トウカイテイオー27歳 (kouta5932)
しおりを挟む

第一話

 酒飲まないのにスーパーのお酒コーナーでスト〇ロを見たとき、スト〇ロはちみ―割りというパワーワードが浮かんだので書いてみました。その割に話自体はシリアスよりというアンバランスさ。
 正直私自身ウマ娘はにわかですし、オリウマ娘も出ちゃっていますが、楽しんでいただけたら幸いです。





 何となしにテレビをつける。別に大して見たいものなんてなかったが外は生憎の大雨、日課のランニングする事も出来ないし、ここまで降られちゃったら買い物に出かけるのも億劫だ。つまりは今日は一日家でだらける日だ。

 ぐでーっとテーブルに寄りかかりながらチャンネルを手に取る。この時間帯は大体は昔やっていた奴の再放送だ。なかなかしっくりくる番組がないなぁとぼやきながら、次、また次と回していると、とある女性のインタビューに目が留まった。

「あれ、この子……」

 どこかで見た事あるような気がして、記憶をたどっていくが今一ピンとこない。どうにも気になってさらに情報を得ようと字幕を見ると、彼女は何かの大会に優勝したらしい。史上初の快挙と書かれており、何とも仰々しい感じだ。

「どのG1レースだろ? でもこれライブ中継なんだね。海外という感じもしないしなんなんだろう?」

 トゥインクル・シリーズと勘違いしてしまったのは、画面の彼女には普通の人にはない頭頂部に耳があったから。そう、彼女はウマ娘だったのだ。ウマ娘で脚光を浴びると言えばレースにおいて他ならない。だが彼女の戦いの舞台は同じレースではあっても、僕が知るレースとは異なっていた。

「え?」

 優勝する瞬間のハイライトが流れたとき、僕は呆気にとられた。そこには勝負服でターフを駆け抜けるのではなく、ウマ娘とは比べ物にならないくらいの速さでアスファルトを駆け抜ける鉄の塊があった。己の足ではなく、技術の結晶を詰め込んだマシンと、ドライビングテクを駆使して速さを競い合う競技、すなわちF1である。

 彼女はウマ娘にしてF1グランプリを制覇した初めての存在として脚光を浴びていた。インタビューでは勝利後の感想、レース中思ってた事、勝因は? など当たり前の質問が並ぶ。正直この質問に何の意味があるのだろうと僕は思う。結局答えは言い回しの違いこそあれ、誰もが一緒になるのだから。解答に自由がないインタビューにどれ程の価値があるのだろう?

 決まったやり取りにイライラしつつも見続けてしまったのは、彼女が気になってしょうがないからだ。素直に凄いと思ったのもあるが、それ以上に僕は彼女の容姿に引っかかりを覚えていた。しかしいくら待てども僕の期待する答えは出て来る事はなく、いい加減我慢できなくなった僕はノートPCを引っ張り出す。

 今はネットの時代、自分で調べた方が早い。検索エンジンにF1、ウマ娘のキーワードを打ち込み、検索をかけると彼女の記事はすぐに見つかった。そして彼女の経歴を見た時、インタビューを受ける彼女の顔が、ようやく過去の記憶と一致した。

 彼女はかつてレースで僕が土をつけた相手であった。といっても競っていたわけでもない。彼女は一位の僕とはかけ離れた最後尾にいたのだから。ひょっとしたらドベだったのかもしれない。

 それでも僕の記憶に残っていたのは彼女の絶望の表情を見てしまったから。地方は努力で何とかなる部分もある。だが中央ともなると努力ではどうにもならない才能の領域だ。厳密的に言えば努力は必要だ。だが努力とは最低限のもので、中央に来る子は誰だってしている。いくら体の強いウマ娘と言えど、体が耐えられる練習量には限界がある。故に与えられる努力の時間はほぼ一律。限界を超えて練習をした者に待つのは、栄光の勝利ではなく、怪我で現役引退という絶望。

 限られた時間で1を学ぶのか、10を学ぶのか、極端に言ってしまえば努力で埋まる差なんてものはない。それくらい才能は残酷だ。

「そっか、あの時の子なんだ……」

 僕が最初のレースで見たもの、それは彼女の心が折れた瞬間であった。当時は諦めるのなら勝手にすれば? なんて生意気な事を思っていたが、今になったら彼女の事が少しは分かる。僕は幸い才能を持つ者として生まれてきたが、僕の現役時代は怪我との戦いであった。実力の決定的な差を感じさせられると言う絶望こそなかったが、それでも競技生活が終わってしまうのではないかと言う恐怖、それは一度目の怪我の後からは常にあった。

 出会ったのが後であったのなら、少しは優しい言葉をかけてあげられたのだろうか? 思わぬ過去との遭遇に感慨深いものを感じ、その一方で劣等感みたいなものを感じざるを得なかった。

 現役時代はトゥインクル・シリーズで一世を風靡した無敵の帝王だったが、今の僕はただの無職のニートだ。レースでたんまり稼いだのでお金に困る生活とは無縁ではあるが、幸せかと問われればどうだろう?

 姿見の前で自分を見てみる。そこには覇気も何も感じさせないダルダルーな感じの自分。服は可愛げも何もない部屋着で、眼が悪くならないようにと、1000円ちょっとのブルーライトカット眼鏡をしている姿は、半分女を捨てている気もする。テレビの中で輝いている彼女とはえらい違いだ。

「どうしてこうなっちゃったかなぁ」

 答えは返ってこない。一人暮らしの悲しい現実であった。どうにも居たたまれなくなって冷蔵庫からスト〇ロを取る。どうせ今日は何にも出来ない日だ。昼から酒を飲んでも大したことないでしょ。

 

 こうして僕はまた今日一日を無駄にした。

 

 あー、スト〇ロのはちみー割りサイコー!!

 

 

 

 

 いつもとちょっとだけ違った一日も、時間が経つにつれていつもの日常に埋もれていく。柄にもなく真面目に考えたりしたが、それも元の木阿弥であった。だが縁と言うものは馬鹿にならないものだ。

 その日、僕はどういうわけか、いつものランニングコースを隣町の公園に変えた。理由は特に考えてなくただの気まぐれであったが、今にして思えば何かしらの変化を求めていたのだろう。遠い過去、名前すら忘れていたウマ娘が得た新たな栄光は、僕の心をちょっとだけ外向きにさせてくれた。

 そんな普通であれば『ちょっとだけ良い話で終わる一日』のはずだったのだが、僕の心の準備など関係なく変化と言うものはいつだって急に訪れる。

「あの、失礼じゃなければ良いのですが、ひょっとしてトウカイテイオーさんですか?」

 ウォームアップを終えてこれから走ろうと思った矢先に横から声をかけられる。しかし僕は現役引退後今のような暮らしをし始めてから、今の己に覇気がない事を良い事に、知らぬ存ぜぬ他人の空似で通してきた。

 現役時は僕は皆から明るいキャラと親しまれてきたが、それは知人の前だけであって、本来他人との会話は辛い方だったりする。仕事だからやっていただけであって、ファンサービスは得意ではない。今でも覚えてもらっているのは素直に嬉しいが、何を話せばいいか分からないし、特に現役引退後については聞かれたくない。

 だからこそ僕は、いつものように引退後習得した田舎丸出しの方言で、他人の振りをしようとしたわけだが、隣の彼女の顔を見た瞬間固まってしまった。

「あ、君は……F1の……」

 何せついこの間テレビで見たあの子がいたのだから。これこそまさに野生のチャンピオンが飛び出してきた! こんなところでエンカウントするとは……

「え、まさか私を知っているんですか? あのテイオーさんが?」

 彼女の凄い喜び様に僕は罪悪感を覚える。私は別にF1のファンじゃないのだから。

「ごめん、F1のファンってわけじゃないんだ。たまたまテレビを見ただけ」

「それでもいいんです! ふふ、嬉しいなぁ」

 しかしどうしたものか。初手を失敗したせいで、何か自分がトウカイテイオーじゃないって言うタイミングを失ってしまった。なまじ過去の彼女の挫折の瞬間を知っているのもまずい。僕はまぎれもなく彼女の夢を折った側である。見る限りは恨まれてはいないようだけど、だからといってどう対応するのが正解か、答えが出たわけじゃない。

 何故に彼女はそこまで僕に普通に接する事が出来るのだろう? その余裕のようなものがうらやましく、それでいて不快だった。だからだろうか? 大人になって少しは自制を覚えたはずの僕が遠慮を忘れてしまったのは。

「君はさ、どうして僕と普通に会話できるの?」

「といいますと?」

「だって僕は君の夢を壊したウマ娘だよ?」

 それは自分からトウカイテイオーであると認める行為だ。それでも僕は聞きたかった。彼女の真意がどこにあるのか。何故僕をトウカイテイオーを知りつつ話しかけたのか。そんな僕の意を決した質問に対し、彼女は穏やかに笑みを浮かべるのみであった。

「覚えてくれてたんですね。最底辺だった私を」

 僕にとっては分からない事だらけだ。僕の質問はある意味では失礼極まりない。何故なら強者の立場として弱者に問いかけているからだ。もしも現役時代の僕がこんな事されたら間違いなく怒る。今だと我慢出来なくもないと思うけど、やっぱり裏では怒る、と思う。

 自分がとりわけ負けず嫌いなのもあるであろうが、それでも彼女の態度は腑に落ちない。完全に思考の海に沈んでしまった僕であったが、彼女はただでさえキャパオーバーで困惑する僕をさらにかき回すのであった。

「せっかくですから一緒に走りません? こんなに良い天気ですし」

 僕が走りに来たのは恰好からバレバレであったが、そういえば彼女の方もトレーニングウェアにランニングシューズであった。

「え? うん、いいけど……」

 すんなりOKしてしまった自分自身に驚きつつも、僕は彼女に対し釘をさす事を忘れなかった。

「あ、ただ全力はなしね。全力はもう足が持たないんだ」

 現役時代、僕は怪我とは切っても切れない縁があった。4度も怪我をしてしまえば臆病にもなるというもの、昔のように好き勝手走るとはいかない。

「もちろんですよ。これは勝負じゃありませんし。ゆっくり気ままに走りましょう。ここの公園は一周2kmくらいですからそうですね、とりあえず2周程度で如何でしょうか?」

「それくらいなら。ただ僕はここで走るの初めてだから先導任せても良い?」

「はい、任されました!」

 元気よく駆け出した彼女であったが、その元気さとは裏腹に速すぎる事はなく、負荷は気にならない程度、でもだらけないスピードで、今の僕にはちょうどいい塩梅の速さであった。

「これなら大丈夫そう」

 安心した僕は彼女からぴったり1mくらい後をついていく。誰かと走るなんて久々な事で、少し浮かれている自分を自覚した僕は苦笑する。あれだけ苦しい目にあったのにやっぱり走る事が好きなんて、もうここまでくると病気かと思っちゃう。

 もっと笑っちゃうのはレースでもないのに前を走る彼女を分析してしまっている事だ。バランスが取れた綺麗なフォームだった。癖らしい癖もなく、安定感が抜群だ。だからこそ分かってしまった。どうして彼女が中央で挫折してしまったのか。

 僕は選手であってトレーナーではないがこれでも一線で戦っていた身、育てるのは別として見る事だけならできる。おそらく彼女は完成に至るのが早すぎたのだと思う。彼女のフォームは中央でも通用するレベルであったが、中央で戦っていくにはスピードを出すための筋力が圧倒的に足りていない。技術以前に力がなさすぎる。

 じゃあ単純に体を鍛えれば良いと思うかもしれないが、事はそう単純じゃない。筋力が増えれば体のバランスも変わる。無理な増強のせいで自分の得意な走り方に合わなくなって、かえって走れなくなる子も少なからずいるのだ。

 彼女はきっと修正するには完成されすぎていた。自己流だったのか、トレーナーの指示だったのか、きっと前者だったのだろうと僕は推測する。トレーナーがついているのなら彼女のアンバランスさはとっくに修正されているはずだ。

 つまり彼女と戦ったのは公式のレースではなく、それ以前の模擬レースの時だ。ウマ娘がトレーナーに見出してもらうためのレースである。

 彼女は自分で考え、自分でフォームを修正できる稀有なウマ娘だったのだろう。だからこそ体の成長とフォームのバランスが狂ってしまった。体が育ち切る前にフォームが完成されてしまった。言い換えれば育ち切る前の体に走りが最適化されてしまった。

 決して才能がなかったわけではない。類まれなる才能は持っていたけど間が悪かった、彼女はそんな子達の一人なのだろう。

 彼女の最大の武器こそが、逃れようのない呪いとなっているのは何と言う皮肉だろう。治す事自体は可能だったのだろう。ただ一度染みついたものを抜くには途方もない時間がかかる。それが完成されたものであればある程に。彼女の場合は筋力トレーニングを徹底し、自分のフォームを忘れるくらい走る事から離れて、そこからフォームの再構築、大まかな流れはそうなるはずだ。

 だがトレセン学園に通える時間は有限だ。一定期間トレーナーがつかずレースにも参戦できなかった場合、学園から強制的に追い出される事はないが、それ以上学園からの援助はなくなってしまう。学園もただの慈善団体ではない。

 自費負担で続ける事もできなくはないが、それができるウマ娘はそれこそマックイーンのようなお嬢様じゃないと無理だろう。事実上のタイムリミットである。

 もしもトレーナーの内の誰かが彼女に気づいていたら化けていたかもしれない。しかしそのもしもはきっと同レースで一位を取った僕が潰した。僕が目立ちすぎなければあるいは……そこまで考えて僕はかぶりを振った。勝った者がそのような同情はするべきじゃないのだから。

 もちろん仮に彼女が正しい成長をしたからと言って、中央で勝てるかと言ったらそんな事はないだろう。一流の中の一流が集うあの世界、才能がある子はごまんといるのだ。それでも少しは結果が違っていたのではないか、彼女の努力の結晶である美しいフォームを見ていたら、そう思わざるを得なかった。

 しかしそんな化物揃いの中で、過去の僕はよくもまあカイチョーを目標にしたよね。若さって凄い。

「ふう、おしまいっと」

「あれ? もう?」

 どれ程集中していたのだろう。声をかけられてようやく僕は公園2周がすでに終わっていた事に気づいた。

「随分と集中していたようで。すっごい見られてたの感じました」

「ご、ごめん。その、迷惑だったかな?」

 慌てて僕は謝罪する。レースでもないのに思いっきり分析してしまっていた。気楽にやってほしいと言ったのは僕の方なのに、現役時代の僕が顔を覗かせてしまったようだ。

「いえいえ、良い緊張感でしたよ」

 あれだけ見ておいて黙っているのは何だと思って、僕は率直な感想を彼女に告げる。

「淀みのない綺麗なフォームだった」

 彼女は一瞬驚いた表情を浮かべ、ニッコリと笑った。

「ありがとうございます。かの帝王にそう言ってもらえたなら過去の私も浮かばれます」

 彼女は『過去の私』と言った。そこに何か含みを覚えた僕だったが、程なくして納得した。自分のフォームを修正できるくらい客観視できる彼女の事だ。何が問題だったのか、分かってないはずがない。

「原因、分かってるんだね」

 彼女はどこか遠い目をしながら、僕の推測を肯定した。

「正直答えを知ってしまった時、私は自分が嫌いになりました。間違った事を最善と思い込み、取り返しのつかなくなった私自身を。でも私の選択は正解でもあったんですよ」

「というと?」

「地方で無名なウマ娘である私が中央に行くためには、何より勝ち星が必要だった。でも私には恵まれた体はない。田舎に優秀なトレーナーなんているわけもないから戦略もない。あるのは根性論っていう無茶苦茶なものです。だからこそ、その時の私にとって最も信用できたのは『走り方』そのものでした。私に必要だったのは将来勝てるようになる事じゃなく、今すぐ勝てるようになる事でしたから。その代償は高くつきましたけど、そもそもこの勝ちがなければ私がトレセン学園に入学する事は叶わなかった。トレセン学園を去る事になった時は、時間さえくれれば、チャンスさえくれれば、まだやれるのにと何度も思いました。最後には時間を巻き戻せたらと」

 それは僕も思った事だ。骨折する度に考えていた。すればするほどその思いは強くなったかもしれない。最初の一回さえなければと。でも、 

「でも仮に人生をやり直せたとしても結果は同じにしかならないんですよね。過去に戻っても私に与えられたカードに変わりはないんですから。悠長に体を鍛えていたら私はトレセン学園すらたどり着けていない。元から精一杯やりきった結果なんです。これ以上はあり得ない」

 彼女の言う通り、過去に戻ったとしても僕はかつての成績以下しか残せなかっただろう。僕らは元から極限まで鍛え上げて、それでも怪我をしてしまうほどの限界で走る。まさに生と死のぎりぎりで戦っているのだ。そこにプラスアルファの入る余地などない。

「これが、私の答えですテイオーさん」

 随分と回りくどい方法であった。だが僕達はウマ娘だ。一緒に走る事には意味がある。彼女の走りを見たからこそ、彼女の答えがまぎれもない真実だと断言できるのだ。

「あの時の悔しさがあったからこそ這い上がれました。過去の私があるからこそ今の私がいます。沢山迷って寄り道もしましたが、今ならはっきり言えます。私に後悔はありません」

「後悔はない……か。ごめん、僕はあまりにも失礼だったね。君はまぎれもなく一流だ」

 目が覚める思いだった。ぐちぐち考えていた自分が馬鹿らしくなるほどに。彼女はとっくに振り切っている。それを僕がとやかく言う筋合いはない。

 色眼鏡を取ってみると彼女の体はアスリートそのものであった。初め僕はスピードを出すための筋力はないにしろ、バランスが良い肉付きだと思っていた。だがよくよく見ると首はしっかり太く、シャツから覗く腹筋が著しく発達している。僕達とは別の極致だ。きっとこれがF1レーサーとして必要な体なのだろう。

 己自らが走るトゥインクル・シリーズの場合、どうしても足をメインに考えてしまうため、考えが至らなかった部分だ。足がトゥインクルレースに出る子達と比べて控えめであるのは、あえてそうしているのだろう。筋肉は圧倒的パワーを生むがその分重い。しかも燃費も悪くなるおまけつき。使わない筋肉であるのならむしろ鍛えない方が良い。

 一方で僕の体はと言うと……ちょっとスト〇ロはちみー割り控えないと駄目かも。元が糖質ゼロであってもはちみーを入れ過ぎれば意味はない。全盛期とはほど遠いのは間違いないが、それでも走りであるなら今の状態でも彼女に勝てそうと思うのは、昔取った杵柄という事で許してほしい。足が無事な保障はないけどね!

 実際に勝負した場合の想像をしている自身に思わず笑ってしまった。こういったのは久々の感覚だった。一流は一流を知るって言えば生意気かもしれないけれど、かつてのライバルたちを彷彿とさせる彼女の放つオーラは、残りカスでしかない今の僕の心を震わせた。

 現役最後の方はただ苦しくて苦しくて、そればっかりが記憶に残っていたけど勝負とは元来こういうものだ。ただひたすら熱く、目の前にいる凄い人に並びたいと、勝ちたいと体がうずうずしてくる。この感覚がたまらなく好きだからこそ僕はトレセン学園の門を叩いたのだろう。

 遠く忘れていた初心、それを思い出させてくれた彼女に感謝を告げようと僕は向き直る。しかしお礼を告げたのは彼女の方が先だった。

「テイオーさん、ありがとうございます」

「ふえ?」

「今日プライベートであったにもかかわらず、お声がけしたのはどうしてもあなたにお礼を言いたかったからなんです。あなたが折れないでいてくれたからこそ私も踏ん張れました。他の誰でもない、あの時、あの場所で、同じレースを走っていたあなただからこそ」

「僕はただ一生懸命走っていただけで何も……」

「だからですよ。ただひたむきに走って走って走り続けた。そこから勇気をもらった人は多いと思いますよ? 私もその一人です。あなたが私にアスリートは何たるかを教えてくれた。だから私はこの世界で勝てたんです」

 言葉がなかった。代わりに瞳から涙が溢れてくる。

「何で、何でそんな事言うんだよう。僕は……僕は……!!」

 初めこそ無敗の三冠馬が目標だったが、ダービーを制した矢先に骨折をしてしまってその夢は断たれた。再起を図った天皇賞でまさかの二回目の骨折。そこで感じた初めての恐怖、走れない自分に価値はあるのか。

 純粋に走れなくなったのはこの頃だったろうか? 無価値の自分から逃げるようにがむしゃらに走り続けた。燃えるようなレースなんて関係ない。捨てられないために勝ちに拘った。まだトウカイテイオーは終わっていないと知らしめるために。

 皆に元気を与えようとか、夢を与えようとか、僕にそんな余裕なんてなかった。ただただ自分のためだけに走った。三度怪我をしたって僕は止まらなかった。しかしそこには美しさも何もない。必死だっただけだ。ふと脳裏に浮かぶあの人の声。

 

『テイオー、今君は走っていて楽しいか?』

 

 僕はその質問に答える事が出来なかった。それもそうだ。何故なら僕はあの人、トレーナーから離れたくないからこそ走っていたのだから。世間は人の不幸を好む。特に成功者の失墜は恰好の餌だ。僕が怪我をしたり負けたりした時、マスメディアは好きなように書き立てた。

 かつてのスズカ先輩とそのトレーナーが、執拗にバッシングされていた事を良く知っていたため覚悟こそしていたが、それでも無遠慮な言葉の暴力は僕の心を容赦なく抉った。

 その時ずっと僕をはげまし、守ってくれたのがトレーナーであった。自ら矢面に立って庇ってくれて、何て事ないと笑顔を見せてくれたトレーナー、それにどれ程救われたか。

 他にも信用できる人たちはいるにはいたが、トレセン学園の皆は友人である以上にライバルでもある。その点からして身内と呼べるのはトレーナーだけ。

 でも僕とトレーナーは家族ではない。トレーナーは仕事であるからこそ僕と一緒にいられる。僕が走るのをやめたらトレーナーは次のウマ娘に行ってしまう。それが怖くてたまらなかった。走る価値以外を自分に見いだせない僕に、彼をつなぎとめておく方法はそれしか思いつかなかった。すでに皇帝を超えるなんてどうでもよかった。何て不純で我儘な動機なのだろう。

 僕自身間違っていると思っていたけど、決して止められなくて。心はぐちゃぐちゃになっていたけど走る事だけはやめなかった。それでもどう足掻いたって終わりはやってくる。四度目のケガをした時、僕の競技人生はとうとう終わった。そしてトレーナーとも……

「王者は王者らしく、とは言いますけどあれって頭に来ますよね。こっちがどれだけ余裕ないと思ってるんだって話ですよ。負ければ真っ先に掌返す癖に贅沢な事です」

 僕の態度で何か察したのか、彼女は大げさなリアクションで僕に賛同を求めた。

「正直僕もあんまり好きじゃないけど勝者の責務ってやつじゃないのかな」

「でも私は悠然としている絶対王者じゃなくて、意地でも食らいつかんとした、ぎらついたあなたにこそ憧れました」

「それが単に引退が怖かっただけと言ったら笑う?」

「いいえ、引退に怯えるあなただから恰好良かったんです。終わりを知りそれでも足掻く姿こそ、私には美しく見えた。良いじゃないですか動機がなんであったって。お金を稼ぎたいからって参加する選手を笑いますか? しないでしょう? 元から勝利への欲求なんて純粋なものじゃないんです。肝心なのはどんな思いなのかではなく、どれだけ思いが強いかなんですから」

 目からウロコとはまさにこの事だった。僕は僕らしく、そうは思ってはいたが、己の名に帝王を冠していた僕は、帝王はこうあるべきという幻想に縛られていたらしい。よくよく考えてみれば僕がカイチョーに憧れたのは、ただ強いというからだけでなく、皇帝の名を冠しており、またその在り様をその身をもって体現していたからだ。

 しかし僕はレースでの成績は残す事が出来たが、皇帝の在り様を継ぐ事は出来なかった。僕はいつしかこんな後ろめたい気持ちで走っている自分に対して、帝王の名にふさわしくないと思うようになっていた。ただの執着で走るなんてあってはならないと。それでもこれだけははっきり言える。

 

 僕はレースで手を抜いた事なんて一度もない。

 

 そう心の中で断言できた時、僕の中で何かがすっと抜けていった気がした。

 

「そっか、僕の……僕の走りは間違ってなんてなかったんだ」

 

「テイオーさん?」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 

 涙をぬぐうと突如僕は思いっきり大声を上げた。周りの奇異の視線なんて知ったこっちゃない。今までたまりにたまった鬱憤を一気に吐き出す。そしてそのまま公園をもう一周しようと駆け始めた。こんなにも清々しい気持ちは久しぶりだった。

 一歩遅れて彼女がついてくる。今度は僕が先導する形だ。

「どうやら相当溜まっていたみたいですね」

「君も気を付けてね。すでに分かってると思うけど、有名になると色々と面倒くさいよぉ」

「こっちもこっちで結構大変なんですよ。デビュー当時はウマ娘がF1の世界に入ってくるなー、ターフの上で走ってろー、とか散々言われましたからね」

「出たよウマ娘蔑視」

 急に馴れ馴れしい態度を取る僕であったが、彼女は意に介した様子もなく笑って対応してくれる。すでに一度醜態を晒した後だし、これから気を遣うのも馬鹿馬鹿しい。だから僕は彼女の優しさに甘える事にした。今の僕はとにかく話がしたい。そんな気分だった。

「だから実力で黙らせました」

「何そのメンタルお化け。強すぎない? 正直君がこっちのレースに来なくて良かったと僕思ってるよ」

「初めこそ悩みましたが、悩んでいるうちに段々気を遣うのも馬鹿らしくなって、こう、ドカーンと」

「爆発しちゃったんだ?」

「ええ、一度吹っ切れちゃえばどうって事ないですよ」

「ちょっと見てみたかったなぁそのシーン」

 彼女のやらかした事はかつての僕もやりたかった事で実に痛快だった。僕も『もう黙って見とけ』くらい言えばよかったかな? 今の彼女と僕は対等で(合わせてもらっているともいうが)軽快なやりとりが楽しい。

 話し合っていれば次の一周もあっという間であった。ちなみにトークと走りを同時にやるのは無謀でただの馬鹿である。それは走るのが得意なウマ娘だって例にもれず、普通に息が上がっていた。レースでは絶対あり得ないはちゃめちゃな走りだったが、それが最高に楽しかった。

「本当にありがとう。君のおかげで憑き物が落ちたよ」

 それ以外に言葉がなかった。心からの感謝を彼女へと送る。

「いえいえ、私に勇気をくれたテイオーさんへの恩返しです。会えたのはたまたまでしたが、私はこれを偶然にしたくなかった。なので無遠慮に踏み込ませてもらったのですが、私はあなたの力になれましたか?」

「十分すぎるくらい!」

 世間がどう思っているか関係ない。僕は僕だ。

 だったらもういっそ正々堂々と告げちゃおう。

「一つ訂正したい事があるんだけど。引退怖かったのは確かなんだけど、やめたくなかった理由はもっと単純なんだ」

「といいますと?」

 僕はありったけの笑顔で心の内にずっと閉まっていた想いを告げた。

 

 

「好きな人と離れたくなかっただけ!」

 

 

「それは素敵な理由ですね」

「でしょ?」

 

 ああ、皆に会いたいな。かつての記憶が色鮮やかに蘇る。一緒に切磋琢磨した僕のライバル達、皆が皆輝いていて、そこに僕はトレーナーとの二人三脚で立ち向かっていった。辛い事も沢山あった。それでも、それ以上に充実した日々であった。

 ずっと蓋をして気づかないようにしていたそれ、一度開けてしまえばとめどなく溢れる。こうなったらもう止められない。止めようがない。

「よし! 決めた!! 僕これから着替えてトレセン学園に行ってくる」

「あら、随分と急ですね」

「長い間心配かけちゃってたからね。謝りに行ってくる!」

「へぇー」

「何? にやにやして」

「だってそこにいるんでしょう? テイオーさんの好きな人」

「うにぃっ!?」

 うん、そうだよね。バレバレだよね。自分から思いっきり暴露してこの流れなら間違いなくそうだよね。今更ながらに恥ずかしくなった僕はジト目で彼女の方を見る。

「わ、悪い!?」

「全然」

「その余裕がむかつくぅー!!」

 人はどうして他人の恋路を見ると、極端に優しい顔になるのか。反撃するにも今の僕に彼女の恋愛事情を知る術はない。

「がんばってくださいね!」

 でもその応援は心からのものであった。

「うん……正直駄目もとだけど動くなら今しかないから」

「大丈夫です。きっとうまく行きます」

「気軽に言ってくれちゃって。こちとらまるまる1年へタれていたへなちょこだよ?」

 

「僕は無敵のテイオー様だぞー!」

 

「はい?」

 無敵のテイオー様と言ったのは僕じゃない。いきなり彼女が僕の声真似をしてポーズを取ったのだ。意図を測りかねてぽかんとしていると彼女は繰り返した。

「僕は無敵のテイオー様だぞー! はい!」

 あー、復唱しろって事?

「それってやらなきゃダメ?」

 30代が見えてきた今でそれをやるのは厳しいんだけど……

「僕は無敵のテイオー様だぞー! はい!」

 しかし彼女は三度それを繰り返す。僕がやるまでやり続けるとでも言わんばかりだ。このままだとらちが明かないので僕は仕方なく続いた。

「あー、ムテキノテイオーサマだぞー」

「気合が足りない! もう一回です!!」

「僕は無敵のテイオー様だぞ!!」

「ポーズも一緒に!」

「僕は無敵の……」

「手の動きがゼロコンマ1秒遅いです!!!」

 

 注文が細かい!! こうなりゃやけだよ!!

 

 

「僕は無敵のテイオー様だぞー!!!!」

 

 

 そしてビシっと決めポーズ。

 

「完璧です!!」

「なに、なんなのこの羞恥プレイ」

 まるでゴルシといるような無茶ぶりだった。あの人今何してるんだろうなー。ゴルシの破天荒ぶりは凄まじかったが、常識人の面をかぶっているだけで目の前にいる彼女も大概かもしれない。でもまあ、悪くはないかな?

 そう、僕は無敵のテイオーだ。無敵なんだからうまく行くに決まっている。かつてを思い出して懐かしのテイオーステップを披露する。

「おお、これが噂の……」

 ちょっとしたお礼を終えて、僕は改めて彼女を見た。柔和な顔に隠された闘志、走りは正確無比なマシーンのようなのに、その心は煮えたぎっていてマシーンとはほど遠い。そのくせに世話焼きでもある。そこまで考えて僕は思った。

「君、案外トレーナー向きかもね」

 思考がマイナスに行こうとすると無理矢理にでもプラスにさせられてしまう。無茶苦茶にかきまわされて、考えるのが億劫になってしまった僕は、もうどーとでもなれといった心境だった。そうなるように仕向けた彼女はなかなかに大物だ。流石一位を取るだけの事はある。

「でも私にできるのはここまでです。後は……」

「うん、今度ここに来たときは君にウイニングランを見せるよ」

「はい、期待しています」

「それじゃあまた」

 こうして僕は公園を後にした。ちょっとの不安と大きな期待を胸に。

 

 あの人と再会したらまず何て声をかけようか。

 

 初めの一言はきっと―――

 

 

 




 トウカイテイオー27歳の一話お読みいただきありがとうございました。
 いかがだったでしょうか?
 ここで作者から一つお願いがあります。それは設定面での矛盾についてです。

 今作はテイオーの年齢はタイトル通りで27歳で、引退はその一年前、26歳の時にしていたという設定となっています。これは人間のアスリートの現役引退時機(これでも正直早いくらいだけど)を考えて設定したのですが、ウマ娘の世界だとこれがちょっと変になっちゃうんですよね。
 何せトレセン学園って中高一貫の学校って設定で、テイオーは中2スタートです。そして本物のテイオーの現役期間は3歳から7歳までの5年間。それを忠実にあてはめると、中2は13歳~14歳ですので、そこから5年間足すと、テイオーは18~19歳の時に引退している事になるでしょう。
 これだと27歳まで時間が空きすぎてしまっているため、トレセン学園卒業後もウマレースが続けられるプロリーグみたいなところがあって、そこで現役続行していたとお考え下さい(10代で引退するスポーツ選手ってのもそれはそれ違和感あるし)。
 宜しくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話

テイオーは見事トレセン学園でトレーナーと再会できました!

……と思いきや、

そう簡単には復活しませんさせません。
ってことでヘタレのターンはまだまだ続きます。


「ヘタレですね」

 直球も直球、剛速球で大ダメージだった。

「だってさ! 1年だよ!? まるまる1年も会ってないんだから緊張しちゃうのはしょうがないじゃん!!」

「百歩譲ってだけど、怖気づいて帰ってしまったのは分からなくもありません。勇気だっているでしょう。で・も! それが一週間続いているのは流石に擁護しようがないですよ。ヘタレの中のヘタレです」

「なにをー!! 僕だって色々あるんだよ。その、まー、なんというか深い理由が……さ?」

「行けない理由を探す、代表的なヘタレ思考ですね。しかも言い訳の内容も決まってなく理論武装もできてない。どこまでヘタレなんですか。まさにヘタレの帝王です」

「ヘタレの帝王って……そこまで言わなくてもいいじゃんかぁ」

 ぐぅの音もでないとはこの事だ。ちょうど一週間前の事、とある人から勇気をもらった僕はすぐに着替えてトレセン学園へ向かったんだけど、目の前まで行ったら足が止まってしまったのであった。そのまま門の前を行ったり来たりしている内に、中から多分練習を終えたであろうウマ娘が出てきたのにびっくりして、慌てて逃げかえるという失態をさらしてしまったのである。

 それから毎日僕は気合を入れてトレセン学園の前まで行って、うひゃーと逃げ帰り、悲しみのスト〇ロはちみー割りを呷る日々を繰り返していた。カッコよく決めたはずなのにこの体たらく、どこをどう見てもヘタレである。分かっているけど、だからと言って何かできるってのは別問題だ。

 一人じゃにっちもさっちもいかないから人に頼ろうと思ったわけであるが、その結果が今だ。僕のハートは勇気をもらうどころかフルボッコにされている。目の前の辛辣な彼女はかつての僕の専属記者だ。しかしながら彼女は僕というよりも、サイレンススズカの専属記者であった事の方が有名であろう。彼女は何せウマ娘直々に指名された初めての人だ。

 スズカがレースで大けがを負った時、マスメディアはそれはもう好き勝手に書いた。『やっぱり大逃げは無理があった!』だの、『それを良しとしたトレーナーの資質は?』だの、スズカとそのトレーナーがどのようにして、大逃げに行きついたのか、そこにある覚悟を無視して、あーでもないこーでもないと専門家面し、こうすれば良かったと勝手に自論を立てた。出る杭は打たれるというが、やはりそれまでの成功者が落ちる姿というのは、残念と思う以上に痛快と言うのはあるのだろう。

 僕だってそれを完全に否定はできない。競技者であったからには最高の戦いをして、最高の勝利を得たいという思いに間違いなかったが、それでもライバルのコンディションが悪そうな時、それが残念だと思えるほどの余裕は僕にはなかった。心配した一方でホッとした気持ちを持ってしまったのは完全には否定できない。

 でもそれは僕達が実際に戦っているからだ。自分の勝敗が未来を分けると知っている、負けてしまうんじゃないかと恐怖と戦っているからこそだ。当事者じゃない人達が、あーすればよかったとか、お前は間違っていた、と喚きたてるのはどうにも納得しがたいものがあった。

 それこそスズカのトレーナーの取材会見は見ている側も怒りがこみ上げるほど酷く、乗り込んで行きたいほどであったが、取材陣の中で一人だけ雰囲気が異なる女性がいた。それが今目の前にいる彼女である。

 彼女は敗因を聞くなど、どこに粗があるのか探すような嫌らしい質問は一切しなかった。ただスズカの安否を気遣い、復活の時期や、次のレースの予定などポジティブな話ばかりを質問していた。特筆すべき事は他社が質問した内容について、ネガティブな内容であれば一切メモを取らなかった事だ。

 情報を売る記者からしてみればこれはあってはならない事だ。人の不幸は蜜の味、人の不幸は何時だってニーズがある。人は他人が不幸である方が安心できるゆえに。結果として数あるウマ娘の雑誌の中で、彼女の記事のある本はあまり売れず、一方で他社の売上は大きく伸びた。

 良い人ほど馬鹿を見る、世の中そんなものなのかもしれない。でもスズカはちゃんと彼女を見ていた。彼女の気遣いを知っていた。スズカはその恩に報いる形で彼女を専属記者としたのだった。

 そうして生まれた「サイレンススズカ、復活までの軌跡」はスズカが怪我してから復活優勝を果たすまでの一年を、完全密着取材を許された彼女が書き綴ったもので、サイレンススズカというウマ娘、それをささえるトレーナーとスタッフ達の生の感情が知れる大ベストセラーとなった。

 僕はその密着取材中に彼女と話す事がよくあって、いつの間にか気安い関係になっていたわけである。引退後もちょくちょく連絡を取っていた数少ない友人だ。

 

 僕の交友関係の中で、仲の良い友人と言ったらライバルでもあったマックイーンが真っ先に上がるわけだが、引退してから僕は彼女に連絡を取った事はなかった。

 いや、正確には取ろうとしたけど出来なかった。

 実際それまで何度か連絡しようとした事はあったのだが、どうにも引退の際に良い別れ方が出来なかった後ろめたさが思い出され、電話が通じてマックイーンらしき声が聞こえた瞬間に即切りしてしまった。そしてグダグダしているうちに時は過ぎ、時間が経つば経つほど後ろめたさは増してなおさら連絡が取りづらいと言う悪循環。

 G1レースにヘタレ記念と言うものがあったとしたら、僕はきっと10バ身差つけてぶっちぎり一位を取れるに違いない。

「あ、もう空か」

 本日3缶目となるスト〇ロを取りに行った時、僕は彼女の私物入れに何か物騒なものが入っている事に気づいた。

「なんで縄なんて持ってるのさ?」

「いや、もう簀巻きにしてトレセン学園敷地内の木に吊るしておこうかなと」

「お願いだからやめて!!?」

「こうした方が手っ取り早いですよ。それに会いたいんですよね? トレーナーさんに」

「……うん」

「だったらもう作戦なんて考えず、突撃して抱き着いてムチューっと」

「む、むむムチュー!? そそそ、そ、そんなのできるわけないじゃん!!!」

「でも悠長にしている時間ありませんよ」

「それってどういう?」

「トレーナーさん今付き合っている人いるって」

「えっ……?」

 いきなりのカミングアウトに僕は絶句する。そんな事って……

 僕が原因なのは分かっている。僕がうだうだ悩んで先送りしていたのが悪いんだ。恋愛だって勝負の世界、勝者と敗者が出るのは必然だ。でも僕は勝負の舞台にすら立てていない。このまま不戦敗なんて絶対認められない。

 僕は無敵のテイオー様だぞ!!

「確か近いうちに婚約発表するって言っていたような……」

「トレーナーの一番の愛バは僕だ!!!」

 いてもたってもいられなくなって僕は玄関へと走る。

「どこに行くんですか?」

 そんなの決まっている。

「トレセン学園!! トレーナーに問いただしてくる!!!」

「いってらっしゃーい」

 どこぞの馬の骨とも知れぬ女が僕からトレーナーを奪えると思うな!!!

 

 

 ~30分後~

 

 

 僕、帰宅。

 

 冷蔵庫開ける。

 

 スト〇ロとはちみーを取る。

 

 飲む。

 

 さめざめと泣く。

 

「このヘタレが!!!」

「だって、だってぇぇぇぇぇ」

 結局トレセン学園には行けませんでした! もちろんトレーナーにも会えていません! どうしよう、このままじゃトレーナー取られちゃうのに、うぅぅぅぅー。

「ドレーナァァァァァァァ、結婚しちゃ嫌だぁぁぁぁぁぁ」

「あー、もうこれでゴールイン、あわよくば延長戦でウマぴょいまで行けると思ったのに」

 心底面倒くさいといったようにため息つくと、彼女はあっさりと種明かしをした。

「嘘ですよ嘘」

「え?」

「だからトレーナーが婚約するのが嘘と言ったんです」

 真っ先に浮かんだのは安堵と歓喜、騙された怒りよりもトレーナーがまだフリーであった事の方が重要だ。彼女は『なんであんな勢いよく飛び出していったのに逆噴射するんですか、ツインターボですか! っていうか逆走だからツインターボ以下です!!』とぼやいていたが気にしない。トレーナーの愛バはやっぱり僕なんだ!

「そ、そうだよね! トレーナーが愛バの僕を忘れるわけないよね!! いやぁ、愛されて困っちゃうなぁえへへ」

 

「そう思ってるんだったらさっさと会いに行けやおらあぁぁぁ!!」

 

「ぎゃーーー! 僕のポニー引っ張らないでぇぇぇぇぇ」

 

 

 僕はトウカイテイオー、完全無欠のヘタレです。

 

 

 

 

 

 夢を見ていた。僕とトレーナーが初めて出会ったあの頃を。

 若き日の僕の目標は言わずもがな、かの皇帝、シンボリルドルフだった。圧倒的強さで7冠という偉業を達成した彼女は、ウマレースに憧れていた子供時代の僕にとって分かりやすすぎるヒーローであった。

 僕が他の子供と違ったのは、ウマ娘の性なのか一緒の舞台で戦いたいと思った事。ウマレースで華々しい活躍を夢見た僕は、子供ながらにどうすれば強くなれるか研究したわけだが、所詮は子供の思い付き程度のもので、それはトレーナー観についても一緒であった。

 かのシンボリルドルフを育てたトレーナーに鍛えてもらえば僕も勝てる! 今になって思うと笑っちゃうんだけど、子供の僕はそれを本気で信じていた。まあ自分一人で勝てるっていう傲慢さがなかっただけマシかな。

 そんなこんなでトレセン学園に入学した時、真っ先に生徒会長となっていたシンボリルドルフ、カイチョーの元へと向かい、またそのトレーナーにも顔を覚えてもらおうと挨拶したわけであるが、残念な事にシンボリルドルフのトレーナーはカイチョー以外を受け持つ気はなく、空いた時間はむしろ他のトレーナーの育成に力を注いでいた。

 後から聞いた話だが、カイチョーが目指す『全てのウマ娘を幸せに』を実現するために、カイチョーはレースでの勝利を夢見るウマ娘を支え、トレーナーは彼女たちの相棒となる若きトレーナー達を育成する事を目標としていて、僕が入学した時はそれがちょうどシステムとして動き始めた時だったらしい。

 シンボリルドルフのトレーナーに鍛えてもらうという僕の目論見は入学早々頓挫したわけだが、代わりとして目を付けたのが、それから長い付き合いとなる僕のトレーナーだった。彼はカイチョーのトレーナーの補佐をしていた人で、いわゆるサブトレーナーと呼ばれる存在だった。つまりはカイチョーのトレーナーの最初の生徒であり、彼が独り立ちしたのがちょうど僕が入学した年だった。カイチョーに憧れる僕が狙わないわけがなかった。

 でも僕はここで手痛い失敗をする事になる。僕は言っては何だけど自分の走りに自信があった。だから模擬レースで華々しい勝利を飾れば相手から声をかけてくれると信じていた。勝てるウマ娘を育てたい、それがトレーナーと呼ばれる人達の望みであると知っていたから。

 別に実力の差を見せつけられたとか、そういうのじゃない。僕は自分の想定通り模擬レースでぶっちぎりで勝った。確か彼女(F1ウマ娘)と出会ったのはこの時だったと思ったけど、その話は置いておくとして、自分の実力を証明した僕にトレーナー達は殺到した。誤算だったのはそこに目当ての彼の姿がなかった事だ。動揺する僕が周囲を必死に探すと、彼の後ろ姿があった。そう、彼は帰ろうとしていたのである。

 彼のお眼鏡に叶わなかった事、それは少なからずあった僕の自信を打ち砕いたが、その一方でこれ以上何が必要なのかと怒りを覚えた。若さとは恐ろしいもので僕はその衝動のまま、スカウトしようとしてくるトレーナーたちをかきわけて、彼に突撃して直談判した。

「君、カイチョーのサブトレーナーだよね。僕の何が悪かったのさ!!」

 怖いもの知らずとはこの事だ。ヒートアップしている僕と対照的に彼は冷静そのものであった。顎に手をあて、何か考えるような仕草をした後、落ち着いた声で答えた。

「何か誤解しているようだけどトウカイテイオー、君は何も悪くない。抜群の才能を持っている。きっと重賞に出ても勝てるウマ娘だろう」

「だったらどうして僕をスカウトしようと思わないの!?」

「トウカイテイオー、君は強いウマ娘と優秀なトレーナーが組めば一番良いと考えてる?」

「え、そんなの……」

 当たり前だよ、次の言葉を僕は告げる事が出来なかった。僕の中で生まれた強烈な違和感がそれを言うのを拒絶した。どうしてそうなったのか理由が分からず、自分自身に困惑していると彼は初めて笑みを見せた。

「強さはもちろん重要だ。強い人は練習環境も良く、強い人同士で何度も戦うから、蓄積される経験が段違いでさらに高みにいける。だが一流であるという事はその分精神面でも過酷だ。時に苦痛をも伴うトレーニング、みるみる強くなるライバル、その中で心が折れずに闘争心を保てるのは至難の業だ」

 誰とは言わなかったけど僕には分かった。これはサブトレーナーとして見てきたシンボリルドルフとそのトレーナーの話なのだと。

「勝負を左右するのは結局のところ心だ。心が強い奴が最後には勝つ。だからこそ俺は一番大事なのはウマ娘とトレーナーの相性と考えている」

「相性……?」

「俺が先輩から学んだのは育成方法だけじゃない。ウマ娘とトレーナーの信頼関係がどれだけ重要なのかを学んだ。二人の間に遠慮があってはいけない。本気でぶつかっても、それでも壊れない強固な関係、それがなければどれだけ才能があっても中途半端になってしまう」

 彼は言った。良いトレーニング方法であってもそこに信頼関係がなければ意味がない。半信半疑でやったトレーニングが身につくなんて事はないのだから。強くなる上で最も重要な「やる気」を得るにはお互いの信頼が必要不可欠だと。

 彼の言う事はもっともな話で僕は一切の反論もできなかった。

「心配しなくとも君の才能は本物だ。でも俺の方が君と上手くやっていける自信がなかった。それだけの事だよ」

「どうしてそう思うの?」

 僕はまだ本当のレースを知らない素人だけど、それでも彼が豊富な知識を持ち、強い信念を持っているのを感じられた。不足に感じるところなんて全くない。

「だって君が欲しているのは俺じゃなく先輩、シンボリルドルフのトレーナーだろう?」

「っ!!」

 だからこそ彼の言葉は僕に刺さった。最初から見抜かれていたのだろう。僕が彼の事をカイチョーのトレーナーの代わりとしてしか見ていなかったのを。言い訳なんてできなかった。そんな事しても恥の上塗りだ。他の答えなんて持ち合わせていなかった僕は、立ち去っていく彼を見送る事しかできなかった。

 

 

 そこから僕は本気で自分のトレーナーについて考えるようになった。ただの優秀なトレーナーじゃなく、僕に合う、僕だけのトレーナーについて。

 とあるトレーナーは熱意だけだった。熱意があるのは良い事だけど、夢しか見ていない姿に不安を覚えた。別のトレーナーは理知的でしっかりとした育成プランを持ってきてくれた。その人の用意したプランは魅力的であったが、雁字搦めにされそうで僕は首を縦に振らなかった。それからも色んなトレーナーと話をして、自分なりにではあるが考えに考えた。

 

 そうして出た結論は……

 

「やっぱり君が良い」

 元シンボリルドルフのサブトレーナーだった。

「理由を聞いても?」

「……ちゃんと叱ってくれたから。だってそれって君の言う本気で僕と向き合ってくれたからだよね?」

 他のトレーナー達と話していて改めて思ったのは僕はやっぱり有望株らしい。将来の事はともかくとして、僕は勝てるウマ娘としてトレーナー達から期待されていた。トレーナーとして僕に声をかけないのはありえないとまで言われたほどだ。

 でも彼は僕をスカウトせず、その心構えは良くないと教えてくれた。僕はここに彼が特別だという意識を持った。他の人の評価として僕は稀にみる才能との事で、それを信じるとすれば、彼だって僕の事は評価してくれているはずだ。実際彼からも才能があるとは言われている。

 彼がもし僕を欲していたとすれば簡単に契約できたのだ。そしてずるい事を言えば心構えなんて契約した後に教えてくれても良かった。それをしなかったって事はトレーナーの都合ではなく、僕のためだけを思ってやってくれたって事。僕としてはそこまで想ってくれる人を逃したくはない。

 といいつつも僕の考えはあくまで推測に過ぎず、確証そのものはなかった。そんな僕の背中を押してくれたのはなんとカイチョーであった。僕がどう彼の真意を確かめようか悩んでいた時の事、カイチョーが現れて僕にノートを手渡してくれたのだ。

 

「これは……?」

「私の元サブトレーナー君が作った君の育成プランだよ」

「ええっ?」

 驚いてパラパラとめくってみる。するとそこには誰よりも緻密なプランが書かれていた。これだけ細かく書かれているにもかかわらず決して独りよがりにもなっていない。何故ならプラン内では僕がどのように答えるか、あらかじめ何パターンかシミュレートしてあり、返答内容によってどう変えるのかも考えられていたのだ。

「凄い……」

「なんせ彼は私とトレーナー君の秘蔵っ子だからな! 身内みたいなもので多少のひいき目はあるかと思うが、彼の実力は私が保証する」

 そんなのは聞くまでもなくすぐに分かった。何て言えばいいだろうか、他のトレーナーと密度が全然違う。カイチョーそっちのけで夢中になった僕はノートの隅から隅まで調べる。そして僕は最後のページにかかれていたそれを見つけた。

 

 トレーナーとウマ娘は一心同体

 

 自分自身に言い聞かせるためのものだろうか? 僕は彼と初めて会話した時の事を思い出す。彼は確かに言っていた。ウマ娘とトレーナーは信頼関係こそが重要であると。

 

 心の奥からふつふつと湧き上がってくる。

 やっぱり僕には彼しかいない!

 

 そう心に決めたところで僕は一つ疑問が浮かんだ。

「でもカイチョーはこれをどこで?」

「彼の机からちょろっとな」

「ちょ、ちょっとそれはまずいんじゃ!?」

 尊敬するカイチョーのまさかの行為に僕は戦慄する。もしこれバレたらそれこそ僕ノーチャンスになっちゃうんじゃ?

「私としては将来有望な二人が組まない事に納得がいっていなかったからね。ちょっとお節介を焼かせてもらった」

「どうしてそこまでしてくれるの?」

「才能、だけであるのならここまで動かなかったろうな。だがテイオー、君は彼との会話を無駄にしなかった。彼に言われた事を君なりに考えて行動していた。そんな君だからこそ彼と上手くやっていける。そう思った」

 僕はカイチョーからの予想外の答えに目を見開く。

(カイチョーは僕をしっかり見ていてくれたんだ……)

 嬉しさと恥ずかしさがまぜこぜになり、僕は真っ赤になった顔を隠すようにうつむく。走りで褒められた事は多々あるが、他の事で褒められるのに僕は慣れてなかった。

「それにちょっと責任を感じていてな。彼があそこまで慎重になってしまったのは間違いなく私とトレーナー君のせいだ」

「それってどういう……」

「私達も完璧じゃないって事さ。当時は結構ぎりぎりなところもあって、私がトレーナー君と大喧嘩したのは一度や二度じゃない。彼はそんな私達の間に入っていたから……」

 シンボリルドルフに憧れていた僕だからこそ知っている。レースで本気を出したときのカイチョーがどれ程凄まじいかを。もしもあの勢いのまま喧嘩していたとしたら。さらに言えばカイチョーのトレーナーが、カイチョーと同じくらい強かったとしたら。

「うへぇ……」

 思わず変な声が出た。二人の皇帝の間に挟まれた彼を思うと同情を禁じ得なかった。

「こほん、と言うわけでな。少なからず私達は彼に迷惑をかけていた自覚があるわけだ。だからその恩くらいは返しておこうと思ったわけだ」

 恥ずかしそうに頬をかいていたカイチョーだったが、僕に向き直ると温和な笑みを浮かべて僕の肩を叩いた。

「テイオー、彼は君に興味がないなんて事はない。むしろ誰よりも君の事を真剣に考えている。だから安心して行ってくると良い」

「……うん!!」

 カイチョーから激励され、今度こそ迷いを断ち切った僕はその自慢の足で駆け出し、彼へと突撃をかましたというわけである。

 

 もはや怖いものはない。僕は彼を納得させるために言葉を続ける。

「君は僕をだます事が出来た。でもそれを良しとしなかった」

「そういう作戦かもしれないぞ?」

「その揺さぶりはもう通用しないよ。僕には確信があるからね!」

 ぶっちゃけズルではあるけれど、あのノートを見せてくれたのはカイチョーからだからね。僕は悪くない! 

「何度でも言うよ。僕は君が良い。君じゃないと嫌だ」

「……なんつー殺し文句だ」

 彼はまいったといった感じで額に手を当てる。間違いなく揺れている、あともう一押しだろうか。

「俺は君を育てきる自信がない。君は試されたと感じたと思うが、俺の本音でもある事には違いない」

「……僕はそう思わないけど」

 彼の意外な言葉に僕は否定を口にする。あれだけのプランを練っておいて自信がないって謙遜が過ぎる。それに今の僕はカイチョーのサブトレーナーじゃなくて彼自身を欲している。一体彼の中で何が引っかかっているのだろうか。

「ああ、確かに俺は君を強くする自信はある。だが心を守れるか、そこに自信がないんだ。先輩達が受けたプレッシャーは凄かった。君は才能のあるウマ娘だ。君もいずれそこに至るだろう。その時どうするべきなのか、俺には分からない」

 もし僕が先ほどカイチョーと会っていなかったら、どこまでも消極的な彼に対して、一体何をと思ったかもしれない。思い起こされるのは先のカイチョーの『完璧ではなかった』、『迷惑をかけた』という言葉だ。彼はウマ娘とトレーナーの信頼関係こそ重要と言ったが、それの裏を見れば、カイチョーとそのトレーナーはそれだけ厳しい状況におかれた事があるのだろう。

 カイチョーが言っていた『大喧嘩をした』と言う言葉、それが起こったであろう時期は僕ですら思い至る節がある。絶対王者であるカイチョーでもした三度の敗北、その時に違いない。本来であれば勝つ方が稀(何せ勝者は一人だし)で、普通であるはずの負けが許されない異様な世界、そこにかかるプレッシャーは尋常じゃなかったはずだ。

 そのある種の極限状態の二人を彼はずっと見ていた。その迫力にひたすらに圧倒されたのだろう。カイチョーのレースを常々見ていた僕だからこそ容易に想像できる。

 ウマレースで勝ちにいくとはその領域に踏み込むという事、それこそ並大抵の覚悟じゃ足りないのだろう。気後れしてしまうのも分かる気がする。

 

 でも、だ。

 

 彼の言葉を借りるなら、そこに立ち向かうのは一人じゃない。この時僕は初めてカイチョーが僕に何を期待していたか分かった気がした。

「それは君だけの問題じゃなくて僕の問題でもあるんじゃないかなぁ?」

 そう、これはウマ娘とトレーナー、二人の問題だ。カイチョーだけじゃない。カイチョーのトレーナーだけでもない。きっと二人で立ち向かったはずだ。だから一人で答えを出そうとする自体がナンセンスなのだ。

「信頼関係が重要だって言うんだったら、まずは僕を信用してよ。仮に駄目になったとしてもそれは君だけのせいじゃなくて、僕のせいでもあるはずだ」

 彼は本当にウマ娘を大切に思っているのだろう。だが過剰になるとそれも一つの押し付けだ。彼の言葉を借りるならウマ娘とトレーナーは子供と保護者じゃないのだ。そしてそれに気づかない彼じゃない。目を見開く彼に僕はトドメの一言を告げた。

 

「僕と一緒にやってやろう! 僕の方はもう覚悟できているよ!」

 

 ビシっと決めてやってこれでどうだ!! と彼を見る。それが今の僕にできる精いっぱいのアピールだった。もしここで断られても僕は諦めないぞ! と心に決めていたが、一方で彼の反応はと言うと頭を抱えて唸っていた。これはどういう意味で取ればいいのだろうか? 少し様子をうかがっていると彼はぼつぼつと話し始めた。

「……完敗だ。どうにも必要以上に気負っていたみたいだ。あのシンボリルドルフのトレーナーの弟子が失敗しちゃいけないって」

 がっくり項垂れていた彼であったが、急に自分の頬を両手ではたいたかと思うと、実に明朗な声で僕に宣言した。

「分かった! テイオー、君のトレーナーを引き受ける。いや、俺からお願いしたい!」

「ほんとっ!?」

「男に二言はない!! というわけで」

 彼はすっと手を差し出す。それこそが契約の証。

「これから俺と君はパートナーだ。よろしく、テイオー!」

 僕は満面の笑みを浮かべて差し出されたその手を握り返した。

「よろしく! トレーナー!!」

 

 

「懐かしいな……」

 あの時から本当の意味で僕とトレーナーは始まったのだ。そんなトレーナーが課した最初のトレーニングは華々しくはなく、徹底したフォームの修正と体力づくりだった。いわゆる基礎と言われるものだが、これがキツイのなんのって。

 初めのうちはよくトレーナー室でぐったりしてたっけ。パソコンで練習結果を打ち込むトレーナー、それをはちみー片手にソファーで寝そべりながら眺める僕、その時の光景は今でも鮮明に思い出せる。

 僕が一人暮らしを始めたとき、無意識のうちに配置がトレーナー室と近いものになっていて失笑したものだが、改めて見ても似てるよなぁって思う。っていうかトレーナー室そのものだよなぁって。

「……?」

 いや、いくら何でもそのものはない。配置が似ていたってそもそも物が違う。ソファー一つ見たって色が違うから違いは歴然だ。でも何で僕はトレーナー室そのものだって思った?

 妙な状況に戸惑いながら僕は辺りを見回す。『かつて』見慣れていたソファーに『かつて』見慣れていたパソコン、『かつて』見慣れていた机に『かつて』見慣れていたマル秘育成ノート、記憶から寸分違わぬ位置に置いてある。

 

 そして決定的なのはこの匂い!! この匂いはまさしくトレーナーのもの!!

 

 つまりここは……

 

「ここ本当にトレーナー室(真)じゃん!!!」

 

 え? 何?  え? 何さこれ?

 何がどうなってるのさ?

 

 僕さっきまでどうしてたっけ? 確かまた遊びに来た記者ちゃんとお酒飲んで、飲んで……飲んでから?

 ソファーの前にあるテーブルに紙切れが置いてあるのに気づいた僕は、猛烈に嫌な予感をしつつもその中身を見る。

 

『礼はいらない。さっさとくっついて末永く爆発しろ』

 

「あいつぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」

 

 やってくれたなぁぁぁ!! 

 

 というかよく寝ている人をここまで運ぶなんて出来たね? しかも誰にも見られずに? 無敵のテイオーさんも流石にびっくりですよ!!

 

 やばいやばいやばいやばい、どうしようどうしようどうしよう?

 僕は泡を食って辺りを見回す。しかしながらすぐに逃げ出そうと思えないのは……

「ふにゃぁーーーー」

 部屋に充満したトレーナースメルのせいだ。1年ぶりに嗅いだそれは麻薬の様で。ウマ娘は人より速く走れるだけあって、身体能力で優れているわけであるが、嗅覚だってその例に漏れない。優れた嗅覚を持つウマ娘は一度嗅いだものは大体覚えている。好きな匂いともなれば尚更だ。

 だが匂いはもちろん一つではない。トレーナが仕事を続けているとすれば、僕がいなくなった後の担当バがいるのは当然であろう。感じる別の匂いはそういう事だ。

「一人? いや、二人かな?」

 すんすんと鼻を鳴らし、トレーナーと異なる匂いを探る。どうにもトレーナーは複数のウマ娘を担当しているようだ。しょうがない事だとは思いつつも面白くない事は面白くはない。

 久々のトレーナースメルでどうにもハイになっていたのか、妙なテンションになっていた僕。する事はただ一つ、家捜しである!!

 まずは食器棚だ。トレーナー室は練習以外の時間の多くをそこで過ごすため、軽食や飲料は不可欠であり、コーヒーメーカーなどもあるのでマグカップもまた必須である。そしてこのマグカップ、普通のグラスのコップとは違って共用ではなく、柄も千差万別という事から、各々で自分のを持ち寄る場合が多い。

 つまりマグカップの数を見ればここに何人のウマ娘が入り浸っているか分かるのだ。いけない事をしているという何とも言えない高揚感、急かされるように僕は食器棚の中身を見る。お目当てのマグカップは四つほどであった。一つはトレーナーの物だから、つまり今トレーナーが担当しているのは三人か。

「でも知らない匂いは二人分なんだよなぁ」

 匂いが感じられないという事を考えるに一人はまだ新人なのだろうか? そんな事を思いつつマグカップの一つを手に取ったところで僕は気づいた。

「これって……」

 見慣れたデザインに、馴染んだ感触、恐る恐る僕はマグカップの背面を見る。そこに書かれていたのは予感通りテイオーの文字だった。

「僕のマグカップじゃんか。まだ取っててくれたなんて……」

 一つ気づいてしまうと簡単だった。次から次へと僕のいた痕跡が見つかる。当時僕が置いていったものはそのままで、所狭しと並べられていたグッズには、今担当してるであろう子達の他に、過去に作られた僕の物もある。

「僕のぱかプチがセンターになってる」

 偶然なのか意図的なのか、これだけ数が多いとどれがメインかなんて些細な事だが、ちょっとだけ優越感を感じる。しかしグッズ化されているともなれば、トレーナーが今担当している子達はなかなか優秀らしい。グッズ化も意地汚い話になるが商売だ。勝てるウマ娘、あるいは人気の高いウマ娘じゃないと商品化される事はないわけで。

 勝てているという事はトレーナーと今の担当バが良い関係を築けているのだろうが、僕が特別であったらしい証拠が多々あるこの状況では、嫉妬する気はあんまり起きない。

 他に何かないかとトレーナーのデスクの方へと視線を向けると、写真立ての裏面が見えた。中身が気になった僕はぐるりと回りこんでのぞき込む。そこにあったのは僕が皐月賞を勝った時、つまり初めての重賞の中でもトップクラス、G1を制した時にトレーナーと撮った2ショットだった。

「懐かしいなぁこれ」

 僕はトレーナーの椅子に座り込み、手に取った写真をマジマジと眺める。僕にとって皐月賞は特別な一戦だった。大舞台で初めて勝ったというのもあるが、どちらかというとトレーナーと二人で作り上げた勝利、という方が重要だったかもしれない。

 当時トレーナーに対する風当たりは強かった。理由は僕を担当とした事だ。意外と言うか、トレーナー同士は同じ苦労を知る同業者だからこそそうでもなかったが、問題はあまり知識を持たない外野の人達だ。批評家気取りの人達からは、才能あるウマ娘を担当しているのだから勝てて当たり前、そんな風に言われていた。

 トレーナーはすでに想定済み、気にしていないと言っていたが、僕としては非常に面白くないわけで。でも怒り心頭の僕にトレーナーは笑って言ったんだ。

 

「外野なんて実力でねじ伏せてやれ」

 

 にこやかに笑っていても、トレーナーの奥の瞳はぎらついていて勝利に飢えた獣そのものだった。トレーナーたるものが感情むき出しなんて良くないのかもしれないけど、熱く燃えていた僕にとってはむしろ最良の答えだった。

 今まで鍛えて蓄えてきた力を爆発させ、文句なしの勝利で飾れたのは痛快の一言だった。そしてレース後は気持良くセンターで踊り、最高の気分で帰路についたわけだが、その時トレーナーは言ってくれたんだ。

「ありがとうテイオー」

「え? いきなりどうしたの」

「俺のために怒ってくれて嬉しかった。勝ってくれて嬉しかった」

 いきなりの事に戸惑う僕であったが、稀に見る素直なトレーナーに照れてしまう。嬉しさと恥ずかしさがごちゃ混ぜで、何て返事しようか迷っている中、トレーナーはとても穏やかな表情を浮かべて次の言葉を告げた。

「君が俺の担当バで良かった」

「……っ!?」

 今でも彼のこの言葉の衝撃は忘れられず、僕の心の一番奥に刻み込まれている。感極まって思わず大泣きしてしまったっけ。

 それまでも僕とトレーナーは上手くやっていけていた。トレーナーが課したどんなトレーニングだって僕はやってみせたし、その分トレーナーは僕に速く、そして強くなっている実感を与えてくれた。だからまだ日が浅い時期であっても、トレーナーと担当バの関係としては理想に近かったと思う。

 ただ僕としてはちょっと負い目もあった。選手である僕がハードなトレーニングをするのは当たり前の事であるが、トレーナーは僕以上に重労働で心配になるくらいだった。僕の勝利にはそんなトレーナーの尽力がありきなのに、勝っても勝ってもトレーナーとしての評価は変わらず、僕を担当したせいで余計な苦労をしょい込んでいる事実は、僕にとって大きなしこりとなっていた。

 僕を信じてよって大口叩いておいてこの様である。でもだからといって何か具体的な解決策があるわけでもなくて。負けたらそれこそ相手の思うつぼである。僕は勝ち続けるしかなかった。それがトレーナーに対してさらなるプレッシャーになると知っていても。

 

 でも、言ってくれたのだ。

 

 僕で良かったって。

 

 それがどんなに嬉しかったか……

 きっとこの時だったのだろう。

 今まで定まっていなかった自分の思いが明確な形となったのは。

 

 僕はこの時トレーナーに恋をしたんだ。

 

 

 今にして思えば僕にとってこの時が最良の時だったかもしれない。何せ気持よく走れたのはこれで最後だったから。天は二物を与えないと言うが、僕にとっての弱点は足の脆さだった。

 誤解なきよう言っておくと故障する前から僕はその事を知っていた。それはトレーナーのおかげだ。やっと始まるんだと思った矢先、『まず先に検査なー』と言われて出鼻をくじかれた時は怒ったっけ。でもだからこそ僕は自分の足が如何に危ういかを理解した。

 自慢だった僕のフォームは速度を目指すには良かったそうだが、一方で足の方が負担に耐えられない可能性が高いと説明された。当時のショックは相当に大きかったが、トレーナーが『時間はかかるが、同じ速さまで戻してやる』と言ってくれたのが救いだった。僕が文句も言わず、地道に基礎練習を続けてこれたのはこの言葉のおかげだ。

 その集大成こそがこの皐月賞であった。生まれ変わったフォーム、そして強くなった体で自己ベストを更新した。トレーナーからの信頼に応えられた事、恋を知った事、すべてが上手く回っていて、これを最高と言わずしてどうするってくらいの快進撃だ。

 目標に掲げていた無敗の三冠バも現実味を帯びていき、僕はノリにノッていた。無敗の三冠は僕にとって最大のモチベーションになっており、高い目標は僕をぐいぐい引き上げていってくれた。しかし結果としてこの目標こそが僕の苦悩の始まりだったのかもしれない。何せ無敗に拘ったからこそ僕は失敗したのだから。

 それは二回目の大舞台の時だ。ダービーで僕は圧巻のパフォーマンスを見せ、二位に三バ身差を付けて快勝した。

 

 足の故障という対価を支払って。

 

 調子が悪かったわけじゃあない。むしろ調子は皐月賞の時を上回るほどだ。事前に計ったタイムは優勝圏内、体調は万全で体も軽く、気力もみなぎっている。

 レース中だとさらに顕著で、高ぶっているのに頭は酷く冷静で、普段見れないものまで見えているような、そんな不思議な感覚。言うなればゾーンと呼ばれるものに入っていたのだろう。優勝以外あり得ない。そう思えるくらいに僕は集中していた。

 

 だからこそ僕は超えてしまったのだ。己の体の限界を。

 

 骨折と聞いた時、僕は開いた口が塞がらなかった。

 負けるのならまだいい。納得できる。だが、怪我なんてつまらないもので夢である無敗の三冠への道が断たれてしまった。その途方もない虚無感と言ったら。

 積み上げてきたトレーナーの名声だって怪我をしてしまっては落ちてしまう。この時の僕はすべてを失った錯覚にとらわれた。いくらダービーで勝利したと言ったって大きすぎる代償だった。

 

 皮肉だったのは己の足の脆さについて対策をしていたからこそ、最後まで走れてしまったという事だ。負担を軽減する走り方に変えていたせいか、当の僕本人は全く気づかないまま走っていたわけで。

 気持ちが最高に高ぶっていたのもあるだろう。脳内から分泌するアドレナリンには痛みを忘れる効果があるというけれど、一体どれだけ集中していたのか。実のところケガをしたのはあの瞬間だってのは今でも思い出せないでいる。僕はただ気持ち良く走っていただけなのだ。

 良くも悪くもダービーで僕はかみ合いすぎてしまった。この試合では誇張なく本当に『無敵のテイオー様だぞ!』だったのかもしれない。だって怪我した状態でぶっちぎったんだからね。

 ただ思うんだ。ここで無茶しちゃったからこそ故障が癖になったのかなと。もしもここで早くに気づいていたら、無敗の三冠を諦める事が出来ていたら、何かが変わっていたのだろうか? 軽傷で済んだ僕が一からしっかり鍛えなおし、今度こそ怪我とは無縁の世界で何の気負いもなく走っていたのだろうか? 

 たらればを言ってもどうしようもないがたまに考える事がある。

 

 そこから先はもうあまり考えたくないなぁ。

 

 一度でも故障してしまえばレースが怖くなる。それを乗り越えて奮起しても再度の故障でまたゼロに戻される。満足な練習ができず筋力の衰えた体は完成にはほど遠く、故障の記憶は重ねるたびにより強固なブレーキとなり、僕の思いっきり走りたい気持ちを妨げる。いくら努力してもあの時の最高の自分から離されていく。そんな感覚がたまらなく嫌だった。今思い返しても辛い事ばっかり。

 それでも止まれなかったのは意地だったんだろう。このままでは終われないと思ったし、僕が終わってしまってはトレーナーだって終わっちゃう、と言うのは建前かな? 多分この頃にはトレーナーの実力を疑う人はおらず、自分を奮い立たせる理由の一つとして僕がそう思い込んでいただけ。

 最後の方はトレーナーに強く当たっちゃった事もあったっけ。足を守るためにトレーニングしてきたけど結局こうなったじゃないかーとか。本当に酷い言葉だったと思う。後で自己嫌悪で落ち込んだりしたのは一日だけじゃない。

 思い通りにならない体、刻一刻と近づく限界、引退の2文字が頭をちらつく。そしてとうとうその日は訪れた。それは4度目の故障をしてしまい、療養していた時であった。その日、トレーナーは僕が一番恐れている事を口にした。

「テイオー、もう……やめないか?」

 一番聞きたくない言葉を、一番聞きたくない人から言われたショックは大きく、僕は冷静さを失った。信頼を裏切られたように感じた僕はヒートアップしてトレーナーと口論となった。そこで僕は言ってしまったのだ。

 

 決定的な一言を。

 

「君と組まなかったらこんな辛い思いしなくて済んだのに!!!」

 

 トレーナーの顔が酷く悲しそうに歪んだ時、その瞬間ようやく僕は自分が何を言ってしまったのか悟った。

「あ、ちが……」

 訂正しようにも咄嗟に言葉が出てこない。それもそのはず、どれだけ頭に来ていてもそれだけは言っちゃいけない言葉であった。パートナーとしての信頼を根こそぎ奪うそれに埋め合わせる言葉なんてあるわけない。それでも僕は何かしなければなかった。全てが壊れる瀬戸際だからこそ。

 

 しかし僕がそこでした事は、

 

「テイオー……」

「ごめんなさいっ!!」

 

 その場から逃げる事だった。

 

 その後何度か挽回のチャンスはあったと思う。でも僕の心はぐちゃぐちゃでトレーナーと会う余裕なんて到底なく、最終的にトレーナーとの契約を打ち切る事になったわけである。今のマンションへ移り住んだのはそれから程なくしてだ。

 しばらくは失意の日々を送っていた僕であったが、時と言うものは傷を癒やしてくれるらしい。喪失感を抜けさえすれば、レースという勝ち負けの生活から離れられた事は良かったらしい。勝たなければならないという精神面のストレスが大きく軽減され、無茶もしなくなった事から体調面も良くなって行った。

 余裕が出来てくると何かしたくなるもので。きっかけそのものは一人でいる寂しさに耐えられなくなった事であるが、お酒に手を出してみたり、ドラマとか映画を一気見してみたり、現役時代にできなかった事をやったりなど、少しずつ楽しい事を増やしていった。

 人間らしい生活を取り戻して思ったのは当時の僕がどれだけ無茶をしていたかという事。あの時は身も心も擦り切れる寸前でもはや限界だったのだ。トレーナーがどうして『もうやめよう』と言ったのか、この時僕は初めて理解した。もし僕とトレーナーの役割が逆だったとして、トレーナーが現役時の僕のようになっていたらやっぱり止めるであろう。

 本当はすぐに謝りに行こうと思った。でもトレーナーに対して言ってしまった最悪の言葉が忘れられなくて。あの日の最悪の別れが心に大きなしこりとなって残ってしまった。そこからは皆の知るヘタレテイオーだ。

 これだけ迷惑をかけて、信頼を裏切って、とっくの昔に見限られていると思っていた。それくらいの事をしでかしたという自覚があった。だと言うのに……

「何で相変わらずこんなに居心地が良いのさここ」

 トレーナー室は何も変わらずに僕を温かく歓迎してくれている。それはまさにトレーナー本人が僕を受け入れてくれているようで。これこそ僕が夢に見た光景そのものであった。都合の良すぎる現実に僕は思わず呟いた。

 

「少しは、自惚れても良いのかなぁ?」

 

 自分のぱかプチをウリウリと弄る。きっと記者ちゃんはこの部屋の事を知っていたのだろう。僕と違ってトレーナーの今だって知っているに違いない。僕に対しては無茶苦茶だが、それでも根っこは超がつくほどの善人だ。きっと僕が踏ん切りがつくようにしてくれたのだろう。

「ここまで御膳立てされちゃあ、もう逃げるわけにはいかないよね」

 しかしながら運命の日は今日じゃない。記者ちゃんが僕をここへ拉致ったのは今日トレーナーがいない事を知っていたからだ。確信を持って言える。今日トレーナーはトレセン学園にはいない。何故ならいくら手助けされようが、最後の一歩だけは僕自身の足で進めなければならないから。そこを間違える彼女じゃない。ただ……

「絶対帰りを失念してるよねぇこれ」

 トレーナーはいなくとも別の知り合いはいる可能性があるわけで。別に会っちゃいけないわけじゃないけれども、正直説明が面倒くさい。元選手だから融通は利くとは思うけども、不法侵入は不法侵入だ。どうやって入ったかなんて聞かれても、拉致られた僕には何て説明していいか分からない。

 そこを超えたとしても間違いなく長話になるには違いないわけで。いわゆる積もる話ってやつだ。他の人だって呼ばれるかもしれない。永遠と足止めを食うのはごめんである。

「誰にも会わずに抜け出せるか……」

 急に降って湧いたスニーキングミッションに僕は挑戦せざるを得なかった。といっても隠れながら移動するなんて事はしない。普通の人だったらともかく僕はウマ娘だ。しかも気ままに宅飲みしていたから服装はジャージという。

 見た目的には自主練中の生徒なのだ。そこ、『27歳で学生はない』と言わない。いくら童顔でもキツイのは一番本人が分かってるから。ともかくだ。

 僕はただ堂々としていればいい。堂々と廊下の中央を歩き、堂々と正門から、は流石にまずいか……それはそれ、まずは出てから考えよう。そう思い至った僕は戸に手をかけたが、すぐには出ずに一度きびすを返してトレーナー室を見返す。

「きっと……戻ってくるから」

 決心を口にして今度こそ僕はトレーナー室を後にした。

 

 

「まあ、さ? 実際のところ何かあるわけじゃないんだけどね」

 知り合いって言ってもほとんどは現役を退いている。引退後もトレセンに勤めているなんてのはあるかもしれないが、この時間に歩いているってのはまずないだろう。最初の覚悟はどこへやら、まったりムードで懐かしの学園内を歩く。

 懐かしい記憶に浸りながら窓の外を見ると誰かが走っているのが見えた。ジャージ姿でピンと立った耳、つまりはウマ娘だ。察するにレース前で自主練をしている子だろう。

 やる気があって何よりだけど、オーバーワークだけは気を付けないとね。立ち止まってじっくり見てしまったのは現役を思い出してか、それとも何か予感があったのか。

「っ!!?」

 気づいたら僕は外へ向かって駆け出していた。彼女が一本走り終えてインターバル入っている合間に僕は滑り込む。

「君ぃ!! なにしてんのさぁぁぁぁぁ!!!」

「え?」

「ほら、足見せて」

「ちょ、ちょっと?」

「早くする! 死にたいの!!?」

「死ぬ? えっ? 私死ぬの!?」

 呆気にとられる彼女を迫力でゴリ押して僕は彼女の足を手に取る。足を見る上で重要なのは両足のバランスだ。何故ならどちらかに偏れば負担が片足だけに集中し、怪我の確率が格段に上がってしまうからだ。

 僕がここまで焦った理由、それは遠目から見ても彼女のバランスは崩れていたからである。一見するだけで分かるという事は相当にまずい状態であるに相違ない。案の定彼女の両足の疲労度は明らかに違っていて、このまま走っていたら怪我をしてもおかしくない状況であった。

 その要因となったのは。

「両足で筋肉の付き方が明らかに違うね……君、過去に何か怪我をした?」

 嘘は許さないと僕は睨みつけるように彼女を見ると、見た彼女は観念したように耳が垂れる。幾ばくかの沈黙の後、彼女は正直に己の過去の故障について話した。

「……3か月前、左足を骨折しました」

「まだ病み上がりじゃないか」

 3か月と言う期間は骨がくっついてやっと再始動できるくらいだ。しかし筋肉と言うのは鍛えるのが難しい癖に、動かしていないと理不尽に感じるほど早く衰える。一か所だけ衰えるのはバランスが総崩れになってしまうから、ある意味全体が衰えるよりもキツイ。

 弱ったところを重点的に鍛える。これはまだいいが、意外とキツイのがそれ以外は余り鍛えられないという事だ。当たり前の事だが鍛えれば鍛えるほど、弱った部分との差が広がってしまうわけで、その差を埋めるためには弱った部分が全体に追いつくまで待たないといけないのである。つまりはリハビリ以外何もするな、状態だ。

「………」

 歯を食いしばる彼女、その気持ちは痛いほど分かった。何せ自分が立ち止まっている間、相手はさらにどんどん強くなる。この間に追いつけないくらい差をつけられんじゃないか、その恐怖といったらない。

「分かってはいるんです。ここで無茶したって悪くなるだけだって。でもあの子は私が立ち止まっている間に重賞を2つ取りました。でも今の私は……」

 彼女の言う通り今のタイミングでのトレーニングは最悪だ。悪い結果しか生まない。でもだからといって気持ちを納得させるのはそう簡単じゃない。無理に止めるのは逆効果なのは僕自身良く知っている。

「焦るなって言っても無理があるよね。でも走るだけが全てじゃない。こう考えてみたらどう? 走る以外の事を鍛えるんだって」

「走る以外って言われても」

「確かに速く走れる体は一番の武器だと思う。極端な例をあげちゃうとスズカとか」

 最速で先頭のまま最後まで走り抜ける、作戦なんて知ったこっちゃない分かりやすい最強だ。もし実在するのであれば確かにフィジカルの化け物が一番強いのだろう。

「でもね?」

 実際はそうじゃないのがウマレースの面白い所だ。

「ウマレースは速さを競うものだけど、それと同じくらいに心理戦でもある」

 ウマレースには作戦と言うものがある。俗にいう逃げ、先行、差し、追い込みと呼ばれるものだ。何も全員が全速力で走る訳じゃない。いつどこで仕掛けるか、駆け引きがあるのだ。

「君の脚質は?」

「先行……のつもりです」

 断言できないのは勝ててないから故の物か。でも『先行のつもり』、ね。いずれにせよ己に自信が持てていないのは良くない兆候だ。

「どうやら君の伸びしろはむしろこっちの方にあるかもね」

 僕はそう言って胸の位置、ハートを指さす。

「え?」

「僕はトレーナーじゃないけど、それでもウマ娘の体の事ならある程度分かる」

 現役の時に散々自分の体に付き合ってきたのだ。知識なんてのは嫌になるほど持っている。それこそ人の体つきを見て無意識に強さを判断してしまうくらいに。

「ここ三か月のブランクを踏まえて、怪我をする以前の君を逆算して考えてみたけど、多分その時の君の体そのものはベストに近かったはずだ。君の体を作るための努力は十分だったと僕は思う」

 左右のバランスが悪かったからこそ不調に気づけたが、彼女の体そのものの方はかなり良い体つきであった。彼女が動いていない状態であったならば気づかなかったに違いない。衰えてもこれだけなのであれば、当時は最高の仕上がりだっただろう。

 これで勝てなかったとすればおそらく『かかって』しまったか。きっと怪我はその時の無茶の結果か。普通に走れば勝てる子だ。でもその普通こそが出来ない。僕のその予想を肯定するかのように、彼女は己の本音を吐露する。

「自信が持てないんです。いくら調子がよくても、タイムが良くなっても。本番でどうしても勝ち切れない」

 負け癖がついてしまっているのだろう。トレーナー目線で言うと、仕上がる前に実戦経験を積ませようとしたが、それが裏目に出たというところだろうか? ここら辺は良い悪いじゃなくて合うか合わないかだ。彼女は今挑戦者と意識しすぎて空回っている。

「そんな悩める子には先輩からアドバイスを上げよう!」

 大胆不敵な自分を演じながら僕は悩める彼女へ言った。

「自信なんて持たなくていい!」

「え? そんなわけ……」

「んーん、自信なんて持たなくていいの」

 彼女の反論を僕は即座に否定する。

「自信を持っているように見える人は誤魔化し方が上手なだけなんだから」

 それこそ僕みたいにね。

「自信満々に見える姿は怖い気持ちに蓋をしてハッタリをかましているだけ。君が強いと思ってる子だってそう。自信があるように見せかけているだけの事。誰だって負けるのは嫌だし、怖いんだよ」

 それは至極当たり前の事だ。何せ八百長なしの真剣勝負のウマレース、特に重賞ともあれば強敵揃いだ。100%勝つなんて思っているウマ娘なんていやしない。単に『自分が勝つ』と思い込ませているだけなのだ。

「勝負が怖くないなんてウマ娘がいたとしたら、それは最初から勝負を捨てているウマ娘だ。時間がある今こそがチャンスだよ。周りをよく見てごらん。なんであんなに必死に練習するのか、なんでそんなに自信満々に見せるのか。君が劣っているところなんて何もないはずだ」

「勝負が怖くないウマ娘なんていない、そんな事……」

「レースは確かにタイムがあるし、それを縮めるには自分との勝負だと思う。でもウマレースは一人で走るわけじゃない。相手がいてこそのレースだ。自分を高めるのと同じくらい相手の事を知る努力を忘れちゃいけないよ」

 駆け引きをするためには相手を知らなければならない。皆やっている事だろうけど、成績や強さを見ているだけでは計れない部分、影響するのはほんのちょっとだけど、でも僅かな差を埋めうる最後の一手はここにある。最後は結局のところ、心の勝負なのだ。

「君の相手は完璧な機械じゃない。君と同じウマ娘だ。それを知る事で君は強くなる」

「………」

 考え込むように顎に手を当てる子を見て、僕は自分が成功した事を確信した。考える事自体に意義がある事ゆえに。考えるという事は一考の余地ありという事に他ならない。他者の意見を取り入れられるのであればきっとこの子はこれから伸びる。

 それにだ。彼女は一人じゃない。彼女の体を見れば分かるが、相当に気を使って仕上げていったのが分かる。この子のトレーナーは自分の愛バたる彼女を大切に思っているのは明白だった。そんなトレーナーがこの三ケ月何もしていないわけがない。

 僕の耳がぴくぴく動く。誰かが走っている音が聞こえた。それはウマ娘じゃない人の足音。お、これは、ひょっとすればひょっとするかな?

「ついでにもう一つ、もっとトレーナーを信頼する事。不安も怒りも悲しみも全部ぶちまけちゃえ。君のトレーナーはそれを受け止めてくれるくらいの度量はあるよ。なにせウマ娘とトレーナーは一心同体なんだから!」

「○○!!」

 後ろから男の人の声が響き渡る。

「え、トレーナー?」

 まさしく最高のタイミングだ。この人持ってるなぁー。振り返って見てみると、段ボールを持った若い男性が息を切らしていた。

 いないはずの彼女がいて気が動転していたのであろうか、見た目からして相当な重量がありそうな段ボールなのだが、一度置くと言う発想がなかったらしい。

 僕の事などまるで気が付いていない様子でトレーナーは彼女に鬼気迫る表情で話しかける。そりゃそうだよね。トレーナーとしたら心配でしょうがないよね。

「まさか走っていたのか!?」

「えっとその……ごめんなさい!」

 二人の修羅場? を尻目に僕はちゃっかり段ボールの中に入っているものを手に取る。

 おそらくこれは……

「うん、良いじゃない」

 中の書類を見ると案の定あの子のトレーナーが作ったであろう今後の予定が書かれていた。色々と細かく書かれているけども、結局のところ僕が言っていた事と同じだ。

 彼の新たなトレーニングはメンタルを中心としており、どう自信をつけさせるか、に焦点が当てられていた。個人的に評価が高いのは周りの状況を理解させる方向で、要するに客観視させる事をメインに据えている事。

 そう、自分に自信が持てない子に無理矢理やらせても逆効果だ。彼女の場合、外から攻めた方が良い。彼女は良いトレーナーに恵まれた。これだったら遅かれ早かれ気づいていただろうし、余計なおせっかいだったかな? 後はまあ大丈夫だろう。

「すみません、俺の代わりに彼女のトレーニングを止めてくれたみたいで……って、嘘だろ?」

 あれ、この反応って? この子のトレーナーは僕の事を知っている感じなのかな? 一方で彼女の方は何事かと目を丸くしている。

「ごめんね? ちょっと私用で来てたんだけど、見てられなくて君の役目取っちゃった」

「いえ、助かりました。彼女が焦ってたのは分かっていたんですが、一歩遅かったみたいで」

「ちょっと見せてもらっちゃったけど、いいねこれ」

「本当ですか!? あなたに言ってもらえると自信になります!!」

 トレーナーの興奮した様子にクエスチョンマークを浮かべている彼女であったが、段々とその顔色が険しくなる。まあ分かるよその気持ち。トレーナーが自分そっちのけで他のウマ娘と爛々と話していたとあれば面白いわけがない。

「さてさてもう王子様は来た事だし、お邪魔虫は退散しようかな?」

「お、王子様って!!?」

 さっきまでの不機嫌はどこへやら、ポンと熟れたトマトのような真っ赤な顔をする。ほんと初々しいなぁ。こりゃのろけられる前に退散だ。

「じゃあまたね」

「ちょ、ちょっと待ってください。あなたは一体?」

「え、お前ウマ娘なのにこの人の事知らないの!?」

 うーむ、反応としてどっちが正しいのかな? 彼女が僕に対してノーリアクションだったから、忘れ去られているのが普通かと思ったんだけどそうでもないみたいで。でもまあ知らないのであれば答えてあげよう!

「僕? 僕はね」

 ふと脳裏にF1娘ちゃんの顔が浮かぶ。

 

 『やっちゃってください、テイオーさん!』

 

 任せてよ!! ここはビシっと決める!!! 

 

「何度怪我しても這い上がる、不屈のテイオー様だよ!!!!」

 

「テイオー、テイオー……え? あ、あのトウカイテイオー? えぇぇぇぇーーーーーーーーーーー!!!!!?」

 

 あ、これちょっと気持ちが良いかも。

 

 

 

 

 

 

 テンションが妙に上がってしまってついやってしまった僕であったが、家に帰った後、ベッドの中で悶絶したのは内緒である。

 

「不屈のテイオーって……不屈のテイオーってうあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 




 と言うわけでトウカイテイオー27歳第2話いかがだったでしょうか? ヘタレ、ウザ可愛い、意外と理論派、かっこいい、羞恥テイオー、今回は色々詰め込んでみました。 
 設定の矛盾問題が起きてしまった27歳設定ですが、一方で大人の先輩として悩める子を導くテイオーを演出するには、この年齢はちょうど良い感じだったかと思います。不屈のテイオー発言の時は多分後ろ振り返り姿でサムズアップしている感じですw

※ イメージ図
https://www.pixiv.net/artworks/94067439


 前回のレーサーウマ娘の他にも新キャラが増えちゃいましたが、どうにも役割にハマるキャラがおらず、また身内ではない外の世界を描きたかったのもあったので、あえてこうさせていただきました。
 例えばですが記者ちゃんには乙名史さんも考えたのですが、テンションは高いけど、こんなに内まで突っ込んでくる感じではないなぁと思って没にしました。
 後輩ちゃんについては作中でも語った通り、テイオーがすでに27歳なので、ゲームに出ている子達は皆卒業していて、いたとすれば全く知らないウマ娘だろうなと。
 本当は彼女らに名前つけた方が良いのだろうけども、長編ならともかく中編ならあれかなぁと思って、妥協している次第です。
 それではまた次のお話で会いましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話(完結)

 トウカイテイオー27歳、無事完結です!
 どうぞ見てやってください。

 今回は長いので章仕立てです。
 ウマ娘のキャラが魅力的過ぎるのが悪い。


(1)プロローグ

 

 

 実に気持ちの良い朝だった。

「どうもどうも不屈のテイオーさん」

 この一声がなければ!!

「何でもうバレてるのさ!!」

「そりゃトレセン学園で話題になってましたからね。あのスランプだった子、ウッキウキで周りに話していたそうですよ? すっごくカッコよかった! カリスマの塊だった! とか。今やもうトレセン学園は不屈のテイオー祭りですよ? ほら、見てくださいこれ。動画でも不屈のテイオーステップというのが……」

「やめてやめてぇぇぇぇ!! 若さゆえの過ちなんだぁぁぁぁ!!」

「若いと言ってももうちょっとでアラウンド30……」

「今ここで死にたい?」

「ごめんなさい」

 思わずガチトーンの僕に平謝りの記者ちゃん、朝から騒がしい事この上なかった。

 

 

 

「でも大分まともな顔になりましたね? 荒療治が相当に効きましたか?」

「睡眠薬盛って拉致は普通に犯罪だと思うけど?」

「ちなみにお薬はタキオン製で、実行犯はマックイーンさんとその他メジロ家のSPさん達ですよ」

「あいつらぁぁぁぁぁ!!!!!」

 道理で完璧な仕事のわけだよ。ある意味プロフェッショナルの方々じゃないか!

「さらに言うとタキオン製なのでやっぱりというか、なんか寝ながら虹色に発光してました」

「タキオォォォォォォォン!!!」

「それでレインボーウマ娘はいくら何でも目立ちすぎるって事で、マックイーンさんがSPさん達に指示して、空気穴開けた遮光性の袋に詰め込んで運んだんですよね」

「マックイィィィィィィィン!!!」

「袋詰めの人をトランクに入れて運ぶって、何かいけない事しているみたいでドキドキしました」

「みたいじゃなくて本当にやっちゃいけないやつ!!!」

 ツッコミが、ツッコミが追いつかない! 僕は別に常識人枠じゃないはずなんだけど、相手が非常識すぎてやらざるを得ない! どいつもこいつも何やってんだよ!!

「というか早朝にもかかわらず、どうして僕のところ来たのさ?」

 そしてその異常なテンションの高さは何? 今日は寝ざめもスッキリしていて、頭の回転も悪くないけど、それでもこのハイテンションにはまるでついていけない。

「よくぞ聞いてくれました。実は良い写真が撮れましてね? それをお渡ししようかと」

「良い写真? まさか」

 虹色テイオーの写真だったら必殺ウマ娘キックをかまそう。そう心に決めて記者ちゃんから写真を受け取る。しかし僕の予想に反して、そこには何と僕のトレーナーが映っていた。

「これは……」

「ふふ、良い写真でしょう?」

「トレーナー、笑ってる」

 やられたと思った。これでは怒るに怒れない。記者ちゃんは記者と言う調査側の仕事でありながら、生粋のエンターテイナーだ。こうしたメリハリをつけるのが抜群にうまい。トレーナーの笑顔の写真は、ツッコミするのに精いっぱいで、ノーガードだった僕の心にガツンと来た。

「これ、どんな状況だったと思います?」

「いきなりこっちに振るのはずるくないかな? 散々振り回されたからもう考える力残ってないよ」

「ふふふ、ではお答えしましょう。これ、不屈のテイオーの話を今の愛「担当」バから聞かされた時ですよ」

「……僕の?」

「今のトレーナーさんの愛「だから担当ね」バはテイオーさんの大ファンですからね。そりゃトレセン学園にあのトーカイテイオーが出たとなれば食いつきますよ。そんな彼女達だからすぐにトレーナーにも伝えに行くだろう、そう思って先回りしていたんですよね。そしたら案の定ってやつです。で、感想はどうです?」

 反応に困るとはこの事だ。だってこれ、トレーナーが優しく微笑んでいるって事は、僕の今を知って喜んでくれたって事だ。そこに例えようがない嬉しさと同時に、穴に入ってしまいたいほどの気恥ずかしさも覚えるわけで。 

「ノーコメント」

「はいはい、ノーコメント頂きました」

 僕の誤魔化しを想定していたのか、記者ちゃんは満面の笑みだった。

「さっき『見せる』じゃなくて『お渡ししたい』って言ったよね? つまりはこの写真貰っていいのかな?」

「ええ、記事にするためじゃなくて、テイオーさんのために撮った写真ですから」

 この子のこういう所が本当にずるいと思う。流石スズカの専属記者になったまでの事はある。もはや僕に残された手は開き直るしかない。

「ではありがたく頂戴するよ」

 僕は写真を飾るか持ち歩くか考え、財布の中に入れる事にした。これで何時でも一緒ってのはちょっと重いかな?

「それでいつトレーナー奪還作戦を決行するのですか?」

「なんかそのネーミング、悪意がない?」

「気のせいです」

「……まあいっか。あの後色々考えたんだけどさ。トレーナーに会うのはもう決めた事ではあるんだけど、ちょっと悩んじゃって」

「何か引っかかってる事でもあるのですか?」

「何て言えばいいかなぁ? 何か僕が思っていた僕自身と、皆が思うトウカイテイオーにずれがあるっていうか」

「なるほど、そう言う事ですか」

「どうにもここら辺のずれがもやもやして落ち着かなくて。今トレーナーに会ってもどうすればいいか分からないんだ」

「その割にはそんなに深刻そうじゃなさそうですね?」

 記者ちゃんはなかなかに鋭い。記者ちゃんの言う通り僕は困ってはいるけど、かつて程深刻ではない。というのも何をするか僕自身もう決めていたから。

「答えになるかは分からないんだけど、ちょっと久々に皆に会ってみようかなぁって」

 かつて一緒に走り、勝利の栄光をめぐって争ったライバル達に。今だったら置いてきた過去の自分も受け入れられそうだから。過去の清算ってわけじゃないけど、今の自分が何者なのか、改めて見つめなおしてみたかった。

「良いんじゃないですか? きっとそれは今のテイオーさんに必要な事だと思います」

「やっぱりそう思う?」

「ええ」

 彼女の優しい視線がどうにも照れくさく、僕はそっぽ向いてしまう。

「ちなみに初めは誰に会うとかは決めていたりするんですか?」

「実はね。もうアポイントは取ってあるんだ」

「おお! 今までが嘘だったかのように早い行動ですね。差し支えなければ誰か聞いても?」

「ダブルジェット!」

「へっ? ダブル……あ、もしかして」

 ダブルジェットと言うウマ娘はどこにもいない。初め僕の意味不明な言動に、怪訝な表情を浮かべた記者ちゃんだったが、すぐに持ち直して答えを探し始める。

 まあ問題にするには簡単すぎるけどね。ダブルジェットと言うウマ娘はいないが、ダブルとジェットを類義語に変えれば答えはすぐに出てくる。そう、大勝ちか、玉砕か、常に全力疾走の青い弾丸、そのエンジンが尽きるまで走り続けるその名は、

「そう、ツインターボだよ!!」

 

 

 

(1)ツインターボ

 

 

 ツインターボと聞けば何を思うだろう? やっぱり大逃げ、ターボエンジン、逆噴射、あたり? とにかく快勝か大負けかの一発屋、そういうイメージが強いだろう。ツインターボの底抜けに明るく、負けても後ろを振り返らない清々しさで、良い意味で大馬鹿、それが世間のツインターボの評価となっている。

 成績としては重賞としてG2を勝ったウマ娘であるが、その上の舞台で戦っていた僕は直接彼女と戦った事はない。実のところツインターボは僕の一個上で、僕がデビューする前に栄えあるG1である有馬記念に出走した事があるのだが、ブービー賞と言う散々な結果だったらしい。

 なので僕が知るツインターボは有馬記念が終わった後の彼女であった。ツインターボは何故かやたら僕に絡んできては「勝負しろ―」だの自由奔放に振る舞い、嵐のように帰っていくはた迷惑な存在であった。

 何てゆーかあのテンションに付いていけないのだ。僕はリズムを狂わされるのがどちらかと言うと苦手な方で、練習中に出くわすとその後がボロボロになったりした。トレーナーは良いメンタルトレーニングだと言っていたけども、付き合わされるこっちの身にもなってほしい。

 ただ彼女の「走るのが好き!」が全身からにじみ出している姿は嫌いじゃなかった。そんなツインターボの評価が一変したのが、病院で彼女と出くわした時であった。

 

 

 僕にとって2度目の故障の時だった。骨折から一か月後、その日は経過を見るための診察の日だった。どうせ診断結果なんて要安静しか出てこないと分かり切っている中、いちいちチェックしなきゃならないのは煩わしく、僕はどこか投げやりな気分になっていた。

 一緒に来るはずだったトレーナーは病院に来る途中で、ネタを狙っている質の悪いマスコミの尾行に気づいた事から、別れて行動する事になってしまった。今トレーナーは囮としてマスコミを引きつけてもらっており、僕の診察後に合流する予定となっている。

 診察はめんどくさいし、トレーナーもいない。そんな僕の気分は最悪そのものだ。

 だからツインターボを見かけた時、本音を言うと「うわぁっ」て思ってしまった。でもめんどくさい気持ちは一瞬で、すぐに疑問が降って湧いた。何故ここにツインターボがいるのだろう、と。何せここは病院である。

 普段見ない彼女の物憂げな表情に僕は釘付けになった。声をかけるべきなのか、そうでないのか、判断する間もなくツインターボは僕に気づく事もなく、診察券を片手にその場から離れた。彼女の向かった先は、

「あの方向にあるのは確か……呼吸器内科?」

 ウマ娘にしては珍しい科の受診に僕は眉を広める。

「ん、そこにいるのはトウカイテイオーか?」

「そんな君はツインターボのトレーナー、だよね?」

 僕の言葉に対して彼は頷く。

「トレセン学園の近くで良い病院と言えば、ここが一番だから何時かは誰かと出くわすと思っていたが、よりにもよって君だとはな。君は一人か? トレーナーは?」

「途中でマスコミに嗅ぎつけられてね。今代わりに囮してもらってる」

「それは災難だったな。足の調子は?」

「普通としか言えないかな。早く治ったりするものじゃないし」

「そりゃそうか」

 お互いはぐらかしているような何とも言えない会話であった。知らないふりをすればとも思ったが、いくらツインターボを見ていないと言って取り繕っても、そのトレーナーを見かけた時点でほぼアウトだ。

 遅かれ早かれ話題の行きつく先はツインターボとなる。だから僕は覚悟を決めてターボのトレーナーに尋ねた。

「その、さっきツインターボを見たけど、どこか悪いの?」

 僕の質問に対して彼は無言になる。どう答えようか考えているようであった。口に出すのを躊躇うほどの症状、きっとツインターボが抱えたものは軽いものではない。沈黙に耐えかねて僕が何か次の言葉を考え始めた矢先、彼はようやく口を開いた。

「ズルはしたくないって本当はターボから止められているんだが、ここで出会った時点で隠しようがないよな。それにここで出会ったのがテイオーってのも何かの縁だ。テイオー、察しの通り、あまり面白くない話だ。それでも聞くか?」

「……うん」

「そうか。分かった」

 ターボのトレーナーは徐に僕に向き直ると衝撃的な事実を告げた。

「……ターボは肺をやっている」

「……え?」

「ターボがスタミナがないのは小柄な体のせいと言われているが、本当は違うんだ。肺が傷を負っているからターボはスタミナを上げたくても上げられないんだ。ちょうど君がデビューする前、有馬記念の時だ」

「そんな……」

 僕は絶句した。いつも突っ走っているイメージだった彼女に、ここまで重い事情があったなんて。思い返してみたってそんな素振りは一切なく、ツインターボはいつだってあのままのツインターボだった。

「俺の痛恨のミスだった。初のG1で舞い上がってた。勝たせたいあまりにターボに限界以上の力を出させてしまった。原因は鼻出血、と言ってもただの鼻血じゃない。外傷性の出血じゃなくて、内因性、つまりは気道、肺からの出血だった。テイオーは知っているか分からないが、肺からの出血はなかなか治らない。癖にもなるという」

「それって危ない状態なんじゃないの? なんで走らせるのさ!?」

 素人でも分かる。肺は足と同じくらい走るのに大事なものだ。肺にダメージがあるのであればそもそも走るべきではない。

「ターボが走りたいと言ったからだ」

「それでもトレーナーとしては止めるべきでしょ!!」

 僕もウマ娘だ。走りたい気持ちは良く分かる。でも命の危険を抱えてまで走るのは間違っている。僕のトレーナーだって絶対レースには出さないはずだ。怒り心頭の僕はターボのトレーナーを睨みつける。でも彼女のトレーナーは全く動じる事無く、僕の怒りを真っ向から受け止めた。

「俺だって彼女の状態は分かっている。だからレースに出る際は条件を付けたんだ。もしも息が苦しくなったらそれ以上は本気で走らないって」

「っ!!」

 もしもって言ったって息切れは必然だ。ウマレースは距離が短いから楽とかじゃない。短いなら短い距離の中で全力を出し切るのがウマレースだ。余力を残してゴールなんて余程の実力差がないとできるわけがない。皆が皆、本気で一位を取りに来るのだ。

 でもツインターボにはその本気が許されない。そんな、そんな残酷な事って……

「……酷すぎる」

「それでもやるといったのはターボだ」

 静かな口調であったが、ターボのトレーナーのその言葉には強い決意がにじみ出ていた。

「だから俺はこうして彼女のトレーナーを続けている。どんだけ笑われようが、あいつはやると決めた。あいつが覚悟を決めたのなら俺もそれについていくだけだ」

 その時僕は何か腑に落ちた気がした。ターボのトレーナーはとっくの昔に覚悟を決めていたんだ。きっとツインターボが己の在り方を決めたその時から。

「もしもあいつが引退するとしたら誰かにスタートダッシュで負けた時だ。その時まであいつは走るよ」

 僕のトレーナーの言葉がよぎる。トレーナーとウマ娘は一心同体。まぎれもなく強固な信頼でツインターボとそのトレーナーは繋がっていた。

「って事でテイオー、ターボの代わりに宣戦布告だ」

「えっ?」

「次の有馬記念はターボが頂く」

 何を馬鹿な事をと思う。有馬記念はファン投票で決まるので、出走できる可能性はゼロではない事は確かだが、正直今のツインターボの成績では厳しい。さらに問題なのはその距離だ。2500mは今のツインターボには無茶過ぎる。

「だからテイオー、君も頑張れ! 大丈夫、怪我なんてどうとでもなるさ」

 ターボのトレーナーはニカッと笑う。きっとツインターボが再び有馬記念を走るのは、無茶なのは分かっているのだろう。それでも虚勢を張り、勝負相手を鼓舞する姿は強く、どこか神々しくすら見えた。

「だから、ターボを失望させるなよ」

「はは、言ってくれるね。僕は無敵のテイオーだぞ。ツインターボなんてちょちょいのちょいさ」

「おし、テイオーはそうでなきゃな! そうじゃなきゃ倒し甲斐がない!」

「だから、だから絶対来てよね。僕待ってるから」

 

 

 皆が知る通り、その約束は果たされる事はなかった。彼女の実績では有馬記念に届かなかったのだ。それでも僕はツインターボと言うウマ娘を尊敬している。ツインターボは有馬記念に出れなかったものの、七夕賞を勝ち、そしてオールカマーでなんと後続から10バ身ぶっちぎっての大勝利を決めてみせたのだ。

 僕自身も怪我に悩んでいた時に起きた、大逃げと言う常識外れの大勝利、それにどれだけ勇気をもらったか。レースを見た後、僕は涙があふれるのが止まらなかった。あの時の強いツインターボが忘れられず、僕は彼女の事をこっそり内心で師匠と呼んでいる。

 

 

 僕は一つ誤解していた事がある。確かにトレーナーはターボにスタミナが切れたら本気で走らないように条件を付けたと言った。でも今にして思えばそれはただの口約束で、これからも走るためにそれらしい理由をこじつけただけだったように思う。

 ツインターボはスタートしたら最後、エンジンが壊れるまで、いや、壊れたって全力で走り続ける。一見逆噴射からの急減速はレースを諦めたように思えるが、それは抑えたのではなくただのスタミナ切れだ。自ら手を抜いたわけじゃない。ツインターボはスタミナがキレても、負けが確定してもなお全力で走り続ける。彼女に勝負を諦めるという選択肢は存在しない。

 勝った七夕賞やオールカマーのツインターボはどう見たって全力全開だ。レース後にせき込むくらいに肺を酷使して走りきった。

 そう、トレーナーは建前だけは用意しておいて黙認したのだ。ツインターボがなおもレースに出て全力で走る事を。もし完全に壊れてしまっても責任を取る、そのつもりで。

 

 

「えっとここで合ってるかな?」

 電車で揺られる事一時間、都会から離れた新緑溢れる自然が豊かな場所にそこはあった。広い土地がある故の大きな公園には何個か運動施設があり、その中の一つにウマ娘専用の練習場がある。

 といっても距離はウマ娘にとっては最低限のもので、一周1200m程度しかない。しかしながら無料で開放されている施設と考えれば、芝の管理がしっかりと行き届いていて、かつレースだってやろうと思えばできるここは上出来、いや、最高と言ってもいいだろう。

 かつてここが地元のウマ娘がG1を制した時、市から記念として作られたものであろうそうだが、その場限りの約束ではなく、きちんと管理をしているのは本気を感じられて、素晴らしいの一言だ。

 今はまだ早朝なのだが、こんな早くにも拘らず、それなりに多くのウマ娘が練習に励んでいた。親と一緒にランニングする子供に、寄り添って走る熟年夫婦(別に利用できるのはウマ娘オンリーではないよ!)、そして今後レースで活躍を夢見る若い子達、いつかこの場からまた優秀な者が出てレースを走る時が来るのだろうか?

 老若男女、様々な人がいる中で、僕の心の師匠はいた。

「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 いつかと同じように、雄たけびを上げながらエンジンでぶっ飛ばす青毛、あまりにも変わらなさに僕は自然と笑みが出る。僕より数年前に引退したツインターボ、彼女は今元気な姿で走っていた。

 そしてゴール先では、携帯のカメラモードでターボの勇姿を撮影している男性がいる。無論それは彼女のトレーナーだ。ターボは引退したから、元トレーナーにはなるであろうが。ツインターボの引退後も彼は彼女と共にいた。

 誤解なきよう言うと別にツインターボはレースの復帰を目指しているわけじゃない。今この場で走っている事自体が彼女達の次の勝負場所なのだ。

 ウマチューバー、要はyou tuberのウマ娘版の事をそう言うのだが、色んな才能がある者達があの手この手でしのぎを削る舞台で、突如現れた異質な存在。それがターボチャンネルだった。

 ディープなウマレースファンはその名前だけでツインターボを連想したが、いきなり現れたそれが本物であるかは分からず、ツインターボの性格からして、編集が思いのほかめんどくさいとされるyou tuberをやるとは考えにくく、割と懐疑的な姿勢であった。

 それでもまずは一回は見てみようと思ってしまうもので、怖いもの見たさで投稿動画を見た視聴者は度肝を抜かれた。

 まず画面に現れるのはレース場の様な場所だ。そこに猛烈な勢いで走ってくるツインターボらしき者、彼女がゴールのテープを割った瞬間にタイムが表示され、最後に「逆噴射を恐れていてはレースはできない」とカッコいいような、そうでないような一言が表示され、何の補足もないまま終わったという。

 一分にも満たないそれに困惑した視聴者は数知れず、でも走ってるのはまぎれもなくツインターボ本人で、情熱と謎とシュールさを黄金比率で兼ね備えた、良く分かんないチャンネルは瞬く間に話題となった。

 ただ走ってタイム計って格言タイム、という徹底的に無駄をそぎ落とし、お金的にも労力的にも低コストで済むターボチャンネルは、その気楽さを逆手に取り、毎日朝八時に配信され、今ではニュースやワイドショーと共にいわゆる朝の顔となっている。

 これ普通に飽きない? って思うかもしれないけど、飾り気がないからこそ癖になるようなところがあり、短いからこそさっと見れる強みもある。狂気の産物の様でかなり考えられているとは専門家の見解だ。

 またいつものルーティンだと油断していると、いきなりネタをぶっこんでくるのがこのターボチャンネルの侮れないところだ。

 格言がただの料理のレシピだったり(もちろん書き留める時間なんてくれない)、「ぶっちゃけネタ切れ、良いネタあったら教えて」と視聴者にぶん投げて来たり、ターボの代わりにいきなり知らんおっさんが走ってきて、最後の格言が「ターボ風邪ひいたので代理で走りました」とただの連絡事項になってたりと、結構やりたい放題やっている。

 ちなみに謎のおっさんとはもちろんツインターボのトレーナーである。動画のためとはいえ、なかなか体を張っていらっしゃる。

 またネタの宝庫の格言タイムとは別に、走り自体は割とガチ気味と言うのも面白く、良いタイムが出た日なんかは、しょーもない格言の後ろで喜ぶターボの声を聞いた視聴者全員がほっこりし、世の働き盛り達は「俺ら(私ら)も頑張るかー」と普段の2割増しのやる気で出社していくと言う。

 

 

「おー、テイオー! よく来たなー!!」

 腕をブンブン振りながらツインターボは僕を迎える。その横でターボのトレーナーは苦笑していた。自分で言うのもなんだけど一応僕は有名人である。だから普通は周りにばれないように振る舞うものであるが、大声で叫んで豪快に手を振られては目立ちまくりだ。それに僕だけでなくツインターボだって結構な有名人なのである。

 案の定周りはざわつくわけであるが、僕はもうこれがツインターボと開き直って彼女の元へと向かう。そしたら

「え、ちょっ!?」

 思いっきり抱きしめられた。ツインターボは僕より小柄のため、僕の肩に顔を埋めるような感じになったが、それでも僕はどういう訳か、何か大きなものに包まれている感覚になった。

「本当によく来た! 本当に……」

「……うん」

 僕は静かに頷いた。かつてはお互い一線を駆け抜けた身だ。ウマレースと言う世界の酸いも甘いも知っている。だけど僕もツインターボもそれを言葉にできなかった。だからこそ僕らは言葉よりも行動を選択したのかもしれない。ツインターボからの抱擁は言葉よりも勝る何かがあった。

 しかしながら問題はその先である。これからどうしようか? 正気に戻ると何かこう羞恥心が湧いてくる。あの元気全開がモットーのツインターボですら顔を赤らめ、戸惑っているようで。勢いで行動するとこういう事がよくある。二人で困っていると助けの船は訪れた。

「あ、あの……テイオーさんですよね? サイン貰えますか?」

 そう、ツインターボがいきなり大声で僕の存在を暴露したからこそ、ファンの方々がやってきてくれたのだ。何が良い方へ転ぶか分からないものである。

「よーし、ターボのサインが欲しい奴は並べ―!」

「いや、ツインターボさんのは結構です」

「なんだとぉぉぉ!?」

「いや、だって私含めてここにいる人達、もう全員ターボさんのサインもう持ってますし」

「あ。そういえばそっか」

 何ともツインターボらしいやり取りで僕は笑ってしまう。ウマレースで愛されたツインターボはここでも愛されているようであった。

「ハイハイ、僕から提案。せっかくなら連名のサインにしようよ。僕とツインターボの」

「おー、それはいいな。ターボとテイオーのサインはきっと価値が出るぞ!」

「本当ですか!? 是非是非」

 僕の提案に湧きたつファン達、それからは僕とターボでどこか漫才のようなやり取りをしつつのサイン会と相成った。ちなみに漫才は意図しての事じゃない。

 二人で会話していると自然とターボがボケ、僕がツッコミになるのだ。昔はこのズレこそが苦手だったのだが、今ではこのズレこそが楽しい。唐突なサイン会は和やかに進んだ。

 しかしながら僕がここに来たのはただツインターボに会いに来たのではない。

 僕がここに来たのは約束を果たすためだ。更衣室でジャージに着替えると僕は入念にウォームアップを始める。一方ツインターボはストレッチのみをひたすら行っていた。視線をずらすとターボのトレーナーは横断幕に何か書いている。こっそり覗き見るとそこにはひらがなでゆるーく「ありまきねん」と書かれていた。

 そう、約束とはかつて病院でした有馬記念で勝負するという約束だ。といってももはや2500mはツインターボだけでなく僕も走れない。ツインターボは肺の問題があるし、僕だって足が持たない。言いたくはないがお互いボロボロの身だ。

 だから僕らが走るのはその5分の1の距離、500mだ。それはターボチャンネルでいつもツインターボが走っている距離でもある。そう、この距離こそが現役を引いたツインターボが走れている理由だ。

 肺の問題はスタミナに直結する。だがツインターボに他の部分で問題はない。距離を短くすれば全力で走る事も可能なのだ。しかし残念な事にウマレースは最低でも1000mある。ウマレースにツインターボが走れる場所はなかった。

 そこで諦めなかったのがツインターボのトレーナーだ。彼女のトレーナーは新しく作ったのだ。彼女が全力で走れる場所を。今のツインターボが楽しく走れているのは、間違いなくトレーナーのおかげだ。病院の時に感じた彼の覚悟は本物だった。

「よーし、ターボは準備出来たぞ!」

「僕も十分!」

「分かった。じゃあ二人ともスタートラインに立ってくれ」

 言われるがままにゲートのないスタートラインに立ち、よーしと気合入れていると、いきなり学生の集団が現れて僕は目を丸くする。何事かと思っていたら、どうやら吹奏楽部だったようで突如始まる音楽。それはもちろん有馬記念のファンファーレだった。

「うわー、なかなか粋な演出だね」

 これはウマ娘ならやる気が出る。

「でしょ!? ターボのトレーナーはいつだってサイコーなんだ!」

 得意げな笑みで答えるツインターボの姿は眩しい。かつての僕のトレーナーの言葉がよぎる。ウマ娘とトレーナーは一心同体だって。

「でも僕だって負けてないよ」

 失ったと思ってたけど、僕のトレーナーとの絆はまだ残っている。だったら僕だって負けられない。今はもう衰えちゃったけど、完璧とはいかないけれど、僕とトレーナーが積み上げてきたものは確かにある。なんちゃってであろうがレースに出るからには

「負けられない!!」

「いーや、勝つのはターボだ!!」

 そして二人だけのレースの火蓋は切って落とされた。

 

 この勝負の行方については教えてあげない。知りたかったらターボチャンネルを見るように! その際はもちろん「イイね」を忘れずにね! とりあえず僕の感想としては最高の一日だったよ。

 

 

 

(2)ナイスネイチャ

 

 

「うへぇ、体が痛い」

 ツインターボとのレースは僕の体に多大なダメージを与えた。今の僕はもれなく全身筋肉痛である。たった500走っただけでこれとは……ちゃんと今の僕が足の壊れない全力、つまりは80%くらいだったんだけどなぁ。終了後のストレッチだってがっつりやった。それでも結果は見てのとおりだ。

 寝る前は最高の気分だったのに、朝になったら動けなくてびっくりした。衰えを感じてしまって何とも微妙な気分になる。もしこれでストレッチしていなかったらと思うとぞっとするよ。

「買ってて良かった無臭の冷湿布」

 ペタペタ張りつつ僕はスマホを弄る。とりあえずターボチャンネルを確認してみたが、早速先日の勝負の動画が上がっているようだ。普段の倍近くの再生数になっていてめちゃくちゃバズっている。とは言うもののそれくらい予想はしていたので、僕はマイペースに動画の中身を確認する。

「うーん、姿勢が今一だなぁ。そりゃタイムもあんなわけだよ」

 久々に見た走る自分のフォームに駄目出し、ちなみに今回の格言は『そして約束は果たされた』である。いや、これ当人同士しか知らない身内ネタじゃない。でも謎ゆえ色々考察できるようになっていて、コメントの伸びがえげつない。

「やっぱりあのトレーナーやり手だよなぁ……ん?」

 そしてサジェストに上がるオグリ先輩がやっているらしき動画、試しにクリックしてみたら、オグリ先輩が幸せそうに延々とご飯食べてました。

 後になって知ったんだけど、ターボチャンネルとオグリチャンネルは2大奇ウマチャンネルと呼ばれていて、シュールウマ娘動画で双璧を成すらしい。ちなみにオグリ先輩の方のプロデューサーはタマモクロス先輩だとか。

「本当に美味しそうだなぁ。お腹減ってくるよ」

 そんなこんなでペタペタ作業完了、というわけで僕は本命である今日の目的地をググる。

 トレセン学園の近くの商店街で最近できた評判のカフェ、その名はカノープス。カタカナなのにやたら達筆なそれであるが、気になって調べてみたらなんと先日会ったツインターボ直筆らしい。思いもよらない特技があったものである。

 やたら気迫あふれた店の看板とは裏腹に、店そのものは小奇麗かつオシャレで、思わず足を止めてしまう程という。提供するものは定番のコーヒーや紅茶、軽食、スウィーツ、と言った感じで目新しいものは特にない。

 しかしながら値段設定が良心的で、マスターの腕の良さからか、提供されるメニューに外れがない事から、若者達の憩いの場となっている。またそのマスターは商店街の方々からやたら人気があり、そんなおば様たちの井戸端会議の場としても使われているそうだ。トレセン学園が近い事から練習帰りのウマ娘達の利用者も多いとの事。

 つまりは大人気という事である。お店の評判は口コミやツイッターから徐々に噂が広がっていき、今ではすっごく繁盛する店になっているそうで。そんな忙しい店を切り盛りするのが、かつての僕のライバルの一人、ナイスネイチャだ。

 確か彼女の実家はスナックを経営しているらしく、大人のお客に囲まれて子供時代を過ごしていたというのを聞いた事がある。それ故昔からネイチャは生活力が高く、現役時でも一人で料理や洗濯、掃除などをきっかりこなせていた程の実力者だ。

 だから彼女がカフェを始めたと知った時、意外でも何でもなかった。唯一驚いたのは店を構えたのがトレセン学園の近くって事かな?

 今日の僕の主な目的は再会ではなく、アポイントなしでネイチャの店に客で訪れる事だ。といっても現役のウマ娘も来るカフェだ。僕が来たともなれば大騒ぎだろう。僕としてもネイチャの仕事のジャマはしたくない。

 だからこそ僕は変装して、こっそりネイチャの仕事ぶりを見るんだ。そして後でツインターボから教えてもらった彼女のLINEに「いい仕事っぷりだったよ」って送ってやるんだ。どうこのプラン? 完璧でしょ!?

 サングラスにマスクなんて馬鹿な事を僕はしない。メッシュが入った目立つ髪の色はあえて変えず、僕は髪型だけを変える。違和感があるカツラ、染色はもってのほかだ。いつものポニーをやめて、三つ編みにし、服はゴスロリファッション、さらにはカラーコンタクトも入れる。何と言う完璧な変装!

「楽しみだなぁー」

 僕は意気揚々とネイチャのお店、カノープスへと向かった。

 

 

「ねえ、アンタ、テイオーでしょ?」

 

 なんでバレたの!!!?

 

 それまでの流れは僕としては完璧だった。マックイーンを真似た口調と仕草で来店し、マックイーンを真似て紅茶とショートケーキを注文した。そうやってまんまと潜入した僕は、優雅に紅茶を啜りつつ、忙しそうに仕事をこなすネイチャを眺めていた。

 事前の評判のとおり、店は凄く居心地が良く、ネイチャの作ったケーキは当たり前のように美味しい。頑張っている彼女の姿を眺めていると、人の事ながら妙に嬉しくて口元が緩む。ウマ娘の二人組と、商店街のおば様達が会計を済ませ、店内の客がまばらになったその時だった。

 僕の背後に忍び寄ったネイチャが耳元で呟いたのだ。一応疑問口調であったが、確信を持ってる事は明白で、僕はどうしてとネイチャに視線で問いかける。

「だってアンタ、LINEの友達に追加されていたんだもの」

「え? 嘘!? ターボから教えてもらったのは確かだけど、僕まだ登録してないよ?」

 サプライズのためにカフェから帰った後に登録しようと思ってたんだから。流石に友達登録したら相手にばれるのは分かっている。

「となるとあれか……テイオー、昨日多分アタシの電話番号追加したでしょ?」

「確かにしたけどそれが何?」

 LINEと一緒に電話番号も教えてもらったから、こっちだけ先に追加したけど、それって相手には通知されないよね?

「LINEはさ。登録している電話番号で自動友達追加っていう機能があるんだよ。あんたその機能オンにしたままだったでしょ?」

「え? という事は……」

「昨日いきなりテイオーからLINEの友達追加の通知が来て、今日の今日でここぞとばかりに変な客。何でそこでマックイーンを選んだかな? いくら何でも察しちゃいますよ」

 要するにバレバレだったという事? 僕ってただ自滅しただけなの? サプライズするどころか全て筒抜けだった事実に僕の顔は羞恥に染まる。

「慣れない事をするもんじゃないね。ネイチャさんを騙そうったってそうはいかないよ。あ、後あまりにも面白い姿だったから写真撮らせてもらったんだけど」

「いっそ殺して!!」

「あっははは、でも随分とお茶目になったね」

「まあ、現役引退したしね。レースがない分、気は大分楽かな?」

「そっかそっか」

「ところで写真、消してくれない?」

 良い雰囲気で流そうとしたってそうはいかないぞ。その写真はまぎれもない僕の黒歴史なのだから。マックイーンなんかに知れたらどうなるか。

「それは嫌、こんな面白い写真滅多にないし」

 ネイチャは明確に否定を口にする。

「どうしても消してほしいっていうなら条件次第かなぁ?」

 意味ありげな視線を僕に向けるネイチャ、つまり交渉次第って事らしい。

「……どうすれば消してくれる?」 

「そうだなー」

 随分と楽しそうな表情で顎に手を当てるネイチャに、僕は戦々恐々だ。しかし彼女の出した要望は意外なものだった。

「だったら店終わった時間にまたここに来てよ。夕飯御馳走するからさ。お互い引退した身でもう争う必要もないし。こうしてせっかく再会できたんだもの。今だから話せる事で思い出話に花を咲かせようじゃない」

 

 

「「それじゃあカンパーイ!!」」

 僕は今や必須となった夜の相棒、スト〇ロはちみー割をぐいっと飲む。一方でネイチャはウーロンハイという渋いチョイスだ。ネイチャの用意してくれた料理に箸を伸ばしつつ、会話を弾ませる。あ、これおいし。

「しっかしテイオーがお酒なんてねぇ。現役時代からは考えられないよ」

「それはネイチャも一緒でしょ?」

「選手は体が基本だし、不摂生の元となるものは遠慮したかったのは確かよね。でもはちみーで割るのはあんたらしいね」

「はちみーは僕のアイデンティティーの一つだし」

「昔から思ってたけどアンタのはちみーに対するその情熱はなんなのさ」

「……本当のところ今は割と普通だったり」

 実のところ今の僕はそんなにはちみー狂いではない。手放せないくらい大好き! から普通に好きと言うレベルまで下がっている。

「え、それ割と衝撃的な事実なんだけど!?」

「いや、大人になったら味覚って変わるじゃない? 昔ほど甘いのが好きでもなくてさ。昔の癖で買いすぎてたところ、スト〇ロで薄めたらちょうどいい塩梅だったんだよね」 

「あー、分かるなぁ。何で子供の頃ってあんなに甘いモノ好きなんだろうね」

「後は抵抗を感じるというか。甘いものはカロリーがさぁ。現役時はそれだけ運動していたけど、今は昔ほどがぶがぶとはいかないよね」

「やめて。それアタシにもダメージが来る」

 ネイチャ曰く、カフェに出す用のケーキの試作品とか、自分で味をチェックするので、避けたくても甘いものは避けられないのだとか。味のチェックをしなかった手抜きはすぐにばれるとの事。そうした苦悩もあるのか。なかなか大変だなぁ。

「でも今日だけはそう言うのなしで行こう! 後の事は明日のアタシに任せる」

「りょーかい!」

 しかし不思議な時間だなぁ。現役の頃を考えれば、こうして一緒に和やかにご飯食べているなんて信じられないや。別にお互いの事嫌いじゃないけど、どこかピリピリしているというか。やっぱりライバルって側面が大きかったんだよね。

 最初こそお互いの近況の話ばっかりだったが、徐々に本題は過去へと遡って行き、やはりというか現役の頃の想い出話となる。現役時代にはとても言えなかった、不満とかの暴露大会だ。

 服の話題なんかは完全に同じで笑っちゃった。人であれウマ娘であれ、アスリートならよくある事なんだけど、運動で体を鍛えているともちろん筋肉が発達するわけで、ウマ娘なら特に足が重要なわけだ。

 その結果どうなるかと言うと、鍛えた太ももが太すぎてジーンズなどのズボンが入らなくなるのだ。悲しいかな、僕らの努力の結晶がファッションではジャマになるのである。

 可愛い服を見つけてもズボンならまず絶望的、太もものサイズに合わせるとウェストはだぼだぼで見れたものじゃなく、泣く泣く諦めたのは一度や二度じゃない。レースは大好きだし自慢の足ではあるけれど、女の子らしさが失われている気がして、当時は結構悲しくなったなぁ。

 後ウィニングライブとかも、勝負でくたくたなのになんで踊らなきゃならないんだよと二人で総ツッコミ。頑張ったのは僕らなんだからこっちが見せてほしいと言ったら、ネイチャが代理でトレーナーに躍らせるのは? とか言い出したからもう大変。

 ライブの中でやばい曲と言ったらやっぱり『うまぴょい伝説』で、僕らのトレーナーがうまぴょい伝説を熱唱し、踊る様を想像したら笑いが止まらなくなる。ウマレースファンからは不評だろうけど、ウマ娘側には間違いなく受けるだろう。

 それからもゲートが無駄に仰々しくて狭すぎない? とか、どこのファンファーレが上手、あるいは下手とか、話題は尽きる事無く、会話に花を咲かせた。

「アタシはさ、これと言った武器がない。いや、これはちょっと間違いかな? 得意だったものはあったけど、いつだってその上がいたから自信が持てなかったんだ」

 いつしか過去話は楽しい話題を通り過ぎ、僕達がずっと内で抱えていた闇の部分にまで及んでいた。最初に僕が色々ぶっちゃけたわけだけど、ネイチャもなかなかに溜まっていたようで。

「アタシにとってアンタは目標でさ。着順で勝った試合もあったけどその時はあんたは本調子じゃなくて。さらに言えばその時のアタシは一位でもないんだ。余計に惨めだったよ。アタシが求めた勝利はこんなんじゃないって。皆入賞だって素晴らしい事だ、頑張ったと誉めてくれたけど、違うんだよ。アタシだって勝ちたいんだ」

 ネイチャは巷ではブロンズコレクターと呼ばれている。有馬記念に3年出場して3回とも3位だった事に起因している。安定感があると言えば良く思えるし、勝ち切れないと言えば悪くも思える、上にも下にも振りきれない称号であるが、ネイチャ自身それをどう思っているか聞くのは初めての事だった。

「一番自分が嫌になったのは3回目の有馬記念の時かな。アタシは3着になった時、安心してたんだ。アタシ頑張ったよねって。悔しがる事ができなかった。それ自覚しちゃったときは夜中にも拘らずもう叫びたくなっちゃってさ」

 僕はネイチャの夢を阻んだ側だ。だから僕にネイチャへ何か言える事はない。それでも彼女の苦悩は分かるような気がした。何せ僕らの問題にとって根っこは一緒なのだ。レースに本気だったからこそ悩むし、苦しい。

 本気の勝負の世界ってのはそういう所なのである。

「でもアタシはテイオー、アンタがいたおかげで踏ん張れたんだ」

「え、僕?」

「ちょっと言いにくくはあるんだけど、テイオーは怪我が多かったじゃない? でもその度に這い上がった。といっても這い上がった事自体はどうでもいいんだよね。もちろん3度怪我から復帰するのは凄いんだけどさ? アタシはさ。アンタのぎらついた目が忘れられないんだ。まさに狂気の沙汰だったよ」

「あのー、それって褒められてるのかなぁ?」

「怖かったんだよ。アタシはこんなもんなのかなって悩んでいる一方で、アンタは怪我しようが関係なしに、死に物狂いで勝負に勝とうとしていた。才能の差、アタシはいつもそれを感じていたんだけど、あの時のテイオーを見て思い知らされたんだ。勝ちたいと思う気持ちこそが真の才能なんだって」

 なんだか大層な言われ方に待ったをかけたくなったが、F1娘ちゃんも言っていたっけ。動機が不純であろうが、勝利を願う思いの強さこそが重要なのだと。僕は勝利にこだわった。自分の居場所を守るために。全身全霊をかけて、怪我で徐々に壊れていく体に抗った。そこに嘘偽りはない。

「だからアタシはその時から言い訳をやめた。余計なこと考えず本気で勝ちに行った。ま、そこで勝てないのが現実だけどね。アタシの場合ちょっと気づくのが遅すぎたから。それでも納得できるレースだったよ」

「何か褒められすぎてむず痒いな。でもちょっとだけ訂正させて? 僕もさ、ネイチャと同じく勇気をもらった側なんだ」

「へー、テイオーの場合は……マックイーンとか? それともルドルフ会長?」

「ん-ん、ツインターボだよ。マックイーンもカイチョーも間違っていないけど、一番はやっぱりツインターボ」

「お、何だか意外なところがきたね」

「だってさ、あのオールカマーはとんでもないじゃん」

「そっか。あれは確かにウマ娘として理想像だよね」

「流石ネイチャ、分かってる!」

 僕達が圧倒して勝てるというレースは少ない。能力が競っているからこそ作戦を使い、自分の有利な状況を作り出す。逃げだって常に全力じゃなく、相手がペースを上げても追いつけない差を作るために策を凝らす。だが大逃げだけは違う。作戦も何もあったものじゃない。純粋に実力のみで相手を黙らせる究極の勝ち方だ。

 多分大逃げの代名詞と言えばスズカ先輩だろう。異次元のスピードで最後まで逃げ切るスズカ先輩は一つの完成形だ。そんな先輩だって怪我をして復活した奇跡の人だ。でも僕が尊敬するのはやっぱりツインターボなのだ。

 絶望の中であっても諦めない、その意思は繋がっていく。ツインターボから僕に。僕からナイスネイチャに。そして誰かがきっとナイスネイチャから勇気をもらっているんだ。そう思うと心が温かくなり、ふと笑みがこぼれた。

 

 

 

 

(3)メジロマックイーン

 

 

 ふと疑問に思った。

「僕って抱き心地が良いのかな?」

 ネイチャとの暴露大会は深夜まで続いたわけだが、事件は別れ際にこそ起こった。

「それじゃあまたね、ネイ……ふぐぅ!!」

 いきなり腹へと突撃かまされたのである。淑女ならぬ奇声を発してしまった僕だが、たらふく食って飲んでのお腹に対しての致命の一撃に、中身をぶちまけなかっただけ褒めてもらいたい。

 なんとか持ち直してネイチャに文句言おうと思ったらネイチャはギャン泣きしてました。

「うわぁぁぁぁん、テイオーが元気になって良かったよぉぉぉぉ」

 酒入りまくってすでに理性が働かない状況、別れ際というシチュエーションが僕の引退の時を彷彿とさせたのか、色々と思い出して感極まってしまったらしい。普通なら感動のシーンだとは思う。でも僕はそれどころじゃなかった。

「ネイチャ、ストップ! ホントストップ!! お腹押さないで!! やばいから!! 色々とやばいからぁぁぁぁ!!!!」

 リバースを最後の最後まで耐えきった僕はきっと英雄だ。

 ほぼ思い付きで始めた挨拶回りだけど、会う人会う人、必ずどこかのタイミングで抱きしめられている気がする。嬉しいは嬉しいんだけど、後で思い返すと妙に恥ずかしいんだよねぇ。といっても回るのは後一人、僕のライバルだったウマ娘はまだまだ沢山いたけど、流石に遠出で日帰りは難しいので、今回は近所のみに限定していて除外してある。

 僕の近所にいる知人のウマ娘はラストの一人、ウマレースのライバル達は皆強敵であるが、その中でも僕の一番のライバルと言えばマックイーンだろう。

 マックイーンはウマ娘でもメジロ家という由緒ある家系で、絵にかいたようなお嬢様だ。だからか冗談抜きでテラスで優雅に紅茶を啜っている姿がよく似合う。でもウマレースにかける情熱は本物で、筋金入りの頑固者でもあり、憎たらしいほど強い。

 そして忘れちゃならないのはマックイーンがトレセン拉致事件の実行犯って事。最後の最後に彼女に会う事に決めた僕であったが、最後だからといって感動の再会なんてものはなく、会ってすぐに僕はマックイーンに恨みをぶつけた。

「マックイーン、よくもやってくれたねぇ!」

「でもしっかりお楽しみいただけたみたいでしたけど? 不屈のテイオーさん?」

 しかしマックイーンは僕の怒りの声に対してどこ吹く風で、むしろ余裕の表情を浮かべながら逆に煽ってくる。そうだよなぁ。やっぱり知ってるよなぁ。でも記者ちゃんに散々言われたせいで、今の僕には耐性があるのだ!

「楽しんだのは確かだけど、それはそれ、これはこれ! 心の準備ってものがあるでしょ!! いきなりあんな、トレーナー室なんて……」

 あ、いけない。あの部屋の幸せな雰囲気を思い出して、怒り顔が崩れてにやけちゃう。そしてそれを見逃すマックイーンじゃない。

「トレーナー室の感想は?」

「……サイコーでした」

 どう訴えようとも、幸せだった事を認めざるを得ない僕に勝ち目などなかった。くそう、ヘタレテイオーの汚名返上ならずだよ。

 

 

「コーヒーでいいかしら? それとも紅茶?」

「コーヒー、ブラックで」

「あら?」

「ネイチャのとこで食べ過ぎたんだ……」

 明日の事は明日の自分に任せた結果、体重計で悲惨な目を見たばっかりなのである。ミルクも砂糖も我慢しないと。

「羽目を外しすぎたって感じでしょうか?」

「飲むだけならまだしも、ネイチャのご飯美味しいからさ。ついつい」

「なかなかに満喫してますわね」

「現役時代は暴飲暴食厳禁だったからねぇ」

「ええ、あれは辛かったです。本当に!!」

 怒りをこらえて、歯を食いしばるマックイーンである。何をそこまでと思うかもしれないが、マックイーンは僕以上に甘いものが大好きにもかかわらず、太りやすい体質であった。だからマックイーンにとって、甘いものは最高のご褒美であり、最大の敵であったのだ。

 僕も経験があるが、減量で断食中のマックイーンに会うのはマジで危ない。たまたま僕がマックイーンと出くわしたとき、僕はルンルン気分ではちみーを持っていた。そしたら急に感じていた重さがなくなり、何事かと思ったら消えているはちみー、辺りを見回すとふーふー息を荒げながら僕のはちみーを抱えるマックイーン。

 もちろん僕は文句言おうとしたが、彼女の異様な様子に躊躇してしまう。どこか逝っちゃってる目つきでボトルのキャップを開けようとしては、ブンブンと首を振りキャップから手を離す。でももう片方の腕はがっちりとボトルをキープしており、未練を断ち切れない。それはまさに理性と本能の争いであった。

 両者の戦いは完全に拮抗状態に陥ってしまっているようで、この後トレーナー室に行こうとしていた僕は恐る恐るマックイーンに声をかけたわけだ。

「あの、マックイーンさん? 減量中大変申し訳ないんだけど僕のはちみー返してくれる?」

 それがいけなかった。外部からの刺激によりマックイーンの理性が覚醒、どこからか取り出した野球バットで、まさかのフルスウィングをかましたのだ。

「ユタカァァァ、わたくしに悪魔を滅する力をぉぉぉぉぉぉ!!!」

「あぁぁぁぁ!? 僕のはちみぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

 この時僕は理解したんだ。減量中のマックイーンに甘いものを所持した状態で会ってはいけないと。ちなみにこの特大ホームランでロストしたはちみーは後に正気に戻ったマックイーンに弁償してもらいました。

「でも凄い大きいオフィスだね。流石はメジロ家」

「あら、何か誤解しているようですが、全部わたくしの自腹ですのよ?」

「え、実家から一切の融資なしなの?」

「一種のけじめのような物かしら。本気でやろうと決めましたから」

「そっか……」

 マックイーンとの再会場所はなんと彼女のオフィスであった。いよいよマックイーンと会おうと決めた時に、僕はようやく彼女の今を知ったわけだが、彼女のやっている事の規模が大きすぎて、開いた口が塞がらなかった。

 何せ引退後、マックイーンは一念奮起して起業し、ウマ娘専用のスポーツグッズメーカーを始めていたのだから。急に表れた新参者に既存のメーカーは大慌てだ。初めこそポッと出の者に何ができると言われていたが、マックイーンの場合、組んだ相手がやばかった。

 アグネスタキオンである。タキオンは気分屋で変わり者とされていたウマ娘であったが、その本心を知る者とそうでない者で評価がまったく変わる。

 タキオンは僕と同じで足に爆弾を抱えていた。その爆弾は僕以上のもので、本気で走れば間違いなく再起不能レベルまで壊れるほど。思いっきり走りたいのに走れない、その鬱屈とした思いはウマ娘の可能性の追求になった。

 彼女の目標はウマ娘の体そのものを進化させる事だ。全力で走っても壊れない体とは何なのか、を追求し続けていた。だが研究を続けるには多大な費用と、実験データの蓄積が必要になる。

 タキオンはお金の方は何も問題なかった。本気でこそ走れなかったが、それでも彼女は強く、ウマレースでの賞金が沢山あったのだから。一方で実験データについては全くと言っていいほど足りなかった。何せ実験対象が自分しかいなかったのだから。たまに彼女のトレーナーが犠牲になっていたが。

 とにかくこの調子ではいつか行き詰まるのは必然だった。そこに現れたのがマックイーンである。マックイーンはウマ娘の進化ではなく、道具にそれを求めた。従来より足への負担が少ないウマ娘用シューズさえ作れれば、怪我の可能性は飛躍的に下がると。

 タキオンのウマ娘自身の進化が理想であるのならば、マックイーンの道具案は現実的なアプローチだ。似て非なる二人であったが、ゴールそのものは一緒だ。ウマ娘達が誰も怪我する事なく走れる世界を。二人が組むのは必然だったのだろう。

 今マックイーンの作った会社は、主に足への負担が軽いウマ娘用シューズを作りつつ、それで得た利益の一部を研究費としてつぎ込む事で、ウマ娘の可能性を模索している。

「ホント良くやるって決心したよね。マックイーンは凄いや」

「だって嫌でしょう? 夢に向かって走る皆に、わたくし達のような思いをさせるなんて」

「まったくだ」

 度重なるケガで苦労した僕であったが、それはマックイーンも一緒だ。骨折ではないにしろソエを発症した事もあるし、何より繋靭帯炎、靭帯の炎症の一種であるが、ウマ娘にとってこの病気は致命的であり、2度と走る事が叶わなくなるそれを、よりにもよってマックイーンは発症してしまった。

 僕とマックイーンは最大のライバルであったが、実のところお互い全力で走れた試合はない。僕が調子のいい時はマックイーンの調子が悪く、逆にマックイーンが調子のいい時は僕が崩れている。なんで天皇賞でまた足を骨折するかな。一度でいいからお互い最高の状態で走ってみたかった。

「不完全燃焼も良いところだよね」

「わたくし達ウマ娘は人より速く走れますが、その足はあまりにも脆い。一体どれだけのウマ娘が最後まで怪我無く走れたでしょう?」

「僕達が知っているのはゴルシとかくらいかな?」

「アレは規格外ですからね」

 アレ扱いにマックイーンの苦労がしのばれる。ゴルシってフリーダムすぎて基本的に滅茶苦茶だけど、マックイーンに対しては殊更なんだよなぁ。何かこう、もう一段階強化されるというか。一種の信頼? なんだろうかあれ。

「タキオンにゴルシの体を研究させてみればいいんじゃない?」

「良いですわねそれ。でも今彼女は海外にいるんですよね」

「そうなんだ?」

「何でも未知の生物の化石を見つけたとか。UMAと言うらしいですが……」

「UMA……つまりはウマ? ウマ娘の僕達と関係あったり?」

「何でもわたくし達のルーツかも知れないって話ですよ? 人とウマ娘の違いが明らかになるかもしれないって。だからUMAって名前になったらしいです」

「うわぁー、それ凄い発見じゃないの?」

「だから実はタキオンさんも真面目にゴ―ルドシップさんには興味津々ですの。あくまでゴールドシップさんの発見物にですが。ルーツが分かれば研究にだって役立つはず、一度話をさせろってそれはもう毎日、あら? 電話ですね。ちょっと失礼」

「はいはーい」

 退室するマックイーンを見送りつつ、僕はのんびりコーヒーを啜る。今僕がいるのは会社のトップが君臨する場所、要するに社長室なのだが、社長室なだけあって眺めが壮観だ。こんなのドラマの世界だけだと思ってたけど本当にあるんだなぁ。

『だからそんなにすぐに会えませんって』

『今どこにいるかもはっきりしていないのに』

『金の力でなんとかしろって、無茶言わないでくださいまし』

 そして聞こえてくるマックイーンの困ったような声、これ間違いなくタキオンだ。噂をすればなんとやらってやつ? 研究に向かって一直線、相変わらずタキオンは飛ばしてるなぁ。これ相当長くなるかなぁって思ったら、思いの他早くマックイーンは戻ってきた。

「あれ? もっとかかるかと思ってたけど?」

「タキオンさん一人なら確かにそうですが、今の彼女にはストッパーがいますから」

「ストッパー?」

「家族ですよ。旦那さんと娘に止められれば一発です。通話中に別の者から家族に連絡してもらいました」

「え? 家族? え、娘!?」

「普段の彼女が嘘のように家族にはゲロアマですのよ。これ見てください」

「あ、可愛い」

 渡されたスマホにはタキオンとその家族が映っていた。旦那は案の定タキオンのトレーナー、ひねくれものの彼女を操れる唯一の存在だ。タキオンの奇行を受け止められるのはこの人しかいない。

 そんな二人の間に挟まれているのが娘ちゃんだろう。まさにミニタキオンと言った感じだが、目元は優し気でそこは父親譲りのように見えた。三人とも幸せ全開といった感じで、特にあのタキオンがとろけきっている。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいだ。

「ええ、可愛いですとも。でも何かイベントがあるごとに写真送られてみてくださいな」

「うはぁ、それはなんというか……色々キツイね」

 でも、悪くない。タキオンは人一倍最速、厳密に言えばウマ娘という種の限界に拘っていたウマ娘だ。そんなぎりぎりであった彼女が、安らぎを見つける事が出来たのは何よりだと思う。マックイーンも文句こそ言っているが、その顔は本気で嫌がっている感じではなさそうだ。

「とりあえずタキオンさんの場合は、旦那さんから弁当なしって言わせれば止まります」

「完っ然に餌付けされてる!!」

「たまにですけど研究に没頭しすぎたのか朝に起きれなくて、旦那さんにおんぶされながら出社とかもありましてよ?」

「……本当に研究とウマレース以外駄目駄目だよねタキオン」

 それでも支えてくれる家族がいるのはやっぱり嬉しいんだろうなぁ。ついつい甘えたくなっちゃうのは分かる気がする。僕が純粋にタキオンの事を羨ましがっていると、マックイーンはふと目を細め、微笑んだ。

「でも本当に元気になりましたわね、テイオー。安心しましたわ」

 ターボの時もそうだったけど、こうした優しい笑顔は苦手だ。気恥ずかしくて思わず視線をそらしてしまう。例の拉致事件も完全な善意だから質が悪いんだ。癪なのが僕が100%喜ぶと確信して行動を起こしている事だ。目の前の彼女は一体どれ程の情報を持っていたのだろうか。僕は恐る恐る尋ねる。

「一つ気になっているのだけれど、記者ちゃんってひょっとしてマックイーンが雇った感じ? その、僕の現状を知るためにさ」

 例の拉致事件を見るにそう考えるのが自然な気がした。僕としては別にそれがどうという事じゃない。たとえ裏があったとしても記者ちゃんの行動は僕を思っての行動だし。でも被害者として真相だけは聞いておきたい。

「順序が逆ですわね。記者さんがテイオーのところに行っているのを知っていたので、わたくしの方から教えて欲しいとお願いしたのですわ。すっごい釘を刺されましたけどね」

「釘って?」

「テイオーさんは今が一番大事な時間なんです! じっくり時間をかけて癒していく事が重要なんですから、迂闊な事はしないでくださいよ!! 良いですね!!? ですって。ほら、このように誓約書まで書かされましたのよ?」

「ごめん、ちょっとどういう顔していいか分からない」

 藪から蛇とはこの事か。迂闊な質問をした自分を叱りつけたい。どいつもこいつも良い奴過ぎか! こんちくしょー!! 顔が火照ってしょうがないじゃないか。

「でも一番はやっぱりテイオーのトレーナーさんですわ」

「僕のトレーナー?」

「実はわたくし、あなた達が解散した時、どうしても納得いかなくて、トレーナーさんに直談判しに行ったんですの。何でテイオーを説得しに行かないんだって、やめるにしたってこんな喧嘩別れみたいでは良くないって」

 そんな事があったなんて全然知らなかった。当時は周りを見ている余裕なんてまるでなかったしなぁ。

「でもトレーナーさんは言いましたわ。テイオーが再起するには自分じゃダメだって」

 僕は困惑を隠せなかった。僕にとってトレーナーは唯一無二の存在だ。でもトレーナーにとってはそうじゃないのか? そんな不安に駆られる。トレーナーが駄目なんて事はないはずだ、そう言い切れないのは何故だろう?

「初めは現実から逃げるための口実だと思いました。でもトレーナーさんの瞳はしっかりわたくしを見ていて、本気でそう思っているんだと理解しましたの。彼は言いました。ウマレースの世界は狭いと。それはそうですわね。基本はトレーナーとウマ娘の二人三脚の世界ですから。友人といってもライバルである事が多く、閉じられた世界であるのは納得でしたわ。わたくしも引退後に戸惑いましたから。自分が世界のすべてと思い込んでいた場所が、とても狭い世界でしかなかった事に」

 狭い世界、か。確かにそうだ。僕はトレセン学園に入学して以来、ずっとレース中心で生活してきていた。集中すれば集中するほど視野は狭くなり、外の世界は忘れていった。だから引退して新たに一人暮らしを始めた時、自由な時間をどうしていいか分からなくなっていた自分に困惑したものだ。

「テイオーのトレーナーさんの懸念は、もしも今弱ったテイオーを助けてしまった場合、テイオーがトレーナーさんに依存しかねないという事でした」

 その言葉を聞いた時、ぞくっとした。僕にとって完全に図星だった故に。これだ。僕がトレーナーと一緒なら大丈夫と言えなかった理由は。

 

 マックイーンはさらに僕のトレーナーが言った言葉を続ける。

 

『テイオーの心はウマレース関係者じゃ救えない。特に俺とテイオーじゃ距離が近すぎる。弱りきった心には優しさは毒のように回るだろうし、厳しさは慈悲なきトドメの一撃となりかねない。弱り切った心はゆっくりほぐさなければいけない。まず第一に体を健康にする事、心は体の調子に引きずられる。体さえ元気であれば気力がわいてくるし、気持ちが外に向いてくる。心の整理はそれからじっくり始めればいい。ストレスの元であるウマレース関係者がいないところで。今のテイオーに必要なものは俺じゃない。十分な休息と外の触れ合いだ。そして離れられるチャンスは今しかない』

 

 本当にトレーナーには恐れ入る。ほとんど言った通りになってるじゃないか。

 確かにあの気が滅入っていた時に、優しい言葉を賭けられていたら、僕はトレーナーから離れられなくなっていたに違いない。あの時の僕は余裕がなく、世界には自分とトレーナーしかいないと錯覚していた。そんな状態で叱られたりしたらどうなっていたかなんて見当もつかない。とにかく悪い結果にしかならないだろう事は間違いなかった。

 立ち直るきっかけだってどんびしゃだ。過去にトレセン学園にいたから全く関係ないわけではないが、それでもF1娘ちゃんが外側の人間だったからこそ、僕は素直に聞き入れる事が出来た。

「恐ろしい、と思いましたわ。当時者であるにもかかわらず、ここまで客観的に見れる冷静さ。トレーナーさんの言った事は確かに道理にかなっていました。でもそこにはトレーナーさんの心がない。だから聞いたんです」

「……何を?」

「あなたは寂しくないのか? 辛くないのか? 何より後悔しないのか? だってテイオーのトレーナーさんの考えは、二人が二度と再会できない可能性も含んでいましたから」

 マックイーンの言わんとしている事は分かる。もし僕が元気になったとしても、トレーナーに未練がなかった場合、僕は決してトレーナーに会いには戻らないだろう。清々したと新たな夢に向かって進んでいるはずだ。僕を心から想ってくれていたトレーナーを一人残して。

「トレーナーの答えは?」

「答えは簡潔でしたよ。テイオーが幸せだったらそれでいい」

 僕は言葉に詰まった。僕はマックイーンに顔を見られないよう咄嗟に後ろを向く。

「ほんっとうにあの人ときたら……昔からそうなんだよ」

 思い出すのは初めてパートナーとして組んだ時、あの時だってトレーナーはそうだった。僕のためを思って憎まれ役を買ってくれていた。自分の事はどうでもいいと言わんばかりに。

「トレーナーはさ、何時だって僕の事を最優先に考えるんだ。ほんっとさ、こんなに愛されて困っちゃうよね? 本当に……」

「わたくしじゃ役者不足かも知れませんが」

 言葉に詰まった僕を見て、マックイーンが抱きしめてくれた。 

 それ以上はもう我慢できなかった。

「……ごめん、ちょっと胸借りるね」

「存分にお泣きなさい」

 

 世界はこんなにも優しくて、

 

 僕は、僕は本当に愛されていた。

 

 

 

 

(4)トウカイテイオー

 

 

 

 とても穏やかな気分だった。心が充実しているといつもの朝がこうまで違うものか。

 一度底まで落ちてみるもんだと考えた自分に苦笑する。でもそれくらい今の僕は満ち足りていた。何せ落ち切ってしまえばそれ以上は下がる事もなく、後に起こる事すべてが+となる。

 今までの鬱屈した気持ちはどこへやら、どこまでも上がっていく己の調子に僕は笑ってしまう。ちょっとしたスイッチが切り替わっただけなのに、なんでここまで違うのか。理不尽にすら感じるが、塞ぎこんだのは僕の自業自得だったからなぁ。

 今日も今日とて外出する予定の僕であったが、今日は気合の入れ方が違う。今までも手を抜いていたわけじゃないけれども、今日はちょっと意味合いが異なる。何せ今日会うのは女性ではなく男性、異性だ。

 もちろん僕にとっての異性と言えばトレーナーである。遠回りに遠回りを重ねた僕であったが、一歩ずつ進み続け、やっと会うための心の準備ができた。

 服はいつものジャージなんかじゃなく新品ピカピカのおニューの服だ。部屋であーでもないこーでもないと探し回った挙句、全部気に入らなくて急遽町まで買いに行った代物である。

 でもいわゆる女の子女の子した服ではない。何せ再会場所となるのは、トレーナーの都合上トレセン学園だ。変に悪目立ちはしたくない。だから僕が選んだのは一見シンプルだけど、でもワンポイントが可愛らしい、そんな服だ。

 服の店員さん曰く、フォーマルさが持つ清廉さと女性の魅力を内包した、できる女性の服らしいが、正直そんなのは分からないので、単純な好みで決めました。だってつい最近までヘタレだったし、できる女を装ったって……ねえ?

 着替え終わったら姿見の前で一回転、うん、悪くないかな? できる女かは実感ないが、僕らしくはある。それさえ分かれば十分、何せ相手は僕の内まで知り尽くしている人だ。必要以上に着飾る必要はない。

「よし、行こうか」

 ヘタレ時代にも何度か通ったトレセン学園への道、かつて不安に押しつぶされそうになりながら歩いた道であったが、今日という日は足取りも軽く、すいすいと進む。

 すれ違いにならないようにトレーナーの予定は把握済みだ。今日の彼は今の担当ウマ娘が二人とも休日のため、一人デスクワークをしているはずだ。

 年甲斐もなくはちみーの歌を口ずさんでいると、学園にはあっという間に着いた。僕は門の前で一度立ち止まる。これまで何度もここでUターンをし、家に逃げ帰ったっけ。そして悲しみのスト○ロはちみー割りを飲むわけだ。

 今にして思えば何とも滑稽な話である。なにせ僕は引退してもトレセン学園の近くに居続けた。ちゃんと歩いて通える距離で部屋を探していたのだ。こんなに未練たらたらで帰りたいと思っていたのに、よくもまあ今の今まで行かずに粘ったものだ。

 なお、拉致事件については自分からじゃないので例外とする。

「さてと」

 最初の一歩は恐る恐る、二歩目は普通に、三歩目からは力強く、気が付くと僕にとって一番の壁だったトレセン学園の門は、いともあっさりと通り過ぎていた。呆気にとられた後、今の自分が心底おかしくて笑ってしまう。

「ははは、そりゃそうだよね」

 だって別にトレセン学園が壁を作っていたわけじゃないのだ。トレセン学園の門は何時だって開かれていた。壁を作っていたのは僕自身、そんな当たり前の事実を今更知るなんて、これを笑わずにいられるかって話。

 乗り越えられた事を素直に喜ぶべきか、こんなのに時間かかりすぎた事を恥じるべきか、なんとも微妙なラインである。しかし物思いにふけっている時間はない。

「あれ? あれってひょっとして……」

「え、嘘、本物なの?」

「前にも来たって言ってたじゃん! 本当の話だったんだよあれ!!」

 回りからひそひそ話が聞こえる。周囲から好奇の視線を受けた僕であったが、ちゃんと想定済みだ。笑みを浮かべて僕は軽く手を振る。そして口の前に人差し指を立て、静かにっていうジェスチャーをした。

 自分がテイオーであるというのを隠さない正面突破である。今は忙しいから、後で話を聞くみたいなニュアンスを出しつつ、僕は堂々とトレセン学園内のトレーナー室への道を進んだ。後で大騒ぎになるかもしれないけどかまわない。トレーナーとの再会までの時間さえ稼げれば良いのだ。後の事は後の自分に託す。

 途中前に来た時に説教したあの子の姿が見えた。ノートを見ながらトレーナーと一緒にディスカッションをしている。余程集中しているのか、彼女は僕に気づく素振りは見せず、その真剣な表情に僕は安堵のため息を漏らした。

「こりゃ復帰戦が楽しみかな?」

 頑張れ、心の中でエールを送りつつ、僕はさらに先へと進む。そして僕はとうとうトレーナー室の前まで辿り着いた。それまではスムーズに進んでいたが、流石にここまで来ると緊張する。この扉一枚奥にトレーナーがいるのだ。

 誰よりも会いたくなくて、誰よりも会いたかった僕のトレーナーが。

 きっと大丈夫。僕はもう大丈夫。自身にそう言い聞かせながら、ゆっくり拳を上げる。ここで一旦目を閉じ深呼吸、ゆっくりでも良い。僕は間違いなく進んでいる。一歩一歩確実に。そして僕はとうとう扉をノックした。最後の壁、それを超えるために。

「どうぞー」

 聞こえてくるのはとても懐かしい声。それだけで心が震える。僕は一人呟く。

 

 僕は無敵で不屈のテイオーだぞ!

 

 ただの自慢だった僕の決まり台詞はいつしか、僕を何よりも奮い立たせる魔法の言葉となっていた。なけなしの勇気を振り絞って僕は扉を開ける。

 その先にいたトレーナーは何も変わっていなかった。

 トレーナーは昔と同じく自分の席に座り、コーヒーカップを片手にPCと睨めっこしていた。そんなトレーナーに対し、僕は構ってほしくてはちみ―片手に突撃するのだ。かつての日常が鮮やかに蘇る。子供の頃の僕の残影が、ドアを開けたと同時にトレーナーの方へ駆けていき、さあさあと大人の僕に手招きをした。

「テイオー」

 呆然とした様子で僕の名前を呼ぶトレーナーに、僕は一歩進み出て手を振った。

「久しぶり、だね。トレーナー」

 やっとの事で会えたトレーナーである。言いたい事が沢山あるはずだった。でもいざ目の前にしてみたら、どうしても言葉が出ない。この胸の内から溢れ出す思い、どう表現しろというのか。心がぐちゃぐちゃで感情が追いつかない。

 永遠とも思えるほどの静寂、どうしようか困っているとトレーナーがゆっくりと近づいてくる。思わず気を付けをしてしまったのは緊張故か。

「テイオー!!」

「ひゃい!?」

 トレーナーにきつく抱きしめられる。まさかの行動に僕は完全に硬直してしまった。僕から抱き着いた事は何度かあるけど、トレーナーからは初めての経験だ。

 痛いくらいの抱擁、でもその強さこそがトレーナーの思いそのもののような気がした。ふと肩にちょっとした冷たさを覚え、何気なく目線だけで追う。そして僕は驚愕した。その冷たさはトレーナーの涙だった。もしかしたら初めて見るかもしれないそれに僕の心は揺さぶられる。

 やめてよ、そんなの見せられたら僕もたまらなくなるじゃないか。せっかく笑顔で再会すると決めていたのにさ。元気な姿を見せるって決心していたのに。

「お帰り、テイオー」

「……っ!」

 こんなの泣くに決まっているじゃないか。最近は涙腺が緩くなりっぱなしだ。

 思い起こすはトレーナーと過ごした日々、トレーナーとは本当にずっと一緒だった。楽しい時も、苦しい時も。きっと苦しい時の方が多かったかもしれない。それでも一緒に乗り越えてきたのだ。トレーナーと二人三脚で。最高の勝利も、苦い惨敗もそのすべてが糧となり、今の僕がいる。

 かつては違っていたかもしれないが、僕は今の僕が嫌いじゃない。夢には届かなかった。理想にも届かなかった。それでも僕には、僕に憧れてくれる人がいて、僕を支えてくれる人がいて、僕を愛してくれる人がいる。僕を、僕として見てくれる人達がいる。皆が皆、僕を抱きしめてくれた。

 

 ああ、暖かいなぁー。本当に暖かい。

 

 言いたい事は沢山ある。溢れる思いは留まる事を知らず、そのどれもが優劣つけ難いものだ。でも初めの一言だけは決まった。僕が今言うべき一言はたった一つだ。

 

 

「ただいま、トレーナー!!」

 

 

 

 

 僕はトウカイテイオー。

 

 

 

 最高に幸せなウマ娘、トウカイテイオー、27歳だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 トウカイテイオー27歳  完

 

 

 

 




 トウカイテイオー27歳完結!
 皆様ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
 最終話にてようやく他のウマ娘キャラが出てきたわけですが、今まで溜めに溜めた分、書いていてめちゃくちゃ楽しかったです。それぞれのウマ娘キャラの引退後の生活を妄想するのはなかなかに滾りました。
 例えばウマ娘ではポンコツ愛されキャラのようなツインターボですが、史実を調べればその印象はかなり変わりますよね。鼻出血の件、書く前から知ってはいたのですが、より詳しく調べると思った以上に若い頃に発症していてびっくりしました。てっきりオールカマーのあのぶっちぎりは鼻出血起こる前だと思っていたので。めっちゃカッコいいターボが組みあがるのは必然でした。
 マックイーンとテイオーの勝負も実は一戦だけだったりと、何やら意外過ぎて、でもだからこそ引退後こんな会話してそうって想像ができ、二人のやり取りに深みが出てくれたかなぁと。
 ウマ娘はこういったルーツがあるからこそ、掘り下げればカッコいいキャラになるのは当たり前なのですが、一方自分の中で予想外だったのはトレーナー達ですかね。お前らクッソ熱いな?
 ウマ娘に負けないよう、手抜きなキャラ付けはすまいと思って書いていたら、がっつり濃くなっていました。今作ではウマ娘はトレーナーと二人三脚という面を強調していたため、なんかトレーナーというキャラも引き上げられましたね。これは嬉しい誤算でした。
 主役のテイオーについては割とストイックな面が強調されており、些かアニメやゲームと離れてしまったかもしれませんが、こういった複雑な内面を持つキャラは初めてで、作者的にはかなりお気に入りです。テイオーの成長した姿の一つとして捉えてもらえれば嬉しいなぁ。
 一応の完結はした今作ですが、後々F1娘ちゃんのその後や、記者ちゃんの過去話(裏設定のようなもの)、そしてもちろんテイオーの今後など、書き切れていない部分はあるので、設定がしっかり固まったら短編集として出そうかなぁと思っています。
 
 トウカイテイオー27歳にお付き合いいただき、ありがとうございました!!

 
 
 ……誰かターボチャンネル、動画で作ってくれないかなぁ。
 動いてるところを見て、実際どれほどシュールかを体験してみたいかも。
 なんてねw



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

孤高のライスシャワー

 ライスシャワーがおねえさまと色んな人に出会って、頑張る話。おにいさまじゃありません。おねえさまです。本編再構成と言っていいかも? 
 世界観的に前作、トウカイテイオー27歳と繋がっているため、カテゴリーとしてはトウカイテイオー27歳で投稿しましたが、これ単品でも見る事ができるかと思います。そして今回テイオーちゃんの出番はなし! あくまでメインはライスシャワーです。ではでは今回もお楽しみいただければ幸いです。
カッコ可愛いライスシャワーちゃんを見よ!!


 

 

 そこに栄光はありませんでした。

 

 聞こえるはずの歓声はなく無音。

 

 その意味は落胆と消沈。

 

 向けられるのは憧れの眼差しではなく妬みと怒り。

 

 この時ライスは理解しちゃったんだ。

 

 

 

 

 望まれない勝利というものがあるんだって事を。

 

 

 

 

 

 

 

 ライスは人を不幸にする。それは思い込みなんかじゃない。だってライスが何かすると不吉な事が起こって、皆嫌な顔をするのだから、れっきとした体験談に基づくものです。ライスが誰かを笑顔にできた事は一度もありません。何時しかライスは家族の前以外で笑う事ができなくなっていました。

 そんなライスがトレセン学園に来たのは自分を変えたいと思ったからです。でもライスの決心とは裏腹に、自分改革はなかなか上手くはいきませんでした。ライスは走るのは大好きです。でも勝負事はあまり好きではありませんでした。

 誰かの夢を壊して自分の夢を優先する、それはライスが目指している自分と真逆にあるような気がしたからです。だからライスはウマレースでデビューするために重要な、トレーナーを得るために行う選抜レースにも出ず、これじゃあ駄目とは思いつつも、ただひたすら自主練に打ち込んでいました。

 レースは勝つためにある。でもそのために真剣になれない。どうにも燻り続けているライスに声をかけてくれたのがライスの後のトレーナー、おねえさまでした。

「君、なーんであっちにいかないの?」

 彼女が指さした先はもちろん選抜レースの会場です。いきなり話しかけられて思考が停止しちゃったライスに対して、その人はニカッと笑いかけてくれました。

「お姉さん君が走るの楽しみにしてたんだぞ? なのに会場にいないからビックリしちゃった」

「……ライスが見たかったんですか?」

 おねえさんの意外な言葉にライスは驚きます。自分のレースを見たいなんて人がいるなんて思いもしなかったから。

「ええ、ライスシャワー。私はここ最近のあなたの練習見ていたからね。才能ある子はトレーナーから人気も出る。だからスカウト合戦になるかと思って今日は気合入れてきたんだ。にもかかわらずこんなところにいるんだもの」

「……期待を裏切っちゃってごめんなさい」

「え、ちょ!? 謝って欲しいんじゃないの」

「ライスを怒っているんじゃないんですか?」

「せっかちさんね。理由を聞かずに怒れるわけないじゃないの」

 ライスはどうにも会話の要領が悪いのですが、その理由の一つが早とちりしてしまう事です。でもその人は別に気にした様子も見せず、むしろ優しい眼差しをライスに向けてくれました。

「ねえ、おねえさんに話してみない? 何を悩んでいるのか」

「……ライスは人を不幸にしちゃうのが嫌なんです」

 何故この時に限って話そうと思ったのかライスには正直分かりません。良い人だとは思っていましたが、信頼できるかと言われればそこまででもなかったんです。初対面ですし。でもしいて言うのであれば、もう心が限界に近かったのかもしれません。

 

 

 すべて話し終えた後、ライスは少しスッキリした気持ちになっていました。自分でもここまで溜まっていたなんて思いもしなかったくらい。後は聞いてくれたおねえさんがどういった反応するかなのだけれど。やっぱり幻滅されちゃうでしょうか?

「ははーん、分かったぞ」

 でもおねえさんはなおも笑顔でした。とりあえず引かれなかった事に安堵したライスだったけど、おねえさんの次の言葉はライスを強く揺さぶりました。

「君、負けた事がないでしょ?」

「え?」

「だからそんな事が言える。才能ってかくも残酷なものなのね。良い? 本来勝負ってもっと熱くて面白いものなのよ」

「熱い、ですか?」

「あなたが勘違いしちゃったのは自分の実力より遥かに下、格下ばかりを相手していたからよ。だからライスシャワー、私があなたに教えてあげるわ。『負ける』という事を」

「……普通逆じゃないでしょうか?」

 おねえさんはトレーナーなのに凄く変な事を言います。でもライスにそれが必要だと確信しているみたいでした。

「良いのよ『負ける』で。中央は君が思っているような甘い世界じゃない。ほら、あの子、見てみて! ポニーテールの子よ!」

 トレーナーが指さした先には、選抜レースに参加した多くのウマ娘が今や今やと自分の出番を待っていました。その中でポニーテールの子は次のレースに出走予定らしく、気合十分な様子で待ちきれないと飛び跳ねていました。

「あれは……トウカイテイオー、さん?」

「お、知ってる?」

「ええ、彼女は有名ですから」

 あまり人と話さないライスすら知っている有名人です。今年の新人でずば抜けた才能をもつウマ娘、あの会長が認めるほどのものだとか。

「目をかっぴらいてよく見なさいよ」

「はあ……」

 ライスは半信半疑でしたが、わざわざ自分に話しかけてくれたおねえさんを無下にもできず、言われるがままトウカイテイオーさんを見ました。そして思い知らされたんです。トウカイテイオーさんの圧倒的な強さを。

「どう?」

「……凄かったです」

 ライスは思い込んでいました。多分本気で走ればライスは勝てると。それは半分は正解でした。少なくともテイオーさんが走ったレースでは、テイオーさん以外の人には勝てる自信がありました。でもテイオーさんだけは分からない。負けるかもしれない。

 普通、負けるのは嫌な事です。でもライスはむしろドキドキしていました。全力を出し切っても勝てないかもしれない相手と戦う、それにどんなに心が躍るのだろうと。これがおねえさんの伝えたい事なのかな?

 でもおねえさんの考えていた事はライスの想像以上でした。

「言っておくけどね? ライスシャワー、あの子はまだ序の口よ」

「え……」

「才能あるったってまだまだひよっ子よ。中央にはこれ以上がうようよとしているわ。はっきり言わせてもらうけど、負けて当たり前の世界なのよ。たとえ君やテイオーほどの才能があったとしてもね。中央には本気で走るウマ娘しかいないんだから。君が勝ったら他の人の夢が壊れる? 寝言は寝てから言いなさい! あなたの心配は杞憂よ!」

 圧倒されるライスにおねえさんは両手を広げて言いました。

「喜びなさいライスシャワー、ここはあなたの全力を受け止めてくれるわ!」

 スカウトに来たという割にはおねえさんは本当に無茶苦茶でした。『負ける』とか、『まだまだ弱い』とか。でもライスは確かに心動かされたんです。全力を出しきった世界に何があるのか。それでも届かないとはどういう事なのか。

 ライスは知りたいと思いました。

 

 

 それからライスはおねえさん(以降はトレーナーさんと呼びます)と正式にトレーナー契約を結びました。ライスが承諾したら急に抱きしめられてビックリしちゃった。その、嫌ではなかったけど。

 でもいざトレーニングとなったらトレーナーさんはすっごく厳しくて、ライスは自分が所詮井の中の蛙であった事を思い知らされました。トレーニングを終える度どんどん力強くなっていく体、研ぎ澄まされていく感覚はライスもビックリするくらいで。

 その甲斐あってか見事初のレースも勝利を飾る事が出来ました。二戦目は内側に包まれてしまって結果は残せなかったけど、三戦目にはまた勝利。この時に一度骨折しちゃったんだけど、幸い療養で済む程度で復帰には問題ない感じでした。

 このまま順調に勝ち上れるのかなと考えていた時、とうとうライスは出会ったんです。全力でも勝てない相手と。あのスプリングステークスで。

 

(速い! 速すぎる!! 全く追いつける気がしないよ!! でもレースはまだ終わってない!! ライスは頑張るんだ!! 最後の最後まで!!!)

 

 心は最後まで折れなかったし、その甲斐あって入賞できた。けど、結果を見てライスは唖然としちゃったんだ。

 

(二着と7バ身差? 嘘だよね? じゃあ四着だったライスとはどれだけ差があるの?)

 

 それがライスとミホノブルボンさんの初めての対戦。

 

 ぼんやりとしたまま控室に戻ると、トレーナーさんはライスに聞いてきました。

「どうだったライス? 本物の強者との戦いは?」

「……トレーナーさん」

 その問いにライスは何も答えられなかった。

「いい? ライス。これがウマレースよ。凄いでしょ? 本物ってやつは。とんでもないでしょ?」

 ライスは頷きました。圧倒されちゃったのだ。凄いとしか言いようがない。でも何だろう? 何でこんなに心がざわつくのだろう? 今までにない感情に戸惑っていると、トレーナーさんは優しく抱きしめてくれました。

「本当にご苦労様、悔しかったね」

 その瞬間、ライスの中にくすぶっているそれの正体に気づきました。ライスは悔しかったんです。悔しくて悔しくてたまらなかったんです。

「ライス、何も……何もできなかった!! 気づいたらブルボンさんははるか遠くにいて。頑張っても頑張っても追いつけなかった!!」

 ライスは子供のように泣きじゃくってトレーナーさんに縋りつきました。

「よーしよし、全部はきだせぇ。思ってること全部言っちゃいなぁ」

 

 

 その翌日、ライスはおねえさんに顔を合わせる事が出来ませんでした。昨日大泣きしてしまったのが、あまりにも恥ずかしくて。トレーナーさんもそんなライスを察してか何も言いませんでした。

 レースの翌日なので今日のトレーニングはオフ、ライスはトレーナー室でゆっくりしていました。何もする事がないライスがトレーナー室にいるのは、顔を見られたくないけどトレーナーさんの近くにいたかったからです。

 トレーナーさんはパソコンで作業を、ライスはソファーで読書を、そんな時間が30分ほど続いた時でした。ふとトレーナーさんがライスを呼んだんです。

「ねえライス?」

「何ですかトレーナーさん?」

「ブルボンに勝ちたい?」

 ライスが思わずトレーナーさんの方を見ると、トレーナーさんの視線はなおもPCの方を向いていました。まるで自分で考えろと言わんばかりに。思い起こすのはブルボンさんとの絶対的な実力の差、ライスはあれに追いつけるのでしょうか? 遠い夢物語なのでしょうか? それでも、それでもライスは!!

「……勝ちたいです!!」

 それは自分でもビックリするくらい大きな声でした。トレーナーさんはライスの方に向き直ると、今までにないくらい真剣な表情でライスを見つめてきました。ライスはその射抜くような視線に真っ向から対峙します。ここで視線を逸らしたら本気じゃないと思われるから。

「ふふ、良い表情になったね。相分かった! 私に任せな!!」

「ライス、勝てるようになりますか?」

「もちろん! 何せ今のライスと昨日のライスでは決定的に違うものがある!!」

「違うもの?」

「昨日ライスは敗北を知った。悔しさを知った。本物の強さを身を以って体感した。それでも勝ちたいと思った。私は前に言ったよね? 敗北を教えてあげるって。今ならその意味が分かるんじゃない?」

 ライスは考えます。敗北の意味は何なのかと。しかしそんなの分かりきった答えでした。だって今のライスはこんなにも勝ちたいと思っているのだから。

「もちろん今までのライスが手を抜いていたわけじゃないのは知っている。でもね? 知らない事はどうしようもないのよ。悔しさを知らないあなたと悔しさを知るあなた、その意志の強さの違いは明白だわ。そう、真の強者は敗北の先にこそいるのよ。ライス、今あなたはやっとスタートラインに立ったの」

「スタートライン……ここが……」

 おねえさんは勝気な笑みを浮かべてライスの肩に手を置き、そして言った。

「勝ちに行くわよ、ライス!!」

「はい!!」

 

 

 トレーナーさんは何て頼りになるんだろう。トレーナーさんはライスに色々大切な事を教えてくれた。新しい世界を見せてくれた。そして何よりもライスを大切にしてくれる。まるでライスが大好きな絵本、幸せの青いバラのおにいさまのように。

 でもトレーナーさんは女の人だから……

「あ、あの……トレーナーさん?」

「何、ライス?」

「その……お願いがあるんだけど」

「ライスがそう言ったりするの珍しいわね。何でも言ってみなさい!」

「おねえさまって呼んでも良い?」

「はへっ!?」

 

 

 それからのライスは必死でした。ブルボンさんに勝ちたくてひたすら練習に励みました。頑張っても頑張ってもブルボンさんの強さは圧倒的で。レースで会うたびに負ける事の繰り返し。ここまで差があると流石に心も折れそうにもなります。でもそれ以上に楽しかったんです。懸命に励んでもなお勝てない相手がいるって事が。こんなに心躍る事はありません。

 もちろん負けるのは悔しくて悔しくてたまりません。でもライスにとってはブルボンさんは誰に気を使わなくても良い、全力でぶつかれる人なのです。あの人がいるからこそ、ライスは気弱なライスじゃなくて、挑戦者ライスでいられるのです。

 それにライスはただ負けているわけじゃありません。勝てないにしろ差は着実に縮まってきています。それはライスが成長しているまぎれもない証拠です。ライスはまだまだ強くなれます! おねえさまと一緒なら!!

 

 

 そしてその時はとうとう訪れました。

 

「勝った? ライス、ブルボンさんに勝ったの!? おねえさま!!」

 

 トレーナー用の特別席にいたおねえさまと目が合う。おねえさまは席から立って、ガッツポーズを見せてくれました。ライスはそれが嬉しくて手を振り返します。ライスにとってそれはまぎれもなく最高の瞬間でした。この時までは。

 異変に気付いたのはそれから程なくしてからだった。いつもであれば勝者に対して観客が湧きたつはずなのに、不自然なほど静かであった。G1という大舞台にも拘らず。ライスが次に気づいたのは視線、皆が皆睨みつけるかのようにライスを見ていました。

 その視線はかつてのライスが受けていたものと一緒、嫌な奴を見る時の顔です。

 

 なんで、なんでそんな目でライスを見るの? どうして?

 変われたと思ったのに。この大舞台でブルボンさんに勝って、ライスが頑張ってきた事を証明できたはずなのに。

 

 周りの人すべてがライスを責めているように見え、唐突な孤独感がライスに襲い掛かりました。たまらなくなって視線を下げると手が震えていました。怖くて怖くてたまらなかったんです。だからライスは気づきませんでした。ブルボンさんがライスの近くに来ていた事に。

「あの、ライスシャワーさん」

「ひっ、ごめんなさい!!!」

 この時のライスにはブルボンさんと話す事なんてできませんでした。ライスに出来たのは一刻も早くその場から逃げる事だけ。レース場を後にしたライスは真っ先に控室へと駆けました。おねえさまとライス以外誰も入ってこない安全な場所へ。

 控室まで戻るとライスはドアをしっかり閉め、その場にへたり込みました。

「ライス?」

「おねえさま?」

 先におねえさまが戻ってきている事にちょっと安堵したライスだったけど、おねえさまの表情を見てライスは言葉を失いました。おねえさまはどこか焦燥した様子で、苦しそうな顔をしていたんです。

「違う。違うのよ」

「おねえさま……」

「こんなの違う!! 私がライスに見せたかったのはこんな光景じゃないの!! ライスは頑張ったじゃない! 皆ずっとライスがブルボンと戦っていたのを知っていたじゃない!! 挑戦していたのを知っていたじゃない!! それなのにどうして、どうしてなのよ!!!」

 それは初めて見るおねえさまの涙でした。

「ごめんなさい! ごめんなさいライス!!」

 泣き崩れるおねえさまはしきりにライスに謝りました。おねえさまは何も悪くないのに。

ライスがおねえさまの手を取ると、おねえさまはライスを抱きしめてくれました。きつく、きつく……

 勝ったのに祝福されないとても悲しいレースでした。でもおねえさまが泣いてくれたからこそライスはぎりぎり踏みとどまれたんだと思います。ライスとおねえさまは二人で泣き合いました。涙が枯れるまで……

 

 でもこの時の傷はライスとおねえさまに深く残りました。ライス達はどうしていいか分からなくなっちゃったんです。ウマレースを走るからには勝利を目指すべきなんでしょう。でもこんな辛い思いをしてまで勝利するべきなのか、その答えがどうしても出ず、ライスだけでなくおねえさまも立ち止まってしまったのです。

 だからといってさぼるような事はせず、練習もきちんと続けてきました。でもどこか上の空だったせいか、次のレースでライスとおねえさまは致命的なミスを犯してしまいます。かつておねえさまと一緒に見たトウカイテイオーさんとの直接対決、気合は十分、そのはずでした。

 いえ、むしろ気合が入りすぎていたのかもしれません。だからトウカイテイオーさんが不調であった事に気づく事が出来ませんでした。見たらすぐに分かるくらい調子が悪いテイオーさんに、レースでテイオーさんが沈むまでライスたちは全く気付かなかったんです。

 もしブルボンさんだけでなく、テイオーさんに勝ったらどうなってしまうのか。そればっかり考えてしまっていた故のミスでした。勝つ前から勝った後の事を考えるなんてあってはならないのに。

 このままライスたちは駄目になっちゃうのかな? そう思い始めていた時の事です。

 ライスは心が落ち着かない時は良く本を読みます。だから不調の時に本屋に寄ったのは必然でした。きっとそれは逃避みたいなものだったのかもしれませんが、いくらトレーニングしてもうち消せないモヤモヤをどうにかしたかったのです。

 ライスが行ったのはトレセン学園の近くで一番大きい本屋で、その大きさはデパートに匹敵する程です。だからイベント場みたいな所もあって、そこでは良く本の作者さんが来たりもします。

 今日という日は漫画家さんがサイン会でいらしているようでした。凄く盛況のようで、多くの人が並んでいます。その光景を見てライスは素直に羨ましいと思いました。そして自分との差にちょっと悲しくなり、その場を立ち去ろうとしたのですが、ちょうど人の波が開けるタイミングがあって、ライスは見ちゃったんです。作者さんの姿を。

「え、あの人ってウマ娘?」

 作者さんの予想外の風貌に驚き、ライスは呆然とサイン会の光景を眺めてしまいました。それがいけなかったんだと思う。列整理をしているスタッフさんにライスもファンの一人だと勘違いされちゃったのです。

「はいはい、順番だよ。サイン欲しい人はこっちに並んでね」

「え、いや、ライ……私は……」

 咄嗟に自分の名を隠してしまったのは、期待を裏切られたウマレースのファンの眼差しを思い出してしまったから。このスタッフがウマレースを見ているか分からないけど、もしそうであった場合はまたあの視線にさらされる。それが嫌で今のライスは耳を隠すために帽子もしていたりします。

「色紙がない? 大丈夫。今日発売の最新刊を買ってくれたら『ただ』だから」

 でもスタッフさんはそんなライスの不安を別の意味に取ったみたいでした。

「あ、その、あうぅぅぅぅぅ」

 安堵したのも束の間、これといった断りの理由を見つけられなかったライスは、あれよあれよと流されるまま人の列に連れていかれて、最後尾へと並ばされてしまいました。

 流されやすい自分を恨むとともに、どうしようかと焦る。この場合ファンを装うのが一番だろうけど、もしも何か漫画についてどこが好きなの? とか聞かれたりしたらすぐにバレちゃう。ライスは本が好きだけど、漫画はそれほど得意分野じゃないんです。

 漫画家になるのだって努力が必要なはずで、きっと作者の人も苦労の末にこうしてサイン会を開けるまでになったはずなのに、ライスのせいで作者の人にガッカリさせたくない。

 

 待っている間にスマホでこっそり調べようかな?

 

 そんな考えがライスの頭に浮かびました。幸い待っている間スマホを弄っているファンの人達は多くいます。ここでライスが調べていてもそんなに変ではないはず。でもそれって正しい事なのかな? 漫画家さんのためって言ってるけど結局これって自分の保身のためなんじゃ?

 どうしよう? どうしよう? と悩んでいるうちにライスの順番がやってきます。何も決められていないライスは思わず悲鳴を上げてしまいました。

 そして追い打ちとばかりに作者の驚いた顔、焦る余りライスは忘れていました。漫画家は『ウマ娘』であるという事に。今のライスは耳を帽子で隠しているため、人には分かりにくくなっていても、ウマ娘がウマ娘を見抜く事は実に簡単です。

 さらにこの表情、ウマ娘だから驚いたのではないのでしょう。『ライスシャワー』だからこそ驚いたのです。

 ライスは今度こそ泣きたくなりました。何でライスはこんなに間が悪いのか。漫画家さんだってきっとブルボンさんのファンに違いない。でも漫画家さんは、

 

「おおお! まさか同志が来るとはね!!」

 

 満面の笑みでライスの手を握ったのでした。予想とは真逆な嬉しそうな顔にライスは呆気にとられちゃいました。同志って? そんなライスを知ってか彼女は

「ま、私が勝手に思ってるだけなんだけどね?」

 と言葉を付け足し、手慣れた様子で色紙にサインを書くと、最新刊であろう漫画と色紙をライスに手渡してくれました。

 ライスをライスシャワーと知りつつも、好意的に見ているこの漫画家さんは一旦どんな絵を描くのだろうと、漫画本へと視線を落とします。そこで表紙に描かれた人物にライスの視線は釘付けになりました。

 月が出る闇夜に佇む耳としっぽが生えた人間、最初ウマ娘かと思いましたが、耳がウマ娘のそれとは異なっており、どちらかというと猫っぽい感じです。色は髪も服も黒、その目は金色に光っている。言うなれば黒猫の擬人化でしょうか? 性別は見た目が中世的で分かりませんが、ウマ娘に倣って『ネコ娘』とでもしておきましょうか。

 彼女の強いまなざしには意志の強さが感じられ、みずほらしい服装にもかかわらず堂々としている姿にライスは心を奪われました。そして極めつけは腰巻に書かれていた宣伝用の一文、

 

 

 

 『孤高』であれ

 

 

 

 頭を殴られたかのような衝撃でした。『孤独』ではなく、『孤高』……訳もなく漫画を握り締める手に力が入ります。そんなライスに漫画家さんは言ったんです。

 

「頑張れリアル孤高のヒーロー、私は応援しているぞ!!」

 

「……えっ!?」

 

 ライスがその『孤高』だって。そしてヒーローだって。

 

 その後の事はあまり覚えていません。一体ライスは漫画家さんとどんな顔をして別れたのか……どこか熱に浮かされた様にふらふらとしてたのだけは覚えています。ライスが我に返ったのは寮に戻った後で、手に持っていた袋には漫画家さんの最新刊だけじゃなく、一巻からすべて揃っていました。

 別に騙されたとかは思いませんでした。ライスがあの表紙を見た時にはすでにこの漫画に惚れこんでいたから。漫画家さんの一言がなくったって、きっとライスはこの漫画を買っていたと思います。

 まずサインを棚に飾って、飲み物を用意します。それを自分の机に持って行くと、ライスはとうとう第一巻を手に取りました。本を読むのに緊張するなんて初めての事で、ライスは変な話、レースに挑むような気持で最初のページを捲りました。

 

 

 この漫画はファンタジーのようで、創作上のいわゆるエルフのように、人間と違う猫人という種族がメインの話でした。物語の主人公は最新刊の表紙にもなっていた、黒猫をモチーフとした男の子(なのでネコ娘は間違いですね)で、彼はその見た目から忌み嫌われる存在でした。

 これはライスたちの世界で過去に起きた魔女狩りに起因しているのでしょう。当時魔女とセットにされたのが魔女の使い魔とされる黒猫で、黒猫は不幸の象徴として扱われていた時代がありました。またそうしたエピソード以外にも、黒は死を連想させて不吉だからというのもあるでしょうか?

 話しているだけでも凄く理不尽ですが、そうした時代は確かにあったのです。

 しかし物語の黒猫さんはとても強かでした。どれだけ蔑まれようが、意に介した様子なくどこ吹く風。投げられた石にも当たらないし、その逃げ足は天下一品。黒猫さんに害をなそうとした人達はいつだって煙に巻かれてしまいます。

 そんな彼はいつだって楽しそうにしており、何をされたって堂々としていました。それがどうしたと言わんばかりに。

 そして黒猫さんは一人の少女と出会います。色素が抜けてしまったかのような白い肌に白い髪、黒猫さんとは真逆の見た目の彼女は聖女として崇められていた子でした。

 黒猫さんが理不尽に虐げられる存在であるとすれば、白猫ちゃんは理不尽に期待されている存在です。衣食住は保障されてとても良い生活を送れてこそいますが、これといった力もないのに見た目だけで崇められ、そこから来る重圧に今にも押しつぶされそうでした。

 奇しくも二人は似たような境遇にいたのです。少女は思います。一人で何だってできるのに蔑まれる黒猫さんと、一人では何もできないのにちやほやされている自分、どちらも他人が作ったレッテルに苦しんでいる。だからこそ少女は思わずにはいられなかったんです。見た目さえ変えれば逃げられるのではないかと。

「あなたは隠そうとは思わないのですか? ちゃんとした服を着て、髪の色を変えれば余計なやっかみを避けられるのでは?」

「正直なところ、それ、考えた事はあるよ。でもさ、俺は自分が好きなんだ。あいつがカッコいいって言ってくれた今の自分が」

 黒猫さんは言いました。彼の恩人は不吉な黒髪の自分を気にせずに優しくしてくれたと。彼の黒髪が好きだと何度も言ってくれた事。だからこそ黒猫さんはぶれません。

「服はちょっと思うところはあるけど、髪の色を変えるのは絶対違う。これは俺自身だから。もし俺が色を変えて友人が出来たとする。それで君は俺が幸せになれると思う?」

「それは……その……」

 何か言おうとしても少女の思いは言葉になりませんでした。

「それが答えだよ。偽りの自分じゃ決して幸せになれない。誰からも責められなくなるかもしれないけど、心に平穏は訪れない。自分が認められていないのは変わらないんだから。だったら俺は意地を張り続けるさ。俺はその他大勢に信用されるよりも、大切な人が好きと言ってくれた自分でいたい」

 

 この黒猫さんの言葉にライスは理解したんです。腰巻に描かれた『孤高』の意味、そしてその強さに。

 

 大好きな人さえ認めてくれたらそれでいい。そっか、そういう事なんだ。

 だったらライスは……ライスは!!!

 

 

 気が付くと陽はすっかり昇り、お昼の時間になっていました。

 

 ……ライス、完全に寝坊しちゃいました。

 

 漫画の単行本は現時点で10巻まででそんなに長くはありません。嵌ってしまったのもあって、あっという間に読み終わっちゃったんだけど、2度目、3度目と何度も読み返してしまいました。このままじゃいけないとベッドに入ってみるものの、続きを妄想したりなんかしちゃって頭はフル回転。結局寝られずもう一度読み返したりしてたら、そのまま寝落ちしちゃっていました。

 ふとスマホを見るとメールと着信履歴が凄い事になってました。確か今日はトレーニングは午前だったような……

「大変!!」

 ライスは慌ててその差出人たるトレーナー、おねえさまに電話をかける。おねえさまはずっとスマホと睨めっこしていたのか、1コールもしないうちに繋がった。

「……おねえさま?」

「ライス!! 大丈夫なの!!? 今どこ? 何か危ない目に遭っていない!?」

 繋がって早々訪れるおねえさまの怒涛の攻勢に耳がキーンとする。凄く大げさに聞こえるけど、今までライスは遅刻した事なかったから。おねえさまに凄く心配かけちゃってたみたい。申し訳ない気持ちになりつつもライスはおねえさまに理由を素直に話す。

「ごめんなさい、ライス寝坊しちゃった」

「寝坊? …………ああー、良かったぁ。もうすっごく心配したんだからね!!」

 怒られるかなと思ったけど、おねえさまはただただ安堵した様子で、悪い子のライスはそれが嬉しいと思っちゃった。だからかライスはそのまま尋ねてみました。

「ねえ、おねえさま?」

「何?」

「ライスってカッコいいかな?」

「へっ?」

 いつもならこんな事絶対聞かないだろうけど、それでも聞いてしまったのは昨日の漫画の影響かな? 黒猫さんは大切の人が信じてくれた自分でいたいと言っていましたが、ライスにとっての大切な人はトレーナーであるおねえさまです。だから聞きたくなっちゃった。おねえさまがライスをどう思っているか。

 おねえさまの答えはライスの想像以上でした。最初どこか呆気にとられたような声をあげたおねえさまでしたが、一度火が入ったらもう止まりません。

「そんなの決まってるじゃない!! めちゃくちゃカッコいいわよ!!! ミホノブルボンに勝ったのよ!? あのアウェイの中で!! 良いライス? せっかくの機会だから言わせてもらうわ。選手にとって声援は大きな力となるわ。一番人気ともなるとなおさらね。つまりあの時のミホノブルボンはね。100%を超えた120%のミホノブルボンだったの。そんな怪物をあなたは差し切ったのよ!!! あなただけの力で!!! これがどんなにすごい事だか分かる!!? 外野がどう騒ごうが関係ない!! それこそがライスの強さの証明になるんだから!!! 誰が何と言おうともライスは私にとってのヒーローよ!!!! それ以外の答えなんてあるわけないじゃない!!!」

 おねえさまの熱は凄まじく、怒涛の勢いで早口で捲し立てるように言い続けました。その一言一言がライスの胸の奥に届き、心がじんわりと温かくなる。えへ、ヒーローってまた言われちゃった。

 

 そうだ。これでいいんだ。

 皆から要らない奴と思われるのはとても辛い事。

 でもライスは他の誰よりも、おねえさまに喜んでもらいたい。

 ライスにレースの面白さを教えてくれた大切なおねえさまに……

 回りの思惑なんて知った事ですか!

 こんなに大切にしてくれるおねえさまの方がライスにとっては大事なんだから!!

 

「おねえさま、心配かけてごめんなさい。でももう大丈夫だから」

「ライス?」

 

「おねえさまが応援してくれる限り、ライスは走れるよ!!」

 

 この時、ライスは初めて自分の殻を打ち破ったんだと思う。それまではレースでは本気であっても、日常ではそうではありませんでした。でもライスはもう人の顔色をうかがうのはやめたんです。ライスが目指すのは誰にも好かれるヒーローじゃない。自分の信念を貫き通す孤高のヒーローなのだから。

 

 

 よく心技体と言われますが、ライスで言うのなら、この時になって初めて心が追いついたんだと思います。全てがそろったライスは一つ上の段階に行けたような気がしました。おねえさまとの特訓が凄く集中できるんです。体から溢れるパワーは底なしの様で。

「はあ、はあ……おねえさま、タイムは?」

 お姉さまの答えは満面の笑みでのVサイン、それはつまり

「自己ベスト更新よ!! 凄いわ! これで三度目よ」

「……やった! ライス、強くなってる!!」

「ええ、間違いなく。あなたは強くなってるわ! 勝てるわよライス。天皇賞に!!」

 天皇賞、それこそが次のライスたちの目標。

「やっぱりマックイーンさんですか」

「だと思うわ」

 マックイーンさんはテイオーさんと同じくらいのスター選手、とっても強くて人気もあります。それに勝つという事は……

 ふとおねえさまの顔を見ると心配そうにこちらを見ていた。

「ライス……」

「おねえさま、もしライスが勝ったら喜んでくれる?」

「そんなの当たり前じゃない! それこそ私の愛バがやったんだ!! って今度こそ周りに自慢しまくるわ!!」

「だったら大丈夫、ライスは勝ちに行くよ! 皆が望んでいない勝利であっても、ライスたちが望んだ勝利のために!!」

 

「あーん、なんてカッコ良くて愛くるしいのかしら私の愛バは!」

 おねえさまがライスを抱きしめるのはもはや日常茶飯事で、ライスもお返しにと抱きしめ返す。その時におねえさまは言ったんです。

「ありがとね、ライス。あなたが頑張ってくれているおかげで私も救われた」

 それは思いがけない言葉でした。でももしライスがおねえさまの力になれていたのだとしたら、これ以上嬉しい事はありません。そして全てはおねえさまがあの時に話しかけてくれたから起きた事。ライスはこの恩を生涯忘れないでしょう。

 だからライスもおねえさまに言いました。ライスを見つけてくれてありがとうって。

 

 

 

 一度目は偶然でも二度あれば運命、ライスはそんな事を思いました。それは天皇賞から二週間前の事、ライスはあのライスに勇気をくれた漫画家さんと再会したのです。

 きっかけは記者の取材を受けた事。ライスにとってマスメディアの方々は好きではありません。記事の中のライスは徹底してヒールに描かれていて、展開が面白くなるよう、一番人気という大正義と勝手に対立している構図にさせられちゃっています。

 ライスがブルボンさんに勝った事がここまで引きずるんだなと、ライスはどこか他人事のように思っていました。もう過去の事を乗り越えたライスにとっては些細な事ではあるのですが、それでも面白くはないのは事実なので目を通さないようにしていました。

 ライスとしては集中するのに邪魔になるので、直接の取材はNGで、その代わり好き勝手書いても構わないというスタンスを取っています。

 でも今回の記者さんだけは例外です。何せその人は見る側、読者受けする記者さんではなくて、取材を受ける側、ウマ娘受けが良い記者さんなんです。かのスズカさんが絶対の信頼を置いている記者さんとの事で、この人ならと思ってライスとおねえさまは承諾しました。そして蓋を開けてみたらびっくり、記者さんの後にウマ娘の漫画家さんもついてきたのです。

「やあ同志! 調子はどうだい?」

「え? え? 漫画家さん? 一体どうして?」

 戸惑うライスに漫画家さんは不敵に笑い、記者さんを指さして言いました。

「何を隠そう!! こいつ、私の親友!!」

「そこ静かに! 部外者のあんたここに連れて来るのに私がどれだけ無理したか」

「でもお前、それだけの価値があると思ったんだろ?」

「……その言い方はずるいなぁ」

「伊達に長い事友人やってないってね」

 

 

「えっと……?」

 予想外の来客に戸惑うおねえさまに記者さんは慌てて名刺を取り出す。

「お初にお目にかかります。私○○社の○○です。今日は宜しくお願いします!」

「ええ、あなたの事は知ってるけど……」

「こっちは○○出版社専属の漫画家、○○です。『孤高の黒猫』っていう作品知っていますか?」

「ここうのくろねこって……ああ! それじゃああなたがライスの背中を押してくれた人なのね! あの時は助かったわ。私もライスも一杯一杯だったから」

「いや、私はただサインを書いて渡しただけでありますです!」

 漫画家さんが行ったのは何故か敬礼、そしてそのまま記者さんの後ろに引っ込んでしまいました。

「何故そこで私に隠れるの?」

「……大人の女性の魅力に当てられて」

「思春期の男の子みたいなこと言わないでよ」

「だってすっごい出来る女オーラ出してるんだぞ? こんな予期せぬアクシデントにも笑顔で対応できる懐の広さ、やばいって。パーフェクトレディだって」

 とても仲良さそうな二人を見てライスは笑ってしまいました。そしておねえさまはプルプル震えていました。ライス知ってるよ? それって可愛いものを見たときの反応だって。ライスを抱きしめる直前、いっつもプルプルしてるもん。

 このままじゃおねえさまが漫画家さんに飛び掛かりそうなので、代わりにライスがおねえさまの腰に抱き着きます。

「ライス?」

「おねえさま、駄目だよ?」

 そうしたらおねえさま何を思ったのか、ライスは思いっきり抱きしめ返されました。こんな感じで取材の始まりはしっちゃかめっちゃかでした。

 

 

 それで何で漫画家さんが来たかという話ですが、漫画家さんはライスと二人で話をしたいとの事で、記者さんに懇願したのだそうです。だから今、おねえさまには記者さんと話してもらっていて、ライスは漫画家さんと二人で別室にいます。もはや取材とは名ばかりの面会でした。

「時間もあまりないし、単刀直入に聞くけどさ」

 本当なら一ファンとして漫画の話とかしたかったけど、取材時間は決められていますし仕方がないです。それにライスは漫画家さんがわざわざここまで来てまで、話したいという事に興味がありました。

「ウマ娘ってさ? 走るべきだと思う?」

「え、どうなんだろう? ライスは走る事が好きだけど……」

 ライスにとって当たり前の事実ではあるけど、ウマ娘としては考えた事はありませんでした。でも確かにウマ娘には足が速いっていうイメージが一般常識であるだろうし、公道にはウマ娘専用レーンだってあるくらいです。

 そこまで考えて思い至りました。確かにウマ娘と走るはセットで考えられていると。そしてそれをライスに問いかける意味、つまり漫画家さんは走りたくない?

「お察しのとおり私は走れないウマ娘なのさ。厳密的に言えば走りたくないウマ娘、かな。私はウマ娘であるにもかかわらず、走る事に興味を持てなかったのさ」

 ライスは言葉を失いました。ウマ娘が走る事が当たり前とされている世界で、走らない事がどれ程生きづらいか、想像に難くありません。

「人は他人に対して当たり前のようにレッテルを張る。自分にとって都合が良いようにね。私もそんな思い込みに苦しめられた一人なわけ。『ウマ娘って走るの好きなんでしょ? どうして走らないの?』って。悪意の有無は関係ない。その言葉自体がプレッシャーだったよ。しつこく言われ続けると、段々自分もそうするべきって思い込んできちゃってさ。好きでもないのに走る真似したっけ。でも心は苦しくなる一方なんだ。そんな時だったよ。あいつに出会ったのは」

 あいつとはきっと記者さんの事なんだろう。

「あいつは私に言ったんだ。自由にやればいいじゃないって。最初はなんて無責任な奴だと思ったよ。そう簡単に言ってくれるなと怒りすら覚えた。でもさ、あいつもっと酷かったんだよ。あいつはウマ娘になれなかった人間なんだ」

「それって……」

「普通ウマ娘から生まれる女の子はウマ娘になる。でも極まれにウマ娘の因子を引き継がないで人間として生まれて来る事もあるんだってさ」

 初めて聞く話でした。ライスはウマ娘から生まれる女の子はウマ娘って信じていたから。

「あ、先に言っておくけどあいつの両親は凄く良い人たちだよ。娘の友人でしかない私に毎年ミカン送ってくるような人達だから。問題は周囲の方さ。ウマ娘じゃなくて残念とか、逆に人で良かったとか、散々言われて、母親がウマ娘だから血縁まで疑われる始末。勝手に蔑まれて、勝手に同情されて……本人は何も悪くないのに『常識』ってやつに振り回され続けた」

 漫画家さんから聞く記者さんの過去は壮絶でした。ライスの不幸なんて些細な事に思っちゃうくらいに。どこからも浮いてしまった存在、世間は『常識外れ』には冷たいものです。

「でもあいつはいつだって堂々としているんだ。それがどうしたって言わんばかりに。私が漫画家になれたのもあいつのおかげさ。あいつは私が漫画を描いていると知ったらすぐに見せろと言ってきたんだ。そしてあーでもないこーでもないと駄目出ししてきた。頭にくる事もあったけど私はそれが嬉しかったんだ。ただお世辞で面白いっていうのではなく、真剣に見て、真剣に批評して、ウマ娘の漫画家じゃなくて、ただの漫画家として見てくれた」

 漫画家さんの話を聞いて分かった気がした。なんでスズカさんが記者さんに絶対の信頼を置いたのか。世間の身勝手さを身をもって知っているからこそ、その悪意から守ろうとした記者さんの真摯な心がスズカさんに届いたんだ。

 そしてライスは気づきました。

「ひょっとして漫画の黒猫さんのモデルって……」

「ん、半分正解」

「半分、ですか?」

「あいつは言っていたよ。私はとある人に救われたって」

 ライスは黒猫さんの恩人さんを思い出しました。きっと記者さんのした経験は黒猫さんと合っています。だから半分正解なのでしょう。じゃあもう半分は一体?

「そしてとある人に救われたあいつに私は救われた」

 あれ? これってもしかして……そうか! 続いているんだ。かつては記者さんも白猫さんだったんだ。記者さんにとっての黒猫さんが助けてくれて今の記者さんがいます。そして漫画家さんにとっての黒猫さんは記者さん、そしてライスにとっての黒猫さんは漫画家さん。

 黒猫さんの『孤高』がずっと昔から今に至るまで続いている。目を見開くライスに漫画家さんは不敵に笑って言いました。

「次は同志、あんたが黒猫になる番だ!」

「ライスの……番? ライスが黒猫さんに?」

「きっとさ、私達のような外れてしまった人は世界に沢山いる。目に見えていないだけで。だから頑張れ同志! 私もあいつも頑張るから!! あんたの気高き孤高を周囲の奴らに見せつけてやれ!!」

 それはライスにとってこれ以上ない激励でした。ふつふつと燃え上がる闘志に心を震わせ、漫画家さん、いえ、ライスの同志さんに力強く頷いてみせます。

 

「分かったよ! ライスは黒猫さんになる!!」

 

 

 そして二人は去って行きました。残されたライスとおねえさまに残ったのは、何とも言えない充実感と笑顔でした。

「ライス、凄い子達だったね」

「うん」

「あの子達、記事とか漫画のネタよりも、ライスを優先してた。あの記者ちゃん私に何て言ったと思う?」

「何て言ったの?」

「私は誰かが不幸になった記事を書きたいんじゃありません。誰かが幸せになった記事を書きたいんです。今回はそのための先行投資ですよ、ですって。あのスズカが惚れこむだけの事あるわ。人を頑張らせる天才よあの子。トレーナーと記者って違う職業で変な話なんだけど、負けられないって思っちゃった。そっちはどうだった? 顔を見るに良い事あったみたいだけど?」

「漫画家さんはね。ライスに黒猫になれって言ってくれました」

「そりゃまた洒落た激励だね」

 二人は会場を埋め尽くす観客にも勝る心強い味方でした。かつておねえさまは言いました。ブルボンさんは120%の力で戦っていたと。観客の声援を力に変えて走っていたと。でもね、今のライスはもっと凄いんだ。130%の力で走ってみせるんだから!

 

 

 それから一週間、試合から一週間前となったその日、ライスをさらに燃え上がらせる事が起こります。

「ライス、新しい勝負服出来たわよ!!」

「本当!? 間に合ったんだ!!」

「ほら、見てみなさい!!」

「うわぁー!!」

 ライスは思わず感嘆の声をあげてしまいました。濃い目の紫が強調されたドレス、美しいだけでなく、どこか芯の強さを感じさせる造形はライスが思う黒猫そのもの。そして極めつけは胸と帽子につけられた青いバラ。ライスの好きな絵本と好きな漫画、その服はライスがなりたい自分そのものでした。

「凄いわね。ライスそのものを体現したみたい」

「本当おねえさま? ライスこの服に見合っているかな?」

「ええ、当たり前よ。絶対似合うに決まっているわ」

「えへへ」

 無茶を言った甲斐がありました。実はライス、同志である漫画家さんに一つお願いしていたのです。それは次の天皇賞の勝負服のデザインを考えてくれないかって。時間もぎりぎりだったし、無茶振りしているのは分かっていたんですけど、どうしても漫画家さんの描くライスを見てみたくて。

 最初うえー、うえーって言っていた漫画家さんでしたが、プロってやっぱり凄いです。たった一日でデザインが送られてきたんです。それを見て本人曰く、ビビッときたおねえさまがすぐに仕立て屋さんにイラスト持って行って、急ピッチで作ってもらったのが今回の勝負服です。

「さあ、ライス試着してみて」

「はい!」

 着てみるとサイズがピッタリだけでなく、心にもフィットしたような気がして、ライスは顔がほころぶのを止められませんでした。急く気持ちに押されるまま姿見まで走る。目の前にいるのはかつて見た理想の自分、これがライス、ライスシャワーなんだ!

「ライス、すっごくカッコいいぞぉ!」

「そっか、ライスカッコいいんだ!」

 あまりにも嬉しすぎて子供のようにはしゃぐのを止められません。鏡の前でくるくる回っているとおねえさまはライスに質問してきました。

「ライス、今ちょっと調べてみたんだけどさ。ライスって青いバラ好きだけどその花言葉の意味は知っている?」

「不可能、だよね。子供の頃、調べた事あるんだ。自分が好きな花が残念な意味だったのにがっかりしたのを覚えているよ」

「ふっふっふ、それが変わったんだなぁ」

「え?」

「青いバラは遺伝子的に絶対作れない色だから、不可能って言われていたみたいなんだけどね? 数年前とうとう青いバラを作る方法が見つかったんだ」

「……本当に!? 本当に青いバラが」

「だからそれに合わせて花言葉の意味も変わったんだって。不可能である、から不可能を可能にするっていう意味にね」

「不可能を可能に……」

 一体どうしたって言うんでしょう? 何で何もかもがライスの力になるんでしょう。それまでおねえさまと二人三脚でやってきました。それだけでも心強かったのに、同志を得て、己の姿を得て、さらには青いバラにまで祝福されるなんて。ライスの力の源は底知らずです。

 ここまで来たのであれば130%なんてもんじゃありません。140? 150? いいえ。

 

 ライスは次の天皇賞、200%の力を出せちゃうんだから!!

 

「ね、ライス? この試合勝ったらさ。青いバラを見に行ってみようか?」

「はい!!」

 

 

 

 そして戻ってきたG1の舞台、天皇賞(春)、かのマックイーンさんは一番人気、入場と共に凄い歓声を受けます。ライスは二番人気でしたが歓声はさほどありません。ライスにはヒールとしての役割が与えられていましたから。

 でもそんな事はどうでもいい事です。ライスはただ前だけを見ていました。おねえさまがいて、記者さんがいて、漫画家さんがいて、そしてこの服がある。今のライスに怖いものは何もありません。全力で走るのみです。

 ゲートに入ると訪れる静寂、僅かなこの時間にライスは一人呟きました。

 

「ライスは『孤高の黒猫』、そして『漆黒のステイヤー』……行くよ、ライスシャワー! 絶対勝つんだ!!」

 

 スタートの合図が出ると一斉にライスたちは駆け出します。レースの展開はライスとおねえさまが予想していた通りになりました。メジロパーマーさんが逃げ、その後ろにマックイーンさんがいるグループがある。ライスの位置取りはその真後ろでした。

 プレッシャーをかけるつもりでしたが、マックイーンさんも冷静です。慌てる事無くじっくりと己の位置をキープし、勝負所を待ちます。つまりマックイーンさんの自滅は期待できない。ライスが飛び出すのはマークしているマックイーンさんが仕掛ける時。それの意味するのはライスとマックイーンさんの真っ向勝負です。

 マックイーンさんが仕掛けた瞬間、ライスも同じタイミングで駆け上がりました。ぐんぐんと伸びるマックイーンさんにライスは必死に追いすがります。マックイーンさんの飛び出したのは最高のタイミングでした。周囲が全力で走ろうとする数秒前、そのごくわずかな時間を狙って仕掛けたのです。

 マックイーンさんを徹底マークしていたライスはそれに乗る事が出来ましたが、出鼻をくじかれた周囲の人達は完全に出遅れてしまいました。それによって追い込みの人達もルートを潰されてしまい、天皇賞の最後は逃げのパーマーさんと、それを追うマックイーンさん、そしてライス。三人の戦いとなりました。

 しかし天皇賞は3200Mというウマレースでも過酷な長丁場。徐々に逃げていたパーマーさんの足が鈍ってきます。こうしてまた一人脱落し、最後に残ったのはマックイーンさんとライスのみ。

 マックイーンさんに離されない様必死に食らいつくライスでしたが、ふとマックイーンさんに何か壁のようなものが見えました。かつてのライスが言いました。ここを越えちゃダメだって。分相応でいようって。また孤独になりたいのかって。

 でもそれが聞こえた瞬間、ライスは笑っちゃったんだ。誰かの評価を気にするなんてもううんざり。皆が望む負けるライスはライスなんかじゃない。この勝負に勝つ。あのとても強いマックイーンさんを差し切る。それこそが本当のライスシャワーなんだから。もし『一番人気が勝つ』という『常識』でライスを止めようというのなら、その『常識』ごと抜き去る!

 歯を食いしばり、ライスはギアをさらにあげる。それでも届かないのなら、さらにその上、まだ上へ!! 最後に見たのは驚愕するマックイーンさんの顔、そしてライスは全てを抜き去りました。

 

 

 ライスが一着を確定し、レースが終わった後、辺りを静寂が支配しました。声援はありません。あるのは戸惑いといつもの無遠慮な視線だけ。でも今度のライスは面を上げてあくまで堂々とします。

 するとライスの後ろから声がかかりました。

「ライスシャワーさん」

「マックイーンさん」

「強かったですわ……凄く!!」

「ありがとう」

「次は負けませんわよ」

「受けて立ちます」

 お互いふっと笑うと握手を交わします。マックイーンさんは頭が良いのでしょう。マックイーンさんが真っ先にライスを認めた事で、周りの余計な声を抑えたんです。きっと過去のライスの試合に思うところがあったのでしょう。

 野次が飛ばなくなっても、会場は盛り上がりはしませんでした。でもライスは知っています。おねえさまは泣いて喜んで、周りの客を振り回していたし、記者さんはもちろん漫画家さんだって応援に来てくれていました。そして。

「ブルボンさん?」

 回りの様子なんて関係なくブルボンさんは拍手してくれていました。ライスはかつての目標であったブルボンさんが応援してくれていた事実に胸が熱くなり、深く礼をしました。

 

 そう、ライスは不幸なんかじゃない。ライスは本当に応援して欲しい人達に応援してもらっているのだから。ライスはこんなにも恵まれている。例えこれから人気が出なくたって、もうライスは逃げたりしないよ。これが、これこそがライスシャワーなんだから。

 

 ふと気づくと親と一緒に見に来ていた子供がライスに手を振っていました。初めてできた小さなライスのファン。ライスは自分が考えうる最高の笑顔で手を振り返しました。

 

 

 

 




 この話の原案は、トウカイテイオー27歳の記者ちゃんの過去話でした。裏設定で記者ちゃんの友人は走れない(走る事が好きでない)ウマ娘の漫画家と決めていたのですが、ふとした時に、ここにライスシャワーの話を入れたらって思い至り、そこからアイディアが出まくったため、思い切って書いてみた感じだったりします。
 ライスのトレーナーは男か女か悩んで、変に恋愛要素あると余計かなと思っておねえさまにした次第です。でもそれがちょうどよくハマってくれましたね。自己批評にはなりますが、良い感じで「どけ、私がおねえさまだぞ!」的なキャラにできたかと。
 おねえさまはかなりはっちゃけていますが、内心はドキドキです。ライススカウト成功した日なんかは、家で飛び回って喜んじゃってたので、弟にうざいとツッコミをくらってます。
 『孤高の黒猫』については、多分知っている人にはバレバレかと思いますが、某有名バンドの歌をモチーフにしていたり。
 多分この世界のライスちゃんは、史実とは違って拙作のテイオーとも戦い続けた大ベテランになっているかと。何かネタを思いついたら、27歳テイオーとも絡ませてみたいですね。
 それでは今回もお読みいただきありがとうございました!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

モブウマ娘とトレーナーとネイチャさん

 モブウマ娘が元ネイチャトレーナーとネイチャさんに色々教えられる話。20台後半引退後という設定だからこそ出るベテランネイチャさんです。トウカイテイオー27歳と世界観が一緒ですが、今回もこれ単品で楽しめる感じです。

 ネイチャさんじゃなきゃ出せない味がある!

 僕はそれを証明したかった。

 というわけで今回もどうぞお楽しみください。



 

 目覚まし時計が鳴る5分前、朝が弱かったはずの私であったが、いつしかこの時間に起きるのが当たり前になっていた。

 2度寝の誘惑から逃れるため、名残惜しさを振り切って布団を抜け出すと、洗面台へ顔を洗いに行く。さっぱりしたところで体をちょっと動かしてみると、思いの外軽くて、疲労の抜け具合が十分な事に私は満足気に頷いた。

 今日は体調が良い。しかも休校日だ。トレセン学園は現役引退後のウマ娘達が路頭に迷わない様、勉学にも力が入っているのが大きな特徴の一つだが、今日に限っては一日一杯トレーニングに没頭できる。

 と言ってもオーバーワークは怪我に繋がるため、いつものトレーニング後のミーティングの時間が増えるだけなんだけども。

 着いたらすぐに動けるよう最初からジャージを着こむと、スポーツバックにタオルと着替えを詰め込む。後はお財布とケータイと、メモ用のノートも忘れずに。後はあの人からもらったお気に入りのメンコと……

「これでよしっと」

 あらかた準備を終えた私はもう一度鏡の前に立つ。そして声高らかに叫んだ。

 

「私が一番! 私がサイキョー!!」

 

 何とも言えない沈黙が辺りを支配する。他に誰もいないので当たり前の事だけど、静かさゆえに声の大きさが際立つわけで。鏡を見ると茹でたタコのようになっている自分がいた。

 

 

 あー、もう、やっぱり恥ずかしいなぁー。

 

 

 

 

 

 私こと、○○○○(モブなのでお好きな名前を入れてください)はトレセン学園に通うウマ娘だ。トレセン学園にいるという事はもちろんレースに出るためである。私も速さに憧れてその門を叩いた、夢焦がれるウマ娘の一人だ。

 しかしトレセン学園はよく中央と称される。つまりはウマ娘レースの中心であり、トップレベルの猛者たちがしのぎを削る場所なのだ。ライバル達はもう嫌になるくらい強く、下手をすればデビューをする以前に選抜レースで心が折れた子も数知れず。

 そんな中で3位というそこそこの成績を残した私であったが、3位と言っても1位とは5バ身という大差だったため気分は最悪だった。これじゃあ今回のレースでは、トレーナーのお眼鏡にかなわないかなぁとへこんでいた矢先の出来事である。

「ねえ君」

「ぜぇー、ぜぇー……え? わ、私、ですか?」

「あー、慌てずとも良いよ。まずは息を整えて」

「す、すみません」

 この場で声をかけてくれたのはきっと私に興味を持ってくれたトレーナーに他ならない。にもかかわらず完全にスタミナがキレていた私はすぐに対応する事が出来なかった。

 選抜レースでトレーナーに選ばれるか否かで、今後が決まる事が多いのは周知の事実で、気合入れまくった結果である。戦略らしい戦略もなく、というよりかはそもそも戦略を使えなかったという方が正しいか。

 他の子もそうなのだろう。中央に来る子は才能ありきで来る子が多いため、地方では敵なしというくらい強いが、意外にも同格との対戦経験に乏しい。最低でも同じレベルで、格上が蔓延るレースで考えながら走るなんて至難の業。結果、私のようにがむしゃらに走るしかなくなる。

 色々と悔いの残るレースだったのは間違いない。中央の凄さというものを覚悟こそしていたものの、実際肌で感じてみると動揺を隠しきれず、ペースはめちゃくちゃ。その中で1位になった子だけは別格だ。

 全体的にかかり気味になる中、慌てずじっくり温存して、回りが失速した瞬間に一気に抜けた。私が運良く3位に入れたのは一早く彼女の存在に気づけたからだ。気持ちが悪いくらい落ち着いている彼女に違和感を持ったからこそ、彼女が仕掛けた際に私はなけなしの力で、彼女の作った道に飛び込む事が出来た。

 悲しいかな。つまり3位は運が良かっただけなのである。回りに乗せられて焦って走って、他の人よりちょっと早く我に返っただけ。そんな私に声をかけるとはどんな物好きか。

「ふー、お待たせしました」

 やっと息が整ってきた私が顔を上げると、そこには予想外な人物が笑顔で立っていた。

「え? え?」

 あまりにも理解不能な事態に私の頭はパニックだ。だってそうじゃないか。トレーナーと契約できればいいなぁとはもちろん思っていた。トレーナーとの2人3脚はウマレースを夢見るウマ娘達にとっては憧れだ。レジェンドと呼ばれるウマ娘達の背後には名トレーナーありき、これは常識である。

 良いトレーナーに出会えればいいなと思っていた。反面そんなに都合の良い話なんてないとも思っていたわけで……

 

 でもこれは予想外過ぎる。

 

 なんでナイスネイチャの元トレーナーが私に声をかけているわけ!? 

 大当たりじゃないですか! 嘘嘘何で? 

 

 テンパる私に天啓が走る。この直感は間違いない。私はかの有名なトレーナーに対してビシっと横を指さした。

「えっと、ウマ娘違いじゃありません? 一位はあちらですよ?」

「君で間違いないよ」

 

「ほわーーーっつ!!!?」

 

 これはきっと夢だ。私が望んだ都合のいい夢。そうに違いない。

 

 

 

 ……まあ現実だったわけだけども。

 

 

 頬をつねってみても普通に痛いし、どれだけ位置を変えてみてもトレーナーの視線は自分に向く。逆立ちして水入りバケツに顔を突っ込んだら目が覚めるかもしれないと、バケツを探してみたが、レース場でそんなものあるわけもなく、私は現実を受け入れざるを得なかった。

 ちなみにこの時の私の事を聞いてみたら、トレーナーは随分面白い子だなと思ったらしい。解せぬ。実績のある有名なトレーナーに声をかけられて舞い上がっちゃうのはしょうがない事だろうに。

 

 そんなこんなで始まった私とトレーナーであったが、関係は良好で順調そのものであった。何せトレーナーにはあのナイスネイチャとやってきた実績があり、私にそれを疑うなんて考えはまったくない。あまりにも私と意見が食い違っているなら、反抗もありえたかもしれないが、逆になるほどと思わされる方が大半で、ベテランならではの豊富な知識は私にとって宝の山だ。

 

 ちなみに私がなんでナイスネイチャの事を知っていたかというと、ファンだったからである。男の子なんか、子供の頃よくヒーローごっこして遊ぶものだけど、ウマ娘だってその例にもれず。レースで華々しく活躍するウマ娘は羨望の的だ。

 残念ながらナイスネイチャにG1を勝利した経歴はない。それでも私にとって、ナイスネイチャは特別中の特別であった。

 

 初めは親近感からであった。下町育ちのナイスネイチャの実家はスナックとの事で、お客さんと談笑する母の姿を見て育ったとの事らしい。それ故かおじちゃんおばちゃんに愛され、商店街のアイドルなような存在になっていたとか。

 私も似たようなもので、実家がド田舎なせいか、地元の期待を一身に背負っている。ウマレースで速い子がいるなんて情報はすぐに広がるわけで。好きで走っていただけなのにいつしか私は地元のヒーローみたくなっていた。要するに商店街に愛されるナイスネイチャを自分に重ねちゃったのだ。

 しかしながら速いと称されても、私としてはそれが所詮地方で強いというだけで、私自身井の中の蛙でしかない事を知っていた。それ故私は有頂天になるような事はなく、むしろ冷めていたように思う。上には上がいる。突き抜けた才能に勝てない、悔しさすら感じない圧倒的な差、そんな中央のレースを度々テレビで見てきたから。

 そう、私は勝者じゃなくていつも敗者を見ていた。いつか自分に訪れるであろう未来として。自分はきっと中央に行っても、結局出戻りになるんだろうなぁと。

 才能に恵まれていて、さらに人の縁もありと、そんな幸運にたどり着けるのは極わずかである事を私は知っていた。別に地元の期待が嫌なわけではないけれども、そう上手くはいかないぞと。

 何とも現実的でひねくれた私であったが、そんな私を変えてくれたのがナイスネイチャであった。

 両親がレース会場に連れて行ってくれた有馬記念、そこにはあのナイスネイチャも出走していた。結果は3位、3年連続同じ順位であった。皆が1位を褒め称える中、私はナイスネイチャの表情を見ていた。

 なぜならその時の彼女の目には諦めが映っていたから。張り付いた笑み、己の悔しさを誤魔化すため、現実を見ないようにするための消極的な自画自賛、言うなればそれは心の折れた表情であった。無理もないと思った。スターという絶対的な壁、それに挑戦し続けるという事は、それだけ心をすり減らす事なのだ。

 そう、これが現実。両親はきっと私に夢を持ってほしかったのだろうけど、私はむしろ限界を思い知らされた。これこそが私の未来。きっと私はG1の舞台に立てずに終わるであろう。

 

 そしてナイスネイチャはもう戦いの舞台に立たないだろう。

 

 でも次のレースでナイスネイチャは当たり前のようにいた。結果は惜敗の2位、最後の競り合いで負けての1バ身差であった。それからもナイスネイチャは出走し続け、その時代その時代のスターに打ちのめされ続けた。

 私はそんなナイスネイチャに目が離せなくなっていた。どうして続けられるのか? 何がそこまで彼女を駆り立てるのか。そして私はとうとう目撃してしまったのだ。テレビで一瞬映ったナイスネイチャの顔を。

 その時ナイスネイチャは一位の選手をじっと睨みつけるかのようにしていた。その後はすぐに笑顔になり、応援に来てくれていた商店街の人達へ感謝を告げていたが。あんな表情を浮かべていたのが嘘かのよう。

 

 でも私は忘れない。

 

 私はあの一瞬に心を奪われたんだ。ナイスネイチャの本気の表情に。

 

 身近な存在は私にとってのヒーローとなった。

 

 

 

 それからの私はナイスネイチャの出るレースを調べては、レース場に足を運ぶようになっていた。商店街のナイスネイチャ応援団の皆様と一緒になって声援を送った。彼女がレース場を去るその日まで。

 ナイスネイチャのファンであるからにはその周りを調べるのも当然な事で、彼女を支えていたトレーナーを知っているのは当然だ。憧れの選手を育て上げたトレーナーに見出してもらえたのはすっごく嬉しかったが、その反面何故私が選ばれたのかは実に謎であった。

 

 あの選抜レースで私は埋もれた側だったのだから。

 

 

 とある日、トレーニングが終了した時に尋ねてみた事がある。どうして私を選んだのかと。返ってきた言葉は辛辣だった。

「走力は並み、スタミナも並み、スタートもちょっと出遅れ気味だったな」

 グサッと刺さる事をさらりと言ってのけるトレーナーだが、事実なので何も言えない悲しみ。

「でも君は見る力がある。土壇場で君は作戦を切り替えたろ?」

「それはたまたまです。凄そうだなと見ていた子が偶然にも勝負を仕掛けてくれたので、私もそれに便乗しただけと言いますか」

 そう、私のした事は作戦と呼べるほどでもないのだ。

「一位になった子はフィジカルの強さだけでなく、走り方も決めていて、しかも実践できちんと最後までやり遂げた。今の時点であそこまでできるなんて凄い子なんだろう。でも才能で言うなら君も負けてない」

「散々並みって言われたんですが……まあ自覚がありますけど」

「確かに今はすべてが劣っているかもしれない。でもね。幸い君には伸びしろがある。速さも、スタミナもまだまだ発展途上だ。ここはトレーナーである俺に任せてくれれば良い。それこそ限界まで引き延ばしてやるさ」

「……それはありがたい限りです」

 一体どんなスパルタが待ち受けているのか、何せこのトレーナー、物腰が柔らかい癖にしごきがえぐい。戦々恐々とする私を知ってか知らずか、トレーナーは言葉を続ける。

「だけど心だけはそう簡単にはいかない。月並みではあるけれど負けん気こそが勝敗を分ける。そして君は諦めなかった。それはレースにとって一番必要な才能だよ」

 トレーナーは言う。諦めない事が何よりの才能だと。でも私にとってそれは当たり前の事だ。 

 

「だってネイチャさんは諦めなかったから!」

 

 私の憧れの人はレースを捨てたりしない。

 

「ははは、君はそんなにネイチャが好きか?」

「もちろんです! ネイチャさんがいなかったら今の私はここにはいません!」

 私の熱弁に心底愉快そうに笑うトレーナー。茶化されたようでちょっとカチンときた私であったが、トレーナーの次の言葉に固まってしまった。

「だそうだ、ネイチャ」

「はえ?」

 何時からそこにいたのか、トレーナー室の外から遠慮がちに入ってきたのはどうにも私の憧れの人っぽく見える。

「ネイチャさん……のそっくりさん?」

 だって彼女はもう引退したのだ。トレセン学園にいないはずの人がここに来るなんてあり得ない。となると残りの可能性はそっくりさんしかいない! そうじゃないと恥ずかしすぎる!! さっきの話聞かれていたって事でしょ? お願いです。そっくりさんであってください!!

 一抹の望みをかけて私はネイチャさん?を見る。さあ、今すぐそのカツラを取ってどっきり大成功って言ってくれ!

 

「あっははははは……その、ネイチャさん本人です」

 

 じーざす神はいなかったよ。

 

 これはきっと夢だ。私が望んだ都合のいい夢。そうに違いない。

 

 

 

 ……まあ現実だったわけだけども。 PART2

 

 

 

 てっきり引退後のネイチャさんは実家へ帰っていると思い込んでいた私であったが、実はトレセン学園近所に住んでいると聞いた時の驚きたるや。実家がスナックだった経験を活かし、近所で喫茶店をしているとの事で、トレセン学園に来ようと思えば10分程度で来れるらしい。

 さらに言えばネイチャさんとG1を争ったトウカイテイオーも近くに住んでいるのだとか。凄いねこの町。

 

 

 その後の私に待っていたのは、元ネイチャさんのトレーナーに指導してもらっているだけでも幸運なのに、ネイチャさんの店の休みの日には、ネイチャさんからも教えて貰えるという夢のような日々であった。

 時には軽くではあるが合わせで走ってくれる事もあり、G1出走経験があるベテランの走りを生で体感できる興奮は一言で言うとパない。

 全力で走れば流石に現役の私の方が速いのであるが、マークされた時の揺さぶりに私はどうしても対応しきれない。思いっきり重圧を掛けられる事があれば、存在を感じないほど無になる事もあり、終いにはその中間、つけられているのか、そうでないのか、ちぐはぐなプレッシャーに晒され続けて、まるで技のデパートといったネイチャさんに私はかかりまくりだ。

 ネイチャさんとの特訓はとにかく内容が濃く、刺激的だった。もちろんトレーナーの指導だって抜群だ。きっと他の有名トレーナーの指導もこちらに劣らず凄いのだろう。でも元ネイチャトレーナーだからこその特権があったりする。それは……

 

「後輩ちゃん、頑張ってる? 待望のお昼の時間ですよ」

「待ってました!」

 

 ネイチャさんのお手製弁当である。ここだけの話なのだがネイチャさん、トレーナーと婚約済みなのだ! 『レースではブロンズコレクターだったかもしれないけど、恋のダービーは一着だったんだぁ』と思いっきり惚気るネイチャさんだが、その花が咲くような微笑みは嫉妬する気も起きない。

 あれだけ頑張った人なんだ。嫉妬するよりも報われて欲しいと思うのはファンとして当然である。それに二人が婚約しているからこそ私はその恩恵に預かれるわけで。

 婚約しているという事は同棲も始めているわけで、基本トレーナーのお昼ご飯はネイチャさんの特製愛情弁当である。味よし、バランス良しの一級品だ。

 初めこそプライベートに干渉しすぎるのは良くないと、ネイチャさんは遠慮していたらしいのだけど、私と初めて会ってから一週間くらい経った後だったろうか、私の寮暮らしの話になり、食生活の話となったのだ。そこでちょっとした問題が勃発したわけです。

 実のところ、私はかなりの偏食で苦手なものが多く、バランスよい食事というものをビタミン剤で補うようにしていた。それをネイチャさんが許さなかったと。ネイチャさん曰く、ビタミン剤でも栄養は取れるけど、心の栄養にはならないとの事。

 「美味しい」と感じる重要性を延々と説かれ、いつの間にかネイチャさんが私の食育をする話が決まっていましたとさ。こうして私は本来トレーナーだけに注がれるはずの愛情弁当を、ついでに食べられる権利を得たのである。

「今日はトマト入っているけど、火は通してあるから後輩ちゃんの苦手な青臭さは……ってそっこーで食べてるし」

「いや、ネイチャさんの料理美味しいし。もう心配するだけ無駄って分かってますから」

「ネイチャさんとしてはそう言ってもらえるの嬉しいわけだけど、早食いは健康に良くないからね。落ち着いて食べなよ。もちろんトレーナーも」

「うぐ、そこで俺に飛び火するか……」

「そりゃネイチャさんの将来の旦那様ですもの。長生きしてもらわないと困りますから」

 思わず尊死しそうになりました。

 

 

 まるで絵に描いたような世界。厳しいと思っていたウマレースの世界だけど、私は自分が思いうる限り最高の環境の中にあった。

 

 

 ただそれでレースが勝てるかと言うのは全く別の話である。デビューは堂々の1位だったし、それからも何回か勝つ事は出来た。しかし重賞に出走するようになってから明らかに勝てなくなった。

 別にドベとかそういう訳ではない。入賞は出来ている。2位という惜敗もあった。実力が劣っているとは思っていない。あれだけ濃厚な時間を過ごしてきたのだ。成長している実感はある。

 

 なのに1位になれない。

 

 どこかで壁にぶち当たる事は覚悟していた。しかし実際になってみると尋常じゃなく焦る。夜に思わず外に出て走りたくなる事も何度かあった。しかし競技者として一番気を付けなければならないのはオーバーワークだ。

 ぎりぎりすんでの所で思いとどまり、かわりに眠れぬ夜を過ごした事が何度もあった。このままじゃいけない。何かしなければならないのに何をすればいいか分からない。そんな悩める私にネイチャさんは声をかけてくれた。

「お疲れのようだね」

「ネイチャさん……」

 その時の私は酷い顔をしていたと思う。

「悩める後輩ちゃんにネイチャさんが勝てるようになる魔法を教えて進ぜよう」

「魔法、ですか?」

 訓練とはほど遠いファンタジーな言葉に私は首をかしげる。するとネイチャさんは突然立ち上がり、高らかに叫んだ。

「アタシが一番! アタシがサイキョ―!!!」

 

「えっと……その、なんです?」

 

 たとえネイチャさんが憧れの人であったとしても、この意味不明すぎる行動に「流石です!」って返せなかったのはしょうがないと思う。しかしネイチャさんは私の微妙な反応なんて諸共せず、満面の笑顔を見せた。

「もちろん魔法だよ。後輩ちゃんが勝つために必要な事。それはこうして叫ぶ事!」

「はあ……」

「冗談じゃないからね。アタシは本気。きっと後輩ちゃんはこう思っているはず。能力で劣っているわけじゃないはずだ。そしてそれはアタシもトレーナーも思っているよ。そんなやわな鍛え方をしたわけじゃないしね。断言しても良いよ。後輩ちゃんの実力はすでに勝てるレベルにあるって」

 だったら私はこれから何をすればいいんだ!? 思わず叫びたくなるところを抑える。私が今すぐ答えを欲している事を理解してか、ネイチャさんは率直に言った。

「後輩ちゃんに足りないのは勝つ意識」

「そんなわけ!! 私はずっと勝ちたいと思ってます!!」

「うん、『思って』いる。だから負けたんだよ」

「え?」

「ちょっと……昔の話をしようか」

 戸惑う私にネイチャさんは遠い目をしながら語り始めた。

 

「テイオーは何時だって言っていた。僕が勝つって。礼儀正しいお嬢様のマックイーンだってそう。勝負の際には何時だって私が勝ちますわと豪語して見せたよ。二人とも例え負けたとしても次こそは勝つと言い続けるのをやめなかった。アタシはずっと思っていた。一度でも勝てばきっとあの二人のようになれるって。自信を持てるって。でもね? 二人は別にG1を勝ったから言い始めたわけじゃない。それこそデビュー前から一位になるって回りが呆れるくらい言い続けていた。最初は何て怖いもの知らずなんだろうって思っていたよ。馬鹿なんじゃないかとすら思っていたかも。そしてこうも思っていた。勝ちたいと『思って』いるのはアタシだって一緒だって。でもね?」

 瞬間、それまで淡々と語っていたネイチャさんの何かが変わった。私は、ネイチャさんのその変わりように思わず身構える。ネイチャさんの鋭い視線が私を射抜いた。逃げる事は許さないと言わんばかりに。

 

「『声にしてあげる』と『思っているだけ』は全然違うんだよ」

 

 その言葉の重みに私はただ圧倒された。とてつもない存在感、『本物のアスリート』の持つ気迫は凄まじく、私は立ち尽くす。

「『声に出す』と言うのは行動した結果。自分だけでなくそれを聞いていた他人も知る事になる。行動すればそれだけ記憶に残るんだ。一方で『思っている』は本人の中でだけで完結している狭い世界に過ぎない。『思っている』は何も残さない。その思いがどれだけ強いものだろうとね」

 普段はあまり見る事のない本気のネイチャさんの気迫は凄くて、今のネイチャさんは現役時代の鬼気迫る彼女そのものであった。

「後輩ちゃん、あえて言わせてもらうけど、アタシはきっと勝てたよ。アタシだってそんな柔な鍛え方はしていない。アタシだってトレーナーと死ぬ気で駆け抜けたんだ。同じか、それ以上の実力があったと思っている。でもそれは体だけの話。心は大きく引き離されていたってわけ。テイオーやマックイーンが勝利を口にする度、思うだけで口にしなかった私との差は開いていった」

 ネイチャさんは言った。体を鍛えるのと同様に、心も鍛えなければならないのだと。中央であるトレセン学園には、才能ある選手はもちろんの事、優秀なトレーナーも沢山おり、それぞれ最高峰のトレーニングをしている。体を限界まで鍛える事はある意味最低限の努力なのだ。中央に来てさぼる奴なんて愚か者は早々いない。

 だからこそ最後に勝敗を決めるのは心の強さなのである。

「後輩ちゃんは自分に自信がある?」

「それは……正直に言うとないです。だから勝って自信をつけようと……」

「順序が逆だよ。自分を信じられない者に勝利は絶対来ない。だから今から変えるの。自分自身を。後輩ちゃん、自信がなかろうと、半信半疑だろうと言い続けるんだよ。アタシがサイキョ―だって。いつかきっと、そんな何気ない行動の積み重ねが後輩ちゃんの力になる。後輩ちゃん、アタシのトレーナーとアタシに教えられているからには、あんたはナイスネイチャになるんじゃないよ。後輩ちゃん、あんたはナイスネイチャを超えるの」

「ネイチャさんを、超える……」

 それは途方もない事であった。でも自分の口で言葉にした途端、何か心が燃え上がったような気がして、思わず握った手に力を籠める。

「今日は初めの一歩だよ。アタシが聞いてあげるから今ここで叫んでごらん」

「え、今からですか?」

「選抜レースの件、ネイチャさんトレーナーから聞いているんですよ? 負けん気で粘ったらしいじゃん? さっきだって勝ちたいと思っているって言っていたし。根っこの部分は持っているんだ。後はそれを外に表現するだけ。簡単でしょ?」

「簡単って言われましても」

「ああ、そうそう。これ、これから毎日やってもらうからね。朝、昼、晩に一回ずつ。しかもその内の一回は誰かに聞いてもらう事」

「え、そんな無茶な!?」

「ほらほら、今はまだ身内だから優しいよ? 今を逃したら後輩ちゃんの寮の友人あたりに聞いてもらう事になるかも?」

「そ、それもハードル高い!」

「だったら観念して今ここで叫んじゃいな。ほら、ほら」

「う、あ、ああああああああ、分かりました! やりますよ!! 私が一番! 私がサイキョ―!!! これでどうですか!!!」

 しかしそこにはとんでもない罠が潜んでいた。

「よし、録音完了っと」

「え゛!? トレーナー」

「記念すべきサイキョ―宣言頂きました! じゃあ」

「ちょ、どこに行くんですか!?」

「もちろんライバルトレーナーに聞かせてくる! 今後はうちの子も強くなるから覚悟しろって!!」

「ぎゃー!! ちょ、やめてくださいって!!」

 慌てて追おうとしても、がっちりとネイチャさんに掴まれた私に動く事は出来ない。そんな中、ピンク色のツインテールが通りすがった。オールラウンダーの変態(良い意味で)事、アグネスデジタルである。私は藁にも縋る思いで彼女に声をかけた。

「で、デジタルさんですよね!? お願いです。私のトレーナーを止めて……え?」

 全てを告げる間もなく、彼女はサムズアップをし、後輩ウマ娘ちゃんを育てる先輩ウマ娘ちゃん、二人のやり取りが尊いと言い残し、天に召された。こうして私がトレーナーを阻止する事はかなわなかったのである。

 

 

 とまあ、こんな紆余曲折があって私に新たな日課が増えたわけです。とりあえず朝一に姿見を見ながら叫び、夜寝る前にまた叫ぶ。問題は誰かに聞かせなきゃならないお昼だ。恥ずかしくて嫌だとは思ったけど不思議とやらないという選択肢はなかった。見てしまったから。

 私は会えたんだ。あんなにも焦がれていた本気のネイチャさんに。私を変えてくれたあのヒーローに。そしてネイチャさんは言ってくれた。ナイスネイチャを超えろと。

「私が一番!」 

「……?」

「サイキョ―ってよくツインターボさんが言っていたらしいです。アハハハハ」

 最初は誤魔化しながらだった。授業中、どのようにうまく自然に流せるように一番と言えるか考えすぎて、先生に当てられた時に「はい、サイキョ―です!」と盛大に自爆してしまった事もあった。

「バクシンバクシンバクシンシン!!」

 バクシンオーさんがトレセン学園に遊びに来た時はチャンスだ。彼女の暴走に合わせて一番一番と叫ぶ事ができる。一発芸として、プロレスの指一本立てるアピールの物まねとかもやってみたっけ。

 よくもこれほどまで無駄に知恵が回ったと思う。それでも効果としてはあったようで。ふと友人と会話をしていた際、『次のレースはどうなりそう?』と聞かれたのだけど、

 

「私、勝つよ」

 

 私は自然とそう返していた。考えるわけでもなく無意識から出た言葉だった。

「わぁ……」

「あ、その。ごめん生意気だったかな?」

「そんな事ない! 今の君すっごくカッコよかった」

「そ、そう?」

「絶対応援行くから頑張ってね!」

 その翌日のレース、長く勝利から遠ざかっていた私は初の重賞を勝利した。壁を一つ抜けた感はあったけど、喜び切れなかったのはライバルが軒並み不在であった事だ。そのレースではよくても同等、後は格下しかおらず、格上がいなかった。

 

「私は変われたのかな?」

 

 一人ベッドで自問自答しても答えは出ない。目をつぶっても寝る事が出来なかった私はカレンダーを手に取る。来月に印がついているその日、私は初めてのG1を迎える。今回勝利した事により、ぎりぎり滑り込めたレースであった。

 本当の結果はこのレースで出るのだろう。私はそう予感していた。

 何せ一番人気は選抜レースでぼろ負けした一位のあの子だ。あの子と走るのは選抜レース以来となる。あの子は連戦連勝でずっとスターの道を歩んできていた。私と彼女との差は埋まったのかそうでないのか。

「私は一番、私は一番」

 私は同じ言葉をただただ繰り返す。一番一番と寝落ちするまで続けていた。

 

 

 それからも私はトレーナーから課せられたトレーニングを続け、ネイチャさんの弁当を食べ、ネイチャさんの言いつけを守り続けた。もう出来る事はすべてやったと思う。後は座して待ち、レースで全てを発揮する。そのはずだったのだが……

「は、吐きそう」

 試合当日の私のコンディションは最悪であった。緊張しすぎて前日は満足に眠れず、今日は朝から疲労を感じている始末。当日になったら吹っ切れるにワンチャンかけていたが、緊張状態はなおも継続中。

「今日はよろしくね」

 一方で一番人気のあの子は流石に舞台慣れしているだけある。すでにG1一つとっているのは伊達じゃなかった。爽やかに挨拶された私であったが、こっちは笑顔どころか手を挙げて返すのが精一杯であった。

 気を落ち着けようにもすでにレース場内にいるため、トレーナーとネイチャさんには会えないし、自分一人でどうにかできるのならとっくにやってる。

 

 そんな最悪の私がゲートインしたらどうなるか?

 

 その答えは出遅れである。あの子に近い中盤を狙っていたはずに最後尾になってしまった。もう頭が真っ白になってしまい、事前にトレーナーと考えていた作戦は全部飛んでしまった。ペース配分だって正しいかどうかわからない。ただ無策でついていっているだけなのだ。

 あまりにも酷いレースで情けなくなる。いくらなんでもこれはない。あれだけ繰り返したのに。心も強くなったはずなのに。

 

 

 私が一番、私はサイキョ―

 

 

 どうして私はここにいる? 一番を取るって言ったじゃないか。

 

 

 私が一番、私はサイキョー

 

 

 あの気持ちは嘘だったのか? そんなわけない! 恥ずかしかったのは確かだけど、一位を取りたいのは本当だ。だから恥ずかしくても続けた。繰り返した。

 

 

 私が一番、私はサイキョー

 

 

 これが一位になれるレースか? チキンハートで本気すら出せない愚か者がサイキョ―か? マークするはずのあの子はもう遠くに行ってしまった。一位を取るって言っておいて私は何をしている? 私はサイキョ―なんだろ?

 

 

 私が一番、私はサイキョ― 

 

 

 サイキョ―がこんな場所にいていいわけないだろ。サイキョ―なら一位も当然、サイキョ―ならどんなに苦境に落ちいったって負けはしない。サイキョ―なら、サイキョ―なら、

 

 

 サイキョ―なら!!!!!

 

 

『覚えておけよ、お前はサイキョ―だ!! 俺とネイチャが言うんだから間違いない!』

 トレーナー……

 

『あんたこそサイキョ―、今こそナイスネイチャを超えるんだよ!!』

 ネイチャさん……

 

 ふと脳裏に鏡の前にいる自分の姿がよぎった。毎朝の日課となったそれ、初めは半信半疑で、慣れてきてもちょっと恥ずかしく、その先は堂々と当たり前であるかのように。

 

 

 うん、私は変わった。そう断言出来た瞬間、

 

 何かカチリと音がした。

 

 

 

 私が一番、私はサイキョ―

 

 

 

 そんなの当たり前でしょ? 私が一番その言葉を言ったんだから。積み重ねが力になるのなら一番言った奴が勝つに決まってんじゃん!

 

 

 そうだよ。私はサイキョ―だ! サイキョ―ならここから余裕でぶっちぎる! セオリーなんていらない! 作戦なんて不要! だってサイキョーだもん。サイキョ―に常識が通じると思うな!! 私は、私は!!!

 

 

 内から溢れだす激情を放出するかのように咆哮する。

 

 

「私はサイキョ―だ!!!!!!!!!!」

 

 

「そこをどけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!」

 

 

 私は常識破りの中盤に差し掛かる前からのスパートをかける。どうせ作戦はとうに崩れている。出遅れの事を考えると、その後予定通りに走ったって良くて入賞が関の山。前であれば色々できるが後ろから出来る事は何もない。あの子以外にちょっかいをかけてどうするというのか。

 

 だったら今ここで私が限界を超えるしかないだろ!!

 

 私は一人、また一人と抜いていく。途中抜いていった子の困惑した表情が見えた。それがあんたの敗因だ。私がかかったと思ったのだろう? スタミナ続かないと思ったのだろう? でもそのまま行ったらどうしようとも思った。自分の直観を信じなかった。だから何もしなかった!

 

 そんな奴に私は追いつかれたりしない! 私は宣言したぞ? この大舞台で。私はサイキョ―だと。今から一位を取りに行くぞと。私は嘘つきが嫌いだ。私は何が何でも自分が言った事に責任を取る!

 

 回りが私をどう扱っていいか分からなくなり、困惑している中、一番人気のあの子だけは違った。私が彼女の背後に近づいた時、彼女もギアをあげたのだ。自分の直感を疑わず、真っ先に対応してくる。これがG1ウマ娘か!

「ここは絶対に抜かせない!!!」

 本来ここで私は彼女の後ろにつくべきだったのだろう。無論その理由はスリップストリームだ。風の抵抗を前の人に受けさせ、勝負所まで体力を温存できる。でも私はそれをしなかった。

 技術で勝負する場はもうとっくに終わっている。それこそ私がスタートに失敗した時から。今更技に頼るなんてしない。そんな小細工であいつに勝てるわけがない。実力でねじ伏せる。すべては真っ向勝負!! 後ろにつかず抜きに入る姿勢の私を見てあの子が不敵に笑う。

「上等!! やれるもんならやってみろ!!!!」

 王者の風格とでも言うのだろうか? 彼女の言葉には他にはない強さがあったが、私はびくともしなかった。

「あんたは私に勝てないさ! だって私はサイキョ―だからな!!」

 だってそうなんだ。何せサイキョ―と言う度に私のパフォーマンスが上がる。積み重ねれば積み重ねるほど強くなる。私は、今ここで勝ちたいんだ!

 

 第3コーナーを回り、最後の直線で私達二人は抜け出した。逃げの子も刺し切って二人だけの勝負となる。その差は一バ身。これがあの子との、一位の壁。

 

 私は絶対に勝ちたい!! 私は正真正銘100%勝ちたいと思っている。だから!!!

 

「んなくそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

「抜かせるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 

 

 私はひたすらに彼女の背を追い続ける。

 

 残り2ハロン、

 

 残り1ハロン、

 

 まだ彼女は落ちない。それでも私は己の心の中で叫んだ。

 

 

 私が一番、私はサイキョ―、と。

 

 

 

 次の瞬間、

 

 私は確かに彼女を抜いていた。

 

 

 

 息が途切れ途切れで電光掲示板を見る余裕なんてなかった。ゆっくり歩きながら息を整える。止まってしまえばそのまま倒れてしまいそうであった。体が重くて顔すら上げられない。私は彼女を抜いた。それは間違いない。でもそれがゴール前なのか過ぎた後なのか。答えを知るのが怖い。ここまでしたのに負けていたらどうしようと震える。

 早く掲示板を見たいのに呼吸は全然整わなかった。その矢先の事である。

「おめでとう」

 頭の上から声がかかった。さっきまで競り合っていたあの子であった。やっとの事で私は顔を上げ、彼女に問いかける。

「私、勝った……の?」

「うん、君の勝ち。電光掲示板を見てごらん」

 言われるがまま、私は掲示板へと視線を向けるとそこには私の番号が一着とでかでかと記されていた。ハナ差の勝利であった。

「あ……勝った。勝ったんだ!! うわっと」

 勝利を確認した瞬間、気が抜けて私はへたり込んでしまう。

「ちょっと大丈夫?」

「ハハ、ちょっと気が抜けちゃって」

 尻もちをついた後、私は立ち上がる事が出来なくて乾いた笑いを浮かべる。

「怪我とかじゃないよね?」

「うん、痛みとかはないし。ただ疲れすぎちゃっただけだと思う」

 間違いなくオーバーワークであった。体って限界まで使い切るとこんな事になるのか。

「なんか納得しちゃった。こりゃ負ける訳よね。最後は自分自身って言うけど、そんなになってまで勝ちたいって思われちゃあね。慢心したつもりはないけれど、足りないって思わされちゃった」

 淡々と分析をする彼女に対して私はどう答えていいか分からなくなる。流石にここで『だってサイキョ―だし』とは言えなかった。変に私の切り札を真似されても困る。そんなこんなで私が悩んでいると、突然彼女は私を指さした。

「でも次は負けないからね。私は負けず嫌いなの。次はあんた以上の気迫で勝ってやるから。首を洗って待ってなさい」

 それに対し私は、

 

「絶対負けてあげない」

 

 笑ってそう返したのであった。一瞬呆気にとられた彼女であったが、それでこそと言い、笑って立ち去って行った。

 

 彼女と入れ替わるようにして、トレーナー専用の特別席にいたトレーナーとネイチャさんが駆け寄ってくる。二人から思いっきり抱きしめられ、あ、これやばいと思っていたら、さらには私の両親までもが乱入してくる始末。

 トレーナーの配慮で私には秘密裏に招待されていたようで、抗う力も残っていない私は4人にもみくちゃにされるのであった。

 

 

 無事ウィニングライブを終え、へとへとになりながら帰路についた私であったが、感慨に浸るような事もなく、即ベットで爆睡してしまった。

 勝った事を考えられるようになったのは翌日になってからであった。嬉しいというよりかは、実感が沸かないというのが最初の感想。勝利を実感させてくれるのは筋肉痛という愉快な状況で、私はベッドの上でごろごろしていた。今日は流石にトレーニングはお休みである。かなり体を酷使したため簡単な体調チェックなどはあるが、ほとんどフリーだ。疲労も簡単には抜けきらず、ぼーっとして過ごしていたが、夜だけは別だ。

 食事もできるネイチャさんのカフェで祝勝会をやるのだ。ネイチャさんの料理は美味しいのですっごく楽しみである。でも私には一つだけ気がかりな事があった。

 

 

 もやもやを抱えていた私は予定よりも早く寮を出てしまい、待ち合わせ時間から3時間も早くネイチャさんのお店に到着してしまった。きっと私は話したかったんだと思う。ネイチャさんと二人きりで。

 そしてそれはネイチャさんもそうだったのかもしれない。私がカフェの入口まで着いた時、ネイチャさんはカフェの前で掃き掃除をしていた。何かきっかりかみ合った気がして私はネイチャさんに声をかける。

「ネイチャさん」

「おや、後輩ちゃん。随分と早く来たね。楽しみで我慢できなかったのかい?」

「それもありますけど、その……」

 私はG1を勝利してナイスネイチャが成し遂げられなかった事を達成した。ネイチャさんがナイスネイチャを超えろと言った張本人ではあるけど、実際どう思っているのだろうか? それが気になってしょうがなかったのである。

 私が勝てたのはネイチャさんとトレーナーのおかげだ。でもその勝利は二人の苦い敗北から来ている。二人のおかげで私は夢を持つ事が出来、本気で勝ちたいと思えたからこそ、私は思った。誰でもないネイチャさんこそ勝ちたかったはずなのではと。

 だからといって私が何かできるわけではないのだけれど、どこかで折り合いをつけたい自分もいるわけで。これから二人と一緒に走り続けるためにも。私のそんな思いを知ってか、先に言葉を発したのはネイチャさんだった。

「悔しくないと言えば嘘になるよ」

「え?」

「アタシが勝てない理由に気づいたのは、全盛期も過ぎて徐々に衰え始めた時だった。だからもし後半年早ければと考えた事は何度もあったね。もしそうであったらアタシもG1に勝てたかもしれない」

 きっとそうであろう。あの時のネイチャさんを知っていた私には断言できる。

「でも勝利だけが人生じゃない。負けた後も続くんだ。アタシはG1に勝てなかったけど、負けた後のこの世界が気に入ってる。勝てなかったからこそトレーナーの苦悩に寄り添えたし、こうして支える側に立つ事が出来た。そして後輩ちゃんに会う事も出来た」

「わ、私ですか?」

「アタシに憧れるなんて変わった子もいたもんだと思ったけど、あそこまで真っすぐな思いをぶつけられると嬉しくてね」

 あのトレーナーの騙し打ちの時か。あれはずるいと思う。嬉しかったのは嬉しかったけど。

「一つ聞くけどさ? もしアタシがG1に勝っていたら後輩ちゃんはウマレースの世界に来てた?」

 とても難しい質問であった。私が憧れたネイチャさんは勝利の栄光を得たネイチャさんじゃなくて、勝利を諦めなかったネイチャさんなのだから。

「……それは、分からないです」

 失礼な話かもしれないけれど、もしネイチャさんが勝っていたのだとしたら、私はネイチャさんを才能ある者として敬遠していたかもしれない。私にかかる期待の大きさに負けて、ウマレースの世界から逃げ出していた可能性すらある。

「つまりはそういう事さ。だから後輩ちゃんが後ろめたく思う必要はないよ。考えてごらん? 後輩ちゃんが引退したとして、あなたのレースを見てウマレースの世界を目指しましたって言われたら」

「それは……」

「アタシはG1を取るよりも栄誉な事だと思ったよ。自分の走りをここまで真剣に見てくれる人がいた。ましてやその子が後輩になり、私の夢の続きを見せてくれた。これのどこに不満があるのさ。最高だよ」

「ネイチャさん……」

「だから堂々と胸を張りな。あんたはただ真っすぐに進めばいい」

 私は力強く頷く。

「しかしどうするかね。掃除が終わったら今日の祝勝会の買い出しに行く予定だったんだけど……」

「わ、私手伝います!」

「いや、後輩ちゃんは主賓でしょうに」

「良いんです。変に特別扱いされる方が疲れるし。何かしていないと落ち着かないというか」

「勝ったってのに謙虚な事で。まあ良いか。じゃあ荷物運びだけ手伝ってもらおうかな? その後はカフェでゆっくりしてな。お礼は弾むよ」

「お、お礼は良いですから」

「大丈夫、お金とかじゃないから。ただテイオーとマックイーンが来るだけ」

「ほわーーーーっつ!!?」

「今から何聞くか考えておくんだね。レジェンド二人に話を聞けるチャンスだよ」

「わ、分かりました! え、えーと……」

 こうして私とネイチャさんは喫茶店を後にした。

 

 まだまだ夢の道は続く。しかしこれからも順風満帆とはいかないだろう。私が勝ったレースはタイムとしてはあまり良くなかった。あれは気力だけで場を荒らしたにすぎない。技量なんて関係ないと言い放ったが、それはそもそも技量の及ばないところまで追い込まれてしまったからだ。本来ならもっとスマートにいかなければならなかった。

 私と競ったあの子はさらに強くなるだろう。敗北を知った時、初めて真の意味で勝利への渇望が生まれるのだから。一回りも二回りも成長してくるはずだ。

 一方で私はこの勝利がまぐれではないと証明しなければならない。やるべき事はまだまだ沢山ある。でもとりあえずは一つだけ決まっている事がある。今までもこれからも続けようと決めた例のあれだ。

 

 私は己を変えた魔法の言葉を呟いた。

 

 

 私が一番、私がサイキョ―!

 

 

 

 




 祝勝会の後、トレーナーに泣きつかれて慌てるネイチャさんが見れます。トレーナーは勝って嬉しいのと、ネイチャを勝たせてやれなかった後悔、でもこうして今一緒にモブウマ娘を育てている喜び、感情がぐっちゃぐちゃになって幼児退行気味で、ネイチャのお腹に顔を埋めている感じ。そんなトレーナーの頭を撫でながら、今ある幸せを実感するネイチャさんの図。
 これがエモいと思ったらあなたも仲間だ! ネイチャさん、良いですよね。


 ネイチャさんに甘えるイラストは下記のリンクからどうぞ。

 https://www.pixiv.net/artworks/101028973


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。