誠実な矢矧 (Гарри)
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01.「誠実な矢矧」

 その軽巡艦娘「矢矧(やはぎ)」を一言で表すなら、と訊ねられれば、彼女の率いる艦隊員や、鎮守府で彼女を知る人であれば、誰もが「誠実」と言っただろう。そこに皮肉を含むこともあれば、純粋な人格的称賛としてそう言われることもあっただろうが、しかし、どちらにせよ、彼女がその職務のみならず、私生活においてさえも非常に実直で、道徳的だったことを疑う余地はなかった。彼女の所属する鎮守府で、もし当事者間では解決できない揉め事があれば、ほぼ必ずそれは矢矧の下に持ち込まれた。彼女は公平な裁定を下すと広く信頼されていて、たとえ当事者の一方が自分に不利な判断をされても、矢矧がそう言うなら仕方ない、きっとそれが正しいのだろう、と諦めがつけられたからである。

 

 単純に判決を下すことができなくても、矢矧は当事者たちと一緒になって、親身になって悩むような艦娘だった。その姿を見せられる内に、初めは妥協など到底考えられないと思っていた二者が、訴えを取り下げたり、和解したり、示談しようという気になったりするので、また人々は矢矧への信用をますます強めるのだった。矢矧本人としては、幼少期に親から教えられた道徳的観念に従い、自分が正しいと思ったことをするようにしているだけで、特別なことは何一つしていないのだったが、彼女のそういう考えは、謙虚さの現れとして捉えられた。

 

 時には彼女の誠実さを利用してやろうとする者もあったが、強い意志のこもった矢矧の目と対峙して、それでもそう考え続けていられる者は少なかったし、矢矧も誠実なだけの間抜けという訳ではなかった。彼女は優秀な艦娘であり、優秀な艦娘が誰でもそうであるように、その場その場を切り抜ける能力に長けていた。戦友たちは、きっと矢矧が海軍で一番名誉のある艦娘になるに違いないと噂して、そうなるまでに掛かる日数を賭けの対象にしては盛り上がった。

 

 その評判や彼女の輝かしい未来を一挙に崩したのが、ある中規模作戦における出撃の際の出来事だった。この時、彼女と彼女の艦隊は、本来の提督とは違う人物に指揮されていた。作戦の半ばというところで作戦拠点だったタウイタウイ泊地が深海棲艦による逆撃を受け、指揮系統が大いに混乱していた為である。その“違う人物”は無能ではなかったが、混乱の中で正確に指揮できるほど優秀ではなかった。彼は長距離砲撃による別艦隊の支援を矢矧たちに命じたのだが、射線上に位置する島を考慮に入れていなかった。無論、仰角を取って砲撃すれば、島を越えての砲撃支援は可能である。水上機による観測支援もあったから、精度もある程度は確保できた。

 

 問題はその仰角と、島に存在する施設だった。その島には近隣諸島で最も大きな病院があり、矢矧たちのいる場所から支援砲撃に適切な仰角を取った場合、狙いを逸れた砲弾が病院をかすめる、もしくはより悪い場合、直撃する可能性があった。これを避ける為には、時間を掛けて迂回し、射線をクリアにするか、もしくは島に接近して仰角をより大きく取って発砲しなければならなかった。しかしその時、指揮を執っていた男は、ただちに支援砲撃を始めるように指示したのである。支援対象の艦隊が非常に危険な状態にあり、迂回や接近をしている間に彼女たちの壊滅が発生すれば、元も子もないというのがその理由だった。

 

 しかし深海棲艦の攻撃が完全な奇襲であったことにより、近隣住民の避難は全く進んでおらず、それはその病院のある島でも同様であった。矢矧にはとてもではないが、病院とそこにいる医師、看護師、患者を殺傷しかねない危険な砲撃は行えなかった。ただでさえ、当時の彼女たちは正規の提督の指揮によって動いているのではなかったから、それも余計に矢矧に躊躇させた。彼女は頑として臨時指揮官の命令を跳ね除けた。軍法会議や、それ抜きでの抗命による処刑をちらつかされても、決して意見を変えることはなかった。だが、彼女の二番艦以下となると、これは別だった。射撃中止を叫ぶ矢矧を無視して、彼女たちは砲撃支援を開始し、継続し──残念なことに、矢矧の懸念は当たってしまった。

 

 この中規模作戦終了後に作成された公的な記録では、病院への被害は深海棲艦の砲撃によるものとされている。また、矢矧の艦隊へは、支援対象の艦隊とその提督から、感状が送られている。少なくとも、砲撃支援は一つの艦隊とそこに所属する艦娘を救ったのである。しかしながらその対価は、患者たちが避難できる準備が整うまで、病院を離れることを拒否した勇敢な医療関係者と、彼らが守ろうとした患者たちの命だった。誰かが、その責任を取らなければならなかった。矢矧はそれに打ってつけだった。

 

 軍法会議に掛けられた彼女の、表向きの罪状は抗命のみだったが、海軍の上層部や病院に対する戦争被害調査委員会に向けては、彼女が強引に艦隊員の射撃を中止させようとして、相手の体に触れたことで狙いが狂い、病院に着弾したという虚偽の報告が上げられていた。矢矧は誠実さを武器に戦った。堂々と、胸を張って。それが相手にいかなる感銘を与えたかは不明である。が、最終的に、彼女には有罪判決が下った。だが多くの予想に反し、言い渡されたのは絞首刑ではなかった。単なる転属である。

 

 言うまでもなく、それは単なる転属ではなかった。それは、懲罰部隊への転属だった。最低限の装備と危険な任務を与えられ、生還を期待されない、処刑こそできないが、この世から永遠に消えて欲しいと思われている艦娘たちが、最後に行きつく場所だった。そこに集められた艦娘たちは、矢矧の事情を知れば馬鹿にして笑った。彼女の責任感、誠実さ、彼女が任務を通して貫こうとした人類防衛という大きな使命、矢矧自身にそこまで大きな考えはなくとも、彼女がしようとしたあらゆることが、懲罰艦隊の艦娘たちにとってはいい笑いの種だった。一番の新入りはどんな艦隊でも、そういった手荒い出迎えを受けるものだ。矢矧の新しい居場所では、それが他の何処よりも過酷で、手厳しいというだけのことだった。

 

 自分が世界の何処にいるかも教えられず、基地内で軟禁状態に置かれ、自由な外出など夢物語という環境下で、矢矧の美徳は格好の攻撃対象になった。彼女も実戦を数多く経験した艦娘である。やられてばかりではなかったが、外に深海棲艦という敵がいる時、内にも敵がいては、消耗は避けられなかった。それも、本来は戦友として絶対の味方である艦娘が敵になるのでは、避け得ない致命的な敗北を、矢矧には遅延させ続けることしかできなった。

 

 そんな中、ほぼ日常となった、先任艦娘たちとの(いさか)いが、予想外に白熱したことがあった。矢矧は怪我をさせられた。ちょっとした切り傷や擦り傷であればそれまでにも何度となく負っていたが、その時の怪我はもっと大きなもので、彼女の肋骨は折れてしまっていた。その後、ことが済んでから悠々と現れた憲兵と、憲兵付艦娘に護送されて、矢矧は医務室へと連行された。そこで、負傷に対する修復材の使用の可否を軍医に判断させる為であった。

 

 この怪我はどうしたんだね、と軍医は訊ねた。医療従事者らしい、相手への思いやりが感じられる、柔らかな口調だった。矢矧は嘘を言わなかった。殴られました、と答えた。眉をひそめた軍医が、犯人は誰なのか訊く。でも傷ついた艦娘は、口を閉ざして答えなかった。憲兵や憲兵付の艦娘がきちんとした治療の確約と引き換えに、口を割らせようとしたが、状況は変わらなかった。矢矧は忍耐強く、沈黙を守った。医者は根負けして、これだけは教えてくれ、と言うのが精一杯だった。「どうして犯人を庇う? 密告への報復を恐れているのか?」矢矧は微笑んで言った。「海に出れば、彼女は優れた艦娘ですから。私の肋骨と引き換えにするのが惜しくなるほどの、ね」軍医は困ったような顔になったが、追加の質問はしなかった。憲兵たちに向かって、彼女の治療をするから出ていけ、と有無を言わせない口調で命じただけだった。

 

 ごく微量の修復材による治療を受けた後、矢矧はまた憲兵たちに連れられて、元の場所へと戻された。そして、日常が再び始まった。不十分な装備で、信頼できない艦隊員と共に出撃し、命からがら生き延びて帰り、薄い肉粥やパンの配給食を食べて、自分と同じくへとへとの艦隊員たちと同室で、錆びた鉄製の寝台に寝転がる。矢矧は執念深く、生き残り続けた。一度などは艦隊からはぐれてしまい、弾切れの状態で海上に一人きりになってしまったが、無事に帰投した。脱走しようとしたんじゃないかと言いがかりをつけられ、独房に入れられても、食事を抜かれても、歯を食いしばって耐えた。気づけば彼女は、懲罰艦隊でも古株の艦娘になっていた。新しく転属させられてきた艦娘はみんな、矢矧を頼った。彼女が他の古兵と違い、穏健で公正、誠実だったからである。

 

 そうなると、部隊内での統制が問題になった。矢矧にその気はなかったのだが、彼女を慕う者たちは、かつて矢矧の肋骨を折った艦娘とその一派に対して、かなりはっきりとした対抗の姿勢を見せていた。このままでは、艦隊内で内戦が起きるのも時間の問題だと見なした艦隊上層部は、矢矧を出撃部隊から故意に外すように仕向け、代わりに軍医の下で彼の手伝いをさせるようにした。出撃をしないことにより、矢矧の影響力を削ろうとする他、これには別の目的もあった。彼女の処分である。もし、医薬品の横流しであったり、意図的に治療の妨害をしたとあらば、それを口実として即座に処断する手筈だったのだ。

 

 ところが、これは矢矧の誠実さを計算に入れていない策謀であったから、完全な成功とは行かなかった。確かに新入りの艦娘が彼女に傾倒することはなくなったが、負傷したのがどの艦娘であれ、人間であれ、可能な限り公正に扱い、非の打ちどころのない態度で職務に臨んだものだから、今度は古参艦娘たちの一部が彼女を認め始めたのだ。長らくこの懲罰部隊で権力者の座にあった艦娘は、ますます矢矧への敵意を強める結果となってしまい、泥沼の内戦は避けられぬものと見えた。

 

 そこに現れたのが、艦隊上層部、つまり提督との橋渡し役を務める、軽巡艦娘「大淀(おおよど)」だった。ただの人間である提督が危害を加えられたり、人質に取られるなどといったことが起こらぬよう、大淀は本土にいる正規の提督の代わりに基地へと赴任し、実務のほとんどを取り仕切り、実質的な懲罰部隊の司令官として振舞っていた。彼女はまた、懲罰部隊に所属する艦娘の中でほぼ唯一の「有罪でない」艦娘であり、矢矧や他の者たちと違って、自由に外を歩くこともできたし、この基地の場所を世界地図上で指し示すことだってできた。

 

 大淀はここに至って、矢矧の余りにもひたむきな実直さと誠実さを聞き及び、部隊運営の臨時手伝いとして軍医の下から引き抜いたのであるが、それで矢矧の生活が大きく変わることはなかった。個室だけは与えられたが、相変わらず寝台は錆びていたし、食事にも変わりはなかった。出撃せずに冷暖房の効いた部屋で書類仕事をするのは一種の特権だが、大淀がそれを意図していたかどうかは別として、常時監視されつつの仕事は、矢矧をして精神的に容易いものではなかった。

 

 それに、これまで彼女が見た中で、大淀は最も打ち解けられない人物だった。顔色は常に悪く、目つきは懲罰艦隊に相応しいもので、表情は抜け落ちたかのよう。鉄の塊と喋った方がまだ、相手から人間味を感じられるかもしれない、と矢矧が思ったほどである。たまに何がしかの義務みたいに、職務に関係が薄く、時に突拍子もない雑談をぽつりぽつりとしたが、それ以外では作業上の必要性がなければ、口を開くことがなかった。

 

 だがそれにもかかわらず、矢矧は奇妙にも、彼女と過ごすのが段々と好きになっていった。大淀が、彼女自身の立てた労働計画に頑固なまでに忠実で、どれだけ好調に仕事をさばいていても、定期的に小休憩を取るところだとか、その時には必ず飴を一粒口に含み、それが溶け切るまで口の中で転がすところ、その飴を当然のように臨時秘書もどきにも渡してくるところが、矢矧の気に入っていた。この仕事が臨時でなく続けられればいいな、と彼女はよく考えた。目に入る書類はどれも彼女個人にとって大したことのないものだったから、気兼ねなくそう思うことができた。

 

 けれども、一つ二つ季節を越えて、そろそろ寒くなってきた、と大淀が例の途切れ途切れの雑談の際に漏らした頃、大規模作戦が始まった。懲罰艦隊の任務は飛躍的に増え、その危険度も跳ね上がった。この頃には大淀一人では増え続ける書類の山をさばき切れなくなっており、限定的ながら矢矧に書類の処理を任せていた。当然ながら大淀名義での署名、大淀の判を使っての処理だったが、それを実際に記入捺印するのは矢矧だったのである。時折、大淀は立場に伴う義務としてか、矢矧の仕事を確認し直し、不正や歪曲のないことを確かめては、文句のないことを示す為に、機械的に頷くのだった。

 

 数日に一度、矢矧はその中で特に懲罰艦隊の艦娘に“紙”と呼ばれる書類を処理しなければならなかった。それはごく少数での偵察任務を命じるもので、多くとも三隻、少なければ単独で敵支配領域の深くまで侵入することを求められた。生きて帰ってこられる者は少なく、生き延びても十分に情報を持ち帰れなかった場合は、敵前逃亡扱いされるか、次の偵察任務にも参加させられるかだった。この忌み嫌われる命令書が現れた際、それを伝達するのは矢矧の仕事だった。これは大淀に押し付けられたのではなく、彼女の執務室で矢矧が一人になる訳にはいかないと、矢矧本人から意見したからだった。

 

 彼女の評判は、あっという間に悪化した。艦娘たちは大淀を死神と呼んで忌み嫌い、矢矧のことは死神の鎌と蔑んで恐れた。そうでなければ、どうにか自分への“紙”を誤魔化してくれと泣きついてくる者もいたが、矢矧は沈痛な表情でそれを断り、彼女自身で意味などないと分かっている謝罪を口にするだけだった。やがて、彼女にすがる者はいなくなった。食堂に行けば、彼女の席の周りには誰も近寄らず、ぽっかりと空白地帯が出来上がった。以前に矢矧の肋骨を折れるほど殴りつけたあの艦娘さえ、今や彼女が復讐の為に書類を操作するのではないかと怯え、死神の鎌に触れられることのないように、身を縮こまらせて隠れていた。

 

 矢矧はそれにすっかり失望しつつも、彼女たちが勝手に追い詰められるのも哀れに思った。それで、いつも執務室で食事をする大淀に、食堂外での食事と同席の許可を貰えないか訊ねてみれば、あっさりと許しが出て、それからは二人は昼と夕とを共にするようになった。大淀は相変わらず無口だったが、矢矧としてはそちらの方がずっと食事相手として好感の持てる態度だった。

 

 大規模作戦の終わりが近いという通達が来た翌々日も、二人は共に仕事をし、一休みしては飴を舐め、仕事をし、食事を取り、雑談とも呼べない二言三言の会話を交え、仕事をし、夜までを過ごした。作戦の開始に伴って増加傾向にあった書類も、終了間際とあってか減り始めており、もう何日かすれば、矢矧は書類の処理をしなくても大淀だけで間に合うようになりそうだった。いつものように休憩の時間になり、二人は手を止めて、儀式的に飴の受け渡しを行った。口の中に放り込み、無言で転がす。この時間は休憩時間なので、ぼんやりと物思いに(ふけ)るもよし、軽くまぶたを閉じて目を休めるもよし、楽にすることができた。“紙”も暫く前から見ていなかったので、矢矧は上機嫌と言ってもよかった。

 

 が、大淀が一枚の書類を手に取って眺めているのを見つけて、彼女は意外に思った。これまでには見なかった行動だ。以前、矢矧が休憩時間中に書類へ目を通しておこうとすると、無視し得ない重みのある口調で、大淀は言ったものだった。「休憩中は、休んでください」その彼女が、書類を読んでいる。同じことを言ったらどんな反応をするだろうと思って、臨時秘書が口を開こうとしたところで、大淀が先に言った。「矢矧さん。あなたの認識番号は、なんでしたか?」面食らって、矢矧はまばたきをした。重ねて、大淀は慇懃な口調で言った。「認識番号です。お忘れでなければ」もちろん、彼女は覚えていた。つっかえそうになりながら、それを伝える。急な質問だったが、脈絡のない雑談や問い掛けには、大淀と過ごす内に慣れてしまっていた。

 

 ふうん、と感慨もなさげに息を漏らすと、提督代理の軽巡艦娘は独り言のように呟いた。「部隊の運営が最優先だということは、あなたもお分かりかと思います。よろしいですか」矢矧はそれが自分への言葉だと気づくのに遅れて、聞き流すところだった。理解を放棄して首を縦に振る。大淀は彼女が臨時にその地位につけた秘書艦もどきの顔をじっと見つめて、頷いた。「結構です。私たちには、しなければいけないことが、まだ沢山ある……」そして、持っていた書類をひょい、とシュレッダーに放り込んだ。耳障りな音を立てて、それは紙屑になっていく。その音が止まって、会話ができるようになった時には、大淀はもういつもの、閉じた本のような調子だった。彼女は言った。「さあ、仕事をしましょう」

 

 その後、色々なことがあった。戦争が終わるまでには何度も大規模作戦があったし、中小規模の作戦にも多く関わった。それらの中で、矢矧を殴って肋骨を折った艦娘は轟沈した。彼女の仲間だった艦娘も、同じ作戦か、別の作戦で轟沈した。矢矧が懲罰艦隊に入る前にいた艦隊も、終戦を迎えることなく壊滅したと、彼女は後で聞く機会があった。誰もが沈んだ。大淀も終戦前の最後の作戦に召集され、そこで沈んだと彼女の後任から知らされた。だが矢矧は生きていた。戦争の中でも、戦争が終わっても、彼女は生き延びた。海軍は渋々、普通の艦娘たちが終戦後にそうしたように、彼女を名誉除隊させた。恩給も出る。就職か就学かの選択肢もある。矢矧が貫き通した彼女なりの誠実さは、彼女の人生を救ったのだ。

 

 時々、矢矧はあの夜の大淀の姿を思い浮かべる。あの時、大淀がシュレッダーに掛けた書類が何だったのか、彼女は知らない。しかし、それが自分への“紙”だったのだと、彼女は信じている。そして思い出す。その時の大淀が、どんな風に矢矧の目を見つめてきたか。疲れ、やつれて、凍りついた表情で、その目に浮かべた決意の光が、どのように死の闇を打ち払ってくれたのか。



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02.「勇気ある者」

 私*1が戦争時代、艦娘訓練所を出て最初に配属されたのは、パラオ泊地だった。元艦娘、あるいは現役艦娘ならその地理的な情報も、風土についても訓練所で叩き込まれてよくよくお分かりのことだろうが、そういったことに全く触れてこなかった方の為に、ここではごくごく基本的な点を二、三ほど記述しておきたい。パラオ泊地はフィリピン南部で恐らく最も有名な都市、ダバオから千キロほど東にある、パラオ共和国に設置された日本海軍の軍事拠点である。戦争時代には、日本に限らず深海棲艦と戦う有力な国家の多くが、こういった海外拠点を有していた。その中の一部は未だに稼働しているが、大半は終戦と共に役目を終え、今は記念碑が残るばかり、という地も少なくない。

 

 パラオ共和国は太平洋、ミクロネシア地域に位置しており、三八六個の島から構成されている。内、実際に人が住んでいるのは六つ*2の島に限られ、人口は戦中から大きく回復した現代でも、一万人を少し超える程度である。国民の気風として余り農業を好むところではなく、食糧生産に難のあったこの国では、戦中もしばしば食糧難が発生した。その度に、私や他の艦娘たちは配給任務を与えられ、炊き出しなどを行ったものだ。

 

 しかし、日本三軍とて、いつでもそういう助けの手を伸ばす余裕がある訳ではなかった。特に深海棲艦によるパラオ泊地の包囲が行われた際には、私たちさえ飢え死にしかねないところまで追いつめられたのだ。包囲それ自体は異常なものではなく、定期的に行われるもので、その度に空軍による輸送と、トラック泊地*3、タウイタウイ泊地*4からの援軍を受けて、包囲網を破壊、離脱する深海棲艦たちを追撃するというのが、ある種のルーチンと言ってもよかった。ただその時は、天気が悪かったのである。

 

 パラオの気候は、熱帯雨林気候に分類される。一年は雨季と乾季に分かれるが、スコールなどもあって年間を通して雨量は多く、特に七月と十月に晴れた空を見るのは中々ないことだ。でも日本と違って台風は少ない。その少ない台風が、ゆっくりと、包囲下の七月にやってきた。気象学者たちがそれにどういう理屈をつけたかは知らない。けれど事実として、それはそうなったのだ。困ったのは我々だった。空軍が輸送任務を中止しようとしたからだ。確かに、空輸には良好な天候が不可欠である。雨や風が着陸も離陸も著しく困難なものにするのは、空母艦娘としてよく分かっていたから、空軍がパラオへの空輸を厭ったのも頷けた。だが、食料の輸送がなければ立ち行かないのも、目に見えた話だった。

 

 海軍はかなり粘り強く空軍を説得したらしい。泊地一つ丸々干上がるかもしれないとなれば、上層部も必死になれたのだろう。それで輸送が来ることになったのだが、これが(かえ)って事態を悪化させた。パラオへの着陸はうまく行ったが、離陸に失敗して墜落したのである。空軍は完全に態度を硬化させてしまい、自分たちで飛べると判断できるまで、これ以上は絶対に空輸しないと決めた。強引にでも海上輸送を行う計画も立てられたが、海は台風で大荒れしており、船は出せても艦娘を展開できなかった。艦娘なしでの海上輸送など、包囲している深海棲艦に餌をやるようなものだ。結局はこれも放棄され、パラオの日本軍と現地住民はあるものでやっていくことを余儀なくされた。

 

 私たちは歯噛みして悔しがった。嵐が影響を及ぼすのは何も、艦娘に対してだけではない。艦娘にとってのライバルとも呼べる、人型の深海棲艦たちにもその悪影響は降り注いでいたのだ。包囲網は駆逐イ級など、荒波による転覆の恐れが少ないが、戦力的には弱小の深海棲艦たちによって成されていた。彼我の戦力差だけを見れば、包囲網突破の好機だった。事実、何度か出撃が試みられている。結果は惨憺(さんたん)たるものだった。三回の出撃で交戦はゼロ、行方不明が一。どの艦隊も狂ったように叩きつけてくる風雨と波を越えられず、帰ってくるしかなかった。

 

 それでも私たちが耐えられたのは、永遠などないという事実を知っていたからだった。台風が動くのをやめることはない。もう数日も待てば、いつもの雨季と変わらなくなる。波は鎮まり、深海棲艦も増強されるだろうが、人生は都合よく行かない時もあると、艦娘たちは一人残らずわきまえていた。そして、私たちの考えは正しかった。台風は去った。風は収まった。雨は、まあ、マシになった。で、深海棲艦の大攻勢が始まった。

 

 幸いなのは、それが東南アジアから遠く離れた場所*5で起こったことで、パラオに向けてのものではなかったということだ。もし我々への大攻勢だったなら、タウイタウイやトラックからの援軍も間に合わなかっただろう。が、不幸なのは、この大攻勢で海軍も空軍も大わらわになってしまい、パラオ泊地への支援が滞ってしまった点だった。空輸は再開されなかったし、輸送船も来なかった。包囲網はまだ健在だった。援軍に来てくれる筈の両泊地からは、大攻勢に対抗する為としてかなりの戦力が抽出された。一方でパラオ泊地に来た命令は、待機だった。正確には、包囲網に加わっている深海棲艦たちをその場に釘づけにしておけという内容だったが、意味するところは大差ない。私たちは食料もなく、単独で包囲網を打ち破る力もなく、そこにいることしかできなかった。

 

 泊地司令官がその命令に必ずしも忠実でなかったのは、配下にとっての僥倖(ぎょうこう)だった。彼は泊地と、泊地が保護する現地住民たちの存続を第一に考えた。深海棲艦が攻めてくるなら反撃しなければならないが、そうでないなら好きなだけ囲ませておけ、と割り切って考えたのだろう。艦娘たちの毎日の出撃は最低限の哨戒を除いて免除されることになり、その代わりに短期に収穫できる作物の農作業や、野山での食料調達が課せられるようになった。私は日本海軍の正規空母艦娘として弓の心得があったので、鍛錬用の弓と矢を持って出かけては、山で鳥を射っていた。私のいた艦隊で旗艦だった重巡艦娘「古鷹(ふるたか)」は野草図鑑を片手に、山菜を調達してきた。艦隊員の重巡「那智(なち)」と戦艦「長門(ながと)」は、なんと川に行ってイリエワニを仕留めた。何でも、生餌代わりに川へ入った那智に襲い掛かったワニを、長門は一発で殴り倒したとか……。

 

 当時のパラオの人口は今の半分ほどだったことや、状況が状況であるが故に、パラオに駐屯する陸軍との協力体制をすんなりと築けたことで、私たちはどうにか日々を過ごせていた。それでも食事は一日に二回になり、その量もかなり不満のあるものになった。だが雨のお陰で水だけは潤沢にあったので、この時は野菜くずや骨を煮込んだ薄いスープで腹を一杯に満たして、誤魔化すことができた。

 

 他に私たちを慰めてくれたのは、戦友たちとの会話だった。普段は出撃もあって、中々じっくりと腰を据えて話をするのが難しい相手でも、夜間哨戒を割り当てられていなければ、夜の食堂でたっぷり話し込むことができた。私たちは実に沢山のトピックについて語り合った。家族自慢や戦歴自慢、今までに沈めた一番大物の深海棲艦。行った外国、そこで見たもの、聞いたもの、食べたもの。イタリア遠征経験のある艦娘はジェラートの話をしようとして、口に水差しを突っ込まれて止められていた。みんな普通の食事以上に、甘味に飢えていたからである。

 

 会話はよく、議論になった。パラオで三年過ごすのと、ショートランド泊地*6で一年過ごすのでは、どちらがより受け入れられるか? 深海棲艦の中でもその強力さから別格とされ、鬼級・姫級と呼ばれる類の連中と一対一でやり合うのと、通常の深海棲艦の一隊と単独で交戦するのでは、どちらが勝ちの目があるか? 戦艦と空母、自分が艦種を変更できるならどちらにするべきか? 犬と猫のどちらがペットとして適切か?*7 この泊地で最も勇敢なのは誰か?

 

 最後の議論はいつまでも結論が出なかった。ほとんどの艦娘はこの議題を話す時、「まあ私が一番なんだけれども、それを除くなら」というような前置き抜きには話せなかったし、それを聞いて反論もせず冷静に話ができる艦娘は更に少なかった。でもある時、これについて珍しくきちんと話ができていることがあった。食堂の長机に並んで座った艦娘たちは、神妙な態度で考えを巡らせていた。そこに酔っ払った私の艦隊の那智がやってきた。何処に隠していたものやら、空腹にアルコールを流し込んだ彼女は、見るからに正気ではなかった。「貴様ら」と彼女は座っている私を特に指さして喚いた。「加賀の右に座っている貴様ら全員クソったれだ」十把一からげの侮辱は、行儀の悪い艦娘たちからしても、褒められた行為ではなかったが、那智は意に介さなかった。「それで、左に座ってる貴様ら、貴様らは腰抜けだ」

 

 私のすぐ左には、長門が座っていた。恐れることなくワニを一撃で殴り倒した長門である。彼女はわざとらしく服を整えると、立ち上がってゆっくりと酔っ払いの戦友に言った。「私は、自分が腰抜けだとは思わないな」傍にいた何人かの艦娘も頷いた。彼女が誰よりも勇敢だという意見に反対する者はいただろうが、彼女が勇敢だということに反対する者はいなかった。「そうか?」那智は好戦的で危険な笑みを浮かべた。「ならとっとと加賀の右に行ったらどうだ、このクソったれ!」その言葉を皮切りとして、誰がこの泊地で最も勇敢かを決めようとする集まりは、誰の腕っぷしがこの場で最も強いかを決めようとする集まりになってしまった。本来の議論に曲がりなりにも答えが出るには、もう暫くの時間を必要とすることになる。

 

 欧州での深海棲艦との戦いは、長く続いた。まず日本海軍が向こうまで行くのにかなり掛かった。防衛戦力の足しにする為の先遣隊は空路での移動だったが、本隊は海路を用いて、道中の深海棲艦を蹴散らしながらの進攻となったからである。そうすることで、欧州方面にいる深海棲艦たちが、日本海軍本隊側に誘引されることを期待しての海上強行軍だった。これは成功したのだけれども、その分、彼女たちの足は遅くなり、欧州での深海棲艦の攻勢を本格的に頓挫させるのは遅れてしまった。まあ、後からならば何とでも言えるので、所詮は一艦娘でしかなかった私から、この判断に対してあれこれと文句をつけるのはやめておこう。

 

 でもパラオ泊地で私たちが飢えたことについては、何を言っても言い足りない。私たちの食料調達は懸命なものだった。陸軍だって協力してくれた。彼らが貯め込んでいた糧食は、私たちが包囲されている間、大いに助けになった。戦中戦後と色々な経験をしてきたが、あの頃、腹を空かせた艦娘と腹を空かせた陸軍の兵士が、肩を並べて畑を耕したり、野に分け入って食べられるものを探したことは、今でもよく覚えている。それでも食料は十分でなかった。パラオには数千人の民間人がいて、彼らも彼らで食事を必要としていた。山で現地民の男と鉢合わせ、収穫を巡ってあわや乱闘になり掛けたこともある。彼は私たちがパラオの人間から盗んでいると主張したが、その山は公有の土地であり、日本軍はそこで必要に応じて食料調達をする権利を、既に公式に与えられていた。男は渋々引き下がったが、彼の意見が彼だけの意見だと考える艦娘は少なかった。

 

 こういった食料に関するトラブルが、現地人たちに対してのみならず日本人同士、艦娘同士などでも頻発した為、泊地司令官は手を打たなければならなかった。彼が取った方策は、今回の状況における治安維持を専門に扱う役職の臨時的な設置だった。あくまで臨時であり、常設ではないとすることによって、その役職には大きな権限が与えられたのである。そのポストに納まったのが、パラオ泊地にいた、ある海軍中佐殿だった。

 

 彼の前職についてはよく知らない。私とは別の艦隊にいたが、仲の良かった駆逐艦娘「時雨(しぐれ)」に聞いた話では、泊地全体の備品を管理する部門を統括していたそうだが、そんなところから治安維持任務に抜擢される訳もなさそうなので、多分これは時雨の冗談かでっち上げだろうと思う。しかし何であれ、中佐はよく働いた。その仕事ぶりは見事と言ってよかった。彼と彼の部下は、食料が公平かつ公正に配分されるよう、いつも目を光らせていた。たとえば山に食料調達に出かけた艦娘は、大抵の場合、提出する分の獲物とは別に、自分や自分の仲間の為に手元に残しておく分を持っていた。中佐はそれを許さず、隠してもいつの間にかバレていて、厳しい罰や、営倉処分を受けるという具合だった。

 

 中佐はもしかしたら、艦娘たちをできるだけ営倉に入れておきたかったのかもしれない。そうすれば、中に入っている連中には、少なめの配給で済むからだ。そう思いたくなるくらい、彼は営倉処分を乱発した。口論をした? 営倉で頭を冷やせ。服装規定違反? 好きなだけ好きな恰好をしていろ、ただし営倉で。無許可離隊だって? 食料調達中にトイレに入りたくなったから? おやまあ、最後に営倉にも入ってみたらどうかね! 飢餓が迫っているという状況でなければ、誰かが声を上げていたろうが、その時は誰にも彼のことを止められなかった。止める元気もなかった。

 

 食事は一日一回になっていた。その一回の量も、前より減っていたと思う。中佐はどんどん過激になっていった。彼自身も空腹に苛まれていたのだろう。こんなに早く食料がなくなるのはおかしい、誰かが私腹を肥やしている、というのが彼の言い分だった。それを暴き出してやる、と彼は息巻いた。その日から、私たち艦娘や、それ以外の陸軍を含む軍人たちは、中佐殿の突然の訪問を恐れなければならなくなった。彼は何の兆候もなしに現れ、部屋を荒らし回り、隠し持っている食料を探した。ある艦娘の部屋で、彼はチョコレートを二つ見つけた。二箱じゃない。二つだ。親指くらいのサイズのチョコが、二つ。ビニールの包装紙に包まれた、一個十円で買えそうなやつだ。

 

 私はたまたま、そこにいた。見たまえ、と彼は私にわざわざそれを見せつけた。これは何だと思う、と。チョコレートだと私が答えると、彼はいきり立って、違う、と断言した。これは風紀の乱れだ。これは治安の乱れだ。海軍への、国家への反逆の証拠だ。彼があんまり大真面目にそう言ったので、私は吹き出すところだった。この話を聞いた、また別の艦娘が言ったことを覚えている。子供のおやつで国家への反逆になるなんて、()()()な話だ。笑えない冗談だが、しかしもっともな意見だった。みんな、いつか中佐が何かやらかすんじゃないかと噂をした。那智のところに、深海棲艦に食べられる部位はないのかと訊ねに来た後で、その危惧は最高潮に達し、艦娘たちの士気は最低に落ち込んだ。それが更に、中佐を暴走させたのだった。

 

 危惧は正しかった。彼は()()()()た。中佐は一人の艦娘を絞首台で処刑することを発表し、一罰百戒とせんが為に、それを公開で行うと通達したのだ。その艦娘は包囲される直前にこの泊地に着任した、訓練所を出たばかりの新兵だった。彼女は食糧庫の歩哨を任されており、その任務を立派に務めていた。居眠り一つせずだ。だから、彼女の前を無警戒なネズミが通り過ぎた時、彼女はそれを自分へのご褒美か何かだと思った。彼女はネズミを苦しみ多き現世から解放してやり、考えられる限りの殺菌と疾病予防策を講じてから、ネズミを食べた。中佐はそれをどうやってか嗅ぎつけた挙句、泊地全体で分かち合うべき食料を私的に消費した、として極刑に処することにしたのだ。さしもの彼も、そこまでの権限はなかったのだが、何故かこの命令は通ってしまった。

 

 絞首台はパラオ泊地の運動場に組み立てられ、犠牲者を待っていた。艦娘たちは刑場と化したその場に予め集められ、今回の処刑がどういった事情で行われることになったのかを、中佐殿じきじきに教えられた。聞きながら、私たちは俯いていた。空腹が、私たちから考える力を、立ち向かう力を奪っていた。その場にいた者の中で元気なのは、中佐だけだった。その彼だってげっそりと痩せて、腰のベルトなんかは限界まで引き締めてあった。彼が命令を下すと、頭に布袋を被せられた艦娘が、ライフルを携えた憲兵に連行されてきた。その後ろには、軍属の清掃員が続いていた。処刑が済んだ後で、彼の仕事をさせる為に。

 

 顔が見えなくても、これから処刑される彼女から立ち上る絶望の気配は、明確に感じ取れた。それを止めるには、一歩前に出て、憲兵と中佐殿に向かって、失せろと一言ばかり言ってやるだけでよかった。それだけのことが、私にはできなかった。艦娘は促されるまま、全てを諦めたように、絞首台に上がった。中佐は手ずから縄を彼女の首に掛け、二歩退くと、刑を執行せよ、と命令を発した。そうすれば、脇に控えた憲兵が絞首台のレバーを引き、死刑囚の足場がぱかりと開いて、彼女を死の落下に誘う筈だった。しかしその憲兵は、命令を聞いてもレバーを引けないでいた。中佐は居心地悪そうに、命令を繰り返した。憲兵は動かなかった。誰も動かなかった。しん、とその場が静まった。

 

 私の耳に、えへ、と笑い声が聞こえた。それは処刑台に立たされたままの、艦娘の笑い声だった。恐怖に引きつった、死を前にして反射的に出たような笑い。中佐は激怒した。彼は拳銃を腰から引き抜くと、警告も抜きにレバー担当の憲兵に向かって発砲した。弾丸は彼の腰に命中し、血を巻き散らして、彼は絞首台から地面へと転がり落ちた。誰もが唖然とする中、中佐殿は叫んだ。よろしい、出来ないというなら、自分がやるだけだ。そして彼は、肩を怒らせ、大股の足取りでレバーのところまで行き、そこでふと絞首台の下に目をやった。彼が連れてきた清掃員が、地面に倒れた憲兵のライフルを構え、彼に狙いをつけていた。

 

 中佐は即死だった。その後、清掃員は長い溜息を吐き、ライフルを地面に投げ捨てた。銃声を聞きつけた泊地の副司令官が武装した憲兵隊と共に来て、撃たれた憲兵を医務室へ、そして清掃員の彼を泊地の監獄に連れていく時、処刑される筈だった艦娘の艦隊員たちは、ただの人間、しかも軍人ですらないにもかかわらず、仲間を救ってくれた男を、守るように付き従った。「見たか?」中佐の遺体も、撃たれた憲兵も、名も知れぬあの清掃員もいなくなった後で、那智が言った。

 

「あれがここで一番勇気のあるやつだ」

 

 空輸は二日後に再開された。

*1
つまり、この本の著者である私、かつて空母艦娘「加賀」だった私のこと。読者の皆様にはこの場を借りてご挨拶申し上げる。

*2
記録によれば、戦前までは九つだったらしい。

*3
パラオ泊地から東に約二千キロ離れた最前線の泊地。当時の噂では、僻地すぎて訓練と出撃以外にやることがないので、所属艦娘は変態的な練度を誇ると言われていた。筆者の経験から言うと、これは概ね正しい。

*4
パラオ泊地から西に千六百キロ離れた泊地。フィリピンやインドネシアに近く、パラオやトラックの艦娘の転属希望先リストの二位常連だった。なお、一位は「本土なら何処でもいい」。

*5
この時の深海棲艦に狙われたのは欧州だった。日本海軍の本来の活動範囲ではなかったが、欧州諸国家の想定を超えた規模の攻撃であり、重要拠点や海上交通路の喪失を防ぐ為に、はるばるアジアから強行軍で駆けつけることになった。

*6
パラオ泊地から南東に三千キロほどの距離にある、ソロモン海に浮かぶショートランド諸島に設置された泊地。五百キロほど北にはラバウル基地が存在する。トラック泊地よりは地理的に恵まれているが、最前線なのは同じ。

*7
犬。



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03.「風が止む時」

 青森県、大湊警備府のある提督の下に、一人の駆逐艦娘がいた。艦娘としての名前を舞風(まいかぜ)と言い、彼女は第二艦隊の二番艦*1として深海棲艦との戦争を長く戦っていた。その戦歴は、同一の提督を上官と仰ぐ他の艦娘たちと、家族のように仲良くなるのに十分なほどの長さだった。元来人見知りせず、明るい気風の彼女が誰かと打ち解けるのは、友人たちが、彼女たち自身のことながら驚くほど速かった。

 

 中でも、舞風と同じく第二艦隊に配属されている駆逐艦娘「野分(のわき)」との友好は、極めて深いものであった。二人は何でも一緒にやった。出撃や訓練はもちろんのこと、休暇を取る時は必ず片方がもう片方に合わせ、前回の休みで舞風の要望通りの場所に赴いたなら、その次の休みには野分が何処に行くかを決めて、二人でそこに出かけていくのだった。彼女たちは、これは仲良くなる前からそうだったのだが、部屋も共にしていた。口さがない戦友たちは、寝る時だって同衾していそうだ、と二人をからかい、野分は毅然としたものだったが、舞風はしばしば赤面した。実はそれが当たらずといえども遠からずで、たまに何とはなしにそういう流れになった時は、彼女はいそいそと親友の使うベッドの端っこに潜り込んでいたからである。

 

 戦場においても彼女たちの友情は、連携力の向上という形でよくよく作用した。二人とも一端の駆逐艦娘と見られるだけの力はあったが、組めばそれが二倍にも三倍にもなった。舞風が引けば野分が進み、野分が避ければ舞風が切り込んだ。艦隊の仲間たちから二人の内のどちらがより優れているかと聞かれれば、彼女たちは必ず自分でない方の名前を挙げた。そういう具合で余りに二人が互いを高く見積もり合ってらちが明かないので、とうとう提督が手ずから幾つかの項目に分けた能力テストを作り、彼女たち一人ずつに受けさせてみることになった。結果は意外なもので、舞風は戦場で発揮するものと近しい、高いパフォーマンスを見せたが、野分は精彩を欠き、その得点は振るわなかった。

 

 より詳細な分析の結果、野分が舞風との連携を前提としてその能力を向上させているのでは、という疑問が提起され、これは提督にとってだけでなく、当の本人たちの悩みにもなった。心情的には今まで通りにしていたかったが、戦争の中では突然その願いが叶わなくなりうることを、彼女たちは理解していた。そんな時に、舞風がいないからという理由で野分が彼女の能力をきちんと発揮できなかったら、轟沈する可能性だってある。それは舞風には到底受け入れられるものではなかった。最終的に二人は、少なくとも野分の単独での能力が一定の水準を満たすまでは、別々の艦隊で戦うことにした。提督も似た考えを持っていたので、この配置換えの陳情は難なく受け入れられた。

 

 二人が共に過ごす時間は著しく減った。舞風は第二艦隊にそのまま残ったが、野分の異動先は夜間任務主体の第三艦隊だった。舞風が寝る頃に野分が出撃し、彼女が帰ってくると、今度は舞風が起きて出撃の準備をする時間だった。二人が会えるのはその間の時間だけで、後は部屋に帰ってきた親友の為に置手紙を残すくらいが、彼女たちにできる精一杯だった。

 

 舞風は、初めは気丈に耐えていたが、やがて親友がいないことに寂しさを感じ始めた。いつか彼女が第二艦隊に帰ってくると信じてはいたが、それがいつになるかは分からない。先行きの不明なことが、彼女の苛立ちを助長していた。そんな時、舞風はいつも、野分から貰った彼女の黄色いネクタイを握って寝るのだった。すると、不思議なことに、舞風は夢の中で出撃する野分にくっついていくことができた。夢と分かってはいたが、同時に、それが現実だとも理解していた。遮るもののない世界で気ままに吹く自由な風に乗って、彼女は野分と共に夜の海を駆けた。初めは単に同道するだけだったが、何度かそれを繰り返している内に舞風はもっと大胆になり、野分の動きに合わせて踊るようにもなった。

 

 踊りながら、舞風は野分に語り掛けた。返事をしてくれることは一度もなかったが、親友に向かって話しかけることができるだけでも、彼女にはありがたかった。それに時折、野分は舞風の声が聞こえたかのように振舞うことがあった。後ろから近づいてくる魚雷に、野分も彼女の艦隊員たちも気づいていなかった時、舞風は必死に叫んだのだ。すると野分が、びくりと震えるや否や振り向いて、雷跡(らいせき)に向かって砲撃した。夢の中で親友を見守る少女は、これを大いに喜んだ。ただ付いていくだけでなく、命の危機を救うこともできる。親友を守ってやれるのだ、と。

 

 無論、舞風は余り過保護になりすぎないように、気を付けて過ごした。二人が別れているのは、目的があってのことで、その目的を台無しにするような真似はしたくなかったからである。ただ、命の大きな危険に繋がりかねない何かを見つけた時には、舞風は躊躇することなく親友に警告し、野分の方もやがて、敏感にそれを感じ取るようになっていった。のみならず、舞風が発さなければならない警告の回数も、どんどんとその数を減らしていった。野分は秀でた親友への依存を脱し、急速に健全な能力を育み始めていた。舞風はますます喜んだ──親友が帰ってくる日も近い! 事実、提督は次に野分が殊勲を上げたら、第二艦隊に戻すつもりだと彼女たちに告げていた。

 

 ところが、提督が二人を喜ばせてやろうと教えたことが、野分を空回りさせたのか、彼女は中々その条件をクリアすることができなかった。何かあった時にカバーしてくれる舞風が艦隊にいないということが、彼女を僅かに一歩、躊躇させてしまうのだった。第三艦隊の戦友たちを信じていない訳ではないのだが、二人の間にあった長く培った信頼関係は、そうそうそれに比するものを生み出せるほど、やわなものではなかった。

 

 己の不足を補おうとして、野分は焦った。夜戦中、無茶をして突っ込もうとしては、それを夢で見ていた舞風は大声を上げ、彼女の襟を掴んで止めようとして、第三艦隊の艦隊員たちからは無謀を諫められる。そんなことが何度か続き、野分はすっかりしょげてしまっていた。その落ち込みようと言ったら大したもので、成熟した、冷静な軍人である提督も、すんでのところで彼女を第二艦隊に戻す、と命令を発しそうになったほどである。しかしそういう訳にもいかないので、彼は自分の中の良心や、軍人として秩序を重んじ、公正を愛する心と対話を重ね、最大限の譲歩を行った。ここ暫く離れ離れになっていた二人に、数日という少し長めの休みをやったのだ。

 

 上官からの、思ってもみないこの思いやりに、舞風は感激した。野分も、久々に舞風とゆっくり過ごせる時間を持つことができると聞き、笑顔になって喜んだ。彼女たちは何処に出かけるかを話し合った。最後に二人で出かけた時、どちらが場所を決めたか、もう二人とも覚えていなかったからだ。彼女たちにはそれくらい、同じ第二艦隊で戦った日々が、遠い昔のことのように思えていた。

 

 結局、二人は外泊許可を取って、泊りがけで遊び回ろうということに決めた。提督は、外出許可ならまだしも外泊となるとちょっとだけ躊躇ったが、どうせやるなら徹底的に、という軍人らしい思い切りの良さで、許可証に判を押した。二人はまさに、水を得た魚のようになった。恥ずかしげもなく手を繋ぎ、二人並んで警備府を出ると、街に向かった。

 

 久しぶりに同じ時間を過ごす親友たちは、これまで離れていた分を取り戻そうとするかのように、精力的に遊んだ。映画を見に行った。普段なら入らないような、高めのレストランに入った。遊戯施設をはしごして、ボウリング、カラオケ、ビリヤード、ビデオゲーム、ダーツを楽しんだ。休暇中の他の艦娘を見つけた時には、舞風がその時やっていた種目の遊びで勝負を挑みかかり、野分は急いで彼女を止めなければならなかった。夜にはまた、いい食事をして、居酒屋を巡り、お互いにお互いの肩を支え合わなければ、まっすぐ歩くこともできなくなるほど酔っ払ったりもした。この時は野分の方が気が大きくなっていたのか、様子見に声をかけた警官に悪質な絡み方をして、それを見て酔いも吹き飛んだ舞風が止める方に回った。

 

 数日間、彼女たちは本当に楽しんだ。休暇の最後の夜、泊まっていたホテルの一室で、二人は遅くまで話し込んだ。翌朝には警備府に戻って、点呼に出なければいけない。点呼が終われば、また別々に出撃する日々が始まる。それを止めたければ、野分が戦闘で認められるくらい、活躍してみせるしかなかった。でも、野分自身、その問題がまだ解決されないままになっていることは分かっていた。流石にもう寝なければならない、という段階になって、やっと彼女は、最後の一歩、前に出ることを躊躇う自分について白状した。

 

 それは野分にとってみれば、かなり勇気を出しての告白だったのだが、舞風は一切動揺しなかった。例の夢で親友の姿を見て、知っていたからだ。けれど、夢で見たなんて言って、彼女に呆れられたり、真面目な話をしている時に冗談を言わないで、などと怒られたりしたくなかったから、黙っていた。ただ安心させようとするみたいに、にこにこと笑い、野分が最後にはその一歩を踏み出すと知っている、と請け合うだけだった。焦らなくていいよ、待ってるから、と舞風は言った。その点について、全く疑っていなかった。野分は第二艦隊に戻ってくるのだ。また一緒に戦い、一緒に休み、一緒に過ごせるのだ。純粋に、そう信じていた。

 

 だから、同じ気持ちでいる筈の大親友が、頭を横に振った時、舞風はその意味が分からないで首を傾げた。そして、続く野分の言葉で彼女の意思を理解すると、言葉を失って黙り込んだ。彼女は、親友から離れて他の艦隊で戦い、二人組の片割れとしてではなく、野分自身として過ごす内に、これまで単に戦友として、助け合い、守り合う関係だった舞風に対して、違った感情を抱くに至っていた。つまり、駆逐艦娘としてのプライドに基づく対抗心である。それは提督や第二艦隊の艦隊員、誰よりも舞風に、自分の力を認めさせたいという健康的なライバル意識だったが、しかし予想外にその気持ちをぶつけられた舞風は、期待を裏切られ、傷つけられたように感じていた。それでも彼女は、改めて微笑みを浮かべた。懸命な努力と集中が必要だったが、どうにか舞風はそれをやり遂げた。

 

 翌日、いつものように、舞風は出撃した。いつものように彼女はよく戦い、無事に警備府へと帰ってきた。いつものように親友と過ごし、彼女の出撃直前にして舞風の就寝前に、お互いを抱き締めて、「また明日」と囁き合った。いつもならそれで終わりだったが、今回はそれだけではなかった。「あたしがいる、って考えてみて」野分はよく分からない、という風に親友を見つめ返した。「一歩踏み出せない時。勇気が欲しい時。隣にあたしが欲しい時。舞風はそこにいる、って。そしたら勇気が出る、でしょ?」それから舞風は、相手の背に回した腕を解き、その両頬を手で包んだ。名残惜しむように少しの間、そうしてから、手を離す。声にはせずに、行ってらっしゃい、と唇が動き、野分が頷いて、部屋を出ていく。

 

 その夜も、舞風は夢を見た。風に乗って野分の傍を走り、彼女を見守るように、その周りで踊った。知られることもなく哨戒に参加し、飽きることなく暗闇に目を凝らして敵を探した。戦闘になればできることは少なかったが、もうこの頃には、野分は舞風の助けがなくとも、張り合えるほどよく戦うことができるようになっていた。足りないのは彼女自身の言葉通り、あと一歩だったのだ。それだって舞風から見れば、今にも踏み出しそうなほど野分の動きは洗練されていた。今の彼女と自分が組めば──舞風はそんなことを考えて、その日が来るのを楽しみに思った。そんな罪のない想像に(ふけ)っていたからか、一発の砲弾が空気を切り裂いて飛んできた時、彼女の警告は間に合わなかった。

 

 野分の側頭部を、砲撃がかすめて通る。衝撃波が脳を揺らし、端正な彼女の顔、強い意志をたたえた目が力を失い、ぐるん、と白目を剥く。悲鳴を上げて、舞風は野分に飛びついた。倒れそうな彼女の体を支え、あらん限りの声でその名を呼ぶ。意識を失った肉体は重く、舞風が渾身の力を込めても、崩れ落ちないようにするのが限界だった。艦隊員たちは応戦を始めていて、野分を助ける余裕はなさそうか、そもそも気絶に気づいてさえいない。奇襲してきた深海棲艦が先に気づけば、一巻の終わりだった。そんなことは許さない、と親友の名前を呼び、体を揺する。やがて、不意に咳き込むと、野分は目を覚ました。混乱したように周囲を見回し、最低限の状況を把握すると、目についた敵に向かって飛び出していく。

 

 その深海棲艦は、至近弾で動きを鈍らせた艦隊旗艦に、致命的な一撃を与えようとしていた。野分の速力では、間に合うかどうかギリギリのところだった。砲の狙いを定めようとしながら、速力を上げ、距離を縮めていく。焦燥感が、彼女の心を満たした。早く撃ってしまいたかった。でも、これまでの経験から、今撃てば弾は外れ、敵の発砲を阻止できず、艦隊旗艦を失うと分かっていた。その恐怖が、腹から胸へ、胸から頭へと上がっていく。引き金に掛けた指を引きそうになった時、野分は舞風の言葉を思い出した。傍に彼女がいる。横で彼女も戦っている。野分は、そう信じてみることにした。たったそれだけで、感情の高ぶりが少し大人しくなる。顔に笑いを浮かべる余裕も生まれた。それを見て、舞風も笑った。

 

 これ以外にない、というタイミングで、砲弾が放たれる。舞風と野分が見守る中で、それはぐんぐんと狙った通りの場所へ、吸い込まれるように近づいていき、命中した。不意打ちの形になったか、体勢を崩した深海棲艦が、窮地にあった艦隊旗艦からの逆襲を受けて倒れ、海へと沈んでいく。野分は誇りで胸が一杯になるのを感じた。一方で舞風は、さっきの失敗を繰り返すまいと、警戒を強めていた。だから今度は気づくことができたが、野分は間に合わなかった。沈みゆく深海棲艦の、破れかぶれの発砲。その弾丸の軌道は、野分を捉えていた。舞風はその優れた直感で既に、何をすればいいか分かっていた。

 

 誰かの絶叫が聞こえて、野分は艦隊員に何かあったかと恐れ、思わずびくりと身をすくめた。その僅かな、予期せぬ動きによって、狙いを逸れた砲弾は彼女の艤装に当たった。破片は機関部まで食い込み、速力を大きく損じたが、奇跡的に肉体には傷一つなかった。野分が戦友たちの無事を確かめ、その場の深海棲艦を排除した後、第三艦隊の旗艦は警備府に報告して撤退の許可を受け、誰一人欠けることなく帰投した。彼女は命を救われたことを明確に認識しており、工廠で艤装を外した後、負傷の治療の為に入渠する前に、今回の殊勲賞(MVP)は野分のものだと非公式ながら宣言した。生き延びた駆逐艦娘は大喜びで眠気も吹き飛び、この朗報を真っ先に知らせてやるべき者の元へと、ただちに走り出した。工廠を出て、艦娘用の兵舎に向かい、自分たちの部屋のある階層へと階段を駆け上がり、ドアのノックなどしないまま、室内へと飛び込む。舞風のベッドに駆け寄って、まだ眠っている親友を起こそうとして揺り動かす。抱き締めるように交差した、彼女の腕と腕の間から、かつて野分があげた黄色いネクタイがするりと落ちた。

 

 舞風は、暫く前に死んでいた。

*1
艦隊内で指揮序列の第二位に任じられている者のこと。通常、艦隊の現場指揮を執る旗艦=一番艦のサポートとして、優秀な艦娘がその地位に就く。



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04.「雪道の上を」

 朝、リビングのテレビから聞き覚えのある景気のいい行進曲とレポーターの能天気な声が聞こえてきた時、即座に椅子から立ち上がって画面にリモコンを投げつけなかったのは、彼女にそれだけの体力と感情が残されていないからだった。一月の寒さは防寒のしっかりした室内でも、なお手足の先からじわじわと染み入るようだったし、彼女の両腕はここ暫くずっと、肩より高い位置に動かされたことがなかった。それに彼女が人生のある地点から育み始めた、理性的な部分が、リモコンを投げるということに見られる感情的な何かを、多少なりとでも嫌悪させていた。何よりも、彼女には投擲という行為に用いられるべき筋肉が、いささかならず欠けていた。彼女は、全くのところ、老婆だった。

 

 人生の終わりに近づきつつあるこの女性は、胸中の痛みが精神的なものか肉体的なものか、判断しかねていた。ただ、テレビはこれ以上見ていたくなかった──忌々しいその機械には、新たな一年の始まりを祝う催しの様子や、人々の歓声、そして新年の祝賀パレードに参加して、雪の降る中でも堂々と市中を行進する、彼女の友人たちの姿が映されていた。もちろん、老女の本当の意味での友人、直接に触れ合い、苦しみを分かち合い、喜びを分かち合った者は誰一人、そこにはいない。だがそれでも、そこにいるのは、その友愛の情が老人からの一方的なものであったとしても、友人だった。何故ならテレビを消すことを選んだ老婆も間違いなく、昔、今そうしている者たちと同じように、陰一つない笑顔であのパレードを歩いたからである。同胞と肩を並べ、誇りに胸を満たし、背筋を伸ばして。彼女はかつて、艦娘だった。

 

 遠い過去の話である。終戦からは、彼女が戦争の中で過ごした時間の何倍も経っていた。当時を知る者も既にほとんどが鬼籍に入り、戦友会が機能不全となって久しかった。彼女と同じ艦隊で戦争を生き延びた幸運な艦隊員たちも、時と共に一人欠け、二人欠け、今となっては老婆の他にもう一人がどうにか生きているだけだ。その一人とも、連絡は取っていなかった。話せば思い出話になるに決まっているし、そうなれば現状と過去の栄光を比べて、どうしたって惨めな気持ちになると思っていたからだった。

 

 努めて客観的に考えるようにすれば、老女は彼女自身の尺度を用いてみても、そこまで不幸という訳ではなかった。終戦して、名誉除隊して、軍隊以外の仕事もした。恋愛もしたし、結婚もした。出産に子育てだってやり遂げた。子供たちは大人になって家を出て行き、夫には先立たれたが、未だに恩給が貰えているお陰で、一人でだって安穏と暮らしていられる。近所の人々は、若い人たちも含めて、彼女に善良な注意を払ってくれている。小ぢんまりとした家に住む、小柄で口数少なく控えめな老婆が、戦争に行って命を懸けて戦い、人類を守り抜いたことを知っていて、そのことに純粋な感謝と、敬意を感じているのだ。

 

 これ以上を望むのは贅沢だと分かってはいたが、老婆にはそれでも時折、鬱屈としたものを感じることがあった。もう一度だけ艦娘に戻れたら、どんなに気分のいいことだろうと、彼女はよく夢想した。風を切って海を走り、轟音を響かせて砲を撃ち、戦友とざっくばらんで乱暴なやり取りを交わす自分の姿を、何度も思い描いた。そうしてその度に、不意に現実の自分がもうそんなに若くないことや、二度と海の上に立つことがないのを思い出して、怒ることもできずに落胆するのだった。考えるのをやめてしまえばいい、と分かってはいたが、実際にそうするには、過去に浸るのは余りにも魅力的な時間の過ごし方だった。

 

 ふと思い立って、老婆は椅子から立ち上がった。肘置きに立てかけてあった杖を取り、転ばないように体を支えながら、寝室へ向かう。眠りたい訳ではなかった。寝室のクローゼットに用があったのだ。そこにたどり着くと、まず彼女は杖をその辺に放っておいて、クローゼットのドアを開けた。ハンガーで棒から吊り下げられたあれこれの服を無視して、衣装箪笥に手をやり、引き出しに手を掛ける。そうして彼女はそこから、樟脳の香りをふわりと広げながら、一着の服を取り出した。それはお世辞にも女性らしいとは言えない服だった。それは、軍の礼装だった。艦娘としての制服ではなく、艦娘たちが軍の式典などに出る際、見た目を統一する目的で与えられる、至って面白みのない服だった。

 

 しかし、正しく読み取ることのできる者が見れば、きっと目を見開いて驚いただろう。それどころか、知識のない者が見たとしたって、一定の感銘は与えられた筈だ。何故ならその礼装には勲章が幾つもぶらさがっており、略章はまるで鎧であるかのように胸部の片側を覆っていた。徽章(きしょう)の数は少なかったものの、彼女が歴戦の艦娘であり、しかも戦争を生き延びたということは、誰がどう見ても明らかだった。

 

 老婆はかなり苦労して、その服に着替えた。腰に負担を掛けないようにしながらズボンを穿き、少し緩めにベルトを締める。シャツとジャケットを着る時、久々に大きく動かした肩が不精を責めるように痛みを発したが、彼女は息一つ漏らさずにその痛みを耐えた。ボタンの一つ一つを留め、ベルトを締め直し、制帽を被って、姿見の前に立つ。背筋を可能な限り伸ばして、恰好をつければ、鏡の中に若かりし頃の己の姿を見られる気がしていた。

 

 無論、そんなことは起こらなかった。老女は単なる老女だった。鏡の中には、軍礼装を着た老人の姿しか映っていなかった。そうなるのを半ば予期していた彼女は、がっかりしながらも、今更服を脱ぐ気にもなれず、体を引きずるようにしながら寝室を出ていった。その途中で杖を忘れたことを思い出し、取りに戻ろうかとも思ったが、それすらも億劫に感じさせるほどの疲れが、彼女の体にまとわりついていた。服を着替えただけでそんな調子になる自分に、彼女はますます落胆し、我が身を情けなく思った。

 

 残された僅かな力で、さっきまで座っていた椅子の背もたれを掴み、部屋の窓際へとそれを持っていく。老女の家は通りに面したところにあり、リビングの窓際からは、道の様子がよく見えた。椅子に腰を下ろし、外を眺める。その日その日にやることが終わってしまった後、残りの一日そうしているのが彼女の日常だった。白い雪が、誰も通る者のない道に積もり、車道や歩道を埋めて、その区別を奪っていく。幾らか暖房の効いた部屋の中から、老女は雪の冷たさを思った。北極海で、芯から凍えるほどの寒さを味わった時を思った。こんな風に雪が降った日に、泊地の艦娘用兵舎にあった暖房機器が壊れ、艦隊員たちと身を寄せ合って押し合い圧し合い暖を取ろうとした際のことを思った。駆逐艦たちは体温が高い気がする、と言った誰かのせいで、駆逐艦娘の奪い合いになった記憶がよみがえり、老女は壁に目をやった。

 

 壁には写真が幾つも飾ってあった。除隊してからのものや、家族写真もあったが、ほとんどは戦中の写真だった。写っているのは見目麗しい少女、艦娘たち。日本海軍の艦娘に交じって、何人かは海外艦娘もいる。その表情はどれ一つ取っても今の老女とは似ても似つかない、()()()()として、生を満喫している者のそれだ。どの写真にも忘れがたいストーリーがあり、そこに写っているどの顔についても、老婆は長々と語ることができた。ただ、そうする気になれたなら、誰かが聞こうとしてくれたなら。でも生憎、今の彼女には誰もいなかった。結局、彼女は視線を再び窓の外にやるしかなかった。興味の持てる何かの存在を期待せずにそうした老女は、しかし目を見張った。

 

 数人の女性がそこを歩いていた──若い女性が──艦娘が──老女の家の前、車道を挟んだ向こう側の歩道を、積もった雪を踏み荒らしながら、仲間と騒ぎつつ、通り過ぎていくところだった。新年の休暇に外出許可でも取って、遊びに出かけるところなのだろう。自分だってやった覚えのあることだから、老婆にはすぐにそれと分かった。心臓発作でも起こしたかと思うほどの痛みが、彼女の胸を襲った。

 

 身勝手な怒りとは分かっていたが、彼女は唇を噛み締め、敵を見るかのように、その艦娘たちをにらみつけた。自由に、元気に、思うがままに振舞う彼女らが憎らしかった。自分も彼女たちの仲間だと言いたかった。共に騒ぎ、外に出ていきたかった。どちらも叶う訳のない望みだった。涙がにじみそうになるのを、老女は必死でこらえた。すると、視線を感じ取りでもしたのか、無邪気にじゃれあいながら外を歩く艦娘たちの一人が、老婆の方を見た。その目と目が合ったのが、老いた元艦娘にははっきりと分かった。

 

 視線の交差が続いた時間は、一秒にもならなかった。現役艦娘はすぐに道連れの方を振り向くと、はしゃぎ続ける仲間の肩を叩いて老女への注意を示した。そして何か言って頷き合い、みな揃って(きびす)を返して行ってしまった。その背中が、己に対する決別の宣告のように感じられて、元艦娘はうなだれた。目を閉じ、惨めさと情けなさを押し殺して、眠ってしまおうとした。彼女はそうすることに慣れていたから、意識はじきに安らかな眠りへと落ちた。

 

 その安寧を邪魔したのが、大音量の音楽である。閉じ切った窓の向こう側から響いてなお、それは老女の穏やかな眠りを完膚なきまでに破壊してしまった。はじめ彼女は驚き、それから怒り、疑念を抱き、次いで確信した。朝、テレビの前で聞いた、あの行進曲。遥か昔に、その曲に合わせて元艦娘自身もパレードを行った、あの曲だ。かくりと落ちていた首をもたげて、彼女は窓の外を見た。音の響いてくる元を見た。

 

 艦娘が、雪上を走っていた。足を動かすことなく、艤装に任せて海の上を走るのと同様に、雪の上を滑るように走っていた。脚部艤装の代わりにスキー板を履いて。砲の代わりにポータブルのミュージックプレイヤーを持って。しかも一人ではなかった。先頭を行く艦娘の後ろに、一糸乱れぬ隊列を組んで、さっき老女が見たよりもずっと沢山の艦娘たちが、無線スピーカーやその為の電源を背に負い、あるいは小脇に抱えて続いていた。その誰もが、老女の家の方を向き、輝かんばかりの笑顔で敬礼を送っていた。その姿に、はっとして老女は、慌てて床に落ちていた制帽を拾って被り直し、背筋を伸ばして、海軍式の敬礼を行う。

 

 そして元艦娘は、確かに見た。最初に彼女と視線を交えた艦娘が、そのパレード隊の中にいるのを、確かに見つけたのだ。彼女はその視線にも敏感に気付いたようで、老女を見やって、にやりと笑った。

 

 それは戦友への罪なき悪戯が成功したのを喜ぶ笑みだった。その笑みを浮かべたまま、彼女は叫び、老女は、元艦娘は、艦娘は聞いた。「新年おめでとう、艦娘!」



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05.「高く吠えて」

 これは本当の話。

 

 任務からの帰り道、夜営に使った無人の島から、パラオ泊地に犬を連れ帰ったことがある。見つけたのは響だった。放っといてやれ、と那智や長門は言ったのだが、響は頑としてその意見を受け付けなかった。可愛らしいが、それだけでしかないペットを飼う余裕なんて、響のみならず誰にもなかったのだが、とにかく彼女はその犬を見つけた場所に置き去りにすることを、どうしても受け入れられないらしかった。「人間としての責任というものがあるんだよ」と彼女は言った。那智は、彼女が一つの神聖な義務としてそうしなければならないとでも思っているかのように──つまり、いつものようにだが、混ぜっ返した。「その責任とやらは、一匹分しか存在しないのか? 猫についてはどうだ? あいつらは助けてやらないのか?」響は一にらみ。それだけで勝利は彼女のものだった。

 

 那智はぶすっとした顔で道中、犬を抱えて運んだ。犬の方は、反抗する気力もなかったのか、身じろぎもろくろくしなかった。興味深かったのは、帰路に犬を抱えたまま戦闘に突入してしまった時のことだ。私は那智が、犬を捨てるだろうと思っていた。かわいそうな話ではあるが、犬と心中するというのも中々心情的には受け入れがたい。だから、響の見ていないタイミングで海に投げ捨て、戦闘後に運よく生きたまま見つかったなら、また回収するんだろう、と。ところが敵を片付けた後、那智が抱いていた彼女は、水飛沫が掛かって不愉快そうに身を揺すっていたが、ずぶ濡れではなかった。彼女はその動物を、腕の中で守り通したのだ。

 

 いい話だが、パラオに帰ってからは少し大変だった。まずは那智が、彼女の体に異変を訴えた。これは犬から移乗攻撃を仕掛けてきたノミだのシラミだのが、うようよしていた為である。彼女は頭のてっぺんから爪先までを殺虫用の薬剤で洗い*1、服と下着は泊地の人目につかない場所で燃やして、その周りでやけっぱちになって踊り、犬に向かって今度はお前がこうなるのだと大人げなく脅しかけた。お陰で、犬の駆虫には苦労させられた。次に、ペットを隠れて飼うというのは規律に反していたし、現実的ではなかった*2から、許可を取らなければならなかった。言うまでもなく提督はかなり渋った。しかし、結局は折れた。殺処分しようものなら私たちの士気は大いに下がっていただろうし、何処かに捨ててこいと命じても、それに従わないのは目に見えていたから、この妥協は正当化できた。

 

 犬の食事や必要な品々、それに掛かる費用を泊地が援助することはない、という点だけ確約させて、提督はパラオ泊地が設置されて以来初めてのユニークな辞令を発した。その内容によれば、彼女は、我が艦隊の「士気向上担当係」ということになっていた。本当に単なるペットでは外聞が悪いので、軍での仕事を与えてやろうという訳だ。何らかの実体を持ったマスコットを制定する艦隊は、それまでに類がない訳ではなかったが*3、パラオ泊地では初めてだった。しかも可愛らしい犬となれば……次に起こることは予期できて当然だろう。

 

 彼女は大人気になった。お陰で彼女に何を食べさせればいいか、困ることはなかった。艦娘の誰もが手に土産を持って来たので、すぐに我らがマスコットは艦隊の誰よりも資産家になった。その中の大半はちょっとした遊び道具とか、おやつとかで、特別誂えの服なんかもあった。響はそういうもの全部を見る度に、これこそが彼女の受けるべきだった正当な扱いであって、あの日に自分がしたことは正しかったのだと、口にはしないけれど満足げに、小さな頷きを繰り返した。そして犬はそんな彼女に気づくと、とことこと歩いて行き、その横に従者のように控えるのだった。

 

 最初の話し合いを彼女が聞いていた筈もないとは思うが、誰に救われたのか、分かっていたのだと思う。犬は響によく懐いた。私たちに出撃などの任務がない時、彼女は響の部屋で過ごしていたが、どれだけ寝床を別に用意しても、夜になるといつの間にか響の隣に潜り込んでくるので、やがて部屋の主は小さなベッドで並んで眠るという技能を身につけた。出撃の際には海にまでついて行こうとするのを、別の艦娘に止めて貰わなければならなかったし、数日離れるということにでもなれば、信頼できる誰か──たとえば訓練所の同期で、同じ提督の指揮下、違う艦隊にいた時雨。どんな相手に対しても愛想のよかった、工廠勤務の工作艦「明石(あかし)」。時には我らが提督その人──に、様子を見ていてくれるよう頼む必要があった。

 

 本人は苦手そうにしていたが、響の次に懐かれていたのは那智であり、これには普段悪ふざけや悪戯、大掛かりで倫理に欠けるが、()()いかなる規則でも禁止されていない遊びに勤しむ、悪童がごとき重巡洋艦の素行を、目を見張るほど改善させる効果があった。犬が響の横にいない時は大抵、那智の周りをうろついていたのだが、どうやら彼女の視線には何か、特に那智を大人しくさせておく不思議な力があったらしい。パラオ泊地所属の憲兵隊は、那智の着任以来続いていた緊張状態を、久々に解くことができた。*4

 

「まあ、そこらの犬よりかは気に入ってるさ。うるさく吠えたりしないのもいい。考えてみれば、悪くない拾い物だったな」

 

 いつだったか食堂で、艦隊のみんなと夕食を取りながら那智も言ったものだ。隣の席にその“拾い物”を行儀よくちょこんと座らせて、食事の片手間に、やや乱暴な手つきで頭を撫でながら。犬がそれをしつこく感じて響の隣に席を移ると、那智はちょっと顔をしかめて、それから全然何でもない風を装った。微笑ましいものだが、こうなると面白くないのは長門で、いつもつるんでいる悪友だった那智が、自分ではない新入りの誰かにもっぱら気を割いているのが、彼女には親友を取られたように感じられたのだろう。当時、長門は十代後半というところだったから、こういった独占欲は理解できる心の動きだった。

 

 長門は食事を載せたプレートを持って立ち上がると、どすんどすんと音が立つのが聞こえそうなほどの感情的な大股で、那智の隣席までやってきた。犬の体温が残るその席に、これまたどすんと擬音を付けてもいいくらい乱暴に腰を下ろし、それなのに何の要求もしないまま、むすっとした顔で前を向き、席を立つ前と同じように食事を続けた。だが呆気に取られていた那智が我に返って笑いを漏らすと、己を客観視したのか、長門は表情を硬くしつつも顔を赤らめた。それでも彼女は、那智がさっき犬にやっていたのより、幾分か優しい手つきで頭を撫で回すのを、止めはしなかった。

 

 ところで、そう、那智も言った通りだが、犬は吠えなかった。鳴くことすらなかった。食事の時を除けば、私は平時に彼女が口を開けたところを見た記憶がない。だからてっきり私は、声帯か何かに異常があるのだと思っていたくらいだ。怪我をして、きちんとした手当てなど望むべくもなく、障害が残ってしまったとか、もっともらしい想像ではある。しかし医者の言を全面的に信じるならば、肉体的機能には何の問題も見られないということだった。私は少し心配したが、響が彼女の魅力的な楽観さで「それならそれでいいさ。きっと、吠えたくなったら吠えるよ」と言い、この意見には聞く人を納得させる力があった。第一、うるさくされれば困るのは私たちなのだ。静かにしてくれていて、しかもそれが別に致命的な病気や、肉体的障害の結果でないなら、文句はなかった。

 

 それどころか、肉体的な案件に限ってなら、彼女は時に私たちよりも遥かに効率よく物事をこなして見せたのだ。迷宮入り寸前だった、ある艦娘を発端とした銀蠅(ぎんばい)*5の連鎖を解き明かす切っ掛けになったのは、彼女がまさに盗みを働こうとしている艦娘を捕まえたことだった。パラオが包囲されて食糧難になった時*6は、一日に一、二度、気づかぬ間に何処かへと消えると、その度に必ず獲物を持って戻ってきた。しかもそれを自分だけで食べることなく、いつでも響や那智、私たち艦隊員に渡して、惜しむことがなかった。艦娘は大抵の恩をよく忘れるように育ちがちだが、食べ物に関してのそれだけは話が別だ。最初は那智を取られると思って邪険にしていた長門でさえ、その内、可愛がるようになった。

 

 この頃の長門はただの一艦娘でしかなかったものの、後に出世して本土所属の艦隊で旗艦を務めるようになる。が、その立場に相応しい面倒見の良さは、地位の向上を待たずして既に彼女の中にあった。パラオではよく雨が降るが、犬はそうなると決まって外に出たがった。朝でも夜でもおかまいなしにである。そうして外に出て、私たちがシャワーを浴びるように雨水を浴びて、泥の上を転げ回るのだった。それはきっと、彼女が歩んできたタフな生涯で身につけた、独特の清潔さの保ち方だったのだろう。

 

 響は飼い主筆頭としての義務的な心情から、これに付き添うようにしていたが、そうと知った長門は役目の交代を申し出た。駆逐艦娘はこの提案に乗り、その日からパラオ泊地では、原始的な楽しさに奇声を上げながら、犬を抱き締め、彼女と共に雨と泥の中を転げ回る、大戦艦の姿が見られるようになった。艦隊旗艦の古鷹は、よき母が子を躾ける時のような厳しさと優しさで、随分叱ったのだが、放蕩娘は馬耳東風の様子で聞き流した。あまつさえ泥まみれのまま、平気で何処へでも行こうとするものだから、その度に長門は古鷹や響の手で犬共々風呂桶に沈められ、揃ってぴかぴかに輝くまで磨かれるのだった。

 

 ここで私による、品のない推測を申し上げたい。これは推測というよりも遥かに、憶測と呼ぶべきものだから、もし古鷹がこれを読んで反駁したいと思ったなら*7、大いにして貰って構わない。私は彼女の言葉を謹んで受け止め、いかなる反論もするまい。しかし古鷹は、私の目には、という限定を付けなければならないけれど、その犬を娘のように可愛がっていたように見えた。年齢*8のせいもあったのかもしれない。古鷹はパラオ泊地だけでなく、当時の日本海軍に所属していた艦娘全体の中でも、一番の古参艦娘だった。彼女が艦娘でなければ、あるいは適当な理由をつけて、もっと早くに退役の道を選んでいれば、家庭や子供を持つこともできていただろう。でも、彼女はそうしなかった。

 

 その理由について、何も知りもせずにあれこれ言うのは、古鷹に対する侮辱になるかもしれない。だから言わないでおくが、それはそれとして、古鷹と響と犬が並んで歩いていると、私たちは平和な世界の平和な家族をそこに見て、幸せになったものだ。私たちが何の為に戦っているのかということを、彼女たちの姿は表してくれていた。もちろん、それだけが私たちの戦う理由ではない──ほとんどは生き延びる為に戦っているだけだったのだから。でも、そういう美しいものとか、素晴らしいものの為に、自分たちは血を流しているのだというロマンチックな幻想は、私たち自身を現実以上に、何らかの尊い存在、気高い命、誇り高いものであるかのように思わせてくれた。そしてそれは、空腹の時に振舞われる一杯の粥と同じくらい、私たちにとってありがたいものだったのだ。

 

 私たちは自分たちが誇り高いことを認める。大体の艦娘はプライドの塊だ。それは艦娘訓練所*9で厳しい訓練を受けてきたとか、その後の実戦を生き延びてきたからだったり、横須賀鎮守府所属だから、舞鶴所属だから、戦艦だから、空母だから、駆逐艦だからという理由だったりする。が、気高いか、尊いかと言われると、私たちはきっと、ばつの悪い時用のにやにや笑いを浮かべて、黙るしかない。私たちがそのどちらでもないことくらい、きちんと弁えているからだ。でも、そうだったらいいのにな、とは、きっとみんなが考えていたことだと思う。誰だって自分を高く見積もりたいし、見積もられたいものだ。私だってそうだった。

 

 残念ながら、この()()()()()()()()()()()は、所詮はつまらない願望に過ぎなかった。それを明かしてしまったのが、深海棲艦によるパラオ攻撃時の出来事だった。八割くらいは伝聞の話だが、話してくれたのは主に響だ。信じてもいいだろう。さて、この時、深海棲艦はいつもの包囲戦術を取らなかった。もしかしたら、本気で落とすつもりだったのかもしれない。今でもそう思えるほど、かなり激しい攻撃だった。深海棲艦たちは、泊地の目の前とも呼べる海域まで押し寄せてきていたのだ。その中には空母も多数含まれており、彼女たちは本隊に近づいて打撃を加えようとする艦娘たちを迎撃し、余裕のある時はパラオ泊地の施設に対する爆撃を行った。私の戦友も多数、この際に戦死している。特に被害がひどかったのは、工廠周りだ。深海棲艦の艦上爆撃機が落とした複数の爆弾が、工廠と、そこに併設された入渠施設に直撃し、出撃直前だった即応艦隊の面々や、治療中だった者などを吹き飛ばしたのである。

 

 無論、泊地に残っていた艦娘たちが、その攻撃をぼんやり眺めていた訳ではない。私も含め、攻撃に備えて対空警戒に当たっていた空母艦娘は、制空権を取ろうと必死に戦った。防空に優れた駆逐艦娘である「秋月(あきづき)」「照月(てるづき)」「涼月(すずつき)」「初月(はつづき)」の四人が、少しでも被害を減らす為、建物や瓦礫の陰に隠れもせず、姿をさらけ出して対空射撃をしていたのを覚えている。半壊した工廠から、自分に適合する艤装を掘り起こそうとする者も大勢いた。幾人かはそれを見つけて、防衛戦に加入した。そうでない者は、爆撃で殺されるか、諦めて急ごしらえの退避壕に避難した。それはパラオへの直接攻撃が止められないと分かってから泊地の敷地内に急造された、屋根も何もないただの塹壕だったが、その日沢山の命を救った。

 

 響は、艤装を見つけられず、諦めて退避した者の一人である。けれど、ただ逃げるというのは、駆逐艦娘である彼女の敢闘精神にもとる行いだったのだろう。退避中、最初に見つけた、自力での移動が不可能な負傷者を、響は連れて行こうとした。艦娘は普通の人間よりもずっと力が強いが、体格は違う。駆逐艦娘はおおむね、幼い姿だ。響という艦娘は中でも更に、子供らしい背丈だった。足元も悪かった。爆撃で壊れた施設の瓦礫が散乱していて、死者もあちこちに倒れていた。だから、後もう少しで退避壕にたどり着けるという時に、響は転んだ。上空にいた敵の艦載機が、この好機を逃す筈もなかった。爆弾は全部落としてしまっていたとしても、機銃掃射だって、頭や心臓に受ければ無事では済まないのだ。それは致命的なミスだった。

 

 先に退避壕に到着していた艦娘の中には、古鷹もいた。彼女は艦隊の仲間が倒れた時、それを救う為に、迷わず壕から出ようとした。それを、他の艦娘たちは力尽くで押さえ込んだそうだ。古鷹は一般的な艦娘の何倍も生き延びてきた古参兵で、重巡で、艦娘としての価値は響よりも勝る。助けに行って死なせる訳にはいかないと、そこにいたみんなが判断した結果だった。そこに気高さは全くなかった。シンプルで、実利的な、計算があるだけだ。

 

 ところが、ここに例外がいた。犬である。混乱の最中、壕に逃げ込んできていた彼女は、暴れる古鷹に他の者たちが掛かりっきりになっている隙に、ぱっと飛び出して行ってしまった。犬の一匹、響を助けるのに何の足しになる筈もない。一緒に死ぬだけだ。退避壕にいた誰もがそう思った。古鷹は呆然(ぼうぜん)として彼女たちの姿を見ていた。犬は走った。響の元に着き、彼女を置いて更に駆け、少し離れたところで止まった。

 

 そして彼女は吠えた。

 

 長く、遠くまでそれは届いた。誰もが初めて聞いた吠え声だった。ずっと離れたところで防空戦闘に従事していた私にすら、その声は聞こえた。負傷者を抱え、姿勢を正し、立ち上がろうとしていた響は見た。自分に向かってくると思った敵機が、その機首の向きを僅かに変えて、響の近くにいる何かに対して照準を合わせるのを。彼女が見たのはそこまでだった。響は負傷者を抱え直し、立ち上がって退避壕に走った。背後で機銃掃射の音がした。何があったのかは明白だった。壕に滑り込んだ後、響は負傷者を下ろし、退避壕の壁に足を掛けて、さっきまで自分がいた辺りを覗き込んだ。犬はまだそこにいた。彼女はすまし顔で振り返り、もう一声だけ吠えた。

 

 で、とことこ走って帰ってきた。機銃掃射は全然、彼女をかすりもしなかったのだ。目を真ん丸にして驚いていた響を踏み台にして、犬が壕内に飛び降りると、凄まじい防衛戦の真っ最中だというのに、みんな馬鹿みたいに笑った。普段、無神論を標榜するどんな艦娘も、その時ばかりは神様というのも案外身近にいて、見守ってくださっているんじゃないかと、半ば本気めかして言ったそうだ。壕内の艦娘たちは犬の全身を(あらた)め、傷を探したが、たった一つの擦り傷だって見つからなかったという。

 

 この出来事により、防衛戦の後、愛玩犬並びに猟犬としてだけでなく、泊地の非公式な英雄として崇められ、攻撃を生き残っていた工廠の明石から手製勲章付きの首輪まで贈られた彼女だったが、ある日ふらりと泊地を出て、二度と戻らなかった。山に猟でもしに行って、そこで獲物の逆襲に遭ってしまったんだろうと言う者や、あれはあの日のパラオ泊地を守る為に、神の遣わした御使いであって、役目を終えたので天に帰っていったのだと冗談交じりに話す者もあった。興味深いものだと、休暇を使ってパラオの山に単身登り、興味本位から道を外れた結果迷った、ある艦娘の話が記憶に残っている。彼女の話では、完全に遭難して死さえも覚悟したその時、一匹の犬が現れて、登山道だと分かるところまで連れて行ってくれたらしい。首には、勲章付きの首輪をしていたそうである。

 

 嘘か本当か分かったものではないが、私たちは彼女の話を真剣に受け止め、お金を出し合って記念碑を作り、泊地の片隅にこっそり設置した。後に憲兵隊より撤去の指示を受けたそれは今、間抜けな艦娘をあの犬が助けてくれたという、ゲルチェレチュース山の登山道入口にあり、ハイキングにやってきた人々に、多少の困惑と、ちゃんと道を行けという戒めを与え続けている。

*1
髪の毛は全部剃ってから修復材を掛けた。あれは実に見物だった!

*2
だからこそそうしようとする者もいたが、響は二にらみで彼女たちを黙らせた。

*3
有名な話だと、青森の大湊警備府のある艦隊は、現地で人気のある水族館にいたペンギンをマスコットに決定し、非公式の隊章として取り入れた。どういう理由か、大本営はこれを不愉快なものと捉え、制定から数年後にこのマスコット契約は解除された。

*4
ただし、半分だけ。私たちにはまだ、那智の親友にして同志、長門がいた。

*5
軍隊内での窃盗行為の俗名。食料を対象とした窃盗を指すことが多いが、広義には装備や嗜好品の不正な入手も含む。この時は確か、誰かが装備品の水上機を盗み、盗まれた航空戦艦が配備数の帳尻合わせの為に別の重巡から盗むついでに三式弾(対空強化弾)を拝借し、更にその重巡が……という具合に被害が拡大し、末端の艦娘たちの間で問題になっていた。

*6
「勇気ある者」で話したのとは別の時。既に書いたと思うが、深海棲艦によるパラオ包囲は定期的に行われていた。

*7
恐らくそんなことは起こらないと思うが。私は彼女が轟沈した戦いで、そのすぐ近くにいた。彼女が頭の四分の一ほどを吹き飛ばされるところを、この目で見たのだ。

*8
普通、日本海軍の艦娘には、十五歳に達した日本国籍を有する女性が、志願して訓練と特別の処置を受け、なるものだった。統計によれば、その多くは二十を過ぎる前に轟沈するか、肉体的・精神的な問題から退役した。

*9
艦娘に志願した者は、ここで候補生として暫し教練を受ける。その後、入隊宣誓式を経て“建造”と呼ばれる施術により艦娘の肉体を手に入れ、訓練生として出所までの残りの期間を過ごす。私が艦娘になった時、訓練所は日本全国に七か所あり、訓練期間は約二ヶ月だった。これは同時期の陸軍基礎訓練期間と比べて、三分の一ほどである。



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06.「完全に等価」

「こりゃあ、確かに大した土産物じゃねえか」

 

 歪み掛けた表情を取り繕い、至って感心したかのような様子で、初春型駆逐艦娘五番艦「有明(ありあけ)」は言った。視線は手に持ったウイスキーのボトルに向いているが、それは中々お目に掛かれないような高級酒に興味を惹かれたからではなく、目の前にいるそのボトルの贈り主から目をそらしていたいからだった。しかし遅かれ早かれ、どうせ相手とは向き合わなければならなかったので、有明は可能な限り平気そうな風を装って、顔を上げた。すぐさま贈り主の艶やかな緑髪と、自慢げににやついた顔が目に入り、有明の脳はほとんど意識せずして自動的に、焦点を背後に合わせた。彼女たちがいる休憩室の壁には種々のポスターや掲示物が貼ってあり、心中おだやかならぬ駆逐艦娘は、それを読むことで落ち着きを保とうとしていた。

 

 それを知ってか知らずか、贈り主──やはり駆逐艦娘、夕雲型ネームシップの「夕雲(ゆうぐも)」は、彼女の座ったソファーの上でわざとらしく身じろぎをして、ぎしりと耳障りな音を立てた。集中を乱され、有明の顔が苛立ちの色に染まる。その後に出た言葉は、全く反射的なものだった。「流石は佐世保鎮守府様ってとこか? いや、悪く思わないで欲しいんだけどよ、輸送船団()()()の第四艦隊でも、こんな土産が持って来られるってんだもんなあ」今度は夕雲の笑顔にひびが入る。そのひびから羞恥と怒りが漏れ出てくるのを、有明は敏感に察知して気分を良くした。佐世保鎮守府の艦娘に一発食らわせたとなれば、有明が所属するリンガ泊地*1の艦娘たちから、一目置かれることは確実だったからである。

 

「艦隊は関係ないでしょう? 毎回、手土産を用意しているのは、私個人なんだもの。そちらこそ、よく返礼品を用意できるわね? あなたは第二艦隊で、旗艦をお務めだけど……お給料、安いんでしょ? まあ、リンガ泊地ではねえ」

 

 駆逐艦娘らしい激情に身を任せることなく、有明は極めて上品に対応した。特別気に入らない相手の為に、普段は使わず温存している厳しい視線を向けて、口をつぐんだのである。夕雲もそれ以上踏み込めば、今向けられている視線よりも、遥かに質量を伴った返事が来るものだと分かっていたから、相手の黙ったのをいいことに調子に乗ったりはしなかった。夕雲は有明がしたのと同じくらい礼儀正しく振舞い、ほんの数秒、彼女と視線を絡み合わせた。

 

 二人は打ち合わせたかのように、同時に緊張を解いた。ソファーの背もたれに身を預け、軽く溜息を漏らしながら、有明は先ほどの視線が嘘のように穏やかな声で言った。「いつも通り、帰るまでには余裕があるんだろ」質問というよりは、確認のような言葉だったので、夕雲は軽く頷くに留めた。「じゃあ、それまでにはお返しを渡すよ」話は終わりだ、とばかりにひらひらと手を振られたので、緑髪の駆逐艦娘は素直に立ち上がって、その場を辞すことにした。

 

 有明の背後で休憩室のドアが開き、夕雲からの、失礼にならない最低限の別れの挨拶を挟んでから、そのドアが閉まる。たっぷり十秒は待ってから、有明はずっと押し留めていた特大の溜息を吐き出した。全身から力を抜き、目を閉じる。彼女としては、そのままうたた寝でもしていたかったのだが、そういう訳にも行かなかった。夕雲が持ち込んだ土産への返礼品をどうするか、考えなければならなかったからである。正確には、考え直さなければならなかった。今回の交換の為に有明が用意していたのは、夕雲のものよりも格的に劣る、別のブランドの酒だったのだ。そのまま渡せば、嘲りの種になるのは決まっていた。有明の自尊心は、それを決して許せなかった。また、彼女だけの自尊心を超越した問題もあった。艦隊の名誉の問題である。

 

 この取引がいつから始まったものか、佐世保にもリンガにも、知っている艦娘はいない。リンガ泊地で最古参の艦娘によれば、彼女が新兵として着任した時には、既に「伝統的な行事」として多くの艦隊が適当な相手とやり取りをしていたという。それから時間が経ち、人類が伝統と見なした他の多くの事柄と同じように、この物々交換も廃れていった。有明の艦隊は、リンガ泊地においてそれを墨守する最後の存在であり、それ故に敗北は許容できる結末ではなかった。同じことは、佐世保鎮守府所属の夕雲たちにも言えたろう。

 

 また双方の対抗心という炎に油を注いだのは、まさにこの点、彼女たちの所属の違いであった。リンガ泊地はインドネシアの産油地、パレンバン近くに建てられている。その目的は当然、燃料の集積や周辺海域の確保による輸送の安全化・円滑化にあり、リンガ所属の艦娘には、自分たちは全海軍の艦娘や一般艦艇を支えているという自負があった。パレンバンからの燃料だけで日本海軍が動いている訳ではないのは百も承知だったが、全体から見ても少なくない割合の燃料がパレンバンからリンガ泊地に集められ、本土や他の泊地などに送られていることは、紛れもない事実だからである。

 

 しかし燃料ではない物資、すなわち弾薬を筆頭として鋼材や補充用の艦載機、艤装の補修に用いる高度な部品などになると、種々の理由でインドネシアの工場では生産できず、本土から長々と時間を掛けて送られてくるのを、焦れながら待つしかなかった。弾薬を切らすようなことはなかったが、艤装の部品はほとんど常に不足しており、工廠付の工作艦らはその対応に苦慮していた。これは、有明に言わせれば、本土は自分たちを軽視している、ということになり、夕雲のような本土側の艦娘からすれば、リンガ泊地の連中は、自分たちだけで戦ってるみたいな勘違いを起こしてないで、身の程を知って分を弁えなさい、ということになるのだった。

 

 そういった対立を忘れれば、実際のところ、有明自身は面倒臭い上に得るものも少ない伝統など、あっさりと投げ捨ててしまいたかったのだが、夕雲が負けを認めるよりも先にそんなことをすれば、彼女がそれをどう捉えるかは明白だった。勝ち目がないからやめたのだ、などとあちこちで吹聴されれば、艦隊の名誉が水底に落ちるだけでなく、リンガ泊地全体の不名誉にもなる。そうなれば、泊地の艦娘たちの怒りは、夕雲よりもむしろ、勝負から逃げた有明へ向かうに違いなかった。では、勝った後でならやめられるだろうか? どう考えても、そうは思えなかった。負けた駆逐艦娘が負けたまま生きていようとするのは、かなり珍しいことなのだ。

 

 目を閉じてソファーに身を任せたまま、有明はこれまで自分と夕雲が投げつけ合ってきた、「贈り物」の数々を思い起こそうとした。飲食物。装身具。絵画。家具。衣服。ブランドもののバッグ。靴。化粧品。骨董品すぎて逆に価値のあるゲーム機。その中のどれか一つでも、今回の返礼品の参考になればと思ってのことだったが、生憎とそうはならなかった。舌打ちして、まぶたを開ける。高級酒に目をやって、眉を寄せた。酒でこんなに気分が悪くなるなんてな、と歴戦の駆逐艦娘は、苦々しい気持ちを抑えることなく心中を漏らした。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。呟いて、はっとする。()()()

 

 打開策を思いついて、有明の気分は一気に良くなった。元気さを取り戻して立ち上がると、彼女はさっきまで半ば憎んでいた酒瓶を掴み、恭しく胸に抱えて休憩所を出た。休憩所前の廊下を歩き始めてすぐ、彼女は自分の艦隊員の一人を見つけた。その艦娘が自分の旗艦に夕雲との会談の結果を訊ねるよりも先に、有明は相手の首に腕を回し、こめかみ同士をくっつけ、互いの顔の前に酒瓶をちらつかせながら言った。「夕雲からあたしらへ、心ばかりの贈り物だ。みんなで飲まなきゃ失礼に当たるよな?」誰の手から渡されたものでも、酒は酒だ。そして艦娘たちは大抵の場合、酒が大好きだった。

 

 翌々日の夕方、有明は夕雲を泊地の施設外に呼び出した。普段、交換の場所には施設内の一室が使われていたので、夕雲は少し不安に思った。よもや外でないと渡せない、特別で掛け替えのないものを持ち出して来たのではないか、と警戒したのである。艦隊員からは考えすぎだと笑われたが、彼女は有明が何かこれまでと違うことをしようとしているのを、半ば確信していた。それはこれまでの対戦で培った風変わりな信頼、という訳ではなく、もっと一般的で単純な過去の事実、二人が艦娘訓練所の同期だったということに起因した。

 

 ものの数か月ほどの短い間ではあったが、二人は互いを間近で見続けてきたのだ。ただの人間、ただの少女が、艦娘になるまでの具体的な軌跡を、彼女たちは知っていた。つらい訓練の最中に泣き言をこぼし合ったり、励まし合ったりしたこともあった。砲撃訓練の成績で勝ったり、雷撃訓練では負けたり、訓練生同士の演習で肩を並べて戦ったりしたことで、夕雲と有明は相手の性分を、浅いとは言えない段階まで理解していた。

 

 心の中で不安と期待が半分ずつ混じり合ったまま、夕雲は有明の呼び出しに応じた。彼女の艦隊が、荷物を積み込み終えた輸送艦隊と次の目的地に出発するのは、更に二日後のことだったから、外出する許可を取るのは難しくなかった。指示されていた方角へと、海沿いの道を歩き続ける。お粗末ながら舗装はされているが、泊地近辺は市街地ではない。人通りがある筈もなく、車だって一台も通らなかった。じきに夕雲は退屈になってきて、海側へと目をやった。深海棲艦から見えないようにと、植林されて鬱蒼と茂った木々の隙間から、僅かに海面が見える。夕陽でオレンジ色に染まったそれがきらきらと輝くのを、何の感慨に耽るでもなく眺めていると、不意に夕雲は自分を背後から呼び止める声に気づいた。

 

「おい、何処まで行く気だよ」

 

 その声が低い位置から聞こえてきていたので、夕雲は足を止め、振り返ると、視線を下にやった。道端に座り込んだ有明が、呆れ顔で彼女を見ていた。本土鎮守府で五人の艦娘を束ねる優秀な旗艦は、ここ暫く覚えがないほどの羞恥心に頬を赤らめたが、色づいた陽の光がそれを隠してくれたのは疑いないところだった。有明が何の反応もしなかったからである。「それで」気分を落ち着かせようと、片手で己の髪の毛をいじくり回しながら、腰を下ろしたままの駆逐艦娘に訊ねる。

 

「こんなところに呼んで、何がしたかったの?」

「そう早まんなよ、目的地はここじゃねえ。もうちょっと歩いた先さ」

 

 よっ、と掛け声を掛けて、有明は立ち上がった。尻を二度三度と軽く叩き、埃を払う。そう短くない間をその場で過ごしていたようで、凝りをほぐすみたいに腰を捻り、肩を回すと、彼女はにやりと笑った。夕雲はそれが、どんな笑みかということを知っていた。それは、優勢を確信している敵の鼻を明かしてやろう、と有明が考えている時の笑みだった。そして彼女がその笑みを浮かべた場合、それを向けられた相手にできることは少なかった。

 

 道を外れ、木々に分け入っていく有明を、夕雲は不快な気分で追った。身体が熱く、それでいて背中だけは、じっとりと湿った汗で奇妙に冷えていた。やがて二人が林を抜けると、目の前には海が広がった。出撃中に見るのとも、母港に帰還してきた時に見るのとも違う、高いところから見下ろす海。二人は崖の上に立っていた。その端には杭が点々と打たれ、それに沿って転落防止のロープが張られている。だからか、有明は平気な顔で端へと歩いて行ったが、夕雲は本能的な忌避感に打ち勝つ為の時間を数秒要した。

 

 深海棲艦に立ち向かう際に発揮されるものにも匹敵する勇気で、緑髪の艦娘は崖の端へと近づく。有明は彼女のそんな内心を一顧だにせぬ様子で、足元に置いていたものを取り上げて見せた。それはライバルが持ってきたウイスキーのボトルだった。夕雲は初め怪訝に思った。ボトルの中身がそっくりそのまま残っていたからである。一人で飲んだにせよ、艦隊員たちと分け合ったにせよ、艦娘が良質のアルコールを手に入れて数日が経過している以上、その中は空でなくてはおかしかった。()()()()()()()()()()()()()()

 

 有明は瓶の注ぎ口を握り込み、空ではないことを再三明確にするように揺らして、瓶の中でぽちゃりぽちゃりと音を立てさせた。

 

「今回はしくじったなあ、夕雲」

 

 演技がかった言い回しで、彼女は言った。言われた側の艦娘は、早くも推測をほとんど確信に近いものにしていた。

 

「確かに、リンガ泊地でいい酒を手に入れるのは難しいさ、無理じゃないにしてもな。でも、あたしらは酔う為に飲んでんだよ。そこで問題なのはアルコールが入ってるかどうかってことだけで、いい酒かどうかなんてのは、はっきり言ってどうでもいいんだ。分かるだろ」

「そのボトル一本で、あなたを半年は雇えるって言っても?」

 

 流石にこの言葉には、有明も反応を示した。ごくごく僅かに顔を歪めただけだったが、夕雲はそれを「お前そんなもんをこんな場末に持ってくんなよ……」という意味に受け取った。だが、それを反撃の糸口として彼女が活かす前に、相手は駆逐艦娘らしい傲慢さと大胆さで言い放った。「なめんなよ。値札じゃ酔えねえんだ、お前ら本土のお嬢様方とは違って、な!」あ、と夕雲は思わず声に出した。有明が掴んでいたボトルは、既に空中にあって、二人から高速で離れつつあった。放物線を描いて飛んだそれは、少しの間だけ水平線の上にあったが、やがてその下へと落ち、遂には彼女たちどちらの視界からも見えなくなって、海へと消えていった。

 

 呆気に取られたままの夕雲に、有明は何かを放った。受け止められず、胸に当たって、地面に落ちる。彼女が目をやると、それは葉巻の箱だった。封は切ってあって、拾って開けてみれば、一本吸われた後だった。

 

「やるよ、それこそホントの値打ちものだ。何しろ、あたしがこの手で提督の執務室から拝借して来たんだからな。付加価値って奴さ。大変だったんだぜ? だからこそ、金じゃあ手に入れられねえ特別さってものがあるんだ」

「たった今あなたが海に投げ捨てたボトルだって、そうだったのよ、有明さん。そうでなかったら、一本だけ持って来るなんてこと、しなかったわ」

 

 夕雲は咄嗟に嘘を言った。言ってから、こんなに分かりやすい嘘なんて言わなければ良かったと後悔した。が、言わないでいることもできなかった。それは敗北を認めることに他ならなかったからである。有明の言う「特別さ」に打ち勝てるほどの何かを提示できないからには、彼女に渡したものもそうだったのだと言い張り、同格であったかのように偽るしかなかった。有明は鼻白んだ様子で、言い返そうとしたが、やめた。彼女の葉巻だって、提督からの盗品であることを証明なんてできなかったし、そこを突かれれば不毛な水掛け論になるに決まっていた。

 

 黙り込んだライバルを尻目に、夕雲は泰然を装って崖に近寄り、何でもないように、価値のないものを扱うみたいな素っ気ない手ぶりで、葉巻の箱を投げ捨てた。有明はやはり止めもせず、沈黙を保って、それを見ていた。二人はどちらからともなく崖の端に並んで、転落防止用のロープを掴んで軽く身を乗り出し、箱が水面に落ちるまでを見送った。とどのつまり、二人の交換は今回も引き分けに終わったのである。しかし有明が相手の贈り物の価値を貶め、投げ捨てるという手に出たことで、そして、それに負けまいと夕雲が同じく有明からの贈り物を投げ捨てたことによって、この「交換」はそれまでの慣習とは決定的に違ってしまっていた。その上、彼女たちは相互に信じていた──次もきっと同じようなことになる、と。

 

 果たして、それは、そうなった。崖での出来事から二日と三ヶ月後のことである。前回と同様、夕雲は輸送船団の護衛艦隊としてリンガを訪れた。前回と同様、二人は件の崖で待ち合わせた。前回と異なり、今度はお互いに艦隊員を連れていた。彼女たちの贈り物が、一人では運びづらいものだったからだ。夕雲はリンガ側の持ってきた大きな黒檀の飾り棚付き箪笥を見て、ぐっと心惹かれるものを感じた。()()()()()()()()()()()()()()()胸中でのみ呟ける、素直な本心を隠す為に、硬い表情を装う。一方で有明だって、佐世保鎮守府からはるばる密輸されてきた、マホガニー製の立派な執務机の偉容に見とれていた。()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()() 想像するだけで、彼女は自分が実際の何倍も有能な艦娘になった気がした。

 

 しかし、それらはもちろん、彼女たちのものにはならなかった。二人は互いに言い合った。「こんなものは、投げて捨てるほどある!」そうしてその言葉通り、素晴らしい重厚感のある箪笥も、光沢と高級感溢れんばかりの執務机も、海に投げ込まれた。双方の艦隊員は、思わず悲鳴を上げた。どちらも実に見事な工芸品であり、きちんと手入れさえすれば、この場にいる者たちの曾孫の代までだって使えるほどの家具だった。それが、無造作に海の底へと落とされたのだ。僅かのみでも芸術的感性を備えた者なら、決してそれを悼まないということはできなかった。だが、十人の艦娘たちが味わい、表した深く大きな悲痛さえ、彼女たちの旗艦二人を翻意させることは(あた)わなかった。

 

 次の三か月後には、夕雲は艤装用の四十六センチ砲を持ち出してきた。有明が出したのは改良型三式弾*2だった。二人はそれらを崖下に投げた。更にその三か月後には、夕雲が弾薬の詰まったコンテナを、有明はそれと同じだけの重さの、燃料の入った携行缶を提示した。彼女たちは双方を海の底に沈めた。加えて三か月後、これなら匹敵するものは用意できまいと、緑髪の駆逐艦娘が意気揚々としてイタリア製の三百八十一ミリ三連装砲を出すと、初春型五番艦はたまたまリンガ泊地に寄港していたアメリカ海軍の艦娘たちから、手練手管で五インチ砲をもぎ取ってきた。付き添いの艦隊員たちが声にならない悲鳴を上げる中、これらの貴重な装備は海の藻屑と消えた。

 

「いい加減にして下さい!」

 

 最後の対決がそれまでのように引き分けで終わり、泊地の艦隊旗艦向け個室に戻った後、有明は艦隊員の一人に詰め寄られた。その艦娘は、有明が彼女の率いる艦隊で最も信頼する人物であり、艦隊の指揮序列第二位に当たる、綾波型駆逐艦娘六番艦の「狭霧(さぎり)」だった。彼女はいつになく決心した様子で、二人の駆逐艦娘が繰り広げる、際限のない意地の張り合いを止めようとしていた。心配だったのだ。箪笥はジャワ島*3の工芸品店から購入したものだったが、後のは銀蠅か、それに近しい不正な手段での入手だった。発覚すれば、厳しい処罰を受けることになる。まして、使う為でなく、捨てる為だけに手に入れたと知られれば、一層手酷い処置を受けることさえ考えられた。

 

 軍法会議で鞭打ちや給料の剥奪、謹慎を宣告されるだけで済めばいい。不名誉除隊なら、いっそ生きて本土に帰れるだけ悪くない結果かもしれない。でもまかり間違って利敵行為として認定されでもすれば、待っているのは良くて懲罰艦隊への配置換え、悪ければそのまま絞首台行きだ。狭霧は長らく連れ添った旗艦と、そんな風に別れたいとは思わなかった。有明は彼女にとって人生最高の親友ではないし、これまでの海軍生活で見た中で最良の艦娘でもなかったが、しかしそれでも有明は狭霧の旗艦なのだ。何もしないではいられなかった。もしも相手が狭霧の忠告を聞き入れないなら、他の艦隊員も含めた総掛かりで、力尽くでも意見を押し通すつもりだった。

 

「今回は海外製の主砲。この前は燃料。その前は改良型の三式弾。ちゃんと使っていれば、少なくとも何かの役には立っていたでしょうね。資材や装備は、深海棲艦を倒し、仲間を守る為のものです。下らない見栄を張る為に浪費していいものではありません。ましてや銀蠅など、仲間から盗んでおいて、どうして艦隊やリンガ泊地の名誉を守ることに繋がるとお思いですか」

「あんたにそう言われると、言葉もないけどさ。じゃあ、夕雲にデカい顔させとけってのかい? あたしらの泊地を馬鹿にさせといて、それをほっといたら、他の艦隊の連中はどう思うだろうね?」

「それでも、止められる筈です。今回だって、止められた筈なんです。この艦隊の旗艦が有明さんじゃなかったら、ダメだったかもしれません。向こうの旗艦が夕雲さんでなければ、無理だったかも。けど、狭霧は知っていますよ。お二人は同期だったんでしょう? ここで終わりにしよう、って、そう言えば彼女だって」

 

 鼻を鳴らして、有明は不同意を表した。

 

「かもね。でも忘れてないか? 今みたいなやり方を始めたのは、あたしなんだぜ。どの面下げて“大変になってきたからもうやめよう”なんて言えるもんかい」

「個人の自尊心よりも大切なものがあるのは、有明さんなら、私が思い出させるまでもなく、分かっているべきことでしょう。旗艦なんですから」

 

 有明は長い間、狭霧の意見に反論できる言葉を探した。だが見つからなかった。何度考え直してみても、狭霧の意見の正しさは揺らぎそうになかった。「分かったよ」とうとう、有明は白旗を上げた。「次だ。次で最後にする。次回のやり取りが終わったら、夕雲に話す。それでいいか?」目に見えて、狭霧は安心したようだった。旗艦の両肩に手を置き、「きっと大丈夫ですよ。狭霧にも何かお手伝いできることがあれば、何でも仰って下さい」と励ました。励まされた側は、諦念を感じさせる笑顔で言った。

 

「とりあえず、今日はもう出てってくれよ。一人でゆっくりしたいんだ」

 

 艦隊の二番艦がその言葉に従って退室すると、有明は溜息さえ出ない憂鬱さに負けて、部屋のベッドに倒れ込んだ。随分前からの後悔の念が、今もって彼女の胸をむしばんでいた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()有明は枕に顔を押し付け、くぐもった呻き声を上げた。そんな都合のいい手など、存在しなかったかもしれないにしても、贈り物の価値を貶めるというのは悪手だった。艦娘が艦娘を侮辱したのだ。これで話は、ごく個人的で、感情的なものになってしまった。狭霧はそこまで重大に受け止めてはいないようだが、夕雲までそうだと楽観的に考えられる理由はなかった。

 

 こんなことになる前に、両者が相互に気持ちよく引き分けを認められるほど、等価の品を贈り合うことができたら、そこでやめにできていただろう。あるいは今でも、そうできるかもしれなかった。ぴったり等価だと、相手も、自分たち自身も、無責任に娯楽として見ている泊地や鎮守府の艦娘連中も、納得させられるような品が、ただ有明と夕雲、この二人の手中に実在しさえすれば。しかし、価値というのは相対的なものだと、有明は信じていた。個々人の感性によって、認める価値が一致し得ないのであれば、妥協なしの等価というのは極めて幻想に近い概念となる。有明には、勝利なしに夕雲を納得させられるとは、到底思えなかった。

 

 けれども、勝ちさえすれば、そしてその上で夕雲に譲歩して引き分けという形にするならば、あるいはこの無益な対立も終わらせられるだろうか? 考えてみても分からなかったが、有明にはそれ以上の案がなかった。それなら、そうだと信じるしかない。()()()()()()()駆逐艦娘らしく、彼女はすんなりと覚悟を決めた。長らく胸を占めていた憂鬱さは、いつの間にか消えていた。枕から顔を上げ、壁掛けの鏡に映った己の顔を見る。その目には、意志の光が宿っていた。

 

 夕雲は、これまで通りに三か月の間を置いてやってきた。今度こそ相手に負けを認めさせてみせるとばかりに、自信に満ち溢れた表情で泊地の波止場に現れた彼女は、待ち構えていたライバルの奇妙な落ち着きに調子を崩されると同時に、警戒感を強めた。有明は邪気のない苦笑でそれをいなし、狭霧と話して決めていたのとは違って、先に終わりを切り出した。「今回の交換が済んだら、このクソったれな伝統を終わりにしたいんだ。どっちが勝っても、負けてもな」決着がついた後に話すより、先に言っておいた方が受け入れられる確率も高くなるだろう、という魂胆だった。「それを私たちが受け入れるメリットは何かしら?」緑髪の駆逐艦娘は、純粋な疑問を口にしているみたいに、穏やかに訊ねた。

 

「分かってんだろ? あたしら、必要もなく危ねえ橋まで渡って、すげえ無駄な馬鹿をやってるってのはさ。このままじゃ遅かれ早かれ、どっちかが憲兵にでも取っ捕まって破滅する。そうしたらどうなる? 先に捕まった方を手掛かりにして、残った方もおしまいだ。夕雲よう、あたしらは二人して生き延びるか、二人してクソ地獄に落ちるか、どっちかしかないんだよ。さあ、答えな」

「やめられる訳がないでしょう? 私たちのこれは、本土鎮守府と海外泊地の代理戦争みたいなものよ。明白に勝って終わるか、明白に負けて終わるかしかないの。これまでの引き分けだって、本質的にはどちらかが勝って、どちらかが負けてた……今みたいなちょっとした脅しで、夕雲が怯むと思ってたなら、見当違いもいいところね」

「違う違う、脅そうってんじゃねえよ。むしろ、理性に訴えかけてるのさ。まあいい、同期の義理は果たしたんだ。これから先、どう転んでも、恨みっこなしだぜ」

 

 からっとした笑いを浮かべて、有明は埠頭を去っていった。狐につままれたような気持ちで、夕雲はそれを見送る。相手が最後に見せたのは、二人が対立するようになって以来、見ることのできなくなっていた類の笑みだった。今になってそんなものを自分に見せてきたことに、不可解な違和感と不安を覚えて、夕雲は有明を追おうとした。しかし、遅かった。彼女は荷揚げの為に忙しなく動き回る、船員や作業員たちの中に紛れ込んでしまっていて、既に姿を消していた。

 

 翌日になって、狭霧が夕雲の下を訪れて、例の崖で落ち合う時間を伝えた。事務的な態度だったが、夕雲は彼女の声の中に存在する失望と軽蔑の意図を鋭く見て取った。それで夕雲は、多分彼女が有明に奇妙な考えを吹き込んで、埠頭であんなことを言わせたのだろう、と察することができた。相手のこれまでにない行動は警戒するべきだというサインだが、その原因が分かれば、もう恐れることはない。本土鎮守府の駆逐艦娘はすっかり自信を取り戻し、艦隊員たちを連れて、台車に乗せたコンテナと共に、時間通りに崖へと向かった。

 

 もう見慣れてしまった道を歩き、うっとうしい木々の合間を抜けて、崖に出る。そこに、有明は狭霧と二人で待っていた。他の艦隊員たちはいないのかと見回すも、夕雲の目には他に誰も映らなかった。「今回は狭霧だけです」彼女の疑念に答えるような言葉に、有明が不平めいた呟きを漏らす。「お前だって呼んじゃいなかったんだけどな」彼女の足元には、大きなボストンバッグが置いてあった。夕雲は軽くそれを指差して、分かり切った質問をした。

 

「そのバッグが今回の?」

「ああ。でも、中身の発表は後に取っとこう。先にそっちのを教えてくれよ」

「構いませんよ。では」

 

 後ろに控えていた艦隊員が、台車を押して前に出てくる。夕雲は台車の操作を代わると、有明の近くまで持っていき、そこでコンテナの蓋を開けた。狭霧が顔をしかめるのと対照的に、本来はもっと不愉快そうな顔をするべきライバルが、楽しそうな笑いを上げたことに、夕雲は困惑した。「いや、何、こいつを見たらうちの明石は泣いて喜ぶぞ、と思ってさ」コンテナの中身は艤装の修理に用いられる、種々のパーツだった。リンガ泊地では年中不足していて、本土から必要な物資の種別や数量を聞かれる度に、要請が百件も二百件も行くような部品だ。

 

 有明の言葉を聞いて、夕雲は彼女がこの品を受け取って負けを認めるのかと思ったが、そうではなかった。彼女はそれをただ脇に退けると、足元のボストンバッグを持ち上げ、開けて中を見せた。狭霧も用意された品を知らなかったのか、夕雲と二人でバッグの中を覗き込む。視界に飛び込んできたのは、バッグに入るギリギリのサイズの檻だった。夕雲は隣で、狭霧の上げた、悲鳴を押し殺したような声を聞いた。檻の中には、艤装を内部で操作して共に戦う、全ての艦娘の戦友、妖精たちが詰め込まれていた。意識はあるらしく、顔には一様に怯えの表情が張り付いていた。夕雲の艦隊員たちにも聞こえるように、有明が大音声(だいおんじょう)で叫ぶ。

 

「バッグの中身はあたしの艤装付の妖精たちだ! こいつらに比べたら、お前らのパーツが何だってんだ? そんなものは幾らでも手に入るんだよ、こいつらと違ってな!」

 

 予期せぬ内容に凍り付いていた二人の艦娘を振り払い、有明はバッグを頭上高くに振り上げた。転んで尻を打ちつけ、夕雲はその姿を、恐怖に囚われたまま見ていた。しかし、狭霧は違った。転ぶ寸前のところで踏みとどまると、歯を食いしばった必死の表情で、彼女は有明に掴み掛かった。投げる寸前の不安定な体勢だったことや、両手がバッグを持ち上げる為に塞がっていたこともあり、彼女の突撃は一切の迎撃を受けずに有明へと命中した。バッグは手放されないまま、二人はもつれ合って地面に倒れ込む。その時のどすん、という振動で、夕雲は我に返った。急いで狭霧に加勢し、他の艦隊員たちにも指示を出して、有明を取り押さえようとする。

 

 リンガ泊地所属提督の下、第二艦隊旗艦を拝命する駆逐艦娘──その立派な肩書に見合った通りの荒れ狂う力で以て、有明は大いに暴れ回った。とうとう、夕雲が彼女の手からバッグをもぎ取り、狭霧に押し付けてここから逃げ出させた時、体の何処からも血を流していない者は、その場にいなかった。夕雲の艦隊員の一人などに至っては、地面にひっくり返ったまま、安らかに寝息を立てているという有様だった。有明は残った面々から距離を取ると、疲れ切った顔で転落防止のロープに寄り掛かり、夕雲に微笑みかけた。

 

「なあ、夕雲、今からでも遅くない。こんな伝統なんか、なかったことにしようぜ。文句を言ってくる奴らがいたらさ、あたしとお前、それからお互いの艦隊で連合艦隊組んでさ、殴り込みに行くんだ。提督だろうが何だろうが構いやしねえよ、ぶっ飛ばしてやるさ。悪くないだろ? どうだ、ん?」

「無理よ。あなたは……有明さん、あなたは自分の艤装付の妖精を殺そうとした。そんな艦娘と手を組むなんて考えられない。今からあなたを捕まえて、狭霧さんに引き渡す。旗艦ではいられなくなるでしょうね。私はあなたの後任、きっと狭霧さんになるでしょうけど、彼女と続きをするわ。どちらかが勝つまでね」

 

 有明の表情が陰った。哀れみの色が多分に混じった声で、諭すように話す。それがひどく、夕雲の気に障った。ついさっき、艦娘として恥ずべき、とんでもない所業をしでかそうとした張本人に、哀れまれる筋合いなどなかった。

 

「何でそうこだわるんだ? 引き分けで終わらせたって、別にいいじゃねえか。それであたしらもお前らも、何を失うって言うんだ? 名誉か? そんなもの、海の上で幾らでも取り返しがつくだろ。戦死でもすれば、お釣りだって返って来るさ」

「名誉は、そうね。有明さんの言う通りよ。でも信頼はそうは行かない。期待についてだってそう。あなたの取引を受ければ、佐世保の艦娘たちはみんな、こう思うことになる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()実質敗北の引き分けなら、それはそのまま敗北と見なされるし、実質勝利の引き分けなら、名実共に勝利にできなかった以上は敗北だって言われる。そんな艦娘は信頼されないし、信頼されない艦娘に名誉なんてない」

「つまり、実質的にも引き分けの引き分けだったらいいってことだ。あたしもお前も、そこの艦隊員たちも、あたしの艦隊員たちも、リンガの艦娘も、佐世保の艦娘も、みんなが納得するくらいぴったりの引き分けだったら。そうすれば、あたしらはこれを終わらせられる。これについては、夕雲、お前も同意できるんじゃないか?」

「ええ、それには頷いてもいいわね。問題は、そんな取引なんて実在し得ないってことよ、有明さん」

 

 名前を呼ばれた有明は、夕雲の顔を真っ向から見返し、それから海の方を見やった。その横顔に、にやりと笑みが浮かんだ。およそ一年ほど前にも、夕雲が見た笑みだった。顔の向きを海から、緑髪のライバルの方に戻し、有明は静かな声で言った。

 

「いや、あるさ。どうしても、その取引に付き合って貰うぜ、夕雲。狭霧に押し付けて一抜けなんて、できねえからな。悪いけど、お前だってあたしの立場なら、同じことをするだろうよ。でなきゃ、お前が恐れてたように、負けるだけだ」

 

 夕雲は目の前で見たことを信じられなかった。とん、と軽い音を立てて有明が地面を蹴ると、彼女の体は既に、転落防止のロープの向こう側にあった。最後に見えた彼女の顔は、やはり、あのにやけ顔のままだった。悲鳴も上げられず、夕雲はその場に膝から崩れ落ちた。彼女を追い抜いて、艦隊員たちがロープの方へ駆け寄っていく。その向こうにどんな光景が広がっているか、想像したくもなかった。それに、できなかった。想像するよりも先に、夕雲の脳を、幾つもの冷たい考えが走り抜けていたからである。彼女は我知らず立ち上がり、ふらふらと、艦隊員たちがいない崖の縁へと近づきながら、ぼそぼそと空に向かって、その考えを語り掛けた。

 

「価値は本来、相対的なもの。私とあなたが同じように艦娘であっても、私にとってのあなたの価値と、あなたにとっての私の価値が違うように。でも、私にとっての私の価値と、あなたにとってのあなたの価値なら?」

 

 崖の端に打たれた杭を掴み、片足ずつ、ロープを跨ぐ。有明が落ちていった方にいた艦隊員の一人が、ふと気づいて自分の旗艦を振り向き、血相を変える。「ああ、なんてこと」夕雲は自嘲するように笑った。有明の言ったことを散々否定し、口論に勝ってきた彼女は、ここに来て敗北を素直に認めた。掴んでいた杭をぐい、と押して、有明が示した式を完成させる為の、最後の一手を打ち終わった時、彼女は感心したように呟いた。

 

「完全に等価だわ」

*1
戦争中、シンガポールから南南東に二百キロほどの場所に設置されていた日本海軍の基地。教義で飲酒を禁じられているイスラム教徒が国民の大半を占めるインドネシアの領土であり、非常に酒が手に入りにくかった。

*2
三式弾は、主に戦艦・巡洋艦娘向けの対空砲弾。大量の焼夷・非焼夷子弾を散布する性質から、しばしば対地攻撃にも用いられたが、暴発事故を起こすことがあった。改良型ではこの欠点は解消されていたものの、型を問わずして、戦中は常に需要に対して供給が追い付いていない状態だった。

*3
インドネシアの首都、ジャカルタが存在する島。かつては世界一の人口を誇る島として知られたが、深海棲艦との戦争により多くの被害を出したことで、その座を失った。現在最も人口が多い島は日本の本州であるが、戦後の人口増加速度から言って、二十年以内にはジャワ島が一位に返り咲くものと考えられている。



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07.「重巡の一日」

 あたしの目の前、食堂の長机に置かれたプレートの上には、あれほど待ち望んでいた温かい食事が、湯気まで立てた状態で給仕されていた。左には混ざりもののない白い米。右には具入りの味噌汁。真ん中に置かれたメインはカツレツだ。それらの間には小鉢が二つあって、片方は醤油の掛かった小松菜、もう片一方には何とまあ、間宮の期間限定新製品、苺アイスクリームまで付いていた。その器は冷蔵庫で冷やしてあって、すぐにアイスが溶け出さないよう気が使ってある徹底ぶりだ。これをご馳走だと思わない艦娘がいるとしたら、そいつは本土の広報部隊で歌でも歌っていたんだろう。

 

 一刻も早く食いつくべきだった。疲れ切って海から戻ってきた艦娘ならそうするのが当たり前だったし、しかもこのご馳走はあたしが自分で身銭を切って用意したのではなかったのだ。前の席に座っている重巡艦娘「愛宕(あたご)」が特別に、あたしが初出撃で自分の頭を吹っ飛ばされなかったお祝いに、ってことで振る舞ってくれたものだったのである。すなわち、食べ始めないのは失礼に相当した。愛宕はあたしのとは違う、普通の食事しか買わなかったのだから、まあ控えめに言ってもかなりの失礼だ。彼女は穏やかで、何かにつけ手の出る頭が空っぽな連中──艦娘の大半を占める──とは違ったが、それにしても怒らないし傷つかないという訳ではない。

 

 ところが、あたしは食べられないでいた。海の上にいた時はあれだけ欲して妄想したものを、陸の上に戻って現実になると、途端に受け付けなくなっていた。白米のてらてら輝くその白さは、深海棲艦のちぎれた手足の肉、その脂肪の色とそっくりだ。奴らがどてっぱらを撃ち抜かれた時に口と鼻から吐き出した何かは、味噌汁によく似ていた気がする。カツレツにせよ、小松菜にせよ、こじつけのようなイメージの重なりが、あたしの食欲を奪っていた。愛宕はあたしが食べ始めるまで待つつもりだったのか、テーブルにだらしなく肘を突いて手であごを支え、明後日の方向を見ながら何か考え事をしていた。だから、早く食べ始めなければいけなかったのに。

 

 と、その愛宕が様子に気づいて、こっちを見た。経験豊かな彼女は、一目であたしの状況を見抜いたようだった。そして大変な出撃を終えた艦娘らしく疲れた顔で、ぎこちなく彼女は微笑み、付属のスプーンでアイスクリームをすくうと、それをあたしの口元に差し出してこう言ったのだ。

 

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*   *   *

 

 頬を軽く叩かれた衝撃で、あたしは顔を少し上げた。こっちの鼻先から十センチばかり離れたところに、木曾(きそ)秘書艦のしかめっ面があって、あたしをにらんでいた。眼帯で隠れた彼女の右目のお陰で迫力は十分、このあたしが深海棲艦だったとしたって、尻尾を巻いて逃げ出しただろう。でなきゃ呆気なく首から上を引きちぎって投げ捨ててやるか。そんなことを考えながら、ぼんやりと秘書艦の顔を見つめ返す。()()()()()()、と彼女はじれったい素振りを隠しもしないで言う。あたしは答える。()()()()()()()()。それが嘘かホントかなんて、秘書艦は気にしない。どうせ分かりゃしないんだから。それより朝も朝、早朝も早朝から呼び出した理由を話したくて仕方ないんだろう。

 

 それでも、彼女の機嫌はまあまあ直ったように見えた。踵を返し、あたしの眼前を離れて、今いる執務室の中をぐるぐるうろちょろと歩き回りながら、何だかんだと話をしている。提督が止めてくれればいいんだけども、その頼みの綱はここにいない。余程重要な用事でもあるんだと思う。それに、提督は木曾秘書艦を実に信頼していた。

 

 実際、秘書艦は素晴らしい経歴の持ち主である。関東で最も厳しい訓練が課されると言われる、横須賀艦娘訓練所の出身であり、彼女はそこで上から三番目の成績を修めて艦娘になった。一番と二番は正規空母であったというから、戦艦と重巡艦娘たちは、さぞかし肩身の狭い思いをしたことだろう。彼女にとってもそれはいい思い出のようで、執務室の秘書艦用のデスクの上には、成績優秀者に贈られる記念品のメダルが、彼女の同期たちと撮影した写真と並べて飾ってある。

 

 そして、よくいる訓練所でだけ優秀だった奴らとは違って、彼女が素晴らしいのは経歴だけではないのだ。書類仕事がまた、大の得意と来ている。紙切れ相手に切った張ったの大活躍だ。まだ訓練所を出て間もない時分、彼女は壊れた裁断機を前にして、右往左往して事務を滞らせている当時の秘書艦と提督に出くわした。木曾は慌てず、近くにいた別の艦娘に()()()()()()()、と訊ねた。そいつは答えた。()()()()()()()()()()。木曾は言った。()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()

 

 で、腰に提げてたサーベルで一仕事成し遂げた。提督はその機転にいたく感じ入って、伝統的に第一艦隊旗艦が務めていた秘書艦任務を、所属艦隊のない補充兵だった木曾に任せた。元の秘書艦は面子を潰されてキレるかと思いきや、まあ自尊心が低かったんだろうな、面倒な秘書艦業務から逃げられてありがたいって、木曾に礼まで言った。その日からずっと、彼女は秘書艦の地位を占め、新規配属されてくる艦娘たちを中心として、ある程度の特別な尊敬を集めていた。

 

 秘書艦はまだ話し続けているが、こちらに背中を向けていた。気取られないように小さく首と目を左右に動かし、あたしの他にこの大演説を聞かされ続けている哀れな面々に視線をやる。正規空母艦娘「蒼龍(そうりゅう)」。軽空母艦娘「隼鷹(じゅんよう)」。戦艦の「山城(やましろ)」と「比叡(ひえい)」。それからあたし、重巡「加古(かこ)」と軽巡「川内(せんだい)」。そこまでだったら、いつもの艦隊員たちだ。何の問題もない。しかし今日はそこに二人追加がいた。これは全く、本当に全く良くない(しるし)だった。短くない艦娘生活の中で、あたしたちはみんなそれを理解していた。“いつもと違って”という言葉が頭に付くのは、これから最低の出来事が起きるというお告げに他ならないのだ、と。

 

 ()()()()()()()()()()()()。秘書艦がくるっと向きを変えて、こっちに声を掛けた。黙って指示に従い、彼女がいる方向、つまり執務机に近寄る。机上には海図が置かれていて、これからあたしたちが取る予定になっている作戦行動について、大小の書き込みがあった。木曾は、その海図を叩いて言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。何の考えも挟まずに、あたしたちは答える。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。彼女は指示を続ける。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。再び、当たり前のように頷いて言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()。頷き返して、まだ木曾は付け足す。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() あたしは内心の悲鳴を押し殺して返事をする。()()()()()()()()()()()()()。話は終わり、あたしらは執務室を追い出される。命拾いした四人はほっとした様子で足早に去り、執務室前の廊下には呆然と立ちすくむ四人が残った。

 

 そういう訳で、あたしたちは艦隊内の上役、戦艦と空母なしで海に出ることになる。イェー。あたしは頭を抱えたくなる。艦隊内指揮序列のいっとう上から四番目までが陸に居残り、五番目のあたしと六番目の川内が、昨日か一昨日この泊地に来たばかりの新人二人を指揮して、連れ帰ってこなければいけない。行先は遠く、一日掛かりの任務になる筈だ。どうやってこれを無事に片付けられるものか、あたしにはさっぱり分からなかった。せめて空母が一隻いたら話は別だったのだが。

 

 艦隊内の序列四番目、隼鷹のにやけ面を思い浮かべる。至極燃費のいい軽空母の癖しやがって、大雑把な木曾がひとまとめに空母と言ったのをいいことに、出撃逃れをするだろう。短くない付き合いだから、それくらい分かる。彼女の小賢しいのが役立ったこともあるのだけれども、とにかく今は憎たらしいだけだった。それで、あたしは出撃前に泊地の通信兵に少しばかり握らせてやって、出撃する海域の付近にいる、別の艦隊に前もって渡りをつけておく。そうすれば大型艦娘なしでひどい戦闘に臨まなければならなくなった時、彼女たちが支援に駆けつけてくれる。少なくとも、そうしてくれることを期待できる。

 

 そういうことを済ませている間中、川内は黙っていた。これは想定内のことで、彼女は時刻が夕方以降であるか、海上にいない時は、滅多なことでは口を開かなかった。新人二人も黙ってくっついて回っていたのだが、これは僥倖というもので、願わくばそのままお互いに何も話さずに別れられたら最高だった。もちろん、そうは行かないので、あたしは自分からこの心地よい沈黙を破らなければならなかった。溜息を吐くと、新人たちが動揺したのが分かった。申し訳ないことだが、この二人、松型駆逐艦娘「(まつ)」「(たけ)」は、明らかに自分たちが歓迎されていないことに気づいていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。がちがちに固まって、放っておけば最後の審判までそのまま突っ立ってそうな新兵二人に、優しくそう言ってやる。あたしがこいつらと似たような立場だった時は、もうちょっとキツい言い方で、キツい時間制限付きだった。まあ、こいつらは海軍生活の初っ端から、不規則かつ不十分な編成で海に出なくちゃいけなくなったんだ。後で毒にならない程度に甘やかしてやってもいいだろう。とはいえ、言われてすぐに返答も行動もできないのは、言い訳のしようがない間抜けっぷりだった。あたしは自分により近い位置にいた竹の(すね)を蹴っ飛ばしてやり、彼女たちがそろそろ悪夢から目覚めて、もっとひどい現実ってやつと、うまく折り合いをつけてやっていく時間が来たことを、思い出させてやらなければならなかった。

 

 蹴り一発でその後を放置しても良かったのだが、一時的に、不本意にでもリーダーとなってしまったからには、責任というものがある。あたしはそのまま、川内を引き連れて、松と竹の二人の尻を後ろから適度に蹴りつけながら、工廠まで駆け足をさせた。別に蹴る必要はないが、とにかくこれはあたしの個人的な気晴らしになるし、しかも蹴られた側は二つのことを身につける。つまり、蹴られる前に動く機敏さと、いつか機会があったら百倍も蹴り返してやる、という敢闘精神だ。二人にはどっちも入用なものだろう。重巡艦娘のあたしの尻を蹴飛ばせる駆逐艦はざらにいないが、ともあれ仕返しを試みようとする気持ちがちっともないような手合いには、駆逐艦娘は務まらない。機敏さについては、言うまでもない。

 

 工廠であたしがしてやれることは少なかった。工廠付の明石に二人の艤装を用意させ、点検させ、二人自身にも重ねて点検させ、最後にあたしがチェックしてやったくらいだ。明石の腕は信頼しているけれど、あたしらと違って、工廠担当の彼女は海に出ることがほとんどない。翻ってあたしや川内は、ベテランってほどじゃなくても中堅どころだ。何度も実戦を生き延びてきた。そういう実績がある艦娘が、()()()()()()()()()()、と言うと、新兵はそれを信じ込む。これは、連中のメンタルにかなりいい影響を与える。自分が昔、愛宕にやられたことだ。彼女は彼女自身以外の艤装のことなんて、ろくすっぽ知りもしなかった癖に、まるで工作艦娘みたいに物知り顔で太鼓判を押したものだった。

 

 新兵二人の艤装を準備したら、自分の番だった。川内はきちんと手順ってものを了解しているから、指示なんか待たずに準備を済ませている。旗艦役がもたもたしていてはいけない。用意された艤装を手早く身につけ、動作チェックを終わらせる。艤装の中から顔を出した何人かの妖精は、チェックが雑だとご不満らしかった。でも検査項目を省略しなかっただけ、真面目にやった方だ。これが忙しい時だと、砲弾と魚雷がきちんとフルに積載されていて、水上機とそのパイロットが艤装に乗ってるかだけ確認して出ることも多い。

 

 工廠から出撃用の水路に歩いて移動し、水路のスロープを降りて水面へと立つ。流石に訓練所を出ているだけはあって、松と竹の二人も危なげなく動けるようだった。いっそ、ここで動けなくなっていてくれれば、置き去りにする理由になったのだが。そういった真っ当な理由もなしに、居残りを命じることはできない。特に今回は、木曾秘書艦のありがたい命令によって、二人の試しも兼ねているのだ。あたしの独断でそれを台無しにすれば、秘書艦はいたくその繊細な心を傷つけられるだろう。傷ついた艦娘は同時に、激怒した艦娘になりやすい。提督に最も近しい艦娘から、怒りを向けられるのは避けたかった。

 

 無線機器のテストとして、泊地の通信室に繋ぎ、出撃することを報告する。どの提督のどの艦隊が何名で、どんな任務を受けて出撃するのか、簡単に伝えるだけのものだ。しかしこれを怠ると、最悪の場合は無許可離隊や脱走扱いになる。通信室から報告を記録したとの返事が来て、初めてあたしたちは水路から海に出るのを許されるのだ。ハンドサインで艦隊員たちに指示を出して、微速前進を始める。水路は狭くはないが広くもなく、速度を出したり左右に動くには心理的なプレッシャーが掛かる。水上機動に慣れればここで隊列を組むこともできるが、今日は新兵が二人だ。広い海に出てからでも遅くはないだろう。

 

 薄暗く、長い水路を抜けて、外に出る。空はようやく明るみ始めたばかり。びゅう、と風が吹きつける。あたしはこの、水路から出た瞬間が好きだった。泊地のすぐそばであっても、海の上にいるという感覚はいいものだ。視界が色づいたように思える。無線機をいじって、艦隊員たちに単縦陣と、速度の上昇を指示する。一番簡単だし、先頭にあたしが立って、最後尾に川内が付けば、松と竹がはぐれたりする心配もない。艦娘は深海棲艦ぐらいしか恐れないと世間では思われているが、実際は違う。深海棲艦も恐ろしいが、それと同じくらい恐ろしいのが、行方不明だ。戦闘中行方不明ではなく、ただの行方不明。

 

 海は常に凪の海という訳ではない。雨も降れば風も吹く。晴れていたって、波が荒立つこともある。そんな時、ふと気づくと、隊列の端にいた誰かが、いなくなっていることがある。そいつは十中八九、もう二度と見つかりはしない。波でバランスを崩して水面下に飲み込まれ、艤装の重さに引っ張られてそのまま沈んだか。敵の潜水艦に引きずり込まれたか。神隠しにでも遭ったか。行方不明の理由はあれこれと噂されるが、本当のところは誰も知らないし、どうだったって結果は同じだ。しかも、単なる行方不明というのは、そんなに名誉な末路ではない。戦死と違って遺族年金も出ない。死後の受勲も基本的にはない。だから、恐れられる。

 

 幸いと言うべきか、松と竹は艤装の動かし方だけはまあまあだった。海も平常通りの波で、無風ではないが強風でもなかった。これなら、少なくとも移動中は足手まといにもならないだろう。ベビーシッターをしなくてもいいのは、ありがたい話だった。けれど、面倒を見る相手が幼稚園児から小学生に変わったからって、責任の重さやその大変さが大きく変わる訳ではなかった。

 

「加古先輩、その、右足に下げていらっしゃるのは何なんですか? 水筒ですか?」

 

 これからどうしたものかと考えていると、無線機から松の声が聞こえてくる。海に出て早々に無駄口を叩くとは、新兵にしては肝の据わった艦娘だ。あたしは右足に目をやる。そこには大きめの水筒のようなものがあって、それは伸縮性素材のベルトで、足に直接縛り付けてある。これは艤装ではなく、あたしの私物だった。中に入っているのは液体だが、飲用水ではない。それについては別の水筒を用意して、艤装に装着したポーチに入れてある。また、負傷箇所を迅速に止血・治療する為の、希釈した高速修復材の水筒でもない。それも同じくポーチの中だ。

 

 さて、では中身は何かということになると、酒であった。しかし、あたしが飲む為ではなかった。これは後々、役に立つものなのだ。でも正直に話すのは、はばかられた。松や竹の口が堅いかどうか、あたしは知らない。余計な話を知らないところで漏らされるのは、気に入らなかった。かと言って、黙って無視するのも得策ではない。旗艦は、艦隊員がなるべく、口を開きやすいようにしてやらなければいけないのだ。何かがあった時、たとえばちょっとした違和感や、気のせいかもしれない発見があった時、旗艦が怒ったり、機嫌を損ねるかもしれないと艦隊員が思っていたら? そして違和感の発生源が、そこに隠れていた深海棲艦の潜水艦だったら? 発見していたのが、漂流中の戦友だったら? どちらにせよ、大きな損失を受けることになるだろう。

 

「ちょっとした交易品ってところだよ。使う時には教えてやるから、暫くは静かにして、水上警戒をきっちりやってなって」

 

 具体的に答えず、質問をはねつけず、こんな返事でいいだろう。松は納得したのだろう、黙ってくれた。竹も、今の言葉が自分にも向けられたものだと了解してくれたのか、余計な質問は来なかった。察しのいい新兵には少々の好感を持てる。あたしたちは静かに海上を進んだ。左腕にはめた腕時計を見て、小さく毒づく。本当なら、朝食を取っている時間だ。それから出撃任務があれば、準備の時間を取って出撃。なければ一日中、泊地でごろごろしてたって良かったんだ。ここにいるあたしら以外の艦隊員たちは、きっとそうしているだろう。

 

 文句を言うのは艦娘の基本的な権利の一つで、海軍で最も人気のある娯楽でもある。あたしはぶつぶつと不平を言うのを楽しんだ。が、川内の鋭い声が無線機越しに言った。「注意。方位〇-四-五に動きあり」北東(〇四五)に彼女の言う“動き”を探す。空は既に明るくなっていたので、見つけるのに時間は掛からなかった。だがここからでは、それが何なのかは肉眼で判別できない。あたしは艤装のポーチに手を伸ばし、中から小さな双眼鏡を取って構えた。波で不規則に視界が揺れるが、どうにか相手を捉え、拡大する。すると、艦娘たちの一隊だと分かった。六人でしっかりと複縦陣を組んで、あたしたちとは逆方向に移動中だ。じきにすれ違うことになるだろう。夜間哨戒を終えて、帰る途中だろうか?

 

「大丈夫、友軍だった。交戦の形跡もないから、深海棲艦から逃げてるってんでもないみたいだね」

 

 三人に無線でそう伝える。川内が言った。「じゃ、挨拶でもしてあげる?」海の上で友軍と会うのは、艦娘の数少ない喜びだ。敗走中だとか、特段の理由がなければ挨拶くらいはするのが礼儀だった。見たところ、今から針路を調整すれば、声を掛けるには丁度いい距離ですれ違える。あたしは返事代わりに、針路変更の命令を出した。水平線の手前に、小さく見えていた艦娘の姿が、段々と大きくなっていく。あっちも早くからこちらに気づいていたらしく、複縦陣の先頭に立つ二人の内の一人は、大きく手を振ってこちらにアピールしていた。もう一度双眼鏡を通して、今度は低倍率で見る。手を振っている艦娘は、見た顔だ。同じ泊地の、別の提督隷下の「筑摩(ちくま)」だった。艤装は改造を受けた航空巡洋艦のものだから、結構なベテランだ。

 

 彼女はあたしが双眼鏡で見ているのに気づくと、忙しなく数字を意味するハンドサインを送ってくる。無線の周波数をそれに合わせろ、という意味だ。読み取った数値を川内たちに伝達してから、周波数を変更する。ただし松だけは元の周波数のままにさせ、竹と並走させて通信を傍受できるようにしてやった。でないと、元の周波数宛に連絡が来た際、反応できる者がいなくなってしまうからだ。

 

「おはよ、筑摩。夜間哨戒の帰り?」

「おはようございます、加古さん。ええ、そうなんですけど、驚かないで下さいね、潜水艦を四隻もやっつけたんですよ!」

 

 確かにそれは、大した成果だ。俗に改二と呼ばれる、改造された艤装を使用する許可を得たベテランの艦娘でも、航空巡洋艦一隻で四隻の潜水艦を撃沈するというのは中々例がない。彼女の艦隊における今回の任務の殊勲賞(MVP)は、筑摩で決まりだろう。しかし、潜水艦が四隻も出たというのは良くない兆候だった。あたしたちは、今から彼女たちがやってきた方向に行くのだ。松と竹は当然として、川内も水上機を積まない代わりに対潜装備を持っているし、あたしが載せている水上機は、対潜攻撃が可能な瑞雲なので、何もできないということはないが、とにかく潜水艦は苦手だった。

 

 互いに情報交換をしていると、いよいよ彼我の艦隊の距離が縮まってきた。有益な情報も粗方聞けたことだし、そろそろ楽しい会話も打ち切るタイミングだろう。手を振り合い、すれ違う瞬間、「この後も気を付けて!」と声を掛け合う。筑摩にはもう一言の別れの挨拶をしてから、周波数を元に戻すよう、艦隊員たちに知らせた。

 

「なんか、いいよなあ、ああいうの。艦娘っぽくてさあ」

 

 筑摩らの艦隊から少し離れたところで、気が抜けた調子の竹が言った。まあ、気持ちは分かる。けれど、敵の潜水艦がいるかもしれない方向に進む時には、気を張っていて欲しかった。軽く後ろを向いてじろりとにらむと、松が既に注意していた。この上、あたしから何か言うのはやりすぎか。代わりに、筑摩たちに寄った分ズレた針路を、修正するように命じる。

 

 川内から通信が来た。「ねえ加古、そろそろ瑞雲を飛ばしといた方がいいんじゃない?」うーん、と声が出てしまう。確かに、筑摩の話を聞いた後ではそんな気にもなる。しかし、あたしの水上機の搭載数は僅か二機だった。一機を飛ばして、もう一機は休憩とメンテ、というローテーションをするつもりではいるが、妖精たちは無尽蔵のスタミナの持ち主ではない。今、水上機による警戒を始めてしまうと、もっと危険な海域に着いた後で、へとへとの妖精たちを空に送り出すことになる。それは避けたかった。筑摩たちが何処で潜水艦と接敵したかは聞いていたので、その海域に近づいたら航空哨戒を始めるとしよう。それまでは、あたしたちの両目と、艤装のソナー、それから艦娘の勘だけが頼りだ。

 

 考えを伝えると、川内はそれを受け入れた。彼女は本来、艦隊の六番艦、艦隊内指揮序列最末尾だ。自分の具申した意見が却下されるのには慣れているから、気にもするまい。むしろ、人の意見を退けることに慣れていないこっちの方が、不安になりそうだった。川内の意見には正しい点も大いにあるのだ。ここで瑞雲を飛ばさなかったことで、後で悔やんでも悔やみきれないような出来事が起きたらと思うと、気が気でない。あたしは自分が普段、艦隊の下っ端でいることを、とてもありがたく感じた。上からの命令に従うだけなのは楽でいい。

 

 艦隊は無言で進んだ。時々、艦隊員たちは見つけたものを報告してきたが、そのどれもが浮木などの漂流物か、でなければ見間違いだった。駆逐艦娘の二人のソナーにも引っかかるものはなく、もしかしたら潜水艦隊は壊滅したか、そうでなくとも大被害を被ったことで自分たちの基地か何かに引っ込んだのかもしれなかった。順当に考えれば、単にまだ連中の狩場にあたしたちが入っていないだけなのだろうが、希望を持つのはいいことだ。その輝きに目をくらまされるようなことさえなければ、幾つでもどんな希望でも、持っていないよりは持っている方がいい。

 

 と、竹が声を上げた。彼女は陣形内であたしの後方、松の前についていたのだが、水上警戒に意識を割きすぎて速力の調整をしくじっていたから、こっちからするとほとんど真後ろにぴったりくっつかれたような形になっていた。事故を起こしかねない距離だ。彼女が無線を通さずに出した声が聞こえたことでそれに気づき、あたしは舵を切って距離を開けた。陣形を崩すことにはなるが、後ろから衝突されて海面に頭から突っ込むのを避けられるなら、それくらいのデメリットは甘受するべきだ。それから怒鳴りつける。何事も順番が大事だ。

 

「何やってんだこの馬鹿野郎、前に出すぎなんだよ! 心中したいならあたしじゃなくて後ろの姉貴()とやってろ! それから、報告は無線を通さなきゃ聞こえないでしょ!」

 

 叱るのが苦手なもので、最後の方は厳しさが抜けてしまった。竹は慌てて無線機を掴むと、艦隊どころか、半径一キロに聞こえそうな大声で叫んだ。「ええと、方位……あっちに敵影!」帰ったら川内経由で友達になった、訓練好きの軽巡艦娘「神通(じんつう)」に頼んで、死ぬほど訓練させてやる! しかし、まずは敵影の確認だ。竹の方を向いて、彼女が指差している方角を見る。いた。遠くにだが、駆逐か軽巡くらいのシルエットが見える。艦娘のそれとは大きく異なるので、深海棲艦だということはすぐ分かった。こちらよりも先に気づいていたのか、単縦陣の横っ腹に突っ込んで来ようとしていた。気づくのがもっと遅れていたら、先制攻撃を受けて被害を出すか、そうでなくても大混乱を引き起こしていただろう。

 

 双眼鏡で敵の数と種別、陣形を確認する。肉眼で見たものを、信じすぎるのは良くない。目は嘘をつかないが、目を通して送られる画像・映像を認識するのは脳だ。そして、脳は大嘘つきなのである。見たところ、敵は軽巡一隻に率いられた駆逐艦五隻、梯形陣だった。他の深海棲艦の艦隊と組んで、連合艦隊を形成している風には見えない。きっと、今のあたしたちと同じように、哨戒任務に当たっているのだろう。そして互いに運悪く、ここで出会ってしまった。

 

 軽巡と駆逐の組み合わせなら、気を付けるべきは雷撃だ。すぐさま雷跡への注意を呼び掛ける。今度は松が発見した。軽巡や重巡艦娘は、駆逐艦と比べて背が高い傾向にある。駆逐艦娘たちの方が雷跡の発見が早かったのは、視点が海面により近いことが理由かもしれない。竹のような間抜けな報告ではなく、きちんとした伝達だったので、あたしはただちに次の行動に移れた。敵艦隊の方向へ転針して、針路上に置かれていた予測雷撃をかわす。彼我の間にはかなり距離があったので、敵艦隊もこちらの未来位置の予測が困難だったのか、魚雷と魚雷の間隔は広かった。難なく回避して、反航戦に入る。艦隊員に増速を指示した。ほとんどトップスピードだ。

 

 こういった場合の砲撃は、原則として、数を撃って当てるものだ。同航戦などなら距離を取って向かい合い、しっかり狙いをつけて撃つのも大事だが、反航戦だとお互いの進行方向が逆向きであるから、時間を置けば置くだけ距離は縮まり、砲弾の命中率が上がってくる。余程の大物と刺し違えて死のうというつもりでなければ、乱射してまぐれ当たりを起こし、相手を転舵させるか、もしくは左右どちらかに弧を描いて進むことだ。深海棲艦も艦娘も例外はあるが、火力の投射方向は、前面百八十度以内に収まることがもっぱらである。片方が敵艦隊の尻を取ろうとすれば、それを嫌がる相手は逃げながらも背後を逆に取ってやろうと動き、結果として二つの艦隊は円を描いて死のダンスを始める。できればそうなりたくはないので、命中を出したいものだ。

 

 あたしは重巡艦娘で、搭載している砲は敵旗艦のそれよりも、遠くから撃つことができた。あたしの二〇.三センチ連装砲は、右腕に一つ、左肩の艤装部分に二つ、砲門を有している。それを全部敵に向けて、撃てるだけの速度で撃ち始める。残りの三人にも、射程内に入ったらとにかく攻撃しろと言ってあった。あたしの放った弾が、敵艦隊の傍に落着する。仕返しの弾も飛んでくるが、こちらに届く前に水面へ着弾し、水柱を立てただけだった。せせら笑ってやる。数の上では四対六だが、それくらいの不利は覆せる筈だ。

 

 こちらの最後尾から、川内が撃ち始めた。ということは、じきに深海棲艦側は六隻が撃ち始めるだろう。この辺りで仕掛けておきたい。あたしはハンドサインで陣形の変更を通知する。無線でもいいが、周囲で砲弾が炸裂している時には、耳より目の方がまだ使えるものだ。新兵二人を背に庇う形で、あたしと川内が横並びになる。こうすれば、後ろの駆逐艦娘たちも少しは落ち着いて戦えるだろう。それに、川内の大得意、雷撃の邪魔にもならない。彼女の両腰に装着されているのは、酸素魚雷だ。当たれば一発、形勢逆転である。

 

 本人としては左右に積んだ八発全部を放ちたかったろうが、後のこともある。まずは四発を発射させた。酸素魚雷は、通常の魚雷と違って雷跡がほとんど出ないのが特徴だ。加えて、長射程なのもいい。大規模な海戦だと、外れた酸素魚雷が随分と離れたところにいる味方の艦娘に命中することもあるから、使いどころが難しいが、今日のこの戦いなら遠慮はいらなかった。敵艦隊との距離には余裕があったので、雷撃それ自体にも気づかれていない。命中を期待せず、砲撃を続ける。圧力を掛け続け、魚雷を放ったことを気取られないようにするのだ。

 

 息を忘れるような待ち時間が過ぎた後、狙いは当たった。川内の魚雷は、三発までが命中した。軽巡には当たらなかったが、被害を受けた駆逐艦は一撃だった。敵は反転を試みる。その背中を追うかどうか、あたしは迷った。数の有利も逆転したし、追いかけて片付けるのも悪くない。だが、敵が逃げた先に別の深海棲艦の艦隊がいない保証はないのだ。一個艦隊、六隻が向こうの援軍として現れたら、四対九だ。最初の時点よりも悪化している。空母や戦艦だって現れるかもしれない。決めた、追跡はなしだ。停止と警戒の指示を出す。砲弾や燃料の補充もしておきたい。加古の艤装が出しうる最高速に近い速度で動いていたせいで、燃料がそれなりに消費されてしまっている。今後も戦闘が起こりうることを考えれば、補給の要があった。ついでに、やりたいこともある。

 

 さて、しかし補給したいと思ってみても、燃料入りのドラム缶が海の底から浮いてくることはない。方法は二つだ。一つは泊地に連絡して、空中投下して貰うこと。これはまずもって無理な話だった。そんな贅沢が許されるのは、中規模・大規模作戦の時くらいだ。でなければ、余程政治力に長けていて、権力のある提督の指揮下にある艦隊で、しかも旗艦がその提督から非常に気に入られている、とかでないといけない。そのどっちでもないから、この案は使えなかった。となると本命の第二案、補給所に行くしかない。

 

 役に立ちそうなものなら何でも突っ込んでいる艤装のポーチから、海図を引っ張り出す。現在地は分かっていたが、ここから近い補給所を探すのには、海図の力が要る。あたしは紙に穴が開きそうなほど見つめて、じっくりと検討すると、行先を決めた。海図を片付けてから、針路変更を艦隊員に伝え、移動を再開する。無論、速度は巡航速度だ。燃料計の数値によれば、全速力でも補給所に着くまでは十分に持つが、それは邪魔が入らなかった場合に限る。意味のない賭けをする気はなかった。

 

「補給施設がこの先にあるんですか?」

 

 松が訊いてきた。黙らせるのは簡単だが、あたしは先任の艦娘だ。同じ艦隊にいる限りは、こいつを教育する義務がある。それに、さっきの水筒に関する質問と違って、これは教えておくべきことだった。

 

「海軍の基地とか、そういうのを想像してるなら、そんなものはないよ。あるのはちっちゃな、秘匿された無人の物資集積所ってとこだね。作戦中にどうしても弾や燃料が尽きたら、そこで補給するんだ。言っとくけど、正式な補給施設じゃないから、提督や艦娘以外の連中が聞いてるようなところで、ここの話なんかしちゃダメだからな。それから、所属泊地の違う艦娘に喋るのも禁止だよ」

 

 その場所を管理して、資材を置いているのはあたしたちの泊地の艦娘だ。それが誰なのかは知らないが、かなり几帳面なのは間違いない。これまでに彼女が設置させたという秘匿補給所を何度も使ってきたが、いつ行ってもそこには欲しいものが置いてあった。多分だが、潜水艦娘を使ってこっそりと運ばせているんじゃないかと思う。擬装も完璧で、下手に外にいるより安全だということで、そこで一晩過ごしたこともあった。寝具も何もなかったが、ただ地面に横になれるというだけで、出撃中だとは信じられないほど、快適に過ごせたものだ。

 

 あたしたちは二時間ほど掛けて、補給所へと移動した。もう少し早く着く予定だったが、時間が掛かってしまったのは、道中で交戦を避けたせいだ。今回の任務は指定された海域を哨戒してくることであって、見つけた敵に片っ端から喧嘩を売ることではない。なので、敵を見つけても逃げるか、息を潜めて気づかれずに済むよう祈るかだった。空母系の敵と遭わなかったのは運が良かった。もしそうなっていたら、緊急用の周波数で助けを求めつつ、一目散に泊地まで逃げる以外、助かる手立てはなかったろう。

 

「さあ、見えてきた。あそこが補給所だよ」

 

 指で示してやるが、新米二人には分からなかったらしい。川内が優しげに言った。「あそこだよ。ほら、あの岩礁が見えるでしょ?」「岩礁が補給所なのか?」無線越しの声だけでも分かる。竹は目を丸くしてぱちぱちとまばたきしているんだろう。あたしたちは小さな丸い岩礁に近づいた。一軒家よりは少し大きいかな、というくらいのサイズで、塀のように反り立った岩の壁は、人一人半ぐらいの高さがあって、その向こう側がどうなっているかを全く見せてくれない。

 

 岩と色合いが同化して見つけにくいものの、岩壁には金属の梯子が打ちつけられていた。それを使って、壁をよじ登る。後から竹、松、川内の順番で上がってきた。感心の意を含んだ低く小さな歓声が、二人の駆逐艦娘の口から漏れる。この岩礁は、本当はドーナツ型になっていた。大岩がくりぬかれたかのように、岩壁の内側は海になっていたのである。でも大したサイズではなかったので、この補給所を作った艦娘は、その内側に床と屋根を付け、土を敷いて擬装ネットを被せ、中空の小島のようにしてしまった。竹が言った。

 

「なんか、ここ、この前食べたチーズタルトみたいだ」

 

 松と川内が明るい声を上げて笑った。あたしもにやっと笑った。竹は自分の発言が艦隊員の笑いを誘ったことに、恥ずかしがったようだった。川内には突っかかりづらいからだろう、松に「笑わないでくれよう」と情けない声で絡んでいる。それを尻目に、あたしは内部への入り口を探した。擬装ネットの端を持ち上げ、その下に隠されているハッチを見つける。それを持ち上げて、艦隊員たちを中に入らせた。岩壁と似たような梯子で、三人が下に下りていく。内部は暗いので、あたしが上から艤装の探照灯で照らしてやった。フルパワーだと目潰し以外の何物でもないので、投光部に被せるフィルターを使って、かなり弱めに調整してだが。

 

 下りていく艦隊員たちを見ながら、床までの距離を測る。梯子の長さからして、この補給所の床は海抜マイナス一、二メートルくらいのところにあるだろう。全く、ここを作った艦娘は一体、どうやってそんなことを成し遂げたのやら! 三人が下りたのを確認してから、あたしも下りる。ハッチを閉めれば、もう安全だ。その頃には、川内が手際良く彼女の艤装と補給所内の電力設備を繋いでくれていたので、探照灯の明かりがなくても補給所内は真っ暗ではなかった。補給所の天井から吊り下ろされている蛍光灯が、ぼんやりと光を放っている。

 

 あたしは半分本気で、ここで今日一日を過ごし、指定された海域での哨戒を済ませた、ということにして翌朝帰るのはどうだろうかと考えた。この場所ならほぼ安全だし、床もあるから寝るのも難しくない。四人だから広さは十二分で、仮にもう一個艦隊が宿を求めてやってきたとしても、やや窮屈ではあるが過ごせるだろう。魅力的な考えだった。けれど、そうやって哨戒任務を完了したと木曾秘書艦に告げれば、彼女はその嘘を基にして次の動きを考えるだろう。そして、別の艦隊の別の艦娘たちが、あたしの手抜きの報いを受けることになるかもしれない。考えるだけでも恐ろしいことだ。やはり、任務はやり遂げなければならなかった。

 

 気が重い。聞かれないようにしながら溜息を吐き出すと、腹がぐうと鳴った。連鎖して、松と竹の腹も鳴る。時計を見ると、食事時を少し過ぎてしまっていた。食べていていい、と川内たちに告げて、あたしはその前にやっておくことを済ませる。補給所には緊急連絡用の無線機があり、万が一艤装の通信機能がやられても、近隣の艦隊に呼び掛けることができるようになっていた。至れり尽くせりの非公式補給所だ。あんまり濫用していると、無線を傍受されて深海棲艦に位置がバレるかもしれないので、無駄遣いはできないが、短い交信ならリスクはほとんど皆無である。あたしは頭の中のメモ帳にある周波数に合わせて、短いメッセージを送った。そのままでは、何の意味もない文章だ。数分待つと、同じく意味のない文章が帰ってくる。運がいい。彼女はこの付近にいるようだ。

 

 無線機を置き、あたしも適当な場所に腰を下ろして食事を取ることにした。食事と呼べるほど文化的ではないが、水とブロック型の栄養食は、任務中に艦娘が食べる代表的なメニューだ。あたしはそこに、手製の苺ジャムの小瓶を用意していた。松と竹が今にもよだれを垂らしそうな顔でこっちを見ている。苦笑いで手招きをすると、川内までやってきた。「あんたはジャムくらい持ってるでしょ」「ちぇっ、ケチぃ」ぶうぶうと文句を言うが、新兵でもないなら優しくしてやるつもりはない。だが彼女の自家製ブルーベリージャムとの交換なら、二対一のレートでまでなら、交換してやってもよかった。彼女のジャムは泊地でも有数の味わいで名高いから、それだけの価値はある。

 

 あたしがスプーンで彼女たちの栄養食にジャムを乗せてやると、松と竹は目をきらきらさせながら礼を言った。それからちびりちびりと、なめるようにして食べ始めた。日本で艦娘になるのは、大抵が十五歳、次いで十八歳だ。中学を卒業してすぐになるか、高校卒業直後になるか、である。二人はどっちだろう? 体感で七割くらいの艦娘は、それが許される最下限年齢である十五歳で、海軍に志願入隊した者たちだ。片方は十五で、もう片方が十八であったっておかしくはない。だがどちらにせよ、今は二人とも見た目通りの幼さに見えた。

 

「ちょっと計算してみたんだけど、マズいかもだよ、加古」

 

 隣にやってきた川内が、どっこいしょ、と座り込んで横から海図を突き出してきた。既に彼女の食事は終わったらしいが、あたしの食事が済むのを待つのは嫌だったらしい。海図にはラップが張り付けてあって、その上からマジックで線を入れたり、点を打ったり、数字を書き入れたりしてあった。口の中のものを噛み締めながら、身振り手振りで説明を求める。

 

「このまま行くと、指定の海域に到着した頃には夕方で、哨戒を済ませると日没、帰りは夜の海を行くことになりそうなんだよね。そりゃ、私は夜戦大好きだしいいんだけど、松と竹の二人は夜戦なんて絶対経験ないじゃん? 精々訓練所で真っ黒のサングラス掛けて、夜戦ごっこしたくらいに決まってるよ」

「ん、じゃあ、この後の移動を全速力で済ませるのはどう? それなら、大雑把に計算してだけど、日没直後ぐらいには、泊地近海まで戻れるんじゃないかって思うんだけどさ」

「うーん、それ、現実的じゃない気がするけどねえ。敵を無視して突っ走るったって、まだ明るい内に空母と出くわしでもしたら、一発で破綻する計画だし」

「哨戒して、ここまで戻ってきて、一晩泊まる?」

 

 それがマシなんじゃないかな、ということであたしたちは合意に至った。この任務を一日で終わらせられたならそれに越したことはなかったが、無理をして危険を冒してまで、今日中に泊地に帰ろうとは思わない。口の中の栄養食を水で流し込み、ジャムを一口分だけ舌に乗せると、食後の楽しみとしてそれを味わいながら、松と竹を呼び寄せた。二人も食事を終えたところだったようで、反応は食後の幸福感が邪魔してか、少し鈍かった。川内が、ジャムを楽しんでいるあたしの代わりに決定事項を伝達する。

 

「二人とも、燃料と弾薬の補給を済ませて、いつでもここを出られるように準備しておくこと。いいね?」

 

 彼女たちは返事をして、早速取り掛かった。あたしは二人の作業を監督して、川内の艤装への弾薬補充を行わせた。自分の艤装しか触り方を知らないで許されるのは、訓練所までだ。手の空いている者が、他のことで忙しい者の補給を代わりに行ってやらなければならない時もある。今日の川内は忙しくないが、彼女も楽ができる分には文句を言わなかった。監督と並行して、あたしも自身の補給を済ませる。四人ともが完全に補給を終えたら、さあ、出発の時間だ。

 

 梯子を上り、竹いわくチーズタルトめいた岩礁の上に出る。三人が外に出たら、ハッチを閉じ、擬装ネットを掛ける。最初に来た時と同じように隠してから、あたしは岩壁から水面へと飛び降りた。三人は先に降りていたので、そのまま方位を確認し、移動を始める。単縦陣を形成し、周囲に気を配りながら、巡航速度と艦隊員との距離を保つようにする。また竹とぶつかりそうになるのはごめんだ。

 

 訓練所の教官に感謝すべきなのか、新兵二人の様子におかしな点はない。初の実戦で悪条件が重なったにしては、平気そうだ。新兵が出撃中の食事で人心地ついてしまって、海に戻るのを嫌がるってこともあるが、二人はそうでなかった。しっかり育ててやれば、立派な駆逐艦娘になれそうだ。早めにあたし以外の誰か、下っ端を育てるのが大好きな変わり者の艦娘にでも、引き渡してやりたかった。友達の神通はダメだ。他の神通ならいざ知らず、あれはただ訓練が好きなだけで、下を育てるって感じじゃない。そりゃ、あいつについていけたなら、能力は嫌でも向上するだろうけど。あたしなんかあいつの訓練を横で見てるだけでもつらくって、立ったまま現実逃避して、そのまま眠ってしまったくらいだ。

 

「そろそろ瑞雲を出すよ」

 

 新兵二人を驚かせないよう、無線で前もって知らせてから、水上機を発艦させる。瑞雲はぐんぐんと高度を上げて、やがて視界の中で、豆粒のような大きさになった。乗り組んでいる妖精たちと交信し、異状あらばただちに伝えてくれるように頼む。すると、早速の報告があった。あたしたちの進行方向から、駆逐イ級が一隻向かってきているという。改良された、より高い実力を持つ「エリート」でも「フラッグシップ」でもない、ただのイ級だ。艦隊を持たない()()()か、もしくはそいつ以外が轟沈して、必死で逃げているところか。速度はかなり速いらしく、後者の可能性が高そうだ、と妖精は結論していた。

 

 行きがけの駄賃として、始末していくか──そう考えてから、いや、と考え直す。松と竹にやらせよう。駆逐一匹なら、新米の駆逐艦娘二人にはぴったりの難易度だ。あたしや川内からしたらただの敵に過ぎないが、自分の手で深海棲艦を倒すのは、彼女たちにはいい経験になるだろう。妖精に、そのままその駆逐イ級を監視するように命じて、接敵するように針路を調整する。それから二人に無線で呼び掛けた。

 

「前方に駆逐イ級が一隻見つかった。多分、どっかで別の艦娘たちとやり合って、壊滅した艦隊の生き残りってとこだろうね。どうかな、二人とも。やってみようって気はある?」

「やります!」

「松姉がやるなら、俺もやる。加古さん、どうしたらいい?」

 

 どちらも、怖気づく様子はなかった。初めての出撃をした時の自分に比べれば、かなりいい度胸だ。「ようし、じゃあ、あたしに付いてきて!」速度を上げ、瑞雲からの情報を基に進む。やがてまっすぐ前方に、黒い点が見えてきた。あれがイ級だろう。その時点で、あたしは陣形を複縦陣に組み直し、松と竹を前に立たせた。巡航速度に減速し、彼女たちを肩がぶつかりそうなほど接近させる。最初の接敵時の竹は注意散漫だったが、今は意識できているから、危険はないだろう。二人の後ろに付き、彼女たちの肩に左右の手をやって、艤装の駆動音や風の音に邪魔されながら、聞こえるように大きな声で話す。

 

「見えてるよね、あの黒い点が駆逐イ級だ。今は小さく思えるけど、すぐに大きくなる。二人なら大丈夫だろうけど、焦りは禁物だよ。当たるもんも当たらなくなっちゃうからね。あいつらの主砲は口の中だから、真正面に立たなければほとんど心配はない。魚雷に気を付けて、それと近づきすぎるのは絶対に避けるんだよ。あいつらの口は見掛けだけじゃない」

 

 戦艦や空母艦娘が駆逐イ級に沈められることもあるが、その内の八割は乱戦の中で、接近されたことに気づかなかったという状況下での出来事だ。奴らの口は大きく、頑強で、艦娘の肉体を平気で噛み砕く。海軍のお偉方どもは、駆逐イ級は深海棲艦の中でも最弱の部類に分類されると主張するが、それは戦争を数値か何かで見ている人間の考え方だ。あたしは、生きながら食われる艦娘の絶叫を聞いたことがある。無線越しにだったが、それでも一週間は耳から離れなかった。そんなことができる敵を、弱いと侮るなんてことは、できない。

 

 二人の肩を叩き、「好きなようにやっちまえ!」と送り出す。もしどちらか、または両方が失敗して、マズい状況になれば、すぐに助けに入れるように、準備はしていた。瑞雲も何かあれば、爆撃で援護するようにと命じてある。川内は過保護だと笑ったが、あたしが初陣の時に、先任艦娘からして欲しかったことをしているだけだ。アドバイスと、励ましと、バックアップ。あたしの時には三つともなかった。当時は戦況が著しく悪かったので、仕方のないことではある。

 

 松と竹は二手に分かれ、前進した。イ級も遅ればせながら察知して、転舵で逃げようとしたが、それでは間に合わないと諦めたようだ。砲戦距離に入ると松に狙いをつけて、移動しながらの砲撃を始める。当然、精度は低いが、近距離への着弾のは怖いものだ。だが松は前回の交戦で洗礼を済ませていたから、動揺することはなかった。教科書通りの回避機動を取りつつ、イ級の正面に立たないように立ち回る。そこを竹が砲撃で支援する。何発かは外れたが、一発がイ級の横っ腹に当たった。当たり所と砲の威力のせいで、一撃で仕留められはしていないが、大きなダメージなのは確かだ。

 

 回避に徹していた松が、もがき苦しむイ級を見て、攻撃の態勢に移る。接近し、左手に装備した単装砲を構えた。あたしは無線機を掴んで怒鳴る。「射線確認!」はっとしたように、松が構えを下げた。砲口の向こうにいた竹が距離を取って離れて、やっと松は撃った。およそ戦闘行動を取れないでいたイ級は、それで完全に沈黙した。死んだのだろうが、注意深く、松は二発目を撃ち込んだ。それについては何も言わないでおく。死んだふりをする深海棲艦も実際にいるから、弾の無駄ではない。

 

 戻ってきた二人の表情は対照的だった。竹は初戦果に顔を輝かせているが、松は射線のことで叱られたのを気にしてか、落ち込んだ様子だ。だが、それでいい。もう同じミスはしないだろう。「二人とも、よくやったね!」川内がにこにこ顔で、そう褒める。あたしもそれくらい素直に褒めてやれればいいんだけれども、手放しに褒めそやすのも何か違う気がするし、にやっと笑って川内の言葉を借りるしかなかった。「そうだね、よくやった!」それで松の顔も、多少は明るくなった。

 

 反省点などを話しながら移動したいところだったが、瑞雲から連絡が入る。駆逐イ級が来た方角から、艦娘の一隊がやってきているとのことだった。一個艦隊、六人がいたが、その中の二人が隊列を抜け、先行してこちらに近づいているという。その二人の名前を訊けば、妖精は戦艦「ガングート(Гангут)」と嚮導(きょうどう)駆逐艦「タシュケント(Ташкент)」だと答えた。それなら、あたしが補給所の無線で呼び掛けた相手だ。一応の警戒態勢を敷きつつ、ガングートたちに近づく。二名で来ているなら、こちらも二名にした方がいいだろう。新兵だけ残すのは賢くないので、松を呼び、何も言わずにただ付いてくるように命じる。川内と竹は後方で待機して周囲の警戒だ。

 

 あたしたちは、普通に話せる距離まで近づいた。彼女たちと会うのは初めてではないので、緊張はない。松の方は困惑が強いようで、とにかく今は旗艦の言う通りにしていよう、という雰囲気だ。あたしとガングートが以前会った時みたいに、今度も彼女から口を開いた。

 

Здравствуй, Како(やあ、加古). Как у тебя дела(調子はどうだ)?」

Материться можно(罵り文句を使ってもいいかな)?」

Нет(ダメだ).」

Тогда, всё хорошо(なら、いいよって感じ).」

 

 ガングートは笑った。タシュケントもけらけらと笑った。あたしも合わせて笑った。松はきょとんとしていたが、言いつけを守って黙っていたご褒美に、小声で教えてやる。「合言葉だよ。暗記してるんだ。あたしがロシア語なんか喋れると思ったか?」ガングートはロシア海軍所属で、彼女の艦隊では旗艦を務めているのだが、一時期、日露艦娘交換協定で日本海軍に籍を置いていたので、日本語も流暢に喋る。それで時折、遠方での任務を受けた時なんかに、現地の艦娘たちと連絡を取って、ちょっとした取引をしているのだった。

 

 タシュケントは彼女の護衛で、腹心と呼べる存在であり、取引の中で険悪なムードになり始めると、出番が来そうだとばかりに露骨ににやにやし始める。日本海軍の艦娘たちはそれを見て、そろそろ妥協すべきラインかな、などと見定めるのだった。

 

「それで、何が欲しい? 何を持ってる?」

「これを」

 

 右足に下げていた水筒を取り、タシュケントに渡す。彼女は蓋を開けて香りを嗅ぎ、問題ないことを確認してからガングートに渡す。彼女も香りを確かめると、嬉しそうに相好を崩した。「確かに、加古スペシャルだ。いいな」あたしはそんな風にその酒を呼んだことはないが、ガングートがそう名付けるのを止める力も理由もなかった。その酒は、あたしが密造したものだ。色々な材料を使い、あたしの艦隊の四番艦、大の酒好きの隼鷹に試作品を何度も飲ませて反応を窺い、品質を高めた傑作である。ガングートと彼女の艦隊員は、これに目がなかった。ガングートはタシュケントに水筒を返すと、胸を叩いて言った。

 

「何でも好きなものを言え。適正な取引をしよう」

「じゃあ、高速修復材が欲しい」

「お安い御用だ。Ташкент(タシュケント), ей отдай ВБР(彼女に高速修復材をやれ). 」

 

 ВБР(ヴェー・ベー・エル)は彼女たちの言葉で、高速修復材のことだ。どうも、向こうではドックにおける高速修復材の使用時に、バケツ(Ведро)を使っているらしく、それもあって修復材は、Ведро・Быстрого(高速)Ремонта(修理)で、日本語に直訳すると「高速修理用バケツ」と呼ばれているんだとか。単に「バケツ」と呼ぶこともあると聞いた。タシュケントが短く尋ね返す。

 

Сколько(どれくらい)?」

Сто, нет, двести грамм(百、いや、二百グラムだな). それでいいか、加古? 二百グラムで?」

 

 日本では液体の量について言う時、リットル系の単位を使うのだが、ロシアでは違うのだろうか? どれほどの量になるか分からないので二百グラム分の高速修復材を見せて貰うと、十二分だった。合意して握手し、修復材入りの水筒を受け取って右足に結わえる。他に欲しいものはないかと聞かれて、ふと思いつき、お菓子はないかと言ってみた。ガングートは意外な要望だと思ったのか、即答しなかったが、やがて「飴があるぞ。それと軍用チョコだな。それと、暫く待ってくれれば、他の艦隊員が確かグミを持ってた気がする」と答えた。

 

「チョコと飴、安い方を貰うよ」

「じゃあ、飴だな。支払いは何にする?」

 

 艤装のポーチを探り、煙草を一箱出す。あたしは喫煙者じゃないが、愛煙家の艦娘は少なくない。ガングートもそうだ。そういう相手に頼みごとをする時、煙草を持っていると、ぐっと難易度が下がる。彼女は手ずから煙草を受け取ると、今度はタシュケントに渡さず懐に入れた。前に聞いた話では、タシュケントは健康意識が高いらしく、艦隊旗艦が喫煙していることを快く思っていないのだという。引き換えに飴を二握りほど貰い、ポーチに収める。取引はそこまでで、次は情報交換の時間だった。まあ、大したことを話しはしない。近辺で見た敵の話とか新兵器の噂、次の作戦海域の予想くらいだ。

 

 最後に倒した大物の深海棲艦について話していると、不意にタシュケントが何か小声でガングートに耳打ちし、それを聞いた彼女はこっちの話を止めて言った。

 

「話の途中で悪いな。言い忘れていたんだが、加古。言えないなら言えないでいいが、貴様らの任務はこの辺りの哨戒か?」

「ああ、うん。ここからもうちょっと進んだところのね。ええと、海図持ってる? ……ああ、ありがとう、そう、この辺だ」

「やっぱりそこか。それなら、我々が済ませておいたぞ。貴様たちを待っている間、暇だったからな。私たちが来る前に、そっちで深海棲艦の駆逐艦を沈めただろう? あれは打ち漏らしさ」

 

 なるほど、と納得する。この場合はどうしたらいいだろう? 目の前の相手が、適当な哨戒をしたとは思えない。ロシア海軍の代表として、日本海軍にやってきたほどの人物なのだ。その能力は疑えない。でも、そうしたら、どう報告書を書けばいい? 迷っていると、その理由を察知したガングートは、「心配するな」と言った。そして服のポケットから小さなノートを取り出すと、数枚のページを破ってこちらに渡してきた。

 

「片付けた敵の種類や位置、時間なんかは、ここにメモを取ってある。大丈夫、日本語だ。こうなるんじゃないかと思っていたからな。報告書はそれを参考にすれば書けるだろう」

 

 そういう要領の良さを見るにつけ、彼女の優秀さを感じることだった。あたしはありがたく彼女の厚意を受け取り、それを大事にポーチへと片付けた。「それじゃあ、また次会えるのを待っているぞ」別れの挨拶を交わし、踵を返して川内と竹のところに戻ろうとして、あたしたちは水平線の向こうから、夕焼けの空に勢いよく噴き上がる黒煙とオレンジ色の光を見て、それに次いで轟音を聞いた。補給所のある方角からだった。ガングートも足を止めて、こっちに近づいてくる。

 

「今のは何だ?」

「確信はない、けど、あっちにはあたしたちの補給施設がある。弾薬や燃料があるから、もしそれが吹っ飛んだなら、ああなりそう」

「それをやったのが深海棲艦なら、今度はこっちに来るかもしれない。確かめるしかないな。案内してくれ」

 

 心強い申し出だ。タシュケントが無線で呼び掛け、残りの艦隊員を呼び寄せた。彼女たちを先導し、川内と竹を回収しつつ、補給所に向かう。近づくにつれて、推測は確度を増していった。そして補給所があった場所で、それはシンプルな事実になった。岩礁は全壊していた。黒い煙を吐き出しながら、ネットや物資の残骸が、赤々と燃えている。それだけではない、流出した燃料にも火が付き、まさに火の海の様相を呈していた。何があったのかは分からないが、二度とここは使えないだろう。それはすなわち、川内と話し合ったプランが使えなくなったことをも意味していた。

 

 舌打ちをする。補給所の残骸を見ていても仕方がない。一刻も早くここを離脱するべきだ。声を掛けようとすると、上空にいた瑞雲から緊急連絡が入った。こちらに接近する敵機の一群を発見したという。即座にその情報を艦隊員とガングートに伝えると、川内が苦々しい表情で言った。「見られてたんだ」補給所に出入りするところを深海棲艦に見られていて、拠点だと知られてしまった。それはもっともらしい仮説だった。そうして補給施設を破壊したら、様子を見に戻ってきた艦娘を航空攻撃でアウトレンジから撃破する。深海棲艦のやりそうなことだ。だが、今はそれよりも敵機への対処が急務だった。ガングートと協議しようとすると、彼女は手を突き出して止めた。

 

「貴様ら四人ぽっちがいても、連携が取れん。かえって邪魔になるから、早くここを離脱しろ。敵機は我々が引き受ける。じきに日も暮れるから、奴らも長くは飛んでいられまい」

「そういう訳には行かないでしょ」

「そこの駆逐艦娘はまだ新兵だろう? 無事に連れ帰ってやれ。それで、次はもっと酒を持ってこい。助けてやった分、買い叩いてやろう」

 

 それが狙いだとばかりに、ガングートは悪役めいた笑みを浮かべる。けれど彼女の人間的な魅力と、戦艦の艦娘にしては低めな背丈が、それを好ましいものに感じさせていた。彼女たちに押しつけるのは本意ではないが、ここは受け入れるしかなさそうだ。上空の瑞雲に帰還命令を出し、回収しながら泊地への帰り道を全速力の単縦陣で行く。じきに、背後で砲声と爆撃音が始まった。激しく絶え間ないそれも、距離が離れるにつれて、小さくなっていく。ちらりと後ろを見てみると、松と竹は硬い面持ちで、緊張状態にあるようだった。ポーチの中からさっき受け取った飴を取り出し、二人に一つずつ渡してから、先頭に戻った。これで、気を取り直してくれればいい。ここからは、これまで以上に気を張らなくてはいけないのだから。

 

 以前には川内が、その後にはガングートの言った通り、夜はすぐそこまで迫っていた。雲は薄く、月明りを消し去ってしまうようなことはなさそうだ。それでも、ハンドサインは使えなくなるだろう。川内なら読み取れても、間に挟んだ二人は気づくまい。無線を使い、陣形の間隔を狭めるように指示を出す。これではぐれることなく泊地まで帰れたら、万々歳というものだ。探照灯の光を目印に再集合させるのは避けたい。そんなことをすれば、付近の深海棲艦は、誘蛾灯に誘われた虫たちのように集まってくるだろう。あたしたちは言葉少なに、帰路を急いだ。光はどんどんと陰ってゆき、遂には自分の手さえも、はっきりとは見えなくなってしまった。

 

 そういう夜の世界では、昼の世界よりも音を強く感じるようになるものだ。艤装の機関部から出る音、波の音、己の心臓の音。パッシブソナーを装備した艦娘なら誰でも、今のあたしの心拍音を聞き取れるかもしれない。それぐらい、大きく感じた。唇を噛んで、夜の闇の恐怖に耐える。川内が羨ましかった。さぞかし今は、わくわくしているだろう。敵が出てくればいいと思っていたとしても、不思議には思わない。川内の夜戦好きは、艦娘を知っている者なら誰でも承知というほどの、有名な話だからだ。自分自身にさえ聞こえないほどの、小さな声で罵る。帰ったら、木曾秘書艦を殴り倒してやる。こんな馬鹿な任務によくもまあ、あたしらを出しやがって。その次は隼鷹だ。口八丁でこの任務を免れたのが気に入らない。

 

 あたしがぶつぶつ唱えていた呪詛に深海棲艦が怯えたのか、数時間が経っても、接敵はなかった。気づくと艦隊は、筑摩たちと出会った場所の近辺まで来ていた。腕時計を見る。針に塗られた夜光塗料のお陰で、現在時刻が分かった。このペースなら、今日が終わるまでには帰れそうだ。そこから艤装への補給と片づけ、簡易報告、入渠。それが終わったらようやく、晩酌付きの夕食でも食べて、安穏としていられるようになる。

 

 今日の食堂のメニューは何だろう? 温かい食事なら何でも喜んで食べるが、できればシチューやスープみたいな、体の芯から温まるような食べ物がいい。夜は寒いし、風は昼夜関係なく冷たい。艤装の機関部の排熱を暖房代わりにしているので、凍えることはないのだが、手先足先の冷たさはどうにもならないのだ。しぼみそうになる気力を、帰り着いた後の希望を思い浮かべることで、何とか保とうとする。なので、認めよう。あたしはぼんやりしていた。それは、旗艦が絶対にしてはいけないことだった。

 

「敵艦、方位二-六-〇、同航戦! 距離はおよそ……」

 

 川内は彼女の計測した概算距離を言ったが、聞き取れなかった。それよりも先に、敵の発砲した砲弾が、辺りに降り注ぎ始めていたからだ。明らかに、あたしたちは先手を打たれていた。「元の間隔に散開、各個に反撃!」固まっていたら、いい的だ。速度を落とさず、適度に蛇行しながら、周囲に更なる敵影を探す。探照灯を使うか? いや、ダメだ。敵弾が集中し、轟沈するのが目に見えてる。旗艦を失って動揺した駆逐艦娘たちは、容易く沈められるだろう。川内だって、一人では生き延びられまい。

 

 発砲炎が視界の端に映った。川内が見つけたのとは違う個体だ。発砲炎の大きさからすると、軽巡か? 暗くて分からないが、そいつのいる辺りに砲撃を加える。やった、命中だ! 燃料に火がついたか、海上に深海棲艦を薪として、かがり火が発生する。闇に隠れていた敵艦が数隻、その光にあぶり出される。駆逐や軽巡ばかりだ。大物がいないのは救いだが、駆逐も軽巡も、夜戦では昼より恐ろしい存在になる。あたしは牽制の砲撃を加えながら、無線機を掴み、緊急用の周波数に呼び掛けた。“優勢な深海棲艦の艦隊と交戦中、こちらは四隻しかいない。重巡「加古」、軽巡「川内」、駆逐艦「松」と「竹」。至急救援求む。”位置情報を加え、もう一度同じ内容を叫ぶ。返事はない。誰かに届いたことを祈ろう。戦闘指揮もしなければならないのだ。

 

「松、竹、あたしが撃った辺りの敵に雷撃! 適当でいいからばら撒いて!」

 

 新兵の雷撃に、命中などもとより期待しない。それでも全部ぶち込んでやれば、一発くらいは当たる確率はある。でなくとも、雷跡に気づけば大きく回避行動を取ることになる。昼と違って夜は雷跡が見づらいから、必要なだけ動いて避ける、というのが難しいのだ。二人は単装砲をやたらに撃っていたが、あたしの指示を聞いて、雷撃を行った。それに合わせて、あたしも雷撃を行う。魚雷なんて、後生大事に抱えておくもんじゃない。結果を待っていないで、砲撃を続ける。

 

 かがり火は遠ざかり、また闇が戻ってきた。不意に、水柱が二つ立ち上がる。白い泡を含んだ柱は、月光を反射して目立った。魚雷が当たったのだ、それも二発も。これで、キャンプファイアになった一隻と合わせて、三隻は仕留めたか。六隻編成だとすれば「加古!」川内の声。背後から車にでもぶつかられたような、強烈な打撃を受けて、転びそうになる。咄嗟に足が動いてなければ、転んでそのまま深海行きだったろう。腰を捻って、弾が飛んできたのだろう方向を見る。「あ」と声が出た。駆逐イ級が、大口を開けて、あたしの顔面目掛けて、飛びついてきていた。

 

 衝撃。音が消える。水面に体が打ちつけられる。今度も、無意識が体を動かした。手を海面に叩きつけて一瞬の猶予を稼ぎ、その間に強引にでも立ち姿勢へと戻す。足が水面下に入ってしまっていてもいい。そこで脚部艤装を全力で動かせば、戦闘復帰だ。くそ、でも何があった? 耳鳴りで何も聞こえない。ふらふらしながら、それでも前進だけは止めずに、周囲に目をやる。離れたところで、あたしを後ろから襲ったと思しきイ級が、頭を失って浮かんでいた。そうだ。誰かに助けられたんだ。誰だ? 松を探す。いる。敵に応射しながら、ついてきている。竹もその近くだ。畜生、川内か!

 

 音が戻ってきた。決断の為の時間は数秒も残っていなかった。「松と竹はそのまま泊地まで前進!」無線機は壊れていなかったようで、二人はこっちを見た。撤退と言わなかったのは、初陣で仲間を失って撤退した、ということを今印象付けたくなかったからだ。返事を待たずに、あたしはイ級の残骸の辺りに取って返した。川内はあたしと同程度には戦える艦娘だ。まして、大得意の夜戦なら、あたしよりもずっと上手に戦える。あれっくらいで死んだなんて、絶対に信じられなかった。「川内!」腹の底からの怒鳴り声を上げる。すると、水面近くで、発砲炎が見えた。弾はあたしにも、敵にも関係のない方向に飛んで行ったが、お陰でそこに彼女がいるのだと分かった。

 

 松と竹を追いかけるのを諦めたか、それとも二手に分かれたのか、深海棲艦の攻撃は続いていた。だが回避機動も取らずに、川内のところに駆けつける。月光の下で見た彼女の体は、右腕が肩のところからなくなっていた。意識はないが、沈むのを避ける為に左腕の砲一門を除き、脚部を含むほぼ全部の艤装を解除したらしく、お陰で何とか水面に浮いていられるようだった。胸元を掴んで、強引に引っ張り、担ぎ上げる。体中がずぶ濡れなのに、熱い液体が彼女の体から流れ出していた。敵の砲撃に応戦しながら、右足の水筒を取って、中に入った希釈前の高速修復材を、川内の負傷箇所にぶちまける。

 

 あっという間に肉が盛り上がり、神経が繋がり、骨が再生して、元通りの腕になった。そのタイミングで意識を取り戻し、あたしの肩の上で咳き込みながら、彼女は言った。「命がけで助けてあげたのに、戻ってきちゃったの?」至近距離に敵の砲撃が着弾し、破片が脇腹に突き刺さる。痛みが怒りを呼び、戦意を奮い立たせる。恐らく彼我は一対三。その上、守らなければいけない戦友が肩に乗ってる。敵の艦種も何も分からない。それでも、あたしは叫んだ。

 

「あたしゃね、やる時はやるんだよ!」

 

 探照灯を灯す。ただ灯すんじゃない。妖精に指示して、点灯と消灯を可能な限り素早く行わせた。激しく点滅する光は、点けっ放しの状態と比べて、発光元を捉えにくい。深海棲艦は混乱したのか、砲撃が不正確になった。その隙を突いて、反撃を行う。一隻はそれで仕留められた。軽巡だった。だがもう二隻は、早くも状況に順応し始めていた。命中弾を期待せず、至近弾を繰り返し落とし続ける。何を狙っているのかに気づくと同時に、飛び散った砲弾の破片が、探照灯を破壊した。灯火の消えた戦場で、あたしと、残った二隻は向かい合う。月を覆っていた薄雲がはがれ、光が差し込んだ。一隻はさっき仕留めたのと同じ、軽巡だった。もう一隻は、重巡リ級。素のあたしと同格の戦力だ。

 

 分が悪い。負けを認めたら帰らせてくれればいいのに。泣き言が胸中をよぎるが、肩に掛かる重みを思い出せば、それも引っ込んだ。川内は命がけであたしを守ったのだから、あたしだって同じことをやってやる。やってやる。あたしは叫ぶ。砲を構え、全速で敵に突っ込んで──リ級の首が変な方向に曲がった。軽巡が驚いたように向きを変えようとして、何発もの小口径弾に撃ち抜かれ、動かなくなった。あたしは、救い主に初めて会った時のように、溜息を吐いた。命拾いをした、らしかった。

 

 二人組の我が救い主、松と竹はあたしの命令に従って、途中までは撤退していたらしい。けれど、竹の言葉で言えば「途中で気が変わったもんで」引き返して来て、松が重巡を、竹が軽巡を、近距離からの不意打ちで仕留めたのだった。竹もそうだが、松はとんでもない駆逐艦娘になるだろう。なんと、彼女は駆逐イ級に倣って重巡相手に飛び掛かり、向こうが事態を把握する前に全力で首をねじ折ってしまったのだ。こんな敵の仕留め方をする駆逐艦娘は、そういないだろう。

 

 彼女たちに助けられた後、泊地までは敵と出会わなかった。むしろ、あたしの緊急無線を聞いて救援に駆けつけようとしていた、夜間水上警備任務中の艦隊と接触し、護衛を頼むこともできた。彼女たちは間に合わなかったことを謝ったが、駆けつけようとしてくれただけありがたい話だ。それに川内も、松と竹も、あたしも、揃って生きていた。

 

 泊地に戻っても、拍手でのお出迎え、ということはなかった。腹も立たないほどいつも通りに、あたしたちは受け入れられ、川内は何より先に入渠ということになった。肉体的には治療済みとはいえ、一度は腕を失ったってんだから、当たり前だろう。輸血だって受けないといけない可能性はある。だが、まあ、命の心配はもう必要なかった。艤装を下ろし、その後始末なんかほったらかして、木曾秘書艦のところに行く。松と竹は、別に来なくたっていいのに、あたしの後を追ってきた。明るいところで互いの顔を見て、押し殺した笑い声を上げる。松も竹も、多分あたしも、ひどい顔になっていた。戦闘のストレス、死のストレスに晒された艦娘の顔だ。目をぎょろっと大きく開いて、瞳が落ち着きなく左右に振れる。廊下の曲がり角から戦艦ル級がこんにちは、ってこともないだろうに。

 

 すっかり夜になっていても、木曾秘書艦は執務室にいて、提督はいなかった。彼女は専用のデスクに座って書類仕事をしていた。ノック前に開けてしまった扉を、こんこんと叩く。書類に目を落としたまま、ちらりとも見ずに、彼女は言った。()()()。三人で執務室に入り、後ろ手に閉める。そこで秘書艦はようやく顔を上げて、顔をしかめた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あたしはぽつぽつと話し始め、木曾秘書艦は書類に何か書きつけながら、生返事でそれを聞いた。話し終わっても暫く、彼女は書類の処理を進めていた。

 

 竹がくしゃみをして、その音で秘書艦と書類の蜜月は終わった。彼女は握っていたペンをデスクのペン立てに戻し、背伸びをして、こちらに近づいてくる。みんなに敬愛される秘書艦の、頼もしく、人当たりのいい笑顔で。彼女はあたしの肩を馴れ馴れしく叩いた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。親切そうな顔で、彼女は言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あたしは内心の罵声を押し殺して返事をする。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あたしたち三人は黙って執務室を出る。食堂に行き、何らかの理由で遅めの夕食を取る艦娘たちや、非番でやることもなく、艦隊の仲間とたむろっている艦娘たちの中に加わって、食事を受け取る。木曾秘書艦の心尽くしだ。だが、彼女がどんな風に厨房の職員に言ったものか、間宮のアイスクリームは六人分あった。きっと、艦隊単位で注文したのだろう。松と竹は困り顔だが、あたしは気にしない。貰えるものは全部貰って、適当なテーブル席に三人で座った。それぞれの食事のプレートの横に、二個ずつアイスの皿を置いてやる。川内には、後であたしからアイスをおごってやればいい。彼女にも二個ほど食わせてやれば、満足するだろう。

 

 あたしは目の前に座った二人の新兵に目をやる。初陣帰りの彼女たちは、今になって色々と思い出している。あたしには分かる。同じ道を通ってきたんだから。だから、あたしは微笑んで、アイス用のスプーンを手に取り、二人の口に差し出してやる。そして言うのだ。

 

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08.「営倉で二人」

 ラバウル基地*1の営倉は、今日も昼から賑やかなものだった。その喧騒は、廊下一本分離れた場所にある、憲兵詰所まではっきり聞こえてくるほどだったから、全く相当なものと見なしてよかった。詰所にいた憲兵の内、ただの人間に過ぎない者たちが我先にと警邏(けいら)に出掛けてしまったのも、やむを得ぬことと言えただろう。しかし、彼らがとっとと何処ぞへ逃げ出してしまった後でも、残っていなければならなかった憲兵隊付艦娘*2らにとってみれば、これは実に恨めしい限りの裏切りであった。海軍からの出向組ではない、陸軍生え抜きの数少ない艦娘である揚陸艦娘「あきつ丸」などは、自席に座ってじっと耐えていたが、耳栓やイヤーマフをありったけ装着しようとする本能的な欲求との戦いに、ほとんど敗北しつつあった。

 

 その時である。詰所に備え付けられた電話が鳴った。とにかく耳に押しつけて営倉の騒ぎが聞こえなくなるようなものなら何でもよいと、あきつ丸は誰の追随も許さぬ速度で電話の下に馳せ参じ、受話器を手に取った。そして天に感謝した──基地の食堂で、日も沈まない内に酒を飲んで酔っ払った艦娘たちが、乱闘騒ぎを起こしたのである。姿形は少女であろうと、艦娘の力は常人を遥かに超越したものだ。これを鎮圧できるのは、艦娘以外には基本的に存在しなかった。憲兵隊付艦娘は、まさにこういった状況の為に配備されていた。

 

 乱暴に受話器を置いて立ち上がると、あきつ丸はその白い化粧面に喜色の赤らみさえ浮かべて宣言した。「出動であります」艦娘たちが一斉に動き出す。ラバウルの気候に合わせて着崩していた服装を引き締める者。鎮圧用の装備を点検する者。効率的な対処の為に、艦娘たちを幾つかの班に分けていく者。まるで大きな工業用機械のスイッチでも入れたかのように、一人一人が役目を果たそうとしていた。「それで」その動きがぴたりと止まる。「誰がこの場に残るのか?」あきつ丸は、天に哀願の念を込めて祈りながら、声の主を見た。だが籍と艦種を彼女と同じくする揚陸艦娘「神州丸(しんしゅうまる)」は、一向にそれを気にしなかった。

 

 なるほど、営倉を監督する者は絶対に必要であった。そこに入っているのは不逞の一般軍人のみならず、艦娘も含まれたからである。それに、万が一の話ではあるが、急病人が出ないとも限らなかった。そんな時に誰も詰所にいなかったせいで、適切に対処できなかったとなっては、責任問題にもなりかねない。誰かが、差し伸べられた蜘蛛の糸を振り払わなければならなかった。ここでそれを決める義務を持つ“誰か”は、陸軍所属にしてその場での最先任に当たる、あきつ丸その人であった。彼女は崩れ落ちるように腰を下ろすと、失望と呪詛のこもった蚊の鳴くような声で言った。それはどういう訳か、営倉からの騒音があってさえ、皆の耳に届いた。

 

「自分と神州丸が残るであります。現地指揮は、山汐丸(やましおまる)が執るように」

 

 艦娘たちは再び動き出した。部隊が肩を並べて詰所を出ていく寸前、指揮を任された特設護衛空母艦娘「山汐丸」は慰めるように言った。「あきつ丸先任、神州丸殿。帰りにアイスなど買って参ります」あきつ丸はせめてもの先任の意地で、平気そうな顔を取り繕って頷いたが、意味があったかどうかについては、彼女自身考えないようにするしかなかった。

 

 居残りの二人を除いたみんなが出ていった後、あきつ丸は彼女のデスクに突っ伏して、じたばたと手足を振り回し、苛立ちを空にぶつけて発散しようと試みた。唯一それを見ることのできる立場にあった神州丸は、規律に厳しい性質だったが、先任の奇行を見て見ぬふりをする優しさくらいは持ち合わせていた。一しきり暴れた後、あきつ丸は突っ伏したままぐったりとして動きを止め、覚悟を決めたような低い声で言った。

 

「今度の会議で防音房室の製作が却下されたら、最早、口枷を使うしかないであります」

「本艦は防音化には反対だが、かと言って貴様、口枷は虐待になるぞ。まず間違いなく大騒ぎ*3になり、陸海軍間の深刻な対立を招きかねない。分かっているだろう」

 

 神州丸に言われるまでもなく、あきつ丸はそれを了解していた。それでも、叶わないとしても、口に出して言いたかった。彼女はそれ以上何も言わなかったが、心の中ではこう叫んでいた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ラバウル基地の営倉は、そこに所属する人員の多さを示すかのごとく、多数が設けられている。が、そこに度々入るような馬鹿をやる艦娘や一般軍人は、そうそういるものではなかった。ラバウル基地の憲兵隊にとっての不幸は、何にだって例外が存在するという事実そのものだった。あきつ丸が呪う営倉の住人、夕雲型駆逐艦十番艦「涼波(すずなみ)」は、戦況さえ十分に好転すれば不名誉除隊待ったなし、とも噂される、各鎮守府や、基地、泊地に一人は存在する類の、端的な表現で言えば、問題児だったのである。

 

 涼波が問題を起こすようになった切っ掛けは知られていないし、本人もいつから自分がそんな風になったか、よく覚えていなかった。艦娘訓練所を出て、ラバウルに着任した頃の涼波は、新兵故の向こう見ずさ、元気さこそあったが、何かを仕出かすというほどの逸脱性は有していなかった。だが、ふと気づいてみれば、彼女は月の半分かそれ以上を営倉で過ごし、給料の三分の二を罰金の支払いに充て、ラバウル勤務の憲兵の個々人を知るようにさえなっていた。何も問題を起こしていない時は、その辺を巡回する憲兵に向かって、気軽に挨拶さえした。返事は滅多に返ってくることがなかったが、海軍の艦娘たちはその一点だけで以ても、涼波をひとかたならぬ駆逐艦娘と見なし、敬意を払った。

 

 彼女が起こす騒動は大抵、一線を越えた規模の賭博だとか、公の場での飲酒だとか、消灯時間を無視しての私的な宴会といったような、海軍生活に慣れた艦娘がやりがちなもので、独創性には欠けていたが、たまに天啓でも降ってきたかのように、あらぬことをやった。例えば、憲兵が基地内のパトロール中など、職務に臨むにおいて被ることを規定されている、制式ヘルメットへの悪戯である。

 

 装備品は普段、詰所脇の施錠された備品室に保管されているものなのだが、涼波は髪型を変え、姉妹艦に扮した上で出向組の艦娘を装って詰所に忍び込み、備品室の鍵の型を取った。後はその型に合わせて鍵を用意すれば、封印は解かれたも同然だった。犠牲になったのはあきつ丸を始めとして、基地付憲兵のほぼ全員だった。あきつ丸は、持ち前の注意深さのお陰で、憲兵隊付の艦娘の中では唯一被害を免れた神州丸に、事務ハサミで己の髪をざくざくと切って貰ったこと、そして内装のクッションが接着剤まみれのヘルメットを半泣きで頭から引っぺがしたことを、何年経っても忘れなかった。

 

 これだけのことをしても涼波が除隊させられたり、転属にならないのは、彼女の艦隊旗艦であり、ベテランの軽巡艦娘「能代(のしろ)」が、自分の艦隊に欠かせない人物として涼波を擁護し続けていた為である。実際、海の上での涼波は優秀だった。よく旗艦を補佐し、他の艦隊員に気を回すことも苦としなかったから、艦隊の雰囲気は常に士気旺盛に保たれていた。能代の提督は、自分の隷下に新しい艦娘がやってくると、必ず能代の艦隊で涼波の補佐の下、その艦娘に実戦を経験させた。これは抜群に効果のある訓練となり、初の実戦で新兵が恐怖に呑まれるのをどうやって回避するか、頭を悩ませていた他の提督たちは、しばしば能代の提督に助力を願った。

 

 そういったことが回り回って、涼波を危ういところでラバウルに留まらせていたのである。また、彼女の熱心がここのところ憲兵隊にばかり向かっていたのも、九分九厘の海軍の面々にとっては小気味よく感じられていた。そうでないのは出向組の艦娘だけで、彼女たちの犠牲はコラテラル・ダメージとして致し方ないものと見なされていた。

 

 憲兵隊の艦娘の中でも、涼波は、特に神州丸に対して対抗心を燃やしていた。ヘルメットへの悪戯に引っかからなかった神州丸は、その後の涼波の起こした騒動でも常に彼女の上を行き、先手を取って未然に犯行を防いだことも、一度や二度ではなかった。なので最初、涼波は神州丸を多少気に入らなかったが、同時に、何処か彼女を好んでいることも認めていた。他の憲兵や憲兵隊付艦娘たちは、涼波を要注意人物としてマークし、場合によってはやや強引にでも持ち物検査を行ったり、付きまとうような行いもあったが、彼女は決してそういった先入観や決めつけによる振る舞いをしなかったからだ。そうしてある日、涼波がからかい半分に神州丸へと挨拶をして、律義で堅苦しい挨拶が返ってきて以来、涼波は神州丸への親しみのこもった敬意を、包み隠さず見せるようになったのだった。

 

 もちろん、敬意を払うからと言って、涼波が危険な遊びをやめる訳ではなかった。彼女は相変わらず率先して憲兵隊の平穏な日常を壊して回ったし、毎日のように営倉に入れられては、何度となく脱走を図った。出撃の為、一時的に営倉処分を解除された際には、帰港してもわざわざ戻って行きやしないだろうと噂する者たちを尻目に、自室に帰るかのように堂々と営倉へ進み入り、どっかと室内中央に座り込んだ。初めてこれを見た折には、流石の神州丸も「戻ったのか」と呟き、涼波は「出撃は出撃、脱走は脱走だろう?」と言い返したものである。すると神州丸は、滅多にないことだが、くすくすと笑ったのだ。傍でそれを見たあきつ丸は己の目を疑い、その日の内に病気休暇を申請して眼科に受診し、両目二.〇の診断を得たという。

 

 憲兵たちが一番涼波にうんざりした点については──四六時中と言ってもいいほど、彼女が営倉の中で大声を出して歌ったことだった。ただ恐らく、憲兵たちよりもっとうんざりしたのは、隣の房室に居て音の暴力を食らった、別の軍人や艦娘たちであろう。事実として涼波が歌うようになってからというもの、ラバウルの綱紀はかつてない水準に高まった。素人歌手の隣の房室で鼓膜をなぶられ続けるくらいなら、品行方正になった方がマシだというのが、人々のもっぱらの評判だった。憲兵隊は涼波を黙らせようと試み、それが駆逐艦娘の強情さ故に失敗に終わると、ある重大な決定を下した。涼波専用の防音房室を造り、そこに彼女を放り込むこととしたのである。神州丸はこの特別扱いに反対したものの、結局彼女の意見は通らず、房室は改造され、憲兵たちは静けさを取り戻した。で、涼波にまつわる出来事においてはいつものように、神州丸は正しかった。そのことが分かったのは、房室改造から暫く後である。

 

 その日、涼波の艦隊は、彼女を抜きにして出撃していた。これは罰の一環で、一向に態度の改善を見せない涼波への脅迫も兼ねていた。自分がいない間に、家族にも等しい艦隊が死の危険に襲われるかもしれないことを思えば、今後少しは大人しくなるだろうという目論見だった。これはかなり効いたのだが、涼波の房室に同じ提督の下、別の艦隊で勤務している艦娘の一人がやってくると、話が変わった。彼女は、能代以下、涼波の穴埋めとして急遽艦隊に加わった補充の艦娘を含む全員が、作戦海域で消息を絶ったと涼波に教えたのだ。艦娘の二個艦隊を乗せたヘリ二機で構成された捜索隊が、三時間後に出るとも聞いて、涼波は憲兵たちに出してくれるように懇願した。隊に参加して、能代たちを見つけたらちゃんと戻ってくるから、と彼女は訴えたが、無駄だった。

 

 憲兵たちは警邏に出かけていき、憲兵隊付の艦娘もそれぞれの日常的任務を片付ける為に詰所を出た。残ったのは神州丸だけで、他の憲兵たちが彼女さえいれば涼波なんてどうにでもなる、と思っているのは明白だった。そもそも、彼女の為だけにしつらえられた営倉に閉じ込められているのに、何ができるものか、と彼らは考えていた。

 

 無論、涼波はその答えをずっと前から知っていた。出撃から素直に戻ってきて、神州丸を驚かせた日から。出撃ごとに、彼女は工廠で艤装整備に用いる薬品や塗料を僅かずつちょろまかし、房室内に持ち込んでいた。それを房室の扉の一部、主に蝶番部分やそれに近い箇所に塗布し、その部位の剛性を弱め続けていたのである。涼波は逸る心を抑え、じっと待った。ヘリが出発する直前に合流し、無理やり捜索隊に加わるつもりだった。幸い、営倉にも時計くらいは置いてあったので、時間に遅れたり、逆に早すぎたりすることは恐れずに済んだ。捜索隊の出発まで残り三十分ほどになるまで待って、駆逐艦娘は行動を開始した。

 

 やることは至って単純、これまで弱めてきた扉の一部分を壊し、こじ開けて出ていくだけだ。しかしそれを、神州丸に見つからず、気取られずに行わなければならなかった。今、涼波のいるこの建物を出て、工廠に無事たどり着きさえすれば、艤装も燃料も弾薬も何とかしてみせる。ただ神州丸だけ、乗り越えることができたなら、万事はうまく行く筈なのだ。涼波はそう信じていた。

 

 腐食させた部分に力が加わるように、体当たりを行う。余り大きな音が立たないように気遣いつつ、何度かそれを繰り返すと、確かにべきりと音が聞こえた。もう少しだ! 涼波は自身の体に、かっと熱いものが駆け巡るのを感じた。そのせいで、一歩だけ、余分に強く踏み込んでしまった。許容できるよりも大きな音を立てて、扉が壊れ、体当たりされて乗った勢いのまま、床へと叩きつけられる。涼波は思わず口元を押さえ、僅かに一秒、ここ暫くで最大最悪の失敗を味わった。けれど、彼女は失敗を失敗のままにしておくことは、何の足しにもならないと知っていた。

 

 すぐさま、賢しらに計画していた何もかもを忘れて、脱兎のごとく駆け出す。神州丸が脱走犯を取り押さえに現れる前に、工廠へ向かい、艤装と物資を手に入れなければならなかった。もし彼女が立ち塞がるなら、殴り倒してでも乗り越えていくつもりだった。ところが、営倉から出て廊下を半分ほど行ったところで、涼波は不審に思った。彼女が知っている神州丸なら、もう目前に立っていたっていい筈なのだ。なのに、彼女はいなかった。廊下のもう半分を走り、詰所の出入口を見る。ドアは半開きになっていて、今しがた出掛けたかのようだった。幸運の女神が自分に味方しているのか、悪趣味な罠に過ぎないのか、悩む余裕はなかった。

 

 涼波は走った。走って、走って、事情を知らぬ艦娘や兵士たちから「今度は一体何をしているのか」という視線を向けられながら、彼女は工廠に飛び込んだ。工廠付の明石は、来ると思っていたと言わんばかりの反応で、涼波を見るやただちに彼女の艤装を出した。既に燃料、弾薬共に補給されており、やるべきは身につけることだけの状態だ。装備を済ませ、礼もそこそこに発着場に向かう。警衛の兵もいたが、彼らは涼波を集合時間に遅れそうになって急いでいるだけだと勘違いしたのか、声を掛けることもなく彼女を通した。そうして涼波がとうとうヘリの前に到着した時、捜索隊は一個艦隊ずつに分かれて二機のヘリに乗り込むところだった。両艦隊の総指揮を執っていた重巡艦娘は、手を振って「早くしろ」と示し、それで話は決まりだった。

 

 後は、大したことは起こらなかった。涼波は捜索隊と共に能代が消息を絶った地点に移動し、事前情報と経験に基づいて、能代がどういう選択を下したかを推測した。総指揮の重巡艦娘は彼女の意見を尊重し、それは正しい判断だった。現場到着から数時間の後、捜索隊は装備や燃料、弾薬のほとんどを失い、ほぼ漂流状態の能代たちを見つけたのである。どういう事情でそんなことになったのかは、もっともっと後まで分からなかった。能代も他の艦娘たちも疲労困憊で、ヘリの中で事情聴取をできる状態ではなかったせいだ。しかし、ともあれ、艦隊の誰一人として欠けてはいなかった。涼波は捜索隊の中で誰が果たしたよりも、ずっと大きな役割を担えたことに、心から満足した。

 

 ヘリがラバウルに戻ってくると、発着場にはあきつ丸の率いる憲兵隊付艦娘が大勢で待ち構えていた。涼波は抵抗せず、両手を上げて彼女たちに降参した。そのまま親しみ深い営倉まで連れて行かれて、扉の壊れてしまった馴染みの房室の代わりに、その隣室へと放り込まれる。音を立てて扉が閉じ、次いで覗き窓が開くと、苛立ちで震えるあきつ丸の声が「次歌ったら口枷を噛ませるであります」と告げた。涼波の返事を待たずに、窓が閉まる。やれやれ、と苦笑して彼女が振り返ると、そこには神州丸がいた。床の上に正座し、遂に営倉から逃げ出してみせた駆逐艦娘をじいっと見つめて、言った。「馬鹿なことをしたな」涼波は、これから待ち受けるものが何であろうと、覚悟はできていた。精一杯虚勢を張り、笑顔を作って言ってやった。

 

「これで初めて、ようやっと白星一つってとこかな? それとも、あんたがあたしの脱走の責任取らされて一緒に営倉入りしたってことで……二つ?」

 

 相手の挑発的な態度にも、神州丸はにこりともせず、また、鼻を鳴らすような真似もせず、だが穏やかに言った。

 

「脱走できたのは当然だ。本艦も、初めて警備を怠ったのです。あなたを悲しませたくなくて」

 

 涼波はそれを聞いて、大いに赤面した。

*1
太平洋南西部のパプアニューギニア近隣、ビスマルク海沿岸に存在する海軍基地。前線にほど近い拠点の中では、物資も人員も比較的潤沢だった。所属する艦娘たちの練度においては、最前線たるトラック泊地等と比べ一段落ちるものの、その士気は極めて高かった。

*2
戦争末期までは、艦娘を鎮圧できるのは深海棲艦か艦娘だけで、ただの人間にはどうにもできない、という考えが主流だった。憲兵組織においてもこれは同じで、陸軍は数少ない陸軍艦娘らの多くを憲兵隊へと配属している。が、それでも足りなかったので、やがて海軍艦娘を出向させ、艦娘関連の案件に関わらせるようになった。彼女たちは「出向組」と呼ばれ、しばしば憲兵隊外の艦娘たちからは、陸軍にさらわれた哀れみの対象としてか、そうでなければ裏切り者であるかのように見られた。

*3
戦争中、憲兵隊による反抗的な艦娘への非人道的な拘束が映像付きでリークされ、問題になったことがあった。この事件については、「練習巡洋艦 鹿島」著の「砕けた奥歯」(朝潮出版)に詳しい。



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