吾輩は猫である。 (香椎)
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吾輩は猫である。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 

 

 気がつけば吾輩は人間の町に猫として生を受けた。朧気ながらも前世は人間だったと記憶している。

 人間に気に入られるような振る舞いも猫としての本能も欠けている吾輩は、他の猫に目をつけられぬよう日陰で過ごしていた。

 泥水をすすり、掃き溜めの飯を食らう。それが吾輩の生き方だった。

 

 

 生まれて少し経った頃に吾輩は初めて死体というものを見た。

 人間よりも遥かに高いビルという建物から落ちてきた人間。さりとて息はあるのか、薄れゆく意識の中で吾輩と目が合った。いや、正確には吾輩を見てはいなかった。その人間の目には自分を突き落とした人間の姿が映っていたのだろう。

 生憎ニャーと猫らしく叫ぶことしか出来ぬこの身。息絶えるまで怨言を唱える人間を空へと見送って、吾輩は今日もまた生きる為に歩き出した。

 

 

 それから季節は巡って、また何度目かの冬が訪れた。

 この年の冬は昨年に比べ遥かに寒く、冷たくなった吾輩と同じ境遇の者を何匹か目撃した。

 吾輩の生も終わりつつある。

 もはや感覚を感じぬ手足に目を瞑りその時を待った。

 

 

 しかし目を覚ませば吾輩は檻の中にいた。

 何が起こったのか吾輩は瞬時に悟った。きっと保健所とやらに連れて行かれたのだろう。なんでもそこに行けば一時の幸福は得られるとかつての仲間が語っていた。

 しかし、それにしては周りからニャーやらワンやら鳴き声は聞こえぬ。

 ここは保健所ではないのか?それとも皆、幸せを終えたのか?

 思考を巡らせ考えようにも小さなこの脳みそでは何もわからず、暫くしてやって来た白衣を身に纏った女性の言葉に委ねることにした。

 

 

「あら、無事目が覚めたのね」

 

 

 その言葉から察するに彼女が吾輩を助けてくれたのだろう。

 檻から出されて彼女に抱き抱えられながら周囲を見渡す。沢山の紙の束に注射器やら試験管やら乱雑に並べられた机。なにやら保健所や病院というよりは研究所のような雰囲気である。

 吾輩は実験資料のサンプルとして持ち帰られたのか。恩義はあれど死ぬ気は毛頭ない。毛を逆立てて抗議すると彼女はクスリと笑った。

 

 

「大丈夫よ。あなたに酷い事はしないわ。ただ暫くの間、私の傍に居てくれないかしら」

 

 

 寂しげな横顔に、吾輩とて神妙な面持ちになってしまう。

 この世に生を受けて数年。いつかその時が来るまで、吾輩は彼女の傍に居ようと心に決めた。

 

 

 それから吾輩は彼女に身体の隅から隅まで検査され、いくつかの薬を投与されてから、温かい寝床と美味い飯のある生活を送ることになった。

 初めこそ彼女が鼠を前に注射器を取った時は驚いたが、今となっては「ネズミか。ありゃあ不味くて食えたものではなかったな」と昔のことを思い出すのみ。血を見るのには慣れたもので、時折欠伸をしながら見守る吾輩を彼女は不思議そうに見つめていた。

 

 

 それから日が流れ、ふてぶてしくもここでの生活に慣れた頃。吾輩が住む研究室にまで響く声で彼女と誰かの口論する声が聞こえた。

 表立って飼われてはいない吾輩はその声の主を直接拝んだことはないが、彼女が仕えている組織の人間で彼女が毛嫌いしている「ジン」という人間であると理解した。

 組織の事になると度々影を落とす彼女だが、こうも正面切って口論するとは珍しい。いや、彼女らしからぬとも言える。

 

 それから何日経っても戻って来ない彼女に吾輩は察した。

 

 吾輩をただの猫と侮るなかれ。

 柔軟な身体を駆使し、吾輩は人間の目に付かぬように組織から抜け出した。

 久しぶりの外の空気。さりとて感慨に耽ることもなく、雲行きの怪しい空を眺めて吾輩は走り出した。

 彼女はまだ生きている。人間より優れたこの嗅覚と自分でもわからぬ感覚がそう教えてくれる。

 雨が降っては彼女の痕跡を辿るのは困難となろう。ならば今はこの小さな体躯でひたすらに走らねばならぬ。

 

 吾輩は走った。必ず彼女を探し出すと決意した。

 たとえ烏や童に襲われようと吾輩は止まらずただひたすらに走った。

 

 やがて雨が降り、彼女に染み付いた匂いも消えた頃。

 吾輩は彼女と初めて出会った場所に辿り着いた。吾輩にとっては死を覚悟した場所でもあるが。

 なんとなく、なんとなくだが彼女はここに来た気がする。

 

 

「なんじゃ、迷い猫かの?」

 

 

 ふらふらと歩いていると、顔にシワを刻んだ人間に声をかけられた。

 スンッと何処かで嗅いだことのある匂い。

 背後から覗くように揺れた茶髪が目に入る。

 身体が縮み、童になれど、そこに居たのは紛れもない彼女だった。

 

 

「嘘……どうして……」

 

 

 目が合うと彼女は口を手で覆って驚いた。

 

 

「にゃぁ…」

 

 

 擦り寄って、猫らしく鳴いてみる。

 喉が乾き掠れた鳴き声だったが、それを聞いた彼女は目尻に涙を浮かべて吾輩を抱きしめた。

 久しぶりの温もりに目を閉じる。

 

 

「あなたが無事で良かった……っ」

 

 

 彼女の頬に伝う涙を舐めて、慰めるようにニャーと鳴く。

 

 吾輩は猫である。彼女の傍にいると約束した日から、彼女を見守る猫である。




哀ちゃんに飼われたいだけの人生だった。
要望があれば続きます。たぶん。


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