対魔忍戯作:斬鬼忍法帖 (天野じゃっく)
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その一

 月のない夜空を、大円を描いてとぶ一羽のトビがいた。

 S県最西部、四方を荘厳な山々に囲まれたT地方。漆黒の夜陰に縁取られた盆地のなかに近代都市の明かりが夜空の星を散らしたように輝いている。

 やや離れた小高い丘の上から街を眺める三人がいた。

 三人はそろいの灰色のツナギを着ていて、周囲には三本足の測量機や紅白の色のついたポールと大小のプラケースたちが置かれている。

 若い男は中空を見つめながら思案に暮れる様子で、その手前で壮年のスキンヘッドの男が腕組みしながら仁王立ちしている。若者のほうは不二(ふじ)典親(のりちか)、もう一人は松永(まつなが)蔵人(くらと)といった。

「どうだ、烏丸(からすま)?」

 松永蔵人の視線のさきには、若い女──烏丸(からすま)スバルがあぐらをかいて座っている。眼をかたく閉じ、両手の指同士を下腹のあたりで奇妙な形に編みこみ、(いん)を結んでいる彼女は、ときおり眉間にしわを寄せながら、

「変わった様子は、とくに…」

 と申し訳なさそうに言う。

「"草"のほうから連絡は?」

 松永蔵人が振り向いて、不二典親に尋ねた。典親は耳の裏側に沿って着けている小型無線機(インカム)を操作しながら首を横に振った。

「ダメです。本部のほうにも依然として連絡なし」

 蔵人は腕の時計に目を落として、

「もうすぐで二十四時間か…」

 と、深刻そうにつぶやいた。

「まさか反社(ヤクザ)絡みじゃないでしょうね?そうなったら公安(オレら)の判断だけじゃ手出しできませんよ」

 見るからに不機嫌な典親とは反対に、蔵人は坊主のように泰然自若としている。

「そう焦るな。それも含めて調査するのが我々の()()だ」

 T地方の小都市──横勢(よこぜ)町に潜伏する『草』からの応答が途絶えた、という連絡が本部に入ってきたのは、昨夜未明のことである。

 『草』とは諜報部員の通称である。全国各地に配備され、市民として生活を送りながら情報収集を行う。

 世代交代を重ねてその土地の文化に染まりながら、新鮮で確かな情報網を持つ彼らのことを、いつしか地面に根を張る植物たちになぞらえて『草』と呼ぶようになった。

 対魔忍そのものが縁の下の力持ちなのは言うに及ばず、その忍者たちがあらゆる問題に柔軟に対処できるのも、ひとえに『草』なる本当の縁の下の力持ちが居てこそなのだ。

 その強固な監視網に、突如として綻びがうまれた。

 本来ならば草から本部へ定期的な報告が上がるはずだが、それが途絶えた。岩のように揺るがない忍耐と忠誠心をもつ彼らがそれを怠るとは思えない。

 そこで急遽、調査のために忍者三人が派遣されたのだが、はやくも彼らの対魔忍としての第六感が、この町に潜む尋常ならぬ予感を告げている──。

 横勢(よこぜ)町中心部から数キロ離れた、林のなかの民家。なんの変哲もないその場所こそが"草"の潜伏場所である。

 瓦屋根の二階建て、白の外壁は色褪せている。屋根付きのガレージがふたつあり、片方にはタイヤに乾いた土のこびりついたトラクター、もう片方にはミニバンがとまっている。家に灯りはなく、玄関前のポストには夕方に差し込まれたであろう郵便物がそのままの状態で飛び出している。

「そう簡単には解決しないか」

 草の隠れ家の門前で、地面に片耳をつけて探りを入れていた蔵人は身を起こした。

「いっそドアホン鳴らしてみましょうか?」

 典親が冗談ぽく玄関先を指して言ったが、蔵人は相手にせず、

「中を探ってくる。外まわりを頼む」

 と言って、上空を一度ちらと仰ぎ見たあと、走り出した。

 彼は家のまわりをそれとなく様子見したあと、玄関でも窓でもなく、まっさらな漆喰の壁面に向かって跳んだ──すると、どういうわけか彼の体は、飛び込み選手が入水するように垂直の壁に溶け込んでいく。

 物音ひとつ立てることなく、松永蔵人の全身は足の先まで完全に姿を消したが、壁には傷ひとつない。

 飛び込んだ屋内は真っ暗で、不気味なほど人の気配がない。

 壁の中からリビングを見渡した蔵人の忍者眼は四つの人影に留まった。ダイニングテーブルを囲むそれらは、うつむいたまま一言も発さず座っている。忍者の合言葉を投げかけようとして、蔵人は改めてその不審な様子をいぶかしみ、そして息を呑んだ。

 四つの影はうつむいているのではなく、首の部分が根もとから無くなっているのだ。そしてテーブルの中央には四つの男女の頭部が、それぞれの体と向き合うように置かれている。明らかに何者かが意図的に配置したものだ。

「これは…」

 思わず壁から抜け出た松永蔵人だったが、その全身をなにやら吹きつけるものがあって彼は反射的にそちらに目を向けた。

 部屋の片隅の、ひときわ濃い闇黒のなかに尋常ならぬ妖気を感じたのだ。

「ようやく、おれを見たな──」

 声を発したのは、意外にも闇奥のほうからであった。

「お前がこの家に入ってから、お前を斬る機会が七、八はあった」

 影は、錆を含んだような低い声でフフフと不気味に笑った。

「誰だ?」

 何者かが、陰からヌゥっと前に出てきた。

 暗闇に順応してきた蔵人の目は、奇妙なものを見た。

 時代劇で観るような、着流しの素浪人のようなものが忽然と立っていたのだ。頭に浪人笠、よもぎ色の着物、首や胸元は暗がりにいるせいでよく見えないが、腰帯には黒鞘に鉛色の鍔のついた打刀を差している。

 さらにゾッとするのは驚くほど長身なところだ。ナナフシが服を着たような滑稽さもあるが、目測でも二メートルをゆうに超えているから不気味さの方が上回る。浪人笠の前面の、やぶれかけた格子窓の隙間からこちらを見下ろす瞳が、にぶい光を放っている。

「な、なんだ」

「おれの姿を見て、背中を見せて逃げないところは褒めてやろう」

「…()()の手の者か?」

「おれは“夜導怪(やどうかい)”がひとり、笹浪(ささなみ)

 蔵人が狼狽えたのは、予想外の相手の体格や、太秦の撮影所から抜け出してきたようなコスプレじみた格好に肝を抜かれたせいもあるが、なにより部屋を支配する異様な感覚──妖気とも言うべきその独特の波動を本能的に感知したからに他ならない。

「やどうかい?」

「おれの存在に気付く者を待っていた。お前のように──」

 蔵人はハッとして、

「この家の人間をどうした?」

 と聞くと、笹浪という大男は、

「おれを見てたいそう驚いていたが、なかなか肝が据わっていた。しかし所詮は鍬振りの()百姓(ひゃくしょう)、一家まとめて相手にしたところで、鈍間(のろま)なことに変わりはない」

 と、四つの首を目のまえに平然と言った。

「お前が斬ったのか」

 相手の腰の刀が目に入ってきて、蔵人の背筋を冷たい蛇がのたうち回る。

「いや、ああいうふうに飾ったのはおれではないが、あんなもの、斬ったうちに入らん」

「なぜそんなことを?」

「なぜ、か……」

 浪人笠の奥でクククと笑い声がした。

「そこに座っている連中もさんざん喚いていたが…それを聞いたところで、お前らは納得するのか?──それとも納得したいのか?」

「なんだと?」

「ところで、風貌から察するにお前もだいぶ修羅場をくぐってきたようだが、果たしておれを満足させられるか?」

 笹浪と名乗ったソレは袖口から柳の木のような細腕をのそっと出すと、

「お手並み拝見──」

 一転して、稲妻のような速度で横一閃に腰の刀を抜きはらった。

 蔵人はとっさに跳躍し、そのからだを壁に溶かした。──相手の足もとに、ピンの抜かれた閃光手榴弾(フラッシュバン)を残して。強烈な光と音が室内をかき乱し、その隙に蔵人は退却することが出来た。しかしながら、蔵人の顔は依然として青ざめている。

 “草”が消息不明になった原因があの笹浪とかいう怪人なのはもはや明白だ。が、しかし──いま一瞬だけ目にしたあの太刀筋、まともに取り合ってどうにかなる相手ではない!

 外壁を波打たせて飛び出してきた松永蔵人を、待機していた不二典親が迎えた。

「松永さん、いまの音は…」

「退け、典親!」

 松永蔵人が叫ぶのと同時にガラス窓を蹴破ったものがある。典親は家から巨木が生えてきたのかと思った。しかし現れたのは、古風ないで立ちで深編笠をかぶった奇怪極まるナナフシ人間、いや、ヒト型ナナフシである。

「なんだ、コイツ……」

「二人か、それもまた良し」

 白刃を携えながら大股で駆けてくる昆虫怪人──笹浪の細長い腕がしなって、凄まじい剣風が吹き荒れた。

 不二典親は横っ跳びに避けながら、細長い串状の棒手裏剣を数本投げつける。漆黒の手裏剣は暗闇に紛れて一直線に標的を射止める、はずだった。

 チュチュンッ!と笹浪の眼前で極小の火花が散った。この怪人、数百キロで飛来する棒手裏剣を、避けるでもなく剣の腹で払ったのだ。

 速度も角度も投げた本人でさえ不明確なそれらを刹那のうちに判断し、蚊を叩くように打ち落としてみせたのは、敵ながら見事としか言いようがない。

「まずは一人」

 ひるんだ典親に上段構えの笹浪が迫る──と、踏み込んだ足がその場でピタと止まった。このとき笹浪は、足裏の異変に気付いた。

 草鞋(わらじ)を履いた枯れ木のような足が膝下まで地面に沈み込んだ。見ると、庭先の踏み固められた地面が、風になびく湖面のようにいくつも波紋を描いているではないか。さらに、敷き詰められた石畳やその隙間を埋める無数の砂利が、笹浪と同じく地中に吸い込まれて消えていく。

 幻覚か?いや違う。と、笹浪はとっさに逃れようとするが、地面に呑まれた部分は鉛で固められたように微動だにしない。

 視線の先には松永蔵人がいた。

「土遁・泥裏(ひじり)落とし──」

 もがくほど体は沈んでいき、ついに笹浪の下半身は埋没した。

 いま松永蔵人の秘めたる力は、周辺の地盤を一瞬にして液状化させた。土の粒子間の結合を操作し、流体に変質させたと思われるが、果たしてこれは人間の成せる技だろうか。民家の壁をすり抜け、地面を沼に変えた彼もまた、常軌を逸した怪人と言わざるを得ない。

 二人は身動きできない笹浪を尻目に逃走した。

 ふたつの影が見えなくなると、それまで底なし沼のようにぬかるんでいた地面は普段の固さに戻っていた。

「なるほど…まずまずの腕前……」

 庭先にひとり残された笹浪は、刀を納めると埋まった脚を引っこ抜き、こびりつく泥土をはらい落としながら不敵に笑っていた。その姿は風に揺れるススキの穂のようだった。



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その二

 二人は森の中を並走しながら、不二典親が前方を見て、松永蔵人は横走りしながら後方を警戒している。

「さっきのはなんです?魔族ですか、それとも妖怪?」

「わからん、誰かの手先のようではなさそうだし、野良にしては利口すぎる。会話も出来るようだが話が通じるとは思えんな」

 松永蔵人はすこし間を置いて、

「アイツの間合いには一歩も踏み込めなかった」

 彼の弱音を笑うことはできない典親である。手裏剣の腕にはある程度自信のある彼もまた、時速数百キロで飛行する手裏剣を弾き落とした怪人の剣技に度肝を抜かれたし、悔しいから言葉にしないだけで、いまも全身に痛いくらい鳥肌が立っている。

「そしたら、“草”もアイツに?」

「全滅だ。あいつが自供した、これは事件だ」

 それを聞いた典親は、なんてこった。と呟いた。

「あんなバケモノ、どうしろってんですか」

「落ち着け、俺たちの仕事は偵察だ」

 その後のことは本部が決める。諜報員が消え、その原因が判明した今、彼らの目的は生還することである。

 木々の間を縫うように駆け抜けて田園地帯に出た二人は、耳元の小型無線機(インカム)に手を当てた。

『スバル、見てるか?』

『追手はいないようです』

 三人目の忍者、烏丸(からすま)スバルが応えた。二人にはスバルの姿が見えないが、スバルには二人の姿が見えているらしい。

『お前も()から見たか?』

『ええ、ハヤテも怯えてました』

『偵察終了、スバルは(バン)で撤収。十分後に翔丸(しょうまる)トンネル前で合流しよう』

『了解』

 山ぎわは夜明けの色に染まりつつあった。住宅地と街灯の小さな灯りがみえてきて二人はほんの少しだけ安堵した。

「そういえば、あいつ自分のことを“夜導怪(やどうかい)”の笹浪(ささなみ)と名乗った」

「ヤドウカイ…そんな組織、聞いたことない」

「なにかしらの集団を指す言葉のようだが、笹浪とやらが自分をその内の一人であると言っていたところをみるに、ひょっとしたら他にもあんな奴が───」

 松永さん。と、ふいに不二典親がさえぎった。

「ここで二手に分かれましょう」

 松永蔵人もその言葉になにやら気づいたらしく、

「追って来たか?」

「近くにいます。こちらを見てる」

 典親の視界のすみに動くものがあった。三十メートルほど先──鉄道の線路に沿って横にのびる架線の上に、黒いシルエットが浮いていて、それが曲芸者のように、しかし架線を微塵も揺らすことなく留まっている。はじめは看板かバルーン広告とでも思っていた典親だったが、その影から笹浪に遭遇した時のような、背筋を刺すような強烈な()()()()がした。

 二人は勘付いたのを悟られないよう、顔を動かさずに話し続ける。

「笹浪か?」

「大きさが違う。目測ですが、一・八か…高くても二メートル前後」

()けるだろうか」

「身軽そうな奴だ、自分が陽動(さそ)います」

「相手が単独とは限らんぞ」

「どちらかがスバルと合流出来ればいい」

「……両方とも駄目だったら?」

「その時はスバルだけ逃げ延びたらいい」

 典親の目は本気だった。

 わかった。と松永蔵人は頷いて、二人は息を合わせて別方向に駆け出した。

 走りながら典親は影のほうをちらと見た。案の定、影は架線の上を綱渡りするみたいにして追ってくる。とはいえ、自分と相手とは依然として三十メートル程の間隔があり、この間合いを取り続けていれば敵の出方にも容易に対応できるし、なにより手裏剣の技が光る距離だ。

 影は架線をのばす門型の電柱まで差しかかると、それを踏み台にして勢いよく跳んだ。典親の余裕は一瞬で消えた。月のない夜空を墨色の尾を引いて飛んでくる影は、ちょうど陸上選手が走り幅跳びするような姿勢で、三十メートル以上を跳躍したのだ。

「野郎ッ」

 典親は空中の標的めがけて棒手裏剣を三本投げた。対する影からも金色の光がみえた──錫杖(しゃくじょう)という、先端に金の輪がいくつもついた杖が、シャリランと涼しげな音を立てた。

 一本を錫杖で、一本を片手で、一本を足で払い落とした影は、一回転して典親を追い越し、着地した。典親と影は、数メートルの距離で対峙した。

 本来ならば二の矢、三の矢を放つべき状況で彼がそうしなかったのは、

「惜しかったのう」

 という、重く渋みのある嘲笑が聞こえたからである。

 悔し紛れになにか言い返してやろうとした典親だったが、相手の姿形に思わず声を失った。

 頭に頭襟(ときん)をかぶり、鈴懸(すずかけ)と呼ばれる法衣に梵天袈裟を重ねている。足に脚絆(きゃはん)、腕に手甲を付け、右手に錫杖を持った姿はさながら修験者といった装いだが、そのどれもが墨で染めたような灰黒色で、夜の暗がりに朧げに浮かんで不気味だ。

 しかし、なにより驚愕なのは、首から上である。

 顔の下半分──顎から鼻筋、耳元まで、黒光りする大きな(くちばし)が生えている。

 まさしく天狗(てんぐ)──カラスの頭がついた(からす)天狗(てんぐ)である。

「それって特殊メイクだよな?」

 典親が相手の顔を指差すと、「フンッ」と鴉天狗は鼻を鳴らし、見て分からんのか。と言わんばかりに胸を張って、否定も肯定もしない。

「ハハ、あんた深夜にコスプレかい。クオリティは認めるけどよ、ウケを取るにはちょっとばかりチョイスが渋過ぎるんじゃねえか?」

「そういうお前は、暗いうちから()()()()の練習か?」

 鴉天狗は自若として言った。

「オレは…お(まわ)りさ。お前みたいな不審者がいないか見て回ってたワケ」

「なるほど。最近の役人はこんなものを使うようになったか」

 鴉天狗の手には典親の放った棒手裏剣があった。手で払ったと思っていた一本を実際には掴みとっていたらしく、典親は改めてぞっとする。

「この針、不愉快な()が混じっているな。お前の氣か?」

 鴉天狗の眼が典親を見据えた。それまでさざ波のようだった妖気が、巨大な波動となって典親に押し寄せた。

「お前のような連中が、まだ残っているということか」

 と言いながら、鴉天狗は棒手裏剣を片手に握り込み、二、三度揉んだあとで手を開くと、パチンコ玉くらいの黒い鉄塊になって地面を転がっていった。

「お前と一緒にいた奴も、お前と同じような(たぐ)いの者か?」

「質問の意味がよくわからないけど…だとしたら?」

「どちらも帰すわけにはいかんな」

 鴉天狗が錫杖を握り直したので、典親も身構える。

「じゃあこっちも聞かせてもらうけど、山のふもとにある家を襲ったのはお前か?」

 典親は自分たちがいま走ってきた背後のほうを指して尋ねた。

「ヤドウカイの笹浪ってゴボウみてえなやつがいたけど、あんたの仲間だろ?」

「笹浪がお前たちを逃すとは思えんな。やはり訳ありの連中か」

 鴉天狗がジリジリと距離を詰めてくる。不二典親も後ずさりしながら両掌のなかに新たな棒手裏剣を潜ませている。彼の服の(そで)の裏側には無数の棒手裏剣が蓄えられており、投擲後すぐに次の手裏剣が手に収まる仕組みになっている。

 脅威の身体能力をみせた天狗を前に、もはや逃走は絶望的だと悟った不二典親は、松永蔵人と烏丸スバルの二人を離脱させるためにも自分はここで天狗を一秒でも足止めするのが得策だと考えた。

 それに、皆殺しに遭った“草”の一家のことを考えると沸々と怒りが湧いてくるし、逃げっぱなしというのも性に合わない。なんとかこの化け物に手裏剣の一本でも植えつけてやりたいと思う典親であった。

 棒手裏剣を握った両手が合わさって、奇妙なかたちの印を結んだ。

「どうした、震えているな」

 鴉天狗が茶々を入れた。

「武者震いってやつよ」

 不二典親の姿が分裂した。総勢十体の残像が横に流れて、瞬く間に鴉天狗を取り囲んだ。

「対魔殺法・白閃(はくせん)流し──」

 残像たちから中心部めがけて一斉に鋭い雨のような光線が放たれた。四方から降りそそぐ棒手裏剣が、鴉天狗を足もとから頭のさきまで隙間なく埋め尽くした。死角の消えた円陣のなかで、脱出も反撃も許すことなく相手を滅する必殺の忍法・白閃流し。

 ──が、しかし、黒い針山からは「ククク」と、喉を鳴らして笑う声が聞こえる。

「この虚空丸(こくまる)、舐めてもらっては困る!」 

 突如として、針山の隙間から墨を溶かしたような濃厚な黒い霧が猛烈に噴出した。

「絶技・墨天陣(ぼくてんじん)──!」

 不二典親の残像たちが黒い霧に包まれると、みな一様に口もとを押さえ、喉や胸まわりを掻きむしって苦しみだした。倒れ伏したそばから残像は消えていき、最後には本体である不二典親ただひとりが濃霧のなかで喘いでいる。

 宙を覆う濃霧──その正体は、五センチにも満たない黒い羽毛だった。

 鴉天狗・虚空丸から放たれたおびただしい量の体羽(たいう)は、目鼻口から喉、気道を通って肺にまで侵入し、不二典親のあらゆる行動を封じた。彼が自身の忍法のために感覚を研ぎ澄まし、超精密の分身を展開させたのが仇となった。十人となった典親は十倍に膨れあがった苦悶を一身に引き受けることになってしまった。

「惜しかったのう」

 血の涙をながす典親のすぐ後ろで虚空丸の声がした。典親は反射的に背後に向かって腰の短刀を抜いた。それよりはやく虚空丸の錫杖が振り下ろされ、典親の左鎖骨を砕き、肩口から脇腹にかけて袈裟がけに切り裂いていた。

「ぐぅッ!」

 生物のように霧がサッとひいた。地面には体を裂かれた黒いテディベアがひとつ、不様に転がっていた。

 虚空丸は無傷だった。彼はたしかに不二典親の忍法・白閃流しの十字砲火のなかにいた。だが彼の絶技・墨天陣(ぼくてんじん)によって撒き散らされた体羽は、堅牢なベールとなって虚空丸自身を取り巻き、棒手裏剣の猛攻を防弾チョッキのごとく受け止めたのだった。

「主命のためなら勝てずとも命を投げ出す…忍者とはかくも哀れなものよ」

 ──ふと、真横をビュッと風が過ぎ去って、虚空丸は十メートルほど跳びあがった。電柱の頂上に着地し見下ろすと、数十メートルはなれたところに三つの人影がある。道の真ん中に一人が仁王立ちし、その左右に和弓を持った二人が──矢を番えていない、弓の弦だけを引いた奇妙な格好で立っている。

「荒魂よ、控えられませい!」

 凛とした声が響いた。中央に立つ人影が発した。

「ぬ、女か……」

 鴉天狗は眼下の相手を睨みつつ、東の地平線が明るくなるのを感じていた。

「女風情が、我らに指図するか!」

 カッと睨みをきかせる異形に対して、臆することなく一人が弦をはじいた。ビュンッ、と音を鳴らした弓は、もちろん矢を番えていないので何も飛ばすことはない。──しかし、虚空丸は空間を震わせて直進する()()()()()()()()をたしかに感じた。

 とっさに跳んだ虚空丸の右肩を、稲妻のように射抜いたものがあった。

「き、貴様ら、(あずさ)巫女(みこ)──!」

 打って変わって驚愕の声を上げた鴉天狗は、すぐに二本目の矢が来ると感知したのか、体を宙空に溶かし、黒いシミとなって霧散した。

 ながく張り詰めた静寂ののち、三人の人影──少女たちは、ついに「ふぅ」と、一息ついた。

「やりましたよ、私たちだけで退治できた!」

 弓をはじいた少女は得意げに言った。

「追い払っただけ。また戻ってくる」

 もう一人の弓を構えていた少女が釘を刺す。天狗に警告した少女もまた、表情は晴れない。

「でも、しっかり当てたよ、私。ふたりも見てたでしょ?」

「あんたの()()が足りないから逃したんじゃないの。先代ならあれで仕留めてた」

「ならそっちに譲ってもよかったのよ!」

「やめなって、二人とも。それより──」

 三人の足もとには不二典親がいた。鴉天狗が姿を消したのと同時に、彼の体を覆っていた黒い羽も風化したように粒子となって崩れ去っていて、あとには袈裟斬りにされた典親が倒れているだけである。

「死んでる?」

 一人が男の首筋に指先を当てて、やがて頷いた。

「ってか、誰?」

 三人は若い男の傷だらけの顔を覗きこんだ。町の人間ではないことはすぐにわかった。

「バイカーじゃない?ツナギ着てるし」

天狗(あいつ)が見えてたってことは、()()()?」

「誰でもいいよ。このままにしておけない──」



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その三

 松永蔵人は、あまりの不気味さに足を止めた。

 不二典親と別れて五分ほど経ったいま、蔵人の足は横勢(よこぜ)町を離れて、合流地点の翔丸(しょうまる)トンネルへと向かっている。

 敵と人目を避けるため山中を突っ切ろうとする蔵人だが、奥深い森の中で、ふと小さな人影を認めてギョッとする。最初は樹木の葉や枝の見間違いだろうと高を括っていた彼も、二度三度、四度と立て続けに目にすると、いよいよ覚悟が出来てくる。

 その影は子どもだ。女の子だ。和装をした童女が、山の中の獣道にぽつねんと立っている。蔵人のほうを向いて、なにをするわけでもなく、見つめてくる。

 すでに民家もない大自然の夜闇のなかで、同じ姿形をした子が──自身は鹿のように疾駆しているというのに──なぜこんなにもくっきりと目に入ってくるのか、蔵人自身にもわからない。

 ナナフシの妖怪も、典親の言っていた黒い影も見えない。それはきっと典親がうまいこと陽動してくれているに違いないが、自分にも新たな脅威が迫っていて、それは決して自分を逃さないのだろうと肌で感じる蔵人である。

 実際、それは彼の行く先に立ち塞がった。

「何者だ?」

 女の子は、フフと笑った。

 緋色の振袖に身を包み、艶のある黒下駄の赤い鼻緒を、白足袋を履いた小さな足先がつまんでいる。おかっぱ頭に小さな瞳はこけし人形のようで、肌つやも健康的で可憐だし、すこし前に遭遇した怪異などと比べるといささか拍子抜けするが、森のなかで土埃ひとつ付けずにたたずむ姿は異様としか言いようがない。

 いますぐ(きびす)を返して逃げたいところだが恐らく無理だろう。

 この少女は、からかうように何度も自分の視界を横切ってきたのに、それでいて息のひとつも弾ませていなければ、汗のしずくの一滴も浮かべていない。そもそも呼吸や気配といった一般的に存在を察知しうるものを、この子供からは微塵も感じないのだ。

「何者だ?」

 と、もう一度投げかける。

「ふふ、もう逃げないのかえ?」

「なに?」

「退屈だからこちらから出てきてやったのに、挨拶の一言も無しとは不躾な男よ」

 ニュッと口もとを歪めて、童女は不敵な笑みを浮かべた。

「お前も妖怪軍団のひとりか?」

「ひとり?ひとり、とは──」

 はっとして蔵人が右を向くと、

「わっちのことも、ちゃんと数に入れたかえ?」

 まったく同じ外見の少女が、これまたニタニタ笑っている。

 それだけではない。目をこらせば、彼女の奥に三、四人、振り返れば茂みの中にさらに四人──合わせて十人ほどの少女が蔵人を包囲している。

「ほれ、ちゃんと数えてみい」

「これは、幻覚か…」

「そんな(まなこ)をパチクリさせて、お(ねむ)かえ?」

 ケラケラと甲高い笑い声が響き渡った。

 声が折り重なって膨らんだ音の波をたしかに感覚した蔵人は、これが視覚的な()()()()ではなく、実体を伴った高等かつ精巧な幻術だと悟った。

「待ってくれ、きみの邪魔をするつもりはない」

「わっちは、すこしもお前さんを邪魔だとは思ってないよ」

「おれは人を探しに寄っただけだ。すぐに帰らなきゃいけない」

 自然と子どもに言い聞かせるような口調になってしまう。

「そう言わないで、わっちと遊んでいってたも」

 童女は、公家か貴族の真似事なのか、袖で口もとを隠してホホと笑った。

「…なにをして遊ぶ?」

(まり)つきを──」

(まり)?」

 童女は恍惚の表情を浮かべて、

「鞠つきをしたい…お前さんの、その、まん丸い頭で」

 一斉に懐剣を抜いた。すぐにでも男の首に飛びついて、肉を根こそぎ掻き切ってやるといった体勢である。

 それより早く、松永蔵人は小さな筒のピンを抜いて放り投げている。筒は破裂し、ボフッと白煙を噴き上げて、小さな影たちを煙に巻いた。

「ひゃっ」と、童女は意外そうな黄色い声をあげた。

 同時に、足もとが泥沼のように流動して華奢な足が膝まで沈んだ。──忍法・泥裏(ひじり)落とし。

 蔵人が腰に忍ばせた短刀で少女の顔面を縦に割った。彼は幻影を次々と斬り払っていった。敵とはいえ、まだあどけなさの残る子どもを躊躇(ためら)いなく手にかけていく姿は、さすが忍者といった手さばきである。

 声もなくのけぞった小さな体は、当然ながら倒れるかに思えたが、このとき、蔵人の入れた切断面から無数の羽虫が飛び立った。

 ──()だ。

 驚愕した蔵人の全身に蛾の群れが吹雪のごとく吹きつけ、羽ばたきが猛烈に鱗粉を撒き散らした。

 やがて少女の皮膚や振袖すらも、三角形の昆虫のシルエットになっていく。うぶ毛のそよぐ瑞々(みずみず)しい肌は生気を失い、緋色の蛾となって木々の隙間ヘと散っていった。

「あはは、もうおしまいかえ?」

 どこからか、あの童女の嬉々とした声がする。

 蔵人の視界は、陽炎のように乱れはじめた。あの鱗粉のせいだと気付いたころには、天地がはっきりしないほどに三半規管を揺さぶられている。

 ジェットエンジンのタービンに投げ込まれたような激しい回転と揺れは、体幹の鬼たる忍者でさえも膝をついてしまうほどであった。わずか数グラムの鱗粉で、松永蔵人はグロッキーな状態になってしまった。

「フフ、案外、あっけなかったの」

 瞳孔の散大した蔵人を、再び現れた童女は傷ひとつない姿で見つめている。藁にもすがる思いで蔵人は短刀を投げつけるが、胸に刺さった切っ先は、わずかに二、三の羽虫を枯葉のように散らせただけだった。

「ほっ、怖い怖い!」

「………」

「のう、聞け、坊主頭、この雀女(すずめ)には誰も触れられん。お前に勝機など無かったのよ」

 自分を小さな影が、真っ黒な(ふち)を炎のように揺らめかせながら、ふたつの眼が妖しく光っている。

 ──進退極まった。遠くから鈴の音がする。地獄か極楽か、どちらにしろ、とうとう迎えが来たようだ。と、蔵人は内心、絶望の淵にいながらも不思議と晴れやかな気持ちでいた。

 無数の鈴の音色が近づいてくる。これは幻覚ではない。その証拠に、雀女という少女もまた、その音にハッとして周囲をうかがっているのだ。

夜導怪(やどうかい)、そのくらいにしておけ」

 女の声が聞こえた。童女よりだいぶ年上の声だ。──年上といっても、若い娘であることは確かである。烏丸スバルかとも少しだけ期待したが、そうではないらしい。

 その声に、童女──雀女(すずめ)のまとう気配が明らかに変容した。これは笹浪と遭遇したときに感じたものと同じ、妖気そのものである。

「ほほ、なまっちょろい巫女が、こんなところまで山菜採りかえ?」

「お前こそ、()()()()()が板についてきたじゃない」

「黙りゃ、小童(こわっぱ)!」

 金切り声がこだまして、ピンと張り詰めた空気が漂いはじめる。

 松永蔵人には誰がいて、何が起きているのかさっぱり分からないが、怪童女がいまや自分ではないそちらに警戒の念を置いていることを察した彼は、新たに煙玉のピンを抜いて煙幕を発生させた。

 煙幕の効き目を確認する余裕もなく蔵人はすぐに地中に潜り、とにかく重力のままに滑り落ちていった。

 

 

 大地を流体化させる松永蔵人と言えども、それは目に見えて、知覚したものでなければ難しい。視力のほとんど働かない現在の彼は、木の根に足をとられ、枝に肌を裂かれ、岩に身を打ちつけるという、忍者として惨憺たるありさまだった。

 いったいどれほど滑落していったのか、ようやくアスファルトの舗装された地面を指先に感じた彼は、ようやくそこが谷あいの道路であることに気付いた。傷と土にまみれた彼は抜きたてのゴボウのようで、道端を転がって息も絶え絶えだった。

 ピーヒョロロ!と、頭上でトビの鳴き声がした。

「……ハヤテか!」

 やや遅れて、ワゴン車が蔵人の数メートル手前で止まった。

「月」

 窓を下げて身を乗り出した運転手が、ヘッドライトに照らされた彼に投げかける。

「ほ、ほし、星っ!」

 それを聞いて、はじめてワゴン車は蔵人のほうへにじり寄って来た。傷だらけの蔵人は車体に体をこすりつけて、手探りでスライドドアを開けると後部座席にどっと倒れ込んだ。

 ハンドルを握る烏丸スバルはそれを見届けることなく急発進させた。最後部に載せてある偽装用の機材がガタタと音を立てて崩れるが、そんなことを気にする余裕はない。

 蔵人はすぐに車内に積んでいた水分補給用の水筒を、飲み口の部分から外して頭から水をかぶる。血や土が洗い流されて、スバルはバックミラー越しにようやく松永蔵人の顔をみた。

「くそっ、目が熱い……」

「どうしたんですか」

「わからん……女の、子どもが、俺に幻覚を……」

「子ども?」

 スバルは万一のために助手席に用意しておいた救急用の赤いポーチを後ろに投げる。全身の傷をどうにかする為に渡したポーチだったが、蔵人は足先に当たったそれを手繰り寄せると、中から新品のガーゼを取って水に濡らし、眼のまわりのなにかを落とそうとばかりしている。

「あの、大丈夫ですか?」

「何が?」

「傷に決まってるでしょ!」

 スバルは苛立たしげに答えた。

「傷なら治る。だが眼はまずい。わけのわからん虫が……」

「ねえ、(のり)さんは?」

「あ、あ、ああっ!」

 柄にもなく蔵人が絶叫したので、スバルがミラー越しに見ると、彼は座席のまわりを一心不乱に探している。

「どうしました」

「お、おれの、眼が落ちた……シートの下に!」

「なんですって?」

「停めろ、いますぐ停めろ!」

 驚愕の表情で蔵人は叫ぶ。──その顔に眼球はふたつ、きっちり収まっている。

「ちょっと松永さん、落ち着いて」

「あっ、くそ、なんだ、このっ!」

 突然、蔵人は車内でひっくり返って、天井をガシガシ蹴り始めた。

「む、虫だ、蛾だ、スバル!鱗粉がくる!」

 スバルも見回すが、そんなものどこにも存在しない。

「しっかりしてよ、松永さん!」

「ああっ、下からも!」

 今度は全身を掻きむしりはじめた。傷だらけの体に爪を立てて引っ掻くので指先は鮮血に染まり、彼はまさしく血達磨になった。

「ダメだ、この車はもうダメだ!」

 窓ガラスを叩き、蹴破ろうとするが力が入らない。蔵人が忍法によって車外に落ちてしまわないかスバルはヒヤヒヤしていたが、体内の氣を練ってこの状況をどうにかするといった判断能力も、自分がそういった能力の持ち主であるという自覚すら失ってしまったようだ。

 後部ドアを開けようと施錠(ロック)された取っ手をいじくる蔵人を言葉で制しながら、スバルはせめて合流地点である翔丸(しょうまる)トンネルまでは彼を繋ぎ止めたい一心でアクセルを踏む。

「スバル、逃げろ、逃げろ!」

「わかったから、じっとしててよ!」

 蔵人のほうを見て一喝して、道路に視線を戻す。

 薄暗闇の道路の先、常夜灯の明かりの下に線の細い人影が立っていた。

「えっ」

 ──このとき、ワゴン車より先行して上空を飛んでいたトビは、道路の彼方に控えている怪異の存在を察知し、眼下の烏丸スバルに合図を送っていた。

 しかし、判断が遅れたのは、幻覚に怯える松永蔵人を前にして、彼女に突如ふって湧いたヒロイズムゆえか。

 避けようとして、とっさにスバルはハンドルを右に切る。ヘッドライトが人影を照らす。それは、黄土(おうど)色の毛を全身に吹かせた、人間大の獣──いや、獣人である!

「ブゥッッ──!」

 見えない大波が車体をすくい上げるようにして、ワゴン車が宙を舞った。二、三度、空中で回転(スピン)し、天井から道路に落ちた。車輪を空回りさせながら、それは(いびつ)な長方形のスクラップとなった。

 天地の逆さになった車内で、スバルは頭を揺らしていた。

「ま、松永さ……」

 車内に蔵人の姿はなかった。投げ出されたかどうか、それを確かめる術はない。車外に這い出すと、ソロリとたたずんでこちらを見ている影が目にとまった。

 胴がしなやかにくびれて、五体が長くて、胸と臀部には(あで)やかな曲線がある。シルエットこそ洗練された女性のそれだが、尖った鼻と漆黒の両目からは一切の感情が読み取れない。獣毛が頭のてっぺんから手足の指のさきまで茂っていて、そこから凶暴そうな鋭く長い爪が伸びている。

 女人とイタチ属の哺乳類が融合したような風貌は、優美でありながらグロテスクだった。

「ねえ、どうしたの?l

 と、そいつはひっくり返ったワゴン車を指差して言う。

「なんで転んだの?」

「………」

「ねえ、なんで転んだの?」

 スバルは目の前の怪異がワゴン車を横転させる瞬間を運転席から見ていた。怪異が息を吹きだすと、数メートル手前に空間をゆがませる透明な渦が発生した。風を受けた凧のように、ワゴン車はその渦に乗り上げて制御を失い、空高く舞上げられたのである。

 松永蔵人や不二典親が言っていた怪異とは違うが、これはこれでそういった厄介な存在の一匹に違いない。

 そう思ったスバルは、

「あなたは、誰なの?」

 と、無謀にもコンタクトを試みた。

「ねえ、遊びぼうよ」

「名前を教えて」

 それは首をかしげて、

「ぼくは、忌津那(いづな)──」

 と、子どもが大人に尋ねられたときのような、すこし恥ずかしそうに呟いた。

「イヅナ……イヅナっていうのね」

「ね、遊びたい」

 忌津那(イヅナ)というそれが不意に近づいてきたので、烏丸スバルは腿のベルトに収まっている小刀を抜いて胸のまえで構えた。が、その切っ先は小刻みに震えている。

 ──実働役たる男二人が不在のいま、監視役の自分に一体なにができるというのか。

「それで遊ぶの?──ま、いいか」

「………」

 このとき、それまで旋回していたトビが滑空してきて、前を横切った。

「んもうっ、ジャマだなぁ」

 忌津那は上昇していく鳥の影を睨みつけると、牙を剥き出してグルルと唸った。──と同時に、スバルの来た道、すなわち町の方向からカーブを曲がって現れたのは、スポーツタイプのオートバイだった。

 黒のフルフェイスにレザーのスーツ、細長い包みを背負ったライダーは、スバルとイタチ女の姿を認めるやいなや、スロットルを全開にして対峙する二者めがけて突っ込んできた。

 左手がハンドルから離れて、背中の包みを掴んだ。ホッケースティックのように小脇に抱えて、風に布地を剥がされて現れたのは、長ものに銀光を放つ刃──俗に長巻(ながまき)と言われる、長大な柄を含めて二メートルほどはある打刀である。

「なにあれ」

 駆動音に振り向いた忌津那は、これまた忌々(いまいま)しそうに一瞥(いちべつ)すると「フゥッッ」と、バイクに向かって息を吹いた。

 三十メートルほど先にいたバイクの外装(カウル)に刀傷のような細いヒビがはいって粉々に飛び散った。そしてライダーのメットにも亀裂が入り、スイカを割るように縦に砕けた。

 あらわれた顔は女だった。黒い樹脂の破片を振り落とすと同時に髪留めがほどけて、栗色のロングヘアが泳いだ。剥き出しになったマシンは速度を落とすことなく忌津那の左側にまわって、すれ違いざまに斜め下から斬り上げた。

「あれっ」

 反射的に振り上げた忌津那(イヅナ)の指先の爪が四本、付け根から斜めに消えていた。

 アスファルトに黒いタイヤ痕を深々と残しながらバイクはとまった。

「痛ったいなあ、もう……」

 ただ立ち尽くすだけのスバルは、イタチ怪女の周囲につむじ風のような空気の動きを感じた。妖気とも呼ばれる凄まじいエネルギーは、ワゴン車が飛散させた部品やガラス片を螺旋状に宙に浮かせるほど強力なものだったが、緊張が極限まで達するかと思われた直後、それは緩やかに収まっていった。

「……だめだ、もう帰るわ」

 忌津那は爪を亡くした掌をプラプラ振りながら、ため息混じりに(きびす)をかえすと、背後の森の夜陰のなかに消えていった。

 いつしか朝日が昇り、谷あいの道にも日の光が差し始めていた。



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その四

『国道で車炎上。ケガ人なし。

 九日未明、S県T郡の国道二九九号芦ヶ窪(あしがくぼ)付近にて、車が炎上しているのが発見された。

 県警によると、九日午前四時ごろに「横転した車が道路上で燃えている」と通報があった。

 炎上した車両はワンボックスタイプのワゴン車で、積載品や車体側面に描かれたデザインから社用車と思われるが、運転手の消息および車の所有者の身元は確認できていないとのこと。

 車体の損傷具合や現場に残されたタイヤ痕などから、県警は事故と事件の双方から捜査を進めると発表した。』

 

 ──この記事は新聞の地方面の片隅にひっそりと掲載され、またその日の夕方から、全国ネットのワイドショーはニュースとニュースの隙間を埋めるための小ネタとして、この珍事を消費した。

 ネット空間においては、運転手不在というミステリーを良いことに様々な憶測が立てられた。

 強盗、ひき逃げ、動物の仕業といったシンプルなものから、ヤクザの抗争、自動車メーカーによる内部告発者抹殺、メディア全体がグルになった政治家の不祥事揉み消し説。

 オカルト界隈からは、土着の妖怪精霊または未確認生物のいたずら説、宇宙人による地球人誘拐(アブダクション)説と、奇抜な考察が次々と発表されたが、いずれも一般大衆の反応は冷ややかなものであった。

 この出来事は瞬間的にこそ話題となったが、どの媒体でも半日と経たずに忘れられていった。

 膨大にある日々のニュースに埋もれていったせいもあるが、横転した自動車が乗り捨てられただけの話にそれ以上の興味を示さなかったこと、続報がパッタリと止んでしまったことが原因であることは間違いない。

 一方で、とある町のとある一家が、近所に挨拶もなく一晩のうちに夜逃げ同然のかたちで姿を消してしまった件は、なぜか地方新聞にさえ掲載されることはなかった。せいぜい近隣住民たちの井戸端会議に花が咲いたくらいのもので、三日もすると、ついに誰の口からも語られることはなくなった。

 不気味なほどに生活感のこびりついた空き家は、ガレージも庭も車も、その一切を塵ひとつ残すことなく綺麗に取り除かれ、『売地』の看板だけが立つ更地になった。

 おぞましい怪異と対魔忍との死闘の痕跡はなく、渇いた風が砂を巻き上げるのみである。

 

 

 東京都千代田区──立法、行政、司法の主要施設が集中し、大手新聞社や大企業、金融機関の本社が軒を連ねる。まさしく日本の脳幹であり心臓部である。

 霞ヶ関エリアにある内務省庁舎にて──山本信繁(のぶしげ)をのせて降下していたエレベーターは途中階で停止した。

 ドアが開いて、秘書とともに入ってきたのは、内務副大臣の長田(おさだ)だった。

「おや…」

 山本をひと目みるや副大臣は背筋を伸ばした。

「山本くんか、久しいなあ」

「これは、ご無沙汰してます、長田さん」

 副大臣と一官僚とでは肩書きに天と地ほどの差がある。当然ながら先に挨拶すべきなのは山本の方なのだが、そうする前に副大臣のほうから歩み寄ったのは、この山本という男の特異性にそうせざるを得なかったからだ。

「きみが直接足を運ぶとは、珍しいこともあるものだな」

「自分が出来ることといえば『行脚(あんぎゃ)』くらいのものですから」

「なにをまた、そんな謙遜を」

 長田は苦笑した。

 ──山本信繁は元海上自衛軍の三等海佐で、軍を除隊したのち内務省の官僚となった。

 『台湾危機』と呼ばれる米中の軍事衝突と、それに端を発する日本の国土防衛任務において多大な武勲を立てた彼は、本来であれば今ごろ巡洋艦の艦長か、はたまた将官クラスの地位に就き、艦隊の指揮をとっていても不思議ではない。

 なぜ彼が、自衛軍の出世コースを外れて、公共安全庁の調査第三部(セクション・スリー)という、活動内容も不明瞭な怪しい部署に身を置いているのか長田副大臣には理解しかねるが、省庁内に彼を軽んじる者は一人としていない。

 山本は、自身の知略と人脈(コネクション)、稀代の交渉術と物腰の柔らかさを武器とする、政治家ならまず一番に敵にまわしたくない類いの男である。

 実際、彼に頭を下げられて、首を縦に振らない人間など存在しないと聞く。

「ずいぶんと()()()に骨を折ったようだな。方々で愚痴を聞くぞ?」

「面目次第もございません」

「なあに、噂も七十五日、大衆にとっても良いガス抜きの機会になっただろう」

「はあ、まだ(くすぶ)っているところもあるようですが」

 なかなか言うな。と、長田は口もとをゆるめた。

 エレベーターが停止した。外にまわって秘書がドアを押さえ、次いで副大臣が降りる。

「では、山本殿、ますますのご健勝を」

「失礼します──」

 エントランスを出てすぐのロータリーに、黒塗りの公用車が停まっている。

 山本が近づくと後部ドアが開いて、奥にフォーマルなスーツに身を包んだ女が、片肘ついて窓辺から外を眺めている。

「進捗は?」

 艶やかな黒髪の女──井河アサギは、隣に乗り込んだ山本のほうを見ずに、

「八時間前に、烏丸スバルから連絡が」

「ほう」

 山本が目配せすると、ドアが閉まり、車はゆるやかに発進した。

「『不二は死亡。松永は消息不明。敵は複数の怪異』……と」

「そうか」

 山本は、やはりといった表情でうなずいた。

「烏丸の容態は、無事ということか?」

「ええ、どうやら協力者がいるみたいで」

「協力者?別地区の"草"か?」

「わたし達のあずかり知らない、おそらくは民間の組織かと」

 アサギもそこは不明瞭なようで多くを語ろうとはしない。

「それで、怪異とやらの詳細は?」

「スバルが言うには『夜導怪』と」

 やどうかい。と、単語を繰り返して、一瞬、記憶を探るように車の天井を見つめた山本だが、

「……きみは聞いたことあるか?」

 と、アサギのほうを見た。

「いいえ。しかし、一応、それらしきモノの映像が…」

「映像?」

 山本の真正面、助手席の後部ポケットに端末(タブレット)が入っている。彼はそれを取り出して、動画フォルダの中の最新のファイルを開いた。暗闇を照らして爆進する車の車載カメラの記録映像だった。

偽装用(ダミー)のワゴンか…」

 映像は右へ左へ揺れながら、深々と茂った森を突っ切るように車道を進む。──センターラインの上に立つ何者かの足もとを照らした途端、フロントガラス全体に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、画面が大きく揺れて、気付けば天地がひっくり返っていた。

「どれだ…これか?」

 山本は何度か映像を見返して、事故直前の車道に立つ影の姿を探ろうとする。

「それは標識。ほら、ここ……」

 ふたりは液晶画面に顔を寄せ合って映像を見つめる。

「人か……痩せほそったクマに見えなくもない」

「スバル曰く、風をあやつるイタチ女らしいけど」

「イタチ?」

 一般人なら──まともな役人なら、アサギの言葉を冗談か妄想癖の類いとして失笑しただろうが、山本は違った。彼は「ふむ」とうなずいて、しばらく画面の人影と睨み合った。

監視対象(ブラックリスト)たちの行動は?」

「“門”のモニターには変動なし。各団体も、それらしい行動も声明も一切なし…今のところは」

 こういった怪事件では、疑うべき集団が現状いくつかいる。とりわけ厄介な連中が東京湾の離れ小島に密集しているため、監視の目はつねに光らせている。今回の件もそうした要注意人物らによる犯行かと推理していた山本だが、そこが微動だにしないとなると、いささか先が思いやられる。

「人とも魔族とも違う勢力か……二人やられたとなると、すこし厳しいな」

「でも人じゃないと分かれば、私たちもやりやすい」

 アサギは冷静に言った。

 対魔忍軍の(おさ)たる彼女は──本人は否定するだろうが──偵察隊の安否を聞いて納得するとともに、明らかに憤っている。彼女がずっと窓の外を見ているのは、ともすれば彼女自身が武器を手に前線へ突撃していきそうなほど高まった気持ちを落ち着かせようとしているからなのだろうか。

「意気込んでいるところ恐縮だが、現場に動員できる人数はだいぶ限られそうだ」

「というと?」

「もちろん説得はした…説明できる範囲内でな。だが、どこも渋い顔をしている」

「私たちが何したって言うの?」

 もちろん分かりきってはいるが、大人しく認めたくはないアサギ隊長は、意地悪っぽく山本に尋ねる。

「先日の車両紛失(ボヤ)騒ぎが、霞ヶ関や永田町にも飛び火してな、どこも自分たちに矛先が向くのを恐れている」

「そんなものかしら」

「流言飛語ほど厄介なものはない。程度の低い陰謀論でさえ、ひとたび拡散されれば始末に負えなくなる。火花のひとかけらでさえ余計な火種は出したくないのさ」

「報道管制も、現代(いま)じゃ大して意味ないものねえ」

 アサギは車窓から信号待ちでごった返す交差点を眺めている。行儀よく並んでいる会社員も学生も男も女も、視線は手もとの携帯端末に釘付けである。唯一、群衆のなかで目があったのは、婦人のキャリーバッグから顔を出して舌を伸ばし周囲ををうかがうプードルくらいのものである。

「公安庁調査部の越権捜査は必要最小限にとどめるべき、ときた」

 それは暗に、自分達のお膝元を好き放題に探られて余計な詮索をされては困る。ということである。

「そう言われてもねえ。釘を刺すなら検察庁じゃないかしら」

「真剣に取り合ってはくれまいよ。高級官僚(エリート)たちに魔族だの怪物だのと説いたところで……」

 腕組みしたまま山本は小さく笑った。彫りの深い達観した顔には若干ながら疲れがみえる。

「勝手に動いたらダメなの?」

 と、アサギがぽつりと漏らした。もちろん本気の言葉ではない。しかし、そう言ってしまいたくなるほどに状況は雁字搦(がんじがら)めで、ホトホト嫌気がさしているのだ。

「是非とも、そうしたいところだがね」

 山本も皮肉たっぷりに返事してみせる。

「少数精鋭、もしくは単独、か…」

 アサギはいつしか頬杖をやめて、頭の横にのびるアホ毛を指さきに巻きつけていじくっている。

「やはり無謀だろうか」

「やるだけやってみます。鬼を送る──()()()()()()()()を」

 決然と言ったアサギは、フンッと鼻を鳴らして、

「これ以上、山本さんに頭を下げさせるわけにはいかないものね」

「それはありがたい。正直なところ、大分()()()んだ──」

 ハァ。と、重たいため息をついて、山本は目をつむった。

 よく晴れた昼前、車は首都高速に乗り、都心をはなれて五車地方の本部へと向かう。



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その五

 七月中旬、蒸し暑さが本格的になってきた頃。

 S県の北西部をはしる秩武(ちちぶ)鉄道の車窓からは風光明媚な景色がつづく。荒川をまたぐ橋梁(きょうりょう)に差しかかり、視界が一挙に開けるとともに雄大な渓谷が現れた。

 広々とした空に、威厳ある重厚な山々、せせらぐ川の水面は星屑のようなきらめきを放っている。四方を山に囲まれたこの土地では、古代から山岳信仰があつく寺社仏閣が多い。未知の原風景を求めて、千年以上経った現代でも観光客や参拝客、札所を巡礼するお遍路(へんろ)が後を絶たない。

 カメラを持った乗客たちがそれぞれの位置からシャッターを切るなか、ボックス席の窓際に座って、奥から手前に流れる景色をながめる女がいる。

 紐つきのハット、Tシャツにショートパンツ、その下にラッシュガードのような化学繊維のタイツを肌に添わせて、アウトドア用のシューズを履いた女は、膨らんだリュックを足もとに、円筒形の釣り竿入れ(ロッドケース)を小股に挟んで右腕に抱えながら、顔横まで伸びたそれを枕代わりに外を眺めている。

 景色に見惚れている風にも見えるし、考え事をしている風にも見える。にぎわう車内を気にする素振りもみせず、かといってすれ違うものに反応することもない。

 別車両から移動してきた男が車内をそれとなく見回して、ボックス席にひとり座る女を見つけると、それとなく歩み寄って、

「隣、よろしいですか?」

 と、声をかけた。短パンとリュック姿の同じく、レジャー目的で来たような風貌の男だった。

 女は男のほうを向くことなく、

「『五車の夏空』──」

 すると男のほうも、

「──『浅葱(あさぎ)色』」

 二人が小声で交わしたやりとりにどんな意味があるのか、われわれ民衆には知るよしもないが、女は黙って小さくうなずき、男はニッと白い歯を見せて女の斜め向かいに座った。

(トビ)はどこに?」

 女が目を合わせずに聞くと、

秩武(ちちぶ)神社に行くご予定は?」

 と、男は逆に質問した。

「いいえ、いまのところは」

「由緒ある神社ですよ。駅を出ると、すぐ道の向こうに社殿と鳥居が見えて──」

 側から見ると、なんとか振り向いてもらいたくて話しかける男と、鬱陶しそうに聞き流している女に見える。

「夏祭りは昼から山車をひいて街中をねり歩いて、夜には花火大会もあるんですよ。パワースポットとしても人気だし、まあそのおかげかどうかはわからないけど、巫女さんも美人揃いでして」

「巫女?」

「ええ、ここ数日、見慣れない顔したやつが二、三人。ふかく探ってやりたいところだけど、あんまりくっつき過ぎると、こっちもお縄になっちゃうんでね、へへっ」

「そうですか…それじゃ、すこし寄ってみようかしら」

 電車がアナウンスを告げる。女は荷物を持って立ち上がりながら、

横勢(よこぜ)の件は、残念でした」

 とポツリと言うと、男の態度に一瞬、間があった。

「なに、()()の宿命みたいなもんです」

 少しだけ侘しさのようなものを含みながらも、男はあっけらかんとして言った。

 乗車ドアが開いて人々が降りていく。その列につづく女の背中に、男は「ご武運を」と一言、ひときわ声のトーンを落として言った。ドアが閉まり、男を乗せたステンレスの車両は西へと走りだした。

 女の降り立った秩武(ちちぶ)市は、T郡の中心部である。人口七万人ほどの都市は澄んだ空気と夏の陽気に満ちている。

 いったい誰が想像しえようか。三十分とかからない隣町に怪異の蔓延(はびこ)る前線地帯があろうとは──。

 

 男の話した通り、駅前のロータリーに沿って歩くと、森があり、拝殿があり、石でできた大鳥居が見えてくる。

 チョロチョロと手水舎(てみずや)の水音と、ご朱印帳をもった家族連れがいるが、それ以外に音を立てるものはない。広い境内にたたずむ女は、足を運んだからには参拝ぐらいしておこうかと懐から小銭を取り出そうとしたとき、ピーヒョロロロ……と、尾を引く甲高い声がした。

「うん?」

 女は空を見上げて、鳴き声の主を探した。

「…ハヤテか?」

 道中にも見かけたが、拝殿の北には森が広がっていて、どうも声はそこからしたらしい。境内を出て、紅白色の回廊を右手に横に回ると砂利道が森の奥へとつづいている。

 鎮守の森は、生い茂る広葉樹が日射しをさえぎって案外ひんやりとしている。それまで意識の外にあったセミの声もひときわ大きく耳に入ってきて、改めて神聖な領域にいることを女は実感する。

 ──ここに魚はいませんよ。

 道のさきから声がして立ち止まると、やがてすぐ横の樹木の後ろから、白と朱色の上下をまとい、撫でつけた長い黒髪を束ねて背中に垂らした巫女が現れた。十七、八かそこらの巫女は、五メートルほど距離をとってたたずんでいる。

「鳥居を出て、正面の通りをまっすぐ進めば観光案内所がありますが」

「いえ、ここからトビの鳴き声がしたので…」

「トビ?」

 それを聞いた巫女は、女の身なりを確認すると「なるほど」と頷いて、

「では、あなたが助っ人ですね?」

 と、すこし声を上擦らせながら言った。

「助っ人?」

「スバルさんがおっしゃっていました。助っ人が来たときはハヤテが鳴いて教えてくれる。と」

「スバル…烏丸(からすま)スバルのことですか?」

「ええ、我々の──」

「それ以上は言うな!」

 本殿の方角から駆けてきたのは、またしても巫女だった。長髪の巫女をたれ目の犬顔とするなら、こちらの少女は短髪で猫顔、切れ長の眼でキッとこちらを睨みつけてくる。

「素性の知れない相手にベラベラと!」

「でも、ハヤテが鳴いたのよ。きっとそうに違いないよ」

「相手は狡猾なあやかし、動物だって騙される!」

 そう言って、短髪の巫女は二、三個、手の中のものをパッと投げ上げた。──角砂糖ほどの大きさの白い欠片は、空中で焼き餅のようにプクゥと膨らんだかと思うと、脚が生え、尾が伸び、地面に落ちるころには飴細工でつくったような、白い狛犬(こまいぬ)になっている。

 すばしっこい三頭の狛犬が女を中心に円を描きはじめる。女はとっさに肩に担いでいた竿入れに手をかけそうになる。が、──ネコみたいな顔したやつがイヌを使うか。と、内心そんなことを考えてしまって、フッと小さな笑いがこぼれた。これを見逃さない巫女である。

「おい、いまどうして笑った!」

「なにが?」

「いま笑っただろ!なにがおかしい!」

 彼女の感情に呼応するように、純白の狛犬たちも女に飛びかかろうと、その場で身を屈める。

神社(ここ)で喧嘩はダメだって!」

「うるさい!」

 長髪の巫女はなだめようと必死だが、とうにいきり立っている短髪のほうは聞く耳をもたない。

「やめなよ、柚ちゃん!」

「名前で呼ぶな!」

 狛犬たちがバウワウ!と吠えた。それは、この場にやってくる新たな存在を知覚したからである。

 ──このとき狛犬たちを羽音で蹴散らしたのは、木々の隙間を縫うように飛来した一羽のトビであった。それが女の背負っていた竿入れの頂きにとまって、その場の人間たちをぐるっと見回したので、いままで向かい合っていた三人の視線はそちらに釘付けになってしまった。

 ややあって、長髪の巫女が目を丸くして、

「ほら、ほら!あんなふうにハヤテが人に近づくなんて、あり得ないよ」

「だ、だけどよぉ……」

 そう言われると短髪の巫女も認めざるを得ず、次の言葉が出てこない。

「わたしは紗世(さよ)、こちらは柚月(ゆずき)

 事態がこじれる前に、長髪の巫女──紗世はみずから名乗った。あわせて紹介されてしまった手前、当の柚月本人も、これ以上は啖呵を切るわけにもいかず威勢をなくしてバツが悪そうにしている。

「わたし達は、この地の怪異を祓いに来ました、(あずさ)巫女といいます」

「梓巫女…」

「詳しい話は、後ほど。──それで、あなたは?」

 その若い釣り人は、頭上のトビに遠慮しつつ、アウトドアハットのつばをすこしだけ上げてみせた。

 この鳥はたしかにスバルのトビだし、自己紹介されたからにはこちらも名乗るべきであろうが、正直言って彼女はまだ巫女たちを信用できていない。スバルの報告にあった協力者なのかどうかも、この場では判断できかねる。とはいえ、烏丸スバルの名前を出したのは向こうなのだから決して無関係ではないのだろう。

「おい、どうして名乗らないッ!」

 そんな逡巡(しゅんじゅん)どこ吹く風と、居ても立ってもいられない柚月は狛犬三匹とともにクワッと牙を剥く。

「柚ちゃん、はやく引っ込めなよ、それ!」

 慌てて紗世がピシっと言う。

「なっ、どうして?」

「いいから!」

 紗世の険しい表情を向けられて、しばらく柚月は唇を尖らせていたが、

「なんだよ、もうっ…」

 なにをどう操作したのか、警戒を解いた狛犬たちは柚月の足もとまで駆け寄ると、白無垢な体表の凹凸が消えていってふやかした餅のようになり、再び指でつまめるほど小さな立方体になった。

「ここでの件は、平にご容赦を。わたしたち──()()()()()()は、そこの止まっているハヤテにかけて、あなたがスバルさんの仲間だと信じています。そして、あなたが私たちを信用できないというのも理解できます」

 落ち着きはらった態度で紗世は言う。

「ですので、ひとまずはスバルさんのところへご案内しましょう。なにをするにしても、信頼を得ないことには話は進みませんから」

「烏丸スバルは、いま何処に?」

「すぐ近くに。怪我をして療養中です」

 その言葉を聞いていたかのように、ハヤテが羽ばたいて森の外へと飛び上がった。

「あの子も気が(はや)るみたい。行きましょう」

 紗世は森の出口へと歩きはじめた。柚月も、女のほうを睨みつけながらも黙ってその背中につづいた。

 

 境内の東側、大通りと駐車場に面した建物が複数ある。これらは神社の所有する館で、披露宴や集会、展示会などのイベントに幅広く利用される多目的施設である。

 二人について女が入ったのはその館のうちのひとつだった。ロビーから大階段を上がり、二階には宴会場が大小いくつかある。

 十畳ほどの和室に、布団が敷いてあって誰か寝ている。

「スバルさん、起きてる?」

 柚月が部屋の電灯を点けてやると、布団のなかの人物がむくりと上体を起こした。

 片目に眼帯をして見るからにやつれたその女──烏丸スバルは三人のほうに顔を向けて、釣り人風の女に目が止まるや、

「ハヤテを通して見ていました」

 女がハットを脱いだ。群青色の、三つ編みにしたポニーテールが背中に垂れた。

「秋山さん──」

 スバルはひとつ目を見張った。驚きと歓喜、砂漠のなかの一雫を見つけたに等しい感情が湧き上がっていた。

 ──秋山凜子(りんこ)。このうら若い対魔忍こそが、井河アサギのいう()()()()ということか。

「あんた、秋山って言うのか」

 すかさず壁際にいた柚月が言った。

「ご無事でなによりです、スバルさん」

「ありがとう。無事というには程遠いけど」

 ため息まじりにスバルが布団をすこしめくって、ギプスのはめられた片足を見せた。

「派手に転んじゃった」

「ニュースで散々観ましたよ」

 笑いあう二人に、あのぅ、と横から紗世が声をかける。

「いま残りの人たちを呼んできます。柚月を置いていきますから」

 と、壁に寄りかかったままの柚月に一瞥くれて、彼女は部屋を出ていった。

「残りの人?」

「巫女は他にもいるってことだよ」

 残された柚月は気だるそうに部屋の角へ行くと、そこに据え置かれている茶櫃(ちゃびつ)を開けて、なかから湯呑み茶碗と急須を取り出した。一応は来客だから、お茶の一杯くらいは淹れてやろうという気持ちはある柚月である。

 その隙に、凜子はスバルに顔を寄せて、

「──スバルさん、梓巫女とは?」

 と、柚月に聞こえないようささやいた。

()()は違うけど、どうやら目的は同じみたい。私もずいぶん助けられた」

 柚月が畳のふちを踏まないように寄ってきて、受け皿に乗せた湯呑み茶碗をふたつ、二人の近くに置いた。茶碗の底が見えないほど濃い茶が湯気を立てていた。

 ありがとう。と、スバルが温和な声で言うと、彼女はどうも。と素っ気なく呟いて、

「……秋山さんは、そんなに使()()()()なんですか?」

と、本人を目の前にして臆面もなく言ってみせる。挑発ともとれるその言葉には嫉妬のような感情も混じっているようで、スバルは茶をすすりながらふふっと笑った。

「そうね…少なくともわたしは、彼女が負けたところを見たことないかな」

「一度も?」

「ええ、一度も──」

 渋茶を飲んだせいかスバルがしみじみ言うので、柚月は、呑気に茶碗の飲み口にフゥフゥと息を吹きかけ、熱い茶を飲もうとしている凜子のほうを見る。

 ──たしかにこの秋山という女、肉付きは良すぎるくらいに良い。正座している姿は背筋がピンと伸びて、手足も首筋もゾッとするほど細く、かつ艶かしい。凛々しく高潔な精神を女体の型に流し込んで造られたような、人間離れした美しさと恐ろしさがある。

 そんな女なら周囲が放っておかないだろうと思うが、そうでもない。実際、ここに来るまでに神社の内外を移動してきて、当然、老若男女それなりの数の人間とすれ違ったわけだが、彼女に対して視線を投げる者は一人としていなかった。

 柚月も梓巫女の端くれだから、気配を捉えることのできる者として断言できる。──それは人々が彼女に配慮したのではなく、そもそも彼女の存在に気付いていなかったのだ。

 なぜそんなことが可能なのか。それがわからないから柚月の表情は晴れない。



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その六

 紗世(さよ)が女たちを四人引き連れて戻ってきたのは、夕方六時を過ぎた頃であった。

「お待たせしましたー」

「遅すぎるッ!」

 抗議の声をあげたのはスバルでも凜子でもなく、柚月だった。

 紗世から一人この場を任された彼女は、仲間が戻ってくるまでスバル達を残して勝手に外出するわけにもいかず、暇潰しの用意もしてこなかったので、空腹と暇をもてあます苦痛の時を過ごしたのだった。

「ごめんねえ遅くなっちゃって。みんな部活とかパートで忙しいから」

 いつしか巫女装束からワンピース姿になっていた紗世は、手に提げていたビニール袋をまさぐって、

「はい、お詫びのさけるチーズ」

 と、筒型のチーズを差し出した。

「ちゃっかり着替えてるし…」

 いまだ巫女装束の柚月は不満タラタラの表情でそれを受け取ると、乱暴に包みを剥いて頭からかじり付いた。

「柚ちゃんも着替えたらよかったのに」

「お前が任せるって言うから、あたしはずっとここに居たんだぞ」

「ちょっとくらい席外したっていいじゃない」

 ねえ?と、紗世がスバルと凜子に視線を送ってくるので、とりあえず二人はうなずいておく。

「ったく、冗談じゃねえや」

 ふてくされた柚月はぶつぶつ言いながら、沙世から次々と渡される惣菜パンや駄菓子の類いを消化していく。その様子が笹をはこぶ飼育員と、葉っぱを夢中でくわえるパンダのようでスバルは可笑しかった。

「あのぅ、──」

 このなかでは一番年長らしい女が進み出てきて、

「お腹すいてますでしょう、よろしかったら召し上がってください」

 と、こちらは串団子のみっちり詰まったパックを差し出してくる。飴色のタレにたっぷり浸ったみたらし団子で、受け取った凜子の鼻先にしょう油のあまい香りが立ちこめる。

「ああ、これは、どうも…」

「えっ、いいなあ団子。仲原屋の?」

 双子がプードルのように匂いを嗅ぎとって、両方そろって顔をあげた。

「ちゃんとみんなの分もあるから」

 団地の懇親会みたいな和やかな空気に、ついスバル共々のまれそうになってしまう。

 そうこうしているうちに、部屋の後ろでは高校生になりたてぐらいの幼さの残る二人組がカバンを下ろして靴下を脱ぎ、畳の上に寝転がり出した。その横で、これまた服装の違う二十代半ばの女が、スマホを手鏡代わりに前髪をととのえている。

 本当にこれが怪異に対抗しうる巫女軍団なのだろうかと、実物を見ても疑いの念が晴れない凜子である。と言っても、それは釣り竿入れを抱えて座っている彼女も同じ立場なのだが──。

 ──かくして、横一列に正座して並んだ女たちは千差万別であった。

唯愛(ゆあ)です」

 夏用の制服を着た女の子が言った。

乃愛(のあ)

 学校指定のジャージ姿の女の子が言った。

 唯愛と乃愛は、服装以外は鏡写しのように同じ背格好をしていて、どうやら双子の姉妹らしい。

多恵(たえ)といいます」

 これは先ほど団子を差し入れてくれたひとで、物腰や風貌からして母親然たる大人の女性である。

瑞穂(みずほ)です」

 おじぎをするとウェーブのかかった栗色の長髪がゆったり揺れる、目鼻立ちのくっきりした美女である。

 この四人に、紗世と柚月を加えた六人が“梓巫女”だというが、果たして怪異退治の実力はいかほどか、パッと見では見当がつかない。

「これで、全員?」

「まあ、そう言いたくなるのも無理ないですよね」

 多恵が首を伸ばして、自分を含めアンバランス極まりない集団を左右に見て苦笑した。

 挨拶を終えると、おのおの姿勢を崩して、多恵の差し入れの団子を食べはじめた。

「お茶、いるひとー?」

 急須を持った紗世が声をかけると、全員が手を上げた。

「あの、梓巫女というのは、普通の巫女さんとは違うのですか?」

 凜子が素朴な疑問を投げかけると、

「あんまり変わらないんじゃない?」

 瑞穂が肩をすくめて言う。

「今回みたいな案件もあれば、正月の厄除けとか地鎮祭にも手伝わされるし……お守りやご朱印帳売ったり、在庫管理したり、境内掃除したり…まあ特別ってほどでもないよね」

「ちなみに、私を助けてくれたのも瑞穂さんよ」

 スバルが凜子に口添えした。

「典親さんを見つけてくれたのは紗世さんと唯愛さん、乃愛さん」

「そうだったんですか」

「彼は、すぐ近くの霊園に」

 紗世が言いながら、お茶を淹れた湯呑み茶碗を配る。

「どうもありがとう」

 お茶を受け取るとともに凜子は彼女たちに深々と頭を下げた。

「わたし達が駆けつけた頃には、もう黒い霧のなかにいて手の出しようがなかったの」

 乃愛が残念そうに言った。

「黒い霧?」

「真っ黒な天狗。タコみたいに墨をまいて煙に巻くの。ほんとセコい奴!」

 よほど憎たらしいのか、唯愛は腕組みして吐き捨てるように言った。

「──それと、松永さんは?」

 凜子が聞くと、スバルは首をよこに振った。

「ハヤテを使って探してるけど、いまのところは、まだ」

「言いにくいけど…その、すでに亡くなっているのでは?」

 声をひそめて唯愛が言うと、凜子は、うーん…と首を傾げる。

「だとしたら、すでに本部が見つけていると思う」

 偵察におもむく忍者たちの体内には特殊な発信器(ビーコン)が仕込まれており、一定の条件がそろうと五車の本部へ信号が発信される仕組みになっている。それを受信していないとすると、少なくとも死んではいない──。

「ここ以外で、だれかに保護されているのかも」

「交番も、署のホームページにも、それらしい人のことは載ってなかったけど」

 と言いながら、瑞穂は食べ終わった串を片手で折って捨てる。

 スバルは当時を思い出して神妙な顔つきになる。

「松永さん、目をやられたって言ってたけど激しい幻覚を見ていたようで、ハンドル握ってたから私には手の施しようがなかったけど、見たことないくらい暴れて…」

「おそらく雀女(すずめ)の鱗粉のせいでしょう」

 と、多恵は言った。

「スズメの鱗粉?」

「"夜導怪(やどうかい)"の雀女は、毒蛾を従える幻術使い。正面から挑むのは無謀と言えます」

「あの、率直にお尋ねしますが、その夜導怪とは何ですか?」

 いまのところ凜子を含めた対魔忍勢は、スバルがハヤテを通じて送った情報──事故車両のドライブレコーダーが記録していた“イタチ女と思しき影”しか知らないから、敵の情報についてはまったくの無知と言っていい。

夜導怪(やどうかい)は、この地域に棲んでる妖怪たちのことです」

「昔から『夜導怪に夜道で出くわすと真っ暗闇に連れ去られる』なんて言われてるけど…まあ子ども向けのおとぎ話よね。明るいうちに家に帰れ、夜遊びするな、はやく寝ろっていう教訓よ」

 唯愛は鼻で笑った。

「昔ばなしが、どうしてイタチ女や幻術使いに?」

「それは分からない。私たちも節分みたいに毎年やってるわけじゃないし。ただウン百年に一度、とんでもなくヤバい奴が()()らしいのよ」

()くって、どこから?」

 窓辺に近い瑞穂が、窓の外の遠くにそびえる壁のような山陰を指差した。

「あそこ──武洸山(ぶこうさん)から」

「山から妖怪……聞いたことない」

 スバルも凜子も対魔忍だから、魑魅魍魎(バケモノ)に対しての知識はそれなりにある。が、それでも夜導怪という存在は初耳だったし、五車の本部も同様に実態を把握していない。とすると、文献にも記されていない、有史以前の存在ということか──。

「──あのさあ、さっき本部って言ってたよな?」

 不意に、柚月が割って入ってくる。

「こんなとこで団子食って話してるってことは、警察じゃないことは確かだろうけど、やっぱどこかから派遣されたんだろ?本部ってのは役所?猟友会とか?」

 スバルは鼻頭をぽりぽりかきながら、

「仲間というか、うーん、チームというか。個人で動く人もいるにはいるし…」

 と、ぎこちなく返答したが、案の定、納得できる柚月ではない。

「あんた達、ほんとになにも話せないんだな」

 幸いにも、彼女の表情に怒りの感情はなかった。

「ごめんなさいね」

「いや…こっちもゴメン。よくよく考えたら、話を遮ってまで聞くようなことじゃなかったよな」

 柚月は照れ隠しに笑った。歯切れの悪いスバル達に対する猜疑心は薄らいでいるようだが、どうやら二人と腹を割って話せないのがもどかしいようで、とびきり正直な娘だけに曖昧な返事には我慢ならないらしい。

「──柚月さんの思ってることが正しいわ。これから命がけの仕事をするのに、素性の知れない人間と組むのはバカのやることね」

 スバルは自嘲気味に笑って、

「きっとこのわだかまりは今後も解消されないままだと思う。でも、どうか私たちに力を貸してほしい」

「…………」

「こんなバカな無理難題──いくら素性を隠したところで、私たちがどこの人間か、だいたい見当はつきそう」

 凜子と、巫女の年長組がフッと笑った。柚月にはなにがおかしいのか分からない。

「心配しないで、スバルさん。なにより大事なのは、一刻もはやく夜導怪を(はら)うこと!」

「素性なんてなんだっていい。同業者ってことでいいじゃない、ねえ、柚ちゃん」

 多恵は年長者らしく優しく微笑みかける。柚月もわずかながら笑い返してうなずいた。

「同業者か……わたしも今度から巫女を名乗ろうかな」

 凜子が腕組みしながら言った。

「説明する手間が省けるから?」

「そう。いつも言い訳に苦労するんだ。それに釣り人はどうも(ガラ)じゃない」

 短パンの下の、足を覆うアンダータイツをつまんで苦笑いした。

 やがて夕空が深い青に染まり、月が輝きはじめた。

「もうすぐね」

 窓辺に立つ瑞穂が言った。

「奴らのことだから、わたし達や二人の存在を()()()()()いるはず」

「ここに来るでしょうか」

「もう来た」

 凜子の言葉に、すぐにスバルが返した。彼女の眼は片方で和室を見ながら、もう片方で町を見下ろしていた。



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その七

 日没後は社殿へ通じる神門が閉じられ、月明かりに照らされた境内は、参拝客のひっきりなしに訪れる日中とは打って変わって、ご神木たるイチョウの樹の葉っぱが時折、夜風に揺れてさらさらと音を立てる以外は不気味なくらい静まりかえっている。

 本殿の入母屋(いりもや)屋根にひとつの影が音もなく降り立って、するどい眼光があたりを見回した。墨色の梵天袈裟の、ほつれた裾を風にそよがせるのは鴉天狗の虚空丸(こくまる)である。

 大棟(おおむね)にとまった虚空丸は、その場でしゃがんだまま動かなくなった。鴉天狗は秩武(ちちぶ)神社周辺の空間を陽炎のように揺らめかせる()()()()()()()を感知していた。さながらヨーロッパの聖堂の外壁に鎮座する石像(ガーゴイル)のような荘厳な出立ちではあるが、ここにいるのは、殺りくを求めてたゆたう、凶々しい気に満ちた狡猾なハンターである。

 その姿を上空から監視するトビ──ハヤテは、夏の夜空を凧のように漂っている。

「スバルさん、相手の数は?」

「確認できるのは、いまのところ一匹……」

 両手で印を結ぶスバルは、ここではないどこかへ魂を飛ばしているからか、実体こそ布団の上にあるものの生気は極端に薄らいで彫像のように動かない。それが口もとだけ生者のように流暢に動いて喋りはじめるから、すこし気味が悪い。

 ──対魔忍・烏丸(からすま)スバルは忍鳥ハヤテと、ある種の精神感応(テレパシー)によって意識を一体化させ、視覚の共有をも可能にした。

 暗闇を音もなく飛行し、猛禽の眼は数百メートル眼下のネズミの挙動も見逃さない。加えて、五車の隠れ里で育てられたハヤテは異界生物のニオイも嗅ぎわけるよう訓練されており、索敵と隠密に優れた空の諜報員と言えよう。

 そのハヤテが奇妙な存在を認めたと聞いて、凜子と梓巫女たちの間にも緊張が走る。

「目測だけど、人型で大柄、僧侶みたいな格好」

「鴉天狗に違いない……上等だッ」

 腕まくりして出て行こうとする柚月に待ったをかけたのは紗世である。

「伏兵がいるかも知れない。焦らずに相手の出方を見ましょう」

「いつまで探ってるつもりだよ。敵の位置がわかったんだから、全員で囲んで一匹でも多く潰そう」

「みんな、()()は持ってきてるの?」

「一応、全部わたしの(クルマ)に積んであるけど…」

 多恵が外の駐車場を指差して言った。

「わたしも柚月さんに賛成」

 手を上げたのは双子の片割れの唯愛(ゆあ)だった。

「次こそ完璧に()ててやるから」

「これは試合じゃないのよ、唯愛ちゃん。考え無しに突っ込んで、全滅なんてしたらどうするの」

「その前に潰しゃあいい話だろうがよ」

 しぃっ、と凜子が自分の唇に指をあてた。

 部屋の扉の向こう、廊下に何者かの気配がする。

「え、誰?」

「まさか……」

 応対しようと腰を浮かせた紗世を多恵が手で制して、代わりに凜子が釣り竿入れを片手にゆっくり腰を浮かせて膝立ちになる。瑞穂は窓の外の暗闇を警戒しつつ、スバルのそばを離れない。

 コン、コン、と部屋のドアが叩かれた。柚月はすでに懐から例の白いサイコロを取り出して、いつでも狛犬たちを投げつけられるよう準備している。

 ──あのぅ。と、女の声がした。

「どなた?」

「あ、岡島ですけどぉ」

「……オカジマって?」

 双子が顔を見合わせた。

「あっ、シズさんね」

 紗世がハッとして立ち上がり、駆け寄ってドアを開けた。立っていたのは私服姿の中年女だった。『おかじま』と書いた名札を首からさげていて、凜子も昼間ここまで上がってくるときに一階の受付に座っていたのを見かけたのを思い出した。

「どうしたの」

「もうすぐ閉館のお時間ですが……」

 と言いながら、岡島という女は部屋に集まる女子たちにも目配せした。紗世に頼まれて空き部屋を提供したのは彼女だった。

「ねぇ、シズさん、もう一泊なんとかお願いできませんか?」

 紗世は手を合わせて頭を下げた。

「そうしてあげたいけど、明日は予約が入ってるのよ」

「この部屋も?」

「お昼過ぎから二階まるごと会食に使っちゃうの。朝から準備で大変よ」

 岡島は苦笑いして、

「それにほら、あと十日もしたら『お祇園(ぎおん)』もあるでしょう。イベント尽くしで部屋が空くヒマもないのよ。半日くらいならひょっとしたらかもだけど、あんまりそういうことは、ねぇ」

「そっか…そうだね」

「ごめんねぇ、紗世ちゃん。みなさんも……」

 岡島が頭を下げるので巫女たちも反射的にいえいえと首を振ってお辞儀した。

「ううん、ありがとう、すぐ出るから」

 紗世は頭を下げて、ドアを閉めた。岡島のひかえめな足音が遠ざかっていった。

「──というわけなんだけど」

 と言って振り向くころには、巫女たちは広げていたものを片付け終えている。

「それじゃあ、次はどこへ駆け込む?その前に、ここを無事で出られるか、だけど」

「スバルさん、天狗の様子は?」

「拝殿の屋根にピッタリ張り付いて動かない。私たちを待ち構えてるみたいね」

「前門の天狗、後門の岡島、か……」

 巫女のなかでいちばん幼い乃愛(のあ)が、渋い顔をしてボソッと言った。

「攻めるにせよ逃げるにせよ、出て行くなら早いほうが良い──」

 と、釣り竿入れを左手にすっくと立ち上がったのは凜子であった。

「夜導怪は、わたしが引き受けます」

 本気かよ。と柚月がぽつりと漏らした。みな驚愕と困惑の表情だった。

「なにか勝算があるの、凜子さん?」

 多恵が聞くと、

「いえ、挨拶ぐらいはしておこうかと思って」

 凜子は冗談混じりに言ってみせたが、笑う者はもちろんいない。

「そんな無茶な……生きて帰れる保証はどこにも無いんですよ」

「そうなったら、それはそのとき──仮にわたしが倒れても、私がここへ来たように追加の人員が本部から駆り出されるだけです」

 彼女の顔には、勝負に挑まんとする気迫や勝利への焦燥、死への恐怖すら無い。波の一切ない鏡のように澄んだ水面──明鏡止水の境に凜子の心はある。

その出立ちが非常に頼もしくもあり、恐ろしくもあり、巫女たちが気後れしているあいだに凜子は出て行ってしまった。

 一階の受付デスクに座り、いつものように閉館の支度をしている岡島が手元の帳面に記録をつけていると、ふと受付のまえを行き過ぎる気配を感じて頭を上げた。誰もいない。

 入り口に設置していた扇風機も天井の空調もとっくに切っている。他の職員は帰ったし、二階に(たむろ)する女子たちを除けば建物には戸締りの当番である自分しかいない。人懐っこい紗世が挨拶もなしに立ち去るとは思えないし、なにより等身大の塊が横切ったような気がして、馴染みの職場といえど黄昏時だから、彼女は内心ヒヤッとした。

 一階ロビーには駐車場に面した正面玄関たる東口と、拝殿や社務所と直結している職員用通路たる西口があるが、風は西口のほうへと流れていったように感じた。

 はて。と首をかしげながら、非常灯のともる仄暗い無人の通路をしばらく見つめていた岡島だったが、壁に並んで飾られていた神楽(かぐら)(おもて)のレプリカのひとつが消えたことには、ついに翌朝まで気づくことはなかった。

 

 同じ頃、それまで微動だにしなかった虚空丸が風に吹かれたように立ち上がると、一点を見つめて、くちばしの端をニュッと吊りあげた。

 視線の先──夜の(とばり)から月明かりの下にあらわれたものがある。

 滑らかな面長の顔に、富士額の左右から生える二本のツノ、眉間にシワを寄せて威嚇するようにカッと開かれた両眼、歯牙を剥き出しにして耳元まで裂けた口──。

 白茶けた般若面をつけた何者かは、大胆にも境内の中央に立った。

「ふふ、今夜は巫女じゃなくて鬼女とな」

 虚空丸は屋根に錫杖を突き立てて眼下の相手を値踏みするように眺めている。

 男みたいな色の服装をしているが、線が細いから女には違いない。図々しい賽銭泥棒なら、とっくに本殿まで忍び足でやって来ているだろう。すこしでも第六感の働く人間なら、鴉天狗の放つ妖気──例えようのない不安と氷のような恐怖感にいたたまれず即刻立ち去っているだろう。

 その点、この場に立ち止まって動かないという行為は、怪異の存在に気付いたうえで、なおかつ怪異に対抗しうる力を持つ者だという何よりの証拠である。

 やはり梓巫女。しかし、挑発するように仁王立ちする巫女は虚空丸もはじめてだった。 

「おい巫女、(おもて)なんぞ付けたら顔が見えん、それを取れ」

「………」

「興が削がれると言うとるんじゃ、はよう面を取れい!」

 声はたしかに境内まで届いたはずだが、般若面は答えない。

 ──こいつ、耳がおかしいのか。

 業を煮やした虚空丸が、おのずと屋根から降りようと足を動かした途端、

「お前が天狗とやらか──」

 右後ろから耳元に吹きかけるように声がしたので、虚空丸は反射的に振り返る。誰もいない。ふたたび境内に視線を戻すと境内の女も消えている。

「慌てたな」

 声の主は、虚空丸の左側五メートルほど離れた軒先に立つ影──紛れもなく般若面である。

 虚空丸の衝撃は凄まじかった。たしかに先ほど声につられてまんまと振り向いた。だがそのときも決して周囲への警戒を怠っていたわけではない。女はたった二、三秒のうちに本殿までの石畳を十数メートル音もなく走り、柱と屋根をこれまた音もなく伝って軒先までたどり着いたということになる。

 いや、よしんばそれが可能であっても、それ以前に「お前が天狗とやらか」と、この虚空丸の背後から声をかけてきたのは誰だ。意識の外から間合いに潜りこんできたという点では、目の前の般若面より危険な相手である。巫女は二人いるのか、では、そいつはいま何処にいる?いつからいた?

 動揺を察知したのか、般若面の女が肩を揺らした。

「……貴様、本当に巫女か」

「さぁ、どうだろう」

「どうせ後々になって剥ぐことになる。今のうちに面を取っておけ」

「いや、それは断る」

「なんだと?」

「ここで顔を見せたところで、鳥目(とりめ)には暗くて誰だかわからないだろう」

「な、なにを──」

 握りしめた錫杖の金環がシャリシャリと小刻みに鳴った。

 人間が相手を猿に例えて侮蔑するように、鴉天狗もまた鳥類と比較されるのを嫌うものとみた。そして虚空丸はまんまと挑発に乗った。すっかり格下と思い込んでいた巫女だけに怒りも大きかった。

 衝動に突き動かされた鴉天狗は、感情の爆発とともに筋肉を膨張させた。槍の穂先のように鋭くいびつに尖った錫杖の先端が月明かりにキラリと光ったと見る間に、研ぎ澄まされた突きが鬼女めがけて(ほとばし)る──。

 女は背負っていた長物を真正面に構えた。

 カッ!と甲高い衝突音がして砕けたのは錫杖の突端のほうであった。ただ人間ではないにしても、これには虚空丸も息を呑んだ。

 対して怒涛の刺突を受け止めた竿入れは、ジッパーがひとりでに上から下に降りていって──顔を出したのは無論、釣り竿ではなく──黒鞘に山吹色の鍔と柄頭、紺色の組糸が柄に巻かれた、やや大振りな打刀が、いつの間にか鬼女の両手におさまっている。

 ──こいつ、何者だ。

 同時に、般若面の奥から破壊的なまでの殺気が押し寄せてきて、たまらず虚空丸の背中の両翼がひるがえった。ひとたび羽ばたけば、妖気を込めた体羽をまき散らし、相手を行動不能に追いやる絶技・(ぼく)(てん)(じん)──!

 どうして回避できよう、天狗を中心に吹き荒れる黒い旋風は、女を頭から足先まで墨色に染めあげた。

 ──勝った!

 いつぞやの小僧と同様、袈裟斬りにしてやろうと錫杖を振りかざした虚空丸の目の前に、しかし鬼女は臆するどころか、むしろ懐に飛び込んでいる。

「なにッ──」

 青白い光芒が流れたかと見る間に、錫杖を持った右腕は肩口から斬り飛ばされ、赤黒い糸を引きながら、境内の上空を竹トンボみたいに舞った。

「ケェェーーッ!」

 驚くべきは虚空丸の生命力である。

 奇声を発して跳び上がり、空中の右腕を掴むと、そのまま全身を霧散させてしまった。同時に、女の全身にこびりついていた天狗の体羽が枯れ葉のようにほろほろと崩れていく。

「行ったか……」

 ──秋山凜子は、般若面のしたで大きく息を吐き、愛刀の石切(いしきり)兼光(かねみつ)を鞘におさめた。

 墨天陣による目潰しは般若面でとどまり、彼女の視界と呼吸器を侵すまでには至らなかった。もとより視線と口もとを読まれたくないがために一か八かで付けた仮面だったが、思いがけない幸運に凜子自身も内心、驚いている。

 

 境内のイチョウの大樹が、さやさやと葉擦れの音を立てた。

 ──やられた。

 どこからともなく、ささやき声が聞こえてくる。

 ──虚空丸がやられた。

 ──あっけないやつ。

 ──巫女が斬った。

 男の声、女の声、子供の声が、風に乗って遠巻きに凜子の周囲を漂いはじめる。

 ──いや、あの()()は巫女にあらず。

 ──むしろ我々に近しいものを感じる。

 ──次はおれが。

 ──いいえ、わたしが。

「……まとめて出て来たらどうだ」

 凜子が声をかけると、一瞬の間があった後、

 ──うふふふ。

 ──へへへへ。

 ──ひひひひ。

 と、一斉に不気味な含み笑いがこだまする。

 本殿の屋根の上で、腰を落として柄に手をかけたまま凜子は動かない。いや、動けない。

「……どうした、夜は短いぞ」

 吹っかけてみるものの痩せ我慢に等しかった。

 ──遊ぶのは、一人に一人。

 ──今夜は虚空丸(こくまる)の奴が一歩早かった。

 ──すぐに壊すのは面白くない。

「なるほど、律儀な奴ら……」

 翼をたたんだハヤテが、夜空から彗星のように急降下してきて、イチョウの大樹に突っ込んだのと、いつからそこにいたのか、神門の陰から和弓を引きしぼる双子の姉妹がビィィンと弦を弾いたのが、ほぼ同時の出来事であった。

 細枝を数本落としてハヤテは横に流れ出た。入れ違いに双子から放たれた二つの波動の矢が枝葉の間でかち合うと、落雷のような閃光(スパーク)を引き起こし、樹陰から飛び出した怪異たちを影絵のごとく境内に浮き彫りにした。

 長大な昆虫、妖艶なイタチ、壁を走るヤモリ、無邪気な蛾の群れ、地を這う蛇───。

「あれが、夜導怪……」

 不気味な高笑いの残響とともに、五つの影は秩武(ちちぶ)の夏の夜に散っていった。

 関東の盆地のなかの小都市は、これより幻妖極まる闘技場(コロッセオ)と化した。

 (はら)(たま)い、清め給え、(かむ)ながら守り給い、(さきわ)え給え。

 対魔忍と六人の巫女達に勝利と祝福を──。



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その八

 秩武警察署、地域課の事務所にて。

「廃車ぁ?」

 巡査部長の浅見(あさみ)由衣(ゆい)の声が、部屋いっぱいに響き渡った。

「おう、朝イチで持って行ってもらったわ」

「ぜ、全部ですか?」

「廃車に全部もチョットもあるかい」

「誰が決めたんです?」

 課長補佐は渋い顔をしながら、自身のデスクの平積みの書類の中から判子の押された一枚の紙っぺらを見せた。その押印がどこの部門の、なんの部署であるかなど浅見には知る由もない。

 彼女はそれを読もうともせず手で払いのけると、

見分(けんぶん)がまだ済んでいませんが」

 と、依然として強気の表情のままでいる。

 三日ほど前の夜明けすぎ、峠道で身元不明のワゴン車が大破炎上した。この珍事はちょっとしたニュースになったが、それ以降の情報が表に上がってこないのは、証拠である車両そのものが何者かの手引きによって持ち出され廃棄されてしまったからである。

 そんなこと知るよしもなく、遅々として進まぬ捜査の進捗をうかがいに本署事務室まで馳せ参じた浅見由衣は、事件そのものに蓋をすることを認めた上司の行動に愕然とすると同時に、組織全体に対する不信感と怒りが湧いてくるのを必死に抑えている。

「当日の調書はお前が取ったんだろ?」

「はい、紛れもなく」

「それを交通課にまわして、向こうが処理した」

「はい」

「ナニが不満なのさ?」

「それじゃ不十分だと言ってるんです!」

 四十手前の課長補佐は後頭部を掻きながら、どうしたものかと悩んでいる。

「バイクの外装(カウル)の破片とタイヤ痕の件は?接触事故の可能性もあると私は書きましたが」

「いやさ、そう言われてもよぅ、交通課の兄ちゃんにやり直せって言えるか?」

 それが貴方の仕事でしょう。と訴えかける浅見の視線は力強い。彼女の両手はデスクの両端を掴んでいて、そのままちゃぶ台のように放り投げてしまいそうなくらい怒り肩なのでおっかない。

「……運転手が顔出してくれなきゃあ何も出来ねえだろうがよ。車台番号を問い合わせても陸運局はダンマリなんだろう?」

「ええ、身元確認に時間がかかるの一点張りですよ。そんなの聞いたことない…」

「なんだか気味悪いんだよなぁ」

 と、課長補佐はしかめっ面で腕組みしている。

「ですよね、破損した車両を残して逃げるなんて、どう考えてもおかしいでしょう。どうして戻って来ないんですか?」

「そりゃ逃げた運ちゃんに言ってくれや。──山岳警備隊の捜索も終わったし、現場周辺の整備も清掃も済ませたし、とりわけ路面に異常があったとか、遡って調べても関連する不審車両やひき逃げの情報も無かったわけだしなぁ。こっちはお前ぇ少年探偵団じゃねんだからよ、当事者も無しにやる事と言えば、せいぜい後片付けぐらいのもんよ」

「………」

 釈然としない浅見を前に、課長補佐は立ち上がると事務室の壁にかけてあるホワイトボードを指差した。

「ほれ見ろ、浅見。市内での交通事故の件数だ。六月末の時点で人身事故が三十九件、物件事故は四百弱ある。他地域も合わせたら五割増しほどになる」

「………」

「これは俺の感想だがな、ありゃ人身事故じゃなく物件事故だで。もともと翔丸(しょうまる)峠ってとこは、調子こいた走り屋のバカたれ共が、ガードレール破って沢に飛び込むような場所なんだわ。車が転んだとて、そう珍しいことじゃないんだよ」

「……腑に落ちない点があったとしても?」

「俺もお前も求められた業務はキチンと済ませた。その上でこの件に関しては事件性なしと判断された。それで終わりよ。薄情と思ってもらって構わんが、そういうもんだ。──ま、ここは涙を呑んでだな、見えない脅威より、いまある社会秩序の維持に努めてくれい。それもお前の立派な仕事だからよ」

 課長補佐のまなざしは、はねっ返りの強い若者をなだめる年長者のものだ。これ以上詰めたところで何も出てこないのは浅見にもわかっている。

「……わかりました」

 浅見はうなずくと、黙礼して事務所を後にした。

 ──上司から終了だと言われてしまえば、町のお巡りさんの自分にその決定を覆すだけの根拠も権限もない。

 外には白黒の四駆車(ジムニー)がとまっている。あさみさーん、と運転席から呑気に手を振っているのは、部下の原田という男だ。

「さきほど猟友会の富竹さんから連絡がありました」

「なにかしら」

「どうもよくわからないのですが、動物の残骸を発見したから来てほしい、と」

「残骸?」

「直行しますか?」

 シートベルトを体の前に通しながら浅見は顔をしかめた。

()()()()ってこと?」

「僕もそう聞いたんですが、そう言うにはどうも不自然らしくて」

 パトカーをUターンさせながら、通報を受けた原田本人も首を傾げている。

「よく分からないなあ……まぁ一応、顔出しとくか」

 大通りに出て、秩武神社の横を過ぎる。立ち並ぶ街灯は短冊飾りや提灯のさがった紐で繋がれて、どことなく夏の風情を漂わせている。

 

 パトカーは横勢(よこぜ)町の南西にある三子(みつご)山という、名前のとおり灰色の岩壁の峰が三つ飛び出た、標高九百メートルほどの岩山のふもとへと向かう。

「そういえば、例の事故車両はどうなりました?」

 ハンドルをにぎる原田が前方を向いたまま尋ねる。

「その件はもうおしまいだってさ」

 助手席に座る浅見は腕組みしながら深いため息をついた。

「被害者なし、容疑者なし、遭難者なし、持ち主なし、事件性なし、と……」

「車両は処分済みってことですか?やっぱりなぁ……」

 二十代前半の原田巡査は、悔しげな表情のなかに青くさい好奇心が隠せていない。

「落とし物の傘だって三ヶ月は預かるのに、スクラップとはいえ証拠品を数日で廃車ですか。これはやっぱりスパイが乗ってたんですよ!」

「何の用があって?」

武洸(ぶこう)山にセメント工場がありますでしょ、あそこから機密情報を盗ったに違いありませんよ」

「盗るって、セメントの配合比率とか?」

「そう、社内でも数人しか知らない黄金の配合比をかけた諜報合戦!」

 目を輝かせて言ってのける原田の横顔をちらと見て彼女は苦笑いした。

「どうだかなぁ、コーラじゃあるまいし」

 林道を走っていると、舗道と砂利の敷かれた斜面との分岐点に濃紺の作業服を着た消防団員の男が立っていて、二人と見るや会釈して坂道のほうを指し示した。

「あれ、消防団も来てる」

「誰かが先に呼んでたみたいね」

 そのまま道なりに草深い山林の中を登って行くと、やがて開けた土地に数台の軽トラやピックアップトラックが雑然と停まっているのが見えてきた。その周囲には首にタオルを巻いた男たちが、木陰で汗を拭いたり水を飲んだり思い思いに休憩している。

 黄色とオレンジの蛍光ジャケットとキャップ、腕章をつけた老人がパトカーに手を振った。

 彼は町の猟友会に所属する富竹(とみたけ)という男である。定年をとうに過ぎた老齢ながら鳥獣のからんだ事案には何かと徴用されるハンターだから、現場に駆り出される駐在所の面々ともそれなりに面識がある。

 降りるとすぐに、むせかえる森の青臭さのなかでも一際鼻をつく異臭に気づいた。

「ん、なんだ……」

 原田もキョロキョロあたりを見回しながら鼻を動かすとウッと呻いて、なにかを飲み込むような仕草をした。

「うえっ、こりゃだめだッ」

 彼は踵を返すと車のダッシュボードの中から紙箱を取り出し、そこから使い捨ての不織布マスクを三枚抜きとった。一枚を自分の耳にかけて、二枚を浅見と富竹に手渡す。不快な風はちっとも薄れる気がしないが、そうでもしないとすぐにでも膝に手を当てて嘔吐(えず)いてしまう。

「この臭いは?」

「ちと前に風向きが変わっちまって、ここまで流れてきてんだ。二人ともタイミング悪かったなぁ」

 日焼けした浅黒い肌と彫りの深い顔、白髪頭の老人は、同じ条件下にいながら顔色ひとつ変えずしれっとしている。

「家畜の不法投棄ですか」

「ま、見てもらったほうが早い」

 三人は車の入れない細道──目印のない、簡素な誘導用のロープが貼られただけの獣道へ入った。

「ああ、木陰があるぶん下より涼しいですね」

「もはや暑い涼しいの問題じゃないわ……」

 歩を進めるにつれてだんだん臭気が強くなっていく。直線にして五十メートルもない獣道だが、途中、草葉の陰にうずくまる数人の背中を見届けて、二人はようやく事態の異常性に気付いた。

「おいおい、なんだ……」

 浅見も原田も息を呑んだ。

 遠目からみて、生ゴミの堆積物のように感じたのは、よく見ると野生動物の死骸──いや、(むくろ)と呼ぶにはあまりに()()()()のない、激しく損壊した断片の集積と、それを取りまくハエの群れであった。

 それだけではない。膨れた水風船を地面に叩きつけたように、地上のそこかしこに飛散した皮や肉、骨、脂、臓物がこびりついて、変色したジェル状の血泥(ちどろ)をまぶしているのである。

「今朝がた、山菜取りにここら辺登ったっていう婆さんに会ってよ、とんでもないもんがあるって言われて来てみたら、この有り様よ」

「なんですか、これ」

 呆気に取られた浅見は、やっとのことで口を開いた。

 ナラの大樹の枝にツタのように巻きついた数十メートルの腸を眺めながら、富竹も顔をしかめていた。

「おれの方こそ聞きたいよ。こんなの初めてだ」

「熊のしわざですか?」

 原田が震える声で言った。

「いや、奴さん(ツキノワグマ)だってもっと行儀良く食べるよ」

「じゃあ、オオカミとか」

「さすがにもういないでしょ──」

 一歩前に出した浅見の足がヌルッと沈んだ。

 ぎょっとして足を上げると、木の根のくぼみに溜まった幾百もの(うじ)虫の()を踏み潰していた。靴の形に白い地面が凹んでいた。あまりの光景に腰を抜かしかけた彼女は二、三歩と後ずさって、自分達が土と泥にまみれた幼虫と死出虫の蠢く()()()()()の上に立っていることを知った。

「動物の仕業じゃなけりゃあ、あんまり考えたかねぇが、こんなことすんのは人ぐらいのもんよ」

 富竹が眉間のシワをさらに深くして言った。

 消防団の男たちがさらに森の奥へと歩いて行くので、浅見はもしやと思ったが、

「ここだけじゃない。奥にも大量に転がってる」

 と、彼女が質問するよりさきに富竹が答えた。

 どうりで男たちが駐車場で待機しているわけだ。こんなところ一秒だって立っていられない。

「ダメだ、一旦出るわ」

 と、飛び交うハエを手で払いながら真っ先に道を戻りはじめたのは富竹だった。

「あっ、ちょっと、ズルい!」

 浅見と原田もあとにつづく。

 三人は小走りで離脱して、途中なにを思い立ったのか老ハンターは道を外れると同時にゲエッと豪快に胃液を吐いた。それを見てしまった二人は硬直し、立ち尽くしたまま目配せすると別々の茂みへと走っていった。

 往復だけでヘトヘトになった二人は無線で署に報告し、二十分もしないうちに応援のパトカーと消防署の赤い四駆車、市役所のロゴの入った軽自動車が登ってきた。保健所の職員数人が医療用のマスクとゴーグル、手袋をつけて腐海へと突入していく。

 締め切ったパトカーの中から彼らを見送る二人は、うつろな目をして背もたれに身を預けている。

「あの人たち、昼メシ食ってきたんですかね。だとしたら気の毒に」

「昼前だって同じよ」

 浅見の脳裏には足もとで伸び縮みする無数の粒だった芋虫たちの姿が刻まれていた。日常的に朝食を軽めに済ませて昼食を多めにとる彼女だから、この時間になると決まって腹ペコになる。しかし今は、肉はもとより魚の切り身も、握り飯に凝縮された白米の粒ひとつだって直視できない。サラダボウルの葉っぱの裏には()()()()が潜んでいるのではと気が気でなくなる。

「落雷でしょうか、それとも竜巻?つむじ風?」

「にわか雨はあっても、ここ最近でそんなに荒れた日はなかったわ」

「感染症や病原菌(ウイルス)だったら、僕らもヤバいんじゃないですか?」

「むしろ殺してくれって感じだわ」

 ふと原田は何事かを閃いたような表情になって、

「そうか……あの例のワゴン車、開発中の生物兵器を積んでたんだ」

「はぁ?」

「輸送中のトラブルで生物兵器が逃走、発覚を恐れた防衛省が事故車両を抹消して事件のもみ消しを謀るも、冷酷な殺戮マシーンは依然として行方知れず──まずいですよ浅見さん、このままでは町中に血の嵐が吹き荒れます!」

「………」

 浅見は呆れて物も言えなかった。こいつもあの肉塊によって視覚と嗅覚を破壊され頭がおかしくなったのだと同情すると同時に、彼の推論にちょっとでも「なるほど」と思ってしまった自分が悔しかったのもある。

 結局、おびただしい量の腐肉の残骸は、駆けつけた警察官と消防士、保健所、森林管理局の職員、ボランティアの猟師や森師、消防団員ら総勢五十数名によって、その日のうちに残らず回収され、市の廃棄物処理施設に移された。

 通報した富竹老人と第一発見者である老婆からも聴取をとり、不法投棄の疑いがあるとみて捜査すると共に周辺地域のパトロールを強化するにおさまった。

 こうして、ハエの羽音とセミの声、人々の嗚咽の混ざった地獄のような一日は過ぎた。

 ひと気のなくなったその森に一匹の白い犬が忽然とあらわれたのは、日が沈んでからのことであった。



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その九

 白犬は鼻をスンスン動かして地面を嗅ぎつつ周囲を見回している。首輪を着けていない裸の犬は、鬱蒼としげる夜の森のなかでぼんやりと発光しているように見えた。

 その気配を察して、七、八メートルほどの高木の枝葉の陰から音を立てずに降りてきたものがある。細長の胴体に手足と尻尾──あわせて全長二メートル半ほどの大きさのイタチは、夜導怪の忌津那(いづな)であった。

 昼間の警察たちは知らない。いや、恐らく永遠に理解することはないだろう。──三つ子山の中腹を身勝手ながら陣取った忌津那は気の向くままに動くものを血祭りにあげた。それが人間でなかったのは偶然に他ならない。野生動物たちは不幸にも彼女の縄張り(テリトリー)に足を踏み入れ、虐殺されたのである。

 その破壊衝動は、つい先日の秩武(ちちぶ)神社での梓巫女たちとの衝突に端を発するところがあった。鴉天狗が片腕を飛ばされる醜態を晒し、厄祓いの矢によって境内から追い散らされた夜導怪たちのうち、何者よりも攻撃性を刺激されたのがこの忌津那であった。

 栗毛におおわれた真っ黒な眼が孤独にさまよう白犬をみた。ほぼ垂直にそびえる樹木の幹に、逆さにした体をぴったり添わせて貼り付く姿は、獲物を待ち構える女郎蜘蛛のようにも見えた。

 その手足がふっと幹をはなれて、自由落下の速度で白犬に襲いかかった。爪を立てた両手足が、白い首根っこと腰まわりに食いこみ地面に叩き伏せるまで、白犬は頭上からの脅威に気付かなかった。

 ギャッ!と甲高い鳴き声をあげて白犬は反射的に手足をバタつかせた。忌津那の力はそれ以上だった。しかし、つぎの瞬間、忌津那にはなにが起きたのか分からなかった。──飛散したのは血潮ではなく白犬そのものであった。

 獲物を分解しようと手先に力を込めた途端、その手は白犬の肉厚の体に沈んだ。皮も毛も、肉も、骨すらもない、つきたての餅のように変形した白いそれが、瞬く間にイタチ女の全身を包みこんだのだ。

 息巻いた忌津那が内部から何度も爪を突き立てるが、一見して極薄の皮膜は一向に破れる気配をみせず、それどころか、のたうち回っているうちに収縮し全身を締めつける。

「獲った!」

 意気揚々とその場に駆けつけたのは、ライトを片手に引っさげた梓巫女の柚月(ゆづき)だった。──といってもスニーカーにジャージ姿、ショルダーバッグを背負った姿だから、巫女というより林間学校を抜け出した不良娘のような出立ちである。

「しょせん根っこはケダモノよ」

 忌津那が歯牙にかけようとしたのは、彼女の使役する純白の狛犬の一匹であった。昼間の惨事を人づてに聞いた巫女たちは、念のため周辺の山林に柚月の式神を泳がせていた。決してイタチ女をピンポイントに狙ったものではなかったが、これに夜導怪がまんまと引っ掛かってくれたのはもっけの幸いであった。

 柚月は勝ち誇った顔で、よく肥えた大型犬ほどの大きさの、水餃子のようにふっくらと滑らかな表面をしたソレを照らした。

「このまま朝が来るまで置いといてやろうかしら」

 人間の気配を感じて一度は大人しくなった白塊だったが、LEDライトの強い光を受けた瞬間、それはシャクトリムシのごとき全身運動で反転し、近くの茂みに突っ込んだかと思うと、その真下の斜面を転がりだした。

「あっ、待てコラッ!」

 式神の捕獲網は忌津那の全身に吸いつき束縛しているはずだが、その拘束力をものともしない怪力と柔軟性に柚月は舌を巻いた。すかさず彼女が正方形の真っ白い紙風船を二つ、アンダースローで投げると、それらは空中で膨張し二匹の白い狛犬に変化して、着地すると同時に疾風のように怪異のあとを追った。

 そこかしこにぶつかり、跳ね、ラグビーボールのように不規則に弾みながら、岩場を滑走路にして斜面から跳んだ忌津那(いづな)の体は、眼下の渓流に水柱をたてて落ちた。

 ──すると、どんなに力を込めても破れることのなかった白い膜がふやけて、ほろほろと崩れ落ちていくではないか。柚月の紙風船は水にさらされることで、その効力の一切を失ってしまったのである。

 難なく拘束から抜け出した忌津那が身を起こして振り返ると、数メートル先の岩場から遠巻きに警戒する二匹の狛犬が見えた。

 やや幅広で、大人の膝が浸かるくらいの渓流だった。山水が岩を打ち、白波の泡立つ音が山林の静寂のなかを通り過ぎていく。

 忌津那はニュッと口端をつり上げた。胸を膨らませてプゥっと息を吹くと、口先から巻き起こった爆発的な旋風(つむじかぜ)が、目のまえの流水をまるごとさらった。中空に渦巻いた一本の太い水煙は、大蛇が獲物をひと呑みするように、狛犬たちを断末魔の遠吠えごとかき消してしまった。狛犬たちは水を吸った四肢を木々に激突させ、白濁した飛沫(しぶき)となった。

 忌津那は暗闇に向かって吠えた。

「威勢がいいのは犬だけか!」

 その声に呼応したかのように渓谷を駆け降りてきたのは、右手に一刀をさげ、白衣に緋色のたっつけ袴を履いた梓巫女・瑞穂(みずほ)あった。刀身と同じくらい長い柄をもつ長巻(ながまき)はすでに鞘から抜かれて、剥き出しの刀身が月明かりのなかで鋭い銀光をはなっている。

 忌津那の眼が輝いた。その長巻には見覚えがあった。

「お前、せっかくの爪を落としたやつ……」

 自分の指先の感触を確かめるように拳を握りしめ、忌津那は声を上擦らせながら言う。

「お前の()ったのは四本。ならこちらは指の根もとから……いや、その細い手足の付け根から四つ、頭もあわせて五つ削ぎ落とす。──」

 その指先にはすでに肉食獣の鋭い爪が生えそろっている。もとより爪の数本を失ったところで痛くも痒くもないのが本音である。しかし忌津那は腹の虫がおさまらない。奇妙な狛犬に不意を突かれたのもあって忌津那の頭は屈辱と怒りに打ち震え、何かに当たり散らさずにはいられなかった。そこに現れたのが瑞穂だった。

「………」

 瑞穂は忌津那の姿をじっと見つめたまま岩場から渓流にそっと足を入れた。忌津那が息を吹いたせいか水量は極端に減って、くるぶしを濡らす程度の深さしかない。

 長巻を下段に構えて流れの中央まで進むと、両膝を曲げてその場に蹲踞(そんきょ)の体勢をとり、刀身を水に沈めた。怪異との距離はまだ三、四メートルほど離れており踏み込んで斬りつけるには遠すぎる。しかし彼女は菩薩像のように眉ひとつ動かさない。

「………」

 少しばかりの沈黙ののち、さきに動いたのは忌津那だった。両手の爪を剥き出しにして飛びかかるさまは全身バネになったかのような速度だった。

 瑞穂が水中の切っ先をはね上げたのは、それとほぼ同時だった。

「ぎゃっ」

 忌津那は感覚した。──水面から現れた一本の()()()()が、自身の股下から腹部、胴を裂き、頭部まで真っ二つに両断したことを。

「秘剣・白刃魚(しらうお)──」

 長巻を水に含ませたのは直前まで太刀筋を読ませないがための奇策であったか?──そうではない。

 刀身は渓流の水を薄くまとっていた。逆袈裟にはらわれ水膜(すいまく)が飛ぶと、それは奇妙なことに二メートルほどの一本鞭(ブルウィップ)となって、発泡スチロールを焼き切る電熱線のように、怪異の肉体をたちまちのうちに切断せしめたのである。

 半身になった忌津那が瑞穂の頭に爪をのばした。前転して文字通り間一髪でこれを避けた彼女はひるがえって二の太刀を浴びせた。夜空に描かれた水のアーチが忌津那の胴を正確に捉えて、怪異の体は四つにわかれて転がった。

 狛犬と懐中電灯の明かりが走って来て、ようやく柚月が追いついた。

「あれ、アイツは?」

 瑞穂が指し示すさきには岩肌にうごめく四つの肉塊があった。

「はっ、すごい、スペアリブじゃん」

「油断しないで、まだ生きてる」

 首筋やひたいに張りついた濡れ髪を丁寧に剥がしつつ瑞穂は言った。肉塊からのびるそれぞれの手足、片方ずつに割れた頭部はなおも動いて、グギギっと奇怪な関節の伸び縮みする音と執念深そうな唸り声をあげている。

「一応は斬ってみたけど、どうも死にそうにないわ」

 そっか。と柚月は背負っていたバッグから紙風船を四つ取り出して足もとに投げた。出現した白犬たちが肉塊に走り寄って覆いかぶさると、柔らかい腹部が逃げようともがく怪異の肉塊を吸着、吸収して体内に取り込んだ。

「よぅし、行けっ」

 柚月がピッと町の方角を指さすと、腹から背中までをいびつに膨らませた犬たちはそちらに向かって歩きはじめた。四匹と二人の奇怪な行進が誰かの目にとまることはなかった。



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その十

 町の住民から裏山と呼ばれている小高い丘陵地に廃寺がある。

 瓦屋根は鮮やかな緑の苔に覆われ、漆喰の剥がれた壁面をツタが這い、境内には群生する一メートルほどのススキをはじめ、淡い色のアサガオやアジサイが自由に花開いている。

 もとから住職のいない無住寺(むじゅうじ)だったが、後継ぎが途絶えて廃寺になり、仏像仏具が撤収されてからは管理もずさんになっていって、すっかり町の空白地帯になってしまった。花々の華やかさだけなら植物園のようだが、圧倒的な廃寺の不気味さに寄りつく者はいない。

 そこへ、ふもとのトラロープをくぐり、石段を登っていく五人の僧侶たちがいた。ツルツルの坊主頭が日差しに照らされ、整列する黒袈裟の一団は陽炎のようにみえた。

「本当に、こちらに?」

 後列の僧侶が荒れ果てた境内を眺めていぶかしげに尋ねると、先頭のひときわ年老いた僧侶は黙ってうなずいた。

 お堂からは地鳴りのような低音が聞こえてくる。僧侶たちの足は自然とそちらに向かっていた。

 屋根の抜けたお堂の内部、四方の柱に注連縄を結んでできた結界のなかで、中央に設置された護摩(ごま)(だん)に井桁型に組まれた(たきぎ)からは火柱がほぼ垂直に伸びている。

 祭壇の手前には幼児ほどの大きさの、干からびた白い繭が四つ並べられている。さらにその手前には白衣(びゃくえ)の女たちが四人座して、火の粉に臆することなく汗まみれになって一心に祝詞を捧げている。

「あれが、梓巫女…」

 地鳴りの正体はこの灼熱の祈祷だった。逆巻く火焔と巫女たちの声がひしめく異常な空間で、ふと四つの繭が宙に浮いた。

 僧侶たちは息を呑んだ。と同時に、先頭に立っていた老僧が慌てて振り返り、

「おお、もう見てはならん、見てはならんぞ……!」

 と言って、取り巻きに顔を伏せるよう促した。

 ──四つの繭は小刻みに震えながら火柱の周囲に軌道を描き、やがて吸い込まれるように井の字の真ん中へと落ちていった。

 ボッと音を立てて炎はひときわ大きくなった。

 千度以上の高熱を受けて発光しながら、しかし繭は焦げることも灰になって崩れることもなく、ただ内部にくるまれているモノだけが火に反応して、そのシルエットは悶え苦しむように暴れている。その動きを感知したかのように繭の緋色の外膜は収縮をはじめ、護摩の炎から逃れようとするモノを押さえつけた。

 ──やがて火バサミによって取り出された四つの繭は、茶褐色の細長い古木(こぼく)状に変容していた。

 四つはそれぞれ細長の桐箱に収められた。箱と蓋は、柚月の手によって、これまたテープ状に裁断された()()()らしきもので周囲を完全に糊付けされた。

 巫女たちの一斉に脱力する様子から儀式が終了したのだとわかった。振り返った巫女のひとりが、入り口から遠巻きにうかがう僧侶の集団をようやく見つけた。

浄胤(じょういん)さん」

 と、汗をぬぐって笑顔をみせたのは年長者の多恵(たえ)であった。

「暑いところ、わざわざ……」

「皆さん、ご無事ですかな」

 骨格標本になめし革を薄く貼りつけたような、細身でやや小麦色の、老年ながらいまだ気骨のある浄胤和尚は深刻そうな顔色で言った。

 すでに奥にいる三人の巫女たちは汗を吸った白衣を脱ぎ捨てて、インナー姿のままお堂の一角に置かれたクーラーボックスから、かち割り氷の袋を取り出して、首筋に当てたり素手で氷をむさぼっていたりする。いずれの目も「見りゃわかんだろ」と言っている。

「なんとか健在ですわ」

「よろしかったら、こちらを……」

 浄胤の後ろに控えていた比較的若い見た目の僧侶が、麦茶のペットボトルの詰まった結露まみれのビニール袋を差し出した。他の三人もゼリー飲料や缶詰、非常用の羊羹(ようかん)、棒状のバランス栄養食の箱などを供物のように携えている。

「まあ、みなさま、どうもありがとうございます」

「我々に出来ることは、せいぜいこのぐらいですから」

 浄胤和尚はどこか寂しそうに笑うと、

「なにを仰いますか、むしろ()()()()()()()

 多恵は首を振ってこたえた。

 僧侶たちの渡された四つの桐箱は、ひとつずつ彼らの手によって手際良く風呂敷に包まれた。和尚はその様子を見届けると口を開いた。

「さて、ここで皆に、今日この山寺を訪問した理由を伝えておこう」

 詳しくは知らされていなかったのか、僧侶たちはハッとして地面に膝をつき、浄胤和尚を見上げる姿勢をとっていた。

「なぜ今まで黙っていたかというと……まぁ、これは至極単純な理由でな。ここまで引っ張ってきて巫女の方々と顔をあわせてやれば、挨拶した手前、男として尻尾を巻いて逃げるわけにもいかなくなるだろう……。という、わたしの浅知恵なのだ。勤勉な弟子達の中でも、とりわけ頭の柔らかく口の堅いお前たちに尻込みされたのではかなわんからな」

 なにを仰いますか。と、僧侶たちは小さく笑った。

「では白状しよう。──その桐箱のなかにあるのは、言うなれば“怨霊の木乃伊(ミイラ)”」

「………」

「こちらにおわす梓巫女のことは先日話した通り、今世に現れた怨霊──荒魂(あらみたま)をいさめる、大変重要な役目を背負った方々である」

「………」

 お堂の奥からは、蚊取り線香の煙と制汗剤のクールミントの混ざった香りが風に乗って漂ってくる。

(わざわ)いをもたらす荒魂は、やがて福をもたらす和魂(にぎみたま)へと転ずる。この箱の中のものが護法神として復活なされる日まで、我々の手で(まつ)り、祈祷をつづけるのだ。──これまでの修行はこの時のためにあると心得よ」

 僧侶たちは眼前の桐箱と浄胤和尚とを交互に見ながら、しかし狼狽える様子はなく、師の言葉を受け止めるとただ静かにうなずくばかりであった。

「この浄胤の、残り少ない今生のすべてをかけたお願いじゃ」

「なにが起きたとて、もとより覚悟の上でございます」

 僧侶のひとりが真っ直ぐな目を向けて即答した。

「荒ぶる御魂にこそ仏の道を説いてみせようではありませんか。これぞ法師の誉れ!」

「実のところ、この世界の一端に触れることができて打ち震えておりましたわ」

 ハハハッと僧侶たちは高らかに笑った。

 やがて立ち上がり、何食わぬ顔で膝についた土ほこりをはらう彼らの達観ぶりに、このやりとりを遠巻きに眺めていた巫女たちは内心驚いていた。

 たしかに彼らはれっきとした僧侶だが、怨霊だの神様だのと、こんな途方もない話を唐突にされて易々と飲みこめる人が、果たしてどれほどいるのだろうか。──

「では、よろしくお願いします」

「たしかに承りました」

 多恵と浄胤和尚は、お互いうやうやしく頭を下げたあとで、

「巫女の皆さまもご武運を……入り用のものがありましたら、何なりと仰せつけください」

「そのときは甘えさせてもらいますわ」

 と、微笑みあった。

 結局、僧侶の一団は草履を脱ぐこともなく、そのまま踵を返して、読経とお(りん)の音を響かせながら境内を去っていった。

 

 一方その頃、お堂の裏手では、烏丸スバルと秋山凜子が色褪せた浜縁に二人並んで腰をおろしていた。着ているTシャツと短パンは、地元の百貨店で調達してきたものである。

「松永さんを見つけたかも」

「本当ですか」

「正確には体内発信機(ナノ・ビーコン)らしき反応ね。かなり弱いけど」

「場所は?」

「ここから南西に五、六キロ離れた、烏羅山(うらやま)ダム周辺」

「意外と近いですね」

土忍(モグラ)は厄介よ。岩もコンクリも金属もすり抜けるし、電波の届かない深くまで潜ったまま浮かんでこない、なんてこともあり得る」

「松永さん自身が顔を出してくれないことには、確かめようがありませんか」

 凜子はウンウンと首をひねりながら、

「……ハヤテの姿を見たら、さすがに気付いてくれるのでは?」

「そう思ってしばらく飛んでみたけど、反応はなかったな。──そのうち観光客に見つかって追い払われちゃってさ、トビのツラいところよね」

 スバルは苦笑しながらハヤテのほうを見た。

 離れた木陰にとまるハヤテは、すこし前に松永蔵人の捜索を終えたところで、スバルが与えた鶏のササミを大事そうに脚のあいだに抱えて、ときおり二人のほうをうかがいながら味わうようについばんでいる。

「ひょっとしたら、雀女(すずめ)とかいう怪異(ヤツ)の幻術がまだ効いているんだと思う」

「そしたら私が行って、引っ張ってきます」

「気を付けて。愚図るようなら二、三回小突いてやってよ」

 スバルは彼女に探知器(ロケーター)を手渡した。

「松永さんは二回りほど年上の先輩なんですが……」

 関係ナイナイ。とスバルは手をひらひらあおいで笑った。

「あとで言われるのは私なんですからね」

 お堂の正面にまわって石段をおりると、下からあがってくる学生服姿の双子と鉢合わせた。

 凜子と目があった乃愛(のあ)が、手に提げていたスーパーのレジ袋からなにか取り出して彼女にパスした。箱入りの棒アイスの一本だった。

「どこ行くのー?」

「ちょっと、人に会いにね」

「オトコ?」

 やめい、と、すかさず姉の唯愛(ゆあ)が妹を小声で叱ったが、

「まぁ、そんなところ……」

 と、凜子はフフと笑いながら涼しい顔してすれ違うので、双子は唖然として見送るばかりであった。



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その十一

 鉄道を二、三駅乗り継いで、むせるような深緑に囲まれながら木漏れ日のなかを歩いていく。

 やがて現れた谷あいを一直線にむすぶ逆三角形の巨大な黒壁は、関東でも屈指の堤高(ていこう)を誇る烏羅山(うらやま)ダムである。

 南方に伸びる広大な貯水湖、近くには歴史ある鍾乳洞や寺社仏閣もあるから、ダムそのものに興味がなくても物珍しさに足を伸ばす観光客は多い。

 秋山凜子はダムの天端(てんば)──頂上部の展望通路から、七月の日差しを受けてきらめく湖面を眺めている。

 探知器の数字をたよりにやって来た凜子は、その数字が()()()()()になった地点で立ち止まった。それは足もとに広がるコンクリートの塊のなかに松永蔵人が潜んでいる、ということを意味しているが、外からでは彼の姿形はおろか心音や衣擦れの音さえも把握できない。

「………」

 凜子は背負っていた竿入れを手にすると、石切兼光の鞘尻で地面をトントンと軽く突きはじめた。一見して何気ないその行動は、一定の間隔をあけた弾音(タップ)によって離れた相手に意思を伝える間諜(スパイ)の伝達技術である。

 しかし反応はなく、探知器の数字も動かない。考えてみるとこれは瓦礫の山を素手で崩して遭難者を捜索するような途方もない作業であり、体内の発信機が起動するほど窮地に追い込まれた松永蔵人の体力がそれまで保つかどうかもわからない。

 打突をつづける凜子の手にも、すこしだけ焦りの色が見えた。

「釣れましたか」

 そんな彼女に三メートルほど距離を空けて声をかけてきたのは、同じく釣り具を携えてフィッシングベストをつけた中年ぐらいの男であった。

「このあたりはちょっと前までサクラマスが釣れたんだけど、いまはどうだか……」

 凜子は返事をすることなく、落ち着いて左右をちらと見た。通路には観光客らしき数人の男女がいて、それぞれ湖を撮影したり反対側の断崖絶壁から下流を眺めたりしてはいるものの、足運びや背筋(せすじ)の伸ばし方からして小太りの男も含めて“草”であることは想像に難くない。

「……あなた()は?」

「松永殿の信号を受信したと、本部から連絡を受けて参りました」

 恵比寿顔の中年男は、平然として言った。

「単刀直入に申しあげます。救助活動を中止していただきたい」

「と、言うと?」

「松永殿に対する処置は慎重になるべきです。第一に、()()()で松永殿に刺激を与えるのはよろしくない」

 そう言われて、凜子の手も止まった。物質を流動化させる土遁の忍法使いがダムの内部に潜んでいるこの状況は、一歩間違えれば構造を崩壊させ、貯水湖の決壊を引き起こしかねないのである。

「しかし、松永さんが外に出るには彼自身の忍法が必要です」

「それについては現在、別働隊が調査用機材を調達中です。夕方には到着するかと」

「それから?」

「エックス線を用いて内部の松永殿の状態を確認し、正式な手続きを経たのちに彼を回収します」

 ──おそらくは内部材料の劣化などと色々な理屈をつけ、改修工事という大規模な目隠しを施したうえで松永蔵人を取り出す、という魂胆である。膨大な費用と人員が必要となるが、最悪の事態を回避するためにはあらゆる手段を講じて彼を連れて帰らなければならない。それは凜子も十分理解している。

「正式な手続きとやらを済ませるまで、松永さんが無事でいられる根拠は?」

「はっきり言ってこの際、彼の生死は問題ではない──」

 男は表情を一ミリも動かさず、決然と言った。

「諜報員の痕跡を完全に抹消することが我々のもっとも重要な仕事」

「わたしの忍務には、先遣隊三人の捜索も含まれていますが」

「救助活動まで含まれてはおりますまい」

「これは人道的措置です」

 凜子はきっぱりと言い放って再び地面を突き始めた。

 男は彼女の姿に小さなため息をつきながら、

「その心意気には感服しますがね、もはや松永殿は危険な存在なのです。報告によると彼は、怪異と遭遇し錯乱状態に陥ったというではありませんか。これが呪いや憑依の類いであれば、それが彼の精神の()()()に深く食い込んでいたら、まず生還は絶望的です。──対魔忍(あなた)なら重々承知のはずだ。もちろん松永殿も。だからこそあなたの()()()()にも応えず姿を隠し続けているのではないか」

「松永さんは連れて帰ります」

「まだわからないか!」

 このとき、探知器が鳴った。盤面の数字がわずかながら変動をみせた──と同時に、凜子の両足首がくるぶしまで沈んで動かなくなった。離れて立っていた男は中年とは思えない軽やかさで後ずさった。

 ハッとしたのも束の間、灰色の二本の腕が眼前にビュッと伸びてきたのを、

「いつまで寝ぼけてるつもりですか!」

 凜子は両腕を絡めとり、大根でも引っこ抜くようにして松永蔵人を上半身まで引きずり上げた。──男が見えたのはここまでであった。展望通路のどこにも、これっきり二人の姿は見えなくなった。

「しまった!」

 男が周囲に合図を送ると数人の草たちが彼のもとに殺到してきた。服装も年齢もバラバラの彼らはみな一様に狐につままれたような表情をしていた。

「下流のほうには?」

「いません。通路の東西にも」

「黙って()んじまいやがって……ケツ拭うのはこっちなんだぞ」

 渋い顔をしながら男は胸元から探知器を取り出した。デジタル盤は方角も距離もまったく見当違いの場所を指し示している。

 

 ──その秋山凜子は、数キロ離れた山林のなかに着地していた。

 どういう慣性が働いたのか宙に放り出された松永蔵人は、地面にひっくり返って甲虫のようにしばらく手足を泳がせたあと、やっとのことで地面を認識したらしく四つん這いにうなだれた。

「大丈夫ですか、松永さん」

 蔵人は、しかし立ち上がろうとしない。痩せ細り、干からびて、灰色の潜入服はズタズタに破れ、手足や背中、スキンヘッドを縦に割るように赤黒い亀裂が走っていて痛々しい。

「松永さん、秋山です。助けに来ました」

「………」

 顔を上げた蔵人の顔をみて凜子は固まった。彼の両眼は瞳孔から結膜まで漆黒に塗り潰されていた。視力は失われてしまったのか耳をそばだてて四方を警戒している様子なのだ。

「松永さん?」

「誰だ」

「秋山です、秋山凜子です」

 あきやま、と呟いた蔵人は、突如としてノミのように跳びあがり、そのまま木の根に足をとられてコケた。

「ど、どうしました」

「おれに近づくな、秋山。周囲に気を配れ、すぐに来る……」

「来るって、なにがです?」

 ざわざわと木々が不気味に揺らめいだ。そのなかに子どもの笑い声が混ざっているような気がして、凛子はたまらず竿入れを腰に添えて身構えた。

 声の正体はすぐに現れた。日本人形のような出立ちの童女たちが木陰からわらわらと湧いて出た。漆塗りの懐剣に手を置き、彼女たちは不敵な笑みを浮かべて二人を囲むように立った。

「なにが見えている、秋山」

 松永蔵人が震える声でたずねた。

「振袖姿の女の子が、八人ほど……」

「やはりそうか」

 蔵人は指先に触れた根を頼りに、太い幹に背中を預けながら立った。

「秋山よ、いますぐ俺を斬ってくれ。首を落とせ!」

「何をおっしゃいますか!」

「恐らく、そこにいるのは俺が作りだした幻──やつの毒は俺の体内でまだ機能している。幻を破るには宿主(しゅくしゅ)である俺の命が尽きるしかない」

 顔を歪めながら蔵人は漆黒の瞳から涙を流した。

「おれ自身、何度も死のうとした。だが死ねない。舌を噛んでも喉を裂いても、両目を抜いても、なにをしても死ねないのだ」

 彼の全身に深々と刻まれた傷の意味を知って凜子は総毛立った。

「……本部に帰って治療しましょう」

 蔵人は首を振った。

「手遅れだ。()()()()()。お前の手で俺を殺せ、それで終わる!」

 呪術か、あるいは細菌のようなものか、怪異の毒は宿主の意識を引き金に周囲に伝播し、凜子に童女たちの幻影を見せている。

 擬似体験なら傷つくことも死ぬこともない、と頭ではわかっている。──しかし、包囲網を狭める八人の足もとには影が落ち、足袋を履いた小さな足は湿った土の表面に草履の跡を刻み、袖にあおられて草が揺れている。となると彼女たちの握りしめる懐剣に対しても油断はできない。

「………」

 凜子の足もとに転がっていた小石が()()()()()浮いて、童女の一人にとんだ。小石は肩に弾んで地面に落ちた。

「松永さん、そこを動かないで──」

 竿入れから石切兼光が飛び出す音が聞こえて、蔵人は身を固くした。

 ──懐剣の切っ先を向けて殺到する童女の幻影を、抜刀した凜子は八人同時に斬った。回転する万華鏡が星々を散らすように、倍々に増殖した八つの秋山凜子は同等の速度と威力をもって電光のごとく駆け抜け、小さな幻影をかき消したのだった。

 ただ一瞬、吹き荒れる風に全身を打たれた蔵人は、そのなかに爽やかな香りをみつけて、ようやくそれが彼女の超人的な太刀筋が生んだ剣風なのだと理解した。

「松永さん、もう一度跳びますよ」

「な、なにをするつもりだ?」

「私には手の施しようがない。でも専門家なら、あるいは」

「専門家?」

 蔵人に肩を貸した凜子は再度跳躍した。凜子の周囲だけがその場から切り取られ──忍者屋敷の隠し扉がひっくり返るように──二人の姿は廃寺の裏手に出現した。

「あ、凜子ちゃん」

 物音に気づいた多恵が寺の縁側を走ってきた。

「人が来てるわ。知らないおじさん。スバルさんが応対してるけどなんだか大変みたいよ」

 彼女は矢継ぎ早に口走ったあとで、

「……その人は?」

 と目を丸くして言う。

「同業者です」

「まぁ、その人から雀女(すずめ)の鱗粉の臭いが!」

「やはり、わかりますか」

 もちろんよ。と言って、多恵は裸足のまま地面に降りると、へたり込む松永蔵人を優しく抱きかかえた。蔵人のほうも自分の体が突如として温かいものに包まれたために、いったんは声を詰まらせたが、すぐに死んだように全身の力が抜けた。

「大丈夫、眠っただけ」

「助かりますか」

「多分ね……だいぶ苦しんだみたいだけど」

 多恵は脂汗にぬれる蔵人の額に手ぬぐいを当てながら、小声でサラサラと祝詞を吹きかけているようだった。その文言にどんな意味が含まれているのか凜子にはさっぱりわからなかったが、険しかった蔵人の顔つきは、どことなく柔和になったようにみえた。

 二人がかりで彼をお堂に運び入れたとき、凜子は正面の朽ちた格子戸から境内をのぞいた。烏丸スバルとダムで出会った中年の男が話している。

「この人をお願いします」

「まかせて」

 多恵に断りをいれて彼女はスバルのもとに急いだ、対魔粒子が治癒力を高めたおかげか数日前の大クラッシュが嘘のようにスバルの足のギプスはすでに取れていて、しっかり仁王立ちしている。

「いったいどういうおつもりか?」

 さきに凜子を見つけたのは、鬼瓦のように眉をつり上げた中年男のほうだった。振り返ったスバルは反対に安堵の表情を浮かべた。

「松永殿はどこに?」

「奥で、巫女の方々が介抱してくれています」

 無事なのね。とスバルが小声で聞いてきたので、凜子も小さくうなずいた。

 男は深刻そうに眉をひそめて言った。

「……部外者との接触は極力控えていただきたい。事態をややこしくするだけです」

「忍務遂行には梓巫女(かのじょ)たちの協力が欠かせません」

 スバルは毅然として、

「すでに怪異の一匹を封じています。怪異に対する専門性も高い。これほどの戦力はないかと」

「それは先程も聞いた。しかし、対魔忍(われわれ)の秘匿性を守るためにも、部外者はご遠慮願いたいということです」

「証拠を残したくないのはお互い様でしょう。彼女たちも非合法のようですし、渡りに船とはまさにこのこと」

 二対一のやりとりに、やがて男はウウムと唸った。説得に押し切られたのもあるが、それよりも二人の女──とりわけ刀を抜いたばかりの、放射冷却のように闘気を漂わせる剣人たる秋山凜子に気圧された、といった方が正しい。

「……とにかく、全員()()()()()のだけは勘弁ですよ。そこまでは我々も面倒見きれない」

「それはもちろん」

「もう犠牲者が増えるのは御免ですよ」

 そう言い残して、男は石段を降りていった。

 お堂に戻ると松永蔵人はすっかり寝息を立てていた。

 その顔を覗きこんだスバルは「ずいぶん()けちゃって」と呟いた。



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その十二

 隙間だらけの廃寺はよく風が通り抜けるので、日射しさえ遮れば意外とどうにかなる。──というのは一晩とちょっと滞在した秋山凜子の感想で、基本的に朽ちたお堂のなかは暑くて湿っぽくて虫が多い。

 ささくれ立った床板にレジャーシートを敷き、キャンプ用のマットや寝袋を置いて、梓巫女たちは朝方から昼過ぎまで眠る。と言うより、いくら疲れていても昼間の酷暑に叩き起こされるのである。

  凜子とスバルはそれなりの訓練を積んでいるから文句のひとつも漏らさないが、梓巫女の紗世と瑞穂は毎回うんざりしたように汗を拭っているし、多恵は異様に蚊に好かれるから蚊取り線香の火を決して絶やさない。「合宿みたい」と言ってはしゃいでいるのは乃愛と唯愛の姉妹と、柚月くらいのものである。

 夕方、天井から吊り下げた十畳用の巨大な蚊帳(かや)のなかで八人は輪になって座っていた。中央には発光するLEDランタンと、包帯と絆創膏で手当てされた松永蔵人の寝姿があった。

 夜導怪の幻覚に苦しむ蔵人は多恵らの介抱によって一旦は落ち着いたものの、日が沈む頃になって再び表情に苦悶の影がさしてきた。ときおり「やめろ。来るな」と()()()()を繰り返すのをみるに、やはり体を蝕まれているようだ。

「夜導怪の影響が強まってきているのね、呪いの元凶をどうにかするしかない」

「例のお焚き上げで?」

 スバルが聞くと、柚月がうなずいた。

「その都度、火を起こして一匹ずつ厄を祓っていくのは結構手間がかかるものね」

「叩いて、包んで、焚く。餃子みたいなもんだわさ」

「ほかに夜導怪を始末する方法はないの?」

「ない」

 と、紗世はキッパリと言い放ち、直後にいや待てよと腕組みしたあと、

「──と言うより、他の方法を知らない。祓いの儀式として教えられたシステムだから、私たちもそれを踏襲するだけ」

「前例そのものが少ない、っていうのもあると思うわ」

 多恵が言った。

「夜導怪と面と向かって張り合おうなんて、よほどの命知らずでもない限りは、何とも。──というか、そうした連中は返り討ちに遭ったと考えるのが妥当だろうな」

 柚月は笑った。

 そうか、と話を聞きながら凜子はうなずきつつ、内心、首をかしげた。──夜導怪を封印し、神仏として祀ることに意味があるとしたら、対魔忍(われわれ)の行動が巫女たちの儀式に水を差すことになりはしないだろうか。

「とにかく、今夜の狙いは雀女(すずめ)一択というわけ」

「都合よく雀女だけを相手にするのは、だいぶ厄介そうね」

「それについては妙案がある。──こちらから呼び出すの」

 紗世は、ずいと身を乗り出して言った。

「呼ぶ?」

「雀女の呪いを、雀女本人に逆流させる」

「そんなこと出来るの?」

「人を呪わば穴二つ。──言葉が本当なら、相手に呪いをはね返すことも難しくはないはず。幸か不幸か、松永さんの中には雀女の呪いがまだ生きている。これを利用させてもらう。仮に効果がなくとも、私たちがそうやって挑発すれば向こうだって無視はできない」

「要するに、呪いをリダイヤルする、ってことか?」

「折り返す、じゃない?」

「それで……相手に私たちの存在をアピールして、誘って、どうやって倒すの?」

 唯愛が核心に迫ると、紗世は目を泳がせて、

「まあ、あとは出たとこ勝負、というか……」

 なあんだ、と乃愛はわかりやすくうな垂れた。

「肝心なところが漠然としてるじゃないの」

「それは後で考えとく。──なぁに、いざってときは柚ちゃんに()()()して運んでもらうわ」

「無茶言うな、こっちゃ宅急便じゃねんだ」

 紗世の提案はどことなく頼りなかったが、ほかに思い浮かぶ戦法もなかった。

 日没から日の出までの九時間あまり、にわか雨のように降って湧いては過ぎ去っていく夜導怪には、捕食や繁殖といった目的もなく、行動パターンを捉えられずにどうしても梓巫女たちは後手に回ってしまう。相手の出現位置を限定させて迎え撃てるとしたら、これは絶好の機会といえる。

 儀式を行うにあたり梓巫女が総出動するということで話はまとまった。スバルと凜子は蔵人のお守りのために待機するように言われたが、実際のところ、仲間とはいえ部外者に儀式を見せることには(はばか)りがあったものと思われる。対魔忍が一般人に忍法を軽々しく披露するようなものだから、スバルも凜子もこの指示に反対することはなかった。

 

 紗世、柚月、瑞穂の三人が、街中のとある空き地に儀式場──四方に突き立てた青竹にしめ縄をつないで四角い陣を形成したもの──の設置を始めたのは夜遅くになってからだった。

 梓巫女たちは知らなかったが、偶然にもこの土地は、この物語の発端である全滅した“草”の潜伏地で、公安庁の手引きによって秘密裏に引き払われた場所であった。 

 瑞穂が回転する赤色灯を見つけて「やば」とつぶやいた。案の定、四駆のパトカーが近づいてきて、ヘッドライトが更地のなかの三つの影を照らした。制服姿の警官が二人降りてきた。

 浅見由衣と部下の男は、巫女達──といってもTシャツに短パン、首にタオルを巻いてビニールサンダルを突っかけているだけの、暴走族だってもう少しマシな格好をしてそうな不揃いの女子たちに顔をしかめた。

「あのぅ、こんばんは……」

 当然、浅見由衣は声をかけてくる。

 酔っ払いオヤジや屁理屈オンナ、若者の暴走グループには決して物怖じしない浅見巡査部長でも、真っ暗な空き地で、ばかに神道じみた本格的な祭壇をつくる女子集団は初めてだった。

 はたして彼女達は不良なのか。不健全だと言ってしまっていいものか、どうか。──とにかく不審であることに疑いはない。

「……みんな、なにしてるの?」

「これですか。これは、あの、地鎮祭(じちんさい)の支度です」

「は、なんて?」

「地鎮祭です。家建てる前に、ご祈祷を捧げるヤツです」

 地鎮祭。という言葉を聞いて、浅見はようやく彼女たちが神職の関係者だと理解した。

「じゃ、巫女さんなのね」

「そうです。こんな格好だけど」

 紗世はエヘヘと笑った。

「もう九時過ぎだけど、いまから?」

「いまは前準備です。夏祭り前に済ませるってことで、夕方ごろになって急に決まりまして……」

「神主さんか宮司さんだか、なんか知らないけど、責任者の方は?」

「いえ、儀式自体は明日なので……」

「あなた達に任せっきり?」

「祭場を建てるのは、ウチら下っ端巫女の仕事ですから」

 柚月が横から割って入って、ヘラッと笑った。

 浅見の後ろに控える部下の男はというと、大変だねぇ。と、こちらは瑞穂とささやかに談笑している。

 やや間があって、「ふぅん」と、浅見は返事をした。正直、そういった"しきたり"に関して浅見にはよく分からなかったし、そういうものだと言われてしまうと、そういうものなのかと納得するしかない。

「とりあえず、三人とも名前を教えてくれるかな」

 浅見は持っていたクリップボードを渡して三人に書類を書かせた。三人にもそれが形式的なものであることはすぐにわかった。

 二人の警官は儀式場と更地をライトで照らしながらしばらく歩いたあと、

「ま、夜だし気をつけて帰んなさいよ。虫多いし」

 と、言い残して、再びパトカーで巡回をはじめた。遠くに消えるエンジン音を背中に柚月は「ありゃもっかい見に来るな」と溜息混じりに言った。

「根掘り葉掘り聞かれなかっただけ良しとしようじゃない」

 残りの巫女に連絡を入れると、数分足らずのうちに多恵の運転する軽自動車が、双子といくつかの道具を乗せてやって来た。

「急げ、ポリが見回ってる」

「ポリって。柚ちゃんったらヤクザみたいなこと言うね」

 やがて巫女装束の六人が儀式場を囲んだ。

 柚月が鼓《つづみ》をたたき、紗世が横笛を静かに吹き、双子がそろって弓の(つる)を爪弾く。瑞穂が大幣(おおぬさ)──棒の先端から白滝のように紙垂(しで)を伸ばしたものを()()()()に揺らして祝詞をとなえる。多恵が小さな鈴を房なりにつけた楽器──神楽鈴(かぐらすず)を片手に厳かな足取りで舞う。

 神に奉納する舞踊──神楽(かぐら)は全国各地に数あるが、敵性妖怪に向けた舞いというものがあるだろうか。この奇妙な闇のセッションを夜の更地で見かけたら、きっと多くの人がまず自分の目を疑い、そこにいる巫女たちが実在する人物であると知るやいなや、心底、戦慄したことだろう。

 しかし彼女たちは至って真剣だった。真昼の熱波を含んだ夜の空気が打って変わってピンと張り詰め、氷結した。梓巫女の神楽は間違いなくある種の霊的力場を形成していた。

 

 秩武山中の奥深く、獣も近寄らない闇溜まりから顕現した夜導怪・雀女(すずめ)は、はやくも自身を呼ぶ呪詛の響きを感じとっていた。

 ──霊山の眷属たる我の名を呼ぶとは、なんたる無礼か。

 足もとの土から無数の蛆が湧いて、丸い背中を裂いて瞬く間に真紅の羽をもつ成虫となり、雀女をのせた蛾の大群は空高く飛翔した。その一群は風に吹かれる夜雲と、雲に乗る天女のようにもみえた。

 闇夜の地上に発光する六人の人影があった。──発光していたのは気のせいだったかもしれない。しかし、彼女の目にはひときわ存在感を放つものであり、そうした人間をみると本能的に癪にさわるのである。

「巫女どもがっ!」

 夜雲の一端が速度を増して、羽をもった蟲の一軍がクラスター爆弾のように地上に降り注いだ。蟲たちが地面に食い込み、潰れ、体液を撒き散らし、一帯に毒の飛沫を蔓延させた。──間髪入れずに雀女自身、筋斗雲とともに六人をまるごと押し潰した。メシャっ、と細かい抜け殻の砕けるような音がして、地面をたたく羽から鱗粉が土煙のように逆巻いた。

 が、そこに梓巫女たちはいなかった。そして上空からは気づかなかったが、地面はそこだけ半径三メートルほど、すり鉢状に傾斜がついていた。そのクレーターの底には、粉々になった三方(さんぽう)という木組みの台座と、人型の紙片が円形に並べられているばかりであった。

 その紙片の意味を察したのか、ふと我に返ってふたたび飛翔しようとした雀女だったが、その時、彼女と彼女を取り巻く濃霧のような蛾の群れは激しい痙攣をはじめた。

「グ、ギギギ……」

 シャリラン、と水のように澄んだ鈴の音が聞こえた。重なり合って響く金属の音色は、怪異の全身に聖なる波紋となって浸透しその身を縛りつけた。

 やれっ!と、暗闇から声があがった。放物線をえがいて二本の火矢が──どちらも矢じりのかわりに先端に手持ち花火を巻きつけたものが──すり鉢のなかに飛びこんだ。地面に一瞬、光輪が煌めき、次いで爆炎が雀女を包み込んだ。ギャオッ、という童女の甲高い悲鳴をかき消すほど、空気を揺さぶる激しい爆発だった。

 ──雀女が松永蔵人に幻をみせたように、梓巫女は“呪い返し”によって怪異の目に虚像をうつしてみせた。本物の儀式場と巫女たちは、たしかに同じ更地の十数メートル離れた場所に平然と立っていた。しかし、三方にそなえた六つの紙片と松永蔵人の分身──血を吸った包帯を包んだものとが呪術的な(デコイ)となって作用し、怪異の感覚を惑わせたのである。

 頭に血ののぼった雀女は、ガソリンをたっぷり吸わせた()()のなかに飛び込んだ。「飛んで火に入る夏の虫」を見事に体現してしまった。──のみならず、気化した燃料とミクロサイズの鱗粉とが連鎖的な燃焼反応を起こし、粉塵爆発めいた破壊の嵐となって彼女を襲った!

 その衝撃と熱波に、罠を仕掛けて点火した梓巫女たちさえも驚きの声をあげた。

「……やっておいてなんだけど、これは消防法に触れる気がする」

「何言ってるの、ちょっと派手な野焼きよ」

「野焼きってキノコ雲とか出るの?」

 怪異にとって爆発や火炎といった化学反応がどのような作用をもたらすのか。──この世に形となって現れたものだから、ある程度の効果は期待できよう。実際、降ってくる火の粉と灰は、火柱に焼け散った蟲たちの残骸であった。

 柚月が手早く紙サイコロを投げて、純白の狛犬を二匹召喚した。

「それ、引っ捕らえい!」

 白い影が走った。灼熱のクレーターの底の、炭化して子犬ほどに縮こまった童女の全身を、のっぺりした一枚の布になった狛犬たちが、ちょうど産まれたての赤ん坊を()()()()に巻くように包み込んだ。楕円形のそれから短い足が四つはえて、よちよちと主人のもとへ戻りはじめた。

 

 一件落着、誰の目にもそうみえた。一人をのぞいて。

「多恵さん?」

 それぞれが顔を見合わせるなかで、神楽鈴をもった多恵だけが直立不動でいるのに瑞穂は違和感を覚えた。多恵は首と腕を不自然に伸ばし、腹話術師が膝の上に座らせる人形のように虚空を見つめている。

「どうしたの?」

「雀女を解放しろ」

 多恵の口が開いた。しかし、その声は低く、錆びれた男のものであった。

「だ、誰っ──」

「おっと、動くな」

 声は、弓を引こうとした双子と、足もとの鞘袋から長巻を取り出そうと屈んだ瑞穂を制止した。紗世は多恵の白い首筋が、五本指の形にニュッと凹んだのを見た。雀女の幻術か?いや、そうではない。──彼女の背後に何者かがいるのだ。

「弓を引いたり刀を抜いたり、笛でも吹こうものなら、この女もあわせて鳴くことになる。断末魔をな」

 ケッケケ、と喉奥から搾りでる醜悪な笑い声とともに濃厚な妖気がそこから立ち昇って、巫女たちは水を打ったように静まり返った。夜導怪はもう一体いた──!



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その十三

 夜導怪・雀女が梓巫女に捕縛されたのと時を同じくして、廃寺に伏せっていた松永蔵人が覚醒した。

「松永さん、起きたのね、松永さん」

 烏丸スバルがすぐに気付いて、上ずった声で彼を呼んだ。

 スキンヘッドで精悍な顔立ちだった松永蔵人は、嘘のように変わり果てた姿となっていた。怪異の毒に苛まれ自身の忍法すら満足に制御できず、心身を摩耗させた彼は眼窩が黒ずみ、唇は土色に乾ききって、骨に皮を貼りつけただけのように見える。

「……スバルか」

「『みだれ蜉蝣(かげろう)』──」

 唐突にスバルが投げかけると、ややあって「『細雪(ささめゆき)』」と蔵人は返した。対魔忍が仲間を判別するための合言葉だが、スバルはこれを聞いてようやく安堵のため息をついた。

「ここにいます。秋山さんも近くに」

 彼女のそばに座っていた凜子もいざり寄って「松永さん、具合はどうですか」と声をかけた。

「良い、とは言えないな……」

 松永蔵人は苦笑した。新品の包帯に手厚く巻かれたからだの上から、さらに全身を手足の指先まで麻縄でしっかり拘束されていて満足に寝返りも打てない。

「念のためですよ。朝になるまでは辛抱して」

「というと、いまは夜か……我々がここに来て、どのくらい経った?」

「あと四時間もすれば、ちょうど二日目の夜になります」

 もうそんなに。と、松永蔵人かため息をついた。

 彼の目は開いていたが、スバルとも凜子とも目線が合うことはなく、首を動かして声を頼りにふたりの位置を推し量っている。ためしにスバルが枕元のランタンの光を顔の前にかざしてみても、蔵人の眼は反応をみせない。──やはり視力は戻らなかった。しかし、自他を認知し合言葉のやりとりをこなすまでに意識が回復したのは、今までの錯乱ぶりを思えば劇的な復活であることに間違いはない。

「なにか、からだに異常はありませんか」

「さあ、記憶がすっぽり抜けた感じだ。──典親は?」

 スバルは躊躇いがちに息を詰まらせて、考えあぐねた挙句「死にました」とだけ告げた。蔵人のほうも「そうか」と言ったけり、詳細を聞き出そうとはしない。

「──ところで、ここはどこだ?」

「ここは、協力者の拠点、とでも言いましょうか」

「協力者?」

「梓巫女といいます。対魔忍(われわれ)よりも怪異に詳しく、唯一の対抗策を持っている人達です。松永さんの呪いを鎮めてくれたのも彼女たちのおかげなんですよ」

 ああ、と、蔵人は息を漏らした。

「ずっと子守唄のような、女の読経のようなものが頭に残っているのはそのせいか」

「きっと多恵さんね。半日付きっきりだったから」

 そうだったのか。と、蔵人は夢のなかで感じた安らぎや温もりの面影を思い出そうとしていたが、目が覚めたときにはすっかり忘れてしまっている。

「その巫女たちは何処に?」

「怪異を退治するために出払ってます」

「もう、戻ってくる頃か?」

「さぁ」

 スバルは首をかしげた。

「夜明けには戻ってくるでしょう」

「先ほどから迷わずこちらに歩いて来るやつがあるが、それは巫女の一人だろうか」

 言いながら、松永蔵人の表情がみるみるうちに険しいものに変わった。

 彼は背中から床板、土台、地面を通じて、何者かの足音のひびきを感知していた。同様の気配を感じとった秋山凜子も中腰になって、剣を左手に正面の格子戸の裏に控えた。

 お堂の屋根にとまっている忍鳥ハヤテの眼を通して、スバルは境内の(きわ)から石階段を登ってくる破れた唐傘の頭を見た。雨も降ってないのに、と思いきや、それは誰かが傘をさしているのではなく、傘そのものが自立して歩いているのだと気付いた。

 ──鳥の巣みたいな浪人笠をかぶり、くたびれた鼠色の着流しを着た、ゾッとするほど撫で肩の異形は、乾いた草鞋(わらじ)をカサカサ擦り鳴らしてやって来た。

「ここに巫女さま方はおらんかえ」

 と、壮齢らしい渋みのある男の声がした。

「梓巫女のお歴々はおらんかえ。コソ泥の坊主頭でも構わん」

 若い尾花のゆれる荒れ庭に屹立した夜導怪・笹浪(ささなみ)は、寂然としながらも殺伐とした妖気を放ち、青白い月光をまとう美しい一本松のようにも見えた。

「手土産を持参いたしたが、こう蒸し暑いと()()()()()()のう──」

 と、呆れたように言いながら、笹浪は右手にぶら下げていた西瓜(すいか)大のものを境内に放り投げた。石畳にボスンと鈍い音を立てて弾んだそれは、まだ血の気の残る、脂汗に濡れた額と頬に黒髪をまつわりつかせた女の生首であった。

 二人の背筋が氷結した。

 スバルが震える手で口もとを押さえた一方で、凜子は転がった首に、昼間、ダムの連絡橋で出会った“草”の面々のなかの、一人の面影をみた。

 あの"草"の一派が──話し合いで決着をつけたと凜子は思っていたけど──執念深く梓巫女の動向を監視し続けていたところに笹浪と遭遇したに違いない。

「あのナナフシか……」

 松永蔵人にも音から事情が読み取れて、同時に当時の記憶もピンポイントで戻ってきたのか、ウウンと唸った。

「笹浪……横勢の"草"を四人やったのも奴だ」

 お堂に巫女が──巫女でなくとも何者かが──潜んでいることを知っているのか、笹浪はひっそりとしてその場から動かない。

「ちょっと、朝まで粘るつもり?」

 いぶかしむスバルをよそに、凜子は決然と立ち上がった。

「こちらから出ます」

 

「む」

 やがて、細くしなやかな女の影が境内にそろりと降り立った。不動明王の化身かと思えるほど輪郭に闘気をまとわせており、怪異の目にも女が只者でないことは明らかであった。

「巫女はひとりだけか」

「さて、どうだか……」

 あいにく女は、夜だというのに、広い()()のついた紺色の日よけ帽子をふかく被っていた。怪異の背が女より頭四つほど高いのもあるが、帽子の落とす月影がベールになって彼女の表情をうかがい知ることは出来ない。しかし、それよりも、笹浪にしてみれば、あらわれた女の出立ち──ラフなシャツにアウトドア用の長丈パンツとシューズ、ベルトに差した一本差し──が妙に可笑しくて、今世の巫女は袴すら履かんようだ。などと言っては声を出して笑った。

「残りの巫女はどこだ」

「妖怪退治で出張中だ」

 ほう、と笹浪は間伸びした声で相づちをうって、

「なら、お前は何者か……いや、言わずともよい。おれが見えるということは、お前も()()()()()()の人間」

 左の腰に差した大刀の柄頭を細長い指先で撫でながら、

「察するに、いつぞやの男の連れだろう。仇討ちのつもりか知らんが、そちらから試し斬りの据物(すえもの)を寄越してくれるとは有り難い。──そこに転がる首とお前の首、それと奥のお堂にいる奴らもまとめて晒しておけば、巫女だろうが神仏だろうが、我らを無視できまいて」

 うくくっ、と愉快そうに笑う姿は、怪異ながらも人間臭さに溢れていて、それがかえって気味悪さを引き立てている。

「お前が人を斬った理由は、その愉快犯的な性格からか?」 

「なんの話だ」

 と、笹浪は自分で言ったあとで、ああ、と思い出したように呑気な声を上げた。

「あの家のことか。──なに、おれのことが見えるようだったので、これ幸いと剣の相手になってもらったまでのこと。ま。だいぶ期待はずれだったがな」

「ひとを斬って脅して、それで楽しいか?」

「さて、剣を振るうときは無心でいるよう努めているが、そういう心構えの話をされると、いささか返答に困る」

 笹浪は浪人笠をかたむけて

「相手を見定めもしない剣に意味などあるものか。それとも、殺戮そのものに快楽を感じる性質(タチ)か?」

「待て待て、問答はもうよい」

 笹浪は鬱陶しそうに手で払って、

「いつぞやの禿頭にも、誰の仕業だの、何故こんなことをしただのと随分くだらないことを聞かれたが、最近の剣法は講釈を垂れるのが流行りか?──時代は変わるのう」

 寒風のような嘲笑に煽られるようにして、凜子は左手で鞘をからだの前に寄せて、鯉口を切ってみせた。

「そうそう、物分かりがよくて結構」

 笹浪も待ち兼ねたように一息で抜刀してみせた。

 ──おそらくは大太刀や野太刀と呼ばれるものであるが、人間の並の男が携えてようやく大太刀と呼ぶのだから、超長身の怪異からしたらこれが()()()()()()サイズなのかもしれない。その昆虫然とした細長い腕をピンと伸ばしたら半径三、四メートルは軽々となぎ払われる。もはや槍や薙刀といった長物にちかい間合いである。

「剣法者は、ただ剣で語るのみ──!」

 枯れ木のような笹浪と、人間の秋山凜子とが、右に左に、お互い円を描きながら向かい合った。そして、一瞬の静寂の後、夜闇を切り裂くように、二、三度、両者のあいだに銀色の光がはじけた。

 格子戸の影から見守っていた烏丸スバルには、どちらが怪異でどちらが対魔忍か、もはや区別がつかなかった。

 ──が、決着はあっけなかった。

 ふと後ずさった笹浪は、そのまま動きを止めた。たった数瞬のせり合いのうちに、怪異の豪刀は鍔もとから十数センチを残して、その刀身の大部分を失っていた。

「逸刀流・(はがね)通し──。」

 秋山凜子は、寂として石切兼光を鞘におさめた。境内にはツヤのある金属の欠片が、星屑を散りばめたようにひろがっていた。秋山凜子の鋼通しは大太刀を刻みネギのように細切れにした。

 古くは戦乱の時代から、甲冑をまとった強固な相手をその武具ごと斬り伏せるために用いられてきた、悪鬼覆滅、冷酷無比の荒業(あらわざ)である。とはいえ、その実、丹田より精製された氣力──今日では対魔粒子と呼ばれる潜在的忍法力──を全身から刀身まで通わせることで異次元の切れ味と太刀筋を実現させる、まさに対魔忍のなせる業なのである。

 ──と、こういった事情を当然ながら知りもしない笹浪は、なにをされたのかわからず、呑気に手もとを眺めている。

「はて、こんなナマクラだったかな……」

 折れた剣の柄を鞘に戻しながら、

「お前、虚空丸の腕を飛ばしたやつだな?──いやいや恐れ入った」

 と言いつつ、笹浪の視線は石切兼光に注がれている。まるで綺麗な棒切れを見つけた小学生のように。

「今夜のところは大人しく退散するとしようか。ここで決着をつけるのは、ちと勿体のうなった」

 凜子の被っていた日よけ帽子が斜めに割れて、頭から足もとに落ちた。月明かりの下にあらわになった彼女の、白磁みたいなこめかみを一本の赤い線が流れ落ちた。

「これで、顔も覚えた」

「……ほかの巫女たちに手を出さないと約束すれば、毎晩でも相手してやろう」

「ほう、勇ましいのう。身代わりというわけか」

 毅然として言う凜子を、笹浪はフッと笑いながらも、どこか感心したようにうなずいて、

「ま、お前の心意気に免じて、今夜は大人しくしといてやろうかの」

 と、踵をかえして去っていった。

 その姿と妖気が完全に消えたあとで、事の成り行きを見守っていたスバルが凜子に駆け寄った。

「……追わないの?」

「あと一歩、踏み込めなかった。手加減してたのは向こうも同じ……」

 凜子の腕と肩には、鋭い生傷が服に血を滲ませていた。

「あいつ、まだ奥の手をみせていないように感じます」

 

 そのとき、怪異と入れ替わるように、これはバタバタと強かに靴音を鳴らして、騒がしく石段を駆けあがる者がいた。

 緋袴を膝上まで引き上げた唯愛と乃愛、柚月の三人は境内になだれ込んできた。

「た、多恵さんが(さら)われたっ。それに、沙世と瑞穂も逮捕(パク)られちまった!」



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その十四

 お堂の軒下に腰掛けて、凜子はスバルから手当てを受けている。松永蔵人が担ぎ込まれてからというもの、包帯と絆創膏、消毒液、市販の鎮痛薬は潤沢にある。

「はじめは雀女を捕まえる作戦だったの。全員でおびき寄せて、燃やして、柚月さんが捕まえる。それ自体はすんなり成功した。──でも、どこから嗅ぎつけたのか、いつから潜んでいたのか、また別の夜導怪が多恵さんを人質に雀女を解放しろと言ってきた」

 息の荒い三人のなかでも比較的冷静な唯愛(ゆあ)が説明する。

「当然、柚ちゃんは無理だと言った。すったもんだしているうちに巡回中のパトカーがサイレン鳴らして戻ってきて、──たぶん私たちの起こした爆発に勘付いたんだと思う。怪異は多恵さんを連れて何処かへ。沙世さんと瑞穂さんは私たちを逃がすために囮になった……」

 ひと足遅れて、大型犬サイズの大福みたいな白塊が()()()()()()()()登ってきた。雀女を収容したその式神は柚月の指示でそのままお堂のなかに入っていった。

「二人はともかく、多恵さんはマズいって」

「後を追えるの?」

 三人の返事も待たずにスバルは口笛をピュイっと吹いて、ハヤテを飛ばした。

「雀女の身柄がこちらにある以上、相手もやたらなことはしないはず」

「おれに任せてくれないか」

 五人の女たちが、そろって声のほうを向いた。お堂の奥の暗がりで、海苔巻きみたいに縛られていた松永蔵人は、いつの間にか拘束をすり抜けて座っていた。

 唖然とする巫女たちはいざ知らず、彼は土も岩も自在にすり抜ける土遁(どとん)術の名人だから対魔忍の二人はとくに驚かないが、精悍なアスリート体型だった松永蔵人が、目をつむってネズミ色の布切れをまとう姿は、モノクロに写したチベット僧のようにみえて、その変貌ぶりには寒気すら覚えた。

「その怪異の行方、いまなら辿れる気がする」

「気がするって……まだ幻覚でも見てたりする?」

 そう皮肉っぽく言った直後に姉から肘で小突かれた乃愛だったが、実際ほかの二人の巫女も内心、同意見ではあった。なにしろ体調の良い松永蔵人を見たことがないから、任せてくれと言われて躊躇するのは当然といえる。

「あんた、夕方には汗だくでウンウン唸ってたのに、どうして?」

「どういうわけだか意識が戻ってな。恐らくはそいつのおかげだろう」

 蔵人は顎でお堂の奥に座っている白繭を指し示した。

「幻聴も幻覚もぱったり止んで──まあ、いっさい見えなくもなったが──代わりに健在の両耳がな、妙に音を拾ってくれる」

「音って?」

 蔵人は耳を澄ましてその音を聞いているようだが、もちろん他の五人にはまったく聞こえない。

「とにかく多恵さんでも、怪異でも、なにかしら辿れますか」

 凜子が聞くと、蔵人は「やってみせる」と言わんばかりに、口をかたく結んで頷いてみせた。

「ほ、本当にこの人に行かせるの?」

 唯愛が、なおも心配そうにうかがうと、しばしの沈黙の後に、

「手が多いに越したことはないわ。ハヤテにひと(まわ)りさせるより、当たりをつけて探したほうが良い」

 と、スバルは言った。

 実際、彼女も松永蔵人の提案には消極的だった。しかし、いまの彼に何を言っても黙って飛び出して行ってしまうだろうことは、その凄愴な、ある種の破滅願望が生みだす大胆不敵な言動が物語っている。

 松永蔵人は今夜、散華するつもりだろう。

 

 武洸山の北側の麓、びょうびょうと広がる山間の林野のなかを動脈のように伸びる送電線と、それをわたす鉄塔の列がある。

 ──烏帽子(えぼし)型鉄塔と呼ばれる、全高六十メートルほどの、アルファベットの「A」を逆さにしたような構造物の骨組みのうえで、干された布団のように鉄骨に引っかかったまま動かないひとつの塊がある。

 長い髪と白衣、緋袴の袖が風に揺れている。それに、右手にしかと握られた神楽鈴が、中身の玉がわずかに転がってシャラシャラと音を立てているが、それもすぐ夜風にかき消される。──その影が女、もしくは人間であると気付いた者はおそらくいないだろう。周囲に建物はなく、足元を照らす灯りすらない漆黒の山林地帯であった。

 その鉄塔に向かって、白い繭を抱えて道なき道をすすむのは松永蔵人であった。

 蔵人が耳を澄まして聞いていたのは、何を隠そう、この鈴の音なのである。──蚊の羽音ほども震わない極小の音の波を、並みのそれより敏感だとはいえ、彼の鼓膜は如何にして感じ取ったのか。という疑問がふつふつと湧いてくるが、これも対魔忍のなせる業か。

 森を抜け、例によって金網(フェンス)をすり抜けた松永蔵人は、手探りで鉄塔の脚部に触れると、そこに耳をピタと当てて様子をさぐり始めた。トクトクと一定のリズムをきざむ微弱な心音は、六十メートル上空に倒れる多恵のものに他ならない。

 履物を捨てて裸足になった蔵人は猿のように四本の手足を使って登っていく。一本の鉄骨をわたり、接合部のボルトの頭を摘み、足をかけてさらに上へ。──

 昼間、寝込んでいた男とは思えない順調ぶりで三分の二ほど登ったころ、ふと松永蔵人の動きが止まった。足場から伝わる振動に自分のものでも多恵のものでもない、三人目の存在を知覚した。

「貴様、巫女の使いか」

 そう遠くない頭上から声が降ってきた。やや荒っぽく、張りのある若い男の声だった。

「………」

「梓巫女の使いかと聞いてるんだ、答えろ」

「……いかにも」

雀女(すずめ)はどこだ」

「下の茂みに置いてある。巫女を渡してくれれば、こちらも引き下がる」

 返答はなかった。──代わりに、がら空きの蔵人の背中をするどい稲妻がはしった。

「ぐっ」

 痩せ細った広背筋を袈裟がけに斬られて蔵人は仰け反った。しかし、反射的に手足にぐっと力を込めて、転落だけは辛うじて防いだ。

「ご苦労、この月狡(げっこう)が褒めてつかわす。──」

 蔵人には見えていなかったが、このとき彼の背後には、コウモリのように逆さになって頭上の鉄骨からぶら下がる一匹の怪異があった。

 それは、全身に鱗を生やし、胴と同じくらい長大な尾を尻から伸ばした、ヤモリ然とする人型怪異であった。月狡(げっこう)と名乗ったそれがいま、松永蔵人を山刀で強襲しつつ、邪悪な笑みを浮かべながら入れ違いに落下していく。

 地表にビタッと着地した夜導怪・月狡は、すぐそばの茂みの、木の根もとにある赤ん坊ぐらいの大きさの白繭をみつけた。持っている山刀を振ると繭の表面に薄い縦スジが刻まれて、枝豆の()()みたいに簡単に裂けた。

「なんだァ?」

 中身はない……というより、繊維質な白い()が詰まっていた。

 ──実際、これは雀女を捕えた柚月の式神ではなかった。中身は大きく実った夕顔という(うり)の一種で、本来なら果実を薄く剥いて干瓢(かんぴょう)に加工したりする野菜だが、松永蔵人は近所の畑からとくに肥えたものを拝借し、これを包帯でぐるぐる巻きにして、あたかも繭のようにしてみせたのである。

「謀りやがったな……」

 上空に目を向けると、いましがた背中を斬りつけたはずの松永蔵人は、しかし相変わらず鉄塔をのぼり続けている。

 ──なんという迂闊(うかつ)

 月狡は踵をかえして鉄塔を駆け上がった。体がハーネスとワイヤーで頂上と繋がっているかのように、月狡の怪脚は重力を無視した垂直方向への疾走をみせた。壁を這うヤモリのように、月狡の手足の平たい指先にはナノサイズの繊毛が数千万とひしめいていて、滑らかな鉄骨の表面とそれらが互いに引き寄せあって吸着している。と、それらしい解説はともかく、松永蔵人のもと──高さにして五十メートルほど──まで五秒とかからなかった。

 

 ──せめて梓巫女たちには、頂上に眠る女か、途中にへばりつく男か、どちらかの首だけでも届けてやらねば気が済まない。

 巫女を人質に雀女の返還を迫ったのも、たまたま雀女と巫女の攻防を草葉の陰から覗いていて、それがあまりにも呆気なく終わり、梓巫女たちの首尾一貫した仕事ぶりが気に入らなくて、ならば邪魔してやろうという、ぽっと出の子供じみた思いつきに過ぎなかった。

 しかし、いま顔も名前も知らない人間の男──松永蔵人に邪魔されて、騙されて、火がついた。

 ──あの女の細首を断ち、彼奴のまえで高々と掲げてやる。そのあとで男の首も刎ねる。瓜みたいにぶら下げて届けてやる。

「きええいっ」

 セミのように鉄骨にしがみつく蔵人の背中を、ふたたび山刀が、今度は憎しみを込めて滅多打ちにする。花びらのように吹きあれる血飛沫……とは、ならなかった。

 月狡はハッとすると同時に身震いした。──この人間、たしかに手応えはあっても、まるで砂袋みたいにビクともしない。大きく開いた背中の傷は紛れもなく本物だが、皮一枚を隔てた内側では、血管や筋肉組織、骨に至るまで体内の何もかもが渾然一体として、煮立ったビーフシチューのように対流しているのが見える。

 絶句する怪異の表情が見えているかのように、松永蔵人はフフフと不敵に笑った。

「忍法・赤水泥(あかみどろ)──」

 月狡はとっさに背中の傷のさらに奥、心臓めがけて山刀を刺し込んだ……が、松永蔵人の()()()()には意味がない。のれんに腕押し、すでに形のないものを、どうして破壊できようか。

 反撃とばかりに、松永蔵人の背中の亀裂から間欠線のように半液状の飛沫(しぶき)が扇状にほとばしった。

 肉片は月狡の全身を汚しながら、一部が筋骨たくましい松永蔵人の上半身のシルエットを形作って背後にまわり、二本の腕で怪異の首根っこをキリキリと締めあげる。

「ば、化物っ……!」

 予期せぬ挟み撃ちに、自らを棚に上げて月狡は叫んだ。

 山刀を振ろうとしても身体に付着した肉泥は、尖った鼻先や口、大きな両眼、四肢の関節を鱗の隙間まで侵食し、石膏のように固まってそれを許さない。

 月狡の足裏が鉄骨から離れた……と言うよりは、分子間の絶妙なバランスを保っていた足裏が根をあげて、ついに滑り落ちた。

「おおおお……」

 怪異よりも奇怪な肉に取り憑かれた月狡は、断末魔を()()()させながら漆黒の山野に落ちていった。──



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その十五

 浅見由衣巡査部長は腕組みして、正面に対座する巫女装束の女二人を見据えている。

 深夜の秩武警察署、取調室は天井の空調が寒いくらいに効いている。

 空き地でなにかの支度をする若い女たちを見かけた浅見は、その場を離れたあともそれとなく気にかけながら夜間の巡回を続けていた。だから夜空に鮮明に浮かぶ黒煙に気付くのに、そう時間はかからなかった。

 巫女装束の女二人は逃げることも抵抗することもなく、拍子抜けするくらい従順であった。警察署に着いたときも「巫女が来たぞ」と、夜勤警官たちが野次馬の如くぞろぞろと廊下に顔を出しては、うら若い巫女の神秘性にため息をつく体たらくで、たまらず浅見が怒号を飛ばして彼らを追散らす始末であった。

 そこから一時間ほど、巫女二人にとって事情聴取という名の説教がつづいた。

 そもそも事情なんて言えるわけもないし、白状したとしても目の前の堅物婦警が信じるわけがないから自然と黙り込む時間が多くなって、そうなると巡査部長の“奉行魂”にもだんだん火がついて、説教は長く、くどく、苛烈なものになる。

「浅見さん、引受人の方がいらっしゃいました」

 ドアを開けて、若い男の巡査──浅見の部下で名を佐竹という──が言った。

「ああ、はいはい」

 浅見が出ていこうとするところに、

「お坊さんみたいです」

 と、佐竹巡査は小声で付け加えた。

「坊さん?」

「いえ、あの二人の言った番号にかけたら、どうも近所の寺の電話番号だったみたいで、そこの住職の浄胤ってひとが迎えにいくと」

「えっ」

 浅見の顔から、みるみるうちに血の気がひいていくのが佐竹の目にも明らかであった。

「本当に、ジョウインって名乗ったの?」

「ええ、たしかに浄胤と……」

 嘘でしょ。と、たまらず浅見は壁に手をついて、うなだれた。

 廊下の待合用のソファに座っていたのは、作務衣に便所サンダルをつっかけた老人であった。いったい誰が差し入れたのか署内の湯呑みを手に、ズズゥっと茶をすすっている。

 浄胤和尚は、浅見の姿を見るや露骨に目を開いて、

「ややっ、あんたは浅見さんとこの……たしかユイちゃん」

 と、やかましい親戚みたいに驚いてみせた。

「はれまぁ、ずいぶん立派になられて」

 浅見はそんな三文芝居には目もくれずに、

「書類、目ェ通して、一番下にサイン」

 突っぱねるように言って、ボールペンと数枚の紙をはさんだクリップボードを突きだした。

「東京の大学行ったあとに警察学校へ入ったとは聞いとったけども、故郷に勤務するとは殊勝な心がけよのう」

「いいから、はやく書きなっての」

 穏やかでない浅見をよそに、浄胤和尚は飄々としている。

「地鎮祭なんて、よくもまあ罰当たりな嘘をつかせたもんね」

「二人とも、そう言ったの?」

 ふぅん、と和尚はうなずいて、

「まぁ、鎮める儀式には変わりないがね」

「若い巫女なんか(そそのか)して、何のつもり?」

「なに、たんなる()()()()()よ」

「なんですって?」

 浅見は眉をしかめた。この老僧は、ここにきてまだ屁理屈を言おうとしている。

「ガソリン撒いて派手に燃やすのが宗教だっていうの?」

「まあ聞いてくださいな。──あの場所には、なにやら()()()()()があるのをご存知かな、いや、覚えておいでかな?」

「………」

 言われて、浅見は思い出した。

 たしか三、四日前だったか、あの辺りで一家が失踪事件があった。──いや、まだ失踪とも事件とも断定されていないが、とにかく姿を消したのだ。

 町役場の職員から通報があったときには、すでに現場は()()()()()であった。住んでいたのは三十年ほど前からある古参の農業従事者で、一説には夜逃げとされているが目撃情報は皆無で曖昧模糊としている。職員は住民票や戸籍をたよりに行方を追えるかも知れないと言っていたが、それが上手くいっているかどうかは不明だ。出動要請も捜索願いも受理していないから警察には出る幕がない。

 どういうわけか、気付いたときには住居ごと基礎部分からごっそりなくなっていて、直近に野生動物の死骸騒ぎもあったから、このことはそれっきり話題にのぼらなくなった。神隠しとも言える摩訶不思議な出来事だがさほど騒ぎにもニュースにもならず、自分自身、和尚に言われてようやく思い出したくらいだから、浅見はすこしゾッとした。

「……それで?」

「口にはせずとも町の人々は不安に思っておる。よからぬことの前触れではないかと。そうした目に見えぬものへの恐怖や抑圧というものは、なかなか馬鹿にできんで、必ずや"(ひず)み"となって顕現(けんげん)し、社会の秩序を崩壊させる一端となる」

「………」

「──となれば、せめて私どもの手で御供養なり鎮撫(ちんぶ)すれば、その不安も多少なりとも拭えるのではないかと、この老いぼれ、恐れながら皆に進言いたした。幸いにも施主や施工主、神社の方々にも賛同をいただき、巫女たちにも使いとして協力していただいた。警察(そちらさま)にだけ御相談できなかったのは不徳の致すところ。──」

「あんた、よくもそんなデマカセを……」

 浅見はわなわなと唇を震わせて、

「いま言ったこと、裏取りしても構わないわね」

「そらどうぞご自由に」

 うっすら笑みを浮かべた浄胤和尚が書類一式を返却し、仏頂面の浅見が受け取る。

 ──廃棄物処理や自然保護の観点から、焚き火や野焼きは原則禁止であり犯罪行為である。しかし、宗教上の行事となると例外である。和尚は巫女たちのボヤ騒ぎを宗教の儀式として処理させようとしている。

「彼女たちは未熟なれば、すこし手順を間違えたのでしょう」

 ほほほ、と浄胤和尚は笑った。好々爺じみた物腰が、かえって浅見の癪にさわった。

「そしたら連絡も指導も怠った監督者(あんた)に責任があるってことね」

 彼女も負けじと言った。

「ええ、それはもう、重々承知しておりますれば……」

 浄胤和尚は浅見に向き直って頭を下げた。祖父母より年上の老人の平謝りする姿に、浅見は言い過ぎたとも思わないが、いい気持ちでもない。

 ──いや、謙虚を顔に塗りたくった厚顔和尚、それっぽい理由をでっちあげて頭を下げれば事が収まると、たかを括っているに決まってる。一家の蒸発騒ぎなんかと結びつけて悪質極まりない。

 フン、と息巻いてみせて、浅見はオフィスに戻った。すぐに佐竹巡査が寄ってきた。

「なにかあったんですか、あのお坊さんと」

「大昔の恩師」

 浅見は眉間にシワを寄せて言った。

「恩なんてこれっぽっちも感じてないけど……」

 

 ──ここで浅見巡査部長の後日談を記しておこう。

 翌日の朝、彼女が空き地を再確認したときには、凹んだ焼け跡は綺麗に塞がれ、土はならされ、縄の結界と祭壇はそのままに、まさに再スタートを切らんとする、なんの変哲もない更地だけがあった。

 そこに頭を剃った僧侶十数人が、米や野菜や御神酒といった供物を携えてやってきて、結界のなかで小さく火を焚きながら読経をはじめた。神道の祭壇で仏教徒が経を唱えるというのは不思議な光景だが、重なり合って空にうねるコーラスはなかなか壮観であった。

 近くを通りかかった町民は足を止めて警戒するかと思いきや、法事かなにかと思ったのかさほど気にしないらしく、最後まで立ち見していたのは浅見一人だけであった。

 儀式の後、その場で聞き取りをすると、やはりそれは浄胤和尚の提案した"お焚き上げ"で、こうもゲリラ的になってしまったのは、すぐにもここに新居を構える予定があるからだという。

「え、家建つの?」

 浅見は町役場に問い合わせた。すると新たに市外から越してくる人が住宅を新築すると告げられ、前の住人である例の蒸発一家は、転出届の提出されたのを一部の職員が知らなかっただけで、すでに他県に引っ越しているのを確認したから問題はすべて解決しているとまで言われた。

 あまりの都合の良さに浅見は寒気すら覚えた。

 深夜の巫女たちは本物で、儀式も本物、空き地は浄化され、新しい誰かの礎となる。

 土地の四方に揺れる小幣(こぬさ)の紙端を、彼女は道の反対側から呆然と眺めているばかりであった。──

 

 

 時を同じくして、瑞穂と紗世の二人は、浄胤和尚と入れ替わるように解放された。

 よほど和尚に手を焼いているのか、あの浅見という女警官の見送りはなかったが、かわりに優男の佐竹巡査が「夜道は気をつけて」と別れ際に美声をくれたので、紗世のほうは良しとした。

 もうすぐ午前三時になろうかという時刻であった。はやくも朝刊を載せたカブが住宅地に入っていくのが見えた。

「和尚さん、大丈夫かな」

 紗世が心配そうに振り返ると、

「無策で乗り込むような人じゃないよ」

 と、瑞穂はドライに言い捨てて、タバコ吸いたくなっちゃったなぁ。と呟きながら周囲を見回している。

長巻(ドス)はそのままか……もっかい戻るの面倒」

「あんなの見つかったら問答無用で逮捕だよ」

「初犯なら不起訴でしょ。あれ私物じゃないし」

「また和尚さんに来てもらう?」

 二人は笑い合った。

 巫女装束はとにかく目立つので、二人は空き地よりもずっと近い、拠点である廃寺へ一旦戻った。石階段のふもとに、空き地にあったはずの多恵のオレンジの軽バンが停まっていて、二人は「おや」と思った。

 境内にあがると、お堂の軒下には見慣れない三つの人影があった。頭の形から僧侶だとわかった。きっと浄胤和尚の息のかかった者たちだ。

 彼らは紗世と瑞穂に気付いて頭を下げた。

「たったいま、みなさまのお忘れになった道具を届けたところです」

「道具?」

 お堂には、和弓や長巻を包んだ袋、楽器、その他の儀式用の道具が並んでいた。どれも怪異を捕らえるために空き地に持っていって、そのあと置きっ放しにしていた物だ。混乱のあとに僧侶たちが密かに回収して、持ってきてくれたという。恐らくは抜け目ない浄胤和尚の指示だろう。

「わあ、どうもありがとう」

 長巻を確認した瑞穂が微笑むと、僧侶たちは目をそらして恥ずかしそうに頭をかいた。

「それじゃ、下に停めてある軽も?」

 紗世がたずねると、僧侶たちは首を振った。

「いえ、あれは我々の手では、とても……」

「じゃあ誰かしら」

 僧侶たちがくる数分前、唐突にやってきたレッカー車が多恵の軽バンを牽引(けんいん)して──ご丁寧に車体とタイヤの土埃まで完璧に洗い流して──何も言わずに置いていったのを、柚月も双子の姉妹も知らず、ただ烏丸スバルと秋山凜子だけが、抜け目ない"草"の仕業だと勘付いていた。

「で、二人のほうは、どうだったの?」

 三人の僧侶が退散したあと、紗世と瑞穂を迎えた乃愛(のあ)は尋ねた。紗世が事の顛末を簡単に説明すると、乃愛は目を丸くした。

「そ、それじゃあ今度は和尚さんが捕まったの?」

「大丈夫だろ、あの人なら」

 と、柚月が顔を出して言う。

「相手は警察よ?」

「あのツラの厚みと顔の広さは盆地級よ。あのツルピカ頭を下げたら市長だって断れない」

 梓巫女たちはしばし沈黙して、「それもそうね」と納得した。と言うより、そちらは大した問題ではなかった。

「──それより、多恵さんのほうは?」

 紗世が切り出すと、双子と柚月は微妙な顔をした。

「どうしたの」

「松永さんが、必ず助け出すと……」

 口を開いたのは三人ではなく、壁際に座っていた秋山凜子だった。彼女の腕やひたいには包帯が巻かれていて血闘の痕が生々しかった。

「それで、あの人に任せたの?怪我人をひとりで?」

 瑞穂は信じられない、といった風に肩を落として、

「なんで誰も追いかけないの」

「単身で行くと松永さん自身が決めた。私たちが拠点(ここ)を守り、自分が怪異を片付けて多恵さんを取り戻す、と、あの人がそう言った」

「多恵さんは、松永さんは何処にいるの」

「武洸山北西の稜線、送電鉄塔の上……」

 スバルが答えた。

「わかってるなら、どうしてみんなここにいるの」

「やると言ったからには、あの人はやる。指示を受けた我々はそれを待つ。──松永さんがヤバくなったら私が行くよ」

 と、凜子は石切兼光にぴったりからだを寄せて、それっきり黙り込んでしまった。彼女はもちろん、スバルのほうも印を結んだまま岩のように動かない。

「信じていいのね。──みんなもそれでいいのね?」

 瑞穂はほかの巫女たちを見回した。目が合うと、柚月も双子姉妹も肩をすくめている。

 

 そして、気が気でない時間が過ぎて、烏丸スバルが「終わった」と言って印を解いたとき、ヒタヒタと石階段を叩く裸足の音が近づいてきたのを巫女たちは察知した。

 夜明け前の薄明かりに二つの影が現れた。

 先に現れたのは、ダビデ像みたいに引き締まった男体──手足の先まで鱗をまとい、ぬらぬらとにぶい光を放っている──が、仁王立ちしている。

「夜導怪……」

 巫女たちは一瞬騒然として、柚月は紙サイコロを、双子は和弓を、瑞穂は長巻を抜き身にして構える。

 が、その怪異は明らかに不自然だった。まるで糸に吊られているかのように千鳥足で、両腕もぶらぶら真下に揺れて、なにより頭部が無い。──鎖骨のあたりに潰れた柿のような飴色の組織がのぺーっと広がって、こびりついている。

「なによあれ……」

「もう片方は?」

 次いで現れたのは、くたびれた修行僧みたいな松永蔵人と、彼の両腕に横たわる多恵であった。

「多恵さん!」

 紗世と瑞穂が立ち上がり、同時に双子が射った。ガラス細工のように透き通った霊気の矢が、仁王立ちする怪異の腹と胸を貫いた。二人は手を止めず交互に弦を弾いて、怪異がすでに事切れているとわかった紗世が「撃ち方やめ」の合図を出すまでに、それぞれ三本の矢を放った。

 その横を大きくまわって紗世たちは蔵人のもとに走った。

 松永蔵人は多恵を二人にあずけると端的に言った。

「意識はある。目立った傷もない」

「松永さん、あなたは?」

 振り向いた紗世と、すこし遅れて同じくそちらに目を向けた瑞穂は、口を開けたまま全身を硬直させた。──それは、お堂側にいる三人の巫女たちも同様だった。

 二人は、尋常では考えられない亀裂(クレバス)が松永蔵人の背筋を縦に裂いて、蝉の抜け殻のように中身が空っぽなのを見た。一方で三人は、夜導怪・月狡の表面から流動体(りゅうどうたい)が染み出てきて、等身大の松永蔵人の土人形になるのを見た。

「あとは好きにしてくれ」

 ふたつの松永蔵人は同じ歩数歩幅でお堂にたどり着いて、ひと仕事終えたかのように縁側に腰かけた。

 宣言したとおり、松永蔵人は多恵を救出し、さらに夜導怪の屍骸まで持ち帰ってきた。その事についてはもはや文句のつけようがないが、いま全員をその場に縛りつけているのは、荘厳とも無惨とも形容できる、古木のような松永蔵人の姿かたちである。

 

 ──ただ、烏丸スバルだけが、忍鳥ハヤテの眼を通して鉄塔の死闘の顛末を見ていた。

 忍法・赤水泥(あかみどろ)によって分裂した彼の内部組織は、夜導怪・月狡を羽交締めにしながら鉄塔から宙空へと身投げした。月狡にとっては敵をふり解くための決死の脱出であったが、なお分身は離れず、逆に空中できりもみ状の回転を加えて垂直落下をはじめた。

 分身は着水するように地面に溶けて、月狡は頭から落雷みたいな音を立てて地面に激突した。頸椎(くび)はひしゃげて、潰れた頭部は胸まで埋没した。スバルが(いにしえ)の殺法・飯綱落としを実際に見たのは、これが初めてであった。

 

「松永さん、傷は塞がるの?」

 スバルは彼の背中を指差して言った。

「これか、……まぁ無理だろうな」

 蔵人は乾いた声で笑った。

 伽藍堂の体がカサカサと揺れて、それっきり彼は沈黙した。──松永蔵人が風に塵となって飛んでいくのと、隣の分身が前のめりに突っ伏して石畳の上に砕け散ったのは、ほぼ同時であった。

「……ど、どうなったの?」

 唯愛はわななきながら凜子に聞いた。

 凜子にさえ、なにが起こっているのかわからなかった。もちろん松永蔵人が土遁使いなのは承知しているが、よほどの事情がなければ忍者は自身の忍法を他人と共有することはないから、目の前の現象のひとつひとつを説明することはできない。

 が、ただひとつ断言できることは、松永蔵人は生命力は尽きた……すなわち死んだ、ということ。──

 

 静寂を破ったのは、草むらから飛び出した蛇であった。それはお堂の床下に滑っていった。

「いまの何?」

 勢いよく床板を破って、細長い影は天井の梁に絡みついた。前が太くて後ろが細く、鱗が生えて、よく見ると頭が無かった。──根もとからプッツリ断たれた爬虫類の尻尾のようなものであった。

 柚月の召喚した狛犬が牙を剥いて踊りかかった。二匹は梁のうえで格闘し、やがて狛犬がガブと噛みついた。そのとき尻尾の断面からビュウっと鮮血が尾を引いて、すみに置かれていた白繭に降りかかった。

 ああっ、と柚月は悲鳴をあげた。

 血を浴びた白繭は水気を吸って、ほろほろと崩れていった。隙間から大量の蛾が羽ばたいていって、お堂の正面から塊となって夜明けの空に消えていった。──



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その十六

 夜が明けた。

 多恵を介抱するのに大事を取って、町の診療所に連れて行こうと紗世が提案した。結果として車を運転できる烏丸スバルが二人を軽バンに乗せて送迎することになった。残された巫女四人によって、捕まえた夜導怪を焚き上げる準備が進められた。

 一方、秋山凜子は境内の石畳に積もったを赤銅色の土を手で丁寧にすくい、かき集めて、土のう袋のなかに入れていく。

 土塊(つちくれ)からは生命力や気力といった霊的なエネルギーはもはや微塵も感じられない。土人形が独立していたのも驚愕だが、文字通りの抜け殻になっても生命の灯火を絶やなかったのは、改めて松永蔵人の忍法力の高さを実感させられる。

 お堂の裏手──階段も足場もない雑木林の斜面から、エプロン姿の専業主婦じみた中年女(おばさん)()()()()をカラカラ鳴らして歩いてきて、お堂のほうをチラと見たあと、

「今日は資源回収日だよ」

 と、凜子のほうには目を向けずに言った。

「いま片付け中ですよ」

「もう一人はどこだい?」

 凜子は境内のなかの手水舎(ちょうずや)のほうを指差した。すでに枯れてしまっている水場には水が張られていて、黒のポリ袋が二つ、細長いものと小さいものが浮いている。昨夜、怪異に刈りとられた草の生首と茂みに伏していた胴体は、彼女の手で回収され、洗い整えられていた。

「気付いたときには手遅れでした、申し訳ありません」

「いいんだよ、対魔忍(あんたら)を失うよりずっといい。──その人は残念だったね」

 おばさんは手水舎の袋と、足もとの土にそれぞれ手を合わせた。

「……市営霊園に安置してあった不二典親だけど、昨日、五車(さと)に送られたよ」

「そうですか。……不二典親、とうとう会えなかったな」

 エプロンの前ポケットから束になった数本の鉄串を取り出して、

「あの子に代わって使ってやりな」

 受け取った棒手裏剣は軽くて硬く、氷柱(つらら)のように冷たかった。

 黒のポリ袋二つと土のう袋を両手に、それこそゴミ出しするように、おばさんは何食わぬ顔で正面の境内から出ていった。

「えっ。誰か来てるの?」

 物音に気付いた乃愛が顔を出した頃には、その姿は石階段の下に消えていた。

「知り合い?」

「さぁ、きょうは資源回収日だってさ。──」

 こうして不二典親と松永蔵人、二人の対魔忍の(しかばね)は五車の隠れ里に帰還した。

 死して屍、拾う者なし。──とは、あくまで近世日本における隠密の非情な掟であって、昨今の国家公務員たる対魔忍は、たしかに忍務によっては証拠隠滅のために過酷な選択を強いられることもあるが、大抵の場合、遺体は各地の『草』の手によって秘密裏に回収される。

 秋山凜子も例外ではなく、内心、明日か半日後の自分と、持ち去られた黒のポリ袋とを本人も知らないうちに重ね合わせている。

 

 二十分も経たぬうちにスバルと紗世が戻ってきた。

 多恵は熱中症で倒れたという(てい)で診療所に寝かせてもらっている旨を説明したあとで、紗世をくわえた五人の梓巫女の祓いが敢行された。

 祝詞が粛々と唱えられつつ、夜導怪・月狡を包んだ瓜型の紙風船が護摩壇の火中に投じられた。極限まで加熱され橙色に発光したそれを錆びたヤットコでつかみ出し、四方から砂と束にした(さかき)の葉で冷却する。──そうして出来上がった黒茶色の物体は、原材料が紙とは思えない結晶のような光沢をおびて、河原に転がってそうな大ぶりな石にも、芸術家が丹精込めて彫り上げた仏像のようにも見える。

「やっぱ多恵さん抜きだと仕上がりが微妙ね」

 汗を拭いながら梓巫女たちは首をひねった。とは言え、よれたシワやら曲線やらを指差して議論している彼女たちをお堂の外から眺める対魔忍二人には、先日見たものとの違いがわからない。

「仕方ないよ。あとは和尚さまか誰かが、どうにかしてくれる」

 紗世は楽観的に言った。

「暑っちぃな……銭湯(ふろ)行こう、フロ」

「ちょっと。アレを渡すまでは駄目よ」

「あたしら午後から補講あるんだけど」

 双子は人目を気にせず汗を吸ってクタクタになった巫女装束を脱ぎ捨てる。

「シャワーだけでも良いから、あとはすこしでも寝ときたいな」

「じゃあ、お前達は例外として……紗世と瑞穂、ジャンケンすっか」

「やーよ」

「私だって寝たいんだけど」

 不貞腐れながらも、いざ拳を突き合わせると二人の顔色が打って変わって、

「ジャン、ケン、ポイッ!」

 と、迫真の声がこだまする。柚月がパー、二人がチョキを出した。

「んがっ」

「あははっ、やっぱりパーだと思った」

 瑞穂は高らかに笑った。

「な、なんでわかったんだ」

「いかにも“私はパーです”って顔してるもの」

「なんだとっ。お前ら、なにか仕組んだな」

「諦めなよ、柚ちゃん。言い出しっぺがみっともない」

 言いながら紗世はすでに着替えを終えて、道具一式を詰めたバッグを肩にかけている。

「くぅ……もういい、風呂でもどこでも行っちまえ!」

「そんないじけないでよ。すぐ戻ってくるんだから」

「そうよ。二、三十分チョロっと浴びてくるだけじゃない」

「ランドリー寄るから、洗い物あるなら持ってくけど」

 なだめるように言われて、柚月はムスッとしたまま巫女装束を脱ぎ捨てると、大ぶりなレジ袋に下着類とともに乱雑に突っ込んでよこした。吠えかからんとする彼女から逃げるように、四人は小走りで消えた。

「仲良いのね」

 烏丸スバルは遠巻きに笑っていた。

 どうだかね、と柚月は照れ臭そうに言いながら、クーラーボックスから取り出した栄養ドリンクをひと息で飲み干した。

 ほどなくして例のごとく引取人がやって来て──今回は白衣の神主たちだった──怪異の結晶を輿(こし)の上にのせて、烏帽子をかぶった男が前後を担ぎ、その周囲を十人ほどが隊列を組んで行進する。

 平日の午前、アスファルトの街に陽炎のような純白の集団は、そこだけ時代が千年ほど逆行したかのように荘厳で幻想的、かつ怪奇であった。

 遠巻きにその列を見送る佐竹巡査は「ありゃなんだ?」と、となりの原田巡査に耳打ちする。

「あれは……きっと神さまの引っ越しだろう。伊勢の式年遷宮みたいな」

「ほんとうに?」

「でなきゃ、あんな物々しい行進しないだろう」

 二人の若い巡査たちが、そう言って疑問を飲み込んだのも無理はない。

 誰しも自分の住んでいる地域を──地図くらいは見たとしても──風俗のすべてを把握してはいないし、大体はある程度の深さで引き返すだろう。古い文献や考古資料まで掘り返して解き明かそうとする猛者はひと握りである。

 とくに、光の速さで寄せては返す、時代の波(トレンド)を夢中で追いかけているあいだは。──

 

 町の銭湯・横勢温泉にて。

 脱衣所のロッカーのまえで上着を脱ごうと手をかけた紗世が、ふと左隣りから圧を感じて目を向けると、

「あっ」

 昨夜こっぴどく説教を浴びせてきた警察官が──さすがに私服だったが──箱四つほど離れたところから同じようにこちらを見ていた。浅見由衣巡査部長の目もとは(たる)んで、寝不足気味なのが離れて距離からでも……というより、離れた距離からのほうがよくわかる。

 浅見も紗世も、お互いに会釈をして、やがてなんとなく居た堪れなくなった紗世が、

「おつかれさまです」

 と、言ったが、一夜のことを思い出して、もしかして嫌味と捉えられやしないかと、言ったあとでヒヤッとした。

「ええ、どうも……」

 浅見は憮然として、

「誰かさんが夜中に焚き火したせいでね。仮眠も出来ずに、だいぶ長引いちゃったわ」

 本当は浄胤和尚の言い訳の裏を取るために朝から更地や役所を西に東に奔走したせいだが、骨折り損を打ち明けるほど親しい間柄でもないから、浅見は言わない。

「そっちも、どうやら夜更かししたようね」

「まあ、なにかと忙しいですから……」

 まさか妖怪退治のことなんて白状するわけないから、お互い大した話題も思い浮かばず、浅見は早々に浴場へ向かった。

 ため息をついた紗世を、遅れてやって来た瑞穂が「どうした」と声をかけた。紗世が警察官のことを話すと、彼女も同じようにウウンと眉をひそめた。

「どうする、帰る?」

「余計に怪しまれるよ」

 浴場と脱衣所はすりガラスで仕切られていて顔までは見えなくとも二人のシルエットは十分見えるはずだ。執念深い巡査部長のことだから、紗世と立ちならぶ瑞穂の存在にガラス越しに気付いているに違いない。

 ──別に逮捕されたわけでも、悪いことをしているわけでもないから堂々としていれば良いのだが、そんな振る舞いが出来るほど肝のすわった二人ではなかった。

 女湯の暖簾をくぐろうとした双子を、瑞穂が手で制した。

双子(ふたり)には他人のふりをして、すこし間をあけて入ってもらおう」

 そうね。と言いながら、紗世は服を脱いだ。

「もう行かないと怪しまれる」

「まったく。喧嘩っ早いのが来てなくて良かったわ」

 瑞穂も小さく笑いながら脱衣して、二人は浴場のサッシを開けた。浅見は一番端の鏡のまえに座って髪を洗っていた。

「…………」

「…………」

「…………」

 ここは銭湯で、三人とも素っ裸なのに、取調べ室みたいな空気が流れているのは紗世と瑞穂の思い過ごしに違いないが、実際二人の喉は湯気の立ち込める室内に反してカラカラに渇ききっていた。

 三人が同じ湯船に浸かった頃、双子の姉妹が浴場に入ってきて、なんとなく雰囲気が和らいだのは僥倖(ぎょうこう)だった。そのおかげかどうかはわからないが、湯船のきわに片腕を置いてくつろいでいた浅見がすうすうと寝息を立て初めた。

 並んで浸かる紗世と瑞穂は、ようやく肩の力を抜いた。

「ハァ、しばらく出られそうにないや……柚月には悪いけど」



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その十七

 多恵はベッドに仰向けになったまま診療所の天井を見上げていた。

 外看板の人工的な白い光がブラインドカーテンの隙間から斜めに差し込んで部屋は仄暗い。壁にかかった時計の針は“八時”のかたちになろうとしているようにみえる。

 ──わたし、どうして寝てるのかしら。

 多恵は巫女装束のままだった。無意識に首すじを触ると四角い絆創膏が貼ってあって、彼女は思い出した。

 夜導怪・雀女を誘導して爆炎に包み、首尾よく怪異を捕らえたと思いきや何者かに背後から首根っこをつかまれて、身体の自由と意識を失ったのだった。──と、自分で整理できる記憶はそこまでで、では今はその夜なのか、翌日か、それ以降かは分からない。

 わからないながらも多恵はベッドを抜けて部屋を出た。

 ふと廊下の窓の外をみると、夜の暗闇のなかで煌々とひかる丁字路の街灯のしたを銀色の雨の雫が斜めにいくつも走っていた。夜がくると彼女は自然に警戒せざるを得ない。

 たしかこの診療所には老齢の主治医と、壮齢の看護師が七、八人ほどいたはずだが、医者も患者も人ッ子ひとり姿が見えない。待合室から受付、診察室にいたるまでしっかり電灯が光っていて、真っ白な受付カウンターには書きかけの書類と今しがたまで使っていたであろうボールペンが転がっているのに。

「………」

 無意識に多恵は息をひそめていた。

 "イヤな気配"という曖昧な感情を「きっと気のせいか」と即座に否定できないのは梓巫女たちの(さが)なのかも知れない。とくに夜の帳が下りたあとは。

 手元に神楽鈴はない。

 このまま待機していれば──忘れられてさえいなければ──仲間が迎えに来てくれそうな気はするが、それがいつになるかはわからない。

 スマホも廃寺か車に置いてきたはずである。受付カウンターにある固定電話が目に止まって、巫女の誰かと連絡を取れないだろうかとも考えたが、それよりなにより、多恵にはこの清潔で無音な空間のどこかから発せられる、破壊的なまでの圧力(プレッシャー)に耐えられなかった。要するに怖かったのである。

 そして、こちらが物音ひとつ立てれば襲いかかってきそうな殺伐とした空気の正体はすぐに現れた。

 早足で出口へ向かった多恵をよそに、壁にかけられた仕掛け時計のオルゴールが「イッツ・ア・スモールワールド」を奏でて午後八時を知らせた。

「あっ──!」

 意識が音楽のほうに取られたほんの一瞬、多恵は前のめりに転んでいた。柔らかく生温かいものを踏んだ。

 なぜ、そしていつからそこにいたのか、それは足もとに()()()を巻く体長二十センチほどの細く小さな白蛇であった。

 驚いたのも束の間、待ち伏せていたかのように待合室のベンチの下からわらわらと同様の色ツヤをした十数匹が現れて、彼女に殺到した。

 爬虫類に対して苦手意識はさほどないと自負していた多恵も、くねくね左右に乱れながら、黒曜石みたいな眼を左右につけた頭だけはまっすぐこちらを捕捉して向かってくる白い群れには生理的な嫌悪感と危機感を覚えて、ひいっ、と悲鳴をあげた。

 踏みつけたばかりの一匹も、お返しとばかりに牙を剥いて彼女の胸もとに飛びかかった。

 ──その瞬間、多恵のからだの表面を青白い稲妻がうすく走って、白蛇は天井ちかくまで跳ねあがり、炭のように砕け散った。消し炭を浴びた白蛇の群れは踵を返して物陰へと逃げていった。

 突然のことに多恵は呆然として、

「だ、誰かいるの?」

 てっきり仲間の誰かが来てくれたものと思って声をかけたが、どこからも返事はなかった。

「じゃあ、いまのは……」

 なにが起こったのか訳もわからず、ただ飛びかかってきた白蛇が消滅したところをみるにアレが現世のものでないことに間違いはなさそうだから、彼女は震える口をきゅっと結んで起き上がり、無我夢中で出口に走った。

 ──なにはともあれ、みんなのところへ帰るしかない。

 外に飛び出すと雨にけぶる道路の真ん中に四つの白い人影があった。

「先生!」

 それは診療所に勤めている医師と看護婦だった。何度か顔を見合わせた仲だから多恵はすこしホッとして、そちらに小走りに駆け寄った。

「どうされたんですか、先生、皆さんも……」

 多恵の問いかけに返事はなかった。

 聞きたいことは──白蛇のことはひとまず伏せておくとして──色々あったが、横並びの四人は傘もささず、白衣の色が変わるほどに雨水を滴らせているのにギョッとして、多恵の足は止まった。

 無表情で虚空を見つめていた目が多恵にとまると、彼らは無言でにじり寄ってきた。距離を詰められると反射的に彼女も後ずさりした。

 ハッとして振り返ると、背後にも四人の白衣を濡らした看護師が立っていて、ようやく彼女は自分が囲まれていることを知った。

「ちょ、ちょっと、どうしちゃったの!」

 たまらず診療所とは反対側へ駆け出した。八人が追う。

 周囲には同じようなクリニックや郵便局、営業所とその倉庫が点在するだけで、あとは農地か空き地であり、人の居るような建物はない。

 ──電話で連絡するべきだったのかな。

 いつしか街灯の届かない野っ原まで来てしまっていた。

 八つの影はフラフラと多恵のあとを追ってきていた。雨に打たれようが足をとられて転ぼうが、頭はつねに多恵のほうを向いていて、その姿はどこか蛇に似ていた。

 しかし、足袋と草履の多恵に対して、かかとを固定したナースシューズのほうが分があったとみえて──比較的若い看護師などはすぐに多恵に追いついて、一人に腕をとられると続けざまに二人、三人と他の手足にからみついて、たちまち彼女は濡れた地面に組み伏せられた。

「痛いッ」 

 全身にのしかかる白衣の集団の、十六の虚ろな瞳が多恵を見下ろしていた。

「ま、まって──」

 看護師のひとりの両腕が彼女の首にのびた。──多恵が肝を冷やしたその瞬間、グォッ!と看護師は顔に似合わぬ野太い悲鳴をあげて、両手に湯気を引きながら飛び退いていた。

「?」

 七人は顔を見合わせて、次に、その視線は多恵の首すじの絆創膏に注がれた。遠慮なく引き剥がすと、その下には、地肌に描かれた五芒星(スター)のマークがあった。

 ──これは、"大事をとって"多恵を診療所へ送った紗世が、やはり"大事を取って"ひそかに多恵に施したものであった。魔除けの五芒星は──多恵自身の霊力も相まって──強力なバリアとなって白蛇と看護師の手を焼いた。

 かといって、まさか紗世も診療所の職員たちが多恵を押さえつける事態は予期出来なかったとみえて、五芒星の効果は極めて限定的で、現に()()()()()ほかの七人は無傷のままである。一人を撃退したところで多勢に無勢なのは変わらない。

「…………」

 なにやら思案した老齢の医者が立ち上がって、片方の靴と靴下を脱ぎはじめた。足もとの細かい砂利や濡れた土を脱いだばかりの靴下に詰めていって、先端を絞ると、俗にスラッパーやブラックジャックなどと呼ばれる拳大の鈍器を完成させた。

 多恵を手にかけることが目的なら、靴下やストッキングで絞殺すればいいのではないかと思われるが、首の魔除けの結界を警戒するあまり老医者は鈍器による撲殺を選択したのである。

 ──まさか医者の手で人生の幕が下ろされるとは。よりによって雨に濡れた爺サマの靴下で!

「冗談じゃないッ!」

 多恵の悲痛な叫びは、雨のけぶる夜闇にむなしくかき消された。

 医者が鈍器を振り上げた。──と、その右手を背後から掴まれて彼は仰向けに地面を転がった。何事かと顔を上げた七人が見たのは、暗闇に立つ黄色いレインコートを着た何者かだった。

 馬乗りになって多恵の手足をおさえる二人をのぞいて、五人の看護師がそちらにおどりかかった。その何者かはコートの裾をひるがえしながら殺到する彼女達を闘牛士のように()()()、すれ違いざまに左手に持った竿状のもの──艶光る黒鞘で腹や首まわりをトンと叩くと、いずれも憑きものが落ちたように崩折れていく。

 さらには残るふたりも、いつなにをされたのか、多恵が気付いたころには地面に突っ伏していた。

「大丈夫ですか、多恵さん」

 フードをめくって秋山凜子が顔をみせた。

「──後ろに!」

 多恵が言うよりはやく、凜子が流れるように背後へ抜き払った。そこには靴下スラッパーを振り下ろす老医者がいた。

 石切兼光の刃が布地を断ち、砂利の詰まった足先部分がどこか遠くへ飛んでいった。がら空きの腹を左に持った鞘でドッと小突くと、老医者は「うぐぅ」と、くぐもった声を漏らして膝をついた。

「……ど、どうなってるの?」

 多恵は起き上がり、周囲を見回した。横たわる八人は苦しそうに肩を上下させている。

「すこしばかり()()()()()だけです」

 口から粘液を垂らして嗚咽の極まった彼らは、突如として喉奥から()()()()の絡みあったような塊を吐き出した。濡れひかる一本の白蛇が地面にのたうっていた。

 ──秋山凜子は黒鞘による打突を通して自身の対魔粒子を医師たちの体内に流し、その霊的ショックによって寄生した蛇を引きずり出したのである。特異な波動を注入された()()()()()()()は全身の細胞の驚愕反応に、たちまち意識を失うことも珍しくはないだろう。

 その場で凜子が刀身をピュッと振るうと、八匹の蛇は突風に吹かれたように一斉に宙を舞い、頭を刎ねられ霧散した。

「急いで運びましょう。誰かに見られたら大変だ」

 納刀した凜子は八人の状態を確認してまわった。

「そ、そうね……」

 と、うなずいた多恵が、いちばん近くにいる老医者を抱きかかえようと手を伸ばした瞬間、目の前の秋山凜子が一人を抱えて、その場から消えた。

「ひえっ」

「おっと、失礼」

 ふたたび現れた凜子は、多恵の自分をみる表情に苦笑いした。

 彼女は看護師を背負って、ライターの火を点けたり消したりするように何度も“跳躍”してみせた。

「聞きそびれてたけど、どこか怪我はありませんか?」

 最後の一人になった多恵に凜子がたずねた。

「……さっき転んで、右足を若干くじいたかも」

「歩けますか?」

 立ち上がろうとして多恵はよろめいた。手足を押さえつけられたとき足首を変な方向に捻ったらしい。

 そんな彼女に凜子は肩をかして「では行きますよ」と言った。

「え、さっきのやつ、やるの?」

 多恵はあわてた。

「嫌ですか」

「嫌……とかじゃないけど、心の準備が」

「準備なんて要りませんよ」

「そうだけど。──」

 言葉に詰まった直後、多恵の視界が目眩(めまい)をおこしたようにグルリと回転して、次の瞬間には診療所の正面に尻もちをついていた。

 真横にいる凜子に「着きましたよ」と言われて、ようやく彼女はギャッと悲鳴をあげた。

 ──秋山凜子の空遁術を知らなければ、彼女が混乱するのも無理はない。

 これまでの怪奇現象はすべて梓巫女と怪異の関係するものだと思えばこそ己に納得させることができた。が、秋山凜子と名乗る──間近で顔を覗きこむと清廉な少女にも、円熟した大人にもみえる──目の前の彼女の行動は、瞬間移動といい、凄まじい剣さばきといい、どうにも思考が追いつかない。

 多恵は全身が総毛立つのを禁じ得なかった。

 凜子の驚異的かつ超常的な身体能力に圧倒されるとともに、妖怪退治において、これほど頼もしい味方もいないと思った。

 かなり今更の話ではあるが。──

 

 診療所の軒下には、凜子の運んだ八人と烏丸スバルがいた。

 二人の着地する音に振り向いたスバルは、

「多恵さん、無事でよかった!」

 と、目を輝かせた。

「奥で寝てたはずなのに居なかったから、だいぶ焦ったわ」

「みんなは大丈夫?」

「ええ、せっせとやってる」

 スバルは顎でその方を指した。

 入り口のガラス戸越しに、診療所の各部屋を(かね)と鈴を打ち鳴らしてまわる紗世と柚月の姿があった。

 悪霊退散の儀式には違いなさそうだが、どうにも季節外れのハロウィンにしか見えないのは、彼女たちが巫女装束ではなく夏の夜らしい軽装にテカテカした安物の雨ガッパを羽織っただけのラフな姿だからだろう。

 その姿をみて、思い出したように多恵は唐突に言った。

「そうだ、雀女(すずめ)はどうしたの?」

 聞かれて、スバルと凜子は、しばし沈黙したあと、

「昨日のことは話すと長くなりますから、あとで」

 と、お茶を濁した。

 多恵も曖昧にうなずいてみせたが、すぐに、

「──昨日?……今日は何日?」

「今日は、十三日の日曜日」

「え」

「昨日の夜から今まで丸一日、この診療所で休んでいたことになりますね」

 多恵は目を丸くした。

「そうだったのね」

 雨のなかを走り回った挙句、青草と泥にまみれた巫女装束を披露してみせた。

「……いい休息にはなったと思う」

 梓巫女の“臨検”の終わった診療所に八人を搬入し、手分けしてベッドやベンチに寝かせた頃には、多恵も紗世から受け取った服に着替えて、汚れた巫女装束は袋に詰め込んでいた。

「ハァ、お風呂入りたいわ。団子屋も無断欠勤しちゃったし、もう散々よ」

 と、多恵は心底うんざりそうに言った。

「あの白蛇、また来るかしら」

「そりゃ来るだろうな」

 言いながら柚月は、腰のポシェットから紙テープのロールを取り出した。

「日の出までなら、こんなもんかな」

 適当な長さに千切ったそれに彼女が端からをプッと息を吹きかけると、テープは吹かれたほうから一直線に膨れてあがって五十センチほどの蛇に変化した。

「へえ、番犬ならぬ番蛇ね」

「蛇の道は蛇、ってやつよ」

 柚月はあと三枚、同じものに息吹を注入した。四匹の紙細工の蛇は作り物とは思えない滑らかさで蛇行しながら物陰へと散っていくのを、烏丸スバルは感心ながら見送った。



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その十八

 診療所からの帰り道、多恵は自身の眠っていた間のことを他の四人に尋ねた。

 蛾の怪異を封じた直後、多恵がヤモリの怪異に拐われたこと、紗世と瑞穂が警察に連行されたこと、松永蔵人が多恵の行方を単身追って怪異と相討ちになったこと、捕えた雀女は夜明けとともに逃走したこと。──

「そう、あの人、死んじゃったのね」

 訃報を受けた多恵はつぶやいて、それっきり黙り込んだ。

「松永さんのことで感傷的(センチ)になることはないのよ、多恵さん」

 その様子を察してか、前を歩く烏丸スバルは振り向くことなく言った。

「松永さんは自分と巫女とを天秤にかけて判断したまでのこと。……美談にするつもりは毛頭ないけど、それでも自分の最期を選択できたのは私たちの業界では幸運なことよ」

「そうなのかな」

「私たちの大半は目的を達成するために弾丸のように消費されていく。それでも無駄な死はひとつもなかった。あとに残った者がそうさせなかった。──雨粒は地面に消えても、風に運ばれ雲に乗り、いずれはふたたび地を打つ雫になる」

 感傷的になることはない。と言いながら、スバル本人がそんなことを臆面もなく言う。

 死生観はともかくとして実態のわからぬまま怪異に打ち負かされた不二典親のことがあるから、スバルにはより一層こたえる日々なのだろう。……と、最後尾で()()()()をつとめる凜子は思った。

「そう、なのかもね」

 うなずいた多恵だが、その表情から憂いの色が消えることはなかった。

 冷たい雨にけぶる町を並んではしる五つの影は、新盆にあらわれた幻影のように見えた。

 

 一方そのころ、廃寺は深刻な事態に陥っていた。

 障子もガラス戸もない吹きさらしで、夕涼みには丁度いいと笑っていられたのは昨日までの話で、虫食いまみれの古びたお堂に夏の雨は断続的に降りそそいで、雨漏りどころではなく、もはや浸水ともいうべき惨状である。

 留守番している双子姉妹と瑞穂は、とうとうお堂のなかには居られなくなった。全員の荷物や食糧を入れたスーツケースやボックス等をまとめてブルーシートに包み、ひとまずは境内の隅にある手水舎(ちょうずや)の屋根の下に安置しておいて、自分たちもその近くに二人用のテントを張って、身を寄せて雨風をしのいでいた。手水舎は大きく茂った一本杉の下にあるので小雨くらいには勢いが弱まる。

「あのオンボロ、潰れちゃうんじゃないの」

 と、ちょっとした滝のように水を滴らせる廃寺を眺めながら乃愛はつぶやいた。

「潰れてくれたらそのほうがマシよ。浄胤(じいさま)にホテルでも旅館でも取らせたら良いんだわ」

「そうか、アタシらでぶっ壊せばいいんだよ。──瑞穂ちゃん、長巻(それ)でさ、柱の一本にでも切り込み入れてきてよ」

 瑞穂のそばにおいてあるものを指差して乃愛は言った。

「捕まったらどうすんのよ、器物損壊ってやつでさぁ」

「わかりゃしないでしょうよ、あんな廃墟。むしろ感謝されるかもよ」

「あたしが捕まったら、アンタたち一緒に自首してくれる?」

「なんで」

 双子はそろって首を横に振った。

「高校までは無事に卒業しときたい」

「薄情ねぇ、この子たちは」

 呆れたようにため息を吐きつつ、でも拠点がなくなればもっと良い場所に移れるかもしれないと、いい加減うだるような暑さと蚊の多さにうんざりしていた瑞穂は、ちょっと本気で長巻を左手にテントの外に出た。

 遠目でみる廃寺は、醤油に漬けた割り箸で組んだのかと思うくらい真っ黒だった。居住には不向きだとひと目でわかる体たらくで、隠れ家に提案した浄胤和尚が布団に大の字で寝ているのを想像すると途端に憎たらしくなってくる。

 ──と、老人の顔を思い出したのと同時に、昼過ぎに神社の人間から芋羊羹の差し入れがあって、その残りがあるのを思い出した。

「ねえ、いまのうちに甘い物でも食べとかない?」

 テントのほうを振り返った瑞穂は、その奥の暗闇の、スギの高木の幹の模様がわずかに動いたのを見た。

「?」

 樹木の模様かと思ったそれは、植物にしては妙に艶かしい光沢と規則的な模様があって、それが鱗を生やした生き物だとわかったとき、ようやく彼女は、積み重なった重機のタイヤみたいな蛇腹がスギの幹に絡みついているのだと知った。

 ハッとして鞘を取っ払った瑞穂の頭上には夜空より漆黒の空洞があった。枝葉のあいだから飛び出した蛇の頭部が音もなく大口を開けて降りてきていた。

「──いまのなに?」

 地響きに驚いた姉妹が外をのぞいたとき、目の前には、巨大な蛇の上顎と下顎のあいだで口を閉じられまいと長巻を縦に突っぱらせる瑞穂の姿があった。

「な、なにしてんの!」

「見りゃわかんでしょ!」

 あきらかに雨ではない粘液を頭からかぶりながら瑞穂は叫んだ。

 長巻の刃は上顎の裏から左眼を貫き、縦長の瞳孔から鮮血を溢れさせて、スギの木に絡みついていた大蛇は唸りをあげて境内をのたうちまわった。暗がりで全体を捉えることは難しいが、電車一両半から二両ほどはありそうな巨体にモザイクタイルみたいな鱗を並べたそれが怪異でなくて一体何であろうか!

 双子は弓をとってテントの外に出た。二人が引き絞った弦を放つと大蛇の体表を火花に似た青白い閃光が何度もはじけた。──いや、細かく飛び散ったのは陶磁器みたいな鱗だけで、本体にはまるで効果がない。

「あっ、鱗が!」

 唯愛が叫んだ。地面に散った鱗の破片は形を変えて細長い白蛇になり、秩序ない動きで距離を詰めてくる。

 霊気の矢が鱗を打ち壊したというより、大蛇のほうから鱗を脱いで矢の侵入を邪魔したように見えた。──現代の戦車が砲弾への防衛策として反応装甲(リアクティブアーマー)を施すように、としたら、遠巻きに牽制したところで事態を悪化させるだけかも知れない。と、唯愛は思った。

 双子はやむなく地面を這う白蛇たちを狙いはじめた。幸いにもこちらはシラスみたいに細く、霊気の矢を受けるとたちまち四散するほどに弱々しかった。

 そのうち大蛇は顎を持ち上げて、蠕動する真紅の喉奥がガッポリ開いた。真上にいる瑞穂は両足も踏ん張って長巻の柄をいっそう強く握りしめた。横目に一本杉の頂点がみえる。長巻は突っ張って引き抜けない。自身が飛び退くにも高すぎるし、むざむざ丸呑みされるわけにもいかない。

「このバカダイショウ、()()になりたいのっ」

「そのまえにお前が胃の中じゃ」

 瑞穂の挑発に応えたのは、真っ黒な喉奥から逆流してきた濡れ白髪の老婆だった。

「巫女の血肉、吸い尽くしてくれようぞ!」

 老婆の枯れ枝みたいな両手が瑞穂のからだに伸びる。

 万事休す!──と、誰もが思った。

 直後、長巻を握りしめた瑞穂は境内の外の、斜面に群生する松の木の枝に引っ掛かっていた。

「……あれ?」

 呆然とする瑞穂だが、地上にいた姉妹はその一部始終を見ていた。──雨筋を裂く矢のように飛来した(とび)のハヤテが、彼女の背中をガッと掴んで、そのまま横っ飛びに大蛇の口内からさらっていくのを。

 いや、実際に目にしたとして、飛行能力のために余分なものを極力削ぎ落としてきた身軽な鳥類が、人ひとりを鷲掴みにしたままどうして滑空できようか。そんな妙技を可能にしたのもハヤテが対魔忍に訓練された忍鳥だからに他ならないが、巫女姉妹には永遠に謎として記憶されるだろう。

 油揚げをさらわれる。という慣用句そのままに、獲物を横取りされた大蛇は頭を右往左往させていて、そこに再びハヤテが足のかぎ爪を、蛇の死角である左側面から大きな目玉に食い込ませた。

「ギャオ」と、なぜか蛇の口からは女の金切り声がした。

 数百倍の体格差をものともせず大蛇と鳶は、ほぼ互角の攻防をみせた。というのも、大蛇はとぐろを巻いて威嚇しながら、尾を薙ぎつけるか噛みつくのが精一杯で、対する小柄なハヤテは屋根に枝に境内を飛びまわったかと思えば、傷付いた眼をかすめるように旋回し、大蛇をあおるのである。

 さながら、五条大橋の真ん中で薙刀を振るう弁慶と、欄干の上を舞う牛若丸のようであった。

 そのうちに、石段のほうから複数人の駆け上がってくる音が聞こえてくると、大蛇はお堂の一部とその裏手に並び立つ木々を破壊しながら境内を脱出して、土石流のように丘を下っていった。

「ど、どこに行った!」

 反対の斜面から瑞穂が、びしょ濡れの全身にいくつも松の葉をはりつかせて登ってきた。石段のきわに立ったレインコートの集団──紗世と柚月、多恵、そしてスバルと凜子は荒れ果てた境内を見渡して理解した。

「今夜の相手は青白いマムシと、掘削機(シールドマシン)てか?」

 廃堂の片側が大きく半円形にえぐれて、残された薄っぺらい戸板が風に吹かれるや否や、柱や梁がメキメキと限界を告げる音をたてて、重たげな屋根は濡れ瓦をこぼしながら四分の一ほどが崩落した。

 凜子があとを追うと、アスファルトの地面にべっとり土や枝のついた痕跡がある。それはしばらく道なりに続いて、柵を破って田畑を無理矢理に突っ切り、数十メートル先の河川のふちで途切れていた。

「上流に逃げたか……」

 

 ──土と埃とカビの混じったにおいが立ち込める境内に、町役場の土木課の職員と、紺色の雨ガッパを重ねた巡査数人が到着したのは、そこから十分ほど経ってからのことである。通報したのは廃寺の崩落音を聞いた近所の老夫婦であった。

 石畳は割れ、お堂は大きく傾き、裏手にある林はそこだけ台風が通過したように大木が中ほどでへし折れて、土砂の一部は道路に流れていた。周囲を巡回しつつ状況を見てまわった一同は言葉もなかった。

「こりゃ、イノシシかクマの仕業ですか?」

 さぁ、と老夫婦は顔を見合わせた。もとより通報した本人たちも現場を目撃したわけではないから何も言えない。

「もとから廃墟同然だったし、罰当たりな気もして普段から誰も近付かんのよ」

「それにしては妙に小綺麗ですね」

 枯れた手水舎に一片の落ち葉もないところを見てとった巡査のひとりがつぶやいた。

 不審者や見慣れない車両はありませんでしたか。という問いにも老夫婦は首をかしげて、

「そう言われても、そういうつもりで覗き見することはようせんからねぇ」

「傷んでいた(はり)や柱が、雨のせいで根を上げたってところか」

「すると裏手の地すべりも雨によるところが大きそうですね」

 その場にいる全員がおおむね納得したのは、崩壊したのが無人になって久しい廃寺なのと、その隣にながれる同じく古びた雑木林だったからで、そこに魑魅魍魎の爪痕を見つけることは、まず不可能と言っていいだろう。

 巡査は帽子のつばをペチペチと打つ雨空を見上げた。

「そんな土砂降りってほどでもないけどなあ」



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その十九

 もとより梅雨明け宣言はおよそ一週間前に発表されていて、この日も前日の天気予報では快晴で、暑さも八月にむけて本格的になるだろうとされていた。

 しかし巨大な暗雲はS県西部を中心に、生ぬるい風雨を下界に渦巻かせている。

 駅近郊のファミリーレストランに入っていく浄胤和尚の姿があった。

 涼しげな甚平の上下に農作業用の長靴を履いて、雨水のしたたるビニール傘を傘立てにさした彼は店内を見渡し、ひときわ熱気のこもった一角に目がとまった。

 そこにいる女子集団──ふたつのボックス席に三人ずつ座った六人組は──会話の声もほぼ無く、ただ食器の無機質な音だけが不気味に響いていた。

 鉄板から音を立てるハンバーグにステーキ、半熟の卵黄とコショウのたっぷりのったカルボナーラ、分厚いウナギの蒲焼きのぐったり乗った丼メシを、立ちのぼる湯気に顔をつっこんで、ムッハムッハと無心にかきこむ姿は、ある種の狂気さえ感じさせるものがあった。

「ほっ、うまそうなもん食っとるのう」

 年老いた坊主が躊躇せず女の園へと入っていくのを、若いバイトの店員などは店内を往復するたびに二度三度と振り返ったりした。ふぞろいな不良女たちに老年の夜回り先生といった風態だったから、その点については大した疑問もないが、ケンカ騒ぎでも起こしやしないだろうかと警戒しているせいもある。

 よいしょ。と息を吐きながら斜め向かいの席に腰をおろした浄胤和尚は、彼を迎えてもなお食事を止めようとしない巫女たちを見渡してふっと笑った。

 なに?と、柚月が口まわりのソースを指で拭いながら彼を睨んだ。

「お前たちの食いっぷりは清々しいくらいに欲の塊よのう」

「缶詰と栄養ゼリーだけじゃ人は満たされないってことに気づきましたわ」

 紗世が言った。

「差し入れしただろう、お茶に煎餅、最中(もなか)……」

「あんな喉カラッカラになるの寄越すんじゃねーよ!」

求肥(ぎゅうひ)入りの良いやつでも?」

軽食(スナック)程度じゃ保たないって言ってんの」

 大事なのは塩と脂ね。──と、双子が熱々のステーキを前に感慨深そうに呟いた。

 六人の巫女はそれぞれ二、三品のメイン料理と複数のサイドメニューを頼んだようで、次から次へと料理が運ばれては入れ替わりに同じくらいの量の大小の皿が下げられていく。

「和尚さま、実は、拠点が崩壊しました」

 口の中にものを飲みこんだ多恵が思い出したように、ようやく言った。もとより浄胤和尚を呼び出したのは、このことを相談するためである。

「これからどうしましょう」

「うん、ここに来るついでに儂も見てきたところだ。空いてる場所はまだあるから、あとで追って案内させよう」

 和尚は取り乱すことなく言った。

「どうもイヤな湿っぽさのある夜だが、雨のせいだけではなかったか。相手はどんな奴だった?」

 と、たずねると、巫女たちは「人ひとり余裕で呑めそうな大蛇」だの「人に憑依する小さな白蛇」だのと、それぞれ遭遇した怪異の特徴を述べた。

 とくに一人だけ風呂上がりみたいに濡れ髪の瑞穂の恨み節は凄まじい。

「なるほど、ヘビか。……するとやはり(ぬれ)蛟龍(みずち)かのう」

 浄胤和尚は腕組みして言った。

「雨夜に出でて川をくだり、里にて人心を惑わす一匹の蛇ありけり……」

「なんて?」

「なに、ただのお伽噺よ」

 浄胤和尚はホッホッと老人らしく笑って、

「それより、すこし前に影森の橋楯(はしだて)堂から連絡があってのう」

「橋楯堂というのは、岩壁と鍾乳洞の足もとにある、あのお堂ですか」

「そうだ。その鍾乳洞の奥から奇妙な音がするという」

 浄胤和尚は語りはじめた。

 ──橋楯堂は、正式名称を石柳山(せきりゅうざん)橋楯堂といって、秩武地方に三十四ある札所のひとつである。

 雄大豪壮な武洸山(ぶこうさん)の西の麓、高さ七十メートルを超える石灰の岩壁を背に、江戸中期に建立された観音堂が禅僧のごとく鎮座している。

 夕暮れ時、戸締りに外へ出た橋楯堂の和尚は、木々の葉を揺らし岩壁をうつ大粒の雨と風に混じって、なにやら奇妙な音を聞いた。ズルズルと巨大なものを引きずるような、地の底でうごめく亡者たちの唸り声のような怪音が、岩山のどこかから地響きとともに伝わってきた。

 切り立った岩壁からは古代の土器や装飾品が発掘されるほか、雨水と地下水に数十万年かけて浸食された、木の根のように縦にのびる鍾乳洞がある。そこは考古資料や観光名所のほか寺宝を保管する奥之院としても大事にしてきた歴史があるから、橋楯堂の和尚は他人事ではいられなかった。

 はじめこそ近隣の採掘場が地盤を揺らしている所為ではないかと思ったものの、いつまでもその音は止むことはなく、むしろ時間が経つにつれて──夜が深くなるにつれて──読経にも呪詛にも似た、独特の抑揚を孕みつつあった。

 夕暮れから二時間あまり後、前代未聞の天変地異に辛抱たまらなくなった和尚は、かといって警察や消防に連絡するには心許なく、根拠にも欠けるので、()()()()()()の相談相手として実は真っ先に頭に浮かんでいた浄胤和尚へと連絡した。

「山鳴りというのは地震や噴火、不吉の前兆とも言われるからのう」

「それと私たちの相手した蛇と、なにか関係があるってこと?」

「所詮は迷信。そうかも知れないし、そうではないかも知れぬ。……といって、無視できないのは皆が承知のとおり」

 罠かもしれない。という疑問は当然ながら誰の頭にも過ぎったが、そのことを口に出すものはなかった。──すでに闘う覚悟を決めていたから……ということではなくて、若いバイトの店員が食後のデザートをもってやってきたからである。

「失礼します、マンゴーとイチジクのパフェでございます」

「あ、はい」

 紗世と多恵と乃愛が手をあげた。

「それと、白玉抹茶ぜんざいになります」

 唯月と瑞穂、唯愛が手をあげた。甘いものを前にすると彼女たちは再び無言になって、犬みたいに夢中で皿に向かいはじめた。

「あ、ちょっとお兄さん、熱いお茶をいただけるかな」

 浄胤がチョイチョイと手招きして店員に言った。

「お茶でしたら、ドリンクバーをご利用になりますか?」

「それって、お茶あるの?」

「ホットとアイス、両方ございますが」

「あ、そうなの、じゃあそれで」

 和尚が慣れない手つきで煎茶をいれたカップをもって戻ってくるうちに、梓巫女たちは消えていた。飲み食いした跡とおびただしい注文数を記した伝票を残して。

「やれやれ……夕立みたいに去っていきおった」

 浄胤和尚は苦笑いした。彼が呼び出されたのはこのときの為でもあった。まだ匂いと熱気の残るボックス席に茶をすする音が蕭々(しょうしょう)と流れた。

 



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その二十

 風雨にひかる街をはなれて西の山林へと移動する女子集団を後方から見届けるのは私服姿の佐竹巡査である。

 これは浅見巡査部長の密命を受けての行動だった。浅見は、いつかみたボヤ騒ぎの巫女たちと、その後に現れた和尚を名乗る老人に異様な執着をみせている。

 もとより彼女は、走り屋や交通違反者、酔っ払いにも物怖じせず、むしろ啖呵を切って相手を黙らせる女傑である。佐竹巡査は大胆さと冷静さに驚き、呆れつつ、どこか彼女に対して好感をもっていた。──その巡査部長が、あの巫女と老人には何かある、と言っている。彼は浅見の警察官としての勘に賭けた。

 さびれた丘の上にある廃寺の境内でテント生活をする女たちを見つけるのに半日もかからなかった。彼女たちの移動範囲は予想以上に小さかった。銭湯へ通い、コインランドリーを往復し、百貨店に寄り道したり、身なりを整えて学校や職場へ行った者もある。彼女たちは驚くほどに地元の人間であった。

 しかし、それも夕方までの話で、日が暮れてからはどうも様子がおかしい。

 夜、慌ただしく支度をして廃寺から何人かが出て行った。巡査部長へ具申して境内の監視を指示された佐竹巡査は、やがて奇妙な光景を目の当たりにした。朽ちたお堂と境内は──突風か地震か──柱が折れ、瓦が飛び、敷石が砕け、林の一部が激しく左右に揺れた。

 廃墟は総じて脆いものだから、それが壊れることには大した疑問はない。それより佐竹巡査がそら恐ろしかったのは、その前後に彼女たちが弓や模造刀を振り回し、叫び、乱舞し、まるでなにかと戦っているように境内や木々のあちこちを飛び跳ねはじめたことだ。

 悪ノリにしては()()()本気で、人気のない場所だけにその姿はただただ不気味だった。ちょうど昼間に白装束の奇妙な行列を目にしていた佐竹巡査には、これらの景色が奇妙な一致として頭の中に深々と刻まれた。

 呆気にとられているうちに残りの女たちも戻ってきて、万が一にも見つかったら何をされるかわからない、こっちは丸腰の一人だから、ひょっとすると口封じに消されるのでは……と思った佐竹巡査は、彼女たちがその場を立ち去るまで──近隣住民の通報を受けたパトカーの赤色灯のひかりを目にするまで、すぐそばの雑木林の真っ暗な茂みのなかで声を殺して潜んでいた。

 ──女たちは明らかにヤバい連中だ。住居侵入。器物損壊。藁人形を打ち付けでもしていたら脅迫の容疑も加わる。未成年らしき背格好の者もいた気がする。飲酒もしくは薬物使用の疑いも否定できない。

 素性を検める理由はいくらでも思いつくが、たとえいま彼女らを連行しても前回のように老いた和尚がひょこひょこやってきて──署のお偉方は、あの坊さんのなにが怖いのか──談合の末になかったことになるのは容易に想像できる。

 いま、ファミレスから飛び出した六人の女は、一台の軽バンに乗り入れて西へと走る。佐竹巡査は私用の四駆車で二百メートルほど距離をあけながら後を追う。

 曇天の夜にひときわ濃い影となって浮かぶ武洸(ぶこう)山は、兜をかぶった武将が腰をすえているように見えた。

 街灯の数が次第に減っていき、いつしか前方を照らすヘッドライトの光だけが頼りの漆黒の世界へと突入している。

 もうずいぶん行き来した地域なのに、こんな心細くなるような道がいままであっただろうか、と佐竹巡査が驚いたほどに、その日の夜道は異様に暗く、草木を揺らす風と雨の音も相まって森全体がざわめいているように感じた。

 ゆるやかな上り坂を右に左に曲がるたび『武洸山』『橋楯堂』『この先〇〇メートル』と書かれたいくつかの看板が電柱にくくり付けられているのが見える。

橋楯(はしだて)堂。……また寺か」

 ──とっくに閉まっているだろうに、この時間に何の用がある?

 路肩に車を停めた佐竹巡査は懐中電灯を片手に道を登っていく。道中、暗闇にも虫の声のやかましい駐車スペースには一台のみ、女たちの乗っていたオレンジの軽バンが無造作に停まっている。

 その車内を照らして無人なことを確認した佐竹巡査は、車体の下の、真っ黒な陰からニョロっと這い出てきた線虫状の物体を捉えた。

 それが世にも珍しいアルビノの蛇だと気付いて、彼が「うわ」と声をあげた瞬間、その白蛇はカエルのように彼の顔めがけて跳んだ。

 細く長い、ツルツルしたものが身をくねらせて入り込んでくる感覚と同時に、彼の意識は自身の奥底へと追いやられてしまった。

 

 同じ頃、市内の応援に駆けつけ、これから帰途に着こうとしていた浅見由衣の携帯電話に着信があった。佐竹巡査からである。

「──どうしたの?」

「あ、浅見さん。至急こちらへ、お願いします。大変です」

「大変って、なにが?」

「いま、橋楯堂の前です。武洸山の麓の。あの女たちもいます」

「間違いないのね?」

「ええ、車両も確認しました。とにかく急いで。──」

 取るものも取り敢えず、浅見はパトカーを走らせた。

 確たる証拠はないものの、浅見は、女子集団と老和尚、芦ヶ窪の車両事故、横勢町内の爆発騒ぎとは繋がっていると考えていた。そして今夜、同じく町にある小高い丘の上の廃寺に、ただの経年劣化では片付けられない不可思議な破壊の痕跡が刻まれた。

 すべて書類上は解決済みとされている、とるに足らない案件ばかりである。あるいは誰しもが人生の中に見つける珍事(ミステリー)の、ひとつやふたつに過ぎないのかもしれない。しかし、浅見由衣にとってこれほど気味の悪い七月はなかった。

 道中、佐竹の私用車らしき四駆を発見して、そこから浅見は徒歩で山道を登りはじめた。ほどなくして、オレンジの軽バンの停まる駐車スペースに出くわした彼女は周囲を見回しながら、

「竹っ、おたけっ」

 小声で呼びかけるも反応はない。

 不意に背筋をゾッとさせる冷風が吹いて、

「ひゃっ」

 と、柄にもなく肩をびくつかせて振り返ると、いつのまにか佐竹巡査が立っている。

「はっ。あ、あんた。──」

「浅見さん、女たちはあっちに」

 佐竹巡査は無表情で参道のほうを指差した。

「刀剣等を持ち込んで施設内へ侵入しようとしています」

「そ、そうなの……人数は?」

「ファミレスから軽に乗るまでは六人だったと思いますが、いまは七人か八人に。まだまだ増えるかもしれません」

「そう。もうすこし様子見して、応援を呼ぼうか。──」

 何食わぬ顔で数歩すすんだ浅見由衣は、その背後から佐竹巡査の両腕が伸びてきて、首元に絡みついてきたのに対処しきれない。

「ちょ、あんた、なにしてんのッ」

 突然の裸絞めに喉仏を潰され、眩暈(めまい)を覚えて、たまらず地面に突っ伏している。反撃の肘打ちを何度も仕掛けるがすべて空振りに終わり、あっけなく彼女は落ちた。

「………」

 雨に打たれる浅見由衣を見下ろす佐竹巡査の顔は生気を失ったかのように青白く、両眼は黒く塗り潰されていた。

 装備品の付いた彼女のベルトに彼の手が伸びる。──

 

 沙世、多恵、瑞穂の三人は橋楯(はしだて)堂の奥之院、鍾乳洞の入口のまえにいた。

 直前に白衣と緋袴の巫女装束に着替えたのは彼女たちの決意のあらわれであろうが、傘もささずにいるから髪も服も地肌にしっとり張り付いて、知らない人間が見たら鬼女か地縛霊と見間違えるのは必定である。

「この中にいるのは間違いないのね?」

「柚月の放したイヌが奥に入ってったから、恐らく。……なにも臭わなければ式神が動くわけないもの」

「本当に上手くいくんでしょうね。失敗したらこっちが袋のネズミじゃない」

 洞窟内は寺の和尚にお願いして照明を点けてもらったから、荒天の外界とは打って変わってずっと明るく、雑音もない。

 地球の原初を思わせる鍾乳石のトンネルを、手すりのついた鉄の階段が上へ続いている。

「これは、すごい」

 沙世はつぶやいたが、これは神秘的な光景に目をとられて漏らした感動のため息では決してない。

 ここはすでに大怪異の巣であった。不意をつかれて大口に呑み込まれる絵が容易に想像できてしまうほどに、──いや、もうすでにここがヘビの喉の内側で、自分たちは知らないうちに胃袋へと向かっているのではないか?とすら錯覚するほどに、幻妖な気に満ちている。

「立ち止まったりしてたら、こっちが先におかしくなるわ……」

 抜き身の長巻を八双に構えた瑞穂は、たまらず早足で階段を登ろうとする。

「待って、それこそ思う壺よ。──追い込まれているのはどちらか、いま分からせる!」

 多恵と沙世が、それぞれ右手に持った神楽鈴を振りはじめた。リャン、リャン、シャリラン──と、金属の澄んだ響きが、寄せてはかえす山吹色の波となって増幅を繰り返し、充満する邪気を祓う。

 と同時に、凄まじい圧迫感をはらんだ風が押し寄せてくる。

「なんてすごい視線」

「静かに……」

 霊力を受けて力尽きたか、それとも捨て身の特攻か、天井の()()()石から伝い落ちてくる数条の白線を長巻の刃が払いのける。攻防一体となった三人は階段を一段ずつ踏みしめて登り、あとには頭と胴を分離された白蛇たちの亡骸だけが残る。

 やがて、ズズズ……と洞内を揺さぶる低音がして三人は足を止めた。順路を示す照明の光がチカチカと点滅し、不気味な振動が足もとから伝わってくる。

「近い」

 瑞穂は片方の手で袴をたぐり寄せて固く絞ると、あふれ出る水を白刃にうつした。

「どこ?」

「わからない」

 なおも二人は鈴を鳴らし続けていて、小さな蛇などはもはや相手ではなかったが、洞窟を上へすすむにつれて緊張感だけは右肩上がりに高まっていく。

「………」

 周囲を見回していた沙世は、天井の岩盤の一部が外れて降ってきたように錯覚した。

「てえぇいッ」

 瑞穂が頭上を薙いだ。刃から飛んだ水滴が透明な(すじ)となって、タパパパッ──と、連続して岩肌を打った。

 水を刃に変える秘剣・白刃魚(しらうお)の軌跡に沿って奔騰する鮮血のしぶき。岩石の起伏の生み出す陰影の奥から現れたのは、視界いっぱいにひろがる大蛇の(あぎと)──!

「アオオォーッ」

 咄嗟にそろって身を伏せた三人の頭を特急快速のごとき夜導怪・(ぬれ)蛟龍(みずち)が、口の端から赤い尾を引きながら(かす)め過ぎる。

「ダメだ、斬るには厚すぎる」

 反撃の神楽鈴が怪異を地底から追い立てる。

 元来、蛇という生き物は耳の代わりに全身で振動を敏感に受け取るというから、鍾乳洞のなかで巨体が受け取る情報量は凄まじいものになるだろう。実際、濡蛟龍は三人のもとへ引き返して来ることはなく、そのまま外界を求めて上へと登っていく。

 前方から五、六匹の純白の狛犬たちが階段を駆け下り、一斉に飛びかかった。

 ──小賢しや!

 真っ向から対面する大蛇と犬の群れ。しかし体格差は歴然としていた。まさに隆車へ向かう蟷螂の斧、怪異が猛進する勢いに任せて大きく口を開き、それらをひと呑みに消し去ろうとしたのも頷ける。

 だから、その直径三、四メートルの肉色の空洞を激しい稲妻が射抜いたのに、当の濡蛟龍さえもしばらく理解が及ばなかった。濡れそぼる巨体の頭から尻尾まで、無数の赤い水泡が沸々と浮き上がり、膨れあがった全身はボワッと弾け飛んで血潮の吹雪となった。

 はるか上方──鍾乳洞を見下ろす位置に、残心の姿勢を保つ唯愛と乃愛の姿があった。



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その二十一

 四散した大蛇の血潮によって鍾乳洞の一区画は漆黒に塗りつぶされたようであった。むせかえる血肉の沼のなかに、のたうつ小さな塊がある。

 朱に染まった白髪頭をひたいと首筋に張りつかせた老婆が、海老反りになって、あばらの浮きでた平たい胸を無我夢中で掻きむしっている。──身体に突き立った()()()()()を掴んで引っぱり出すような動作にみえる。

 双子の放った霊気の矢は、大蛇の口から喉奥のひそむ老婆に見事的中した。矢を放ったあとで横並びにたたずむ二人は、内心、打ち震えるほどの感動を覚えていた。

 全身を覆う堅固な龍鱗に歯が立たないのなら、ただ一点、柔軟な口内器官をのみ狙う。──夜導怪・濡蛟龍(ぬれみずち)の大顎から間一髪逃れ、かつ体内にひそむ老婆の姿を認めた瑞穂が思いついた作戦だが、紗世や多恵からあまりにも無謀だと却下された。リベンジに燃える瑞穂が無茶をしそうで怖かったのだ。

 そこに縦長に伸びる鍾乳洞の傾斜を利用しようと提案したのは、弓使いの双子姉妹であった。遠くから体内に矢を届けるには、自分たちが相手より高い位置を確保しながら、相手が上方に向かって口を開く瞬間を狙うより他ない。

 桁外れに巨大な怪蛇の激流のように奔騰する姿を真正面に捉えながら、臆することなく弓の弦を弾いた二人の胆力は計り知れないものがある。── 

 狛犬たちが殺到し、枯れ枝のような手足や首にガブっと噛みついた。

「ぎゃっ」

 老婆に抵抗する間をも与えず、式神が全身を一枚の布に変化して巻きついた。──あっという間に低学年児ほどの大きさのミイラが完成した。

 鍾乳洞に静寂が戻った。

 入口から登ってきた三人と、出口から駆け下りてきた三人は合流した。

「みんな、怪我ないね?」

 六人は顔を見合わせてうなずいた。

「さて、これから(これ)を何処へ運べば良いのやら」

 柚月が頭を掻きながら言った。

 耳をすませば雨音がする。水に触れれば式神はたちまち溶けてしまうから、いま外に移すのは難しい。

「ここで焚くとか」

「流石にマズくない?」

「どうせあとで爺さまが口きいてくれるでしょ」

「まずは和尚さまに報告を」

「なんだ、圏外じゃん……」

 携帯をかざしながら、もと来た道を引き返そうとした乃愛は、うす闇の奥に人影を見た。

「あ──」

 それが何者かを確認するまえに、相手の手もとがカッと鋭い光を放ち、発砲音が鼓膜をするどく突いた。

 砕け散った液晶の破片とともに、乃愛のからだが階段を転がり落ちた。

「なにっ、──誰だ!」

 一瞬遅れて、巫女たちは階段から通路の左右に飛び退いていた。柚月の問いかけにその何者かは応えず、うすく湿った階段を降りてくるかたい靴底の音だけが近づいてくる。

「乃愛……乃愛っ」

 唯愛は通路に倒れる乃愛に向かって声をかけた。返事はない。周囲に散らばる黒いガラス片のようなものは弾丸に粉砕されたスマートフォンの液晶に他ならない。

「なにいまの。誰か見えた?」

「銃だよ、銃。ポリが憑かれたに違えねえ」

「制服着てないよ」

「幻覚じゃなくて?」

「じゃあ、どうして乃愛が倒れてんのさ」

 ──彼女たちは拳銃の音にすっかり怯えていた。

 もっとも危険で不気味な怪異とは何度も対峙してきた梓巫女ではあるが、非現実的で悪夢のようなそれらと違って、生身の人間から放たれた殺傷武器の咆哮は、現実に迫った恐怖となって彼女たちの肝を芯から冷やしたのである。

 乃愛はもとより、怪異を封じた繭も通路にそのままだから、怪異の息のかかった相手に渡すわけにはいかない。

「繭だけは絶対に手放すな。破られたらお終いだ」

 覚悟を決めたように五人は顔を見合わせた。

「よし、いいな。──ええい、行くぞ」

 深く息を吐き、袖の奥から紙玉を取りだした柚月は、岩陰から何者かへそれを投げつけた。

 硬球のような速度で真っ直ぐ進んだそれは、タイマーでも仕掛けてあるかのような正確さで、男の眼前で分裂し、十数の色とりどりの蝶になった。

 それは小さな色紙を重ね合わせた()()()の折り紙に柚月の霊力を吹き込んだものだが、眼前を飛び交う蝶の群れを男は苦々しげに振りはらい──その拍子にバォッ、と二発目の銃撃が、巫女たちの頭上をかすめ過ぎた。

「行け、走れ走れっ」

 巫女たちは一斉に階段を駆け下りた。それまで荷物然としていた白繭も、つきたての餅のように柔軟な四本の白い脚が生えてヨタヨタ歩き出した。

 突っ伏したままの乃愛のもとへ、いちばん近くにいた瑞穂が走った。瑞穂は、うつ伏せの乃愛を肩に乗せて両足の間に腕をまわし、垂れ下がる細腕を掴んだ。

 ──風呂敷みたいに乃愛を軽々と担ぎながら、右腕には刃の剥き出しの長巻、口に黒鞘を一文字に噛み締める瑞穂の姿は、必死の形相もあいまって、さながら生娘をひっさらう猛々しい鬼女であった。

 先頭をはしる繭犬と紗世が、鍾乳洞の入り口手前で立ち止まった。

 外はもう雨が止んでいた。しかし、狭い林道は長雨でぬかるみ、山肌を伝い流れる雨水は小川となって道を塞いでいる。さらには夜空をおおう高い樹木の枝葉からも不規則に大粒の雫が音を立てて落ちてくる。紙でできた犬にとってあまりに酷な環境だ。

「──乃愛ちゃんを先に。唯愛ちゃんも!」

 乃愛を担いだ瑞穂と唯愛が暗闇に駆け出していった。

 追いかけるように雷鳴が轟き、弾丸が風を裂いた。

 入れ違いに奥へと引き返えそうとする紗世は、薄明りの奥にひかえる多恵と柚月の後ろ姿と、そこからさらに数メートル奥にみえる下り坂を、亡霊のような足取りでやって来る──白い胡蝶の群れを目や鼻、首、手足の先までまとわりつかせた男の姿を認めた。

「誰か、撃たれたの?」

「いや……」

 三発目の銃撃は誰にも命中せず、暗闇にまぎれた。

 柚月のくす玉はたしかに目眩しとして有効だった。しかし、順路の誘導灯にそって設置された金属の手すりに左手を這わせながら、男は歩みを止めることなく、両者の距離は着実に縮まっている。

 三人の足はその場に縫いつけられたように動かない。男は音のするほうに素早く銃口を向けて彼女たちの位置を探っている。──レンコン状の弾倉がついたリボルバー銃が、いったい弾丸をあといくつ残しているのか、彼女たちには知る由もない。

「………」

 奇妙な静寂があった。

 男の右手がなにかを察したかのように動いて、撃鉄の起こされた銃は二、三メートル先にある柚月のこめかみをとらえた。──

「………」

 ウワーッ、と絶叫したのは男のほうであった。その右手に拳銃はなかった。三人は飛来した影を呆然と見送った。

 鍾乳洞内部を滑空し、風のように男の右手から拳銃をかすめ取った一羽の猛禽がある。──忍鳥ハヤテの足が、銃身と撃鉄のあいだに食いこんで暴発を防ぎつつ、もう片方のかぎ爪を男の手の甲に食い込ませたのだ。男の絶叫は予期せぬ痛みに対する反射的なものであった。

 同時に、男の背中に飛びついて羽交締めにしたのは、いつの間にそこにいたのか烏丸スバルだ。

 うくく、と息を詰まらせた男だが、スバルの両足が地面から浮くほど彼の余力は凄まじい。

「だりゃーッ」

 前方の三人も飛びかかった。多恵と紗世が手足に飛びつき男を転倒させ、その口に柚月が紙サイコロを挟んだ二本指を喉奥まで挿しこんだ。すぐに男が痙攣をはじめた。四人がかりの拘束でも地面から飛び上がらんばかりに全身を弾ませた。

「も、もう十分じゃない」

「まだまだッ」

 柚月は男の顎を両手で押さえて口が開かないように四苦八苦している。

 男の体内でなにが繰り広げられているのか、激しい痙攣が十秒ほど続いたあとで、男の瞳孔が上にひっくり返った。と、その途端──右の眼球が、筋繊維とつながったままツルっと()()()()。真っ黒な眼窩から細長いモノが、チンアナゴのように起立した。

「びゃっ」

 驚愕のあまり柚月は尻もちをついた。

 血潮に彩られながら現れたのは、お互いの喉もとに牙を立てた二匹の蛇であった。──半透明のモノと、ふやけた紙細工のモノとが、人体を縦横無尽にのたうちまわり、行き場を失った挙句、男の眼球を押しのけて噴出したのである!

「あれっ、絶対に逃すなッ」

 紗世が立ち上がり、右足を振り抜いた。もつれあう怪異と式神は、ゴルフのティーショットさながらの放物線を描いて、四散五裂、はるか頭上の石灰の岩壁に鮮やかな赤のシミを残した。──

 

 鍾乳洞から本堂まで戻ってきた瑞穂と唯愛の脚は、緩やかな傾斜のつづく参道の途中で止まった。

 石畳の敷かれた道の先、常夜灯の明かりのわずかに照らす薄闇のなかで対峙する大小二つの影があった。

 小さな影の正体は秋山凜子だった。小さいといっても大きな影が桁外れに大きいからそう見えるだけで、くわえてレインコートを羽織った彼女は、脚を広げて、やや腰を落とし静止している。対する大きな影──道のはずれの杉林から一本抜け出してきたかのような長身の影は、抜き身の一刀を上段に構えたまま微動だにしない怪異・笹浪である。

 瑞穂たちは石灯篭の陰に身を隠した。怪異に弓を向けようとした唯愛を「いけない」と、怪我人を背負ったままの瑞穂は小声で制した。

「あんなとこに割って入ってごらん、あっという間にみじん切りよ」

「いまさらなに言ってんの」

 そう言う唯愛の吐く息もかすかに震えている。

 笹浪の一刀が真っ直ぐに振り下ろされた。わずかなレインコートの断片を残して凜子の影は消えていた。彼女の身体は豪刀と入れ違いに高く舞いあがり、宙返りで裏にまわりつつ、笹浪のかぶる浪人笠へ唐竹割りに斬りつける。──

「ぬうっ」

 石切兼光が火花を散らし、凜子の体はすさまじい剣風にあおられ宙を泳いだ。

 ──死角から斬りつけたつもりが、この怪異にはそれがないかのようだ。

 ふたつの影は行きつ戻りつ銀光を引いて参道を乱舞する。巫女たちにはおよそ目で追うことも困難なほどの凄絶怒涛の剣戟である。

 参道の入り口にある「橋楯堂」と刻印された高さ三、四メートルほどの石標が、ちょうど「楯」の字のところを袈裟斬りにされて、上半分がズシンと地面に落ちた。その残骸をはさんで凜子と笹浪は動きを止めてふたたび対峙した。──遠く離れた唯愛の目が両者の姿をようやく捉えたのは、このときであった。

「……お見事」

 笹浪が満足そうに笑うと、()()の伸びきった浪人笠もさやさやと揺れた。

「女、お前やはり人間ではないな」

「さて、どうだろう」

 凜子は答えた。

「いいや、おれ達は似たもの同士。……お前は認めないだろうが、お前のそれは正直だ」

 笹浪は石切兼光の剣先を指した。向かいあう両者は鏡をはさんだ実体と虚像のようであった。

 草色の着流しを背中から霊気の矢が貫いた。

 おや、と笹浪は振り向いて、小さな巫女のすがたを発見すると、

蛟龍(みずち)(ばば)も逝ったか。……では、そろそろ退散するとしようか」

 と、平然として言った。唯愛の矢は腕と胴の隙間を通り抜けただけであった。

「また日暮れ時にでも逢おうぞ」

「今夜はもう終いか」

(たの)しみはとっておく。おれはお前が居てくれさえすればいい、秋山凜子──」

 刀をおさめた笹浪は道をはずれて、鬱蒼とした暗い森のなかへ紛れていった。

「梓巫女からは逃げられないんだろう」

「お前こそ、おれから逃げるなよ。ハハハ……」

 渋味のある男の声は遠ざかっていった。梓巫女たちのことは眼中にないかのような振る舞いだった。

 ふぅ。と息をついた秋山凜子はしばらく呆然とその場に突っ立っていたが、不意に背中を照らされた。

「動かないで!」

 懐中電灯の持ち主──浅見由衣が事の顛末をどこまで見ていたか……もとい、見えていたかはわからない。

 佐竹巡査に絞め落とされた後、雨上がりに意識を取り戻した彼女は混乱の極みにあった。

 ふらついた足どりで寺院の前までやって来て、そこに日本刀をぶら下げた見慣れない女を見つけるや否や、眼の色を変えて警戒をはじめたのは警察官の本能だったかもしれない。



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その二十二

 実際、多くの諜報活動がそうであるように、原則として対魔忍の存在が人目に触れるのは御法度である。

 相手は社会通念から逸脱した魑魅魍魎たちだから、その活動のほとんどが超法規的になるのも当然といえよう。

 万が一にも素性のバレないよう各地の“草”たちが偽装工作に余念が無いのは想像に難くないが。──

「腰にさげた物をはずして、足もとに置きなさい!」

 懐中電灯を左手に浅見由衣は相手に警告した。

 暗色のレインコートにパンツスタイル。足もとはスニーカー。──巫女装束こそ着けていないが、浅見巡査部長が凜子のことを例の巫女集団の一人だと思ったのも無理はない。

 怪しげな女は背中を向けているが、腰のあたりから細長いものがレインコートの端を押し上げており、形からして帯刀しているのは明らかである。橋楯堂の関係者だとしても改める必要は十分ある。

 それに、周囲に立ちこめる熱気──これは怪異と対魔忍との激しい剣戟の名残だが──これは荒事の現場に漂っている物々しい空気に似ていた。

「建造物侵入に銃刀法違反、他にもありそうね」

「………」

「いますぐ、言う通りに!」

 女は微動だにしない。

 わずかに刀の鞘がピクリと動いたのを見て、とっさに浅見由衣は腰のホルスターに手を伸ばした。そして固まった。

 このとき浅見の心は、あまりに予想外の出来事にまったくの空虚になった。──ホルスターのなかに収まっているはずのモノがない。ベルトに繋いだ盗難防止のランヤードこそ行儀よく入っているが、指先で手繰り寄せると、そのさきに付いているはずの拳銃がない!

 ──盗られた!いつ?私の伸びていたときに?……では、盗ったのは佐竹だとでも言うの?

 沸騰しそうな頭からサーっと血の気が引いていくのと同時に、胸の中央が激しく鼓動している。

「引き返せ」

 不意に耳もとに息を吹きかけられて浅見由衣はハッとした。

 目の前の女と自分以外に人の姿は見えないのに、右の耳穴を愛撫してくる女の吐息がある。──

 ありえない事が立て続けに起こると、流石に自分がどうにかなってしまったのではないか、という疑念に取り憑かれてしょうがない。

「来た道をまっすぐ戻れ」

 脅しているような説得しているような、底に響く女の声だ。

「な、なに言ってんの、いまさら帰るわけにいかないでしょ」

 浅見由衣は唇を戦慄かせながら、

「こちとら仕事でやってんのよ!」

 と、あろうことか空に向かって啖呵を切りはじめた。

 ──面倒な奴だな。

 言わずもがな、声の主は秋山凜子であった。いま彼女の空遁術は彼女自身の声を浅見由衣の後方へと跳躍させたのだ。

 死角から音を出すこの忍法スピーカーは──凜子は"雲雀笛(ひばりぶえ)"などと呼称しているが──もとは仲間同士の通話手段として確立された古典的なものだが、度々、陽動や騙し討ちとしても効力を発揮する。

 大抵の相手は反射的に声のするほうに注目するか、恐怖にかられて腰を抜かしたり、わき目も振らずに逃げ出したり、気絶する者もある。

 今回もちょっとした猫騙しのつもりに笛を吹いた。が、巡査部長は凜子の思った通りに動いてくれなかった。

 それどころか、なにかを察して眉をひそませて、

「……アンタ、()()()に何したの」

 と、凄みを帯びた声で言う。

 あいつとは恐らくスバルの見たという、怪異に憑かれた男のことだろう。お堂の奥の洞窟のなかで予想外の一悶着があったようだが、凜子は笹浪に道を塞がれてそれどころではなかったから、その男がいまどうなっているのか凜子は知らない。

「……男の身を案ずるなら尚のこと、これ以上は踏み込まないことだ」

「やっぱりそうか」

 この女、佐竹巡査のことを知っている。

 自分はその佐竹から不意打ちを食らったのだが、だからといって彼に裏切られた、とは思っておらず、むしろ上司として部下の安否を気にしはじめている浅見巡査部長である。

 巫女たちを尾行させたあとで合流してからの佐竹の変貌ぶりは異常だった。連絡を受けて駆けつけるまでに彼をおかしくしたのが彼女たちである可能性は濃厚だ。

 怪しげな巫女集団に加えて、これまた怪しい老和尚のことさえ脳裏に浮かんでくる。すると、ますますムカッ腹がたってきて浅見の眉間のシワがいっそう深くなる。

 ──佐竹巡査になにかあれば公務執行妨害で引っ括ってやる。

「部外者が首を突っ込むのは、あまり感心しない」

「ええ、ええ、なんとでも言いなさい。これから説明してもらうから」

 浅見由衣はベルトから警棒を取って伸ばした。

「いいわね?」

「………」

 何者もそれには応えず、どこかの(こずえ)が風に揺れる音だけが鳴った。風を切る音が頭上に流れて、それが鳥であることがわかる。

 ──が、その鳥が浅見の目の前になにか重たい塊を落とした。懐中電灯がそのほうを照らすと、真っ黒な金属の光沢が見えた。

 ハッとして反射的に浅見は近づいて、それを拾いあげていた。見間違えようのない、本来ならホルスターに収まっているはずの自分の拳銃であった。──しかし、どうして鳥が?

 と、考えていたのも束の間、顔に一陣の風が吹きつけられた。

「うっ!」

 背中を見せて沈黙していた女が、いつの間にすり寄って来ていて、ふぅ──っと、息を吹いたのだ。

 その際、口もとに寄せた手のひらから極微細な何かが飛散して、浅見の目鼻口を薄絹(ベール)をかぶせたように覆っている。 

 虚を突かれた浅見由衣が目を見開いて叫ぼうとしたが、ヒッ、ヒッ、と数回、喉仏を上下させると、それまで猛虎みたいだった彼女は嘘みたいに、瞳孔はトロンとひっくり返り、肩を落として膝をカクカク笑わせながら崩れ落ちていく。

「あっ」

 驚いたのは凜子のほうで、あわてて彼女を抱きとめた。

 夢見心地な巡査部長は目の焦点が定まらず、ぷっくりふくらんだ唇のあいだから悩ましげな吐息を漏らしている。

「……静流先生、いったい何を混ぜたんだ?」

 吹きつけた凜子自身がその効き目に圧倒されて、思わず粉を乗せた左手をレインコートの水気で拭った。

「やっぱり使わないほうがよかったのかな……」

 草木をかきわけて参道に現れたのは烏丸スバルだ。

「大丈夫?」

「スバルさん、助かりました」

 拳銃を落として巡査部長の視線を誘導したのはスバルであった。はるか頭上の枝にとまっているハヤテの眼が、二人に応えるようにきらりと光った。

「あの子がよくやってくれてる。ところで、それは?」

 スバルは凜子と、彼女ともつれ合っている警官を指した。

「はぁ。知り合いから餞別にもらったもので、麻酔薬と聞いていたのですが、それにしては様子が……」

 いま浅見由衣は恍惚とした表情で、自分を抱きかかえる秋山凜子の腕に指を食い込ませている。

「いててて、なんだ、この人……」

 引き剥がそうとしても、今度はその手に頬ずりしてくるので気味が悪い。たしかに無力化こそしたが別の刺激に侵されているように思える。

「本当に麻酔薬だったの?」

「それはなんとも。その人のお手製(ハンドメイド)というか、密造品(ブートレグ)みたいなもんですから」

 首をひねる凜子をみて、スバルは内心、納得した。

 異彩まみれの対魔忍の界隈では、武具やら道具やらを自作する者も少なくないし、それらをこっそり試して、てんやわんやの大騒ぎになるのは五車学園の名物と言えよう。

「……ま、凝り性なのは悪いことじゃないわ」

「まったく、尻拭いはいつも私だ……」

 やむに止まれず、凜子は浅見由衣をぐっと引き寄せて、胸のなかに押し込めた。すると彼女は脚をバタつかせながら感極まったような声を漏らし、やがて動かなくなった。

 まるでカリスマミュージシャンと対面して興奮のあまり失神するティーンである。

 

 始終を見守っていた瑞穂たちが、ようやく石灯篭の陰から姿をみせた。

 乃愛を背負った瑞穂は、のびている警官を憎々しげに睨みながら、「はやく医者を」と

 手ぬぐいでおざなりに止血されてはいるものの、場所が悪いのか乃愛の流血は完全には止まらず、瑞穂の肩口を変色させるまでになっていた。

「傷の具合は?」

「撃たれたの。わからないけど多分ヤバそう」

 そのとき、頭上のハヤテがバサッと一度だけ羽音を立てた。気付いたスバルがハヤテの目を借りてそちらを見通すと、

「おや、また別のが来る……」

 その正体は凜子や巫女たちにもすぐにわかった。

 夜霧の立ちこめる山道にのびる光の筋があった。──寺の門前に停まった二台の白い車体は、側面に市の病院名のプリントされた救急車であった。

「すごい、呼んでいてくれたんですね」

 唯愛は凜子とスバルを見たが、二人ともキョトンとしている。

 救急隊員の一団が降車した。四人が凜子たちのもとに、三人が石段を上がって鍾乳洞の方へ。

「あれは、いつか境内でみた()()()でしょ」

 瑞穂は横切っていった三人を見送って言った。

「お仲間って?」

「偽物よ。不審者そのものの私たちを華麗にスルーしていったじゃないの」

「そんな」

 唯愛はまさかといった表情だ。現れたのは救急車に救急隊員で、人も備品も何もかも本物と遜色無い。しかし、実際に真贋を確かめたこともない。

「負傷者をここに」

 手際よく担架を展開させて、瑞穂から乃愛を預かった隊員が彼女をそこに寝かせる。傷の状態や瞳孔を確認して、脈をはかり、ひと言ふた言やり取りすると、二人が担架を持ち上げて運んでいく。

「そちらも」

 凜子が抱えている浅見由衣のほうを指差して、別の担架を展開させた。

 その際、隊員の一人が頭にかぶった記章入りの白いヘルメットの前をくいっと上げてみせた。

 凜子にはその顔に見覚えがあった。この町に入った日、列車で相席になった青年であった。

 ──なるほど、やはりこれは“草”の人たちだ。

 ……と、察したところで、お互い挨拶を交わすことはなく、救急隊員に扮した彼らは本物と遜色ない手際で、浅見由衣も救急車に搬入していった。

 数十秒も経たないうちに、お堂のほうから若い男を乗せた三つ目の担架が、小川を流れる笹舟のように過ぎていく。

「ねえ、あの人たち本物じゃないの?」

 なおも唯愛は心配そうに言った。

 大丈夫。と、スバルは唯愛の肩に手を置いて、

「腕は間違いない」

「本当に?どのくらいで治るの?」

「あとで必ず連絡が来るわ」

「信じていいんだよね?」

「もちろん。私たちもそこまで非常識じゃなくってよ」

「“そこまで”って」瑞穂は苦笑いした。

 二台の救急車は、一方に乃愛、もう片方に浅見巡査部長と佐竹巡査の二人をのせてUターンした。このとき救急隊員の一部が乗車せず、かわりに浅見のパトカーと佐竹巡査の私用車に乗り込んで回収していったことも記しておく。

 警察官のいた痕跡は、鍾乳洞の暗闇のどこかに紛れてしまった弾丸をのぞいて、綺麗に除外された。

 

 浅見由衣がベッドの上で目を覚ましたのは、翌日の朝方であった。

 彼女は市内の病院の一般病床の片隅に寝かされていた。意識が鮮明になって病床から起き上がるなり、軽い診察があって、首すじに巻かれた包帯以外は大した異常は無いから、その日の昼ごろには退院となった。

「おう浅見、お前、クマとやりあったそうだな!」

 警察署にて、驚愕の表情を浮かべる課長代理の言葉に、浅見も驚いた。

 どうやら自分と佐竹巡査は、昨晩、独断で市内の山林を捜索中、好奇心旺盛な若い熊に遭遇し、二人とも襲撃されたらしい。そのせいで佐竹巡査は片方の眼球をひどく傷付けたらしく、すでに県内の大学病院に移されたらしい。

「はあ、そうだったんですか」

 と、浅見由衣は他人事のように頷いた。

 課長代理は意外そうに、

「なんだ、お前おぼえてないのか」

「……恥ずかしながら、なんだか昨日の記憶が曖昧でして」

「なるほどな。まあ突然のことで無理もないわな。夏のクマってのは腹を空かせて、山の低いところまで降りてくるって言うしなあ」

 彼はひとりでウンウンと納得している。

 ──熊の出てくるような山のなかに、私と佐竹は何しに行ったんだろう?

 首に巻かれた包帯を指でなぞると、ズキズキと鈍い痛みが胸のほうに伝っていく。



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その二十三

「──ふごごッ」

 寝ていた柚月がガバっと身を起こした。驚いたのは自分の()()()の音であった。

 六畳間に五枚の布団が、散らしたカルタ札のように無造作に敷かれていて、その隙間にクシャクシャの巫女装束の紅白が脱ぎ捨てられている。

 五人の梓巫女は半裸姿で眠っていた。

 橋楯堂で夜明けをむかえた彼女たちは、橋楯堂の和尚に繋いでもらったとある寺の宿坊に移った。巫女装束から滴るほどの雨風を浴び、怪蛇と拳銃男との大格闘を経て、一同は疲労困憊であった。

 たどり着いた宿坊の畳部屋には真っ白な布団が積まれてあった。巡礼者や観光客のための部屋である。くたびれた廃寺にテントを張ってミノムシみたいに寝ていた彼女たちには目もくらむほどの桃源郷も同然であった。

 部屋に時計はない。だが閉じた障子紙を白く光らせているのは真昼のつよい日差しに違いない。

「──がぁ……暑っちぃ!」

 はりついた喉をこじ開けるように叫びながら、彼女は立ち上がって真横の障子戸を引き開けた。縁側へ這い出ると、右から左へ、青くさい夏の風が流れた。

 木々の緑や、ユリやアジサイの花々の色彩豊かな庭先が目に飛びこんできた。

 花園のなかに麦わら帽子が見えた。被っているのは作務衣姿の小柄な男で、軍手を外しながらこちらにやって来る。

 柚月はその顔に見覚えがあった。

「あれ、爺さん?」

 浄胤和尚は彼女と目が合うと、おはよう。と笑った。

「まいった。今日はまた一段と暑い」

「あんた、なにしてんだ」

「庭の手入れに決まっとるがな」

 麦わら帽子を取ると、球の汗の浮かぶ坊主頭に、首に巻いていた手拭いをかぶせた。

「夏の直射日光は禁物じゃの……とりわけ年寄りと坊さんは、へへっ」

「ここ、あんたの家なのか?」

「さて、家か職場か学舎(まなびや)か……」

 柚月は開いた口がふさがらなかった。休めると聞いたからここに居るだけで、この宿坊の名前や誰のものなのかなど柚月の知ったことではなかった。

 縁側に腰を下ろした彼は、雪駄と足指についた細かい土を払いながらヘラヘラ笑っている。この老人も和尚と呼ばれているからには、それ相応の立場というものがあるはずなのだが、どうも彼自身それを屁とも思っていないらしい。

 ぼーん、と梵鐘の重厚な音が聞こえた。

「お昼の支度ができましたよ」

 つづいて足音がして、廊下の曲がり角からエプロンを掛けた女が顔を出した。

「ご飯ですよ、和尚さん。──あら、みなさんお目覚めですか」

 障子戸がすうっと開いた。

 ご飯、という単語を無意識にとらえたのか、次々と覚醒した巫女たちは生き血を求める亡者のように身を起こしていた。

「よく私らに廃寺なんか当てがって、涼しい顔していられたな、爺さん」

 柚月は恨めしそうに言った。

「自分はこんな立派なとこで寝起きしといてよォ」

 居間では扇風機が首をふりながら風を送っている。大きな座卓を囲む五人の女たちは、平たいガラスの器に盛られた冷麦(ひやむぎ)の白い山を箸で崩してかすめ取っては口に運んでいく。

「仕方ないでしょ。何かあったときにどう言い訳するの。お寺や周りの皆さんまで巻き込むの?」

 沙世はとなりの柚月をさとすように言った。

「でもよ、なにも汗かきながらテント暮らしなんてしないで済んだわけだ」

「案外、楽しそうだったじゃないの、柚ちゃん」

 ほかには酢醤油をかけた冷やしトマトの輪切り、キュウリやナスの浅漬け、すし桶に詰まったのり巻き、いなりずしなどがあるが、どれも大皿からあっという間になくなってしまう。

「みなさん、よく食べますねえ」

 奥の台所から小太りの女が感心しながら冷麦をこんもり盛った追加の器を運んできた。

「茹で甲斐がありますわ。和尚さんってば少食だから」

「──そうじゃ、みんなに紹介しよう。こちらは執事の堀田さん」

「執事?」

 瑞穂が二人を交互に見て、

「へえ、大層なご身分じゃないの、和尚さま」

「なにを言うか」

 皮肉っぽい笑みをみせる彼女に、浄胤和尚は呆れたように笑い返した。

「堀田さんは、この泰陽(たいよう)寺に勤めてらっしゃる職員。お前達のいままで寝とった宿坊の管理や、宿泊者への応対やら、いまもこうして昼メシを作ってくれる、ありがたいお人よ」

「はぁ、そういうこと」

「それに、お前らは気にしてないようだが、儂が"大層なご身分"なのは間違いないからな」

 堀田という女は、合宿みたいで楽しいわぁ。と目を細めてうなずいた。顔が丸くて、細長で、カワウソみたいな愛嬌のある人だ。

「──そうじゃ、乃愛が怪我したって聞いたよ。二の腕の粉砕骨折で、二、三ヶ月は様子見だと」

「聞いたって、誰から?」

 唯愛は顔を上げた。目もとに泣き腫らしたあとが薄く残っていた。

「乃愛はどこにいるの?」

「市立病院で世話になっているらしい」

「らしいって……会ったんじゃないの?」

 和尚は首を振った。

「いやいや、顔をあわせたわけじゃない。わしも今朝、聞いたんじゃ。──疲れ果てたお前さん達が宿坊で眠りについて間もなくという頃だったか……門前の掃き掃除をしていたウチの僧侶(もん)が、カブに乗った新聞配達の兄ちゃんから突然、伝言を託されたという」

「なんですそれ」

「見ない顔の配達員だったが、バイトか苦学生の類いだろうと、さほど疑いの目で見なかったというから、どこの誰かはわからないが……」

 烏丸スバルの言っていた連絡というのは、この事かも知れないと巫女たちは薄々察していた。しかし、報連相のなんと大雑把な連中か。

 台所の方から平皿をもった堀田が、居間を抜けて縁側に出た。

「ネネちゃん、お昼よぉ」

 堀田が呼ぶと、てっててってと茶トラの太った猫が軒下を小走りでやって来て、平皿に盛られた粒状のエサに飛びついた。

「──しかし、撃たれるとは意外だったな」

「生きた心地がしませんでしたわ」

 多恵は昨夜を思い出して苦笑いした。

「お焚き上げは出来そうか?」

「一人や二人欠けたって、べつに出来ないことはないけど。仕上がりは微妙になりますよ」

「そうか。……まあ無理はせず、思うようにやってくれい」

「場所はどこを使えば良いのでしょう?」

「この寺の敷地内を使ってくれて構わんが、儀式につかう護摩木が足りるかどうかは要相談じゃの」

 すでに多恵抜きで夜導怪・月咬(げっこう)を封じたという彼女たちだから、そのことに関して不安はなさそうだ。

 しかし、怪異のお焚き上げを始めたのは、たかだが二、三日前だろうに仕上がりの良し悪しの区別がつくのか。──という疑問を和尚は喉もとで呑みこむように、

「なんにせよ、あの妖怪たちを祓えるのはお前さま方だけだからな」

 と、氷入りの麦茶を煽った。グラスについた水滴が二、三落ちて、シワシワの細い足首を濡らした。巫女たちの箸は止まらず、ズズズぅ……と、まるでカエルの輪唱するみたいに、たちまちのうちに一人あたり三人前ほどの冷麦を平らげていった。

 ──泰陽(たいよう)寺は武洸山の麓近くにあった。すぐよこを南の三つ子山から北の荒川へと合流する横勢川が流れ、近隣には果樹園や植物園、自然公園などがある。

 古びた土塀に囲まれているが敷地の四分の一ほどは武洸山からつづく森林の侵食が土塀を突き崩さんばかりに凄まじい。

 ヒノキ林のなかにポツンと空に抜けた平地がある。枯死した数本を切り倒したばかりの場所で、草も刈られている。外部からは林にさえぎられて火も煙もさほど目立たないだろうと踏んだ和尚と梓巫女たちが、そこを儀式場に決めた。

 若い僧侶たちが束にした護摩木を担いで、巫女が“井”の字に組んでいく。あっという間に準備は完了されたが、それでもいざ祈祷を始めるという頃には全員水をかぶったように汗だくであった。

 木陰で小休止したあとで、意を決した巫女たちは日陰のない真っ白な熱天の下で火を起こした。夜導怪・濡蛟龍(ぬれみずち)を捕らえた繭は火焔と祝詞によって焼き固められた。──睡眠と昼食で蓄えた英気を丸ごと吹き飛ばすほどの酷烈さが、お焚き上げにはあった。

 

 沙世たちが命の火を燃やしていた頃。

 市立病院のある市の中心部から荒川を南西へのぼって二、三キロ。──のどかなキャンプ場からすこし離れた林のなかに木目調のコテージがひとつある。

 そのなかで病衣(びょうい)姿の乃愛は安らかな寝息を立てていた。ここは“草”たちの隠れ家のひとつである。

 背中を傾斜のついたベッドにあずけて、銃弾を受けたほうの腕はわき腹に沿うようにぴったり固定され、もう片方の腕の内側から伸びる細い管は真横のスタンドに吊り下がる点滴袋に繋がっている。

 昨夜、乃愛と警察官二人をそれぞれ乗せた二台の救急車は市立病院へ直行したが、治療が一段落ついたところで、乃愛だけは草たちの差配によって密かに病院から隔離されたのだった。

 病床のかたわらには乃愛を見守るように丸椅子に座る烏丸スバルと秋山凜子、そして乃愛を治療した医者がいた。

「体型は平均よりやや細め。腕の銃創と骨折以外は……あとは熱中症らしい眼振も見られた」

 バインダーにとじた書類を読み上げている白衣の女は、この土地に医師として勤めながら"草"としての一面も持っている。……実際のところは"草"の家系に産まれた彼女が医師免許を取得した、と言ったほうが正しい。

「採血の結果は……肝臓も腎臓も、いたって健康、感染症、血球の数も問題なし。ゲノム解析のほうも、いわゆる和人といったところの、弥生人と縄文人の混血」

「──純度百パーセント、混じりっ気なしのホモ・サピエンスね」

 烏丸スバルがつぶやいた。

「梓巫女──純粋な人間が、対魔忍(わたしたち)や魔族のような、怪異と渡り合うような能力を持っているなんて聞いたことない」

「浄胤という和尚が言っていました。夜導怪を封じ込めるのは、現世にあぶれた荒魂(あらみたま)幸魂(さきみたま)として祀るため、だと」

「つまり、これは神事か。巫女たちの能力が修得ではなく、授かったものだとしたら……」

「では、()()はどのように」

 女医の手もとにはケースに入った注射器と液体の入ったカプセルがある。

 ──それは五車の里からの贈り物で、対魔忍・新条友奈から抽出された血液製剤であった。

 五車学園で保険医を勤める新条友奈のもつ対魔粒子は少々特殊であった。身体機能を向上させる対魔粒子だが、彼女のそれはもっぱら細胞を活性化させ、人間の自然治癒力を爆発的に促進させるのである。戦闘の苦手な友奈が後方支援の要として作ったのが血液製剤であった。病気やウイルスを根絶させるほどの万能薬ではないが、深い傷や砕けた骨はたちまちのうちに修復されるだろう。

 本来は松永蔵人を回復させるために送られたものだが、そのまえに蔵人が怪異と差し違えてしまったので血液製剤はそのままスバルと凜子のために保管されていた。

 もしや対魔忍の治療薬が梓巫女にも役立てられるのでは?……と、その時はひらめいたスバル達だったが、乃愛が真に人間だと判明したうえに梓巫女たちの能力がいまだ不可解な状態では、さすがに彼女に対魔粒子を注入するのは躊躇われた。夜導怪に対抗しうる唯一の能力にマイナスの作用があってはならないのだ。

「どうでしょう……はじめは量を抑えて、すこし様子をみて判断するというのは……」

「──それは、やめていただきたい」

 女医の提案に凜子とスバルよりはやく応えた声は、聞いたことのない女のものだった。三人はギョッとして立ち上がり声の主を室内に探した。

「あっ」と凜子が声をあげて、すぐに不思議そうな顔をした。

 彼女はコテージの高い天井の、部屋を横切るながい(はり)に茶褐色の毬藻(まりも)みたいな小さくてまん丸のものを見た。

「あ、あれは……リスですか?」

「ネズミじゃないの?」

「でも、尻尾が太くて……ほら、フサフサしてる」

「じゃあ、ムササビかしら」

「──わたしが何であるかなど、どうでもよい」

 毛玉が動いて梁の陰から顔をのぞかせた。

「──梓巫女のからだに対魔忍(あなたたち)の因子を持ち込むのは好ましくない」

 くりっとした黒い両目が三人を見下ろしている。──それがリスかネズミかはさておいて、声は依然としてそこから降ってくる。

「──梓巫女たちの鎮撫の力と、貴女たちの破魔の力とでは根本から性質が異なる」

「あなた誰なの?」

「──梓巫女の儀式を見届ける者、とでも名乗っておこう」

「この子たちの上司ってこと?それとも寺社仏閣の関係者?」

「──明言するのは控えさせてもらう」

 スバルと凜子は目をあわせて肩すくめた。

「……儀式というのは、荒魂を鎮めて祀る、というやつのことか?」

「──そう思っていただいて差し支えない。これは国家の存亡に関する重大な事柄である」

「国家って、ずいぶん大きく出たわね」

 こらえきれずにスバルは鼻で笑った。

「胡散臭いやつほどデカい言葉を使うものだけど」

「──我々は当初から梓巫女と貴女たちを観察していた。部外者の参入は予想外だったが、成り行きとはいえ助力してくれていることを我々は高く評価している」

「そりゃどうも。こちらも退くに退けない事情があるから」

「──巫女と貴女たちとでは力の性質が異なる、と言ったが、例外的に顕現(けんげん)した荒魂に対しては効果があるようだ。とくに、そこにいる凜子さん」

「はあ」

「あなたが荒魂を退けるとは思わなかった……願わくば、このまま友好的な関係を維持したい」

「はあ……」

 名前を聞かれるとは迂闊だった。と、凜子は内心、舌打ちした。変にかしこまった言葉遣いといい、文字通りの上から目線といい、なにか地球外の知的生物と交信しているようで彼女は気が引けた。

「夜導怪を退治しそこねた場合はどうなるのですか?」

 女医が口を開いた。見上げながら彼女は手のなかに忍ばせた携帯電話を操作している。

「──夜導怪とは、この土地での古くからの呼び名である。凶兆(きょうちょう)(あらわ)れである荒魂が、あれほど具体的な形となって顕現するのは珍しいことだ。そして荒魂は、この世に存在する間は限りなく負の波紋を広げる」

「具体的には?」

「──あれらを封じるのに手間取った()()では、その後の半世紀に異常気象や火山の噴火、水害が相次いだ。火山灰が太陽を覆い隠し、飢饉と疫病のために数多の人命が失われ、人心の荒廃を極めた。これは近世史にもある通りだ」

「まさか……無理なこじつけは感心しないわね」

 頭上の小動物にスバルは懐疑的だった。

「災害の原因が荒魂だったという確かな証拠は?そういう書き物でもあるの?」

「──これは戒めとして口伝(くでん)によってのみ受け継がれてきた歴史である」

 これだよ。と、スバルはため息を吐いた。

「勝手なストーリーをベラベラと……全部妄想なんじゃないの?」

「──どう解釈しようと自由だが、いまこの時代に武洸山から六つの荒魂がこぼれ、それを鎮めなければならないのは紛れもない事実」

「それなら、もっとたくさん人を寄越したらどうです?」

 眠っている乃愛をちらとみた凜子は、

「所作から察するに彼女たちはただの巫女だ。国家の存亡は荷が重すぎる」

「──梓巫女たちは(かんなぎ)の能力を天より(たまわ)った存在。ひとつの荒魂にひとりの巫女……ゆえに六人」

「そんな無茶な……」

「──無茶と思えばこそ、貴女たちの力添えに期待している」

「期待ばかりされても……やっぱり素性は明かせないの?」

「──あなた達なら承知のはずだ」

「なら、せめて名刺だけでもッ──」

 小動物が梁からパッと跳んだ。──手脚と胴体に薄い膜がひろがって、それは室内を数メートル滑空し、小窓の隙間から外へ消えた。

「ああ、やっぱりムササビだったか」

「あれはモモンガですね」

「逃げられました」

 女医は携帯電話を耳から離した。

「大丈夫よ。捕まえたとて、どうせ聞き出せやしない」

「何者でしょうか?」

 凜子がたずねると、スバルは首をひねりながら、

「ひょっとすると梓巫女と同じような人間が私たちのように組織として動いているのかも」

「信じられますか?」

「さてね……あの話の真偽に興味はないけど、私たちの力添えが必要なのは確からしい。とりわけ凜子ちゃん、あなたの剣には向こうも一目置いていた。本当に怪異への対抗策が無いのか、あっても出し渋っているのか……」

 やがて忍鳥ハヤテが一匹のモモンガを両足に握りしめて三人のもとに降りてきたが、どこを撫でても、それはただの物言わぬ小動物に戻っていた。



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その二十四

 太陽が山の向こうに沈みんでも昼の容赦ない暑さが落ち着くことはない。とくに盆地では周囲にそびえる山々が高い壁となって空気がなかなか入れ替わらないので、夏はいっそう暑く、冬はすこぶる寒い。

 宿坊の戸締りを順々に確認していたお手伝いの堀田は、縁側をまわっている途中で、おや、と立ち止まった。

 そこから見える庭園は、浄胤和尚や僧侶たちの手入れによって樹木や草花が見事な彩りを放っているが、庭園の中央の日当たりのいい空間には地蔵くらいの大きさの人工的な置物が、日時計のように規則正しく置かれている。それは発電機で、頭部にひらいた傘状の黒い集光パネルから支柱まで強化プラスチックでできている。形状から和尚はエノキ、エリンギ、シイタケと、その日の気分で好きに呼んでいる。

 その発電機の並びのそばに影があった。敷地を横切っていく野生動物は珍しくないが、どうも人のような気がする……と思い始めたら、にわかに人がいるように見えてしまって、さすがに堀田もドキッとした。

 タヌキか、あるはクマか。いずれにしても人の気配や電灯の明かりは届いているだろうに一向に逃げようとないし、辺りを気にする素振りすらみせないから、いっそう気味が悪い。

 彼女はガラス戸をすこし開けて、

「おーい」と、音を立ててみた。

 にゅっと影がわずかに上に伸びた。やはり人……それも子供である。曲げていた膝をまっすぐにして立ち上がったのだ。

「えへへ」

 無邪気な笑い声を聞かせたのは、市松人形のような、おかっぱ頭の和装の童女だった。

 ぼじゅっ、ぼじゅっ、ぼじゅっ、ぼじゅっ──。

 胸の位置で右手を上下に揺らしている。

 ぼじゅっ、ぼじゅっ、ぼじゅっ、ぼじゅっ──。

 なにかを地面に弾ませている。水たまりを足裏で踏み鳴らすような音がする。

「ねえ、そこでなに──」

 子供を凝視しながら、堀田は言葉を詰まらせた。

 空中を上下しているのは(ボール)のようで、実際には球状でない、童女の頭くらい大きくて不自然な塊であった。

 どう見ても弾みそうにないそれを、童女は力任せに芝生に叩きつけ、跳ねあがったそれを五本の指でむんずと掴みあげている。そのたびに塊から汁気がジュっとあふれて飛び出し、そこだけ芝生の色を変えているのだ。

「…………」

 関わっちゃいけない。──堀田本人ですら不思議でならなかったが、そう思わせたのは生き物としての本能に他ならない。

 堀田はガラス戸をぴしゃりと閉めた。直後に落雷みたいな音がして、わあっと彼女は叫んだ。

 眼前に赤黒い綿雲が広がっていた。──ガラス戸を枠ごと大きく揺らしたのは、みずみずしい血と肉、縦長の瞳孔、茶トラの毛皮……世にもおぞましい屍骸の曼荼羅(まんだら)である。

「えっ──」

 堀田の顔は青ざめた。目の合ったそれは、寺院のなかを縄張りにしている家族も同然の猫ではなかったか!

「ああっ、ネネ──」

「あはははは……」

 ご機嫌な足どりで庭先を駆けまわる童女──夜導怪・雀女(すずめ)の顔は悦びに満ちていた。足もとから頭まで血吹雪のグラデーションをつくりながら。

「はぁ〜ありがたやァ、ありがたやァ、ハハハ……」

 強烈な視覚情報に慄然とした堀田の、腹から背中を隆起させ、開いたまま塞がらない口の輪から大量の青虫があふれ落ちる。

「──目ェ閉じてッ」

 悲鳴をさえぎったのは、不穏な気配をいち早く察知して駆けつけた紗世であった。

「顔伏せて、はやく奥に!」

 硬直して動けない堀田を遠慮のない体当たりで障子ごと真横の部屋に突き飛ばした。

 天井の蛍光灯がはげしく明滅し、ズンッ……と建物の基礎から天井まで突き抜けるような縦揺れが縁側のガラス戸を軒並み震わせた。──曼荼羅の中央から虎ほどの大きさの真っ赤な怪猫(かいびょう)が現れた。ガラス戸のうえに四本の足を垂直に置いて、そこに血泥の足跡をまぶし、巫女の姿を見つけると牙をむいて吠えかかる。

 縁側に立つ紗世は両手をあわせて印を結んだ。ミシミシと柱と(はり)が悲鳴をあげ障子紙がそれを反響させた。廊下の蛍光灯が風船の弾けるように破裂し、あたりは闇に包まれた。皮膚の痛いくらいに粟立った紗世のからだに、さらに突き刺さる圧力(プレッシャー)があった。対峙する怪猫だけでなく、外にひろがる夜の暗闇そのものが敵となったかのようであった。

 指先が痺れ背中を冷たいものが落ちていく。吐く息もすっかり白くなっている。足裏に感じる床板の凸凹がもぞもぞ(うごめ)いて、青虫やヒルといった小動物がくるぶしのあたりを伝いのぼってくる感覚まである。

「ほほ、これじゃ小娘どころか赤子よ」

 雀女の立っている方向から宿坊へ一陣の風が吹き荒れた。砕け散るガラス片とともに紗世は障子とふすまを突き破って宿坊のなかに飛ばされた。客間の押入れの重なった布団に埋もれながら──全身をあらゆる破片に裂かれても──両手の印は微動だにさせなかった。

 怪猫がグルルと唸った。怪猫はまだ板戸の中央にいた。──宿坊への侵入を拒んでいたのはガラス戸だけではなかった。板戸を破壊された縁側沿いの敷居には紗世によって障壁が張り巡らされ、いま梓巫女と怪異の霊的波動は完全に手四つ(ロックアップ)して、お互いを制しているのだった。

 ……が、すぐに紗世の眉間に苦悶のシワがあらわれた。

 真っ向からぶつかったものの、梓巫女ひとりと怪異一匹とでは力量に大きな差があった。それでも逃げるために印を解いたら、途端に二対一、雀女と怪猫が猛威をふるってくるのは間違いない。いまは他の面子がそろうまで怪異を釘付けにしておくのが自分の勤めなのだ。と、紗世はみずからを奮い立たせた。

 紗世の目の前、敷き詰められた畳のふちが盛り上がり、一人、二人、三人……と童女の影がタケノコのように隙間を割って出てきた。

「──閉め出されて寂しかったからの」

「──こちらから入ってやったぞえ」

 紗世を包囲する六つの影は、むき出しの懐剣に月明かりを反射させた。六つの刃が童女の微笑を浮かび上がらせた。

「──せいぜい畜生との相撲に興じるがいい、ほほほ……」

 

 ──バギャッ。竹を割ったような音が響いた。

 雀女たちが振り返った。板戸にとまる怪猫の頭から尻尾の付け根までが垂直にすっぱり裂けて、しかし自身はそれにすら気付いていない様子で、半分ずつになった頭と首を左右に揺らして警戒している。本能から喉をゴロゴロと鳴らしているが、実際には破壊された気管と声帯がフシュフシュ、ベチベチと肉味噌をこぼしている。

 ハッとして怪異たちが懐剣を構えると、怪猫のよこを抜けて縁側にゆっくりと足をかける秋山凜子の影があった。石切兼光は金色の(つば)が青白い夜闇に鮮やかだった。

 紗世は印を解き、たまらず押入れの奥深くに避難した。

「おまえ、巫女か?」

「いいや、鬼だよ」

 凜子の左手が鯉口を切り、右手が柄を握った。

「きえええィッ」

 六つの刃が金切り声とともに舞い、上下左右から凜子へ突撃していく。

 客間の畳六枚がすっくと立ち上がり凜子を取り囲んだ。懐剣の刃が()()()の壁にズッと食い込んだ。六人の雀女は、秋山凜子の抜刀一閃、畳ごと細首を横一文字に薙ぎ払われた。

「ぎゃっ!」

 転がった首は五つ……残る一人は畳の残骸のあいだを縫って庭に跳んだ。並走して追いかける凜子を、頭の半分を失くした雀女がわらった。

「ほ、こりゃ鬼ごっこかえ?」

 着地に伸ばした片足がビュッと膝関節から断ち斬られた。芝生をすべった雀女の肩甲骨あたりから、マントのような二枚の(はね)が飛び出して地面をあおぎ風を巻き上げた。

 凜子の視界を塞がれるほど猛烈な突風だった。

 ──十秒も経たないうちに騒々しさは止んで、紗世は恐る恐る顔をあげた。いつ間にか戦いは客間から庭のほうに移っていたようで、ひっくり返った畳と、物々しい気迫の残滓だけが熱気のように残っているのを除けば、ひどく静かだった。

 庭のほうを見ると、秋山凜子がひとり立って頭を掻いている。(きのこ)のかたちの発電機が袈裟がけに斬り落とされて横倒しになっていた。

「ちょうどいい背格好で立ってたもんだから……」

 凜子は照れくさそうに言いながら刀を鞘に収めた。すでに雀女の姿はどこにもなかった。

「よかった、来てくれて。……はあ、死ぬかと思った」

「どうして一人で?」

「トイレへ行った帰りに堀田さんの悲鳴を聞いて、駆けつけた勢いで押し合いが始まっちゃって……みんなが来てくれるまでは、と思ったけど、ちょっと甘かったな」

 二人の視線のさきには、幽霊のような足どりで庭先におりる堀田がいた。

 紗世と凜子には目もくれず、うなされるように「ネネちゃん……ネネちゃん……」と口にしながら、とっくに事切れた怪猫の亡骸からあふれ出た臓物の山に手をつっこんでかき回している。



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その二十五

「みんな、どこ行ったのかしら」

 紗世は宿坊内の仲間のもとへ急いだが、ほんの十数分前まで一緒に過ごしていた部屋や居間に梓巫女四人の姿はなかった。携帯電話で連絡を取ろうとすると、各々が休んでいたであろう場所の、ちゃぶ台の上や座布団の下から四つの着信音が一斉に鳴るだけで、その持ち主が現れることはなかった。

 宿坊だけでなく、となりの僧坊や講堂も巡ってみるが、浄胤和尚や修行中の僧侶衆も人っ子ひとりいない。

 放心状態の堀田はそのままに──庭先の彼女は赤ん坊みたいに肉塊を胸のまえで抱えながら夢遊病者のように立ち尽くしている──泰陽寺(たいようじ)の境内の真ん中で紗世と凜子は合流した。

 夜導怪・雀女と一悶着あってから、土塀に囲まれた寺院のなかで動く影は二人だけだった。

 凜子もまた、しきりに夜空を見上げて、そこにいるはずのものを探していた。

 月が雲間を出入りする朧げな夜だが、西側にそびえる武洸山の兜じみた角張った山影は夜闇にも不動明王じみた重厚さと威厳を放っていた。

「スバルさんは?」

「何処かしらで見ていると思うけど……いまはわからない」

「みんな、雀女(アイツ)を追いかけて行ったのかしら……」

 そう言いながら、紗世は手に持っている輪っかを凜子に差し出した。

「凜子さん、念の為に渡しておくわ」

「──これは?」

 乾燥した植物の茎を編んでつないだミサンガのようなものだが、全体的にカーキ色で華やかさに欠ける。

(ちがや)のお守りよ」

 紗世の手首にも同じものが巻かれている。ふぅん、と頷きながら、凜子は手を通したものを不思議そうに眺めた。

「厄祓いの時にくぐる"茅の輪"みたいだ」

「強いて言うなら、その簡易版《ポータブル》って感じかしら。急ごしらえで申し訳ないけど」

「なるほど……」

 と、頷いてはみたものの、果たしてこれがどのようにして、どれくらいのご利益があるのか、効果の程度は未知数である。

「──あっ、あいつッ」

 寺院を囲む土塀の上に、小さな人影が腰掛けている。……草履の鼻緒を足先に揺らし、からかうような笑みを浮かべながら。宿坊の庭園で起きたことがウソのように五体満足である。

 秋山凜子が手の中の棒手裏剣をピュッと投げた。それは髪の毛先をわずかに散らしただけで、童女はからだを反らせて土塀のむこうに消えた。

 土塀のさきはわずかな木立と、あとは墓石と卒塔婆が広がっている。泰陽寺の管理する墓地である。御影石と経木(きょうぎ)の原っぱの中で、相手は姿こそ見せないが、カラカラっ、カラっ……と、草履を鳴らしている。

「誘っているな」

「ええ」と、うなずきながら、二人は臆することなく歩を進めた。

 四方から飛び出してきたのは、宿坊の庭で見たものと同じように、改造された獣たちであった。──からだの内と外を逆転されて膨れあがり、捻れた腸管をあちこちにビタビタ当てこすっているのは、シカやクマ、イノシシといった中型の野生動物である。

 紗世が身構えるよりはやく──秋山凜子は抜刀した石切兼光の刃を虚空に舞わせて、獣たちを一息のうちに断末魔ごと斬り刻んだ。周囲の墓石が血飛沫に染まった。

 それを嗅ぎつけたのか、新たな四足獣の大小さまざまな息づかいが重なって近付いてくる。

 きら星のような凜子の剣閃が、殺到する第二波をたちまちのうちに血煙に沈めた。

 しかし、すぐに第三波が……さらにその奥には第四の群れが見えた。

「数が多い」

「凜子さん、目を閉じてっ」

 紗世が袖から白い紙片を投げ上げた。──いわゆる紙垂(しで)と呼ばれる、紙を切り折りして雷を(かたど)った紙片であった。

 紙垂は風にそよぐ鯉のぼりのように、ゆらゆら揺れながら宙を昇ると、十メートルほどの高さに到達するとともに四方八方に激しい稲妻を放った。あたりは白黒の明暗にわかれ、またたく間に狂乱の波を止めた。閃光は闇にひしめく魑魅魍魎たちの姿を浮き彫りにし、かつ網膜から獣たちの本能へ強力な威嚇のイメージを焼きつけた。

 紗世と凜子は硬直した獣たちの中央を縫うように走った。墓地の端までたどり着くと、ふたたび土塀を超えて寺院の敷地外に出た。

 木立を過ぎると見渡すかぎりの耕作地で、野菜畑にブドウ棚、ビニールハウスが並んでいた。

「あれ、あそこに……」

 紗世が指差した方向には、あぜ道を歩く雀女の姿がある。それは一瞬、紗世と凜子のほうを振り向くや小股で駆け出し、すぐ近くの竹藪(たけやぶ)に姿を消した。

「……あいつ、なにがしたいんだ?」

「きっと夜通し引きずりまわして、私たちを息切れさせるつもりよ」

 竹藪のなかは獣道が奥へと続いていた。十メートルを超える孟宗竹(もうそうちく)が一本道の左右から壁のように並んで、ひときわ濃い暗闇を生んでいる。

 獣道のはるか先には和装の童女が陽炎のように立っている。──雀女は悪戯っぽく笑うと、またしても(きびす)を返して走り出した。呼び込まれているようでゾッとするが、たとえ幻覚による罠だとしても追わないわけにはいかなかった。もとより常識のかけらもない無謀な闘いである。

 二人の口からはたまらず溜息が漏れた。

「……梓巫女(みんな)から連絡は?」

 凜子がたずねると紗世は首を振った。そうか、と呟いた凜子もまた仲間の所在が知れないことに気を揉んでいた。すでに

「もう私たちだけで雀女(やつ)を押さえるしかない」

「捕まえる紙は持ってるの?」

「一応、みんな二、三個は持ってる。確実なのは柚ちゃんだけど……」

 紗世は、ほんの少しだけ寂しそうに言った。

「確実?」

式神(おりがみ)の扱いが抜群に上手い。パワーもコントロールも段違い(ダンチ)なのよ」

 雀女との距離は縮まらない。獣道と竹林は、いくら走っても景色が変わらない。

 前後左右どこをみても同じ景色だから、雀女の姿を目印にしているからこそ走っていられるが、立ち止まっていると自分達がどこにいるのか見失いそうになる。

「ちょ、ちょっと待って……」

 凜子はともかく、紗世のほうはすっかり息が上がってしまっている。

「コレ、いつまで走ってんのかしら」

 前方には相変わらず和装の童女が、ときおり振り返って凜子と紗世のほうをうかがいながら、付かず離れず、一定の距離を保ったままでいる。

 こちらが立ち止まると、むこうも止まった。凜子が一歩二歩すすむと、きゃきゃッと笑って逃げるが見えなくなることはない。

「……ほんと、馬鹿にしてくれちゃって」

 紗世は顎下に伝い落ちる汗を手の甲で拭った。

「時間稼ぎだろうか」

「どうせ大したことじゃない。あれは捕まえてほしくて逃げてるのよ」

 そんなものだろうか……と思いつつ、凜子が不意打ち気味に棒手裏剣を投げつけると、雀女は顔色ひとつ変えず、眉間の真ん中に飛んできたそれを白くて華奢な二本指で苦もなく掴んでみせた。

「──不粋なマネはよせ」

 彼女はタングステンの棒手裏剣を人差し指にクルクル巻きつけて針金みたいに弄びながら、

「捕まえるときは手で、じゃ」

「やぁ、もうそろそろ別の遊びにしないか」

「イヤじゃ。梓巫女(そっち)はともかく、おまえは嫌いじゃ」

 蝶結びされた棒手裏剣を指先でピンと弾いて飛ばすと、鉄クズはひらひらと黒い蝶になって横の竹林に消えた。そして雀女もまた「まだまだ終わらせぬわ」と、言い残して去って行く。

「憎たらしいやつ……」

「おかしい」と、秋山凜子は首をかしげてつぶやいた。

「まったく近付けなかった」

「なにが?」

 紗世はとなりに立っている女の、頭からつま先までをしげしげと眺めた。コンビニ帰りみたいな格好に、真剣をおさめた無光沢(マット)な黒鞘とそれを固定するベルトが、彼女の細い腰にからみついている。

 ずっと涼しげな表情で並走していた凜子が、立ち止まっている数分のうちに首筋にじっとり玉の汗を浮かべて、いくつか髪を張りつかせていた。

 凜子曰く、雀女が棒手裏剣を指先でこねくり回している間に、空間を割って距離を詰め、居合いを浴びせるつもりでいた。──が、着地した場所は、跳躍したのと同じく紗世の真横で、結局、彼女は雀女の前後左右と頭上から斬りつけようとして、空振りをそれぞれ五、六回は繰り返した、という。

 ──空間を割る……とか、跳躍できない……とか、紗世には説明されても何がナニやらといった具合である。それは夜導怪と梓巫女の怪奇合戦に巻き込まれた対魔忍たちにも同じことが言えるワケだが。

「どうしたってあいつには近付けないし、触れもしないってこと?」

「………」

「でもアイツは、凜子さんの投げた棒手裏剣(やつ)をたしかに掴んでたわ」

「そう見せかけただけなのかも。──それと、もうひとつ」

 凜子は足もとを指差した。一見しただけではわからなかったが、目をこらすと獣道のわきに棒手裏剣が杭のように立っている。

「それがなに?」

「実は、この竹やぶに入ってから、入り口から今までずっと道標(みちしるべ)代わりに地面に落としてきたものなんだが──」

 言いながら凜子が数メートル前方に進んで地面の土を探ると、同様の色形をした杭を引き抜いてみせた。彼女は土をはらいながら棒手裏剣の手触りを確かめたうえで「間違いなく本物だ」と言った。

「……道しるべに置いてきたそれが、どうして今から行く道に立っているのかしら」

「つまり、この道は先に続いているように見えて、私たちが少なくとも一度は通った道ということになる」

「それじゃあ、私たち幻を追いかけて、ひたすら獣道をグルグル巡ってたの?」

 さすがの紗世の目にも焦りの色が見てとれた。

 遠く、薄ぼんやりとした暗がりから、二人のやりとりを知ってか知らずか、──そうれ、こっちじゃ、こっち……と、あどけない笑顔で雀女は手を振っている。

 あまりの幻術の強さに紗世は言葉もなかった。いま彼女の脳裏にひしめいているのは、回し車のなかでがむしゃらに足を動かすハムスターになった自分たちの姿であった。

 夜導怪・雀女は毒鱗粉をまいて幻をみせると聞いていたが、果たして自分達がいつ幻覚に囚われたのか……泰陽寺の宿坊か墓地か、竹藪に入るまでに走った畦道か──いずれにせよ、凜子と紗世が一緒に行動していた時間帯に二人の五感を侵食していったのは想像に難くない。

 同じく鱗粉を受けた対魔忍・松永蔵人は、忍法の制御もままならないほど幻覚に精神を蝕まれたが、果たして自分たちが限界を迎えるまでに、あとどれほど時間が残されているのかは想像もつかない。

 二人はもう蜃気楼みたいな童女を追いかけることはなく、その場に立ち尽くしている。

「──望み薄だけど、このまま朝まで待てば、ひとまずは無事に帰れるかも知れない」

 凜子が退却をほのめかすと、それは無理、と紗世はかえした。

「もうあまり時間がないの」

怪異(アレ)を放っておくと、大きな災いが起きる?」

「そんなところ。──知ってたの?」

「親切なムササビが教えてくれた」

 そう……と、紗世は相づちを打ったあと、

「凜子さん、どうか気をつけて。あなたもスバルさんも……他のお仲間も、なるだけ早くここを離れるべきだわ」

「どうして?」

「そのムササビの“中の人”は、たぶん親切でもなんでもない」

「いったい誰なの?」

「教えたら死んじゃうよ」

 紗世が苦笑いしたその時、

「──追いついた!」

 和弓を引きしぼりながら後方からやって来たのは唯愛だ。

「──いきなり居なくなるんだから、まったく」

 進行方向からは、身の丈ほどある長巻を担いだ女の影……瑞穂がやって来た。

「──ここにいたか!」

 左右の竹藪が、にわかに騒がしくなって、左側からは多恵が、右側からは柚月が、茂みをかきわけながら現れた。

「──はぁ、これでめでたく全員集合ね」

 顔を見合わせて安堵の表情を浮かべる梓巫女のなかで紗世だけが険しい顔をしている。

「みんな……今までどこに行ってたの?」

「何言ってんだ。そっちがフラッと出て行ったんじゃないか」

 柚月が呆れながら言った。

「どうやってここまで来たの?」

「ずっと後ろから声をかけてたのに。気付かなかったの?」

 唯愛は意外そうに言った。

「うそよ、だって私と凜子さんは一度もそんな声……」

「凜子さんって、どこに?」

 えっ、と紗世は振り向いた。今しがた話していたはずの秋山凜子が影も形もないことに気付くと、背筋を痺れるような寒気がゾゾゾっと昇っていくのを感じた。

「そんな。さっきまでずっと一緒に」

「わたしには見えなかったな」

 瑞穂が言った。となりの多恵もウンウンと頷いた。

「かわいそうに。きっと幻を見せられてたのね」

「うそ、うそだよ。そんなはずないじゃん……」

 もはや紗世には、怪異の悪戯が自分を惑わせているのか、それとも自分自身が元からどうかしてしまっていたのか判別がつかない。

 四人の輪を抜けて距離をとろうとすると、どこ行くんだ、と柚月がついてくる。

「ち、近付かないで!」

「なに言ってんだ、紗世……」

「紗世ちゃん、ひとりは危ないわ!」

「うるさい!」

 制止を振り切って紗世は走った。

 ──どこ行くの。紗世ちゃぁん、待ってぇ。

 遠ざかる仲間たちの声……だが、これは頭の中だけの、記憶から抽出された仮初の残響なのかも知れない。どこまで行っても竹林と獣道しかないのはわかっていても、恐怖から逃れたい一心に突き動かされて彼女は走り続けるしかない。

「あっ、ちょっと……」

 ──突如として走り出した紗世に秋山凜子は遅れをとった。同時に、自分に迫る気配を感じとった彼女がとっさに身構えると、紗世の走り去った反対方向から誰かが走ってくる。

「た、達郎」

 凜子は一瞬、頭が真っ白になった。凜子と同じく青みがかった短髪の、どこか頼りなさげな細身の青年──秋山凜子の実弟、秋山達郎であった。

「お前、どうして……」

「応援に来たんだ。困ってるってスバルさんから聞いてさ」

「応援?……そんなの知らされてない」

「それよりも緊急事態なんだろ、急いでここを出よう」

 手招きしながら達郎が横の竹やぶに入っていく。足もとすらまともに見えない真っ暗闇の茂みのなかを、達郎は真昼の中にいるかのように歩を進めていく。

「……達郎、お前どうやってここまで来た?」

「おれの風遁(ふうとん)術なら、抜け道ぐらい楽勝さ」

「ひとりで来たのか?」

「当たり前だろ、もう子供じゃないんだから」

 照れくさそうに笑う背中は見れば見るほど達郎で、あまりにも唐突に現れた弟に凜子は戸惑うどころか、いままで棒手裏剣を道しるべに道を進んでいくほどの慎重さが嘘のように、彼の後ろに恋人のように付き従っている。

 もはや意志とは無関係にからだが動いている。それは、ある種の催眠状態に陥っているのではなかろうか。松永蔵人のように、秋山凜子もまた怪異の毒に侵されていくのを止められないのだろうか。──



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その二十六

 紗世と凜子が竹藪のなかの獣道を延々とまわっている頃、烏丸スバルは泰陽寺から数百メートル離れた民家の屋根の上にいた。

 宿坊で秋山凜子と雀女の攻防を見て、空に逃げた雀女をしばらく追跡していたスバルとハヤテだったが、ほどなくして怪異は霧のように忽然と姿を消してしまった。

 数分の索敵の末、スバルはハヤテに宿坊に戻るよう指示した。しかし、そこにいたはずの凜子と紗世、他の梓巫女たちが見当たらず、怪異を追って戻って正味十分にも満たない間の出来事だったので嫌な予感がした。

 ──梓巫女たちはともかく、凜子(かのじょ)が無断で行動するとは思えない。たしか雀女とやらは幻覚をみせると聞いたけど、そのせいかしら。

 いまスバルの視界は航空写真のように俯瞰(ふかん)で見下ろす位置にあった。ハヤテが泰陽寺や宿坊の上空で滑空したまま高度を下げようとしないのは、炭鉱のカナリアのように、その周辺の不穏な空気を察知しているからではないか、と、スバルは考えた。

 ──ここらで一番ヤバそうなところなら、あるいは……。

 彼女の意思を受けてハヤテは大きく旋回し、北に向かって飛んでいった。同時に烏丸スバルも民家の屋根から下りて、ハヤテを追いかけるように歩きはじめた。

 途中、様子見がてら泰陽(たいよう)寺をのぞこうとすると、敷地をかこむ防風林から声が聞こえて彼女はそちらに足を向けた。林のなかに人に似たシルエットが見えた。道端によくある地蔵に見えたが、スバルが思わず立ち止まったのは、その地蔵が石でなく生身の人間だったからである。

 茂みのなかに座禅を組み、手を合わせ、抑揚をおさえたトーンで「ぎゃーてー、ぎゃーてー」と唱えているのは浄胤和尚と若い僧侶たちであった。どうやら泰陽寺の坊主がこぞって集まっているらしい。

「……そこに誰かおられますかな?」

 気配に気づいた和尚が読経を中断して顔を上げるとサーッと頭のてっぺんから首元まで汗の雫が流れた。

「どなたか存じませんが、この寺に近寄ってはなりません。なるだけ遠くにお逃げなさい」

「逃げる?」

「逃げるという言葉は良くありませんでしたな。……とにかく、ここで見たことは忘れて一刻もはやくお帰りなさい」

 スバルと彼の視線が合わさることはなかった。彼の両眼は真っ黒な墨のようなものに塗り潰され光を失っていた。眼を塞がれているのは他の僧侶も同様らしく、原因といえばおそらく怪異の妖力の残滓(ざんし)で、ハヤテが寺院を遠ざけていたのはこのためだろう。──と、自分を納得させつつ、無知を装ってスバルが「なにか、ありましたか」と尋ねてみると、

「はは……いやなに、大したことじゃありません」

 和尚も白々しい前置きのあとに、

「なんと言いましょうか……ちょっとした加持祈祷の最中でして。お彼岸も近いですから帰ってくる故人のためにこうして一晩、外でお経を唱えるのです」

「はぁ、そういうことですか」

 なんとも苦しい言い訳だが、位の高そうな老僧にそれらしく説明されたら、そうした催事に関心のない人は誤魔化されたかもしれない。──しかし、そう言ってみせた浄胤和尚のあぐらをかいた脚から背中にかけて、大きな紅い(はね)を生やした蝶か蛾のような妖虫が隙間なく取り付いているのが夜目にもありありと見えて、烏丸スバルはそれどころではなかった。

 ──これは、いったいどういうことなのよ!

 地面の草花から頭上をおおう樹木の端々まで同様の虫がひしめいて、扇を優雅にあおぐ貴婦人のように幅広の(はね)をゆっくり開閉させている。無秩序に蠢いているようでありながら、彼岸花の群れか、巨大な瓔珞(ようらく)──仏壇にさげる飾り──が垂れ下がっているようにも見えて、防風林の一角は和尚たちとともに拝殿が出来上がったようであった。──それでも不気味さのほうが勝るのは、これだけ生き物に囲まれながら、その他にいるであろう虫たちの声や息づかいがまるっきり感じられないからである。

 ふと、スバルは手の甲にとまっている虫を反射的に振りはらったが、それは手首を返すうちに忽然と消えていた。嫌な予感がして、試しに足もとの一匹を踏みつけると足裏にあるはずの死骸もない。

 ──この蚊柱すべてが幻なのか?

 もとより寺院のほうから漂ってくる血生臭さもあいまって悪夢の中に迷いこんだようであった。

「…………」

 彼女はなにを思い立ったか竹林のほうに音もなく走って行った。

「……ところで、そちらはどうしてこんな所に?」

 返事を待ったが、すでにスバルの姿は消えていた。しばし和尚は耳をそば立てたあとで、ため息をついた。

「行ったのか……ああ、申し訳ないことをした」

 浄胤和尚は静かに手を合わせた。あたかも顔も名前も知らない烏丸スバルの冥福を祈るかのようであった。──

 

 泰陽寺の北西……なだらかな丘陵地帯には空に抜けた広大な土地を見つけることができる。

 緋辻山(ひつじやま)公園は市街地と自然の境目にあたり秩武(ちちぶ)市の街並みを一望できる位置にあった。中世の頃から武洸山の裾野(すその)にある関東の景勝地として知られており、咲き誇る花々に彩られた緋色の道辻(みちつじ)を見物しに遠方からも多くの人が足を運んだことから緋辻山と呼ばれるようになった。

 時代が進んで一帯が市営の自然公園になると四季折々の草花が計画的に植えられるようになり、とくに春先に見頃をむかえる芝桜は見渡すかぎりの丘一面を桃色に染め上げる絢爛ぶりで、市の観光事業の目玉のひとつになっている。

 夏頃(いま)ではユリの花の紅白と花菖蒲(はなしょうぶ)の薄紫が鮮やかに色づいている頃だろう。──しかし、そうした園内の光景には脇目もふらず烏丸スバルはハヤテの先導するほうへ向かっていた。

 雲間から楕円形の月がのぞいている。雨よりずっといい天気だがスバルにとってこれほど心細い夜もなかった。怪異の鱗粉のせいで草の人員もまともに機能していないだろう。むこうから接触がないのが何よりの証拠である。

 ──偵察係が勝てるだろうか?いや、自分は負けても構わない。だが梓巫女たちは何がなんでも生かさないといけない。神だの荒魂(あらみたま)だのと理屈を並べるより直感で彼女たちに生きていて欲しいと思う。

 ひとりで安全圏まで退避して応援を呼ぼうかとも思ったが、不二先輩や松永さんのことが脳裏にチラついた。いまさら夜導怪について部外者ではいられなかった。復讐に身を燃やすほどタフではないが自分のうしろに斬鬼の対魔忍が控えていると思うと気が楽になる。

 ──凜子(あのこ)はきっと、どんな相手にも上手く対処するだろう。それだけの腕と才能がある。

「……もちろん、わたしたちだって負けちゃいないけどね」

 スバルは空を見上げてニッと笑った。数百メートル先のハヤテは墨色の雲間に入っていった。

 ──短い青草に覆われた見晴らしのよい丘の上で、五人の梓巫女たちがそれぞれ半径三メートルほどの円を描くように走っている。

 巫女装束の五人は、弓や長巻、鈴を持ち、ある者は誰かに追われているように、ある者は誰かを追い詰めるように、いずれも必死の形相で、鼻水を猫のヒゲのように頬まで薄くのばしながら、疲労にあえぐ口の端から白く泡だった体液があふれさせている。

 本人たちは致命的な錯乱状態に陥っているのだが、側から見ると、酒に酔ったコスプレ集団が乱痴気騒ぎを起こしているようにしか見えない。

 そんな阿鼻叫喚の五つの輪の中央で、あはは……と、これまた場違いな笑い声が混ざっている。和装の童女──夜導怪・雀女が、柚月から取り上げた紙細工を、ひとつひとつ手で千切っては紙吹雪にして飛ばしている。細腕を伸ばすたびに振袖がひるがえり、そこからサラサラと細かな鱗粉が宙に舞う。梓巫女たちは幻術にかかりながらそれを絶え間なく浴び続けていた。

 怪異の鱗粉は目鼻口、皮膚から体内に侵入し、心身の平衡感覚をかき乱す大変な劇薬であった。巫女たちは一様に、両眼は蓋をされたように真っ黒であった。肉体の限界はとうに迎えていながらも、脚から腰、背中まで全身の動きが止まらない。梓巫女たちは自分たちの置かれている状況すら把握できていないのだ。

 ──高笑いの途中で、雀女は地べたに横座りしていた体勢から三、四メートル真上に跳んだ。股下を横なぐりの風が突き抜けていった。細長い物体が飛び過ぎて丘のむこうに消えていった。

「うん?」

 一人の女が先端を斜めに切った青竹を両手に構えて突進してくる。

「なんじゃ、あれは?」

 雀女は呆気にとられた。雀女も烏丸スバルもお互いに接触するのはこれが初めてだが雀女に警戒心は無い。……というのも、梓巫女に秋山凜子(よそもの)と、自分に向かってくる相手を幻術で完封した雀女には隠しようのないほどの自信と余裕があったし、殺気も覇気も無いたかが女ひとりが自分をどうにか出来るなどとは塵ほども思っていなかった。

 人間でいうところの慢心というやつだが、夜導怪・雀女にそうした自戒の概念は無かった。だから烏丸スバルが自分に一直線に走ってくるのを眺めて最初こそ鼻で笑っていたが、よくよく思考を巡らせると眉間にシワが刻まれていった。

 ──こいつ、どうして見えている?

 突き出された竹槍を雀女が両手で受け止めた。雀女の小さな指が青竹を割り箸のように縦に裂いた。スバルは竹槍を手放して前に跳んだ。ぷぅッ──と、口に咥えた棒手裏剣が雀女の顔に飛んだ。秋山凜子が道しるべ代わりに落としていた棒手裏剣を彼女は道すがら拾っていたのだ。

「びゃャッ──!」

 左目を潰され仰け反った雀女に、突進の勢いを残したスバル自身が迷うことなくタックルを決めた。掴み合いになった両者は丘の上から、なだらかな斜面を転がっていった。子供と大人……体格差は歴然としているが雀女の腕力は子供のそれとは比べものにならず、十本の小さな細指がスバルの左右の腕に穴を空け、筋肉を絞り潰した。骨まで響く激痛をものともせず、スバルは雀女の着物の(えり)を取ると、グッと引き寄せて頭を振りかぶった。

 バチィッ!──スバルの額と雀女の鼻筋とが静電気みたいな音を立てて衝突した。雀女の鼻は埋没し、ぷっくり膨れた可憐な上唇は裂け、砕けた乳歯と海苔の佃煮みたいな体組織が飛び出した。

「あえっ、あええっ」

 頭から全身に抜ける電撃と灼熱──対魔粒子の乱流と波紋──を感じて雀女は驚嘆のうめき声をあげた。

 眼前の女の瞳はあますところなく漆黒に沈んでいる。鱗粉を吸収すれば幻術にかかる筈なのにスバルの表情に戸惑いの色はなく、それどころか伸ばした両手は雀女の細首をがっちり押さえてはなさない。

 ──なぜだ、なぜ乱心しない!

 顔面の穴から鮮血の泡を吹かしながら雀女は手足をがむしゃらに動かした。全身から揺れ落ちた大量の鱗粉がすっかり空気を煙らせている有利な状況にありながら、殺気も覇気も平凡な人間の女に圧倒される……雀女にとってこれ以上の屈辱はなかった。

 なぜ烏丸スバルは無事なのか。──いや、実際のところ無事ではなかった。

 怪異の毒鱗粉は全身にまわっているし肉体のダメージは確かなものだった。──しかし、それを感覚する烏丸スバルの意識は、はるか上空百メートルのところにあった。

 彼女は自身の体を機能させる一方で自意識の大部分を相棒のハヤテに移していた。怪異の幻術に惑わされていなかったのではなく、耳目から伝わる情報のほとんどを自ら捨てていたのだ。

 いまこの場に烏丸スバルの意識はふたつに分裂したと言える。彼女の体を動かしているのは肉体の反射機能と、自分自身ですら知覚しえない潜在意識、そして全身をめぐる対魔粒子のエネルギーであった。偵察と哨戒が主な仕事の対魔忍スバルだが備わっている身体能力はアスリートにも引けをとらず、恐れや不安を処理する必要のなくなった身体はこの土壇場で予想外の怪力を生み出していた。

 

「──どうしたんだい?」

 足を止めた凜子に、前を行く秋山達郎が振り返って声をかけた。竹やぶを外れた先の真っ暗闇はまだ続いていた。

「姉さん?」

「いま誰かが……」

 凜子の見つめる右手首には茅の腕輪がある。それが進行方向とは逆に彼女の腕を引っ張ったように感じたという。

「追手か?」

「いや、たぶん違う」

 暗闇の中で確認できるのは自分と達郎だけだ。達郎に「ついて来て」と言われその通りに付き従ってきた凜子だったが、植物の茎を編んだだけの玩具みたいな腕輪が彼女の心をざわつかせた。

 ──この時、四人の仲間から逃げ続けている紗世もまた、腕にはめた茅の輪がカサカサ揺れ動くのを感じた。

「え、なにこれ!」

 茅の輪を編んだ紗世自身にもそれが何を意味しているのか分からない。それに正直言って御守りにそこまで期待していなかった。この走り続けるだけの退屈な空間に何かしらの変化が起きつつある……あるいはもう起きているのを自分が見過ごしてしまったのかもわからない。

 後方からは梓巫女たちが迫ってくる。──いつからか、それらが黒の長髪をへばりつかせた髑髏(どくろ)に変わっているのは、紗世の極限の心身を投影している為だろう。

 ──止まれェ、紗世ォ。

 ──紗世ちゃーん、そっちに行っちゃ駄目よォ。

 ──おーい紗世、戻って来ォーい。

「ええい、もうウンザリだ!」

 振りかざした紗世の手から一枚の紙垂(しで)が飛んだ。空中に閃光がほとばしると同時に鳥の影が颯爽とそれを掴んだ。鳥とともに上昇した光は大きな日輪を地上に描き、紗世の驚愕の声も、髑髏たちの断末魔も、全ての陰影を消し去ってしまった。── 

「あれはなんだ……もしかして、ハヤテか?」

 秋山凜子は暗黒の地平線から朝日のごとく膨れあがる光に釘付けになった。

「さあ、とにかく行こう。もうすこしの辛抱だ。もうすこしで帰れる」

 達郎は凜子を促したが、振り向いた彼女は納得がいかない風で、

「……帰るって何処に?」

「どこって(うち)に決まってるだろ」

「家に帰ってどうする?」

「姉さん、戦いっぱなしで疲れてるんだよ。すこし休んで出直そう」

 達郎の差し出した手を凜子は首を振って拒否した。

「……達郎、お前ひとりで帰ってくれ。私は戻るよ」

「なに言ってるんだよ、ここまで来て!」

「どうも戻らなきゃならない気がするんだ」

「やめろ、行くな!そうまでして死にたいのか!」

 制止の声に振り返ることなく、

「……許してくれるはずだ。私の知ってる達郎なら。──」

 凜子はフッと笑うと光の方向へ単身駆け出した。立ち尽くす達郎の幻影を残して。

 ──紗世、柚月、多恵、瑞穂、唯愛、そして秋山凜子は、それぞれの眼に映る幻覚のなかに同時期に発生した予期せぬ光に導かれた。みな不可思議な現象に困惑しつつも、夢幻地獄に垂れるひとすじの蜘蛛の糸を見つけたような心地だった。

 

 ──雀女の首が両側からアルミ缶のように潰された時、烏丸スバルの腕と足が四本、それぞれ肘と膝からスッパリ切断されて、頭だけを残した胴体が軸を失った風車のように宙を回転した。

 あらぬ方向を向いた雀女の顔はそのままで、乱れた(そで)の下からのぞく生白い両足の間には、とぐろを巻いた一本の管が伸びている。昆虫が花の蜜を吸うための口吻(こうふん)と呼ばれる器官に似ているが、雀女のそれは鋭利な糸鋸の刃であった。それがしなやかに空を裂いてスバルの手足の骨を容赦なく断ち切ったのだ。

 股間から二つの大きな眼……子供の頭部ぐらいある巨大な複眼がのぞいていた。陶器のように白かった肌にはふさふさの毛が伸びて、表面積は数倍にふくれ、あでやかな紅色の振袖は大きな(はね)となって左右にひろがった。

 上空の烏丸スバルも呆気に取られていた。まさか怪異が小さな子供然とした身体を突き破って一匹の大昆虫に変化しようとは。色と形だけを見ればベニスズメに酷似しているが、大きさは虫ではなく、もはや戦闘機(グリペン)である。その怪奇きわまる形態は「羽化」よりも「化けの皮が剥がれた」と言ったほうがふさわしい。

 雀女が烏丸スバルを見下ろした。体格差はすっかり逆転していた。胴をよじると左右の翅が風を生み、飛ばされそうになるスバルの腹を口吻の先端が画鋲みたいに刺しとめた。

 ウッ、とスバルの口から漏れたのは、苦痛に悶えるため息か、腹を突かれて飛び出たつまらない空気か。──

 大蛇のような口吻が風にたわんで空気を震わせている。弦楽器の低音のような、不気味な(わら)い声のようなそれを、丘の上にいる梓巫女たちも聞いていた。五人は足を止めて、その場に倒れ込んでいたが、漆黒にくすんだ十個の瞳を怪異のほうに向けていた。

 成虫になった雀女の腹部のくびれ……首の生えていたあたりに揺れ動くものがある。血に染まったそれは雀女の首をへし折ってから今まで怪異を捕らえて放さなかった烏丸スバルの両腕である。

 ハの字になって開いたり閉じたりする二本の腕は、五人の巫女たちの眼に羽ばたく鳥を錯覚させた。幻覚から引き戻してくれたのは太陽のように眩しい光だったが、これは赤々と輪郭を波打たせる炎であった。──両腕の血肉にのこる対魔粒子の起こした発火信号(フレア)を受けたのは秋山凜子も同じだった。

 空間を跳躍して頭上におどり出た凜子の姿が雀女の複眼すべてに映った。スバルを捨てた雀女が口吻のさきを真上に伸ばすよりはやく、凜子の身体が青白い彗星となって怪異の胸を貫き、腹を抜け、地面に巨大な土柱を立てていた。

 逸刀流・(かえで)ノ型。──重力を反転させた破壊的な急降下は怪異にとって青天の霹靂だった。対魔粒子は雀女を内側から焼いた。蛾の化身はふたつの傷口から青い炎を噴き出しながら、爆発か断末魔か、ボワーっと汽笛のような音を響かせた。

 ──丘の上から白い狛犬が三匹、風のように駆け下りてきた。飛びかかる直前、怪異の翅が地面を薙ぎ、突風と土砂が狛犬と凜子をまとめてなぎ払った。鱗粉と火の粉、土煙、灰が虚空に渦巻き、およそ花の名所とは思えない地獄絵図であった。

 土に埋もれた秋山凜子が再び地上に顔を出した瞬間、槍の穂先のように鋭くとがった口吻と石切兼光とが幾合も火花を散らした。

 泥と土を頭からかぶった凜子は腰を落として自身の三、四倍以上はあろうかという怪異の巨体を見据えた。──眼を失っている彼女は心眼を開いて雀女と渡り合った。……とはいえ、それは猫に追い詰められた窮鼠の悪あがきに等しかった。実際、雀女の口吻は彼女の急所のいくつかを刺し貫いていた。

 もはや子供じみた無邪気さは消え失せて、動くものを無感情に裁断する殺戮の化身としての雀女がそこにあった。

 全身から力が抜けるのを感じて、どこまでやれるだろう、と凜子は思った。いや、それ以前に梓巫女がいなければ問題は解決しえないのだから、まずは彼女達を探すのが得策だったのではないだろうか。──

 ……まあいい。愚かな姉を嗤うがいいさ。

 凜子が石切兼光を上段に構えた、そのすこし前──丘の上の梓巫女たちは、目を塞がれながらも手探りでお互いを確かめ合い、いま置かれている事態を把握しつつあった。

「──唯愛、弓あるか?」

「あります」

 覚醒した柚月は自分の懐に紙サイコロがないことを知ると、他の四人が携えていたものを拝借して急ぎ式紙(しきがみ)を召喚した。丘を下った三匹の狛犬はこれであった。

 それがあっという間に蹴散らされたことを察知した柚月は、相手の強大さを思い知った。

「誰が相手してるの?」

「多分、凜子さんよ」

「わ、わたしも行く……」

 そう言って長巻をさがす瑞穂だが梓巫女たちは依然として目を塞がれている。全員戦うことはおろか立ち上がって歩くのも恐ろしい。

 そんな中、柚月は一計を案じたようで、手もとに残っている紙サイコロ八個を握り飯をつくるように両掌で揉み込みはじめた。

「なにしてるの」

「犬じゃ役不足っぽいからな……」

 まもなく白い紙細工はつきたての餅のように粘り気を帯びた。さらには雀女の破り捨てた柚月のぶんも、ちり紙より小さく細断された繊維たちがタンポポの綿毛のように風に乗って柚月のほうに集まっていった。両手を左右に広げると紙だったものは一本の麺になり、おびただしい数の繊維も合わせて、ほんの数瞬、風にさらすと九十センチ程度の丈夫そうな棒になった。飴細工のような手際の良さだった。

「──さあ、唯愛、これを鳥めがけて射ってくれ」

「これを?」

 柚月はやるだけのことを終えると、フゥフゥとため息をつきながら横になろうとしていた。

「だめだ……もう今日はガス欠だ。ごめん、あと頼むわ。──」

「柚月っ……」

 紗世が彼女の背中をさすった。柚月は自然と紗世のほうに頭をむけると、まもなく膝枕の上で意識を失った。それを見届けると意を決して唯愛は立ち上がった。無限に行軍を強制されていた足腰は震えて力が入らず何度もよろめいた。

「唯愛ちゃん、わたしに乗って」

 多恵が唯愛の下半身に肩をあてがって支柱となった。上体を安定させた唯愛は息を整えると矢をつがえて弦を引き絞った。狙うは前方にみえる翼をひろげた陽炎……狙うもなにも、それ以外に目印が無いのだから仕方がない。

 汗に濡れる前髪のさきが唯愛の鼻筋をくすぐった。的は見える、だがそれ以外の何もかもが見えないのが恐ろしい。聞こえるのは仲間の息遣いと、遠くで火山の噴火するような空気を震わせる荒々しいモノたちの脈動である。もはや自分のしようとしていることにすら理解が追いつかない。

 ──落ち着いて、もうすぐ隙ができる。

 聞いたことのある声だ。

 ──凜子ちゃんが踏み出すわ。

 あなた誰なの。

 ──迷わずに引くのよ。こっちに向かって。

 なにが起きてるの。

 ──さあ……来る……今ッ。

 チカッと小さな稲妻が一瞬、唯愛の頭を飛び交った気がした。自分の意識に刹那の空白があったことに気付いたときには、すでに矢を送り出したあとだった。

 ──石切兼光の上段打ちに口吻が噛みついた。雀女の胴に白い矢が食い込んだのは、まさにその時であった。

 矢の露出した部分が膨れて丸くなった。雀女の動きはあからさまにおかしくなり、苦悶するように巨体を仰け反らせて翅を何度も開閉させた。

 バリバリと音を立てて怪異の身体を内側から突き破ったのは白い節足だった。雀女と同じかそれ以上に長大な計八本の脚の持ち主は、雀女の胸に空いた穴から複数の眼を光らせながら現れた。──純白の大蜘蛛は、雀女のからだを翅ごと羽交締めにし八本脚の牢獄に閉じ込めて、多くの蜘蛛がそうするように、丸く膨らんだ尻の先から白い繊維をトクトクと放出しながら雁字(がんじ)(がら)めに縛りあげた。

 ──凜子の視界が晴れたとき荒地の中央には真っ白な繭が屹立していた。大蜘蛛は自身の全てを材料にして雀女を封じ込めたのだ。梓巫女たちも初めてみる光景に心ここにあらずといった感じで、しばらく声を発する者はいなかった。

 ふと、凜子は一匹の狛犬が土をかき分けているのを見つけた。他の二匹はどこかに埋没しているのか柚月の気絶したのと同時に寿命を迎えたか、いずれにしても残りの一匹もすぐに動かなくなって紙細工に戻るだろうという時に、それは一心不乱に前足で一箇所を掘っていた。

 近付いた凜子に反応すると狛犬は掘るのをやめて横に退いた。そこにあるものをみて凜子は絶句した。土くれのなかにあるのは烏丸スバルの横顔であった。

「嘘だ」

 凜子は石切兼光を傍に置くと両手でスバルを掘り起こした。四肢を失った彼女を抱えるとゾッとするほど軽かった。薄くひらいた瞼の隙間からは色を失った瞳が、何を語るでもなく月明かりを受けてガラス玉のように光っている。

 向かい合う二人のあいだを駆け抜けた一陣の風は、対魔忍の最後の息吹のようであった。



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その二十七

 泰陽(たいよう)寺は早朝から大騒ぎだった。

 数台ずつのパトカーと救急車が赤色灯を回転させながら寺院のまえに停まって、土塀や瓦屋根を夕日のように照らしていた。

 寺主の浄胤和尚と僧侶たちが防風林のなかで意識を失った状態で発見されたのは、太陽が昇って間もない頃だった。寺院から四百メートルはなれた民家の住人が漂い流れてくる異臭をたどって来たのが発端となったのだ。おまけに通報を受けて到着した一同がもれなく肝を冷やしたのは異臭の原因……寺院内の墓地のそこかしこに山となっている肉と骨、臓物、それらを覆い隠さんばかりに群がるハエとウジであった。

 和尚たちが病院に搬送された後、管理者不在の泰平寺に連絡を取り合った檀家たちがバケツやモップを持ち寄って現れた。その中には巡査部長・浅見由衣の姿もあったが、三子山のときと違って今回は私服姿である。

 同じような風景をほんの数日前に見ていたから彼女はとりわけ驚かなかった。寒気を覚えるものを強いて挙げるとすれば、目の前の惨状そのものより、自分の見知らぬところで大きなものが蠢いているように予感させる町そのものだろうか。

「嫌なもん思い出しちゃうなあ」

「富竹さん」

 浅見は振り向いて、そこに立っている老人に会釈した。しかめ面の富竹老人は猟師用の蛍光ベストを半袖シャツに替えて、頭にはカンカン帽、ライフルのかわりに「富竹」と名前の入った手桶と柄杓、プラスチックの柄のついたスポンジブラシと雑巾を携えている。

「まったく……こんな罰当たりなことしやがって」

「ええ、まったく」

「お巡りさんのほうで、なにか掴んでないのかい」

 さあ。と、浅見由衣は苦笑いして首をひねりながら、

「まだわかりません。それに、あたしもう警察でいられないかも知れないし」

 しばらくすると救急車と入れ替わるように清掃車と作業服をきた男達がやって来た。

「寄生虫や病原菌の危険がありますので、どうか迂闊に近寄らないように」

 その場にいた人々への挨拶もそこそこに、ゴーグルとマスクを装着した十人ほどは墓地に散らばる肉片を慣れた手つきで黒のポリ袋に回収すると、これまた決められた手順でもあるかのように、霧吹きに詰めた液体を何度も噴霧しながらこびりついた血泥を落としていく。

 境内に集まった檀家たちは手持ち無沙汰になってしまって、かといって自分の家の墓がどうなっているかは心配だから、ひとまず無人になったお堂に退避した。

 粛々と続けられる清掃をお堂の軒下から遠巻きに見届けていた浅見は、顔馴染みのおばさんを見つけて「あの人たちは?」と尋ねた。おばさんも首をかしげながら「なんでも特殊清掃の人たちだって」と返した。

「特殊……ああ、事故物件とかの」

「ま、なんにせよ助かったわ。あんなにされちゃ手に負えないもの」

「誰が呼んだのかしら」

「さあ、富竹さんじゃないかしら。こういうとき手際良いでしょう、あの人」

 富竹は首を振っていた。何人かから同じように問いただされ困惑しているようだった。

 三十分もかからずに男達は仕事を終えて、またしても挨拶もほどほどに清掃車とともに去っていった。謝礼を申し入れると「それは泰陽寺さんから受け取っているから大丈夫だ」と言って一切を受け取らなかった。

 なぁんだ、和尚さんの手引きだったか。と、ようやく納得する回答を得られた檀家衆は、思い思いのタイミングで解散していった。

「富竹さん、どう思いますか?」

「ああ、きな臭いやね」

 境内に二人のこった浅見由衣と富竹老人は、線香を手向けたばかりの中高年の家族連れを見送りながら、

「なんだか得体の知れないもんが三子(みつご)山から降りてきた、ってところか。しかし、こんな事をしでかす個体がいるなんて聞かんかったがなぁ」

「すると、やはり人の仕業でしょうか」

 富竹老人は明確な答えこそ出さなかったが「お巡りさんの出番だな」と、小さく笑った。

「まあ、そうなりますよね」

 ほのかに漂う腐乱臭に顔を歪めながら浅見はうなずいた。

 

 橋楯鍾乳洞の件から一日経ち、軽傷だった彼女は即日退院したが巡査部長として完全復帰とまではいかなかった。

 浅見巡査部長ならびに佐竹巡査の単独行動とその顛末は、野生動物に即時対応した結果ということで不問に付された。しかし、それとは別に、彼女の所持していた拳銃の弾倉に空の薬莢が三つ残されていた、という事が問題視された。

 いつ、どこで、誰が、なにを撃ったのか。──緊急性の有無、発砲までの手順など当時を知るための事情聴取が早速執り行われたが、浅見はなにも答えられなかった。

 なにしろ三発を発射したのは彼女から拳銃を強奪した佐竹巡査であり、橋楯堂内での記憶が頭からすっぽり抜けて落ちているから、佐竹の負傷もさることながら、発砲の件ですら後から知らされて驚いたほどだ。

 ──わかりません。覚えていません。を言い過ぎて、浅見は答弁をはぐらかす大臣みたいな自分に嫌気がさした。

 すでに橋楯堂のほうでは、寺の住職への聞き取りや現場検証に人員が割かれているだろう。自分のミスのために大勢が忙しなく動いているのが悔しくてたまらない。

 拳銃の使用が適正か否かを判定するためにも発射された銃弾を探さなくてはならない。発砲だけでも大事なのに、万が一にも市民が発見して、それを世間に知られでもしたら、地方の警察官の不手際で済むはずがなく、日本国家の警察機関としての沽券(こけん)に関わる。

 山谷に囲まれたなかで豆粒を三つ探し出す……何日かかるか分からない。まるで修行だ。だが見つけるまで自分は赦されないだろう。暗澹たる思いが浅見のからだを重くしていた。

 

「──あれは、お前さんの知り合いかい?」

「──え?」

 ふいに富竹老人に言われて浅見は顔をあげた。

「こっち見ながら、ずっと立ってるけど」

 境内にある大きなクスノキの木陰に黒の日傘をさした女が立っていた。胸元まで垂らした黒のストレートヘアーに保険の営業のようなパンツスタイルのスーツ。地元の人間でないことはすぐにわかった。

「誰だろう」

「まあ、なんでもいいや。おれは帰るからよ。ガクが腹空かして鳴いてらあね」

「そうですか……お疲れさまです」

 富竹老人と入れ替わるように日傘の女がこちらに歩いてきて、人ひとり分の間隔を空けて浅見のよこに座った。

 痩身で病み上がりみたいな白い肌に、前髪を横一線に切りそろえた黒髪、パンダみたいなアイライン、服装から連想されるイメージよりずっと幼い顔をしていたので浅見は内心驚いた。

「あの、なにか?」

「浅見由衣さんですね?」

「はい、そうですが」

 女は名刺を差し出した。そこには『文部科学省外局 日本神祇会 御子江華怜』とあった。

「にほん…しん…なんですかこれ?」

日本(にっぽん)神祇会(じんぎかい)、といいます」

神祇会(じんぎかい)……の?」

御子江(みこえ)華怜(かれん)……と、申します」

 うやうやしく女は礼をした。浅見も反射的に頭を下げ返した。

「あまり聞き慣れない名前ですね」

 ふふふ、と、女は笑いながら、

「そうですね、御子江なんて苗字、片手で数える程度しか……」

「いや、日本神祇会という会が……」

「あ、そっちですか。──そうですね、日本神祇会は国内から海外まで各地の宗教に基づく民俗的慣習を研究調査する学術機関でして、まぁ大雑把に言うなら……オカルト調査団といったところでしょうか」

「はぁ……」

 そう説明されたところでよくわからない。まったくもって聞き覚えのない名前に浅見は曖昧な返事をした。

「お父さまはお気の毒でしたね」

「はい?」

「あなたのお父さま。ここの和尚さまでしょう?」

「……そりゃ大昔の話。いまは他人ですよ」

「でも、心配でここに来たんでしょう?」

「ここには母と祖父母の墓がありますから」

 そうなんですね、と、女はうなずきながら墓地のほうを眺めていた。

 浅見はため息を吐きながら、

「……それで、わたしになにか?」

「単刀直入に申しますと、あなたに協力をお願いしたいのです」

「協力……わたしに相談ということですか?」

 浅見は警官らしく背筋を伸ばしてみせたが御子江という女は首を振った。左右に揺れる黒髪のツヤがてらてらと光った。

「あなたにしか相談できないことです」

 はぁ、と相づちを打ちながら、浅見は眉をひそめた。御子江は静かに言った。

「この町で起きている現象と、我々がこれからしようとしている事を理解してくださる方は、この町にあなたしかいませんわ」

「わたし、なんてことない巡査部長(おまわり)ですよ」

「これまで貴女は何度も違和感に遭遇して、その都度、よくわからないまま煙に巻かれてきた。見えないところで何かが動いているのを予感しながら自分一人ではどうにもできない不満が限界に達しているのではありませんか?」

 みるみるうちに浅見の顔が不機嫌になっていって、

「……あの、勧誘ですか?石とか壺とか、数珠でも買わせるつもり?」

 うんざりして立ち上がると、御子江も立ち上がって彼女の正面にまわった。手で軽く押してやればあっさり倒れそうなくらい華奢な体格だが、なにか距離を詰めづらい雰囲気がある。

「一家の集団失踪。車両の炎上事故。三子山と泰陽寺に残された大量の死骸。その他二、三の細かな騒動──ここ数日の騒ぎについて、わたし達は大いに関心を持っています。勿論、橋楯堂の件についても」

「陰謀論ならどうぞご勝手に。わたしを巻き込まないで」

「あなたはすでに渦中に足を踏み入れてしまったのですよ」

 肩に置かれた手を浅見は乱暴に振り払った。──払われた御子江の手のひらには三つの塊が乗っていた。ザクロの実を潰したような原形のない鉄クズに浅見は一瞬、目が点になったが、

「こちらのほうがよかったかしら」

 と言って、手首を返してもう一度開くと手品みたいに中身が変わっている。午前のさわやかな日の光を受けて山吹色に輝く三つは、三八口径のフルメタル・ジャケット弾、まぎれもない実包であった。

「なにそれ」

「あなたの今日の探し物ですよね。撃ったのは佐竹巡査でしたが、なにも知らないあなたにこんな豆粒みたいなものを鍾乳洞から探して来いだなんて、お巡りさんも結構エグいことさせますね」

 ──なんなの、コイツ。

 浅見の背筋を悪寒がはしった。

 橋楯堂の発砲の件は周知の事実としても、自分と佐竹のどちらが発砲したか、いくつ発射されたか、そして弾丸はどこへ飛んで行ったか、署内でも知っている人間は限られている情報を、いや、警察や自分すら知らない「三発」という情報まで加えて、この女は半笑いで銃弾を召喚した。──

「今日の現場検証は中止ですね」

「なに言ってんの?」

「大いに関心を持っている。と、さきほど言いましたよ」

「…………」

 呆然とする浅見由衣を揺り起こすように、パンツのポケットに入れていた携帯がブルルっと震えた。着信は課長補佐からだった。

「浅見、ちょっと顔出してくれ」

「……わかりました」

 日傘をくるくる回しながら御子江はにっこり口角を上げた。

「送って差し上げましょうか?」

「自分で行きますから、結構……」

 ポケットに携帯をねじ込みながら浅見は足早に泰陽寺を後にした。

 

 ──十五分後、警察署で浅見由衣を待っていたのは課長補佐ならびに課長、部長のお歴々であった。四人だけの会議室で、彼女は対座する三人から橋楯堂の現場検証の中止を告げられた。

「浅見巡査部長と佐竹巡査は、武洸山の山麓付近にて野生動物と遭遇。佐竹巡査が重傷を負うなか浅見巡査部長が拳銃を三回発砲、これを撃退した。後日、現場から南東に約三キロ離れた泰陽寺の境内にて野生動物の死骸が発見され、事態は収束。──」

「──まぁ、こういうことだな、浅見巡査部長」

「は?」

「当時、きみは頭を強く打って数時間、意識を失っていた。そのため前後の記憶が非常に不明瞭で、供述にも曖昧な点が多数ある。始末書の作成もままならない程にな」

「そこをハッキリさせるための現場検証ではないのですか?」

「その件は中止になった。きみの拳銃から発射された銃弾はすべて発見されたよ」

 えっ、と浅見は声をあげた。

「い、いつのことですか」

「今朝、情報提供者があった。文科省の寺社仏閣に(たずさ)わる人間でな。──日本神祇会と言ったか、あちらが研究調査のために鍾乳洞に入ったところ、偶然みつけたそうだ」

 ──日本神祇会……本当に存在していたのか。……と、浅見は銃弾が見つかったことより、そっちのほうが意外だった。

「それでだな、拾得物をこちらに届け出すかわりに、浅見巡査部長の協力を要請してきた」

「わ、わたしですか」

「我々も耳を疑ったが……どういうわけか、きみ以外は受け入れられないようだ」

 唖然とする浅見をよそに、課長が身を乗り出して言った。

「──どうだろう、浅見くん。ここはひとつ彼らに協力してやってくれないか」

「そんな……得体の知れない相手と交渉するつもりですか?」

「そうは言っても、ほら、文科省の管轄下にある団体だろう?彼らの素性に嘘偽りの無さそうだしだな……それに協力といっても、要するに寺社仏閣における防犯指導ということだ」

 浅見の脳裏では日傘の女が笑っていた。

「それならそれで、別口で依頼すると思いますが」

「しかし、我々としては一刻も早く拾得物を渡してもらわねばならん」

「そんなの……もはや脅迫ではありませんか。遺失物の横領です」

「その落とし主はお前と佐竹じゃないか」

 課長補佐が言ったのを、やめなさい。と課長がたしなめた。浅見はなにも言えなかった。

「いいか、浅見くん。──きみと佐竹は橋楯堂でクマを撃った。逃げたクマは泰陽寺で死んだ。発砲は正当な行為だと判断された。銃弾もすべて回収された。……これで終わりだ。きみと佐竹くんの過失は無かった。すべてチャラだ」

「……巡査部長(わたし)銃弾(タマ)の交換、ですか」

「そう言うな。このままだと、キミの警察官としてのキャリアは水の泡だぞ。──いや、それだけじゃない。ことが公になれば我々だけにとどまらず県警の面目まで丸潰れになる」

 部長の言葉に課長が続いた。

「拳銃の発砲、弾丸の紛失……いかにもメディアの好きそうな話題ですな」

 部長は眼鏡を取ると、ひたいの汗をハンカチで拭った。

「ま、面目と言ったが所詮は意地の張り合いだ。菓子折りもって頭を下げてまわれば大抵のことはなんとかなる。……だが今回はそうなる前に穏便に済ませられるかもしれん。……それには浅見くん、きみの力が必要だ」

「…………」

 ふちがピンク色のハンカチは色褪せて、もとのイラストがなんだったのか判別がつかないが、部長はそれを丁寧に折りたたんで上着のポケットに戻した。同時に彼は特大のため息を吐いて言った。

「今年、娘たちが大学受験なんだ。双子でそろってね。私はまだ腹を切りたくないんだよ。──」

 

 ──警察署のまえに黒のセンチュリーが停まっていて、後部ドアの横には日傘を差した御子江華怜が立っている。

「会議、終わりました?」

「説明はあるんでしょうね」

 浅見由衣の視線も意に介さず、御子江は彼女を後部座席に乗せた。運転席でハンドルを握るのはスーツを着た男で、前方を見たまま背後の浅見には目もくれない。

「説明するより見てもらったほうが早いでしょう」

 御子江が浅見の隣に座るとセンチュリーは発進した。

 ──五分ほど走ると、そこは緋辻山公園であった。

 芝桜の丘に黒煙と火柱が上がっている。恐ろしく勢いの強い炎で、渦を巻いた真っ赤な竜巻のようであった。炎の中心に黒い影がある。なにか巨大な物体を囲むように焚き木が井の字に組まれて、ログハウスのようになったものに火をつけたらしい。

 さらにそれを囲む人影……熱波のなかに居ながらすこしも怯む様子を見せない巫女装束の女たちが、手を合わせて拝み、弓を弾き、鈴を振り鳴らし、なにか祈祷じみたことをしている。

 煙に引き寄せられたのか遠巻きに見物人がちらほらいる。御子江と浅見もそのなかに混ざって事の成り行きを見守っていた。

「あれは、なにをしてるの?」

大祓(おおはらえ)……盛大な悪霊祓いです。この土地にあらわれた悪霊をあの炎で焼き清めるのです」

「どうしてこんな所で?」

「あそこで拝んでいる巫女が悪霊を捕らえる係。大体はこじんまりと儀式を終えるのですが、今回は相手と場所が悪かったようですね」

「それで、わたしに何をしろと?あの人たちの警護、それとも今すぐ止めさせる?」

「いますぐに、という話ではありません。然るべき時が来たら、あなたには警官として職務を全うしてもらいたいのです」

「あの巫女たちを捕まえろ、というの?」

「ここ数日、あなたの遭遇してきた面倒ごとのほとんどは、あの巫女たちによるものですよ」

 横風が吹いて炎が揺れた。巫女のひとりが横っ飛びに火の粉から逃げた。たしか夜の空き地で爆発騒ぎを起こした連中も似たような格好をしていた。

「捕まえるったって証拠でもあるの?」

「用意ならできますよ。あなたが望むだけの量をね」

 御子江は不敵な笑みを浮かべた。

「……そんな都合良くできるなら、なにも警察(こっち)に頼まなくたって」

「我々には逮捕する権限なんてありませんもの。最終的には巡査部長さん頼みですよ」

 ──やがて火の勢いが弱まって、丘にはストーンヘンジの一部のような立方体の、ほのかに燈色の火種をのこす炭柱だけが残った。これだけのことがありながら消防や警察の人間がひとりも駆けつけなかった。

 もちろん公園側に許可を得ていなければ火を灯すなんて行為が出来るはずもないだろうが、突発のイベントの終了を悟ってぞろぞろと散っていく野次馬を見るに、どこかみな他人事で、真昼のキャンプファイヤーを眺るのに夢中なあまり、しかるべきところに通報するということを忘れていたようだ。

「──彼女たちはあと二回、同じような祓いの儀式を行うでしょう。それまでは様子見で」

「様子見……儀式を阻止するとかじゃなくて?」

「わたしが合図するまで黙視でお願いします」

 御子江は腕時計に目を向けると「日暮れにまたお会いしましょう」と言って去っていった。浅見は小さくなっていく日傘と、一方で地面にへたりこむ巫女装束の数人とを交互に見ながら呟いた。

「奇妙な巫女(おんな)達、奇妙な背広(おんな)、奇妙な儀式……」

 ──結局、泰陽寺の異臭騒ぎは野生動物の仕業ということで終息した。

 緋辻山公園の丘に残された巨大な炭のオブジェは、何の目的で誰が企画したものか釈然としないまま夜更けにひっそりと姿を消したが、そのことに気付く者や、真相にたどり着いた者はついに現れなかった。

 無理もない。空間と空間を繋いで物体を跳躍させる人間が存在するなどと、はたして誰が想像できようか。──



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その二十八

 秋山凜子と草たちが見下ろす中、烏丸スバルを納めた黒の遺体袋のジッパーが閉じられた。怖いくらいに晴れわたる夏の空の下で、烏丸スバルの亡骸は家族連れや若者グループでにぎわうキャンプ場のすぐそばを軽トラに揺られて運ばれていく。

 草の隠れ家であるコテージは重たい空気に包まれていた。対魔忍の死亡はこれで三人目。当初の予定である草の捜索に充てられた先遣隊は全滅ということになる。

 それ以外にも怪異によって死亡ないしは重軽傷を負った草のメンバーは数知れず、とくに昨夜の幻覚騒ぎは広範囲におよび、いまだせん妄状態にある者も少なくない。

 ギプスで固めた腕を首から吊った乃愛が、それを見送りながら肩を大きく震わせて泣きじゃくっている。すみやかに草たちは解散し、あとには足跡ひとつ残らない。

「どうしてそんな薄情でいられるの。スバルさん、死んじゃったのよ」

「最期を見送ることができた……お互いにとって、とても幸せなことよ」

 乃愛が目を赤く腫らして怒ったような口調で言うのを、彼女と唯一、交流をもった女医が静かにいさめた。

「そんなの嘘だよ、何の意味もない……わたしは何もできなかった!」

 庭先にうずくまる少女と、それに寄り添う女性を、中年の男はコテージから眉をひそめて眺めている。

「……監視対象と距離を縮めるのは、あまり好ましくありませんな。──貴女もすっかり(ほだ)されたようだ」

 男の厳しい視線には一ミリも関心を示すことなく、秋山凜子は眠りっぱなしの柚月のかたわらで、その寝顔を見つめている。

「彼女がいなければ、わたしは死んでました」

「無計画に突っ込まなければ、あなたほどの人が、それほどの深手を負うこともなかったでしょうね」

 半袖のシャツを着た彼女の胸や腹、腕には包帯が巻かれている。ほとんどの傷は対魔粒子を混合した血液製剤を輸血したことで、打撲や裂傷、骨折まで治癒されているが、はたから見ると痛々しい事この上ない。

「これは距離の問題だ……適切な距離を保ち続けていれば、烏丸どのが命を落とすこともなかった……思い返せば松永どのもそうだった!」

 結果論だが、それでも男は言わずにはいられなかった。松永蔵人をダムの構造体から回収しようとして凜子に横槍を入れられたのも彼であった。

 あのときは忍者の痕跡をこの世から消すために生死を問わず回収することを命題としていたが、蔵人が凜子によって無事救出され廃寺に匿われたことを知り、凜子を疎ましく思いつつ、迷わず彼は五車本部までの輸送計画を練った。

 しかし、その夜のうちに松永蔵人は再び消え、翌朝、土塊(つちくれ)になって帰ってきた。一人の梓巫女を救出し、一匹の怪異を無力化するために、自身の命を代償に忍法を放ったという。

 そして、烏丸スバルもまた、梓巫女を助けるために単身突入し、無残な五つの破片となって果てた。

 草とて諜報員の端くれだから目的遂行のために命を捧げたことを否定するつもりは毛頭ない。しかし、ここ数日の対魔忍たちの無謀な義侠心には寒気さえ覚える。怪異が燃えさかる炎ならば、そこに飛び込んでいく夏の虫が対魔忍だ。彼らの選択が正しかったかどうかは、怪異が封印されたという結果のみが物語っている。しかし、それは本当の決着と言えるのか。

「──これ以上、無茶を重ねて対魔忍(あなたがた)を失うわけにもいきますまい。すぐにでも本部に応援を要請するか、もしくは撤退を具申すべきです」

 凜子は立ち上がり、男の横を過ぎた。

「そのときは……()()()()お願いします」

「またそうやって……誤魔化してばかり!」

 キッと男が振り返ると、凜子の姿はどこにも無かった。

「尻拭いをするのは我々なんだ!」

 

「──日本神祇会って知ってる?」

「は?」

 浅見巡査部長から唐突に尋ねられて、デスクで書き仕事をしていた原田巡査は目を点にした。

「にっぽん……何ですか?」

「じんぎかい。ニッポンじんぎかい」

「バンドですか?」

 浅見は首を振った。

「あんたなら、なにか知ってるかと思ったけど」

 わかりませんねぇ。と原田巡査は首をかしげた。二十代前半の原田巡査は浅見由衣の受け持つ駐在所のなかでも最年少であった。オカルトや陰謀論を観察するのが趣味なのか、そういった怪しい話には目がない男だ。

「それで、なんですか、その日本神祇会って?」

「学術機関だっていうけど、でも実際のところ、よく分からないんだよね……まぁいいの、聞いてみただけ。忘れて」

 そうですか。と原田巡査はうなずきながら、自分のスマホに目を落としている。

「日本神祇会……ははぁ、文化庁の機関なのかな……」

「最近、よくわからない連中が増えたわね」

「……しかし、実際のところ、そういう組織って結構あるんじゃないですかね」

 ふいにボールペンを机に置くと、彼は賢者みたいに渋い顔をして腕組みした。とはいえ、くだらない話になると真剣な素振りをする男なので浅見はとりわけ驚いたりしない。

「ほら、十年前か、そのちょっと前ぐらい……台湾危機のときにも、むこうの紛争にかこつけて法案を強引に通したり、省庁再編を推し進めた閣僚や議員連盟、官民一派がいくつかあったらしいですよ」

「たしかに、そういうニュースもあったかな」

 浅見は天井を見上げて頷いた。

「あの頃の政治家と言えば、頑固なタカ派と、狡猾なハト派ぐらいなもんで……NPOを隠れ蓑に、自分に有利な団体に大量の使途不明金が流れたって噂も……大っきな陰謀には裏で工作する大勢の手があるってことなんですよ」

「そんなもんなのかしら」

 首をかしげる浅見由衣に、原田巡査は身を乗り出して言った。

「いやなに、警察だって他人事じゃありませんよ。──公共安全庁は、海外に潜伏しているテロリストや、政治団体の動向を監視していて、ただでさえ秘密警察なんて揶揄されてますが、実際のところはもっと凄まじい集団がいるみたいで……」

「凄まじいって?」

「東京湾にある人工島、ありますでしょう?」

「ああ、あの……」

 東京湾に放置された人工島の存在は浅見由衣も知っている。

 都心部拡張計画は「第二の霞ヶ関」をスローガンに、当時の都知事と総理大臣肝入りのプロジェクトとして発足した。しかし、国際情勢の翳りを受けた建設費の高騰に加えて、大手ゼネコンによる談合事件、企業誘致における国会議員の汚職事件と目も当てられない醜態が露わとなり、コンクリートの浮島を苦心の末に完成させたところで、あっけなく政権は交代、沈みかかった船を立て直そうとする民間企業もあるにはあったが、どれも上手く行かず、結局、プロジェクトは規模を縮小させながらタライ回しを繰り返し、十年と経たずに自然消滅した。

 ただひとつ残された人工島には、いつしか浮浪者や不法移民が住み着き、やがて暴力団や半グレ、アジア系のマフィアなど、本土からはじき出された危険因子が流入し、犯罪の温床となっている。

「──なんでも、あの島のなかで起きる揉めごとを内密に処理する部署があるとか」

「処理……」

「要するにあの島は“現代の出島”なわけです。ただ昔と違うのは、そこにいるのが悪魔みたいな奴らってことで。ご丁寧に滑走路と港まで敷いてしまったものだから、出入りもひっきりなし。島の中は見えないのに迂闊に覗くとケガをする……だからこその特別部隊ですよ!」

「特別部隊……潜入調査する人たちがいるってこと?」

「ええ。僕が思うに……ニンジャですよ」

「……は?」

「極悪人を成敗する正義のニンジャ……”殺しのライセンス”を持っていて、摩天楼をひとっ飛び、背中にさした刀をピューっと……」

「……さも見たかのように話すのね」

 へへ、と原田巡査は照れ笑いした。浅見由衣は肩を落として苦笑いした。

「ニンジャって、もう特撮じゃないの」

「自分、時代劇とか結構好きで。巨悪を人知れず葬る……って、なんかカッコよくないスか」

「そりゃ見栄えよく作ってるからねぇ……どんな理由があるにせよ、コソコソ動いてる連中なんてロクなもんじゃないよ」

 夢が無いなぁ。と、原田巡査はため息まじりにペンを回した。

「──それじゃ、わたしは出るけど、あとよろしくね」

「ええ、行ってらっしゃい」

「あんまり怪しいモノは見過ぎないように!」

「わかってますよ!」

 駐在所には原田巡査のほかに、不在の佐竹巡査の代打で署からやってきた巡査と、優秀な巡査長がいる。その二人にも礼を言って、浅見はひとり御子江に指定された場所に向かった。

 

 ──夕方、泰陽寺の門前にオレンジの軽バンが停まった。

 門をくぐったのは多恵と唯愛だ。二人は境内にある古めかしい瓦屋根の鐘楼へと向かった。そこに吊り下げられている梵鐘の内側に脚立を立てて作業しているのは紗世と瑞穂で、青銅の鐘の裏側に、和紙を糊でつなげたものを隙間のできないように貼り付けている途中であった。

「お、帰ってきた」

「お疲れさま」

 多恵がペットボトルの冷たいお茶を差し出した。受け取った二人は喉を鳴らしてあっという間に飲み干した。多恵が梵鐘を触ると日陰にあったそれは仄かに冷たくて気持ちがいい。

 四人は鐘楼の石の土台に並んで座り、多恵のパート先である仲原屋のみたらし団子を囲んだ。

 多恵と唯愛は、午後を通して市内の各地にいる人間を見舞いに巡っていた。

「和尚さまはどうだった?」

「熱中症だって。あと一日か二日、大事をとって入院するみたい」

 お手伝いの堀田や若い僧侶などは昼過ぎには寺院に復帰している。ガラスの砕け散ったサッシや割れた板戸、床板、畳など、嵐の過ぎ去ったような宿坊を片付けるのに追われており、いまも作業の音が聞こえてくる。

「柚月はどうだったの?」

 瑞穂が尋ねると、多恵と唯愛は伏し目がちになった。

「声でも掛ければ起きるかなと思ったけど、やっぱり無理だった。凜子さんの知り合いだっていうお医者さんにも診てもらったけど、具合が悪いってふうでもないみたい」

「なら霊力切れってところかしら」

 そうね、と多恵はうなずいた。みな緋辻山公園の巨大な繭を思い出した。柚月は雀女を封した紙の繭に火をつけて焚いた後、気が抜けたようにへばって、そのまま眠りについてしまった。

「あんな大きな式神を急ごしらえで作ったんだもの。あの子、まさに全身全霊だったのよ」

「乃愛のほうは?」

 聞かれた唯愛は口もとに笑みをつくった。

「ギプス着けてたけど、元気にしてたよ」

「そう、よかった。──でも、これで梓巫女(わたしたち)は四人か。大丈夫なのかな」

夜導怪(むこう)は一匹……いや、二匹かな。なぁに、いけるいける。楽勝よ。凜子さんだっているじゃない」

 瑞穂の言葉に三人は笑った。明らかな空元気でも彼女たちには頼もしく思えた。

 

 ──国道沿いの道の駅は営業を終えて消灯している。無人の駐車場にひとりたたずむ制服姿の浅見由衣を車のヘッドライトが照らした。彼女の目の前で停まったのは昼間とおなじ黒塗りのセンチュリーで、開かれた後部座席を覗き込むと、やはり御子江華怜が座っている。

「……こんばんは、お巡りさん。こちらにどうぞ」

 浅見は彼女の隣に座った。ドアがひとりでに閉まると車は発進した。警邏(けいら)用の装備一式をつけた紺色のベストをまとう巡査部長は、整然とした革張りの車内ではこの上なく滑稽であった。

「それで、これから何を?」

「張り込みです」

 国道を北上し、街灯のまばらにひかる住宅地を抜けると、到着したのは広大な段々畑を見下ろす丘の上であった。眼下には数百メートル先まで田畑が広がり、数百枚ある水田で青々とした稲穂が夜風に揺られている。

 道のはずれに停車すると運転手がエンジンを切った。遠くには屏風のような武洸山の威容が見えた。

「ここで張り込み?」

「ええ、もうすぐ来ますよ」

 暗闇の車内に静寂が張り詰めた。十五分もしないうちに、だんだんと車内に蒸し暑さがこみ上げてくる。御子江は涼しい顔をしているし、運転手は物音ひとつ立てない。目の前にひろがる棚田を眺めていても、たまに現れるホタルの光の群れを見つける以外には、浅見由衣にとっては何年も見慣れた光景であった。

「あの……いったい、なにが──」

 そのとき、白い影がサーッと、浅見たちの後方から車の横をすり抜けて段々畑を駆け下りていった。動きと背格好からして野良犬かイノシシの類いのようだが、夜闇にも白だとわかるくらいにハッキリとした純白だったので浅見由衣はゾッとした。

 彼女がなにか言うよりはやく御子江華怜が「来たッ」と助手席のほうに身を乗り出した。白い影を目で追いかけようとした直後、フロントガラスに巨大な影が落ちて、一回転したかと錯覚するほどに車体が大きくはずんだ。

「どわっ!」

 天井に頭をぶつけて悶絶する運転手と座席からずり落ちた浅見をよそに、御子江はひとり外に飛び出した。墨色の暗雲が白い影を追いかけるように棚田へ飛んでいくのが見える。ボンネットは金槌で叩いたように大きく凹んでおり三叉の矛のような四本指の足跡がある。跳び箱を越える直前の踏切板のように、車体を上から踏みつけて大きく飛んだようだ。衝撃でひび割れたフロントガラスには火山灰のように墨色の羽毛が散乱していた。

「これは、鴉天狗か……」

 近付いてくるエンジン音を聞いて、とっさに御子江はセンチュリーの陰に身を潜めた。目の前をオートバイのテールランプが彗星のように駆け抜けていった。

「さあ来た……浅見さん、始まります!」

 やっとこさドアを開けた浅見由衣は、御子江と棚田を交互に見ながら「なにが始まるの?」と尋ねた。

「なにって四百年に一度のお祭りですよ」

 御子江は目を輝かせながら答えた。

 

 ──白衣と袖と緋袴の裾を風になびかせてハンドルを握る瑞穂と、その背中に唯愛がすがりついている。オートバイは墨色の雲を追いかけて町を南北に縦断する横勢(よこぜ)川に沿って棚田までやって来たのだった。

 紙細工の狛犬たちが雲に飛びかかり、弾き飛ばされ、水の張られた田んぼに落ちた。

 上体を直立させた唯愛は左手に携えていた和弓を構えると、右手の指で弦を引きしぼった。その姿は流鏑馬(やぶさめ)のようであった。弦を弾くと「ビャン」と音がするだけだが、霊力を練って作った透明の矢は夜空を昇って墨色の雲を散らした。

 雲の中から墨色の糸を引いてあらわれた人影は、並び立つ電柱から電柱へ一足飛びに移動している。漆黒の篠懸(すずかけ)括袴(くくりばかま)、錫杖を小脇に抱えた夜導怪・虚空丸(こくまる)であった。

 先回りして道の真ん中に着地した虚空丸をヘッドライトが照らした。唯愛が正面に向かって弓を構え、瑞穂が長巻を鞘から抜き払った。すれ違いざまに稲妻のような閃光が双方の間にほとばしり、次の瞬間、二人は宙返りしたオートバイから振り落とされ、水田に突っ込んでいた。

 水のなかでバキッとなにかが折れる音がして、身を起こした唯愛はとっさに左手の感触に気付いた。

「うう……ッ!」

 放り投げられた唯愛の下敷きになったせいで和弓はふたつに折れ、するどく突き出た木片が、彼女の左腕を手首から肘までパックリ裂いて鮮血のしずくを泥水に落としている。腕の痛みよりも弓を失ったショックで彼女は動けなかった。

 そんな唯愛めがけて虚空丸が地面を蹴った。

 錫杖を受け止めたのは、空間を跳躍して出現した秋山凜子であった。

「──退けっ!」

 半身を泥に浸した唯愛が用水路のほうへ這っていくのには目もくれずに、

「その剣……お前だな、おれの腕を飛ばしやがった般若面ッ」

 鍔迫り合いの最中、白銀にかがやく石切兼光と秋山凜子をひと目見て虚空丸は確信した。──秩武(ちちぶ)神社の拝殿のうえで右腕を斬られて以来、虚空丸はこの相手に一矢報いることだけを考えていたのだ。

「片腕ではぬるい……五体まるごと散らしてくれるわッ」

 剣と錫杖が数合、火花を散らして渡り合い、肉薄したところに、ボワーーッ!っと、タコ墨のような漆黒の羽根の嵐が稲穂の海に拡散した。墨天陣の目潰しを食らう直前に凜子は水田の外へと跳躍していた。しかし、彼女の動きを見越したように着地点に虚空丸が迫っていた。

「なにっ──」

 間一髪、錫杖の突きを避けた凜子は二転三転と跳躍を繰り返し、虚空丸は執拗に彼女を追った。

「逃がさんぞ、女ッ」

 凜子は衣服や髪にとりついた虚空丸の体羽が墨色の粒子を延々と落としているのを知った。これでは空間を跳躍しても粒子を目印にしてどこまでも追跡されてしまう。

 彼女を追いかける鴉天狗が、くちばしの端を上げて笑った。

「さあ、どこへなりとも行くがいい……兎のように跳ねてみろッ」

「たしか尻尾を巻いて逃げたのは、お前のほうだったな!」

「ぬかせッ!」

 あぜ道のうえで得物同士をかち合わせた凜子と虚空丸を、一条の水流が横殴りに打ちつけた。水田に浸した長巻を瑞穂が振り抜いたのだ。

 扇状にほとばしった秘剣・白刃魚は、凜子の頬には水滴をピシャリと浴びせただけだが、虚空丸の左腕には、水で引いたラインに沿って二の腕を筋肉から骨までバターのように溶断していた。

「ケェーーッ!」

 月明かりをうけた石切兼光の青白い刃が、流れ星のように虚空丸の胴を袈裟がけに斬り伏せるのと同時に、墨天陣の煙幕が炸裂した。後方へ跳んだ凜子も、二回目の白刃魚のために長巻を水中に沈めていた瑞穂も、ハッとして動きを止めた。

 墨色の筋斗雲が墨色の飛行機雲を引きながら棚田のあちこちを飛び回っている。おびただしい量の羽毛が吹雪のように舞い、月明かりを隠してしまうほどであった。

 ──逃げるか……いや違う!

 巨大な気配を感じて身構えた凜子の両腕と頬にカミソリで切り裂かれたような鋭い痛みが走った。振り返るとコンドルほどに巨大な翼をひろげて漆黒のカラスが空に昇っていくところであった。

「あれが正体か?」

 黒曜石のように妖しいツヤを放つ三本足の怪鳥は、さながら日本神話に登場する八咫烏(やたがらす)であった。それが墨色の積乱雲に紛れて見えなくなった。

 

 白刃魚のために長巻を浸していた瑞穂は、それを水面から引き上げて愕然とした。白刃はタールに浸したようにドス黒い粘性の物質に覆われていた。怪異の散布した墨色の雲は墨色の羽毛を降らし、水田に広がったそれは水を吸って重油のように泥化していた。

「な、なんなのコレ……」

 鴉天狗の虚空丸が錫杖を真下に向けて雲間から瑞穂に襲いかかるのを、跳躍した凜子がその横っ腹に石切兼光を浴びせる。すんでのところで鴉天狗はまたしても黒い霧を吹いて消えた。

 取り残された二人は背中合わせに武器を構えるが、夜闇と濃霧が組み合わさり二、三メートル先もまともに見えない。

「ダメだ、もう目も開けてられないよ……」

 二人とも羽毛を頭から被って炭鉱夫のように真っ黒だった。からだを動かすたびに墨色の粉末がモワッと広がり、目と耳、鼻、口のなかに入り込んできて、瑞穂は咳が止まらない。

「わたしが引きつける。いまのうちに長巻の準備を」

「わかった……水を取ってくる。それまでお願い」

 翼をひろげて降下してきた虚空丸が、三本の足で濁った水をさらった。凜子が黒い水飛沫とともに怪異を追って走りだすのと同時に、瑞穂も水田を抜け出して、エンジンの音の聞こえる方へと走った。

 横倒しになったバイクを起こし、ボディにくくり付けてあるレジ袋を確認すると、転倒の衝撃と摩擦で大きく破れた袋の中に、あらかじめ水を汲んでおいた五百ミリのペットボトルが三本入れてあったのだが、二本は破裂し、のこる一本もキャップが弾けとんで中身が三分の一ほど消失している。

「クソ、こんなんで足りんの……?」

 

 苦い顔をしながら長巻の刃についたヘドロを白衣の袖で拭っている頃──この世のものとは思えない光景に浅見は息を呑んだ。

 快晴の夜空とは対照的に棚田に広がる暗雲は鈍重で、風に流れることもなくそこに留まっている。その下には黒煙が対流しており足を踏み入れる気には到底なれない。

「鴉天狗は山の化身、霞を撒いて人を惑わします。これじゃあ何も見えやしない……」

 ため息をつく御子江は野球観戦でもしているかのように腕組みして落ち着き払っている。

「天狗って、あの天狗?……まさか、あなた本当に信じてるの?」

 浅見は彼女に笑いかけたが、その目が笑っていないと見るや顔を引き攣らせた。異様な墨色の積乱雲にも増して御子江という女も不気味に思えてならない。

 ふと、その暗雲からひとりの少女の姿が抜け出てきた。

「梓巫女だ。負傷している」

「えっ」

 それを聞いて浅見由衣は胸元の無線機に手をかけると、御子江は手を挙げてそれを制した。

「だって、救援を呼ばなくていいの?」

「まだ、やめておきましょう」

「まだ?」

 怪我に“まだ”なんてあるのか。──浅見の逡巡をよそに、数十メートル離れた畦道のうえの唯愛は、折れた弓を傍らに放るとその場に片膝をついた。

 唯愛は背筋を正し、すこしのあいだ静止すると、左腕の亀裂からあふれる鮮血をそのままにゆっくりと両手を頭上に掲げた。──射法における“打起(うちおこ)し”の動作を弓矢を使わずに行ったのだが、左右の腕を開いて両手を口元の高さまで下ろす“引分け”の際、彼女の左腕の裂傷が奇妙な反応をみせた。

 左手首をツタのように這いのぼった血液が、手の平に十字を切って大きな三日月を形成した。そこから赤い線がまっすぐ右手の指先まで伸びて、みるみるうちに唯愛の左腕から“鮮血の弓”が生え、そこに“鮮血の矢”が(つがえ)られた。

 少女から弓が生えた。浅見由衣は呆気に取られていた。

「これは巫女が勝ちますかね」

 御子江は冷静に言った。

「どういうこと?」

朱烏(あけがらす)。──必中の矢です」

 唯愛の手から赤い矢が音もなく放たれて、的はおろか一切を見通せない暗雲のなかへ吸い込まれるように消えていった。

 

 波打つ墨色の水田、黒煙のように揺れる稲穂の上を、対峙した二つの影が季節外れのトンボのように流れていく。凜子と虚空丸は水田から水田を跳び交い、何度も交錯した。

 この場における長期戦は凜子にとって圧倒的に不利であった。石切兼光は羽毛と泥を塗され、刀身は厚い布を巻かれたように真っ黒になった。次第に彼女は錫杖を左右にいなすのが精一杯になり、辛うじて切り返した一撃は、怪異の首すじに重たい鈍痛を与えるのみにとどまった。

 鴉天狗が(もや)のなかに引っ込んだと思いきや、数拍おいて三本の脚が凜子を捕まえた。ツルハシのような口先が彼女の頭蓋を砕こうと太い首を伸ばした。

「ぼんじりッ、こっち向けェ!」

 刀身に薄く水をまとわせた長巻を担いで瑞穂が走ってくる。緋色の袴は太ももまで裂けて、大股で足をあげるたびに白い肌が見え隠れする。腕を断たれた記憶の新しい虚空丸は反射的に凜子から足を放して飛び上がっていた。

「でやッ──!」

 たっぷり助走をつけた彼女は長巻を斜め上方に投げ上げた。まるで槍投げだ。

 墨色の空を切り裂くように上昇した白刃は、身を翻した大黒鳥の頭上をあっけなく掠め過ぎたが、突如として風車のように回転して急降下──頭から胴体、尻尾までを一直線に割った。

 投擲した瑞穂自身が目を丸くしたのも無理はない。宙に浮いた長巻を操作したのは秋山凜子の空遁術であった。

 ボワっと墨天陣が空に弾けて鴉天狗に変身した虚空丸は、そのまま雲のなかに逃れようと背中の翼を羽ばたかせた。

 凜子に対する憎しみを胸の奥によりいっそう膨らませたとき、その黒く濡れひかる胸板に、彗星のように紅い尾を引いた一本の矢が突き立った。

「ウワーーッ!」

 虚空丸は驚愕の叫びを上げずにはいられなかった。あぜ道の真ん中に縫いつけられた怪異は、さらに頭上から降って湧いた梵鐘に蓋をされた。ぼーん、と試合終了を知らせるゴングのように梵鐘が重たい唸り声を響かせた。鐘の表面には『泰陽寺』と刻印されていた。

 鐘の内側に張り巡らされた()()()()()がモゾモゾと蠢いて、虚空丸に吸着した。

「なに、このッ──!」

 梵鐘を内側から取っ払おうとしたが重くて動かない。放った墨天陣は虚しく充満するだけだった。

 紙のドームを外側から操作しているのは紗世と多恵で、梵鐘とともに秋山凜子の空遁術によって泰陽寺の境内から棚田まで跳躍してきたのだ。さしもの虚空丸も凜子が物質を跳躍させられることまでは想像しえなかったようで、悔恨の叫びが青銅の檻を震わせていた。



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その二十九

 ぼーん、と除夜の鐘のような重厚な響きを、浅見由衣と御子江(みこえ)華怜は耳と肌で感覚していた。

 異様な重低音が立て続けに空気を振るわせた。真っ暗な積乱雲に視界を阻まれる中、それは雷鳴の轟くようにも感じられた。まさか寺に吊り下がっている大きな梵鐘があぜ道の真ん中に落ちて来ようなどとは想像だにしないから、一連の不可思議な現象を目にした浅見由衣は、ちょっとしたパニックに陥っていた。

「ちょっと、これ大丈夫なの……まずくない?」

「…………」

 この場において、浅見にとって唯一の拠り所である御子江が沈黙したままなのが、より不安をかき立てる。二人の視線のさきには矢を放ったのち地面に両手をついてうなだれている梓巫女の姿があった。──その唯愛は息を吸おうと顎をあげた際、視界の端にふたつの人影を見つけて、猫のように腰を上げると墨色の暗雲のなかへ走っていった。

 その暗雲も次第に風に流れて少しずつ小さくなっていく。水田を濁らせる黒い水は、時間を逆行させたように、水中に広がった泥炭が乾いた羽毛のかたちを取り戻して風に消えていく。そうして棚田のあちこちに立ち昇りはじめた墨色の細長いつむじ風を、秋山凜子は不思議そうに眺めている。いつしか石切兼光の刀身を覆っていたヘドロも消えていた。

「……勝った……勝ったのね!」

 空を見上げた瑞穂はホッと胸を撫で下ろした。紗世と多恵も脱力して地面にへたり込んだ。梵鐘を騒がせていた虚空丸の声は止んでいた。

 そこに白衣の袖を血に染めた唯愛が走ってきた。

「──誰かいる。こっち見てた。たぶん警察だよ!」

 ええッ、と三人が色めきだった。

「はやいとこ行きましょう。このもやが晴れないうちに……」

 紗世と多恵が顔を見合わせた時、

「唯愛、あんた、それ……」

 瑞穂は唯愛の左腕を指した。深々と刻まれた裂け目はクレバスのようで、もはや血の一滴も滴っていなかった。

「ああ、これ、うん」

 当の本人ですら自分の状態を把握していないのか傷口を不思議そうに眺めているばかりで、そんな唯愛が平静でないことは誰の目にも明らかであった。

「あんた、やばいって。はやく手当てしないと!」

「うん、わかってる」

 秋山凜子が頭上に右手をかかげると、あぜ道に刺さった長巻が引き抜かれてその手に吸い込まれた。さらに瑞穂が放り投げた鞘がどこからか飛んできて刀身にストンと被さった。

「唯愛はわたしが連れて行く……(これ)は元の場所で良いか?」

 長巻を瑞穂に手渡しながら、凜子は紗世に尋ねた。

「え、ええ……お願い」

「こっちは自力で戻るよ」

 言いながら瑞穂はオートバイのほうへ走った。

「それじゃ、みんなひろがって鐘に手をついて」

 あとの三人が凜子の指示で梵鐘を囲んだ。凜子は梵鐘に飛び乗ると指先で空を切った。──四人を結んでできた四面体の重心から空間の亀裂が生じ、彼女たちと梵鐘は、そこに吸い込まれた。

 ようやく棚田が見通せるようになった頃、そこには誰もいなかった。

 ──遠ざかるバイクの排気音を聞いた浅見由衣は「終わったの?」と、おそるおそる尋ねた。暗雲が細かく千切れて霞んでいくのを眺めながら「ひとまずは」と、うなずいた御子江華怜は、打ち上げ花火を鑑賞し終えたみたいに手ぶらで車内に戻っていくので、浅見も慌ててあとに続いた。

「ひとまず?……まだ続くってこと?」

「と言っても、残っているのはあと一体ですが」

「さっきの子、そっちに向かったってこと?」

「さあ、どうでしょう……もう今夜は終わりだと思いますが」

 ボンネットを波打たせたセンチュリーが、車体の何処かからキュルキュルと情けない音を漏らしつつ、ようやくエンジンを始動させた。

「どうしてそんなことわかるの?」

「勘ですよ、カン」

 御子江が携帯電話を操作してブツブツと会話をはじめたので、浅見はそれ以上の追及を諦めた。

 

 秋山凜子は泰陽寺に全員と梵鐘を帰還させると、返す刀で、唯愛を連れて隠れ家(コテージ)へ跳んだ。

 待機している女医が処置用の部屋に唯愛を運んだ。中央にあるのは、外科手術のための設備というよりは検死のためのステンレスシンクのような作業台で、それでも無いよりはマシである。

 唯愛は顔色も青白く、瞳孔を震わせて、首の位置も定まらない。女医は彼女の上腕に巻きつけた止血帯のロッドを回し締めながら「輸血が必要かもしれない」と小さく言った。

 とはいえ、それを梓巫女に施しても大丈夫なのだろうか。彼女は、乃愛の怪我に際して提案した血液製剤による輸血療法を、しゃべるムササビに反対され釘を刺されたのを思い出していた。

「わたしの血を使ってください」

 片腕を吊った乃愛がこちらを睨むように立っている。

「わたしにはわかります。唯愛は全身全霊で弓を射ったんです」

「どういうこと?」

「わたしと唯愛は同じ血液型です。どうか使ってください」

「乃愛ちゃん、気持ちはわかるけど、それは無理よ」

「どうしてですか」

「じかに血液を送るのは危険行為よ。双子であろうが梓巫女であろうがリスクを無視できない」

「そんなこと言ったって!」

 静かな口論……もとい乃愛を落ち着かせる女医の声を聞きながら、汚れた衣服を交換した凜子のもとに外の闇から草の男が現れて言った。

「──秋山どの、なにやら不穏な動きをする集団があります」

「不穏な集団?」

 自分たち以上に不穏な集団がいるのだろうか。という疑問はさておき、

「十三分ほど前、寺院に預けられた怪異の置物が持ち出されました。三か所から同時に」

「置物……というのは、巫女が夜導怪を炎で焼き固めたものか?」

 ええ、と男はうなずいた。

「梓巫女がこれまで封印したイタチ、ヤモリ、ヘビの置物は、いままで市内の三つの寺院に安置されておりましたが、それが次々と、しかも少々、手荒な方法で……」

「雀女は無事ですか?」

「ええ、秋山どのが運んだアレは、どうやら規格外だったようで……」

「それは浄胤和尚の指示で?」

「恐らくそれはないかと。和尚はいまだ病院に。今頃は就寝中でしょう」

「彼のほかに誰が?」

「追跡を続けておりますが、まだ掴めておりません」

「……わかりました」

 凜子は泰陽寺へ跳んだ。梵鐘のまえで休んでいた紗世と多恵は、ワープしてきた彼女を見るやハッとして駆け寄った。

「唯愛は?」

「大丈夫だ、医者がついてる。──怪異たちを動かすように言われた?」

「いや……どうして?」

 凜子が説明すると二人は首を傾げた。

「そんなの知らないよ!」

「私たちのほかに怪異(あれ)の存在を知っているのは、浄胤和尚さまと、和尚さまと親しい間柄のお寺さまの他には、ほとんど聞いたことありませんが」

 そうか。と言ったきり凜子が黙り込んだので、二人は不安そうに顔を見合わせた。

「なに、泥棒ってこと?」

「三つのお寺から一斉に盗まれるなんて、偶然で片付けられるかしら」

「ちょうど我々が動いているのと同じタイミングで多発的に行われた。なにか嫌な予感がする」

 多恵は梵鐘に手をついて「これは大丈夫かしら」と言った。

「この重さの鐘を持ち出すことは出来ないだろう。だけど、二人とも危険を感じたら……」

「わかってる。宿坊に引っ込んでるよ。どうせ何もできないだろうし」

 そう言いながら紗世は指先に挟んだペラペラの紙垂を左右にあおいでみせた。稲妻を呼び起こす邪気払いの道具も、あくまで怪異を制圧するための力であって人間に対するものではない。それは瑞穂の長巻から放たれた秘剣・白刃魚の水滴を受けても凜子が無傷だったことからも分かる。

「なにかあれば私の仲間が見張っているだろうから」

「仲間って?」

 そう言った紗世はハッとして口を閉じた。烏丸スバルのことを思い出してしまい辛かった。多恵も同じようなことを勘付いて凜子のほうをチラと見たが、彼女はなにも答えずに走り去っていった。その一方で、なにも知らない瑞穂が長巻を片手に小走りで正面から境内に入ってきた。

「ひゃー、もう最悪っ」

 泥まみれの瑞穂が頭を振ると乾いた土がパラパラと宙を舞った。

「バイクは?」

「近くに置いてきた。見つからないようにね……唯愛は?」

「凜子さんが連れてったわ。お医者さんに診てもらってるって」

「そう、ならよかった……」

 安堵のため息をついた瑞穂に、二人は先ほどの話をした。封印した怪異が持ち出されたことを聞いた彼女は、面倒くさそうに頭を掻きむしり、またしても乾いた土がパラパラとこぼしながら宿坊のほうに歩きはじめた。

「……とりあえず、私は風呂に入るから。バケモンが来ようが泥棒が入ろうが……火山が噴こうが疫病が流行ろうが、わたしは風呂に入る──!」

 

 泰陽寺を後にした凜子がしばらく夜道をひとり歩いていると、月明かりのつくる木陰のなかを小さな影が横切った。

 彼女の見上げた先にある枝の樹洞から顔を覗かせたのは毛むくじゃらのモモンガであった。特徴的なクリっとしたまん丸の黒い目がふたつ、こちらを見つめていた。

「お前か、境内からずっとこちらを見ていたな?」

 モモンガのいる方向から、舌ったらずな女性的な声が流れてくる。

「──気をつけて。彼らは武装している」

「彼らとは何だ、なにが目的だ?」

「──彼らは夜導怪を狙っている。強力な依代としての夜導怪を……」

「そいつらの名前は?」

「──それは言えない」

「お前の親戚か身内といったところか?」

 声は答えなかった。モモンガは短い前足で頭を掻いていた。

「……コテージに梓巫女がいる。傷を負って血が足りてない。医者は輸血を躊躇している。行って指導してやってくれ」

 凜子の言葉を承諾したのか、拒んだのか、しばしの沈黙のあとにモモンガは樹洞から這い出て、枝をつたい、木の幹を登りはじめた。

「もし梓巫女が一人でも欠けるようなことがあったら……お前たちをそこから引きずり出して、残らず叩き斬る……!」

 モモンガが幹を蹴って宙におどり出た。それは全身を座布団のように平たく広げて滑空し、森のなかに音もなく消えていった。

 ──それからほどなくして、秩武(ちちぶ)の市街地では、鉄道の線路沿いに道路を北東へひた走る二台のワゴン車を、百メートルほど後方から草のセダンが尾行している。

 ふと、道の左右を田畑と林に挟まれ、進路上に三台のみとなった瞬間、二台目のワゴン車がわずかに減速しながら窓を下ろした。車外へ伸ばした片腕が持っていたのは、銃身に太い消音器を付けた短機関銃(サブマシンガン)であった。

 プスス、プスススッ……と、鼻息のような発射音は、アスファルトとタイヤの乱雑な摩擦音にまぎれて、後続のセダンの前面に無数の弾痕を打ちつけた。急ブレーキを踏んで射線から逃れたセダンを嘲笑うかのようにワゴン車は音を立てて急加速した。

『……銃撃発生、対象は銃火器を所持、対象は銃火器を所持!』

 工事用の囲いを四方に立てた廃車置き場に、草の面々と凜子の姿があった。整然と積まれたスクラップの片隅にプレハブ小屋があり、そこは草の通信施設のひとつであった。

『黒のワンボックス二台。一四〇号線を熊谷方面へ向けて走行中。花園インター付近から二五四号線、関越道へ合流する可能性あり……』

『一台は二九九号線を南下、三分後には翔丸トンネルを抜けて市外に出ます』

 無線機に送られてくる情報を精査する一同をよそに、小屋から数メートル離れた場所に凜子は立っている。

「──秋山どの!」

 草の男に呼ばれるや否や、凜子は印を切り、両足で地面を蹴った。彼女の足もとに地割れのような青白い亀裂がスゥっと現れて──コンクリートの天井を抜けて着地したのは、全長およそ二キロの翔丸トンネル内のちょうど中間地点、オレンジ灯に照らされたセンターライン直上であった。

 凜子は五十メートルほど先に、こちらに向かって疾走するワゴンを捉えた。同時に相手も凜子を見つけたようで、彼女を威嚇するように、ともすれば轢き倒さんとばかりに加速をはじめた。

 三秒と経たずにワゴンが眼前に迫ってくる……その瞬間、凜子は後部座席にボスンッと尻もちをついている。

「──ッ!」

 外にいたはずの女が飛んできた。いや、降ってきた!──男たちは言葉もなかった。

 運転手を除いて助手席に一人、後部座席に三人──目が合った彼らの首すじを凜子は鞘に収めた石切兼光で打ちのめし、助手席の男が向けた短機関銃を、グリップを握る左手ごと棒手裏剣でダッシュボードに縫いつけた。

「ぅいいっ」

 男の引きつった悲鳴は爆竹のような発砲音と閃光にかき消された。意図せず射線に入ってしまった運転手が(あられ)のような弾丸を浴びて、胸から首すじ、頭部までをザクロの実のように弾けさせた。制御を失ったワゴンがトンネルの路肩に乗り上げて、ゆるやかに減速しながら非常駐車帯の曲がり角にぶつかって停止したとき、その中には気絶する三人と運転手の亡骸だけが残されていた。

 

 ──秋山凜子が、茶褐色の置物と、作業着(つなぎ)姿の男を一人抱えて、ふたたび開いた青白い亀裂から帰ってきたのは、草の男が「秋山どの!」と声に出してから、三十秒にも満たない出来事であった。

「これが対魔忍……」

 草の男が凜子に対して、そこで起きたことをわざわざ尋ねることもしなかったが、彼女の連行してきた作業着の男が、その左半身を鮮やかな血吹雪で染め上げているところを見るに、まずまずの修羅場であったことは間違いなさそうだ。

 涼しげな顔をした凜子は、足もとに転がる男の左手首を掴み上げた。

「お前ら誰だ。どこの指示だ」

 男は唇をわなわなと震わせている。二十代後半ぐらいの、市役所の相談窓口に立っていそうな優男で、体格や表情から訓練された人間でないことは容易にうかがい知れた。

「お、おれはバイトだ……運ぶのに雇われただけで……な、何も知らない」

 汗と血に濡れる左手首を締め上げると、手の甲を貫通した棒手裏剣の先端から蛇口のように鮮血が流れ落ちる。そのしずくを頬に受けた男は、いよいよ怯えたように首を振った。

「……本当になにも知らないです、すんません、ホント許してくださいっ!」

 豪を煮やした草の男が凜子に小さく言った。

「どうか、尋問は我々に」

「…………」

 凜子が手首を解放すると、男は泣きながらその場にうずくまった。

「お願いします、お願いします、見逃してください……時間までに戻らないといけないんです!」

「戻りたいなら洗いざらい話すことだな」

 土下座するように頭を地面に押しつけて、男は叫んだ。

「はやく帰らないと、こ、殺されるっ!」

「だから誰に──」

 その時、丸くなった男の背中の、ぴんと張った作業着が背筋にそって縦に破れた。突然のことに凜子も草の男もハッとしたが、さらに二人を驚愕させたのは、肩から腰にいたるまで男の素肌に奇妙な記号が描かれていたことだ。

「これは……」

 一瞬のうちに確認できたのは、漢字と梵字の連なり、大きな人型と五芒星ぐらいのもので、タトゥーにしてはお粗末で、落書きのような筆跡がかえって不気味だった。肩を震わせて男の呼吸が荒くなった。背中の筋肉と皮膚を波打たせる“なにか”が、男の体内をいたずらに駆け巡っているのが見えた。

「おい、どうしたッ」

 凜子が肩を掴んでからだを起こそうとすると男の手足もそのままついてくる。全身を強張らせて、ひっくり返った亀のように仰向けに倒れた彼は呼吸すらままならないのか、クッ、クッ、と喉を鳴らしている。

「ぐ、ぎぃ、ぎ、ぎぎ……」

 食いしばる歯の隙間から苦悶の音がする。助けを求めるようにキョロキョロと虚空をさまよっていた眼球がひっくり返ると、男の四肢と頭部が作業着の袖と襟のなかに吸い込まれるように消えていく──!

 アッと驚きの声をあげて凜子が作業着を掴んだが、そこに人間の痕跡は残されていなかった。足もとを薄汚れたスニーカーがコロコロと転がった。

「口封じ、か……」

 草の男がつぶやいた。通信小屋から顔を出した女が、立ち尽くす二人に声をかけた。

「急襲班、接敵します、あと三分!」

 

 逃走グループは一四〇号線を二手に分かれた。一台は山を突っ切るバイパス道へ、一台は北東へ流れる荒川──永瀞渓谷と呼ばれる景勝地──をなぞるように県道へ。このとき彼らの動きに合わせて道路に設置されたライブカメラが数分間、映らなくなったのだが、後日システム障害として片付けられた。

 ──前者のグループはトンネルをひとつ抜けたさきにある道の駅に入った。営業を終え、常夜灯だけがともる駐車場に停車し、降車した五人組は周囲に目を配りながら車の後部に回った。

「おい、替えの車どうした?」

 男が駐車場を見回しながら、バックドアを押し上げる一人に尋ねた。

「白のカローラ、“ち“の三三六八、聞いてなかったのかよ!」

「それが見当たらないから言ってるんじゃないか!」

 言い合いをはじめた二人をよそに、車内から厚手の布で包んだ塊を運び出そうとした男三人が突然、ワッと飛び上がり、そろって崩れ落ちた。ワゴンの死角から現れた複数の影が、手に持った黒塗りの金属棒(バトン)で三人を制圧していた。バトンの先端には電気を帯びた針があり、刺された相手は全身を硬直させるしかなかった。

 それに気付いた二人は踵を返して逃げ出したが、新たに道の駅へ乗り入れた二台のセダンが減速することなく彼らに突進し、ボンネットに押し上げ、はね飛ばした。頭を地面に打ちつけた一人はそのまま動かなくなり、受け身をとった一人はセダンから降車した男にバトンで叩きのめされた。

 布に包まれた怪異の置物を確保した草の急襲班は、倒れている男たちをそのままに来た道を引き返していった。

 ──後者のグループは、荒川と山に挟まれた二車線の道路をひた走っていたが、峠道に差し掛かったところで不意に前方から照明を浴びせかけられた。昼間のような光にたちまち車内が慌ただしくなった。

「止まるな、行け行け!」

 視界を真っ白に飛ばされながら運転手はアクセルをベタ踏みして加速した。直後に破裂音がして制御を失ったワゴンはガードレールと鉄柵に接触した。彼らは明かりから逃れるのに必死で、道路に敷かれたスパイク付きのバリケードに気付かず、まんまと四つのタイヤをバーストさせたのだった。

「ちくしょうッ」

 助手席の若い女が短機関銃を片手に車外へ踊り出ようとした。フロントガラス三、四の小さな穴が空いて、ヘッドレストに肉味噌と茶色に染めた髪を散らした。ドアが破られ、残る四人の男たちは引きずり出された。黒ずくめの集団が彼らを囲んでいた。

「運ぶよう指示されただけなんだ、本当だ」

「どこへ持ってくんだい?」

「それは……」

 言い淀んだ彼らの表情が恐怖から混乱へと変わっていった。彼らは一斉に胸をかきむしり、地べたを這いつくばった。

「うう……取ってくれ、誰か、取ってくれェ!」

「雇い主はだれだ、答えろ!」

「それだけは……い、言えない……」

「言わなきゃ、お前ら全員報われねェだろ!」

 草の言葉に感化されたのか、男たちのなかでひときわ若そうな一人が、震える手でポケットから携帯を取り出し、放り投げた。

「……これか、ここに入ってるんだな?」

 男たちの背中が隆起した。彼ら自身も予想だにしていなかったのか、ひいい、と悲鳴をあげるものがいた。

「爆弾かッ」

「離れろ!」

 草たちは四人から距離をとった。ミチミチ、コリコリと砂を轢くような音がして、土下座をするように地面に頭をこすりつけた四人は背中をしきりに機にするようにもがいている。草のひとりが意を決して作業着の背面を襟もとからナイフで割いてみると、盛り上がった背中に描かれた奇妙な文字と図形が露わになった。

 ──ブポボッ。

 掃除機に吸われたような音がして、その場から四人の肉体が忽然として消えた。あとには、くたくたになった作業着と靴と靴下、下着だけが残された。それはワゴンの助手席に残された女も同様であった。

 草たちは呆気にとられながら無線機に呟いた。

「一班、完了しました。五人、生死不明。置物を回収します……」



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