メイド イン 蝕 (黒チョコボ)
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プロローグ

数多の怪物、苦難の道のり。魂を削り、幾度となくその身を危険に晒す。そうした末に何とか辿り着いたのは妖精郷と呼ばれる未知の大地。

 

傷だらけの体に、更なる傷を増やしてまでここに来たのにはとある理由があった。

 

絶望と憎悪しか無かった世界に飲まれるのを防いでいた小さな炎。それを大事に大事に守る為、そして闇で燻り続けていたその炎を復活させる為だ。

 

そして今、こうやって大木に背を預けている最中にも頼れる仲間が、眠れる希望を呼び起こそうと奮闘してくれている。

 

安心しても良い筈だ。今までの疲れを癒す為にも少しは横になっても良い筈だ。

 

だが、前髪の一部が白く染まったその男は、冴えない表情でただ一人、静かに酒を飲んでいた。美しい花々には目も暮れず、ただじっと木々の隙間から顔を覗かせる月を見上げて。

 

 

 

そんな、しんみりとした空気が漂う中、一匹の光る小さな存在がふよふよと彼の元へ寄ってくる。その羽のついた小人の様な見た目はまるで妖精だ。だが、パックと呼ばれる存在はその姿に似合わぬ図々しさをもって、彼の頭にあぐらをかいて座ったのだった。

 

「ねえ、ガッツ。何してんの? そんなボケ〜っと空なんか見上げちゃってさ!」

 

「ヘッ……何でもねえよ」

 

ガッツと呼ばれたその男は、その言葉の返答代わりに鼻で笑う。それは、仲間を信頼しきれぬ自分に向けた物なのか、はたまた頭上のそれに向けられた物なのか分からない。

 

ただ一つ確かな事は、手の中にあったグラスの酒が、全て彼の胃の中に消えたという事だけだった。

 

これ以上飲めば、仮に何かあった時にまともな判断が出来なくなると思ったのだろう。彼は追加の酒を注ぐ事無く、そのグラスを地面へと置いた。そして、腰に付いたポーチから卵型の石を取り出すが、ふと手が震え、取り落とす。

 

「あっ! オレのベッチー!」

 

地面に落ちるよりも先に、彼の頭上から飛び出したパックの手が、その不気味な石を捕まえた。

 

「私の同居人であるぞガッツ君! もう少し丁重に扱いたまえ!」

 

「……へいへい」

 

どうやら、その石とこの妖精は同じポーチを寝床としているようだ。

 

同居者の危機を救った彼は、目の前の存在をじっと目で見つめる。

 

「あれ、ベッチィーってこんな顔だったっけ? もっとヘンテコな顔してる気が……」

 

"ベヘリット"

 

卵の形をしたその不気味極まりないその石には顔がある。顔と言っても失敗した福笑いのように目、鼻、口の位置がバラバラの歪んだ顔である。

 

だが、パックが見たその顔は、顔のパーツが殆ど正しい位置である、整った顔になりかけていた。

 

そして、顔が揃いかけるという事象が示すのは、不吉な何かが起こる前触れである。

 

「うおぉ! 元に戻るのだベッチィー!」

 

パックは元の愛嬌のある顔に戻れと念を込めつつ、ベッチィーをブンブンと上下に振った。バーのマスターもビックリの速さである。

 

ガッツはベヘリットを振り過ぎてヘトヘトになっているポンコツを呆れた様子で見ながら、自身の右手をそっと首元へと持っていく。

 

触れたのは首ではなく、それを覆う分厚い甲冑。だが、その先あるのは彼を未だ蝕み続ける呪いの証。殆ど痛みの無いそれのある場所を、彼はスッと撫でた。

 

(何とも無え……か)

 

明日の朝、素振りか調子の良いガキンチョの稽古でもするかと思いながら、彼は段々と微睡む意識に身を預けた。

 

だが、眠れぬ夜を過ごした癖なのだろう。その身は甲冑を纏い、傍らには自身の愛剣が置かれたままであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ツ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……てよ………ツ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ガッツ! 起きてってば!」

 

「……ッ!?」

 

焦りの含んだ大声に、その意識は一瞬で覚醒する。すぐさま大剣の柄を右手で掴み、周囲に注意を巡らせる。

 

前方から差し込む光。這わねば通れないであろうその隙間から与えられたそれは、彼に周囲の状況を嫌でも認識させた。

 

「おい、パック。ここは……何処だ……!?」

 

「分からない……分からないんだ! さっきそこの穴から外見て来たけど、一面雪景色で……」

 

おふざけ無しの真剣な顔付き。久々に見たパックのその表情に彼の頭の奥底にも焦りが生まれ始める。

 

周囲は土の壁。人が立てる大きさはギリギリある事から何かの住居なのか、それともただの洞穴か。ただ、どちらにせよ空間に対して出入り口が小さ過ぎる事だけは確かだ。

 

「ここに居ても埒があかねえ。外出るぞ」

 

「でもガッツ、その穴通れるの?」

 

「……多分」

 

自身の装備を今一度確認する。呪いの甲冑にあの大剣、ボウガンと矢、火薬の類がたっぷりと詰まったポーチの数々。そして何より、筋骨隆々のその肉体。

 

彼は暫く視線を明後日の方向へ向け、頬を掻くしか無かった。

 

 

 

 

 

結局、彼のガタイでは通れる事は叶わず、小さな穴を炸薬で強引に広げた事は言うまでも無い。

 

 

 

 

 

かなり大きくなったその穴から、芋虫のように這い出て来たガッツは、もう左しか残っていない目を眩しそうに細くする。

 

眩さがゆっくりと晴れた時、そこに映っていた景色は確かに雪景色であった。だが、視界に点々と映り込む異質な要素が、ここが彼の知っている場所では無い事を淡々と物語っていた。

 

あちらこちらにある滝に、湖らしき場所に浮かぶ円形の建物。だが、彼をより一層焦らせたのは、何処を見ても地平線など無く、真っ暗な闇しか見えなかった事だ。

 

「ここは……何処だ……!?」

 

その動揺が露わになった声に応える者など誰もいない。この状況で唯一の仲間であるパックも、そして彼自身も、目の前に広がる幻想と奇怪の入り混じった不気味な光景を前に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

しばらく経ち、ガッツとパックは何とか落ち着きを取り戻す。未だ理解の及ばぬ光景がすぐそこにあるが、分からないなら理解しようとしなければ良い。ひとまずは考えなければ良い。

 

「ガッツ……どうする?」

 

「どうもしねえよ。とにかくここか何処か分かれば良い。アイツらの所に戻るだけなら、船見つけりゃ何とかなる」

 

「なるほど……そしたら誰かに聞くのが早そうだね! おっ! 丁度誰かこっち来たよ!」

 

下に見える円形の建物からだろうか。目の前にある長い長い下り坂を誰かが登って来ていた。打つ手も無い故に話し掛けるのが良いのだろうが、残念な事に世間は厳しい。もしかしたら賊の類の可能性もある。

 

一応、警戒を緩めずにガッツは坂を登ってくる存在に話しかけようと近づいた。

 

「悪りィ、ちょっと良いか?」

 

「おや? 探窟家の方……では無さそうですね」

 

紫色の縦線が入った不思議な冑を着ているその男は、この空間と同様に聞き覚えの無い言葉を漏らす。だが、一々聞き返していては面倒である。

 

ガッツは何となく話を合わせるフリをして、さっさと本題へと切り込んだ。

 

「まあな、ちょいとワケありなんだ。とりあえず聞きてえんだが、ここら辺に海に面した町はあるか? あったら教えてくれると助かる」

 

「ほう、町ですか。"上"へ行けばありますよ」

 

目の前の男はその格好とは裏腹に、何も躊躇う事無く彼の知りたい情報を教えてくれた。男からすれば、こちらが不審な者であるにも関わらず、終始丁寧な口調でだ。

 

パックは相手が話が通じるタイプの人だと安堵する。だが、ガッツの表情は緩む事無く強張ったままだった。

 

「そうか、ありがとよ。邪魔して悪かったな」

 

「いえいえ、そちらこそお気を付けて」

 

男の最後の言葉が耳に入るよりも先に、彼らは重々しい音を立てて走り出す。少々無礼な行動であったが、その男は特に怒る事も無く、ただただ遠ざかっていく背中を表情の分からぬ冑越しに見つめていた。その首元には、組み合った手を模した悪趣味な白い首飾りがぶら下がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明らかに色々とおかしいこの世界。こんな場所でも例外なく足跡は雪にしっかりと刻まれる。平地から坂へと続く深い足跡は、彼らの心の焦りを示していた。

 

「いや〜! さっきの人が優しくてよかったよかった!」

 

そんな中、パックはガッツのポーチから顔を出して呑気にもそう言った。ただ、彼はその言葉に対して何とも言えない表情を浮かべる。

 

「まあ、確かにありがてえ。だが……」

 

「だが……?」

 

「なんかきな臭え」

 

「ほうほう……して、その根拠は?」

 

「……勘」

 

まさかの返答にパックはポーチの中でひっくり返った。

 

「いやはや根拠が勘とは……君は野生動物か何かかね?」

 

「言ってろ」

 

ガッツの溜息が聞こえる中、パックはベッチィーの上にてあぐらをかき、ぼんやりと先程の人物を思い返していた。

 

「う〜ん、さっきの人からは悪意とかは一切感じなかったから大丈夫だと思うんだけどなあ……」

 

エルフであるパックは多少なりとも他人の感情を感じ取る事が出来る。しかし、ガッツが何故か不信感を抱くあの男からは悪意の類は感じなかったようだ。

 

それ故に、パックはお互いがあの男に抱く印象が真逆である事に首を傾げる。

 

だが、それも束の間。面倒になりそうな予感がした彼は、考えるのを止めたのだった。

 

「ま、いっか! とりあえず上に登って行けば良い事は分かったからな! では、ガッツ君! 頑張りたまえよ!」

 

「相変わらずのんきなヤローだぜ……」

 

いつの間にか彼の頭の上でペシペシと彼のおでこを叩くその存在。文句の一つぐらい漏らしてもバチは当たらないだろう。

 

ガッツは鬱陶しい羽虫を摘み上げ、そこら辺にポイ捨てすると、眼前に続く坂道へと早足で歩き出す。

 

「うお〜! 置いていくでない!」

 

雪に頭から突き刺さったパックはシピタパと暴れ、なんとか雪から脱出する。さっさと追い付かねばと前向いた時、その異変は起こった。

 

「あれ、ガッツ……?」

 

ある意味、屈強という言葉の擬人化とも言えるガッツ。そんな彼が、たった五つの足跡を刻んだ先で膝をついていた。

 

今の所、怪我など一つもしていない筈である。

 

一体、何が起こっているのだろう。

 

「ガッツ!」

 

彼の様子を確かめるべく、すぐ側まで飛んでいくパック。横からチラリと見えた彼は、右手で自身の目元を抑えていた。不思議な事に、指の隙間から見える左目は驚きに見開かれている。

 

「ガッツ……大丈夫?」

 

「なんでもねえよ。ただ、ちょいと目眩がしただけだ」

 

心配するパックを横目に、ガッツはすぐに立ち上がって気丈な振る舞いを見せる。だが、その目は焦点が合っておらず、足取りは覚束無い。

 

まるで、死にかけの兵士の様に、これまでに散々屠ってきた幽鬼の様に、彼はフラフラと前に進む。

 

そして、今度は十歩程歩いた後、彼は膝から崩れ落ちるかの様に雪へと伏した。

 

「……ッ!? どうなって……やがる……!」

 

当然、彼は立ち上がろうとする。しかし、何度やっても立てない。まるで、船上に居るかのように、平衡感覚がまるでおかしいのだ。

 

言う事の聞かない己の体。その拳は苛立ちで硬く握り込まれた。

 

「ガッツ……」

 

突然壊れた自身の感覚。霞んで消えそうな目の前の景色。無音となった世界。何かが起きている事は明白だ。

 

だが、地面を芋虫のように這いつくばり足跡とは呼べない何かを刻み、真っ白な雪の大地を爪の食い込む手から溢れる血で染めながら、彼は再び前に進み始める。

 

 

 

仲間たちの元へ帰る為の"踠く旅"が今始まった。

 

 

 



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邂逅

深界四層、巨人の盃。その名の通り、盃の様に水をはるとても巨大な植物が群生しており、ここが巨大な穴の中である事を忘れさせる美しい光景を訪れた者の目に見せるだろう。

 

だが、そんな美しさとは裏腹にその生態系は過酷で残酷だ。気を抜いた者は勿論、警戒を怠らない者であっても運が悪ければ死んでゆく。

 

そんな世界の片隅で、一人の少年は右手を川へ向け、流れる水面をじっと見つめていた。

 

チャポンッと水面が揺れた瞬間、彼は機械仕掛けの右手を文字通り"射出"する。そして、小慣れた様子で手と腕を繋ぐワイヤーを巻き上げ、川に沈んだ己の右手を引き上げた。

 

「よしっ!」

 

引き上げた右手が掴み取っていたものは、そこそこ大きな一匹の魚。彼はピチピチと暴れる生きの良いそれを、背負ったカゴに入れる。

 

「1、2、3……よし、ちゃんと3匹だ」

 

カゴの中には既に捕獲していたのであろう同種の魚が居た。新しい客人に驚いて跳ね回るそれらの数を確認すると、彼はカゴを背負い直し、緑に覆われた道を駆けて行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リコ! ナナチ! 戻ったぞ!」

 

「おかえり! レグ!」

 

「んなぁ……相変わらず早えな」

 

曲がりくねった道で巧妙に隠された家。まるで見つかりたく無い意思がありありと見えるその家に、レグはお手製のカゴを背負って帰ってくる。

 

そんな彼をベッドに座って左手のリハビリ中の少女と、それを手伝うモフモフとした存在が歓迎した。

 

「ナナチ、リコの手はどうだ?」

 

「問題ねえな。あとはリハビリして指動かせる様になれば解決だ」

 

「一応、親指は少し動いたよ!」

 

ちゃんと動く方の右手で親指を立てるリコの言葉に、レグは少し気まずそうな返事をする。そして、彼が続けて何かを発しようとした時、この家の家主が強引にそれを遮った。

 

「さっさと飯にしようぜ〜……オイラもう腹ペコだ……」

 

室内に響く腹の音。力無く垂れ下がったその長い耳。レグとリコはその情景に思わず顔を見合わせ、柔らかな笑みを浮かべた。

 

「それじゃ、ご飯にしよっか!」

 

リコ達もナナチの全身から溢れ出るその空腹オーラに影響され、忘れていた空腹を思い出す。そして、一旦腹ごしらえをすべく、彼女達はその質素な厨房に集ったのだった。

 

 

 

 

 

数十分後、リコ達の食卓に並んだのは余った棒味噌を使った魚肉たっぷりの味噌汁だった。

 

ちなみに、見た目は結構悪い。

 

「んなあぁぁぁ……!」

 

だが、その度し難い見た目とは相反した美味さを持つそれは、ナナチのほっぺたを今にも落としそうな勢いだ。

 

「ナナチの食べてる姿見ると、なんかほっこりするよね!」

 

「うん、同感だ!」

 

暖かい二つの視線。そんなものを向けられている事など露知らず、ナナチはただひたすらに暖かく美味しい食事を楽しんでいた。

 

そんな、幸せを露わにする食事風景を遮ることは許されない。故に、食事が終わって満足そうな溜息を吐いた頃を見計らい、リコはナナチに一つの疑問を投げかける。

 

「ナナチ、この後はどうする? もしかして、早速新しいリュックの素材集め?」

 

「ああ、そうだぜ。その腕で行動する練習も兼ねてな」

 

ナナチは口元に付いた食べ物の汚れを舐めとると、その毛むくじゃらの手でリコの左手を指差した。

 

「ナナチ、大丈夫なのか?」

 

「大丈夫なようにオマエが付いてやれば良いだろ? レグ」

 

「確かにそうだが……」

 

「まっ、タマちゃん達の縄張りには入らねえから安心しろ」

 

正式名称"トガジシ"、探窟家達の間では通称"タマウガチ"と呼ばれているその生物は、非常に獰猛で素早い事に加えて、未来予知に近い行動をする恐るべき原生生物である。そんな強敵相手に二人を守りながら戦うといった芸当は、今の彼には出来ない。

 

だが、過去にその凶獣と一対一で対峙した時、彼は何事も無くしっかりと撃退している。ナナチによる後方からの支援付きという条件下であるが、撃退したという事実には変わりは無い。

 

それなのにも関わらず、自身の右手をじっと見つめる彼の表情は、自信を無くし、不安で仕方がない少年のものであった。

 

「大丈夫だよレグ! この前みたいには絶対にならないから! だって、前とは違って3人だもん!」

 

彼を励ますように発せられたリコの言葉。精神面の針がポジティブ側に振り切れた彼女のセリフは、レグを確かに元気付ける。

 

「うん、そうだな!」

 

表情に元気の戻ったレグは唐突にナナチの手を両手で掴むと、迷いの無くなった目ですぐ前の驚いている顔を見つめた。

 

「ナナチ! もしもの時はよろしく頼む!」

 

「んなあっ!? わ、分かったから離れろ!」

 

彼の誠意がこれでもかと籠った熱烈な握手を受け、タジタジになってしまうナナチ。

 

「私からもよろしくね!」

 

「んなあああぁぁぁ!」

 

一連の流れに便乗したのか、リコもナナチのモフモフボディに後ろから抱きついた。

 

その結果、前も後ろも逃げ場が無くなった誰かさんの声が暫く辺りに響いたそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地に生える草や苔を踏みしめ、リコ達は道なき道を進んで行く。だが、体に染み付いた癖というものは厄介で、リコは無意識の内に左手で物を掴もうとしてしまう。親指は今の所辛うじて動く為、全く掴めない訳ではない。だが、それでも咄嗟に体を支える程の力は出ないだろう。

 

それ故に、地面の根っこにつまずいて地面に頭から突っ込みそうになるが、すぐ後ろを歩いていたレグがその襟元を掴んだお陰で事なきを得る。しかし、これを断崖絶壁などで何度も起こされては支える方の気が持たない。

 

ナナチの言っていた"慣れる"という事が重要だと、二人は嫌でも思い知らされた。

 

「リコ、大丈夫か?」

 

「あ、ありがとうレグ!」

 

「一応、歩く時は右側に寄った方が良いかもしれない」

 

「うん、そうする」

 

レグに起こしてもらったリコは、彼の助言通りいつもより右寄りで歩き始めた。これで、再度こけたとしても右手で何かを掴んで踏ん張れる。

 

そんなこんなで暫く進んでいると、先頭を歩くナナチが突然止まり、二人へと振り返った。

 

「これからタマちゃんの縄張りの近くを歩く。問題ねえとは思うが、警戒はしといてくれよな」

 

「了解した!」

 

「わかった!」

 

ナナチの念押しは二人の気をしっかりと引き締めさせたようだ。一切の油断をせずに彼女達は進み始める。

 

ちょっとした森もどきを抜ける。先程の警告通り、眼下には水の溜まった葉っぱが特徴的な巨大な植物の群生地が広がっていた。その中の一つに哀れな屍が転がっている事から、今もここら一体は慈悲の無い弱肉強食の世界が色濃く出ているのだろう。

 

「……ナナチ、何か聞こえないか?」

 

「ああ、近くに同業者が居るみたいだ」

 

だが、彼らの耳に入ったのは例の原生生物の鳴き声でも、誰かの吹いた笛の音でも無い。

 

探窟隊か何かの大人数のグループ。それが発する幾人もの声だ。

 

色々な事情があり、今は他の探窟家に発見されたくない状況だ。だが、嬉しい事に音の発生源は眼下に広がる葉っぱの上からである。しっかりと草木に身を屈めながら進んで行けば、視界を阻む水蒸気も相まって見つかる事は無いだろう。

 

それぞれが屈み、耳を畳み、草木に紛れながら前進する。とりあえず進めば遠ざかる事が出来ると皆が思っていたのだが、どうやらそう簡単にはいかないようだ。

 

「この音……なんだろう? なんか硬い物同士がぶつかってるような……」

 

ガキィンッとまるで金属同士が衝突したかの様な硬い音が不自然な感覚で鳴り響く。そして何より、その音は確実にこちらに近づいてきている。

 

レグは勿論、ナナチもリコも知らない何かの存在。沢山の水を踏み抜く足音から、恐らくはどこかの探窟隊なのだろうが、それにしては先程聞こえていた声が全くと言って良いほど聞こえない。

 

じわじわと自身を蝕む緊張感に、いつしか額に冷や汗が滲み出る。

 

「一旦様子見だな」

 

このまま進むと良くない事が起こると予感したナナチ。当然、他二人もそれには同意である。

 

「ナナチ、あそこなら見つからずに様子見れそうだよ」

 

リコの指差した先には子供ぐらいの大きさであれば隠れられるであろう、大きく隆起した苔だらけの地面があった。

 

物音を立てない様にその影まで移動すると、彼女達は未だ鳴り響く金属音の方をゆっくりと覗き見る。

 

「あ、あれは……!?」

 

「片方は探窟隊……もう片方は哀れな略奪の被害者って所だな」

 

その目に映った光景は、十人余りの探窟家達がたった一人の血塗れの男に対して、各々が大きな武器を向けている所だった。

 

武器と言っても彼らの大半がピッケルやスコップの様な探窟用の物であり、武器と呼べる武器を持っているのはたった数人である。だが、それが些細な問題である事は言うまでも無い。対人用であろうが探窟用であろうが、鋭い物で貫かれれば人は死ぬのだから。

 

リコはそんな危険物を向けられている人物を見て、何かに気付く。

 

「あの人……笛が無い!」

 

彼女の視線は野蛮な探窟家達の胸元へと向く。黒、月、青……色々な種類はあれど、彼らには確かに探窟家の証明である笛があった。だが、現在進行形で囲まれている男の胸元にはそれが無かった。

 

だが、おおよそ予想は付く。

 

いわゆる、()()()というやつだ。

 

触らぬ神に祟り無し。関わらぬ方が身の為だろう。だが、レグは大人数で一人を囲むこの行為を静観してはいられなかった。

 

そんな彼の肩を、毛皮に覆われた手が押し留める。

 

「レグ、ダメだ。今出たらオイラ達の居場所までバレちまう。諦めろ」

 

ナナチの言う事は間違ってなどいない。ある意味、目の前の光景も弱肉強食の一つである。故に彼はただ黙って見ていることしか許されなかった。

 

そんな彼らの目の前で、事は大きく動き始める。

 

多数の探窟家達の内、一部の者達が己の得物を振り上げる。その行き先は言うまでも無い。

 

しかし、探窟用のそれが男の頭蓋を割るよりも先に、その軌道は激しい金属音を立てて彼の左腕によって逸らされる。どうやら、先程から鳴っていた奇妙な音の正体は、金属質な左腕とこの探窟家達の得物がかち合う音だったようだ。

 

「あの左腕……僕と同じ?」

 

「同じだったらとっくのとうに腕伸ばして逃げてんだろ。大方、頑丈な鎧か何か纏ってんじゃねえのか? まあ、アビスに潜るのに鎧ってのもおかしな話だけどな」

 

ぼんやりとした話をしている最中にも、眼下の戦闘は続いている。ナナチは意外にもこの人数相手に健闘している男の動きを面白そうに観察していた。

 

そんな中、鎧を纏っているのであろう男の左拳が、不用意にも近づき過ぎた一人の探窟家の顔面に炸裂する。鼻も歯もへし折れ、見事に陥没する顔。痛々しいその様に、リコとレグは思わず表情を引き攣らせた。

 

「あーあ、すっげー痛そう」

 

しかし、反撃していた男のふくらはぎに一本の矢が突き刺さる。不運にも鎧に覆われていない部分に突き刺さったそれは、後方から射られた物のようだ。

 

矢羽に伝う赤い液体。これでは、彼らを翻弄してきた男の機動力も無くなったに等しいだろう。

 

「あの人、なんで反撃しないんだろう」

 

「どういう事だ、リコ? 彼ならさっきから左手で反撃してるじゃないか」

 

「そういう事じゃねえよ。あいつ、何か武器っぽいもん背負ってるんだ。自分が殺されそうなのにそれを使わねえのはおかしいだろ?」

 

その言葉にレグの視線は再び男の元へ向く。その背中を覆うマントのせいで全貌は分からないが確かにそれらしき物が背中にある。彼が移動するたびにチラリと見えるマントの陰影からして、そこそこ長さのある物のようだ。

 

()か何かだろうか?

 

そんな事を考えていると、突如としてある探窟家の身体が宙へ浮く。いや、幾つかの白く太い針によって()()()()()

 

「あれは……!?」

 

胸、腹、足、腕。背後から全身をくまなく貫かれた探窟家をゴミのように放り投げるその影は、この深界四層で最上位の危険度を持つ恐ろしき生物だった。

 

「タマウガチ! それも二匹……!?」

 

「あいつら運悪いな〜、タマちゃん二匹と鉢合わせるなんて初めて見たぜ!」

 

穴だらけとなった探窟家から漏れ出る命が、彼らの立つ盃を赤く染め上げる。一人の命が失われてようやくその存在に気付いた彼らは、我先にと脱兎の如く走り出す。

 

血のような赤い仮面を持つその死神は、続け様に数人の命をアビスへと還す。だが、そんな僅かな隙に彼らは死神から逃げ果せた。凄まじく熟達した逃げ足である。

 

そこにポツンと残った一人の黒い影。彼もまた全身から血を流し、足元を赤く染めている。しかし、そんなことお構い無しに二体の白き死神は敵意を露わにしてその者へじわじわと迫る。

 

どうやら、白き死神達は彼にも騒音被害の落とし前をつけさせるようだ。

 

「ナナチ! また指示を頼む!」

 

レグはそれだけ言い放つと、手を伸ばして男の元へと飛び立った。彼を呼び止める声が響き渡るが、その行動を止めるには至らない。

 

残念ながら、まだ助かる命を前にして冷酷にはなり切れないようだ。"見捨てる"という行為などもっての外だろう。

 

軽い身のこなしで男の隣へ降り立ったレグは、彼を庇う様に前に出ると、その腕を構えた。

 

「僕が時間を稼ぐ! その間に逃げ……っ!」

 

後ろを振り向き、逃げるよう呼びかけようとした。だが、その目が男をはっきりと捉えた時、レグは言葉を失った。

 

 

 

開いた左目は本来白色であろう部分を赤く染め、閉じた右目は今もドクドクと血の涙を流し続ける。鼻や耳は勿論、その顔に刻まれた軽い傷からも同様に赤い液体が滴り落ちる。

 

顔だけでなく鎧の隙間からも漏れる赤い絵の具は灰色の鎧は勿論、彼らの立つ盃もより濃い深紅へと染め上げていく。

 

今にも倒れそうなボロボロの体とは裏腹に、その鎧に大きい損傷は見当たらなかった。

 

(この血は……探窟隊に襲われたからじゃない! 四層の()()()()だ!)

 

かつて、リコに牙を剥いたアビスの呪い。深界四層のそれは、"全身に走る激痛と、穴という穴からの出血"だ。しかも、リコが苦しんだものよりも明らかに出血量が多い。

 

つまり、それに伴う痛みも相当な筈だ。

 

彼はそんな余計な想像をして青ざめた。だが、目の前の男から放たれた言葉は正気とは思えないものだった。

 

「そこどいてろガキ。邪魔だ」

 

レグは己の耳を疑った。自身が子供扱いされているのはよく分かる。だが、この男の行動と発言が示す意味は、彼には信じ難かった。

 

しかし、レグの前に躍り出た男の背中は信じられない事実を嫌でも語る。

 

「その体で戦っちゃダメだ! しかもタマウガチの針には毒が……!」

 

「ああ、知ってる」

 

マントに隠れていた男の右手が、背中にある武器の持ち手へと添えられる。

 

だが、そうではない。

 

レグの顔を再び青く染め、苦汁の記憶を思い出せたのは、姿を見せた彼の腕。

 

 

 

まるでリンゴでも詰まってるのではないかと思う程に腫れ上がったその上腕。毒々しい紫色とその表面についた浅い傷が、彼が毒を既に知っていた理由を物語る。

 

「だったら尚更ダメだ! 毒が回ってしまう!」

 

すぐさま制止の言葉をぶつけるが、彼の行動は止まらない。

 

「さて、この腕の礼……コイツでしてやるよ!」

 

バリバリという異質な歯軋りを響かせて、彼の右手が柄を握った。大きく腫れた上腕はその強引な力みに耐えられず、表皮が張り裂ける。上昇負荷も相まって噴き出す血が、レグの顔を赤く濡らす。

 

そして、その腕を大木のように隆起させ、彼は自身の得物を天に見せつけるように持ち上げた。

 

それは、レグの頭の中にあった細長い槍のイメージとは大きくかけ離れていた。

 

それを見た二体の獣は静かに脚を後ろに下げ、少年は己の顔を拭う事を忘れ、ただただ目を見開いた。傍観していた少女達も同様に、開いた口を塞ぎもせず唖然とする。

 

 

 

 

 

 

それは剣というには余りにも大きすぎた。

 

 

 

 

 

大きく、分厚く、重く、そして大雑把すぎた。

 

 

 

 

 

それは正に、

 

 

 

 

 

()()だった。

 

 

 



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鉄塊

 

食いしばった歯をそのままに、男は前方にいる二体のタマウガチに向かってその巨大な剣で薙ぎ払う。今にも壊れそうな右腕を補助するように左手でも剣を握っている。しかし、腫れ上がって表皮の裂けたその腕からは依然として蛇口のように血が噴き出し続ける。

 

手負いとは思えない程の速さを持った剣先。だが、相当な速さを以ってしてもその白い獣を両断する事は叶わず、剣先はただただその体毛を僅かに擦り、地面に力無く激突した。

 

「……ッ!!」

 

その時、レグは確かに見た。男の顔がほんの一瞬だけ苦痛に歪むその様を。

 

「やっぱり戦える状態じゃない!」

 

当然である。

 

あの毒に侵された腕は少しの刺激で激痛をもたらす筈だ。それこそ、泣き叫びたくなる程の。そこにはちきれんばかりの力を込めるなど、想像するだけでも気分が悪くなる。

 

早急に男を助けるべく、レグはナナチに指示を求めた。

 

「ナナチ! この前のように指示をくれ!」

 

「んなあ……そう言われてもな〜」

 

彼の装備に付けられた小さな遺物からナナチの言い淀む声が届く。

 

「見捨てるべきなのは分かってる! だが、僕はそうしたくない!」

 

「いや、そういう事じゃねえ」

 

いつものナナチらしい判断が下るのかと思いきや、どうやら違った様だ。音を伝える遺物越しに、何やら悩む声が聞こえる。

 

「あ〜……やっぱダメだ。読めねえ」

 

「読めない……?」

 

「お前とタマちゃんだけならいけるが、今の状況じゃ動きを読めねえってこと。この小細工は複数には対応してねえんだ」

 

彼の表情が歪む。考えていた救出プランは使用不可。そうなったら何とか解決案を捻り出すしかない。男が死ぬより先に考えなければならない。レグは焦りながらも、己が介入できる余地が有るのかどうか、目の前の戦いを注視する。

 

ひとまず言える事としては、あの男は意外にも上手く立ち回っている。相手は高度な先読みが出来るタマウガチ。しかも二体。そんな彼らの波状攻撃を躱し続けている。

 

まるで、刺突という攻撃に慣れているかのように、襲い掛かる針の群の隙間を駆け抜ける。避けられない攻撃は左手やその鎧の表面を滑らせて逸らす。そして時折、盃に浸った剣先を例の如く血を撒き散らして振るう。

 

だが、左脚に刺さった矢は未だ健在。そのフットワークは確実に衰えており、遂に男は左膝をつく。立っている地面が水場なのも分が悪い。

 

「クソッ……!」

 

タマウガチの感覚器官が男に向けられているのを見て、レグは安直な案を思い付く。

 

あの器官の死角に入ってしまえば攻撃が当たるのではないかと。

 

ハッキリ言って何処からどこまで死角なのかは不明。しかし、限りなく背後まで回ればいけるのではないかと考えた彼は、ゆっくりと足を動かし始める。

 

盃に張られた水が彼の動きをなぞる様に波を立てた。気付かれたのではないかと身を震わせたが、あの男の発する波の方が大きかったようで、例の獣の意識はこちらに向いて無さそうだ。

 

それどころか、男のお陰で立ち位置が変化したのか、運良くこちらに背を向けていた。

 

一瞬の好機、これを逃す手はない。

 

「今だっ!」

 

スッと照準を合わせ、レグはその両手を発射する。無機質な黒色のそれは頑丈な金属の紐と風切り音を携えて、白い獣へと向かう。片方は腹の下へ、もう片方は背中側へ。

 

グルグル巻きに拘束してしまえば、予知能力も意味を成さない筈だ。

 

「っ!? 気付かれた!」

 

獣特有の勘なのか、それとも予知能力の賜物か、タマウガチは自身の未来を消し去ろうとする一手に感づいた。十分な速度に達していた筈の腕は、発達した四肢による跳躍で呆気なく避けられてしまった。

 

策が潰え、苦い顔を浮かべるレグ。

 

そんな最中、彼の腕に突然痛みが生じた。

 

「いっっっ!!!」

 

歯を食いしばって叫び声を殺す。それでも、想像もしていなかった結構な痛みに目が潤む。

 

なんとあの男、見事に外れたその流れ弾一つを、咄嗟にタマウガチの方向へとかっ飛ばしたのだ。当然、バットはあの鉄塊。

 

痛くない訳がない。

 

しかし、そのお陰でレグの片腕はタマウガチの前脚へと絡まった。もうあの機動力を最大には生かせない。

 

「まずい、片腕じゃ……!」

 

だが、その膂力は未だ健在。片腕では強引に外されるのも時間の問題である事を、緊迫した表情が語る。

 

そんな中、男の顔は獲物を見つけた猛獣の様に歪んだ。そして、片手で大剣を引きずっているとは思えない速度で機動力の落ちたタマウガチへと迫る。

 

左脚に刺さった矢が、その強引な進軍に悲鳴を上げるかのように血の涙をボタボタと垂らす。それでも、その赤く染まった脚は止まらない。猛獣の様な前傾姿勢は崩れない。

 

黒い猛獣の接近を許した白い獣は、その毒針で当然のように迎え撃つ。もう一発でも当たれば終わりな理不尽さを持ったそれは、まるで上から覆い被さるかの様に男の背中に突き立てられた。

 

 

 

だが、貫いたのは男の背中から伸びるただの布切れだけであった。

 

 

 

男の行動が速すぎるのもあるだろう。だが、何よりも必殺の攻撃に対して、何一つ躊躇する事なく前へと更に加速した事が、獣の反射神経を僅かに上回った。

 

走る勢いそのままに、今度は男が得物を振るう。その武器はタマウガチの様に強力な毒も無く、大量にある訳でも無いだろう。だが、理不尽さでは負けてはいない。

 

その腕を顧みずに放たれる一撃は防御不可。まともに受け止めるなど、絶対にしてはいけない。

 

取れる択は当然ながら回避のみ。それを何となく理解しているタマウガチも跳んでやり過ごそうとしたのだろう。だが、前脚に絡まった忌々しいワイヤーがその動きを鈍らせた。

 

 

 

男の大剣が迫る。

 

 

 

強引に跳躍するタマウガチ。

 

 

 

無理な体勢だったせいか着地の際に転倒する。感覚器官が捉えたのは、剣を振り終えた男の溢れんばかりの敵意と、再び剣を引きずり向かってくるその動作。

 

疲労かダメージ、又はその両方か。先よりも確かに鈍ったその動き。対処するのは容易い。だが、そう思ったのも束の間だった。

 

 

 

 

 

()()()()()()

 

 

 

 

何故か、どれだけ踠いてもその巨大な体は地に転がったまま。立ち上がる事さえ叶わない。力場の波を読まずとも、盃の赤い水が波を立て、男の接近を訴える。

 

動けないのなら、己の武装で何とかするより他は無い。再び真っ直ぐ突っ込んでくる男に向かって、大量の針を差し向けた。

 

血の雨が赤い仮面へ降り注ぐ。

 

それは確かに男の血。しかし、宙に舞っていたのは男の体ではなく、右から左に薙ぎ払われた鉄塊に悉く叩き折られた己の得物、その残骸。

 

そして、竜巻の様に迫る刃が行動の猶予を与える事無くその命を刈り取った。

 

灯火の消える最期の時、飛ばされたタマウガチの首が見たものは、()()()()()自身の体であった。

 

「ガハァッッッ!?」

 

跳んだ首が地につくよりも先に、男は口から大量の血をぶち撒ける。

 

ブラリと垂れ下がった右腕、地面に突き刺した大剣に預ける体重、悪くなる顔色、足元を染める赤い液体。

 

男の限界が近いのは誰が見ても明白だ。

 

しかし、ぶっ壊れかけた身体を休める間も無く、もう一匹の死神が仲間の仇を討ちにくる。

 

「させるか!」

 

レグがタマウガチの前方へと腕を再度射出する。案の定躱されるが、その脚を止めさせる事には成功した。そのまま、男を庇う様に強敵と向かい合うと、気を緩めずに後ろの怪我人へと呼びかける。

 

「僕が何とかするから早く逃げるんだ!」

 

機械の体を持つ自身なら、あの針も毒も痛いだけでなんとかなる。故に、彼には大人しく逃げて欲しかった。

 

しかし、残念ながら彼が起こした行動はその意と大きくかけ離れていた。

 

「な、何してるんだ!?」

 

彼は己の右手と剣の持ち手を包帯で決して離れぬ様に巻き付けて固定していた。その行為が示す事は、逃げる気は毛頭無いという事。

 

そして、剣を握れぬほどに彼が弱っているという事だ。

 

レグの制止の声を聞かず、男は再び剣を引きずりながらタマウガチへと突っ込んで行くと、苦悶の表情を浮かべながら鉄塊をぶん回す。

 

足元の水を巻き上げながら行われる激しい戦闘。レグも右手を構えて援護しようとするが、その凄まじい攻防が彼の介入を許さない。

 

大剣を躱し、突き出される毒入りの棘。

 

盾代わりに使われたそれから鳴り響く、耳障りな金属音。

 

大剣を強引に蹴り上げ、繰り出される斬り上げ。

 

紙一重で躱し、反撃の脚狩り。

 

振るった大剣の勢いそのままに、左手をついて後方へとバク転。

 

回避する事が分かっていたかのように突っ込んでくるタマウガチ。

 

傷ついた脚では逃げる事は叶わず、再び大剣を盾とする。しかし、突撃の勢いも乗ったその棘は、その盾を貫く事は出来ずともそれ相応の衝撃を与えたようで、男はなす術なく盃の端の方へ吹き飛ばされた。

 

攻防の止んだこの隙に、レグは今度こそと意気込むと、タマウガチと真正面から向き合った。

 

「ナナチ! 今ならどうだ?」

 

「ああ、問題ねえ! 手始めに右向いてみろ!」

 

「了解した!」

 

レグはナナチの指示通り思いっきり右を向く。その視界から白いその存在は消え、映るのは先程の探窟家の穴だらけとなった遺体と地面に広がる血の海だけだ。

 

彼単体でタマウガチを仕留める術は無い。故に次の指示を待っている最中、彼の視界を白い影が横断した。

 

「っ!? ナナチ!」

 

「失敗だ! アイツ、お前の事なんて気にも留めてねえ! 狙いはハナっからあの男だ!」

 

「くそっ!」

 

最早敵として見られていない事に悔しさを感じながらも、彼はその白い背中へと両手を飛ばす。しかし、敵視されていないとはいえ、道端の大きい石ころ程度には意識はされているようで、放った両手は後脚で見事に弾かれてしまった。

 

これで、あの真っ白な死神を止める物は何も無い。

 

「……レグ、諦めろ。アイツはもう助からねえ」

 

「……っ!」

 

認めたくない事実をナナチが告げる。レグももう分かっているのだろう。悔しそうな表情の裏に、なんとなく諦めの色が見えている。

 

だが、レグがナナチ達の方へ戻ろうとした時、耳元の遺物からリコの呟くような声が響いた。

 

「あの人……まだ諦めてない」

 

その言葉に振り向いたレグの目に映ったのは、大剣を引き気味に構えた男の姿。持ち手と手を縛り付ける包帯が、痛々しく赤く染まっている。

 

きっと、突っ込んでくるタマウガチを迎撃するつもりなのだろう。

 

だが、距離感の分かりづらい隻眼で、壊れかけの体で、相手の意識を読む存在に刃を掠める事など誰が出来ようか。

 

「無理だな、意識がバレバレだ。あれじゃ、勝てる確率なんてありゃしねえ。ゼロパーセントだ」

 

離れた場所からでも容易に確認できるその意識。最早、どこを狙っているかさえ明確に読み取れる。当然、タマウガチもそれは分かっているのだろう。そのままの勢いで突っ込んで行くかと思いきや、男の意識が告げるあの大剣の範囲ギリギリで突然急ブレーキを掛けた。

 

獣の様に見える存在がそんな高度なフェイントを掛けてくるなど誰が分かるのだろうか。男はもし突っ込んできていれば当たったであろうその剣を横薙に振るってしまった。

 

痛々しい右手からの血飛沫。カーテンの様に彼らの間にかかる赤いそれ越しに、タマウガチは右脚を一歩前に進めると、毒塗れの槍を放ちカーテンごと男を貫ぬかんとする。

 

しかし、見ることしか出来ない彼らが"終わり"の三文字を頭に浮かべたその瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

避けようのないその一撃は来るはずのない()()によって砕かれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

驚愕に見開かれた傍観者達の瞳。まるで世界が停止したかと思う程、ゆっくりと流れる眼前の光景。

 

その世界で確かに男は剣を振っていた。

 

先程の軌道を逆からなぞるかのように。

 

恐ろしい鉄塊をまるで棒切れのように。

 

男の腕が吐き出す血の雨とその行動に一同が唖然とする中、彼は矢の刺さった左足で一歩前へ踏み込んだ。

 

それは相手の攻撃から身を守る為ではない。相手に死を与える為だ。

 

タマウガチが前に出した脚を引っ込めるよりも先に、男の腕が再び赤い対価を支払う。左から右へ振られていた大剣は、見返りとしてその軌道を右から左へと変えた。だが、相手も獣の反射神経にものを言わせ、咄嗟に大きく飛び退こうとする。

 

 

 

殆ど同時に行われた両者の行動。

 

 

 

 

 

その結末は、赤い仮面に入った横一文字の亀裂が物語っていた。

 

 

 

 

 

男の右腕と同じように大量の血を盃へとぶち撒ける。仮面と同じような色のそれが落ちていく度に、力場を見る"目"が霞んでいく。代わりに鮮明になっていくのは、獣の本能が訴えるまだ知らぬ感覚。

 

背筋が凍りつき、自身の意思と関係無く震え始める己の体。前に居る存在を知覚する度にそれは大きく、止まらなくなっていく。

 

自らが今まで葬り去ったアビスの探窟家達の最期の行動と酷似しているそれは、正しく"恐怖"と呼ばれる物だった。

 

そんな素晴らしい代物を味わってしまったその獣が起こす行動はただ一つ。

 

 

 

逃亡である。

 

 

 

何も考えず、ただひたすらにあの存在から距離を取るために、震える体を動かす。だが"弱肉強食"の四文字はいかなる時でも平等だった。

 

バシャバシャと響く、水を叩きつけるような足音。強者だった者の命を喰らいに来たのは、縦向きに突き出された鉄の塊。偶然にも、感覚器官から流れ出る血によって、その存在は覆い隠されていたようだ。

 

逃げる間も無く、その大剣の切っ先は頭へと突き出された。赤い仮面を四等分するかのような縦向きのそれは、否応無しに顔面の肉を裂き、その奥で立ち塞がる骨を粉砕する。

 

そして、肉の鎧の最深部で怯えていたその命を無惨に貫いたのだった。

 

 

 

 

 

「タマウガチに……攻撃が当たった……!? いや、今はそれどころじゃない!」

 

巨体がゆっくりと地に沈む光景を前に、今まで開きっぱなしだったレグの口はやっと動き出したようだ。第一声に当然の疑問を吐いた後、やるべき事を思い出した彼は、肉塊から剣を引き抜いて歩き去ろうとする男へと呼びかける。

 

「待ってくれ! その怪我で動いちゃダメだ! 毒も回ってしまう!」

 

「悪りィが……のんびりしてる暇は……ねえんだよ……!」

 

レグの言葉に耳を貸さず、男は剣を引きずりながらフラフラと歩き始める。例え生き長らえたとしても、あの状態で上昇負荷を受ければどうなってしまうのかは考えなくても分かってしまう。

 

「レグ、ほっとけ。本人がそう言ってるんだからよ」

 

「だが……!」

 

「あ! レグ! あの人倒れちゃったよ!」

 

大量出血に加え、毒による衰弱はどんな屈強な者でさえ例外無く地に倒れ伏す。レグの視線の先にいた筈の大きな影は消え、あるのは杖のように地面に突き立てられた大剣と、その柄に右手を縛ったまま気絶した男の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ……こんなもんだろ」

 

「うわ、大量の水キノコだ……取る時痛いだろうなあ……」

 

「これは……助かるのか?」

 

「さあな、ハッキリ言うとすれば、毒よりも出血多量がやばい。どうやらコイツ、戦闘じゃなくて上昇負荷で血を流してたみたいだ。多分この鎧取ったらとんでもねえ状態だぜ?」

 

ナナチはコンコンと男の鎧を叩く。そして、レグに向かって意地悪な視線を向けた。

 

「それで、あれ持って来なくていいのか? コイツの剣なんだろ?」

 

「む、無理だ! あれは重すぎて僕の力じゃ持てない! 引きずるのが精一杯だ!」

 

「いや〜あれは面白かったぜ? 今まで見た事もねえぐらい顔真っ赤になって剣抜こうとしてたお前の姿!」

 

その時の光景を思い出したのか、小さな声でナナチは笑う。少し不満そうにするレグは思わず視線を逸らすが、その先で目に入ってしまったのは盃の縁に置きっぱなしのままである横向きの大剣だった。

 

大きすぎるその一品で蘇ったのは、先程の情け無い自身の姿と脳内から追い出していた一つの疑問であった。

 

「ナナチ、タマウガチは力場を読む事による予知能力があると言っていたな。だが、さっき彼は……」

 

「そんなとんでもないヤツに攻撃を当てた。そう言いたいんだろ?」

 

レグその言葉に深く頷いた。そんな彼の様子を目に入れながら、ナナチは真剣な顔つきで思考を巡らせる。

 

「先に言っておくが今から話す事はただの推測だ。本当がどうかは分からねえ」

 

ナナチは言葉をかいつまみながら説明を始める。

 

「まず、ちょっとした質問だ。もし、お前に予知能力があったとした場合、1秒後にこうやって攻撃が来ると分かったらどうする?」

 

もふもふした拳がレグの額にピタリと当てられた。彼は突き出されたその腕を両手で優しく掴むと、ムニムニと感触を味わいながら平然と問いに答える。

 

「来る事が分かっているなら、当然避けるだろう」

 

「ああ、普通はそうだ。だが、その攻撃の範囲がこの四層まるごとだったらどうする?」

 

ナナチの言葉にレグの視線は今立っている不思議な世界へと向いた。見渡す限り広がる緑の世界。上にも下にもまだまだ続くここから脱出するには一体どれ程の時間が掛かるのだろう。少なくとも数秒では不可能な事は間違いない。

 

「無理だ! たとえ僕だけだったとしても腕を伸ばしただけで終わってしまう!」

 

「それと同じ事がさっき起こった……と思う」

 

「同じ事……?」

 

「うーん……どういうわけか、剣を避けられる前と後じゃ意識が全然違った。簡単に言えば剣の予測線が広がったんだ」

 

「つまり……二度目の攻撃がさっき言っていた四層全域のように範囲が広かったせいで当たったという事なのか?」

 

レグの導き出した答えにナナチはただただ口籠もる。まるで、せっかく出た結論を信じられない研究者のように、その表情には納得など微塵も浮かんでいなかった。

 

「大体はそういう事だ……だけど、普通に考えてありえねえんだ!」

 

「ありえない……?」

 

「……お前はタマちゃんの反射神経より速く腕を飛ばせるか?」

 

「ッ!?」

 

ナナチの言葉は電撃のようにレグの頭を突き抜けた。

 

今思えば男の反撃が来るあの瞬間、予知できるタマウガチは男が剣を振るよりも先に行動していた筈なのだ。

 

しかし、両者の行動は殆ど同時。そうなれば出てくる結論は一つ。

 

男の剣速がタマウガチの反射神経を凌駕していたという事になる。

 

とある白笛のように人ならざる力を持った者も居るが、それでもこの結論は信じ難い事この上無かった。

 

「あの酷え状態の腕で、少量とは言え毒を食らった状態で、そんな事をしたって考えるのは無理があるだろ? だからこの考えはただの推測って言ったんだ」

 

「うむ、確かに……」

 

その言葉を発した後、二人の視線は地面に横たわる男へと向く。最初の方の警戒の混じったものとは違い、興味と不思議が入り混じったものだった。

 

彼らがそんな視線を向けている中、リコだけは全く違う意識を持って男を隅から隅まで観察していた。

 

「ねえ! もしかして、この人も五層から来たのかもよ!」

 

突拍子も無い事を言い始めた彼女へ二人の視線が向く。なんというか、色々と疑いを孕んだものだ。

 

「リ、リコ、それは本当なのか? 僕にはとてもそうは思えないが……」

 

「同感だな」

 

レグの視線が男の鎧と大剣を行き来する。彼をなんとかタマウガチの縄張りから安全な場所に移動させた時、男の重さに危うく潰されかけたのだ。とてもじゃないが、登って来れる装備では無いと考えてしまう。

 

しかし、リコは人差し指を真っ直ぐ彼の前髪に向けるとこう言い放った。

 

「でも見て! この不自然な白い髪の毛! オーゼンさんが言ってたじゃん! 深界で精神をやられるとなんか体に影響が出るって! きっとこの髪はそのせいだよ!」

 

「んなあ……じゃあそういう事で良いや。そんじゃ、さっさと家に帰ろうぜ?」

 

「彼は……このままで大丈夫なのか?」

 

「後はコイツ自身の生命力次第って所だな。レグ、お前に免じて赤の他人にタダで処置してやったんだ。しかも、初めて見るぐらい酷えやつをな。だからこいつは貸しイチだ。分かったか?」

 

「う……了解した」

 

彼らはその後、元々取りに来たリュックの素材を回収するべく歩き去った。色々と苦戦して数時間以上経った後、同じ道を通って帰ったが、依然として男の体は変わらぬ場所に横たわっていた。諦めの視線と心配そうな視線を受けてなお、彼が意識を取り戻す事は無く、スッキリとしないまま拠点へと戻ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝露が集まり雫となって葉から落ちる。その行き先は傷だらけの誰かの顔。しかし、そんな小さな刺激は誰かを微かに唸らせるだけに終わる。

 

そんな中、今度はコップ一杯分程の水が誰かの顔へ襲いかかった。

 

「……ッ!?」

 

「やあ、やっと起きたのかねガッツ君。気付けの一杯の味はいかがかな?」

 

眠りから覚醒したガッツが見たのは、手に何故か木彫りのコップを持ったヘンテコな妖精パックの姿。ご親切なモーニングコールに思わず皮肉を吐いた。

 

「あー……おかわりは要らねえ」

 

「分かった!」

 

言葉をガン無視して用意された二杯目をご丁寧に持ち主へ返却した後、彼は自身の右手の状態に驚愕した。

 

「これは……一体何だってんだ」

 

目を見開いた彼の視線の先にあったのは、未だ皮膚に血が残っている自身の右腕。その張り裂けた傷跡を塞ぐ様に縫い込まれた毒々しい見た目のキノコだった。

 

「いやはや、立派なキノコの苗床ですな! でも、こんな見た目してるけど害があるやつじゃ無いらしいぞ?」

 

パックの話によれば、彼は動き回るガッツのポーチの中でベッチィーに頭をぶつけて気を失った。そして、やっと目覚めたと思ったら今度はポーチの上に謎の重しがあって外に出れず、ただただ聞き耳を立てていたそうな。

 

そうして、彼はガッツの右手を治療した誰かさんの会話を盗み聞きする結果となった。

 

「なんか共生関係をどーたらこーたらで、治療に使えるヤツだってー」

 

3ビットしかない脳みそから出力される情報は、今の状況の完全な理解には少々不足していたようだ。何故か自信満々なパックに対し、なんとも言えない表情が返答代わりに返された。

 

「……どう見てもヤバそうな毒キノコにしか見えねえが……まあ、害がねえなら良いか」

 

ガッツはそう言うなり重い身体を強引に立ち上がらせる。甲冑の隙間から溜まっていたドス黒い血が身体を伝い、彼の立つ場所を赤黒く染めていく。

 

「えっ!? もう動いて大丈夫なのか!? 絶対もうちょっと休んでた方が良いって!!」

 

「アイツらが待ってんだ。さっさと帰らねえと……っ!?」

 

真っ青な顔色によろめく身体。肩幅より大きく足を開いて踏ん張るが、感覚の鈍い足腰はガクンと崩れ落ちる。

 

「血ぃ流しすぎた……かもな」

 

地面についた膝をなんとか持ち上げ、彼は今度こそしっかりと立ち上がる。弱りに弱った肉体は、たったそれだけの動作で音を上げ、息を欲した。

 

激しい鼓動と荒い呼吸が襲い来る中、彼は少し霞んだ視界を動かして辺りを探る。目に映るその映像が段々と鮮明になり始めた時、彼の視線はとある一点に集中していた。

 

巨大な葉の上に溜まった赤い水。そこに浸されるかのように置かれた一つの鉄塊。どこかの鍛冶職人であれば剣が錆びるとでも文句を垂れそうな状態であった。

 

「うわぁ〜……あの葉っぱだけ真っ赤じゃん! いつものガッツみたい」

 

「……言ってろ」

 

 

 

 

 

 

剣の置かれた葉っぱまで他の葉を使いながら飛び移る。またあの白い獣に襲われたら面倒だと思っている故に、満身創痍の身体に鞭を打って素早く行動する。

 

そうしてあっさりと辿り着いた剣の元。全くと言って良いほど癒えていないその右手で、ガッツは歯を食いしばりながらその重々しい大剣を持ち上げた。

 

腕についたキノコの中身が空っぽになっているように見えるが、きっとただの気のせいだろう。

 

彼はいつも通りに剣を背負うと、パックに向かってある提案をした。

 

「パック、さっきオレを手当てしたヤツらの居場所まで案内出来るか?」

 

「できるよ……たぶん! でも、どうして?」

 

「この調子じゃ、あそこまで辿り着けねえ」

 

ガッツがそう言って指差したのは遥か上空にある垂直な壁。恐らく、親切な誰かさんが教えてくれた町に行くためにはあれを登る必要がある。

 

ただでさえ甲冑やぶっとんだ大剣のせいで馬鹿げた重さになっている事に加えて、彼のまともに動く手は右手しか無いのだ。その頼みの右手が今や元気なキノコ栽培所と化している。

 

それ故に、今すぐ登るには色々と無理があった。

 

「オレみてえなのをわざわざ助けたんだ、少なくとも根が腐ったヤツじゃねえ。とりあえずはそいつからこの場所の情報を貰いたい所だな」

 

彼は一息置いてから、"コイツも取ってもらわねえとな"とオマケ付きの右腕を動かした。

 

「よーし! だったらこのパック様に任せとけい! チョチョイのチョイで案内してしんぜよう!」

 

パックは暫く両手の人差し指をこめかみにグリグリと押し付けると、目をカッと見開いて木の棒でとある方向を指し示す。

 

どうやら、目標はその延長線上にいる……らしい。

 

「それではガッツ君! ピッタリとついて来たま……あれ、どしたん?」

 

自信満々にその方向へ進んでいくパック。てっきりガッツが後ろからついて来ていると思い、後ろを一瞬チラリと振り返る。

 

しかし、肝心の彼はパックでは無く自身の体を覆う甲冑をなんとも言えぬ表情で見ていた。それはまるで、騎士が盾を忘れた時と同じように、本来あるべき何かが欠落しているかのような視線である。

 

「いや、何でもねえよ。案内してくれるんだろ? さっさと行こうぜ」

 

ガッツは何事も無かったかのようにパックの後へ続く。数歩足を進めるごとにふらつくその歩みは不安定極まりないが、今の彼に進む以外の道は無い。

 

 

 

しかし、騎士が盾を忘れても騎士である事には違い無い。どこに居ようと、何を喪おうとも、彼は依然として"黒い剣士"なのだから。

 



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出会い

 

壁に掛けられた探窟家達の装備が、主人を失い寂しそうにしている拠点にて、レグ達三人は新型リュックの材料である革を作るため皮をなめす作業中であった。

 

動物の皮から毛や皮下組織を取り除き、様々な処理を加えて耐水性、耐熱性やらを付加する作業なのだが、片腕しか使えないリコは毛などを取り除く作業が当然ながら難しい。

 

それ故に、自ずとその作業は力のあるレグに回って来るのだが……

 

「い、意外と難しい……!」

 

不慣れな作業にそこそこ手こずっていた。

 

「ナナチ! こんな感じでどう?」

 

「お、良い感じだな。そしたら、そいつはあそこに干しといてくれ」

 

「うん! わかった!」

 

しかし、薬液を刷毛で塗る作業に消去法で担当となったリコは、何故か器用に役割をこなしていた。

 

その様子を横目で確認したレグは、自分も頑張らなければと自らを鼓舞する。だが、鼓舞しただけで突然器用になる訳でもなく、相変わらず苦戦の色を出していた。

 

そんな最中、まだ肉がくっついたままの皮を持ったナナチが彼の向かいにトンッと腰を下ろす。

 

「なあレグ。アイツ、どうなったと思う? オイラはとっくに骨になってると思ってんだけどよ」

 

「生きている……と思いたい」

 

レグは作業の手を止めて呟くようにそう言った。彼らの働きによって、なんとか散らずに残った命なのだ。失って欲しい訳が無い。

 

「そんなお前に朗報だ。多分生きてるぞ」

 

「本当か!?」

 

身を乗り出して目を見開くレグに、ナナチは気圧され引き気味に答えた。

 

「んなぁ……ビックリしたじゃねえか。これはアレだ、ちょこっと前にそいつが倒れてた所の近くに用があって行ったんだ。そんで、ついでに見て来たら影も形も無かった。おまけに、あの怪物級の大剣も無かったぜ」

 

「そうか……良かった!」

 

一応男が生きていると分かりレグは安堵する。だが、何故彼がそんな所に固執しているのかナナチは疑問に思ったようだ。

 

「なあ、なんでお前あの男にそんなに執着してんだ? あんまし他人と関わっても良い事ないぜ? 特に、今のオイラ達はな」

 

「……なんとなくなんだが、きっと以前リコを守れなかった事を少し引きずっているんだと思う」

 

レグは機械の両手をじっと見つめ、当時のことを思い返す。あの時はナナチのお陰で助かった。だが、そんな幸運が旅の中で何度も起こるとは思えない。

 

前回の男の件は、言い方を悪くすればリコを守り切る為のちょっとした練習だったのかもしれない。

 

「なるほどな……大体は分かった。そんじゃ、この話はもう終わりだ! 次はこれ頼んだぜ!」

 

いつの間にか、肉から外された皮が彼の前に積み上がっている。なんとも手際のいい事である。

 

これはもう考え込んでいる場合では無い。威勢よく"了解した"と返事をして早速作業を再開する……

 

その瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

「おい、本当にこっちで合ってんのか?」

 

「安心と信頼のパックナビだ! 問題ナッシング!」

 

「その安心と信頼とやらのせいでさっき崖から落ちたんだが?」

 

「……当サービスではお客様の道路状況は考慮しておりませんのであしからず」

 

 

 

 

 

その小さな声と足音をナナチの耳が、その血に濡れた匂いをレグの鼻が察知する。咄嗟に見合ったお互いの顔が、今のが勘違いでは無い事を証明していた。

 

「ナナチ!」

 

「分かってる! 足音は一人分、声は二人分! もしかすると何かの遺物を使ってたりするかもしれねえ! リコも呼んでおけ!」

 

「了解した!」

 

突然現れた侵入者。偶然辿り着いてしまったのか、元々道を知っていたのか気になる所だが、今は考えている暇はない。

 

ナナチは壁に掛けられた探窟家の装備の中から物騒な物を取り出すと、レグに連れられてやってきたリコへ押し付けるように渡す。

 

「えっ? これってボウガン……だよね? なんで?」

 

「一言で言えば侵入者だ! もし色々とやばくなったら頼んだぜ!」

 

状況が飲み込めず狼狽えるリコにナナチはきっちりと矢も渡すと、自身の家の裏側を指差した。

 

数秒にも満たない情報伝達。ただのノロマであれば深く理解出来ず、尚更そのハテナを大きくした事だろう。だが、リコはそんな者では無く、表情をキリッと引き締めてしっかりと頷いた後、指差された方向へと早足で駆けて行った。

 

「レグは拘束を頼む! 合図は……コイツだ」

 

「それは……煙幕か!」

 

「ああ、相手に連携されたら面倒だからな。それで、拘束したやつらは盾か人質だ! 嫌かもしれねえが頼んだぜ!」

 

「了解した!」

 

ナナチの手のひらで転がる球体を横目に、レグはこの空間の入り口の角に身を潜める。頭さえ出さなければ見つかることはないだろう。

 

どうやら、合図を出す張本人は家の屋根に上手く隠れるようだ。そのさらに奥にある茂みでは、リコが頑張って矢を装填しているのが見える。片手では難しそうな作業に思わず手伝いに行きたくなるが、感じている血の匂いが一層強くなり、彼はその気持ちをグッと押し留めた。

 

 

 

カチャリとボウガンの装填音を最後に、彼らの発する音は無と化した。今この空間を占拠しているのは、重々しい足音とガチャガチャとなる鈍い金属の音だけ。

 

 

 

異端の音が段々と近づく。

 

 

 

一人分の足音に二人分の呼吸音。

 

 

 

隠れるレグの一メートル手前で止まる足音。

 

 

 

 

 

パァンッ!!

 

 

 

 

 

勘付かれたと思ったその時、破裂音の合図が響く。乾いたその音に耳を痛めながら彼は角から大きく飛び出すと、真っ白な煙に包まれた通路に向かってその両腕を放った。

 

壁スレスレに飛ばしたそれから伝わる確かな感触。サイズ感からして捕まえられたのは一人だろう。しかし、相手は恐らく複数だ。心苦しいが人質になって貰うしかない。

 

 

 

だが、彼が腰に力を入れてワイヤーを引っ張った時、それは起こった。

 

 

 

「……っ! お、重い!」

 

針金のようにピンッと張ったワイヤー。いくら力を込めても引ける見込みは無いそれは、大きな負荷にギチギチと耳障りな音を立てる。

 

だが、たとえ引けなくとも巻き付いたワイヤーと両の手を組む様にして成された固定は確実に相手を拘束している。きっと、後続への牽制ぐらいにはなっているはずだ。

 

 

 

 

 

そう、そのはずだった。

 

 

 

 

 

「……なっ!?」

 

突然、彼の組まれた両手に凄まじい力が掛かる。どこかの白笛を彷彿とさせるその力は、拘束を成すその鍵を呆気なく外してしまった。

 

固定が外れると同時に解かれるワイヤー。レグはまだ煙幕が続いている内にもう一度拘束し直すしか無いと判断し、ワイヤーを即座に巻き取る。

 

だが、金属音を立てて戻ったのは右手だけだった。

 

「この感触は……掴まれてる!?」

 

戻らぬ左手は未だ煙の中。感触からして恐らく片手で掴まれているであろうそれは、引っ張っても依然として動く気配は無い。

 

そんな最中、今度は彼の掴まれた腕がそのとんでもない力で引っ張られた。

 

咄嗟にワイヤーを伸ばし、体ごと持っていかれるのを防ぐ。腕の機構がジジジジと音を立てワイヤを伸ばし続けるが、それに勝る勢いで鋼鉄の紐は煙の中へと消えていく。

 

「ま、まずい! この勢いで引っ張られ続けたら……」

 

レグが全てを言い終えるよりも先に腕は糸をありったけ吐き出し終え、限界と言わんばかりに甲高い金属の悲鳴を上げた。そして、その悲鳴と同時に彼の体はボールの様に煙の方へ吹っ飛んだ。

 

手応えを感じたのだろう。煙の中から人型の影が飛び出した。真っ白な大気を纏ったそれは、真っ直ぐレグへと向かって来る。

 

「くっ! やるしかない!」

 

宙に浮き、身動きの取れない彼は唯一自由な右腕を相手の頭部へと放つ。完全に気絶させるための行動ゆえに、その手は拳を作っていた。

 

吹っ飛ぶ自身の速度が加算されたその拳は、当たれば確実に意識を持っていくであろう速度だ。そんな、重い一撃が相手の顔へと迫る。

 

 

 

相手の纏う煙が迫る拳の風圧で部分的に晴れ、その目が露わとなる。白から解放された視界には、鉄の拳が大きく映ったことだろう。

 

 

 

しかし、そこから先は誰しもが想定外だった。

 

 

 

相手は目の前に迫る拳を見て、避けるどころか前へと加速した。その際に取った極端な前傾姿勢によって、相手は迫り来る存在の下へと潜り込んだのだ。

 

そして、大木の様な腕がレグを瞬時に大地へと組み伏せる。なす術もなく転がされた彼の腹に体重の乗った膝が、無防備な首元には冷たい感触が襲う。

 

(これは……刃物だ!)

 

腕は両方とも飛んだまま、体は組み伏せられ、首元にはナイフ。敵を殺す事に特化したかの様な技術の節々に冷や汗を流している中、相手の纏った煙が全て晴れた。

 

「……っ! 子供……だと!?」

 

全身に血塗れの鎧を纏い、隻眼と水キノコに覆われた腕。そして、背負われた規格外の大剣。

 

 

 

間違いない、あの時助けた男だ。

 

 

 

彼はレグをハッキリと確認するなり、首元に添えていたナイフをすぐに退けた。同時にその敵意もスッと引っ込み、代わりに出て来たのは僅かに嫌悪感を漂わせる表情だった。

 

解放されたレグは男の背後を確認する。煙の晴れた通路には誰も居ない。相手が複数だと思っていたのは自分達の勘違いだったようだ。

 

もはや、戦う理由は無くなった。しかし、それを未だ知らない者が男へと牙を剥く。

 

「レグを離して!」

 

強い叫びと共に後方から放たれる一本の矢。今この状態は、側から見ればまだ取っ組み合ってる様にも見えなくは無い。

 

「待ってくれ! 彼は……!」

 

制止の声を上げるも既に遅い。大きな勘違いが生んだ一本の矢は運悪く男の頭部へと向かう。

 

自分の手で男を押そうにも、どちらの腕もまだ向こうに転がったままだ。

 

そんな手詰まり状態の中、一匹の救世主が男のマントの中から飛び出した。

 

「よーし、オレに任せろ!」

 

光り輝くその小さき存在は迫り来る矢へと一直線に向かっていく。

 

「うおおおおお!! エルフ次元流おーぎ!!! 脳天カチ割りホームラ……ふべっ!?」

 

残念ながら、小さな何かは矢に見事に弾かれて地面へと虫の様に落ちた。期待虚しく、矢の勢いは全く衰えていない。

 

「……」

 

落ちたソレを横目に、男は平然と鋼鉄の左手で矢を受け止めた。先程の表情とは打って変わって、なんとも言えない表情を浮かべている。

 

「いやー危なかったなガッツ君! 私が威力を殺していなければ、義手を貫かれて死んでいたところだったぞ!」

 

「あーそうか」

 

先程まで地に転がっていた筈の何かは、いつの間にか男の頭の上へ登り、刺々しい球のついた棒をブンブンと振っている。

 

小人に羽の生えた様なその存在。見た事もないその何かにレグは思わず二度見した。

 

「おい! 何か一言足りないんじゃない!? 命を救ってくれた存在にかける言葉がさ!!」

 

「あー……ありがとよ"義手"」

 

「ちがーうっ!!!」

 

緊張で張り詰めたこの空間をぶっ壊す気の抜けた会話が全員の耳に響き渡る。戦闘状態だった二人もそのやり取りと姿を見るや否や、片方はまだ知らぬ未知への興味で目を輝かせ、もう片方は得体の知れない物に対する警戒を露わにしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナナチ達の拠点の前に四名と一匹が集う。だが、その様子は一部の者を除き完全にお通夜ムードである。

 

(……気まずい!!)

 

壁面に立ったまま寄り掛かる男を前に、レグは心の中で不満を呟く。正直言って、どう話しかけていいか分からない。誤解があったとは言えさっきまで戦っていた間柄というのもあるが、何よりも男の纏うオーラがとても話し掛けづらい。

 

助け舟が来る事を願って横に座るナナチへ視線を送る。だが、残念な事に向こうもこちらと同じように気まずそうな表情を浮かべていた。

 

(助けてくれ! ナナチ!)

 

(悪いが……無理だ!)

 

(どうして!?)

 

(だって見てみろよあの顔! どっからどう見ても怒ってそうな顔だぜ? 話しかけるなんて無理だ無理)

 

レグの視線が恐る恐るといった感じに男の方へと向く。さっきまで何とも思わなかったその厳つい顔だが、ナナチの言葉を聞いた後だと何故か少し怒っている様に見えてしまう。

 

(余計話しづらくなった……)

 

そんな中、家の中から一人の救世主が現れた。

 

「やあやあ諸君! 待ったかね?」

 

「あれ? どうしたの二人とも? 何か静かだけど?」

 

頭にクエスチョンマークと一匹の何かを携えたまま出てきたリコは、物怖じせずに男の前へと進んでいく。

 

レグとナナチがその図太い精神に称賛の気持ちを抱く中、彼女の頭に乗っていた存在が掛け声と共に飛び出した。

 

「とりま自己紹介! おれパック! この黒金の城ガッツの主人である!」

 

"別荘にドロピーもいるぞ!"と続けて言いながら、ガッツと呼ばれた男の頭へと着陸する。

 

「わたしリコ! こっちのロボットみたいなのがレグで、こっちのもふもふしてる方がナナチだよ!」

 

自分達が一言も話す事なく勝手に進んで行く自己紹介。レグとナナチは勿論、目の前の彼でさえ微妙な表情を浮かべている。

 

「ほうほう、ではちょいと失礼〜」

 

パックは全員の視線を釘付けにしながら飛び立つと、レグ、ナナチの頭に順番に降り立って座っていく。

 

「うーん……やっぱりリコが一番座り心地良いなあ」

 

自らの頭から離れていく光る影を見て、ナナチはハッと聞くべき事を思い出す。

 

「なあ、お前らって何者なんだ? 探窟家じゃ無えし……鎧着てるし……良く分かんねえ」

 

「おい、その前に聞きてえ」

 

 

 

 

 

「ここはどこだ?」

 

 

 

 

 

ガッツの放った質問は三人を大いに困惑させた。

 

「えーと……ここはナナチの家だ」

 

「そういう事じゃねえ、この訳わかんねえ場所の事だ」

 

彼の言葉を聞いたリコが、確信を持てないままたどたどしく尋ねた。

 

「もしかして……アビスのこと?」

 

合っているかどうか彼女はガッツの顔を注視する。だが、彼の表情に納得や理解と言ったものは一切伺えない。逆に表に出てきたのは、何もかもが合点がいかずにぼやけているような、そんな顔色だった。

 

僅かに時間を置いた後、彼はただ一つ小さな疑問を口に出す。しかし、その言葉は深界四層に立つ人間が言うはずのない物であった。

 

 

 

 

 

「アビスってなんだ?」

 

 

 

 

 

 



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呪いと呪い

 

アビス、それは大いなる未知を孕んだ大穴。ほぼ全ての地上が探求され尽くした中、その理不尽としか言いようが無い特性や発掘される不思議な物品に心を惹かれ、今もなお沢山の人々が夢を求めてやって来る。

 

そして、その存在の認知はほぼ義務教育に近い。

 

例え貧困にあえぎ、そんなものを受けられない者だったとしてもアビスの存在は知っている。

 

それ程までにアビスの存在は世界の人々にとって大きいものなのだ。

 

それを、今リコ達が居る深界四層まで辿り着いた者がこれっぽっちも知らないなど、誰が信じられるだろうか。ましてや、そんな無知な状態でアビスを生き残れるなど、誰が信じるのだろうか。

 

だが、信じる他無かった。

 

目の前に疲れた表情で立つ生きた証人がいる故に、疑えなかった。

 

「あれ、どうした? そんなポカンとしちゃって。なんか変なことでもあった?」

 

あまりにも衝撃的な事実に動揺したリコ達は、パックに額をピシピシと叩かれるまでただただ口をあんぐりと開けていた。

 

なんとか正気を取り戻したリコは少しの間だけ目線を下げて、脳内を整理すると共に投げかけるべき質問を導き出す。

 

「えーと、ガッツさん達は……どこからここに来たの?」

 

「どこから……か、まあざっくりと言やあそこら辺の孤島だ。それで、寝て起きたらいつの間にか知らねえ場所に居た」

 

リコの問いに彼は言葉を選びながら答える。しかし、そこに納得のいかなかった者が一名居たようで、不満そうな表情で無礼者を指差した。

 

「ガッツ君! 我が故郷たる妖精郷をそこら辺の孤島呼ばわりとはいい度胸じゃないか!?」

 

「言ってもどうせ通じねえだろうが……」

 

先端に毬栗のくっ付いた棒と冷たく硬い左手が交差する。幾度かの打ち合いの末、勝利を収めたのはガッツの左手らしい。その証拠に、故郷を重んじる小さき戦士は鼻血を出して地に伏していた。

 

「あの、起きた場所ってどこですか! 何か関係があるかも!」

 

身を乗り出すようにしてリコはガッツに問いかける。

 

「……起きた場所? 雪が積もった陰気臭え所だった。それで、たまたま通りがかった奴に道を尋ねた後……なんとかして登ってきた」

 

思い出しながらゆっくりと語られた経緯を聞き、今度はナナチが反応を見せる。

 

「間違いねえ、五層だ……!」

 

自分達が今居る場所から一段階下の名前に、目を見開くレグとリコ。残念ながら、二人はまだ五層に踏み入った事はない。それ故に、経験者であるナナチの言葉を疑う事は無かった。

 

だが、その単語を出した張本人はそうではないようだ。

 

「リコの予想が当たってたのか!?」

 

「ナナチ! それ本当?」

 

「んなぁ……自分で言っといてアレだけどさ、やっぱ信じらんねえ。アビスも探窟家としての基礎知識も知らねえ奴が、五層から生きて上がってきたなんて嘘としか思えねえんだ」

 

嘘偽りなく己の考えを吐き出すナナチ。それは決して間違いなどではなく、アビスに潜る者であれば当然とも言える反応だった。

 

「良く分かんねえが、俺の言った事が信用出来ねえならそれで良い。上への行き方とコイツさえ取って貰えりゃ勝手に出て行くさ」

 

どうやらガッツは晴れぬ疑いが掛けられる事は重々承知のようだ。毒々しいキノコの苗床となった右腕を晒し、ちょっとした用さえ済めば出て行くと言葉を添えて。

 

だが、その腕をチラリと見たナナチは間髪入れずに否定を返した。

 

「無理だ。今その水キノコを取ったら傷口が腐って死ぬぜ? まだ毒が少量残ってるってのもあるが、そんな事よりも血が全然足りてねえ」

 

「……そうか、なら仕方ねえ」

 

ガッツはその診断結果に特に動揺する事はなく。ただただ平然と言葉を返すと、その足の向きを出口へと向けた。

 

「また暫くしたら来る。そん時はよろしく頼むぜ?」

 

血色の悪いその顔から放たれた一言はレグ達は勿論のこと、彼の仲間であるパックも同様に驚愕させた。

 

まるで、一旦ここから出て行くかのような物言いに、聞き間違いかと思わざるを得なかった。

 

「が、が、が、ガッツ!? 何で出てっちゃうのさ! 絶対ここでお世話になった方が早く良くなるって!!」

 

重い足取りで出て行こうとする彼の眼前へパックは咄嗟に回り込むと、ここに居るべきだと言い放つ。

 

「ここは元々コイツらの家だ。お前はともかく俺は邪魔者だ。そこの茶色い奴が初めから警戒を解いてねえのが良い例だ」

 

「んなあっ!?」

 

動揺が現れたその表情を見るに、どうやら本当のようだ。

 

だが、その事実があったとしても外と比べてかなり安全なこの場所からわざわざ離れる意味が全く分からない。おまけに、ここに居させてくれという交渉が一切無い事もレグの理解を妨げる原因となっていた。

 

そんな中、リコがパックと同じようにガッツの前へと飛び出した。

 

「ガッツさん! あの、私は全然邪魔だとか思ってないです! ナナチは違うかもしれないけど……」

 

「僕も問題無い! そもそも、言い出したのは僕だ! 色々と面倒が増えるなら僕がやる!」

 

リコの一言を切り口に、レグも続いてガッツの滞在を肯定する。そうして、残りの一人へ視線が集中した。

 

「……んなあ! 分かったよ! 受け入れれば良いんだろ! だけど、少しの間だけだからな!!」

 

耳を畳んで目を瞑るナナチ。だが、それでもジワジワと迫り来るその圧には耐えきれなかったようだ。ヤケになったかのような少々乱暴な言い方だったが、彼の滞在を認めたのだった。

 

「邪魔じゃないってよ?」

 

パックがニヤついた笑みでガッツの肩へ乗り、頭へと寄り掛かる。これで、彼もここで安静にしてくれるだろうと、レグはホッと息を吐く。

 

 

 

 

 

しかし、返されたのは理不尽な否定だった。

 

 

 

 

 

「調子付いてるとこ悪いが、俺はお前らと馴れ合うつもりなんて無え。一人の方が気楽なんでな」

 

「えっ!? ちょっとガッツ!! 折角許可もらったのにどうして行っちゃうんだよ!」

 

「じゃあ聞くが、俺達がここに迷い込んでからどれだけ経つ?」

 

「……? 大体二日ぐらい?」

 

「そうだ。もうそろそろで片方の護符の効果が切れる……後は言わなくてもわかんだろ」

 

リコの横を平然と通り抜けて、彼は外へと出て行った。彼が最後に発した言葉の内容にパックは暫く唖然としていたが、すぐにその大きな背中を追って行く。

 

「えーっと……ごめん」

 

一瞬だけ振り返ったその妖精はしょんぼりとした表情を浮かべてレグ達に一言謝ると、サッと飛んで出口の曲がり角にその姿を消す。

 

一気に沈黙が訪れたそこに残されたのは、その行動を理解出来ない三人と、地面に点々と続く血痕だけであった。

 

「馴れ合うつもりは無えってよ? ほんと、どうかしてるぜ!」

 

「僕もそう思う。だけど、なんか違う気がするんだ……」

 

だが、レグはこの一連のやり取りに違和感を感じていた。それはまるで魚の小骨の様に彼の脳裏に引っかかり続けている。

 

「私もそう思う」

 

リコはその視線を地面からレグへ移すと、ハッキリとそう言った。

 

「あのね、さっきガッツさんが馴れ合いがどうとか言ってた時……とても悲しそうな顔してた。きっと、何か事情があってそう言ったんだよ!」

 

「一応聞いとくが、わざわざここから離れなきゃいけねえ事情ってなんだ?」

 

ナナチは問いを投げかける。だが、その答えなど分かりきっている。きっと、誰に投げても同じ答えが返ってくるだろう。

 

「……分かんない」

 

当然だ。出会ってたった少しの関係性。そんなもので人に内包された細かな事情など知るわけが無い。

 

「ま、そうだよな。そんじゃ、明日の朝に直接本人に聞きに行くか」

 

「い、良いのかナナチ!? てっきり、完全放置するのかと思っていた」

 

「始めはそう考えてた。ただ、ほとんど敵じゃねえ事が分かったからな」

 

「敵じゃない……? どういう事なんだ?」

 

ナナチの考えている事を読み取ったのか、リコがゆっくりと話し始める。

 

「あの人、すごく強かった。ボロボロの体なのにレグを簡単に倒しちゃうし、私が撃っちゃった矢だって普通に防いじゃった」

 

彼女の言葉にあの勘違いで起こってしまった戦闘を思い出す。始めは手荒に行く気が無かったとはいえ、後半は本気で止める気だった。

 

しかし、結果はお分かりの通りである。

 

組み伏せ、素早い足運び、矢の軌道を見切る目。卓越した技術の節々にレグは倒された。それは正しく歴戦と言って良い物だろう。

 

だが、彼女が言いたいのはより人間の本質を突いたものだった。

 

 

 

「あの人が……ガッツさんがもしその気なら、私たちを殺して薬を奪ったり、人質にして脅迫する事も出来た」

 

 

 

レグの脳裏に先日の光景が思い浮かぶ。満身創痍のガッツを大人数で囲み、殺そうとしていたあの探窟隊。アレの被害者側の者になる可能性があったのだ。

 

人の醜さを垣間見てか、もし略奪が起こっていたらと考えてなのか、彼の顔色は一瞬にして青ざめた。

 

そんな彼の肩をふわふわの手がポンと叩く。

 

「そういう事だレグ。今リコが言ってた状況であのガッツって奴は自ら去ったんだ。完全に敵じゃねえって訳じゃねえが、多少は信用しても良いやつかもな。あと……」

 

ナナチは少し悪戯な笑みを浮かべると、威勢よく言い放った。

 

「あんな強えんだ! 色々と交換条件付け足して、オイラ達には出来ねえ事でもやって貰おうぜ?」

 

「な、ナナチが……」

 

「凄まじく悪い顔してる……!」

 

あまり見かける事の無い表情に、二人の口からクスクスと笑いが漏れる。

 

「んなぁ! 何笑ってんだよ! 明日の為にもう寝るぞ!」

 

余りにも可愛い怒り顔が家の中に消えて行くのを見届けると、リコとレグもその後に続いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日の朝。あっさりとした朝食を済ませた後、レグ達はガッツ達が残した痕跡を探しに外へ出ていた。

 

そして、肝心の痕跡の方は何の苦労も無く見つかる事となる。本来なら消えて無くなる筈であろう足跡は彼の規格外の装備重量で深く深く地面に刻まれ、流れ出た血液は雨が降らなかった事が幸いして地面の苔にドス黒く残ったままであった。

 

ただ、それを辿る上で一つだけ問題がある。

 

「……アビスの知識が無いってのは思ったよりも厄介だな」

 

ナナチの呟きの先にあったのは急な坂道。その上へと続く血の道筋だった。

 

きっと、何の知識もない彼は当たり前の様に登って行ったのだろう。探窟家であれば避ける筈の傾斜を。

 

「どうする? 僕だけ行って呼んで来た方が……」

 

「わ、私もちゃんと行く! ゆっくり登れば大丈夫! 多分……」

 

「オイラはここの負荷にだいぶ慣れてる。心配無用だぜ?」

 

「了解した。ただ、厳しいと感じたらすぐに言うんだぞリコ!」

 

「うん……」

 

四層の上昇負荷、それは全身のありとあらゆる穴からの出血と激痛。苦い記憶が蘇るその負荷を傷が治ったとはいえ、今のリコに負わせて良いのだろうかとレグは思案する。

 

だが、その心配も杞憂に終わる筈だ。

 

想像よりも彼女は強い。きっと、過去の経験が半ばトラウマとなり、思考を縛る鎖となっているだけなのだから。

 

 

 

 

 

強すぎる負荷を掛けないようゆっくりゆっくりと坂道を進み、ようやく彼らはこの坂の頂上まで辿り着く。

 

肝心のリコの方は覚えのある痛みだからか、思ったよりも元気そうだ。なお、充血しきった瞳や未だにポタポタと垂れている鼻血が、彼女を女の子らしくない見た目にデコレーションしているのは言うまでもない。

 

「ふぅ〜……よしっ! ちょっと痛いけどもう大丈夫!」

 

血の涙と鼻水を拭き、大きく深呼吸したリコはいつも通りの勢いを取り戻すと、坂を登る前と変わらぬペースで歩き始めた。

 

「も、もう行くのかリコ!?」

 

「うん! だって早くガッツさんと会わないとどっか行っちゃいそうだもん!」

 

その後は、元気そうなリコが先導する形となって進んでいった。痕跡は相変わらず途絶える事はなく、ものの数分でガッツの物と思われる野営地を発見する。

 

だが、そこにあったのは燻りを残す焚き火の跡だけでは無かった。

 

「何なんだ……これは!?」

 

目に入ったその光景は彼らを驚かせ、それと同時に得体の知れない恐怖を呼び起こした。

 

積まれて灰となった木の枝を中心に、周囲に広がる破壊の跡。大木はへし折れ、高くそびえていたであろう草木は腰ほどの大きさまで乱雑に切り刻まれていた。まるで、竜巻のような天災でも起きたのかと錯覚させる程である。

 

「やっぱり……この辺りの木、全部傷だらけ! しかも、血がいっぱい付いてる……!」

 

呟くリコの視界には、傷だらけとなった木々が。鋭利なもので抉られたかのようなその傷は、見たところ遠くの木には付いていない。

 

そして、そんな鋭利な物を持つ生物としてタマウガチが筆頭に挙げられるが、ここは彼らの生息地から大きく離れている。つまり、この傷は人為的に付けられたのだ。

 

「もしかして、何かと戦った……?」

 

もはや見慣れた血の跡を見て、リコがそう呟いた時だった。

 

獣道ですらない、ぼんやりと道のように見える草木の隙間。その両サイドの葉っぱの裏側が赤く染まっているのを発見する。

 

「ねえ、ここ! こっちに血が続いてる!」

 

「血? そんな跡どこにも……」

 

「見てみろレグ、葉の裏側だ」

 

植物に刻まれた小さな痕跡を確認した後、リコ達はその怪しげな道もどきをゆっくりと進み始める。

 

一歩一歩進み度に鮮明になってくるのは男の気配ではなく流れる水の音。その音に草木の音がかき消され始めた頃、一同はようやく目的の人物を発見した。

 

「居たぜ! ガッツだ!」

 

流れる川を中心とした、少し開けた空間。そんな人気の無さそうな川沿いに、彼は上半身裸の状態でこちらに背を向けて立っていた。きっと、血を洗い落としていたのだろう。その体は川の水で濡れている。

 

だが、彼らの目に映っていたのはその鍛え上げられた肉体などでは無く、隅々まで痛々しく刻まれた夥しい数の古傷だった。

 

「んなぁ……昨日も思ったがよく生きてんな」

 

凄まじい戦闘を繰り返した故なのか、それとも何か他の外的要因があったのかは不明だが、確かに言える事は彼の生き方は常人のそれと大きく異なるという事だった。

 

それぞれが表情を歪める中、何も知らぬ男と妖精が話し始める。

 

「いやー、昨日は思ったよりも数が少なくて良かったね!」

 

「ああ、まだ婆さんの護符が残ってるのもあるが、意外とここらで死んでる奴は少ねえらしい」

 

「そう考えると、この間の毒入りハリネズミの場所は……昔を思い出せそうだな」

 

レグ達には殆ど理解できないその会話内容。不思議そうな表情を浮かべる彼らの目に次に映ったのは、側に置かれた規格外の大剣をその傷だらけの右腕で持ち上げる瞬間だった。

 

表情に驚愕が浮かび上がる三名の前で、手首の力だけであの大剣をクイクイと動かし、調子を確かめている。

 

「また傷口開いちゃうんじゃないの? さっきオレが塞いだばっかなのに」

 

「全力で振らなきゃ問題無え」

 

そして、彼は鋼鉄の左手も柄へと持っていくと、前方へと大きく振るった。風を切る音と風圧に揺らされた木の葉のざわめきがレグ達の下まで響き渡る。

 

「凄えな……アイツ。今、殆ど意識せずに剣振ったぜ。道理で力場を読んでも避けられねえわけだ」

 

ナナチが感心の意を表しているすぐ横で、一人の少年は"度し難い……"と呟きを漏らす。きっと、己に持ち上げることすら出来なかったあの鉄塊をいとも簡単に振るっているからであろう。

 

ちなみに、リコはというと"あの左手、ちゃんと剣握ってる! やっぱり動くんだ!"と二人とはまた別の感心を示していた。

 

それぞれが色の異なる反応をする中、三人の誰かが小枝を踏んだようで、パキッと乾いた音が響いてしまった。

 

「ッ!!」

 

眼前の戦士の動きは早かった。普通のナイフを腰の鞘から取り出すと、かなりの勢いでそれを投擲した。空中を真っ直ぐ進むその刃は茂みの中へと突入し、レグの真後ろにある木へ頭を掠めて突き刺さる。

 

恐らく、直撃しても問題は無かっただろう。だが、明確に向けられたその殺意はレグにゾクリとした恐怖を植え付けた。

 

「ま、待ってくれ! 僕は敵じゃない!!」

 

段々と押し寄せるそれに耐えられなくなった彼は、ヘルメットにナイフの柄が当たるのもお構いなしに立ち上がり、両手を上げて呼びかける。

 

そのお陰で、ナイフ以上に突き刺さる殺気は鳴りを潜めたが、代わりに現れたのはどうしてここに居ると言わんばかりの形容し難い表情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、なんでお前らここに居るんだ?」

 

所々に匠の技が見える甲冑を身に纏ったガッツ。何故か首元に手を添えて辺りを見回した後、彼は予想通りそう言った。

 

「もしかして覗きか? レグ、お前良い趣味してんな。自首するなら今のうちだぞ」

 

「ち、違う! というかなんで僕だけなんだ!?」

 

パックの呆れた声と不名誉な言葉がレグへと突き刺さる。どうやら、名探偵パックによると首謀者は彼らしい。

 

「レグ……お前そういう趣味してんのか? オイラ初めて知ったぜ……」

 

「違うんだナナチ! 僕は断じてそんな趣味は持っていない!」

 

悪ノリして煽りに煽るナナチ、至極真面目に弁解するレグ。そんな光景を横目にリコはガッツが投げ掛けた問いに返事をした。

 

「えっと、私たち今先に進む為に色々と準備してるんです! それで、ガッツさんの腕が治るまで診る代わりに色々と協力して欲しいなって……!」

 

その言葉を放った直後、辺りは静けさに包まれる。レグもナナチもふざけるのを止め、ガッツの返答を聞くべく耳と目を向けていた。

 

「フッ……構わねえよ。そもそも、こっちは断れる立場じゃねえ。でかい貸しもあるしな」

 

「……っ!! ありがとうございます!」

 

ホッと息を吐く三名。だが、安心しきったその心にまるで脅しのような低い声が突き刺さる。

 

「ただ……」

 

何の変哲もない切り出しの言葉。そうであるにも関わらず、不思議と恐怖が湧き上がる。殺意とは違った得体の知れない"圧"が彼らの心臓へ手を伸ばす。

 

それは、縄張りを侵された黒い獣からのシンプルな警告であった。

 

 

 

 

 

「夜の間はオレに近づくな……!」

 

 

 

 

 

全く笑っていないその視線に突き刺され、その表情を固く青く変貌させるレグ達。彼らの知る人物を幾ら探しても、同じ圧を出せるのは殆どと言って良いほど居ないだろう。

 

「やっぱ怖えよアイツ……!」

 

「初見だとそうなるよな〜」

 

こうして、釘を刺すように言い放たれたたった一つの言葉に恐れ慄く歪な協力関係が始まったのだった。

 

 




ドラゴンころし

ガッツの持ってる馬鹿げた大きさの大剣だ。盾にも使えるみてえだな。ただ、とんでもねえ重さしてるらしく、レグがムキになって持ち上げようとしてもダメだったみたいだ。

オイラは何かしらの遺物だと思い込んでたんだが、実際は何の変哲もない鉄の塊だとさ。リコがガッカリしてたぜ!

遺物じゃねえって事は、コイツは地上の誰かが作ったという事になるが……

ここだけの話、作ったヤツもそれを実際に使うヤツも……頭おかしくねえか?


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交流

本日は全員での素材集めの日。だが、アビスの力場が運ぶ太陽の光が照らすのはリコ、レグ、ナナチの三人だけでは無い。

 

三人の後ろを重々しい足音を鳴らしてついて行く大きな黒い影とぼんやりと光る小さい影。そう、ガッツとパックの姿もそこにはあった。

 

朝日を浴びて欠伸を漏らしている後方の二人をナナチはチラリと一瞥すると、今日のプランについて脳裏で考え始める。

 

「んなぁ……運ぶ分には問題ねェが……」

 

一応、人数面で考えればいつもより多くの材料を運べるだろう。元々力のあるレグは勿論、あのガッツという男も物持ちとしては十分そうである。なにせ、あの重い装備を顔色ひとつ変えずに持ち運んでいるのだ。そこそこの期待は出来る。

 

ただ、残念な事にあの訳ありな協力者は素材の採取に関しては役に立ちそうにない。

 

ちなみに、少し心配していた隠密面だが、何故か普通にこなせていた。あんな大きな図体であるのに不思議である。

 

そんな事をナナチが思っていると、列の真ん中で歩くリコが目をキラキラさせながらガッツへ話しかけ始める。

 

「ねえ、ガッツさん! その左手見せて!」

 

「左手?」

 

ガッツは外套で隠されていた鋼鉄の左手をリコの目に晒す。すると、彼女は興味津々にその左手を観察し始めた。

 

「へえ〜! 見た感じだとレグの手よりも手っぽいんだね! 一応、レグのも見せて!」

 

「うん、分かった」

 

リコは右手で二人の金属製の手を交互に弄ると、まるで当然かのような要望を言い出した。

 

「二人とも一回手動かしてみて!」

 

「分かった」

 

「……?」

 

彼女の言う通りに動き始めるレグの右手。しかし、その隣にあるガッツの左手はピクリとも動かない。

 

「ふむふむ、よく動きますな! ガッツも左手これにしたら?」

 

「オレはコイツで十分だ。それに、折角作ってくれたアイツに悪りィからな」

 

今の二人のやり取りに、違和感を感じたリコは恐る恐ると言った様子で話しかける。

 

「もしかして……ガッツさんの左手って……」

 

「ああ、動かねェ。コイツは腕の形したただの鉄の塊だ」

 

「やっぱり……!」

 

「嘘だろ……!?」

 

「あれ? でも、この前僕達がガッツを見に行った時剣を握ってた気がするが……」

 

聞いた本人であるリコは勿論、前を歩いていたナナチも思わず振り返って驚きの表情を露わにした。だが、レグだけは己の記憶との大きな矛盾を呟いた。

 

「私が答えてしんぜよう!」

 

その疑問を解決するべく飛び出したのは、ポーチをお調子者の妖精。彼はガッツの胸元にある投擲用のナイフを一個引っ張り出すと、それを疑惑の掛かった左の手のひらに持っていった。

 

ナイフが近づいた瞬間、その手はひとりでに閉じ、金属製の刃を掴み取る。

 

「ほれ、分かったか?」

 

「そっか! 磁石だ!」

 

「ご名答!」

 

どうやら、その義手は仕込まれた磁石のお陰で鉄などであれば握れるように出来ていたようだ。

 

リコは勿論、レグも納得するその仕組み。だが、そんな納得とは裏腹に彼の思考はエラーを起こし始める。

 

(あれ? 磁石でくっ付いてるって事は……)

 

彼の頭はそこで停止した。

 

きっと、彼の脳裏に一瞬浮かんだ疑惑は何かの間違いだ。多分、あの義手には相当強力な磁石を付けているに違いない。まさか、今まで見てきたガッツの剣技が全て片腕で繰り出されたなんて……あるわけないのだ。あんなもの、片手で振れるわけ無いのだから。

 

そんな、現実逃避をするレグを横目に、ナナチは全員へと呼びかける。

 

「こっから崖側通るから一列で行くぜ」

 

そう言うなり、ナナチはテキパキと配置を支持し始める。先頭は大抵の事があっても無事なレグ。そしてその後ろにナナチ、リコが並ぶ。

 

「ガッツ、悪いが一番後ろだ」

 

「ああ、構わねェよ」

 

流石に、図体が大きい彼が前にいると後ろに並ぶ者達が何も見えなくなってしまうのだろう。故に、彼は殿を務める事となった。

 

余裕のある小柄な三人に対し、少し進むのに難儀しているガッツ。崖にいい思い出が無いのかその表情は少ししかめている。道に転がる石ころを蹴っ飛ばしながら、彼らは漸くその終点へと辿り着く。

 

だが、そこにあったのは安息では無く、彼らを待っていたかのように道を塞ぐ、醜い人間達の姿だった。

 

「待ち伏せ!?」

 

薄汚れた姿、原生生物に通用しないであろう木盾、向けられる敵意、どれを取っても目の前の彼らが友好的であるとは思えない。そして、最終的な根拠となったのはレグの嗅覚が捉えた濃厚な血の匂いだった。

 

(1、2……10人以上いる……!)

 

多勢に無勢。その状態を認識したレグの脳裏から戦闘という選択肢は消え、代わりに逃亡の二文字が浮かぶ。だが、後ろの状況がその行動を許さなかった。

 

「やべえぞレグ……後ろが完全に詰まってる」

 

振り返ったレグの心情を代弁するナナチの声。そう、後ろは狭い崖側の道。今、安定した地面に立っているのは彼だけなのだ。今すぐ後退など出来るわけがない。

 

「僕が時間を稼ぐ……その間に逃げてくれ!」

 

「アイアイサー!!」

 

重力に縛られないパックへとレグは焦りを含んだ声で告げる。きっと、すぐに最後尾のガッツに大体の状況は伝わるだろう。

 

自身の後方から細かい石を踏む足音が鳴り始める。だが、それと同時に耳に入るボウガンの弦を引き絞る音がレグの心臓をドクンと跳ね上がらせた。

 

(頼む……! 早くしてくれ!)

 

弦の張りが解放され、速度を得た矢がレグの雑念を飛ばすかのように兜へと直撃する。乾いた金属音が響くが、兜自体には傷一つ付いていない。しかし、この小さな一撃は相手の精神面にヒビを入れるのに十分だったようだ。

 

段々と青ざめる少年の表情を前に襲撃者達は距離をゆっくり詰める。急に突っ込んでこない事から、この作業に慣れているのは明白である。

 

盾になりやすい大きな体をレグが羨ましく思う最中、聞き覚えのない低い音が鼓膜を叩いた。そして、後方から大きな音と共に悲鳴が響く。

 

 

 

反射的に後ろを向いた彼の目に映ったのは、落ちていく二つの小さな人影と、片手で辛うじて崖側にぶら下がる剣士の姿だった。

 

 

 

「リコ! ナナチ!」

 

落ちる二人を掴もうと、咄嗟に両腕を放つ。

 

だが、風切り音と共に訪れた肩への衝撃が、片方の腕の軌道をあらぬ方向へと変えてしまった。

 

「「リコ!!」」

 

救いを求めて突き出されたリコの右手は空を切り、唖然としたその目には仲間の姿が反射する。そして、自らに訪れようとしている死を自覚した時、恐怖を引き延ばすかの如く流れる時間がゆっくりになった。

 

首を絞めるかのようにジワジワと近づく崖下の闇。遠くなっていくレグ達の姿。何とかして生きる術を必死に考えようと頭を動かそうとするが、真っ白な脳内は彼女に何も与えない。

 

 

 

しかし、"終わり"の三文字が脳裏に浮かんだ時、彼女を包み込んだのは冷たい闇ではなく暖かな黒だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ……あれ……?」

 

「目は覚めたか?」

 

「うひゃあっ!?」

 

ぼんやりと寝ぼけたリコ。目が完全に開いていない中、背後から突然投げかけられる低い声。ふわふわとしていた意識は瞬時に覚醒し、変な声を出しながら飛び上がった。

 

「って、ガッツさんか……ビックリした……」

 

返ってきた"悪りィな"の一言を聞きながら、彼女は直前までの記憶を振り返る。

 

「そうだ……私、落ちたんだ!」

 

そう口に出すや否やその視線は上へ向く。だが、落ちたであろうその崖は遥か高い場所にあるようで、鬱陶しい雲に遮られて見ることは叶わなかった。

 

代わりに瞳に映るのは、縦一直線の傷が入った岩壁とへし折れた木の枝々だけだ。だが、その景色に何か違和感を覚えた彼女の視線は、なにかを辿るように下へと動く。

 

折れた枝達が散乱するその中心、柔らかい土の広がるその場所にあったのは、硬いもので押し潰して出来たように見える大きな凹みだった。

 

「おい、何してんだ? さっさと合流しに行かねェのか?」

 

どうやら、ガッツはこれ以上待つ気は無いようだ。リコに一声掛けた後、彼は背を向け歩き始めてしまう。

 

「えっ!? 待って待ってガッツさん! 私も行く!」

 

今の自分ではきっと生き延びられずに死ぬだろう。そんな事実を嫌でも理解しているリコは、脳裏に浮かべていた内容を放り捨ててガッツの元へ走って行った。

 

「あ……」

 

その最中、外套の端からチラリと見えた彼の右手。邪魔だからと水キノコごと強引に巻かれたその包帯は、彼女の目には赤く染まっているように見えた。

 

最早待つ気の無いその背中をわざわざ引き止めるのも悪いと思った彼女は、心の中で感謝の言葉を並べ、おさげが地面に触れる程の礼を真っ黒なその背中へと向けたのだった。

 

 

 

 

 

歩き出したのも束の間、現在地も目的地までの道も分からぬこの状況。彼らの足が止まるのも必然と言える。

 

多目的用のナイフの汚れを落としながら、ガッツはとりあえず登れそうな場所の目星を付けていた。

 

「あれなら登れそうだな……」

 

彼がそう言って目を向けたのは急な坂。いや、坂と言うより突き出た足場のある壁とでも言ったほうが正しい。だが、そんな彼の呟きに異を唱えたのはリコであった。

 

「あれはダメ! アビスの上昇負荷も強く出ちゃうし、簡単に崩れちゃいます!」

 

きっとそれは、探窟家としての基礎知識なのだろう。だが、そんなものを露ほども持たないガッツは脳裏のハテナを浮かべていた。

 

「上昇負荷?」

 

「あ、そっか! ええっと……簡単に言えば、ここだと上に登れば登る程体に悪影響が出るんです!」

 

「……どんなのだ?」

 

「ここだと、全身からの出血と激痛……」

 

「なるほどな、オレがここまで来た時に血が止まらなくなったのはそのせいか」

 

幸か不幸か、己の体で味わった経験が未知を知る助けとなったようで、ガッツはすんなりと理解する。だが、助言者からすると彼は頭カチコチの物騒な人に見えていたらしく、彼のそんな様子に意外そうな目を向けていた。

 

「だったらどうすんだ? 文字通りゆっくり登んのか?」

 

「一応、そうするつもりです!」

 

「上の奴らは良いのか?」

 

ガッツの懸念はそこだった。上に残った者達は今もあの盗賊達に囲まれたままなのだ。正直なところ、どうなっていようが彼にはあまり関係無い。だが、今のままでは次の目覚めはかなり悪いだろう。

 

「大丈夫! だってレグとナナチが一緒だよ! レグは強いし、ナナチはここに詳しいからあの人達からは平気で逃げられるよ!」

 

敬語の抜けた調子の良いリコの言葉。彼女達の信頼関係が垣間見えるそれは、ガッツの頭によぎる靄を払拭した。

 

「そうか、それなら問題ねえな」

 

そうして、彼が軽い笑みを浮かべている所で、リコは適当な折れ枝を手に取って地面に何かを書き始めた。

 

「えーっと……さっき説明した上昇負荷なんですけど、アビスの中心から遠ければ遠いほど症状が軽くなるんです! だから、このまま真っ直ぐ上を目指すより、一回離れて上を目指した方が距離は長くなるけど体力を温存できます!」

 

簡易的なアビスの外観図を枝で指し示しながら、彼女は殆ど無知な彼でも分かるように説明した。

 

「なら、先導頼んでも良いか? オレは上までの道もここの事も知らねェからな」

 

「分かった!」

 

知識が豊富なリコが先頭へと躍り出ると、たった二人だけの隊列は進み始めた。斜め上から見下ろす小さな背中は、この冒険すらも楽しんでいるように見える。だが、それでいて警戒は怠らないのは彼女が見た目とは裏腹にベテランである事の証明だろう。

 

 

 

優秀なガイドの先導あってか、危険な生物の縄張りへ足を踏み入れることは無かった。だが、目の前に現れた緩やかな坂道の存在が、それとは別の危険を告げる。

 

そんな警告を前にして平然と進もうとするガッツだが、彼の意思とは裏腹に目の前の小さな影はその歩みを止めていた。

 

「……?」

 

「……よしっ!」

 

どうやら、覚悟を決めていただけのようだ。誰もかもが、痛みや出血と隣人ではない。ましてや、どこかの誰かさんのように食事と同レベルの頻度でそれらと関わりあるなどもってのほかだ。

 

そうして気合を入れた後、二人は横並びになって坂道をゆっくりと登り始めた。

 

アビスの中心から離れている事に加え、緩い傾斜をゆっくり登っている事が功を成したのか、暫く経っても身体への負荷はちょっとした関節の痛みと、口内に鉄の味が広がるだけで済んでいた。

 

だが、ただただ黙って歩くだけではズキズキとした痛みが精神的に辛くなってくるようで、気を紛らわせようとリコはガッツへと話しかけ始める。

 

「ガッツさん。えっと、右腕は平気そうですか?」

 

「ああ、物は握れる。問題ねェ」

 

ガッツは感覚を確かめるかのように、右手をしっかりと握り込む。何も異常は無いかのような仕草と物言いにリコは安堵するが、視界の端にチラリとその腕が映った時、その表情

は安堵とは真逆のものへ変化した。

 

傷口が少し開いた事に加え、この場所の負荷のせいでもあるだろう。彼の腕の包帯は白が完全に消え失せ、まるでペンキでも塗ったかのように赤く着色されていた。よく見れば、溢れたペンキは小指を伝って落ちており、足跡のように自分たちの後を追っている。

 

青ざめたリコの表情に気付いたのだろう。ガッツは赤くなった右手を外套の中に潜り込ませた。

 

「本当にそれ……大丈夫なんですか……?」

 

「見た目だけだ。大して痛くもねェし、血の出し過ぎで死ぬような量でもねェ。パックと合流すりゃ傷もすぐ塞がる」

 

「傷が塞がる? どうして?」

 

ガッツが適当に言い放った言葉に、リコは疑問を露にする。彼も言ってから気が付いたのだろう。普通なら、誰かと会うだけで傷は塞がらない。

 

「あー……細かい事は知らねェが、アイツの鱗粉は傷薬になる。それも特上のな」

 

「へえー! 凄い便利! 私の時もあったらよかったんだけどなあ……水キノコは取る時すっごく痛いし……」

 

「水キノコ? ああ、この腕のやつか」

 

ガッツは外套に隠れたその右腕へ視線を向ける。リコ曰く、取る時とんでもなく痛いそうだ。なんというか、見た目の悪さ通りの特性である。きっと、回復効果が無ければ早々にぶった斬っていたに違いない。

 

さっさと引っこ抜きたいとぼんやりと思っているその矢先、彼の耳に特徴的な金属音が響いた。

 

「……っ!?」

 

嫌と言うほど聞き覚えのある風切り音。右側から近づくそれは、彼の向けた背中にある鉄板に当たり、耳障りな音を奏でる。

 

「ボウガン……! それにこの場所、まじィな……」

 

彼らが歩くこの坂道は、邪魔な木々も足を取る長い草も無く登りやすい地形である。だが、それは裏を返せば遮蔽物となる障害物が無いことを意味していた。

 

故に、遠方の高台からの遠距離攻撃に対してなす術が無く、一方的に撃たれてしまう状況に陥ってしまった。

 

「ガッツさん! 上まで走って!」

 

「チッ! そう言うことかよ!」

 

この場所での急激な上昇は危険。痛みに苛まれ血を流す二人だからこそ、その事はよく分かっているはずだ。しかし、今生きれるかどうかのこの状況。どう決断するかなど分かりきっている。

 

そう、彼らは負荷にその身を晒し、血を流す事を選んだ。

 

「あの木陰まで突っ切る。口閉じとけ、舌噛むぞ……!」

 

ガッツはリコを左脇に抱えると、全身全霊の力を持って駆け出した。目的地は少し上に広がる森林地帯。少し上といっても、その高低差は10メートル以上はあるだろう。

 

何キロあるか分からない重装備を纏い、傷は癒えず開いたまま。おまけにリコも抱えている。そんな状態にも関わらず、彼の行軍は常軌を逸していた。

 

大槌で殴るかのような足音。その長い外套は地に触れず、まるでガッツの影のようにその背中に追い縋る。風に吹き流される布を想起させるその動きは、幾ら賊どもがボウガンの狙いを定めようとも当たらない。運良く当たったとしても、それは硬質な鎧と剣に阻まれて致命傷にはなり得なかった。

 

半時にも感じられる数分。彼らはようやく遮蔽物の元まで辿り着く。届かない事が分かっていながら放たれた矢が木々の表皮へ突き刺さる中、ガッツは口の中に溜まったドス黒いものを地面へとぶち撒ける。流石の彼でも身体への負担が大きかったようだ。

 

そして、それは担がれていた彼女も例外ではない。

 

「ゲホッ……! はぁ……はぁ……」

 

血走った眼球、ポタポタと落ちる赤い涙。そして、咳と同時に飛び出す血混じりの唾が彼女の消耗を物語る。

 

「やるしかねェか……」

 

コンディションは最悪。だが、彼らの潜むこの場所をあの襲撃者達はすぐに見つけ、囲み、襲いかかるだろう。かと言って、力無くその場に座る少女には更なる負荷に耐えられる余裕など無い。

 

そうなれば方法はただ一つ。

 

 

 

 

 

鈍い色を放つ左腕に"何か"が装着される音が、冷たく、静かに森の中へ響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お得意の伸びる腕によって地形を無視して移動できるレグは、二人が崖下へ消えた後、ナナチとパックを連れて難なく盗賊達を撒いた。

 

だが、下が見えない程の高さから落ちた二人が、無事であるとは思えず、彼はリコ達を探しに行くべきだと申し出る。当然ナナチもそれには賛成し、急遽彼らも下に降りる事となった。

 

崖から直接降りてしらみ潰しに探そうとレグが思う中、パックが予想外の言葉を投げかけた。

 

「オレ、アイツらの居場所分かるぞ!」

 

「ほ、本当か!? リコは! リコは無事なのか!」

 

「う……ぐ……! く、首が……!」

 

藁にも縋る思いのレグにとって、この言葉は僥倖であろう。その必死さを表すかの如く、彼はパックを力強く掴みその真偽を問いかける。だが、顔を青くしていく妖精の姿を見たナナチにやんわりと注意され、彼の感情の昂りは心の内へと押し留められた。

 

「あ……す、すまない!」

 

「グフッ……さらばだ……我が故郷、妖精郷よ……」

 

「ま、まて! 死んじゃダメだ!」

 

「おいレグ、からかわれてるだけだぞ? 真に受けてんじゃねえ!」

 

今の彼には冗談を冗談で受け止める余裕は無い。しかし悲しきかな、相手はその生の半分以上がおふざけに浸かった妖精。相当危険な時で無い限りその芯が曲がる事はないだろう。

 

「よっこらせ! 多分ガッツ達は無事だぞ? 気配消えてないしな! それに……」

 

「それに?」

 

「あれぐらいじゃ死なないだろ!」

 

"怪物より怪物してるヤツだし"と最後に言葉を付け足すと、パックは道案内をするべく辺りを見回し始める。

 

随分と雑な信頼関係に苦笑を浮かべる二人だが、まだ落ちていった二名が生きている筈だと告げられたお陰でその心持ちは少しはマシになっていた。

 

「さてさて、しっかり着いてきたまえよチミ達!」

 

そうして、少々難ありなナビゲーションが始まった。

 

 

 

パックナビは行くべき方向は分かるがそこが通れるかどうかは分からないという不親切設計である。それ故に、もしナビの相手がレグではなかったら色々と面倒な事になっていただろう。

 

そんな、地に足をつけては行けない適当すぎるルートをレグ達は進んでいた。時には幅三メートル以上の崖を超えることもあれば、アビスでは致命的な坂道を登らされる事もあったようだ。

 

険しい道のような何かを進み辿り着いた先は、木々の聳える森。微かな風と共に運ばれてくる木の香りが心地良い。

 

そんな思いを抱いたのも束の間、森に近づくや否や強くなったのは先程の木の香りなどではなく、むせ返るような血の匂いだった。

 

「うっ……この匂い……!」

 

「ああ、間違いねえ。誰か死んでるぜ。それも一人じゃねえ、どうやら複数みてえだ」

 

ナナチの予想を裏付けるかのように、その森は三人の男の亡骸を携えて彼らを出迎えた。ふと奥の方へ目を向ければ、三人分では収まらない程の装備が散乱している。恐らく、十人程の集団だったのだろう。

 

「おいレグ見てみろ。コイツら、矢で撃たれて死んでるぜ」

 

「……っ!? ナナチ頼む、あまり見せないでくれ……!」

 

あまりこういったものに慣れてはいないレグは顔を青く染め、目を逸らした。その様子を見たナナチは、まだまだお子ちゃまだと思いながら目の前の死体の状況を確認し始めた。

 

「刺さってる矢は2、3本。おまけにヘルメットごと貫かれてる……もしかしたらやべーかもな」

 

「ど、どうしてだ?」

 

「相手も集団かもしれねえって事だ。要はリコ達じゃねえ。あのガッツとかいう奴も剣は持ってたが、ボウガンの類は持ってなかったしな。持ってたとしても、この矢の量は異常だぜ?」

 

そう言うなりナナチの目線は木々へ向く。ここから見えるだけでもかなりの本数の矢が、不恰好な枝のように突き刺さっている。到底、一人や二人で撃てる矢の数ではない。

 

「まあまあ、とにかく探してみようではないか! パックセンサーはこの森を指しておる!」

 

「でも、集団の相手が居る可能性があるとナナチが」

 

「その時は、我がエルフ次元流奥義が火を吹くまでよ!!」

 

「んなぁ、どっちにしろ行くしかねえ。ここで引き返すってワケにはいかねえだろ?」

 

ナナチの頭の上で棒付き毬栗を振り回す羽虫はともかく、引き返すという選択肢がないのは確かだ。

 

数瞬思考を巡らせた結果、彼らは出来るだけ見つからないように進む事となった。

 

 

 

 

 

 

警戒を怠らないように進んでいたレグ達だが、幾ら進んでも敵の姿など一切見かける事は無かった。それどころか、入口で見かけたものと同じような死を迎えた亡骸の姿が、代わりに増えていく始末であった。

 

そんな最中、ナナチの敏感な聴覚は炎の奏でる燻りの音色を感じ取る。

 

「焚き火の音だ。リコ達かもしれねえ」

 

聞こえたその音の方向へと進んでいくと、今度はレグの嗅覚を食欲をそそるような香りが襲った。思わずお腹が空いてしまうそれは、確かに覚えのあるものだ。

 

そうして、確信を得た彼は隠れるのを止めて早足に駆け出した。草木をかき分けながら必死に足を進めていくその背中を、置いていかれた者達が追っていく。幾度かそれを繰り返し、見開いた目に映った光景は嬉しくも彼の確信を裏切るものではなかった。

 

「こ、これ! 誰が作ったんですか!!」

 

「古い仲間……いや、命の恩人ってとこか? まあ、すこぶる器用なヤツが作ったもんだ」

 

「へえー!! こんな機構、初めて見ました!」

 

しっかりと火の立つ焚火に、脂の滴る焼けた肉。ほのぼのとした雰囲気に合っていない、血走る目やドス黒い血溜まり。

 

なんだかあべこべな要素の詰まったその光景は、レグの切羽詰まった表情をポカンとしたものへと変えたようだ。

 

「あ、レグ! そっちは大丈夫だった?」

 

「リ、リコこそ無事なのか? 結構な高さから落ちたし……あの敵対的な探窟家の姿もあったんだが……」

 

「うん! 確かにさっき襲われたけど、大丈夫だよ!」

 

「んなあ……襲われた後なのに良くそんなのんびり出来んな……」

 

色々な意味で図太すぎる少女を前に、ナナチは安堵と呆れの混ざった溜息を吐いた。レグも心労から解放されたからか、その場に疲れたように座り込む。

 

「あっ! 二人ともこれ見て! 連射できるボウガンだって! ガッツさんが持ってたんだ!」

 

気苦労で疲れを示す二人へと、追い打ちを掛けるかのようにリコは話し始める。その手には見たこともないボウガン。機械仕掛けのそれと、リコの言葉を聞いてナナチは早々に察した。

 

「ああっ! って事は森に転がってるアレを作ったのは……!?」

 

「さあな、オレは適当に的当てして遊んでただけだ」

 

「ほうほう、さぞかし大きな的を使ってたご様子で」

 

ナナチの指摘に対して特に明言しないガッツ。その頭に乗った妖精が皮肉気味に言葉を連ねるも、彼は軽く鼻で笑うだけであった。

 

 

 

その後、ナナチの拠点近くまで戻らねばならない事を考えた結果、本来の目的である素材集めは帰り際に取れる物以外は次の機会に回し、今回は真っ直ぐ帰ることになった。

 

だが、真っ直ぐ帰るにしても深界四層の上昇負荷による体へのダメージは無視出来ない。

 

「うぅ……痛い……」

 

殆ど血で出来た唾を地面に吐くリコ。心配そうにレグとナナチがその様子を見つめる。

 

「一旦休むか?」

 

「ううん、まだ大丈夫」

 

優しさのある声掛けが交わされるその後ろでは、慈悲の無い言葉が交わされる。

 

「さあ進むのだ! 我が移動要塞よ!」

 

「な、なあパック。きっと、ガッツも少しは疲れてると思うのだが」

 

「うーん、そうか? じゃあ聞いてみるとしよう! ガッツ? 平気そうか?」

 

レグのガッツへの気遣いの意はパックにも理解できたようで、その小さな妖精は自身の乗り物へと無事かどうか問いかける。

 

「疲れた」

 

「大丈夫そうだな! さあ休まず進めー!」

 

前言撤回。ただ問いかけただけで、休ませる気はさらさら無いようだ。

 

ガッツの白い前髪を操縦桿代わりに弄り回すパック。それに耐えかねてか、包帯だらけの太い右手が頭上の存在へと掴みかかる。

 

「あっ……」

 

人差し指と親指がお調子者の足を見事に捕らえる。空中で宙吊りとなったパックはそのままガッツの頭上で、オモチャのように滅茶苦茶に振り回された。

 

「あばばばばばばばっ!?」

 

鱗粉を撒き散らしながら奇声を上げる。暫くしてそれが止まり、事が済んだと思いきや、ガッツはおもむろにリコの頭上へと吊られた羽虫を持っていく。

 

「あばばばばばばばばばばばばばばばばっ!?」

 

どうなったかは語るまでも無い。そうして、目を回してグッタリしたソレを、彼はそのままリコの頭の上へと置いた。

 

「あれ……!? 痛みが引いてく!」

 

「さっき軽く話したが、こいつの粉は傷薬になる。またヤバそうになったらさっきみたいにぶん回せ」

 

「すげえな……レグ、こいつをぶん回し続けとけばリコは楽に登っていけるぜ?」

 

「本当か!? いや、でも……なんというか……罪悪感が……」

 

「世話になってるのはこっちの方だ。気兼ねなくやれ」

 

ガッツはそう言って再び殿へと戻っていった。苦しそうにしていたリコへの気遣いもあるのだろうが、パックへの仕返しの意もあるのだろう。

 

そうして、拠点に戻るまでの間、レグに謝られながら何度も何度もパックがぶん回されたのは言うまでもない。

 




ボウガン

ガッツの持ってる連射式の珍しいボウガンだ。左手の義手にセットして、ハンドルを回せば撃てるように出来てるぜ。

オイラも少し見せて貰ったが、初めて見る機構だ。作った奴はかなり頭が良いのかもな。ただ、弦の強さが使用者に合わせてあるせいでハンドルの重さが規格外だ。

……よく回せんな、アイツ。


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治癒

 

アビスの力場が太陽の光を送り込んでくる朝。いつもなら半分目蓋が閉じかけた状態で色々と身支度をするのだが、今日に限っては違うようだ。

 

「邪魔するぜ」

 

金属の擦れる音と共に現れたのは、彼らがよく知る不思議な客人。ガッツであった。

 

「やっほー! 来たぞ来たぞ〜!」

 

「よう、待ってたぜ」

 

色々と怪しい器具を机に並べながら、うるさい妖精へと返事をしたのはナナチ。だが、肝心の相手はその言葉の意味をよく分かっていなかった。

 

「待ってた? なんで?」

 

「なんでって……そこのデカイのに聞けば分かるんじゃねえの?」

 

栗の様な顔にハテナを浮かべたパックが、静かにガッツを見やる。

 

「コイツを取ってもらう」

 

夜の様に真っ黒な外套から顔を出したのは、水キノコだらけの右腕。いつもは包帯でも巻いて誤魔化しているのだろう。久々にその実態を見たパックは、その毒々しさに顔を青ざめさせた。

 

「気持ち悪っ!!」

 

「これは……リコの時よりも凄いな……」

 

「ああ、相当痛えだろうな」

 

横から見ていたレグも一瞬嫌悪感を顔に出したが、それはすぐに同情のそれへと切り替わる。ちなみに、リコは嫌な思い出が蘇るのか、パックよりも顔を青ざめさせていた。

 

「んなぁ……じゃあ、さっさと始めるぞ。ここに腕置いてくれ」

 

ガッツは鎧などの重い装備を一旦外してから彼らの拠点に上がると、若干低いそのテーブルに右腕を預けた。

 

「ガッツさん……これ使う?」

 

リコが気を利かせて差し出してきたのは、包帯に包まれた小さな木の板。パックはまたまた頭にハテナを浮かべていたが、彼はちゃんとその意味を分かっているようだ。

 

「そんなに痛ェのか?」

 

「うん……」

 

「とりあえず、一回試してから決める」

 

「ちょ、ちょっとちょっと! オレ意味分かんないんですけど!!」

 

レグが親切にそこのちっこいのにその意味を伝える中、ナナチは静かにメスを取った。

 

「そんじゃ、やるぜ」

 

切れ味の良いその刃がキノコの首へと差し込まれた瞬間、ガッツの表情は少し歪んだ。

 

「っ……! 確かに……コイツはキクな」

 

「そう言ってる割には結構平気そうだな」

 

前回の患者とは違い、余裕を感じさせるその様子を見たからか、ナナチは軽口と同時に容赦無くキノコの根っこを皮膚から抉り取る。

 

それでもなお、額に汗を滲ませながらただひたすらにじっと耐えるその姿に、リコもキツい記憶が蘇るのか、何とも言えぬ表情で顔を青く染めていた。

 

そして、レグから木片の使用用途をちゃんと聞いたパックは、納得したように頷くと突如として作業中のナナチの頭の上へと飛んで行く。

 

「レスキュー隊所属! パック隊員行きます!」

 

敬礼の姿勢をとった小さな妖精は、手術中の赤く染まった腕の上でグルグルと旋回し始める。そして、まるで噴水のように鱗粉が散らばり、毛むくじゃらな手とその付近をキラキラと輝かせた。

 

「どうだ!」

 

「悪りぃな、少しはマシになった」

 

この妖精の放つ鱗粉は上質な傷薬。だが、それを理解してなお、ただ飛び回るだけで処置完了というのは未だに違和感しかない。

 

「便利なもんだな。オイラたちにも欲しいぐらいだ」

 

少しだけ収まる出血を目にしながら、ナナチは羨ましそうにそう呟いた。

 

「別に構わねェ。取れるだけ取っとけ」

 

「えっ! 良いの!? ありがとうガッツさん!!」

 

「な、な、な……!? お礼を言う相手がちがーう!!」

 

何やらひどくご不満のパックを横目に、リコとレグは丁度良さそうな小型の布袋を持ってくる。要はこれに入れろと言う事なのだろう。

 

納得のいかない表情のまま、彼が布袋に例の傷薬を詰める中、時折顔を歪ませるガッツが気晴らしを兼ねた問いを投げかけた。

 

「なあ、少し聞きてえ。ミッドランド、チューダー、クシャーン。この中に聞き覚えのある名前は無ェか?」

 

聞き慣れぬ言葉の羅列。法則性も何も無いそれを耳に入れたレグ達は己の脳裏にハテナを浮かべる。

 

耳をピクピクと動かした毛むくじゃらな一人は、手元の作業を続けながらその眉を顰めた。

 

「なあ、オイラは全く聞き覚え無えんだけどよ、それって一体何なんだ? 何かの名前か?」

 

「ああ、国の名前だ」

 

国の名前と言われた瞬間、機械と獣の二人はお手上げと言わんばかりの表情を浮かべた。

 

一方はまともな基礎教育を受けておらず、もう一方は孤児院の簡素な授業でしか外界の知識を得ていない。こんな表情になってしまうのも致し方ないと言えるだろう。

 

それ故に、皆の視線は残る一人へと向けられた。

 

「あの〜……えっと……ご、ごめんなさい……アビスと関係ない授業はあんまり聞いてなくて覚えてないです……」

 

その一言に、ガッツ以外の全員が心の中で盛大にツッコミを入れる。現在執刀中のナナチなんかは面白さで動揺したせいか、危うく必要無い箇所を掻っ捌きそうになった。

 

「ヘッ、構わねえよ。どっちにしろ、このデケェ穴から出れば全部分かる」

 

軽く笑みを浮かべるガッツの返答は随分と楽観的なものだ。彼の立場からすれば、己の元いた国すら場所が分からないこの現状はあまり良いとは言えない筈なのだが、その横顔は不思議と余裕が残っている。

 

何故だろうか、リコの目にはその様が熟練の探窟家の様な、重い経験をしてきた様に見えた。

 

 

 

そうして、彼が痛みに暴れる事など一切無いまま、傷だらけの右腕から毒々しい見た目の寄生植物達は一掃されたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「世話になったな」

 

腕の治療から数日後、彼はリコ達の元にその姿を表すと、唐突にそう言い放つ。

 

「オマエ、もう行くのかよ!? 腕の傷開くぞ?」

 

「ちょっと待たせてる奴らが居るんでな。腕は……あの毒食らわなきゃ何とかなるだろ」

 

治療痕だらけの己の腕を見つめ、手首を軽く動かしながらナナチの言葉にそう返す。

 

普段と変わらない声調の筈なのだが、リコ達にとってそれはとてもとても重いものに感じた。

 

「が、ガッツさん待って! 渡したい物があるの!」

 

今にも背を向けようとした彼らに向けて、少女の声が投げかけられる。そして、両腕で抱える様にして彼女はその代物を持って来る。

 

「ナニコレ?」

 

「こいつは……鉤縄か?」

 

「そう! 余り物で作ってみたんだ! ちょっと無理矢理な部分もあるけど……」

 

少々苦い笑みを浮かべた彼女が持ってきた物は、探窟家なら一つや二つ持っているであろう鉤縄であった。だが、目の前にあるこれは普通の物とは違う、常識外れな部分が多々あった。

 

縄は一本ではなく、三本が綺麗に編まれており非常に強固となっている。また、鉤の部分は凄まじく太く、錨代わりにでも使えるのでは無いかと思われる代物が使われていた。

 

恐らく、ガッツの重量を加味した結果こうなったのだろう。

 

「良いのか?」

 

早速鉤縄を弄り回そうとしてその重量に潰されているパックを横目に、彼はその目を見開き驚きを露わにする。

 

彼からすれば、そんな物を贈られるような事は一切していない。きっと、その行動にはちょっとした怪訝も含まれているだろう。

 

「大丈夫! 元々余り物だし、凄い貴重な物ってわけじゃないから! それよりも、あの傷薬のお礼がしたかったの!」

 

リコの言葉を補足するかの様に横からレグの落ち着いた声が入る。

 

「あの傷薬のお陰でリコの手がより動く様になったんだ。だから、とても……本当に感謝している!」

 

心からの感謝を込めたそれは、しっかりとガッツ達に注がれる。

 

だが、彼は知る由も無いだろう。

 

それが、レグにとって己の行動が発端となって起きてしまった悲劇をひっくり返せるという一縷の希望という事を。

 

「……そうか、なら貰っとくぜ。ありがとな」

 

少年の真っ直ぐな瞳から唯ならぬ何かを感じたガッツは、特に何も聞く事無くただただ静かに礼を言った。

 

そして、彼は去り際に己の相棒へわざとらしく呟いた。

 

「最後にあそこで遊んで行かなくて良いのか?」

 

「え……? あ……! いやー! 何だか遊びたくなっちゃったなー!」

 

入り口の角へと消える彼とは逆方向に飛んでいく小さな光。リコ達の頭に輝く鱗粉をばら撒きながら、その光は彼女達の拠点の中へと入り込む。

 

「ここで爆速のトリプルアクセル!!!」

 

少しして、中からよく分からない叫びが聞こえた後、妖精は家から飛び出して、あの黒い剣士を追う様に戻って行く。

 

そして、リコ達一行の目の前を通り過ぎる瞬間、気の抜けるような軽さで別れを告げた。

 

「じゃなっ!」

 

よく分からない行動に呆気に取られ、暫くボーッとしていた彼女達。

 

突然現れた不思議な者達であったが、最後の最後もその不透明さは健在の様だ。このアビスと同じ様な珍しき経験を確かに噛み締めた後、全員揃って己の家へと戻る。

 

そして、部屋の中心にポツンと置かれた物を見つけた。

 

 

 

 

 

それは、光り輝く粉で満たされた布袋であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バシャリバシャリと荒々しい水音が響く。凄まじい湿度で生じる水蒸気に視界を遮られながら、音源であるその黒い足はリズム良く歩みを進める。

 

捕食者がそこに居たならすぐさま気付くであろうその行為を続け、少しばかりの血に濡れながら片方しかない瞳は空を見上げた。

 

「おお〜! すっげ〜景色!」

 

曇り空ばかりの世界から一転、その目に入り込んだ光景は、天を貫くかの様に空いた巨大で垂直な大穴が、晴れ晴れとした光を運んでくるその様だった。

 

未だかつて見た事もない絶景に、薬箱担当の妖精がポーチから顔を出して上機嫌に叫ぶ。

 

興味に溢れたその声調に、さながら観光にでも来たのではないかと思わせる緩い空気が漂うが、闇の様な鎧と鉤縄が奏でる金属音がそんな気の抜ける空気を奪い去った。

 

「なるほど、確かにコイツを登るには鉤縄必須だな。アイツらが言ってた事がようやく分かったぜ」

 

腰に丸めて引っ掛けられた登る為のソレを確かめる様に触れながら、ガッツは少々顔色を悪くした。

 

これからこの絶景へと挑むのだ。彼が今いる場所からでは終わりすら見えないそれに、重すぎる装備を持って。

 

気の遠くなる様な表情を浮かべるのは当然である。

 

「えーっと……確か……リコから聞いたはず……! なんだったっけ!!?」

 

「何の話だ?」

 

「あれだよあれ! えっと、上昇負荷! リコから聞いた話だと、ここから先は症状が変わるんだってさ!」

 

「で、その症状を忘れたってオチか」

 

「ぐふっ!?」

 

ガッツの放った言葉のナイフは綺麗にパックへと突き刺さる。いとも簡単に予測され、言い当てられた事から、きっと何度か前科があるのだろう。

 

「うおおおぉぉぉ……! 思い出せ……思い出すんだ! 今こそ汚名挽回の時!」

 

「挽回すんな、返上しろ」

 

今の所、文字通り汚名挽回中であるが、返上出来るのは一体いつになるのだろう。

 

そんな、ふざけてやり取りをしている最中、注意していなければ聞き逃す様な小さな水音が背後から響く。

 

「……ッ」

 

未だワチャワチャと煩く呟き続けているその者を意識の外へ放り捨て、ゆっくりと迫る小さな音に彼は耳を傾けた。

 

その右手は、既にあの大剣の柄へと添えられている。

 

「あれ、ガッツ?」

 

「静かにしてろ、物騒な見送り役のお出ましだ」

 

殆ど聞こえぬ程に小さなその足音。もはや、頼りになるのは足元の水面に僅かに映る影と、根拠の無いただの勘だけだ。

 

そして、本能が警鐘を鳴らし始めた時、彼の右手は大きく隆起し、背負われた鉄塊を己の後方へと真っ黒な殺意を込めて振り回す。

 

 

 

 

 

それは、これまで何千、何万と幾度となく繰り返された意識無き行動の一つであった。

 

 

 

 

 

 

驚いた様に跳び退く白い影。霧の中に潜んでいたなら気付かないであろうその存在は、あの時ガッツを苦しめた獣。

 

タマウガチであった。

 

しかし、以前と違うのは白い体毛に映える赤い顔から、より映える明るい赤が滴り落ちている事だった。

 

「チッ、浅かったか」

 

横一文字に薄く切れ目を入れられたタマウガチ。だが、まだ未来を見る目は死んではいないようで、顔面を伝う血を気に留めず、背中に生える必殺の針を逆立てた。

 

「が、ガッツ!? 今怪我したらヤバイって! 登れなくなっちゃうよ!」

 

「ならモロに食らわなきゃいい。そもそも、このまま逃してくれるなんて生易しい事、ある訳ねえだろ?」

 

そんな彼の意に従う様に、タマウガチから毒針が放たれる。だが、その太さは針と言うには大きすぎた。さながら、先端に毒がたっぷりと塗られた槍である。

 

まるで当然のように、ガッツは鉄塊を盾代わりに無数の毒槍を防ぐ。数多もの槍はその幅広な剣を持ってしても防ぎ切る事は難しいのか、放たれたものの幾つかが彼の鎧や義手の表面へと僅かな傷をつけた。

 

"もしこれが生身であったなら"、そう考えるだけで背中に冷たいものが嫌でも走る。

 

苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、彼は己の気を再度引き締めた。

 

(いつもと同じ受け方じゃやべえ……! これを続けてたら必ずどこか掠っちまう! だったら……!)

 

目の焦点が合ったのは、赤く目立つ顔では無く光に照らされ輝く白い針。縄張りを侵す不届き者を仕留めんと揺れ動くそれを前に、彼は剣を前では無く後ろに構える。

 

しかし、構えたガッツを警戒してなのか、タマウガチは逆に距離を取った。

 

「チッ、随分と頭の回るヤローだ」

 

まるで、頭の中を見透かされているかのような行動に、彼は眉を顰めて文句を漏らす。

 

お互いに構え、睨み合いが続く最中、彼の腕にどこからともなく雫が垂れる。人肌に対してひんやりとしたそれはたった一瞬であるが、ガッツの意識の矛先を奪い取った。

 

「ッ!!?」

 

意識を前方に戻した瞬間、離れていた筈の間合いは一瞬にして詰められていた。

 

迫り来る毒針を前にして、彼の獣じみた反射神経が唸りを上げる。ほぼほぼ脊髄反射の様にソレは針の大群へ放たれた。

 

 

 

 

 

そして、何かが折れる小気味よい音だけが周囲に響き渡った。

 

 

 

 

 

バシャバシャと水面へ落ちる白く細い何か。

 

いつまで経っても敵へと刺さらぬ毒針。

 

異様に感じ、その身を後方へ翻す最中、水の中を漂うそれをタマウガチは確かに認識した。

 

 

 

それは、己の毒針だった。

 

 

 

距離を取る相手を前に、ガッツは冷や汗をかいていた。安堵した故に出たものか、望まぬ結果を想像して出たものかは分からない。ただ、ホッと息をついている様子を見るに、恐らくこれは前者であろう。

 

「ハァ……ハァ……! コイツ……!」

 

人の手で起こした鋼の暴風は、迫り来る何もかもを叩き折った。今足元に転がっている物はその哀れな被害者の一つである。

 

だが、側から見れば圧倒的に優勢だと思われるガッツだが、その表情は酷く険しい。まるで劣勢だと感じさせる様子を見せながら、彼は歯をしっかりと噛み合わせた。

 

(コイツ……何故か知らねェがオレが意識を逸らした瞬間襲ってきやがった! 一体どういう事だ……オレが気を逸らすのをわざわざ待ってるってのか? もしそうだとしたら……攻めるしかねェ!)

 

待ち続けるという行為において、自身は確実に負けていると認識したのだろう。彼は意識をタマウガチへと集中させながら、己の剣を背中へと戻す。

 

そして、代わりに取り出したのは、機械仕掛けのボウガンだった。

 

外付けする形で義手と一体化したそれは、狙いを定め、真っ直ぐ敵へと向けられた。だが、引き金代わりのハンドルが躊躇いなく回された瞬間、肝心の相手は避けるように横方向へと駆け出した。

 

「チッ!!」

 

舌打ちと共に白い影を追う左腕。しかし、速すぎる動きに放った矢は置き去りとなっている。それを見かねてか、彼は移動を先読みした偏差射撃を行った。

 

ボウガンによる掃射は牽制を兼ねての行動故に、大きな威力は無いだろう。それでも、当たりどころが良ければ戦局は優位に推移する筈だ。

 

 

 

だが、タマウガチは異様にもその動きをピタリと止めた。

 

 

 

「なんだと……!?」

 

驚きに見開かれた瞳が映したのは、偏差を考慮して放たれた矢が白き獣の横を通り過ぎ、暗く深いアビスの奥底へと落ちて行く光景だった。

 

まるで、手の内が完全に読まれているかのようなその行動。一度戦った相手であるにも関わらず、どうしてここまでの差が出ているのだろうか。

 

あの時、毒と上昇負荷で意識すら危ういにも関わらず、この同種を二体相手にして戦えていた事を疑問に思わざるを得ない。

 

「どういうカラクリか知らねェが、コイツ……オレの行動を読んでやがる!?」

 

全てを見透かしたかのようなその行動は、ガッツに気付きを与えるのに十分だったようだ。しかし、気付いた所で彼が出来る事は何も無い。

 

だが、対策の仕方が分からぬそれを前にして、彼の表情は絶望には歪まなかった。

 

寧ろ逆。

 

口端を上げ、笑っていた。

 

「ど、どうするんだよガッツ! 初めの一発以外、攻撃全く当たってないよ!」

 

「どうもしねえよ。やる事は一つ……! 攻めまくって、どう足掻いても避けられなくすりゃ良いだけだ!」

 

動きを予測し、最小限の動きで躱し、効果的な反撃をする。

 

これは、これまで彼が相手してきた猛者達が、己自身が、当然のように行なってきた事である。今、目の前に立つこの獣もその者らと同列なのだ。

 

それが真実かどうかは不明。だが少なくとも、ガッツの思考はそう傾いた。

 

「こっちの動きを読みたきゃ幾らでも読みやがれ!!」

 

怪物の咆哮のような叫びと共に、彼の左腕は勢い良く前へと突き出される。小さな機構から放たれたとは思えぬ矢の大群が、ただひたすらにタマウガチの影を追う。その片目に浮かんだ色は最早、牽制では無い。

 

左右へと慣れた動きで躱しつつ、獣は段々と距離を詰める。そして、左手のボウガンから乾いた空撃ちの音が響いた瞬間、その距離はお互いの得物が届く位置まで近づいた。

 

タマウガチの形容し難い鳴き声と、バリバリという異常な歯軋り音が、同時に響く。そして、露出の多い顔を狙った毒針と、片手で強引に振られた鉄塊がぶつかり合う。

 

「ッ!? コイツ!?」

 

お互いに離れる瞬間、置き土産のような爪撃が偶然にも彼のポーチの一つを水面へと叩き落とす。不運にもそれは、ボウガンの矢などがたっぷり詰まった弾薬箱であった。

 

「遠距離戦は嫌いだって言いてェのか?」

 

恐らく、ここから先は相手が望む近接戦。補充が出来なくなった弾切れのボウガンなど役に立つ事は無いだろう。それ故に、彼は己の左手からそれを外そうとするが、水面を踏み込む音に剣を握らざるを得なくなる。

 

「クソッ!?」

 

剣から手を離すや否や凄まじい勢いで襲ってくる辺り、どうやらそう簡単には外させてはくれないらしい。そして、義手に仕込まれた磁石はボウガンの金具をガッチリと握りしめている。

 

 

 

彼は剣を片手で振ることを強いられた。

 

 

 

「随分と良い性格してやがるぜ……!」

 

とある剣士のすまし顔を脳裏に浮かべながら、彼は奥歯を噛み締めて悪態をつく。このままではジリ貧となり、いつかあの毒牙にやられて地に伏すこととなるだろう。

 

「やベェな……!」

 

「何言っちゃってんのさガッツ。チミは片手でも問題なく剣を振れるじゃないか!」

 

「いや、このすばしっこいバケモン相手に片腕だと速さが足りねェ……!」

 

剣自体は片手で振れる。それに、元々彼の左手は義手だ。剣を持つ力は指部分に仕込まれた磁石に依存する。要は、左手はただの補助に過ぎない。

 

だが、今の彼にとってはその補助が重要だった。

 

普段なら大した事はない擦り傷すら、今の状況では許されないのだ。頬を掠めるなどもっての外である。

 

そして、強まる険しい表情を好機と見たのか、タマウガチは絶妙な距離感からその毒針を差し向けた。

 

「クソッ!」

 

次々と襲い来る針に、彼の剣は僅かながら遅れ始める。最悪の事態になる前にさっさと仕切り直しを図らねばならないと考えた彼は、その身を大きく投げ出して水浸しになりながらも距離を取った。

 

「よく見たら、足元も毒針だらけじゃねえか……!?」

 

水面を大きく揺らしながら転がった彼は、その顔に溢れんばかりの危機感を曝け出す。

 

それもそのはず、水面下に潜んでいたのは、彼自身が叩き折ったタマウガチの針である。もし、鎧が無かったならどうなっていたかは想像に難くない。

 

だが、例え鎧があったとしても、次同じことをした際に無事である保証も無い。

 

鎧の隙間から水を滴らせながら、彼はこの勝負勝つ方法を必死に考えていた。

 

「……ッ!? 仕方ねえ、一か八かだ!」

 

空っぽのボウガンへ一瞬だけ目を向けた後、彼はそう言って大剣の柄を強く握り直す。

 

何か秘策でも思い浮かんだのか、それともただ吹っ切れただけなのか。どちらなのか誰にも分からないまま、彼はその脚を迷い無く踏み込んだ。

 

装備重量からは考えられないスピードで彼は真正面からタマウガチへと迫る。そして、針の雨に晒されるデッドゾーンへ躊躇いなく進む。

 

「ガッツ!?」

 

相手が毒針を構えてなお、その足は止まらない。そうして、片足が死地へと突っ込まれた瞬間、毒に塗れたその針はバリスタの如き勢いで放たれた。

 

だが、生半な防御を容赦無く貫くその針は、姿勢を更に下げて加速した黒い影を通り抜け、虚しく地面に突き立てられる。

 

そうして作り上げられた間合いは、お互いがお互いの喉元へ刃を突き付けられるであろう、完全な近接戦のものだった。

 

「食らいやがれッ!!」

 

バリバリと鳴る歯噛みの音、瞬く間に隆起する大木のような腕。迫り来る暴風を前に、タマウガチの行動は逃げの一手だった。こんなふざけた代物を真正面から受け止めるのは、怪物か愚者のやる行為である。

 

先を見通すその目をフル稼働させ、眼前の剣士の意識を、その矛先を感知する。優秀な探知機が示している先は、愚直にも己の四つ足だった。

 

そうと分かればやる事はただ一つ、本能が鳴らす警鐘に従って高く跳躍するだけだ。

 

獣の反射神経を以って飛んだ後、剣を振っている最中の男の顔がよく見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、悔しさに歪む訳でも、驚く訳でもなく、片方しかない目をこちらに向けて"笑っていた"

 

 

 

そして、男は剣士たる所以を捨てた。

 

 

 

 

 

巨大な植物の成す水溜まりに大剣は深く突き刺さる。その柄は誰にも握られていない。だが、ほのかな暖かみは残っているだろう。何せ、つい先程まで人とは思えぬ怪力で握られていたのだから。

 

その持ち主は、まるで剣をハンマー投げのようにぶん投げるや否や、柄の代わりと言わんばかりにボウガンのハンドルを握った。

 

弾切れの筈のそれを向けられたタマウガチは、半ば反射的に硬い体毛で顔面を防御する。機動力を生かした回避でないのは、跳躍して空中にいるからであろう。

 

しかし、無慈悲にも違和感ある音を奏でたその矢は赤い顔へと突き刺さってしまう。

 

地面に無様に落ちたタマウガチの前に、鏡のような水面が現れる。

 

防御を貫き、己の顔を穿ったそれは……

 

 

 

 

 

"折れた自分自身の毒針だった"

 

 

 

 

 

既に感覚器官は完全に機能を停止した。もう力場を読む事は出来ず、波打つ鏡に映る己の無残な姿を見るだけだ。

 

偽りの無い反射像に"闇"が迫る。

 

大きく、分厚く、重いそれを天に掲げた恐ろしい"闇"が。

 

 

 

その瞬間、生まれて初めてタマウガチは感覚器官に頼らぬ予知を発揮した。

 

皮肉にも、それは酷く冷たい予知だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「このクソでかい穴はコイツみたいなのがウジャウジャいんのか? ったく、嫌になるぜ」

 

文字通り"半分"に分かたれたソレを前に、ガッツは真っ赤に染まった水溜まりではなく、白い雲が先を遮る上を見た。

 

これより挑むであろう大穴へ、若干の不満を添えて。

 

「おっと、落し物ですぞ?」

 

「落し物というか……落とされ物なんだがな」

 

パックがえっほえっほと持ってきた弾薬庫代わりのポーチを受け取って、早急に準備を整える。こんな面倒極まりない原生生物と二連戦など、これっぽっちも望んではいない。

 

「んじゃ、しゅっぱつしんこー!」

 

「へいへい」

 

頭に乗っかった妖精へ適当な返事をしながら、彼の足は歩みを再開する。

 

 

 

そして、鉤縄がそろそろ第三層の端に届くであろう位置まで辿り着くと、鉤縄を引っ掛けるのに最適な場所を探すべく二人の視点は空へと向いた。

 

「ねえ、なんか……空飛んでるやついない?」

 

「おい、冗談だろ……!?」

 

限られた空を飛ぶ、ムササビのような皮膜を持つ謎の生物や、血のように赤い大蛇のような何か。ほぼ垂壁という険しい道のりを辿りながら、この飛行生物達とやり合っていかねばならないのだ。

 

困難極まりないと予想されるその道を前に、彼の表情は険しさに歪む。

 

 

 

 

 

しかし、光を受けて狭まる瞳に絶望は映っていなかった。

 

 

 




妖精の粉
あのパックとかいうよく分かんねえヤツがくれた粉だ。ガッツの話によると、優秀な傷薬代わりに使えるらしいぜ。
実際にリコが使ってみた所、軽い傷なら一瞬で塞がったらしくてな、すっげえ喜んでたぜ!
流石に毒は治せねえが、それでも外傷が治るってだけでアビスではとんでもなく役立つ代物だ!

ただ……こんなすげえ薬を贅沢に使えるのに、なんでアイツの体はあんなに傷だらけなんだ?


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不動卿

 

パチパチと弾ける焚き火の音。空は黒に覆われ、中途半端に欠けた月が木々の隙間から太陽の代わりにしゃしゃり出る。

 

だが、そこに静けさは無い。

 

焚き火を囲むように設営されたテントの前で、甲冑を脱いだ男達がワイワイとジョッキ片手に騒いでいるからだ。

 

騒ぎ立てる声々に叩き起こされたかのように、ポツンと一人離れた男がハッとしながらその目を温もり溢れる方へ向けた。

 

「っ!??」

 

男はまるで目の前の光景が信じられないかの様に目をパチクリとさせ、右手で己の目を擦ろうとする。

 

だが、その右手は大きなだんびらの柄を握っていたが故に、その行動は成されなかった。

 

男のあっけに取られたような表情に思う所でもあったのだろうか。家族に声かける様な馴れ馴れしさで、焚き火を囲う集団が声を上げた。

 

「おーい! 何やってんだよガッツ? 素振りなんて止めてこっちで飲もうぜ!」

 

「ケッ! ほっときゃ良いじゃねえか! あんな頑固野郎は素振りで疲れて死ぬのがお似合いだ!」

 

ガッツと呼ばれた男へ向けられる幾つかの目線。優しさ、信頼、憧れ、嫉妬、色んなものが入り混じるそれに晒された彼は、懐かしさを感じると共に酷く動揺していた。

 

「ジュドー、ピピン、コルカス……? 一体、どういうこった……?」

 

これでもかと固く握られた右手の剣。彼の近くにも火はあるが、それは不思議と今持つ鉄の棒のように冷たく、すぐにでもこちらへと呼びかけるあの者たちの所へ剣を置いて向かいたい衝動に駆られる。

 

しかし、彼の本能が告げた囁きはそんな衝動とは真逆であった。

 

(今この剣を放したら……取り返しのつかねェ事になる。何故かそう感じる。それに……)

 

己の生き様そのものと言っても過言では無いただの剣。どういう訳か手放してはならないと直感し、その柄は更に固く握り込まれる。だが、彼を動揺させたのはそれだけでは無かった。

 

(どうしてだ……! どうして左目で見えるモンが違うんだ!?)

 

右目に映る、焚き火の暖かな光に照らされた仲間達の姿。しかし、何故か目の奥が熱くなるその光景とは裏腹に、左の瞳に映っていたのは沢山の剣が突き刺さり、冷たい雪が辺り一面を覆い尽くす光景であった。

 

見え方のことなるそれに己がおかしくなったと錯覚したのか、無意識に左手を顔へと当てる。

 

 

 

そうして彼は気が付いた。いや、正確には思い出すと言った方が良いだろう。己の置かれた状況を。こうなる直前の記憶を。

 

 

 

 

 

 

偶然にも気付けとなったそれは、酷く冷たい鉄の感触だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ!?」

 

ひんやりとした感触と不快な吐瀉物の匂い。最悪な目覚めと共に彼の視界に現れたのは、色々なものに汚れた鉄の義手であった。

 

すぐさまそれを退けると、ガッツの記憶通りの慈悲の無い世界がその目に映り込んだ。

 

「放さなくて正解だったぜ……!」

 

垂壁に囲まれたその世界で宙に浮く足。そんな足の代わりに全体重を支えている、縄を持つ右手。一応、縄が外れぬ様にある程度纏めて手首に縛りつけてある様だが、その結び目は今にも解けそうである。

 

さっさと次の横穴へと登って再度準備を行うべきと考えたのか、唯一動く片手と己の歯を以て縄を登り始めた。

 

そんな中、彼の相棒の焦りを含んだ声が今いるこの世界に響き渡った。

 

 

 

「ガッツ!! 後ろ!! 後ろー!!」

 

「あ? 後ろ……? っ!? こいつはやべェぞ!?」

 

 

 

 

 

幻覚症状から復帰直後の背中へと迫る赤く巨大な影。彼の知る世界では鯨と形容するであろうその巨体は、大口を開けて獲物を食わんと迫り来る。

 

だが、全ての壁が垂直なこの世界で、避ける事は叶わない。

 

 

 

それ故に、壁にへばり付く小さな黒い存在は、空を優雅に泳ぐ血の色をした鯨に成す術もなく飲み込まれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アビスの第二層に存在する監視基地。探窟家達のちょっとした休憩所にもなるその場所で、一人の小さな影が今日も望遠鏡でアビスの世界を覗いていた。

 

「よし、異常無し! お師さまに報告しに行かなくちゃ!」

 

メイド服という中々珍しい格好をしたその者の名はマルルク。今日も今日とて、師匠であるオーゼンの手伝いや雑用をこなしている。望遠鏡を一生懸命覗いていたのも、そんな業務の一環なのだろう。

 

だが、夕暮れが近くなり段々と世界が暗くなる中、その望遠鏡は偶然にも珍しい光景を捉えた。

 

「うわっ! べ、ベニクチナワ!?」

 

今いる二層から三層へと続く大穴。その穴から突然姿を見せる赤く大きな生物。アビスの勉強をした者なら殆どが知っているであろうその原生生物は、空中で体をくねらせてのたうち回ると、突然糸が切れたかの様に穴の縁付近に墜落した。

 

「え、ええっ!? こ、こんなの見た事ない!」

 

このベニクチナワと呼ばれる怪物が上層へ上がってくる事はあまり珍しくは無い。流石に地上付近まで上がってくるとなると話は変わるが、二層のシーカーキャンプに住むマルルクにとって単に上がってくるだけならば何度か見た覚えのあるものだ。

 

そんな、年相応でない経験を持つにも関わらず、今目の前で起こっている光景はその中にない好奇心唆られるものであった。

 

結果、望遠鏡のレンズの先は収納される事なく、食い入る様に三層への入り口へと向けられていた。

 

「よく見たらあのベニクチナワ……血だらけです! 何かと争った後なのかな? でも、三層にそんな生物は居ないはず……」

 

夕暮れの薄暗い光に照らされた観察対象は、不気味にモゾモゾと動き始める。空へ浮きもせず、仰向けのままその行為は続く。

 

その後、幼さの残る瞳に映ったその光景は、信じられない現実を叩きつけた。

 

「えっ……!? あ、あれは人!?」

 

突如として、ベニクチナワの腹から突き出る黒い何か。まるで、空中に縦線を引くかの様にそれは勢い良く動き、その体内から転がり落ちてきたのは間違い無く人であった。

 

暗くなってきた為かどんな装備をしているのかさえ明確には分からない。だが、二本足で立って疲労した素振りをしているのは確かに分かる。

 

アレに食われて生き残るなど、見た事はおろか聞いた事すらない故に、マルルクは平静を保てずに慌てふためいた。そして、とにかく己のやるべき事を口に出し、動揺を振り払おうとした。

 

「えっと、えっと! もし大きな怪我をしてたら大変です! 助けに行かないと!」

 

声出し作戦が功を成し、マルルクは完全ではないにしろ、及第点の冷静を取り戻す。一応生き残ったとはいえ食われたのだ、無事であるはずがないと予想し、大抵の応急処置は可能な救急箱を引っ張り出して駆け出した。

 

 

 

人助けの為に飛び出した小さな背中。監視基地から遠ざかるその後ろ姿を猫背の黒い影が静かに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色々とショッキングな光景を目の当たりにするだろうと覚悟していたマルルク。だが、生存者の声が聞こえるほどに近づいた彼の目に映ったのは、そんな覚悟を大いに裏切るどこか抜けた空気感だった。

 

「気分はいかがかね……ガッツ君。私は勿論最悪だよ……」

 

「奇遇だな……オレもだ」

 

血と涎と吐瀉物に塗れ、詳細に形容するには抵抗があるそんな状態。流石のマルルクでも掃除場所の床がこうなっていたら、目の光が消え失せるだろう。

 

案の定、似たような表情を浮かべる男へ同情の意を込めながらマルルクは話しかけた。

 

「あの……大丈夫ですか? お怪我とかはありませんか?」

 

声掛けに反応し、視線をこちらへ向ける男。何だか警戒の色が濃く映るそれに射抜かれて、思わずビクリとしてしまう。そんなちょっとした恐れの感情を察知したのか、返ってきた言葉は案外優しげなものであった。

 

「誰だかわからねェが、ありがとよ。ただのかすり傷だけだ。問題ねェよ」

 

所々血が滲むその様子は、確実にかすり傷だけでは無さそうだ。しかし、どこか圧のあるその立ち姿を前にして、それを追及など出来ようもない。

 

「あ〜あ、怖がらせちゃダメじゃんガッツ〜」

 

その様子を見かねたからか、先程声だけ聞こえていたもう一人が男を戒める言葉と共にその姿を現した。

 

だが、声調が導き出す姿のイメージと、実際の姿は天と地ほどの差のようにかけ離れていた。

 

「う、うわっ!?」

 

子供なんかよりも小さい、手のひらサイズのその身長。確実に人でない何かを思わせる、背中の羽とぼんやり光るその体。未知すぎるその存在に驚愕したマルルクは思わず尻餅をついてしまう。

 

「オマエもビビらせてんじゃねェか」

 

「えー! 絶対違うって! 見てよオレの身体! これのどこに怖がる要素があるってんだい!! ガッツが変な目であの子のこと睨むのがいけないんだよ!」

 

「へ、変な目!?」

 

「おい……ヒネって良いか?」

 

人差し指と親指でクイッと何かを捻るようなジェスチャーと共に、怒りを含んだ苦笑がその小さな者へと向けられる。

 

"当店お触りはNGゆえ!"とよく分からない言葉を吐き散らしながらピューンと逃げていくその後ろ頭。無防備なそこへデコピンの痛々しい音が鳴り響いた。

 

頭にたんこぶを拵えた羽虫がポトリと落ちるのを横目に、彼はマルルクへと向き直りちょっとした質問を投げかけた。

 

「悪りィがオレにそう言う趣味は無ェ。それより一つ聞きてェ。今時間はどれぐらいだ?」

 

「は、はい、丁度日没ぐらいの時間ですが……」

 

「っ!? ヤベェな……!」

 

陽が落ちた頃だと伝えた瞬間、男の表情は先程までの柔らかな笑みが嘘のように険しいものへと変貌した。

 

そしてその足は、腰を抜かしたマルルクから遠ざかるように動き出す。

 

「おい、さっさとどっか帰れ! 楽しくくっちゃべってる場合じゃ無くなった!」

 

「ええっ!? お、応急処置は?」

 

「いらねェ、これから客が……!? チッ!」

 

タンッという音と共にマルルクの左頬に何かが掠る。じんわりと熱くなっていくその箇所に引っ張られるように、その視線は自身の背後へと向けられる。

 

「っ……!? これ……なに……!?」

 

幼い瞳に映し出されてしまったのは、得体の知れない謎の生物。髑髏と蛸を強引に混ぜ合わせ、大きな目を付けたようなその見た目は、本や図鑑はおろか、噂にすら聞いた事のないものだった。

 

大きな目玉に突き刺さった小型のナイフを取ろうともせず、ソレは気持ち悪さを増長させるかのようにただただ触手を蠢かせていた。その様子を目の当たりにしたマルルクの背中に本能的な嫌悪感が冷たく走る。

 

「クソッ!」

 

悪態をついた男の右足がソレの脳天を踏み潰し、確実な死を与える。ピクリとも動かなくなったその生き物の臓器らしき何かが飛び散る中、男はあの小さな人のような者を拾い上げてそのまま全速力で走り去ってしまう。

 

そうしてポツンと残されたのは、腰を抜かしたマルルクと地面に転がるナイフだけ。何故かあの得体の知れない生き物の亡骸は元々存在しなかったかのように消え失せていた。

 

ただただ呆然とナイフの落ちた地面を見つめるその瞳。先程まで確かにあったものが一瞬にして消え去るその違和感に脳の処理が追いついていないのかも知れない。

 

 

 

そんな、ぼんやりとしていたその意識を叩き起こしたのは、頬に走った鋭い痛みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うう……まさか自分で使う事になるなんて」

 

あの後、早急に監視基地まで戻ってきたマルルクは残っていた掃除をしながらため息混じりにそう呟いた。それもそのはず、彼が持って行った応急処置用の薬箱は他の誰でもない自分自身に使われる事となったのだから。

 

だが、よくよく考えてみれば謎の生物に背後を取られてたったこれだけの傷で何とかなったのだ。相手にもよるが、下手をしたら一瞬であの世行きの可能性も無くはない。そう思うと、この傷も儲け物である。

 

頬の貼られた絆創膏を片手で弄りながら、マルルクはそのように前向きに考える事にした。

 

「助けて貰ったし、次会った時にお礼を言わないと! それにしても、さっきのあの生き物は一体何だったんだろう? さっき図鑑を見てみたけど、似たようなのは無かったし……」

 

先程見た異様な生物。アビスの原生生物にも異様な見た目をしたものもいるが、何故かアレはそれらとは違うような気がしてならない。

 

形容し辛い違和感に頭を悩ませていたら、唐突に遠くからマルルクを呼ぶ師匠の声が聞こえた。

 

「マルルク、ちょいと来てくれないかい?」

 

「は、はい! お師さま!」

 

彼の頭の中に居たモヤついた思考は師匠の言葉によって外へと叩き出される。きっと、そうして空いたスペースにはこれから文字通りの不動な存在が居座る事だろう。

 

そうして、マルルクは半ば駆け足で部屋から飛び出して、次のお仕事へと赴いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日の朝、日の光が差し込みづらく真っ暗となった二層の端っこで、大剣を片手に明るい中心部を目を細めて見やる一人の男の姿があった。

 

「ガッツ、大丈夫? ひっどい顔してるけど……」

 

「ゲーゲー吐き散らした後にコレだからな。流石に堪えるぜ……」

 

周囲の木々に刺さった大量の矢、その背丈を半分にされてしまった茂み。そして、辺りにポツポツと点在する血の跡。

 

最早、言い訳すら出来ようもない激しい戦いの痕跡がそこにあった。

 

「少し休む」

 

「オッケー! 見張りは任せとけ!」

 

適当な木に寄り掛かりその目を閉じるガッツ。その血相は悪く、特大の疲労が乗っかっているのが見受けられる。

 

それもそのはず、彼らはアビスの三層の最上階へよく分からぬ生物に丸呑みにされながら強引に連れてこられた後、そのまま不眠不休で迫り来る亡霊どもと今の今まで戦っていたのだ。

 

吐き気と幻覚を及ぼす上昇負荷と過労に加え、睡眠不足も付いてくる。そんな状態に晒されて平気でいられる程、人は強くない。平気な者が居たのなら、それはただの怪物だ。

 

(クソ……上に上がれば上がる程どんどん夜がキツくなっていきやがる。ここらで死んだ奴が多いのか、それとも……何か違ェ理由があるのか……)

 

閉じた瞼の裏側で頭に抱いていた疑問を心の中へと吐き出す。仲間の助力のお陰で一度眠れる夜を取り戻したせいなのか、久々に味わう死と隣り合わせの暗闇が酷く辛く感じてしまう。

 

だが、不満を漏らせどもやれる事などただ一つ。夜の闇の中で殺されぬように踠くだけだ。

 

仲間の居ない不安と、大事な者をこの地獄に巻き込まずに済んだ安堵。その両方を抱えながら、彼は一時の眠りを享受したのだった。

 

 

 

 

 

「悪りィ、寝過ぎたな」

 

「ね、寝過ぎ……? まだ全然時間経ってないよ!? やっぱまだ寝てた方が良いって! このペースで頑張りすぎたらいつかみたいにまたへばっちゃうよ!」

 

「なに、問題ねェよ。それに、さっさと帰らねェとあのちっこい魔女さんから色々うるさく言われそうだからな」

 

太陽が見えぬ故に正確な時間は分からない。ただ、確信を持って言える事は未だ朝日は朝日のままである事だ。それ程までに僅かな睡眠は当然その顔色を元に戻すには足りず、最悪よりかは些かマシ程度になっただけであった。

 

だが、当の本人に二度寝の意は全く無い。不安と焦りが混じったような何かをガッツから感じながら、パックは心配そうな表情を浮かべて動き出した大きな背中へついて行くことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

しばらく歩みを続けて辿り着いたのは、昨日チラリと存在を確認した基地。明らかに人が住んでいる痕跡の残るそこへと近づいていくと、ひとりでに一つの昇降機がガッツ達の前に降りてくる。

 

「なんだこれ、乗れって事か?」

 

基地の中へ入るかどうかは別として、どちらにせよ地上へと予定であったからか彼は罠を警戒しつつもそのリフトに乗る。

 

なんだかリフトがギシギシと悲鳴を上げているように聞こえるが多分きっと気のせいだ。

 

「……クソ、相変わらず気持ち悪ィ」

 

この場所での上昇負荷に晒されたからか、その表情は険しくなっている。だが、これまでの負荷と比べれば易しいものだ。それに、道中の水辺で綺麗にしたあれこれを再び汚すのは気持ちの良いものではない。

 

それ故に、吐き出す物など何も入っていないその腹を力ませて彼はその衝動を堪えたのだった。

 

リフトが終点に到着すると、見覚えのある影が彼らを出迎える。

 

「お前は……確か昨日の」

 

「は、はい! この監視基地で働いてるマルルクって言います。昨日は助けて頂きありがとうございました!」

 

勢い良く頭を下げるマルルク。ガッツはそんな突然の行動に対して呆気に取られたような表情を浮かべた後、軽い微笑みと共にその頭を上げさせた。

 

「礼なんて要らねェよ。確かに助けたかも知れねェが、手元が狂っちまったからな……それで足し引きゼロだ」

 

三層の入り口まで巨大生物エレベーターによって強引に連れてこられた挙句、睡眠不足に空腹。そんな状態でまともに物が投げれる訳が無い。ましてや、ボールなんかでは無く投げナイフなのだ。こう言っては何だが、ある程度の誤差は仕方が無いだろう。

 

だが、ガッツにとって己が子供へと刃を向けたという事実はどうやっても変わる事は無い。

 

「やっほー! オレ、パック! こっちの怖い顔がガッツ! こう見えてオレ、この黒金の城ガッツの主人やってんだ!」

 

「え、ええっ!? つまりガッツさんは従者だったって事ですか!? て、てっきり逆かと……」

 

ツッコミどころ満載だがそれをする元気もあまり無いのだろう。彼はただただ大きなため息を吐くだけだった。

 

「なあマルルク。その頬の傷、深いのか?」

 

彼の頬に貼られた絆創膏。未だに少し血が滲んでいるそれを見て、ガッツは唐突にそう言った。

 

言われて意識が向いたのか、左頬のそれを片手で軽く弄ると、彼は思い出すかのようにゆっくりと返答を返す。

 

「見た感じだとそこまで深くは無い筈ですけど……」

 

「そうか。なら何とかなるかもな」

 

何とかなるの一言にマルルクは思わず首を傾げた。正直、とてもじゃないがガッツは医者やそれに準ずる者には見えない。様々な戦いを乗り越えてきたようなその傷だらけの顔は、どちらかと言えばまともな道具が無い中での応急処置などに詳しそうである。

 

「おいパック! マルルクの頬、直せるか?」

 

「フッフッフ、任せておきたまえよガッツ君。このDrパックの手に掛かればどんな患者でも一瞬にして息を吹き返す!」

 

マルルクの予感は間違っておらず、どうやら担当者はガッツではなくもう一人の不思議な存在であった。

 

だが、何故だろうか。

 

なんか不安である。

 

「あ、あの、別に大きな傷って訳でも無いのでそのままで大丈夫です! ぼ、僕、基地の掃除しなくちゃいけないのでこれで!」

 

三十六計逃げるに如かず。何か不穏なものを思い浮かべてしまったのか、マルルクは勢いに任せてその心遣いを断ると、そそくさと基地の中へと戻っていく。

 

だが、悪戯心に火が付いたパックがそれをただ黙って見ている訳が無かった。

 

「あっ! オペはまだ始まっておらぬぞ!!」

 

「うひゃあっ!?」

 

いつの間にかメガネと白衣を身に纏った小さな妖精は、輝く軌跡を残しながらその背中を追いかけて行く。

 

完全に想定外だったのだろう。オペの患者は変な声を上げながら、脱兎の如く逃げ出した。

 

「……適当にぶらつきながら待つか」

 

ポツリと残されたガッツはそんなため息混じりの呟きを漏らすと、監視基地の中へ勝手に入って行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

適当にぶらぶらとほっつき歩くガッツ。マルルクのような子供ではなく、外界を知っている大人が居れば色々と情報を得たいと思っていたが、不運な事に彼の道のりにその姿を見せる者は誰一人としていなかった。

 

「クソ、誰も居やしねェ。他の区画に行くしかねェか」

 

巨大な木の根をくり抜いて作られた監視基地の中をガチャガチャと鎧の擦れる音が響く。歩く度に目にする木質の壁面は、かつての旅の道中で赴いたとある場所をなんとなく思い出させた。

 

 

 

「アンタ、見ない顔だね。一体誰だい?」

 

 

 

突如として投げかけられた高い声。視線を前に移すと、そこには長身の女性が壁に寄り掛かり腕を組んで佇んでいた。

 

(コイツ……いつから居やがったッ!?)

 

確かに少しよそ見はしていた。僅かに気が抜けていた。元々ここは人の気配もあったし、何もおかしいところは無い。

 

だが、そうだとしてもこれ程の接近を許してなおその存在に全く気付かないなど、彼の感覚上あり得なかった。

 

不気味な何かを彼の心に残したまま、その女性は言葉を続ける。

 

「まあいいや、知らない奴が来るなんてここでは良くある事だからねえ。でも、ソッチはコッチの事知ってんだろう?」

 

「……悪ィが知らねえ」

 

ガッツがそんな言葉を返すと、彼女の無表情な顔がチラリとこちらを一瞥する。そして、"フーン、そうかい"と興味無さそうな声が返される。

 

何故だろうか、元の位置に戻ったその横顔の口角が僅かに上がったように見えた。

 

「アンタ、名前は?」

 

「……ガッツだ」

 

不気味を纏った謎の圧がこの空間を埋め尽くす。深い深い闇のような不穏さを感じ、彼の額には冷や汗が滲み始めた。

 

「へえ、私はオーゼン。ここを仕切ってる白笛さ」

 

自らその名を名乗ったオーゼンはどこからともなく取り出した手甲や足甲のような何かをカチャカチャと身に付け始める。

 

「そうそう、今日の朝、面白い物を拾ったんだよ」

 

装備を付け終え、壁に寄り掛かっていた体がゆっくりと戻される。そして、静かにガッツへと向かうその黒い姿。

 

天井が低く見えるその身長。鎧を含めた体の厚さ。信じられない事に、少なくともその二つはガッツと同等レベルだ。真正面で相対してようやくその事実に気付く。

 

「これ、三層の入り口付近に落ちてたのさ。あんまり見ないデザインだろう?」

 

オーゼンの手に握られていたのは、一振りのナイフ。柄の殆どない独特の形状はその使用法を何となく勘付かせる。

 

ガッツはこめかみに汗を感じながら、己の左目をゆっくりと胸元のベルトへと移す。

 

 

 

そこには、全く同じ形状をした投げナイフが革製の鞘に収められた状態で並んでいた。そして、一番上に位置する鞘は空っぽである。

 

 

 

「それにしても、よく研がれてるねえ。人の皮程度なら簡単に切り裂けそうだよ」

 

顔を上げると、オーゼンの不気味な笑みが目に映った。しかし、その視線は彼の顔には向いていない。"ナイフの収納された胸元のベルト"へとただただ向けられていた。

 

息をホッと吐けるような暖かみのあるこの場の空気が、いつの間にか不気味と不穏さで埋め尽くされる。外から明るい光が差し込んでいるにも関わらず、ここだけ闇が立ち込めている。そう錯覚してしまう。

 

己に絡みつくような重い重い空気感を放つ彼女を前にしてさっさと離れたくなったのだろう。彼はその隣を通り過ぎるように廊下の端を歩き始めた。

 

「悪りィが、連れの所に戻らなきゃいけねェ。お喋りはここまでだ。じゃあな」

 

本来であれば色々聞きたい事があった筈だが、このクセだらけの第一村人と円滑なやり取りは望めそうにない。それ故の判断であった。

 

己の錯視した深い闇へ赴くように進む彼の足。

 

だが、二つの黒が交差する時、傷だらけの耳はその声を確かに捉えた。

 

 

 

 

 

「フーン、そしたらアンタの連れは悲しむだろうねえ。もう二度と口が聞けなくなっちまうんだからさ」

 

「何ッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良く意味の分からぬその発言。

 

まるで殺すとでも言っているかのようなその言葉の真意を確かめるべく彼は過ぎ去ったその者へと振り返る。

 

そんな彼の目に映ったものは、あの不気味な笑みでも、虚無が棲まう瞳でも無かった。

 

 

 

それは、大きく引き絞られた一発の拳であった。

 

 

 

 




烙印
ガッツに刻まれた贄の証。日没と同時に現世と幽世の狭間に彷徨う存在を惹きつけ、眠れぬ夜を作り出す元凶。

だが、アビスの深層での夜は何故か静かなものだった。一体どういう事なのだろう、彷徨う魂が還る場所が幽世以外にもあるのだろうか?
闇に落とされた松明の炎よりも惹かれる場所がこの世界にはあるのだろうか?


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黒と黒

はたけやま様から素晴らしいイラストを頂きました!ありがとうございます!!
小説情報の所にありますので皆様是非ご覧ください!


 

何人もの探窟家が食事や休息を取る前哨基地。ある者は先に進む為の中継地点。また、ある者はアビス探索の訓練での目的地。そんな、年配の者から若さの残る青年に至るまで、それなりの人数がシーカーキャンプにある大部屋に集っていた。

 

各々が仮眠やら食事やらを取る中、ソレは起こった。

 

「なんか……変な音しないか?」

 

一人の探窟家が己の仲間に吐いた呟き。その言葉に沿うように耳に意識を集中させるその仲間達。

 

意識によって音の聞こえが鮮明になったその瞬間、哀れにも敏感になった聴覚を破壊するような轟音と地震のような大きな揺れが辺りを襲った。

 

 

 

べキィッと何かが強引にへし折られるような音。

 

部屋に突如として漂う木粉。

 

そして、粉塵の中で佇む威厳のある長身の影。

 

 

 

「な、何だ!?」

 

「お、おい、あれ不動卿じゃないか?」

 

「本当だ……まさか、あの壁に開いた大穴は……」

 

各々が目を見開いて驚く最中、晴れた煙の中から姿を表すオーゼン。そして、頭以外の装備が完全に本気のそれである事に気付いた彼女の探窟隊"地臥せり"のメンバーが何事かと慌て始める。

 

「オーゼンさん……!? 一体、何が起こっているんだ?」

 

気付いた者達から、その目はオーゼンの視線の先。壁面周辺に広がる粉塵へと向けられる。そんな煙のスクリーンに投影されたのは、彼女と同じぐらい大きな一つの影だった。

 

「へえ、今の防いだんだ。結構思いっきりやったつもりだったんだけどねえ」

 

「がはッ……何だ、コイツの力……!? まさか……! いや、烙印が反応してねェ。クソッ……冗談だろ? 人間だってのかよ!」

 

よく分からない単語と共に吐き出される悪態。その内容はまるで彼女をバケモン扱いするようである。だが、そんな内容の言葉を聞いてなおその表情は怒りにも何にも染まる事は無く、ただただ虚無の笑みを浮かべたままだった。

 

壁をブチ破る程の威力を誇るその拳を受け、多少の傷はあれど平然と立っているその男に向けてオーゼンは答え合わせのように呟いた。

 

「フーン、確かガッツとか言ってたね。アンタ、面白い左腕してるじゃないか。義手かい? それにしては随分と太いねえ? まるで何か仕込んでるみたいだ」

 

「チッ、言ってろ」

 

彼女の拳を防いだ鋼鉄の左腕を前にして、彼女は脳裏にかつて思い切り蹂躙した一人の少年を思い浮かべる。だが、残念ながらこのガッツという男に関しては手玉に取ってハイ終わりという訳にはいかなさそうだ。

 

それを証明するかのように、彼の反撃が迫る。

 

その厳つい肉体に見合わぬ速度を以って煙の中から姿を見せる黒い影。生身と思われるその右手は既に背中にある武器の柄へと添えられている。

 

そして、オーゼンの目から余裕が消え去ると同時に、背中のソレは振るわれた。

 

 

 

「……ッ!? オーゼンさん!」

 

 

 

この戦いの始まりと同様に舞い散る木屑。

 

一瞬にしてその姿を消す不動卿。

 

壁に空く二つ目の大穴。

 

きっと、誰もがその目を疑ったに違いない。岩ですら動かせぬ不動を強引に動かしたソレは、探窟家の者共にとって余りに解せぬ代物であった。

 

「おい、何だよ……アレ……!?」

 

「け、剣だ……ツルハシじゃねえ! 剣だ!」

 

「け、け、剣? 俺の知ってる剣は、精々腰ぐらいまでの長さしかない筈だ……! そんな訳ねえ!」

 

 

 

 

 

それは、剣というには余りにも大きすぎた。

 

大きく、分厚く、重く、そして大雑把すぎた。

 

それは正に、鉄塊だった。

 

 

 

 

 

「この感じ、斬れてねェ……! ったく、あの厚みでなんつー硬さしてやがんだ」

 

横薙ぎの嵐を巻き起こしたその男は、剣とは名状し難い代物を前へと真っ直ぐ構える。その様子はまるで、この程度で相手が倒れる訳が無いと確信を持っているかのようだ。

 

その行動に呼応するかのように、ガラガラと木片やらの瓦礫を押しのける音が響き渡る。

 

「ほう……コレ、そんなに柔じゃない筈なんだけどねえ。一発受け止めただけでこの有様だよ」

 

再び皆の前に姿を見せるオーゼン。彼女の漏らした文句の通り、剣を受け止めた左手の防具には深い切り傷が入っていた。

 

「落とし前、つけて貰わないとねえ?」

 

気に入っていたのだろうか。どこか怒気を孕んだ言葉と共に、彼女は彼の間合いへと大きく踏み込んだ。だが、当然ながらそれを易々と許す相手ではない。その胴を分かつべく、巨大な鉄の牙が再び襲い来る。

 

「ッ!!?」

 

「おや、どうしたんだい? 剣が止まってるよ?」

 

驚愕に歪むガッツの表情。その視線の先にあるのは己の剣。その根元をたった片手で抑えつけ、平然と止める細腕だった。

 

根元とはいえ振り始めなどでは無く、その最中である。下手をすれば上半身と下半身が文字通り生き別れするその場所へ躊躇いなくその身を置けるのは、往年故の経験と彼女の強さが成せる技であろう。

 

そんな危険を侵して作り上げたガッツのガラ空きの顔面へ、オーゼンの右の拳が迫る。

 

「チィッ!!!」

 

咄嗟に剣から左手を離し、拳を逸らす。だが、彼女の規格外の怪力に完全に逸らす事は叶わず、頬に僅かに傷が付く。

 

このままあの馬鹿げた力に押し切られて戦いはすぐに終わる。誰もがそう思った最中、その慢心を突くように強襲の一手が打たれた。

 

「おっと」

 

突如、剣を抑えていた手を離すオーゼン。空いた手の行き先は己の首元。咄嗟に止めたそれは、先の尖った木片。まるで、動脈を貫くと言わんばかりに素晴らしい軌道でそれは影から飛来した。

 

そして、再度強く踏み込まれる彼の足を横目に彼女は半ば確信する。この男は、狙ってあの凶器を蹴り上げたのだと。

 

ムカつく事にその効果は的面で、抑えの無くなって自由になったその剣は、水を得た魚のように暴れ出す。

 

「コイツでも食らっとけ!」

 

大きく隆起する彼の右腕。怪力を持つのは一人ではないと知らしめるかのように、その鉄塊は片手で持ち上げられ、そして振り下ろされる。

 

剣そのものの重みを活かした叩き付けを前に、受け止めるのは悪手と判断したのだろう。オーゼンはそれが頭をカチ割るよりも速く、全力の拳を以ってその側面をブン殴り、その軌道を逸らした。

 

破壊力を孕んだその勢いは床を無惨に砕き、半端に割れた木材を踊らせる。床に深く突き刺さった故に、剣は今度こそ封じられた。彼の着る甲冑もろとも貫く勢いで彼女の左拳が突き出された。

 

 

 

彼の口元からバリバリと鳴り響く異様な音。そして、大木のような右腕がはち切れんばかりに膨張し、強引に事を成す。

 

 

 

彼女の拳が叩いたのは、分厚い鉄板。先程まで武器として使われていたそれは人知を超えた無窮の力によって引き抜かれ、矛に対する盾となった。

 

だが、ただそれだけでは終わらない。

 

足首を返し、その捻りが力の螺旋を生む。そして、引き抜いた勢いそのままに旋回の加速を剣に乗せ、振り返るようにその横薙ぎは放たれる。

 

それは、さながら意志を持った竜巻であった。

 

自然災害と錯覚するその一振りが孕む危険度は、オーゼンに受け止めるという選択肢を捨てさせる程であった。

 

「オーゼンさん! 俺たちも……!」

 

不動卿とほぼ互角に渡り合うその様子を前に、彼女の探窟隊の者達が声を上げる。だが、それに返されたのは酷く冷たい声だった。

 

「出しゃばるんじゃないよ。アンタらが束になってかかったところで時間稼ぎにもなりゃしない。どうせ、臓物ばら撒いて掃除の手間を増やすだけさ」

 

隊の長から直々に言われた棘だらけの言葉は部下たちへと冷たく突き刺さる。しかし、そこに嘘など何一つ無い。ただただ無情な真実が淡々と語られただけである。

 

彼らは言われるまでもなく、それを痛いほど分かっていたのかもしれない。その拳は悲しいほどに強く握り込まれていた。

 

「意外だな、随分と慕われてるじゃねえか」

 

「フーン、まあ他の奴らよりかはまともで優しいからかもねえ」

 

「ヘッ、寝言は寝てから言いやがれ!」

 

重く大きく踏み込まれる右足。そして、背中側から頭を越えるように描かれる縦の軌道。腰が確実に乗った一撃が天井を斬り裂きながらオーゼンへと襲い来る。

 

先程は避けの選択肢を取った彼女だが、今度はその素振りなど一切見せずにゆっくりと両手を顔の前に上げた。

 

 

 

「なッ!? コイツを真正面から……止めやがっただと!?」

 

「随分と驚いてるじゃないか。何かおかしい事でもあったかい?」

 

小細工無しで受け止めるには余りにも悍ましいそれを、オーゼンは頑丈な防具と尋常でない怪力で躊躇う事なく受け止めた。両手の手甲を用いて強引に止めた故に、元々ダメージを負っていた左の手甲は完全に砕け散っている。そして、僅かに手の甲へ食い込んだ刃が彼女のグローブを引き裂いて少しばかりの血を床へと滴らせた。

 

だが、そんな赤い対価と引き換えに勢いを失った鉄の塊にはもう十分な殺傷力は無い。刃を掌でガッチリと掴み直した彼女の黒々しい笑みを背景に、その剣は段々とガッツの方へと傾き始める。

 

「クソッ!」

 

ただの純粋な力押し。ある意味最も対処に困るその戦法が剣を伝って彼に襲い掛かる。

 

走り回れるスペースも、有効活用出来そうな代物も無いと判断したのだろう。対処方法として彼が選んだのは、彼女と同じ"力押し"だった。

 

剣の峰に肩を叩きつけるように当て、足は床に穴が開くほどに強く踏み込まれる。全身の力を余す事なく剣に注ぐその構えは、力の天秤の偏りを強引に均等へ押し戻した。

 

 

 

「アイツ、不動卿と真正面から押し合って……負けてねえ……!?」

 

「白笛とほぼ互角……あの男は一体何者なんだ!?」

 

 

 

 

 

愕然。

 

関係の無い観客にとって、目に映っている光景はその一言に尽きた。数々の逸話の残る伝説級の白笛。監視基地に世話になる者であればその片鱗を良く目にするものだ。それ故に、彼らはその力に誇張や虚偽など一切無い事をよく知っている。

 

だが、彼らの見開かれた目はそんな白笛を携える存在を知っているからこそ生まれてしまった。理解しているからこそ、その異常さに気付いたのだ。

 

「随分とキツそうじゃないか? 楽にしてあげようか?」

 

「……ッ! 言ってろ……!」

 

ギリギリと噛み合わせた歯を唸らせてただひたすらにその力を押し返すガッツ。オーゼンの言葉通り、その表情に一切の余裕は無い。きっと、傍観者の誰もがこの力比べの勝者が誰であるか自然と理解する程だ。

 

しかし、彼女の探窟隊のメンバーだけは気付いていた。

 

サディスティックな笑みの横で静かに流れる冷や汗を。相対する者と同様に、その目に一切の余裕が無い事を。

 

 

 

そんな中、偶然が苦しそうな彼へと味方する。

 

 

 

この力比べに耐えきれずに根を上げたのは、意外にもこの部屋の床だった。そして、嫌な音と共に床が割れた方に立っていたのは不運にも不動卿であった。

 

「しめたッ!」

 

体勢の崩れた彼女へと彼の全身全霊の力がぶつけられ、剣は力を失った方へと傾いていく。

 

歴戦の相手に対し、現在の己の状態では長期戦は危険と判断したのだろう。ガッツはこの好機を逃さず、一気に勝負を決めにいった。

 

だが、足を一歩前に踏み込んだ瞬間、動く影が彼の首元へと迫り来る。

 

「がッ!?」

 

防ごうにも大剣を持っている両手はどちらも間に合わない。故に、彼は渾身の力を込めてそれを強靭な顎で無理矢理受け止めた。

 

そして、その正体に目を見開く。

 

(木片だと!? この一瞬で引っぺがしたってのか!)

 

それは、先程自分自身が窮地を脱する際に使った戦法そのものであった。意趣返しと言わんばかりのそれを目の当たりにして、本来なら隙の無い意識に穴が空く。

 

「お返しだよ"クソガキ"」

 

針穴に糸を通すかのように意識を掻い潜って迫り来る、オーゼンの鉄拳。警鐘が脳内に鳴り響くがもう遅い。

 

彼よりも細いその腕に内包された人外の力は、余す事なく彼の左頬へと叩き込まれた。その威力は、彼の巨体を部屋の隅まで吹き飛ばし、その壁に大穴を開ける程であった。

 

床へ転がる短くなった木片を端へ蹴り飛ばしつつ、オーゼンはその目を壁を覆う煙へと向けた。

 

「ほう……」

 

アビスの原生生物の殆どが沈むであろうその渾身の一撃。傍観者も、探窟隊のメンバーも、誰もが不動卿の勝利を確信する。

 

だが、当の本人ただ一人だけがその笑みを真顔へと崩し、心中で喜びと全く異なる感情を抱いていた。

 

 

 

煙が晴れ、全てが光の下へ晒される。

 

 

 

しかし、その目に映ったのは皆が思い描いていたであろう、地に這いつくばる哀れな男の姿では無かった。

 

 

 

 

 

 

そこにあったのは、口元を真紅に染めながらも立ち続ける黒い剣士の姿だった。

 

 

 

 

 

血が滴り落ちるその右頬は、内側から真っ赤に染まった"何か"で貫かれ、指三本は入るであろう大穴を作り上げていた。

 

ぐちゃりと粘っこい音を立て、彼の口に含まれていた木片らしき塊が吐き出されて地面に落ちる。そして、痛みを耐えるためか、あるいはそれ以外の理由なのか、その歯はこれでもかと固く固く食いしばられる。

 

 

 

その姿はまるで、獲物を前に赤い涎を垂らしながら笑う怪物だった。

 

 

 

穴の空いた頬が織り成すその異様な姿に、探窟家達の背筋は凍り付く。それは、アビスの凶暴な生物達と相対した時とは違う。己の本能が否応無しに抱く、根源的な恐怖そのものであった。

 

「アンタが最初に言った言葉、そのまま返してあげるよ。アンタ、本当に人間かい? いっそ化け物名乗った方がお似合いだと思うよ?」

 

最早、一切の笑みなく投げ掛けられる毒口。きっと、黙りこける周囲の者共も同じ事を思い浮かべただろう。

 

そんな冷たい目線に晒されながら、彼は驚く程静かにその剣を真っ直ぐ構え、ドスの効いた低い声で淡々とこう言った。

 

「……言いてェ事はそれだけか?」

 

凄惨な状態にも関わらずひどく落ち着いているその様子は、今これを見ている者の脳裏に不気味という三文字を浮かび上がらせる。

 

だが、何故だろうか?

 

不気味に映るその姿は、まるで怒りを強引に押し留めているように見えた。

 

そして、そんな感情の奔流を四肢に漲らせるようにその剣は動き出す。

 

「……っ! さっさと大人しく死んだらどうだい?」

 

「悪りィが、そのつもりはこれっぽっちも無ェ!」

 

オーゼンに襲い掛かる暴風と化した大剣。振った勢いを殺す事無く連続して向けられるそれは、彼女がこれまで受け止めてきた剣とは訳が違う。

 

無理矢理止めに掛かれば、比喩などでは無く本当に腕が飛ぶだろう。

 

故にオーゼンが出来ることは、床と天井を噛み砕きながら迫るその黒い牙の矛先を、人外の力と強固な防具を以って直撃を避けるように逸らすだけであった。

 

「まずいぞ、オーゼンさんが押され始めた! やはり少しぐらい手助けを……」

 

「む、無理だ! ち、近づけねえ……あの中に入ったら間違いなく死んじまう!!」

 

「……クソ!」

 

黒い台風と化したそれを前にしてただただ傍観することしか出来ない彼女の探窟隊の者達。彼らが歯痒く立ちすくむ中、二匹の怪物の一進一退の攻防が続く。

 

 

 

ご自慢の怪力で建物の天井を引っぺがし叩きつける不動卿。

 

天から降り注ぐ建物の支柱やら何やらをオーゼンごと強引に縦にぶった斬る黒い剣士。

 

防具が砕け散って右手に生じた切り傷。そこから流れ出す血を気に留めず、彼の着る防具ごと悍ましい威力のボディブローを叩き込む。

 

最早、破城槌を直で食らったかの様な衝撃にその左目は苦しみに歪む。だが、口から吐き出される涎ごとその歯を強く噛み締め、一切後退する事なく強引な横降りの刃を返す。

 

「ハァ……!!! ハァ……!! ハァ……!」

 

「ほう……随分と……キツそうじゃないか? 一体いつ死んでくれるんだい……?」

 

「テメエこそ……! さっさとくたばったらどうだ……?」

 

刃を肩の防具と何の守りも無い左腕で止めるオーゼン。

 

己をあえて斬らせて顔面へと放たれた彼女の拳を、左腕の義手と己の額を使って止めるガッツ。

 

片や腕に深く剣が入り込み、片やその威力に耐えきれず額が割れ、各々が床を赤く汚す。そして、お互いがお互いを突き放す様にして二人の距離は再び開いた。

 

静まり返る場に響く二人の呼吸音。嵐が来た時の海の様に乱れたその呼吸は、見る者皆に決着が近いだろうと想像させる。

 

 

 

そして、荒れた呼吸のままその足が踏み込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お師さま!!」

 

「ちょおっと待ったあああぁぁぁー!!!」

 

 

 

その剣と拳が交わるよりも先に割り込む二つの影。

 

二匹の怪物の間に躊躇いなく入り込み、激しい光と共にその戦いを止めたのは、その身の大きさに反した勇気の持ち主達だった。

 




狂戦士の甲冑
アビスの呪いの影響か、今だけは大人しいただの頑丈な甲冑である。だが、それは決して御した訳ではない。その燻りは一度薪を投じれば、大火となり、アビスの強烈な呪いを押し退け彼を飲み込むであろう。

そうなれば、文字通り全てを殺し尽くすまでその蹂躙が止まる事は無い。


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反転する終着点

 

「はい、お師さま」

 

「……ん」

 

色々と一悶着……いや、数百悶着あったガッツとオーゼン。それぞれが己の仲間に止められてようやく終わったその戦いの後、恐怖と興味の入り混じった視線を横目に来客用の小部屋にて向かい合って座っていた。

 

そして、マルルクが何処からか持ってきた救急キットとDr.パックによる応急処置が行われ、二人は否応無しに負傷部分を包帯でグルグル撒きにされたのだ。

 

そんなこんなで、現在ガッツは先程まで本気で殺し合っていた相手と向かい合わせになりながら、食事を取るという何とも奇妙な状況に置かれていた。

 

「マルルク」

 

「はい! お師さま!」

 

誰かさんの適当処置によって腕どころか手まで包帯がぎっちり巻かれて物を掴めないオーゼンに、マルルクが小さく切った肉を食べさせるという半ば介護のような光景を見ながら、彼も己の為に用意された厚めのステーキにフォークを刺す。

 

そして、それを口に運ぶより先にくぐもった声で苦言を漏らした。

 

「マルルク、応急処置の方法だけどよ……本当に合ってんのか?」

 

そんな、不思議とため息の聞こえてきそうな彼の姿は額やら頬やらを纏めて巻いた包帯のせいで、口元の可動部など殆ど無いミイラ人間と化していた。現状、彼に許されているのは左目側の包帯の隙間からただただ外の世界を眺めるだけである。

 

「こりゃ見事なミイラじゃ、鑑定に出せば高く……」

 

明らかにふざけたパックの言い分に対し、"んな訳ねェだろ"と呆れた様な呟きを返す。そんなやり取りの傍らでマルルクは密かにその顔を恥ずかしそうに染めていた。

 

結局、強引に口元の包帯をずらして頂くことになった様だ。

 

「マルルク、アンタ頬の傷はどうしたんだい?」

 

「えっ!? えっと、さっきパックさんに処置してもらって……」

 

「フーン、そうなんだ」

 

オーゼンの突然の質問に彼は思い出したかの様にその手を己の頬へと持っていく。不慮の事故によって生じた筈のその傷は、彼がいくら頬を探っても見つからなくなっていた。

 

「私の神がかり的なオペの成果だよ」

 

傷も残さず、たった1日で傷を治してしまった名医師が自慢げに彼女の前に名乗り出る。見た事は無いであろうその存在に彼女はこれっぽっちも驚く事なく、興味の目をじっと向けているだけだった。

 

「そんな風には見えないけどねえ?」

 

コントラストの無い、文字通り闇の色をしたその瞳に見据えられてだんだんと冷や汗が止まらなくなっているパック。そんな様子を横目に、ガッツは単刀直入に己の疑問を吐き出した。

 

「なあオーゼン。アンタ、長生きしてるんだろ? これから言う国が大体どの方角にあるか教えてくれねェか? うろ覚えでも構わねェ」

 

相手の返答を待たず、次々とその国の名前を口に出すガッツ。しかし、その発言を耳に入れたオーゼンが浮かべた表情は意地の悪い笑みだった。

 

「私がそんなこと答える義理なんて無いんだけどねえ。まあ良いよ、答えてあげようじゃないか」

 

何とも性格の悪そうな笑み。マルルクが思わず苦笑いを浮かべ、パックがビビって冷や汗を垂らすそれを前に、ガッツは平然と目の前の食物を口に入れ、頬に沁みる痛みに顔を歪めていた。

 

 

 

「ハッキリ言って、無いよ」

 

 

 

その答えに口をあんぐりと空けて驚くパック。その横で静かに眉を顰めるガッツ。信じられないのか小さい方はあたふたとしながら、その言葉に疑いをかけ始める。

 

「ガッツ! これ絶対嘘つかれてるって! だって見てよあのわる〜い顔! ぜーったい面白がってるって!」

 

「フーン、言ってくれるじゃないかチビ助。だけどね、私は嘘も子供騙しも嫌いなんだ。正真正銘、アンタらの言う国名は地上に存在しないよ。面白いよね、アンタらはありもしない国探してここまで来たってことさ」

 

酷くサディスティックな表情に良く似合う毒舌が吐き出される。

 

それに未だ疑いを向けるパックだが、落ち着いた低い声と後頭部を突っつく太い指にその疑いの顔は驚きに変わった。

 

「うわっ!? びっくりしたー!!」

 

「おいパック。オマエ、今エルフヘルだか何だかの方角分かるか?」

 

「エ・ル・フ・ヘ・ル・ム!! 勝手に地獄にするのやめて貰える!? まったくも〜! そんで方角方角っと……あれ? ううん? ぐぬぬ……!」

 

栗の様な頭に筋を浮かべてひたすらに唸るその様子を、ガッツ含めた三人は静かに見守る。

 

 

 

……だが、いつまで経ってもその唸りは止まらなかった。

 

 

 

故に、もう見学に飽きたオーゼンは己の知的好奇心を満たすべく、ガッツへと問いを投げかけた。

 

「フーン、エルフヘルねえ。聞いた事もないね。一体何処にあるんだい?」

 

「さあな、ただそこのちっこいヤツが場所分かるってのは確かだぜ。なんで分かるかは知らねェがな」

 

横から"エ・ル・フ・ヘ・ル・ム!!"と訂正の言葉がうるさく投げ掛けられるが、早く探せと言わんばかりのデコピンによって場は静けさを取り戻す。

 

「そういや、色々と悪かったなマルルク。基地の床やら天井やらをぶっ壊しちまって」

 

「えっ? いや、むしろガッツさんの方こそ結構な大怪我を……」

 

「ほう、私のは大怪我じゃないって言いたいのかい? 良い度胸してるじゃないか」

 

「え……! ええっ!? ちちち、違います! お師さまの怪我が軽いという訳では……」

 

明らかに悪戯心しか無いオーゼンの言い回しに、傍らの給仕係はあたふたとしながら掘った墓穴を埋めようと途切れ途切れの言葉を吐き出した。

 

そんな慌ただしい様子を面白そうに眺めながら、彼女は不満げな声調で文句を垂れ流し始める。

 

「マルルクは後で裸吊りだよ。それにしても、アンタも中々じゃないか。普通、謝罪というのは持ち主にするものじゃないのかい?」

 

「さあな、こっちだっていきなりブン殴られた分の謝罪なんざされてねェからな。てっきりそういうもんだと思ってたぜ」

 

「フーン、もう一発殴って欲しいのかい?」

 

「別に構いやしねェよ。ただ、そん時はテメエも義手が必要になるかもな」

 

「そこまでっ!」

 

このままでは再び不毛な戦いが始まってしまう。いや、意識の世界ではもう始まっているかもしれない。そう思ったパックは唸るのを止め、己の愛刀をガッツの脳天に叩きつけた。

 

そして、棒の先端につけられた毬栗という名の刃物は見事に彼の頭に突き刺さった。

 

「あっ、ちょっと強くやり過ぎちった……」

 

度重なる戦闘と疲労に彼の体も弱っていたのだろうか。普段ならかすり傷であろうその攻撃によって、額に撒かれた包帯がみるみる赤く染まっていく。

 

流石にやっちまったと思ったのか、見事に突き刺さった伝家の宝刀を引き抜いた後、己の羽から溢れる鱗粉を適当にばら撒いて、ペチペチと傷口を叩いた。

 

「いてェ」

 

「ごめんごめん。でもまあガッツだし大丈夫でしょ!」

 

「こんの野郎……!」

 

随分と冷たく怒りの篭った視線をその背中に受けながら、パックはオーゼンの前に出向くとその両手を大きく動かしながら話し始める。

 

「これはこれは失礼しました! ワタクシ、この黒金の城ガッツの城主をしておりますパックでございます! この度は私の城が勝手に暴れ出してしまい申し訳ありません! 次からは鎖にでも繋いでおく所存でございまする!」

 

いつも通りのおふざけに最早呆れ返るガッツ。流れについていけずにただただ唖然とするマルルク。だが、オーゼンだけはそんなふざけたジョークを一蹴するかの様に怖さ溢れる目を向けた。

 

「フーン、アンタの鱗粉は治療薬にでもなるのかい?」

 

冗談溢れるこの空気を嫌ってか、至って真面目に己の好奇心に従った問いを投げかけるオーゼン。

 

きっと、そんな彼女の意志を察知したのだろう。返ってきた答えはいつもよりもおふざけ成分少なめのものだった。

 

「オ、オウ……イエス。なんか凄いよく効く傷薬になるみたいだぞ!」

 

なんの変哲も無い普通の返事をした後、まるで何かを葛藤しているかの様な間が空く。そして、やはり己の性に逆らえなかったのかパックはもう一言……いや、それ以上を付け足した。

 

「なんと! それだけでなく、実は老化や美容にも効果があると専らの噂だぞ! アンチエイジングの救世主とも言われる程の超性能の薬なのだ! きっと今この瞬間もオークションに掛けられ、目も眩む様な高額で取引されている事だろう!!」

 

「そ、そうなんですか!? ど、どうしよう! 僕の軽い怪我に使われた薬がそんなに高価だったなんて……! どうやって返せば……!」

 

「どう考えても嘘だろうが……」

 

慌てふためくマルルクと最早慣れた素振りで呆れるガッツ。

 

だが、そんな二人の側である者が魔の手を伸ばしていた事をパックはまだ知らなかった。

 

「うげっ!?」

 

「ちょっと良いかい? 確認しておきたい事があってねえ」

 

お調子者の妖精を、包帯を内側から引きちぎってきたオーゼンの手がガッチリと掴む。今にも無残な結果になりそうな被食者の気分を現在進行形で味わっているようで、その身体からは滝の様な冷や汗が流れ出していた。

 

「イ、イッタイナンノゴヨウデショウカ?」

 

「簡単な話だよ。さっきアンタ、このデカブツの主人とか言ってたね? それ、本当かい?」

 

変な冗談でも言おうものなら握り潰されてしまいそうな視線を前に、パックはただただ首を縦に振る。

 

約一名から呆れの視線が向けられる中、オーゼンは嬉しそうに不気味な笑みを浮かべると、死刑宣告の様にこう言ったのだった。

 

 

 

「じゃあ、壊された壁や床の修理費はアンタに請求させて貰うよ」

 

 

 

「え゛っ!!?」

 

その意味を理解し、一瞬で真っ青に染まる栗頭。錆びたブリキ人形の様にその顔が彼の言う黒鉄の城へと向けられるがもう遅い。視線の先に座る当の本人は一応チラリとこちらを一瞥したが、見なかったふりをしたのだから。

 

「まさか、嘘ってことは無いよねえ?」

 

なんだか手の力が強くなった気がしてならないパック。嘘だと言えばどうなるかなど、最早言うまでもないだろう。

 

最後の最後で再確認を入れたのは、一応彼女の優しさ故なのだろうが、今の彼にとってそれは優しさとは真逆である事は間違い無い。

 

そして、容赦の無い追い打ちが低い声で行われた。

 

「悪りィが、ここの金なんて一銭も持ってないぜ? オレもそいつもな」

 

「フーン、そしたら……身体で払ってもらおうか?」

 

「か、身体で……!? やばいよガッツ! オレこの人にバラされちゃうよ!」

 

オーゼンが債務者片手に席を立ち、部屋の入り口へと向かう。そんな道中にて彼女はガッツに一言だけ断りを入れた。

 

「悪いね、少しこのチビっ子借りてくよ」

 

「ちゃんと五体満足で返すなら文句はねェよ。好きにしな」

 

「ガッツ!?」

 

己の冗談を貫いた結果が招いた災難によって扉の向こう側へと消えていく一筋の光。その光を握りしめ、意地悪く笑う闇。

 

ガッツらの目に映ったのはそんな奇妙な光景だった。

 

 

 

 

 

オーゼン達が席を外し、何故か隣の部屋から今にも消えそうな悲鳴が聞こえ始めた頃。ガッツと二人きりとなったマルルクは少しばかりの気まずさを感じていた。

 

己がもっと利口に動けば、二人の恩人が争う事は無かった。そう考えた故の自責の念によって、今の彼はただただ気まずさに押し潰されそうになっている。

 

そんな彼の心情を当然知らぬであろうガッツは、今もなお平然と皿の上の肉を口に放り込んでいた。

 

だが、何故だろうか。不思議とその表情は美味しい物を食べている様には見えず、気まずさを紛らわすついでにその事を尋ねた。

 

「あの……ガッツさん、食事はどうですか?」

 

「あ、ああ……いけるぜコイツは。傷に染みるのが玉にきずだがな」

 

味を聞かれた途端に見せた僅かな間。だが、その違和感を察知出来るほどマルルクは人の心理に明るくは無かった。

 

「そうですか? 良かったです!」

 

取り留めのない会話も途切れ、再び気まずさが彼を襲う。そんな事を意識しないように努めようとしても、一度意識したものは中々外へは追い出せない。

 

そんな、卓上を拭いた布切れ片手に厄介な物に苛まれた彼を救ったのは、他の誰でも無いガッツだった。

 

「おい、マルルク」

 

「はい、どうしました?」

 

「ありがとよ」

 

突如掛けられた感謝の言葉。それは盛大に彼の脳を驚きで大きく揺らす。感謝される意味が分からない事もそれに拍車を掛けていた。

 

「な、なんでですか……!?」

 

「あの時オマエはオーゼンを、パックはオレを止めただろ? もしあのまま続けてたら、もっと悲惨な終わり方になってた。それを止めたってのはオマエの大きな手柄だ」

 

初対面での怖さからは想像も出来ない優しげな笑みを浮かべ、彼は確かにそう言った。

 

「で、でも、僕がお師さまに事情を伝えておけば、ガッツさんもお師さまもこんな怪我負わずに済みました……止める必要すら無かったはずです……」

 

「そうか? オレからすりゃあ、オマエの言うお師さまとやらがそんなんで止まるとは思えねェがな」

 

食事を終え、頭に巻かれた汚れた包帯を邪魔そうに取っ払いながら、ガッツはそう言った。もう彼の頬を覆う物は赤く染まったガーゼしかない。

 

その悲惨な姿に表情を歪めるマルルクに彼は落ち着いた様子でこの戦いの意味を話し始める。

 

「オーゼンとっちゃオレは仲間を傷付けた不届きモンだ。まあ大きな怪我じゃ無かったとしても、一発や二発ブン殴りたくなるのは分かる。オレだってそうするさ」

 

「そ、そんな……」

 

「そんだけ大事にされてんだ。良かったじゃねェか」

 

彼の言葉を理解出来ない訳では無い。だが、良くも悪くも臆病で優しいマルルクにとってその考え方は理解は出来ても容易に受け入れられるものでは無かった。

 

しかし、そんな彼を励ますようにその厳つい右手が肩を軽く叩く。

 

「ま、あんまり気にすんな。誰も死んでねェし、傷はただのかすり傷だ。問題なんてこれっぽっちもねェよ」

 

そして、その巨大な身体は立ち上がる。己の師匠と同じように聳え立つその姿は、師匠とは違う、また別の憧れを映していた。

 

「これから先どうするか考えねェとな……ま、とりあえずアイツを返して貰うか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、用は済んだよ」

 

「が……ガッツ……オレはもうダメだ……」

 

「フッ、たまにはキツイお灸据えられんのも悪かねェだろ」

 

「よ、良くない……! ぐふっ……!」

 

一応、約束通り"五体満足"で帰ってきたパック。だが、その精神面は何故かズタボロにされ、満身創痍と言っても過言ではない状態であった。

 

一体中で何が行われたのだろうか?

 

とにかく言える事は、負債を返済する為に色々と絞られた。ただそれだけだ。

 

「なあ、オーゼン。一つだけいいか?」

 

「なんだい?」

 

ノックダウンした城の主人をポーチに入れた後、彼は何故かすこぶる調子が良さそうに見えるオーゼンへと尋ねる。

 

だが、普段と変わらぬ筈のその表情には僅かながらの不安が見て取れた。

 

「もしアンタがオレと同じ状況下に置かれたら、上か下。どっちに行く?」

 

「下だよ」

 

もはや息を吐く間も無く彼女は即答する。そして、彼に背を向けたまま聞いてもいないその理由をつらつらと述べた。

 

「上にある筈の目的地が無いなら、下に行くしか無いだろう? これはただの予測だけど、この大穴に来ちまった時の場所でも探せば、こうなった原因ぐらい見つかりそうだしねえ」

 

「原因……遺物とか言うヤツか?」

 

「さあね。ただ、よく分からない現象を起こせるのはここじゃそれぐらいしか無いのは確かだね」

 

彼女の言葉に彼の意識は自身の頭の内側へと向けられる。

 

いつの間にか来ていたこの世界。そして、その瞬間に彼は何をしてどこに居たのか。色々とあり過ぎて朧げになったその記憶を今一度鮮明に思い出すと、彼は静かにその拳を握り締めた。

 

「そうか、ありがとよ。助かった」

 

ゆっくりと彼女へと向いたその目にはもう迷いは無く。これから訪れるであろう困難への覚悟で染まっていた。

 

 

 

 

 

 

翌日の朝、オーゼンは監視基地の手すりに寄り掛かりただただ第三層へと続く大穴を見つめていた。

 

そんな彼女の視界に入ったのは、監視基地から大穴へと続く、深く大きな人間の足跡。だが、そんな足跡の持ち主は彼女の視界はおろか、監視基地の中にすらもう居ない。

 

「やっぱり、居ないみたいですね〜」

 

「フーン、随分とお急ぎじゃないか。見た感じだと、夕方には出て行ったみたいだしねえ」

 

己の探窟隊の者からざっくりとした報告を受け、まるで小馬鹿にするかのように彼女は鼻で笑った。

 

「マルルクが残念そうにしてましたよ。なんか、結構仲良くなってたらしいっすからね」

 

「へえ、そうかい」

 

彼女はまるで自分には関係ないと言わんばかりの適当な返事を返す。

 

普通なら特に何も感じないその返事だが、仲間である者には藪蛇のようなものを感じさせたらしい。マルルクの話題を出した張本人はわざとらしく話題の矛先を変えた。

 

「そ、それにしても、あの怪物みたいな男をよくあんな簡単にぶっ飛ばせましたね。何というか、オーザンさんの方が……」

 

その続きを語るよりも先にオーゼンの手が彼の肩を掴む。今にも握り潰されそうな力で握られた肩は当然ながら悲鳴を上げ、語り部の口を強引に閉じさせた。

 

そして、新たな語り部となった彼女がゆっくりと口を開いた。

 

「ちょっと面白い話をしてあげようじゃないか」

 

隊員のこめかみから大量の冷や汗が流れ落ちる。きっと、振り向かずとも彼女がどんな恐ろしい笑みを浮かべているか分かってしまうのだろう。

 

だが、本当に恐ろしかったのはそれではなかった。

 

「あのガッツとかいう男、てっきり遺物だらけのヤツかと思ってたんだけど、どうやら違ったみたいでねえ。遺物なんて何一つ持って無かったよ」

 

"遺物を持っていない"

 

その言葉はあの大剣を振り回していた男への印象を大きく変える。

 

何せ、あの巨大な代物だ。身体か剣のどちらかに遺物でも無い限り到底振れるものではないと思うのは当然だろう。

 

「アンタもあの大剣を見ただろう? あれ、文字通り鉄の塊だったよ。まあ、両手で持てば普通に振り回せたけど、ハッキリ言って無謀だね。あれは腰に悪すぎるよ」

 

普通、腰がどうたらと言ったレベルの問題では無い筈なのだが、その指摘を彼は静かに心の奥底へと仕舞った。

 

「知ってるかい? あの男、腕と目が片方しか無かったよ。おまけに、腕代わりに付けてる義手もどこかのガキと違って動かせるモンじゃ無い」

 

てっきり鉄の腕は防具を身につけているだけだと思っていた故に、その驚きもひとしおである。

 

だが、流石と言うべきか。不動卿の探窟隊に属しているだけあり、彼は彼女から出てきた情報に大きな違和感を抱く。

 

 

 

"片腕が……無い?"

 

 

 

彼女が振るのを嫌がる程の重量を持つあの巨大な代物。当然、まともな人間なら持ち上げる事すら叶わないだろう。

 

だが、今さっき脳裏に浮かんだ事柄と、己の目で見た事実。そして、導き出された答えは真実であるにも関わらず、酷く受け入れ難いものと化す。

 

きっと、地上の街に戻ってこの話をしても誰も信じないだろう。それ程までに、出てきた答えは絵空事だった。

 

 

 

もはや怯えに近いその顔をオーゼンは上から威圧感たっぷりに覗き込む。そして、いつも通りの落ち着いた雰囲気で、確かめるかの様にこう言った。

 

 

 

 

 

 

「さて、本当の"怪物"は一体どっちだろうねえ?」

 

 

 

 

 

 

 




オースの街の噂話
最近、アビスの原生生物と巨大な剣で真正面から戦う男の噂話が子供達の間で話題となっている。

所詮は噂と思いきや、不思議な事にそれは収まる事なく広がり続けている。おまけに、あの不動卿とも真正面からやりあったとの噂まで出てきている始末である。

誰がどう考えても作り話の類であるが、話の内容の勇ましさとインパクトは夢を求める子供にとって眩しく映ったのだろう。そうでなければ、ここまで広がる筈が無いのだから。


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再会

 

輝く朝日が照らす深界第四層。そんな四層の中腹に生える巨大な植物ダイラカズラ。その内の一つの葉の上にて、ガッツは一つの山を前に膝をついていた。

 

「ゼエッ……ゼエッ……ゼエッ……!」

 

植物が皿のような葉に溜め込む水が激しい呼吸に伴う動きで揺らされる。滴る汗が幾つもの波紋を作り上げ、水面は嵐の時の海のように荒れ狂っていた。

 

だが、水面を揺らす嵐は一つだけ。

 

それ以外は全て、物言わぬ山と化している。

 

「うっわ……大惨事……」

 

彼のポーチから顔を出した妖精は、目の前の光景に顔を歪めた。

 

地面はまるで血溜まりのように赤く染まり、場所も分からぬ臓物が至る所で浮いている。

 

そして、目の前に作り上げられた山は、赤や青や白の生物で構成され、見た目や匂いともに形容し難い不快さを感じさせるものであった。

 

そんな代物を前にすれば、パックの反応も当然と言えよう。

 

「クソッ……どいつもこいつも血相変えて襲い掛かってきやがって!」

 

時は数時間前、昨日の夕刻まで遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日が沈みかけ、アビスにも赤みがかった光が差し込み始めた頃、ガッツ達はもう既に第三層の大穴を降りている最中であった。

 

「ねえガッツ、お別れぐらい声掛けてもよかったんじゃないの?」

 

「しょうがねェだろ、時間が無かったんだ」

 

「誰かさんがぐっすり寝てたからね〜」

 

「……まあな」

 

傷が塞がりかけている頬を歪め、何とも言えない表情を浮かべるガッツ。だが、今更戻る訳にもいかない。

 

首元の烙印はとうに疼き始めている。

 

彼は左腕に巻き付けた鉤縄を使い、慣れぬ手つきのまま降りる速度を早めた。

 

せめて、余裕がある地点まで降りられればと思い。亡霊達の魔の手が届きづらい場所まで行ければと思い。

 

 

 

だが、日が沈み切った瞬間から、そんな思考の余裕すら彼は奪われる事となる。

 

 

 

「ッ!? クソッ!」

 

岩壁を向く彼の背後から襲い掛かる青い影。マドカジャクと呼ばれるその原生生物はガッツという名の餌に誘われたのか、その顎を彼の義手へと向けた。

 

激しく咬まれる鋼鉄の腕。尋常ではない鉄の厚みはどうやら彼らの牙すらも跳ね除けるらしく、噛み砕かれる気配は無い。

 

しかし、巻き付いていた縄に関しては別だった。

 

「コイツ、縄を!?」

 

命綱が千切れ、落ちる身体。辛うじての所で右手が切れたロープを万力の如き握力で掴み、垂直落下だけは避けた。

 

しかし、足は文字通り地着かず。手の中のロープがいつまで保つかも分からない。

 

そして、何か打開策が無いかと彼が周りを見た時、そこに広がるのは絶望的光景であった。

 

「が、ガッツ……? こ、これゼッタイやばいやつじゃない!?」

 

「ああ、やべェな……!」

 

彼の左腕に噛み付くヤツだけでは無い、上下左右からまるで餌を見つけた魚のようにやってくる青、青、青。

 

そして、ようやく彼は気付くのだ。

 

 

 

烙印を持つ者がこのアビスという世界にて、闇夜に警戒すべきは亡霊だけでは無いのだと。

 

これまでの夜に出会ってきたのが亡霊だけだったのは紛れも無い偶然だったのだと。

 

 

 

「パック、どっか掴まってろ」

 

「あ、アイアイサー!」

 

遥か下、真っ白な雲の隙間に漂う赤色を一瞥した後、彼は確かにそう言った。一筋の迷いすらないその目を見たパックは超特急でポーチへと帰宅を済ませる。

 

 

 

そして、彼は右手の中の命綱を手放した。

 

 

 

「食らいやがれ!」

 

空いた右手で握ったナイフを腕に食いつくマドカジャクの脳天へ突き刺しながら、彼の体は落ち始める。

 

それでもなお腕を咬んだままのしつこい生物の顎付近をさらにナイフで切り、そしてブン殴る。細かい傷だらけとなった義手がようやく解放されるが、もはやそこに意識を向ける暇すらもう残されていない。

 

生物の本能が悲鳴を上げる速度で落ちる己の肉体に鞭を打ち、彼は空中で巨大な剣を解き放つ。

 

腕力と体幹で強引にそれを盾のように構えると、彼は己に降り掛かるであろう衝撃に備えた。

 

「ぎゃっ!」

 

「ぐっ!?」

 

落ちるガッツの体を不運にも受け止めてしまったのは、赤色を基調とした原生生物であるベニクチナワだった。本来、三層にて幅を利かせているその存在にとって、己の背中に人間が一人乗ろうともなんて事はない筈だ。

 

だが、今回ばかりは違ったらしい。

 

身を包む厚い甲冑に規格外の大剣。そんなほぼ鉄の塊に等しい存在が、数秒とはいえ垂直落下による加速を以って衝突してくるのだ。いくらアビスの生物が地上のものと比べて特殊とは言え、無傷で済むはずがない。

 

それを証明するかのように、脳天に大きな凹みを作ったベニクチナワは持ち合わせている獰猛さをどこかへ放り捨ててしまったかのように、ガッツを背に乗せたまま落下し始めた。

 

どうやら気絶したらしい。

 

「ヘッ、丁度いい。ちょいと足場に困ってた所だ。さて、そろそろ反撃と行こうじゃねェか!」

 

かの生物の大きな体は擬似的にパラシュートの役割となったようで、その落下速度は彼が隕石のように落ちた時よりも遥かにゆっくりであった。ただ、それでも一般的な探窟家の進行速度よりかはずっと速い。

 

そんな不安定極まりない足場の上で彼は左手にボウガンを取り付けると、口角と共にその矛先を空へと上げたのだった。

 

 

 

 

 

 

空を染める青色が殆ど地に落ちた頃、ガッツの乗るベニクチナワもとうとう地面へ激突する。その衝撃は彼にも平等に襲い掛かるが、肉厚で柔らかな足場のお陰で大部分は打ち消され、そこらの水場に吹っ飛ばされるだけで済んだ。

 

「ゲホッ! ゲホッ! またここか……嫌な思い出しかねェな」

 

咳き込みながらも立ち上がり、僅かに霞む目に映ったのはとんでもない湿気が支配する第四層の入り口、巨大な植物の群生地であった。

 

色々と世話になってしまった記憶が蘇るその場所を前に、彼はなんとも言えない表情のままため息を吐く。

 

「おい、パック! チッ、ダメか。完全にのびてやがる」

 

激しい動きにポーチの中は大惨事となっていたのだろう。呼びかけられた当人は同居人?の石ころの下敷きとなって、見事に目を回していた。

 

似たような地形だらけのこの場所で地図もナビも無しで進んでいくしか無さそうだ。

 

「……ッ! 来やがったか、ハリネズミ野郎」

 

チャポンと水面を叩く音。己以外が発するその足音に、ガッツは当然のように振り向きその剣を構える。

 

あまり戦いたくない面倒な相手であるそれは、赤い顔と白い棘を携えて不運にも向こう側からやって来てしまったようだ。

 

なお、この短期間に出会い過ぎなのは言うまでもない。

 

だが、不運の波はそれだけに収まらなかった。

 

「……ッ!? テメエも起きんのかよ……! このクジラ擬き……!」

 

意識を刈り取られた報復か、はたまた手頃な獲物だからか、目の前の存在を喰らわんとその赤く大きな体は起き上がる。

 

 

 

前門の虎、後門の狼。

 

 

 

いや、前門の針鼠、後門の鯨とでも言うべきか。

 

少なくとも、この脅威は"針鼠"と"鯨"というただの文字からでは到底理解出来ないことは確かであろう。

 

「悪りィが、こちとら先急いでるんだ。退かねェってんなら、テメエらで死体の山作ってでも進ませてもらうぜ!!」

 

そして、相対する者もまた、ただの"獲物"ではない事も同様に確かであった。

 

 

 

擦れば終わりの毒槍と人の体など簡単に噛み砕けるであろう大顎を前に、小さな小さな獲物の人間は己の身の丈ほどの大剣を両手で地面に突き刺した。

 

そして、大剣を盾代わりにして毒の針を受け止めつつ、義手である左手を後方から迫る大顎へとまっすぐ伸ばす。原生生物達はおろか、正常な思考を持つ探窟家でさえその意図を読み取る事は出来ないだろう。

 

 

 

口端から伸びる細い紐。

 

 

 

機械仕掛けの手首がガコンッと折れる。

 

 

 

人の道を外れた怪物。人間などとは比較にもならぬ超常の存在。そんな恐ろしい者共への足掻きの象徴の一つが、爆炎と鉄球を携えて唸りを上げた。

 

 

 

 

 

夜の闇に照らされた暗い世界が、ほんの一瞬だけ昼の世界に変わる。突然の轟音と同時に起きるその現象に野生の者共は驚愕する。そんな最中、爆風を全身で受けたタマウガチは不穏な意識を察知した。

 

だが、両足に力が篭るよりも速く、野生動物の回避行動よりも速く、その命は刈り取られる。

 

野生の本能を凌駕したそれは、力場を利用したトリックなどでは無い。もっと単純極まりなく、そして理解に苦しむものである。

 

 

 

 

 

地面から剣を抜く際に発生する反動、左腕に仕込まれた大砲の反動。それら全てを己の力で制御し、剣に乗せただけ。

 

ただ、それだけだった。

 

 

 

 

 

大砲の反動を利用した一撃で地に伏せた二体の獣を前に、ガッツの体は返り血に染まる。その目はまだ安堵に染まってはおらず、青い影が点々とする空へ向けられていた。

 

案の定、朝日が差し込むその瞬間まで剣が乾く事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地獄のような耐久戦を繰り広げ、ようやく向けた朝。凄惨と化した戦いの場を逃げるように去ったガッツ達は、一時休息の場としてナナチ達がいたあの拠点へと向かっていた。

 

だが、そこに良く知る姿は一つも無く、僅かに埃の被った家が一人寂しく立っていただけだった。

 

家主が不在ではあるが、この安全な施設を使わないという手はない。

 

「悪りィな、借りるぜ」

 

誰も返さぬ小さな呟きを吐きながら彼はその家の壁面にもたれ掛かり、そして気絶するかのようにその意識を手放したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、やっと起きたか!」

 

覚醒した意識に流されるように重たい瞼を開けたガッツ。そんな彼の眼前に広がるのは逆さに映る妖精の顔。

 

「どれぐらいだろ? とりあえず結構待ってたんだぞ! ほっぺた叩いても、髪の毛数本引っこ抜いても起きなかったから一体どうしたのかと」

 

「てめェそんな事してたのかよ……」

 

呆れ半分、気だるさ半分な気分のまま彼はスッと立ち上がる。右手が首に添えられており少し辛そうに見えるが、ここのところまともな睡眠も寝方も取っていない故仕方ないと言えよう。

 

「まあまあ、傷はあらかた何とかしといたからさ! それに比べれば可愛いってもんよ!」

 

「自分で言うな。まあ、傷に関しては助かった。ありがとな。この後も道案内頼むぜ? 生憎、ここから先はあんまり覚えてねェ」

 

「あいあいさー!!」

 

薄皮一枚と言った感じではあるが、痛々しく体に刻まれていた生傷の大半は一夜にして塞がった。旅の再開には申し分ない状態である。

 

身支度を手短に終え、食事は道中にいた背中にキノコの生えた豚のような生き物と元気の良い川魚で済ませた。焼いただけだが味は悪くなかったようだ。その証拠にパックは美味しそうに肉に齧り付いている。

 

だが、もう一方はそんな表情など浮かべず、ただただ胃に食物を押し込むように食事をしていたのだった。

 

 

 

 

 

腹を満たし、軽快な足取りで辿り着いたのは、ガッツが不運にもこのアビスに入り込んだ場所。深界五層の不気味な世界であった。

 

リコから貰っていた頑丈な鉤縄を失ったせいで、ここまで降りるのに非常に苦労したようだ。彼の額には幾つもの汗が滴っている。

 

「はあ〜! 休憩休憩!」

 

疲れた様子で地べたに寝っ転がる相棒の傍らで、土に汚れたナイフを綺麗に拭き取るガッツ。左手で握ることが不可能な者は、縄か何かで刃物を左手に固定してアンカー代わりにしなければ単身での垂直移動は厳しいものがある。この作業はそれ故のものだろう。

 

「よし、行くか。案内頼むぜ」

 

「ええ〜……もう行くの? もうちょっとぐらい休憩しても良いんじゃないの?」

 

「いや、このぐらいだったら問題ねェ。夜通しバケモンとやりあってるよりはマシさ」

 

「……比べる相手おかしくない?」

 

どうやらパックはもう暫く休む気満々だったようだが、その希望は手慣れた様子でナイフの掃除を終わらせたガッツによって打ち砕かれる。

 

残念ながら、主人と違ってこの黒い城は相当の事が無い限りへばったりなどしないのだ。そんな事実を突きつけられ、半ば呆れ顔の妖精を横目に彼はその足を動かし始めたのだった。

 

 

 

 

 

暫く歩き続けた後、先頭を飛ぶパックがその動きをピタリと止める。同様に足を止めたガッツの視線が、その背中へと向けられた。

 

「おい、どうしたパック?」

 

「あのさ、ガッツっていっちばん最初の洞穴の場所って覚えてる?」

 

「いや、覚えてねェ。ここら一帯似たような景色のせいで記憶が結構ごちゃ混ぜだ」

 

「だよね〜……」

 

何とも言い辛い様子を見せるパックに、彼も薄々と不穏な空気を感じ始めた。

 

「一体どうした?」

 

「えっとね、この……五層だっけ? ここに来るまではなんとか気配が辿れたんだけど、来てからはもうさっぱりってカンジ。だから取り敢えず、リコ達のやつを辿ってるんだ!」

 

「まあ、結構時間が経ってるからな仕方ねェさ。どのみち、こんな浅瀬じゃ無かった事は確かだ。一旦深いとこまで進むだけなら別にそれでも問題ねェだろ?」

 

「いや、うん……まあそうなんだけどさ。リコ達の気配が続いてる方向が……こっち……なんだよね」

 

何とも言えない表情と共に指差された方にあったのは、眼下に広がる奈落への入り口を橋のように跨ぐ氷の道であった。

 

もし、ただ単に氷の橋が架けられているだけなら、彼は二つ返事でこの道を進むことを決めるだろう。返答代わりに返された躊躇いの混じった沈黙が、それがただの道ではないことを嫌でも証明していた。

 

「おい、本当にここ通ったのか? お前の勘違いって訳じゃねェよな?」

 

「ホントだって! ぜーーーったいにリコ達はここ通ったよ!」

 

谷を跨ぐその道は氷で出来ているだけではなく、子供ですら一列にならなければ渡れない程に細かった。当然、ガッツにとってこの道は綱渡りと同義である。

 

氷の上を薄く覆う雪を一瞥すると、彼は覚悟を決めたかのように芯の通った声でもう一度答えを返す。

 

「なら、行くしかねえ。パッと見だが、足跡っぽいモンは残ってる。もしかすると近道なのかもな」

 

心のどこかで生まれた焦りが彼を危険な道へと誘った。片足だけ先に前に出し、ゆっくりと己の体重をかける。嬉しい事に氷の橋はミシリとも言わず、静かに彼の体重を受け止めた。

 

崩れない事に安堵しつつ、その歩みを進めていく。

 

 

 

しかし、足が滑る事もバランスを失う事もなく順調に進んでいき、ようやく半分という時にそれは起こった。

 

 

 

 

 

パキリッ!

 

 

 

 

 

凍った湖の一番脆い場所は中心部。同様の原理がこの氷の橋にも適用されたのかもしれない。又は、どこかの誰かさんの重量が子供数人分より遥かに重かったのかもしれない。

 

もはやどちらか思案する暇もないまま、ガッツは己の本能に任せて全力で走り出した。

 

後方から鳴り響く崩壊の音色。彼を追い越すように走る亀裂。流石の彼でもその額に冷や汗が流れる。

 

「やばいってガッツ! もっと速く走らないと落ちちゃうよ!」

 

「言われなくともわかってる!」

 

とてつもない装備をしているにも関わらず、その動きは凄まじく速い。きっと真夜中ならば誰かのすぐ隣を通ったとしても気付かない程だろう。だが、崩壊の速度はそれすらも大きく超えていた。

 

「が、が、ガッツ! 足元! 足元やばいよ!」

 

「チッ!!」

 

もはや彼が対岸に辿り着くまでその足場は保ってはくれないらしい。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、彼はヒビだらけの足場を大きく踏み込んで対岸に広がる大地へと大きく跳んだ。

 

だが、その距離は崖側に手を掛けるにはほんの僅かに足りなかった。

 

 

 

その最中、鳴り響いたのは悲鳴では無い。

 

 

 

バリバリという異様な歯噛みの音だった。

 

 

 

まるで、地面そのものを叩っ斬らんとするかのように背中の剣は振るわれる。落下を交えたその一撃は崖の岩肌を当然のように切り裂いて、剣身を見事に壁面に埋もれさせた。

 

そして、突き刺さって固定された剣に追い討ちのようにのしかかるガッツの重さ。並の剣どころか、頑丈なだんびらでさえ折れるであろうこの一連の流れ。しかし、常軌を逸する彼の剣は何事も無くそれを耐え抜いていた。

 

持ち主と同様に頑丈な剣を握ったまま、ガッツはホッと安堵の息を吐く。

 

その下では、アビスの闇が残念そうに氷の塊を食らっていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、巨大な何かに襲われたり、自然の脅威に晒されたりといった事はなく、不気味な程にすんなりと彼らは歩みを進めていった。

 

過去の己の足跡は消えた故、先駆者の歩んだ道のりを辿っていたのだが、それもとうとう打ち止めのようだ。やはり、アビスという自然の世界は移り変わりが激しく、彼らが道標としている気配を綺麗に消し去っているのかもしれない。

 

何の明かりも無いまま真夜中を彷徨い歩くかのように右往左往しているガッツ達。そんな彼らの元へちょっとした救いの手が差し出された。

 

「おや、貴方は……ここで再び会うとは思っていませんでしたよ」

 

「お! 仮面の人!」

 

眉間に皺を寄せたガッツの前に現れたのは、彼と同じように黒い装備を身に纏い、仮面のスリットから不穏な紫色の光を放つ人物。

 

そう、その者はまさしく彼らがこの世界に迷い込んだ際、初めて出会った人間だった。

 

「ふむ、"仮面の人"ですか。そんな呼び方をされたのは初めてですよ」

 

「そーなの? じゃ、なんて呼べばいい?」

 

「黎明卿、あるいはボンドルド。好きな方で呼んで頂いて構いませんよ」

 

「おっけー!」

 

パック達の居た元の世界の人間は下水を煮詰めたような性格の者が多い傾向がある故に、このボンドルドという男がとても真面目そうに思えた。

 

「もし良ければ、あなた方の名前を教えて頂いても良いでしょうか? このアビスの深淵で再び出会えたという事はかなり優秀な人材ですからね。名前ぐらいは知っておきたいのです」

 

「ゆ、優秀!? ほうほう、ボンとやらはオレ達の事がちゃんと分かってるじゃないか〜! オレ、パック! そんでもって、こっちはガッツ!」

 

「成程、ガッツとパックですか。覚えておきましょう。ところで、先程からかなり無口ですがどうされましたか?」

 

何故か全く喋らなくなったガッツに向けて、ボンドルドが呼びかける。黙る彼の右目は半ば睨んでいるに等しい状態であるが、その圧を仮面の彼は平然と受け流していた。

 

「いや、なんでもねェ。ここの呪いやらなんやらでちょいと疲れてただけだ。気ぃ使わせて悪かったな」

 

「これはこれは失礼しました。そんな状態だとは気づきませんでしたよ」

 

嘘か真か分からぬその返しを素直に受け取ったのか、ボンドルドは丁寧な口調で己の非を詫びた。

 

悪意など感じず、ただひたすらに敬意の篭ったその態度は誰が見ても非の打ち所など無いと言える。だが、何故かガッツだけは不穏な何かを感じているのか、その警戒を解く事はなかった。

 

そんな事露知らず、パックは呑気に彼らの苦労を部外者のように話し始める。

 

「いや〜アビスの呪いだか上昇負荷だかでホント大変そうだよなぁ。いきなりぶっ倒れたり、出血大サービスしたりさ〜」

 

「ええ、厄介ですよね。アレ。私もなんとかする良い方法が無いか常に探していますよ。今私がここにいるのも、役に立つ可能性がある遺物を回収する為ですからね」

 

「へえ〜。ま、オレにはあんまり関係無いけどね! だってこのパック様には上昇負荷は効かないからな!」

 

「……ほう? それは本当ですか?」

 

歩いていた足を止め、スリットから漏れる光がパックへと向けられる。そして、その声色はまるで興味を持つ子供のように好奇心に溢れていた。

 

「そうそう、ガッツがへばってた時もぜーんぜん平気だったからな!」

 

いつの間にか額に"無敵!!"と書かれたパックがボンドルドの頭の上で決めポーズをする中、仮面の中の彼は突然感激したような震えた声で感謝の言葉を述べた。

 

「ああ……!! 本当に感謝しますよガッツ。きっと、あなたが居なければ私はパックという存在に出会える事はありませんでした。

 

"奈落の至宝"である彼とはまた違い、生身の身体と平常な人間性が残っているにも関わらず上昇負荷を受けない。そんな存在がいるとは驚きでしたよ。

 

 

是非とも、その体……

 

 

 

 

 

 

"欲しい"

 

 

 

 

 

一人の男の第六感がドス黒い何かを告げた瞬間、一匹の妖精の輝きはアビスのように深い黒色に飲み込まれた。まるで、蜘蛛の巣に絡まった蝶のようにその身には黒く得体の知れない何かが絡み付く。

 

「おわっ!? な、なんだコレ!? う……うーごーけーなーいー!!!」

 

「これは、"月に触れる(ファーカレス)"。少し癖がありますが便利な遺物です。相当な力を掛けても千切れないですからね。そうそう、あまり暴れない方が良いですよ。どこかぶつけて怪我などしたら大変です。」

 

己で乱暴に動きを封じておきながら、優しさのこもった手でパックの頭を撫でるボンドルド。チグハグすぎる態度と行動は見る者全員を唖然とさせる事だろう。

 

 

 

「おい」

 

 

 

ドスの効いた呼びかけと同時に、パックを掴むボンドルドの左腕は肩から肘を残して元の体に別れを告げる。分かたれた腕はパックを握ったままクルクルと空中で回り、地面に広がる雪へと落ちていった。

 

「おお……! 素晴らしいですね。今まで様々な探窟家を見てきましたが、剣をここまで素早く振るったのは貴方が初めてですよ」

 

目の前にいるにも関わらず、反応すら出来ないその剣速。それが、ただの剣ではなく大きすぎる大剣で行われている事に、ボンドルドはただただ感激していた。

 

だが、腕を失って痛がる素振りも見せず、何事も無かったかのような振る舞いは彼をより一層不気味に見せたようだ。

 

「……っ!? なんだコイツ!? 腕落とされて平然としてやがる……! 本当に人間かよ」

 

人は痛みという刺激に対して反射的に行動を起こすものだ。足の小指をぶつけるだけでも、飛び上がったり、一瞬体が硬直するのだ。腕一本ならどうなるかなど言うまでもない。

 

しかし、ガッツの目の前に広がる現実はそうではなかった。それ故に、その意識は驚愕に支配され、隙が生まれてしまう。

 

「ええ、私は今でも人間ですよ」

 

左腕から滴る血を抑えようともしないまま、ボンドルドの右肘がスッとガッツへ向けられる。

 

生じた隙を突かれたその行動。だが、"ただ肘を向けるだけ"という不可解さに己の本能が警鐘を鳴らす。

 

恐らく何か来るのだと直感した彼は分厚い鉄の塊の背後へ身を隠し、反撃の時を待った。

 

 

 

 

 

だが、それが悪手だと知ったのは全てが終わった後だった。

 

 

 

 

 

鉄塊越しに放たれる光、満を持して放たれる全てを殺す横薙ぎ。

 

 

 

何故か力が入らず、その剣は胴体ではなく仮面へと逸れ、ただただ大きな爪痕を残して終わる。

 

 

 

雪にボタボタと粘性のある液体が滴り落ち、大地の白いキャンパスが赤一色に染まりゆく。

 

 

 

だが、その絵の具は相手のものではない。そんな大きな違和感に誘われるかのように、彼の視線はゆっくりと己の腹部へと向いた。

 

腹部の右側。丁度、脇腹に近い辺り。本来なら、甲冑に覆われている筈のその場所に空く細長い穴。

 

 

 

まるで、剣の刺し傷のような形をしたその穴は真っ赤な命の液体をドクドクと涙のように流していた。

 

 

 

「がっ……!? バカな……! なにを……しやがった……!?」

 

自覚した痛みは洪水のように彼の意識へと流れ込む。歯を食いしばり脂汗を滲ませながら何も答えぬ狂人へ刃を向け続けていたが、とうとうその右膝を地につけてしまう。

 

そして、あっという間に剣を杖代わりにしなくてはならない程に彼の体は言うことを聞かなくなっていた。

 

「おやおや、随分と苦しそうですね。楽にして差し上げましょうか?」

 

「ハァ……! ハァ……! ハァ……! クソッ……!」

 

本人にとって完全な善意での発言に返されたのは言葉ではなく、根性だけで放たれた横薙ぎの剣だった。

 

「おっと、心配無用でしたか。では、私は先に失礼しますよ。ああ、安心して下さい。パックを連れてきてくれた礼もありますからね。身体が残っていれば埋葬ぐらいはしてあげますよ」

 

「ガハァ……! て……てめェ……!!」

 

手負いの獣の怖さを知っているのか、ボンドルドはガッツにそれ以上近付く事はなく、背を向けてゆっくりと歩き出す。そして、もう冷たくなった左手に握られたパックを丁寧に回収すると、優しさの籠った声で呼びかけた。

 

「さて、パック。一緒に行きましょう。きっと、貴方はこのアビスを解明する鍵となります。楽しみですね」

 

「え? え? ちょ、ちょっと待ってよ! ガッツは? ガッツはどうしたの!?」

 

頭から雪に突っ込んでいたからか、パックは未だにこの状況を掴めていない。だが、図らずとも親切な彼が気を効かせ、この小さな妖精の心を虐げる。

 

「おっと、忘れていました。パック、今のうちに彼にお別れを言った方が良いですよ」

 

当然、彼に自覚も悪気もない。ただただ、最期の別れを勧めているだけに過ぎなかった。

 

「が、ガッツ……?」

 

見開かれた目に絶望が浮かぶ。辛うじて倒れずにいる己の相棒の凄惨な状況は、パックを錯乱させるには十分すぎた。

 

「ああくそー! はーなーせー!! 早く治さないとガッツが……!!」

 

「さて、さようなら。ガッツ。またいつか会えると良いですね」

 

 

 

「………じゃ……ェ」

 

 

 

暴れるパックを掴みながら、去っていく背中。

 

 

 

「ふ………ん……じゃねェ」

 

 

 

仲間を失った"あの時"がふと脳裏に蘇る。

 

 

 

「ふざけんじゃねェ!!!!」

 

 

 

記憶の中の悪夢が起こした微かな火花は、挫けぬ彼の精神に引火する。

 

傷ついた臓腑が送る痛みを忘れ、怒号と共に彼は飛び出した。もはや、重傷を負った者とは思えない力強いその踏み込みは、探究に狂う者ですらその芯に冷たいものが走る。

 

だが、ガッツにつきまとう運命は残酷だった。

 

バキリと嫌な音を立てる足元。踏み込んだ軸足がスルリと地面の奥へと抜け落ちる。雪に隠されたこの場所は土や岩で固まっている訳ではなく、巨大な氷の上だったようだ。きっと、甲冑も重すぎる剣も持たぬただの探窟家なら特に問題は無かっただろう。

 

万全な状態で耐えられぬ重量に欠けた身でどうにかなる筈も無く、バキバキと音を立ててガッツの足元は崩れ落ちていく。

 

抗う間も無くクレバスへ落ちていく黒い剣士の行く末を仮面越しの瞳が冷たく静かに見下ろしていた。

 

どうなっているか分からぬ奥底の闇が同じような黒き存在を歓迎するのを皮切りに、頭上で見下ろすその仮面は興味を失ったかのように背を向けて何処かへと消え去った。

 

 

 

怒りか、絶望か、奪われた痛みか。そんな煮えたぎるドス黒い感情に見開かれた目の片隅に、ドラゴンころしがチラリと映り込む。

 

 

 

そこには甲冑と同様の細長い穴がいつの間にか空いていたのだった。

 

 

 

 

 



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幽鬼

 

「だー!!! くっそー! ここから出せ!!」

 

ポコポコとガラスの壁を叩く小さな影。まるで子供が駄々をこねるかのようにも見えるその様子に微笑みを孕む言葉が掛けられる。

 

「おやおや、パックは元気ですね。普通なら"アレ"をした後は皆、大人しくなるんですよ」

 

「絶対おとなしくなんてしてやんないからな! べーっだ!」

 

まるでエレベーターのように吊るされたガラスの容器の中で舌を見せて煽り散らかすパック。だが、それでボンドルドの感情が揺らぐ事は無く、ただただ優しげな言葉を返されるだけだった。

 

「こんなもの、こうしてやる!!」

 

パックは助走をつけてガラス壁へ渾身の蹴りを放つ。当然、割れるどころか傷の一つも入らないそれはコツンと小さな音を立てるだけ。

 

しかし、無しに等しい被害に対し、当人の足へのダメージは尋常では無かったようだ。

 

「ぎゃあああぁぁぁ!!! 足が折れたー!!」

 

右足を抱えてコロコロと地面を転がる哀れな姿。きっと彼を知るものがここに居れば、もれなく何とも言えない呆れた視線が注がれた事だろう。

 

だが、ほぼ初対面の者にとってはその限りではないらしい。

 

「それは喜ばしく無いですね。ほら、足を見せて下さい」

 

その大げさな反応を真に受けたボンドルドはパックの身を案ずるかのようにそのガラスの実験器具の鍵を開けてから、怪我した足を見せるように言った。

 

「チャーンスっ!!!」

 

"掛かったな間抜けめ!"とでも言わんばかりのしてやったりな表情を浮かべながら、パックはボンドルドの手を掻い潜り、その脇下を抜けてこの無機質な独房から逃げ出した。

 

「おっと、そういう事ですか。パックはやんちゃですね」

 

足を痛めたというチンケな嘘に欺かれた彼は怒りを含まぬ穏やかな声でイタズラ小僧の無事を喜んだ。

 

だが、おいそれと逃すつもりは甚だ無いらしくその右手は真っ直ぐとパックへと向いていた。

 

「"月へ触れる(ファーカレス)"」

 

「ふべっ!?」

 

パックのしなやかな足に絡みつく黒く粘ついた糸。ボンドルドの手首へと続くそれに見事に捕まって逆さ吊りとなったその姿は、まるで脱獄を企てて刑を受ける罪人のようだ。

 

「そういえば、貴方のためにプレゼントを用意したんですよ。きっと、ピッタリなはずです」

 

彼の手がパックの透き通る羽へと伸びる。抵抗する間もなく、その羽は蝶を捕まえる時のように畳まれて何かがそっと被せられた。

 

肝心の当人が違和感で狼狽えていると、足へ絡みついていた物が静かに取れる。好機と思うのも束の間、その体は地面へとポトリと落ちた。

 

「いてっ!? あ、あれ? なんで??」

 

飛べなくなった体に違和感を感じ体を探る。当然、元より裸のようなものなので探る場所など無い。そんな彼の傍に誰かさんが静かに手鏡を差し出す。

 

「うわっ! なんだコレ!?」

 

そこに映ったのは、羽に緑色の服を着せられた己の姿。恐らく、羽を保護しつつ厄介な飛行能力を奪う為だろう。その証明かのように、小さな留め具は丁度彼の背中の真ん中に位置している為、自力では脱げない構造だ。

 

「気に入ってくれましたか?」

 

「は、はかったな!」

 

「謀った? 何のことでしょうか? とにかく、良く似合ってますよ」

 

「な、なんで……? こういう時は大体悪意マシマシな筈なのに……!?」

 

パックだけが感じ取れる他者の感情。ガッツもリコも、人では無くなったナナチや機械のレグも、皆それぞれ色々な感情が混じり合っているものだ。相当な事が無い限り、それが一色に染まる事は無い。

 

だが、目の前の男は"不気味な程に善意に満ちていた"。疑惑や好奇、驚きの感情は多少なりとも混ざっているが、そこに悪意は一欠片も入っていない。

 

 

 

それは正しく、狂気であった。

 

 

 

そんな、狂える程に純粋な善意にパックの空は奪われた。

 

 

 

ボンドルドの狂気に人知れず気付いてしまい硬直する哀れな妖精。しかし、その感情を狂人は理解する事はない。

 

「ああ、すみませんね。飛べなくなってしまった事を忘れていました」

 

色々とズレた発言と共にグローブをつけた手が差し出される。きっと、乗れという事なのだろう。

 

この状態では逃げても捕まる事は明白だ。だが、脱走未遂が起きた以上この先外へ出られる可能性は更に低くなる。

 

何とかなる術がないか苦い顔で考えるパック。彼にとってその様子はまるで、不機嫌な子供のように見えたのだろう。

 

「大丈夫ですよパック、次はちゃんと飛べるように作ってあげますから」

 

必死の思考も虚しく、その小さな身はもう片方の手で持ち上げられ半ば強引に手のひらへと置かれてしまう。

 

無慈悲にも神は逃げ道など与えなかったようだ。

 

ガラスの容器ではなく、大きめの鳥籠のような金網で作られた牢獄に否応なしに捕らわれた小さき囚人は不機嫌そうに閉まった籠の入り口を蹴飛ばしたのだった。

 

「そう怒らないでください。このアビスを往く者達にとって貴方は重要な存在です。その鱗粉が良い例でしょう」

 

「なーにが重要な存在だ! ただの傷薬がケガ以外に役立つ事なんてないだろ! 結局、おれを捕まえて実験したいだけじゃないか!」

 

シピタパと駄々をこねるパックへの返答は思ったよりも真面目なものだった。

 

「そんな事はありません。貴方のお陰で痛みに苦しむ子供達を救う事が出来るのですから」

 

「こども?」

 

「そうです。貴方もご存知でしょうが、アビスは子供達にとって過酷な場所です。体の一部を切り落とさねばならない事も多々あります」

 

優しげでも悲しげでもない真剣な声調で語ったその言葉にパックはリコ達との会話を思い出す。

 

ガッツらも通ってきた四層に潜む、凶悪極まりないあの生物。掠るだけでも患部がりんごのように腫れ上がる毒。そんな毒をリコはまともに食らったらしい。

 

結果的に見ればほぼ五体満足のままであったが、毒を受けてしまった時はリコは己の手を切り捨てる気でいた。

 

つまり、同様の事がここでも起こりうるのだろう。少なくともパックはそう思った。

 

「麻酔も無いままそんな事をするのは子供達にとって酷です。ですが、ここにある薬品だけでは痛覚を完全に取る事は出来ません。緩和するのが精々と言ったところでしょう」

 

「え〜っと……つまり?」

 

「貴方の体から採取できる鱗粉は先ほど言った薬品と併用する事でその痛みをゼロに出来るんですよ。お陰で子供達に痛い思いをさせずに済みます」

 

ボンドルドは軽く会釈すると、パックが中に入っている籠を持ってどこかへと歩き始める。

 

「パック、貴方には私の娘と同じ部屋で過ごして貰います。今、珍しい客人が来てるので丁度良い部屋が無いんです。仲良くして下さいね」

 

「え゛っ!? お、おまえの娘!?」

 

「どうかしましたか?」

 

狼狽えるパックの事などお構いなしに、一人の父親は娘の部屋にある背の低い机に鳥籠ならぬ妖精籠をゆっくりと置いた。

 

「やばいって……! 何されるか分かったもんじゃないって……!!」

 

まるで紙芝居のように表情がコロコロ変わる。子は親に似るという言葉があるが、もしそれが本当だったらどうなるか。そんな事でも考えているのだろう。

 

「では、また後で」

 

青ざめたその表情など気にも留めず、ボンドルドは娘の部屋から出ていった。

 

そして、扉越しにパタパタという軽めの足音と聞き覚えのない声が響き、閉じたそのドアは何者かによって開かれる。

 

「あっ! あなたがパパがさっき言ってた妖精ね! わたし、プルシュカって言うの! よろしくね!」

 

 

 

パックの予想に反し、あの者の娘であるプルシュカは案外まともで素直な子であった。

 

 

 

 

 

 

時は疲れ果てた探窟家達が寝静まる頃。一人の少年の痛みと叫びがこの前線基地を掻き乱す。

 

慌しく廊下を駆ける幾つもの足音。

 

動いた体が空気を求める激しい呼吸。

 

その影の正体は、リコ達御一行とボンドルドの娘のプルシュカであった。だが、全員が元気に走っている訳ではない。一番頑丈な筈のレグだけがナナチに背負われたままグッタリしていた。

 

「あれ! あの船で基地の外に出られる!」

 

走る一行の目がプルシュカの指差した先に向く。

 

恐らく、大人が二人程乗れば満員となるであろう小さな船。だが、彼女らは子供故の軽さを活かしてリコ、レグ、ナナチの三人でその船へと乗り込んだ。

 

「ありがとうプルシュカ! また後でね!」

 

「うん、じゃあねリコ! パパには……上手く説明しとくから!」

 

プルシュカにとってこの前線基地は家であり、ボンドルドは父である。たとえ父の常軌を逸脱した行動を見てもなお、簡単に離れる気などないのだろう。

 

リコ達は彼女と別れを告げると、追手が来ないうちに急いで基地から脱出した。

 

 

 

基地周辺にある堀を超え、雪ではなく異様な匂いのする砂が広がる場所に辿り着いた彼女達。取り敢えず逃げる事に成功した安堵で息をつく中、ただ一人だけナナチは悔やむように言葉を吐く。

 

「くそっ! オイラとした事が迂闊だった! まさかヤツら、いきなりこんなやり方するなんて!」

 

「僕もだ。寝ていたとはいえ、腕を落とされる寸前まで気が付かなかった……」

 

レグはポツリと呟きながら、先の無い右腕をただぼんやりと見つめる。己の不注意の戒めと言わんばかりに切り落とされた右手は、未だ基地の中にあるままだ。

 

「レグ、右手は大丈夫なの?」

 

「あ、ああ……何故かは分からないが、もう全く痛く無いんだ。それどころか、誰かに触られてるような感じがする……!」

 

彼の機械の腕は切り離されてなお感覚が生きているらしい。よく分からぬ何かにさすられるような感覚に襲われたレグは思わず身震いした。

 

 

 

ちなみに、同時刻。ボンドルドの研究室にて布に覆われた何かの上で暇そうに動き回るパックの姿があったそうだが、それを彼らが知る由もないだろう。

 

 

 

そうして、死に至る状態で無いことを各々が確認し終えた後、ただ一人ナナチだけ安堵のない真剣な趣で立ち上がった。

 

「リコ、レグ。疲れてる所悪いが聞いてくれ。ボンドルドの野郎は必ずここまで追ってくる。何とかして迎え撃つ策を考えなきゃいけねえ!」

 

追跡されないように道を選び、足跡も最小限にした。それでもなお、"必ず"と言い張るナナチに二人は疑問に溢れた表情を浮かべた。

 

「ナナチ、教えてくれ! 必ず追ってくるとはどう言う事だ!?」

 

「それ、私も聞きたい」

 

まるで身を乗り出すような勢いでの問いにナナチは一瞬気圧されたが、すぐさま調子を取り戻すと己の考えを伝えた。

 

「細かい説明は省くが、どうやらアイツにはオイラが目で見てるものを覗けるみたいなんだ。その光景からアイツはおおよその位置を割り出して追ってくる。さっき言ったのはそういう事だ」

 

普通ならば受け入れられぬ程に突拍子も無い言葉だが、遺物という存在を良く知る二人は何の疑問も抱く事なくナナチの言葉を受け入れた。

 

「じゃあ、どうするんだ? 迎え撃とうにも情報が筒抜けではかなり不利だ……!」

 

「全部が全部筒抜けってワケじゃねえ。アイツの反応からして、どうやら音は向こうに伝わらねえみたいだ」

 

「そっか! じゃあ、ナナチが見てるものと関係ない作戦を立てれば問題ないってことだよね!」

 

「そういうこった!」

 

遺物か何かの力でナナチの見るビジョンは全て筒抜け。だが、音に準ずる空気の振動はその対象には入ってはいないようだ。つまり、声は向こうに聞こえてはいない。

 

そんな、些細ではあるが大きなアドバンテージを生かし、その視界に映る代物とは関係の無い作戦が立てられていく。そうして出来上がったのは、子供達が作り上げたとは思えない殺意の籠った作戦だった。

 

「よし、じゃあ早速ヤツらの巣まで行くとしようぜ!」

 

「先にゲロ狼煙しとかないとね」

 

「げ、ゲロ狼煙……!?」

 

とても嫌な予感がするそのフレーズに顔を青く染めるレグ。だが、そんな彼の意思とは裏腹にその準備はテキパキと進められていった。

 

 

 

 

 

全ての準備を終え、辿り着いたのはナナチの言っていた例の"巣"である。まるで骨の様な物体を使って作り上げられた隙間だらけなドーム状のそれは、何も知らぬ者達の興味を惹きつける事だろう。

 

だが、それは死への直滑降である。

 

地面に半ば埋まる様にして転がる骨の欠片や辺りに撒き散らされたドス黒い血の跡が、それを嫌と言うほど示していた。

 

明らかに死の香りがするこの場所に表情を歪めるレグ。しかし、そんな彼を横目に肝の据わった二人は呑気に話をし始める。

 

「すげえな、運のいいヤツだぜ」

 

「でも結構傷付いてる感じがする……」

 

「死んでねえだけマシだろ」

 

「ま、待ってくれ! い、一体何の話をしているんだ……?」

 

溜め息混じりにナナチは地面を指差すと、まるで彼の恐怖心を煽るかの様に説明し始めた。

 

「さっき言ってた原生生物の話だ。ヤツら、とんでもねえ毒を尻尾に持ってやがって、それがチクリとでも刺されば全身の肉がドロドロに溶けちまうのさ。今歩いてる地面の砂も、もしかすると溶けた後の人間かもな?」

 

「えっ……? えっ……!?」

 

レグの視線がそっと地面を見据える。細かい砂の一粒一粒が先ほど言っていた元人間だとしたら……

 

何だか地面の模様が人の顔に見えてきたので、レグは頭をブンブンと振って考えるのをやめた。

 

当然、その顔は青ざめている。

 

「それで、オイラ達は今そんなヤバいヤツらの真上のいる」

 

「〜〜〜っ!!?」

 

「レグだめ! 静かにしてないとカッショウガシラが起きちゃう」

 

リコが咄嗟にレグの口元を押さえたおかげで、彼の驚愕の叫びが解き放たれる事はなく、静かに彼自身の口の中へと戻っていった。

 

"カッショウガシラ"

 

リコが口に出したその名は、今まさに彼らの真下に潜んでいるであろう生物の名である。

 

その縄張りはまるで吐瀉物に似た香りがするそうで、その匂いを身に纏っていなければ先ほどナナチが言っていた通りの結末を迎える事だろう。

だが、裏を返せば匂いを纏うだけである程度の襲撃は免れると言う事。リコ達が今襲われないのもその習性のお陰という事だ。

 

レグが落ち着いた所でナナチは地面に付着したドス黒い跡を指差した。

 

「この血の跡よく見てみろ。この巣のそこらじゅうにあるが、一つだけ外へ逃げおおせてるのがある。どれだけの傷かはわからねえが、溶かされてねえってのは確かだな」

 

「な、なるほど……」

 

ナナチの言う通りとある血痕だけ外へ続いている。かなり出血している様にも見えるが、中の惨状と比べれば可愛いものだ。

 

巣の中の地面や壁面に付いた夥しい血の跡、恐らくは三人あるいはそれ以上の人数が犠牲になったのだろう。

 

その中で生き残った一人と考えれば確かに運がいいのかもしれない。

 

「よし、そしたらここでアイツらを待ち構える! 準備を進めてくれ、オイラはとりあえず地面でも見ながらこの後の事を考えとく」

 

「わかった!」

 

「了解した!」

 

眠る者達を起こさぬ様に静かに行動を始める二人。多少強めに足を踏み込んだとしても、元々の体重も軽い彼女達では彼らを起こす道理はなく、至って問題なく下準備は進んでいく。

 

だが、まるで誰もいないかの様な不気味な静けさに疑問を抱く者は誰一人としていなかった。

 

 

 

 

 

 

「おやおや、こんな所に居ましたか」

 

カッショウガシラのコロニーの奥。ぐったりとするレグを抱えたナナチが静かに佇むそこに、やってくる多数の影。

 

全員合わせて十人という所だろうか。それ程の人数がナナチの退路を断つかの如く、この空間に並んでいた。

 

彼らが全員巣の中に入った事を確認すると、ナナチは大声で合図をする。

 

「リコ! 今だ!」

 

そして、意識がないフリをしていたレグが左手を天井へと伸ばす。それと殆ど同時に周囲へ響く爆発音。

 

屋根へと登っていく二人を見ている暇など与えない連続したこの行動。あっという間に、ボンドルド含めた祈手の者達はナナチの退路を塞ぐどころか、天井から降り注ぐ瓦礫に己の退路を塞がれた。

 

「よし! 上出来だ!」

 

自らを引き上げたレグ、屋根で母親の形見の特殊なつるはしを抱えたリコ、その二人に礼を言うと、その視線は眼下の者共へと迎えられる。

 

 

 

しかし、期待に満ち溢れたその表情は裏切られる事となる。

 

 

 

強烈な目覚ましにお怒りの原生生物が地面の中から針を突き出す。という事など無く。出てきたのは欠けたハサミと切られた尻尾を携えた弱りに弱った個体たった一匹だけだったのだ。

 

「んなあっ!? この巣、死にかけだったのかよ!?」

 

悪態を吐くナナチの前でその最後の一匹はボンドルドの放った一筋の光に呆気なくその命を散らした。

 

原生生物の力を借り、相手の数を減らす。そして、こちらの数的不利を排除した上で、生き残るであろうボンドルドへ逆に数的不利を押し付ける。彼女達が考えたそんな作戦は、突然の進路変更を強いられた。

 

だが、それを可能にする時間と人手は彼女達にあるはずも無い。

 

彼らが巣の入り口を塞ぐ瓦礫を退かしている隙に、三人はとにかく距離を取った。そして、手頃な地面の段差を見つけると、迷う暇も無く滑り込む。

 

取り敢えず、見渡すだけでは見つからない場所へ隠れる事は出来たが、ここがバレるのも時間の問題である。

 

「マズいな……まさか肝心の巣がああなってるなんてよ。ボンドルドの野郎、もしかしてこれを知ってて来やがったのか!?」

 

「そしたら僕が囮に……!」

 

「ダメ! ここじゃナナチも私も簡単には逃げられない。それに、向こうのほうが数が多いから離れたら囲まれてすぐ捕まっちゃう」

 

周りには背の高い物はおろか、視界を遮る物も殆どない。レグの力を以てしてもこの状況下で片腕では、自分が逃げるのがやっとだろう。ナナチとリコをここから逃すなど夢のまた夢である。

 

段々と迫る足音。

 

早くなる鼓動。

 

そうして、作戦など何一つ思い浮かばないまま彼らは再び互いの顔を拝む事となる。

 

「入り口を塞ぎ、原生生物に襲わせる。己より強い相手に対しての行動としては、とても素晴らしかったです。ですが、あと一歩詰めが甘かったですね」

 

「……!? ボンドルド……!」

 

ナナチの悔しげな呟きと同時にボンドルド達はその足を止めた。そして、逃がさんと言わんばかりに祈手の者達を散らし、完全にリコ達を包囲した。

 

「なあ、お願いだボンドルド。オイラ、お前のところに戻るからさ。リコとレグには手を出さないでやってくれねえか……?」

 

「「ナナチっ!?」」

 

「残念ですが、それは無理なお願いですね。奈落の至宝を前に"触るな"とは探窟家にとって残酷な一言ですよ。ナナチ」

 

ナナチの自己犠牲の命乞いも虚しく、ボンドルドはゆっくりとナナチとレグに近づいていく。きっと、二人とも殺されはしないだろう。だが、何の変哲もないただの少女に限ってはその保証などどこにも無い。

 

 

 

 

 

そんな最中、一人の祈手のこめかみに音もなく矢が突き刺さった。

 

 

 

 

鈍い音を立てて地面へと崩れ落ちる体。そうして開けた人と人の隙間から、リコ達はその正体を垣間見た。

 

風に揺れる黒い外套。その中からチラリチラリと姿を見せる、ドス黒い血で汚れた甲冑。それから滴れただけなのか、それとも今も痛みと共に流れ出しているのか、赤い雫が落ちた跡が歩んだ道のりを辿るように地面に刻まれていた。

 

そして、病人のような顔色が揺れる外套の隙間から映った時、大木のような右手は背中の大剣を天へ掲げる。

 

 

 

その姿は、正しく幽鬼であった。

 

 

 

 




カッショウガシラのコロニー
ナナチ達がボンドルドを罠に掛ける為に赴いた場所。だが、本来なら大量の原生生物が出てくるはずが、命の尽きかけた矮小な個体しか出てこなかった。



それもそのはず、彼らは喧嘩を売ったのだ。



一匹の手負いの狼に。






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