討竜記 (外典断章)
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序章 人と竜の物語、あるいは復讐のカンタービレ
1話


 

 

 渾身の力を込めて、全力で鉄の塊を振り下ろす。

 

 今年で十七歳。身体はほぼ完成しつつあった。鍛えた肉体から放たれる一閃は容易く命を刈り取るだろう。自覚はしていたし、戒めもしている。だが今この時は全力でそれを振るう。余計な事は考えず、一切を忘却の淵へ追いやり、ただ己が作り出せる最短最速の斬撃で奪りに行く。何をって? 当然、命を。

 威力は十分。首を三度撥ねても足りるほどに。ただ、当たればの話だが。

 

「四十点」

 

 微笑混じりにそいつは告げる。恐ろしい程緩慢に奴の剣は動いた。全身が総毛立つ。火花を散らしながら刃が交わる。だが、受けられた感触はなかった。円弧を描く銀閃。ぞっとしない事実だが、俺の剣はあろうことかそのままの勢いで直角に曲がった。くそったれ──どんな絶技だ。受け流したのだろうか。馬鹿言え。受け流すってのはつまり、受けて流すって事だ。奴にはそもそも前提としてその『受ける』動作が存在しない。だから『流し』ているだけなんだ。はは、俺自身何を言ってるのかわからないが、つまりそういう事なんだ!

 

 到底理解の域にない絶技を見せられて戦意を喪失した訳では無い。それは初回だけだ。俺が何度これを見せられて来たと思っている。通算九百九十六回目のトライ、今回は逆らわない。流された軌道に身を任せ、エネルギーを殺さず──逆に右足で地を蹴り上げる。頚椎を狙うハイキック、鉄底の戦靴は相当な破壊力を有している筈だ。だが奴は悠々と自身の左の手甲で受ける。衝撃は伝わった、今回は感覚がある。だが微動だにしない。まるで岩を蹴りつけたかのようだ。鉄で出来てんのかこの女は!

 

 これだけ隙をさらせば当然反撃もある。最も簡単なのは内腿を狙う一撃だろう。想定通り、蹴り足の内腿へと肘が飛んでくる。肘の次は? 肘の先には手があり剣がある。要は、連撃だ。出だしを食い止めるべく即座に足を畳んで後方へ重心をずらす。右半身を差し込むように捻ったまま、奴は剣を振り抜いた。軌道にあるのは軸足、堪らず蹴って跳躍した。だがそんな真似をすれば後の惨状は容易に想像がつく。奴が馬鹿を見るような目を向けてくる。俺はにやりと笑って返した。俺が何も考えず後方へ跳んだと思ったか!

 

 剣を地に擦らせ、それを支点に後方へバク宙。あまりの低空でのバク宙はざりざりと地面を膝に擦らせることでなんとか成功を修めた。へっ、と息を吐いて睨めば、そこにあったのは馬鹿を見る目でこそないが、呆れたような目であった。

 

「……ネロ。お前、曲芸師にでもなるつもりなの?」

「言っ、てろ!」

 

 助走は二歩。一瞬でトップスピードに到達し、自然体で待ち構える彼女に切りかかる。息を止める。全身に循環する魔力を意識。一連の動きを思考を挟まず放つ!

 上段からの袈裟斬り、逆袈裟、勢いを利用した回転斬り、手首を反転させての刺突、刺突、刺突──左に斬り払い右肩からの当て身!

 

 だが、忽然と奴の姿が消えた。一瞬の浮遊感。呆然としていた俺の顎をがつんと、強かに何かが撃った。呻き声すら上げられず地面に転がる。衝撃に瞼の裏がちかちかと光っている。荒く息を吐き出し上下する胸に突き付けられるのは、悠然と立つ彼女の剣先であり。

 

「一本。攻め手が相変わらず雑ね」

「……うるせぇ」

 

 くそ。九百九十六回目、失敗。心中にそう刻みながら舌打ちする。黒髪を一本に結わえて腰まで垂らした金眼の女を睨み付けた。

 

「アル。手ぇ貸せ」

「師匠への言葉がなってないわね」

「……貸してください」

「よろしい」

 

 にこりと微笑んで伸ばされた手を強く握り締めて立ち上がる。ん、と声を洩らして伸びをした彼女の背は百七十五センチメルトルはある筈の俺とほぼ同等の目線をしている。

 年齢不詳。背は高く金の瞳をした、奇しくも俺と同じ物珍しい黒髪の女。だが間違いなく血縁は無い。鋭く、荒々しさすら感じる美貌から目を逸らして息を吐いた。

 

「アル、腹減った」

「そ。勝手に作んなさい」

「たまには弟子を労おうという殊勝な心掛けはないのかよ」

「馬鹿ね。敗者の責務よ」

 

 せめて一本取ってから文句を言えと。顔を顰め、むっつりと黙り込んだ俺を見てくつくつと笑い声が響く。九百九十六戦中、今のところ白星無し。およそ五年に渡って剣を交えているが追い付ける気が全くしない。いや、最初よりは遥かにマシになったのだが。一応戦いが成立するレベルにはなった。

 

「小麦粉、切らしてただろ。あるのかよ」

「…………あっ」

 

 俺は呻いた。今日の昼食は野菜屑と干し肉を煮込んだスープのみになりそうだった。

 

 

 俺とアルが暮らしているのは、俗に言う掘っ建て小屋というやつだ。基礎なんて無い、あまりにも粗雑に柱をぶっ刺して適当に丸太を組んだものを家と呼ぶのならそうなるのだろう。一体誰が作ったのか知らないが、雨風を凌げればそれでいいという思考が透けて見えるようだ。製作者はどうやら己の住処に快適さを求めるという至極当然且つ真っ当な人間性を何処かに置き去りにしまったらしい。それはアルも同様であった。こいつ本当に女かと疑う程に雑で適当、そして肝が太い。

 

 まあ、そうでもなければ女の身で傭兵なんざやっていない。普通の女ってのは、きっと金持ちの嫁になってせっせと家事をするのが将来の夢なはずだ。

 

 ぐるぐると鍋の中身をかき混ぜる。スープ──腐りかけた部位を切り落とした野菜屑と岩の如く硬化した干し肉をぶち込み、山菜と言えば聞こえのいい雑草と香草と呼ぶ事で品性を辛うじて保っている雑草をぶち込んでかき混ぜた汁をスープと呼ぶかどうかを論点に討論を行いたくなる──に塩を細かく足して味をギリギリ食える程度に底上げし、ふぅ、と一息つく。季節は冬の山場を越え春に差し掛かろうかというタイミング、備蓄の干し肉をすり減らしながら凍傷に怯える日々は別れを告げたとはいえ、まだ肌寒い頃合だ。外に散策しに行ったあの女を呼ぼうかと考えたその時、窓──というよりはぽっかりと空いた壁の穴にそれらしく命名したと言い換えた方がより正確では無いかと思われる場所より顔が飛び出してきた。ぎょっとして目を見開くと、アルがすんすんと形の良い鼻を鳴らす。

 

「いい匂いね。弟子の腕が上達してるようで何よりだわ」

「さっさと手を洗ってこいよ。その穴から首だけ出して食う気か?」

「それも悪くないわね」

 

 舌打ちすると笑い声を残して顔が引っ込んでいった。そうして仮称テーブルにスープを注いだ深皿を並べていると、ハードレザーの防具を脱いだアルが黒いシャツの袖を捲りながら席に着く。

 

 いただきます──の挨拶などこの世界には存在しない。食前の祈祷がある家庭も存在するのだろうが、生憎とこの家に住む二人は信心深いとは言い難く、よって何も言わずかっ食らう光景が繰り広げられる事になる。煮てもなお胡桃の殻のように硬い肉と必死に格闘する俺を尻目に、スープを飲み干したアルは口を開いた。

 

「買い出し、お願いね」

「毎回俺だな。アルが行けよ」

「嫌よ、面倒くさい。あ、肉はいらないから。今日からしばらくは熊肉が食べられそうよ」

 

 熊、熊かぁ。中々どうして癖のある脂をした動物だ。

 

「何、熊嫌いなの? 美味しいわよ」

「あんた何食っても大体美味しいって言うだろ。いや、でかいから血抜きが大変そうだと思ってな」

「そう。お気の毒様」

 

 他人事だと思いやがって。恨みがましく視線を送れば、頬に指を当てて呟く。

 

「そう言えば、そろそろ貴方の誕生日だったわね」

「……おお。よく覚えてんな」

「何よ。私が忘れたことなんてあったかしら?」

「いや、無いけど……」

 

 当の本人すらも忘れかけていた事をよくも毎年覚えているものだ、と思っただけだ。何かとかけてずぼらな女だが、こういう所はしっかりしているのが尚更腹が立つ。

 

「こういうのはしっかりしておくべきでしょう」

 

 そんな事を宣う様に顔を顰めて目を逸らした。こんな事を言っておきながら、自分の誕生日はもう覚えてないとか言い出すもんだから卑怯というか卑劣というか。

 

「……だからって、誕生祝いに持ってくるもんに毎年悪意を感じるんだが」

「あら。肉は嫌い?」

「嫌いじゃないが一頭まるまる持ってこられても捌くのは俺なんだよなぁ!」

 

 どうやってあの細腕で運んだのか甚だ疑問だが、くそでかい獣を仕留めては誕生祝いだと言い張るのもそろそろ慣れてきてはいる。いや、役に立たない変な木彫りのトーテムとかよりは余程マシなんだが捌くのが俺なあたり何かが間違っている気がしてならない。

 

「くそ、今年は馬鹿でかい熊か……」

「腕に()()をかけて待ってるわ」

「調理するのも俺なんだよな」

 

 馬鹿でかい溜息を吐く。

 ……まあ、祝ってくれる気持ち自体は嬉しくあるのだが。ただし言えば調子に乗るので絶対に言葉には出してやるまい。そう俺は固く心に誓った。

 

 

 鞄に諸々を詰め込んで山を下れば、未だ峰には多くの白が残っているのが見えた。雪解けまでは遠く、しかし観察すれば所々覗く新芽の発露に気付く。冬は明けつつある。背負った鞄には毛皮や煮詰めて瓶に封した獣脂だとかがわんさか詰め込まれており、お陰で歩く度に靴がいつもの二倍は雪に沈んでいた。足を取られながらも歩を進め、白く濁る息を吐いて額に湧いた僅かな汗を拭う。冷えきった手袋の甲で拭ったお陰で体温が更に奪われる。常の事とはいえ、うんざりしながら俺は歩くペースを早めた。麓につけばこっちのものだ。アルから解放されるひと時の安寧、本職が作った暖かいスープと質が悪くもしっかりとした麦酒が待っている。

 

 ……あー、なんで俺あんな女と山篭りして修行僧してんだろ。考えればこの暮らしを始めておよそ七年が経ったのか。思い返してみれば感慨深いものがある。

 

 何も初めからあいつと暮らしていた訳では無い。普通の村に産まれて普通に育ち、きっとこのまま村に骨を埋めて死ぬのだろうと子供ながら悟っていた。七年前までの俺はそう思っていたし、まさかこんな事になるとは夢にも思っていなかった。農具を握っていた手で剣を振るい、毎日張り飛ばされているなど考えもしなかっただろう。

 

 普通に生きて、普通に死ぬ。その事に疑問もなく、ごく自然と受け入れていた。()()()()()()()()()()()()、そんな特異性を持っているだけの農民の子。チートも無双もありゃしない。家族を愛し、農民として一生を終えることに不満などなかった。──なかったのだ。

 

 ……妙な音がした。それが食い縛った歯が軋む音だと悟る。気付けば森の出口も近い。ゆっくりと呼気を細く吐き出し、気分をリセットする。こんなに殺気立って村に入れば、何があったのかと問いただされるのは間違いなかった。

 

 

  麓の村に名前はない。強いて言うのなら、この村で唯一姓を持つ村長から取ってローレル村、とでも呼べばいいのだろうか。何せ名前を必要とする場面がない。年に二度の納税に役人が訪れる他には不定期に旅商人が来る程度のものだからだ。

 

 アルから教わった大陸図を思い浮かべる。この村の位置はこの国の中央部からそこそこ北東に進み、山脈にぶち当たったあたりだ。かなり国境ギリギリでありまさしく辺境の地といったところ。しかもこの自然国境を形成する山脈はかなり険しく、行軍するには相当な損耗が予想されるため双方から放置されている──らしい。

 らしい、というのは全てが伝聞であるからだ。俺にとってはこの村と山が世界の全てであり、国とか聞かされても全くもって実感がない。まあ、誰にも必要とされていない辺鄙な田舎の村だと思ってくれればそれでいい。

 

 村をぐるりと囲む獣避けの柵の切れ間、一応正門と呼べそうな隙間から足を踏み入れる。誰も外に出ていない。だが騒がしい声が遠方から聞こえてきた。珍しいな、と感想を抱いた所でふと足元に気付いた。

 ……軽く積もった雪に刻まれた轍の跡。足早にそれを追えば、行先はもはや集会所に近いこの村最大の酒場であり。停められた荷馬車と苔のような草を食むに驢馬を認めた事で確信へと変わった。両開きの扉を押し開けて、騒がしい酒場の中心で囲まれていた人物の姿に俺は歓喜の声を上げた。赤ら顔の男が振り向き、俺は思わず手を振った。

 

「ニール!」

「おお、ネロくんか!」

 

 頬が綻ぶ。行商人のニール! それは村も賑やかになるはずだ。外部からの客人がほとんどないこの村にとって、行商人の到来とは結構なイベントなのだ。しかもあまりに辺鄙すぎて半ば好意に縋る形で寄って貰っているとなれば、もはや扱いは要人に近い。

 ずんぐりむっくり、という形容がここまで似合う男もそうはいまい。まさしく典型的な北部人の中年といった風貌だ。以前見た時よりも生え際が後退している小柄な男はにっこりと俺に向かって笑った。

 

「久々だな。うん、二年ぶりか? 元気そうで何よりだ」

「ニールこそ。今日はツいてるね」

「我々の出会いは女神に仕組まれていたのさ。偉大なる慈母に乾杯! さ、座って座って」

 

 隣の席を空けてもらい、会釈して腰を下ろす。そして口を開こうとしたが手で制された。ただし厳密には、ジョッキを握った手で──である。少し黄金色の液体に目が奪われる。

 

「積もる話は多い。ただ、口を滑らかにするのにまずは……だろ?」

 俺はにやけて頷く。十字教に伝わる東方の賢者にも否定出来ない真実に違いない。そして厨房に叫んだ。麦酒(ビール)を一杯!

 

 

「そうか、ネロくんも今年で十七歳か」

 

 しみじみと、感慨深げにニールは呟いた。俺と彼は知り合ってから長い。というか、一方的に知られていると言うべきか。俺が生まれた時からうちの家族とは懇意にしており、俺にとっては親戚のおじさんといった感覚だ。唇の周りの泡を舐め取る俺を見やり、彼はあごひげを撫でた。

 

「いつの間にやら。昔はこんなに小さかったのにな」

「いつの話をしてるんだよ。去年には成人してるって」

 

 だからこうして酒を飲めている。いや、成人前からたまに……少々……割と飲んでいたけれども。ちなみにこの国というかこの村での成人の定義は十六歳である。

 そんな俺の言葉にニールは笑って返す。

 

「私の中では今でも君は小さな坊や……いや冗談だ、そんなに顔を顰めるないでくれ。ほら、成人したネロくんに乾杯」

「いつまでも子供扱いするニールに乾杯」

 

 ジョッキを合わせてぐいと飲み干す。上等とは言い難い。ただ、この絶妙な質の悪さが身の丈に合っているのだ。……まあ、知ったかぶりだが。十七歳の小僧に酒の美味い不味いなど分かるはずもない。

 いや、そんな事はどうでもいい。俺はジョッキを机の上に置くが早いか尋ねた。

 

「で、今回はどんな土産話があるのさ」

「そうだな……これは王都で聞いた話なんだが──」

 

 ニールの軽妙な語り口にちびちびと酒を含みながら耳を傾ける。周りの村人達も同様だ。閉塞的な寒村において外の話は数少ない情報にして娯楽のようなもの。西に広がる砂漠や東に広がる海、冒険者によって攻略された迷宮なんて実在すらわからない御伽噺に近い。ただ、それでいいのだろうと俺は思った。

 

 彼らは村を出ない。ニールの話を聞いて、外の世界に思考を巡らせ、そして満足して日々の営みに戻る。それをどう捉えるかは人の自由だろうが、俺は健全な形だと考えている。きっと、実物を見ても良い事なんてありゃしないのだ。

 だってそうだろう? 彼は砂漠の美しさを語るが、それは一側面に過ぎない。砂漠の過酷さや熱砂で足を焼かれる痛みを語らない。どれだけの人々がそこに骨を埋めているかを教えない。

 

 だがそれでいいのだ。脚色し、誇張し、美しく飾り付けた物語で好奇心を収め、美しい夢想を抱えたまま日々の生活へと戻る。いいじゃないか、それで。普通であることを否定される謂れなど無い。運命的な因縁や、人様と違う特徴なんて必要ないんだ。過ぎた力なんて生きる為に全くもって必要じゃない。つまり傭兵から剣を習う俺は、必要ないことを必死に学ぶ異常者かあるいは暇人という訳だ!

 

 ……ああくそ、わかっている。俺は酔っているのだ。空きっ腹に酒を流し込んだのが悪かった。口の中で麦の苦味を転がす。質の悪い麦、質の悪い醸造、上等なのは水だけ。全くもって丁度良い。今日みたいに嫌な記憶に苛まれる日に必要なのは、こうして酔う為だけに存在しているような酒だと前世からよく知っていた。

 

「王様万歳! 神様万歳! わはは……」

 

 思考があやふやになる。五杯目あたりで誰かに止められた気がしたが構わず呷った。今日はそういう気分なのだ。神経に直接アルコールを流し込んでいく感覚。何も面白くないのにくくく、と喉奥から笑い声が漏れる。笑ってるのは俺か? 違う。死んだはずの親父が笑っている。本当に? それも違う。

 

 竜が笑っていた。親父を殺した竜が。

 

 

 ──俺はしがない農家に生まれた長男だった。

 親父は農夫。お袋は村長のとこの娘。村の中の立ち位置はちょっと良い感じ。しかしだからといって生活の質が高い訳では無い。いつだって困窮していた。ただ、そんな生活も俺には苦ではなかった。日々が充実していたからだ。

 

 転生して、前世の記憶とやらを思い出したのが五歳の頃。自我というものがはっきりするかしないかぐらいで俺はしっかりと己が異物であることを認識した。明らかにこの世界とは違う場所で生きた記憶を持っている。つまりは前世の記憶というやつを抱えていたのだ。当然理由などわかるはずもなく、しかしそれに苦しまされるという事もなかった。周囲から見れば少し大人びた子供に見えたくらいのものだろう。

 

 それもそのはず、そもそも前世の記憶やら知識を披露する場なんてこんな寒村にはなかったのだ。精々がニールに地図をせがんでこの世界の状況を把握する程度にしか外界との接点はない。隔離された空間、そこで緩やかに生を終えることを俺は受け入れていた。

 

 ……たかだか農家の息子が村を出て、出来ることなど知れている。外界に興味がない訳では無い。だがある程度衣食住が保証されている生活を放棄し、何より今世の両親を悲しませるような真似をするだけのメリットを見い出せなかったのだ。この村で育ち、この村で適当な嫁さんを貰って、そして死ぬ。それが俺の役割なのだと理解していた。それでいいのだと納得していた。多少退屈だとしても、結果的にそれが最善なのだと嫌になるほど痛感したのだ──それこそ、死ぬほど。

 二度は繰り返さない。前世の、□□□□の過ちを再現するつもりなど毛頭ない。そんな決心をしていた矢先、それは起きた。

 

 それが一変したのは忘れるはずもない、七年前の夏のこと。

 ローレル村は横に長い形状をしている。これは地形に由来する制約故だ。北方には山脈が存在し、そこに沿って張り付くように村は存在している。俺の元々の家があったのはその東端であり、そしてそこで今の俺から見てもかなり広い土地を利用して羊の放牧を行っていた。

 

 親父とお袋と俺、そして牧羊犬が一匹。名前はコリー。可愛がっていたのを覚えているがかなり野性的で歯が鋭いのが玉に瑕。そんなコリーを連れて親父は更に東の谷へ羊の群れを誘導し、草を食わせて戻ってくるのが日々のルーティンであった。当時の俺は十歳。お袋と共に畑の手入れをしていた。秋の備えは万端ね、とお袋は笑っていた。

 

 ──轟音は唐突に。遠雷のような音と共に空が裂けた様子は今も目に焼き付いている。

 遠方に黒い影が飛び上がる。それは余りにも巨大だった。塵のように舞い上がるのは半狂乱になって逃げていく蝙蝠や鳥の群れか。樹冠を突き破り滞空する茫洋とした影は、一対の翼を天幕のように掲げていた。お袋が叫ぶ。逃げなさい、と。だが俺は呆然と突っ立っていた。なにしろ、逃げるも何も何処へ逃げろというのか。目算にしておおよそ五キロメルトルはあるであろう距離だ。理性的に考えれば恐れる理由もない、そんな距離。だがその距離からでも把握出来る巨躯に脳髄が痺れるような恐怖を覚えた。気付けば俺は失禁していた。大気を震わせるプレッシャー。あれが何に対してあれほどの激情を示しているのかはわからない。天へと伸びる巨躯。鎌首を擡げた頭が周囲を睥睨する。

 

 目が合った、ような気がした。

 次の瞬間にはお袋は俺を抱えて走っていた。周囲を見渡し、そして俺を桶に捕まらせると囁いた。良い子だから大人しくしていてね、と。俺は井戸に落とされた。助けを求めるも母親は強ばった表情で微笑むのみ。桶に必死にしがみついて上を見上げる。二メルトルほどある井戸の側面は苔だらけで登ることなんて出来はしない。上へと手を伸ばす。お袋は唇を震わせ、何かを言おうとした。結局それは今となってもわからずじまいだ。次の瞬間、視界は真っ黒に染まっていた。

 

 光は消え、俺は落下してきた瓦礫に強かに頭を打って気を失った。お袋の末路はわからない。だが、予想は出来る。お袋は奴の息吹(ブレス)に巻き込まれて、骨も残さず焼き尽くされたのだ──。

 

 およそ二日間。

 それが俺が救出されるまでにかかった時間だった。誰かが俺を引き上げて、憔悴しきった俺の頬を撫でた。判然としない視界でも周囲の惨状は理解出来た。何も無かった。何も無かったのだ。俺が育った家も、牧草地も、村へと続く村も、全部消えていた。根こそぎ抉りとるように消滅していた。理解が出来ず、受け入れることも出来なかった。

 

 俺を抱える誰かが尋ねた。

 

 君の名前は? ──ネロ。

 そう。両親はどこに? ──わからない。

 

 それっきり言葉は交わさず、ぼんやりとした俺を抱えてそいつは焦土ではなく森へと歩を進めた。木の根元に俺を下ろすとぺたぺたと身体に触れ、少し思案した後に何事か呟いた。驚く事に身体の至る所から感じていた痛みがたちまち和らぎ、俺は目を白黒させながらしどろもどろに礼を言った。恐らくは魔術か何か。存在自体は知っていたが、俺の村にそんなものを使える奴なんていなかった。

 

 そこで初めて俺を助けてくれた誰かの事をはっきりと認識した。黒い髪を一本に結わえ、無造作に垂らした長身の女。ハードレザーの黒い革鎧を纏い、腰には長剣を佩いている。そして見たことも無い金色の瞳が酷く特徴的だった。ぽつりぽつりと会話しながら、女の名前を知った。雇われの傭兵であり、何が起きたのかを把握するために派遣されたのだと彼女は言った。

 

 堪えきれず俺は尋ねた。何があったのか。竜よ、と彼女は返した。

 竜が殺し合った余波で貴方の両親は死んだのよ。彼女は──アルは、無表情でそう告げたのだ。

 

 

「──起きたまえ!ネロくん!」

 

 鼓膜をぶっ叩くような声に目を見開く。混乱、そして光への明順応。凝り固まった筋肉と骨が呻き声を上げる。俺も呻いた。指に冷えた感覚──グラスが握らされる。ずるずると引き寄せて一気に呷れば、冷水だった。ひんやりとした液体が火照った身体に染みていく。間違いなく飲みすぎだった。

 

「ニール……」

 

 思った以上に嗄れた声が洩れる。禿げが目立つ小柄な男は盛大に溜息を吐いた。

 

「全く。父上も酒癖は悪かったが、立派に引き継いでいると見える。難儀な血筋だことだ」

「親父、が……?」

「そうとも。限界を越えて飲むのは家訓かい?」

 

 知らなかった。そこまでうちの親父と仲の良い人が村にいなかったからだろうか、親父の酒癖が悪かったなど全く聞いたこともなかった。そもそも俺の記憶には親父が酒を飲んでいた姿はない。外で飲んでいたのか。

 ……いや、そうじゃない。外が騒がしい。怒号と複数の足音。普通じゃない。咄嗟に腰元を探り、護身用でもある長剣が存在する事を確認する。乾いた唇を舐め、尋ねた。

 

「鐘は何回?」

「三度」ようやく血が回り始めた脳が、そう返事する昔馴染みの男の姿を認識する。着込んだ革鎧、そして梶の木で作られた弓がその手に握られていた。弦は当然張られており、軽く指に引っ掛けるようにして男は弾く。「つまり、魔獣だよ」

「俺も行きます」

 

 立ち上がって告げる。ニールは顔を険しくさせて首を横に振った。

 

酔っ払い(ドランクン)に助力を乞うほどに切羽詰まってはいない」

「言われるほど酔っちゃいない」

「そうかい、こっちは君が吐いた息を吸うだけで酔いそうだがね」

「ニールだって飲んでただろ!」

 

 かっとなって言葉を放った。その言葉に眉を顰めてニールが口を開いた瞬間、轟音が響き渡る。ぎょっとすると同時に頭蓋の内で反響しているような感覚に吐き気を覚えた。頭の内側からハンマーで殴られているかのような鈍痛。ふらつく足元に舌打ちし、腿に握り拳を叩き付ける。

 ……くそ。なけなしの魔力を振り絞って魔力を循環させる。こうする事で全身が活性化するが、それは内臓も例外ではない。重要なのはイメージだ。急速にアルコールが分解されていくイメージを想起しつつ息を吐く。多少はマシになった気がした。

 

「種類と数は?」

大狼(ダイアウルフ)だ。小規模な群れのようだから、十匹前後だろうが──」

 

 そこで口を閉ざす。響き渡る咆哮。しかしそれは酷く野太く、粗野で、しかし明らかに狼のそれではない。互いの強ばっている顔を見合わせる。

 

「誤って腕を切り落とすない事を祈る」

「ニールこそ、自分の脳天に射かけないようにね」

 

 どうやら酔っ払いに助力を乞うほど切羽詰まっている状況らしい。俺達は椅子を蹴り倒す勢いで酒場を出た。

 

 

 村のど真ん中を通る道を駆ける。近づくに連れて悲鳴と怒号が大きくなっていく。鼻を掠める血の臭い。角を曲がり東門が見える。

 

 松明の光を反射する数本の銀の光。冷えた夜の大気に吐き出される白い吐息は荒く、迸る咆哮が嫌でも鼓膜を揺らす。捻れながら天を指す角。背丈は三メルトルにも届こうかという赤褐色の巨躯を認めて目を見開く。

 筋骨隆々どころか常軌を逸して猛々しい肉体、その上半身を躊躇いなく晒し申し訳程度に下半身の局部を覆うぼろきれ。そして何より特徴的な、あまりに巨大なバトルアックス! 一体全体どこから拾ってきたと言うのか。

 もはや疑いようもない。その名が口から零れ落ちる。

 

「ミノタウロス……!」

 

 人型でありながら人とはまるでかけ離れた容姿に、俺はより一層顔を顰める。文献では知っている。だが実際目の当たりにすれば、その生命力に一瞬怯まされた。百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。原始的な暴力への恐怖、それを張り飛ばすように声を張って尋ねた。

 

「なぜあいつらが大狼(ダイアウルフ)を引連れてる!」

「躾たのだろう」

 

 きりり、と弦を引き絞る音。隣を駆けていたニールは既に矢を装填していた。彼我の距離は二十メルトル程度か。十分に射程内、とはいえ敵味方入り乱れている状況なら話は別だ。

 

「腐っても亜人という訳だ──!」

 

 だが、ニールは躊躇いなく弦から指を放した。蜂が飛び立つような音。大気を穿ちながら、矢はミノタウロスの頭へと吸い込まれるように飛んでいく。しかし眼にでも当たれば良かったのだろうが、硬質な音と共に矢は弾かれた。タイミング悪くやつが頭を振った結果、馬鹿でかい角に当たってしまったのだ。

 血走った瞳がこちらを認識する。ブモォ、と明らかに言語を発するのに適していない声帯から唸り声が漏れていた。丸太のような腕が戦斧を持ち上げる──頭にカッと血が上った。

 ……くそ、あの野郎!

 

「ニールッ!」

 

 思いっきり隣のニールを突き飛ばす。何かを訴えるような声と呻き声、そして鈍く打ち付けたような音もしたが気にしている暇はない。留め具を外し抜剣し、丹田──臍の少し上を意識しながら呼気を歯の隙間から押し出す。間に合うか。いや、間に合わせるしかない!

 

 夕闇を照らし出す松明の光。それに煌々と照らし出される戦斧は大きく振り上げられている。ぞくぞくと背筋を悪寒が走り抜ける。本能が死を直感している。思わず何もかも放り出して逃げ出してしまいたくなる衝動に駆られ、口角を無理矢理にでも上げて恐怖を押し殺した。

 お前程度に怯えていられるほど俺は暇じゃない。牛を恐れる人間が、どうして竜を殺せる──?

 

 渾身の膂力を込めて踏み込む。魔力の循環による存在強化、それだけでは足りないのわかっていた。半牛半人の怪物が、吼え猛りながら手にした斧をぶん投げる。着弾まで二秒とてかからない。まともに受ければ文字通りミンチと化す。冷えた夕闇の空気を引き裂きながら、銀の残光が飛来する。投擲された圧倒的質量。想起(イメージ)しろ。腹の底で渦を巻きながら循環していた魔力が腕を走り抜ける。依代は剣、対象は質量。タイミングは、今──!

 

「う、おぉぉぉぉお!?」

 

 ごぐわぁん、と聞いたことが無いような音が響き渡った。それも内外から同時に。外からでなく内からも、骨を通じて嫌という程鼓膜がぶっ叩かれる。

 鈍く、重く、そして脳髄まで揺らすような衝撃。生じた火花に一瞬目が潰れた。瞬間的にかかった負荷は骨がイカれたのかと思うほど。いや、実際イカれたのかもしれない。衝突は瞬間的だった。轟音と共に振り抜いた俺の剣は地面を割り砕きながら突き刺さり、斧は衝撃を殺しきれず地面を引き裂きながら、しかし誰に当たる事もなく、転がった後に停止する。半ば放心しながらそれを見ていたが、しかし唐突に走った痛みに俺は呻いた。

 

 手首に走る激痛。たまらず呻きながら地面に膝を着く。身体を襲ってきた虚脱感と疲弊に内心で罵った。蚤みたいな魔力のくせに、質量増加の魔術なんぞ行使した結果がこれだ。加減もなく剣にありったけを注いだ事で魔力は枯渇寸前であり、そして剣自身も刃の半ばまで地面に突き刺さっている。引き抜こうとして、やはり手首の痛みに妨げられた。

 

「ネロくん……!?」

「あいつは丸腰だ」

 

 震える声で、俺は間抜け面を晒しているミノタウロスへと顎でしゃくる。芯から響くような痛みにこりゃひびくらいは入ってそうだな、とじっとりとした脂汗をかきながら判断していた。ニールは神妙な顔で頷き、他の村の衛士達と共にやつを追い詰めていく。流石にミノタウロスと言えども丸腰では脅威度は半減……は嘘になるが、三割減くらいにはなる。後先考えずにブチ切れて唯一の得物を投げてくるあたり、知能は所詮亜人だとせせら笑った。まあ、たぶん痛みで引き攣っているだろうが。

 

 ……暫くすると歓声が聞こえてきた。頸を貫く銀の剣は遠目からでもはっきりとわかる。ミノタウロスはもがいていたが、そう長くも経たず動かなくなった。再び湧く歓声。はぁ、と溜息を吐く。

 

 異世界転生も楽じゃない。瞼が落ちないように必死に堪えながら、そう呟いた。

 

 



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2話

 

 

 

 半牛半人の怪物(ミノタウロス)──御伽噺でよく登場するメジャーな亜人ではあるが、ところがどっこいそう簡単に見かけるようなものではない。辺境も辺境でなければまず遭遇しない亜人種の魔獣(デミヒューマン・モンスター)だ。

 

 王国の最北端、村の北方にあり国境を形成する《果ての山脈(エンダーマウンテン)》。これを両国共に不可侵として暗黙のルールにしているのも、何も不用意な軋轢を避けたいからという理由のみだけではない。《果ての山脈》に巣食う魔獣の危険度が酷く高いのだ。故に誰も手を出さない。お陰で北の村の剣士達の練度は高い。低いやつから死ぬのだから当然とも言えるが。

 

 まあ結局、何が言いたいのかといえば──。

 

「ミノタウロス程度で怪我してちゃ、竜なんざ夢のまた夢だな」

 

 そう自嘲する。ランプの蝋燭に照らされるテーブルの上にはテーピングされた右の手首が鎮座していた。左も痛むといえば痛むが、右の方が酷い。捻挫程度であって欲しいと願っていたが、残念ながらニールの判断でもひびくらいは入ってるだろう、というものだった。

 そんな本人は禿頭を屋根の下に晒しながら、髭面を顰めてみせる。じろりとその眼が俺を見据えた。

 

「……助けられた手前だ、何も言わんよ」

「助けた甲斐はあったみたいだ」

 

 ちらりと机上の小瓶に視線を移す。今は空っぽだが、数分前までは透明感のある緑色の液体で満たされていたものだ。

 

回復薬(ポーション)とは、随分と気前が良い」

「命の恩人に惜しむ程のものでもない」

 

 低い声が唸るように言葉を紡ぐ。機嫌はよろしくないらしい。だが正直な話、回復薬を使うほどでもない。放っておけば二週間もあれば治るような怪我だと思う。

 そんな俺へ、ニールは叱責するように続けた。

 

「だからこそ、命を捨てるような真似はして欲しくない」

「わかってる。別に犬死するつもりはないよ」

「君が強くなったのは知っている。並の人間を上回る胆力と、それが傲慢さと言われないだけの強さを身に付けた。だが、竜殺しとなると──」

「ニール」

 

 痛みの和らいできた手首を少し揉みながら、その眼を見返す。数秒の沈黙の後にニールは目を逸らした。

 

「……三十分もしない内にテーピングもいらなくなるだろう。だが、今日は村に泊まっていきなさい」

「いや、それは」

「もう日は暮れている。夜の山登りは迂遠な自殺行為だ。例えネロくんでも、だ。それは君自身が一番よく知っているだろう」

 

 少し躊躇った後に、俺は首肯した。アルには悪いが、今日の晩飯は自分で作ってもらうしかなさそうだった。

 

 

 一刻もすれば、ニールの言っていた通り痛みはすっかり引いていた。ポーションは貴重品だ、あの小瓶ほどの量でも銀貨十枚はする程に。一ヶ月は食っていられる金額の商品である。少し後ろめたいような感覚に耐えきれず、俺はニールの小屋──正確に言うならば彼のような外部からの来客用である小屋から出て、どこを目指すでもなくぶらついていた。

 

 既に気分も、そして恐らくだが魔力も回復している。俺が唯一行使可能であり、アルから直々に教えられた魔術があの質量増加の魔術だ。質量魔法(グラムマギア)。属性は土、燃費は最悪。逆に質量を軽くする事も出来るがどちらにしろ対象に接触し、魔力を浸透させる必要がある。ちなみに俺はこれが致命的に下手だ。慣れ親しんだ愛剣ですら、魔力を十分に行き渡らせるのに二秒近くかかる。接近戦では致命的だろう。アルのように卓越した魔術行使は出来ない。

 

 ……そう考えると、アルという己の師がいかに規格外なのか思い知らされる。剣も魔術も俺が今まで見た中で最高峰。それがなぜ流れの傭兵なんざしているのかは知らないが、俺は恐らく元は士官していたのではないかと睨んでいる。ただしアルは自身の過去を語ろうとしない。そして、俺もあまり詮索しようとはしない。師である女傭兵の過去は気になるが、語りたくない過去を無理矢理掘り返すほどの好奇心でもなかった。

 

 そんな事を考えながら夜空を見上げ、冷えて白く濁った息が立ち上っていくのをぼんやりと眺めていると、背後から声が聞こえた。

 

「何してんだ、ネロ」

 

 振り向けば、薄い金髪を短く刈り込んだ男が仏頂面で立っていた。薄い髭はあまり手入れされている様子もない。村一番の若手であり、そして村一番気難しいやつだ。

 

「クレーロ」

「今日は大活躍だったらしいじゃないか」

 

 口の端を僅かに歪める。それが奴にとっての笑みであることを俺は知っていた。クレーロ・ローレル。ローレルの姓を持つ、というか村で唯一姓を持つ家系である事からわかるように、村長の息子であった。つまり次期村長。

 

 ……俺のお袋も村長の家の出だ。血筋だけ考えれば、一応クレーロは俺から見て叔父、奴から見れば甥に相当する。ただし互いにそこまで意識しているかと言われれば、答えは否だ。歳もそう離れてもいない。

 

「斧を弾いて、手首を痛めただけだ」

「知っている」

 

 知っていて言うあたりイイ性格をしている。

 ……まあ、そういう男だというのはよく知っていた。俺より大体三つは歳上の男は、背負っていた皮袋をどさりと下ろした。血臭、そして獣臭。半分答えはわかっていながら問う。

 

「何してたんだ」

大狼(ダイアウルフ)の皮を剥いでいた」

 

 歯を剥き出しにしてクレーロは唸った。

 

「大狼の皮は、高く売れる。それだけではない。彼らの牙は首飾りに。骨は鏃に。肉は食える。実に生産性が高い」

 

 それで笑ってるつもりか。そんな言葉を呑み込む。

 

「ミノタウロスは?」

「あれは──」

 

 眉間に皺が寄る。この顔はよくわからない。何せ、感情表現のうちおよそ八割がこれなのだから。鉄面皮のクレーロとはよく言ったものだと思う。

 

「亜人だ。亜人は呪われている」

「燃やすのか」

「そうなるだろう」

 

 奴はぐっと首を擡げた。これは──なんだ? 得意げなのか? 亀よりも感情が読みにくい男だ。

 

「火神に捧げる」

「勿体ねぇな」

 

 亜人は神に呪われている。珍しくもない、北の迷信……というか、信仰みたいなものだ。その肉は大地を穢し、その血は大気を腐らせると彼らは信じている。だから剥ぎ取らないし解体することすら毛嫌いする。

 まあ、わからなくもない。牛頭で馬鹿でかい人型の化け物を見れば、呪われているとも思うだろう。昔母が語ってくれた話を少し思い出した。七つの神を裏切り、世界に混沌をもたらした傲慢な人間達のグループ。結果的に呪われ、彼等は言語を失い、子孫末代まで異形の容姿へ変えられたのだとか。そして神の恩寵を受ける人間達を憎んでいる。

 

 ……別に信じちゃいないが、魔法も魔力もある世界だ。本当に神がいたとしても驚きはしない。

 

「ヤツらは穢れている」

 

 唸るように彼は告げた。

 

「《ruby》腸<rt>はらわた</rt></ruby>を晒せば空気は腐り落ち、たちまちそこは不毛の地となり──」

「わかったクレーロ、そこまでだ」

 

 うんざりして諸手を挙げる。こいつは鉄面皮な上に少し、信心深いところがある。まあ北部人にはよくある事だが。自然の脅威に常日頃から晒されていれば神でもなんでも祈りたくなるものだ。

 

「俺が悪かった。だからその三日は続きそうな説教はやめてくれ」

「不信心者め」

 

 薄い焦げ茶色の瞳が俺を睨みつけた。

 

「七神に見放されるぞ」

「そんだけ信心深いなら<ruby>神官<rt>プリースト</rt></ruby>にでもなったらどうだ」

「一度は考えた」

 

 考えたのかよ。少し呆れてやつを見る。

 

「だが父は許さなかった。男子はオレだけだ。村長を継ぐ義務がある」

「親不孝者にならなくてよかったな。村長になったら神殿でも建てとけよ」

 

 言った後に本当に建てそうだな、と思ってげんなりしてしまう。クレーロはあまり冗談が通じさないタイプの人間だ。本気にされても困る。

 

「訂正。やっぱやめてくれ。景観を損ねる」

「お前はオレをなんだと思っているんだ」

 

 じろりと睨みつけられる。

 

「そんな余裕などこの村にはない」

「……まあ、そうだな」

 

 視線を地面に落とす。道端に少し雪は残っている。ろくに舗装もされていない、ただ人の足で踏み固められて出来た道だ。話に聞く王都とはまるで比べ物にならない。

 道だけではない。木造の家屋、手押しポンプすらない堀井戸。村人が欲しているのは教会なんぞではなく、即物的かつ利便性の高い何かだ。

 

「七年前の竜騒ぎで村の東が消滅した。この村を出て行った者も多い。領主様の好意で税は免除こそされているが、それもいつまで続くかわからない」

 

 ──この村の人口は、現在では百にも満たない。

 かつては三百人はいたであろう辺境の寒村は、七年前の騒ぎによってもう耐えられないと村を出ていった人間により数を減らしていた。元より強力な魔獣の出没により安全とは言い難い地域だ。これを機に他の地を求めるというのは納得できる話だし、咎めるつもりもない。

 何より、そんな権利が俺にあるはずもない。農夫の仕事もせず、素性も知れない傭兵に弟子入りして山に閉じこもっている俺なんぞに──。

 

「ネロ。戻ってこい」

 

 何かを返そうとして、しかし喉元で引っかかったまま止まった。ただ息を吐き出すだけ。大気が白く濁る。

 

「もうお前も十六だ。オレもな。狩人のケッセナーは後継を探しているらしい。お前の腕なら問題はない」

「……クレーロ」

「両親を亡くしたお前の境遇には同情する。だが、無理だ。竜殺しなどまるで現実的ではない。そもそも肝心の竜はまるで音沙汰がないときた。領主様は調査の兵を送ってくれたが、結局足取りは掴めなかった」

「クレーロ」

「もう十分だろう、ネロ。お前も地に足をつけるべきだ」

「クレーロ!」

 

 胸倉を掴みあげる。食い縛った歯が軋んだ。クレーロはやはり無表情で俺を見下ろしていた。毛皮の外套の襟を引き寄せ、囁くように告げる。

 

「やめろ。それ以上言うなら、殴ってでも黙らせるぞ」

「……わかった。離せ」

 

 突き放すようにして開放する。瞑目し、昂った気を無理矢理押さえつける中、ぽつりとクレーロは呟いた。

 

「ネロ。ひとつ聞いていいか」

「なんだよ……」

 

 明らかに不機嫌そうな俺の声に押されたのか。不思議なことに、奴らしくもなく、少し躊躇いがちに言葉は紡がれる。

 

「お前が師事している……アル、とか言う女。一体何者なんだ」

「あ?」

 

 質問の意図が読めず、俺は眉を顰めた。

 

「何者も何も……師匠だけど」

「そうじゃない。何処の、誰だという話だ」

「出身の話か? 知らねぇけど。転々としていた傭兵らしいからな、昔のことも話さねぇし」

「傭兵、か……」

 

 顎に手を当てて考え込む昔馴染みの男に、俺は少し苛立って話しかける。

 

「おい、なんで今そんな事を聞くんだ」

「……まだニールから聞いてないのか」

「聞くって、何を──」

「あのミノタウロスが持っていた、バトルアックス」

 

 腕を組み、俺を見据えながらクレーロは続ける。

 

「自然のものだと思うか」

「な訳ねぇだろ。亜人にあんなもの、作れるわけが無い」

「だろうな。つまり何処からか引っ張ってきたわけだ。何処だと思う?」

「そりゃ……遺品だろ。冒険者とか、傭兵の」

 

 それが一体なんなのか。話の着地点が見えず、語気が少し荒くなる。

 

「そうだな。この村で作られたものではない。戦う為だけに作られた斧だ。しかもかなり質が良い。それなりの純度の真金(オリハルコン)合金だろう」

「そりゃ──」

 

 随分な高級品だ。思わず目を丸くする。真金などここらではまず出土するものではない。ミノタウロスにはまさしく豚に真珠、牛に真金(オリハルコン)という訳だ。使いこなせるわけが無い。

 ……そう、並の冒険者ではそんなものは使いこなせない。そもそもそんな武器、間違いなく銘のある品だ。ここらでそんなものを振り回していれば嫌でも有名になるだろう。さぞ高名な冒険者の、武器──。

 

「ニールは持ち主を知っていた。《嵐斧》のアルデルフィーネ、彼女は傭兵ギルドでもかなり高名だったようだ。彼も驚いていたよ」

 

 ……喉が、嫌に乾く。

 

「通称、《不死王殺し(リッチスレイヤー)》のアル。七年前、彼女をこの村の近くまで運んだのはニールだ。なんの用かは知らないが、しかしあの斧は間違いなく彼女のものだろうと」

 

 ……頭が痛い。こめかみを抑えた。

 

「詳しく聞いた。ニールが知っているアルとは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしい」

 

 違う。

 アルは、闇に溶け込むような黒髪を背の半ばまで下ろした、金の瞳をした女で──。

 

「もう一度聞くぞ、ネロ」

 

 淡々と。嫌になるほど無感情な声が問う。

 

「お前の師事しているその『アル』という女は、一体何処の誰なんだ?」

 

 

 

 闇の中、月だけが照らす獣道を駆ける。

 

 ニールには止められた。だがこんな不安感を抱えたまま一夜を過ごすのはごめんだった。魔獣と遭遇しても問題ない。一応は夜間の戦闘も想定した鍛錬はしているし、夜目は利く。降りでも一時間はかかった山を、全速力で駆け上がる。魔力を運用した体術を修めていなければとっくに体力は尽きていただろう。魔力運用、魔術行使、剣術、体術──その何れもが彼女に教えられたものだ。七年かけて叩き込まれた数々の技術。その全ては本物で、そうでなければ俺は少なくとも五回は死んでいた。今日だってそうだ。ミノタウロスの戦斧の投擲、受け流せていなければ間違いなく命を落としていた。

 

 だから──きっと、クレーロの話は何かの間違いなのだ。

 

 例え容姿が違っても。得意とする得物が違っても。彼らの知るアルがとうの昔に死人になっていたのだとしても。俺が七年間師事していた女は、間違いなくアルであって──。

 

「……なん、だってんだよ……」

 

 足が重い。指先は冷え、限界を迎えつつある喉が笛のように鳴る。だがその甲斐あって、驚くほど短時間で鬱蒼とした森を抜けた。幸いなことに魔獣とも遭遇せずに済んだ。灯された明かりが漏れる小屋の窓が見える。

 

 ばくばくと早鐘を打つ心の臓。春に近いとはいえ冬場だと言うのに滝のような汗、そして額に張り付く髪を指で払いながら進む。そしてもう見慣れた丸太小屋の扉に手をかけて……一瞬、躊躇った。

 ……いや、何を躊躇う。頭を振った。ここはお前の家だ。奇妙な不安感を振り払うかのように強くノブを握り締め、扉を開ける。

 

「遅かったわね。もう戻らないと思ったのだけれど」

 

 あまりにも聞き慣れた声だった。俺は少し呆けたまま彼女を見つめる。

 手にしていた本を閉じ、その瞳が俺を捉える。まるで金を溶かしたような、煮詰めたような色の瞳だ。俺と同じ墨を流したような黒髪。何も変わらない、俺の知るアルが暖炉の傍に座っている。

 

「呼吸が荒いわ。走ってきたの?」

「……ああ。こんだけ早けりゃ、魔獣も寄ってこないだろ」

 

 そう返せば、彼女は微笑を浮かべた。

 

「そうね。逆に警戒するでしょう。その疲弊具合を除けば、賢いやり方かもしれないわね」

 

 上着を脱いでラックに掛けると、俺も椅子に座り込む。何を言うべきか頭の中でまとまらず、思考の糸は混線し、結局言葉を発せずに口を閉じる。そんな行為を繰り返して、数度。

 

 ……どのくらい経っただろう。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音が沈黙を尚更主張する。しかしアルは何も言うこと無く、やはり穏やかに火を眺めていた。それはある種の永劫性をを孕んでいるように思えた。即ち、ずっとこうしていたのではないか、という疑念。思わず苦笑する。そして、机の上に食器も何も無いことに気付いた。

 

「なあ、飯は食ったのか」

「いいえ。作るのは貴方の役目でしょう?」

「いや、だからってお前な……もう十一時だぞ」

「そうね。随分と待たされた」

 

 穏やかなその瞳の奥に、火が散った。ぱちりと暖炉の火が大きく弾ける。

 

「七年間、貴方といて退屈する事はなかったわ」

「そうかよ。そいつは良かったな」

「ええ。きっと……そうね、初めての経験だった。人に物を教える事は新鮮で、難しくて、これまでにないくらい考えさせられたわ」

「……アル」

 

「同時に面白かった。剣も魔術も知らない子供が成長していく様は、なんというか……ええ、恐らく子供を持つというのはこのような感覚だったんでしょうね。毎日が本当に新鮮だった。目まぐるしい……そう、目まぐるしい日々」

「アル」

 

 何が面白いのか、くすくすと笑うアルに向かって俺は問う。

 

「なあ、教えてくれ。あんたは何処の、誰なんだ」

「私の名前はアル。それだけで十分ではないかしら」

 

 今まではそれで納得していた。だが、もう十分ではない。気付けば口走っていた。

 

「今日、ミノタウロスが出た。斧を持ってたんだ。その持ち主もアルだった……くそっ! 違う、アルって名前だったんだ。つまり、死んでたんだよ。ニールが知ってる傭兵アルは死んでいたんだ。けど、俺の知ってる『アル』はここにいる」

 

 その瞳を真っ直ぐに見つめる。彼女は穏やかな微笑を湛えたまま、俺を見つめ返していた。

 

「あんたはニールの知っている傭兵アルじゃない。じゃあ、ここにいる『アル』は誰なんだよ」

 

 彼女は何も言わず、ただ微笑んでいた。暖炉の火の音が嫌に耳につく。膨れ上がる焦燥感。声が震える。

 

「頼む、教えてくれ。あんたは──」

「ネロ」

 

 薄い唇が言葉を紡ぐ。黒いシャツにズボンといった簡素な格好をした女が立ち上がる。荒々しさすら感じる美貌が窓の外を見つめた。冷たい外気に襟元が揺れ、俺は思わず肩を竦めた。だが彼女は微動だにしない。何も感じていないかのように、その横顔は彫像の如く静止していた。

 

「昔の話をしてあげましょう」

「……あんたの話か?」

「いいえ。もっと前……そうね、およそ──」

 

 二千年前にまで遡るわ。

 彼女はそう嘯いた。

 

 

 竜が最も栄えたのは二千年前。かつては《黄金の時代》と呼ばれた頃のこと。想像も出来ないでしょうね。今、この地上で一番古い国でも五百年の歴史しか持たないもの。

 ええ、そうよ。貴方が知るように、竜はもう滅んだの。とっくの昔にね。

 

 彼らが滅んだ理由はいくつか主張されてるわ。

 環境に適応出来なくなった、身内で大規模な抗争が起きた、自ら滅びを望んだ……ええ、そのどれも間違ってはいないの。竜は旧くから生きてきた種族であり、最も強大で完成されていた。空を駆ける翼を持ち、鱗と牙と知性を持つ生き物。神が創った最高傑作こそが竜よ。だからあの時代は黄金時代と呼ばれていたの。

 ただ、栄華の時代は永遠ではなかった。栄枯盛衰は常の理。

 ……神は竜を選ばなかった。それだけの話だけれどね。選ばれたのは、牙も鱗も持たぬ毛の無い猿。そう、人間よ。

 

 言わずとも、語らずとも竜達は理解していた。星は変わりつつあった。竜の為、魔力を豊富に含んでいた大気は薄れ、火を噴く山は鎮火し、荒れていた海は凪いだ。吹きすさぶ暴風はそよ風となり、降り注ぐ豪雨は時折になった。全ては変わっていった。

 ……竜は緩やかに滅びを受け入れた。星の主は人であると定められた。竜は時代の遺物に過ぎない。一体、また一体と倒れていった。さらに聖竜と呼ばれる自滅因子(アポトーシス)をも抱えた竜達は、最後の数頭になるまで数を減らした。それでも、彼らは一頭ずつその姿を消していった。

 

 雄々しき赤。彼は草原を平定した蛮族の王によって、百万の軍勢と激突した後に果てた。

 悠々たる青。彼女は果てを目指した征服者と対話し、数年にも及ぶ討論の末に納得し、自死を選んだ。

 朗々たる緑。彼は次を生きるもの達の苗床となることを選び、その肉体でひとつの大陸を豊穣な大地へと変えた。

 煌々たる紫。彼女は一人の人間との間に熾烈な愛を育み、そして伴侶の死に耐えきれず星の外へと姿を消した。

 

 残されたのは、裏切り者の白。そして最後の竜だった。

 その竜は許せなかった。ええ、許せなかったのよ。滅びは必定。神が定め、星が決めたこと。それは誰にも変えることはできない。しかし人間に与し、親兄弟を屠った白い聖竜への憎悪は彼女を狂わせた。

 竜は白へ牙を剥いた。何度も彼等は争ったわ。互いを傷付け、傷を癒す為に逃げて、そして再び殺し合う。大陸を巻き込むような争いを六度繰り返した。そんな彼らが最後に激突したのは……そう、五百年前。ただ、最後の戦いは本当に酷いものだったわ。知っているでしょう? 《暗黒の時代》よ。仔細は省くけれど、そうね。人間の国がいくつ滅びたかもわからないわ。何せ大陸の一部が吹き飛んだのだもの。ただ結果的には決着こそつかなかったけれど、双方が深く傷付き、彼らは眠りについた。

 ……三百年の時を経て、先に目を覚ましたのは黒い竜だった。その世界に白い竜はいなかった。

 彼女は酷く落胆し、そして──死に場所を求め始めた。

 

 悠久を生きる目的を見失い、さりとて自死する事は矜持が許さない。己を討つに足る英雄を求めて竜は各地を放浪した。

 二百年の内、彼女に挑んできた英雄は十二人。鱗に傷を付けたのは四人。血を流させたのは三人。そして、喉元にまで迫ったのは僅か一人。それでも、彼女は生き残ってしまった。

 

 ……やがて竜は不死王殺し(リッチスレイヤー)として名高い女傭兵に追われて辺境の地に辿り着いた。余波で麓の村の一部が消えたことなど気にも留めていなかった。足元の虫を気にしながら戦う戦士はいるかしら? いないわよね。同じことよ。

 戦いは早々に決着し、傭兵は痕跡すら残さず消し飛ばされた。自身の足元にも届かなかった人間の弱さを嘆いていた竜だったけれど、地下の井戸に隠されていた一人の子供の存在に気づいてしまった。本当に弱々しくて、吹けば飛ぶような生命。殺すまでもなく死に至るような弱者だった。だけど、竜はふと気付いてしまった。

 

 もはや英雄などいない、ならば英雄をこの手で作り出せばいい。

 竜をも殺す英雄を、竜の手で育てる。ええ、そうね。あまりに狂気的な発想かもしれない。そもそも竜の身で子を育てることは出来ないでしょう。何せ、竜は少年にとって親の仇。

 

 ──だから、黒竜は人に化ける事にした。

 名は竜が踏み潰した塵芥の如き女傭兵から。

 姿はかつて死闘を繰り広げ喰らった──唯一彼女の喉元にまで辿り着いた──二百年前の剣聖から。

 

 竜は決めていた。ええ、決めていたのよ。己の正体を嗅ぎつけるまでは手元で育てようと。期限はそれまで。

 そして七年後の今日、この時。仇によって育てられてきた少年はついに気付いてしまった。

 

「《最後の黒(リーサルブラック)》」

 

 囁くように彼女は告げる。

 

「《黄昏の王》《ペルセポネの槍》《偉大なる終焉》《最果ての一翼》《深淵より暗く、闇より深き者》……私を呼ぶ名は多くあるけれど。本当の名前を知る人は案外少ないのよ」

 

 懐かしむようにそう言うと、彼女は瞑目する。それはこれまでの生を懐かしんでいるかのようで。金縛りにあったかのように、俺の舌は凍ったまま動かない。

 

「私の名はアル……いえ、もう違うわね」

 

 ゆっくりと瞼が上がる。

 座したまま、金をどろどろになるまで溶かし煮込んだような瞳が──俺を見据える。

 

「私の名前はアルバ=ダァト。偉大なる竜族の血を継ぐ、最後の一翼よ」

 

 その縦に裂けた瞳孔には、まるで途方に暮れたような少年が映り込んでいた。

 

 



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3話

 

 

 

「……冗談じゃ、ないんだな」

「ええ。全て本当のことよ」

 

 不自然なほど穏やかに。そして、自然体でアルはそう言った。まるで明日の昼食について話すかのような穏やかさに自分がおかしいのではないか、という錯覚すら抱いてしまう。

 

 艶やかな漆黒の髪に金色の瞳。黒いシャツ、そして革製のベルトで支えられた黒いブレー。上下共に黒い衣服を纏っただけの簡素な身なり。見慣れた姿だった。見慣れた女だった。

 だというのに……足が竦んで動けない。舌が乾く。一言を発するのにも体力を消耗する。

 

「貴方の両親を殺したのは私。村の東を消し飛ばしたのも私。加えて言うなら、《果ての山脈》の魔獣が活発化しているのも私の所為よ」

 

 竜とは魔獣の王である。

 魔力を喰らい、莫大な炉心をその身に宿す生きた巨大兵器。そのおこぼれに預かろうとする魔獣が寄ってくるのだと、かつて聞いた話を思い出した。

 

「どうしたの、ネロ。貴方は私を探していたんでしょう? ほら、ここにいるわ。私が全ての元凶。貴方の運命を狂わせたのは私よ」

「……わかんねぇ。わかんねぇよ、アル。お前は、なんで……」

 

 頭が痛む。俺を苛むかのように、脈打つような痛みが蝕んでいる。

 アルは竜で、両親の仇で、育ての親。くそ、意味がわからない。何を言っているんだこいつは。馬鹿を言うんじゃないと笑い飛ばそうとするも、奇妙に顔が歪んだだけに終わる。

 

「そう……実感がないのね」

 

 声色低く。彼女は残念そうに呟く。その言葉に何かを返そうとして。

 

 ──瞬間、暴風が室内を吹き荒れた。

 撒き散らされる轟音と衝撃。舞い上がる埃に視界が塞がれる。思わず腕で顔を庇った。室内の家具や食器がぐちゃぐちゃになって壁に叩きつけられる。破砕音が鼓膜を突き破らんばかりだ。咳き込みながら不意に感じた寒気に身震いする。いや違う、これは──。

 

「これで理解できたかしら」

 

 あまりにも巨大な風穴がそこにはあった。

 家の壁が丸ごと吹き飛んでいる。圧倒的な暴力の痕跡。頬を伝う血に俺は少し呆然としていた。指の腹で傷跡をなぞる。微かな痛みが走った。恐らくは食器の破片が掠めたのだろう。

 

 この破壊を齎した張本人へ視線を向ける。見れば、彼女の右腕から先は奇妙に変異していた。捲りあげた袖の先、肘から下は歪な変形を遂げていた。黒い鱗、捻れた鉤爪──人間の肉体とはあまりにちぐはぐな腕は不気味なグロテスクさを孕んでいる。自然と呟く。

 

「竜の、腕──」

 

 目を疑うも、目前の光景は変わらない。疑いようもなく。どうしようもなく、それは竜の腕としか言い様のないものだった。奇妙にてらてらと光を反射する鱗は黒曜石のように艶やかであった。透明感を湛えながらも墨を流したような漆黒のそれは、彼女の髪色とまるで同じだ。

 

「さ、かかって来なさい。貴方の仇はここよ」

 

 にこやかに、もうこれで阻むものはないだろうと言わんばかりに、彼女は腕を広げた。それは抱擁を求めるようでいて、しかしそうではない。何やらかちかちと奇妙な音がしていた。それが己の口から発せられたものだと気付くまでに少し時間がかかったのは、やはり今の状況に現実感を覚えていない証か。歯の音が合わず、戦慄く唇に合わせて音は響く。

 

 ……そうだ。俺は恐れているのだ。その暴力に、ではない。その理解不能な思考と行動に恐怖していた。俺の知っているアルではない。顔も姿も同じだけの別物としか思えない。掠れた声で問う。

 

「わからねぇよ、アル。なんでこんな唐突に、お前は」

「……? 何を躊躇うことがあるのかしら。仇討ちを望んでいたのは貴方でしょう?」

「躊躇わねぇわけがないだろ!」

 

 本気で言っているのだろうか。本気で言っているんだろうな、と冷めた部分が判断する。

 

「七年間だぞ」

「ええ、そうね」

「七年一緒に生きてきたお前を、そんな簡単に斬って捨てる事が出来るわけが、ねぇだろうが!」

 

 顔が歪む。当然の話を、当然の理屈を吐き出している。だが彼女の表情は変わらない。だが、すぐ何処か納得したように目を丸くする。

 

「ああ、なるほど。そういう事ね」

「アル──」

 

「足りないのは実感じゃなくて」

 

 本能が絶叫する。

 硬直する筋肉。眼筋はかろうじて動き、俺のすぐ真横に立っている影を認識していた。振り上げられた腕が俺に影を落とす。

 ──死

 

()()()の方だったみたいね」

 

 思考が、認識が、己を己であると規定する自我が一瞬断絶していた。

 気付けば空が見えていた。鈍く打ち付ける音共に背に衝撃が走る。平衡感覚がトんでいた。口の中は鉄の味で溢れ、たまらず口を開けば胃液が零れ落ちる。喀血していないあたり内臓に損傷はないのか。動悸が激しい。脚は生まれたての子鹿の如くぶるぶると震え、拳を地面に打ち据えることでかろうじて上体を起こす。

 荒い息が白く染まる。ここは、外だ。ようやく認識が現在に追いついた。

 

 ……ただ、手で払っただけ。本能が防御を選択したからこそ、俺はこうしてまだ生きている。俺自らの意思で防御した訳では無い。全ては防衛本能のなせる技。

 つまりは、偶然。二度はない。さくさくと雪に覆われた地面を踏みしめながら、絶対者は近付いてくる。

 

「ほら、忘れ物よ」

 

 どさり、と。何かが俺の傍に放られた。剣だ。しかし鞘に罅が入っている。あの攻撃を受け止めたのはこれだったのだ。だからこの程度の軽傷で済んでいる。

 

 ……俺の、愛剣。十歳になった俺へ、アルが寄越した長剣。

 

「さて。今度こそ理解したかしら? 私は竜。貴方は人。選択肢なんてないのよ。わかったならほら、早く立ち上がりなさいな」

 

 十歳の俺にはあまりに大きすぎる長剣だった。

 俗に言う片手半剣(ハーフ・アンド・ハーフ・ソード)。片手でも両手でも振るうことの出来るそれの通称は雑種の剣(バスタードソード)。半端な武器かもしれないが、しかしそれは俺が持ち得る唯一の財産だ。

 

「ネロ?」

 

 毎日欠かさず剣の手入れを行ってきた。俺の得物だから。違う、本当は違う。当たり前の話だ。そう、当たり前の話なんだ。

 

 家族からの贈り物を大切にするなんて、至極当然のことだろう──?

 

「……無理、だ」

 

 気付けば、そんな言葉が零れ落ちていた。

 

「無理に、決まってんだろ。家族なんだぞ。それがいきなり竜だの、仇だの。わけわかんねぇよ。斬れるわけがないだろうがよ」

 

 重苦しい沈黙が降りる。

 風が山の上から下へと吹いていく。アルは暫く黙したまま俺を見下ろしていた。その表情は月光の影になっていてわからない。震える手を伸ばして剣を引き寄せる。

 ぽつりと、不意に彼女は呟いた。

 

「わかった」

「……アル」

 

 顔を向ければ、彼女はこちらに背を向けていた。両腕は竜の腕へと変化している。俺は呆然としたまま、黒いシャツを着たその背を見つめる。

 

「ええ、よくわかったわ。貴方は家族だから私の事を斬れないと、そう言うのね」

 

 やっと理解してくれたのだろうか。俺は目を見開き、そして──。

 

 

「なら私は、あの村の住民を一人ずつ殺していくわ」

「──────ぇ」

 

「手足を捥いで、焼いて止血して。いえ、その前に爪を剥がして骨を砕く必要があるのかしら? 拷問なんてしたことが無いけれど、ええ、頑張ってみましょう」

 

 ……なにを、いっている。

 

「貴方に聞こえるように、一人ずつ丁寧に殺していくことにしましょう。そうね、懇願し哀願する声が届くように歌わせましょうか。えっと、あの村には何人いたかしら。確か九十六人? なら一人につき一時間もいらないわね」

 

 ……このおんなは、なにを。

 

「大丈夫。絶対に逃がさない。必ず一人残らず鏖殺してみせる。ええ、黒竜アルバ=ダァトがここに誓うわ」

 

 ………………………………。

 …………………………ェ。

 

「老若男女問わず、赤子に至るまで」

 

 ………………ぞ、てめェ。

 

「必ずや殺し尽くして──」

 

 

「ぶち殺すぞ、てめェェェェェ!!」

 

 吼えた。月光の下で火花が散る。もはや身体の痛みなど吹っ飛んでいた。弾けるような衝撃と轟音。竜腕を差し込んだ防御の奥で、三日月を描く口元。蕩けた金の瞳。女は笑っていた。

 その全てが、腸が煮えくり返る程に憎らしい。

 

「お前は──お前が──ッ!」

「ふ、ふふふ、ふふふふ──!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 そういう奴だと知っている。本気なのだと気付いて絶望した。悪意なき悪。理由なき悪徳。その姿が七年前に見た黒い影と重なる。

 親父を、お袋を。骨すら残さず消し飛ばしたあの息吹(ブレス)

 両親の仇(アルバ=ダァト)が、そこにいた。

 

「アァァァルゥゥゥゥゥ──!!」

 

 怒りに身を任せた剣撃。間断なく爆ぜ散る火花。だが激情に駆られながらも、すぐに違和感に気付いた。奴は馬鹿正直に全てを受け止めていた。普段の鍛錬ならば全てを躱していたあいつが、だ。

 ……ぎり、と歯が軋む音。脳髄が沸騰するような憤怒。竜腕を蹴りつけながら、殺気立って睨みつける。

 

「加減のつもりかよッ!」

「愚問ね、ネロ」女はチッチッと舌を鳴らす。「私は竜よ」

 

 答えになっていない。だが、言わんとすることは理解した。

 今の奴は『竜』だ。『人』ではない。人の技など使わない。

 技も何もなく、ただ圧倒的な力と速度で捩じ伏せ、押し潰す。剣技などという小細工に頼るまでもない。最短で最速を駆け抜ける竜腕。

 

 ──その全てが、吐き気がするほどの、傲慢。そう認識する。

 

「嘗め、やがって──!」

 

 腹の底で滾る憤怒。力みすぎた結果、少し剣筋が外れたのを自覚する。その隙を縫うようにして竜の拳は大気を引き裂きながら放たれる。首筋を掠める一撃。修正しながら返しの一閃は難無く受け止められた。

 

 ……怒りを飼い慣らせ、ネロ。

 冷静な自分がいる。怒りとは点火剤だ。それに振り回されるべきではない。思い出せ。

 ──グリップは緩く。小指を締めるように。脇を開くな。

 そろそろ目も慣れてきた。直撃すれば即死に至らずとも骨の数本は確実に持っていかれる一撃を、数センチメルトルの差で、躱す。

 ──重要なのは足捌き。弧を描くように、常に中心点を置きながら彼我の間合いを保て。

 

 驚きに見開かれる金の瞳。不用意な斬撃を避け、回避に注力する。気付けば何のことは無い、竜の一撃に等しい腕力であろうとも攻撃範囲や関節の限界点は人と同じだ。

 ……大振りな一撃は当たらない。動作(モーション)は最小限に。接触面積を広げる必要はない。

 全部あんたが教えたことだ、アル。急所を的確に狙う拳は、その経路も想定しやすい。故に誘う。奴は必ず乗ってくる。理由は単純だ。竜故に。その傲慢さを抱いたまま死ね。

 ……身体能力差が激しいならば、狙うべきは後の先(カウンター)

 

 全体重を載せた一撃をそのまま返す。狙いは奴も理解しているだろう。その上で、やはり乗ってきた。爛々と輝く縦に裂けた瞳孔。黒い鱗は艶やかに月光を反射する。俺の心臓を貫かんとする一撃。重心は軸ではない足に。

 ………今ッ!!

 

「う、ぉぉぉぉおおおお!」

 

 掠めただけで身体が木っ端のように吹き飛びそうになる。皮はおろか肉ごと頬が抉られる。だが、感覚はあった。確かに奴の胴を剣が捉えた。距離を取って構え直す。重傷とはいかずとも、あの勢いをそのままカウンターに変換したのだから───。

 

「…………く、そったれが」

 

 振り向いた先で、奴は薄く笑っていた。

 襤褸となった黒いシャツの残骸を剥ぎ取り、その上半身が露わになる。

 

「ネロ。狙いは悪くなかったわ」

 

 右の脇腹。黒い鱗の上を、一本の筋が痕として刻まれていた。鉤爪がその上をなぞり、彼女はくすくすと笑う。確かに痕はあった。だがそれだけ。俺が決死の覚悟で与えた一撃は、かすり傷にも満たない。あまりに理不尽な結果に頬が強ばる。俺の右頬の傷から溢れる違う鎖骨にまで垂れていた。

 

「けれど残念。私は竜なのよ」

 

 うなじから乳房、そして脇と腹を覆う黒い竜鱗。目を背けたくなるような艶やかさと不気味さを内包させた姿がそこにあった。

 この世の何よりも堅牢な天然の鎧が刃を阻んでいる。唯一それがないのは喉、そして胸の中央のみ。

 

 ……無理だ。そんな見え見えの急所を悠長に狙って穿つような暇も隙もない。ならどうする。先程と同じ場所に、全く同じ場所にもう一度斬撃を──駄目だ。そんな絶技、出来たら苦労しない。そしてあいつは傲慢だが馬鹿ではない。同じ形のカウンターに引っ掛かるはずが無い。

 

「さて、準備運動はここまででいいでしょう」

 

 (アル)は艶然と笑う。彼女の踏み込みに耐えられなかったのか、既にブーツもその形を成してはいない。だがやはりその足を覆うのは黒い竜鱗であり、それだけで凶器に足ると主張している。

 

「私を失望させないで頂戴ね、ネロ」

 

 絶望感を振り払うようにして、俺は吼えた。

 

 

 気合と根性で何とかなるような相手ではない。

 膂力は当然、防御能力も向こうが上。加えて問題なのは奴の無尽蔵な体力だった。季節は冬の終わり、峠こそ越えたが夜間の寒さは尋常ではない。汗を吸ったインナーが急速に体温を奪い、ただでさえ圧倒的な体力差は更に開いていく。それでも動けているのは魔力による強化故だ。

 

 ……《加速法(アクセルギア)》。奴はこれをそう呼んでいた。自己魔力(マナ)は魂魄から剥がれ落ちた代謝より生じるもの。人間が体内から生成できる魔力はたかが知れている。故に重要なのはそれを如何に運用するかだ。

 丹田を起点に全身へ魔力を循環させることで根本的な運動性能を向上させる技術、これは基本だ。その次の段階はこれを剣の型と共に行うこと。魔力の循環だけならばいい。だが同時に剣を振るうとなれば話は変わってくる。これを修めるのに二年はかかった。

 

 最終段階は循環させる魔力、これを『偏らせる』ことだ。防御にしろ攻撃にしろ、接触部位へ回す魔力を一時的に大きくすることで瞬間的に能力が高まる。移動する際に蹴り足へ交互に魔力を偏らせれば、移動能力は爆発的に向上する。《加速法》と呼ばれる所以はこれだろう。七年かけてものにしたこの魔導体術が俺をまだ生かしている。

 

 ……ただ、それも限界が近い。視界の端に映りこんだ影。直感だけで肘に魔力を集中させ、虚空へと打ち込む。大気が揺れた。びりびりと骨を伝わってくる衝撃を逃がしながらぐっと歯を食い縛る。衝突(インパクト)の前に止めたというのに、それでこの威力。拳に握り締めた竜腕を引きながら、竜が嗤う。

 

「これで何度目かしら。よく保ってるわね、ネロ」

「黙れ」

 

 右下からの逆袈裟。当然のように回避され、くるりと宙を回転して猫のように着地する。くそったれ、と内心で毒づいた。高速のヒット・アンド・アウェイ。恐ろしく堅実で単純な戦法であり、それ故に対抗策はない。あの速度についていけない以上俺に許されるのはカウンターのみ。だが奴は初撃が凌がれればすぐに離脱し追撃を許さない。要は、俺にとって唯一の好機は一撃目だけだ。それに合わせる必要がある。

 

 ……一番最初のカウンター。あれが最も手応えがあった。だがそれでも鱗に引っ掻いたような傷をつけただけ。無理だ。結論はとうの昔に出ている。俺の動体視力で捉えきれないような速度の初撃に完璧なカウンターを合わせたとしても、きっと致命とはならない。だがこのまま手をこまねいていても体力を消耗するばかり。

 何処かで、打って出る必要が──!?

 

「ッ…………!」

 

 汗が目に入った。ほんの一瞬。その僅か一瞬の隙を奴は突いた。剣で払う──が、しかし受け損ねた。常識を越えた剛力により生み出された衝撃は僅かに伝わるだけでも暴れ回る。弾き飛ばされる剣。呻きながら地面を転がり、追撃を躱すべく身を屈めながら周囲を伺う……が。

 

「…………何のつもりだ」

 

 竜は止まっていた。

 退屈そうに、俺を見下ろしながら、金の瞳が細められる。

 

「つまらないわね」

「言うに事欠いて、それかよ」

 

 だが、幸いだ。必死に呼吸を整える。こびり付いた血を手の甲で拭い、弾き飛ばされた剣の方へ歩を進める。無論、奴から目は逸らさない。そんな愚行を犯せるほどの蛮勇は持ち合わせていない。

 

「実際、つまらないのよ。まるで防戦一方。そうね、言わせて貰うけど……殺す(勝つ)気が感じられない」

 

 ……言いたい放題言いやがる。

 だが、事実だ。俺自身この先が敗北に繋がっていることを理解している。だがそれでも──俺は強ばった顔で笑ってみせた。

 

「言ってろ。吠え面かかせてやる」

「そうね。貴方が何も無策なわけないわよね。けれど、面倒だから──」

 

 腰を落とし。低い前傾姿勢を取り、アルは告げた。

 

「こういうのはどうかしら、ネロ。次の一撃で私は貴方を殺す。宣言するわ」

 

「……好機(チャンス)でも与えるつもりか?」

「ええ、そうよ。私も貴方も次の一撃が最後。次で私は貴方を殺せたら勝ち。貴方は私を殺せたら勝ち。簡単よね?」

「はっ。どっちも生き残ったらどうするんだ」

「そんなはずないじゃない」

 

 きょとんとした顔で、アルは続けた。

 

「貴方が損なった時点で、貴方は死んでいるわ」

「…………そうかよ」

 

 深く息を吸う。剣を拾い上げ、こちらも腰を落として剣を構える。了承の意と取ったのだろう、竜は笑みを深くした、

 ……実際、これは俺にとっても好都合ではある。先程の隙を狙われていれば間違いなく死んでいた。だが追い詰められている事実は変わらない。俺のカウンターは通らない。だが次に全力を傾けるというのなら、勢いをそのままぶつければ或いは──。

 

 だが、理性が囁く。それでも無理だと。奴の鱗は貫通出来ない。ならば狙うは喉元か。いや、安易すぎる。奴は必ず対策している。唇を噛み、グリップを握りしめた。

 魔力を循環させる。全力で魔力を込めれば或いはどうだろうか。全身の魔力を十だとして、九の魔力を刃に込める。そうする他に、方法は…………ない、のか?

 

 何かが引っ掛かった。魔力を込める。それだけでいいのか?

 

「………………」

 

 かつてミノタウロスの一撃を受けた時。俺はどう凌いだ?

 魔力を回す──それも当然行っていた。だが振り下ろしの威力を向上させる為に質量増加の魔術を行使したはずだ。土壇場でのやけくそのような魔術だったが、それが功を奏して生きている。

 

 ……いや、駄目だ。質量魔法(グラムマギア)の燃費は最悪の一言に尽きる。俺が使えばすぐにガス欠になる。質量を十倍にでもすれば五秒が限界。何の役にも立たない魔術だ。頭を振る。魔力が尽きてしまえば回す魔力もないのだ。その次はない。

 

 次は──ない?

 

「…………そう、だ」

 

 ずっと引っ掛かっていた違和感。ここに至りようやく理解する。魔力が尽きた後の話? 笑わせるな。元より次の機会を前提としてどうする。()()()()()()()()()()()()()()()。事ここに至ってなお自身の甘さに笑えてしまう。

 

 出し尽くす。俺の全ての魔力を一点賭け(オールイン)する。ようやく理解した。きっと、正解はこれだ。小賢しくも小出しにして凌いで、それがなんだと言うのか。覚悟を決めたような気になっていたが、結局自分が臆していた事に気がつく。

 

 一撃で屠る──だが問題は二つ。ひとつは、鱗を貫通させるに必要があること。もうひとつは、タイミングを合わせられるかということ。

 ……十倍では話にならない。百倍でも足りるかどうか。

 ならば。千倍なら──竜の鱗に、届きうるか?

 あまりの馬鹿馬鹿しさに笑えてしまう。精々質量の十倍加で五秒が限度と言った。それを千倍? もはや一秒どころか一瞬にすら満たない。

 

 だが、それでいい。ほんの刹那、そもそもの話俺の腕が千の剣に耐えうるのは恐らくそれが限界だろう。そうでなければ無様に千切れ飛ぶのが関の山。

 ……ただでさえ合わせるのが難しいカウンターの一瞬、接触の瞬間に質量を千倍にまで増加させ斬り飛ばす。まるで遥か山頂から針の穴に糸を通すが如き難行。現実味が無い、などという領域ではない。

 だから、どうした。きっとその程度成せなければ、この女に刃は届かない。魔力を胎動させながら静かに呟く。

 

「来いよ、アル」

 

 竜が笑った。

 たわむ両脚の筋肉。来る、と理解していた。

 だが見失った。

 姿は掻き消えた。何も見えない。見ずとも耳で捉え──無理だ。ここでは音すらあまりに遅い。忘我の領域で剣を握る。全身を駆け巡る血液の速度すら凌駕しろ。心臓の一拍を切り刻め。人刃一体の境地に没入する。あまりにも滑らかに駆け巡る魔力が刃へ浸透し、

 

 ──蕩けた金が、見えた気がした。

 

 刹那、全てが弾け飛ぶ。会心の感覚があった。もはやいつ振り抜いたのかもわからない。だが何かを斬った感触があった。そして同時に、この身を木っ端のように吹き飛ばす衝撃も。どさりと遠くで何かが落ちた音がした。そして、俺の身体も同様に。

 

 ……全ての魔力を出し切った結果、何かがプツリと途切れてしまったようだった。身体は言うことを聞かない。筋肉が断裂しているのを自覚する。それでも右腕の指はぴくりと動いた。左、は───。

 

「……嗚呼、なるほど。そうか」

 

 勘違いしていた。

 きっと成功か失敗かならば、成功だろう。俺は竜を確かに斬った。だがそれは勝利か敗北かで言えば。

 

()()()()()、ネロ」

 

 疑いようのない、敗北であった。

 ふらふらとアルが立ち上がる。その左肘から先はなかった。竜鱗を貫通し、俺が斬り飛ばしたのだろう。そして見ずともわかった。俺の左肘から先もまた、無くなっている。相打ちであり、五分であり、それでいて俺の決定的な敗北だった。なんのことは無い、単純な生物としての規格の差である。

 

 腕をもがれようが、竜は死なず。だが人間は血を流しすぎれば、死ぬ。当然すぎる道理。

 

「………………ちく、しょう」

「誓いは果たす。村人は一人残らず殺す。その後にまだ息があるなら、私の手で縊り殺してあげるわ……ネロ」

 

 虚ろな足取りで歩き始めるその背を見つめる。もはや狂気に近い。この女はイカれている。何が彼女を壊したのかは知らない。

 

「…………嗚呼、けれど。あの剣は本当に見事だったわ。それは認めてあげる。ひょっとすると、貴方もあの剣聖と同じ領域に至れたのかもしれないわね」

 

 …………なにか、言っている。だが、聞き取れない。

 身体が冷えていく。呆然と空を眺める。今日は満月だったのか。全く気づかなかった。

 

 嗚呼、本当に。

 酷く綺麗な、月───。

 

 

 ──────い。

 ─────ない。

 ───たくない。

 

「──しにたく、ない」

 

 芋虫のように地面を這いずる。だが外聞など知ったことではない。ろくに動かない身体を叱咤し。左腕から血を撒き散らしながら一点を目指して進んでいく。

 

「無様ね、ネロ」

 

 それは聞いた事のない声音だった。

 それは見下すようで。

 それは、どうしようもなく。

 

「生き汚いのも考えものね」

 

 失望と嫌悪に満ち溢れていた。

 

「やっぱり駄目ね。貴方は英雄の器ではなかった」

 

 しにたくない。

 しにたくない。

 

「本当にどうしようもない失敗作」

 

 しにたくない。しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない───。

 

「さようなら、ネロ。あの村の人間も後を追わせてあげるから安心なさい」

 

 

 ───ああ、()()()

 

 それは本当に最後の力だった。死にかけの虫が見せる痙攣。命を燃やし尽くす生命の最後の輝き。取るに足らない足掻きに過ぎず。

 だがその足掻きが、奇跡を引き寄せた。

 

「……ァァァァァァァアア”!」

 

 咆哮する。

 悶絶する。

 狂乱する。

 慟哭する。

 懺悔する。

 侵食と拒絶と再生と崩壊を繰り返しながら生死流転する輪廻混沌の坩堝と化す。陰陽相克しながら胎内はさながら生き地獄が如く。がくがくと身体を痙攣させながら、涎と涙と血を撒き散らしながら──()()()()()

 その様を凍り付いたようにアルバ=ダァトは見ていた。永くを生きてきた彼女さえも驚愕たらしめる事象。

 

「貴方は……一体……」

 

 視線の先。先程まで何も無かったはずの左腕から先には、血まみれの黒い腕が生えていた。

 生えていた、というのも語弊を招く。より正確に言うのならば、それはかろうじて繋がっていた。だが確かに繋がっていた。どくりどくりと黒竜の腕が脈打つ。脈打ちながら、新たな主へと血液を送り込んでいく。

 先程彼自身の手で斬り飛ばした、竜人アルの左腕。

 何の因果か。何の奇跡か。それは少年の腕へと接続されている。

 

「……続けようぜ」

 

 幽鬼の如く影が立ち上がる。

 だがどう足掻こうと満身創痍。もはや立つだけで息も絶え絶え、剣を振るうなど以ての外。既に死に体であり、果てる間近の死に損ない。少し嬲れば方は着く。

 そのはずだというのに──その燃え盛るような瞳だけは死んでいない。黒い竜は息を飲んだ。

 

「第三ラウンドだ、アルバ=ダァト……!」

 

 

 最後の竜、アルバ=ダァトは狂っている。

 

 故に。それを殺す英雄もまた、常識の範疇を逸脱せねばならない。

 



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4話

 

 

 

 

「あり、えない」

 

 呆然としてアルが呟く。

 

「そんな奇跡がありえるものか。もしありえたとしても、どんな代償を払うのか──!」

「そうかい」

 

 口の中に溢れていた血を吐き出す。左腕の感覚はない。……ないが、視線の先では確かに繋がっている。脈打つ禍々しい竜の腕。もう意識も吹っ飛んで自分が何をしていたのかなんて全く記憶にない。

 

 だが、生きている──いや生かされているのか。

 

 異質な魔力が流れ込んできているのを自覚する。おそらく人間が取り入れるべきでないモノが血管内を駆け巡り、全身を侵し始めている。時限爆弾を抱え込んでしまったような錯覚。しかし恐らく、その認識は間違っていない。

 これではろくな死に方はするまい。ただ、それでいいと許容する自分がいた。

 

「だが実際にありえている」

 

 口元を歪める。立っているだけでも限界近いが、だからこそ笑って見せる。

 その瞬間、初めてその金の瞳に僅かな恐怖が混じったように見えた。人は未知を恐れる。それは竜も同じなのだろうか。

 ……左右の重心がおかしい。またすぐにでも千切れそうな左腕を掴んで支えながら、アルへと歩を進める。足裏が地につく拍子に飛びそうになる意識。歩くだけでも手一杯という有様。何たる無様か。ただ、気合いだけで持たせているに近しい現状。

 

「おいおい、喜んでくれよ」

 

 だというのに。虫けら同然の俺の歩みに対して、彼女の足は半歩退いていた。

 きっと自覚していないのだろう。理解出来ていないのだろう。拳を握りしめる。初めて得た精神的優位。好機を逃すつもりはない。

 

「お前を殺すためだけに、こうして生き永らえているんだからよ──!」

 

 踏み込みと同時に拳を叩き込む。右腕ではない。もはや感覚のない左腕を強引に叩きつけただけ。あまりにも不格好、どちらかというと左腕に振り回されているようにしか見えまい。回避はなかった。これまで通りにアルは軽々と受け止め──そして、確かに呻いた。ひび割れた竜鱗。予想通りで笑ってしまう。

 矛盾という言葉の由来を思い出した。全てを貫く矛と、全てを防ぐ盾。そして、今回軍配が上がったのは前者であった。

 

「っ、調子に乗らないで欲しいわね──!?」

 

 アルが踏み込み、しかしたたらを踏んだ。金の瞳に浮かぶ驚愕、困惑、動揺。だが当然といえば当然か。いかに無尽蔵の体力を持つ竜とはいえ、片腕を失っている。その損耗が軽いわけが無く、確かに削られている。まあそういうこちらも同様、どころか更に酷いものだが。

 

 ……筋肉の断裂個所は四ケ所。毛細血管が破裂でもしたのか、右の視界も少し赤くぼやけている。おまけとばかりに頭蓋の内側から鈍器でぶん殴られているような頭痛。立っているだけで奇跡、端的に言って死に体。満身創痍はお互いさまというわけだ。笑みを深くする。

 

「どうした、もう限界かよ」

 

 返されるのは言葉ではなく、唸るような声だった。

 竜が牙を剥く。跳ね上がる彼女の右腕をステップワークを駆使して回避する。明滅する視界。竜腕との接続によりかろうじて失血死は免れたものの、多くの血液が失われた事には変わりない。雲がかかったような意識の中構える。

 

 間近を擦過する互いの拳。耳元を轟と音を立てながら過ぎていく。

 見えてはいない。もはや直感だけで攻撃を認識しているに等しい。引き伸ばされる時間感覚。目をくれる暇なぞ何処にもない。周辺視野だけで初動を捕らえ、あとは感覚で回避するしかない。もはや要らぬ体力を消耗する余裕など一分たりともありはしない。最小限の動きで躱し、最短経路で叩き込む必要がある。

 ふ、と笑う。無理難題にも程があるだろう。だが不思議なことに、今の俺は酷く落ち着いていた。血を流しすぎたことで冷静になったのだろうか。こめかみを掠める拳を避けつつ思考する。

 恐らく、一発。それが俺に許された全力での拳の限界だと直感的に悟っていた。それ以上は身体が到底保たない。回避だけに専念していても体力は減っていくばかり。狙い澄ましたカウンターの一撃で刈り取る他に勝ち目はない。許された最後の一撃に全てを賭ける。

 

 分が悪いのは先刻承知。大ぶりの攻撃を必死に回避しながら、それでもその瞬間を狙い続ける。そんな俺を見て顔を歪めると、アルは更に攻勢を激しくする。俺はもはやふらつく足を必死に動かして回避に徹するしかない。明滅する視界。側頭部付近を掠めかけたか。死を瀬戸際で押し止めている感覚に炙られ、魂の奥底が焦げ付く。

 ……もっと引き寄せろ。削りながら、削られながらも研ぎ澄ます。ただ時を待つ。そんな俺の目が気に入らないのか、彼女の攻撃はより激しくなった。額から溢れ、唇まで垂れた血を舐め取る。

 ……まだ、だ。

 もっと削れるのを待て。光明は未だ見えない。金の瞳の奥に見える苛立ち、その最高潮を見極めろ。直撃さえ免れればいい。

 

 あまりにも原始的な殴り合い。永久に続くかと思われるような、闇の中を藻掻くが如き攻防戦。だが、一寸先には死を求め、死に狂った竜が確かにそこにいる。

 生に執着する人間と、死に執着する竜。子と親。男と女。弱者と強者。相対する全てが反発し相殺するような二つの命。交錯する拳と視線。

 何もかもが対極なのだと理解する。本当に真反対なのだ、俺も、お前も。だから互いを理解し合えない。当たり前すぎて忘れかけていた事実を再確認する。理解できないものへの対処法は二つ。即ち妥協か、排除か。この場合はどちらに該当するのだろう。かなりの難問だ。

 

「ふ、ふふ」

「は、はは」

 

 互いの喉から漏れる哄笑。見ずとも奴がどんな顔をしているかわかる。ああ、わかるさ。七年間、一緒に生きてきたんだ。俺の母であり、姉であり、家族であり、友人であり、初恋であり、そして……紛れもない仇敵。我が宿敵。

 ああそうだ、この女は──。

 

「ふふふふふふふ──!」

「ははははははは──!」

 

 ()()()()()()

 歯車が完全に噛み合う。俺の中でようやく殺意が形になった。愛とも憎悪とも執着とも取れぬ、矛盾した感情。一言で言い表すにはあまりに複雑怪奇。だがそれでいい。総身に殺意を宿して咆哮する。闇に溶けるような黒髪。蕩けた金の瞳。笑いながら拳を振るうそいつは、憎らしいほど美しかった。だから殺す。故に殺す。その容姿性格存在魂魄その尽くが殺意の引き金となり得る。

 

 ……繰り出される黒い竜腕。俺が回避できない瞬間を狙って、空隙を縫うようにその拳は滑り込んでくる。喰らえば間違いなく即死する、そんな破滅的な威力を秘めた拳。それをぼんやりと見つめ──僅かに肘を傾け、軽く()()()()

 僅かに、しかし確かに軌道が逸れる。生まれた三寸にも満たない隙間が俺にとっての生命線だ。驚愕に見開かれる瞳。間近を擦過した頭髪が燃え尽きる。吐く息は白く、吸い込む大気は凍えそうなほどに冷たい。

 

 ──反撃(カウンター)は既に放たれている。右に合わせた左。上を行く彼女の竜腕の影に潜るようにして、俺のものとなった左の竜腕は唸りをあげる。回避は、不可能。

 

「……俺の勝ちだ、アル」

 

 視線が交錯する。薄く笑った彼女が何か言おうとして唇を震わせ──溢れ出した血が言葉を塞き止めた。

 胸の中央、唯一竜鱗のない場所を左腕が貫いていた。滴り落ちる血。地面の上に零れ落ちていく命の証。痙攣しながらも、死にゆくというのにその肉体は美しい。そっと彼女の肩を掴み、ためらいなく一気に左腕を引き抜いた。噴水のように血液は宙を彩る。極彩色の紅蓮地獄──金の瞳の焦点はもはや合わず、口から溢れる血によって言葉も意味をなさない。

 

 その耳元で囁いた。

 

「お前が世界のどこにいようとも。必ず探し出して殺してやる」

 

 それは確かな誓約だった。彼女は静かに微笑む。そして声にならないまま、唇を動かした───待ってるわ。

 

 瞬間、轟音と共に山が揺れた。

 全てが闇に包まれる。いや、違う。これは影だ。あまりにも巨大な影。洞窟を引き裂き、樹冠を砕き、地の底からそれは天へと伸び上がる。巻き上げられた雪と土、そして空気が局所的な嵐となって山肌に叩き付けられる。巻き込まれればただでは済むまい。遠い──のだろうか? 遠近感がまるで意味を為していない。その伸びる果て、遥か上空を見上げる。

 

 ……知らず、呼吸が止まった。天が裂ける。雲が散る。月を喰らうかのようにそれはその巨躯を晒していた。漆黒の翼は合わせて四枚。だがそれでもその途方もなく巨大な肉体を支えるには少なすぎるのではないかと思わせた。その翼はあまりにも力強く、長いと言うのに。足りているように思えて足りず、足りないように思えて足りている。全てが矛盾した感想だが、しかしそれが真実なのだろうと悟る。

 

 完全性と不完全性をひとつの肉体で表す究極の生命。四枚の翼を広げ、黒竜アルバ=ダァトはその本体を七年ぶりに世界へ晒す。

 

「必ず……必ずだ」

 

 呟く。

 

「お前を殺してやる。精々待ってろ、蜥蜴女」

 

 その金色の瞳がちっぽけな人間を映し出し、静かに笑った。そんな気がした。

 

 ふわりと巨躯が宙に浮く。羽ばたきもないのに竜は空を飛んでいた。恐らくは出力が桁違いの質量魔法(グラムマギア)だろう。ぐんぐんと天の月目掛けて上昇していく。雲すら彼女を妨げることは出来ず、断末魔もなく散っていった。何処を目指すというのか。いや、何処でもいい。世界のどこに隠れていようが関係ない。

 

 ……気づけば、俺がこの手で殺した彼女の死体は、いつの間にか無くなっていた。本体ではなく分体。アルという女は、アルバ=ダァトという竜の端末に過ぎなかったのだろう。本体はこの山に身を隠し、七年間眠り続けていた。そりゃ地下深くで寝ているだけなら痕跡も見つかりはしない。いくら探してもいないわけだ。

 

 気絶寸前の肉体に鞭打って、崩壊寸前の小屋へと歩を進める。左腕は相変わらず竜鱗に覆われた異形のモノだ。こいつも回収してくれれば良かったとも思うが、そうすると左腕が無くなるからやはり困る。というか、俺の元の腕はどこに吹っ飛ばされたのだろうか? 少し考えたが、もう探すのも面倒なのて放置することにした。この山の獣への餞別代わりだ。存分に食ってくれ。たぶん美味い。

 

 這うようにして辿り着いた小屋の中は、それはもうぐちゃぐちゃだった。溜息混じりに中を漁り、なんとか鞄と金を掘り出す。そして医療用の包帯も。少し考えた後に、布と包帯で左腕をぐるぐる巻きにした上で北部では何かと入り用な旅行用の毛皮マントを羽織る事にした。うん、これで少しは目立たないだろう……くそ、ニールにどう言い訳をすればいいんだ? 世紀の難問のように思える。

 

 壁によりかかり、少し考えた後に燐寸(マッチ)を手に取った。もうここに戻る事はない。

 行く宛てもないが、さりとて戻る場所もない。これは不退転の決意だ。或いは、アルという女を弔うために。育ての親である傭兵アルは死んだ。残っているのは、仇である黒竜だけ。

 燃え広がっていく火を少し眺めた後に、俺は背を向ける。この火が奴には見えているだろうか。既に月の一点を僅かに覆う程度にしか見えなくなった影を見上げ、そっと息を吐いた。

 

 道程は長く、果ては見えない。まずは北部で最も栄えている都市に、ニールの荷馬車で連れて行って貰うとしようか。話はそこからだ。

 この物語は輝かしい冒険譚などではない。もっと血生臭く、狂っていて、そしてある時代の幕引きを語り継ぐ為のモノ。

 

 これは人と竜の物語。

 あるいは──復讐の序章(カンタービレ)だ。

 

 

 






ここまでプロローグ。次話から話が動きます。


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