最初の火 (Humanity)
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表層

 
夜明けを待ち暮らす者の手の内に舞い落ちたその灰塵は、小さくしかしほんのわずかに火の香りがしていたという。


………

 

 

「アビス?」

 

「そうです。ここはアビス、大穴とも呼ばれます。」

 

 

分厚くまたサイズの大きくゆったりとした灰色のフードの中で小さな頭が動き、きらと反射を受けて光るように見えたフルフェイスの黒い兜が縦のスリットの入った珍しい装備をつけた男を見る。

そして決して顔を逸らすことなくしかし一人考え事をするようにブツブツとものを言う。聞かせる気があるかどうか定かではないが男にはよく聞こえていた。

 

 

「深淵の監視者…覇王ウォルニール………小ロンド…ウーラシール、………?」

 

 

確認を求めるようだと捉えた男はしばし考えたのちに、残念そうな声色で応えるが曰く。

 

 

「どうも申し訳ないですが、心当たりはありませんね。」

 

 

男を注視して行末を見ていた彼はしかし見るからに肩を落として、だらりと両腕を垂らし少し項垂れた。

 

 

「そうか…いや忘れてくれ。ぼくはぼくでまたやることが生まれただけだよ。」

 

「ふむそうですか。お役に立てず…。」

 

 

フードと鉄板越しにため息を吐き、カシャカシャという脚甲の金属音をローブの中で鳴らして足速に去ろうとするその小さな影に男が声をかけた。

 

 

「もうお休みになられるのですか。」

 

「…いや、まだ起きて研究をする。」

 

「そうですか…では、あなたがここを訪れて三か月になりますから改めてこの基地を案内して差し上げようかと思っていたのですがお邪魔してしまいますか。」

 

 

ピクリと反応して立ち止まり回れ右をする小さな姿がある。その勢いで腰に提げられている結晶の生えた刺剣や鈍い金色に光る聖鈴、枝葉を模した鈴がチリチリという心地の良い音を鳴らして通路を反響した。

 

 

「案内してくれるというのなら、行こう。」

 

「それはそれは嬉しい限りです。」

 

 

容姿の年若い——幼さも残るような——彼には似合わずまた見合ったサイズとも思えない杖を手に先程と同じ速度で歩み寄り一歩踏み出さねば手の届かぬ間合いを取って立ち止まると、男は少し残念に感じていた。

 

 

「おや…おや…。では参りましょう、()()()。探窟家の最前線、前哨基地イド・フロントの全容を研究者たるあなたには()()()お見せします。」

 

 

「黎明卿」ボンドルド。彼はその背後についてくる、灰と名乗る彼に期待と好奇心を向けながらその仮面の亀裂から露出した緑色の瞳を光らせた。

 

 

 

出会いから今に至るまで彼、灰と名乗るこの子へのボンドルドが抱く印象はただひたすらに不思議であるという他ない。それはもしかしなくとも相手が抱く印象と重なるモノであるが、彼の方が一方的にアビスを知るほかに彼を知る術は聞き出す他なく今のところ灰と名乗ることと何らかの研究をしているということ以外まるで分からないのだ。

 

 

(彼に割り当てた部屋へ訪問したことは幾度となくありましたが…。)

 

 

食事には一切手をつけず、また一切眠る様子を見ることもなく。ただ部屋へは大量の紙とインクを取り寄せて、そこに書き溜められた文書が纏められて本のように部屋へ並べられているそんな様子であった。机上には火に満たされ揺らめく瓶のほか冷たい光を放つ灰の詰まった瓶が並べられ、その内容物を一滴ずつ滴下して分析する様子もまた観察できたがそれらが何であるのかは分からずじまいであったことも思い起こされる。

 

 

(あるいは彼自身もわからないのかもしれません。それを理解するため研究に勤しんでいるのでしょうか。)

 

 

また時折りイド・フロントから出てアビス第五層を徒歩で探索する姿も祈手(アンブラハンズ)から報告されている。もとより第五層にてその存在を確認され祈手を通した対話に応えたことから保護の名目で捕縛し観察下にある彼であるから、最初は脱走も危惧されていたものの再捕縛に乗り出す前に「帰宅」しまた部屋へ戻るといった行動を定期的に繰り返した。そのことから警戒こそすれどあくまで観察対象という域を出ることは終ぞなかったのだった。

 

そんな生活を始めて()()()()()()()()()()ゆうに三か月は経っているのだ。信用を得るのに時間がかかったとはいえ三ヶ月越しの誘いをする男も、また三か月間の軟禁状態にありながらその話に乗る灰もどうかという話はあるだろうか。

 

ボンドルドの言う「祭壇」を遠巻きに見学しまた基地の内部へと戻るまで口を利かなかった灰であるが、そこでようやくややぶっきらぼうに口を開いた。

 

 

「遺跡と言ったか。」

 

「えぇ。先程お見せした祭壇をはじめとしてイド・フロントの表出した構造物群は全て所謂『遺物』です。祭壇について()辛うじて機能のみ推測、稼働することに成功しましたがその本来の用途については未知なのです。お恥ずかしい話ではございますが。」

 

 

決して嘘は言わない、そんな信条を持つ男らしい言説であったがしかしそこに灰はさらに踏み込む。

 

 

「なるほど…して貴公、その言い方から察するにまだ秘匿しているものがあるのだろう?」

 

 

驚いたように立ち止まり振り向く男の視線の先には、先程と変わらずじつと見つめる兜があった。しかしその熱視線は無邪気な少年というよりもむしろ未知と秘匿を暴き既知と為さんとする探究者のものと言う方が正しいほどだ。否、だからこそ無邪気な少年の気があるのだろうか。

 

 

「ほお、あぁ…なんという。なんと素晴らしいその探究心、益々あなたを欲しくなるものです…ええその通りです。その通りですとも。あなたは本当に聡く賢くそして恐ろしいお方だ。」

 

 

屈みこみ背の低い兜に視線を合わせるようにしてそう口にしたボンドルドは、すっと背を伸ばし再び直立姿勢に戻ると廊下から構造物群のある表出部へ戻る道を進みながら言う。

 

 

「そう、貴方の仰る通りです。この遺跡にはもう一つ、本来ここの中枢として機能していたとみられる間があります。遺跡の端々と通路や壊れた昇降機で結ばれていますがその多くが扉によって閉ざされていたのでその考察に至るには遅れましたが。」

 

 

黎明卿の固いブーツの音と灰の脚甲の硬い音が響き渡り、通用口を抜けると祭壇を右手に臨む広い通りに出る。円形をしているこの遺跡の中心路だ。ボンドルドはその祭壇に立ち入って消毒する祈手(アンブラハンズ)をみつつ通りをぐるりと回って、先ほどのところとは真反対に位置するドーム状の建物へと足を踏み入れた。

白亜にも似た白い外観とは打って変わって内部はアーチ構造によって支えられたこじんまりとした暗室ながらそこに運び込まれた機械によって色とりどりに薄っすらと照らされている。

 

 

「これらは解析のために運び込まれた我々の資材です。今のところこれと言って成果がありません。とはいえ祭壇の研究には役に立った者たちですから全くの無用かと言えばそうではありませんが。」

 

 

ドームの頂点部は開口しているらしく外の紫色の光がこちらもやはりうっすらと差し込んでいるが、深淵(アビス)という名に恥じぬほどの暗さをも照らす光とはなりえずやはり一寸先も確かでない暗闇となって二人を包み込んだ。

ボンドルドには初めからわかっていたらしく側へ来た祈手(アンブラハンズ)のうち一人には単なる見学であるという旨を伝えている。

 

 

「こちらは……ええ、そうその彼ですよ。火の無い灰と名乗られましたので灰の方と。」

 

「では卿の通りに。灰の方、あまり面白いものではないと思いますがごゆっくり…」

 

 

そう言い切るか言いきらぬかという間に灰はその中央に鎮座するそれへと歩み寄っていた。

その視線の先。ドームの中心には灼けた人骨や灰が薪としてくべてあり、その中央には捻じれて螺旋状になった剣が石の窪んだ炉のようなものをも貫いて屹立している。火に焼けたらしい黒い剣は火をなくした今もなおほんの残り滓という程度ながらわずかにその先端が赤熱しているのが見て取れた。

 

 

「!!灰の方、お手は触れないよう」

 

「いえ、いいでしょう。」

 

「卿、しかしあれは我々の研究の最先端であることは…」

 

「その通りです。そしてその通りだからこそ彼に可能性を感じている私が許可するのです。さあ灰の方、火の香りのする者よどうぞ前へ。そして私に見せてください。」

 

 

そんな黎明卿の願いはもはや聞き届ける気もないのやもしれない。灰に比べれば大きな男二人が慌てそれを諭す場の中でも、しかし彼はそれを無視して炉へと歩みを進めていたことにそれが表れているだろう。ちょうどボンドルドの願いを耳に入れる瞬間に儀式へ移ったのはほんの偶然である。

脱力して、()()()()()()()灰がその手のひらを螺旋剣の柄へあるいはその下の火種へ被せるように差し出す。直ぐ、というわけではないものの火の主の到来に剣の小さな火種は歓喜する。大きく息を吸い込むように大気を揺るがすほどに空気を集め螺旋に沿って火種へと注ぐ儀式は、数瞬のうちに朱色の火となり再び螺旋に沿って今度は焔が立ち昇るとぼうという独特の炎の噴出をもって遺骨や遺灰に火を宿し灯りとなった。

 

そしてこの再燃の儀式こそが深淵(アビス)を照らした最初の篝火であったのだ。

 

初めて「火」を見た祈手(アンブラハンズ)はその明るさと差異に恐れ慄く。

 

 

「!?こ、これは…何だッ!!何なのか!!」

 

 

そしてその光を見た黎明卿は期待を裏切ることのなかった彼に、そしてついにまみえた暖かなそれに打ち震えた。

 

 

「あぁ、これが……っこれこそが……

 

 

———光———

 

 

素晴らしい…本当に素晴らしい…っ!!」

 

 

………




 
毎度のことながらわたしHumanityの思いつき二次SSです。
これが続くのか続かないのかそれは分かりませんが、薪の探索者および探窟家の皆様へひと時の休息となれば幸いです。


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第一層

続いていないです。

つまり少し戻ります。



………

 

 

灰の残滓が火を熾すその三か月前、すなわち火の無い灰と深淵(アビス)が邂逅したころからある男によって保護という名の捕縛と監視をつけられてもなお、絶え間なくその灰には考えることがあった。

それは不死の宝でありまた灰の宝でもあるエストおよび灰エスト瓶の補充方法である。

 

 

「いっ…うく…」

 

 

ぽたぽたと赤黒い血が紙面に滴り落ちる。そのうえではどくどくと手甲の節の合間から血を流す右手の親指が痛みに耐えようとする灰によって震えていた。そこにエストを滴下すると素手で火に触れたような熱さを感じるも、指にできた傷は次の瞬間には元の通りにつなぎ合わされその表皮に弾かれたエストが手甲の中を伝って紙面に落ち血痕と置き換わってしまった。

残り火のようにじわと燃えたが、間もなく血が燃え尽き灰となる。

 

 

「…うぅ…ん…。」

 

 

灰の気力は切れていないために使うことはないが灰エストもまた紙面に滴下してみる。それはエスト瓶から離れた瞬間にエストに似た輝きを失っていき紙面に落ちるときにはすでに一片の燃え滓のようなものに変わっていた。

 

 

「…。」

 

 

灰が再び自身の指を盗人の短刀の刃にあてがったとき、背後の扉が開いた。

 

 

「おはようございます。朝ですよ。」

 

 

灰を「保護」した男、「黎明卿」ボンドルドと名乗った男がその戸口に立っていた。背後には不気味な男の配下が数人連れられている。男のほうは手にトレーを持っており背後の男たちは大量の紙とインクの詰まった瓶の木箱を持って来ていたので灰はまた五日間を過ごしたらしいと確認し、机上に置いてあった黒い兜を被って顔を隠してから振り返った。

 

 

「もう五日か。」

 

「えぇ。その様子では以前私があなたに差し上げた糧食に手も付けなかったようですね。また恐らく眠ってもいないのでしょうか。」

 

「必要がないからしないだけだ。」

 

「…ふむ。そうですか。では私の部下たちに紙とインクを持ってこさせましたのでどうぞお使いください。」

 

 

ボンドルドは遠慮なく部屋に入り灰のすぐ背後までやってきて棚を見渡しまた視線を灰の手元に移した。灰はもうすでに短刀を仕舞っている。

 

 

「また随分と書きましたね。すべて綺麗な論文の形式になっているようですが、…貴方の用いる筆記言語は解読が難しいのが悔やまれます。また少し持って行ってもよろしいですか?」

 

「ああ貴公、構わない。すべて持って行ってくれ。」

 

「有難い限りです、()()()。」

 

 

そう男の言う間に配下の者たちは以前から指定していた置き場に木箱と縛ってまとめた白紙を置き、空の木箱を回収していた。もう用は済んだらしい。

 

 

「これで言語研究が捗りますね。あなたが咄嗟に発する単語の意味も、文書に並ぶ用語もその註釈もよくわかりませんから未熟さが目立ちますが。」

 

「…そうか。よかったな。」

 

「ええ、良いことです。それはそうと貴方の研究は進んでいますか。」

 

 

灰は椅子の上で振り向き、棚の文書——祈手(アンブラハンズ)たちが持っていこうとしているものら——を見やって言う。

 

 

「貴公には滞っているように見えるか。」

 

 

対して男は首を振りさらに応えた。

 

 

「いえ、あなたがたった今机に広げているそれらのことです。見たところ…灰ですか?あなたの名乗りの由来でしょうか。」

 

「あぁ…そうだ。貴公の言う通り滞っている。…もう少し鈴に頼るべきやもしれないが、いかんせん私の精通するところではない。」

 

「ふむ…?鈴ですか…?」

 

 

鈴の指す語の意味については理解が回らない——と言うよりもまず灰がそれに関する文書を作っていないのであるが、——ボンドルドは不可思議に首を傾げた。

机上には灰の入った瓶が光輝く二つの他にもう一つと、なんらかの骨、布に包まれたなんらかの灰が数種類、さらに捻れた金属片が何かの区分に従って分けられている。

 

 

「まあいいでしょう。我々はこれでお暇しますので。…ではまた五日後に、灰の方。」

 

「…うむ。」

 

 

見ればすでに棚へ収まっていた文書のほとんどが配下の男たちによって運び出されており、薄暗い部屋へ差し込む扉の外の光が閉ざされるとその内側に一人残る灰にとってすでに見慣れた光景ながらひどく色を失ったように感じた。

 

 

「…。」

 

 

とはいえそれは灰にとって「ただ感じられた情報」でありまた「思考の雑音」でしかないのであるが。

話を灰の思索に戻す。エストの補充方法から転じてそもそもエストとは何なのかという問題に当たるそれは、いまや遠い記憶の中にあるロスリックの地をもとに考証を進めていた。自身と同じ火の無い灰はもちろんとしても、それ以外のアンリや闇霊「放浪のクレイトン」などの不死人ですらその炎に似たナニモノかを嚥下することで傷を癒し疲れを取ることができるのはなぜなのか。そこから考察できるエストの中身は何であろうかと。

 

 

「………。」

 

 

そんな思考のなかで灰はまた、初めてロスリックの地を駆けまわった時のことを想起していた。柱か何かと勘違いするほどに大きなハルバードをもった一人の羽の騎士に追い回されて、空のエスト瓶を見間違いでないかと何度も確認しながら亡者兵を駆け抜け階段を登った先。偶然ショートカットを開通しそのほんの安心感から、途中壁より湧いて出た亡者どもを最低限に扱えるという程度のブロードソードで切り伏せたこと。そしてなんと灰はあの時無いはずのエストを呷ったではないか、と。

 

 

「…!ああ、そうか。その手があるじゃあないか、なんということだぼくは忘れていたぞ!」

 

 

そうと決まれば灰の話は早いのだ。

宮廷魔術師の杖を取り出し聖木の鈴草、さらにフィリアノールの聖鈴を持って部屋の扉へ駆け——(「どうせ鍵が閉まっているんだろう」という諦観をしながら)その戸を蹴破った。

 

 

「んあ…。」

 

 

どうせ出られないと思っていた彼にはひどく意外な事であり、気付けば廊下に出ていたうえに足元には扉の破片が散乱していたのである。がしかし彼は自身でも意外なほど冷静だった、幻視の指輪を指に着けてその場から歩き去ったのである。

連行されて部屋へ入った際には袋をかぶせられていたが、目が奪われたという程度では道がわからなくなるはずもなくまるで勝手知ったるかのようにすたすたと歩いた灰はイド・フロントの外へと出て行ったのだ。

 

 

———

——

 

 

「おやおや…。」

 

 

その事実を「黎明卿」ボンドルドが知ったのは、その蹴破られた扉を次の持ち場へと向かっていた祈手(アンブラハンズ)が見つけたときでありそれは灰が外へと小走りで去った2時間後のことであったという。

 

 

「これは困りましたね。扉を壊されたことも問題ですがそれ以上に、彼の行方を捜さねばなりません。」

 

 

そうボンドルドが発する側に居合わせる祈手(アンブラハンズ)はなんとも居心地の悪いものであろう。あるいは逃げ出した灰へのふつふつと沸く怒りに耐えているのやもしれないが。

 

 

「あの方は上昇負荷の影響を受けるのでしょうか。知りえませんね。灰の方はこれまで()()()()()部屋にいましたし外出を願うこともありませんでしたから。」

 

 

ボンドルドの静かな口調に見え隠れする感情は怒りであろうかそれとも、なんとも気まぐれに漂う灰への呆れであろうか。

扉の破損を検証した配下曰く、扉を()()()()()()()()形跡はなく立ち向かうや否や蹴りを放ったのだとみられるといった旨の報告を受けていた。

 

 

「扉の鍵については怪しまれないよう極めて静音なものを使用したはずですが…いえ状況判断からの推測は容易ですか。これは失敗でした。では連れ戻す算段ですが、あなたがた祈手(アンブラハンズ)に加えて私も出るとしましょう。場合によっては()()することも必要であるかもしれませんので。」

 

 

仕方がありません、と言いつつ配下十数人を引き連れてイド・フロントをあとにしたボンドルドはその直後、部屋に灰が帰宅したということを知りすぐさま反転して前哨基地への帰路に就く。酷く消沈した様子であることや上昇負荷の影響は見られないなどといった、部屋の警備へ回っていた配下の思考を右から左へ流して処理しつつ、ボンドルドは灰の方を問い質さなくてはならないと決意するのだった。

 

 

………




 
初回投稿時に非ログインユーザーからも感想受付を行う設定をし忘れていたので、後から導入しましたHumanityです。

連載区分「短編」の名の通りごく短い一話一話をゆっくり、時には早く出しながら書きたいと思っていることや展開をできる限り書いていこうと思います。


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第二層

前回に続いていますので、今回もまた最初の火が灯るよりも前のお話です。



………

 

 

上辺では灰の定期的な「外出」を認める形をとったボンドルドであるが、その思惑は灰に監視役の祈手(アンブラハンズ)をつけて遠巻きに灰の行動を観察し彼についてその戦力や行動原理を考証することにあった。なぜ第五層に居たのか、アビスの名も知らず潜った記憶もないと言うのだからその化けの皮を引き剝がすという意図である。無論灰に監視役の存在が認知されているという前提もまた存在する。であるから監視役たちはいわば捨て駒ですらあったのだ。

 

 

「ふむ…よくやりますね。」

 

 

監視役の視界を借りて眺める灰の戦いぶりは原始的ながら身のこなしから見事と言わざるを得ない。ブロードソードと草紋様の中盾を手にまず行動を見、その原理をある程度把握してから相手を誘い出しそのうえで弱点を探る。ターン制のカードゲームに喩えればわかりやすいだろうか。

 

 

「今のところ剣と盾のみを用いていますが、小柄にして鎧を着こんでいるにもかかわらずよく動けるものです、興味深い。きわめて興味深い。」

 

 

もとより深界五層に息づく陸上生物が少ないために一対多数の状況にはコロニーなどの特殊な状況下を除いてはなりにくいのであるが、一体一体に集中して戦える環境を選び転戦を繰り返す様は探窟家の教本に載せるべきとすら思えるほどだ。それほどに彼の洗練された立ち回りはアビスの生物相手でなかったにしろ戦いなれていることの証左足りえるだろう。

 

 

「おぉ、今のを避けますか。」

 

 

カッショウガシラが地中に潜行し姿を消す。そして数瞬もたたずして灰の足元へ針を突き出したものの、灰は予期していたようにこれをバックステップで回避し続けざまにブロードソードを振るってその尻尾を切りつける。いつの間にやらブロードソードに塗り付けられていた松脂に火がつけられてカッショウガシラの尻尾は斬られた断面から燃え、生臭く焦げ臭い空気が広がった。堪らずカッショウガシラが地中から出る。

 

 

「良い手ですね。地中から引きずり出しながら相手の手数を減らすことに成功しています。」

 

 

既に左側の節足一本が捥ぎ取られているカッショウガシラはさらに負った痛手から目の前の小柄な獲物へその動きを警戒し睨むようにしてジリジリと相手の間合いを読む。対する灰もまた油断せずカッショウガシラの次の手を読むべく一挙一動も逃さぬほどに睨みながらしかし盾は構えず間合いを測る。

肌も焦げ付くほどのにらみ合いの時間を経てついにカッショウガシラが撤退を選ぶかという時、不意に灰は盾を剣の柄で幾度か叩き喧しく音を立てた。

 

挑発。本能に従って生きる者たちに極めて有効な誘い出しである。ゆえに小柄な獲物に優勢を奪われかつ挑発されたカッショウガシラがただで済ませ退却を選ぶはずもない。槍の戦技『突撃』のように灰の目には映ったカッショウガシラの突進に対して灰は武器を構えるでもなくただ立ち向かい、獲物を突き殺さんと尻尾が力んだ瞬間を見計らって盾でこれを弾き流した。

パリィ。盾にて敵の攻撃を受け耐えるのではなく、あくまでも盾を用いて敵の攻撃に対し横から瞬時に力を加えて敵の姿勢を崩す戦いの中での技法である。

 

 

「ほう…」

 

 

そして守る盾も鉾も失って惰性に向かってきた(サソリ)の頭を、中盾をなげうって両手で支えたブロードソードの剣先に待ち受け相手の力を利用して剣の身半ばまで突き刺した。鋭い一点の力を受けたカッショウガシラの特に分厚いはずであった頭部の外骨格はこれを受け止めきれず拉げて内容物をまき散らし、さらに右足で突き刺さった頭部を蹴り両手で剣を引き抜いた灰はカッショウガシラの断末魔を聞きながら大量の体液とめちゃくちゃに混ざり合ってしまった体組織の名残を浴びた。

 

 

「お見事です。まさかあれを剣と盾でしかもおひとりで殺し切ってしまうとは。」

 

 

ボンドルドが呑気にイドフロントで感慨に耽るなか、その目を担っていた祈手がカッショウガシラの断末魔を聞きつけて遺骸を漁りにやってきたサカワタリたちによって殺されるがそんなことは意も返さなかった。

 

なお灰はと言えば、その手元にほんのわずかのソウルも得られずまたエストの補充も出来ず残り火状態にもならなかったことから単なる雑魚扱いと捉えて攻略難易度の高さに驚いていた。

 

 

「むぅ……燻りの湖に巣くっていたワームでもまだ気前は良かったというのに…。」

 

 

そんな呟きも目と耳を担った祈手を失ってしまったボンドルドの耳に入ることはなく、灰は遠方からやってきている鳥の群れから逃れるため入り組んだ岩場を選んでその場を後にした。そこがかつてはカッショウガシラのコロニーであったことなど灰の知る由もないであろう。

 

 

「この匂いは…古戦場か。」

 

 

今や遠いロスリックで嗅ぎ慣れた、ツンと鼻を刺すような人の灼ける匂いと糞尿を加えて混ぜこぜにしてぶちまけられたような匂いが天井のないドームの中に充満している。白い岩壁には焼けた跡があることからここで激しい戦いか虐殺があったことが灰には伺えた。

 

 

「せめて緑花草の一つでもあればなあ……うん?」

 

 

そんな考察をしつつ見回すうちに、灰はその岩壁に倒れかかる形を残した死体があることに気がついた。頭部にはかなり傷がついた黒い兜——ちょうどボンドルドと同じようなもの——を被り体は…。

 

 

「ふん、ふっふっふ…このひどい匂いの元凶は貴公だったか。やれやれ、戦いの前に何を食ったんだね…?見てみようか。」

 

 

すっかり乾涸びてしまった(はらわた)を露出した下半身の無い遺体。しかし灰は躊躇なくその死体を漁る。

 

 

「下水道の末端の水の中に沈んでいた遺灰よりはかなりマシな死に様だな。貴公、名はなんと言うんだね?」

 

 

衣服を漁るには頭が邪魔であったので灰はぐいと側頭部を押して転げさせ、さらに仰向けに正すと胸に掛かっていた黒い笛を手に取り紐を引きちぎった。白い彫り込みに字が見て取れる。灰はこれを古い呪いの類だと聞いたことがあった。

 

 

「む…うぅ…ん…。ああこれか?……あー…なんとも何処ぞの神どもを彷彿とさせる語感だな。ふっふ、ふふふ…。」

 

 

その黒い笛をソウルに仕舞おうとした灰であるが、仕舞えないことに気づく。思えば手に取った時点で名前を読み取れなかったのだからこれといってソウルが残っていない、すなわち他人に与えられたものでこれ自体にはさしたる愛着もなかったのであろうか。

 

 

「むぅ…勿体ない。…この大きさならローブに結びつけておくか。」

 

 

ロスリックに転がる遺体や甲冑も似たようなものだと灰は考察している。曰く、愛着を持って使い古されたものはその微弱なソウルに記憶を持つのだと。その輝きが特に突出したものをのみ不死人や灰は手に取って名を知りその記憶を読むのだと。

 

 

「あの男に知らせるのは…癪だな。黙っておくとしよう。なあ?グェイラ君。」

 

 

声には出さず肩を震わせて微笑った灰は立ち上がり、ドームの穴から先ほど戦った場所を見る。喧しい鳥どもは蠍を食ってもなお足りないらしく次の獲物を探そうと飛び立ちつつあった。

 

 

「…ふむ。飛び去るまで待つかそれとも退却するか…どちらが無難かね…?」

 

 

灰は今記憶している魔術を想起した。安全だと断じて記憶し直すような気持ちの余裕も(いとま)もなく、『見えない体』や『隠密』を記憶できていないために退却は困難を極めるだろう。何より群れて移動する生物に良い思い出はない。

 

 

「であれば、待つのが吉かな。」

 

 

ソウルの存在を確認できていない現状では誘い頭蓋も意味をなさないと考えたのだ。さらには亡者相手ならばまだしもある程度の知能があれば投射方向から現在位置が推測できるため尚更危険である。

 

 

「集中力の節約にもなる、これが最善だろうから。」

 

 

捕縛されたのちの一度目の探索で消耗戦の失敗を思い起こした灰は反省したのである。魔術は長期戦にとんと弱いものだから。

そう思って灰は汚物臭の根源(祈手グェイラの遺体)から離れた位置の岩壁に身を寄せて『丸くなった』。

 

 

(今日の収穫は蠍の攻略法と、この笛と汚物臭か…。)

 

 

エスト問題解決とエスト解明の糸口はまだまだ見つからない。

 

 

(………水浴びできないか聞いてみよう…。)

 

 

 

………




 
評価および感想をくださった皆様ありがとうございます。感想については返信を行っていませんがすべて読ませていただいておりますので。


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第三層

どうやらHumanityは卿の名前を間違えて覚えていたようで。赤頭巾さんの報告無しでは気付くことはなかったでしょうから、改めて有り難さがわかりますね。以後気をつけます。



………

 

 

あの男(ボンドルド)の基地の一角、内燃機関の排熱を利用して作られた狭い水浴場に灰はいた。「帰宅」してすぐに祈手へ水浴びをしたい旨を伝え、どこからか伝え聞いたらしいボンドルドの先導でやって来たのだ。

 

 

「ここに監視役は置きません。確かめていただいて構いませんよ。」

 

「…。」

 

「防具や装備品などはこの籠をお使いください。私はこの場を少々離れます。済んだようであればここの外の廊下に立つ祈手にそう伝えてください。ああ、それとお身体を拭う際にはこちらをお使いくださいね。」

 

「…む。」

 

「では私はこれで、ごゆっくり。」

 

「…。」

 

 

やけに手慣れた様子のボンドルドがその場から立ち去ると確かに扉の外には一人気配があることが灰には分かった。さらに灰は浴室や脱衣所を見回すが確かにあの男の言う通り監視役らしい気配は見て取れない。

最後に積まれた白い布を確かめようと手を出し、思い至って左手の真っ黒なガントレットを外す。するとおおよそ剣や盾を持って戦う手とは思えないほどに白く柔らかい肌と細い指が露わになって、さらに四本の指にはそれぞれ指輪がはめられている。

それを灰は布の中へ無造作に突っ込んだ。

 

 

「…んむ…。」

 

 

結果はなんの問題もなくただの白い布であることがわかった。強いては質の良い布であることがわかったほどである。

 

 

「…さてと。ぼくはただ水浴びがしたいと言っただけなのだが…。」

 

 

湯船に浸かる経験などなかった、ハズの灰であるから本当にただ水を浴びる程度でよかったなどとも考えつつしかし素直に応じることにしたらしい。左手に次いで右手のガントレットも外し、灰色のローブのフードを脱ぐと兜の全体があらわになった。

フードを通してみる正面の側は返り血や顔に受けた外部からの衝撃により黒く変色しているが、ローブに隠れた後頭部はというと輝くような銀色をしている。バイザー付きの西洋兜としては小ぶりで軽量であるそれは、後頭部には特徴的な八条の筋がコウム(鶏冠とも)を挟んで左右対称にありさらにバイザーの上部にも簡易的ながら筋状の装飾が彫り込まれている。やや貴族趣味的だ。

 

 

「よいしょっ……と。」

 

 

その兜を外し棚に置くとさらにその内側に着る鎧下の、ぴったりと肌に張り付くフードを脱ぐ。

毛先がそろった女性のような白髪をふるふると頭を振って癖を直すと、灰色の厚手なローブを脱ぎ、黒い布地に灰色のスカーフと金糸の装飾が施されたコートとさらに内側に着つけていた真っ黒なチェーンメイル、同じくガーゴイルを思わせる石のような黒い足甲をソウルに仕舞う。

 

 

 

「…湯に浸かるなら下着も…んぅ…仕方ないか…。」

 

 

もとより鎧と鎖帷子、さらにインナーの下に身につける下着であるので生地は薄くまた丈も長いものなので、これを見て下着とわかる人物も少ないやも知れない。そんな無駄な考えをしながら灰は下着も脱ぎ捨てて裸になって、ふと思ったことがいくらかある。

 

 

「そういえばここまで脱ぐことはそう無かったな…。」

 

 

砂の呪術師装備やふんどしといった吹き溜まり産の装備を好んで身につける趣味はなかったものであるが、魔術繋がりで有名な逸話といえばかの『ビッグハット』ローガンの最期は

 

 

「いやあれは狂ったからだ。結晶魔術の狂気に抗する能力が足りなかっただけだろう。」

 

 

——きっとそうに違いない。——

なお誓約で時たま出会うほかの灰たちが衣服を身に着けていなかったり露出を好んだりしていたのは個人の嗜好であって、あれらはまた別の話であろう。

 

 

「…まあいいか。」

 

 

なかば自身に言い聞かせながら脱いだ鎧や衣服を全てソウルにしまい込み、護身のためにグルーの短刀のみを持って浴室へ入った。

 

生前の育ちについて火の無い灰その人自身が覚えにあることはとんと存在しないのであるが、不思議と行儀作法というものは染み付いるもので一挙一動の意味を理解する可否は別としても行為自体はなせるものだ。思えばこちらの世界に侵入した身でありながら裸であっても一礼を交わした敵対の霊体や、こちらから助けを借りるべく召喚した霊体たちがその最たる例であろうか。

 

 

「……熱い。」

 

 

無論文化圏の違いとは常にあるものだろうが。湯船から桶へ汲み掛け湯をしながらそんなことを灰は考える。

そうして頭から足の先まで全身を流してから湯船へと浸かった。

 

 

「熱い…『熱い』か。」

 

 

温度という感覚情報。

湯船につかりながら灰は自らの言動を顧みて、果たしてロスリックに在った頃も今と同じように温度を感じていただろうかと考えた。ロスリックの高壁に始まり不死街、カーサスの地下墓と燻りの湖、イルシールとアノールロンド、そしてロスリックの本城と果てはアリアンデル絵画世界や輪の都とかなりの寒暖差や物の温度を見たはずではあれど、それは確かに自身の感じ得た情報であったのだろうかと。

 

 

「んんぅ…。」

 

 

アリアンデルで感じた吹雪の寒さや篝火から感じた温かさは果たして本当に「感じた」情報であったのだろうかと。

 

 

「うぅ…?」

 

 

寒色暖色とはよくできたもので、色覚の及ぼす影響とは計り知れないものだ。真っ白な雪の絵を見て「寒そうだ」と変換するその過程に実際の温度は伴っただろうか。いや多くの場合は伴っていない。経験に基づくイメージの問題なのだ。

 

 

「…んん。」

 

 

そしてふと思い至る。果たしてエストには温度があっただろうか、と。

直近では外部の探索での回復や手を切ってそこに流し創を癒したことなどが思い浮かぶ。灰エストにしても確かにそれらには温度があったはずだった。

 

 

「…まだ一度も触れてはいないが…。」

 

 

篝火も似た温かさだろうか。改めていま体を浸して任せている湯をきちんと感じ取ってみれば、これは少しエストとは温かさの本質が違うのではないか。その気づきを得て灰はようやく思索の海から意識を浮上させる。

肩まで浸かっていた灰の顔はもうすでにじっとりとした汗をかいており、髪もまた濡れているので高い位置にある灯りに照り輝いて見えることだろう。

 

 

「上せる前にあがるか。」

 

 

ざあという水音と共に湯船で立ち上がった灰はふと扉口を、そしてそこに立ち尽くす子供を見た。

 

 

「…む?」

 

「あ…えっと…。」

 

 

女の子だろうか。白い布で体を隠して紅潮した顔を背けているので、真っ赤になった右耳の端と地味な茶色の髪の毛が肩にかかっていることしか特徴は見えなかった。

 

 

「まちがえた…かも…。」

 

「いや間違えてはいないだろう、あの男が間違えるとは思えない。あれは謀ったつもりかもしれないがぼくはもう上がるからな。」

 

 

背丈は灰よりも若干低い。齢は見てくれより上であろうが、とはいえこの基地の構成員と比べれば娘と言われて違和感もないほどには幼いだろう。

そんな少々礼を失した推察をそうと理解しながらもチラと考えた灰は、白い布に包んでいたグルーの短刀をそっとソウルに仕舞い込むとそのまま浴室を出て行った。

 

 

………





灰の装備は以下の通りです。(体力17)

上級騎士の兜
魔術師のローブ
黒騎士の手甲
モーンの足甲

エルデンリングにハマっていて私の全ての執筆、投稿などの活動が完全に停止していました。お久しぶりです。
このSSで主人公になっている魔術剣士ビルドが星の世紀、筋バサビルドが黄金の時代を迎えそれぞれがエルデの王となったのでぼちぼち執筆活動を再開していきたいと思います。


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第四層

今回、やや短いです。
とはいえ誤差の範疇かも知れませんが。


………

 

 

「手を、握ってもいいか?」

 

「…あ」

 

 

定期的に入浴時間を設けるようにボンドルド卿へ求めた灰はそれから良く浴室へと通うようになっていた。

毎度のこと例の少女もまたほぼ同時に浴室へ案内されるのでもはや不思議に思うことは無くなったが、このことに関して卿を問い質してみたところで煙に巻かれるので灰にとってその真意はよくわからないままである。

 

 

「い、いい…ですけど…。」

 

「ありがとう。」

 

 

湯船のなかで少女の褐色肌をした小さな手に灰の白い手を重ね、優しく努めながら手を握り包み込む。

彼女の警戒心はもとより低いらしく、もはや体を隠しはしないのだが触れられることには慣れていないようでこうして灰が頼むと答えを言い淀むほか、手を握る際にも縮こまっている。長く握り合っているうちにそれも安心から弛緩されていくのだが。

 

 

「……。」

 

「ぅ……。」

 

 

身長はあまり変わらない二人であるが灰の手はいくら細いとはいえ普段より剣を握る右手であるので少女に比べては大きく、掌を合わせて握り込むと少女の小さな手はすっぽりと抱かれてしまう。

なお灰が手を握るよう求めるのはこれが初めてではない。灰にとって入浴時間は唯一の思索や記憶に没頭できる時間であり、手を握るうちに見出した暖かさはその思索の材料でもあり小さな篝火でもあるのだ。

 

 

「…。」

 

「ぅう…。」

 

 

当然ながら少女にそんなことは知り得ないのだが、彼女は聡明なことに基地の中で見る甲冑に身を包んだ灰と今こうして少女と肩を並べて湯船に浸かる灰には——被服しているか否かという事をもちろん除いて——決定的に異なる要素があることを感じていた。

 

 

「…。」

 

「んぅ…。」

 

 

手を握られて身悶えする少女と裏腹に灰は記憶を整理しつつ少女の暖かさを享受して考察していた。

 

 

(この子に火守女の素質があるのなら喜ばしいが、どうなのだろう?イリーナの件を考えれば、火守女となるには努力と同等かそれ以上の才能が必要なのだろうか。)

 

 

隠密を追加して、結晶槍、強いソウルの矢を外して強い魔力の武器(魔力エンチャント)を記憶し直すのだ。魔術の使用を控えているとはいえ限度があり、切り札となりうるものを優先的に覚えておくのである。その際ソウルの奔流は除かれているが。

エストの供給さえあれば普段使いする強いソウルの矢などを記憶に留めておくのだが、集中力切れを恐れて魔術の連発はせずにいるために記憶しておく数を少なくして戦闘を円滑にするのである。

 

またこの地に来て以来手に入れたことはないが手持ちに溜まっている大量のソウルにも意識を向ける。貧乏性というものだろうか、あまりにも大量のソウルを手にして歩き回ることを元来嫌っていた灰はこのソウルの使い道についてもなお探していた。ロスリックであればこの大量のソウルを持って侍女か盗人のパッチやグレイラットのもとへ行き松脂を買い溜めたり楔石を意味不明なほど溜め込んだりするのである。

その点でいえば入浴時間を共に過ごすこの少女には期待もあるのだ。

 

 

(レベルアップは素質だけでどうこうなるものでは無いのだろうが、かと言って彼女から目を奪うのは…憚られる、したくない。)

 

 

だってこんなにも綺麗な澄んだ青い瞳をしているのだから、と灰は考えつつ思索に入り込むあまりに少女の目を見つめすぎていたのだが。

少女は自身を見つめてくるその燃え滓のような色をした、やや濁っているその目を不思議そうに覗き込む。その向こうに燃える何かを見出そうかという頃に、灰は目をそらした。

 

 

「…長風呂になったな。私はもう上がることにするよ。」

 

「あっ…ぁはい。」

 

 

湯の中で握り合っていた手を灰が放し遠ざかると、少女の方は手の感触を探すように少し手を泳がせた。

湯船で立った灰はその頭をクラクラと揺らしながらもいつもの通りに、少女へ向き変り礼を言うのだ。

 

 

「いつもすまないな、ありがとう。」

 

「…どういたしまして。」

 

 

『一礼』をしたこともあるのだが、その際は「そこまでしなくても」とやや驚かれたのでこれはしなくなった。簡易的であれ気持ちが伝わればそれでよいというものだろう。そんなことが白い頭の中を過りながら灰は更衣室へ入って行った。少女がその背をぼんやり眺めて、何を思っているのかそんなことは考えもしないのだ。

 

 

~~~

 

 

自室へ戻った灰は机へ向かい、頭部の装備を外すとまだ少し濡れている髪に布を被せて右手で拭きながら左手は羽ペンを握った。

 

 

「握る手に、その中にある熱に篝火やエストと似たものを見出すという事は。エストの強化や篝火の火勢を増すために捧げられる供物は。…」

 

 

それはいつも人であった。思えば螺旋剣の刺さるあの灰は人骨やそれを燃やしてなお残った遺灰であろう。というのはつまりエストや篝火の正体は、

 

 

「人の生、か。」

 

 

名前も顔も知らぬ誰かの生が、篝火を燃やしエスト瓶を満たすのだろう。考えてみれば当たり前のことだ。火の時代、その差異を生み出した最初の火はいかにしてその炎を絶やさなかったのか。グウィンを皮切りに火を継ぎ続けた不死人たちが()()()()()()のである。

 

 

「つまり私は、生かされているのか?見ず知らずの誰かによって?」

 

「何のために。」

 

「もはや燃え滓だった体を無理にでも燃やして弱い火種を燃やした私に、これ以上どうしろというのか。私はまだ死ねないのか?」

 

「私はもう灰なのに。」

 

 

そんなことが口をついて出る。自問自答し目の前の紙に数行書き込んだその疑問を、灰は破り捨て装備を自棄気味にすべて外すと狭いベッドに潜り込んだ。眠るという行為が果たしていつぶりであったかなど考える余地もなく、全身を包み込む冷たいシーツに身を任せて瞼を下した直後灰は意識を取り落とした。

 

 

~~~

 

 

6時間後。

灰の部屋をボンドルドが訪れた。常のごとくインクと紙の補充のためであり、背後には祈手たちにそういった物資を詰め込んだ木箱を運ばせている。

 

 

「灰のか……おやおや。」

 

 

戸を開いて部屋を見渡すも灰その人の姿は見えず薄暗い部屋を見回すと部屋の端に設置された狭いベッドに小さなふくらみが呼吸しているのを見つけたのだ。

 

 

「灰の方?………灰の方。……」

 

 

そのふくらみへ幾度か話しかけてみるも応答はない。ボンドルドの側へ顔を向けていないので直接確認することはできないが、白い毛先のそろった髪が枕の上で潰れたボールのようになっているので相当眠り込んでいるらしい。

 

 

「珍しいですね。思えばこれまで一睡もしていないのではありませんか……?」

 

 

そのボンドルドの後ろではすでに祈手たちが静かに努めながら作業を開始している。

 

 

「貴方がこの基地へ最初に訪れてから65日、約2か月が経過しましたね。地上…オースでは奇病が一斉に発症し子供たちをこちらへお連れすることが難しくなってしまいました。」

 

 

ボンドルドは灰に語り掛けるわけではないが、やや感慨にふけながら口にしている。

 

 

「基地の中では数少ない子供たちの一人をお付けしましたがうまく絆させたようですね。当初は不安だったものです。」

 

 

あの少女のことである。ボンドルドの指示によるものであるがそもそも灰がこの基地の中で行動を許されている区画は狭く、また灰当人も探索以外では自室からほぼ動くことがないためにその少女との引き合わせは困難と判断されていたのだ。その点、灰の入浴の申し出というのは渡りに船であったといえる。

 

 

「ああ、楽しみなものです。」

 

 

祈手が床に散らばっていた紙片も回収したのち作業の終わりを告げるとボンドルドもまた灰の部屋を出る。そして去り際に再び今は眠っている灰へ話しかけるのであった。

 

 

「灰の方、『火の香りのする』方よおやすみなさい。」

 

 

………




もうすぐ第一話に時間軸が追いつきますね。第五層の探索回をもう少しやっておいてもよかったかなと思いますが、それは明日の私が考えてくれるでしょう。


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第五層、上

今回は前回とは反対に、長めです。


………

 

 

「ない、な…。」

 

 

荒涼とした白い砂漠をただ一人で歩く灰色のローブ。

第五層の探索に出発していた灰はボンドルド卿の基地の近辺では大方の探索を終え、更なる未開へと足を踏み入れていた。煤けたドーム——グェイラという男の遺骸があったあの場所——からさらに外側である。

 

 

「…ない。」

 

 

灰はこれまで幾度も行ってきた探索と、ボンドルドとの「答え合わせ」でこの大地が一つの階層であるらしいことは考察していた。白教からすれば異端であるが、火の時代の最盛期に「階層世界」と呼ばれる特異な世界観の神話があったと記憶している灰はそれを連想しているのだ。

 

 

「…。」

 

 

時おり頭上を通る鳥の群れを岩礁に丸まって躱しつつ、そんな遮蔽の裏を覗いて目的のものを探すのである。

 

篝火。不死人を生かす、不死人の故郷。

 

 

「…。」

 

 

不死の力の根源、ダークリングと呼ばれる小人に刻みつけられた刻印であり逃れ得ぬ不死の呪いと対を成して、篝火とは使命に向かう不死人を支える光である。それは火の無い灰も同じことであった。

 

 

「…くっ…。」

 

 

しかし灰は今、内心揺らいでいた。

 

遡れば数日前エストと篝火の正体に彼の発想が行き着いたとき、灰は初めて躓いたのだろう。信じた火継ぎの使命に、焦がれてやまなかった火継ぎの英雄という独りよがりな憧憬に、どれほど苦しめども死ねども命を落とすことにはならなかった永い戦いと旅路に。

いつしかその導く先に疑念を抱いていたこと、それ自体を強く自覚したがために。

 

篝火など見つからない方が良いのではないか、と。

 

 

「………。」

 

 

篝火が長らく見つからないということ自体は悪いことばかりでは無い。軟禁という状態ながら活動の拠点は存在することが幸いしているほか、以前の不貞寝一度限りながら7時間の睡眠を取った灰は確かに集中力の回復を感じていたのだから。全回復とはいかないまでも、これは大きな発見だろう。

 

とそんな考えごとのなか、灰はふと気配を感知した。

 

 

「…幻視の指輪は…あるか。」

 

 

思い至って左手を確認すると確かに、指輪は4つ嵌っていた。

灰の感知したそれはこちらを遠巻きに監視する祈手と違う、もっと強大な何かあるいは誰か。一個の軍勢のようでもあるが、そうであるならば接触は避けなければならない。

 

 

「高台は鳥の群れが怖いうえに、ソウルの奔流もあいにく外してきてしまったからなあ…」

 

 

果たしてあの鳥の群れは、奔流で撃てば散るようなものだろうか。

 

それはさておき、おそらくこれはまだ件の気配には()()()()()()()()ようであるのだ。それは距離にしてみればかなり遠くしかしこちらへ近づいているらしいと灰は捉えながら、その気配の正体とは出会わないよう遠回りで基地へ戻るルートを選択する。未確認の自分や祈手とも違う存在が在ることがわかる時点でこれ以上の探索は危険と判断したのだ。

 

 

「今日は鳥どもがやたらと騒がしいのも、もしかするとこれが原因か。」

 

 

開けすぎるのは上や正確な位置がわからない件の気配の正体を鑑みればやはり危険であることに変わりはない。そう思いつつやや開けた、白い砂の広場のような場所に出る。見上げれば白い岩のような材質の大きなドームがボウルを上からさかさまに被せたかのようになっており上からの視線を遮ってくれているようだ。

 

 

「煤けたドームといい、これは一体どういう構造物なのやら…む。」

 

 

ふと白い壁を見る。そして兜のバイザーを少し上げて直に一瞥すると、その壁にはどうも繊維質の白い塊でできているのだ。

 

 

「……白く濁って透いているが石英ではない、いやそもそも岩ではないな?…これは……まさか。」

 

 

積み上げられたように連なり重なり合いつながりあうその白い繊維質は、もしかしなくとも生物による生成物ではないか。真っ白というわけではなく小さな塵や何らかの破片が含まれるこれは、もしかすると巣なのではなかろうか。

 

そこまで灰の考えが及んだその時、灰の踏む地が一瞬揺れた。

 

 

「っ!!」

 

 

咄嗟に前へローリングしたその刹那、先ほどまで灰の立っていた地面を太い鉤型の刺を先に持つ尾が穿ちドームへ高く掲げられた。結果的に空振りとなったそれであるが続けざまに灰は数回、左右へ位置をずらしつつ回避行動をとる。するとその後を追うように瞬時に先ほどと同様の尾が貫き天へと伸びた。

 

 

「これは、っ!前のは幼体だったのか!?」

 

 

以前戦ったそれとは比べ物にならぬほどの大きな尾は合計で5本突き立てられ、それから大きな揺れと共にその尾の主がけたたましい威嚇音とともに現れた。砂地から体を持ち上げるために用いたものも含めて、尾は合計7本。クルリと半周その場で回りこちらを向く。そうしてようやく確認できた体表は以前のものよりもさらに分厚く軟らかい表皮と硬い骨格に代わっていることは切りつけずとも察せられた。

 

 

「面倒な……!」

 

 

がしゃがしゃとやたら本数の多い脚部を鳴らし、特有の声を発する巨大なサソリを前にしてだが極めて冷静に灰が即座に装備を整える。指輪を犠牲から吠える竜印へ着け替え、緑花の指輪+3を加える。左手は杖からフィリアノールの聖鈴に持ち替えて簡易的に恵みの祈りを捧げた。恵みの恩寵によって力は弱いながら自然治癒力を授けてくれるのだ。

 

 

(武器はブロードソードと…これでいいな。)

 

 

左手は聖鈴を腰に掛けて背中から草紋の盾を取る。この盾ではやや心もとないがこれをも換装するというような暇はなく、前から襲い来る7本の尾を捌かねばならなかった。

 

 

「っあ、ぐっ…。」

 

 

7本の尾によってかわるがわるに突き攻撃に隙を作らない猛攻を、灰は盾受けをせずしかし距離は離さずに前か横へローリングしてこれを避け、往なす。往なす途中、鉤状の刺が右足甲の隙間を縫って鎖帷子に当たり、しかし鎖帷子が刺突には弱いために押し負けて肉の裂ける音が響くもののこれを気に留める余裕はない。

合計して驚異の21連撃。右足の肉を裂かれさらには左腕もまた同様の傷を負って、足甲と手甲から赤黒い血が流れ出ているがこの程度の被弾ならば冗長と灰は考えていた。負傷部は肉を焼き溶かすような激痛と恩恵の治癒能力が押し引きして終わらない苦しみを膿んでいるが、猛毒(TOXIC)に慣れている灰はポーチから即座に花付き苔を食んで我慢する。

そうして連撃が瞬間止む。灰は相手の動向を見るために尻尾の動きを目で追うと、7本の槍は一斉に灰を指向して構えそれらを一挙にたたきつけた。

 

 

「んぐっふ、安直だな。」

 

 

思わず口から出た言葉に彼自身も内心笑いながら、これを前へ距離を詰めるように走り込み幅広のブロードソードへ松脂を塗りつけながらこれを横に薙ぐ。手甲を添わせて振るわれた刃は火花によって松脂へ引火し炎に包まれて相手の足の節を切りつけるのだ。

 

 

「——弾かれたか。」

 

 

手ごたえでわかる。この刃は節を切り裂くには至らないと。

右手を振り切る前にそうつぶやいた灰は予定を変更し、横に薙いでいた剣を体の正面へまっすぐに持ってきたタイミングで節の一か所を狙い両手で柄を支えて強く突き込んだ。

 

幼体の頭部を打ち砕いたことのあるこの攻撃は、確かに硬い甲には有効打であり松脂の炎で肉を燃やしながら多くあるうち一本の節足に深く刺さる。

 

 

「こんのぉぁぁぁ!」

 

 

石に刺さったように固く力を振り絞らねば抜けぬほどになってしまったために彼は、刺さった節足に足をかけて目一杯に蹴り剣もまた梃子の要領でこれを後押しさせたのだ。

外骨格の砕ける音と共に、不気味な金属音を発する剣。無理な運用をしたために耐久がごっそり減っただろう。

 

 

——ァァァァアア——

 

 

耳障りな喘鳴と共に(サソリ)の折られた足が飛び、ぼとりと砂地に血をまき散らしながら落ちる。蠍はこれ以上の攻撃から身を反らすことで避け、ひっくり返るような恰好から胴体の下にやった尾の反発力で大きな体格を一回転させ地に舞い戻る。その際砂塵を巻き上げて目くらましにするが、灰にとっては回復の隙でしかなかった。

 

火のようなエストを一口呷り、灰は再度蠍へ距離を詰め——ようとした刹那灰は膝から崩れ落ちた。

 

 

「なっ…があ…ッ!」

 

 

膝をついたのは右足である。麻痺しているため痛みを感じず、足甲越しにはわからないが蠍の毒は短期間で着々と灰を蝕んでいたのだ。気づけば同様の傷を受けた左腕も盾を握り込んだままだらりとしていていくら力を込めようとも動かない。

 

 

「はぁっ、んぐっ…っぁ、ふく」

 

 

幸いにも苔の効能で痛みを感じないため気絶することはないが、立ち上がれないために膝立ちで戦うほかない。また蠍は待ちもしないのだ。

灰は左足に力を込め身を捩って、喘ぎ喘ぎいっぺんに襲いくる7本の槍を数度交わし切る。

偶然にも有利な行動を引いたのだろうか、あるいは蠍にしてみれば矮小な獲物へ止めを刺さんとしているのか。

 

 

「っこ、のぉ!」

 

 

片膝をついて武器を振るう際の這うような低い姿勢が後ろへ下がって尾の有利を取ろうとする蠍についてゆくことを許さず、辛うじて幅広のブロードソードで尾を払うことしか出来なくなってしまった灰はしかしなんとか斬り返す隙がないかと模索する。

 

蠍はもはや死に体の獲物の存外に強い抵抗へ苛立ちを見せる。

灰が動かぬ左腕を横へ無理やりに回避した力を利用して口で強く噛み咥えると盾を構え直すような風態をとったためだ。

これでは辛抱ならないと言わんばかりに痺れを切らせた蠍がその鋏状の口を開きさらに胴体の過半を占めるほど長く伸ばした大きな口を、その柔軟さに任せて開き直接に食らわんと、2本の尾で体を持ち上げて灰の頭上に覆いかぶさる。

 

 

「——く…。」

 

 

蠍というにはやや凶悪に過ぎる、肉食動物特有の歯列と蛇の体のようにぐいっと伸びた口腔に灰が飲み込まれるという瞬間。灰の右手に壊れかけた剣はなく、一振りの大剣を片手で構えた。そして大きな口が灰に到達するかという時、蠍の口は内側から青銅色の静かな光に照らされほんの一筋の奔流が首を貫通したのだ。

 

 

………




あと一話続きますよ。
それと、カッショウガシラの口については私の偏見で「あの程度の見た目に収まるほどのものではない」と判断しやや設定を付け足しました。エルデにいるのなら是非一戦交えたいですね。


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第五層、下

立て続けに2話の更新でした。同じ日の話ですので層は分けず、上下一対の形式をとっています。


………

 

 

火や陽の光とは異なった、少し冷え込むようなエネルギーの蠢きが蠍の頭部を強く揺らした。首に風穴を開けたその衝撃波は熱さを伴わず爆発も伴わない、極めて純粋で繕いようのないものであったのだ。

 

蠍がその口の中に受けた衝撃によって後ろへと弾き飛ばされると、その衝撃の発生源たる矮小な獲物は片手に握った大剣を膝立ちのままに体をよじって腰に構えるのだ。当然ながらいくら大きいとは言えども剣先の当たるような間合いではない。

 

 

——ィキァァァァ——

 

 

怒りによって突き動かされた蠍はしかしその獲物の攻撃は当たらないとみて尾を突き立てる。そしてその視覚器官には夜の静かな冷たい光を入れるのだ。

 

腰に低く構えられた大剣は青銅色の光をその身に帯びて、灰の重心を前へ一気にずらすことで振りぬかれるとその光を空間に波及させる。直視することは難くない、その静かな光が灰へ突き立てられた尾を包み込みそのまま蠍の体にまで到達すると先ほどと同様の衝撃を生む。

 

 

「づぁァ、あカ」

 

 

対して灰はその重い振りの剣に半ば体を持っていかれながら、剣先を杖のように地に突き立てそれによって体を支える。麻痺して忘れていた痛みが、その剣の与える冷静さによってその細い肩にのしかかって今にも潰れそうになっているのだ。

 

 

「ゔあぁぁぁッ!」

 

 

灰がひどく叫びながら無理矢理に腐るような激痛を覚える右足の膝を前へ踏み込んで、大剣を切り上げる。縦に伸びた光が波及して、蠍の上顎を脳を視界を揺さぶり斬撃となってこれを攻撃するのだ。

しかし蠍もまた怯みつつも尾を伸ばしていて、その一本が剣を切り上げてがら空きとなった灰の胸を掠めた。貫きはしなかったものの胸の僅かな傷から血が噴き出し、例の蠍の毒が入り込むのだ。

 

 

「——は、ぁ……ぐルぁあ!」

 

 

灰は歯を食いしばって痛みに固まりそうになる体を我慢し、大剣を背負い込んでそのまま背中に沿わせ大剣を片手で振るう。地に打ち付けるように乱暴に、しかしこれをとどめとしてたたきつけるために剣先は一切のブレを見せず精密に全身の体重を乗せるようにして死力を尽くし大剣は振るわれたのだ。

 

 

——キyyyyyァァァァvvvrrrr——

 

 

これまでかろうじて文字として受け取られていた蠍の声はついに灰にとって聞き取ることのできないものと変わる。しかしそれはまだ断末魔ではなかった。自重を載せてたたきつけられたその剣によって体勢を崩したのは灰の方であったのだから。

口と発声器官の破壊された蠍は、しかしかろうじて脳を残していた胴体によってこの獲物を相打ちに持っていくことに決したのだ。そうして滅茶苦茶に振るわれた7本の尾はそのほとんどがじたばたと暴れるだけであったが、不運にもそのうちの一本が灰の左わき腹に向かいそのまま刺し貫いたのである。

 

 

「——————ッあ、!ごプ」

 

 

腸がぐちゃぐちゃにかき乱されてその出血が胃へ溯り口から吹き出す。咳をするように吐き出された大量の血が砂上にボトボトと落ち、砂が黒く染まっていく。

 

そして意識が混濁した灰は左脚を立て片膝をつく格好になるとさらにその左脚だけで立ち上がり、正面へ飛びあがって下の蠍の胴体へ剣を突き立てた。

 

 

~~~

 

 

時を少しばかり溯る。

 

灰が蠍————カッショウガシラ————のコロニーにおける要である母体との戦闘を開始したことを監視役の祈手から意識越しに伝えられたボンドルドはすぐさまその祈手の視界を覗き見た。

 

 

「以前灰の方が戦ったのはカッショウガシラの幼体、ナナチたちが訪れた際のコロニーの生き残りでした。しかしそれとは別のコロニーの若いとはいえ母体となろうとしているカッショウガシラとの戦闘となると話は別です。黒笛のあなた方ならば充分にお判りでしょう、コロニーの母体となろうとする時期の個体は特別に気性が荒いのですから。」

 

 

無意識にやや前のめりとなって側に控える祈手へ少し待つように掌を掲げながらボンドルドはそういった。それだけで十分すぎるほどに灰の置かれている状況の理解できる祈手はすぐさま確認する。

 

 

「現在巡回に出ている祈手に救援に向かわせますか、卿。しかし灰の方は…。」

 

「ええその通りです。アビスについての知識を致命的に損なっている灰の方はその匂いをごまかすことができず、いくら灰の方とは言え逃げ切ることは望めません。」

 

「であれば、まさか」

 

「いえまさか。灰の方は大事な保護、観察対象です。私であれば十分に戦うことができるでしょう。」

 

「しかし戦闘用の祈手の数は現状限られています。卿、どうか慎重にご検討を。」

 

「とはいえ来る()()の方にお願いをするわけにはいきません。」

 

 

祈手は逡巡して言葉をつなぐ。

 

 

「しかしさすがに卿、()()のお出迎えを我々が行うわけにもいきません。」

 

「………それは『灰の方が勝つのを待つべきだ』ということでよろしいですか?」

 

「………………はい、卿。」

 

「打算が過ぎませんか。」

 

 

責めるような口調ではなくむしろ諭すようなものであるが、ボンドルドはこの時確かに大いに焦っていたのだろう。

 

 

「しかし…ああっ!………これは。」

 

「如何されましたか卿。」

 

「…………灰の方の力、これがそうなのですか。これは何と、これほど理解の及ばないものとは思いもよりませんでした。………灰の方の救援に向かいましょう。もう、決着がつくようです。」

 

「………承知致しました。」

 

 

コロニー内に立ち入ることはしていない祈手の視界を借りているために明瞭度は欠けるものではある。しかし灰の振るった力の断片を垣間見たボンドルドは灰の勝利を確信して、救出へ向かうのだった。

 

 

~~~

 

 

目を灰に戻すとする。

 

 

「ハ、かっぁぐ……。」

 

 

もはや機能をなしていない臓器を抉られる経験は灰にとってしてみれば数えるのもばかばかしいと思えるほどにありふれた事象であったが、灰の中に蓄積する蠍の体液の正体を自らの体でもって検証を試みる灰は正気を疑われることであろう。あるいは例の卿ならばその探求心に拍手を送ることかもしれない。

 

 

「……ぁあ………んくっ」

 

 

白い壁に体を預けて左わき腹に開いた穴を視つつエストを口にする。あらゆる悪効果を疑って、灰は様々な抗する手段をすでに試していた。がそのどれとも完全には当てはまらずしかしそのどれとも類似しているらしいという事を突き止めた灰は、今度はその肉が膨張し溶けるデバフにエストはどの程度の効力を発揮するのか、奇跡は有効か、指輪による影響は見られるのかといった研究を行うのだ。

エストがもったいないとはもはや考えてもいなかったほどに。

 

 

「膨張の症…状は、ぁはっらに見られ…ない。さ、さそりがよ わっていたため…か?」

 

 

膨張の症状の特にひどかった右足と左腕は足甲と手甲を外して体表を触診したのだが、エストの指輪を着用したうえで嚥下したエストによってほぼ抑えられていた。該当箇所からはすでに肉の溶ける痛みはなくもうじきに感覚も戻るだろうと予想している。

 

 

「きず、ぐちがっあちいさか……ったから、か?」

 

 

そうであるならば胸の傷の直りが速く症状の進行も肉を裂かれた足や腕と比べて遅かったことに説明がつくだろう。対して大きな穴の開いてしまった腹のほうは肉の溶ける症状が依然続いておりエストの効力も弱いのは損傷個所が単に大きいためであると推測できる。

 

 

「でき、れば……げっどくぉk、kえんきぅ…………も……。」

 

 

ブロードソードや草紋の盾、さらに月光の大剣と杖は作業に邪魔であるので装備からは外しソウルの中へと仕舞っている。明滅を繰り返す意識のなかで彷徨う灰は止まりかける思考を何度も引き起こしながら白いドームの中へと立ち入る男の姿を見とめた。

 

 

「!ああ灰の方。ご無事ですか?」

 

「k、ぃこぉ。もぅおわ った、ぞ。」

 

 

こののちボンドルドと祈手の一団が灰を回収しイドフロントへ戻るまで、灰は意識を保ってやや興奮気味に呂律の回らない口でボンドルドへ蠍の毒についての見解を長々と述べたという。

 

 

………




戦いはいい、私にはそれが必要なんだ…。
ウキウキで自キャラが痛みにあえぐ姿を描き出した人間性がいるらしいですよ。


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第六層

ようやく、第一話の時系列に戻ってきたので初投稿です。


………

 

 

子供の感性とはやはり魅力的なものだ、とボンドルドは感じていた。それは彼の策により灰と引き合わせられた少女の灰について話していたことが反芻されながら、くわえて今眼前に揺らめく緋い炎とそれを熾した灰があるためだ。

 

『火の香りのする方』

 

それは先天性の弱視で他の感覚に頼るほかなかった少女だからこそ、そして彼女がなんの先入観も持たないような純粋でそれゆえによく透き通った精神性を持つからこそ知り得た知見だろうとボンドルドは考えるのだ。また他でもなくボンドルド自身や祈手たちが気づくことのなかったそういう意味での特異性は、灰の持ち合わせる身体と臓器機能面での異常性に結びつくのだと見抜くその慧眼に感服せざるを得ない。

 

 

「灰の方、本日はここまでといたしましょう。あの子が困ってしまいますよ。」

 

「む……そうか。」

 

 

相変わらず銀色に輝く兜に素顔を隠す灰は中で頷いているらしくカタカタと音を鳴らした後、篝火から立ってイドフロント内部と通じるショートカット(通路)へ入り歩き去った。

 

 

「ああ……灰の方にはご迷惑をおかけしてしまいますね。とはいえ規約は規約、保護対象という特殊な枠組みからイドフロントに所属する探窟家・研究者の一員となっていただくには仕方ありませんが。」

 

 

灰の小さな後ろ姿が狭い通路の闇に消え入るのを見ながら、ボンドルドはそう呟いた。

 

灰は今、ボンドルドの教導の下で探窟家協会に所属する黒笛となるため学んでいる最中である。第五層に拠点を置く以上は黒笛となる必要があるということは周知の事実ながら、これまで笛を持たない灰の第五層探窟を黙認していた公的なイドフロントおよび黎明卿ボンドルドは突如として掌を返した。

 

 

「いつかは知られるべきことでしたし、予定が早まったというのみでしたが…。」

 

 

ただし掌を返さざるを得なかったその要因があまりにも大きい。

それは灰の存在が不動卿のオーゼンに露見したことなのだ。その時点で——また今現在も——判然的ではない灰の正体を遺物と断じることができなかったからこそ知られてしまったのである。無論その存在をオーゼンがオースやシーカーキャンプで易々と言いふらすとは考えていないのだが、第三者それも白笛に知られたという事実が今の灰の立場を作ったのである。

 

 

「卿。」

 

 

灰を見送り篝火を眺めながら今後の動きを取りまとめるボンドルドに、『炉の間』の祈手が提案する。

 

()()に関しては笛取得よりも早く行うべきではないでしょうか。」

 

「勿論、そのつもりですよ。灰の方は飲み込みが早くまたそれを応用するのもさらに早い。このままでは早々に笛持ちへ至り黒笛までも時間はかからないことでしょう。」

 

 

続けて彼は言う。

 

 

「しかし灰の方が我々の目の届く範囲から出ることや、制御下から抜け出すことはこれまで()()()在りませんでした。此度も素直に応じてくれるかとは思いますが…………明日、灰の方には前もってお知らせしておくとしましょう。」

 

 

とはいえ今のイドフロントには課題が山積みである。黎明卿の戦闘用祈手の補充——強いてはゾアホリックの再起——からカートリッジ再供給の目途そしてイドフロントの基地機能の再整備と定期メンテナンス、灰が『再燃の儀式』を行い炎を取り戻した篝火の解析、火の無い灰自身に対する解析作業さらには灰の黒笛取得。課題の半数が火の無い灰に関連することであり灰の協力を得ることができれば解決する問題であるが、灰や彼の知るという『篝火』に関しては全くの未知でありこの探求には長い時間を要するだろう。

 

 

「きっと、灰の方こそがもたらしてくれるでしょう。私の、いえ我々がそして須らくオースの人々が求める夜明けを。そして次の二千年、その在り方を。」

 

 

——たとえこれがアビスというものから違えていたとしても。

 

 

「それと、頼んでおいたものは仕上がりましたか。」

 

「もちろんです、卿。すでにドルミゥのもとへお渡ししました。」

 

「素晴らしい。我々の計画に彼女は必要不可欠です。また灰の方も含めて決して損じることのないよう細心の注意を払うようにいたしましょう。」

 

 

……

 

 

「お疲れ様です、灰の方。」

 

「む…んん……。」

 

 

灰が自室へ戻るとそこにはいまや灰との関りの度合いがボンドルドと肩を並べつつある件の少女が、狭いベッドの上に座り両足をやや浮かせて揺らせていた。

 

 

「ボンドルド卿から新しい服を頂きました。……私に似合っているでしょうか?」

 

 

黒く艶の掛かって見える仕立ての良い黒いローブを羽織り、その下は少しくすんだ白いワンピースを着ている。なぜか裸足であるが石と鉄に囲まれたイドフロントの中で寒くはないのだろうか。

 

 

「灰の方?」

 

 

そして透き通った碧い瞳。

それらは灰にとってあまりにも既視感が強すぎたのだ。少女の呼びかけが頭蓋の内側で反響し、やや音が歪んで火の向こうにあった古い記憶を呼び覚ます。

 

 

灰の方("Ashen one")?』

 

 

あまりにも重なりすぎたのだ。同じ色の瞳を入れた、火の先に闇を見てしまった火防女(背信者)に。

握りこぶしの締め付けが無意識に強くなり手甲の爪が掌を覆う手袋に突き立てられる。

 

なおボンドルド卿の本来の意図は当たらずとも遠からずといえる。しかしこれ自体は単に新しい服でありそれはむしろこれまでの色による区別を行うことができるという程度の粗末な麻服ではない、正式な公的なイドフロントとしてその存在を認知しこれを後押しするためのモノなのではあるが。

 

 

「どう…したの……?」

 

 

そのような思惑を知る由もない灰は葛藤にさいなまれながらしかし()()にはなかった、砕けた口調と駆け寄り手を握る仕草によってふと思考が頭の中へと連れ戻された。

強く空気を吸い込みそして吐き出す。スッと肩の力が抜けるような心地がしてようやく口を開けるようになった灰は、この時ほど「兜をかぶっていてよかった」と思うことはないだろうなどと考えながらなんとかして言葉を絞り出す。

 

 

「、…。いやすまない大丈夫だ。………似合ってるよ。」

 

 

灰はなんとか表情を取り繕ってバイザーを上げると、すぐそこまで顔を寄せた少女がやや心配そうな表情ではありながらふと微笑み茶色の長い髪をふわふわと跳ねさせ、そして両手を握って小さくガッツポーズを作ると言った。

 

 

「…やっった!!!……あ、えと……その……。うれしい……です、ありがとうございます…。」

 

 

その受け答えにややこの娘との——だだ漏れになっていたのであろう嫌悪感の影響か——距離を感じた灰は、すぐさま彼女と同じ喜びを表そうという思いに体を突き動かされた。

腰だめに二回両手のこぶしへ力を込めて、空を仰ぐように両腕を突き出す。そのコミカルなジェスチャーはある陽気な騎士譲りのものだったか。

 

 

「ぁ…!や、やったー!!」

 

 

想像に反した灰の行動に一瞬目を見開き驚いた少女であったが彼女もまた灰を真似て同じ動き(両手歓喜)をし、そして改めて自分の感情を爆発させてにかっと笑った。少女はそのまま両腕を拡げて灰へ体を預けるように抱き着くと、灰はこれに応えて受け止め無邪気に抱き返す。

ほんの数秒間しかし長く抱き合ったように灰が感じたとき、少女は微笑みを絶やさずに身を少し離して言った。

 

 

「じゃあお風呂入りにいこ?」

 

「……そうだな。」

 

 

二人は部屋の扉を開き、見知った道を二人そろって歩いて行く。

その二つの後ろ姿が明るい廊下を歩き去るのをまたしても見送る()があったが、それに気づいたのはそのそぶりも見せることはなかった片割れの灰だけであろうか。

 

 

「素晴らしい…実に素晴らしい…。」

 

 

関係性は異なれどもかつて彼の手の内に在った大いなる可能性を想起する彼は、表情の見えない鉄の仮面の内側で深い笑みを浮かべ心からの称賛を送っていた。

 

 

………




さて、冒頭の「~なので初投稿です」というのは最近ほかの方々の作品を読み漁っているなかでかなりの頻度に遭遇する一文なのですが、どういう意味があるのかよくわかりませんね。

私の文脈で言えば「ようやく第二話投稿です」といった方が正しいなと思ってしまうためでもありますが。


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第七層

今回も今回とてまじめにやっていきますよ。
それと今回はかなりグロテスクです。死亡描写がありますので苦手な方はご注意ください。無理はせず、次回投稿時の前書きに添えるあらすじをご確認くだされば問題ありません。
 


………

 

 

灰はボンドルド卿に連れられて、イドフロントの中に存在する階段の前にいた。

普段は使用を禁じられておりその入り口を二本の鎖によって通行止めを行われている、『炉の間』との直通通路のうち一つだ。なお『炉の間』側から向かう場合この通路には途中で丁字路があり、直進するルートが同様に鎖によって封じられている。丁字路を左折すると灰の私室付近に出るため頻繁に利用する通路だ。

 

 

「これか?」

 

「ええその通りです。そちらを踊り場まで登って頂いて、降りてきてください。」

 

 

灰は不思議なことを言うなという様子で先の暗い階段を一瞥する。こちら側からの電灯の光が入りにくくなっているらしく一筋の光も受け付けないと言わんばかりに階段に横たわる暗闇へ、一寸先も見通せない深淵へ灰は向かい合って一段目に足をかけた。

 

一段、また一段。ボンドルド卿から見ればもう暗闇に灰の姿が消えているが、彼の歩みは足甲の音として聞こえている。規則的に打ち鳴らされる金属音が響くたびにボンドルドの灰への興味は掻き立てられるのだ。

 

 

「さて、灰の方は上昇負荷の影響を受けるのでしょうか。これはその検証の時です。」

 

 

イドフロントの位置する第五層は一部を除いて比較的平坦な地形をしている。故に灰がイドフロントの外へ探索へ出る場合には上昇負荷というものをほとんど受けることはなかったのだ。即ちまだボンドルドはおろか灰その人でさえ上昇負荷の影響を受けるか否かという事を正確に把握しているというわけではなかったのである。

 

——むしろ受けて頂かなければ()()ところですが。

 

興味七割、不安三割といった心持の黎明卿はもうすぐ十を数える規則的な足音を聞きながら真っ暗闇となっている階段を見上げていた。

 

そんな思いをよそに、十五段目へ差し掛かった灰は歩みを一切止めないながらもソウルの業を頼りに上へ上へと歩みを進めている。

 

 

「っ、これが『上昇負荷』…か?」

 

 

先程まで影響のなかった灰の体は急激に負荷を受け始めたようだ。

既に目は完全に効かなくなっているが、まだ壁に沿わせた手からその冷たさが伝わっている。また耳から入る音にはあまり違和感がない。

これには思わず灰の歩みが止まってしまった。

 

 

「…暗い……?いや昏いか…。んぐ……ウォルニールもこう言う気分だったのだろうか?」

 

 

あるいはかの深淵歩きや闇喰らいのミディールも、この『昏さ』を過ごしたのだろうか。その様なことを考えながら思索の内容をそっくりそのまま口に出してぶつぶつと独り言を言う。また時折拳を握りしめて手袋に手甲の爪を突き立てる。

だが灰は決して気をおかしくしたのではない。

 

 

「視覚異常、聴覚は…やや遠いな。嗅覚異常、それと触覚異常。」

 

 

あえて口に出すことで反響した自分の声を聞く。これにより灰は自身の体にきたすであろう影響、『上昇負荷』の程度を測っているのだ。また手に走るはずの痛みを感じることがないために触覚異常を判断したのである。

この時点で既に耳に入る音の振動は確かに鼓膜を揺らしているはずであるが、籠っているようなあるいは発生源が遠いような感覚つまり聴覚異常に陥っていた。そしてようやく次の一歩を踏み出し登った時、ぷつりと音の情報が消える。

 

 

「んぐっ…んん…」

 

 

四人の公王。彼らもまた深淵の中で息づいていた。暗く昏い世界で彼らは互いの位置もわからず、しかし深淵から這い上がる術もなく彷徨ったのだ。覇王ウォルニールが神に初めて縋った深淵の怖さとは、その暗く昏い世界に孤独で在るということだったのだろうか。

 

——そんなこと、今に始まったことじゃあない。

 

もはや何も聞こえずまた光と音を失くしてもなお巡る思索と、感じることのできる自らのソウルの業の微かな(しるべ)に沿って立ち止まることなく階段を登り続けるのだ。

 

 

「っ、っ……く……?」

 

 

しかし何も見えていない灰は不意に立ち止まる。

ソウルが()()俯瞰にはこれ以上登るものがないと導を通して伝えている。ここがあの男のいう踊り場のようだ、と。

 

 

「おりる…おりよう。」

 

 

灰は何もわからないが、ソウルは()()伝えてくれる。それが灰にとって最後の感覚であり、どうやらアビスが損なわせることのできない業であるらしい。自分を背後から視るソウルの導を頼りに一段、また一段と今度は降りそしてついに次の一歩を——踏み外した。

 

 

……

 

 

数瞬後、イドフロントの廊下の一角に甲高い金属の悲鳴とひどく鈍い破砕音が鳴り響いた。

 

 

「おっと、おやおやこれは大変ですね。灰の方、大丈夫ですか?私の声は、私の姿は見えていますか?」

 

 

階段の上方から転げ落ちてボンドルドの目の前で倒れた灰に対し、卿は片膝をついて灰の肩をたたき呼びかけを試みる。しかし灰の明確な返答はなく、だが灰の左腕は何かを確かめるように動いていることから生きてはいると判断したボンドルドは続いて灰の体の下敷きになったあらぬ方向に曲がっている右腕を見る。滑落自体は察知して手をつこうと試みたらしい。

 

 

「ほう……聴覚や視覚とは異なった感覚が備わっているのでしょうか。あるいは単に三半規管が優れているという事でしょうか。どちらであるにせよどうやら第五層の上昇負荷に対抗する術があるようですね。そしてあなたは間違いなく、上昇負荷を受けると。」

 

「っ……ぅ……。」

 

 

ボンドルドが灰の兜のバイザーを上げ灰の顔を覗き込むも、その双眼はうつろなままどこともつかない位置を彷徨っていた。やはり視覚機能はほぼ失ってしまっているらしい。わずかに開いた口からは赤黒い血が溢れ出ており、折れた肋骨が肺を貫いたようである。

 

 

「ああこれは、ひどく重傷ですね。灰の方の『瓶』であればなんとかなるでしょうか。さてあの『瓶』は全感覚の喪失という上昇負荷を元へ戻す効果があるのですか?」

 

 

呼びかけられる灰は聴覚を補うものがないらしく、また肺から流れ出る血が気管を封じてしまって声を出せず咳と共に血を噴出した。そうして吸う息によって出血していない方の肺にも血が流入し溺れだす。

 

 

「——この、離して!!灰の方ッ!?」

 

 

その時、弧を描く廊下の向こうから祈手の制止を振り切って灰へ駆け寄る姿があった。真新しい黒のローブが本人の慌てるあまりに床へ落ち、くすんだ白のロングスカートと裸足であるにもかかわらず祈手の追従を許さぬほどの速さでもって走りやってきたのは少女——ドルミゥ——である。

 

 

「!!そんな、嘘っ灰のか…た…。」

 

 

その視線の先で、灰はイドフロントの冷たい床に倒れ伏し口から流れ出る血があたりを染めていた。

 

ドルミゥは新しいスカートが灰の血に染まるのも気にせずその血だまりに膝をつき、ボンドルドをも突き飛ばすような勢いで灰の上体を抱きかかえる。内側に着込む鎖帷子で見かけと想像以上に灰の体は重く、ドルミゥの方がぐらと揺れるがこれを何とか堪える。血が滴ってドルミゥもまた血塗れになっていく。

 

 

「そんな……そんあ……は、いのかたぁ……どうか…。」

 

 

そして抱きかかえた灰の頭をドルミゥが少し離し、灰の血塗れの顔と向き合う時。

 

 

「……!おぉ…なんと…。」

 

 

ボンドルドは垣間見たのだった。それまで宙を揺蕩うように定まらなかった灰の双眼が、既にまともな視力を失っているはずのそれらがジッとドルミゥの顔を見つめていたことに。

 

 

「っごぷ。ぽぶぐっ……」

 

「血が…っむりしないで…?私ここにいるよっ!そばにいるからね…!」

 

 

しかし灰が何かを口にしようとした途端、気管を血が上りさらに吸う息で逆流して噎せ(むせ)返る。更に悪いことに喉がけいれんを起こしもはや自分の血によって溺れるようになってしまった灰は、空気を求めてひどく苦し気に口を開け閉めして首を伸ばす。

 

 

「はいのか、たッ」

 

「いけません、ドルミゥ。灰の方をそう起こしては——」

 

 

そしてボンドルドがドルミゥを止めようと試みたとき、灰はドルミゥの腕の中で弱弱しくもがき糸が切れた人形のようにすっと脱力した。

 

 

「え…。はい…のかた…?」

 

「…な…。」

 

 

見開かれた瞳はドルミゥを見つめたまま瞬きもしなくなり、指の先がピクリともしなくなったのだ。

ドルミゥの頬を伝った涙が灰のローブに落ち静かな音を発する。

 

 

「ぁ……ぁ、ぅ……うあぁぁぁぁぁぁ」

 

「ああ…なん…と。」

 

 

そして呆気に取られて見つめる黎明卿と少女を追ってきた祈手、嗚咽を抑えきれず大粒の涙を流して泣くドルミゥの腕の中で灰は()()()()()

文字通り火の無い灰の遺体は身に纏った装備もろとも灰燼に帰したのである。

 

なんら重みのないその塵は次の瞬間に目の前から跡形もなく、イドフロントの床やドルミゥを染めたはずの赤黒い血ですらもまるで夢幻がごとく消え去ったのだった。

 

 

「ひぐ、ぅぁ、ぁぁぁぁぁぁ…かえして、がえじでよぉぉぉぉ…」

 

 

抱くものを失って空を切ったドルミゥの手は灰のすこしの残滓であっても良いと、ありかを探して動きまたどうしようもなくて小さな背を丸めてどこへとも知れない慟哭を響かせた。

 

 

………




…かわいそうなドルミゥ。
(前書きについて)『第五層、下』でそんなアナウンスしなかったじゃあ無いかって顔をされていますね。人間性(Humanity)は成長するんですよ。


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第八層

前回のあらすじ
誰もが経験するありふれた、落下死。
ああかわいそうな奴よ、そして、憐れな奴



………

 

 

『灰よ、心しておくがよい』

 

『貴公もまた、呪いに囚われているのだと…』

 

 

———

——

 

 

イドフロント深部、その存在を認知するものの少ない『炉の間』にて揺らめく灯が一層大きく火花を散らせ燃え上がる瞬間があった。突き刺さった螺旋の剣より吹き上げた朱色の焔がその燃え滓に人の形を成させるのだ。直にその目で観測した祈手はこれまで見られることのなかったその異常な現象に、目を見開きながらもしかし冷静にボンドルドとの視界共有へ移行する。

そして仄暗い廊下に立ち尽くす卿は意識の半分をその視界共有へ割きつつ、目の前に在る向ける先のない慟哭に疲れてうずくまったドルミゥへ優しく声をかけるのだ。

 

 

「あぁ、…ドルミゥ。可哀想なドルミゥ。これは………これは私がもっと目を掛けていれば、収拾がついたはずの事態でした。」

 

「…ぅぐ……ひぐ………。」

 

 

ドルミゥは頭を上げない。彼女はぽっかり開いた哀しみの慰めにもならない言葉の羅列に耳も貸さなかった。しかし続けて目の前の男、ボンドルドがなした発言はとても強い衝撃を以て彼女に受け取られることとなったのだ。

 

 

「そして、これを引き起こしたのもまた私でした。灰の方に、こちらの階段を上るよう勧めたのは私でしたから。」

 

「………っ!」

 

 

ボンドルドの告白。これを聞かされたドルミゥは咄嗟の反応で発条(バネ)によって跳ね飛ばされるように立ち上がってそのままの勢いに載せて飛びのき、灰の登った階段のすぐわきの壁に背をピタリと付ける。ボンドルドの()()を見る白く濁った碧い瞳はあふれ出す涙を堪えて、緊張した全身が震え歯を食いしばって耐えるドルミゥはそれでも震える声で尋ねる。

 

 

「な、なんで…で…です………か?」

 

 

突如として空気が鉛のように重く感じられるほど息苦しくなったドルミゥは呼吸を荒くして問う。対する卿は正直に過ぎる程の答えをすでに用意していた。

 

 

「それはあなたにとってかなり難しい話になります。が無論その内容について灰の方の同意を得、そして賛同をいただいたうえで行ったある種の実験でした。」

 

「はい のかた…が?」

 

 

信じられないという様子でドルミゥは独り言半分のその疑問を投げる。

 

 

「ええ。最近あの方が黒笛となるため勉学に励んでいたことをドルミゥ、あなたはよくご存じでしょう。」

 

「………。」

 

「これ自体は我々が灰の方の研究をお手伝いするための一つのステップにすぎませんでしたが、彼はその過程でアビスの上昇負荷というものへ特に強い関心を向けていらっしゃいました。」

 

 

ドルミゥに思い起こされたのは、彼女がボンドルドに連れられてほかの数人の子供たちとともに第五層へゴンドラで降り立った際の事。ボンドルド自身によってもたらされたアビスについての知識のうち一つであり、また「極めて危険」という枕詞と共にあらわされたアビスの冷酷な一面である。

殊、第五層と第六層以降への絶界行(ラストダイブ)において特例を除いて立ち入りを強く制限されるほどの強力な上昇負荷は多くの探窟家にとって断頭台で振り下ろされる斧のような存在だ。

 

しかしもし第五層への立ち入りを厭わないほどの強い好奇心を持つ火の無い灰が、その上昇負荷に対して興味を抱いたのなら。ドルミゥはそこまで考えて再び床へへたり込み、経緯(いきさつ)を察した彼女は目の前の男に告解を与えず、もはや堪えようもなくなった涙を静かに流した。

 

 

「…。」

 

 

それはもはや声もなくそして心そのものを取り落としてしまったように、支えを喪って脱力しきったドルミゥを見る卿はかける言葉もなく立ち尽くす、——かに見えるだろう。

しかし当の男は、鉄砲水のようになだれ込む『炉の間』の祈手の視界共有とその情報処理に追われているのだ。

 

その時、暗い階段に金属音が鳴った。

 

一段また一段と下る音はよく聞けば低く重い石のような音も伴っていて、さもガーゴイルなどといった石像が自立して歩むという御伽噺じみた様を幻視するほどに不気味な音色なのだ。

だがその音が耳に入っているのか定かでない壊れた人形(ドルミゥ)はもはや振り向くこともできず、それでも下ってくるその足音はついに廊下から差し込む光の中へ露わになって見せた。それは黒い石像を思わせる足甲であり、黒い鎖帷子が喧しい金属音の正体となって現れる。

 

 

「ああ、…なんと。」

 

 

黒いコートと灰色のローブの内側で銀色の小ぶりな兜が照明の光を分厚いフード越しに反射させて妖しい輝きを放つ。

()()は目の前に立つ男へ一時目をやって、そして彼の左側に崩れ落ちた人形へ跪く。手甲を取り白い手でまるで壊れ物を扱うかのようにそっと小さな頬を包み込む。

 

 

「ッ!! ぁ…」

 

 

白い手が頬に触れた瞬間にその手を払いのけようと動いたドルミゥの腕が相手の腕に当たり着こんでいる鎖帷子が音を発すると、初めて目の前の存在に気付いた彼女は払いのけきるまえに腕を止めて小さく声を上げた。

 

 

「……ぼくはだれの英雄にもなれないな。……ごめんよドルミゥ。」

 

 

その声がドルミゥの耳に届き鼓膜を揺らしたとき、ドルミゥは瞳を一際大きく揺らして——…灰を突き飛ばした。

 

 

「ァがッ ゔ。」

 

 

突然であったために受けきることは出来ずしかし受け身を取りつつ衝撃を躱した灰であったが、その直後に彼の腹の上へ跨ったドルミゥを往なすことができず硬い床へ押し倒される格好となる。

 

 

「、ドルミゥ……。」

 

「…。」

 

 

ドルミゥの細い腕では持ち上げることなど叶わないのだが、そうとわかっていても彼女は灰の黒いコートを左手に握りこみもう片方の手は固くして、濁った両目は歪み小さく開いた口には鋭い犬歯が軋むほどきつく噛み合わせられているのが見えていた。

 

 

「…。」

 

「…っ」

 

 

灰は倒れたままに自身の兜のバイザーを上げる。そしてドルミゥの双眼へ合わせるのだ。

ドルミゥは灰を数秒にわたって睨みつけ、しかし終ぞその握りこぶしを振るうことなく俯いて顔を隠し痙攣する息を幾度か吐く。そして告げた。

 

 

「絶対。忘れないから。」

 

 

ただそうとだけ。

 

ドルミゥは灰から離れると祈手の一人に渡された黒いローブを羽織り、さらにボンドルドの人払いによって複数の祈手に連れられて彼女の与えられている部屋へと向かい廊下からその姿が消えた。残されるはボンドルドと火の無い灰の二人のみである。

 

 

「さてはてああこれは、あなたの現状について。なんと、素晴らしく並外れたそれを、説明されるのですか灰の方。」

 

「……むぅ……。」

 

 

落ち着き払った口調で、しかしこれ以上どうしようもなく高まった火の無い灰への興味はボンドルド卿のガワの中で渦巻いて——普段ならばこの程度でさえありえないことであるが——少々文構造の乱れとなって呈する。

 

 

「灰の方のそれは恐らく、いえ確信して明らかに。アビスのそれではない。その不死性は。」

 

 

かつて手にしたアビスの不死性——ミーティ——の比ではないほどにとても興奮した様子のボンドルドであるが、以前に灰の部屋より回収した文書の解読内容が頭の中にありこれがしっかりとした根拠として彼の確信に繋がっていた。

 

ボンドルドの問いかけに対してようやく硬い床から起き上がりながら、灰はバイザーを閉じそしてひどく悩まし気で徐に口を開く。なぜならば灰自身でさえも、自分自身についてボンドルドの疑問へ完全に応え得るものを考えることができなかったのだ。

 

 

「……最初の火が信仰に対して与えた……偶像。大元の、()が与えた呪いの………さらに歪んだただの悍ましい、………成れ果てだ。凡そその程度のものだよ。」

 

 

悩んだ末に現状の結論として絞り出したその言葉の羅列は、ボンドルドにとってどれほどの意味を持っただろうか。しかし少なくともそこに見出された意義が灰の発したものとは大きく異なった見方と考察のもとに受け取られたことは想像に難くない。

 

 

「素晴らしい。………これほどの『遺物』は、アビスではありえない、いやアビスの名のもとに存在してはならないのでしょう。」

 

 

アビスは祈るだけの者に何も応えないのだから。

 

 

………




わたしがドルミゥの立ち位置なら、握りこぶしを数度にわたって振りぬいたことでしょう。そうする権利はあると思います。

それはさておき前回投稿後、ランキング入りしていたようですね。
ご愛読ありがとうございます。


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第九層

………

 

 

「精神隷属機、ゾアホリック。この遺物こそが私」

 

「我々」

 

「それ自身と言ってもよいでしょう。人格を複製し他者にそれを移すことでボンドルドという人格を維持し続ける。そういう遺物です。本来の使い方であるとは断言できませんが。呪い除け籠の例がありますので。」

 

 

そう言いながらボンドルドは背後を振り向く。火の無い灰は相槌こそ打つことはないが真剣に、自らの研究と合わせて参考とするべく思案しているといった風である。

ボンドルドは花のようなその遺物に向き直ると話をつづけた。

 

 

「一部の奈落の住人や()()()の言葉を借りれば、この遺物が取り扱う人格というのはつまり『魂』という事です。原則としてアビス内では……科学的に説明を行うことが難しいものの『魂』はアビスへ還り流転するものとして扱われます。ですからこの遺物はそのアビスの傘下から例外を作り出すことのできる特異点というわけですね。」

 

 

再び言葉を切る。

灰が何かを言うそぶりを見せないので、卿は灰に尋ねてみることとした。

 

 

「灰の方にはどう映っているのでしょうか。」

 

 

それに対してしばらく黙り込んだ灰はやや首をかしげて言う。

 

 

「モノだな。」

 

 

その言葉の意味をはかりかねたボンドルドは逡巡ののちに聞き返す。

 

 

「………モノ、ですか。」

 

「貴公が訳に成功しているかはわからないが、僕の手記で冒頭に書いたことだ。最初の火およびソウルの魔術の基本理論として竜の二相、岩と魂の二元論というのがある。」

 

「…ほう。」

 

「要は肉体と魂は別々に存在するということだ。アビスでもそういう事象がみられるという解釈で間違いはないだろう。」

 

 

銀色の兜が上向き、ボンドルドの仮面の裂け目から覗く緑色の瞳を見つめる。対してボンドルドは瞬きの一つもせず見つめ返した。

 

 

「生死という概念が厳密には存在しない不死者や火の時代の末期に表れた僕を含めた多数の『灰の人』も、定命の常人も果ては『神』ですらも須らくこの二元論に囚われる。その(ソウル)を取り除いた抜け殻。竜の二相においてはモノを由来の影響で岩と表現するわけだが、この遺物はその『モノ』と表現するのがふさわしい。そういうことだ。」

 

「つまりこれは自然物であると。そう仰るのですか。」

 

「それが文字通りに石ころとかそういうものとして自然物と言っているのであればそれは誤解だ。元は(ソウル)のあったモノ、という意味で取ってもらいたい。」

 

「これ自体は何らかの生命体であった可能性が高いと考察しているのですか。」

 

「うむ。」

 

 

ゆっくりとボンドルドの背筋が伸び、天を仰ぐような仕草で打ち震える。

 

 

「ああ、なんと素晴らしい。その通りです。我々探窟家は、というよりも私はあなたと同様にこうした遺物もまたアビスの作り出した成れ果てのうち一つではないかと考えています。今となってはお見せすることのかないませんが、私にその考えを確信させたもの等がここの下、第六層に存在しました。」

 

 

かつては。そう言葉に含ませながらボンドルドの続けて話すには、アビスの呪いはそれを受ける当人の意思がより強く働くのだという。それは白笛の原材料である命を響く石(ユアワース)や六層の呪いである「人間性の喪失」に対して人間性の完全な喪失には至らなかった完成に近い成れ果て、曰くアビスの祝福が教えてくれるのだと。

 

 

「アビスは意志に応える、その点に関して言えばあなたの言う最初の火は対極にあると言えるかもしれません。」

 

「………。」

 

「時に、以前…あなたが階段から転落した際あなたは『ソウルを回収する』と仰っていました。」

 

「あぁ。」

 

 

ボンドルドはぐっと背を屈め今度は背の低い灰のバイザーの向こう側を覗き込むようにして問いかける。

 

 

「ソウルというものは見ることができるのですか。であればあなたにはこのアビスはどのように見えているのですか。」

 

 

灰は微動だにしないが、祈手たちもゾアホリックの維持作業の手を止め様子をうかがっている。しんとして何の物音を発するものの無い広い空間は、その広さにも関わらず並みの探窟家であれば堪えることなどできようかという圧迫感を醸し出していた。

 

 

「出来る。この手に取ることも。」

 

「……ほう。」

 

 

灰の立つ床に穴が開くのではないかというほどに、周囲の祈手たちは青く光る仮面から熱い視線を灰へと投げかけた。

 

 

「………僕も探窟家としての教養を身に着けるうちに、理解することができた。この祭祀場の篝火を灯すよりも以前に、どれほどアビスの原生生物を相手取ったとしてもソウルは手に入らなかったことの意味に。そしてそれは確かに見えていたという事も。」

 

「やはりあなたには見えているのですね、このアビスの諸相が一つは。」

 

「ソウルは確かに、僕にではなくこの下へ。アビスのさらに下層へと()()()()()。しかしそれは今、少なくとも僕についていえばこの法則性がゆがみを以て現れている。あの階段に僕の持っていたソウルの()()()()が滞留していたから。」

 

 

今この時ばかりは祈手も統一された精神の下ではなく一人一人が探窟家として、あるいはアビスの探求者として詰め寄りボンドルドはこれを片手に制しつつ自らもまた彼らに同じ衝動を抱えて灰に問うのだった。

 

 

「灰の方。我々にそれを、ソウルを見せていただけませんか。」

 

 

(ソウル)という何某かを自らは成し遂げることのできないながら、考えうる最短の方法で実証するのだ。

 

 

———

——

 

 

「灰の方……。」

 

 

灰の私室。イドフロントの一角に用意された狭く暗い部屋の、一人分の大きさしかない小さなベッドの上でドルミゥは横になっていた。灰は今この場にいない。

 

 

「灰の方……。」

 

 

掛け布団を枕のように纏めて抱き着き顔を埋めながら。

私室の机上には大量の紙とペンにインク、そしてイドフロントの所蔵でもある探窟家協会の教本や遺物全集が立てられており整頓されているが何にせよ物が多い。しかし灰自身の持つ装備品については一つも存在せず、それらを身に着けるか仕舞いこむかして灰は持ち運んでいるのだろう。

 

 

「は、ぃの…かた……。」

 

 

ドルミゥの顔は布団に埋もれて見えていないが、灰を呼ぶ彼女の声は次第に震えていき布団を抱きしめる腕も絡みつく両足もどんどん力を込めていく。手も掛け布団のシーツを固く握りしめていた。

 

 

「っ…!、!」

 

 

大量の血を流して自らの腕の中で弱っていった灰の感触が。咳や呼吸をするたびに吹き出し胸元を重くした黒い血液が。苦しそうに唇を震わせて、不意にこちらを向いた両の瞳が。彼女の手に腕に胸に瞼の裏に、灰の体の重さや()せ返るような血の匂いまでありとあらゆる感覚が想起していて。

 

 

「ぁ。はぁっはぁっんぐ。」

 

 

呼吸が荒くなり目元の涙を堪え切れなくなったとき、ドルミゥはようやく正気に戻って息を整える。

 

灰の転落から四日経った。

あの日、彼女は湧いた怒りを灰に半ばぶつけたことにその場から離れて気づいた後。ドルミゥはすぐ灰の私室へ向かった。

その時はまだ私室に灰が戻っておらずがらんどうにすら感じる部屋で茫然と立ち尽くしていたのだが、灰がやってきてようやく彼は生きているということを確認できたのだった。

 

それから二日は灰が予定を変えて私室にとどまっており、狭い部屋の狭いベッドでともに時間を過ごしたのだった。

そしてもう二日。ドルミゥは灰がボンドルドのもとへ向かうのを見送った後もこの部屋で多くの時間を過ごすのだが、そうして一人になるたびに先ほどのような深く脳に刻み込まれた喪失の記憶を何度も何度も思い出してしまうのである。

 

 

「ふぐ……うぅ…。」

 

 

部屋に帰ってくる灰には探窟家としての勉学に本人の研究もあってこのことを言い出せなかったうえ、祈手やボンドルドへ相談するなどもってのほかと判断したドルミゥは。

 

 

「………。」

 

 

忘れるはずもない記憶を何としても忘れようと努めるのだった。

 

 

「…ドルミゥ。」

 

「っ!」

 

 

驚いたドルミゥがベッドを飛び起きる。すると廊下の光が入る扉を後ろ手に閉めつつ兜を抱えてこちらを見る灰が居た。

 

 

「………寝ていたか。起こしてしまったかな…。」

 

「…大丈夫、です。灰の方。」

 

「そう…か。ちょっと待っていてくれ鎧を外すからな。」

 

 

そうしたらお風呂に行こう、とドルミゥに語りかけ手甲などを取り外す灰の姿を彼女は何も言わずにただぼうっと眺めていた。

瞼の裏には火の無い灰の遺骸が灰燼に帰す光景があった。

 

 

………




 
卿「(ジェスチャー:恍惚)」


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第一◯層

………

 

 

「火の祭祀場」

そう新たに名を付けられたイドフロントの暗室。そこで灰はボンドルドと篝火を挟んで向き合い座っていた。

灰の探窟家教練がひと段落しイドフロントの研究に積極的な関わりを持つようになってから、この「火」の観察も併せて各々が見解と考察を併せアビスや「火」について相互の理解を深める場と定義された時間だ。

 

灰に向き合いボンドルドが口を開く。

 

 

「以前の試みは成功、そして失敗といったところでした。灰の方。」

 

 

されどもボンドルドの口調はどこか浮ついて聞こえる。

卿の言う「以前の試み」とは詰まるところ(ソウル)との邂逅のことである。灰がその時取り出して見せたのは名もなき者のソウルであったために、その輝きも大きさも極めて儚く小さなものであったがそれのもたらした新しい見え方は多大だったと言ってよいものだった。

 

 

「これは私がかつて祝福を得た際に見えていたもの、力場と似ていますね。祝福を再び得ることができればより正確なことが言えるのですが…。」

 

「アビスの力場、上昇負荷と地下奥深くまで日光の取り入れが可能なことの要因か。」

 

「その通り。あなたも探窟家としての知識量は笛を持つに足るでしょうから、もうすぐ笛持ちになっていただけそうですね素晴らしいことです…。それはさておき、ソウルの流れですか。これは我々でちょっとした実験を行ってみましたがやはり、凡そ力場の位置に一致するようです。つまりアビスに還る魂というものもまた力場による影響下にあるという事がここに来て初めて理解できましたね。喜ばしいことですよ、大変に。ただ…。」

 

「…ソウルの情報量か。」

 

 

灰には卿の言う事に心当たりがあったのだ。無論そのつもりでボンドルドも話しているのだが。

 

 

「ええ、そうです灰の方。そもそも魂とは誰かの生きた証でありそのものの欲や感情が、彼らの培った膨大な経験が鮮明に映し出された情報の塊です。あなたが最初に我々へ見せてくださったソウルですらも、儚くとも惨憺とした記憶が残っていましたから同等ではありますが魂を直接扱うという事はきわめて危険と言えます。幸いに祈手たちはみな優秀な探窟家であり強靭な精神力をもちますからそこまで人員に欠けは出ませんでしたが…。」

 

 

今こうしている間もどこかで死んだ魂がイドフロントの天井と床を貫通してゆっくりとアビスへと還っていく。ほんのり青く光る薄布が揺蕩うような一筋の線がボンドルドの正面へ降りてくる。

ボンドルドはこの一筋の光へ手を差し伸べて、これを自らの体へ入れた。

 

 

「そうこのように、赤笛の子が可哀想なことに亡くなった魂が還ってくる。これに意図せず触れてしまうと、彼らの記憶を無意識に読んでしまうという事故が発生するようになってしまいました。まだあなたのように魂を手に取るという業には至れていませんが、こうした魂の情報の処理についても少なくとも祈手では明確に決定する必要がありそうです。」

 

 

こればかりは慣れるしかないでしょうと口にしつつ続けて、ボンドルドは得たものの方が大きいという事を、あくまで実験の成功を強調する。

 

ボンドルドの手から溢れあるいは通り抜けた残りのソウルは、朱い炎に包み込まれて篝火に焼かれ焚べられた。

 

 

「そうか。」

 

 

灰は対して極めて淡白な反応で返すが、それでもある程度の関心を寄こしているという証左足りえたようでボンドルドは満足げに見えた。曰くいい試みでした、と。

いくらか頷いたのち、男は一息置いてからまた言った。

 

 

「時に灰の方。」

 

「む。」

 

 

朱く燃え上がった火から灰の方へと視線を移す紫色の光と緑色の瞳。灰のかぶる兜のバイザー越しに見える目は黒い。

 

 

あの時(あなたの死)以来、あなたの部屋にドルミゥは住み込んでいますが。彼女との対話は進みましたか。」

 

「……いや…。」

 

「おやおや…そうでしたか。ではあの子の夢についてはご存じでないのですね灰の方。」

 

 

灰はそのとき灰が部屋へ帰った時に垣間見た、目を泣き腫らせたドルミゥの姿を想起する。灰はその故を彼女に詳しく聞くことをしなかったが、ドルミゥは激しく灰を求め彼はそれに応えたのだった。

 

 

「夢、か?」

 

「はい。…あの子の夢はあなたなのですよ、灰の方。」

 

「どういう…意味だ…。」

 

 

少し驚き、灰は顔を上げてボンドルドの緑色の瞳を見る。曇りなき(まなこ)はこれを真であると裏付ける。ボンドルドは前のめりとなってやや情熱的に灰へ語り掛けた。

 

 

「灰の方のお側に()()こと、灰の方のお役に立つこと、灰の方と()()()()こと。ほかの者のもつ類似した願いよりも、あの子は自身の幼さよりもっとずっと成熟して意志となっているのです灰の方。」

 

 

灰はものを言わずしかし篝火のそばから立ち退くと、ボンドルドもまた立って灰の肩へ手をやりその手のひらにローブの下に着込まれた鎖帷子を感じながら続けて語った。

 

 

「灰の方、灰の方。あの子は初めての存在なのです。ドルミゥはその意志の方向をアビスへの願いではなく他でもないあなたに捧げた。そして灰の方、我々よりも早く『火』の存在を()()のはあの子だったのですよ。」

 

「…なんだと。それは、あり得ないだろう貴公。ぼくが初めて篝火に触れたのはアビスでは貴公らの目の前だったじゃあないか…!それより前にこのアビスにおいて『火』など存在しない、するわけがないと断言したのは貴公だったじゃあないか!」

 

 

この時灰の語気には掴みかからんとするほどの気迫があったが、そうすることはなく灰はかの動揺を言葉に乗せて如実に伝える。対するボンドルドは灰から目を逸らすことなく諭すかのような口調で続けるのだ。

 

 

「あの子が視た最初の火はあなたでした。あなたの瞳の奥に小さな火種を、いえ残り火を視たのですよ灰の方。『火の香りのする』者。」

 

「残り火…。」

 

 

アビスで初めて死ぬまで灰はすでに残り火を宿していたのか、という気づきを得る。そして同時にどこで残り火を手にしただろうかと考えた。

 

(王たちの化身か…?いやそれ以上に…ああそうか僕は…。)

 

——火を継いだのか。

 

 

「ですから貴方には検討をお願いしたいのです、灰の方。ドルミゥの夢を叶えてあげられる方策を。我々もそのお手伝いをしたいだけなのですから。」

 

 

………

……

 

 

「お帰りなさい灰の方。」

 

「…ただいま、ドルミゥ。」

 

 

薄暗い部屋でも輝くように眩しく灰へ笑いかけるドルミゥ。いつものようにベッドに腰掛けていたドルミゥへ灰は歩み寄り片膝をつく。そして灰は手甲を取り薄褐色の艶やかな頬に触れると、彼女はくすぐったそうに首を縮めて灰の手を自分の小さな両手で包む。

 

 

「んん…どうしたの?」

 

「…。」

 

 

灰は話し出せなかった。ドルミゥを彼女の夢の叶うように導く前に、自らのどうにかすべき折り合いがあると感じていたのだ。

 

ドルミゥが沈黙した灰のバイザーを上げる。鉄の仮面の下から顕になった顔を見て、彼女は肩を落とし灰に比べれば小さな両手で灰の顔を彼のするように包み込んだ。

 

 

「、ドル…ミゥ。」

 

 

そこまでして漸く気付いたらしい灰は少し顔を上げ、ドルミゥと目を合わせる。ドルミウには灰の内側で渦巻く思いが、どのような内容であるかはさておきその想いのどれほど重いものであるのかが直に伝わるのだ。

 

 

「灰の方。わたしには分からないことが沢山あるけれど、あなたが苦しんでいるということだけは確かに分かるのです。…わたしではあなたの力になれませんか…?」

 

「ぅ…。」

 

 

ドルミゥは灰に寄り添って、灰の思惑の助けになろうとしているだけだ。しかしその言葉の真意に沿うものではないとわかっていても、今の灰には違って聞こえるのだった。

 

 

「違うんだ……。」

 

「灰の方?」

 

「ぼくの、使命だから…。…きみに…、傷ついてほしくないんだ…。これは、ぼくだけで…背負うべきものだから…。」

 

「…。」

 

 

零れ落ちる。溢れて滴る。

 

 

「、それとも…一度でもそう考えたぼくが…悪いのか…?」

 

「灰の方。」

 

「ゆるし…て、赦して…。」

 

「灰の方。」

 

 

首を垂れた灰の顔を無理矢理に持ち上げて、くすんだ瞳が灰を覗き込む。しかしそれは害意があるものではなく、ただ慈愛に満ちたものであったのだ。もし火守女たちに目があったら、こういう眼をしていたのだろうかと灰がふと思いつくくらいには。

 

 

「わたしの夢は、あなたなんです。」

 

「…!、っ。」

 

「あなたに連れられて行くのではなくて、あなたの半身としてありたいんです。」

 

 

ドルミゥはそう言ってから口をつぐみ灰を見つめる。対して灰は背後から衝撃を受けたかのようにして、ドルミゥに倒れ掛かり、彼女は堪えられずにベッドへ倒れ込んだ。

 

 

「ぅ……。」

 

「っ、灰の方。おもいですよ…ぉ…。」

 

 

灰の下に潰されるようになりながら、ドルミゥは腕を灰の背中に回す。決して明かすことのなかった自分の夢を、なぜ火の無い灰は他人から聞かされたような素振りをして知っていたのか。その疑問を灰と共に抱き抱えて。

 

 

………




メイドインアビスを総復習して、『暗き魂の黎明』も六週目をみてきました。イドフロントって酔いそうですよね。


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