其方の涙を拭うため、その先で手を伸ばした (ベーグルの真ん中)
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第1話 生まれ落ちる

 ――嗚呼、この世界にたった今、生まれ落ちたのだ。

 

 彼ひとりだけが、その広場で笑っていた。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 生まれる時代を間違えた、とは両親からも、同門からも、世間からだって言われて慣れる。

 彼もその言葉には全くもってその通りと頷いた。カラカラと大笑しながら、まさしく! と明るく言った。

 

 彼は剣道に精通していた。

 幼少の頃より、お家の道場を継ぐため剣道一筋。両親祖父母に親戚諸々、そこに否はなく、幼き彼もまた、心底その道に打ち込んだ。

 

 干支を半周。その時はまだ、竹刀を振るう筋力が足りず、たどたどしい剣筋に微笑ましさが勝る。

 干支を一周。筋力も身につき、体付きも小学生見合わぬ身長に、しかして線は細く。優男然とした風貌なれども、この時の剣筋は見事の一言。同年代はおろか、段位3段に勝る才覚を魅せた。誰もが感嘆に息をついた。

 翌年。初めての段位取得に難なく合格。初段となり、修行に励む。

 また翌年。段位5段と打ち合い惜しくも敗北。その年の2段昇格に難なく歩を進める。

 

 そして16になる3段昇格試験の時、スランプに陥り不合格となる。

 翌年、またも不合格。また、試合にも黒星が増え、伸び悩む。両親はその太刀筋の僅かな綻び、迷いに気づき、気分転換か、はたまた本人の資質を見抜いてか、居合道を勧める。

 翌年、居合道の鬼才と称される。まるで雷の如き閃きに迷いはなく、振り抜いた様はとても18の青年には見えず。一級取得時の審査員の一人は「悪鬼宿る、求道の修羅を見た」と後に語る。

 

 居合道の修行の時。彼の一閃後の様があまりに美しく、雑誌の一面を飾る。

 その一面、その貌は海の先に居る想い人を見つめるかの如き物寂しさを思わせながら、瞳は烈火の如く力強い。もともとの容貌相まって、一時期は比類なき美男ともてはやされた。

 

 翌年、居合道にて初段を取得。そして剣道において3段に昇段。調子を取り戻し、同じ段位に敵なしと言われ、3段上にも白星をあげ始める。本来なら有り得ぬ大金星の数々に、彼の周囲では喧騒が絶えない。

 

 翌年、居合道2段に昇段。また、成人となりその祝いにと剣道8段の至りし達人と試合も、瞬きのうちに小手を受け敗北。刹那の攻防に触れ、敗北を糧に修練に励む。

 

 これより段位昇段は干支を半分跨ぐ。

 その間、世間も家族も蜂の巣を突いたような大騒ぎ。ただ「修行のため家をあける」とだけ書き置きを残し、忽然と姿をくらませた。警察が捜索、顔写真の公表によって全国にて捜索するも、己から戻ってくるまで、ついに一度も影さえ踏ませない。

 

 年月によりその風貌は見違える。無造作に後頭部で縛っただけの長髪に、たくわえられた無精髭。青年の面影はなく、凪の顔は悟りを開いたかの如く、ただそこにある。6年ぶりに帰省した彼のことを、両親は三度見ることでようやく、己の息子だと気づくほどの変わりようであった。

 そうして帰省の翌月に、剣道4段に昇段。また、すぐ後に居合道3段に昇段。後の審査員の一言において、剣道では「至った」と短く。居合道では「まさしく」とだけ述べられた。

 

 3年後、

 その区間、6年の修行の成果を示すように、試合と修行の日々。両親の道場で師範を手伝う。ゆくゆくは師範になる者として、育てられてきた。

 その中で、目を見張るのはやはり剣筋であった。一時期覚えた迷いは見る影もなく、流麗なる一筋はまさしく閃き。弧線を描く清流の如く、物静かな様には誰もが魅せられた。

 

 試合になれば鎧袖一触。竹刀かち合うことなく、乾いた音が響き渡る。敗けた、と相手が悟るのは音を聞くよりも後。自身の身体に衝撃を覚え、もう一度、音の残響を拾ってからであった。

 

 この頃になれば、もはや剣道7段さえ圧倒するようになり、奥義おさめた8段をもってしても、勝率は半々に割れるほど。この時、剣道8段は「時代が時代なら、流派が一つ増えていた」と、竹を割るような大笑と共に口にしたとか。

 

 そんな彼は、帰省してからというものの、よく物思いに耽るようになった。縁側で、よく何もない塀を眺めたり、空を見つめたり、庭の松の木を見たりと。心ここに在らずというものか。はたまた郷愁に耽るかのように。目を離せば今にも消えてしまいそうな様には、両親は大層肝を冷やしたらしい。

 また行方知れずになったら堪らない。両親は真摯に悩みを聞いて、その内容にはとかく頭を痛めたという。そして、父から出た言葉が。

 

「お前は生まれる時代を間違えたな」

 

 と、親にしてはあんまりな。しかし、そんな我が子にだからこそ正直に、ただ本心を口にする。

 それに返ってきたのが。

 

「まさしく!」

 

 と、晴天の如き笑顔と共に、気持ちの良い大笑であった。

 

 

 

 その悩みを打ち明けて、彼の親が本心からその言葉を口にしたからこそ、父親はその親心から、ネットサーフィンに励むようになった。何やらVRがどうちゃら、と独り言が増えたかと思えば、ある日突然、早朝から居なくなる。なるほど、行方をくらませるのは父親譲りだったらしい。

 違うところといえば、その日の正午には戻ってきたことか。父親は「いいものがある」といって、機械仕掛けのヘッドセットに、『ソードアート・オンライン』というパッケージを渡した。

 

 そう言った世情にてんで疎かった彼は訝しげに首を傾げるのは必然であった。それを微笑ましそうに見ながら、ハリボテ知識を披露する父親の姿は、まさしく一家の団欒と呼ぶには相応しいものだったと、後に母親が語る。

 

 父親が説明を終えれば、彼は童心に戻るかのように大いにはしゃいで礼を言えば、早速とばかりにヘッドセットことナーヴギアを装着した。起動の方法がわからず、父親からレクチャーを受けながら、時に父親もまた調べながら、準備は整う。

 

「じゃあ、いざいざ!」

 

 今風なのか古風なのかわからない、興奮冷めやらぬ声を上げながら。

 

「リンクスタート!」

 

 こうして、彼の冒険は幕を開けるのである。

 フィクションが、命の重みを伴って現実となることをまだ知らず、その世界に潜り込むのであった。

 

 

 

 

 

 

 世界に飛び込んだ。

 真っ白な空から落ちていき、暗いトンネルをくぐった先に開けたのは、ヨーロッパであった。

 外周はぐるっと大きく塀で囲まれ、石畳によって舗装された地面の上。石・レンガ造りの建物が連なる街並み。雑踏の如き人々の集まりは流れることなく、まるでひとつのオブジェのように佇んで、喧騒を彩った。

 

 彼が何の気なしに空を見上げれば、あっぱれな晴天が出迎えた。

 まるで祝福を受けたかのような心地に浮足立つ。田舎から上京した若者のように、三十路手前の彼が童心露わに世界を見渡す。目を見開いて、瞳を輝かせて、挙動不審にキョロキョロと。

 

「もしや、冒険者の御方ではありませんか。ようこそ、『はじまりの街』へ」

 

 そんな彼のもとに、妙齢の女性が声を掛ける。頭の上に黄色いクリスタル型のアイコンを持つ、俗にいう「NPC」であるのだが、ゲーム初心者の彼がそれを知る筈もなく、「これはこれは」と綺麗にお辞儀を返して口を開く。

 

「お恥ずかしいところをお見せいたしました。今、こちらに来たばかりなもので、勝手も分からず、しかしこの世界の美しさには見惚れるところばかりで、立ち往生していた次第。……して、何用かお聞きいたしましょう」

「私は冒険者の方々の案内を担当しております。どこか行きたいところがありましたら、お申し付けください」

「これは、これは。何とも至れり尽くせり。しかし、行きたいところ。……ふと思いつく限りは候補は三つ」

 

 一つ、と彼は人差し指を立ててそのまま続ける。

 

「景色の良いところ。やはり、この世界隈なく見て回りたいという欲求に駆られて仕方なく。しかし、街中にはどうにも、高台のようなところはないように見受けられる」

「『はじまりの街』の中には、この第1層を見渡せる場所はございません」

「第1層……? あぁ、いや、承知。100層の天空城からなる一層目、ということでありましたか。しかし、残念。となれば、その場所を探すために足を稼ぐ必要がありますが、やはり旅には先立つものがなければ、すぐに野垂れ死にましょう。して、お恥ずかしながら、日銭を稼ぐにはどうすれば?」

「街の外に出てモンスターを倒すと入手することが出来ます。また、モンスターからのドロップアイテムを店で売買、その他、クエストの報酬として受け取ることが可能です」

「つまり、モンスターを狩ることが日銭稼ぎと。なれば、最後の一つと目的も一致する。戦える場所……街を出るには、どちらに向かえば?」

「こちらのメインストリートを真っ直ぐ行った門の先から、圏外となり、モンスターとの戦闘を行うことが出来ます」

「承知。わざわざ時間を割いていただき感謝を。大変失礼ながら、もう衝動を抑えきれぬ故に、これにて」

 

 礼に始まり、礼に終わる。

 相手が呼び止めるような視線、仕草をしないことから、彼は迷いなくさらに広い世界を求めて踏み出した。

 

 

 

 

 

「ふむ」

 

 剣を一振り。するり、と風が靡くような一閃が、すれ違うイノシシの胴体に真っ赤な一文字を刻み付ける。飛び散った青白いポリゴン片は流血の表現か。「フレンジーボア」という名前のすぐ横にあるHPゲージは、残り2割となり真っ赤になっている。

 

「所詮はゲームと、少々侮っていたらしい」

 

 しみじみと、彼はそう呟くと。

 再び突進してきた「フレンジーボア」から軸を逸らし、一閃。流麗なる弧線が首を刈り取り、宙に飛ぶ。HPバーは瞬く間に全損し、その胴体も、宙に飛んだ頭もパリンと音を立てて砕け散る。

 

「急所は確かにある。しかし、一太刀で飛ばせぬのは、この仮想の肉体が脆弱故か。胴体への一撃は普通。牙への攻撃はほぼ無傷。……武器の劣化具合も気になるが」

 

 はて、どう確認したものかと首を傾げる。しみじみと観察してみるものの、新品の時と特に変わった様子はないように見受けられる。粗末に扱ったつもりは毛頭ないものの、それが扱いの巧さによる効果なのか、はたまた「耐久度の減少が見た目に反映されない」せいなのか。彼はそこに答えを出すことが出来ないでいた。

 

「……手入れは己で出来るのか? それとも鍛冶師でも……いや、そもそも店を知らぬが」

 

 参った、と彼は後頭部を押さえて息を吐く。どうにも困った時に出る癖だった。

 周囲を少し見てみるが、動きがたどたどしい者が多い。武道、武術の未経験者が多いのだろう。そしてそれ以上に、「慣れている」ようには見えなかった。

 

 一息おけば、見切りをつけて場所を変える。道すがら、干し草のように香しくも、瑞々しい緑の匂いが鼻につく。からっと晴れた日、日当たりのよい山林の一角に居るような心地であった。

 虚空より生まれる「フレンジーボア」は、こちらから攻撃をしなければ大人しい、家畜のようなモンスターだった。武器に不安のある彼は、モンスターを無視して人を見る。

 

 

 

「……ほう」

 

 そのアバターは一際目につく体躯であった。

 大柄な肉体であった。そのくせ、猫背に蟹股という姿勢の悪さが目についた。白い仮面を装着しているが、一体その下にはどんな凶悪な面構えを持っているというのか。伸びっぱなしの髪をかき上げただけの様は、放浪者のようなだらしなさを思わせる。

 そんな見た目のくせして、力みが無いのだ。いや、猫背に蟹股のどこに力む必要があるのかと言われればその通りだが。少なくとも話にならない素人とは少し違うだろう、そう思わせるくらいには、その姿が板についている。

 

 何よりも目を惹くのは、その武器だ。

 鉈というにはあまりに刃が大きく、大太刀というにはあまりに刃が湾曲している。角なく弧線を描くその武器は「大鎌」である。

 

 大鎌という武器は、剣や刀よりも数十倍扱いの難しい武器である。その要因は担い手の少なさに起因した流派の少なさ。剣術より分派した流派はあるものの、鎌術を本流とするような流派は、少なくとも彼の知るところ存在しないのだ。よって、「正しい扱い」や「型」といったものが、「剣」に比べて非常に未熟なところがある。

 また、創作媒体によって「大鎌」という武器ジャンルが認知されているところはあるだろうが。そもそも一般的に「鎌」とは農業、園芸のために使用するためのものである。武器として現実的に用いるのはよくて「鎖鎌」といったところ。「大鎌」を現実的に扱う人間が、この世の何処に居るというのか。

 

 したがって、武道・武術の者、というわけではあるまい。足運びに安定感はあるものの、熟達した技量からくるものではないのだから。いや、そもそも猫背蟹股が構えなど、そんな流派は聞き及んだためしがない。

 

「よし」

 

 ならば、どうして彼はひとつ頷いて、その者に近づくのか。

 それは扱いづらいその武器で、さも当たり前のように「フレンジーボア」を刻み、全く動じることなく作業の如く処理してみせているからであった。

 

 また、その男のすぐ近くには、栗色の長髪の少女が立っている。大鎌の男の姿を見て、その言葉を聞いて、何やら学んでいる様子だ。

 そして、その少女の得物は「剣」である。それも「細剣」と分類される、刺突に優れた刀身の細い武器である。

 即ち、大鎌の男は「教えを授ける立場」なのである。武に精通しているわけでもなく、同じ武器を扱うわけでもないのに「教えを授ける」とは、考え得る限り二つしかない。

 

 そして今まで見せた迷いのない作業の如き動きは、彼に確信を持たせるには十分すぎた。

 

「失礼。少々お時間をいただきたく」

「はて、何か」

「……ミトの知り合い?」

「いや、初対面だね」

 

 栗毛の少女は、その大鎌の男のことをミトと呼んだ。

 大鎌の男、ミトの声は、重低音かと思えば思いの外高く、その風貌と相まって胡散臭さというものがにじみ出ていた。

 

(柳のような御方だ)

 

 物腰柔らかである。不快感を滲ませず、純粋に話しかけられた理由に首を傾げているだけ。楽しみを邪魔された、といった含みはない。

 ならば、と彼は切り込む角度を決めて口火を切る。

 

「拙子、この世界に潜りまだ一時間に満たぬ若輩の身の上。右も左もわからぬ赤子同然ともなれば、教授いただける師を探していたところ、見事な大鎌捌きを拝見いたしまして、これは、とあたりをつけた所存。つきまして、先人の知恵を指導賜りたく、話しかけた次第」

「随分、回りくどいロールプレイだね。要するに、ビギナーだから経験者から教えてほしいことがある、ってことで?」

「然り」

「なるほどね。アスナ、一人追加してもいい?」

「あ、うん。悪い人じゃなさそうだし」

「いや、こんなガチガチのロールプレイしている相手に、そんなのわからないけどね」

 

(はて、ロールプレイとは)

 

 と、頭の中で疑問符が浮かぶも、今聞きたいこととは関係ないだろう。聞き流している内に「さて」と大柄の男ミトが彼の方に向き直る。

 

「じゃあ、教えてほしいことは? スキルの取り方? ソードスキルのやり方? それともここのモンスターの弱点とか?」

「……スキル? ソードスキル? ……お恥ずかしながら、聞き及ばぬ言葉ばかり。拙子としては、この武器の劣化具合の確認方法がわかれば――」

「……何もわからないことがよくわかった。よし、じゃあまずはコンソールを開いて」

「……コンソール? とは」

 

 彼のその言葉に、大鎌の男の仮面の奥。ちょうど穴の開いた瞳の部分が、怪しい赤色に光を持ったように見えた。

 

「うん。アスナ、ごめん。ちょっと5分くらいちょうだい」

「わかった。じゃあ、私はソードスキルの練習してるね」

 

 さてと、と栗毛の少女アスナを見送ったミトは彼の方に向き直り。

 

「じゃあ、まずコンソールの出し方だけど。これないとゲームからログアウト……ゲーム中断が出来ないから、絶対に覚えるように。まず――」

 

 身振り手振りを加えながら、ミトは懇切丁寧に、何もわからない彼によく教えてくれた。

 何より教え上手なのだろう。言葉の意味すら怪しかった彼に、本当にたったの5分で、コンソールの使い方を理解させたのだ。アイテムの確認方法も、使い方も、装備の仕様についても、彼はミトの教えによりしっかりと理解してみせた。

 

「――と、こんなものか。とりあえず、知りたいことはわかった?」

 

 ミトの確認に、彼は大きく頷いて見せれば、続けざまに深々と腰を折って頭を下げる。

 

「まことに、感謝の言葉を。ありがとう。拙子は危うく、現実世界に帰る術すら知らぬ間抜けになるところであった。貴殿はまさしく、命の恩人といって過言に非ず。何かあれば、また道半ばの虚けの微力、存分に使いましょう」

「大げさ……って、わけでもないけど。次から説明書は読むようにね」

「ははは、耳に痛いところではありますが」

 

 彼はここで一息吸い込むと、顔を上げて、晴れやかな笑顔をもってミトの仮面越しの瞳を見つめ、頷いた。

 

「――承知。ご忠告、痛み入ります。それでは、拙子はこれにて。また縁が交わる時、お会いいたしましょう」

「そうだね。また縁があれば」

 

 そうして、二人は別れることになる。

 

 彼は街の方に行き。

 ミトは栗毛の少女アスナの方に足を進める。

 

 

 

 夕刻。

 『はじまりの街』の広場にプレイヤーたちが強制転移させられ、この世界のGMである茅場晶彦の演説が始まる。

 しかし、それは期待に胸を膨らませていたプレイヤーたちの心を、絶望の底に叩きつけるものであった。

 

 ゲームからのログアウトが不可能なこと。

 ナーヴギアを外部から強制的に外せば、ただちにそのナーヴギアによって脳が破壊されてしまうこと。

 そしてこのゲームでのHPがゼロになれば、現実世界でも死ぬ。上記したナーヴギアによる、脳の破壊が実行されること。

 

 途中、茅場晶彦が配った『手鏡』というアイテムにより、アバターという仮初の姿は剥がされ、現実世界の容姿が露わになった。

 

 故に、これはゲームであっても遊びではない、と。

 

 一方的な通告。そして、自らの目的は既に達成されたと。

 言いたいことだけ言って、締めに「諸君らの健闘を祈る」などと言葉を残して、巨大な赤マントのアバターと、広場を覆っていた空間と共に消えていった。

 

 

 

 最初に悲鳴を上げた誰かを皮切りに、広場に残されたプレイヤーは混沌に包まれた。

 冷静に、いち早く広場から脱出して、フィールドに駆り出るプレイヤーが居た。

 絶望的な状況に呑まれ、近くの誰かに泣きつくプレイヤーが居た。

 未だに事態を飲み込めず、茫然自失と空を見上げるプレイヤーが居た。

 

 彼もまた、空を見上げるうちの一人であった。

 ただひとつ、違うとするならば。

 

「嗚呼」

 

 その口元が、ただただ嬉しそうに綻んでいたこと。

 彼は夕暮れの空を見上げながら、しみじみと。

 

「この世界にたった今、生まれ落ちたのだ」

 

 そう呟いた。

 しかし、感慨に耽るのも束の間。

 

 彼はその身を翻して、悠然と歩み出した。

 誰にぶつかるでもなく、誰に声をかけられるでもなく、腰に据えた剣の柄に手を置いて、歩いている。

 

 街を出て、フィールドを練り歩き、最初に出会ったのは狼のモンスター。

 喉元を食い千切ろうと飛びかかる獣を、横にするりと避けてすぐ後。

 

 夕日に煌めく刃が弧を描く。狼の首元から寸分の狂いなく描きとり、その頭は宙を舞い、パリンと音を立てて砕け散る。

 剣はもう、鞘の内にある。歩みを一切止めることなく、彼は広大な草原を真っ直ぐに進んだ。

 

 背中に日の温もりを受けながら、鼻奥をツンと刺激するような冷き空気を嗅ぎ取った。

 彼は、夜に向かって歩みを止めなかった。

 



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第2話 旅先に野花を添えて

 野営の経験は十分すぎるほどあった。

 干支を半周するほどの武者修行の期間。山林に籠るなど日常茶飯事であり、獣の徘徊する夜間であろうと、木の幹を背によく眠っていた。

 

 仮想世界の中であろうと、そんな彼の習慣が変わる筈もなかった。

 モンスターが徘徊する森の中であろうと、彼は当然のように木の幹を背に目を閉じている。その場所はモンスターが出現しない、俗にいう『安全地帯』ではない。比較的少ない方ではあるものの、モンスターが出現する可能性はある場所だ。

 

 そんな場所で彼は仮眠を取っている。自殺行為甚だしい行動だ。どのプレイヤーが見たとしても、「正気の沙汰じゃない」と言い切るほどの蛮行。しかし、『安全地帯』と呼ばれる存在があることを知らない彼は、それが当たり前のことだと思ってやっている。

 

 そんな眠っているプレイヤーに対して襲い掛かってこないほど、モンスターは優しくない。

 

「――ッ」

 

 ウツボカズラを人間サイズに巨大化させたような、そして人間のような大口を開いた食虫植物『リトルネペント』が寝ている彼を見つけた。そこからの行動は早く、体の一部である蔦を鞭のようにしならせ、勢いよく彼に振るった。

 当たれば少なくないダメージは必至。補給も出来ない森の中で、たったの一撃が致命傷となりうる状況。あわや、その蔦が彼の身体に叩きつけられるかと思われた、その寸前。

 

 月明かりに照らされ残る残光、その銀閃が三日月を描いた。

 

「ッ!」

 

 どさり、と音を立ててすぐに、パリンと『リトルネペント』の一部が砕け散る。眠っていると思った相手からの手痛い反撃に、モンスターのくせして動揺したのか。その根っこの足でたたらを踏むようにバランスを崩したのが、運の尽きだった。

 

「斬り捨て御免」

 

 およそ胴体といえる箇所と、足となっている根との境界線が断ち切られる。

 支えを失った『リトルネペント』はズレるように大地に沈むと、そのまま砕け散って消滅する。

 

「……」

 

 彼はもう目をつむっていた。いや、初めから目をつむったままだったのかもしれない。

 そんな様子のまま、一番近くにあった木の幹に背中を預けて脱力する。すぅ、と小さな寝息が、静寂に包まれた森の奥に消えていく。

 

 

 

 早朝。肌に染み付くような冷たい夜の空気が残る時には、彼は起き上がって歩みを進めていた。

 ここ数日、彼は街を出てからただの一度も、人が居る場所にたどり着けていなかった。それは、彼が方向音痴だからとか、そんな話ではなく、単純にどこに何があるのか知らないせいだ。

 

 今の彼は、さながら放浪者のようだ。しかし、外面は悠然としているものだから、はたから見て計画的に見えてしまう。

 

(……そろそろ、武器の手直しか、買い直しといきたいが)

 

 教わったコンソールの扱いを拙いながら行っていき、武器の耐久度を見てみれば、そろそろ半分を切るかといった具合だ。無手となるのは状況が悪く、本格的に物資の補給をしなければならない時期に突入している。

 

(引き際といったところか)

 

 判断は非常に早かった。次は武器を買い込んで突入しようと、彼は今まで歩んできた道に戻っていく。

 帰路につきながら、彼は後頭部を押さえて息を吐く。

 

(次は地図も必要か。いや、それは風情に欠けるというもの……しかし)

 

 足踏みばかりするのもどうなのか、と彼は頭を悩ませた。情緒と欲望を天秤にかけて揺れ動く。気難しく眉根を寄せながら、剣の柄に手を置いて、考えながら歩みは止まらない。

 

 

 明らかに、心ここに在らずといった様子で進むことしばらく。すっかり朝日が水平線より顔を出し切ったころ。

 

 ヒュ、と鋭く風を切る音が背後より彼に迫る。

 

「危ないっ!」

 

 と、危機を知らせる言葉が聞こえてきたのは直後のこと。しかし、そんな声の後に状況を把握していては、回避が間に合うはずもない。

 力強く、大地を踏み締める音が彼にはよく聞こえてきた。声をかけた者が近づいているのだろう。

 

「忠告、痛み入る」

 

 彼が短くそう返した時には。

 蔓の鞭は、彼の真横の空を切る。

 

「……は?」

 

 飛び出した者がそんな声と共に固まったのも一瞬のこと。すぐに次の攻撃を行おうとする『リトルネペント』に向けて駆け出すと。

 

「はぁぁぁっ!」

 

 気合い一閃。青いエフェクトを剣に纏わせて振るい、一撃のもとにモンスターを葬ってしまった。

 ふぅ、と息を吐いたのは少年だった。特徴ともいえない黒髪に、片手剣を獲物とする男の子。

 

 そんな少年に向けて、彼はパチ、パチ、と手を打ち鳴らす。お見事、と称賛の言葉を口にして、少年のことをまっすぐ見ていた。

 

「危ういところの助太刀、ありがとう。アレを一撃とは、類い稀なる実力者とお見受けいたします。拙子、考えに耽るあまり注意を疎かにしておりました。助けていただいたこと、改めて感謝を」

 

 そしてそんな言葉と共に、彼は深々と腰を折った。

 その反応か、それとも話し方か。少年は面食らった様子で言葉に詰まると、しばらくの沈黙がその場を支配する。

 

 その間、彼はまだ頭を下げたままだった。

 

「いや。あんたからすれば、余計なお世話だったんじゃないか?」

 

 そんな彼に向けて、少年はそう言った直後、その頬を少しだけ痙攣させた。

 彼は顔を上げてそれを見たが、触れることでもない。いや、いや、と大仰に首を横に振りながら口を開く。

 

「拙子では二刀の必要があった故。武器の損耗も激しく、無駄な諍いは避けたかったところ、貴殿に助けられ。余計なお世話などと、口が裂けても言えぬというもの」

「武器が損耗……? 今、朝だぞ。村で修理とかしなかったのか?」

 

 ここに怪訝な表情で、少年は鋭く切り込む。

 彼はいやぁ、とおどけた様子で頭をかくと、実は……と、事情を話した。

 

「はぁ!? 数日、野宿!? それも安全地帯じゃないところで!? 補給も一回もなし!?」

 

 少年は聞けば聞くほど表情を険しくしていき、聴き終われば怒鳴りに等しい声音で「死にたいのか!」と、彼のことを一喝した。

 これに否、と答えて首を横に振ると、彼は少年の様子とは裏腹に、ずいぶんと落ち着き払った様子で口を開く。

 

「耳が痛いところ。しかし、死にたいわけではなく。故に、今こうして引き返している次第」

「……ここから『はじまりの街』まで、急いで丸一日掛かる。そんな状態じゃ、本当に死ぬぞ」

「しかし、今わかる道はそれだけともなれば、戻る以外に是も否もない」

「近くの村なら知ってる。そこで武器の修理だってできる。案内するから、無謀なことはやめろ」

 

 おおっ! と少年の提案に感極まって、彼は大きな声を上げる。突然のことに少年が一瞬たじろぐも、彼はそんな少年を目に入れる前に深々と腰を折って頭を下げ。

 

「拙子の無知、危ういところ、二度も救いの手を差し伸べていただき、ただただ感謝の念が絶えませぬ。この御恩、決して忘れませぬ。貴殿に危機訪れた時、拙子の道半ばの微力なれども、存分に振るうことを誓いましょう」

「…………その長いロールプレイ、もういいから」

「……ロールプレイ? はて、つい先日の恩人にもまた、そのようなことを言われた記憶が」

 

 この状態は思った以上に恥ずかしい、と口についたそんな言葉にも、彼は首を傾げるばかりだった。それを見た少年は思わず天を仰ぎ、深くため息を吐いてしまう。

 

「とにかく、村に行くからついてこい」

「かたじけない」

 

 彼の返答に少年の眉がピクリと動くも、少年はそれ以上の追及はせず、ポーカーフェイスを演じて村に向かう。彼もまた、そんな少年の後に続きながら、ふと思い出したように。

 

「失礼。拙子、名をヤマトと申す。恩人たる貴殿の名をお聞きしたく」

 

 そんなことを聞いた。

 少年は振り向かず、前を見たまま短く答える。

 

「……キリトだ」

「キリト殿。まこと、感謝を」

「もういいって」

 

 ところでロールプレイとは、だとか。

 こうして村を見つけるコツとは、などと。

 

 村への道中、他愛のない話題を振るのはいつも彼、ヤマトからであって。

 無視する理由もない少年キリトは生来の気質故か、返答だけは律儀に行って。

 

 旅程に素朴な花が添えられる。

 



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第3話 世は情け

 朝起きた時の寝ぼけ眼、視界を覆う霞は、数度の瞬きをもって拭き取られていく。一度瞬くと、視線の中央から少しずつ、世界が鮮明になっていく。ふと横切るかのように、滲んだ彩りが形を整えて映し出される。整形された視界が完成される瞬間というのは、まるで目の前を流星が過ぎ去るかのように鮮烈に、目を覚まさせる。

 

 そんな流星が何度も、キリトの目の前に閃いてやまない。

 

 赤色のダメージエフェクトではない。

 青色のソードエフェクトでもない。

 

 ただ一本の剣の残影が瞬く。あれ、どうしてこの人と一緒に居るんだ、とつい先ほどの記憶が霞みゆくほどに、新しい記憶が眩しかった。

 

 瞬きをすれば、残されるのは青白いポリゴン片だけだ。

 一際強烈な衝撃音も鳴りやまない。民家の前で鳴らせば、近所迷惑だと怒鳴られるほどのそれが、少なくとも夢ではないのだと訴えてくる。何度も、何度も。

 

「……マジで?」

 

 

 

 事の発端は、ヤマトの壊滅的な知識量に気付いての事だった。

 SAO以外においても、MMORPGにおいてはしばしば、共通する専門用語というものが存在する。

 

 たとえば、回復アイテム類のことを「POT」と通称したり、モンスターが発生することを「POP」と言ったり、敵への弱体化のことを「デバフ」、味方への強化の事を「バフ」などと。

 プレイヤー間同士での暗黙の略称といったものが存在する。これはMMORPGという大きな括りの中で共通したものもあるが、SAOという一ゲームの中でのみ通用する略称というものも存在する。

 

 普通のゲームであれば、そういった略称などは経験者に教えてもらうことが常ではある。ゲーム進行上でパーティーを組む場面――それこそフロアボス戦、フィールドボス戦など――を経て、徐々に学んでいくのだが。

 こうしたオンラインゲームという都合上、「自分で事前に調べろ」と切って捨てる者も少なくない。お互いに時間を使って遊んでいるわけだから、その時間を無駄にしないためにも、事前にやれることは各自でやろう、という風潮だ。実際、そういった事前知識を身に着けた上でボス戦に参加し、仲間への迷惑を掛けないことを前提とする初心者お断りの空気は、昨今のオンラインゲーム上で多く見受けられる。この「事前に調べろ」という風潮は、特に余裕のない場合(一人のミスが攻略失敗に繋がりかねない難易度など)に適用されることが多くを占める。

 

 しかしながら、少し考えてみてほしい。現在SAOは、プレイヤーのHPがゼロになることで、現実世界の自分まで死亡するデスゲームと化している。そんな状況下で、いくら経験者といえどもズブの素人を受け入れられる者が、一体どれだけいるというのか。

 

 βテスター屈指の実力を持つキリトでさえ、そんな初心者の安全の保障は一人までが限界だ。これが二人になれば、初心者がそれぞれ別の場所に分断された場合に対処が出来ない。三人になれば、そのリスクは倍増どころでは済まされない。死を恐れてまともに行動できなくなれば目も当てられない。

 デスゲームと化したことによって、HP全損によって受けるのはゲーム上の経験値や通貨の消失ではない。教え導くとなれば、そのプレイヤーの「命を預かる」と同義なのだ。

 

 まともな神経をしている人間は、「命を預かる」なんて早々出来ない。現にキリトも、『はじまりの街』に置いていったフレンドが一人いる。そのフレンドは今、十分な安全マージンを取りながら、一緒にゲームを買った仲間と共に、コツコツと経験を積んでいる最中だろう。

 

 

 ここまでなら、キリトがヤマトの世話を焼くことはなかった。村まで案内して、「次は事前に調べてこい」と放っておいたところなのだが。

 繰り返しになるが、現在のSAOはデスゲームと化している。追加で言うのであれば、「外部との一切の連絡手段が遮断されている」のである。

 

 即ち、ネットサーフィンを経て用語の検索をすることも出来なければ、攻略サイトを見て事前知識を得ることだって出来ない。「自助努力ではどうにもならない状況」というのが、一番の問題点であった。

 

 一応、キリト自身は情報媒体としてプレイヤーメイドの攻略本を持っているのだが……今の状況における情報は、命と同程度に重い。それも、その1冊に500コルもの大金(店売りの黒パンが1コル、安めの宿の一泊が50コル)をはたいて購入している。

 当然、お手製の攻略本1冊で収まるほど、SAOという世界は狭くない。既に4冊は存在するそれをヤマトに買い与える、というのは……キリトの財布事情をもってして厳しいものがある。冷たいように受け取られるが、命が掛かっているこの状況において助ける義理が微塵もない。ゲーム内通貨は回復アイテムの購入に、武器の修理・強化にも利用されることから、その収支が自身の命を左右しかねないのだから。

 

 しかし、この攻略本がなければ自助努力ではどうにもならない。特にソロともなれば、情報一つの欠け、たった一つの失敗が死に繋がりかねない。

 ならばその攻略本を買え、というのは……初心者がそれほどのゲーム内通貨を持っているのか、という問題に繋がる。買えたとして、それで事前準備が出来なくなっては本末転倒もいいところ。ヤマトの手持ちも聞いてみたが、予備の武器の購入、回復アイテムの補給、武器の修理まで考えれば、とても「買え」と強制は出来ない。

 また、フレンドに押し付ける、という選択肢があり得ないことは上記のことから言うまでもない。一歩間違えば、ヤマトの加入が原因で足並みが乱れ、パーティーが全滅しかねない。

 

 

 そんな事情から、キリトに残された選択は二者択一。

 ここで「見捨てる」か、「教え導くか」という、初日の再現。

 

 天秤が傾いた決定打は二つ。

 

 一つ、ソロであること。

 一つ、ゲームの知識が壊滅的に欠如していること。

 

 即ちキリトから見て、「あ、こいつ詰んでる」という状況だったことが、ある種の幸運であったというべきか。

 

 SAO屈指の実力者からのマンツーマン指導の権利を得たのは、そんな文字通りどうしようもない理由からだったのである。

 

 

 

 ――のだが。

 

 知識量と戦闘能力は比例しない。それはキリトもよくわかっている。しかし、物には限度があるだろ、と心中で思うほどには酷い乖離であった。

 

「…………俺、必要か?」

 

 装備は貧相。初期装備から何も手入れのされていないビギナーそのもの。

 回復アイテムの類は村で調達させた。今まで一度もコルを使ったことがない、という言葉には数秒絶句さえした。

 

 そんな状態で、間違いなく最前線プレイヤーたるキリトの居る場所まで辿り着いてみせた。

 冷静に考えてみれば、その状況証拠だけで「プレイヤースキル」の高さは証明されている。運が良かった、なんて理由だけでセルフアイテム縛りの状況下、『はじまりの街』から森のフィールドまで辿り着けるほど、SAOというゲームは甘くない。

 

 しかし、そのことを考慮したとしても。

 

「いやはや。『ステータスを振る』というのは、かくも素晴らしく。足枷の外れたような心地」

 

 今までレベルアップ時のステータスポイントを振ることさえせず、ここまで辿り着いたというのは異常を通り越して呆れさえくるものがあり。

 三匹居た『リトルネペント』を、ソードスキルなしに流れるようにポリゴン片に変えてしまう実力は、キリトの理解の範疇を越えていた。

 

 同時に、「ちゃんと指導していてよかった」と思えるところがまた、タチの悪い。デスゲーム化したSAOにおいて、アイテム縛りだけでなく、ステータスポイント無振り縛りなどと、ヤマトが知らずにやっていたことはまさしく狂気の沙汰である。

 実力を見た今であっても、「このまま行けば確実に死んでいた」と確信させるくらいには、ヤマトの知識量は惨憺たるものであった。

 

「それだけやれるなら、この先ちゃんと情報さえ仕入れれば……あと、宝箱とかのトラップに注意しておけば、ソロでも何とかなる……って、言いたいんだけど」

 

 ゼロから知識を仕入れる大変さは、学生であるキリトはよく理解していた。勉強だって、個人の頭の出来にも左右されるだろうが……少なくとも、苦手科目を一夜漬けで90点以上とれる自信はキリトにはない。

 今日知識を詰め込んだところで、それを活用させて常態化させなければ意味がない。飢えた者に調理した魚を与えるだけでは一時しのぎにしかならない。しっかりと、魚の獲り方まで教えてこそ、危機を脱したことになるように。知識もまた、それを活用できるようになって初めて力を持つ。ど忘れでもして消失することは、この状況では決して許されない。

 

「使いこなせるようになるまでは面倒を見る。放っておいて死んだ、なんてことになったら、目覚めに悪いし」

「何から何まで、かたじけない。授業料は、この世界の通貨とモンスターからの品でよろしいか」

「話が早くて助かるよ。次行こうか」

「承知」

 

 建前もそこそこに、二人は森の奥に進んでいく。

 次はパーティー連携のための「POTローテ」の説明か……いや、ダメージを受けないのだから、今は「スイッチ」の実践訓練の方が有用か。ならばそれに付随して、この世界を生き抜くための最大の攻撃手段、ソードスキルについて教える必要も――

 

 鮮烈な音が耳を貫く。見ていたところ、また二撃で『リトルネペント』を屠ったようだ。

 

(ソードスキル、必要……だよな)

 

 どんなプレイスタイルにしても、ソードスキルは必要だ。そもそも、この階層でソードスキルなしでやっていけたとして、それが上の階層でも通じるかと問われれば、キリトは即座に首を横に振る。

 

(メインウエポンは片手剣みたいだし、そっちからか。手本は「スイッチ」するときに見せれば一石二鳥か)

 

 次の教育方針は粗方定まった。

 後は口頭で教えて、実践を繰り返す。それだけで問題ないと自分に言い聞かせ。

 

「それじゃあ次に――」

 

 珍しく、キリトの方から話を切り出した。

 

 

 



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第4話 誰かを救う強さ

 ――「強さ」というものに触れた時、彼はそれが、どうしようもなく救いのないものだと思った。

 

 

 

 彼は大人のくせして、泣いていた。

 漏れるような声はなく、震えは押し殺して、ただ頬を伝う玉の雫が、乾いた大地にしみ込んだ。

 

「よく、頑張った」

 

 ただただ、褒め称えた。

 心の底から、尊敬の念をもって、言葉を紡いでいた。

 

 真紅の瞳を真っ直ぐ見つめて、何度も頷き、否定を否定し、その在り方に眩しいくらいの言葉を投げかけた。

 しおれた花のように力ないその手をそっと掬い取り、行こう、と口にする。

 

「其方の友が待っている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スイッチ!」

 

 鬼気迫る声が、崖上の地形に木霊した。

 直後に退く少年と入れ替わるように飛び出した影は、瞬きの暇さえ許さず弧線を閃かせ、ゴリラのような体躯にワニのような頭を持つモンスターの首を斬りつけた。

 

「っ、浅い!」

 

 HPゲージは残り3割のイエローゾーンにまで突入したものの、全損はしていない。

 攻撃を受けるも、その間にモンスターは態勢を整えた。右の巨腕がうなりを上げて引き絞られる。全霊ながらも、隙だらけの拳を放つものだと容易にわかる行動に、立ちはだかる彼はすぐに剣を構え直し。

 

「スイッチ!」

 

 後ろから少年が掛けてくる声に即座に反応して、身を引いた。

 繰り出される攻撃が空を切り、勢いのまま、あわやその先に居る瀕死の少女を捉えようとしたとき。

 

 その間に割って入るは青の刃。ソードエフェクトに包まれたそれは、拳の弾丸を打ち上げるかのように激突し、そのまま確かに勢いよくはねあげて、その胴体をがら空きにしてみせた。

 

「いざ!」

 

 今度は彼が声を上げて、またも同じく首に弧線が走り抜けて。

 そのワニのような頭が、宙を飛んだ。

 

 ほんの数秒で、戦いはあっけない幕引きを迎える。

 

 しかし、警戒心を解くわけはなく、二人は示し合わせたようにそれぞれの方向を確認して追撃を警戒した。それも今はないとわかってようやく、仰向けに倒れている少女に向いた。

 

「ヤマトは警戒」

「承知」

 

 役割分担は一瞬だった。剣の柄から手を離さないヤマトと、倒れた少女に声を掛けるキリト。

 どうやら、少女は回復アイテムが底を尽き、万事休すといったところだったらしい。更に話を聞けば、『リトルネペント』の「実付き」を不注意で攻撃した故に、そのような窮地に陥った、と。ソロで無茶なことを、と思わず口に出たキリトに鋭く反応して、「一人じゃ……」と言いかけたところで、彼女の言葉が止まる。

 

 既にHPがレッドゾーンに突入した彼女に、とりあえずPOTを飲ませて回復をさせながら、キリトはそれ以上の会話を続けられない。

 

「……もしや、アスナ嬢であるか」

 

 そこに確かな切り口から言葉を掛けたのがヤマトであった。

 少女は確かに目を見開き、思わずといった風に。

 

「えっ……あなた、どうして私の名前?」

 

 そう口についた。

 ヤマトはひとつ頷くと、何か言いたげに視線を向けてきていたキリトとアイコンタクトを交えながら。

 

「やはりか。キリト殿、交代を」

「知り合いか。なら話が早い」

 

 流れるようにスイッチを決める。練習の成果、というには少々場違いではあるが、今はそんな滑らかな対応が、お互いにとってありがたかった。

 

「拙子は初日、其方とミト殿に邂逅いたしました。ミト殿を5分ほどお借りした者。名乗りそびれたこと、大変な失礼をいたしましたこと、深くお詫び申し上げる。改めて、拙子はヤマトと申します」

「……あっ! その喋り方!」

 

 お互いの認識が一致する。彼はそれにひとつ頷いてから、遠慮無用とばかりに。

 

「ところで、アスナ嬢。ミト殿はどちらに?」

「……それ、は」

 

 栗毛の少女アスナの言葉が詰まる。

 

「……亡くなられたか?」

「…………わかんない」

 

 彼は後頭部を押さえて、小さく息を吐いた。

 どう話を振ったものか、としばらくの沈黙が流れる中。

 

「えっと。そのミト、って人と、パーティーは組んでないのか? ただのフレンド?」

「……組んでた、けど」

「…………」

 

 警戒をしながらも、話の進展がないかとゲームシステムの面から質問をしてみるも、地雷を踏んだ気がしてならない。

 だが、状況はおおよそ掴むことは出来た。

 

「ヤマト。多分、その人とミトって人は、少し前までパーティーを組んでた。でも、何か理由があって解散したんだと思う。パーティーを組んでるなら、左の方にパーティーメンバーのHPが見えるはずだから」

「……キリト殿。アスナ嬢のHPは、ここに来た時は?」

「真っ赤。1割切ってた」

「…………」

 

 キリトとヤマトが視線を交えたのは一瞬であった。

 そして、その視線で通じ合えるほど、二人は関係が深いわけでもない。思考回路が似ているわけでもない。

 

 沈黙もしばらく。

 

「ミト殿の件、拙子に預けてはくれぬか。キリト殿は、アスナ嬢を」

「……ミト、って人のリアル……現実世界の姿、ヤマトは知ってるのか?」

「まったく」

「じゃあダメだ。ヤマトの話だと、あの広場に集められる前に教わったんだろ? なら、ヤマトが見たミトって人はアバター……ゲームで設定された姿だ。容姿がわからない相手なんて見つけられない」

「…………」

 

 キリトの言い分は最もであった。

 このSAOには現在、1万人のプレイヤーが集められている。その中で死亡した者を除いても、8000人以上いることは間違いない。しかし、このフィールド近くに居るプレイヤー、ともなれば百分の一以下に絞り込めるだろうが、それでも数は多い、

 

「アスナ嬢。ミト殿の容姿、教えていただきたく」

 

 膝を着き、視線を合わせて真摯に向き合う。

 アスナはその真っ直ぐな視線から逃げるように、目を伏せた。

 

 しかし、それでも急かすようなことはしない。ただジッと、ヤマトは答えを待ち続ける。

 

「……なんで、そこまで」

 

 ぼそりと、呟かれた言葉を、彼は確かに聞いた。

 

「恩人故に。拙子、ミト殿の教えなければ、既に骸も残っていなかった」

「ミトが、救った? どこで」

「最初の邂逅。たったの5分。されども、大馬鹿者を救うには、それで十分」

「それだけで」

「人は、些細なことひとつで救われるほど弱い故」

 

 アスナは迷っていた。視線を下に向けたまま、固まっていた。ここが危険なフィールドであることも忘れて、膝を抱えてうずくまる。

 

「…………薄い、紫色の髪」

「特徴的だ」

「髪型は、私とほとんど一緒。後ろはポニーテール。女の子。目は赤くて、武器は大鎌」

「……ミト嬢、であられたか」

 

 承知、としっかりと頷いた彼は立ち上がると。

 

「はぐれた場所はここで相違ないか?」

「……そこの崖から落ちた」

 

 アスナが指差したのは、確かに今にも崩落しそうな行き止まり。先に全く地形の続かない場所である。

 

「今日中に見つけよう。説得は……しばし、お待ちいただきたく。集合はキリト殿に案内された村でよろしいか」

「いや、ずっと滞在するつもりはないぞ。だから」

 

 キリトは否定を突きつけると、手早くコンソールを操作し始める。

 すぐ後、ヤマトの目の前にシステムメッセージが表示された。

 

「フレンド登録。承認してくれたら、それですぐに連絡が取れる」

「承知」

 

 即座に承認すると、彼は背を向けて、下りの道を足速に進み始めた。急ぎすぎて転落死、などという間抜けなことにはならなさそうだ。

 

「……とは、言っても」

 

 残されたキリトは、行き場のない視線を、警戒しているふりをして周囲に散漫と動かした。しかし、『索敵』スキルにも引っ掛からなければ、目視で確認することもしばらくなく。

 

「…………」

 

 かと言って、アスナと呼ばれた少女から話しかけてくることはない。立ち上がり、どこかに行くわけでもない。

 

(恨むぞ、ヤマト)

 

 こんな状況に残されたキリトは、ただただ途方に暮れるしかなかった。

 

 

 

 たったの二振り。

 羽虫を払うかの如く繰り出される剣が、モンスターを瞬く間にポリゴン片に変えていく。

 

 足取りは素早く、しかし走ることはなく。

 その俊足が解放されたのは、下山直後のことだった。

 

(向かう場所はおそらく)

 

 駆ける。

 キリトから教えられた安全なルートを無視して、モンスターを切り伏せながら強行する。獣道を突き進み、下り、上り、あるいは登り。拙い手つきでポーションを取り出し、その蓋を開けるのに苦心し、ようやく開栓すれば進みながら飲み下す。

 

(良薬口に苦しというが、これはなかなか)

 

 モンスターは全て、すれ違いざまの二振りをもって葬った。鮮烈な音を鳴らし続けて進むその様は、まさしく暴走特急と言えるほどには喧しい。そのくせ、本人は一言も口を開いてはいないのだ。

 

 そうして獣道を突っ切り、もとの道に抜け出たところで。

 

「……天運は、拙子にあり」

 

 すぐ向こうから、モンスターから逃げる少女の姿。その片手には忘れるはずもない、特徴的な大鎌が握られている。

 その様子を見てすぐに、彼がポーションをまごつきながらも取り出したところで。

 

「っ、ごめん逃げて!」

 

 薄紫の髪を、後頭部から尻尾のように垂らした少女が声を張り上げる。切羽詰まったその声音に、彼はひとつ頷いて、同じ方向に走り出す。

 併走しながら、少女のHPを見てみれば、残り1割を切っており、ゲージが真っ赤になっている。

 

「これを」

「え? ……いや、ありがとう」

 

 慣れた手つきだった。差し出されたポーションを瞬く間に飲み下した彼女は、空になったその瓶を放り捨てて。

 

「1分あれば回復するから」

「一応予備を」

「……そっちの分は?」

「十分に」

「わかった」

 

 そんなやり取りを短く交わしながら、差し出されたポーション3本の内、逡巡を経て全てを受け取りストレージにおさめた。

 

「……迷惑かけてごめん。残りは私がやるから」

「一匹は拙子が引き受けましょう。経験値、とやらが惜しい故」

「なら、左2体やるから。間合いだけは気をつけて」

「心得た」

 

 反転のタイミングは、示し合わせたかのように完璧だった。

 少女はHPが半分回復する前に、もう反転を行った。はなから自分で全部片付けるつもりだったのか、それとも彼のことを足手まとい、とでも判断したのか。ポーションを飲んで30秒も経っていない。

 

 しかし、少女の横目に映るのは、同じく反転していた彼の姿であった。

 視線を交えることなく、少女は振り切る勢いでモンスター向けて駆け出した。大鎌に青いライトエフェクトを纏わせて、間合いには入ったその刹那。

 

 一振り目、攻撃の予備動作に入っていた手前のモンスターの蔓を切断した。

 二振り目、左斜め上から袈裟斬りをもって、モンスターをポリゴン片にかえる。

 三振り目、牽制の横斬りによってモンスターを怯ませて。

 四振り目、切り上げに体をのせてわずかに跳躍しつつ、攻撃しようと突き出した蔓もろとも胴体を斬りつけて。

 五振り目、その勢いのまま横薙ぎをもって胴体と根っこを泣き別れにさせ、葬った。

 

 パリンと、ガラスが砕け散るような音が鳴り響く。3回の音を確認した少女は、右一匹を仕留めた彼を見て、思わず眉を顰めて息を吐いた。剣が既に、鞘の内にあったのだ。

 

「巻き込んでごめんなさい。それとありがとう、助かった。それじゃ」

 

 矢継ぎ早に必要なことだけ口にしたかと思えば、少女は大鎌を握り直して、きた道を見ると、そのまま駆け出そうと姿勢を落としたところで。

 

「お待ちを」

「ごめん急いでるから、文句は次会った時でも」

「ミト殿、いや、ミト嬢でお間違いないか」

「そうだけど時間ないから、また後で」

「アスナ嬢は存命しておられる。拙子の師が今、ついておられる。そうそう問題はありますまい」

 

 ぐるり、と首だけが振り向き、目を丸々と開いた彼女と視線が合った。

 

「…………」

 

 瞳の奥は、万華鏡を覗き込んだかのような変化を繰り返していた。

 やがて、感情のさざ波が落ち着いたかと思えば。

 

「そう」

 

 短く答えて前を向き、すたすたと来た道を戻り始めた。

 彼は、そんな少女に追従するように歩きはじめる。

 

「ついてこないで」

「ここで恩を少しでも返さねば、拙子の面目が立ちませぬ」

「ポーションだけで十分だから。3本もあれば何とかなるし」

「それだけでは足りぬ故。拙子はミト嬢に、命を救われております」

「……いや、ていうかアンタ誰? 恩なんて売った覚えないんだけど」

「『はじまりの街』の周辺、その平原にて5分の教えを受けた者です。その折は、名乗らずじまいとなりましたが」

「…………あぁ」

 

 思い出したように声を上げた少女ミトは、しばらく口を閉ざした後、自嘲するように息を吐いた。

 

「……結局ログアウトできなくなったし、あまり意味なかったけど」

「まさか。そのようなことは、決して」

「あるでしょ。教えたのは説明書のような、最低限の操作だけ。そんなの、そこら辺のNPCに聞けば教えてくれるし」

「…………そうで、あったか」

 

 どこか重い声音で、彼は絞り出すようにそう口にした。

 それを聞いて、ミトは「だから」と突き放すように。

 

「恩なんて、そんなのいらない。善意の押し売りなんてしてる暇があるなら、まずは自分のことやったら? 『はじまりの街』なら、ビギナー同士でいくらでも組めるでしょ」

「しかし、拙子が同行せねばアスナ嬢がどこに居るのか、事の真偽も、確かめられぬかと」

 

 こん、とミトが道端にある小石を蹴った。脇道、雑木林の中にガサガサと音を立てながら、小さな姿をくらませる。

 

「……じゃあ、案内だけね」

「承知」

 

 

 

 そうして道中の事。

 沈黙を切り裂く術を、ヤマトは持っていなかった。ミトから彼に向けて話しかけてくることはなく、ただ時折、視線をよこして「この道で合っているか」を窺ってくる。彼もそれに応えて首を縦に振り、言葉はかけない。

 

 そんな沈黙の先。

 ヤマトがキリトたちと別れたその場所に、二人はまだ居座っていた。

 

 会話をしている様子はなく、アスナは膝を抱えて下を向いている。

 その無防備な彼女の様子を脇目に見ながら、キリトは周囲の警戒を入念に行っている。いっそ過剰なほど、挙動不審な様子で。

 

「あっ」

 

 崖路よりその様子を見たミトは、すぐさま高低差の陰に身を隠して、その場に座り込んだ。

 

「ほんとに、生きてる……」

 

 その呟きを聞いて、ヤマトは後頭部を押さえる。その口からため息も、言葉も出てこない。

 ただ、上に居る二人に見つからないように自らも、高低差の陰に身を埋める。周囲を目視で確認しながら、ただ時が流れるのを待つ。

 

「…………」

 

 ミトは動かなかった。何かを呟くこともなく、アスナと同じように座り込んで俯いている。

 

(事の顛末は、おそらく)

 

 あくまでも推測。状況証拠とアスナの説明、キリトの補足によって導き出された状況の仔細。

 

「複雑な事情、察するには過分に重いところ。故に、これから呟くは拙子の聞くに値せぬ戯言として、耳に入れるも入れぬも、ご随意に」

 

 ミトはこの言葉を聞いても、はたまた本当に聞こえていないのか、全く反応を示さなかった。

 しかし、ヤマトはそれを気にすることなく、呟くように口にする。

 

「拙子がもしも、あの崖上でモンスターに囲まれたとしましょう。同年の弟子を持ち、教え導きながら旅をした、その弟子も同じ場に居たとして。拙子は運が良いのか悪いのか、崖上から転落。モンスターよりの難をひとり逃れてしまい、弟子が取り残される。そんな状況に陥った場合」

 

 ミトの両肩がわずかに震えるも、彼女が顔を上げることはない。

 

「拙子ならば、まず同じ場所に戻れるかを考慮する。しかし、それは“弟子を連れて帰れるだけの余力を残して戻れるか”という条件のもとの考慮となる」

 

 彼は剣の柄に手を置きながら、言葉を続ける。

 

「その条件に見合わぬなら、拙子は弟子に合流場所を指定し、期限を設けた上で、いち早くその合流場所に向かいましょう。酷な話であるのは承知の上で、決して助力には行かぬ」

 

 鉛のように垂れて、のしかかるような声音で彼は続ける。

 

「犬死ほど情けないことはない。これが忠義を捧げる君主に対してであらば、まだ美談ともなろう。されど、師が弟子のために共倒れ? なんと下らぬ話か。遺志も継げぬ未熟が、師などと笑わせる」

 

 故に。

 

「弟子よ、存分に恨むといい。己の見る目の無さと、足りぬ実力を。己の弱さが招いたその状況を踏み越えられぬなら、その場を死地とし散るがいい」

 

 冷たい声で、彼は言い切った。とても情など感じさせない無慈悲な言葉。

 

「……そう」

 

 しかし、そんな模範解答。人を人とも思わない冷酷な答えを、ミトは求めていなかった。相槌は返したが、それだけ。彼女の感情を波立たせることさえ出来ない。

 

「生まれる時代を間違えた故、こんな答えしか出ないのだ」

 

 彼の吐き捨てるような言葉。突然変わるその様子に、ミトは思わず顔を上げる。そしてちらりと、その横顔を見た。

 

「弟子を、友を見捨てることは悪なのだ。どれだけ言い繕ったとして、状況が許さぬとしても、見捨てられた者の知ったことではない。助けを求める者が望むことは、ただ見捨てられぬこと。手を取る誰かに、窮地より引き上げてもらうこと。最後の最後、助けを求める声が途絶えるまで、ただ手を伸ばし続けることが求められる。それが正しいことだと、世は嘯く」

 

 ヤマトの顔は、悲痛に歪んでいた。

 まるで痛みを堪えて泣き出すまいとしている子どものように、歯を食いしばり、拳を握り込んでいる。ぐっ、と剣の柄を握る手にも、力みが見えた。

 

「そんなことを、誰が出来る?」

「えっ――」

 

 逆に問いかけられて、ミトは反射的に逡巡する。

 そして結論は、即座に出てしまった。

 

「出来ない。そんなこと、正常な人間には到底出来ない。それが出来る者は殉教者と呼ばれる。たとえ残りのHPが1割を切り辛うじて生きている状態、モンスターの大群を目の前にして、物資も枯渇し。そんな中でも突き進み、死んでいく者は殉教者以外に出来はしない。そしてこれを突破し、友を救い出す者は人ではない。英雄と呼ばれる狂人だ」

 

 ましてや、と。

 

「まだ二十歳もいかぬ女子が背負うにしては、重すぎる」

 

 すっと、心に隙間風が通るようだった。

 

「現実からの逃避。死の気配からの逃亡。どちらも大変結構。いただけなかったのは、結果的に、友を裏切る形になったこと。しかしまぁなんとも、諦めは人一倍悪い様子」

 

 肌身に沁み込むようだった。

 

「それで十分。相手には察せぬが、最後まで手を伸ばそうと、もう一度立ち向かったその心意気こそ肝要なのだ。ならば、もう一押しではないか」

 

 感情はひどく波立つというのに。

 

「頑張った」

 

 膝をついて、瞳を合わせてくる彼の顔を見ると、芯の部分は凪いでしまう。

 

「よく、頑張った」

 

 彼の瞳からとめどなく溢れる涙が、ミトをより冷静に至らしめた。

 自分よりも慌てふためく人間がいると、不思議と自分は冷静になってしまうように。まるで三人称から物事を見つめるかのような冷静さを、彼女は今に限って持っていた。

 

 力なく垂らしたその手を掬い取られながら、彼女は呆気にとられるように、ただただ彼のことを見つめるしかない。

 そうしていると、手を引かれる。行こう、と声を掛けられる。

 

「其方の友が待っている」

 

 アスナが今も膝を抱えているのはどうしてか。

 自分はどうして、ここまで来てしまったのか。

 親友に、一体何をしてしまったのか。

 

 すぐに逃げ出してしまいたい現実が目の前にある。しかし、ここで逃げたらダメだと、冷静な自分が断言する。

 何より、どのみち手を引かれて逃げられない、と諦める。

 

 逃げることを諦めて、一本道の先にある現実に向き合うことにする。

 

「はなして」

 

 ミトはふてぶてしく、取られた手を振りほどいた。

 その場から迷いなく立ち上がり、凛とした様子で背筋を伸ばし、歩き出した。

 

 アスナのもとまで歩き、膝をついて、声を掛けて。

 その様子を見守っていたところ、その近くに居たキリトと目が合った。

 

 彼は口元で人差し指を立てて、静かに、とジェスチャーを送る。キリトはそれを見るや、二人の様子、周囲の状況をすぐさま確認した後、ヤマトの方に駆け寄って。

 

「おい、どういう状況だよこれ」

 

 と、状況の説明を促した。

 キリトからしてみれば当然の疑問であった。約1時間ほど沈黙に晒された挙句、何やら自分のあずかり知らぬところでイベントが進んでいるのだ。問い質したいことは山ほどあったものの。

 

「ミト嬢は諦めが悪かった。ただ、それだけのこと」

「ここから近くの村まで、急いで一時間だぞ」

「たった4本。回復薬を渡せば、すぐに引き返したのだ」

「……よく追いついたな」

「獣道を猛進した故」

「無茶するよ。仲がこじれる可能性だってあるのに」

「ミト嬢であれば問題なし。底抜けにお人好しなのだ」

「恩人だからって、よくまぁそこまで首突っ込めるよな」

「伊達に歳は食っておらぬのです」

「…………ちなみに、何歳か聞いていいか?」

「これでも三十路手前である」

「……マジか」

 

 まじまじと、キリトはヤマトの顔つきを……特にその無精髭を見ながら、「30後半のおっさんかと思った」と、心の中だけに感想を止める。

 ただ、どちらにしても自分の倍は生きてるおっさんである。歳の差というのはそれだけ影響をもたらすものかと、キリトは喉を鳴らす。

 

 その後も、二人の少女が落ち着くまで、男二人は何の益もない雑談と、キリトの愚痴にて、時間はあっという間に過ぎていくのであった。

 

 

 



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