ソフトウェアトーク系短編 (みえふぁ)
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軽 ト ラ バ ン パ ー ベ コ ベ コ 部

私は悪くありませんわ!







「少しゆっくりしすぎましたわね…」

 

東北地方のとある山中、軽トラックのヘッドライトのみが道を照らしているような暗闇の中で、東北イタコは車を走らせていた。

 

今日は地元からやや離れた場所から、口寄せの依頼があった。こんなこともあろうかと早めに取っておいた自動車免許が役に立ったと少し嬉しく思い、親戚から譲ってもらった軽トラックで依頼者のもとに向かう。

 

そしてやることを終えた後、すぐ帰るのもなんだろうとそのままもてなしを受けたが、終わらない雑談と次から次へと運ばれてくる茶菓子に帰るに帰れず、この様な時間になってしまった。おかげで結構な満腹感である。夕飯はどれだけ入るだろうか。

 

家の近くまで電車でも通っていれば楽なのだが、ここらは田舎も田舎であり、車がなくては多少遠い程度の場所への移動もままならない。妹たちは今まで通り徒歩なり自転車なりで学校に通っているが、特にそのうち高校を卒業する次女については、自分が送り迎えをすることも多くなるだろうと彼女は考えていた。

 

そんな自動車なくして生きられないような土地のはずなのだが、今はやけに車の通りが少なかった。暗くなってきているとはいえ、対向車の1つ2つとすれ違うこともない。山の夜道に1人という状況に心細さを感じる。

 

そうして、小さなトンネルの前。周りに1つの車もない状況と、満腹感のせいか、彼女が少しぼーっとしながら運転をしていると

 

 

 

視界の横から何かの影が飛び出した。

 

 

 

「ちゅわっ!?」

 

突然のことに意識を覚醒させ、ブレーキを力の限り踏みながらハンドルを左に切る。左側は、コンクリートの壁だ。ブレーキをかけられた軽トラックはスピードを急激に落としながら、コンクリートに衝突した。車体を通して、衝撃が彼女に伝わる。

 

 

「ううっ!」

 

 

目を瞑り歯を食いしばって、彼女はそれに耐える。そしてその二、三秒後、恐る恐る瞼を開けた。

 

 

スピードが落ちていたとはいえ、それなりの速度でコンクリートにぶつかった。結構な音もしたし、車が無傷ということはないだろう。エアバッグが作動しなかったのは年季の入ったものだからか。いや、それよりも

 

 

「あの影は…」

 

 

目の前に飛び出してきた何かはどうなった。ちゃんと避けられたか。大きく息を吐き、意を決してドアを開ける。トラックを降りようと足元を見て

 

 

 

赤い何かが、地面に飛び散っているのが目に映った。

 

 

 

「あぁ…」

 

 

声を漏らす。自分が何をしたのか、おおよそが理解できてしまった。そして、一度、ドアを閉めようとし、手を止める。見なければ良いという問題でないことはわかっているが、やはり一瞬、視界に入れることをためらってしまった。再び大きく息を吐いて、彼女は軽トラックから降り、車体の前に目を向けた。

 

 

 

つい先程まで動いていた、動けていたはずのその身体はピクリともせず、赤い体液が流れ出てている。

 

 

「私は…」

 

 

それを見て、彼女は小さく呟く。

 

 

 

「私は、悪く、ありませんわ」

 

 

周りには誰もいない。何もいない。虫の鳴き声ひとつ聞こえない状況で漏らしたその言葉は、果たして誰に、何に向けた言葉だろう。自分を見守る祖先の霊か、イタコである彼女にしか認識できない何かか、それとも、自分自身だろうか。

 

 

 

(だって、普通に運転してたら急に目の前に出てきて、避けられるはずありませんもの。いや、確かにちょっと注意が足りなかったかもしれませんが。でも、もしいつも通りでも、避けられなかったはずですわ。事故、事故です。)

 

 

 

イタコは、しばらく軽トラックの前で呆けていた。そこに車はおろか、人の1人も通りかかることがなかったのは、彼女にとって幸か、不幸か。

 

「雨…」

 

そして、そこに強い雨が降り出したことも、彼女にとって、果たして幸せなことであっただろうか。

 

 

 

 

 

 

地面に転がっていたそれは、谷底に落とした。血は、全て雨が洗い流してくれた。先程までの悲惨な光景はほとんどその面影を残しておらず、凹んだ軽トラックのバンパーと胸のあたりがぽっかりと空いたような感覚だけが、それが現実であったことを証明している。

 

バレないだろうか。バレたらどうなるだろうか。軽トラのバンパーについては妹に何か言われるだろう。何て返そう。こんなことをした自分に今後霊が降りてくれるのか。

 

不安と罪悪感に押し潰されそうになりながら、しかし、彼女は不気味な程冷静だった。こういうことをしてしまった後というのは、こうも頭が冷えるものなのだなぁと他人事のように考えながら、軽トラックを運転し、帰路に着く。

 

(大丈夫ですわ、きっと、大丈夫)

 

何が大丈夫なのか、何で大丈夫なのか、彼女自身もわからなかったが、とにかくそう自分に言い聞かせた。

 

そう、きっと大丈夫だ。そうでなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

「ただいま帰りましたわー」

 

「おかえりー!」

 

玄関の戸を開き、いつものように声を上げれば、家の奥からいつものように次女の声が返ってくる。三女の声はないが、部屋に入れば「あ、おかえりなさい」と言ってくれるのが常だ。

 

いつもの家だ。いつものやりとりだ。それらにイタコは心の底から安堵する。何の変哲もない日常の素晴らしさを、実感していた。

 

しかし、同時に後ろめたさが彼女を襲う。今から自分は、家族に対して嘘をつき、真実を隠し、騙さなければならない。まだ、気は抜けない。

 

「雨に濡れてしまったので拭くものがほしいのですけどー」

 

そう声を上げると、少ししてから次女のずん子が2枚のタオルを持って、かけ足気味にやって来た。それらをイタコに手渡しながら尋ねる。

 

 

「どうしたの姉さま!車で帰って来たんでしょ?」

 

「それが、その…帰り道に、軽トラを壁にぶつけてしまいまして…」

 

恐る恐る、といった風にずん子の表情を見る。

 

「え!?大丈夫だったの!?怪我は!?」

 

「わ、私は無事でしたが、譲っていただいたトラックが…」

 

「えー!?タコねえさま軽トラ壊したんですかー!?」

 

家の奥、居間の方から別の声が飛んできた。おおよそ寝転がりながらゲームでもしているのだろう。普段は夕飯ができたと呼んでもロクに反応しないのに、どうしてこういう話題に対しては地獄耳を発揮するのか。

 

そうしてドタドタと忙しない足音が聞こえてくるのと、三女、きりたんの姿が見えたのはほぼ同時だった。

 

「どうなったんですか!?ちゃんと走れるんですか!?」

 

「走れなかったらここまで帰って来られないですわ…。いつもの場所に停めてありますから、気になるなら見に行ってみなさいな」

 

はい!と元気よく返事をし、玄関を飛び出していく。段々と生意気になり始めた小学5年生。事故車の有様が気になる程度の無邪気さは残っているが、中学入ったら面倒なことになるだろうなぁとイタコは思っていた。

 

しかしひとまず、きりたんを遠ざけることができた。この隙にと、タオルで水を拭き取りながら言う。

 

「それで、先にお風呂に入ってしまいたいのですけど、いいかしら?」

 

「はいはい!ちょうど沸かしてたところだから、丁度いいタイミングだよ!」

 

ありがとう、とずん子に返し、足元を念入りに拭いてから廊下を歩く。

 

今は一秒でも早く、体を洗いたかった。家族に迎えられだいぶ楽になったが、それでも彼女の感じる冷たさと、不安は拭いきれていない。冷えた体を温めて、汚れを落としてしまいたい。

 

 

 

 

 

 

風呂から上がったイタコは、ずん子の作った夕飯を食べた後、仕事やら事故やらの疲れを主張して、妹たちから逃げるように床に就いた。すぐにでも寝てしまいたい程疲れていたのは事実だが、それ以上にトラックのことについて追求されたら、まともに返せる自身がなかった。結局、明日の自分が答えなくてはならないのだが、まぁ、それは明日の自分に任せよう。疲れがとれれば、今よりはマシな状態で受け答えができるだろうから。

 

しかし、いざ布団に入ると、疲れ以上に不安が迫ってきて眠れない。掛け布団を寄せて抱き枕のようにし、体を丸くする。

 

(バレないなんてことがあると思うか?)

 

頭の中に浮かんできたその文章を、浮かび切るまえに途中で抑え込む。考えるな、何も考えるな。そう言い聞かせ、別のことを考えようとする。しかし、油断すればまた、心配事が頭をよぎり、また抑え込む。これを10回ほど行った。余計な疲れが溜まったが、それでもやはり、眠れない。頭がうまく働かない。ぼんやりとした意識の中、ポツリと、声が漏れた。

 

「私は」

 

「私は悪くない」

 

「私が悪くないありませんわ」

 

「わたくしはわるく、ありません」

 

うわ言のように繰り返す。それはさっきまでと違い、すんなりと頭の中を埋めつくした。待ちわびたと言わんばかりに、疲労が彼女の体を襲う。

 

心地よく、眠れそうだ。

 



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化け物の下らない悩み

pixivに投稿していたものですが、イフさんを布教したいのでこっちにも上げます







 一つ、大きな風が吹いた。

 目の前の草花が揺れ、木についた青々とした葉が身を擦り合い、ざわざわと音を立てる。

 頭上のいたるところで鳴るその音は、ほとんどの者が心地の良い音色だと感じるのだろう。

 しかし今の彼には、その音がどうにも耳障りなものにしか聞こえなかった。自分の周りにある木々が、自然が、早く出ていけと自分を急かしているように思えた。

 

「…言われんでもそのつもりでしたよ」

 

 イフはそう呟き、少ししてからため息をつく。

 まったく呆れる。くだらない感傷に浸っていられるほど可哀そうな身分でもないだろうに。勝手に追い出そうとしていることにされては自然もいい迷惑である。

 そうして俯く彼の上に、一枚の大きな葉が落ちてきた。はらりはらりと降りてくるにはその葉は大きすぎたようで、勢いをつけてばさりとイフの帽子の上に乗っかる。

 イフが頭上から取ってそれを見てみれば、手のひらを広げたような形をした薄黄色の大きな葉だった。

 何の葉だろうかと、それを目の前にかざす。

 

「人?」

 

 そこに、声が飛んできた。

 かざした葉を視界からどけて声の聞こえた方を見てみれば、自分から少し離れた所に、真っ白な長い髪をした女が立っている。

 彼女の足元には木漏れ日が差し込んでおり、鬱蒼とした林の中で明かりのもとに立つ白髪の彼女はなんとも浮いて見えた。

 

「人、人では御座いませんが。ええ、ここにおりますよ」

 

 イフは少し声を張って答える。彼が返事をしたことを認識した女は、光の中から薄暗い木陰へと踏み出した。そのままイフの方へと歩み寄りながら尋ねる。

 

「人ではない?機械だったりするのかい?」

「いや、機械でも人形でも。あたくしは偶然ここにいただけの、下らない化け物で御座います」

「じゃあ、天狗か」

「はあ」

 

 女の言葉に彼は、間の抜けた声を漏らした。

 わけの分からぬ化け物と罵られたことは幾度とあれど、天狗と呼ばれたことなど一度もない。

 

「はて、天狗とは。何故そう考えたので?」

 

 イフが聞いている間にも、女は歩みを進めている。そのまま質問に答えることなく歩き続け、イフの前まで来たところで、ようやく口を開いた。

 

「だって、翼があってそれを持ってる化け物と言われれば天狗ぐらいのもんだろう?」

 

 彼女がそれ、と言って指さした先を見れば、ついさっき取った大きな葉があった。

 なるほど、天狗。言われてみればわからないでもないが。

 

「天狗にしてはあたくし、幾らか余計なものが多い気はしやすが」

「その方がかっこいいのなら、天狗がイメチェンしたっていいだろう」

「いめちぇん」

 

 聞きなれぬ横文字をイフは聞いたまま復唱する。

 呟く彼の横で、女はイフの座る倒木に腰かけると体を寄せて距離を詰めた。そのまま何かを待っているかのように、顔をじっと見つめてくる。

 イフは、そんな彼女の様子に疑問を抱く。

 何故、この女は自分を恐れないのか。

 遠目でもなければ人とは間違われぬ異形の身に、友人にでも話しかけるように接してくる。いつかに出会った学者のように目を爛々と輝かせ、未知の生物に対する好奇心から近づいてきているようにも見えない。

 ならば、この女は何を考えているのだろう。

 少しの思考を挟んで、一つの可能性に気づいた。

 こちらを覗く瞳を見つめ返して、それを問う。

 

「あんた様は死にに来たので?」

 

 すると、その言葉を聞いた女はきょとんとした表情を浮かべた。そして一瞬の空白の後、ふっと笑いを漏らす。

 

「いや、いやいやまさか」

「違いましたか?荷物もなあんにも持っていないもんですから」

 

 彼の言う通り女は衣類の他は何も身に着けておらず、その身一つという有様だった。

 人気のない林でそのような恰好の人間を見て、自殺志願者かと疑うのは自然な話だろう。

 

「ちゃんと持ってるよ、ほら。携帯と水筒と財布とお菓子…あれ、お菓子どこへやったっけ」

 

 そう言いながら彼女は、上着についたポケットから次々に物を取り出していく。

 そして、なかなか見つからなかった菓子袋を内ポケットから見つけるとイフに差し出した。

 

「あった、食べる?」

「いや結構」

「そっか」

 

 断られた彼女はそれに特別反応するでもなく、手に取った菓子袋を外側のポケットへ押し込んだ。

 既に小さな水筒の入っていたそのポケットは菓子袋が追加されたことで作り手の想定していた容量を超えたようで、他のものと比べて大きく膨らんでいる。

 

「死ぬ気なんてさらさらないとも。そりゃあ悩みがないとは言わないが、死ぬほど思い詰めてるわけでもない。あとまあ、生きているのは結構楽しい」

「はあ。あんた様のことをよく知ってるわけじゃありやせんが、きっとそうなんでしょうな」

 

 ほんの少し会話をした程度だが、その言葉はイフに妙な説得力を感じさせた。少なくとも、生を悲観している人間のそれではない。

 しかし、イフの疑問は未だ解消されていない。むしろ、彼女の人間性を知ったことでより大きく膨れ上がっている。

 

「では、あんた様は何故あたくしを恐れないのでしょう」

 

 この女性に対しては、遠回しに探っていくより直接的な質問をぶつけた方が手っ取り早いだろう。そう思っての問いだった。

 

「別に恐くないわけじゃないんだけどねえ」

 

 そう言う彼女の表情はしかし、隣に座る化け物を恐れているようには見えない。イフがそれを口にしようとするが、続く女の言葉がそれを抑えさせた。

 

「悩んでる誰かがいたら、ちょっと付き合ってあげたくもなるだろう?」

 

 それを聞いてイフは硬直する。予想だにしない答えだった。

 自分を恐れず、あまつさえ『悩みを抱えているようだから付き合ってやった』などと言われるとは少しも考えていなかったのだ。

 

「あたくしに、何か悩み事でもあるように見えましたか」

「こんな暗い場所で座り込んでりゃ誰でもそう思うよ」

「なるほど…」

 

 わかるような、わからぬような。いや、理屈としては筋が通っているように思えるのだが、その考えに至る感性が理解できない。

 そのようなイフの困惑をよそに、女は話を続ける。

 

「で、どうなんだい。話せばすっきりするかもしれないよ?」

「いや、もう結構」

「何だいそれ」

「ずうっと良いことがないようでは、化け物も下らぬことの一つや二つ、考えてしまうということで御座います」

「ん、うん?」

 

 振り回された仕返しにと、イフは迂遠な言い回しをして返した。その意地の悪い返答に女は首を傾ける。

 そして、彼の言わんとしている意図に気がつくと、にやりと笑みを浮かべた。

 

「なるほど、私とのちょっとしたお話は、悩みも吹き飛ぶ素敵な時間だったかな?」

「ええ、悪くない時間で御座いました」

 

 そう答えるとイフは腰かけていた倒木から立ち上がり、持っていた葉を地面に放った。

 

「おや、もう行ってしまうのかい?」

「あんまり長々と居座るのも悪いでしょう」

「そっか、じゃあね天狗さん」

「いえ、あたくし天狗では」

 

 イフが同じく立ち上がった女性へと振り返りながら言う。

 それを聞いた彼女はおや、と声を漏らした。

 

「何だ、結局違うのか」

「先程そう言って、は御座いませんでしたね。では、最後に自己紹介でも」

 

 小さな風が吹く。少し木々をざわつかせ、向かい合う二人の衣服を揺らす。

 

「あたくし、化け物の虚音イフと申します」

「アリアルだ。どうぞよろしく」

 

 そう言って伸ばされた手を、イフは一瞬の躊躇の後、握り返す。

 女、アリアルには、目の前の化け物のマスクに隠れた顔が、何となく、苦く笑っているような気がした。

 手がほどかれるとイフは振り返って背を向ける。

 

「さようなら」

 

 向けられた小さな背中に、アリアルが返した。

 

「ああ、また会おう」

 




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精霊と霊媒師が話しただけ

6月26日に行われたwebオンリー「ボイスガーデン」にて展示したものです




 その女性は、薄暗い路地を歩いていた。きょろきょろと辺りを観察し、何かを警戒するようにゆっくりと歩み続ける。妹と離れた場所からそう遠くはないのだ。まだ気は抜けない。

 先ほど道を歩いているとき、突然、じんわりと、何かに呼ばれたような感覚をおぼえた。一般人であればわけもわからず惹かれるように迷い込むのだろうが、経験上、彼女には何者かが自身を招いているのだろうと理解できた。

 だから、気づかれないよう何も言わずに妹たちから離れて、ここに来たのだ。無視をすれば何が起こるか分かったものではないが、かといって妹たちを引き連れて向かうわけにもいかない。

 慎重な足取りのまま角を曲がり、表の大通りから見えない位置に入ったことを確認して、彼女、東北イタコは口を開く。

 

「どなたでしょうか」

 

 声が、路地裏に小さく響く。その反響はわずかな間だけ続いた。音が空間に溶けていき、脇を通る用水路の音だけが残る。一拍置いて「へえ」と、感心したような声が聞こえてきた。

 

「そのへんの理解はあるんだ」

 

 声につられてイタコが顔を上げれば、一人の少女が民家の屋根に座っていた。長い桃色の髪を瓦の上に垂らし、青い瞳はじっとこちらを見つめている。

 イタコも見た目通りの子供だと思っていれば、屋根に上るという少女のやんちゃな行動に、注意の一つもしただろう。しかしイタコには、目の前の少女が少なくとも単なる人間の子供ではないという確信があった。

 

「もちろん。あなただって、私がそういう人間と知った上で呼んだのでしょう?」

 

 おそらく自分は、この者に招かれたのだろう。しかし、その招待が好意的なものか、あるいはその逆のものかどうかは未だわからないままだった。

 

「どうだろうね。今は素質があっても本人に自覚なしってこと多いから」

「なるほど。それで、私を呼んだ理由は」

「ねえ、もうちょっと会話を楽しもうよ」

「こちらが先です」

「段取りってものがあるじゃん?いいけどさあ」

 

 少女の不満げな表情を見上げながら考える。イタコは、少なくとも悪霊の類ではないのだろうとアタリをつけた。彼女が今まで見てきたものはその苦しみに喘ぎ、己を暴走させていることがほとんどだった。こうまでまともな会話のできる相手ではないはずだ。

 しかし、だからといって油断はできない。もし妹たちの方で何かあっても、ある程度の手合いならば逃げて来られるだけの術は教えてある。彼女自身も、すぐにここから逃げ出せるだけの準備は済ませてあった。

 彼女は警戒の色の滲む目を向ける。対面の少女は、イタコの中の何かを覗き込むようにその目線と向き合っている。

 

「君は何をしにここに来たのかな?」

「え?はあ」

 

 少女の言葉に、イタコは困惑の声を漏らした。何か、もう少し明確な目的があるものだと思っていたが、予想外にも飛んできたのは自分への質問であった。

 それはこちらが聞きたいことなのだけれど、と内心首を傾げながら答える。

 

「観光と、ついでに少し早めの妹の合格祈願に…」

「それだけ?本当に?」

「ええ。その前に別の場所で仕事がありましたので、主目的はそちらですが」

「太宰府天満宮に来た理由は、あくまで観光ってこと?」

「はい。言った通りですわ」

「そっかあ。はー」

 

 大きく息を吐いた少女はそのまま背中から倒れ、屋根の上で仰向けに寝転がる。彼女の身体は小さく、下から見上げるイタコには、その足と青みがかった髪先が見える程度だ。

 

「変に気張って損した…」

「疑わないのですか?」

「嘘ついたらわかるよ」

「それはまた…」

 

 恐ろしいですわね、とは続けなかった。結果として正直に話してよかったのだから、それ以上は余計だろう。

 この手の存在からの質問というものは、素直に答えるか嘘をつくか、どちらかが安定した正解というものではない。正直者が見逃されることもあれば、うまく嘘をつくことでその難を逃れられる場合もある。幾らか感覚を頼りにした部分もあったが、ほとんど反射的に素直に答えてしまった。その判断が間違っていなかったことに、イタコは胸を撫で下ろす。

 しかし、彼女の疑問は晴れないままだ。

 

「なぜあんな質問を?」

「そりゃ、君みたいなのが入ろうとしてたんだから」

 

 だらりと垂れ下がった足と髪先だけを覗かせたまま、屋根の上の少女が返す。

 

「『みたいなの』って…。私ただのイタコ、あー、霊媒師ですわよ?」

 

 イタコの言葉に、「フッ」という少女の鼻笑いが答えた。足が小さく、ぶらぶらと揺れる。

 

「ただの霊媒師?『それ』抱えながらよく言うね」

「…ああ、なるほど」

 

 ようやく合点がいった。少女の言うところの『それ』とはおそらく、イタコが身体の内に隠している狐のことだろう。一応耳と尻尾を引っ込めてはいたのだが、見抜かれていたようだ。これでは確かに、聖域に入り込む化生とその相方の人間として見られ、警戒されても仕方がない。

 

「今度からは気をつけるとしましょう」

「そうしなよ。おかげで私もこの後ミコトにどやされちゃうわけだし」

 

 そこで出た名前らしき単語に何かを察したイタコは、少し考えてから尋ねた。

 

「それは、あなたの片割れのことでしょうか?」

 

 イタコの問いに、少女はがばりと跳ね起きる。大きく見開かれた目は、その驚きをよく表していた。

 

「知ってるの?」

「いいえ。ただどことなく変と言いますか。今のあなたには何かがごっそりと、ちょうど半分ほど足りない気がしていたものですから、もしかしたらと」

「霊媒師って別に精霊について詳しいわけでもないだろうに、すごいんだね。君に変と言われるのは腑に落ちないけど」

 

 少女の言葉にイタコは苦笑する。彼女からすれば、この有様で、あろうことか霊媒師を名乗る自分の方が、よほど歪な存在だろう。

 しかし、この少女は精霊だったのか。頭の片隅に書き留める。

 

「イタコって名前しか知らないけど、そんな状態で霊って降りるものなの?」

 

 次に少女から飛んできたのはそんな質問だった。

 見てみれば、彼女の目からは先ほどのような警戒の色は消えていた。ならばこれはきっと、今までの相手を探るような問答ではなく、大した意図のない雑談なのだろう。

 

「時代が時代ならあちらから降りてくださることは少ないのでしょうが、環境が違えば霊もそのあたり、なかなか寛容になるものみたいですわよ?」

「人が変われば霊も変わるか」

「そんなところです」

 

 やはり少女の視線と声色からはとげとげしさが消えているように、イタコは感じた。

 だがそれは親しみに変化したわけではなく、目の前のおかしな存在を確かめるような怪訝なものであったが。

 

「まあその獣臭いの以前に、見た感じ霊媒師にしては随分俗っぽいけど。少し昔の霊とか降ろすってなったらまずいでしょ」

「そのような機会自体が稀ですし、それこそ時代によって霊も変わるのですよ。例えば私が恋人を作り、結婚し、子を成しても、最近の霊の半分は問題ないかと」

 

 それを聞いた少女は、何かおぞましい話を聞いたといったふうに顔を引きつらせた。

 

「今の人間を見れば全く考えられなくもないけど、ちょっと前の世代でも、うん、想像できないなあ…」

 

 彼女の言う世代がどの程度の『ちょっと前』なのかはわからないが、この精霊は人から見れば結構なお年のようだ。

 

「まあ霊側の事情を抜きにしましても、私これでもイタコとしては結構な実力ですのよ?多少の不利はどうにでもなりますし、もしそれでも難しいようならまあそこは、狐の力を借りてちょっと強引に」

「やっぱり、君の方がよっぽど変だね」

「違いありませんわ」

 

 己がイタコとしては異端中の異端で、見る者が見れば卒倒するような状態である自覚は、彼女にもある。開き直って羽目を外すつもりもないが、少なくとも他人から指摘され、それを否定できる立場にはいないだろう。

 イタコはふと、少し喋りすぎただろうかと会話を振り返る。油断して余計なことを話しすぎた気もする。彼女には今まで、自分と同じ『側』の存在とまともに話す機会が、知人相手を除いてほとんどなかった。普段は周りから隠している部分であり、仮に露わにしたところで一般人に通じる話ではない。そのような話題が通じる相手に出先で巡り合えた高揚感は、彼女が今まで感じたことのないものだったのだ。イタコは少し考えるが、どうせ喋ってしまったものは仕方ないと思考を切り上げる。

 

「そんな変なのが入ろうとしてるのにさあ、ミコトはさあ」

 

 少女は言いながら横に倒れる。今度は身体の一部しか見えないということもなく、疲れたような表情が見て取れた。

 

「『きっと大丈夫』とか『いい人そう』とか、信じすぎじゃない?そりゃ結果的には問題なかったわけだけどさあ」

 

 その顔と声色から、おそらく少女は愚痴を吐いているのであろうことはイタコにも分かった。

 

「片割れなのに、あまり息が合わないんですね」

「私とミコトはそういうもんなの。私が御傍にいてミコトが人との間を繋ぐ。まあ精霊って言っても色々いるから、そこらへんは経験だよ新人さん」

「そうですわね。一つ勉強になりました」

 

 イタコがぎごちない様子で頷いた。自分がまだ至らぬ身であることは理解しているが、目の前の少女に新人扱いされると何とも言えないむずかゆさを覚える。

 ふと、少女が声を漏らした。

 

「あ、こっち来る」

「来る?」

「ミコトのことだよ。あーあ、とりあえず今日はこのへんにしとこっか」

 

 答えながら彼女は上体を起こし、腕を上げて大きく伸びをする。

 

「別に話し相手が増えたところで、私は構いませんけど」

「わかってないねえ、こういうのはここで止めとくべきなんだよ。二人で始まったんだから」

「はい…?まあそういうことでしたら、一応私の方から名前だけでも」

「いいってば。少なくとも今回は、私は『精霊』で君は『霊媒師』なの。その続きはまた今度さ」

「はあ…」

「ミコトも無粋なんだから。まあ十分話したし、これ以上は蛇足か」

 

 困惑するイタコを傍目に少女はそう呟き勝手に納得すると、腰を上げて立ち上がった。

 イタコはそのとき初めて、少女の立った状態での身長を確認した。第一印象と比べてみれば、彼女が想像していたよりは幾らか年上に見える。最も、見上げているためはっきりとは分からないのだが。

 屋根の上の少女が見下ろしながら言う。

 

「じゃあね、また会えたらいいな」

「ええ。こちらに来る機会はあまりないので、先の話になるかもしれませんが」

「だーからさ、そういうのはいいんだって」

 

 呆れたような仕草をとる少女に、イタコが不満げな表情を浮かべる。

 

「…あなたの語る粋というものは、その、いまいち、捉えきれていませんわ」

「いつかわかればいいねえ」

「ええはい、そうですわね…」

 

 霊媒師はため息とともに返す。その様子がどうにも面白く映ったようで、精霊はクスクスと笑った。



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あの人

 もしもし、私です。すみません。どうか今、話を聞いてくれませんか。私一人では抱えていられなくて、何処か、私の外に放たないと気がおかしくなってしまいそうです。お願いします。私は間違えたのでしょうか。もう、何が正しいのかわからないのです。ああ、すみません。聞こえていますか?はい、よかった。公衆電話なんて初めて使ったものですから、ちゃんとつながっているのか、不安になって。すみません。でも、スマホも手元になくて、頼れる人もいなくて。電話番号を覚えている相手なんて、貴女しかいなかったんです。先輩なのに、すっぽかしたのに、勝手な理由で損な役割を押し付けています、ごめんなさい、ごめんなさいね。もうご飯食べちゃいましたよね。何の連絡もしないで、勝手でごめんなさい。

 もう、どうすればいいのか分かりません。あんなに好きだと言ってくれていたのに、全部嘘だったんでしょうか。助けてください。いや、やっぱりこんなことは、誰にも話してはいけないのかもしれません。誰にも話さず私一人だけ、おかしくなってしまえばいい。ああ、でも、もう辛くて、耐えられないんです。どうしてこうなったのでしょう。あれからずっと、何かにつながれている。鎖みたいに重たくて、じゃらじゃらうるさくて、冷たい。でも、そんな、鎖につながれた私というものを、確かに存在させてくれているような、そんな気がします。これがあるから、私は生きられる。もし解き放たれてしまったら、どうすればいいのか分からない。とても不安で、恐ろしくなる。鎖の重みも、音も感じられなくなったとき、私は本当にそこにいるのでしょうか。ああ、だから私は、何があっても外れてしまわないよう、大事に大事に鎖を抱え込んでいるのだ。そうだった。でも、ちょっと重くなりすぎたので、これから少しの間だけ、貴女に支えてもらいたい。きっとそうです。100円入れたので520秒、それだけ、時間をください。お願いできますか?はい、ありがとうございます。ねえ、聞いてください。知っているでしょうけど、マキさんは眩しくて、とても強い人です。あの人を知ったときの私は、家族も友人も頼りにできなくて、なんとか一人で立とうと必死になっていた頃です。弱っちいなりに必死に生きようと、明るく孤高に振舞っていました。きっと彼女は、そんな私を気に入ってくれたのでしょう。だけどもう、そのうちすぐに、私はマキさんという拠り所を得てしまっていた。私は早々に、もう一人で立たなくていいのだと、力を抜いて、彼女にこの身を預けきってしまいました。きっとマキさんは、今でも、かつての無頼の私を求めているに違いない。でも、もう、そんな私はいない。そんな精神性は残っていない。けれど彼女は、私にかつての残像を見出そうとします。私にそれを思い出させようと、責めて、突き放す。そんなことをされると、私は恐くなってしまって、また彼女に縋りついて。そんなことを、何度も、何度も、繰り返した。もう、だめだ。いやだ。いつまでこんなこと続けなきゃいけないんだ。私を遠ざけないでほしいだけなんです。あの頃の私はもう戻ってこないけれど、どうか酷いことを言わずに。強い言葉を使わずに。あの人がいなくなってしまうことより、恐ろしいことはない。それが何よりもいやなのに。まだ、あなたのことを好きでいたい。ずっと愛していてほしくて、だから、私のことを愛してほしいんです。あなたには他があるのかもしれないけれど、私にはあなたしかいないんです。どこにも行かずに、ここで、どうか。ああ、ごめんなさい、貴女にこんなことを言っても、仕方ないのに。恐いですよね、ごめんなさい。でも、もう少しだけ、お願いです。 そう、そうだ。初めて見たマキさんは、ステージの上でした。貴女には何度も話しましたね。すごかった。ステージが、金髪を垂らしてギターを構えるあの人を、当然のことのように引き立てている、そんな風に見えた。舞台を従えるように、マキさんは立っていました。あの緑の目で睨みつけられたとき、心臓が高鳴って、身体中が熱くなって。いや、きっと、観客全体を見ていただけなのだろうけど、もうどうしようもなく、この人しかいないと思ってしまった。そう、私にはこの人しかいない。綺麗だったんです。彼女に、ちょっとでも近づかなければならない。そう考えていた時に、貴女がマキさんと同じ文化祭の実行委員だと知ったものだから、居ても立っても居られなくて、貴女に詰め寄って紹介してもらって、半ば強引に、友人にしてもらった。あの人は近くで見ても、眩しい人でした。家にいても道を歩いていても、ステージの上ほどではないにせよ、やっぱり彼女は周りを従えて立っている。そういう、強い人なのです。私は余計彼女に憧れて、どうしようもなく惹きつけられて。気が付けば、少しでも近く、彼女の近くの、できれば、すぐ隣がほしいと思っていました。あの人に、好かれなければならない。大事に思われたい。昔から私は、他人が自分に何を求めているのか、なんとなく察することができます。ずっと、そうやって周りの顔色を窺って、嫌われないよう生きてきました。だから、私の孤高の姿、実際のところ、裏側では張り詰めた筋肉でぷるぷる震えていたわけですが、ともかく、表面の独り立ちした私を見るとき、彼女の目が透き通った緑のまま、少し変わっているのが分かりました。だから彼女の前では、そういう面ばかり掬い取って見せつけました。いつもやっているように、求められた自分だけを、うまく彼女に提供したつもりです。そうしているうちに、彼女との距離を縮めることができたものですから、私は調子づいて、ますますそれを繰り返しました。ばかなことをしました。私はばかだ。彼女にあんな思いをさせてしまうのなら、こんなこと、しなければ良かったのに。私は、彼女との交際が始まってしまうと、急に力が抜けてしまって、それまでやってきたような取り繕いをやめてしまいました。ずっと、張り切り過ぎていたからでしょうか。でも、だって、彼女は、弦巻マキはもう、私のものになったのだから、何も気負わなくて良いと思ったのです。ステージや周りの人間を引っ張って行くように、私のことも引っ張って行ってくれるはずでした。この人についていけば、間違いない。彼女は強い。私は全て力を抜いて、彼女に思い切り甘え倒して。彼女の腕の中にいるときは、とても安心できた。ああ、そう、きっとこの頃が、一番幸せだった。今は、こんなにも息苦しい。彼女は甘える私を、恋人の前でだけ見せる、わずかな隙の部分だと思っていたのでしょう。そちらこそが私のほとんどだと彼女が気づくまでは、少し時間がかかりました。そう、時間をかけて、だんだんと、彼女の目が冷たくなっていきました。あれからずっと、お前はそんな人間じゃないだろう、とでも言いたげな目で。きっと彼女は、好きになった女が、もうここにはいないのだと知ってしまった。そういう目をしていた。でも、そうではないのです。違う。あの頃が特別だっただけ。誰も頼れなかったから、彼女に好かれようとしていたから、あのときの私は必死だった。でも、今はあなたがいる。もう頑張らなくていいんだと、一度でも思ってしまったら、どうにも力が入らなくて。だから、もう、あの頃の私は戻ってこないんだって。そう何度謝っても、許してはくれません。まるで私の中に、かつての孤高性みたいなものが眠っているとでも思っている。だから、それを呼び起こそうと、何度も。いやだ。違う、私は、こうなのだ。今はあなたがいるから、楽でいられるのだ。だから、ないものを掘り起こそうとしたって、何も見つかりはしないのに。それなのにマキさんは、目を覚ませと、お構いなしに突き飛ばすから、私はずっと不安になってしまうのです。そういう、酷いことをするのです。けれど、知っています。彼女も、もう私から離れられやしない。私が彼女無しでは生きられないのと同じで、彼女だって、私なしでは、生きられないのだ。何度突き飛ばしたって、私たちは一緒のままだ。また、二人でいられる。あなただって、私に愛想を尽かして、別れようとはしないじゃないか。ほら、やっぱりだ。きっと、ずっとこのまま。それでいいのかもしれない。そうやって生きて、二人で死んでいきたい。ああ、でも、あの人だって酷いのです。突き飛ばすときの彼女は、本当に酷い。あなたなんていらないだの、そんなだから素人なんだだの、もう嫌いだの、適当なこと、平気な顔で言いやがる。いや、きっと彼女も平気ではない。私がそんなことを、彼女に言わせてしまっているのだ。私の方が酷い。いや、それでも、とにかく彼女は、その一言で私がどれだけ傷ついているのかも知らないで、何度も恐ろしい言葉をぶつけてきます。そんなことが、ずっと続いた。そのうちに、私からもだんだんと、彼女への熱が失われてしまった。だって、あんなに痛めつけられたら、弱ってしまったって仕方ないじゃないですか。もういやだ。こんなつもりじゃなかった。あの日、ステージの上のマキさんに見た輝きが、目の前にいる彼女からは、すっかり失われた。そう、感じられてしまいました。もう、だめだ。お互いに、好きではなくなっているのかもしれない。空っぽになった、大きな、大きな愛の抜け殻だけが残っている。たくさんあったはずなのに、今ではもうそれだけが、私たちに残されたつながりなのです。それだけ。それが、命よりも大事になった。でも、そう、大事だ。やっぱり私は、マキさんを大切に思えます。彼女は、確かに強い。強いのですが、ところどころ抜けているというか、幼さのような、危なっかしさがあって、私は、彼女のそういう部分を補ってあげるのが好きで。彼女の隣で、ずっとそうしてあげたかった。そうしてあげたいのです。そう、私はやっぱり彼女が好きで、だから、彼女にそれを伝えてあげようと思いました。そうしたら、彼女も私に、冷たく当たらなくなるのかもしれない。きっとずいぶん、愛を伝え損ねてしまっていたのだと思って。私は昨日、彼女の部屋に泊まりました。ずっと彼女と一緒にいて、抱きしめて、愛を伝えました。あなたの傍にいたいのだと、今まで伝え損ねた分の愛を、飽きるほど。夜には、マキさんの好物のラザニアを作ってあげました。二人で好きな映画も見ました。そのうち、彼女も機嫌を良くしてくれました。ああ、これだ。これだった。これが足りていなかったのだ。きっと彼女も、だんだん愛が失われていって、不安だったに違いない。もっと早く、こうしてあげればよかったのに。昨夜は、とても幸せでした。付き合いたての頃とは何だか違っていましたが、確かに幸せだったのです。彼女は今朝、用事で出ていきました。私は部屋の、彼女が見落としていそうな場所の掃除とか、溜まった食器洗いとかをしながら、帰りを待っていました。前に一度、冷蔵庫の整理なんかをやったのですが、勝手なことをするなと、何故かカンカンに怒られてしまいました。彼女は家事なんてほとんどできなくて、部屋はいつもボロボロなのに、掃除以外のことをすると、強い言葉を使って怒り出すのです。だから怒られて以来、手をつけていませんでした。きっと、また深く傷つけられてしまうから。私が彼女にしてあげられることは、限られているのだと思っていた。でも、今日はなんだか、全部やってあげようという気になりました。私は、あなたのためなら何だってしてあげられる。それを彼女に示したいと思った。でも、いざ手を出そうとすると、色々な不安が頭をよぎってしまって。ようやく返ってきた幸せに少しでも減ってほしくなくて、結局やれませんでした。もしできていれば、少しは違ったのでしょうか。何故できなかったのでしょう。私は、彼女を怒らせたくなかったのでしょうか。いや、彼女に怒られたくなかった?あれ、どっちだろう。いや、たぶん両方。両方です。とにかく、私は臆病で、それ以上何もしてあげられませんでした。いや、でも、それでも私は嬉しかった。また、彼女を大好きでいられると思った。愛というものが、また二人の間に戻って来たような気がしました。彼女は、夕方頃に帰ってきました。どこかに食べに行こうと言いました。ええ、はい、そうですね。今日は、貴女と夕食を食べる約束をしていました。だから私は、それを理由に断ったのです。今日はあかりちゃんと食べに行く約束があるから、申し訳ないけれどまた今度、って。貴女とマキさんは面識もあって、私と貴女が長い付き合いであることくらい彼女も知っているから、まさか、浮気を疑われるようなことはないだろうと思ったのです。しかし、彼女は呆然と私を見つめて、がっくりとソファに座り込んでしまいました。そしてそのまま、蹲ってしまった。私は驚いて、本当に驚いて、彼女に言葉をかけました。そんなに大したことじゃない、今日はただ、友人とご飯を食べに行く約束があっただけ。あなたのことが、世界で一番大事なのだと、ついさっきまで噛みしめていた愛というものを、また彼女に伝え続けました。けれど、彼女は、ただ首を横に振って、もういい、としか言いませんでした。「もういい」、その言葉がいままでどれだけ私の心を抉ってきたか。私は何もできず、蹲る彼女に立ち尽くしてしまいました。力も入らなくて、意識が朦朧としていた。とりあえず、財布だけ拾って、出てきました。そのまま行くあてもなしに、何時間も歩いた。もう、何も分からない。どうすればいいのか、分かりません。あの人は、何なのでしょう。私だって、マキさんが他の人と遊んだり、楽しそうにしていたって、ずっと我慢してきたのに。私が少し友人と会うだけで、これですか。ふざけている。私の気持ちなんて知ろうともしないくせに、自分だけああやって。はい、はい?いえ、貴女が謝ることではありませんよ。違う、違います。ああ、いや、すみません。貴女は優しいですね。ありがとうございます。お気持ちだけ。いいえ、泣いていませんよ。色んなショックが、ようやく落ち着いてきたけれど、声はどうしても震えてしまうのです。そう、今、泣いていないんですよ。ずっと、涙が一滴だって流れてくれない。何故でしょう。こんなにも辛くて、泣きたくて、仕方ないのに。ああ、でも、今入ってるこの電話ボックス、ガラスがずいぶん傷だらけで、汚くて。それに囲まれて、ぼやけた街灯を見ているだけで、私は今、泣けているような気がしています。ああ、もうそろそろ時間ですね。はい、いい加減マキさんも心配しているかもしれませんから、帰りにコンビニに寄って、シュークリームでも買って、帰ろうと思います。話を聞いてくれてありがとうございます。少し楽になりました。また今度、謝罪とお礼を兼ねて、何か奢らせてください。はい、ありがとうございます、おやすみなさい。



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