか彼女は呆れたように首を振る。

 

「……問題ありません。母さんも私も、一昨日からずっとここにいますから。お客さんという扱いで……知りませんでしたか?」

 

「……知らなかった」

 

「まぁ……私も普段は自分の部屋にいましたし……ここに来るのは真夜中だけだったので仕方ありません。……貴女も、ずっと下の部屋にいたようですから」

 

「………」

 

彼女の言うとおり、私はここ数日間ずっと地下室に閉じ籠りっぱなしだった。

走ろう走ろうとぶうたれるシリウスをランニングマシンで適当に走らせておいて、そんな姿を見ても全く気力が湧かない。

 

昔みたいに意地を張っているわけでもなく。この前みたいに精魂尽き果てたわけでもなく。

純粋にやる気が出てこなかった。それを燃やすための燃料が枯渇しているかのようだった。

まるで心の中にぽっかりと、取り返しのつかない穴が開いてしまったかのようで。

それを不快に思う気持ちすらなかった。あるいは単純に、それを受容する機能すら麻痺してしまっただけなのかもしれない。

 

「……恐れているだけなのでは」

 

そんな私の内心を見抜いたのか。

マンハッタンカフェはやや上目遣いに、覗き込むかのように前髪の隙間から見つめてくる。

ゆらりと、椅子から垂れた尻尾が柳の枝のように揺らめいた。

 

「自分からなにかをして……その結果、またしてもそれが裏目に出ることに怯えている。失敗をしないためには……なにもしないことが一番だから」

 

「……」

 

初対面の相手に投げ掛けるには、あまりにも不躾なマンハッタンカフェの分析。

それでも怒りは込み上げてこなかった。それすらも麻痺してしまったか、あるいは心のどこかでその言葉の正しさを認めてしまっているのか。

 

「ここに来るのは真夜中だけって。貴女、ここでなにをしているの?医者でもないのに」

 

それでもなんとか舌を動かす。意図せず詰問するようになってしまったのは、私の余裕のなさの現れか。

その無理やりな話題転換に、しかし彼女は嫌な顔一つせずベッドの方に向き直る。

 

「……私がここにいるのは、兄さんの症状を押さえるためです。また勝手に出ていかれては困りますから」

 

「そんなことが貴女に出来るの?」

 

「私ではありません。……私の『お友達』がずっと見張っていてくれています」

 

「お友達?」

 

彼女の視線の先を辿る。

そこにはこちらに背向けて、ベッド横の丸椅子に腰掛ける一人の女性の姿があった。

 

長い髪を二つに分けて背中へと流している。

緑を基調としたアウターにフレアスカート。室内にも関わらず、ハンチング帽を目深に被っている。

頭頂部はすっぽりと隠れてしまっているが、かといって伸ばされた髪からはヒト耳の有無も判別出来ない。

これではヒトなのかウマ娘なのかよく分からないが、スカートから尻尾が覗いていないところを見るにきっと前者なのだろう。

 

私とマンハッタンカフェ、二人ぶんの視線を受けてその肩が僅かに震える。

女性は丸椅子に腰かけたまま、緩慢な動きでこちらの方を振り向いた。

 

「貴女がシンボリルドルフさんですね。お噂はかねがね承っておりました」

 

良く通る声に、遅すぎず速すぎず絶妙な加減の口調。

日頃から話し慣れているのが分かる。

 

暗い茶色の前髪の下で揺れる、深い緑色の瞳。

それは彼にそっくりだった。目深に下げられた帽子の鍔が顔に影を落としているせいで、その目元までははっきりと確認出来なかったが。

口元には微笑を浮かべているが、これは作り笑いだろう。彼女にとっての、よそ行きの表情というものかもしれない。

 

「貴女の名前は?」

 

「ああ、まず名乗り上げるべきでしたね。これは失礼致しました」

 

頭を下げる女性。

あわよくば帽子が落ちないかと一瞬期待したが、流石にそこまで抜けてはいないらしい。

 

それにしても、慇懃というかなんというか。

尚且つ無礼には受け止められない、紙一重の塩梅を心得ているように思える。

その発声術しかり、やはり体面が重要な仕事に就いているのだろう。アナウンサーかなにかだろうか。

 

「私、日本ウマ娘トレーニングセンター学園で理事長秘書を勤めさせて頂いております、駿川たづなと申します」

 

「トレセン学園の……」

 

彼女の名前よりも、その名に私は反応してしまう。

トゥインクル・シリーズへの出場と、そこでの勝利を目指すウマ娘にとっては無視できない単語だ。

そして、それはマンハッタンカフェにも同じことであったらしい。そわそわと、ウマ耳と尻尾を落ち着かなさげに揺れ動かしている。

 

そんな私たちの様子を見て、どこか楽しげに駿川たづなはその笑みを深くする。

 

「もしかしたら、数年後に皆さんとまたお会い出来るかもしれませんね」

 

「出来るよ。それまでに貴女が学園を辞めていなければ、の話だけど」

 

「ええ、本当に楽しみです。とはいえ、我が校の選抜試験はそう簡単ではありませんよ」

 

口では諌めるようなことを言いながら、しかしその目は私ではなくどこか遠いところを見ているかのようだった。

彼女自身、思い入れのようなものがあるのだろうか。生徒にせよトレーナーにせよそれ以外の職員にせよ、皆なにかしらの試験を突破して中央に籍を置いているわけだから。

 

それにしても、理事長秘書か。

それも理事長の側近というからには、かなり高位の職員ということになる。

学園には理事会こそあるが、その長たる理事長以外の役員の任期はせいぜい三年程で、URAからの出向が大半である……らしい。

故に、短期間の理事長不在時に代行を勤めるのは役員ではなく秘書なのだそうだ。そちらの方がよっぽど理事長の業務と学園について精通していることが理由だそうだが。

 

そんなトレセン学園の重鎮が、いったいどうして朝早くからこんな所に。

いや、用件は見れば分かる。彼の見舞いだろう。だけどその理由が分からない。

 

「なんでトレセンの理事長秘書が、あの人のお見舞いに……?」

 

駿川たづなにとって、彼はそこまで価値のある人物なのだろうか。

全くつながりが見えてこなかった。

 

私の問いかけに、駿川たづなはほんの一瞬、動揺したかのように目を細める。

とはいえそれもすぐさま取り直した。ベッドに横たわる彼の頬をそっと撫で上げる。

 

「この子の母親とは……昔から関わりがございまして。関係といえばそんなものです」

 

「ふぅん」

 

横目でマンハッタンカフェの様子を伺うが、やはり釈然としていない様子。

 

彼女の母親であるサンデーサイレンスは、同時に彼の育ての親でもある筈。

その繋がりと考えれば、見舞いに来るのも分からなくもないが……だとしてもこの時間帯はおかしいだろう。いくら今日が休日とはいえ、その立場を考えれば暇ではない筈だ。

そもそも見舞いというなら、彼が起きている昼間に訪れれば良いものを。それをこんな、人目を忍ぶかのように。

だいたい、サンデーサイレンスへの義理立てにしては、その娘であるマンハッタンカフェへの絡みも少なすぎる。

 

となると、駿川たづなの言う母親とは育ての親ではなく産みの親。血の繋がった生物学上の母親ということだろうか。

十中八九ウマ娘だろうし、仮にそれがかつて中央に所属していた競争バだったとすれば、たしかに彼女と繋がりがあってもおかしくない。

 

それにしても、昔からの関わり、か。

まるで今も生きているかのような口振りだな。

この状況を彼女が知っていて、母親が知らないというわけもあるまい。

 

「なら、ソイツにも見舞いに来るよう伝えといてよ。母親なら当然でしょ?だったら」

 

「……ええ、承りました」

 

駿川たづなはただ一言そう頷くと、最後にもう一度だけ彼の頬を撫でる。

そしてそのまま席を立ち、医務室の出口へと歩いていった。

 

「もう行っちゃうの?」

 

「はい、本日も仕事があるので。……あの子には、よろしくお伝えして下さらなくても結構ですから」

 

「変なの」

 

折角ここまで来たのに、自己紹介もなしに帰っちゃうなんて。

今さらながら、実は怪しい人物ではないかという懸念が頭をよぎる。後で母さんに報告しておこう。

 

奇妙な別れの挨拶を最後に、駿川たづなは部屋から出ていってしまった。

後に残されたのは私とマンハッタンカフェと、未だベッドで目を覚まさない彼の三人のみ。

椅子に腰かけたまま、ぶらぶらと脚を泳がせている彼女にも声をかける。

 

「貴女も帰らなくていいの?お友達、出ていっちゃったけど」

 

「……まるで、早くこの部屋からいなくなって欲しいような口振りですね」

 

マンハッタンカフェはゆらりと私に視線を戻し、やや不満げな声でそう呟くと、軽やかに床に降り立った。

実際、この後の作業を考えれば彼女にはあまりこの場にいて欲しくないので、出ていって欲しいことは事実なのだが。

 

「……まぁいいでしょう。貴女も、いつまでも桶を抱えたままでは辛いでしょうから……念のため、お友達はここに置いていきます」

 

「??」

 

置いていくといわれても、ここには私たち三人しかいないじゃないか。彼女が出ていけば二人きりだろうに。

 

話が飲み込めていない私を無視して、マンハッタンカフェもまた足早に扉へと向かっていく。

途中、医務室の隅に格納されていた車椅子を引っ張り出すと、それをこちらまで転がして寄越した。

 

「……もし、兄さんを移動させる場合にはそれを使って下さい。ベッドからの介助は……お友達がやってくれます」

 

そう言い残して、さっさと医務室を後にするマンハッタンカフェ。

扉の隙間から漆黒の尻尾がするりと抜けて、そのまま音を立てずに閉められた。

そうして彼女出ていった部屋は、とうとう私と彼の二人きり。

 

「……よし」

 

発憤興起。

私も私の仕事に取りかかかるとしよう。

 



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木漏れ日の中で

 

医務室のベッドは簡素なものだ。

まぁ、病院でもないのだから当然と言えば当然だが。

とりあえず、側にあるデスクの上に水を溜めた桶を乗せる。

私の身長からすれば、そこよりも床の上に置いた方がなにかと都合がいいのだが、しかしこれから体を拭く水をそんな風に扱うのは少しだけ拒否感があった。

 

ベッドの反対側まで移動して、カーテンも全開にする。木々の間から降り注ぐ朝陽が、医務室の雰囲気を一気に和らげるかのようだった。

折角の良い天気なのだから窓も開けておきたいところだが、今が夏の真っ盛りだということを思

い出して止めておく。

一見春の陽気のごとき穏やかさだが、ひとたび窓を開ければとたんに熱せられた空気が空調の効いたこの部屋へと流れ込んでくるに違いない。

いくら夜が明けた直後といえども、到底快適からはほど遠いのだろう。

 

再びデスクの横にまで戻ってきた私は、縁に乗っけていたタオルを桶に沈める。そのまましばらく馴染ませた後、たっぷり水を含んだそれを力一杯に絞る。

そうして、ベッドに横たわる彼のシャツを脱がしにかかった。

既に歩くどころか立つことすら困難な彼にとって、排泄はまだしも風呂場での入浴は望めなかった。片足だけの不自由ならまだどうにかなっただろうが、流石に両足ともとなると勝手も違ってくる。

 

故に、こうして濡らしたタオルで体を清めるのが精々なのだ。

幸いこの部屋は冷房も効いているし、彼自身ほとんどベッドの上から動かないのでこれでも十分らしい。

その負傷もまた不可逆的なものではなく、時間さえ経てば自力で立つことぐらいは出来るそうなので、それまでの我慢ということだろう。

その間、彼の身の回りの世話をするのは専ら私の役割である。地下室でシリウスの相手をしてやる以外の全ての時間をここにあてていた。

別に誰に言われたわけでもなく、私が自ら望んでやっていることだ。この家には介助の技術を持つ者もいるし、なんなら母さんでも私よりは上手く出来るだろうが。

それでも私は、この役目を譲るつもりにはなれなかった。

 

ボタンを一つ一つ外していく。

どうせなら、もっと脱がしやすい服を着させておくべきだったと今さらながらに思う。

ただ厄介なことに、すぐに取り替えられるほど男物の服はここにはないのだ。ウマ娘が大半を占める珍しい家系故に、そもそも男の絶対数からして少ないのである。

父さんや兄さんの普段着を持ってきたところで、とてもじゃないが彼にはサイズが合わないだろう。

 

最後まで外し終えると、肌蹴たシャツの間から露になった上半身を拭いていく。

そっと胸の辺りに手の平をあててみると、ひんやりと冷たい感覚がした。水に浸けたタオルで触れたせいかと思ったが、どうやら彼の体温そのものらしい。

ヒトはウマ娘よりも体温が低い。なのでこうして直に触れると大抵このように感じるものだが、それを差し引いても彼は一段と冷たい気がする。

かといって無機質な感覚もない。その瑞々しい肌もあいまって、どことなく清流を閉じ込めているような印象がする。

この時期ならいつまでも擦りついていられそうだ。彼にとっては暑苦しくて堪らないだろうが。

 

名残惜しくも胸の張りつけていた手を離すと、代わりにふと目についたその下を指の腹でなぞる。

程よく浮き出た腹筋に沿って、胸郭から臍の横、腰の辺りまで。

 

「綺麗……」

 

白く、透き通るような肌だった。

その体温とあわせて、やはり冷たい印象がある。氷のようなとまで言うつもりはないが、それでも放っておけばいつの間にか消えて失くなってしまいそうな儚さがあった。

もう少しだけこのまま観察してみたい気持ちもあったが、しかしいつまでも裸のままでは風邪を引いてしまうだろう。

渋々ながら、その上半身を丁寧に拭き進めていく。

 

それにしても、今日の彼は中々目を覚まさない。

いつもならカーテンを開けるか、遅くともシャツのボタンを外しきった段階で瞼を上げるものなのに。

 

かといって無理やり叩き起こすものでもないので、とりあえずそっとしておく。

むしろ寝ていてもらった方が、気恥ずかしさもなくてやりやすいのだ。

こういうのは一人で黙々とやるに限る。マンハッタンカフェに出ていってもらいたかったのもそれが理由だ。誰かに見られていると、なんだかいけないことをしている気分になるから。

 

「終わった……」

 

とりあえず、上半身は拭き終わった。

脱がしたシャツは……まぁ、このままでいいだろう。私たちの体格差を考えると、脱がすのはともかく、着させるのは中々に大変だ。少なくとも起こさずに作業するのは不可能だろうし。

幼くともウマ娘である私にとって、この程度の仕事で肉体的な疲労を感じることはない。

とはいえそれなりの重労働であることに違いはなく、私はどこかやりきった満足感と共に一歩引いて彼の姿を眺める。

 

男性としては小柄で、線の細いという感想は初対面の頃から変わらない。

上背のある兄さんとは比べるべくもなく、母さんより少しだけ背丈がある程度だろう。170を僅かに上回る程度だろうか。

それでもとりたてて小さいわけではないだろうから、そのイメージに大きな割合を占めているのはやはり顔立ちと輪郭だろうか。それらが実態以上に華奢な印象を植え付けているということか。

ただし、こうして脱がしてみるとその印象もまた変わってくる。想像以上に筋肉質というか、限界まで引き絞られている。

なにかを抑え込んでいるようだなと、まるで補強ではなく拘束具のように思える肉体。着痩せするタイプだったのだろう。

 

まぁ、鑑賞会はこれくらいにしておいて。

いい加減続きをしなければ。といっても、いつもならとっくに起きている段階なので、この先なにをしたらいいのかいまいち分からない。

そろそろ起こせばいいのだろうか……いや、折角だから下の方もやってしまおう。どうせ寝てるんなら同じことだ。

そういえば、男性は寝起きに下を覗かれると困ると聞いたこともあるが。だけどそんなの、上を剥いた時点で今さらだろうし。

 

そう思ってズボンに指をかけた瞬間、伸びてきた腕を掴まれて制止される。

見上げると、いつの間にか身を起こしていた彼が呆れ顔で私を見下ろしていた。

 

「油断も隙もないな」

 

「知らない。いつまでたっても起きない方が悪いんでしょ。お寝坊さん」

 

挨拶代わりにタオルを放り投げてやる。

彼は難なくキャッチすると、それで顔を拭いて桶のなかに沈めてしまった。

そのまま慣れた様子で脱がされたシャツを着直している。どうやら私の役目はこれにておしまいらしい。

 

だからといって、このまま大人しく引き下がるつもりもなかった。別に私は侍女でもなければ看護師でもないのだし。

彼の腰の上に跨がる格好のまま、ぼすんとその胴の上に倒れ込む。しばらくそうして胸に顔を埋めていると、なにやら頭のてっぺんをあれこれと弄られてしまう。

 

「なに」

 

「いや、この流星どうなってるのかなって。いまいち生え際がよく分からないな。黒い部分と白い部分の境目はどうなっているんだが」

 

「なんでもいいでしょ。放っておいて」

 

ぶんぶんと頭を振って、彼の指を追い払う。

私の流星の生え際はちょうど両耳の付け根にも近い。その為か、そこで遊ばれるとくすぐったくて仕方がないのだ。

彼もそのことを分かっている筈なのに、それでも私のつむじに対する探求心を手放すつもりはないようだった。

 

「そんなに流星が気になるならシリウスで遊べばいいじゃん。あれも大概不思議な構造でしょ」

 

「まぁ、不思議といえば不思議だろうが。だけどあんまりここに来ないからな」

 

「私の部屋から出ようとしないからね。ずっとあそこで五月蝿くしてる」

 

そう言えば、シリウスはマンハッタンカフェたちに会ったことはあるのだろうか。

お互い一つ屋根の下にいるにも関わらず、彼女らの行動範囲はほとんどどころか全く被っていない。

大人しそうなマンハッタンカフェはともかくとして、シリウスはそのもて余した元気を必然的に同居人である私で発散することになるから、とにかく騒々しくて仕方がなかった。

 

「ルナが外で走ってやれば、シリウスもついてくるとは思うんだけどね」

 

「………」

 

「何故そうしない?」

 

胸からわずかに顔を離し、少しだけできた隙間からその表情を確かめる。

 

問い質すような口調に反して、彼は穏やかに微笑みながら私の頭を撫でてきた。

その手の邪魔にならないよう耳を寝かせ、心地よい感触に目を細目ながら、私は意を決して胸のつっかえを口から漏らす。

 

「怖いの。これ以上、私のやることが逆目に出るのが」

 

"全てが私の理解の範疇にあるとは限らない"……以前、彼が諭した言葉だ。

だけど、ここまで思いもよらないことがあることは知らなかった。なにもかも私の行動に起因し、その全てが裏返ってしまった。

 

最早、なにをする気にもなれなかった。

能動的に物事を為すのが怖い。暗闇の中、奈落へ踏み外す可能性に怯えて歩くぐらいなら、この場で蹲って震えている方がまだマシに思えた。

さっき誰かが言った通り、失敗しないためにはなにもしないのが一番だと分かったから。

その失敗の代償を支払うのが、自分だけとは限らないことを知ってしまったから。

 

「それでも、前に進まなければなにも得られないだろう。初めて会った時の君がそうだったように」

 

「それで、あの部屋からルナを外に出して。それで貴方はどうなったの」

 

なにを得られたというのだろう。ただ失っただけじゃないのか。

それでもなお、貴方は私に歩き続けろと言うのだろうか。

 

彼は小さくため息を溢すと、私の頭から手を離して代わりに両肩に手を置いた。

そのまま少しだけ背中を曲げて、ベッドの上で膝立ちになる私の顔を、視線を合わせるように覗き込んでくる。

 

「一昨日からずっと、ルナは私の身の回りの世話をしてくれていたけれど」

 

「うん……」

 

「それは贖罪のつもりか?罪滅ぼしのためだったのか。だとしたら、そんなものは必要ない。アレは事故だった」

 

「そんな、簡単に割り切れるとでも」

 

「割り切らなくちゃいけないんだよ。将来、ルナが目指す道の先には、きっとこれ以上のことが待ち受けている。君は他ならぬ君自身の脚によって、他の誰かの夢を汚すんだ」

 

勝負の世界において、それは決して覆すことの出来ない理である。

私が頂点を目指すというなら、その後ろに積み上がる夢の屍はいったいどれ程になるだろう。

 

「君に足りないのは"非情さ"だった。かつてあのスタジアムで潰したウマ娘に対しても、そして今の私に対しても。あれは勝負の結果だったと、事故の結果だったと割り切らなければならなかった」

 

あるいは、それは覚悟と呼ばれるものなのかもしれない。

それはきっと、私が皇帝として勝ち続けるために絶対に欠かせないもので。

 

「だから、君は歩き続けなければならない。潰してきた彼女たちのぶんまで、そして私のぶんまで……それが、勝者としての義務だろう」

 

「……」

 

「だからもう振り向くな。君には他者を蹂躙する覚悟を知る必要がある……それが今だ」

 

でなければ、きっと私は潰れてしまう。

他ならぬ自分自身のためだけに、たとえ親友ですら地獄に叩き落とす覚悟がなければ、きっと。

奪うことを恐れていたシンボリルドルフから、今こそ決別しなければならない。だけど、そんなのどうやって。

 

彼は私をベッドから抱き下ろすと、離れた場所に畳んで置いてある車椅子を指差した。

 

「そろそろ外に出るから、そこの車椅子を使いたい。悪いけど、手を貸してくれないか」

 

「あ……うん」

 

慌ててそれを展開し、転がして側まで寄せる。

とはいえ、上半身だけでベッドから乗り移るのは無理だろう。

仕方なく彼の腕を肩にまわし、慎重に膝へ私の腕を差し込んで持ち上げる。重さは問題ないとして、体格の違いからバランスを崩さないかと肝を冷やしたが、思いの外あっさりと動かすことが出来た。まるで、誰かが支えてくれているかのように。

 

しっかりと奥深くまで腰かけたことを確認すると、私は車椅子のハンドルを握る。

彼自身でタイヤを回すことも可能だが、これもやはり私自身の手で行いたかった。

それもまた、さっき彼が言った通り贖罪のためか。あるいは単純に独占欲の発露だったのかもしれない。

 

「どこまで行けばいい」

 

「とりあえず廊下まで。扉を開ければすぐに分かるだろう」

 

分かった、と返事をして私は車椅子を押していく。

しかし、いきなり外に出たいとはどういうことだろう。これまでベッドから降りたのはトイレに行く時だけだったが、だとするとそれに私を付き添わせるのはおかしい。

そろそろとか言っていたから、この外出は予め決められた予定だったのだろうか。

 

ドアを引き、車椅子を先に部屋から出す。

それに続いて、私も廊下へ出た先には――――

 

「おう。ようやく起きたか寝坊助」

 

「えっ……」

 

両手をポケットに突っ込んで、アメを口の中で遊ばせているサンデーサイレンスの姿。

それだけじゃない。彼女の背中に隠れるように立っているマンハッタンカフェと、それに絡んでいるシリウスの姿。さらにその後ろには、壁にもたれてウマホを弄る姉さんの姿もある。

朝っぱらから、こんなに大勢が顔を揃えて一体なにを。

 

「っし。んじゃ行くかァ。ちゃあんと椅子引っ張ってこいよシンボリのチビ」

 

コキコキと首を鳴らしながら、彼女は気だるげに私たちへと背中を向けて歩き始めた。

後ろの集団もそれに続く。呆けていた私も慌てて彼女たちへと従った。

 

「行くって……どこに?」

 

「俺ん家に決まってンだろ。あァ……なら帰るっつった方が正しかったかもな」

 



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やり残した仕事

シンボリの屋敷から車で揺られること一時間弱。

私たちはちょっとした山に入った先の、広々とした台地に到着した。

 

山、といっても丁寧に整備されているためか鬱蒼とした暗さはなく、むしろ高台から街全体と海を見渡せる解放感に満ちた空間である。

入り口から見て反対側には、ちょっとした学校程はありそうな建物が構えている。長い廊下にステンドグラス、尖塔が特徴的なそれはあたかも教会堂のごとき有り様だった。

その手前には、これまた丁寧に整えられた芝とダートのコースが広がっている。

院長が自身の知識と技術、そして財を惜しみなく投入して作り上げたそれは、かの屋敷のそれをさらに数段上回る程。もっとも、仮にも教室であるこことあくまで私設の庭を比べるのもどうかと思うが。

そこで駆け回っていた数人のウマ娘の子供たちが、侵入してきたエンジン音に一斉に顔を上げる。既に日も昇りつつあるというのに、全く疲れを感じさせない勢いで走り寄ってきた。

 

 

これは少し特殊なことかも知れないが、私にとって、我が家という単語が示す場所は二つある。

一つは今現在、母と兄、そしてカフェと一緒に暮らしているあの戸建て。そしてもう一つが、母が運営しているこの孤児院兼レース教室だ。

彼女たちと一つ屋根の下で暮らし始めてしばらく経つが、もともと私としてはここで過ごした時間の方が長い。

といっても、ここには隔日で顔を出しているし、そもそも所属を変えたわけでもないので別に懐かしさなどは感じないが。強いて言うならクラス替えをした程度の感覚である。

両方とも『家』とだけ呼んでいるあたり、母もまた同じような認識なのだろう。

 

群がるウマ娘たちを掻き分けるようにして、ここの管理人も額の汗を拭いながら私たちの方へと向かってくる。

ハンドルを握っていた母もまた、荒っぽく入り口近くにバンを停車させると、一足先に運転席から飛び降りて歩いていってしまった。

車内に残された私たちもまた、てんでばらばらに動き始める。

 

「ハハッ、見ろよアイツら!!こんな車の近くまで雁首揃えて群がりやがって。ここはサファリパークかなにかか?」

 

「あっ、えっ……シリウスさん?……ちょっと、待ってください!!」

 

「オラッ、散れ散れ!!見せもんじゃねぇぞ!!!」

 

「シリウスさん……!!」

 

初めて訪れる土地にも関わらず、全く気後れせず一番乗りに飛び出すシリウスと、慌ててその背中を追いかけるカフェ。

シリウスの尻尾を捕らえたかと思えば、お返しとばかりにシリウスもまたカフェの前髪をひっ掴み、その勢いのまま興味津々にバンを囲っていた集団へと、もつれ合いながら真っ直ぐ突っ込んでいく。

私の知らないうちに、二人ともあんな仲良くなっていたのか。

 

「………」

 

そんな二人に我関せずといった様子で、悠然と歩いていくシンボリフレンド。

チビ共の騒乱をそのままスルーし、ターフを逸れて建物の玄関へと歩を進める。何事かと見守っていると、その奥から兄さんが姿を現した。玄関脇の柱の影に身を寄せて日射しを凌ぎながら、なにやら顔を突き合わしている。

 

そして、そんな彼女たちを窓越しに眺めているルドルフ。

その視線はしばらくの間姉を追っていたが、やがてシリウスとカフェのいる方向……幼いウマ娘たちの群れの方へと固定された。

 

窓ガラスに耳と鼻先をくっつけながら、どこか落ち着かない様子で尻尾をふりふりとさせている。

出遅れてしまったため動き辛いのか。それとも、あっという間に輪に混じったシリウスの姿に気後れしているのだろうか。羨ましそうに眺めながらも、自分でそのドアを開けようとはしない。

 

後ろから腕を伸ばして、そんな彼女の髪を優しく鋤いてやる。

耳の付け根から後頭部、うなじ、さらにその先までゆっくりと。肩まで届く艶やかな鹿毛は、目の前でサラサラと流れるように指の間を抜けていった。

そこから手を離すと、今度はゆっくりと背中を撫でてやる。肩甲骨から尻尾の少し上まで、ルドルフが落ち着くまで何度もそれを繰り返す。そうしていると、バラバラと動いていたウマ耳もやがて落ち着きを取り戻し、つられて尻尾がふわりと舞い上がった。

 

「ルドルフ」

 

「うん」

 

「さぁ、行っておいで」

 

そして最後に、その背中を軽く押してやる。

 

瞬間、勢いよく開け放たれるドア。

ルドルフはまるで弾かれるように、一目散と群れを目指して駆け抜けていった。

 

「…ふふ」

 

まるで犬みたいだな。

昔、アメリカで羊の放牧を見学した時に、牧羊犬が羊の群れへと突っ込んでいく光景を見たことがある。あの犬の毛色はたしかブラウンで、だからか妙にルドルフと親和性が高い。こんなこと、絶対本人には言えないけれども。

 

「さぁ、貴方も放牧の時間ですよ」

 

彼女を見送った直後、バンのバックドアが開く音がして、むわりと熱の籠った空気が一気に車内へと流れ込んできた。同時に車椅子を固定していたベルトが解放される。

私は椅子に乗ったまま、伸びてきた腕にハンドルを引かれて後ろへと引っ張られた。どうやら久々に、真夏の太陽に照らされる時が来たらしい。

 

「ルナときたら、まるで大型犬ですね。ライオンと名付けた貴方には悪いですが」

 

「お気遣いなく。自分も全く同じことを思っていたところですし」

 

「そうですか。あぁそれと、お礼は結構ですよ。当然のことをしたまでですから」

 

至極どうでも良さそうな返事を返しながら、私を車椅子ごと抱え上げるシンボリフレンド。

本来なら数人がかりで行うその作業も、ウマ娘なら腕力に任せて横着が出来るらしい。まるで堪えた様子も見せず、いつも通りの微笑みを湛えながら私の顔を見下ろしていた。

立ち上がれない私の代わりにバンの扉を下ろすと、そのままハンドルを押してターフへと運んでいく。

 

流石に、コースの中へと踏み入ることは出来ないが。コーナーに沿って曲がり、建物の影に入ったところで車椅子を止めてくれる。

中々陽の光を遮るもののない山中の台地における数少ないオアシス。彼女もここから動くつもりはないらしく、兄から受け取ったらしきアイスを片手に私の傍らへと寄り添った。

 

「しかしまた随分と、大勢のウマ娘の子供がいるのですね。中々に壮観な眺めです」

 

「よく言いますね。総数ならシンボリとて大概でしょうに」

 

「ウチは数こそ立派ながら、彩りはありませんからね。誰かさんのお弁当の中身みたく茶色一色」

 

「あー……そう言われれば確かに」

 

あの屋敷で見かけたウマ娘の大半が鹿毛だった。

シンボリルドルフやシリウスシンボリ、スイートルナ。当然彼女もその一人だ。

シンボリカストルは青鹿毛だったし、直接見たことはないがスピードシンボリは黒鹿毛だというが……まぁ、彩りという程のものでもない。血縁に基づく集団である以上、当たり前といえば当たり前の話ではあるが。

 

反面、ここにいる連中はまさに多種多様。

毛色一つとっても、最も一般的な鹿毛から青鹿毛、青毛、栗毛、栃栗毛にやや珍しい芦毛、白毛まで。たぶんそれ以外の者もいる。このまま写真に収めて図鑑か教科書に載せてもいいぐらいの豊富さだった。

もっとも、この集団において多様なのは毛色だけに限らない。年齢から出身地、性格、瞳の色に至るまで様々だ。

そもそもここにいる目的すら同じではない。私のように、身寄りなくしてここに拾われた孤児から、レース教室に通うアスリートの卵まで。さらにその友人知人から、どこからか面白そうな匂いを嗅ぎつけて混ざりに来た者までいる。

 

まさしく混沌。闇鍋。ウマ娘の坩堝。

カフェは言わずもがな、新顔のシリウスやルドルフまであっさりと飲み込んでいる。

とはいえ珍しいものは珍しいのか、二人はわらわらと円陣を組むかのように包囲されている最中だった。

きっと質問責めという名の洗礼でも受けているのだろう。ここにいる誰もが通ってきた道だ。

 

「あの子たちも無事に馴染めそうでなにより。どうにもウチの近くでは変なバイアスが邪魔をしているらしいですからね。幸い、ここにはその心配もなさそうですが」

 

「当然でしょう。ウマ娘ですらない私をも受け入れた場所です。良くも悪くも寛容な集団ですから」

 

初めてここに来た日、なんてものはそもそも覚えてすらいないが。ただ、出ていく時はさっぱり惜しんでもらえなかった事は覚えている。

来るもの拒まず、去るもの追わずがここにおける法則だ。かくいう私も、今ここに誰がいて誰がいないのかよく分かっていない。

いない者のことはとりあえず忘れて、その時その場にいるものだけで戯れるのだ。無秩序の極みというか、そもそも集団とすら言えるのかどうか。

 

一通り質問も終わったのだろう。

ルドルフとシリウスの周りで団子になっていた塊がほどけていく。

とはいえ勿論、これで解散というわけでもなく。これまた羊の群れのように、ターフのスタートラインへとまとまって歩いていく。当然だ。大勢のウマ娘が広々とした場所に集まって、やることなんて一つしかないだろう。

 

こうなることを予想していたのだろう。既にそこにはダルそうに仁王立ちする母の姿。

彼女の合図を皮切りに、子供たちは次から次へと駆け出していく。距離はなにか……いや、そもそも決めているのかどうか。どうせ走れればそれで満足なのだ、彼女たちは。

灼熱の太陽をものともせず、ウマ娘たちは全力で私たちの前を駆け抜けていく。日陰からそれを眺めて、ふと目についたのはルドルフの姿。

 

「最初は、器用な子だと思っていました」

 

才気に恵まれ、なんでも人並み以上にこなすことが出来る逸材。

ともすれば、自分なんかよりもずっと大人びて見えて。自分一人でなんでもこなせるなんて、そんな放言すら受け入れられてしまう程に。

 

「今はどうなんです」

 

「私の思い違いだったのかもしれません。あるいは上部だけしか見えていなかった。彼女は、シンボリルドルフは私が思っていたよりずっと子供で不器用だった」

 

彼女は優しすぎたのだ。そして残酷だった。

 

その才故に夢の屍という名の轍を築き上げ、それでも誰かと一緒にいたかった。同じ視座に立つ仲間が欲しかった。

でも結局、それはただの傲慢でしかなくて。

ルドルフは日の当たる夢から追われることになり……それでもなお、想い焦がれることを止められず。そうして向けられた矛先は、他ならぬ自分自身。

なら、いくら友達をあてがったところで意味はない。その弱さを克服しなければ、いずれ彼女は潰れてしまうだろうから。

 

 

他者を踏みにじるという意味を、その覚悟を彼女は知らなければならない。

丁度いい機会だった。私が二度と踏めないターフで、私から奪った走るという快感を存分に味わうといいルドルフ。

こんな、自らの足で地を踏めぬほどに成り下がった私の前で。そうやって、陽のあたる芝を笑顔で駆け回り、そしてそれを見せつけろ。

 

いくらレースに集中していても、私たちの姿はそこから見えているんだろう?よく目に焼き付けておくべきだ。

君が将来、皇帝として覇道を歩むなら……きっと、君はこれ以上のものを見ることになるだろうから。

 

これが、私が君にしてあげられる最後のことだった。

彼女が玉座と呼んだ地下室の扉は、きっと卵の殻だったのだろう。私とシリウスがそれを破った。だから、君はもう孵化しなくては。

君自身が作り上げ、そして壊したパーフェクトの屍を糧として、君はようやく皇帝として完成するんだ。

十重二十重の夢の屍を積み上げて、きっとそれ以上の夢を人々に見せられるウマ娘へと。

 

期待しているよ、シンボリルドルフ。

 

「私には、貴方はあの子以上に不器用な方のように見えますけどね」

 

そんなシンボリフレンドの呟きを聞き流し、私はもう一度ルドルフの姿を探す。

彼女はゴールの隣で、一緒に走っていたカフェや他の子たちと談笑していた。その瞳には、もう私の姿は映っていない。

 

ひとまず休憩を挟むのだろうか。何人かとターフを離れていく姿を、視線だけ動かして追う。

 

「最後の一口です」

 

ぬぅっと、不意に膝の上に落ちる影。

いつの間にか真ん前まで移動していたシンボリフレンドが、溶けかけたアイスの塊を乗っけたスプーンを私の口に差し込んできた。

 

ひんやりと甘いそれを舌の上で転がしていると、彼女はその場でしゃがんで私と視線を合わせてくる。

ルドルフと同じ紫の瞳。全く崩れない微笑。ほの暗いそれらからは全く感情が読み取れない。

なるほど、これがポーカーフェイスというものか。

 

「ドキドキしましたか?間接キスですけど」

 

「まさか。男子中学生でもあるまいに」

 

「ついこの間までそうだったでしょう貴方。それにしても、ルナの前だとあんなに目をキラキラさせていたのに……」

 

ほうっとため息を溢しながら、彼女はターフへと振り返る。

生憎、その先にはもうルドルフの姿はない。

 

「あの子に惚れましたか?」

 

「いいえ。私にとって彼女は亀みたいなものです」

 

「亀?」

 

「昔、浜松の遠州灘に訪れた時にですね。ウミガメの放流というものを体験したのですよ。ヨチヨチと、懸命に大海に向かって這っていく姿はルドルフによく似ています」

 

「……思ってもないことを。ようするに誤魔化さなければならない感情ということでしょう」

 

好き勝手なことを言いながら、ようやくシンボリフレンドは私から離れた。

木のスプーンを紙のカップに突っ込み、まとめてぐしゃりと丸めてポケットに突っ込む。そういう細かいところで律儀な様子は、ルドルフとのたしかな血の繋がりを感じさせる。

 

そんなことをつらつらと思いながら眺めていると、まさにそのルドルフが建物の影から私たちの所へと飛び出してきた。

なるほど、ターフから姿を消したのはこちらへ向かってきていたからか。

 

「あ、姉さん!!姉さんも一緒に走ろう!!」

 

「ルナ……私はもう、レースからは引退した身だから……」

 

「いいじゃん別に。そもそもここに現役の競争バなんていないんだから」

 

「それはそうだけど……分かったよ、もう」

 

彼女の目的は姉の方だったようで、その腕にひしとしがみつきながらぐいぐいとターフまで引っ張っていく。

シンボリフレンドもまた、ぼやきながらもそれに付き合ってやるつもりらしい。たしか昔は派手に喧嘩していたとか言っていたが、その姉妹仲はかなり良好のように見える。お互い成長したということだろうか。

 

「そう言えば、ルナ。一つ聞いてもいいかな」

 

そんなルドルフの背中を私は呼び止める。

そう言えば、彼女に聞いておきたいことがあるのだったな。

 

「いいよ、なに?」

 

 

「今、シンボリルドルフは幸せかな?」

 

 

予想外の質問だったのだろうか。

ルドルフは一瞬、驚いたように固まって。

 

そしてすぐさま、満面の笑顔で私を振り返った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「……うん!!とっても!!」

 

 

「そうか」

 

 

それは良かったなルドルフ。

そういう約束だったもんな。

 

卵から孵った皇帝はついに空へと羽ばたき、これからいくつもの勝利を重ねていくのだろう。

 

なら、私の役目はこれでおしまい。

 

 

サンデーサイレンス、スイートルナ、そしてシンボリルドルフ。

 

三人のウマ娘から請け負った一夏の仕事は、これにてようやく幕を閉じた。

 



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たとえそれが、泡沫に消える夢だったとしても

いくら夏休みの最中とはいえ、流石に夜中ともなれば神社からも人はいなくなるらしい。

 

ひょっとしたら、肝試しかなにかで訪れる連中とすれ違うこともあるかと思ったがそんなことも無かった。大きすぎず小さすぎず、知名度もそこまでないこの神社では不適当なのだろう。

あるいはもしかしたら、既に人払いが行われている可能性もあるが。いずれにしても、私たちにとっては都合の良いことだった。

 

「あともう少しだよ、ルナ」

 

首だけ上に向けて、私を車椅子ごと抱えながら石段を上るルドルフを励ます。それに黙って頷きを返す彼女。

急勾配、という程ではないがバランスを求められる作業だ。一度でも立ち止まれば復帰が難しい以上、麓から頂上まで一気に上がりきるしかない。

力はともかく体格の乏しいルドルフには厳しい道のりだが、それでも彼女は自らの手でやりたがった。私を車椅子から降ろして背負っていく案もあったが、体格差故にそちらの方がかえって負担が大きいらしい。結局、この形に落ち着いた。

 

「今さらだけど、本当にこれでどうにかなるのかな」

 

「たぶん。というより、これぐらいしかやれることがないんじゃないかな」

 

「ふぅん」

 

どこか腑に落ちない様子のルドルフ。

真っ当ではない解決策であることは理解している。私とて、目を覚ましてから初めてその話を聞いたとき、一瞬耳を疑ったものだ。

それでもこうして素直に従っているのは、完全に納得したというよりは単純に母への信頼によるものだった。

お世辞にも完璧とは言えない彼女だが、少なくともこういう時には必ず正解を引き当ててくる。自分で理解出来ない事柄については、とりあえず母の言葉に従っておこうというのが私の基本方針だった。

逆に言えば、そういった信頼関係のないルドルフが疑念を抱くのもまた当然の話だったか。

それでもルドルフは黙ってここまでついてきてくれた。手順を把握しているのが彼女である以上、最後まで付き添うつもりなのだろう。

 

さしものウマ娘といえど、流石に辛いものは辛い。

既に石段のだいぶ上の方まで上ってきている。まかり間違って二人まとめて落下でもしたら目も当てられないため、ルドルフの気を散らさないよう視線を前に戻した。やや上を向いた姿勢のためか、夜空に浮かぶ月が丁度目の前にくる。

 

「月が綺麗だね」

 

同じものを見ていたルドルフもまた、ため息を溢すようにそう呟いた。私も言葉には出さないまま、ただ首を縦に振ってそれに賛同の意を示す。

蛍雪の功なんて、雪に反射した月の光で本を読むなどと大袈裟だろうと昔は思ったものだが、しかしこの目映さを前にしては認めざるを得なくなる。まるで二つ目の太陽のごとく、輝きながら私たちを見下ろすそれは、宵闇の神社において頼もしく行く手を照らしてくれた。

 

「その足は、もう治らないのかな」

 

「これから次第らしいね。ちゃんと医者のいうことを聞いていれば、歩けるぐらいには回復する見込みもあるらしい。走るのは、もう無理だろうけど」

 

「…そっか」

 

まぁ、こればっかりは自業自得だろう。

母の言葉の通り死ぬまで車椅子で過ごしたり、寝たきりで終えたりする羽目にならなくて、むしろ万々歳と言ったところだ。もっともそれにしたって、今後の私の身の振り方次第だけれども。

 

最後の一歩を踏み終えて、私たちはついに境内へと辿り着く。

静寂に包まれた敷地の空気を、ガタンと一つ大きな音が震わせた。そのままルドルフはハンドルを押し続け、カラカラと車輪を回しながら二人一緒に鳥居を潜る。

人気のない神社。ここを選んださしたる理由はないと母は言っていた。せいぜい一番最寄りであることと、ウマ娘に縁がある程度だと。形を整えることが重要で、何処で行うかは二の次ということらしい。

 

具体的になにをどうすれば良いのかはルドルフしか知らないので、私はただ彼女に身を委ねるのみとなる。

石畳を進み、境内のちょうど中程に来たあたりで、不意に車椅子が停止した。

何事かと見上げると、ルドルフが耳をピンと立てながら潜ったばかりの鳥居の向こうを見つめている。どうかしたのかと声をかけようとした矢先、夜空に大輪の花が咲き誇る。少し遅れて爆音が地面を震わせた。

 

「ああ、花火か。たしかにもうそんな時期だったな」

 

7月の終わりから8月の始めにかけて、だいたい毎年このぐらいの時分に花火は打ち上がる。

夏祭りなんかが開かれるのも丁度この頃なものだから、あれは本格的な夏の訪れを告げる鏑矢のようなものだった。他よりも一段と標高の高いここからはよく見ることが出来る。方角にやや難があるが、それでも穴場と言ってもいいかもしれない。

 

「また来年も見に来ようか。二人で」

 

「……」

 

そんな私の誘いにも、しかしルドルフは口を閉ざしたまま。

日が落ちて以来ずっとこの調子だ。なにも話したくないというより、少しでも舌を動かすことすら億劫といった様子。彼女自身、ここに至る過程で数え切れない程の逡巡を繰り返してきたのだろう。

 

「別に、これが今生の別れというわけじゃないんだから」

 

「……うん」

 

万物流転。

とりわけ人と人との繋がりというものは須く変化する。故に大事なのはこれまでなにを積み重ねてきたかというよりも、これからなにを積み上げていくかだろう。

どれだけ鮮烈な出会いであっても、一度繋がりが途絶えてしまえば、やがて思い出の1ページへと成り下がる。逆もまた然り。縁のある全ての人物との出会いを、あまさず克明に思い出すことなど不可能だろう。

 

それでも、ルドルフの表情から翳りは消えない。

そう簡単に割り切れないということか。なら、私も最後に一つだけ、形となるものを君に遺してあげる。

 

「ルナ、少し屈んでくれるかな。私の手が君の頭に届くまで」

 

「……?」

 

怪訝そうに眉を下げながら、ルドルフは指示の通りに頭を下げて私に寄せた。

たぶん、撫でられると思っているのだろう。その両耳がペタンと横に伏せられている。私は右耳を指で摘まんで持ち上げると、ポケットから取り出したそれを穴に通して吊り下げた。

 

そのまま一通り頭を撫でてやると、満足したのかゆっくりと頭を上げていくルドルフ。

二、三回両耳をパタパタと動かして、重心の変化に気がついたのか、右手を伸ばして耳に取り付けられた宝石にそっと触れる。

 

「あ、これ……母さんがくれた……」

 

「預かってそのままだった奴だ。ずっとベッドの上で暇だったから、なんとか今日までに間に合った」

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして。ちゃんと約束を守れて良かったよ」

 

やはり手作りというだけあって、構造自体は単純な造りだったのが幸いした。あの日デパートで密かに集めていたパーツと、自宅の工具でどうにか賄えたから。

その方が壊れにくいとも言うからな。無茶な使い方をしなければ、これまで通り数年間はもつだろう。

 

ルドルフはもう一度宝石に触れると、なにやら考えるような仕草を見せる。

しかしそれも一瞬のことで、再びハンドルに取りかかると、車椅子を押しながらゆっくりと歩みを開始した。石畳の凸凹を通過するたび、タイヤと私の体が僅かに跳ねる。

その振動に気をとられている最中、ふと彼女が口を開いた。

 

「なら、ルナも約束を守らなくちゃね」

 

「約束?」

 

「言ったでしょう?貴方が私を幸せにしてくれるなら、私も貴方を幸せにしてあげるって。お望みとあらば一生でも」

 

「……ああ、たしかにそんなことも言っていたな」

 

軽口というか、私の言葉を返しただけに過ぎないかとも思っていたが、やはりルドルフはルドルフだったか。本気であの約束に責任を取るつもりらしい。

 

「でも、それももう叶わなくなっちゃった。貴方には何処までも付き合ってあげられるけれど、あの子とはここでお別れだから」

 

それは、私ともう一人の私……最初から二人ぶんの責任を取るつもりだったということか。

母が彼女をただの現象だと言い放ったが、ルドルフはそう考えないらしい。

 

ふっと寂しげに笑みを浮かべながら、ルドルフは車椅子を止めてロックをかける。

ハンドルを離して私の前に回り込み、後ろ手を組んで私を見下ろした。

 

「だから、シンボリルドルフはここに誓う。幸せにしてあげられなかったあの子の代わりに―――」

 

 

「―――私は、あの子以外の全てのウマ娘を幸せにして見せるから。そんな世界を作って見せる。私の一生をかけてでも」

 

 

手を背中で組んで胸を張って、飛び出したのはそんな不遜な宣言。

自らのバ生を投げ売りするには、余りにも採算の取れない夢物語。それはまさしく、茨の道に他ならない。

 

「全てのウマ娘が幸せになれる世界」

 

「そう。私にとって……あの子にはそれだけの価値があったから」

 

「ふふ……」

 

そうか。

パーフェクトと、それ以外の全てのウマ娘を天秤にかけても釣り合うと。

そのために、君は己の全てを本気で投げ打つつもりなんだな。たとえそれが、どれだけ愚かで骨董無形な理想だと理解していても。

 

そう理解してしまえば、もう笑いしか出てこなかった。

他所のウマ娘とあまり深く関わりすぎるなと、貴女が忠告したのはまさにこの事だったんですね、母さん。

 

「重い……本当に重いよルナ。あのグラウンドで走った時の重馬場よりもさらに重い」

 

「やっと気づいた?でももう今更後悔してももう遅いから…私とあんな約束を交わした時点で、貴方にもう逃げ場はないの」

 

深く深く笑みを刻んで、ゆっくりと私に近づいてくるルドルフ。

思わず後ろに下がりかけて、つい先ほど彼女の手でタイヤがロックされていたことを思い出す。

 

「私はもう、死んでも貴方を愛しているから。あれだけ私に尽くしておきながら、ただで手放してもらえるわけがないでしょう」

 

そのまま抱き着くようにして倒れこみ、しなだれかかったままこちらの首へ、するりとその細い両腕を絡ませた。

じっとりと、紫の瞳が私を貫く。

 

「あの子のぶんまで……私が幸せにしてあげるからね」

 

「ルナ……?」

 

「中央のトレーナーになるんでしょ?なら、そこで待っていて。いつか必ず、私が貴方を迎えにいくから」

 

ルドルフは私の後頭部をしかと捕らえ、そのまま勢いよく引き寄せる。

状況を把握出来ず、混乱したままの私の唇に少女は自らのそれを重ねた。ほんの数秒の交わりの後、ようやく彼女の腕から解放される。

 

「なにを……」

 

「初めての思い出の、せめてもの形としてこのアクセサリーを遺してくれたんでしょ?だから、私も貴方に初めてを遺すの。形にはならないけどね」

 

ルドルフは勝ち誇った顔を私に寄せながら、牙を見せつけるように獰猛に微笑んだ。

飢えた獅子のごとき皇帝の姿を、貪欲に全てを喰らい尽くさんとするその在り方を咎めることは出来ない。

それを良しとして、彼女をそう目覚めさせたのは他ならぬ私なのだから。

 

「その時にまた会いましょう。だから、これは一先ずの別れ。学園で出会えた、その時に今度こそ見ましょう……」

 

空を振り仰ぐルドルフ。

気がつけば、花火の音は既に聞こえなくなっていた。

 

再び境内を包む静寂が心地よくて、急速に目蓋が重くなっていく。

あの階段を上り終えた時から感じていた睡眠欲が、どっと堰を切ったかのように私を襲う。肉体ではなく、精神が機能を閉じていく感覚。それはまるで、私の中のなにかが鎮まろうとしているかのようで。

 

 

「……二人で、あの(レース)の続きを」

 

 

靄がかった頭の中に、彼女の声だけが響く。

 

堪えのきかない感情を噛み潰したようなその声に、それでも顔を上げることすら叶わず。

 

私の意識は、暗い闇の中へと沈んでいった。

どこまでも深く、二度と戻れない深い闇の中へ……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「………ん」

 

なにか、金属にぶつかる音がして目を覚ました。

中途半端な寝起きに特有の、重く揺れる頭をどうにか動かしながら、私はその正体を確かめる。

ああ、机に自分の足がぶつかっただけか。鉄製のデスクを蹴り飛ばしておきながら、痛みではなく音で覚醒するとは。やはり相当疲労がたまっているらしい。

 

それにしても、なにか夢を見ていた気がする。

懐かしい気分だった。とても大事な、それでいて忘れてしまった記憶の箱を開けて覗き込んだ後のような。

だけどその中身を思い出すことは出来なかった。まぁ、忘れたり思い出せないようなら、きっとその程度の記憶だったのだろう。

 

のそりと上半身を机から起こして、どうにか周囲の状況の把握に努める。

味気のない鉄製のデスクにパイプ椅子。窓のないコンクリの壁に、ソファとホワイトボードが一つづつ。ああそうか、ここは部室だったんだな。

ミーティングを終えて、その旨の記録を日誌に残して、そのまま寝落ちしてしまったのだろう。紙に記した時刻とスタンドに立て掛けた時計の数字を照らし合わせると、せいぜい十五分程度のことだったらしいが。

 

枕にしていた腕をどかしかけた瞬間、肘にぶつかる蓋の開いたコーヒー缶。中からちゃぽんと水音する。

ここで倒したら過去1ヶ月分の記録が全ておじゃんだと、慌てて体をひねった瞬間今度は別のものを弾き飛ばしてしまった。

 

「やば……」

 

それはつい昨日、支給されたばかりのトレーナーバッジ。

この学園における最大の身分保証にして、我々トレーナーの誇りでもある。それをたった一日で失くしてしまえば先生にどれ程どやされるか分かったものではない。

最悪の未来に身を震わせつつ、私は必死に目を凝らしてその姿を追いかける。

 

縦になってコロコロと、ピカピカのトレーナーバッジはリノリウムの床を転がっていく。

そのままソファの下へと潜りかけた寸前、上から伸びてきた手にあっさりと捕獲された。

 

「おっちょこちょいだねサブトレーナーは。見ていて面白いからアタシは大歓迎だけど」

 

手にしたバッジをまるでお弾きかなにかのように遊ばせながら、ソファから飛び降りてこちらへ向かってくる我らが生徒会長殿。

椅子から立ち上がった私のジャケットを引き寄せて、慣れた手つきでそれを襟に取り付けた。

 

「ちゃんと、あるべきモノはあるべき所に戻さないとね」

 

そのままパンパンと私のスーツを払い、着崩れた部分を手直ししてくれる。お礼を言うと、彼女はいつもの余裕たっぷりの微笑と共にウィンクを寄越してくれた。

たしか、この後は先輩のチームとの顔合わせもあるんだったな。顔合わせというか、たぶん先生が一方的に私を先輩に自慢する行事だろうが。

なんにせよ、新米がここで昼寝しているわけにはいかない。節々の痛みに顔をしかめつつ、唯一の出口へと歩みを進める。

 

……その瞬間、背後から思いきり腕に抱き着かれた。

 

「ねぇ、どんな夢を見てたか教えてよ。なんかすっごく楽しそうな顔してたけど」

 

「いつから見ていた、シービー」

 

「最初からずっと。あんまり気持ち良さそうだから起こす気にもなれなかったぐらい」

 

彼女……ミスターシービーはそう言いながらソファを指差す。そこには確かに一人ぶんの窪みがあり、長い時間そこに誰かが寝そべっていたことが見てとれた。

生徒が一気に入れ替わるこの時期、彼女とて生徒会の仕事で手一杯だろうに。少なくとも、こんな場所でサブトレーナーを観察している余裕がないことは確かだ。その皺寄せは……たぶんマルゼンスキーにいくんだろうな。それも何時ものことだった。

 

「それに、"ルドルフ"って一体誰のこと?キミの昔の女なのかな?」

 

「嫌な言い方をするんじゃない。それにしても……ルドルフだって?君の聞き間違いじゃないのか」

 

「いや、絶対にそう言ってたけど。なになに、知り合いなの?」

 

「まぁ、知り合いと言えば知り合いだけど。別に夢にまで出てくる程の関係でもないからな……」

 

実家にいた頃、たまに遊びに来ていた顔馴染みでしかない。よく懐かれたしよく遊んだが、しかし寝言でその名を呼ぶ程のものでもなかったろう。

だいたい、名門の令嬢である彼女が私に入れ込んでいること自体がまずおかしいのだから、正直あんまり関わりたい相手でもなかった。

実際、地元を出てからは一度も会ったことはなく、連絡すら交わしていない。私にとっては完全に、過去の人物の一人にすぎないのだから夢に見るもなにもないというのに。

 

 

それでも納得していないのか、しつこくまとわりついてくるシービーをいなしていると、唐突に目の前の扉が開けられた。

外からこちらを覗き込む三つの顔。

 

「おや、まだここにいたんですね。定例の報告書は仕上げてありますか」

 

「ええ。日誌に挟んでデスクに保管してあります。あとは先生のサインを残すだけかと」

 

「結構」

 

そのうち一番手前、この部室の主にしてチーフトレーナーであるシンボリフレンドが満足げに頷いて見せる。

私にとっての指導教官であり、なによりシービーにとっての担当トレーナーである筈の彼女だが、しかしそれを前にしてもシービーは全く腕から離れようとしない。むしろぐりぐりと、ますます強めにその体を押し付けてくる始末。

 

あっちのチームだったらもう少し平和だったのかもしれないと、私は先生の背後に立つマルゼンスキーと先輩の方を眺める。

伸びた漆黒の髪に、そこに散らされた流星も以前より色が濃くなってきたためか、最近ますます母さんに似てきたような気がする。

かつて中央で鳴らしたトレーナーと比較されるのが嫌なのか、彼はその話になると決まって不機嫌になるので口には出さないが。

 

彼らの目的は私たちだったのだろう。ついてこいと合図を残して、そのまま足早に校舎の方へと向かっていく。

三月の終わり際であるこの時期は、とにかく時間が足らないのだ。それも今日になってようやっと一段落ついたところだが、すっかり身に染み付いた気の焦りは抜けきれていないらしい。

 

私もまた、シービーを引きずりながらその背中を追い掛ける。

あと一週間もすれば、ようやく私もトレーナーとして独り立ちすることになる。新たな生徒もこの学園の門を叩くだろう。そこから自分の担当だって見つけなければならない。

故に、こんなところで遊んでいる場合ではないのだ。

 

頬を叩き、気合いを奮い起こす。

さぁ、仕事の時間だ。

 




【日づけ】8月1日(日)

【てんき】はれ

【今日のできごと】

今日は、あの人とのお別れの日。

いつもとは反対に、こんどは私があの人のお家に遊びに行きました。
そこにはたくさんのウマむすめがいて、なんども日がおちるまでレースをしました。うまれて初めてのチームレースもけいけんできました。

夜は、あの人といっしょに神社におまいりに行きました。
そこできれいな花火も見ました。あの人は来年もいっしょに見ようと言ってくれたので、また次の夏にここに来ます。今度は、私からさそっていこう。

【かんそう】

けっきょく、あの人とレースをするユメはかなわなかった。
でもそのぶん、私がトレセンに入学したあと、彼をトレーナーとしていっぱい勝ちつづければいい。それもまた"いっしょに走る"ってことだもんね。

だから、それまでトレセンで待っててほしい。私のいない間に、ほかのだれかのトレーナーになってるなんてゆるさないから。



私はもう、あなたを手ばなすつもりはぜったいにないからね。


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【序章】 登場人物紹介

明日は投稿休みです


登場人物紹介(序章)

 

 

【主要人物】

 

・主人公(パーフェクト)

本作品の主人公。鹿毛。親譲りの容姿と身体能力を併せ持つヒト。釣った魚に餌をやり過ぎるタイプ。生来ツキが無く、運勝ちというものを経験したことがない。

中央トレーナーを志望しているだけあって頭脳明晰。主に義母のせいで世間の荒波に揉まれてきたせいか妙にふてぶてしく、それなりに適応力もある。生まれつき中性的な容貌だったが、この一件をきっかけに一人称も僕から私へと変わってしまったことでとうとう義兄の脳を破壊した。

潰れた足は日常生活に支障が出ない程度にまで回復したものの、走るという機能は完全に損なわれている。トレセン学園に採用された後、サブトレーナーとしてシンボリフレンドに師事している。

 

・シンボリルドルフ(9歳)

名門シンボリ家の秘蔵っ子。鹿毛。レースだけに収まらない、底知れぬ才を秘める逸材。その流星の形と母親の名前から、愛称は(ルナ)

並外れた闘争心と攻撃性を備える一方、寂寞を覚え常に他者を求める脆さも抱いている。この頃はまだ自身の力に振り回されがちだった。

天衣無縫、唯我独尊、自由奔放の権化。それと同時に、物事の道理を解するだけの知能と相応の責任感もある。その本質において好戦的であり、心の奥底では常に闘争を求め、誰かを負かすことに自覚の無い歓喜を噛み締めている獣。

年の離れた兄姉がいるためか、かなりの末っ子気質で目的達成意識と独占欲が強く、そして狡猾。なまじ本人の知能が優れているから手に負えない。妹でも生まれればまた変わるのだろうか。

 

・シリウスシンボリ(8歳)

名門シンボリ家の期待のウマ娘。鹿毛。ルドルフと異なり分家の生まれのため、所属は同じでも直接顔を合わせたことは一度しかなかった。

ルドルフ以上の唯我独尊。一線を理解した上で平気で踏み越えていくタイプ。ルドルフのことは好きでも嫌いでもないけどどちらかと言えば嫌い。

まだ本気を出せばルドルフに勝てると思っていた頃。成長したルドルフを牙が抜けたと揶揄するが、単純に仮面を被ることを覚えただけだと分かっているのかどうか。独特の耳飾りは母親からのプレゼントで、勝手に触られると怒る。

 

・サンデーサイレンス

主人公の育ての親。青鹿毛。ケンタッキー州出身。

かつてアメリカのレースで二冠・G1六勝を成し遂げた優駿であり、日本で戦後初の三冠バを排出した名トレーナー。未亡人。

元々アメリカの上流階級の生まれだったが、そこから転落したのは十歳の誕生日のこと。気性の悪さが絶望的な母親との壮絶な親子喧嘩の末、勘当と共に家を飛び出し、以降は生きウマの目を抜くアメリカ社会をその身一つで成り上がってきた。そんな経歴故か非常にハングリー精神が強く、基本的に他人を信用しない。激情を糧に打算で物事を進める人物。

レースから引退した後、先代の秋川理事長にヘッドハンティングをかけられ、そのままアメリカを追い出される形で日本に渡った。持ち前の才覚と適応力で異郷の地でも成り上がったが、今はトレーナーも引退して孤児院兼レース教室を運営している。ついでに結婚して子供も二人作った。

総じて傑物と呼ぶに相応しく、素行の悪さ以外に然したる欠点もないが、その素行の悪さが終わってるのでプラスマイナス0のもったいない人物。実はやり手の事業家で、別に援助が無くても今の生活ぐらい余裕で賄えるのだが主人公はその事を知らされていない。

 

【シンボリ家】

 

・スイートルナ

シンボリ家の当主代行かつルドルフとフレンドの母親。鹿毛。かつては中央で走っていたウマ娘であり、サンデーサイレンスとはその頃からの知り合い。

気性難な子供たちに手を焼いている。生真面目な一方で、時には自身の立場を利用することも厭わない腹黒さと、常識に当てはまらない事象にもある程度理解を示す柔軟さも兼ね備える。

主人公の遭難およびIFシナリオの元凶の一つ。とはいえ、彼女にその後の事態を正確に予測しろというのは酷な話だろう。

 

・シンボリカストル(オリジナルウマ娘)

シンボリ家の警備隊長。青鹿毛。ルドルフ達とは異なる軍バと呼ばれる種族であり、元警察官。

かつては警視庁の騎動隊で大隊長に就いていたが、紆余曲折あって本家に召し抱えられた。戦闘職であり腕っぷしも強いが、そのせいで専らルドルフの側仕えのようなことをさせられている。

分家出身であり、またその種族のこともあって昔はかなり荒れていたらしい。年下好き。

 

・シンボリフレンド(先生)

スイートルナの娘かつルドルフの姉。鹿毛。

母と同様にかつては中央で走っていたものの、期待されたような成果を残せないまま引退した。それでもレースへの執念は棄てられず、断腸の思いで中央トレーナーへと進路を変える。そういった経緯や、才能溢れる年の離れた妹の存在からか、この頃はかなり腐っていた。とはいえ妹と同様、分野によってはそれ以上に才能に恵まれたウマ娘であることに違いはない。

微笑みと共に敬語で話せば穏健に見えるだろうと考えているタイプ。冷静沈着なようでいて、その実かなりの激情家。現役の頃は担当トレーナー相手に暴力沙汰にまで発展しかけたこともあるらしい。トレーナーとなった後もそれは変わらず、主人公含めた教え子達に敬意と恐れを同時に抱かれている。唯一対等に張り合えるのはシービーのみ。

そんな現状を本人も特に気にしていない。来るもの選び、去るもの追わずなスタンスで隙のない、ある意味究極のエゴイスト。ただし、主人公にだけは特別な思い入れがあるというが…。

 

・ばんバ

第24話で主人公を迎えにきてくれたウマ娘たち。シンボリ家の抱える要人警護のための兵隊であり、全員スーツで統一している。見た目こそ厳ついが、性格は温厚。

彼女らを統括しているのがシンボリカストルだが、その種族故の恵体やそれにより生み出されるとてつもない破壊力から、いずれ自らの地位がとって代わられるのではないかと内心気が気でないらしい。

当のばんバたちといえば、そのつもりは全く無い。

 

・シンボリルドルフの兄

スイートルナの息子にして、ルドルフとフレンドの兄。鹿毛。

本編未登場。妹たちと同様に才気溢れる人物であるが、トレーナーとなるつもりはない。いずれ父の跡を継いでシンボリ本家の指揮を執るつもりのようだ。

 

・スピードシンボリ

かつて中央で活躍したウマ娘であり、序章時点におけるシンボリの顔のような存在。黒鹿毛。本編未登場。

海外遠征のパイオニアであり、シンボリが海外との繋がりを深めるに至るきっかけとなった、いわば中興の祖。ぱかプチに実装される程にその名は世に知られている。たびたび孫たちを海外へと連れ回しており、14話において触れられていた、ルドルフに射撃を教えたのも彼女である。

かつてアメリカに渡った際、現役時代のサンデーサイレンスと面識を持っており、そのツテが先代秋川理事長のヘッドハンティングを成功に導いた。

 

【サンデーサイレンス一門】

 

・マンハッタンカフェ(7歳)

サンデーサイレンスの娘。青鹿毛。

母親と瓜二つの容姿をしているが、流星だけは異なっている。寡黙で大人しい印象を受けるものの、その根本には母親譲りの苛烈さを秘める。曰く「もしウマ娘に生まれていなかったら、人生が退屈すぎて、きっと犯罪を犯していたかも……」。

レースの実力もまた母譲りで、幼い身ながら一度ターフに立てば血に飢えた猟犬の如く駆け抜ける。ルドルフ、シリウスと同様、将来のトレセン入りが確実視される有望株の一人。レース教室でたびたび開かれる大会でも毎回優勝をもぎ取り、講師である母親の面子を保っている。

『お友達』を筆頭に、この世ならざる者を見透す特殊能力を持つ。血の繋がらない主人公を兄さんと呼び慕いつつも、内には兄妹の枠を越えた特別な感情を秘めている。

 

・サンデーサイレンスの息子(先輩)

主人公の義兄にしてマンハッタンカフェの実兄。青鹿毛。前髪に母と同じ流星を持つ。

主人公と同様にウマ娘を母に持ち、その容姿と身体能力をある程度受け継いではいるものの、上背があり体格も良く中性的とはかけ離れている。これについてはルドルフの兄も同様。

彼もまた中央トレーナーを目指しており、その縁でシンボリフレンドと知り合った。主人公と違ってウマ娘との距離関係をしっかりと弁えているので、健全かつ良好な関係を維持出来ている。トレーナーとなった後はシンボリフレンドと同様にチームを作り、マルゼンスキーをエースに据えた。

 

・レース教室のウマ娘たち

年齢、毛色、来歴まで多種多様で、絶えず増減を繰り返している群れ。ボスウマはサンデーサイレンス。

主人公が生計の管理を任されているのはあくまで私生活の範疇のみなので、彼女たちの詳細については生活の拠点をそこに置く孤児院の子供たちだけしか分からないらしい。

 

【その他】

 

・グラウンドの係員

シンボリ管轄の私設グラウンドを預かる、初老と思われるウマ娘。芦毛。

自身もかつては地方のトレセンで走ったウマ娘であり、いまだに燻るレースへの想いからこの仕事に志願したものの、ままならぬ現実に胸を痛めている。上からつつかれ下からせっつかれる中間管理職。特に金には困っていないが、持ち前の責任感のせいで投げ出せないらしい。

 

・駿川たづな

トレセン学園において理事長秘書を勤める女性。主人公の実母となんらかの関係があるらしい。

 

・ミスターシービー

シンボリフレンドが抱えるチームのエースであるウマ娘。黒鹿毛。

先代生徒会長ハイセイコーからその座を受け継ぎ、シンザン以来19年ぶりの三冠達成へと臨む学園のスーパースター。チームのサブトレーナーである主人公にやたら絡みたがる。

 

・マルゼンスキー

中央において無敗を誇る緋色のスーパーカー。鹿毛。

本来彼女が生徒会長の椅子に座る予定だったが、驚異の立ち回りによって見事シービーにそれを押し付けることに成功した。一応後ろめたさもあるにはあるのか、現在は副会長として彼女を支えている。

 

 

 

 

 

設定資料

 

 

【ウマ娘関連】

 

・ウマ娘

ヒト(ホモ・サピエンス)と酷似した身体構造、生態を持つ生き物。

ヒトと異なり、頭頂部と臀部にそれぞれ長い耳と尻尾を生やしている。また、ヒトを遥かに上回る膂力と聴力、嗅覚、動体視力を備え、とりわけ脚力は動物界においても群を抜いている。

生まれる個体は全てメスでありながら、性転換や単為生殖の機能を持たない極めて特殊な生態を持つ。基本的にヒトに対して友好的である他、須く容姿端麗である、老化が著しく遅いという特徴があり、それらは性淘汰の結果であるという見解もあるものの詳細不明。筋肉や骨格の構造、組成はヒトのそれとほぼ変わらず、どうやってその莫大な力を練り上げているのかについても不明である。サンデーサイレンス曰く「非現実的な生体」。

ヒトの男性とつがって子を成し、またウマ娘のみならずヒトの子供を生むこともある。その子供にウマ娘らしい名前をつけることは禁忌とされている。

 

・競争バ

ウマ娘における種族の一つ。軽種バという枠組みに分類される。

ウマ娘の中でもとりわけ走ることに固執し、最も脚力に優れる種族。一方でウマ娘にしては肉体が脆く、気性も荒いことから「走ることだけに特化した生き物」と揶揄する声もある。各国のレース競技で活躍していることもあり、ウマ娘と言われて誰もが真っ先に思い浮かべるような、いわばウマ娘の看板的存在。

 

・ばんバ

ウマ娘における種族。重種バという枠組みに分類される。

成人男性を遥かに上回る上背に筋骨隆々とした恵体と、それに違わぬ圧倒的な筋力が最大の特徴。日本においては屯田兵の一員として木々をなぎ倒し熊を投げ飛ばし、北海道開拓の基礎を支えた逸話が有名。その巨躯故に畏怖されがちだが、気性は非常に温厚である。が、それでも怖がる者は多い。逆に憧れる者もまた多い。

ばんバもまたばんえい競争というレースで活躍しており、そのダイナミックなスタイルから全国に根強いファンがいる。

 

・競技ウマ娘

競走バとばんバのうち、実際にレースで走るウマ娘の総称。

 

・軍バ

ウマ娘における種族。人類の歴史に密接に関係していながら、最も謎に包まれた種族。

通常ウマ娘が弱点とする爆音に耐性を持ち、痛みや出血、死や殺傷への恐怖心が薄く、頑丈でスタミナが豊富という特徴を持つ。その名の通り戦場を活躍の場におき、レース競技が生まれる以前はウマ娘における花形でもあった。気性は穏やかかつ従順だが、かつては勇猛で鳴らした英雄もいる。

 

 

※ばんえい競争で走るばん馬は競走馬だし、サラブレッドだろうがばん馬だろうが従軍すれば全て軍馬だろうとかいう正論は勘弁。

 

 

【職業関連】

 

・トレーナー

トレセン学園において、競技ウマ娘の活動全般を支える職業。地方中央と分けられ、それぞれが独自に試験と採用を行う。

中央の試験は地方のそれとは比べ物にならない難易度を誇り、旧司法試験に匹敵すると称される程。専門職であるが故に潰しもきかず、採用後も完全実力主義の極めて過酷な職業だが、そのぶん実績次第ではいくらでも上を目指せる夢のある職業でもある。

引退したウマ娘が進路として選択する場合も多い。もっとも、たとえ中央でいくつもG1を獲ったスターウマ娘であっても、指導する側に回った途端に鳴かず飛ばずなパターンも多く逆もまた然り。競技者としても指導者としても大成したサンデーサイレンスのような例は極めて特殊。

 

・警視庁騎動隊

かつてシンボリカストルが所属していた部隊。

警視庁を母体とし、テロ対策や重要防護施設の警戒警備、ウマ娘事案(U事案)等に対処する。

主にばんバを筆頭とした重種バと軍バで構成されており、その制圧能力は警察において群を抜いている。規模は1000人規模の一個大隊が二つ、総勢2000名弱。災害時にも出動し、被災地の治安維持のほか重機の入れない狭い場所における瓦礫の撤去にも従事する頼れる存在。実はトレセンもお世話になっている。

 

・警視庁騎バ隊

警視庁を母体とし、主に交通警備や追跡に従事する部隊。

隊員の殆どが競争バで構成されており、トレセン学園のOGも多い。競技ウマ娘として巷を大いに賑わせた大物が入隊してくることもあり、必然的に警察の広告塔としての効果も担っている花形。一般に街で見かける「ウマのお巡りさん」として世間からの認知度も高い。上述の経緯から学園と非常に繋がりが深く、年の暮れになると採用募集の告知にやってくる風物詩でもある。

警視庁のみならず、各都道府県警のほか自衛隊、海上保安庁、地方厚生局といった公安部門にもこれら二つと類似の集団が設置されている。ウマ娘専門の部隊は極めて強力な反面、運用には高度な訓練や装備、物資、知識とノウハウが要求されるため、これを組織している国は世界的にもそう多くはない。国家としての一つの権威、先進国のブランドと言えるだろう。

 

 

【家系関連】

 

・シンボリ家

千葉県成田市に本拠地を置く一族。旧家の名門であり、レース競技界における重鎮。祖は古く鎌倉時代にまで遡れるとかなんとか。

府中含む首都圏を中心として、関東一円のトレセン、レース施設、レース教室にそれらの関係者、さらにはURA本部においても隠然たる権力を握る。また、海外のレース関係者や名門とも繋がりが深いらしい。日本ウマ娘の海外での活動におけるサポートも担っている。

北海道にも分家があるが、特に対立しているわけではない。シンボリ自体、メジロや秋川と比べて共同体としての繋がりは薄く、いつの間にか姿を消していたり、かと思えば突然戻ってくる血族もいたりするらしい。メジロ家と密接な繋がりがある。

 

・メジロ家

北海道洞爺湖に本拠地を置く名門。元は北海道を切り開いたばんバたちの元締めであったことが始まり。

シンボリよりも歴史は浅いが、しかしその勢いはシンボリでも太刀打ちできない程らしい。事実、今や北海道は完全にメジロの影響下にあり、そこに分家を置くシンボリの力すら及ばない王国を築き上げた。とは言うものの、両家の仲はとても良好。

シンボリとは違い、家族としての仲間意識は極めて強固。

 

・秋川家

代々トレセン学園理事長の役を担っている一族。かつて日本レース競技界において賭博が公認されていた折に、最高責任者を勤めていた一族でもある。

その勃興から変革、安定期に至るまでトレセン学園と運命を共にしてきた存在であるが、謎も多い。

 

【オカルト関連】

 

・『お友達』

マンハッタンカフェが生まれたときからずっとその傍らにいた存在。

超常的かつ破壊的な力を行使することが出来る。マンハッタンカフェにしか姿も見えず、声も聞けない存在だったが、夏の一件を境に主人公にも姿だけ捉えられるようになった。マンハッタンカフェに言葉を教え、思い出を語り聞かせるなど目をかけているが、その母であるサンデーサイレンスのことは嫌いらしい。

サンデーサイレンス曰く、その正体は自身から剥がれ落ちた魂だという。昔はあまりにも手の施しようがなかったが、神社で祓うことによって幾分沈静化した。

 

・パーフェクト

主人公の中に存在し、その身体を乗っ取ろうとしたモノ。 最終的に神社で祓われて姿を消した。

サンデーサイレンスによれば、それもまた主人公を依代に母親から剥がれ落ちた魂であり、スイートルナはそれを『ウマソウル』と名付けた。

 

・ウマソウル

ウマ娘に宿る、どこかの世界に存在したという何者かの魂。序章の事件の根源らしい。命名者はスイートルナ。

 

・キョエエ鳥

かつて温泉旅館において、刺青を理由に大浴場に入れてもらえなかったサンデーサイレンスが八つ当たりで倒した怪鳥。結構危険な怪物らしい。

数十年後にまた復活したが、今度はトレーナーと訪れていたゴールドシップによって退治される。

 

・ウマムスコンドリア

ウマ娘の不可解な力の源として、学会で提唱された珍説。サンデーサイレンス曰く眉唾。

 

【その他】

 

・日本ウマ娘トレーニングセンター学園

通称トレセン学園。俗にいう中央。全国から選りすぐりのウマ娘2000名がしのぎを削る学舎。

その前身は帝国陸軍におけるウマ娘の兵士の養成機関。戦後解体されたそこから流出した教官や医師、技術者、さらに知識やノウハウが既存のレース競技界と合体し、日本屈指のエンターテイメントとして生まれ変わった。上部団体はURAであり、監督庁は文部科学省。海外からも多くの留学生を受け入れている。

 

・URA(Umanusume Racing Association)

日本におけるレース競技を管轄する団体。レースにおける規約を制定施行したり、資金を集めたり広告を打ったり時には政界と駆け引きもしたりと中々に大変な組織。トレセン学園の理事会は、理事長を除いてここからの出向組らしい。

トレーナーや公安職と並んで、トレセン学園を卒業するウマ娘にとっては魅力の進路であるが狭き門。とりわけ、大学に行かず学園卒業直後に採用に至るのはごく僅かである。

 

・トレセン学園生徒会

理事会から学生(とそのトレーナー)の権利を擁護するために設立された、生徒達の代表となる組織。初代生徒会長はこれの発足からレース競技における賭博の廃止、ライブの導入と辣腕を振るったらしい。

そんな彼女の精神を受け継いでか管轄する職務の範囲と権限は膨大であり、その業務体系はブラック企業さながら。やりたがる者は多くないが、三冠を成し遂げると強制的にここの会長に任命されるという。

 



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第一章
一輪の赤い菊の花


トレセン学園と呼ばれる機関がある。

主に小学校を卒業したウマ娘を集め、レースへの出場と勝利を目的に掲げる養成施設。全国津々浦々に点在しているが、中でも代表的なのは東京都府中市に展開しているものだろう。

 

日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

俗にいう中央。トレセン学園という単語自体が専らこれを指し示す程の、ウマ娘養成機関における最高峰である。

国民的スポーツ兼エンターテイメントであるトゥインクル・シリーズでの勝利を目指して、全国から2000名もの選りすぐりが集う学舎。否、その出自は日本だけに止まらず、世界からも多くの有望株が海を渡って門を叩くという。それだけ知名度、実績、環境全てが桁違いなのだ。競技ウマ娘として必要なものは、ここに全て揃っているとまで称される程に。

生来走ることに熱狂するウマ娘にとっては、まさに楽園さながらに見えるのだという。そうでなくとも、競技ウマ娘自体が夢のある職業である。中央で身を立てた暁には文字通り全てを手に入れることができ、結果次第では歴史にすら名を残すことになる。

根本にあるのが本能であれ、使命感であれ、あるいは野心や欲望であったとしても、その門を潜らない理由はない。故に、全てのウマ娘の憧れとして長きに渡り君臨してきた。

もっとも、だからと言って決して理想郷というわけではない。その実態は何度も篩にかけられた上で生き残ってきた、いずれも錚々たるエリートたちが一堂に会してしのぎを削る戦場に他ならず、それを制して栄光を掴めるのはほんのごく僅かである。

華やかさの裏で流された涙は数知れず、怪我や成績不振の末に道半ばで去る者も数多い。勝者に全てが与えられる隣で、敗者は黙って立ち去るほか無い弱肉強食の箱庭なのだ。

 

そして、その理に縛られるのはなにも生徒だけとは限らない。彼女たちを支えるトレーナーもまた、常に勝つことを、勝ち続けることを強いられている。

生徒と同様、母数を考えればあるいはそれ以上の倍率を潜り抜けてきた、折り紙つきのエリート集団が中央トレーナーである。巨大興行スポーツたるトゥインクルに直接携わるだけあって、およそ人が成功の基準とするであろう何もかもを得られる、競技ウマ娘と同じくこれまた極めて夢と人気のある職業だ。実績を残せれば、の話ではあるが。

そもそも受け持つ業務からして膨大であり、休日などあってないようなもの。ただ結果だけが求められ、そのために絶えず自己研鑽を重ね続けなければならない。近年流行りのワーク・ライフ・バランスの重視などとは全く縁の無い過酷な仕事。

というよりそれを平気で耐えられるか、なんなら進んで受け入れる者しか生き残れない。担当のバ生と自身の食い扶持の全てが勝敗にかかっている以上、自らを切り売りするしかない。しかもそれと、結果がついてくるか否かはまた別の話である。

 

誰が呼んだか、寝ても覚めても年頃のウマ娘のことだけしか頭に無い変態集団。

そんな魔境に、とうとう私も足を踏み入れる時が来た。来てしまったのだ。

 

「ふぅ……」

 

すっかり日が落ちて人気のなくなった学園の敷地を早足で横断しながら、ころころと器にした右手の中で新品のトレーナーバッジを遊ばせる。

 

つい昨日、トレセン学園事務局から先生経由で支給されたもの。学園内外において本学のトレーナーであることを保証する身分証明であり、私がようやくサブトレーナーから卒業して、いっぱしの中央トレーナーとして巣立つときが来たという証でもある。

バッジはそのトレーナーの素性をとりわけつまびらかにするものだ。たとえば塗装一つとっても、ベテランのものは所々が剥げてくすんだ色の下地が見えている。逆に今手にしているこれは汚れ一つなく光を反射しており、私がまだ生まれたてほやほやのひよっこトレーナーだという事実を全身でもって宣言していた。

支給されたばかりの新人や、これを破損したり失くしたりして新しいものと取り換えてもらった迂闊な者のバッジは皆一様にピカピカであり、それはまだまだトレーナーとして未熟だという証明に他ならない。まるで初めてランドセルを背負った小学一年生のような、えも言われぬ気恥ずかしさがそこにはあった。

 

両端を指でつまんでバッジをひっくり返す。裏には学園採用年次と研修過程での席次を組み合わせた五桁の数字の羅列が刻印されている。学園のデータに登録された私の職員番号であり、これで持ち主を直接紐づけている。

トレーナーバッジは身分証明であると同時に職業の象徴、弁護士バッジのようなものだ。外出時に必ず身に着ける者もいれば、逆に裏返して目立たないようにしている者もいたりするが、皆大なり小なり思い入れがある。

私もその一人で、昔はこのバッジそのものに密かに憧れていたものだが。しかし、いざこうして手に入れてみると、高揚や達成感よりも未来への緊張と不安感ばかりが胸に押し寄せてくる。

とどのつまり、それを自分が持たないからこそ憧れていたのであって、現実となった今では浮かれてばかりもいられないのだろう。このあたり、趣味や憧れを仕事にするなという文句の趣旨だろうか。たんに私が根暗なだけかもしれないが。

まぁ、これも一時の気の迷いだろう。

あと一週間もすれば4月に入る。最上級生たちが卒業し、同じだけの学生が新たにやってくるだろう。新しい一歩を踏み出すのは私も同じで、年度が代わればいよいよ一人前のトレーナーとして担当を見つけ、指導し、レースに臨み勝たなければならない。

これまでとは違い先生や先輩の庇護もなく、むしろ同業者として彼女らと火花を散らすことになるだろう。つまり、バッジに思いを馳せる暇もなければ将来に漠然とした不安を抱ている余裕も無いのだ。

ならば今だけは、こんなくだらない憂いも贅沢として甘受しておくべきなのかもしれない。

 

「冷えるな……」

 

軽く肌をなぞる夜風に、ぶるりと身を震わせる。

いかに春先とはいえど、流石に日も隠れるとまだ少し冷たい。

桜の蕾はもう既に、続々と花開いている頃合いではあるが。今だって、風に乗ってどこからか飛んで来た花びらが一つ、私のスーツの肩にくっついている。

それを払い除けたところで、私はようやくトレーナー寮の玄関に辿り着いた。首から提げていた職員カードで入り口を解放し、広々としたホールを横切る。

 

その道中で立哨しつつ、こちらを見守るのは防刃チョッキとヘルメット、特殊警棒にポリカーボネード盾で防護したウマ娘たち。

学生とその担当トレーナーの別れという、核地雷に他ならないそれが一斉に起爆するこの時期において、我々トレーナーの安眠を守ってくれる頼もしい存在である。

普通、警察官である彼女らが何人も学園の警備にあたるのは異常だと思うのだが、しかしそうせざるを得ない程に事案が多発していたのだ。

その処理を行うのもまた彼女たちであり、つまるところ出動するのが早いか遅いかの違いでしかないため、抑止も兼ねてこういう形になったらしい。

通常哨戒にあたる騎バ隊ではなく、鎮圧に特化した騎動隊を動員してくるあたり、警察と学園の本気度が垣間見える。

もっとも、その方がこちらにとっては有り難いのだが。根本的に生徒と比べて立場が弱いのだ、我々は。

 

……それにしても、担当との別れか。

穏便かつ円満な決別というのは、とりわけ私のような男性トレーナーにとっては至上命題といえるだろう。

故に毎年この季節は戦々恐々とするものなのだが、そもそも担当すら持っていない今の私には関係がない。順調にいったところで、そんな事態に迫られるのは三年後のことだろう。

だいたい、上手く担当を捕まえられるかも分からなければ、良好な関係を築けるかも不明なのだ。別れを惜しまれるのも、それが行き過ぎて「少しだけ」過激な発想に至るのも全てはお互いの親密さ故であり、デビューすらしていない私がそんな心配をすること自体がそもそもおこがましいのだ。

もっとも、これは言い替えれば私には少なくとも三年間の安寧が保障されているということである。基礎を固めつつ、健全かつ穏やかなトレーナー人生を過ごさせてもらおう。新人の特権というものだ。

今年も先輩方には頑張ってもらい、それを絶対的安全圏から勉強させてもらうとしようか。そして約束された平和な日常を、たっぷりと堪能することとしよう。

 

そんなことを頭の中でこねくり回していると、気づけば部屋の扉は既に目の前。

福利厚生は日本一との噂通り、このトレーナー寮もまた随分と恵まれているものだ。この玄関にしても侵入防止のために鍵穴はなく、職員カードを読み取らせて解錠する仕組みとなっている。

 

ピッと短い電子音。

同時に扉の横にあるモニターに電源が入り、そこに直近十件の解錠ログが映し出された。一列目にただ今の時刻が表示され、その一つ下には今から一時間ほど前の記録。さらにその下には、ちょうど正午あたりの時刻。

 

……どういうことだ?

 

おかしい。私が最後にここを出たのは朝の六時だったはず。

その後は一階の先生を起こしにいって、寮の前でこちらを待っていたシービーと合流してそのまま本校舎まで向かい、以降はターフと部室を往復していた。

来年度に向けた通年メニューの更新作業と、入学式及び新任式の準備と打ち合わせ、新入生に向けたパンフレットのインタビュー、そして私の卒業認定等々と目白押しになっていた仕事がようやく一段落ついたのは昼になってのこと。

当然、ここに戻る時間的余裕はない。うっかり部室で居眠りをしでかす程に疲労も溜まっていたぐらいだから、そこから遠く離れたここまで足を運ぶ余力もなかった。

 

要するに、この直近二つの解錠ログはどちらも私によるものではない。絶対に。

となると、この正体はなんだ。窃盗ならこんな四階にある新米の部屋ではなく、一階のベテラン達の部屋を狙うはずだ。そもそも警官がここに詰めている時期にあえて盗みを働く意味が分からない。

ならば私怨か。しかし学園で私が恨みを買った覚えもなく、外部犯ならそもそもここまで辿り着けないはず。だとしたら学園関係者のストーカーだろうか……それが一番あり得るかもしれない。

 

モニターのパネルを操作し、内側からの解錠ログを呼び出す。

一番上には12:45とある。それ以降の記録はなし。つまり、侵入者はまだ部屋の中だ。

 

どうしたものか。

 

時間経過でオートロックがかかってしまったので、ひとまず落ち着いて対応策を練る。

とりあえず一階に降りて先生に助けを求めようか。しかし激務を片付けたばかりの恩師を連れ出すのは気が引けるし、なにより本当にストーカーだった場合、彼女は間違いなく手を出すだろう。先輩も同様か。

力を貸してくれそうで、なおかつ冷静に話が出来そうな知り合い……たづなさんだろうか。樫本さんも加勢してくれそうではあるが、流石に彼女を矢面に立たせることは出来ない。というかたぶん、逆に私が助ける羽目になるだろう。秋川理事長は後が怖すぎる。

いや、そもそもいちサブトレーナーがあんな大物たちを呼びつけること自体がまずおかしいか。それにせっかく警察がいるのだから、彼女たちを引っ張ってくるべきだろう。餅は餅屋。不審者には警察官だ。

 

そう結論を出し、さっき上がってきたばかりのエレベーターへとつま先を向けた瞬間、ガチャンと背後で玄関の扉が開けられた。

意を決して後ろを振り返る。

 

「おっ、お帰りサブトレーナー。ご飯にする?お風呂にする?それとも……アタシ?」

 

隙間から顔を覗かせているのは、目出し帽を被ったごろつきでも挙動不審な何者かでもない、凛々しく愛らしい少女の顔。

こちらをからかうような笑み。やや緑がかった艶やかな黒鹿毛が、廊下の照明を反射してキラキラと輝いている。

頭のてっぺんでは長い耳がパタパタと動き、僅かに見える尻尾もゆらゆらと愉快そうに揺れていた。

 

なるほど、君が侵入者か。

……どうやら先生を呼びに行くのが正解だったらしいな。もう遅いが。

 

「…シービー、君はここにいていい人物ではないと思うが?」

 

まさにこういった事態を防ぐためにとられていたのがあの措置ではなかったのか。

玄関を開けたらウマ娘がいた、なんて私にはしばらく縁の無い話ではなかったのか。というか、あの厳戒態勢をどうやって突破した。

 

「そんな怖い顔しないでよ。大丈夫、なにもおかしなことはしてないからね」

 

片手で扉を押さえたまま、シービーはもう一方の手を頭の上に伸ばす。そして、右耳の近くにのっけている白い帽子のアクセサリーを取り外すと、中から一枚のカードキーを取り出して見せてきた。

氏名から役職に至るまで、それは私に与えられた職員カードと全く同じだ。恐らく、緊急時に備えて事務局で厳重に管理されている筈のスペアを生徒会長としての権限を行使して持ち出してきたのだろう。ご丁寧に、顔写真の部分だけ彼女のものに貼り替えられている。

それについて、今さらなにを突っ込んだところで意味はない。生徒会長としてのみならず、彼女はこの学園において独自の人脈と情報網を保有している。伊達に中等部二年にして学園の顔に上りつめたわけではないのだ。

 

「それは十分おかしなことだと思うんだけど」

 

「まぁまぁ。いいから早く入りなよ。玄関の前で突っ立ってるのは勝手だけど、家主からしたらあまり気持ちのいいものでもないんだからさ」

 

「中に入られるのは居心地が悪いどころじゃないんだけどね。そもそもここ、私の家だし」

 

「ちょっと違う。私達の家……でしょ?」

 

夫婦ごっこをいつまで続けるつもりなのか、シービーは棒立ちしている私の腕を捕まえて部屋の奥へと引きづりこんでくる。

こうなってしまっては、私はもう彼女に従うほかない。ウマ娘とヒトの間における歴然とした腕力差というのもあるにはるが、それ以上に立場や発言力からして大きく水を開けられているのが大きい。

私は昨日ようやく免許皆伝されたばかりのサブトレーナーであり、彼女はそんな私が師事するチームのエース兼トレセン学園生徒会長だ。悲しいかな、年齢ごときでは到底ひっくり返せない下っ端の運命である。

 

仕方なしに靴を脱ぎ、されるがままに彼女の後に従う。

ゴトン、と一般的なマンションの倍ぐらいは頑丈な扉が重々しく閉じる音と、自動で施錠される電子音だけが背中を押した。

 

「こら、シービー。歩きにくいんだからあんまりくっつくな。ただでさえ単身者向けの部屋なんだから」

 

「そのわりには滅茶苦茶大きいけどね。廊下だって広いし……それにほら、キミだってこんな可愛いウマ娘とくっつけて嬉しいでしょ?」

 

私の腕を自身の両腕に抱き込み、シービーは甘えるようにその身を擦り付けてくる。

自分から可愛いなどと口にしているが、それを許されるだけの美貌を彼女は備えていた。元来容姿に恵まれるウマ娘という種族においてなお、彼女の端麗さは頭一つ抜けている。

極限まで磨き上げられた可憐さと美しさが、奇跡的な配分で両立しているかのようだった。そのライブ映えする美形と歌唱力に、レースにおける無双の実力がミスターシービーの魅了の根源である。

 

そんな彼女に密着されて、嬉しくないと言えば嘘になるが。

勿論そんなことを口には出さない。出してしまえば後々大変厄介な事態を招くということを身に染みて理解しているからだ。ご自慢のスペアカードを最大限活用して、たぶん本当にここを『私達の家』にされることだろう。

彼女は私に対して妙に距離感が近いぶん、一度隙を見せれば絶対にそれを見逃さない。持ち前の器用さと行動力を、そんなところに注ぎ込むのは勘弁してもらいたいところだ。本当に。

 

「あっ、そういえば忘れるところだった。危ない危ない」

 

廊下を進みリビングに至るドアに指をかけたところで、そう呟いてシービーは立ち止まる。

そしてくるりとその場で反転して、私の行く手を阻むように立ち塞がった。そのまま制服の上に羽織っていたアウターを脱ぐと、狙いを定めてこちらににじり寄ってくる。

 

「サブトレーナー、ちょっと目を瞑っててくれる?って言っても絶対断られると思うから、これでなんとかするよ」

 

「シービー?この時期にその冗談は洒落にならないぞ?」

 

「よいではないかよいではないか」

 

夜帰ってきたら家にウマ娘が不法侵入していて、なおかつ視界を奪われたとなれば、それはすなわち詰みということで。

次に目を開けた時には彼女と共に北海道の地を踏んでいて、そのまま実家に招待されてご両親との顔合わせという事態が起きても納得出来てしまう。当然ここでいう顔合わせとは、いつも娘がお世話になって云々で済ませられる類いのものではないのだ。

 

私が一歩後ろに下がると、シービーは二歩踏み込んでくる。あっという間にアウターをすっぽり被せられてしまった。

余った袖の部分を目を覆う形で一周させ、こちらの視界が完全にシャットアウトされてしまう。

 

「よし。アタシが良いって言うまでそれ取っちゃ絶対絶対ダメだからね。勝手にそんなことしたら酷いから」

 

「はいはい」

 

どうせ逃げられやしないのだ。

脅し、という割にはどこか必死なシービーの言いつけに重い頭で頷くと、返ってきたのはリビングのドアが開けられる音。次いで、手をとられながらゆっくりとリビングへ足を踏み入れる。

 

「あ、そこ段差あるから気をつけてね」

 

「分かってる。一年も暮らしてきた家だぞ。見えなくてもこのぐらい」

 

「ふふっ、それもそっか」

 

クスクスと笑うシービーに導かれながら、リビングの中を時計回りで慎重に進む。

と、胸を押されて後ろに倒された。咄嗟に手をつくが、返ってきたのは柔らかいクッションの感触。私の記憶が正しければここにはソファがあった筈だが、しかしその手触りはソファの布地からはかけ離れている。まるでぬいぐるみのような……さて、一体ここにそんなものを置いていただろうか。

しばらくそれを撫で回していたところ、不意に袖の目隠しがほどかれる。

 

「いいよ。もうそれとっちゃっても」

 

「そうか?」

 

一体どこに連れ込まれるのかと内心恐々していたのだが、しかしどうやら目的地はここだったようで。

お言葉に甘えてアウターを取り外す。

 

視界を確保して、最初に確かめるのはあの謎の手触りの正体。

やはり私が今腰かけているのはリビングの中心に据えたソファだったが、その上にはシービーのぬいぐるみも座っている。私が掴んでいたのはまさにそれだった。

一瞬ぱかプチを想起にしたそれは、しかしよく見れば手作りのものらしい。いくら生徒会長とはいえ、現段階におけるシービーの成績でぱかプチへの実装は考えられないので、恐らく彼女が趣味か験担ぎで拵えたものだろう。相変わらず器用というか多才というか、市販のものにすら劣らない程によく出来ている。

少々アレンジを加えたのか、チャームポイントの白い帽子の上に、真っ赤なキクの花が一輪添えられていて華やかしい。

 

「へぇ、キミって目隠し取られた後、最初に手元を確認するタイプだったんだ。面白いけど、アタシの計画からはちょっと外れちゃったな」

 

「……計画?」

 

やや落胆したようなシービーの声につられて、ようやく私は彼女の方を見上げる。

そこには、というより反対側の部屋の壁に掛けられいるのは『"サブ"トレーナー卒業おめでとう記念』の文字がデカデカと書かれた垂れ幕。

さらにソファの前のテーブルに目を向けると、小さなホールケーキと少しづつのチキン、ポテトが向かい合わせに置かれていて、ちょっとしたパーティーのような様子だった。

 

いや、実際これはパーティーなのだろう。

ようやく私が一人前と認められたことを祝うために、密かに準備していてくれたのか。昼にもここに侵入したのは、一度で完成させるのが難しかったためだろう。

 

「やっぱり、その人形は余計だったかも」

 

後ろ手を組んでこちらを見下ろしながら、少し残念そうに微笑んでみせるシービー。

そうか、位置取りからして目隠しを取ったその瞬間にあの垂れ幕が視界いっぱいに映る計画だったのか。わざわざ視界を奪ったのも、そのサプライズを成功させるためのもの。彼女なりに精一杯考えたのだろう、その気落ちした様子を見ていると沸々と罪悪感が湧いてきてしまう。

 

私はソファの人形を拾い上げると、自分の膝の上に乗っけて抱き締めた。

そして目の前に立つ彼女の手を引いて、隣へと座らせる。シービーは慣れない生地の感覚に落ち着かない様子でしばらくもぞもぞと腰を動かしていたが、すぐに落ち着いたのか私の肩へとそっと寄り添ってきた。

 

「……ありがとう、とても嬉しい。先生はあんな調子だからね、てっきり祝ってもらえるとは思わなかった」

 

「そう?トレーナーも同僚に自慢してたし、他の子も喜んで……はないか。残念がってたけど、まぁ祝ってはいたと思うよ」

 

そう言われれば確かに、先生もどこか浮かれていたような気がしなくもないが。事実、まだ若手である彼女が後進育成に携わり、それを成し遂げたのは大変に名誉なことなので気持ちは理解出来る。

他のチームの子達はどうだっただろう。彼女らもまた春を見据えた調整で忙しいため、あまりサブトレーナーのことを気にしている余裕もなかった気がするが。元々トレーナーとして独立してしまえばチームとも縁が切れてしまうので、そのことを残念がってくれていたのだろう。

 

「とはいえ、ここまでしてくれたのは君だけだからね。繰り返しになるけど、ありがとう」

 

「キミが喜んでくれたなら頑張った甲斐があったよ。これは……成功ってことでいいのかな?」

 

「勿論、大成功。とてもビックリしている」

 

「そっか」

 

そんな言葉にシービーは一転して花の咲くように破顔すると、私と同じようにこちらの肩に指をかけて自らへと引き寄せてくる。

そうしてお互いの肩が触れ合うまで密着したところで、そっと私の耳に唇を寄せて歌うように囁いた。

 

「なら、改めて……中央トレーナーデビューおめでとう!!そしてこれからもよろしくね、サブトレーナー」



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ミスターシービーというウマ娘

「そういえば、キミは全然アタシをここに上げてくれなかったよね。どうして?」

 

チキンの骨に残った肉片を器用に剥がして飲み込みながら、ふとシービーはそんなことを尋ねてくる。

私といえば、とっくに食事を済ませて来年度に向けた資料に目を通している最中だったので、彼女の問い掛けにとっさに顔を上げてしまった。

あまり乗り気のしない問答であったが、こうなってしまえば誤魔化すわけにもいかない。はぐらかしたところで、彼女には間違いなく見抜かれるだろう。かえってドツボに嵌まるだけだ。

 

「どうしてもなにも、単純にそうするだけの理由がないからだろう。連絡ならメールでこと足りる。直接会うなら外に出ればいい」

 

ここトレーナー寮と、生徒が暮らす二つの学生寮はいずれも学園の敷地内に置かれている。

かつては生徒が無断でトレーナー寮へと侵入する事案が日常茶飯事だったため、それを省みて今では本校舎を挟んで対角線上の両端に最大限距離を取る形で設置されているのだが、それでも結局のところトレセン学園に併設されていることには変わりない。

そもそも、同じチームであれば毎日のように顔を合わせるわけだし。だいたいの連絡や交流は日中でこと足りるのだ。

わざわざ自室にまで生徒を招き入れる理由が全く無い。これがトレーナー同士となると、情報交換やら打ち合わせやらでわりかし部屋の行き来があるのだけれども。

 

「あるの?そういうなんか、生徒がトレーナー寮に入っちゃダメって決まりでも」

 

納得がいっていないのか、そもそもそんなことは分かった上での質問だったのか。シービーはなおもこちらに食い下がってくる。

気が収まるまで容赦なく踏み込んでくるのがシービーなのだ。こうなる気がしたからスルーしたかったのに。そもそも、生徒会長たる彼女の方が、私なんかよりもよっぽど学園の規則には精通している筈なので、要するにこれは疑問に見せかけたただの不満なのだろう。

 

「ルールとして明文化されているわけじゃないが、風紀的に良くないだろうそれは。ただでさえトレーナーと担当のアレコレが大半のトラブルの種だというのに」

 

「でもキミはアタシの担当トレーナーじゃないし、今のうちにちょっとぐらい距離を縮めておいても良かったんじゃない?相性確認は大事だよ?」

 

「……いや、担当でないなら尚更駄目だろう。フリーならまだしも、既に他と契約を結んでいる相手に」

 

他のトレーナーが受け持っているウマ娘と無闇に接触するのはご法度だ。アドバイス程度でもあまりいい顔はされないし、ましてや仲を深めようものなら後々どんな火種になるか分かったもんじゃない。

基本的にトレーナー同士、ウマ娘同士は利益相反の関係にある。勝者が一人しか存在しない競技の性質上当然のことだ。

故に、他の陣営への過度な接触はそれ自体がレースの公正さを妨げる結果にも繋がりかねず、事と次第によっては懲戒にすら処されかねない極めてデリケートな行為である。

 

そもそも相手方のトレーナーにしてみれば全くもって面白い話ではない。下手にアドバイスを仕込まれたところで、かえって作戦やトレーニングの混乱に来すだけであるし、そもそもそれを狙った妨害工作である可能性すらある。

最悪なのが、そのまま担当ウマ娘を引き抜かれてしまうケースだ。適性の見極めと調整が終わり、ようやく育成が軌道に乗っかり実績を出せてきたところを見計らって、横から口出しして掠め取っていくハイエナ行為も散見される。契約は当事者同士の自由意思に委ねられる以上、それも決して規則違反ではないのだが、しかし容認されるか否かはまた別の話だ。

実際、そういった分捕りを繰り返したベテランが村八分にされてトレーナーを辞めざるを得なくなったこともあるらしい。トレセン学園という狭い村社会において、同僚からの信頼を損ない居場所を失うことは死に直結するのだ。この辺り、私が師弟関係や縁故を重視する理由だ。

 

もっとも、例外もまた当然にある。

担当ウマ娘が自身の方針と合わない、あるいは他のトレーナーの方が相性がいい場合はアドバイスをきっかけとして移籍が行われることもあるし、師弟の場合はある特別な移籍制度も設けられているなど、必ずしも他陣営との接触が否定されているわけではない。

結局のところ、重要なのは双方の納得だ。元々担当とそりが合わない、実績を残せていない、ベテランで多少引き抜かれてもキャリアに響かないという事情等々、突き詰めれば時と場合を踏まえてという一言に尽きる。

 

これらを踏まえた上で検討した場合、私がシービーと必要以上に親密になるのは非常に好ましくないことだった。

現時点においてチームの中核を成すウマ娘であり、シンザン以来19年ぶりの三冠を期待されている逸材なのだ。既に一定の名声を得ている先生とはいえ、手放すには余りにも惜しい存在だろう。

他のトレーナーもそのことを理解しているのか、並走の依頼を除いてシービーへの接触は極力控えている。例外といえば、同期であり尚且つ昔馴染みの先輩ぐらいだろうか。

 

「君とは少し、仲良くなりすぎてしまったような気もするな。今更かもしれないが」

 

「なぁに?後悔してるの?」

 

「そこまでは言わないけど。ただ、私にも立場ってものがある。流石に滑り出しからやらかすのはごめん被りたい」

 

「立場ね……そんなの気にするだけしょうがないと思うけど。まぁ、それも今のうちかな」

 

そういうわけにもいかない。

ここで彼女におかしな影響を与えてみろ。良くて破門か、最悪の場合ようやくデビューした直後に学園を追い出される羽目にもなりかねないのだ。繰り返しになるが結び付きが重要なこの職業において、他ならぬ指導教官に弓引く新人など今かつて聞いたことがない。

 

私もシービーも立場は違えど同じ年に中央に足を踏み入れ、同じチームに所属し切磋琢磨してきた者同士かなり思い入れもある。

とはいえ、順調にいけば私にも来年から担当がつくわけだし、彼女もまたエースとしてこれまで以上に先生のチームを引っ張っていくことだろう。

いい加減、ここらが潮時なのかもしれない。私はトレーナーとして一人立ちし、彼女はいよいよクラシック戦線に臨む。時期的にも丁度いい頃合いだろう。

 

「なら結局のところ、キミはトレーナーに遠慮してアタシをここに入れてくれなかったってこと?」

 

「それも理由の一つだけど、あとはまぁ……メリハリをつけるためかな。家にまで君がいるとオンオフの切り替えが出来なくなる」

 

トレセンの敷地内に寮があるのは非常に有り難いことこの上ない。

勤務時間が不安定で、なにより夏の真っ盛りだろうが冬の最中だろうが現場での活動を行うぶん、心身の疲労と切っても切れない職業である。貴重な体力を通勤なんぞに割きたくないし、そんな時間があるならその分少しでも休息を取っておきたい。

職場と直結しているここは、そんな私達の切実な想いに応えてくれている。

ただそのぶんデメリットもあるというか、毎朝毎晩満員電車に揺られている方達に聞かれたらひっぱたかれそうな贅沢な悩みではあるが、公私の切り替えが難しいのである。

玄関から一歩出たら職場というか、そもそも寮自体がトレセン学園の敷地内にある以上、常に生活の場を一ヶ所に置いていることになる。出社、帰宅という概念がそもそも薄いのだ。お陰で寮部屋すら仕事場の一つに見えてしまい、わざわざ学園外から通っているトレーナーもいる程。

 

その点私はそれなりに適応力があるのか、この部屋でも肩の力を抜くには十分なのだが……それでも、プライベートの空間というものは欲しい。

シービーには悪いが、ほぼ毎日昼間に顔を合わせてきた彼女は私にとって仕事の象徴だった。家の中にいられると気が休まらない。

 

「でも、トレーナーになったらそんなこと言ってられないと思うけど。先輩たち見てても、休みの日は色んなとこ連れ回したりしてるもの」

 

「ならせめて、今ぐらいはそっとしておいて欲しいものだね。ただでさえ、打てば壊れるか弱い新米トレーナーなんだから」

 

「ならアタシが鍛えてあげようか。寮は引き上げて明日からこっちに越してくるよ。部屋も独身寮じゃなくて家族寮に作り直してあげる」

 

「いらないお世話。そもそも、なんの権限があって君がそれをするんだ」

 

「生徒会長権限」

 

べ、と悪戯っぽく舌を出して見せてくるシービー。

それを世迷いごとだとあながち言い切れない程の権力を握っているのが実に厄介である。この学園における生徒会の権限は、一般的な学校機関のそれからは余りにもかけ離れており、その長ともなれば理事長に次ぐ実質的な学園のNo.2だ。理事長と生徒会長の、両者の承諾が降りなければ通らない申請も少なくない。

そのぶん所掌する業務の範囲もまた尋常ではないが。とりわけ三月の末ともなれば地獄が顕現するのだが、しかし風の噂によればシービーは既にそれも片付けているらしい。この時間にこんな場所にいるところを見るに、きっとそれは事実なのだろう。

トレセン学園生徒会長としての業務の内容と、それを処理するために必要な知識にノウハウ、与えられた権限の活用方法からやや大胆な立ち回りに至るまで、彼女はその殆どを既に自らの物にしたのだろう。先代からの引き継ぎがあったとはいえ、やはり傑物というほかない。これが一年前までランドセルを背負っていたなどとにわかには信じがたい。

 

咥えて遊んでいたチキンの骨をパックに戻すと、彼女はケーキの箱ごとまとめてテーブルの端に寄せる。

チキンとポテトのパッケージには商店街にあるスーパーのシールが貼られていたが、ケーキの箱はまた別の店の物だ。たしか、商店街からさらに先の街に出たところにある老舗の洋菓子店のものだったと記憶しているが。思えば、シービーがメイクデビューを飾った時も同じ店のロールケーキで祝ったんだったか。

彼女はそのまま自身の座るソファの後ろに両腕を垂らし、ぐでっと天井を仰ぎ見る。

ついでに足も組んで、なんとも貫禄のある格好だ。威厳すら感じるというか、本当にこれが中等部一年生の姿か。実はバ生2回目とかなんじゃないのか。

 

「…あーあ。アタシも今は寮に帰っても一人だからねぇ。一週間後が待ち遠しいよ」

 

「今は……ああ、あの子はもう卒業するんだったな。部屋も既に引き払ったわけか。次に来る子は大変だろうな。生徒会長が相部屋だなんて」

 

「どうかな。その子も大概かもしれないよ?三冠取っちゃって、そのまま次の生徒会長になっちゃうかも。そしたらアタシとしては万々歳だけど」

 

「また君は、そういうくだらない冗談を」

 

この学園の規模なら一人一部屋与えてもいいと思うのだが、学生寮は昔からずっと二人部屋のままだった。特にそういう決まりだとか伝統があるわけでもなく、単純に改築に手が回らないらしい。

まぁ、いくら経済的に体力のある天下のトレセン学園といえども、下手したらトレーナー寮以上に金のかかるあそこを丸ごと作り替えるのは困難なのだろう。

寝食を共にするからには、相性というものは大事だ。そしてそれ以上に、共同生活に対する適応力も重要となる。私生活の崩壊はそのままレースパフォーマンスの低下に直結するからだ。

この点、一人部屋を寂しいと感じ、相方を待ち遠しく思える彼女の協調性はやはり紛れもない長所だろう。

 

 

「……よし」

 

ひとまず、資料は一通り読み終わった。

つい今朝たづなさんから貰ったもので、新人トレーナーを対象に今後の手続きの詳細と簡単なアドバイスがまとめられたパンフレットである。幸い、理事長から事前に概略だけ聞いていたので、殆ど読み流す程度でも頭に入ってきた。

というか、そもそも理事長自らしたためた物なので当然かもしれないが。半人前の身で彼女と個人的な交流を持たせて頂いてることには本当に感謝しかない。

 

校章の印刷された封筒にパンフレットをまとめてしまい、パーティーの残骸とは反対側のテーブルの端に放り投げる。

そのまま今度はポケットから新品のトレーナーバッジを取り出し、テレビ横のデスクからマイナスドライバーを持ってくる。そうして再びソファに腰を下ろしたところ、それに気づいたシービーが興味津々といった様子でテーブル越しに身を乗り出してきた。

 

「へぇ、そのバッジって解体出来るんだね。中に飲み薬でもしまっておくの?」

 

「そんなわけないだろ……たんに塗装を剥がすだけだ。といっても、一部分だけだけど」

 

これは言うなら、担当を捕まえるための一つのテクニックだ。

浪人生や中途採用も多い中央トレーナーについて、年齢ではなくバッジの汚れ具合でキャリアの長さを測るべきというコツはウマ娘の間でも周知されている。なるべく経験豊富なベテランを捕まえたい彼女たちの前では、こんなピカピカのバッジは眼中に入らないのだ。故に、こうして意図的に汚損させるのである。

もっとも実際のキャリアなど隠し通せるものでもないし、私の場合は見た目でも若手だと分かるだろうが、それでもやらないよりはマシだった。自身の実力だの人柄だのをアピールする以前の話、こうでもしないと接触するきっかけすら与えられないのだから。

基本、選ばれる立場の新人トレーナーはこうしてチャンスを作っていくほかない。学園からの救済策もあるにはあるのだが、私の場合では恐らくそれは望めないのだから。

 

と、バッジの表層にドライバーの刃を押し当てたところで、不意に目の前から伸びてきた手にそれらを取り上げられてしまう。

 

「……シービー」

 

「止めときなよ、勿体ない。だいたいこんな小細工されたところで、かえって悪印象になるだけだと思うよ。それにキミなら席次で十分アピール出来るんじゃないかな」

 

シービーはくるりとバッジを裏返し、そこに刻まれた職員番号を確かめる。正しくは、その末尾にある二つの数字について。

修習期卒業段階における、座学と実技の総合成績で定まった席次。それが職員番号に組み込まれるということは、要するに引退するまでその成績が残り続けるということである。

見方によっては残酷だが、これもまた勝ち負けの世界へ飛び込むにあたっての洗礼ということだろうか。これもまた、ウマ娘が担当を選ぶ際の一つの基準だとかなんとか。

 

「02……同輩中の二位。つまり修習所で次席だったってことでしょ。十分十分」

 

「その微妙さが不安なんだよ。そもそも席次とトレーナーとしての能力は必ずしもイコールじゃない。結局、実績のあるベテランの方が安牌ということになる」

 

「だからベテランに擬態するってこと?分かってないなサブトレーナー。こういう時、大事なのは見栄とはったりだよ」

 

それこそまさしく、たった今私がやろうとしていた事ではないのだろうか。

しかしシービーは手にしたバッジを転がしながら、ゆるゆると首を振って私の思考を否定する。

 

「もしもの話。首席の人がバッジに細工をしなかったとしたら、その時点で完全にキミの負けだよ。席次で勝てないから細工に逃げたと、きっと回りはそんな風なことを思うだろうね。そして……そんなトレーナーに、果たして自分の一回きりのチャンスを委ねたいと思うかな」

 

「それは……」

 

思わないだろう。

格付けがついてしまうと、そう言いたいのか。

 

「だから、キミはただ堂々としていればそれでいい。そもそもの話、キミが選ぶ立場に回らないとも限らないんだからさ」

 

これは預かっておくからね、と言い残してシービーはソファから立ち上がる。

ドライバーだけ私に返し、バッジは胸ポケットに滑り込ませると、そのままアウターを羽織って玄関へと歩いていく。

 

どうやらパーティーはこれでお開きらしい。門限にはまだ多少猶予があるとはいえ、そろそろいい時間だからあえて引き留めることもしない。

いくら生徒会長とはいえ、異性の部屋に夜更けまで長居するのは体面が悪いだろう。なにより私も、こんな時期から悪い噂でも立てられたら堪らないのだから。

見送ろうと私も立ち上がったところ、結構だと手を振って制止される。リビングに取り残された私を他所に、シービーは颯爽と廊下を抜けて玄関から飛び出した。

 

「……あ、そうそう。最後にこれだけは言っておかないと」

 

その扉を閉める直前、首だけ隙間に突っ込んで私の方へと笑いかけてくる。

いつものからかうようなそれとは違う、柔らかく見る者の心を温めてくれるような優しい微笑み。

 

「来年の担当探しのことなら心配する必要はないからね。安心して眠るといい」

 

「慰めかな、それは」

 

「じきに分かるよ。じゃあね、また明日」

 

おやすみなさい、と挨拶だけを残して彼女は首を引っ込める。

ガチャン、と重々しく扉が閉まり、オートロックの短い電子音だけが後を引く。私一人が残された寮部屋は、それを最後に波が引いたかのように静まり返った。

挨拶を返し損ねたと思いながら、区切りをつけるように私もリビングの扉を閉める。

 

果報は寝て待て、か。

どのみち、今の私に出来ることなど限られている。というか、バッジを取り上げられてしまった以上あとはこれまでのレポートを見直すぐらいしかない。学園のデータベースへのアクセスも、やはり来週になるまで許されないわけだし。

それならもう、今日はシャワーでも浴びて一足早くベッドに入るとしよう。特に今日はうっかり居眠りするほど疲れていた。新生活が始まるまでに、少しでも英気を養っておくべきだ。

 

そう思い踵を返すと、視界にあの垂れ幕とケーキの箱、そして彼女が食べ残したチキンの骨が飛び込んでくる。

……とりあえず、まずはこれを片付けないとな。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

寮の玄関から外に出た頃には、冷え込みがより一段と強くなっていた。

暦の上ではもう春だとかなんとか。とはいえ過ごしやすい環境が整うには、あともう少しだけ夜を越える必要があるだろう。ヒラヒラと夜風に揺れるカーディガンの裾を握りしめ、しっかりと体に巻きつける。

ウマ娘は体温が高いし、多少の寒さで体を壊すことはない。アタシだって、伊達に雨の中を傘なしで出歩いているわけじゃないのだから。とはいえ、寒いものは寒いのだ。結局のところ、こういうのは気の持ちようだろう。

 

最後にもう一度だけ、出てきたトレーナー寮を振り返る。

彼の部屋の電気はまだ点いている。カーテン越しにぼうっと光を放つそれを見て、粟立つような焦燥が胸を焼き付くした。

ああ、あれを見るんじゃなかった。もっと粘っていればなんて、そんな未練がましいことを考えてなんになる。

それでも街灯に引き寄せられる蛾のように、アタシは無意識にあの光に飛び込む理由を探してしまう。忘れ物、なんて言い張りながらチキンの骨でも取りに戻るか?ああ、全くもって愚かしい。

 

はたはた、とアタシの言うことをまるで聞かずに自己主張する尻尾。

ウマ娘の耳と尻尾には、とりわけ感情が露になるという。だとすればこの瞬間、アタシは一体どんな情を胸に秘めていると言うのだろう?

分からなかった。分かる筈もなかった。何故って、今までのアタシはそれを知らなかったから。

かさ、と帽子が髪の毛と僅かに擦れ合う音が響く。きっと、二つの耳もこの尻尾と同じぐらいの利かん坊だったのだろう。

 

……もう行こう。

 

いつまでも振り返っていないで、アタシもアタシの部屋に戻らないと。

あの光を見ていると、なにか自分が自分ではなくなっていくような感覚がする。ただでさえ、主の言うことを聞こうともしないこの度しがたい肉体が、いずれなにをしでかすのかはアタシですら分からないのだから。

 

そう決意して、なんとかトレーナー寮を視界から押し退けて、真逆の美浦寮へと鼻先を向ける。

 

「あ、シービーちゃん!!」

 

その瞬間、通りを歩いていた一人のウマ娘と目があった。アタシより数拍早くこちらを視認していた彼女は、満面の笑みで手を振りながら真っ直ぐ駆け寄ってくる。

彼女はアタシと同じく、シンボリフレンドのチームに所属しているウマ娘だ。アタシと同じ黒鹿毛で、そしてこれまた同じく今年学園に入学したばかりの中等部一年生。

誰よりも早くデビューを果たし、初戦を勝利で飾り、生徒会長にも選ばれて。順調に実績と人気を積み上げているアタシは、嫌われこそしていないものの同期からは少し距離を置かれている。

そんな中で、初めて言葉を交わした日と変わらない態度で接してくれる彼女がアタシは好きだった。

 

「シービーちゃん!!こんなところでなにしてるの?」

 

「うん、ちょっと……トレーナーに用事があってね。遅い時間だけど、お邪魔させて貰ったんだ」

 

「トレーナー……ああ、サブトレーナーさんのことだね!!そっか、卒業おめでとうってお祝いしたんだ!!」

 

アタシがあえてはぐらかした部分を暴きながら、一日の終わりだというのに元気一杯に彼女は笑う。

素直で、人懐っこく情に厚い。とても良い子なのだが、妙に勘が鋭いというか、度々こうして本質を見抜いてくるところが少し苦手だった。

 

「でも、それなら私も誘って欲しかったなー。他のチームの子も、友達もいっぱい呼んでおめでとうってやりたかったよ」

 

「アハハ、ごめんね先走っちゃって。アタシも結構忙しくて、二人だけのちっちゃなパーティーしか出来なかったの」

 

「そっか。シービーちゃん、会長さんになって忙しいんだもんね」

 

「そうそう。だからいつか全員の予定が揃うときがあったとしたら、その時はもう一度、皆で一緒にサブトレーナーのお祝いをしようか」

 

「うん!!」

 

良い返事だ。

アタシにそんなつもりはさらさらないことも、桜月が終わるまでアタシとトレーナーに暇な日がないことも全て分かった上で彼女は頷いているのだろうか。

分かっていないだろうな。もしそうなら彼女は間違いなく悲しい顔を見せている筈。

アタシはキミのことも好きだから、どうかそのまま優しい嘘で絆されたままでいて欲しいかな。

 

「ところで、キミこそどうしてこんな時間にここにいるのかな」

 

「うん。トレーナーがちゃんと夜練しておきなさいって。私は逃げウマだから、しっかりスタミナをつけておかないといけないから」

 

「そっか。あまり根詰めすぎるのも良くないから程ほどにね」

 

「うん!!」

 

威勢の良い返事を残して、彼女はアタシの脇を通り抜けていく。と、数歩進んだところで立ち止まって上を向いてしまった。

その先にあるのは、まだ明かりが点いたままの彼の部屋。律儀な彼女の事だから、その頭の中で考えていることも手に取るように分かってしまう。

そしてそれを実行に移すだろう。そうだよね、キミだってこの一年間、彼に目をかけてもらったウマ娘の一人だもの。

 

「この時期、ちょっと学園が楽しいことになってるんだ。トレーナー寮にも警察の方がいっぱいいてね。アタシ達は近づかない方がいい」

 

「そーなの?うん……分かった!!」

 

まったく、そんな素直にアタシの言うことに従うなんて。

「なにを自分を棚に上げて」なんて当たり前の文句一つも出てこない、そういうところもまたアタシにとっては好ましかった。

 

「代わりと言ってはなんだけど、夜の練習ならアタシが一緒に走ってあげる。とりあえず、もう時間も遅いから美浦寮まで流そうか」

 

「ほんと!?ありがとう、シービーちゃん!!」

 

「ふふ……どういたしまして。ミズ・カツラギ」

 

さて、アタシもシャワーを浴びて、さっさとベッドで身を休めることとしよう。

これでもトレセン学園の生徒会長だ。無事に新入生を迎えるまで残り一週間、気張らなければならないのだから。

 



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よちよち歩きの二人

4月1日。

 

学園が新たな年度に切り替わる大事な節目である。

さらに今年は私にとってトレーナー人生の始まりでもあり、きっと人生において特別な日となることだろう。

 

カーテンを開放すると、心地よい日光が朝のリビングを照らしてくれる。

そのまま窓を開ければ、少し冷たい春の風がそよそよと部屋の中に吹き込んできた。

この頃少し崩れがちな天候だったので少し心配していたが、理想と言ってもいいぐらいの春うららだ。新入生にとってはこれ以上ない学園生活における第一歩となることだろう。

 

まだ時間としてはかなり余裕があるのだが、とはいえ二度寝など到底出来そうにもない。

まかり間違っても新任式に遅刻など許されない。なにせ一年にわたるサブトレーナー時代の締め括りと、これから始まるトレーナーとしてのキャリアの第一歩を兼ねる大事な儀式なのだから。

本校舎のカフェテリアも開いてる頃合いだろうし、少し早めの朝食としよう。

 

身仕度もそこそこに、玄関を出てエレベーターで一階まで降りる。

ホールに出ると、この一週間寮の警備を担っていた騎動隊のウマ娘たちが、どこかほっとしたというかやり遂げたような表情でたむろしている。見たところかなり人数が少ないが、恐らく敷地内の警らにでもあたっているのだろう。

制服の上にチョッキとプロテクターを着込んで全身を固く守り、腰に特殊警棒とフラッシュバンを下げ盾を携えた姿はやはり物々しい。が、これまで深々と下ろしていたバイザーを上げて談笑に興じている姿を見ると、やはり警戒は解けているらしい。

そっと周囲を見回してみるも、玄関の強化ガラスに罅が走ってるわけでもなければ、カウンターが粉々になっているわけでもなく、通路の照明や植え込みにも破損の類いは見当たらない。とりあえず今年こそは、学園に愛憎渦巻く三月末という修羅場を無事に乗り越えられたらしい。

 

これもひとえに学園首脳部と生徒会に警備部門、そして彼女ら警視庁の尽力の賜物だろう。去年一昨年の惨状を鑑みるに、これで今年も病院と矯正所送りが複数出るような事態になれば、年々対策を強化してきた彼女たちが来年こそライフルで武装することになっていただろうから、紙一重でトレセンの体面が守られたということになる。

首相官邸や原発以上に重装備で警備されている学園なんてまさしく前代未聞だろう。私もそんなおっかない場所に住みたくない。

 

「お疲れ様です」

 

そっと頭を下げて近づくと、遠巻きに眺めていた警官達が一斉にわらわらと近付いてきた。

特に急いでいるわけでもないので、しばしの間お互い言葉を交わす。

昨晩までは黒く着色されたバイザーのお陰で分からなかったが、こうして素顔を露にされると彼女たちもまた可憐なウマ娘であることがはっきりする。

心なしかはしゃいでいるようにも見えるが、曰く初めてトレセン学園の奥深くまで足を踏み入れることが出来て興奮しているらしい。

その所属からして、そもそも学園の元生徒でもないだろうからむべなるかなと言ったところか。聖蹄祭やオープンキャンパスのような外部参加型のイベントもあるにはあるが、流石に敷地の全てを開放しているわけではないのだし。

聞くところによれば、地方中央から多くのトレセン学園OGが集う騎バ隊の方々は、今年は声がかからなくて大変悔しがっているそうな。単純に予想される事態への対応力の差というか、使い分けの結果だろうが……去年まで散々身を呈して助けてもらった当事者としては心が痛む。

 

それにしても中々に人懐っこいというか、話好きなウマ娘たちだな。

彼女らはその職務上、公私問わず関わり合いになる人物はウマ娘が大半を占めているため、こうした繋がりに飢えているという話をかつて同じ警察官だったウマ娘の知り合いから聞いたことがある。

とりわけ、ウマ娘と縁の深いトレーナーという人種については心惹かれる部分があるらしい。たまに護身術の教導で学園まで来てくれるのも、専らトレーナーを漁るのが真意だとかなんとか。

そんな彼女らによりにもよってトレーナー寮を守らせるのは大丈夫なのかと思わなくもないが、結果として何事もなく終わらせたのだから杞憂なのだろう。

とはいえ、あまり関わり過ぎるのもやはり良くないので、話もそこそこにその場を立ち去ることにする。一山越えたと言えども彼女らはまだ職務中だし、この後も入学式の警備という大仕事が残っているのだからあまり邪魔するべきではない。

 

そそくさと玄関から外に出る。

エントランスのポストを改めると、そこにはこの前シービーに持っていかれたトレーナーバッジ。

昨日、私が寮に戻ったのを見計らって投函したのか。

 

傷一つないそれをジャケットの襟につけながら、春の陽気を堪能しながら真っ直ぐ本校舎へと足を動かす。

途中、そこかしこから生徒たちの掛け声が聞こえてきた。いくつかの集団が、こちらに会釈しながら駆け足で横を抜けていく。まだ春休みの最中だというのに、随分と気合いが入っているものだ。

まさに心機一転といった所だろう。学園が上がれば挑戦出来るレースもまた変わる。一年で最大の節目と言っても過言ではないこの日は、同時に各々が自らを見つめ直す時でもあるのだ。

そうだな、未来に胸を膨らませるのも悪くないが、折角だからこれまでの総括でもしてみようか。未だ若輩に過ぎないこの身ではあるが、それでも省みるべきモノは山のようにあるのだから――――

 

 

 

 

「――――という具合で、ここまでが私の今朝の出来事ですよ。満足いただけましたか?桐生院さん」

 

「なるほど!!それで朝早くから一人、ここで考え込んでおられたのですね。流石です!!」

 

「どうも。一人というのは余計ですけどね」

 

朝の六時前に叩き起こすのもどうかと思うからあえて誘わなかっただけだ。私とて一緒に食事をとる程度の友人ぐらいはいる。

 

まぁ、一人でもそもそとカスクートを啄んでいたのは事実であるが。

ここ本校舎一階のカフェテリアは営業時間こそあるものの、それも仕込みや洗浄のためであってスタッフ自体は24時間体制となっている。そのおかげか、街中のカフェやファミレスよりもずっと早い時刻にシャッターが上がるのが魅力だった。

とはいえ、それは朝練で日が昇る前から体力を消費するウマ娘のための特別措置に他ならない。実際、今このテラスにいる殆どが生徒であり、彼女らから探るように飛んでくる視線が少しだけ痛かった。

 

もっとも、このカフェテリア自体はトレーナーも生徒と代わらず利用出来るものではあるのだが。福利厚生の一環か、職員割引が適用されるのも嬉しい。

とはいえ、いたたまれない気分になることに変わりはなく、さっさと席を外そうと黙々と食べ進めていた私の真ん前に嬉々としてトレイを置いたのが彼女である。

 

桐生院葵。

何人もの中央トレーナーを排出してきた名門中の名門"桐生院"家の子女であり、彼女もまた将来を期待される新人トレーナーである。

今期デビューのトレーナーにおいては私たち二人が同い年かつ最年少だし、修習生時代からの付き合いでもあるので親しくはあるが、中々どうして距離が近い。

 

「そういう貴女こそ、こんな朝っぱらからどうしてここにおられるので?流石に教官もまだ起きている頃合いではないでしょうに」

 

彼女の指導にあたっているのは、同じく桐生院所縁のベテラントレーナーである。

家名に相応しい能力人柄共に優れた名トレーナーであるが、それ故に学園の要職を複数担わされる大変な苦労人でもあり、日々積もり積もった疲労を栄養ドリンク剤で誤魔化している程。

寄る年波で朝起きるのが辛くなってきたともぼやいていたから、朝のトレーニングも休みのこの日はまだ夢の中だろう。

 

「担当ウマ娘をしっかり見つけられるか不安でして。なので同期の方と情報を交換したり、アドバイスを頂けたらな、と」

 

「それ、絶対私以外の前で言ったら駄目ですからね。嫌味だと思われますから」

 

「……そうでしょうか?」

 

「そうですとも」

 

なんなら喧嘩を売っていると受け取られても仕方がない。

君は自分が首席であるという自覚をもう少し強く持った方がいいと思う。

 

彼女こそが今期デビューにおける筆頭、私の代における修習をトップの成績で卒業した俊才である。

ハンデのある実技を筆記の成績で介護しようだなんて、そんな私の甘い考えを両方とも超高得点でぶん殴ったのが桐生院だった。

座学の成績は桐生院における英才教育の賜物だとしても、そのヒト娘として異次元の身体能力は未だに謎のままだ。ウマ娘に課すトレーニングはまず自分で試してみるなどと、そんな事を平気で言ってのける恐ろしい人間である。

 

コーヒーを片手にニコニコと笑う桐生院。

そのジャケットの襟には、一週間前支給されたばかりである新品のトレーナーバッジ。

裏には"01"の末尾が刻まれているであろうそれは、まさしく新品同然だった。

そっと、私は自分の襟にあるそれの存在を確かめる。やはり、シービーに感謝しなければならない。

 

「……まぁ、私達の場合だと師弟間での推薦移籍も期待できないでしょうからね。桐生院さんも、たぶん同じような状況なのでしょう?」

 

推薦移籍。

この学園が設置している、師弟間における独自の制度。

対象はサブトレーナーとして経験を積み、指導教官たるチーフトレーナーから卒業認定を得て、いよいよトレーナーとして独立するまさにこの時期。

それまで所属してきたチームから一人だけ、ウマ娘を移籍して貰える制度のこと。

 

これが目的としているのは、専ら新人トレーナーのバックアップである。

通常、デビューしたばかりで実績も経験も乏しい新人と契約したがるウマ娘はほぼいない。

知識こそ詰め込んだといえど、それだけで勝てるほどレースの世界は甘くないし、そもそもそれは中央トレーナーとしての前提である。育成を繰り返すトレーナーとは異なり、ウマ娘にとってレースへの挑戦は一生に一度である以上、少しでも結果を残せる期待値の高いベテランをパートナーとしたがるのは当然の話だ。

 

実際は、いつまでも担当がつかずデビュー出来ないウマ娘が追い詰められた結果、逆スカウトを繰り返すのもよくある話なのだが。

しかしそうして手を組むのも、言い方は悪いが「売れ残り」のウマ娘である。素質のあるウマ娘は実力のあるベテランを選ぶし、ベテランもまたそういったウマ娘を担当したがるのだから。

トレーナーという職業は基本給こそ高いが、得られる収入は不安定の極みだ。それこそ担当がG1でも獲ればインセンティブで莫大な金が入るが、結果が残せなければそれも無い。おまけに経歴にケチがつくたび、次に有望株をスカウト出来る期待も下がっていく。トレーナーとて生活がかかっている以上、ベテランが「勝てる」新人を担当したがるのも仕方のない話だろう。

要するに、需要と供給がそこで閉じているのだ。優先的に相手を選べるベテランと有力ウマ娘がくっつくことで、残されるのは新人と余り者のウマ娘たち。

 

するとどうなるか。

ベテランが順調に功績を積んでいく一方、新人はいつまでも燻ったまま。それも年を重ねる度にその差は開き続け、後進が育たないのである。

人気こそあれど、厳選に厳選を重ねる選抜試験の結果、この学園のトレーナーは常に人手不足だ。そうでなくとも構造上、生徒より圧倒的にトレーナーの方が少ないのだから、こんな負のスパイラルに突入してしまえば衰退は免れない。

 

その対策として考案されたのがこの推薦移籍だった。

チーフトレーナーからウマ娘を譲り受けることができる。すなわち新人は最初の一回だけは、必ず実力と面識のあるウマ娘を担当することが出来る。

トレーナーというのはとにかく実践ありきの仕事だ。その第一歩としてこれ以上ないサポートと言えるだろう。

 

当然、そのための条件もあるのだが。

 

「はい。私達のチームには、ちょうど新人の子しかいないもので。それに、先生も『これは桐生院のトレーナーとして真に認められるための試練だ』と」

 

「流石というか、厳しいですね。四つのうち半分も駄目になるとは」

 

「まぁ、仕方ないです。そもそも推奨制度ですから」

 

要件は四つ。

移籍されるウマ娘が一定以上の成績を残していること、当該ウマ娘とチーフトレーナー両者の同意があること、新人の能力に不足がないこと、その他移籍にあたって懸念となる事情がないこと。

 

この推薦移籍、学園において珍しく「トレーナーの育成」を主眼に据えた制度である。露悪的な言い方をするなら、ウマ娘を新人育成のための教材にするということになる。

故に、移籍される側に求められる条件は厳しい。前提として一定の素質が学園側に認められることが不可欠だし、仮に能力があってもチーフトレーナーや移籍対象のウマ娘との関係が悪ければ破談となる。サブトレーナー時代というのは、移籍されるウマ娘との相性をはかる期間でもあるからだ。

根本的にチーフトレーナーと移籍対象のウマ娘にメリットのない制度なので、イニシアチブを彼らが握るのも当然だろう。

桐生院の言うとおりあくまで推奨制度。言うならば師から弟子への餞なのだから、別に身一つで放り出した所でそれもまた方針の一つである。

 

「と、言うわけで貴方にもお話を伺いたいと思ったのですけれど。どうでしょう、そちらは推薦の目処でもありますか?」

 

「流石に厳しいんじゃないでしょうか。結局は先生次第ですけど、あのチーム自体まだ結成直後ですからね」

 

自身の能力、素質については恐らく不足はない。これまでの査定では全て最高評価がついているし、理事長直々にお墨付きも頂いている。

関係性についても、少なくとも私から見れば良好そのもの。チームのウマ娘たちからも好かれている自信はあるし、先生は相変わらずポーカーフェイスで内心が読めないが、その性格からして気に食わなければなにかしら態度に出す筈だ。

 

ネックとなるのは、チームそのものの総戦力だろう。

黄金世代と呼ばれた先輩たちの世代においてもなお、さらにトップを行く先生は既にチームの設立を認められ、新人の指導までも許されていた。

実力で言えば不足はないのだが、いかんせん設立初年度なのでどうしても力不足は否めない。

エースのシービーは除外するとして、候補となり得る実力のあるメンバーもいるにはいるが、それを手放すことで生まれる空白は無視できないだろう。

もっとも、今さらその程度で彼女の評価が覆ることもないが。とはいえ、積極的に応じるようなものでもない。なんたって推奨制度なのだから。

 

最後の一口を飲み込むと、コーヒーで口に残ったソースを洗い流す。

包み紙をくしゃくしゃに丸めてトレイにのっけると、桐生院もまたトレイにカップと小皿を戻し始めた。彼女も私と同様、ここに長居するつもりはないらしい。

 

「ここでなにを言ってても仕方ありません。今日の昼には新任式もありますし、そこでの発表を待ちましょう。駄目なら、その後の入学式で新入生の観察でもしましょうか」

 

「あれ、ご存知ありませんでしたか?今年から新任式と入学式、同時にやることになっていますよ。なんでも警察の方の負担削減のために、新任式の時間を前倒すと……ああ、これはまだ未発表でしたね」

 

ご存知ありませんでした。

 

じゃあなにか、私がやろうとした小細工は本当に無意味だったということか。いくらなんでも、入学式で見たばかりの新人トレーナーの顔を忘れる新入生などいまい。

シービーがやたら断定口調だったのも、これを知ってのことだったのか。生徒会長なら確かに式の変更も把握していただろうが。

 

脳内を駆け巡る記憶にしばし呆けていると、先に椅子を立っていた桐生院がふと人差し指を寄せてくる。

私の口元をそっと拭うと、赤く塗れたそれを目の前に見せつけてきた。

 

「ほら、ケチャップついてましたよ!!ここのカスクートはボリュームたっぷりですからね。気をつけませんと!!」

 

彼女はそれをぺろりと舐めとると、呆気にとられたままの私を残して出口へ行ってしまった。

その背中はいかにも堂々としていて、これもシービーが言っていたことなのだろうか。

まさか駆け引きのつもりか、それとも箱入り娘というのは得てしてああいうものなのか。生憎私はそういった人種と関わったことがないので見当もつかない。

 

ざわざわと、にわかに周囲もざわめきたってきた。

朝練に区切りをつけた生徒が、続々と腹ごなしに来たのだろう。混雑を嫌がり時間帯をずらす一部を除けば、これからが来客のボリュームゾーンだ。

食べ終えた後も長居していると迷惑になると、私もトレイを持って席を立ち上がりかけた瞬間。ブルブルと内ポケットのスマホが震動する。

 

開いてみると、メッセージアプリに着信が一つ。

祝いと激励が端的な言葉でまとめられている。それに付け加えて画像が一枚。

トレーナーバッジの裏側の写真。

そこに刻まれた数列は何十年も昔の年次を体現しており、その末尾は当然のごとく"01"だった。

 

「うわ……」

 

ホント……そういうところですよ。母さん。

 



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青天の霹靂

 

トレセン学園の施設は軒並み煌びやかな印象がある。

それは単純に設備が整っているというだけでなく、外観それ自体にも気を遣っていて、とにかく洒落っ気があるのだ。

それでも校風校則からして自由そのものなので、変に浮わついているわけでもなく見事にあか抜けた雰囲気。ともすれば、ここが教育機関であることを失念しそうになる程だった。

もっとも、ここがただの学校ではなく、日本屈指のエンターテイメント・スポーツを司るレース界の総本山である以上、華やかさをなによりも重視するのは当然の話ではある。そこらの中高一貫校と比較する事自体がそもそも間違いなのだろう。

良くも悪くも唯一無二なのだ。ここトレセン学園という学舎は。

 

そして、そんな学園においても一際絢爛なのがこの大講堂である。

全生徒と職員を収容してなお余りある広さ。校章を掲げる深紅の舞台幕にはある種の威厳すら感じられてしまう程。なるほど、これなら説明会や記者会見の度にわざわざこの場をセッティングするのも頷ける。夢を見せるのに一役買っているわけか。

舞台の上からでもそうなのだ。今我々の目の前にひしめいている、総勢2000名の新入生たちにとっては感慨もひとしおだろう。ざっと見渡しても、どこか現実にいないというか、夢見心地というか、熱に浮かされているような表情を見せていた。

競技ウマ娘として生きるなら入学自体はゴールではなく前提であり、むしろここからがスタートだ。とは言うものの、一度でも籍を置いたという記録そのものが箔付けになるこの学園に足を踏み入れるためには、並大抵の努力では済まされないことは私自身よく理解している。

勝って兜の緒を締めることも大切だ。それはそれとして、せめて今日ぐらいはひとまずの関門を越えた充実感を存分に味わって欲しい。

 

「本人たちは隠せてるつもりかもしれないけど、みんなそわそわしてるよね。一年っ子は純朴で良いなぁ」

 

隣のパイプ椅子からそっと耳打ちしてくるシービー。

一介の新人に過ぎない私が壇上に顔を並べているのは、ひとえに彼女の補佐役に選ばれたからだ。

こういうのは普通なら副会長の役割なのだが、しかしマルゼンスキーは舞台裏で生徒会や運営委員会の指揮を執っている真っ最中。生憎他に副会長はおらず、というより私がそれと似たような仕事を担ってきたために、こうして舞台の上でシービーのサポートをする形になってしまった。

名誉といえば名誉なことではあるのだが、正直荷が重い。私を末端として、彼女の向こう側にいるのはURA会長と府中市長代理、地元商工会の会長からレース場の代表者、そして秋川理事長に学園副理事長とそうそうたる面子である。はっきり言って場違いも良いところだ。

 

「君だって、ちょうど一年前はあの中の一人だったろうに」

 

「その一年で散々荒波に揉まれてきたからね。もうあんなキラキラした目は出来そうにないかな」

 

自身に浴びせられる膨大な視線を楽しそうに受け止めながら、彼女は余裕たっぷりにそうのたまった。

 

生徒会長という役職は、やはりこの学園における顔に他ならない。全生徒の代表という性質からも、新入生にとっては下手をすれば理事長以上に注目度の高い人物である。

ましてやシービーの中等部一年生時点での拝命というのはかのシンザン以来の快挙であり、尚且つこれまたシンザン以来19年ぶりのクラシック三冠バを期待視されているウマ娘ということもあってか、その知名度やら注目は群を抜いている。所謂時の人だ。当然、新入生たちがそのことを知らないはずがない。

 

……実際のところは、少なくとも私の知る範囲においては目ぼしい一年を見つけた先代がこれ幸いと半ば押し付けただけなのだが。

ちなみにこれもまたシンザン同様らしい。彼女もまた初代会長に無理やり引きずりこまれ、嫌々史上最長政権を樹立する羽目になったとかなんとか。

しかしながらシービーは、嫌々どころかむしろノリノリな様子だった。レース競技界の重役と一堂に列せられても、2000人の関心を一度に浴びせられてもまるで平然としているその胆力は、間違いなく私が見習うべきものの一つだろう。

 

入学式はつつがなく進み、後半に差し掛かっていよいよ生徒会長からの訓示。

呼び出されたシービーは一礼と共に講演台へと進み、私もまたその後に従う。直前まで話されていた理事長に合わせていたマイクを引き上げて位置を調整し、淀みなく最初の一文を切り出した。

 

Eclipse first, the rest nowhere.(唯一抜きん出て並ぶものなし)スクールモットーであるこれは、本日新たな一歩を踏み出した新入生諸君にとって――――」

 

……シービーには悪いが、私はその演説に耳を傾けることはしない。興味がないわけではなく、単純にリハーサルで聞き飽きたからだ。というより、その文面の素案を書き出したのは私なのだから。

 

補佐役、と言っても私がやることは彼女の手元にあるカンペの入れ替えとタイムキーパーである。

ただ、実際にやることは殆どない。記憶力に優れたシービーは、数回のリハーサルの果てに全文を暗記してしまっている。それを自身の体内時計と紐付けているのか、与えられた時間から超過することもなかった。

わりかし身振り手振りが大きく、時折アドリブを挟んでくるのが懸念事項だが。しかしそれでも、最終的には綺麗に締めくくるので不安はない。

 

頭の中で進行具合をはかりながら、私は講演台の斜め後ろから生徒たちを見下ろす。

ここからだと全員の姿がよく見える。出来れば今のうちに顔ぐらいは把握しておきたいのだが、流石に2000人ともなると一度に理解するのは困難だった。

その代わりというわけではないが、各々のトモの具合を眺めていく。正確には、その肉付きについて。

ベテランのさらに上澄みともなると、パッと見ただけで適性や潜在能力についてある程度看破出来るとも聞くが、生憎そこまでの技術は私には備わっていない。そもそもここ中央の選抜試験を突破出来ている時点で、一定の能力については担保されている事だろう。

故に見分けるのは本当に大まかな括り。それぞれのトモの持ち主がスプリンターかステイヤーかといったそんな所である。稀にその比率が大きく偏る年もあると聞くが、少なくとも今年は平均通りのようであった。

 

にしても、初々しいというかなんというか。

シービーの言った通り、なんとも期待に溢れた眼差しで彼女の方を見つめている。そのウマ耳もピンと天を貫き、揃って講演台に照準を合わせていた。

誰に言われたわけでもなく、しかし一糸乱れぬ統率されたその様は軍隊さながら。一方で、会長の言葉を欠片も取り零さんと必死な姿には、どこか大口を開けて餌を待つツバメの雛のごとき愛らしさもある。

開始から一時間は経過した後の演説にも関わらず、誰一人として気の抜けた者がいないのは流石というか、この学園へ寄せる期待値の高さが垣間見えた。

ただ、彼女らがいたく感銘を受けているらしきその中身については、実際のところ私が手掛けたものなのだが。ようはなにを言ったかというより、誰が言ったかという事こそが重要なのだろう。

 

 

そうして新入生を見渡していると、不意に一人のウマ娘と目があった。

 

 

目が合う……何故。それ自体がなにより奇妙な事。

生徒会長の演説の真っ最中であるにも関わらず、どうしてシービーではなく私を見ている。

私がサポートに過ぎないというのは、既に誰から見ても明らかであって。少なくとも現時点においては、私に世間における人気も知名度も全くない。

注目に値する要素などおよそ皆無なのだが。

 

しかしそのウマ娘は、明らかに私だけを見ていた。

たまたま視線がかち合ったというものですらなく、両者が互いの存在を関知してなお、一向に目を離そうとしない。

ようやく私が気づいただけだ。たぶん、いや間違いなく最初からずっと、彼女は私"だけ"を見ていたのだろう。

腰まで伸びる長い鹿毛と、前髪に踊る一筋の三日月のような流星。その下には深い紫の瞳が揺らめき、緑の宝石をあしらったイヤーアクセサリーが吹き込んだ春風にあおられて揺れている。

私の記憶の底から、水面まで浮上してくるいつぞやの思い出。過去の一頁に過ぎなかった筈の彼女は、しかし確かに今この瞬間、間違いなく私の目の前にいて。それが妙に懐かしかった。

 

 

「ルドルフ」

 

 

ふと、その名前が口から溢れる。

するりとそれを導き出せた理由は、たぶん自分でも分からない。まるで、こうなることが予め分かっていたかのような。

さしものウマ娘の耳とはいえ、流石にこの距離ではこちらの呟きは聞こえまい。

にも関わらず、彼女は、ルドルフは私がその名を口にしたと同時にほんの一瞬だけ口元を歪めた。

それを見届けた瞬間、ぞわりと背筋を粟立つ感覚が襲う。あたかも崖から足を踏み外し、浮遊感に包まれた直後のような。

きっとこれは致命的な間違いだったのだろう。私はこの学園において、ルドルフの存在を関知してはならなかった。否、関知していると気付かれてはならなかったのだ。

 

どこか諦感に近いモノを胸中で噛み締める。

 

と、突然に横から伸びてきた腕に背中を叩かれた。

つい先程まで正面を向いていたシービーが、やや上体を捻りつつ覗き込んでくる。ゆらりと、講演台の影でうねる尻尾。

 

「……さて、これについて学園のトレーナーから見るとどうなるでしょうか。教えて下さいな、ミスター・サブトレーナー?」

 

やば。

完全に余所見していた。そうだ、今は彼女の演説の真っ最中だった。

時間的に、およそどのあたりまで話が進んでいるかのあたりはつく。が、そこから派生する質問についてはとんと見当がつかない。

というより、まずトレーナーと絡ませる話の方向性が見えてこない。アドリブの一環か。違う、さてはこの質問のためだけにわざと演説を骨子から書き換えたな。

 

「もー!!やっぱり聞いてなかったでしょ!?駄目だよ?アタシを怒らせると来月のお給料の査定にも響くんだからね」

 

「す、すみません……」

 

シービーの冗談めかした叱責と、それに頭を下げるしかない私の姿に会場が笑いに包まれる。遺憾!!の文字が現れた扇子を広げる理事長と、目を覆う先生、ついでに苦笑する職員来賓一同。

 

ああ、やらかした。集中していなかった私が悪いのだが。視聴者参加型なのは予想外だったが、彼女がアドリブを混ぜてくること自体は予め分かっていたことだし。

反省している。シービーの耳が緩やかに後ろに倒れかかっているあたり、わりかし本気で彼女の怒りに触れてしまったらしい。心なしか、私に向けられた流し目が据わっているような気さえする。

 

「……と、まぁお話はこんなあたりで。それでは皆さん、精一杯の良い学園生活を。以上」

 

途中でシナリオをひっくり返した代償か、後の訓示を全てアドリブで乗り切ったシービー。時間ぴったりでやや強引に演説を切り上げる。

万雷の拍手に手を振りながら、私の腕を引っ張りつつ元の席へと腰を下ろす。

 

「シービー……?」

 

「………」

 

演説の前とは打って変わって、シービーはこちらを見ようともしない。声かけにすらピクリとも反応を返してくれない。

ほんの一瞬、耳すら向けてくれることもなく、ひたすら黙ったまま新入生たちの方を見据えていた。

 

横顔しか見えないが、それでもはっきりと分かってしまう。

彼女は激怒している。辛うじて両耳だけは正面を向いているが、それは強靭な精神力で誤魔化しているのか、それとも前方に気になるものでもあるのか。

いずれにしても、式が終わった後は覚悟しなければなるまい。普段温厚なぶん、一度機嫌を損ねると本当に後が怖い。

 

私がシービーを探っている間に、いよいよ式は最後の題目へと移る。

トリを飾るのは、新入生総代による宣誓。選抜試験において最優秀だった者が任ぜられる名誉であり、トレーナーにおいてもまた、今期一番の有望株のお披露目とあっては注目せざるを得ない。

司会の進行に基づいて、脇から深々とした一礼と共に上がってきたのは――――

 

 

「シンボリルドルフ」

 

 

ぼそっとシービーがその名を呟く。

 

それっきり、固く唇を結んで講演台に立つその背中を眺める彼女。

舞台の最も端に陣取る私からは、ついに横顔すら見えなくなってしまった。

 

ルドルフの宣誓に淀みはなく、清水のような心地よさで染み込んでくる。

私が最後に彼女と話したのは、いったいどれ程前になるだろうか。恐らくそう長い月日も経っていない筈だが、しかしその声にはあまり馴染みがない。

実家を出てからここに至るまで数多くの出会いと経験を重ねたものだから、それに押し流されてしまったのだろうか。単純に、成長に伴って変声しただけかもしれないけれども。

 

話の中身もまぁ、良く言えば非の打ち所のない、悪く言えば面白みのない内容だというところだろう。

いかにも優等生らしい隙のなさだが、宣誓の趣旨を考えるならそれでも全く問題ない。拙すぎず、逆に技巧に走りすぎているわけでもないその文章は、到底中等部一年生のそれとは思えない程。しかもルドルフはシービーとは違って、それを全て自分一人で書き上げている筈だ。

……やはり、どうしても印象が結び付かない。

記憶の中の彼女は、確かに賢く才能溢れるウマ娘ではあったものの、こんな優等生らしき振る舞いからはおよそ対局に位置している。

名前と毛色、顔の一致からして人違いということもないだろうが。恐らくなにかしらの転機でもあったのだろう。

私と同様、彼女にも平等に時間は流れているのだ。であれば、先程の嫌な予感はやはり気のせいだろうか。

 

「……以上をもちまして、締め括りの言葉とさせて頂きます」

 

これまた与えられた時間にぴったりと間に合わせ、ルドルフは深く一礼する。

落ち着いた拍手に包まれながら、毅然と前を向いて舞台上を横切る彼女。

そうして、私たちの前を通り過ぎる刹那。正面だけ見据えていた視線を私に、私だけ(・・)に落とした。

無機質な、相手がそこに存在することだけを確かめるような瞳。手前の生徒会長にそれをくれる事はしない。

 

「……チッ」

 

そんな態度が気にくわなかったのか。

ほんの僅かに空気を震わせる、苛立ったシービーの舌打ち。

しかしルドルフには届かなかったのか、彼女はそれに少しも反応せずそのまま礼を添えて壇を降りていってしまった。

 

ぱしん、とパイプ椅子の足を叩く尻尾の音だけが虚しく後に残される。

同時にギリギリと、胃が捩れるような痛みと焦燥感。雪庇を踏み抜いたかのような、足元の平穏が瓦解する感覚。

 

私には、最低でも今期の平和は約束されていた筈ではなかったのか。

せめて、これ以上はどうか勘弁して欲しい。

 

 

「注目ッ!引き続いて、これより新任式を開始するッ!」

 

駆け引きの最中、いつの間にか席を立っていた理事長が講演台の上に身を乗り出し、限界まで下げたマイクでそう宣言した。

 

新任式。

トレセンの職員に辞令を交付する式典となる。

と言ってもトレーナーを含め専門職が多数を占める職場であるから、一般的な企業や官公庁とは異なり部署異動があるわけでもない。

基本的に、チーム結成の認可を筆頭に昇進や新たな役職に任ぜられる者に理事長直々に交付されることとなる。我々新人にとってもまた、推薦移籍の可否が判明することから決して気が抜けない。

 

反対側の舞台袖からトレイを抱えたたづなさんがトコトコと現れ、理事長がそこから辞令を一枚取り上げる。

一人一人名前を読み上げるたび、続々と講堂の職員列からトレーナーが壇に上がりそれを受け取っていく。渡すたびに、扇子の二文字と共に激励の言葉を添えていく理事長。まさに上司の鑑といったところだ。

桐生院の言葉の通り、今年は入学式と併せて執り行うことになったものの、実際のところこちらはおまけのようなもの。

夜になれば親睦会という名のどんちゃん騒ぎがあることから、詳しい話はそちらに持ち越してとりあえず渡すもんだけ渡してしまおうといったところか。

 

順番的には、まずトレーナーから最初に配られる。

その際の並びは五十音順だ。桐生院一門の中では一番に呼ばれていった桐生院葵だったが、やはり推薦移籍は行われないようであった。

それでも流石のエリートトレーナーなだけあって、溌剌と返事をする様には一点の曇りも見当たらない。同僚かつ同期として私も負けてはいられないだろう。

そうしてしばらく見守っているうちに、いよいよ私の名前が呼び出される。入学式と直結して行っているため、他のトレーナーと異なり壇上を横切って直接向かうのは中々に気恥ずかしいが、しかしそんなことも言ってられないので堂々と胸を張りながら歩く。

 

痛い。

背中に滅茶苦茶視線が突き刺さっている。

それも二つ。誰のものかなど今さら考えるまでもない。彼女ら程のウマ娘ともなれば、視線だけで人を殺せるのだろうか。

 

懸命にそれらに耐えながら、ようやく講演台の前に立つ。

威厳たっぷりに笑いながら、私の辞令を取り上げ大声で宣言する理事長。

 

 

「推薦ッ!ミスターシービーの移籍を許可する!人バ一体、共に切磋琢磨して欲しい!」

 

 

その時私がなんと返事をしたのか、最早自分ですら分からなかった。

理解出来たことはほんの少しだけ。

 

受け取った辞令には、何度見返してもまさにその趣旨が記されていて。

目の前では、「期待ッ!!」の扇子を広げる幼き理事長と、その隣でやや肩をすくめる理事長秘書。

 

 

それと……ああ、そうか。

君は視線で人を殺せるのだな、ルドルフ。

 



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それを餞とは言う勿れ

 

「今度は一体なに考えてるんですか先生!?」

 

ジョッキ一杯に注がれたビールを一気に半分まで飲み干し、勢いのまま身を乗り出す。

目の前に座る恩師はなんら怯む気配もなく、涼しい顔でグラスを傾けていた。その両耳は頭上でぴくりともせず、つまり私の言葉になんら狼狽していないということ。

……まぁ、彼女のそういう暖簾に腕押しの態度はとっくに慣れたものだが。

 

 

ここは府中のとある居酒屋。

トレセン学園からやや離れた歓楽街に店を構え、万が一にも生徒が乱入する恐れもないことから専ら中央トレーナー御用達の飲み処である。

前年度の厄祓いも兼ねて、この日は業務終了後、職員が一同に介し大騒ぎする懇親会が行われるのである。

新たな職員、スタッフを迎える歓迎会でもあるのだが、我々トレーナーは既に一年間の下積みを終えているので今さら自己紹介等はしない。学園の事務方や厨房スタッフの集うエリアでは、内定式以来の先輩職員との交流が行われている真っ最中らしいが。私たちがやることと言えば、精々これまで師事したチーフトレーナーへの別れと感謝の挨拶ぐらいだろうか。

 

このトレーナーの集まるエリアを見渡しても、本日任命を受けたばかりの新人がそれぞれの指導教官の傍らで酒を酌み交わしている。激励を受けている者もいれば、逆にただ黙々とジョッキを傾けている組み合わせもあり、師が弟子に酌をしているテーブルもあればまたその逆もありと、中々に個性が出ていて面白い。

とりわけ中央トレーナー界で一大勢力を成す桐生院一門に至っては、主役かつ最年少の桐生院葵を囲む形で既に大盛り上がりになっている。困ったような照れ笑いを浮かべる彼女の肩を叩いている教官の顔が、あたかも年末のデスマーチの如く疲弊しきっているのがやや不安ではあるが。

その向こうのテーブルには東条トレーナーと沖野トレーナー、さらに通路を挟んだ先には六平トレーナーと小宮山トレーナーのペアも見られる。既に師弟関係を終えて久しい彼らではあるが、この懇親会では毎年ああして肩を並べているらしい。

 

我々トレーナー業界におけるこの繋がりは、一般企業におけるOJTの関係等とは一線を画すと言われる。そもそも中央の採用試験の段階でOBOGとコネクションを築き、それがそのまま師弟として移り変わる場合が一般的なので、単なる研修の一環という程浅いものでもないのだ。

新人にとっては独自の人脈を築く足掛かりであり、チーフトレーナーにとっても自らの派閥形成に一役買うものである。

事実、私が採用試験において頼ったのも先輩や先生、それから母の元同僚との繋がりだった。大学にも行かず、高校卒業後に新卒で飛び込んだ私にはOBとの縁故も無かったからだ。学生時代は資格勉強に論文執筆等の実績作りにと多忙を極め、一から人脈を培う余裕を持てなかったという事情もあったが。

 

なんにせよ、私もまた他の新人の例に漏れず、そんな大恩ある指導教官シンボリフレンドの席に、ありったけの感謝とそれ以上の悲哀を伝えるためお邪魔をさせて頂いている次第である。

 

「心外ですね。良かれと思ってしたことをこうも責められるとは」

 

ふぅと細くため息を溢し、シンボリフレンドはことんと空になったグラスをテーブルに置く。

すかさずそれに酒を注ぐが、それでも決して目の前の顔から目を逸らすことはしない。無言の抗議を籠めたそれを、しかし彼女はその形の良い眉を僅かに持ち上げるだけで受け流した。ゆったりと座敷の上で揺れる尻尾は、完全にリラックスした様子。

 

「過去現在未来、その身一つで育成の荒波に放り込まれるトレーナーも山のようにいるのですよ。それに比べたら、貴方はなんと恵まれていることか」

 

シンボリフレンドの澄んだ紫の瞳が、ついとテーブル二つ離れた桐生院御一行を捉える。

確かに、これから自力で担当を探さなければならない彼女より私は恵まれているのだろう。いくら名門のブランドと強大なバックアップがあるとは言えど、それでも私のアドバンテージは揺るがない。

そういう意味では、余りにも贅沢すぎる悩みだと言える。言えるが。

 

「だとしても、新人にはあまりにも荷が重すぎますって……」

 

だがしかし、それは0を1に持っていく上での苦労の話だ。2を1に削らなくてはならない、今の私が追い込まれている状況とはそもそも前提からして異なる。

基本的に、担当をスカウトすることよりも担当からの逆スカウトを断ることの方が難易度が高い。

トレーナーとウマ娘の出会いはまさしく一期一会。移籍の制度もあるにはあるが、それまで培ってきた信頼関係や担当トレーナー独自のノウハウ、育成の方針等が全て振り出しに戻ることからあまり一般的ではない。すなわち、最初の出会いをモノに出来なければ望みが潰えてしまう。故に、スカウトを仕掛ける方はなりふり構わなくなる。

『後腐れなく断る』というのは、スカウト活動における基本にして最難関の課題なのだ。たとえ今回失敗しても次があるトレーナーとは異なり、まさしくバ生に一度きりの舞台に臨むウマ娘の本気度は常軌を逸していると言っても過言ではない。とことんまで拗れた結果、傷害沙汰にまで発展してしまった事例も両手の指では足らない程だ。

逆にそれをそつなくこなしてこそベテラントレーナー足り得るのだが……言うまでもなく、私のトレーナー歴はまだ1日にも満たない。

 

「ですが、トレーナーとして生きていくからにはいずれ経験しなくてはならないことです。それは貴方もよく理解している筈」

 

「まぁ、母さんがまさしくそうだったと聞いていますが……」

 

しつこいウマ娘共を毎年のように千切っては投げ千切っては投げしていたとかなんとか。

三冠バを排出した名トレーナーともなれば、それは引く手あまただったことだろう。

 

「まぁ、私は未だに経験がありませんけど」

 

「無い癖によくもそんな真似を……」

 

「とはいえやることは簡単です。声をかけてくる輩をきっぱり追い払えばいい。幸い、貴方にはシービーとの契約という盾がある」

 

「簡単に言ってくれますね」

 

厳密には、シービーとはまだ担当契約は成立していない。あくまでも予約という形に止まっている。これから一定期間を共にした後、本年度における最初の選抜レース実施の翌日に正式なものとなるのだ。

とはいえ、成立するのはほぼ確実と言ってもいい。推薦移籍の認証自体が理事会を通じて正式に決定されたものであるし、なによりこれを辞退すれば教官と移籍対象のウマ娘の顔にも盛大に泥を塗ることになる。貴女と貴女の育てたウマ娘よりも、自分でもっといいウマ娘を捕まえられますよと言ってるも同然なのだから。

破門で済めば良い方で、学園における実力者を一度に敵に回すぶん、この先まともにトレーナーとしてやっていくのは厳しいだろう。そもそもそんな前例がないので、はっきりしたことは言えないけれども。

 

要するに、私はもう既にシービーと契約を交わしたも同然なのだ。勿論、なんの実績もない私がチームを組むことも出来ない。

だから、その事実を盾にしろというシンボリフレンドのアドバイスは確かに正しい。

……それが通用する相手であれば。

 

「なら、逆に先生の場合はどうなんですか?あの子を、シンボリルドルフを体よくかわす事が出来ますか?」

 

「……」

 

あ、黙った。黙ってしまった。

それはそうだ。だって姉妹として十年以上共に暮らしてきた彼女が、私でも知っているルドルフの気性難について知らない筈がないのだから。

いや、姉妹と言うならそもそも。

 

「そもそも、彼女が今年入学してくることも知ってましたよね?」

 

「……」

 

……無言で差し出される空のジョッキ。

 

それに新しくビールを注いで、そのまま目の前で飲み干してやる。

師弟の上下関係がなんだ。そもそもこれは無礼講だ。だいたい、目の前の女は知ってて私を地獄に叩き込んだ張本人である。

 

シンボリフレンドはそんな私に口元を歪めながら、新しく瓶の栓を開ける。グラスを取り返しもせずそのまま一息に飲み干してみせた。

かなり自棄になっている……ということは恐らく、彼女にとってもルドルフのかかりっぷりは想定外だったのか。それはそれで、全く洒落になってないが。

 

「だいたいシービーだっていきなり放り出されても困るでしょう。これからクラシックが控えているというのに」

 

「本人が望んだことです。それに心配しなくとも今年一年間は私もサポートしますよ。そもそも皐月賞の段階ではまだ私が担当ですからね」

 

「なら、シービーが抜けた後のチームの穴については……」

 

「それも目処がついています。と言うより、貴方は物事の順番を根本から勘違いしているのですよ」

 

それはどういう意味なのか。チームで一番強くて最も実力があるからシービーを移籍に出したのではないのか。

しかし彼女はその考えを、首を振って否定する。

 

「この一年間、何故貴方とシービーを積極的にくっつけていたと思っていますか?貴方をサブトレーナーとして受け入れた直後にシービーをスカウトした理由は?全てこの時のためだったのですよ。どのみち移籍させるなら、それを前提として二人を育成した方が合理的だと私は考えました」

 

「……最初から、シービーを推薦移籍に出すつもりだったと?」

 

「言うなればまっさらな粘土であった貴方たちを、ぴったり噛み合う形にこね上げたようなものです。実際、貴方とシービーの相性はすこぶる良かったでしょう?」

 

その方があの子のためにもなりますからね、と彼女は続ける。

私とシービーがいずれ契約を交わすことを前提として、そのための育成を施してきたと。言うなればシービー専用トレーナーとして教育をされたのか、私は。

そう言われて思い返してみれば……確かに納得出来る部分もあった。

 

「どうして……それを黙っていたのですか」

 

「万が一にも貴方の気が緩むことを恐れたので。もっとも、あの子は気付いていましたよ?私の方から口止めしましたが」

 

「そうだったんですね……」

 

「だいたい、仮に伝えていたところで今の状況は変わらなかったでしょう」

 

淡々とシンボリフレンドはそう語る。

本当に、今までの全てが彼女の手のひらの上だったのか。そして、そこからこぼれ落ちたものが一つ。

 

「どうにかルナをいなすにせよ、ひょっとしたらあの子を受け入れるにせよ……まぁ、上手くやりなさい。これが私からの卒業試験です」

 

「……難易度の調整間違えてません?」

 

「獅子は我が子を敢えて千尋の谷に突き落とすと言いますからね」

 

その突き落とされた先にも獅子が待ち受けているのだが……それではただの狩りではなかろうか。

途方に暮れかけた瞬間、何者かに強引に肩を組まれた。

 

「残念だったなァ?ここに来るのがあともう一年遅ければ俺が拾ってやれたのに。そしたらこんな目に遭わずに済んだかもな?」

 

「流石に浪人は厳しいです。というか、かなり酔ってますね先輩」

 

既に始まってから1時間半は経過しているので仕方ないか。

首に回された腕から伝わってくる体温は高く、口調がおかしくなっている。何故か血走って見開かれた双眸も相まって、成る程これは確かにサンデーサイレンスの再来だろう……悪い意味で。

思えば母のあの人相の悪さも、微妙に発音がおかしいのも気性や訛りのせいではなく常に酩酊していたからではないかと今更ながらに思う。

 

「この子と違って次席にすらなれなかった貴方は黙っていてくれません?」

 

「うわ、出たよ席次マウント。主席は死ぬまで古き良き修習生時代を引き摺るって噂はガチなンだなァ……アホくさ」

 

「あ"ぁ"……?」

 

こちらもアルコールが回ったのか、ガラにもなく耳を引き絞っていきり立つ先生とそれを嗤う先輩。

幼い頃から殴られ慣れてきた彼は、ウマ娘の挑発というこの学園における最大の愚行すら躊躇しない。もしや、その素行不良のせいで内申を削られたのだろうか。

いや、あの母がちゃんと卒業出来てる時点でそれはないか。

 

「大体な、あんな序列なんてトレーナーとしての実力の有無とは全く関係ねェンだよ。考えてもみろ、あの樫本さんだって……」

 

「私が……どうかしました、か?」

 

先輩が口火を切った直後、私たちのすぐ横の通路からぬぅと顔を出してくる樫本トレーナー。

元URA幹部にして現在でも学園屈指の成績を誇る名トレーナー。その特殊な立場故か、さっきまでずっと理事長と同じテーブルについていた筈であるが。

……それにしても様子がおかしい。

 

「か、樫本さん……!?」

 

「舐めないで、下さいよ……私とて、筆記の、点数は……満点でした。席次が下から二番目なのは……実技が0点だったからで……うぷっ」

 

誰だ、この人に酒を飲ませたのは。

真っ赤な顔だけはこちらに向いているが、目の焦点が全く合っていない。足も生まれたての小鹿のごとく震えており、通路脇の柱にすがり付いてどうにか立ち上がっている有り様。

その手には大ジョッキが力なくぶら下がっているが、しかし中身は空っぽだった。まさかこの人、これを全て飲み干したのか。

 

最早靴を履くことすら出来ないのか、靴下のまま通路を彷徨っていたらしい。

最悪の事態に備えつつも、極力彼女を刺激しないよう恐る恐る優しく穏やかに慎重を期して声をかける。

 

「樫本さん……どこに行きたいのですか?おトイレ?」

 

「いえ……新しいのを、取りに行こう、かと」

 

「ドリンクバーじゃないんですから。そもそも駄目ですからね。これ以上飲んじゃ」

 

「ふぁい……」

 

最早ゾンビも同然の彼女だが、ぎりぎり周囲の声とその内容は理解出来ているらしい。

よたよたとその場で転回し、なんとか元いたお座敷へと戻ろうとしている。

理事長のおわすテーブルまで、おおよそ10メートル……彼女をこのまま見送ると、後々なんらかの罪に問われそうな気さえする。

流石に不味いか。急いで靴に履き替えて樫本さんに追いつき、その体を抱き上げる。先生と先輩は、とりあえずそのままでいいだろう。

 

「軽っ……」

 

「当然、です。トレーナーたるもの、運動だって、ちゃんと……」

 

「していませんよね!?」

 

これは引き締まった軽さではなく、そもそも存在そのものが希薄な軽さだ。脂肪のみならず筋肉まで削ぎ落とされてしまっている。

とにかくバイタリティが必要不可欠なトレーナーという職業において、彼女が極めて優秀な結果を残せているのはこの学園における最大の謎の一つだった。根性と賢さに全ての数値を割り振っているとは誰の言葉だったか。

見習いたいが、それ以上に見ていられない。

 

元々小柄であることに加えて、その尋常でない軽さもあって体格の乏しい自分でも難なく運ぶことが出来る。

限界を迎えたのかとうとう寝息まで立て始めてしまったが、少なくともこの体勢のままぶちまけられるよりはよっぽどマシなのでそっとしておく。

飲み会における恒例行事なのか、周囲の職員もそんな私たちを慣れた様子で見送っていった。

あっという間に、理事長のお座敷の前まで辿り着く。

 

「ほら樫本さん、下ろしますよ」

 

「……」

 

「ああ、手伝いますよ」

 

一人ジョッキを傾けていたたづなさんが、私たちに気付いて慌てて手を貸してくれる。

既に返事がない彼女の両脇と両膝を二人がかりで抱えて、まかり間違ってもテーブルの角にぶつけるなんて事が起こらないよう慎重に座敷の上に寝かしてやる。

完全に全身が下ろされるや否や、樫本さんはつつかれたダンゴムシのように丸まってしまった。自己防衛本能だろうか。

 

「しっかし、また派手にやりましたね」

 

「無理もありません。普段から気を張っておられる方ですから、こういう時ぐらい羽目を外したいのでしょう」

 

「いえ、樫本さんの事では……いやまぁ、確かに彼女もそうかもしれませんが、貴女のことですよ。たづなさん」

 

「?」

 

こてん、と首をかしげてみせる理事長秘書。

その周りには何人もの職員が倒れており、まさに死屍累々といった有り様だった。

よく見ると、埋もれるようにして秋川理事長の姿も見える。たしかこの人、家業を継いだだけで実年齢自体は見た目相応だとかなんとか前に言っていたような。

 

「まさかとは思いますが、飲ませていませんよね?」

 

「当然です。理事長はこのような場だとすぐにダウンされてしまわれるのですよ。雰囲気酔いとでも言いましょうか」

 

のんびりとした口調で解説しながら、たづなさんはゆったりと膝の上に乗っかった理事長の猫を撫でる。

わざわざペット同伴可の店を選んだのは、ひとえにこのためだ。真偽の程は不明だが、理事長がポケットマネーでルールをつけ加えさせたとかなんとか。

 

そのまま大ジョッキをゆっくりと傾け、もう何杯目か想像もつかないそれをするすると呷っていく。

ピクリともしない残骸たちは、おおかた彼女に勝負を挑んだ勇者たちといったところか。何人かの顔は見覚えがあるが、いずれも大の酒好きとして知られている者である。それでも、学園きっての酒豪と謳われる理事長秘書には手も足も出なかったようだが。

人間はともかくとして、エタノール含めた毒性にある程度耐性を持つウマ娘ですら潰れているのは与太では済まされない。彼女らの奮闘と明日に訪れであろう地獄に対して、そっと心の中で手を合わせる。

 

「せっかくの無礼講なのに、一人で飲むのも味気ないものです。ご一緒して頂けますか?」

 

突っ立ったままの私を見かねたのか、ジョッキを片手に相席を提案するたづなさん。

あまりの惨状を前に若干気後れするが、しかし断ったところで今度は後が怖い。なにより今年なにかにつけて彼女に手助けしてもらったのだから、この場で挨拶の一つもなしというのは失礼だろう。

 

「飲み比べはやりませんからね……」

 

「ご心配なさらず。自分から仕掛けた事はありませんので」

 

「いいでしょう」

 

テーブルに突っ伏した屍を、揺らさないようそっと押し退けて。

ようやく出来た少しのスペースに私は尻を沈めた。

 



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急転直下の道すがら

着席するや否や、テーブルに新しく大ジョッキが運ばれてくる。タイミングからして、元々たづなさんが頼んでいたものだろうか。

それを受け取り、乾杯を交わして口をつける。弾けるような麦の香りと、舌を刺す苦味をまとめて味わいながら喉の奥まで一気に流し込んだ。

ついこの間までは、ビールの味わいと言うものが全く分からなかったし、正直なところ苦手だった。しかし喉越しを楽しむなんて事を教わって以来、なんの不自由もなく飲めるようになったと思う。

 

「あら、いい飲みっぷり。どうです、そろそろ慣れてきましたか?」

 

「慣れた慣れないで言うならとっくに慣れていますけどね。良し悪しが分からないだけで」

 

そうですか、とどこか満足げに頷くたづなさん。

思えば私が成人したその日の夜に酒を教えてくれたのがこの人だった。曰くヒトなら肝硬変まっしぐらなライフスタイルに浸っている母の背中を見て育った私が心配だったらしいが、正直彼女もそう変わらないと思う。

違いを挙げるとするなら、彼女は目利きが出来るという事だろうか。たびたび家に招かれる機会もあるが、そこに保管されていた数々の銘柄は素人の私にも一目で逸品だと察せられるものばかり。たしか理事長室のセラーについても、到底酒を嗜める年齢ではない秋川理事長に代わって実質的にたづなさん専用となっているらしい。

有力者の側近として、時にはその手の知識も必要なのだろうが、彼女の場合は完全にマニアの領域に足を踏み込んでいる。理事長秘書としての業務の過酷さや身にのし掛かる重責、日常におけるストレスの程度を鑑みれば、そこに至るきっかけや経緯についていささか生臭い所はあるけども。

 

他方で私と言えば、そういった知識もなければ味の良し悪しについてもよく分からない。

単純に年季が浅いという部分もあるが、それ以上に酔えればなんでも良いだろうと思っているからだ。なんならこんなビールでなくとも、コンビニにある安価で手軽に酔える酎ハイで満足できてしまう意識の低さ。そういう所は確かに母の悪癖を受け継いでしまったのだろう。

たづなさんから誕生日の祝いとして贈られた、恐らく私の月給の三倍を優に上回るであろう一瓶についても、畏れ多くて未だに栓を開けられずにいる。

いつかそれに相応しい舞台が来たら手をつけようとは思っているのだが、果たして私の生きている間にそのいつかは訪れるのだろうか。

 

「しかしまぁ、随分とお疲れなご様子で。本日の主役なのですから、貴方も羽目を外してみたらいかがでしょう?」

 

「いや、貴女がそれを言いますか。誰よりも事情は良くご存知の筈でしょう?」

 

「えぇ、まぁ……」

 

苦笑しつつにわかに肩を竦める理事長秘書殿。

 

なにせ私が理事長から辞令を交付された時にもあんな近くにいたのだから、あのルドルフの抉るような殺気に気付いていない筈がない。

それを言うなら秋川理事長だって私の目の前にいたのが、微塵も動揺を見せず溌剌とした笑顔を終始崩さないままだった。彼女は気付いていなかったのか……いや、分かった上でスルーしていたのだろう。

たづなさんの側で仰向けに寝息を立てる彼女を見る。まだまだ幼い少女に過ぎないが、それでも学園の長という地位を立派に勤めるだけあって、その小さな体には並々ならぬ胆力が詰まっている。

 

そんな幼き上司の頭を撫でながら、たづなさんはあっという間にジョッキを空にする。

いつの間まにか用意されていた新しいものに指をかけながら、酒の肴とばかりにしばしお互い言葉を交えた。前年度の禊らしく、主に私が修習所を卒業してからサブトレーナーとしてチームに所属し、そして卒業が認められるまでの思い出。これは丁度、彼女と過ごした時間とも一致している。

私が話すたびにしきりに相槌を繰り返し、時には質問や感想も口にするたづなさん。その職務故に培った技術か、それとも生来の彼女の才能か。彼女はやけに聞き上手というか、相手から話を引き出す能力が高い。若干話が脱線しすぎたような気もするが、それでも彼女は嫌な顔一つせず聞き役に徹していた。

 

ちなみに、その間も飲み進める手だけは止まらない。微塵も無理している様子もなく、当たり前のように次々とジョッキを空にしていく姿を見ているとこちらの認識がおかしくなってしまう。厄介なことに、それに引き摺られて私の飲むペースも上がっていた。ひょっとしたら、ここに転がっている亡骸たちもこうして潰された結果なのかもしれない。

 

「…それで、これからの方針はどうなさるつもりなのでしょうか。流石に行き当たりばったりではかえって拗れてしまうだけですが」

 

そうして取り留めのない話をしばらく続けた後、先日までの振り返りを終えたあたりで、いよいよとばかりにそう切り出された。

思えば、ここまでの回顧は全てこの質問に繋がっていたのだろう。おかげで私も、昨年の間にあった様々な出来事について頭の中で整理する事が出来た。それは主にシービーとの間における思い出、先生に用意されていた布石であったが。

 

新年度において、トレーナーとウマ娘が正式に契約を結ぶのは月を跨いでからの事となる。とはいえ、それ以前における接触やアピールについては禁止されているわけではない。

間違いなく、ルドルフは私に接触してくる筈だ。当然、シービーはそれの妨害なり排除なりに打って出ることだろう。なんなら明日にでも起こりうるそんな事態について、今夜の内に方針だけは定めておく必要がある。

たづなさんの言うとおり、行き当たりばったりの見切り発車でどうにかなるものではないのだ。なにぶん向こうから形振り構わず突っ込んでくる以上、後手に回されたら手の打ちようがない。

 

「……とりあえずは、シービーとルドルフを接触自体させないことでしょうね。あくまで私を介した関係ですから、あの二人に顔を合わせてやり取りさせる必要もない」

 

前提として、どちらか片方に対してですら今の自分では手を焼く以上、二人まとめて相手にするのは無謀の極みに他ならない。最悪、そのままヒトの手では制御不能な事態に発展する恐れもある。

もしもそんな大惨事でも引き起こされれば、私と彼女ら三人のこの中央におけるキャリアは軒並み閉ざされてしまう。今だけは絶対に危ない橋を渡るつもりはなかった。

 

「………」

 

「たづなさん?」

 

そんな私の、ある意味で当たり前の回答を前にして、しかしたづなさんは堪えきれない渋面を作る。

淀みなくジョッキを傾けていた手も止まり、逡巡しながら顔を伏せること数十秒。やがて意を決した表情を見せながら、懐からそっとウマホを取り出す。

黒く無骨なそれは、彼女の私物ではなく公用で用いてるもの。トレセン学園理事長の右腕として辣腕を振るう彼女のそれには、およそ私なんかでは到底知り得ない情報が詰まっている筈だ。学園における組織構造から構成員、施設の全貌、人事の評価やら経理の定期報告やらなんやら、そして生徒の学園生活における子細について。

嫌な予感が背筋を駆け巡り、否応なくジョッキを握る指を震わせる。

 

彼女は端末を起動し、手早く操作すると一度だけ座敷に倒れる秋川理事長の方を見る。

彼女に意識がないことを確認したところで、「秘密ですよ」と一言添えながら呼び出した画面をテーブル越しに見せてきた。

そこに映し出されていたのは、ある三つの数字の並びと二つの名前の組み合わせ。中心を境として左右に二つに区切らており、それぞれ栗東に美浦と振られているあたりこれは寮の部屋割りについてか。事務方の重鎮である彼女には、今年度の新入生を含めた新しい構成についても一足早く知らされているらしい。

 

「各寮の組み合わせについてですね。これでもう確定ですか」

 

「はい、そうなります。それよりも、こちらを見て頂けますか」

 

示されたのは美浦の401号室。最上階の真ん中に位置する部屋だった。何回か呼び出されて訪れた事があるのでよく覚えている。本来相部屋である筈のそこには、相方が昨年末に卒業したために自分一人しかいないとシービーが言っていたな。そして、今年度に新たに入ってくる新入生待ちだとも。

 

まさか。

 

たづなさんの指先には、知っての通りミスターシービーの名前がある。そして、その隣に並んでいるのは"シンボリルドルフ"。

その二つの名前がペアとして、美浦401の欄に記載されている。何度目を凝らしたところで、しかしその無情な現実は決して変わらない。

 

「いや、どうしてこうなるんです」

 

「申し訳ございません。組み合わせ自体、厳正なる抽選の結果でして……」

 

その抽選の結果、数多くの新入生の中から見事シービーはルドルフを一本抜きしたと。

厳正なる抽選の結果。それは間違いない。事実、メジロ家のウマ娘とて同門同士で組み合わせられる事もないのだ。部屋の相方については完全に巡り合わせである。

その上で、みごとにシービーとルドルフはかち合ってしまった。寮部屋というプライベートにおいては、いくらトレーナーと言えどそう易々と干渉することは出来ない。彼女たちは正真正銘二人きりで一日の半分近くを過ごすことになるのだ。恐らくはこれから先、最低でも五年間はずっと。

 

「その、たづなさん?今からこれを変更してもらうってのは……」

 

「一度決められてしまった以上、原則として覆る事はありません。とりわけ相性を理由に変更がなされることはないかと」

 

「……絶対に?」

 

「仮に、なんらかの事態(・・・・・・・)が生じた後なら……ともすれば、一考の余地ぐらいはあるかも知れませんが」

 

「冗談でしょう……」

 

その万が一を起こさないために、こちらは四苦八苦しているのだが。

確か、新入生が入寮するのは学園に転入した初日の夜。つまり今まさに、彼女たちは美浦の401で顔を付き合わせているという事になる。私物の搬入の都合も考えるなら、実際にはあの入学式兼新任式の直後か。

 

慌ててスーツの内ポケットから自分のスマホを取り出して起動してみるも、メッセージや不在着信の類いは一つもなかった。

ここで、きっと和解して何事もなく初回の顔合わせを終えたのだろうと考えるのは間違いだ。シービーの性格からして、久々の同居人を迎えたのならその旨を自撮りでも添えてこちらに送ってくる筈。そうでなくとも一言ぐらいの報告はあって然るべきであり、沈黙を保ったままというのがそもそも異常なのだ。

それはつまり、シービーは相方について最早話題に出したくもないと言うことであって。今現在、あの部屋は冷戦の真っ最中であることは想像に難くない。

最悪だ。私の預かり知らぬ所で既に取り返しのつかないまでに事態は進行してしまっている。それは一向に止まる事もないだろう。

 

「不味い……」

 

「トレーナーさん!?」

 

今更私がそこに向かったところで意味もないだろうが。

それでも居ても立ってもいられなくて、思わず座敷から腰を上げる。しかし思いの外酔いが回っていたのか、満足に前進も出来ずにあえなく尻餅をついてしまった。

 

「ぐ………」

 

いかん。頭が思うように回らない。手足の先端から力が抜けて、心地よい倦怠感が全身を苛む。

どうやら完全に酔ってしまったらしい。私とてアルコールにはかなり耐性のある方だが、たづなさんのハイペースに巻き込まれたか。ほろ酔いの範疇をゆうに逸脱している。

言うことを聞かない四肢をなだめすかしていると、後ろからたづなさんに抱え上げられた。両腕が腰に回され、そのまま立ち上がらせられるかと思いきや両足が地面から浮いてしまう。彼女の肩に担ぎ上げられたまま店の出口まで連れ去られていく。

 

「たづなさん……」

 

「そんなフラフラの体で、今から学園に戻った所でどうしようもないでしょう。丁度お開きのようですから、残念ですが今日はここまでですね」

 

「………」

 

はっきりしない頭で周囲を見渡せば、確かに他のスタッフやトレーナーもまた続々と席を立ち上がっていた。

自力で動ける者が潰れた者たちに肩を貸したり担いだりしながら、緩慢な動きで出口を目指す。今の時刻を確かめる事すらままならないが、どうやら今年の親睦会もこれにて終了らしい。

それにしても、たづなさんは相変わらず力があると言うかなんと言うか。半ば腕力のみで抱え上げられている状態であるにも関わらず不思議と安定感があった。それでも揺れるには揺れるのだが、不快感はなくかえって心地よい振動となって目蓋をますます重くしてくる。

 

「………」

 

こういう飲み会の場では、とりわけ異性の前で意識を潰すのはご法度であるが。しかし男性である私がそこまで意識するようなものでもないだろう。

なにより相手はあの理事長秘書だ。送り狼がどうこう言うこともあるまい。

 

どこか浮わついた思考に溺れながら、私はゆっくりと意識を闇の中に沈めていった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

目を醒ますと、そこは知らない天井だった。

……違う。一応見覚えはある。あまり見慣れてはいないけれども。

 

のっそりと体を起こし、かけられたシーツを払い除ける。カーテンの隙間から外を覗いてみるものの、生憎日の光は見えない。若干空は薄明かるくなっているものの、鳥の鳴き声もなく夜明けまで多少待つ必要があるだろう。

 

やや重たい頭を揺らしながら、近くのハンガーに掛けられていたジャケットに袖を通す。

寝室を抜けてリビングに向かうと、そこにはソファの上で丸まっているたづなさんの姿。やはり、ここは彼女が居を構えるマンションの一室だったか。職員である彼女も学園の寮を利用する権限はある筈だが、それを辞退してわざわざこのやや離れた賃貸を借り受けているらしい。彼女もまた、職場とプライベートを空間的に切り離したい一人なのだろうか。

 

そっと、起こさないようにリビングを横切り玄関へと向かう。

途中、スマホを立ち上げてディスプレイに映し出された表示を見ればまだ時刻は朝の5時ちょうど。

たづなさんにとっては早すぎる時間でもないだろうが、そもそも本日4月2日はどの職員も慣例として始業が遅い。彼女とて例外ではないのだから、せめて今日ぐらいはゆっくり寝かせておくべきである。

多少小腹は空いているものの、いくら勝手知ったる他人の家でも流石に冷蔵庫を漁るわけにはいくまい。学園に向かう道中でコンビニにでも寄れば良いか。幸い、時間だけはたっぷりあるわけだし。

 

そんなことをつらつらと頭の中で思い浮かべながら、私は土間で革靴に履き替え玄関のチェーンを上げて鍵を外す。そうしてノブに指をかけ、下に引いた瞬間……勢い良く外側に引っ張られた。

 

「おっと危ない」

 

完全な不意打ちの結果、ものの見事に体勢を崩して前に倒れ込んでしまう。

しかし浮遊感は一瞬のこと。柔らかく、温かいなにかに優しく包み込みように抱き止められる。彼女はそのまま、ぎゅうっと適切な力加減で抱き締めてきた。それを振り払うことも出来ず、ただただなすがままにされる私。

 

「全く、おっちょこちょいだなぁトレーナーは」

 

「君が引っ張ったんだろう。それよりどうしてここにいるシービー」

 

ここは私の寮部屋ではなくたづなさんの家だ。本来君が知っている筈もないのだが。

そう訝しむ私を前にして、しかしシービーはなんら後ろめたさを感じさせない花の咲くような笑みを披露しいてくれた。

 

「決まってるじゃん。朝のお出迎えだよ。これから毎日、こうしてキミを迎えに来てあげるからね!」

 

 

……まぁ、良い笑顔だこと。

 



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最初の一歩を大きく踏み出して

 

まさか玄関を開けた直後に出くわすとは思わなかった。

この家から学園まで歩く最中の時間を使って、彼女たちと顔を合わせる心の準備を整えようという腹積もりだったのだが、どうやらシービーの方が一歩先を行っていたらしい。

 

制服姿ではなく、学園指定のジャージを上下に着込んでいた。ランニングシューズには僅かに乾いた泥がこびりついており、彼女自身うっすらと上気している所を見るについ先程までランニングでもしていたのだろう。

朝のストレッチとしてはおかしくないのだろうが、しかし場所が場所だ。この家は、生徒が普段利用している学園周辺のランニングコースからは大きく外れている。近辺の道路からして入り組んでいることから、いくら人通りの少ないこの時間帯といえどもウマ娘にとって走りやすい環境ではない。

つまりシービーはたまたま見かけたから立ち寄ったというものではなく、明らかに最初からここを目的として真っ直ぐ向かってきたのだろう。

 

「どうして私がここにいると分かった?シービー」

 

「トレーナーに聞いたんだ。昨日の懇親会、お開きになった後にたづなさんがキミを担いで帰ったってね」

 

スラスラと淀みない口調でシービーは答える。まるでそう質問されることを予想しており、予め返答を用意してあったかのような流暢さ。

まぁ、これは当然嘘だろう。いくら自身の担当とはいえ、他のトレーナーの動向について口を滑らすほど先生は迂闊ではない。そもそも生徒にトレーナーの情報を売り渡すのはトップクラスのご法度なのだ。ましてや昨日、あんなことがあったわけだし。

そのことをシービーは知っているのか否か。私を抱き締めたまま飄々と笑っている様子を見るに、いずれにせよ最初から誤魔化す気しか無かったのだろう。思えば先々週、彼女からとあるオフライン地図アプリを勧められてインストールした覚えがあるが……たぶんあれのせいだな。

 

「ストーカーとか気持ち悪いことしてないだろうね?」

 

「やだなぁそんな言い方。ただの逃げけん制だよ。追い込みには必要な能力でしょ?」

 

クスクスと可笑しそうに笑いながら、彼女はさらにこちらの動きを封じる腕の力を強める。なるほど、これが逃げけん制……ってそんなわけあるか。そもそも今の君は完全にこちらを差しにかかっている真っ最中だろうに。

なんとか振りほどこうともがいてはみるものの、やはりと言うべきか拘束はちっとも緩まなかった。シービーはウマ娘としての腕力はもとより、13歳の女子にしてはそこそこ体格にも恵まれているのでこうなるとどうしようもない。もっとも、たとえ小学校低学年のウマ娘相手でもここから状況を覆すのは極めて至難の業なのだが。

 

がっちりと固定されてしまった上半身はひとまず置いておき、自由な首を動かして周囲の気配を探る。

……やはり、シービーはここに一人で来たようだ。まぁ、ルドルフと仲良く連れ立って走ってきたとは到底思えないが、しかしこっそり後を尾けられていたという可能性も無くは無かったのでほっと一息つく。

流石に同じウマ娘であるシービー相手に悟られず尾行するのは無理だったか。そもそも気付いていないという可能性だってあるわけだし。シービーがここに一人ということは、もしやルドルフとの部屋争いに敗れて逃れてきたのだろうか。

 

「あっ、今すごく失礼なこと考えたでしょ」

 

「いや別にそんなことは……」

 

「違うからね。今日はちょっと、朝早くに目が醒めちゃっただけだから。あの子はまだ寝てるよ」

 

「そうか」

 

そう言えばルドルフは朝が弱かったな。

もっともそれにしたって、まだようやく空が白んできたばかりの現時刻では起きている方が珍しいだろうが。トップアスリートを育成する場なだけあって、学園の生徒は朝練にも精を出している。しかしそれにも限度があるだろう。

いい加減離してくれと再度もがいてみるものの、しかしシービーはそれも完全に無視してこちらの胸に顔をくっつけてくる。そのまま鼻を押し付けて思いっきり匂いを嗅がれた。

 

「酒くさ」

 

「言う程かな?いや、飲んだには飲んだけど」

 

「普段と比べたらどうしても、ね。キミたちそういうの凄い気を遣ってるでしょ」

 

「ああ……そういうことならまぁ、確かに」

 

嗅覚が鋭いウマ娘とつきっきりで仕事をする以上、私に限らずトレーナーは身だしなみには人一倍気を遣っている。この手の生理的不快感は信頼関係の構築に著しい支障が生じるからだ。それ以前にマナーでもある。

タバコについては就職を機に禁煙する者が多数であるが、酒ともなるとそれこそ昨晩のような付き合いもあるのでそうはいかない。精々、就寝時と出勤前に二回シャワーを浴びて完全に臭いを洗い流すぐらいだろうか。

そして、私は昨日お開きになった後そのままつい数分前まで意識を失っていたのだから、当然そんな身だしなみを整える暇はなかった。たづなさんが勝手に風呂に放り込んでいた場合でもない限り、そもそも服すら替えていないのである。

自分では分かり辛いのは私が人間である故か、もしかしたら嗅覚自体が麻痺しているのかもしれない。いずれにしても、出勤に適した格好とは言えないだろう。

 

「う~……」

 

シービーは顔をしかめながら、そっと私を解放してくれる。解放したというか、嫌なものを遠ざけたかっただけだろうが。

彼女はまだ中等部生でありながら、トレーナー側の大人の事情にもかなり理解がある。とはいえ、嫌なものは嫌なのだろう。私とて慣れて欲しくはないのでその方がむしろ助かるのだが。

一応こんな朝っぱらから押し掛けた自分に非があるとは分かっているのか、距離を取るだけでそれ以上はなにも言ってこない。ハタハタと、空気を払うようにせわしなく尻尾を揺らしているのみである。

 

「どうするかな、私としても一浴びしてさっぱりしたいんだけれども」

 

こうなると分かっていたから、このまま真っ直ぐトレーナー寮に戻って彼女と会う前にシャワーでも浴びるつもりだった。当然この家にもバスルームはあるが、いくら知人とはいえ勝手に使うわけにはいかないだろう。いや、仮に許可があったとしても一人暮らしの女性の風呂を借りるのはどうかと思う。

だとしたら、やっぱりこのまま一度学園まで戻るしかないか。それなりに距離がある上に、走れないぶん時間はかかってしまうだろうが背に腹は代えられない。

先にシービーと接触してしまったのは計算外だったが、彼女一人だけ先に帰してやれば良いだけだろう。どうせ目的地は同じなわけだし。

 

「帰るか。シービーも走るのはいいけど程々にしなよ。ただでさえ皐月賞を控えているんだから」

 

このランニングが美浦寮から離れる言い訳だということは分かっているが、そのせいで体を壊されては堪らない。

そう一声かけて地上に向かうエレベーターへと一歩踏み出した瞬間、後ろから彼女が腕を引いてきた。

 

「待ってよ。せっかくだからお風呂も外で済ませない?たまには良いでしょ、こういうのも」

 

「外でって、この時間帯に営業してる店があるわけないだろ」

 

「ところがどっこい、あるんだなそれが。そっか、トレーナーには有名じゃないんだねあそこ」

 

なんだそれは、聞いたことがない。

そもそも調べようともしてこなかったからかもしれないが。

 

「まだ朝の六時前だぞ。こんな時間から店を開いてるなんて、まさかいかがわしい場所じゃないだろうな」

 

「違うって。本当にちゃんとした銭湯。特別なことと言えば、トレセンのウマ娘を狙い撃ちにしてることかな」

 

「トレセンのウマ娘……あぁ、朝練で走ってる生徒のことか」

 

「そうそう」

 

朝の軽いウォーミングアップと言っても、それはウマ娘の身体能力から生じた感覚の延長戦に過ぎない。ましてや中央のウマ娘なんてこと走ることに関しては誰よりも優れているのだから、ちょっとそこまでといった感じで平気で何千メートルも遠くに行ってしまう。

そこに疲労やらなんやらの問題は無いとしても、やはり運動すれば汗はかくものだ。とりわけ冷え込んだ真冬の朝ではそれはそれは不快だろう。学園の外でも汗を洗い流し、体を温められる銭湯というのは確かに需要があるのかもしれない。

 

なんともニッチな需要だと思わなくもないが、それも府中市内であるからこそ成り立つ商売だろう。

やや傲慢な言い方をするなら、この街における殆どのビジネスの根底にはトレセン学園の存在がある。府中そのものがまさしくトレセン学園の城下街なのである。

懇親会の会場となった居酒屋が学園のトレーナーを狙い撃ちにしているように、生徒を狙い撃ちにしている施設もまた数多くある。ただでさえ彼女たちは裕福な家庭の出身であることが多く、加えてレースで多額の賞金を稼ぐことからもさぞ上質な客層なのだろう。

 

「一応聞いておくけど、ウマ娘だけが特別扱いされてるわけじゃないんだよね?ちゃんと私もこの時間帯に入れる?」

 

「勿論。学割が使えないからちょっとだけ高くつくけどね。でもちゃんと男湯女湯で分かれてるし安心してよ」

 

「いや、そりゃそうでしょ」

 

生徒を対象にしていながら混浴でもやってみろ。明日にでも店を潰されて二度と府中の地を踏めなくなるぞ。

なまじ競技ウマ娘はアイドルとしての性質も持っているぶん、トレセン側もコンプライアンスには人一倍うるさいのだ。果たしてそれが十全に機能しているか否かについては、些か疑問が残る部分があるけども。

 

「まぁ……いいよ。分かった。ただその前に、事務局の方には一報入れておかないとな」

 

「急げば始業時刻には間に合うと思うけど」

 

「私は走れないんだよ」

 

「ああそっか、ならアタシがキミをおぶっていこうか。前にばんバの子がやってたの見て、ちょっと憧れてたところなんだよね」

 

「やめなさい。君と彼女たちでは規格が違う。ただでさえ競争バは体が脆いんだから」

 

ウマ娘にしては、という付け足しの上だが。それにいくら人通りの少ない早朝とはいえ、私も街中でそんな恥ずかしい格好は見せたくない。

……ちょっとだけ、ほんの少し興味が湧かないことも無くはないのだけれども。

 

ポケットに突っ込んでいた業務用のスマホを起動して、学園職員専用のアプリ『ウマネット』を立ち上げる。

やはり常日頃から最先端を謳うだけあって、トレセンは業務のオンライン化にも力を入れているらしい。その一環として、業務における申請や報告、打ち合わせ、日程調整から情報交換に簡単な会議までその殆どをこのアプリ一つで行うことが出来る。

元より現場での活動がメインであり、各地方や海外への出張とも切っては切り離せない職業であるから、わざわざ事務室に寄らずに端末一本で作業できるのは有り難いと言う他ない。

 

「おぉ……」

 

職員番号とパスワードを入力してホームにアクセスすると、そこにはこれまでとは見違えるような光景が広がっていた。

表示される項目が倍近く増えて、利用できる機能も一気に拡張されている。在籍生徒の一覧から簡易な身体データ、直近の選抜試験における成績も閲覧出来るようになっており、他のトレーナーへのアクセス権限も新たに与えられている。

要するに、実習生という性質上課されていた制約が取っ払われ、ようやくトレーナーとして完全な権限が与えられたということだ。職員の一人として認められた証をこうして目に見える形で突きつけられると、どこか感慨深いものが込み上げてくる。

 

「はいはい。感じ入るのはお風呂での楽しみにして、さっさと報告終わらせちゃいなよ」

 

「ああもう。せっかく一生に一度の感動だと言うのに君は」

 

「というか、今日はもう有給使っちゃっても良いんじゃないかな。他のトレーナーもそうしてるよ?」

 

懇親会という名のどんちゃん騒ぎの余波を引きずっているのか、毎年この4月2日の出勤率は驚きの50%程だという。厨房スタッフや警備員、清掃員、それから理事長とその秘書といった学園の活動に不可欠な職員は基本出勤してくることから、有給を使いまくっているのは専らトレーナーである。

休日を挟んで完全に気持ちを切り換えるのだとか。実際、生徒の方にしてもこの日は殆どオフのつもりらしい。

 

「ああ、君がどこかに行ってくれるならそうするよ。悪いけど、休みの日ぐらいは一人でゆっくりしたいタイプなんで」

 

「もう、イケず。んじゃ今日は『お出かけ』ね。ヨロシク」

 

「はいはい。後でシービーの方でもちゃんと入れといてよ」

 

「ほーい」

 

ウマネットのホームから勤怠管理のページに飛び、出勤と学外活動の旨を報告する。概要欄にあるお出かけの項目にチェックを入れておくことも忘れない。

お出かけというのは、すなわちウマ娘の課外活動に付き添う業務のことである。地方の視察や次のレース会場の下見に行くなり、病院へ検診に訪れるなりあるいは単純に遊んで担当のリフレッシュを図るなりと様々だが、これも仕事ではあるので給料自体は発生する。当然なにかトラブルが生じた際の責任も付添人兼保護者であるトレーナーに科せられるので、お気楽な業務という訳では断じてない。

一応不正防止のためか、生徒のアプリからも同様にお出かけの申請をしなければ上から監査が入るようにはなっているが。

 

お出かけに限らず、トレーナーとしての業務はかなり柔軟というか融通が利くものだ。フレックスタイム制も導入されており、トレーナー自身の裁量で始業と終業を設定することが出来る。

これについてシービーは「サボり放題じゃん」等と言っていたが、要は結果さえ出せれば良いのだ。やりようによってはいくらでも手は抜けるが、そのツケは後々必ず自分に返ってくる。サボりながら勝てる程レースの世界は甘くない。第一、担当を介して不正報告はだいたいバレるわけだし。

むしろ今現在、トレセンにおいて問題になっているのはトレーナーの業務時間に関する過小報告である。アプリで終業報告した後もトレーナーとしての仕事に没頭する者が後を絶たず、労基法がどうのと理事長も頭を抱えているらしい。

トレーナー自体、なんなら24時間365日育成の事ばかりを考え半ばライフワークと化してる種族でもあるので、バカ正直に報告してはいられないという事情もあるのだが。

 

報告を終えてアプリを落とし、再びスマホをポケットにしまう。

振り返ればシービーが自らのウマホを弄っている真っ最中だったので、これ幸いとばかりにその手を引っ張ってエレベーターへと向かった。殆どの住人も寝ているのだろう。下方向の矢印ボタンを押すと、すぐに待機していた籠が降りてくる。

開いた扉の向こうに素早く乗り込もうとした瞬間、これまでされるがままだった彼女の腕に猛烈な力で抵抗された。

 

後ろを向くと、シービーがイヤイヤと首を振りながら後退りしている。ペタンと横に倒された両耳に、扇風機のごとく暴れ狂う尻尾。

 

「シービー……」

 

「……や!」

 

「……」

 

相手はまだ小さな子供。第二次成長期すら終えてない小柄な体格だが、それでも力ずくではどうにもならない。腕力による解決が望めないのが、ウマ娘を相手にする際の難しさである。もっとも、牛のような大型家畜とは異なり力で敵わずとも言葉が通じるぶん、まだ扱いやすい方なのだろうが。

 

私たちがエレベーターホールで綱引きをしている間に、タイムオーバーで扉は閉まってしまう。そのまま籠もどこかへ行ってしまった。こうなった以上、仮にもう一度呼び出したところでシービーを乗せることは出来ないだろう。

ため息をつくと、仕方なく側にある階段に足を運ぶ。上層階ではあるものの、下りならこれで妥協するしかあるまい。今度はシービーも素直にこちらに従ってくれた。

 

昔から……と言っても出会ってまだ一年ちょっとだが、シービーはずっとエレベーターが苦手だった。

トラウマという程ではないらしく、他に選択肢がない場合であれば渋々エレベーターを使うらしいが、少なくとも私の記憶の範疇では彼女がそれに乗っている姿を見たことがない。

歳のわりには非常に大人びているというか、常に飄々と隙を見せない余裕のあるウマ娘なシービーにとって数少ない弱点である。曰くエレベーターに限らず、飛行機やロープウェイのほか観覧車やジェットコースター、さらには船も好きではないというから、つまるところ地に足のつかない乗り物に苦手意識があるのだろう。

本人が嫌というならあまり強要したくはないのだが、しかし遠征となれば否が応でも利用せざるを得ない交通手段もある。毎回毎回道中でメンタルを崩してしまってはまるでお話にならないから、この苦手意識の克服もまたミスターシービーにおける課題だろうか。

 

「君は老いても足腰がしっかりしているだろうね。羨ましいよ」

 

「あれ、褒めてくれるの。ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

先程の焦燥感は何処へ行ったのやら、楽しそうに笑いながら弾むような足取りで階段を下りていくシービー。

……この切り換えの早さなら、苦手の克服もそこまで問題にはならないかもしれない。いずれにしても、今後における彼女の動向次第ということになるだろう。

 

吹き抜けに出た瞬間、ちらりと閃光に瞳を射抜かれた。見れば地平線の向こうから、太陽がその輪郭を覗かせている。あと数十分もすれば、人々の営みもまた始まるのだろう。

 

「ほら、トレーナー。早く早く」

 

「分かった。分かったから引っ張らないの」

 

ちょこちょこ動き回る小さなウマ娘に手を引かれながら、私たちはマンション前の通りへと下り立った。

 

 



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狼煙

 

シービーに案内されて連れてこられた銭湯は、中々に立派なものだった。

 

広々とした浴槽に、吹き抜けになった中庭では椅子に仰向けになって火照った体を冷ますことが出来る。サウナも併設されている他、今はまだ閉まっているが通常営業時間内なら岩盤浴やジムの利用も可能だという。

彼女の言葉通りちゃんと男湯女湯に分かれているが、入り口から窺う限りではどちらの規模も同じのようだった。ウマ娘中心というわけではないにも関わらずこのような特殊な営業スタイルが取れるのも、つまりはそれだけ企業体力があるということだろうか。

宿泊施設こそないが、それを抜きにしてもかなり充実したスーパー銭湯といった所であり、今の今まで見逃していたのが悔やまれる。まさか街のど真ん中にこんな施設があるとは普通思わないだろう。

そういえば以前、品川の水族館を訪れた際にも、あんな街中でイルカショーが行われている事に若干の非現実感を抱いたものだが、感覚としてはそれに近かった。

 

脱衣場を出て、フロントに隣接して設置されたクリーニングからスーツを受け取り手早く着替える。

元々ランニング後のウマ娘を対象としているためか、こういったサービスも充実しているらしい。なにぶん短時間故に完璧に仕上がっているというわけでもないが、今日を乗り切るだけなら十分だろう。

そのまま天窓から朝陽の射し込むロビーに出て、適当な椅子に腰掛ける。

近くには冷えた牛乳やヨーグルト、にんじんジュースが並んだ冷ケースもあり、思わず手を伸ばしかけて思い止まった。いくらお出かけとはいえ、これでも業務の真っ最中なのだ。満喫し過ぎるのは良くない。そもそも、いくら性質上仕方ないとしても現時点でシービーと別行動している事自体がかなり危ういのだ。

姿勢を正し、ロビーの隅々まで目を配る。

 

シービーは……いないな。

女湯の出入り口で待つのはあまりにも体面が悪い。しばらくはここで時間を潰すこととしよう。

 

入り口のすぐ先にあるここは吹き抜けになっており、銭湯全体の人の流れが一目で見てとれる。時刻は朝の7時やや手前といったところで、ここもにわかに活気づいてきた。

フロントで鍵を受け取り、二階の大浴場へと向かっていくウマ娘たち。一人で足早に駆けていく者から複数人で賑やかに歩く者までてんでばらばらだが、学園指定のジャージを身に付けている部分は共通している。

殆どオフのようなこの日も早朝から自主的な走り込みを欠かさないあたり、やはり皆れっきとした中央のウマ娘といったところか。これも彼女たちからすれば、勝つための当たり前の努力なのだろうが。

 

そう辺りを見渡していると、チラチラと視線が返ってきた。ウマ娘たちがややざわめきながら私の様子を窺っている。

好奇の対象にされているのか、あるいは不審者扱いされているのか。平日の朝っぱらから、ウマ娘ではない人間のそれも男性がいるのが奇妙に思えるのだろう。シービーが言うには、ここは生徒間における穴場のようなスポットでもあるそうだし。

念のためトレーナーバッジこそ身に付けているが、それも果たして正解なのか否か。ここが学園のトレーナーに知られていない理由が、我々のリサーチ不足ではなくあえて秘密にされていたのだとしたら、今の私は招かれざる客となるだろう。

彼女たちとて、少しぐらいはトレーナーから離れてリラックスしたい時間もあるだろうし。それを責めることは出来ない。

極力存在感を消そうと、縮こまるように顔を床に伏せる。

 

「あぁ……」

 

居心地が悪い。

完全なるアウェーに取り残された気分。仮にもレジャー施設でこうも肩身の狭い思いをすることになるとは。

よくよく考えれば、今の私がお出かけでここにいるなど誰に分かるものでもない。端から見れば、スーツを着込んだいかにも仕事中の中央トレーナーが、こんな太陽が顔を覗かせて間もない時刻に一人リフレッシュしている光景でしかないのだ。怪しいことこの上ないだろう。

公園のブランコで暇をもて余すサラリーマンのごとき孤独感と焦燥感。巻き込んだ張本人たるシービーの帰還を切実に願う。

 

 

と、そんな私の想いが天に通じたのか、前方から真っ直ぐこちらに気配があった。

なんの躊躇いもなくほんの数メートルの距離まで接近し、朝陽に照らされて私の足元に長い影を落とす。

 

「すみません。少々お時間よろしいでしょうか。トレーナーさん」

 

「……んんっ?」

 

違う。これはシービーではない。

というよりウマ娘ですらない、やや掠れた男性の声。反射的に伏せていた顔を振り上げる。

 

「どうも」

 

そこにいたのは、どこか疲れたような微笑みを浮かべる中年の男。出来るだけ相手を刺激しないよう、柔和な雰囲気を演出しようとしているのだろうが、目が笑っていない。

首には年季の入ったカメラを提げ、付箋が無数に貼り付けられたメモ帳を手に持っている。ボイスレコーダーを一目で分かる位置に装着しているのは、せめてもの誠意の表れだろうか。

 

私の返事を待たず、男は一方的に名乗りを上げる。

見た目通り、やはりとあるレース関係の出版社に所属する記者らしい。

その会社は私も聞いたことがある。取材や調査には一定の評価があるものの、そこに独自の主張や過激な煽りを挟み込むことで有名なゴシップ雑誌を扱っている。なまじ能力があるぶん、それなりに影響力も強い最も厄介なタイプ。

 

思わず舌打ちしかけて、寸でのところで食い止める。そんな下らない隙をみすみす与えてやるわけにはいかない。

お近づきの証にと、差し出されたコーヒー缶をそっと拒否する。記者も慣れた様子でそれを引っ込めると、一言断ってボイスレコーダーのスイッチを入れた。名刺をこちらに差し出し、一言二言交わした後早速本題へと移る。

 

「しかし、また随分と変わった所にいますね。それもこんな朝早くから」

 

「仕事ですよ、私も。貴方と同じでね」

 

ジャケットの襟につけたバッジを示す。

記者はそうですか、とやや痰の絡んだくぐもった声で頷いた。やはり疲れた印象の残るそれは、急速にこちらの活気を削っていく。

 

「新年度の特集だというなら残念でしたね。ベテラントレーナーならここには来ませんよ」

 

「問題ありません。自分がお話を伺いたいのは、貴方と、貴方の担当さんについてですから」

 

「シービーのことなら、まだ私の担当ではありません。現時点において、私たちは契約を交わしていない」

 

「しかし、いずれはそうなる予定なのでしょう。少なくとも、その前提でお話を聞かせて頂こうかと」

 

「ご勝手に」

 

なるほど、最初から私が目当てだったと。

だとしたら、よくもまぁここで接触出来たものだ。普通、こういった輩がたむろしているのは学園の周辺か、生徒がよく出歩く学生街と相場が決まっている。それでも特定の個人を狙い撃ちにするのは難しく、だからこそマスコミはこぞって学園に敷地内での取材の許可を取りたがるのだから。

シービーはともかく、私に……というより学園のトレーナーにとってここは明らかに活動範囲外だ。男もどう見ても一風呂浴びに来たという格好ではなく、すなわちたまたま運良くここで私と出くわしたというわけでもあるまい。仮に目撃情報を受けていたとしても来るのが早すぎる。

だとすれば、シービーやたづなさんの目を欺きつつ税所から私たちを尾けていたか。あるいは他に情報源でもあるのか……なんにしても、厄介な相手ということに変わりはあるまい。

 

「ミスターシービーさん、いよいよ今月からクラシック戦線に臨むことになりますね。レース関係者にとどまらず、世間は今その話題で持ちきりです」

 

「ええ、そのようですね」

 

「そんな中で、若手のホープたるシンボリフレンドさんから貴方にこのタイミングで移籍がなされることについて、どのような考えをお持ちでしょうか?」

 

「どのような、とはどういう意味でしょう?曖昧不明確な質問には答えられませんが」

 

「先日ようやくトレーナーとしてデビューしたての、貴方の手には余るのではないかということです。技術的な意味でも、実績との釣り合いという意味でも」

 

ああ、それか。

いつか必ずこういう場面が来るだろうと覚悟はしていたが、こんなに早く訪れるとは。

 

「私自身に不足があることは否めませんが、任される以上は全力を以て挑みますよ」

 

「それが振るわなかった後にも同じことが言えますか?釈迦に説法を承知で言わせてもらいますが、トレーナーという職業は結果が全て。"最大限努力した"なんて言葉は言い訳にもなりませんよ」

 

言われるまでもない。そんな事、誰よりもよく分かっている。

しかしその言葉は……それがただの挑発と理解していて尚、私の胸中に一片の焦りを芽生えさせるには十分だった。

 

「……戦う前から負けることを考えるトレーナーがどこにいますか。我々は自らの担当の勝利のみを信じるべきだ」

 

「普通であればそうでしょう。しかしミスターシービーは特別……シンザン以来19年ぶりの三冠を期待される学園のエースなのですよ。ならば、それに相応しい実力を備えたトレーナーと組ませたいと思うのが人情でしょう」

 

「それは、誰の人情でしょうか?」

 

「世間の。言い換えるなら、これから貴方に向けられる銃口でもあります」

 

それも分かっている。

 

シービーの実力も、彼女に向けられた人々の期待の大きさだって。新人一年目が初っぱなからクラシックに挑む相棒とするには、およそ不釣り合いな存在であることも。

彼女は強すぎるのだ。その才能はあの先生の予想すら上回るものであって、しかも完全に花開いている。その誤算は、私たちを組ませるという当初の計画すらこうして破綻させかねない程。

 

記者はおもむろに膝を下り、椅子に腰掛ける私と目線を合わせてきた。

そのままどこか気遣うような、言い聞かせるような口振りで淡々と言葉を続ける。

 

「もし仮に、三冠を一つでも逃したら。考えてもみて下さい。一番傷つくのはミスターシービーではない……貴方なんですよ、トレーナーさん」

 

「……」

 

「勝てば当然、負ければ全て貴方のせい。既に芽が出た……出過ぎてしまった彼女を、新人である貴方が途中から担当するとはそういう茨の道なんです。事実、そういう声が出つつある」

 

「昨日の今日で?聞いたことがありませんね」

 

「人の噂は早いもので。明日にでもそれは世論に変わるでしょう。自分に言わせれば、貴方は新人らしく、同じく新人のウマ娘と一年目から共にするべきだ」

 

それが難しいからこその特別移籍制度なのだが。この男とてそのぐらいは知っている筈。

私がルドルフからアプローチを向けられていることまでは知っていないだろうから、そうなると新人がゼロから担当を捕まえる方がまだ楽な道だと言いたいのか。少なくとも、これからシービーそ担当するよりは。

 

こちらの出方を窺っているのだろう。

記者はただ黙って私を見つめる。

 

その背後から、近付いてくるウマ娘が一人。

 

「アタシに言わせれば、キミは今すぐ彼から離れてここを出ていくべきかな。名前も知らない記者殿」

 

「シービー……」

 

「あぁ、ごめんねトレーナー。気持ちよくてつい長居しちゃった」

 

貼り付けたような笑顔を浮かべながら、シービーは記者を迂回して私の腕にすがりつく。そのまま力任せに引っ張り上げて椅子から立たされた。

その耳は後ろに絞られ、尻尾は虫を払うように勢いよく左右に揺れていた。全身で、不快感を露にしている。

 

「で、なに?キミはこそこそと。アタシが負けるだとかなんとか、そんな話をしてたんだ」

 

「起こりうる事態を、口にしたまでです。事実、貴女がこの先無敗を遂げたとして……それは、彼の功績とはならない。世間はそう認めてくれない」

 

「なら、誰の功績になるとでも?」

 

「シンボリフレンドさんの教育の賜物か……貴女自身の実力でしょうね。彼はただ、それに運良く乗っかっただけとなる」

 

「へぇ~」

 

飄々と朗らかな笑みを湛えつつ、暢気な返事を投げるシービー。それとは対照的にざり、と強く強く地面を引っ掻く爪先。

剥がれかけた仮面の隙間から漏れだしたのは、怒りという言葉すら生ぬるい程の激情。

殺気とすら形容出来そうなそれが記者を射抜き、その背後のフロントに控える従業員の肩を震わせた。

 

「う……」

 

男にとっては、最早飢えた猛獣の眼前に放り込まれたと同じ心地なのだろう。

どこか気だるげにしていたその顔はひきつるように強張り、元々血色の悪かった肌から一層血の気が失われていく。代わりに玉のような汗が首筋まで滝のように流れ落ち、がくがくと四肢が震えだした。

それでも、やはりプロなのだろう。最後の胆力を振り絞って、シービーの顔を正面から睨み付ける。そして気丈にも、指を突きつけてか細い声で宣告した。

 

「アンタらは一緒にいるべきじゃない。ミスターシービーさん。アンタは……どう転んでも、そこのトレーナーを不幸にしか出来ないんだ」

 

「良く言ったね。その言葉に責任を取らせてあげる」

 

「ト……トレーナーさん。アンタもいいのか?自分の実力不足のせいでこの子が負けたら。三冠の夢が潰えたら……その時に、後悔してももう遅いんだぞ?今からでも遅くない。だから……」

 

記者がさらに続けようとしたその瞬間、鋭く引き裂くような音が彼の言葉を遮った。

恐る恐る隣を見れば、シービーが私の手から記者の名刺を抜き取って真っ二つに引き裂いている。ぐしゃぐしゃと丸め潰して、乱暴にポケットへと突っ込んだ。

 

「退くに退けなくなると人間醜いものだよね。大の男が恥ずかしくないの?」

 

「な、なにを……」

 

「可哀想なキミの最後のチャンスをあげる。『今すぐここから出ていけ』……従わなければ、貴社の生徒並びにトレーナーへの取材を生徒会は今後一切許可しない」

 

「そんな、そんなバカな話があるか!ちゃんと、理事会から取材許可は貰っている」

 

「それは学園内での取材許可であって、学園外でも好き勝手に取材できる権利じゃないんだけど。ていうかなにキミ…学園が定めた規則についてこのアタシより知識があるの?後学のために是非ともご教授願えるかな?」

 

「……ッ!!」

 

頭に血が昇っていたか、恐怖で完全に思考能力を喪失していたか。

今さらながらに目の前にいるウマ娘が、トレセン学園生徒会長その人だと思い出したらしく、男は慌てて銭湯の出口へと走っていく。

 

「あ、そうそう。最後に伝えておくけど」

 

そんな背中を逃さず、シービーは鋭く通る声で記者を呼び止める。

 

「その学園内での取材許可も今日限りで剥奪するから。理由は記者の権限濫用。さっきも言ったよね『責任を取らせる』って……また一から信用を積んで頂戴」

 

「………」

 

「ちゃんと、キミの上司にもそう伝えといてよ。キミ自身の口からしっかりと」

 

記者は振り返り、なにか言いたげな顔をしていたが……結局、抗議したところで状況はますます悪化するだけだと悟ったのだろう。大人しく銭湯を後にしていった。

それを境に、張りつめていたホールの空気もようやく落ち着いていく。怖々と見守っていた従業員や他の生徒たちも、どこかほっとした顔でそれぞれの活動を再開する。

 

「シービー……少しやりすぎでは?」

 

「なに?トレーナーはアタシじゃなくてアイツの肩を持つの?」

 

「いや、そういうわけじゃないが……」

 

確かに学園の意向と私のプライベートをまるで無視しており、褒められた取材でなかったことは確かだが。とはいえ、彼の言っていたこと自体には、多少なりとも正鵠を射ている部分もあったと思う。

正しければなにをやって良いわけではないにしても、それに対するシービーの処罰は些か重すぎるというか、それこそ権限の濫用に片足を突っ込んでいる気がしなくもない。

いつもの彼女らしくもないし、そもそもあの拒絶の仕方からしても、ただ発言内容が気に障ったという程度では済まされないような。

 

「別に……うん、そうだね。元々、あそこの出版社には前科があったから」

 

「前科……というと、今みたいなアポ無し取材とかか」

 

「そう。それ以外にも、つきまといとか不法侵入だとか。苦情も上がってたんだよね。第一、書いてる内容からして偏りまくりだし……まぁ、それは表現の自由があるから直接の理由にはならないけど」

 

「そうか……」

 

それらが本当にあったことなのか、仮にそうだとしても取材許可剥奪の真の理由なのかは分からないし知る術もない。確実なのは一度シービーがそう決めた以上、もう覆ることはないということだった。

まぁ、実際の手続きの過程では生徒会のカウンターパートにあたる理事会の審査が入るわけだし。その結果剥奪に至るなら、やはりそれだけのことをやらかしていたのだろう。一介のトレーナーに過ぎない自分が介入する余地はない。

 

「ん。じゃあトレーナー、いこっか。まだまだお出かけは始まったばかりだからね」

 

「あ、ああ。そうだね。まずはここを出て……っと。ごめん。ちょっと待って」

 

とりあえず精算を済ませようと、フロントに向かいかけた瞬間、急に私の業務用スマホに着信が入る。

 

事務局も開いてないこの時間に一体なんだ。新任翌日の業務連絡というのは心臓に悪い。

慌てて画面を立ち上げてみれば、ディスプレイに表示されていたのは先輩のフルネームだった。

 

「おはようございます。何ですか先輩。会話はログで公開されるんですから、よっぽどの連絡以外はプライベートのスマホに……」

 

『知ってるわバカ。その"よっぽど"が起きたんだよアホンダラ。シービーとルドルフ、一緒の部屋になったらしいな?』

 

「あ、それもうたづなさんから聞いたんで知ってます。ご丁寧にどうも」

 

『そうか。なら美浦401が明け方爆発したことも当然知ってるよな?』

 

 

 

「……………………は?」

 



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蹌踉めいた天秤

「爆発って………え。いや、知りませんけど」

 

初耳だ。

今朝は学園から離れていた私とたづなさんがそれを把握している筈もなく、シービーからもなにも聞いていない。

そしてウマネットのお知らせ欄にもその情報はなく、職員個人のメールボックスにもなにも届いていないし緊急速報のアラートも発令されていなかった。まさか、この程度は事件の内にも入らないと言うのだろうか。

単純に、学園始業前の出来事であるから事態の解明と処理が遅れているだけなのかもしれないが。というか、そうであって欲しい。

この先何十年と働き続ける職場が爆発上等の火薬庫だなんて絶対に認めたくない。

 

「な、なんで……?」

 

「いや、なんでも鍋パで引火からのガス爆発だとかなんとか……と当事者二人は供述しているそうだが。とりあえず、私用のウマインに現場の写真を送ってやる」

 

「あ、お願いします」

 

鍋パ……?

それはなんだろう、可愛がりみたいな隠語だろうか。歓迎会として鍋、というのは確かに王道ではあるだろうが、たった二人でパーティーと呼ぶには些か語弊があるし、そもそもあの二人は招き招かれの間柄ではない。

わだかまりを同じ釜の飯をつついて解消しようとしたというなら可愛いものだが、その結果がこれでは全く笑えないのだ。

だいたい頭と要領の良いあの二人が、ガスと火の扱いなんて料理の初歩の初歩を本当に間違えるだろうか。

 

ポン、と軽快な着信音がプライベートのスマホから鳴る。

部屋の玄関から踏み込んで撮影したらしき、夜明け直後の現場の画像が何枚も送られてきた。というか先輩、焦ってるのか個人トークじゃなくて家族のグループウマインの方に投下してるし。案の定、即座に始まったスタンプと大喜利の荒らしで流されていってしまった。

とっさに保存したものを観察してみるが、やはり写真だけでははっきりとしたことは読み取れない。地震と台風が一度に襲来したかのごとき惨状で、とりあえず既に人がまともに暮らせる環境でないのは一目で分かるが、果たして本当にこれがガス爆発によるものかどうか。

そもそも爆発現場というものを現実に見たことがないので判断のしようがない。そういう事故だと言われればそのようにも見えるし、他方でウマ娘同士の抗争の余波だと言われても納得出来てしまう。

 

「警察はなんと言ってるんです」

 

「ああ、警察は呼んでいない。幸い怪我人もなく、部屋の修繕だけで事足りるから新年早々に事を荒立てたくないとかなんとか」

 

「えぇ……」

 

本当にそれで良いのか、トレセン学園。

外面だとか大人の事情だとか色々あるのだろうが、言ってしまえばそれは隠蔽である。

 

「まぁ、学園側もそんな話を鵜呑みにしちゃいないんだろう。だがな、証拠がないんだ。あの二人がその、揉めてたっていう証拠がな」

 

「周囲のウマ娘の証言などは」

 

「当然、隣室にも裏は取った。だが直前に口論してた声とかは聞かなかったらしい。だいたい学園の防音は鉄壁だ。知ってんだろ」

 

「えぇ、はい。まぁ」

 

上質な居住性の確保もあるし、部屋で歌や躍りの練習に励むウマ娘もいるからだ。

余程の大声や振動を意図的に鳴らさない限り、外部に音が漏れることはない。そして、ルドルフはともかくとしてシービーはたとえ激昂しても声を荒げないタイプなのだ。

各部屋には緊急用のコールボタンもあるし、内線も備え付けられているものの、それらは内部から発信しなければ無意味なわけだし。

 

「それとここからがキモでな。アイツら、他の連中の前では仲良しそのままだったんだと。実際、歓迎会そのものについても信じてる奴は多い」

 

「いや、あんな状況でそれは……」

 

「お前とシービーの関係を皆が皆知ってるわけじゃないぞ。だいたい、俺以外のトレーナーは基本アイツを避け続けてきただろ」

 

「それはそうでしょうけど、だとしてもあの空気感は和やかからは程遠いでしょうに」

 

「それこそお前の主観だろうが。まぁ、俺たちトレーナーからしてみりゃなんとなく勘づくところはあるけどな。それを生徒…ましてや一年坊に求めるのは流石に無理があるぜ」

 

先輩の話の最中、ふと気付いて隣に佇むシービーの全身を確認する。

つまらなそうな表情で私を見上げる彼女について、少なくとも外から見える範囲の肌には傷一つない。もしかしたら不自然な汚れがあったのかもしれないが、それも入浴とクリーニングで完全に落とされてしまっていることだろう。もしや、学園に戻らずここで身なりを整えたのもそれが目的だったのか?

入浴を行えている時点で、服の下にも出血を伴う負傷はないのだろう……いや、冷静に考えれば怪我自体が無くて当然か。皐月賞を目前に控えたこの時期に、そんな真似をするバカはいない。なによりルドルフがただじゃ済まなくなる。

 

とりあえず、直接相手への実力行使は無かったと見て良いだろう。自身の体面を繕うという点では二人の利益は一致し、先輩の言によればあまつさえ協力すらしていたというわけか。

ほっとすると同時に、ことここに至ってもなおそこまで頭の回る二人に胃が痛くなるような思いが募る。いっそのこと、感情に振り切れてしまえばかえって対処は楽なのだが。

 

「で、どうすんのお前。俺がお前なら今日は休み取って学園の外にいるけどな……って、今見たらお出かけ中になってるけど」

 

「ええ。シービーと外にいます」

 

「そうか……まぁ、それでもせめて今日ぐらいは学園から逃げておいた方がいいかもな」

 

「ルドルフがそっちで待ち構えているからですか?」

 

「それもあるけど、ちょっとした大騒ぎになってるから。今日休みの連中がこぞって401跡地を見に来てる。これは新しく学園の名所になれるかもな」

 

負の遺産かなにかだろうか。縁起でもないから即刻止めていただきたい。

マルゼンスキーに呼ばれたとかなんとか言って、先輩はそのまま電話を切ってしまった。

改めてウマネットのホームに戻ると、たった今の会話ログをダシにして早速トレーナー陣が会議ペースで盛り上がっている。少し覗いてみると、真っ当に善後策を練ってくれる者から実況紛いのことをしている者まで多種多様。

共通しているのは、新年度早々の大事件……それも生徒会長と新入生総代の衝突であり、かつそこにトレーナーも絡んでいることに相応の危機感を抱いているということ。自分たちも他人事ではないと理解しているのだろう。

相変わらず大した学習能力というか、そもそもそれが出来ないトレーナーはここで生き残れないということだろうか。

 

両方のスマホをそれぞれ元あった場所にしまい、とりあえずフロントで二人ぶんの精算を済ませる。

これも業務の一環であるから、領収書さえ切ってもらえば後で会計課から経費が降りるのだが、次にそちらに顔を見せるのが本当に憂鬱だ。少なくとも本件については私が申し訳なく思う必要はないのだが、とはいえ原因の一端であることは間違いないのだから。

自動ドアを抜けて、すぐさま学園の方向に進路をとる。と、横から物凄い力で袖を引き留められた。

 

「ちょっと、どこ行くのかなミスタートレーナー。まだお出かけは始まったばかりだよ」

 

「いや、でも、あんなことが起きたとなると流石に……」

 

「大丈夫。アタシもあの子もちゃんと言われた通り反省文は提出したからさ。今から行ってもかえって邪魔になるだけだって……電話でもそう言ってたでしょ?」

 

盗み聞き……というわけでもないか。

別にスピーカーにせずとも、あれだけ密着した距離で並んでいればウマ娘の聴力ならギリギリ聞き取れる範囲だったのだろう。

やたら不服そうにしていたのも、この話を私にだけは知られたくなかったからか。知ってしまえば、こうしてお出かけも中止になりかねない事が分かっていたから。

 

もっとも、それも全て彼女たちの身から出た錆。自業自得だろうが。

旧知とはいえ書類上はなんら繋がりのないルドルフは置いておくとしても、シービーとは殆ど担当関係と相違ない状態に落ち着いてしまっている。私にはどうあがいても回避不可能な事件であり、責められる咎は無いとはいえせめて顔ぐらい出しておくのが筋ではなかろうか。

 

「あれは先輩個人の意見であって、別に同意したわけじゃないからね」

 

「そう。でも管財課なら今行ったところで相手にされないと思うよ。忙しいだろうし」

 

「それ全部君らのせいだからな。なにを他人事みたいに……というか、君にもちゃんと頭を下げに行くつもりはあったんだな。意外」

 

管財課はその名の通り、学園にとっての財産を維持管理することを内容とした部門であり、そこには当然美浦寮も含まれている。

つまり本件の事後処理において中核となる存在であるから、こんな年度始め早々に手間をかけさせることについて謝意を示さなければならないだろう。彼らのことだから、とっくに慣れたものだと諦め混じりの笑みを返してくれるだけだと思うが。

 

「ううん、あそこにはもう散々頭を下げてきたところ。そうじゃなくて、寮部屋の組み合わせを変更してもらわないと」

 

「変更って……どうやって?」

 

「どうやってって、それは、こんな大事が起きちゃったから……」

 

「いや、通らないだろう。流石にそれは」

 

「え?」

 

よっぽど意外だったのか、目を真ん丸くしながらピンっとその尻尾を立てるシービー。

本気で言っていたのか……彼女らしくもない。

 

「たづなさんから聞いた話だと、よほどの問題が起きなければ後から部屋割りの変更はないらしいな。その二人を同室にし続けることで、看過できない悪影響がおよそ回避出来ない程の問題」

 

「だから、それが今朝起きた『爆発』なんだってば」

 

「あれは『鍋パに起因したガス爆発』なんだろう?つまりはうっかりミスで生じた事故だ。事故が起きる度に部屋替えしていてはキリがない。特に目撃者の証言によれば、君たちはとても相性が良いらしいからな」

 

「そ、そんな詭弁……通る筈が……」

 

ついに詭弁と言ったか。

吃りながらなんとか言葉こそ繋げるものの、そのウマ耳は左右バラバラに動きっぱなし。ウマ娘が不安や緊張、焦りを覚えた時に見せるサインである。

追い詰められた経験の乏しさ故か、一旦歯車が狂うと一気に崩れてしまいがちなのがシービーの弱点だった。そもそも、まだ中等部二年ということを考えれば無理のない話だろうが。

 

「その詭弁を学園側は受け入れたんだよ。ここで部屋割りの見直しでもしたら、『あれは実は生徒同士の喧嘩でした』と認めることに他ならない。それが嫌だから警察だって弾いたんだろうに」

 

「それはそうだけど……で、でも」

 

「諦めようシービー。後輩のために歓迎会を開いてやる君は立派だ。願わくはずっとそのままでいて欲しい。でないと、次こそは反省文じゃ済まされないぞ」

 

「う"ぅ~」

 

「そもそも皐月賞直前にこんな騒ぎを起こすんじゃない」

 

とうとう抗弁も尽きたのだろう、シービーは悔しそうに唇を噛んで自らの影に目を落とした。

 

そうか、あれに乗じてルドルフとの同居状態を解消しようと目論んでいたのか。

あるいは、最初からそれを目的としてルドルフと共謀していた……なんて事は流石にないか。いくらなんでも、その為だけに学園の施設を破壊するほどルドルフもシービーも自分勝手ではない。

大方、お互い感情の制御が効かないまま大惨事となったものの、奇貨居くべしと言わんばかりにそこから更にあわよくばを狙っていたと、そういう所だろうか。

正直、学園側からしても引き剥がしたいのはやまやまなのだろうが。しかしここでそれを認めてしまうと、同じく同居人との仲がよろしくない学生たちがこぞって真似をしかねないのだ。

特例の濫用。悪しき前例が生まれるのを恐れているのだろう。恨むのなら、彼女ら二人を巡り合わせたダイスの神様を恨むことだ。

 

まぁ、ここまで来たからにはもう諦めて和解を目指して欲しい……なんて、当事者に他ならない私が言うには無責任に過ぎるか。

ただでさえヒトより闘争心や独占欲の強い競争バのこと。それに自らの欲求やままならない現実と折り合いをつけてやっていける程、彼女たちはまだ成熟していない。

 

「こら、シービー。袖を引っ張るなと言ってるだろう。私は学園に行くんだから」

 

「行かせるわけないでしょ。こうなった以上、アタシがあっちに戻る理由なんてなに一つないんだから」

 

そうか。私の迂闊さも大概だったな。

指摘せず上手いこと口車に乗せれば大人しく着いてきてくれたかもしれないのに。

 

そう若干の後悔を噛み締めていると、不意にシービーが袖から指を離す。

そのままひょいと二、三歩後ろへ下がり、試すようにその両腕をやや広げて見せる。

 

「まぁ、別に行ってもいいけど。でもアタシは絶対にここから動かないからね。いいのかな。お出かけ中にアタシから目を離しても」

 

「う……」

 

「もしアタシにナニかあったらさ、全部トレーナーの責任になっちゃうよ?せっかく独り立ち出来たばっかりなのに、こんなところで傷をつけるのは勿体ないと思うけどな」

 

制度の規則と私のキャリア、それから自身の身の安全を全てひっくるめて脅迫してくるとは。

なんとも形振り構わない、往生際の悪い姿だが……それをここで披露したという事は、シービーはもう絶対に退くことはない。飄々とした自由人を気取っていながら、彼女はその実かなり頑固なのだ。

お出かけ中である以上、やむを得ない場合を除いて常に担当と行動を共にしなければならないのは事実であるし。彼女に与えられた地位と権限を鑑みれば、下手に機嫌を損ねれば後々その隙を容赦なく刺されることになるだろう。

 

「……ああ。もういいよ。分かった」

 

結局、私は折れることにした。

臆病とでも軟弱とでもなんでも言えばいい。私だって人事の評価は気にするのだ。管財課並びに学園の上層部には、終業後に頭を下げに行くこととしよう。

 

渋々ながら、シービーに促されるままに学園とは正反対の方向へと足を向ける。

学園通りと名前の付けられたこの道を真っ直ぐ向かえば、たしか公営体育館や運動公園があった筈だ。学園を離れこそしたものの、彼女もまた完全にオフの日とするつもりではないらしい。

 

「あんまり激しいのは駄目だよ。あくまで軽く流すだけだからね。既に調整は一段落ついているんだから」

 

「うんうん。りょーかい」

 

こちらの歩みに合わせているのか、妙に調子の外れた鈍いステップを踏みながら弾むように前を行く小さな背中。

それを追いかけていると、またしてもスマホにコールがかかる。今度は私用の端末だった。

開いてみると、そこに表示されているのは知らない番号。営業では無さそうだが、だとしたら相手一体は誰なのか。

 

「うん、またお電話?そっちはプライベートのだから、知り合いかな?」

 

「え、ああ……まぁ」

 

「いいよ、出なよトレーナー。待っててあげるから」

 

シービーのその言葉に発破をかけられて、僅かな逡巡の後に応答の欄をタップする。

だいぶ長いこと呼び出しを粘っていたから、勧誘ではないのだろう。たぶん。

 

「もしもし」

 

『ん……ああ、やっと出てくれたねトレーナー君。ふふ、君とこうして言葉を交わすのも久し振りだね。どうだろう、元気にしていただろうか?』

 

「ル……」

 

ルドルフと思わず声に出しかけて、寸前でどうにか食い止める。いや、食い止められたのかこれは?

猛烈に判定を確かめたかったが、ここでシービーの様子を確かめるという、疑惑を確信に変えるような野暮はしない。

音量を下げるのも止めておこう。なんとか短い会話に抑え込んで、話なら後でじっくり聞けば良いのだから。

 

『聞いたところによれば、修習も次席で卒業する快挙だったとか。私にとっても我が事のように嬉しいよトレーナー君。君と幼い頃からの友人である私にとってはね。とはいえ緊褌一番、君のトレーナー人生においてはまさにこれからが本番だ。特に、最初に担当するウマ娘については軽率短慮になってはならず、熟考に熟考を重ねて過剰になると言うこともない。なにせ、君の始まったばかりのキャリアを大きく左右する最初の一歩でもあるのだから。そこでどうだろうトレーナー君。私なら必ずや、その船出を輝かしいものにする礎になれると思うんだ。勿論君だって、私の覇道を誰よりも近くで支えてくれる大事な杖となってくれることだろう。まさに比翼連理、私は君がいてこそそして君も私がいてこそ真に満ち足りるのではないかな。私の祖母も母も妹もカストルも皆そう期待しているんだ。口にこそ出さないが、きっと君のお母様もそのように考えておられるのではないだろうか。そこでどうだろう、一度トレーナー君と直接顔を合わせる機会でも設けてもらえると幸いなのだが。幸いといえば、府中もまた当然にシンボリの影響力が強くてね、私の名前を出せば最高級のサービスを提供してもらえるホテルがいくらでも……』

 

「待って、待ってくれ。長い長い」

 

そんな、言葉の洪水を一気に浴びせかけてくるな。

 

私の制止でいくらか冷静さを取り戻したのか、やや恥ずかしげにすまないと咳払いするルドルフ。

とりあえず、彼女の思いは痛い程よく伝わった。どこかで話し合う機会を設けようというのもひとまずは賛成しよう。

ただ、タイミングがタイミングなのだ。ルドルフには悪いが、せめて今日一日はこれ以上職員の業務の邪魔にならないよう、大人しく学園で待機していてもらう必要がある。そう伝えなければ。

 

「いいか、今から私が言うことを落ち着いてよく聞いて欲しい。ルドルフ、君は邪魔」

 

『えっ』

 

……あ、スマホの電源が落ちた。

 

充電切れか……いや、違う。神速で距離を詰めてきたシービーに落とされたのか。

どうしてそんなことを。ああ、そうか。私がうっかり名前を呼んでしまったからか。これは油断した。

 

それにしても、最後にルドルフがなにか言いかけていたような。

私の言葉を遮って……というか、私は最後になんと言っていた。なにか、これ以上なく最悪な所で通信が切られたような気がするのだが。

 

「さ、行こうか。トレーナー」

 

「……はい」

 

奪ったスマホを私のポケットに突っ込んで、シービーは歩みを再開する。有無を言わせぬその気迫を前に、私もまた彼女に従った。

これ以上火に油を注ぐと、いよいよ取り返しのつかないことになるだろうから。

 

 

ポケットの中で、絶えず振動を繰り返す私用のスマホ。

 

 

ああ……戻りたくないな。トレセン学園……。

 

 

 



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【閑話】姉妹遊戯

 

『いいか、今から私が言うことを落ち着いてよく聞いて欲しい。ルドルフ、君は邪魔』

 

「えっ」

 

予想だにしなかった返答。

思わず驚愕を漏らした瞬間、ブツリと電話が切られてしまった。

 

分からない。

彼が、トレーナー君がたった今なにを伝えようとしていたのかが理解出来ない。

違う。私の脳みそが理解しようとしない。最後に彼からなにを言われたか。それを反芻することを強烈に拒んでいる。

 

それでも、なんとか正気を保って。

 

ビジートーンを繰り返すウマホの画面から、再びコールをかける。出ない。諦めずにもう一度。出ない。まだだ、今度こそは。出ない。次こそはきっと。それでも彼は応答しない。

私は私が思っている以上に重症だったらしい。ふわふわと、宙に浮くような感覚が身を包む。

どこか夢見心地にタップを繰り返す私の指は、内の激情から反して酷く柔らかく丁寧な力加減ではあったものの、その先端はみっともなく震え続けていた。

 

出ない。

 

トレーナー君は全く電話に出てくれない。着信拒否されているわけでもないから、意図的にこちらを無視しているのだろう。

正直なところ、それは重要なことではなかった。たぶん、今の私の目的は彼と話すことではなく、ひたすら呼び出しを続ける行為それ自体なのだろう。

そうしている間だけは、ひたすら思考を外界に縛り留めておくことが出来るから。すなわちこれは現実逃避の一環である。

 

とはいえ、それもいよいよ限界が来たらしい。

もう何度目かも分からない留守電の案内を聞いて、ようやく私はウマホから顔を上げた。満足したのではなく、とうとう現実に追いつかれてしまったから。

 

リビングの大開口窓を正面に捉える。

つい数分前まで東に大きく傾いていた筈の太陽が、気づけばもう真上ほんの手前まで昇っていた。

慌てて時刻を確かめようと手にしたウマホを確認してみるものの、しかし目の前にあるのは真っ暗な画面のみ。電源ボタンを押してみるも、数秒間だけ電池切れのマークが表示されるだけ。

そうか、私がコールに没頭している間に、いつの間にか充電が切れてしまっていたんだな。プッシュに夢中で気づかなかったよ。

ふふ、そうか。これじゃあトレーナー君も電話に出んわけだな。うん。

 

冷静に……冷静にだ。頭を冷やさなければ。

 

落ち着いて聞いて欲しいとトレーナー君だって言っていただろう。切り替えの巧みさは私の長所だった。まぁ、それを育ててくれたのも彼だったのだが。

そんな人から、私はこう言われたんだったな。

 

君は邪魔だと。

 

邪魔……私は、シンボリルドルフはトレーナー君にとって邪魔であると。そう解釈せざるを得ないような。

いや、解釈もなにも無いだろう。あんな短いメッセージのどこに考察の余地があるというのか。

それとも、実は全く別の意味を伝えるつもりで、たまたまタイミング悪く通信が切れてしまったなんて……いや、いい。そんなの慰めにもならないただの妄想だ。もしそうだとするなら、どうして彼はかけ直しに応答しない。

 

もういい加減、現実を見る時だ。

君は彼にとって邪魔なんだよ、シンボリルドルフ。

 

「なんで……」

 

ふと零れたそんな呟き。

自覚して思わず自嘲の笑みを浮かべる。

 

当たり前の話じゃないか。

既にかのミスターシービーとの契約が有力視されているトレーナー君。

そんな彼に執着し、ミスターシービーとは対立し、入学式の翌朝に大事件をかまして、挙げ句の果てに一方的にコンタクトを取ったかと思えば早口で一方的に捲し立てて。

これが逆の立場だったら、などと考えまでもない。明らかに、今の私は彼にとっての厄介者だろう。

 

だが、だがなトレーナー君。

悪いがこの件に関しては、これだけについてはこちらは絶対に退くつもりはないんだ。

 

恨んでくれても構わない。

君の隣に立つその日まで、私に諦めるなどという選択肢はない。

たとえ他ならぬ君自身に拒絶されようとも、私は負けるわけにはいかない。その為ならなんだってしてやるさ。

私は許さない。

私以外の誰かがそこに居ることは絶対に許さない。それが皆に望まれた結果だったというなら、私は私自身のエゴだけでそれを汚して引きずり落としてみせよう。

 

我が儘だと詰るだろうか。

はしたないウマ娘だと罵るだろうか。

 

どれだけ嘲笑ってくれても構わない。それでも私は、君の隣に居続けるから。

だってそこは私の場所だから。決まっていたことだろう。何年も前からずっと、その椅子にはシンボリルドルフの名前だけを刻みつけてきた。

だから決して譲らない。絶対に離さない。私は死んでもそれを渡さない。そこには私だけいればいい。

 

なら、やるべきことはなにも変わらない。

これが駄目なら次の手を、それも駄目なら次の次の手を打てばいいだけなのだから。

 

ああ、本当に簡単なことじゃないか。

ゴールが決まっているのなら、あとはそこに向かって全力で駆け抜ければいい。

いつも通りだ。いつも通り、私はこのレースを一着でゴールするだけだ。それは私がなにより得意としてきたことだから。

 

 

「ふふ……」

 

 

ようやく、すうっと心が落ち着いていく。

 

 

すまないな、トレーナー君。

その抗議は受け付けないよ。後悔噬臍、4年程言うのが遅すぎたな。

 

だいたい、君にも少しは責任があると思うが。

あの時の誓いはまぁ……思い出せないなら仕方がないとしてもだ。あの家を出て以降、一度でも連絡をくれていたらこうはならなかったんじゃないかな。

おおかた君にとって私は、よく遊びに来るウマ娘の一人という認識に過ぎなかったのだろうが。

甘すぎる。それなりの立場の者が雨の日も雪の日も何十キロも歩いて会いに来る意味を、一度でもよく考えるべきだった。

あの女についても、どうせ君が誑かしたんだろう。そのつもりはないと言っても、相手がそれで納得するかはまた別の話なのだから。

 

 

さて、取り敢えずやることは済んだ。

 

交渉こそ破談になったものの、最大の目的であったトレーナー君の電話番号は手に入ったわけだし。

さらに寮部屋を漁ってみてもいいが、これ以上有益な情報は得られまい。

 

一つ気にかかるのは、彼がたった今どこでなにをしているかということだ。

昨晩学園に戻っていないことは調べがついているが、しかし今日になっても学園に姿を見せていない。他のトレーナーと同様に休暇を取っているのだろうか……取り敢えずは報告を待つしかないな。

職員専用のコミュニティにアクセス出来れば捗るのだが。仕事用の端末を放置しておく程、彼女も間は抜けていないということだろう。残念だ。

そろそろ潮時と見極めて、退散しようとリビングの出口へと振り返る。

 

 

「あっ………」

 

 

「おや、人の顔みて随分な反応だね。ルナ」

 

……そこには、緩やかに腕を組んで扉にもたれている一人のウマ娘。

どうしてここに、ととっさに出かけた言葉を飲み込む。どうしてもなにも、元々ここは彼女の部屋なのだから当然だろう。不馴れ故か、自身が侵入者であるという事実をうっかり失念しかけてしまう。

 

「どうしてここに……というのは聞かないでおこうか。だいたい察しもついてるし。それより知りたいのはどうやっての方かな」

 

「普通に、ここの職員カードを使って玄関から入ってきただけですよ」

 

「だから、それをどうやって入手したのかを聞いているのだけれど」

 

制服の懐に突っ込んでいたカードを見せつけてみるも、やはりそれで誤魔化されてくれる姉ではなかった。

コンコンと扉の脇にあるモニターを示してくる。ああ、そうか。あれで解錠の履歴を確認出来るのだったな。

 

「管財課で一時的な貸与を受けました」

 

私がシンボリフレンドが同性同士であり、かつ実の姉妹ということも上手く作用したのだろう。

レース界隈で長きに渡り名の知れた家系であるぶん、信用もそれなりにあるらしい。まぁ、たった今それを私が貶めている真っ最中なのだが。

罪悪感はあるが、しかしこの件で手段を選ぶつもりは毛頭ない。行儀のよさで戦争に勝てれば誰も苦労しないのだから。

 

「管財課……本当にあそこは、いつもいつも脇が甘い。連絡ぐらい寄越して当然だろうに、それすら手間なのかアイツらは」

 

「昨日今日と忙しかったからではないでしょうか」

 

「誰のせいだと……ッ!!」

 

一瞬、凄まじい表情でこちらを睨み付ける姉。

 

無理もない。

ミスターシービーのトレーナーであり、尚且つ私の実姉といういわば明け方の事件の両当事者と最も近い立場にある彼女は、今の今まで責任者として管財課と学園上層部に拘束されていたのだから。

とはいえ、元はといえば貴女が原因だとも思いますけどね。私は。

 

「……まあいい。それにしても、入学早々やらかした問題児によくもまぁそんな"柔軟な対応"をしてくれたもんだね」

 

「あぁ、申請したのは昨日のことだったので。HRが終わった直後のことです」

 

新年度初日はどこも忙しいから、きっと簡単にこちらの言い分が通ると考えての事だった。

期待通りにカードを貰えてからは、ここに立ち入る機会を虎視眈々と狙っていたのだが、まさかこんなに早く訪れるとは。

 

「迅速果断だね。だけどその結果についてはちゃんと考えたのかい。この件を上に報告すれば、いよいよルナの退学は免れないだろう。連日で騒ぎを起こす総代なんて前代未聞だ」

 

「その時は一緒にこの学園を後にしましょうか。ああ、二度も顔に泥を塗られた管財課への挨拶も忘れずに」

 

「ねぇルナ、私を困らせてそんなに楽しいかな?」

 

「楽しくはありませんが、いい気味だとは思っていますよ」

 

私がトレーナー君に向ける想い、そして私と彼のデビューが奇跡的に一致することも全て知った上であの移籍を進めたな。

ミスターシービーの実力も、その立場もよく理解している。どう考えても推薦移籍の対象となるウマ娘だとは思えなかった。それは誰の目から見ても明らかだったろう。

 

私とトレーナー君が契約を交わすにおいて、最大の障害となるのはお互い中央に入れるかどうかだった。

そこを乗り越えた以上、本来であればこうしていらぬ手間を踏む必要もなければ、無意味な騒ぎを起こす意味も無かったのだ。誰かが余計なことをしていなければ。

 

「勘違いしているようだけど、私はなにもルナの敵というわけじゃないさ。今回の件に関しては中立。どちらにも肩入れするつもりはない」

 

不機嫌な表情を引っ込めて、代わりにいつものへたへたとした不気味な笑顔を貼り付けながら、姉は余裕たっぷりに両腕を広げる。

 

「感謝して欲しいな、むしろ。本来であれば、私は全面的にシービーの肩を持つのが筋なんだよ?それを姉妹の情けで五分にしてあげてるんだからさ」

 

「……ならどうして、あんなわけの分からない移籍を認めたんだ!!」

 

「決まってるだろう。あの子のためさ」

 

あの子……というのは、トレーナー君のことだろう。

姉は昔から彼のことをそう呼んでいた。実際にはそこまで歳も離れてないというのに。

 

「あの子には最初から推薦をあげるつもりだった。そもそも、その為にスカウトしたのがシービーだったんだ。それがここまで大成したことこそが想定外だったんだよ。もっともそれは、私の未熟な審美眼故だけども」

 

「どうしてそんなことを。姉さん……」

 

「その方が合理的だからに決まっているだろう?どうせ組ませるつもりなら、最初から互いの特性と噛み合うように育てた方が将来の実績が望めるからね。ああ、そういう意味ではシービーのためとも言えるか」

 

「違う。そういう意味ではない。あまりにも手厚すぎるだろうと言っているんだ。貴女はそんな、面倒見のいいウマ娘じゃないだろう……それが、どうして彼にだけ」

 

特別移籍の趣旨についても私は知っている。

姉の行ってきたことは、確かにそれに沿うものではあるだろう。

 

だが、余りにも手が込みすぎているのだ。

元々チーフトレーナーに旨味がなく、推奨でしかない制度。ましてや、移籍した後のことまで考えて教育するなど度が過ぎている。

だいたいトレーナー君がそうして実績を積み上げたところで、彼女にとって手強い商売敵が一人増えるだけなのに。

それを弁えた上で、なお善意で塩を送る程シンボリフレンドは甘いウマ娘ではない。姉をこう評するのは気が引けるが、彼女は極めて偏屈なのだ。とりわけ人と深い付き合いになることを拒む性質の筈だ。

 

いきり立つ私を平然とした顔で見返しながら、彼女はゆっくりと、嘲笑するように唇を引き上げる。

 

「君と同じ……と私が言ったら?」

 

「それはどういう意味だ。またのらりくらりと誤魔化すつもりか」

 

「そのまんまの意味さ。少し話をずらすけど、そもそもルナがシービーに張り合える部分はなんだい?お遊びじゃない、真面目に仕事の一環としてあの子はこの一年間、彼女と向かい合ってきたんだよ。それと比べて君にはなにがある」

 

「それは……でも、私は昔からずっとトレーナー君と一緒に」

 

「それは私も一緒なんだけどね。私とルナが最初にあの子と出会った日の違いなんてほんの数日だろう。それとも異性としての交わりの深さだと言いたいのかな?それなら……私の方がルナよりずっと先を行ってると思うけど」

 

「え……」

 

「なにを驚いた顔をしているのかな。私とあの子は大人同士なんだから不思議でもなんでもないだろうに。そしてそうして積み上げた情愛が、先の質問の答えだとしたらどうする?」

 

嬲るような、勝ち誇るような囁き。

その流星が走る前髪の下で、私と同じ色をした瞳が蝋燭のように揺らめいている。

 

その言葉の意味が分からない程、私はもう子供ではない。だけど、その裏に潜む真意については全く読み取ることが出来なかった。

どうにもならず押し黙ってしまった私を、姉はさも可笑しそうに笑い飛ばす。

 

「ふっ……はは、あっはははははっ……あー……普段クソ生意気なルナもそんな顔するんだ。大丈夫大丈夫、ちょっとからかってみただけだから」

 

「もし冗談だとするなら余りにも品が無さすぎます。言葉を返させて頂きますが、私を困らせてそんなに楽しいですか」

 

「楽しいよ。なにせ私は君のことがこの世で一番大嫌いだからね。本当なら顔だって見たくもない。あの夏もそう。贅沢な悩みでうじうじしてるガキを何度ぶん殴ってやろうと思ったことか。一瞬、私への当てつけかとすら思った」

 

「逆恨みですか。ここまでいくといっそ清々しい」

 

「カインコンプレックス。君には一生理解出来ないだろう。アスカもまぁ、ルナを越えるのは流石に厳しいかな……うん、だからあの子のことはちゃんと好きだよ」

 

かつて競技ウマ娘として戦った学園に、今度はトレーナーとして挑んでからはや数年。

同期の星として随分名を上げた彼女だが、その捻れた性格は完全には矯正されていないらしい。カストルの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい程だ。

だいたいこういう性根の癖して、私やアスカがねだれば遊んでくれるのも中途半端というか振り切れてないというか。シリウスぐらいに偏ってくれていれば扱いやすいものを。

 

「うん、だからね。そんな私があえて手を引いていてあげるというんだから、精々頑張ることだね。ここで逃したら、ルナがあの子を捕まえるチャンスはこの先ほぼ無いだろうから」

 

「分かっていますよ。だからこうして形振り構わずやっているんでしょう」

 

「言っておくけど、ルナが負けても私は君を拾わないから。悪いけど別のトレーナーの所に行ってね」

 

「言われなくとも。そもそも悪いとも思ってないでしょうに。それにしても、トレーナー君とは酷い扱いの差ですね」

 

「師弟の繋がりは血の繋がりよりも濃いからね。まぁ、どうせルナなら私と違って引く手あまただろうから、行くところには困らないだろう」

 

そういうところも嫌いなんだけどね、と彼女は皮肉げに独りごちる。

 

「あの子を捕まえようが他の連中の所に行こうが、将来君に初めて土をつけるのはこの私だ。ああ、実家の連中がどんな顔を見せるか今から楽しみで仕方ない」

 

「面白いことを言いますね。私は誰にも負けませんよ。絶対にね」

 

「レースに絶対なんてありはしないさ。ルナがつい昨日まで、"絶対に"あの子の担当になれると盲信していたみたいにね。現実は非情だろう?」

 

言いたいことを言ってすっきりしたのか、姉は私の横を抜けてリビングのソファに向かう。

スーツも脱がず、ネクタイだけを緩めると深々と背中を沈めて気だるげに足を組んだ。

 

「お仕事は?」

 

「休み。あんまり有給を溜め込みすぎると理事長にどやされるからね。こういう時にせっせと消化しておかないと」

 

「となると、トレーナー君も休みでしょうか」

 

「知らない。知ってても教えるわけないだろ。個人情報なんだからさ。どうしても気になるんならたづなさんにでも聞いてみたらいい」

 

「とっくに尋ねてはみたんですけれどね」

 

なんだかんだと上手いことはぐらかされてしまった。

そもそも彼女は今日も仕事だ。曰く彼女自身が昨晩潰してしまった人員も兼ねているらしく、一年で最も忙しい一日らしい。なので、あまり粘るようなこともしなかった。

 

折角ここまで来たのだから、もう少し姉と話をしていこう。

ひょっとしたら、なにか手がかりぐらいは掴めるかもしれないからな。

 

対面のソファに腰かけた私を、彼女は特に拒む様子もなく受け入れる。

一人部屋に二つは過剰な気もするが、おおかた応接間としての役割を担っているのだろう。それに、この部屋のソファはどちらもだいぶ使い込まれているらしい。

顔を上げて、リビングに漂う残り香に精神を傾ける。……ほんのりと、トレーナー君の匂いがした。それに少しだけ心が落ち着く。

 

「あの子なら、前は毎晩のようにここに来ていたからね。サブトレーナーなんてのはとにかく知識と経験を積み込む時期だから」

 

私が考えていることを察したのか、そんないらない解説をくれる。

さらには肘の下からぬいぐるみを取り出して見せつけてきた。見栄えのしっかりしたそれは、自身を抱えるウマ娘と全く同じ外見をしている。

 

「ぱかプチ……?いや、姉さんは実装されていない筈……」

 

「そう。これはあの子が私のために作ってくれたの。気が向いたからって。すごいよね」

 

「………」

 

胸がムカムカしてきた。

姉の自慢気な態度が癪に障ったからだ。これは嫉妬じゃない。

 

そっと、私は右耳に提げたイヤーアクセサリーに触れる。

少しだけ揺らして見せた瞬間、彼女は不機嫌そうにこちらを睨むとややあっておもむろに口を開いた。

 

「折角だから話してあげようか。ルナのいなかったあの一年間。私とあの子の蜜月について懇切丁寧にね…」

 



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待ち構える者

お出かけと一口に言ったところで、その内容は実に様々だ。

病院での検診や敵情視察、新しい用具の買い出しに他の学園との交流といった、レース競技そのものと密接に関係する活動もあれば、映画鑑賞やショッピングに興じたり、カラオケや遊園地へ足を運んだりと完全なるリラクゼーションまで。カラオケならライブの練習にもなるだろうが、その主目的はなにを置いても息抜きである。

メンタルケアも競技ウマ娘にとっては必要不可欠なこと。故に、これも立派なトレーニングの一環だといえる……かもしれない。ぶっちゃけてしまえば、学園の自由すぎる校風の産物でしかないと思うが。

このあたりもまた、とりわけ小学生のウマ娘にとっては進路として魅力に映るのだろう。良くも悪くも普通の学校に通っていた私にからしても、少しだけ羨ましく思えてしまう。

 

そう考えると、今日のお出かけはどうにも味気ないものだった。

あのまま街へと繰り出してはみたものの、肝心のやるとこがないのは事実であったが。しかしそれならそれで、歓楽街でもぶらついてみればいくらでも楽しそうなことは見つかっただろうに。

私は自転車のペダルを漕ぎながら、隣で駆けているシービーをそっと見やる。上下にジャージを着込み、川沿いを走り込む姿はどこからどう見てもトレーニング中そのもの。息抜きになっているとは到底思えないのだが。

 

私に見られていることを感づいたのだろうか。

シービーは前を向いたまま、目だけを動かしたこちらに視線を寄越してくる。

 

「風が気持ちいいね。別に学園のターフがダメって言うわけじゃないけどさ、たまにはこうしてお外でランニングしてみるのも乙だとは思わない?」

 

「外で走りたいならわざわざお出かけにしなくても良かっただろうに。普段も神社で階段ダッシュしたこととかあったでしょ」

 

「あれ嫌い。というか、え……なに。お出かけって回数制限とかあったりするの?」

 

「いや、そういうのはないけど。別に有給休暇とかじゃないし。単純にメリハリの問題」

 

普段のトレーニング中に学園の外へ出ることは当然あるものの、結局やることはほとんど変わらない。

そうではなく、わざわざお出かけを使う場合にはやはりいつもとは違う行動を含むものであり、飴と鞭でいう飴なのである。もっとも遊びと思ったら予防注射に連れていかれる可能性だってなきにしもあらずなので、ウマ娘側にしたら完全に気を抜けないものではあるが。

 

「アタシにとっては走ることが一番楽しいよ。むしろ、無理して遊ぼうとする方がかえって気疲れするし」

 

「君自身がそれでいいならいいけど。私にとっては本当に代わり映えしてないからな」

 

「いいじゃん。こうして桜並木の中を二人で走るのも青春っぽくて。アタシは徒歩でキミは自転車なのがちょっと締まらないけど」

 

シービーの言うとおり、私は近辺で貸し出されていたロードバイクで並走している。

私が走れない体だという事情もあるにはあるが、そもそも両足が満足だったところでどのみち彼女には追いつけまい。軽く流している都合上、スピードこそ成人男性でもなんとか手の届く範囲ではあるが、それを数十分も維持するともなれば話は変わってくる。

ウマ娘のトレーナーならともかく、人間である場合は担当と並んで走るには文明の利器を頼らねばならない。こういう時に便利なのはやはり原付であり、学園に戻ればそれも貸し出して貰える筈だったのだが。

スーツ姿でペダルを漕ぎ続けるのも中々大変なのだが、これも仕事と割り切るしかあるまい。たづなさんだって車しか持っていないわけだし。

 

「青春といえば、トレーナーの学生時代はどうだったのかな。アタシと同じぐらいの歳の頃。甘酸っぱい思い出とかなかったの?」

 

「ないな」

 

「うわ、即答……本当に?本当に一つもなかったのそういうの」

 

そういうの、と聞かれても余りにも漠然とし過ぎていて答えにくいのだが。

記憶の底をさらってみるものの、取り立てて語るようなエピソードが見つかるわけでもない。思い当たる節がないわけではないのだが、生憎ぼんやりとしか思い出せないのだ。

それほど昔の出来事でもない筈なのだが、つまるところそれだけ私にとっては大して思い入れもなかったのだろう。良くも悪くも普通の学生生活だったのではないかと、まるで他人事のようにそう振り返る。

 

「全くないというわけでも……うん、やっぱりよく思い出せないな。忘れたということは、たぶんその程度のものだったんだろう」

 

「ひどいなー。向こうはキミのことずっと忘れられないでいるのかもしれないのに」

 

「ないない。きっと今頃は大学で青春の続きを謳歌している頃だろう。いや、もうそろそろ就活の時期かもしれないけど」

 

進学校なだけあって、同級生の殆どは大学に進学したわけだし。

殆ど……といっても、高校卒業してすぐに就職したのは私だけか。中高一貫校だったから、私が中学から意識していたのも受験ではなく中央のトレーナー試験だった。そういうすれ違いというか、見据える将来があったところも記憶に残らない原因の一つなのだろうか。

私にとっての学生時代は中央ライセンス取得のための準備期間というか、受験資格を満たすための必要不可欠な過程というか……要するに過程の一つだったのだろう。

生徒たちの学園における過ごし方についてあれこれ考えてしまうのも、あるいはその反動なのかもしれない。別に、あの頃の過ごし方を後悔しているとかそういうわけでもないのだが。

 

「でもさっきなんか言い淀んでたよね?少しぐらいはあるんでしょ、学生時代のなにか語れること。いいから教えてよ」

 

「いや、語るとかそういうレベルですらないというか。どこまでもまとまりのない自分語りになるだろうけど」

 

「いーよそれでも。最初から期待なんかしてないから……それとも本当になにもないの?」

 

つまらない人生だね、などと容赦なく突っ込んでくるシービー。仮にもそれが人にモノを頼む態度だろうか。

たぶんこのまま放置していても絶対に諦めることはないだろう。仕方ないので、とりあえず掘り返せたぶんの思い出をどうにか縫い合わせて形にしてみる。

 

「そこまで言うなら…そうだな、中等部時代の話だったか。一年か二年かは忘れたけど、最初に付き合った……」

 

「やっぱあるじゃん!ていうかなに、"最初"ってどういうことなの!?ねぇ!」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

結局、シービーとは一日中並走を繰り返し。

途中何度も休憩を挟んだものの、すっかり日が暮れかかった頃にはお互いもう疲労の限界だった。

いくらスーツ姿とはいえロードバイクを使っていた私はともかく、ひたすら走り込んでいたシービーにとってはさぞキツいトレーニングとなったことだろう。恐らく全力の半分程度しか出していなかっただろうが、明日は大事をとって戦術の講義かビデオ鑑賞ぐらいに止めておくべきか。

 

本来であれば、大きなレースを控えたこの状況でハードな練習を行うのはご法度である。

それでも許容したのは、過去のデータと照らして過度な負担のかからない範囲であったことと、シービー自身がセルフコントロールの巧みなウマ娘であったこと、それから今日のうちにストレスを発散させておきたかったことが理由だった。

大半のウマ娘にとって走るという行為は極めて効果的なストレス解消手段である。我々ヒトにおいても適度なランニングは精神の回復に繋がるが、本能的に走りたがりである彼女たちの場合はさらにその上をいく。

シービーもまたその例に漏れず、不安や緊張、苛立ちを抱えた場合はよくこうして駆け回っていた。調整期間だからと下手にそれを制限してしまっては、かえってレース本番での不調にも繋がりかねないのだ。

ストレスを抱えること自体が最早避けられないというのであれば、せめてそれを効率的に発散させておく必要がある。そういう意味では、なるほど今日はお出かけとしての意義もあったのかもしれない。

 

「あーあー。よく走ったね今日は。どうしようかトレーナー、このままホテルでも探そうか」

 

「探さない。そもそも外泊届出してないだろう君。もういい加減腹を括って学園に戻るんだな」

 

「えー……」

 

「えーじゃないよ。だいたい私だって憂鬱なんだから……」

 

だからそんなに腕に巻き付いてくるな。

私が昔の話を聞かせてやってからずっとこれだ。なにが琴線に触れたのか知らないが、せめてそういうことは二人きりの時にして欲しい。さっきから人とすれ違うたびに二度見されているのが分かる。

これが先生相手ならまだ様になっていたのかもしれないが、生憎彼女は中等部二年に上がったばかりの少女だ。黄昏時にスーツ姿の成人男性と組んずほぐれつで歩いてる様は非常にいかがわしい。何人かの男性はどこか羨ましそうにこちらを眺めていたが、当の私としては気が気でなかった。

私がトレーナーバッジをつけておらず、彼女が学園指定のジャージを身に付けていなかったら、今頃は巡回中の警察官に囲まれてお話をさせられる羽目になっていたことだろう。

 

長い影を二つ並べながら、夕焼けの学園通りをひっそりと歩いていたところ、懐のポケットに仕舞っていたスマホがバイブを鳴らす。

丁度ジャケット越しに耳の当たっていたシービーは、一瞬肩を跳ねさせた直後に不愉快そうに形の良い眉を吊り上げたものの、それが業務用だと察した途端に大人しくなった。

 

「なぁに。またお電話?今日は多いね」

 

「だから君たちのせいなんだろうに。それに電話じゃなくて通知かな、これは」

 

はっきり言って、もうなにが来ても驚くことはあるまい。

なにせ朝っぱらから既にやらかし済みなのだ。これ以上状況が悪くなる余地はないだろうという、悲壮な信頼感が胸中を占めていた。今の私にとって、恐ろしいものといえばもう理事会からの解雇通知ぐらいである。

 

「あ、先生からだ」

 

着信の表示があるウマネットを立ち上げて、メッセージボックスを開くとそこには恩師からのメールが届いていた。

ご丁寧にもパスワードまでつけられている。ヒントは添付されていないが、とりあえず私の生年月日を入力してみたところあっさりと開封出来てしまった。

 

そこに記されていたのは、数行の簡潔な状況報告。とりあえず、ルドルフは今日いっぱい先生が相手をしてくれていたらしい。

なんでも、放っておけばいずれ私たちの居場所を特定して乱入していただろうとかなんとか。

それこそ私が最も懸念していた最悪の事態だったので、未然に防いでくれた彼女のファインプレーに心の中で手を合わせておく。まぁ、この状況の3割ぐらいは貴女にも責任があるんですけどね、先生。

 

私用のウマインではなく、わざわざウマネットの方にメッセージを送ってくるのも分かっている。

プライベートのスマホは起動するどころか、それが収まっているポケットへ手を伸ばすたびにシービーが物凄く拒絶反応を示すのだ。先生もまた、そういったこちらの状況についておおかた見当がついているのだろう。

そのままルドルフを回収していったりは……しないか、流石に。口ではあれこれ言いながらも決して仲が悪いわけではないのだが、あの姉妹の関係も中々に複雑である。

お互い一筋縄ではいかない猛者同士、拮抗しているのが本当に性質が悪い。

 

「ねぇ……帰ったら怒られるかな」

 

「むしろなんで怒られないと思ったんだ。間違いなく、朝の件で一番不味い立場に置かれたのは先生だからな。明日はそれはもう覚悟しておくと良い」

 

「……やっぱ逃げない?今から」

 

「諦めなさい。こういうのは後に回せば回すほど雪だるま式に膨れ上がっていくからね」

 

あの人に限っては、絶対に泣き寝入りしないだろうという確かな信頼感がある。

意外に……でもないか。かなり根にもつタイプでもあるので、向こうが先に諦めるというセンも薄い。いかんせん知能と闘争心が高すぎるぶん、思考を割くのはどう落とし前をつけさせるかというその一点でしかない。

そういうところもまたルドルフにそっくりなのだが。間違いなく灸を据えられるので本人の前では口にしないけども、おおかた母親からの遺伝だろう。まだ幼いアスカにも既にその傾向があるし。

 

ずるずると、重い足とタコのようにへばりつくシービーを引きずりながら前進していると、ようやっと学園の正門に辿り着いた。

空が赤く焼け、カラスの鳴き声が目立つ時間帯。一日限りの余暇を満喫してきたのか、私服や制服の生徒たちが続々と軽い足取りで門を抜けていく。

そして、門柱の傍らに佇んで彼女らを出迎えている女性が一人。

 

「あら、おはようございます。トレーナーさん」

 

「ええ、こんばんはたづなさん」

 

「ただいま。ミズ・たづな」

 

「お帰りなさい。ミスターシービーさん」

 

のろのろとした足取りで門を潜る私たちを、いつものニコニコとした表情で見守るたづなさん。

 

おはようございます、などと一瞬皮肉かと思ったが、よくよく彼女を見てみればそれは違うと分かる。

身体強健、常識はずれの体力を誇るたづなさんだが、それでも今日は明らかに疲労を隠しきれていない。学園事務の要である彼女も今日は休めず、それどころか抜けた他の職員の穴埋めに奔走していたのだろう。いくらウマ娘が身体的に恵まれているとはいえ、昨日あれだけ飲んだ翌日にそのようなパフォーマンスを発揮出来るのは驚異そのものではあるが。

そんな彼女も、しかし一日の終わりに差し掛かったこの時間では流石に頭が回っていないらしい。金太郎飴な声かけしか出来ないこの様では、とてもじゃないが皮肉を練る余裕なんてないと見える。

昨晩のお礼も兼ねて少しお話でもしていきたかったのだが、今日のところは諦めることにした。私とシービーはそそくさと門を後にする。

 

そういえば、今朝はなんの挨拶もせずに部屋を出ていってしまったのだったか。

幸い合鍵で施錠はどうにかなったが、せめて書き置きぐらいは残しておいても良かった気がする。

それと今更だが、いくら見知った間柄とはいえ自宅の鍵まで預けてくる彼女はあまりにも危機感が足りなさ過ぎるような。ただでさえウマ娘は外見から実年齢を測り辛く、私も彼女の歳は知らないものの、なんにせよ独り身の女性の振るまいとしてはあまりにも不用心が過ぎるだろう。

それが信頼の証だといえば聞こえは良いものの、私以外のトレーナーにもこんなことをしているようでは心配だ。今度会った時に、それとなく事実確認でもしておこうか。

もっとも、私自身は合鍵を返却するつもりは無いけれども。避難所として便利だし。

 

「ヤバイね、たづなさん。事務方があれってことは、生徒会の方はもっとヤバそう」

 

「生徒会……そうだ、そっちの仕事は大丈夫なのか。って言ってももう遅いかもしれないが、せめて顔でも出してきたらどうだ」

 

「大丈夫。マルゼンに全て任せておいたから、きっと上手くやってくれている筈」

 

「やっぱり生徒会室に行っていきなさい、シービー。仮にも彼女は先輩なんだから……」

 

しつこく私の胴にひっつくシービーを振りほどき、本校舎の方向へと強く背中を押し出してやった。

本音では生徒会の事情についてはどうでも良いのだが、ここできっぱり別れておかないとああだこうだと理由をつけて何処までも着いてくるのが目に見えているからだ。

 

「…分かったよ、トレーナー」

 

意外にも、シービーはあっさりとこちらの言うことに従ってくれた。

てっきりもっと抵抗されると覚悟していたのだが。私に頭を擦り付けていたせいでズレた帽子の位置を整えると、いやに堂々とした足取りで校舎へと向かっていく。

彼女にもようやっと生徒会長としての自覚が芽生えて……ないな、これは。なにかろくでもないことを考えているような予感しかない。

 

「念のため言っておくけど、ちゃんと真っ直ぐ生徒会室まで行くんだぞ。あとマルゼンにもよろしく言っといてくれ」

 

「ほいほーい」

 

呑気な返事と共に、パタパタと尻尾を振って去っていくシービー。

その姿が十分に小さくなったのを確認してから、トレーナー寮に向かって早足で移動を開始する。私も学園の敷地でいつまでも突っ立ってるわけにはいかないのだ。獅子に見つかる前に、さっさと聖域へと戻らなくてはならない。

 

道中、ウマインから本日の業務終了の報告を上げておく。こういう時、わざわざ校舎に足を運ばずとも指先一つで全てを片付けられるのは素晴らしい。

ついでに私用のスマートフォンについても、恐る恐る起動する。鬼のように繰り返されていたバイブ。願わくは、端末の誤作動であって欲しいのだが。

 

「ひっ……」

 

本能的にスマホを放り出しかけて、すんでの所で耐えきった。

 

履歴が埋まっている。

遡れる限界まで辿ってみても、表示されているのは全て同じ番号。まるで時報のように、一定間隔からなる大量の不在着信で画面が埋め尽くされていた。

人というのは、電話のコールという単調な作業をかくも繰り返せるものなのか。想像を絶する光景に、恐怖を通り越して狂気すら感じられる。

これを押さえ込んだ先生はなんなんだ。正直貴女のことすら怖くなってきた。

 

やってられないぞ。

こんな学園にいつまでもいられるか。私は自分の部屋に帰らせてもらう。

 

寮の玄関に飛び込み、ふかふかと絨毯の敷き詰められたホールを最高速度で突っ切ってエレベーターのボタンを連打する。

もうお仕事は終わったんだ。各方面への挨拶回りは明日でも良いじゃないか。

今日はもう寝よう。ゆっくりとシャワーを浴びて、冷たいビールを呷ったらそのままベッドに飛び込むんだ。

シービーに抱きつかれてぐっしょりと汗の染み込んだ着物については、明日の朝イチでクリーニングにでも出しておこう。

 

永遠にも思える数十秒の後、ようやく自室のある階まで辿り着く。

職員カードで玄関を開けると、モニターに表示されたログには覚えのない解錠記録。どこかで見たような展開ではあるが、しかしそんなことに思考を割いている暇はない。

施錠はオートロックに任せて、土間で靴を脱ぎ捨てる。颯爽と廊下を抜けて、無事私はリビングの扉へと辿り着いた。

 

ほっと一息ついて、ネクタイを緩めて中に入る。

私に気づいて、腕を組んで壁に体を預けていたルドルフがにこやかな笑顔でこちらを出迎えてくれた。

 

 

 

 

「やあ、こんな所で奇遇だね。トレーナー君」

 

 

 

 

 



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何もかもを踏みにじってでも

 

「やあ、こんな所で奇遇だね。トレーナー君」

 

柔らかな笑みと共に、そう私を出迎えてくれたのはシンボリルドルフ。

 

それはどう考えても私が言うべき台詞なのだが。先手を打たれたこの状況で、どうにか頭を巡らせる。

黙ったまま、されるがままではどうにもならない。それどころかますますつけ込まれるだけだろうから。

 

「ただいま、ルドルフ」

 

とっさに口にしたのは帰宅の挨拶。

言ってからようやく後悔する。これではまるで、彼女がここにいることを容認したかのように思えるし、やもするとそれを歓迎しているようにすら受け止められかねない。

そこに思い至った所で時既に遅し。ルドルフはピクリと耳を動かし、噛み締めるようにほんの数回瞬きを繰り返した。

 

「うん、おかえり。それとお疲れ様。無事、中央トレーナーとしての初仕事を終えてきたというわけだな」

 

「ああ、そうだね。ありがとう」

 

何故それを知っているのか、などとは聞くまい。

先生の口振りからするに、彼女は学園において既に独自の情報網を築き上げているか、あるいはそれに指をかけている段階にある。

加えて言うなら、きっと彼女の支配が及ぶ範疇にもないのだろう。今まさに私の部屋にいることがなによりの証拠だ。

せめて日中だけは、私たちと遭遇しなかったことに感謝するべきか。遅かれ早かれ、こうなることは避けられなかったのだろう。

 

「ふふ……」

 

一歩一歩、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。

逃れるように、私も少しずつ後退して……すぐにリビングのドアに背中がついた。後ろ手にノブを触れた瞬間、目前に迫るルドルフの双眸がすうっと細まる。

 

「……往生際が悪いぞ、トレーナー君。どうか無駄な抵抗はやめて欲しい。手加減するのも中々どうして大変なんだ」

 

「人を虫かなにかみたいに」

 

「分かってるじゃないか。蝶の羽をもがないよう、優しく指で捕まえるのは大変だろう?」

 

「……」

 

「君を傷つけたくないんだ。大切だから」

 

くいっと、首を動かして扉から退くよう指示される。一度立ち止まったのは、猶予を与えたつもりなのか。

 

ここから玄関までの道筋、さらにその先を辿ってみたところで、彼女を撒く方法が一つも思い浮かばない。それに私は逃走という手段を選べない身体だ。

 

ルドルフとの距離はおよそ3メートル。

そもそも走る走らない以前に、ドアを開ける動作をする間もなく追いつかれるだろう。

それだけは避けなければならない。彼女に近づかれると不味いことになる。

結局、彼女の指示に従うほか無かった。リビングの中央へと進む私とすれ違ったルドルフは、そのまま扉の前でこちらに向き直り仁王立ちになる。これで、私は彼女を退かさない限り部屋から出ることは敵わない。

 

「そう、それで良い。それから君のスマホを貸してくれ、両方ともだ。この場に私たち以外の者は必要ないからな」

 

「私物のスマホならあるが……業務用は持っていない。新年度に向けて、総務課がアップデートしている最中だから」

 

「そうか。なら寝室の内線から君の業務用の方にかけてみようか。もしも、トレーナー君からコールが鳴ったら……まぁ、あり得ないだろうが。君が私に、嘘をつくなんてことは」

 

「っ……」

 

両方のスマホの存在、さらには電話番号まで既に知られていたか。それどころか、緊急用の内線についても把握されていたとは。

二つともポケットから取り出して差し出す。

 

「結構。一度は見逃すが、次はないものと思って欲しい。その時私がなにをしでかすか、自分でも分からないのだから」

 

「はいはい」

 

「はいは一回だよ。トレーナー君」

 

ルドルフは受け取ったそれらの電源を落とし、手の届く場所にそっと置く。

これで、こちらから外部に連絡を取る手段はほぼ失われてしまった。終業後とあっては学園からの業務連絡もなく、こちらの状況に気づいてもらうことも望めないだろう。

 

かかったウマ娘と二人きりの状況。

それもプライベート空間で、外部からの目は一切ない。唯一の脱出経路は塞がれ、通信機器も没収されたまさに陸の孤島だ。展開は全て向こうの手のひらの上にあり、こちらは生殺与奪を完全に握られている状態。

 

詰み。

完全なるやらかしだ。まずもって、こういった状況に身を置かないことがトレーナーに出来る最大の自衛であり、私はそれを怠ったのだから。

最後まで気を抜かず、油断せず、警戒を絶やさなければまだ引き返すことも出来たのに。聖域だと思っていたそこは獣の口で、そしてそれは今まさに閉じられてしまった。

 

「…とりあえず、そんなところに突っ立っていないで座ったらどうだ。二人きりで、話をしに来たんだろう?」

 

二人きり、という部分を殊更に強調する。私がこの状況を諦めて受け入れたという、いわば降伏宣言のつもりだった。

それを知ってか知らずか、ルドルフは扉の前から動こうとしない。腕を組み直し、じっとこちらを見つめている。

 

ざり、とふと片足が床を引っ掻くような仕草を見せた。ウマ娘が不満や催促を訴え、あるいは人の注意を引くために行う前掻きと呼ばれる行動。

そこから視線を上げると、ゆらゆらゆったりと揺れる豊かな尻尾。さらにその上では、ピンと天を突いた両耳がこちらを正面に捉えている。

 

……ふむ。意外だな。

 

耳と尻尾。これらはウマ娘の思考や感情が最も顕著に現れる器官である。犬が尻尾を振るように、猫がひげを曲げるように、ウマ娘は耳と尻尾で己を表現する。

とりわけ注目すべきは耳だ。他の部位と比べても最も感情表現が豊かな部分。

ウマ娘はなにかに興味を引かれた時、耳をそちらに向けるものだ。リラックスしている時は横に傾け、怯えた際にはペタンと伏せる。そして怒りを覚えると、そろって後ろに絞られるという特徴があった。

耳を後ろに寝かせた、不機嫌なウマ娘に迂闊に近寄るなというのは、トレーナーに限らず一般社会の常識である。とりわけヒトは学校で何度もしつこく教わるものだった。

 

今朝の出来事、それからたった今私を監禁した手際から推察するに、ルドルフは大層機嫌が悪いものだと思っていたが。

少なくとも表面上は怒りの感情表現が見られない。両耳が揃ってこちらを向いているのは、私に強い関心があるという証。

激昂されるよりはマシだろうが、それでも安心する気にはなれなかった。相変わらず穏やかな笑顔を貼り付けているが、彼女の目はまるで笑っていない。

 

「……その、久し振りだねルドルフ。最後に会ったのは二年ほど前だったかな、たしか」

 

「うん。実に716日ぶりの再会となる。それからトレーナー君、二人きりの時はなんと呼ぶんだったか」

 

「……ルナ」

 

「ふふっ、そうそう」

 

よく出来ました、と言わんばかりにうんうんと頷いてみせるルドルフ。

はにかむように目を細めるも、しかし私からは絶対に視線を外さない。磨かれた宝石のような、潤いを湛えた深い紫の瞳が抉るようにこちらをじっと見つめる。

それに晒されていると、まるで服を剥かれて一糸纏わぬ裸にされて、全身を余すところなくつまびらかにされているような、えもいわれぬ羞恥が込み上げてきた。この場から逃げ出したかったが、たった一つの出口は既に潰されてしまっている。

 

実験動物を観察する科学者とも、ようやく手に入ったおもちゃを眺める子供とも異なる、もっとどろどろとした粘つくような視線。

 

ああ、これには見覚えがある。

思い出した……あれは確か、ずっと昔ルドルフがまだ小さかった頃。二人で街に繰り出して、とある展覧会に訪れた時のことだった。

テーマは戦後におけるレース競技の歴史だったか。目玉としてウィンドウに展示されていたのは、本物のクラシック三冠の優勝レイ。

命の次に大事なそれを貸し出すなんて奇特なウマ娘もいるものだと思ったが、それをルドルフはガラスにへばりついて見つめていた。

 

その目に映し出されていた色は、純粋な好奇心とも憧憬とも異なるなにか。

闘争心と独占欲に、執着を浸してかき混ぜ煮詰めたかのような渇望。邪魔するもの全てを叩き潰し、自分だけがそこに至ることだけを良しとする傲慢な欲求。

 

それを、そんなものをルドルフは私に向けているのか。

甘く見ていた。怒るだとかなんとか、そんな次元で彼女は私と対峙してなどいないのだ。感情のやり取りをする相手ではなく、首根っこを掴み地面へと叩きつけ、牙を突き立てる獲物としか捉えていない。

彼女は話し合いをしに来たわけでも、ましてや旧交を温めに来たわけでもない。

狩りに来たのだ。私を……ここは猟場で、彼女は罠を張っていた。そして、まんまとそれに引っ掛かった哀れな獲物がここに一匹。

 

逃げろ、と本能があらん限りに警鐘を鳴らす。

だけどどうやって。閉じられた部屋の中で、本気になったウマ娘から逃げきることなどヒトには不可能。

ルドルフと比べるまでもなく、私は生物として余りにも矮小に過ぎるのだから。

 

「ルドルフ、座って話をしよう。お互い一日も終わって疲れただろう」

 

「必要ない。そうだな、トレーナー君が疲れたというならこのような茶番も切り上げるとしよう。早速だが、本題に移ろうか」

 

「本題、とは」

 

「おや、私の口から言わせたいんだね。君にももう既に察しがついているだろうに」

 

穏やかな微笑を引っ込めるルドルフ。代わりににやにやと、にたにたと唇を吊り上げた。

その隙間から、ちらりと太くて長い犬歯が姿を見せる。それは猛獣の威嚇そのもので、きっと彼女が仮面の下に忍ばせてきた本性なのだろう。

 

私を扉の前から追いやった時と同様、ゆったりとした足取りのまま再びこちらへと近づいてくる。

後退りした瞬間、跳ねるように一気に距離を詰めてきた。

ふわりと重力から解放され、宙に放り出される。

広いリビングの半分を一息で駆け抜けたルドルフが、私の両肩を捕らえてソファへと叩きつけた。

 

「ぐっ……」

 

痛みはない。が、衝撃で肺から中身が絞り出され、呼吸もままならない。

天井の蛍光灯を背にして、ウマ乗りになったルドルフが私の顔を覗き込む。逆光の下、影の差した彼女の顔はのっぺらぼうのように真っ黒だった。

ただ一つ、上顎の牙だけがいやに白くその存在を主張する。

 

 

「ただいま。迎えに来たよ、トレーナー君」

 

 

穏やかな、まるで子供を諭すような優しい声。

だがそれは、微笑みと口調で繕った仮面よりもよっぽど白々しい。

 

「頼んだ覚えは、ないんだけど」

 

「悪いが、拒絶を聞き入れるつもりはない。そもそも君だけと交わした約束ではないのだから」

 

「なにが言いたいんだ」

 

「それでいい。理解してもらうつもりはない。ただ一つだけ分かって欲しいのは、君にも責任があるということかな」

 

「なにを……」

 

開かれた玄関への扉と、寝室に繋がる扉の位置はどちらもそう遠くはない。だがこうして押さえ込まれてしまえば、最早身動ぎ一つするにも一苦労だった。

 

最悪、窓をぶち破って植え込みに飛び降りるか、ベランダを伝って他の部屋に逃げ込む選択肢もあったのだが。

こうして組み伏せられた時点でその道筋も潰えてしまった。完全に物理的な自由を失い、私の行く末は総て目の前のウマ娘に委ねられる。

 

「私の……責任とは?」

 

「一つ一つ挙げていけばキリがないな。たとえば、こうも他の女の匂いをつけて私を出迎えたこと」

 

こちらを見下ろすその瞳は、しかし私を捉えてはいなかった。さらに向こう、この場にいない別の誰かをしかと見据えている。

 

おもむろに上体を倒し、眼下で仰向けに倒れる私へと鼻を寄せてくる。

動体視力、空間把握能力、聴覚そして嗅覚。筋力に限らず、感覚器もまたウマ娘はヒトを遥かに上回っている。とりわけ他の同性の匂いに関しては敏感らしい。だからウマ娘と結婚したら浮気は出来ないのだと、かつて修習所の教官が冗談交じりに語っていたのを思い出した。

ああ、これが分かっていたから彼女を近づかせたくなかったのに。

 

「シービーとの一日は楽しかったかい、トレーナー君。私との接触を絶ってまで、一体二人でなにをしていた」

 

「"シービー"とはまぁ、随分と気安く呼ぶじゃないか。どうだ、少しは打ち解けたのか」

 

話を逸らした瞬間、頭の真横に勢いよく彼女の手が叩きつけられた。辛うじて布地こそ裂けなかったものの、凄まじい破裂音が鼓膜と脳を揺らす。

 

「……トレーナー君」

 

腹の底から絞り出すかのような唸り。

とうとう両耳が後ろに倒れ、全身の毛がぶわりと逆立った。まだ換毛を遂げていないそれは、覆い被さるルドルフの輪郭がまるで倍なったかのように錯覚させる程。

興奮で見開かれた瞳孔は爛々と踊り、食い縛られた犬歯が蛍光灯の灯りを反射しててらてらと不気味に輝いた。

 

地雷は地雷だったか。

こちらが意図的に伏せていた情報まで容赦なく暴き出される。なんにしても、私が彼女に逆らうことは許されないらしい。

いくら機嫌を損ねたとはいえ、いきなり暴力を振るってくるウマ娘でないことは誰よりも理解している。

ただしそれも、闘争心と自制心が紙一重のバランスで両立しているが故のことだ。その均衡が崩れてしまえばどうなるかは彼女にしか……あるいは彼女にすら分からない。

その仮面を取っ払った以上、慎重にならなくては。

 

「シービーとはお出かけだよ。知っているとは思うが、昨晩は職員の集まりがあってね。流石に昨日の今日で本格的なトレーニングは厳しい」

 

「それにしては、やけに彼女の匂いが強いようだが。余りにも不自然だ」

 

「ああ、お出かけといっても実際やったことは普段とそう変わらない……並走だよ。彼女の希望でね」

 

「すまない、言い方が悪かったな。トレーナーと担当の距離感として(・・・・・・・・・・・・・・・)余りにも不自然だと言っているんだ。なんだこれは、まるでマーキングじゃないか」

 

ルドルフが苛立たしげに尻尾を振り回す。左右に激しく動くそれは、あたかも鬱陶しい羽虫を叩き落とさんとしているかのようにも見える。

 

マーキングと言われても、私にはいまいちピンとこない。私に限らず、ヒトが汗の匂いから得られる情報や受け取れる感覚などそう多くはない。せいぜい快不快程度だろうか。

だがウマ娘にとっては違うようで、やはりヒトとは見えている世界の異なる彼女たちには特有の意味を持つものでもあるらしい。少なくとも、今目の前にいるルドルフにとっては無視できない痕跡のようだった。

こう言っては間違いなく怒られてしまうだろうが、動物や昆虫のフェロモンに近いのだろうか。

 

「なぁ、トレーナー君。私とて決して予定調和の如く中央に足を踏み入れたわけじゃない。君がこの二年間、トレーナーとなるため懸命に知識と経験を積み、技術を磨いている間……私もまた努力してきたんだ」

 

それは分かるだろう、という彼女の問い掛けに頷きを返す。

ルドルフが才能に恵まれたウマ娘であることは疑いようのない事実だ。とはいえ、それに水をやらず放置していれば芽は出ない。素質に胡座をかいているようでは、最高峰たるここに足を踏み入れ、ましてや総代に選ばれることは不可能だろう。

私はこの二年間、ルドルフとは連絡を取っていない。故に彼女がどんな日々を送ってきたのかも知れないが、それでも遊んで暮らしてきたわけではないということぐらい理解している。

 

「だからここの椅子を勝ち取った際には、恥ずかしながら少しだけ安心してしまったんだ。一息つけると。私にとってはこれからが本番だが、待ち望んだ杖にようやくもたれることが出来るから」

 

それは本心なのだろう。

長く深いため息を吐き出すと、ルドルフはそっと私の頬を撫で上げた。何度も何度も、その存在を確かめるような手つきで。

 

「……昨日まではね。あの式で君たちの姿を見て、そしてあの移籍の成立を知った時。まるでこの世の終わりのような心地だったよ。ああ、裏切りとはかくも心を痛めつけるのだな」

 

「別に、君の事を裏切ったつもりは毛頭ないが」

 

「そうだろうな。あるいは、私の一方的な気持ちの押しつけなのかもしれない。少なくとも、客観的に見ればそう判断せざるを得ないだろう」

 

淡々とそう告げられる。そう分かっていてもなお、彼女は絶対に退くつもりがないということか。

どこまでも自己中心的、得手勝手の極み。そう弁えていてもなお、自身の願望を成就させると宣言しているのだ。

 

「それでも私は諦めない。こんな結末は嫌だ。私にとって全てだった君を目の前で奪われ、それどころか舞台にすら上がらせてもらえない。そんなバカな話があるか。あってたまるか」

 

頬から手を離し、私の口に指を突っ込む。

乱暴にかき混ぜて引っこ抜き、濡れたそれを見せつけつように舐めとった。

 

「私を止めたいか。トレーナー君」

 

ルドルフはそう言うと、押し倒す直前に回収していたらしき私の仕事用のスマホに電源を入れた。

同時に私の両手を完全に自由にすると、ウマネットのログイン画面を立ち上げたそれを握らせてくる。

 

「なら、この場で私を通報するがいい。姉さんでも、君の兄でも、たづなさんでも、理事長でも、あるいは他のトレーナーでも警備部でも。警察でもいい。どこでも同じだろう。なにしろ現行犯だからね」

 

「そしたら……」

 

「間違いなく私は退学だ。入学式の翌日に二回も事件を起こして、それもヒトを襲ったとなれば。私は破滅し、シンボリの悲願もご破算になるが……君は解放される。拗れに拗れた、この状況からね」

 

 

 

「……さぁ、どうする。選択は君次第だ。トレーナー君」

 



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ひとつ屋根の下で

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解放された両手に握らされた業務用スマホには、警備部とのホットラインが設けられている。

ルドルフがそれを把握しているのかは知らないが、番号を入力せずともタップ一つで救助要請が可能である。いくら反射神経の優れるウマ娘といえども、その一動作を阻止することは不可能だろう。

 

実際、物理的には完全に詰まされたこの状況で、私に出来ることなど発報しかない。

かつ、それで事足りるのだ。現状危機に瀕しているのは私であるが、それを見られて最も困るのは他ならぬルドルフである。困るというか、そのまま破滅に直結することとなる。

 

なにも伊達や酔狂でわざわざ一人に一台最新の端末が支給されているわけではないのだ。

通報が入った瞬間、発信端末の職員IDとGPSですぐさま身元と所在が割り出され、速やかに学園中が厳戒態勢に突入することになる。待機中の警備ウマ娘のみならず、同時に警察にも報告が上がり場合によっては騎動隊すら現場へと派遣される念の入れようだ。

少なくとも現時点における行為については未遂で処理されるだろうが。しかし警察の調査が入る以上、必然的に朝の爆発事故まで芋づる式に掘り起こされることになる。一日に二回もU(ウマ娘)事案を引き起こしたとなれば、世間からの風評の悪化は免れないだろう。

だいたいそうなったら学園側も黙っちゃいない。結果的にどういった処罰が下されるかについては私の知るところではないが、ルドルフの競技ウマ娘としての将来が閉ざされることは疑いようがないだろう。

 

それを分かった上で、なお彼女は引き金を私に託したのだ。

自ら崖の縁に佇むルドルフ。私自身の手でその背中を押してみろと、助かりたいなら引き金を引いてみろと。旧知の仲であり、誰よりも競技ウマ娘としての才能に恵まれた彼女をターフから叩き出せるのか。他でもない、私自身の利益のためだけに。

 

「ズルいやり方だな、ルナ」

 

「チャンスをあげているだけだろう」

 

ずいと顔を寄せてくるルドルフ。

睫毛が触れ合いそうな至近距離で互いの視線が交差する。

あのにたにたとした笑いはすでになりを潜めていた。この窮地にすらなんの感慨も抱かないのか、微塵も焦りや不安の見当たらない落ち着いた瞳で淡々とそう告げた。

 

相手がウマ娘だったからと、力で敵わないから拒絶出来なかったのだという言い訳すら許さないつもりなのか。

ルドルフの言うとおり、恐らく最初で最後のチャンス。私が本当に彼女を拒みたいのならば、この場でシンボリルドルフの競争ウマ娘としてのバ生に幕を下ろしてやる他ない。

 

そんなこと、出来るわけがないと分かっている癖に。

それは私への信頼か、あるいはルドルフ自身の優れた観察眼による賜物か。いずれにしても同じことで、彼女にはこちらの気質と性格をほぼ完全に看破されている。

 

「トレーナー君は私を拒めないさ。私がただの部外者で、勘違いしているだけの女だと考えているのなら……それは間違いだ」

 

しばしの間、前髪が重なる程に密着して見つめあった後。

結論が出たと判断したのだろう。私の手からスマホを抜き取るとルドルフはゆっくり上体を起こす。

乱れた髪を軽く手櫛で整えた後、高らかにそう宣言した。

 

彼女が身をどかしたことで、蛍光灯の光が直接顔に射し込み目がチカチカする。

何度か瞬きを繰り返してそれを振り払った後、私もソファから上半身だけをもたげるとちょうど腰の上に乗っかったルドルフと向かい合う形になった。

こちらの方が身長は高いので、目の前ではルドルフのウマ耳のてっぺんがゆらゆらと揺れている。それらは正面ではなく斜め後ろ、廊下へと続く扉の方を真っ直ぐに捉えていた。

 

「…そこにいるんだろう、ミスターシービー。そんなところで立ち聞きしてないで、さっさと入ってきたらどうなんだ」

 

先程までの落ち着いた声音から一変、まるで挑発するような誘いを投げ掛けるルドルフ。

その直後、堂々とジャージ姿のシービーが扉の向こうからその姿を見せた。

 

「あ、もう入っていいんだ。お疲れトレーナー。災難だったね、こんな厄介者に目をつけられて無理やり襲われちゃってさ」

 

私に流し目を寄越しながら、やれやれと呆れた様子で肩を竦めるシービー。

いつからそこにいたんだ……まるで気づかなかった。ルドルフの言い様からしてかなり前から様子見していたらしいが。ただでさえ防音設備の整った環境に加えて、今の今までウマ娘にのしかかられていたのだから、そこまで意識が回らなかったのか。

 

シービーの手には彼女のウマホが構えられている。

すぐに突入せず待機していたのは、おおかた決定的瞬間を押さえようとでも考えていたのだろう。

 

「無理やりなんかじゃないさ。ちょっとした挨拶だよ。昔からの友人として、お互い積もる話もあるのだから」

 

鼻を鳴らすと、ルドルフまるで見せつけるように私の首へと腕を回してもたれかかってくる。

あれだけの事をしておいて、いけしゃあしゃあとそう言えてしまうのは流石だ。ふてぶてしいを通り越して、心臓に毛が生えている。

本当にこれがつい数ヶ月前までランドセルを背負っていたウマ娘の姿だろうか。

シンボリの英才教育とやらに、若干の疑念が生じた瞬間だった。

 

「昔からの友人ねぇ……。残念だけど、トレーナーにとってはキミも過去の思い出の一つに過ぎないらしいよ。御愁傷様」

 

「それは君の願望だろう。現実であって欲しいと思う気持ちは分からなくもないが……」

 

「現実なんだよね、それが。だってこの前、他ならぬトレーナー自身がそう言ってたし」

 

「ほぅ」

 

シービーの方へ向けていた顔をぐりんと回転させ、再び至近距離でアメジストの瞳と視線がかち合う。先程の落ち着いた様はどこへ消えたのやら、今度はひどく不機嫌そうに揺らめいていた。

 

そこでショックを受けたり、哀しみに暮れた反応を見せるなら可愛げというものがあるのだが。

こうして瞬時に攻撃性を顕にされると、申し訳なさより先に緊張と恐怖が心を支配する。本当に、膝の上にライオンの子供でも乗っけている気分だった。

見た目は愛くるしい少女だというのにまるで気が抜けない。伊達にシービーと正面からやり合っていないということか。

 

「やめて。こっちに流れ弾飛ばさないで欲しいんだけど」

 

「流れ弾もなにも、トレーナーだって当事者じゃん。私もね、その子には同情していなくもないんだよ。キミと昔馴染みなのは確からしいし」

 

ウマホを懐にしまい頭の後ろで手を組んで、あーあと気の抜けた嘆息を溢しながらシービーはこちらに近づいてくる。

射殺さんばかりに自分を睨みつけるルドルフの方は見ようともせず、私から見てやや後ろの背もたれにぽすんと腰かけた。

 

「トレーナーったら酷いんだ。ちょっとアタシがいなくなったら未練も愛想も尽かすんでしょ。そこの昔の女みたいに」

 

ルドルフに乗っかられたこちらが動けないのをいいことに、わしゃわしゃと思う存分私の髪の毛を撫で回してくる。

昔の女という言葉に反応して、向かい合って座るルドルフの眉間に激しく皺が寄った。ギリギリと、強く強く砕かんとばかりに歯を食い締めている。

振り回された尻尾がバシバシと私の手をひっぱたいてとても痛い。

 

「うりうり。うわ、すっごいサラサラ。男の人の髪の毛もバカには出来ないね」

 

「シービー……本当に頼むからやめてくれ。ルドルフが冷静さを欠くと私の胴が吹っ飛ぶんだ」

 

「やめて欲しいなら、まずはその子を下ろしなよ。キミたちが抱き合ってるのを見るのは全然面白くないんだけど」

 

「私の家で私がなにをしようが勝手だろ」

 

そうだ。

ここはあくまで私に与えられた寮部屋であって、彼女たちはなんらかの不正を用いてここに踏み入った侵入者に他ならない。

当局への通報は控えるとしても、ここにおいて私の意思は最大限に尊重されるべきである。

 

「ならアタシがトレーナーの恋バナを復唱するのもアタシの勝手だよね」

 

「分かった。ルドルフ、もういい加減降りてくれ。満足しただろう。代わりにそこの、空いたところに座っていなさい」

 

そう指示すると、ルドルフは渋々といった様子で床へと飛び降り、私が身を起こしたことで出来た隙間へと行儀よく腰かけた。

 

「降りるのは構わないが、その話後で私にもしっかり聞かせてもらうからな。トレーナー君」

 

「はい…」

 

ああ、みるみるうちに土壺に嵌まっていく。

もう観念しよう。これも自衛が足りなかった私自身の落ち度として甘んじて受け入れるしかないということか。

 

ようやく全身が解放されたので、しつこく髪を撫で触ってくるシービーの手を振り払うと対面のソファへと移動する。

何故かついてきたシービーがちゃっかりと私のすぐ隣に座ろうとしてきたので、慌てて元いた場所へと追い返した。ルドルフからやや距離をとりつつも、大人しくすっぽりと収まっている。

 

変なところで反抗的で、変なところで素直というか。二人とも行動の指針がまるで分からない。これがこちらの言うことになんでもかんでも反抗するのなら、それはそれでかえって扱いやすいのだが、彼女たちにはそれぞれ独自の行動原理が存在するらしかった。

レースにおけるその豪快な走りっぷりと時折見せる奇抜な行動から、自由人だなんだと人から評されるシービーだが、先生曰く自身が納得出来ない事は絶対にやらない頑固さも併せ持っているらしい。私の目から見てもそれは正しいと思う。

その辺りの線引きをもっと隅々まで解明すれば、こうして振り回されることもなくなるのだろうか。しかし、そこに至るまでには一体どれ程の月日が必要とされるのやら。

 

「なぁに、そんなにアタシのことをじっと眺めて。ああ、駄目って言ってるわけじゃないよ。ちょっと恥ずかしいけど」

 

「シービー、ちゃんと生徒会室には行ったんだろうな。君と別れてからまだ三十分も経っていないぞ」

 

「うん、ちゃんと顔は出したよ。キミに言われた通り真っ直ぐ生徒会室に向かって、顔を見せて、そうしてすぐにここまで帰ってきたの」

 

けろりとした顔でそんなことを宣うシービー。

すぐにというか、さてはコイツ本当に顔を見せてきただけだな。もっとも彼女が大人しく生徒会長としての職責に励むとは思えなかったから、マルゼンスキーがそこをどうにか引き留めてくれることを期待していたのだが空回ったらしい。

一応は次期生徒会長候補の筆頭だったわけだし、マルゼンスキーでも問題なく回せるのは事実なのだろうが……仮にも先輩に投げっぱなしなのはいかがなものだろうか。

 

「というか、"帰ってきた"ってどういう意味だ。ここは君の家じゃないぞ」

 

「昨日まではね。今日からここはアタシの家でもある。前にそろそろ同棲したいって話もあったから丁度いいよね」

 

「それ君一人が勝手に言ってただけでしょ」

 

「なんだっていいでしょ。もう、細かいな。それになにを言ったところで、アタシたちの部屋は戻ってこないんだからさ」

 

やれやれと困り顔で首を振って見せるシービー。

その隣では、ルドルフもまたうんうんと腕を組んで頷いている。

 

「そうだぞ、トレーナー君。残念だが、私たちはもうとっくに家なき子というわけだ」

 

「自分たちでぶっ壊したんだろうが」

 

「それはその通りだが、しかし現実として私にはもう帰るところがない。学園からは、一先ずは自分で用立てて欲しいとのこと」

 

まぁ、自業自得だからなと呟きながら、ルドルフはズボンのポケットから一枚のカードを取り出す。

そこには私の氏名と生年月日、職員IDが記載されており、顔写真の欄だけはご丁寧にもルドルフのものに差し替えられていて……これも、どこかで見たような展開だな。

 

「どうして、君がそれを」

 

「流石に学園の敷地でテント暮らしというわけにもいくまい。緊急避難ということで申請したら支給してもらえたよ。連絡が届いているはずだが……ああ、預かりっぱなしだったな。返そう」

 

テーブル越しにスマホを受け取り、急いでウマネットを立ち上げる。

今日になってもう何度目にしたかも分からないホーム画面。その左上にあるメッセージボックスには、確かに一通のメールが届いていた。

開いてみると、確かに彼女にスペアキーを貸し出した旨の報告と、有事における責任の所在について簡潔に記載されている。

 

管財課……!!やってくれたな!?

 

いや、こうなった原因は分かっている。

新年度に向けた設備の点検と寮の振り分け、そして今朝の爆発事件のせいだろう。その業務は多忙を極め、言うなれば彼らもまた被害者の一員に過ぎない……それは分かっている。

だとしても、寸前まで残っていた申し訳なさが急激に色褪せていくのは止められない。

 

これもまた、事務方と現場の認識のすれ違いの結果なのだろう。

どうも彼らは、我々トレーナーに対する信頼が過剰というか……直接ウマ娘に関わることは、困ったらとりあえずトレーナーに投げておけば良いと思っている節がある。

トレーナーという職業の専門性、あるいはライセンスの持つ社会的な知名度と信用性故だろう。餅は餅屋と言わんばかりに、私たちならウマ娘相手でもどうにでもなるという妙な期待があるのだ。

要注意ウマ娘二人が下手に学園外の施設を拠点に据えてトラブルを起こしたり、逆に事件に巻き込まれるぐらいなら、一応は学園の管轄下にあるこの寮に留まっておいてくれた方が安心できるという心情もあるのだろう。なにせウマ娘の側がそれを希望しているわけだし。

なんというか、文面だけはやたら申し訳なさそうにしているのがかえって腹が立つ。とりあえず、なにを置いても速やかな復旧を成し遂げて欲しい。

 

「そういうわけだ。今晩から世話になるぞ、トレーナー君」

 

「は?え……なに。ルドルフもここに泊まるわけ?定員は二人なんじゃないかなぁここ。ほら、ソファだって二つしかないし」

 

「だとしたら君が出ていくべきだな、シービー。さっきも見せただろう?トレーナー君が私を拒むことなどあり得ないのだから」

 

「ああ、あれ。たんにトレーナーの優しさにつけこんだだけに思えるけど。そうやってなんでも都合よく処理して生きてられるのは幸せだよね」

 

「羨ましいか?どうしてもというなら、廊下で寝るぐらいは許してあげよう。また私たちの営みを一人寂しく眺めているがいい」

 

「キミが出ていってよ。管財課が許してもアタシが許さないから。廊下にもいさせないからね。悪いけどアタシは同担拒否だからさ」

 

スマホと睨めっこする私を他所に、ぎゃいぎゃいとお互い噛みつき合いながら騒ぎ出す。

ブンブンと凄まじい勢いで振られる尻尾の風圧で近くの観葉植物の葉が一斉にざわめいた。ウマ娘の尻尾の用途はよく分かっていないが、一説には虫除けという機能があるらしい。しかしこれは最早虫どころかヒトにとってすら明らかに脅威だろう。

一見ふかふかと毛に覆われた柔らかそうな器官だが、その根元に秘められているのはただただ強靭な筋肉の塊に他ならない。

 

つくづく我々の想像を絶するというか、規格外な生き物である。ヒトにとって最も身近な隣人でありながら、同時に最も謎と驚異に満ちた存在。それがウマ娘なのだ。

まだ中等部の時点でこうももて余すのだから、彼女らが高等部に進級した後の事を考えると頭が痛い。これがただ早熟なだけならまだマシなのだが、恐らく……いや、十中八九彼女らは成長の余地を多分に残していることだろう。

将来が楽しみなのは間違いない。とはいえ、私にとって最も重要なことは今である。

 

「あー……もういい。やめろ二人とも。分かった、とりあえずは受け入れよう。美浦401が復旧するまでは」

 

「おや、いいのかいトレーナー君?自分で言っておいてなんだが、てっきり拒否されるものかと」

 

「さっきあり得ないとか言っておきながら……まぁ、シービーはともかくルドルフならどうとでもなりそうだけど」

 

それこそ、シンボリ傘下のホテルとやらにでも寝泊まりすればいい。

宿を借りる金に苦労するような身分ではないのだから。

 

しかしどうせなら、この際に二人の共同生活を少しずつでも成立させておくべきだと私は考えた。

たとえ部屋が元通りになったところで、彼女たちの関係性が今のままでは元の木阿弥。今朝の事故自体がそもそも過失であった以上、いつまたうっかり破壊に至ってもおかしくないのだから。

復旧までの仮処分の期間を使って、同じ部屋で寝泊まりすることに慣れてもらうべきだろう。他人の家を借りており、第三者も同居しているという状況であれば、彼女らにも一定のセーブが期待できる。

勿論美浦寮に戻った瞬間に自制心を失ったり、なんならこの部屋もまた破壊されるリスクだってなきにしもあらずだが。少なくとも、なんの対策もせず復旧作業の完了を待つよりはよほど有意義だろう。

 

「じゃあ、まずは部屋割りだな。君たちのベッドはこのソファだ。ちょうど二つあるし、中等部生の体格なら十分な大きさだろう」

 

「トレーナーは?」

 

「寝室のベッドを使う。当然だろう。家主なんだから」

 

「むぅ……トレーナー君。確かにこのソファは大きいし柔らかいが、しかし眠るとなると落ち着かないな」

 

「罰だと思って諦めてくれ。どうしても広々とした場所が欲しいなら床で寝るといい。カーペットもあることだし」

 

音を吸収するためにこの学園のカーペットは総じてふかふかと毛が長い。まぁ、これは冗談だが。

 

リビング一部屋にベッド代わりのソファが二つ。テーブルを挟んで程ほどに隙間があり、それは奇しくも学生寮の間取りと酷似していた。共同生活トレーニングの第一歩としては許容範囲だろう。

 

「オッケー決まりね。じゃ、アタシはお風呂に入ってくるから。トレーナーはともかくルドルフは邪魔しないでよ」

 

「言われなくとも」

 

颯爽と立ち上がり、リビングを飛び出して玄関に……ではなく、その途中の扉に指をかけるシービー。

 

「こら。おい待てシービー。どこへ行く」

 

「どこって……お風呂場だけど。使っちゃダメ?」

 

「駄目に決まってるだろう。寮の大浴場に行きなさい大浴場に」

 

 

 

…………本当に大丈夫だろうか?

 

 

 



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そうして一夜が明けて

 

ごそりと、布地の擦れる音に目を開けた。

 

カーテンに顔を向ければ、隙間から陽の光が射し込んでいる。ああ、もう朝になったのか。

結局昨晩は……そうだったな。ルドルフとシービーを泊めてやることに決まったんだ。冷蔵庫のビールで初仕事を終えた景気づけでもしようかと思っていたが、未成年二人を迎えている以上それも控え、シャワーを浴びて早々に床に就いたのだったか。

 

「んん……」

 

体が重い。

疲れがとれていないというわけでもないし、早く起きすぎたということもないだろうが、どうしてかベッドから起き上がるのが億劫だった。

おかしいな。特にやることもなく、いつもより数時間も早めに就寝したのだから、すこぶる快調になっていないとおかしいのだが。

年を取ると寝るだけでも体力を消耗するらしいが、生憎私は成人を迎えて一年も経っていない若者である。そこまで自堕落な生活習慣を繰り返している自覚もない。

 

トレーナーの仕事は体力勝負だ。

ただでさえ体力の消耗が激しい業務。一日の始まりを疲れを抱えたまま迎えるのは得策ではない。どうやら起床時刻までまだ少し時間もあるようだし、二度寝でもして少しでもリフレッシュに努めるとしよう。

そう考えて寝返りをうった瞬間、またしても違和感が一つ。

 

「……狭っ」

 

……どうしてこんなギチギチになっている。寝室のベッドはこれまた随分と立派であり、少し我慢すれば大人二人でも利用出来る程の大きさだ。加えて私が成人男性にしては小柄な体格であることも相まって、スペースにはかなりのゆとりがあった筈。

だというのになんだこの窮屈さは。折り畳み式の簡易ベットの方がまだマシだとすら思える。

 

異変の正体を確かめねばなるまい。

そう目蓋を上げると、体を丸めながら頬杖を突いているシービーと目があった。

 

「…おい」

 

「ん、ふふ。トレーナーおはよう」

 

「おはようじゃない。おいコラ、どうしてここにいる」

 

どこか慈愛の籠ったその微笑みは、男女の同衾としてはさぞ絵になるのかもしれないが。

しかし現実には彼女はただの居候であり、この部屋に招き入れた覚えもない。単身寮であるが故に寝室に鍵がついていないのが仇となったか。

一応即席のバリケードは築いておいたのだが、扉の方を見ると案の定ウマ娘の力業で正面突破されてしまっている。

 

「やだな。昨日の夜トレーナーが『寂しかったら遠慮しなくていいんだよ』って許してくれたんでしょ。寝ぼけて忘れちゃったのかもしれないけど」

 

「そんなしょうもない嘘で誤魔化せると思ってるんなら大間違いだからな。ならあのバリケードはなんだ」

 

「風水的なアレでしょ。キミはツキがないから、こういう所で地道に稼いでいくのは正しいと思うよ」

 

なにがツキだ。少なくともここ数日の災難に関しては全て人災に他ならない。

 

添い寝しながら見つめ合っているのは良くないので、仕方なしにシーツをはね除けて身を起こそうとした。が、やはりどうしても体が重い。動かすことすら難しい。

シービーが私の片足をその両足で挟み込み、ついでに腰回りには尻尾を巻き付けている。倦怠感の正体はこれか。建物を覆うツル植物よろしくこうも絡みつかれていれば重くて当然であろう。

 

とりあえず起き上がるのは諦めるとして、せめて向かい合うことだけでも止めようと再び寝返りをうとうとした瞬間、反対側のなにかに妨害された。

首だけ捻って後ろを確認すると、案の定そこに丸まっていたのはルドルフ。シービーとは違い、すやすやと微かな寝息を立てながら夢の世界に旅立っている真っ最中。この中で最年少かつ最も体の小さい癖して、じつにベッドにおける4分の3もの領域を一人で占領している。

あまりにも窮屈すぎて体勢すら変えられない。ついさっき目覚めた時のように、仰向けに天井を見ることすら出来ない。いくら三人で添い寝しているとはいえ、そのうち二人は中等部の女子であるにも関わらずだ。

寝返りをうった瞬間、生まれた隙間を抜け目なく支配してくる。飼い猫かなにかだろうかこの子は。

 

「ルドルフ。おい起きろ、起きないか」

 

「………」

 

稼働範囲限界ぎりぎりまで腕を伸ばして彼女の体を揺すってみるものの、一向に起きる気配がない。

そうだった。ルドルフはとにかく寝汚いというか、一度眠りに落ちると滅多なことでは目を覚まさないのだった。あのシリウス相手にベッド上の陣地争いで無敗を誇った実力は伊達ではない。あろうことか私にその牙を向けられる日が来るとは思わなかったが。

ウマ娘とはいえ、その体重はヒトの女性となんら変わらない。手足さえ自由に動けば、力ずくでベッドの端っこに追いやることも出来るのだが。

 

「いい加減離せシービー。というよりこの部屋から出ていけ。君たちの寝室はリビングだろう」

 

「やだよ。ここの方が寝心地がいいんだもの。そもそもいくら柔らかいからって、ソファで寝るのはなんか気が向かないし」

 

「我が儘だな」

 

「大事なことだよ。疲れがとれなくてアタシの調整に狂いが出ちゃったらどうするつもり」

 

「ぐ……」

 

そういう都合のいい時だけレースを持ち出してくるのは本当にズルいと思う。

その時点でトレーナーである私はなにも言い返せなくなってしまう最強のカードだ。それも使用回数が無制限の。

 

もっとも、シービーの言うことも一理ある。

寝るならちゃんとしたベッドの方が良いだろうし、だとしてもそんなものはこの部屋にしかないのだから。だとしてもせめて一言ぐらい声をかけろという話だが、熟睡中のこちらに配慮したのかあるいはこれ幸いと開き直ったのだろう。

私はどちらかといえば眠りは浅い方だ。

少しの物音で目を覚ますという程のものではないが、それでも近くで騒ぎ立てられればほったらかしには出来ない。

それでも今の今まで彼女たちの存在に気づかなかったということは、バリケードの突破からベッドへの侵入まで極力静かに手分けして事に及んだということか。本当に、利害さえ一致すれば協力出来るのが厄介極まりない。

 

ただの損得勘定と割り切ってしまえばそれまでだが、この二人は決して水と油という間柄でもないのだろうか。倶に天を戴かず、殺し殺されというレベルにまで深刻ではないのか。

ひょっとしたら仲良くなれるかもしれない。というよりなってもらわないと困る。

 

「トレーナーもさ、キミの目的からすればこれはこれで都合がいいんじゃない?」

 

「どういう意味だ」

 

「アタシとルドルフのどちらかをトレーナー……キミにとっての先生に預けるってやり方もあるのに。そうしなかったのは、ようするに私たちを一緒に生活させたかったからでしょ?」

 

トレーニングのつもりなのかな、と呟くシービー。

そこまで察しているならさっさと和解して欲しいものだが。いや、とりあえずはルドルフを権限なり腕力なりで部屋から排斥するのではなく、こうして大人しく同居しているのがシービーにとって最大の譲歩だということか。

 

「なら、別々のソファで寝るより一つのベッドを分けあった方がより仲は深まりやすいよね」

 

「かもね。で、どうだ。ルドルフとの親密度は上がったのか」

 

「あんまり。だってその子、シーツを被るなりすぐに寝ちゃったんだもん。交流もなにもあったものじゃないよ」

 

「交流ね……」

 

一応、歩み寄るつもりはあるということか。

お互い完全に相手をいないものとして扱う、いわゆる冷戦状態よりはまだマシなのか。その結果があの大惨事に繋がったのかもしれないけれども。

この辺りが、やはり全寮制における最も難しい問題なのだろう。どれだけ設備を整えたところで、肝心の寮生同士の相性についてはどうしようもない。他人に言われてどうこうなるものでもないのだから。

 

美浦と栗東、それぞれの寮に帰属意識と他寮への対抗意識を持たせることで、団結力の向上を図るという手法も執られている。寮長が主催となってたびたびパーティーを企画したり、年に一度寮対抗のレースを外部からの観戦人も招いて開催したりと、学園側も工夫してはいるのだ。

たんなる同級生などといった繋がりならそれで十分なのだろうが、やはり寝食を共にする同居人となると勝手が異なるということか。最初期に無理してでも一人部屋の仕様を実現しなかったことが悔やまれるが、戦後間もない時期に2000名を個別に収容するのは流石に不可能か。ただでさえ、東京にこんなバカみたいにデカい箱庭をおっ立てたばかりなのだし。

とにもかくにもそういった諸々のしわ寄せが、最終的に全てトレーナーへと回ってくるのがこの学園における運命である。ウマ娘ファーストを掲げるトレセンにおいては、我々は徹頭徹尾こうして縁の下で支え続けるしかないのだ。

悩んだところで現状は変わらないのだから、これも高給の対価として早々に割り切ってしまうのが吉である。幸い、私にとって無茶振りなどとっくに慣れ親しんだものであるわけだし。

 

「そろそろ痺れてきたよ。いい加減離してくれないかな」

 

「はーい」

 

ようやくシービーの足と尻尾から解放される。

 

首を鳴らし、肩を回すと嘘のように体が軽くなっていた。やはり重いのは彼女のせいだったらしく、普段より多めに睡眠をとったぶんむしろ体調は万全らしい。これなら、二度寝する必要もなかったな。

そうだとも。私はまだまだ老いちゃいない。有り余る体力を武器に、今年も精一杯頑張ることとしよう。

 

カーテンを開けると、目に染みるような眩しい朝日が部屋の中を満たす。

それと同時にポーン、ポーンと響き渡る軽快なチャイムが耳を打った。

 

「なに、この音」

 

「朝の目覚ましだよ。毎朝六時に天井のスピーカーから流れてくる。あくまで館内放送だからスイッチで切れるけどね」

 

「それにしては随分味気ないね。もっとこう、音楽とか起床ラッパとかそういうのの方がらしいのに」

 

「毎朝同じ音楽を流すと、それがトラウマになる職員もいるんだと。ラッパは軍隊っぽさが出るからコンプライアンス的に駄目らしい」

 

「え、この学園にコンプライアンスなんてものがあったんだね。びっくり」

 

「ほんと君……そういうところだからな」

 

ベッドから降りてゆっくりと体を解す。

うん、いい調子だ。ちょっと全身が湿っぽいというか、かなり寝汗をかいているのはウマ娘二人が隣にいたからだろう。体温の高いウマ娘と同じシーツにくるまるなんて、こんな暖かくなってきた時期だと暑くて堪らないからな。

 

「トレーナー。この子はどうするの」

 

「ああ、ルドルフなら放っておけばいい。時間になれば勝手に覚醒するからな」

 

ルドルフの体内時計は、それはもう信じられない程に正確なのだ。

二、三回ぐらい同じ時刻に同じ行動をとっていれば、後は時計を見なくとも感覚だけで始まりと終わりのタイミングを測ることが出来る。レース中もまた、一秒感覚で自身と相手のペースを捕捉しているらしい。

その体内時計は起床にも大いに役立つそうで、あれだけ揺らしても叩いても一向に起きない癖に定時になるとパッと目を覚ます。もっとも、その後ベッドから出るまでにまた時間がかかるのだが。

起床チャイムが流れるのが朝の六時ちょうど。となれば、あと五分もすればルドルフも自分で起きてくることだろう。

 

 

 

二人を寝室に残して、私は昨日の晩に修羅場を迎えたばかりのリビングへと出る。

趣味に打ち込む余裕がなかったためか、随分と殺風景だった部屋はたった一晩で結構な賑わいを見せている。

教科書からノート、筆記用具、タブレット、ランニングシューズに蹄鉄、制服からジャージに水着、普段使いの部屋着に外行き用の私服その他諸々、二人ぶんの私物が一度に持ち込まれたのだから当然だろう。

敷地の対極にある学生寮からここまで自力で運んでこれるのは流石というべきか。なるほど運送業でウマ娘が重宝されるわけだな。といっても、ウマ娘が歓迎されない職種など殆どないのだけれども。

 

さて、これから食堂にでも向かおうか。

 

出来ればシャワーでも浴びておきたいところなのだが、そうすると朝食時のラッシュともろに重なってしまう。なにしろこれだけの大所帯なので、一度混雑に捕まると一気に予定が狂いかねない。

中にはそれも一興と楽しむものもいるが、生憎私はそこまで気の長い性格ではないのだ。クリーニングに預けていたスーツも取りに行かなければ。

 

手っ取り早く身支度を整えて部屋を後にする。

あの居候二人を残して先に出るのはやや無用心な気もしたが……まぁ大丈夫だろう。

既に散々振り回されっぱなしではあるものの、最低限のマナーやモラルは彼女たちだって備えているわけだし。その辺りについては私はこれまでの付き合いから信頼していた。

 

 

いつも通りエレベーターを使って地上に降り、絨毯敷きのホールを抜けて寮の玄関へ。

 

実はこのトレーナー寮なのだが、学生寮と同じく部屋の配置が完全にランダムというわけではない。前提となるルール……法則といえるものがここにもあった。

 

基準となるのは階層である。経験の長い、実績の豊富なトレーナーほど低層に。そしてまだまだ経験が浅かったり、かつてウマ娘絡みの遭難に出くわしたトレーナーは高層に部屋を与えられる。ヒトではなくウマ娘のトレーナーは問答無用で最下層だ。

これもやはり生徒絡みの事件に備えた対策だった。セキュリティ万全なトレーナー寮といえど、それでもウマ娘がその気になればいくらでも侵入する手立てはあるのだ。そのような暴走を惹起する蓋然性の高い、すなわち担当との適切な距離感を維持する技量に乏しいトレーナーは可能な限り玄関から遠い上層に配置し、保護しようという考えあってのこと。逆にそういったリスクの低いベテランや、対抗手段をもつウマ娘は玄関付近を任せられる。

ちなみに私は当然に最上階である。この寮において最も未熟であり、最も保護されている立場だということだ。もっとも、それが正常に機能しているかはかなり怪しいところとなったが。

 

どうせだから一階の先生を食事に誘ってみようかとも思ったが、あの二人の様子や思うところについて根掘り葉掘り聞き出されそうなので止めておく。

結局、一人寂しく玄関から外に出る。

 

 

と、その直後。一人のウマ娘から声をかけられた。

 

 

「おはようございます。トレーナーさん」

 

「ん……ああ。おはよう。朝早くからお疲れ様」

 

「はい。ありがとうございます」

 

とっさに挨拶を返すと、そのウマ娘は勝ち気にこちらへ笑ってみせた。

 

小柄な、栗毛のウマ娘。

昔のルドルフよりもさらに短く切り揃えた髪に、白く真っ直ぐな流星が踊っている。その下できりっと引き絞られた眉と、燃えるような琥珀色の瞳もあいまって、大層男勝りで活発そうな印象を振り撒いている少女。

 

この時間帯に、ウマ娘がトレーナー寮の前にいるのは珍しいことではない。

大抵が、朝練の前後に自らの担当トレーナーを迎えに来たものだ。トレーナーにとっては、朝玄関から出てみたら目と鼻の先に担当が待ち構えているというのはかなり心臓に悪いシチュエーションであるが、それでもちゃんと弁えて寮の外側で待機しているぶんずっとマシである。少なくとも、いつの間にか部屋の中に乗り込んでこられるよりかは。

彼女もまた、自分のトレーナーをかっさらうためにこうして出待ちしているのだろう。

 

……いや、違うか。

たぶん、この子はそういった用件ではない。そもそも担当すらついてないはずだ。

 

身につけた制服も、履いているローファーも総じて綺麗すぎる。まさに下ろし立ての新品ぴかぴかといったところ。

ルドルフと同じく、つい昨日入学したばかりの新入生といったところか。あまりにも堂々としているというか、私相手にも全く気後れした様子がないのでとっさには分からなかった。

 

「新入生がこんなところでどうした。学園見取り図なら生徒手帳の最後のページに……」

 

「違います。迷子なんかじゃありません。私の目的地はちゃんとここですから」

 

「そうか」

 

どうやら新入生なのは本当らしいが、だとしてもどうしてこんな所に。来月の選抜レースを見据えて、トレーナーを見定めるために足を運んで来たのだろうか。

だとしたら熱心なことだ。まぁ、私にはなんの関係もないのだけれども。今はルドルフとシービーのことで手と頭がいっぱいなのだから。

 

「今日は初授業日だからほどほどにね」

 

「あ、ちょっと!待ってください!」

 

その場を切り上げようとした瞬間、慌てて腕を捕まえられる。

 

「トレーナーさん……は生徒会長さんと一緒にいた人ですよね。入学式のとき、訓示で怒られてた」

 

「ん……うん。そ、そうだけど。ああ、シービーに用事があったのかな」

 

「いえ。私が会いに来たのはルドルフです」

 

どうしてルドルフがここにいると……ああ、事務局に問い合わせれば普通に教えてもらえるか。別に存在を秘匿されているわけでもないのだし。

それにしても、ルドルフとは随分と気安く呼ぶものだな。ウマインで連絡を取り合うわけでもなく、直に会いに来るあたりさほど親密な間柄でもないだろうに。

 

「悪いけど、まだ出てくるまでだいぶ時間がかかるだろうね」

 

「そうですか。まぁ、アイツが寝坊するならそれでも私は全然構いませんけれど」

 

むしろそうであって欲しいと言いたげな口振り。

アイツ呼ばわりもそうだが、決してルドルフに友好的な感情を向けているわけではないらしいな。憎悪や嫌悪という類いのものでもなく、強いていうなら負けん気だろうか。

ふと昔、アメリカを訪れた時のことを思い出した。母がこれと似た感情を向けていた相手がいたような……名前はたしか、イージーゴアとか名乗っていたか。

 

「ところで、君の名前は?」

 

 

「ビゼンニシキです。ああ、すみません。まず最初に名乗るべきでしたね」

 



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色鮮やかに美しく


ビゼンニシキ号……80年代に活躍した競走馬。シンボリルドルフ号はクラシック戦線でのライバルと言われ、鞍上でもひと悶着あった因縁の相手。日本においては唯一シンボリルドルフ号から一番人気を奪っている。
ダイタクヘリオス号のお父さん。髪が長くてサラサラで、目がくりっとしつつも精悍な顔立ち。可愛い系か格好いい系かで言えば自分は後者だと思う。馬体ががっしりしていて安心感があるのもよき。



 

早めに朝食に向かいたかったとはいえ、ひとたび会話に応じた相手を無視するわけにもいかず。

私たちは玄関からやや離れたベンチに並んで腰かけ、しばしの雑談に興じることとした。

 

「飲むか。コーヒーだけど」

 

近くの自動販売機で二つ購入したコーヒーのうち、ミルクと砂糖を追加した片方を差し出す。

ビゼンニシキはありがとうございます、とお礼と共に受け取り一口つけると苦そうに顔をしかめた。ほとんどカフェオレと表現していいそれだが、しかし中等部生にはまだキツかったらしい。

ちなみに私は不純物のないブラックだ。とりたてて味にこだわりがあるわけではないのだが、朝だとこれが一番頭が冴えるので愛飲している。

 

「で、ルドルフにいったいどんな用事なのかな。正直、これ以上揉め事があるととても困るんだけど。私が」

 

「心配しなくても、今すぐどうこうってつもりはありませんよ。跡地は私も見ていますから」

 

跡地、というのは美浦401号室のことだろう。もうすっかりグラウンド・ゼロの扱いを受けてしまっている。

変わり果てた部屋の姿は、ウマ娘がちょっとでも力の扱いを間違えたら容易く大惨事に繋がり得るという事実を我々トレーナーに再認識させるには十分すぎるものだった。普段は人懐っこく温厚な隣人であるが故にともすれば気が抜けてしまいがちになるが、それを引き締めた点ではあの事件にもそれなりに意義があったのかもしれない。

 

まぁ、先輩なんかはさも可笑しげに母に写真を送りつけたりしていたが。お陰で私はウマインでいい笑い者になってる。彼には将来、部屋を爆発させることが得意なウマ娘が担当につくよう呪いでもかけておこう。

 

「用事といっても大したものではありません。新入生のペアとして迎えに来ただけです」

 

「ああそうか。最初の一月はペア行動なんだったな」

 

トレセン学園の敷地はとにかく広い。

ただの教育施設とは異なり、ここではレースとライブの練習のための設備や敷地が一ヶ所に確保されているからだ。そこら辺は中央管轄のレース場と似ている部分もあるのだが、加えて学生と職員のための寮も設置されていることから、数千名もの人員の生活を賄えるぐらいの機能もまた同時に求められる。

そのためには横の面積だけでは到底足りず、上に下にと空間を拡張し続けてきた結果、パッと見からは想像もつかない程に複雑かつ大規模な施設へと変化を遂げていた。

 

少なくとも新入生がついこの間まで通っていた筈の小学校とはまるで比較にならない。掲示板やら立て看板やらを用いて敷地の案内そのものはしっかりと行われてはいるものの、余程方向感覚にでも恵まれていなければそれだけでなんの支障もなく動くことは出来まい。私ですら最初はかなり手間取ったぐらいなのだから。

秋のファン大感謝祭を筆頭とした、外来者を招き入れる場面に備えてわざわざ迷子案内センターまで設置されているのは伊達ではないのだ。学園の治安を守る警備ウマ娘たちもまた、道案内と迷子の保護を主要な任務の一つとして位置付けているわけだし。

 

そういうことから、新入生はとにもかくにもこの学園における土地勘を身につけなくてはならない。目的地に辿り着けないようでは、レースや学業以前に生活していくことすら出来ない。

なので卯月は案内の職員がつくほか、新入生同士でもペアを組まされることとなる。単純に一人より二人の方がトラブルの対処の難易度も下がるし、なによりしょっぱなから単独行動を取らせるのは見ていて気が気でないからだ。

 

「あれってどういう基準で決まるんだろうね。完全にランダムなのか独自の基準でもあるのか」

 

「さぁ。少なくとも私はなにも聞いていませんね。もしかしたらあれじゃないですか。入学試験での成績」

 

「連番で組ませると。となると君は今期の次席か」

 

「はい。わけが分かりませんよね。あんな、入学式の翌日に大事件を起こすヤツが私を差し置いて総代なんて」

 

悔しそうに唇を噛むビゼンニシキ。

成る程。ルドルフにやたらあたりが強いのはそれが理由だったのか。あくまで入学時のテストに過ぎず、競技ウマ娘としての本番はこれからとはいえやはり新入生総代の名誉をあと一歩で逃したのは口惜しいだろう。

ただでさえ、競争バというのは闘争心や対抗意識が非常に旺盛なのだから。それに印象だけで語るなら、彼女はとりわけ負けん気が強そうである。正直なところ、規格外と言ってもいいルドルフの二番手につけただけでも十分な快挙なのだが、そんな評価で満足するようなウマ娘ではあるまい。

 

「私と一緒だな」

 

「えっ?」

 

「いや、今期の次席ってところがね。私の場合はトレーナーの試験での序列が上から二番目なんだよ」

 

「そうだったんですか。悔しくはないんですか?」

 

「どうだろう。思うところがなくもないけど、正直相手が悪すぎたって気持ちの方が大きいかな」

 

桐生院は正直わけが分からない。

文武両道といえば聞こえは良いが、あれはもうそんな陳腐な表現をとっくに逸脱していると思う。高校時代に受けた中央トレーナー試験の全国模試で名前を見つけた時から嫌な予感はしていたのだが、現実はそれを遥かに越えてきた。

私の中における男性と女性、ひいてはウマ娘とヒトの基準をぶっ壊した存在として、尊敬より先に理解不能な怖さがある。桐生院ほどの名門となれば、あんな化物がゴロゴロ転がっているのだろうか。

 

まぁ、そんなエリートトレーナーの話はさておいて。

ビゼンニシキは私をどこか不思議そうな顔で見上げている。自身の成績について、そしてそれを受け入れていることを淡々と語る私が理解出来ないのだろう。ぱちぱちと、不規則にまばたきを繰り返している。

 

「どうだろう。やっぱり君からすれば情けなく見えるだろうか」

 

「そうですね。んー……」

 

今度は地面を見ながら首を傾げている。

悩むのも無理はない。だいたいヒト同士であっても初対面の相手の内心を正確に読み取るのは至難の業であるというのに、ましてや私とビゼンニシキでは種族からして異なるのだから。

絶対に負けたくない。そういった意味での気性の荒さは、彼女たち競争バに普遍的な気質であり、いっそ本能と言ってしまっても良いかもしれない。先生や母がやたらこの序列に拘るのも、そういった特性が作用した結果なのではないかと私は考えている。

対照的に、私や先輩、桐生院に樫本さんといったヒトのトレーナーは良くも悪くも数字はあくまで数字に過ぎないと割り切っているというか、そこに大して拘りを見せないでいた。

 

そもそも競技ウマ娘としてレースに臨む以上、そういった心持ちは必須なのだろう。

努力という過程は殆ど顧みられず、ただひたすらに結果だけを求められる極めてシビアな世界なのだから。そもそも努力なんてものは全員がしている、言わば大前提なわけだし。

一番には全てが与えられ、一番でなければなにも手に入らない。レースに限らず、スポーツなんてものは得てしてそういうものだ。ごく稀に、負け続けることでかえって話題性を築き上げるものもいるらしいが、所詮それは例外中の例外に過ぎない。

競争バの気性の荒さがこれ以上なく一致しているというか、本当にレースのためだけに生まれてきたような生き物だ。誰かがそのように手を加えたのではないかとすら思えてしまう程に。

 

しばらく地面に伸びた自らの影とにらめっこしていたビゼンニシキだったが、やがて結論が出たらしく再びこちらを見上げてきた。

 

「……いえ、やっぱり情けなくなんかないと思います。長いバ生そういう切り替えも大事だって、担任の先生もよく言ってましたから」

 

「切り替え……切り替えね。うん、大事なことだと思うよ。そもそも私も君も本番はこれからだし」

 

「本番……?」

 

「ああ、君はレースをするためにこの学園に来たんだろう。入学試験での序列なんて、いざデビューしてしまえばなんのアテにもならないぞ」

 

実際には、ある程度の相関関係はあるのだが。

中堅以下ならともかく、流石に総代ともなればそれなりの結果は残していく。少なくとも担当がつかず、デビューすら叶わないまま学園を去るという最悪の結末を迎えることだけはない。

 

ただその後、重賞を幾つも獲れるかとなるとまた話は変わってくる。

入学試験というのはあくまで小学校六年生の段階における実力を測るものに過ぎない。ウマ娘の成長度合いは必ずしも一定ではなく、早咲き遅咲きの特徴や本格化を迎える時期の違いによっていくらでもひっくり返るのだ。

入学時は下から数えた方が早いウマ娘でも、なんらかのきっかけで大化けすることはざらだし、なんなら入学試験で不合格になってもその後に実力を開花させて編入してくる猛者もいる。その逆として、早熟型のウマ娘がダービー制覇後はパットしない成績に落ち着くなんてのもよく聞く話だ。

 

「だから、席次でルドルフに拘りすぎるのは止めておいた方がいい。率直に言って、それは時間の無駄だから。将来勝てばそれでいいだろう」

 

「ルドルフに勝てば……か。当然、私なら勝ちますよ」

 

「いいね。その意気ならきっと届くだろう」

 

それについては私も見習わなければ。

 

第一、生徒における入学試験の結果とレースでの成績にはある程度の相関は見受けられるが、トレーナーにおいて修習の席次とデビュー後の実績は本当に関係がない。

はっきり言って、アベレージが高すぎるのだ。前提が異なることを承知で比較すると、生徒として入学するのとトレーナーとして学園に採用されるのとでは、やはり後者の方が難しいという。倍率や求められる能力の種類、さらには秋川理事長直々の個人面接による適性と人格の判定という水物が立ちはだかることが主な理由だ。

 

それを突破してきた中央トレーナーという人材は、自分で言うのもなんだがそれだけで上澄みも上澄みなのだ。最高峰の逸材でも複数揃えば必然的に序列はつく。修習試験はその最たるもので、主席だろうが末席だろうが合格している以上はトレーナーとしての資質を十分に備えている。

だいたいあの試験、座学と実技の総合だし。知力はともかく運動神経なんてまちまちで、陸上でいくつも賞を獲っている者もいれば、私のように障害を持つ者だっているわけだし。地方トレセンからの編入者のような、既に肉体の最盛期を終えている中途組には酷だろう。

 

となると、後から差をつけるのは優れたウマ娘を捕まえるスカウト能力だったり、担当との相性だったり、実際の育成能力や戦術眼などデビューしてから初めて明らかになる要素でしかない。私が出世頭になる余地も十二分にあるのだろう。それこそ、同期の筆頭として数多の業績を打ち立てて、ついにはURA本部にまで取り立てられた樫本さんのように。

桐生院は……まぁ、何でもそつなくこなしそうだな。凄く堅実というか、行儀のいいというか、教本に沿ったバランスの良い育成をしてそうなイメージがある。いつの日か、私の担当と是非とも戦わせてみたいものだ。

 

「じゃあ、トレーナーさんには私がルドルフに勝てるよう、しっかりとサポートお願いしますよ!」

 

…………うん?

 

おかしいな。

今してたのってそういう話だったか?

 

「いや、どうしてその結論に行き着いた」

 

「だって、デビューするにはトレーナーがいなくちゃ駄目でしょう。それともまさか、無責任にもあんな励ましをくれたんですか?」

 

「いや……」

 

「ちゃんと責任とって下さいよ?あれだけ将来の重要性を熱く語っておきながら、実際には他人事なんて酷いです。それに私たち、同じ次席として仲良くなれそうな気もしますからね。私なら必ず、一番のトレーナーさんの担当よりもずっと速く走れますよ?」

 

再びあの気の強そうな笑みを取り戻して、燃えるような瞳で顔を近づけてくるビゼンニシキ。

 

恐ろしいスピードでぐいぐい詰めてくるな。

なんだ今年の一年生、ルドルフといいこの子といいこんなのばっかりなのか。

未だに担当が見つからず燻っている上級生と遜色ない強烈な積極性だな。少しでも隙を見せるとあっという間に踏み込まれる。

 

「駄目。駄目だ、私にはもう……」

 

「生徒会長さんがいるからですか?でも、ルドルフとの間で決めあぐねているんですよね。なら、そこに私も混ぜてくれたっていいじゃないですか」

 

「君は知らないんだよ。あの二人がどれだけ苛烈で遠慮がないか」

 

「まぁまぁ。争うのが二人でも三人でもそこに大して違いなんてないでしょう」

 

「ある。大いにある」

 

私のキャパシティでは二人を相手にするのが限界なのだ。いや、実のところ相手取れているかすら非常に疑わしい。

そこに第三勢力を放り込まれたらいよいよ器が崩壊してしまう。そうして顕現するのが地獄で、なおかつ舞台が私の寮部屋となれば断じて許容出来ることではない。

 

というか、そんな三つ巴を上手いこと捌ききれるなら私は今すぐにでも理事会からチーム設立の許可を頂けることだろう。ついでに寮部屋も一階に昇格できるに違いない。

ただでさえ、餞別とは名ばかりの過酷な卒業試験を課されている真っ最中だというのに、新人である私にこれ以上負荷をかけてくれるな。メイクデビューを終えたばかりのウマ娘を凱旋門に放り込むがごとき鬼畜の所業だ。

 

「……なんて、冗談ですけどね。当たって砕けろでぶつかってみただけですよ」

 

青ざめる私を見かねたのか、するすると顔を離していくビゼンニシキ。

そのまま手にしたコップの中身を一気に口の中に放り込み、またしても顔をしかめている。

 

「それは冗談というより駄目元だと思うが。つまりあの言葉自体は本気だったんだろう」

 

「別に本気で契約を結んでもらえるなんて期待していなかったんで。そっちも気にしないで下さい」

 

はっきりと拒絶しておいて本当に良かった。

この学園において、曖昧な態度は禁物であるとしっかり肝に銘じておこう。ひとたび差しきり態勢に入ったウマ娘の前では、こちらも後先考えず逃げをかますしかない。

 

ああ、これもまたトレーナーとしての試練か。ようやく一人前となってからまだ三日目が始まったばかり。三女神は私にどれだけ洗礼を浴びせれば気が済むのだろう。

シービーが追い込みをかけてくる以前、サブトレーナー時代は平和そのものだったから、やはり私を庇護してくれていた先生は偉大だった……違う、そういえば他ならぬあの人こそが一番の元凶なのだった。

 

「あの二人、まだ出てきませんね。シャワーでも浴びているのでしょうか」

 

ぶらぶらと足を遊ばせながらビゼンニシキはそう呟く。

 

トレーナー寮のすぐ手前にある広場に陣取っているため、このベンチからでも玄関の様子がよく見える。そこからずっと上に視線を向けた先には、朝日の差し込んだ私の部屋。

カーテンを解放してはいるものの、角度の都合から中の様子までは窺えない。ルドルフはとっくに起床している筈から、きっとシービーとの丁々発止で時間を食っているのだろう。幸い、絶望的な破壊音までは響いてこない。

 

「あ。やっと出てきた」

 

その声で視線を戻すと、足並み揃えて玄関から出てくる小さな影が2つ。時間ぐらいズラせばいいものを、わざわざ一緒にやってくるあたり妙に仲がいいというかなんというか。

 

飲み干したコップをぐしゃりと握り潰し、ビゼンニシキはぴょんとベンチから飛び出す。

そのままこちらを振り返ってペコリと頭を下げた。

 

「じゃあ、私はもう行きますね。コーヒー、ごちそうさまでした」

 

「ああ、いってらっしゃい。よい一日を」

 

「はい!」

 

威勢のいい返事を残して駆けていく彼女の背中を見送りながら、私もまたベンチを後にする。

 

 

道中、ゴミ箱に空になった紙コップを捨てて、これからの行動についてもう一度頭の中で整理していく。

 

思ったより、ビゼンニシキとの話に時間をとられてしまった。

今から早足で食堂かカフェテリアに向かえば、なんとかぎりぎりで混雑を回避出来るだろう。だがしかし、ゆとりが欲しくて空いてる時間を狙うのに、そのために焦って行動するのも違う気がする。

ならいっそのこと、ラッシュ後まで大幅に時間を遅らせようか。ただその間、どう時間を潰したものか。もう一度トレーナー寮に戻るのも気が乗らないし、誰か知り合いでも見つかればいいのだが…。

 

 

と、タイミング良く前方から手を振って走ってくるウマ娘が一人。

雑誌を片手に抱えながら、全力疾走でこちらに真っ直ぐ突っ込んでくる。

 

「あっ、サブトレーナーくん!…じゃなくて、もうトレーナーくんだったわね。見つけたわ!」

 

マルゼンスキーが慌ただしく目の前に滑り込んできた。

校内は静かに走れというのが校則だが、それを真っ向から否定するかのような豪快極まる走りっぷり。流石のスーパーカーといったところだが、仮にも生徒会副会長がそれで良いのだろうか。

 

……生徒会。

 

「あー…そうか。またシービーのことか」

 

「シービー?あのコがどうかしたの?」

 

「いや、そういえば昨日は君に生徒会の仕事を投げっぱなしだったんだろう。すまない、私がお出かけになんて連れ出したばかりに」

 

「いいのよそんなことは。それよりもちょーっと厄介なことになってるのよ。トレーナーくん絡みでね」

 

はい、と彼女が持っていた雑誌を手渡される。

 

知っているレース雑誌だ。

数ある雑誌の中でも、中々に過激で読者も多い厄介なもの。つい先日、ここの記者に取材を受けたばかりである。

 

表紙には弥生賞を制した勝負服姿のシービー。そして、私の名前がデカデカと。新人の身分で贅沢なものだが、やはりそれを喜べるような内容ではないらしい。

 

 

「『トレセン学園生徒会長ミスターシービー、疑惑の特別移籍』か……まぁ、遅かれ早かれこうなるだろうと思ってはいたけどね」

 

「そうねぇ……やーん。まいっちんぐ!」

 

 



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緋色の怪物

 

立ち話もなんなので、私たちはひとまず本校舎のカフェテリアで朝食をとることにした。

 

適当なテーブルにトレイを置いて、互いに向かい合って椅子に腰かける。そういえばついこの間、桐生院とも全く同じ場所でこうして食事を共にしたんだったな。

あの時はまさかこんな事態になるとは夢にも思わなかったが、しかしよくよく記憶を探ってみれば、シービーにはその兆候があったような気がする。もっとも、今さらそれに気づいたところでなんになるという話でしかないのだが。

 

「やっぱりこの時間、かなり空いているのね。いつもごっちゃりとしているイメージしかなかったわ」

 

「私たちはともかく、生徒は同じタイムスケジュールで行動しているからどうしてもね。混む時は混むし、落ち着く時は一気に人がいなくなる」

 

「そういうものかしらね。臨機応変に動けるトレーナーたちが羨ましいわ」

 

やや乱れた髪を手櫛で整えながら、ほうっと熱いため息を溢すマルゼンスキー。

その額や首筋にはうっすらと汗が浮かび、呼吸こそ乱れてはいないものの、その頬もまたほんのりと上気していた。胸元を緩め、熱を冷ますかのようにぱたぱたと風を扇ぐ。

 

彼女がこんな姿を見せるのも中々珍しかった。

そこまで疲労しているのは、ここまでずっと走ってきたから……というだけではない。その程度で息を上げる程やわな鍛え方はしていないだろう。

単純に、私を背負ってこの本校舎まで全力疾走したためである。あのまま徒歩で向かっていては、ほぼ確実に混雑に捕まっていただろうから、こうしてスムーズに席を確保できたのはひとえに彼女のお陰だった。

その異名通り、人一人乗っけながら学園の歩道を駆けるスピードと安定感は圧巻というほかなく、スターウマ娘の見る世界を擬似的にでも体験出来たのは本当に貴重な経験だった。彼女のファンにこのことを知られたら殺されたところで文句を言えない程の贅沢だろう。

顔にぶち当たる風と、周囲から突き刺さる視線がかなり痛いというのが欠点だが。未だに目尻に溜まっている涙のせいでどうにも視界がぼやける。これで公道を走るなら、フルフェイスヘルメットは間違いなく必須だな。

 

「臨機応変ね。フレックスタイム制とはいっても、別にそこまで融通がきくわけじゃない。君らウマ娘が最優先だから」

 

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。なら、始業時刻をずらして毎朝私を迎えにきてもらえるかしら」

 

「それは私じゃなくて、君の担当である先輩に頼むことだろう。間違いなく断られるだろうけど」

 

「そうよねぇ。やっぱりトレーナーをアッシーにするのは良くないわよね」

 

片手を頬に添えながら、またしてもほうとため息をつくマルゼンスキー。

天窓から射し込む朝日に照らされて豊かな鹿毛がふんわりと輝き、顔には目元を覆うように影が差す。

その姿はあまりにも絵として完成されており、とても中等部生とは思えない妙な色気があった。たづなさんと並んでもまるで違和感が無さそうだし、そういえばあの二人は実際に仲が良かったんだったか。

それはたづなさんが若々しいというべきか、それともマルゼンスキーが実年齢より―――

 

「なにか、とっても失礼なことを考えてないかしら。トレーナーくん?」

 

「いやまさかそんなこと。ところで、引っ越してもう三ヶ月になるな。どうだ、初めての一人暮らしは」

 

「なにがところでなのかさっぱりだけど、まぁいいでしょう。そうねぇ……やっぱり気楽でいいわね」

 

「なるほど」

 

たしかに一人暮らしにおける最大のメリットはそれだろう。

トレセン学園は基本的に全寮制だが、本人が希望すれば外部から通学することも可能である。もっとも大抵は実家通いであり、マルゼンスキーのようにマンションの一室を借りて一人暮らしというのは稀なのだが。

 

この東京において……いや、地方でも同じ価格帯でトレセン学園の学生寮に見劣りしない部屋を借りるのは到底不可能なのだ。

かといって、レースにライブにと大勢の目に触れる生徒がそこらの賃貸で一人暮らしというのはセキュリティ上許容出来ない。それがマルゼンスキーのような、一線級のウマ娘であれば尚更のこと。

故に、彼女が寮を出ていった時にはかなりの騒動になったものだ。かのスーパーカーが学園を去ることになったのだと、空っぽの部屋を前に噂した者の数は両手両足の指では到底きかない。

結局その直後、ただ近隣に生活の拠点を移しただけだと分かったのだが……学園が認めるに足るだけのその新生活に、果たしてどれだけの金がかかっているのか想像するだけで背筋が寒くなる。

 

まぁ、実家の太さや彼女自身が稼いでいる賞金やらライセンス収入やらを考えれば、経済的な問題など無いに等しいのだろうが。

この学園で普段当たり前のように相手をしている彼女たちも、実際は只者ではないと改めて思い知らされた一件だった。

流石、日本最高峰のお嬢様学校という呼び名は伊達ではない。

 

「しかし、気楽というなら寮長を目指してみても良かったんじゃないか。たしか一人部屋だったろう?」

 

「寮長は高等部生からしか選ばれないのよ。最低でもあと一年、待たなくちゃいけないのよね」

 

「一年も待てない程、美浦からすぐに出ていきたかったってことか?そこまで寮生活嫌いだったのか君」

 

マルゼンスキーが私生活で誰かと衝突したり、険悪だったりといった話は聞いたことがない。

同居人については一度変わっていたが、どちらとも良好な関係を築いていたらしいし。社交性があり面倒見もいいことから、寮長のタケホープからの信用も高かった筈だ。共同生活が苦手とは到底思えないのだが。

 

そんな私の早とちりを、マルゼンスキーは指を振って否定した。

 

「ノンノン。美浦に不満があったわけじゃないの。いえ、不満はあったのだけれど、人間関係についてじゃないわ」

 

「ならそれはなんだ」

 

「タッちゃんよ。学生寮にいたら手元におけないもの。そう、だからたとえ寮長になれても意味はなかったのよね」

 

「タッちゃん……?」

 

「ああ、トレーナーくんにはまだ御披露目してなかったわね。いいわ、写真だけど見せてあげる」

 

ウマホを取り出して画像を呼び出すマルゼンスキーを大人しく見守る。

 

タッちゃん……なんだろう。

一見すると人間の名前らしいが、彼女の恋人かなにかだろうか。この学園は別に恋愛そのものを禁止しているわけではないので不思議ではないが、しかし手元に置くという言葉が引っ掛かる。

そもそも同棲しているなら一人暮らしという表現もそぐわない。マルゼンスキーが自身の恋人を人間ではなく所有物扱いする、とんでもないウマ娘だったなら話は別だが。

となると、きっとペットの名前といったところだろう。縁がないので忘れていたが、そういえば学園の寮はペットの飼育が禁止されているのだったな。

あの秋川理事長ですら、いつも帽子にのっけているネコを飼うために学園外から通勤しているのだし。たづなさんもまた外部のマンションを借りているのも、たびたびそのネコを預かっていることが理由だとか聞いたことがある。うん、それが一番妥当なセンか。

 

「ほら、みてみて。これがわたしのタッちゃんよ!カッコいいでしょう?」

 

しかし、マルゼンスキーが見せてきたウマホの画面に映っていた正体は、そのいずれとも異なるものだった。

 

鮮やかに真っ赤な色をした、車高の低い外車。

所謂スーパーカーと呼ばれる類いのもの。あまりそっちの分野には詳しくない私ですら、すぐに名前が出てくる程に有名な車だった。

 

「ランボルギーニ……カウンタック。ああ、だからタッちゃんと」

 

「そうなの!貯めに貯めた賞金でこの前ようやく手に入れたのよ」

 

「それはまたスケールの大きい……」

 

決して思いつきや衝動買いというわけではないのだろうが。彼女が車について相当の情熱を傾けていることは、私のみならず学園の殆どが知るところであった。

以前、レースの合間を縫ってコツコツと自動車学校に通い免許を取得していたことだし。電撃的な引っ越しも含めて、かなり前々から計画していたことだったのだろう。しっかり者の彼女のことだから、その辺りについては驚かない。

 

だとしても、最初に手を出すのがまさかのスーパーカーとは。やはり、彼女ほどのウマ娘となればドライビング・テクニックも超一流なのだろうか。

いくら府中が郊外とはいえ、これを維持管理する費用はとんでもなさそうだとか、古い車だから自動車税もバカにならないんだろうとか、そういった諸々が真っ先に頭をよぎる時点で、たぶん私は一生彼女に敵わないのだろうな。中等部三年生でここまで上り詰めるとは……羨ましいと同時に恐ろしくもある。

 

「とにかく、おめでとうマルゼン。君さえ良ければ、今度は直に本物をこの目で見てみたいね」

 

「モチのロンよ!わたしのトレーナーくんと一緒にあなたも乗せてあげるわ。三人で峠をぶっ飛ばしましょうね」

 

「あ、ああ……うん。是非とも」

 

たぶん。きっと……恐らく大丈夫だ。

新車、ましてやこれ程の車となれば、誰だって絶対に傷をつけたくないだろう。それに万が一事故でも起こして風評に泥が跳ねたり、ましてや怪我を負うことにでもなれば競技ウマ娘としての活動そのものに支障が生じてしまう。合理的に突き詰めていけば、乱暴な運転なんて出来る筈がない。

 

「……というか、自分の車があるならそれを運転して通えばいいじゃないか」

 

「学園にまでぞろぞろと騎バ隊を引き連れてきたらチョベリバでしょう?それはもう少し腕を磨いてから挑戦するわ」

 

「えぇ………」

 

前言撤回。皆が合理性で動くのならそもそも事故なんて起こらないんだった。

今の話は聞かなかったことにしておこう。同じスーパーカーでも乗るのはマルゼンスキーの背中だけで十分である。

 

仕切り直すように、カップのコーヒーを一口啜った。

朝から立て続けに飲み過ぎな気がしなくもないが、節度を守るぶんには問題ないだろう。実家にいた頃は、カフェに付き合ってそれこそ日に何杯も口にしていたわけだし。

 

「あら、人もいっぱい来たわね」

 

「そろそろラッシュが始まる頃合いだからな。早めに席をとれて良かった」

 

ざわざわと、カフェテリアの入り口からいくつものウマ娘の集団がやかましく姿を覗かせる。

 

それ自体は本当にいつも通りの、ありふれた日常における一風景なのだが、今日はどことなく異様な気配がした。

見られている……視線だ。彼女たちから視線を感じる。凝視するのではなく、ちらちらと流し目でこちらの様子を窺っているような。

敵意や警戒ではなく、ちょうど気になるものに出くわしたとでも言いたげな好奇の視線。それが向けられているのは、有名人なマルゼンスキーではなく私だった。

 

「あらら。やっぱりね。ウマッターでも結構話題になっていたもの」

 

「原因はこれか。そういえば、そもそもこの雑誌こそが本題だったな」

 

コーヒーのカップを置いて、私たちのトレイの間に無造作に放り投げられた雑誌を再度手に取る。

適当にパラパラと捲っていくと、すぐに目的のページへと辿り着いた。

 

 

内容は春のトレセン学園特集。

一年のうち最も人の流動が激しいこの時期であるから、こういった特集が組まれるのも至極当然の話である。が、よくよく目を通してみれば、そこに記されているのは私とシービーについてだけだった。

 

まず初めに、特別移籍という制度について実例を挙げて紹介を済ませたあと、それが私とシービーとの間に適用されたことを明かしている。

さらに前年度における競技ウマ娘ミスターシービーの飛び抜けた実績に加えて、シンザン以来19年ぶりのクラシック三冠バの誕生が期待されている旨を摘示し、そんな彼女をまるで経験のない私に任せることの是非を論ずるものだった。

要旨としては、クラシック戦線において要求される経験と信頼関係を鑑みた上で私の実績不足を指摘し、これまで通り先生と組ませておくべきだといったところ。新人である私は、同じくデビューしたてのウマ娘と一年目から連れ添うことが望ましいとも。

 

「ふむ………」

 

「あら、おセンチになっちゃったかしら。所詮ゴシップ誌の言うことだから、トレーナーくんはそこまで気にしなくても……」

 

「いや、違う。なんか妙に引っ掛かるなって」

 

「引っ掛かる?って、どのあたりが?」

 

「らしくないんだよ。この三文安な雑誌にしては……言ってることが余りにもまともすぎる」

 

別に私は、世の新聞やら雑誌やらを全て読み尽くしているわけではない。

そもそもこの出版物自体、存在こそ把握していれど実際に目を通したことはあまりなかった。

 

そんな私でも違和感を抱く程、この記事はちゃんとしている。言い換えれば凄くまともだった。

私とシービーのそれぞれが残した実績や世間からの評価を正確に数字として表した上で私見を述べているし、その私見の内容にしても至極真っ当なところ。だいたい当事者である私ですら度肝を抜かれたこの移籍について、正面から疑問を呈する格好となっている。

結果として、シービーを高く評価し私を下げる結論となってはいるものの、事実を事実として並べていけば必然的にそうなるだろう。私と彼女が明らかに釣り合っていないことは間違いないのだから。

 

むしろ、私への批判がその程度で済んでいることが驚愕に値する。

この短時間で正確な情報を掴んでいるのは、まぁこの出版社の持ち味だから良いとしても……同じく持ち味である、主観的で偏った論評は何処に消えた。

普段であれば、ここで私のことを糞味噌にけなし、ついでに他の当事者である先生のこともコケにして、ともなればシービーにすら矛先を向けているところだろうに。こんな冷静で中立的な、まさしく真実を報道する姿勢からはかけ離れた狂犬ではなかったのか。

年度が新しくなって以来初めての刊行を節目として、これまでの方針を一変させたのだろうか。気のせいか、どことなく文章も以前と比べて整っているように感じる。

こんなものを書けるのなら、どうして初めからそうしなかったのやら。

 

「一体どんな心境の変化があったんだか」

 

「ひょっとしたら、シービーが怖いんじゃないかしら。そこの出版社って、つい昨日生徒会から取材許可の取り消しされたばかりでしょう?」

 

「あー…なるほど。そういうことか」

 

確かにそれなら筋が通る。「もう一度、一から信用を積み上げろ」とあの時シービーは言っていた。それで方針を改めたか。

 

レースを主に取り扱うマスメディアにとって、学園内での取材許可の剥奪はかなりの痛手となる。ましてやそれが、情報の正確性を取り柄としてきた会社なら尚更。

おまけに生徒会長という、この学園における権力構造の一角を為す重鎮を敵に回したことでようやく懲りたのだろう。

その結果世に送り出したのがこの推薦移籍の批判というのは、せめてもの意趣返しのつもりだろうか。なんとも往生際の悪いことだ。

 

「ウマッターでも同じような指摘してる人がいたわ。わたしは普段その雑誌を読まないから分からなかったけど」

 

そんなマルゼンスキーが今日に限ってこれを手に取ったのは、やはり表紙に載せられたシービーが目についたがためだろう。

彼女の人気は既に相当なもの。マルゼンスキーに限らず、同じ理由で一時的な読者が増えたと考えるべきだ。故にウマッターで即座に情報が拡散され、こうしてカフェテリアに訪れた生徒たちにもまた共有されている。

 

「だけど、それはむしろあなたたちにとっては不利に働くでしょうね。普段とのギャップのおかげか、その記事に賛同する声もかなり多い」

 

「ネコを助ける不良みたいなものだな。逆に、否定的な意見にはどんなものがある」

 

「当事者の意思を尊重しろとか、三冠に失敗してから叩けとか……消極的な声ばかりね。あとはその雑誌のアンチかしら」

 

「なるほど……」

 

ようするに、私とシービーの契約締結に疑問を呈している者が大多数だということか。

遅かれ早かれ世間には明らかになる情報ではあったが、余りにも展開が早すぎる。来月に開催される学園選抜試験の後のことだと考えていたのだが。

 

もしこれがいつも通りの、過激な偏向報道だったとしても、恐らく流れは変わらないだろう。

むしろもっと酷くなっていた可能性すら否めない。世の中にはただ騒ぎ立てたいだけの人間も大勢いるし、なによりこの雑誌はそういった層を主要なターゲットとしてきた。

そのような火種にガソリンをぶっかける事態にならなかっただけ、むしろ幸運だったと考えることにしよう。こういうセンシティブな話題を穏便に消化する一番のコツは、こうしてゆっくりと燃やしていくことなのだから。

 

「ま、これは一先ず置いておこう。既に世に出てしまったものは今更どうしようもないわけだし」

 

「ずいぶん余裕なのね」

 

「本番はこれからだよ。私もシービーも、世間なんて知らんと無視するわけにはいかない立場なんだから」

 

世の中の意見、民衆なんてものは気紛れで無責任なものだが、しかしそれに支えられているのがトゥインクルである。

デマや世迷い事ならともかく、ちゃんとした声には向き合わねばなるまい。とりあえず、私の方でもウマッターの動向を注視しておこう。

 

さて、その前にまずは腹ごしらえだ。食事前の談話にしては、随分と話し込んでしまった。

スプーンを手に持ち、シリアルの盛られた皿をトレイごと引き寄せた瞬間。先に人参ハンバーグへとナイフを入れていたマルゼンスキーが、ふとなにか思い出した顔でこちらを見上げた。

 

「あ、そうそう。トレーナーくんは気づいてないみたいだから一応言っておくわね。余計なお世話かもしれないけど」

 

「なにかな」

 

「食べ終わったら一度シャワーを浴びてきなさい。匂いが凄いわよ……虫除けのつもりかしらね。もう、あの子たちったら」

 



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芝の演出家

マルゼンスキーと別れた後、忠告に従ってシャワーを一浴びした私は、いつも通り先生のチームの指導に加わった。

 

どのチーフトレーナーに師事しようと、基本的にやることはそう変わらないサブトレーナー時代からは一変し、こうしてデビューした後はそれぞれのトレーナーによってやるべき事にも違いが生じるようになる。

 

その最たる原因といえば、やはり特別移籍の有無だろう。

移籍のないトレーナーはこの時期だとスカウトの準備が主な活動となる。ウマネットから各学生のデータを閲覧して担当の目星をつけたり、そこから直接本人に声をかけてみたりなど。正式に担当契約が成立するのは、来月のはじめに行われる選抜試験以降のこととなるが、実際にはそれ以前から内々に決まっていることも珍しくないらしい。

逆に私のような、移籍の提示があるトレーナーについては、対象となったウマ娘のトレーニングをチーフトレーナーと共同で行うことになる。こちらも現時点では契約締結の内定でしかなく、書類上の担当トレーナーは未だにチームトレーナーのままだというのが理由だった。

 

といっても、先生はもうシービーについては殆ど私に任せっきりにしているが。

事実、皐月賞に向けた調整については粗方終わっており、本番までそれを鈍らせないことが中心だった。これなら、下積みを終えたばかりの私でも出来る。仮にも一年間、最も近くから彼女たちを見てきたわけだし。

 

「ほらシービー、前のめりになり過ぎだ。現時点の君のスタミナならあと一周半こなせる余力があるはずだろ。上を向け」

 

「了解!」

 

威勢のいい返事と共に、柵の向こうを駆け抜けていくシービー。

ターフの土を蹴り上げて、あっという間にコーナーを曲がっていく背中を見送った後、膝の上で立ち上げたラップトップの画面を覗き込む。

弥生賞以来のシービーの基礎能力をデータ化したグラフと表。走りにおけるパフォーマンスは無数の要素が絡んでくるものであり、バ体の仕上がりについても正確に把握することは困難であるが、ここでは便宜的に数値を用いて育成の経過を記録してあった。

 

彼女の得意とする戦法は追い込みである。

ラストスパートで他のウマ娘を一気に蹴散らすことが求められ、そのためにはなにをおいてもスピードが不可欠である。いざスパートに持ち込んだところで、前方を追い越せるだけの速度を確保出来なければまるでお話にならない。

もっとも、シービーに限っては全く問題にならないだろう。彼女の脚力、レースで叩き出すスピードにおいてはこの学園でも指折りだった。稀代のスピードウマ娘であった母の素質を受け継いだ、などとかつて本人が言っていた通り、たんなる努力の範疇に収まらない天凛の才を確信させる。現状、彼女にとって最大の武器であると評するに異存はない。

 

ただ、私がミスターシービーというウマ娘について最も驚異を抱いている点は、その豊富なスタミナについてである。

通常、終盤まで後方で足を溜める追い込みウマ娘においては、スタミナはそこまで重要視されない。勿論決して軽んじられるものではないが、しかし常に集団の前方を走り体力の消耗が激しい逃げや先行と比較すれば相対的に重みは下がる。そのぶん脚力や瞬発力の向上に注力するのがセオリーであり、私も先生もそのような方針で育成してきた筈だった。

にも拘らず、彼女はどうにもスタミナに恵まれていた。流石に生粋の逃げウマ娘には届かないだろうが、追い込み戦法のウマ娘としては十二分だろう。

 

これもまた天性の素質というべきだろうか。スカウト時から才能溢れるウマ娘であったが、今となっては完全にトレーナー陣の構想からも逸脱している。これなら追い込みに拘らずとも、育成次第で別の戦法でもこれまで以上に通用するのではないだろうか。

 

鞄から取り出したUSBを挿し込み、中に保存してある上級生のウマ娘から提供された基礎データを呼び出してシービーのそれと比較する。

やはり、同じ追い込みスタイルを取るウマ娘と比べても、シービーのスタミナは群を抜いていた。やりようによっては前方でのレース展開も十分に望めるだろう。

 

「やっぱり迷うな……これは」

 

別に、追い込みウマ娘にスタミナがあったらいけないということはない。むしろあるならあるだけ良いだろうが、それを最大限まで発揮出来ないことにどうしても引っ掛かりを感じてしまう。

端的に言ってしまえば勿体ない。取り得る選択肢が多ければ多い程、それを最初から狭めてしまうのは如何なものだろうか。かといって、あちこち手を出した挙げ句に全て中途半端で終わってしまっては目も当てられないので、本当に悩ましい。

そもそも贅沢な悩みなのだけれども。一本道しかないならそれだけを極めればいいのだが、道筋が多いと最適解を見つけ出さなければならなくなる。こういう時最も参考になるのは経験なのだが、しかし私にはその積み重ねがなかった。

 

あれやこれやと首を捻っていると、ふと画面の上から影が落ちた。

見上げると、若干息を乱したシービーが横から画面を覗き込んでいた。念のため、他のウマ娘についてのウィンドウは閉じておく。

 

「走り込み終わったよトレーナー。あとストレッチも。なにこれ、アタシの測定記録?」

 

「ああ。他の生徒のものと見比べていたところだ」

 

「へぇ。普段こうやって数字に出してるんだね……ちょっと見せて」

 

こちらの返事を待たずにシービーは私の隣に座ると、ラップトップを取り上げて揃えた膝の上で操作する。

スクロールしながら順番にグラフを眺めているが、流石に中等部生には些か難しかったのかすぐに頭を振って返してきた。

 

「……よく読み取れるね、そんなの。選抜とか身体測定とかで貰える記録表とは全然違う」

 

「扱ってる情報の量と質が段違いだからね……特級の個人情報だよ。だからサブトレーナーには閲覧が禁じられているわけだし」

 

こうして本人に見せるぶんには許容範囲だが、まかり間違ってもこれが学園の外に流出した日にはとんでもないことになる。なにせ病院のカルテの比じゃない中身が詰まっているのだ。冗談抜きで学園そのものが揺らぎかねない。

こうした記録の採取と編集、分析に加えて適切な利用と管理方法、そして一般的な情報リテラシーを身に付けさせるために、二年間にも及ぶ修習生およびサブトレーナーとしての研修課程があるのだから。

 

「でもどうせ記録を採るなら、アタシたちだって知りたいよね。ほら、自分の身体についてのデータならさ、自分で知っておいても損はないわけだし」

 

「まぁ、自己分析には役立つだろうけど。ただそのためにカリキュラムを組んだら負担がバカにならないぞ?」

 

ただでさえ、一般的な教育機関と同等以上の講義が行われている上に、そこからさらにレースのトレーニングとライブの歌や振り付けの練習があるのだ。

彼女のように特別な役職に就いている者はその仕事もこなさなければならない他、海外挑戦するウマ娘の場合だと語学の習得も必要となる。レースを引退し、卒業を間近に控えた生徒は次のステップに向けた準備も整えなければならない。

 

トレセン学園といえばトレーナーの激務が有名だが、実際には生徒もまたタイムスケジュール的にかつかつなのだ。ヒトの学生にとっては体力的精神的に過酷極まりないそれを、ウマ娘としての強靭さで以てやりくりしているに過ぎない。

お出かけで街に繰り出したり、夏合宿で海まで連れていったりするのも、そうでもしないと中々リフレッシュの時間が作れないという事情がある。

一部の生徒は、その上でさらに副業をこなしているというのだから全く恐ろしいという他ない。いくら心身ともに頑強なウマ娘の中から、さらに選りすぐりの体力自慢を集めた学園だといってもだ。ここはあらゆる意味で体育会系の極北なのである。

 

「違う違う。変えるのはアタシたちじゃなくてそのデータの方」

 

「具体的には?」

 

「えっと……たとえばRPGのステータス画面みたいにさ。ざっくりと項目に分けて、それぞれに数値とかランクがふってあると頭に入ってきやすいでしょう?」

 

「ふふ、そうなると私たちからしたら本当に"育成"になってしまうね。うん、でもそのアイデアは面白そうかも」

 

「ホント!?」

 

「ああ。応用の幅も利きそうだ」

 

彼女のいう通り、育成に関連したデータについては担当と共有出来れば色々と捗る。こちらからのトレーニングの指示や、そこに込められた意図についてもより深い理解と納得がもらえるだろうし、作戦を練る場面においてもこれまで以上に建設的な議論が可能となることだろう。

トレーナーとて絶対ではないし、実際にレースで戦うのはウマ娘なのだ。担当ウマ娘ならではの観点もあるだろうし、それに基づいた意見は尊重に値する。

あとはトレーナーを育成する場合においても、分かりやすい物差しがあった方が双方にとって便利となるだろう。かくいう私自身もまた、複雑怪奇な数字の塊には内心辟易していたことだし。

 

ただ、分かりやすいということはイコールで不実にも繋がることには注意が必要か。

これだけの膨大なデータを、たった一つの数字や文字にまとめてしまえば必然的に粗が出る。見やすさとある程度の正確性の両立については、仮にも参考とする以上、しっかりと吟味することが欠かせないだろう。

私一人では難しいだろうから、せめて他のトレーナーと協力するか……いっそのこと学園そのものを巻き込んでも良いかもしれない。

 

……なんて、尻が青いもいいとこなトレーナーが一体なにを真面目に考えているのやら。

 

そういう立派なことを真剣に検討する前に、まずは一人前の結果を残さなければ。

やるべきことは他にあるだろう。

たとえばさっきから、楽しげに私の横顔を眺めているウマ娘の相手とか。

 

「さっきからにやにやとなんだシービー。私の顔になにか付いているか」

 

「なんか、そうやって真剣になってる顔がカッコいいなって。もうちょっと見せてよ」

 

「駄目、もうおしまい。そういえば、君と話したいこともあったからね」

 

「アタシの戦法についてでしょ?」

 

いきなり図星をつかれ息を呑む。

そんな私の反応を前にして、またしてもシービーは面白そうに微笑んだ。

 

「やっぱりね。こんな調整も終わってる時期に、アタシのデータを見て悩むことなんてそんなところだろうし」

 

「なら話は早い。シービー、君は戦法を変える……たとえば逃げや先行の手も控えておく考えはないか?」

 

「ちなみに聞くけど、どうしてトレーナーはそれを提案するの?別に、今のままでも不足はないと思うけど」

 

「今はね。将来、強い逃げウマ娘が出てきた場合、これまでの後方から急襲するスタイルだと通用しなくなる懸念がある」

 

現時点においては、少なくとも同期の中では彼女の追い上げを振り切れる逃げウマ娘は存在しない。

だが晩成型の逃げウマ娘が、いずれシービーと渡り合えるまでに覚醒しない保証もないのだ。所詮一年目を終えたばかりなのだから、今後誰がどのように成長するかなどあれこれ予想したところで意味はない。

 

別に今すぐ戦法を変えろというつもりはなかった。

追い込みから差しへの移行ならともかく、序盤から前方に展開する逃げ、先行への切り替えは大きなリスクを伴う。ペースについてまるで勝手が異なり、バ群からのプレッシャーもまた別次元となる故にだ。とりあえずクラシック戦線においてはこれまで通りの戦法を貫くつもりである。

ただその後、古バ戦線においては別の切り口を探っていくのも一つのやり方だと思う。メインは追い込みでいくとしても、保険となる手札は用意しておきたい。なにしろ、それが許されるだけの素質が彼女にはあるのだから。

 

「うーん……どうだろ。トレーナーの言いたいことも分かるけど、アタシはあまり気乗りしないな」

 

「楽しくないからか」

 

「つまらないってわけじゃないけど、やっぱり後ろからガーッて捲ってった方が楽しいし。見ている方も面白いでしょ?自分でいうのもなんだけど、それがアタシのレースの持ち味だしさ」

 

「そうか……」

 

その言葉の通り、レースの終盤に前方集団をまとめて一気に切り捨てる彼女の走りは「シービー戦法」と世間から名付けられていた。

その豪快な演出は確かに見ていて気持ちがよく、現時点におけるミスターシービーの莫大な人気を下支えしている要因でもある。それを目当てにわざわざレース場まで足を運ぶファンも多く、シービー自身もまたそのことを自覚していた。

 

シービーは"魅了"という言葉をたびたび口にする。

楽しいレースがしたいと語るシービーだが、その根底にあるのは自身の走りへの自負だ。観るものを喜ばせるというのも興行たるトゥインクルの役割だが、彼女は殊更それに重きをおいている。

シービーにとって追い込みのレースそのものに価値があるというのなら、きっとそれを捨てることはしないだろう。いい意味で、彼女は自らの理念に忠実で頑固なウマ娘だった。

 

黙り込んだ私を前にして不安を覚えたのか、シービーが眉尻を下げながらこちらを覗き込んでくる。

 

「トレーナー……ねぇ、怒っちゃった?ごめんね。アタシもレースで勝ちたいのは同じなんだけど」

 

「いや、謝る必要はない。君がそういうなら、たぶんその選択が正しいんだろう」

 

「そうかな。かなりキミの方針とは合ってなさそうだから……」

 

「君が扱いづらいウマ娘なのはとっくに分かっていたことだろう」

 

担当トレーナーとしてシービーを相手にするのは、実は結構難しいことなのだ。

気性自体は穏やかかつ自由気ままで、いわゆる気性難を扱うような大変さはない。ただ本人の気質や思考、競技ウマ娘としてのレースにおけるスタンスがかなり定石外れで、その実態を正確に捉えることが極めて困難なのだ。

彼女自身もまた、そういった自らの内面を言語化することにかなり苦労しているようで。能力の面では申し分ないのだが、コミュニケーションについてはある程度の手探りが求められるあたり、本質的には玄人向けだといえよう。

 

基本的に従順なウマ娘ではあるので、かなり強く手綱を握れば一応セオリー通りに動かすことは可能である。

素質が恵まれているだけあって、それでもある程度の成果を残すことはできるだろうが……逆にいえばある程度止まりだ。彼女の本領を十分に引き出すことは無理だろう。

実力に叶う成績を叩き出すには、セオリーに縛られない柔軟な思考とそれを実現する技量が必要となる。そういった意味でも、やはり彼女は玄人向けか。

 

「トレーナー?また黙っちゃった」

 

「ん……ああ、ごめんね。この話はもう終わり。インターバルも済んだことだし、あともう一セット頑張ろうか」

 

「うん、分かった。行ってくるね」

 

たたっと軽快に駆け出していくシービーを目で追っていると、胸の奥からとめどなく疑念が湧き上がってくる。

 

今の私に、果たしてミスターシービーのトレーナーが務まるだろうか。

 

薄々感じていた予感が、改めて現実のものとなって浮かび上がってきた。彼女は、私のような新人が使いこなせるウマ娘ではない。

強いウマ娘によくありがちな、誰がトレーナーになっても結果を出せるというタイプではなく……むしろ、優れた手腕と豊富な経験を積んだトレーナーのもとではじめて真価を発揮できるウマ娘だ。

仮に私と組んだとして、それでもあの才気なら一定の成果は残せるだろうが。しかしそんな意気込みでクラシックに挑んで三冠をとろうなどあまりにレースを舐め過ぎている。

 

そしてなにより、私はシービーの思考を完全に理解できていない。元々こちらの方針との間にズレがあるのだろう。

私は、華やかさよりもまず勝つことを優先に考えている。たとえそれがつまらないレースだと評されようとも、勝利への最適解であるなら躊躇なく実行させるだろう。ファンの期待など容易く移ろいゆくものだが、残される記録は永遠だ。どちらかを優先するなら、後者に重きを置くのが私というトレーナーの考え方だった。

シービーの言っていることも理解できる。が、共感しきることができない。そういった担当との価値観のすれ違いを弁えた上で、相手の思考を読み取れるだけのトレーナーとしての技量が私にあれば……。

 

一年。せめてあと一年あれば、なにをしてでもそれに指をかけたのに。

彼女の入学がもう一年遅かったら、あるいは私の着任があと一年早かったら……シービーの担当トレーナーとして、自身を変えることができた。

私とて、決して昨年を怠惰に過ごしてきたわけではない。だが所詮、修習を終えたばかりの現場もろくに知らない半人前にできることなどたかが知れている。今の状態で、もう一度あの一年間をやり直せたなら。

 

私とシービーは、お互い巡り合わせが悪すぎたのだ。

互いの入学と新任の年度がぴったりと一致するような、そんな運命的な歯車の噛み合いがあればまた結果も違ったのだろう。

 

「はぁ………」

 

……そんなどうしようもない、たらればの話をしても仕方ないか。

 

トラックを駆けるシービーの姿を見ていると、またしても不毛な思考に襲われる予感がしたので少しだけ視線を外す。

そのままベンチの左手の先にある、本校舎の周辺を眺める。

 

昼の手前ということもあってか人通りが多い。

玄関から出てそのまま歩道を走っていく桐生院の姿があった。彼女の場合は自力で担当を確保しなくてはならないから、そのための作業に追われているのだろう。ペアで行動している生徒へと積極的に声をかけているあたり、セオリー通り狙いとしているのは新入生か。

そんな彼女と一言二言交わしながら、横を抜けていったのはルドルフとビゼンニシキ。正直かなり危うい組み合わせだと思っていたのだが、意外にも和やかに打ち解けた雰囲気で、談笑に興じながら桐生院と入れ違う形で玄関へと向かっていく。

 

まぁ、平和そうでなによりだ。

とりあえず心も落ち着いたので、再びシービーへと視線を戻した。コーナーを曲がって最後の直線へと差し掛かったところだ。

 

USBを抜き、ラップトップを畳んでどちらもカバンへとしまう。

シービーのストレッチに付き合おうと、そう思ってベンチから立ち上がりかけた瞬間……不意打ちで、何者かに背後から肩を叩かれた。

 



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仕切り直し

後ろから肩を叩かれて振り返る。

 

ベンチの背中、太陽を遮るように立ちはだかる小柄な少女。

肩まで漆黒の髪を伸ばしたウマ娘が、ニコニコと笑いながら後ろ手を組んでこちらを見下ろしていた。

 

「エースか」

 

「うん。こんにちはサブトレーナー……じゃなかった。トレーナーさん。久し振りだね」

 

「そうだね。おおよそ3日ぶりか」

 

カツラギエース。

シンボリフレンドのチームに所属する中等部二年生であり、逃げを得意とする黒鹿毛のウマ娘。

未だに本格化を迎えておらず、現時点における戦績はまずまずといったところだが、それでもレース関係者からの評価は中々に高い。

シービーを筆頭として、この世代のウマ娘は粒揃いだと称える声も大きく、彼女もまたその一人だった。

 

天真爛漫でマイペース。普段はどこか抜けているというか、言ってはなんだがあまり考えているようには見えないタイプのウマ娘ではあるものの、実はかなり周りが見えていて気遣いのできる子だ。

誰よりも仲間を大切にし、ムードメーカーとしてチームを明るく保つ彼女の存在は、トレーナーというまとめる立場からしてもとても頼りになるものだった。

 

「さっきはシービーちゃんとお話してたの?」

 

「うん。今後の方針について少しね」

 

「そっか。そうだよね。トレーナーさんはシービーちゃんと一緒になるんだもんね」

 

「まだ予定の段階だけどね。それでもできることはあるから」

 

結局、断られてしまったが。

 

私がシービーに語った、将来において台頭が予測し得る強い逃げウマ娘というのは、実のところ彼女の存在もまた念頭に置いてのことだった。

今のところはシービーには大きく水を開けられているが。しかし今後なにかしらのタイミングでカツラギエースが化けた場合、追い込みウマ娘であるシービーの天敵となる可能性もあるのだ。

これまでは同じチームに所属する仲間だったが、いずれ私がトレーナーとして正式に担当を持つことで、完全に他陣営として敵対することになる。警戒しておくに越したことはない。

 

「シービーちゃんも忙しいんだ。この前のパーティーの約束だって忘れちゃってるぐらいだから」

 

「パーティー……?なんだそれ、初めて聞いたぞ。祝い事でもあったかな」

 

「あれ、聞いてなかったの?あのね、トレーナーさんがサブトレーナーから卒業したのをお祝いしようって」

 

「ああ、そういえばシービーとはお祝いしたっけか。二人きりだったけど」

 

たしか先月の最終週に入ったばかりのことだったか。

私にとって不可侵の聖域であったトレーナー寮のセキュリティが初めて突破された出来事でもある。今となってはもう、二人もウマ娘があそこに居着いてしまったが。

 

「うん。だからその後、みんなを集めてもっと大きいのやろうって私が誘ったの」

 

「ちなみに、シービーそれに対してなんと答えた」

 

「今は忙しいから、全員の予定が空いたらやろうって」

 

「なるほど」

 

それは嘘だな。というかあやふやにして誤魔化したなシービー。

私たちがここ一週間ほど、とても忙しかったのは事実である。だとしても、せめてそのことを一言でも伝えてくれればいくらでも予定を開けることだってできただろうに。

 

つまりそんな誘いに応じるつもりは端からなかったというわけだ。この数日間における彼女の様子を見ればさもありなんといったところである。

別に、パーティー開くかどうかは本人の自由なのでそれについてどうこう言うつもりはないが。しかしやり方が良くない。そういう曖昧な断り文句を真に受けて、いつまでも楽しみに待っているがカツラギエースというウマ娘だろうに。

 

「シービーちゃんも生徒会長のお仕事で忙しそうだから、声もかけづらくて」

 

「たぶん一番忙がしいのはマルゼンだろうけどね」

 

「だから、トレーナーさんの方からも聞いてみて欲しいな。あのパーティーできそうかなって」

 

「私から?」

 

流石にそれは気が引ける。

私を祝うパーティーの開催について私の口から尋ねるなどあつかましいどころの話ではない。一体どんな罰ゲームだ。

とはいうものの、ここでけんもほろろに切り捨てるのも心が痛い。無理なら無理ときっぱり断ればカツラギエースのことだから大人しく引き下がってくれるだろうが、仮にも自分を祝おうとしてくれた生徒を無下にするわけには……。

 

「ああ、そうだ。いいことを思いついた」

 

「ホント!?いつやるの?」

 

「4日後。といっても、祝うのは私の卒業じゃない。そもそもしばらくはチームに残る以上、独り立ちといわれてもいまいちパッとしないし」

 

なによりルドルフが問題である。

チームを挙げてのお祝いとなると、新入生の彼女は入れられないし。一応先生つながりで招待できないこともないとはいえ、そうなると十中八九シービーからの妨害が入るだろう。ただでさえ直近であのペアが大事件を引き起こしている以上、ルドルフには涙を飲んでもらうしかない。

さらに怖いのはその後。せめてどこかでフォローを挟めればまだマシだろうが、私生活をシービーと共にしている以上その余裕もなさそうだ。そうして不満を溜めに溜めた後、許容範囲を越えて爆発でもしてしまえばいよいよ目も当てられないことになる。

 

「トレーナーさんのパーティーじゃないってこと?じゃあ誰をお祝いするの?」

 

「ヒントは日付だよ。4月7日がなんの日か分かるかい?」

 

チームの中でもとりわけ仲の良かった彼女なら、きっと知っている筈だ。

あとは思い出せるかどうかだが、ぽやっとしているように見えて案外マメな彼女のことだから、きっと忘れているということもないだろう。

 

「4月の7日、7日……あ、分かった!思い出したよトレーナーさん!」

 

「そうか。なら君も準備を手伝ってくれるかな?生憎みんなを誘ってというのは難しいから、だいぶこぢんまりとなるだろうけど」

 

「うん!いっぱい楽しくしようね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

「……と、いうわけで。誕生日おめでとうシービー。これでまた一つ大人になったな」

 

「いや、"というわけで"じゃないけど」

 

レモネードを注いだグラスで乾杯しながら、私は右手に胡座をかくシービーにそう声をかけた。

シービーといえば、乾杯には応じてくれたものの、その視線はこちらではなく自身の真正面……すなわち私の左手に正座するルドルフの顔をしかと凝視している。その両耳はバラバラと不規則に動き、長い尻尾はゆらゆらとカーペットの上で踊っていた。それは怒りや不満ではなく、ウマ娘特有の困惑のサインである。

 

「どうしたシービー。まさか日にちが違ったのか」

 

「ううん。アタシの誕生日は4月7日、つまり今日で合ってるよ。合ってるけど……」

 

「なら内装に不満があるのか。たしかに、今日は以前君が開いてくれたあのパーティーの返礼でもあるから、なんの飾り付けもないのは不躾かもしれないが」

 

「そこは別に、アタシが好きでやったことだから……じゃなくて、ホントは分かってやってるでしょトレーナー」

 

今度は不満げにぷくーと頬を膨らませながら、シービーはいよいよルドルフに対してびしりと人差し指を突きつけた。

当のルドルフといえば、全く知らん顔でオーブン焼きのチキンを咀嚼している。口に含んだ一欠片をゆっくりと飲み込んだ後、頷いて私へと微笑みかけてきた。

 

「うん。とても美味しいよトレーナーくん。以前よりもさらに腕を上げたんじゃないか?このまま店に置いても通用しそうだな」

 

「そうかな。寮の無駄に充実したキッチンのおかげな気もするけど」

 

「謙遜は不要だ。設備だけでここまで見事に作れるのなら、君の母上だってもう少しちゃんとしたものを食卓に上げられるだろうに」

 

「いや、あの人は常に酩酊しているだけだから。細かいメモリが目に入らないんだろう……たぶん。真面目にやれば上手くできるさ」

 

「君がいなくなってから、食事の満足度が下がったと嘆いておられたよ。かくいう私もまたレパートリーが乏しくてね。前に披露したときもそうだが、全体的にどうしても茶色が……痛っ」

 

テーブル越しに飛来してきたケーキのパッケージに鼻を叩かれるルドルフ。下手人たるシービーは「う"ぅ"~」と歯を剥き出しにして耳を絞りながら私たちを睨み付けていた。

これは不味いと思い、慌てて右手でその尻尾を掴んで引っ張り上げると、きゃんと大きな悲鳴を上げて肩を震わせる。しばらくして落ち着いたのか、涙目で今度は私の顔を睨んできた。

 

「もう!トレーナーってば!なんでアタシの誕生日にこの子を呼んだの!?同窓会ならヨソでやってよ」

 

「そうだな、悪かった。今は君が主役だもんな。ほら、こっちにおいで。うん、ルドルフとはまた別の機会を設けることとしよう……」

 

いきり立つシービーを引き寄せ、向かい合わせに抱き合いその背中を撫でさすってやる。逆立っていた毛や倒されていた両耳がみるみる元の位置へと戻っていき、代わりにすりすりと私の胸に顔を埋めて擦り寄せてきた。

 

その瞬間、ちりりとうなじにピリつく感覚。

おもむろに振り返ってみれば、今度はルドルフが犬歯を剥き出しにしてこちらを射殺さんばかりに睨め上げている。普段は隠されているその太く長い牙に加えて、豊かな茶色の髪が膨れ上がっているその姿まさに雄のライオンそのもの。

シービーには悪いが、威嚇の凄まじさではやはりこちらに軍配が上がりそうだった。彼女よりも一歳年下のルドルフではあるが、こと他者を威圧することに関してはまるで年季が違う。姉妹共に一皮剥けば恐ろしいまでの気性難で、幼い頃から闘争を繰り広げてきた賜物だろう。その点、シービーは一人っ子だからな。

 

「……二人きりで」

 

「やだーっ!」

 

「ぐうっ」

 

ごりごりと勢いよく頭を突進させてくるシービー。

止めろ。最早甘えるなんて可愛らしいものではない。削岩機かなにかのように臓腑が圧迫される。両耳が抗議の意を示すかのようにべしべしと頬をひっぱたいてくるが、それも大人のビンタのごとき強烈さだった。ああ、ウマ娘というのはやはり凄い。

 

「ル、ドル……フ」

 

どうにかその名を呼ぶ。

肺が圧迫され、出す声が全て喘ぎとなった私に代わって、ルドルフが余裕たっぷりに助け船を寄越してくれた。

 

「仕方ないだろう、シービー。君と違って、私の誕生日はつい先月終わったばかりなのだから。こうしてみんなに祝ってもらうこともできない」

 

「ふん。どうせ今だってアタシのこと祝うつもりなんてこれっぽっちもないくせに」

 

「心外だな。私はこれでも君のことは偉大な先達としてちゃんと尊敬しているとも」

 

「ふーん……」

 

掘削を止め、訝しげに私の腋の下から顔を突き出すシービー。

しばらくそうしてルドルフの顔をしげしげと観察した後、どうやら本気で言っているらしいことに気づいたのか驚いた様子で目を見開いた。

数回ぱちぱちとまばたきをして、直後に気が抜けたような長いため息を溢す。

 

「まぁ、アタシもキミについては認めているところもないではないけど。走りについては、まだなんとも言えないけどね」

 

「なら、私のどのあたりを評価していると」

 

「そうだね、たとえば入学式での総代宣誓とか。知ってる?宣誓に限らず、式典で読み上げる文章は事前に理事長と生徒会長が校閲しているの。ね、トレーナー?」

 

「ああ。そういう規則だからな」

 

もっとも、昨年ではその作業のほとんどを私が担当していたわけだが。なんなら彼女の訓示の文面すら私が書き上げ、私が推敲して理事長へと提出している。

決してシービーが職務を放棄していたわけではなく、現政権の立ち上げ直後であるが故に時間的な余裕がないことが理由だった。はっきり言って、あんなもの別に生徒会長ではなく事務局に投げておけばいいと思うのだが。生徒の権利擁護を重視するあまり、生徒会長に課される業務はやたらと多い。

 

そんな中でも、総代宣誓における文章については珍しくシービー自らが担当したがった。

ちょうど一年前、全く同じ名誉を授かった者として多少なりとも関心があったのだろう。逆にそのぶん、私はルドルフの宣誓の中身についてはいまいち記憶していないのだが。

 

「ルドルフの提出してきた素案は珍しく修正がなくてね。アタシの時はこれでもかってぐらい赤ペンでチェックが入ってたのに。ホントに小学生が書いたとは思えないぐらい(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)立派な文章だったよ。あれはびっくりした」

 

「君がそこまで言うとはね。私も一度ぐらい目を通してみたかったな」

 

シービーがここまで手放しで称賛するのも珍しい。別に他人を評価しないというウマ娘ではないのだが、一方でお世辞を嗜むようなウマ娘でもないのだ。

 

しかし褒められた側のルドルフといえば、あまり嬉しそうな顔をしていなかった。

我関せずというか、あまりシービーの言葉に反応するつもりもないらしい。

単純に意地を張っているのか、隙を見せたくないのか。あるいはその両方かもしれない。難儀なものだった。

 

「式典でちゃんと読み上げてたでしょ。あのまんまだよ」

 

「生憎まともに聞いてなかったよ。ああいうのは右から左に聞き流すものだろう」

 

「いけないんだ。こんど秋川理事長に言いつけてあげようかな」

 

「やめてくれ。あの人の言葉はちゃんと聞いている」

 

なにせ二字熟語を披露した後、簡潔に十数秒話して終わりなのだから。

『校長先生のスピーチ』なんてそんなもので良いのだ。格式張った長ったらしい話については後から日報として配布されており、勿論誰も読んでなどいない。

 

「しかし、そこまでいうならいっそのことルドルフも生徒会に入れてみてはどうだろう。読み書きができる生徒がいるに越したことはない」

 

「良いわね!それ!」

 

私の提案に即座に乗っかってきたのは、ルドルフでもシービーでもなくこちらの対面に座っていたマルゼンスキー。

その腕の中にはすっぽりとカツラギエースが収まり、一心不乱にチキンにかぶりついている。

 

どちらも今回の誕生日会のゲスト兼抑止力として招いたウマ娘だ。

シービーはともかく入学してまだ日の浅いルドルフを外まで連れ出す気にはなれず、結果こうして私の寮部屋で開催することになったが故の対策だった。

今のところは特にトラブルもなく、二人とも私たちをそっちのけであれこれ楽しんでいたらしい。

 

「私は入学してまだ一週間ほどしか経っていませんよ。マルゼンスキー副会長」

 

「マルゼンでいいわよ。敬語もいらないわ堅苦しいもの。そうね、時期については特に問題にはならないハズ。そもそも生徒会長からしてまだ二年目だし、一般の会員にしても6日前に―――」

 

「マルゼン」

 

シービーの鋭い声がその言葉を途中で遮った。

話の腰を折られたマルゼンスキーといえば、どこかばつの悪そうな苦笑を浮かべて頬を掻いている。

ルドルフから顔を離さず、ただ眼球だけをそちらに向けて。シービーは諭すように続きを口にする。

 

「ダメだよマルゼン。部外者に生徒会の内部情報を流しちゃ。ただでさえ、最近そういうの厳しいんだから」

 

「あ、あはは……そうね。ごめんなさい」

 

「ま、有望なのは認めるけど。ただ今はちょっと都合が悪くてね。ルドルフを迎え入れることはできない。悪いけどね」

 

「そもそも、私は入りたいなどとまだ一言も口にしてないだろう」

 

淡々と話を進めていくシービーに憮然とした表情を露にするルドルフ。

たしかに私が勝手に言っているだけだが。しかし彼女のことだから、てっきりそういった役職にも興味があるのかと。

 

「入りたくないの?生徒会……ああ、そりゃそうか。だって、アタシが頭にいるんだもんね。違う?」

 

「そうだと言ったら?」

 

「それならキミが生徒会長になればいい。実力さえあれば……それこそ三冠をとれば、嫌でもあの椅子に座ることになる。そういう伝統なんだ」

 

「伝統って……そもそも学園が成立して以来、三冠バはシンザンしかいないじゃないか」

 

「そうだよ。他ならぬ神のウマ娘が定めた伝統……違うか。呪いみたいなものだね」

 

聞くところによれば、初代生徒会長の引退に伴って無理やりにその椅子に座らせられたという。

なんでもほどほどにがモットーであったシンザンにとって、ブラック極まりない生徒会長の座は心底厭わしいものであり。逃げ道が欲しかったのか、それとも死なば諸ともの精神なのか、クラシック三冠を成し遂げたウマ娘は強制的にトレセン学園生徒会長を継がせられると宣言したとかなんとか。

結局、彼女の在校時に次なる三冠バは現れず、結果として歴代最長政権を築き上げたところも含めた悲劇である。

 

「そういえばトレーナー君。一つ、君にお願いしたいことがあるんだが」

 

「なんだ」

 

生徒会についてはひとまず脇におくことにしたのか、どこか意を決した面持ちで私に声をかけてくるルドルフ。

懐から財布を取り出すと、中から一枚のチケットを抜き出して差し出してきた。そこに印字されていたのは、都心にあるとある高級ホテルの名前。正確には、そこにテナントを構えるレストランの店名だ。

 

「以前、君と電話した時にも少し触れたと思うが。一度二人きりで話し合う時間が欲しくてね。先ほども話の流れに出たから、丁度いいと考えた次第だ」

 

「期日は」

 

「明日の夜だ。急ですまないが、元々あの日の夜に訪れる予定のものだったのでな。正直なところ、私としても今の状態(・・・・)をこれ以上引き延ばしにしたくはない」

 

「……分かった」

 

それを受け取ろうとした瞬間、すかさずシービーに手首を拘束される。

それを冷めたような目で見つめながら、私の懐にチケットをねじ込んでくるルドルフ。シービーがもう片方の手をそちらに伸ばしかけた瞬間、ぴしゃりとマルゼンスキーがそれを遮った。

 

「よしなさいシービー。こんな茶番をいつまで続けていても仕方ないわ」

 

「マルゼン」

 

「もうお互い、本当のところは分かっているのでしょう?なのに偽り続けるなんて、冷静になってみれば滑稽だと思わない?なによりトレーナーくんが可哀想だわ」

 

「……」

 

しばらくの逡巡のあと。

呆れたような、自嘲するような長い長いため息を吐き出したシービーは、私と引っ付くのを止めてのっそりと離れていった。

 

四つん這いで元いた場所へと帰り、グラスのレモネードを一息で呷る。

やがて口元を拭い、これまた意を決したような瞳でルドルフの顔を直視した。

 

「……いいよ、許可してあげる。だけど条件が一つ」

 

「それは」

 

「キミのペアである……ビゼンニシキも一緒に連れていくこと。二人きりまでは許さないから」

 



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綻ぶ糸を認めず

 

私の寮で、シービーの誕生日会を開いた翌日のこと。

 

早々に仕事を切り上げ職員用の駐車場で愛車に乗り込むと、スマホから現在の時刻を確認する。

ちょうど18時を過ぎたところ。学園における活動が一段落つくタイミングであり、ルドルフと待ち合わせのために約束した時間でもある。いくら外出届を提出するとはいえ、あまり夜遅くまで連れ出したくない身としてはなんとか妥協できる範囲か。

いくら学園所属のトレーナーとはいえ、自身の担当でもないウマ娘二人とプライベートで行動を共にするのは非常に体面が良くない。ましてやそれが、学生には到底釣り合いそうもない高級レストランでの会食ともなれば尚更だ。

今の私は、世間からの注目もそれなりにある。おまけにそれはかなり不安定であり、ふとした拍子で勢いよく燃え上がりかねないのだから。身の振り方は、よく考えなければなるまい。

 

ルドルフが私の寮部屋に転がり込んできた翌日、いつの間にか電話番号で追加されていた彼女のウマインに準備が整ったという旨のメッセージを送る。ものの数秒で既読がつき、こちらに向かっている最中だという返信がきた。

時間にはシビアな彼女のことだ。たった数分とはいえ、待ち合わせの18時に遅れてくるのは珍しい。おおかた、同伴者として指定されたビゼンニシキとの足並みが揃わなかったのだろう。

 

二人が到着するまでの時間稼ぎも兼ねて。

昨晩シービーが提示してきた、その条件について少しだけ思考を巡らしてみる。

 

私とルドルフの二人きりで、という内容に反発するのはごく自然なこと。故に第三者をその場に同席させるという妨害を行うのも理解できる。

分からないのは、その実行者としてビゼンニシキを指名してきたことだ。

会食にシービー自身が同席できないのは仕方ないとしても、ならば彼女の代役として送り込むべきは彼女により近しい立場の人物であるべきだ。

中立を表明している先生については最初からアテにならないものだと除外しておくにしても、他にいくらでも候補はいるだろう。それこそ、彼女が支配する生徒会の構成員とか。

マルゼンスキー……は昨夜の様子からして引き受けてはくれないだろうが。だとしても、生徒会は別にシービーとマルゼンスキーの二人だけで機能しているわけではない。

ヒラ会員ならいくらでも動かせる者はいるだろう。それがなんだって、ただのペアに過ぎないビゼンニシキなんかに。

 

 

いや……そうか。そういうことか。

 

 

強引だが、生徒会長の権限なら不可能ではない。

もしかしたら、そのビゼンニシキこそが―――

 

 

コンコン、とガラスを叩く音で我に返る。

運転席の窓を挟んだ向こう側から、ルドルフとビゼンニシキがこちらを覗き込んでいた。

ドアロックを解除し、ジェスチャーで後部座席に座るよう指示をする。

 

「あぁトレーナー君。すまない、少し遅れてしまったな」

 

「失礼します」

 

落ち着いた足取りで乗り込んでくる二人。

シートベルトを下ろし、ちょこんと行儀よくならんで座っている。こうして見ると、本当につい数週間前まで小学校に通っていたのだなと納得できる幼さだ。

 

ルドルフやシービーと関わっていると、自分の中の感覚がおかしくなってくる。

それを言ったらマルゼンスキーも相当だが、彼女と違って所々で年相応の仕草を見せてくるのがいやらしい。

 

「気にしないでくれ。たかだか数分程度の遅れだろう」

 

「いや、こちらから指示しておいて言い訳は出来ないよ。ビゼンニシキの仕度が手間取ってしまってね……」

 

「いや、言い訳してんじゃん。しょうがないでしょ、ああいう立派な場所で食事することなんてそうそうないんだから」

 

「そう肩肘張るようなものでもないさ。君はゲストなのだから、これもせっかくの機会だと思って楽しんでくれれば幸いだな」

 

「その余裕がまたムカつくのよね。ねぇ、そう思いませんトレーナー?金持ちはこれだから……」

 

後ろでにわかに喧しくなる二人はひとまず無視して、カーナビを操作し目的地へのルートを呼び出す。

 

向かう先は東京の一等地。

……まったくもって、この三人で訪れるにはほとほと似つかわしくない場所だな。同じ子供でも理事長との相席ならまだ格好がついたものを。

まぁ、今更ああだこうだ言ってたところで仕方ない。下手に誰かに見られても厄介だ。せめて穏便かつ迅速に済ませることとしよう。

 

そんな半ばなげやりな気持ちを抱えながら。

私はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

案内されたホテルは、それはまぁ立派なもので。

豪華、という表現すらあまりにも陳腐に思えるほど。

 

通されたのは最上階のレストラン。その中でも一段と奥まった所に設けられた個室。

壁から天井に至るまで全面がガラス張りとなっており、夜の都心を心行くまで堪能出来る絶景だった。

下は首都高を何列にも走る車のランプから、上は高層ビルに掲げられた障害灯まで。宝石を散らしたように目映い光景は、まさしく壮観と形容するに相応しい有り様といえよう。

 

それを売りとしているからか、店内の照明もまたやや暗めに設定されていた。

鬱陶しくもなく、かといって寂しくもない絶妙な案配で施された装飾も相まって、この夜景を立ててどこか一歩引いた印象がある。

これだけのシチュエーションでありながら、なおも客に安らぎを与えるよう計算され尽くしている。その上で料理も極上となれば、なるほど最高級と評されるわけだ。

 

「わぁ……すっごい……」

 

ビゼンニシキときたら、食事を終えてからずっと窓の方に張り付いている。

ここは個室で、私たち三人しかいないためかまるで遠慮がない。その尻尾がゆらゆらと、興奮を湛えながら落ち着かなく左右に揺られている。

 

そんな彼女を窘めることもせず、私の向かいでゆったりと食後の一杯を堪能するルドルフ。

制服姿のビゼンニシキとは対照的に、彼女はドレスコードだった。深い紫色をしたシックなドレスで、落ち着いたレストランの雰囲気と完璧に調和している。

まだ未成年なので、口をつけているのは白ブドウのジュースだが。これがスパークリングワインだったらさぞ絵になったことだろう。

 

……私の服装は大丈夫だろうか。

 

このホテルの格式や内装に付いては今朝のうちに調べをつけていたため、場違いにならない程度の身支度は整えてきたつもりだ。

仕事を終えた後、一度寮に戻ってから身を清め髪もまとめいる。職業柄、相応の着こなしについて準備があったのも幸いだった。

ただ、目の前のルドルフと比べると些か華やかさに欠けるような。落ち着いてはいるのだろうが、どうしても地味な印象が拭えない。

素材の差だと言ってしまえばそれまでだが。会食での装いについて、中等部生を相手に引け目を感じている自分が情けない。

 

「なにかな?トレーナー君。さっきから私の顔をずっと眺めて」

 

こちらからの視線に気づいたのか、傾けていたグラスをことりとテーブルに置いて、ルドルフはふんわりと微笑んでみせた。

 

色気……としか言い様のないそれに、無意識に息を呑む。

ビゼンニシキを交えつつ、先程までお互いかつての思い出と別離後の体験について花を咲かせていたところだった。彼女もまた、この二年間で大きく成長したのだろう。

 

「いや、随分落ち着いているなと思ってね。歳によらず……なんて、そんなこと君に言うのも今更か。綺麗だよルドルフ」

 

こんな、夜景を望むレストランの席で、成人男性が仮にも女子生徒を相手にかける言葉じゃないだろうが。

それでもこのルドルフを前にしては、誰であってもそう賛美せざるを得ないだろう。

 

ルドルフはその褒め言葉に気を良くしたのか、ふふっと口に手をやりつつ満足そうにしている。心なしか、その頬がほんのりと色づいたように見えた。

 

「ふふ、ありがとう。幼い頃からこういう経験も積まされていてね。積土成山、両親の教育の賜物だろうな」

 

「そうか。流石、天下のシンボリといったところかな」

 

トレーナーとしての初出勤日、シービーとお出かけした際に彼女からかかってきた電話。そこで言っていた通り、このホテルもかの家の影響下にあるらしい。

入り口からの案内がやけにスムーズだったのも、恐らくはその恩恵なのだろう。問題は、それが私にとってどう転ぶかということだ。

 

「天下と呼ぶにはまだ早い。それは私たちがこれから掴みとるものだろう」

 

「私たち……」

 

「そうだ。私とトレーナー君でね」

 

ちゃぷちゃぷと。

グラスの中身を揺らしながらそう告げて、ルドルフは一息でそれを飲み干した。

 

これで、共された食事は全ておしまいだ。

さて、それでは学園に帰ろうか……などと、そうは問屋が下ろさない。むしろ、これからが本番といったところだろう。

少なくとも、目の前の彼女はそのつもりでいるらしい。このレストランがシンボリのテリトリーであることを考えれば、応じないことには先へと進めないだろう。

 

「なぁ、ルドルフ……どうして私なんだ?この際はっきり言わせてもらうが、君が私に固執する理由が分からない」

 

「それを聞いてどうする?」

 

「経験のある、ルドルフと適性のありそうなトレーナーを紹介しよう。君ほどの実力者なら断る者などいまい」

 

現段階におけるルドルフの実力について、詳しいことは私も知らない。実際に走っているところは見ていないし、そのデータが開示されるのも来月の選抜を終えた以降となる。

 

しかしその生来の素質と才能、数年前における彼女の競技ウマ娘としての完成度から推察するに、少なくともトレーナーを選べる側であることは間違いない筈だ。

この二年間でなんらかの事情により伸び代がなくなったという可能性も0ではないにしろ、今期の総代として入学を果たしている限りほぼあり得ないだろう。未だに本格化も迎えていないのだから、成長が限界に達したということも考えられない。

 

それだけ恵まれたものを持ちながら、どうしてベテランでも中堅ですらないこんな新人に執着するのか。

昔馴染みということで、最初からお互いの相性やコミュニケーションの勝手が分かっているというのが、強いていうなら私がルドルフを担当するにおいての唯一のアドバンテージだろうか。とはいえ、それも技量や経験の差を覆せる程のものではない。それに彼女なら、よっぽどの事がなければ誰が相手でも上手くやっていけるだろうから。

 

しかし、そんな私の考えをルドルフは真っ正直から否定してくる。

 

「たしかに、君よりも腕のいいトレーナーは沢山いるだろう。それは仕方のないことだ。君は数日前にデビューしたばかりで、まだなんのキャリアも積めていないのだから」

 

「なら……」

 

「それでも!!……それでも私には、君しかいないんだトレーナー君。他がどうこうの話ではない。君でなければ駄目なんだ」

 

きっぱりと、力強くそう言い切った。

 

……他がどうこうの話ではない。

 

つまりルドルフは、彼女のトレーナーを選ぶにおいて、その能力について全くなんの勘定にすら入れていないというのか。

 

きっと彼女の中で重要なのは、私が私であることなのだろう。

たとえ私が何人ものウマ娘をG1で勝たせるような凄腕だろうと、逆に一人も重賞に出走すらさせられないような落ちこぼれだろうと関係なく。実際、現在における私のトレーナーとしての評価は、およそ論ずるにすら値しない圏外なわけだし。

 

余りにも異常なこだわりだ、それは。

トレーナーの存在意義そのものを根本から否定しているといっても過言ではない。極論してしまえばルドルフは、誰をトレーナーにつけようが変わらず勝利出来ると、そう高らかに宣言したも同様なのだ。

競技ウマ娘にとって、自らの3年間を託す担当トレーナーを吟味することは義務である。そこから既に戦いは始まっているのだ。そんなことすら理解出来ないルドルフではないだろうに。

 

「…理想なんだよ、トレーナー君。私には使命があるんだ」

 

「理想…?」

 

「そう。私には全てのウマ娘を幸せにするという、そんな世界を作るという理想があるんだ。そしてその過程には、君が私の隣にいてくれなければならない」

 

どうしようもない混乱の最中。

 

助け船のつもりだろうか。

とうとうその理由が彼女の口から語られる。だがそれは、どうしようもなく私の理解の範疇を越えたものだった。

 

とうに冷静さを欠いていたからか……目の前のウマ娘が理想と語ったそれを、私は反射的に否定してしまった。

 

「…いや、そんな不可能なことを……そんなもののために、君は…」

 

「……そんなもの、か。覚悟していたこととはいえ、トレーナー君自身にそう言われるのは流石に堪えるな」

 

「あ、いや……すまなかった」

 

傷ついた様子で眉を下げるルドルフに詫びを入れる。それがどんな内容であれ、せっかく明かしてくれた内心を貶めてはいけなかったな。

 

そう後悔すると同時に、気落ちしたルドルフの姿に戦慄を覚えた。

彼女は、なにも冗談や酔狂としてあのようなことを口走ったのではない。心の底から、かの理想郷の実現に邁進するつもりなのか。

これが例えば、極度の世間知らずや夢見がちの言ならそういうものかと流すことだって出来ただろう。しかし私の知る限りにおいて、ルドルフは堅実なリアリストだった筈だ。

伊達に幼少期から、支配層としての英才教育を受けてきたわけではない。それが何故。

 

夢中で窓にへばりついていたビゼンニシキもまた、わけの分からないといった顔でルドルフの方を振り返っている。

 

「それが、君のトゥインクルシリーズにおける目標か」

 

「違う。私のバ生における命題だ。トゥインクルシリーズも、ドリームトロフィーリーグも、さらにその先についても……全てはそのための礎。私にとっては轍でしかない」

 

「レースはあくまで、その理想を実現するための工程の一つに過ぎないと……?」

 

「無論、手を抜くつもりは毛頭ないよ。史上初の無敗の三冠も、歴代最高の五冠も越えてさらにその先へと至ろう」

 

彼女の紫の瞳が激しく揺らめいた。

本気だ。彼女はそれを大真面目に成し遂げようとしている。この何十年……いや、この国において、レースというものが生まれてから全てのウマ娘が焦がれたそれを、自らにとってはただの過程だと言い切ったのだ。

 

信念を越えて、最早狂気の域にすら足を踏み入れている。

一体何が、シンボリルドルフをここまで狂わせたというのだろう。走マ灯のように彼女との記憶が脳裏を駆け巡り、しかし一向に答えは出てこない。

 

「……まぁ、それがルドルフの夢だとしてもだ。それなら尚更、私ではなくベテランの腕利きを側に置くべきじゃないのか」

 

無敗三冠にしろ、シンザンを越えてさらにその先を目指すにしろ、私なんかよりも優れたトレーナーをつけた方がいいに決まってる。

 

「いや、トレーナー君には一番近くで見届けてもらう。シンボリルドルフの覇道は、君がいなければ始まらないんだ」

 

「だから、それがどうして私なんだ!」

 

「……どうしてって、私をここまで狂わせたのは他ならぬトレーナー君じゃないか」

 

「なにを……」

 

「君にそう誓ったからさ。この理想も、将来もなにもかも」

 

「……」

 

「覚えてないだろうね。無理もないことだ。そしてその性質上、私からも詳しく語ることも出来ない。心底口惜しいことだな」

 

私に困惑の目を向けてくるビゼンニシキに、そっと首を振って返す。

 

私は、読み違えたのだろうか。

 

ルドルフがしつこく私にアプローチをかけてくるのは、ひとえに昔馴染みの縁だとしか考えていなかった。しかしどうやら、彼女の執着は想像もつかない程根深いところから端を発しているらしい。

 

ルドルフの言葉について、狂人の世迷い言だと切って捨てるのは簡単だ。しかしどうしても、私には彼女が虚偽を述べているようには思えなかった。

それについて説明が欲しいが、彼女はそれが出来ないと言っている。性質上というからには、思い出すことで私とルドルフのどちらか一方…否、私にとっては必ず不利益が生じる事柄だということなのか。

 

昨晩、誕生日という題目でルドルフとシービーを同席させたのは、それによってなにかしら煮詰まった現状に変化が起きて欲しいという、言わば苦肉の策だった。

期待どおり一定の成果があったように思えたが、その結果飛び出してきたのがこれだというのか。ルドルフの行動原理が、私が忘れてしまったかつての出来事に絡んだものであり、しかもそれを思い出すことすら許されないというのなら……私にはもう、彼女を説得する手立てはない。

 

「ここからは、もっと現実的な話をしよう。トレーナー君」

 

「……ああ」

 

このままあの話を続けていてもなにも変わらないと悟ったのだろう。

完全にイニシアティブを握られてしまった形になるが、とりあえずそれに肯定しておく。

 

「現実的というのはね、ようするにメリットとデメリットの話だ。トレーナーとウマ娘が、担当契約を締結することにおいての」

 

「私が、ルドルフを担当につけるメリットについてか」

 

「そう。それから、シービーを担当につけるデメリットについても提示しておこう。それをどう受け止めるかは君次第だが」

 

シービーと、この会食において初めてその名前を口にしたな。

そうだ。彼女はここに過去を懐かしみにきたわけでも、旧交を温めにきたわけでもない。私を籠絡することを本懐としているのだから。

 

「断言しよう。今の(・・)トレーナー君では、彼女と組んだところで破滅するだけだ……お互いに、ね」

 



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一点買い

 

きっぱりと、なんの臆面もなくそう言い切ってのけるルドルフ。

シービーへの対決姿勢を、事ここに至って微塵も抑えることすらしなくなったか。

 

いよいよその名を口にしたことで、この会食における駆け引きもいよいよ大詰めを迎えたことを悟る。

シービーは学園側に半ば担当契約を公認されたウマ娘であり、一方でルドルフはほんの一週間ほど前に学園に入学したばかりの新入生。現状において、どちらが優位かなど最早比べるまでもないこと。

然しものシンボリ家の神通力といえど、トレセンの内部にまで介入出来るわけではない。となると、彼女がそのような言動に出るのも当たり前の話か。

 

「よくもまぁ、はっきりと言うものだな」

 

「勘違いしないでくれ。私はシービーのことはとりわけ優れたウマ娘だと評価している」

 

だからこそ、とルドルフはやや身を乗り出してこちらを見上げた。

 

「トレーナー君の手に負える相手じゃない。現時点においては、だが」

 

「私に実力が足りていないと」

 

「……忌憚なく言ってしまえば、そういうことになるだろうな。それは君だって理解しているところなんじゃないのか」

 

「……」

 

それはついこの間、シービーのトレーニングを監督している中で実感していたものだ。

 

ルドルフはシービーの特性について、具体的なことはなにも知らない筈だが。やはり同じ才能に恵まれたウマ娘として、彼女なりに理解できる部分があったのだろうか。

それとも、この一週間ほど私の寮で共同生活を送ったことで、私とシービーの在り方についてなにかしら感じるところがあったのかもしれない。

 

……あるいは、そのどちらでもないのか。

優れた観察眼も、共に過ごした時間も関係なく……ただ、誰の目から見ても私たちの不釣り合いが明らかなだけなのだろうか。

それこそトレーナーでも、チームの関係者ですらない完全なる部外者ですら、こうして屹然と断言できてしまう程に。

 

「トレーナーさん、コイツの言うことをそんな真に受けてどうするんですか。ただのはったりかもしれないのに」

 

数瞬の沈黙のあと。

これまで黙ったまま様子を見守っていたビゼンニシキが、横から口を挟んでくる。

 

「だって、こんな状況でトレーナーさんと会長さんがお似合いだなんて言うわけがないでしょう。本当はそうだとしても……だったら尚更、ルドルフはそれを否定しなくちゃいけない立場なんですから」

 

「私にとって都合の良い、恣意的に歪められた発言であると?」

 

ルドルフがやや憤慨したような、それでいて嘲るような口調で横槍を入れた。

まるで、そんな反応もまたとっくに想定済みだと言わんばかりの様子に、それでもビゼンニシキはたじろぎながらも言い返す。

 

「そうでしょ。実際、アンタにとってはそうであってくれた方が都合が良いもんね。でもあの移籍は、理事会が承認したものであって……」

 

「理事会が審査するのは、あくまで手続きにおける要件を満たしているか否かだ。不備がなければ判を押すしかなく、すなわちそれは能力面での妥当性を担保するようなものではない」

 

「だけどそんな、お互い破滅するなんて無茶な移籍を通すわけがないじゃない」

 

なおもしつこく食い下がるビゼンニシキに、あくまで淡々と反論を重ねるルドルフ。

両耳や尻尾にも苛立ちのサインすら見せず、冷静に言葉を打ち返していく。逆に、問い詰めている側のビゼンニシキの方が、どこか焦りを滲ませているように見えた。

 

「事実通っているじゃないか。無茶かそうでないのかを判断するのは、移籍元のチーフトレーナーと移籍対象であるウマ娘の役割だろう。だいたい、URAからの出向組に過ぎない理事に現場のなにが分かるというんだ」

 

「その理屈なら、会長さんの移籍だって会長さん本人とそのトレーナーは納得しているってことじゃない。それで充分でしょうが」

 

「そうだな。あの二人が真面目に判定するつもりがあったなら、の話だが。なぁ、トレーナー君」

 

「……ああ」

 

それについては、私も彼女の主張に頷くしかなかった。

 

正確に言えば、なんの審査も判定も行わなかったというわけではないだろう。そもそも推薦移籍を申請するにおいては、チーフトレーナー自らの見解をしたためた推薦書を理事会に提出する必要があるわけだし。

仮に私とシービーの相性がよくなかったり、素行が悪かったり、あるいはトレーナーとして著しく実力が乏しかったりした場合は、容赦なくその措置も見送りになったものだと考えられる。流石にあの二人も、そこまでレースに対して無責任ではない。

 

ただ、その判定基準についてはやはりハードルが低かっものだと言わざるを得ないだろう。

 

一応、移籍の要件として、学園からトレーナーとして一定以上の資質が見込まれているというものもあるにはある。

だがこれもあくまで、トレーナーとして能力のみを主眼に据えたものであり、移籍対象となるウマ娘の実力と比べてどうこうという話ではない。

学園にとっては、私がサブトレーナー時代の定期考査で全て優秀な成績を修めていたという事実だけが重要なのであって、そんな私がミスターシービーに相応しいか否かについては全く別の話なのだ。

そもそもルドルフの言葉の通り、たかだが3年間の腰掛けに過ぎない理事たちにそれを検討する術もない。彼らの役目はあくまで学園の運営であり、事務方のスペシャリストでしかないのだから。

 

「ビゼンニシキ。君が疑問に思うのも分かるが、そもそもシービーの移籍自体が、本来制度に想定されていないことなんだ」

 

「……どういうことでしょう」

 

「あり得ないんだよ。シービーほどのウマ娘が放出されるのは。トレーナーにとって、強いウマ娘はまさしく金の卵だ。ましてやそれが、三冠を期待される逸材とあれば尚更」

 

「あぁ……たしかに」

 

実際、元から特別移籍を見込んでいたという事情さえなければ、先生も彼女を手放していたとは思えない。

今回だってそうして当たり前というか、誰も文句は言わなかっただろうに。かつてシービーとどういう約束を交わしていたのかについてはとんと知らないが、意地でも当初の計画を曲げなかったあたり、律儀というべきか頑固というべきか。

 

「それにトレーナー君。君とシービーが組むには時期尚早だというのは、なにも私だけの見解ではないと思うがな」

 

それがどういう意味かはすぐに察しがついた。

なにせ、なんら関係のない生徒たちの間でも話のタネになっていたのだ。当事者であるルドルフなら当然、全てを把握していることだろう。

 

「……ルドルフも読んでいたか。あの雑誌」

 

「ああ、君たちの記事について見させてもらったよ。あそこはなにかと良くない噂の目立つ出版社ではあるが、今回に限ってはその主張も妥当に思える」

 

「そういう声もよく見かけるな。ウマッターでも覗いてみれば盛り沢山だ」

 

「まさしく問題となるのは、そういった世間の声だよ。想像してみるがいいトレーナー君。シービーを担当して以降、一敗でもしたら果たしてどうなるのかを」

 

今更そんなこと言われるまでもない。

新任式からずっと、しつこく頭にこびりつかせて反芻してきた可能性だった。

いやしくもトレーナーである以上、始まってもない勝負について負けることばかりを考えるのは愚の骨頂だが。それでも私とて人間である以上、楽観的なばかりではいられない。

 

「シービーにとっては悲劇だろう。だが、それ以上に悲惨なのはトレーナー君だよ。そら見たことかと、君に向けられた銃口は大義を得て一斉に火を吹くこととなるだろうな」

 

「ああ、そうだろうな。目に見えるよ」

 

「分かっていて何故地雷に飛び込む?君たちにも相応の言い分があるのだろうが、世間はそれを聞いてはくれないぞ」

 

「それが君のいうデメリットか」

 

「そうだ。彼女と組むなら君はこの先、負けることなど許されない。それが、かのミスターシービーを預かる新人トレーナーに課される『最低限の』ハードルとなる……なってしまったんだ。もう既に」

 

「そう……かもしれないな」

 

それは、歴史に名を残すような名バを担当してきた全てのトレーナーが直面してきた問題だ。

 

レースを観る者は、程度の差こそあれ走者に自らの夢を託している。だからこそ、それを支えるトレーナーには相応の実力を求めるのだ。ウマ娘の実力が高ければ高いほど、そのハードルは上がっていく。

より適切な、もっと彼女に相応しいトレーナーを寄越せと。

そんなもの、現実を知らない外野の妄言だと切り捨てるのも一つの方法かもしれないが。しかし観客を魅了することに価値をおくシービーにとっては、そんな在り方は到底受け入れられるものではないだろう。

 

「だがルドルフ。その台詞は君にも返ってくることを分かっているのか」

 

「うん。だが私と君なら、共に力を伸ばす時間の余裕はある。初年からクラシック戦線に放り込まれるよりずっとマシな筈だ。その間、君への世間からの目も逸れるだろう。『三冠バ』ミスターシービーが、いい避雷針となってくれるに違いない」

 

「私の悪目立ちは仕切り直しということか」

 

「無論、その翌年に話題を浚うのは私たちだ。大人しく身を引いたトレーナー君と、そんな君が一から育てた皇帝シンボリルドルフの二人でね」

 

それはそれで荒れそうというか、結局新人が運良く力のあるウマ娘を引き当てたという評価は変わらないだろうが。それでも、現状のままよりかは幾分マシか。

やはり途中から引き継ぐというのと、一から捕まえて育成するのとでは印象も違うわけだから。

 

「……随分とまぁ、呑気な話ね。結局、会長さんよりマシってだけじゃない。正直ルドルフじゃなくても良いんじゃないの」

 

「ほう、なら誰が候補となるんだ」

 

「そうね……ねぇトレーナーさん。どうです?こんなわけの分からない女よりも私の方がずっと安牌ですよ。お互い既に見知った仲ですし……」

 

 

「ビゼンニシキ」

 

 

「……はいはい。分かったよ、もう」

 

疲れたように息を吐いて、ビゼンニシキは大きく伸びをする。

尻尾の毛先までピンと真っ直ぐ伸ばして、最後にもう一度ため息を溢すと、気だるそうに椅子から立ち上がった。

 

「飽きたわ。私はもう先に帰ってるから」

 

 

「いいのか?"生徒会長"にどやされるぞ」

 

 

その瞬間、びっくりしたようにこちらを振り返るビゼンニシキ。

ややあって私を見つめたあと、誤魔化すように頬を指でかく。

 

「あ、あはは……あれ、気づいていたんですか。私が生徒会の一員だってこと」

 

「確証はなかったけどね。その様子を見る限り当たりのようだけど」

 

「ああ、カマかけでしたか。私もまだまだですね……まぁ、大丈夫です。会長さんに命じられたのは『食事中』の見張りですからね」

 

それでは、と一礼して颯爽と彼女は個室の外へと消えてしまった。

なんとも投げやりなものだが、しかし責められるべき謂れもない。いくら生徒会長とはいえ、全く業務と関係しない仕事を命じたシービーが悪いのだし。

 

と、そんな後ろ姿を見送っていたところ、不意に袖を引っ張られた。

顔を戻せばルドルフが、目を丸くしながら固まっている。

 

「トレーナー君……どういうことだ。ビゼンニシキが私の監視を……?」

 

「いや、シービー本人が来れないならその手の者を寄越すだろう普通」

 

「だが、彼女はまだ入学して一週間だぞ。それがヒラとはいえ、生徒会の一員なんて……」

 

「在校年数は全く関係ないって、マルゼンスキーも言ってたじゃないか。他ならぬシービーがまだ二年次なんだし」

 

ならどうしてルドルフの生徒会入りが許されなかったかといえば、万が一にもビゼンニシキの正体が露見するのを警戒したためだろう。

もっともそれも、たった今こちらが暴露したせいで台無しになってしまったが。

 

「意外だな。君のことだからとっくに看破しているものかと」

 

「いや……だとすると、ビゼンニシキが私のペアになったのも」

 

「偶然じゃないだろうね。おおかたシービーの仕込みだろうな」

 

ルドルフに対抗心を燃やすビゼンニシキは、抱き込んでスパイとさせるにはうってつけの人材だ。

シービーの目が届かない昼間においては、彼女を通じてルドルフの思惑や行動を把握しようという魂胆だったのだろう。それが上手くいったのかは不明だが。

 

ルドルフといえば、仲がいい(と勝手に思い込んでいた)ビゼンニシキに裏切られたことが大層ショックだったのか、ぶつぶつと剣呑な言葉を呟いている。

そういえば、ペア行動は今月いっぱいはずっと続く決まりだが。明日からどうなるんだろう……この二人。

 

「まぁいいか。とりあえず、話を元に戻すけど。やってることの悪どさで言えば君も大概だからな、ルドルフ」

 

「うん?どういうことかな、トレーナー君」

 

「どうもなにも、今このシチュエーションそのものだよ。まず一つに、君の格好かな」

 

紫のシックなドレス。

なるほど、この場の雰囲気と見事に調和しているものだ。普段よりドレスコードを意識した私の格好と相まって、お互いテーブルを挟んで向かい合ったこの光景はさぞ画になることだろう。

 

ようするに、かなり目立っている。悪目立ちといってもいい。

そもそも担当ですらないトレーナーとウマ娘が、平日の夜にこうして正装しながら食事に興じているのも不自然だ。きっとその気になれば、いくらでも不穏な憶測が立てられるぐらいには。

 

「私がマスコミに標的されかかっていることも、既に君は知っていたのに。シービーでもないウマ娘と、こんな格好でプライベートに落ち合っていたと知られたらどうなるか」

 

「そこは配慮しているとも。言っただろう、ここはシンボリの系列だと。私と君にとっては都合のいい場所だ」

 

「ちょっと違う。君にとっては……だろう」

 

全てはルドルフの胸三寸。

この会食を世間の目から隠匿することも可能だろうが、逆に言えば写真付きで流出させることだって可能なのだ。

そのことを私に自覚させることで、彼女の言葉に逆らうことも難しくなり……つまるところ、無言の脅迫としての意味合いを含むことになる。

 

そう告げると、ルドルフは再び目を丸くしながらぶんぶんと首を横に振った。

そのまま狼狽した様子で必死に頭を下げてくる。

 

「いや、違うんだ!決して君を脅そうだとか、そういう意図があったわけでは……うん、すまない。私の配慮が足りていなかったな」

 

「私の穿ち過ぎだったと」

 

「ああ……いや。君がそう思うのも当然だろう。だが、考えてみて欲しいトレーナー君。私には、そうやって君の信頼を損ねるメリットなんてないじゃないか」

 

「まぁ、そうだな」

 

現実として、ルドルフはこちらの機嫌を損ねるわけにはいかない立場だ。

 

シービーとの移籍が反故になったとしても、その後は絶対に彼女と組まなければならないというものでもないのだから。どれだけトレーナーにとって喉から手が出るほど欲しい逸材といってもだ。

前に言っていた、『今回ばかりは手段を選ぶつもりはない』という言葉がやけに引っ掛かっていたのだが……気にしすぎだったのかもしれない。

 

「悪かったね、ルドルフ。もう行こうか。いつまでもここに居たら迷惑だろう」

 

「あ……ああ。そうだな」

 

彼女の言いたいことはあれで全てだったのだろう。存外にもあっさりと従ってくれた。

 

スマホで時刻を確かめると、21時をだいぶ回ったところか。かなり時間は遅くなってしまったが、ならば尚更すぐに学園へと戻らなければならない。

今から行けば、ビゼンニシキにも追いつけるだろうし。ウマ娘の足なら踏破できない距離ではないにしても、こんな夜中に一人で夜道を走らせるわけにもいかないのだから。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

ホテルから出ると、春の夜風が私とトレーナー君を撫でていった。

つい先日まで、骨身に突き刺さるような冷たさだったものだが。

やはり月をまたげば幾分か和らぐそうで、目を細めてしばしその余韻に浸る。

 

そうしていると、ぎゅっと隣のトレーナー君が私の肩に手を回して引き寄せてきた。体温の高い私たちウマ娘とは違って、ヒトである彼にはやや冷たすぎたのかもしれない。

私の心配など必要ないのだが。でもせっかくなので、されるがまま身を委ねることにした。

 

まったく、トレーナー君ときたら。

こんな密着して出歩いているところを見られたら、それこそ言い訳なんて出来たものじゃない。

つい先程まで、まであれだけ周りの目を警戒していたというのに、それよりも私なんかのことを優先してくれるのだな。

きっと、シービーも彼のそういう部分に惚れたのだろう。飄々とした自由人を気取ってる癖して、根っこは随分と単純なものだ。なんて、私が言えた義理でもないか。

 

寄り添って駐車場に停めた車へと向かう。

途中、私たちの隣をツバメが低く掠めていった。

 

それにしても、彼に詰問された時にはひどく焦った。

せっかくの再会を祝して気合いを入れたつもりだったのだが、完全に裏目に出てしまったな。

ここで不興を買うわけにはいかないのだ。となると、彼の疑いがさっぱり身に覚えのないことだったのは不幸中の幸いだった。

てっきりバレてしまったのかと覚悟したよ。

悪どい、というの君の評価はなにも間違いではないのだから。

 

私は形振り構ってなどいられないのだ。

現状において、シービーと私とでは全く立ち位置が違いすぎる。

 

こちらがたった今ゲートを飛び出した直後だとするなら、向こうは既に最終コーナーへと差し掛かっている最中。

尋常でないその差を埋めるには、やはり尋常ではない手段が必要となる。

 

「トレーナー君…?」

 

はた、と彼の歩みが止まった。

どうしたものかと見上げてみると、私ではなくはるか前方を見据えている。その先を辿ってみれば、こちらに歩み寄ってくる影一つ。

学園の制服に薄手のコートを羽織って。頭に乗っけているのは白い小さな帽子。

 

 

「こんばんは。二人とも楽しめたみたいだね。残念……アタシも混ざりたかったかな」

 

 



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シーシュポスの岩

 

びゅうっと、地下駐車場の中を一陣の風が抜けた。

 

出入口から吹き込んだものだろうか。ぶわりと、目の前に佇むシービーのコートを膨れ上がらせる。

やや冷たさを孕んだ卯月の夜風。彼女にとっては少々肌寒かったのだろう。ぶるぶると、その全身を激しく震わせる。

同時にさらさらと流れるように揺らめいた艶やかな長髪と尻尾が、天井から降り注ぐ蛍光色の灯りに照らされて幻想的に輝いた。それは同性の私から見ても、思わず息を呑む程に蠱惑的で優雅な美しさだった。

 

「シービー……どうして君がここに」

 

私を抱き寄せていた手を離し、さらに数歩こちらから距離をとって彼女に声をかけるトレーナー君。

平静を装ってこそいるが、内心動揺しているのは明らかだった。先の話し合いのことも念頭にあるのだろう。ここで私とシービーのどちらかが、あるいはどちらも掛かってしまうことを警戒しているのか。

 

いくら私たちとはいえど、流石にこのような公共の場で暴れまわるような考えなしではないのだが。

事実、シービーと共に彼の寮部屋に宿を借りてから既に一週間になるが、あの部屋で事件を巻き起こしたことは一度たりともない。そもそも美浦の寮部屋を破壊したことについても、双方ともに意図的ではなく不運に不運が重なったアクシデントだったのだから。

まぁ、アクシデントとはいえ結果としてあのような惨事に至った以上、最初から言い訳を許される立場でないことは理解しているのだけれども。

 

「いやー、あわよくばアタシもタダ飯にありつけたらなって……なんて、言い訳する必要もなさそうかな。あの子がいないみたいだし」

 

「ビゼンニシキのことか」

 

「うん。経緯は知らないけど、ここにキミたち二人だけってことはバレちゃったんだね」

 

残念だったなー、なんて嘆息とともに呟くシービー。

白々しい。ビゼンニシキの正体が露見するのも最初から折り込み済みだったから、わざわざここまで自ら足を運んだのだろうに。

バッグを肩から提げつつ、後ろに手を組んでゆらゆらと左右に身体を揺らすその姿からは、計略が破綻した焦りのようなものは微塵たりとも感じられない。

しかしそれは、まだ他にも手があるからこその余裕ではなく、最早なにもかも面倒になったが故の投げやりの仕草であるように思えた。

 

「あまり彼女を怒らないであげて欲しい。そもそもそれを見抜いたのは、私ではなくトレーナー君だったのだから」

 

「言われなくとも。むしろしょっぱなから個人的な仕事を任せてこっちが申し訳なく思ってるぐらいだし」

 

それでもビゼンニシキの方は、その仕事にえらく乗り気だったような気もするが。

顔合わせ初日からやたらノリが良かったのもそのせいか。やはり、彼女に対する認識と対応を大きく改めねばなるまい。

 

「まぁ、あのこの子とはひとまず置いといてさ。アタシもキミと少しだけお話ししたいことがあるんだよね」

 

身体を揺らすのをやめ、震えた際にズレた帽子の位置を整えながら、シービーは真っ直ぐ私を見つめてそう切り出した。

この状況で、私に対して切れる手札というのは自ずと限られてくる。彼女の誘いに応じるのは構わないが、そのためにはまずトレーナー君をどこかにやらなければ。

 

「トレーナー君。私は彼女と二人きりで話がしたい。すまないが先に帰っていてくれ」

 

「そうなると、ここから君たちはどうやって帰るつもりなんだ」

 

「電車なりタクシーなりを使うことにするよ。ああ、決して一人で帰ることはしないから安心して欲しい」

 

いざとなれば、ここからなら徒歩で学園まで戻るのも可能なのだが。

ただ、シービーはともかく今の私の格好は到底走るには向いていない。それに彼の性格からして、私たちが夜道を一人で行くのは間違いなく反対するだろうから、こう答えておくのがベストかな。

 

「……分かった。なら、車で待ってるから二人とも早く終わらせて戻ってこい」

 

ああ、そう来るか。

本当に心配性なことだ。肉体的な強度でいえば、私たちよりもトレーナー君の方がはるかに危険が多いというのに。

彼に限らず、ヒトという生き物はなにかと自身の肉体的基準を無意識にウマ娘にも当てはめがちだ。もっともこれは逆についても成り立つので、異なる種族における感覚の違いの問題だろう。

 

「了解。んじゃ行こうかルドルフ。ここだとなんだから、もう一度建物の中へ」

 

「ああ」

 

私たちに背を向けて去っていくトレーナー君を見送ったあと、シービーに先導されて再びホテルのエントランスを進んでいく。

フロントの前方はだだっ広いホールとなっており、中央の噴水を囲うようにしていくつものソファが配置されている。その中から適当なものを選んで私たちは腰かけた。

 

中等部のウマ娘が二人きり、しかもそのうち片方はあのトレセン学園の制服を身に付けているとなれば、この光景は少しばかり人目につきすぎるか。いくら待ち合わせの場所とはいえ、そもそも本来は子供が気軽に足を運べる場所ではない。遠征であっても普通このランクのホテルには泊まらないし、そもそもここら一帯は学園から通える範疇である。

トレーナー君はそういうつもりで言ったのではないだろうが、やはりあまりここに長居しすぎるべきではない。

 

「それで、話とは一体なんだシービー。学園に戻ってからでは駄目なものなのか」

 

「別にアタシはそれでもいいけど、キミにとっては困るんじゃない?だから、わざわざトレーナーに席を外させたんでしょ?」

 

逸る私とはうって変わって、のんびりと頬杖をつきながらつま先をくるくるさせている。

本気で居心地の悪さを感じていないのか、あるいはこちらの冷静さを削ろうという魂胆なのか。

 

「言っている意味がよく分からないな」

 

「そっか。それならはっきりと形にして見せてあげるよ」

 

頬杖をやめ、パンパンとかしわ手を打って合図を送るシービー。直後、私の背後から何者かが歩み寄ってくる気配があった。

 

振り返るとそこにいたのは、首から大きなカメラを提げた壮年の男性。

薄っぺらい長袖のセーターと、これまた薄いジーンズで全身をすっぽりと覆っている。ひどくくたびれたような、血の気のない土気色の顔をしたその男は、おずおずとこちらに向かって頭を下げてきた。

 

「名前……はいいや、別に。とある出版社に勤めている、レースを専門に扱っている記者だよ。彼に見覚えは?」

 

「ない。生憎だが、デビュー前なのでそういう方面には疎くてね」

 

嘘だ。この男のことはよく知っていた。

 

かつてはそれなりに大きな新聞社で働いていたらしいが、功名心に駆られて無茶な取材を繰り返した結果、古巣から追放された番記者。

その後、たまたま在職中に縁のあったシンボリ家に泣きついてきたことで、今の職場と肩書きを与えられたという。それ故に私たちには逆らえない、都合のいい駒だった。

 

大手で経験を積んでいたこともあって、調査能力については優れている部分もある。最初は半信半疑だったが、「昨晩トレーナー君が駿川たづなと帰宅した」という私からの前情報だけで早々に彼の居場所を割り出したあたり、それについては真実なのだろう。

真面目に職務に取り組めば、今よりはマシな環境に身を置けるだろうに。三つ子の魂百までというべきか、この期に及んで尚も過激な取材と記事の執筆が止められないあたり救い用がない。そんなだから、こうやって目をつけられて傀儡にされるのだ。

 

「この記事の執筆者としての名義貸しだよ。これについては知らないとは言わせない」

 

男を脇に立たせたまま、シービーは鞄から一部の雑誌を取り出し、付箋を貼り付けたページを開いて見せつけてきた。

それはまさしく先程の会食で話に上がった、彼女の特別移籍について批評する記事。

 

「名義貸しとは?」

 

「そのままの意味だけど。彼はあくまで自分の名前を貸しただけで、本文を書いた人物はまた別にいた。それがキミだったんでしょ。ねぇ、シンボリルドルフ」

 

「……」

 

当然だろう。こんな記者に一から記事を書かせるなんてとんでもない。

私が欲しかったのは手っ取り早く世間へと発信する方法であり、過激で偏った論評ではないのだから。

今回の推薦移籍の特異性と、それによって予想され得るリスクについて正確な情報を衆目に晒すだけで良かった。それだけでトレーナー君は揺らいでくれた。

トレーナー君やシービーへの誹謗中傷は私の望むところではなく、それを回避するどころかむしろ煽り立てるようなこの男の文章に用はなかった。適切な配慮を指示したところで、バランス感覚のある記事など作れやしないだろう。そもそも、それが出来る記者なら最初からこんな状況には陥っていない。

 

「そこまで言い切るには、なにかしら根拠はあるんだろうな」

 

「あるよ。一つは彼の自白だね。取材許可剥奪からさらに一段階上の処分を提示したとたん、あっさり吐いてくれたよ」

 

まったく……この記者に求めたのはトレーナー君への探りと警告、それから名義貸しと秘密の保持。たったそれだけだというのに。

まぁ、彼の立場で真っ先に自己保身に走るのは当然の話なのかもしれないが。

 

「他には?それだけか?」

 

「それからもう一つは、キミが提出してくれた総代宣誓の草稿だよ。本当に、小学生の文章とは思えないほど良くできていたよね。そのまま雑誌に記事としてのっけても許されるぐらいには」

 

シービーは雑誌を鞄へと戻し、代わりに中から数枚の原稿用紙を取り出した。

それは確かに、私が入学前に学園へと送った下書きだった。誕生日パーティーの時点で薄々そんな気はしていたが、やはり見破られていたか。

 

シービーは何度かぺらぺらと捲って見せたあと、それもすぐに鞄の中へとしまう。

そのまま手早くチャックを閉めて、ソファの下へと放り投げた。

 

「文章の癖ってさ、意外と分かりやすいものなんだよ。特にルドルフの場合だと、四字熟語や技巧的な言い回しを好む傾向がある。どちらもあの記事と完全に一致している」

 

「たまたまだろう。あるいはそこの彼が、私の宣誓を聞いて参考にでもしたか」

 

「あのゴシップ雑誌に、なにかを参考にするだけの気概があるとは到底思えないけどね」

 

私が彼とシービーの間で成立する移籍の存在を知ったのは、まさしく4月1日の新任式でのこと。とにかく時間がなかった。

さらに最悪なことに、彼女と同室になったことで私生活での行動の幅も制限されてしまう。結果として、記者への指示出しと記事の作成及び送付については、その全てを入学式が終わってから入寮までの半日でこなさなければならない。

持ち得る知識を総動員し、なんとか体裁こそ繕えたものの、文章の個性を誤魔化すといった細工までには手が回らなかったのだ。それが仇となったか。

 

かといって、そのすぐ後からは昼間もビゼンニシキが絶えず側にいたわけだし。

ゆっくりと、シービーの目がない日中に動くことだって……いや……

 

「シービー。君がビゼンニシキを生徒会に取り立てたのは……」

 

「うん。彼が接触してきた、あのお出かけの直後。やたら私たちの関係に首突っ込んできていたから、ちょっと嫌な予感がしてね。一応記者は出禁にしたけど、それだけだと足りないと思って」

 

「学園に戻ってきてから、トレーナー君の部屋まで来る間に……?」

 

「そそ。なのに帰ったらキミがトレーナーを押し倒してたからもうビックリしちゃって」

 

そうか、となると私の堪え性のなさこそが最大の原因か。あまりにも行動を焦りすぎた。

かといって、シービーの機嫌を窺いながら地道にやっていても埒が明かなかっただろうし。今さらあれこれ後悔したり思い悩んだりしたところで仕方ないけれども。

 

用済みといわんばかりに、シービーは記者を退席させる。

彼がそそくさとホテルの正面玄関から出ていって、ホールの待ち合いは再び私たち二人の空間となった。ここから通路を挟んだソファには、ハンチングを被った人影が一つあるが、幸いこちらに接触してくる兆候はない。

 

「……ま、認めないなら認めないでいいけどね。アタシの中ではこれが真実だって確証が既にあるわけだから」

 

「なら、どうしてわざわざ私に話した」

 

「これでお互い企みが露見したわけだしさ。ここらで一つ、交渉でもしようかと」

 

ソファの背もたれに両腕をかけながら、シービーは腰を深く台座へと沈める。

ややあって、その長く美しい足を優雅に組むとこちらに上目遣いの目線を投げてきた。

 

「ねぇルドルフ、このまま大人しく退いてくれないかな。そうすればこの事はトレーナーに黙っていてあげるよ」

 

「私がそれに従うメリットは?」

 

「"次"の機会がある。今は無理でも、トレーナーがチームの設立を許可された時にね。移籍してくればいい。キミにとっては悪い結果となるけど、最悪の結果ではない」

 

「話にならないな。いいとも、勝手にトレーナー君にそれを告げてみればいい」

 

「いいの?確実に心証は悪くなるけど。キミの立場だと、ここで失点を犯すのは痛いでしょ」

 

それはその通りだ。

開始時点で既に追い込まれた状況にあり、そこからなんとか逆転の目を狙っている状況なのだから。

 

逆にシービーは優位な立ち位置にあり、この交渉からもその余裕が見てとれる。

記者の処分やビゼンニシキへの処遇など、生徒会長としての権限を用いてかなり際どい振る舞いをとっているのは彼女とて同じこと。しかしそれらが白日の下となってもなお、自身の優位は揺らがないと判断したのだろう。

 

なら、ここで誤魔化したところで意味はないか。

 

「それでも構わないと言っている。そもそもあの記事の内容自体、私の嘘偽りない本音だ。当然だろう。私が書いたのだから」

 

「おっ認めるんだ。てっきり最後まで粘るかと思っていたけど」

 

「君相手にそれも時間の無駄だと思ってね。まぁ、不誠実な手段を講じたのは事実だが。しかしあの文章そのものについて責められるべき謂れはない」

 

「……トレーナーはどう思うだろうね」

 

「認めるだろうさ。この移籍が双方にとって益にならない、歪なものなのは事実だろう。それが間違いだというならば、どうしてトレーナー君はそのように反論しない」

 

先程同じ事を問い詰めた際にも、彼から納得のいく答えは聞けなかった。

私的な感情はともかくとして、理屈の上では移籍に無理があると分かっているのだろう。トレーナー君がビゼンニシキに語っていた通り、今回起こったのは本来であれば制度的にまずあり得ない、まさしく珍事というほかない事象。誰よりも不安を抱いているのは他ならぬトレーナー自身なのだから。

 

それこそが私にとって、唯一与えられた責め手である。ここを切り崩せない限り、最早私には逆転の目がないのだ。

 

事実は事実にしても、いささか悲観的に過ぎるという自覚もある。

彼は経験こそない新人ではあるが、決してトレーナーとしての資質に乏しいわけではない。身内の贔屓目を抜きにしても、むしろかなり恵まれている部類だろう。故に、このままシービーの担当となっても彼女に三冠をとらせる余地は見込める。だからこそ、姉も彼にシービーを託したのだろうし。

 

だけど、それは茨の道だ。

 

二人に対する世間の知名度や評価の具合からして、勝てばシービーの実力のおかげ、負ければトレーナー君の落ち度となるのは目に見えている。

無敗の三冠、グランドスラム、凱旋門……前人未踏の功績を、果たしてどれだけ積み上げれば彼は認められるのだろう。ゴールなどないのかもしれない。結局どこまで行っても、途中から乗り変わったという彼への風評はついて回るのだから。

それはもう、当事者二人ではどうしようもない理不尽でしかなく。然しものシービーといえども努力でどうこうなるものではない。

 

「君は強すぎたんだよシービー。そして人気者になりすぎた。それもトレーナー君のためだったのかな」

 

「……よく分かってるね。皮肉なことでしょ。でも、アタシにはまだ手がある。記事の話が作用するのは、なにもトレーナーに対してだけじゃない」

 

「つまり?」

 

「録音してあるんだよ。鞄に入れてあるICレコーダーでね。それを使えば、学園の規則違反と関連づけられるかな」

 

そっと、床に放られた鞄に視線を落とす。

しっかりとチャックが閉められており、その中身について探ることは出来ない。

とはいえ、雑誌や原稿を見せた時も鞄だけはしっかりと保持していたあたり……口から出任せというわけでもないのか。

 

「ルドルフ、権力と人気があればそのぶん切れる手札も増えるんだよ。アタシはハイセイコーからそれを学んだの」

 

「君が生徒会長なんて、似つかわしくないことをしているのもそのためか」

 

「そう。いつかこういう日が訪れる時に備えての保険のつもりだった。実際、それは正しかったみたいだね」

 

なるほど、それもまた私とシービーとの間にある差か。

トレセン学園における生徒会の権力は、一般の中高に設けられた生徒会のそれとは比べ物にならない。なんの地位もない私のような新入生が逆らえる組織ではないのだ。

彼女が本気でその力を振るったなら、確かに私ではどうにもならないかもしれない。

 

しかし、そうだとしても。

 

「君にそんなことは出来ないさ。もしそうなら私はとっくに学園から姿を消している」

 

「なにそれ。アタシにご立派な規範意識があるとでも?」

 

「違う。そうやって無理矢理にでも私を排除するだけの、トレーナー君とのこれからについての自信となるものが君にはないんだ」

 

「………」

 

私があの記事で語ったこと。

そんなことは、誰よりもシービーが一番よく分かっているだろうに。だから私のように突き抜けることも出来ず、こんなどこまでも回りくどい手をとっているのだ。

 

故に、私が彼女にかける言葉はたった一つ。

 

「ここは手を引いてくれシービー。トレーナー君にチームの設立が許されたその時に、姉さんの下から移籍してくればいい。なに、私と彼ならそれもあっという間だとも」

 

「そんなセリフで、はいそうですかなんて頷くほど……アタシの一年間は安くないよ」

 

気丈に私を睨み付けてくるシービー。

トレーナー君と共に積み上げてきた時間。それが水泡に帰すことを、そう簡単に認められないのだろう。たとえその先に地獄が待っているとしても。

それを、たかが一年間などとは言うまい。あの一週間に縛られている私と五十歩百歩といったところか。

 

結局、どれだけ策を巡らせたとしても。

肝心の私たちがこれだから、最後はどん詰まりなのだ。後に残るのはどうしようもない徒労感。

 

ああきっと、トレーナー君もこれを抱いたからこそあのパーティーを開いたのだろう。

どろどろに煮詰まった現状の打破を狙って。惜しいところまでいったのだが、決着まではつかなかった。振り切れた私には決め手がなく、決め手のあるシービーはどうにも振り切れない。

 

にっちもさっちもいかず、お互い視線を戦わせている中で。

不意に、私たちの間に誰かが割り入った。それは先程まで、通路の向こうで俯いていた人影。

 

「まったく。先程から聞いていればあれこれと詮無きことを。ウマ娘同士なら、決着の手段なんて一つしかないでしょう」

 

目深に下ろしていたハンチング帽をくいと上げて、その素顔を私たちに見せつける。

この格調高いレストランに相応しい、落ち着いたジャケパンスタイル。普段とまるで違う格好だが、鮮やかな翡翠の瞳に艶やかな鹿毛を流したその姿はまさしく―――

 

「たづなさん…………!?」

 

 

「走れば良いんです走れば。古来より、ウマ娘とはそういうものなのですから」

 

 

 

 



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奇跡を願うのなら

 

「たづなさん……!?」

 

私とシービーの声が重なった。

かの理事長秘書と、まさかこんなところで出くわすとは。

 

いや、出くわすという言葉は正しくないか。偶然ではなく明らかに彼女は私たちを目的としてここまで来たのだから。

しかもその言い分から察するに、これまでの会話の中身も聞き取られていたのだろう。通路を挟んで、彼女との間の距離はおおよそ10メートル。声を抑えていたとはいえ、喧騒のないホールであれば決して不可能なことではない。

 

たづなさんは神経質そうにハンチングを深く下ろして位置を整えると、手を腰にあてて呆然と見上げる私たちを睥睨しつつ、どこかうんざりした様子でため息を吐いた。

 

「……熟慮というのも時として厄介なものですね。あれこれ理屈を捏ね回していながら、感情だけで動くからこうして拗れるのです」

 

たんたんと、つま先で大理石の床を小突きながら、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせてやるようにゆっくりと彼女はそう語る。

いや、事実私たちは子供なのだ。その癖あれやこれやとろくでもないことを企てたものだから、こうして事態が自らの手の平から転がり落ちてしまった。

 

「どうして、貴女がこんなところに」

 

「匿名で通報があったんですよ。ルドルフさんとシービーさんが、こんな夜遅くになって学園の外で落ち合っていると」

 

「外出届はしっかりと提出していますが」

 

「念には念を、です。お二人は、今現在の学園における重要監察処分の対象ですから」

 

そういえば、そんなことを一度だけ仄めかされた覚えがある。

結局のところ、どういった処分なのかはいまいち判然としなかったが。自分なりに解釈するところによれば。どうやら学園の側からトラブルメーカーだと認識されたということらしい。そのわりには行動を制限されたり監視がつくということもなかったので、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたが。

 

「おかげでこんな時間まで私も張り込みですよ。まったく、厄介ごとならせめて学園の敷地内だけに収めて欲しいものですね」

 

「特に周りに迷惑はかけていませんよ。あくまでトレーナー君と一緒に食事をして、それからシービーと話をしていただけです」

 

「ええ、そうでしょうとも。いっそのこと、目に見える衝突の一つでもあれば、かえって我々としてもやり易いのですが」

 

ゆるゆると首を振りながら、中々にとんでもないことを言い出すたづなさん。彼女のような管理する立場の者からすれば、裏でこそこそとやられるよりも目につく場所で動いてくれた方が扱いは簡単なのだろうが。

 

同じく管理者であるシービーといえば、少々ふて腐れた様子で頬を膨らませている。子供扱いされたことに拗ねているのか、それとも生徒会長である自分が完全に事務方の管理下に置かれていることへの不満か。

そんな彼女に一瞥をくれると、たづなさんはその襟首をむんずと掴んでソファから立たせ上げた。床にほっぽられた鞄を押し付けると、同様に私もまた力ずくで引っ張り上げられる。

ただでさえ女性としてはそれなりに背丈に恵まれた彼女であるが、それ以上に膂力が半端ない。いくら同じウマ娘といえども、まだ本格化も迎えてすらいない私たちでは片手で制圧されてしまった。そのままずるずると、ホールを横切って出口へと連行されてしまう。

 

「た、たづなさん……まだお話は終わっていないんだけど……」

 

制服の襟元を絶妙な力加減で絞められたシービーが、息も絶え絶えに辛うじてそう抗議した。

最初こそどうにかたづなさんの拘束を外そうともがいていたが、その内抵抗すればするほど逆に圧力が強まると悟ったらしく、今は大人しく流れに身を任せている。それでもせめて、なんとか口だけでも文句を言っておきたかったというところだろうか。

 

「必要ありません。言ったでしょう、詮無きことだと。これ以上なにを話したところで無意味ですから」

 

「だ、だけど。せめて、今後の方針ぐらいは擦り合わせておかないとさ……」

 

「擦り合えば良いですけどね。果たして今日中に決着がつくのかさえ不明ですが。それに……そもそもそれについても、やはり先程申し上げた通りですよね」

 

好奇の目でこちらを見送るフロントに会釈をくれた後、たづなさんは私たちを引き摺りつつ地下駐車場へと続くエレベーターへと向かう。

途中、それを察したシービーが陸に打ち上げられた魚の如く猛烈に抵抗したことで、仕方なく私たち一行は遠回りのエスカレーターを使うことになった。正直この状態でトレーナー君と顔を合わせるのも大変気不味いので、私としても極力ゆっくり移動するのは賛成だったが、しかしそれもただの問題の先送りに過ぎないのだと思い直して反省する。

 

しかし、そんな私の内心が顔に出ていたのか、即座にたづなさんによって否定されてしまった。

 

「トレーナーさんならもうここにはいませんよ。ビゼンニシキさんと一緒に、既に学園へと戻ってもらっています」

 

「そうですか、ビゼンニシキと……。なら、私たちはどうして駐車場に……」

 

「私の車があるからに決まっているでしょう。いくらウマ娘といっても、中等部の学生を二人きりで帰らせるつもりはありませんから。その点では、私もトレーナーさんの考えに賛成です」

 

「あ、ありがとうございます……?」

 

「どういたしまして」

 

にこりと、あのいつもの営業スマイルで微笑んでくれるたづなさん。

 

ところで、そろそろ私も呼吸がキツい。

わりと余裕のある制服のブレザーならいざ知らず、今身に付けているのは体にぴったりと張り付いた形のドレスなのだ。こちらもまた力加減こそされているものの、そのままずっと歩くとなると流石に苦しい。

 

「た、たづなさん……そろそろ、離してくれませんか?逃げませんから」

 

降伏の意を込めて襟を掴む腕をタップすると、ようやくそれから解放される。

まぁ、元から逃走する気などさらさら無かったのだが。ただでさえ地力が違う上に、どう見ても向こうの方が走りやすそうな格好だし。それにたとえ逃げ切れたとしても、学園に戻れば否が応にも顔を付き合わせる羽目になるのだから。

 

地下一階のホールに降り立ち、私とシービーに一息入れさせるたづなさん。

ジャケットの懐からウマホを取り出し、なにやら片手でタップを繰り返している。理事長にでもメッセージを送っているのだろうか。そういえば、彼女はあくまで仕事としてここに来ているのだったな。

 

普段から残業上等な理事長秘書という仕事ではあるものの、それでも22時を目の前に控えたこの時間であればとっくに終業している頃合いだろうに。それをわざわざこんな場所まで出張させられたというのだから、ちょっとぐらい扱いが厳しくなるのも甘んじて受け入れるべきなのかもしれない。

私と……きっとシービーもちゃんと届け出はしてあるので、手続き上は責められるべき謂れはないのだけれども。ただ、いざ自身の言動を振り返ってみて、清廉潔白だと胸を張れるかと言われれば大いに疑問は残る。

 

一通りの報告も終わったのか、たづなさんがウマホを元に戻したところで、完全復活したシービーが彼女に食って掛かった。

 

「それで、さっきの続きだけど。走れば良いってどういう意味なの?」

 

「そのまんまの意味ですよ。速い者勝ちです。担当のスカウトという観点でいえば最も妥当な決着ではないでしょうか」

 

手荒な扱いに憤ったのか、尻尾を逆立てながらいきり立つシービーを涼しい顔でいなしながら、たづなさんはあっけらかんとそう言い放った。

 

確かに、ウマ娘はより技量のあるトレーナーを、そしてトレーナーはより実力のある……競争で勝てるウマ娘を狙うというのがスカウトにおける大原則だ。それに基づいて、定期的に学内選抜レースが執り行われているのだから。

当然そこには例外もあり、他ならぬ私とシービーがまさにそれだったのだが。しかし行き詰まってしまった今となっては、いっそのことその大原則に立ち戻ってみるというのも一つの考え方ではある。

 

「来月の始めに、今年も最初の選抜レースが開催されます。ルドルフさん、伴走という制度は知っていますか?」

 

「はい。走者が希望し相手方の同意があれば、ペースメーカーとして別のウマ娘を伴走バにつけられる制度……ですよね」

 

選抜レースにおける特殊ルールの一環として、学園入学前に予習していたものである。

 

トレセンに入学してくるウマ娘であれば、既にレースを走るという経験そのものは済ませている場合が殆どである。

とはいうものの、入学後における選抜レースで走者にのしかかるプレッシャーは、トレーニングとして行う並走や地区大会程度の競争とはまるで別次元のものなのだ。

なにしろそこで結果を出せない限り、担当トレーナーがつかずデビューすら叶わないのだから。入学試験という日本最難関を乗り越えた直後の試練であり、その結果次第でこれまでの努力も競技ウマ娘としての将来も全て水泡となると考えれば、緊張するなというのは土台無理な話である。

 

そのために設けられたのがこの伴走制度。

中等部二年以上の生徒が伴走バとなり、選抜レースを走る走者たちのペースメーカーとしての役割を果たしてくれるものだ。それによって新入生にとっては"いつも通り"の走りを思い出すことができ、スカウトする側のトレーナーもまた、ウマ娘たちの本来の実力についてある程度見極めがつけられるというメリットがあった。

選抜レースでは複数の新入生が同時に走ることとなり、それぞれが希望を提出するので、食い違いがある場合は学園の側が調整を挟むこととなる。故に、必ずしも希望通りの伴走バにあたるとは限らないのだが、私の場合は心配いらないだろう。

こういう時にこそ席次が優先されるわけだし、先導となる以上、並走バは新入生と比較してより高い実力が求められるのだから。本年度の総代たる私には、昨年度の総代であり尚且つ現状において同期のトップであるシービーがあてがわれるのが自然だろう。

 

「はい、その通りです。直接対決としてはお誂え向きでしょう。なにしろ学園中のトレーナーに実力を見せつけるための場において、その勝敗がはっきりとするわけですから」

 

「アタシが負ければルドルフに担当の座を譲るってことね。推薦移籍を反故にして」

 

後半をやや強調しながら、シービーはたづなさんからの提案を反復する。

 

「そうなります。シービーさん、推薦移籍における第三要件を覚えていらっしゃいますか」

 

「たしか、『当該移籍を行うにおいて、対象となるウマ娘が十分な能力を備えていること』だったっけ?」

 

「正解です。流石は現生徒会長ですね……そう、そして例えばの話。貴女がつい先月、学園に足を踏み入れたばかりの新入生にレースで敗れたとしたら」

 

「……言い訳はきかないだろうね。他の子ならともかく、アタシの場合だと」

 

選抜レースにおいて、新入生が伴走バを追い抜かすという事例は、珍しくはあるものの決してないわけではない。

それは単純にモチベーションやレースプランの問題で、とにかく担当を捕まえるために全賭けしている新入生と、今後に別のレースを控えている上にそもそも選抜で結果を残す意味もない伴走バでは全く事情が異なるからだ。

新入生にとっては、いくら相手が全力ではないといえど、上級生に先着出来ればこれ以上ないアピールになることから真剣に一着を狙いにいく。逆に伴走バの場合、下級生に負けたくないというプライド以外に勝利に拘る理由がない。

 

それこそかのシンザンの場合、毎回最後の直線は流して新入生に譲っていたという噂すらある。ただし、それでも彼女の格がちっとも落ちなかったのは、やはり戦後初の三冠という揺らがない実績の賜物だったのだろう。

この計画に沿うとして、シービーが私と直接相対するのは皐月賞のみを終えたあとのこと。そこで彼女が一冠を手にしていたとしても……いや手にしていたなら尚更のこと、デビューすらしていない私に負けるわけにはいかない。なにしろこのクラシック戦線において、彼女は瑕疵なき最強を狙うのだから。

 

たづなさんの言葉はあくまで脅しである。

走者として挑むならともかく伴走として付き合うに過ぎない選抜レースで負けたとしても、それだけで推薦移籍の効力が失われることはないだろう。そもそも、理事会が既に要件の充足を認めて判を押しているわけなのだから、そんなことで覆る筈もない。

それでも、シービーにとっては致命的なダメージとなる筈だ。ただでさえ、トレーナー君と組んだ先のレースに自信を持てないでいるわけだから。

 

「まぁ、そんな細かいことは別に気にしなくてもいいです。より速い者、一番でゴール板を駆け抜けた者が全てを手に入れる……それが競技ウマ娘の世界でしょう。なら、それに殉じてみては如何でしょう」

 

「随分とまた、割り切ったものの考え方をするものですね」

 

「そういった生き方を忘れられないものでして。私とて、自分を負かした相手、自分より速いウマ娘の言うことには従います」

 

それは本心か冗談か。

彼女の飄々とした態度からは、残念ながらその本心を汲み取ることが出来なかった。

 

ただ、その提案については悪くないと思う。

どうしようもなくぐちゃぐちゃに絡まった糸の塊は、ほどくよりいっそのことすっぱり切ってしまった方が最善なのだとかつて母も言っていた。その方が後腐れがないのだとか。

今のまま私とシービーがにらみ合いを続けたとして、来月までに落とし所が見つかるとは到底思えない。そもそもこれはレースと一緒だ。定員一名、勝者総取りの戦いであるから、最初からwinwinの結末など在りはしないのだ。

いずれ決着をつけないといけないならば、担当契約を争う選抜レースはそれに相応しい舞台だと言えよう。

 

そう考えてシービーの方を窺うと、彼女もまた私の方を眺めていた。こちらの覚悟が決まったとみるや、僅かに頷きを寄越してくる。

そうだったな。彼女は私から挑戦を受ける立場に他ならないのであって、引き下がるという選択肢そのものがないのだろう。

シービーはここで私をきっちりと負かし、たとえ周りがなんと言おうが、トレーナー君に相応しいウマ娘は自分しかいないのだと証明しなければならない。他の誰でもない、自分自身に対して。

 

きっと、かつてのシービーであれば、こんな勝負に乗らずとも自分こそが彼の担当ウマ娘に値すると、そう自信を持って宣言出来たのだろうが。

その自信が揺らぐきっかけとなったのは、きっとあの雑誌で示したどうしようもない現実だ。だとすれば、あの拙い策略にも一定の成果はあったのかもしれない。

 

「決まりですね。ルドルフさんには不利な勝負となるでしょうが……それも、推薦移籍に割り込む代償だと思って下さい」

 

「逆にアタシとしては、一度内定の出た移籍に茶々が入って散々なんだけどね」

 

「内定はあくまで内定です。辞令はあくまで移籍の許可であって、それを強制するものではないのですから」

 

トレーナーとウマ娘の担当契約など、どこまでいっても当事者同士の問題なのだ。

相性というのは分からないもので、一見不釣り合いでもウマが合うような場合もあるし、その逆もまた然りである。故に理事会であろうともそれを強制は出来ず、推薦移籍でも特別移籍でも、あるいは通常の移籍でもその全てが許可という形に収まっているのだ。とどのつまり、その後の状況如何によってはいくらでも覆る余地はある。

 

それは移籍先との関係の悪化だったり、古巣との兼ね合いだったり、今回のように世間からの反発だったり。

たづなさんの言うとおり、内定はあくまで内定であり、シービーとトレーナー君へ許可したに過ぎない。それが正式に行われることまでを保証するようなものではなく、実際に私という邪魔者が出てきてしまった。彼女はトレーナー君との契約を得るために、いま一度勝負に臨まなくてはならなくなった。

 

それに対して、シービーに申し訳なく思う気持ち確かにはある。

 

だが、ここで譲るつもりはさらさらない。

以前、トレーナー君に語ったように。なにもかもを踏みにじってでも、私は絶対に彼を手に入れると決めたのだから。

いや、とっくの昔から私のものだったのだから、手に入れるというのもおかしな話か。ここは手放す気は毛頭ないと言うべきだろうな。

 

「ふぅ………」

 

丸く収まる兆しが見えて安心したのか、ほっとした様子のたづなさんを尻目に私は大きく嘆息する。

ずっと、鉛のように肩と胃にのし掛かっていた重みが少しだけ軽くなったような気がした。

 

とりあえず、シービーについてはなんとか突破口を抉じ開けることが出来た。

言うまでもなく彼女は強敵だ。格上という未知の相手。いつだって私は誰かの挑戦を受ける立場で、自分自身が挑む側に立たされたのはこれが初めてとなる。かたや19年振りの三冠を期待される学園のエースであり、かたやつい先日入学してきたばかりの無名の一年生。あまりにも勝ち目の薄い戦いだが、それでも勝つしかない。

まだまだ肩の荷を下ろすことは出来ないものの、彼のサブトレーナー時代を共に過ごし、既に移籍の許可までをも得ていた彼女と勝負の土俵に上がれただけでも上々だろう。

 

あと問題となるのは、トレーナー君の翻意をどう促すかだ。

これについてはもうやれる事はない。こちらの気持ちは十分に伝えた。あとは夕食の席で訴えたことを、彼がどのように受け止めるかに賭かっている。

あの記事による世論操作もあるにはあるが、あまり効果は望めないだろう。世間は関心を持ちながらも、取り立てて熱くはならず静観の立場を崩していない。私自身がそうなるように調整したのだから。

 

結局、最後はトレーナー君次第となる。

たとえ私がシービーとのレースに勝ったところで、それにより引き下がるのは彼女だけであって、トレーナー君自身の意思にはなんの関係もない。それでも彼がシービーとの契約を熱望するなら、彼女はきっとそれを拒めないだろうし、そこに私が割って入れる余地もないのだから。そうならないことを、私は天に祈ることしか出来ない。

 

 

「さ、いい加減帰りますよ。寮の消灯まで猶予がありませんからね……ああ、これは貴女方には関係ありませんでしたか」

 

そう告げて、さっさと駐車場へ出る自動ドアを抜けていくたづなさん。

その背中に気のない返事を投げかけながら、私とシービーは後に続いた。

 



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アフターファイブ


明日はたぶんバレンタインの作品書くんでこっちはお休みです。書いた奴は短編集の方に投げときます。


 

「私はね、トレーナーさん。ルドルフと会長さんって結構真逆だなって思うんですよ」

 

夜が更けても変わらず賑やかな大通りを車で飛ばしていると、助手席でぼうっと窓の外を眺めていたビゼンニシキがふとそんなことを呟いた。

頬杖をつき、こちらではなくきらやかな夜のビル街に視線を向けたままであったが、とりあえず返事は返してやる。

 

「そんな事は自明だろう。あのニ人の共通点なんて、せいぜい足が速いことぐらいじゃないのか」

 

「そういえば、足の速さと気性の荒さは相関するって俗説よく耳にしますけど、あれって本当なんですかね?トレーナーの知識に照らして」

 

「眉唾だね。闘争心とレースでの強さはイコールで結びつくようなものでもない。気性というのは、あくまでレースにおける要素の一つに過ぎない」

 

他者に負けたくないという負けん気、勝利への執着というのは、確かに競争における粘り強さや叩き合いの巧みさに繋がるものではある。とは言うものの、決して闘争心が強ければ強いほど良いというわけではない。

 

なまじ勝ちへの貪欲さが行き過ぎることで、トレーナーからの指示や事前の作戦から逸脱するほか、最悪の場合他バへの加害や反則行為までをも惹起する恐れがあるからだ。重要なのは勝利への渇望の有無というより、それを如何にコントロール出来るかという精神面における発達だろう。

 

「ルドルフ……は言うまでもないだろうけど。ただ、シービーはどちらかというとそこまで気の荒いウマ娘だとは思わないな」

 

「そうですか?わりかしアイツとバチバチやり合ってるように見えますけど」

 

「私から言わせてもらえば、あくまで飛んできた火の粉を振り払う範疇に収まっているように見えるけどね」

 

逆に自分から盛大に斬り込んでいるのがルドルフである。それは両者における立ち位置の違いの表出ともとれるかもしれないが、私はどちらかと言えば気質の差であるように感じていた。

 

「一見理知的なようでいて、根っこでは好戦的なルドルフ。逆に自由気ままで制御が難しそうに見えながらも、本質的には温厚かつ堅実なシービー。真逆だと、君が言いたいのはそういうことだろう」

 

「まぁ、概ねそんなところです。わりかし真人間な会長さんとは逆で、ルドルフはとことんイカれてますよ」

 

ぼんやりと景色を見つめていた彼女は、そう言ってようやくこちらを向くとふっと苦笑して見せた。

 

それを横目で確かめながら、私は慎重にハンドルを操作して学園への帰路を急ぐ。

向こうも明確な反応は求めていないのか、再び視線を反対に戻すとつらつらと愚痴を再開する。

 

「本当は、二人の衝突から漁夫の利を浚う格好で、トレーナーさんを担当にでもしてみようかと考えていたんですけどね……」

 

「それはルドルフへの当てつけか?それとも初対面の会話での結果なのか」

 

「なんとでも。お好きなように解釈して下さい。どちらにしても、今の私にはもうそのつもりはありませんから」

 

顔を伏せ、大きなため息を吐き出すビゼンニシキ。

夕食に同席した彼女もまた、あのルドルフの狂気ともとれる宣言を目の当たりにしたのだから、きっとそこで心が萎えたのだろう。

 

それもそうか。彼女の動機はルドルフに対する対抗心であり、きっとそれだけをよすがとして今のいままで舞台に上がっていたのだろうが……言ってしまえば、たったそれだけの動機である。

そんな事のためだけに、わざわざあんな火薬庫に首を突っ込む気にはなるまい。感情だけに身を任せて、あえて火中の栗を拾いにいくような愚か者でもないだろうから。

 

「だからたづなさんを呼んだのか。事態の収拾を任せるために」

 

「はい。シービーさんがあそこに向かっていることも私は知っていましたから。ただ通報したのは行きの道中であって、まだ私も引き下がるつもりはありませんでしたけど」

 

「彼女の仲裁の最中に、あわよくばを狙っていたわけだ。そんな事が可能かはさておいて」

 

「なんにしても、私がつけ入るにはそうして場を乱すしかありませんでしたからね。今となってはどうでも良いことですが」

 

ぬけぬけと言い放っているが、そんな魂胆で一方的に巻き込まれたたづなさんが不憫でならない。

いくら業務時間外とはいえ、あの二人が学外で相対すると通報されれば駆けつけないわけにはいかないだろうし。しかもそれを仕向けた張本人といえば、全てを投げ出して学園へと帰還している真っ最中なのだから。

 

「ま、私は善良ないち生徒として一報を差し上げたまでですからね!警戒するべき事態なのは変わりませんし仕方がないです」

 

「仕方ないかどうかを決めるのはたづなさんだからな」

 

「ならさっさと逃げるに限りますね。ほらトレーナーさん、もっと飛ばして下さい。追いつかれちゃいますよ」

 

「はいはい」

 

追いつかれるというのはあながち冗談でもない。

とことんハイスペックというか、だいたい何でもやらせれば出来てしまうたづなさんであるが、車の運転についてもやはり達者である。場合によっては理事長の送迎すら請け負っているのだから、当たり前と言えば当たり前の話かもしれないが。

対する私の場合は、別に苦手というわけではないがかといって得意でもない。そもそも免許を取得してからあまり時間も経っていないし、通勤に自動車も使わないからである。とりわけ、こういう都心の複雑な道路というのは自信がない。正直かなり怖い。

 

ただ、そうは言ってもいつまでもちんたらと走っていれば、ビゼンニシキの言うとおり本当にたづなさんに追いつかれる可能性もある。

ただでさえ多忙な中で、こんな場所まで時間外労働を強いられて気が立っているであろう彼女と鉢合わせるのは私だってご免だ。そう考えて、アクセルを強く踏み込んだ。

 

 

都心を抜けて、学園目指して郊外をひた走る。

 

ビルの群れを後ろに流して、川を渡り、雑多な街並みを抜けて住宅街をさらに先へと進んでいった。

東京といっても、中心部から離れてしまえば他の都市とそう変わらない。大都市であることに変わりはなく、少なくとも私が昔生活していた場所よりは栄えているのだろうが、見ていてあまり面白味のあるものではない。

もっとも、いざ運転するとなればこういった景色の方が気が落ち着くのだが。たんに学園がそういう方面にあり、そこに生活の拠点を置くなかで私が適応しただけなのかもしれないけれども。

 

一応、ビゼンニシキも気を遣っているのか、こちらに話を振らないでずっと車外を見つめている。

特段興味があるわけでもなく、ただそうして暇を潰しているだけのようだったが、ようやく学園の姿が見えてくるとほっとしたようにぱたりと尻尾を動かした。

 

……が、その途中で石にされたかのように硬直する。

 

「どうした。ビゼンニシキ」

 

「駐車場の……あれ。黒のクラウン」

 

彼女の指差す方向を目で追うと、たしかに一台の車が今まさにトレセンの職員用駐車場にバックで停車したところだった。

ナンバーまでは読み取れないが、そもそもこの駐車場を利用する職員の中であの車種を乗り回す者は一人しかいない。半ば公用車のような扱いを受けているから、わりと生徒の間でも有名だったりする。

 

後ろのドアが開き、小さな人影が一組下りてきた。

服装はよく見えないが、毛色と髪型からして明らかにルドルフとシービーだ。

そしてその手前でボンネットにもたれ掛かり、寮の方角へと小さくなっていく二人を見送っているのは。

 

「……たづなさん、だな」

 

「うわーやっぱり。いっそのこと知らん顔して学園の外側もう一周ぐるってしませんか?しましょうよ」

 

「しても良いけど、どうせ向こうにも視認されてるだろう……なんで追いつかれるどころか追い抜かれているんだか」

 

まさかあの人に限って法定速度以上でぶっ飛ばしてきたということもあるまい。ましてや後部座席に、学園の生徒を乗っけているとなれば尚更。つまり問題は私の方か。

 

「もう、トレーナーさんが愚直にカーナビの指示になんて従うから。あんなポンコツの言うこと聞いてたら、そりゃ大回りですよ」

 

「そう思うんなら君が誘導してくれれば良かったものを」

 

「口で指示してたら今度はスピードが落ちるでしょう。トレーナーさんビビりですから……」

 

「はいはい悪かったな。なら君だけここで降りて帰りたまえ。お休み」

 

あれこれと喧しいビゼンニシキを助手席から叩き出してみれば、手短にお礼を述べてそのまま全速力で駆けていった。

 

最初に話を聞いたとき、匿名で通報したとか言っていた気もするが……まぁ、シービーかルドルフの口からとっくに明かされているかもしれないからな。

あの人一倍の危機感に当事者意識。ひょっとしたら彼女はトレーナー向きかもしれない。そもそもそんなものが無ければ生き残れないのが、この学園の悲しいところではあるが。

 

ビゼンニシキが夜の闇に溶けていなくなったところで、私も自分の車を停車させる。いつまでも駐車場の入り口で立ち止まっているわけにもいかない。

 

「ふふっ……やば」

 

……空いているのは、もうたづなさんの隣だけだった。

 

この駐車場、制限されているのは利用者だけで、誰が何処に停めるかは自由である。

それでも長い時間の間にだいたい定位置というのは決まってくるのだが、運悪く何時もの私の場所には既に他の車が停まってしまっていた。見覚えのない車だから、きっと今年度になって新しく入ってきた職員のものだろう。

 

仕方なしに、クラウンの隣にバックで車を入れていく。

もしかしたら、こちらを放って勝手に帰ってくれるかもしれないと期待していたのだが。残念なことにたづなさんはボンネットに手をついたまま隣に侵入してくる私を見下ろしている。しかも車の左側に立っているせいで、窓越しに完璧に目が合ってしまった。

 

うわぁ……夏場のアスファルトで干からびたミミズを見るような目。なまじいつもと異なる、鍔のある帽子を身につけているせいか影が差していてとても怖い。

ひょっとしたら、掛かりウマ娘に狙われた事案として学園に保護してもらえるのではないだろうか。ついでにその旨を事務局の方にも報告して……ああそうだ、目の前の彼女がそこのトップなのだった。というか、そうやってあれこれ酷使してきたのが積もり積もってこの瞳に至ったのだろうな……労働の闇だな。

 

車止めの寸前で停車し、カーナビの電源を落とす。エンジンからキーを抜いて車から降り、しっかりとドアの鍵を閉めた。

 

……さて。

 

「お疲れ様ですたづなさん。一足お先に失礼しますね」

 

目と鼻の先にいる理事長秘書殿に挨拶をして、中庭に続くゲートへつま先を向ける。

そのまま一歩踏み出した瞬間、がしりと肩を鷲掴みにされた。

 

「たづなさん?」

 

「トレーナーさん……私、ちょっとだけ疲れちゃいまして。誰でも良いから話を聞いてもらいたい気分なんですよ」

 

振り向いてはならないという警鐘と、反応しなければ殺されるという本能が脳内でせめぎ合った結果、本能に屈しておもむろに背後を見やる。

 

「ひえっ」

 

なんとか悲鳴を堪えようとし、敢えなく失敗してしまった。

 

そこにいたのは、まるで全てを削り取ったかのごとき虚ろさを湛えた理事長秘書。営業スマイルですらない。なまじ顔かたちが整っているぶん、表情が抜け落ちることで心臓が握り潰されるかのような威圧感だけが放たれている。

基本的に自分の内心は素直に面に出す人だから、別にこれも怒っているわけではない。単純に、感情を練り上げるだけの余裕すら既に無くなっているということだろう。

 

そんな逆ナン紛いの声掛けをされたところで、こちらとしては全くどきりともしない。びくりとはしているが。

普通、これだけの美人に誘いをかけられれば男なら快く応じるものなのだろうが。しかし、これにほいほいとついていく者がいたとしたら、そいつは余程の豪胆か愚者の二択だろう。

 

「失礼ですね。女性の、それも上司の顔を見て悲鳴を上げるなんて」

 

「むしろ上司だからこそ怖いんですよ。それにそういう発言は、今時のコンプライアンス的に不味いのでは」

 

「そうですね……これは失礼しました。それはそうと、何時になったら私にもそのコンプライアンスが適用されるのでしょうか」

 

「そ、そんなこと私に言われても……」

 

私のようなぺーぺーの下っ端に上層部の方針について問われても困る。強いていうなら、理事長が手を抜くことを覚えた時だろうか。

あの理事長、私たちトレーナーには適切な労働時間の維持と休暇の取得を推進するくせに、自分はあり得ないぐらいに働き続けているからな。直属の上司がそうなのだから、秘書であるたづなさんについても言わずもがなである。おまけにトレーナーもトレーナーでバ車ウマのように働いていることに変わりはないので、それに比してたづなさんの業務範囲も際限なく広がっているのかもしれない。

 

まぁ、少なくともこの直近における悩みの種は、理事長ではなくルドルフとシービー由来だろうが。

そして言うまでもなくそれには私も大いに関わっており、つまるところ彼女にとって私は諸悪の根源である。かつてこの学園において、ここまでたづなさんの手を煩わせた新人がいただろうか。

 

「ほ、ほら。私もルドルフとシービーの様子を見に行かなくてはいけませんから」

 

「お二方なら心配いりませんよ。私が一時休戦させましたから。むしろ、トレーナーさんがすぐに顔を見せるとかえって拗れるかもしれません」

 

「そうですか……」

 

「"私が"一時休戦させましたから」

 

「あ、ありがとうございます……?」

 

「………」

 

いい加減、堪忍袋が緒も切れたのか。

肩を引かれて強制的に彼女と対面させられ、利き腕の手首をがっちりと掴み取られてしまった。

そのままたづなさんは空いた手でクラウンのノブを引き、助手席の側から運転席へと腰かけた。私もまた、それに引きずり込まれる形で無理やり隣に座らせられる。ばたん、と無情にもドアが閉められてしまった。

 

こうなったら、もう逃げることも出来ないだろう。

どのみち帰還時に出待ちされていた時点で詰んでいたのだ。避けられない運命だった。もうどうにでもなれとシートベルトを下ろした直後、スムーズに車が発進する。

 

……よくよく考えればこれは拉致だな。

こんな成人を迎えたいい大人が誘拐されるというのも中々に不甲斐ない話ではあるが、悲しいかなこの学園では決して珍しい光景でもない。最近はいくらか、ほんのちょっぴり改善されてきたとはいえ、それも彼女には関係のない話だろう。よくも悪くも今以上に混沌としていた昔のトレセンを生きたウマ娘はえらくアクティブだ。

学生の身分から卒業すれば大人しくなるかといえばそうでもなく、むしろ行動の幅が広がるぶんかえって手のつけられない存在と化す。それが母と、先生と、スイートルナと、シンザンと、そして彼女の五つのサンプルから導き出した結論だった。

 

……だとすると、中等部一年生の時点で制御不能なルドルフは将来どうなるのだろう?

 

「あら、雨が降ってきましたね」

 

滑らかにハンドルをさばきながら、たづなさんがそうぽつりと呟いた。

ぱたぱたと、大粒の雨がフロントガラスを叩く。ワイパーがそれを拭い去った瞬間、さらに多くの雨粒が打ち付けてきた。

 

「間一髪のタイミングでしたね。予報にはなかった気がしますけど」

 

「私はなんとなくそんな気はしていましたが。道中、若干空気の匂いが湿っていましたから」

 

「そうだったんですか」

 

万が一にも、あの三人を徒歩で帰らせる羽目にならなくて本当に良かった。

強靭な肉体が生み出す抵抗力か、それともヒトと比べてやや高い体温のお陰なのか。ウマ娘は極めて寒さに強く、雪の降る真冬の有馬記念であっても露出の多い衣装でパフォーマンスを発揮することが出来る程だ。とはいえ、流石にあの距離を雨の中走らせるのは気が引ける。普段から傘もささずに喜んで雨中を駆け回っているシービーはともかくとして、ルドルフはあの格好だし。

 

「とはいえ面倒ですね。どこかお店に入ったところで、移動する間に濡れてしまいます」

 

「ならもう家で良いんじゃないですか。たづなさんもその格好だと地味に辛いでしょう」

 

耳はまだしも、主に尻尾のあたりが。

おおかたどちらかの足の裾まで垂れ下げているのだろうが、それにしたって窮屈極まりないように思える。

 

生憎ヒトである私にはそれに該当する器官が存在しないので、いまいち実感として分かり辛いものではあるが、ウマ娘にとって尻尾はどうにもデリケートな部位であるようだし。個体差があり、誰が触るかにもよるらしいが、大体の者はそこを刺激されるのに良い感情を抱いていない。

下手に触れば蹴り飛ばされても文句は言えないと、修習課程においても耳にタコが出来る程言い聞かされたものだった。

 

しかし当のたづなさんといえば、取り立てて落ち着かない様子も見せずにけろっとしている。

 

「そうでもありませんよ。といっても、私の場合は訓練で慣らしただけなので、他のウマ娘まで同じだと思われても困りますが」

 

「思いませんよそんなこと。というか、訓練で出来るものなんですね。そもそも普段はどうやって格納しているか知りませんが」

 

あの丈の短いスカートを履いているとなれば、恐らく上方向に固定しているのだろうが。想像するだけでも窮屈な感じがしてくる。

 

「気になります?ふふっ、企業秘密です。どうしてもというなら、教えられなくもないですけど」

 

「結構です。私には一生必要のない技術ですので」

 

「ムダ知識として抑えておけば、いつか役立つ日が来るかもしれませんよ?」

 

「雑学として披露したりとか?絶対ドン引きされますよそれ」

 

そんな下らないやり取りを交わしているうちに、ますます雨の勢いも激しくなってきた。あともう少しすれば、バケツをひっくり返したようなものに変わるだろう。

 

先程までビゼンニシキが横でそうしていたように。

私も頬杖をついて窓の外側、アスファルトに跳ねる水滴をただ眺めていた。

 

 



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ひとときの寄る辺

「トレーナーさんウマ娘といちゃいちゃし過ぎじゃないですか!!」

 

かぁんと高らかな金属音を打ち鳴らして、空になった缶チューハイをテーブルに叩きつけると、たづなさんは据わった目で対面に座す私を指差してくる。

ほんのりと紅潮した頬に、どこか落ち着きなく頭を揺らすその姿は、どこからどう見ても酔っぱらいのそれだった。

本来であれば、こういう手合いは関わらずに放置しておくのが吉なのだが、流石に風呂と寝床を借りている身としては家主をそう無下に扱うことも出来ない。

 

びしっと突き付けられた人差し指をそっと退かして、つまみとして広げていたさきいかの先っぽを一口囓る。

……彼女がここまで荒れているのを見るのも久し振りだった。滅多に酔わないぶん、一度酔うと滅茶苦茶タチが悪くなるのだ。思うに、こうして精神のタガを外さなければ満足に不平不満を吐き出すことも出来ないのだろう。

クソ真面目というか、どこまでも不器用というか。公私をはっきり区別しているのは素晴らしいことだとは思うが、それには適度なストレス発散が不可欠だ。それを酒に頼るのが悪いことだとまでは言わないものの、見ていて心配になることには変わりない。

 

それでも日々をやりくりしているのは、理事長秘書という仕事に対する遣り甲斐と、彼女の誇る圧倒的なバイタリティのおかげか。

後者はとりあえず置いておくとして、遣り甲斐だけで身体を使い潰すのは如何なものか……などと、それを中央トレーナーが口にしても全く説得力はないかもしれないが。

六平トレーナー曰く、これでも数十年前と比べれば私たちの負担は大幅に軽くなっているらしい。昔は理事会やURAとの折衝まで課されていたところを、生徒会の設立によってそちらに一任されたからだとか。

 

そういう部分でもまた、私は彼女に感謝しておくべきだろう。

逆に、シンザンを筆頭とした生徒会のお歴々からはそこそこ恨まれていそうではあるが。

 

「なに黙ってるんですか!!もう、聞いてるんですかトレーナーさん!!」

 

「こんな時間に大声出したら迷惑ですよ。ここ集合住宅なんですから」

 

「ご心配なくー!!防音完璧ですから!!」

 

寝巻きの穴から飛び出した尻尾が、ばしんばしんと力強く床を叩いた。運悪くその射程範囲内に転がっていたぱかプチが、勢いよく撥ね飛ばされてバウンドしながら壁に激突する。よく見れば、生地の部分に斬り裂いたような一筋の傷痕が走っており、おもわず背筋を震わせた。

主に飛んで来る虫を叩き落とすのが役目だとか言われているウマ娘の尻尾だが 、それにしてはえらく威力過剰な気がする。あるいは彼女だけが特別なのだろうか。

 

「そう言われましても。別に、誰ともいちゃついてなんかいませんが」

 

「現在進行形で二人も自分の家に泊まらせているじゃないですか。同棲ですよ同棲。まったくふしだらな」

 

「仕方ないでしょう。彼女らには帰る場所がないんですから」

 

まぁ、それも自分たちから破壊したのだが。

 

先輩から連絡を受けた翌日私もその現場を覗き、実際なんとも筆舌に尽くしがたい凄惨な有り様だった。それでも風の噂によれば、あと数日で復旧も完了するということなので、たづなさんが同棲と呼ぶこの生活も残り少しの付き合いである。

 

「甘いですね。私が現役の頃ならああいう跳ねっ返りは容赦なくお外に放り出していましたよ」

 

「あんまり昔の話をするもんじゃありませんよたづなさん。歳がバレますからね」

 

「なんだとぉ……!!」

 

ぐしゃりと、まるでいらないペーパーでも丸めるように彼女の手の中で小さくなっていくビール缶。ピンポン玉大のサイズにまで圧縮されたところで、ノールックで部屋の隅にあるゴミ袋の中に投げ込まれる。

その手際の良さから察するに、これまでにも数え切れない程の空き缶が同じ憂き目にあってきたのだろう。とりあえず、先の発言については謝っておくことにした。

 

「すみませんでした。次からはちゃんと言葉を濁します」

 

「ふん、いいですよ。えぇ、どうせ私は年増ですから、若い人のトレンドなんて理解出来ませんとも!!」

 

ぶつぶつとぼやきながら、彼女は延長コードでコンセントに接続した1ドアの小型冷蔵庫を開き、おもむろに次を取り出しにかかる。

 

少なくとも、ウマ娘を自分の部屋に招くのはトレンドでもなんでもないことは確かだった。

とは言えルドルフとシービーにも居候の自覚はあるのか家事については手伝ってくれるので、意外と言っては失礼かもしれないが、結構助かっている部分もある。

中等部ぐらいのウマ娘ともなれば、見た目の細さに反してそこらの成人男性よりよほど腕力と体力を兼ね備えている。そこに彼女たちの人並み以上な器用さが加わることで、一人暮らしについて回る面倒な作業も簡単に片付けられるのだった。

 

袋のチャックに引っ掛かっていた、最後のさきいかの破片も咀嚼して飲み込んだところで、床に手をついてリビングの中をぐるりと見渡す。

 

なんとも生活感のある部屋だ。

几帳面なたづなさんらしく、全体的に見ればかなり綺麗にまとまってはいるものの、所々に手が回りきらなかったらしき妥協の結果も垣間見える。それこそ、折角用意されたスタンドにかけられるわけでもなく、剥き出しのまま口を開いて放置されているゴミ袋とか。

たしか府中市は空き缶はカゴに入れて出す規定だった気がするし、そうなると二度手間のような気もするのだけれど……いや、人様の生活スタイルに口を挟んでも仕方がないか。

 

その横を、のっそりとマイペースに這っているのは、黒塗りの全自動ロボット掃除機……通称ルンバである。

なんでも、ウマ娘はヒトと比べて毛の抜け変わりが著しいぶん、こういった機械のサポートが大変重用されるんだとか。思えば今は換毛期であり、私の寮部屋も二人ぶんの抜け毛が目立っていたような記憶がある。

 

いかにも仕事人らしい、とりたてて目立つものもない至って普通の部屋だ。が、逆にその目立つものがないことが妙に引っ掛かる。

彼女のことだから、てっきりトロフィーや賞状の一つぐらいは飾ってあると思っていたのだが。全て目につかない奥にしまってあるのだろうか。とても名誉なことであるから、ああいうものは誰かに見せつけるように置いておくのだと思っていたのだけれど。

 

単純に、彼女がそういう自己顕示を嫌う性格なだけなのかもしれない。

しかしどうしてか、私はそこに得体の知れない慙愧じみた念を見出だしていた。過去を顧みないというよりは、過去そのものに蓋をしているかのような――――

 

「トレーナーさん?聞いてます?」

 

「えっ……あ。はい。そうですね、私もそれには賛成ですよ」

 

「やっぱり聞いてない……もう、これじゃあいつも通りルンバに話しかけているのと変わらないじゃないですか」

 

「すみません。ええっと、たしかシービーとルドルフがどうとか」

 

右から左に受け流していた中でも、一応その名前が出されていたような記憶が薄ぼんやりとある。

 

「そのお二人のどちらを選ぶつもりなのかって話ですよ。なあなあで誤魔化せる話ではありませんよ」

 

「それは、そうでしょうが……」

 

そんなことは十分に理解している。

だとしても、ここですんなりと答えを出せるようならここまで苦労していない。ただ、なんとなくの道筋については一応頭の中にはあった。

 

「……とりあえず、皐月賞の結果次第でしょうか。指揮を取るのは先生ですが、そこで己の実力の多寡を測ることは出来るでしょう」

 

「クラシック戦線においての、ですか」

 

「はい。やはりG1ですから、同じ重賞とは言え弥生賞や共同通信杯とはわけが違いますし」

 

「共同通信杯。あれももう二ヶ月前ですか」

 

どこかしみじみとした様子でたづなさんは頷く。やはり彼女のことだから、特別思いを寄せているものなのだろうか。

 

かくいう私にとっても、共同通信杯はかなり思い入れのあるレースだった。

新バ戦、黒松、ひいらぎと来てようやく挑んだ重賞であり、同時に私にとってもシービーにとっても初めてとなる重賞制覇となったからだ。前走における雪辱を果たしての堂々たる勝利であり、思えばシービーに対する評価もあれが決定づけたのかもしれない。

 

「ひいらぎ賞は口惜しい限りでしたね」

 

「勝負とはそういうものですから。それにある意味では、シービーの難点を早々に発見出来たわけですし」

 

それこそクラシックの舞台で初めて露呈するよりは、あそこで対策を済ませられたぶん意味があったと考えるべきだろう。

 

彼女の言うとおり、史上初の無敗三冠の夢が夢幻に立ち消えたことは今でも歯痒くて堪らないが。

シービーにそのポテンシャルがあるとなれば尚更のこと。それでも、一年目というのは本来そうして敗北と調整を繰り返し、担当の特性を把握していく時期である。二年目以降を見据えた投資期間と言ってもいい。

最初から完全な存在などありはしないのだ。だからこそ、誰もが無敗という在り方に惹き付けられるのだろう。未だ前人未到の境地ではあるものの、そこに指をかけたウマ娘は確かに存在した。

 

そう考えると少しだけ面白くなってきて、どこか揶揄うように彼女へ問い掛けてみる。

 

「やはり貴女にも拘りがありますか。遺憾なき常勝、無敗の三冠という称号には」

 

「さぁ?生憎、私は事務方一筋。レースを走ったことなどありませんので」

 

いつもの誤魔化し文句を宣いながら、たづなさんはちびちびと缶を傾ける。

 

その背後。

カーテンが開いたままの大窓の向こうには、ぽつぽつとした街並みの灯りが揺らめいている。蒼白い光が漏れこんでくる中で、バケツをひっくり返したようなどしゃ降りは既に鳴りを潜めていた。このぶんなら、あと数時間も経てば収まるかもしれない。

 

この時期だから、やはりトレーニングは屋外でやっておきたい。

春らしい陽気も悪くないが、シービーの好みを考えると多少天候が崩れバ場も荒れていた方がかえって捗ることだろう。豪雨は御免被りたいが、このぐらいの小雨だったらもうしばらくは続いていて欲しいものだ。皐月賞の本番もまた、こんな調子だったらありがたいことこの上ないのだが。

 

念のため、屋内と屋外の両方のメニューについて頭の中で見直しと再構築を行っていたところ、いつの間にか、テーブルの下に潜っていた彼女の尻尾が、するりと私の足首に絡みついてきた。

さらさらとした毛ではあるものの、あまりの締めつけの強さに脱出することは叶わない。

 

「なんですか」

 

「逃がしませんよ」

 

……言われなくとも、既にシャワーも浴びたこの状況で学園まで帰れるはずもあるまいに。

 

とりあえず足を封じられてしまった私は、どうにか上体だけを伸ばして小型冷蔵庫から新しい一本を取り出す。

途中、電流のような痛みが左脇腹から腹直筋にかけて走り、思わず顔をしかめて呻いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「はい……ちょっと、つっただけです。多少無茶しただけでこうなるなんて。これは私ももう歳ですかね」

 

「嫌みですかそうですか」

 

「違いますって……」

 

お互い缶を片手に言い合う。

そんな私たちの少し隣を、ルンバがマイペースに通過していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ"~………」

 

翌朝。

私はばさばさと頭を掻きながら、ネクタイを揺らしつつ玄関へと向かう。

 

眠気が残っているわけではないが、どうにも頭が重たい。懐かしい……以前にもこんなことがあった気がする。

 

起きてからもう一度シャワーを浴びたことで、僅かに残っていた酒精については完全に洗い落とすことは出来た。

ただ、起床時間があまりにも早すぎる。まだ朝陽が顔を覗かせてすらいないのだから。一応は他人の家ということもあって、緊張や遠慮の気持ちが私の中にも残っていたのだろうか。風呂場を二回も使ってる時点で今さらだと思うのだけれど。

 

「たづなさん……は、いいか」

 

せめて、挨拶ぐらいはしておくのが礼儀だろうが。

しかし、ただでさえ忙しい彼女をこんな朝っぱらに叩き起こす方がよっぽど失礼に思えてならない。とりあえず戸締まりだけはしっかりとしておいて、後で学園で見かけた時に声をかけておけば十分だろう。

 

リビングと廊下を抜けて、玄関へと向かう。

 

チェーンを上げて、鍵を回してノブを引いた瞬間、反対側から強い力でドアを引っ張られた。

 

「なっ!?」

 

バランスを崩し、突き飛ばされるように部屋の外へと倒れ込みかけたと思ったら、不意に柔らかいものに抱き止められる。

 

「ふむ。おはようトレーナー君。こんな朝早くから元気だな」

 

「ね、だから言ったでしょ。この時間ならちょうど起きたところだって」

 

上から降ってくるのは二人ぶんの少女の声。

私を抱き締めているのはルドルフか。そのすぐ隣に立っているシービーが、なにやらこちらを囃し立てている。

 

とにもかくにも、このままでは息苦しいのでルドルフを突き放そうと試みた直後。かえってウマ娘の膂力でますます強く抱き締められ、もっと呼吸が苦しくなった。

 

 

……ああ、こんなことも以前あったような気がするな。

 

 



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記者たちのロンド

皐月賞。

 

クラシックにおける初戦であり、最も速いウマ娘が勝つと称されるレースでもある。

本年度における最初の関門として、ついに私たちはこの日を迎えていた。

 

四月も第三週を折り返す手前だというのに、朝から降り続いている雨のせいかどうにも肌寒い。

スーツの上から袖を通したレインコートの裾をぴったりと身体に巻き付けつつ、東京レース場の観客席の間を縫って歩く。ぱしゃぱしゃと、コンクリに溜まった雨水が跳ねてズボンの端を濡らしてしまった。

 

「転ばないでくださいよ。ここでは、貴方も見られる側なんですから」

 

「はい、先生」

 

私の足取りがあまりにも見ていて拙かったのか、左手に並んで歩く先生にそう釘を刺されてしまう。

彼女も同じくレインコートを羽織っているが、その頭頂部に開けられた穴から飛び出したウマ耳が、ぴょこぴょことせわしなく周囲の様子を窺っていた。同じく外に解放された尻尾もまた、気忙しく縦に横にとゆらゆらしている。

 

「これまた大した人の数ですね。荒れた天気だというのに」

 

「悪天候である程度人の捌けた結果が現状だということでしょう。これでもまだマシな方なのだと思いなさい」

 

「分かりました」

 

私たちの歩いている通路は、スタジアムのちょうど真ん中あたり。

見上げても見下ろしても、興奮冷めやらぬ観客がところ狭しと席を埋めている。屋外のレース場ですらこれなのだから、中継越しに観戦している者も含めれば一体どれだけのファンが注目を寄せているのだろうか。

先生の見られる側という言葉の意味が、今さらながらに現実のものとして重くのし掛かってくる。

 

フードですっぽりと頭を覆っていることもあってか、目の前を行く私たちの正体について気づく者はいないことだけが幸いだった。

やや顔を伏せがちにしつつ、足早に最後の一ブロックを通り抜けて、関係者以外立入禁止と大きく書かれた鉄扉に辿り着く。

脇に控えるURA直属の警備員に身分証を提示すると、すんなりと中へ通してもらえた。

 

「ふぅ……」

 

目深く下ろしていたフードをはね除けて、水滴の絡みつく前髪を掻き上げながらほっと一息。

先生に至っては、ぶるぶるとプールから上がった犬のように全身を盛大に震わせている。やはりウマ娘の肉体的構造上、レインコートによる窮屈さや不快感はヒトのそれとは比べ物にならないのだろう。

 

しばらくそうして水気を払った後、下へと長く伸びる階段を肩を並べて下っていく。

続く先は、レース場の地下一階にある控え室だ。パドック入り直前の出走者たちは、そこで最後の調整を行うこととなる。

調整といっても、せいぜい作戦の最終確認や衣装の点検程度しか出来ることは無いのだが。あとは、最後にトレーナーが激励の言葉をかけてやるぐらいか。

 

「そう言えば、シービーのオリジナル勝負服は今日が御披露目でしたね」

 

沈黙がどうにも居心地悪く感じて、数段先を進んでいく先生の背中にそっと声をかけた。

 

共同通信杯はG3であり、皐月賞へのステップアップである弥生賞はG2の格付けである。

競技ウマ娘が固有の衣装を身につけて走れるのはG1レースだけなので、シービーにとっては今日こそがその初舞台となるのだ。

これだけファンが詰めかけたのは、彼女に限らず出走者の大半が初めて披露することとなる衣装を直接見たいという思いもあるのだろう。なにせ、汎用勝負服の頃からずっと応援してきたわけだから。

 

もっとも、私たちは既にシービーのデザインを知ってしまっているのだが。

というよりデザインの考案から採寸、届けられた実物の調整にライブを想定したリハーサルに至るまで全て携わってきたのだから、嫌でも記憶にこびりつている。

 

「競技ウマ娘にとっては、固有の勝負服を着て走れることそのものが誉れですからね」

 

「そういえば、先生も皐月やダービーに出走していましたっけか。どんな衣装か一度見てみたいです」

 

「構いませんが、引っ張り出すのも手間なんですよ。勝負服はウマ娘にとって魂そのもの。そうそう無下に扱うわけ………に、は……」

 

はた、と階段を下りきった彼女の足が止まった。

 

蛍光灯で明るく照らされた廊下の先、なにやら影が伸びている方向をどこか唖然とした様子で見つめている。

やや遅れてそこに合流してみると、一体なにを見つけて固まっていたのか私にもようやく理解出来た。

 

「おっ、二人とも。雨の中お疲れ様ね」

 

そうウインクを飛ばしてくるシービーは、まさしく白と緑を基調とした専用の勝負服を着込んでおり、そして全身から盛大に雫を撒き散らしている。

いつもなら毛先が跳ねているはずの彼女の長髪は、たっぷりと水気を含ませたことで身体に張りついてしまっていた。

 

両の手はがら空きで、雨具の類いをどこにも携帯している様子はない。

いや……台風の真っ只中でもないんだから、たとえ雨ざらしで歩いていたとしてもこうはならないだろう。

さてはこいつ、走ってきたな。ぐっしょりと濡れそぼり、白地に泥を跳ね散らかしたその姿はまさしく。

 

「……捨て猫ですよ。ああ、グッドルッキングホースガールの面影がこれでは……」

 

「………………」

 

レース後に勝負服が汗と泥に汚れるのもそれはそれで激闘の華があるし、シービーの場合であれば殊更絵になるであろうことは間違いないのだが。

しかし、こんなレースが始まる前から、ここまで滅茶苦茶になってるのは前代未聞だ。ましてや彼女は本日一番の注目株だというのに、この有り様でどうパドックに出せと。

 

そう嘆く私を他所に、黙り込んでしまった先生。

ゆっくりとその耳が倒れ、にわかに肩を震わせながら二歩三歩と距離を詰めていく。やや表情を強張らせながら後退りするのを見届けた直後、さらに大きくもう一歩。

 

あと数メートルで手が届く距離まで詰め寄ったところで、突然泥んこシービーの背後からなにかが飛び出してきた。

あっという間にシービーと先生の間に割り込むと、逆にこちらに向かってずんずんと距離を詰めてくる。

 

「シンボリトレーナー!ご無沙汰しております乙名史です。本日のレースの展望について、少々お時間を頂ければと!」

 

「久し振りですね。ええ、構いませんが、その前に私はこの子と大事なお話をしなければ……」

 

「なるほど。カツラギエースさんにミスターシービーさんにと、パドック入り前の僅かな時間すら逃さず全ての担当に闘魂注入のエールを入れ熱い抱擁を交わすのだと!素晴らしいですっ!!」

 

「え、ええっと……」

 

手帳とペンを振り上げながら、なにやらいたく感極まった様子で咆哮を上げる女性と、その気迫に圧されてたじたじと私の前まで後退してくる先生。

 

おお、凄い。

この乙名史とかいう人物、恐らく記者なのだろうが、あそこまで掛かった先生を真正面から打ち破り圧倒するとは。

シービーもまた、目の前で繰り広げられる光景を目を丸くしながら見守っている。ふと目があったので、とりあえずシャワーで泥を落としてくるようジェスチャーで指示すると、颯爽と廊下の反対側まで走っていった。角を折れ曲がり、私たちの視界からいなくなる。

 

それを見送っていたところ、くいと先生にシャツの袖口を引っ張られた。

両腕でどうにか乙名史記者の進撃を食い止めながら、顔だけをこちらに寄せてそっと耳打ちしてくる。

 

「……とりあえず、貴方は上階の観客席に戻っていなさい。ここは私がどうにかします」

 

「ですが、記者対応なら私も同席するべきなのでは……?」

 

「その通りですが、しかし今の貴方の手に負える相手ではありません。とんでもなく厄介なのです。いつぞやの不良記者とはまるで年季が違いますから」

 

行きなさい、と肘で私を突き飛ばす先生。その一瞬の隙を決して見逃さず、さらに半歩踏み込んでくる乙名史記者。

猛者同士の叩き合いに、私が割り入る余地など最初から存在しないらしい。

 

 

健闘を祈りつつ、下りてきた階段を再び引き返す。

地上に向かう途中、あの「素晴らしいですっ!!」の雄叫びが何度も背中から響いてきた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

びゅうっと、湿った一陣の風が正面からぶち当たる。

下ろしていたフードがふわりと捲れ上がりそうになって、慌てて深く深く目もとまで引きずり下ろした。親指と人差し指で強く抑え込んで、どうにか突風をやり過ごした。

危ないところだった。このスタジアムで自らの顔を晒す危険性を、私はこの数十分の間に骨身に染みて理解していた。

 

あの乙名史とかいう記者は、かなりのやり手であったらしい。そして有名人でもあるそうだ。トレーナー界隈だけでなく、マスコミ界隈においても。

 

なんでも、ネタを巡る嗅覚が鋭い上にやたらと目立つものだから、彼女の後を追うとかなりの確率でスクープに出くわすのだとか。

実際、今回も厄介な先生を乙名史記者が捕えたことで、フリーになった私が一斉に他の記者に群がられることとなった。話を聞く限り、どうも彼らは最初から私を標的としていたらしい。

それも当然か。一筋縄ではいかない先生の相手をベテラン記者にやらせて、自分たちは新米のひよっ子をつついた方が成果がデカいに決まっている。しかもソイツは、最近になってやたらと衆目を集めているのだから。

 

「疲れた…」

 

なにが私を苦しめたのかといえば、それは群がってくる記者一同もまたベテランだったということ。

皐月賞に限らず、このレベルのレースとなるとマスコミがハイエナのように集ってくると聞いてはいたが。あれは屍肉漁りではなく狩りそのものだ。ここは彼らの猟場だったのだ

 

欄干にもたれ掛かり、着々と発走の準備が整えられていくターフを見守る。

既にパドックでの御披露目は終わっていた。あの様をよくどうにかしたもので、小綺麗になったシービーがポーズを決めた瞬間、はぜるように湧いた歓声が今でも耳にこびりついている。

出来ればもう少し落ち着いて眺めたかったが、これでもかと食い下がる記者をどうにかかわしていたため叶わなかった。

 

一応、完全に撒けただけ良しとしようか。

さしもの彼らでも、これだけごった返した観客席の中から、一度見失った相手を特定するのは至難の業だろう。レース中に水を差されては堪らないので、このままやり過ごすとしよう。

 

そうして、水の溜まった欄干から少しだけ身を乗り出した瞬間。

どんっと、真横から突っ込んできたなにかに胴を捕えられた。

 

 

「トレーナー君。探したよ」

 

先っぽの黒ずんだウマ耳をぴょこぴょことさせる、紺色のレインコートに身を包んだ少女。

全身がすっぽりと覆われてしまっているが、その深く落ち着いた声だけはいつも通りだ。

 

「ルドルフ。そうか、君もいたんだな」

 

「なにしろクラシック初戦だ。テレビの液晶越しでは我慢出来なかったものでね」

 

「だろうね」

 

ルドルフにとってシービーは遠からず競う相手であり、同じくクラシック三冠に挑む身としてはやはり中継などでは満足出来ないだろう。

そもそもここ東京レース場は府中市内にあり、学園と直近なので彼女に限らず大勢の生徒が観戦に訪れている。きっと、探せばマルゼンスキーあたりも見つかるだろう。

故に、ルドルフが来場していること自体に問題はないのだが。

 

「どうしてここが分かった」

 

ようやく一人になれたと思っていたのに。

こうもあっさりと見つかってしまうようでは、身の隠し方に根本的な問題があるのかもしれない。逃走という手段が選べない私にとって、それは極めて不都合な話だ。

 

しかし、どうやらそれは杞憂だったようで。

ルドルフはぐいぐいとこちらの横腹に押し付けていた顔を上げると、その人差し指で軽く自らの小鼻をつついて見せてきた。

 

「匂いだよ。といっても、流石に入り口から真っ直ぐ追ってこれたわけじゃないが。この階に上がってきたとき、たまたま君の匂いを感知した」

 

「この人混みと雨のなかで?凄いな」

 

「ほとんど紛れかけていたけどね。だからたまたまと言ったろう。偶然だ」

 

謙遜しながらも、フードから飛び出たウマ耳は満更でもなさそうにぴこぴこと弾んでいた。

 

なら、ひとまずは安心出来るだろうか。

ウマ娘とヒトでは嗅覚から受け取る情報もまさに別次元であるから、私にはルドルフの見えている世界については全く理解が及ばない。

とはいえ、彼女たちとて別にファンタジーの生き物というわけでもないのだから、その能力にだって限界はある。確かに、最低でも同じ階にまで接近しなければ捕捉することは不可能だろう。

 

少しだけ胸を撫で下ろす。

しかしそんな私の安堵は、次の瞬間呆気なく崩れ落ちた。

 

 

「よく言うなぁルドルフちゃん。さんざんトレーナーさんのこと探してあっちこっち走り回ってたところやんか」

 

 

私の真横に立つルドルフの、さらに横から飛んでくる朗らかな声。

ひしめく観客たちを器用に掻き分けながら、一人の男性が傘をすぼめて真っ直ぐこちらへと向かってくる。

 

「下がっていろ。ルドルフ」

 

「………ああ」

 

訝しそうに男を見定めていたルドルフを、咄嗟に背中へと庇う。

何者かは知らないが、彼はルドルフの名前を知っている。しかしルドルフは彼のことを知らないとなると、つまりはその筋の情報収集に長けた……要するに記者なのだろう。

 

あからさまに警戒されているにも関わらず、男はまるで気にした様子もなく飄々とした笑みを見せた。

あっという間にパーソナルスペースぎりぎりまで詰めてくると、ライトアウターの内ポケットから名刺を一枚取り出して、慣れた動きでこちらに手渡してくる。

 

「あんたとは初めましてやな!ボクは藤井泉助!フリーの記者をやっとります!」

 

分け目で流した髪に、黒縁の眼鏡が特徴的な男。

姿勢がよくかなり上背もあるためか、この人混みの中においても一際存在感を放っていた。親しげな、ともすれば馴れ馴れしいとすら思える口調と、常に頬を引き上げたその表情からは、どこか軽薄な印象があった。

垂れ気味の瞳は、笑みを型どりながらも抜け目なく私たちの様子を観察しており、それに感づいたらしきルドルフが、威嚇するかのように尻尾の毛を鋭く逆立てて唸る。

 

藤井と名乗ったその記者は、私が名刺を受け取ったことを見届けた後、今度は手帳とボイスレコーダーを懐から取り出してそれぞれ準備を始めた。

 

「いやぁ!フレンドさんがなかなか見当たらなくてえらい困ってたんですわ!そしたらそん妹が走ってるのを見かけてなぁ。これはチャンスや思うて追いかけてみたんや」

 

「先生なら恐らく下にいますよ。乙名史記者の相手をしている筈です」

 

その名前を引き合いに出した途端、彼もまたあの記者のことはよく知っていたのだろう、大きく頷きを返してくる。

 

そんな仕草を見て、またしても唸りを上げるルドルフ。

知らない間にまんまと後を尾けられていたとあっては怒りを覚えるのも当然か。面白くないのは私も同じだが、しかし記者にとってはそれが仕事なのだから咎めたところで仕方がない。

 

「流石。乙名史ちゃんの嗅覚も一級品やね。せやけど、それはもうええんですわ。今ここででっかいアタリを引けたわけやからな!」

 

「まだ取材を受けるとは言ってませんが」

 

「ま、ま、そうつれないこと言わんといて下さい!出走まであと三分。その間だけでも」

 

こちらの事情を顧みず、一方的に懐へと潜り込んでくる点ではいつぞやの記者と同じだが。

しかしこの男には、場の流れそのものを強烈に支配する力があった。私の目から見れば、やもすると乙名史記者に劣らないぐらい厄介かもしれない。

 

起動したボイスレコーダーを首に提げると、代わりに握ったペンでとんとんと手帳の頭を叩きながら、藤井記者は急かすように口火を切った。

 

「さ、聞かせてもらいますわ。自分、この皐月賞の展開について、どのように考えてるかについてな」

 



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誰よりも速く

 

「展開ですか」

 

「おん!せやねん!ボクの勝手な推測やけど、この皐月賞、ミスターシービーに采配下してるんはトレーナーさんなんやろ?今後のことを考えたら、まぁそうなるやろな」

 

推測と口では言いつつも、藤井記者はその事について確信に近いなにかを抱いているようだった。

先程の話の流れから察するに、彼はまだ先生への接触を果たしていない筈であるが。いや、たとえそれがブラフだったとしても、先生がチーム内における指揮系統について外部に漏らす真似をするワケがない。

となると、根拠は彼自身が独自に掴んだ情報か、あるいは記者としての勘といったところだろうか。

 

実のところ、その予測は正しかった。

 

本日の皐月賞において、チームからはミスターシービーのみならずカツラギエースも出走している。すなわち同門対決となる。

 

通常、こういったケースにおいてトレーナーはどちらにも必要以上に肩入れしない。いくら同じチームに所属する仲間といえども、いざレースで相まみえればライバル同士なのだから。

しかし、先生は弥生賞の翌日、今日についてはカツラギエースの方に肩入れすると明言していた。メニューの構築から作戦の立案に至るまで、自分が主に面倒を見るのはエースであると。

私が初日から己の裁量でシービーをお出かけに連れ出せたのも、先生がこちらに彼女の指導を一任していたからである。もっとも、先月までは指導教官として先生がマンツーマンでついていたから、実質私が担当したのは最終調整と作戦の指示ぐらいであったが。

 

「ミスターシービーと言えば、やっぱり最後尾からぐわっとしかける追い込みやろなぁ。それに待ちに待った勝負服の初披露さかい。ここに詰めかけた連中だってみぃんなそれを期待しとる」

 

「……いえ。このレースについては、これまでよりも前方に展開させるつもりです」

 

「ほぉ……クラシック初戦にきて随分思い切ったことをするんやね。鉄板をあえて外すんか。そん理由はなんやろなぁ?」

 

「天候ですよ。バ場が重すぎる」

 

欄干から手を伸ばし、指を揃えて器を作ってみれば、そこにはあっという間に水が溜まっていった。

どしゃ降りという程の規模ではないが、それでも朝からしつこく降り続けた雨によって、ターフはぬかるみ水を含んだ芝はさぞかし重くなっていることだろう。

それは重バ場よりもさらに含水率の高い、不良バ場と評価される状態であり、終盤の加速が肝となる追い込みウマ娘にとっては不利となる荒れ具合だった。

 

「あー……まぁ、それはそうやろなぁ。シービー戦法にはちと厳しいか」

 

「ええ」

 

「せやけど、ミスターシービーはもともと雨の日がおきになウマ娘だったやろがい。せやから勝負服かてズボンにしたんやろ」

 

「重バ場であればこれまで通りにやらせたでしょうが。今日は少々……いえ、あまりにもバ場状態が悪すぎる」

 

「なるほどなぁ。思い切ったというよか、むしろ安全策をとる感じやんな」

 

一人で納得したように頷く藤井記者は脇に置いておき、私は準備の完了した発バ機に続々と近づいていく出走者たちの姿を眺めた。

 

そこには当然、シービーの姿もある。

ここ数週間の調整を念入りに行っていたこともあってか、威風堂々とした佇まいはまさしく絶好調といったところだろうか。

一歩一歩と歩みを進めるたび、蹴り上げられた芝から水飛沫が飛び散っている。重いなんて表現も生温い。それは、水張りを終えた田んぼさながらだった。

 

安全策というのは事実である。

はっきり言って、私としても大いに迷うところではあった。クラシックの幕開けとして、本日一番の注目株となったいたこともあり、シービー自身が追い込みに拘っていた部分もあったのだから。

芝の重さについても、彼女にとってはレースを魅せる演出の一つとして歓迎すべき要素なのかもしれない。

 

「議論は何回も重ねました。行き違いもありましたが、最後はシービーが折れてくれた」

 

以前、トレーニング中に少しだけシービーと話したこと。

あの内容をさらに突き詰めた形となる。

 

本音を言えば、シービーの好きに走らせてやりたいところではあるが。

それでも私の頭にこびりついていたのは、ひいらぎ賞での出遅れによる体力消耗だった。

 

いくらスタミナに恵まれたシービーであっても、状況次第では終盤まで足を貯めておけない状況は当然に起こりうる。あの時はゲートでのトラブルがイレギュラーとなったように、今回はこの荒天が容赦なく彼女の体力を削ることとなるだろう。

 

基礎固めの時期であった昨年は異なり、今年のシービーは絶対に負けるわけにはいかないのだ。

初のG1という大舞台、そこに初めて袖を通す勝負服に不良バ場という不安要素が積み重なったこの状況では、せめて戦法だけは堅実にいきたいという思いが強い。

 

 

私たちがこうして話している間に、ターフでは全ウマ娘のゲート入りが完了していた。

 

人気順に各ウマ娘が紹介されていき、各々の応援する名前が呼ばれるたびに、観客席から大きな歓声が飛ばされる。

その中でも、やはりシービーに向けられる声は一段と目立っていた。

 

「お、そろそろ出走みたいやな。ほな約束通り撤収させて頂きますわ。おおきにありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

「ルドルフちゃんもまたな。ボクも自分には期待しとるからな」

 

「……ふん」

 

一言も喋らず、私の背中に張り付きつつじとりと藤井記者を睨み上げていたルドルフは、彼の挨拶も鼻を鳴らして受け流す。

対する藤井記者もやはり堪えた様子はなく、慌ただしく手帳を内ポケットにしまうと、小走りに地下へと繋がる階段に姿を消してしまった。

いい加減乙名史記者の密着取材も終わったところだろうから、先生の捜索を再開するのだろう。それが仕事とはいえ、なんとも精力的なものだ。

 

「騒々しいものだな。やはりクラシックともなるとこういう苦労がついて回るものなのだろうか」

 

「これでも日本ダービーと比べればだいぶマシな方だ。まぁ、それでも今年は去年よりも賑やかな気はするけれど」

 

「それもシービーのおかげなのかな」

 

「ああ、間違いない。普段レースにはあまり関心のなかった層も、シービーだけが目当てで席を取ったというぐらいだし」

 

世間を賑わせ、アイドルホースなどと称されたウマ娘は過去にもいた。

明確な定義こそないものの、シービーもまたそれに含まれるのではないだろうか。

 

流石にハイセイコーのような、レース競技の枠を越えた社会現象、一大ブームを巻き起こしたというわけではないが……そもそもあれは異常だからな。

この先十年間、ともすれば私が死ぬまで同じものは見られないかもしれない。地方から編入したウマ娘が中央の頂点を取るとか、そんな滅多なことでも起こらない限りは。

 

閑話休題。

 

一通りの紹介も終わったところで、誘導員が一斉にコース外へと退避する。

雨の日でのゲート入りということもあってか、いつもと比べて随分用意が早かった。

 

ガシャンと勢いよくゲートが開き、割れるような大歓声の中、二十人が一斉に芝へと飛び出した。

シービーに与えられたのは五枠の十二番。滑り出しは悪くない。

ひいらぎ賞において直接の敗因となった出遅れがなく、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。

 

―――さぁ!!各バ一斉にスタートしました!!スタンド前での先行争い、まだ殆ど横一線です!!

 

数秒間だけ一列に肩を並べたあと、五番のニホンピロウイナーを筆頭に何人かが前に抜け出してきた。

同時に四番のカツトップメーカーが内側からも上がってきており、そこで先頭争いを繰り広げる。

 

 

やはり、バ場の状態が悪い。

 

 

集団の足元では、巻き上げられた水飛沫が霧のように広がっていた。まだ第一コーナー手前だというにも関わらず、激しい叩き合いの中で顔や衣装にも泥が飛び散っている始末。

重いターフに足を取られる上に、視界も遮られてはさぞ走り辛いことだろう。それでも流石G1というべきか、どのウマ娘も全く脚色の衰えは見せていない。

 

その中に、バ群の内側を駆けるシービーの姿もあった。

白い衣装は前方から飛来する泥で汚れ、それすらも巻き上がる飛沫と叩きつける雨粒によって洗い流されていく。

霧のような靄のような水飛沫に集団が包まれた結果、まるで景色に溶けたかのようにその輪郭は朧気となる。

 

その位置取りは、二十人立てのうちおおよそ一七から十八番手といったところ。

最序盤での競り合いも片付き、それぞれのウマ娘が自らの戦法に沿って展開していく。そんな中で、シービーが陣取った場所は集団のほとんど最後方。

 

 

……シービーのやつ、このレースも追い込みで戦うつもりか!!

 

 

「トレーナー君!シービーの位置が……」

 

「ああ、分かってる!心変わりがあったんだろう。このまま見守るしかない!」

 

既に最初の位置取りは終わってしまった。

ここから前方に上がってポジションを維持していくのは無茶だ。

こんな荒れたターフの前では、いかにシービーといえどもあっという間にスタミナが尽きてしまう。

 

―――第一コーナーを回ったところ、先頭はカツトップメーカー!二番手にはカツラギエース!その外をついて上がってきたのはニホンピロウイナー!

 

右曲がりのコーナーを回って、向正面の直線を抜ける。

逃げウマ娘であるエースは当然、このタイミングで前へと出てくるだろう。すぐ前を走るニホンピロウイナーに先頭争いを仕掛け、それを制して新たにバ群を率いていく。

 

大きく縦に伸びていく集団。

前方、中団、後方の三つに大きく分かれ、シービーは後方からじわじわと先行バを捉えるために位置を上げている。

 

そのまま第二コーナー、第三コーナーを経てようやく中団あたりについたシービー。

先頭は変わらずエースがややリードを広げている。前方に誰もいないぶん、視界を良好に取れるのが彼女の強みだろうか。

逆にシービーの場合、普段よりもいっそう体力を削り取られるターフの中で、泥や雨風の飛び散る中から仕掛け時を探ることとなる。追い込みウマ娘が不良バ場で不利とされる所以だ。

 

「いや……それでも、問題はないのか……?」

 

それでも今のところ、シービーの動きに目立った不調は見られない。

むしろ、これまで以上に正確にレースを運んでいるように思える。冷静に足を貯めて、後半に差し掛かった時点で中団やや前方の外側へと位置取り、仕掛け時を見計らっているようだった。

 

私はあらかじめ、各バ場状態ごとに予想される戦局と、そこでとるべき戦法についてシービーに伝達している。

彼女のこの動きは、良から鞘重のケースを想定した作戦に従ったものだ。今日が不良バ場であることを除けば、私の指示から逸脱しているものでもない。

加えて、これまでのレースの展開もまた、私が予想していた戦局とほとんど同じだ。それに照らし合わせれば、シービーのレース運びは十分に安定していると言える。

 

結局、私がとった安全策というのは、諸々の不安要素によっていつもの走りが出来なくなった場合に備えての作戦であって。

シービーが普段通りのパフォーマンスをここでも維持できるのであれば、それは完全に意味を失くす。

 

 

私は、ミスターシービーというウマ娘を見くびり過ぎたのだろうか。

 

 

どれだけ特別だと口にしたところで、内心では不良バ場に翻弄される程度のウマ娘としか思っていなかったのか。

その実力を把握出来なかったから、彼女の求めるレースをさせてやるという選択肢も取れなかった。それがこの作戦無視に繋がったのだとしたら。

皐月賞で己の実力の多寡を測ると、この前たづなさんに言った。その結果がこれだとしたら、やはり今の私にシービーに見合うだけの実力など―――

 

 

―――一気に来た!ミスターシービーが来る!さぁミスターシービー単独先頭だ!!

 

最終コーナーを回り、直線に差し掛かった瞬間、あっという間にカツラギエースから先頭を奪っていくシービー。

重たいターフをものともせず蹴散らしながら、観客席からの大歓声に背中を押されてみるみると速度を上げていく。

天性のスピードに、鍛え上げられた心肺から生み出されるスタミナがあわさって実現した脅威の末脚が逃げも先行もまとめて後ろに置き去りにする。

 

それはあたかも、天を駆けているかのように軽やかで。

およそ半バ身、必死に追いすがる後続がつけるもその差が埋まらない。手を伸ばせば届いてしまうその距離が、まるで無限の彼方まで続いているかのようだった。

 

―――ミスターシービー先頭、ゴールイン!雨のなか堂々たる走りでした!皐月賞であります!!

 

一つ目の冠を今ここに戴いて。

身を焦がされた者の熱狂を一身に受け止めながら、ついに激戦を制した泥だらけの演出家は、堂々と手を振って見せる。

 

クラシック初戦。皐月賞。

このレースは、最も速いウマ娘が勝つ。

 

ああ、ならば彼女の勝利もまた当然のことであったか。

十九年ぶりの三冠へと一つ駒を進めたこの瞬間、誰もが彼女に夢を抱いた。

このレース場にいる全員、いや、この国にいる全ての人間が彼女に魅せられている。

 

 

……そんな中でも、誰よりも心を奪われているのは、やはりこの子だろうか。

 

「ルドルフ。私は今からシービーを迎えにいくつもりだが、君はどうする」

 

返事もなく、ルドルフは欄干に取りついたままひたすらにシービーを見つめて動かない。

他の観客のように、賛辞や拍手を送ってやるわけでもなく。静かに佇むその口元には、常ならぬ獰猛な笑みが浮かんでいた。

 

水を滴らせる黒茶色の前髪の下。不気味に揺らめく紫の瞳が映しているのは、来年にここで行われるレースか、はたまた来月に学園で行われるレースか。

どちらにしても、この圧巻の走りを見せられた後でなおそのような表情が出来るあたり、彼女も大概だろう。現時点ではデビューすらしていないというのに。

 

「行くからね」

 

動かしようもないルドルフはその場に置いておこう。

私は通路の反対側、あの地下へと続く階段の入り口へと向かって歩き出す。

 

レースは終わった。だがやることはまだ多い。

勝利インタビューについては、先生が受け持つこととなっている。今はまだ彼女がシービーのトレーナーであるからだ。

私はその間、関係各所とのライブの打ち合わせに衣装やメイクの手直し、それから今後のスケジュールについて改めて点検をしなければならない。むしろこれからが、私たちトレーナーにとっては本番なのだ。

 

なにを置いても、まずは帰って来たシービーを讃えてやらなければ。

がさつなところもある彼女の身繕いも欠かせない。カメラに囲まれるよりも先に、控え室で綺麗にする必要があるだろう。

頭の中で、淡々とやるべきことの見通しと優先順位を組み立てていく。勝利の直後だというのに、まるで陶酔も熱も感じなかった。

 

そもそも、私は勝者なのだろうか。

 

自分の実力不足で、担当にあんな博打を打たせておきながら。

 

「失礼」

 

控えていた警備員を退けて、鉄扉を押し開く。コンクリートの階段に反響する喧しい金属音。

 

 

……駄目だ。今はそんなくだらないことを考える時じゃない。

 

担当の凱旋を前にして、しけた顔は見せられないからな。

 

 



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【閑話】薄氷の上で

 

『疑惑!ミスターシービーと新人トレーナー、方針に行き違いか!?』

 

 

皐月賞が明けて早々、こんな衝撃的なニュースが巷を駆け巡った!!

……というものでもなく、精々これまでの世論に追い風を送る程度であったが。

 

トレーナーとアタシの実力ないし相性の食い違いについては、今月に入ってから散々に擦られてきたものだった。

人の噂は七十五日などと言うものの、それはきっと続報もなく静観を続けた場合の話であって、こうして定期的に火に薪をくべられているようでは収まるものも収まらない。

 

まぁ、これもアタシのせいなんだろうけど。

 

「あれからもう一週間だよ。いい加減、次のレースに意識を切り替えていくべきだと思わない?ねぇ、ルドルフ」

 

「まだ一週間だろう。ダービー直前までは……いや、今年度中は誰も君から目を離さないと思うよ」

 

「うそ、アタシったら有名人!?」

 

おどけるアタシに呆れたようなため息を漏らすルドルフ。

向かいのベッドの端に足を組んで腰かけているが、それだとスカートが皺になるので止めた方がいいと思う。

 

「正直、私もあれには驚いたよ。最終盤における強襲こそが、君の持ち味であることは当然に知っていたが、とはいえトレーナー君の指示を無視してまでやることかな」

 

「だよねぇ……」

 

やっちゃったかな。

ちょっと考えれば、こうなることも予想できたはずだったんだけどね。

ゲートが開いて、ターフに飛び出した瞬間。

どうしようもなく昂ってしまった。

 

不思議な感覚だった。

前だけを見ているはずなのに、横一列に並んだ全員の顔が目に映るようで、レース場に詰めかけた観客一人ひとりの表情も見て取れるような。

濡れた芝の匂い。湿った大地の匂い。ざあざあと降りしきる雨粒の全てを目で追えてしまった。トレーナー曰く、視力だけでなく五感全てで世界を捉えていたのだという。無駄な動作、余計な情報を極限まで削り落とし、世界をより正しく感じとることが出来たのだと。

それはトップアスリートが極限まで積み重ねた鍛練の果てに到達する、領域ゾーンと呼ばれる境地に近いらしい。もっとも、皐月賞でのアレはまだまだ不完全で、アタシはそこにつま先だけ突っ込んだに過ぎないステージだそうだが。

 

初のG1という大舞台、なによりクラシック初戦という緊張。未だかつて経験したことのない大歓声とそこに乗せられた期待。ぴかぴかの勝負服。そしてなによりアタシの大好きな雨と荒れたバ場。

そういった諸々が一気に押し寄せてきて、絶好調という言葉すら生温い、狂おしいばかりの興奮に呑み込まれてしまった。

だからこそ、普段以上のパフォーマンスを引き出すに至ったのだろう。

 

「でもそれだって、所詮は結果論なのにね」

 

その暴走が、今回はたまたま上手い方向に作用しただけだ。

歯車が噛み合わなければ、不良バ場に体力を削られて足を貯められず、最終コーナーでのスパートに繋げられなかった可能性だって十分にある。それこそ、皐月賞前にトレーナーが危惧していたように。

 

彼が提案していた作戦は合理的だった。

 

終わった今だからこそ言えることだが、あれでも十二分に勝ち目はあっただろう。アタシの追い込みと比べれば、見ごたえのある面白い勝利というわけにはいかないだろうが安定している。

なまじ、皐月賞のように我を忘れて暴走した結果がひいらぎ賞での敗北だったのだから、クラシック戦線において念には念を入れるのは当然のことだったろう。

だからこそ、アタシも最終的には賛成したのだし。実際、ゲートが開く直前まではそれに従うつもりだったのだから。あの作戦無視は不服や反抗によるものではなく、単純にアタシが掛かってしまった結果に過ぎない。

 

しかし、世間はそうは思わなかったようで。

早速、トレーナーとアタシは相性が悪いだの、実は不和であるだの、アタシの方が作戦立案の能力も高いだの、トレーナーはお飾りだのお荷物だの出走チケットだのと散々に言ってくれている。

 

どれもこれも、トレーナーと事前に取り決めた作戦を世にバラしてくれた、この藤井泉助とかいうフリーライターのせいだ。

疑惑などと見出しに掲げておきながら、中身はほとんど断定している。こうして読者を無闇に煽るのが彼らのやり口なのだろう。

乙名史のおかげで、あの勝利の立役者と讃えられているチーフトレーナーとはえらい扱いの違いだ。あの人、ここ一ヶ月はほとんどアタシの面倒を見てなかったのに。

 

さらに厄介なのが、他ならぬトレーナー自身がそれに同調しているということ。

もともと推薦移籍に後ろ向きだった彼の背中を、他ならぬアタシがあの皐月賞で押してしまった。となれば、それに憤慨するのも筋が通らない。

結局、今のアタシに出来ることと言えば、こうして一日の終わりに同居人のルドルフに愚痴を聞かせてやることぐらいだ。

 

「やってらんない。こんなの」

 

ごみ袋はどこに置いたっけか。ああ、そうそう。クローゼットと右手前に広げておいたんだったね。

背表紙を挟んで狙いを定め、軽くスローイングをつけて放り投げる。部屋を横一直線に回転しながら突っ切ったと、雑誌は見事に在るべきところに叩き込まれた。

 

「なぁシービー……あれ、私が買ってきたものなんだが」

 

「そうだったっけ。ごめんね、後で新しいのあげるからさ。それで勘弁してよ」

 

「いや、結構だ。気持ちだけで十分だよ」

 

アタシと同じか、下手したらそれ以上に不機嫌な顔でばっさりと切り捨てるルドルフ。

ごみ袋の中で、他のプリント類や紙包装に埋もれた雑誌にはもはや一瞥もくれない。

 

藤井記者がしたためたあの記事の内容と世間の反応、そしてトレーナーの自信喪失は、総てルドルフにとっては有利となるものだ。

恐らく彼女が最も危惧していたであろう、アタシとの勝負に勝っても肝心のトレーナーが推薦移籍に拘るという、最悪のケースもこれでほぼ立ち消えとなったのだから。

 

しかしそれはそれとして、悪戯にトレーナーを槍玉に上げた藤井記者のことを彼女は大変腹に据えかねているらしい。

そのために彼女自身も利用されていたとなれば当然かもしれないが、アタシたち二人を一度に敵に回すとはあの記者も器用なものだ。

 

 

「それよりさっきからなんか風強くない?春一番ってこういうことなの?」

 

「それはもうとっくの昔に終わっただろう。君が窓を全開にしているからだ。いくらここが最上階とはいえ、夜中に感心しないな」

 

「えーいいじゃん涼しくて気持ちいいんだから。風流ってやつかな」

 

そう言っている間にも、ざあっと寮部屋に吹き込んできた風がベージュ色の遮光カーテンを盛大にはためかせる。

どこからか流れてきた花びらがルドルフの鼻頭に張りつき、眉間をしかめてそれを振り払っていた。

 

寮の周辺は防音のためにたくさんの木が植えられていて、その間を縫うように敷かれた遊歩道の脇にもまた色とりどりの花が咲いている。

生憎、ここ四階からはそうした外の景色を楽しむことは出来ないが。エレベーターが嫌いなアタシにとって、最上階は移動が面倒なだけなのだが、慣れてしまえばこれはこれで趣があるものだ。

遠くの空でみるみるうちに流れていく淡い雲と、その隙間から覗く月を楽しんでいたところ、無情にもぴしゃりと窓が閉められてしまった。ついでにカーテンも閉じられる。

 

「終わり。どうしても風を楽しみたいなら、今からでも走ってくるといい」

 

「あっ!そう言ってルドルフ、アタシのこと閉め出すつもりなんでしょ!?」

 

「いや、君だって鍵を持っているのにどう閉め出せと……」

 

「ところでさ、なんでキミはアタシに敬語使わないのかな。アタシは先輩で、生徒会長で、ミスターシービーだよ?もっと敬うべきなんじゃないの?」

 

「分かりましたよ、ミスターシービー先輩。これで満足ですか……?」

 

「やっぱいいや。よく考えればアタシもマルゼンに敬語使ってなかったしね」

 

「……………はぁ……」

 

うんざりした様子でベッドに仰向けになるルドルフ。

自分の世界に閉じ籠るつもりなのかもしれないが、そうはさせない。だらんとぶら下がった脹ら脛を尻尾で小突いてみると、大儀そうに姿勢の向きを変えた。

 

うん。あれだね。

これまでの反応からして、きっと彼女には年の離れた妹か弟がいる。

面倒見がいいというか、コミュニケーションに対して律儀というか、アタシのウザ絡みにも渋々ながら毎回反応を返してくれる。それでいて、歳上に対してもふてぶてしいあたり、妹属性も兼ね備えているというのだから堪らない。

 

去年まで相方だった彼女は高等部三年生だったからなぁ。流石に六歳も歳が離れているとやり辛いというか、向こうが大人だった。

アタシがどれだけちょっかい出しても涼しい顔で受け流されちゃったからなぁ。こう素直に反応してもらえるのは新鮮だ。アタシは一人っ子だからなおさら。

そのあたり、マルゼンが妙にこの子を気に入っている理由でもあるのだろう。

 

「あーあ、暇だね。トレーナーに電話でもしようかな」

 

「どうせ悪戯電話だろう」

 

「違うよ。大人同士の濃密な感情の交わりなの。ルドルフにはまだちょっと早いかな?」

 

「だから、トレーナー君はそれを悪戯電話だと言っていたぞ」

 

「えっ……そ、そうなの?えぇ……」

 

わりとショックなんだけど。怒ったから今日はもうトレーナーと口きいてやんない。

というかキミ、アタシとトレーナーの日課についても知ってるんだね。なんとなくそんな気はしていたけども。

 

決着をレースでつけると取り決めてから、アタシたちの関係は見違えるように良好なものとなっていた。

 

というより、ならざるを得なかった。流石にこれ以上の騒ぎは洒落にならないということもあるし、なによりここ美浦401がようやく復旧するに至ったからだ。

僅か一月足らずですっかり元通りに仕上げた管財課の手並みは見事なものだが、おかげで容赦なくトレーナーの部屋から追い出されたことを考えると、もうちょっと工期が伸びて欲しかったなんて不謹慎な願望もある。

 

というかトレーナー、あれだけアタシとルドルフが家事を頑張ったのに、よくもこれっぽっちの未練もなく捨ててくれたな。

思い出したら段々と腹が立ってきた。もう明日の朝まで口をきいてやんないことにする。

 

「ところで、シービー。君に報告しておくことがある」

 

「ん?」

 

一人トレーナーへの逆恨みを募らせていたところ、いつの間にかルドルフがこちらを向いて膝立ちしていた。

そのまま手にした一枚の用紙を、そっとアタシに手渡してくる。

 

「担当契約締結の申請願だ。先ほど原本を事務局に提出してきて、それはそのコピーだよ。受理されるのは来週の選抜試験の後になるだろうが」

 

わざわざ説明されなくとも見れば分かる。この学園に所属する生徒にとって、最も馴染みの深い書類と言ってもいい。

 

担当契約締結願。

これを生徒とトレーナーの双方が記入して提出し、学園から許可されることで正式に契約を結ぶことが出来る。

担当契約というのは身近なものでありながら、その実レース競技そのものを左右しかねない極めて重大な行為だ。だからこそ、この紙に虚偽の記載は許されず、それが明らかとなれば停学や退学、相当の懲戒処分に処せられることとなる。

 

それを、彼女が知らないはずもないのだが。

申請書の下部に大枠で設けられた、『特筆事項』の記入欄。そこには、"一週間後の選抜レースにおける結果"が記載されている。

 

シンボリルドルフ……1着、と。

 

 

「キミはなにを………」

 

「来週の選抜レース。私が君に勝てなければ、一番になれなければ……私が提出したそれは虚偽の申請ということになる。投函は済ませたから、今さら訂正や撤回はきかない」

 

「……ただでさえ、入学翌日にあれだけの騒ぎを起こしたキミのことだ。そうなれば、退学すらあり得るんじゃないかな」

 

「その方が君にとっては都合がいいだろう。退学にしろ停学にしろ、契約締結日まで私は君たちの邪魔を出来なくなるわけだから」

 

つまりこれは、レース結果の担保か。

アタシがルドルフに勝利した暁には、約束通り彼女はもう推薦移籍の妨害を行わないと。それを口約束に止まらず、そうせざるを得ない状況にまで追い込んで見せた。

 

「で、だからなに?アタシも同じようにしろってこと?」

 

「そこまで言うつもりはない。ただ、こちらの覚悟について知っておいて欲しかっただけだ。私は絶対に勝たなければならないし……だからこそ、君も手を抜いてくれるなよ」

 

「………言われなくとも」

 

「そうか」

 

言いたいことはそれが全てだったのか、ルドルフは脇机にそのコピーをしまうと、自分のベッドに潜り込む。

もう、そこにちょっかいを出す気にはなれなかった。

 

揺さぶりのつもりだろうか。

違うか。あれはたぶん、アタシではなく彼女自身に向けられたものだ。背水の陣を敷いて、油断の芽を徹底的に摘んだのかな。

 

いや……だとすれば、ホテルでたづなさんとの話をした次の日にでもやれば良かった。

そうはせず、わざわざ今日そのような手を打った理由。その契機について、思い当たる節は一つしかない。

 

皐月賞。

あのレースで私が感じた特大の興奮、研ぎ澄まされた世界。自身を極限まで追い込むことで、彼女もそれに至ろうと考えたのか?そこまでしなければ、アタシには勝てないと。

 

 

「おやすみ、ルドルフ」

 

 

……まぁ、なんでもいいか。

 

彼女がどんな策を講じるにしろ、アタシはそれを叩き潰して勝てばいいだけだ。

 

結果が全て。来週の初め、選抜レースで全てを終わらせることとしよう。

 

 



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決戦

日本全国から個性豊かな猛者が集う、ここトレセン学園では毎日が賑やかだ。

 

少し注意してあたりを見渡せば、大小を問わず様々な事件やイベントが矢継ぎ早に繰り返されている。

体力の有り余った年頃の女子が一堂に会し、そこに自由な校風が加わればさもありなんと言ったところだろう。選りすぐりの一流アスリートたちがしのぎを削る場所であるから、むしろ活気づいていなければ困る。

それ故に、時たま生じるトラブルもご愛敬だろうか。早々に大勢に迷惑をかけてしまった私が、そんなことを言えた義理ではないのは重々承知しているが。

 

そんな学園生活の中においても、とりわけ空気が浮わつく瞬間が三つあるらしい。

秋のファン大感謝祭、卒業式、そして最初の選抜レースが開催される、五月の第一週である。今日はその当日だった。

 

「天候は晴れ、バ場状態も良好。私にとってはベストなターフだ。環境ではこちらにツキが回ってきたかな」

 

「あまりアタシだけを意識するのもどうかと思うけどね。良バ場に喜んでいるのは他の子も同じだから」

 

「ふふ、気炎万丈なのは私だけではないと」

 

「そうそう。下手なG1よりよっぽど気合い入ってるよ」

 

それもそうだろう。

 

トレセン学園に入学することと、実際にレースへ出走することはまた別の話である。

競技ウマ娘として活躍するためには、とにもかくにも担当トレーナーを捕まえないといけないが、実はそれこそが最初にして最大の関門なのだ。

 

担当契約というのは本当に重い。

 

ひとたび交わしてしまえば、バ生で一度きりのチャンスを相手に託すこことなる。トレーナーにとってもまた、トゥインクルにおける三年間、ドリームトロフィーリーグに進めばさらにそこから数年間という、決して短くない時間を私たちに捧げなければならない。

巷では結婚のようだと揶揄されることもあるらしいが……実際、その契りとほぼ変わらない責任を伴うのではないだろうか。

学園を卒業した後、トレーナーと元担当は様々な形で一生の付き合いとなることが多いというのも、その証左ではないかと思う。

 

だからこそ、相手はしっかりと選ばなければならないわけだが。ただ、たとえ相性が悪くても担当トレーナーがつくだけまだマシだというのが現実である。

一番悲惨なのが、選抜レースで結果を残せずいつまでも担当契約を結べないというパターンであり、これによってメイクデビューすら出来ないまま学園を去っていくウマ娘も決して珍しくはない。

トレーナーの数からして絶対的に足りないのだ。いくら成果を上げたトレーナーはチームを組めるといっても、それにだって限界はある。かといって安易に人数を増加させれば、質の低下は目に見えているのが難しい話だ。

 

ようするに、ただでさえ引く手あまたなトレーナーの中から、最も有能かつ自分と相性のいい者を見定めて一本釣りするのが理想であり、選抜レースはそれを成し遂げるための戦場である。

シービーの言うとおり、下手なG1より余程苛烈なものだ。ここでの結果はこれからのレース全てに波及するのだから。

 

「おっ。ビゼンニシキは一着でゴールか」

 

「ああ、流石だな」

 

後続に3バ身ほど差をつけて、ゴール板の少し先でギャラリーに大きく手を振っている。

彼女がアピールしている相手は、やはりやり手のベテラントレーナーたちだった。

本バ曰く、学園で最も勢いのあるリギル入りを狙っているらしいが、あの実力ならそれも叶うだろう。

 

ほとんどのトレーナーが戻ってきたビゼンニシキに群がる中、二番手の白毛のウマ娘に駆け寄っているのは…たしか、トレーナー君の同期だったか。

なんでも修習を首席で終えた才女らしく、以前から彼と親しげにしている危険分子。気に食わないが、今は注意している場合ではない。

 

「知ってる?彼女、これまでのレースは一度を除いて全て負けなしなんだって」

 

「それは奇遇だな。私も、生まれてこのかたレースでは一度しか負けたことがない」

 

「へぇ、わざわざ覚えてるなんてよっぽど悔しかったんだ。ここにいる誰かかな?」

 

「いいや、トレーナー君さ」

 

そう告げると、シービーはぱちぱちと瞬きして小首を傾げた。

そのまましばしの間、私の顔を眺めた後。どうやら冗談ではないと悟ったらしく、ますます傾きを深くする。彼女の認識では、そもそも彼は走ること自体が出来ない筈なので無理もないだろう。

 

「……まぁ、最近はソフトレースってのもあるからね。あれはあれでかなり技巧的だけど」

 

なにやら一人で納得しているシービーは置いておいて、もう一度石段にひしめいているギャラリーの方を眺める。

ほとんどがトレーナーで、その中にちらほらと野次ウマの生徒が混ざっている感じか。ワッペンを腕につけて、カメラと三脚を脇に抱えた学園の広報が集団の隙間を縫うように走り回っている。

 

トレーナー君や姉さんの姿はそこにはない。学生側の混乱を防止するために、選抜レースでスカウトを行う予定のないトレーナーは原則として顔を見せないという暗黙の了解があるそうだ。

まぁ、それでも別に構わなかった。今回の勝負について私はトレーナー君に助力を乞うつもりはない。

シービー自身は好きにすれば良いなどと言っていたが、賭けられているのが自分自身である以上、彼もそれを引き受けてはくれないだろう。中立を宣言している姉さんも同様だ。

 

そもそも、選抜レースとは本来そういうものだろう。

トレーナーを獲得するために己の基礎能力を披露する場で、トレーナーから作戦を授けてもらっては本末転倒だ。レースでの駆け引きにおいて一日の長があるシービー相手なら別としても、なにより他の走者たちに対してフェアじゃない。

 

ふと、シービーが空を仰いで鼻をならす。

 

「さて、本番だよルドルフ。楽しいレースをさせて欲しいな」

 

「ああ……そうか。ようやくだな」

 

ビゼンニシキの組が撤収し、さらにその次の組のレースも決着がついて、気がつけば私たちの番が回ってきていた。

出走者は二十名。係員の誘導に従って、発バ機まで肩を並べて前進する。

 

ぎしぎしと、シューズの裏から伝わってくるターフの感触。これまでになく芝が軽い。

大地の香りが鼻をくすぐり、雲一つない青空からは心地よい日光がさんさんと降り注いでいる。どこまでも理想的な、まさに走るにはもってこいの快晴。

 

私たちがコースに差し掛かった瞬間、グラウンドにいる全員の目がこちらに向けられるのが分かった。

このレースにおける目玉は私たちだ。ビゼンニシキを抑えトップの成績で選抜試験を突破した私と、皐月賞で劇的な勝利を収めたばかりのシービー。トレーナーだけでなく、既に走り終えた同期たちもまたこの一戦に注目している。

好奇心と羨望がない交ぜとなったような視線。誰もがシービーと同じレースで走りたがっていたのだから当然だろう。学園において指折りの実力を誇るシービーと、同じ戦いの舞台に立つこと自体が狭き門である。公式戦でそれを実現するには、G1にまで上り詰めることが前提条件なのだから。

 

そんな彼女たちを一瞥しながら、私はいよいよゲートに入る。

 

「君への伴走申請は通るだろうとは思っていたが、まさか同枠とは。これも生徒会長の神通力かな?」

 

「まさか。アタシはなにもしてないよ。それに伴走バの枠番は大外で固定だからね。キミから寄ってきたんでしょ」

 

私たちが身に付けているのは、学園から指定された体操服。

その上から提げたゼッケンには、シンボリルドルフという名前と十九の数字。二十人立てでこれだから、私にとっては少々厳しい展開となっただろう。

 

まぁ、それで遅れをとるつもりはさらさらないが。

申し訳ないが、今回走る同期の中に私の敵となり得そうなウマ娘は見当たらなかった。ビゼンニシキやスズパレードのような競合は、上手い具合に組がバラけてしまっている。

 

故に、私が頭に叩き込んだのはシービーの動き。序盤から中盤にかけて最後方で足を貯め、最終コーナーで一気に強襲を仕掛けるというシービー戦法。

強豪ひしめく世代において、彼女はその悉くを追い込みで蹴散らしていた。唯一の敗北も、その敗因が明らかだったことを考えれば、恐らく万全の彼女を振り切れるウマ娘は現状において存在しない。

加えてこのレース……彼女の役割は伴走といえども、どう走るかについては一任されている。冷静に走れるウマ娘をペースメーカーとして用意することが趣旨であるから、各々の十八番を披露するのが鉄板だ。ある意味、後輩へのファンサービスという側面もある。

 

となると、私が対シービー戦において警戒すべきはやはり追い込みだ。

彼女がその十八番(追い込み)で打ち倒しにくるというのなら、私も私の十八番(差し)差しでもって確実に仕留めなければ。

 

「考えてるねぇルドルフ。キミは頭がいいから、そうやって知恵を巡らせるのは正しいと思うよ。もっとも―――」

 

揺れる耳の隙間から、彼女の帽子がちらりと覗く。

それは皐月賞の残滓だろうか。飛び散って乾いた泥が、僅かにリボンの端にこびりついていた。

 

こちらに横顔を向けたまま。サファイアの瞳だけは私をしかと捉えて。

シービーは獰猛に、笑う。

 

 

「――― キミに"次"はないけどね」

 

 

「…………」

 

その宣戦布告を前にして。

私はなにも返さず、そっと右耳に提げた飾りに手を触れた。

 

なぁ、トレーナー君。

夢を、見ていたんだ。懐かしい夢を。

 

あの身を焦がす真夏の太陽の下で、ただひたすらに君だけを待っていた。

 

だけど、もういい加減に目覚める時だ。

前に進まなければ叶わないのだ。

擦りきれた夢をここで終わらせて、これからは君とその続きを見よう。

 

 

だから消えてくれ。ミスターシービー。

 

私が現実に帰るために。

 

 

『各ウマ娘の準備が整いました!これより第11レースを発走致します!』

 

 

アナウンスの声と同時に、係員が一斉にゲート前から退避した。

 

耳飾りから手を離し、構えを取る。

 

緩やかに息を吸い込み、肺に新鮮な空気を流し込んだ。

視線はずっと向こう、第一コーナーの入り口を見つめて。不規則だった胸の高まりが、再び落ち着いたものへと戻っていく。

世界から音が無くなり、極限の集中の中では風すら色がついて見えた。

 

がしゃん、と大きな音を立ててゲートが開く。

それを認識するより早く、勝手にターフへと飛び出す身体。これまでになく完璧な滑り出し。

 

 

そうして次に目にしたのは。

そんな私を、あっという間に横から追い抜いていく一つの影。

 

 

「………ッ!?」

 

 

大外から一気に集団の先頭に躍り出る、ミスターシービーの背中だった。

 



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覚醒

「なっ……!?」

 

私の左側をあっという間に駆け抜けていった背中。横一列の均衡が崩れ始める最中、他の逃げウマ娘に位置争いすら許さず華麗に先頭へとつける。

 

白の上着に緑のハーフパンツ。

その配色は、偶然にも彼女の勝負服と全く同じで。目の前でそれを見せつけられた私たちは皆、自分がいま誰と走っているのかを否応なしに分からされる。

 

分かってしまったからこそ、尚更戸惑ってしまう。

 

最前方を往くミスターシービーに刮目しているのは私たちだけではない。

柵の向こう側、集ったギャラリーも皆一様に息を呑んでいた。冷やかしで観戦している生徒、構図を工夫して縦横無尽に走り回る広報、スターを見つけようと観客席の欄干にかじりつく記者、そして本来今期デビューの新入生を見定めに来ている筈のトレーナーに至るまで。

悠々と集団を率いていくシービーから目を離せずにいる。天候にバ場状態、出走者の顔触れから彼女の顔色、フォームや走法等々あらゆる条件を入力して計算しても、一向に合理的な結論を弾き出すことが出来ないでいる。

 

……いや、そもそも合理性を突き詰めること自体が間違いなのかもしれない。

もし同じ立場だったら、間違いなく勝つために追い込みの戦法で挑んだだろう。たぶん、ここにいるシービー以外の全員がそう考えていたに違いない。

だからこそ、ここでそれを外しにいった可能性は?演出家を自負する彼女だからこそ、表向きは競う立場にないこのレースでは、あえて常識を外してきたという可能性だって―――

 

 

―――真っ先に抜け出したのはミスターシービー!!見せつけるが如く悠々と先頭を走る!続くのは3番バイパーピアースに12番コルスカンティ……

 

 

思考に囚われること数瞬。

既にバ群の展開が終わりかけていた。

 

 

「くそっ……!!」

 

バ鹿が!!なにをやっているんだ私は!

 

勝負の場において、想定外の事態が生じるのは当然のこと。

誰だって策の一つは巡らすものだ。重要なのは、いかに素早く対処するかということなのに。

完璧な筈だった滑り出しは、いつの間にか目も当てられない遅れに転じていた。

 

 

"キミは頭がいいから、そうやって知恵を巡らせるのは正しいと思うよ"

 

 

シービーの言葉の意図はここにあったのか?

 

いや、だとしてもその為だけに慣れない逃げをうつのは割に合わない。

私の不意を突くことは出来るだろうし、事実こうして出鼻を挫かれてしまったわけだが。それでも、戦法そのものを切り替えるほどの益はない。

 

ミスターシービー……なにを考えている?

 

それぞれの位置取りが完成する直前、私もどうにか十六、七番手あたりに滑り込む。

幸い私の得意とする戦法は差しであり、最初は集団の後方で足を溜めつつ、終盤に一気に前へと上がる動きとなる。

これが逃げや先行主体のウマ娘だったら取り返しがつかなかったが、なんとか最適なポジションに食らいつくことが出来た。

 

本来なら私の前後にシービーが位置取る筈であり、最終コーナーへと突入する前にとことんスタミナを削っておく作戦だったのだが。

しかしもう、彼女はここから全く手の届かない場所まで抜けてしまった。

これで序盤から中盤にかけての駆け引きを、ほとんど封じられた運びとなる。

 

思わず逸りかけた足を押し殺し、呼吸をゆっくりと整えた。

 

問題ない。シービーが追い込みだろうと逃げだろうと、私がやるべきことは同じだ。

勝負は第四コーナー。それまでに、まずは邪魔な前の集団を可能な限り瓦解させる。

 

 

最初のコーナーを曲がる。

向正面の直線へと突入し、それぞれが己のペースを掴んでくる頃合い。

 

選抜レースでは、ウマ娘がそれぞれの特性に従ってコースを振り分けられていた。まずは芝かダートか、それから短距離、マイル、中距離、長距離の四つである。

私たちがいま走っているこれは芝2000メートルの中距離だ。私が最も得意とする距離だが、同時にシービーにとってもまた十分に適正がある。

注視すべきは、彼女は弥生賞に皐月賞にと直近の二回とも芝の2000メートルで勝ち星を挙げていることだろうか。

 

「はっ……はっ……!!」

 

短い呼吸を刻みながら、ほんの少しだけ上体を前に傾ける。

それと同時に腕の振りを大きくし、風を切る音が緩急を伴いつつ高くなっていった。歩幅も徐々に広くすることで、前を走るウマ娘がようやく聞き慣れたところであろう足音を狂わせていく。

 

気持ち外側を走る私の手前には、芦毛と栗毛のウマ娘が二人。

戦法は追い込みなのだろう、均一のペースを保ちながらも、絶えず両耳を動かして周囲の状況の把握に努めていた。試しに一往復だけ腕の振り幅を変えてみたところ、四つの耳が一斉にこちらへと向けられる。

 

なるほど、よく周りが見えているな。

 

差しや追い込みのウマ娘は、終盤にバ群からスムーズに抜け出すため、そして他のウマ娘をブロックするため常に情報収集を徹底しなくてはならない。さらに並行して未来の動きの予測も不可欠となるが、彼女たちはしっかりとそれらが出来ていた。

私が地元にいた頃は、その基本すら欠けているウマ娘も少なくなかったのだが。流石は天下の中央と言ったところだろう。

 

 

もっとも、私と勝負するにあたってはそれがかえって仇となるのだが。

 

 

私があえて強く主張させていた気配……風を切り芝を叩く衝撃、八方を睨む視線、衣擦れの音、独特の呼吸が複合的に混ざり合ったそれは、実物以上のプレッシャーとなって前方の集団へと叩きつけられる。

背後からの圧力に精神を削られ、無意識のままに崩れていくフォーム。それに気づいてしまったが最後、困惑と焦燥によって己のペースを見失うこととなる。

 

第二コーナーを抜けた頃には……既に、目の前の芦毛と栗毛の走りは追い込みの理想から外れていた。

自分でも分からないままに、中盤の段階から先へ先へと私に追い立てられるように上がっていって、さらに先でも玉突きを起こしている。

中団から前団へと、バ群は徐々に崩壊を始めていた。一人二人のペースの乱れならいざ知らず、十をゆうに越える走者が一斉にペースを乱したことで、その歪みは津波のように全体へと波及する。多少なりとも、逃げウマ娘への牽制となるだろう。

 

これが私の、シンボリルドルフのレース。

 

自分にとって理想となる走り、それが周囲にどう受け止められるかを完璧に理解した上で、あえてそれを外しにかかる。自らのパフォーマンスを失する瀬戸際から放たれたプレッシャーは、水に垂らしたインクのように集団へと染み渡っていく。

誰に習ったわけでもなくそれを熟せた。相手の全力を押さえ込み、そこに己の全力を叩きつける。誰にも競り合うことすら許さない。

 

 

第三コーナーも中程に差し掛かった……此処等が仕掛け所だろう。強襲のお膳立ては済んでいる。

入学試験での模擬レースとほぼ同じ展開。追い込みは足を溜め切れず、差しと先行はスタミナを使い果たし、逃げ疲れたウマ娘がこちらへと落ちてきた。

 

息継ぎを短く浅いものから、深く長いものへと瞬時に切り替える。

前後に大きく振っていた腕の動きを小さくする。ピッチからストライドへと、芝を蹴る足の弾みも抑えつつ、歩幅とタイミングを手前のウマ娘のそれにぴったりと合わせていく。

強烈に背中を叩いていた私の気配が、唐突に消えたように感じたのだろう。混乱の隙をついて、するりと脇を抜けていった。同じように、次々と前を走るウマ娘をかわしていく。

ブロックも牽制も、なんとかペースを立て直そうと足掻く彼女たちには最早出来まい。団子となった集団には、逆にもう一度強烈にこちらをアピールして自分たちから道を開けさせた。

 

―――さぁ、ここで上がってきたぞ!!19番シンボリルドルフ!名高きシンボリの超新星が逃げも先行もまとめて差し切っていく!!まさに独壇場!!

 

喧しくがなり立てる実況アナウンス。それに負けじと大騒ぎするギャラリーの一同。

爆発するような歓声に背中を押されながら、私は第四コーナーに突入する。強烈な遠心力。抗いつつ、上体を右に傾ける。

 

 

ひゅうっと、掠れた息を吸い込んだ。

 

胸いっぱいに満ちる冷たい空気。熱せられた肺の中で、それはすぐに蒸気へと変わる。

 

ばちばちと視界に火花が飛び散り、覆い被さる青空が妙に広々と歪んで見えるようで。

ざわざわと、背筋を駆け上がっていく絶頂。

 

 

極限の集中の果てに、世界の時間が止まる。

 

 

背中に流れていくウマ娘たちの食いしばった歯。

こちらを睨む瞳。

両耳と尻尾の毛が逆立っている。

蹴り出され舞い踊る土と砂。

その隙間に飛び散る汗が、日の光を反射してきらきらと光る。

 

ひしめき合う群衆。

目映いフラッシュ。

レンズに張り付いた落葉。

記者の手元で滑る筆先。

その中身について、ちょっと目を凝らせば読み取れるかのようで。

 

誰かが大きく口を開けた。

 

だけど届かない。なにも聞こえない。

それはまるで、世界に私一人しかいなくなったかのような。

 

 

「5」

 

3番、クレセントエース。

前髪を上げた、艶やかな栗毛の逃げウマ娘。一瞥もくれずに、その横を通る。

 

「4」

 

17番、ディスパッチャー。

背中まで伸ばした、燃えるような鹿毛が目立つ先行ウマ娘。外から追い抜かす。

 

「3」

 

6番、パンパシフィック。

褐色肌が目に眩しい、芦毛の先行ウマ娘。こちらへとよれてきたが、構わず脇を抜ける。

 

「2」

 

12番、コルスカンティ。

怜悧な目をした、暗い色の鹿毛が揺らめく逃げウマ娘。最序盤から食らいついたか。そっと隣をかわす。

 

「1」

 

10番、リトルトラットリア。

ふんわりとした短髪が印象的な、芦毛の先行ウマ娘。よく私の威圧を耐え抜いたな。横目に見ながら、一歩前へ出る。

 

 

 

 

 

「0」

 

 

 

 

20番、ミスターシービー。

 

緑と白を身に纏い、豊かな鹿毛をたなびかせながら悠然と前を走る。太陽に照らされて、ちらりとその白い帽子がひらめいた。

 

 

どれも、あの日みた姿と同じ。

ああ、そうか。下手なG1より気合いが入るのだったな。このレースは。

 

最終コーナーも終盤に差し掛かっている。あと数秒で、最後の直線へとかかるだろう。

 

彼女との距離はおよそ三バ身。半バ身だけ詰めた直後、逆に同じだけの間隔を引き剥がされた。

ほんの一瞬、私よりも更に加速したということ。驚くべきことに、ここに至って尚も足を残しているらしい。

ちらりと、肩越しにこちらを見やる視線。焦燥の欠片もなく、余裕をもって自身のベストパフォーマンスを維持している。明らかに、私の揺さぶりが通用していない。

 

 

逃げウマ娘の真髄は、桁外れのスタミナと強靭な精神力にある。

 

レースの序盤から集団の先頭に位置をとり、そのままペースを落とさずゴール板を駆け抜けなければならない。差しや追い込みのように、足を溜め体力を温存するという戦い方が望めない。

スタミナに恵まれていることが前提条件。そうでなくてはまず戦えないのだ。

 

かといって、ただスタミナにモノを言わせて前を走り続けるだけの気楽な戦法でもない。

なにせレースの最初から最後まで、一貫して後続からのプレッシャーに晒され続けるのだ。しかも後ろの状況について、正しく把握することも困難となる。

盤面の全貌について殆ど情報が与えられない中で、心を乱さず徹底して自身の走りを貫く意思の強さが不可欠であり、それを損なった時点で逃げウマ娘はバ群へと沈む。菊花賞での逃げ戦法がタブーとされるのも、3000という長距離において集中力が続かないからだ。

 

逆にそこを揺さぶるのが差し戦法の妙であり、それに長けているからこそ私は自身を生粋の差しウマ娘だと自負していた。

 

 

……だというのに、彼女はどうだ。

 

トレーナー君の言うとおり、シービーは追い込みを軸に据えたウマ娘である。

いくら得意な中距離だとは言え、それでも2000メートルは長い。そこをいきなり先頭に立って、私の威圧すらものともせずに自身のペースを維持するのは無茶を通り越して無謀。だが、彼女は現にそれをやってのけた。

 

見事、と言うほかないだろう。

相手にとって不足なんてある筈がない。

 

ミスターシービーは最強の敵である。

これまでの私のバ生において。もしかしたら、競技ウマ娘としてのキャリア全てを通してかもしれない。現状、私が生まれて初めて相対する格上の敵。

 

 

でも……だとしても!!

 

 

私は、絶対にお前に負けるわけにはいかないんだ!!

 

 

「■■■!!■■■■■■■■!!!!」

 

「■■■!!■■■■■■■■!!!!」

 

 

 

 

なにも聞こえず、停滞した世界の中で。

 

 

 

 

飛び散る火花が、まるで稲妻のように青く太くなり。

 

澄んだ視界を、罅が割れるように一閃した。

 

 

 

 

 

 

―――――― 汝、皇帝の神威を見よ。

 

 

 

 

 

 

 



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夢の終わり

最初は、パッとしないヒトだなと思った。

 

目の色とか髪の色が、普通の人間とは少し違って。だけど別に、それは大して珍しい話じゃない。

でも語るべき点はそこしかないぐらいで、あとは他の職員と同じような格好、同じような受け答えをする金太郎飴みたいなサブトレーナーだった。

 

思えば当時は研修期間だったのだから、目立つ言動など控えているのが当たり前なんだけどね。

ただ、勝利に飢えているというか、どうにも存在感の強いシンボリフレンドの隣にいることもあってか、妙に影が薄かった。

名前を出されたら、とりあえず顔は思い浮かぶけど、声については少々記憶が追いつかないというか……うん、そんな感じかな。

トレーナーという仕事の中身からすれば、それが正しい在り方なのかもしれない。少なくとも、彼自身はそう考えているらしかった。

 

だからかな。

トレーナーには申し訳ないけど、アタシは彼との最初の出会いというものがあまり印象に残っていない。

 

日付は覚えている。ちょうど一年前のことだ。

あの日はぼんやりと薄く雲がかかっていて、日が射しているにも関わらず雨が降っていた。天気雨とか、狐の嫁入りとか言われる天候。大きく虹が架かっていたっけ。

 

物心ついて以来、アタシにとって大事な節目にはいつも雨が降っていたんだ。

視界を塞ぐ雨粒と、普段よりも少しだけ重くなった芝で皆が思うように全力を発揮できない中、アタシは一番にゴール板を駆け抜ける。

 

入学試験も一番で突破したアタシのことだから、すぐに大勢のトレーナーに囲まれた。

その中から、シンボリフレンドを選んだ理由も大したものではない。

ただ単に、他よりちょっと目立っていて、担当になれば面白そうだと思ったからだ。それなりの腕利きだということもある。

 

……うん、だからゴメンね?トレーナー。

正直に言うと、キミのことは最初は彼女のおまけだったんだ。少し酷い言い方をするなら、そもそも眼中に無かった。

 

それなのに、いざチームに入ってみれば、アタシを担当していたのは殆どキミだったね。

勿論、シンボリフレンドもちゃんと監督していたし、必要があれば助力していたけど。

全体的に見れば、今のミスターシービーを育てたのはキミだと言っていい。キミのことだから、否定するかそもそも自覚すらしていないだろうけど。

 

いくら推薦移籍が前提にあったとはいえ、本来サブトレーナーに本格的な育成を委ねるのは与太では済まされない。そのラインをあえて踏み越えたのは、既にキミにそれだけの力量があったからだ。

そうでなければ、アタシだってずっと昔にチームを見限っていた。アタシたちがレースに向ける情熱は、そこまで軽いものじゃない。

 

でも、そうはならなかった。

最初は目立たないと考えていたトレーナーは、一皮剥いてみれば紛うことなき天才だった。その上、相性も良いとくれば、アタシが彼に懐くのもそう時間はかからなかった。

といっても、別に特別ななにかがあったわけじゃないけどね。本当にごくありふれた、最初の一年だった。

 

毎朝、ターフに行けばトレーナーがいて。

トレーニングはずっと付きっきり。終わった後もしつこく絡んで、自販機でなにか奢ってもらったりもした。

たまにはプールで泳いだり、神社の階段でうさぎ飛びしたり、レースビデオを観たり教本を読んだり。時には息抜きでカラオケやダーツにもくり出したっけか。

夏になれば合宿で初めて海で遊んだり、秋になれば駿大祭にファン大感謝祭。昔、両親にねだって遠路はるばる訪れたそれに、今度は主催者として参加した。

冬は生徒会のクリスマスパーティーにトレーナーを連れ込んで、年が明ければいよいよ重賞への挑戦。乏しい情報、慣れない環境の中で、お互い切磋琢磨しながら上を目指す。

 

どれもこれも、アタシが幼い頃からお母さんに聞かされて、ずっと憧れ続けてきた学園生活そのもので。

代わり映えはなく、されどたしかな幸せに満たされた、微睡みの最中に見る夢のような。そんな毎日が、これからもずっと続いていくものだとアタシは信じて疑わなかった。

 

 

だけど、それは慢心だったのかな。

 

与えられたものに胡座をかいて、それが当然の権利であると傲っていた。

 

ここは勝負の世界。なら、欲しいものは全て自分の力で勝ちとらないとね。

この選抜レースで、アタシは遺憾なき勝利を目指す。

 

 

―――ぐんぐん前を行くミスターシービー!!後続は荒れている!!まさかの大逃げに掛かってしまったか!!

 

 

仮設テントのスピーカーから放たれる実況。先頭を走るアタシにとって、重要なレース展開にまつわる情報に耳を傾ける。

公式のレースとは異なり、リアルタイムで走者にも届くからこそ使える戦法だ。これもなしに、完全に自らの感覚のみで後続を窺う逃げウマ娘は大したものだと内心舌を巻く。

 

 

アタシが今回、このような大逃げを打った理由は二つ。

 

 

一つ目は、皐月賞におけるトレーナーの作戦の正当性を証明するため。

 

外部の記者も大勢集うこの機会を使って、アタシが逃げや先行でも安定して戦えるウマ娘であることを世間に見せつけてやる。本来、不良バ場の東京レース場ではこのように戦うべきだったのだと分からせてやるつもりでいた。

アタシとトレーナーの実力不均衡が槍玉に上げられている以上、この選抜レースで花を持たせるべきは自分ではなく彼の方である。

 

 

そして二つ目は……最終コーナーまで、ルドルフの駆け引きを封じ込めるため。

 

 

アタシは生徒会長だ。一般には公開されていない、入学試験における模擬レースの映像についても閲覧する権限があり、彼女の走りを予習出来た。

そして脅威と見なした。

序盤から中盤におけるルドルフの戦術。後方からプレッシャーを放ち、全員のパフォーマンスを狂わせて、終いにはバ群そのものを崩壊させるデバフについて。

 

いつもの追い込みで位置を取れば、アタシは間違いなくそれに捕まる。きっと彼女もそのつもりでいたことだろう。

デビュー前のウマ娘の妨害が、完璧にアタシに通用するとは思えない。しかしテープを見る限り、たとえ半分の効果しかなかったとしても、こちらの足を削るには十分だろう。

それを防ぐには、ルドルフから最も遠く離れたポジション……すなわち先頭に位置取るしかない。万が一にも彼女が前に上がってこれないよう、ゲート出の瞬間にわざとスパートをかけてポジション争いの出鼻も挫いた。

完全にルドルフに向けたメタ張りだ。でもそれでいい。アタシは競り合うためではなく、このレースに勝ちに来たのだから。

 

 

そして今。アタシはその判断が正しかったことを実感している。

 

 

「む、無理ぃ………!!」

 

そんな哀絶の叫びを残して、アタシの半歩後ろについていた栗毛の差しウマ娘(・・・・・)がみるみる後ろに流れていった。

 

そりゃそうだろう。

まだ第三コーナーを曲がりきってしばらくといったところなのに、十秒近くスパートをかけていたのだから。彼女だけじゃない。

先程からひっきりなしに、差しや追い込みの子たちが前に上がっては沈んでいく。それに引き摺られたか、先行や逃げの集団も完全に自分を見失っていた。

 

 

「あははっ………」

 

 

もう笑うしかないよ。

 

戦法もなにもあったものじゃない。

アタシたちは羊の群れだ。一頭の放牧犬に追い立てられて、前へ前へと進むより道はない。いや、追い立てているのは犬ではなく獅子だったか。ならこれは放牧でもないただの狩りだね。

正直、他の子たちには御愁傷様という言葉しか見つからない。アタシたちの勝負に巻き込んでおいてなんだけど、この第11レースはまさしく魔境だった。

 

 

実況はああ言っているが、別にアタシの大逃げが掛からせたわけではない。

 

 

そもそも、ルドルフ以外の走者にとってアタシは競う相手ではないのだから。そりゃあ先着出来れば嬉しいだろうが、そのためにわざわざ無理をする理由なんてどこにもない。

アイツだ。シンボリルドルフ。ただの映像記録ですら脅威を抱いたそれに、実際のレースで直面するとこうなるのか。

重賞での走りを経て、ある程度平常心を保つ術を身に付けているアタシですら正直キツイ。対策として追い込みから脱却してみたはいいものの、逃げは逃げで独自のプレッシャーがある。後ろを見たくて見たくて堪らないが、それでは思う壺だと言い聞かせることでなんとかペースを維持していた。

 

 

それでも先頭は一度も譲らないまま、いよいよ第四コーナーへと至る。

焦りや動揺を見せるわけにはいかない。せめて表面上だけでも平静を演じなくては。

 

―――さぁ、ここで上がってきたぞ!!19番シンボリルドルフ!名高きシンボリの超新星が逃げも先行もまとめて差し切っていく!!まさに独壇場!!

 

 

「……来たね」

 

猛威が、ついにこちらへと上がってきた。

どす黒く燃え盛るプレッシャーに汗を滲ませながら、両耳を後ろに向けてその気配を探る。

 

アタシと彼女の間に挟まるウマ娘は五人。

決して少なくはない人数。しかし走りのが精一杯の今となっては、最早壁となるのも期待出来ないだろう。

もしここにエースがいたら……なんて。そんなどうしようもないたらればを言うのはつまらないか。

 

「5」

 

「4」

 

「3」

 

「2」

 

「1」

 

「0」

 

ほら、大外からみるみる差し切って。

獅子はついに、アタシの背中へと肉薄した。

 

ああ、心臓が跳ね上がる。まるで目隠しをして線路に立たされているかのような、尋常ではないプレッシャー。

あまりにも後ろが気になって、肩越しにちらりとそれを見やった。

 

 

はは、本当に酷い姿だね。

せっかくの美人が台無しだよ、ルドルフ。

 

風で乱れた髪に、飛び散った泥を顔に貼りつけて。目を見開いて歯を食い縛った凶相は、正しく獣のそれだった。

 

そうだよね。体面なんか気にしていられる程、生易しい勝負をキミはしていない。

知ってるよ。あんな申請書なんて関係なく、この勝負に敗れたらキミはここを出ていくつもりだったんでしょ。

 

 

かつて、キミとトレーナーの間になにがあったのかをアタシは知らない。

 

 

ここまで大立ち回りを繰り広げたことだ。

さぞかし鮮烈で枢機な思い出だったんだろう。それと比べたら、アタシの一年間なんて至極ありきたりで朧気なものなのかもしれない。

 

だけど。

 

そうだとしても、アタシにはそれがなによりも価値のある宝物だったんだ。

 

 

たとえそれが、泡沫に消える夢だったとしても。

 

 

「勝負だ!!ミスターシービー!!」

「来なよ!!シンボリルドルフ!!」

 

 

ぱりん、と。

空間が罅割れて崩壊する。

 

それは、アタシとルドルフの間にあった半バ身。

 

 

―――おおっと、ここで抜け出したぞシンボリルドルフ!!驚異の末脚で最後の直線へと突入する!!

 

 

「………くっ!!」

 

抜かされた。

 

アタシがこれまで稼いだ距離は全てなくなり、今ここに先頭は入れ替わる。

最後の直線は短い。ここで差しに逆転されることは、すなわち逃げウマ娘の敗北を意味する。

 

「逃がさない!!」

 

開放された爆発的な末脚。

それによって生み出された一バ身の差をどうにか詰めようと足掻く。

 

前を走る背中は、まるで稲妻を放ち輝いているかのようで。競技ウマ娘として別次元の存在へと成ったかのような変貌。

 

アタシはこれを知っている。

一時代を築き上げる器のウマ娘が、血の滲むような修練と極限の集中の果てに至る領域。

皐月賞で、アタシは確かにその取っ掛かりを掴んでいた。彼女もまた、それを見てなにかを感じ取ったのだろうか。

 

 

でも、まだまだ未完成だよルドルフ。

 

 

キミが才能に溢れるウマ娘であることは認めよう。

神に愛されたかのような、その天稟によっていずれはキミの時代を築き上げる日が来るかもしれない。

 

だけど、それは今日じゃないんだ。

 

 

「はぁぁぁぁぁあああ!!!!」

 

 

直線の軌道に乗り、ゴール板を真正面に捉えた瞬間。

息を入れ替え、雄叫びをトリガーに全身の感覚を強制的に叩き起こす。

 

血液が沸騰するように熱くなる。

音が飛び、時間が止まり、毛先の一本に至るまで神経の通るかのような集中力。それで以て、ただひたすらに目の前のウマ娘を追う。

 

開いた差は僅か。

手を伸ばせば届くようで、しかし一向に埋まることのない永遠の一バ身。

 

必要なのは最後の一押しだ。

皐月賞で指をかけたあの感覚をもう一度呼び起こし、今度はさらにその先へと――――

 

 

 

びしり、と罅が走った。

 

 

右足の先端、爪先に痛み。

 

 

「………くっ……そ」

 

 

ああ、そうだ。爪はアタシの弱点。

無茶をすれば、全てそこに返ってくる。

 

皐月賞を終えてまだ二週間足らず。

初のG1を終えた直後に、それ以上の全力を捻り出すのは厳禁。それでも、まだデビューすら果たしていない新入生相手なら十分だと思っていたのだが。

でも、まだ動く。痛みにさえ目を瞑れば、この直線でもルドルフは十ニ分に射程圏内だ。このまま領域を出しきれば勝てるだろう。依然として、実力はこちらが先を行っていた。

 

 

そうしてアタシが勝って、トレーナーを自分のものとして……その後はどうなる?

 

 

今月の終わりにはクラシック二戦目、日本ダービーが控えていた。

ここで爪を壊してしまえば、それまでに完治させるのは無理だろう。世代の頂点を争う戦いだ。治療の最中に勝ちを奪うなど不可能であり、十九年振りの、クラシック三冠の道は潰えることとなる。

 

その責任を取らされるのは、他ならぬトレーナーだというのに。

 

そうか。

結局……アタシは振りきれないんだ。

 

それでも勝たなければならなかった。その実、ハンデがあるのはアタシの方だったんだね。

でも、それに気づいたところでもう。

 

 

――― 強い強い!!シンボリルドルフがさらにその差を広げていく!!

 

 

衰える末脚。

 

一バ身の差が、徐々に開いていく。

 

手を伸ばせば届きそうだったそれは、しかしあまりにも遠くかけ離れていて。

 

アタシの指の間から、零れ落ちてしまった。

 

 

 

――― シンボリルドルフ!!一着でゴールイン!!二着にはミスターシービー、三着には………

 

 

 

無茶な加速の代償か。

小刻みに両足を震わせながらも、決して膝をつくことはなく唇を噛んでターフを後にするルドルフ。

早速大勢のトレーナーに囲まれたその背中に、ただおめでとうと一言だけ呟いた。

 

 

 

冷たいなにかが頬を流れる。

 

 

なんとはなしに下を向くと、ぱた、ぱたと芝を叩く水滴。

 

 

……ああ。雨か。アタシのバ生の節目にはいつだってこれがあった。

空はあんなにも晴れているというのに。これも狐の嫁入りというやつだろう。

 

 

 

 

口元をつたうそれを、ぺろりと舌で舐めとってみる。

 

アタシの大好きな雨模様も、今だけは堪らなくしょっぱかった。

 

 



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時には昔の話を

五月も中盤に差し掛かった頃。

 

アタシは学園の片隅に並ぶ、コンクリート造りの施設の一角に足を運んでいた。

 

「邪魔するよー」

 

ここはチームの部室である。

所々塗装の剥げている扉に、風雨に晒され続けて錆の浮いたノブ。それを掴んで引いてみれば、蝶番から軋むような金属音が響き渡る。

この学園にもそれなりに歴史があるんだなぁ、なんて毎回そんなことを思う。女房と畳じゃないけど、なにかと新しいものを好むから分かりづらいんだよね。

 

扉を後ろ手に閉めながら、黄昏時の薄暗い部室を一望する。

いかにも仕事場といったカンジの、必要最小限のものしか置かれていない殺風景なワンルーム。装飾と言えば一鉢の観葉植物ぐらいだろうか。

真ん中にセットで置かれたソファには、向かい合って座る三つの影。二対一の構図になっていて、劣勢なのはこの部屋の主の方かな。

 

「お疲れミズ・トレーナー。と言っても今日はオフの日だけど」

 

「貴女はともかく私はオフでも仕事なんです。分かったらしばらく大人しくしていなさい」

 

「ほーい」

 

気のない返事をしながら、アタシはシンボリフレンドの隣に腰を下ろした。

気だるそうに大きく溜め息をつかれたが、別に知ったこっちゃない。生憎、そこで素直に引き下がれる程聞き分けのいいウマ娘じゃないんだ。アタシは。

 

深々と背もたれにふんぞり返り、足を組みながら対面に腰かける二人を見やる。

 

堂々と胸を張っているルドルフと、反対にいかにも肩身の狭そうに縮こまっているトレーナー。正確にはもうアタシのトレーナーじゃないけども、中央のトレーナーであることに変わりはないので便宜上こう呼ぶことにする。

なんともまぁ穏やかじゃないというか、まなじりを吊り上げているルドルフとほとほと気疲れした様子の二人。なんと言うか、これじゃまるで……

 

「三者面談みたいだね。トレーナーが生徒で、ルドルフはうるさい親御さん」

 

「あまり茶化すんじゃないシービー。今は大事な話をしているんだから」

 

「はいはい」

 

ルドルフのお小言も横に受け流しつつ、目の前に置かれていた紙を取り上げて読んでみる。

これも担当契約申請願のコピーか。ただしこっちはトレーナーの側から提出するものだけど。右下には彼の印鑑が捺されていて、記載された日付を見る限り今朝方に事務局へと届出されたものらしい。

 

担当ウマ娘の欄には、アタシではなくルドルフの名前が記入されていた。

つまりその事後報告で訪れたんだね、この二人は。ああ、だからこんなお葬式みたいな空気なんだ。これで本当に、トレーナーは推薦移籍を蹴ったということになるから。

まさしく前代未聞。レース関係のマスメディアは話題に困らないというか、今年度はまさしくネタのかきいれ時というところかな。

 

「なにこれ。お説教?」

 

「ただの業務報告ですよ。貴女が面白がるようなことはなにもありません」

 

「もう、そんなつれない態度取らないでよ。アタシたち、これから長い付き合いになるんだからさ」

 

「はぁ………」

 

目元を押さえながら、またしても深々と溜め息を吐いている。

そんな様子じゃあっという間に幸福も逃げてしまうと思うけど、彼女についてはいらない心配かもしれない。元々幸薄いし、逃がすような幸せの容量も無さそうだから。

 

「それにアタシだって無関係ってわけじゃないでしょ?お互い振られちゃった女同士仲良くしましょう」

 

「……………」

 

無言で顔を伏せるシンボリフレンドの代わりに、いかにもバツが悪そうな様子のトレーナー。ルドルフも憮然としながらもなにも口を挟まないでいる。

 

そんな光景を見て、少しだけ溜飲を下げたアタシは、小脇に挟んでいた資料の束を音をたてて置いた。

昼間に学園の図書館と資料庫から回収してきたものだ。再来週のダービーに向けて中身を練るから手伝えって、そう昨晩言われたから忙しい合間を縫ってここまで来たのに。

 

「……ええ、そうですね。今はそっちが優先です。ただ、最後に一言二言伝えておきたいこともあるので。ここではなんですから、外に出なさい」

 

「はい、先生」

 

のっそりと、寝起きのウシみたいな緩慢さでシンボリフレンドは立ち上がり、とぼとぼと部室を出ていってしまった。柳の枝のように、力なく垂れ下がっている尻尾からはどことなく哀愁が漂っている。

声をかけられたトレーナーもまた、しょぼしょぼとした動きで背中を追った。そのまま師に続いて退室し、古めかしい金属音と共に扉が閉められる。

 

最初から最後まで、師弟というより親分と子分のような二人だったけど、こうして見ると中々に相性が良かったようにも思える。

よく考えれば、あの二人の出会いについてもアタシは聞いたことがなかったな。ルドルフと同様、昔からの付き合いらしいけど。

 

「にしても、案外落ち着いてるものだね。あの人のことだから、トレーナーに一発かましても不思議じゃないと思っていたけど」

 

なにせ、愛弟子から盛大に顔に泥を塗りたくられたも同然なのだから。いい笑い者になっている……というわけではないにしても、泣き寝入りで事を済ませるようなウマ娘ではない。

 

もっとも、それはアタシとしても同じことなのだけれども。

なにせ因縁ある新入生相手に直接対決で負けて、それをマスコミにスッ羽抜かれた直後に推薦移籍の破棄ときたものだから、もう大恥もいいところである。何件か慰めの言葉は頂いているものの、その優しさがかえって残酷だった。

しかし仕方ない。勝負とは得てしてこういうものなのだから。納得してそれに挑んだ以上、全てを受け入れるとアタシは心に決めていた。

 

「姉さん自身にも色々と思うところがあるみたいだ。理事長からもなにやら言われていたらしい」

 

「へぇ。学園のトップが直々にね」

 

それもそれで可哀想な話だね。

 

要件だけを見る形式上の審査とはいえ、理事会もまたあの移籍に判を捺している。その長である理事長が今さらどうこう言う資格も本来ないのだが……おおかた、ここまで外部も巻き込んだ大騒動になった以上、最高責任者として知らん顔してはいられなかったのだろう。

シンボリフレンドにとっては散々な話だけれども。ただ、事の発端は彼女の破天荒にあるのだから、これも仕方ないかな。

 

「ただ、この先大変になるのはキミたちの方だと思うけどね」

 

「分かっているさ。それも覚悟の上だ」

 

覚悟か。まぁ、ルドルフにとっては今さらの話だろう。

 

それ以上に厄介なのがトレーナーだ。

世間であれこれ言われていたアタシとの推薦移籍を破棄した。そこまではいい。

けど、その代わりに契約を交わしたのがルドルフとなると、必然的に人々はこう思うだろう。「選抜レースでシービーがルドルフに負けたから、彼女に乗り換えたのだ」と。

 

実際にはそんな単純な話ではないけども。

事実、ルドルフはいの一番に声をかけてきたトレーナーの精鋭陣の誘いもきっぱりと断っているのだから。それが新人と早々にくっついたとなれば、なにやら込み入った事情があるのは自明なんだけどね。

 

もっとも、騒げればいいだけの人たちがそんなとこまで深く考える筈もなく。

今となっては、彼の不義理だけが槍玉に上げられている始末だった。

逆にアタシは同情票のつもりか、人気が数割増になってる状態だけど……どちらも一過性のものだろう。所謂、時間が解決してくれるというヤツかな。

 

「ホント、ルドルフも度しがたい女だね」

 

敏いキミのことだ。こうなることも当然理解していただろうに。

躊躇も遠慮もあったものじゃない。自身の覚悟をそのままトレーナーにも要求している。

彼女が彼に寄せている想いは、激情を飛び越えて既に呪いの域だ。トレーナーはたぶんこの先、ずっとルドルフに逆らえないんだろうなぁ……御愁傷様。

 

ルドルフはなにを今更と肩を竦めると、ふと思いついたように口を開いた。

 

「そう言えばシービー。君に一つ頼みたいことがあるのだが」

 

「キミにさんざん尻尾の毛までむしり取られたこの状況で?少しは容赦とかないの?」

 

「まぁ、そう言わないでくれ。恐らくだが、君にとっても益となることだ」

 

「ふぅん」

 

言ってみろとあごをしゃくってやる。

 

ルドルフは威厳たっぷりに胸に手をやると、高らかにそのお願いを口にした。

 

「君の生徒会に入れて欲しい。この先、私の理想を成し遂げるにあたって、権勢も必要不可欠だとこの度の件で実感したんだ」

 

「理想って……あの、全てのウマ娘を幸せにするとかなんとかってヤツかな」

 

「あぁ。そのためには、なにを置いても力を蓄えなければな。動くのは早ければ早いほど好ましい」

 

「ふーん」

 

まぁ、別にいいだろう。

 

入学翌日に加入させたビゼンニシキという例もあるわけだし。

そもそもうちは万年人手不足だから、人手は多ければ多いほどいい。それが頭の回る人材なら尚更。

野心が旺盛なのも有り難いことだ。彼女がレースにおいて一つでも結果を残した暁には、生徒会長とかいう面倒極まりない役職も押し付けてやろう。推薦移籍がおじゃんになった今、アタシはその肩書きになんの用もないわけだし。

 

それにしても……ウマ娘の幸福だのなんだのと、よく分からないことを言ったものだ。

それも、彼女とトレーナーの過去に起因するものだろうか。あのレースの時にも思ったことだが、アタシはそれについてはまるで知らなかった。

 

「ま、いいよ。でもその代わり、アタシからのお願いも一つ聞いてくれる?」

 

「なにかな?」

 

 

「昔の話を聞かせてよ。キミとトレーナーの出会いについて、ながーい思い出話をね」

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……という具合に、トレーナーとルドルフはくっついたのさ。めでたしめでたし」

 

 

 

じゃん、とポーズを取って見せるシービー。

 

わざわざ勝負服まで着込んできたぐらいだから、その語りはもう気合いが入っていた。

おかげで私とルドルフの語りが完全に圧されているというか……よく考えれば、最終決戦では私のパートが一つも無かったし。

 

椅子にちょこんと腰かけながら、熱心に聞き入っていた二人の観客に終幕を告げる。

 

 

「ま、こういう経緯があったらしい」

 

 

「……らしいって、なんでトレーナーがそんなあやふやなのさ。ボクが聞いてた話と全然違うじゃん!」

 

向かって右に座っているトウカイテイオーが、ポニーテールを弾ませながら甲高い声でそう抗議してきた。

 

そんな彼女を、隣でぱちぱちと拍手を送っていた芦毛のウマ娘……メジロマックイーンが慌てて制止する。

 

「テイオー!!トレーナーさんにそんなことを言っては駄目でしょう!?折角、こうして歓談の場を設けてくださったというのに」

 

「なにさ!マックイーンだってこの前ぜんぜん違うこと言ってた癖に!」

 

「あ、あれはゴールドシップさんが教えてくれたことで……!!」

 

ばしばしと尻尾で叩き合いながら、顔を突きつけてで火花を散らす幼いウマ娘二人。

どちらも今年度の入学試験を突破し、一週間後にはこの学園の門を潜る予定となっている期待の新人だった。

 

今日は合格者座談会として、各トレーナーがそれぞれに申込のあった新一年生たちに話をすることとなっている。

昨年から、私が理事会とかけあって学園に導入させたイベントだ。入学式後に発覚するダブルブッキングという、あの最悪の事態を少しでも防止することが趣旨である。

 

都合がつけば、こうして担当ウマ娘とも交流することが出来るため、ルドルフに憧れているテイオーからは真っ先に応募があった。マックイーンはそれに引き摺られた形であり、残り一人が病欠したためこうして二人きりとなっている。

自慢じゃないが、私のチームには学園でも五指に入る程の申し込みがあった。抽選まで行ったというのに、こうして二人巡り合うのは運命の悪戯か。

 

「まぁ、そう怒らないでくれテイオー。なにぶん四年も昔の話だから、トレーナー君もあまり記憶が確かではないんだ」

 

ヒートアップする二人を見かねて、慌てて仲裁とフォローに入るルドルフ。シービーとは違って、勝負服ではなく普通の制服だ。

彼女が間に割って入った瞬間、嘘のように大人しくなるのは流石といった所か。テイオーにとっては幼い頃から憧れるウマ娘であり、マックイーンにとっても畏敬を寄せる対象である。

 

「なぁ、トレーナー君?」

 

「あぁ、そうだな」

 

嘘だ。実際はよく覚えている。というか忘れられない。

未熟ゆえの苦い記憶であり、七冠バのトレーナーとして地位を得た今となっても度々夢に見る程だった。話の食い違いが起きているのは、ひとえに私のみならずルドルフとシービーからの視点も加わったためである。

 

テイオーとマックイーンを宥めるのはとりあえずルドルフに任せておいて、先程から腕にじゃれついてくるシービーにそっと感想を述べる。

 

「ルドルフは……まぁ分かってはいたけども。君の独白は正直意外だったよ。あそこまでの感情を寄せられていたとは」

 

「あっ酷いなー。乙女の純情を弄んでおいて出てくる言葉がそれ?罪な男ね」

 

「いや………ああ、うん。あのサブトレーナー卒業祝いの時点で気づいていくべきだったな」

 

「ふふっ、トレーナーもあの時のことはちゃんと覚えてくれていたんだ?」

 

「もちろん」

 

入学式の一週間前。四年前のちょうどこの日のこと。

私の寮部屋で、シービーが二人きりで開いてくれたパーティー。思えばあれが私のトレーナー人生における出発点であり、毎年この時期になると思い出す。

 

あの時には既に彼女は私と共に走るつもりでいて、あれはその記念日でもあったのだろう。その想いを無下にしてしまったことは、ずっと私の心にしこりとなって残っていた。

 

「ま、もう気にしなくていいよそんなことは。結局行き着く先は同じというか、またこうして一緒のチームになれたんだからさ」

 

「君がいいというならいいが……」

 

「いいのいいの。今となっては、あれもほろ苦い思い出の一つよ」

 

そう告げると、ウインクを残して颯爽と三人の方に向かっていくシービー。ルドルフが鎮火させた火種に薪をくべようという魂胆だな。

 

 

彼女の言葉の通り、結局私たちは一つになった。

 

 

ルドルフが史上唯一の七冠を成し遂げたお陰か。そのトレーナーである私は昨年、早くもチーム設立の許しを頂いていた。

そこにすかさず突っ込んできたのがシービーである。他にも競合は大勢いたものの、皆ことごとく打ち倒されてしまい、ルドルフにも唯一素直に受け入れられたことでこの形に収まっている。

 

お陰で総員二名、尚且つ両方とも三冠バというえらく尖りきった構成となってしまったが。

幸い、魑魅魍魎溢れるこの中央トレセン学園では、なんとか悪目立ちしない範囲に収まっている。たぶん……ぎりぎり。

 

「あっそうそう。ついでに一つ。今朝小耳に挟んだんだけどさ、トレーナーには話しておこうと思って」

 

急に立ち止まり、両手を背中で組んでくるりとこちらに振り向いたシービー。

ふりふりと、その尻尾が妙に楽しそうに揺れている。

 

「ほら、今の学園におけるチームってさ、かなり群雄割拠でしょ?どの勢力も強みがあるっていうか」

 

「ああ、その通りだが……それが?」

 

「なんかね、理事長が折角だからそれを存分に活かそうって、大掛かりな対抗戦を企画しているらしいよ」

 

「そうか」

 

いかにもあの人が考えそうなことだ。

形式としてはアオハル杯に近いのだろう。

 

ただ、似たようなチーム戦はこれまでも経験している。と言うか、模擬レースや並走で日常的に繰り返してきたことだ。

故に、強豪の戦力についてはだいたいあたりがついているから……たぶん、結果もそう代わり映えはしないだろう。

 

 

そんな私の見立ては、次のシービーの言葉で完全に粉砕されることとなった。

 

 

「それにあたって、来週ここに新しいトレーナーが赴任してくるんだって。なんでも緊張感が欲しくて、理事長が直々に招いた大物だとか」

 

「そいつの名前は?」

 

 

 

 

「サンデーサイレンス。二十三年前、かのシンザンを五冠にまで育て上げた怪物だよ」

 

 

 

 

 



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【第一章】登場人物紹介

 

 

 

登場人物紹介(第一章)

 

 

 

【主要人物】

 

・主人公

サブトレーナーを卒業したばかりのひよっこトレーナー。

模試では全国一位を争い、過去の後遺症により両足にハンデを抱えながらも、修習を次席で卒業出来る程の才能はある。でも経験がないので結局はひよっこ止まり。記者にもいいようにされていたが、相手が海千山千であったことを考えれば仕方ないかもしれない。

曲がりなりにも中等部生の二人にもいいようにされていたことは言い訳が利かないが。

 

 

・ミスターシービー

中等部二年生筆頭兼トレセン学園生徒会会長。

鮮やかな追い込み戦法と比類ない実力で、十九年ぶりのクラシック三冠を期待されている逸材。

見応えのあるレースの勝ち方や、容姿に優れたウマ娘の中でもとりわけ端麗な容貌から凄まじい人気を誇る。彼女がそれに拘るのも、先代生徒会長たるハイセイコーを意識しているからだとかなんとか。

両親にこれでもかと愛されて育ったので、自己肯定感が非常に高い。彼女も両親のことが大好き。一見自由奔放なようで、根っこはかなり真面目かつ頑固。

一人っ子故か甘えたがり構いたがりな面も強く、実はルドルフとはかなり親和性が高い。

 

 

・シンボリルドルフ

狂犬。9歳の夏の日から脳みそは既にボロボロ。

トレセン学園入学時点においてはかなり精神的に成熟しており、一線を越えなければ非常に頼りがいのある優等生。だが一線を越えてしまったため拗れに拗れてしまった。

中等部一年生の筆頭であり、入学試験では他を軒並み蹴散らしている。デバフを撒き散らして他走者のパフォーマンスを大幅に低下させた所に、自身の有り余る全力を叩きつけるというえげつない戦法を好む。シービーとは逆で、魅せるのではなくひたすら勝つことに重きを置くスタイル。合理性を重視したがる主人公とは相性がいい。

表向きは仲良くやっていたのは、シービーと根本では通じあっていたからか、それともただの演技か。あたかも仮面を被っているかのように、極めて二面性が強いウマ娘。

 

 

 

【トレセン学園生徒】

 

・ビゼンニシキ

中等部一年生次席兼トレセン学園生徒会会員。入学試験においてルドルフに負かされたことを今でも根に持っている。

同期の中ではルドルフに次いで突出した実力を誇る。目上には礼儀正しいが、敵対する者には中々に容赦がない。ただし引き際も弁えており、選抜レース後には上手いことチームリギルに加入している。その後、主人公とリギルの間にある種の因縁を生むこととなった発端でもある。

 

もし実装されていたら、シービーの立ち位置にまるまる置き換わっていたであろうウマ娘。

 

 

・マルゼンスキー

中等部三年生。トレセン学園生徒会副会長。

現役学生かつレギュラー陣の中では最年長。年齢以上の貫禄があり、実力もそれに見合っている。

いいところのお嬢様であり、その育ち故か所々世間とセンスや感覚がズレている部分もあるが、極めて有能なウマ娘であり学園からの信頼も厚い。

既に車を運転しているが、この世界では免許取得年齢が低いので合法。まだ捕まっていないのでゴールド免許。警視庁騎バ隊の最優先監視対象。

 

 

・カツラギエース

中等部二年生。シンボリフレンドのチームに所属する逃げウマ娘。

天真爛漫かつチームのムードメーカー。ただし実力は確かなもので、粒揃いの同期の中においても指折りの強者として認識されている模様。マルゼンスキーには可愛がられている。シービーのことは親友兼ライバルだと思っている。

ジャパンカップでは、シンボリフレンドの尖兵として三冠バシンボリルドルフに初めて土をつけ、ついでに当時は同じチームだったシービーも負かして日本ウマ娘初の制覇を成し遂げた。

 

 

【トレセン学園職員】

 

・駿川たづな

トレセン学園理事長秘書。年齢は不明。家族関係も不明。どうやって今の地位に就いたのかも不明。その実態は謎に包まれている。

ルドルフ共々前々から顔見知りだったためか、主人公を目にかけている。長らく理事長の側近を勤め、時には代理をこなすこともあるためか、事務方では理事すら凌ぐ影響力を誇る実質的な学園のNO.2。

それに見合うだけの給料は貰っているらしいが、肝心の使う時間がないらしい。

普段は裏方に徹しているが、レースには一家言あるという。ただし理事長曰く指導者には向いていないそうな。

 

 

・シンボリフレンド

トレセン学園のチームトレーナーであり、主人公の指導教官。

良かれと思ってしたことが、様々な想定外によってことごとく裏目に出尽くした報われないウマ娘。同時に元凶でもある。

一応本人も負い目があったのか、推薦移籍を蹴った主人公にも特に制裁は加えなかった。が、それそれとして思う部分もあったのか後々ジャパンカップでしっかりとやり込めている。しかしその数ヵ月後にはシービーを取られてしまった。

 

 

・先輩

シンボリフレンドのトレーナーとしての同期であり、主人公の義理の兄。

かのマルゼンスキーを担当としているが、サブトレーナーを指導するには至っていない。決して評価が低いわけではなく、単純にシンボリフレンドの出世が早すぎるだけ。ストレスの結果か、最近妙に口調が荒い。

 

 

・桐生院葵

名門桐生院家の才女。主人公と同い年兼同期であり、彼から主席の座を奪った張本人。実は彼女もまた、模試で主人公の存在を知っていた。

文武両道を極めた結果、出自とあわさりかえって周囲から敬遠されている不器用な人。本人はあくまで皆と仲良くしたいと考えて行動している。物心ついて以来、ウマ娘のことばかり考えて生きてきたためかかなりの世間知らず。カラオケでは童謡しか歌えない。

地道にスカウトを重ねた結果、選抜レースでとある白毛のウマ娘を捕まえた。

 

 

・樫本理子

元URA幹部であり、現在は中央でトレーナーを勤めている。

学園に数多いるトレーナーの中でも屈指のやり手らしい。アスリートの指導者ながら運動神経はかなり覚束ないものの、それを補って余りある頭脳を備えている。学園に所属していながら、その上部団体であるURAにも太いパイプを持つ特殊な人物。

 

 

・秋川やよい

トレセン学園理事長。代々その職責を担う秋川家の人物。

つまり縁故で今の立場に就いたわけだが、それを微塵も感じさせない豪腕かつ辣腕。見た目通りの年齢でありながら、駿川たづなと同等かそれ以上の業務を日々こなす超人。審美眼に長け、実はトレーナーとしてもずば抜けた実力を備えているものの、それを披露することはそうそう無い。ただトレーナーの上位陣はそのことに勘づいている模様。

 

 

【記者】

 

・とあるゴシップ紙の記者

中年の男性。昔は大手の新聞社に勤務していたが、度の過ぎた取材行動の数々で追い出された。たまたまツテのあったシンボリ家を頼って今の地位にを得たものの、それが弱みとなってシンボリの操り人形となっている。

情報収集能力についてはかなり優れているものの、保身だけを考えて生きてきた結果、記者としては及第点以下。トレーナーとして生まれたてほやほやの主人公すらやり込められない程度。

 

 

・乙名史悦子

月刊『トゥインクル』に所属する雑誌記者。

レースに向ける情熱は本物であり、その知識も並みのトレーナーを凌駕する程のもの。相手の言葉を針小棒大に解釈する癖と引かず媚びず省みない取材スタイルが持ち味であり、ネタには恐ろしいまでの嗅覚を発揮することから、全トレーナーから警戒されている。総じて厄介の一言に尽きる人物。

 

 

・藤井泉助

フリーライター。記者としての地位はそこまで高くないが、豊富なコネに巧みな話術、複数言語を堪能に操る高い知能に交渉術と、かなりスペックが高い。ただし乙女史記者ほど狂えないため、トレーナーには度々返り討ちにされている。

結果としてルドルフのアシストをする形となったが、彼女にはいまいち良く思われていない模様。しかし本人はそれも人脈の一つと前向きに捉えており、後々オグリキャップに絡んだ直談判すら決行している程。

 

 

【その他】

 

・トウカイテイオー

トレセン学園期待の新人その一。

ルドルフに憧れて中央の門を叩いた。無敗の三冠ウマ娘になると言って憚らないが、それが許されるだけの余りある才能を秘めている。

 

・メジロマックイーン

トレセン学園期待の新人その二。

由緒正しきメジロ家の令嬢。実家同士縁が深いためか、シンボリの最高傑作たるルドルフともかねてから交流がある。シンボリ経由で主人公とも顔見知り。トウカイテイオーとは旧知の仲。

 

 

 

 

設定資料

 

 

 

 

・推薦移籍

サブトレーナーが指導教官(チーフトレーナー)から卒業認定を受け、正式にトレーナーとして独立する際にチームからウマ娘を譲り受ける制度。

トレーナー業界における次世代育成を目的としているが、チーフトレーナーと対象ウマ娘にはまずメリットが無いことから、成立には両者の同意と学園からの認定が必須となる。

新人トレーナーにとっては垂涎の的であるが、全員が全員受けられるわけではなく、チーフトレーナーの方針や人間関係によっては当然に拒否される。ましてや認められた推薦移籍を新人の側から蹴るのは、破門されても文句を言えない暴挙である。

 

 

・選抜レース

毎年何回かに分けられて開催されるレース。上級生でも担当のついていないウマ娘はこれに参加することとなるが、初回である五月最初の週は新入生のみが出走する。

それぞれの特性に合わせて芝とダートに振り分けられ、そこからさらに距離を選ぶこととなるが、天候には左右されないため、自身の得意なバ場状態が回ってくるかは時の運である。

 

 

・伴走バ

初回の選抜レース時、新入生たちのペースメーカーとして参加する上級生。割り当てられる枠番は確定で大外。

一瞬のファンサービスの面もあり、学園でもスターと呼ばれるウマ娘はだいたい参加する。作中でもマルゼンスキーが別のレースを走っていた。トレーナーからのスカウトを争う立場ではないため、普通はここで本気を出すこともないが、それでも上級生に勝てば最高のアピールとなるため新入生たちは必死に先着を目指す。

 

 

・桐生院家

トレーナー界における名門中の名門。過去に何人もの中央トレーナーやURA幹部を排出しており、レース業界に隠然たる力を持つ。匹敵出来るのはシンボリやメジロといった名家お抱えのトレーナーぐらい。

なにかと辛い立場に立たされることも多いトレーナーたちの、擁護者としての側面もあるという。

 

 

 



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番外
サンデーサイレンスの優雅な一日(前編)


序章の少し後のお話です。


昼風呂もたまにはいいもんだ。

 

とりわけ、こういうちょびっと涼しくなってきた秋の中頃には。

 

 

タオルでざっと髪の水気を取り払うと、一応ドライヤーでも乾かしておく。脱衣所の鏡を横目に見ながらざっとだ。ざっと。

風でぬばたまの長髪がばさばさと乱れ、隙間からはなんとも愛想のない金色の瞳が覗く。血色の悪い裸の上半身にはうっすらとあばらが浮かび、その姿はかつて誰かが言ったように痩せさらばえた野良猫や大ガラスさながらだった。

事実、俺は周りの幾ばくかの人間にとっちゃ不吉の前兆そのものだからな。あながち間違っちゃいねェか。

 

スライド式の扉を勢いよく開けて、廊下の籠に使い終わったバスタオルを放り込む。

 

……と、そこで肝心のシャツがないことに気がついた。

おっかしいな。下着とズボンはちゃんと持ってきていたのに。道中で落としたか?ああ……いや、そうだ。思えば居間に脱ぎっぱなしだったな。

 

「………ったく」

 

カフェなりアイツなり、あそこにいる連中が届けてくれりゃいいものを。

ウチのガキ共はとんと気が利かねェ。普段裸になったら文句言うくせに、こういう肝心な時には服を寄越さねェのかよ。俺に服を着て欲しいのか欲しくないのかどっちなんだか。

 

まぁいいか。ひと風呂浴びた後に、廊下の風でクールダウンと洒落混むのも悪くない。

だいたいあんな布切れ一枚、着てようが着てまいが大して変わらないしな。

そもそも手元にない以上どうしようもないわけだし。ま、一応下だけは履いておくか。

 

 

「~♪~~♪」

 

 

陽気にサンデーサイレンスの歌を鼻ずさみながら、俺は悠々と廊下を闊歩する。

勝手口の隙間から流れ込んでくる涼しげな風に、ぎしぎしと古びた板の音がなんとも言えず心地好い。こういうのわびさびって言うのか?

そう言えば、ニホンの金持ちは庭に石ころを敷き詰めて喜ぶんだったな。おおかた根っからの貧乏性なんだろう。ウチも敷地だけは広いから、時間があったら試してみるか。

 

 

廊下を渡りきり、勢いよく居間の襖を開ける。

 

中央のちゃぶ台に顔を並べているのは、出ていく前と同じ面子。

 

 

「……………」

 

「………はぁ」

 

 

夏の間に消費しきれなかった、御中元の余りの素麺をつつきながら、二人揃ってゴミを見るような目をこちらに寄越してくれた。

 

 

んだよ。ため息なんか吐きやがって。

だいたいお前、さんざん孤児院で泥落としやってきたんだから、もうウマ娘の裸なんざ見慣れて久しいだろうが。カフェに至ってはなんの反応もない。嘆息すらない完全無視。

 

ただでさえ乏しかった俺に対するリスペクトが、最近ますます無くなっている気がするな。コイツら反抗期か?

俺も十歳のころにクソ親ぶん殴って家を飛び出したから、気持ちは分からんでもない。むしろ遅すぎるぐらいだな。

 

 

「~~♪~♪」

 

ガキ共は完全に無視して、居間の最奥にあるいつものスペースへと帰る。

 

……お、あったあった。

 

やっぱりここに出したまま置きっぱなしだったか。

畳の上で丸まっているシャツに袖を通しながら、俺はおもむろに部屋の隅にあるタンスを開けた。中からミントキャンディーのボックスと焼酎の大瓶を取り出して、足で棚を戻すと座布団に戻る。

箱からキャンディーを一つ取り出して、包み紙を開けて口に放り込んだ後、大瓶の栓を開けて一気に煽る。しばらく舌の上で転がした後、小さくなったミントキャンディーばりばりと噛み砕いて焼酎ごとまとめて胃の中に流し込んだ。

 

それを何度か繰り返してから、尻に敷いていた座布団を枕に畳の上にぐでんと仰向けになった。

故郷にいた頃は、床の上に寝っ転がるなんてまるで考えられなかったが、これはこれで中々どうして悪くない。あの窮屈なお屋敷じゃ一生味わえなかったであろう解放感。

 

シャツを胸元まで捲り上げて腹を掻く。ついでに片足で脹ら脛のあたりもばりばりと掻いた。

剥き出しになった素肌を、庭から流れ込んできたそよ風が優しく撫で上げていく。

 

 

「あ"ァ~…………」

 

 

最高だな。

真っ昼間から湯浴みし、好きように食べて呑んで寝っ転がる。怠惰の極み。まさに生きてるってカンジ。

これまで散々働いてきたんだから、自分の家で少しぐらいだらけたって許される筈だ。ゆとりある生き方が世の中のトレンドと言うなら、俺もそれに倣うとしよう。

 

そうだ。どうせだから、孤児院にいる連中からさらに二、三人見繕って仕事を手伝わせてみるか。

俺は楽が出来るし、チビどもは手に職がつく。まさに一石二鳥だな。

 

「……ん」

 

しっかし、どうにも尻尾が落ち着かない。

 

仰向けになるとやり場に困るんだよな。ヒトと違って、俺たちウマ娘にとっては少々圧迫感がある。もっとも、耳の位置関係から横向きになった時にはこちらの方がより快適なので、一長一短といった所か。

 

「ん………んん」

 

だいたい窮屈なのは、ズボンの穴から尻尾を出しているからというのが大きい。

せめてそっちは楽にしようと、もぞもぞと足だけでズボンを脱ごうともがく。ああ、くそ。指で裾が捕まえられねェ。

 

「んん………あン?」

 

 

そうこうしている内に、ふと覆い被さってくる一つの影。

 

 

「………母さん」

 

庭からの風を遮るように枕元に立ちはだかり、深い緑の瞳が俺を見下ろす。

呆れているようで、しかし確かな決意の色がそこにはあった。ああ、またしてもお説教の時間か。

 

「……ンだよ。俺の城で俺が何をしようが俺の勝手だろうが」

 

「そうは言っても限度があります。こんな昼過ぎにようやく起きてきて、そこまでは良いにしても、ようやく顔を洗ったかと思えばこの体たらくとは」

 

「良いだろ。これが大人の休日ってやつだ」

 

「生憎今日は平日ですけどね。私たちは休校日ってだけで」

 

「んなら俺も休みでいいじゃんか。どうせこの時期は暇なんだから……さ」

 

くぁ、と大あくびをかましながら、寝返りをうちつつぼりぼりと腹を掻く。ズボンを脱ぐのは取り敢えず諦めた。

視界の端で、カフェがかつて無い程に軽蔑の目で睨んでくるのを眺めながら、俺はうとうと微睡み始める。鬱陶しいので二人に向けてしっしと尻尾を振ってやった。

 

「……近頃の母さんの生活態度は目に余ります。そこまで無茶のきく歳でもないんですから、もう少し自制してもらわないと」

 

「はいそうですかって、俺が素直に言うこと聞くと思うか?」

 

「思いません。ですので、然るべき対処をとらせて頂きます」

 

「へぇ……どんな?」

 

上体を起こして、下からその澄まし顔を睨み上げてやる。先程からの様子を見るに、何かしらの考えを持っているのは確からしいが、さて何が飛び出してくるのやら。

自慢じゃないが、俺になにかを"させる"ってのはバカみてェに難しいことだ。ましてやコイツは、力関係からして俺に命令出来る立場じゃないしな。

 

自分から切り出しておいて、少し間だけ躊躇しているようだったが……やがてまなじりを決して高らかに宣言した。

 

 

「母さんは、今日から小遣い制です!!とりあえず、一ヶ月に十万から」

 

 

「……………………は?」

 

 

コヅカイセイ?ツキジュウマン?

 

 

……冗談じゃないぜ。俺が月に何億稼いでると思ってやがんだ。

孫の孫の、さらに孫の代まで食っていけるだけの金を蓄えてんだぞ?

 

「勘弁してくれよ。カフェのバイト代以下じゃねェか。それでどう暮らしていけってンだ?」

 

「あくまで小遣い……遊興費の制限ですよ。とりあえず、お酒の量を抑えれば不足はないかと」

 

「ガキにはちょいと難しいかもしれんがな、大人には大人の付き合いってモンがあるんだ。諭吉十人じゃ片付かンのよ」

 

「なら、その度に申告してくれれば別途支給しますよ。ああ、裏取りもするので嘘ついたら分かりますからね」

 

「ぐっ………」

 

ちくしょう。コイツに経理を任せたのは失敗だったか。

 

いや、だがそのお陰で俺がこうしてだらける時間が生み出されたのも事実。コイツは確かに有能だった。ただちょっと、目指すべき地点から少しだけ行き過ぎてしまっただけか。

 

「そうかい。だがな、そんな二度手間してたらお前が大変だろ」

 

「それはもう。ですが、ひとまずは母さんの身体の方が優先なので」

 

とりつく島もない。なんなら、大変なのが分かってるならさっさと改めろとでも言いたげな様子。

 

こうなるとコイツは頑固だ。説得は無理だな。酒を楽しむために仕込んだ帳簿係から酒を取り上げられるとは皮肉なもんだが……まぁ、別に構わない。

任せているのはこの私生活に関わる範囲のみ。俺が扱っている金銭関係のほんの一部分だ。コイツにすら明かしていない収入もまだまだある。

 

「……ハイハイ。オスキニドウゾ」

 

故に、ここは引き下がってやる。自分の預かり知らぬ所から金が湯水のごとく湧いてくると悟れば、流石に諦めるだろ。

 

 

そうしてばたんと大の字に畳に倒れ、顔だけ横に向けた俺の視界に入ってきたのは、真っ直ぐタンスに向かうアイツの姿。

 

 

「は……!?」

 

迷いなく下から二段目の棚を開け、さらに底面を外し中を漁る。

二重構造の隠しスペース。俺はそこに、事業絡みのあれこれを保管していた。その中で得た、私的に使える財産についてもまた……。

 

いや、おかしい。絶対にあり得ない。

その隠し場所を知るのは俺だけだった筈だ。そこに何が入っているかを知っているのも俺だけだった筈なのに。

出し入れは必ず居間に俺だけしかいないタイミングで行っていた。言うまでもなく、存在を示唆するメモの類いも残していない。家族相手にもそれは徹底してきたのだから。だというのにどうやって。

 

「当然、これも取り上げさせて貰いますからね。報酬の振り込まれた通帳とカード、それから私用のクレカも」

 

「いや、なんでお前がそれを知って……」

 

 

「"お友達"が教えてくれました」

 

 

お友達。カフェにとり憑いている亡霊。

言葉を交わせるのはカフェだけだが、一月前の事件以降、コイツも互いを視認することだけは出来るようになったらしい。それなら会話は無理でも、コミュニケーションを交わすことは可能だろう。

 

逆に俺には幽霊が見えない。二人に言われない限り、その存在を察知することは無理だ。たとえ、真横でこちらを覗き込まれていたとしても。

お友達が俺の行動を悟られないまま観察し、それを二人に逐一報告する。至極単純なやり口だが、お陰で俺はコイツらに隠し事をするのはおよそ不可能となったわけだ。

なにが厄介って、あの幽霊、俺のことがいたく嫌いな様子だから、嬉々としてこちらの邪魔をするだろうと言うこと。

 

 

こうなりゃ自棄だ。

 

ウマ娘の力でもって、今のうちにコイツから通帳諸々を取り返してやる。

 

 

全身のバネを駆使して、仰向けの状態から瞬時に反転し四つ足で畳を踏み締める。米国二冠バの実力を遺憾なく発揮して、コンマ数秒で手の届く寸前にまで詰め寄った。

向こうからすれば、あたかも時間が飛んだかのように見えた筈だ。現に、全く状況を理解していない目で固まっている。

 

どうだ。古バもいいところだとは言え、俺だってまだまだ捨てたもんじゃねェだろ。

現役ばりばりのウマ娘相手じゃ流石にキビシイだろうが、ヒト一人捻ることなんて雑作もないんだからなァ。

 

 

「させませんッ……!!」

 

 

「チッ…」

 

が、あと数センチといったところで、見えないナニモノかに畳へ叩きつけられてしまった。うつ伏せに押し倒され、上からのし掛かられる。

 

クソが。"お友達"の野郎。

眼球だけを動かしてちゃぶ台の方を睨むと、カフェもまた同じように満月の瞳でこちらを睨み付けてきた。

 

「三対一……です。大人しく……こちらの言うことに、従ってください」

 

「ダメだダメだ。この歳にもなって小遣い制なんて認めねェ。サンデーサイレンスのブランドに傷がつくからな……」

 

「こんな……真っ昼間から裸になってお酒呑んでる人に……権威なんてありません!」

 

「なんだとォ……!!」

 

舌を動かしながら、当然じたばたと暴れてみるものの、体勢が体勢故に一向に振りほどくことが叶わない。終いにはカフェまで拘束に加わり、結果として俺だけが疲弊していく有り様だった。

 

そうしている間にも、アイツは通帳やクレカを握り締めて居間を出ていってしまった。

仮に追って取り返せたところで、今度はお友達に没収されるだけか。使役しているカフェを籠絡しようにも、俺に対する一番の強硬派だから望み薄だし、なんなら亡霊はカフェの意思に反しても行動出来る。バカ息子が帰ってきても、きっとコイツらの肩を持つだろうから、そうなりゃ四対一だ。

 

「はァ……………」

 

まさかこんな形でクーデターを起こされるとは。なまじ、動機が俺自身の為と言うこともあって極めてやり辛い。

 

 

結局、俺はその提案を受け入れるしかなく。

 

 

今ここに、サンデーサイレンス強制矯正プログラムが開始されてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数時間後のこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ふぁ……あー、ねむ……」

 

 

俺は場所を移した縁側で、変わらずごろごろと日向ぼっこに勤しんでいた。当然、両腕には焼酎の大瓶とミントキャンディーのボックスを抱えている。

 

決してだらけているわけではない。

脳ミソをフル稼働させて月十万での遣り繰りを検討している真っ最中だ。

 

最初は自由に使える金額のあまりの落差に戸惑いこそしたものの、よくよく考えれば十万もあればまず困らない。俺は吝嗇家というわけじゃないが、元々幸福のボーダーが低いためか、そこまで金遣いの荒いタチじゃなかった。

かといって、いきなり生活のレベルを落とすのもキツいっちゃキツい。暫くはルナやシンザンにでも奢らせて急場を凌ぐか。

 

 

そうつらつらと思考を巡らせていると、不意に庭先の茂みががささと音を立てた。

ちょうど、玄関に抜ける通路の真ん中に生えたものだ。しばらく使ってなかったから、あの辺りは伸び放題なんだよな。

 

 

「…………誰だァ?」

 

すわ侵入者かと一瞬身構えたが、よく考えなくともそんな輩がバカ正直に通路を辿ってくるわけないか。

ま、仮にそういう手合いだったとしても返り討ちにするだけだが。

 

こちらの問い掛けに応じるように、ウマ娘のガキが勢いよく俺の目の前に飛び出してきた。

白いワンピースの上に、薄手のアウターを羽織っている。お気に入りなのか知らないが、頭にはいつも通り麦わら帽子を乗っけていた。もう日射しのキツい時期じゃあるまいに。こんな陽気に勿体ない。

 

「こんにちは」

 

「あァ、シンボリのガキか。アポを貰った記憶はねェぞ」

 

「必要ないでしょ。だって凄く暇そうだし」

 

そのガキ……シンボリルドルフは、そう言いながらずかずかと遠慮なしに枕元に寄ってくる。

 

 

無視してもいいが……もしかすれば、コイツは使えるかもな。

 

 

新しく別の算段を打ち立てながら、俺は重たい頭を抱えてのっそりと身を起こした。

 

 



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サンデーサイレンスの優雅な一日(中編)

「そういや、ここ最近は見なかったな」

 

「うん。ちょっとお祖母ちゃんと一緒にね、アメリカに行ってきたの」

 

「へぇ………アメリカにねェ」

 

わざわざ夏休みの最後を使ってまで行くような所でもないだろうに。普通、レース目当てなら五月から六月にかけてだろ。

この前はフランスで、今回はアメリカと来たら次はどこに連れていかれるのやら。てっきり、欧州制覇が先だと思ってたんだがな。

 

「あっちでなにして来たんだ?」

 

「えっとね。レース場見たり、向こうのトレセンも見させてもらったり。普通に観光地にも行ったよ。あと、銃を撃ったりもした」

 

「銃か。俺も向こうにいた頃は散々ぶっ放したモンだぜ」

 

指で拳銃を形作り、BANG!!と撃つ真似をして見せる。

この国じゃ流鏑馬を筆頭に、ウマ娘が弓矢を扱うのが伝統らしいが、アメリカでは武器と言えば専ら銃。特にライフル射撃は、レースに次いで俺の大得意だった。

今だって猟銃の免許は持ってんだがな。お国柄か、中々撃つ機会に恵まれない。

 

 

さて、世間話はこれぐらいにして。

 

 

そろそろ本題に入るとしよう。

 

 

「ところで、ルナは元気にしてッか?」

 

少しばかり眠気の残る頭をゆるゆると振りながら、俺は縁側で足を揺らすシンボリルドルフにそう切り出した。

つい先月話をしたばかりの相手について、その健在を伺うのもどうかと思うが、話の掴みなんで別に良いだろう。

 

シンボリルドルフは麦わら帽子を外して脇に置くと、どこか怪訝そうに俺の顔を覗き込んでくる。

風に吹かれてゆらゆらと、耳元のアクセサリーが揺れていた。

 

「……ルナ?私は元気だけど」

 

「あァ、違う違う。お前の母親のことだ」

 

「ああ……そっちか。もう。次からはちゃんと名前で呼んでよね」

 

「ハイハイ」

 

まったく紛らわしい。娘を自分の愛称で呼ばせるなんざどうかしてるぜ。

 

まぁ、スイートルナから三日月の流星を持つウマ娘が生まれてきたと知った時には、少々出来すぎているような気がしたのも事実ではある。

だからか知らないが、ルナは昔からコイツを溺愛している。もっとも親からすれば、我が子なんて多かれ少なかれ生き写しに見える部分があるのだけれども。

 

俺とカフェなんか似過ぎていて気持ち悪いなんて、面と向かって言われるぐらいだからなァ。それも、他ならぬカフェ本人から。

 

「お母さんなら変わりないけど……どうかしたの?」

 

「いや、ちょっと大人の事情でな。ちょいとアイツと話がしたいというか」

 

「なら会いに行けばいいじゃない」

 

「それが出来りゃ苦労しねェさ。どう言うわけだか、俺はシンボリ邸を出禁にされててな。取り次いで貰えんのさ」

 

いや……一応、理由については実はちゃんと分かっている。

 

あのバカ息子その二を、俺の名代として向こうに送り込んだところからケチがついた。

これまで取り次いで貰えたのは、諸々の交渉やら手続きやらが俺にしか出来ないと思われていたが故の、言わば致し方なしな対応というわけだ。

 

しかしそこに、カウンターパートとして不足なく、尚且つ話も通じる上に素行も良好なアイツが登場したとなると。

当然の成り行きとして、問題児サンデーサイレンスはあっという間にお払い箱。

 

このシンボリルドルフは言うまでもないが、ルナやフレンドの奴からもいたく気に入られているときた。

現状、俺がそこに割って入れる余地は殆どない。保護者としてどうにかぎりぎり、最低限の立場を保っている程度である。

 

悲しいかな、十年来の友人よりもたった一ヶ月付き合ったばかりのお利口さんの方が、連中にとってはずっと価値があるらしい。

まったく、薄情にも程があるだろ。

 

「だがお前から口利いてくれればどうにかなるかもしれん。ルナの野郎、お前には甘々だもんな」

 

「どうだろ……線引きはちゃんとあると思うけど。それにしても、家人に頼って入れてもらうなんて、まるで家から追い出された飼い猫みたいだね」

 

「うっせ」

 

「まあいいよ、招待してあげる。それで、ご用件は?」

 

「だから大人の事情だよ。ちょっと込み入っててな……」

 

 

「それって、ウチでお酒を呑もうってこと?あわよくばお金も借りるとか」

 

 

「…………………」

 

二の句が継げない俺にずいと詰め寄って、自分のウマホを見せつけてくるシンボリルドルフ。

 

その画面にはメッセージアプリが立ち上げられていて、つい一時間ほど前に交わされたカフェとのやり取りが記録されていた。

昼に起きた出来事のあらましと、いずれシンボリに泣きつくかもしれないという予測。その際、一番丸め込みやすそうな最年少のルドルフに接触するだろうから、絶対に相手をするなという警告が記されている。

 

 

…………根回しが早すぎンだろ。

 

 

「………違う」

 

「なに、いまの間」

 

「いや、とにかくだ。積もり積もった話があるのは事実なンだよ。この歳になると顧みるべき過去だって多い」

 

「微塵も顧みなかったからこそ、ここまで追い込まれているんじゃないの?」

 

ダメだ。コイツを丸め込むのはあまりにも効率が悪すぎる。

どうすっかな。もう諦めて大人しく生活習慣の改善に励むとするか?いや……ここで退いてはサンデーサイレンスの名が廃る。この程度の苦境、これまで数え切れない程乗り越えてきただろうが。

 

「もう観念したら?良い機会だと思って健康優良バを目指してみたらいいでしょ」

 

「ほっとけ。堕落こそが快楽の本質なんだよ。だいたいお前にとっちゃ、俺の健康なんざクソ程どうでも良いことだろうが」

 

「うん。だけど、貴女が倒れたら悲しんじゃう人もいるから」

 

それが誰かなんて今さら聞くまでもない。

どうせだから利用させてもらおうか。元はと言えば、仕掛けてきたのはアイツの方だし。

 

騙せないなら取引すれば良いだけだ。

幸い、こっちには切れるカードも沢山ある。

 

「そういやお前、こないだウチに泊まりたいとか言ってたよな」

 

「……私から母さんに取り次げってこと?」

 

「話が早いな。ああ、それが上手くいったら許可してやるよ」

 

「たしか前に、お母さんが一度だけなんでもおねだり聞いてくれるって言ってたけど。でも、そんな貴重な一回をここで使うのもなぁ……?」

 

「あーハイハイ。アイツと部屋も一緒。風呂も一緒。ベッドも一緒。これでいいかァ」

 

「分かった!!」

 

瞬間、猛烈な勢いでウマホのタップを始めるシンボリルドルフ。

後はなるようになれ。やっぱり自分がリスクを負わない取引ってのは最高だな。

 

件のおねだりチャンスとやらが本当かどうかは知らないが、案外アポ取りはスムーズに行ったようで、ものの数十秒で俺の出禁は解除された。

 

「……ん。本邸まで今すぐ来いって」

 

「そうかい、ご苦労さん。んじゃ俺はもう行くから、お前は好きなようにしてろ」

 

「分かった」

 

縁側で立ち上がり、腕を回して固まった筋肉を解しにかかる。

さて、流石にこの格好で屋敷まで向かうわけにはいかない。最低限身仕度はしておくか。

 

廊下に引っ込む俺の前を、靴を脱いで上がったシンボリルドルフがたったかと軽快に走っていく。

 

と、行く手の突き当たりには、洗濯物を抱えて横切るアイツの姿。

 

 

「!!!!!!!」

 

 

それを認めた瞬間、電流でも流したみてェにピンと真っ直ぐに跳ね上がるシンボリルドルフの尻尾。

そしてそのまま、飼い主を出迎える犬さながらに一直線に駆け寄っていく。あっという間に角を曲がったかと思うと、けたたましい衝突音と「きいいぃぃぃぃ!!!」という歓喜の雄叫びが轟いてきた。

 

……そういや、期間についてはなんも取り決めに入れてなかったな。

今日が金曜で、さらに土日祝と最高で四日はあるわけだ。途中で満足して帰っていく可能性は……………ゼロだろうな。

 

 

ま、いいか。

後はお二人でよろしくやってくれ。

 

 

惨劇は無視して、俺は突き当たりを反対に曲がり自室を目指す。

クリーニングに出したばかりのスーツがある。とりあえずはそれを着ていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして、シンボリ邸を訪れて数時間。

俺は期待通り、夕食の席に招かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

……ただし、にんじんとミルクのスムージーを片手に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……だいたい、貴女の素行不良については私とて何度も正そうとしてきました。一向に聞き入れては貰えませんでしたが……」

 

「……仮にも組織の長たるもの、下の者の模範としてあるべき態度というものがあり……ましてやそれを諌められることなどあってはならず………それに貴女は親であり尚且つ教育者であって………」

 

「……生活の乱れは心の乱れ。精神の乱れ。まぁ、貴女にこれ以上乱れるもの等ないでしょうが、だからこそこの機会に心を入れ換えて……生まれ変わる決意を……」

 

「……だいたい、収入源を全て明かさないままに資金援助の交渉に出向かせるとはどういう了見です?お陰であの子、いよいよ後にも退けなくなって……ああ、あの子の爪の垢を煎じてそのスムージーにぶちこんでやりたいぐらいでしたわ。本当に………」

 

 

 

 

「……だる」

 

 

 

 

つい、と壁にかけられた時計の文字盤を見やると、既に二十一時をまわっていた。

 

かれこれ五時間にもわたって、ルナは説教を垂れ続けていたというわけだ。

 

「なにか言いまして?あの子に代わって、私が言うべきことを言って差し上げているというものを」

 

「おいおいおいおい。シンボリってのは他所様の家庭に首突っ込める程偉いンかよ」

 

「ルナがあそこに泊まっている以上、もう他所様ではありませんわね」

 

「ああ、そうかいそうかい………はぁ」

 

 

だる。めっちゃだる。

 

 

なんでも、シンボリルドルフのみならずスイートルナにも……と言うよりシンボリ全体に俺の矯正プログラムが周知されているらしい。

元から俺の素行の悪さに大層辟易していたコイツは、これ幸いとこうして呼び出して、性根を叩き直してやろうと意気込んでるわけだ。当然、酒なんか出てくるわけがない。

 

「言っておきますけど、ミノルもシンザンも貴女に奢ったりなんかしませんからね。既に言質も取ってあります」

 

「ウッソだろ。そりゃあ流石にやり過ぎだと思うぜルナちゃん」

 

「こんなのまだまだ序の口です。明日からは北海道でメジロ・ブートキャンプに参加してもらいますから、そのつもりで」

 

「はァ……!?」

 

メジロ・ブートキャンプとは、メジロの警備隊が実施している軍隊顔負けのスパルタ訓練である。

家同士の繋がりが深い故か、シンボリの警備隊も毎度顔を出しており、殆ど合同訓練と言ってもいい。

 

この両家の保有する戦闘集団も中々に粒揃いだ。

金にあかせて良質な装備を取り揃えているというのもあるが、聞くところによれば、生え抜きのみならず警察だの自衛隊だのから退官した連中をも抱え込んでいるらしい。そこに厳しい訓練を課すことによって、高い練度を維持してるわけだ。

 

 

んで、そこに俺をぶちこんでやろうっていう魂胆なんだな。

 

 

「無情だと思わないかい。見ろよこのカラダ……骨が浮いて足も曲がってる。あんな屈強な連中の溜まり場に放り込まれたら、こんな貧相なウマ娘なんてよってたかって虐められちまうだろ。俺はそれがもう怖くて怖くて」

 

「よくいいましたわね。初めてここに来た時、ウチの軍バやばんバたちが随分お世話になったことをもうお忘れで」

 

「とにかく、俺はそんなのは真っ平ゴメンだ。もう二度とここには来ねェ。あばよ」

 

邪魔したぜェと言い残して、俺はホールを飛び出した。

客人を招いているためか、警備の姿もそこかしこに見られたが、一切気にせずに横をぶち抜いていく。

 

声をかけてきたり、あるいは引き留めようとしてくる奴もいたが気にしない。止まれと言われて止まる俺じゃないし、ましてや追いかけっこで勝とうなんざ万年早い。

途中で捕り物に参加してきたシンボリフレンドだけは、流石中央で走っていただけあってそれなりに良い勝負をしていたものの、それでも俺を捕らえるには至らなかった。

 

 

そのまま廊下から玄関、庭、正門へと駆け抜け屋敷を後にする。

 

 

その後も何度か背後を確かめてみたものの、どうやらもう追手はいないらしい。

あのまま屋敷に泊まっていたら、次に目を醒ました時には北の大地だったろう。油断も隙もまるであったもんじゃない。

 

 

「はぁ~~~~~~~……………………」

 

 

今年一番にバカでかいため息を漏らしながら、俺はぼてぼてとした足取りで夜道を歩く。

 

 

いやー……どうすっかな。コレ。

 

完全に外堀が埋められちまったよ。

 

 

言質がどうとか言ってたわけだし、ここでシンザンやミノルの奴に泣きつくのは悪手だよな。

仮に再び同じような窮地に陥った場合、流石の俺でもあの二人相手に逃げ切れるとは断言出来ない。

ミノルはまぁ、アイツも飲んべえ仲間だからお説教ぐらいで済ましてくれるかもしれんが……問題なのはシンザンの方だ。最近、笹針師とかいう怪しい仕事に手を出していて、その被験体を欲しがってるとかなんとか。

昔のアイツならともかく、長年に渡る過酷な生徒会業務で壊れちまった今のアイツは、きっと恩師にだって手を掛けるだろう。

 

 

四面楚歌。

おまけによく思い出せば、「とりあえず月に十万」とか言ってたような。つまり、場合によってはさらに引き下げられて、しまいには全額没収まであり得るということ。

 

俺に対抗手段は……ない。

 

 

「チッ………」

 

 

分かっている。

 

全ては俺の不摂生が招いたことだ。ひっそりと愛想を尽かされるよりも、こうして構って貰えるだけまだマシだという見方だってあるかもしれない。

 

だがあの快楽……惰眠を心行くまで貪ったあと、だらしない格好で、大好物の飴を肴にクソみてェな飲み方で酒を嗜みながら、快適な居間で思う存分ごろごろする。

それを一度でも味わってしまった以上、今さらそれを手放すのはあまりにも惜しい。麻薬のようなものだ。

身体に悪いことは重々承知であるが、しかし世の中において快楽を覚える事柄には得てして不健康がつきまとうものじゃねェか。

 

「~♪~~♪」

 

寂しい気分を少しでも紛らわそうと、サンデーサイレンスの歌を鼻ずさみながらとぼとぼと夜の街を徘徊する。

ショーウィンドウに映った俺の姿は、ネクタイが緩み襟元が乱れていることもあってか、酷くみすぼらしく見えた。まるで週末のサラリーマンのような……ああ、実際今日は金曜日だったな。

 

道理で、こんな時間でも人の往来が盛んなわけだ。

 

横一列にこちらへ向かってくる、赤ら顔の群れを睨みつけて威嚇してやる。一瞬で酔いが醒めたのか、血の気の抜けた青色のまま道端に団子になって道を譲ってきた。

堂々とそこを抜けると、ふと目についたのは青と緑の蛍光色。

 

 

「………あン?」

 

 

二十四時間、三百六十五日営業。

 

疲れた大人の味方……コンビニエンスストアだった。

 

 



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サンデーサイレンスの優雅な一日(後編)

背中を丸めながら自動ドアを潜れば、出迎えてくれるのはお馴染みのメロディ。

 

手前に積まれた緑のカゴをひっつかんで、足早に店の最奥に据え置かれた冷蔵ケースを目指す。

週末の夜だというのに、人の入りは随分と少なかった。窓ガラスの向こうで、タイを緩めたサラリーマン二人が、灰皿を挟んで煙を吐きつつ談笑に興じているぐらいか。

タバコか。不良と貶されて久しい俺だが、それでもヤニはある程度慎んでいる。一応、家にはガキだっているわけだしな。

 

「~~♪~♪……~♪」

 

一節を終え、再び先頭から歌を流しつつ、ショーケースを眺めていく。

 

そういや、コンビニで買い物することもあまり無かったんだよな。

押し並べて割高だし。今となっては数百円の金額の違いを気にするような身分でもないが、いかんせん昔のスラム時代の癖が抜けねェ。

走って十分のスーパーなら手頃な価格で手に入るわけだし、わざわざこんなコスパの悪い店に用なんざ無いってこった。

 

ほら、ここに並んだ酒だってどれもこれも値札の数字をかさ増ししやがって。

自分で作った方が何倍もマシだよなァ………ああ、そういや酒造は犯罪だったか。ままならねェな。

 

 

「………ん?」

 

 

あれやこれやと眺めてると、ふと一つの銘柄が目についた。

 

アルコール度数十パーセント以上。それでいて百何十円かに収まるほど安価な発泡酒。

 

他と比べても明らかにコスパがいい。と同時に、以前とあるバラエティー番組で取り上げられていたことも思い出した。

なんでもアルコール度数のわりに口当たりが良く、ついつい飲み過ぎてしまうだとかなんとか。良く考えれば、酔うために酒を嗜んでいる俺にとってはまさしくうってつけの存在かもしれない。

ウマ娘はヒトと比較して毒素に対する抵抗力が強く、それはエタノールについても例外ではない。ならちょいとばかし、弾けても問題ないだろ。

 

「~~♪~♪」

 

ショーケースを開けて、次々と缶をカゴの中に放り込んでいく。

俺はこの銘柄をこれまで嗜んだことがないから、良し悪しについてはいまいちピンとこない。適当に、あるだけ全て詰め込んでおいた。

 

一通り漁った後、レジまでそれを持っていく。

道中、味付けうずら卵だのゲソ揚げだのと、つまみになりそうなものも見かけたのでぽいぽいと放り込む。

 

「五千八百円になります。ポイントカード等は……」

 

「……あァ。持ち合わせてねェな」

 

黒い皮造りの財布を開いてみるが、案の定こちらに携帯していたクレカも抜き取られている。

代わりに覚えのない一万円札が、十枚ほど札入れに補充されていたので、取り敢えずはそれで会計を済ませる。

 

「ありあっしたー」

 

カゴ一杯に詰め込まれた缶は、袋二つぶんに仕分けられて寄越された。

受け取ってみれば、ずっしりとした重さのままに両手の平に食い込む。こりゃヒトにはだいぶキツいだろうな。

 

のそのそと、棚の前を抜けて出口へ。

 

途中、URAとコラボでもしたのだろう、中央のウマ娘がデザインされたエナジードリンクも見かけた。

競技ウマ娘の主な収入源はレースの賞金だが、こういうきっかけで入ってくるロイヤリティもバカにならない。G1の賞金とは比べるべくもないが、塵も積もればなんとやらだ。

 

かくいう俺も、アメリカではグッズで随分と稼がせて貰ったモンだ。

人気なんてのは気紛れも良いところで、ファンなんざちょっと顔を見せてやらなきゃすぐ浮気する薄情者の代名詞だが、それでもレースにおいて身を立てる上では無視できない。

こんなコラボ缶ですら、二桁も買い漁っていくような財布の口が緩すぎる連中だっているわけだしな。もっとも、今の俺は人のこと言える格好じゃないが。

 

「~♪~~♪」

 

ガシャガシャと袋を騒々しく揺らしながら、喧騒に包まれた街を道なりに進んでいく。

 

そう言えば、この近くにはデカい駅があるんだったな。たしか、この大通りを数百メートル後ろに向かった突き当たりだ。

線路を挟んで住宅地と繁華街がそれぞれ広がっており、今こうして歩いているのは後者のエリアとなる。

これまた随分と栄えているが、そのぶん治安が悪くなるのも宿命だろうか。先程からちらほらと、歩哨している警官の姿が目に入る。

 

そしてそれを気にも止めず、向かいから肩で風を切りつつ近づいてくる学生の群れ。

 

イワシみてェだな、なんて思いながらなんとはなしに目で追っていると、それが気に障ったのかリーダーらしき先頭の輩が一直線にこちらへ詰め寄ってきた。

 

「おい。音痴の癖にゴキゲンに歌ってんじゃねぇよ。迷惑だろうが」

 

「~~♪………………ア"ァ?」

 

「あ、じゃねえって。なに、喧嘩売ってんの?いきなりガンつけやがってさぁ。ウマ娘ってのはそんなに偉いワケ?」

 

 

んだクソガキ。

テメェこそ、ンな腐った声でキーキー喚いてんじゃねェよ。チビザル共が。

 

こちとら現役時代、嫌々ながらアイドルの真似事をさせられてたんだぞ。

つーか目があっただけで絡んでくるとか今日日あり得んのかよ。ウマ娘を相手取る度胸だけは評価してやらんこともないが、おおかた袋で両手が塞がってるのを好機と見ただけだろうな。

 

お花畑が。これまで一度だって、ウマ娘に蹴られた覚えがないんだろう。

なんなら本当に喧嘩を売ってやろうか。ただし、俺なりのやり方で。

 

…………いや、それも賢くないな。

 

〆るのは容易いが、しかし余りにも人目につきすぎる。

普段はんなことも気にしないが、生憎ここは警官が多い。万が一にも面倒になれば、身元引受人は間違いなくシンボリになるだろう。

追手は撒いたとはいえ、ここはまだ連中のテリトリー。あっという間に屋敷へと連れ戻され、そのまま梱包されて北に出荷されることとなるのがオチだ。

 

「■■■■。■■■■■■■■。■■■………        

 

故に、ここは穏便に済ませてやる。

暴力の代わりに、公表されればイメージ損失まっしぐらな、聞くに耐えないスラングを早口で捲し立ててやった。

 

もっとも、俺に今さら損なうだけのイメージがあるかは甚だ疑問だが……ああ、そう言えば昔、ライブの間奏でコレやった時には優勝レイ剥奪されたんだったか。

品位がどうとか。ならさっさと薬のアレコレをどうにかしろって、理事会の連中に声を大にして言ってやるんだったな。俺は正々堂々と戦ってたってのによ。

 

「……んだよ、ガイジンかよ。コイツら見た目で区別つかねぇんだよな。萎えたわもういいよ行こーぜ」

 

言葉が通じないと見るや否や、取り巻きを引き連れてさっさと横を抜けていくガキ。

 

外国語で捲し立ててやれば、ウザ絡みをほぼ確実にいなすことが出来る。俺がニホンに来て最初に会得したライフハックだ。

最近じゃあ、この国でも英語を解する連中が増えてきて、少々効き目の程も怪しくなってきたが。とは言えあの頭空っぽなツラを見る限り、アイツらは違うだろうと踏んでみれば案の定だった。

無論、仮に勉強熱心だったところで、スラムの身内言語を知る機会なんざ無いだろうが。

 

「はぁ……………だる」

 

子供には財布を握られ、息子を売って掴んだ夕食の席では酒にありつけず、おまけにクソガキに絡まれる有り様。

一発ぶん殴りもしなかったせいで、行き場を失くした加虐心だけがむらむらと胸の縁でとぐろを巻いていた。

 

 

それを噛み殺しつつ、コートの裾をはためかせながら帰路を急ぐ。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「………………………」

 

 

 

ひたすら心を無に保ち、足早に道を辿ること一時間弱。

 

 

ようやっと、自分の城まで帰ってきた。

ぽつぽつと部屋についた灯りは、はてさて一体誰のものか。

 

両手が塞がっているので、乱暴に音を立てつつ足で扉をスライドさせる。

最悪、締め出されていることも心の片隅で覚悟していたが、どうやら杞憂だったらしい。

 

「大黒柱さまのお帰りだぞー。出迎えの一つもねェのかァ。おーい」

 

駄目だ。全く返事がない。

ふん、いいさ。わざわざ玄関まで出てくることなんざ端から期待してねェよ。

 

ガシャガシャと缶を打ち鳴らしながら、真っ直ぐ居間の方へと向かう。

まったく。今日はずっとここでごろごろしている予定だったのに、とんだ無駄足を踏まされたもんだ。相変わらずぎしぎしと悲鳴を上げる板の音にも、趣を感じている余裕は既に無くなっている。

 

玄関と同じく足で襖を開くと、予想に反してちゃぶ台には誰もいない。カフェも息子二人も、この時間は部屋に籠っているか。

その代わりと言ってはなんだが、奥にある俺の座布団を枕にのんびりと寛いでいる一匹のウマ娘。

 

「あ、お帰りなさい」

 

「お帰りなさいじゃねェだろ。なに勝手に家主のスペースに居座ってやがる。図々しいにも程度ってモノがあンだろ」

 

「なに、その言い方。ルナのおかげで本邸に入れたんだから、こう、もっと感謝してくれたっていいんだよ?」

 

「礼を言うことなんざないな。まったく。お陰で酷い目にあった。お前の母親は加減ってのがまるで分かっちゃいない」

 

座布団のすぐ側に袋を放り投げれば、缶同士の互いに衝突し擦れ合った金属音が凄まじい音が炸裂する。

耳元でそれを聞かせられたシンボリルドルフは、それはもう不快そうに顔をしかめつつ渋々そこから退いた。最後っ屁とばかりに忌々しそうに睨み付けられるものの、一切反応をやらずにコートをその場で脱ぎ捨てる。

 

そのまま袋に手を突っ込んで適当に缶を引っ張り出し、ついでにつまみも取り出して開封する。

座布団に胡座をかいてみれば、ズボン越しに尻に生暖かく伝わってくる体温の残り。さてはこのガキ、少なく見積もっても三十分はここで寝ていたな。

 

「ってか、なんだよそのカッコ。裾がダボダボじゃねェか。みっともない」

 

「貴女にだけは絶対に言われたくないんだけど……仕方ないでしょ。だって、着替えなんて持ち合わせていなかったんだから」

 

「んで、アイツから借り上げたってわけだ」

 

「違うよ。お願いしたらくれたの。『コレあげるから、他についてはもう見逃して下さい』って言ってたもの」

 

「そりゃ、おねだりじゃなくて脅迫って言うんだぜ」

 

「えへへ。ねぇ、これってもしかして、彼シャツってやつかな。ふふ」

 

「あー……ああ、はいはい。そうかもな。おめでとさん」

 

たかだかシャツ一枚で大満足とは、なんともコスパのいい女だことで。

 

ぶかぶかの袖をふりふりとさせてその場で三回転。さらに胸元を引き上げて残り香を嗅ぎ、一人で頬を紅潮させている。

……よく見ればそれ、今朝からアイツが着てたやつだ。

 

ウマ娘は嗅覚が鋭く、体臭やフェロモンを感知する能力も優れている。

この辺り、ウマ娘と婚姻した者がまず浮気出来ない理由でもあるわけだ。ほぼ百パーセント見抜かれるからな。

 

「ふん」

 

まいいか。折角だし、目の前でシャツと戯れるシンボリルドルフの一人芝居を肴にでもするとしよう。

 

プルタブを上げ、一気に中身を喉の奥まで流し込む。

 

……悪くはないな。良くもないが、価格も加味してぎりぎり及第点はやれるだろう。

 

俺はあの三本足と違って、酒の質についてはそこまで拘らない。

大して目利きが出来る方でもないし、正直酔えさえすればなんでも良いだろうと考えている部分もある。

しかしそんな俺でも、普段のそれなりに値が張る銘柄とは比べるべくもないことが分かってしまう。要するにその程度だ。安かろう、悪かろうを地で行くスタイルなんだろう。

 

 

ただまァ、それもそのうち慣れるか。

 

 

慣れさえすればなんの問題もない。

割高なコンビニではなく、いつものスーパーで買い求めりゃ十万でも十二分に遣り繰りがきく範疇だろう。企業努力様々だな。

 

「あ、そう言えば思い出したんだけどね。さっきお風呂に入ったときなんだけど、ちょっとひと悶着があって。ルナとは一緒に入れないって。母さんにぶん殴られるからって断られちゃったの」

 

「そりゃそうだろ」

 

「だから私、ちゃんと許可は貰ってるって、貴女との"取引"のいきさつ、全部話しちゃったから。そしたら納得して貰えた」

 

「そうかいそうかい。良かったじゃねェか。めでたいめでたい。お前らの行く道に幸多からんことを」

 

「それでね。あの人、すごく怒ってたよ。帰って来たら覚悟してろだって。私は、貴女はメジロに行くからしばらく戻らないよって言ったんだけど……なんで帰ってきたのかな」

 

「………さぁな」

 

やっぱりお前、ルナが網張ってること知ってやがったな。

最初からグルだったわけだ。結局コイツはあの一回限りのおねだりのチャンスとやらも使わず、なにも失わないままちゃっかりと利益だけを上げている。

挙げ句にこうしていけしゃあしゃあと俺の前に顔を出しているわけだから、ホントふてぶてしいと言うか、面の皮が厚いと言うか、心臓に毛が生えていると言うか………。

 

 

……あーあ。それはそうと、これもうお小遣い全額没収ルートだろ。

 

やってらんねェ。午後だけで面白い程状況が悪化していくな。

仕方ない。一先ずは俺の負けを認めよう。明日からはちゃんといい子に生まれ変わることにする。お試しで三日間続けてみれば、あちらさんにも心変わりが起きるかもな。

 

 

だから、今日が好き放題出来る最後の日だ。

 

まずは没収される前に、ここにある酒を全て飲みきってしまおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………んあ」

 

 

頭が重い。

 

……ああ。寝落ちしてたのか、俺は。

 

「ぐうぅ……」

 

 

日光が瞼を貫き、軽やかな小鳥の囀ずりが届く。

 

もうとっくに夜は明けていて、シンボリルドルフの姿もどこにもない。

 

 

あるのはぐしゃぐしゃに握り潰され、畳に散乱した空き缶ばかり。

 

 

「何時……何時だ。今………」

 

「昼の十二時ですよ。母さん」

 

独り言に返事が帰ってきたことを不審に思い、ぼやけた視界で前を見上げると、我が家の大蔵省がとことんまで呆れ返った瞳で俺を見下ろしている。

 

目があった瞬間、魂が抜け落ちるかのごとき特大のため息を溢しながら、取り上げた通帳やカード類を投げ渡してきた。

 

「……そっか……俺は、いい子になれたってわけか……」

 

「んなわけないでしょう。逆です……もう、諦めました。まさか初日からこんなものに手を出すなんて」

 

俺のうわ言をぴしゃりと遮り、散らばった空き缶を拾い集めながら苦々しげに絞り出されたのは投了の宣言。

 

「匙を投げるわけかい」

 

「節度を守って、どうぞご自由に」

 

つっけんどんな態度。そっか、とうとう見捨てられちまったわけだな。

 

胸によぎるのは一抹の寂しさと………首輪が取り払われたことによる、これ以上ない解放感。

 

 

「っしゃ!!!」

 

「……………………」

 

 

 

呆れ顔の息子はその場において、俺は意気揚々と廊下に飛び出した。

 

 

 

 

 

いい子に生まれ変わるのはもう止めだ。

 

 

さて、まずは一風呂浴びて、さっぱりと酔いを醒ますとでもしようか。

 

 



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ミスターシービーのお引っ越し(前編)


一人暮らしだと判明したので。




ほとんどウマ娘の姿も見当たらない、ソファの立ち並ぶ早朝の美浦寮のロビー。

毛の長い真っ赤な絨毯敷きの床に、電球色の優しい灯りが天井から降り注ぐ。

 

それを一身に浴びながら、土間に降り立ったシービーはふわりと、儚げに私たちに向かって微笑んでみせた。

 

「じゃあね、バイバイ……トレーナー。それにルドルフ」

 

その腕に抱えられた段ボールをよく見れば、かつてルドルフが入寮した際に勿体ないからととっておいたもの。

どこか色褪せたそれは、二人が共に暮らした時間の長さを目に訴えかけてくる。

 

離別の言葉に、なにか感じ入るるところでもあったのだろう。

私の後ろに控えていたルドルフが、一歩踏み出てゆるやかに腕を組む。そのままこてんと首を傾げて、落ち着いた笑みをシービーへと向けた。

 

「会者定離。とは言え、これからは寂しくなるな。四年間もこの寮で寝食を共にしてきたのだから、当然の話なのだろうが」

 

「そうだね。とっくに覚悟していた筈だったんだけど。それでもやっぱり……いざお別れとなると寂しいかな」

 

「初めこそぶつかり合いもあったにせよ、私にとって、既に君は日常の一部となっていた。ここに至って、ようやくその事をしみじみと実感しているよ」

 

「アタシもね。それにしても、ぶつかり合いか……その後が強烈すぎて忘れかけてたけど、うん。懐かしいね、やっぱり」

 

「昨年には寮長がヒシアマゾンに代替わりしたが、彼女はあの事件のことを知らない。そもそも入学すらしていなかったのだからな。……ふふ、私ももう古参と言うことか」

 

一言一言、噛み締めるように内心を吐き出していくルドルフ。

基本的に過去を振り返らない性分であるから、彼女のそんな姿を見るもの珍しい。天窓から射し込んだ日の光が、伏せられたその顔をふんわりと包み込む。

 

人気のない、静謐を湛えた夜明け直後のロビー。

淡い光に包まれながら微笑み合う光景は、隣で見守る私の心を容赦なく掻き立ててきた。

 

慌てず、それにしっかりと蓋をしておく。

 

「そうそう。キミはもうぴっかぴかの新入生じゃない。とっくに上級生なんだからさ、だから、アタシがもう居ないからって泣いちゃダメだからね?」

 

「まさか。むしろ清々しているぐらいだ。気ままに一人部屋を満喫させてもらおう」

 

「まったく、可愛げのない後輩だこと。それはそうと……ねぇ、トレーナー。キミからもなにか言っておくことはなぁい?」

 

こつこつと靴先で石畳を小突きながら、こちらに水を向けてくるシービー。

 

飄々と唇を吊り上げながらも、その尻尾はそわそわと、右に左に揺れていた。新しい船出を前にして、期待と興奮でさぞ胸を膨らませているのだろう。

 

 

今日。

シービーは青春時代の大半を過ごした、この美浦寮から巣出っていく。

 

 

 

引っ越すのだ………………学園から、徒歩三十分圏内にあるマンションへと。

 

 

 

「……三十分後にはトレーニング始めるからな。遅れるなよ」

 

「えっー!!もっとこう、なんかあるでしょ?情緒的な別れの言葉が」

 

耳を倒し、ぷんすこと頬を膨らませる我が担当ウマ娘。

ひどくご立腹な様子だが、しかしそんなことを言われたところでこちらとしては困るだけ。

 

「いや、だって、私にとってはこれまでもこれからもそう変わらないし」

 

数年間、一つ屋根の下で暮らしてきた同居人であるルドルフはともかく、寮への侵入を『原則として』禁じられている我々トレーナーからしてみれば、担当ウマ娘の私生活はさほど関知するところではない。

例えばテイオーにしたって、そのプライベートについては私よりもマヤノトップガンの方がずっと詳しいだろう。

 

もしこれが、車で何時間もかかる新居からの通学であれば多少は違っただろうが。

現実にはせいぜい学園まで数キロ程度であり、ウマ娘の足なら十分もかからずに行き来が可能な範疇である。正直、トレーニングのスケジュールを練る上では、寮にいられるのと大して変わらない。

セキュリティ云々の事情についても、それは事務方の掌握する業務であって、トレーナーからしてみれば全く関係がなかった。

 

「そこをなんとかさ。ほら」

 

「そうだな。強いて言うなら私も清々しているよ。これでもう、爆発と懲戒の恐怖に怯えながら夜を迎えることはなさそうだから」

 

先輩を見てみろ。あまりにもタキオンがやらかし過ぎたせいで、先日とうとう中央諮問委員会にまで出頭を命じられていたぞ。

 

ましてやこの二人、タキオンよりもさらに世間からの注目が高いのだから。

なにかが起きた場合、流石にクビは切られないとしても、監督不行き届からチームトレーナーとしての資格を剥奪されるぐらいは十分あり得る。なにしろ、彼女たちには前科があった。

 

……まぁ、先輩や沖野トレーナーのチームが未だに解散に至ってない辺り、私の気にしすぎかもしれないが。

いずれにしても、これにて私の胸のつかえがようやく取れるのだ。ああ、本当に清々する。

 

「もういいよ!トレーナーの意地悪!そんなに言うなら、お望み通りさっさと出ていってあげる。新居にだって絶対に招待してあげないから!」

 

ぷりぷりと、肩を怒らせつつ大股で玄関から去っていくシービー。その尻尾も「アタシ怒っていますよ」と言わんばかりに、盛大に毛を逆立てて振られている。

 

「……まったく、トレーナー君も人が悪い。いくら時間が押しているとは言え、あんな突き放すような言い方は感心しないよ」

 

「ああでもしないと、いつまでも出ていかないだろう。名残惜しいのは分かるが、かれこれ一時間も渋っていたわけだし」

 

「それはそうだが………」

 

「気持ちは分かるんだけどね」

 

トレセン学園の生徒にとって、学生寮とは特別なものだ。

殆どの者が初めて経験する親元から離れた暮らしであり、競技ウマ娘としての青春における一つの象徴に他ならない……と、かつて誰かから聞いたことがある。

それにシービーは一人っ子。群馬に生まれ、北海道に引っ越したというが、どちらでも集団生活には縁が無かったらしい。だからこそ、ここでの日常にはかなりの思い入れがあったとか。

 

そう言えば、栗東との対抗レースでも率先して前に出ていたな。それだけ美浦への帰属意識が強かったのだろうか。

 

「三冠バが抜けたとなると、今後の寮対抗はまた不利になるか。まだルドルフがいるとはいえ」

 

「向こうもブライアン一人なのだから、これでようやく釣り合いがとれるということさ。それはそうと、"また"とはどういう意味かな?」

 

「ああ。君が入学する前年にも、マルゼンスキーが美浦を抜けてね。あの時は阿鼻叫喚だった……それと比べれば、今回は随分穏やかだったものだな」

 

元々、美浦は栗東と比べて勢力が弱い。

だからこそ、これまでエースを張っていたシービーの離脱は大損害なのだが。それでも落ち着いているのは、やはりルドルフの存在感故だと思う。

史上唯一の無敗三冠かつ七冠ウマ娘、尚且つ現役の生徒会長という肩書きは、この中央においても唯一無二。それが美浦に籍を置いているだけでも、寮生の間に一定の安心感が生まれるのだろうな。

 

勿論、シービーとて引き留められるには引き留められたが。

しかし彼女は、自分自身の意思によって、それらの制止を振り切り出ていってしまった。

 

本人から伝えられたところによると、一人暮らしそのものはずっと昔から意識していたらしい。曰く、マルゼンスキーからあれこれ話を聞く中で、その自由っぷりに憧れを抱いたとか。

ただ、思い立って即実行という程のものでもなかったらしく、計画を立てつつも面倒くささやらが先んじて何年も塩漬けになっていた。それが先月になって急に目処がたち、遂に実行に移したのだと。

 

「それはそうと、彼女の後釜については聞いているのかな?」

 

「いや、聞いていないよ。候補がいるのかも分からない……テイオーも栗東に行ってしまったからな。だから当分の間は、私も一人暮らしとなるだろう」

 

「そうか」

 

なら、私がここに足を運ぶ機会もだいぶ減るだろう。

 

二年前から原則トレーナーは立入禁止だというのに、私の場合は今でも頻繁にこの玄関を行き来している。言うまでもなく、その原因の大半は二人の結託にあった。

お陰でもう、ここの廊下を歩いたところで誰も気に留めない有り様。新入生ですら同様な辺り、どうやら寮全体で私の存在が周知されてしまっているらしい。

 

断れば逆に向こうからトレーナー寮へと侵入してくのだから手に負えない。

しかしこうして片割れが姿を消した以上、ルドルフとてそう無茶は出来なくなるだろう。めでたしめでたし。

 

「さて、厄落としも済んだことだし。さっさとグラウンドに行くとするか。テイオーだって待ってることだろう」

 

「了解した。ところで、先程のあの言葉……やはり本音だったんだな………」

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日が経った、土曜日のこと。

 

朝一番に、私のウマインにシービーから自宅に誘う旨のメッセージが届いていた。絶対に招待しないのではなかったのか。

とは言え、私としてもちゃんと自活出来ているか心配ではあったので、今こうして彼女の新居へと向かっている。

 

知らされているのはマンションの名前と部屋番号だけだが、それで迷うこともない。

なにしろ、その行き先はこれまで数え切れない程訪れた、駿川たづなが居を構えているマンションなのだから。

 

この度の引っ越しにおいて、シービーに部屋を紹介したのがたづなさんだった。

中央に所属するウマ娘は、いずれも学園にとってかけがえのない生徒であるが、やはりミスターシービーともなると一層の保護が必要となる。彼女自身を守るためだが、一方でそれがシービーの新居探しにおける大きなネックとなっていた。

だが理事長秘書が紹介し、本人も実際に暮らしているここなら不足はないだろう。そのぶん高くつくものの、シービーの稼いだ賞金だけで余裕で賄える範疇である。

 

 

むしろ気がかりなのは、新生活の中身である。

 

シービー自身かなり器用で、大体のことは自分でこなせる能力はあるのだけれども。ただ少々、ずぼらと言うか、手を抜きがちな部分があった。

良くも悪くも他人の目がない一人暮らしにおいて、健全に自立出来ているのかどうか。余計なお世話かもしれないが、なにかあってからでは遅いのだから。

一応、学園でのここ数日間は至って変わりなかったので、きっと杞憂なのだろうけども。

 

 

目的の階でエレベーターを降り、告知されていた部屋番号を目指す。

401。奇しくも美浦寮の時と同じ数字の並びであり、ここでは駿川たづなと同じ階層でもあった。出来ればたづなさんに様子を見て欲しかったし、彼女自身そのつもりで紹介したのだろうが……生憎、この一週間は理事長と共に出張中なのだ。

 

 

無事扉の前に辿り着き、インターホンを鳴らす。

 

「シービー?来たぞ」

 

 

 

……出ない。

 

 

 

もう太陽が完全に顔を表している時刻とは言え、休日にしては早すぎたか?

念のためもう一度ボタンを押すが、やはり応答がない。

 

……仕方ない。

 

出禁宣言に反して、初日のうちに合鍵は渡されていた。これを使おう。

 

「入るからな」

 

そう添えて扉を開けてみれば、チェーンが掛かっていないことに気づいた。

 

不用心だなと思った直後、それ以上の違和感に目の当たりにする。

 

 

物が少なすぎる。

必要最小限。生きていく上での、本当に最低限のものしか廊下に見当たらない。

余りにも生活感が無さすぎる……彼女が引っ越して、既に何日も経っているのに。

 

「…………シービー?」

 

無性に嫌な予感がして、速やかに鍵を閉めて中に上がる。

脱ぎ捨てた靴を揃えることすらしないまま、足早に廊下を抜けてリビングの中へと駆け込んだ。

 

「なっ………!?」

 

 

そこで私を出迎えてくれたのは、あまりにも衝撃的な光景。

 

 

部屋一杯に散乱した段ボール。

開封済みの物もあれば、ガムテープで封じられたものまで。割合としては、後者の方が大きい。

 

部屋の隅には家具が放置されており、まるで使われた形跡がない。

乱雑そのものだが、窮屈さを感じないのはそれ以外に殆どなにも見当たらないからだろう。

 

例外と言えば一つだけ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「………………………くぅ……」

 

 

段ボールの山の中……少しだけ空間を作り、そこで布団に丸まるシービーだけだった。



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ミスターシービーのお引っ越し(後編)

 

「いやーごめんね。呼んでいたのはちゃんと覚えてたんだけどさ、だけど待ってる間についうとうとしちゃって」

 

布団の上で胡座をかきながら、ついでにばつの悪そうに頭も掻きつつそう宣うシービー。

 

仰天しつつも叩き起こしてから既に一時間。

ようやっと頭が冴えてきたのか、次第に口もよく回るようになっていて、先程からつらつらと弁明をたて並べている。

 

「あ、チェーンもいつもはちゃんと下ろしてるよ?だけど今日はキミが来るから、朝起きて外しておいたの」

 

「で、そのまま二度寝を決め込んだと」

 

「だって土曜だし」

 

まぁ、それについては別にいい。

休日の過ごし方なんて人それぞれだからな。チェーンについても不用心だとは思うものの、そこまで責め立てるつもりもなかった。

 

そんなことよりも気になるのは、やはりこの部屋の状態。

布団の他には、ウマホに充電コード、目覚ましに歯ブラシやコップ、筆記用具といった小物。それからジャージや制服、部屋着に寝巻きなどの衣装、タオルが何枚かと言ったところか。

探せばまだあるだろうが、結局どこまで行っても寒々しいの一言に尽きる。断捨離とかそういうレベルですらなく、ほんの数日とはいえよく生活出来ていたものだと一周回って感心してしまう。

 

「なんだこの有り様は。まるで引っ越し直後じゃないか」

 

「いやぁ……ホントはね、初日に全部片付けちゃうつもりだったんだ。ただ、学校終わりだとどうしてもやる気が出なくて、億劫で、それで……」

 

「それで、ずるずると何日間もこの状態のまま放置していた、と」

 

「えへへ。うん」

 

「…………………………」

 

 

言葉が出ない。

 

いや、一応ベクトルとしては予め想定していた部分とほぼ同じだが。

問題はその程度であり、あまりにも想像の遥か先を行っていた。

 

いや、まぁ……気持ちは分かるが。

 

ただでさえ面倒極まりない引っ越し後の荷解き。

授業とトレーニングをようやく終えた帰宅後に取り掛かろうとなれば、誰だって気が重くなるだろう。いくらウマ娘が、肉体的にヒトと比べて遥かに強靭であると言ってもだ。

だとしても、なにも手つかずでは生活もままならないので、一先ず必要なものだけ整理することになるだろうが。

 

本当に、ここまでの必要最小限で満足しているとは思わなかった。

いや、満足しているというよりかは、荷解きの手間と比較検討した上で渋々ながら妥協していると表現する方が的確かもしれない。

妥協出来ている時点で問題なのだが……。

 

「……なぁ、今日私を呼んだのも、まさかこの片付け手伝わせるためだったり……?」

 

「ま、まさかぁそんなわけ……ホントだよ?昨晩だって、今度こそ手をつけようとしたんだから」

 

「なら、どうして客を招いたりなんかしたんだ」

 

「誰かがここに来るって分かってれば、無理やりにでも気合いを入れられるかなって」

 

成る程、発破がけに使うつもりだったんだな。

一度でも停滞を良しとしてしまった以上、そうやって強引に環境を変えて自分を追い込んでいくのも一つのやり方だろう。

 

「そのわりに進捗は見られないけど?」

 

「う……ほら、寝る前の数時間頑張るよりも、休日に一日かけて取り組んだ方が効率的かなって。だから、キミを呼ぶのは明日の方が良かったかも」

 

「はぁ…………」

 

今さら効率がどうこう言ってられる場合じゃあるまいに。牛歩の歩みに目をつむってでも、まずはなにかしらの行動を起こすべきだったんじゃないのか。

 

以前ネットかなにかで見たことがあるが、思い立ってから七十ニ時間以内に行動しないと、そのアイデアは死ぬまで実行されなくなるらしい。

それが真実か否かはさておいて、このままだと彼女は来週も来月も、きっと来年も同じ事を言い続けるだろう。

 

「……ああ、分かった分かった。手伝うよ、もう。君はともかく、私はこんな部屋に一日だって居たくない」

 

「あ、ありがと……あはは、結局甘える形になっちゃったかな」

 

「むしろもっと早くに頼って欲しかったんだけどね」

 

呼んでくれれば、私とルドルフなら手伝ってやれたものを。一人暮らし経験者として、きっとマルゼンスキーだって手を貸してくれたことだろう。

ウマ娘が三人もいれば、単身の荷物なんてあっという間にかたがつく。

 

入学式を終えて一週間。

さらに仮入部としてテイオーを迎え入れている今、私もルドルフも決して暇な立場ではない。

とはいえ、同じチームの仲間の危機を見過ごす筈もないというのに。

 

 

一応、今からでも呼んでみるか。

かえってますます事態を悪化させかねない問題児連中と、仮入部に過ぎないテイオーは除外して……まずあの四人にでもあたってみよう。

 

 

ウマインを立ち上げて、ルドルフとマルゼン、それからカフェとエースへこの部屋の画像を添付して救援を送ってみる。

 

土曜の午前だというのに、ものの一分も経たずに既読がついた。

 

「駄目か……」

 

しかし、返ってきたのはどれも断りのメッセージ。

ルドルフは生徒会の仕事、マルゼンは湾岸ドライブでエースはその付き添い、カフェはタキオンの実験の協力でそれぞれ予定が埋まっているらしい。

 

まぁ、仕方ない。

折角の休日なのだから、それぞれに計画があるのだろう。四人とも全滅なのは少し意外だが……。

 

礼の言葉を返したあと、ウマインの友達欄をざっと眺めてみる。

 

テイオーはやっぱり駄目だな。

トレーナーと先輩の手伝いなんて言われたら、彼女の立場からしたら断りようがない。

 

よく考えれば掃除に近いわけだし、エアグルーヴに協力願おう。それからブライアンにも。

 

「…………こっちもか」

 

エアグルーヴとブライアンは、二人ともルドルフの付き添いで地方視察に赴いているらしい。全員、月曜までは学園を留守にするとか。

 

……しかし、そんな大規模な出張があるなんて聞いてなかったぞ?

 

確かに、視察は生徒会役員の業務ではある。ただこういう場合、副会長のどちらかを最高責任者として残していくものだ。三人全員が向かうというのは、要するにそれだけ大きな仕事だということ。

おまけに今は、理事長とその秘書も出張中じゃないか。理事会と生徒会、その両方が揃って不在なんて……あり得るのか?

 

「……………………」

 

込み上げるざわつきに蓋をしながら、手当たり次第に他をあたる。

荷解きの手伝いを求めるのではなく、本日の予定の有無について探る形で。

 

 

ビゼンニシキ、オグリキャップ、タマモクロス、スーパークリーク、イナリワン、ベルノライト、フジマサマーチ、ゴールドシチー、シリウスシンボリ、ナカヤマフェスタ、フジキセキ、ヒシアマゾン、桐生院葵、ハッピーミーク………

 

街に買い出し中、カサマツへの顔見せ、その付き添い×5、春の特集に向けた撮影、地方航空局への審査請求、徹マン明けでこれから就寝、寮の部屋割りについての会合×2、水族館デート………

 

先生は学会への出席、先輩はまたしても中央諮問委員会に出頭を命じられたとか。二人とも既に府中にはいないらしい。

 

 

「……………………???」

 

 

全員が全員、今日一日予定が埋まっている。

 

あり得……なくもないのか?

 

休日ぐらいゆっくりと羽を伸ばそうなんて、そんなスタイルが学園に似つかわしないのも確かではあるが……。

 

 

 

 

「おーい、トレーナー……? 手伝ってくれないの?」

 

私の前で手をかざしながら、そう呼び掛けてくるシービーの声に現実へと引き戻される。

 

「ああ、すまない。量が多いから、他の人の手も借りようかと」

 

「ふーん。それで、良い返事は貰えたの」

 

「いや、断られてしまったよ。誰にも都合がつかなかった」

 

「でしょうね。皆この時期は忙しいから」

 

私の報告に微塵も驚いた様子を見せず、シービーは踵を返す。そのまま足元の段ボールに取り掛かり、べりべりとガムテープを剥がしていった。

ようやく……本当にようやくやる気が出てきたと言うことか。なら、この機を逃さずに終わらせてしまおう。

 

 

釈然としない気持ちを燻らせながら、私もその後に続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………ふぅ、いやー……片付いた片付いた。ありがとうね、トレーナー」

 

「どういたしまして。思っていたよりは少なかったな。特にこまごましたものは」

 

「うん。寮を出る時に大半を実家に送ったからね。必要になったらまとめて届けて貰うよ」

 

ゆるゆると頷きながら、私は大振りに肩を回して上体も捻る。

いくら荷物が少ないと言っても、重労働であることには変わりない。心地よい疲労と達成感を存分に噛み締める。

 

作業開始から十時間。

飲まず食わずで取り組んだお陰か、二人がかりでもどうにか一日で荷解きを終らせることが出来た。無機質だったリビングは、少々ぎこちなくも生活感溢れる空間に様変わりしている。

たづなさんの家に何度も寝泊まりさせて頂いたお陰か、間取りについては完璧に把握していたので作業も捗った。

 

唯一手間取ったのは、シービーが頑なに寝室へと立ち入らせなかったことだ。

寝室関係の荷物にも決して手を触れされてくれなかったため、その量もあって大いに時間を食ってしまった。

大人びてはいるが彼女とて立派な女子高生なわけだし、男である私に見られたくないものでもあったのだろう。

 

 

なにはともあれ、一件落着だ。完全に日が落ちる前に終わらせられて良かった。

リビングの大窓の向こう、地平線に沈みかけた太陽の閃光に目を細める。

 

 

ピンポンと、不意に玄関のチャイムが鳴った。

 

 

「あっ、さっき呼んでおいたデリバリーが来たかも。アタシが出てくるから、トレーナーは適当に座っておいて!」

 

「あ、ああ………」

 

壁のモニターに足を向けた私の進路を遮って、慌ただしく玄関へと走っていくシービー。

勢いよくリビングの扉が閉められ、一人取り残されてしまった私は仕方なくソファへと振り返る。

 

と、方向転換の最中、寝室に繋がる扉が僅かに開いているのが見えた。

 

 

……せっかく整えたばかりのリビングに、あんな中途半端な様子は勿体ない。

 

入るなと言われてはいるが、別に扉を閉めるぐらいなら許されるだろう。

布団で寝ていたぐらいだから、きっと一度も使ってはいないだろうし。

 

 

そっとドアノブを握る。

そのまま手前に引こうとして、なんとはなしに顔を上げて。

 

 

「……え?」

 

 

隙間から見えてしまったのは、綺麗に整えられたベッドと

 

その上には、無造作に放り投げられた鎖。先端に繋がった分厚い足枷、鈍色の光を放っていた。

目を凝らしても、真っ暗な部屋の全貌は分からない。寝室の窓は、一面段ボールで覆われている。

 

それでも辛うじてリビングの光が届く、部屋の中央には一つのモニター。

 

 

 

「なにを……」

 

 

 

 

 

「知っておくといいトレーナー君。猫に九生あり。さりとて、好奇心は猫をも殺すんだ」

 

 

 

 

固まった私の肩に手をかけるのは、今日この家には存在しなかったはずの声。

 

 

 

 

それに振り向いた次の瞬間、私の視界は暗闇に閉ざされた。

 

 

 



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第二章
禍福は糾える縄の如し


昔々、中国の北端での話。

国境の近くで、とある老人がウマ娘と二人で暮らしていたそうな。

 

しかしあるとき、件のウマ娘が畑仕事中にふらっと姿を消してしまう。

みんなが老人に同情したが、彼はそのことを幸運が訪れる前触れだと告げた。果たしてそれは正しく、しばらくして消えたウマ娘はもう一人立派なウマ娘を連れて帰ってたそうな。

そこでみんなが祝福すると、今度はそれを不運の兆しだ」と答える。実際、その日のうちに老人の息子が駆け足のウマ娘と接触、不幸にも足の骨を折ってしまったらしい。

またまたみんなが同情すると、老人はこれを吉兆だと言うのである。事実、息子はその怪我のおかげで、直後に生じた戦争に行かずにすんだのだった。

 

人間万事塞翁がウマ娘。有名な故事成語の一つ。

 

すなわち、我が身に振りかかった出来事、それが幸いとなるか災いとなるかは容易に判断しがたいという教訓である。

禍福は糾える縄の如し。人生における幸不幸は寄り合わせた縄のように、容易く表裏に転じて予測がつかないものなのだ。

 

 

 

 

 

 

であるならば、罠に嵌められ、足枷で拘束され、担当ウマ娘の自宅の一室に監禁され、恐らくは学園全員から見捨てられた現状についてもまた、幸運の前触れであると捉えるべきだろうか。

 

 

………そもそも上がり目があるのかな、これ。

 

 

取り敢えずがちゃがちゃと、足錠に繋がった鎖を全力で引っ張ってみるものの、やはりと言うべきかびくともしない。

どうやら特殊な合金で構成されているようだ。其処らの雑貨店で投げ売りされているジョークグッズとは比べるべくもない。恐らくはウマ娘用の拘束具だろう。

まぁ、拘束具といっても収容施設で用いられている本格的なものではなく、少々特殊な男女の営みと言うか、いかがわしい行為で使用される製品だろうが……腐ってもウマ娘を対象としているだけあって、ヒトの力ではどうにもならない。

 

体感にしておよそ数十分、死闘を繰り広げていたがとうとう諦め、新品のベッド上に寝転がる。

ずた袋を被せられている内に、ポケットのスマホも取り上げられてしまったようで、本当にやることがない。

 

 

暇をもて余しつつ、ぼうっとシミ一つない天井を眺めること数分。

とたとたと、一直線に近づいてくる二人ぶんの足音。

 

「ただいまー、いい子にしてた?」

 

「寝ていたかったら、もう少し寝ていても良いんだぞ。トレーナー君」

 

威勢のいい声とともに扉が開かれ、寝室の照明が点灯した。

 

一瞬目が眩み、再び視界を取り戻した直後。部屋中央に据え置かれたモニターの両脇に立っていたのは、よく見知った二つの立ち姿。

両方とも私の担当ウマ娘であり、同時にこの監禁事件の共謀者でもある。

 

左手に立つシービーが、踞ってモニターをあれこれと弄る間、枕元に寄ってきて私の頬を撫で上げるルドルフ。

 

「さて、待たせてしまって悪かったね。今日は少々……いや、かなり忙しい日なんだ」

 

「そうだろうな。なにしろ二日がかりの出張をたったの半日未満で終わらせてきたんだから当然だろう。お疲れ様」

 

皮肉をぶつけてみるが、それにルドルフははぐらかすように肩を竦めるだけ。

 

「出張と言うのは勿論嘘だが、しかし生徒会の仕事が詰まっていたのは本当だよ。だから、シービーには出来る限り時間を稼いでもらう必要があった」

 

「そうか。それで、その仕事とやらは私の監禁と関係あるものなのか」

 

「大いに関係しているとも。やむを得ず、君をこうして閉じ込めた、その理由を今から開示しよう。シービー」

 

「はいはい。今やってるよっ……と。ああ、映った映った」

 

 

慌てて画面前から飛び退くシービー。

 

 

モニターに映し出されていたのは、ネコを帽子に乗っけた栗毛の少女。

どうやら車の中から中継しているらしい。小刻みにぶれる画面の中央に陣取り、広げた扇子には大きく『開幕ッ!!』の二文字。

 

「秋川理事長……?」

 

『傾聴ッ!トレーナー諸君!既に聞き及んでいる者もいるだろうが、本年度からトレセン学園を挙げてチーム対抗試合を行うこととなった!形式、距離、参加条件等はまだ未定であるが、開催自体は決定事項だと思って欲しい!!』

 

はっはっはっは!!と高笑いしつつゆったりと扇子を扇ぐ理事長。

 

はきはきと威勢のいい声で納得してしまいそうになるが、これは要するに詳細についてはまだなにも決まっておらず、完全に見切り発車と言うことでは……?

 

『目的はトレーナー間の競争意識の推進、それによる質の全体的な底上げだ。無論、現在の君たちの質が不足だということはない。むしろ、ここ数年は強豪のチームが幾つも生まれ、かつてないしのぎの削り合いが行われている。しかし、だからこそ、それをとことんまで活かしたいと考えた!』

 

『レース競技に出走し、大衆の面前で勝ちを争うのはウマ娘。トレーナーはあくまでサポート……そんな裏方意識が、君たちの中に多少なりとも根付いているのではなかろうか。それも間違いではない。が、私は君たちにもウマ娘と同等、あるいはそれ以上の勝負意識を抱いて欲しいと思っている』

 

トレーナー同士の競争心、対抗心を煽ろうとしている、というのも予め聞いてはいた。

どこから情報が流出したのかは知らないが、私に限らずトレーナーの間ではとうに周知されている話である。

 

問題は、それを具体的にどう実現するかだが……それについても、我々の間ではおおよその検討はついている。

人と人を競わせるにあたって、最も手っ取り早くて効果的な動機付けとなるのは、やはり魅力的な報酬だろう。

 

 

予想は、ものの見事に的中するところとなった。

 

 

『優勝チームには景品として、我が秋川家の私有施設について、その一年間の使用権を贈呈する!!無論、プライベートビーチも使い放題だッ!!』

 

「へぇ……太っ腹。トレーナーとしてはかなり垂涎モノだよね、これ」

 

「ああ」

 

驚いたように尻尾を揺らすシービーに、私も同意を示す。

 

秋川家の保有する施設は国内外に数多く存在し、プライベートビーチはあくまでその一部。

上手くその全てを活用出来れば、夏合宿並みの、あるいはそれ以上の効果を叩き出すトレーニングを、通年で行えるかもしれない。

これまで公開されておらず、今回も定員は一チームだけというあたり、恐らくはかなり管理に手間がかかる……そのぶん質の高いものなのだろう。

 

こうして、理事長自ら目玉として掲げるぐらいには。

 

『最後に一つ。これも知っているだろうが、本企画にあたって特別ゲストを招くこととなった。かつて中央において、戦後初、史上二人目の三冠バを排出した名トレーナー……サンデーサイレンス殿だ』

 

カメラが横に移動すると、しかめっ面で固く腕を組む母の姿が映った。

抜き身のナイフのように鋭く、もはや殺意すら見え隠れする満月の瞳が、液晶越しにこちらを貫いてくる。

 

そのさらに向こう側には、にこにこと微笑みながら膝に両手を揃えて座るたづなさんの姿。その長髪は乱れており、激闘の跡が垣間見えた。

理事長と母の両脇を固める格好。出張と言うか、連行に赴いていたわけだこの二人は。

 

『彼女は発破だ。新人トレーナーは勿論、ベテラン諸君も決して気を抜かずに励んで欲しい!期待しているぞッ!!』

 

破顔する理事長を最後に収めて、映像はそこで停止した。

 

 

「……ま、これ今朝配信されたものだから、アタシたちはもう知ってたんだけど」

 

「いや、私は初見なんだが」

 

「ああ、キミがこの家にきてすぐのことだったからね。あの後ずっと片付けしてたから、見る暇もなかったでしょ」

 

「ああ、成る程………」

 

となると、シービーもこれを知ったのはつい先程のことか。

録画したのはルドルフだろうな。彼女の端末からモニターに出力したわけか。

 

「それよりもシービー、それからルドルフ。私は監禁された理由について聞いたのに、全く答えになっていないんだが?」

 

「落ち着いてくれトレーナー君。これも君のためなんだ。君を守るためなんだよ」

 

「私を、守るため……?」

 

「考えてみて欲しい。サンデーサイレンスは今晩にも学園に到着するだろう。そうして入寮を済ませたあと、彼女が真っ先に取るであろう行動はなにか」

 

ルドルフの口調は、予想に反して真剣だった。シービーもまた、真剣な眼差しでこちらを見つめている。

 

はぐらかしているわけでもないらしいが……しかし、考えろと言われたところで、あの人の行動を正確に予測するのは困難極まる。

 

「道場破りでもするんじゃないか」

 

「チームを道場と呼ぶならあながち間違いでもないだろうが……その前にまず、仲間が必要だろう。仲間と言うより、勢力かな」

 

「ああ、そうか……」

 

よく考えれば、母は身一つでこの学園に放り込まれるわけだ。

件のチーム対抗戦に参加するためには、当然彼女もまた自らのチームを確保しなくてはならない。しかし今のトレセン学園は、理事長の語った通り群雄割拠であり……いくらかつての伝説と言えども、単身で動き回るのは難しいだろう。

 

必然的に何処かの派閥、何らかの勢力に属することとなる。

理想的なのは実力があり、尚且つ母が影響力を行使できそうなトレーナーとチーム。その条件に当てはまるのは。

 

「先生と先輩と、それから私。三人のいずれか……あるいは全員に接触を図る、と。中央への再進出における橋頭堡として」

 

「その通りだ。ただ一つ付け加えると、その際真っ先に標的にされるのはトレーナー君だろうな」

 

「どうして」

 

「そりゃチョロそうだからね……ウソウソ。冗談。チームの人数が一番少なくて御しやすいからだよ。ね、ルドルフ」

 

「ああ……それと、三人の中で一番トレーナーとしてのキャリアが短くて、与しやすいというのもある。少なくとも、私が彼女ならそうあたりをつけるだろう」

 

一理ある。私のチームは今のところ、ルドルフとシービーと……あとは仮入部のテイオーだけ。

 

先生は拷問されても誰かの子分になる性格じゃないし、先輩のチームはかなり規模が大きい。おまけに反抗期のカフェと、母のことが大嫌いな"お友達"もいる。

消去法で、私が一番チョロそうというわけだ。また随分と見くびられたものだな。

 

「私がサンデーサイレンスに屈するとでも。昔はともかく、今の学園ではこちらにだって力があると言うのに」

 

「最終的に屈服するかどうかは、実際のところそこまで問題じゃない。重要なのは、その結果に至る過程で君が間違いなくろくでもない目に遭うということさ」

 

「随分とはっきり言い切るんだな……ちなみに、その根拠は?」

 

「経験則だよ。キミはこういう時、必ず災難に襲われてきたからね」

 

「こうして担当に監禁されているのも、十分災難の内に入ると思うんだけど?」

 

「この方がまだマシってことだよ。心配しなくても何時かは出してあげる。サンデーサイレンスが落ち着いた頃にね。ここはトレーナーにとって、彼女の脅威から身を守るシェルターってこと」

 

そんな、人を災厄かなにかみたいに。

取り敢えず二人の中では、母とかち合うと私は間違いなく酷い目に遭うという認識で一致しているらしい。

 

「それなら、私があの人を接触しなければいいだけじゃないか。なにもこんな風に、行動の自由を完全に奪わなくても……」

 

「トレーナー君が避けても向こうから来るだろう。閉じられた学園の中で逃げ切れる自信があるのかい。これからは同じ建物で寝泊まりするというのに」

 

「ぐっ………」

 

「彼女には絶対知られていない、ここが最も安全なんだ。仕事環境も整えていこう。生徒会長としての権限でどうにでもなる」

 

「なら、テイオーも近い内に呼んじゃおうか。アタシたちが見てあげられるにしても、流石にリモートだけじゃトレーニングにも限界があるし」

 

「そうだな。私の方から声をかけるとしよう」

 

私の頭上を飛び越えて、トントン拍子で話が進んでいく。

手際のよさといい、思いつきではなく明らかに計画して行ったことだろうから、翻意を促すのは無理か。下手したら、シービーの引っ越しからして布石だった可能性すらある。

 

テイオーに賭けてもいいが……無駄だろうな。

せめてスマホがあれば、外部に助けを……外部……

 

 

「なぁシービー。朝の作業前、頼れそうな知り合い全員に声をかけても断られたんだが。あれも君たちの仕業なのか」

 

「ああ……あれね。アタシたちは関係ないよ。まぁ、来たら邪魔だし追い返すつもりではあったんだけど……たぶん、それぞれのトレーナーからの指示でしょ」

 

指示……学園全体の意思で、私を外したとでも言いたいのか。

焦燥と不安に耐えきれず顔が引きつっていく。

 

「君は一番に警戒されているんだよ、トレーナー君。優勝の最右翼としてね……君は少々、目立ちすぎている。原因であろう、私が言うのもなんだが」

 

「強豪チームなんて他にもいるだろう。それこそリギルとかスピカとか……なんなら、先輩のチームだって大概じゃないか」

 

「ああ、しかし君はリギルやスピカのトレーナーとは違って、サンデーサイレンスの縁者だろう。三冠バを育てた者同士で手を組んで、私たちを指揮する……そんな可能性を怖れているんだ」

 

「だから極力、手の内は明かしたくない。プライベートでの交流なんて以ての外なんだろうね。このあたり、キミが先輩と呼ぶあのトレーナーについても同じだろうけど」

 

……なんてことだ。

 

これまで、チーム間で競うことは往々にしてあった。

そもそもトレーナー業自体がパイの奪い合いだ。勝利というただ一つの席を争う以上、本質的には同業全員が敵となる。

 

ただそれでも、ここまでバチバチにやり合った記憶は、少なくとも私の中には存在しない。

やはりあの報酬が効いたか……理事長の目論見通り、トレーナーの闘争心にかつてなく火がついたということ。そうして、私は目下最大の脅威となったのだろう。

 

「ま、そもそも勝ち目の薄い弱小チームや専属トレーナー連合なんかは、そこまでキミを警戒視してないだろうけど……まぁ、それでも周りに便乗はするよね」

 

「ただ、その空気もやはりサンデーサイレンスが落ち着けば……つまり君を籠絡することを諦めれば、ある程度は緩まるだろう。逆に言えば」

 

 

 

―――― その間、君を助けに来る者はいない。

 

 

 

「は、はは………」

 

無情な宣告に、力なく乾いた笑いを漏らす。

 

これまでの話を総合するなら、私以外の全員が私と母との接触を怖れていて。そうなると、こうして人知れず隔離されているのが彼らにとって望ましい状態だというわけだ。

 

カフェたちに断られたのは、あくまで引っ越しの手伝いであって、監禁からの救助となれば人道最優先に動いてくれる者がいるかもしれないが……仮にいたとして、コンタクトをとる手段がない。

 

………詰みだ。

 

「そういうわけで、君はここから逃げられないし……逃げようとも考えないでくれよ?トレーナー君。面倒が増えるからな」

 

「ま、その様子を見る限り大丈夫そうだけどね」

 

 

そう言い残して、部屋から出ていく二人。

その背中を引き留める言葉も出てこない。

 

 

かくして、私だけをベッドの上に残して。

 

 

「じゃあね、トレーナー。一時間したらまた来るから」

 

 

ぱたん、と。

 

無情にも扉は閉められた。

 

 



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トレセン情勢は複雑怪奇なり

 

結局、ベッドに繋がれたまま一晩を過ごし。

私はこれまでの人生において最も奇妙な、日曜日の朝を迎えていた。

 

 

ベッド横のデスクに置かれたデジタル時計や取り戻したスマホ、それに目張りされた段ボール越しの日の光から、現在の時刻について把握するぶんには不足ない。

こういう密閉された空間において、正確な時間の流れが分からないのはかなり精神的に苦痛なので、まさしく不幸中の幸いである。

 

「はいこれ、トレーナーのぶん。動いてないからお腹空いてないかもしれないけど、ちゃんと食べなくちゃだめよ?」

 

ベッドの横に持ってきた椅子に足を組んで腰掛けつつ、腕に抱えた紙袋から中身を三つほど手渡ししてくれるシービー。

片手に収まる円形で、赤と緑の包み紙。日本全国に展開している、有名なハンバーガーチェーン店のものだ。

寝床の上で齧りつくには少々気が引けなくもないが、これしか食べるものがないなら仕方あるまい。一応、家主である彼女が寄越してきたわけだし。

 

レタスやソースを溢さないよう、慎重に両手で持って食べ進める。

 

シービーはしばらくの間、そんな私をにこにこと笑顔で眺めていたが、そのうち満足したのか自分のぶんにも手をつけ始めた。

その数は私よりもずっと多い。最低でも七つはあるだろう。ウマ娘のエネルギー消費量に鑑みれば妥当なところだが、トレーナーとしては少々気にかかるかな。

 

「……仮にもトップアスリートである君が、朝っぱらかからジャンクフードに頼るのは感心しないな」

 

「もうお昼だけどね。起きたのはさっきだから、朝食代わりってだけで」

 

咀嚼したものを呑み込み、くあ、と大きく欠伸をしている。

鼻の先にくっついているマスタードを人差し指でそっと拭い取ってやると、すぐさま私の指はシービーに口元まで引き寄せられて舐め取られてしまった。

 

「こら。行儀が悪いぞ」

 

「もう、このぐらいのおいたは多目に見てよ。だいたい同じ床で寝ていたわけだからさ。今さらでしょ」

 

だとしても、なにをしても許されるわけではないのだが。

 

シービーの言うとおり、最後にここへ帰ってきて以来、彼女はずっと私の隣にいた。

風呂と用足しの間以外ずっと。夜寝るときも、あの布団ではなく私と同じベッドに潜り込んできた。

注意したところで、寝室で夜を明かしてなにが悪いととりつく島もない。そうして一夜が明けて、起床したかと思えば朝食もデリバリーで済ませている。

 

監視の意図があるにしてもそうでないにしても、結果としてシービーは私に微塵も隙を見せていない。

普通、こうも四六時中一緒にいればいずれ気疲れもするだろうに。私との同居を心の底から楽しんでいるらしい彼女は、疲れるどころかかえってリフレッシュしているようにすら思えるほど。

 

本日は日曜日。

少なくとも明日の朝までは脱出の機会もないだろうと、そう半ば諦めかけていたところ……最後の一口を呑み込んだシービーが、紙袋を丸めてゴミ箱の中に放り込み、続いて椅子を蹴って立ち上がった。

 

何事かと見守っていると、部屋の隅にある両開きのクローゼットを開け放つ。行儀よく並んだ衣装をかき分けて、取り出したのは学園指定の制服。

手早く寝巻きから着替えたあと、最後にトレードマークの帽子を乗っけて姿見の前で身繕い。

 

「今日は日曜じゃないのか?」

 

「うん。だけどルドルフが忙しそうでね。かなり限界ぎりぎりだから、アタシも手伝った方が良さげかも」

 

「ルドルフ……こんな日まで働いているのか」

 

思わず頭を抱える。

 

とりわけ新年度を迎えたばかりのこの時期、生徒会も繁忙期なのは嫌というほど理解しているが、それでも彼女はまだ学生の身だ。

土曜の活動はまだ目を瞑るにしても、それでも最低週に一度は休んで欲しい。

それによって学園の運営に支障が出るなら、そもそもその組織構造に問題があるのだから。

 

この足枷さえなければ、今すぐ生徒会室に飛び込んで無理矢理にでも休みを取らせるのだが。たとえ嫌われて煙たがれようとも、こちらにだって譲れない一線がある。

 

そんな私の焦りを察したのか、宥めるように微笑んでくるシービー。

 

「今年は理事長の企画ともろに被っちゃったからね。それも今日だけだよ。エアグルーヴだって手綱を握ってくれているだろうし」

 

「そのエアグルーヴが働いていることもまた、私にとっては我慢ならないんだが」

 

「分かった。じゃあアタシがどうにかして今日の生徒会活動は中止にしてみせる。これでいいでしょ?」

 

後ろ手を組ながら、小首を傾げてこちらを窺う彼女に不承不承ながら頷いて見せる。

それが真であるという担保もないが、ここから動けない以上はシービーに任せる他ない。

 

シービーは二度三度と頷くと、尻尾をゆったりと揺らしつつ軽快な足取りで扉へと向かう。

そう言えば昨晩、眠りにつく前に翌朝の尻尾の毛繕いを約束させられた覚えもあるが、どうやらすっかり忘れているようだった。

いっそ潔癖とすら評せる程に律儀なルドルフとは異なり、彼女はその辺りがルーズだ。しかし妙な所で意固地にもなるので、その行動はかなり読み辛い。

 

「んじゃ、早速行ってくるからね。手の届く範囲のものは好きにしていいけど、逃げちゃダメだよ」

 

「どうやって逃げろと……はいはい。行っておいで」

 

「いい子で待っててね。あ、見送りはいらないから」

 

「承知しているよ」

 

見送りをするつもりはない。と言うより、出来ない。

壁越しに玄関の扉が施錠される音を確認した後、私はのっそりとベッドから床に降りる。

 

一分間のストレッチを三セット。

寝起きで固まった筋肉をゆっくりとほぐしていけば、全身に新鮮な血液が駆け巡るのを感じた。

 

拘束と言っても繋がれた鎖はかなり長く、寝室に限れば自由に行動することが出来る。ベッドの上で寝たきりというのも体に悪いので、これも不幸中の幸いだろうか。

ついでに段ボールの目張りも剥がしておこうかとも考えたが、それで脱出が叶うわけでもなく、むしろバレた際のデメリットの方が大きいと考えたので止めておく。

 

最後に深呼吸でストレッチを締めた後、再び寝床へと戻ろうとして……脇のデスクに、私のスマホが置きっぱなしになっていることに気がついた。

ご丁寧に、その隣には充電器とコードまで。

 

「ああ、思い出した。もう返してもらったんだったな」

 

なら、これで外部にコンタクトを取れば良いじゃないか。

外部への救助要請というのは、昨日までは何部屋か離れたたづなさんに期待する他なく、それすら完璧な防音設備という障害に阻まれたわけだが。スマホが戻ってきたなら話は別だ。

 

問題は、貴重な休日を消費してまでトレーナーとウマ娘間のトラブルに火傷覚悟で首を突っ込んでくれる聖人君子に心当たりがないということだが。まぁ、物は試しだろう。

 

ロックを解除し、職員用のイントラネットを立ち上げる。

IDとパスワードを入力して誘導されたホーム画面、その左上のメールボックス。

 

新着アリの表示と共に、未開封のメールの総量が示されている。

 

 

その数…………百五十八件。

 

全て、先輩が送りつけてきたものだった。

 

 

「うわ……」

 

最も新しい日付は、ちょうど一時間程前のこと。

 

最新の百件には、いずれも現状報告がつらつらと書き連ねられている。どうやら昨日の夜、彼のチームに母が襲来したらしく、これはその備忘録らしかった。

古いものには、半ば懇願じみた救援要請の文面。もしやと思うが、これらの現状報告は私の同情でも誘っているのだろうか。

 

だとしたら間が悪いというか、今の私は助けに行きたくても自力では動けない。

そもそも昨日の引っ越しの手伝いをけんもほろろに断ったのはあちらなので、正直手を貸してやる気にすらなれないというのも事実。

 

 

故にただただ眺めることすら出来ず、淡々とスクロールを続けていると……いよいよ一番最後、最も古い日付のメールにたどり着く。

 

最初に先輩から発信されたその件名は、簡潔に一文だけ。

 

 

 

【警告】今学園中を探してるぞ

 

 

 

「…………」

 

主語が抜け落ちているが、『誰が』なんて問うまでもない。

ああ、ルドルフとシービーの見立てはやはり正しかったのか。母はまず私を喰らいにかかり、それでも見つからなかったから結果として先輩が身代わりとなった。

この警告を発した時点において、彼は自分が餌食になるとは露にも思っていなかっただろう。

 

 

心の中で祈祷を捧げると共に、急速に学園へ戻る意欲が失せてくる。

 

 

何しろ最新のメールが一時間前ということは、まだ全くほとぼりも冷めていないのだろうし。顔を出せば確実に母のヘイトがこちらへと向かうだろう。

それなら監禁されているとは言え、一応時間による解決が確約されているぶん、まだ現状の方がマシなのでは。

 

そう答えを出しかけた矢先、ぶるぶるとスマホが震え出した。

 

画面に表示された名前はトウカイテイオー。

いくら担当とはいえ、休日に業務スマホへと電話をかけてくるのはただ事ではない。はやる気持ちを抑えつつ、緑の応答ボタンをタップする。

 

「もしもし。どうしたテイオー、緊急事態か」

 

『あっトレーナー。あのね、緊急ってほどじゃないんだけど……カイチョー、今日もお仕事してるよ。もう知ってるかもしれないけど』

 

「聞いてはいる。それは朝からずっとか」

 

『うん。ボクが遊びに行った時にはもう。だから、トレーナーは前にカイチョーは無理しがちって言ってたから、一応伝えておこうかなって。だけど私用の方は全然既読つかないから……』

 

私用のスマホは寮の部屋に置きっぱなしだ。

テイオーと……と言うより私のチームで連絡を共用しているのは、そちらで管理しているウマイン内のグループチャットなので、彼女からしてみれば私は昨日今朝と音信不通だったということになる。

 

まさかこんな事態になるとは思わなかったからだが、一応業務用の電話番号も伝えてあったことが功を奏したらしい。

 

「テイオー。念のため聞いておくが、君の方から控えるように諫めることは出来ないかな」

 

『駄目みたい。やっぱりトレーナーがいないと……ねぇトレーナー、今どこにいるの?そう言えば昨日、トレーナーのこと探してた職員の人もいたんだけど』

 

「今は学園にはいないよ。トラブルがあって、すぐに帰れるかは……ちょっと難しいかな」

 

『ふーん。そのトラブルって、ボクにも手伝えること?』

 

「ああ、そうだな。ちょっと手間がかかるけど」

 

『いいよ。言ってみて』

 

「分かった。ならまず、事務局に私の代理として寮部屋への立ち入り許可を貰って…………」

 

今すぐこちらに来て貰ったところで、テイオーは家の中に入ることが出来ない。

なのでまず、私の寮部屋からここの合鍵を回収してもらわなければ。その為には事務局への申請と、こちらからの承認も必要となる。

その一連の手続きと、最後にここの住所を伝えて電話を切った。

 

このままシービーに任せようかと思っていたが、やっぱり止めだ。

いくらここが安全圏とはいえ、折角テイオーがルドルフの身を慮って報告を上げてくれた以上、責任者として動かないわけにはいかない。

だいたい冷静に考えてみれば、どんな事情があるにしても監禁を容認するなんて我ながらどうかしていた。

トレーナーという職業は現場主義。ベッドの上でごろごろするのは日曜だけで十分である……まぁ、今日はその日曜なのだけれども。

 

 

ベッドの端に腰掛け、ルドルフのウマホにコールしてみるものの応答がない。

普段であれば、私からの電話は最優先で出る。ましてやそれが、業務連絡なら尚更。

それに応じないとは、すなわち相当修羅場っているということ。エアグルーヴやブライアンあたりも同様だろう。

 

「…………はぁ」

 

思わず口から飛び出したのは重いため息。

脱力し仰向けに倒れ込んで、とうに見飽きた天井を見上げる。

 

驚異のワンマン体制から脱却し、今となってはかなりの部下もついたことで、ルドルフの生徒会長としての負担はかなり軽減されたと思っていたが。

それでもこうして偶然が重なると、無理が生じることは避けられない。さらにルドルフはその無理を率先して受け入れる性格だ。

 

一完璧に見えるルドルフだが、その辺りの自己管理についてはまだまだ拙い部分がある。

最近では彼女の自主性に任していたが、やはり昔のように強くコントロールするべきだろうか。

 

 

時間潰しがてら、今後の方針をあれこれと組み立てていたところ。

突然ガチャガチャと、玄関から音が聞こえてきた。

 

 

「テイオー?」

 

そう呼び掛けて、直後にそれを頭の中で否定する。

 

テイオーにしてはあまりにも早すぎるだろう。

通話を終えてから、ウマ娘の足なら学園から走ってこられるだけの時間こそ経っているものの、それはあくまで真っ直ぐここまで迷わずに来たときの話。

知らない建物を住所頼りで訪れるとなればもっと時間がかかる。

 

 

ガチャガチャ、ガキンと。

 

剣呑な音を最後に開かれる玄関扉。

 

 

やはりテイオーではないな。

合鍵ではなく、もっと物騒なやり方(ピッキング)で解錠を成し遂げた。

 

恐らく……否、間違いなくろくでもない輩。

空き巣か、あるいは女性の一人暮らしと踏んで不法侵入に至ったか。

目的ならいくらでも思い浮かぶ。なにせここはかのミスターシービーの自宅なのだから。

 

どたどたと、騒々しく気配はこちらに近づいてくる。

なにかを探しているのか、家中にある扉を片っ端から開け閉めしている模様。私が見つかるのも時間の問題だろう。

 

「くそっ……!!」

 

自棄になって暴れてみたところで、やはり拘束は破壊出来ない。

それどころか音を聞きつけて、侵入者は真っ直ぐこちらに向かってきた。

 

とうとう、寝室の扉が開かれる。

 

そうしてぬるりと姿を見せたのは―――

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「ああ、やっと見つけたよ会長のトレーナー!!はやく私を助けてくれたまえ!!」

 

 

 

 

「………タキオンか……………」

 

栗毛を振り乱し、目元にうっすらと涙まで浮かべて。

目の前で助けを乞うているのは、トレセン学園屈指の問題児アグネスタキオン。

 

よりによって、救いの手がこれとは。

 

「助けてもなにも、助けて欲しいのはこちらの方なんだが……」

 

「なんだい、君は。いの一番に学園から逃げ出しておきながら……ああ、この足枷かい。ふん、こんな玩具がなんだって言うんだ」

 

タキオンは涙目のまま足枷の輪っかに両手を差し込んで、私が何時間と格闘しても微塵も緩む気配のなかった拘束を、ものの一瞬で破壊した。

中央ウマ娘の中では、そこまで筋力に優れるわけでもないタキオンですらこれか……本当に、ウマ娘の膂力は我々とは別次元だ。

 

「ほらほら、早く帰るよトレーナー君!!」

 

すっきりした足首を振っていると、タキオンがぐいぐいと私の腕を引っ張ってくる。

見た目こそ可愛らしいが、その力は今まさに見せつけられた通り圧倒的で抵抗は許されない。

 

辛うじてバランスだけは維持しながら、その真意を問いただす。

 

「タキオン。どうして君がここに?誰に頼まれたんだ。テイオーか?」

 

私の問い掛けに、ぶんぶんとアホ毛ごと大きく頭を振るタキオン。

 

「違う。カフェとモルモット君と、それに君の母親とか名乗るウマ娘さ!」

 

「サンデーサイレンス……」

 

「そう。悪いが君を連行させてもらう。私の大事な大事な実験のためにね!!」

 



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袋小路

タキオンに連れ出されてから、街を彷徨うこと三十分あまり。

ひと悶着を経て、私はどうにか学園ではなく近場のカフェテリアへと彼女を連れ込むことが出来た。

話をするならこの方が都合もいいだろう。

 

日曜の、それも昼時ということもあってか、店内は大層賑わっている。

今この瞬間にも、ウマ娘の団体が奥のテーブルに案内されている。私服なので学園の生徒かは分からないが、既存の客もウマ娘ばかりだった。

流石、トレセン学園のお膝元ということだろうか。

 

テーブル席に面したガラスの向こうには、活気溢れる府中の大通りが広がり、雲一つない空からはうららかな陽射しが降り注ぐ。

 

 

そんな春の陽気に包まれながら、タキオンはおんおんと袖を涙で濡らす。

テーブルに突っ伏し、耳先から尻尾の先端に至るまで全身で悲哀を訴えながら、掠れた声でこれまでのいきさつを語ってくれた。

 

「つまり、どんな手を使ってでも私を母さんの元まで連れていかないと、君はチームを追い出され、ついでに今後の実験についても大きく制約される……と」

 

「そうなんだよぉ……!!」

 

まとまりがなく、時系列も滅茶苦茶なその話をどうにか要約してみれば、震える声で肯定を示すタキオン。

普段は妖しく輝いていた栗毛も、今となっては見る影もなく萎びている。色合いとしては枯れたコムギに近い。

 

傍若無人が服を着て走っているようなタキオンが、ここまで意気消沈しているのも珍しい。

彼女の意思を挫くというのは、学園の誰にとってもほとほと困難な作業である。ルドルフやエアグルーヴといった生徒会の面々、さらには理事長や親友であるカフェでさえ。

 

「追い出すと言っても、別にあの人は先輩のチームに加わったわけでもないし、その予定だって無いんだろう?」

 

新規採用者であれば、サブトレーナーとしていずれかのチームトレーナーの下で実地経験を積むものだが。

 

しかし再雇用であるサンデーサイレンスの場合には、その原則も適用されまい。

恐らくは地方や海外からの移籍組と同じで、即戦力として期待されている筈だ。

 

「分からないだろう!?いくらベテランとはいえ二十年近いブランクがある。勘を取り戻したいと言われれば、モルモット君とて快く受け入れてしまうことだろうさ!!」

 

「そうかなぁ……」

 

「そうだとも!ああ、彼はきっと実の母親を優先して、私なんて簡単に放り出してしまうのだろうねぇ!!」

 

「そんな嫁姑戦争みたいに」

 

そもそも先輩にしたって、親の指示で一方的に担当契約を解除するような無責任なトレーナーではないのだが。

タキオンの懸念は色々と無理がある……杞憂を通り越して、妄想の域に片足を突っ込んでいると言ってしまっても過言ではない。

 

聡いタキオンのことだから、そのぐらいは当然に理解しているだろう。

なのにこうも取り乱すのは、かつて母の圧力によって、学園当局から薬品に研究資料、論文を差し押さえられ、ラボの鍵も没収され、内部の通信回線も止められた挙げ句に、研究予算まで無期限凍結されたことが癒えないトラウマとなっているからに違いない。

 

もっとも、それにしたって学園祭で得体の知れない薬を騙し飲みさせられた報復という理由があったわけで。

 

「おまけに彼女、モルモット君を二度と私の得体の知れない実験には協力させないとまで言ってきたんだ!!親として見てられないと!!」

 

「へぇ。まともなこと言えたんだあの人」

 

「冗談じゃないねぇ!!そしたら誰が私のモルモットになってくれると言うんだい。なぁ、頼むよトレーナー君。あの黒い野犬を拾った場所に戻してくるよう、君から会長に取り次いでおくれ」

 

「いくらルドルフでも出来ることと出来ないことがある。今回は明らかに後者だ」

 

「私の時はどうにかなったじゃないか…」

 

「あれは君が生徒だったから生徒会長にも裁量があったんだ。トレーナーの人事は理事会の管轄だよ。生徒会ではどうにもならない」

 

「そんなぁ………」

 

結局一度たりとも顔を上げないまま、さめざめと涙を流すタキオン。

端から見れば、私がいたいけな女子高生を泣かしている図に他ならないわけで、即刻泣き止んで欲しいのだが。

 

そもそも君、つい今さっき私を生け贄にしようと連れ出したばかりだよな。

そのお陰で拘束から脱け出せたわけだが、勿論タキオンがそれを幇助したと知られればルドルフが黙っている筈もなく、ましてや手を貸すなんて論外だろうに。

 

カップを皿に戻して一呼吸つきながら、ガラス越しに外の街道を眺める。

日曜のランチタイムなだけあって、人の往来は一向に途切れない。

 

見える限りにおいて、ルドルフやシービーの姿はどこにもない。追跡を警戒して、スマホの電源も一応切っておいた。

なまじ休日であるぶん、彼女たちの動向について予測することが難しい。

多忙のあまり生徒会室に釘付けというのもあり得るが、既に様子を見に帰っていたとしても不思議ではない。

 

仮に脱走がバレているとしたら、今まさに二人がかりで私を捜索している真っ最中だろう。

 

「なぁタキオン。ウマ娘の鼻や耳ってのは、具体的にどれだけ優れているのかな」

 

「なんだい、藪から棒に。ああ、会長たちに追っかけられているのが怖いのか。そうだね……個体によってまちまちだが、警察犬のような真似は出来ないよ」

 

「例えば、あの家からここまで真っ直ぐ匂いを辿ってくるとかは?」

 

「不可能だ。雨が降っていないとはいえ、こうも道がごった返していれば容易く紛れてしまう。耳にしても万能じゃない。特に低音については、ヒトよりも聞き取る力が劣る程度だからねぇ」

 

「そうか」

 

とりあえず、ほっと胸を撫で下ろす。

ウマ娘から逃げるにあたっては、なにを置いてもその鋭敏な五感が脅威となるが、他ならぬタキオンが杞憂だと断言するなら心配ないだろう。

 

そんな私の安堵を感じ取ったのか、店に入って初めて顔を上げるタキオン。

ほんの数秒こちらと泣き腫らした目を合わせた後、気だるげにそっと首を横に振った。

 

「安心するにはまだ早い。たとえ自力では見つけられなくとも、彼女たちには数の力がある」

 

「数の力……?」

 

「さっき、この店に来るまでの道中、生徒会長名義でお触れが出てね。報酬は応相談で、姿を消した君の居場所を通報するようにと。どうやら、我々は彼女たちのどちらか、あるいは両方と入れ違いになったらしい」

 

「なら、今まさに二千人のウマ娘が私たちを探している真っ最中だと?この府中の街で?」

 

「そうなるね。まぁ、実際にどれだけの生徒が応じているかは不明だが」

 

淡々と、どこまでも他人事のようにタキオンはそう告げる。

言うまでもなく私としては、まるで落ち着いてなんていられない。

 

「分かってるんだろうなタキオン?ここで捕まったら、君もただでは済まないんだぞ」

 

「なら、捕まらなければいい。現行犯でなければ幾らでも逃げ道はある。幸い、その手の身の振り方はこの学園でよく学んださ」

 

「そうなると、私一人が連れ戻されるわけか。で、また監禁生活に逆戻りと」

 

「いいや。君は意地でも私と一緒に来てもらうとも。なに、これだけ人が密集していれば、ウマ娘とて全力で走れない。私さえ補助すれば、ヒトでも学園までなら振り切る目は十分にあるさ」

 

「そもそも私は走れないが」

 

「勿論、それについてもちゃんと対策はある。私が無策で君を連れ出したとでも思っているのかい?」

 

先程までの哀愁漂う泣き姿はどこへいったのやら。

タキオンは得意気に胸を張ると、懐から細い筒状のものを一本取り出してくるりと回し、テーブルの上を転がして渡してくる。

 

片手で握れる大きさで、薬剤のカートリッジが一体化した注射器。構造としてはエピペンと酷似している。

外装はガラスではなくプラスチックで覆われており、持ち運びには適していそうだ。

 

「経口摂取では効果に難がある、かといって注射器を裸で持ち歩くのもなんだからね……どうだい、手製だが中々の出来映えだろう」

 

「これはなんの薬だ。アドレナリンか」

 

「いいや、もっと画期的なものさ。血管に注入することで、体内のウマムスコンドリアを活性化させて肉体の治癒力を飛躍的に高めることが出来る」

 

「ドーピングじゃないのか、それ」

 

「レースで使用するものじゃない。使途は壊れた足のリカバリーだ。といっても、私専用に調合したものだが………まぁ、体質からして君にも効くだろう。たぶん」

 

「たぶん………」

 

歯切れが悪いが、一応受け取っておくことにする。

彼女自身への投与を前提として作成された薬であれば、一応それなりの信頼性は期待出来るだろう。

そのガラスの足の克服については、タキオンが最も注力している分野でもあるわけだし。

 

「ただし、それはあくまで奥の手。切り札だと弁えてくれたまえ。ヒトに投与してどれだけの効果が望めるのか、その副作用については未だ不確実なんだ。なにしろサンプルがまだ一つしかなくてね」

 

そのサンプルについては聞くまでもない。

彼が無事にトレーナーとして活動出来ているのを見る限り、そこまで重篤な副作用は引き起こされないと見ていいだろうか。

 

せめて、こんな得体の知れない薬に頼らざるを得ない窮地が訪れせんようにと、胸中で神仏に手を合わせる。

ひとまずポケットに入れてしまおうと考えた矢先、うっかり指を滑らせてしまった。

 

「おっと」

 

「ああ、気をつけてくれよトレーナー君。失くしても予備はないんだから」

 

「ああ、済まない…………ん?」

 

ころころとテーブルの上を転がり続け、注射器は窓枠に突っ掛かってようやく動きを止める。

呆れるタキオンに謝りつつ、机上へと腹這いになって腕を伸ばす。

 

それを拾い上げた瞬間。

ふと、妙な視線を感じて顔を上げた。

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

ガラスの向こう。

 

二人のウマ娘が張り付くように私たちを観察している。

 

「あぁ………会長……それにシービー君……」

 

目があった瞬間、二人は同時にカフェテリアの入り口へと歩き出して……途中、振り返ったルドルフがなにやら合図を送る。

 

 

私たち以外の客全員が、一斉に席を立った。

 

 



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逃げた先には

今にして思えば、いささか不自然だったかもしれない。

 

いくら街角にある、ちょっと小洒落たカフェテリアだとしても、私以外の来客全てがウマ娘というのは妙だ。日々年頃のウマ娘に囲まれている職業柄、それを当たり前の光景だと見過ごしてしまった。

タキオンに至っては入店以来、ずっとテーブルとにらめっこしていたからそもそも周りを見ていない。

 

「不味いねぇ……囲まれてしまったねぇ……」

 

「油断したな。あぁ、こりゃ滅茶苦茶だ」

 

その過ちを悔やんだところで時すでに遅し。

 

学園の生徒らしきウマ娘たちはわらわらと、通路を塞ぐように前後から詰め寄せて、着実に包囲網を完成させつつある。

流石にこれは店にとっても邪魔ではないかとカウンターの方を見やれば、そこにいる店員もまたウマ娘の少女。そういえば、トレセン学園では生徒のアルバイトも認められているんだったっけか。

 

完全に場所選びを間違えたなぁなんて、呆けた頭で周囲を見渡している最中、包囲の先頭に歩み出てくる黒鹿毛のウマ娘。

丈の長いコートに身を包み、マキアートのカップを片手にじとっとした目で私たちを見上げてくるマンハッタンカフェ。その尻尾は脱力し地面に頭を垂らしている。

 

「よりにもよって……タキオンさんと組んだんですか。本当に、よりにもよって……」

 

「違うんだ。なにも好き好んで一緒にいるわけじゃない。タキオンが無理やり…」

 

「な、なんだいトレーナー君。仮にもあの部屋から逃がしてやった恩はないのかい!?」

 

「そのまま森に返してくれていたら感謝していたさ。徹頭徹尾タキオンの我田引水じゃないか」

 

「私だって相応のリスクを払っているんだ。まさしくこれがその証明だろう」

 

 

「………む~~~………」

 

 

私とタキオンがあれこれ言い合っている間にも、仲間外れにされたことが不服なのかみるみる機嫌を損ねていくカフェ。

周囲の制止を押し退けてこちらに一歩踏み出してきた瞬間、そんな彼女をさらに退かしてルドルフとシービーが姿を見せた。

 

二人揃って友好的な笑みを浮かべているが、よく見れば目が笑っていない。

尻尾や耳のサインこそ完璧に制御されているものの、滲み出る気迫は十数人ものウマ娘が堪らず息を呑んでしまう程。

 

当然、それを正面からぶつけられた私とタキオンは心中穏やかでいられるわけもなく。

お互い争っている場合ではないと、轡を並べて目前に迫った脅威に対峙する。

 

「アタシはちゃんとトレーナーとの約束通り、ルドルフのお仕事止めてきたのに、キミはいい子にしてくれなかったんだね。酷いと思わない?」

 

「自分の家にペットよろしく繋いでおく方がよっぽど酷いと思うけどねぇ」

 

「だって、トレーナーを無理やり掻っ払うウマ娘がいないとも限らないし。キミみたいにね……タキオン?」

 

私の脱走に気づいたということは、破壊された足枷についても既に確認済みだということ。

ヒトである私にあんな真似が出来る筈もなく、タキオンが手を貸したことは誰の目にも明らかである。

彼女にとって最悪のシチュエーションであることに間違いないが、それでも怯まず言い返すのは流石といったところだろうか。

 

ちなみに双方の目的が完全に衝突してしまっているので、互いに妥協し合うことは出来ない。

それ以上に、どちらが勝っても私にとっては不利益にしかならないというのが極めて厄介である。

 

「仕方ない。こうなったら最後の手段だ。さぁトレーナー君、今こそあの奥の手を使う時だよ!!」

 

「はやっ!!もうちょっと粘れない?」

 

「なら強行突破だ。いつも通り(・・・・・)真正面から埒を開けよう!!」

 

「まぁ、そう早まるんじゃないタキオン。君とトレーナー君は呉越同舟かと思っていたのだが、どうやら違ったらしい」

 

そう宣言して、タキオンが臆せず一歩踏み出しポケットに腕を突っ込んだ瞬間、それを遮るように同じく一歩こちらに踏み込んでくるルドルフ。

 

いつも通り。それはすなわち、このカフェテリアに文字通り火種を投下することすら厭わないという脅迫に他ならない。

良くも悪くも融通が効くトレセン学園内とは異なり、ここは市街地の真っ只中。当事者として、なによりも生徒会長としてルドルフがそれを看過出来る筈もなく。

 

「落ち着いてくれ。我々は少し早とちりをしてしまったようだ……君が、行方不明のトレーナー君を見つけて保護してくれていたわけだな」

 

「そうだとも。私にも一つだけ、君にお願いしたいことがあってね。さて、報酬は期待できるのかな?」

 

「言っただろう。応相談だ……後で、生徒会室まで来るといい。歓迎させてもらうよ」

 

「会長ともあろう者が不躾だねぇ。君が私のラボまで来たまえよ。心を込めて歓迎するとも」

 

ルドルフが白々しくも提示した建前に、にんまりとほくそ笑みながら乗っかるタキオン。

早々に計画の失敗の悟り、ここは一先ず私を売り渡すことに決めたらしい。

 

そもそもの話、彼女は今現在の自らの環境が失われることを恐れていたわけで。

善後策を練るならルドルフの機嫌を過度に損ねることは下策も良いところである。支離滅裂に思えるタキオンの行動原理も、その根底には自己保身という揺るがない軸があった。

 

 

まぁ、元々仲間でもなんでもなかったし、なんなら私を先輩の身代わりに捧げようと目論んでいる敵だったので、特に裏切られたとも思わないが。

ただ、このまま事態が進めば、再びあの監禁部屋へと収容されることは避けられない。

無理やり連れ出されたとはいえ脱走したことには変わりなく、ここで捕まれば再び日の目を拝める時が来るかも怪しいものだった。

 

「さて、皆よくやってくれた。このままでは店にも迷惑になるから帰るとしよう」

 

「あ、あの……会長さん。さっき言ってた、お願い聞いてくれるって本当なんですか?」

 

「勿論、出来る限り希望には沿わせてもらうよ。ああ、心配しなくとも、今ここにいる全員の顔は覚えているからね」

 

色めき立つ生徒たちに纏わりつかれながら、踵を返して悠々と出口に向かうルドルフ。

その背中にもウマ娘の群れが続き、それに押し流されるようにして私も連行されていく。

 

 

タキオンもルドルフもシービーも全て敵だ。

 

 

せめて一人でもいいから味方が欲しい。

最後の頼みの綱……私の半歩後ろをのそのそと歩いているカフェにひそひそ声で助けを求める。

 

「カフェ。このままだと私はまたルドルフたちに閉じ込められてしまうよ。ここの全員から逃げるのに手を貸してくれないかな」

 

「………………………」

 

「頼むよ。もう頼れるウマ娘は君しかいないんだ」

 

「……ッ………………」

 

長く垂らした前髪の隙間では、凍えるような満月の瞳が酷く狼狽えたように揺れている。

私とルドルフたちを交互に見比べ、何度か口をぱくぱくとさせた後、結局なにも声に出さないまま力なく首を横に振ってしまった。

 

タキオンを睨み付けていた時と比べてえらい態度の変わり様。心情的に私には同情しているものの、結局のところルドルフたちと同意見なのだろう。

よく考えれば、ルドルフやシービー以上に私や母さんと深い付き合いである以上、無理やりにでも彼女から遠ざけるという結論に至るのもむべなるかな、と言うしかないか。

むしろタキオンとは違って、私を実兄の身代わりとしないぶん有情なのかもしれない。

 

 

完全に孤立無援だ……こうなればもう、私一人でやり遂げる他ない。

 

 

ルドルフは先頭、タキオンとシービーも前方。カフェは俯いていて、周囲のウマ娘も談笑に興じている。

私が逃げられるわけないと信じ込んでいるのだろう。油断している今がチャンスだ。

 

「シービー。悪い、ちょっとトイレに行きたい。ほら、朝からずっと出せてなくて…」

 

「なぁに、おしっこ?生理現象だからしょうがないけど、せめて家まで待てないかな?」

 

「なんならそこの路地裏で済ましたまえよ。この辺りはコンビニも少ないからねぇ」

 

すっかりいじけた様子で、頭を掻きながら適当なことを言うタキオン。偶然だろうが、いいアシストだ。

 

「なら、お言葉に甘えて」

 

「え……いや、ちょっと……本気かい?立ち小便は市の条例違反だよトレーナー君…」

 

「ちょっ、待ってよトレーナー!捕まっちゃうって!どうしても無理ならアタシがおぶって運んであげるから…」

 

「トレーナー君……!?」

 

取り乱す二人を無視して、私はルドルフを抜かしつつ前方に口を開けた路地裏へと回り込む。

この先を十メートルほど進めば、さらに人通りの多い商店街へと出られる筈だ。ただ、この走れない足では振り切れずに捕まってしまうだろう。

 

やや進んだところで入り口に背中を向けて立ち止まり、手早くズボンのベルトを外してチャックを限界まで下ろす。

さしものルドルフも異性の放尿の現場に立ち会う勇気はないらしく、集団ごと恐る恐る私の背中を見守っているだけだ。

 

 

素早く、後ろから見えないようポケットから注射器を取り出してキャップを外す。

そのまま露になった大腿部の前外側に垂直に打ち込んだ。

 

職業柄、幸いにしてこの手の医療器具に関する知識もある。だからこそ、タキオンはこれを私に寄越したのだろう。

エピペンに倣って太ももに打ってみたが、どうやら正解だったらしい。元々足に効能をもたらす薬なだけあって、急速に両足の鈍痛が和らぎ、軽くなってきたような気さえする。

 

囲まれた際に使用を促してきた辺り、極めて強力な即効作用を持つのだろう。

ただ、先輩への治験に言及した際の歯切れの悪さからすると、この効果もそう長くは続かない。急いでキャップを嵌めてポケットへと戻し、ズボンとチャックを上げてベルトを締めた。

 

それはそうとタキオン、まさか君、あのカフェテリアの中で私にズボンを脱がさせるつもりだったのか……?

 

「ト、トレーナー君……ほ、本当か?本当にやってしまったんだな?その……音とか、匂いとか、そういうのはよく分からなかったんだが……」

 

ベルトを締め終わったのを見計らって、怖々と声をかけてくるルドルフ。

まるで凄惨な殺人の現場でも目撃したかのように、その声音は張りつめて震えていた。

 

「なら来て確かめてみるといい」

 

「えぇ……!?…………えっ…………!?」

 

 

「冗談だよ」

 

 

だんっと。

 

勢いよく地面を蹴って走り出す。

 

 

最後に一度だけ、後ろを振り返って見てみれば、ルドルフは呆気に取られたまま固まっていた。

直前の会話に加えて、私の足の具合についても熟知していた彼女のことだから、目の前の現実らしくもなく思考の処理が追いついていないのだろう。

本来すぐさま追いかけるべきこの場面において、走るどころか周りに指示すら出せていない。

 

それを確かめて視線を前に戻せば、その瞬間に出口へと飛び出した。

 

ウマムスコンドリアがどうのと説明されていたが、流石に注射するだけでウマ娘と同等の脚力を得られるような、夢の薬というわけではないらしい。

ごく一般的な、成人男性と同等のスピードだろうが、今はこれで十分だった。

 

日曜の昼過ぎという、最も人通りの多い商店街を縫うようにして駆け抜けていく。

 

このような人で溢れかえった道では、ウマ娘の脚力の優位もほぼ完全に潰える。駆け足で他人にぶつかって怪我でもさせれば大事だからな。

十数人も引き連れたところで、その全員が機動力を失えばかえって邪魔なだけだ。

 

逆にあの路地裏のような、人がいない真っ直ぐな直線はまさにウマ娘の独壇場なわけだが。

そこを切り抜けられた以上、流れは完全にこちらにある。最早ルドルフと言えども追いつけまい。

 

 

さて、これからどうしようか。

 

勿論シービーの家には帰らず、しかし学園に戻るつもりにもなれない。

今日は休日なのだし、明日の朝まではどこかで時間を潰すこととしよう。それまでに事態が改善されていることを祈る。

どうせ今回の事件は、サンデーサイレンスの帰還に伴う一過性のショック症状だ。消極的だが、時間の解決に委ねるのが一番な気がする。

 

 

「はぁ…………ぐん、はっ……………」

 

息が乱れる。

羽の生えたかのように軽い足取りは一転して、再び鉛を流し込まれたかのように重くなってきた。蘇る鈍痛。

 

走り始めてからおおよそ一分少々。そろそろ薬の効果が切れかかってくる頃合いか。

最後の力を振り絞って、目についた路地裏へと飛び込む。

 

ふと地面に伸びる影に気がついて顔を上げると、路地の中程には漆黒の髪を長く伸ばした、猫背で目つきの悪い、野良犬のようなウマ娘が立っている。

 

"お友達"か。

どうしてここに……ああ、そうか。実体がないから、人混みの中でもすり抜けて走れるのか。そうして待ち伏せしていたと。

 

「くっ………!!」

 

回り込まれてしまったが、今は構っている場合じゃない。

相手は幽体だ。かわすこともなく、全速力でそこに突っ込んだ。

 

 

「……………ッ」

 

 

返ってきたのは確かな手応え。

衝撃に耐え、不愉快そうに顔をしかめるウマ娘。

 

 

 

「!!!!!!!?????」

 

 

 

コイツ、実体が…………ある!!!!

 

 

 

 



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再出発


予定が詰まってしまったので今回は短めです。



 

幽体である筈の"お友達"には、確かな肉体があった。

 

すり抜けられず、いとも呆気なく私の進撃は阻まれてしまう。

それはあたかも、ベランダに飛び出そうとした瞬間、ぴかぴかに磨かれた透明な窓ガラスにぶち当たったかのような。

 

「?????」

 

行く手を遮られた以上、差し当たっては後退すべきなのだろうが。

衝撃と困惑でネジの外れた私の脳みそは、壊れたコードのように前進の司令だけを繰り返す。

 

しかしどれだけ力を込めたところで先には進めず、ごそごそとコートの中でもがき続けるばかり。

よく考えれば、全力で衝突してもたたらを踏むことすらなかった彼女が、静止したこの状態からいくら押したところで動く筈がない。

深く地の底に根付いた大樹と相撲を取っているようだった。ウマ娘であることを差し引いてもなお凄まじい体幹である。

 

「あァ、そうかいそうかい。熱烈なハグってわけだな。静かな日曜の路地裏で、親子の再会を祝して」

 

取って付けたような優しさを孕ませた、不気味な猫撫で声と共にそっと彼女の両腕が私の背中に回される。

そのまま有無を言わさぬ勢いで、力強く引き寄せられた。感じられるのはウマ娘特有の高い体温と、引き締まった筋肉の弾力、高らかな鼓動。

 

男性にしてはやや小柄な私よりも、さらに頭一つ下回る矮躯でありながら、獰猛なまでの生命力のうねりがひしひしと伝わってくる。

端から見れば、可憐な女性に抱きつかれている羨ましい絵面だろうが、現実にかかるプレッシャーは猛獣に組み伏せられた手負いの草食動物さながら。

 

この期に及んで逃げ出そうと、ようやく足が後ずさりの動きを示すものの、当然彼女がそれを許すわけもなく。

男女の睦事のごとき抱擁も束の間、凄まじい締め付けが私の胴に襲いかかる。

 

相手の腰をとり上から圧力をかけ、膝を突かせる鯖折りと呼ばれる技。

しかし強靭な腕力の賜物か、逆に宙に持ち上げつつ胃と肺から空気を絞り出させてくる。必死に口を開けてもがいたところで肺は膨らまず、急速に意識に靄がかかってくる。

 

「なんだ……もう終わりかい?」

 

くつくつと、ウマ娘はせせら笑うように喉を鳴らす。

それに返す言葉もなく、脱力して腕を垂らし、ずるずると地面にへたり込む瞬間。

 

彼女のコートの内側に、鈍く輝くバッジの姿が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――――――はっ!!!」

 

 

目を覚ますと同時に、反射的に息を呑み込んで。

私は腹までかけられたシーツを盛大にはね除けながら、転げ落ちるようにしてベッドから飛び降りた。

 

落ち着け。落ち着くんだ私。

この程度の災難はこれまで何度だって乗り越えてきただろう。

 

走り疲れた犬のように、短い呼吸をせわしなく繰り出しながら部屋の中を見渡す。

部屋の隅に設置された大きいベッド、その横にはアーチ型の出窓。床にはウールのカーペットが敷かれ、天井にはスピーカーが一つ。

 

見間違える筈もない、トレーナー寮の寝室だった。

今日は休日。自室で惰眠を貪っていたのだろう。

 

「…………夢か」

 

そうだ、全ては悪い夢。

 

引っ越したシービーの荷解きを手伝いに訪れてみれば、何故か彼女の寝室に監禁されてしまったことも。

錯乱したタキオンに助け出されて、そのままサンデーサイレンスの元に連行されかけたことも。

どうにかカフェテリアに連れ込んで話をしてみても、いつの間にかルドルフたちに見つかって包囲されたことも。その際、タキオンやカフェにすら見捨てられてしまったことも。

それでもどうにか逃げた先には、件のサンデーサイレンス本人が待ち構えていたことだって。

 

トレーナーとして独立した一年目の春、担当の椅子を賭けた熾烈な戦いがルドルフとシービーの間で繰り広げられた。

今となっては笑い話だが、それでもこの時期を迎えるとやはり心のどこかに引っ掛かってしまうらしい。

失敗を克服することの重要性については、サブトレーナー時代に先生から散々言い聞かされたことだというのに。一番弟子の私がこの有り様では、師にも妹弟子たちにも言い訳出来ないな。

 

もっと気を引き締めなければと、一人決意を新たにしたところで……ふと、ベッドから対角の位置に据えられたクローゼットが目についた。

新品同様の、傷一つない真っ白なクローゼット。妙だ。私の寝室にあるこれは、数年にも渡る担当ウマ娘との攻防の末に、いよいよ臨終の刻を目前に控えているところなのに。

 

ノブに両手をかけて、えいやとばかりに大きく開け放つ。

 

果たして中に納められていたのは、どこからどう見ても私にはサイズの合わない、真っ黒なスーツ一式。

それを丁寧に横に退かして、さらに奥を探ってみれば、ふと他とは毛色の異なる衣装に辿り着いた。

 

 

そっとハンガーから外して引き出してみれば、下げられていたのは袖にラインの入った漆黒のロングコート。

さらにその下には、同じく真っ黒な膝上までのトゥニカと肩掛け。モチーフとなったのは修道服だろう。ただし、日曜のミサに着ていくためのものではない。

 

これは競技ウマ娘の勝負服だ。

ただ形状だけを比べるなら、あのスーツ一式とかなり似通っているだろうが……纏う雰囲気、オーラが明らかに違う。数多の激闘、死闘を演じてきた気迫がひしひしと手元から這い上ってくる。

ルドルフやシービーの衣装から受け取られるものと同じ。持ち主の魂そのものと言い換えても大袈裟ではない。

 

なんならこうして勝手に取り出して眺めているだけでも逆鱗に触れかねないと思い至って、慎重に元あった場所へと戻す。

この時点で僅かながらも私の匂いが移ってしまっているだろうから、今さら手遅れかもしれないが…。

 

 

 

そのままゆっくりとクローゼットの扉を閉じて、何食わぬ顔でリビングへと足を運ぶ。

 

中央に向かい合って並んだソファには、案の定こちらに背を向けて腰かける母の姿があった。

ばさばさの長髪を無造作に背もたれの後ろに流し、組んだ膝の上に開いたラップトップから閲覧しているのは学園のイントラネット。在籍生徒の記録を読み漁っているらしい。

 

「おはようございます。ああやっぱり、本当に来てしまったんですか。来てしまったんですね」

 

「悪いか?文句なら秋川のガキに申し立てろよ。言っておくがな、俺だって乗り気じゃなかったんだぜ」

 

「あの孤児院とサンデー教室の経営はどうなったんです」

 

「シンボリに召し上げられちまったよ。ったくアイツら、裏でコソコソと結託しやがって……」

 

ぶつぶつと呪詛を吐き散らし、苛立たしげに頭を掻くサンデーサイレンス。

その格好はネクタイを緩めただけのスーツ姿で、コートはソファの台座に丸まって放り投げられている。どうやらこの部屋に戻って以来、そう時間も経っていないらしい。

 

せめてコートは皺にならない内にハンガーに下げてしまおうと近づいたところで、その下に横たわる紙袋に気がついた。

外側に印刷されたロゴを見る限り、どうやら街にある百貨店で買い物をしてきたらしい。

 

「またお酒でも買ってきたんですか……」

 

ため息と共にそれを覗いてみると、驚くべきことにそこには酒瓶の姿もミントキャンディの影もなく、あるのは新品のストップウォッチとセラポアテープ。

 

「バカか。トレーナーやるってんのに酒なんざ買ってくるわけねェだろ」

 

「…………………………」

 

「てかお前も飲んでるなら止めた方がいいぞ。とりわけ鼻が効く連中の中には、酒精を毛嫌いする奴もいるからな。面倒くせェが、ウマ娘第一がこの学園のモットーだ」

 

「……………はい」

 

マジか。

私が、私たちがあれだけ手を替え品を替え対策を講じたところで、ついぞ成し遂げられなかった彼女の禁酒がこうもあっさりと。

 

「おい、いつまでつっ立ってんだよ。早くそこ座れ。一つだけ話がある」

 

向かいのソファをしゃくって示され、私は素直にそれに従った。

浅く腰を下ろし、前屈みに向き直ったところで、サンデーサイレンスは気だるげにラップトップを閉じる。

 

「それで、なんですか。話というのは」

 

 

「レースの告知。秋川理事長が思いつきで考案したチーム対抗レース……仮称『URAポスト・ホース』について教えてやる」

 



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泰山鳴動して鼠一匹

 

「URAポスト・ホース……」

 

母の口から告げられた、新レースの名前を復唱する。

『ポスト・ホース』……英語に直せば『post-horse』か。『post』は郵便の意で、『horse』とは英語圏においてウマ娘を意味する古語である。

これら二つの単語を繋げて示唆されるのは、かつて郵便配達人として活動し、あるいは旅人の荷運びや護衛のために宿屋や駅舎に駐在していたウマ娘のこと。そこから転じて……

 

「……駅伝、ですか。リレー形式で長距離におけるタイムを競うと」

 

「どうもそうらしいな。あの理事長も中々面白いことを考えつくもんだ。なァ?」

 

「そう、ですね。ごく一般的な競争形式ですが、トレーナーとしてはまず出てこない発想です」

 

「概ね同感だな。つってもアイツは別にトレーナーでもねェし、だからこそ視野もそれなりに広いんだろうが」

 

どこか愉快そうなサンデーサイレンスであるが、しかしどうにも私の中ではイメージが浮かび上がってこない。

これは職業柄仕方ないと言うか、決して少なくない時間をレース競技に費やしてきたが故の固定観念に基因するものだ。

 

前提として、レースとは個人競技である。

勝者とは唯一人、最も速くゴール板を駆け抜けた選手であって、その者だけが全てを手に入れられる決まり。

たとえ二十人立てのレースであろうとも、勝者とは一着のウマ娘だけを指し、その他十九人は押し並べて敗者でしかない。

仮にハナ差数センチの大接戦であろうと、届かなければ敗けは敗けである。原則、レースにおいて覇者は二人と存在しない。

 

これはチームにおいても同じことだ。

共に切磋琢磨して腕を磨き、同じトレーナーから指導を受ける者同士、連帯感というものは確かに存在する。

だが一度レースで相見えれば、チームメイトと言えどライバル同士である。なにせ争う椅子は一つしかないのだから。

同門対決なんて珍しくもなんともない。それこそ私の担当であるルドルフとシービーにしたって、互いに適正が被っているために大試合では幾度も鎬を削っていた。

 

チーム対抗の色が強かったアオハル杯でさえも、個々のレースに出走するのはあくまで一人ずつであり、その勝敗の合計を競うものだった。

一つのレースにチーム全体で協力して挑むというのは、実はレース競技としてかなり異質な性格であると言える。

 

「釈然としねェってツラだな」

 

「それはまぁ……はい。ですが、貴女にしたって同じ気持ちなのでは?」

 

「まぁな。しっくりこない部分はあるよ。ただ、チーム対抗……もっと言えばトレーナー間に優劣をつけるって点で言うなら筋は通ってるんじゃないか」

 

「確かに、トレーナーの指揮に大きく依存する部分はあるでしょうけど……」

 

一人のウマ娘をどう勝たせるかが焦点となるレースとは勝手が違う。

誰をどの順番で走らせるかという作戦立案が重要となるだろう。他のチームの出方を探りつつ、こちらの情報は極力隠匿する駆け引きも求められる。それらは全てトレーナーの領域に他ならない。

そういう意味では、筋が通るという評価も的外れではないのだろうが。

 

ただ、それでも既存のレースとは大きく性質が異なる以上、ポスト・ホースで優勝したトレーナーがすなわち中央の頂点であるとは言い難い。

彼女は優劣をつけると言っているが、正直この競技形式でトレーナーとしての技量の多寡を測れるかについてはやや疑問が残るか。

 

「理事長からは他になにか聞いていないんですか?日付とかコースとか、今回の思いつきの裏側でもなんでも」

 

「ないな。ってか、仮に聞いてたところでなんで親切に教えてやんなきゃいけねェんだよ。今や俺とお前は商売敵だぜ。分かってんのか?」

 

「そうでしたね……」

 

レースが個人競技であれば、トレーナーという職業もまた個人競技。

目標が担当ウマ娘を勝利させることであり、その勝ち椅子が一つしかないのであれば、極論己以外のトレーナー全てが敵である。

無条件で寄りかかれるのは、担当すら持てない未熟なサブトレーナーの特権なのだから。

 

ああ、彼女はもう聞けば何でも教えてくれる相手ではなくなってしまったのだなと、僅かばかりの寂寥が胸をよぎる。

 

「ま、親子のよしみで一つだけ教えてやろう。URAポスト・ホ-ス……お前のチームにとっちゃかなりキツい戦いになるだろうな」

 

「ルドルフとシービーの二人がいてもですか?」

 

「実力じゃなくて形式の問題。どういう意味か分かるか?」

 

連携……ではないだろうな。チーム結成当初ならともかく、今は阿吽の呼吸とまではいかないものの、ごく一般的なチームメイトとしての関係を築けている。

勿論慣れないリレー形式となれば、本番において多少の噛み違いは想定されるだろうが、それは他のチームにおいても同じこと。あえて私のチームだけに特筆されるような懸念事項ではない。

 

形式の問題、つまり駅伝競争においてのみ浮上する特殊事情。

実力ではないと言っていた。正式メンバーは二人だけとは言え、両者揃ってこの学園における最上位であるなら当然だ。

 

二人だけとは言え…………

 

「……ああ、人数ですか。そうか、駅伝ですもんね」

 

「正解。一応、一チーム何人が出走するかは現時点において未定らしいがな」

 

駅伝と称するからには、当然形式は多人数競争。

具体的な人数は不明だとしても、流石に二人で回すということはあり得ない。実力云々以前に、肝心の頭数が足りないのか。

テイオーがこのまま正式にチーム入りすれば、一応三人にはなるが……いくら天才と言っても、デビューもしてない内から戦力に換算するのは如何なものだろうか。

 

「うわ……何気に大問題じゃないですかこれ」

 

「恨むんなら少人数で慎ましくやってた自分を恨むこった。普段から大軍団を率いていりゃあ、問題にもならなかったのになァ」

 

G1ウマ娘を複数擁し、総勢では十名前後ものウマ娘を抱えるチームも存在する。

中央最大勢力たるリギルはまさにそれで、先輩のチームも当てはまる。もっともそれだけの担当を捕まえて、適切に育成し、安定して重賞バを排出するのは一筋縄ではいかないので、こういう時に有利が取れるのはむべなるかなという話か。

 

私のように人数自体が少ないチーム、あるいは絶対的なエースが単独で引っ張っているチーム等は困ったことになるな。

 

「しかしそう考えると、問題ないチームの方がむしろ少ないと思うんですけど」

 

「頭数揃えるだけなら幾つかのチームが手を組みゃあいい。学園主催のイベントレースで、担当ウマ娘の詳細が他所に割れることを許せるならな」

 

「成る程。結託し放題というわけでもないというわけですか」

 

「呉越同舟とはいえ、仮にも同じ陣営として作戦を練る以上、少なくとも出走メンバーのデータについては共有しなくちゃならんからなァ」

 

身長や血液型といった基本的な肉体情報、身体測定での記録、入学試験及び選抜試験において残された結果などについては、イントラネットから全校生徒分のデータを参照出来る。

だが担当トレーナーがウマ娘から抽出する情報は、そういった上部の数値とはまるで別次元のものだ。

育成方針の決定から作戦の構築にも直結する最大級の機密情報。ここで明かしてしまえば以降、レースで相対した際に不利を被るリスクが大きい。

 

恐らく殆どのトレーナーの目的は、理事長が提示した秋川家プライベート施設の一年パスである。

言い換えるなら育成の効率化を図るためであり、最終的にはレースでの勝利が目当てであるから、そのために重要な機密が流出するようでは本末転倒である。

 

「と言うかさっきからやけに余裕ですね貴女。まだチームはおろか担当すらついてないでしょう」

 

学園に運ばれてきたのが昨晩のこと。

昨日今日と学園は休みなので、書類上はまだトレーナーとして着任すらしていない筈。明日から目ぼしい生徒を漁る予定なのだろう。

 

しかし、そんな予想はどうやら外れたようで。

サンデーサイレンスはラップトップを脇に退けて、代わりにポケットからウマホを取り出しポチポチと操作して、一つ頷くと画面をこちらに見せてくる。

 

「いや、それが面白そうな一年坊に唾つけててな。コイツだ」

 

そこに映っていたのは、澄まし顔でこちらに流し目を送る芦毛のウマ娘。

 

今月トレセン学園に居を移したばかりの一年生で、同じく新入生のテイオーとは入学前から付き合いがあった。

 

「メジロマックイーンですか。テイオーと同じく、今年度の有望株だとか」

 

「お前も知ってたか。ああそうだ。手続きは来月になるから、現時点では内々定という形だがな。お前んとこの新入りと同じだ」

 

「結局貴女の所に行ったんですね。てっきり彼女もうちに来るものかと」

 

「ンだよ。今さら返してっつったってもう遅いからな」

 

「言いませんよそんなこと……もともと私のものじゃありませんし。むしろ貴女が担当につくなら安心だ」

 

マックイーンはテイオーと同じく、私のチームに興味を示してくれてはいたものの、他のトレーナーと比較検討したいという本人の希望があって、仮入部には至らなかったという経緯があった。

競技ウマ娘としてのバ生を左右する選択であるから慎重にもなろう。いくらルドルフの担当トレーナーとはいえ、最初から私だけしか眼中になかったテイオーの方がむしろ見ていて怖い。

 

期待の大物新人、加えて名門メジロ家のウマ娘ということもあって、万が一にも変な輩に捕まってやいないかと密かに心配していたが、相手がサンデーサイレンスなら大丈夫だろう。

良くも悪くも箱入りな彼女であるが、この破天荒を通り越して狂気に片足突っ込んだウマ娘とも意外と上手くやっていけるのかもしれない。

 

それはさておき。

 

「いや、だとしても、結局メンバーはまだマックイーンだけってことでしょう。一人で駅伝は出来ませんよ」

 

「そうなんだよなァ。やよいちゃんには、どうにか人数少なくしてくれってお願いするとして……残りもう三、四人は欲しいわな」

 

「なら先輩のチームからでも引き抜いてきたら如何です。そのために圧力かけてるんでしょう?」

 

「あ?なに言ってんだお前。俺がいつアイツのチームを締めたってんだよ」

 

「ですが、タキオンはそう受け取っていたみたいですよ。その上で、彼女に私を拉致してくるよう脅したとかなんとか」

 

「………………いや、知らんけど。ナニソレ」

 

しらを切るわけでもなく、本当にまるでなんの事だが分からないといった様子で、きょとんと私の顔を見つめるサンデーサイレンス。

 

それはこちらの台詞なのだが……。

 

「そりゃ、ヤツにお前を連れてこいとは言った気もするが。でも別におかしな話じゃねェだろ?旧知に挨拶するってのは。それにお前、今年の正月は帰ってこなかったし」

 

「え……でも、ルドルフもシービーも私が貴女に出くわすと悲惨な目に遭うって……」

 

「だから知らねェって。お前らが勝手にあれこれ大騒ぎしてただけだろ。今日の俺はミノルちゃんと茶しばいて、マックちゃんとお話して、あとは荷解きしてただけだぜ」

 

「じゃ、じゃあ先輩は?」

 

「知らん。部屋で寝てんじゃね」

 

「えぇ…………」

 

なら昨晩からの災難はなんだったのか。

一過性のショック症状だとしても、元凶がこれではあまりにも救いようが無さすぎる。

 

よく考えれば、十中八九無理やり連れてこられたらしきサンデーサイレンスが、持ち前の適応力を発揮して落ち着いているのは喜ばしい限りではあるが。

しかしそれすら素直に受け止めきれない程の、どうしようもない徒労感に苛まれる。

 

肩を落とす私を、サンデーサイレンスは妖しげな瞳でせせら笑う。

喉を小刻みに震わせる不気味な嗚咽だが、彼女にとって最大限の感情表現なのだろう。

 

「ああ、なんだなんだ、がっかりした顔しやがって。そんなに虐めて欲しかったのか」

 

「…………帰る」

 

もう疲れた。

貴重な休日をつまらないことで潰されたものだ。まぁ、仮になにも起こらなかったところで、どうせシービーと一緒に生徒会の手伝いをしていただけだろうけども。

 

とくに挨拶もせず、サンデーサイレンスの部屋を出る。

 

分かっていたことだが、やはりここはトレーナー寮の一階らしい。

玄関に程近く、だからこそ気絶した私が運び込まれても誰も気づかなかったのだろう。気づいた上で見捨てられたのかもしれないが。

 

この階には私の部屋もある。

今日はもうこのまま戻って、夜が明けるまで大人しく閉じ籠ってよう。外に出たところで散々な目にしか遭わないのだから。

 

毛の長い絨毯の感触を楽しみながら、廊下の端へ端へと歩いていく。

 

 

 

「………あれ?」

 

玄関の前にもたれている影が一つ。

こちらが存在を認識した瞬間、向こうも同時に気づいたらしく、肩を怒らせながらずんずんと歩み寄ってくる。

 

人気のない廊下の端で、よく通る高い声を張り上げた。

 

 

「どこに行ってたのさ!?ボク、ずっとここで待ってたんだよトレーナー!!」

 

 

 



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究極テイオーステップ

 

テイオーは激怒していた。

 

耳を絞り、尻尾を怒らせ、無言でずんずんと前を歩く。

私はただただ謝罪の言葉を垂れ流しながら、その後に続くことしか出来ない。

 

「テイオー。本当にすまなかった。言い訳をするつもりじゃないが、とにかく話だけでも聞いてくれないかな」

 

「………………ふん」

 

私の懇願もどこ吹く風といった険相で、迷いのない足取りのまま学園の中庭を進んでいく。

一応、後ろからついてくることぐらいは許して貰えているのだが。それにしても、トレーナー寮から真っ直ぐ離れて一体どこへ向かっているというのだろう。

 

テイオーが機嫌を損ねるのも当然の話だった。

私との電話の後、彼女は指示通り学園の事務局に合鍵の申請を届け出たわけだが、問題はその後だ。

手続き上、申請があったからといってそれだけで許可が降りるわけでもなく、当然こちら側からの承諾も必要となる。

事実、私のウマネットには事務局から承認の是非を問うメールが送信されていたのだが、その時には既にタキオンに同行していたため確認することが出来なかった。

結果として、テイオーは私の寮部屋に立ち入ることも叶わず待ちぼうけだったということ。

 

そうこうしている間に言葉も尽きて、黙々と遊歩道を歩き続ける私たち二人。

会話がないぶん、遠くから飛んで来るかけ声がよく聞こえる。今日は日曜でトレーニングも休みなのだが、自主練に精を出しているのだろう。

やや幼めの響きからして、恐らくはテイオーと同じく今年入学したばかりの中等部一年生か。トレセンにおける最初の関門たる選抜試験を控え、まだ学園生活に慣れていないこともあってか、この時期の新入生はどうにも力を入れすぎてしまうきらいがある。

 

休む時はしっかり休むと、上級生なら自然とそのあたりのメリハリもついてくるのだが。

トレーナーとしての性分故か、せめて無理だけはしないよう声の一つでもかけたくなるものの、いらぬトラブルに繋がりかねないので胸の内にしまっておく。

 

「……あのさ、トレーナー」

 

「ん?なにかな、テイオー」

 

と、そんなことを考えていた矢先、これまでなんの反応もなかったテイオーがようやくこちらへと振り向いた。

後ろ手を組みやや上体を傾けて、半眼で睨み付ける様は中等部時代のルドルフにそっくりで、こんな状況にも関わらず懐かしさが心を満たす。

彼女はポニーテールを揺らしながら、その瑞々しい唇をゆっくりと開いて一言。

 

「さっきからさ、ボク以外のウマ娘のこと考えてない?」

 

「……怖っ。背中に目でもついてるの?」

 

「トレーナーが分かりやすいだけだけど。で、誰のこと考えてたのかな?今はボクの機嫌をとるべきだよね?」

 

ねぇ?と目線だけで賛同を求めるテイオー。

目は口ほどに物を言うなんて諺もあるが、彼女の瞳はどうも口以上にコミュニケーションがこなせるらしい。

 

顔立ちや声は大層可愛らしいけども、後ろに寝かされた耳やざりざりと砂を掻く足も同時に視界に映るせいで、間近に迫られた私はまるで生きた心地がしない。

 

「いや、ちょっとルドルフのことをね」

 

「カイチョーがどうかしたの?」

 

「改めて見ると、やっぱりテイオーとルドルフはそっくりだなと」

 

嘘ではない。肝心の部分には全く触れていないが、そもそも機嫌をとれと言ったのは彼女の方だし。

 

ルドルフと似ていると聞いたとたん、テイオーはころりと態度を一変させて嬉しそうに笑う。

別にお世辞でもなんでもなく、その実力といい毛色や流星といい、どことなく纏う雰囲気はルドルフのそれを彷彿とさせていて、私に限らずこの学園でこれまで関わった多くの者から下されれいる評価である。

なんなら聞き飽きているぐらいではないかと思うのだが、元々ルドルフを追って中央に入学し、彼女に倣ってデビュー前でありながら無敗の三冠という大目標を公然と掲げるテイオーにとっては、何度繰り返されたところで嬉しいことには変わり無いのだろう。

 

ここでちょろいな、とかそういう考えを持ってはならない。

観察眼が鋭く、言動の節々を瞬時に分析出来る聡明な子だ。あっという間に見抜かれて、この先三日は目も合わせてもらえなくなるに違いない。

 

「そう言えば、カイチョーはどこに行ったの?シービーに連れ出されてどっか行っちゃたけど」

 

「どうだろう。ここにいないなら、今も商店街のあたりだと思うけど」

 

意識を失っていたため、あそこからどうやってここまで戻ってきたのかは分からない。

今でも私の捜索を続けているのか、とっくに学園まで引き上げているのか。まだ日は高いのでどちらもあり得る。

 

「今も……え、トレーナー、タキオン先輩と一緒にいたんじゃないの!?」

 

「その後に出会した。というかテイオー、なんでタキオンと私が一緒にいたことを知っている?」

 

「だって、ボクにトレーナーの居場所教えてってお願いしたきたのがタキオン先輩だったから」

 

「で、教えたわけか」

 

「うん。だってすっごく必死というか、切羽詰まってるカンジだったし……」

 

いつも飄々としているタキオンが新入生のテイオーにそこまで言われるということは、余程なりふり構わない姿だったのだろう。

出来れば隠し通しておいてほしかったが、仮にも高等部生であるタキオンの頼みを無視しろというのは酷な話かもしれない。

 

「それよりカイチョーとこっそり会ってたってこと!!ボク聞いてないんだけど!?なんで話してくれなかったのさ!!」

 

「別に隠してるつもりもないし、こちらの話を聞こうとしなかったのは君の方じゃないか」

 

「そうだけど、そうじゃないでしょ!!んもートレーナーのバカ!!」

 

「ど、どうどう」

 

だむだむと地団駄を踏むテイオー。

自分一人だけが蚊帳の外だったと悟り、いよいよ我慢ならなくなったらしい。

 

毛を逆立てるテイオーとそれを宥める私。

遊歩道のど真ん中でもつれ合う様子に好奇の眼差しを送りながら、私たちの横をウマ娘の一団がすれ違っていく。

学園指定の制服やジャージではなく色とりどりの私服を着こなしており、飲み物のカップを片手に休日の昼下がりを満喫しているようだった。

 

「!!」

 

彼女たちが横を抜けた途端、跳ね回っていたテイオーが急に動きを止める。

耳はこちらではなく、進行方向の一点へと揃って向き直り、ややあって私の手首を捕らえると有無を言わさずに引き摺っていく。

 

そのまま一分ほど歩いていけば、学園の正門から伸びる大きな通りへと出た。

その脇には、黄色に塗装されたキッチンカーが一台店を開いている。はちみーというドリンクを売り物にしているらしく、学園の生徒からはかなり評判が高い。先のウマ娘たちが持ち歩いていたのもこれだった。

私としては、その甘ったるさに少々値段が高いことともあって、メジャーな嗜好品であるにも関わらず買い求めたことは数える程しかないのだが。

 

テイオーは私の袖を引きながら、無言でその黄色の屋台を指差した。どうやら私の奢りで手打ちということらしい。

ドリンク一つで機嫌が直るなら安いものだ。はちみーついでに昨日今日の話でも聞いてもらおうと考えながら、私は内ポケットの財布へと指を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

二人ぶんのはちみーを受け取った後。

立ち話も疲れるので、そのまま近くの広場へと向かう。

 

この学園には幾つか広場があるが、ここはその中でも一番よく使われる三女神の広場である。

中心部には三女神像を戴く噴水が築かれており、誰が投げ込んだか底にはちらほらと小銭の姿も。

ベンチはないが、代わりに噴水の縁が幅や高さからして丁度良い塩梅で、私とテイオーはそこに並んで腰掛ける。

 

昨日の監禁、テイオーに救助を要請した経緯、タキオンによる連行とルドルフ達の襲撃、脱走劇からサンデーサイレンスとの遭遇に今後の方針にと、とりあえず知っていることは洗いざらい話しておいた。

テイオーはふんふんと頷きながら聞いていたが、やはり最も興味を引かれたのは新レースの情報らしい。

 

「へー……それじゃあ、その『ポスト・ホース』に出走するのは三人ってこと?カイチョーと、シービーと、それからボク」

 

「ルドルフとシービーはともかく、君は現状だと未確定だな。開催時期とか、具体的な形式とか、そのあたりが明らかにならないと……」

 

「ボクはカイチョーと一緒に走りたいの!ねぇトレーナー、じゃあさ、選抜レースで一着とれたらボクも走らせてよ!それなら実力的に問題ないでしょ?」

 

「あー……まぁ、考えてみるよ」

 

中等部一年生とはいえ学年のトップであれば、ぎりぎり戦力として通用するかもしれないが。

ただそれも、せめて幾つか公式レースを経験した後の話であって、仮に選抜レース直後の開催となったら難しいと言わざるを得ない。

それも含めて、今後の秋川理事長の動向次第ということになるだろう。

 

「そもそも出走登録が出来るかも分からないのがな。たとえテイオー含めても三人だと……せめてもう一人は欲しい」

 

「なら、ボク以外にもスカウトすれば良いじゃん。マックイーンは無理でもさ」

 

「いや、流石にそれだと私のキャパが足りない。普通の育成ならともかく、数ヶ月で新入生を即戦力まで仕上げるとなると、複数人はちょっと」

 

「そっか」

 

テイオー自身の有り余る才能に、私の持ち得る技術と時間を全て注ぎ込み、そこからさらにルドルフとシービーという優秀なチームメイトも加わることでどうにかやっとといった所だろう。

ただ出走条件を満たしたいだけなら、その辺のフリーのウマ娘を捕まえて放り込めばいいだけの話だが、仮にもトレーナーとしてそんなウマ娘にもレースにも不誠実な真似は許せない。

 

「なんかさ、どんなウマ娘も一瞬で強くなるみたいな、そんな裏ワザがあれば良いのにね」

 

テイオー自身もそのどん詰まりを理解しているようで、ぶらぶらと足を揺らしながら適当なことを言い出す始末。

 

「そんな夢みたいな話があるわけないって、他ならぬ君たち自身が一番よく理解しているだろうに」

 

「そうだけどさー……あっ、ねぇねぇトレーナー、こんな噂知ってる?この噴水でウマ娘同士が心を交わすと、力の継承が出来るんだって」

 

「知ってる。散々擦られた都市伝説だろう」

 

というより七不思議か。この学園ではトイレの花子さんや動く金次郎像並みに使い古された怪談である。

一体誰が言い出したことやら。なにぶん常日頃から勝負のプレッシャーに晒される世界なので、そういったまやかしにすがりたくなる気持ちは痛い程理解出来るけども。

 

「そもそも『心を交わす』って具体的にどういうことなんだろうな。告白でもするのか」

 

「なんかね、行動で示すってことらしいよ。告白もそうかもしれないけど。どうせやるんならもっと大胆な方がいいかもね……こういう風に」

 

言い終わる前に、テイオーは空いた手で私の襟元をがっちりと握り込む。

飲み干したはちみーのカップを握り潰し、そのままじいっと私の瞳を覗き込む。

 

「テイオー……っ!?」

 

なにやら嫌な予感を察知し、身を引こうとした瞬間。

瞬きの間に距離をつめられて、強引に唇を奪われた。

 

ほんの一秒にも満たない、お互い触れあうかどうかといったささやかなキス。

それでも微かに伝わってきた甘ったるさは、まさに固め濃いめなはちみーのそれ。わざわざ握り潰したのは、これを印象づけるためか。

 

「……なにを」

 

思わず睨み付けるが、テイオーは悪戯の成功を喜ぶ子供のように笑うだけ。

 

「これでトレーナーが足早くなったらさ、ひょっとしたら噂は本当かもね。そしたら適当なウマ娘を捕まえてチームに入れてさ、ボクとルドルフとシービーで…」

 

「接吻してやろうってことかい。嫌だよ、そんな痴女ウマ娘集団。ましてやそれを私が率いるなんて」

 

「ふんだ。でももう他にどうしようもないじゃんか。組んでくれる仲の良いトレーナーだっていないんでしょ?」

 

「い、いるさ一人ぐらい」

 

桐生院……は情報保全の点からたぶん無理だろうけど。

一時期はかなり苦しい立場に立たされたこともあったが、今ではそれなり以上に顔も利く。

 

その中でもこういう場合、真っ先に手を組む相手を挙げるとするなら……やはり、血よりも濃い(らしい)師弟関係で結ばれたあの人だろう。

 

 

正直、因縁があり過ぎてどう転ぶか分からないが……頼むだけ頼んでみるとしようか。

 

 

 



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師弟談義

「お断りします」

 

開口一番、バッサリと切り捨てられた。

そのあまりの容赦のなさに、頭が真っ白になった私へと流し目を寄越しながら、先生は深々と息を吐く。

カフェテリアの椅子を傾けさせ、手にしたバインダーの背で肩を叩きつつ、気だるげに言葉を続けた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……別に、貴方と組むのが嫌だからだとか、そういう子供じみた理由ではありません。たんに、私のチームはそのポスト・ホースとやらに出走しないだけです」

 

「そう、でしたか……して、その理由は一体」

 

「今年、また新しく担当を複数名とサブトレーナーも迎える予定ですから。率直に言って、新レースの対策まで手が回らないのです」

 

「あぁ……なるほど。見事に集中投資期間と丸被りしたと」

 

「えぇ」

 

新レースがあろうがなかろうが、新しい生徒とトレーナーは変わらずやってくるので致し方ない話である。

逆にベテラン勢の意識が逸れるこのタイミングをついて、有望なウマ娘を複数青田買いし育成するというのも一つの戦略なのかもしれない。

これまで中規模に留まっていた彼女のチームも、いよいよ勢力増強の時を迎えたのだろうか。

 

「最悪、そちらのエースを貸してもらえるだけでも十分なんですが」

 

「カツラギですか。難しいですね……あの子には今年度、チームの代表として育成にも絡んでもらうつもりですから」

 

駄目か。彼女であればただの頭数合わせではなく、立派な戦力の一角となり得るため期待していたのだが。

ルドルフは先行に差し、シービーは追い込みでエースは逃げと、脚質を多方面に揃えておけるのも魅力的だった。

 

無論、互いに手の内を晒すこととなる以上、絶対に承諾してもらえると確信していたわけではない。

ただ、シービーについては元々先生が三冠まで育て上げたウマ娘であり、エースもまた私がサブトレーナー時代に面倒を見ていた一人であった以上、そんなデメリットなど今さらだと捉えてはいた。

誰かしらのトレーナーと組むにおいては、シンボリフレンドをおいて他にはないと考えていたのである。

 

「まぁ、いの一番に私を頼ってきたあたりは評価してあげても良いでしょう」

 

「どうも。実際、私たちの連合が実現するなら世間的にも大きなアピールになりますからね」

 

世間においては、私とシンボリフレンドは極めて不仲であるという認識が根付いているらしい。レース競技クラスタ曰く、トレセン学園史上最悪の師弟関係だとかなんとか。

それも根も葉もない噂ではなく、一応根拠はある。なにせ推薦移籍の辞退という前代未聞の不義理をかまし、JCでは先生にトレーナーとして最初の敗北を叩きつけられ、かと思えばその翌年に一度は蹴った絶対王者ミスターシービーを特別移籍でかっさらったという因縁だ。

正直、これで関係が悪化しない方がかえっておかしいというか。仮に私が部外者の立場だったら、やはり不倶戴天の間柄であると考えるだろう。

 

真実はどうかといえば、サブトレーナー時代から変わらず良好である…………と思う。

 

はっきり言って、先生が何を考えているのか、私にどのような感情を抱いているのかが分からない。不仲については否定も肯定もしていないからだ。

あの性格からして、あのような敵対行為を一度でも見逃すわけがないのだが。この数年間、私以外にも弟子を取ってきていたが、仮に彼女らが同じ真似をしでかしたら絶対にただでは置かないだろう。

私の預かり知らぬ所で順調に負債が溜まっていっている可能性もなくはないが。少なくとも現時点においてはいたって親密な筈である。

 

ともかく、世間の価値観では私と先生は因縁の敵同士なわけで、我々が共同戦線を張るとなれば話題性は十分だと思えた。

トレーナー同士のみならず、その担当であるルドルフ、シービーとエースの因縁も無視できないのだから。

 

もっとも、実現しなかった以上なにを言ったところで意味などないのだけれども。

 

「なにも強制参加というわけではないのですから、都合がつかないなら貴方も辞退すれば良いのでは。悪いのは出走条件ということで」

 

「最悪そうなるでしょうが、うちのチームは理事長からの期待も大きいと言いますか……ここで抜けるとどうにも後が怖いものでして」

 

手前味噌になるが、学園の内外から最も注目を浴びているチームの一つだろう。ポスト・ホースにおいても、まず間違いなく活躍を期待されている筈だ。

ただし、そうだとしても、このまま頭数が埋まらなければ辞退せざるを得ないだろうが。少数精鋭と言えば聞こえは良いものの、単純な規模で見るならまだまだチームトレーナーとしてひよっこと言う他ない。

 

もっとも、私の勤務年数を鑑みればチームの設立を許されているだけでも御の字なのだが。

同じ年齢の時点で、既に指導教官としての位を与えられていた先生がおかしいのである。

 

「なんですか。まるで私のチームは上層部に期待されていないとでも言いたげですね」

 

「い、いえ、断じてそういう意味では……」

 

「冗談ですよ。まったく……とことん弟子にも担当にも恵まれないものですね、私は」

 

「すみません……」

 

「構いませんよ、別に気にしていませんから。中央は弱肉強食であり、その方針はウマ娘第一ですもんね。ですから今の境遇も自然の成り行きと言えましょう、ええ」

 

ますます声のトーンを落としながら、バインダーの背で今度は私の頭を小突いてくる。その両耳はきちんと前を向いているものの、内心穏やかでないのは明らかだった。

 

破竹の勢いで出世街道を猛進しているシンボリフレンドであるにも関わらず、今現在いまいち担当チームから勢いが欠けているのは、主に三つの理由がある。

 

一つ目は単純にタイミングの問題で、これまでチームの中心にいた最古参のウマ娘達が、昨年一斉に卒業を迎えたためだ。今年度、新入生の大量スカウトを予定しているのも、つまりはその補填に他ならない。

リギルのようなコンスタントに優秀なウマ娘を集められるチームでもない限り、戦力の波というのは必ずついて回る問題である。先生のチームはまさに今、その波の底辺に直面していた。

それでも数年前まではシービーがいたのだが、それも私が抜き取ってしまったのが二つ目の理由である。一つ弁明させてもらうと、彼女の移籍はルドルフのデビュー時から殆ど確定事項であったのだが、しかしその抜けた穴は大きい。戦力の低下のみならず、三冠ウマ娘を擁するチームというブランドも同時に失ったのだから。

 

それでもかつては、エースとシービーの他にも有力なウマ娘が一人いた。日本ダービーを制し、いずれチームを率いると目されていたウマ娘……シリウスシンボリが。

しかし海外遠征から帰還した彼女は、先生のチームに復帰しないまま成績の振るわないウマ娘達を統率し始めて今に至る。出奔したまま戻ってくる気配は一向にない。それが、第三の理由だった。

 

弟子にも担当にも恵まれないというのはまさしく言葉の通りであり、巡り合わせの悪さをものの見事に体現している。

ちなみにシリウスには以前から強引なアプローチを受け続けていたが、ここで彼女まで受け入れてしまえばいよいよもって先生に殺されかねないので全力で拒否し続けている。

 

しかしそれも自己保身の一つであって、恩師への義理立てとは口が裂けても言えまい。

このまま話を進めてもろくな結末を迎えられそうになかったので、どうにか話題を変えてみる。

 

「先生で無理なら、他に誰と組みましょうか……先輩は単独で余裕でしょうから、やはりサンデーサイレンスですかね」

 

「止めておきなさい。経歴は立派でも、実体はチームすら持たない生ける化石。かえってお荷物になるだけです。あぁ……でもそうですね、彼女を走らせれば一応出走条件はクリア出来るかもしれませんね」

 

「いやいや……トレーナーですよ?」

 

「URA管轄の公式試合でもなし。それにチーム対抗と銘打つのなら、トレーナーだって戦力に含めても問題ないでしょう。貴方と違って、私やあの人ならそういう抜け道が使える」

 

「そういえば、皐月やダービーも走っていましたもんね先生」

 

クラシック級およそ七千人の内から、僅か数十人しか出走出来ないそれに顔を出しただけでも栄誉である。そもそもの話、勝負服すら着ないままターフを去るウマ娘だって数多いるわけで、彼女も中央では上澄みだったのだろう。

もっともそれも現役時代の話であって、その抜け道の有用性にも疑問しか見当たらない。あくまで数合わせだけを見据えた裏技といった所か。

 

どのみち、その裏技すら私にとってはなんの役にも立たないのだが。

 

言いたいことを言い切って多少は気も晴れたのか、先生はさっさとカフェテリアを出ていってしまった。

日曜ではあるが、スカウトの準備に教本の手配にと休んでいる暇はないのだろう。

 

 

そんな彼女を引き留めてしまったことに一抹の心苦しさを抱きつつ見送っていたところ、入れ替わる形でこちらへと近づいてくる人影が一つ。

 

「やぁやぁ、トレーナー君。無事に帰ってこられたようでなによりだよ」

 

制服の上から白衣に袖を通し、ちゃかちゃかと軽快な足取りで真っ直ぐ向かってくる。

彼女の中で何かが解決したのか、顔には朝のような焦りの色はなく、変わりににたにたと胡乱な笑みを貼り付けていた。そのままぬるりと真横に滑り込むと、馴れ馴れしい手つきで私の肩を揉んでくる。

 

秒で裏切っておきながら、その数時間後にここまでの態度を取れるのは面の皮が厚いとかいうレベルではない。

まぁ、しおらしく詫びを入られたところで盛大に警戒心を刺激されるだけだろうが。そういう意味では、これが彼女なりの正しいコミュニケーションなのかもしれない。

 

「なんの用だ、タキオン。悪いが私は忙しいんだ」

 

「とてもじゃないが、そうには見えないけどね。ああ、会長とシービー君ならさっきテイオー君を連れて食堂に向かっていったよ。ここには来ないから安心するといい」

 

「どうも」

 

肩を揉む手を乱暴に振り払ってみるものの、タキオンはまるで気にした様子も見せずに怪しげな笑みを浮かべたまま。

周囲の客も一瞬だけこちらに振り向いたが、彼女の姿を認めた途端にいつものことだと視線を戻してしまう。

 

「ちょお~っと、データの採取に付き合っておくれよ。今朝の薬の効果がどれ程なのか知りたくてねぇ。今すぐラボに来てくれたまえ」

 

「そう言われてのこのこついて行くとでも思うか?私は先輩じゃない」

 

「しかし、君にとっても有意義なメンテナンスになるだろう。一時的にとはいえ、あんな無茶をして後に引いていないか不安じゃないかい?」

 

「む……」

 

言われてみれば確かに、あのような効果はありつつも怪しげな薬に手を出した副作用は気がかりだ。

それを作製し渡した張本人が言うのもどうかと思うが、張本人だからこそ最も的確な視点で検診出来るという面もある。

 

「それに、私はトレーナー君に対して一つ大きな貸しがある。私があの場で狂言を立証していなければ、君は今頃白昼堂々うら若き乙女達の前で放尿をかました現行犯として、当局に身柄を確保されていたのかもしれないのだから」

 

「あのタイプの注射器を寄越した君にも非があると思うが」

 

「エピペンを参考にしたとは言ったが、別に内腿でなくたって首でも肩でも良かったんだよ。どうしても納得いかないのであれば、ここで実演して見せてもいいが」

 

白衣の袖から注射器が一本取り出される。

形状こそあの薬に似ているが、充填されているのは全く違う薬液の筈だ。おおかた対象を一瞬で昏倒させるとか麻痺させるとか、そんな所だろう。

 

それにしても、いくら筋力に優れているわけではないとしたって、タキオンであれば素の腕力で私を黙らせて拉致することぐらい雑作もないと思うのだが。

なのにわざわざこういう手を使うのは、科学者としての矜持かなにかだろうか。

 

 

いずれにしても、こうして実力行使を示唆された以上、どのみち行く末は一つしかないのだと悟る。

 

「……ああ、分かったよ。ならさっさと案内してくれ」

 

とにもかくにも、まずは目の前の窮地を乗り切るために。

私は渋々ながら、タキオンの実験室へと向かうことに決めた。

 

 

 



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その影はゆっくりと

タキオンの研究室(ラボ)は、本校舎の一階の片隅にある。

スタッフ研修生の講義室が並び、一般のウマ娘やトレーナーにとっては殆ど馴染みのない区画をさらに一回曲がった突き当たりだ。

 

偶然辿り着くということはほぼあり得ず、その存在すら知らない生徒も多い。知っていたら知っていたで、そこがタキオンの根城である以上やはり自ら足を運ぶことはない。

友人であるカフェや担当トレーナーである先輩といった極僅かな例外を除いては、だが。

 

あとはルドルフもそうか。

個人的な交流というのもあるが、なにより生徒会長として定期的に視察に取り組むのも仕事なのだ。タキオンは学園の生徒であることから、彼女の研究に対する予算配分の許可並びにその中身について検討するのは生徒会の管轄である。

その多忙さ故に、全ての予算申請に対して現地調査を行っているわけではなく、実績と信頼性のある活動については原則書面のみで審査が通るのだが、生憎タキオンの実験はそれに当てはまらない。

ルドルフの視察に同行して、私もまたここに顔を出すことは度々あった。

 

今日のように、タキオン自身に引っ張ってこられるのは久し振りだが。

天井から降り注ぐ、真っ白で無機質な蛍光灯の瞬き。乳白色をしたリノリウムの床は、埃一つなく清潔に保たれている。その上を、部屋の主は忙しなく行ったり来たり。

太く長く、しなやかな尻尾を規則的に揺らしながら、窓際にぽつんと据えられたデスクの中をごそごそと漁っている。私の記憶が正しければ、あそこに入っていたのは紅茶のパウダーだったな。

 

「ふぅむ……トレーナー君、君はどれが好みだったかな……」

 

「ご親切にどうも。悪いがなにを出されても口をつけるつもりは毛頭ないよ」

 

「なんだい。せっかくの私の好意を無下にするつもりかい……まったく、私が手ずからもてなす事なんてそうそうないのだから、この際ありがたく受け取れば良いものを」

 

「恩着せがましいな。善意でもない、本音ではただのごますりの癖して」

 

今日に限らず、タキオンは初対面から一貫して私に友好的だった。

 

ただしそれは友誼から来るものではなく、たんにトレセン学園生徒会長シンボリルドルフのトレーナーという肩書きに阿っているだけである。

個人的な恩義というのもあるが、なによりタキオンにとってルドルフは自身の研究における資金調達の要だ。その担当である私を介して、少しでも彼女の心象を良くしておきたいというのが本心だろう。

とどのつまり、重要なのは予算を握る生徒会長からの評価だけなので、今朝みたく私とルドルフが対立した際にはあっさりと私を切り捨てていく。

 

もっとも、仮に私とタキオンが親密な間柄だったところで、差し出される紅茶を受け入れるか否かはまた別の話だが。

彼女が寄越してくる飲食物に口をつけてはならないというのは、このラボにおける暗黙の了解である。

 

「どう受け取ってくれても君の勝手さ。まぁいい。とりあえず、そこの寝台にでも仰向けになってくれたまえよ」

 

引き出しを閉じて、タキオンは壁にくっつけて広げた折り畳み式ベッドを指差す。

研究に熱をあげてそのまま寝落ちすることも多い彼女のために、クリスマスかなにかでカフェが用意してやったものだ。曰く、こうでもしないと翌日体が痛いと喚いて五月蝿いからだとか。

 

「……ん?」

 

言われた通りベッドの隣に立つと、気のせいか掛け布団が不自然に盛り上がって見える。

 

珍しい。誰も寄り付かないこのラボに二人も客人がいるなんて。

まぁ、どうせカフェか先輩のどちらかだろうとあたりをつけつつ、綿の潰れた布団の裾を掴んでえいやと引っぺがしてみる。

 

「……カフェか。どうした、こんなところで」

 

「………………ああ、兄さん……ですか……………」

 

ベッドの上で膝を抱いて丸まっているカフェの姿がそこにはあった。

 

どうやら眠ってはいないようで、虚ろな目を彷徨わせつつ寝返りをうち、落ち着かなさげにシーツへと顔を擦り付けている。

真っ黒な尻尾はずるりとベッドの端から滑り落ちて、枯れ枝のように力なく下を向いた。普段から活気には程遠い子であったが、今は完全に魂が抜けきってしまっている。

異常事態だ。とは言え、別に驚くには値しない。誰がどう見ても、犯人は一人しかいないだろう。

 

「タキオン」

 

「えー!!いきなり私のせいかい!?よしておくれよ、なにも根拠なんてないだろう」

 

「じゃあ、どうしてカフェがこんな有り様で君のベッドに横たわっている?どうせまた変なものでも飲ませたんだろう」

 

「言いがかりだよ。数時間前ここに来たときからそんな様子だった。仕方ないからベッドを貸してあげていただけさ。まだそこにいたとは思わなかったが……」

 

眉尻を下げながら、困り果てたように頭を掻くタキオン。

開き直りもしないということは、どうやら彼女の弁明は真実らしい。

 

改めてベッドに横たわるカフェを観察するも、やはり息を吹き返す兆候はなさそうだった。

光のない目でここではない遠くを見ながら、ぐったりと薄い胸を上下させている。血色は良好で、体調を崩しているようには見えないが、それでも正常な思考力はとっくに手放してしまったのだろう。

そうでなければ、数時間もここで無防備に身を晒しているわけがない。

 

念のため、シャツの胸元を緩めて露になった首筋に手を添える。

脈拍は異状なし。体温はやや高く感じられるが、ウマ娘であるから正常の範囲内だ。となると、カフェの不調は精神に起因するもので……やはり、母さんが出戻ってきた心労だろうか。なにせ、あのタキオンですらあそこまで狼狽する程だったし。

 

そうしていると、ふとカフェの黄金の瞳が焦点を取り戻して私を見上げる。

 

「ああ、兄さんも寝たいんですね………一緒に寝ますか、久し振りに………同じベッドで…………」

 

「寝ない。それよりもカフェ、母さんとはもう話をしたか?」

 

「……………??……………いえ……してません……」

 

質問の意味が分からないといった顔で、ふるふると頭を横に振るカフェ。

あの人が学園の敷地を跨いだのは恐らく昨晩の事なので、まだ直接顔を合わせていないのはおかしくもないか。わざわざ自分から挨拶しに行くことは絶対にしないだろうし。

 

となると、彼女の心労のタネはサンデーサイレンスではなく、全く別の事柄だということになる。

これ以上心理的に負担をかけたくはないので、母の話題についてはひとまず脇に置いておくとしよう。

 

「そうか……だったら、どうしてこんな脱け殻になっているんだ」

 

「………お友達が………いないんです。もう、朝から……ずっと………」

 

途切れ途切れにぼそぼそ声で理由を吐き出すカフェ。そのまま、肺を絞り込むようなため息を溢す。

 

お友達がいない。そう言われると、確かに心当たりがある。

今朝あのカフェテリアでかち合った時、店内のどこにもお友達の姿は見当たらなかった。あれだけ人数がいたものだから、ひょっとしたら見逃していただけなのかもしれないと思っていたが。

 

そして今もまた、ラボにはかの幽霊の影も形も見当たらない。普段であればカフェの隣なり部屋の隅なりでぽつんと立ち尽くしている筈なのに。

もっとも彼女とて四六時中カフェにぴったり引っ付いているわけではなく、時には自分の意思で行動するため今回もそうなのだと一人納得していた。まさか行方不明とは。

 

「だからと言って、私に頼ってこられてもねぇ……流石に幽霊捜索は身に余るよ。それよりもカフェ、早くベッドを空けておくれ」

 

そう言いつつも、端からカフェが自分で動けないと悟っているのか、抱き抱えて強引にベッドから引き剥がすタキオン。

おろおろと周囲を見渡して、さしあたり実験台前の椅子に座らせた後、今度は私を無理やりベッドへと押し倒してきた。こういう時ばかりは本当に手際が良い。

 

初めて寝かせられた折り畳みベッドは、既にだいぶ使い倒されているのか新品のような柔らかさは感じられない。

代わりに今の今まで横になっていたカフェの体温が残り、妙にほかほかと温かかった。慣れない感触にあれやこれやと体の位置を調整している最中、不意にチクリと首筋に走る痛み。

 

「………っ」

 

見上げれば、案の定にやけつつ注射器を構えるタキオンの姿。シリンジの中身は空っぽで、あの一瞬で正確に血管へと打ち込んだということ……あぁ、本当に手際が良い。

 

「……なにをした?」

 

「そう怖い顔をしないでくれたまえよ。別に怪しいものじゃない。ただの麻酔さ……じきに効果が現れるだろう。そちらの方が私としてもやりやすいからねぇ。悪いが我慢しておくれ」

 

「一応聞いておくが、君は麻酔を扱う………いや、やっぱりなんでもない」

 

免許を取得しているのかと尋ねかけるも、やはり止めておくことにする。

免許を所持しているだろうと信頼したわけでは勿論ない。単純に、「君がそんなこと気にする必要ないだろう」などといった答えが返ってくるのが怖かっただけだ。

どのみち結果が変えられないのであれば、現実から目を背けてでも心に優しくしておくのが得策である。

 

麻酔が効いてきたようで、ものの数秒で思考が鈍くなってきた。

それはすぐさま認知の阻害へと置き換わり、目に映る光景が情報として脳へと届かなくなる。

 

直後に瞼も落ちてきて、私の世界はあっという間に閉ざされてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眩しい。

 

闇に閉ざされた視界に直後、目映い光が射し込んだ。

 

瞼越しに受け取る蛍光灯ではない……例えるならば、恒星が爆発しているかのような。

私の手前……トンネルを抜ける直前のように、遠くから長く長く光の柱が伸びている。

 

なんとなく、それに呼ばれているような気がして。

一歩踏み出した瞬間、横を駆け抜けていく一つの影。

 

 

………誰?

 

 

呼び掛けても返事は来ない。

いや、違う。そもそも声が出てこない。

 

顔は見えなかった。髪型も……逆行の中で、みるみる遠ざかっていく背には尻尾があって。

 

あれは勝負服だろうか。

マントを翻したシルエットは、どこかで見たような気がしてならない。

 

 

待って。

 

 

声に出ない。駄目だ……言葉では駄目なんだ。

追いかけないと……走らないと。

 

 

小さくなった彼女を目指して、腕を振って走り出す。

踏みしめる大地の感触はない。ふわふわと宙に浮いているようで、しかし際限なく加速していく。

 

 

ああそうか。これは夢なんだね。

 

 

 

距離感の掴めなかった光は存外に近かったようで、瞬きの間に目の前へと近づいてくる。

 

理解の及ばないそれに、不思議と悪い感覚はしないまま……私は思い切って身を踊らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

「………………ん」

 

 

目を開けると、そこは見知った天井だった。

 

落ち着いた寒色の壁紙に、中央には埋め込み式のスピーカー……私の寮部屋か。

 

上体を起こしつつ、ベッドの感触を確かめる。弾力に富んだそれは、やはり折り畳み式のそれとはまるで別物。

たしかタキオンに麻酔を打たれて、そのまま眠りに沈んで……目覚めたらここか。データの採取とやらが終わったので、そのままここに投げ込んだのだろう。

一声かけてくれれば良いものを。いや、麻酔が効いている以上、それをしたところで無意味だったか。

 

 

ベッドから降り立ったところで、ふと出窓から射し込む柔らかな陽射しが目に止まる。

 

薄暗い室内、そして明らかに夕焼けからはかけ離れた光。

嫌な予感を胸に抱きつつ、枕元の充電コードからスマホを取り外して立ち上げてみれば、案の定時刻は月曜の朝六時だった。

 

「うわ……」

 

あのまま麻酔で半日と一晩眠りこけたわけか。えらく即効性と持続が強力なものだ。

無事に帰れたことそれ自体は結構であるが、結局あの騒動だけでまるまる休日が潰れてしまったのは残念でならない。

本来の予定では、土曜はシービーの荷解きの手伝いにあてて、日曜は久々にゆっくりするつもりだったのだが……これでは全く休んだ気にもなれなかった。

 

まぁ、仕方ない。

トレセン学園でトレーナーとして生きる以上、こういった些細な不幸に囚われていては身が持たない。

 

 

さっさと気持ちを入れ替えて、再び一週間……仕事を頑張るとしよう。

 

 



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暗中模索

 

私は自分の仕事が好きだ。

トレセン学園においてウマ娘を育成する、この中央トレーナーという職業が。

 

ウマ娘の育成のために一生を費やす覚悟があるし、やりがいだって感じている。上司に同僚にと、人にだって恵まれてきた。

給与や社会保障といった待遇面においても不満など見当たらない。少なくともこの国の中においてはトップクラスだと胸を張って言えるだろう。

世の中就職するにあたってはなにかしら諦めなければならないと言われるこのご時世において、理想に限りなく近い生業に励めている私は幸せ者だと言える。

 

 

だけど、そうだとしても……月曜の朝というのはやはり憂鬱なもので。

これはもう理屈どうこうではなく、精神に深く根を張った習性なのかもしれない。平日初日に気分が暗くなるというのは。

たぶん、小学校から続いてきた週休二日のローテーションの中で、コツコツとその価値観が形成されてきたのだろう。

 

澱んだ血の巡りは一向に解消の兆しを見せず、それでもどうにかリビングのポットからコーヒーを並々とカップに注ぐ。

酸っぱさとほろ苦さの入り交じった香りが鼻の奥に抜けて、靄の晴れるように頭の中がしゃきっとしていく。その勢いで砂糖もミルクも入れず一気に流し込むことで、ようやく体も浅い眠りから浮上した。

こんな嗜み方、カフェに知られたらなんとどやされるか分かったものじゃないが。しかし手っ取り早く頭を動かすにあたって、最も健全な手法である。

 

「うぅ………」

 

……ただ、まだ目覚めは完璧じゃないな。

 

こうなればシャワーでも浴びてさっぱりしようかと、この後のスケジュールと並べて逡巡の唸りを上げてみれば、そんな私を前におかしそうに笑うウマ娘が一人。

 

「あはは。トレーナー、すっごい眠そうな顔してる」

 

「シービー……誰のせいだと。本当に……」

 

「いや~。ごめんて」

 

勝手知ったる人の家と言わんばかりにソファに寝転がり、行きがけにコンビニで買いつけてきたらしきたまごサンドをちびりちびりと齧るシービー。

テーブルの上に広げられたマイバックには、寝起きに見ているだけで胸焼けがしそうな程の量の握り飯やら惣菜パンやらが詰め込まれている。

 

まぁ、ヒトよりエネルギーの消費が活発なウマ娘のこと。それも現役アスリートとなればこのぐらいは……いや、それでも多いな。

オグリキャップと同等までは言わないが、いい勝負が出来そうな程度にはボリュームがありすぎる。遅れて来た食べ盛りなのかもしれないが、体重と摂取カロリーの調整という点で洒落になってない。

 

そんな私の危惧をよそに、最後の一欠片を飲み込むとすぐさま一番近くにある握り飯へと取り掛かるシービー。

透明な包装を豪快に破り、寝転んだままかぶりつく。みるみるうちに手のひら大の塊が口の中へと消えていき、ものの十数秒で食べ切ってしまった。あの体勢でよく海苔を散らさずに食べれるものだと、逆に感心してしまう。

 

「なぁに。人の食事をあまりじろじろ眺めるのは不躾よトレーナー。お腹空いたならキミも勝手に取ったら」

 

「いや……いい。今は腹減ってない……というよりまだ胃が動いてない」

 

「ふむ。だがいくら調子が出ないといっても、朝を抜くのは良くないな。君には釈迦に説法だろうが」

 

「ああ、君もいたのかルドルフ」

 

ひょっこりと、台所の奥からルドルフが顔を覗かせる。

朝に弱いのはいつまで経っても変わらないままで、今日も今日とて半眼に耳を絞りながら力なく尻尾を揺らしている。私と同じかそれ以上の億劫さだろうに、それでも口先だけでも取り繕っているのは流石の精神力と言ったところか。

パキンとペットボトルのキャップを開き、大儀そうに口をつけて傾ける。ラベルを剥がしたミネラルウォーターは、いつの間にか彼女専用としてここの冷蔵庫に常備されているもの。ちなみにシービーにも全く同じものがあり、そちらにはラベルがついたままだ。

ようするに、それだけここに入り浸っているのだ。彼女達は。以前カフェをここに入れたときに、二人の匂いが染み付いているとまで言っていたからよっぽどらしい。

 

ちなみにその日はカフェがここに泊まり、翌朝念入りに消臭したにも関わらず夕方来た彼女達にはあっさりと看破された。

どうにもヒトとウマ娘では匂いの受け取り方そのものが異なるらしい。見えてる世界からして違うというか……鼻が良すぎるのも考えものだ。種族が異なる以上、そういうものだと割り切る他ないのだが。

 

「あぁー………シービー。私の分も」

 

「適当に取ってってよ。割り勘にしただけでどれが誰のぶんかは決めてないんだから」

 

「ああ。なんだ、シービーが一人で食べるわけじゃなかったのか」

 

「当たり前でしょ。アタシはオグリとは違うんだから。流石にあの子みたいのが二人もいたら堪らない」

 

そう言いながらも、二人がかかりで山のような食糧を平らげていく様はやはり見ていて迫力がある。

支払いは折半とのことだが、お互い特に取り分を測る様子もなしに気ままに手をつけているようだ。昔はこういったところで揉め事に発展することもしばしばあったことを考えると、二人とも随分丸くなったというか。

 

チームトレーナーとして最も気を遣うべき点は、やはりチーム内における不和の予防ないし解消である。

年頃の少女を複数担当するとなると、いかんせん常に円満というわけにもいかない。ただでさえ競争心旺盛なウマ娘のこと。些細な衝突が大惨事にまで発展することも珍しくなく、それを如何にして御するかが腕の見せ所。言い換えるなら、これが上手くこなせて初めてベテランを名乗れるのだ。

私のチームには今のところ亀裂の予兆もなく、唯一の不安要素は新顔であるテイオーとの関係であるが……まぁ、大丈夫だろう。

 

早めの朝食にありつく二人は取り敢えずそっとしておくとして、空になったカップを洗おうと流しに向かう。

その途中、資料をバインダーに綴じて並べた棚の中段に、見慣れない何枚かの用紙が無造作にねじ込まれているのに気づいた。

過去五年分の記録を時系列順に整理したものであるから、中段に納められているのはだいたい二年から三年程前の資料。半ば塩漬け同然の状態になっており、今さら新しいものが加わる余地もない筈なのだが。

 

取り出して広げてみると、用紙に記載されていたのは詳細な身体的データ。幾つかの視点を基に数字として表したものであり、学園のデータベースで管理されている生徒の記録と酷似している。

ルドルフやシービーのデータと比較対象がなされているものの、肝心の数値は二人と比べるべくもない。一般的なウマ娘の数値すら大きく下回っており、明らかにこれはヒトの……恐らくは私のデータだろう。

 

「タキオンか……」

 

そういえば、検診の後に結果を教えてもらうとか約束していたな。おおかた、私を昨日ここまで運び込んだついでに残していったというところか。わざわざ担当二人と比較するなど随分酔狂な真似をするものだが、見たところ後遺症の類いはないようだ。

そもそもトレーナーしかアクセス出来ないデータベース内の記録の仕様を把握していることとか、さらにはルドルフとシービーの身体データも保有していることとか、突っ込みどころを挙げればキリがないのだが……まぁ、タキオンのやることだからな。そのぐらいで驚きはしない。

イントラネットへの侵入などお手のものだろうし、オフラインの情報についても最悪お友達の力を借りればどうとでもなる。力を貸してもらえれば、の話ではあるけども。

 

 

……ああ、思い出した。

 

お友達、カフェ曰く行方不明なんだったか。

 

 

「ルドルフ、シービー……悪いが少し用事が出来た。朝練はそっちで進めておいてくれ。テイオーも一緒に」

 

「何時ぐらいに戻ってこれそうかい?授業開始前には顔を出せるかな?」

 

「分からない。なるべく早く終わらせるつもりだが、もしかしたら午前中は潰れるかも。夕方からは顔を出せるよ。たぶん」

 

「メニューは先週末打ち合わせたものでいいのかな。テイオーにも共有する形で」

 

「ああ、そうしてくれ。任せたぞ。もしなにかあったら遠慮なく電話をくれ。こっちはそこまで大事な用件じゃない」

 

「委細承知した、トレーナー君」

 

相変わらず声だけは威勢のいいルドルフに一つ頷くと、私は私服のまま業務用スマホだけを手に玄関へと向かう。

ノブに指をかけたところで、二枚の用紙を手にしたままなことに気付いたためひとまずポケットに捩じ込んでおいた。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

さて、朝のうちにお友達を見つけられれば良いのだが。

 

いくら自分の担当でないとは言っても、カフェのああまで取り乱した姿を目にしていては流石に動かないわけにはいかない。生まれた時からずっと一緒にいた相手であるから、急に目が届かなくなっただけでも不安で堪らないのだろう。

それに私自身、お友達に消えてしまわれては困るという事情もある。少なくとも私の知る限りにおいて、サンデーサイレンスへの抑止力となり得る存在が彼女だけである以上、これからの平和のためにはなにがなんでも側にいてもらわなくてはならないからだ。

 

玄関を抜けて、これから目指す先はまさにそのサンデーサイレンスの寮部屋。

窓が大きく取られ、さらさらと柔らかな朝陽が射し込む廊下を大股に抜けていく。人気はなく、がらんどうに響き渡るのは私の靴音ただ一つのみ。

 

見つけると意気込んだところで、実際なにかアテがあるというわけでもない。

お友達の姿を認識し、話が出来るのはカフェだけ。私は互いに視認出来るのみで、今のところ意志疎通にまでは至っていない。それ以外の人物においてはそもそも見ることすら叶わない。

そうである以上、目撃証言を集められないのは厄介なところだが……霊障を介して存在そのものを察知する事は私とカフェ以外にも出来るのだ。なので、先ずはそういった超常現象の痕跡を集める。

いの一番にサンデーサイレンスをあたるのは、単に常日頃からお友達と折り合いが悪く、とっくにいざこざの一つや二つでも起こしていそうだという、たったそれだけの理由でしかなかった。

 

部屋の前に立ち、インターホンを鳴らすとすぐに扉が解錠される。

ボタンの上に設置されたカメラは起動していない。赤ランプのまま沈黙している。相変わらず無用心というか、来訪者の顔を確かめる手間ぐらいは惜しまないで欲しいものだ。

 

 

 

「失礼しますよ……起きてますか?起きてますよね。入りますからね」

 

施錠はオートロックに任せ、スニーカーを脱ぎ揃えて土間に上がり、ずかずかとリビングを目指す。

いくら旧知の間柄とはいえ一応他人の家なのだが、今さら遠慮する気には微塵もなれなかった。私もルドルフやシービーのことをとやかく言える立場ではないのかもしれない。

 

申し訳程度にリビングの扉をノックし、返事を待たずして開ければ部屋の中央に佇むサンデーサイレンスの姿。

 

こちらに背を向けて、大窓越しに朝焼けの名残を見つめている。尻尾は垂れ下がったままぴくりともせず、両腕は無造作にズボンのポケットへと突っ込んで、特になにをするわけでもない。

朝っぱらかたぼうっと自室で立ち尽くして、この人は一体なにがしたいのだろうか。もしかしたら春の陽気に呑まれたとか、美しい晴れ空を堪能する詩的情緒に目覚めたとかいった事情があるのかもしれないが、いずれも似合わないから即刻止めろと言いたい。

 

どう声をかけたものかしばし戸惑っていたところ、ふと彼女の脇にあるテーブルに放置された缶が目に飛び込んでくる。

350mlのビール缶。先日、あんな説教を私にくれておきながら自分は手をつけたのか。見上げた職業意識だと、密かに感動していたところだったのに……。まぁ、実家では日に一瓶のペースで空けていたことを考えれば、これでも驚異的な進歩であると評価するべきなのだろう。

 

だとしても、せめて一言ぐらいは文句を述べさせてもらおうか。

ついでに私の感動も返して欲しい。

 

「アルコールは鼻につくから止めておけって、そう言ったのは何処の誰でしたっけか。サンデーサイレンス殿」

 

「俺だな。今はンなこと放っておけよ。それよりさっさと用件を言え。俺だって暇じゃないんだ」

 

 

やる気のない仕草で、ぼそぼそとそう呟きながら……目の前の黒鹿毛のウマ娘は、ようやくこちらを振り返った。

 

 



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抜け駆け

 

暇でないのはこちらも同じなので、手短に用件を明かす。

タキオンのラボで見たカフェの様子と、その原因であるお友達の失踪について。心当たりがあるか否かを尋ねるだけなので、適当に掻い摘まんで説明した。

 

流石の彼女でも、実の娘の窮状にはなにかしら思うところがあるのだろう。苦虫を噛み潰した顔で、落ち着きなく両耳をばらばらに動かしている。

こちらの説明が終わったあたりで一つ大きなため息を溢し、どこか呆れの混じった金色の瞳で私を睨みつけた。

 

「いやー……よくそんな話を俺まで持ってきたな。アレとの仲が最悪なことぐらい、お前だってよく分かってるだろうが」

 

「だからこそですよ。既にちょっかいかけたりかけられたりしてるんじゃないですか」

 

「仮にそうだったとして、ならお前はどっちの味方なんだ?」

 

「お友達ですかね。貴女みたいに汚い言葉も使いませんし」

 

そもそも会話が出来ないだけなのだが。

もし彼女が喋れるようになったとしたら、どうせ似たり寄ったりの粗暴な言葉遣いなのだろう。コミュニケーションが成立しないぶん、かえって付き合いやすいのは皮肉なものだ。

 

サンデーサイレンスはふんと鼻を鳴らすと、私の前を横切ってリビングの棚をあれこれと物色しだす。

備え付けの三段構造であり、私含め殆どのトレーナーが資料の保管に使っている棚。彼女もまたその例に漏れず、青色のバインダーが幾つか最上段に収まっていた。

表紙自体は新品だが、中に納められた書類には遠目にも年季が感じられる。恐らくかつての現役時代のものであり、再雇用にあたって実家から持ち込んでいるのだろう。

 

「で、なにか知りません?」

 

「知らねェな。どうせその辺で用でも足してんだろ。俺としちゃどうでもいい」

 

本当に興味なさげに吐き捨てながら、じっと目で文字を追っているサンデーサイレンス。

別に隠す理由もないのだから、どうやら本当に心当たりがないらしい。

 

さて、こうなると手詰まりだな。

彼女に喧嘩を売りにいく以外の、お友達が能動的に動く理由が私には思いつかない。

 

そもそもの話、お友達が自分の意思で勝手に行動出来るのか、時間や距離の制約があるのかないのかすら全く分からないのだ。失踪そのものの確証もなく、もしかしたらとうとう成仏してしまっただけなのかもしれない。

 

「そういや、悪霊は招かれないと家に入れないなんて話も聞いたことあんな。アレはどうなんだ?」

 

「さぁ。普段はすり抜けて移動していますし、その気になれば物理的な干渉も出来ますから。実質的に制約なんてないのかもしれませんね」

 

人を叩く、押さえつける、あるいは扉をノックするなどといった行動も見せているから、触れたもの全てがすり抜けるというわけではない筈だ。たぶん、お友達自身の意思で自由に切り替えが出来るのだろう。

便利なものだ。もしかしたら、私達よりよっぽど自由なのかもしれない。

 

「ま、知らないならそれでいいです。朝早くにお邪魔しましたね。あとカフェにも顔を見せてあげて下さい」

 

「俺の用事が済んだらな。もう行け」

 

「はいはい」

 

目線すらこちらに寄越さず、終始淡々とした対応。バインダーを閉じて棚に戻したかと思えば、今度は学園保管のレース記録に手をつけている。

既にデビュー済みの生徒を中心に情報を集めているわけか。普通、赴任直後であればまだ担当のついていない生徒を漁るものだが、ひょっとしたら既にデビュー後のことまで視野にいれているのかもしれない。自信家の彼女のことだから、それも十分にあり得る話だった。

 

なんにしても、ここで横槍を入れるのも悪い。

集中しているようだからそっとしておこう 。

 

「ああ、そうだ。やっぱりお前、ちょっと待て」

 

踵を返し、リビングを一歩出た瞬間。

今度は彼女の方から待ったをかけられる。

 

「行けだの待てだの、忙しい人ですね貴女は。なにか忘れ物でも?」

 

「ああ。つっても大したことじゃない。俺も一つだけ、お前に聞きたいことがある」

 

「なんでしょう?」

 

「今回の企画……チーム対抗の駅伝競争。お前から見てどう思う?楽しめそうか?」

 

楽しめるかどうか以前に、現状では参加すらだいぶ怪しいところなのだが。

ただ、私にそれを問う彼女の意図も理解出来る。ここ数年でトレセン学園も大きく変化を遂げており、それを外部者ではなく関係者として間近で見てきたトレーナーの見解を知りたいといったところか。

 

「ええ、もちろん。各チームのエース級はいずれも粒揃いですからね。トレーナーとしても、それから出走するウマ娘としてもかなり歯ごたえがあるでしょう」

 

「お前んとこの担当と比べてもか」

 

「全く油断は出来ませんね。あの二人は歴代でもトップクラスですが、それにひけをとらないウマ娘も多くいる」

 

日本レース競技全体としての視点で見れば、これ程喜ばしいこともないだろう。

特にレースの隆盛に向けて尽力してきた秋川理事長やルドルフにとっては、件のレースを開催することそのものに意義があるのかもしれない。大感謝祭におけるファンレースのようなものだ。かといって、負けてやるつもりは毛頭ないけども。

 

……いや、その前にまずは出走条件を満たさないとならないのだが。

 

「そうか」

 

私の答えに満足がいったのか、サンデーサイレンスは大きく首を縦に振った。

俄然やる気が湧いてきたらしい。その目の色がトレーナーの矜持というよりウマ娘の本能に燃えているのが少し気になるところだが。旺盛な闘争心は何年経っても鎮まらないらしい。

 

「そんなに気になるなら自分の目で確かめてみたらどうです。そんな紙の上の数字よりもよっぽど説得力がありますよ」

 

「それもそうだな。この天気ならグラウンドか」

 

「まぁ、わざわざ屋内でトレーニングする生徒も少ないでしょうね」

 

こちらが言い終わるのを待たず、彼女は颯爽と身を翻して玄関へと走っていく。

乱暴に扉の閉まる音が部屋の中で尾を引いて、後には私だけが残された。

 

相変わらず落ち着きのない人だ。きっと見ているでは収まらず、手当たり次第に声をかけ始めるに違いない。ただでさえ要警戒人物なのだから自重して欲しいところだが、あの様子では望み薄だろう。

やっぱりここで資料とにらめっこさせておいた方が良かったかもしれないなと、若干の後悔を抱えながら私も寮部屋の外に出る。

 

 

と、その先には全身緑の女性が一人。

学園の紋章が印字された封筒を胸に抱き、その大きな目をぎょっと見開いている。

 

「あら、トレーナーさん。おはようございます」

 

「あ、おはようございます。たづなさん。とうとう貴女もこちらに引っ越してきたわけですか」

 

「違います。新たに赴任されたトレーナーさんには、福利厚生に関する提出書類がありまして」

 

「その回収に来た、と」

 

「ええ」

 

たづなさんはほうと一つため息をつく。

 

書類など自分で窓口に提出させれば良いものを、わざわざこうして受け取りに回っているのだから律儀なものである。必要な過程だとしても、彼女が月曜の朝から足を使うほどのものでもあるまいに。

理事長秘書というのも大概なんでもありというか、扱っている仕事の全容がまるで把握出来ない。生徒会長とそっくりである。

 

そして、新たな赴任者というのはサンデーサイレンスのことだろう。

タイミングが悪くすれ違いになってしまったらしい。やはり、余計なことを口にせず部屋に留めておくべきだったか。

私が彼女の部屋から出てきたいきさつが読み取れないのか、目を瞬かせつつ小首を傾げるたづなさん。

 

「トレーナーさんお一人……ですか?」

 

「今のところは」

 

「そう……ですか。まぁ、それよりトレーナーさんにも少しだけお話がありまして」

 

「私に、ですか」

 

なんだろう。事務の方々から目をつけられるようなトラブルはまだ起こしていない。

立ち小便疑惑もタキオンが後始末してくれたと言っているし。だいたいその場合だと、出張ってくるのは理事長秘書ではなくもっと穏やかではない部門の筈だ。窓のない部屋に閉じ込められて、適切な"処理"をなされる羽目になる。

 

「はい。と言っても簡単なご説明です。ポスト・レースの日にちと出走条件が確定したので、その概要について……あ、その前に一つだけお説教を。昨日から、レースの中身について他のトレーナーに広めて回っているらしいですね?」

 

「ああ、はい。すみません」

 

「もう、ダメですよトレーナーさん。一体どうやって突き止めたかは知りませんが、仮にも機密なのですから。漏洩防止には協力して頂かないと」

 

咎めるその声は、いつもより少しだけトーンが低い。

軽く眉を吊り上げながら、彼女は両手の人差し指でばってんを作った。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

月曜の朝ってのは憂鬱だ。

学生の身分の私ですらそうなのだから、トレーナー連中にとってはさぞ辛いことだろう。

 

こういう時、どれだけ逆スカウトをかけても逆効果だと、私は昨年の経験から理解していた。

ましてやグラウンドの占領なんてもっての他だ。釣れるのはあのお堅い生徒会長ぐらい。今はアイツと遊んでやる気にもなれなかった。

 

だから、こうして図書館の半分を占めきってだらけてんのにも合理性はある。

うちの連中には、おつむの出来がお粗末な奴もそれなりにいるからな。こういう機会に鍛えさせないと。

 

「シリウスせんぱ~い。早くお外行きましょうよ~。また図書館ですか~?」

 

「うっせーな。朝からぶうたれる余裕があんなら、自分の脚質に合った教本ぐらい見つけてこいよ。なんだそれ、逃げの指南書じゃねえか」

 

「でも~これしかないんですよ~」

 

「チッ……ったく。ほらよ」

 

仕方ないので読みかけの指南書を渡してやれば、渋々といった様子で自分の席に帰っていった。

さてはアイツ、今のにかこつけて無理やり外に連れ出す魂胆だったな。

 

「ハァ……」

 

足を組み直し、腕を頭の後ろで組んでソファにどっしりとふんぞり返る。

 

こういうのは本来トレーナーの役割なのだが、ウチは担当がいない生徒の寄り合いなので、必然的に最も経験豊富な私がマネジメントに回るしかない。

と言っても、スタッフ研修生でもない私が出来る指導なんてたかが知れていた。トレーナーなんてのは見様見真似でこなせるもんじゃない。いくらダービーウマ娘と言えども、走ることと教えることはまた別の話であった。

 

海外志向の強いシンボリのウマ娘として、そしてなによりも欧州で戦い抜いたウマ娘として、海外の芝に関する知識やノウハウなら其処らのトレーナーを凌駕していると自負しているが。

デビューすら果たしていないアイツらにとっては海外挑戦なんて夢のまた夢。身のある体験談も完全に宝の持ち腐れだ。

 

 

……しかしどうすっかな。

新しい年度も始まっちまった。トレーナーの目が有望な新入生に集まる中、私達の逆スカウトはこれまで以上に至難を極めることとなるだろう。

 

私については問題ない。

かつてのダービーウマ娘であり、海外を渡り歩いたシリウスシンボリの名前は今も健在だ。気性に難があるのは自分でも認めるところだが、それを差し置いても尚私をスカウトしたいトレーナーなんて大勢いる。

そもそもG1クラスのウマ娘がいつまでもフリーなことそのものが異常事態だ。成果が欲しくて欲しくて堪らない新人連中は喉から手が出る程だろう。

 

しかし、それが取り巻きまで一緒となると話は変わってくる。

 

リーダーとしての贔屓目を抜きにしても、アイツらはそれなりに見込みのある連中だ。

腐っても中央の選抜試験を潜り抜けたウマ娘。運やら出会いやらに恵まれなかったが故にこんな状況に甘んじているだけであり、ちゃんとトレーナーがつけば一人前に戦える。

本当に見込みのない奴はそもそも私の所にこない。一人で限界を悟って勝手に学園を去るだけだ。

 

しかし、いくら素質があると言ったところで、経歴にケチがついていることには変わりなく……そんな連中をまとめて面倒見てやろうなんてトレーナーはいなかった。

あるいはやる気はあるとしても、肝心のキャパシティが足りていない。一度に大勢を育成出来るだけの腕があるトレーナーなんて、いくら中央でもごく一握りだ。

 

私の元トレーナーは、まさしくそのごく一握りだったわけだが。しかし私一人だけならともかく、残りのウマ娘は受け入れないと明言している。曰く素行が気に食わないからだと。

あのウマ娘はそう決めたらまず態度を変えない。交渉の余地はないと思っていい。

 

素行や気性についてはお世辞にも良好とは言えず、辛酸を舐め続けてきた結果ひねくれている部分があるのも確か。

そしてそういった連中も押さえつけて、言うことを聞かせられるだけの剛腕も彼女は持っているだけに、本当に惜しい。

 

 

私達をまとめて育成し、きちんと纏めあげられるだけの腕っこき。

そんなトレーナーが、この時期に大勢の担当を探しているなんて……そんな旨い話があるわけないか。

この学園に所属するチームトレーナーの顔は全て把握しているが、どいつもこいつも既に新しい担当を確保しつつある。私達のつけ入る余地などどこにもない。

 

 

ぐるぐると、何度も何度も思考を反芻させていたところ……いきなり頭を叩かれた。

 

「……ッてぇな!!大人しく本すら読めねぇのかお前ら」

 

「ようNaughty。こんな天気の朝にも図書館に縮こまってお勉強かい。殊勝なもんだな」

 

「………ッ」

 

聞き覚えのある、しかしここにいる筈のないその声に思わず息を詰まらせた瞬間、ソイツは後ろから身を乗り出してこちらを覗き込んできた。

 

無頓着に前後へと流された、バサバサの真っ黒な長髪。その隙間からは揺れる満月の瞳が覗いており、血の気の失せた真っ白な肌と相まって、酷く陰気な気配を纏っている。

輪郭は細く、その全貌はさながら飢えた野犬か大ガラスのよう。肩に羽織ったコートの内側には、中央トレーナーの証であるバッジが鈍く光っている。所々塗装の剥げていて、長いこと使い込まれていたらしい。

 

「ハッ、アンタか。ここは孤児院でもなけりゃレーススクールとも違う。ボケるにはまだちょっと早いんじゃないか」

 

ああ、そういや昨日あたりちょっとした噂が立ってたな。理事長が学園を去っていたトレーナーを一人呼び戻したとか。

元々この学園は妙に退職者が多い。出ていった連中全員に声をかければ一人二人は応じるだろうし、そんな事もあるだろうと特に気にも止めていなかったが。

 

それがコイツだったわけか。

私の挑発にも取り合わず、胸につけたバッジの縁を指でなぞっている。いつの間にやら集まってきていた、取り巻き連中に見せつけるように、何度も何度も。

 

「口の利き方には気をつけた方がいいぜ。お前は必死に尻尾振って媚びるべきだ。なんたって俺は、お前らの神様なんだからなァ」

 



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目覚め

 

ペケの字と共に窘めるたづなさんは、見たところそこまで怒っている様子はない。

この人のポーカーフェイスも大概と言うか、ルドルフと同等以上に本心が読み辛いものの、何年間も付き合っていれば流石にある程度は察せられる。

とりあえず、今回は一言謝るだけで済みそうだった。

 

「せっかく理事長もサプライズで進めようと張り切っておられるのですから。貴方のチームの状況を鑑みれば、なりふり構っていられないのも理解出来ますが……それはそれ、これはこれです」

 

「すみません……」

 

「まぁ、このような唐突な開催となってしまったのはこちらの不手際でもありますし、現場の負担が大きいことも重々承知してはいますが」

 

頭に載せた、制服と同じ色の帽子を神経質に整えるたづなさん。

なにか気疲れや後ろめたさを感じた時、彼女はよくこうして位置を整えている。本人曰く昔からの癖らしい。

ポスト・ホースがかの幼き理事長の思い付きにも近い発案であることは既に全スタッフの知るところであり、その突発性に関して彼女が責を負うべきところは本来どこにもないのだが。

 

悲しいことに、この学園において現場の中心である我々トレーナーが振り回され、皺寄せを食うことはごく当たり前の光景だった。

元々安定からはほど遠い職業であるがために、それも仕方がないと皆が受け入れている部分もある。

彼女もまた割り切ってしまえばいいものを、それでもこうして背負い込んでしまうのは生来の生真面目さ故だろうか。

 

「それにしても、本当にどこから詳細を仕入れたんです?少なくとも私の認識では、具体的なレース名や形式は最大の極秘事項でしたよ」

 

「そこまで徹底して情報統制してましたっけか」

 

「運営陣においてもかなり。知っているのは理事長本人と、私と……あとは辛うじてルドルフさん程度でしょうか」

 

理事長秘書という特殊な立場にある彼女を除けば、理事と生徒それぞれの長という、学園における二極のみで共有されていたということになる。

そうなれば確かに極秘事項と言ってしまっても過言ではない。同時に、一介のトレーナーに過ぎない私が関知していたというのも不可解極まる。たづなさんが困惑するわけだ。

 

「出所はサンデーサイレンスですよ。理事長が一昨日引っ張ってきたばかりの。昨日の正午、彼女が私に明かしたんです」

 

「あの人………しかし、いくら理事長直々の招致とはいえ、その扱いは貴殿方一般トレーナーさんとなにも変わりません。役職があるわけでもない。それがどうやって……」

 

「それは……私に聞かれても困りますよ」

 

本人から説明されたわけでもないし、加えてこちらからは想像もつかない。

学園への赴任翌日に、理事会や広報部ですら周知されていない情報をすっぱ抜ける太い情報網が存在するというなら、むしろ私の方が是非とも教えてもらいたいものだ。

てっきり理事長本人から伝えられたものだと思っていたし、だからこそ特に確認もせず流出させてしまったわけだが……本当にどうやって抜き取ったのだろう。

協力者でもいるのか、それとも独自の情報収集手段を備えているのか。

 

「ま、今はそれが分かっただけでも収穫としましょうか。ご協力ありがとうございました。トレーナーさん」

 

困惑の表情をパッと切り替えて、ふわりと微笑んでみせるたづなさん。

先程まで見せていたものとは少しだけ色が違う、私情を抜いた純度百パーセントの営業スマイル。どうやら彼女の中でスイッチが入ったらしい。

そう言えば、ここにはまさしくそのサンデーサイレンスに会いに来たわけだから、そのついでで新しい用事が出来たといったところか。

 

ともすれば、そちらこそが本命なのかもしれない。理事長秘書として、不貞な輩を見逃すわけにはいかないのだろう。

身内として庇いたい気持ちもややあったが、矛先が代わりに私へと向いては堪らないので止めておく。

遺憾ながらこの学園において、トレーナーという生き物はたづなさんに頭が上がらない。

 

「さて、それでは話の本筋に入りましょうか」

 

あくまで理事長秘書の顔のまま、たづなさんは少しだけこちらに身を寄せてきた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

たづなさんからの説明も終わり、いつもの部室で椅子を傾ける。

時刻は朝の七時。早朝のトレーニングが一区切りついて、生徒達が続々と食堂に向かう時間帯。ルドルフ達は既に朝食を済ませているものの、他の生徒に合わせて朝練はここで終了だろう。

特にルドルフはこれから生徒会での作業がある。といっても扉の鍵を開けて、夜中に入れられた投書の中身を確認する程度だが。

 

業務用のスマホには、ルドルフからトレーニング終了の旨ならびに本日こなしたメニューの中身についての報告が上がっていた。

それはたんなる事実の羅列ではなく、トレーナーとしての視点から特に知りたいと思う情報については的確に深堀りがされていてとても助かる。姉に似てか、ルドルフも十分に指導者としての素養を備えているのかもしれない。

そして期待どおり、シービーとテイオーの面倒もしっかりと見てくれていたようだ。本当に手のかからないというか、優等生な担当二人だが……そこに私が甘えているのは自省するべき点だろう。

極力用事は手早く済ませたつもりだったが、それでも朝練には顔を出せなかった。夕方からはしっかりと気合いを入れなければ。

 

 

コンクリが打ちっぱなしになったやや寒々しい部室の片隅で、書庫から駆り出した分厚いレース記録に目を通す。

言うまでもなく、かの新レースに向けた対策を練るためだ。

 

たづなさんから聞いた話によれば、ポスト・レースはやはり駅伝形式らしい。チームメイトが順番にたすきを繋いでゴールを目指す集団競技となる。

コースは学園付近の道路を主とするそうで、道中には山道もあるそうだ。高低差は坂路の比ではなく、さらに脇には観客が並ぶ形となることから、レース場での競争とは全く別次元と言ってしまっても構わない。

尤も、学園主催かつ公式戦ではないという前提から、これについては予め予測出来ていたことだ。ゴールが学園内の模擬レース場というのも想像通りであった。あそこなら路上と違って、大勢の観客を詰め込むことが出来る。

 

それより私にとって重要なのは出走人数。一チーム何人でたすきを繋げるのか……すなわち最低何人のウマ娘を揃えなければならないのかという条件。

 

それは四人で確定だという。

駅伝というレース形式を成立させつつ、所属するウマ娘の少ないチームにまで配慮した結果、そう決まったらしい。確かに覚悟していたよりはハードルが低いと感じる。

だが、そうだとしても……うちのチームにはあと一人足りない。テイオーを数に入れるとしたところで、どうにかしてもう一人を確保しなければ出走することは叶わない。

 

重たいため息を溢しながら、読みかけのレース記録をテーブルの上に放り投げる。大前提が満たされていない今の状況では、研究にも身が入らなかった。

不幸中の幸いと言うべきか、レースの開催時期についてはまだ当分先の話。夏を終えて、秋のファン大感謝祭へと意識が移り変わる頃合いとなる。たづなさん曰く、大感謝祭の前座である駿大祭の、さらに前座のような位置づけであるらしい。

想像以上に時間はたっぷりあるので、今の時点で頭を抱える必要もないかもしれないが……私の性分からして、こういった宙ぶらりんはどうにも落ち着かないのだ。

 

 

もやもやと重いなにかが胸を満たし、力なく背もたれへと体を預ける。

その勢いのまま二本脚で椅子を傾ける体勢。だらしなく逆さまに垂れた頭が後ろの正面を捉えたと同時に、視線の先で部室の扉がゆっくりと開かれた。

 

隙間から滑り込むのは、白衣に身を包んだウマ娘。

 

「やあやあトレーナー君。昨日ぶりだねぇ。調子はどうだい?」

 

「すこぶる良好だよ。それからタキオン、入る時にはノックをしなさい」

 

私の小言を微笑と共に受け流しつつ、勝手知ったる人の家とでも言わんばかりに堂々とこちらに歩み寄ってくるタキオン。

私とタキオンは陣営が異なる。すなわち彼女にとってここはアウェイの筈だが、緊張の欠片もないふてぶてしいその振る舞いは、一周回って尊敬の念すら抱かせる程。

 

「……カフェの様子はどうだ」

 

「悪い意味で相変わらずだよ。ユキノビジン君も大層心配しているらしい。例のお友達とやら、日付を跨いでも一向に見つからないらしくてねぇ」

 

「他人事だな。普段カフェにあれだけ世話になってるんだから、こういう時ぐらい恩返しと意気込みはしないのか」

 

「手を貸してやれるなら是非ともそうしたいね。だが方法がないのさ。いくら私でも無い袖は振れない」

 

「袖なら有り余っている癖に」

 

科学に傾倒するタキオンだが、しかしお友達のようなオカルトにもそれなりに理解があった。

非現実的と切り捨てるのではなく、むしろその正体を徹底して暴こうとしている。なんでもウマ娘の起源に迫る一つの手がかりという話らしく、推測として魂やらなんやらを持ち出してくるあたり生粋のロマンチストなのだろう。

見えざるモノが見えてしまう体質から、とりわけ幼い頃は周囲との軋轢に苦労してきたカフェに懐かれたのも、タキオンのその一面があってのことに違いない。

 

「可能なら今すぐ引っ捕らえて、その中身を観察してやりたいぐらいだよ。あれこそまさしく、ウマ娘の一つの可能性さ」

 

「あまり手荒いことはしてくれるなよ。あれも私にとっては友人の一人なわけだからな」

 

「善処するよ」

 

軽く肩を竦めながら、タキオンは足を見せろとジェスチャーで指示を出す。どうやら用件は検診らしい。

 

「手厚いことだな」

 

「一度自分の研究に巻き込んだ以上、最後まで面倒を見る程度のモラルは私にだってあるさ。さぁ、早く足を出してくれたまえ」

 

促されるまま、椅子を反転させてタキオンと向かい合わせになる。

こちらの正面に屈み込みつつ、ズボンの上から白くほっそりとした指で優しく触れていった。内科医が腹の上から具合を確かめるような力加減の触診であり、昨日のような強引さもない。

 

「……うん。特に異常はなさそうだね。正直に言わせてもらえば、なにかしらの変化があることを期待していたのだが、前回と変わりなし、か」

 

何度も何度も繰り返し私の両足の具合を確めていたタキオンだが、数分後いかにも拍子抜けといった表情で立ち上がった。

 

異常なしというのは私にとっては最良の結果であるが、生憎タキオンにとってはそうでないらしい。

気持ちは分からなくもないが、せめて本人の前では隠しておいて欲しいものだと切に思う。医者でもない彼女に、そんな真摯さを求めても仕方ないかもしれないが……。

 

「……いや……モルモット君のとは別に、ウマ娘との比較対照も必要かな、これは……」

 

「もういいだろう。全て元通りならそれが一番だ。あとこれ。返しておくよ」

 

「なんだいこれは」

 

「昨日、君が私の部屋に置いていった記録だろう。あの後寮まで運んでくれたことには感謝するが、出来れば起こして欲しかったな」

 

今朝棚にあった記録用紙がそのままポケットに突っ込んであったことを思い出して、ついでにタキオンへと渡しておく。データ採取ならこれで満足しておけという、無言の釘差しを込めてのことだ。

タキオンは怪訝そうな顔をしながらそれを受け取り、開いて二度三度と見返した後、大事そうに白衣の裾ポケットへとしまいこんだ。

 

 

「…………ん」

 

そんな彼女を見ている最中、急激に眠気が襲いかかってくる。

 

自分でも調子は確めていたものの、他ならぬタキオン本人の口からお墨付きを得たことでようやく心が安らいだのかもしれない。

あるいは単純に日頃の疲れが抜けきっていなかったのか。なにしろこの土日は全く休めていない。

 

「トレーナー君……?」

 

「ん……ああ。悪いタキオン。少し寝る」

 

「そ、そうかい」

 

再度がたがたと椅子を反転させてタキオンに背を向けると、私は腕を枕に机に伏せる。最後に気力を振り絞って、スマホのアラームだけは設定しておいた。

始業まではまだ一時間ある。それだけ休めば今日一日の活動には差し障りないだろう。

 

急速に重くなっていく瞼。徐々に遠のいていく世界から、扉の閉められる音だけが響いてきた。

検診の礼はまた今度でいいだろう。せっかくだから、タキオンにもポスト・レースの見解を尋ねたかったが……たづなさんに怒られてしまうか。

 

そう言えば、たづなさんにもお友達の心当たりがあるかどうか……聞いておけば良かったな。

 



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Penumbra

深い、深い湖の底に沈んでいたかのような意識が急速に浮上していく。

瞼をこじ開けるのではなく、自然に任せて開き切るような感覚。寝起き特有の気怠さなどどこにもなく、思考は一点の曇りなく冴え渡っていた。

 

短時間の睡眠は脳を活性化させるというが、それにしたって寝覚めがいい。まぁ、別に悪いことではない……というか喜ばしいことではあるので、気にせず枕元の端末に指を伸ばす。おや、これは私用のスマホか。アラームは業務用の端末に設定した筈だが。

 

側面の電源ボタンを押して起動。

表示された時刻は――――――十八時三十六分。

 

「まずっ………」

 

夕方のトレーニングが始まるどころか既に終わり、生徒達が夜に向けて学生寮に帰還する時間帯。

最早寝坊どころの話じゃない。まるまる半日も眠っていたのか、私は。ルドルフにもシービーにも、テイオーにも申し訳が立たない。いや、それ以前に就業規則違反で処分事案だ。新年度早々、なんと申し開きしろと。

 

錯乱の果てに、意味もなく椅子を蹴って立ち上がる。しかしそんな有り様でまともに動ける筈もなく、足を縺れさせて尻餅をついた。

巻き込まれた椅子が横転し、盛大に部室の中を響き渡る衝突音。

 

一度に押し寄せる衝撃に目を白黒させる私を、何者かが助け起こす。

 

「ちょっと、大丈夫トレーナー!?いきなり立ち上がって転んで、なんなのさもう」

 

「テイ、オー……?君、どうしてここに」

 

口に出してしまった後で、失言だったと後悔する。

何故もなにも、自分のトレーナーがトレーニングを丸一日すっぽかしたとなれば、様子を見に来るなんて当たり前のことだ。そもそも私を抜きにしたところで、仮入部中のテイオーにはこの部室を利用する資格がある。

 

ここで詰られても無理はないと、そう心の中で覚悟を決めた瞬間。

呆れと不安がない交ぜになった瞳で私を見下ろしながら、テイオーは衝撃の事実を明らかにした。

 

「なんでって……トレーナーがボク達を連れてきたんでしょ。マックイーンも一緒に」

 

「マックイーン…?も、いるのか」

 

「はい、こちらに。その……大丈夫ですか?トレーナーさん。トレーニングの際も、少し様子がおかしかったような……」

 

テイオーの背後からおずおずと一歩踏み出してくる、ぴしりと制服を着こなした芦毛のウマ娘。

 

二人に手を引っ張られて立ち上がり、倒れてしまった椅子を元に戻している最中、否が応でも机上の光景が目に飛び込んでくる。

立ち上げられたラップトップにはタイムの数値とコース場の軌道が記録されており、表示されている日付は今日のもの。ログに残された、最後の入力時間は一分前。その右手奥に見えるのははちみーのカップで、中身はまだ半分以上も残っていた。

直前まで"誰か"がここに座って作業していた痕跡。その"誰か"とは……どう考えても私しかいない。

 

「あの……本当に大丈夫でしょうか?どうか無理をならさず、医務室にでも」

 

「いや、ああ……大丈夫……ではないかもしれないが。すまない。マックイーン、君の用件はなんだったかな」

 

「え、ええと……」

 

狼狽えた様子でマックイーンは私を見つめ、次いでテイオーと顔を見合わせる。

ここで退くべきか否か。ほんの少しの間だけ逡巡する仕草を見せるも、私が再度促したことでようやく決心したように口を開いた。

 

「では、手短に二つ程。まず一つ目に、保留にして頂いた入部の件ですが……申し訳ありませんが、私は別の方と契約を交わすことになりましたわ」

 

「ああ、サンデーサイレンスだろう。本人から聞いている。別に謝る必要はない。誰をトレーナーとして選ぶかはウマ娘の自由だ」

 

「ええ、その通りですが……妙ですわね。あの方、面倒になるから選抜レースが終わるまでは絶対に誰にも話すなと、何度も厳重に口止めされていたのですが」

 

「あの人の中でなにか心変わりでもあったんだろう。あるいは私への牽制か」

 

そうは思わないが、そう考えることにした。

気付かない間に、なにかが取り返しのつかない所まで進行している気配。やもすると、致命傷にすらなり得る予感。

 

帰ってきたサンデーサイレンス。本来知り得る筈の無い新レースの情報。消えたお友達。損なわれた記憶。そして今の発言の矛盾。

それらを問い質すべき相手は、マックイーンでもテイオーでもないだろう。ここは一先ず受け流すべきだと、直感でそう結論を下す。

 

「二つ目はなんだ」

 

「あの方どうやら私だけでなく、別のウマ娘の"集団"にまで懐柔なされたそうで。なんでもあのシリウスシンボリさんがリーダーだとか。トレーナーさんはよくご存知で?」

 

「ああ。この学園じゃ有名人だな。ちなみに、それはいつのことだ」

 

「今日の朝トレーニングのことですわ。なんでも今朝起きてすぐ、新レースの情報を掴んだとか。とにかく頭数が必要と聞いて、取る物も取り敢えず囲ったのだと」

 

「そうか……分かった。報告ありがとう」

 

即断即決。いかにもサンデーサイレンスらしいことだ。シンボリ家経由でシリウスの現状を把握していたのだとしたら、真っ先にそれを当たるのは理屈に叶っている。諸々の条件を鑑みても、きっと彼女だけが実現可能な奇策だった。

 

尤も、その新レースの情報を昨日私に教えてくれた張本人がサンデーサイレンスなのだが。

 

あのウマ娘の思考は理解不能だ。別に今に限ったことではなく、昔からそうだった。

ただ一つ確かなのは、彼女が嘘をついているということ。私も、マックイーンも、カフェも、そして恐らくは秋川理事長やたづなさんに至るまで……誰も彼もを欺きにかかっている。

 

標的とされたのは恐らく私自身。

この学園において私とサンデーサイレンスはトレーナー同士。限られたパイを奪い合う商売敵に他ならない。勢力を広げつつあり、しかも自らの手の内を知り尽くしている若手など、再興を目論む彼女にとっては目の上のたんこぶもいいところだろう。

既に向こうから接触を図ってきた以上、受け身のままでいるのは危険だ。最悪、致命傷にすらなりかねない。

 

「悪い二人とも。少し……今は気分が良くない。テイオー、戸締まりは頼めるか」

 

データを保存してラップトップの電源を落とし、飲みかけのはちみーと共に鞄に詰め込む。

壁のボードに吊り下げてあった部室の鍵を渡すと、テイオーは恐る恐るそれを受け取った。少し目線を上げれば、ばらばらと不規則に反応している長いウマ耳。

 

「う、うん。ねぇトレーナー、マックイーンの言うとおり医務室行った方がいいんじゃ……今日のトレーナーやっぱりヘンだよ」

 

「そうするよ」

 

肩紐を中途半端に引っかけたまま、テイオーとマックイーンを残して部室の外に出る。

夜の入りとはいえまだ日は落ちきっておらず、薄暗い中にもウマ娘達の姿がそこかしこに見てとれた。寮や食堂、それからカフェテリアにと、てんでばららばらに幾つかの集団がのんびりと歩く影。

 

生徒もトレーナーも一息つく頃合いだが、私の内心はここ数年例を見ない程に荒れ狂っていた。

やはり医務室に行くべきだろうか。あそこは基本的にウマ娘がかかる施設だが、如何せん仕事柄受傷も珍しくないためにトレーナーもよく世話になる。スタッフ向けのカウンセリングも扱っていた筈だ。

 

 

さて、その前に寮部屋まで一旦荷物を置きに行くとしよう。もしかしたら、ルドルフやシービーもそこにいるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よぉ。そろそろ来ると思ってたぜ」

 

 

自分の寮部屋に帰って来た私を出迎えてくれたのは、我がチームの二枚看板ではなかった。

黒のスーツに黒のネクタイ、同じ色のコートを羽織り、さらにその上の前後に漆黒の長髪を垂らした、全身黒ずくめのウマ娘。やや猫背に歪んだ姿勢で両手はポケットに突っ込み、前髪の隙間から覗くのは裂けた瞳孔。その下では牙を剥くかの如き攻撃的な笑みを浮かべている。

 

丈の長い裾に阻まれて、正面から尻尾は見えない。だが、その気迫は明らかに友好的とはかけ離れている。

敵意だとか殺気だとか、そういう暴力的な衝動とも色が異なる。視線はしつこく絡みつき、不躾にこちらを値踏みしているかのよう。獲物を前に舌を出す蛇に近い。

 

「サンデーサイレンス」

 

その名を口にしてやれば、漆黒のウマ娘は僅かに目を細めた。ポケットから両手を抜き出して、ゆるゆると両手を広げて見せる。

血の気の失せた真っ白な指が、不気味に照明の光を反射した。

 

「おいおい。随分とまぁ他人行儀だな。色々と教えてやった恩はどうした?」

 

「お陰でたづなさんから怒られましたけどね。結局、昨日今日と収穫はなし。そちらはどうです」

 

「順調すぎて怖いぐらいさ。駄目元で描いてみた絵が、まさかこうも上手く運ぶとはな」

 

「それは、貴女が無断で今ここにいることと関係ありますか?」

 

「おおありだよ。待ちかねたぜ」

 

揶揄うように抱擁をせがんでくるサンデーサイレンス。

どこまでも人を食ったような態度に眉を寄せると、けたけたと笑いながら元通りに腕を引っ込めた。そのままいたくご機嫌な様子でリビングをふらふらと彷徨い始める。

間取りはどの部屋も同じだが、やはり何年も寮で暮らしていればレイアウトにも個性が出てくる。その中でも一際目を引くであろう、リビング奥のショーケースへと足音を立てずに近づいて、中のトロフィーをしげしげと眺め出した。

 

「これ、全部お前が獲ったのか」

 

「ええ。選手ではなく、あくまでトレーナーに贈られた賞です。と言っても、あの二人の実力に依る所も大きいですけどね」

 

「お前自身の成果じゃないと」

 

「そこまでは言いませんが、やっぱり実際に戦うのはウマ娘なので。我々は裏方です」

 

「ほーん」

 

観察も飽きたのか、相変わらずふらふらとした足取りのままこちらに戻ってきた。

私が言えた義理ではないかもしれないが、彼女も彼女でどことなく様子がおかしい。具体的になにがとは咄嗟に出てこないものの、見れば見る程その違和感は収まるどころか増幅していく一方。

荒れているわけでもなく、珍しい程に落ち着いているが、それは何処までも居心地の悪い穏やかさだった。

 

「なんですか、さっきからうろちょろと。またお酒でも飲んだんですか」

 

むしろそうであって欲しいとすら心の片隅で願いつつ咎めてみれば、目の前のウマ娘はあっけらかんと笑いながら首を振る。

 

「まさか。俺は生まれてこのかた、一度も酒なんざ口にしたことはねェ。知ってるか?馬が酒飲んで人を乗せると整備不良で捕まるんだと」

 

「またわけのわからないことを。そうやって小言を煙に巻くのが貴女の十八番でしたね。昔からずっとそうだった」

 

「ほっとけよ。それよりもさ、今日一日中アイツらを見てきたよ」

 

「アイツら?」

 

「学園のウマ娘共。これまでだって散々見てきたが……やっぱりいいもんだな。件のレースもさぞ盛り上がるだろ」

 

しみじみと彼女はそう呟く。その目はどこか遠く、ここにはない景色に見とれるかのように細められていた。

 

カタカタと、外の風に煽られたのか小刻みに揺れるリビングの大窓。カーテンは閉じられ、夕焼けの光は部屋を照らさない。

 

「なら良かったですね。シリウスの一派をチームに取り込んだことで、出走人数の条件は満たせたわけだ。存分にトレーナーとして腕を鳴らして下さい」

 

「…………面白いか、それ?」

 

「は?」

 

面白いもなにも、たった今レースが盛り上がると評価したばかりだろうに。

そんな当惑が顔にも出ていたのか、サンデーサイレンスは心持ち焦れた様子で言葉を続ける。

 

「いや、だからさ。そんなレースを裏方で見てるだけってつまんねぇじゃん。競走馬なら自分が走ってなんぼだろ」

 

「そんなこと言ったって無理なものは無理ですよ。それに貴女はとっくに引退した身でしょうが」

 

「ああ。もうずうっと大昔にな。そんでもどうにかなんねぇかなって、ここにいるわけ」

 

「はぁ…」

 

全く要領を得ない話。最初から理解させる気すらないのかもしれない。コミュニケーションのドッチボールを好む彼女だが、今日はそれに一段と磨きがかかっている。

 

 

やってられないと愛想を尽かしかけた瞬間、リビングに高らかな電子音が鳴り響いた。

 

発信源はドア横に設置された、壁と一体型の受話器。トレーナー寮とスタッフ寮、そして美浦と栗東の各個室との間で連絡可能な内線電話。

ランプが青から赤へと点滅し、コールと共に呼び出しを告げている。

 

「ん。電話か。早く出てやれ」

 

「…ええ」

 

言われるまでもなく、足早に部屋を横切って受話器を取り上げる。はっきり言って、この疲れる会話から逃げられるのなら誰が相手でも良かった。

 

 

「もしもし」

 

『ざけんなよお前。学園の機密を流出した挙げ句、あろうことかこの俺に責任を擦り付けるとは良い度胸じゃねぇか。ああそうかい。先輩のやらかしは新入りが肩代わりしろってか。後で覚えとけよ。あの■■野郎に絞められたぶん倍返しにしてやるからな。ってか知ってたならまず俺に教えろ』

 

「……………………」

 

…母、さん?

 

『聞いてんのか?お前は罪状が多すぎるンだわ。濡れ衣被せるわ、マックちゃんとの契約は嗅ぎ付けるわ、勝手に俺の部屋にまで入ってるし。いや、そもそもお前……』

 

 

 

『……いつになったら顔見せに来るんだ?二日間も挨拶なしとか、そりゃねェだろ普通』

 

 

 

 



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"彼女"が見てきた世界

トレセン学園に所属する各チームの部室は、いずれも本校舎と各施設を結ぶ遊歩道に沿って設置されている。

扉を出て真っ直ぐ本校舎へと向かう場合は、必然的に大勢の人とすれ違うことになるのだ。あまり人付き合いが盛んとは言い難い私ではあるが、それでもこの道を歩いていると顔見知りとすれ違う機会が多々あった。今日もまた例に漏れずだ。

 

「おはようございます。タキオンさん」

 

「やあ、おはよう。たづなさん」

 

私の目の前で、丁寧に腰を折っているのは理事長秘書の駿川たづな。今日も今日とて、かっちりとした緑の制服に同じ色の帽子を着こなしている。

この学園においては問題児の一人というか、やや鼻つまみ者のような取り扱いを受けている私であるが、仮にも体制側である彼女はなんの気負いもなく接してくれている。

こちらとしても、物腰柔らかに対応されれば悪い気はしなかった。

 

あれこれと雑談を交わしている中、自然と話題に上がってくるのはやはり噂の新レース。

どうやら今日になってようやく情報解禁らしい。といっても、私はあのトレーナー経由でだいたいの中身については掴んでいる。

 

「で、結局サンデーサイレンスは捕まえたのかい」

 

「ええ、先程こってり絞っておきました。無実を訴えていましたが、まぁ真相はどちらでも別に良いです」

 

「酷い話だねぇ」

 

「情報流出の件を抜きにしても、どうにもきな臭いことばかりで。今朝訪問した際にも、寮部屋から妙な物音が」

 

「それはトレーナー君じゃないのかな。彼もついさっきまで同じ場所にいたそうじゃないか」

 

「それはそうですが、しかし彼が部屋から出てくる直前、別の誰かが扉を開けた音が……出たのか入ったのかは分かりませんが、姿は見えませんでした」

 

「ふぅん」

 

それはひょっとしたら……幽霊の仕業かもしれないね。後でカフェに報告してやろうか。

本当なら私自らどうこうしてやりたいものだったが、相手が見えないとなると流石にお手上げだ。

 

面白い話も聞けたので、彼女とは別れて自分の研究室へと急ぐ。

途中、何人ものウマ娘とすれ違ったが、その殆どが私を驚いた顔で見送っていた。普段あまり表に出てこない私が、朝っぱらからこうして廊下を走っていればそうもなるか。

反応しないウマ娘は全員入学したての中等部一年生というあたりからも、この学園における私の認識がまざまざと伝わってくる。別にどうでもいいがね。

 

「……ああ」

 

そうだ。そう言えば、私もつい今朝がた奇妙な体験をしたばかりじゃないか。

 

研修生の教室を通り過ぎ、角を折れて研究室を正面に捉えたあたりで、裾のポケットから数枚の用紙を取り出して広げる。ここまで来れば余所見したところで衝突の危険はない。

トレーナー君に渡されたばかりのレポート。彼は「返す」などと言っていたが、そもそも私はこんなもの渡した覚えはない。作ることさえ出来なかったろう。

 

様式はトレーナー専用のイントラネットからアクセス可能なデータベースが基礎となっているらしい。さらに比較として挙げられているシンボリルドルフとミスターシービーの数値は、どちらも担当トレーナーぐらいしか知り得ない程の精緻なものだった。

特に後者は私には……いや、この世の誰も手に入れられない情報だ。トレーナー君ただ一人を除いて。

 

 

なにをどう解釈しても、このレポートは彼自身が作成したものとしか考えられないのだ。

なのに、張本人にはその記憶がない。だいたいトレーナー君は私が彼を部屋まで運んだと思っているらしいが、それも心当たりのないことだ。ほんの三十分程で麻酔から目覚めて、彼は自分の足で寮まで帰った。検診の結果も、その時に伝えた筈なのに。

 

研究室のドアを静かに開ける。

ベッドの上には相変わらず魂の抜けているカフェの姿。朝練にも出れなかったようだが、今は慰めている余裕はない。

 

「麻酔の後遺症か……?いや、投与は適切だった。それに、そもそもあれでは健忘など起こり得ない……」

 

思い出せ。そうだ、麻酔から醒めて簡単な往診を行ったあの時、彼の言動には僅かな違和感があった。本当に些細なズレだが、あの時にトレーナー君本人の意識がなかったと仮定した場合、別の誰かが成り代わっていたと考えれば合点がいく。

多重人格じみたその現象を惹起する切欠。遺憾ながら、私はそれにも心当たりがある。

 

「あの薬か……!昨日の朝、トレーナー君に投与させた……」

 

ウマムスコンドリアの活性化。それが彼の内部で想定外の作用を惹き起こし、眠っていたなにかを目覚めさせたのだとしたら。

モルモット君に与えた時にはなにも起こらなかったし、以前トレーナー君から過去の記憶を聞き出した際にも、特に類似するような現象は出てこなかった。たんに、本人が忘れているだけかもしれないが。

 

ああ、驚いたね。正直あの薬に関しては、手間のわりに大した効能も出せない欠陥品だと半ば見限っていたのだが……いや、薬の効果もあるが、それ以上にあのトレーナーが特異な体質だったという方が正確か。

 

彼には悪いが、思いがけずもたらされた変化に胸の高鳴りを抑え切れない。だが、それ以上に今私がやるべきことは……

 

 

「……さて、言い訳を考えなくては。ルドルフ会長と、それからシービー君を相手になんと言おうか」

 

あの二人も、トレーナーのこととなると随分おっかないからねぇ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

ツーツーと、白い受話器越しに聞こえてくるのは無機質なビジートーン。

 

先程まで濁流のように浴びせかけられていた母の言葉は既に聞こえない。

回線を切られてしまった。母にではなく、恐らくは目の前に佇むウマ娘によって。

 

 

「よぉ、もう話は終わったかい?なら続きといこうか」

 

足音もなくゆっくりと近づいてくる黒づくめに向かって、咄嗟に手元にあったペンケースを投げつける。

果たしてそれは、呆気なく彼女の体をすり抜けて背後の大窓へとぶち当たった。カーテンに跳ね返されて床へと転がり、開いた口から中身が吐き出される。

 

だけどこいつは、あの路地で衝突した際には確かに手応えがあった。ラップトップもウマホも操作していた筈なのに。

と、そこでようやく思い至る。お友達は現実世界にも物理的に干渉できる存在だ。ならその力を使って、実体のあるように見せかけることなどわけないということ。

 

「くっ……」

 

後ろ手でドアノブを掴み、外に脱出しようと試みるもののまるでびくともしない。扉の向こうから強大な力で押し返されている。助けを呼ぼうとスマホの電源を入れてみるも、ひとりでにシャットダウンされ二度と起動しない有り様。これでは緊急通報も無理だ。

内線は断ち切られ、出口は塞がれスマホも機能を落とされた。このリビングは完全に孤立している。

 

玄関からの脱出は諦め大窓を目指す。

幸いにしてここは一階だ。それにガラスなら、扉と違って力ずくでも破壊出来る。

すぐ脇をすり抜けても、お友達はなにも手を出してこない。どう足掻いても逃げられやしないと踏んでいるのか。

 

彼女を無視して、勢いのままカーテンを開け放ち……そして視界一杯に飛び込んできたのは真っ黒な、墨汁を塗りたくったような真っ黒な空間。

 

「……っ!」

 

スマホは見れないが、現在時刻はまだ六時を回ったあたりの筈。どう見積もっても七時を越えていないのは間違いない。

にも関わらずこの暗さ。仮にこれが夜の帳だとしても、敷地内の街灯が何処かしらにあるわけで、それがどこにも無いということは……ここは現実ではないということ。

 

それを認めた瞬間。突き刺すような、骨の髄まで染み込む冷気が、急速に部屋を満たしていった。

耐えきれず身を震わせながら、観念して振り向いた先には、音もなく目と鼻の先まで距離を詰めてきていたこの異界の創造主。

 

「やっと理解したか?お前はもう逃げられねェんだよ」

 

手首を引かれ足を払われ、なす術もなくカーペットの床に押し倒された。剥き出しにされた腹の上に跨がれて身動きがとれない。

凍える空気が体の自由を奪っていく。仰向けに天井を見上げた先には、不規則に点滅を繰り返す蛍光灯。逆光となったお友達の顔は、のっぺらぼうのように真っ黒だった。

 

「友達だと思ってたのに」

 

「ああ、俺もだよ。なに、悪いようにはしねェ。ちょいとその体を貸してもらうだけだ」

 

「どうして、今になって」

 

「お前が隙を見せたからさ」

 

隙……今日は明らかに調子がおかしかった。だが、彼女が動き出したのは昨日のこと。

母さんは学園に来てから、一度たりとも私と顔を合わせていないと言っている。いつからか入れ替わっていたという話ではなく、最初から取り違えていた。

 

彼女とのファーストコンタクトは商店街の路地裏。今になって考えてみれば、あの時あんな寂れた場所にたまたま母さんが居合わせたなんて、そんな偶然はまずあり得ない。

やはりあれはお友達で、人混みをすり抜けて私を追ってきていたのだ。だとしたら、何故私はその認識を誤ったのか。

 

「なんで…」

 

「あん?」

 

「なんで、お前は私と会話が出来るんだ。これまでずっと、なにも喋ろうとはしていなかっただろ」

 

先程まで彼女に抱いていた、奇妙な違和感の正体がようやく分かった。

 

いくらカーペットの上とはいえ、全く聞こえてこない足音。存在感の希薄さ。私は彼女が幽体であると、心の何処かで察していたのだ。

それを掬い上げられなかったのは、彼女が言葉を発していたから。これまでのお友達は、姿は見えても言葉を交わせなかった。コミュニケーションがとれるのはカフェだけだったのに。

 

「これまで何度も話しかけてはいたぜ。でもお前には届いちゃいなかった。それがどういうワケか、昨日になってチャンネルが合ったらしい。なんでだろうな?」

 

嬲るでも揶揄うでもなく、純粋に疑問だという声。しかし私には一つだけ、それに心当たりがあった。

 

タキオンに渡された薬。

お友達と出くわしたのは、まさにあれを投与してルドルフ達から逃げ切った直後のこと。店で包囲された時点においてはカフェもいつも通りだったから、恐らく私を捕らえたあの瞬間からお友達は自立行動を始めたのだろう。カフェから見れば行方不明であった彼女は、その実ずっと私の前にいたのだ。

 

「はぁ……」

 

合点がいったと同時に、急速に全身の力が抜けていく。私とて、あんな得体の知れない薬を信頼していたわけじゃない。副作用の不安もあったし、だからこそタキオンの検診を受けたのだが。

しかしその副作用がお友達とのリンクとは流石に予想出来なかった。異常無しと判定を下した彼女を責めるのも酷だろう。

 

「ツイてなかったな。ま、お前に限っちゃ今さらな話か」

 

私の脱力を諦めだと受け取ったお友達は、胸の上に添えていた右手をゆっくりと顔の真上にかざしてくる。

白くほっそりとした指。触れれば折れてしまいそうな程に華奢なそれは、しかし猛禽の爪のように獰猛な気迫を纏いつつ……私の視界を闇に突き落とした。

 

 

 

 

……………

 

 

……………………………

 

 

 

…………………………………………………………

 

 

 

 

ふと、視界が晴れる。

 

恐る恐る目を開ければ、飛び込んでくるのは白い天井。骨の髄まで染み渡る冷気も、ウマ乗りになったお友達の姿も何処にもない。

 

音を立てながら明滅を繰り返していた蛍光灯もいつも通り。軽くなった上体を持ち上げて、後ろを向けばカーテンの隙間から鮮やかな夕焼けの閃光が網膜を焼いた。

床に視線を落とせば、散らばっていた文房具の姿がない。投げつけたペンケースは元通りの場所に収まっている。いや、元通りと言うよりも、あれ自体ただの夢だったのかもしれない。なんにせよ急場は凌げたらしい。

 

 

 

「……………………ぐっ」

 

 

呻きながら、ゆっくりと体を起こしにかかる。

気分は悪くない。むしろすこぶる快調だ。だが肉体はともかく精神には問題がありそうだ。あれが夢にしろ現実にしろ、やはり医務室で診てもらうべきだろう。

 

 

 

 

 

そう勢いのまま立ち上がり、一歩踏み出した瞬間転んでしまった。

 

「いたっ」

 

視線を落とすと、完全に脱げてしまったズボンが両足に絡み付いている。ベルトが壊れたのかと思ったが、よくみれば下着まで足首に下がっていた。

 

慌てて立ち上がり、パンツとズボンを腰に引き上げる。

しかしどういうわけか、全くサイズが合わない。隙間が大きすぎて、ベルトで固定出来る範疇を超えている。さらによく見れば下半身のみならず、上半身のシャツとジャケットも同様にぶかぶかだった。

なんだこれは。体が縮んでいるのだろうか。

 

 

仕方なしにズボンを手で抑え、のろのろとした足取りで姿見まで向かう。

寝室の扉の真横で、窮屈そうに立て掛けられた移動式の鏡。朝ここに寄るついでに身嗜みのチェックでもしておきたいとルドルフが置いていったもの。彼女ならともかく、私にとってはややサイズが小さい。

 

筈なのに、どうしてか余裕があった。

鏡の向こうで立ち尽くしているのは、小柄な鹿毛のウマ娘。

 

生徒ではない。胸元にある蹄鉄を型どったバッジは、この学園に所属するトレーナーの証。当然私も同じものを身に付けている。

 

なんとはなしに胸のバッジに手を添えると、目の前の少女も全く同時に私を真似した。

 

「………」

 

バッジの少し横。胸の辺りをペタペタと触る。

体の輪郭を覆い隠す、明らかに丈が合っていない黒のスーツ。その下には、片手には収まりきらない程の大きさをした、柔らかい二つの膨らみ。

怖々とその膨らみを揉みしだくと、やはり目の前の少女も同じ動きをした。

 

「………………」

 

そこからさらに下がって、下腹部のあたりを探る。

手を離したことで、ズボンとパンツはまたしても脱げてしまっているものの、代わりに余ったシャツの裾が両足の付け根を隠していた。

見えない以上、そこになにがあるかは未確定だと一縷の希望を見出だし、すがるような気持ちでそれを探す。

 

「………………………………」

 

ない。あるべき筈のものがない。

あってはならないものがあって、あるべき筈のものがない。

 

 

ぺたぺたと、自分の顔を撫で回す。

目の前のウマ娘もそれを真似した。

 

長く腰まで伸びた艶やかな鹿毛に、頭から飛び出た長めのウマ耳。面白いぐらいにピンと上を向いたまま固まっている。

瞳孔が開いた緑の瞳と血の気の引いた顔は、まさしく今の私の内心を如実に表していて。

 

最早認めるしかないだろう。

 

声が出てこない。

理解の及ばない事象を前にした時、人は言葉という道具を失う。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

私は……ウマ娘になってしまったのだ。

 

 



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激震の予感

 

胸と、股間と、そしてまた胸。

どこまでも往生際悪く上下を確めて、いよいよ現実を受け入れた私は呆けたまま姿見の前で立ち尽くす。

 

頭の中を巡る疑問はただ二つだけ。どうしてこうなったのか、そしてこれからどうすれば良いのか。

少し考えれば答えは出てきそうだったが、今の私にはその体力もない。ただぼうっと、鏡の向こうを間の抜けた顔で眺めながら、「ああ、ウマ娘だなぁ」なんて感想にもならない感想をぐるぐると反芻する。

目の前のウマ娘の顔は、涙目で血の気が引いていた。トレーナーとしての性だろうか、そんな憔悴したウマ娘は流石に見ていられない。無理やり笑おうとしても表情筋はぴくりともせず、そんな取り繕いすら叶わないのだという結論に辿り着く。

 

ばさっと乾いた音を立てて、ずり下がっていたジャケットが完全に床へと落ちきった。照明に照らされて鈍く光を放つ、若干塗装の剥げたトレーナーバッジ。

ゆるゆると視線を向けてみれば、ズボンも下着も一緒になって足元に丸まっている。

 

「………」

 

最後の気力を振り絞り、それらはまとめてソファの上に放り投げておく。サイズが合っていない以上、上げてもどうせまた脱げてしまうだろうからこれでいいだろう。

当然、そんな適当なやり方で綺麗に収まる筈もなく。バラバラと空中で分解して、無秩序に背もたれや座面に散乱するズボンに下着、それからジャケット。皺になってしまうだとか、そんなことももうどうでも良かった。

ついでに胸元で不格好に揺れている真っ黒なネクタイもほどいて仲間に入れてやる。

 

 

そうして再び、姿見の前へ。

 

ダボダボのシャツ一枚の格好を再確認。上下ともスーツを脱ぎ捨てたお陰でトレーナーとしての自分が意識から外れたのか、ほんの少し気持ちにゆとりが戻ってきた。

これからのことに考えを巡らせる。しかし正直なところ、自分自身でどうにか出来る範疇を越えていた。とりあえず他の人達……特に秋川理事長には誠心誠意、いきさつを説明するほかないだろう。

 

その前に、まずは服だな。

スーツに限らず、クローゼットのハンガーに吊るされている服はどれもサイズが合わない。シャツや下着はまだ誤魔化せるにしても、ズボンだけはどうにもならない。

かといって、この格好が許されるのは自室の中が精々。ここは恥を忍んで、内線で部屋に戻っているだろう身内に助けでも求めるしかないのか。

 

そんな風に、どこか現実逃避も含めて淡々と善後策を講じていたところ、唐突に玄関から誰かが立ち入ってくる気配。

 

足音は二つ。

二人とも同じ歩調で大部分が重なっているが、それでも木製の扉越しに正確に聞き分けられるのは、やはりウマ娘として聴覚が鋭敏になった賜物だろうか。ついでにその正体も、もう五年にも及ぶ付き合い故に分かってしまう。

いつも通り決して短くない部屋の廊下をあっという間に駆け抜けて。しかしいつもとは違ってノックも無しにドアを蹴り飛ばす勢いで開け放った。

 

「失礼する!!トレーナー君、やはり体調が悪いのかい」

 

闘牛もかくやという勢いで飛び込んできたルドルフは、乱れた髪を整えつつ開口一番そう問いかけてきた。

しかし言い切った直後、シャツ一枚で立ち尽くす不審なウマ娘の姿をようやく認めたようで、軽く腕を組みつつひょいと眉を持ち上げる。

 

「…うわ」

 

その背中からひょいと顔を覗かせたシービーもまた、肩越しに私を見つけた瞬間わざとらしく口元を片手で押さえた。

もう片方の手でルドルフの頬を突っつき、鬱陶しそうに振り払われる。行き場のなくなった指は、意味もなく照明のスイッチを落とした。

そうしてちょっかいをかける間も、澄んだ青色の瞳はこちらを捉え続けたまま。

 

 

客観的に見て、これは相当に不味い状況だった。

 

ルドルフは言わずもがな、シービーもまた私の部屋に他のウマ娘が入り浸ることにいい顔はしない。これは決して二人の気性が荒いという意味ではなく、ウマ娘とはそもそもそういう生き物なのだ。

自身の親しい人のパーソナルスペースに、見ず知らずの他人が居座るのを不快に感じるのはヒトも同じことだが、ウマ娘はヒト以上に縄張り意識が強い。加えて集団の中における序列というものも重視する。

 

ルドルフとシービーにとって、この部屋は、というより私の住む部屋は彼女らの領域と化していた。

ブラシやマグカップといった小物から、あの姿見のような大がかりな物に至るまで、自身の私物をそこかしこに残している。

これは野生動物に見られる、マーキングと呼ばれる行為に近い。不躾に踏み荒らすのなら覚悟しろという、その他大勢への無言の警告だった。

 

もっともマルゼンとかカフェとかタキオンとかシリウスとか、あの辺はまるで意に介さず踏み荒らしていくのだが…それでも一応彼女らは知人ないし友人であって、見ず知らずの赤の他人とはわけが違う。

 

そして今の私は、まさしく彼女達にとってその赤の他人なわけであって……そいつが私のシャツ一枚でいるとなれば、有無を言わさず排斥されても全く不思議ではないのだが。

しかし先程からこの二人はどうも様子が違っていた。瞬きもなくじっとこちらを射抜く視線に、そう脅されたわけでもないのに足がすくんでしまう。

 

体感にして数十秒ほどそうして凝視したところで、すうっと目を細めつつ何度か頷くルドルフ。

 

「……そうか。やはり、タキオンから聞いていた通りというわけかな」

 

「本当に?新入生の熱烈な押し掛け逆スカウトとか、そういう可能性はないの?」

 

「ない…………とは言い切れないかもしれないが、少なくとも私はこの顔に見覚えがない」

 

「へぇ」

 

ルドルフは一度見た相手の顔を忘れない。そして、彼女は生徒会長として入学試験における面接や選抜レースの補助を務め、新年度初日には新入生全員の顔写真付きの名簿にも目を通している。

付け足すなら、新入生に限らず全生徒と全職員の顔もルドルフは記憶していた。聖蹄祭のような外部に開かれたイベント当日でもない限り、この学園で彼女の見知らぬ人物が活動しているなんてことは本来あり得ないのだ。

 

その類稀なる頭脳によって機能する、生徒会長独自の顔認証システム。その信頼性は折り紙つきで、そのことをよく分かっているシービーは素直に引き下がった。

背中から出てこない辺り、この場の主導権はルドルフに譲るということだろう。

ルドルフもまたそう受け取ったようで、リビングの敷居を跨ぎぶれない足取りでこちらに近づいてきた。

 

カーテンの隙間から射し込む夕陽を反射して、右耳に吊り下がった飾りが光る。

長く伸びた影のおかげか、ルドルフとの距離感がどうにも掴みづらい。

 

……怖い。

特に威圧されているわけでもないのに、真っ直ぐ距離を詰めてくるルドルフが妙に恐ろしい。

視点の違いによるものだろうか。

ルドルフは女性にしては上背がある。これまで見下ろしていた彼女を、今は見上げる形となっていた。

 

いつまで経っても足は動かず、蛇に睨まれた蛙のように釘付けになった私。

あっという間に目と鼻の先まで寄ってきたルドルフは、少しだけ腰を折って縮んだ私と目線を合わせる。

 

「私が怖いかい、トレーナー君」

 

「え……」

 

「耳が伏せられてしまっているよ。まだ感情の制御は難しいようだね。大丈夫……これから私が手取り足取り教えてあげよう」

 

「っ……!!」

 

私の頭頂部にそっと手が伸ばされ、そこに生えたばかりの一対のウマ耳を弄られる。倒れていたものを無理やり立たされて、縁の辺りを指でしつこくなぞられるたび、電流じみた衝撃が背筋を駆け巡った。

 

耳はウマ娘にとって極めて重要な器官だ。故に刺激にとても敏感で、その感度はヒトの耳のそれとはまるで次元が違う。ルドルフのようにピアスを開けているウマ娘すらあまり多くはない。

修習所でも、それ以前の学校の授業でも迂闊に触れるなと厳しく指導された。さらに幼い頃は、母の耳で遊んでは叱られていた記憶がある。知識では分かっていたつもりだったが、実際に体験すると全くわけが違った。

 

正直今すぐにでも振りほどきたい。が、ここで下手に不況不信を買うのも不味い。

どうやらルドルフは私が彼女のトレーナーだと理解しているらしい。しかし残念なことに、それを証明する物的な証拠は何処にもないのだ。

トレーナー寮に勝手に入り込んできた全裸のウマ娘、というのが第三者の視点から今の私に与えられる妥当な評価であり、生徒会長たるルドルフが追放を命じれば、私はそれに抗うことも出来ない。

 

そうするとどうなるか。

性別どころか種族からして異なる以上、戸籍は機能せず行政の支援も受けられない。再就職も叶わず、衣食住を一度に失うことになる。ようするに、今の私は社会的に死んだも同然なのだ。

最悪の事態を回避するためには、絶対にここでトレセンの庇護を失うわけにはいかない。そうである以上、学園の権力者であるルドルフや秋川理事長、たづなさんには絶対に逆らえないのだ、私は。

 

「うぅ……」

 

「ふふ」

 

こちらの反応を楽しむように、ウマ耳をしつこく愛撫するルドルフ。

楽しまれているうちが華なのだと、そう自らに言い聞かせつつ目をつむって耐えていると、突如弾けるようなショックが臀部から駆け巡った。

 

「ひっ!?」

 

「お、こっちもすっごい敏感」

 

いつの間にか背後に回っていたシービーが、生えたばかりの私の尻尾を両手で捕まえて扱き上げている。

 

ウマ耳のそれとは全く異なる、完全に未知の衝撃。尻尾を触られるという、本来ヒトが知り得る筈のない感覚だった。本来、出生から本格化を経て自然と慣れていくその刺激は、いきなり本格化を終え成熟した肉体を与えられた私にとって耐え難いもの。

ウマ耳と同様、ともすればそれ以上に敏感なのが尻尾という器官。修習所でも、学校の授業でも迂闊に触れるなと厳しく指導されていた。そして幼い頃は、母の尻尾で遊んでは叱られていた記憶があり……我が事ながら、よくこれまで無事に生きてこれたな。

 

容赦のない尻尾への刺激に、どうやら私の中に備わっていたらしきウマ娘の防衛本能が発動する。

片足を持ち上げて畳み、足裏を後ろの正面に向けて構える。ほとんど無意識にそれがこなせた。単純で、原始的で、それでいてウマ娘にとって最も強力な反撃行為……後ろ蹴り。

 

威嚇として示されたそれを、シービーはまるで意に介した様子も見せず、尻尾を扱く手は止めないまま飄々と囁いた。

 

「いいの?トレーナー。アタシ、元トレセン学園生徒会長なんだけど?」

 

「う……」

 

「元トレセン学園生徒会長なんだけど?」

 

「………はい」

 

もう諦めるしかない。

ただでさえ低かった私のヒエラルキーが、いよいよカーストの外まで滑り落ちたというだけの話だ。

 

やがて二人は満足したのか、弄り回す手を止めて解放してくれた。

……かと思えば、シャツ越しに私の体を改め始める。タンスの肥やしになっていた採寸メジャーまで取り出して、上から順にサイズを計っていく。

どうやら手を貸してくれるつもりではあるらしいが、さて。

 

「90.56.85……と」

 

「こうなると服が必要だね。私のでもサイズが合わないだろう。シービーは私よりさらに身長が高いからな」

 

「1センチだけね。でもまぁ、ルドルフで無理ならアタシでも無理でしょ。中等部時代の頃の制服ならいけたかもしれないけど、先週引っ越しの荷造りで処分しちゃった」

 

「私は実家に送ってしまったよ。アスカへのお下がりにと……うん、トレーナー君の身長はおおよそ160手前といったところかな。まぁ、平均的だね」

 

「そのあたりの子から借りるしかないかな。まぁ、平均なら探せばいくらでもいるよね」

 

何故か微妙に残念そうな色を漂わせながら、とんとんと話を進めてくれる二人。

遺憾ながらウマ娘になってしまったと言えども、男である私にそのあたりの解決は難しいので、ここは彼女達に甘えさせてもらうことにする。

 

と、外の廊下から誰かがこちらに向かってくる気配が感じられた。

聴覚の鋭いウマ娘も多く在籍するために、トレーナー寮は防音を徹底している。事実、はっきりと足音が聞こえてくるわけではないが……それでも、「恐らくそこに誰かがいるだろう」程度のことは分かる。ウマ娘の感覚は、やはりヒトのそれを遥かに凌駕していた。

 

鋼鉄製の分厚い玄関扉が開かれ、姿を見せたのは三人のウマ娘。

意気揚々と先頭に立ち、私を見るや否や笑いを隠しきれない顔で駆け寄ってくるのはトレセン学園が誇るマッドサイエンティスト、アグネスタキオン。後ろを続くのはしおしおに萎れきったカフェと、それに肩を貸すテイオー。

 

「やあやあトレーナー君!今朝ぶりだねぇ!さぁ、セカンドオピニオンの時間だよ!」

 

興奮冷めやらぬとばかりに息を荒げるタキオン。とりあえず、セカンドオピニオンの意味はちゃんと辞書で調べて欲しい。保健体育科目は必修だろう。

 

ぱたぱたと浮かれたタキオンの進路を塞ぐように、ルドルフがするりと私の前に歩み出る。

その瞬間、タキオンはにわかにばつの悪そうな表情を浮かべ、手遅れながら余った袖で口元を隠した。色々な事情で彼女もルドルフには強く出られず、そういった意味では私の同類とも言える。

 

「……会長。謝罪ならもうしたじゃないか。報告だってちゃんと挙げただろう。まだなにかしろってことかい」

 

顔の下半分を白衣の袖で隠すようにしながら、じとりとルドルフを半目で睨み付けるタキオン。

それに怒るでも呆れるでもなく、ルドルフは淡々とした口調で問いを投げ掛けた。

 

「タキオン、君の身長とスリーサイズは?」

 

「な、なんだい藪から棒に。159の83.55.81さ……ほら、もう良いだろう。早くそこを退いておくれよ」

 

「そうか。なら丁度良いな。さぁアグネスタキオン。服を、脱げ……今ここで、全部」

 

 

「ええーっ!!」

 

 

超光速のプリンセスの悲痛な叫びが、日が落ちて間もない夜のトレセン学園に響き渡った。

 

 

 



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早く人間になりたい

「あまり深入りし過ぎるとキリがないから、結論だけ述べてしまおう。皆の話を聞く限り、今回の異変、原因は主に三つある」

 

カーテンを締め切り、外部の目から完全に隔離されたリビングで、タキオンはそう高らかに宣言した。

なにかを説明する時の癖なのか、一瞬だけ大きく腕を広げたものの、下着の上から直に白衣を羽織った自らの格好を再認識したらしく、頬を染めながらがばりと前を隠す。

下着を残されたのは別に情けというわけでもなく、単純に先程までとは逆の意味でサイズが合わなかったからだ。流石にそれだけでは慈悲がないという、タキオンの必死の抗議によって白衣は取り戻されたものの、そのギャップがかえって凄まじい背徳感を醸し出している。

 

「イメクラかなぁ」

 

「ちょっと!トレーナー君!せっかく真面目に考察してあげているというのに、なんだいその態度は!」

 

「ああ、いや……すまん。うっかり」

 

あまりにも卑猥だったので、その。

 

顔の赤色をますます深くしつつ、目尻にはうっすらと涙すら浮かべながらこちらを睨み付けるタキオン。

権力と数の暴力で抵抗すらママならず、いきなり服を剥かれた上にこの仕打ちであるが、それでも彼女を助けてくれる存在はここにはいない。

 

 

テイオーとカフェは飽きたのか、さっきから利き珈琲の世界に没頭していた。お友達の行方も一応は知れて、少しは気持ちが落ち着いたらしい。

そしてシービーとルドルフは……私の両脇をがっちりと固め、肩をぴたりと寄せて、その手を腕やら腰やらに回していた。

 

「ねぇ、その単語がうっかり出てくるあたり、知識だけってわけじゃないよねトレーナー。アタシに内緒で何時どこに行ったの?」

 

「君とて殿方だったのだから、そういう欲があるのも不思議ではないが……それならせめて、私達にしっかり報告を上げておくのが筋ではないかな、トレーナー君」

 

「いや、それはセクハラだろう。それより引っ張らないで……」

 

シービーが馴れ馴れしく私の肩を引き寄せたと思えば、それに負けじと頭を掴んで耳に唇を近付けるルドルフ。見た目は好色な男のそれだが、互いに凄まじい腕力で引き合うせいで大岡裁きでも受けている気分。

 

それでもヒトより遥かに頑丈なウマ娘の肉体を得たおかげか、一時間前までは恐怖の対象だったそれも特に負担とならない。もっともそれは良いことばかりではなく、むしろ負担とならないせいで、これまではヒト相手故に曲がりなりにも彼女達の中にあった手加減や遠慮が失われてしまっていた。

ヒトだからとか、男性だからだとか、そういった弱者故の特権というものを、失った今になって私はひしひしと実感している。

 

いくらウマ娘になったとはいえ、相手もまた同じウマ娘。それも二人いて、両方鍛え上げられたトップアスリートとなれば、力で迫られて敵う道理はない。

むしろ火に油を注いでしまいかねない抵抗は諦めて、横に横にと脱線していく話を元に戻すべく、タキオンに続きを促す。

 

「君の薬と、お友達に目をつけられたこと。二つの原因は分かっている。それで、三つ目はなんだ?」

 

「恐らくテイオー君だろう。三女神の広場で、手を繋いだとかなんとか」

 

「え……ボクのせい?」

 

カフェと戯れていた……と言うより面倒を見られていたテイオーが、突然の名指しに目を白黒させながらタキオンと私の様子を交互に窺う。

実際には手を繋いだどころの話ではないのだが、ルドルフとシービーの同席するここではぐらかしたのは流石の世渡り上手と言ったところか。

 

勿論私とて、あえてそれを訂正するような真似はしない。あの虚構ですら、先輩二人の目から一瞬光が失われるのを見逃していなかった。

自分の身体も大事だが、それ以上にチームの維持が私にとって喫緊の課題である。

 

「都市伝説があったろう。トレセン学園における七不思議の一つだったか。あの像の前でウマ娘同士が心を交わすと、想いの継承が起こるとかなんとか。まさしく君自身が彼に言ったことじゃないか」

 

「でも、所詮都市伝説は都市伝説でしょ。そんなオカルトなんて信じられるわけないじゃん」

 

「カフェに長年とり憑いていた幽霊がトレーナー君に乗り移って、彼をウマ娘にしてしまった。これがオカルトでないなら果たしてなんと言うのか、後学のため是非ともご教授願いたいものだね」

 

バッサリとタキオンに切り捨てられ、狼狽えたように耳を伏せるテイオー。

今の今まで自分は蚊帳の外だと思っていたし、そうであって欲しかったのだろう。なにか言いたげに口を開いたものの、弁明は捻り出せなかったのかゆっくりと閉じてしまう。

 

「……違います。タキオンさん。別に、あの子は私にとり憑いていたわけではありません。……ただ、そこにいただけです……」

 

そんなテイオーに代わって、カップを皿に戻し重々しく会話に割り込んでくるカフェ。

全身の毛が逆立ち、倍近く膨らんで見えるシルエット。影の差す目元に爛々と輝く満月の瞳は、まさしく血に飢えた猟犬のごとき猛々しさ。そのあまりの剣呑さに、恐れ知らずのテイオーすら思わず唾を飲み込んでいる。

 

「……そして、勝手にいなくなったと思ったら……兄さんに手を出した。だから、もう知りません。……絶交です」

 

「随分酷い言い種だねぇカフェ。つい今の今まであれだけ意気消沈していたというのに、薄情なものだ。理解したかい。女というのはこういうものだよトレーナー君」

 

カフェを煽りつつ、私にも意味深な視線を送ってくるタキオン。この期に及んで喧嘩を売るとは大した度胸だが、そのせいで身ぐるみ剥がされた挙げ句に孤立無援に陥っている事実をいい加減自覚して欲しいものだ。

彼女が原因の一つという理由もあるのだが、それでも仮に居合わせたのがマルゼンやテイオーだったらここまでの憂き目には会っていまい。

 

「これからは女らしく振る舞えと言うなら、まず始めにその下着も貰っておこうか。さっきからスカートの下が落ち着かないんだ。サイズが違うとはいえ、別に使えないわけじゃない」

 

「着心地は悪いけどね。まったく、タキオンが貧相だから……」

 

「私だってそれなり以上にある方なんだけどねぇ。トレーナー君が欲張りなだけさ。身長だって私よりもカフェに近い……なぁカフェ。君のサイズはどうだったか」

 

「……ぶっ殺しますよ?」

 

カフェの唇の間からぬらぬらとした舌先が覗き、僅かに顔を覗かせる犬歯の白さが背筋の凍るようなコントラストを演出する。

 

流石にやり過ぎたと自覚したのか、白々しく目を逸らすタキオン。

狡猾にも、たった今カフェの擁護が入らないことが確定したお友達へと矛先を転じる。

 

「まぁ、私もテイオー君も確かに原因の一つではあるが、しかしあくまで故意はなかった。過失だ。この際責められるべきは我々の行為の結果を奇貨として、そこにつけ込んだお友達ただ一人だろう」

 

「それで?肝心のソイツがトレーナー君と一つになってしまったのなら、最早私達には手の出しようがないだろう」

 

「ああ。だからここは仕方ない。彼女に代わって、製造責任者に責任を取ってもらおうじゃないか」

 

言うや否や、私をルドルフとシービーから取り上げて立たせると、無理矢理部屋の外へ突き出すように背中を押してくるタキオン。そしてそれを特に止めようともせず、脇を固めたままついてくるルドルフとシービー。

 

出頭命令が出てるとは言え……というより、出頭命令が下されるほど機嫌の悪いあの人のもとに顔を出すのは甚だ不本意であるが。こういうのは時間が経てば経つ程悪化していくタイプなので、ここで観念するべきだろう。

 

 

今の私なら、最悪力でどうにかなるだろうし……たぶん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

テイオーとカフェ、そしてどこに出しても恥ずかしい格好のタキオンは部屋に残しておき、私は担当二人を連れ立ってサンデーサイレンスの部屋へと訪れる。

あまり大勢で押し掛けても、かえって向こうの反感を買うだけというルドルフの助言あってのことだ。正直カフェには一緒にいて欲しかったが、あとの二人が心配なので渋々留守番させておくこととなった。

 

 

やはり母は大層機嫌が悪かったそうで、ストレス発散相手として晩酌に付き合わされた先輩共々恨みがましい目を向けてきた。

が、事情を呑み込んだ直後、さも可笑しくて堪らないといった様子で腹を抱えだす。

 

「ふっ……ぶっははははは!!げほっ、ははっ……あー……そうかそうか。一人頭数が足りてない問題の答えがそれか。流石にその発想はなかったわ。お前の勝ちでいいよ、もう」

 

「斜め上に突き抜けてんな。こんな面白珍生物この世にいていいんか」

 

人の不幸をこれでもかと笑い飛ばす母を止めるどころか、先輩は便乗して同じぐらい適当な事をぬかしている。

そのまま何気ない様子で私のスカートの裾を指で摘まみ、捲り上げた。まぁ、性別を一目で確かめるなら最も手っ取り早く確実な方法だろうが……妙に風通しがいい。

 

 

ああ……そうだ。なにも着けていないんだったな、そこには。

なにぶんスカート自体そうそう着る機会などないので、その違和感すら服由来のものとして意識の外へと出ていってしまう。

見られて恥ずかしいかと言われれば、まだ自分の身体だという実感が乏しいので曖昧なところではあるが。

 

もっとも、私の認識がどうであろうと、今現在さらけ出されている事実に違いはないわけで。

気まずそうに目を逸らした母が、固まってしまった先輩をテーブル越しに勢い良くぶん殴る。

盛大に壁へと吹き飛ばされた彼は、よろめき立ち上がりながら悪態を溢した。

 

「……ってえなこの。ふざけやがって」

 

「コイツはウマ娘に成り立てほやほやなんだぜ。恐らく俺達なら出来て当然の力加減すらままならない。反撃食らえば死ぬぞ?トレーナーならそんぐらい頭を回しとけ」

 

「………」

 

しっしとサンデーサイレンスに追い払われて、不承不承に部屋から出ていく先輩。ようやく解放されることへの喜びが痛みに勝ったのか、その足取りはどこか軽やかだった。

 

「ま、挨拶はもういいわ。んでお前はこれからどうすんの。家に戻って俺の代わりにチビ共の面倒でも見るか?力仕事も出来て育成のノウハウもあるウマ娘なら大歓迎だぜ。頃合いを見てバカ息子の嫁にでもくれてやる。元々義理の家族なんだから丁度いいだろ」

 

「いいや駄目だサイレンス殿。トレーナー君にはシンボリ家でお抱えの講師をやってもらう。将来のスターウマ娘を育てるんだ」

 

「シンボリなんて既に人材飽和でしょ。それよりウチに来てよトレーナー。お母さんがあっちのトレセンで仕事しててさ、人手が足りてないんだって」

 

「なんかもう一生このままなこと前提なんだな。嫌ですよそんなの。私は絶対に元に戻ります」

 

「へぇ。どうやって」

 

「私にとり憑く直前、お友達はポスト・レースへの未練を口にしていました。きっと、あれに出走すれば満足して出ていくでしょう。たぶん」

 

断言出来ないが、現状最も現実性の高い筋道がそれだった。

お友達が抜けたところで、ウマ娘のまま変わらないという結果も十分にあり得るが、とにかく主犯である彼女をどうにか退散させないことには話にならない。

 

「知らないようなら教えてやるがな、トレセンで走るにはトレセンの在校生っていう資格が必須だ。お前はここに籍がない……なんなら役所にすら籍がない、ただの不審バだぜ」

 

「そこも含めて、とりあえず秋川理事長に話をつけてみますよ」

 

理事長にしても生徒会長にしても、この学園における統治者二人は権限が非常に強い。特に理事長の場合、秋川家が代々世襲で勤めるというあたりからも、他の教育施設との乖離が窺える。

それが良いか悪いかはこの際置いておくとして、現状最も頼りになりそうなのが彼女だった。もし拒まれた場合、母の薦めに従って田舎に帰るしかない背水の陣であるが。

 

「ただ、流石にノーパンノーブラで伺うのは失礼なので、身内のよしみで貴女の下着の予備を……あ、やっぱそれはいいです」

 

「なんでだよ」

 

「だって……その、絶対に合いませんし。だって母さん、その、カフェより多少大きいぐらいで……」

 

「ぶっ殺すぞ?」

 

 

……ああ。やっぱり親子だなぁ、二人とも。

 

 

 



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「立派なものをつけるべきでしょ?」

 

「理解……それで、私が君にしてやれる事だが」

 

結局サンデーサイレンスの下ではさして有益な情報も協力も得られなかったので、私はルドルフとシービーを連れたその足で理事長の執務室を訪れていた。

学園創設以来、恐らく前例は一つもないであろう奇怪極まりない事態であるが、いずれにせよ先ずは最高責任者である彼女に報告を上げねばなるまい。

いきさつを説明し、私しか知り得ない情報の開示……一通りの本人認証を終えたところで、取り敢えず理解はしたというように重々しく首肯する秋川理事長。

その顔には困惑の色がありありと見て取れる。狂言や週遅れのエイプリルフールといったセンは完全に消えたが、それがかえって彼女の頭を酷く悩ませているようだった。事実、理事長にとって我々の存在は当たり屋に等しいのだろう。

 

それでもこうして善後策を講じてくれるあたり、この上司には頭が上がらない。

なんといっても、トレセンにおける私のこれからは全て彼女の掌の上にある。

 

「君の中央トレーナーとしての身分は保障しよう。とりあえず解決するまでの間、国外へ出張という建前にでも……いや、それでは不自然か……」

 

「テイオーを迎えた矢先ですからね」

 

見聞を深めるために、トレーナーが短期間海外に渡ることは珍しくない。仮にルドルフとシービーだけだった場合、その理由付けは無理なく通っただろう。

しかし生憎今はテイオーを迎えたばかり。正確にはまだ正式な契約は締結していないものの、それなら尚更チームを離れることなどあり得ない。

 

「なら、体調不良で急遽帰省ということにでもしておこう。トレーニングや作戦は療養地からリモートで指示していると言えば良かろう。一応、異常であることには違いないからな」

 

「一部の連中はそれでも追求してきそうですが……」

 

「快復を目的とした休養の場合、その個人情報は学園側で徹底的に秘匿される。故に口さがない者達が顔を突っ込んできたところで、いくらでも誤魔化しは利くとも」

 

療養中という文言を真に受けて、見つかる筈もない私の姿をいつまでも探し続けるというわけか。なんにしても、彼女がそこまで言い切るからには確実に事を荒立てない算段がついているということ。

まだまだ幼い身空であるが、それでも理事長の役職を預かるだけあって、ことこの学園において彼女に逆らえる者は極僅か。せいぜいが立場上同格のルドルフや右腕兼保護者であるたづなさん程度であって、それ以外の者……ましてや外部の者共が秋川理事長を出し抜くことなどおよそ不可能である。

 

この異常事態においては全くもって頼もしい限りだが、しかしいくら彼女の神通力と言えども流石に天井知らずというわけにはいかないようで。

閉じた扇子をぱしんぱしんと掌に打ち付けながら、その可愛らしい童顔に似合わない苦虫を噛み潰したような顔で告げる秋川理事長。

 

「問題は今、私の目の前にいる君。誰にとっても初めましてのウマ娘だな。言い方は悪いが、そんな得体の知れない存在を生徒として捩じ込むのは少々……かなり難しい」

 

「ですよね……」

 

私というウマ娘は、まさしく突如生えてきたに等しい存在である。

例えば戸籍だったり、親類縁者だったりといった然るべきバックボーンがまるでない。言わばこの世界のバグのようなものであって、そんなウマ娘はいくらトレセン学園理事長と言えども扱いかねるのだろう。

 

さりとて、このままはいそうですかと引き返すわけにもいかず。

あれやこれやと打開策を捻っていたところ……これまで黙って見守っていたルドルフが、おもむろに理事長に向かって一歩踏み出し手を胸へと置いた。

 

「それなら理事長。彼……もとい彼女の身元につきましては、シンボリの方でどうにかして見せましょう」

 

「ルドルフ?」

 

「トレーナー君。我々がこれまでに数多くの研修生を送り込んできたことは、君自身もよく知っているだろう」

 

「ああ。それは……まぁ」

 

研修生というのは、ある一定の期間のみこの学園において活動する、中央に所属していない競技ウマ娘の名称である。

主な目的は交流と技術の獲得であり、それ故に公式戦への出場が認められないという制約があった。それでも一応はトレセンに籍を置く以上、出願時に選抜レースが課されている。

 

入学試験程ではないにせよこれも中々に難関であり、必然的に研修生となるウマ娘は大きく二つのタイプに分けられる。

 

一つは地方に所属する中でも上位の実力を誇るウマ娘達。オグリキャップのように直接殴り込める程の実力は無いにしても、己の実力を磨くため、あるいは話題性を得るためにこうして中央の門を叩くウマ娘は多い。

 

そしてもう一つが、レース競技界の名門が擁するウマ娘達。家名そのものが一つの勢力となる程の名門は、幼少期からの育成が一定の水準をクリアするまで、抱えるウマ娘をトレセンに送らないという不文律が存在する。

ここでいう一定水準とは、入学試験における合格ラインを遥かに上回る……ようするに将来重賞で確実に勝ちの見込めるレベルを指す。そのウマ娘が代表として、家の名前を背負って戦う以上、確実に勝たせなければならないという執念。

それだけでもぞっとする部分があるが、彼らはその上でさらに念には念を入れて、あえて仕上がったウマ娘を一度研修生として送り込み、その実力を見極めるということすらやってのける。良ければそのまま入学させてデビュー、悪ければもう一度育成し直しというわけだ。

 

シンボリ家はまさしくその一つであった。

ちなみにルドルフとシリウスの二人はあまりの仕上がりの良さに、テストすら必要ないと速攻で学園に放り込まれたらしい。

 

「そのシンボリの研修生として、私を学園に捩じ込もうってわけだ」

 

「話が早いな。背景がないなら作り上げればいい。所属も我々のチームだ。これなら、上手いこと周囲に君の素性を隠す理由にもなると思うが」

 

「確かに……」

 

名門の研修生はその性質上、言わば投入間近の秘密兵器のような存在であり、迂闊に手の内を晒して対策を取らせるような真似はさせられない。別に交流を目的とするわけでもないので、基本的に他バとの接触は極力控えることとなる。

当然どこのウマの骨とも知れないトレーナーに貴重な身体データを採らせてやるわけにもいかず、担当につけるのはお抱えのトレーナーだけという徹底ぶり。

まぁ、私はシンボリのお抱えになったつもりもないのだが。しかしその最高傑作であるルドルフを最初から担当しているが故に、どうも世間からはそう認識されているらしい。それもまた、今回に限っては好都合だった。

 

シンボリルドルフの担当である私のチームにおいて、ルドルフにつきっきりで面倒を見られつつ周囲には徹底して正体を秘匿出来る。そんな理想的な学園生活を、まるで違和感なく成立させられる提案。

 

「なるほど、承知した。まぁ、君のことだから間違っても彼を悪いようにはしないだろうからな」

 

「ええ、勿論。変わり果てたとはいえ私にとってはたった一人のトレーナー。精神誠意をもって尽くしてみせましょう」

 

理事長の好感触に気を良くしたのか、そんな頼もしいことを言ってくれるルドルフ。

軽く腕を組み、小首を傾げ自信たっぷりに微笑みを湛えているものの、それら全てが余所行きの顔であることを私は知っている。優等生の仮面の下に秘められた、その本心はさていかなるものか。

 

「それでは、まず最初に君の部屋を決めなくてはな。生徒を偽る手前、いつまでもトレーナー寮に出入りするわけにはいくまい。かといって、寝食を共にするとなると正体が露見するリスクが高まるだろう」

 

一息にそう述べた後、チラリと私に流し目を送ってくるルドルフ。今朝ならきっと可愛らしいと思えたであろうそれに、今は不思議と威圧感すら覚えてしまう。見上げているからだろうか?

 

ややあって彼女は宙を睨むと、呆れるほど白々しい声音で一つ提案をした。

 

「……ああ、そういえば思い出したよ。たしかつい三日前、私の同居人がいなくなってしまったんだな。ああ、これは本当に素晴らしいタイミングだ」

 

「ちょっとルドルフ!!さっきから黙って聞いていればすぐこれなんだから……秘密がバレるのが嫌なら、アタシと一緒に暮らす方がよっぽど安全でしょ!?」

 

ルドルフの言葉に被さるようにして、これまで静かに見守っていたシービーが肩を怒らせながら乱入してくる。余裕のなさの現れか、普段の飄々とした雰囲気は欠片もなく、その尻尾は毛が逆立ってすらいた。

不覚にも敵に塩を贈る形となった。まさか事ここに及んで、自分の門出が見事に裏目に出るとはさぞやりきれないことだろう。

そんな彼女を目の前にしても、ルドルフはまるで動じない。やれやれと、底抜けに呆れた様子でため息をつきながら首を振る。

 

「あのなぁシービー。私の話を聞いていたか?彼女はシンボリ期待の星という建前だ。それがどうして、赤の他人である君の家で暮らすのかな」

 

「そ、れは……同じチームだから……」

 

「それだけかい?同門であり、チームメイトであり身元保証人でもある私を差し置いて彼女と一緒になる理由がそれだというのか」

 

ここぞとばかりに煽り立てるルドルフに、気の利いた返しも思いつかず唇を噛むシービー。いつもの二人とは綺麗に立場が入れ替わっている。

もしやルドルフ、ここぞとばかりに溜め込んだ鬱憤を晴らすつもりか。シービーがどう理屈をこね回したところで、悲しいかなルドルフの優位は揺らぎそうにない。

 

「さて、そうと決まれば早速諸々の根回しに取り掛かるとしよう。それでは理事長、詳しい取り決めについてはまた追々」

 

「……承諾ッ!!」

 

元々困惑の極みにあった彼女のこと。ここで音頭を取ってもらえるなら願ったり叶ったりなのだろう。

考える暇も与えず、怒涛の勢いで話を進めていくルドルフに流されるまま理事長は首肯した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、私はお邪魔するよ。会長と仲良くね」

 

最後にシューズロッカーの点検を済ませ、ヒシアマゾンはひらひらと手を振りながら部屋を出ていった。

ここ美浦寮にて寮長を任されているだけあって、彼女はやはり身の振り方が上手い。あまりにも唐突な転入から直ぐになにかを察したらしく、つかず離れずの絶妙な距離感を保って最低限の手続きを済ましてくれた。

 

玄関で彼女を見送った後、荷解きを終えたばかりの二人部屋に踵を返す。

まるで鏡張りのように、ベッドからデスクまで全く同じ配置がされている。入り口から向かって右側はルドルフの私生活が営まれ、反対側はやや彩りに欠けた空間。

つい先週までシービーがくつろいでいたそこが、私のこれからの寝床である。

 

「さて、トレーナー君。大浴場は一階だがトイレは各部屋にある。既に知っているとは思うが、もし分からないことがあれば遠慮なく聞いて欲しい」

 

両手を腰に当てながら、ルドルフはなにやらご機嫌な様子でそう言った。

首尾よく私を囲えた充実感もあるのだろうが、それ以上にこうして世話を焼けるのが嬉しいのだろう。

 

「念のため、学園の中では極力私の近くにいて欲しい。といってもここ数日程だが」

 

「その後はどうなる?」

 

「一度シンボリの本邸に顔を出してもらう。かなり無理を言った代償だ。我慢してくれ」

 

「我慢か……」

 

きっと、楽しいバカンスというわけにはいかないんだろうな。

あれだけの大物となれば、その名前の持つ価値も計り知れないものだ。それを借りるからには、こちらもそれ相応の対価を要求されることになるだろう。

 

それがなんなのか、まるで見当もつかないのが怖いが。

 

「ま、そう心配することもない。なにもとって食われるわけじゃないさ」

 

そんな中身のない励ましと共に、ルドルフはすいと隣に移動してくる。

ベッドの上に足を投げ飛ばしてごろりと仰向けになると、もて余して投げ出していた私の尻尾で遊び始めた。

付け根から先端まで撫で下ろし、そしてまた上へと戻る。浅く深くと緩急をつけるその巧みな撫で様は、彼女のウマ娘としての年季の証だろうか。

 

敏感な尻尾にはくすぐったくて堪らず、振りほどきたくて仕方ないがどうにか我慢する。

これまで散々彼女の尻尾を弄ってきたものだから、ここは甘んじて受け入れるべきだと考えていた。

 

「それはそうとトレーナー君。言い忘れていたが、一つあげたいものがあるんだ」

 

目新しいものでもないだろうに、夢中で私の尾と遊び呆けるルドルフ。

上の空な調子で、ふとそう呟く。

 

「なにかな」

 

「君の名前についてなんだが―――」

 



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歪み

春、それは出会いの季節である。

先月巣立っていった先輩方と同じだけ、新たな生徒がこの学園の門を叩き、新鮮な風が吹き込む頃合い。

私が副会長として籍を置く生徒会もまたその例に漏れず、四月はにわかに浮き足立つ。

 

全校生徒の代表という手前、新入生の管理監督も職務の一つであるし、なにより生徒会にも新顔がやってくるからその指導も欠かせない。

馴染みの深い顔がどこにも見当たらないことに一抹の寂しさを抱えつつ、初々しい新入りの面倒を見るとなると、既に何度も経験済みとはいえやはり気が逸ってしまう。

 

そしてそんな私達を、落ち着いてまとめあげてくれるのが他でもない生徒会長シンボリルドルフである。

正規会員の中では最古参の一人である彼女は、こんな忙しない季節でも常に堂々と落ち着いている。

生徒会は快適な学園生活維持の要だ。決して自分を見失わず、威風堂々と皆を引っ張っていくその姿はまさにその二つ名通り。この大組織の長として相応しいと言えよう。

 

「ほら、いくよパーフェクト。君の服を買いに行こう。トイレは一人で出来るかい。そうか、それは結構……ではエアグルーヴ、ブライアン。後は任せたよ」

 

「はい。お気をつけて会長」

 

だというのに、これは一体どういうことだろう。

昨日の昼まで泰然自若としていた会長が、今日になってもう浮かれに浮かれていた。

 

「……おい、ブライアン」

 

「……………………」

 

それはもう、我が道を往くもう一人の副会長すら、気まずそうに目を逸らす程には。

 

 

会長達が去っていった扉を観音扉を眺めつつ、背もたれに全体重を預けて腕を組む。

デスクに残った書類は残り僅かだが、それに片をつける程度の集中力すら捻り出せない。

 

 

……思えば会長は朝から様子がおかしかった。

調子が出ていないとか、体調が悪そうという話ではない。むしろその逆で、これまでになく快調なのだ。

 

大規模な生徒の入れ替わりが生じる年度初めの数週間は、どうしても生徒会の業務は肥大化する。言うまでもなく、最もその皺寄せを食らうのは最高責任者たる生徒会長に他ならない。

さしものシンボリルドルフとはいえ、その処理能力にも限界はある。積み上がる案件に消化が追い付かず、やむを得ずデスマーチに突入することも多々あった。

良くも悪くも責任感の強い会長のこと。放っておけば自らのキャパシティを無視していつまでも仕事を続けてしまうので、私と彼女のトレーナーで半ば力ずくで切り上げさせるのが常だった。

今日もまたそうなるものと覚悟していたのだが、しかしたった今、会長のデスクはさっぱりと片付いている。

 

 

ようするに、案件を全て片付けてしまったのだ、あの人は。

文字通り山のように積まれていた書類を、まだ日の高いうちから。

 

 

「あり得ない。もしや、これまでずっと手を抜いていらしたのか……?」

 

「それこそあり得ないだろう。たんに、今日になって会長のやる気が燃え上がっただけじゃないのか」

 

そんなブライアンの言葉にはなんとも気持ちが籠っていない。私へ反論する体でありながら、まるで自分自身に言い聞かせているような声色だった。

 

なにが恐ろしいかと言えば、それも決して嘘ではない……というより、そう考えざるを得ないということ。

自分で言っておいてなんだが、会長は自らの手抜きを許すようなウマ娘では断じてない。むしろ甘えからは対極に位置するような人物である。

 

「そうか………そうだなブライアン。やる気でどうにかなるといった精神論、私はあまり好きではないが」

 

「アンタの好みの問題じゃない。私達が知る限りおいて、そうとしか考えられないだろう」

 

「ああ」

 

これ昨日までも全力だったし、今日もまた全力だった。そこに違いがあるとするなら、やはりやる気の違いという一言に尽きる。

気合いの入れよう一つで不可能が可能になるなんて、余りにも古臭い根性論としか思えないが、事実それが現実に起きているのだから認めるしかないのだろう。

 

「きっかけはあの研修生か。いくら新顔とはいえ、ああもつきっきりなのは珍しい。別に、ここの会員というわけでもないのにな」

 

「聞くところによれば、ご実家と縁のある者らしい。会長が世話役ということなんだろう」

 

「初耳だな。そんなキナ臭い奴だったとは」

 

「キナ臭いか。酷い言い種だが、まぁあながち的外れでもない……のか?」

 

あくまで邪推の域を出ないが、やはりあの名前が引っ掛かる。

 

我々ウマ娘には名字というものがない。

私自身、エア家だかグルーヴ家だかの出身ではなく、『エアグルーヴ』で一つの名前を成している。ブライアンなんかは特に分かりやすくて、実姉のビワハヤヒデとは何一つ被っていない。

 

しかしメジロやシンボリのような、所謂名門と呼ばれる一族のウマ娘になると、名前にそれぞれの家名を含めることが大半である。これは名字ではなく、俗に冠名と呼ばれるものだった。

メジロアルダンやメジロライアン、それから今年度の入学試験を賑わせた内の一人であるメジロマックイーンは皆メジロのウマ娘であるし、会長やその姉、シリウス先輩なんかはいずれもシンボリのウマ娘である。

無論、絶対的な決まりというわけではないのだが。しかし、研修生として送り込まれていながら、名門の自負と連帯を象徴する冠名を戴いていないとなると、やはりあのウマ娘は異質な存在と言えるだろう。

 

そのわりに、つけられた名前は完璧(パーフェクト)などというなんとも大仰なものときた。期待されているのかされていないのか、一体どちらなんだか。

 

「それにしても、あの入れ込みようは仲睦まじいの範疇を越えている。あれでは縁者というより、まるで恋人かなにかだ。皇帝を誑かす傾城傾国の女さながらだな」

 

「実際には会長は堕落するどころか、かえってますます精強になられているわけだが」

 

「会長のトレーナーはなんと言っている?たしか、同じチームで面倒を見るんだろう。テイオーを引き入れたばかりだというのに」

 

「知らんな。彼は今朝から実家で療養中だと聞いている。まぁ、実績欲しさで悪戯に担当を抱えまくる立場ではない。育成の目処は立っているんだろう」

 

彼も彼とて多忙な日々を送っていた。

若手にして前代未聞の大記録を打ち立てたはいいものの、お陰で本業のみならず学園の広報にもしばしば駆り出されるようになった。加えて生徒会の業務の手伝いまで。

若さにものを言わせてこなしていたが、ここに来てその無理が祟ったというところだろうか。幸い学園にはリモートワークのマニュアルもある。しばらくは健康と折り合いをつけながらこなしていくのだろう。

 

「……ん」

 

そこでふと、私は気づく。

ひょっとしたら、会長がかの研修生にやたら目をかけているのも、彼の不在こそが原因なのかもしれないと。

 

なにも入院したわけでもなく、あくまで療養に過ぎない。とはいえ、それでもトレーナーと引き離されたという事態は、会長にとって大変なストレスを伴うものであった筈。

生徒会長として、皇帝として、誰よりも体面を重視するあの方のことだ。内に秘めた精神的疲労の解消手段として、頼れるのが血族だけだったとしても不思議ではない。しかし実姉やシリウス先輩があの調子であるが故に、選択肢が実質的に一つしか残されていなかったのだとしたら。

 

すなわち、あの研修生はシンボリルドルフのトレーナーの代替であるというのが、私が導き出した一つの解答だった。

真実そのものではないにしても、当たらずといえども遠からずな部分に着地を決めた自信がある。答え合わせが出来そうにないのが、少しだけ残念だった。

 

「なにやら思いついたらしいが……真相なんて、別になんだって良いんじゃないか。私達にとってはありがたいという、ただそれだけの話だろう」

 

「ああ……まぁ、そうだな」

 

トレイの中に収まった、僅か五枚程度の交付申請書に目を落とす。

後はこれにダブルチェックを通し、付属の名簿欄にサインを入れれば今日の事務作業は終わり。あろうことか、残業どころか太陽が真上の時点で全て片付いてしまうこととなる。

書類を滞りなく捌けたことによって、会長のみならず生徒会全体の能率が向上していた。ブライアンの言うとおり、ありがたいの一言に尽きる。

 

さっさと終わらせて、会長に続いて校内の巡回にでも出るとしよう。

そう意気込んで、私はトレイからまとめて全ての紙を取り上げた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

「こんにちは会長」

 

「会長さんこんにちはー」

 

「ああ、こんにちは皆。今日も元気そうだね……私かい?私は元気だよ」

 

昼下がりの本校舎。

授業も一段落ついて、やれランチだ昼練だと大勢の生徒が行き交う廊下を、ルドルフは私を引き連れながら巡回していた。

元気、との言葉にはいささか疑問が残る。心なしか力の抜けた笑いに、重力に逆らえず頭を垂れた尻尾。時折気だるそうに細められる紫の瞳からは、幾ばくかの覇気が失われていた。

はなから残業を前提にしているとしか思えない膨大な業務を、ものの半日で処理した直後なのだから無理もない。ベテラントレーナーですら悲鳴を上げるような苦行をこなした上で、その疲労を一見分からない程度にまで誤魔化せていること自体が驚異だった。

 

ルドルフがここまで自らを追い込んだ理由は、ひとえに限界まで生徒会室に籠る時間を短縮するためである。

 

研修生という身分である私には生徒会に加わる資格がない。『極力私の近くにいて欲しい』とは言うものの、この繁忙期ではその極力の幅がだいぶ狭まってしまうのだ。少なくともプライベートでは、殆ど行動を共にすることが出来ない。

かといって、生徒会長としての務めを投げ出すというのもその性格からしてどだい無理な話。結局、彼女が導き出した解決策は、『極限のパフォーマンスで強引に作業時間を半減させる』といういっそ清々しいまでの力押し正面突破だった。

それが出来るなら初めからそうしろと言う者もいるかもしれないが、ルドルフ曰く自由自在に引き出せるわけではないらしい。とことんまで行き詰まった果てに発揮される火事場のバ鹿力の産物なんだとか。

 

筆記試験終了間際の集中力に近いと考えれば、言ってることは分からないでもない。

が、それにしたって限度があろう。ルドルフが内に秘めている潜在能力は底が見えない。

 

「ほら、ぼうっと歩いていては駄目だろうパーフェクト。危うく置いていってしまうところだったじゃないか」

 

「あ……ああ。ごめん」

 

気を散らしている内に歩幅が乱れたのか、いつの間にやら半身ほど後方にズレてしまっていた。

そんな些細な立ち位置の変化を見逃さず、そっと私の肩を抱いて引き寄せてくるルドルフ。

 

端から見れば、それは同伴者を労る慈悲深い所作。周囲のルドルフへと向けられる視線が、一層尊敬の色を深めていく。

この、私の肩にやんわりと添えられた指……優しいのは見た目だけで、骨と筋肉に伝わってくるのがあたかも猛禽の爪のごとき力強さであるという真実は、実際に抱かれている私だけしか知らない。

 

なにが危うく置いていってしまう、だ。

逃がすつもりなんか更々ない癖に。

 

「なぁ……ルドルフ、その」

 

「なにかな、パーフェクト」

 

「その……ちょっと、トイレに行きたいんだけど」

 

「そうか、なら私も一緒に行こう。如何せん男女の体の差違が顕著になる行為だ。君も未だに慣れていないだろうからね」

 

「……………」

 

やはり遠慮がない。この言い方からして、当然のように個室の中までついてくるつもりなのか。

昨日、大浴場ではカフェと共につきっきりで色々と教えてもらったものの、寮のトイレは一人っきりにしてくれていたのだが。二人きりの寮部屋と昼の校舎ではまた別ということなのかもしれない。

 

「……別に、必要ないよルドルフ。既に何回も済ませていることだろ。むしろ君がついてくる方がよっぽど不自然だよ。怪しまれる」

 

「しかし」

 

「幼い子供じゃないんだから。いくら勝手が違うとはいえ、排泄ぐらい一人で出来るよ……」

 

「う、うむ……」

 

自分でも無茶苦茶を言っていると自覚してはいたのか、ルドルフは尻込みしたように言葉を詰まらせた。

ついでに指の力が緩んだのを見逃さず、その隙を突いて振りほどくと私は廊下を逆に走る。流石に目立ちすぎると判断したのか、後ろから追ってくる気配はない。

 

そのまま突き当たりを折れた目の前にあるトイレへと侵入する。

今の性別なら少なくとも見た目の上では問題ないのだろうが、やはり肩身の狭さが半端でないのだ。かと言って男性用トイレを使用すれば一発で学園当局にお縄なので、仕方がないのだと自分に言い訳しながら個室を借りる。

 

「ふぅ……」

 

この学園は恵まれた職場だが、それでも不便な部分がないわけではない。その一つが男性用トイレの少なさだった。

組織としての性質上、女性の占める割合が圧倒的に多いので仕方のない話ではある。しかし催すたびに階の移動を求められ、場合によっては別の建物との往復までをも要求されるのは中々に大変だった。

この姿になってからは気軽に使えるので快適極まりない。今にしても、排泄ではなくルドルフに一呼吸入れさせることが本命だったが、そういう仕切り直しの手が打てるのは便利なものである。

 

種族を転換するリスクと比べれば、余りにも些細な改善点であることは言うまでもないが。

しかしこうしてチマチマとメリットを見つけて蓄えておかないと、ただでさえ不安定なメンタルに歯止めが効かなくなってしまう。

 

洗い場で両手を清めつつ、鏡に映し出された自分の顔を眺める。

実年齢より遥かに幼く見えるのは、決して顔の造りのせいだけではない。内心のアンバランスさが、そのまま表情に出てしまっている。

覇気に満ち満ちたルドルフの顔とは大違いだ。ただでさえ子供らしからぬ貫禄を備える彼女のことだから、今の私なんかより余程大人びて見えてしまう。

 

性差というのは、なにも見た目の違いだけに留まらない。分泌されるホルモンや、それによる精神面情緒面の差違を筆頭に、多くの要因が複合的に絡んでいる。

そこも一度に弄くられたお陰か、この姿になって以来どうも精神的に退行しているというか。これも早急に克服しなければならない課題の一つだろうか。

 

ハンカチで手を拭きつつ、背中を丸めてトイレから出る。ルドルフも、この間に少しでも落ち着いていれば良いのだが……。

 

 

 

そう心の中で祈りながら、廊下を曲がろうとした矢先。

不意に背後から肩を掴まれ……私は死角となる壁へと勢い良く叩きつけられた。

 

 

「ぎっ……!!」

 

 

腐ってもウマ娘の肉体。怪我には至らない。

それでも痛いものは痛くて、打ち付けた脇腹を庇いながら蹲る。

 

えずく間にも容赦なく……霞んだ視界の片隅には、私の襟首へと四方八方から伸びてくる手だけが映った。

 

 

 



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餓える天狼


投稿が安定しなくて申し訳ないです。



 

引き摺るように立たされる。そのまま、乱暴に空き教室へと放り込まれた。

一気に突き飛ばされ、たたらを踏みながら辛うじて静止する。そうしている間に、背中では荒々しく扉が閉められる音。

 

トイレと階段に挟まれ、廊下からは見落とされがちな部屋。

会議に用いられているらしく、後方に折り畳み式の長机が数列に並んで固められており、私達以外に気配はない。

最も活気溢れる時間帯の本校舎ではあるが、人の配置はかなり偏っている。今この瞬間にも生徒の大勢が一階中央食堂へと移動し、あと数分もすればここら一帯から人は捌けるだろう。

 

乱れた制服を整えながら振り返り、その原因を睨み付ける。

教室のカーテンは閉め切られていて薄暗い。ぼんやりとした視界に収まるシルエットは五人。その内でも筆頭格らしき、一番手前のウマ娘が私を睨み返してきた。

 

「なに、その目。あんた、自分の状況ちゃんと分かってんの?」

 

「……分かるわけ、ないだろ。私が貴女達になにかした?」

 

「見ていて気分が悪いのよ、あんた」

 

耳を倒し、ローファーの靴先で苛立たしげに床を叩いている。その後ろに固まった連中もまた、そわそわと落ち着かない様子で首肯した。

 

暗さにも次第に目が慣れてきて、彼女達の容貌が鮮明となる。全員、その顔に見覚えがあった。

昨年末、今年度のチーム拡大を見越して逆スカウトをかけてきた大勢のウマ娘の中の一部。既に専属トレーナーがついているにも関わらず声をかけてきた者もいたが、少なくとも彼女達はいずれもフリーだったと記憶している。

決して箸にも棒にもかからないというレベルではなく、特にリーダーらしき手前のウマ娘は選抜レースでも何度か入賞するだけの実力は備えていたが、中々担当を捕まえられないらしい。

 

結果さえ残せれば、必ず良いトレーナーがつくとも限らないというのが選抜レースの難しさだ。それが基本であることには違いないが、他にもトレーナーから見た印象やトレーニングにおける相性、方針の一致、気性、脚質の向き不向き等々、数多くの要因が複雑に絡み合っている。

あのルドルフでさえ、逆に荷が重すぎると敬遠するトレーナーも多い。ともすればG1レースより過酷という評価も、決して大袈裟ではないのだと思う。

結局のところ巡り合わせと言う他ないのだが、それで納得出来るか否かはまた別の話。

 

なまじ見込みがあるぶん、燻っている今の自分に我慢ならないのだろう。

それが理解出来るからこそ、ここまで敵意を向けてくる理由も察しがついてしまう。

 

「研修生の癖して三冠ウマ娘と同じチームなんて。シンボリのなにだか知らないしどうでもいいけどさぁ……調子乗りすぎじゃない?」

 

「仕方ないでしょ。そう決めたのはウチのトレーナーなんだから」

 

「ほんっと生意気。あんたみたいなのがコネで拾われて、なんで私だけが……」

 

床を小突く動きはやがて、ざりざりと本格的な前掻きに発展する。

私がチームに加入したという部分はさておき、彼女達の逆スカウトに応じなかったちゃんとした理由はあるのだが、しかしここでそれを説明することは出来ない。

 

話を主導していたウマ娘がヒートアップしていくに従って、後ろでこちらを睨んでいる取り巻きの雰囲気も変化していく。耳が倒れ、尻尾を苛立たしげに左右に揺らし、より剣呑なものへと。

 

「っ………」

 

私が彼女達と言葉を交わした時間はそう長くはないものの、受けた印象ではそこまで好戦的でも暴力的でもなかった。

勿論猫を被っていたのもあるだろうが、それを抜きにしたところで、良くも悪くもここまで大それた手段に訴えられるようなウマ娘ではなかったように記憶している。

 

おおかた同じ境遇の者同士、恐らくは私への妬み嫉みを媒介として連帯を強め、それに背中を押されたといった所だろう。

数が揃った場合、一人の時と比べて先鋭化しがちになるのはヒトもウマ娘も同じこと。ましてや彼女達は日陰で燻り続けたことで、精神の安定を欠いている。

常に勝負のプレッシャーと周囲の期待に晒され続ける特殊な環境である上、思春期の少女が多数集まるこのトレセン学園においては珍しくない暴走であり……同時に極めて危険な状態でもある。

 

「……なに。私に、今のチームから出ていけとでも言いたいの?」

 

「別にそんなことまでは言わないわ。だいたいあんたがチームにいようがいまいが、私にとってはなんも関係ないんだし。それより……あんた、あのトレーナーに口利きしなさい。シンボリのウマ娘が言うことなら無視できないだろうから」

 

「トレーナーは、別にシンボリお抱えっていうわけじゃない。それに、今は私とテイオーだけで手一杯だよ」

 

「それはあんたが決めることじゃないでしょ。話にならないわね……もういい。さっさとトレーナーの所まで案内しなさい」

 

「それも無理。今は療養中で遠隔業務。学園には出勤していない」

 

「へぇ……なら、暫くは直接あんたの様子も見に来れないわけだ」

 

リーダーの生徒はにやりと笑うと、再び私の胸を力一杯に突き飛ばした。

窓枠に背中から叩きつけられ、どうにか受け身を取った瞬間、首を片手で締め上げられる。もう片方の手は私の肩を押さえつけ、こちらの身動きを封じていた。

 

「な……にを……」

 

「前言撤回。やっぱりあんたには椅子を譲ってもらう。力試しでここに来たんなら、怪我の一つでも貰えばいる意味ないもんね?まだここに来て一週間も経ってないなら、トレーナーともお互い情はないでしょ?」

 

「そんなの……貴女達がただじゃすまないよ。そんな前科がつけば、私のトレーナーだけじゃない。この学園の全員からそっぽを向かれて……」

 

「うっさい!!それなら結局、今までと同じことじゃない!!……いいわ、ならそんな告げ口も出来ないように……」

 

首を絞める力が一段と強くなる。気道が閉塞し、会話はおろか呼吸すら覚束ない。

いくらデビュー前とはいえ、腐っても中央に籍を置くウマ娘。全体重でのし掛かられ、力づくで振りほどく事も叶わず視界が靄がかったように薄暗くなっていく。

 

後ろの四人は参加せず、おろおろと狼狽しながらこちらを見守っているだけだが、それでも数の有利は向こうにある。いくらウマ娘の身体を得たと言っても、相手もウマ娘であるならなんのアドバンテージにもならない。

いや、むしろマイナスか。これがもしヒトの頃だったら、ここまで直接的な実力行使はされなかっただろう。双方の種族が一致しているぶん、かえって容赦がなくなっていた。

 

「ぐっ………」

 

抵抗するべきなのだろうが、どうしても体が動かない。

ここで騒ぎを起こしたくないというのもあるし、なによりウマ娘の力を振るうという感覚を私は知らない。勢い余って、やり過ぎてもしまえば最悪だ。

そう躊躇っている間にも、締め上げる力は一向に緩まず、むしろますます勢いを増してこちらの意識を削ぎ落としにかかる。ここで気を失ってしまえば、その後どうなるかなんて……考えたくもない。

 

ああ、早く決断しなければ。

いや……もう既に手遅れなのか。もう、はね除けられるだけの気力は奪われ、手足から力は抜けていく一方。

 

 

 

限界を迎え、腰から床に崩れ落ちかけた間際… …不意に、首にかけられた指の感覚が消えた。

 

 

解放された……わけではないか。

私とリーダー格の生徒との間に割り込むようにして、その手首を掴んで捻り上げているウマ娘が一人。

私をそっと抱き起こしつつ、五人の顔を睥睨する。

 

「なぁにやってんだぁ、お前ら」

 

「……シリウスシンボリ……!!なんで、あんたがここに……」

 

「ここは私のお気に入りの場所でな。人目がねぇからフケるにはお誂え向きだ。たまに、お前らみたいな連中が沸いて出てくんのが珠に傷だが」

 

のんびりと欠伸を噛み殺しつつも、鋭い視線は決して外さないシリウス。

五対一の状況にも関わらず、全く緊張した様子がない。それどころか突っかかるのはリーダー格のウマ娘だけで、他の子達は完全に顔を青くしてしまっている。

 

シリウスは札付きで有名だ。なにか暴力沙汰を引き起こしたという話こそないが、学園内で独自の勢力を築き上げ、尚且つそれがあぶれ者揃いとなると、やはり黒いイメージがついて回る。

なまじ本人が名門の出であり、G1レースでも結果を残しているぶん、その反体制的な言動にもある種の説得力が生まれ、それが彼女自身のカリスマに繋がっていた。

 

姿を見せるや否や、あっという間に場の空気を掌握する異才。

クリーム色のカーテンに閉ざされ、薄暗い部屋の中で、あたかも恒星のごとく強烈な存在感を放っている。見る者全てを惹きつけて放さない、妖しくも美しい一等星。

 

「で、ウチのになにしてくれてんだって聞いてんだけど。今日は随分穏やかじゃねーな、テメエら全員」

 

「このっ……!!運良くトレーナー見つかったからって調子にのって……!!」

 

「ハッ。お前らも私にはいはい言ってついてこられるだけの可愛げがあれば、今頃まとめてアイツの世話になれたってのに。下手にプライド拗らせると大変だな」

 

いきり立つウマ娘相手に一歩も退かず、シリウスは尊大な態度を崩さない。

手慣れた動きで私の肩をさりげなく抱き寄せ、頭をそっと擦り付けてくる。それはあたかも、他の男に自分の女を見せびらかすような仕草。

 

それを見せつけられ、一斉に怯んだように一歩二歩と後退りするウマ娘達。

その仕草の意味するところ、それに直前のシリウスの言葉を繋げてようやく理解に至ったらしい。

 

「良かったな。今ここに来たのがあの皇帝サマじゃなくて。まぁ、私としてもただで済ますかどうかは怪しいとこだが」

 

「………チッ!!もういい。行くよ皆」

 

それでも数に任せて力に訴える程、冷静さを欠いていたわけではないようで、五人組は文字通り尻尾を巻いて会議室から出ていった。

 

その背中にシリウスはしっしと手を払う。追いかけないあたり、ただで済ます云々もあくまで脅しだったのだろう。

もっとも仮に本気だとしても彼女のことだから、家の力を借りず自力で叩きのめすことに拘るのだろうが。

 

 

「……ありがとうシリウス。助かった」

 

最後の一人が扉を閉めて、会議室が再び静寂を取り戻した頃。

ようやく意識もはっきりとしてきた私は、シリウスにすがり付くのを止めてなんとか自分の足で立ち直った。流石に部屋の外でもう一度襲いかかってくることもないだろうと踏んで、一人扉へと向かう。

 

 

と、突然後ろから押し倒された。

 

 

「待ちな」

 

「……シリ、ウス?」

 

胸の下に腕を回され、背中から抱きつかれる格好。それに目を白黒させていると、その隙を逃さず仰向けに転がされて両手首を頭上で一纏めにされてしまう。

 

「せっかく助けてやったってのに、ありがとう一つで済ませようとは随分薄情じゃねーか。なぁ、パーフェクト?」

 

「いや、でも、それとこれとは」

 

「ルドルフから離れたモンだから心配して様子を見に来てやれば、案の定バカ共に絡まれるときたもんだ。仮にもシンボリを名乗っていながら……いや、名乗ってはいないか……とにかく、ろくに用足し一つこなせないとは笑い話にもなりゃしない」

 

「う………」

 

「出来の悪い末っ子には、家族としてしっかり面倒見てやらねぇとな。仕方ないから、私が守ってやるよ」

 

私の腹の上にウマ乗りになりながら、シリウスはそっと顔を寄せて、艶かしく舌舐めずりを見せつけてきた。

切れ味の鋭い深紅の双眸は、ルドルフとはまた違った輝きを湛えていて、影に包まれたこの部屋の中で不気味に存在を主張する。あたかも彼女の薄皮一枚下で炎が燃え盛っているかのように、爛々と妖しく揺らめいている。

寄せられた首筋から漂ってくる、妙に甘ったるい香り。ウマ娘の嗅覚でより一層濃く感じられるそれは、暴力的に思考を蕩けさせてくる麻薬のようで。

 

「でも、私にはルドルフが……」

 

「肝心な時に近くにいないアイツと違って、私にはこうして助けてやった実績がある。なぁ、お前だって、ホントは悪い気はしてないんじゃないか?」

 

「………………」

 

人を惹き付ける、という点で優れるウマ娘は多い。

例えばシービーのように、常に人々が求める自分を演じられる者。ルドルフのように、比類のない実力と人格で以て、己の背中に従わせる者。あるいはオグリキャップのように、ただただ圧倒的な夢を見せつける者。

 

シリウスはそのどれでもない。

どこまでも自分勝手に一人で煙を上げていながら、見る者全てがそこに飛び込まざるを得ない炎。誰が灰になろうとも、彼女だけは消えることもない。その色香は破滅を帯びていて、傾国の素質に満ち満ちている。

彼女に心酔するウマ娘の気持ちがよく分かる。そして性質の悪いことに、恐らく本人は意図的に誑かしているわけではない。それがなにより恐ろしかった。

 

「ま、不服なら力でどうにかしてみな。聞けば昨日、審査用に提出した模擬レースの記録、相当良かったらしいな」

 

「あくまで研修生用の基準において、だけどね」

 

「それはつまり、本来地方の上澄みだとか、名門で英才教育受けた連中が対象ってわけだ。成ったばかりのアンタがクリア出来たなら上出来だろ」

 

まぁ、快挙と言えば快挙かもしれない。

実際、並走に付き合ってくれたルドルフやシービー、それから審査を行った理事長も褒めてくれた。トレーナーとしての知識があるとしても、コースの選択やコーナーの切れ味、体運びには目を見張るものがあると。

一応、素質があるという部類には入るのだろうが、正直全く安心感はない。そもそもこの学園において才能があるのは当たり前で、それだけでやっていける程甘い世界ではないのだから。

 

今この状況においても、私はそのことを痛感していた。

 

「ほらほら、のんびりしてるとあっという間に食われちまうぜ」

 

背筋と腹直筋に限界まで力を入れて、どうにか脱出しようともがいてみるものの、当のシリウスは涼しい顔のまま私の両手首を片手で抑えつつ、もう片方の手でゆっくりと頬を撫で上げてきた。

伝わってくるその体温はやや冷たくて、彼女が拘束に全く本腰を入れていないことが、否が応にも伝わってくる。私の両手を縛るのも、尻で胴の動きを封じ込めるのも、全て彼女にとっては片手間だった。

 

ポジションの違いやシリウスが女性にしては体格に恵まれているということもあるが、それ以上に全身に備わった筋肉やその使い方、体幹の強さや関節の柔らかさといった諸々の要素において、組伏せられた私とは圧倒的な開きがある。

ここ暫く担当がおらず、公式試合に出ていなかったと言えども、トレーニング自体は欠かしていなかったのだろう。それは才能では到底埋められない程の、あまりにも歴然とした差であった。

 

「ん……はは。いつぞやのチンチロを思い出すな。まぁ、あん時より多少マシな抵抗は出来てるんじゃないか」

 

「ふざ……けるな。これじゃあ、さっきの連中となのも変わらない……!!」

 

「アイツらと変わらない?いいや、違うね」

 

頬を撫で上げていた手をぴたりと止めて、シリウスはじっと私の瞳を見つめる。その瞳の奥にある、妖艶な揺らめきを見せつけるかのように。

それが無性に恐ろしくて目を逸らした瞬間、彼女は頬に当てていた手をすっと私の首に添えてきた。

 

そのままやんわりと力を込めていく。

ゆっくり、ゆっくりと皮膚を押して沈んでいく長くほっそりとした指は、気道も血流も塞がず軽い圧迫感だけを私に伝える。

あのウマ娘の締め上げとは全く違う、殆ど添えるだけに等しい力加減。ひんやりとした彼女の体温が、脛椎までじわじわと染み込んでいくかのようで。

 

「だって、アンタにとっちゃ私の方がずっと怖い。……そうだろ?」

 

「……っ」

 

とっさに息を呑む。

それは明らかな肯定の証であり、喉の動きと胸の上下から、のし掛かる彼女にも正直に伝わってしまう。

 

シリウスは首にかけていた手を離すと、今度は私の制服の裾へと潜り込ませ、臍から上に上にと直に素肌を撫で上げていく。

胸元に到達すれば、下着の内側、乳房のさらに下へと指を滑り込ませる。彼女の手の平に伝わってくるのは、とっくに冷静さを欠いた私の鼓動。

優しく添えられたシリウスの手に、まるで心臓を直接握り締められたかのように錯覚してしまい……私の意思に反して、それはどんどん足を速くしていく。

 

「あーあ……これはちょっと良くないな。従順にさせたいが、かといって怯えられちゃ話にならねえ」

 

シリウスはそう呟くと、差し込んでいた手を抜き取り、ついでに頭上で固めていた手首も解放する。

自由になった両手を私の両脇に差し込んで、そのまま抱き締める形で上体を持ち上げた。

 

ちょうどシリウスが私の太ももに股がったまま、お互い抱き合う格好となる。

背丈の差から、私が彼女の肩らへんに顔を埋める形となった。シリウスはやや背筋を丸めると、私の鼻先を肩ではなく自らの首筋に押し当てる。

鼻腔を突き刺すのは、あの濃艶な匂い。麻薬を通り越して毒かなにかにすら思えるそれは、暴力的なまでに私の思考を犯していく。

 

「犬は家に自分の匂いを擦り付けることで安心するらしい。今のうちからアンタに私の匂いを覚え込ませておけば、邪魔なアイツを省く上でも都合が…………チッ。時間か」

 

両耳をぴくりと反応させ、丸めていた背筋を伸ばすシリウス。

それでも私の太ももの上から退くことはなく、逆に痛いぐらい抱き締める腕の力を強くしながら、扉の方向を睨み付ける。

 

 

その瞬間。

けたたましい音と共に、飛び込んで来る一人のウマ娘。

 

「助けに来たぞ。トレーナー君」

 

そう宣言したルドルフは、爛々とした紫の瞳で、目の前の一等星を射殺さんばかりに睨み付けた。

 

 



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さあ、出荷ですよ

 

会議室の扉が、後ろ手で静かに閉められる。

突入こそ乱暴だったものの、見境なく破壊に至る程掛かってしまっているわけではないらしい。

人が出払った頃合いとはいえ、一応本校舎のど真ん中であるからには自制しているのだろう。

 

もっとも、その姿は冷静には程遠いものであったが。

 

「…………」

 

ゆっくり、ゆっくりとルドルフの両耳は後ろを向いて倒されていく。限界まで寝かされたそれは頭髪とほぼ一体化し、真正面からは殆ど見ることも出来ない。

両腕は固く組まれ、尻尾は垂れ下がったままぴくりともしない。さらに視線を落とせば、右足がざり、と神経質に床のタイルを掻いている。

それは前掻きと呼ばれる、ウマ娘が不満を感じた際に無意識に示す仕草。

 

先程からの落ち着いた動作も、こうなると嵐の前の静けさとしか思えない。

穏やかな仮面を被っていながら、紫の瞳だけは無機質に揺らめきながら私とシリウスをしかと捕らえていた。

 

火のついた火薬庫のようなもので、放っておけば取り返しがつかなくなるのは誰の目にも明らかだった。

にも拘らず、そんなルドルフを前にしていながら、シリウスは全く臆した気配がない。不遜な笑みを浮かべ、余裕綽々といった態度。

私の頭を己の肩から引き剥がすと、乱れた前髪をそっと掻き上げてきた。

それからウマ耳の付け根を指でなぞりつつ、丁寧に手櫛で毛先まで鋤かれてしまえば、妙なくすぐったさと安心感が全身を包み込む。

 

「随分遅かったな皇帝サマ。ハッ、いくらアピールかまそうが、肝心な時に側にいないようじゃ話にならねぇ」

 

「トレーナー君の窮地なら知っていたさ。遅れたのは然るべき手順を踏んでいたからだ」

 

「で、アイツらはどうなった?」

 

「学園当局の警備ウマ娘が全ての出入り口を固めているからな。逃げられはしまい。そこから先については……さて、私の知るところではないな」

 

微塵も感情の機微を見せず、ルドルフは淡々とそう呟く。声音に抑揚はなく、そのどうでも良いといわんばかりの酷薄さに思わず背筋が震える。

 

私は彼女達のことを、アプローチをかけてきた大勢のウマ娘の一部としか把握していないが、彼女はさらに奥深くまで掴んでいる筈だ。

なにせ学園に出入りする全ての職員と記者、そして全生徒の顔を記憶しているのだから。

 

実は私が逆スカウトを受けた際、その日の深夜には欠かさずルドルフにその旨の報告を入れることになっていた。彼女がそれを要求したのだ。そして報告を求める際、該当する生徒の顔と名前を必ず挙げてもいた。

それは即ち、ルドルフは最低でも学園における私とその近辺については、ほぼ完璧に動向を押さえているということ。担当トレーナーである私ですら全く全貌の掴めない情報網を構築し、それを駆使して私を狙ってきた者達の身元を割り出していた。

察するに、ルドルフにとって私への契約持ちかけという行為は、ただそれだけでブラックリスト入りが免れない程のものだったのだろう。

 

そして、そのリストには当然、あのウマ娘達も含まれている。

知らず知らず獅子の尾を踏み続けてしまったという事実を、そう遠くないうちに彼女達は思い知らされることになるのだろうか。

もっとも、ルドルフの掲げる理想からして、そこまで酷いことにはならないと思うが。別に地下牢送りなどというわけでもなく、学園当局のお縄になっただけなのだし。

 

 

……そう言えば、彼女のその理想についても、私はなに一つとして知らないままだったな。

 

きっかけとか、その程度のことすら、全く。

 

「あちらの処理については、私よりも君の方が明るいのではないかな、シリウス」

 

「いいや。生憎、私は連中の厄介になった羽目は一度もないんでね。そのぐらいの身の振り方は弁えている」

 

飄々と肩を竦めるシリウス。

 

事実、彼女は暴力沙汰その他学園規則に真っ向から抵触するような蛮行を犯したことは、少なくとも私の知る限りにおいてはない。

ターフの占領や授業のボイコットといった、言うならば当局が出動する程のものではない問題行動はかなり目につくが、その対応はルドルフ率いる生徒会の管轄である。

シリウスはこのあたりの立ち回りがかなり器用な方で、おまけに舌も頭もよく回る。なんだかんだ育ちは良いので、越えてはならない一線を見極めるぐらいはわけないのだろう。

 

髪を鋤く手を止めると、シリウスはその白くほっそりとした人差し指で、ちょんちょんと私の唇をつついてくる。そのまますうっと、ラインを滑らかになぞって見せた。

見せつけられたルドルフの唇は無意識に引き上げられ、その下に隠されていた歯が剥き出しになる。

殺気を隠そうともしないその凶相に、シリウスは先程よりもさらに大きく肩を竦めたかと思えば、私をより一段と強く抱き締めた。

 

「おお、怖い怖い。ついでにアンタもしょっぴいてもらえば嬉しかったんだがな。見ろよ、コイツも怯えてる」

 

「シリウス、人のモノを取ってはいけないと幼い頃に教わっただろう。悪いことは言わない。さあ、私にパーフェクトを返そうか」

 

「私のだから返してってか……そう言われると、途端に返す気がなくなったな。ああ、なら決めた。コイツは私のモノにする」

 

迫るルドルフを逆に煽り立てながら、またしても私の後頭部を捕らえて引き寄せてくるシリウス。

 

互いに絡み合った体勢であるが故に、ルドルフの飛ばしてくる濃密な殺気を私も直で浴びざるを得ないのが非常に辛い。

本気の視線で人を殺せる、なんて彼女のことをそう表現したことがあったが、正しくこれは凶器そのものだった。

仮にこんなものに直で曝されでもすれば、この先永遠に学園で安眠することも出来まい。そんな威圧にあてられたのか、涼しい顔をしていたシリウスもにわかに剣呑な雰囲気を纏いはじめる。

 

日の光が遮られ、輪郭の曖昧な長机のシルエットが圧迫感を醸し出す会議室。

たったの十メートルほど離れた壁に埋め込まれた、黒板に記されている日付すら読み取れない。目の前で前掻きを続けるルドルフの顔にも影が射し込み、紫の瞳だけが激情を帯びて苛烈に揺らめくのみ。

本来、人が三十人収まってなお余裕がある筈のこの部屋だが、今はやけに天井が低く感じる。無機質ながら、暴力的な活気に溢れていて、あたかも猛獣を閉じ込める檻のような。

 

「……もういい。お前はもうなにも喋るな、シリウス」

 

「薄っぺらい仮面が剥がれてるぜ。なぁルナちゃん。私とアンタ、コイツとの出会いはたったの数日差だろ?」

 

「それが、どうした?」

 

「ンなもん、私ならいくらでも差し切れる程度の開きだってことさ。油断したな……ハハッ、やっぱ、お前に逃げは向いてねぇよ」

 

ウマ娘は、ヒトに比べて感覚が鋭い。

夜目も利くが、それ以上に聴覚と嗅覚が優れることから、こんな暗さの中でも敏感に相手の気配を察知出来る。いや、むしろ暗いからこそ、より感覚が研ぎ澄まされてしまう部分があった。

 

言葉によらずとも、二人は勝手に互いを刺激し合い、際限なく昂っていく。

行き場をなくしたその熱は、どこかで発散しなくてはならない。

 

 

―――先に限界を迎えたのは、シリウスだった。

 

 

太ももに股がった足に力を籠めて、私の下半身を封じ込める。

背中に左手を回して上体の逃げ道も潰し、余った右手は頬に添えて、有無を言わさず上を向かせた。鼻先が触れ合い、燃えるような深紅の瞳の中に、反射して映し出される私の顔。

 

「ぐっ……おい、シリウス……」

 

「もう諦めろって。昔、アイツともやったんだろ?なら、上書きしとかないとな」

 

前髪が触れ合う至近距離まで、その端正な顔が迫ってくる。勝ち気につり上がった瞳が、さも楽しげに細められていた。

その蠱惑的な瑞々しい唇は、仮にも男であった私の本能を否応なく刺激する。いや、こんなものを前にしたら……男も女も関係ないのかもしれない。

往生際悪く体を揺すってみるも、ちっとも拘束の解ける見込みはなかった。一応、力の面では全く敵わないというわけではないが、流石にこの体勢では分が悪すぎる。

 

そしてその事実が、かえって私の逃げ道となっていた。

脱け出せないから、抵抗できないから仕方ないのだと。

 

……そんな言い訳、彼女が許す筈もないというのに。

 

「私は、自分のモノを盗られるのが一番嫌いなんだ。奪う奴も、奪われていくモノも許せない」

 

ほんの数秒、シリウスに目を奪われている間。

 

音もなく肉薄してきたルドルフは、膝立ちになって私の背中に取りついてくる。

振り返る間もなく口を手の平で塞がれ、もう片方の手は大きく開かれたまま、私の首へゆっくりと。

 

あのウマ娘達に絞め上げられ、痕になってしまっているであろう付け根辺りを丁寧になぞり上げられた。それは彼女達とは比べ物にならない、シリウスに絞められた時よりもずっと優しく慈愛に満ちた指使い。

しかしそれには、これまで経験したどんな暴力よりも、どろどろとした感情が籠められているようで。

 

「なぁ、パーフェクト。君は私を裏切らないだろう?どうか、私に酷いことをさせないと約束して欲しい」

 

「ルドルフ……」

 

「こと君に限った話、私は自分の理性も自制心も全く信用出来ないんだ。お願いだから、私を君達にとっての大切な友人のままでいさせてくれ。……シリウス?」

 

上体が動かせないため、こちらからルドルフの表情は窺えない。唯一手掛かりとなる声は酷く落ち着いていて、普段の彼女と変わらない穏やかさだった。

 

女性にしてはやや低めの、大人びた威厳のある声。

それはシリウスが仮面と呼んだ、学園における秩序としてのシンボリルドルフそのものであるが故に、今この状況との乖離が著しい。そのギャップは、彼女の懇願じみた脅迫に、これ以上ない説得力を付け加えていた。

 

「……………チッ」

 

ルドルフと直に対面しているシリウスは、私からは察せないなにかを受け取ったようで、こちらの頬を持ち上げながらもさらにその先へと進もうとはしない。

かと言って、大人しく引き下がることもせず、双方睨み合いのまま膠着へと突入する。

 

私は私で前後に挟まれているせいで身動きが取れず、密着した二人分の体温と鼓動を肌越しに受け止めながら、淡い光に照らされたクリーム色のカーテンを眺めるのみ。

口を覆っていた手は退けられたものの、彼女達に説得を試みる気力も、助けを求める度胸も既に尽き果てている。どう転んでも、さらに状況の悪化する未来しか予想がつかない。

 

 

一分、二分と体感で時間を計る。

およそ五分を迎えた辺りで、ルドルフのさらに後方にある扉の開かれる音が響いた。

咄嗟にシリウスが顔を上げ、同時にルドルフが振り返る気配。

 

高らかな靴音がそれを塗り潰すかのように、静まり返った会議室へと反響する。

入り口からも、この異様な光景は一目瞭然だろうに。足音の主はまるで躊躇しないまま、マイペースに私達の脇へと回り込んできた。

 

「おや、随分お楽しみのご様子で」

 

「せ、先生?」

 

ルドルフとシリウスはまとめて無視しつつ、私の真横で膝をついたシンボリフレンドは、すすっと顔を寄せてきた。

 

ルドルフと同じ色をした鹿毛に、これまたそっくりの流星が一筋。揺れる前髪の下では、可笑しそうに細められている紫の瞳。

それは親愛や慈悲はほと遠く、あたかも愛玩動物を眺めるような生温さで……ようするに、いつもと変わらない先生である。

ひとしきり今の私の有り様を堪能した後、彼女は小首を傾げつつ惚けたように一言添えた。

 

「……助けにきましたよ?」

 

「な、なんで疑問系なんですか……?」

 

「実は貴女をあるところに連れていく役目を仰せつかっていましてね。シンボリ家本邸と言う場所なんですけど、ご存知ですか?」

 

「ええ、それは勿論。旧知のトレーナーの急場に快く手を差し伸べてくれる、慈悲深い名門の本拠地ですよね」

 

「いいえ違います。一度貸しを与えたが最後、暴利を貪り身ぐるみ剥がしてでも取り立てる鬼畜の住む館です。さあ、行きますよ」

 

「あ、ちょっ………」

 

肝が太いというか、心臓に毛が生え揃っているというか。一方的に睨み合いの中へ割り込んできた先生を、ルドルフとシリウスは唖然とした表情で見上げていた。

そんな二人にはついぞ一瞥もくれないまま、拘束の緩んだ隙を突いて、彼女は強引に私を引っ張り上げて部屋の外へと連行していく。

 

先生も先生で、女性としてはかなり体格に恵まれているので、やはり力で敵いそうにない。

思えば、ウマ娘になって以降も、私の立場には殆ど変化が見当たらないような……。

 

「……ああ。そう言えば、ここを出ていく前に一つだけ」

 

扉のノブに指をかける瞬間、そう呟いて立ち止まった先生。

 

と、小慣れた動きで私の腰を抱き寄せると、くしゃりと髪を撫で上げながら滑らかに顔を近づけてきた。

視界一杯に整った顔が広がり、ほんの一瞬視線が交差した直後。唇に伝わる柔らかい感触と、鼻をくすぐる控え目な香水の匂い。

数秒の逢瀬の後、顔を離した先生はここに来てようやくルドルフ達へと向き直る。ちょんちょんと、見せつけるように己の唇をつつきながら一言。

 

「十年早い。じゃじゃウマ娘ども」

 

 

なんて、余裕たっぷりに彼女は笑った。

 

 

 



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漁夫之利

先生に手を引かれるまま、ドナドナと私は本校舎を出て、学園からも飛び出して、東京を西から東へと横切って後にした。

 

助手席に縛り付けられたまま、送り届けられた先は千葉県成田市に構えるシンボリのお屋敷。関東一円に君臨するレース競技界の大御所は、今日も今日とて厳つい門扉で迎えてくれる。

私を放り出すや否や、仕事が残っているからと踵を返す先生の背中を見送っていたところ、普段は使わない正門から飛び出してきた大勢の警備ウマ娘達に有無を言わさず連行されて、最上階の一室へ。

 

 

 

そこで待ち構えていたスイートルナに、『シンボリ家の歴史』とやらの講義を受けさせられている……というのが、これまでの経緯である。

 

 

「……………で、………という経緯から……」

 

ホワイトボードに走るペン先をぼうっと目で追いながら、構えたシャープペンシルを手持ち無沙汰にくるくると回してみる。

与えられたレジュメには一応メモを取っているものの、それは勤勉さの発露とは程遠く、この身の入らない授業を少しでも有意義なものにしようという試みの産物であった。

それすらもうんざりしてきて、今度は視線だけを動かして部屋の内装の観察を始める。隅から隅まで、あたかも新築一戸建てを内見するかのように、じっくりと。

 

シンボリ本邸に顔を出すのはこれが初めてではなかったが、その豪奢を極めた様については、何度経験しても慣れるものではない。

応接室でもなんでもない、屋敷の片隅に"とりあえず"設けられたこんな部屋ですら、細部にはさりげなく意匠が凝らされており、深紅の絨毯敷きの床も毛がしっかりと立っている。

勝手知ったる……と言える程にはかつて呼び出された場所なので、今さら過度に緊張することもないのだが。

 

千葉に本拠地を構えるこの一族は、数百年単位で遡れる由緒正しい家系だという。ここ半世紀で急速に勢力を伸ばしつつあるものの、まさしく旧家と呼ぶに相応しい名門だった。

それにしては、昔ながらの武家屋敷や倉もなく、エキゾチックを前面に押し出しているのが印象的である。

ともすれば成金じみたちぐはぐさで滑稽になりかねないそれを、あたかも一つの芸術品の如く見事に調和させて仕上げたのは流石と言うべきか。

 

母は『アイツらは伝統を欠片も解しちゃいねぇ』などと酷評していたが、彼女は彼女で和洋折衷の混沌とした屋敷で満足しているものだから、正直人のことを言えた立場でもないと思う。まぁ、どちらも退嬰に陥らないだけ健全ではないだろうか。

 

「……さて、ここまでの話を簡潔にまとめてご説明願えますか?ちゃんと聞いていたなら、迷わず答えられますね?」

 

ようやく一区切りついたのか、ペンにキャップを嵌めつつくるりとこちらに振り向いて、そう問いかけてくるスイートルナ。

腰まで伸ばした艶やかな鹿毛に、白く散った星がよく映えている。勝ち気に目尻と唇をつり上げたその微笑みからは、あの姉妹との血の繋がりが色濃く感じられた。

 

余裕を演じているのだろうが、そのウマ耳がほんの僅かに震えて後ろに倒れたがっているのは見逃さない。たぶん、感情操作に長けたルドルフと普段から接している私だからこそ気付けるサイン。

マンツーマンなわけだから、講義に集中していない事がバレるのも当たり前か。ずっと背中を向けていたのでもしかしたらと思っていたが、生憎そこまでこのウマ娘は甘くなかったらしい。

 

とはいえ、別に困る程のものでもない。

聞き流してはいたものの、決して上の空だったわけではない。気を散らしつつも、最低限必要なワードは拾っていたから、後はそれらを適当に繋げて出力すれば良いだけの話。

修習生の頃、よく使っていた手の抜き方でもある。座学には昔から自信があった。

 

「明治後期から大正にかけての婚姻を基盤とした勢力再編、メジロへの分離並びに戦中における出征とその影響、戦後二十年における勃興とURA設立における役割まで……具体的な話を挙げるとなると、優に三十分は超える見込みですが、どうします?」

 

「……いいえ、十分です。成る程、しっかり耳には入っていたと。結構結構」

 

「どうも。ですが正直なところ、ここまで深入りする必要があるのかどうかについてはかなり疑問が残りますね」

 

「必要なことなのですよ、これも。仮にもウチの名義を借りる以上、知るべきことは知っておかなければならないと思いませんか」

 

「ええ、それは……その通りですね」

 

自らの属する組織について、知っておくことは大切である。

例えば勤め人であれば、雇用された企業なり官公庁なりの歴史も一通りは抑えておくものだろう。私はトレーナーであるから、URAやトレセン学園のこれまでについてもよく理解している。そういう面では、彼女の言葉も一理あった。

 

とはいえ、それをこのレベルで実践しているのは、この家でも彼女ぐらいのものではないだろうか。

以前、ふと気になってこの家について数点シリウスに尋ねてみた時など、「さぁ、知らないな」などと速攻で切り捨てられたことを覚えている。幸いその時は代わりにルドルフが答えてくれたものの、ここまで微に入り細を穿つ説明はもらえなかった。

と考えると、やはりこの講義は教養の域を超えているような。見方を変えれば、スイートルナはそれだけ家の代表としての責任を重く受け止めているということか。

 

「ですが、そうですね。講義はこのあたりで良いでしょう。正直、そろそろ私が飽きてきましたから」

 

「その言い方からすると、まだ他になにか?」

 

「はい。むしろこちらの方が本題でしょう。今日、貴女をここへ連れてきた理由」

 

「……なんでしょうか、それは」

 

てっきりこの歴史の授業のためだけに呼び出されたものだと思っていたが、よく考えればこんなもの、別に資料にでも目を通しておけばおおよそは掴めそうである。

さてとなると、名義使用料代わりに労働でもさせられるのだろうか。

 

そんなことを思い浮かべていた私は、やはり考えが甘かったようで。

スイートルナはごく真っ当な、そして絶対に無視できない課題を指摘する。

 

「トレーニングですよ。最悪、当家の歴史なんか別にそっくり忘れてしまっても構いません。相応の実力さえあれば、の話ですがね」

 

「ああ……」

 

そうか。

講義の目的がひとえにシンボリ家に相応しいウマ娘へと叩き直すことだと言うのなら、その矛先がフィジカル面に向けられるのも当然の話。

なにもこの家にいるウマ娘の全てがレース巧者というわけではないが、しかし今の私はここの研修生という建前であり、看板を借りている立場。それに足り得るだけの実力を求められるのは当たり前のこと。

 

「誤解を恐れずに言わせていただきますが、シンボリはそこらの家名と格が違います。何代にも渡って粉骨砕身してきた賜物でして、我々にはそれを守る義務がある。講義を聞いていたなら分かりますね?」

 

「はい」

 

「結構。貴女の記録については予め拝見させて頂きましたが……そうですね、そう成ったばかりにしては、よくやっていると言ったところでしょうか。残念ながら、私達の求める基準を満たしているとは言い難い」

 

「そう……ですよね。重賞ウマ娘相当が最低ラインでしょうか」

 

「本来であれば。もっとも、今回にあたっては事情を鑑みてそこまでは求めません。が、それでも今現在の記録では不足です。鍛えなくては」

 

分かってはいたことだが、ここまできっぱり断言されると少々心に来るものがある。

とは言えここは下手に持ち上げたりはぐらかしたりしないぶん、情けがあると捉えるべきか。

 

「そうなると、この家の誰かが私に指導をつけてくれると。もしや、それも貴女が?」

 

「生憎、私にそのノウハウはありません。いえ、指導出来ないこともないのですが、本職相手には釈迦に説法でしょう。今現在、ここにいる者の中で、最も育成に長けているのは貴女ですから。なので」

 

そこで一旦言葉を区切り、ぱんっと柏手が高らかにだだっ広い部屋中に響き渡る。

乾いた音が落ち着くのとほぼ同時、正面右のドアがゆっくりと開かれた。姿を見せたのは、この屋敷で警備隊の長を勤めるウマ娘。

 

「フィジカルを鍛え上げます。なにをおいても、まずは基礎を整えなければ話にならない。まぁ、これも釈迦に説法でしょうが。……さて、カストル」

 

「承知しました。ええ、覚悟してください貴女。覚悟してこの先一ヶ月、泣いたり笑ったり出来なくして差し上げますから」

 

不敵に腕を組み、黒鹿毛のウマ娘はそれはそれは愉しげに唇の両端を引き上げた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

実は、この屋敷にはトレーニングの設備が充実している。規模こそ敵わないが、中身の面ではトレセンにすら匹敵すると言う。

私の記憶では、少なくとも五年かそこら前の時点においては、一般的なレース教室に広大な庭がくっついている、という程度だったような気がする。ここ数年で瞬く間に規模を拡充させたらしい。

そこにはきっと、ルドルフの貢献も少なからずあった筈だ。

 

「ル"ドルフ~……あ"んの"クソ真面目ぇ……い、いらんことを……」

 

「こらそこ!!喋るな逸れるな止まるな!!ペナルティもう十セット!!」

 

「う"あ"ぁ……」

 

とっくに桜も散り終えて、だんだんと夏の陽気が色を帯びてきた今日この頃。

正午を過ぎたとはいえ、太陽はまだ高い。照りつける日差しの中、私の上腕と腰、そして太腿の五ヶ所にはぶっとい縄が結ばれている。もはや綱と呼ぶべきだろうか。

 

当然、ただ縄だけをぶら下げておしまいなわけもなく、それぞれの先っぽに繋がっているのは、ウマ娘のトレーニング専用に作られた巨大なタイヤ。総幅は私の背丈を優に上回っていて、全部合わせてどれだけの重量になるか見当もつかない。

 

……いや、一応、学園の類似品から推定すれば、おおよその数値は掴めるのだが。

ただ、具体的な数字として見せつけられると正気を保つ自信がないので、所詮見かけ倒しだろうと全力で自分を騙している。そうでもしなければ、この柔らかな砂に顔面から沈みかねないのだから。

 

「も"う"………む"り"ぃ………」

 

ああ……レースで沈むウマ娘達をスタンドから眺めつつ、「本当に無理なら声なんて出ないだろ」などと呆れていた昨日までの私をぶん殴りたい。

ついでに彼女達にも謝りたかった。正しく心の底から絞り出される断末魔だったのだ、あれは。

 

首を絞められるガチョウのような、聞くに耐えない情けない悲鳴を上げる私を、タイヤの縁に腰かけたカストルが冷ややかに見下ろす。

 

「チッ……もう限界ですか。デスクワークにどっぷり漬かったモヤシはこれだから」

 

そう吐き捨てつつ振り下ろされた竹刀が、ぱしぃんと小気味いい破裂音を響かせた。よく見ればそれはタイヤに触れておらず、直前のあれは空気を叩きつける音なのだと悟って思わず顔を青くする。

彼女はなにも教官という肩書きを笠に着て威張っているわけではない。本人は昔取った杵柄などと宣っているが、その身体能力は明らかに元警官の範疇を逸脱していた。

 

「う"ぅ……」

 

トレーナーがデスクワーク漬けとはこれまた酷い言い掛かりである。

事務仕事も当然あるが、主な業務はなんと言ってもトレーニングの監督に他ならないので、現場での活動も非常に多い。当事者たるウマ娘達とは比べるべくもないが、それでもかなり体力を消耗する仕事なのだ。

もっとも、彼女とてそんなこと百も承知の上で言っているのだろうから、わざわざ訂正するような真似はしない。する気力もない。

第一どうせそんなことしたところで、まだまだ余裕ありとかえって負荷が重くなるだけだと知っている。

 

「だいたいトレーナーだって、学園ではウマ娘達を虐め抜いているらしいじゃないですか。人にやらせておきながら、自分は嫌とは何事ですか」

 

「あ、あれはあくまで指導の一環として……」

 

「なら、これもまた指導の一環です。私だって現役の頃は、こういう血の滲むような訓練を地道に重ねて力をつけていったものですよ…………ほら、さっさと進め!!!」

 

「はい!!はいぃぃぃ!!!」

 

ああ……やはりこれは、騎動隊基準のメニューだったか。トレーナーの育成論にはあまり馴染みがないものなので、薄々そんな予感はしていたけども。

基礎体力を鍛えるという意味ではうってつけなのだろうが、そのぶん過酷極まりない。なにせあそこはトレセンと違って、育て上げるのではなくふるい落す指導方針なのだから。

ひんひんと泣き言を垂れ流しつつ、のたりのたりと蝸牛のような鈍臭さで一歩一歩と踏み出していく。

幸いバ場状態は良好で、ダートと言えどもそこまで足をとられることなく前進出来ていたのだが、最後のコーナーを折れて十メートルほど進んだ先の、坂路の半ばで遂に崩れ落ちる。

 

滝のように汗を流し、地面に這いつくばっていたところ……ふと、顔の手前に落ちる影。

ついでローファーの先っぽが、汗と涙で滲んだ視界にぼやけながら映りこんだ。同時に聞こえてくる、ゆったりと落ち着いた担当ウマ娘の声。

もはや首をもたげる力すら湧かず、その顔を確かめることは出来ない。ただ、彼女がどんな表情をしているかは、その陽気な声音から分かってしまう。

 

「やぁ、パーフェクト。精が出るね」

 

「……ルドルフ……そうだ、私は、学園に帰らないと。まだ長期休みまで時間が……」

 

「その必要はないとも。君はちょっとした事情で、九月まで学園を空けることになった。君も時間の無い中で、学生の義務と言えど中等部の授業を受けるのは退屈だったろう」

 

「いや、内職してるから別に……」

 

「トレーニングについてもリモートでやってくれれば良い。元々そういう建前だったからな。ちゃんと、仕事用のラップトップも持ってきたよ」

 

「……………」

 

「これで、あと三ヶ月はここにいられるな、トレーナー君」

 

「………………はい」

 

そうだ。身元の保証を全てルドルフに……というよりシンボリ家に頼った以上、私の行動について裁量を握るのもまた彼女達なのか。

どうあがいても逆らえないのだと悟り、私は諦めと共に力無く首肯する。

 

その瞬間、私の鼻先に滑り込んできた一枚の紙。

まだ不良な視界ではよく読み取れないが、小さな文字が何行にも渡って書き込まれ、一番上には数字が八桁近くも並んでいる。その最後尾には、走り書きされた円の記号。

 

「……これは?」

 

「ライセンス使用料、滞在費その他諸々。まぁ、諸経費一覧とその合計だと捉えれくれれば良い」

 

「そうか。だけど、流石にこんな額は払えないぞ」

 

いくら高給取りと言えども、これだけの金額をポンと出すのは無理だ。

大方、最初だからと吹っ掛けてきたのだろう。どうにか落とし所を探るべく、無い袖は振れないときっぱり宣言しておく。

 

やはり交渉するにあたっては、こちらの態度を明確にしておくのが最善だろう。

相手に……シンボリ側に、駆け引きするつもりがあるならの話だが。

 

 

そう、ついさっき気づいたことだ。

全ての決定権は、私ではなく向こうが握っている。

 

 

「ふむ……そうか。それなら仕方ないな。積土成山。完済するまで、コツコツとその身体で払ってもらうとしよう」

 

予定調和であろうそれを、仕方ないなどと嘯きながら。

見切れたルドルフの爪先が、浮わついたように何度も砂を掻くのが見えた。

 

 



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翳る青空

 

"ただより高いものはない"なんて戒めが昔からあるように、手っ取り早くモノにした力には後々高いツケを支払わされるのが道理というもの。

世の中そうそう、都合良くは出来ていないのだから。ただ、今回の場合ルドルフが理事長に激しくアピールを繰り返した時点で察しておくべくだったかもしれない。それでなにがどう変わったかは分からないけども。

 

「まぁ、身体で払うと言っても、別に特別なことをしてもらうわけではないよ。ただ単に、私と付き合ってもらうだけだ」

 

「そうか。ところで、その付き合うってのはどちらの意味でかな?」

 

「君の好きなように解釈してくれれば良い」

 

それは選択権を与えているようで、実際には察しろとの命令を下しているに他ならない。

彼女は自らが優位に立ったとき、昔からこういう婉曲な言い回しを好んで使っていた。この辺り、ひねくれているようでわりと素直に感情を表現するシリウスとの違いでもある。

 

膝を抱きかかえ、太陽を背に向かい合ってしゃがみ込んだルドルフは、なんとも品の無い笑みを披露してくれる。それはまるで、逃げ惑う蜥蜴を捕まえて喜ぶ子供のような。

いつの間にか、タイヤの縁から飛び降りて私達の隣に来ていたカストルが、それを目にして呆れたような懐かしむような溜め息を溢していた。

 

「なにかな、カストル。危言危行は君の美点だが、このぐらいの我が儘は大目に見て欲しいものだな」

 

「いえ、なにも咎めているわけでは……ただ、警備の方にも少し人手が欲しかったので」

 

「ふむ。ここはそんなに治安が悪かっただろうか。君達の手を煩わせる程に」

 

「平和そのものですよ。お蔭で営繕やらの仕事も順次こちらに回されてきていまして。外部を雇ってもその管理の方が手間がかかりますから、結局自力でどうにかしています」

 

「そんなところにトレーナー君を放り込んだところで、人が増えたぶんかえって雑務を増やされるだけだぞ」

 

「でしょうね。ええ、分かっていますとも。それでも遊び相手の一人はいてくれないと」

 

不貞腐れたように竹刀の剣先でダートをほじくながら、そう愚痴るカストル。

彼女ら警備ウマ娘が暇なのは大変喜ばしいことであり、年がら年中気の抜けないトレセンの警備部門にとっては羨ましい限りだろう。

 

しかし彼女にとっては、どうにも張り合いがなくて退屈らしい。先程から指導に熱が入っていたのも、久し振りにそれらしいことが出来て嬉しかったからだろうか。

前から薄々感じてはいたが……やはりこのウマ娘、根っこからして気が荒いというか、かなりの戦闘民族な匂いがする。これで落ち着いたというのだから、昔はどれ程のものだったのか少し気になる。

 

カストルのぼやきに、ルドルフはただ黙って頭を横に振るのみ。

そのまま私の脇に手を差し込んで立たせてくれる。疲労で指一本すら動かせそうにない私に変わって、四肢と腰に結ばれた縄も解放してくれた。

数時間ぶりに自由を取り戻して軽くなった肩を回していると、ルドルフが汗と砂で汚れた体操着にホースで水を浴びせてくれる。内に籠った熱もあっという間に霧散し、心地好い解放感に堪らず目を細めた。

 

「さて、一旦は休憩としようか。あまり無理しすぎるのも良くないからね。折角の良い天気だから、気分転換がてら外にでも行こう」

 

「あっお嬢様。なら私も一緒に……」

 

「駄目だ。君にはまだ他にも仕事が残っているだろうに」

 

「で、でも、それならこの子だって一応は業務中ではないですか……」

 

「担当ウマ娘たる私の我が儘に付き合うのも、トレーナーとしての仕事の内さ。後でお出かけの申請だけは済ませておいてくれ」

 

「あ、ああ………」

 

カストルを片手であしらいつつ、あっという間に話を進めていくルドルフに流されるまま首肯する。こうまでスケジュール管理の主導権を握られてしまうと、どちらがトレーナーなのかも分からなくなってしまう。

本来のお互いの立場を考えると、このような役割の逆転はあまり喜ばしいことではないのだが。とは言え、現時点における育成の進行状況に照らしてみれば、ここでお出かけを挟むこと自体はなんの不都合もないので、その提案を拒むことはしない。

恐らくその辺りも見越した上での要求というか、命令なのだろう。競技ウマ娘としてのみならず、トレーナーの視点からも育成プランの検討が出来るという点で、ルドルフはかなり扱い辛いウマ娘である。

 

手のかからない反面、図抜けた賢さ故に主導権を握り続けるのが難しいと言うか、確固とした根拠がなければこちらの主張を押し通すのが困難であり、大人が子供に対して使いたがる騙しや誤魔化しがまるで通用しない。

それどころか、こちらの方が強引な意思決定を突き通されることにすらなりかねないため、全く気を緩められないのだ。

上手く手綱を握れているように見えるのは、その実ルドルフの模範的振る舞いや自制心に依存するところが大きく、仮に彼女が幼い頃のままの暴君であった場合、激しく手を焼いたであろうことは想像に難くない。

 

正直言って、新人の私に扱いきれたかは極めて怪しいところだ。

飄々としつつも根本は頑固なシービーと同じで、一見手のかからなそうに見えつつも、上手く付き合うには相応の手腕が求められる。

同じ三冠ウマ娘の中でも取っ付きにくいと評判なブライアンの方が、むしろ易しいのではないかと思うことが度々ある。もっとも、彼女は彼女で別の難しい点を抱えているのだろうが。

 

ただ、そういった元々の気質を差し置いてもなお、ここ数日のルドルフはやや掛かり気味だと私は感じていた。

 

暴走しているとまでは言わないが、明らかに私の制御を外れかけているというか、自分で画を描いているような気がしてならない。

トレーニングでもそれ以外でも、正すべき所はしっかりと意見してくれていたものの、基本的にこちらを立てる姿勢は崩さなかった彼女のこと。そんな関係を五年以上も続けてきたからこそ、私はどこか違和感を拭えずにいた。

今だって、やむを得ずルドルフに全てを頼っていることを考えると……言い換えるなら、生殺与奪を完全に彼女に握られていることを考えると、真綿で首を絞められるような息苦しさを感じてしまう。

そもそも不信感を抱くこと自体、あまりにも不誠実なことではあるのだが。なにを言ってもルドルフは、私のために動いてくれているわけなのだから。

 

「なぁルドルフ。私も正直、涼しい部屋の中にいたいんだけど。それに、そっちの方が人目もなくて安全じゃないかな」

 

「部屋に閉じ籠っていては、なにも前に進まないよトレーナー君。なにかを変えたいのなら、まずは外に目を向けないと」

 

「うぅ……」

 

「とはいえ、こんな姿になってしまったばっかりだからね。戦戦兢兢となるのも当然の話だろう。だからこそ、私が一緒にいようと言っているんだ。分かるよね、パーフェクト」

 

あぁ、本当に、ウマ娘の表情筋というのはここまで爽やかな笑顔を作り出せるものなのか。雲一つ無い、抜けるような青空をバッグにして眩しい限り。

昔から活発だった彼女のことだから、そのメンタリティも徹底して外向的なのだろう。生徒会長としてデスクワークもこなすといえど、部屋に籠るという経験自体が無く、その在り方に理解が及ばないとしても不思議ではない。

 

担当トレーナーの癖してなにを今更と笑われてしまうかもしれないが、いくら人バ一体と言えども担当の内面を隅々まで把握することなど不可能だ。それがこなせるなら、トレーナーではない別の仕事に就いているに違いない。

一応、メンタルヘルスのために臨床心理の資格は取得しているし、学園においても定期的にテストは行われていた。ただ、ルドルフの場合、己を取り繕うのが非常に巧く、仮面を被りたがる性質があるために、鑑定の効果もかなり疑わしい。

シンボリルドルフは真性の嘘つきだ。私にも、エアグルーヴにも、他の誰に対しても求められる役割を演じたがって……それは時として、彼女自身すら欺き通す。

 

「……さて、こんなものかな」

 

私をウマ耳のてっぺんから尻尾の先っぽまでずぶ濡れにさせて満足したのか、ルドルフはようやくホースの水を引っ込める。

タオルは持っておらず、きっとこのまま屋敷の更衣室まで歩かされるのだろうが、それが不快にならないのがまた新鮮だった。

 

ホースをまとめつつ、ついてこいと指示をジェスチャーを送る彼女の背を追いながら、私は地獄のようなターフを後にする。

最後に一度だけ振り返れば、取り残されたカストルがやる気の無い様子で縄を片手にタイヤを一気に片付けていた。前傾にもならない、背筋の伸びきった体勢で苦もなく引き摺っていく様は流石と言うほかない。

 

私の進路を逆方向に辿りつつ、だんだんと小さくなっていくその背中を見送っていたところ、ふとルドルフに手首を掴まれた。

 

「余所見はいけないよ。つまづきでもしたらどうする」

 

「ああ、すまない。確かに不注意だった」

 

「彼女がそんなに気になるかい?焦らなくても、顔を会わせる機会はまだまだあるだろう。君がこの屋敷にいる限りは、ね」

 

「そうか。そうだね」

 

「うん。そうだとも」

 

こちらを振り向かないまま、ルドルフは一つ頷く。斜め後ろから辛うじて見えた口の端は引き上がっていたものの、それが本心から現れたものか否かについては、残念ながら私には判断がつかなかった。

 

前を向き直り、もういいよと腕を引いてみるものの、私を捕まえるルドルフの手はまるで力が緩まない。それどころか、逆に強くなってすらいるようで、ほんの少し痛みすら覚えてしまう。

道中、脇に抱えたホースを水場へと元通りに戻した後も、やはり私を放すつもりは毛頭無いらしい。

 

「そう言えば、私はまだ私服がなかった気がするんだけど。府中ならともかく、この辺りを制服でぶらつくのは目立ち過ぎないか」

 

「大丈夫だ。それについても、ここに来る道すがら私が用意してきたからね。なにも問題はないよ」

 

「そうか」

 

「ああ、そうだよ」

 

淡々と落ち着いた声で、ルドルフは穏やかにそう告げる。まるで言い聞かせるように、少しだけゆっくりとしたペースを保ちながら。

 

そこからは無言のまま、広大な敷地を本館目指して横断する私達二人。

結局、更衣室に放り込まれるまで、ルドルフはただの一度も私と目を合わさず……その表情について、窺うことは叶わなかった。

 



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ルナちゃんのなつやすみ

 

私はこの辺りの地理にはあまり明るくないのだが、それでもこの屋敷を出て数十分ほど歩いたところに、大きな繁華街があることは知っていた。

ルドルフに連れてこられたのも、まさしくその街である。彼女が用意したという服に身を包み、私は中心を一本貫く大通りをぽつぽつと歩く。見覚えのある店、知らない店が混在していて、見ていて懐かしさと新鮮さが同時に押し寄せてきた。

全体的に、レジャー関係の施設が増えただろうか。

そう言えば、近年この街もアメニティの推進とやらに取り組んでいるらしく、それも地域の若返りを目指すためなのだとか。なんにしても、こうして若者向けの商業が進出してきている辺り、その試みは功を奏しているのかもしれない。

もっと詳しく観察したい気持ちもあるものの、それをぐっと押さえつける。気を抜けば意識から外れてしまいそうになるが、これでも仕事の最中なのだ、私は。

 

ポップコーンとドリンクの空容器を片手に、映画館を練り歩く姿からはとても想像つかないだろうが。一応、お出かけの範疇ではある。

私の隣を歩くルドルフなんかは、普段の凛々しさもどこかにやったのか大層ご機嫌な様子であり、担当のリフレッシュという点で意味があったと言えるだろう。

 

「『ウマ娘の夜明け』……か。まさか、シリーズ化されるとは思わなかったよ。前にトレーナー君と見たときは、そこまで客の多くなかった記憶がある」

 

「いや、確かあの時は公開から三週間は経ってなかったか。最初の週はかなり盛況だった筈だよ。その時は……その、別のものを……観ていたけども」

 

別のもの。確か『初恋キャロットケーキ~恋はにんじんより甘く~』だったか。ヒトである私の感覚からすると、にんじんの甘さを強調されてもいまいちしっくり来なかったので、それがかえって記憶に残っている。

あのにんじんとはきっと、作中のキャロットケーキそのものを指していたのだろうが……。

 

中身と言えば、タイトルそのままの甘酸っぱい青春恋愛物語だった。派手さは欠けるものの中々によく練られたストーリーで、実は数年経った今でも記憶に残っている。

だからだろうか。それについて言及した途端、妙に現状を意識して噛んでしまった。ルドルフとは数え切れない程二人きりでお出かけしてきたものの、今日はどこか雰囲気が異なる。

 

それはやはり、私と彼女の服装のお蔭だろうか。

ルドルフが私のために用意したのは、黒のトップスに白のフレアスカート。意匠はシンプルながらも、輪郭がはっきりと浮き出る組み合わせとなる。通気性に優れた薄手の生地は、この春暖には丁度いい案配ではあるものの、やはり気恥ずかしさが拭えない。

対照的に、ルドルフはスカジャンとデニムを見事に着こなしていた。いつもの緑の私服とはうって変わって、無骨な男らしい印象を放っている。

どちらかと言えば逆じゃないかとも思うのだが、サイズの都合上取り換えることも出来ないのでこのままだ。遠目に見れば、真っ昼間から映画館をぶらつく気ままなカップルにも見えるだろう。言うまでもなく、ルドルフが彼氏で、彼女は私。

そのギャップにあてられたか、先程からどうしても隣を歩く彼女を意識してしまい……誤魔化すように、どうにか新しい話題をひねり出す。

 

「そう言えば、夜明けの方には君にも声がかかっているんだったか。噂で聞いたよ。確か次回作あたりだとか」

 

あの映画は、競技ウマ娘のレース人生にスポットを当てた、伝記形式のドキュメンタリー作品だ。

前作と今作は、それぞれ戦中と戦後の経済成長期を扱ったもので、時系列から考えるなら次ぐらいにはルドルフやシービーにお鉢が回ってくるだろう。

担当自慢になるが、彼女達を抜かしてこの国のレース史は語れない。実際に出演するかどうかは別として、話を持ちかけられるのは必然とも言える。

「ん……ああ、うん、確かに申し出はあったよ。アポは全てトレーナー君を通してくれと言ったきりだが。そもそも身のある話でもなかったからね。叩き台すら出来ていない」

 

「そうか。まぁ、そもそも最新作が劇場公開されたばかりなんだから、本当に構想の前段階といった程度なんだろう」

 

「そもそも、本格的に着手するとなると、担当トレーナーである君にも声がかからなければおかしいからね。君の母君もそうだったろう」

 

「ああ、それもそうだな」

 

スポットを当てられるのはウマ娘だとしても、その活躍を語る上で担当トレーナーへの言及は欠かせない。場合によってはメインで扱われるウマ娘と抱き合わせで、出演を打診されることすらあると言う。

 

なにを隠そう、母がまさにそれだった。

もっとも年に一度、大手のレース誌から発行される特集号への顔見せすら、徹底拒否するほど露出を嫌う彼女のこと。直談判に訪れたスタッフを敷居も跨がせず叩き帰したのは記憶に新しい。

その後も粘り強く、私や先輩に取り成しを懇願してきたものだが……結局全てが空振りに終わり、ウマ娘とトレーナー二人揃って代役で済ませたのだったか。

 

「もし私が出演することになったとしたら、君も一緒に出てくれるかい?」

 

「ああ、勿論。私はルドルフのトレーナーだからな。君が望む限り、どこまでも一緒に付き合うとも」

 

「ふふっ……ああ、頼もしいな」

 

あえて感想を述べるわけでもなく、思わず漏れてしまったとでも言うべき素直さで、ルドルフは嬉しそうにそう呟いた。

普段の彼女であれば、ここで甘えるように腕に抱きついてくるところであるが、しかし今日は少し違った。腕を抱きかかえこそしたものの、擦りついてくるのではなく逆に自らへと引き寄せてくる。

 

強い力だった。ルドルフの身体能力については、たぶんこの世で二番目に……ともすれば、本人よりも詳しく把握している自信はある。

それでも、数値の上で理解することと、こうして直に体感することとでは受ける印象も全く異なる。彼女に抱き寄せられること自体は、決して珍しいことでもないのだが、ヒトの身だと種族差というバイアスがかかるのだ。相手はウマ娘なのだから、腕力で負けるのも当然だろうと。

だが、こうして仮にも同じウマ娘となり、種族として同じ土俵に立ったことで、ようやくその力を正しく実感出来るようになった気がする。違うんだ……私とは圧倒的に。

 

赤いカーペット敷きの館内を、肩をくっつけながら歩く。正確には背丈の違いから、私の頬がルドルフの肩にひっつく形。こちらに顔を寄せているのか、ウマ耳にかかる吐息がくすぐったい。

平日の真っ昼間ということもあり、通路を行き交う客はまばらだ。それでもすれ違った者は全員、こちらへちらりと視線を送ってくる。中には振り返る者まで。ウマ娘となり、敏感になった五感で分かってしまう。

 

「視線が気になるかい。ああ、そう言えば変装を忘れていたね。皆、私が気になっているのだろうか」

 

「……白々しい」

 

「ふふ……ああ、すまないな。少し意地悪を言ってみたかっただけなんだ」

 

ごめんねと囁きかける、その笑いすらも白々しい。見ていて思わず目を覆いたくなるような、白昼堂々繰り広げられるそんな甘ったるい睦み事を、周りの人達はどんな思いで眺めているのだろう。

呆れるか、奇妙な光景だと息を呑むか、特に気にせず通り過ぎるのか。いずれにしても、こんな私達の姿を前にして、彼らが連想する関係性など一つしかあるまい。

 

腕を掴まれ、肩を抱かれて密着させられる。今の私とルドルフの身長差も相まって、いよいよそういう関係にしか見えなくなってくる。その誤解を解くためには、彼女から身を引き離すしかないのだろうが、不思議とそうする気にはなれなかった。

決してこの状況を受け入れたわけではないにも関わらず、抵抗する気持ちが起きない。どうせ敵わないだろうという諦めにも似た気持ちが止めどなく沸き起こり、体から力が抜けてしまう。

生物としての規格が違うとすら思える程の、重苦しい威圧感……覇気。なまじ同じ土俵に立ったばかりに、生々しい実感として理解させられた。不特定多数に放たれれば、それはカリスマとして受け止められるのだろう。

 

そんなものを、密着したまま一身に浴びせられればどうなるか。この胸の中で早鐘を打つ鼓動は、きっと甘酸っぱさからくるものではない。

肉体的素質に個体差があるという点では、ヒトもウマ娘もまるで違わない。ルドルフはその中でも

 

そっと眼球だけを動かして見上げると、気を抜けば吸い込まれそうなほど深い紫の瞳と交差した。それは凪のように穏やかで、見事に内側を覆い隠している。おかしなもので、つい先程まであれだけ気を張っていた癖に、見つめ合うなかで熱の引くように動悸が落ち着いていった。

ずっと眺めていたくなるような安心感だったが、生憎ここは公共の場所。周囲の人気を思い出して渋々ながら目線を外す。

 

「おや、残念」

 

「あっ……」

 

そんな私に、ルドルフは惚けるように笑いかけると、お返しとばかりに抱き寄せる腕の力をより一層強くした。

 

そのお蔭で、彼女の腕から胴の輪郭、肉付きや温かさまではっきりと感じ取れてしまう。

女性らしい丸みを帯びた柔らかさをしっかりと残していながら、同時に決して自然には身に付く筈のない堅さとしなやかさをも両立させている。ウマ娘の平均よりもやや高めの体温に、柔剛兼ね備えた強靭な肉体は爆発的な熱量を内に灯していて、あたかも成熟した獅子のような生命力を醸し出す。

女性にこう表現するのは不躾かもしれないが、雄々しいという形容が最もしっくりくると思う。なにもかも忘れて身を預けたくなるような、重厚な雄性がそこにはあった。

 

「さて、このまま外に出ても良いが……久々に羽を伸ばす機会だからな。もう一本ぐらい見ていこうか」

 

そう言いながら、尻尾を巻き付けてくるルドルフ。最初こそ二人の尾の先端が触れ合う程度のさりげなさだったのが、こちらがなにも言わないのを良いことに抜け目なく絡みつかれてしまった。

受け身のままでは駄目だと分かっていながら、彼女の絶え間ないスキンシップを前にすると、ただただ流されるままになってしまう。声を上げない抵抗は、かえってルドルフを喜ばせるだけだというのに。

 

されるがままに尻尾を遊ばせていれば、ふと斜め前方から飛んでくる一際熱の籠った視線。

チュロスの紙袋とオレンジジュースを両手に持って、肩から提げたスクールバッグを揺らしつつ群れている五、六人あたりの集団。校章を見るに、ここからさらに南に下った女子校の生徒達だろう。今日は休校日なのか、それとも全員で授業を抜け出してきたのか。

興味のないふりをしつつも、隙を窺うように私達……特にルドルフへと、熱を帯びた関心を向けている。

私ですら察知出来るほどなのだから、当のルドルフが気付いていないわけがない。にもかかわらず、会釈はおろかただの一瞥も彼女達にくれなかった。

普段の愛想の良さは鳴りを潜め、その存在すら目に入っていないのかとすら思えてしまう淡白さ。己の興味は、隣のウマ娘にしか向けられないのだと言わんばかりに。

 

誰もが敬愛するかの皇帝の寵愛を独占しているという、その事実を確かなものとして認めた瞬間。

途方もない満足感で、あっという間に心が満たされていくのを自覚した。

 

 

ああ……これは不味い。戻れなくなってしまう。

 

「……トレーナー君?」

 

「あ……ああ。分かった。今考えるから、ちょっと待ってて」

 

「まぁ、そこまで気負うこともないさ。あくまで息抜きだからね。飽きたら下の階でもぶらつこう」

 

「分かった」

 

気のない返事と共に頷く。

勿論このままウィンドウショッピングと洒落込むつもりはない。なんの目的もなく、ただルドルフの隣のいるのは危険な予感がする。

 

なにか、なんでも良いから別のことに気を逸らそうと、ポケットに捩じ込んでいたパンフレットをパラパラと捲り、上映中の作品一覧に目を落とす。

今日のところはルドルフに任せっぱなしだったものだから、実は今週なにが公開されているのかも把握していない。パンフレットを開くことすら、これが初めてのこと。

年度始めということもあってやることが多く、事務作業に慣れたここ数年においても、この時期はアミューズメントに意識を向ける余裕がない。続編である『ウマ娘の夜明け』はともかく、初見の新作を選ぶとなるとやはりだいぶ迷ってしまう。

それでも私と同様、あるいはそれ以上に多忙な筈のルドルフが、きっちりと目玉を抑えていたのは流石と言うべきだろうか。

 

立ち止まり冊子を眺め出した私を、ルドルフは館内ホールの柱に寄り掛かったまま邪魔にならないよう見守っている。

元々彼女は気の長い性格だ。それに今日の場合、映画鑑賞そのものを目当てとしているわけではなく、どうも私と出掛けることそれ自体が目的だったようなので、こうして隣にいるだけでも不満は無いのかもしれない。

逆に言えば、滅多に単独行動を許してくれないということでもあるが。こちらとしても、一応はお出かけの業務中という建前がある以上、彼女を放ってはおけないという事情も踏んでのことだろう。

 

「………ん」

 

なるべく当たり障りのない……それこそ甘酸っぱいボーイミーツガールなんかは絶対に回避することを肝に銘じつつ、縮小印刷されたポスターを俯瞰していたところ、思いもかけずよく知った顔が目に入った。

 

修道服をモチーフとした勝負服に袖を通したウマ娘。長く垂らした漆黒の前髪と、それに反発するかのごとく逆立った一房の流星。真っ白な肌は陶器のように滑らかで、血の通っていない無機質な印象を受ける。

そうして陰気を纏いつつも、前髪の隙間から覗く金色の瞳だけは、暴力的な生命力を孕みつつこちらを睨み付けている。そのギャップは、今にも爆発しかねない不安感を醸し出し、片時も目の離せない危険な魅力を演出していた。

 

そのタイトルは……

 

「『運命に噛みついたウマ娘』……ルドルフ、勿論君はこの作品のことも知っていたな?」

 

「ならどうして教えなかったと聞きたいんだろう?答えは単純。必要ないからだ」

 

「なにを……」

 

「私は君の担当で、君のチームメイトであり、そして彼女はそのどちらでもない。"お出かけ"の最中において、君が目を向けるべきウマ娘は果たしてどちらだろうか」

 

ポスターの右隣に四角で囲まれた役者の一覧を、ルドルフは顎をしゃくって示す。

 

小さな文字でびっしりと書き込まれた名前。そのトップを飾る主演はかの米国二冠ウマ娘サンデーサイレンス……に扮したマンハッタンカフェ。

あの人は決してメディアに出たがらない。ましてや映画なんてもってのほか。紆余曲折の果てに、容姿が似ていて、劇中の年齢にも近いという理由から彼女に白羽の矢が立った。

どうやらカフェにはその道の才能があったようで、製作陣からの評判もすこぶる良かったとか。ただ、いざ撮り終えた途端に恥ずかしくなったのか、公開日含め詳細についてはなにも教えてもらえていなかった。

たぶん、今日たまたまこうして映画館に足を運んでいなければ、少なくともシアターで見る機会は逃していただろう。いくら忙しいといえども、これからはもう少しアンテナを張っておくべきだと反省する。

 

ホールの壁に嵌め込まれた掲示板を見やれば、タイミング良く入場が開始されたところだった。

すぐさま券売機に向かい、二人ぶんのチケットを購入する。慌てて後を追ってきたルドルフは、私の肩越しにそのタイトルを見るや否や不服そうに目を細めた。

 

「トレーナー君?」

 

「違うな、今の私はルドルフのチームメイトだ。君がそう言ったんだろう?先輩として、後輩の我が儘の一つは聞いて欲しいな」

 

「む……」

 

ルドルフは世話焼きというか、誰かに頼られる事を好む性格だ。しかしながら、親愛より先に畏怖が来るためか、一般の生徒達と容易に打ち解けられていない現状があり、それにやるせなさを抱いている。

だからこそ、こういったアプローチにはかなり弱い。如何せんこれまで共にやってきたチームメイトはシービーであるし、生徒会で補佐するエアグルーヴもあの調子だから、後輩に甘えられるというシチュエーションそのものに飢えているのだろう。

テイオーへの可愛がりっぷりを見れば明らかだ。どうも本人は、公平公正かつ適正な距離感を保っているつもりらしいが。

 

 

なにはともあれ、今はその弱点を最大限利用させてもらおう。

私は取り出し口から飛び出したチケットを重ねて指に挟むと、ルドルフの袖を引きつつ指定された入場口に足を向けた。

 



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【閑話】ただでは終われない者達

 

カイチョーとトレーナーが一緒にいなくなった……なんて話がボクの耳に届いたのは、午後のレース講義が終わってすぐのコトだった。

 

消えちゃった、なんてわけでもなくて、たんにお出かけに行っただけだと思うけど。端末にインストールしたトレセンのポータルサイトから、トレーナーの出勤カレンダーを何度見返したところで、今日の部分にはその表示しか記されていない。

トレセンはそのあたりの融通がよく利くっていう話を、入学した翌日の授業で担任の先生から聞いた気がする。だから、ボクは別にそこまで焦っているとか、困惑しているわけじゃなかった。

……まぁ、正直なところ、昨日トレーナーの身に降りかかった災難が、あまりにもインパクトが大き過ぎたっていう部分もあるけど。アレと比べれば、この先なにが起きても取り乱すことはないと思う。少なくとも、トレーナーに関係する事件なら。

 

だけどシービーが言うには、そう単純な話でもないみたいだった。

なんでも、一日限りのお出かけならシービーもそう焦ることはなかったらしい。それ自体が結構怪しい話ではあるけど、ひとまず脇に置いておくとして……問題は、トレーナーが今日に限らずこれからも当分学園には戻ってこないだろう、とのこと。

人伝に聞いた話によれば、カイチョーの実家でしばらくトレーニングをつけてもらうんだって。ボクはその家についてはよく知らないけど、マックイーンの実家みたいな名門だって噂は聞いたことがある。

なら、力をつけるぶんには問題ないのかもしれない。むしろ下手に授業とかに時間を取られないぶん、そっちの方が効率的なのかな。トレーナーがトレーニングをつけてもらうというのは、少しあべこべな気もするけれど。

 

まぁ、とにかくそんなワケで。ボクはトレーナーについては、実はそこまで心を痛めているつもりも無かった。

我が事ながら、少し薄情過ぎるかもしれない。ただこれは決してトレーナーを蔑ろにしているだとか、トラブルを楽観視しているわけでもなくて、たんにかのシンボリルドルフが動いているならきっとなんとかなるだろうと言う、ボクからカイチョーへの絶対的な信頼によるものである。……いや、それを楽観視って言うのかな?

 

「だからさ、シービー。そんなに悩んでもしょうがないよ。トレーナーならきっとカイチョーがなんとかしてくれるってば」

 

そうひそひそ声で励ましながら、ボクは隣のシートにぐでっと身を預ける先輩を覗き込む。

 

容姿に優れるウマ娘という種族においても、とびきりの美貌だと評判の三冠バ。同じ性別、同じ種族であるボクから見ても、お世辞抜きに端正だと思えるそれは、今は見事なまでに翳ってしまっていた。

セルフマネジメントのお陰か、肌荒れや太り気味といった目立つ不調は見当たらない。ただ、その淡い青色を湛えた瞳は、ぼんやりと虚ろに光を失ってしまっている。それがかえって、保護欲を掻き立てる儚い美しさを醸し出しているのは、流石というかズルいというか。

ボクの投げやりな慰めに心ここにあらずといった様子で頷きながら、肘置きに立て掛けたバケツ大のポップコーンに手を突っ込むシービー。手の平一杯のそれを口の中に放り込み、美味しくなさそうに咀嚼するとニンジンジュースでまとめて流し込む。

そんな自棄食いが許されるのも、トレーナーがついてない日の特権なのかな。お出かけに出ているカイチョーとは別で、今日のボク達は完全にオフだった。

 

「トレーナーはともかく、カイチョーがいつまでもいなくなっちゃうワケじゃないんでしょ?生徒会長のお仕事があるんだから」

 

「ルドルフは正直なんだっていいのよ。トレーナーがね……はぁ」

 

とても静かな、だけど地の底まで沈みそうなほど重々しいため息を溢しながら、肘置き越しにポップコーンのボックスを渡してくれる。ボクにははちみつドリンク片手にそこから一口ぶんポップコーンを掴み取った。

これらも映画館のチケットも、学園からここまでの電車代まで全て先輩が持ってくれた。普段はカイチョーが世話を焼いてるから、こういう時ぐらいは奢らせて欲しいって。遠慮するのもかえって失礼だと思うから、甘えさせてもらっている。

 

「だいたいなんでトレーナーがここにいるって知ってるのさ。ボクだって聞いてないのに。まさか、いっつも居場所を追ってるわけ?」

 

「モチロン。それに現在地だけじゃないよ。六年間更新し続けてきたアタシのデータにかかれば、この先一週間程度の動きはだいたい掴める」

 

「今はカイチョーもいるのに?」

 

「ルドルフも計算に含めてだね」

 

「うわぁ……」

 

前々から……と言ってもチームに加わってまだ数週間だけど……薄々感じてはいたけども、ボクのチームの先輩二人はどっちも独占欲が強い。

カイチョーは隠しているつもりでかなり分かりやすいけど、シービーも普段は飄々としてる癖に、こして不意打ちで牙を見せてくるから心臓に悪い。

ボクはともかく、箱入り娘なマックイーンはこのチームに入らなくて正解だったのかも。

まぁ、あっちもあっちで、トレーナーとエースがまとめて素行不良だってもっぱらの噂だけど。まだ右も左も分からない新入生の間ですら噂が立つ程だから、それはもう筋金入りなのだろう。

 

と言うか、たった今、まさしく張本人がボク達のすぐ側にいるんだけど。

やさぐれたシービーの向こう岸には、どっかりと足を組んでふんぞり返るシリウス先輩の姿。さらにその奥手には、タキオン先輩が真面目なのか不真面目なのかよく分からない顔でスクリーンを眺めつつ、なにやらしきりに頷いている。

そしてそんな二人に挟まれて、シービー以上に魂の抜けきった成れ果てと化しているのは、目の前の大画面で今まさに啖呵を切っている主演女優、『漆黒の幻影』マンハッタンカフェその人だった。

 

「ねぇ……カフェ先輩……大丈夫?」

 

「……殺して。いっそ……殺して下さい……」

 

あ、まだどうにか会話は成立するみたい。なんとかギリギリ、本当に辛うじてだけど。

 

これでも映画館に入るまでは、本当に元気一杯だったと言うか、殺気立ってたのに。張り込みも疲れるから一旦休憩ってことになって、自然な流れで映画を観ていこうという話になり……そうなれば、この面子で選ぶタイトルなんて一つしかない。

限界まで伏せられていたチケットを渡されて、ようやくその正体を知った途端にイヤイヤと抵抗し始めたカフェ先輩を、数の力にモノを言わせて無理やり引っ張ってきた結果がこれだった。もう成れ果てを飛び越して、ただの脱け殻。

自分の演技を知人の前で、それも映画館の大スクリーンでたっぷり120分に渡る鑑賞会をされているものだから、精神的に取り返しのつかないダメージを負ってしまったらしい。冷静に考えれば、途中退席してしまえばいいだけの話なんだけど……そこにまで考えの至らない程の致命傷なのかな。

 

現実のマンハッタンカフェとは対照的に、画面の向こうの彼女は暴力的な生命力を放っている。プロの役者に混じっているにも関わらず、彼女の演技は全く劣っていない。ともすれば、凌駕しているのではないかとすら思えてしまう程。

ただ本物と似ているだけじゃない。確かに容姿はそっくりだけど、ただそれだけなら良いキャスティングだという以上の印象は残らなかったハズ。ここまで主張が効いているのは、カフェ先輩独自の味が出ているからに他ならない。それもサンデーサイレンスというキャラクターのノイズにはならず、一つのアクセントとして昇華されている。

一番初めのプロモーションで、監督や共演者の人達がべた褒めしてるのを見た時は、いきなり大抜擢された先輩へのフォローか、先輩のファンに向けたアピールだろうと勘繰ったものだけど。あの評価がお世辞でもなんでもない本心から来るものだって、今になれば良く分かる。

実際、批評したがりなあのタキオン先輩ですら、今は素直に感心しているようだった。

 

「いやぁ、カフェも中々どうして達者なものじゃないか。その道でも大成出来そうだねぇ」

 

「うん、ボクもそう思う。もっと皆にも観てもらえばいいのに。どうせ全国公開しちゃってるんだからさ」

 

「それにしても小慣れているものだ。これが初舞台とはにわかには信じがたい。元々我々は、ごく一般的な美的感覚に基づけば容姿に恵まれている種族であり、とりわけ競技ウマ娘ともなれば人前で走り歌い踊ることとなる。そういった自己肯定感や経験が活きているのか……」

 

「……はぁ、はぁ……うっ……はぁ……!!」

 

ああ、とうとうコミュニケーションも怪しくなってきちゃったみたい。

お腹と胸の境目あたりを押さえながら息を荒げている。こんなになるぐらいなら、最初から請けなきゃ良かったと思うんだけど……カフェ先輩曰く、メディア嫌いな母親への反発心が動機だったらしいけど、誰よりもダメージ負ってるのはたぶんこの人だ。

 

ミイラ取りがミイラになるって、まさにこういうことを言うのかな。

タキオンと並ぶこの鑑賞会の共同提案者で、最初は弄る気まんまんだったシリウス先輩も、今はその有り様を横目に見ながら黙って組んだ足を揺らしているばかり。

カフェ先輩やタキオン先輩のさらに先輩で、それにカフェ先輩とは学園入学前からの付き合いだって聞いてるけど、そんなウマ娘ですら気後れする程の惨状だった。

 

「大丈夫?カフェ先輩。お腹痛いの?」

 

「……………うぅ…………」

 

「泣いちゃった!!」

 

「バ鹿お前。コイツが痛めてるのは腹じゃなくてココだよココ」

 

カフェ先輩に代わって、サムズアップの親指で自分の心臓のあたりを示しているシリウス先輩。

 

「って言うか、なんでシリウスまでここにいるのさ。違うチームでしょ」

 

「私達は契約を交わしたばかりだからな。こうして担当トレーナーの人となりを把握しとくのもトレーニングの一環ってワケさ」

 

「そのトレーナーはいいって言ってるの?」

 

「なにも言ってこないってことは許容してんだろ。それよりお前、新入生の癖してなんで呼び捨てなんだ。それも私だけ」

 

「それは……」

 

「アタシが許可したんだよ。先輩なら先輩らしい振る舞いをしなきゃねシリウス。少なくとも、トレーニングをフケるのは模範的じゃないかな」

 

「んなこと言ったら、コイツもタキオンもお前らのチームとは違うじゃねぇか」

 

「私達のチームも、今日はちゃんとオフだからねぇ。外出届も二人ぶん、しっかり学生課まで提出してあるとも。もっとも、記入したのも持っていったのもカフェだが」

 

「ハンッ。カフェはともかく、よくお前に許可が下りたもんだ」

 

そう吐き捨てて、シリウスはもぞもぞと落ち着かなさげに尻尾を椅子の穴に通して揺らしている。

あくまで静かに、だけど。一応上映中だから。ただ平日の午後から映画館をぶらつくような人間にとって、ある種教育的なこのテのドキュメンタリーは肌に合わないのか、ホールにはそれなりに人がいたにも関わらず、このスクリーンに観客は殆どいない。ほぼほぼボク達の貸し切りとなっていた。

 

 

それでも……この五人以外全く誰もいないというわけじゃない。

真ん中の通路すぐ後ろに並んで腰掛けているボク達よりずっと前方、最前列の中央に二人並べて座っている。明かりの落とされた部屋の中だからぼやっとしたシルエットしか分からないし、この距離だといくらウマ娘でもお互い声なんて届かないけど。

でも、ずっとその後を追っていたボク達なら見間違える筈もなかった。あれはカイチョーとトレーナーで間違いない。

 

一応お出かけという体にはなっているけども、ボクとシービーはオフという事で置いてきぼりを食っているあたり、どう言い繕ってもあれはデートにしかならないんじゃないかと思う。

きっと、カフェ先輩のつながりで選んだんだろうけど、それにしたってわざわざこんな作品をチョイスするあたり、二人揃ってマジメを極めてる気がする。せっかく二人きりならもっとこう……イチャイチャしてるのを観ればいいのに。まぁ、隣のシービーの掛かり具合からして、後々イチャイチャどころかドロドロになりそうだけど……もうなってるのかな。

 

シートから身を起こしたと思ったら、その勢いのまま目の前の手摺に顎をのせるシービー。違う意味でドロドロになってるやる気のなさだけど、そのウマ耳だけはしっかりと後ろを向いていた。学園の正門を抜けてから……違う、ランチが終わった後、カフェテリアまでボクを迎えにきた時からこうだった。

途中で四人から聞いた話をまとめると、どうも見事にシービーはカイチョーにしてやられたと言うか、完膚なきまでに出し抜かれたみたいなので、それも仕方ないのかもしれないけど。

 

ただ、さっきから前の二人に向けて尋常じゃない圧を放っている気がする。流石、何年もターフで君臨し続けてきただけあって、ただ横にいるだけのボクですらびっくりしてしまう程。

それを平然と無視してるカイチョーも凄まじい。隣のトレーナーの戸惑いを見る限り、絶対に気付いていない筈がないのに。

二人ともボクにとって、二人きりのチームメイト。この中に割り逝ってしまったんだ、ボクは。別に後悔はしてないけど、もうちょっと心の準備が欲しかったような。恋は戦争だと言うけれど、その当事者が三冠ウマ娘となれば洒落にならない。とりあえず、あの日トレーナーにキスしたことは隠しておいて良かったと心から思う。

 

 

そして肝が据わってるのは、なにもカイチョーだけじゃない。

 

「さぁさぁ、いい加減元気を出しておくれよカフェ。この上映に限っては私達の他に客もいないのだから、そう恥ずかしがることもあるまい」

 

「笑えるぐらいガラッガラだもんなここ。やっぱり真っ昼間から観るには面白くないか」

 

「………悪いですか………?」

 

「ちゃんとプライドは持ってんのな、お前。チッ……めんどくせぇ……」

 

皆、威嚇を飛ばすシービーの事なんか我関せずと言わんばかりに、気ままなひそひそ話を続けている。

よく考えれば、ここにいる全員がG1レースで結果を残したウマ娘達。勝ち続ける中で度胸がついたのか、それとも度胸があるからこそこれまで勝ち続けれこれたのか。ただ一つ確かなのは、ボクもそうならなければならないということ。

三冠ウマ娘の威圧すら、適当にあしらえるぐらいにならなければ。

 

 

ずっと前を向いていたカイチョーが、ふとこちらを振り向いた。

 

その輪郭は曖昧で、顔なんてとてもじゃないけど分からないにも関わらず、ボクとシービーを見据えているのだとはっきり分かる。

だって、向こうから飛んでくる殺気は、まさしくたった今隣のウマ娘が放っているものと全く同じで。それに感化されたのか、さっきから感じていた怒気が一際強くなった。それにカイチョーまで呼応して、二人の間で際限なく高め合っていく。

それは、直接言葉を交えるよりも、ずっとずっと濃密な果たし合い。

 

「ぴぇ………」

 

 

友達以上仲間でライバルって、こういうことなの?ねぇ、マックイーン……。



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逢魔が時

 

「今日は楽しかったな、トレーナー君」

 

「ああ、そうだな」

 

太陽が地平に身を隠す時間帯。

鰯雲が鮮やかな夕焼けに照らされて、黄金色に染まりながら流されている。歩道に長く影を伸ばしながら、私とルドルフはゆっくりと帰路に着いていた。

街から屋敷までは、少しばかり距離がある。ウマ娘の脚では負担にもならない程度とはいえ、交通機関を使っても良かったのだが、なによりルドルフが歩きたがった。数ヶ月ぶりの帰省ということもあって、多少なりともはしゃいでいるのかもしれない。

 

それなりに歩き回ったにも関わらず、坂を上っていく彼女の足取りは軽い。その腕には、ついさっきゲームセンターで獲得したばかりのぱかプチが抱きかかかえられていた。

あれも息の長いと言うか、リリースからもう結構な時間が経つというのに、定期的に更新を続けることで売上は右肩上がりなんだとか。特にここ最近のレース競技の盛り上がりは凄まじいから、数ある機種の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いなのだと、最初期における出資者の一人でもあるルドルフの父親経由で耳にしたことがある。

そして今ルドルフが抱いているのは、数年前からずっと看板商品を張り続けている彼女を模したぬいぐるみ。それも両腕で抱えられるタイプの、一際大きなサイズのものだった。

 

実はこれと同じものを、私は既にトレーナー室に置いている。

それもクレーン台で手に入れたものではない。数年前の更新の折、いよいよ皇帝シンボリルドルフが実装と相成った時に、メーカーから協力の返礼にと送り届けられたプロトタイプ。貴重といえば貴重かもしれないが、実際の中身は市場に出回っているものとなにも変わらない。

まぁ、売りに出そうなどというつもりはさらさらないので、付加価値など別にどうだっていいのだが。

 

「ぱかプチか。たしか君の部屋にもあったね。あれももう、今では手に入らない絶版だったか」

 

「うん。私の記憶が正しければ、ちょうど私の菊花賞が終わった次の更新でなくなってしまったな。初代機種から長くぱかプチを支えてきた老雄だったのだが」

 

「流行りものだから仕方ないさ。ここは彼女の時代からの代替わりを成し遂げられた隆盛を喜ぶべきだろう」

 

その昔、声高に叫ばれていたあのキャッチコピーも、もう聞かれなくなって久しい。

 

クラシック三冠という称号が、決して夢物語ではないと皆が思い始めたのはいつ頃だろうか。私が学園に足を踏み入れて以来、既に三人ものウマ娘がそれを戴いている。

記録としても、体感としても、ここ数年間で大きなうねりが起きていることは明らかだった。秋川理事長の旗振りのもと、数々の改革と共にスターウマ娘が誕生し、加速度的に時代が変わりつつある。その始点となったのは、あくまで私個人の見解として言わせてもらうなら……やはりシービーだろうか。

 

「おや、私と話をしている最中だというのに。他のウマ娘のことを考えるのは感心しないな」

 

「一応、君にも関係する話なんだけど」

 

「当ててみせようか。それはついさっきの映画館で、熱烈にこちらへアピールをくれた彼女のことだろう?」

 

「い、いや……」

 

「おや、違ったかい?」

 

「違わ……ないです」

 

あれはアピールと言うのはもっての他で、威嚇と呼ぶのも甘い、さながらハンマーの落とされた銃口を向けられているかのごとき緊迫感だった。

ウマ娘として、感覚が開いている部分もあるのだろうが、たぶんあれは……ルドルフだけでなく、私にも向けられていたのだろう。なんと言うか、こう、凄まじい怨念のようなものを感じた。五年前、推薦移籍を蹴った際に先生から向けられたものとそっくりな。

 

それにルドルフも挑発で返すものだから、それはそれは地獄のような120分だった。『運命に噛みついたウマ娘』そのものは素晴らしい作品だったので実に惜しい。今度、カフェと母を誘ってもう一度観に行くとしよう。

それにしても、ウマ娘には視線でコミュニケーションをこなすスキルがデフォルトで搭載されているのだろうか。ひょっとしたら、あれは三冠ウマ娘の特権なのかもしれないなどと思いながら、無邪気な笑みを浮かべるぱかプチルドルフをそっと撫でる。

 

「いい肌触りだな。それでいて丈夫なのも素晴らしい。ルドルフの部屋にあるのも多少くたびれている程度だもんな。君の扱いが丁寧という部分も大きいんだろうけど」

 

「昔、友人に貰った大切な宝物でね。ふふ、この歳で人形遊びが止められないとは、流石に幻滅されてしまうかな」

 

「まさか。同じ競技ウマ娘なら親近感があって当然。そもそもぱかプチは私だって追ってる」

 

レースから派生した二次産業ではあるものの、ぱかプチのバリエーションというのは、実はトレーナーとしてかなり参考になる。なんならURAの企画課ですら、その売上を調査しているとまことしやかに囁かれるほど。

私達は競技の中枢に携わり、誰よりも近くでウマ娘を支える立場であることから、良くも悪くもレースに関する知識に恵まれている。より正しく、専門的な判断を下せる一方で、世間一般からの認識とズレを引き起こすことも往々にあった。

 

そういうことから、利益を追求する企業が調査と分析を重ねて弾き出したバリエーション……すなわち"大衆受けの素晴らしいウマ娘一覧"と言うのは、その辺りのギャップの擦り合わせにおいて中々役に立つ。それは専門的な知見ではなく、素直な感性を下地にした、所謂アイドル性のあらわれだった。

例を挙げれば、それこそオグリキャップがトゥインクルでのラストランを終えた時期なんかは、他のぱかプチを軒並み圧倒する勢いだったのを覚えている。他にもシービーやハイセイコー、最近だとスマートファルコンなんかも一大旋風を巻き起こしていたような。

 

ちなみに、そのあたりルドルフがどうかと言えば、とにかく安定の一言に尽きる。

なにぶん築き上げた功績が圧倒的であり、人気も常に高い位置を保っているので、決して第一線を外されることはない。しかしその一方で、売り上げを大きく跳ね上げるといったことも殆どなく、かのオグリキャップ全盛期においては一時期かなり圧されていたように思う。

とりたてて大きなブレもなく、常に高い成績を残し続ける優等生という面でも本物そっくりだなと、私は密かにこのぱかプチに感心していた。当のルドルフはどうかと言えば、『つまらない』との謗りを受けた自らのレースに重なる部分があるのか、少々納得のいってない様子ではあるが。

 

 

二人仲良く肩を並べて、坂を上る。

ちょっとした台地のようになっているのか、頂上までくると暫くは平坦な道が続いていた。地盤もしっかりしているのか、ドーム型のスタジアムまで置かれている。

ガードレースに沿って、歩道を真っ直ぐ進んでいると、ちょうど道の真ん中に入り口を示す案内が置かれていた。

 

「レース場か。中央の管轄じゃないよな。かといってここは船橋でもないし」

 

「私設の施設だよ。私の幼い頃に建てられたものでね。実は私の実家も一枚噛ませてもらっているんだ」

 

「またスケールの大きい話だな。それにしては、今日まで来たこともなかったじゃないか」

 

「……昔、色々とあってね。それまではよく通っていたものだよ。それに君と会ってからは、そちらの教室にお邪魔させてもらっていたから」

 

「ああ、そうだったね」

 

あの時もあの時で、中々大変だったような気もする。ルドルフがどうとか言うより、主に万年首位から陥落したカフェについて。まぁ、色々あったものだ。

 

こんな姿になってしまっても、やはりトレーナーとしての性というか、習慣は抜けきらないもので。

恐らく私設では全国最大規模であろうここを一度見学してみたい気持ちもあったが、あえてそれをぐっと堪える。私はともかく、変装らしい変装もしていないルドルフが迂闊に姿を晒してしまえば、面倒な事態になるのは明らかだった。そもそも好奇心以外、ここになにかしら用事があるわけでもない。

受付に足を向けることもなく、そのまま入り口ゲートの前を通り過ぎようとした時……不意に、斜め後ろから袖を引き留められた。

 

「ルドルフ?君はここに用でも」

 

「いや、そういうわけではないのだが……。いや、そうだな。折角だから、君のためにも顔を出した方が良いのかな、と」

 

「必要ないだろう。仮に秋までここにいるとしても、必要なものは全て屋敷に揃っている。第一ヒトに戻ることが目的である私が、わざわざここで交流を深めてもね」

 

「そのことなんだが」

 

煮え切らない態度のまま、なおもルドルフは私を引き留め続ける。

彼女の本気からはかけ離れた、少し力を籠めれば引きはがせる弱い力で。

 

「戻りたいかい?戻らなければならないかな?たとえこの先、そうなったままだとしても……ここならパーフェクトの全てを保証出来る。トレーナーとして君がシンボリにもたらした利益と貢献を鑑みれば、誰も駄目とは言えないだろう。いくら祖母であっても」

 

「……本気で言ってるのか」

 

「君は、ついさっき言ってくれたじゃないか。どこまでも私についてきてくれると。あれは嘘だったのか?」

 

詰るような言葉とは対照的に、ルドルフの声は淡々と落ち着いている。

いや、きっと……責めるような言い草になってしまっていること自体、彼女は自覚していないのだろう。

 

私はただ、それにきっぱりと首を振るだけ。

 

「嘘じゃない。ただ、言葉が足りていなかったかもしれない。あれは、あくまでもトレーナーとしての心意気だ」

 

「……そうか。そう、だろうな。急におかしなことを言ってしまってすまなかった。今の話は忘れてくれ、トレーナー君」

 

どこまでも感情の読み取れない、なだらかな声色のまま。

曖昧な微笑みを湛えたルドルフは、そっと私の袖口から手を離した。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お帰り、トレーナー……………あとルドルフ」

 

「ああ、ただいま。シービー」

 

屋敷の居間に戻ってきた私達を出迎えたのは、学園で待機中の筈だった残りの担当二人とシリウス。それから何故かここにいるカフェとタキオン。

一体どこから引っ張り出してきたのやら、ローテーブルにモノポリーを展開して遊んでいる。ゲームについては一家言あるテイオーと遊び慣れしたシリウスが上位で、それにタキオンが食らいついているといったところか。

 

一応、映画館の時点で存在そのものについては把握していたが、勝手知ったる人の家とばかりに寛いでいる様子を目の当たりにすると呆れてしまう。たぶん、関係者であるシリウスから許可は下りているのだろうが。

 

「まぁ、シービーとテイオーも揃っているなら丁度いい。ポスト・レースの方針について話そうか」

 

「あれ、もう出てるの。参加チームとか、出走者とかそのあたり」

 

「ああ。あくまで未確定情報で、トレーナーの間でのみ出回っている段階だけど」

 

「へぇ、いいね。そういう……横のつながりって言うのかな」

 

感心したようにしきりに頷いているシービー。ボードゲームにも飽きたのか、一足先に離脱してちょこちょこと近付いてくる。

一応チームということもあって、テイオーもその後に続く。私とルドルフ、それから彼女たち二人で固まる形となり、他の三人は我関せずとばかりに今度はビリヤードに取りかかっているようだ。

 

横のつながりという表現は言い得て妙で、理事会に報告が上がるよりも先に、私達トレーナーの間で周知がなされることも多々あった。如何せん村社会的というか、職場の関係が一つにまとまっている以上、情報の伝播速度は尋常じゃない。

当然それにも良い面悪い面の両方があるのだが、どちらにしてもトレーナーとしての活動全般に大きく影響してくるものなので、軽く扱うのは禁物だ。

 

「少なくとも私の知っている限りでは、今回のレースに参加するチームは限られている。どうも優勝の特典を狙いに行くより、堅実に新人の育成に力を注ぎたいと考えるトレーナーが多いらしい」

 

なにぶん一年目はウマ娘の特性を把握し、基礎を整えると同時に信頼を育む重要な時期である。ここを疎かにしてしまえば、重賞勝ちなど夢のまた夢と言ってしまっても過言ではない。

先生のチームのように、メンバーの入れ替わりが激しい所帯は勿論のこと、たとえ新人が一人でもそこに注力したいと考えるのも一つの方針である。

 

「理事長にとっては、意気阻喪を免れない展開ということだろうか」

 

「今回に限ってはね。元々、これもテストプレイというか……たぶん、今年の経過を踏まえた上で、改善を繰り返した後に本格的な駅伝レースの実施となるんだろう」

 

「成る程。いくら思いつきだとしても、些か準備が足りていないと感じていたが、今回のレースそのものが準備の一つだというわけだな。あくまで本命は来年以降と」

 

「そうそう」

 

秋川理事長の描いた画からは外れてしまうだろうが、それも致し方ないこと。

結局私達が最も優先すべきは、担当ウマ娘の成長と勝利を置いて他にないのだから。

 

「んじゃ、ウチはどうするのトレーナー?まぁ、出ないって選択肢はそもそも無いんだろうけど」

 

「それもあるし、折角だからここでテイオーに経験を積ませておこうとも思ってる。非公式戦といえども、一年目からG1クラスとやりあえるのは貴重な機会だから」

 

「あ、やっぱりボクも走るんだ」

 

「ああ。とりあえず経験目的だから、勝敗についてはそこまで気負う必要もない。私以外にも、似たようなこと考えているトレーナーはそれなりにいるな」

 

中でも割り切ったトレーナーの場合、エース級は一人も出さず、全てデビュー前のウマ娘で揃えようと筋道を立てている者までいる。

目先の勝利に拘らず、今後の飛躍に焦点を当てるというのもまた一つの方針だった。個人的には、先生もそういうスタイルで挑めば良いと思うのだが、彼女には彼女の育成計画があるのだろう。

 

「ちなみにサンデーサイレンスもその一人だ。とりあえずシリウスは出しておくとして、残りは実戦経験の乏しい順に埋めるらしい。ちなみに……その中には、今年入ったばかりのマックイーンも含まれる」

 

「へぇ……」

 

その名前を告げた瞬間、にわかにテイオーの表情が引き締まる。

彼女達は学年こそ同じであるが、私と母の育成計画が必ずしも一致するものではない以上、デビューにはズレが生じ得る。それぞれの調整具合にもよるが、テイオーの脚部不安を考えると、同じクラシック戦線ではぶつからない可能性も大きい。

いつぶつかるか分からない以上、この機会に競り合わせておくのもアリだと私は考えている。どこかのタイミングで、向こうのチームと出走順の擦り合わせでもしておこう。

 

前置きはこのぐらいにして、私はいよいよ本題を切り出すことにした。

 

「さて、そんな具合に出走予定チームの情報収集が一段落ついたところで。やはりというか、厄介な面子がそこそこいるな」

 

「ほう、私達でも手を焼く程だと。今こうして呼び集めたのも、それを共有するためか」

 

「あとは簡単な作戦の見通しとか、私含め出走者の育成方針も固めておきたい。ただその前提として、ライバルの見当はつけておくべきだと判断した」

 

そもそも特殊なレース形態なので、番狂わせも当然にありえるが。

ただ、大穴の出現なんて普段のレースにおいても常に起こり得ること。ならば、ここは普段通り、強豪の洗い出しから進めていくべきだろう。

 

「いいよ、言ってみて」

 

「まずは生徒会の役員二人。特に君達を除けば唯一の三冠ウマ娘……ナリタブライアン。先輩のところからはマルゼンスキーを中心に、カフェやタキオンも出走することになるだろう……」

 

「ねぇ、トレーナー。張本人達がまさに同じ部屋にいるんだけど。いいの?あれ」

 

テイオーに遮られて、ローテーブルの方に顔を向ける。

いかにもこちらに興味ないといった様子でキューを構えるシリウスと、それを見守るタキオンにカフェ。だがそのウマ耳は抜け目なく、揃ってこちらを向いていた。

 

「……いいさ。誰がマークされるなんて、別に言われなくても分かることだ」

 

「ならいいけど」

 

「あと他に注目するべきは……オグリキャップとタマモクロス、かな。この二人は元々別のチームだが、今回は連合を組んだらしい」

 

"芦毛は走らない"などという、かつて知れ渡っていた俗説を覆した二人。一つの時代を築いたその走りは、ルドルフやシービーを以てしてもまるで油断ならない。

しかし彼女達がそれぞれ籍を置くチームは、その他に有力なウマ娘はあまり見られない。どちらもベテランが率いているものの、先生と同様に大規模な人員再編の波に直撃している最中らしい。ただし彼等は出走辞退するのではなく、お互い手を組むことを選んだようだ。

 

「……まぁ、あえて挙げるとするならこんなところかな。誤解を恐れずに言えば、私も正直このレースには全力を注ぐつもりはない。あと数ヶ月あるとはいえ、やることはいつも通りだ。テイオーはともかく、二人にとっては退屈かもしれないが、我慢してくれ」

 

「はーい。別にいいよアタシは。ドリームトロフィーの調整の方が優先だし。これでミーティング終わりなら、行こっかテイオー」

 

話が終わったと見て、テイオーを引き連れながら再びシリウス達の元へ帰っていくシービー。いつの間にか、あの二人もだいぶ仲良くなったらしい。

ルドルフとテイオーのべったり具合は言うまでもないが、それに比べるとあの組み合わせにはやや距離を感じていたので、縮まったのは良いことだろう。私もソファから立ち上がり、その背中に続こうとしたところ……ふと、手首を掴まれた。

 

振り返れば、ルドルフが尻尾を揺らしながら私を見つめている。目があった瞬間、僅かに首を反らして居間の扉を示した。着いてこいということだろう。

その耳や表情から、特にそれらしい感情は読み取れないが、さて。

 

なんだかんだ、この屋敷では彼女の力が強い。いや、学園でも基本的に向こうが優勢だった気がするけれども。

結局、トレーナーであってもチームメイトであってもそう変わらないなどと。そんな己の立場を今さらながらに自覚しつつ、私は素直にそれに従った。

 



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Take it easy

 

私は腕を引かれたまま、勝手口から屋敷の外に出る。

てっきり庭のターフにでも向うのかと思っていたのだが、誘導灯の灯りを辿って広場を真っ直ぐ横切ると、正門玄関からルドルフは私を敷地の外に連れ出した。日が沈み、街灯だけが光を落とす夜の道を、迷いのない足取りで進んでいく。

 

後ろからシービーやテイオーが追い掛けてくる気配はない。どうやらあの五人は外出届と一緒に外泊届まで出してきたらしく、どうやらシンボリ本邸に一晩の床を借りるつもりのようだった。

私達がいずれ帰ってくることも分かりきっているため、わざわざ後を追うまでもないと判断したのだろう。今頃、ビリヤードで賭けにでも興じているに違いない。

 

いくら春と夏の境目の時期とはいっても、日が暮れればやはり気温は下がる。屋敷に帰還した直後、お出かけの私服から学園指定のジャージへと着替えさせられていたため、肌の露出自体は少ない。それでも、乾いた夜風がうなじを撫でる感触に、寒くはないがどことなく落ち着かなさを感じてしまう。

ルドルフが先導する道のりは、まさしくつい数十分前、ここまで戻ってきた帰路とまったく同じ。ここに至るまでどちらも口を開かなかったが、彼女がどこを目指しているのかについては、なんとなく想像できる気がする。

 

「夜の散歩にしては、ずいぶん遠くまで足を延ばすんだな。あの時も言っただろう。用事なら屋敷であらかたまかなえると」

 

「君にとってはそうかもしれないな。それでも、私にとっては、あの場所にこそ意味があるんだ」

 

「それは、トレーニングが捗るという意味かな」

 

「そうとも言える。もっとも、モチベーションに繋がるのは私の方だが。……ところで、トレーナー君。さっき言っていた、『このレースには全力を注ぐつもりはない』とはどういうつもりだろう。勝敗に拘るつもりはないのかい、君は」

 

「っ…」

 

私の問いかけをするりとかわし、逆にルドルフは穏やかな声でそう問い詰めてくる。

決して問いただすような強い口調ではないものの、痛いところを突かれたと感じて一瞬言葉を詰まらせてしまう。自分でも、よくない言葉選びだったことは自覚していた。

 

「言い方が悪かったな。なにもポスト・レースで手を抜こうって話じゃない。ただ、力を入れるべきはやっぱり公式戦だろう」

 

その点において、私の認識は他のトレーナーとなんら変わるところはない。

トゥインクルへ挑むテイオーの基礎固めと、ドリームトロフィー・リーグを見据えたルドルフとシービーの調整。幸い、どちらもまだ時間的に余裕があるとはいえ、片手間でこなせるものでもないのだ。ようするにこれは、限られたリソースの振り分けの問題だった。

 

「そうか……」

 

その言葉に、ルドルフはとりあえず頷いてこそくれたものの、手応えは芳しくない。

彼女が己の『皇帝』という二つ名に抱く自負は相当なもの。たとえ非公式の身内開催だとしても、初めから全力を回避するという考え方は、やはり不真面目な態度として捉えられてしまうだろうか。

 

「君には、納得行かない話だろうか」

 

「いや。君の時間と体力は有限だし、その配分について熟慮断行しなければならないことは理解出来る。それについては、トレーナーたる君の判断に任せるとも。……ただ、彼女がどう思うか、それだけが私は気がかりでね」

 

「彼女……?『お友達』のことか」

 

「……………………」

 

ルドルフからの反応はない。

その沈黙を肯定ととるべきか否定ととるべきか、考えあぐねた挙げ句に私は自分の推測に従うこととする。

 

彼女はポスト・レースに歓心を見せていた。もっと踏み込んで言えば、他のウマ娘と競争すること……レースそのものに執着していたように思う。手抜きを許さない、等と言い出しても不思議ではないが。

しかし、カフェ曰く私にとり憑いたという彼女は、あれ以来全く姿を見せていない。仮に私の中にいるとして、声も聞けないとなれば意志疎通を図ることなど不可能だ。そもそも、お友達の方から何かしらのアクションを起こせるのか否かすら不明である。

これ幸いとばかりに、母からは神社で綺麗さっぱり祓うことを強要されているものの、いざ試したところで一向に効果は見られなかった。誰かに似てとことん自己中心的な癖して、力だけは無駄に強い。この際、正式に幽霊から悪霊へと呼称を改めようか。

 

 

目の前でゆらゆら揺れる鹿毛の尻尾を目で追いながら、私はぼんやりとした思考のまま暗い歩道をガードレールに沿って辿る。

ウマ娘が聴力や嗅覚においてヒトより勝るのは有名な話だが、実は夜目についても優れている。ぽつぽつとした街灯の明かりでも、迷わず歩くには困らない。

 

「あっ……」

 

それがかえって油断を生んだのだろうか。

目の前で揺れる尻尾ばかり見ていた私は、アスファルトの亀裂に爪先をとられてバランスを崩してしまった。反射的に、一歩前を行く背中に飛び込んでしまう。

 

「おっと」

 

ルドルフはその不注意を諫めるようなこともせず、ただ困ったように目を細めながら、そっと私の腰を支えてくれた。そうして少しだけ近付いた距離を保ちながら、私達は歩みを再開する。

ここも決して田舎というわけでもないのだが、しかし都会の喧騒に慣れきった今となっては、二人きりの散歩がほんのりと物寂しい。平坦な道のりを終えて、上り坂へと差しかかかった時、ひゅうっと一陣の向かい風が吹き下ろしてきて、それが無意味に胸をざわめかせた。ぽっかりと口を開ける宵闇に、この歳にもなって尻込んでいるのだろうか。

 

それでも足を止めることはなく、ざらざらとしたアスファルトの感触を足裏に感じながら、一歩一歩着実に上っていく。この荒れ具合からして、多くの蹄鉄をつけたウマ娘が日常的に行き来しているのだろう。風雨に晒されるだけでこうはなるまい。もっとも、一日の終わりかけたこの時間帯では誰ともすれ違わないが。

亀裂を目でなぞった先には、ところどころ塗装の剥げたガードレールに隠れるようにして、一輪のたんぽぽが顔を覗かせていた。たった一つだけ色づいた黄色に目をとられていたところ、腰に添える力が僅かに強くなる。そんな余所見していると、また転んでしまうぞと言わんばかりに。

 

反省して、視線を再び正面に戻せば、そこにはつい数時間前通り過ぎたスタジアム。

もうとっくに開場時間は過ぎているのだろう。夕方にはちらほらと聞こえていた掛け声もなく、出入りする人の姿もない。受付のカウンターにも誰もいなかった。一応、事務所の収まっているらしき平屋から灯りが漏れているので、完全に戸締まりされているわけでもないらしいが、来客を閉じているのは誰の目にも明らかだった。

ここは素直に引き下がるしかないだろうと、踵を返そうとした瞬間……おもむろに歩み出たルドルフが、ゲートの脇にある通用口から堂々と中に入っていく。管理事務をこなす上での便利のためか、鍵はかかっていないようだが、いくらなんでもこれは……。

 

「ルドルフ。もう営業はとっくに終わってるらしいぞ。ほら、そこの案内にも十九時までって」

 

「知ってるよ。他に邪魔の入らない、この時間帯をあえて狙ったのだから。まだ終業というわけではないし、ちゃんと許可も貰っているんだ。さぁおいで、トレーナー君」

 

そう説明しながらルドルフが指差す先では、一台の監視カメラがしっかりとこちらを捉えている。

よく考えれば、閉場後だからこそ、こんな開けっ放しで放置しておくわけがない。平屋にも動きはなく、詰め所らしき建物にも動きがないあたり、彼女の言っていることは本当なのだろう。

 

「…………分かった」

 

差し伸べられた手をとって、私も通用口からスタジアムの敷地内へとお邪魔する。

入り口からもアスファルトの道が伸びていて、真っ直ぐ進めば地下通路に入った。そこをしばらく歩き、ホールに出ればそこは吹き抜けになっていて、最上階へと螺旋を描くように階段が続いていた。

誘導灯に照らされた標識の案内によれば、そこを昇っていけばそれぞれの階層の観客席に出られるらしい。レースを観戦する者は基本的に上へ行くのだろう。反対に、このまま地上を進めば更衣室やシャワールームといった、競技者用の施設に入ることが出来るようになっている。

 

私達にとって用があるのもそこだ。

しんと静まり返った構内を並んで歩いて、着替えもシャワーも全て不要と、そのままスタジアムの中心に広がるターフへと降り立つ。

 

鰯雲もすっかりどこかへ流されてしまったようで、なに一つ遮るもののない夜空の下、芝の真ん中に立てば年甲斐もなく心が弾む。

それはウマ娘の感性に基づいた、のびのびと走れる場所を一人占め出来ているという満足感なのかもしれないし、あるいは普通なら立ち入れない場所にいることへの、子供じみた優越感なのかもしれない。

どちらにしても、気分の良いことに変わりはなかった。

 

「おや、ご機嫌かいトレーナー君」

 

「え?」

 

「ふふ。尻尾が楽しく揺れているよ。耳だって……ほら」

 

ルドルフの長くほっそりとした指に優しく撫でられて、ようやくそのことに気がついた。

本人は隠しているつもりでも、ウマ娘は耳や尻尾から感情が漏れてしまう。そのサインを見逃さずキャッチするスキルはトレーナーとして初歩の初歩だが、こうも自然に動いてしまうものだったのか。

暢気に感心すると同時に、常日頃から完璧にそれを制御しているルドルフの精神力に改めて驚異を覚える。

 

弄るという程のものでもない、そっと縁をなぞり上げていくような触り方であるが、痺れるような擽ったさがてっぺんから駆け巡った。

ウマ娘の耳は敏感だ。ヒトよりずっと大きく、外側に張り出していながら、急所と呼ばれるぐらいには感覚が鋭く、ルドルフのようにピアスの穴を開けている者すら少ない。遊び半分で刺激することのないよう、義務教育の過程で口煩く教わることだ。それでいながら、こうしてスキンシップの手段としてとられることもあるらしいが。

 

「くすぐったいよ」

 

「ああ、すまないな」

 

身をよじる私にくすくすと笑いを溢しながら、彼女は軽やかに身を翻してコースのスタートラインへと歩いていく。

なにをするつもりか、なんて今さら聞くまでもないか。私もその背に続きながら、軽くストレッチで体をほぐす。

 

 

ラインに並び、構えをとると、全く同じタイミングでスタートをきった。

客観的に見れば、私がルドルフに合わせる形。しかし数え切れない程見てきたその踏み込みには、考える間もなく反射的に足がついていく。

 

 

ナイターすら機能していない中では、隣を走るルドルフの姿はよく見えなかった。いくら夜目に優れると言ったところで、この暗闇にウマ娘の速力があわされば、位置を捉えるだけでも一苦労となる。

きちんと整備されたターフの上であるから、足を取られるような障害物こそないものの、まだ馴れていない私にとっては視野を広くもつ余裕がなかった。

 

にも関わらず、ルドルフは徐々にペースを上げていく。

彼女の卓越した技術のなせる技か、不思議なことに私はそのペースアップにもなんとか食らいついていけた。走るというより、走らされているといった感じで、引き摺られるかのごとく真横を駆ける影に並ぶ。

じわじわと、真綿で首を絞めるような変化に呑まれている内に、軽く流す程度だった並走は全力疾走へと変貌を遂げていた。模範的なフォームを崩さず半歩前へ飛び出した皇帝を、私は限界寸前の前傾姿勢で追い掛ける。

 

ひゅっと、息をいれる呼吸が聞こえた。

その瞬間、初めてルドルフの姿勢に現れる変化。それは疲労に伴うフォームの乱れなどではなく、彼女がコーナーを曲がった最後の直線、差し切るにあたって披露する構え。上半身を前へと傾けつつ、顎は上げたまま視線を水平に保つ。

あらゆる能力が高水準でまとまっているルドルフだが、仕掛けの巧みさと末脚の爆発力は、その中でも突出している。いつも観客席から見守っていたその威力を間近で捉えて、その猛威に心が折られてしまいそうで。

 

それでも止まれない。ひとたび息を合わせてしまったが最後、落伍すら私には許されなかった。なまじ彼女のことを知り尽くしているばかりに、その本気についていける。ついていけてしまう。

無情にも、体はその感覚に馴染んでいく。破裂寸前の熱を内に秘めたまま、私はほんの0.1秒にも満たない刹那、彼女と同じ世界を見て―――

 

 

「はい、ここまでだトレーナー君」

 

倒していた上体を、滑らかに元通りに戻していくルドルフ。

淀みないその所作からは、微塵も疲れが感じられない。普段の半分にも満たない距離しか走っていないのだから当然だろうが。

 

己の限界を超えたスパートの果てに、思うように立て直せない私は、あえなく前のめりに芝へと倒れかかる。片足が虚空を掻いたその瞬間、優しく抱き止められた。器用に重心を動かして、衝撃を受け流すルドルフ。

それでも全くの無傷では済まないだろうに、些かも怯んだ様子を見せない。

 

「さて。なにか掴めたかな、トレーナー君」

 

「……ん。たぶん」

 

「その感覚を忘れてはいけないよ。きっと数ヶ月後、君の助けになるだろうから」

 

あくまで飄々とした口調のまま、彼女はそうぽつりと私に告げた。

 



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最終章
夢だけが救いだった


 

『皇帝』とはなんだろう。

 

レースにおける絶対的な強さ。そしてそれだけに満足せず、常に全てのウマ娘の幸福を願って走り続ける覇道。シンボリルドルフというウマ娘の在り方を、極限まで圧縮して言語化したのがそれなのだと、かつてエアグルーヴが言っていた気がする。

もっとも、幼い頃の私はこの異名を自ら名乗っていたものだったが。それが今では一つの象徴として扱われるようになったのは、やはり彼女の言っていた通り、この五年間で私が積み上げてきた実績と、追い続けてきた理想によるところが大きいと思う。

 

『全てのウマ娘が幸せになる世界』なんて、あの頃の私が聞いたらなんと言うだろうか。悪い意味で大人びていたというか、擦れていた私のことだから、世間知らずの夢物語と一笑に付していたに違いない。強者の傲りだと、かつて多くの者がそうしたように。

それでも、トレーナー君だけは見限らずについてきてくれたし、私にとってはただそれだけで十分だった。皇帝の杖はお飾りなどと、口さがない者達は揶揄するが、私の道は彼なくして成立し得ない。

 

 

そんな彼でも、私の理想の原点は、あの一週間のことは知らない。記憶していない、と言った方が正しいか。

あまりにも数奇な成り行きの結果、彼がウマ娘へと成ってから早いもので五ヶ月と少し。季節が夏を飛び越え、秋を迎えたこのレース当日になっても、あの記憶は戻らなかった。

 

 

口惜しく思う反面、それで良かったのかもしれない、とも考えている。『皇帝』たる私の根源に立ち返ってみれば、ほんの戯れに名付けた『彼女』の喪失が根幹にある。であるなら、青天霹靂とそのウマ娘が戻ってきた以上、私が私の理想を掲げる動機づけ、目的意識は一体どこにあるのだろうか。

 

誰に強いられたわけでもなく、他ならぬ自分自身の意思でやってきたことではあるが、しかし決して楽な道のりではなかった。それは恐らく、この先も変わらないだろう。『彼女』との約束という、唯一にして最大の理由が覆ることで、心が折れてしまわない自信がなかった。

仮にそうなったところで、きっと誰も私を責めないだろう。シリウスに至っては、むしろ歓迎するかもしれない。でも、道半ばで投げ出してしまえば、これまで私と歩いてくれたトレーナー君と、なによりターフで戦ってきたライバル達にどう申し開きをするというのか。自縄自縛と言ってしまえばそれまでだが、今さら後に退けるわけがないのに。

 

一生そのままで、なんてあまりに身勝手な頼みは、とっくの昔に彼本人の口から拒絶されている。

だから私はもういい加減、『彼女』への未練を断ち切るべきなのだ。なんにせよ、宙ぶらりんのままでいるのが一番良くない。もっともオカルトはカフェの領分なので、私に出来ることなどたかが知れてるのだが。

 

 

そう物思いに耽っていると、いきなり隣から脛を蹴っ飛ばされる。

 

「痛っ」

 

「ゲートで悠長に考え事か。皇帝サマにとっちゃこんな非公式試合、上の空でも余裕ってわけだ。恐れ入ったぜ」

 

「……レース直前の暴力行為は永久追放処分に値するぞシリウス。そう言えば君は以前、パドックでも騒ぎを起こしていたな」

 

「はぁ?何年前の話してんだよ。そういや最近、昔の話ばっかするようになったなお前。まさかもう頭にガタが来たのか」

 

つま先でアスファルトを小突きながら、しきりにゼッケンの位置を気にしているシリウス。私も彼女も、今日は勝負服ではなく体操服姿となっている。

G1でもないので当たり前の話なのだけども。

 

「どうした。今日の君はいつにも増して饒舌じゃないか。考えるより先に舌が動くのか、そもそも考えてすらいないのかな」

 

「ハッ。普段の自分を棚に上げてそれか。こりゃやっぱりアタマに難があるな。頭でっかちの癖してそれじゃあ、生徒会の連中も泣くんじゃねぇか。なぁ、ブライアン」

 

「さぁな」

 

シリウスは私の頭越しに、反対側で腕を組みながら佇むブライアンにも絡んでいくが、つれない返事でやり過ごされる。私達だけで勝手にやってろと、知らぬ存ぜぬの淡白な態度。いつも通りと言えばいつも通りだろうか。

 

なんにせよ、矛先が私から逸れたのは幸いだった。

視線を真下に落とし、アスファルトに引かれた、白いラインで区切られた"ゲート"を見る。今回は運営面でのテストと改善点抽出を目的とした試走でもあるので、こぢんまりとするのは仕方ない。いざ本格的に開催するとなって、路上に発バ機を展開出来るか怪しいという点については、ひとまず脇に置いておくとしよう。

 

それでも出走する面子が面子だからか、沿道には数多のカメラマンや近隣住民の方々が詰め掛けており、第一走者の発走を今か今かと待ち構えている。

リハーサルのために学園の外周を貸し切れたのは、流石の理事長の神通力といったところだろうが、そのためにこうして世間からは盛大に注目を浴びてしまっていた。

 

今朝のウマッターで、『ポスト・レース』がトレンド入りしていたことはまだ良いとしても、その出走表までもが流出していたものだから、生徒会長としては正直かなり頭が痛い。

別に守秘義務が課されているわけでも、緘口令が敷かれているわけでもないのだが、それにしたって発表から三十分足らずで世に出回るのは、いくらなんでも節操が無さすぎるだろう。朝から理事長秘書がその出所を探っているが、万が一にも突き止められたらさてどうなることやら。

 

と、また思考に没頭している自分に気付いて、私はおもむろに頭を上げる。

 

「ん………」

 

シリウスの言葉に同意するわけじゃないが、それでも気が散っていることは否めない。

あくまで非公式試合の、それも調整段階だからレースに気が向いていない……というわけではないだろう。自分で言うのもなんだが、私はどういう事情があるにしても、ことレースにおいて手を抜くつもりは一切ない。

むしろ一つのレースの成立過程に携われるというのだから、やりがいの方が大きい。ならば私は一体、なにに心を乱されているのだろう。自己追及をどれだけ繰り返したところで、不毛な堂々巡りが続くばかり。

 

「どうした会長。やっぱりアンタは、G1でもないとやる気が出ないのか」

 

「まさか……皇帝たる者、どんなレースであろうと全身全霊で挑むまで。君こそ、熱を失ってはいないか」

 

「いいや。いつも通りさ」

 

「そう……だな」

 

そう、ブライアンはいつも通りだ。軽く腕組みし、目を伏せた姿はやる気が無さそうに見えなくもないが、彼女の場合これが自然体だ。シリウスについては、これは言うまでもないだろう。

結局、おかしいのは私だけだということか。ブライアンに限らず、他の選手達の態度に不満を抱いているわけでもない。

 

ざっと、横一列に広がったウマ娘の顔を確かめてみる。昨夜、事務局から上がってきた一覧から変更はない。やはり最初から勝ちは捨てて、少しでも経験を積ませようと割りきったトレーナーが多いのだろう。重賞入着ラインが大半を占める中、一人だけ目立つ顔があった。

偶然まとまった私達三人から何人か挟んだ向こうで野次に反応しているのは、芦毛を腰まで伸ばしたウマ娘……"白い稲妻"タマモクロス。

 

今回のレース、駅伝という団体戦の形式をとる以上、『順番』という新たな焦点が作戦に浮上する。どの区間を走っても際立った不平等が生じないよう、コースそのものに調整は図られているものの、『誰が相手になるか』という点は運営によるコントロールの範疇ではない。

他のチームの出方を予測して、極力不利にならないように、あるいは有利をとれるように順番を考えるのも、トレーナーとしての手腕の見せ所。トレーナー君が以前、参加予定のチームから要警戒ウマ娘を抽出していたのもその一環である。そしてタマモクロスは、そこで名前の挙げられていた内の一人。

 

「タマちゃ~ん!こっち見てぇ!」

 

「じゃかあしい!なぁにがタマちゃんじゃコラァ!ちょっ、やめぇや、指ぃないなっても知らんど!」

 

「かわいい~!」

 

「~~~~ッ!!!」

 

道を塞ぐように横一列に並ぶ中、ちょうど沿道手前の一番端っこにいるためか、ガードレールの向こう側でたまたま固まっていた女性陣から強烈なラブコールを浴びている。

人当たりが良く、小柄な彼女はよくこうして絡まれている。それに一々反応してやるあたり、なんともまあ律儀なものだと感心する。それと同時に、トレーナー君の読みがある程度当たったことも悟る。

 

彼は先日、仮に他のトレーナーが勝ちを狙いにいくとしたら、きっと最高戦力を前半に配置したがるだろうと言っていた。そして自分も同じく、私とシービーをそれぞれ一走と二走に固めて配置しておくつもりだとも。

理由は単純で、序盤は選手間における差の開きが少ないぶん、普段のレースと近い感覚で走れるから。いわば最高のパフォーマンスを発揮できるポジションであり、そこにエースを置かない手はないのだと。

 

それに加えて、我がチームは実力のムラが極めて激しいという弱点もあった。

二人の三冠ウマ娘を主力としていながら、残りはG1すら未経験であり、しかもそのうち片方はそもそも正規の入学手続きすら踏んでいない。ようするに中堅がいないのだ。このあたり、同じく三冠ウマ娘を抱えるブライアンのチームとの違いでもある。

トレーナー君と今のテイオーが、それこそブライアンやタマモクロスのような強豪とかち合った場合、致命的なロスをつけられる可能性が非常に高い。ましてやそれが序盤に起こると、チームそのものの士気にまで影響する。それは見過ごすには、あまりにも大きすぎるリスクだった。

 

本気で勝ちに行くつもりなら、の話だが。

どうやらあのスタジアムでの並走以降、彼の心境に多少の変化があったらしい。詳しいところは分からないものの、なんであれやる気が出たなら喜ばしいことだ。

まぁ、そう誘導したのは私なのだけれども。

 

私の余所見が気に入らないのか、今度は無言で踝を小突いてくるシリウス。

それを軽くいなしていたところ、前方の信号に動きがあった。ようやく全ての区間で準備が整ったらしい。肩を回し、軽く跳ねて膝の案配を確認してから、前傾姿勢に構えをとる。

トゥインクルシリーズを退き、ここ半年近くドリームトロフィーリーグに向けて身体を作ってきた。調整は完璧。心身ともに、絶好のレース日和。

唯一の懸念は、マルゼンスキーとオグリキャップの姿がないことだが。それでも前者はともかく、後者の配置には多少の心当たりがある。今年の春、初めてレースの趣旨を聞いた時から、ずっと。

 

 

信号が青に変わる。

ほんの一瞬、勢いよく開放されるゲートを幻視して。私は弾かれたように、全力でアスファルトを蹴り抜いた。



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最古参、二人

 

「ここも人がいっぱいになってきたわねぇ。そろそろ一走目の子達が近いのかしら」

 

「みたいだね」

 

隣でストレッチを終えたマルゼンが、のほほんとした口調でそう話しかけてきた。

ちょうどアタシも、全く同じことを考えていたところだ。

 

彼女の言うとおり、三十分ほど前まではまばらだった沿道も、気づけばすっかり観客で埋まっている。このタイミングで一斉に移動してきたということは、すなわちアタシ達の順番がすぐそこまで迫ってきているという前触れに他ならない。

あとどれだけ待てば出走となるか、その具体的な時間が一切分からず、自分の頭の中で試算を重ねなければならないというのは、想像以上に神経を使う作業だった。

ほんの数センチ手前でゲートが開き、同時に全員が飛び出してポジションを争う。そのルーチンに馴れきったこの身体には、待機という指示がどうにももどかしくて堪らない。

 

この点、まだそれほど場数を踏んでいないテイオーやトレーナーよりも、アタシとルドルフの方が辛いのだろうか。

それでも競技ウマ娘としての期間が長いぶん、メンタルコントロールには一日の長がある。最高のパフォーマンスを発揮できる第一陣ではなく、アタシがここに配置されたのは、ひとえにルドルフよりもさらに一年上回る経験を買われてのこと。

それと同じ理由で、アタシよりもさらに一つ先輩のマルゼンがここにいるのだろうか。仮に彼女達のトレーナーが、本気で勝ちを目指しているなら、の話だけども。

 

「ところでマルゼン、やっぱりキミに襷を渡してくれるのはカフェなのかな」

 

「全然ところでになってないわよシービー。もう、一応は敵対関係なんだから、そんな真正面から尋ねるのはお姉さんどうかと思うわ」

 

「だって、それ以外知りようがないじゃない。アタシ達はここに待機の指示だから、ウマホで実況も観れないし」

 

自分が出走する順番、つまりアタシの場合だとこの第二走のぶんだけしか、メンバーの名簿は開示されていない。それを誰かに見せたり、中身を伝達することも禁じられていた。

 

果たしてそのルールがどのぐらい徹底されているかは甚だ疑問だが。

ただ、少なくともうちはルドルフが厳しいこともあって、アタシはマルゼンと一緒に走るという程度のことしか把握していない。

 

「貴女自身はどう考えてるの?」

 

「さぁ。アタシのトレーナーによれば、先鋒には強豪を揃えてくるらしいけど……肝心のエースのキミがここにいるんだもの。わかんないや」

 

彼女のチームにおけるパワーバランスについては、詳しいところは把握していない。普段のレースならともかく、チーム対抗戦になると大いに攻略の手掛かりとなり得るため、部外者に公開されることはないからだ。

 

もっとも、勝利数や公式記録を見ればだいたいの予想はつくけども。ただ、マルゼンのチームはそのあたりの分析が難しかった。

実力がはっきり分かれているうちのチームとは逆で、向こうはとにかく層が厚い。

トレーナーならまだしも、あくまで選手に過ぎないアタシには、そこからどう戦略を立てるかについては生憎さっぱりである。

 

一応、タキオンとカフェが二人とも出走するらしいことは聞いている。

それに加えて目の前にいるマルゼンと……残りもう一人は誰だろうか。

 

「まぁ、この際だから言っちゃうけど……私のトレーナーくんも、そこまで勝ちに拘ってるわけじゃないの」

 

「へぇ。少ないともアタシの知ってる三人は、どれも粒揃いだと思うけど」

 

「一応、学園屈指の大所帯って外面はあるし、理事長の顔に泥を塗るわけにもいかないのよ。ただ、一人ぐらいは新しく入ってきた子に経験を積ませてあげたいらしくて……まぁ、私のスタートは当分先でしょうね」

 

「キセキやシャカールは?」

 

「お休み」

 

成る程、あのトレーナーもやっぱりこのレースに本腰入れていたわけではなかったか。

それでもあっけらかんとしたマルゼンの佇まいからは、不平不満はどこにも見当たらない。さっぱりした彼女のことだから、どんな事情があるにせよ、目の前のレースに集中するだけだと割り切っているのだろう。

 

なんにしても、件の新人の子は今まさにルドルフと直接かち合っているという事で、恐らく勝負にもなっていないだろうね。

アタシとマルゼンの実力は拮抗している。故に、第一走で生まれた差はそうそう埋まることもないだろう。彼女との競り合いは、このレースにおいては実現出来そうになかった。

一瞬、残念だと沈みかけた心に慌てて蓋をする。ここで気を落とすのは、一生懸命走っているその新人の子に失礼だろうから。

 

「ふぅん」

 

曖昧に頷きながら、他の子達の顔もざっと眺める。

目があった瞬間、慌てて顔を背ける子、おずおずと会釈を返してくれる子、嬉しそうにはにかむ子など反応は十人十色。一人一人に、こちらからもお返しをしてやる。

名簿を見た時から分かっていたことだが、マルゼン以外は皆、そこまでキャリアのあるウマ娘ではない。初々しいのも当然かな。

それでも経験に乏しいことと、実力不足は必ずしも直結しない。特にリギルの新顔と思われる子は、流石あの学園最難関と名高いチーム選抜試験を突破しただけあって、かなり光るものを持っていた覚えがある。……ま、うちのテイオーには敵わないけど。

 

 

ただ、それはそれとして、やっぱりアタシとは勝負出来そうになかった。

傲慢そのものな感想だけど、しかし誰の目にも明らかな事実。匹敵し得るのがマルゼンのみであり、その彼女のスタートがだいぶ遅れる見込みな以上、この第二走において私に敵はいない。

 

「ん~………」

 

「あら、なぁにシービー。こんな時に悩み事?」

 

「ん、まぁね。レースは水物とはいえ、中々思うようにはいかないものだ」

 

しかし、それが幸運なことかと言えば、決してそうとは限らなかった。

以前、トレーナーが口にしていた警戒に値するウマ娘達。まだ夏に入る前に出された情報だから、ここ数ヵ月で事情が変わっていてもおかしくないと、実のところアタシはアタシで独自に調べをつけていた。

結論から言ってしまうと、その予測は本番を迎えた現在においても通用している。すなわちブライアン、エアグルーヴ、マルゼン、シリウス、タキオンとカフェ、そしてオグリにタマモクロスあたりが立ち塞がる壁となるということ。

ルドルフとの二人がかりで、これら全てを引き受けてしまうのがベストだった。しかし現実として、アタシが処理できるのはマルゼンのみ。これは完全にブタを引いた。

 

なにより最悪なのは、カフェとタキオンとマルゼン、そしてオグリとタマモクロスが同じ陣営なことだ。

一つの区画において、一つの陣営から参戦可能なウマ娘は一人のみなのだから。

 

先ほどのマルゼンの話がブラフでないとするなら、カフェとタキオンは二人揃って後半に回され、テイオーとトレーナーにそれぞれ当たることとなる。さらにこの場にどちらもいない以上、オグリとタマモクロスについても、最低でも片方が後半に顔を見せる配置になったというわけか。

この第二走……アタシにとって最大の敵はタイムとなるだろう。後半までどれだけ時間を稼げるかが勝敗を左右する。アタシが走り終えたその後は、全てロスになるぐらいの気持ちでいた方がいい。

 

新鮮な気分だ。

普段のレースなら、最初から最後まで自分のことだけを意識していればいい。コンマ数秒でも早いタイムでゴール坂を駆け抜けること。ただそれだけを考えていれば良かった。

レースというのはどこまでも個人競技で、同じチームの仲間であっても一度ターフで相まみえれば敵同士。勝敗に自分とはなんら関係のない他人の実力が絡むこともなかったし、ゴール坂を抜けたその先のことを勘定に入れる必要もなかったのに。

こうしてチーム全体に向けて視野を広く取り、各々の立ち位置とやるべきことを推考するのは、どちらかと言えば選手ではなくトレーナーの領分。それはたぶん、アタシよりルドルフの方が得意とする所だろう。

 

あるいは、そういった新しい視点を持たせることこそが、このポスト・レースに隠された真の目的なのかもしれない。

トレーナーとしての実力だとか素養だとか、そんなことをやたらと強調していたのも、彼らの視点をアタシ達に意識させるためだったのだろうか。なんにしても、その真意については理事長のみぞ知る。

 

 

そう思考に耽っていると、急に道端のざわめきが大きくなった。中継でレースの動向を追っていた観客達の視線が、一斉にアタシ達の後ろを向く。

それにつられて振り返ったとほぼ同時に、耳に届くのは地面の揺れるような足音。やがて、緩やかなカーブの向こうから待ち望んでいた姿が見えた。

 

「あっ、やっと来たわね」

 

「うん、ようやくだ。先頭は……やっぱりルドルフだね。ここまでは予定調和かな」

 

ただ、十分に余裕があるわけではない。

迫ってくるルドルフのさらに向こうには、後方一気を仕掛けるとブライアンとタマモクロスの姿も見える。

カーブを最終コーナーになぞらえ、お互い末脚勝負にもつれ込んだ結果、ルドルフに軍配が上がったというところだろう。その二人からやや遅れる形で、順調に追い上げるシリウスも確認出来た。

流石の皇帝も、タマモクロスとナリタブライアン、そしてシリウスシンボリの三人を完全に振り千切るまでには至らなかったか。

 

それでも一気に三人を相手にしてくれたのは有り難いが、ブライアンが間近に迫っている以上、全く油断はならない。

彼女の所属するリギルは一人一人のアベレージが高い。もっと差をつける必要がある。ルドルフに変わって、ここでアタシが徹底的にすり潰しておくこととしよう。

 

 

これでシリウスシンボリとナリタブライアン、マルゼンスキー、アグネスタキオンとマンハッタンカフェ、そしてタマモクロスのポジションは割れた。

あとはエアグルーヴとオグリキャップ……さて、キミ達は何処にいる?

 

勝たなければならない。勝ったところで、トレーナーが元に戻るかは分からないけど。ただ、件の『お友達』の目的が走ることならば、最初から勝ちを狙わない不甲斐ないレースなど許さないだろう。

彼をあんな姿にした輩の希望を叶えてやるのは癪だけど……勝負するからには勝ちたい、というのはアタシだって同じだ。

 

 

「シービー!これを……」

 

「いいよ!投げちゃって、もう!!」

 

助走をつけつつ、ルドルフから襷を引ったくるように受け取る。

それを肩にかけ終わるのも待てないまま、アタシは一目散にアスファルトを駆け出した。

 

「行ってこい、シービー!!」

 

「うん!」

 

そう言えば、気になることが一つだけ。

 

アタシがトレセンで二年目を迎えたばかりのこと。

ルドルフとトレーナーの取り合いをしたことがあったけど、その成り行きとして、彼女の過去についても本人の口から聞いていた。それを踏まえた上で、ねぇルドルフ……キミは、本当にトレーナーをヒトに戻す気でいるのかな。

 

そしてトレーナーも……キミはヒトに戻りたいと、本気でそう思っているの?

 



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芦毛の怪物

競技ウマ娘にとって、走ることは存在意義そのものだと言っても過言ではない。

故に、どんなレースであっても手抜かりなく走る……というのが理想であるが、しかし現実とはままならないもので、どうしても注ぐ力の配分が必要となる。

 

例えば私もトレーナーとして、自分の担当するウマ娘を他チームとの並走や模擬レース、エキシビションマッチなんかに送り出すこともあるが、そこでは当然、全力を出させるようなことはさせない。

競技ウマ娘が本気で走れる機会というのは、実のところかなり限られていて、何ヵ月にも渡る綿密な調整とそれに沿ったトレーニングの果てに、万全に身体を仕上げてようやく望めるものなのだ。そんな貴重な機会を、非公式試合などにむざむざ費やさせるトレーナーなどいまい。

レースについては誰よりも真摯なルドルフですら、それに不服を示さず従ってきた通り、これは決して手抜きではなく合理的な取捨選択の結果である。

 

 

その事実は、今日このレースにおいても変わることはなかった。

いくら世間からの注目を浴び、観客やマスメディアが集まったところで、所詮非公式のレースに過ぎないのだから。各チームの主力級はさておき、さほど認知を得られていないウマ娘にとっては、これに乗じてファンを稼ぐ絶好のチャンスといった程度か。

良くも悪くもパフォーマンスの意味合いが強いという要素は、幸いにも今の私にとっては有利となる。

恐らくこの試合、それなりに作戦を立てて、言うならば本腰を入れて挑んでいるトレーナーは私ぐらいではなかろうか。それだけで勝敗が決まるわけでもないが、その意気込みの違いは付け入る隙にはなるだろう。

 

「―――などというのが、恐らく君の見通しだろうねぇ。無理もない。だってそうでもなければ……仮に私達が本気を出した場合、君では土台勝負になり得ないのだから」

 

「その"私達"とは、君のチームのことか。それとも、このレースに参加しているG1ウマ娘の総称か……どっちなんだ、タキオン」

 

「ご想像にお任せするよ。どちらでも、君にとって心地よい方を選びたまえ。さっきの見通しが的確なのか、それともただの楽観視に過ぎないのかについても、同様にね」

 

私のすぐ隣に並び、風に栗毛をたなびかせながら。タキオンはどこまでも飄々と、唄うようにそう囁きかけてくる。

お互い襷を肩にかけ、最終区間の四分の三あたりを終えたところ。学園まで続くなだらかな上り坂を、ペースを一定に保ちながら駆け上がっていく。

次々と先回りしているのか、沿道に顔を並べる観客の姿は一向に途切れる兆しが見えない。誰も彼もが口々に私の名を呼び、こちらにカメラのシャッターを切っていた。それを横目にしながら、タキオンはにたりと揶揄うように唇の両端を引き上げる。

 

「ほら、見たまえよトレーナー君。あの観客達のはしゃぎっぷりを。無名もいいところな君が、この私と競り合っているのが余程おかしいらしい」

 

「………ふん」

 

なにが競り合っている、だ。私と君は勝負すらしていないと言うのに。

『前半で極力距離を稼ぐ』のが私のチームの作戦方針である以上、最終区間の序盤から彼女に追い付かれた時点でそれは既に破綻していた。にも関わらずこうして横に並べているのは、そもそも最初から彼女に追い抜くつもりがないからだ。

 

こうして悠長に会話を投げ掛けてくるあたりからも、タキオンが全く本気を出していないことは明らかである。

勿論、ただ無駄話をしたがっているわけではない。追い付かれて以来ずっと、彼女の視線はしつこく私の全身……特に脚へと纏わりついてきて、それと同時に手首に嵌めたリストバンドをしきりに弄っている。おおかた、そこに計測機械の類いでも収納しているに違いない。

彼女がらしくもなく、このレースに積極的な参加の意思を示した理由。それはこうして限界まで距離を詰めながら、パーフェクトというウマ娘の『実戦データ』を採取することにあった。なんの記録も残せなかった例の薬のリベンジを、ここで果たすつもりらしい。

 

「カフェ相手なら、こうはならなかっただろうな。どんな手を使ったのか知らないが、この区間で君が相手なのは、運が良かったと言うべきか」

 

「そうとも。私がカフェを利き紅茶で下さなければ、トレーナー君にはとっくに勝ち目なんて無かっただろう。感謝したまえよ」

 

「カフェは怒ってただろうね」

 

「それはもうカンカンさ。見ておくれよこれ、襷を渡される時に引っ掛かれた痕だ」

 

半袖を捲り上げて、隠れた左上腕を見せつけられる。そこには、引っ掛かれたという表現からは余りにも外れた、赤黒く鬱血した手の痕が浮かんでいた。

 

「うわ……」

 

襷の受け渡しにおける接触など、ほんの数秒にも満たない。単なる肉体的な接触で、ここまでの傷を負わせることなど不可能である。

お友達がいなくなっても尚、カフェの行使する異能は衰える兆しがないと言うか……むしろより強化されているような。そもそもこのレースに参加した動機も、私の中にいるお友達への意趣返しだったと記憶している。

 

いくらデビュー前のテイオーが相手だったにせよ、前半にルドルフとシービーが稼いでくれた距離を一人で詰めきっただけはある。それでもなんとか、先頭だけは死守したテイオーをここは褒めるべきだろう。

トレーナーにやる気はなくとも、カフェ本人は……ともすれば私以上にやる気に満ちていた。そしてそんな彼女のプレッシャーに屈して、リギルの三番手が沈んだあたり、それすらもちゃっかりと私達の利益になっている。

そのツキの良さを、今さらここで発揮されても正直納得いかないのだが。

 

それに、そんな幸運の恩恵もまた、いつまでも永持するわけではない。

 

タキオンの腕を確認する際、横に向けた視野の右端に、こちらに徐々に迫ってくるエアグルーヴの姿が映った。

流石女帝と言うべきか、前区間の凡走により一度は開いた差を、再度着実に追い上げてきたというわけだ。

 

「チッ……」

 

軽く舌打ちと共に、また一段とペースを上げる。

この最終区間だけは特別で、最後のコーナーと直線はトレセンの模擬レース場が舞台となる。すなわち、この坂を上りきった先は学園の門へと繋がっていて、そのまま敷地内を抜けて最後はアスファルトからターフへと突入するわけだ。

極力直線のルートを選んでいるとはいえ、それでも門から模擬レース場の入り口までは、何回か急角度で曲がる場面がある。そこではどうしてもスピードを落とす他なく、追い抜かしもままならないだろう。

 

つまり、残された勝負所はこの上り坂およそ百メートルと、最終コーナー並びに最後の直線のみ。

特にこの坂道でエアグルーヴに捕まらなければ、ターフまではこの順位を保つことが出来るが、逆に抜かされてしまった場合……恐らく、形勢逆転の機会はもう二度と訪れない。

 

はっきり言って、もう余力は殆どない。たとえ本気でないにしても、かのアグネスタキオンにここまで食い下がれただけでも十分だ。自分で言うのもなんだが、私には才能があったのだろう。

本来生かす機会も……そもそも目覚めることすら無かったであろう才能。それを実感し、久々に地を駆ける感触に、胸が高鳴らないと言えば嘘になる。だが、あの女帝を前にして、そのような感慨に浸るなど自殺行為に他ならない。

 

腕を振るリズムを組み換え、一気にスピードを速くしていく。

周囲の観客が沸き立ち、それすらもみるみる後ろに流れていくなか……視界の隅っこで、タキオンが失速していくのを捉えた。

 

「……タキオン?」

 

「ああ、お陰さまで実のあるデータは回収できた。これ以上脚を使うのは御免だからね。なにより、彼女(・・)の末脚に付き合うつもりは今はない」

 

「彼女?」

 

ちらりと後ろに流された、タキオンの視線を追う。エアグルーヴの肩を飛び越えて、さらに後方に抜けた先。初めは僅かな点に過ぎなかったそれは、あっという間に輪郭を形成していき……坂道を悠然と駆け上がってくるのは、長い芦毛を靡かせる怪物。

 

「オグリ……」

 

「長きに渡る実験への協力、感謝するよトレーナー君。そして頑張ってくれたまえ。精々、健闘を祈っているよ」

 

気楽にそう言い残して、タキオンはあっという間に後ろへと落ちていった。すぐに横に並んだエアグルーヴが、一瞬なにか言いたげな目で彼女を見ていたが、結局無視してこちらに焦点を合わせてくる。

タキオンの硝子の脚は学園でも有名な話だし、ましてやアスファルトの坂道で無茶はさせられないという判断だろう。なんにせよ、これでエアグルーヴの敵となるのは、単身先頭を行く私のみ。さらに後方、オグリキャップの射程にも収まりつつある。

 

 

タキオンのことを気にしている余裕はない。

私は辛うじてエアグルーヴを振り切ったまま上り坂を終えると、さらにもう一段ギアを入れて学園の門へと飛び込む。

 

蹄鉄を叩きつける感触が、アスファルトから石畳へと移り変わり、そこでもさらに気が散ってしまう。レース経験のない私ですらこうなのだから、百戦錬磨の二人にとっては尚更だろう。

私の後方十二バ身のあたりで、二人ぶんの足音が激しく駆け引きを繰り広げているのを背中で感じる。

これまでにない長距離、慣れない足元、至近距離の観客、規格外のコース。これだけ例外が積み重なれば、勝負において平常心を保つことすら難しく、ましてや競り合いに持ち込まれれば、心が挫けて進路を譲ってしまっても不思議ではない。にも関わらず、あれだけの削り合いを展開できるのは、彼女達が競技ウマ娘として最高峰の実力を備えるがためだろう。

本当に、坂道で先頭を維持できたのは僥倖だった。あのぶつかり合いに巻き込まれでもしたら、私はいの一番に脱落していたに違いない。

 

門を潜り、学園の大通りを抜けて、テープの張られた遊歩道を駆け抜けていく。

静かに走るべし、なんて学則も今この瞬間は通用しない。けたたましく足音を響かせながら、石ころ一つない整えられた石畳を一目散に駆け抜けていく。

ここまでは作戦通りだ。作戦通り、無理やり追い抜かそうと試みる気配はない。

 

「っ……!!」

 

しかし、余りにも重厚な、押し潰されそうな程苛烈なプレッシャーが、どす黒くとぐろを巻いて背後からのし掛かってくる。

重くベタついた、乾留液を彷彿とさせる圧。首筋に纏わりつき、背筋を流れ、足首を容赦なく絡めとってくる。脚を引かれる一方、心臓は狂ったように早鐘を打ち鳴らし、まるで思うように進めない夢の中、恐ろしい何かに追われている時のような。

 

これは……どっち(・・・)だ?

 

 

遊歩道を走りきり、勢いを殺さず模擬レース場へと飛び込んだ。

地面が石畳からアスファルトへ、そして芝へと目まぐるしく変わる。その変化に呑まれないよう、注意の幾ばくかを下方へと裂きつつも、視線はあくまで真正面を向いたまま。

 

脇目も振らず最終コーナーに突入し、それをちょうど半分曲がったところで、正面に映るのはターフを望む観客席の石階段。

ひしめく観客の押し退けるように、最前列の落下防止柵に取りついているのはルドルフとシービー。

たぶん、こうなるよう計算して位置取っていたのだろう。目があった瞬間、素早くサインを送ってくれる。与えられた情報は、私の真後ろにつけたウマ娘の枠番と、その間の距離。

 

この瞬間において、残された距離は七馬身。

そして二番手につけているのは、この尋常じゃないプレッシャーの元凶は……

 

……"芦毛の怪物"オグリキャップ。

 

エアグルーヴとの競り合いを制したか。

ならば、このコーナーを曲がり切った最後の直線は、私と彼女との末脚勝負になる。

 

タキオンは既に戦線から離脱し、エアグルーヴも態勢を整え、再加速するまでにはまだ時間がかかる。オグリの差し込みを妨害する者はいない。つまり私に与えられたハンデは、ルドルフとシービー、そしてテイオーが残してくれたこの七バ身のみ。

余りに心もとないそれすらも、スパートに移行する手前、このコーナーの時点でじわじわと詰められつつある。

 

濃厚な気配が輪郭を纏い、ゆっくりとその本体がせり上がってくる感触。

たぶん、振り向けばもう、呼吸の音すら聞こえる距離にあの怪物が迫っているだろう。そうだ、なにも勝負は最終直線でつけなければならないというルールはない。オグリは末脚さえ使わないまま、このコーナーで決着をつけるつもりなのか。

 

 

それを悟った瞬間、諦めが心を蝕んでいく。

後ろに落ちていくタキオンの姿が脳裏をよぎり、私もまた望まないまま、それに引き摺られかけて―――

 

「―――!!?」

 

―――ふと、自然に足が動いた。

 

後ろ向きな心とは正反対に、前へと、そして内側へと。姿勢は前傾に、走法も変わる。ラチに切り込むようにして、速度が上がると共に、進路から無駄を削るがごとく。

自分で走っていて惚れ惚れするような、完成されたコーナーリング。前方の観客席から爆発が轟いた。

 

後方で、オグリの勢いが僅かに衰えたのが分かった。内側から抜け出そうとしたところ、進路を塞がれたのか。これで、彼女の最初の仕掛けは潰せたこととなる。

距離も僅かに稼げただろうか。次の攻勢まで少しでもその差を広げようと、私はがむしゃらに速度を上げながらコーナーを曲がりきった。

 

そして、最後の直線へと。

遠心力で傾いていた上体を建て直し、ゴール板を直線上に捉える。重心を落とし、スパートを見据えて一歩二歩進んだ瞬間。

 

 

「逃がさん!!!」

 

―――――背後で、地面が爆発した。

 



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天と地の狭間には

 

「逃がさん!!!」

 

地面が爆ぜた。

そう錯覚する程の、音と衝撃が芝を伝って反響する。初めて体験する感覚だが、かの怪物の本領が解放されたのだと、誰に言われるでもなく理解した。

 

これ自体も、予測できてはいたことだ。そして予測し得る中で、およそ最悪と言っても良い状況。

このレース、末脚という武器を最大限まで発揮させようとするならば、選ぶべき区間はこの最終区間を置いて他にない。

他の区間の終わりと異なり、襷を繋ぐため速度を落とす必要もなく、ただゴール板を一番に駆け抜ければ良いのだから。おまけに地面も踏み慣れた芝となれば、殆ど普段のレースと変わりなく、最高のパフォーマンスを発揮できる。

だから、オグリキャップを前半ではなく、この最終局面まで温存するという戦略を取ってくることも、可能性の一つとして頭に入れていた。ただしそれは、彼女一人でタマモクロスを除く二人ぶんのロスをカバーできるかという、ある種の賭けも含むものだったが……結果として、いま彼女は私の真後ろにつけている。

 

直線に入った私に遅れること数秒後、コーナーを曲がり終える前後で仕掛けてきたオグリキャップ。

ここから先、詰められた距離を取り戻すことは叶わない。私もまた、それに数瞬遅れながらもスパートをかける。お互い真正面にゴール板を捉え、あとは純粋な末脚勝負。

ふと、背後の気配が小さくなる。遠退いたのではなく、これは姿勢を変えたのだろう。低く、地を這うがごとき彼女独特のフォーム。ルドルフは今でもそれに慣れないと言っていた。確かに、これは感覚が酷く狂う。

 

模擬レース場の直線は短い。

既に中間地点へと到達し、ゴール板はあと少し、手を伸ばせば届きそうな程。

 

目の前に広がるのは、遮るもののない一面の緑。

その先頭の景色から目線を落とし、私は限界まで身体を前に倒す。走るというより、転げ落ちるように前へ前へと。一歩間違えれば、顔面から芝に突っ込みかねない危険な走法。

それは真後ろの彼女と一見類似しているようで、しかし比べようもなく精彩を欠いていた。速度も安定性にも劣り、その証拠に、怪物は私の喉元に指をかけようと迫っている。

呼吸すら届くその至近距離は、恐らく三バ身も残っていない。

 

駄目だ。ただ単に、身体を前に押しているだけでは振りきれない。この短い直線ですら、彼女が私を捉え、追い抜くには十分すぎる。

もっとなにかを。より洗練された、この残りの距離で己の全力を出し切る手はあるか。極限の集中の果てに、走マ灯を巡るがごとく記憶の階段を逆さまに転げ落ちていく。何百分の一秒で数ヶ月を追体験し、思い至ったのはいつかの春の夜、ルドルフと二人きりでこなした並走。

私なりのやり方では駄目だ。がむしゃらに加速したところで歯が立つ相手ではない。

経験が足りないというのなら、誰よりも勝利を重ね続け、磨き上げられた走法を模倣するのみ。

 

伏せていた顔を上げ、背筋に一本針を通すイメージでぶれていた上半身を固定する。先頭を走る以上、私は風の抵抗をもろに受けることとなる。極力正面に対する面積を小さくして、脇を締めた。

真似るのは初めてだが、数えるのもバカらしくなるほど観察してきただけあって、自分でやっていておかしくなるぐらい型に嵌まっているのが分かる。

 

『いずれ役に立つ』と彼女は言っていたな。

 

聡いあのウマ娘のことだ。

あの時点で既に、こうなることを見越していたとしてもおかしくない。

 

顎を上げ、気道を確保し、肺一杯に空気を吸い込んだ。

瞬間、鮮明に映える視界。絡み付いていた圧は霧散して、嘘のように脚が軽くなる。景色が背中に飛び去り、感じられるのは芝と人の匂いだけ。歓声も、足音も、風の音も聞こえない。

不気味に覆い被さる大空と、たわむような緑の大地の真ん中で。まるで、世界が自分一人になったような。

 

酩酊のような心地好さに浸っていると、ふと、懐かしさにも似た感傷が込み上げてくる。

おかしな話だ。きっかけは覚えていないが、走ることの叶わない私が、この感覚を知っているわけがないと言うのに。

 

 

「     」

 

 

それでも、確かに昔、こんなことがあったような。

ヒトの領域から外れたこの速さ。私はそれを知っていた。

覚えていない。でも知っている……違う、思い出したんだ。たった今、ここで。

 

 

あの時も、こんな雲一つない空の下だったか。もっと陽射しは強かったけど、それでも私には、今日この瞬間があたかもあの日の焼き直しのように思える。二人きりの競り合いで、誰かに追われていたことも同じ。

そうか、きっと、彼女の道はそこから始まったんだ。これまで何度かそれを尋ねて、結局答えは貰えなかったけど……そう言えば、一緒にレースをするという約束も、私は保留にしたままだったな。

 

フォームを維持したまま、少しだけ首を左に。

地を泳ぐような低姿勢で並びかける銀色の影が映って……そしてその向こうにほんの一瞬だけ翻る、ブラウンの長髪と淡い緑色の宝石。

 

告白すると、初めて君と会ったあの部屋で、交わした約束はただの欺瞞だった。

それでも、これまで駆け抜けてきた五年間を前にして、今さらそれが本心ではなかったなどと、誤魔化すことは叶わない。君と本気のレースだなんて、いつか誰かが笑ったそんな世迷い言も、ひょっとして今なら実現出来たのだろうか。

 

 

刹那の逡巡を終えて、私は頭を元に戻す。

 

 

ゴールまで残り数十。

二番手との差は既にクビ程度。

 

お互い加速は止まる所を知らず、それでもどうにか拮抗している。決着は、あと一秒と少しでつくだろう。

 

 

そう悟った私は、思考の全てを頭の中から追い出して……その下にある土ごと指で掴むように、全力で芝を抉り蹴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まァ、という訳で。お疲れさん」

 

仰向けに天井の換気扇を見つめながら、医務室のベッドに横たわる私の顔に、ふと影が差し込む。

否、そう錯覚しているだけだ。実際には、実体を持たない彼女に影など発生し得ないのだから。ばさばさの黒鹿毛を無造作に垂らしながら、帰って来たお友達はそうぶっきらぼうに私を労った。

 

こちらを覗き込む顔は無表情で、喜びや満足感の色はない。それどころか、心なし疲労が溜まっているようにすら見える。幽霊の癖に。

不本意とは言え、せっかく走らせてやったのだから、少しはそれらしい態度を見せてくれないとこちらとしても張り合いがない。

まぁ、レースを終えてまる一日……私がこうして眠り呆けている間、カフェにこってりと絞られたらしいので、むしろ折檻が効いていることを喜ぶべきだろうか。

こんなわけのわからないトラブルを何度も引き起こされては、こちらとしてもやってられないのだから。

 

それに、私の災難はまだ終わっていない。

 

「おい」

 

「……んだよ」

 

「んだよ、じゃない。どういうことだ。おい、なんで私の身体は元に戻っていない?」

 

そう、レースから一日挟んだ今になっても、私の頭のてっぺんには長い耳が揃っていて、尻と清潔なシーツの間ではふさふさとした尻尾が窮屈そうに収まっている。

 

腰を曲げて、すうと鼻先をくっつけるように寄せてくるお友達。普段鏡に映らない彼女だが、しかしその金色に輝く瞳には私の顔が反射している。

元々中性的との評価を貰うことこそ多かったものの、こうして瞳越しに確認出来る顔はどこからどう見ても女性そのものだった。

 

噛みつかれるとでも思ったか、お友達は眉を寄せる私から顔を離すと、飄々と肩を竦めて首を振って見せる。

 

「そう怒んなよ。だいたい、昨日のレースで勝てたのも俺のお陰じゃんか。最後のコーナーで手を貸してやらんかったら、お前あの芦毛に進路を潰されてたんだぞ」

 

「そりゃどうも」

 

「喜べよ。勝ちたかったんじゃねぇのか?だからこの数ヶ月、あんだけ必死こいて準備してたんだろ」

 

「勝ちたかったさ。だけどそれは、勝ちさえすれば元に戻れると思ったからだ。とり憑いた君が満足して、私の体から出ていくだろうと。事実そうなった……なのに、どうして私はウマ娘のままなんだ?」

 

「さァな。生憎、そこまでは俺の知るところじゃない。『There are more things in heaven and Earth…… Than are dreamt of in your philosophy』 ……俺が言うのもなんだが、お前も大概、奇妙な生き物だな」

 

「減らず口を……」

 

この事態を招いた元凶でもある彼女の、そのあんまりと言えばあんまりな無責任さに、とっさに上体を跳ね上げて掴みかかる。

それはもしかしたら、『レースに勝てさえすれば元通り』なんて、そんな根拠のない見通しが上手くいかなかった八つ当たりもあったのかもしれない。

 

なんにしても、慣れないレースで疲弊したこの身体で無茶がきく筈もなく、あっさりと躱されると逆にベッドに寝かしつけられてしまった。

 

「チッ……」

 

これでも数ヶ月にもわたる地獄の特訓で、それなりに筋肉はつけたつもりだ。

それを片手で押さえつけているあたり、どうせ素の力だけでなくいつものインチキも併用しているに違いない。私のことを好き勝手言ってくれるが、やはり一番この世界の道理を無視しているのは彼女の方だろう。

 

医務室とは言え常に養護教諭が控えているわけでもなく、今現在この部屋にいるのは私とお友達のみ。事情を知らない者から見れば、私一人で暴れているとしか見えない状況。

一旦、頭を冷やして体から力を抜くと、お友達はこれ幸いと踵を返して医務室の出口扉へと歩いていく。礼は言った以上、もうここに用はないとでも言わんばかりに。

 

「ま、どうしても知りたきゃ、俺じゃなくて別の奴に聞くんだな。あの芦毛とか。なにか勘づいてたっぽいぜアイツ」

 

そう言い残して、お友達はふらっと消えてしまった。

 

足跡を残さない以上、ここから後を追うのも難しいだろう。それにさっきの話を聞く限り、どうやら彼女は本当になにも分かっていないらしい。

 

「………はぁ……あ……?」

 

どうしようもない行き詰まりの予感に頭を抱えながら枕に頭を落とした瞬間、医務室の扉が勢いよく開かれた。

 

一瞬、お友達が帰って来たのかと思ったが、そもそも彼女ならわざわざ扉の開閉なんて面倒を踏まない。

場所が場所故に、別に誰が来てもおかしくないだろうと、なんの期待も持たないままそちらの方向へと寝返りを打つ。

 

「失礼する」

 

果たしてそこにいたのは、銀色の艶やかな芦毛を腰まで長く伸ばしたウマ娘。

頭の先は灰を被ったようにくすんでいて、さらにその手前では、トレードマークの髪飾りが蛍光灯の光を反射して煌めいている。

歳によらず落ち着いた、人によってはやや怖いと感じられるらしい、澄んだ青色の瞳が私をしっかりと見つめてくる。

 

芦毛の怪物、オグリキャップ。

お互いよく知る仲ではあるが、こうして二人きりで対面するのは……不思議と懐かしい感覚だった。

 



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未練

 

スライド式の扉を後ろ手に閉めたオグリは、かつかつと靴音を鳴らしながら私の枕元に立つ。

安っぽい、金属製のスツールを引き寄せて腰かけると、きょときょとと不思議そうに部屋の中を眺め出した。

 

「どうした?」

 

「いや……さっきまで、キミの話す声が聞こえていたから、てっきり他にも誰かいるのかと思った。私一人だけなのか?」

 

「ああ。さっきまで電話してたんだ。担当とね、来週からのメニューについて少し」

 

「そうか」

 

決して大きな声を出していたわけではない。それにしっかり扉も閉めていたし、オグリは廊下の奥から向かってきていたのだから、聞きつけられていたのは意外だった。

 

もっとも、彼女にとってそのあたりは別にどうでも良いことだったのか、ふんふんと頷くと私の顔を覗き込んでくる。

そのまま、しばしの間お互い無言で見つめ合う。話題がないわけではないのだが、彼女の方からここに訪れた以上、私が勝手に話を広げるのはなんとなく憚られた。

 

一応、オグリも私の正体については知っている。経緯については教えた覚えはないものの、ひょっとしたらルドルフを経由してなにか聞いているのかもしれない。

そのことで彼女からなにかしらのリアクションも無かったので、あくまで他所のチームの問題だと受け流しているのだろう。

 

「身体の方は大丈夫なのか。そもそも、キミはどうして医務室にいるんだ」

 

「故障したとか、そういうわけじゃない。ただ、あれだけの加速を試したのは初めてだったから……今後を見据えて、念のためね」

 

我ながら無理をしたと反省している部分はある。彼女の末脚に真っ向勝負を仕掛けたこと自体、今にして思えばかなりハイリスクな賭けだった。

仮に自分の担当がその意向を伝えてきたとしたら、私ならまず間違いなく賛成しなかっただろう。だというのに、肝心の自分自身がこんな無茶を通しているのだから救えない。

シービーの爪の不調に悩まされ、ルドルフにしても、その体調を優先して海外挑戦を回避したという苦い思い出がある。

そういった経験を抜きにしても、格上のウマ娘に強引に競りに挑んだ結果、競技者として取り返しのつかない事態を招いたというケースは多く耳にしている。

 

己の実力を弁えて、全力を出しつつも無理はしないという自制心が、私には欠けているのかもしれない。

大勝負でも掛かりきらず、頭の片隅で"次"を考えられる自制心こそが、一流の競技ウマ娘として必要不可欠な要素である。まぁ、そうだとするなら、競技者として未熟もいいところな自分が至らないのも当たり前か。

 

「トレーナーのトレーナーは……トレーナーか。なら、キミは自分でここに来たのか?」

 

「いいや。たづなさんに連れてこられた」

 

まだまだ若輩ではあるが、私とてトレーナーの端くれ。

無茶を言わせたとはいえ、それでも足や膝に余計な負担をかけることはなく、技を借りられたルドルフ本人をして、完璧なフォームだったとお墨付きまで貰っている。少なくとも試合後数時間の経過を見る限り、疲労以外の異常は見られなかった。

……なんてことをいくらか説明しても聞く耳持たず、半ば強制的にここに収容したのがあの理事長秘書である。おまけに勝手に動いた場合、学園内における私の身分は保証し得ないとまで言い添えて。

 

何気に厄介なのが、ルドルフまでもがそれに同調したことだ。

それどころか、私の疲労回復というお題目で、とっておきの治療まで用意してくれた。自称パーフェクト笹針師による、世界一安心な針治療だとかなんとか……親切を装いつつも、どこからどう見てもかつて彼女に全く同じ治療を施した事への意趣返しだろう。

 

当時は形振り構っていられなかったとはいえ、ただでさえ注射嫌いのルドルフに無断で、それもよりにもよってあのような不審人物を手配したことについては確かに申し訳なく思っている。

しかし、いまだにこうも根に持たれていたとは流石に思わなかった。一応、あの時は上手くいったのに。

 

ちなみに今回も成功はしたようで、あと三日は引き摺るかと思っていた筋肉の痛みは嘘のように霧散していた。もしかすると、レース前よりさらに快調かもしれない。

ひょっとすると、長年に渡る学園内での活動が功を奏して、あの笹針師の腕前も磨かれたのだろうか。

 

「……まぁ、しばらくは安静にしておくよ。見ての通り、私の問題はいまだに解決していない。悪戯に走ったところで、どうにかなるとも思えない」

 

「だが、聖蹄祭はあと一ヶ月もしたら本番だろう?ルドルフ達も、昨日からとても忙しそうにしているぞ」

 

「聖蹄祭……が、どうかしたのか?」

 

「……ああ、すまない。そうだったな。私はその事をキミに伝えに来たんだ。これも、ルドルフから頼まれたんだ」

 

オグリはポケットから四つ折にした一枚の用紙を取り出し、丁寧に広げてから寄越す。

受け取って見てみれば、それはレース出走依頼と、その承諾書だった。

 

このような手続きは、主にグランプリで取られることが多いが、勿論私はそんなレースに出られるような立場のウマ娘ではない。

これもまた、非公式の試合である。聖蹄祭……通称秋のファン大感謝祭において催される、エキシビションレース。その出走者はファンの希望が反映されることとなり、また有馬記念程の要件も求められないぶん、本来であればG1にすら届かないようなウマ娘であっても、時として指名が回ってくることがある。

 

それが私だというのか。

 

「昨日のレースで、キミは私に勝っただろう。そして、沢山の人がそれを見ていた。だから、ファンの間でも、キミの知名度が上がっている……らしい」

 

律儀にも、その理由について解説してくれるオグリ。

彼女もほんの一時、生徒会の事務の手伝いをしていた事があったので、その辺りの仕組みについては一通り頭に入っているらしい。あるいは、ルドルフ本人から説明を受けていたのかもしれないが。

 

「なら、オグリも出るのか」

 

「私は……出られない。すまない。その一週間後に別の大会があるから、そちらに合わせて調整が必要なんだ」

 

「そうか。まぁ、君が忙しいのは今に始まったことでもないからな」

 

「ああ。ただその代わり……ルドルフが同じレースに出る。あとはシリウスも、たぶん」

 

「ルドルフと、シリウスか」

 

トゥインクルを卒業した今、ルドルフが有馬記念に出走することはない。そのぶん年末のスケジュールにも余裕があるため、エキシビションレースへの参加も無理なくこなせる範囲だ。一応、今夜あたりにでもこちらに確認は来るだろうが。

シリウスについては、そのマネジメントは一切母の担当なのでなんとも言えないものの、その人気と実力に不足はない。

 

「あの二人は分かるが……なんだって私に」

 

「キミは確か、シンボリ出身の研修生だって……そうルドルフから聞いているぞ」

 

「ああ、まぁ、そういう建前にはなってる」

 

「その繋がりだろうって、シリウスが言っていた。シンボリの新しいウマ娘が、筆頭のルドルフ相手にどこまで戦えるのか、ファンは興味があるらしい」

 

「ああ、成る程ね」

 

そうなると、たぶん、ここで私を担いでいるのは彼女達のファン……もっと言うなら、シンボリ家に対するファンだろう。

等しく名門とはいえ、ここ最近はメジロ家の勢いに圧されている部分もあるものだから、ここで新しい風を吹かして欲しいという期待があるのかもしれない。なまじ、先日のレースでメジロマックイーンがトウカイテイオー並びにマンハッタンカフェと激闘を繰り広げたものだから、尚更。

 

なんともお気楽というか、お祭り気分というか……実際お祭りか。なんにしても、その名前が示す通り日頃のファン活動に対する感謝の企画である以上、そこに指摘を挟むこと自体野暮だろう。

 

「それに、これはトレーナーにとっても良い機会なんじゃないか」

 

「私にとっても?」

 

「キミは、昨日のレースで本当に満足出来たのか?まだそんな姿のままなのは、キミ自身に心残りがあるからじゃないのか。ウマ娘としての、自分に」

 

「私自身に……」

 

ポスト・レースで勝ちを狙ったのは、あくまでお友達を満足させるためで、そこに私の欲求は勘定に入れられていない。

 

だが、そういえば……タキオンはこの変異について、その原因は複合的だと言っていた。

つまり、きっかけであるお友達はあくまで要素の一つに過ぎず、彼女だけをどうにかしても意味がないということか。なら、私が解決すべき、私自身の問題とは一体。

 

言葉を詰まらせる私の顔を、オグリはそっと覗き込んでくる。

どうやら彼女は、それについて答えを持っているようだった。そのようなことを、ついさっきお友達も言っていた気がする。

 

「私と走っている時、キミは気が散っているようだった……私のことを、見ていないような気がしていた。これは、私の勘違いだろうか」

 

「いや。たぶん、正しい」

 

「なら、あの時のキミは一体、誰を見ていたんだ?なぁ、トレーナー」

 

 

「……キミ(パーフェクト)が本当に競争したいウマ娘とは、一体誰なんだ?」

 

 



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とある半人前の顛末

ゲートの隙間からそよぐ風に、私はそっと顔を上げた。

心地よい感覚とは、残念ながら言い難いか。それに乗って流れてきた人いきれの匂いが私の鼻をくすぐり、歓声が耳を貫く。

 

そのいずれもがこの私の、皇帝の走りを今か今かと待ち望んでいるのだと、理屈ではなく本能で理解出来た。

隣のゲートで構えるシリウスが知れば、なんとも傲慢なものだと鼻で笑われるかもしれないが、しかしそれこそが事実である。

いつだって私には絶対があった。それはトレセンに足を踏み入れてからに限らず、遠い昔、初めて芝の大地を踏んだ瞬間から。

 

勝敗なんて些細なことで、頑張った誰もが一等賞……なんて、甘ったるいお為ごかしを口にする気はさらさらない。私は勝ち続ける。これまでも、そしてこれから先も。

 

 

だから、ようやくこの日、あの敗北を雪ぐ機会を与えられたのは、やはり私にとっては僥倖だった。

 

パーフェクトには悪いが、私は勝ち逃げを許せない性格だ。トゥインクルを共に駆け抜け、記憶を取り戻した今の彼なら、そのことも理解出来るだろう。

ああ、きっと、君にとってはあくまで体の良い誤魔化しか、口先だけの約束事だったに違いない。『私とレースをする』だなんて、檻で尻尾を巻いた子獅子を誘い出す甘言に過ぎなかったんだろうな。

だけど、そんな言い訳を私は絶対に認めない。共に走るという誓い、そしてあの日から私が預けっぱなしの勝利……今日この時この場所で、総て過不足なく精算させて貰う。

 

「よぉ。今日の調子は万全かい、ルドルフ」

 

係員が全ての工程を完了させ、着々と退避に移る姿を見届けながら、私だけに聞こえる小声がそう挑発してくる。

 

そう言う君はどうなんだ、と問い返そうとして止めておく。

このエキシビションレースにおいて、私が見定める敵はただ一人だけだから。

 

そしてシリウスにとっては、そんな私の態度が尚更気に食わないのだろう。

思えば全ての始まりとなったあの日、私達の勝負に混ぜろと絡んできたのだから、仲間外れは嫌ということか。

もっとも、それはシリウスの方から勝手に言い出したことであって、私はそれに許しを出したつもりはない。私と『彼女』の勝負に水を差そうというのなら、容赦なく叩き潰すまで。

 

「聞けば昔、随分不甲斐ない走りをしたらしいじゃねぇか。そん時、この国にいなかったのが心底悔やまれるぜ」

 

「君としては、今日もそうであって欲しかったのかな?だとしたら、残念至極だと言うほかないな」

 

「そうやって調子にのって、足元を掬われないよう精々気を付けるんだな皇帝サマ。二度目の敗北は言い訳が利かないからな」

 

「私は君がこの足を掬う時を、今か今かと楽しみに待っていたんだがねシリウス。首を長くし続けて、はや数年も経ってしまったが」

 

蹄鉄の裏で、軽く芝を掻いて見せる。

 

「……なにはともあれ、私と『彼女』の邪魔だけはしてくれるなよ」

 

「フン」

 

挑発にも飽きたのか、一つ鼻を鳴らすと、シリウスはそれっきり口を閉ざした。

逆隣からひっそりと視線を送ってきていたウマ娘もまた、良くないものを見たと言わんばかりに顔を逸らしてしまう。

 

とりあえず、ゲートでの駆け引きはここで切り上げと言うことか。せめて、逆隣にいたのがこのウマ娘ではなくトレーナー君であったなら、もう少し楽しいお話が出来たのかもしれないが。

残念ながら、その姿は私からだいぶ離れた内枠にある。さしもの私でも、いくら非公式のエキシビションレースとはいえ枠番に介入することなど出来る筈もないので、ここはついてなかったと諦めるほかない。

 

『各ウマ娘準備が整いました。これより第四十九回、トレセン学園秋のファン大感謝祭エキシビションレースを―――』

 

係員の退避が完了し、いよいよアナウンスも出走を見据えたものへと切り替わる。

実況を努めるのは、今年学園に就職したばかりの事務員だ。初めてだというのに、よく噛まずに言えるものだと、そんな場違いな感心を抱く。

 

スタートに備えてフォームを整えながら、顎だけを心もち上にもたげた。

闘争の予感に鼓動が高なり、全身の血液が熱く煮えたぎっていく最中、いやに澄んだ視界がいつもより世界を鮮明に記録していく。

前を見据えていながら、隣で直線を睨むシリウスの顔も、観客席に波打つ人々の表情も一つ余さず補足出来た。その気になれば、風の流れすら目で追えそうな気さえする。

模擬レース場に詰めかけたファン達の息遣い、視線、大小様々なコール。

G1には及ばないながらも熱の籠ったそれらを一身に浴びながら、それでも私は冷たい思考からは手を離さなかった。

 

最高の仕上がりだ。決して短くない私の競技ウマ娘としてのキャリアにおいても、恐らく三指には入るだろう。

三年前のこの日のような、不甲斐ない走りは見せない。これまでのどんなレースにも劣らない、ただただ燃え上がるような熱を脚に注ぎ込んで、私は緩やかに腰を落とす。

騒々しい歓声がふと一斉に静まり返り……違う、私の耳がそれを弾いたのか。見据えるのは直線から最初のコーナーに至る境目。

 

 

がしゃんと、ゲートが開いた。

 

 

 

 

 

『さぁ、各ウマ娘一斉にゲートから出ました!!どのウマ娘もスタートは順調、一番先頭を行くのは―――』

 

いの一番に飛び出していったのは、普段から逃げで鳴らしている二人。ファンサービスも兼ねてか、今日もまたその十八番で挑むつもりらしいが、逃げウマ娘でない私はそこには乗らない。

 

今回、私はあえて差しの選択を外している。代わりにつけた位置は先行。そちらもまた私の得意とする戦法ではあったので、予想を裏切る方針転換ということにはならないだろうし、そのつもりもない。これは奇襲や攪乱を狙ったものではない。ただ一人のウマ娘を標的とした作戦。

 

いつも通り先行につけたシリウスの、その内側にぴったりと張りつく。それは我ながら、余りにも露骨なマークだった。

 

私達の少し後方、差しの位置から前を見据えるトレーナー君が、やや動揺する気配を悟る。

予想通り、ポスト・レースと同様に、経験の乏しさを私のレーススタイルを忠実になぞることで補おうと考えていたらしき彼女は、序盤から私との競り合いになることを念頭に置いていたのだろう。

それもあながち間違いではない。私にとって、最大の標的はトレーナー君だが、そのためにまずは邪魔な彼女に消えてもらう。

 

トレーナー君と同じく、彼女にとっても想定外の展開だったのだろう。

鋭くこちらを睨み付けながら、シリウスは短く息を吐いた。

 

「ルドルフッ……!!」

 

「言っただろう。邪魔をするなと」

 

そうだ、君に邪魔はさせない。

思う存分『彼女』と競り合うためにも、まずは君から退場願おう、シリウス。

悪く思うなよ。元々、あの日の続きがあるとしたら、まずはこうしようと心に決めていたのだから。

 

今日のレース……他ならぬトレーナー君と競うことになる以上、私は彼からの指示を受けられなかった。

正真正銘、私一人で挑むレースだ。だからこそ、トレーナー君が普段好んで選ぶ差しの位置から、堅実に展開を運ぶという選択肢も無いわけではない。実際、それでも十二分に勝ち目はあっただろう。

むしろこうして前に陣取ってしまうと、後方からの威圧でバ群全体の動きを乱し、ペースを崩壊させるという得意の戦法が使えなくなるぶん、悪手とすら言えるのかもしれない。

 

でも、よく考えれば、あの日初めて『彼女』と出会った時も、私にトレーナーなんてついていなかったわけで。

しかも私は、トレーナーなんかいなくても一人で勝てるだなんて、そんなことを臆面もなく口にしていた。

 

実際、幼い私はそれでも勝ち続けてきたのだし、『彼女』とのレースにおいても一人で勝つつもりでいたのだから……むしろ、そのリベンジである今日もまた、それに倣うべきではなかろうか。

そうだ、私は今日ここに皇帝シンボリルドルフとしてではなく……

 

 

……ただ一人のウマ娘。『ルナ』としてターフを駆けているのだから!!

 

 

「くっ……!!」

 

コーナーを曲がり、向こう正面に差し掛かる。集団が徐々に伸び始める中……ほんの一瞬、苦しそうに眉をひそめるシリウス。

私が邪魔になって、どうしても内に切り込むことが出来ない彼女は、かといって前後も塞がれて完全に道が閉ざされている。今日のレースは先行が多く、ただでさえ詰まりやすいこの集団において、本来つけるつもりだった位置を私に掠め取られたのが致命的だった。

必然的に、大外を走らされる羽目になったシリウスは、最初のコーナーの時点で大きく外に膨らんでいる。

彼女だけ、数百メートル余分に距離を課されているようなものだ。そこに私からの妨害も加わって、中盤にしてシリウスは既に大きく体力を消耗していた。私に競り合いを挑む余裕はなく、ただ己の走りを維持することだけで手一杯の様子。

 

そろそろ仕掛け時か。

 

呼吸の間隔を一転させ、風を切る腕の動きや芝を蹴るリズムに変化をつける。この一分余りの展開で、私のペースにようやく慣れてきたウマ娘は、この変調で一気に感覚を狂わされる。

それでも普段のシリウスであれば、この仕掛けに惑わされることもなかっただろう。だが、今の彼女は大きく消耗している。そしてなにより、これの対象は彼女だけじゃない。

真後ろの私の気配に混乱した前方集団もまた、続々と自分のペースを見失っていく。レースを率いていた彼女達の失調は、そのまま私以外の後続にも波及していった。

 

そのまま最終コーナーへ。

自分を見失ったウマ娘に、巧みなコーナーリングなど期待できる筈もなく。ペースを落とした前方の走者達は、自分の走りを取り戻したウマ娘も波に浚うように、まとめて後ろへと流れていく。

そこにはシリウスの姿もあった。今の彼女にはもう、崩れてきた集団を突破するだけの体力が残されていない。なまじ逃げ二人がスタミナを使い果たしていないぶん、今度はそちらとの駆け引きに労力を割かれることとなるだろう。

強敵には本領を発揮させず、他のウマ娘ごとまとめて後方へ。彼女には悪いが、それが私の十八番だった。

 

このままゴール板まで駆け抜けようかと、最後に一度だけ、後方に視線をくれたところで……膨らんだバ群の中から、ただ一人飛び出してくる影が見えた。

 

私ともシリウスとも違い、勝負服ですらない半袖短パンの体操服。G1どころか、重賞すら出ていないにも関わらず、ファンの酔狂でこの舞台に足を踏み入れた異物。

 

「ふふっ……!」

 

ああ、やっぱり来てくれたねパーフェクト。

 

さぁ、あの日の約束を果たしてくれ。

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

最終コーナーを中盤まで曲がった頃には、集団の歯車は取り返しのつかない程狂ってしまっていた。

周囲のペースを乱し、パフォーマンスが崩れた隙をつく。ルドルフの得意とする戦術であるが、仮にもファンに選ばれしウマ娘集うこのレースにおいて、ここまで機能するのは予想外だった。

 

それは恐らく、ルドルフの前のめりな先行策と、シリウスの失調によるところが大きい。

 

逃げウマ娘二人を筆頭に、先頭集団はルドルフとシリウスの二人をペースメーカーに置いていたように思う。

ただでさえ、普段のレースと比べても距離が短いこのエキシビションレース。その特殊な環境下においては、過去に何度も出走歴のある二人が適任だと踏んだのだろう。

それ自体は決して間違った方針ではないが……ルドルフがあえてペースを崩し、シリウスもそれにあてられた以上、前提から瓦解したのだからどうしようもない。意図したものかは分からないが、結果としてルドルフはそこを完璧に突いた形となった。

たぶん、ルドルフ本人としては、わざわざ仕掛けを施さなくとも勝つ見通しはあっただろうし、単純にシリウスを潰したかっただけな気がするが。

 

そしてそんな集団の失速は、奇しくも私にとっても有利に働くこととなる。

皇帝のトレーナーとしての長年に渡る経験と知識から、彼女の仕掛けのタネとタイミングについても察しがついていた。それはあくまでも、無意識領域における感覚を狂わせるものだ。予めピンポイントで警戒していれば、凌ぐことも不可能ではない。

もっとも、仮に最初から彼女にマークされスタミナを削られていたとしたら、シリウスの二の舞になっていただろうが……標的とならなかったことで、私はこの最終局面においても生存を果たしていた。

 

コーナーの終盤。

ついこの前、ポスト・レースで得たあの感覚を思い出し、再現する。

かつて巧みなコーナーリングで鳴らしたウマ娘からの直伝だ。なんとか振り落とされず、皇帝に食らいつく。私達二人は既に隊列から突出していて、後方から突き上げてくる者はいない。

 

そして遂に、最後の短い直線へと雪崩れ込む。

後方からルドルフの内側に切り込む隙はない。無理に前に出たところで、斜行にしかならないだろう。あくまで横につけたまま、スパートの姿勢をとった。

 

それは隣の彼女と全く同じタイミングで、全く同じフォーム。

偶然だったのか、合わせてくれたのか。その答えを知るのは彼女のみ。

 

 

ただなんとなく、ルドルフは……『ルナ』は、こんなことをしたかったんだろうなと。

昔から、あの地下室にいた頃から、ひょっとしたら初めて芝を踏んだ瞬間からずっと……これを夢見ていたんだろうなと。

 

 

そう、すとんと腑に落ちる部分があった。

 

 

「楽しかったよ。君との一週間は、全て」

 

体勢。肘と膝の角度。踏み込みの重心。肩と頭の位置。

気の遠くなる程見てきたそれ。だけど、そっくり真似出来たのはその一瞬だけで。

 

 

「じゃあね。さよなら……パーフェクト」

 

 

そう告げた瞬間。

 

放たれたスパートは、稲妻の如く芝の海を突き抜けていく。それは私の真似では影すら踏めない、絶対なる皇帝の神威。

 

『速い速い!!ぐんぐん伸びていくぞシンボリルドルフ!!やはり最後に勝つのはこの皇帝か!!』

 

見る間に遠ざかっていく、深緑のジャケットと深紅のマント。黄金の肩章が、陽の光を反射して煌めいて、それが狂おしいほど美しく見えた。

もう、その背中には追いつけない。ここから追い縋る手立ては……ない。

 

 

「うん、さようなら。ルナ」

 

 

完敗だった。

敗北の悔しさも、格付けの恐怖も微塵もなく。ただただ、これが私と『ルナ』の結末なのだと受け入れて、凪のような穏やかさが胸を満たした。

 

 

あの子はもう振り返らない。

前だけを見据えたまま、ゴールへと駆け抜けていく背中。

 

 

『ゴールイン!シンボリルドルフ!!圧倒的な実力差を見せつけ、見事連覇を果たしました!!』

 

 

―――それに、手を伸ばそうとも思わなかった。

 



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シンボリルドルフに逆らえないトレーナー君の話

 

秋の大感謝祭が終わると、一年もいよいよ終わりが見えてくる。

 

師走の異名が示すように、いつもいつも年度末はこれでもかと忙しくなるものだから、理事会や事務方のスタッフ一同、そして生徒会においてももうひと踏ん張りと気持ちを奮い立たせる頃合。

勿論、我々トレーナーにしても、全く気を抜くことは出来ない。

 

年末は、トレセン学園が大いに盛り上がる時期だ。

 

その理由として、まず挙げられるのはやはり有馬記念。レース競技の枠をも飛び越えた、年末の風物詩と言ってしまっても過言ではない一大イベント。

ジャパンカップの余韻を引きながらファン投票が実施され、そこで選ばれた十六名の優駿がその年度の覇を競うグランプリである。

その有馬が終われば、大井で総決算たる東京大賞典が行われ、それにてレースの見納めというのが毎年のルーチンとなっていた。まぁ、年が明けたら明けたで新年早々忙しいのだが、それはさておき。

 

「ほら、トレーナー。そんなぼさっしてると人に呑まれちゃうよ。今年だってそんなに疲れてないハズでしょ?」

 

「ジャパンカップも有馬記念もないからね。やっぱり観る側だと気楽かな」

 

「なら早く」

 

いつの間にか並んでいたシービーに袖を引かれながら、イルミネーションで華々しく彩られたカフェテリアを散策する。

柱に掲げられたカレンダーの日付は12月24日。すなわち本日はクリスマス・イヴの夜で、今年もまた毎年恒例のパーティーが開かれていた。

主催は生徒会であり、会長であるルドルフが取り仕切っている。この日までに大仕事を終わらせるべく、私含め生徒会関係者一同この一週間頑張ったのだ。

 

少しぐらいゆっくりしたいと思う気持ちもあるのだが、同じくデスマーチを乗り越えたシービーに誘われては断れない。

一晩しっかり寝たお陰か、今日の彼女は元気一杯だった。この体力の違いは種族差によるものか……あるいはただ単に、私が歳を取っただけかもしれないが。

 

「うーん……皆はどこにいるんだろうね。いつもより人が多い」

 

「去年と違って有馬とも日程が被らなかったからね。それに予定の空いてるトレーナーはほぼ全員が、ここに参加することになるから」

 

「なんで?」

 

「君達に何されるか分からないからだろ」

 

「??」

 

トレーナーとしての自己防衛の一環だ。

どうも年頃のウマ娘にとって、聖夜という単語は耐え難い程に甘い響きを奏でるらしい。

この日、太陽が地平線の向こうに身を隠した瞬間、担当が豹変して掛かり始めたという事例を毎年耳にする。

 

悲しいかな、主に新人トレーナーを中心として被害も出ているのだ。現にゴールドシップのトレーナーは、早いもので今週の頭から担当もろとも姿を消している。

いずれにしても、そんなウマ娘達を前にして、このクリスマスの夜をオフにしてしまうのは、まな板の上に裸で寝っ転がるに等しい所業である。

なにがなんでも予定を埋めるというのは、決して聖夜を一人で過ごしたくない見栄などではなく、れっきとした社会的生存のための知恵に他ならない。

 

なので今日も今日とて、このカフェテリアは生徒とトレーナーでごった返していた。

一段高いステージが設けられている部屋の最奥では、ルドルフと副会長二人、それに美浦と栗東の寮長が混じって企画の進行を行っている。

テイオーはマックイーンやマヤノトップガン達と共に、最前列で熱心に手を振っていた。同じくイベントに積極的に参加する生徒がいる一方、友人知人とつるんで思い思いに楽しんでいる者も多い。度が過ぎた騒ぎさえ起こさなければ、基本的に過ごし方は自由だ。

 

なんにせよ、本当に人が多い。

優れた耳と鼻を持つぶん、シービーの方が探知能力に優れるだろうが、私も私で人混みの中から知人の顔を必死に探す。

 

と、急になにかに蹴躓いた。

 

「わっ」

 

「っと……大丈夫、トレーナー!?」

 

「おう、わりぃな。ここのテーブルは俺のながーい足を納めるにはちょいと足りない」

 

「くっ……」

 

……違う、脚を引っ掛けられた。

 

飄々と適当な言い訳を垂れ流しながら、チキンの骨から肉片を引き剥がしているのはサンデーサイレンス。

カフェテリアの一角を占拠し、ソファの真ん中にどっかりと腰を下ろしながら、周りに先輩と担当チームの面々を侍らしている。その中にはちゃっかりと、先生の姿まで。

 

窓に面した店内の中央という、中々の立地を数にものを言わせて占領している姿は、いつぞやのシリウス一派の光景に重なった。

もっと言うなら、頭がシリウスから彼女に刷り変わっただけで、本質的にはあの頃のままなのかもしれない。

いや、なまじ正式なチームとしての身分を手に入れたぶん、むしろ悪化しているのか。

 

そんな中に、すっぽりと馴染んでいる先生も先生である。探しておいてなんだが、同席するのはなんとなく気が引けた。

 

「……あぁ、カフェはいないんですね」

 

分かってはいたことだが、あえて口に出してみる。意趣返しだ。

 

「ああ、アイツならいつもの栗毛といつもの場所に籠ってるぜ。なんでもより完成されたイルミネーションを追求するんだと」

 

「なら、いつも通りですね」

 

「お前も顔を見せてやったらどうだ?なにせ半年も『療養』してたんだから、元気は有り余ってんだろ」

 

「嫌ですよ。せっかくのクリスマス・イブなのに、なにが悲しくて被験体なんかに」

 

「クリスマスねぇ。この国のクリスマスは喧しくて敵わない。仮にも聖誕祭って言うんならよ、もっとこう……」

 

この時期になると、昔から耳にタコが出来るほど聞かされてきたいつもの長話が始まりかけた瞬間、床にしゃがみこんだ私の腕を誰かが引き上げた。

 

見れば、ついさっきまでステージでテイオーと戯れていた筈のルドルフが、にこやかに微笑みながら私の腕を掴んでいる。

 

「やぁ、トレーナー君。楽しんでいるかい」

 

「たった今来たばかりだよ。それで、帰ろうと思ってたところだ」

 

「それは良くないな。今日がどういった日かは君もよく知っている筈だ。迂闊に隙を見せれば、ふしだらな担当ウマ娘に食べられてしまうよ」

 

そう言いながら、真横のシービーの肩を抱き寄せるルドルフ。シービーはすうっと目を細めながらも、なにか思うところがあるのか大人しくされるがまま。

さらにその後ろからは、手を振って近づいてくるマルゼンスキーとカツラギエースの影も。

 

「へぇ、それでルドルフ。仮にアタシがふしだらだとして、キミがそうじゃないっていう根拠は、なにかな?」

 

「決まっている。……勝負服の肌面積さ」

 

「なっ……!?」

 

抱き寄せる動きから一変、突き放すようにシービーを後ろに押し退ければ、彼女はマルゼンとエースに引き摺られて人混みへと呑まれていった。

確かシービーは、彼女達からの誘いも受けていた……と言うより、寄越された誘いのほぼ全てにOKを出していた気がする。

唯一断ったのは、ゴールドシップがソリで南十字星を観に行かないかと誘った時ぐらいか。

 

いずれにしても、あの様子では今夜いっぱいは自由にしてもらえまい。

全て彼女自身が撒いた種ではあるが。人気者も大変だな。

 

「……さて、ルドルフ。私は今からついうっかり、予定が空いて一人きりになってしまうわけだが」

 

「ふふ、なら拐ってしまおうか、トレーナー君。ああ、そうだとも……全て、不用心な君が悪いのだから」

 

決して腕から指を離さず、いそいそとカフェテリアの出口までルドルフは私を引っ張っていく。

とりあえず、これで母の長話から逃れられたわけだが……果たしてルドルフは、私をどこに連れていくつもりなのだろうか。

 

喉元過ぎればとはよく言ったもので。

こんな時、私がウマ娘なら気楽だったのだろうかと。そんな益体のない考えが、ほんの一瞬、頭をよぎった。

 

 

 

 

 

 

 

真っ暗な学園の敷地を、二人並んであてどなく歩いていると、本校舎に辿り着く。

カフェテリアまで生徒の殆どが出払っていることもあり、人気もなく明かりも落とされたままだ。

 

お互いしめし合わせたわけでもなく、自然と足が裏手へと向かう。

ぐるりと校舎を回り込むと、すぐ手前には屋上へと続く階段。

月光だけを頼りに、転ばないよう一歩一歩慎重に昇っていく。

 

カンカンカン、と虚しく響きわたる安っぽい金属音。

手すりを握るも、剥げてささくれた塗装が手に刺さるため仕方なく離した。

所々に赤錆の浮いた外観は、この学園が重ねてきた長い歴史の現れだろう。

 

そうして辿り着いた屋上は、直前まで人で溢れた部屋にいたこともあってか、妙に広々と感じられた。

 

「誰もいない。それもそうか」

 

「立ち入り禁止というわけではないんだけどね。高さがあるから景観も良い。穴場と言ったところかな」

 

目についた柵に近寄って身を乗り出せば、府中の夜景が一望出来る。

都心のように煌びやかな光の塔が連なっているわけではないが、それでもぽつりぽつりと民家から光が漏れ出ている光景は、季節外れの蛍が舞っているようで趣があった。

ルドルフの言葉の通り、心地よい景色だ。

 

 

そうして肩を並べてしばらく夜景を眺めていると、不意にルドルフがぴくりと頭をもたげた。

少しの間、ウマ耳をあちこちに動かしていたが、やがてカフェテリアの方角に向かって静止する。

 

 

「…おや、音楽が流れ出したな。どうやら向こうでダンスが始まったらしい」

 

「そうか…特に何も聞こえないけど」

 

「ウマ娘と人間の聴力には差があるからね。君が聞き取れないのも仕方がないさ」

 

そう言うと、ルドルフはするりと私の頭に手を伸ばしてきた。

側頭部に指を滑らせて、耳の輪郭を二度三度なぞったかと思えば、そのまま昇って頭頂部を優しく撫でていく。

そこはつい数ヶ月前まで、ウマ耳が二つ並んでいた場所。今となっては見る影もなく、タキオン曰く痕跡の一つも見当たらないらしい。

 

無事、一件落着というわけだ。

件のシンボリの研修生は、今後に備えるという名目で本家へと引き戻され……そして金輪際、日の当たる場所には出てこない。

健闘したとはいえ、所詮非公式のレースで二回走った程度。学園にも殆どいなかったものだから、年さえ越えれば世間からも学園からも、その記憶は薄れていくだろう。

 

 

誰の記憶からも消えてなくなっていく。

ただ一人、目の前の彼女だけを除いて。

 

「ふふ……」

 

なんとも楽しそうに、私のウマ耳があった場所を何度も繰り返しなぞったかと思うと、ルドルフはそのまま私の髪に指を通して、鋤くように撫でていく。

年下の女子学生に、こうして頭を撫でられるのはどうにも落ち着かない気分だが、耳と尻尾をぱたぱたとさせながら、ご機嫌な彼女を見ていると止める気にはなれなかった。

 

 

しばらくして満足したのか、ルドルフは私の頭を解放すると、一歩だけ後ろへ下がる。

 

何をするのかと訝しんでいると、彼女は私に手を差し伸べてきた。

 

「どうだろう、トレーナー君。ここで一曲、私と踊ってはくれないだろうか?」

 

「踊る…?」

 

「ああ、皇帝直々にエスコートして差し上げよう」

 

それでも断るかい、と悪戯っぽく笑うルドルフ。

 

「いや。よろしく頼む」

 

「ふふっ……こちらこそ」

 

微笑むと、開いた距離を埋めるように一歩踏み出してきた。

 

「それでは、お手を拝借」

 

白く妖しげな月光の下。

私の手を導く彼女の三日月が、それに応えるように揺れていた。

 

空っぽの夜空に響く、二人ぶんの靴音。

私には分からない、彼女だけが聴こえる伴奏にのって、屋上の真ん中で軽快にステップを踏む。

 

「うん、中々筋がいいよトレーナー君。私もいいパートナーを見つけたものだな」

 

優雅なリズムを刻みながら、私を巧みにリードするルドルフ。

痛みが残るほど、私の手を固く握りしめて。

 

「……っ」

 

それに驚いて、反射的に後退る。

 

「こら。駄目だよ、トレーナー君」

 

後退ろうとして、それは許されなかった。

背中の腰の真ん中、かつて尻尾が生えていたそこに手を添えながら、かえってルドルフは私を力強く引き寄せる。

 

ちらりと犬歯が月の光を反射して、真っ赤な舌先が、唇の間から覗く。

少し小首を傾げて、正面の私を覗き込むようにして、一言。

 

「君を手放す気は毛頭ないと言っただろう」

 

 

それは、いつかの夜と同じ笑顔だった。

 

 





完結です。
長い間お付き合い下さり、コメントや評価等も下さった読者の方々に、心よりお礼申し上げます。


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【第二章・最終章】登場人物紹介

 

 

【登場人物】

 

・主人公(パーフェクト)

ひょんなことから本物のウマ娘になってしまったトレーナー。天性の才能と、トレーナーとして培った技術と知識で戦うが、実力としては学園の上位陣には到底及ばない。

シンボリ家に並々ならぬ借りを作ってしまったが、その威力が発揮されるのはまだもう少し先の話。着実に外堀を埋められている現実に気付いているが、気付かぬふりをしたがっている。

 

・シンボリルドルフ

トレーナーが勝手にトラブルに巻き込まれるのをいいことに、色々な意味で貸しを積み重ねていく抜け目のないウマ娘。

自分の中で抱え込み、熟成された諸々で大変なことになっている。とにかく重たい。

 

・ミスターシービー

切れるカードの少なさ故か、ルドルフに美味しいところを浚われ続けたことが不満。

一応、ルドルフとトレーナーの過去についても聞いてはいる。それを踏まえた上で無理して首を突っ込まないあたり、本能的に長生きするタイプ。

 

・トウカイテイオー

憧れのシンボリルドルフの背中を追ってトレセンに入学し、無敗の三冠を目指すウマ娘。天才。

シービーの時と違って、すんなりとチーム加入を許されている程度にはルドルフからも好かれている。有り余る行動力から暴走しがちだが、根はチームきっての常識人。

 

・アグネスタキオン

元凶その一。科学に傾倒していながらも、カフェの影響かオカルトにも造形が深い。本質的にロマンチスト。ウマ娘の可能性を追究している。

 

・お友達

元凶その二。ウマ娘の魂なだけあって、走ることにも本能的な執着があり、その実力も確かなもの。

ここではない別の世界、別の時間の記憶があるらしい。

 

・マンハッタンカフェ

お友達の保護者。競技ウマ娘として活躍する傍ら、女優としても確かな実力を備えている。ポスト・レースでタキオンとのポジション争いに破れ、お友達と直接戦えなかったことが最大の心残り。

 

・シリウスシンボリ

ルドルフと同じシンボリ家出身のダービーウマ娘。海外遠征から帰国後は、学園で問題児達を束ねあげていた。

持ち前の面倒見の良さでどうにかしていたが、内心トレーナーでもない自分が育成の指示をとることに限界を感じており、サンデーサイレンスに頭を取られたことにもそれほど不満はない。

 

・オグリキャップ

芦毛の怪物。地方から来襲した、学園でも指折りのウマ娘。

ポスト・レースにおける最大の壁であるが、あくまで自分の役割を淡々とこなしているだけであり、本筋には特に絡んでこない。

 

・サンデーサイレンス

元中央トレーナー。理事長の要請で学園に復帰した。

腕は錆び付いてこそいないものの、現役時代の人脈は殆ど無いに等しいため、また基礎から固めていく方針。一度にシリウスの一派をまとめて抱えても、捌ききれるだけのスペックがある。

 

・シンボリフレンド

中堅からベテランに差し掛かかる頃合い。

選抜レースにおいて、一番手二番手ではなく、光るものがありながらも埋もれているウマ娘を積極的に狙う独自のスタンスを持つ。

主人公に向けたシンボリ家の囲い込みに、勿論気付いてはいるものの止める気はない。

 

 

【用語】

・ポスト・レース

トレセン学園(秋川理事長)主催の駅伝形式レース。コースは学園の外周と、模擬レース場を使用している。

あくまでテストプレイの意味合いが強く、このレースで得られた知見を基に本格的な実施を健闘する腹積もり。優勝した主人公のチームには、しっかり一年ぶんの施設利用権が与えられた。

 

・エキシビションレース

秋のファン大感謝祭(聖蹄祭)における目玉レース。グランプリと同様に、ファンの投票によって選ばれたウマ娘が出走する。

ただし非公式という格付け、通常よりも遥かに短いコースといった要素から、辞退するウマ娘も多いらしい。シンボリルドルフは、レース振興のために毎年欠かさず出走している。

 



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チーム『十一冠ウマ娘』
「トレーナーの寮の合鍵、失くしちゃったんだよね」


 

「トレーナー寮の合鍵、失くしちゃってさぁ」

 

生徒会の業務を終えて、戸締まりも済ませた深夜。

さて帰ろうかと、私の気が緩んだ瞬間を見計らって……唐突に、本当にいきなりシービーはそう告白した。

 

「あはは……」

 

「いや、あははじゃないが」

 

少しだけ緑の混じった、艶やかな黒鹿毛をさらさらと揺らしながら、シービーは照れ臭そうに頬を掻く。

世の男性が見れば、百人が百人「仕方ないなぁ。次から気を付けようね」で済ましてしまいそうなその愛嬌も、同じウマ娘である私には通用しない。

 

「どうするんだ。もし不届きな輩に拾われて、悪用されでもしたら、困るのは他でもないトレーナー君なんだぞ」

 

「あ、それは大丈夫。失くしたってのは言葉のあやだから」

 

「どういう意味かな」

 

「どこにあるかは分かってるんだよ。トレーナーの部屋のコピー機の隣。だから失くしたって言うより、忘れたって言う方が正しいかな」

 

「なるほど。車内に車のキーを置いてきたようなものか」

 

「あはは、マルゼンがつい一昨日やらかしてたヤツ?」

 

「現在進行形でやらかしてるのは君なんだけどな……」

 

「そうそう。困っちゃうよね」

 

けらけらと、朗らかに笑うシービー。

 

なんとも暢気なものだ。だが、シービーはそういう人となりだということは、決して短くない付き合いの結果、経験として理解していた。

決してどんな場面でもへらへらしてるわけじゃない。締めるときはしっかり締めるし、やらかした時はちゃんと反省する。

短期間とはいえども、仮にも私の前任として生徒会長を務めたウマ娘。時と場合については、人並み以上に弁えていた。

 

弁えているからこそのこれなのだ。

自分で言っておいてなんだが、やらかしたという程のものでもないから、変にしおらしくされてもそれはそれで困るのだが。

 

「まぁ、中にあるなら、トレーナー君に伝えれば渡してくれるだろう。いや、わざわざそんな二度手間踏まなくとも、解錠してもらえばいいだけか」

 

「そうなんだけど、もうこんな時間だしね。起こすのも悪いでしょ?だから、どうしよっかなって」

 

「それはそうだな。君にしては配慮が行き届いている」

 

「ねぇ、ルドルフ。なにかいい考えはない?」

 

「うぅむ……」

 

なにか、と言われてすぐに妙案が思いつくほど私も万能ではない。

こういう時、正規の手続きを踏むのが最善なのだが、トレーナー寮の鍵の管理は生徒会ではなく営繕課の役割だし、生憎事務局の窓口はもう数時間前に閉められている。

 

となれば強行手段。すなわちピッキングか破壊か。

しかしここは天下の中央トレセン学園。セキュリティの頑丈さは首相官邸にすら匹敵するとまことしやかに噂されている施設。

流石の私でもピッキングのスキルは活かせそうにない……というよりカードキーとセンサーによる解錠だから、そもそも鍵穴自体がない。

ましてや破壊なんてもっての他だ。全国津々浦々からウマ娘が集まる学園だからこそ、対ウマ娘セキュリティにも余念がない。

いずれにしても、下手に力業に訴えたが最後、私とシービーの二人で明日の朝刊一面を飾るのが関の山だろう。

現役の三冠ウマ娘が二人も更正施設行きとなれば、間違いなく日本のレース競技史で忘れられない一日になるぞ。言うまでもなく、悪い意味で。

 

「鍵のレスキュー屋さん……とか?」

 

「あれって解錠に家主の同意が必要だよ。だからトレーナー起こしちゃダメなんだってば」

 

「そ、そうか……そうだな。忘れてくれ」

 

「……まぁ、アタシは体が柔らかいからなんとかなるよ。キミは気にしないで先に帰っちゃって、ルドルフ」

 

「あ、ああ……」

 

なんとかなるって、どうするつもりなんだが。

まさか、本当に腕力にモノを言わせるつもりじゃないだろうな?

 

気になったが、私がそうしている間にも、シービーの姿はみるみる遠ざかっていく。

追ってもいいが、いい加減眠いし面倒なので止めておく。彼女がどうにかなるというなら、きっとなんとかなるのだろう。

あの思考の読めない先輩のことを、曲がりなりにも私は信用していた。

 

それにトレーナー君は私達の育成で忙しい。自分で言うのもなんだが、私とシービーを同時に担当して、しかもチームにはその二人だけとなると、かかる気苦労やプレッシャーは相当なものだ。

だからこそ、休める時はちゃんと休んでもらわないと困る。こんな時間に叩き起こすのは、私としても躊躇われた。

 

「はぁ……」

 

それにしても、彼女はどうにも見ていて危うい。そそっかしいわけではないのだが、先の行動を予測できないのはやはりどうしても不安になる。

最近は一人暮らしに関心があるようで、毎晩ベッドの中で熱心に物件を漁っているようだけど、それが仮に実現したとして、人知れず暴走しないか心配だ。余計なお世話かもしれないが……。

 

それに、そもそもの話。

あのトレーナー寮の合鍵、私も使うのだが。

 



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84.55.80

 

ルドルフを生徒会室の前に置き去りにして、アタシは寮を訪れた。

生徒が暮らす二つの寮ではなく、学園に併設されたトレーナー寮。玄関でカードをかざして入館する。共用部分については、美浦や栗東ほどセキュリティは厳しくない。

ちゃんとした手続きさえ踏めば、寮の玄関の前まで辿り着くのは簡単である。問題はここからだった。

 

プライベート……すなわち寮部屋の中に入るとなると、とたんに難易度はぐっと上がる。

一見して、とり得る選択はいくつもあるように思える。だが、ちょっと突き詰めればそれらの殆どは、不可能か非現実的という結論に着地してしまう。

そもそも無断で立ち入れられないためのセキュリティなのだから、苦戦するのも至極当たり前の話だった。勿論、アタシとてその程度のこと最初から分かっている。その上で、ただ一つだけ、見込みのある方法を考え付いていた。

 

とにもかくにも、そのためには内と外をつなぐ通り道にあたりをつけなくてはならない。

アタシはマンハッタンカフェのお友達と違って、流石に壁をすり抜けることは出来ないから、まずは通路を用意しなくては。

 

「ん、んー………」

 

玄関の前で腕を組んで、あちこちを舐め回すように検分する。

端から見て、あまりにも怪しすぎる所業。それでも時間が時間だし、幸い監視カメラの類いもここにはないので、今のアタシを止める者は誰もいない。この時のために、警備員のシフトにも手を加えてあった。

 

さて、どうしたものか。

最も現実的に思える外からの侵入は、その実、最も厳重に警戒されているので控えるべき。かといって、ダクトを通っていくには換気扇のプロペラが邪魔になるし、そもそもそんな幅もない。

 

……となると、やはりここしかないだろう。

 

「んーと……うん、鍵は開けっぱなしだね。よしよし」

 

玄関下部にある宅配ボックス。

内側から鍵の開け閉めが可能なタイプだが、普通こんなものの鍵を毎回律儀に施錠しておく人など殆どいない。案の定、手を差し込んで力を入れれば戸が開き、あっさりと中まで貫通した。

 

高さにして、アタシの頭が通る程度か。

十分だ。猫ではないけど、頭さえ抜けるならそれはアタシにとってなんの障害にもなりはしない。

 

「ふふーん」

 

体が柔らかい、とルドルフに言ったのはなにも誤魔化しや自惚れではない。れっきとした事実だ。立ったまま足で耳を掻くことだって出来る。

同じような芸当が可能なのは、少なくともアタシの知る範囲においてはオグリキャップぐらいだろう。生まれつき膝頭が柔らかくて、それ故に幼少期は苦労したという彼女だが、アタシも同様この柔軟さは天性のものだった。

 

最後に一度だけ周囲を見渡す。いまからやることを、誰にも見られるわけにはいかない。

幸い時間が時間だからか、人の気配は全くなかった。セキュリティへの介入も上手くいったみたいだ。

ただ、それでもうかうかはしていられない。手早く済ませなければ。

 

「んしょ……っと。お邪魔しまーす」

 

まず最初に差し込むのは左腕。残った隙間に頭を捩じ込んで、通り抜けた後に身をよじり、残った右腕を引っ張り出す。ここまでは順調。

というか、これで関門は九割がた突破したようなものだ。やはり人体の構造上、幅をとるのは上半身の、主に肩回り。残る一割は厚みのある胸部を、どう通すかということ。

 

「ん"む"ぅ~~~~」

 

特別な技巧なんてない。力業だ。

幸い柔軟性に富んだ脂肪の塊なので、強行突破も不可能ではない。一瞬肺が潰れかけるが、それすら無視して強引に突破する。

覚悟していたとはいえ、苦しいものは苦しい。これがルドルフだったなら、多少はマシだったのかもしれないけど。

 

「ふぅ……」

 

よし、抜けた。

乱れてしまった胸元を引っ張って整え、ほっと一息。

 

しかしまぁ、自分でやっといてなんだけど、よくこれだけの無茶が通ったものだ。狭さだけの問題ではなく、当然人の通行を想定していないものだから容赦ない出っ張りがあるし、実際そこに当たると痛い。

こんな芸当がこなせるのは、トレセン学園広しといえども自分ぐらいなものだという自信があった。学園のセキュリティが甘いのではなく、アタシが特別凄すぎただけなのだ。

 

そう満足して、床に爪を立て、腹筋に力を籠めて、一気に下半身を引っこ抜く。

 

 

 

引っこ抜こうとして……引っ掛かった。

 

 

 

「…………え?あれ?」

 

腰から腹回りにかけての圧迫感が、いつまで経っても解放されない。いや、それどころか、かえってますます窮屈になってるような感じさえする。

 

さあっと、みるみる血の気が引いていくのが自分でも分かる。なにかの勘違いだと思って、そう思いたくてもう一度引っ張り上げるも、カチンカチンとベルトのアクセサリーとボックスの枠がぶつかり合う音が響くのみ。

 

なんで……だって、アタシはバストよりもヒップの方が小さい。すなわち、上半身を通せるだけの隙間があるということは、当然に下半身も抜けられるということ。なのに、全く歯が立たない。

 

「……ああ、そっか」

 

弾力か。弾力が足りないのだ。

アタシの小振りで引き締まったお尻は、柔軟性に欠けているのだと。そういうことか。

 

これは誤算だった。

短絡的に数字上の大小しか頭に入っておらず、その性質について計算に入れることを忘れていた。

こうなっては仕方がないので、侵入は諦めることとしよう。明日あたり、トレーナーに鍵を持ってきてもらえばいい。

そう考えて、ひとまずこの辺りで撤退しようとして、逆に上半身を後ろに押し込む。

 

「ぐっ…………!!」

 

抜けない。どう頑張っても、胸の下でつかえてしまう。

不可能ではない。力が足りないわけでもない。思うに、体勢が悪いのだ。これでは後退するための踏ん張りがきかない。

最後の希望を賭けて、ぐっと体を海老反りに曲げ、どうにか脚を外のドアノブに引っ掛かけ足場を確保しようと試みる。だが無情にも、爪先が虚しく取っ手の先っぽを掠めるのみであった。

そうしてもがいている内に、不自然かつ窮屈な体の動きを繰り返した反動で、あっという間に体力が枯渇する。

 

「……………詰んだ」

 

ああ……これは完全に終わった。

 

今の私は、ヘソの少し下辺りを境として、完全に上半身と下半身の分断された状態。

ルドルフに助けを求めようにも、肝心のスマホはズボンのポケットの中。太ももにはっきりとそれの感触が分かるにも関わらず、決して手の届かないという事実が狂おしい程にもどかしい。

いや、助けを呼ぶこと自体は出来るのだ。ここから大声を出せば、寝室で熟睡中であろうトレーナーにもきっと届く。

 

「~~~~!!!!」

 

危うくそっちに逃げかけたものの、首を振ってその誘惑を追い払う。

ダメだ。こんな滑稽という言葉すら生温い無様な格好を、トレーナーには、トレーナーにだけは絶対に見られるわけにはいかない。

アタシにも、思慕する異性に恥ずかしくない姿を見られたくないという、女としてのプライドはちゃんとある。

 

ならどうすれば良いかというと……それはそれで、全く考えが浮かばなかった。

打つ手のない、手の施し用もない、絶望という感情がまざまざと胸に押し寄せる。あれだ。月曜の深夜に終電に乗って家まで帰ってきたら、スマホと財布と家の鍵を一斉に失くしていたみたいな、そんな心境。

 

いや、まだだ。諦めない。考えろミスターシービー。

自力での脱出は叶わないのであれば、他者の助けがあれば状況を打開できるということ。巡回の警備ウマ娘……は、今夜一杯はここに来ないようアタシが手配済み。

ルドルフはアタシが帰らせた。たぶん、アタシが美浦に帰ってこなくても気にしない。

他のトレーナーは……みんな寝てるに決まってる。明日も平日だし、彼らは皆一様に多忙なのだから。

 

 

あ、駄目だこれ。

この世の終わりに直面したような絶望と焦燥と諦感がとめどなく去来して……泣きそう、アタシ。

 

涙を堪えるように顔を上げると、玄関の壁に見えるのは掛け時計。

時刻は短針がてっぺんを越えたところ。トレーナーが起床するタイムリミットまで、あと六時間。対応策は、ない。

 

「………ぐすっ」

 

ただただ、淡々と過ぎ去っていく時刻を見送ることに耐えられなくて。アタシは二の腕を顔の前に揃えると、そっとそこに顔を埋めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………はっ!!」

 

そうして次に目が覚めたときには、既に玄関にはうっすらと柔らかな光が射し込んでいた。よく耳を澄ませば、微かに鳥の鳴き声も聴こえる。

これがベッドの中で、反対側にルドルフがいて、あの絶望が全て夢だったら良かったのに。しかし悲しいかな、伏せているのは柔らかく清潔なシーツではなく硬い石畳の上で、ここにはアタシ一人だけ。

 

慌てて顔を上げる。時計の針が示す時刻は、午前五時十五分。

ぎりぎりセーフだろうか。しかし状況は全く好転していない。むしろ悪化の一途を辿っている。

 

と、頭頂部に跳ねたアタシの髪の毛の先っぽが、かさりと音を立ててなにかに触った。

分厚い、紙の丸まったようなもの。こんな時間帯から、玄関に差し込まれている紙の束といえば。

 

「……新聞?」

 

それも朝刊。

当然、夜にアタシが侵入を試みて、間抜けにも嵌まった時にはそこになかったもの。

 

そっか……アタシが寝ている間に、たづなさんが届けたんだ。見られた、この姿を。スルーされたのは見て見ぬふりをする優しさか、それともどうにもならないと匙を投げたのか。

アタシはこの瞬間、勝負服から着替えずに来たことを心の底から後悔した。

少なくとも制服なら、下半身だけで個人の特定はされなかっただろう。だけどアタシの勝負服は、真っ白な長ズボンでとりわけ特徴的だ。見れば一発で誰だか分かってしまう。

 

穴があったら入りたい。いや、穴に入ったからこうなっているのか。

心から感情が抜け落ちていく。まともに現実を受け入れては壊れてしまうという、心の防衛反応とかいうやつだろうか。

 

【挿絵表示】

 

寝たぶん回復していた体力を総動員して、往生際悪く再び反り返るように脚を振り上げると、今度はなにかに引っ掛かった。……違う。引っかけたのではなく、誰かに足首を掴まれている。

いくら不安定な姿勢とはいえ、ウマ娘の蹴り上げを受け止めるとはただ事ではない。必然、相手の候補は限られてくる。

 

「……たづなさん?」

 

「残念。まぁ、彼女の依頼でここまで来たので、完全に間違いでもありませんが。5点ぐらいでしょうかね」

 

「あ。ト、トレーナー……」

 

扉越しに聴こえてくる女性の声は、くぐもってはいるけれどしっかりと誰なのかは判別できた。

 

トレーナーといっても、今のトレーナーのことではない。

実は、アタシはデビュー最初から今の契約を結んでたわけじゃなくて、一回移籍を挟んで現状に落ち着いているのだ。つまり、彼女はアタシにとっては、前トレーナーという立ち位置になる。

現トレーナーにとっての、最初の担当ウマ娘はルドルフ。そこに至るまでも経緯も、まぁ、色々とあったりする。

 

扉の向こうでアタシの脚を捕らえている彼女の名前は、元競技ウマ娘の中央トレーナー『シンボリフレンド』。

同時に現トレーナーにとっての師匠で、シンボリ家のウマ娘であり、ルドルフの実姉という、アタシ達のチームと大変因縁の深いウマ娘である。

 

「う………」

 

ああ、酷いのに見つかった。

正直、今は彼女とあまり顔を会わせたくはない。アタシのトゥインクルにおける三年間を支えてくれたトレーナーで、クラシック三冠を獲らせてくれた恩人だけど、だからこそ、砂をかけて出ていった事実は重いのだ。

よりにもよって、どうしてたづなさんはこのウマ娘なんかに。

 

「仕置きですよ。貴女がこんな間抜けな状況に陥っている原因……貴女がなにを目論んでいたか。一目瞭然ですよね」

 

ああ、ほら。

こうやって人の心を容赦なく暴き立てるところもまた、彼女が怖れられる所以だというのに。妹とは真逆で、端から人と打ち解けようという気などさらさらないんだ、この人は。

 

「シービー。私は今、この部屋の合鍵を持ってきているんですよ。いつでもここを解錠して、彼を叩き起こすことができる」

 

「なんで持ってるの……?」

 

「師弟ですから。さて、せっかくだから貴女に選ばせてあげましょう。このままあの子の前で晒し者になるか、それともウマ娘の全力で引き抜かれるか。好きな方を選択しなさい」

 

「……………………じゃ、後者で」

 

「なるほど。ではそのように」

 

実質一択の、選ばせない選択肢。仕方のないことなのだ。甘んじて受け入れよう。

この物言いからして、こちらの身体を労るつもりなどさらさらないと見える。せいぜい、アタシのおっぱいが千切れないよう祈るのみだ。

 

 

そんなアタシの覚悟は、それでも甘すぎたみたいで。

ピッと軽い電子音と共に、シンボリフレンドは玄関の扉を開ける。外に引かれる最中、したたかに踵を壁に打ち付けた。

 

「痛っ!!」

 

「甘いですね。これからもっともっと、痛い目を見るというのに……」

 

彼女は扉の隙間から身を滑り込ませ、静かにアタシの前に屈みこむと……今度はアタシの両手を掴んで、容赦なく前へ(・・)と引っ張った。

 

「い、痛い痛い!!尻尾取れちゃう!!お尻も取れちゃうから!!」

 

「そうですか。上とお揃いにしてあげましょう」

 

「こ、壊れちゃう壊れちゃう!!」

 

「静かにしないと、貴女のトレーナーが起きてしまいますよ……?」

 

「~~~~!!!!」

 

コイツ、笑ってる!鬼!悪魔!シンボリフレンド!もうシンボリ家のウマ娘なんて全員嫌いだから!

 

「ぎゃん!!」

 

一際強烈な痛みのあと、嘘のように圧迫感が消え去っていく。どうやら無事に引っこ抜けたようだ。

爽快感に浸る余裕すらなく、慌てて臀部に手をあてる。幸い、尻尾もお尻も無事みたい。少なくとも、形の上では。

 

「うぅ~~」

 

唸りながら尻尾を抱えるアタシの目の前で、シンボリフレンドはこれ見よがしにそのふさふさと毛を蓄えた尻尾をゆるりと振ると、仕事は済んだとばかりに隣を抜けていく。

 

「さて、私はこれから朝練があるので。ああ、お礼は結構ですよ。跳ねっ返りの貴女が、十分反省してくれたならそれで……ねっ!!」

 

「ぎゃおん!!」

 

ぱしぃんと。すれ違いざま、アタシの尻を景気よくひっぱたいて彼女は颯爽と玄関から去っていく。

やり返そうにも、今のアタシでは返り討ちにされるのが関の山。どうやら泣き寝入りするほかないらしい。

 

そのやるせなさを気力に変換して、アタシはよろよろとトレーナーの寝室に駆け込んだ。

彼は既にベッドから起き上がっていて、満身創痍で駆け込んできたアタシを心底呆れ返った瞳で見返している。会話は聞かれていたようだ。

いいんだ、別に。見られていないのならアタシの勝ちだよ。

 

「おはよ、トレーナー」

 

痛みを極限まで圧し殺し、アタシは満面の笑みを作って、寝起きの彼にそうご挨拶した。

 

 

 

 

 

 

 

後日、トレセン七不思議に新しく『トレーナー寮の逆テケテケ』の噂が加わったのは……きっと、これとは関係のない話。



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「トレーナーの実家に遊びに行こう」

 

『過激な取材が増えています』という警告というか、注意喚起が学園事務局から届いたのは、一日のトレーニングを終えて寮に帰った直後のことだった。

学生専用のイントラネットや私用のメールボックスに加えて、ポストにもその旨が紙一枚投函されているときたのだから、中々に気合いが入っている。

 

過剰といっても、暴力行為だとか不法侵入だとか、流石にそこまでのレベルではないようだけど。逆にそこまでやらかしてくれればなんの気兼ねもなく警察に突き出せるし、百戦錬磨の記者達はそんなヘマをしない。

問題は中身だ。競技ウマ娘としての諸々にとどまらず、もっとプライベートに踏み込んだ部分。一般にアタシ達が人に知られたくないと思う領域であって、それがスキャンダルの類いであれば最高なのだろう。

 

「注意、って言われてもね……。トレーナーに言ってよ、こういうのは」

 

なにをどう気を付ければ良いというのか。

アタシ達にとって流出させたくない情報なのだから、アタシ達自身の口から外部に……ましてや報道関係者なんかに公表されるわけがない。というかそうやって本人から任意に聞き出している時点で、過激な取材でもなんでもないのだから。

すなわち情報源となり得るのはもっぱら他人。学生は親兄弟と離れて暮らしているから、最有力は公私ともにほとんど毎日顔を会わせている担当トレーナーに他ならない。

ウマ娘の育成のみならず、マネージャーとしての性質も兼ね備えている以上、マスコミと直接やり取りする機会だって段違いに多いわけだし。

 

誰に向けたわけでもない呟きだったが、向かいのベッドに腰掛けたルドルフは、それを耳敏く聞きつけたようで。

律儀に脚の爪を切る手を一旦止めると、顔を上げてこちらを覗き込んでくる。

 

「なにも余計な口がトレーナーだけとは限らないだろう。こと私生活について言うなら、寝食の大半を共にしているルームメートの方がよっぽどじゃないかな」

 

「あー……確かに。それはあるかもね」

 

寮部屋で分かることなんてたかが知れているが。

そもそも組み合わせによって格差も大きい。やっぱり共同生活には、人それぞれ向き不向きというものがあるから、全てのペアが仲良しこよしというわけでもないのだ。

とはいえ同じ部屋で生活する以上、流石に犬猿の仲というケースは稀である。その珍しいケースの一例が、他でもないアタシと入寮間もないルドルフの組み合わせだったのだが……いつの間にやら、随分と関係も進展したものだね。

 

「トレセン学園生徒会長シンボリルドルフが、生徒会発行の週刊紙を読みもせずに爪切りの下敷きに使ってることとか」

 

「これの起草から脱稿、推敲までの全過程において私が携わってるんだから良いのさ。わざわざ読み返すまでもない。それよりも、君こそ我が身を省みるべきではないかな、シービー?」

 

「ん?どういう意味?」

 

「君はまず服を着てくれ」

 

床に脱ぎ捨ててあった、アタシのスウェットの上下を放り投げてくるルドルフ。ひょいと身をかわせば、張り替えたばかりの壁紙にぶつかってシーツの上に崩れ落ちた。

 

「同性同士なんだから別に良いでしょ。見られて恥ずかしいような身体はしてないし。ほら、見てよこの腹筋の仕上がり」

 

「見ない。それとこれとは話が別だ。いくらプライベートとはいえ、そういった気の緩みがいずれは公にも波及するんだ。だいたいそんなずぼらでは、一人暮らしなんてやっていけないんじゃないかい」

 

「つれないの。あ、分かった。ルドルフってば、アタシの方がプロポーション良いから嫉妬してるのかな」

 

「私の方が戦績は良いけどね」

 

「全く可愛くない戦績だけどね」

 

別にアタシが脱ぎたがり見せたがりってわけじゃない。単純に、下着が一番楽ってだけの話。

元々アタシは一人っ子ということもあって、共同生活というものに憧れてこそいたのだけれども、しかし常に他人の目を意識するというのは疲れてしまう。

 

「……じゃなくて、外に流れたら不味いネタの話をしてるんだけど」

 

「うん?だからそれが今言ったことじゃないのか?……もしや君、それが恥ずかしいという自覚すら喪ってしまったのか?寮だけじゃない、部室でも好きに着替え始めるのも……」

 

「え、いやちょっと。なんでそれをルドルフが知ってるわけ?少なくともアタシ、部室じゃキミの前で着替えたことなんてないハズだけど」

 

「トレーナー君から聞いた。シービーのために更衣室が必要かなって、愚痴っていたよ」

 

「あんの……」

 

ホント、そういうところだからね。

アタシが一体どんな気持ちで……まぁいい。

 

「へぇ。うら若き乙女の秘密をそんなあっさりとバラすなんて。キミは随分とまた彼に信頼されているんだねぇ、ルナちゃん」

 

「待て。その幼名はシリウスとトレーナー君しか知らない筈……」

 

「トレーナーから聞いた」

 

「……………………………………そうか」

 

うわぁ。ルドルフってば、すっごい嫌そうな顔してる。

アタシにそう呼ばれたことか、トレーナーに勝手にバラされたことか、一体どっちだろ。どっちもかな。

 

ただ、今はそれよりも、心に急浮上してきたこの疑念をどうにかしなければならない。

ルドルフもまた、アタシと同じ事を考えているようで、落ち着かなさげに耳をバラバラと動かし始める。

 

「……さ、流石にトレーナー君だって、チームメイトである私達の間ならともかく、外部の取材者に明かすことはないんじゃないかな?」

 

「どうだろうね。時と場合によるんじゃない?こういう時、絶対そうだろうなんて思い込みは全くアテにならないものだよ。キミだって、自分の幼名が勝手にバラされてるなんて、夢にも思わなかったでしょ」

 

「そ、それはそうだが……」

 

「保障が必要なんだよ。トレーナーがアタシ達の情報について、ネットに流れてる以上のものを口外しないっていう保障が」

 

あるいは秘密と言い換えてもいい。

アタシとて、あのトレーナーが無闇矢鱈に秘密を流しまくるとは思わないけど。むしろ口は固い方だろう。

ただ、それでも信頼以上のセーフティをかけておくことでアタシたちは安心できる。そもそも信頼などというものは、ある程度の根拠を下地にして初めて成り立つものなのだから。

 

「保障……トレーナー君本人の口から確約してもらうということかな」

 

「それはあくまで前提だよ。それだけだとたんなる口約束に過ぎないし、だいたい『貴方は秘密を守ってくれますか?』なんて聞いたところで、『はい』以外の返事が貰えるわけないじゃん」

 

「ああ、つまり君は武器が欲しいわけだ」

 

「うん。それもとびきりのやつを。トレーナー君がアタシ達の秘密を漏らすことで、結果的にアタシ達と同等か、それ以上の被害を被るような代物を」

 

「それによって、我々はみな一蓮托生になるというわけだ。核抑止論さながらだな」

 

そう、まさに核爆弾級のものなら最高だ。ただの約束の担保のみならず、いずれは別のなにかにも応用が効くかもしれない。

となると、一つ二つでは心許ない。質量ともにハイクラスで、尚且つ世に出回っていない秘密なら最高だ。

 

「と言っても、あまり見当がつかないな。私の知る範囲においては、トレーナー君はそこまで派手な暮らしぶりをしていない。収入に比べれば、むしろ堅実な方だろう。叩いたところで、肝心の埃が出てくるのかどうか……」

 

「一番近くにいるアタシとルドルフですら知らないってことは、本当になにもないんだろうね。"今は"」

 

「……まさか、これから作り出すとでも言うんじゃないだろうな」

 

「あはは、違う違う。アタシだってそんなことはしないよ。逆だよ逆。見るべきは現在でも未来でもなくて、過去。それも、証拠があれば言うことなしかな」

 

過去。トレーナーがトレセン学園に入ってくる前の話。

アタシはこの学園で彼と巡りあった。だからそこに至るまでの過程を全くと言っていいほど知らないんだけど、幼い頃から繋がりのあるルドルフはよく知っている。それも、かなり深いところまで。

アタシにとって、それはちょっとしたコンプレックスとなっていた。

 

逆に彼が学園に採用されて、シンボリフレンドの下でサブトレーナーとして活動していた一年。アタシが中等部一年生だった頃の彼を、ルドルフは知らないわけだけど。それでも、トータルで過ごした時間で見るなら彼女の方がずっと上。

良い機会だ。この機に乗じて、アタシの知らない彼をとことんまで暴き立ててしまおう。

 

「それならシリウスか……マンハッタンカフェにでもあたってみるか。前者はともかく、後者はかなり期待できるからな。実際に教えて貰えるかどうかは、こちらの出方次第となるだろうが」

 

「それも良いけどさ。せっかくだから、もっと根っこの方に直接手を入れてみない?たぶん、キミでも知らない話をうんと掘り出せるんじゃないかな」

 

アタシも彼の母親にご挨拶しておきたいからね。もうそろそろ良い頃合いだろう。むしろ遅すぎたぐらいかもしれない。

もっと早くに行っておくべきだったかな。それこそ、ルドルフがここに入学してくる前ぐらいには。

 

「ね、ルドルフ。トレーナーの実家に遊びにいこう」

 



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破天荒な彼女

 

トレセン学園からその手紙が届いたのは、俺が母国への出張から帰って来た直後のことだった。

 

長40の茶封筒には校章のスタンプが押されていて、一目で差出人が分かる仕様。元々あそこでトレーナーをやってた俺だから、その関係で、連絡が来ること自体はそう珍しくもない。

いつもと違ったのは、引っくり返した裏面に記載された組織名が、理事会やら事務局やらではなく、生徒会だったということだろうか。

俺はトレセン学園のトレーナーでこそあったものの、生徒ではなかった。故に、そんなところから声をかけられる謂われなどない。

 

面倒だ。そういう一風変わったお便りは厄介事だと決まっている。この俺の豊富なバ生経験から導き出せる真理だ。

正直このまま見て見ぬふりをするか、なんなら切手を貼り替えて送り返してやりたいぐらいだったが、そうするともっと面倒が大きくなるという確信が俺を思い止まらせる。

 

封を切って逆さに振ると、飛び出してきたのは四つ折のA4用紙。

ご丁寧にもサインの上に印鑑まで捺されていて、正式な通達だということは明らかなのだが……。

 

「……んん?」

 

そのサインが不可解だ。

現生徒会長であるシンボリのガキが記名するのは分かる。だがその下の名前は一体なんだ?

いや、素性は分かっている。シンザン以来十数年ぶりの三冠ウマ娘。問題は、何故そいつが連署しているのかということ。

名前の頭にくっついた肩書きは、前トレセン学園生徒会長。本来、副会長あたりが出張ってくる場面とはいえ、しかし現生徒会の関係者と言えなくもないのが尚更混乱の種である。

 

それにほんの少しだけ興味を惹かれて、文面にもざっと目を通してみる。

起草したのは現生徒会長の方か。お手本のような、子供らしさの欠片もない格式張った文章は、時差ボケにやられた頭には少々キツい。

それでもどうにか拾い上げた情報を咀嚼するに、どうも俺へのインタビューの話らしい。昔の話。ただし俺ではなく、連中のトレーナーについての話。

 

俺は自分自身の昔語りを一切しない主義だ。気持ちのいい話ではないし、なにより一方的に憐憫を押し付けられるのは腸の煮えくり返るような不快感に苛まれる。

己の過去という領域に土足で踏み込まれること自体がまずもって腹立たしい。

おまけにここ数年、三冠ウマ娘が立て続けに誕生したこともあってか、鬱陶しい取材依頼が相次いでいた。

 

俺の過去を漁る奴は誰だろうが許さない。その手の依頼は一つ余さず全て蹴ってきたのだが、しかしアイツの話とはね。

ミスターシービーはさておき、シンボリルドルフならそれなり以上のことは知っているだろうに。それでもこうしてわざわざアポを通してきたということは、よっぽど切羽詰まってると見える。

 

「あー……どうしたもんかね」

 

はっきり言ってしまえば面倒くさい。が、それさえ我慢すればかなりオイシイ話のようにも思える。

なにせこちらに失うものがないのだ。それで天下のトレセン学園生徒会に恩を売れるのなら、曲がりなりにもレースに関係している身としては御の字である。

昔の話……"情報"というのがまたいい塩梅だ。なにせ俺以外に供給源なり得る者がいないのだから。

念のため、子供二人には黙っているよう後で釘でも刺しておこうか。

 

早速返事をしたためようと万年筆をとって……俺はふと手を止める。

互いに損のない話。ただし、勝手に取引のネタにされる義理の息子を除いては。

過去を暴かれる痛みについては、他ならぬ俺自身が一番理解している筈。

それなのに、本人に無断でこんな話を進めることは、果たして許されるべきことなのだろうか?

 

そう考えを巡らせて、俺は……

 

 

「……ま、いいだろ。別に減るもんじゃあるまいし」

 

そんな良心を秒で切り捨て、用紙の裏に筆を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルドルフに案内されたトレーナーの実家は、想像よりずっと大きかった。

あと意外とトレセン学園に近い。郊外もいいところだが、一応は東京の中にある。ルドルフ曰く、家主が偏屈なので、案内なしに辿り着くのは困難らしいが。

 

「大きいね」

 

「一応、住宅兼事務所という形になっているんだ。彼女は本当に手広くやっているんだ。もうちょっと離れた場所では孤児院も扱っている……まぁ、それはおいおいかな」

 

「へー」

 

「?どうしたシービー。なにか気に触ったかな?」

 

「べーつに。なんにも。お気になさらず!」

 

立て板に水を流すような流暢な説明。そして迷いのない足取りからして、ほんの一、二回ここに訪れたという程度ではあるまい。

かつて話に聞いていた以上に、深い交流があるらしい。本当に面白くない。

 

ルドルフはそうか、と呟いて歩みを再開する。

バスを乗り継いで、小洒落た並木道を流した先にある静観な住宅街。低層マンションが建ち並ぶいわゆる振興開発地帯という場所ではなく、どちらかといえば昔ながらの風情があった。

 

そんな中でも、この家は一等存在感を放っている。

地上から全貌は窺えないけれど、それでも一目で広大だと分かる敷地を、ぐるりと瓦敷きの塀が囲っている。

両開きの門は重厚な木製で、インターホンすら場違いに思えてしまうほど。これはまるで……

 

「武家屋敷、のようだろう?事実、一からこれを建てたわけではない。彼女が買い取ったのさ」

 

考えが顔に出ていたのか、アタシの思考を引き継ぐルドルフ。まるで自分のことのように得意気な様子。

彼女の実家だって大概であるし、なんならこれよりもずっと規模が大きいのだが……この屋敷は、それに負けず劣らずのなにかがあった。

それは情緒とか、格式とか………あるいは歴史と呼べるものなのかもしれない。

 

「本当に大名の屋敷だったの?」

 

「さぁ、そこまでは知らないが、名士だったことには違いあるまい。なんにしても、異邦人である彼女がよくもまあ見つけ出したものだ」

 

「その頃から日本に興味があったのかな」

 

「どうかな。少なくとも今ではすっかり日本かぶれだが」

 

呆れた様子のルドルフ。

筋金入りの外国かぶれであるシンボリ家のウマ娘が言ったところで、あまりにも説得力がないのだけれど。

 

 

まぁ、アタシにしたってここの家主のことは知っている。

トレーナーやマンハッタンカフェ、マンハッタンカフェのトレーナー、それにシンボリフレンドから聞いたこともあるし、そもそもこの国でレース競技に携わる者なら知っていて当然である。

ずっと昔に海の向こう……アメリカで活躍した二冠ウマ娘だ。それが引退後、どういうわけか日本に渡り、中央でもトレーナーとして実績を残している。

 

レースに直接関係する点では同じだが、競技ウマ娘とトレーナーでは求められる才能がまるで異なる。端的に言ってしまえば、競技者か指導者かという違いだ。

レース競技で結果を残したところで、トレーナーに転向したとたん鳴かず飛ばずの例など枚挙に暇がない。逆もまたしかり。

後者の例になるが、シンボリフレンドなどまさにその典型だろう。いや、彼女も菊花賞に出走していたわけで、上澄みであることは間違いないが、流石に妹と比べると見劣りする。逆にルドルフが指導する側に回ったところで、彼女ほど大成するかはかなり疑わしい。

 

そんな中で、双方を極めた彼女の才能は比類ない。月並みな表現になるが、天才というわけだ。

そしてきっと、その才覚は未だに衰えていないのだろう。

いくら成り上がったといえども、たった一代でこれだけの屋敷とそれに見合う生活を維持しながら、悠々自適に暮らすことは難しい。

ルドルフはさっき、手広くやってると言っていた。それはつまり、今も数々の領域に手を入れて、成功を納めているということ。

 

異才。だからこそ、新たに浮上する懸念もあるわけで。

 

「アタシ全然その人の話聞かないんだよね。おかしくない?これだけの成功者なら、テレビとか新聞とか出るもんじゃないの?」

 

「だから言っただろう、偏屈だと。人嫌いというか、猜疑心が強いというか……とにかく軽々しく近寄られることを酷く嫌う。好かれるよりも、嫌われる方が気分が楽だと言い放つぐらいだ」

 

「社会不適合にも程があるでしょ」

 

「好戦的、暴力的、唯我独尊。もっとも、その貪欲さで以て勝ち続けてきたこともまた事実だろうが……」

 

ルドルフにしては歯切れが悪い。まぁ、気持ちは分かる。

そんな一般的にはおよそ受け入れがたい気質を備えながら、しかしかのウマ娘は疑いようもなく勝ち組にいた。果たして見倣うべきか否か……。

 

「人となりは知らないとしてもだ。あの返信を見ればおおよそ察しはつくだろう」

 

「まぁね」

 

アタシのポケットの中には、くしゃくしゃに畳まれた茶封筒が一つ。

あろうことか、彼女はアタシ達への返答を、取材依頼の文面をしたためたA4用紙の裏に書き殴って寄越してきた。

中身も簡潔に、『応相談』の三文字。つまりアタシ達は、実際に話を聞けるかも分からないまま、こうしてはるばる出向かされている。

それを徒労に終わらせたくないというこちらの心理を利用して、少しでも『交渉』を有利に進めようという魂胆なのだろう。

 

走るだけが能のウマ娘ではない。レースに留まらず、権謀術数もこなせる類いの強者だ。トレセンでは殆ど見ないタイプの。

こんな粗野な立ち振舞いをしていながら……いや、それすらも演出の一つなのかもしれない。

いずれにしても、アクの強い人物であることに間違いなかった。

 

「会いたくないなぁ……」

 

「君から会いたいと言ったんだろう。もうここまで来てしまったんだ。早めに腹を括ってくれ」

 

「はぁい……」

 

ルドルフはアタシを振り向きもせず、インターホンのスイッチを押す。

しかしいつまで経っても反応がない。ふと上をみると、監視カメラが首を下げているのを見つけた。なんだろうこれは。一気に暴力団の事務所っぽくなったね……。

 

「いない。……筈はないな。確かに気配は感じる。仕方がない。勝手に邪魔するとしよう」

 

「鍵は?」

 

「必要ない」

 

言うや否や、ひらりと身を翻して壁を駆け上るルドルフ。あっという間に、塀の向こうへと姿を消してしまった。

程なくして、反対側から壁を小突く音が三回響き、ついてこいという指示。

 

「えぇ……」

 

そりゃあ、確かにアタシ達にかかれば、こんな塀ないも同然だけど。

でも、ただでさえ危険人物と分かってる相手に、こんな真っ正面から喧嘩を売るなんてどうかしてる。どうかしてるが、他にどうしようもないので仕方なく後に続いた。

 

 

同じように飛び越えて着地し、臥せた顔を上げると、目の前には先行していたルドルフと……さらにその先で、仁王立ちする一人のウマ娘。

獣駆除で使うような、アタッチメントのついたライフル銃を手に提げながら、アタシ達を睨み付けている。

 

 

マンハッタンカフェによく似ていた。髪の色も、長く垂らされた前髪の隙間から覗く満月の瞳も。

だけどその肌は、夏の太陽の下でもなお不気味な程に青白くて。不自然に内側に曲がった脚も相まって、この世のモノから外れた印象を受ける。

しかしその瞳だけは、あたかも寿命の尽きかけた恒星のように、爆発寸前の生命力を湛えながら揺らめいていた。バサバサに乱れた青鹿毛は、まるで伝説に生きる大鴉のような。

 

アタシやルドルフよりも、ふた回りも小柄な体格。

いや、上背だけで言えばそこまで大きな差はない。少なくとも、女性の平均以上はあるだろう。

だけどそのひん曲がった片脚と極限まで贅肉を削ぎ落とした上半身のせいで、実態以上に華奢に見えた。

 

そう、そんな肉付きまで見えてしまうのだ。だってこのウマ娘、庭とはいえ仮にも外であるにも関わらず、上になんにも着けていない。小振りで形の良い乳房が丸見えだった。

ハーフパンツにサンダルを履き潰しただけの、完全なるトップレス……うん、分かるよ。だってその方が楽だもんね。

 

「お久しぶりです。それで……どうして裸なのでしょう。サンデーサイレンス殿」

 

「後で返り血洗うのが楽だからに決まってんだろうが殺すぞ」

 

ゆったりと落ち着いた、これまた娘そっくりの声色でそう言い放つと、サンデーサイレンスは髪を揺らしながらライフルの照準をこちらに向ける。

その動作は身体に染み付いているかのようにスムーズで、お手本のように綺麗な構えのまま、引き金にそっと指をかけた。

 

……有言実行の鬼かな?

 



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交渉人

 

とにかく、これは不味い状況だ。言うまでもなく。

一瞬、あのライフル銃が本当は遊戯銃かなにかで、ただアタシ達を脅してるだけかもなんて考えたけど、まぁそれはないだろう。

あの銃には、なんていうか本物臭さがあるし、なによりここでそんなまだるっこしい真似をするようなウマ娘には思えなかった。

 

いくらウマ娘といっても、流石に銃弾より速く動くことはできない。

それはルドルフにおいても同じことで、結局二人して銃口を前に身動きがとれなくなってしまう。

 

「なんで......だってアタシたち、ちゃんとアポは取ったじゃん」

 

「だったらなんだよ。だいたいアポ取ったからって、人んちの塀越えて不法侵入していいわけねぇだろ」

 

そうだけど......そうだけど!!

でもインターホン押しても出てこなかったあの時間、絶対それ(ライフル)取りに行ってたよね!?

仮にも最初はベルを鳴らして門を叩いた来訪者、それも事前に面会の約束を取り付けていた客人相手に、最初から返り討ちにするつもりで準備してたでしょ、この人。

 

「それに、まだ依頼を請けるって決めたつもりもねぇ。あん時、俺なんて返事したっけか」

 

「え......お、応相談って」

 

「そうそう!!だから、まずはここでその話を詰めようか?お前らが来客か侵入者かは、その結果次第だな」

 

「なっ......」

 

なんてヤツ。あろうことか、この状況下で交渉をおっ始める気だ。丸腰のアタシ達相手に銃を突きつけて......交渉というより、これじゃただの脅迫だろう。

太陽はちょうどアタシ達の真上。前髪で顔を覆っていても障るのか、少し眩しげに目を細めながらも、こちらから視線は逸らさない。贅肉の欠片も見当たらないその肢体は、骨と皮ではなくまさに筋肉質の見本といったところ。

喧嘩慣れしてそうだなぁ。やけに肝の据わった態度は、決して武器を手にしている優越感だけから来るものではない。

 

「ええ、分かりました。いいでしょう。こちらは最大限、そちらの要求を呑みましょう」

 

対するルドルフは慣れた様子で、あっさりとそう言い放つ。

思い切りがいいのは結構なんだけど、さっきからキミの先行にアタシも思いっ切り巻き込まれてるんだけどね。

ただまぁ確かに、この圧倒的劣勢な状況をどうにか切り抜けるには、とりあえずのところサンデーサイレンスに阿るほかないわけだけども。

 

そんなルドルフの言葉にサンデーサイレンスはふんと鼻を鳴らすと、顎を振ってアタシ達についてくるよう指示した。

 

 

「失礼します」

 

「お邪魔しまーす。わぁ......やっぱおっきいね」

 

家の中は、外観と比べたら意外にも庶民的だった。その圧倒的な広さに目を瞑れば、アタシの実家に雰囲気が近いかもしれない。

一人では確実に持て余す敷地だが、彼女はこれで満足なのだろう。正直なところ、衣食住にこだわりを見せるタイプとは思えなかった。

 

今だってそう。タンクトップを適当に着こなしながら、仰向けに寝っ転がりつつミントキャンディーをバリバリと噛み砕いている。そのままウィスキーをストレートで流し込んでいる姿は、見ているこちらの胸がむかむかしてくる。

お世辞にも健康的な生活とは言えない。それでいながら、ウマ娘という種族を考慮してもなお実年齢とかけ離れた若々しさを保っているのは、感嘆を通り越していっそ不気味な程だった。

活火山のような、暴力的な生命力を纏ったウマ娘。一見儚げなマンハッタンカフェとはえらい違いである。

 

「あ、あの〜」

 

「諦めろ」

 

とにかくどうにか場の主導権を握ろうと、様子を窺いつつ口火を切ってみた瞬間、畳み掛けられるように出鼻を挫かれる。

 

「ま、まだなにも言ってないけど」

 

「お前らが聞きてえのは、アイツの恥ずかしい過去ってヤツだろ。ねぇよそんなもん。少なくとも俺の知ってる限りの範囲じゃあな」

 

「な、ないってことないんじゃないの。どこの家にだって、エピソードの一つや二つはあるものでしょ」

 

「余所の家なんて知らねーよ。だいたいアイツは、昔っからいい子ちゃんだったからなぁ......」

 

そこで話をやめてくぁ、と大欠伸。

ああ、不味い。これは完全に飽きが来ている。このままだと、一分後には帰宅を促されてもおかしくない。

ここまで来て徒労に潰えるのは絶対に御免だったので、どうにか食い下がってみる。

 

「じゃ、もうなんでもいいよ。昔の思い出ならさ。母親ならなんかあるでしょ?」

 

「なんかねぇ.......」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんかなんて言われたところで、パッと出てくる奴は思い出とは言わねぇよ。そりゃあただの記憶だ。

 

まぁ、それでも詩的で涙ぐむようなお話の一つぐらいあってもいいんじゃねぇかって、そりゃ確かに俺も思うぜ。親と生き別れ、誰にも心を開かなかった孤児が云々......なぁんにもなかったなぁ、そういうの。

むしろアイツはどっかおかしいぐらいだった。初対面から人懐っこいのなんの。手が掛からないで済んだのは、俺も助かったがな。

 

いや、手が掛からないは嘘だな。別の意味で気は遣った。

なにせずっと後をついてくるんだ。隙さえあれば俺の背中についてくる。勝手にうろちょろされるよかマシかもしれんが、それがいつ何時もとなるとな。そういう妖怪かなにかかと思ったぜ。

.......そうそう、妖怪といえばソイツ、夜になると何故か俺の布団に潜ってきてな。ちゃんと自分の布団を与えてやったってのに、何故かわざわざ狭いこっちまで移動してくる。

まぁ、そこまでならまだ分かる。まだ小さい子供は誰かと一緒に寝たがるもんだ。特に俺たちウマ娘は、平温が高いぶんちょうどいい塩梅らしい。

 

 

あ?ああ、なにが妖怪なのかって。

まぁ聞けよ。アイツはな、夜中になるといっつも俺の顔を覗き込んでくるんだ。それも、鼻先の触れ合う至近距離でな。

 

俺は神経質なんだ。あまり付き合いの長くねぇ奴が近くで起きてると寝つけねぇ。必然、この家じゃ俺が一番遅寝早起きだったんだが、あれには参ったね。

あんなに顔寄せられて、何十分も何時間もガン見されたら、俺じゃなくても誰も寝られねぇだろ。それも俺がホントは起きてるって分かっててじゃれついてんじゃない。一体ナニがアイツをそこまで駆り立てたんだろうな?

 

結局、俺がアイツの存在に慣れて、観察されながら寝つけるようになるまでずっとその奇行は続いた。ひょっとしたら、寝つけるようになった後もずっと。

そんでだいぶ後、随分デカくなった時に聞いてみたんだが、たんに俺の顔が気に入っただけなんだと。

お前らも小綺麗な顔しちゃあいるが、結局俺には敵わないってこった。なんせ、幼児期の不純物のない感性が一番素直に決まってんだからな。

 

 

 

 

 

 

「......え、終わり?それだけ?」

 

まさか、こんなヤマもオチもない、フラットの極みみたいな話で満足しろと?しかも最後マウントまでとってるし。

 

釈然としないアタシの顔を睨み返して、サンデーサイレンスは再び口を開く。

 

「ネット漬けの今時のヤツらはこれだから話にならねぇ。情報がタダだと思ってんなら大間違いだぜ」

 

「ああ、今のが無料お試し版ってこと。他が欲しいならお金を入れろと。旅館のえっちなビデオみたいだね」

 

「黙れ。だいたい俺が欲しいのは金じゃねぇ。んなもんよりちゃんとぴったり釣り合うだけの価値のあるもんだ。分かるだろ」

 

分かるか。

 

なんて言ったらそこで交渉終了なので、真面目に考えてみる。

といってもお金が駄目で、しかもぴったりと天秤の整う対価となると......考えのつくものは一つしかない。すなわち、同じだけのトレーナーと、アタシ達の間の思い出だ。

幸い、その話のネタというか、引き出しだけは腐るほどあった。その中から適当なものを引っ張り出して投げつけてやる。

 

 

「前にね、トレーナーの寮によく泊まってた時期。アタシには、夜更けになるとトレーナーのベッドに潜り込んで、その顔を観察する習慣があってね......」

 



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想起

 

「ってわけで、トレーナー寮には二重認証ロックがかかるようになったわけ。おしまい」

 

「そうかそうか」

 

アタシがそこで話を終わらせると、サンデーサイレンスは満足そうに頷いてボイスレコーダーのスイッチを切った。

 

「わざわざ録音する必要ある?っていうか、いつもそんなの持ち歩いてるんだ」

 

「最近はな。お前らだけじゃない。俺の昔の話を聞きたがるうぜぇ連中が土の中から一斉に芽を出してよ」

 

苛立たしげにウィスキーのボトルを呷るサンデーサイレンス。

気持ちは分からないでもない。アタシもルドルフも通ってきた道だ。世の中には、有名人の使ってるバスタオルの柄まで知らなきゃ気の済まない人種が意外と多いらしい。

ある程度の自衛は必須である。とはいうものの、彼女は少しばかり行き過ぎているような気がしないでもないが。

 

「無碍にあしらうのもそろそろ限界かもな。飴の一つはくれてやるべき頃合いかもしれねえ」

 

「飴......って、なんの話?それアタシ達に関係あるの?」

 

「んあ、いや。なんでもねえよ。こっちの話」

 

彼女は大きなため息をついて、ごろんと背中から倒れてしまった。畳の上で大の字になりながら、瞬きもせずに天井を見つめている。

真っ昼間からお酒を呑んで、横になって。なんともまぁいいご身分だが、そんな彼女でもなにもかも自由にとはいかないのだろう。ある意味で世知辛い現実がそこにはあった。

 

「っていうかさ。アタシ達がちゃんとお話したんだから、そっちもちゃんとした話をしてよ。そういう約束だったでしょ。ねえ」

 

「......」

 

そうやってアタシが真っ当な要求を向けてみたところで、なんの反応も梨の礫。一応お願いしている立場なわけだし、まずこっちからネタを明かすのはまあいいとしても、約束を破ることは許せない。

ただ、サンデーサイレンスは対価を出し渋っているというよりは、単純に面倒くさそうなだけのようにも見えた。頭の中から十数年前の記憶を引っ張り出して、言語として出力する作業が億劫なのかもしれない。とはいえ、先にひとに同じことをやらせている以上、今さら「やっぱ嫌です」なんて我儘は通らないわけだけど。

 

しかしいくら急かしたところで、きっと彼女には意味がないだろう。下手にへそを曲げてしまえば、かえって逆効果にもなりかねない。脅しや懐柔に屈するようなウマ娘でないことは明らかだった。

なので、アタシとルドルフはただ、捲れたシャツからさらけ出された腹を掻く彼女を見守るだけ。バサバサに投げ出された漆黒の髪は、あたかも両翼を広げて横たわる鴉のよう。

そっくりの容姿でも、マンハッタンカフェはどちらかといえば黒猫に近い雰囲気があるけれど、そんな表現サンデーサイレンスにはまったく似合わない。荒々しく、粗暴で、抜身のナイフみたいな女。ゴミ捨て場を漁る野良カラスにそっくりだ。

 

「ちょっと......」

 

「まぁシービー。そんなに催促しては出てくるものも出てこないだろう。ここは大人しく見守るべきだ」

 

アタシの我慢が限界に達しつつあったその瞬間、これまで一歩引いたところにいたルドルフが珍しく口を挟んできた。

そしてこれまた彼女にしては珍しく、随分と気の長い提案。思えば、トレーナーががっつり絡んでいるこの案件において、この子が身を引いていること自体が珍しい。

 

「なに。随分余裕だねルドルフ。ここぞという切り札でも握ってるわけ?」

 

「そんなことはない。ただ、私の場合は君と違って、そこまで焦るような立場でもないということを思い出してね」

 

「は?」

 

「いや、正直に言ってしまうと、この部屋に通された時から段々と昔の記憶が蘇ってきていてね。やはり、頭の中だけで捏ねくり回すことと、実際に縁の場所を目にすることとでは違うらしい」

 

「つまり?」

 

「私にとっては、最悪『自前』のものでもどうとでもなるということだ。勿論彼女から追加の情報が得られるに越したことはないが.....それでも、私には私だけしか知らない、彼の昔話がある」

 

あっそう。そういうことか。ようやくルドルフの言いたいことが飲み込めた。

薄々感じていたことではあったけど、やっぱりこの子、トレーナーと昔から繋がりを持っていたことを大層ご自慢に思っているらしい。その優位性で以て、アタシに余裕を見せつけてやろうという魂胆なのだ。

その満足気な笑みの裏に隠しているのは、こんな状況に至ってもなお、アタシへの対抗心一色というわけか。

 

「ルドルフ......」

 

「おや、不満そうな顔だなシービー。まぁ、君の気持ちは分からないでもないが.....しかしこればっかりは仕方のない話だ。思い出とは過去。過ぎ去ってしまったことは仕方がないんだ」

 

「この......」

 

「残念だったな。そう、もし仮に、君が私より先にトレーナー君と出会っていたのなら、きっと私がそうして歯噛みしていたのだろうね――」

 

 

「ああ、そうそう。先に会ったとかなんとか、その話なんだがなぁ」

 

自慢げなルドルフの語りに横槍を入れたのは、顔だけをこちらに向けたサンデーサイレンス。

しかしその視線はアタシでもルドルフでもなく、どこかここではない虚空を捉えている。どうやら何かを思い出したらしい。

 

「どっちが先って話なら、お前の方がずっと先にアイツと会ってんだぜ。ミス・ターシービー」

 

「ミスターだよ。え、なにそれ......初耳なんだけど」

 

「なんだ。アイツからなんも聞いてないのか。ならアイツも忘れちまってんだな。歳も歳だし、一回きりだって考えりゃ無理もないか」

 

「違うな。たんに忘れる程度の記憶だったというだけの話だ。お互いにとってね......」

 

完全に水を差されたルドルフが憮然とした顔でそう呟くが、勿論サンデーサイレンスはそんな様子を気にも止めない。

のそりと身を起こし、がしがしと頭を掻きながら、ようやくその重たい口を開く。

 

「じゃ、それについて教えてやろう。といっても、まずは俺が振り返るところから、だが」

 

「おお」

 

流石。十年半ば経った昔の出来事を一から想起できるあたり、やはり頭のキレには眼を見張るものがある。

 

「あれは確か、俺とアイツの二人で北海道に行った時のこと――」

 






イラスト描くのに夢中でサボってました


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誰の記憶にも残らなかった

 

俺はこの国に来て以来、あまりあちこちへと脚を向けたことがない。

 

単純に時間がなかったからだ。それに担当のレースに付き合えば、東京以外にも出張せざるを得なくなるから、それで満足していたというところも大きい。

だからまぁ、完全なプライベートで北海道の地に脚をつけるのはあの日が初めてのことではあったものの、はっきり言ってなんの感慨も湧かなかった。そもそも北海道それ自体は、仕事で何度も寄った場所だ。

 

じゃあなんでわざわざ旅行に訪れたかといえば、珍しくまとまった時間が取れたので、どうせなら休暇らしいことをしてみたかったという、ただそれだけの話。言うならば旅することそのものが目的となっていたわけで。

ちなみにカフェは置いていった。だいぶ......というか滅茶苦茶ぐずられたが、当時のアイツの歳だと船旅は少しキツい。しっかし最後の最後まで「着いてくから」と喚いていたあたり、俺がカフェに嫌われてんのはそれがきっかけかもな。あーあ。

 

 

北海道といえば......なんだろうか。

函館山か小樽運河、あるいはいっそのこと、知床の方まで見聞を広めてみるのも面白いか。飯目当てなら港周辺か、札幌でジンギスカンを堪能するのも良いだろう。

そこんとこ、もうちょっとよく詰めとくべきだったよな。てかそもそも、どこでなにをするかをまず最初に決めてから出かけるもんだよな、普通。

 

しかし如何せん、急に転がり込んだ余暇なものだから。

昨晩思い立って早朝家を立つという、これ以上ない見切り発車となった。そこでアドリブを効かせるとなると、どうしても過去の経験が表に出てきてしまうわけで。

 

 

両袖をトレンチコートのポケットに突っ込み、フェリーのタラップを降りれば、目の前には大きな看板。

デカデカと掲げられた地名は、函館でも小樽でも札幌でも知床でもなく、浦河。どこだよ。

......いや、自分から来たんだから勿論知ってはいたけども。レース競技にちょいとばかし縁の深い土地だ。たまにはレースのことなんか忘れてゆっくりしようと思えばこれだ。どうやら根っこの深くまで染み付いちまったらしい。同じレースなら、せめて帯広でばんえいでも見たほうがまだマシだったろうに。

 

 

もっとも、いくらド田舎とはいえあくまで日本。なにも砂漠のど真ん中に裸で放り出されたわけでもなし。狼狽えるようなシチュエーションではまったくない。

そもそも旅することが目的であり、フェリーで遠路はるばるこの地までやってきた時点でそれなりに満足なんだ。

少なくともバスは通っているわけだし、別に歩いてもいい。普通に考えて、栄えている場所があるとするならの玄関口付近だろうし。

 

「おい、いくぞ」なんて声を出して。

そこまで至って、ようやく俺ははたと気がついた。

 

さっきまで俺の尻尾を掴んでいた筈のツレがいない。

俺が係員と簡単な下船の手続きをこなすために、ほんの一分足らず目を離した隙に姿をくらましたんだろう。

 

着いて早々、迷子ってのは本当に前途多難だ。

ああいうガキってのは、弱っちい癖してその自覚もなくあちこちふらふらと彷徨い歩くから始末に負えねえ。

それでもフェリーの中をうろちょろしてんならまだマシだった。しかし案の定、船員を問い正してもろくな答えが返ってこない。

自身のウマ娘の嗅覚を最大限に発揮して、か細い糸を手繰り寄せるようにアイツの匂いを辿ってみれば、確かにそれはタラップを降りた外界へと繋がっていた。

 

ああ、知ってたさ。何時間もかけて閉じられたフェリーの中にいたんだから、今更そんなところに関心を持つはずがない。

ようやく辿り着いた新天地に、意気揚々と飛び出していったところだろう。ヒトの子供なんていつもそうだ。生物的には脆弱極まりない癖に、好奇心だけは肥大化して持て余す。よくぞまぁこれまで絶滅せずにこれたもんだよな?

 

舌打ちしながら、俺は微かな痕跡を辿ってアスファルトを蹴った。

匂いはまだ真新しい。それに都会と違って空気もいい。だが、どうしても海から吹き込む潮風に紛れてしまう。

 

 

ただ、紛れてるのは塩気だけじゃない。

 

ウマ娘だ。ウマ娘の匂いも確かに感じた。

ということはアイツ、誰か別のウマ娘と一緒にいるのか。勿論、こんな土地に俺たちの知り合いなんぞいるわけがない。

 

こんなご時世に、ウマ娘がヒトを拐うことがあるなんてなぁ。基本的に、同じ未成年略取でもヒトよりウマ娘の方が罪が重いんだぜ。内在する危険性が遥かに大きいからな。

まぁ罪の軽重はさておき、見ず知らずのガキを拐う奴なんて、ヒトだろうがウマ娘だろうが救いようのないロクデナシに違いない。ひっ捕らえたら、北の冷たい海で存分に頭を冷やさせてやろうと心に決めていた。

 

ただ、気になったことが一つあった。どうも件のウマ娘、単独犯じゃないっぽいんだ。

恐らくは二人組み。その片方に違和感がある。妙に懐かしいというか、それでいて背筋のゾッとするような、不自然な感覚。

それにどうしようもない気味の悪さを抱きながら、俺は歩みを止めずに先を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は初めて来る土地を散策するのが好きだ。元々、地に根の張っていない性分なのだろう。

むしろあてどない旅路に束の間でも目的が生まれたぶん、これはこれで良いんじゃないかなんて、ふと浮き上がってくるそんな呑気な考えを抑え込んだ。子供一人居なくなっているのだから、そうそう油断もしていられない。

本当なら真っ先に警察を頼るべきかもしれないが、しかし俺は昔から警察という人種が頭のテッペンから爪先まで嫌いだったし、なにより寄り道している内に匂いを辿れなくなっては困るからな。

 

というより、そうするまでもなかった。

港から走ること三十分ほど、道を逸れて小洒落た山道を進んだあたりで、ちょうど見つかった。

生い茂った木々の連なりを切り裂くように......たぶん、地元のちょっとした名所だったんだろう、滝が現れたわけだが。その滝壺から若干離れた辺りに展望台があってな。

そのエレベーターの中だよ。屋上にカゴが止まってんのを見て念のため呼び出してみたら、まさかその中にいたとはね。その時間、俺たち以外は展望台に誰もいなかったからなおさら不自然なことこの上ない。

 

......ってかミスターシービー、お前の地元だ。心当たりはあんだろ?観光地?そうか、やっぱりな。

今はどうだか知らねぇが、当時のその場所はこう言っちゃなんだが、なぁんか雰囲気が良くないというか、寒気がするというか。金がなかったのかね。そういう場所にしては、バリアフリーなんかも整ってなかったな。

例えば......ほら、エレベーターの昇降ボタン。あれが俺の肩のあたりにあってな。あれじゃあ車椅子の奴なんかは押せねぇだろうな。

 

まぁそこらへんはどうでもいいんだが、とにかく中にはアイツがいた。

正確にはアイツだけじゃない。アイツと、お前だよ。ミスターシービー。二人揃って、エレベーターの中で倒れてたんだよ。どういうわけか、お前と一緒にいたはずのもう一人は見つからなかった。俺の鼻も衰えたんかね。

なんでそんなとこにって......んなもん俺が聞きてぇよ。妙なことに、監視カメラには二人が乗ってる最中と、その前後だけ電源が落ちてたみたいでな。その後、勝手に復旧したらしいが。とにかく、そんなんだから事態把握のしようがない。

警察も動いたっちゃ動いたらしいが、お手上げさ。地元紙の三面を賑やかすのがせいぜいだった。今なら一面には載るかね。

てか俺じゃなくて当事者に聞けばいいだろ、そんなん。

 

ま、とにかくそんなわけで。それがアイツと、ミスターシービーの馴れ初めさ。

お前よりもコイツの方が、ずうっと先に『トレーナー君』と巡り合ってたのは事実なんだぜ。シンボリルドルフ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一息で話し終えた俺は、そこでふうっと一つため息をついて酒を呷る。

我ながらなんとも中身のない話だ。それもその筈で、俺自身コイツらの身に何が起きたのか全く理解していない。むしろこっちが教えてもらいたいぐらいである。

とりあえず、第一発見者としてあの後道警にどえらい疑いをかけられた怒りだけは忘れちゃいない。しかも連中、俺が二人を連れ歩く目撃情報も出てるなんて適当をほざいてやがったか。とにかく犯人を捕まえたくて躍起だったのだろう。

といっても、その不快感がなければこうして思い出すことも出来なかったかもしれない。事実、ミスターシービーの名前をテレビかなにかで目にする前まで、すっかり頭の中から飛んでいたわけだし。

 

悪いが、別にこのウマ娘と直接話をしたわけでもないからな。俺としちゃあ、分別のねぇガキが自分の子供を拐ってったってだけの認識。ソイツがよりにもよって未来の三冠ウマ娘とは思ってもみなかったな。

ほんの少しばかり、因縁じみたものを感じながらミスターシービーの顔を見ると、先程とは打って変わって、居心地の悪そうに、落ち着かなさげに眉を顰めている。

 

「お、なんだ。ずいぶん景気の悪い顔してんな。何か思い出したか?」

 

「......いや......」

 

「つーかお前らホントになにしてたんだよ。エレベーターは遊び場じゃねえっての」

 

公共の場だ。当然人の出入りがある。

昏倒していたとはいえ、拉致監禁の類いでないことは確かだろう。仮にも子供二人が巻き込まれた事件にも関わらず、半ば神隠しのような扱いで済ませられてしまったのは、そういった事情もあるのだろうか。

 

それに隣に目を向けて見れば、シンボリのガキの方も同様に険しい表情をしていた。

まぁ、コイツにとっては先を越されたようなもんで、やはり気分のいいものではないことは確かだろうが。

 

「なんだ。お前も湿気た顔してんな。便所なら廊下を出た突き当りだぜ」

 

「知ってます。いえ、そういう話ではなく......」

 

「じゃあどういう話なんだよ」

 

俺が促してからも、少しの間シンボリルドルフは小首を傾げていたが、やがて踏ん切りのついた様子で口を開く。

 

 

「先程の話......破綻している。どう考えても、異常な気がしてならないのですが......」

 

 

 

 



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君が悪い話

そう、成立し得ないのだ。頭の中で再現を重ねていけば、筋の通らない部分がいくつもある。

当事者である目の前のウマ娘がそれに気付いていないのは、そこまで深くかの事件を捉えていなかったからか、あるいは単純に動転していたのか。もっと単純に、即興の作り話だという可能性もあるが、さて。

 

「まず真っ先に浮かんだ疑問としては......速度が、不自然に思えてなりません」

 

「速度ぉ?」

 

「ええ。貴女が当時のトレーナー君とはぐれてから、追いつくまでかかった時間。具体的にどの程度でしたか?」

 

「そう問い質されても、流石に十年以上も昔となるとな。......まぁ、十五分は越えてるんじゃねぇか」

 

「ええ。だとすると、あまりにも長過ぎるような気がします。百歩譲って、ウマ娘であるシービーだけならまだしも、十にも満たないヒトの子供が一緒にいながら、ちょっと目を離した隙に、そんな距離が稼げるとは思えない」

 

彼女とて悠長に歩いていたわけではないだろう。いや、仮にそうであったところで、大人のウマ娘を振り切るのは至難の技だ。彼女に現地の土地勘が無かったことを加味しても尚。

かかった時間と、匂いによる追跡が困難であった辺り、彼女が一瞬気を逸した間に、シービーとトレーナー君はキロ単位で港から遠ざかっていたことになる筈。でなければ、あっという間に追いつかれて終わりだ。

 

「そもそも、トレーナー君たちが出会って即座に意気投合して動き回るというのもおかしな話で、相応のコミュニケーションがあるべきでしょう」

 

「俺の意識から外れたのは、せいぜい十秒、二十秒ってあたりだ。その間に、初対面の二人が逃避行というのは......」

 

「まぁ、あり得ないですよね。いくら子供のやることだとは言っても」

 

「他には?」

 

「そうですね。どうして大人である貴女の胸の位置にある昇降ボタンを、貴女の尻尾を掴む程度の背丈であるトレーナー君たちが押せたのかとか、他に誰もいないにも関わらず、エレベーターの籠が地上ではなく屋上に留まっていたこととか」

 

「......」

 

「トレーナー君とシービー以外の『誰か』がそこにいたと考えれば、この奇怪な現象にもまだ説明がつくのでしょうが」

 

幸い、全く手掛かりなしというわけではなさそうだ。

先程から明らかに様子のおかしい、隣で肩を小刻みに震わせる彼女の顔を覗き込む。

 

 

「......さて、シービー。いよいよ君の番だ。話してもらおう。一切合切、その時君とトレーナー君に何が起きたのかを」

 

私がそう促すと、意外にもシービーは素直に首を縦に振る。

そのままゆっくりと唇を開き、彼女らしくもないか細い声を絞り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

アタシがトレーナーと出会ったのは、本当にただの偶然だった。

元々、アタシの実家は港にそれなりに近くてね。アタシは暇を持て余すたびに、ぶらぶらとその辺りをほっつき歩いてたんだ。特に意味なんてなく、ね。

今にして思えば不用心だけど、なんとなく目についた観光客に声もかけてね。つまり、トレーナーもその一人だったわけ。

 

え?だからって誘拐なんかするな?いやいや、いくらアタシだってその程度の分別はあったって。

トレーナーに声かけたのはさ、単純に保護者がついていたからだよ。むしろその保護者の方が、積極的に絡んできてね。アタシもまぁ、母親以外でウマ娘を見るのも久し振りだったから、乗っちゃったのもある。

母さんとは全然違うタイプだったからね。前後に長く垂らした青鹿毛と、金色の瞳。猫みたいだったな。大人しそうというか、こう言っちゃなんだけど少し陰気というか。少なくとも、攻撃的には見えなかった。子供のアタシにも、ちゃんと敬語だったしね。

 

ただ見た目のわりに大人しくはなかったな。

アタシとトレーナーの手を取ってね、どんどん港から離れていっちゃって。そこはアタシの地元で、勿論一番土地勘があるのもアタシだから案内するよって言ったのに、暖簾に腕押し。まるでこっちの言うことなんて聞いてくれなかった。

 

おかしいとは、思わなかったな。

確かに、アタシ達が連れて行かれたのは山中の滝。そこに横付けする形で備え付けられた展望台。

港からそこまで、確かにそれなりの距離がある。大のウマ娘が早足で十数分。ルドルフの言う通り数キロ......もしかたら十数キロはあったかもね。

事実、それ相応の時間が経ってたんだよ。一番足の遅いトレーナーにあわせてたんだから、少なくとも二時間以上はかかってたんじゃないかな。正確なところは、そもそも確かめようがなかったけど。

え?いや、別に不安にもならなかったし、特にトレーナーのことを心配することもなかったな。だって......

 

 

......だって、『保護者』が一緒にいたんだから。

 

 

その『保護者』に手を引かれてさ、エレベーターの中に乗り込んで。

そうそう、そういえばそのエレベーターなんだけど、流石、小さくても観光地にあるものだからさ。扉の真正面に大きな窓があったんだよ。そこから滝の景色が見えるんだけどね。

エレベーターが昇る間、ガラス越しにその風景を眺めててさ。

 

それがいつまで経っても終わらないんだよ。

どんどん地上から籠が上がっていって、いよいよ地面が見えなくなるぐらいに上がってもまだ。延々と滝が終らないの。

何百メートルも、ひょっとしたら何千何万も上がっても、ずうっと。エンジェルフォールでもあるまいに、まるで映画フィルムのように、全く同じ滝と、同じ景色が終わりなく伸びていって。それでもトレーナーはまるでなんともないように、その保護者とずうっとお話をしてばかりで、アタシの方を見向きもしない。

まるで、アタシだけが違う世界に囚われたかのような。

 

ああ、それでも最後はたどり着いたんだ。

扉が開いた瞬間、目の前に見えた展望台には、まるで墓石のように数え切れない程のエレベーターの扉が規則正しく並んでいて。

その光景に思わず飛び出しかけた足を止めた瞬間、急にエレベーターの呼び出しボタンが鳴ったの。おかしいよね。既にエレベーターは開いていて、ボタンなんて鳴るはずがないのに。

そしたらその瞬間、展望台にあるエレベーターの扉が一斉に開いてさ。マトリョーシカみたいに、その中にはさらに別の屋上が広がっていた。

それを見届けた瞬間、アタシ達の乗っていたエレベーターが落ちたの。何万キロも昇ってきた軌跡をなぞって、真っ逆さまに。

 

 

ああ、そうだ。思い出した。

それがきっかけだったんだ。アタシが、エレベーターに乗れなくなったきっかけ。

 

もしあの時あの屋上で降りてたら、一体どうなってたんだろ。『保護者』に聞けば分かるのかな。

うん、最後に名乗ってたんだ。といってもアタシに向けたわけじゃなくて、トレーナーとの会話の中で零していたのをした偶然聞き取っただけなんだけど。確かその名前は....

 

 

 

 

 

 

 

.......『マンハッタンカフェ』

 

 

「そうか」

 

その独白を聞き終えた瞬間、私はほとんど反射的に立ち上がる。言うまでもなく、即刻この場を離れるためにだ。

 

「貴女は貴女が思っていたよりよっぽど憎まれていたらしいですね。サンデーサイレンスさん。彼女にとっては、そこまで置き去りにされたことが恨めしかったらしい」

 

「じゃあなんで貴女じゃなくてアタシに障ったの!?」

 

「さあな。ガキん頃からスターの相でもあったんだろ」

 

さも他人事のように呑気な様子のサンデーサイレンスに、今回に限っては純粋に被害者だったシービーは肩を怒らせる。

それに付き合ってる暇はない。さっさと退散して、今日のことは綺麗さっぱり忘れることにする。

そういえば、つい数時間前、しきりについてきたがるマンハッタンカフェを半ば騙す形で置き去りにしたのを思い出したからだ。彼女がここに、一体なんの用があったかは知らないが―――

 

「ああ、最後にこれだけは教えといてやろうか。なんで俺がわざわざ今日、こんな話を選んでお前らに聞かせてやったのか」

 

襖に指をかけた瞬間、背中にサンデーサイレンスのざらついた声が纏わりつく。

どうしても無視できず振り向いてみれば、彼女は裂けるような笑みに満月の瞳を揺らした凶相を湛えている。まるで、蜘蛛の巣に落とした蝶の末路を楽しむ童のような。

 

長きを生きたウマ娘には似つかわしくない表情。

そもそも......そこにいるウマ娘は、我々を招き入れたこの女は......

 

本当にサンデーサイレンスだったのか?(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

「よく言うだろ。風邪は人に移すと治りが早いってな。どうも最近、寒気がして肩が凝るんだ。今度は一体なにがカフェの気に障ったんだろうな?」

 

「なんで......だってアタシ達、ちゃんとトレーナーのお話したのに!!」

 

「俺だってちゃんと話したろ。その質について約束した覚えはねぇ。だいたいなんでもいいって言ったのはそっちの方だぜ」

 

「コイツ......」

 

「そもそも俺は、代わりにアイツの話を聞かせろなんて明言してないからな。お前が勝手に勘違いしてべらべらくっちゃべっただけじゃねぇの......さて、今から一体どうなることやら」

 

サンデーサイレンスの語り終わりを待たずして、私はシービーの襟首を引き摺りながら躊躇なく襖を開け放つ。

彼女の言い方からして、もう時間がない。

 

 

惜しむらくは、その判断力をもっと早く発揮できなかったことか。

あの女の話を聞く前、家の塀を乗り越える前、学園を発つ前に。いや、そもそもの話、トレーナー君の弱みを握ってやろうと色気を出したことそのものが謝りだったのか。

人を呪わば穴二つ。他者を貶しめんとする計略は、その果てに我が身を滅ぼすのが道理だというのに。

 

 

 

 

敷居を挟んだ向こう側には、長く前後に青鹿毛を垂らした黒いウマ娘が立っていた。

 

 

 

 

 

 





【END】


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束縛系シンボリルドルフ
身体で払ってもらおうか


 

「さて、そろそろ返済してもらおうか。トレーナー君」

 

秋めいた風が身に染みるある日のこと。

生徒会室でぬるめの茶を楽しんでいた私の昼下がりは、ルドルフのあまりにも唐突な一声で幕を閉じた。

 

 

返済。

私の認識が正しければ、他者から借りたもの......特にお金を、貸主に返却するという意味の言葉。

つまり私は、どうやらルドルフに借りたお金を返さなければならないらしい。

少なくとも、彼女はそう主張している。

 

 

「いや、意味が分からないんだけど」

「おや。これ以上の説明は、恐らく国語の先生でも難しいのではないかな?」

 

やれやれと、呆れた様子で首を横に振るルドルフ。

一応は配慮してくれたつもりなのか、人払いがされてがらんとした生徒会室の真ん中で。

緩く腕組みしながら私を見下ろしている。

 

「いいかいトレーナー君。返済というのはね。主に借りたお金を返すという意味で使われる言葉だ」

「いや知ってるけども。知ってるけど、私が君からなにをどれだけ借りたかまでは記憶にない」

 

購買で立て替えてもらったりとか、実際は全く無いわけでもない。

もっとも、そういった話でないことは、目の前のルドルフの様子からして明らかだった。

 

「.....ふむ」

 

一応、私の態度に嘘がないことは理解してもらえたのだろう。

ルドルフはさして怒った様子もなく、ひょいっと片方の眉だけ上げてみせる。二度三度、立ち尽くしたまま目をしばたたかせて。

 

 

 

やがて一枚の用紙をそっと、テーブルの上に差し出してきた。

 

「これは.......契約書、か?」

「まずは目を通してみるといい。それで思い出せるだろう」

 

促されるまま、手に取り目を走らせる。

それ自体は特に変わったところもない、恐らく文章作成ソフトで文字を打ち込み、A4用紙にプリントアウトしたもので、唯一署名欄のみインクが滲んでいる。

私は法律の専門家ではないものの、少なくとも契約書としての体裁は整っているように見えた。

 

だとすれば問題となるは、一体いつどこで誰と、どういった内容で交わした約束かということで。

二箇所ある署名欄のうち、片方は私。

そして相手方の名前はルドルフではなく、彼女の母親のもの。筆跡からして本人であることは明らかだった。

 

 

「......」

 

全く別人のものである筆跡と、確かに年季の入った用紙。

それでも器量人であるルドルフなら、その程度の偽造はやろうと思えば可能だろう。

たちの悪い悪戯だと、一笑に伏すべきなのかもしれないが。

 

 

しかしそうもいかなかった。

なんとなく、そのサインを見た瞬間から、なにか怖気じみた、腹の奥底からこみ上げてくるものがあって。

気のせいだろうという楽観は、早くもそうであってほしいと願う祈りへと移ろい、そんな私を嘲笑うかのごとく、その悪寒はみるみると膨れ上がっていく。

例えるなら、終電も無くなった深夜の玄関の前で、鞄の中から鍵が消えてることを察した瞬間のような。そんな足元が瓦解するかのような絶望感。

 

「どうした?文面に目がいっていないようだが」

「いや、そっちを見たら、いよいよ現実を見ないといけなくなりそうだから」

「なるほど。頭を地面に突っ込んで、目に入らなければないも同じだと。私はダチョウをトレーナーにしたつもりはないのだが」

「............」

「十年前。君がシンボリ家との間で締結した、金銭消費貸借契約書だよ。それは」

「......はい」

「特約として、無利息かつ、君が中央トレーナーとして採用されるまでその返済を猶予する。出世払いに近いが、生憎我々は債権を放棄したつもりはない」

 

ようするに立派な借金だということだ。

こうして彼女の担当をしている時点で、その停止条件を満たしていることは言うまでもない。

 

観念して、署名欄の上に記載された本文と、肝心の借用金額の方に目を通す。

小さくはないが、中央トレーナーとして一定の実績と評価を得た今の私なら、決して今すぐ払えない額ではない。

 

 

......が、その数字の右端にルドルフのペン先が伸びて、0をいくつも付け足していく。

 

「利息はつかないが、遅延損害金は発生するからな。参考までに、計算式は次の通りになる」

 

綺麗な字で、正面の彼女から見て逆さまの数式をさらさらと書き上げていく。

提示された数字が私のキャパシティを超えていることは、もはや誰の目にも明らかだった。

 

ペンにキャップをキュッと嵌めながら、一つ息をつくルドルフ。

 

「借りたものは返さないとな。さて、なにか弁明があるなら聞いておくよ。トレーナー君」

「そうだな。そういえばこの期限、いまいち判然としていないだろ。トレーナーとして採用というのが、果たしてどの時点を指すのか」

 

資格試験と採用面接に合格し、中央トレーナーとしての国家資格を取得した時点を言うのか。

それとも修習過程を卒業して、サブトレーナーとして学園と労働契約を結んだ時点を言うのか。

 

修習過程における素行不良のために、卒業出来なくなる例もないわけではない。そういう意味では、後者が適当だと言えるだろう。

しかし世間一般でいう「トレーナーになった」が資格試験を突破した瞬間を指すことを鑑みれば、前者のように解する余地もないわけではない。

 

ちなみに私が資格試験に合格してから、現時点で五年と数ヶ月が経過している。

確か金銭の貸し借りの場合、弁済期の到来から五年なんら債務履行の請求がなければ、時効の援用が認められると記憶しているが。

 

私の悪足掻きを聞いて、ルドルフは落ち着き払った様子で大きく頷く。

 

「なるほど。ならそういったことを、私の実家に来てもらって、母の前で説明してもらうことになるが」

「............一人で?」

「無論。シンボリの一族である私が君の肩を持つわけにはいくまい。まぁ、そもそも君にその度胸があれば、の話だけどね」

「............」

 

悲しいかな、ないものはない。

 

なにしろ相手は名門で、その気になればURAの意思決定にすら干渉し得る特権階級。

その財力、人脈、格式からして、その威光がレース競技界にすら留まらないことは明白であり、さらに都合の悪いことに、こうして借金を都合してもらえる程度には、昔から浅からぬ付き合いでもある。

 

ルドルフの母親についてもよく知っていた。仮にこの借金を踏み倒せたところで、はいそうですかと潔く引き下がるような人物ではないのだから。

 

「で、払えるのかい」

「ぶ、分割なら......」

「すまないが、母は一括での返済を希望していてね。可能か不可能かのどちらか片方の返事しか受け取るつもりはないとのことだ」

「ぐ......」

 

合理的に考えるなら、貸したもの自体は返ってくるぶん、貸す方にとっても悪くはない提案の筈だ。少なくとも、一銭も回収が実らないよりはマシだろうに。

思い出したかのような督促にしてもそうだが、本気で取り立てるつもりがあるのかさえ疑わしい。

 

「ただし、だ」

 

万事休す。

言葉を詰まらせる私をどこか楽しそうに見下ろしながら、さもいいことを思いついたといった様子で、その人差し指を立てるルドルフ。

思えばこのウマ娘、最初からどこか一歩引いているというか、まるっきり当事者意識が感じられない。取り立てる側なりの必死さだとか、そういうものが一切。

 

だいたいこれは、あくまで私とシンボリ本家との問題に過ぎないのだから、いくらそこに属する彼女といえども、結果がどう転んだところで個人的にはなにも痛まないのだろう。

そういう賭けるもののない第三者がよこす提案というのは、大抵ろくなものではない。

 

 

果たして、そんな私の予感は的中する。

 

 

「ただしトレーナー君。君が私の言うことを聞いてくれるなら..........そうだな。母に口添えしてやらんこともない。どの程度肩を持つかは、君の態度次第だが」

 

 

 

「......結局いつもと変わりないんじゃないか、それ」

 

むしろこれまで、ルドルフのお願いを私が断ってきたことがあるだろうか。

いや、ないわけではないのだが、しかし片手の指で数えられる程度だろうに。もっともそれは、生徒会長としての立場やチームの仲間の手前、ルドルフ自身が自制していたことも大きいが.....

 

 

......ああ、なるほど。そういうことか。

 

「そう。同じじゃないさ。私は我慢はしないし、君を気遣うこともない。勿論、君は絶対服従。今のうちに私が喜ぶ言葉を考えておいたほうがいいぞ」

「......期間は?」

「そうだな。うん。私が実家を誤魔化しきれなくなるまで、としよう」

 

それは、始めるも終わるも全てルドルフの胸先三寸で決まるということ。

ともすれば、無期限よりもいっそうたちが悪い。

 

だとしても、他に選べる道なんてないわけで。

やむなく頷いた私を前に、ルドルフは笑いながら大きく頷いた。

 

「さて、取引成立だな」

 

 



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大型犬シンボリルドルフ

 

ここ数日間、夜もめっきり冷え込むようになった。

先週まで冷房を入れなければ少々寝苦しかったことを考えると、なんとも両極端なものである。

 

「さむ......」

 

もっとも、自然のやることに文句をつけても仕様がない。

目下の急務は、昼にルドルフと交わしたあの悪魔じみた取引をどうこなすかという一点に尽きる。

 

なにが怖いかといえば、あれ以来とくに要求らしい要求が全くないということ。

まだ半日しか経っていないとはいえ、約束を交わすだけ交わしてなんの音沙汰なしというのもかえって不気味だ。

同時にこのまま何事もなく終わるのではないかなどと、そんな淡い期待が心の片隅で燻っているが、それは本当に儚い希望だろう。

そうして私を焦らすだけで満足するウマ娘ではないのだ、シンボリルドルフは。

 

無論、だからといって余計な言及はしない。

幸い今日はオフの日だ。チームを巻き込んでどうこういったこともなく、午後もそこそこに生徒会の業務を手伝ったあと、普段より三時間ほど早めに離脱した。

その後は学園近くのカフェで時間を潰し、明日明後日の事務作業をだいぶ消化できたことに満足しながら、こうして帰りの途についている。

 

 

 

はらり、と鼻先に舞うひとひらの落葉に目をとられれば。

その隙にひんやりとした風が襟の隙間から吹き込んで、私は反射的に自らの両腕を抱き締めた。

秋から冬にかけては繁忙期だ。ここで風邪でも拗らせたら堪らないと、早足で自宅に駆け込む。

 

ここはトレーナーの大多数が生活の拠点としているトレセン学園の寮.....ではなく、念のため契約してあった賃貸アパート。

オートロック完備、防音仕様のしっかりした物件だ。

念のためというのは、なんらかの事情でトレーナー寮に帰るのが危なくなった場合のことだが、まさか本当にその備えが役立つ日が来るとは思わなかった。

 

学園を介さない個人的な借り上げなので、ここの存在を把握しているのは私しかいない。

日中の業務の間だけどうにか凌げれば、あとはルドルフの目を免れることが出来るわけだ。

備えあれば患いなし。私の危機管理能力に隙はない。

 

「ただいま」

「おかえり。遅かったね、トレーナー君」

 

両手を擦り合わせながら玄関の敷居をまたぐ。

誰に向けたわけでもない挨拶に、何故か返事があった。

 

たたきから居間まで通じる廊下。

出るときに間違いなく消したはずの明かりは煌々とフローリングの床を照らしていて。

 

 

その真下に仁王立ちで腕組みしている、一筋の流星が特徴的な寝間着姿のウマ娘。

 

 

「なんで......」

「おや、おかしなことを聞くんだな君は。たった今君自身がただいまといったばかりじゃないか」

「いや、それはあくまで独り言というか......」

「ただいまと呟いたということは、即ち私の存在を無意識にでも認めていたということで、私がここにいることになんら問題はない。いいね?」

「いや、それは....」

 

おかしい、との私の言葉は、長くしなやかな尻尾がぴしゃりと壁を叩く音で遮られた。

 

「トレーナー君。私のお願いには?」

「......ぜ、絶対服従」

「よろしい。次はないからな」

「はい......」

 

ひとまず満足したように頷く暴君。

その場で踵を返し、尻尾を揺らしながら奥へと引っ込んでいく。暗についてこいと言っているのだろう。

こちらとしても踵を返して安全だと分かったトレーナー寮に撤退したいところではあるが、秒で捕まってより酷い目に遭うのは目に見えているので、大人しくその背中に続く。

 

「なぁ、随分遅かったじゃないか。トレーナー君」

「え、あ......うん」

「こんな時間までどこでなにをしていたんだ。.......いや、別に答える必要もないが。残業は程々にしろとあれほど理事長からも言われただろうに」

 

居間の取っ手に指をかけ、ルドルフは肩越しにこちらを見やる。

その視線の先には私が肩から提げた鞄があり、中途半端に開いたチャックの隙間からラップトップの角が覗いている。直前まで仕事に勤しんでいたことは明らかだった。

 

最初から、労うニュアンスでないことは薄々察していたが。

しかしどこか落ち着かなさげに揺れる尻尾と耳を見るに、どうやらかなりおかんむりらしい。

元々、私の勤務実態について最初に理事長に苦言を呈したのが他ならぬルドルフであることを考えればむべなるかな。

私の業務が自らの活動と密接に関連している以上、彼女の強い責任感が看過を許さないのだろう。

 

「それとも、そうまでしなければならない程に生活が逼迫しているのかな?もしそうだとするなら、私が援助してやることも吝かではないが」

「さらっと酷い勧誘をしてくるもんだな。悪魔か」

「皇帝だとも」

 

そうやって彼女に借りを作った結果が、隠れ家を特定されて押し掛けられている現状に繋がっているわけだが、この期に及んでもなおルドルフにとっては貸し足りないわけか。

どうやらこの皇帝は、とにかく奴隷に首輪を嵌めたくて嵌めたくて仕方ないとのことらしい。

 

既に泥沼に引きずり込んでおきながら、尚も追撃の手を緩めない容赦のなさには恐れ入る。

というか、それを私に向けないで欲しい。

 

「必要ない。そのぐらいの自己管理は出来ているから大丈夫だ」

「トレーナー君の『自己管理』と『大丈夫』はこの世で最も信用ならない言葉の一つだろう。理事長との三者面談で何度それを聞かされたことか」

「うっ......」

「だいたい、管理が出来ていないからこうやって私に手綱を握られる羽目になっているんだろうに」

「............」

 

ぐうの音も出ないとはこのこと。

 

およそ真っ当ではない手段で私を束縛しにかかったはずのルドルフの言葉は、事実を盾にして説得力を伴ったものに変化を遂げる。

こうなると、彼女に口で勝つ望みはほぼ潰えたと言って良い。結局、私に打てる手立てなどありはしないのだ。

 

「まぁ、仕方ないか。そもそも君がそういう奴だということぐらい、私だってよく分かっているとも」

「ルドルフ.....」

「だが安心しろ。これからは私がつきっきりで、しっかりと君のことを管理してあげよう」

 

さも良いことを思いついたといったように人差し指を立てながら、丁度いい大きさの胸を張ってみせるルドルフ。

 

 

当然、私に拒否権はない。

 

 

 

 

 

 

つきっきりでとは言うものの、単身世帯用のこのマンションに二人で暮らすとなれば、互いのパーソナルスペースなんてあったものじゃない。

一応、部屋は二つあるものの、片方は寝具とトレーナー寮に収まりきらずに投げ込んだ荷物でいっぱいいっぱいのため、起きている間は居間で顔を合わせっぱなしにならざるを得ない。

 

自他共に認めるお嬢様であり、裕福な実家の庇護のもと、何不自由なく伸び伸びと幼少期を送ったルドルフにとって、この兎小屋はさぞキツかろう。

 

 

.....などというのは、あまりにも虫が良すぎる想定だった。

 

「なあトレーナー君。もう片方のクッションも取ってくれ」

「座布団だよそれは。というか、明らかに君のほうが近いじゃないか」

「つべこべ言わない。今のトレーナー君は私のお願いをなんでも聞くんだから。はーやーくー」

「..............」

 

寝間着をくつろげて、私から奪った座布団を腹の下に敷きながら、居間の中央でぐでんとうつ伏せに寝っ転がるルドルフ。

窮屈さとか、あるいは同居人たる私への気遣いとか遠慮とか、そんなものは微塵もない。

 

迂闊だった。

だいたい美浦寮は二人部屋なのだから、パーソナルスペース云々の抵抗感など初めからないか、既に克服済みに決まっている。

加えてルドルフは、一時期とはいえかの自由奔放なシービーと共同生活してのけた実績持ちでもある。

 

こういう時、最初の一日でどれだけ主導権を握れるかによって、今後のお互いの力関係が固定されるというらしいが。

だとすると、家主である私すら押し退ける彼女のふてぶてしさは相当なもの。

 

仮にも女性と同じ空間にいる感じがしない。

その冬毛に生え変わりかけの頭髪と尻尾が相まって、なんというか、大きい室内犬に居間を占領されているかのような。

 

「なにか良からぬことを考えたか?トレーナー君?」

「いや、別に。どうやら私の勘違いだったらしい」

「そうか」

 

そうだな。犬は心の中まで読んだりしない。

いくらだらけようが、そのスペックは据え置きというのが厄介さに拍車をかけている。

 

一応、助かっている部分もある。

帰宅すれば風呂と食事の用意が出来ていることの有り難みを、今日になって改めて実感出来たわけだし。

ただ、私と同じく.....ともすれば私以上に多忙な彼女にそんな雑務をやらせるのは、大人としてもトレーナーとしてもかなり気が引けるところではあるが。

 

「全く君は。自分のことを棚に上げて、よくもいけしゃあしゃあとそんなことを言えたものだ」

「言ってない。勝手に思考を代弁するな。......はぁ、もういい。おやすみ」

 

ここから事態の好転する見込みはなく、それにもうだいぶ夜も深けている。

睡眠とは一日のサイクルにおける重要な区切りだ。ひとまず今日という日を終わらせて、仕切り直しとしよう。後のことはきっと、明日の私がどうにかしてくれるだろうから。

 

居間の電気を落とし、畳の上に布団を敷いただけの寝室に避難する。

襖一枚のとはいえ、二つの部屋が区切られているのはいいことだ。最低限、寝る時に限っては私とルドルフのプラベート空間を確保することができる。

その偶然に感謝しつつ、私は布団に潜り込んで目を閉じた。

 

 

同時にからり、と襖の開かれる音。

ひたひたとした足音の直後、ヒトより少しだけ温もりのある物体が潜り込んでくる。

 

「おい」

「仕方ないだろう。私の寝具がないんだから」

「予備があるからそこの棚の下から適当に引っ張りだして......」

「それに、トレーナー君が布団の中でこっそりスマホでも弄っているといけないからな」

 

ぐりぐりと着実に私の陣地を侵食していくルドルフ。

体格では私に分があるが、如何せん膂力の次元が違うので抵抗のしようがない。

結局、一人分の布団をおおよそ半々で分け合う形に落ち着いた。ただし尻尾の収納スペースも考慮すると、だいぶ彼女の陣取る面積が大きい。

これでは同居人というより侵略者だと思う。図々しいの権化。

 

「なぁトレーナー君。明日の夜はなにが食べたい?」

「しれっと連泊するつもりでいるんじゃないよ。朝になったら引き払うからな。君にバレた以上、ここにいる意味もない」

「駄目だ。君は私とここで暮らすんだから......んっ」

 

そう駄々をこねつつ寝返りを打ったルドルフは、慌てた様子でしゅるりと尻尾を布団に引っ込める。

 

「おい、変な声を出すな」

「し、仕方ないだろう。布団から出るととたんに寒いんだから」

「ああ......まぁ、もうそういう季節だからな」

 

私としては、ウマ娘の体温が直に伝わるおかげで、この肌寒さも丁度いい塩梅だが、逆に体温を奪われ続けるルドルフにとってはキツかろう。

もっとも、これに懲りて大人しく出ていってくれるようなタマではないが。

 

「トレーナー君。エアコンつけてくれエアコン」

「生憎壊れていてね。改修の見込みはないよ。私は寒さには強いからね」

「......えっ」

 

それが余程ショックだったのか、ご機嫌そうに足に巻き付いてきていた尻尾がぴたりと静止する。

思えば、美浦寮とて相部屋といえども設備には十分すぎるほど恵まれているわけで、なるほど彼女にとってはそういう方向が辛いわけか。

 

「まぁ、ここにいる理由もないから明日には学園に帰るけどね。で、君はどうするつもりだ」

「......帰る」

 

ルドルフは如何にも不承不承といった様子で頷いた。

 



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さよならルドルフ

キーボードを叩いていると、窓の外がにわかに騒がしいことに気がついた。

 

「......ん」

 

視線だけを動かしてみれば、作業服姿の人間が数名、足場を組んでいるのが見える。

今はすっぽりとブルーシートに覆われてしまっているものの、私の記憶が正しければ、あそこにあったのは学園に誘致されたコンビニだったはず。

開店からそれなりに経つものだから、そろそろ改修の時期というところだろうか。

 

今、このトレーナー室には私とシービーの二人きり。

そのシービーも大人しくしているからこそ、あの決して騒々しいという程ではない作業音も耳に届くのだろう。

 

 

しかし、はたしてコンビニがあんなところにあっただろうか。

作業の手を止めて眺めながら、少しだけ首を傾げる。

 

 

......いや、確かにあった。私の記憶に照らしてみても、あそこに存在していたことは間違いない。間違いないのだが......どうもしっくりとこない。

 

かつては足繁く訪れた場所だというのに、その感触が私の中で薄らいでいる。というか、無くなっている。

最近はすっかり、あのコンビニに全く足を運ばなくなったことが理由だろうか。

というよりも、コンビニに限らず金銭を対価に物を受け取る場所......およそ店と分類されるものに対して、私はなんの用もなくなっていた。

 

我が家に居着いて久しいウマ娘が、生活に不足している一切合切を正確に把握していて、勝手に補充してしまうためだ。

それでも、生活必需品までならまだ理解できただろうが。私の趣味嗜好の範囲まで完璧に抑えていることには、果たしてどう説明をつけたものだろう。

 

つい、と窓の外に向けていた視線を下に降ろす。

 

床に仮置きした鞄から顔を覗かせるのは弁当箱。

これも今朝、彼女が作ってくれたものだ。昼に限らず、昼夜三食、いつの間にか用意されるようになってしまった。

彼女も忙しいのだからと何度も断ってみたものの、大人しく聞き入れてくれるようならこんなことにはなっていない。

己の身を一切切ることなく勝手に全てが用意される生活というのは、上げ膳据え膳すら通り越してペットとして飼われているかのような無力感すらある。

 

まぁ、それでも私の負担は以前と比べて格段に軽くなったわけで。

助かってはいる。いるのだが。

 

「重いな......」

 

かなり。

そう、ヒト一人が受け止めるには、その想いは少々重すぎる。

 

見ようによっては贅沢な悩みなのかもしれないが、しかし現に当事者たる私にとっては、それなりに切実な問題だった。

非の打ち所のない献身ではあるものの、いやだからこそ、ルドルフのそれは奉仕というより支配のように思えてならない。やはりペットとして飼われているという表現こそ一番しっくりきてしまう。

断じてルドルフ本人にその気はない。というより、そうであって欲しいのだが......。

 

 

「髪?」

 

私の独り言に反応して、ソファでスマホを弄っていたシービーが器用にくるりと体をこちらに向けてきた。

 

「言われてみれば確かに伸びたよね。ミスターのそれ」

「いや......ああ、まぁ、そうだね」

 

そういう意味じゃない、と訂正しかけたがやめておく。

ならどういう意味だと聞かれても説明するわけにはいくまい。妙に冴えてるシービーのことだから、下手にはぐらかしてもかえって墓穴を掘るだけだろう。

なら、このまま誤解してもらっていたほうがありがたい。

 

「イメチェン?伸ばしてるの?」

「いや。たんに時間がなかっただけ」

 

実際は、ルドルフのおかげでむしろ時間そのものは余裕が生まれているのだが。

髪の長さに気を回すだけの余裕がなかったというのが正直なところか。

 

それでも指摘されたとたん無性に気になってきて、肩まで届きそうな毛先を摘んでみる。

思えばここ数日、寝苦しいと感じていたところだ。重さがあるかと聞かれたら、確かに軽いとは言えない。

 

「うん。最近重くってさ。そろそろ切ろうかなって」

「分かるー。アタシもいい加減鬱陶しくてさ」

 

私の仕草を真似るように、シービーもまた無造作に投げ出した長髪の先を摘んでくるくると遊びだす。

 

腰にまで届くたっぷりとした黒鹿毛。

長いとはいえあくまで男の範疇でしかない私の鬱陶しさとはまさに別次元だろう。

その艷やかな毛並みは魅力的ではあるが、それがそのまま自分の頭に乗っかったらと想像するだけでもうんざりする。

 

お互いそろそろ頃合いというわけか。

そういえば、去年からシービーに誘われて同じ美容院に通っているし、その時は彼女も同伴していた。

同じ周期で散髪しているのだから、当然伸びる時期も重なるというわけだ。

 

シービーの顔を見ると、ちょうど彼女も同じことを考えていたようで、期待するように瞳を揺らした。

 

「あっじゃあ、明日ルドルフとはさよならして、その後は二人で行こっか」

「ああ」

「ちなみに未練とかはないの?」

 

未練、か。

伸びたといえば伸びたが、しかしそれは意識したものではなく.....というより意識していなかったからこそ、ここまで長くなってしまったわけで。

 

「......大事に育ててきたわけでもないしね。これでさっぱりするよ」

「そっか」

 

うんうんと頷くシービーにも、特にこれといった感慨は伺えない。

決して粗末にしているわけではないのだろうが、彼女としてもそこまで思い入れがないのだろう。

 

約束を取り付けて満足したのか、シービーは寝返りをうって反対を向いてしまった。どうやら暇を持て余しているらしい。

午後の授業は既に終わっている。もうすぐルドルフが来るだろう。私達はそれを待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私としたことが少々遅れてしまったな、とトレーナー室に向かう道すがらに思う。

 

普段はトレーナー君が最初にいて、次に私、時間ギリギリかたまに遅刻するのがシービーといったところ。

しかし今日はどうやら彼女に先を越されてしまったらしい。

暇潰しにスマホへ送り続けられるメッセージを無視して先を急ぐ。ポケットの中の絶え間ないバイブレーションが喧しい。

 

「......ん?」

 

と、その振動が唐突に止まった。

 

さては飽きたか。

それはそれで彼女らしいが、なんと言うか......突然途切れたところに少し違和感がある。

トレーナー室は既に目の前だが、もしやこの瞬間に踏み込むのは都合が悪かったりするのだろうか。

 

無作法だと理解しながらも、耳をくっつけて扉越しに中の様子を伺ってみる。

ボソボソと、二人が言葉を交わすくぐもった音。単純に会話が始まったから手を止めただけらしい。

 

「......ふむ」

 

ここで扉を開けてしまえば、二人は話を切り上げてしまうだろう。そういう意味では、確かに都合が悪いとも言えた。

 

息を潜め、全神経を片耳に集中させる。

トレーナー室は特に防音仕様というわけではない。ヒトならいざ知らず、ウマ娘の聴力にかかれば、扉一枚隔てた会話を聞き取る程度は雑作もないのだ。

もっとも、話が終わったかどうかを知りたいだけなら、わざわざここまでする必要はない。しかし、ことトレーナー君とシービーの会話となれば、やはり中身は抑えておかねばならないだろう。

 

......自分のいないところで、彼らがどんな話をしているか興味がないといえば嘘になる。

別に、あの二人を信頼していないわけではないが。

 

 

そうして最初に耳に届いたのは、どこかうんざりしたようなトレーナー君の声。

 

「最近重くってさ。そろそろ切ろうかなって」

「分かるー。アタシもいい加減鬱陶しくてさ」

 

対するシービーはからからと上機嫌な、いつもと変わりない声音であるが、肝心の中身がやや不穏だった。

『鬱陶しい』などという後ろ向きな単語が、まさか彼女の口から聞けようとは。

もっとも、話題によりけりだろうが、生憎いま着いたばかりの私には肝心のそれが掴めない。

 

「......」

 

にわかにざわめく胸の内に押されたように、稀に見る速度で思考が駆け巡る。

 

その言葉の持つ意味からして、対象となるのは彼女と密接な関係にあるなにか、あるいは誰か。

例えば同じチームで活動しているとか。ただし、本人が目の前にいる以上、トレーナー君に向けたものではないだろう。となると、今あの場にいない第三者というわけで。

それに『アタシも』ということは、シービーとトレーナー君の両方に近しい人物であるということ。

 

 

いや、たかが一回の受け答えでなにが分かるというんだ。

これから先は一言一句聞き漏らさぬよう、限界まで精神を研ぎ澄ます。

願わくは、この焦燥が全くの早とちりでありますように。

 

 

「あっじゃあ、明日ルドルフとはさよならして、その後は二人で行こっか」

「ああ」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「......シービー......?トレーナー君.....?嘘だ.....」

 

 

だって、私達は仲間だろう。

 

ただの冗談、冗談なのだ、これは。

私の肝を冷やしてやろうという、悪戯の相談であって.......うん、そう。だから明日、二人には説教することになるだろうな。

 

だって、シービーはともかく、トレーナー君が本気で言っているはずがないのだから。

そうだ。私とシービーは違う。

 

「そうだ、私は......特別なんだから」

 

トレーナー君にとっての特別。

旧知であり、一番最初に担当したウマ娘。誰よりも長い時間を共に過ごした。

 

初めてのG1と無敗三冠を捧げたのは私だ。

彼の血と汗を一身に注ぎ込まれたのも私だ。

 

今や、どんな情報媒体であろうとも、彼の名前に続いて私の名前が挙がらないことはない。

彼は中央トレーナーではなく、「皇帝シンボリルドルフのトレーナー」として、レース界の歴史に永遠に記憶される。

彼がトレーナーである限り、絶対にこの私から逃れられるはずがないというのに。

 

 

「ちなみに未練とかはないの?」

「大事に育ててきたわけでもないしね。これでさっぱりするよ」

 

 

 

「......」

 

ごり、と。

私の口の奥深くから、嫌な音が響いた。

 

 



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果断実行

定例のミーティングを手早く切り上げ、シービーを追い出した後。

私ははやる気持ちを抑えつつルドルフをミーティングルームまで呼び出した。

 

はっきり言って、今日のミーティングそのものは全く重要ではない。既存の予定の再確認だけだ。

なので、たとえばこれがシービー相手だったら、せいぜい次回に小言の一つでもくれてやるだけで終わっただろう。

彼女のサボりなどいつものことで、逆に今日ちゃんと来たことを褒めてやりたいぐらいである。

だが、これがルドルフ相手となると話は別だ。

彼女が理由も告げず欠席するなどまずあり得ない。ましてや開始時刻を過ぎてもなお連絡がつかないとなれば、これは大変なことである。

 

 

「では、君の用事を先に聞こうか」

 

......しかし、ミーティングが終わった三十分後、嘘のようにすんなりと連絡がついて。

堂々と重役出勤してきた彼女が、応接間のソファにどっかりと腰を落ち着けて、横柄に言い放ったのはこんな言葉。

恐れ知らずを通り越して不遜とすら言えるその態度に、こちらの気勢も削がれていく。

 

「どうしてミーティングに来なかった」

「ああ、それはすまなかったね。来月の視察に気を取られるあまりすっかり忘れてしまっていたんだ。謝るよ」

 

白々しい。

一度見た顔は忘れないという彼女が、定例の集まりを失念するはずがないというのに。

予め回答を作ってきていたことがありありと伝わる、見事なまでの棒読みだった。

 

「......まぁ、いいさ別に」

 

こういう誠実さに欠く対応をするのは、今、彼女が物凄くへそを曲げているという強烈なメッセージである。

踏み込んでこいと誘われているが、それに乗ったら最後ろくな目に遭わないことを私は経験から理解していた。

故に、こうしてスルーする。とりあえず、彼女にこれといった異常がないだけでも良しとしよう。

 

「次からは遅れず来るように。じゃあ、私はこれで」

「待ちたまえトレーナー君。君の用事だけ済ませておしまいはあんまりじゃないかい」

 

ああ、やはり見逃してもらえなかった。

ルドルフはおもむろに立ち上がると、緩慢な動きでゆるりと私の背中に回り込み、肩に手を置いてくる。

腰を落とすことすらしない、ただ添えているだけのように見せかけながらも、大胆かつ繊細に加えられた力のおかげで立ち上がるどころか身動き一つ敵わない。

流石はウマ娘の膂力。ことここに至って、ようやく私は自らが詰みかけていることを理解する。

 

「.....分かった。それで、君の用件とは?」

 

聞きたくない。

ほぼ確実に凶報だと察しながら、しかしこの状況に強いられままに私はその先を促す。

 

ようやく自分の思い通りの反応を引き出せて溜飲が下がったのか、ふっと笑うように息を零すルドルフ。

死角から届く息遣いは、否が応でも私の喉元にひんやりとした感覚を想起させる。

 

「私の、ではないかな。いや、母様がね。トレーナー君とお話をしたいと言っているんだ」

「なんだって急に」

「さっき、久々に実家の家族と電話してね。君の話をしたら、そろそろ顔を見せてほしいと」

「そうか。いい機会だからシービーも連れて行こうか」

 

仲間外れは可哀想、という気遣いではない。

単純に同じ境遇の仲間......あるいは道連れが欲しいだけである。

 

「それはまた今度だな。今回は身内だけで折り入った話がしたいそうなんだ。家族会議という奴だな」

「私は君達の家族になった覚えはないが」

「まぁ、そう遠慮しないでくれ。我々と君との仲じゃないか」

 

口調はあくまで朗らかに、しかし両肩の重みからは決して逃さないという意思を感じられる。

 

「ふむ......」

 

状況に好転の兆しはなし。

であれば、この場を仕切り直すことが最優先か。

 

つまり逃げ出す。

この部屋からだけでなく、学園からも一時的に退避することが望ましい。

いくらルドルフが生徒会長であるといえども、その神通力が通用するのは基本的に学園の領域においてのみなのだから。

 

事前に伝えられていたスケジュールから外れていなければ、ルドルフが家族と雑談に興じるに足るまとまった自由時間が確保できたのは、ミーティング開始から今までの数十分間のみである。

そこで何かしらの取引――恐らく、あの『契約』の終了――が行われていたとして、シンボリ本家がなにかしらの行動を起こせるのは、距離的に早くてもあと明日以降か。

 

それまではルドルフとの一対一。

この窮状さえ凌げれば起死回生の目があるかもしれない。

 

幸い、私は大人だ。

まだ学生のルドルフよりも、取り得る選択肢は少しだけ大きい。上手く活用すれば逃げられる。

そのためには、まず相手の出方を把握しなければな。

 

「分かった。それで、いつ伺えばいい。明日か?」

「無論。今からだ」

「......は?」

 

パンッと手を叩くルドルフ。

同時にミーティングルームの扉が開き、向こうからダークスーツに身を包んだ巨躯の(ばんえい)ウマ娘達が現れた。

 

 

 

......その数、およそ10人。

 

 

 

 

 

 

今日のミーティングにルドルフは来なかった。

これは珍しいことだ。

 

確かに、トレーニングではなくあくまで月初めの方針の打ち合わせという建付けであって、既に共有されている情報の確認でしかないから、それほど重要度は高くなかったけども。

真面目にやれば5分ちょっとで済ませられる程度のものだ。だからこそ、アタシもしっかり顔を出したというのに。

まさか彼女の方が飛ぶとは思わなかった。

 

重要度の低いミーティングだから手を抜いたなんていうのは、ことルドルフに限ってはあり得ない話である。

 

「ん〜」

 

体調でも悪かったのかな。今朝、顔を見た時はそんな感じはしなかったけど。

 

「ま、大丈夫でしょ」

 

間違いなくトレーナーからコンタクトはあっただろうし、その結果アタシになんの連絡も来ていないということは、特に問題はなかったということだ。

便りがないのがいい便り、という奴だろう。

 

黄昏時の肌寒さの中、いくつかの集団がたったかと目の前を横切っていく。

向かう先は寮だろう。一人暮らしのアタシはそれを横目に見ながら正門へと足を動かす。

 

 

「んっ......」

 

ざあっと、不意に一陣の風が一体をさらった。

 

ばさばさと街路樹の枝が鳴り、顔を撫でる冷たさに思わず目をつぶる。

しかしそれも一瞬のことで、再び目を開けてみれば、先程からなにも変わらない景色が広がっていた。

ほんの数歩先に立ちはだかる、一つの影を除いて。

 

「......おん?」

「やあ、シービー。もうお帰りかな?」

 

そろそろ換毛も終わりかけた、豊かな鹿毛を靡かせつつ目を細めているのは、まさしく頭の中で思い浮かべていたばかりのルドルフだった。

ミーティングをフケた謝罪にでも来たのかと思ったが、どうやらそんなつもりはさらさらないらしい。

別に、アタシがなにか嫌な思いをしたわけでもないからどうでもいいけど。

 

「そ。で、キミは?アタシになにか用?」

「用事がなければ声もかけてはいけないのかな?」

「そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど?」

「分かってるさ。......ただの通りすがりだよ。ついさっき、ひと仕事終わらせたばかりでね」

「ふぅん」

 

仕事とやらに興味はない。どうせ彼女の駄洒落と同じぐらい退屈なことだ。

下手に首を突っ込んで、手を貸せなんて言われでもしたら堪らないしね。

 

にしても、随分と元気が良さそうだ。

てっきり腹ぐらいは壊したものかと思っていたが。

 

「随分楽しそうね」

「そう見えるかい?」

「??」

 

アタシの声が届いているのかいないのか。

ルドルフは吹っ切れたような、妙に晴れ晴れとした微笑を私に向ける。その尻尾が、機嫌良さそうに右へ左へと揺れていた。

 

......その口角の吊り上がった表情を眺めていると、心の奥底からむらむらとした衝動が止めどなく湧き上がってくる。

ルドルフの楽しそうな姿を見ていると、ちょっかいを出さずにいられなくなるのはアタシの悪い癖だ。

 

「そういえば、トレーナーとはもう話した?今日のミーティング来なかったから、トレーナー怒ってたよ」

 

勿論、嘘だ。大嘘だ。

サボりの常連ならいざ知らず、十五分前行動を徹底しているルドルフが一度来なかった程度で怒るわけがない。

むしろ、ミーティング中にも全く連絡がつかなかったものだから、えらく心配していた。いつもなんだかんだと十分以上はかかる話し合いが、たった三分で閉じられるぐらいには気もそぞろだった。

あるいはその心配が裏返って......というのも、もしかしたらあるのかもしれないが。

 

「ふむ。そうかい。トレーナー君がね.....ふふっ」

「へぇ」

 

それでも、ルドルフの喜悦は全く揺らがない。

意外だ。彼女のような典型的な優等生の場合、目上からの叱責や失望をなによりも恐れるものだろうに。ましてや、それがトレーナー相手なら尚更。

 

となると恐らく、あの後でチャットや電話ではなく直にトレーナーとは顔を合わせ済みなのだろう。

で、特に絞られることもなく放免されたと。だからこんなにご機嫌なのかな。

トレーナーはルドルフに甘いからね。これがアタシだったらお咎めなしでは済まされなかっただろう。遅刻の常連っていう前提事情もまぁ、なくはないかもしれないが。

 

「まぁ、トレーナー君のことはひとまず置いておくとして、だ。君にも一つ伝えておくことがあってね」

「ふぅん?」

 

やはり、たまたま見かけたら声をかけてみた、というわけではなかったか。

 

「しばらく......といってもほんの数日程度の予定だが、こっちには顔を出せなくなる。実家にすこし用事ができてね」

「そう。いいね、ルドルフは帰省が楽で。いっそのこと実家から通ったらどう?送り迎え付きで」

「母様からは何度もそう提案されてはいるんだがな。今のところはそのつもりもないよ」

「ふーん」

 

送迎については否定しないんだね。

いいね、お金持ちは。築三十年のボロアパートに放り込んで、何日で音を上げるか観察してみたいものだ。

でもこの子なら普通にそつなくこなしそうだし、面白くはないかもしれない。いっそ、外から鍵をかけてみるか?

 

「まぁ、休みたいなら好きにすれば。その間はトレーナーに遊んでもらうから別にいいよ」

「そうか......ふふっ。なら良かった。たくさん遊べるといいな?」

 

くつくつと喉を震わせながら、踵を返して正門へと歩いていくルドルフ。

奇しくもアタシと同じ方向だ。このまま彼女の背中にぴったりとつけて歩くのもなんなので、しばらく見送って距離を稼ぐことに決める。

 

次にあの姿を見るのは、早くて明後日あたりか。今週いっぱいは帰ってこないこともあり得る。

生徒会の方はちゃんと引き継ぎしているだろうし、心配はいらないだろう。そもそも遠征や視察でルドルフが何日も留守にすることは珍しい話ではない。

それでも一応、トレーナーの方には一言伝えておこうとスマホを立ち上げる。

 

「よし、と」

 

思えば説明しようにも、詳しい事情をルドルフから全く聞かされていなかったので、本当に一言だけのメッセージを入力して送信。

もっとも、担当のスケジュール管理もトレーナーの仕事。どうせとっくに知ってるだろうと考えて、既読も待たずに画面を閉じる。

ちょうど先をゆくルドルフとは程よい距離が開いていたため、アタシものそのそとその後に続いた。

 

 

 

しかし、アタシの楽観的予測は見事に裏切られて。

 

その日のうちに、トレーナーの既読がつくことは終ぞ無かった。

 

 

 

 



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取立人シンボリルドルフ

 

持つ者に富が集まる、というのはある種この世の真理だ。

それは金銭であったり、権力と呼ばれるものであったり、あるいはウマ娘であっても然り。

ただ、一族の過半数をウマ娘が占める、という在り方は少々特殊かもしれない。

家業の中で、ウマ娘が中心となる......もっぱらレース界で名を売ってきた一族。メジロ家と、シンボリ家。

 

別に、私はかの家の関係者というわけではない。

ただ小さい頃から、少しだけ縁があったというだけのことだ。

その構成というか、実態について人並み以上に知っていることは殆どない。せいぜい、各界に隠然たる影響力を持ち、沢山のウマ娘を抱えているという程度。

 

ただ、その「沢山の」の物差しすら、どうやら私は測り間違えていたらしい。

ぞろぞろと、後から後からミーティングルームに突入してくる一団を見渡しながら痛感する。

ただでさえそう広くはない部屋のこと。さらにその人数と、彼女達の上背も相まって、強烈な圧迫感が私の身を包み込む。

 

「っ......」

 

職業柄、多人数のウマ娘に囲まれて臆するなどということはない。

が、その相手が揃いも揃って黒のスーツを着込み、同じ色の手袋を嵌めた全身黒づくめとなれば話は別だ。

思えば、私が相手をしていたのは同じウマ娘といえども、まだまだ成長過程の中高生でしかなく、こんな、死線を幾つも踏破したかのごとき屈強さを備えてなどいない。

 

追い詰められた生き物の性として、目線が出口へと向かう。

殆ど本能的な動き。だが、ルドルフからしてみればそれすらも気に食わなかったらしい。

 

「困るなぁトレーナー君」

 

ゆるり、と私の目の前に回り込むと、こちらの片手に指を絡めて持ち上げる。

所謂恋人つなぎというものだが、そこから連想される甘酸っぱさなど欠片もない。

手繋ぎより拘束という表現の方がより適当だろうか。

 

「借りたものはちゃんと返してもらわないと。たとえ一生かかってでも......」

 

なにが、などとしらばっくれても無意味だろう。

彼女の中でどういう心変わりが起きたのかは分からないが、こうなればあとはただ成り行きを見守るしかない。

それによる事態の好転の兆しが全く見えないとしても、だ。

 

「ルドルフ」

「ふふっ。だがまぁ、我々も鬼ではない。君がシンボリのモノになると誓うなら、その借金、君ごと引き取ってやっても構わないが......?」

「それは......」

 

 

【挿絵表示】

 

 

それは提案ではなく、要請。もっと言えば命令と呼ばれるものではなかろうか。

 

私の返答を待たずして、両脇に控えていた黒服に両腕を絡めて持ち上げられる。

こんな時だというのに、クレーンゲームで両脇を引っ掛けて吊り上げられるパカぷちをふと連想した。

 

「さあ、大事なお客様だ。丁重にお連れしろ」

「了解」

 

ルドルフの音頭に従って、ミーティングルームを後にする一同。

丁重とは程遠い扱いを受けながら、私は引き摺られていく。

 

「その、ルドルフ?」

「なんだ」

「いや、私は仕事があるから......たぶん君だって。弾丸帰省している場合じゃないと思うんだけど?」

「リモートなワークなら向こうでも出来るから問題あるまい」

「うう......」

 

遠征の拒否に仕事という言い訳が使えなくなった元凶。

昨今の労働環境における革新的進歩にこの時ばかりは恨みを漏らす。

 

私を群れのど真ん中にホールドしつつ、真っ昼間の学園の廊下を悠々と闊歩する黒服の集団。

年齢的にも学園の生徒でないことは明らかであり、雰囲気もおよそ学園の職員のそれとはかけ離れている。一見した限りでは、部外者に学園のトレーナーが拉致されている事案の現行犯にしか見えないだろう。

 

それでもすれ違う生徒が誰一人咎めることなく、職員すら遠巻きに様子を伺うだけなのは、その集団の先頭を肩に風を切って征くのが、他ならぬ生徒会長たる皇帝シンボリルドルフその人だからに違いない。

 

「あっ......会長、こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 

今もまた、本来この学び舎の治安維持を一角を担う生徒会所属の生徒がすれ違ったが......一瞬、この異様な光景に目を見張っただけで、率いるのが己のボスだと知るや挨拶だけで去ってしまう。

生徒会に限らず、風紀委員から警備部門のスタッフに至るまで、ルドルフの挨拶一つで全て顔パス。せいぜい二度見でもすればまだマシといったところか。

日頃の行いや実績が、こういう時に物を言うのだと痛感する。別に私の評価や人望がないわけではなく、ルドルフのそれが唯一抜きん出て並ぶ者のないだけなのだが、いずれにしても結果は同じだ。

 

 

こういう時、あの優秀かつ喧しい記者がいれば、もしかしたら打開の糸口になったのかもしれないが。

そう都合よく現実が私の思い通りに動くはずもなく、なんの障害もなくすんなりと学園の正門まで連行される。

 

正面に横付けで並んでいる、黒塗りの高級車三台。

その真ん中の扉が開かれ、乗り込むよう促される。乱暴ではなく、むしろ繊細すぎる程に丁重に扱われるが、それでも反抗できないのは明らかだった。

 

「では、あとはよろしく頼むよ」

「かしこまりました。お嬢様は?」

「少しやり残した仕事がある。後で追うよ」

「了解しました」

 

淡々と、私の頭上越しに交わされる主従の会話。

 

両脇に黒服が乗り込み、私の両脇をがっちり固めたことを確かめたルドルフは、自動車の扉に指をかける。

最後にこちらの顔を覗き込んで......

 

「.......ふむ」

 

......なにやら満足気に頷いて、そのまま閉めた。

 

 

いや、ここまでやるならせめてなにか言えよ。

そんな私の恨み節に、応えてくれる者は誰もいない。

 

バタン、と無情に響き渡る音を置き去りにするかのように走り出した車は、静かに、しかし着実に加速を重ねて車道を駆け抜ける。

 

みるみると後ろに流れていく、窓ガラス越しの並樹を眺めながら、私はこの顛末に至った原因......そもそもの話の発端に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

8年前――或る昼下り

 

 

トレセン学園はお嬢様校である。

 

......などと、世間ではごく当たり前の事のように語られているらしい。

高い学費もそうだが、なにより天稟の才能に加えて、幼少期からの弛まない鍛錬がモノを言うこのレースの世界においては、なるほど確かに、富裕層にはある程度のアドバンテージが期待できるだろう。

実際、そのような統計データもあるらしい。それが信頼性のあるものかどうかは知らないが。

 

 

 

 

ただ、私に言わせてもらえば、そのような傾向――つまるところ、上流階級が多数を占める世界の形成――は、学生達よりもむしろトレーナー社会に顕著だと思う。

 

 

中央トレーナー試験とは、如何せん難関試験だ。思う存分、学習に打ち込める環境というものが必要不可欠であり、その過程においてはやはり先立つ物が必要であろう。

またその専門職という特性上、採用に至らなかった後の現実はかなり悲惨というほかなく、一生を棒に振りかねないリスクを背負う以上、ある程度の保険が必要だ。実家の資産というのもまたその一つである。

とにかく、様々な世知辛い事情が重なり合って、今や中央トレーナー社会というのは、上流階級の集う一種の特権階級になりつつある......というのが、私の勝手な認識である。

中央トレーナーを官僚や法曹、医師と同列に見做す向きもあるらしいが、産まれの差如何という意味では、例えばフランスの国立行政学院(エナルク)なんかがより近いのではないだろうか。

 

 

繰り返すが、こんなのは私の勝手な認識である。というより、偏見である。

だって私はそもそも、当の中央トレーナーになってすらいないわけだし。

 

 

 

「はぁ......」

 

縁側で足を投げ出しつつ、今朝届いたばかりの通達を、それが収まっていた封筒ごと真っ二つに破る。それぞれくしゃくしゃに丸めて、さらにもう一度合体させ握りつぶすと、一つの大きな団子になった。

振り返り、それを居間の隅にあるごみ袋へと投擲。綺麗な放物線を描いて飛翔したそれは、目論見通りすっぽりと中に収まるが、それだけで私の不機嫌が鎮まるわけでもない。

 

URAのシンボルマークが印字されていたあれは、中央トレーナーを目指す受験生向け都立奨学金制度の合否通知。

定員一名の返済不要、給付型であり、対象者に選ばれるのは極めて困難だ。事実上、将来の主席合格候補しか受けられない仕組みであり......けれども私の場合、直前の模試で僅かに手の届かなかった資格。

おまけにその対象となった受験生が、かの名門の輩だというのだから堪らない。

 

「桐生院、葵.....」

 

名前しか知らないので、男か女かは分からない。

ただその家名についてはしっかりと心当たりがあった。代々トレーナーとして身を立ててきた、資産家の一族である。

言うまでもなく、こんな奨学金なんて全く必要ないであろう立場。貰えるものは貰っておけの精神だったのだろうか。

本来それは、親失くして孤児院に引き取られている、私のような人間にこそ与えられて然るべきだろうに。

 

「......はぁ......」

 

分かっている。これはただの八つ当たり。

全ては己の実力不足が招いた結果であり、それによって誰かを責めるのはお門違いなのだ。

なのだが、しかし、どうしても靄靄とした鬱憤が胸に沈殿して仕方がなかった。

 

 

「うっせ」

「......なんですか?」

「辛気臭いんだよ、お前。根暗が伝染るから今すぐ止めるかどっか行け」

 

縁側に座る私に背を向けて、居間の中央に寝転がる真っ黒なウマ娘が、こちらに尻尾をしっしと振って寄越す。

ジーパンにインナーシャツ一枚の格好。裸でないだけまだマシかもしれない。座布団を枕に敷き、無造作に酒瓶を転がしている。

 

昼間から偉そうに......実際、家主なのでこの家では偉いのかもしれないが。

彼女に食わせて貰ってる身分とはいえ、ああも堕落しきった姿を見せられれば敬意もなにもあったものじゃない。

あえて無視することにした。命令に従ってほしいのなら、従わせるなりの態度というものがあろう。

 

 

再び庭の真ん中と視線を戻す。

うららかな陽射しの下、鹿毛を後ろで括った小さなウマ娘が、きょとんとした様子でこちらを見返していた。

 

「......なにかな。ルドルフ」

「うーん......困ってるみたいだけど。どうしたの?またあれ(・・)に虐められた?」

 

びっと、私の肩越しに寝そべるウマ娘を指差す。

仮にも客人の身で家主をあれ呼ばわりとは恐れ入った。

 

朝早くにアポもなくやってきて、つい先程まで誰からの許可を得ることもなく「この辺に芝でも作ろっか」などと勝手に人の家の庭を物色していたかと思えばこれだ。

妹が大きくなってきただとかなんとかで、この頃は妙に大人びたというか、丸くなってきた彼女ではあるが、その根っこにある傍若無人さはまだ抜けきっていない。

 

「違うよ。大人の事情。君には関係ないことだ」

「大人の事情?ああ......お金のこと」

「......」

「あ、図星」

 

からからと可笑しそうに笑うルドルフ。

並外れた観察眼に、歳にそぐわない聡明さ。あくまで私見だが、彼女の強みを一つだけ挙げるとするなら、脚力でもスタミナでもなく、知能の高さだろう。

何事であっても、彼女がおよそ他人より劣るところを見たことがなかった。その才覚の殆どが悪戯にしか発揮されていないことが悔やまれる。

 

ひとしきり笑って満足したのか、ルドルフはどこからともなく一枚の用紙を取り出した。

いっぺんの曇もない、無邪気そのものな満面の笑みを湛えてこちらを見上げる。

まるで、とてもいいことを思いついたといった様子で。

 

「心配いらないぞ!この白紙に君の印鑑さえくれれば、シンボリ家から好きなだけ貸してもらえるからね」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「......って母様が言ってた」

 

 

 

 

 

 

 



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