――845年 ウォール・シーナ 王都ミッドラス
人類生存圏の中心地とも呼べるその場所であるが深夜ともなれば人影はほとんど存在しない。
月明かりと僅かな街灯のみが照らす街道を一人の小太りな男が息を絶やしながら駆けていた。
男は何度も何度も後ろを振り返る。狼狽するその姿を見れば、男が何者かに追われているというのは明らかである。
再び背後へ振り向く。
その視線の先、石造りの建物により月明かりが遮られた闇の中には一切の気配が感じられない。
「ハァハァ……ここまで来ればさすがに――」
男が息を整えながら正面を向こうとした矢先、彼の膝に鋭い痛みが走った。
「ぐッ、うゥゥ……!!」
激痛ゆえに苦悶の表情を浮かべる男は、自重を支えきれずその場に座り込んでしまう。そして痛みの原因である自身の右膝へと視線を向け、目を見開いた。
「ひッ……!!」
目に映ったのは突き刺ささる刃物。
それはナイフ程度の刃渡りしかないものの、男の右膝に深々と突き刺さり、刃の先端は膝の裏側にまで貫通していた。
カタカタと石畳を打ち鳴らす音がゆっくりと男へ近寄ってくる。
「何処へ逃げようと無駄だ。貴様の死は確定している」
先程、男が視線を向けた暗闇の中からその声の主は現れた。
骸骨を模した仮面を付けたその人物は、足を引きずりながらどうにか立ち上がろうとする男の前に立つ。
「
「ア……ガッ……!!」
男の膝を貫く刃をその人物は勢いよく引き抜く。
再び生じた痛みに悶える男の顔面を仮面を付けた人物が踏みつけて抑える。
仮面の人物が体格で優っている訳ではないものの、男にはその足を動かすことは出来なかった。
そんな男の首に仮面の人物は刃を向ける。
「……嫌、だ……嫌だ……死にたく――」
顔をぐちゃぐちゃにしながら命乞いをする男の姿に一瞬だけ仮面の人物の腕が止まる。
「――悪いな、運が無かったと諦めてくれ」
それだけを告げて仮面の人物は男の首を切り裂く。
どす黒い血が流れ出、男の命は呆気なく終わりを迎えた。
「……」
男が完全に絶命したのを確認し、仮面の人物は静かに自身の顔を覆う面を外した。
シルバーブロンドの髪に碧色の目。その姿はまだ幼さの残る顔立ちをした少年である。
「……仕事は終わったぞ」
顔をだけを後方へ向ける少年は暗闇へ向けて呟いた。
「相変わらず容赦がねぇなぁ、死神さんはよぉ」
ケタケタと笑みを浮かべながら暗闇から現れたのは黒衣を見に纏った長身痩躯の男。
呼び名を告げられた少年は呆れたように言葉を返した。
「その呼び方はやめろと言ったろ、ケニー」
ケニーと呼ばれた男は、少年の言葉に変わらぬ笑みを浮かべるのみであった。
そんないつも通りの男の姿に少年は諦めたようにため息をついてから話を変える。
「……それで、お前がわざわざ出向いてきたってことは新しい仕事か?」
「そう言うこった。今からオメェには俺と一緒にシーナの北区に行ってもらう」
ケニーの性急な指示に少年は不快げな表情を示す。
「今からとはな、相変わらず人使いが荒いなクソ憲兵が。それに北区だと?あんな牧場しかなさそうな辺境に何しに行くつもりだ」
「あるんだよ、どデケェ
不敵に笑みを深めるケニーはついて来いとばかりに少年に背を向ける。
少年はそんな彼の背を見て、「チッ」と舌打ちして歩き出す。
「……くだらない役回りだったら殺すからな」
「はっ、ガキんちょが。出来るもんならやってみなってな」
そんなやりとりを交わしながら二人は路地裏の闇の中に溶け込んでいくのであった。
♢
ウォールシーナの北区は家畜の飼育が盛んに行われており、その面積の多くが牧草地であった。
その一角に、馬の毛並みの手入れをする少女がいた。小さい身体で一生懸命に作業する少女であったが、不意に彼女に背に向けて小石が飛んでくる。
「痛っ……!」
彼女がそちらに振り返ると、柵の外に三人の子供が此方を指差しながら次々と小石を投げつけてきた。
「やーい、妾の娘がいるぞー!」
「お前なんかこれでもくらえー!」
「ッ!バーカ!バーカ!」
毎日のように彼女の元に訪れ、こうして石を投げつけてくる三人の子供。他の二人と違い、一人には躊躇いがある様子だが、幼い少女にとっては三人とも変わらず自分を傷つけてくる人達という印象しかなかった。
少女が頭を手で覆い必死で飛んでくる痛みから耐えているそんな時――。
「おい。お前ら何してんだ」
石を投げつける彼等に向けて見知らぬ少年が声をかけた。
両手をポケットに突っ込み太々しい態度で声をかける少年に三人の子供達はあからさまに顔を歪めた。
「何って、知らねぇの?こいつは妾の子なんだぜー!」
「気持ち悪ぃから、こうやって俺たちが成敗してやったんだよ!」
「ッ……!」
子供達の言い分を聞き流しながら少年は、しゃがみ込みながら此方に顔を向ける少女へと視線を向けた。
「……ふーん」
目が合い「ヒッ」と怯える彼女から視線を外した少年。
そんな彼に三人の中心にいた一人の子供が少年向けてグーにした手を出す。開かれた手の中に数個の小石があった。
「今なら特別にお前を俺たちの仲間にしてやってもいいぜ」
その手の平にある小石を少年が受け取ったの見て、誘いをかけた子供は得意げな笑みを浮かべるが。
「――だっさ」
「は?」
心底呆れたように吐き捨てる少年。彼の思わぬ態度に驚きを示す三人に少年は呆れたように物申す。
「さっきから見てりゃ、あんないかにも弱そうなやつに寄ってたかって三人でよぉ、恥ずかしくねぇのか」
「な、な、いきなり何なんだよお前!」
「そーだそーだ!お前もイジメてやろうか!」
「くっ……!」
怒りにまかせてファイティングポーズを構える二人に釣られるように、背後に残った子も拳を握った。
数の差もあり強気で出る三人に向けて少年は獰猛な笑みを浮かべる。
「むしゃくしゃしてたから丁度いいわ。俺がお前らに教えてやるよ、本物の喧嘩ってやつをなァ!」
少年は声を上げた瞬間、先程受け取った小石を投擲する。小柄な体格から投じられたとは思えない速度で放られた小石は一直線に中心にいた子供の額にヒットする。
小石を食らった子供は一発で意識を刈り取られ背中から地面に倒れる。
「じょ、ジョージっ!?」
「よそ見してんじゃねぇぞォ!!」
隣の子が倒れ、慌てふためく相手の顎に向けて少年は容赦なく飛び膝蹴りを喰らわせる。
「がっ……!」
もう一人の少年も意識を失う。一瞬にして二人が気絶させられた状況に残された一人は恐怖のあまり尻餅をついてしまう。
そんな彼の前に少年は見下すように立った。
「お前もやるか?」
少年の問いに彼は何度も首を振った。
「なら、そいつら連れてさっさと消えろ」
「う、う、うわぁぁぁぁん!!」
少年の凄みに圧倒された子供は大声で泣き喚きながら、意識のない二人を引きずってその場から逃げ出すのであった。
「…………。」
一連のやり取りを見ていた少女はただただ圧倒されていた。
なぜなら目の前の光景はこれまで想像もできなかったものだっから。自分が誰かに助けられるという瞬間を、考えた事すら無かった。
「……ふんっ」
目があっても何も語ることのない少女の姿を見て、少年は鼻を鳴らしこの場を去ろうと彼女から背を向けた。
そんな少年の背に慌てて少女は声をかける。
「あ、あの……!」
少女の呼びかけに少年は背を向けたまま足を止めた。
「あ、ありがとう、ございます……」
「……別に、お前を助けたわけじゃない。アイツらにムカついただけだ」
それだけだとばかりに足を進めようとする少年に少女は問いかけた。
「な、何で……貴方は石を投げてこないんですか……?」
「なに、投げてほしいわけ?」
「ち、違います……!痛いのは、その、いやです……」
少女の思いがけない問いに、この場から去ろうとしたはずの少年も思わず振り返り言葉を交わしてゆく。
これまで孤独だった少女も、そして少年も同世代の友人が皆無であった事もあり、二人の会話は途切れることなく続く。
少女の好きな本の話、動物の話、昨日の見た夢の話や、少年の好きな食べ物の話、色々な街の話、これまでの喧嘩自慢など。
それこそ夕暮れまで二人は間にある木柵を背にして話し続けた。
別れの間際、少年が尋ねる。
「……お前、名前は?」
「ヒストリア……ヒストリア・レイス。貴方の名前は?」
少女の問いに、少年は初めて年相応の笑みを浮かべながら答えた。
「俺の名前は、―――――――」
その会話を最後に、二人は再び出会うことがなかった。
少女――ヒストリアの実の母がとある事情により、その日の夜に殺され、ヒストリアもまたこの地を離れることになったからだ。
だが、二人のこの一日だけの出会いは、少女にとってはかけがえの無い思い出として、少年にとっては忘れがたい傷として、生涯に渡って残り続けるものとなったのであった。
♢
「くっ……頭、いてぇ」
シルバーブロンドの髪を撫でながら青年となりつつある彼は自身のベットから身を起こす。印象的な碧色の目の縁には濃い隈があった。
(寝不足だ……長期任務の前だってのに、尋問なんか押し付けて来やがるからだ……クソケニーが)
自身の直属の上司へと内心で悪態をつく彼は、眠たげに目を瞑る。瞼の裏に鮮明に映るのは先程まで見ていた夢の光景。
(夢にまで出てくるとはな……完全にこいつのせいだ)
夢の内容を思い出し顔を顰める青年は、脇に置いてあった任務の指示書へと目を通しながら読み上げた。
「その一、訓練兵団に入団し、上位10位以内の成績を残して憲兵団への入団資格を得よ」
一つ目の指示は、対して彼の悩ませるものでは無かった。現状の曖昧な自身の立ち位置を考えれば、遅かれ早かれこのような指示を受けるのは想定していたからだ。
問題は二つ目の指示である。
「そのニ、訓練兵団に入団するクリスタ・レンズの監視、及び必要があれば抹殺せよ」
指示内容を確認し、ため息をついた彼は大人しく支度を始めるのであった。
彼の名は、ラルス・ウェラー。
中央第一憲兵のケニー・アッカーマンが誇る懐刀であり、彼こそが王都に伝わる都市伝説、死神の正体であった。
そんな彼の三年に渡る長期任務が今、始まろうとしていた。
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第1章【第104期訓練兵団】
第1話《通過儀礼》
――847年 ウォール・ローゼ 南方駐屯地
広がる荒野の中心に築かれた駐屯地。そこには、三百人程の少年少女が真新しい団服に身を包みながら佇んでいた。
そんな緊張感のある面持ちで立つ彼等に向けて、一人の教官が次々と怒号を飛ばして行く。
「オイ、貴様」
「ハッ!」
呼びかけられ右手を胸の中心に置く兵団の伝統ある敬礼で金髪の青年が応じると、教官達の代表であるキース・シャーディスは彼に詰め寄った。
「貴様は何者だ!?」
「シガンシナ区出身!アルミン・アルレルトです!!」
「そうか!バカみてぇな名前だな!!親がつけたのか!?」
「祖父がつけてくれました!」
迫力のあるキースによって行われる恫喝まがいの問答。
“通過儀礼”とも称されるこの行為は、これから兵士となるための覚悟を持つために必要な過程である。
「アルレルト!貴様は何しにここに来た!?」
「人類の勝利の役に立つためです!!」
「それは素晴らしいな!!貴様は巨人のエサにでもなってもらおう」
それまでの甘い己を否定し、真っさらな状態から兵士に適した人材を育てるためと言う目的があるのだが、威圧されている本人達は知る由もない。
その後も、入団の動機を聞かれ内地で暮らすためと答える正直者や敬礼を左右逆で間違える阿呆や、挙げ句の果てには謎に芋を食い出す女まで現れるが、まとめてキースの鉄槌を喰らうことなった。
「……。」
(眠ぃ……)
かれこれ二時間近く同じ場所に立っているだけという状況に、明け方まで
「ふぁぁ――あ……」
キースがとっくの前に自身の前を素通りした事もあり、油断して割と大きな欠伸が出てしまうラルス。
その瞬間、たまたま周囲を見回した彼と視線があった。
「……おい、貴様」
「…………。」
完全に呼ばれている自覚はあるのだが、ラルスはとりあえず視線を逸らしてみた。
「貴様だ……貴様に言っているんだ!欠伸が出るとは随分と余裕があるようだな!」
キースはラルスのもとへと迫る。
面前で向き合う両者。身長差がありラルスが見上げるような形である。
「貴様はいったい何だ!?」
「…………。」
(どう答えるか……)
教官の問いに対してラルスはすぐに答えない。対応を考える彼の脳裏に過ったのは、自身の師でもあるケニーの教え。
『オメェは歳のわりに腕は良いが、いかせん世渡りが下手くそだ。良いか、坊主――』
ケニー・アッカーマン流処世術、その1。
『まず、ガン飛ばされたら睨み返せ。こんな秩序も何もねぇ
「すぐに答えろ!!それともまともに話す事も――」
「――あぁん?」
キースの言葉を遮りながら、ラルスは顎を上げて凄む。
ラルスのまさかの返しにキースだけでなく、この場にいる全員が困惑した。
「…………貴様、何だその態度は?」
「…………。」
(――もしかして、間違えたか……?)
「何とか答えたらどうだ!!」
怒号を上げながら、キースは禿頭を振りかぶる。他の訓練兵にも食らわせていたいた強烈な頭突きを放つつもりなのだろう。
その様子を静かに見つめるラルスは、ケニーの述べた二つ目の助言を思い浮かべた。
ケニー・アッカーマン流処世術、その2。
『それでも相手が引き下がらねぇって言うなら、ご挨拶してやるしかねぇな』
ケタケタと笑いながら述べるケニーの姿を思い出しながら、とりあえずラルスも背中を反らせながら全力で頭を振りかぶった。
ゴン、とまるで岩石の破砕音に似た音を響かせながらラルスとキースの額が衝突する。
「ッ……!!」
「ふん……!」
体格差がある筈の両者なのだが、二人の頭はぶつかりあったまま拮抗していた。
(痛ってぇな……石頭かよ、コイツ……)
「……もう一度だけ、問う」
歯を食いしばるラルスの額が切れ、血が顔面を流れ落ちる。だが、そんな事はお構いなしにキースは額をグリグリと押し込んでゆく。
「貴様は、何のためにここに来た?」
「んぐッ……!」
ズキズキとした頭痛が生じるなか、ラルスはキースの問いに僅かに迷う。
馬鹿正直に任務の内容を答えるのは論外なので、それらしい理由を吐けばいいのだが――。
「け……憲兵になるため、だ」
「……ふん」
心底、嫌そうに顔を歪ませながら答えるラルスの姿を見て、キースは勢いよく頭を離した。
軽くよろめくラルスであるが、その目だけはキースからは決して外さない。
「貴様なぞが憲兵などになれるものか!その性根から今すぐ叩き直せ!私が良いと言うまで走り続けろ!!分かったか!?」
(このままじゃ任務どころじゃなくなるし……それに、あの頭突きは流石に喰らいたくないな……)
ラルスが思い浮かべるのは、ケニーの述べた三つ目の教訓。
ケニー・アッカーマン流処世術、その3。
『だが、勝てねぇと思ったら即座に身を退け。それが長生きする秘訣ってもんだぜ』
弱者は強者に屈する他ない。生き残るため、そしていずれ牙が鋭さが増した時に喰らい尽くすために。
ラルスは最大限の譲歩をして、キースの指示に従う姿勢を示した。
「――はっ、いいぜ。仕方ねぇからアンタに従ってやるよ」
結局、もう一発、頭突きを食らった。
そして、ラルスは芋女ことサシャ・ブラウスと共に日暮れまでひたすら走らされる事となった。
(ケニー……どうやら
包帯が巻かれた額を抑えたラルスはため息を吐き、大人しく走り続ける。
♢
「もう……限界です……最期に、お肉だけで……お腹いっぱいに、なりたかった……」
「……うるせぇ、野に捨てんぞ……芋女……」
日が沈み、ようやく罰走から解放されたラルスとサシャであったが、晩飯抜きを宣告された瞬間、サシャが力無く崩れ落ちた。
そのままにしておくわけにも行かなかったので、仕方なく彼女を女子寮まで引きずるラルス。だが彼も散々走った事により足腰が重く、サシャを引っ張るのも容易ではない。
「――あの……」
そんな二人に一人の金髪の少女が近づく。
彼女の手にある物を感じ取り、サシャは勢いよく飛び出した。
「きゃああああ!!」
突然、迫るサシャに驚き少女が叫びをあげるのを他所に、彼女は少女の手にあったパンに食らいついた。
「これは……パァン!!」
「……それだけしか無いけど取っておいたの。けど……」
金髪の少女はチラッとラルスの方へと視線を向ける。
「…………。」
彼女と視線を交差させるが、ラルスは特に反応を示さない。
「一つしか持ってこれなかったから、二人で分けて――」
「あんぐっ……あむあむ、んむ……!!」
「あ……!」
少女が提案を述べる前にサシャはパンに齧り付いていく。
サシャの行動にあわわと困惑する少女と呆れて頭を押さえるラルス。そんな三人のもとに近づく影がもう一つ――。
「――おい、何やってんだ」
「……ッ!?」
(こいつ……気配を消すのが上手ぇ……)
建物の陰から姿を現したのは黒髪の長身の女。
疲労が重なっているとはいえ、直前まで気配を感知できなかった女の登場に、ラルスは警戒心を高める。
「えっと……二人は今まで走りっぱなしで……」
「コイツらのことじゃ無い。お前だ。お前、何やってんだ」
まるでラルスやサシャには一切の関心がないかのように女は少女へと問い詰める。
ちなみに、このタイミングでサシャはパンを食べ終えて、少女の膝の上で眠りについた。
「晩飯のパンを隠してる時からイラついてた。なあ、お前……“いいこと”しようとしてるだろ?」
「え……」
「それはコイツらのためにやったのか?お前の得た達成感や高揚感はその労力に見合ったか?」
女の問いに、少女は答えることが出来なかった。
そんな二人のやりとりを見ていたラルスは訝しげに目を細めた。
(この女……まさか、何か知ってるのか……下手に言いふらされるぐらいなら、先に――)
「まあいい。とにかく……芋女をベットまで運ぶぞ。アンタも私らが寮まで連れてった方が都合がいいだろ?」
眠るサシャの肩を担いだ女から話を振られ、ラルスは思考を中断する。
「ああ……さすがにこの時間に女子寮に乗り込むのもどうかとは思っていたからな」
「はっ、教官に楯突いてから頭のイカれた野郎かと思ったが、そこら辺の品性は持ち合わせてたか」
ラルスの返答に嘲笑うような笑みを浮かべる長身の女。
疲労がピークに達しているラルスは言い返すのも面倒くさくなり、ため息を一つついてから彼女達に背を向けた。
「……俺は戻る」
「――あ、あの!」
背を向け歩き出そうとしたラルスに、金髪の少女が声をかけた。
「ラルス、だよね?覚えてるかな……私のこと……」
「…………。」
不安げに尋ねる彼女に視線を向けながら、ラルスは今回の任務の指示書を受け取った際に交わしたケニーとの会話を思い出していた。
『……おい、ケニー。この任務は何だ?』
指示書である紙を握り締めながら詰め寄るラルスにケニーは相変わらずの不敵な笑みを浮かべる。
『何って……要は訓練兵団に入団しろってだけだろ?まあ、俺の希望で成績にも条件は付けさせて貰ったがな』
『そこはどうでも良い。問題は二つ目だ!クリスタ・レンズってアイツだろ……あの時のレイス家の――!』
ケニーは人差し指を自身の口の前に当ててラルスを黙らせる。
『そこの繋がりを知ってるのは一部の人間だけだ。不用意にその名を出すんじゃねぇよ』
冷静さを欠いているラルスを諌めながらケニーは続く言葉を述べた。
『二つ目のは“上”からの指示だ。あの嬢ちゃんが訓練兵団に入るって聞いてな、お偉いさん方が何か裏があんじゃ無いかって大慌てなわけだ。嬢ちゃんが一生、開拓地で慎ましく暮らしてりゃ、こっちに厄介事が回ってくる事も無かったんだろうがな』
心底、呆れた様子で事情を語るケニー。それを聞いたラルスが複雑な表情を浮かべていたのをケニーは見逃さなかった。
『それだけあの嬢ちゃんの本当の名は、この壁の中ではデケェ力があるってこった』
『なら、この必要があれば殺せという指示は……』
『ああ……もし周りに本当の名を語るようになったら、“上”も見逃すことは出来ねぇだろうな』
ケニーの言葉を聞いたラルスは、静かに拳を握った。
「……お前、名前は?」
それは、かつての思い出の中に残る少女との別れの際に尋ねた問い。
「ヒ…………クリスタ……クリスタ・レンズ、です」
別の名を言いかけた少女は、俯きながら今の名前を告げる。
そんな少女の姿を見てラルスは僅かな間、瞼を閉じた。
(もし、俺が
瞼を開いたラルスは、見下ろすような目線をクリスタへと向けた。
「――俺に、クリスタ・レンズという名の知り合いはいない。だから、俺はお前のことなど知らない」
突き放すようにそれだけを告げ、クリスタから視線を外した。
(――俺達は、関わるべきでは無い)
背後からの視線を感じ取ったラルスだが、無視するようにその場を後にした。
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第2話《姿勢制御訓練》
――847年 ウォール・ローゼ 南方駐屯地
翌日、入団式を終えたラルス達、第104期訓練兵団は屋外に集まり、初歩となる訓練を行おうとしていた。
「まずは貴様らの適性を見る!」
訓練兵たちの前に立つキースは、後方に置かれた装置を指差しながら今回の訓練の説明を始める。
「両側の腰にロープを繋いでぶら下がるだけだ!!全身のベルトで体のバランスを取れ!これができない奴は囮にも使えん!開拓地に移ってもらう」
この姿勢制御訓練と呼ばれる訓練は、人類が巨人と戦う手段である立体機動装置の適性を見るための初歩である。だが、この段階でも立体機動の素質はハッキリと現れてくる。
「ラルス・ウェラー、次は貴様だ!!」
次々と訓練兵たちが名前を呼ばれ訓練に取り組むなか、名前を呼ばれたラルスが前へ出た。彼の姿を見た訓練兵たちはコソコソと口を開く。
「アイツ、昨日教官に歯向かってたやつだろ?」
「よく開拓地送りにされなかったな」
「……チッ」
小声で交わされる会話を耳にし舌打つラルスだが、大人しく装置と繋がったロープを腰に付ける。
「準備ができたな。ならば上げろ」
教官の指示を受け、補助に入っている訓練兵が装置のレバーを回した。するとロープに引かれながらラルスの身体が地を離れる。
「「おぉ!!」」
見守っていた訓練兵達が一堂に騒つく。
彼等の視線の先には、空中で静止するラルスの姿があった。
「……完全に、止まってやがる」
「ブレがねぇとかそんな話じゃねぇだろ、アレ」
「ホントに同じ人間かよ……」
凄すぎてもはや呆れ果てる彼等を他所に、ラルスは酷くつまらなそうな表情を浮かべていた。
(この程度の訓練、
他の訓練兵たちとは違い、ラルスはケニーから立体機動術を学ばせられている。ゆえに初歩中の初歩とも言える姿勢制御などは造作もない。
それでも、一切の揺れもなく空中にとどまるなど並の兵士に出来ることではないが――。
「…………問題ない。降ろせ」
「ハッ!」
補佐の訓練兵がレバーを戻し、ラルスの足はゆっくりと地面についた。
ロープを外したラルスは訓練兵の集団へと戻る。その際にキースの鋭い視線と交差するが、その瞳の奥にはこれまでとは何か違う別の感情があるようにラルスには思えた。
(……誰かと重ねられてるような、そんな感じもするが――)
「見事だ、ミカサ・アッカーマン!」
「――ッ!!?」
ラルスが先程まで姿勢制御訓練を受けていた、その隣の装置でブレなくぶら下がる少女。
彼女の名が告げられた瞬間、ラルスは思考をやめ、すぐさま少女の方を振り向いた。
(“アッカーマン”、だと……?)
その姓の意味を、その血の持つ力をラルスは知っている。何故なら、その姓を持つ上司から直接聞かされたからだ。
『――何で俺が強いかって?』
『ああ……ハッキリ言って、アンタの身体能力は異常だ。人間のして良い動きじゃ無い』
いつもの如く、ケニーからほぼ殺し合いとも言うべき訓練を受けたラルスは、彼の強さの秘密を問うた。
『ヒデェ言い草だなぁ……世話かけてやってるのに、悲しくなっちまうぜ』
『うるせぇ……話すつもりがねぇなら黙れ』
いつもと変わらない態度を示すケニー。これまでも色々な疑問の答えをはぐらかされてきたため、あまり期待していなかったラルスであったが――。
『いいぜ、教えてやるよ』
『……!』
ケニーの思わぬ了承に、心底意外な様子でラルスは彼を見つめた。
『どっかの専門家言ってたらしいが、普通の人間ってのは三割程度しか力を発揮してないらしい……』
『は?いきなり何を――』
『まあ聞けよ……それは何故かって言うと、肉体への負担を考えて脳が身体能力を制限してるんじゃ無いかって話だ』
突然、語り出したケニーに困惑しながらもラルスは彼の大人しく話を聞き始めた。
『だが俺の一族、アッカーマン家はな、キッカケさえ掴めばその脳のリミッターを任意で外す事ができる』
『……リミッターを外せば、身体への負担があるんじゃ無いのか?』
『普通はな。けど俺らは身体が頑丈みたいでな、無茶苦茶な動きをしても、そうそうぶっ壊れる事はねぇ』
アッカーマン家の持つ特異性を聞き、ラルスは僅かに悔しげな表情を浮かべた。
『結局……生まれの差って訳か……』
『いーや、そうとも限らねぇぜ。言ったろ、普通の人間でもリミッターは外す事が出来る。東洋じゃ火事場の馬鹿力なんて言葉があるくらいだ』
ケニーはラルスへ向けて手を差し出す。一つの提案するために。
『オメェが興味あるなら、コツぐらいなら教えてやってもいいぜ。まあ、仮に出来たとしても――』
ケタケタと笑いながらそう述べるケニー。その表情は――。
『代償が伴う事に変わりはねぇがなぁ』
本当の悪魔のような姿に、ラルスには見えた。
♢
「――頼む!皆んなが、お前の姿勢制御が凄かったって言ってたんだ。コツが有れば教えてくれ、ラルス!」
丸一日を要した姿勢制御訓練が終わり、宿舎で腰掛けて休んでいたラルスの前に現れたのは、黒髪に力強い眼光が特徴の少年であった。
どうやら彼は今日の姿勢制御訓練をこなせず、色々な人間からやり方を聞こうとしているなか、ラルスの話題が出たとのこと。
「……突然何だ、お前」
「そうだよ、エレン。まずは自己紹介しないと……」
隣に立つ金髪の小柄な少年がエレンと呼ばれた彼を諫める。
「わ、悪い。オレはエレン・イェーガー。んで、こいつが……」
「僕の名前はアルミン・アルレルト。よろしくね、ラルス」
エレンとアルミン。名前こそ知らなかったが、ラルスは二人の姿を覚えていた。
ラルスは姿勢制御訓練が終わった後から、ミカサ・アッカーマンを観察していた。ゆえに、この二人が彼女とよく行動を共にしている事にはすぐに気がついたのだ。
「……お前らと一緒にいたあの女も相当上手かったろ。アイツには聞かなかったのか?」
「ミカサか……アイツにも勿論聞いたんだけど……アイツの言葉は正直、感覚的過ぎてよく分からん」
エレンの言葉にラルスは僅かに思案する。
(感覚的……か。ケニーも確か似たような事を言っていたな)
『俺たちアッカーマンは言うなりゃ身体が力の使い方を覚えてる。つまり、普通の人間のリミッターの外し方とは根本的に違うってわけだ。外した後の動き方を教える事はできるが、結局、外せるかどうかはオメェ次第だ』
ケニーもまた教え方としては、やはり感覚派のタイプであった。
(そうなると……やはり、あの女も正真正銘のアッカーマンか)
ラルスは彼女について尋ねるために二人に問うた。
「……アイツの事は昔から知ってたりするのか?」
「え……あ、うん。ミカサとエレンと僕は幼馴染なんだ」
ラルスは彼等の関係性を聞き出し、更に思考を重ねてゆく。
(アルレルトは教官の恫喝の際に、シガンシナ区出身と答えていた……仮にあのアッカーマンも出身が同じなら、ケニーとの関係性は考えにくい。てっきり、俺以外にも任務に就いている奴がいるのかとも思ったが――)
「おい、大丈夫か?すげー怖い顔してるぞ、お前」
ラルスが考え込んでいると、エレンが心配した様子で彼の顔を覗き込んできた。
「……いや、問題ない」
(まあ、それは後から、本人にでも確認してみるとして……)
思考を切り替えるために一度、軽く息を吐いてからラルスはエレンへ向かい合った。
「ふぅ……とりあえず出来る助言はしてやる」
「本当か!ありがとう、ラ――」
「ただし、一つ条件をつけさせてもらう」
喜ぶエレンを止め、ラルスはある条件を二人に突きつけた。
♢
「覚悟はいいか、エレン・イェーガー!!」
「はい!」
翌日。早朝にラルスからの指導を受けたエレンは姿勢制御の再訓練に臨んだ。これで失敗すれば開拓地行きという追い詰められた状況であるが、その目は決して死んではいなかった。
「始めろ」
キースの指示を受け、装置が動き出し、エレンの身体は宙へと持ち上がっていく。
その中で、エレンはラルスの助言を思い出していた。
『――とりあえず、下半身の感覚は遮断しろ。お前のこのザマじゃ、余計な力を加えれば前後にブレて終わりだ』
そう述べながら、ラルスはエレンの腰につながるロープに触れた。
『このロープをお前の身体の一部だと思え』
『な!そんなのいきなり言われたって、そんなの出来るわけねぇだろ!』
反論するエレンを睨みつけながらラルスは語る。
『お前は自分が死ぬ時もそう言うのか?ああ?出来る出来ねぇの話なんてこっちはしてねぇんだよ。いいか、やれ』
凄むラルスにビビるエレンは大人しく彼のアドバイスに従うのであった。
訓練本番直前まで行われたエレンの特訓であったが、最後まで完璧に出来るところまではいかなかった。
(やる!オレは絶対にやる!オレには素質がないかもしれねぇけど――)
身体とロープは震えているが、それでもなおエレンは空中で姿勢を耐えて見せる。
(もう出来ねぇなんて言い訳はしねぇ!!)
「「おお!!」」
エレンの訓練を見守っていた者達から歓声が上がった。
(やった!でき――!)
「ああ!!」
喜ぶの声を上げようとしたのも束の間、彼の身体はひっくり返り、地面に頭をぶつけた。
「……あのバカ。油断するなと何度も言っただろうに」
集団の中からエレンの様子を見守っていたラルスは、呆れたようにそう呟くが、自身の結果に絶望しているエレンの耳には届かない。
「ま……まだ……!オレは……!!」
諦めきれないエレンを他所に、キースは訓練を補佐していた訓練兵へと視線を向ける。
「ワグナー」
「ハッ!」
「イェーガーとベルトの装備を交換しろ」
結果的に、装備を交換したらエレンはすぐに姿勢制御を成功させた。彼が姿勢を維持できなかったのは、ひとえにベルトの金具の破損。
彼が反転した際に頭を打ちつけた事により、本来は整備項目にない破損が明らかになった。
無事に姿勢制御を乗り越えたエレンは問題なく訓練に参加する事が決まった。
そして、ラルスの提示した条件もまた成される事となった。
♢
「エレンから話があると聞いた。要件は何だろうか」
訓練場の屋外で待っていたラルスの前に現れたのは、ミカサ・アッカーマン。エレンとアルミンの取り付けた条件。それは、ミカサと二人で話したいと言うものだった。
別に訓練の事は関係なしに全然構わないと述べる二人であったが、ラルスもまた条件という形を譲らなかった。
「……ミカサ・アッカーマン。それがお前の本名で間違いないな?」
ラルスの問いにコクンと頷きで答えるミカサ。そんな彼女に間髪入れずにもう一つの問いを尋ねた。
「ある時、突然力が湧き出すような感覚を経験した事はあるか?」
「……!ある……!」
ラルスの問いにミカサはハッキリとそう答える。
(やはり、そうか……)
「……貴方も、この感覚があるの?」
今度はミカサからの問い。それにラルスは首を振った。
「無い……だが、求めてはいる。だから、お前の手を借りたい」
ラルスは真剣な表情でそうミカサに頼んだ。
「それは、構わないが……だが、なぜ?」
ミカサの疑問。
彼女は直感的に理解していた。自分の持つは感覚は他者には理解されないだろう、と。容易に習得できるものではない。
それを何故、彼は追い求めるのか、それが彼女は気になった。
「――越えなきゃならねぇ奴がいる。そのためにはその力が必要だ」
ラルスの決意を聞き、ミカサは了承した。
力を求める彼は、諸刃の剣へと手を伸ばそうとしていた。
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第3話《引鉄》
――847年 ウォール・ローゼ 南方駐屯地
第104期訓練兵達の入団から半年が経過した。
ラルスはケニーへの月一の定期報告を行いつつ、ほどほどに訓練に励んでいた。座学や馬術などでは全くと言っていいほどやる気を出さない彼であるが、得点の高い立体機動術で他者の追随を許さない結果を残していたため、現状としては上位十位内の成績を収めていた。
意欲的とは言えないラルスであったが、例外的にモチベーションの高い訓練があった。
それは、対人格闘術。点数の少ないこの訓練は多くの者は適度に流し、過酷な訓練の骨休めの時間として用いてるが、彼は精力的にこの訓練に参加していた。それは何故かと言うと――。
「――ガッ!!」
地に伏せられるラルス。
彼の上に乗るミカサはラルスの手足を抑え、動きを封じた。
「――また、私の勝ち」
ラルスは毎回の対人格闘術をミカサと組み、彼女の動きからアッカーマンの力を引き出す鍵を探していた。
だが、戦績は1勝34敗。半年という期間ながら既に圧倒的な差をつけられていた。
ちなみに唯一勝ち星をつけたのは初回の対人訓練時。対人戦の経験の浅いミカサの不意をつく形で勝利をもぎ取った。だが、それ以降はミカサから一切の隙が無くなり、散々な結果であった。
背中の上で勝ち誇るミカサに向け、ラルスは横顔を向ける。
「……そう簡単には――」
ゴキッという音と共にラルスの右肩が滑る。
「ッ……!!」
「――終わらねぇッ!」
抑え込んでいた肩の位置がずれ込み、ミカサの腕が緩む。
その瞬間、僅かに生まれた隙を利用しラルスは体制を反転させミカサの拘束を解きつつ、彼女の顔面に向けて裏拳を放った。
「――!!」
だが間一髪なところでミカサも反応し、上半身を反らせる事によってラルスの拳を回避する。
「チッ……!」
ミカサと向かい合う形となったラルスであったが、ほぼゼロ距離という間合いである以上、手負の彼に勝算は無いため舌打ちつつも降参の意を示す。
「……参った」
降参の意思を表すために両手を上げようとするラルスだが、右手はタラーンと力無く垂れていた。
そんなラルスの姿を見た改めて見たミカサは驚きを示しつつ呟く。
「……まさか、肩を外してくるとは思わなかった」
「こんだけやって一矢報いる事も出来ないとは、なっ!!」
自身の不甲斐なさに悪態をつきながらラルスは脱臼した右肩をはめ込む。本来は、そう簡単に治るものでも無いのだが、コツを掴めば難しくは無い。
グルグルと回しながら肩の状態を確認するラルスはミカサに尋ねる。
「――今の一戦は、全力か?」
「……全力、ではない」
「チッ、やっぱそうかよ……」
対戦を積み重ねて行って分かっていることは、彼女と自身の実力の差が開き続けているということ。
互いに成長期、身体は徐々に大きくなっているため、力も強くなっているがその速度が比ではない。技も同様であり、ミカサには初見の技術にも対応できる柔軟さがあった。
(これが、アッカーマンか……)
改めて実感する持っているものの差。
被りを振ったラルスは、自身の手のひらを見つめる。
(リミッターを外すアッカーマンの力……未だにキッカケすら掴めていない。どうすれば――)
空を掴むような感触である。
全身に感覚を張り巡らせても、ケニーやミカサの言う力が溢れるような感覚は無い。
「…………アッカーマン。お前がその力に目覚めた時、何かキッカケみたいなものはあったのか?」
不意に述べたラルスの問いにミカサはいつもの無表情を崩し、少しだけ話しづらい様子で口を開いた。
「あまり……詳しくは教えられない。ただ、私はエレンを助けようとした際に、この力に目覚めた」
そう語るミカサの表情は僅かながらも苦しげなものであった。
そのため、あまり深掘りすべきでは無いのだろうとさすがのラルスも悟る。
「――それ以上はいい。思い出したく無いことなら、無理に話す必要はない」
「……分かった」
ラルスがミカサの言葉を止めたところで、ゴーンゴーンと言う訓練終了の合図の鐘が響き渡った。
それを聞いた二人は、特に何か会話を続けることなく訓練を終了した。
♢
午前の訓練である対人格闘術を終えた訓練兵達は、昼食を摂るために食堂にいた。
メニューは食感の固い黒パンに具の少ない簡素なスープ。成長期真っ只中の訓練兵達にとっては物足りない量であるが、今更、不満を言う者はほとんどいない。
二年半前、巨人の襲撃によりウォール・マリアが突破され人類領土の三分の一が失われた。以降、人類は慢性的な食糧不足となっている。むしろ、三食を保障されてる分、一般市民より優遇されているのは間違いないだろう。
そんな慎ましげな食事ながら、訓練兵達にとっては体を休める貴重な時間に騒ぎ立てる二人がいた。
「――ハァ?何言ってんだ、お前。あんな点数の低い訓練に全力でやれるわけねぇだろが」
「……お前、それ本気で言ってんのか?」
「ああ?当然だろ。俺は効率よく憲兵を目指してるだけだ。お前みたいに巨人の餌になるよかマシだと思うがなぁ」
「ふざけんなよ、このクソ野郎がッ!!」
その二人とは、エレン・イェーガーとジャン・キルシュタインである。
調査兵となり巨人を駆逐する事を目標にするエレンと内地での快適な暮らしをするために憲兵を目指すジャンの関係性は水と油というべきものであり、毎度のように顔を合わせれば言い争いが始まっていた。
「おい、いい加減にしろ!お前ら!」
掴みかかる両者を仲裁しようと入ったガタイの良い青年は、ライナー・ブラウン。皆の兄貴分のような存在であり、誰にも分け隔てなく世話を焼く。
「…………。」
そんな喧騒に包まれた食堂の端でラルスは一人、静かに食事を摂っていた。だが別に、彼も全く誰とも交友が無いと言うわけじゃない。
エレン・イェーガーやアルミン・アルレルトとは、最初の姿勢制御訓練の際から時折、口を聞く事はあった。
ミカサ・アッカーマンとは、先程のような対人格闘や立体機動で訓練を共にする事が多い。
ライナー・ブラウンは一人でいるラルスに絡んでくる事があり、彼と共にいるベルトルト・フーバーともそれなりに会話をする事がある。
他にもぼちぼちとした交友はあるが、自身から積極的に関わることのないラルスは、特定の集団に属する事も無かった。
「――!!」
「――ッ!」
「…………。」
エレンとジャンの口論は止まる事なく続くが、ラルスにとっては至極どうでもいいので雑音として無視していた。
「――そこまで言うなら、次の立体機動の訓練で白黒付けてやろうじゃねぇか!!」
そんなジャンの捨て台詞が聞こえたが、
♢
「これより、立体機動装置を用いた集団移動訓練を行う!」
約半年の間、立体機動術の基礎を学んできた彼等であるが、集団での飛行はこれが初めてであった。
複数人での立体機動による移動は、単独移動とは比べ物にならないほど難易度が上がる。
他者との適切な距離感、複数のワイヤーが同時に飛び交う状況、アンカーの刺す位置が限定的である事など、空中での情報量が格段に増える。
そのため、決して気を抜いていい訓練では無いのだが――。
「おい、恥さらす覚悟は出来たか、死に急ぎ野郎」
「そっちこそ置いてかれても泣き喚くなよ、馬面」
「ちょっとやめなよ、二人とも」
「やめとけクリスタ。このバカ二人を相手しても疲れるだけだ」
「……おい」
煽りちらすジャンに、食ってかかるエレン。
二人を止めようとするクリスタと呆れた様子を見せるユミル。
そして、立体機動の成績から班長に任命されたラルス。彼は、非常に低い声で彼等を呼びとめ――。
「あ?何だ、テメ――どごォッ!」
「な、どうしたんだよ、ラル――ごはァッ!」
ボディに一発ずつ食らわせて二人を黙らせた。
「お前ら、はしゃぐのも大概にしろ」
腹を抑えてしゃがむ二人に向け、凄むラルスに視線に彼等は大人しくなるほか無かった。
五人一組で行われる今回の訓練は、駐屯地の近隣にある小規模な森を立体機動による移動のみで一周すると言うものである。
この訓練で重視されるのは、いかに早くコースを周り切れるかではなく五人が確実に帰還する事が求められていた。
適度な間隔を維持したまま木々の間を翔け抜けていく五人。
「……。」
彼等の先頭を飛ぶラルス・ウェラーの立体機動術の成績はミカサ・アッカーマンと同率の一位であり班長として文句無しの人選である。
「チッ……!」
「ぐ……!」
その次に続くジャン・キルシュタインも上位五人に食い込む立体機動の技術を持っている。彼と並列するエレン・イェーガーも弛まぬ努力で上位の成績を収めていた。
本来は、他の班の班長に割り振られてもおかしくは無い二人もいるため、盤石に思える班であるが――。
「大丈夫か、クリスタ?」
「う、うん」
後方の二人。
ユミルの方はそこまで問題のある様子では無いが、最後尾で何とかついて来ているクリスタはこの班の唯一の懸念点であった。
(……もう少し速度を落とすか)
チラッと後方へと視線を向けたラルスは僅かにペースを落とす。
徐々にスピードを抑える事によって後方のクリスタも余裕を持って飛ぶ事ができるようになって来た。
五人が安定して進むなか、ジャンは一瞬だけ並んで飛んでいるエレンへと視線を向けた。
「このッ……!」
本来はもっと差を見せつけるつもりだったはずの相手が、自身と並び立っている事に苛立つジャン。彼は、感情のままレバーを握った。
煙となり噴出されるガス。それはエレンの方へと流れる。
「――ッ!?」
慌ててレバーを握り直すジャンはすぐさま背後を振り返った。
だが、幕のように吹き出した煙がエレンや後方の二人を包む。
「――何しやがる、ジャンッ!!」
最初に勢いよく煙を突き破ったエレンが怒鳴る。
「す、すまん!」
エレンの叱責の言葉に珍しく素直に謝罪するジャン。
彼の今の動きは明らかなミスである。アンカーを射出しようとしたつもりが、勢いよくガスを噴出させてしまった。慣れゆえのミスであり、それで迷惑をかけるのは本人もさすがに悪いと思ったのだろう。
「ケムてぇだろーが、馬面!!」
煙幕を抜けたユミルもまたジャンへの怒りを表す。
そして、その後ろには激怒するユミルを諌めようとするクリスタの姿が――。
「――ぁ」
――無かった。
その代わりに聞こえたのは、声にならないほどのか細い悲鳴。
「クリスタァッ!!」
「ッ!?」
ユミルが叫ぶ。
彼女のその叫びを聞き、木に着地したラルスもすぐさま其方を振り向く。視線の先には、地面に真っ逆さまに向かうクリスタの姿があった。
(――アンカーが刺さらなかったのか……!!)
彼女の装置からは弛んだワイヤーが伸びており、煙で視界が遮られて事で射出されたアンカーを刺さなかった事がすぐに分かった。
「……ヒス――」
彼女と目があった。
落ちていく彼女の瞳は、まるで自分にこれから起きる運命を受け入れているかのような、そんな穏やかなものであった。
そんな時、過去の
『あ、ありがとう、ございます……』
不安気ながらもお礼を述べられた。
『ち、違います……!痛いのは、その、いやです……』
慌てたように首を振っていた。
『ヒストリア……ヒストリア・レイス』
嬉しそうに名前を教えてくれた。
鮮明に覚えてしまっている思い出。
結末を知らなかったからこそ、何度も後悔した。あの時、声をかけなければ良かった、と。心底、そう思う。
『ヒ…………クリスタ……クリスタ・レンズ、です』
再会したくなかった。
目の前で母が殺され、本当の名を奪われた少女。自身は加害者の側であり、彼女はただの被害者。
本来、彼女に手を伸ばす権利は無い。
それなのに――。
ほんの一瞬、身体に電撃が走ったような感覚があった。
木面を蹴り込み、自身ですら想定していなかった速度でラルスは落下するクリスタのもとへ一気に迫った。
「――掴めッ!!」
歯を食いしばり必死に手を伸ばすラルス。
差し出された手を見た彼女は嬉しそうな、あるいは泣き出しそうな、そんな複雑な表情を浮かべ、彼の手を取った。
ラルスは地面スレスレの所でクリスタを引き寄せる。
何とか間に合ったところで、ゆっくりと地面に降りたラルスはクリスタに尋ねた。
「……怪我は無いか?」
「だ、大丈夫……ごめんなさい、私のせいで……」
「……気にするな」
そんな二人に慌てたように上から声がかかる。
「大丈夫か、クリスタ!?」
「ラルスも無事か!?」
「……。」
いの一番に駆けつけたユミルとエレン。その後ろでは、申し訳なさそうに俯かせるジャンの姿があった。
そんな彼等にラルスは指示を出す。
「ユミル、お前が俺の代わりに班長をやれ。そんで、そのまま四人でゴールに向かえ」
「はぁ、何で私が?つーか、班長はお前だろ」
「とにかくさっさと行け……お前もだ、レンズ」
「う、うん……」
不承不承ながらラルスを置いて先に向かう四人。
彼等が行ったのを確認してから、ラルスは右足を引きずりながら動く。彼は先程、加速するのに蹴り込んだ木の根本へと歩き、上を見上げた。
「――あの一瞬。今までとは違う感覚があった」
クリスタを助けるために動き出した瞬間――もっと厳密にはその一歩を踏み込んだ瞬間にラルスの身体はこれまでに経験の無いほどの出力を発揮した。
それこそ、意識的に全身に感覚を張り巡らせているラルスだからこそ気が付けたほんの一瞬である。
「――これが……」
ラルスの見上げる視線の先、蹴り込まれた木面には足の大きさほどの亀裂が生まれていた。
「……リミッターを外した力」
彼が思い出すのは、かつてケニーの述べていた言葉。
『まあ、仮に出来たとしても――』
ラルスは引き摺る自身の右足を見つめる。
『代償が伴う事に変わりはねぇがなぁ』
ケニーの言葉通り、限界を越えた彼の右足は完全に折れていた。
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