(kodai)
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 それは巨大な熊だった。青ざめて脂汗を滲ませ飛び込んできたアリスマーガトロイドの焦燥は、たちまち皆に伝播した。鬱蒼たる山の白昼、そこは白狼天狗の寮兼事業所だった。白狼の一人が窓から様子を伺うと、熊は椰子編みの籠を食い千切らんばかりの形相で咥え込み、そして唸っていた。籠の中身について、白狼たちはすぐに合点がいった。それは今日、アリスが持ってくるはずだった、自分たちの制服に違いない。熊が籠の中身を物色し始めるも、一人も動けるものはなかった。数時間経って熊が去ると、窓の外には涎まみれになった白狼たちの制服のみが残された。今日まで、仕立てを発注するべく費用をやりくりしてきた経理の白狼が咽び泣くと、皆がそれを慰めた。慰め合う白狼たちの纏った制服は一様に擦り切れ穴が開いていたが、アリスは一瞥したのち、気まずそうにその場を去った。

 

 報告を受けた上層部は即刻解決の案を叩き上げた。立案にあたり委員会が発足され、実行委員長には素行不良で名高い文という天狗が抜擢された。早朝、通達を受けた文が会議室に出向くと、不思議なことに人はおらず、机の上に一枚の紙が置かれているのみだった。紙には二つの活動指針が綴られていたが、熊と対峙するか、鬼と対峙するかの択一は文にとって十全とはいえず、文は普段の素行不良を悔やみ咽び泣いた。

 

 熊と戦って死んでしまえば楽だったかもしれないが、かといって文も命が惜しい。鬼の手助けを借りるにあたり、文はまず不安を暈すべく、正午まで待ち、とりわけて聞き分けの良い友人を訪ねた。それは犬走椛という白狼で、椛は件の事業所の所長でもあった。熊一匹退治できない白狼たちの不甲斐なさ、その原因の剔抉を掲げ、文は椛を脅しつける形で同行の要求をした。それを受け、椛は文の後のなさを糾弾した。文の語勢が弱まるが早いか、椛は普段の自身に対する罵詈讒謗への謝罪、即ち土下座という形の誠意を求めた。文が誠意をくれると、椛はようやく同行人と相成った。

 

 夕暮れの頃、二人は地底に到着し鬼を探し始めた。通行人の数名に聞けば建設中の現場に鬼はいるらしかった。現場は然程の遠さもなく、行くと、二人はすぐに鉄骨を担いだ鬼を見つけることができた。久々の再会における世間話は二人の予想よりもずっとフランクに行われたが、肝心の用件、熊退治の依頼も、同じフランクさによって拒絶された。聞けば、雇用主と交わした契約書に副業禁止の項があったという。二人は鬼に会いに行くのと同等の戦慄でもって地底の館へと向かった。

 

 館まではしばらく歩いたが、薄暗い地底には昼夜の概念がなく、ともすれば二人は暗い地底の岩肌に、鬱蒼たる夜中の木々を覚えた。遠くにぼんやりと館の灯りが見えると、恐ろしい予感の道中はすぐに終わったが、代わりに鬼の雇用主への謁見に対する恐怖が湧いて出た。大きな扉を叩けば小間使いの黒猫が話を通し、すぐに謁見の段と相成った。階段を登り、血液色のカーペットの広い廊下を何度か折れると黒猫が去り、二人の前には重々しい紫の木扉が立ちはだかった。恐る恐る扉を開け、部屋に入ると大きなステンドグラスの窓が二人の視界に飛び込んだ。窓から差す地底の薄明かりの逆光にこれまた大きなデスクがあった。デスクには書類を整える小さな影があり、注視するとそこにはこじんまりとした癖毛の少女があった。二人は少女の体躯と癖の強いショートヘアに思わず猿のイメージを浮かべたが、少女の胸元の大きな目玉がぎょろりと蠢くと、すぐにそれをかき消した。

 

 雇用主曰く副業禁止の項というのはどうやら鬼の記憶違いらしく、実際には、副業に関しては要相談の項だという話だった。鬼は真実ウソを嫌う性質があり、説明にあたっては雇用主本人の談でなければならないというのは道理で、少女は同行にあたり、文に対して悪戯に、誠意を要求してみせた。文が誠意をくれると晴れて少女は同行人と相成った。三人でぎこちなく復路を辿れば、そこには作業を終え閑散とした現場があった。備え付けられた簡易宿泊所の戸を叩くと、風呂上がりであろう鬼が体を上気させて戸を開き、三人を招き入れた。鬼は缶ビールでもって三人をもてなしたが、鬼の雇用主である少女は二、三言で副業の許容を伝え、プルタブに触れることもなく宿泊所を後にした。残された文と椛は鬼の快諾を得るまで晩酌に付き合った。翌朝になってようやく二人は役目を終え、鬼の熊退治が始まりを迎えたのだった。

 

 鬼の一角と熊の左目の交換でもって争いは終わった。熊に山の者たちを脅かす意図のないことを鬼から聞き、納得を余儀なくされた上層部は委員会を解体し、文に立った白羽の矢もようやく折れた。白狼たちも今では新しい制服を身に纏い、清々しい気持ちで日々の業務にあたっている。しかし、訪れた平穏に不服を抱く者もあった。其の者名をにとりといい、にとりは川沿いに居邸を構える河童だった。にとりにとって毎朝毎晩川魚を獲りに来る巨躯は恐怖そのものだった。同時に、そのころにとりの家には不思議な捧げ物が届くようになっていた。朝、恐怖とともに目を覚まし、恐々と郵便物を確かめに外へ出ると、ポストの足元にきゅうりの数本が必ずあった。にとりはこれを平穏を享受する組織が自身に不平を唱えさすまいと画策した陰謀と受け取った。しかし実際、にとりはきゅうりに助けられていた。外出しようにも巨躯の影がちらつき、ポストまで歩くのが精一杯だったためだ。とすればにとりの露命は捧げ物のきゅうりのみにより繋がれていた。

 

 だがついに限界が来た。照明の消えた自室の隅で震えながらきゅうりを齧る生活の中、窓の外を覗き見てしまったタイミングで、それは訪れた。カーテンの小さな隙間から覗く川辺に、にとりは子連れの、例の巨躯を見た。巨躯は平穏な川辺の静寂に、子熊に鮭の獲り方を教えている様子だった。にとりはその光景に戦慄した。子熊の存在は明確にもう一頭の巨躯を示した。同時に、可能性としての熊の大家族がにとりの脳内に大挙した。ともすれば眼前、熊たちによる穏やかな営みは自身の生涯に渡り続くかもしれない。それがにとりの絶望だった。

 

 にとりは半狂乱になって工作を始めた。恐ろしい熊の親子によって倉庫にも行けないため、あり合わせの材料のみで行われた工作だったが、追い詰められた精神の瞬くような光によって、それは滞ることなく瞬間的に完成された。にとりは完成した筒を構えて窓際のソファに膝を立てた。カーテンの隙間に瞳をぎらつかせて、そのまま半日が経った。凪いだ風が川面を揺らす夜だった。ざわざわと鳴く木々の音を聞いているうちに、にとりを強烈な睡魔が襲う。いつもなら、この時間になれば恐怖も事切れ眠りにつけた。しかし今日は違う、にとりは明確な殺意をもって睡魔を振り払い、憎き親子を待ち構えた。突然、にとりは体を震わせた。こともあろうか、にとりは玄関先からの物音を聞きつけてしまったのだ。よく聞くと、足音に聞こえた。にとりは完成したその筒、即ち猟銃を携え、こっそりと玄関に近づいた。近づくにつれ、足音も鮮明に聞こえるようになった。人ではあり得ない、ずっしりとした足音だった。間違いなく、熊だ。にとりは確信を持って玄関の戸を開け放ち、それを見るが早いか引き金を引いた。大きな銃声が遠く響いて、風が吹き、玄関先が静寂に包まれる。にとりの足元で、きゃうきゃうと、今にも事切れそうな細く、高い声がした。見ると、にとりは小さく悲鳴を切った。それは熊だった。熊には違いなかったが、思うよりも体は小さく、ともすれば子熊だった。しかし、にとりの悲鳴の要因はそこにはない。子熊の鼻先、郵便受けの下には二、三本のきゅうりが転がっていた。にとりの心中に、親熊からの報復への恐怖よりも、悲しみと後悔が先立った。いつものように睡魔に従い、眠ってやればよかったのだ。にとりの抱いた殺意は睡魔を退け、代わりに不幸を呼び寄せてしまった。にとりは傷ついた子熊を抱いて、川面の静寂に咽び泣いた。

 

 明朝、里に熊が降りたとの報告を受けた山の上層部は、即刻解決案を叩き上げた。立案にあたって委員会が発足され、実行委員長には素行不良で名高い文という天狗が抜擢された。通達を受けた文が会議室に出向けども、そこには誰一人の人物はおらず、机の上に薄い紙ぺらの一枚あるのみだった。無機質な玉砕セヨの四字は文を絶望させたが、遅れて、何者かが会議室の扉を叩いた。それからゆっくりと扉が開くと、文は遅れてやってきた希望に目を輝かせた。

 

 かくして射命丸文、犬走椛、河城にとりによる熊捕獲作戦が始動した。正午の近い里には陽が煌煌と照りつけ蝉が鳴いた。文は大きめの虫取り網を持って額の汗を拭い、椛は鳥の鳴き声を録音したラジオを弄りながら文に続いた。にとりに関していえば手ぶらで、銃を持つこともしなかった。結局、とばっちりで任を受けた白狼と、贖罪のため自主志願した河童が増えたところで、文の受けた玉砕セヨの四字に変化はなかった。数分歩くと、したたかに民家を破壊している熊を、文が見つけた。それは片目に傷を負った熊で、ともすれば件の親熊だった。民家は無人だったらしく、幸い被害者の姿も見当たらなかった。文と椛は虫網とラジオを使い即席の罠を作ったが、熊は見向きもせずに民家を破壊し続ける。茹だる夏に奇跡的な捕獲成功を祈ってばかりの文と椛には、ぼんやりと立ち尽くすにとりの胸中を察することは不可能だった。

 

 ラジオから発せられる鳥の鳴き声には、いつしか人間の群れが集まっていた。人間たちは恐怖を持って熊を見つめ、またラジオを見つめた。文と椛は未だ祈りの手を組み、目を瞑り、額に汗を滲ませていた。しかしそのうちに聴衆がわっと悲鳴をあげるので、二人は驚いて目を見開き、同時に、声を失くした。そこには民家を細かくし続ける熊に歩み寄るにとりの姿があった。一歩、また一歩近づくにつれ、聴衆の悲鳴は大きくなった。二人が焦って呼びかけるも、にとりは熊に向けてなにやらぶつぶつと唱えるのみで、振り向くことをしなかった。にとりが熊に吹き飛ばされた。転がるにとりに熊がにじり寄り、噛み付く。二人が声を上げる前に、熊はいとも容易くそこまでをやってのけた。娘が食われる。聴取がまた一際大きな悲鳴をあげた。すると突然、聴衆をかき分けもう一頭の熊が現れた。熊はにとりに齧り付くもう一頭を体ごと当てて突き飛ばした。聴衆から歓声があがった。遅れて現れた熊は瞬く間に、もう一頭を完膚なきまでに叩き潰したのだ。熊が娘を熊から救った。父熊の亡骸と、人間たちがちやほやと投げる食物を一瞥して、にとりを救った熊はかなしげに里を去るのだった。

 

 一部始終あっけにとられていた二人が動き出せたのは夕刻だった。なおも能天気に鳥の鳴き声を再生し続けるラジオと、獲物がラジオを手に取るのを待ち続ける虫網を回収して、二人は山に帰った。にとりは消えていたが、先に帰るとの置き手紙があったので問題はなかった。一方にとりといえば自室にて、包帯の巻かれた子熊を前に懺悔をしていた。私はおまえから右目と、それから父親まで奪ってしまった。およそ致命傷には至らない腹部の歯型を撫でながら、にとりは子熊にきゅうりをやった。

 

 それから里に熊が降りてくることはなくなった。山でときどき見かけるものもあったが、遭遇したとて何ら怪我をすることもなく帰るので、話を聞いたものはみな件の救世主を浮かべては、むしろ熊との遭遇を羨ましがったという。そんな、そろそろ白狼天狗たちの制服も擦り切れてきたころのある日に、アリスマーガトロイドは森を歩いていた。妖怪の山、その麓の森だった。腕には椰子編みの籠をかけ、中身はもちろん白狼たちに頼まれた仕立ての品だった。霧の薄れ始める森の白昼はどこか神々しく、何度も、アリスに深い呼吸を促した。しばらくのあいだ規則的な呼吸の音が続いたが、不意に途切れた。それは巨大な熊だった。熊は硬直するアリスの眼前、潰れた右目でもって静かに一瞥をくれている。アリスは驚いた。驚いた拍子に籠を落としていた。しかしアリスは、以前のように逃げ出すことをしなかった。以前のように、恐怖に駆られることはなかった。不意に、熊がのっそりと動いた。熊はアリスの足元の籠を咥え、ゆっくりと差し出しては、木々の深い方へ去っていった。籠を受け取ったアリスは視線のみで熊を追った。熊のかなしげな後ろ姿の先に、すこし老いぼれた熊があった。深く呼吸をして、アリスはまた、歩き始めた。

 ともすればあの父熊は、残された家族を守るために里を襲ったのかもしれない。

 

 それから、傷を負った子熊と河城にとりの悲喜交々の友情劇についてだが、それはまた、別の話となる。



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