喪失迷宮の続きを (木下望太郎)
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第1話  英雄は引きこもる、迷宮の最奥に

 物語は終わってしまって、それはウォレスも知っている。今ここで横たわるウォレスも。(かび)臭い薄闇の中寝返りを打つウォレス、頭の下に硬い石畳、しかしそこに己から移った温もりと、慣れた寝心地の良さを感じるウォレスも。抱えたガラス瓶の中、眠たげに酒が揺れる。

 

 と、ウォレスは目を開ける。同時に左手は酒瓶を置いて傍らに置いた剣の鞘をつかんでいたし、体は音も立てず起き上がり、片膝をついた姿勢になっていた。そのどれもが意図して行なったものではなく、ただの癖だった。背中へ、石畳を通して震動を感じたときの。

 

 滑るような足取りで歩き、入口脇の石壁へ背をつける。(こぶ)でもできたかのように筋肉が膨れた胸元へ、同じく膨れた左腕に抱えられた剣を寄せる。右手はその柄へ添えていた。柄を上、鞘を下へ引くことで、閉所であっても即座に抜き打てる体勢。

 

「くぁ……あ」

 

 隙のなさとは裏腹に、ウォレスは一つ大あくびした。大げさ過ぎると自分を思った。寝転がっていたとき、石畳を通じて聞こえた足音は六人。鎧に身を包んだ者が三人、そうでない者のうち、小さく音を立てる細かな道具を持つ者――解錠師(シーフ)の類だ――が一人、杖の音を立てる者――魔導師か療術師辺り――が二人。

 

 大げさ過ぎる。人間同士、害されるいわれなどウォレスにはない。仮にそうでなかったとしても、だ。人間相手に、こんな武装はあまりに過剰だ。

 

 ため息をついて剣を壁に立てかける。腰を下ろし、下着一枚履いただけの尻を石畳につける。手探りに酒瓶を取り、栓を抜く。

 

 あの足音の辺りから、直線距離でおよそ五十歩。仮にここまで来るとして、たどり着くには――ウォレス以外で――よくて一時間。幾枝にも分かれて曲がりくねる迷宮の石壁と、(いにしえ)の時代から仕掛けられただろう罠と、徘徊(はいかい)する(ドラゴン)やら悪魔やらの類を越えてここまで来るには。

もっとも、着くこともできるかどうか。素人ならこの階の五百階前にすら来られない。中堅ならこの辺りへ自分が寄りつけるとは考えない。ベテランが来たなら九割九分は死ぬだろうし、達人なら約半数の死者で済むだろう。そういう所だった、喪失迷宮の最下層は。地の底、ウォレス・ヴォータックの今の住処は。

 

「しかしま……今さら、来る奴もないはずだがね。こんなとこに」

 

 ウォレス・ヴォータックはつぶやいて、酒を一口()み込んだ。壁に背を預ける。身につけた袖なしシャツのにおいが気になり、そろそろ洗濯に行くべきかと思う。

 

 

 

 二時間ほどして。入口の鉄扉が叩かれたのと同時、ウォレスはそれを引き開けた。足音で四人が来ているのは分かっていたし、その内二人には聞き覚えがあった。

 

「久しぶりだな、()るか?」

 下着姿のまま酒瓶を掲げてウォレスは笑い。ドアの前で彼らは、鎧兜の下から血を流し、あるいは杖に寄りかかった体を震わせて足を引きずり。肩を荒く上下させて、四人とも血走った目を見開いていた。

 

 長い金髪を汗で額に張りつかせたまま、サリウス――魔導師だ、少なくともかつて組んでいたときは――は何も言わなかった。かくり、と口を開けたまま、荒く息をつくのみだった。

 

 同じ様子でいたアラン――戦士だ、最後の戦いが終わった後はパン屋を継いだと聞いたが、今もそうだろうか――は、額の血を拭い、大きく息をついた。兜の端からは逆立った前髪が黒くのぞいている。

「ありがとう、その、それより――」

 

 アランが後ろの二人に目を向ける。ひどく不安げに辺りの通路を見回す二人、片方は血の滴る脇腹を押さえた戦士。もう片方は青ざめて震える、療術師らしい男。仲間の傷を放っているところを見ると、もう魔力など使い果たしたのだろう。杖にすがりついて震えるばかりだった。

 

 不精髭の伸びる顎を、ウォレスは部屋の中へ向けてしゃくる。

「そうだな、まず入れ。二人の死体は?」

 

 気づいたときの足音は六人だったし今は四人。呑みながらの夢うつつではあったが、良くない物音も二度聞こえた。

 

 言われて後ろの二人が、跳ねるように肩を震わせる。アランはうつむき、サリウスは硬い表情で口を開く。

「……喪失だ、飲まれちまった、一人は。できれば運びたかったけどよ……もう一人は頭から――」

「気の毒だ。ま、入れ」

 笑ったままでそう言って、ウォレスは再び部屋の中を示す。

 

 

 

 死にそうな戦士と震えるだけの療術師は、狂人を見る目でウォレスを見た。薄明かりの灯された部屋で、座らされたかと思うと手当てもなされずカップを突き出され、酒精(アルコール)の香る液体を注がれたから。

 

 石畳の部屋に下着のまま、ウォレスはどっかと座りこむ。仲間だった二人の方へボトルを置き、床を手で示した。

「ま、適当に。カップそれしかなくてな、お前らはボトルで()ってくれ」

 

 二人は床に腰を下ろす。瓶の中で揺れる唐黍酎(バーボン)の琥珀色を見、手に取った瓶の口から匂いをかいで、弾かれたように顔を上げた。

「ウォレスお前……」

「まさかこれ、全部そうかよ……!」

「ああ、場所取るんで小瓶は捨てたが」

 仲間だった二人は顔を見合わせた後、急き立てるように、他の二人へ呑み干すように言った。

 

 不安げに顔を引きつらせながら顔を見合わせた後、戦士と療術師は一息に呑み込む。

 

 焼けるようだ、と思っただろう。酒精(アルコール)で喉が、胃が。燃えるようだ、と思っただろう。血を流す傷口が。裂けていた肉が、ひびの入った骨が。燃え上がるようだったろう、疲れ切った腕が脚が、ちぎれそうだった肺が、縮こまっていた心臓が、血の足りない全身の肉と枯れ果てたような脳髄が。

思っただろう、燃え尽きて一度灰になって、それから生まれ直したようだと。

 

 呑み干した二人は己の体をさすっていた。血を流していたはずの傷口を、折れかけていたはずの脚を探っていた。傷などどこにもなかったし、肌の荒れさえ一つもなかった。乱れ切っていた呼吸は傍から見ても、正常な速さに戻っていた。

 

 ボトルの中身を見つめてアランが言う。

『不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)』……死人すら蘇る霊酒か」

 固い顔でサリウスが言う。

「オレが呑んだのは三回だけだったな。最後の戦い直前と、その真っ最中。死にかけて一回……その後死んでから一回」

 ウォレスは不精髭の散る頬を緩ませた。

「だったな、あんときゃ焦ったもんだ。今日は大丈夫だ、ゆっくりと味わえよ」

「いや、オレたちは大丈夫だ。こんな貴重なもんを」

 

 ウォレスたちが共に戦っていた頃も、『不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)』は貴重だった。稀に売られていたとしても高価過ぎたし――近衛兵の年収でいえば一年分余り――、魔物が――迷宮に潜む魔物は概して意地汚く、何かしらを溜め込む習性がある――宝として隠し持っていることも稀だった。三口分ほどが入った小瓶にして二十三本、入手できたのはそれだけだった。そしてそれらがあったから、どうにかこうにか邪神を倒せた。

 

 ウォレスは何も言わず、横から木箱を引き寄せる。底の端が石畳の継ぎ目に引っかかり、横倒しになる。転がり出たボトルの中身はいずれも同じ琥珀色で、二本は盛大に割れて焼けつくような芳香をぶちまけた。

 

 二人が割れたボトルの方へ、悲鳴を上げて跳びつくのも目にくれず。ウォレスは別の木箱を両手にそれぞれ抱え、二人の前に音を立てて置いた。そしてもう一度、別の木箱を抱えてきて置く。もう一度別の木箱を二つ。また二つ。また二つ。また二つ。最後に一つ。

 そうして壁際に歩き、床に敷いた鉄板の上、横倒しに五つ並べた酒樽の上に腰を下ろす。

 

 サリウスが震える手で樽を指差す。

「それ、まさかよ……」

 

 ウォレスは何も言わず、樽の蓋に付けた木製の蛇口(コック)を捻る。同じ香りを立てる琥珀色の液体を掌で受け、溢れかけたところで口元へ運ぶ。音を立ててすする『不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)』は、大部分が手から石畳へこぼれた。

 

「お前、どれだけ戦えば、こんなに……」

 つぶやいて歩み寄ったアランは手前で急に立ち止まった。その目は樽でもウォレスでもなく、その向こう。部屋の奥へと向けられていた。

 

 気づいたのだろう、敷かれた鉄板の上、辺り一面に並ぶ、背丈ほどもある棚に。というよりも、その棚に詰め込まれているものに。

まるで暖炉にくべる薪ででもあるかのように、ぎっしりと積み重ねられた剣。紐でくくられた槍の束。長柄斧と片手斧、大きさ順に並べようとして挫折したみたいに途中から向きさえばらばらに、柄があちらこちらに飛び出したまま詰め込まれた棚。それにすら飽いたとばかりに、投げ込むように置かれた鎧や魔導杖、しわくちゃの魔法衣、棚の側面に投げ刺された短剣の群れ。間の通路を塞いで積み重なる剣の杖の盾の鎖鎧の薬瓶の兜の大鎚の魔法書の篭手の宝石の鎖鎌の剣の槍の刀の、山。崩れでもすれば人など容易く飲み込む、文字通りの山。

 

 アランは何も言わなかった。口を開けたまま、足元に転がる剣の一本を拾う。埃にまみれて靴跡すらついた鞘から抜き放たれたそれは、闇を裂いて白く澄んだ光を辺りへ投げかけた。反射などではなく、それ自体が光を、斬りつけるように放っていた。翼をかたどった鍔を持つそれはかつて、邪神と戦うため長く探し求めた剣と同じもの。今アランの腰にある、『絶聖剣(キャリヴァーン)』と同じもの。

 

 ウォレスは頬を緩めた。

「おっ! 懐かしいなそれ。そうだ、予備に何本か持ってくか? 確かもっときれいなのが……」

 ウォレスは棚に詰め込まれた武具を床へ放り出し始めた。上の方に手が届かず、それらを踏みつけて手を伸ばす。

 

 悲鳴のようにアランが声を上げる。

「いや、いい、いいんだ! それより――」

 懐をまさぐり、細い金属製の筒を出す。

「――用があって来たんだ。王宮からウォレスにだ、依頼だという話だけど……内容はおれたちも知らない」

 

 手渡されたそれは赤い(ろう)で封じられ、王宮の印が押されていた。

 

「そうか、ありがとう」

 ウォレスは蝋をちぎりながら栓をひねり、中の文書を取り出す。折り畳んでは破り捨てた。細かく、細かく。

「お前……」

「何やってんだ!」

 

 二人はウォレスに怒鳴り、紙片を拾い集めようとかがみかけて、やめていた。無駄だと知っているからだ。喪失迷宮を旅した者なら当然、みんな無駄だと知っている。

 

 ウォレスは掌を上に向け、弄ぶように振ってみせる。

「三年だっけ? 四年? もういいだろ、魔王はとっくに倒したんだ。奪われた秘宝もさらわれた姫も取り返した、召喚された邪神だって倒した。天変地異は治まって、結果、国は救われた。他に何を頼むことがある? することなんて何がある?」

 強くしかめた顔を二人に寄せる。

「お前らだってそうだ、呑みにでも来たかと思やあ久々に会っていきなり用事だ? だいたい他の三人はどうした、戦友の顔を見たくもないってか」

 

 サリウスは視線をそらす。

「忙しいんだよ、公務だ、二人は。近衛士団長と大司教だ、オレらみたいな民間とはそりゃ違うっての」

「ああそうかお偉くなったらキレイさっぱりか仲間の顔も迷宮(ここ)の道順も! もう一人は」

 

 アランが小さく笑う。腹の前で手を動かしてみせた。大きく丸くなでるように。

「これだよ、うちのは。三人目が腹にいる」

「ほーん……」

 

 顎の髭をこすりながらウォレスは目をそらした。二人が当時つき合っていたとか、そういうことは記憶にない。結婚したとかどうとかも――いや、多分、聞くには聞いたのだろう。四年だか五年だかの歳月が記憶を押し流してしまっただけで。

 

 遠くを見る目でアランが言う。

「もうすぐ九年か……最後の戦いが終わってから」

 髭をこする手が止まる。ウォレスは慌てて何度もうなずく。

「あ、ああ、長いもんだな」

「けど」

 アランが部屋の中を見渡す。うず高く詰まれた武具と転がる酒瓶を。

「それから……お前はどれだけ戦ってたんだ」

 答えずウォレスは酒瓶を拾う。一本ずつ二人へ放った。

「それより友よ、乾杯しよう。そして帰れ」

 二人は目を見合わせ、何も言わず、ウォレスとボトルをかち合わせた。

 

 二人は一口呑んでボトルを置く。他の二人――王宮からつけられた兵士や宮廷療術師か、雇われた冒険者か――を促し、出口へと歩いた。

 アランが振り返る。

「じゃあ、また。手紙を渡せって依頼はまあ、済んだしね。書かれてた中身は王宮行って聞いた方がいいと思うよ。そんときはついでに、うちのにも顔を見せてやってくれ」

 流すようにそう言って扉に手をかけた。

 

「待て……待てよ、待ってくれ、ちょっとよ」

 顔をそらしてそう言った、ウォレスの目がたまたま床の一角を横切る。石畳の上に敷いた鉄板、その上に脱ぎ散らかした衣服の山。

「送る、送ってくよ、なぁに。丁度洗濯に行きたかったんだ」

 散らばる汚れものや何やらを(かご)に詰め込み、剣を差した剣帯を下着の上から着ける。その姿を療術師ともう一人の戦士が、狂人を見る目で見つめていた。

 

 籠を揺すり、積み上がった汚れもののバランスを取る。その拍子に、下着に引っかかっていた文書の破片が床へと舞い落ちた。床に落ちたその一片はまるで雪が融けるように、床へ染み込んでいくように、石畳の上に消えた。不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)をこぼした辺りも、瓶の破片が散らばる他は染みの跡すら残っていなかった。

 喪失迷宮はそういう場所で、住むに便利な所ではない。

 

 



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第2話  皆によろしく

 ずる、ぺたたん、ずる、ぺたたん、と、サンダルの音が響いている。そのすぐ後から鎧を着こんだ者の足音、杖を伴った足音。その後から、同じく鎧と杖との足音、こちらはおそるおそるといった様子の。

 

 槍を振るってもまだ届かないほど高い石造りの天井。その下でウォレスの声が響く。

「どうだ、久しぶりの迷宮は。パン屋にはきつかったか? ああそうだ、サリウスって今――」

「ウォレス」

 アランがとがめるように、だが低く声を上げる。

「喋るな、来てる」

 

 果たして、目の前の曲がり角。空気の漏れる音に似た奇声を吐いて魔物が跳び出す。

大振りな曲刀を振りかぶったそれは、二足歩行の蜥蜴(とかげ)。ただしその口と胴は人間の頭を一飲みにできそうな大きさ、太さ。枝分かれした角が冠のように突き出た頭部は、そうするに都合のいい高さ――並の人間よりは頭二つ大きい。全身を覆う緑の鱗は一枚一枚が分厚く鋭く、刃を重ねて造った鎧のようだった。

 

 後から後から跳ね出た三体のそれらが、時間差でウォレスへと跳びかかった。

 ウォレスは洗濯籠を抱えたままだった。剣を抜いてすらいなかった。

 

「ウォレス!」

 アランが叫び終える前に死んでいた。三体の魔物は。

ウォレスは洗濯籠を片手に抱えたままだった。剣を抜いてすらいなかった。頭部を果物のように潰された二体が床の上で動きを止め、片手で喉をねじり上げられた一体が宙吊りにされ、びくりびくりと体を震わせていた。その手から重い音を立てて曲刀が落ちる。掌ほども幅のある、斧のような厚みの曲刀。刃にはどれほどの年月を通じて重ねたものか、赤茶けた血錆びが層をなしていた。

 

「……ウォレス?」

 

 小さく息をついて、魔物を吊り上げたままウォレスは言う。

「知ってる。知ってるさ、来てたのは。ああそうだ、知ってるか? こいつら最下層(ここ)じゃあ、やさしめの相手だなんて。俺たちが戦ってた頃はそう思ってたが、なかなかどうして――」

「ウォレス!」

 叩きつけるようにアランが声を放つ。

「大丈夫か、というか……どうなったんだ、今の」

 

 ウォレスは口を開け、説明しようとして、やめた。

――そう、跳びかかってきた一体目の、曲刀を持った手を取り、手首をねじり砕きながら投げ飛ばし。続いて跳んでいた二体目の頭へ、一体目の頭を狙って当て。巻き込んだそれを二体まとめて、腰を落としつつ狙いどおり床へ叩きつけて頭部を砕き。洗濯物のバランスを気にしながら半歩跳ね、三体目の首へ手を伸ばす。喉の真ん中から指三本分左右、喉の肉と気管の間。そこへ親指と人差指を差し込み、気管をつかんで、ねじり折る。その後で悠々(ゆうゆう)と親指を(あご)、四本の指を首の後ろへと回し。頚椎(けいつい)の一節へ力をかけて、前へ外すように折った、なんて。説明してどうなる。

 

そう、本当はもっと詳しく言いたいぐらいだった、「こいつらのこの四本指のだな、ここ! 一番端、いわば小指のとこの手の甲! ここが痛いらしいんだな、内側に折り曲げてやればもんどりうって苦しむ」だとか「なかなかどうしてこいつらも、呪文を使うのがたまにいる。声で分かる、喉をゴロゴロいわす奴がそうさ……早めに喉を潰した方がいい」だとか。それを、言ってどうなる。

 

 何も言わず前を向いた。顔をしかめる分の力を、代わりに腕に込める。魔物の首をつかんだまま、腕を大きく振り払う。魔物は裂ける音を立てて、ウォレスの手にわずかな皮と肉を残し、胴を床に叩きつけられた。ちぎれた頭は嫌な音を立て、潰れて壁にへばりついて、ずり落ちた。

 

 一番後ろの二人から小さく悲鳴が漏れた。

 

 ウォレスは息をつく。そうだ、それが普通だ。王宮で最精鋭の兵か、もしくは腕利きの冒険者でも――ここで生き延びているだけで間違いない――。九年だか前の俺だってこんなだった、はずだ、多分。もう覚えていない。

 

 そうする間にも、床や壁にへばりついた血糊は端から端から消えていた。染み込むように、吸い取られるように、床石の継ぎ目だけでなく、穴も何もない表面からも。ばかりか、飛び散った頭蓋(ずがい)の中身や、へばりついていた肉片も、霞に包まれたみたいに曖昧(あいまい)に薄れ、沈み込むように消えていった。

 

 喪失迷宮はそういう場所で、他のどんな迷宮より恐れられた。

たとえ生き返りの霊酒があろうが、蘇生の高等療術があろうが。その意味はほぼ喪失されている。命のないもの、失ったもの、それらは全て――金属や石のようなものと、生きている者が身につけたままのものは除いて――ここでは喪失されていく。床か壁石に触れた瞬間から、融けるように消えていく。だからそう、邪神と戦ったときのサリウスは本当に運がよかった。

 

 思う間にも魔物の姿は消え、骨とその破片――これらもほどなく喪失される――と、手にしていた曲刀だけが残った。その体があった場所、ちょうど腹の辺りにはなぜだか、針金が散らばっていた。他にも細長い(きり)やら螺子(ねじ)回しやら、針金切りやらナイフやら。

 

 一番後ろの二人が、何も言わずそれを見つめていた。解錠師(シーフ)のものだったのだろう、あと二人のうちの。

 

 

 

 ずる、ぺたたん、と、サンダルの音が響いている。喪失迷宮、地下七百二十一階――一階層につきウォレスの足で縦横三百二十歩ずつの正方形。その中にぎっちりと迷路と罠と魔物とが詰まった、その地下七百二十一階――。

 最下層から三階も上がって、転移魔法が封じられているのもこの階までだ。地上から距離があり過ぎるため、十回やそこらでは帰れないが。もちろん並の魔導師ではそれだけ連続では使えない――そもそも高等魔導だ、習得している者自体多いとはいえない――。

 

 戦闘は幾度もあって、洗濯物が返り血で少し汚れるという被害が出た。

本当は教えてやりたかった、(ドラゴン)の前脚を駆け上がりながら――牙をかいくぐったらまずはここ、前足五本指のそう人差指と中指の間、この水かきみたいな部分を踏む。もちろん小指の爪の付け根を叩いたっていい、それでびくりと怯む。そしたら肘を踏み台に、初心者は手首の骨の出っ張りに乗ってから肘がやり易いな、肩へたどり着きざまに関節の間、軟骨を押し割るように剣を刺す。これでもう相手は痛みしか頭にない、その注意が俺に向けられる前に首を登ればお待ちかね、鶏肉のように柔らかな喉だ。ここへ組みついて一刺し、ばつっ、と動脈を切れば後は飛び下りて潰されないように見てるだけだ、しばらくはのたうち回るから気をつけろ。血のシャワーは浴びるけどまあしょうがないよ、肌はばりばりと荒れるがな。少し慣れたらのたうつ動きを逆に利用して、組みついたまま削って削って首を切断できるよ、脊髄に食い込むと何だろう何ていうかな、野菜の根にかじりついたみたいな感触があって面白いよ、剣が二本あればぜひ狙いたいね。――だとか。

 

 だがそれまでの戦闘で、仲間だった二人の沈黙と他二人のぱくぱく開く口が気まずくて。そうした丁寧なことは全て省いて、跳び上がりざま竜(ドラゴン)の頭蓋を真っ二つに叩き割った。拳で。

 

 もちろんウォレスとて何でも知っているわけではなくて、たとえばそう天井に頭をこすりつけ関節を地響きのように軋ませて歩く岩石巨人(ストーンゴーレム)、これなどはよく分からない。蹴れば砕けるということのみだ、知っているのは。牛を二頭はまとめて踏み潰せるだろう岩の巨足へ、隙を見て飛びかかっては蹴って蹴って蹴ってそちらの方が好みなら殴ってもいい蹴って蹴って蹴って蹴っているうちに、片足を失った相手は勝手に転げて勝手に砕け散るのだ。

 

無論誰にでもできることではない、それはウォレスも分かっている。九年だか前はこんな真似は無理だったはずだ。逃げ回って逃げ回って注意を引きつけて、サリウスに大魔法を放ってもらう。もしくは自分でちまちまと小規模な魔法を放って足を削る、確かそうだった、確か。

 

 だから今、説明なり見本なりをもっと上手く見せてやれれば良かったと思う。たとえば魔物が遺した宝箱の――それらは往々にして古の絡繰(からくり)罠がかかったまま溜め込まれていたり、魔物の呪いによる封がなされている――解錠師(シーフ)によらない解錠だとか。

 

しかし実のところ上手く説明しかねた。箱の近くの地面を叩いて、箱の中で針金の強く響く音がしたら鉄弾の飛んでくる罠だとか。その場合は全身の力を抜いてごく軽く柔らかく――他の人間にとってどれくらいの力なのかは知らない――鍵の辺りを斬り飛ばす、それで仕掛けを断てる。失敗した場合は、高速で飛んでくる鉄の散弾を頑張って耐える。他には、全く異音がしなければ強制転移呪(テレポーター)の可能性が高く、ほどほどに力を込めて剣を繰り出しつつ箱に当たった瞬間引き戻すことで、上手く箱だけを粉々にして開封による呪いの発動を防げる、とか。

 

 そうしたことの説明もできなかったから呆れられたのか、仲間ではない二人はウォレスから遠く離れて歩いていた。仲間だった二人の陰に隠れるように、ウォレスの動きにいちいち身をすくませて。

 

 そうこうするうち、地下七百二十階への階段にたどり着く。約二階層の間の全員分の沈黙を振り払うように、ウォレスは努めて明るく笑った。

「んじゃあ、俺はこの辺で。水場で洗濯して帰るわ、みんなによろしくな」

 みんなといっても他三人の元仲間、思い浮かぶのはそれだけだった。王宮なぞに用はないにしろ――一人は顔が浮かびかけたが。用はない、今さら――他の同業者や世話になった商店や行きつけの酒場の主、そうした人たちもいたはずだが。輪郭すらおぼろげだった。

 

 サリウスは口を開けたが、考えるように動きを止める。その後で笑った。

「ああ、分かった。けど、それよりか会いに来りゃいい。『山獅子亭(クーガーズ)』でまた呑もうぜ」

 

 温めた酒精(アルコール)のように甘い名前だった。かぐわしい名前。『山獅子亭(クーガーズ・タヴァーン)』。ウォレスや仲間や、他の同業者が入り浸った酒場。

 

 不精髭に埋もれそうな口の端が、自然と両方へ持ち上がった。ほんのわずか、舌の上に唾が溜まる。

「懐かしい。ええおい、懐かしいな。しかしもう潰れてんじゃねえのか、あの水割り屋はよ」

 

 水で薄めてこっそりと酒の(かさ)を増す、などということは死んでもしない主人だったが。雨が降り出せば、天井から漏った水が容赦なく杯へ飛び込む。ウォレスたちは試行錯誤の末、そうならない席を確保していた。

 

 アランが肩を揺すって笑う。

「ひどいな、オーナー様の前でさ。出入り禁止にしてやったらどうだい」

「へ?」

 サリウスが頬をかきながら言う。

「別にオレが飯作ってるわけじゃねえぜ? 買い取ったんだ、それぐらいの褒賞はあった。改築して増築して人を雇って……今はぼちぼちさ」

「ほー……」

 そいつは是非行きたいな、そうウォレスは応えたが。もう、雨漏りする山獅子亭(クーガーズ)ではないのだろう。

 

「だろ、来てぇだろ? 来いよな、二、三杯はおごってやるよ。ま、それよりよー」

 サリウスが頬を緩めて笑う。人差指を立て、小突くように突き出してきた。

「あの文書、破いちまってよかったのか? もしかして、いやまさかとは思うが恋文かもよ?  例の元彼女(もとカノ)ちゃんからのよ」

「……その話、するかよ」

 そんなつもりはなかった。そんなつもりはなかったが、にらんでしまったのかもしれない。サリウスは笑ったままで表情を固め、一歩後ずさっていた。

 

 目をそらしてウォレスは言う。

「……とにかく、あの人とはそういうんじゃない。……ま、何だ。じゃあまた、そのうちな」

 きびすを返したその背に、アランが声をかけてきた。

「なあ。山獅子亭(クーガーズ)も、ずいぶん賑わってるんだが。やっぱりおれたちの時とは違うよ、客層が全然」

 ウォレスが顔だけ向けると、アランは続けた。

「おれたちみたいに傷だらけの奴らなんて、ほとんどいないよ。片時も剣や魔導杖を手放すのが怖いって奴ら、宝探しにしろ依頼にしろ、こんな迷宮に潜ろうって、昔のおれたちみたいな奴ら。数えるほどしかいないよ。……おれだって、剣を持ち歩いたのは久々だ」

 表情を消して、視線をさ迷わせて、その後でアランは顔を上げた。

「なあ。お前は、何と戦ってるんだ。九年もずっと」

 

 ウォレスは顔を背けた。洗濯物を抱え直し、歩き出す。

「お子さんたちにもよろしくな」

 アランたちから言葉はなかった。洗濯物の籠の底、隠し入れておいた不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)のボトル五本。渡しそびれたそれが、がちゃがちゃと鳴いた。

 

 



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第3話  英雄だけが始まらない

 物語は終わってしまって、それはウォレスも知っている。

 かつて仲間たちと共に戦った冒険者ウォレス、あるいは迷宮に眠る宝を求めて、あるいは人からの依頼で、時には国からの要請を受けて。様々な迷宮を探り数多の魔物を倒した魔剣士ウォレス。秘宝も姫も取り返して、魔王――王宮に牙を向いた宮廷魔導師、反逆の魔導王――をさえも倒してのけた。究極の迷宮と謳われた、喪失迷宮地下六百五十四階で。

 

さらにその奥、隠された最深部。地下七百二十四階で、邪神――滅ぶ間際の魔王が怨みを込めて召喚した、そう噂される最悪の魔物――をも討った。一国を救った、迷宮の全てを制覇した、英雄ウォレスとその仲間たち。

 

 物語は皆終わってしまって、ウォレスだけが続けている。今ここで横たわるウォレスが。酒臭い息を垂れ流し、薄闇の中寝返りを打つウォレス。横たわったまま反吐(へど)を吐き、それが石畳の上で喪失していくのを眺める――住むには便利な所だ、喪失迷宮は――。

 

 身をよじり、起き上がる。抱えたガラス瓶に酒はなく、捨てた。音を立てて転げたそれは周りの瓶とかち合って小さく鳴る。

 

 戦士アランはパン屋に、解錠師(シーフ)ヴェニィはその女房に。聖騎士ディオンは近衛騎士に、療術師シーヤは大司教に、魔導師サリウスは酒場の主に。彼らの物語は終わってしまって、そしてちゃんと始まった。

 

 魔剣士ウォレスは? 迷宮にいた。そこに住み着き魔物を狩り、わずかずつ奥へと移り。今やその底にいた。拳術師や解錠師、様々な技能を独学で覚えた。療術師や――蘇生の魔法だけは習得していない。喪失迷宮には必要ない――召喚師、他諸々の魔導も。迷宮で戦い生きるに必要なものは、全て知ってしまっていた。

 

「俺だけだ、続いてるのは」

 かつて英雄と称えられ、褒賞と勲功年金の他に、望みのものを与えると言われ。五人が顔中で笑いながら目を見合わせる中、ウォレスだけが即答した。さらなる敵と迷宮を、と。

 

「なぁにが依頼だ……褒美もよこさねぇくせによ」

 

 いや、あるいはそうでもないか。望みの褒美とはまるで違うが。婚約の話、それがあった。英雄ウォレス・ヴォータックと、迷宮から救い出された王女、レーラマリエン・ユリマレイス・ウル・アーティカミオン――舌を噛まずには呼べない名だ。親には愛されていなかったに違いない、誕生のその時から――。

 

 庶民出の英雄を親族に引き入れ、民衆の人気を取るといった政略でもあったのだろう。とはいえ、王宮は美談にしたいらしく――英雄と王女の間にロマンスがあり、それを王宮が承認した、といった――、王女とウォレスの二人きりで、何度か会う機会が作られた。そう、魔王の首を王へと献上した――当然、魔王本人か確かめる、首実検のため王女もいた――その日のうちにウォレスは王女と引き合わされ、二人で顔を見合わせて茶など飲んだのだった。あんなものを女に見せた後で男女の語らいをなどと、王宮には阿呆しかいないのかと思ったものだが。

 そうして何度か会った後で、ウォレスはその気になりかけた、が――

 

 思い出して舌打ち一つ。叩きつけた拳の下で、石畳にひびが走る。

 

 これだけだった、ウォレスと共にいるのは。友でも女でもなく、喪失迷宮だけだった。淀んだ空気が漂い、湿った薄闇がどこまでも続く石造りの迷宮。全ての道程を、今や足が覚えている迷宮。目当ての秘宝を手にしたときの、若き日の笑みを覚えている迷宮。時に戦友たちの喪失を、共に看取った迷宮。

 

 天井の薄闇に目をやり、息を長く一つつく。

 そうして、不意に思い出す。初めて足を踏み入れた、迷宮のにおい。日光にさらされた街のそれとは違う、冷たく湿った異界のにおい。少年の日、おっかなびっくり運ぶ足の下で硬く音を立てる石畳の感触。強く張った胸と握り締めた安物の剣と、裏腹に引いてしまうへっぴり腰と。痛いぐらいに鳴る鼓動。

 

 酒の味も知らない、そのくせ一端(いっぱし)の男を気取った若造。迷宮に眠る宝を得ての一攫千金、もしくはいつか一国を救うような活躍を、望み、思い描き、しかも――愚鈍な他の同業者は知らず――自分こそがそうなれると信じて疑わない若者。つまりは、どこにでもいる馬鹿者の一人だった。ウォレスも、そのときの仲間も。

 

 



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第4話  十六の日と、あの女(ひと)と

 夏の日だった――ただの思い出話だ、構わないだろう? なにせ暇だけはここでも喪失されないのだ――蒸し暑い、日差しがいやに白んで見えた日、街路樹に茂った葉は半ば透き通るような緑で。何より、ウォレス・ヴォータックは十六だった。走っていた、何しろ十六なのだから。それだけで息せき切って走るに値した――当時のウォレスからしても、今のウォレスから見ても。

 

 分厚い革の鎧――よれた跡とかき傷の残る中古だ――をまとって、同じく中古の剣を腰でがちゃがちゃ鳴らしながら――鍔元が緩んで走る度に揺らぐ――、ウォレスはそこへたどり着いた。親友たち――名前ももう出てこない、元気にしているだろうか――との待ち合わせ場所。迷宮に挑む冒険者御用達との、噂の店の一つ。山獅子亭(クーガーズ・タヴァーン)の、少し離れた先。

 

 憧れていた、憧れだったのだ、男の子、一端の男を気取らずにはいられない彼らには、冒険者が。だから集った、悪友たちと。迷宮入りの許可が出る十六歳――王宮に反逆し地下に潜った魔導の達人、魔王こと魔導王。その討伐に、広く人材が求められていた――、それに六人全員がなる日に。

 

 顔を見合わせて、笑って。もじもじと譲り合いながら、流れでウォレスが先頭になり、店へ入る。

 

 店主と女将の他、ほとんど人はいなかった。外の日差しの中妙に薄暗くて、それだけで大人の香りがした――実際には染みついた脂と埃の匂い――。靴音の軽く響く板張りの床には、どんなに拭いても取れないほど土埃が染みついている――迷宮の土埃が――。壁は丸木造りでそれなりの値がしたものと思われたが、隙間から外の日が洩れ入っている。丸木の所々には樹脂(やに)が丸く吹き出たまま琥珀色をして固まり、まぶされたように埃をかぶっていた。頭の上を高くめぐる梁と板作りの天井は灯火に長年煤けたのか、黒味がかった飴色をしている。

 縦に割った丸木で誂えられたテーブルにつく。年齢も聞かず注文を取る女将に、震える声で麦酒(エール)を頼む。

 

「『濃いの(ブラウン)』? 『軽いの(ペール)』?」

 

 問われて分からないままブラウンと応え、他の全員が「同じのを」と繰り返す。

 ほどなく乱雑に置かれた麦酒(エール)は焦がした砂糖のような色をして匂いは香ばしく、そのくせやたらと苦く。それでも全員が全員、美味そうにうなずいてみせた。ああ、これだよ。かあっ、たまんねえな。

 

 他愛もないそんなやり取りの中、割り込むような笑い声があった。別のテーブル、一人きりの客。六人が六人、目にも留めていないふりをしながら盗み見ていたその人。

 

 もちろん女だった、当然美人だった。少なくともそう覚えている。いくつか分からないが年上、日にさらした麦の穂みたいな薄い金色の長い髪、太ももまで分かれ目の入った、魔術的な紋様の黒衣――何よりもそこから見える、ほどよく焼けた肌。ついでに言えばテーブルに立てかけた魔導杖。

 

「ぼくたち、初めて? こっちおいで」

 歯も見せず笑ってそう言ったのだ、アレシアは。抗えるはずがあるか? 

 

 

 

 ――想い出に浸るうち、そのまま寝ていたらしい、今のウォレスは。当然酔って。最後に覚えているのは、酒瓶の転がる音。部屋のそこかしこで――空き瓶はそこら中に転がっていた――それどころか頭の中や、部屋の外でさえ転がる音さえ聞いた気がする。ああそうだ、確かに聞いた、ころころころと。

 

 そうして、目を開ければアレシアがいた。今にして見ればずいぶん小娘だ。十九か二十、その辺か。

 

 ご丁寧な夢だ、そう思った。アレシアのことを思い出して寝たからって、律儀に出てこないでもいいのに。しかも手の込んだことに、今のこの部屋にアレシアがいる夢。

 再び目を閉じる。

 

「起きなさい、ぼく」

 夢はそう言って、ウォレスの鼻をつまんだ。

「ん……ぶはあっ!」

 盛大に息を詰まらせてウォレスは跳ね起き、荒く何度も息を吸った。その後で、薄く笑うアレシアと目が合う。

「起きた?」

 

 起きてはいないようだった。床についた手にも下着ごしの尻にも石畳の感触は確かにあったし、目に入るのは朝とも夜ともつかないおぼろげな闇――天井や床、壁石自体が常に有るか無しかの光を帯びている、寝ぼけたみたいに――。確かにいつもの喪失迷宮。

 

 アレシアは笑っていた。ウォレスは何も言えず、不精髭をこする。水を入れた瓶を取り、口をゆすいで吐き出す。それが喪失するのを眺めながら、何口か水を飲む。気つけに不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)をあおった。

 

 あり得るはずのない話だった、再会するなんてだとか歳をくっていないだとかそれ以前に。誰であろうと、酔っていようと、ウォレスが足音に気づかず真横にまで接近を許すなんて。殊に、転移魔法の類が厳重に封じられた最下四層で。

 

 鼻息をついた。立ち上がり、下着を下げて小便をした。全く、なんてこった。あの霊酒さえ呑んでいれば、病も餓死もないと思ったが。酒は酒、酒精(アルコール)の中毒は起こるのかも知れない。怖ろしいものだ、こんなはっきりとした幻覚があるなんて。

 

 小便が喪失するのを見届け、ローブだけ羽織ってサンダルをつっかけ、部屋を出る。走った。幻覚ならそのうちに消えるだろう。幻覚でなければウォレスの疾走についてこれるはずもないし、何より最下四層を、生きて帰れるわけがない。

 

 



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第5話  覇王樹亭(サルーン・カクタス)

「お久し振りで、先生。お珍しい、ずいぶんかわいらしい方をお連れで」

 そう言ったのだ、何度も転移した先、地下五十二階、『覇王樹亭(サルーン・カクタス)』の店主は。スキンヘッドを――まだ若いのに――てからせて。カウンターの向こうで、飾り気のない石壁を背にして。

 

 なるほど、吊るされたカンテラの明かりの下、カウンターにかけたウォレスの横には。確かにアレシアがいた。息も切らさず、ずっと前からその席にいたような顔で。加えて言えば、訳知りの常連のような顔で。

 

 応えず、ウォレスは言う。

麦酒(エール)をくれ。『濃いの(ブラウン)』……いや、『軽いの(ペール)』を」

 すぐに注文の麦酒(エール)と、濡れたタオルが出された。それでウォレスは顔も洗っていないことに気づく。髭をこする音を立てて顔を拭いた。息をついて顔を上げると、アレシアの前にも同じ麦酒(エール)が置かれていた。

 

 ウォレスは肩を落とし、息をつく。かぶりを振った。

「人か魔か……とは言うが。人ではないだろ。何だ、君は。俺も知らない魔物が迷宮(ここ)にいるとはな」

 

 アレシアは応えず(とう)のジョッキを取った。こくこくと音を立てて日に焼けた喉を動かし、その髪の色にも似た麦酒(エール)を半分ほど一息に飲む。下品に息を吐き出しはせず、満足げに薄く笑った。唇は濡れて紅い。

 

 ウォレスは口を開いたが、それから声をかけあぐねた。口をつぐんで、目をそらせて、それでもまた見てしまう。

 なんてこった。まるきり同じだ、十六の頃と俺は。あるいはアレシアの顔をしたこれも。

 

 ウォレスはジョッキを口につけた。雲のような(あぶく)は含んだ端から柑橘の皮に似た香りを漂わせる。呑みつけた匂い、それでいてあの日の麦酒(エール)とは違う匂い。快い苦味。

 

 喉の奥へと爽やかな香りを染みつけ、息をついた。ジョッキを置く。カウンターに肘をつき、指を組んでから言った。

「細かい話はいい、大事なことからいこう。何をしに来た」

 アレシアは喉を鳴らし、ころころと笑う。

「ごあいさつ。ずいぶんなごあいさつだね、ぼく。大切なのはそう、まずは始めのごあいさつ。お久し振り、とそう言うの」

「やめろ」

 さえぎるように言って、ウォレスは続けた。

「……やめろ。あの人みたいな口をきくな」

「これじゃあね。不幸ってもんだね、礼儀のなってない後輩を持つと」

 

 アレシアが鼻で息をつき、膨れっつらで頬杖をつく。黒の魔法衣、ゆったりとしたサイズのそれから胸元が見えそうになり、けれど見えなかった。これだけはあのときとは違う、あのときははだけた胸元が見えた。そうだった、よく覚えている。

「そう、あのときもそうだったね、そういうもの欲しそうな目で。簡単そうなぼくだったこと」

 言われて、ウォレスの鼻に匂った。あの店の埃と脂と、樹脂(やに)の匂い。

 

 その間にアレシアは喋った。耳に滑り込んで鼓膜をくすぐる、絹のような感触の声。

「帰って来れる。帰って来れるの、昔のままに。今はほんの少しだけど」

「……あ?」

「帰って来れるの、喪失迷宮から。今のわたしみたいにね。続けられるの」

 

 アレシアが身を乗り出す。襟元が揺れる。そこからも目を離しがたいが、かといってその唇や、目からも同様だ。そしてこの声。

「ウォレス・ヴォータック……で、合ってたよね? 名字とか。まあいいや、迷宮を知り尽くした君がね、知らない所へ行って欲しいの。この迷宮の中で」

 

 片手でウォレスの手を取り、もう片方の手を――細い指だ、ちぎり捨ててしまえそうなほど――そこへ被せる。掌で口づけるように。

 その手が離れて、取り残されたウォレスの手の上に、何か白い欠片が残されていた。白く、わずかに丸みを帯びた陶器の破片のような。片側は石のようにざらつき、裏はすべすべとしている。

 

「わたしがあげられる唯一のもの、失くさないで。地下七十四階南西の隅、そこへそれを触れさせるの。鍵のように、鍵のようにね」

 アレシアは手にしたジョッキを垂直にあおり、残りの麦酒(エール)を一息に呑む。席を立った。

 

「奥にあるんだ、君の知らないもの。手に入れて、そうしていけば解放される。地下に囚われていたものが。手に入れて、そしたら取りに行く。また会えるよ……ぼく」

 

 忙しく言ってアレシアは駆けた。飛び立つ小鳥のようだった。もちろん無理やりにその手をつかむことも、ウォレスなら容易にできたはずだが。そうしようとは考えつかなかった。夢のようだと思っていたし、実際に悪い夢なのだと考えていた。アレシアに起こされた夢を見ながら、まだ眠っているのだと。

 

 けれど、掌の上で欠片は冷たい。

 

 それを眺めていると、店主が皿を運んできた。その上で半切りのパンに挟まれているのはここが迷宮であることを疑いたくなるほど、みずみずしさの張り詰めた葉菜と薄切りの甘タマネギ。あえて漬け過ぎたピクルスは歯応えのあるだろう厚切り。表面に硬く焦げ目をつけた分厚いハムの上では、薄いチーズがとろけて原型を失いつつある。別の客のために奥で焼かせていたのを、こちらへよこしてくれたのだろう。

 

 店主はウォレスの前に皿を置き、同じものをもう一つ手にしたまま辺りを見回す。

 

 溶けたチーズがソースと肉汁に混ざるのを見ながら――酒精(アルコール)に荒れ果てた胃がわずかに鳴るのを聞きながら――ウォレスは言った。

「……帰ったよ、連れじゃあない。今は手ぶらなんだ、二人前つけといてくれ」

 

 まともなものが食べたくなったときや別の酒が欲しくなったときはここに来て、迷宮の品と交換に呑み食いしたり酒を持ち帰っている。つけで買うのは初めてだった。

 

「それと聞きたいんだが。見たことあるかい、さっきの」

 店主は肩をすくめる。

「さて、どうでしたか」

 

 『覇王樹亭(サルーン・カクタス)』は情報屋ではない。少なくとも、人間の所在に関して洩らすことは絶対になかった。どんな悪党でも立ち寄れる酒場(サルーン)であること、それがこの店を守っていた。砂地に生える覇王樹(カクタス)(とげ)のように。

 

「じゃあそうだな……何だ、さっきの奴、強いかい? あんたの目で見て」

 店主は苦笑した。短く刈り込んだ顎鬚をなでて言う。

「ご冗談を。素人でしょう、たとえ魔導師にしたって無防備過ぎる。(うち)の中とはいえ、武器を手放していられるなんてね。地下五十二階を歩くには向きませんよ」

 

 ウォレスは笑いそうになってこらえた。似たようなもんだ、この辺だって地上と。生息する魔物の質は下層と比べものにならないし、そもそも軽いのだ、空気が。地上くさい。乾いた風、昼夜の気温の移り変わり、雨の日の重い湿り気。大気の気配があり、変化がある。

 

 地の底は違う。湿り気を帯びた冷たさに満ちているようでいて、慣れればはらわたの中にもぐり込んだみたいに生温(なまぬく)い空気。それだけだ。そこに変化はなく、戦闘と探索と蒐集(しゅうしゅう)以外――つまり迷宮以外――の何もない。ウォレスが必要なもの以外の何も。

 

「ああそうだ、まったくだな」

 麦酒(エール)をあおってごまかし、もっともらしい顔でうなずく。

 

 とはいえ、店主の意見ももっともではあった。この辺にしたってウォレス以外の人間が住む最下層に近い。店の類としては少なくとも一番下だ――だからこそ用があればここに来る。地下五十階より上は数年行っていない――。地上にいられない事情がある者でもなければこんな場所に居つきはしない。

この店主からして素手で人の首をもぎ捨てられる類の人間だし、おそらくそうしてきたのだろう。大体、その店主ですら迷宮の半分も自由に歩けるわけではなかった。何年前か忘れたが、地下三百階辺りで巨大な蜥蜴に喰われかけていたのを助けたことがある。そのときからのつき合いだ――名前は覚えていないが。

 

 しかし、とウォレスは考えた。あの女がアレシアのはずはない。だが、だったら何なのだ。魔物か何かが化けたにせよ、なぜ彼女を知っている。彼女と出会ったときのことを知っている。それにどうやって――泥酔していたとはいえ――ウォレスに気取られずに部屋へ入ったのだ、最下層の。

 

 頭をかきむしり、麦酒(エール)をあおった。

 

「何なんだ、あれは」

 夢でなければ何なのだ。

 

 



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第6話  聖騎士ジェイナス

「鍵のように、鍵のように、ね」

 地下七十四階。店主からつけで買った剣――いつも使っているのと似た、何の変哲もないもの――を提げて、ウォレスは一人歩いていた。

 

 ばかばかしいとは思っている。この迷宮に隠し通路だとか隠し区域などは無い。少なくとも今のウォレスにとっては。なにせ、調べたことがある。全ての階の床と壁を。石畳を叩き、壁の音を聞き、透視魔法を逐一使った。階の構造にもよるが、一階につき一日二日で済んだ――もちろんウォレスでなければ、それが済む遥か前に魔力が尽きるだろう。戦闘も帰還もできないほどに――。二年以上かかった計算だが、終わったときには本当に残念だった。成果というほどの成果はなかったが、それ以上に。終わってしまったことが。

 

 南西側へと向かう前に、知った足音を一つ聞いて。ウォレスは先に声を上げた。

「旦那、久しぶりですな」

 

 行進でもしているかのような規則正しい足音が、鎧をがちゃつかせる音と共にいくつかの角を曲がって近づいてくる。鎧兜に身を包んだ騎士。迷宮の中でも浮かび上がるようであったろう白銀色の武具は埃にまみれ、闇の中でぼやけていた。

 

 その男は厚い胸板の奥から張りのある声を上げる。

「久方ぶりだな、息災(そくさい)であったか」

 背筋を伸ばした男は兜の面頬(めんぽう)――顔面を守る装甲部――を持ち上げ、顔を見せる礼を取る。藻にも似た白髭が滑り落ち、胸の前で柔らかに垂れた。

 

 ウォレスは微笑む。

「ええ旦那、おかげさんで――」

 無事ですよ、そう言いかけたときに男の目は見開かれた。染みの散った白目を剥き出し、小手に覆われた手でウォレスの手を取る。

「ウォレス、ウォレスどうした! 他の五人は、それに武具は! おお、おお、いったい――」

 叫ぶ男の顔へ、切りつけるように皺が走る。口の動きに合わせ皺は刻まれ、たるみ、また深く彫り込まれ、にじんだ汗がそこを流れる。握り締めてくる小手はいよいよ冷たく震えていた。

「――お主ほどの強者がどうしてしまったのだ! 何にやられた、罠か、(ドラゴン)か、そうか悪魔がよほどの群れで出たか? あああ他の五人は、どこだ、まさか、そ、迷宮に、そう――」

 

 (どぶ)を思わせるにおいの唾を浴びながら、ウォレスはゆっくりと男の指をはがした。意識して微笑んだまま、努めて優しく語りかける。

「旦那、大丈夫ですよジェイナスの旦那。なに、今日はちょっと修行でね、あえて一人で来てるんです。他のは地上(うえ)で高い宿取って、今はごろごろしてますよ」

「その格好は」

 羽織ったローブの端をつまみ、ウォレスはゆっくり喋ってやった。

「防具に、頼らない修行ですよ。ぼちぼちしたら切り上げますんで、ご心配なく。先輩」

 

 ジェイナスは長くそのままの顔でいて、やがて、ほう、と息をついた、長く。息を吐きながら身を曲げ、腰を折り、そのまましゃがみ込んでしまいそうだった。

「よかった……。いやはや、安心したわい」

 

 身を起こす。顔を上げたジェイナスの顔は汗の玉こそ浮かんでいたものの、皺はわずかな跡だけを残して消えていた。

「いやはや、よかった。さようであろうな。剣の柄に誓って申すが、お主がそうそう不覚を取るはずもない。これはしたり、拙者の方の不覚であったわい」

 

 ウォレスは同じ表情を作ってうなずく。聖騎士ジェイナスは大先輩だ、二度ほど命を救われたこともある。同じ一団(パーティ)に属したことこそないが、姫を救出した際には彼の指揮下で共闘したものだ。

彼らが護衛の(ドラゴン)と戦ううちに、ウォレスらが雑魚を斬り倒して姫君をさらった――いや、救った。彼女がどう感じたかはともかくとして――。何にせよ彼に、今さら無礼はしたくなかった。それに喪失などとは、言わせるにしのびなかった。

 

 敵には強く勇敢で、人を蹴落とすことはなく、弱者へ進んで手を差し伸べ。仲間をただの一人とて、喪失させたことはない。それが彼の評判であったし、実際であったし、誇りであるのだろう。

 

 ジェイナスは再び息をつき、兜を脱いだ。胸元からハンカチを引っ張り出し、はたくように顔中の汗を拭う。

「いやはやまったく、失敬した。さて、そろそろ拙者は行かねばならぬ。今日はもう少し下で探してみるつもりだ。……やれやれ」

 穏やかに笑ってかぶりを振る。兜を脇に抱えたまま、背を向けて歩き出した。

「お主の方は良いが、拙者の方の仲間はどこで迷っておるのか。もう少し、もう少しで、魔王めの首に手が届くというに」

 

 姫を救出してから後、ウォレスが魔王を倒すより前、ジェイナスの仲間は喪失された。彼自身も死んでいた。間違いない、ウォレスもたまたまその場に出くわしたのだから。

 

 黒光りする蝙蝠(こうもり)のような翼を広げた悪魔の群れの中、見覚えのある装備五人分が散らばり、わずかに残った骨が融けるように床へ沈んでいた。残ったジェイナスは兜を跳ね飛ばされた頭から血を流し、裂かれた腹の隙間から膨れた紐のような中身をのぞかせ、横たわり動かなかった。慌ててウォレスが不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)をねじ込んだため、ジェイナスの喪失は免れた。

 

 そして今。闇の中、くすんだ灰色の影が遠ざかっていく。鎧と抱えた兜と、後頭部の頭蓋骨。死んでいたときに床についていたそこは彼の仲間と共に喪失されて髪も肌もなく、今も茶色味を帯びた灰色の骨をさらしている。あの霊酒を呑ませた以上、その傷も治っていてしかるべきではあったが。そこだけが仲間を追ったように喪失されたままだった。今はもう皮と薄い肉が頭蓋の縁で腫れたように盛り上がり、くっついてしまっていた。

 

 遠ざかる影にウォレスは声をかけた。

「旦那、ご武運を」

「うむ、そして互いの仲間にも」

 やがて足音は下り階段へと向かい、沈むように消えていった。

 

 ウォレスは長く息をついた。音を立てて首を鳴らす。

「さて」

 ようやく人に見とがめられる心配はなくなった。足音も隠さず南西の方へと向かう。

 

 



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第7話  鍵のように、鍵のように

「この辺、か?」

 南西隅に突き当たり、地面から天井へ壁を見上げる。当然何の変わりもなく、切り出されたままのごつごつとした表面を見せる石が積み上げられているのみだった。ただ、石と石とが触れる面はよほど磨き上げられ、計算されて積まれているのか、ナイフの刺さる隙間もなかった。まるで蛇の鱗みたいに、一つながりにでもなっているかのように。

 ウォレスはため息をつきながら、その辺の壁を叩いてみる。やはり手応えはどこも変わらず、空洞があるような反響はない。徒労だとは知っているが、透視の呪文も唱えてみる。

 

ヴ・イア・デアリ・イヴイル・(悪しきものとまた悪しくはなきもの)リ・イヴイル・ノーチアル(を私は目の当たりにするだろう)――【透過視(ヴィデーレン)】」

 

 人差指の先から尾を引いて滴る青白い光を、片目のまぶたに塗りつける。ぬらりと冷たい。そちら側の目だけ開けて壁を見回す。青白い視界の中で目を細め、壁の表面に焦点を合わせる。そこから目を見開き、目の前をぼやけさせ遠くに焦点を移していく。それにつれて目に飛び込んでくるのは石、隙間なく積まれた石石石石石石石。

 

 何度も目をしばたかせ、まぶたに残った光を手で拭う。

 徒労だ。間違いなく徒労だ、これは。目が疲れただけだ。こんなことならあの店で吐くまで呑んでいた方がマシだった。

 

 手にした欠片を投げ捨てようとして、だが思う。――あいつは、あの女は何をしに来たんだ? わざわざ俺の目を疲れさせに? あれが魔物だとして、アレシアの姿を真似られたとして。叩き殺されるかもしれない危険を冒して? 

 

「……」

 眉を寄せ、口回りに皺を寄せ、押し潰されたような顔でウォレスは欠片を握り締める。言い訳のように一瞬だけ壁へ当て、すぐに引く。

 

 なのに。地響きも立てず壁は動き出した。まるでかさぶたが剥げ落ちるように、表面の石は剥がれ落ち。奥に詰まった石は花びらが開いていくように、小虫の群れが身を引いていくように、二つに分かれて道を開けた。

 

「……」

 そのままの顔で、ウォレスは道の奥を見ていた。やがて頬が小さく震える。

 なるほど、確かに知らない区域はあった。迷宮の全てを制した英雄ウォレスですら、知らなかった。未知だ。なるほど、ウォレスが探し求めていたものだ、王家ですらも与えられなかったものだ。なるほど。

 

 奥歯を、音を立てて噛み締める。

 どういうことだ。ないんじゃなかったのか? 英雄ウォレスが二年もかけて探したものは。九年間も求めたものは。

 気に入らない。あるはずがないと諦めていたものが、犬に骨でも投げ与えるように放ってよこされるなんて。ああ、もしかしたらその辺で見て笑っているんじゃないか? あの女は。

 歪みきった頬を震わせ、ウォレスは通路――波打ったような形で石壁が口を開けた、ようやく人がすれ違えるぐらい――の奥へと駆けた。

 

 そこは確かに通路だった。わずかに道が曲がりくねる他、分かれ道も糞もなかった。ただ、それでも導くように、青い光が目に入る。最初はわずかだった、錯覚かと思った。それでも駆けるにつれて強くなる。確かに何かが在ると思ったときには終着点へ着いていた。あっけなく。

 

 そこは小さく広間になっていた、半径三十歩ほどの円を描いて。天井も丸くそれぐらいの高さで、壁は相変わらず波打つようにでこぼこと石が積まれていた。そこに詰まっていたものが無理やり身を引いたかのように。

 

 広間の中央には光の源があった。それは何かの伝説よろしく、石の台座に突き立てられた剣。その刀身から、ぎらぎらと青く光が漏れ出ていた。

 

「ふん……」

 剣には触れず、周囲を回りながら刀身の地金や刃の具合を見る。もちろん、帯びた剣の鞘で地面を叩いて反響を確認することも忘れない。

 

 まず、周囲に罠の類はない。剣自体は迷宮で目にした中でも最上級のもの――『絶聖剣(キャリヴァーン)』――で、つまりはウォレスが見飽きたものだ。ただ、その刀身には何か、文字のようなものが一面に刻まれ、塗料が青くそこへ塗り込まれていた。ひどく古いのか刻印はかすれ、塗料は剥がれかけている。それらはもちろんどう読むのか分からなかった。が、どこかで目にしたような気もする。迷宮の中だったかどうか。

 

「ふん」

 鼻で息をついた。なるほど秘められた武器、確かに知らないものだ。だが、これだけか? 古代文字か何か分からないが描かれ、おそらくは何らかの魔法がかけられた武器。これを取ったらどうだというのだ。

 

 そこまで考えて、絹のような声が頭の中を滑る――帰って来れる。帰って来れるの、昔のままに。今はほんの少しだけど――。

 その声の内容が麦酒(エール)の泡のように、浮かんでは思考の表面へ溜まっていく――また会えるよ……ぼく――。

 

 ウォレスは口を開けていた。突き立てられた剣の柄に手をかけていた。表情はなく、思考もなかった。ただそうする他のことは、考えつかなかった。

 

 一息に引き抜く。石にこすれる感触を残し、素直に剣は台座から離れた。

 

 そのとき、刀身から放たれていた光が切先へと集まり、一かたまりの滴となって地面へこぼれ落ちる。光は一歩ほどの大きさの円を描き、波紋のように地面へ広がる。そして地響きのような、石と石とがこすれ合う音を立てて震え、地面が隆起し、立ち上がり。一つの形を造った。

 

 戦士。ウォレスの身長を越える、軽装鎧に身を包んだ石造りの戦士。その体は細かな石、一つ一つ四角い、刻んだように小さな積み石でできていた。腕の筋肉に盛り上がった血管や、額当ての上から伸びた髪の筋までも。

 

「……ふうん」

 なるほど、これもまた知らないものではある。見たことはないし、聞いていないものでもある。そして、期待したものではない。

 

 そう思う間に、目の前に戦士が踏み込んでくる。空気を斬る音を立てて振るう右手には、いつの間にか剣が――これは石でなく本身だ、光を発していた剣と同じ形――握られていた。

 横へ跳んで身をかわす。戦士の剣は的を外し、何にも当たりはしなかったが。勢い余った風圧が壁を裂いた。

 

 ウォレスは口笛を吹くように――実際には吹けもしないが――口を丸くすぼめて息を吐いた。

 確かにこれは、見たことがない。踏み込みの速さも斬撃の強さも、あらゆる魔物とは次元が違う。今のを受けたのが例えば、覇王樹亭(サルーン・カクタス)の店主なら――達人級の戦闘者なら――確実に真っ二つだった。ジェイナスなら二、三度は受けられるか。アランなら今はどうだろう。

 

 考える間にも戦士は石の関節を(きし)らせ、さらに続けて踏み込んだ。真っ向からの一撃、斜め上へと払う斬り上げ。続けざまに胸へ腹へ、浴びせかけるような乱れ突き。その度、風圧に壁や床の石が弾ける。

 

 なるほど、まるで次元が違う。最下層にもこれほどの速さを持つ魔物はいない。魔王ですら一たまりもあるまいし、あるいは邪神さえ――この速さをそれだけ維持できるのなら――十二、三分も持ちこたえられまい。

 

 相手に致命傷がないと見てか、戦士がその動きを変えた。倒れ込むような姿勢で、身を低めつつさらに速度を上げて――倒れ込む勢いを利用しつつ空気抵抗を下げたか――床を踏み砕きつつ駆ける。その速さのまま下段を斬り抜ける、と見えたが。ウォレスの直前で、石畳を砕き散らしながら急停止。駆け込んだその勢いを、全て肩から腕へと伝える。突然の上段を横殴りに――ウォレスの視界の外からの攻撃を狙ったか――、首を刎ねるように襲い来る刃。なるほど、まるで次元が違う。

 

 ウォレスは正面から手を伸ばした。剣を持った戦士の手首を取る。勢いにわずかに押し返され、ウォレスの足が地面を擦る。それで戦士の剣は止まった。ウォレスは握る手に力を込め、石の手首を折り砕く。

 

 なるほど、まるで次元が違う。ここまでの強者とまみえたことなどない。そしてまあ、それだけだった。

 

 姿勢を低めていた戦士の体を適当に踏みしだく。砕けかけたそれを片手でつかみ上げ、宙へ放り投げる。引き抜いていた剣をそこへ振るった。刃は遠く当たりはしなかったが、巻き起こす風圧が戦士の体を二つに分ける。さらに振るう、縦へ斜めへ細切れに。

 

 確かに見たことがなかった。風圧だけで敵を斬るなどと、ウォレス以外でできる者を。

 その辺の石くれと見分けがつかなくなった戦士を残し、元来た通路へ向かう。ウォレスが足を運ぶにつれて、背後の積み石は音もなくせり出し、未だかつて誰も通したことなどないという顔で閉じていった。

 

 ため息をつく。

「……で?」

 

 なるほど、言ったとおりの場所、言ったとおりの知らないもの。言ったとおりに手に入れて、で? 帰ってくるとは、地下に囚われたものとは? まさか今の戦士でもあるまい。解放されて感激しているという様子には見えなかった。それにこの武器は何だ、渡されたこの欠片は? 

 

「まあ、いい」

 取りにくると言っていた、あれは。アレシアの顔をした女は。そのときに問いただそう。

 手にした剣は今のでちょっと曲がっていたが。まあ、壊すなとは言われていない。

 

 



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第8話  かつての仲間と

 次の日。薄闇の部屋でウォレスは待っていた、そう認めたくはなかったが。下着のまま寝転がり、時折起きて酒を呑んで。いつもどおりに過ごしてみせながら、それでもたびたび、あの欠片と引き抜いた剣をいじるのをやめられなかった。

 

 いつどこで会うとも言ってはいないが、きっと不意に来るのだろう、初めて会ったときのように。アレシアの顔をしたあれは。

 会ったところでどうするのか、あれは何をしたいのか。この剣と欠片は何なのか、そもそもあれは何者なのか。そして自分はどうしたいのか――分からないまま、それでもウォレスは待ちたかった。

 

 やがて遠く足音が聞こえ、いつもの癖で跳び起きて身構え。ウォレスは大いに落胆した。

 一時間と少し後。ようやく足音は扉の前にたどり着き、ウォレスは引き裂くように扉を開けた。腹いせにだいぶ呑んでいる。

「なんだてめえらぁよ、あ? また性懲りもなく来やがったか依頼だか何だか知らねえがよ!」

 

 扉を叩こうと手を伸ばしたままの聖騎士――今は近衛士団長か――ディオン。その後ろには療術師――同じく大司教の――シーヤ。そして元戦士のアランと元魔導師サリウス。見知った顔が、揃って口を開けていた。王宮からつけられたのだろう、知らない戦士と解錠師もいた。つまるところウォレスが聞いた足音は複数で、その多くに聞き覚えがあった。

 

 ディオンはゆっくりと口を閉じ、大きく口角を上げて――変わらないわざとらしい笑みだ、だが今は頬との境にほうれい線が目立つ――笑った。

「まずは久しぶり、ウォレス。次に訂正しよう、依頼ではなく命令。そう理解して欲しかったな先日の文書は」

 ディオンは兜の間から渦を巻いて伸びた、栗色の髪に指を伸ばす。かきむしりながら頬を歪めた。

「その文書を破り捨てたらしいな読みもせずに! え? 大体何なんだ君は、何が悲しくて九年間何の音沙汰もなしに――」

 アランが苦笑して間に入る。

「その辺はゆっくり話すとして、中に入っても? どうもここは居心地悪い」

 見知らぬ連れの二人は青ざめた顔で、道の先の様子をしきりに窺っている。

 

 

 

 不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)を勧めたが、ディオンは手をつけなかった。兜を脱ぎ、灯りを掲げて部屋の中を歩き回っていた。

 

 ウォレスは立ったまま、裸足の足で何度か床を蹴る。

「で? 何だよ騎士団長様よ、九年ぶりに会っといてよ。怒鳴り上げといてお宅拝見って、何しに来たんだ」

 ディオンは巻き毛を揺らして振り向きざま、ウォレスを指差して歯を剥いた。

「先に怒鳴ったのは君の方だ! 九年ぶりに会っておいてな! そもそも君な、一度ぐらい――」

 白い法衣をまとった女、シーヤが手でさえぎる。

「先輩、その辺で。ウォレス先輩、お久しぶりです。早速ですが、用件の方よろしいでしょうか」

 ウォレスの返事も待たず、王宮からつけられた解錠師らに目配せする。見知らぬ二人は後ろを向いて耳を覆った。

 

 小柄なシーヤは爪先立ちに、ウォレスに口を寄せてささやく。褐色の肌は相変わらずきめが細かい。絹色をした髪も同様だ。

「王宮よりの依頼です、ご内密に。『宮廷から失われた、龍の宝珠を探し出せ』と」

「龍の宝珠?」

 

 龍という言葉自体は知っている。伝説上の生物。(ドラゴン)に似てしかし細長く、翼もない体で空を駆けるという架空の存在。確か、古代には神として崇める文明もあったという。喪失迷宮のどこかに隠れ棲む、という噂もある。もちろん嘘だ。見たこともない宝や魔物を見かけただのという、冒険者なら飽きるほど聞き、自分でも一度は言ってみる類のほら話。

 

「龍の宝珠ね――で、何だそりゃ」

 ディオンがたちまち声を上げた。

「機密だと言ってるだろうが! 口に出す奴があるか」

 ウォレスは小指で耳をほじる。

「で? だから何なんだよそりゃ」

 

 シーヤから聞くと。それはウォレスたちがかつて魔王――反逆の魔導王、メイデル・アンセマス――を倒したとき、戦利品として持ち帰った品の一つだそうだった。掌からはみ出るくらいの、いびつな球状の宝珠。透明性はなくざらついて白く、宝石というよりはくすんだ真珠のような印象。強い魔力を感じさせるも何のためにあるのか分からないそれを、ウォレスたちは王宮への献上品の一つとした――面倒なので押しつけた――のだった。

 

 だが、それが宮廷の宝物庫から失われたという。二日に一度中を確認されるそこは、もちろん転移魔法の類を封じられており。壁を壊された跡も鍵を盗まれた様子もなく、その宝珠だけが消えていた。

 

「そんなのもあったっけ? で、なくなってどう困るんだ」

 ウォレスが頭をかいていると、ディオンが険しい顔で怒鳴った、あくまで小声で。

「そういう問題ではない! 王宮からまんまと盗み出された、というのが大問題だろうが」

「だとしたって、何で俺が探すんだよ」

 ディオンは唇を閉じ、明らかに目をそらした。

 

 シーヤが言う。

「それは。『龍の宝珠を奪った者は、必ず喪失迷宮に現れる』からと。『あれは喪失迷宮で使われる』からと」

「あ?」

 ウォレスの頬がさすがに引きつる。

 

 腐っても王家だ、秘密の伝承などもあるだろうしそれなりの情報網だって存在するだろう。いくら迷宮の底まで潜ったとはいえ、一介の冒険者とは情報量が違う。それは分かる、だが。

 

「なんでそれを俺らに言わなかった、そいつを献上したときに。機密ってんならそれでもいいが、そのくせ王家で使うってわけでもねえ」

 あるいは危険なものということか。だが、ならば魔法を幾重にもかけて封印すればいいだろう、地の底にでも埋めて。宝物庫などという取り出せる場所でなく。

「王宮は何を知ってる」

 

 口元を苦く歪めてディオンが首を横に振る。

「知らん。知らんよ、私だって。聞かされたのはそこまでで『迷宮をよく知る汝(うぬ)らが探せ。それが道理よ、英雄殿ら』とよ。つまりは私たち、身重のヴェニィ以外と、そこにいる不幸な私の部下――何を探すかも知らんと駆り出された奴らだ。それに君だ」

 

 ウォレスは眉根を寄せていた。ディオンの物言いに――ディオンが伝えた、別の人物の物言いに――引っかかるものを感じていた。

「……なあおい。それを言ってよこしたのは、つうか、宝珠を探せって言ってんのは。王宮っつうより、姫君か?」

 サリウスが鼻息を詰まらせた。細身の体を震わせ、ひとしきり笑った後に言う。

「そらお前、そらそうだろうな! お前の元彼女(もとカノ)だよ、その齢で『姫』って言えるんならよ」

 

 かつてウォレスが無理やり抱えて駆けた――迷宮から救出した――姫君。

確かにそう、まさに姫君だった。腰はウォレスの抱える片腕にすっぽりと収まり、そのまま軽々と駆けられた。透き通るような肌、柔らかな体、まるで触った端から指に染み込んでいってしまいそうな。慎ましく波打つ灰色の髪からは、黴くさい迷宮に似合わぬ甘い香りがした。鼓動が高鳴ったのは決して、駆け続けた疲労のせいだけではなかった。

 救出した当時、姫は確か十八だった。ウォレスより三つ下。となれば、今は三十一か。そのはずだ、時が誰にも平等ならば。

 

 ディオンが大きく咳払いをする。

「王女殿下、だ。いいな。とにかく、殿下個人のご意思というわけではない。お立場からして深く関わっておいでなのは間違いないがな。まあ、我々に直接命じたのは殿下だ」

 

 姫の殿下のとは言っても、どの姫なのかは誰も口にしなかったし、その必要もないはずだった。かつて魔王にさらわれた、ウォレスらが救出したその人。王の第五子、第一王女――ウォレスの記憶が正しければだ、迷宮に住み着く前の――だけが王宮に居ついていた、妹らのように嫁ぎもせず。何々伯夫人だのではない『王女』は彼女一人だった。

 

 無理もない話だ。少女の時分に魔王――王宮に反逆した宮廷魔導師――にさらわれ、以来七年を迷宮で暮らした姫。多感な時期を黴臭い闇とうごめく魔物と、冒険者の悲鳴と。それらに満ちた迷宮で過ごした王女。花咲くような十七、八才の時を、魔王と共に生きた娘。

 貰い手などあるべくもない、表に出すのもはばかられる王女。それが帰ってきて、それで? 

 

 どこにも行き場のあるはずはなく。英雄との縁談も無かったことになり。が、魔王に手ほどきされた魔導、実地に長年見てきた迷宮、それがどうにか立場を繋いだ。他の宮廷魔導師らを束ね、迷宮と魔導の研究に当たる者としてのみ、その王女は生きていた。少なくとも、ウォレスが迷宮で暮らす前には。

 

 ウォレスは小さく息をついた。

「そうか。……あの姫がね」

 サリウスが肩をすくめた。

「ま、何だ。そーいうこと、オレやアランにも命令が出た。前金もたっぷりもらっちまってな。こいつはお前の分だ」

 膨れ上がった小袋を両手で持って放ってくる。

 

 受け止めたそれはずしりと重く、金貨だと察せられた。中も見ずに床へ落とす。重い音を立てたそれはほどなく、外の布が端から崩れ薄れて喪失され、金貨の山だけが残っていた。

 

 ウォレスは長く息をついた。ディオンが眉をひそめたが、何か言われる前に口を開く。

「分かった。やる、やるよ。お前らがやるんなら俺もやる」

 ディオンが目を見開き、サリウスとアランは意外そうに目を見交わした。

 

 なるほど、ウォレスも意外だった。だがまあ、どうでもいいことだった、王宮も姫も何もかも。どうでもいいから請け合った。大事なことはもっと別で、これはそのつなぎだった。それでも口は、どうでもいいことばかり喋る。

 

「ただし。……そうだな、半分。地下三百五十階まではお前らが、それより下は俺一人でやる」

「しかし――」

 言いかけるディオンを制してアランが言う。

「そうだな……それがいいかもな。おれたちがいても、下層じゃ足手まといなくらいだ……今のお前からしたら」

 苦く笑って続けた。

「でも一人じゃ難だ、せめて五百階まではおれたちが――」

「三百五十だ」

「じゃあ四百」

 ウォレスは首を横に振る。

「三百五十。俺に手間をかけさせるな」

 アランは息をつく。前髪の逆立った頭をくしゃくしゃとかいた。

「分かった、半分だろ。地下三百六十二階、そこまではおれたちでやる」

 

 うなずいた後、ウォレスはディオンの方を向く。さっきよりは大事なこと。

「それと、浅いとこには妙な連中もいるだろうが。世話になってる奴もいる、見ないでおいてくれると助かる」

 ディオンは顔をそむけて鼻息をつく。

「私に言うか! ……だが、今は最優先の任務がこれだ。他は優先されないのが事実だ」

 ウォレスは笑う。そうだ、言うんだ。もっと、ずっと大事なこと。

「ありがたい。それと、ああそうだ――」

 そうだ、言うんだ。さりげなく。

「――やっぱり、地下五十階から少しは俺がやるよ。迷宮(した)の住人には顔が利くんだ、情報も入るだろう。地下五十から百三十、そこまでやる」

 違う、そうじゃない、そんなことなんかどうでもいい。もっと、最も大事なこと。

 

 アランが声を上げる。

「ええ? 半分だろ、だったら……地下四十九階までおれたち、五十から百三十がウォレス。百三十一からええと…………四百四十二まで俺たち、合ってる?」

 サリウスが顔をしかめる。

「メンドくせぇな、四百五十まででいいだろ」

 

 ウォレスは何度も素早くうなずく。――そんなことより言うんだ、これを――

「ああ、それで頼む、悪いな、それと――」

 ――それと。また一緒に呑もう。みんなで。ヴェニィは今、酒はだめだろうけど。それでもみんなで。山獅子亭(クーガーズ)、いやサリウスには悪いが地下がいいな、覇王樹亭(サルーン・カクタス)で。お前らさえよければ俺の部屋でもいい。一緒に呑もう、あの頃と同じに。安物のつまみと酒を、競うようにたらふく。明日になっても動けなくて、結局その日も寝て過ごして。それからまた、呑み始めてしまうような日を過ごそう。融け合ってしまうような日を。仕事が全て終わった後で、いや今からでも――。

 

「――いや、何でもない」

 かつての仲間たちは真っすぐにウォレスを見て、それでウォレスは目をそらした。視線を泳がせたまま続ける。

「じゃあまたな、早速取りかかるよ。お前らはいったん帰れ。あ、それより疲れたろ、不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)呑んでくか」

 ――呑もう。呑もうよ、俺と。今からでも――。

 

 ディオンは笑って首を横に振る。

「無用だ、可能な限り戦闘は避けてきた。最下四層は充分抜けられるさ。……それより」

 ディオンはウォレスの目を見た。わずかに目を細め、瞳の奥まで見通すように。

「なあ、ウォレス。そろそろ地上(うえ)に出てきたらどうだ。褒賞にも手をつけてないだろう、勲功年金だって貯まってる。たとえ働かなくたって、それなりに暮らしていけるはずだ」

 ウォレスは薄く口を開いて、何も言葉は出なかった。視線さえもそらせなかった。

 

 ディオンはまた言う。

「大体。何が悲しくて九年もいたんだ……こんな地獄の底に」

 ウォレスの動きが止まる。

 地獄の底、それはそのとおりだろう。だが、何でいた? そう聞かれると。

「……何で、だろうな?」

 そう笑うのが精一杯だった。それでも続けて言う。

「ま……とにかく、仕事にはかかるさ。何か分かればそうだな、地下十六階の『西風堂(ゼファー・トレード)』、そこへ伝言しとく」

 そこならまあ健全な店だ、ディオンも店主も困りはすまい。ただ、そこへの伝言は覇王樹亭(カクタス)の主人に頼むつもりだ。地下十六階では、地上のにおいが強すぎる。

 

「了解した、こちらからもそこへ伝えよう。収穫がなくても一日一度は伝言して、こちらの伝言も確認してくれ。では、またな」

 ディオンが片手を掲げる。他の仲間たちも口々に別れを述べ、部屋を出ていった。

 

 ウォレスは長く息をついた。掲げ返していた片手をその後で下ろす。いつもと変わらないはずの薄闇がずいぶん暗く、寒かった。

 

 笑いをこらえたような声、喉を鳴らす音が背後から聞こえた。ころころころ、と、床石に小石を転がしたような。

 

 それでウォレスは初めて気づいた。振り向く。

「……いつからいた」

 部屋の隅の方、武器が溢れた棚の陰に、アレシアの顔をした女はいた。唄うように口を開く。

「ずっと前から。ずっといたよ、そばにいたよ」

 

 



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第9話  至極まともだ

 口にしたとき、日に焼けた肌の女はもう笑っていなかった。首をかしげ、薄い金色をした髪が音も立てずに流れる。歩み寄ると、床に転がった剣を取った。地下七十四階の隠し区域から持ち帰った剣。

「ありがと、とっても。約束どおり」

「おい」

 ウォレスは歩み寄り、顔を寄せる。どうしても頬が引きつる。

「何だ、お前は? どうやってここに……いや。その剣は何なんだ」

「言ったでしょう、この迷宮に隠された封印。抜いていけば解き放たれるの、地下に囚われた魂が」

 

 たとえば、君のような? その問いが浮かび、鼻息をついて振り払う。

「わけが分からんな。封印てのはそもそも何だ、あの場所は何なんだ。抜いたときに出てきた敵は? それに」

 渡された欠片を取り出し、示す。

「こいつは何だ。何でこんな皿かなんかの破片が、俺も知らなかった場所の鍵になる」

 ウォレスの頬に力がこもる。

「おい……お前は、何なんだ」

 強く言った後で、口に出さなければよかったと思った。あのときのアレシアだと、そんな答えが帰ってきたならいいと。仕様もないと分かっている思いが、胸の内側へこびりつく。

 

 アレシアは小さく首を傾げ、困ったように笑っていた。きかん気の強い弟でも見るみたいに。そうして息をこぼして笑う。

「わたしはどうあれわたしだよ。たとえ、いきなり迷宮から帰ってきたって。たとえ十八年かそこらぶりだって。君が見たまんまのおねーさんさ」

「ふざけるな」

 

 ほんのかすか、期待に近い答えに震えを覚えて。それでもウォレスは声を荒げた。

「ふざけるな。てめえが何か知らねえが、なんでその姿を取る、その声で喋る。俺の何を知ってる」

 アレシアが強く眉根を寄せる。両手を腰に当てて、顔を突き出して言った。

「はあ? 知らないよぼくちゃんのことなんか、ずいぶん老けたってこと以外はね。そもそも、そーんな深い仲でしたっけか? すいませんね存じ上げませんで」

「あ……?」

 

 アレシアは腰に片手を当て、部屋の中を歩き出した。

「とにかく。わたしは迷宮から出てきたの、そんで封印を抜いてけば、囚われたものが解放されるの」

 もう片方の手で、ウォレスが持ち帰った剣を振り回す。時々大きく振り過ぎて、振り回されたように姿勢を崩す。

「何で分かるって言われたら、迷宮の記憶? っていうか、そういうのがあるの。わたしの中にね。封印が全部なくなれば、わたしも自由に歩き回れる。君が知ってるアレシアみたいに、自由にね。ずっと」

 

 ウォレスは目を瞬かせていたが、やがて口を開いた。黙っているべきではないと思っただけで、我ながら的を射た質問ではなかった。

「……さっきの話、聞いてたな。龍の宝珠とやら、何か知ってんじゃねえのか」

 

 アレシアは薄く薄く微笑んだ。実に優しい笑みだった。

「さあね。でも、一つははっきり言える。私は宝珠(それ)を持ってない。持ったことなんて一度もない」

「知らないとは、言わないんだな」

 

 答えず魔法衣の懐をまさぐる。取り出した何かをウォレスへと放った。

 受け取ってみれば、以前渡されたのと同じような欠片。ただ、こちらはまるで椀のようなきつい丸みを帯びている。

 

「ごめんね、もう還らなきゃ」

 扉の方へ歩いて、背を向けたまま続けた。

「地下三百八十九階。東側端の壁、真ん中辺り。できるよね、ぼく」

 さえずるように言って、アレシアは扉の向こうへ消えた。

「待て、お前は何を知ってる。それにこいつは――」

 声だけが勝手な返事をよこす。

「あ、ていうか元彼女(もとカノ)って何ー? おねーさんは聞いてないなぁ」

 

 追って通路へと飛び出たが、どこにもいなかった。足音さえも聞こえなかったし、転移魔法の類はこの階では使えない。それでもどこにもいなかった。

 

 

 

 ともかく依頼――ディオンが言うところの命令――のとおり、龍の宝珠を探す。そう決めた、アレシアのことは考えないことにした。ついでに言えば、王女のことも。

 探すといって、手がかりが示されているわけでもない。とりあえずは迷宮をめぐり、宝珠を奪った者と、そいつが足を踏み入れた痕跡を探す。加えて迷宮の住人から、そうした者の情報を聞いて回ることにした。目的があることと自分から人に会おうとする以外は、これまでの毎日と同じだともいえた。

 

 思わず舌打ちが出る。王宮からの命令としてはあまりにも大ざっぱだ。

「嫌がらせか、こいつはよ」

 

 かもしれない。王女からの嫌がらせ、心当たりがないではない。恨みに思うべきは、むしろこっちの方ではないか――そんな風にも思えたが。言いはすまい。言ったところで仕方もない。

 

 ただ宝珠について、魔王が遺したものだとすれば。一つは当てがなくもなかった。だがその当てがどこにいるのかが見当もつかない。それも併せて探す必要があった。王女自身から情報が聞けるのなら話は違ってくるだろうが、ないものねだりだ。

 

「行くか」

 いつものとおり下着姿に――ズボンだけは履いた――サンダルで、剣帯に手入れの悪い剣を一振り。忘れると決めてはいたが――あくまで、何らかの関係があった場合のため――欠片はポケットの中で、ちゃりちゃりと鳴っていた。

 

 最下四層を出た後、転移魔法を繰り返し。まずは地下五十階へ来た。いくつかの角を曲がり、突き当たった扉を叩く。逆五芒星や山羊の頭骨、悪魔とおぼしき魔物の姿、その他本来ならおどろおどろしいであろうものが、子供の落書きめいた筆跡で削り描かれた鉄扉。

「いるか、アラック。俺だ」

 

 とたん、中から駆け寄る音がした。跳ね飛ばすような勢いで扉が開かれる。同時、フードを被った男がウォレスの足元へ、滑り込むようにひざまずく。

「おお、ウォレス神、おおお! 直接の御降臨とは、もったいのうございます!」

 男は組んだ腕を顔の前へ掲げ、そして頭を下げながら床へとつける。それを繰り返しながら何か、礼拝の言葉らしきものをしきりに唱える。その後頭を下げた姿勢で言った。

 

「まこと、もったいのうございます我が主ウォレス! 我が家のごとき穢れた地へ御降臨などと、ああされど何か御命令ありますればなんなりと! もしや、腐れた地上をついに滅ぼすのですか! それともあの忌々しい太陽めを叩き落とし、永遠の闇を創り出されるのか! おおなんと、おおなんと!」

 好きに喋らせた後ウォレスは言った。

「ああその、苦しゅうない。とりあえずおめえよ、飯の途中で来なくていい。口拭けよ」

 言われて下を向いたまま、パンくずとシチューのついた口をアラックは拭う。

 

 ウォレスは部屋の中をのぞいた。

壁に取りつけられたフックからフックへ、部屋中に紐が張り渡され、蛙か何かの干物やら薬草だか毒草だか、得体の知れないものらと共に、下着や靴下が干されている。銅板を敷いた床の上には所狭しと本が積まれ、その間に敷かれた魔方陣らしきものの上ではマグカップが倒れて染みを作り、焼き菓子の破片が散らばっていた。飼っているわけでもないだろうが、その横を素早く虫が走る。奥の炉には鍋がとろ火にかけられ、牛乳をたっぷり使ったであろうシチューの香りが漂っていた。その横では押しのけられたように、牛や山羊の頭骨や爬虫類を漬けた瓶詰めが乱雑に積み上がっている。頭骨のうちいくつかは床へ落として喪失されかけたことがあるのだろう、下半分ほどが溶けたようになくなっている。

 

 アラックは邪神の教徒だった。本人が言うにはそうだ。かつて魔王、反逆の魔導王が異界から邪神を召喚しようとした際に――本人が主張するところでは――その知識を買われて協力を求められ、そのおかげで後に――魔王の死後だったが――召喚が成功した、ということだ。本人以外がそうだと言ったことを、聞いたことはないが。

 

 ウォレスは片手を掲げ、厳かに言ってみる。

「まあよい、敬虔なるアラックよ、お前に聞こう。龍の宝珠、とやらについて聞いたことはあるか。かつての魔王に関するものであるのだが」

 

 アラックは平服したまま首を横に振り、そうしながら喋った。

「いいえ、新たなる我が神よ! さしたるものについてはこれっぱかしも、いいえ魔王一の側近たるわたくしめでも、聞き及ぶところではございません」

 彼と魔王が一緒にいるところや邪神と共にいるところをウォレスは見たことがないが、本人が言うにはそういうことだった。

 

 ウォレスは隠さずため息をつく。妙にこってきた肩を回した。

 アラックの理屈では、邪神を討ったウォレスこそが新たな邪神だそうだった。異界の存在である悪魔などの魔物や邪神、それらは純粋に魔力そのものの塊であって。それを殺したものはその力の一部を吸収するのだそうだった、その主張するところによれば。そうして邪神の力を得、以後も魔物を狩り続けて力を得たウォレスこそが、新たな邪神だそうだった。

 

 アラックは顔を上げ、首を傾げる。

「しかし、龍。龍でございますか、(ドラゴン)ではなく? 古い伝説には聞いたこともございますれど、さすがにこの迷宮の中にいるとは。せいぜい酔っ払いのたわ言に聞いたことしか……や、これは我が主に失礼で」

 

 (ドラゴン)なら迷宮では時折見かける。種類にもよるが、魔物としては最強の部類だ。

小山のような巨体、一枚一枚が盾のような鱗。一対の翼は飛行より、狭い迷宮内で振るうように打ち据えて、冒険者をまとめて叩き殺す用途に使われる。並みの防具はものともせず引き裂き噛み潰す爪と牙、さらに炎の吐息。

多くの冒険者にとって慎重に避けて通るべき天敵であり、ウォレスからすれば喉肉が柔らかくて旨いという印象だ。岩塩を擦ったものを振りかけてあぶり焼けば、たまらない脂を滴らせる。覇王樹亭(サルーン・カクタス)に持っていっても喜ばれた。

 

「よい、その龍について知っていることを述べよ」

 アラックは地に顔を向け、動きを止めた。

「は、龍。その……龍は……長い、と。とてつもなく、それこそ見たこともないほど長いと。それで、翼もなく空を」

「お前が聞いたたわ言とは? 酔っ払いとは誰だ」

 その本人を探し出せば、案外まともな情報が聞けるかもしれない。素面(しらふ)のときに会えれば。

 

 アラックは飛び込む勢いで、胸まで地べたにつけて平伏した。

「それは、お許しを! 主にお聞かせするほどの価値など――」

「いいから言えよ、言ってみろって」

 平伏したままアラックは、震えながらウォレスを指差す。

 

 そういえば。供え物だと、良い酒を持ってこられて。潰れるまでアラックの前で呑んだくれたことがあった。そのときにでも言ったのだろうが、記憶にはない。いや、言われてみれば言った気がする。迷宮に眠る幻の魔物を退治しただの、永い眠りについていた古代文明の姫を目覚めさせてものにしただの。冒険者なら誰でも一度は、言ってみたくなる類のたわ言を。

 

 咳払いしてウォレスは言う。

「……うん。分かった、もういい。他に、龍の宝珠について知り得る者は」

「わたくしめでなければ(おそ)れながら、アミタの奴めになりましょうか。しかしながらあの畜生め、どこをほっつき歩いているやら」

 

 アミタ。彼女こそがウォレスの考える当てでもあったが。その居場所すら分からない。

 ウォレスは息をついて背を向けた。

「ご苦労。では、さらば――」

 そこで思い立ち、言ってみる。

「――ときに、聞いたことなどあるか。迷宮で喪失された者が、帰ってきたという噂。……あと、アレシアって女のこととか」

 アラックは顔を上げ、けげんそうに眉を寄せた。

「いえ、聞いたこともございませんが。それが何か」

「いや……いいんだ、だろうな。世話かけた」

 

 

 

 その後も住人を訪ねて回ったが、収穫はなかった。そもそも会えない者が多かった。アミタは言うに及ばず、ジェイナスもよく寝床にしている部屋に姿はなかった。

 ああ見えてジェイナスはまともな部類だ、会えたならある程度の情報は期待できた。そもそも、会ったところで話にならない者も多い。残念ながらアミタもおおむねその一人だが。

 

 しかし、とウォレスは思う。ジェイナスにこの話をしたなら、喪失された者が帰ってくると言ったら。いったい何と言うのだろうか。

 食いついて根掘り葉掘り聞いてくるか? いや、何の関心もないかも知れない。何しろ彼の頭の中は、仲間を失う寸前で止まっている。彼の中で仲間は喪失されてなどいないし、魔王は誰にも倒されていない。

 それとも案外関心を示すのだろうか。彼は未だ冒険の最中で、しかも冒険者の中の冒険者だった。仲間を失い悲嘆に暮れる他人のために、彼なら力を振るうだろう。

 

 そこまで考えてふと思う。ウォレス自身もまた、彼と同じではないのだろうか。冒険は終わって、魔王も邪神も倒してしまって、それでもまだ続けている。今の今まで探すものも何もなく、それでもただ続けている。

 

 なるほど、ジェイナスは至極まともだ。ウォレスに比べて。

 

 



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第10話  帰ってきた者

 それから後は当てもなく、宝珠を奪った者の痕跡を探した。転移魔法を繰り返した後、とりあえず地下四百五十一階から歩き回る。

 

 北西隅、上階からの階段を始点に南へ十六歩、そこで角を東へ曲がった。もし真っすぐ行っていたなら転移魔法の仕掛けられた床だ、東端の通路に飛ばされることになっていた。もちろん飛ばされたなら飛ばされたで道順は分かっているし、最終的にこの階はそういった床を利用しないと、下階への階段にはたどり着けない。

 とはいえウォレスなら、転移の呪文を使いさえすれば瞬間的に移動もできたし――迷宮の構造を把握しない者が使えば、うっかり石壁や地面の中に実体化してそれらと混ざり合ったまま絶命するだろう――、そうする以前に足が覚えている、間違いようがない。現にサンダルを引きずりながら通路を進み、出会った魔物を斬り捨てたり壁に頭を押しつけて潰したり素手で腹を引き裂いたりしながらも、足は自然と特定の石畳――踏めば作動する罠のスイッチ――を避けていた。

 

 部屋から部屋、通路から通路。巡りながら考えていた、狩りながら考えていた。これまでの毎日と変わらぬ行為を繰り返しながら、それでも今日は考えていた。ディオンに言われたからではなく、ジェイナスと比べたからでもないが――いや、悔しいが実際はそうだ――、なぜ九年間もこうしているのだろう? なぜ? 

 

 そこに迷宮があるからだ、そう言えば格好もつくか。だがそれは実際、事実とは遠い。ならなぜ? 宝物を漁る物欲か? 魔物を屠る戦闘欲か? それらがないわけではないが、それらがあるからではない。あったところで全ての宝は見飽きたし、全ての魔物は殺し飽きた。ならばなぜ続けている。

 

 足を止め、深く息をつき、頬の返り血を拭う。目の前には分かれ道を備えた通路が遠く、寝ぼけたような薄闇の中へ融け落ちている。

 

 ずっと見てきた景色だった。この九年間、だけではなく。その前の九年間、初めて迷宮に入った十六の頃から、仲間と――別れた仲間、逃げた仲間、喪失された仲間、怒ってウォレスを追い出した仲間、かつての仲間、色々だ――共に戦った。この迷宮、時には魔王の配下が陣取る他の迷宮。様々な場所で戦って、それでもやはり同じだった。いつも迷宮がそこにあった。

 ウォレスは迷宮を駆けた、今のウォレスは。九年前のウォレスも。十年前のウォレスも、十一年前のウォレスも。十二年前も、十三年前、十四年前、十五年前十六年十七と十八年前のウォレスも。駆けた。幾多の罠を越え、行く手の魔物を屠りながら駆けた。

 

 ずっとそうだった。ずっとそうだったのだ。立ち止まれないほどに駆けてきたのだ。やめてしまえばそれが、終わってしまう。嘘になってしまう。

 

 きっとウォレスがここにいるのは、そこに迷宮しかないからだ。他の何もないからだ。

 

 

 

 ウォレスがジェイナスに気づいたのはほどなく、地下四百五十三階のことだった。

 出くわしたのはたまたまだ。足音ではなく、誰かと話す声が近くまで来て聞こえた。比較的深い階層ではあるが、彼がいること自体はさほど珍しくない。おそらく人間としては、ウォレスの次かその次に強いのが彼だった。

 

 珍しいのは、ジェイナス以外の話し声がここでしたことだ。ウォレスの次かその次に強いもう一人は、話にならない類の人間だ――戦士サリッサ、彼女は恋人を殺した竜(ドラゴン)を追っている。彼女が言う特徴の(ドラゴン)をウォレスはかつて探し出し、一緒に倒してやった。彼女はそれからも、恋人を殺した(ドラゴン)を追っている。出会った生き物を見境なく、仇と思って殺しながら――。

 聖騎士ジェイナスが慈悲深いとはいえ、サリッサを説得しようとは思うまい。第一、向こうが斬りかかってくるのに話も何もない。ということは、一緒にいるのは彼女以外。そしてその二人とウォレス以外、この階層をうろつくことができるのは、まず一番にアミタだった。彼女なら――よほど下層はどうか知らないが――迷宮のどこでいても魔物に襲われることはない。話だって、向こうの機嫌が特別によければできなくもない。

 

 足音を忍ばせて声の方へ近づき、しかしそうするうちに落胆した。はっきりと聞こえ出したもう一人の声は男のものだ。それと重なるように聞こえるジェイナスの声は興奮した様子で大きく、そして、咆えるような泣き声に変わった。

 

「……ええ?」

 思わずつぶやいてウォレスは駆けた。何があった? それに、相手は誰だ。迷宮では聞き覚えのない声だった。

 

 角を曲がったそこで見たのは。ウォレスより頭一つ大きなジェイナスが、さらに頭一つ大きな男に、抱きついて泣く姿だった。

「……えええ?」

 

 ウォレスのつぶやきにジェイナスは顔を上げる。上げた面頬の下で顔は赤く、豊かな白髭は涙と鼻水に濡れそぼっていた。

「おお、ウォレス、おお! 喜べ、喜んでくれ!」

 ウォレスへ飛びつき、肩を抱き締める。小手に覆われた手が妙に生温かかった。

「奇跡だ、まさに奇跡なのだぞ! ああ失敬、取り乱した――」

 取り出したハンカチで顔中を拭い、盛大な音を立てて鼻をかむ。相手の男を示して言った。

「紹介しよう。彼こそ我が敬愛する仲間、信頼する我が友! 迷宮の闇を断ち割る我らが斧!  戦士バルタザール!」

「……え?」

 戦士バルタザール。その名には聞き覚えがあった、無論ジェイナスの名ほどではないが。彼の仲間として高名な戦士。すでに喪失された戦士。

 

 紹介された肩幅の広い男は、面映げに浅黒い頬を緩めた。武具の類は身に着けていなかったが、はち切れそうな筋肉が簡素なシャツの上から見て取れた。

「勘弁してくれ、何だよその大層な言い方。あー……どうも、バルタザールだ」

 ウォレスの顔から爪先までを何度か見て、バルタザールは納得したようにうなずいた。

「ウォレスって、ああ。魔剣士ウォレスか。何度かは会ったな、その様子じゃずいぶん経ってるみたいだが……何年ぶりってことになるんだ?」

 

 ウォレスの中でようやく、おぼろげながら記憶が像を結ぶ。戦士バルタザール、そうだ、姫の救出のため協力し合ったときの、屈強な大斧使い。それから後に酒場で出会って、挨拶(あいさつ)がてら軽く呑んだこともあった。だが、しかし。

 

 ウォレスが何も言えずにいると、ジェイナスが友の肩を叩きながら声を上げた。

「十年だ! 十年ぶりだぞ友よ、剣の柄に誓って申すが! お前たちが喪失されてから!」

 うなずきかけてウォレスの動きが止まる。今何と言った、この人は? 喪失と? 

 

 そんなになるか、とバルタザールとうなずきあった後。ジェイナスは振り返り、寂しげに笑った。

「どうしたかな、ウォレス。……拙者とて分かっていたわ、彼らが喪失されたことは」

 目をつむり、うつむく。それから言葉を続けた。

「分かっていた。分かってなど、いたくはなかっただけのことよ。忘れていた、忘れたことにしていたのだ。あるいは本当に忘れていた、だがその度に思い出してしまう、彼らの喪失を、その度に忘れその度に……」

 長く長く息をこぼし、バルタザールへ向けて顔を上げた。

「友よ。残念ながら、そして喜ぶべきことに。魔王は既にこの、暗闇の果てにもいや増し輝く希望の光、英雄ウォレスとその仲間たちが討ち取ったのだが。それより、我らが他の仲間は」

 

 バルタザールは視線をうつむけ、かぶりを振る。

「どうやら、俺だけらしいな。こうして出てこれたのは。よく分からんのだが、封印が解かれただか何だか……」

 ウォレスは顔を上げ、バルタザールの顔を見た。だが、戦士はジェイナスの顔を見ている。

「それに俺も、長くこうしていられるもんでもないらしい。残念ながらな」

 ウォレスが口を開くより、先にジェイナスが声を上げた。

「なんと、まことか友よ! ならば、ならばせめて共に呑もうぞ! 任せよ、上の階に葡萄酒を隠してある。そうだ、ウォレスよ。お主も祝杯を上げてくれぬか」

 口を開けたままでいた後、ウォレスは首を横に振った。

「……いや、邪魔しちゃ悪いや。どうぞ、お二人で」

「そうか。そうさせてもらうか、ではこれにて」

 

 肩を組んで遠ざかっていく二人の男を見ながら、ウォレスは口を開けていた。やがて気づけば、膝が震えていた。

 帰ってきた? 喪失された人間が? アレシア以外にも? 

 震えはやがて手に伝染した。その指先がズボンに当たり、ポケットの中で音が鳴る。欠片のこすれる音。アレシアに渡された欠片。

 封印とやらを解いたから? 帰ってきた? さらに封印を解いたなら? 

 

「……バカバカしい」

 息を一つつく。それでも足は歩み出し、やがて小走りになる。駆け出し、舌打ちして転移の呪文を唱えた。

 

 



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第11話  麦酒(エール)は初めて?

 地下三百八十九階、東側端の壁、真ん中辺り。言われた場所にウォレスはいた。ディオンたちが探索する階だが、この際は構うまい。

 呼吸が早くなっているのを感じながら、取り出した欠片を辺りの壁に当てていく。やがて鍵が合ったように、壁の一角が口を開けた。足早に中へ分け入り、広間の床に刺さった短剣を抜く。以前と同じように現れた石造りの短剣使いへ向け、腰の剣を引き抜いた。

 

 

 

 ――戦闘はほどなく済み、通路へ向けて引き返した。手に入れた短剣には前の剣と同じく、一面に青く刻印があった。

 

 通路へと戻ると。薄く笑ったアレシアが、掌を上に向けて片手を突き出していた。

「ん」

 そう声を出し、催促するようにまた手を突き出す。

 

 背後で壁が再び閉じていく気配を感じながら、ウォレスは短剣を掲げてみせた。

「一つ聞く。こういうのを引き抜いて、お前以外に蘇った――」

 言いかけて口を閉じた。何を言ってる、信じてでもいるのか? こいつが、アレシアだと。

 

「……姿を見せた、奴はいるのか。喪失された人間の、姿をした奴は」

 アレシアは両手を腰に当て、勢いよく鼻息をついた。

「ええそうね、姿を見せた、奴はいるよ。喪失された人間とそっくりそのままでねー。会ったの? どうよ、何かおかしかった?」

 答えずウォレスは言う。

「なあ。何だこの武器は。封印って何だ、なぜ喪失された奴が帰って……くる。だいたいお前は何なんだ」

 アレシアはあからさまに顔をしかめた。

「何なんだ、ってね、その質問が何なんだ、よ。わたしはわたしだし、じゃあ君は何なわけ? アレシアの何を知ってるって? 本名だって知らないくせにねー」

「……何?」

 ウォレスの顔を差すように、アレシアは一つ指を立てた。

「アシェル・アヴァンセン。こっちが本名だよ、だいたい言うわけないじゃん。そこそこのお嬢さまがさー、勝手に迷宮へ遊びに来ちゃって? 初対面のお子さまにさあ?」

 ウォレスの鼻を指で押した。その後、皮脂のついた指をウォレスの服で拭う。

 

 まあ、そうか。それはそうか、とウォレスは思った。素性を明かしたくない者はあるだろうし、どんな身分だって、冒険に憧れる者ぐらいいるだろう。ウォレスとかつての悪友たちもそうだった、身分の低い方としてだが。

 

「あ」

 と、不意にアレシアが声を上げた。その顔にはもう笑みも怒った様子もなく、哀しげに足元を見ていた。

「ごめん……時間みたい」

 アレシアの背が縮んだ、ように見えた。違った、沈んでいた。床が、アレシアの足元だけがへこみ、床石が砂利のように細かく分かれ、下へ下へと沈んでいた。

 

「……あ? おい!」

 ウォレスは手を伸ばしたが、かわすようにアレシアの体が後ろへ引かれる。波のように流れる足元の小石の群れによって。

 さらに押し流され、沈みゆくアレシアの背が壁についた。壁からは音もなく積み石がせり出した。幾つも重なり連なって長く、石造りの触手のように。それがアレシアの首を、腰を、腕を脚を絡め取る。

 

「待て、おい!」

 ウォレスは跳びかかろうとしたが。その足元も砂のように崩れる。踏み込む力が行き場を失い、つんのめった。その一瞬に、アレシアは壁に飲まれていた。

「次はね、地下五百四十階。西側端の壁、南の方」

 

 言葉の最後は飲み込まれ、壁の向こうからくぐもって聞こえた。最後にひらめく白い手だけが目の端で見えた。そこから放られた、例の欠片が床に残っていた。

 気がつけば、床も壁も元のとおりだった。叩いても揺るぐ気配すらなかった。

 欠片を拾いながら、アレシアの名を思い返していた。アシェル・アヴァンセン。そして、アレシア・ルクレイス。

 

 

 

「顔が赤いね、ぼく。麦酒(エール)は初めて?」

 無論初めてだった。他の土地ならともかく、この街は水がいい。生水だって喉を鳴らして飲めた、もちろんタダで。水代わりに呑むという習慣はなかった。

 

 そのときのウォレスは十六だった、目の前にはアレシアがいた。ウォレスは知っていた、顔の赤らみは麦酒(エール)のせいだけではない。それは当然、十六のウォレスも知っている。

 

 おいで。そう言われても、もじもじと目配せし合い、はにかむばかりの悪友六人だった。

 アレシアは長椅子の、自分の隣を叩く。

「いーからおいで。初めてでしょ、迷宮は? 先輩の話、聞いといた方がいーと思うよ。ほら、君」

 

 言われて、それで言い訳がついて。ウォレスはおずおずと、わずかに距離を開けて先輩の横に座った。他の五人も同じく座る。

 満足げにアレシアは笑い、わざとらしくふんぞり返ってみせた。背もたれに両腕を乗せて、脚を組んで。

「よーこそよーこそ、初心者(はじめて)くんたち。安心しな、怖いことなんてないんだから。迷宮も、このおねーさんもね。じゃあまずは、自己紹介?」

 

 ウォレスは名乗り、五人も名乗り、アレシアが最後に名乗った。アレシア・ルクレイス。品のある名前だと思った、今でもそう思う。それでいて気取り過ぎてはいない。その辺の花瓶に生けられていそうな名前だ。

 

 とりあえず乾杯と、ジョッキを突き合わせてそれぞれに()した後。アレシアは椅子から身を乗り出す。六人はさりげなく胸元を見る。

「いろいろ聞きたいけど、そうだね、何でまた迷宮に? 何しに行くの?」

「冒険を」

 五人がはにかんで目を見合すうち、ウォレスだけがそう答えた。

 

 アレシアは小さく目を見開く。それから、細く口笛を吹いた。

「奇遇だね。わたしもさ」

 

 どうやら彼女の気に入る答えで、ウォレスは頬に熱を感じたが。その答えに作り事はなかった。街の行商人の息子、ロウソクを作っては籠に入れて提げ、広場から広場路地から路地へと売り歩く日々。食うだけは食えた、施しを受けるような極貧ではなく――というのが母の矜持だった――だが中流には決して数えられない暮らし。田舎から上ってきた父と同じく流れてきた母、他に身寄りも当てもない。

 

 寄る辺といえば近所の悪友たちとの遊びと、安酒場から漏れ聞こえる話。迷宮上がりの酔いどれたちの、虚実混ざった冒険譚。

闇の中で(つるぎ)(きら)めき、跳び来る魔物は(うな)りを上げ。宝は妖しく輝いて、けれどもさてさてご用心、罠は静かに息を潜める。喜劇と悲劇が(まだら)(いろど)る、酒精(しゅせい)混じりの冒険譚。

 

 差し当たってそれだった、ウォレスにないもので、ウォレスが手を伸ばせそうなものは。どうにもこうにも、股ぐらがむずがゆくなるほど、欲しいと思えるものは。

 

「ほんとう、奇遇だね」

 もう一度言って、にんまりとアレシアは笑う。

 俺も冒険がしたくてさ、まったくこの街には飽き飽きさ。そんな風に五人も声を上げたが、手遅れで。ウォレスは彼女と目を見合わせていた。同じ顔で、にんまりと。

 

 



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第12話  一歩違えば夫婦(めおと)の仲

 地の底への帰り道。鞘に納めた剣の先で、こつんこつんと壁を叩く。あるいは床に引きずって、床石の継ぎ目ごとに震動を感じる。隠し通路を探るわけではなく、アレシアを――壁に飲まれた、アシェル・アヴァンセンと名乗った女を――探しているわけでもなく。ただそうしていた、街の子供たちが棒切れで、石畳の道にそうするように。

 

 ため息をつく。何なんだあれは、彼女は、あの壁は? あるいはこの迷宮は。どうすればいい? 分かっているのはただ一つ、帰ったら俺は呑むだろうということだけ。呑もう、という意気があるわけでもない、呑まなければやっていられない、というのでもない。ただ、だったら俺は呑むだろう。いつものように。

 

 何を()るか。不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)唐黍酎(バーボン)は俺の血のようなものだが――真っすぐに香り立つ、燃え上がるような血。俺とは大違いだ――、別のものもまたいい。

 焦げ色をした褐色糖黍酎(ラムダーク)にするか、鼻の奥を甘く胃袋を渋く焦がしてくれる。糖黍酎(ラム)漬けの干し葡萄(レーズン)がうらやましいなどと言う、冒険者(酔いどれ)も酒場にはいたものだ。馬鈴薯酎(ウォトカ)もたまにはいい。香りはないに等しいが、剣のような冷やかさで喉を通る。直後に走る、血のにじむような熱さまで刃物そっくりだ。

 

 唾が湧くのを感じながら地下七百二十階を歩き、下層への階段――最下四層への――手前へ差し掛かったところで。ウォレスは足を止めていた。

 

 音がした。こりり、こりり、とかじる音。魔物が骨でもかじっているのかと思ったが、もっと軽い音。まるで木の実でも頬張るような。しかし、地の底にそんな物があるはずもない。

 音は続いた、こりこりと。こり、こりりこり、こりこ、こりこ、こり。頭蓋を内から引っかくような音が、耳障りに迷宮に響いた。辺りを見回しても何もない、積み石の壁が視界の果てまで続く迷宮に。

 

 ウォレスは鞘ごと剣を提げた右手を垂らしたまま、左手を鞘に添えた。いつでも抜き打てる体勢。廊下の先に、階段の下に、闇の向こうに視線を巡らし、耳をそばだて、鼻を利かせる。

 

 そうして気づいた、音の響いてくる先。下層への階段、そこから――下階ではなく階段の途中から――聞こえてくる。

 

 構えを解いて階段の前まで歩き、ウォレスは言ってみる。

「何だ、君か? ……また、ずいぶんと気が早いな」

 

 アレシア。彼女だろうとそう思った。他にこの階層を出歩ける者など――ディオンたちが部隊を組んでこない限り――いない。しかし先ほど壁に飲まれたばかり、新たな武器も抜いていないというのに。どういうことだ。

 

 けれど響いてきた声は、絹のようなそれとは違った。

「……ほう。私が分かるか、英雄殿よ」

 女の声、けれど低い。耳に引っかかる声だ、迷宮の積み石の間に挟んで、長年かけてすり潰したみたいな声音。しかし齢取っているというわけでもない。聞き覚えがある。確かに、ある。

 

 こりり、と音を立てた後、くちゃくちゃとねぶるような音が続き、同じ声が後を受けた。

「しかし、君、とはご挨拶よな。それほど親しかったとも……いや、そうでもないか。なにせ一歩間違っておれば、私と(うぬ)とは夫婦(めおと)の仲だ。なあ、婿殿よ」

 

 ぱちん、と指を弾く音がして、階段上の空間が震えた。水面(みなも)のような揺らぎが治まった後、何もなかったそこには女がいた。

 

 薄闇の中、まずはっきりと見えたのは銀縁眼鏡。わずかな光を反射して、ぺかぺかと下品に輝いた。肩に下がる灰色の髪は荒く波打ち、何日も櫛を通していないのが――ウォレスが言うことでもないが――分かった。男ものか、大きなサイズの魔法衣、その下に見え隠れする首飾り。これはウォレスにも覚えがあった。首から下がる金の鎖、その先で金の型にはめ込まれた水晶玉。魔宝珠(アミュレット)と呼ばれるそれからこぼれた青紫色の光が彼女の姿を照らす。手にした長い魔導杖も、もう片方の手に持った棒状の焼き菓子も。それを、こりり、とかじる、脂肪に膨れた頬も。

 

 光を放つその首飾りは『王家の魔宝珠(アミュレット)』。二十年ほど前に魔王が王宮から――王女と同時に――持ち去った秘宝。そして十三年ほど前、ウォレスたちが迷宮から――王女と同時に抱えて――奪い返した秘宝。

 

 今、それを身につけているのは。かつてウォレスらが救出した王女。魔王を討伐した後、ウォレスと婚約を前提に、顔を見合わせた姫君。なるほど、あの顔に十一年ほどの歳月――それに脂肪――を詰め込んだならこうなるか。残酷にも。

 

 ウォレスは口を開けていた。何を言えばいいか分からなかったが、とにかく口は動いていた。

「ああ、やあ、久しぶりで。姫……や、殿下、か」

 喋ることもなしに顔は笑みの形を作り、口は動き続けていた。

「お元気そうで、何より。地上(うえ)はどうです、変わりはありませ――」

「あるからこうして来ておるのさ。私ほどの者が直々にな」

 

 へし折るようにそう言って、王女はさらに言葉を続けた。

「我が望みの宝珠は、手に入ってはおらんようだが。進展はあるか」

「……進展ってほどのもんはありませんがね。しかしそもそも、龍の宝珠ってのは――」

 ――いったい何だ。どんな物だ、何のためにある、王宮は何を知ってる? 失われて何が困る。それを使えば、いったいどうなる。それにあんた、どうやってここまで一人で――

 

 口にしようとした言葉の先をかじるように、王女は白い歯を剥いた。そして言う。

「思い違うな。(うぬ)らに命じたのは、あくまで王宮による決定。私自身の意思は別だ。……(うぬ)らに、あれへ触れて欲しくはない」

 

 ウォレスは眉を寄せた。

「触れるな、と? どういうことです、妙な話ですな。王宮にしろ何にしろ、探せと言ったのはそっち――」

「騒ぐな」

 言い放った後、眼鏡を指で押し上げて王女は続けた。

「いいか? 私はあれを、(うぬ)らには触れさせん。(うぬ)らの出る幕もなく、私が全て終わらせる。……(うぬ)らは私が護ってやる、それが私の復讐よ」

 

 復讐。されるいわれなどはないが、彼女がそうするだろう覚えならある。

何しろ言われたことがある、『許しはせぬ』と。ウォレスが婚約について、核心を切り出そうとしたそのときに。

 

 

 



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第13話  英雄と王女と、お見合いと怨み

 十年と少し前のこと、魔王を倒した後のこと。邪神は未だ現れぬ、平和な時分。何度か王宮に招かれ、茶なり食事なり共にして、話して顔を見合わせて。

よく晴れたある日、中庭のあずま屋で。後は若いお二人でと、お付きの者が引っ込んだ後。咳払いの後ウォレスは言った。

 

「何ですな、その。お互いこう、迷宮暮らしが長いってわけですが。相性がいいっちゃあ、いいんでしょうが。つまりその、似合いかと思いたいわけで――」

 さえぎるように王女が言う。薄い唇の間から洩れる声は低く、心地よくウォレスの鼓膜を揺らす。

「お待ちを。……その先をおっしゃる前に、どうぞこれだけはお知り置き下さいまし」

 王女は椅子を立ち、ウォレスのそばに立つ。ウォレスが身を引こうとするより先に、王女は細い指でウォレスの袖をつまむ。耳元に唇を寄せた。体のぬくもりを感じるほど近くに。

 

「不調法ながら申します、財貨や栄達を望んでわたくしに近づかれるのならば、道をお間違えであると存じます。何せ、わたくしは――」

 はばかるように辺りをうかがい、それからウォレスの目を見た。

「この先は、他言無用に願います。わたくしでなく、王家の名誉のために。……貴方だけに、お伝えします」

 口を開けたままウォレスは浅く、何度もうなずく。揺れる髪の甘い匂い。

 

 目を伏せ、唇を湿してから王女は続けた。

「わたくしに近づかれたところで、王宮への道筋などつながりはしません。わたくしからして、そこに居場所などありませんもの。何せ、わたくしは。……王の、私生児に過ぎませんので」

 ウォレスが目を瞬かせるうち、王女は続けた。目を伏せ、か細い声で、早口に。

「いえ、表向きは違います、王と王妃の間の子。けれど事実は召使(めしつかい)の子、王がお手をつけられた」

 

 冗談だろうと、ウォレスは言ってやろうとしたが。できなかった、むしろ納得できた。

地下へ人質に取られてなお、悠長な――ウォレスがそうするまで七年かかった――救出がなされて。その後、どこの馬の骨とも知れぬ――民衆人気というあやふやなものの他、政略的な強みもない――英雄との婚約話が持ち上がる。

 要は(はな)から、旨味のない子。後ろ楯も糞もない、母の話は出したらマズい――母親は王宮から出されただろう。どこぞの貴族の養女だとか、それなりの後づけは互いのために、名目上でなされたかもしれないが――。そんな王女。

 

 王女は笑う、ほがらかに。目を伏せたまま、早口で喋りながら。

「ね、だから、まことに。わたくしに近づかれたところで、王宮に立場などは築けません。疎んじられた王女の身内として、疎んじられるだけでしょう。わたくしに心から仕える者とて、もはやありはしませんもの。……だから、そう。わたくしなどは放っておかれて、他の立派な女性をお探しになっては。英雄の名に釣り合うお方を」

 ウォレスは口を開けていた。そうして思う。――似たようなものだ、俺だって。

 

 魔王を倒して戦いが終わって。そうして後に何がある? 

友はない、仲間たちの他に。その仲間たちももう、今さら迷宮に降りはすまい。両親はすでにない、父母の故郷にいるだろう身寄りとは面識すらない。迷宮に潜ることの他、やりたいことなど思いもつかない。地上に居場所などはない。

 

 震える声でウォレスは言った。

「さようで、それはまことに、その。……せんえつながら、そんなことは関係なく」

 もつれる舌を無理やりに動かす。

「できれば、わたくしめがせめて、貴女様の居場所に、や、なれればいいかと。その、お互い」

 

 ――そう思いたい。俺はきっと、迷宮を離れては生きていけないけれど。あるいはそうでなくても、王宮の隅で疎んじられても。嫁の脛をかじりながらでも、生きていけなくはないのかもしれない。そう、思いたい。思わせて欲しい。あるいは思わせてやれる、だろうか――。

 

 鍛冶屋に叩かれる鉄のように、顔が火照るのを感じながらその時のウォレスは言った。

「要は、姫君。ぜひ、わたくしめと婚約、を」

 

 そこで王女は、ふわり、と笑う。

「ありがとう――」

 ウォレスが息を飲んだとき。柔らかな手がウォレスの手を握った。冷たかった、迷宮の積み石よりも。花が咲くような満面の笑みの中、目だけは貫くようにウォレスに向けられていた。

 

 王女は重く、すり潰したような声を上げた。堅い笑顔のままで。

「――断わる。わたくしは、(わたし)はな」

 その目はウォレスの目を見つめ、瞬きすらしない。細い手は震えるほど、食い込むほどにきつくウォレスの手を握っていた。

 言い聞かせるように、刻むように、一言一言区切って続けた。

「私は、(うぬ)を、怨んでおる。その顔、生涯、忘れはせぬし、(うぬ)を、決して、許しはせぬ」

 そう言った、そして懐からつかみ出した物は――

 

 

 

 

「どうした、呆けて。申したいことは他にあるか」

 そう言った、今の王女は。灰色の目でウォレスの顔をのぞき込みながら。

 

 ごまかすように笑いながら、ウォレスは何度か瞬きをした。

昔の話だ、昔の。当時はあれからずいぶん、自棄(やけ)になって呑んだくれたのだったか――いや、違った。しばらくはそれどころではなくなっていた。誰もかれもが。何しろ、それから現れたのだ。邪神が。

 

 魔王が怨みを込めて――その死後に時間を空けて発動する術式でも造っていたのだろう、そう噂された――異界から召喚した、とされている最悪の魔物――存在するだけで煤のような瘴気をまき散らし、草木を枯らし雲を穢し、雨もまた黒く穢し。その水を口にした者はあるいは倒れあるいは気が触れたように暴れた――。

 

 邪神は街で瘴気を放った後、迷宮へと姿を消した。軍と冒険者らが――多大な犠牲を払いながら――迷宮内をくまなく探すも、かつて魔王が陣取っていた最深部、地下六百五十四階までどこにも見当たらず。だが瘴気はその下から噴き出す。

 

 王族は退避し民も去り、人の気配が消え失せた、黒く汚れた王都の中を。国からの依頼を受けたウォレスとその仲間たち、それに数組の歴戦の冒険者。彼らだけが迷宮へと向かった。そうしてさらなる深部、隠された地下七百二十四階で。多くの冒険者が倒れる中、ウォレスたちが邪神を討った。殊に邪神へとどめを刺した、ウォレスが一の英雄となった。

 

 そんなことをウォレスが思い返すうちに、王女は笑う。

「ずいぶんと無口になったものだ。あの頃はまた、髪を誉め服を誉め、庭木を誉めては目の色を誉め。熱心に口説いてくれたものだが」

 ウォレスは苦く笑ってかぶりを振った。

「まあ、若かったってことで」

 

 若かった。そう、昔の話だ。

思えば、王女は魔王を好いていたのだろう。救出したそのときも感謝する様子はなく、魔王から習い覚えたのだろう魔導を放ってきた――当時の仲間の一人が突風に跳ね飛ばされ、一人が全身を炎に巻かれた――。ウォレスもそれで可能な限り優しくみぞおちに拳をぶち込み――敵意などはない、当然だ。大手柄と褒賞金そのもののような彼女に――、眠らせた上で連れ帰った。

 

 あり得ないロマンスか、王女と、自身を地の底へ閉じ込めた魔王と? ありふれたロマンスか、退屈な王宮から自分をさらってくれた男と? 王女と反逆者、敵対するはずの男と女の? 

 

 いずれにせよ彼女はウォレスを仇と定め、そのせいでウォレスはフラれた。――そのはずだ、決まってる。あまりに魅力がなさ過ぎるだとか、そういったわけではなく――。

 

「それより何です、そう……どうやってこんなとこまで?」

 ディオンたちが一緒なのかとも思ったが、近くに姿が見えない。下層でわずかでも離れ離れになることは死を意味する。それを彼らが忘れたはずはなく、王女に許すはずもない。

 

 得意げに口の端で微笑み、王女は首飾りを掲げてみせる。

「『王家の魔宝珠(アミュレット)』、二つ名を『双呪の魔宝珠(アミュレット)』。その力、聞き及んだことはないか」

 

 噂には漏れ聞いたことがある――その秘宝には二つの呪力が込められているという。『不可視(インビシブル)』と『不可侵(インビンシブル)』。身につけた者に対して『その姿と気配を完全に消す』『敵意ある攻撃の全てを体に触れさせない』効力を持つという、二つの強大な防護魔導。王家の血を引く者のみがその力を――併用はできずどちらか一方を魔力の続く限り、自分から攻撃しない限りは――引き出せるという。

 相当な秘宝のはずだが、探索のために借り受けたのだろう。なるほど、その力と転移魔法、それに迷宮の土地勘があれば。よほどのことがない限り困りはすまい。

 

 王女はそこで歩き出し、ウォレスの横を通り過ぎた。そのまま無言で歩を進める。

「ちょ、ちょっと待った。用は何です? 何しにこんなとこまで来たんだ」

 振り向きもせず王女は言う。

「言わなかったか、探索だ。龍の宝珠の。汝に会いに来たわけではない」

 歩調を緩めずに続ける。

「それと、これだけは頼んでおくか。アミタ、あの子の居場所が分かれば知らせよ。久々に顔が見たいし、話もしたいものだ。汝に申しつけたいのはそれだけよ」

 

 アミタ、か。やはり何か知っているのか、あいつは。あるいは王女の隠している何ごとかを。

 

 遠ざかっていく背に、ウォレスは声をかけてみた。

「殿下。承りました、それに。ご安心を、今も内緒ですよ、これからも。あれらのことは」

 王女の足が止まる。

「……ああ、助かる」

 それだけ応えると――魔宝珠(アミュレット)の力か――姿を消した。誰もいない通路の中、甘い香りだけが漂う。抱えて逃げたかつてのような、彼女の髪の残り香か。あるいはただ、かじっていた菓子のそれか。

 

 ウォレスは大きく息をついた。膝に手をつき、肩を落とし、再び深く息をつく。体が、頭が重かった。

「復讐、ね」

 未だに仇と思われているのか、十一年も前のことを。それほどに魔王は、彼女にとって大きな存在なのか――フラれるわけだ、ああそうだ――。大切な人が持っていた龍の宝珠をウォレスなどに触れさせない、それが一種の復讐か。

 

 それは分かる。依頼されながら達成できないとなれば英雄の面目は――そんなものがあるのなら、だが――潰れる、それは分かる。だが、『護ってやる』とは何だ? 彼女は言った、『(うぬ)らは私が護ってやる』と。何から? 

 

 考え込んで分からず、ウォレスは大きく息をついた。一つうなずく。決めた。

 

 呑もう。そう決めた。

 



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第14話 迷宮

 

 せっかく最下四層を出たんだ、覇王樹亭(カクタス)へ行こう。わけも分からないまま考え込むよりマシだ。もやついたものを腹に抱えたままカウンターに突っ伏して、店主に延々と愚痴ろう。たまには最悪の客になるのも悪くない――店主にとってどうかは知らないが――。少なくとも、一人で鬱々と呑むよりマシだ――店主にとってどうかは知らないが――。

 

 何度か転移して覇王樹亭(カクタス)の前へとたどり着く。監獄のように分厚いドアに手をかけたときには、もう(よだれ)が湧いていた。最初は何の麦酒(エール)にするか、葡萄(ぶどう)酒からいくのも悪くない。ああそうだ、ディオンたちに伝言しておかないといけないか。呑んだ後に覚えてるといいが。

 

 引き開けたドアの上で、取りつけられた小さな鐘が鳴る。店主の迎える声を聞きながら中に入ると、見知った顔を店内に見つけた。

 船の操舵輪(そうだりん)を横倒しに吊るして燭台をいくつも取りつけた、無骨なシャンデリアの下。床に銅板を敷いた上、酒樽のテーブルで、脚の高い椅子に座る白髭の男。聖騎士ジェイナスだった。

 

「どうも、旦那。……お友達は」

 赤葡萄酒のグラスを持ったまま突っ伏したジェイナスは、耳まで赤らんだ顔を上げた。充血した目をウォレスに向ける。

「やあ、ウォレス。やあ。バルタザールは、帰ったよ。囚われた、かな」

「そりゃあ……その、迷宮に? なんていうか壁に、飲み込まれるみたいに?」

 とろりとしていたジェイナスの目が焦点を取り戻す。ウォレスの目を見た。

「友よ。お主もか? 喪失された、誰かを見たか」

 しばらく動きを止めていた後、ウォレスは小さくうなずいた。

 

 ジェイナスは両手を握り合わせ、視線をそこへ落とす。

「そうか。そうよな、誰しもそうよなあ。誰しも誰かを喪失している、我々の如きはなおいっそう、な」

「んなこたぁいい、旦那。迷宮に飲まれていったのか、お友達は」

「そうよ、床が崩れ、沈むように。壁に取り込まれていくように。バルタザールはそこへ姿を消した。……共に一瓶、()す間もなかったわ」

「そいつぁ……」

 ウォレスは小さく頭を下げた。その後で店主へ、赤葡萄酒と水を頼む。

 

 水をジェイナスへ差し出し、酒で口を湿した後言う。

「旦那。俺もそうです、知った奴を見た。おんなじように迷宮へ飲み込まれた。……あいつは、彼らは……本物、ですかね」

 裏切られたようにジェイナスが顔を歪める。

「何を言っている、友よ。友でなければ何だというのだ、拙者と肩を抱き合ったあの男は。他に何だというのだ!」

 

 ウォレスは目を伏せ、酒を含んだ。ジェイナスは真っ直ぐすぎる。酔っているのを抜きにしても、やりにくい話だった。

「何ていうか、ですな。そもそもあるんでしょうか、喪失された人間が、帰ってくるってのが。有り得るんですかな」

 

 ジェイナスは長く口を開けていたが。水を一息に飲み、それから言った。

「若き友よ。そもそも、迷宮とは何なのかね? 尽きせぬ程に魔物が湧き、それと共に宝も湧き。壊れもせずに罠が作動し、魔法のかかった区域まである。この不可解な場所は何なのかね?」

「そりゃあ――」

 

 迷宮と呼ばれる場所はそもそも、ただの洞窟や城砦などとは違う。魔術的な場所だった。人工的にそうされたものもあれば、魔力が溜まり易い地形の洞窟が自然となったものもある。その両方であるものも。

 迷宮が造られる目的は様々だった、防衛の拠点として、あるいは大がかりな魔導儀式として、ときにそれ自体を魔導実験として。造られた時期もまた様々だ、古代からの遺跡もあれば現代に造られたものもあった。

 

 ともかく、迷宮は魔術的な存在だった。それ自体が巨大な立体魔方陣。だからこそ強制転移する床や転移魔法禁止区域、様々な罠。それらが半永久的に稼動できる。

 そして、だからこそ迷宮は魔物を呼んだ。そこに溜まる魔力に、あるいは訪れる冒険者や魔物の死による瘴気に、呼ばれるように外から住み着く魔物もいた。さらには迷宮それ自身が――侵入者を阻む罠の一環として――魔力により空間を越えて、あるいは異界からさえ魔物を召喚する。彼らが隠し持つ宝の類も。それゆえ、迷宮には常に魔物がいた。宝があった。

 

 そんなことをウォレスが喋ると、ジェイナスはうなずいた。

「そのとおりよ、若き友よ。魔術的、魔術的な場なのだ、ここは。……ならば、こうは考えられまいか。ここは、そういう魔術の場なのだと。人が喪失され、そしてまた蘇る、そういう魔方陣の中なのだと」

 

 喪失迷宮、その場所については何も判っていない。ウォレスが住む街の――住んでいた街の――郊外にあるという他は。それがいつからそこにあり、何のために造られたのか。加えて言えば、ウォレスらが制覇するまではどれほど深いのか。何も判っていなかった。

ただ、無限とも思われた深さと存在する魔物の強大さ、それに比例する宝の価値。それらをして究極の迷宮と謳われているのみだった。魔王――反逆の魔導王――はそれを利用し身を守るため、あるいは何らかの魔導研究のためか、その深部へ陣取っていた。

 

 だが、とウォレスは思う。

 仮にジェイナスの言うとおり、そうした魔術の場だとして。そうすることで迷宮側に、あるいはそれを造った側に、何の得がある? 人を消して、そして戻して。何の意味が? 

 

 腹の中に座りの悪いものを感じ、ウォレスは酒を呑み下した。椅子を前へ寄せ、樽に肘をつく。床の上では椅子の脚が、そこに貼られた銅版が、こすれる音を立てた。木の椅子が喪失されないようにするためのものだ。おおよそこの迷宮に住む者の部屋では、あらゆる家具に同様の細工がしてあった。

 

 そもそもそうだ、この迷宮でのみ喪失が起こることも、なぜなのかは判っていない。

 罠の一種というのが普通の答えだ。不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)のような蘇生の道具や魔法は存在するが、よほど即座に使わない限りここでは意味をなさない。守る側からすれば意義のある仕掛けだった。もっとも、攻める側にはそこまで変わりはないともいえた。蘇生の道具は高価過ぎて、蘇生の魔法は高等過ぎる。よほど上級の冒険者でない限り、死はどうあれ死でしかなかった。

 

 あるいは迷宮内を清潔に保つためではないかともいう。住んでみれば実際分かるが、魔物の死骸も汚物も消えるというのはありがたい。他の迷宮では朽ちた死骸に虫がたかったまま捨て置かれ、あるいは黴の生えたまま悪魔の類が乗り移って動き回る。日にさらし続けた生ごみのような死体のにおいと、初級冒険者の反吐(へど)のにおいが迷宮中に漂っていることも珍しくない。

 

 ともかく。喪失迷宮について、誰も何も知りはしない。

 

 ウォレスはジェイナスへ曖昧にうなずいた後、目をそらす。

席を立った。店主につけを頼み、それから伝言を頼む。宝珠探索の状況と、もう一つ。

 

 



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第15話  彼女を待とう

 

 

 

 次の日からまた宝珠を探す。住人から目新しい情報はなく、アミタの居場所も分からなかった。

 サリッサは仇の(ドラゴン)――爆炎卿(エクスプロード)と呼ばれた赤炎竜(レッドドラゴン)の個体――がいるのを見た、確かに見たと言っていたが。これも喪失から帰ってきたものか、何ともいえなかった。金髪を振り乱し、よだれを垂らしながら斬りかかってきたサリッサは殴り倒して放り出した。

 

 そうして迷宮をさまよって、剣を振るって、着いていたのは。地下五百四十階、西側端の壁沿い、南の方。アレシアが言った場所の付近。

 

 足を止め、長く息を吐き、わずかに速まった呼吸を整える。右手の剣と左手を振った。それらを生温かく濡らした返り血が、音を立てて地面に落ちる。ズボンの裾も絞った方が良さそうなほど濡れていた。

 辺りにはぶつ切りにしたばかりの巨大な蜥蜴(とかげ)――(ドラゴン)とは違って火は吐かない、天井につきそうな上背といかにも肉食らしい巨大な顎を持った二足歩行の蜥蜴。前脚だけは冗談のように小さく何の役にも立ちそうにない――が二、三匹。

 

 それらが流す血が染み込むように、いや、呑まれるように消えていく。ごくごくと呑まれるように、大量の血が。遅れて肉がとろけるように崩れては、霞むように同じく床へ飲み込まれる。散らばった骨はどれも人間の腕ほどはある、喪失には時間がかかるだろう。

 

 胃袋のあった場所には苦酸っぱい胃液のにおいが漂い、飲み込まれていたらしい武具が転がっていた。兜や鎧は穴が開き、ひしゃげて使い物にならなかったが。剣だけは目立った損壊はなかった。下層で手に入るものには及ばないが、地金の鍛え具合を見るになかなかのものだ。魔王と戦っていた頃のウォレスたちなら、先を争って手に入れようとしただろう。

 

 思わずウォレスは微笑んだ。昔を思い出した、それもあるが。魔物の腹に武具一揃いが飲まれていたということは、冒険者が喰われたのだろう。そうだ、今もいなくはないのだ。かつての自分たちのような人間が。

 

 ウォレスはいっそう微笑んで、鎧兜へ手を掲げてみせた。弔い代わり、などという考えはなかった。ただ本当に、嬉しかったのだ。挨拶はそれで済んで、収穫物を収納にかかる。

 

ストロ・ソルフォ・アン・ブロ・(藁を敷き飼葉を置きあるいは)ウォル・ロクド・エント・ムーセント(壁と錠前に隔てた場所にそれを置くだろう)――【厩倉(スタブレム)】」

 

 魔力を帯びる二本の指が、星に似てひそやかに光る。筆で刷くように空気を撫でると、さっくりと空間が割れた。その向こう、歪な虹が揺らぐ別の空間――剣が鎚が盾が魔法衣が魔法薬や酒の瓶が無数にたゆたう――へと剣を放る。

 

 別空間へと接続し、荷の保管場所として利用するための呪文。召喚術の一環であるこの魔法は、長く旅をする冒険者なら誰もが習得したいと考えるものだった。同時に、多くの者が習得する前に引退する――あるいは扱う実力を身につける前に迷宮で命を落とす――ものでもあった。

 

 ふたをするように指を振るうと、空間の切れ目はそれで消えた。

 

 ふと思う。このまま封印を解いていったなら、この剣の主も帰ってこられるのか? 

 かぶりを振る。今考えても、らちも開かない。

 

「さて、と」

 改めてアレシアが言った壁を見回す。当然何の変哲もなく、透視魔法を使ったところで同じだろう。懐へ手をやり、受け取った欠片を取り出す。片側がざらついた、白い陶器か何かの破片。少し大きい他は、前に渡されたものと同じ。

 

 龍の宝珠と、帰ってくる喪失者。関係があるのかは分からない。それでも探索に進展もない今、アレシアに会っておくべきだと思えた。

 迷宮の記憶だとかがある、そんなことを彼女は言っていた。それがどういうことなのかは分からないが。そして宝珠もまた、迷宮でこそ使われるものだという。何らかの関係が、あるいは手がかりとなるものがあるのではないか。

 そう、そのとおりだ。会っておくべきだ、問いただすために、だ。王女の方にももう一度会えれば話は早いだろうが、会いたいとは思えない。それはきっとお互いに。

 

 歩きながら西側の壁に欠片を当てていく。三歩目で以前のように壁石が整然と身を引き、通路があらわになった。花びらが開くような、目蓋や口が開くような動きだった。

 

 手にした欠片を見つめ、打ち返し打ち返し眺めてみる。そもそも何なのだろうか、これは。なぜこんな焼き物か何かが迷宮の通路を開くのか。透視魔法でも見通せないような隠し通路を。そんな道具など見たこともない、十八年間迷宮を駆けずり回って一度も。あるとすればよほどの貴重品か、魔王や邪神でもなければ持っていないような。

 

 そこまで考えてふと浮かぶ。

「……龍の、宝珠?」

 

 言ってみて、ため息しか出なかった。さすがに宝珠のはずはない。こんな薄い、指二本で砕けそうなもの。

 今まで渡された欠片を全て掌に載せてみる。いずれも白く、丸みを帯びた欠片。外側は石のようにざらつき、内側はすべすべとしていた。何か、同じ一つのものの破片かとも思われたが。欠片同士でぴたりと合うものはなかったし、あるものは椀のようにきつい丸みを、あるものは皿のように浅い丸みを帯びていた。

 

「壺か何かか?」

 それなら位置によって欠片の形も様々だろう、有り得る話に思えた。だが、だとしてもなぜ、壺の欠片などにこんな力が? 

 これもまた、らちも開かないことだ。欠片をしまい込み、開けた通路の奥へと進んだ。

 

 前と同じように奥から青い光が漏れていた。そちらへ向かえばこれも同じく、広まった場所の中央に光を放つ武器が突き刺さっていた。今度は槍だった、迷宮でも最上級の名槍、『貴誓槍(ゲッシュボルグ)』。十字型のその穂と、柄の先辺りにはやはり文字が青く刻まれている。

 

 引き抜くとその穂先から光が滴り、それを受けた地面が音を立てて隆起する。石に形作られたのは騎士の姿。以前の戦士と同じく堂々たる体格、しかし全身を重装鎧に包んでいる。手にした槍の他は、鎧に浮き彫りされた紋様さえ細かな石で構成されていた。

 

 見事なものだった、騎士の戦いざまは。素早く突き、それ以上に素早く引く。横から薙ぎ、上から叩き、そこから返して突き上げる。鎧にくまなく身を包んでいるにも関わらず、淀みなく流れるような、しかも激流のような動き。時折突きを外したと見せては、十字型の穂先を利用して鎌のように刈ろうとする。足を、あるいは首を。

 

 ウォレスはそれらをしばらくかわした後、真正面から槍の柄をつかんで止める。相手が引こうとした動きに合わせて跳び出し、手にしていた剣を振るう。頭から股まで両断した。そこから連続で突き、粉々に砕く。

 

 ウォレスは剣を納め、拾い上げた槍で肩を叩く。よく働いたと、そんな感覚が胸にあった。

 帰ろう。そう思った。アレシアもまた来るだろう。帰ってくるだろう。この槍と前の短剣、それを取りに。

 そうだ、帰ろう。分からないことはいくらもある、それもそのときに問いただそう。全て、そうだ全て。彼女が何なのか、この欠片は何なのか。迷宮の記憶とやらは何なのか、龍の宝珠のことも。そう、帰ろう。アレシアと会おう。それがいい。

 

 そう考え、槍をかついで歩き出す。彼女の、それにかつてのアレシアの、絹のような感触の声を思い出す。

 

 



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第16話  来なかった 

 

 来なかった。

 

 待ってもアレシアは来なかった。最下層の部屋でまんじりともせず寝転がり、起き上がって膝を抱え、やけになって呑んだくれ――不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)と交換した葡萄酒や焼葡萄酎(ブランデー)唐黍酎(バーボン)褐色糖黍酎(ラムダーク)、それに馬鈴薯酎(ウォトカ)――、干し肉と干し鮭をやたらに噛む。

 

 一晩だったか一日か、あるいは数日、それは分からない。何度も小便はしたし一度は大便もした、それらがすぐに喪失するのも見た。そうしている間中、寝転がっている間中、呑んだくれている間中、ずっと槍と短剣を抱えていた。それでも待つしかできなかった。

 

 やがて、よろめく脚を槍で支えながら立ち上がる。ろれつの怪しい舌で転移の呪文を唱えようとして、最下四層では使えないことを思い出した。

 

 

 

「お、おお女とよぉ、猫はよぉ、なあマスター、呼んでも来ねえっつうけど呼ばなくたって来ねぇ! 待っても来ねぇ! 来ねぇんだよなぁおい、だよなぁマスター? な?」

「ええ先生、まったくで」

 表情一つ変えずにそう応えてくれた。覇王樹亭(サルーン・カクタス)の店主は、カウンターの向こうで。

 

 同じ話をもう何度もしていることはウォレス自身も分かっている。それでも気がつけば言ってしまっている、言う必要がある気がしている。伝える使命があるとさえ思っている、この発見を。大真面目に。

 そんな自分を、カウンターを叩いて大笑いする。床とカウンター台の脚の下、敷かれた銅板に音が響く。抱えたままの槍の穂先も、床に擦れて耳障りに鳴った。

 

「バカバカしい、ろくでもねぇやな酔っ払いってのはな、なぁマスター? あぁダメだ、みみ、水と、口直しだ、麦酒(エール)を……『黒いの(スタウト)』をくれ」

 黒いの(スタウト)はさほど好みというわけではないが、中休みには悪くない。濃く舌に溜まる味で、がぶ呑みしようという気にはならない。腹にも溜まって、呑み過ぎていることを教えてくれる。もちろん、呑むのをやめるという考えはない。

 

 ジョッキで出された水を半分まで一息に飲み、黒いの(スタウト)も同じだけ一息に呑む。盛大な音を立てて胃袋の奥から息をついた。慣れない甘ったるさが気に入らず、もう半分も呑み干す。別の麦酒(エール)を注文した。

 

 運ばれてきた『中口の(アンバー)』を一口呑み、息をつく。琥珀(こはく)色をした麦酒(エール)は程よく苦く程よく軽く、()く香る。舌の上に後味を残しながらもなめらかに喉を滑った。

 

 変わらない。これだけだ、変わらないのは。あの頃に呑んでいたのと同じ、酒の味、酔いの味。だからこそウォレスは呑むのかもしれない。

 変わらない――だからこそ、ウォレスは迷宮にいるのかもしれない。迷宮もまた――酒以外で唯一――変わらない。そこにある。酒が呑まれるのを待つように、それまでは決して出しゃばらないように、迷宮もじっと待っている。待てないのはウォレスの方で、それで迷宮に生きている。呑んだくれて。

 

 頬と耳たぶの脂ぎった火照りと、こめかみに速く打つ脈を感じながらまた一口。そして、ジョッキの上から酒をのぞき込む。自然に微笑んでいた、手を掲げていた。巨蜥蜴(おおとかげ)に喰われた冒険者にしたのと同じ、挨拶だった。

 

 手にしたジョッキが揺れ、綿(わた)のように分厚い(あぶく)の層に切れ目が見えた。琥珀色の液面に細かな(あわ)が一つ一つ上がっては消えていく。

 

同じだと思った。迷宮に挑んでいく自分たちと。そして、迷宮とも。そこには常に、魔物がいて、戦いが在って死が在って、宝が在る。いつもいつもそうだった。これからだって。

 

 ジョッキの中で揺れる泡(あぶく)を見ながら、同じく揺れる頭で思う。同じだ、生きて、昇って、生きて、揺れて、深いジョッキの、迷宮の中で。そうして死んで、呑まれる。

 

「同じさ、同じ。(こいつ)も……俺も」

 きっと俺も、いつか呑まれる。

「なんてなぁ! なぁおい、おい――」

 

 カウンターを叩いて笑い、立ち上がろうとして。ぐるんぐるんと酒場が回った。店主の顔が三つに揺らぐ。カウンターが不意に起き上がり、仕返しとばかりに顔面へとぶっ飛んできた。叩かれて燃えるように熱い頬と耳たぶと、痛いほどに血の巡るこめかみ。薄情にも椅子は勝手に避けて、そのせいでウォレスは地べたに倒れた。

 

 

 

 

 

「さ、いい? 聞いて。今から行くのは別世界、君らのとことは全然別もの。そこの主は君らじゃなくて、そこに住まう魔物じゃなくて。迷宮そのもの、そんな世界。それでも行くかい、準備はいいかい? ――それじゃあ行くよ、初心者(はじめて)くんたち」

 

 迷宮の入口前で、注目を集めるように二度手を叩いて。唄うようにそう言って、六人の目を順に見たものだ、アレシアは。あの日のアレシア。日差しは強かった、まともには日を見上げられないぐらいに。

 

 あの日のウォレスは笑った、半分は無理に、こわばった顔で。もう半分は湧き出るように、心の底から。あるいは後の五人も同様に。

 

 悪友は皆で六人だった――六人、それが最良の人数だとは常々聞いていたことだった。直接戦闘をする前衛が三人、魔法や長柄武器、飛び道具で援護する後衛が三人。迷宮内の面積ではそれを越えた数はまともに機能しない。加えて言えば、両脇に壁があり、曲がりくねった迷宮内では長柄や飛び道具は地上でのような効力を発揮しない。闇の中でも即座に振るえる剣や手斧こそが最大の武器だった――。

 

 それでもアレシアはついてきた。正直ありがたかった、六人に魔法を使える者などいない。三人が剣や手斧、もう三人が槍や長柄斧を持つばかり。魔導と療術の両方を使える、何より迷宮の経験がある先輩。彼女が必要に応じて魔法を使い、指示を出してくれるという。

 

 入口前の詰所でいる、番兵はうさんくさげな眼差しを投げかけていたが。気にした風もなく、アレシアは笑っていた。

 

「返事はどうした、初心者(はじめて)くんたち? さ、いい、行くよ!」

 おう、と、まばらに声が上がる。

 おおげさにアレシアはかぶりを振る。

「死んだね、これじゃあ、全滅だよ。決定、全滅、墓地直行! そうじゃないだろ、声小さい!  も一度行くよ。さ、いい、行くよ!」

「おう!」

 声が揃い、アレシアは駆けた。(くら)むような日差しの中、積み重なる岩の間、角のように突き出た石柱の間。真っ黒に口を開けた、迷宮の出入口へと。

 

 ウォレスたちも後を追い、途中でアレシアに背をはたかれる。

「魔法屋が先行ってどうすんの! しっかりやれよ、戦士くんたち!」

 余計に勢いづいたままなだれ込む。競走のようになり、肺が裂けそうになりながらもウォレスが競り勝つ。肩で胸の前で革鎧が躍り、腰では剣が待ち切れぬように鞘から飛び出しかける。

 

 入口手前に差しかかったところで足元が土から石畳へと変わる。そこで自然、足並が緩まり、六人が並ぶこととなった。

 歩く足の下、石畳は硬く。目の前に見えるのは闇ばかりで。そこから漂い来る空気は冷たく、背中の産毛が緩やかに逆立つ。六人の足が申し合わせたように止まっていた。

 

ディ・イフ・エーベ・(仮に昼の日がなくとも)サニス・エンレブラ・レイト(それはそのように照らすだろう)――【灯光(ディエーセル)】」

 後ろからアレシアの声が――今までの唄うようなそれとは違う、低く謡うような声が――響くと同時。目の前の闇が照らされていた。

 振り向けばアレシアの頭の後ろ、少し上に。白い光を淡く放つ――太陽の端をちぎって一月ほど放っておいた後みたいな――ものが漂っていた。

 

「ま、最初はそうだよね。暗いしさ、よっぽど慣れれば別らしいけど……でもまっ、だいじょうぶ。この呪文があればさ。さ、行こう」

 光の中、にんまりと笑う彼女を見て。六人が六人、うなずいた。そして光の中、揺らぐ自分たちの影を見ながら。一歩、足を踏み入れる。足音の響きが壁を、天井を駆け、背後の地上へと昇っていくのを聞きながら、階段を下りる。

 

 

 

「アレシア」

 そう言った、今のウォレスは。かつてのウォレスは口に出したりできなかった。

 何より。アレシアが今、目の前にいた。

 

「なに、ぼく」

 にんまりとは笑わずに、薄く微笑むアレシアが見下ろす。

 

 そう、見下ろしている。ウォレスは背に後頭部に、壁へもたれている感触を感じ。それからようやく、自分が立っているのではなく、地べたに横たわっていることを理解した。立っているだけの力などないことも。

 

 首を起こして見回せば、見慣れた棚や酒樽がある。自分の部屋。それが分かったところで軋むようにこめかみの内側が痛み、頭を床へ下ろした。

 それより何より、いる。アレシアがここにいる。

 

「アレシア、なあアレシア」

「大丈夫。大丈夫だよ、ぼく」

 アレシアはそれだけ言って、傍らの床から何かを取り上げた。槍。ウォレスが抱えていた槍、それに以前引き抜いた短剣。

 

 おかしいな、それは確かにたのまれていたけど。あのアレシアにたのまれたものだ、どうしてこのアレシアが持つのだろう。

 

「アレシア、ねえ、アレシア」

 アレシアは槍を抱え上げ、青く文字の描かれた穂先を見つめる。次に短剣のそれを。

「たしかに、ね。行ってくれたね、封印の場所。ありがとありがと、ほんとうに」

 さえずるアレシアの唇が、赤くひらめくのを見つめながら。ウォレスは何度も瞬きした。

 

 ちがう、ちがうよアレシア。まちがえている、きみはそっちじゃあないよ。あのアレシアじゃないんだよ、そんなこと言わなくていいんだよ。

 

 アレシアはかがみ込むと、脂ぎったウォレスの頭を優しく撫でた。

「ね、ほんとうにありがとう。次がね、最後のその二つ。お願いね」

 ウォレスと重ね合わせた手に、覚えのある欠片の感触が二つ載せられる。

「地下六百十四階、北東の隅。それに七百二十一階、北側端の壁、西の方。探して、君ならできるからさ」

 

 ちがう! ちがうよ、きみはそんなこと言わないよ。きみのことなど、ほんのひとつも知らないけれど。それだけはきっとまちがいない。それに、それに、ねえ――

 

「アレシ……」

 ア、と言おうとして、言葉以上に喉の奥から込み上げて、胃袋の中身を盛大に吐いた。

 

 苦酸っぱいにおいに顔をしかめもせずアレシアは――いや多分、今のアレシアだ――言った。

「もうすぐ出られる、また出られる。狭い地中なんかじゃなくて、地上(うえ)に、自由に」

 そう言った後、もう一度次の場所を繰り返す。背を向け、薄闇に融けた。

 

 荒い呼吸の中、ウォレスは震える手を伸ばした。何にも(さわ)れず、反吐(へど)の上に落ちた。唇だけが彼女の名を呼ぶ。

 ――アレシア。冒険に。俺と冒険に行こうよ、アレシア――

 

 ひとしきり、おこりのように震えがあって、やがて収まる。呼吸も深く長くなる。

 

――ああそうだ、どうかしていた。アレシアだ、あれは。あの頃のではなく。そうだ、何をやっているんだ俺は。武器だの何だの、問い詰めるはずだったのに。もっと、話すつもりだったのに。

 そうだな、そうだ――そうだ。呑む約束もすればよかった。

 

 そう考えたところで、また吐いた。

 

 



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第17話  酒はやめた

 

 反省した。

 

 少なくともウォレスはそう思っている。以来――五日ほど――酒は口にしていない。収穫はなかったが、王宮からの仕事に精を出している。薄荷茶(ミントティー)を頼んでも、覇王樹亭(サルーン・カクタス)の店主が目玉を剥き出すことはなくなった。うさんくさげな目で見てくる。

 

 その日も探索を終えて幾つかの戦利品を抱え、茶と食事を求めて店へと歩を進めていた。何がいいか、特製のソースに漬け込まれた巨蜥蜴(おおとかげ)肉の(あぶ)りを厚切りパンに挟んだもの――柔らかな生地に染み込む肉汁がたまらない――、それに生野菜の大盛りか。

 時間はかかるが山羊チーズのとろけるピッツァ、塩の利いたサラミを載せたやつ――クセのある匂いもまたいい、あっさりとこってりが口の中で混ざるのも――、それに生野菜の大盛りか。

 シンプルに羊と鶏と猪の串焼き――いやだめだ、さすがに麦酒(エール)が欲しくなる――ああ、とにかく野菜は大盛りだ、修道僧か山羊のように。酒精(アルコール)をそうしていたように。

 

 唾を飲み下しながら店の分厚いドアを開ける。店主に歯を見せて笑いかけ、カウンターにつこうとしたところで。空き樽のテーブルについた客に、見知った顔を見た。知った顔なら他にも見えたが――名前を知らない者も多いが――先日見たばかりの顔、二人で呑むところなど想像したこともない顔だった。

 

 王女は値の張るハムのような手で、ジェイナスに酌をしていた。

 

 白髭(しろひげ)の騎士は杯を受け、何も言わず白葡萄酒を呑み乾す。そして席を立ち、カウンターへ財貨の詰まった袋を置く。店主が代金を取るのを鷹揚(おうよう)に見守った後、袋を取ってこちらへ歩んだ。

 表情を変えず、目礼だけをウォレスにして、ジェイナスはドアを開けた。

 

 何度か瞬いた後、ウォレスは店主に食事を――適当なものと薄荷茶(ミントティー)、それに野菜の大盛り――を頼む。カウンターを過ぎ、ジェイナスのいた席に座った。抱えた荷物は別の椅子に置く。

 

 王女は表情を変えずに酒瓶をつかみ、らっぱ呑みに呑み乾した。

 ウォレスは樽の上に肘をつく。

「……たかろうってんじゃないんですがね。ただその、珍しい取り合わせだったもんで。何か話されてたんで?」

 

 王女は胃の奥から音を立てて息を吐き出し、それから喋った。

「……別に。ただ、()びられたよ」

「詫びを?」

 聞き返していた。あの人が他人に詫びねばならないことなど何もない。口の臭さ以外はそれこそ何も。

 

 酔いの回ってきたらしい目を伏せ、王女はつぶやく。その口調はジェイナスを真似たもののようだったが。彼ならきっと詫びるときも、こんなに小声になりはすまい。

「この拙者、力及ばず心は弱く。姫君をすぐにお救い申し上げることができませなんだ。もっと早くお救い申し上げておれば――」

 そこで口を止め、小さくしゃっくりをする。そのまま横を向いて黙った。

 

「……申し上げておれば?」

 ウォレスが催促すると、王女はまた小さく喋り出す。

「――魔王め、と、さほどに馴れ合うこともありませなんだでしょうに。……されど、そうはなりませなんだ、拙者では魔王も、後に魔王が召喚せし邪神めも、討つこと叶いませなんだ。どうぞ拙者めをお許しなさいますな――、等々、とな」

 

 ウォレスは樽の上に目を落としていた。

「そんなことを……」

 ずっと思っていたのだろうか、あの人は。仲間を(うしな)い、迷宮を当てもなくさまよいながら、ずっと。

 

 それに、王女が魔王と馴れ合った、とは。ジェイナスも、王女が魔王を好いていたと考えているのか。確かに当時、救出が成功する前からそうした噂は――ただの下世話な憶測として――あった。だが、ジェイナスまでそれを信じていたのか――まさか、あり得ない。

だったら今日、ウォレスが来るまでに。そうした話もしていた? となると王女がウォレスに言った以上に、二人は深く話をしていたことになる。

 

 そこまで考えて思う。しかし――今さらだが――本当に王女は魔王を好いていたのか? たとえ七年もの間、二人きりしか人間が――アミタもいるにはいたか――いなかったとはいえ。その仇を十一年も怨むほど、想うようになるものか? 王女をさらい迷宮にこもってまで反逆した、大悪人を? 

 

「殿下。魔王と、何があった? いや……魔王は何をしていたんだ、そもそも? こんな地の底で?」

 王女の表情が固まる。が、すぐに頬を緩めていた。

「ほう。妬くかね婿殿、今さらか? 男の方が未練がましいというのは――」

 掃きのけるようにウォレスは言う。

「違う。なんで、魔王はここにいた。喪失迷宮なんぞに、何の用があったんだ」

 

 失われた龍の宝珠。それはそもそも、魔王が所持していたものだった。そして魔王は――反逆の魔導王、メイデル・アンセマスは――元々宮廷魔導師だった。宝珠が何かは分からないが、いつから魔王が持っていた? 迷宮にこもってから手に入れたか、それとも。宮仕えの頃、すでに持っていた? 

 そして、その頃から持っていたとしたなら。反逆のため迷宮へ降りたのではなく、宝珠を持って迷宮へ行ったから――『龍の宝珠は迷宮で使われる』――反逆とみなされたのではないか? 

 

 考えるように視線をさ迷わせ、王女は答えた。

「さて。私も、詳しくは知らぬが。何やら研究していたようだ、喪失迷宮について」

「そいつは何を……いや。研究ってのは前からで? つまり、魔王と呼ばれる前から。王宮でもその研究を? 殿下は、その頃の奴を知っておいでで?」

 知っているのではないか、魔王の目的も。あるいは以前から親しかった? だからこそ彼を慕い、もしかすれば自ら迷宮へ降り、人質となった? 

 

 王女は酒瓶を手にし、空なのに気づいたかまた置いて。それから鼻で笑った。

「どうした、急に熱心になるではないか。……ああ、そうよ。これも詳しくは知らぬが、宮廷でもその研究をしていたそうだ。顔ぐらいは合わせたこともあるが」

 

 何をしようとしていた、魔王は。龍の宝珠で、この迷宮で。

 

 聞く前に、眼鏡をかけ直すと王女は席を立った。

「さて。私はそろそろ探索に戻る、(うぬ)は適当にしておるがよい」

 

 ウォレスは離れていく背を見つめ、再び口を開いた。

「もう一度聞く。魔王は、何をしていた」

 

 王女は足を止めた。顔だけをウォレスの方へ向ける。

「……護っていたよ。何もかもを」

「……何?」

 

 王女は再び歩き出した。

「彼はそうした、私もそうする。彼に感謝したがよい。『怨みは忘れよ、護ってやれ。何もかもを、誰もかれもを。そうして貴方も生きてゆけ』――常々、言いつかっていたことだ」

 ドアに取りつけられた鐘が鳴り、王女は店を出ていった。

 

 ウォレスは鼻で笑っていた。どの口が言うことか、そう思った。

 彼女はすでに、魔王の言葉を破っている。

 

 カウンターの奥にいた店主へ尋ねる。

「金は?」

「ご心配なく、先ほどの紳士がすでにお支払いを」

「なるほど、紳士だ。紳士と言やあ――」

 ウォレスは椅子に置いていた荷物の包みを解いた。魔法薬の瓶、宝石のはめ込まれた短剣、融けたまま固まったような貴金属の塊。探索での戦利品を、重い音を立ててカウンターに置く。

「――俺もなかなか紳士でね、いつかのつけはきれいに払おう。つりは必要ない、が――」

 笑みを消し、店主の目をのぞき込む。

「――聞きたいね、紳士と淑女、何を喋ってた?」

 

 店主はウォレスの目を見返し、それから微笑んだ。

「奇遇ですな、私も紳士で通ってましてね。男女の語らいを盗み聞くほど、野暮天(やぼてん)じゃあありませんで」

 カウンター上の物を押し返す。

 

 覇王樹亭(サルーン・カクタス)は情報屋ではない、それは重々知っているが。それでも聞いておきたかった、聞く必要があった。王女は何を隠している? 

 

 表情を変えず考える。五度ほど息をする間があれば、店主を充分絶命させられる。手加減すればその手前まで。いかに店主といえど、喋りたくなるだろう状態まで。

 が、そうまですればこの店も終いだ。店主とて居座り続けるわけはない、ウォレスがまともなものを食える場所、樽ごと()すようなつもりで麦酒(エール)を呑める店も終いだ。

 

 店主は微笑みを消して言う。

「先生。もしも良からぬ考えがおありなら、こちらにも考えがありますな。奥で作らせてるトビウオの塩焼き、かりっかりのクルトンと焼きチーズを散らしたサラダ。とろけそうに味の染みたマッシュルームのシチュー、バジルと燻製した木の実(スモークドナッツ)のパスタ。今すぐ床にぶちまけます」

 

 奥から漂ってきた魚の焼ける匂いに、不様にも腹が鳴る。床で喪失させられていく料理を想像し、かぶりを振った。

 魔法薬だけを代金に残し、後のものを包み直す。なるほど、海のものは久しぶりだ。乾いたものなら時折は口にしたが。焼いたトビウオなら昔はたまに食べた、好物の部類だ。脂の少ない割にしっかりとした味わい、翼のようなヒレも格好いい――そこをかじったからといって味というほどのものもないが――。地上の味、か。

 肩をすくめ、カウンターについた。

 

 

 

 料理を堪能した後でうっかりと葡萄酒を注文しそうになったとき、店主が口を開いた。

「先生、ところで。西風堂(ゼファー・トレード)から伝言を預かっております。お仲間の方たちからですな、『明日の夕食時前、地下二十八階。(ドラゴン)像の前にて待つ』と」

 

 直に報告に来い、ということか。しかし実際のところ、伝えるほどのことはない。伝言も面倒で、毎日しているわけではなかった。

浅い階はもちろん、地下四百五十一階から始めて地下五百九十六階、そこまでの探索はひとまず済んだ――早いものだ。何しろ他にやることはない。この数日間ではなく、九年間の話だ――。全ての部屋と通路を巡って、それらしき物も、宝珠を奪った者が留まっていた痕跡も見つからなかった。

 

 地下六百十四階と七百二十一階、アレシアが言い残した場所には行っていない。とはいえ、最下層から地下七百二十一階、そこまでは転移魔法が使えない。探索に出る前、必然的に近くを通る。それでもそこには行かなかった。

 下半分の階を総ざらいして、ディオンたちの方も探索を終えたなら、それで他に何もなければ、そのときは行こうと思っている。そしてアレシアがまた現れたなら。そのときこそは、全てを問い詰めよう。呑む約束は――するわけがない。

 

 とにかく、仕事の終わりまでは酒を断つつもりでいた。いや、少なくとも控えるつもりだ。何にせよ、今日までは断っている。

 

「しっかし……」

 地下二十八階。行くとするなら、地下五十階より上に出るのは何年ぶりか。そもそも本当に行くのか、言うべきこともなしに? それになぜ呼ばれた? 今までろくに伝言していなかったのを、ディオン辺りが怒っているのか。それとも向こうに何か収穫が? またあるいは、先日別に頼んだことへの返答。

 だがいずれにしても、直接会う必要があるものだろうか。

 

「……やっぱり、怒られるのか?」

 結論が出ないままかぶりを振った。呑みながらじっくり考えてみるか、そう思いかけてまたかぶりを振る。

 

 



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第18話  かつての仲間と待ち合わせ

 

 次の日――変わらぬ、寝ぼけたような薄闇の中だった。寝て起きた他に日が変わったという感覚はない――、ウォレスは部屋を出る。さすがに下着姿ではなく、ズボンとシャツは身につけている。足元はサンダルで、剣帯には適当な剣を一振り。

 

 ため息をついた。今日はどうなる、ディオンにどやされるのか。尋ねたことの返答は聞けるのか。どころかそもそも、伝言は本当に奴らのものか? 誰か別の奴が――たとえばそう、あの王女が。探りを入れてくるウォレスに業を煮やして、あるいは口封じに――(かた)って、はめようとしている可能性は? 

 

 またため息をつく。何にせよ、悪い予感しかしなかった。

 

 地下七百二十一階、洗濯に来る水場を過ぎた。決して階段までの最短距離ではない、アランたちを送っていったときには通らなかった。しかし今は通りかかり、足を止めた。目をやったのは階段への道ではなく、北側への分かれ道。アレシアが言った場所、その一つへの道。

 

 長く、鼻で息をついた。アレシアのこと、あの武器のこと。龍の宝珠。喪失した者が帰っていること。そして王女――考えて分かることでもない、なら今考えるべきじゃあない。

 それらのことを皆に話すべきだろうかと考える。昔出会った女かどうか分からない奴に頼まれて、よく分からない武器をよく分からない場所で集めているって? 喪失した者が戻ってきているって? その女に会えなくて、やけになって、泥酔してそいつの前で吐いて、おまけに龍の宝珠と関係あるか全然分かりませんって? ついでに言えば王女殿下にずっと怨まれてます、って。

 

 顔をしかめてかぶりを振る。

 忘れよう。それより今は、今のことだ。

 そう考えて、階段へと足を向けた。

 

 

 

 何度か転移の呪文を唱え、地下二十八階へと着く。

転移後、足元に地面の感覚を取り戻してすぐに、自然と鼻がうごめいた。湿度が、空気の密度が違う。どうにも下層よりずっと、乾いていて軽い。留まり続けている空気のにおいではない。地上からわずかなりと風の通る、移り変わる空気の匂い。それを吐き出すように鼻を鳴らした。

 

 通路を歩くとほどなく視界が開けた。方形の広場、天井もここだけは丸く高くなっていた。中央には(ドラゴン)の石像が牙を剥き、口からは澄んだ水を、音を立てて流していた。水は下の水路を円く巡った後で排水溝に消えていく。

 これもまた地上くさいものだ。下層にはこうした装飾は見られない。ウォレスが記憶する限り、地下二百二十九階の壁に蔓草の装飾が彫られているのが最後だった。

 

「来たな」

 言って、像の向こうから姿を現したのはディオン、それにシーヤだった。最下層に来たときのような完全武装ではなく、それぞれ愛用の剣と分銅鎖(フレイル)以外は、普段着の上から簡素な防具を身につけたのみだった。

 

「ああ。今日は何の話だ、他の二人は?」

 ディオンは目を合わさずに言う。表情に変わりはない。

「二人は後で合流する。今日はまあ、仕事の件についてだと思ってくれ。さ、行こう」

「ってお前、何だそりゃ。ここで済む話じゃねえのか? ちなみにこっちは何の進展もねえぜ」

 ディオンが口を閉ざし、代わってシーヤが言う。

「少々、お見せしたいものもありますので。アラン先輩たちもそちらにおいでです。申しわけありませんがご足労を」

 それだけ言って、二人は先へ歩き出す。

 

 ウォレスの頬が軽く引きつる。いよいよ嫌な予感が当たりそうだ。迎えに来たのだってこの二人、ディオンは言わずもがなシーヤだって、いわば国側、王宮側――教会はもちろん別権力だが、王宮とは協力関係にあると言っていい――。

 考えたくもないが考えるなら、アランとサリウスなんて呼んでいなくて。王女の命令で、兵や魔導師を大量に待機させた場所なんかにウォレスをおびき出して。拘束なりしようというつもりか? まさかそもそも、宝珠の依頼から嘘ということはないだろうな? 

 

 ウォレスは歯を剥き出し、その隙間から強く息を吐いた。

 どういう話だ。どういう話だよ仮にも仲間だった奴が、共に死線をかいくぐった奴らが。何の罪もない仲間を売ろうとはよ――いや、さすがに考えすぎか。罠でも何でもなくて、単にこいつらの言うとおりなのかもしれない。何より、そうであって欲しい。そうであるべきだ。

 

 肩をすくめ、笑ってみせた。

 まあいい、行けばすぐに分かる。それにたとえ、悪い予感の方だったとして。いったい誰が俺を捕らえられるんだ? 何百人いればこの俺を? (ドラゴン)を抱えてぶん投げて、壁に叩きつけて殺すような男を捕らえられる? 

 

 おかしくなって本当に笑った。前を行く二人が振り向き、いぶかしげな視線をよこした。

 

 同じ階から昇降機――一定の範囲で上でも下でも階層を行き来できる仕掛けだった。便利ではあるが多くの場合、作動させる鍵を手に入れるまでが骨折りだった――に乗る。地下二十一階で降り、歩いて別の昇降機に乗り継ぐ。

 

 上昇する箱の中、浮き上がるような居心地の悪さを感じながらウォレスは言う。

「どこまで連れてこうってんだ……地上(うえ)に出ろってんなら俺ぁ帰るぜ。大体――」

 帰る、というところまで口にした時点で、慌てたようにディオンが口を開く。

「待て、そう言うな! せっかくここまで来たんじゃないか、あー、その……」

 明らかに視線をそらして黙った。

 いら立ったように、わずかに眉を寄せてシーヤが言う。

「ご心配なく。地上までは出ません、これの終点までですよ。他の先輩らもその階においでです」

 

 一定の感覚で昇降機が揺れ、音が響く。

「驚かれるかもしれませんね、少し」

 シーヤは不意にそう言った後、間を置いて思い出したように笑う。

 

 

 



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第19話  扉の先には

 

 地下十三階。鉄のこすれ合う音を立てて昇降機の扉が開いた。

 同時にウォレスの鼻がうごめく。昇降機の機構に使われる黒い油のにおい、外から漂ういっそう地上くささを増した空気のにおい、そういったもののせいではなく。何かが香った。花? 違う、もっとわざとらしい甘さがある。茶? いや、もっと乾いた匂い。

 

 二人の背を見ながら歩くにつれ、香りはだんだんと強くなる。眠り薬の類と疑い、身構えたが。どうもそういう感覚はない。脳の芯にしびれはなく、手足の指は変わらずに動き、前の二人もそのままの歩調で歩いている。

 鼻から息を吐き出し、辺りを見回した。周囲の壁には所々カンテラが取りつけられ、(だいだい)色の光を床へ落としている。壁にも時折、神殿の柱を模したような彫刻がなされていた。下層とは違い、だいぶ人の手が入っている。そもそもこの辺りには数年来上がっていない、正直地理も自信がなかった。

 

 舌打ちをして声を上げる。

「おい。どこまで連れ回す気だ、どういう話なんだか先に言えよ」

 ディオンが足を止めた。振り返り、わざとらしく――つまり、口角を上げていつものとおりに――笑う。

「もっともだ、だが心配するな。もう着いた」

 

 指差したのは通路の突き当たり。柱を模した彫刻がなされている他何の変哲もない壁。

だがそうだ、思い出した。確か隠し通路がある、積まれた壁石の一角、一つだけ菱形になった石。そこを押し込むと、柱の部分の壁が開く。だが思い出せない、その先に何があった? 

 

 ディオンに促され、仕掛けの石を押す。重い音を立てて石壁が引っ込み、ゆっくりと横へずれた。

 

 その先は黒かった。暗いのではなく、黒があった。空気に墨を流し込んだみたいに、新月の夜を切り取ってはめ込んだかのように、ある面から先の空間が黒かった。

暗黒区域(ダークゾーン)と呼ばれる迷宮の仕掛けだ。何の光も通さないその区画は、他に何の害もない。ただ何も見えないというだけだ。目の前に扉があろうと、足元に罠があろうと。

 

 ウォレスは軽く息を吸い込む。なるほど、仕掛けるとすればここか。

 首を軽く鳴らし、闇をにらむ。どれほどの長さで続いているのか見当もつかない。だが耳を澄ませても鎧の軋む音や呼吸の気配は伝わってこない。少なくとも目の前には何もいない。

 だが、そのすぐ奥。くぐもって何か、足音が聞こえた。壁、いや扉を隔てて人がいる。二人や三人ではないが、武装している重さの音ではない。魔導師の類か、だが呪文を詠唱する声や、それに伴う魔力の気配は感じない。

 足先を何度か床に叩きつける。反響からして床に罠の気配はない。短く息を吐き出した。

 

 ままよ。このまま闇を一跳びに、扉を開ける。そこから先はそこからのことだ。むしろ二人が後ろからかかってくることの方が危険だが、最初の跳躍で十分かわせる。

 

「お先に」

 言うと同時、跳ぶ。思ったよりも遥かに短く、数歩分の距離で闇は終わった。目の前には扉。カンテラの灯が揺れる横の、両開きの木製のドア――壁に触れて喪失されないよう、喪失迷宮の扉は鉄製がほとんどだった。わざわざ付け替えたのか――。まるでとろけた焦がし砂糖をかけたみたいに艶々(つやつや)と灯りを照り返すそれには、百合を(かたど)った彫刻が控え目になされていた。

 

 迷宮に不釣合いな扉、不似合いな部屋。無意識に歯を噛み締める。勢いよく扉を引き開けながら、片手は防御の形を取る。腰を落とし、いつでも跳び退ける体勢。

 

 中から強く(こう)が香り、複数人の声が上がった。女たちが、一つの言葉を、声を揃えて。

 

「お帰りなさいませ、ご主人様!」

「…………は?」

 ウォレスは大きく口を開け、そのままの姿勢で立ち尽くした。

 

 女たちは皆、召使(めしつかい)の服装をしていた。上下一繋ぎの黒い服、スカートはすねを隠すほど長い。その上から同じく長い白のエプロン。そのエプロンの肩と裾、それに大振りな髪留めには、いずれも花びらのようなフリルが白く波打っていた。

 

 背後から笑い声が上がる。ディオンがにやにやと、顔中で笑っていた。

「驚き過ぎだ、驚き過ぎだろう。忘れたのかこの店、昔も呑みに来たろう! 『召使妖精館(クラブ・シルキー)』だよ!」

 

 思い出した。ディオンとシーヤが加わって少し後――二人は比較的後で加入した。迷宮内で四人の仲間が喪失された二人と、療術師二人を失ったウォレスたち。合流して脱出し、以来部隊(パーティ)を組んだのだった――、六人で呑んでいたとき、二人に連れられて行った店だ。すでにそれなりの量を呑んでいたためか、あまりよくは覚えていなかった。だが、行った。確かに来た。

 

 辺りを見回す。扉と同じく照りのある色合いをした調度はどれも、脚に銅板など貼られてはいない。どころか床には一面、花と蔓草の柄を織り込んだ絨毯が敷かれている。いずれも喪失迷宮にはあり得ないことだった。おそらく、薄い銅板を張り渡した上に絨毯を敷いたのだろう。天井からは真鍮(しんちゅう)造りのシャンデリア――安物のようだがそれなりには見える――に、ロウソクの灯が揺れている。

隅のテーブルの上では小皿の上で、三角柱状の(こう)が細く煙を上げている。おそらく薔薇(ばら)(こう)。長方形をしたテーブルにはクロスがかけられ、燭台の灯が揺れる下に、つまみと皿と銀食器、それにグラスが並んでいた。そして居並ぶ女たちは、両手を腰の前で重ねて控え目に微笑む。

 

 ウォレスは口を開けた後、改めて辺りを見渡し、それから言った。

「……で、何の話があるって?」

 シーヤが口に手を当てて小さく笑う。

 ディオンは大げさにかぶりを振った。歩み寄り、肩を叩いてくる。

「どうした、察しが悪いじゃないか? 君ほどの呑んだくれが。話なんかあるか、みんなで呑もうって、それだけに決まってるだろう。昔みたいに」

 ディオンが歯を見せ、鼻息を吹く。ウォレスを指差し、声を上げて笑った。

「いやしかし、驚いたか! 驚くか君も、ざまあみろ!」

 

 ウォレスは微笑もうと考えて、そうした。素直に笑えたわけではない。

 できすぎているのではないかと、正直思った。たとえばそう、これは結局何かの罠で。酔ったところへ待ち伏せた軍勢が襲いかかるだとか。

 指を広げ、わずかに腰を落とし、いつでも動ける体勢を保ちながら回りを見渡す。大体そうだ、アランとサリウスはどうした。先に来ているのではなかったのか。

 

 その疑問を口に出そうとしたとき。妙なことに気づいた。店の奥、誰も人のいない一角。テーブルも椅子も取り払われたかのような何もない一角、そこの景色が揺らいでいた。できの悪いガラスを通して見たみたいに。そしてそこへ、陽炎(かげろう)のように人影が揺れる。

 転移魔法による空間の揺らぎ。誰かが来る、そう認識する前に体は勝手に身構える。

 

 やがて揺らぎが消えたとき。そこには杖を携えたサリウス、平服に剣だけを帯びたアランがいた、それに。

 それが誰か認識したときには、ウォレスの体は構えを解いていた。思わず口が開く。

「ヴェニィ……」

 アランとサリウスの間には、二人に守られるようにして。小柄な三つ編みの女がいた。成人前かとすら思える細い手足とは対照的に、ゆったりとした服に包まれたその腹は大きく、丸い膨らみをたたえていた。

 

 ヴェニィは大きな目を細めて小走りに寄り、ウォレスの腕を何度も叩いた。

「よー! ウォレスめちゃくちゃー!」

 めちゃくちゃ久しぶり、そう言いたいのだろう。変わらない口ぶりに笑みが漏れた。

「よう、ヴェニィ。しかしお前、大丈夫かよ。こんなとこ来てよ、その、子供だって……」

 ヴェニィは軽く腹を叩く。

「だーいじょぶだって! 仮にもあたしの子だよ、迷宮が怖くて務まるかっての」

 サリウスが口を挟んだ。

「ま、その辺はこのオレがな。体に影響ねえように、入念に安定させたやつを組んどいた」

 三人が現れた場所を見れば、絨毯の上に分厚い布が敷かれ、そこに魔方陣が描かれていた。転移の魔方陣。

 サリウスは両手の人差指でウォレスを指差す。

「これでお前、全員どんだけへべれけになっても安心ってわけだ」

 

 なるほど、この一角を地上との転移床としたわけだ。これならたとえ、ろれつが回らず呪文が唱えられなかったとしても帰ることができる。

「なるほどな……」

 だから、ウォレスは笑えなかった。

 

 なるほど、地上に帰るには便利だろう。だが地上からも来られるはずだ、三人がそうして来たように。だから言ってみれば、他にも便利に使えるはずだ。たとえばウォレスが酔い潰れた後に、地上から軍を差し向けるだとか。

 

 アランが声を上げる。

「まあまあ、お互い積もる話はあるけど。続きは一杯空けてからだな。何から呑()る?」

「ああ……俺は、ヴェニィと一緒のでいい。茶でも、水でも」

 五人全員の動きが止まる。

 

 その後でサリウスが鼻息を詰まらせ、吹き出した。ディオンが肩を揺すって笑い、シーヤは喉を鳴らして口元を手で隠す。ヴェニィは手を叩いて笑い、アランだけが心配げに顔をのぞき込んできた。

「……どうしたんだよ、どっか悪いのか?」

 表情なくウォレスは首を横に振る。

「最近呑み過ぎてな、控えてるんだ。仕事が終わるぐらいまではやめとこうと思ってる」

 

 警戒して呑まない、というわけではなかった。それは理由の五分の一ほど。そういう気分じゃない、残りの理由はそれだけだった。

 

 正体を失うまで――しようもない理由で――呑んで、たった数日。それもある。だが何より、かつての仲間が、友が。ウォレスをはめようとしている、かもしれない。

 実際に軍でも何でも、来るのは問題ない。何人来ようがどんなに泥酔していようが――手加減はできなくなるだろうが――全く問題はない。

 

 問題は。ウォレスに最も近かった人間――両親は早くに亡くなった。ウォレスが無名の冒険者だった頃、別の迷宮で戦っていた頃、病で――が、仲間たちが。実のところ、近くも何ともないのではないか、そういうことだった。

 

 そしてそれは、責められることではない。この九年間、彼らを必要としなかったのはウォレスの方だ。彼らと近くも何ともなかったのは、ウォレスの方だ。思い出すことは時折あれど、会いに行こうとしなかったのは――彼らの方から来なかったことは責められない。最下四層は立ち入るだけで命懸けだ、ウォレスが欠けた戦力ではさらに。顔を見に来るためだけに、そこまではできまい――。

 

 責められているのは、ウォレスの方だ。迷宮以外の何も持たなかったつけを突きつけられているのだ、正当な支払いを求められているだけだ、今。

 だからウォレスは、呑みたくなんかなかった。帰りたかった。逃げ出したかった、正当な責めから。迷宮の底へ、九年間ずっとそうしてきたみたいに。

 

 ディオンが平静そうな顔で――頬に力を込めつつも、唇の端が今にも持ち上がろうと震えている――言った。

「ウォレス。昔君が何て言ったか覚えてるか? この私が『明日は大事な所だ。今日は皆、酒場はよしておこう』、リーダーとして賢明にもそう言ったときだ」

 ディオンの口角が思い切り、解き放たれたみたいに持ち上がる。鼻で息を吹きながら言った。

「『分かってるさ。みんなはつまみを買っといてくれ、酒屋の方は俺に任せろ』とよ!」

 

 サリウスも苦笑する。

「『今日呑まずに明日なんぞ始まるか!』とか、そんなのも言ってやがったな……っつか、ディオンがリーダーだったのか? オレたち」

 ディオンが眉根を寄せる。

「当たり前だろう! この統率力、戦闘力に加えて療術も使えるという戦線維持力、さらには隠し切れぬほどにじみ出るこの――」

 アランが歯を見せる。

「まあそれはともかく、ちょっとぐらい呑むだろ。昔だって俺が体調悪いってのに『そうか、じゃあ呑みに行かなきゃな』って。『心配するな、酒は薬だ』って」

 ヴェニィが背を叩いてくる。

「そーいうこと、あたしのことは気にすんなって。とりあえず麦酒(エール)でいい? 濃いの(ブラウン)?」

 シーヤは何も言わずに微笑み、ウォレスを見上げた。

 ウォレスは誰とも目を合わせなかった。

 

「……うん」

 それでも、うなずいていた。

 

 



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第20話  酒をやめたのはやめた

「だから! だからよぉ! お、おお女とよぉ、猫はよぉ、呼んでも来ねえっつうけど呼ばなくたって来ねぇ! 待っても来ねぇ! 来ねぇんだよなぁおい、だよなぁサリウス? しゃあねぇやな俺らが独身だってなぁ、な?」

 唾を飛ばして言うウォレスに、同じく大声でサリウスが応える。色白な顔は既に赤く、ロウソクの明かりに脂が照っている。

「うっせぇぞモテねぇのはテメエだけだ昔っからな! オレは一人に縛られたくねえだけだ、呼ばなくたって来るさ」

 

 アランとヴェニィ、それにディオン――こう見えて二児の父だそうだ――は、目を細めてやり取りを温かく見守っている。

 

 ウォレスは舌打ちし、グラスの赤葡萄酒をあおった。召使の扮装をした女に代わりを頼む。緩く息を吐き出し、椅子の背にもたれた。

「ったくよぉ、何とか、何とか言ってくれよシーヤ。不自由してんのは俺らだけみてえだぜ……あれ?」

 姿が見えず、店内を見回す。シーヤは奥にいた。壁に片手をついて、逆の手は身をかがめた召使女のあごを軽く持ち上げて。喰らい合うように濃厚な、口づけを交わしていた。

 

 ウォレスは真顔で前を向き、近くの召使に言う。

「やっぱり、強いの(バーボン)をくれ」

 ディオンが楽しげに笑う。人差指を口の前で立てた。

教会(うえ)には内緒だ」

 何も言わず、ウォレスは何度もうなずいた。出された酒――先に頼んだ赤葡萄酒が来たが、この際何でもいい――を二口呑み、それから言う。

「ここ選んだのもあいつか?」

 ディオンが応じた。

「ああ。最近は繁盛してるようだぞ、こんな所でもな。いや、だからこそか? 転移魔法の定期便やら、護衛を雇って冒険気分で。迷宮の中に入って、仕掛け扉を通って。隠れたこの店で貴族めかしたもてなしを受けるというのが、何とも粋なんだそうだ」

 ウォレスは鼻で笑う。

「粋ねえ……分かるかお前?」

「さあてな。だが、私もたまに来る」

 ウォレスは思わず吹き出したが、ディオンは遠い目でシャンデリアを見上げた。

「昔の仲間が好きだったんでな、この店。……それに、迷宮の空気を浴びるのもたまには悪くない。迷宮というほどのものでもないがな、地下十三階じゃ」

 

 何も言わず、ウォレスはグラスに口をつけた。それから言ってみる。

「なあ。仮にだ、仮の話だぜ。ここで喪失された奴ら、そいつらが帰ってくる。有り得ると思うか」

 ディオンは黙ってウォレスの目を見た。グラスの赤葡萄酒を揺らした後で言う。

「そんな噂は、調査の中で聞いたが。有り得んな、夢物語だ」

「俺がそれを見たと言ったら?」

「有り得るな。呑み過ぎだ」

「……だよな。だよ」

 息をこぼして笑った。そんな気さえしてきた。そうであればいいとは思う。

 

 ディオンが言う。

「ところで、前に言ってきた件だが。部下に調べさせた結果が出た」

 懐から出した紙を広げ、目を走らせながら言う。

「アシェル・アヴァンセン。実在した人間だ、アヴァンセン子爵家の三女。享年十九歳。亡くなったのは十八年前、死因は事故による階段からの転落、ということだが。葬儀で遺体を見た者はない、閉じられた棺があるのみだった。生前は家に反発して出歩き、何度か迷宮に潜っていたという話もある。その際の偽名はアレシア・ルクレイス」

 

 ウォレスはうつむいた。酒にほてった額に手をやる。

 ディオンが言う。

「しかし、こいつがどうしたんだ。宝珠に何か関係が?」

 ウォレスは大きく、ゆっくりとかぶりを振った。

「いや。……いいや。ただ、さっき言ったこと。喪失から帰ってきた、そう言う噂に出てくる奴の中に。そう名乗る奴がいたらしいんだ」

「ふむ……知った奴か?」

 ウォレスは小刻みに首を横に振った。素早く。

「いいや?」

 ディオンは口角を上げ、うつむいた。低い笑い声と共に肩を揺らす。

「君は……お前はなあ。本当に頭が悪いな」

 ウォレスに口を開かせずディオンは続けた。

「とにかくだ、忘れろ。時々思い出せ。死者はそれで十分だ」

 ウォレスは口を開けては閉め、収まりがつかずに酒を呑んだ。それから言う。

「賢いな、お前は」

 

 

 

「ほんじゃお先、またねー!」

 何度も手を振るヴェニィ、それにアランとサリウスの姿が、魔方陣の中に揺らいで消えた。うちの売れ残りだから気にするな、と押しつけられた包みの中のパンは羽根枕のように柔らかく、まだ温もりさえあった。

 

 店の奥から静かに、皿を洗う音が響く。ウォレスは長椅子の背にもたれ、シャンデリアの短くなったロウソクを見ていた。

 

「出世したもんだな俺たちも。呑むのに店借り切るとはよ」

 カップを両手で持ったシーヤが、燗葡萄酒(グリューワイン)に何度か息を吹きかける。一口すすって言った。

「ええ、でも何も変わってませんよ。支払いは割り勘です」

「俺もか! 何も聞いてねえんだぞ今日、手持ちなんかねえよ」

 同じく椅子にもたれたディオンが、グラスの焼葡萄酎(ブランデー)を揺らして言う。

「仕方がないな、ああ仕方がない。今日のところは立て替えておいてやろう。だが覚えておけ、おごってやるんじゃあないからな」

 手にしたグラスに視線を移し、続けた。

「覚えておけ。必ず、払いに来い」

 ウォレスはグラスの水を飲み込んだ。席を立つ。

「覚えて、おくさ……忘れるまでは、よ」

 

 

 

 寝ぼけたような薄闇の中、迷宮の底の部屋で。ウォレスは床の鉄板の上、藁布団と毛布にくるまった。目を閉じる。

 湿って冷えた布団がだんだんと温もりを持っていく中、裸足の足をこすり合わせながら思い出す。今日の酒宴を。仲間たちとの話を。昔と変わらない時間を。友を。

 

 笑みが漏れた。そうしたままでいられず、布団を被ったまま起き上がり、酒瓶を探った。今日の酒宴をまだ、終わらせたくなかった。今日だけで終わらせたくなかった。

 酒瓶を掲げ、軽く頭を下げ、口をつける。呑み下した酒が、胃袋に(ぬく)い。

 

 洩らした吐息が喉の奥で、まだ酒の香りを漂わせていた。焼けるような匂いを鼻の奥に染み込ませ、薄闇の天井を見る。

 帰ってくるのだろうか。そうすることができるのだろうか、アレシアも。帰ってきてくれるのだろうか、こんな風に? あいつらみたいに? 

 そう考えて笑みが洩れた。次に、そう考えた自分を笑った。

 

 あり得ないと、そう思った。たとえ帰ってくるにしても、ウォレスのところにはあり得ない。

 

 



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第21話  獣女アミタ

 ウォレスは翌朝――朝だ、辺りは変わらぬ薄闇だが、間違いなく朝だ――目を覚ました。酔いの余韻は残るが、それでも目は冴えていた。頭も。

 行こう、と思った。残りの仕事に。そして探す。魔王について、あるいは迷宮について誰よりよく知る者、アミタを。

 

 思うと同時に体は起き上がり、下着を脱いで着替えていた。脱ぎ捨てた下着は思いの他擦り切れ、破れてさえいた。石畳の床へ放る。

 それが喪失されるのも見ず、近くに置いていた瓶から水を飲む。服を着込み、剣帯を締めた。降り積もっていた埃を払い、靴を履く。

 

 

 

 一言で言えば駆けずり回った、浅い方から地の底まで。転移魔法を何度も唱え、住人の下をめぐり。魔物の気配に耳を澄ませ、用意した荷物を抱えて走り。そうしてようやく、見つけた。

 

 顔を覆う黒髪の下、アミタはにらみ殺すような目をしていた。床についた短い前足――彼女以外の人間なら手と呼ぶだろう――をさらに縮め、肉の張り詰めた尻を高く上げ――ぼろ切れでしかない衣服が胸元、ゆったりとした襟巻きの結び目までずり落ちて、浅黒い肌があらわになる。垂れ下がる衣の向こうでは同じくぶらりと、柔らかなものが揺れているはずだ――、跳びかかろうとする体勢のまま口を開いた。

 

 八重歯というには長すぎる、刃物のような歯が白くきらめく。

「何をしにキた、えェ? 糞野郎、何をしにキた! 外道ガ、糞ガ、畜生ガ!」

 

 彼女から後ろの闇には黄色に、緑に、赤に、様々にきらめく目があった。それらの主はそれぞれに、彼女とは違う姿をして、彼女とは違う声で唸っていた。

 

 大部分は豊かな灰色の体毛を持つ、大柄な狼。ときに猫。三つ首の子犬。黄色と黒の縞の蜥蜴(とかげ)。掌に乗るほどの虎。子馬ほどの体格の(ドラゴン)。長い角と、地へ向け伸びた牙を備える牛。その牛二頭分ほどの、巨大な兎。

 

 一通り見渡した後。畜生はお前だろうと、思いながらもウォレスは身を縮めた。敵対するつもりはないし俺はひどく怯えている、という意思表示だ。少なくともそうしたつもりだった、伝わるかは知らない。何しろかつては魔王――反逆の魔導王、メイデル・アンセマス――の従者――魔王を倒したときには十代半ばに見えた、となると今は二十代の半ばか――として、一度は倒した相手だ。殺してはいないというだけで。

 

 用意の荷物を抱え直し、押さえるように両手を突き出して言う。

「すまんな、アミタ。本当にすまん。だがまあどうだ、喰ったり喰われたりは普通のことだ。お前らだって迷宮の壁を食って生きてるわけじゃない。別の魔物も喰うし、人だってお前の仲間は喰ってるじゃないか」

 もちろん目にしたときは止めている。そしてもちろん、目にしていないときは止められない。

「だからさ、だからだぜ。人の方だって、俺だって魔物をよ、お前の仲間を――」

 喰うこともあるさ。そう言おうとしたところでアミタが唸りを上げる。鋭い爪を床に軋らせたかと思うと、四つ足――手を含む――で床を蹴り、風を切って跳びかかってきた。

 

 おかげでウォレスは反射的に身を沈めつつかわし、アミタの喉笛へ手を伸ばして気管と動脈とを砕くような力で正確にねじり上げつつ、抱えて床へ投げ落とした後、素早く立ち上がってみぞおちへねじ込むような蹴りを入れてしまっていた。彼女の中のしなやかな肉を隔て、硬い床の感触をかかとに感じた。

 

「あああしまった! 生きてるか、おい! 生きてろよ、アミタ!」

 やり過ぎた。やるつもりはなかった、これほどには。もっと遥かに、死にはせずしかしひどく痛んで死にたくなる程度に、手加減するつもりだった。

 

 とたんに辺りの獣たちが唸る。

 それを消すほどの大声で、ウォレスは叫んだ。横の壁を蹴り砕きながら。

「黙れ! 文句があんなら喋んな死ねや! だ、ま、れ」

 

 跳びかかってくる奴がいたなら絶対に、そいつが空中にいるうちに。二百五十五以上の肉片に、ちぎり捨てて殺してやる。何匹いようが最初の三匹、そいつは必ずそうなっている。後は残念ながら手が足りない、全部普通に叩き殺す。

 そう決めて一通り眺めると、飛びかかってくる魔物はいなかった。

 舌打ちしてアミタを見やる。

 

 びくりびくりと身を震わせ、口の端から血反吐を垂らして――幸いそれは、すぐ床で喪失されてはいた。衣が全てまくれ上がった姿は興味深いはずのものだが、台無しだ――、白目を剥いていたアミタは、長く咳き込んだ後ようやくつぶやいた。

「糞……外道ガ……」

「同感だな。まあなんだ、(ののし)られついでだが」

 しゃがみ込んで懐から小瓶を出し、栓を抜いてみせた。とたんにアミタが鼻をひくつかせ、弾かれたように首を起こす。不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)。あらゆる傷を癒し死人すら蘇らせる霊酒。

 

 それをウォレスは一気に呑んだ。

 

 アミタが目を()き、声にならないうめきをあげる。

 

 ウォレスは空き瓶を放り捨てる。

「旨かった。実に旨かったよ、それに体調も良くなった。お前も呑んだなら、そんな苦しみはすぐになくなるんだろうな。ところで、もう一本あるんだ」

 

 取り出したもう一本へ、爪の伸びる手を出したアミタを。ウォレスは反射的に殴った。床の上にアミタの頭が跳ねて、ひどく硬い音を立てた。

 さすがにウォレスの頬が引きつる。

「……すまん。わざとじゃないんだ。で、だ。お前が俺の聞きたいことに全部答えてくれるなら、こいつをくれてやってもいい。お前が呑むならいいが、そうでなければ多分死ぬ」

 

 アミタなら死にはしないかもしれないが、そう言っておく。抱えた荷物を揺すって続けた。

「どうする? 呑むか? 全部喋って呑むか? そうするならついでだ、土産にいろいろ買ってきてる、そいつもみんなくれてやるよ。お前の鼻なら分かってるだろ、皮を揚げるように焼いた骨つきの鶏肉、こりっこりの手羽先だ。それに、塩気とコショウの利いた腸詰。さくりさくりと香ばしい焼き菓子。とろっとろ甘あまのバタークリームが二瓶」

 ぴくり、とアミタの耳が動く。

「どうする?」

 

 やがてアミタがうなずくのを見てから、その口に小瓶の口をねじ込んでやった。むせ返って中身をいくらか吹き出しつつ、アミタは霊酒を呑み下す。

 

 楽になったか、深く息をついた。起き上がると、足と掌を床につけた姿勢でかがむ。後ずさった後言った。

「……よコせ」

「あぁ?」

 声を荒げると、アミタは身を震わせて縮こまった。その後ゆっくりと元の姿勢に戻る。

 

 ウォレスは息をついた。やり過ぎだ。人間相手にこれはやり過ぎだ、本当に。帰ったら忘れるまで呑もう。

 

 アミタはかつて若くして優秀な聖職者だったという、一説には。慈悲深い彼女は迷宮で殺される魔物を憐れみ、彼らを弔うため、また彼らと共存する方法を探すため自ら迷宮に潜った。だが血生臭い迷宮の現実と叶わぬ理想に耐え切れず、人間であることを忘れ去ったのだという。

 別の者が言うには、彼女は聖職者ではなく、相当の好き者で。人間のそれに飽き足らず、魔物といたしたくなって。良くなり過ぎたその挙句、頭のタガが外れたのだという。

 事情通がさらに言うには、それらは半分ずつ正解だと。好き者の聖職者だったのだと。彼女の知人を知っているという者によれば、それらはいずれも間違いで。召喚師だか錬金術師で、魔物を自ら造りだす新魔法の実験をして、誤って自らの体に、魔物を合成したのだという。

 

 もちろんどれも嘘だ、魔王や邪神と戦っていた時期の、酔いどれ共のほら話だ。その頃のアミタはよくて十六、七だろうに、信じる奴もよくいたものだ。

 

 小娘のころからアミタはいた。魔王と共に、迷宮に。おそらくは迷宮に捨てられたみなしごで、どうしたことか魔物に育てられたのではないか、それを魔王が拾ったのではないか。

 あるいは魔王が召喚した、人間型の魔物なのか。それとも魔物が憑いた娘か。

 

 ウォレスはそう思っているが、要するに。アミタについてはまるきり謎で、つまるところはどうでもいい。大事なのは彼女が一部の魔物を率い、魔王につき従っていたことだ。部下としてか友としてか、道具としてかあるいは娘としてか。それもまた謎だったが。

 

「喋ってくれたらちゃんとやるよ。いいか、俺が聞きたいのは、だ。龍の宝珠。魔王が持ってた、魔力のこもった玉。こいつがどこにあるのか、そしてそれは何なのか。つまり、それがあると何ができるか、だ」

 

 アミタは鼻を鳴らし、つぶらな目を髪の下で瞬かせた。

「知っテる、ソれ。持っテる」

 



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第22話  いい思い出はない

「……何?」

 持っている、こいつが? 正直、手がかりだけを期待していたが。思わぬ大当たりを引いたということか。しかし、アミタが盗み出したのか? 王宮からどうやって? 

 

 困ったように目をそらし、アミタは言った。

「持っテる、ウォレス、おまエがそレを。冗談やメて」

「……ああ?」

 眉根を思い切り寄せた後、ウォレスはため息をついた。

「俺が持ってるわけねえだろ、しっかりしろよ。それか、この期に及んでなめてんのか?」

 アミタは髪を振り回すように首を横へ振る。

「違ウ、におイがスるノさ。魔導王(メイデル)が持っテたそレ知っテる、におイがスる」

 

 しばし考えた後、ウォレスはポケットに手をやる。例の欠片を分けて左右の手に握り、両方をアミタに示した。

「どっちだ」

 双方を匂った後、アミタは言った。

「どっチも」

 

 しばらくそのままの姿勢でいた後、ウォレスは手を開いてみた。丸みを帯びた例の欠片、外はざらついて中は滑らか、おそらくは一つの、壺か何かだったもの。

 しかし、壺。仮にこれが、本当に龍の宝珠と呼ばれるものだったとしても。王宮に反旗を翻すほどの魔導者、その魔導者の宝。あるいは彼の研究したもの。それが、壺? 

 

「んだよそりゃ、花瓶にでもすんのかよ」

 魔王が壺に花を活ける、バカらしい光景を想像して。それから気づいた。

 

「……中身は、何だ」

 壺。だったら、中には何を入れた? 花瓶に花を活けるように、中に何を? 

 

 身を乗り出して尋ねる。

「中には何が入ってた。壺の、宝珠の中には」

 身を縮めながら顔をそむけるアミタ。

「つ、壺っテ、壺じゃなイよ、玉じゃン、玉ァ。中身とカ知らナいよ」

 震えるアミタの背を見ながら、ウォレスは頭をかきむしった。

 

 噛み合った気がした一方で、別の一方が噛み合わない。壺ではない? だったらそもそも、中身も何もないのではないか? 

 

「まあいい、後だ。龍の宝珠、それがあったら何ができる? 魔王はそれで、何をしようとしていた」

「なんだカね、そレを使エば。迷宮ノ真実が明らカにナるッて。誰ノ目にも明らカにッて」

 迷宮の真実。それはたとえば、隠された通路がこの欠片で開いたようなことだろうか。

「で、そレでね。そレを何か、研究ダか何ダかしテるッて。そうシて、そうシてるうチに……」

 歯を小さく噛み、上目で静かにウォレスをにらんだ。

 

「……別のことを聞こうか。この迷宮で、喪失された奴が帰ってきてるって話だ。そいつらは何だか、妙な武器を集めようとしてるらしい。迷宮に隠された武器だ、古代文字か何かの青い刻印がある」

 アミタは口を開いた。ウォレスの目を見る。それから笑ってうなずいた。

「知っテる」

「おい……ほんとか!」

「うン」

 おもねるように上目でウォレスを見やる。

「デね、あノね。先ニね、くリームをおクれでナい?」

 

 一瓶取り出し放ってやる。受け取ったアミタは栓を取るのももどかしく、コルクごと瓶の口を噛み砕いた。口の端から血を垂らしつつ、音を立ててよく噛み潰し、飲み込んだ。空いた瓶を垂直に傾け、顔中で浴びるように中身を飲む。首輪を思わせる大きな襟巻きが一緒に汚れた。

 きゅ、と目をつむる。

「甘ァい……」

 

 白く赤く顔を汚したまま酔ったように言って、瓶の中にこびりついたものをなめ回した。底の方まで舌が届かず、瓶の縁をいくらかかじって飲み込んだ。そして底まで舌を這わせる。それが済むと、軽く握った手で顔を拭い、それをまたなめ回す。

「旨かったか」

 アミタは大きくうなずき、目元を緩ませて笑った。血が垂れていることに目をつむれば、その笑顔だけは普通の女だ。普通以上といってもいい。その女がなぜこんなことになっているのかは、想像したくもない。

「じャ、つイてキて。みンなはここで」

 そう言って魔物の群れを残し、四つ足で駆け出す。彼女に尻尾があれば振っていただろうか。

 

 走り、走り、角を曲がって階段を上がり、また駆け回って階段を上がって。また少し走った後、突き当たった角で彼女は立ち止まった――そもそも二本足で立ってはいないが――。

 

 そこはひしゃげた鎧や折れた剣、錆びの塊と化した斧。割れた空き瓶、砕けたカンテラ、開け放たれた宝箱。そうしたものがうず高く積み上げられた場所だった。ガラクタ置き場とでもいうべきもの。魔物が集めるのか冒険者が捨てていく習慣なのか、迷宮には時折そうした場所が見られた。

 

 ここがどうした、そうウォレスが尋ねる前に、アミタはガラクタの山に跳び乗る。

「下がッてた方がいイよ」

 言いながら前足で、時に後足で辺りのガラクタをかき出し、次々と後ろへ放る。

 そうするうち、かき出した物が当たったのか、分厚く巻かれたアミタの襟巻きがほどける。

音を立てて、中から何かが床へと落ちた。

 

「何か落としたぞ、これ」

 ウォレスが拾い上げてみるとそれは、金属でできた小振りな杖。それが二つに折れた、いや、斬られたものらしかった。分かれた二本のどちらも断面は鋭く尖り、くっつけてみたならぴたりと合うだろう。足腰の助けとするものではなく、魔導師が魔力を増幅するための、指揮棒にも似た短い魔導杖。その一面にはかすれたような青い刻印があった。

 

「こいつは――」

 呑み過ぎたわけでもなく、頭の中が揺らぐ感覚。見覚えがあった、一つにはアレシアに言われ、集めている例の武器。そしてもう一つには。

 

「触ンな! お前ガ、触ッていイわけナい!」

 牙を剥いたアミタが跳び下り、引ったくるように杖を奪った。ウォレスは大人しく手を離し、下がる。

 杖をウォレスから遠ざけるように抱いて、アミタは頬を歪め喉の奥で唸る。

「こレは、こレはあイつの、メイデルの形見だ! 触ンな!」

 そうだ、魔王を倒したとき。その手に握られていた杖だ。これを斬ったのももしかして、ウォレス自身ではなかったか。

 

 押さえるように両手を向け、ウォレスは努めて穏やかに言った。

「なあ、アミタ。魔王を殺したことはすまなかった。仕方がなかったんだ、でもすまなかった、本当に。教えてくれ、それは何なんだ? どうして魔王が持っていた?」

 

 アミタはしなやかな動きでガラクタの山へ跳び乗る。静かにウォレスを見下ろした。

「騙さレてルよ」

「あ?」

「騙さレてルよ、糞外道。喪失さレた奴、会ッたンでシょ? 騙さレてルよ」

 ぼろ切れを翻し、背を向けた。山の中をかき回し、やがて取り出したのは。銅版の張り渡された小振りな宝箱。

「糞外道ノ上お馬鹿サん、ちッともちッとも分カっテなイ。メイデル、みンなを護ッてタのに。おマえだッて護ラれてタのに」

 唄うように言った後、ため息をついて続けた。

「一ツだけ言ッてあゲる。龍ハね、長イよ。見タこともなイぐラい。いヤ、そコまでデもなイかな。でモね、長イよ」

 ウォレスは一歩、足を踏み出す。

「何の話だ」

 アミタは小箱のふたに手をかけ、ウォレスの方を見ずに言った。

「あバよ。とッとト死ネ」

 その手がふたを開けた瞬間。アミタの姿が揺らいだ、その周囲の空間ごと、陽炎(かげろう)のように。そして、消えていた。強制転移呪(テレポーター)、その罠がかかった宝箱をわざと置いておいたのか。

 

 アミタの消えた辺りを見ながら、ウォレスの顔は固まっていた。何が何だか分からない。なぜ魔王が例の武器を持っていた、この欠片が宝珠とはどういうことだ。

 

 アレシア――の顔をした女――が宝珠を盗み出し、砕いたということか? なぜそんなことを? そしてなぜ、例の武器を集めている。そもそもどうして魔王がすでにその武器を? 護られていたとは何だ? 

 

 思考が同じところをめぐるばかりなのに気づいて、かぶりを振った。迷宮で道に迷ったときと同じだった、昔はよくやられたものだ。様々な仕掛けに翻弄されて、現在地も分からず同じ場所を延々とめぐってしまうのだ。

多様な仕掛けがあった、転移床や暗黒区域(ダークゾーン)、一方通行の魔法通路――ただの通路と思って進んだ後、振り返ってみれば壁になっていて戻れない――。落とし穴や回転転移床(ターンテーブル)――十字路の真ん中によくある、乗った者の向きだけを転移させる床。北へ進んでいたつもりが東、そのまた先で別のそれに乗って西、そしてまた――。

 

 そう考えると少し落ち着いてきたが。開けられた宝箱を見やり、再び顔をしかめる。強制転移呪(テレポーター)にいい思い出はない。

 

 腹いせに、戻ってアミタの残していった魔物でも狩ろうかと思ったが。さすがに酷いと思い直した。それに、もうあの場は離れているに違いない。それも含んでの指示をしているだろう。

 息をついた。今度魔物と出くわしたなら、三百以上の肉片にちぎり殺してやろう。ウォレスの最高記録は平均三百十八を三体同時、もちろん後から数えたわけではなく――床についた端から喪失されてしまう――、ちぎりながらの自己判定だ。

 

 一時はそうした条件つきの殺し方にこだわっていたこともあった。魔王も邪神も倒して数年、全ての魔物を狩り飽きた頃だ。片手だけで殺すだとか、魔法だけでだとか、足にナイフをくくりつけてそれだけで斬り殺すだとか、頭突きだけでだとか。実際金属巨人(メタルゴーレム)の類の他は、問題なく頭突きで殺せた。さすがに気持ち悪くなってやめたが。

 

 そんなことを考え、長く鼻で息をつく。

 それから、王女のことも伝えてやればよかったと思った。

 

 



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第23話  卵

 アミタに去られた後、その足で覇王樹亭(サルーン・カクタス)へと赴く。腹はまだ減っていない、呑み食いする気はないが、ディオンへの伝言があった。いくつかのことを調べてもらうために。

 

 鐘を鳴らしながらドアを開けると、テーブルにジェイナスの姿があった。

「やあ、旦那」

 ジェイナスはこちらを向き、しかしその目はウォレスを映していないように見えた。間が空いてようやく返事が来る。

「……やあ、若き友よ。それからどうだね、帰ってきたかね。お主の友は」

 しばらく口を開けた後、ウォレスはかぶりを振ってみた。

「そうか。……そうかね」

 

 また焦点の外れた目で、中空を見つめたあと。ぽつりとジェイナスは言った。

「会えた。会えたよなあ、我らは。我ら各々のその友と」

 ウォレスが何も言わずにいると、ジェイナスはまた言った。

「会えておらん。会えておらんなあ、拙者は。喪失されていった友、皆とは」

 ウォレスを見て、にこりと笑う。

「会いたいな」

 

 うなずきかけて、ウォレスはやめて。それでも、焼けつくようにその思いはあった。忘れようとしていたことだった。渇いて酒を求めるような感覚。肉の内側、頭蓋の裏が、ちりちりと焦げついていくような感覚。

 

 ジェイナスは言う。

「会いたいな。五人皆と会えるなら、拙者の命はなくとも構わん」

 さすがに芝居じみた物言いに、ウォレスは笑ってみせた。

「先輩。縁起でもねえよ、だいたい他の奴が生き返ったって、あんたが死んだんじゃあ。その五人が泣くだろうよ」

 ふ、と息をこぼすジェイナスは、泣くような目をしていた。

「かもなあ。だがまあ、どの道。そうなったら嬉しくて、拙者は死んでしまうかもなあ」

 

 ウォレスは目をそらした。彼が天国に暮らす生き物のように見えた。この人のようにはなれないと思い、それが恥ずべきことにも思えた。

 

 

 

 召使の扮装をした女が、オムレツの上にソースで絵を描いている。美味しくなる魔法とやらをかけた後――ウォレスの知識にはない呪文だった。戦闘と探索関係の魔法ならたいてい覚えたが、他の体系に属する魔導か――、一礼して去っていった。

 

 二人前の皿の向こうでは、蒸されたタオルでディオンが顔を拭いている。覇王樹亭(サルーン・カクタス)を通じて伝言をした二日後の今、召使妖精館(クラブ・シルキー)で落ち合ったのだった。

 

 ディオンは何度も目をしばたかせ、深く息をつく。脂の浮いた皮膚はたるみ、わずかに口を開けたままの表情には疲れの色が見えた。何かをうかがうように辺りの席を見回し――今日は貸し切りでもあるまいが、他の客の姿はなかった。それでも(こう)は薄く焚かれ、召使の扮装をした娘らは隅に控えていた――、それから一つ咳をした。

 

「すまん、地上(うえ)がごたごたしたんでな。ま、可能なだけは調べさせておいた」

「何があった?」

 

 ディオンは首を回し、ごきごきと鳴らした。

「魔物だよ。魔物ならいいが、魔物の群れだ、大群。大部分は狼だ、たまに猫。他には三つ首の子犬やら、毒々しい色の蜥蜴(とかげ)やら。虎だの(ドラゴン)だの、牙のある牛だの。その牛二頭分ほどの、巨大な兎。それが迷宮からなだれ出てきた」

「そいつは――」

「アミタ、だったか? 魔王と共にいた娘、彼女の姿らしきものも目撃されている。今回、私は直接見ていないが」

 

 再びため息をつく。

「街を襲ったというよりは、別の場所を目指しているという感じだったか。被害が出なかったわけではないし、傍観するわけにもいかん。それとの指揮と戦闘でな。サリウスたちも来てくれた、それに結構な数、他の元冒険者らも。褒賞を申請してやらねばな」

「群れはどこへ行った?」

「半数近くは倒した。残りは散り散りだが、東の森を抜けていったようだ。他の街や隣国にも警戒を促したが、今のところ被害の報はない」

 

 アミタとて迷宮全ての魔物を従えているわけではない。その一部を従えるだけで、まとまった勢力としては最大というだけだ。それで彼女たちが迷宮のどこへいっても、うかつに手を出されることはなかった。

とはいえ、それも空間が限定された迷宮でのことだ。開けた地上では勝手が違う。アミタたち程度の数では、人間の組織立った戦力にはかなうまい。

 

 それでも彼女と群れが迷宮を、縄張りを自ら捨てた。現に半数は殺されるほどの危険を冒して。それはつまり、そちらの方がましだったということか? 迷宮に居続けるより。

 

 迷宮で何が起ころうとしている? あるいは例の武器のせいで。宝珠のせいで。帰ってきたと自称する、喪失された者のせいで。

 

「そういうわけで警備強化の真っただ中だ、残念ながら長居はできん。手短にいこう、まずは魔王が元々何をしていたか、か」

 

 ディオンが語るところによると。魔王――元宮廷魔導師メイデル・アンセマス――は、魔導による戦闘者というよりも研究者であり、喪失迷宮に関する研究が専門だった。自ら迷宮に潜ることも頻繁にあったという。

 それが二十年前、突如王宮に反逆した。王宮から姫君をさらい、秘宝と多くの魔導資料を持ち出し、自ら迷宮の奥深くへ立てこもった。

 

 ウォレスは尋ねる。

「そう、それなんだが。なんでまた、魔王は反逆なんぞした? 国一つを敵に回して。それだけの価値があったってのか? あの姫に? 王族にしか使えない秘宝に? ……それとも、この迷宮に」

 

 あるいは――すでに手に入れていたとすれば――龍の宝珠に。

 

 ディオンは唸ってかぶりを振る。

「それがだな。……すまん、分からんのだ。いや、分かっている者はいるはずだ、王宮の上の方とか研究者だとかな。私たちに教えるようなことじゃないと、そういうことらしい。それ以上は探れなかった」

 

 つまりは魔王の研究内容、それは相当重要なもので。かつ、今の王宮にも知られている、つまりは研究されているのか。おそらく龍の宝珠はそのことに必要で、だから今、極秘に探そうとしている。そのことに必要だったからこそ、龍の宝珠に魔法による封印などはされていなかった。必要に応じて取り出せる、宝物庫に納められていた。

 

「じゃあ次、魔王が持ってた杖、それに刻まれてた古代文字みたいなやつ。これはどうだった」

 ディオンは肩をすくめる。

「それなんだがなあ、そもそもどんな字なんだ? シーヤもサリウスも皆、杖に何か刻まれていたかは覚えていないそうだ。だいたい、君だってどんな字か書けんのだろう? 何を探すのか分からんのに探せるか」

 

 そのとおりだった。杖自体はアミタが持っていて、他の武器はアレシアが持ち帰った。具体的に書いてみせられるほどには覚えていない。何しろウォレス自身も先日まで忘れていた、魔王の持っていた杖のことなど。

 

 魔王本人との戦闘も正直印象に残っていない。彼が召喚した魔物が強かっただけで、自身は高位の魔導者というだけだった。ディオンとアラン、ヴェニィが魔物の相手をし、サリウスとシーヤが彼の魔導とどうにか渡り合っている間に、ウォレスが魔王を斬った。枯れ枝を斬ったような手応えを残し、壮年の元宮廷魔導師は倒れた。

 

 本当にそれだけだった、魔王の横にいたアミタはついでに殴り倒したままで、誰も顧みはしなかった。それよりは魔王の首を――可能な限り生け捕りにしろというお触れだったが、現場の人間にはそれどころではなかった。危険性は排除したかった――うっかり床に落としかけて――大事な手柄の証拠が喪失されそうになって――、大慌てで拾って放り上げ、受け取ったシーヤがまた手を滑らせて、アランが滑り込みながら蹴り上げて。そっちの方に忙しかった。

 後は皆で、金属製の桶でも用意してくればよかった、などと言いながら宝を漁って帰った。龍の宝珠もその中にあったのだろう。

 

「だよな、悪かった。もう一つ、龍の宝珠の外見。これは? 変な形だったか、特徴は? 中に何か入ってそうだとか、重いとか、逆に空っぽそうだとか、何か」

 ディオンは腕組みをして何度かうなずく。

「まあ、まずそれを詳しく言うべきだよなあ上の方も。そこを秘密にしても探せんよなあ。私たちが覚えていると思ったのかもしれんが」

 

 聞いているのは、掌からはみ出るくらいの大きさで、透明性はなくざらついて白く、くすんだ色のいびつな球状ということ。そしてアミタは、ウォレスが渡された欠片こそがその宝珠だと言っていた。色や外見は今のところ合うが、こんな薄く脆いものなのか? 

 

「とはいえ、大きさや色、形は前言ったとおりだ。空洞ということもなく、みっしりとした重量があったそうだ。特に紋様などはなく、石のようなざらついた表面……ああそうだ、いびつといっても楕円形というより、先がわずかに細まっている。言ってみれば、卵型に近いな」

「卵……」

 ウォレスはテーブルの下でポケットに手をやっていた。欠片が手に触れる。丸みを帯びた外側は石のように、ざらついた感触。内側はすべすべとして突起がない。卵。側面の欠片ならある程度平たく、底や端なら湾曲はきつい。卵。そして今は空っぽの殻でも、その前はみっしりと何か詰まっていた。

 

 卵。卵だ、龍の宝珠は。なら、何かが生まれ出るのか? 生まれた後か、この殻は。

 

 その卵から生まれ出るものを魔王は、今の王宮も、研究していた? ならば、殻だけ残った今は何が生まれた。王宮から卵が消えて、それから何が現れた。

 

「……アレシア」

 怪訝そうな顔をするディオンに、顔をしかめてみせる。

「あれだな、分からんな、結局。ともかくそっちはアミタの行方を追ってくれ、迷宮(した)の方は俺が動く」

「ウォレス。急にどうしたんだ、色々聞いてくるなんてな。何かつかんだか」

「いいや。あんまり何も分からんからよ、そもそものことを整理したくてな。魔王の杖の話はまあ、手がかりかもと思ったが……俺の記憶違いかもしれん。アミタも結局、何も話しちゃくれなかった」

 

 オムレツを切らずに突き刺し、丸ごとかぶりつく――思えば、魔物が溢れ出た直後で開いているこの店もこの店だ。浅くとも迷宮(した)迷宮(した)、ここに店を構えている時点でまともではないのだろう、経営者も女たちも――。

 

他の飯も強引に、次々と口へ詰め込んだ。口いっぱいに頬張ったそれらを大ざっぱに噛み、飲み込んだ後で言う。

「ま、何だ。今日はおごるよ、この前のも返せるぐらいはある、こいつをみんなで――」

 足元の絨毯に置いていた袋へ手を伸ばしたとき。ディオンが言った。

「やめろ。そういうことじゃない。そういうことじゃないんだ、私たちが言ってるのは。分かるだろう」

 穏やかに微笑んで続ける。眉の端を下げ、いたわるように、憐れむように。

地上(うえ)へ、返しに来い。君が、一人ひとりの所へ。分かってるだろう」

 

 ウォレスは視線を落とし、茶のカップを取った。残りわずかなそれを、時間をかけて飲んだ。

「……分かってる。忘れてないし、覚えてるよ」

 

 仕事に戻る、そう言い残してウォレスが席を立とうとしたところで。ためらうように目を伏せながら、ディオンが言った。

「……なあ、ところで。以前言っていた、喪失された者を見たという話。本当か」

 考えてからウォレスは言った。片手の掌を上に向けて。

「ああ、本当さ。足腰も立たねえほど呑んだくれた日にゃ、迷宮に飲まれてった仲間が遊びに来るのさ。どころか、(ドラゴン)は尻尾を枕に貸してくれるし、蘇った古代王国の姫が酌を――」

「そうじゃあない。私も見た。見たんだ、喪失された仲間だ」

 

 うかがうように辺りを見回してから続けた。

「ここに来る途中のことだ、隠し扉の前。何やら懐かしげに辺りを見回す男がいて、見覚えがあると思ったら。仲間だった、確かにかつて、喪失されていくところを見た仲間だ。言ったろ、この店が好きだった奴だ。あいつも私を覚えてて、声をかけてきて。……それから、壁に飲まれた。まるで草木の蔓のようにせり出してきた壁石に捕らわれて、消えたんだ」

 ディオンはうなだれ、テーブルに肘をつく。組んだ手に額を当て、長く息を吐いた。

「……疲れてるのか、私は?」

「さて、な」

 

 



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第24話  酔いどれがもう一人

 二人分の代金を払い、ウォレスは店を後にした。歩きながら思う。

 どういうことだ。確かに喪失された者は現れている、アレシアしかりジェイナスの仲間しかり。だがそれは、ウォレスがあの武器を抜いた後、ほんのしばらくのことだった――アレシアが最初に現れたときを除けば――。

だが、ディオンが本当に見たのなら。それ以外でも現れるということか? 

 

 あるいは、事情が変わってきている? たとえば、ウォレスが何本もあの武器を抜いたから。

もしかしたらサリッサが仇の竜(ドラゴン))を見たというのも、あながち嘘ではなかったのかもしれない。

やはり、迷宮で何かが起ころうとしている。宝珠が、卵が孵ってから。あの武器と宝珠、どんな関係がある? そもそも何の卵、それはたとえば、アミタが言った――

 

 考え込んでいたせいか、目の前、足元にあるものにも気づかなかった。それにつまづいて、ウォレスは危うく転びかけた。召使妖精館(クラブ・シルキー)から少し歩き、角を曲がった先。そこの壁にもたれかかって、地べたに座っていた王女に。

「ちょ、あ? 殿下、何でこんなとこに」

 

 思わず口にしたウォレスに、王女は焦点の定まらない目を向けた。顔は赤く、口元からは熟れすぎて腐りかけた果物のようなにおいがした。酒の、というより、泥酔するまで呑んだ者のにおい。酔いどれのにおい。

 

「あー、(うぬ)か。(うぬ)かぁ……どうした、またぁ、結婚しにきたか」

 言ってよだれを垂らして笑い、手にした焼き菓子を端からかじる。

 ウォレスはため息をついた。

「何だよそりゃ。何やってんだあんた、こんなとこでよ。上層とはいえ危なすぎる。一国の王女様がよ」

 王女は焼き菓子の欠片を吹き飛ばしながら笑う。

「何を言っとる、私を誰と、誰だと思っておる。殿下ぞ、王女殿下様々ぞ? 頭が高いわ」

 

 その胸元では魔宝珠(アミュレット)が、青紫色の光を漂わせていた。不可視(インビシブル)ではなく不可侵(インビンシブル)の方で魔力を使っているのだろう。なら、安全ではあるのか。

 

 ウォレスがため息を着いている間に、聞きもしないのに王女は喋った。

「いや何、いや何な? 噂の店、一度行ってみとうてな。ついついついつい酒を過ごしたわいな、悪くはない味であったぞ」

「過ごしたってあんた、王女様が来て楽しいのかよ? あんたんとこ、いくらでも本物の召使がいるだろうが」

 喉を鳴らして王女が笑う。

「あれはな、いかん。いかんいかん、本物過ぎる。偽者の方が、幻想混じりの方がむしろ本物よ。……そもそも、本当に私に仕える者などおらんよ。召使でも、臣下でも。そりゃあおらんさ、召使の子、王様々の私生児なぞに。忠誠誓う阿呆はおらんて」

 

 また喉を鳴らして笑い、焼き菓子をかじり。表面の焦がし砂糖を、ぬちゃりぬちゃりと噛みながら王女は喋った。

「そうよそんな阿呆はおらぬ、おったらおったで信用できぬ――あの阿呆の他は、魔王の他は」

「魔王……?」

 

 だからか、彼女が魔王を慕うわけは。王宮にいた頃からか迷宮に降りてからかは分からないが、魔王だけが彼女に寄り添った。臣下としてか師としてか、友としてかそれとも男として、それは分からないが。未だ彼女の心を捉えるほどに、寄り添っていた。

 

 王女は突然頬を歪めた。空になった焼き菓子の包みをくしゃくしゃと丸めると、ウォレス目がけて投げつける。横へそれて床に落ちたそれは、ほどなく喪失されていった。

 

「そうよ、大体、大体ぞ! 薄情よ、あやつも……アミタも、迷宮(ここ)から去って……」

 言われて今さら思い出した。アミタ、彼女は王女と魔王の従者だった。

 

 王女の前へかがみ込み、頭を下げる。

「……すまん。言ってやりゃよかった、殿下が探してることをあいつに。殿下にも――」

「そうよ薄情ぞ、こんな手紙一つ投げ込んであやつは……」

「手紙ぃ?」

 あの畜生が? あいつ、文字なんか書けたのか――そう言いかけた言葉を飲み込む。

王女が懐から取り出して広げた紙を横からのぞいた。そこにはのたくるような、引っかいたような字で何やら書かれていたが。文章を読む前に王女がぐしゃぐしゃと丸め、引き裂いて床へと散らした。

 

「ちょっ、おい!」

 手を伸ばすも、ほんの切れ端をつかんだ他は全て、融けるように床の上で消えた。

 王女は懐から焼葡萄酎(ブランデー)の小瓶を出し、あおる。むせ返って咳き込んで、それから言った。

「『生きる』とよ。『怨みは忘れる』と。先生の、教えのとおりに。私のことは手伝えない、その代わりに邪魔もしない。今は守るべき群れがある、と。……そんなことを書かれるために、教えた字ではないわ」

 

 瓶の底を天井へ向けて酒をあおり、またむせ返る。手の中に残っていた手紙の切れ端を、己の膝こと抱きしめた。

うつむき、目をつむる。よだれと涙を垂らしてつぶやいた。

 

「賢いよ、あの子は。私より」

 

 小さかった、その王女は。かつて婚約を申し込んだときより、迷宮で抱えて駆けた頃より。

 

 ウォレスは小さく息をついた。長く長く息をついた。

「……なあ、おい。俺ぁあんたの仇だ、そらぁ分かった。あんなフラれんのもしょうがねぇや。けどな、こっから数日のうちゃあ、――聞けよ」

 

 王女がさらにあおろうとした、酒の小瓶をはたき落とす。

目でそちらを追う王女の顔を、無理やりに押さえて向き直させて。ウォレスは言った。

「俺が仕えてやる。俺が護ってやるし、あんたに仕えてやるよ。全部をそこそこ解決させてな」

 

 王女は何度か瞬きしたが、その目はウォレスから背けられていた。酒の小瓶をまだ見ていた。

 

 ウォレスは大きく舌打ちした。――ああ、こいつは。そっくりだ、俺と。

それしか目に入っていないんだ、酒と、終わった物語と――。

 

 と、王女がその目を上げた。ウォレスを見るのではなく、通路の先に視線を向けた。

 その先、通路の壁には。穴が開いていた。例の欠片を壁に当てたときのように、壁石が身を引いていた。黒く口の開いたそこには。魔王がいた。魔王、そう呼ばれた魔導師、その体が。

 

 首から上はなく――そこだけは迷宮に喪失させられていない。ウォレスたちが持ち帰り、王宮へと献上した。そうだ、王女もそれは目にしたか。魔王本人と確かめる、首実検のために――、頭部を失った体だけで。何か探し求めるように、両手をふらふらと前に突き出し、不確かな足取りで歩いていた。

 

 弾かれたように王女が身を起こす。

「先、生……!」

 弾力のある体でウォレスを跳ねのけ、魔王の体の方へと駆けた。

 ソーセージのような指が魔王の痩せた手を取り、薄い肩を抱きしめる。崩れ落ちながら王女は泣いた。涙で顔を、魔王の肩を濡らして泣いた。

 

 魔王の体は戸惑うように、その身を揺らしていたが。やがて、そっ、と王女を抱いた。赤子をあやすように何度も、その背を、頭をゆっくりとなでた。

 

 王女の泣き声を背で聞きながら、ウォレスは足音を潜めて歩いた。

 

 



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第25話  やや幸運な初体験

濃いの(ブラウン)をくれ」

 カウンターへ魔法衣の二、三枚を放り、ウォレスは椅子へ腰を下ろした。

 

 覇王樹亭(サルーン・カクタス)の店主は魔法衣を検(あらた)めもせず、焦がし色の麦酒(エール)を注いだジョッキをウォレスの前へ置く。その後で口を開いた。

「先生、骨休めはお済みになったんで」

 ウォレスは笑う。

「ああ、この前とうとう呑んじまったんでな。どうも、長く離れてられるもんでもないらしい」

 

 ジョッキを口に運んだ。噛み潰すように呑み込んだ(あぶく)から立つのは、焦がした麦のような香ばしい匂い。舌の上で苦く、だがその向こうに包み込まれた甘味が優しい。少年の頃、初めて酒場に入った頃には分からなかった味だ。

 

 不意に言ってみる。

「なあ。……どんなだっけよ、地上(うえ)ってよ」

 魔法衣を広げていた店主の指が開く。そのせいで一枚が床に落ち、拾い上げたときには真ん中が、崩れたように喪失されていた。

 その穴をしばらく見つめた後、ようやく応えた。

「行かれる……や、お帰りになるご予定でも?」

 

 ウォレスは目を細め、口元を静かに緩める。ああ、そうだ。そういう感覚だよ、俺らは。

「別に。ただ気になってな、どんなだっけな、外の空気って? 昼があって夜があるってのは? いったい何をしてたっけ、迷宮(ここ)に潜って魔物を狩る以外……と、呑む以外によ」

 店主はカウンターへ魔法衣を置き、鼻から静かに息を吐き出す。

「さて。私もこれでずいぶん、先生ほどじゃあありませんが、迷宮(ここいら)にこもったっきりで。かれこれ四、五年ほどですかな」

 

 ウォレスが助けるより前だろうか、後だろうか。どちらにせよ、死にかけた場所に留まって暮らす辺り、まともな人間ではない。もしくは、まともな事情ではない。

 そう思って、ウォレスは自分で苦笑した。同じじゃないか、俺も。そうだ、初めて入って早々死にかけた場所の、その奥底になんて。まともじゃあない。

 

 しばらく黙った後、店主が口を開く。なぜだか少し早口だった。

「いえ、そうですな。先生はそう、戻られるべき方でしょう。なにせ英雄だ、どこでも歓迎されましょうよ。金だってそう、下層のお宝を二抱えも持ち帰れば、食いっぱぐれることもありますまいし」

 

 ウォレスは長く息をつく。小さく肩を震わせながら聞いてみる。どうしたって顔がにやつく。

「で、よ。俺が帰ると思うかい?」

 店主の動きが止まる。しばらく同じ姿勢のままでいて、不意に一つ吹き出した。ウォレスと同じ顔で、小さく答える。

「まさか」

 

 ウォレスはカウンターを叩きながら顔中で笑い、声をかみ殺した。店主は目だけで笑って、大きく咳払いを一つ。急に顔を背けてグラスを取り、拭き始める。

 

 そうだ。そういう人間だよ、俺らは。

 

 吐き出した空気を補うように大きく息を吸う。麦酒(エール)を一息に呑み、ジョッキを置いた。

御馳走(ごっそ)さん」

 立ち上がるウォレスに顔を向け、店主が目を見開く。

「もうお帰りで?」

 無理もない。呑み食いに来たときはぐずぐずと呑んでいくのが常だった。

「ああ、また来る」

 生き返った死人がまた還っていくのを見送るような目で、店主はウォレスを見ていた。不意に口を開く。

「先生。……そもそも先生は、どうして迷宮(した)に?」

 ウォレスは小さく口を開け、それから笑った。

「また来る」

 引き開けたドアの上で、小さな鐘が音を立てる。

 

 外を歩く。灯りも何もない通路。それでも壁が足元の床が、寝ぼけたような光をあるかなしかに帯びる――目が慣れた者にはそれが見える――。

 

 変わらない。変わらなかった、この辺りも。九年前、どころかさらに九年前、迷宮に初めて潜った頃と。アレシアが喪失された頃と。

 

 

 

 

 幸運な初体験だといえるのだろう、ウォレスたちのそれは。迷宮の地下一階、最も魔物の弱く少ない場所とはいえ、稀に出る大群にも出会わずに済んだ。

 

最初に倒したのは何だったか覚えていない。突然出くわしたそれを、アレシアに声をかけられるまま、わけも分からず剣で叩いた――斬る、なんてまともなことにはならなかった――。前衛も後衛もなく、誰もが手持ちの武器を、何か叫びながら前へ出ては叩きつけた。

 気がつけば六人の荒い息と、気のせいか湯気のように熱気の立ちこめる中。挽き肉のようになった魔物が、床石の上でさらに崩れ、吸い込まれていくように喪失されていた。

 

 塩臭い体液の残り香の中、息が詰まりかけた頃。小さく口笛が響いた。

「やるじゃない」

 アレシアは真顔で言う。

「呪文の援護もなしで、初めてでみんな無傷。すごいね、やるね、やるよ君たち」

 表情を崩して手を叩く。片方の目をつむってみせた。

「さ、その調子で次、次! この後からもよろしくどうぞ?」

 全員が、上気した顔でうなずく。

 

 その後もその調子だった。血の匂いに酔うように、息を切らして武器を振るった。その後で進んでいく迷宮の、湿った空気が酔いを抑え。しかし、決して醒まさせはしなかった。思い描いた、あるいはそれ以上の、冒険の中を歩いていた。

 

 皆、本当に運が良かった。大した強敵にも出くわさず、受けたのはかすり傷程度で、アレシアが療術を使ったのも一、二度――ウォレスに使われたのではなかった、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と声をかけられながら魔法をかけられる友がひどくうらやましかった――。一階、また一階と下り、たまに宝を見つければ――解錠師(シーフ)がいないので――アレシアが魔法で罠の有無を確認し、危険の無いものにだけ手を出していた。

 

 そうだ、あまりに無謀だった。解錠師(シーフ)もおらず魔法を使える者も一人、しかも七人目などと。それすらも十六のウォレスは気づかなかったし、皆本当に運が良すぎた。運ではどうにもならない所へ行ってしまうまで、気づかない程度に。

 

 



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第26話  大丈夫

 前に一つ、後ろに一つ。薄く銅版で覆われた、一抱えもない箱が二つ。魔物が貯め込んでいたものだった。

 

「う~ん……」

 アレシアは腕組みしていた。そろそろ帰りを考えていた頃、魔力を節約していた頃。一度に二つもの収穫があったのだった。

 

「やめとく?」

 そうウォレスは言ったのだった――多分だ。そう言うべきだっただけで、そう思いたいだけかもしれない――。

 

 首を傾げ、長い間眉間にしわを寄せていたアレシアはようやく口を開いた。

「どっちか、どっちか一つにしよう。どっち?」

 急に言われて何とはなしに、ウォレスは片方を指差す。

 

 アレシアはうなずくと呪文を唱えた。

ヴ・イア・デアリ・イヴイル(悪しきものとまた悪しくはなき)・リ・イヴイル・ノーチアル(ものを私は目の当たりにするだろう)――【透過視(ヴィデーレン)】」

 指先に溢れた光をまぶたに塗りつけ、にらむように宝箱を見つめる。

「よし……よし、ないね、仕掛けないよ、よし! こっちは……」

 アレシアが振り向き、もう一つの箱を見ようとしたが。程なく、目の上に溜まっていた光が流れて消えた。

「あああっ! あ~、どうかな多分、多分ないなぁ、けど……分かんない」

 

 六人が目を見合わせた後。

「開ける? こっちも」

 誰かがそう言った――ウォレスではなかった、はずだ――。

 

 アレシアはしばらく首を傾げた後、横に振る。金色の髪を振り回すように。

「やめとこ。正直ちゃんと見れてないし、もしもが……ってちょっと!」

 声を上げたのも無理はなかった、誰かがそちらの箱にまで手を伸ばしていた――ウォレスではない。間違いない、別の方を開けようとしていたのだから――。

 

「やめて、止めて! みんな下がっ――」

 箱に手をかけたままの者を除いた四人が散らばって下がり、アレシアも言いながら下がっていた。ウォレスの方に。アレシアが透視した方の箱を開けていた、ウォレスの方に。

 

 ウォレスの手が箱を開けた、そのとき。景色が歪んだ、ウォレスとウォレスに背中からぶつかってきたアレシア以外の、全てが歪んだ。陽炎(かげろう)のように。

 

 それが収まったとき、誰もいなかった。二人以外の誰も。箱もなかった。確かに二つあったはずの箱も。どころか、辺りの地形が、通路の形が変わっていた。

 

 要は。強制転移呪(テレポーター)の罠を見落としたのはアレシアで、発動させたのはウォレスだった。他には誰もいなかった。

 

 

 

 

「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」

 

 何度目だろうか、その言葉を聞くのは。アレシアの口から。気づかわれながら療術をかけられているのではなく、震える手で後ろから袖を握られて。

 

 どうやら強制転移呪(テレポーター)は階層をも越えて転移させたらしい。残念ながら下へ。

 

 ウォレスは剣を握り直し、アレシアを見た。笑って。

「大丈夫だよ。俺が、守る」

 怖くなかったと言えば嘘になる。だが興奮しなかったと言えば大嘘だ。嬉しかった。自分だけが彼女を守れることが。二人だけで冒険できることが。

 

 目元をひくひくと震わせてアレシアは言う。

「だいじょうぶかって聞いてんの回りに何もいないかって! ああそれとも誰か、別の人たちがいたらいいのに、いないかな、いない?」

 

 アレシアに分からないように、小さく息をついてからウォレスは言った。

「でも、来たことある階なんでしょ? 道は分かるんでしょ」

 変わらない顔でアレシアは言った。

「そりゃ来たことはあるよちゃんとした人たちとね! そこそこ強い戦士もそれなりにできる解錠師(シーフ)も結構な療術師もいる後にくっついては来たよ!」

 

 アレシアによれば、何階か上がれば――ここが何階なのかは教えてくれなかった――昇降機がある階らしかった。そこまでくれば一気に地上へ近づけるし、昇降機を使いに来る他の者と会えるかも知れない。

だが、何階上がればそこへ着くのかは教えてくれなかった。転移魔法でも使えれば話は早かったが、もちろんアレシアにはできなかった。

 

 アレシアの記憶を頼りに、曲がり角のたびに立ち止まり、壁に背をつけて通路の先をうかがいながら進む。足音はひそめていたし、魔法の灯りなんかとっくに消していた。

自分たちの息づかいだけが聞こえる。特に、真後ろにいるアレシアの息づかい。苦しげに吸っては吐くその音。そして袖を握ってくる手の震え。

 

 その全てが温かくて、熱くさえあって。剣を握る手に力がこもった。

 

 その階は幸い、上への階段が近くにあった。魔物と出会うこともなく、気配すら感じられなかった。

しかし上階へ上がって程なく、足音が聞こえた。

複数の足音――何人、あるいは何体? ――が、壁に天井に反響し――どの通路から聞こえた、どこから来る? ――こちらに向かってくる――人間が? 魔物が? 

 

 いよいよ強く剣を握り、片手でアレシアを後ろへ押しやる。身構えた。

 

 やがて足音は近づき、ここ以外のどこにも向かっていないのが分かるほど近づき。

見えた。通路の奥から、光が差すのが。日のような白い光、アレシアが使っていた魔法と同じ灯り。

 

 アレシアの震える手から力が抜け、ゆっくりと息が吐き出される。そして彼女は声を上げた。

「助けて、助けて!」

 

 足音が一度立ち止まり、それからこちらへ駆けてきた。

「どうした、誰だ!」

 魔法の光の中、逆光になった一団の姿が影のように見えた。それでも輪郭で見てとれる、しっかりと鎧兜に身を包んだ戦士二人と軽装の剣士が一人。後ろには解錠師や魔導師らしい者たち三人。

 

 ウォレスも胸の奥から息をついた。その後で、もう少し後で出てきてくれれば、とも思う。

 

 アレシアは目の端に涙さえ浮かべていた。

「良かった、良かったぁ! 助けて、早く地上(うえ)に……」

 何があったのかと聞く冒険者らにウォレスが説明した。罠にかかって上の階層から転移させられたこと、仲間は上の階層で、二人だけがはぐれたこと。

 

 冒険者らは顔を見合わせる。

「どうする?」

「戻るってのか、来たばっかりで?」

「しかしなあ……」

 そうしたやり取りを打ち切るように、鎧兜の戦士が前に出た。

「分かった、地上まで送ろう。ついてきてくれ」

「リーダー!?」

 不満げな声が上がり、別の者がウォレスの格好を見ながら言う。

「いいのかよ、礼は期待できそうにないぜ」

 

 リーダーと呼ばれた戦士は手を挙げ、仲間を制止する。

「ほっとくのも寝覚めが悪そうだろ。礼はまあ、出世払いででも返してもらうさ」

 礼を言うアレシアとウォレスに、戦士は首を横へ振ってみせた。

「それより行こう、仲間ってのはどの辺にいるんだ? それと――」

 逆光の中、白い歯を見せて笑った。おそらくアレシアの方に。

「この顔を覚えといてくれ。いつか俺たちが困ってたら、今度は君が助けてくれよ?」

 

 アレシアが笑ってうなずき、その目から涙をこぼしたとき。戦士は大きく首を傾げた。

 

 そう見えただけだった。実際はその首が、ちぎり取られたように分かたれていた。兜ごと転がった頭が、床で大きな音を立てて。遅れて体の方、首の切り口から血が噴き出る。

 

 アレシアの顔を体を、服を赤く血が濡らす。声はなかった。目を見開くこともなかった――かは分からない。魔法の灯り、小さな太陽のような球体は血を浴びてしょぼくれた音を立て、くすぶり消えていた。

 

 冒険者たちの怒号、ウォレスは首をめぐらす、暗闇の中、目の前に灯りの残像が赤や緑のもやみたいにちらつくだけ、何も見えないまま剣を構える――実際にはただ自分の身へ寄せただけ――。誰かが何かを振り上げて何かを叩き――幼児ほどの背丈もない獣のような、何かは分からない――、誰かがでたらめに刃物を振り回す。アレシアではない声が聞こえて、呪文を唱えていると分かったが、くぐもった音と共にそれが止む。

 

 ようやく目が慣れた、素早く動き回る獣に向かってウォレスは剣を振り回す。外れ、かすって毛をまき散らし、地面を叩いて折れ曲がる。石畳の継ぎ目につまずいて転び、そのすぐ上を獣が跳んでいた、刃物のような爪を閃かせて。剣を捨て、転がっていた曲刀――その横で転がっている剣士のものか――を引っつかみ、着地した獣の背を目がけて斬りつける。ちぎるように毛と皮を切り、柔らかく締めつけるような肉に食い込み、引っかくような手応えを感じながら堅く骨を断った。

 

 息を切らしながら構え直し、後ずさりながら四方へ刀を向ける。何も跳んではこなかったし何も聞こえなかった。立っている者は誰もいなかった。

 

 裂かれ、あるいは潰された獣と、首や腕を落とされた冒険者たち。甘くさい血のにおいの中、それでもそこに血はなかった。わずかに残った血溜まりも、吸い込まれるように床に消えていった。獣たちの死骸も、やがて冒険者たちの手も首も、だいぶ時間をおいて体も。鎧や剣を残し、身につけていた服も。

 

 そうして、体中を濡らした汗が温度を失ってようやく、アレシアがいることに気づいた。

 

 彼女は震えて座り込んでいた。ウォレスが近づくと床の上を後ずさった。

 

「大丈夫」

 ウォレスが言って手を差し出しても、それを取りはしなかった。さらに近づくと血ではないものが塩辛く香った――それでウォレスも、自分のズボンが同じく濡れていることに気づいた――。どちらにせよその液自体は、もう喪失されている。

 

「大丈夫」

 無理やりに手をつかみ、立たせる。

それからウォレスは辺りを見回す。散らばる――冒険者たちのものだった――武具に目をやった。魔法薬と思われる瓶や魔法を封じてあるらしい巻物――厚いガラスの筒に入っている――を拾ってはポケットにねじ込む。武器は手にした曲刀でいいと思えた、他の斧などは手に余る。鎧も手早く身につけられそうなものはない。兜だけは合いそうなものが目につき、拾い上げてかぶった。幸い中身は喪失されていた、一番初めに。

 

「大丈夫」

 手を引かれるアレシアは、狂人を見るような目をしていた。

 

 



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第27話  冒険の日に

 どれほどの時間が経ったかは分からない。迷宮には昼も夜もなかった、湿った空気が淀むばかりだった。

その中でウォレスは足音をひそめて歩み、広間を小走りに駆け、兜の下でしきりに汗を拭っていた。

 

 アレシアは何も言わなかった。ウォレスも同じだった。足音に――それがうっかりと立てた自分たちのものでも――身をすくませ、立ち止まり、息を殺す。壁を背にして通路の先を探り、気配が無いのを確かめ、あるいは足音が遠ざかるのを待ってから歩を進めた。

 

 それでも階を上がっていくうち、戦闘は何度かあった。魔法の巻物を叩きつけ、炎や吹雪が上がっているうちに曲刀を振り回し、アレシアの手を取って逃げた。敵をまともに斬り倒したことはなく、手傷ばかりが増えた。魔法の物音に感づいた他の敵に追われることもあれば、逆に物音で逃げ去る魔物も見た。

 

 そうして今、大きな傷はなかったが、魔法薬もすでになくなっていた。アレシアの魔力もほぼ尽きて、魔法の巻物も一巻を残すのみ。

 

「やめときゃよかった」

 歩きながら、アレシアが不意にそう言った。

 

 ウォレスも考えまいとしていたことだった。あのときはもう帰ろうとしていたはずだ、宝箱になど手を出さなければよかった。

 

「やめときゃよかった。あんたたちなんかと、話さなきゃよかった」

 

 ウォレスの足が止まる。

 

 それでもアレシアは歩き、追い越した。震える声が先を行く。

「やめときゃよかった。酒なんか呑まなきゃよかった、そしたらあんたたちなんかと話す気分にもならなかった。――こんなとこ、来なきゃよかった」

 

 ウォレスの足は止まったままで、アレシアは歩き続ける。

「迷宮になんか。出ていかなきゃよかった、家(うち)にいたらよかった。父さんの小言ぐらい、ずっと聞いてりゃよかった。――冒険なんか、しなきゃよかった」

 

 ウォレスの提げた曲刀の先が震え、それから、だらりと地面を向いた。

 ――どういうことだ。どういうことだよ。そりゃ俺だって帰りたい、生きて帰りたいよ。だが俺は言ったんだ、冒険をしたいって。君もそうだと言ったんだ。なのに? ――

 握りしめた、曲刀の先が強く上を向く。

 

 そのとき、アレシアが濁った声を上げた。一瞬の、溺れるような声。

 胸を斜めに大きく裂かれ、血を噴き出していた。膝をついて崩れ落ちる。近くの地面には爪を血で濡らしたあの獣がいた。

 

 ウォレスは駆けた。叫び声を上げながら曲刀を振り回し、何度も振り回し、どうにか斬り裂いた。幸い獣は一匹だけだった。

滴る汗が口に流れ落ち、肺がちぎれそうなほど呼吸を繰り返しながら、アレシアの方を振り向いた。

 

セ・アイント(述べよ、しからば)……セ・アイント(述べよ、しからば)・ネスツ・エト・レ……ト、エン・ノーマ(巣に帰る如く元……に、還るだろう)――【治……癒(サナ……レン)】」

 横たわり、力なく唱えた呪文にアレシアの手が弱く輝いた。遠い星のように瞬くその光が胸の上を撫で、盛り上がっていく肉と皮が傷口を塞いだが。

張り裂けるように再び血が溢れ出す。

 

 アレシアは血にまみれた自分の手と、胸の傷をじっと見ていた。上下する肩の動きが、呼吸が速まり、速まり。やがて小さく、途切れ途切れにさえなっていった。

その間にも同じ呪文をつぶやき、つぶやき、光はなく、声はかすれ、やがて唇の動きだけでつぶやく。

 

 ウォレスはただ立っていた。アレシアを見下ろして立っていた。それ以外なにも思いつきはせず、何か思いつく必要があるとすら、考えられはしなかった。

ただ、口から言葉だけがこぼれる。

「だいじょう、ぶ?」

 

 聞いて、アレシアの瞳孔が広がる。頭を床に横たえたまま、動かし続けていた唇が、別の形に歪んだ。

「……出られ、なきゃ……いい……あ、たも、出な、けりゃ……」

 それだけ言って黙り、ウォレスを見上げ続けた。

 

 やがて流れ落ちる血がわずかになり、肩の動きは止まっていた。唇も。それでもアレシアの目はウォレスを見上げていた。

 

 流れ落ちた血はすでに飲まれていた。やがて始まった、かぎ裂かれた魔法衣はほつれ崩れて、床へ沈むように消えていった。日に焼けた肌があらわになって、その黒いところも白いところも、色を失って薄れていった。花びらのように開いた傷口の肉がまずとろけるように消え、床に接した面から皮が、肉が、(すす)られるように消えていった。融けていくロウソクのように、内臓(わた)がどろりとこぼれ落ちた。端から端からそれが喰われるように沈んでいき、引っ張られた(あばら)が床に触れて小さく音を立てる。その上で胸はやわらかく、辛子色の脂肪をのぞかせていた。

 

 そしてアレシアはウォレスを見上げている。

 

 目を離せなかった。彼女から。見ていられなかった。彼女を。

 

 ウォレスは無意識にポケットをまさぐっていた。手に触れたものをつかみ出し、叩きつける。最後に残った、魔法の巻物。

 噴き上がった爆炎がアレシアを包み、ウォレスを後方へ弾き飛ばした。金色に燃え盛る炎に一帯が包まれ、その物音に姿を見せる魔物もあれば、逃げ惑う魔物の声もした。ウォレスも走った。どう走ったかは覚えておらず、階段を上がった気もした。

 

 気づけば炎も喧騒もなく、目の前に悪友の顔があった。五人と、武装した他の冒険者ら。アレシアのことを尋ねる五人に、首を横に振って。何も言わず、帰り道を共にした。

 

 明くる日もウォレスは迷宮へ潜った。アレシアが生きていてそれを探しに行くと思ったのか、悪友たちもついてきた。明くる日もウォレスは潜った。明くる日も。明くる日も。

 

 誰もついてはこなくなった。それでもウォレスは潜った。行き倒れかけ、別の冒険者に拾われ、彼らの一員となり。彼らに遜色ない実力となった頃、幾人かが喪失されて解散し。それでもまた、ウォレスは迷宮に潜っていた。

 

 終わらせたくなかった、アレシアとの冒険を。ウォレスだけは続けていた、その日を。

 

 

 

 今にして思えば、それほど下層(した)ではなかったはずだ。おそらく地下五十階、それより少し上。だからこそ生きて帰れた。

 今にして思えば、それほど珍しい話でもない。初心者が死んだりはぐれたり。仲間を目の前で失ったり。当時からしてよく聞く話で、悲劇の方の冒険譚。

 

 だが、そこには嘘も何もない。アレシアはウォレスを見上げていたし、ウォレスがアレシアを殺したのだ。例え誰のせいとも言えなくとも、すでに命を失って、喪失されていたとしても。

 

 だからどうしたと言う気はない。そういう事実があっただけで、そのせいで迷宮にいるわけでもない。ただそうしているうちに、迷宮にいる方が当たり前になってしまった。それだけだ。酒を手放せない以上に、迷宮を手放せないだけだ。

 

 迷宮の天井を見上げ、それから床を見る。アレシアが、幾多の冒険者が喰われた迷宮を。おかしくなって、それで笑った。

――ばかだな、アレシア。あんな風に言わなくてもよかったんだ。だって、どの道出ていったなら。きっと同じことを言う羽目になる。やめときゃよかった、って――。

 

 今、ウォレスは息をつく。地上に出るかどうかはまだしも、そこで暮らすことは決してない。それでも、何にせよ。仕事を終わらせよう、そして。

 

 もう一度殺そう。アレシアを、その顔をした者を。

 

 なぜなら彼女はもう死んだ。俺はずっと冒険を続け、友は終え、そしてアレシアは確かに死んだ。あの日に。

 たとえ喪失から還ってきたとして、アレシアが俺のもとに来るわけがない。彼女を殺したのは俺で、それに俺は。

 

 君を恋してはいない、ましてや愛も。ただ、あの日に焦がれているんだ。ずっと。

 

 



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第28話  呑もう、二人で

 

 地下七百二十一階北側端の壁、その西側とは言われていたが。壁によっていくつかに分断されており、欠片を試すには何度か転移する必要があった。しかし、四度目の壁に欠片を触れさせたとき、鍵が合ったように通路が口を開けていく。

 

 踏み入った先、奥の広間で青い文字の描かれた刀――『妖刀焔正(ムラマサ)』、かつてウォレスも愛用していた名刀と同種のもの――を無造作に引き抜く。その切先から青く光がこぼれ、床石に落ち。刀を手にした剣士の姿を取った石の塊へ、ウォレスは跳び。蹴って首を跳ね飛ばし。逆の足を振り上げ、かかとで体を真っ二つにした。

 引き抜いた刀を肩に担ぎ、後も見ずに通路を出る。

 

 

 

 薄闇の部屋で目を閉じて、ウォレスはじっと待っていた。

床石の上にあぐらをかき、例の武器は床に置き。腰のベルトには愛用していた妖刀焔正(ムラマサ)を差し込んでいた。ズボンのベルト通しのうち、左側のものはわざと通していない――それで鞘の動きが自由になる。右手で柄、左手で鞘を引くことで素早く抜き打てる――。鞘の先はがりがりと床にこすれていたが、今さら構うものでもない。

 

 やがて、背後で声がした。

「珍しい。今日は呑んでないんだね」

 振り向かずウォレスは言う。

「いつも呑んでるわけじゃないさ。時に距離を置かなきゃな、愛するものとは」

 ころころ、とアレシアは喉を鳴らす。

「じゃあ、わたしたちはちょうどいいね」

 

 ウォレスは苦笑を洩らした。――分かっていない。分かっていないよ、やはり君は――。

 

「何より、今呑むバカもいないさ。美女と呑みに行こうってのに、先に潰れようとするバカは」

 立ち上がり、笑顔を向ける。

「行こうぜ。呑もう、二人で」

 

 

 

 布にくるんだ武器を抱えて歩く、最下四層は静かだった。何かを畏れているかのように、何かを待っているかのように。

 

 響く靴音の中、大きく伸びをしながら。横でアレシアが天井を見上げる。

「あの頃は思いもしなかったねー。二人で最下層(ここ)を歩くなんて」

「ああ、思いもしなかった。そもそも、迷宮を二人だけで歩くなんてな」

 アレシアは息をこぼして笑う。

「そっか、あの時以来だね」

 喪失されていくアレシア、その姿がウォレスの前をよぎる。アレシアはウォレスを見つめている。

「ああ」

 それきり話は途切れ、靴音だけが高く響く。

 

 何か喋ろうと考えかけて、そんな自分を笑った。気まずかったところでどうだというのだ、人間でもない相手が。どうだというのだ、アレシアの姿を、声をしていたところで。

 

 なのにどうだ。確かに感じてしまった、気まずさを。

 

 鼻で息をついた。呑もう。話はそれからだ。これで終わりだ、あの日の続きに似たものは。ならばせめて、呑もう。

「どこに連れてってくれるわけ」

 目をのぞき込むアレシアに微笑んでみせる。

覇王樹亭(サルーン・カクタス)。前も行ったか、迷宮(ここ)で会ったとき」

 アレシアも微笑み返す。

「いいね。わたしももう一度、行ってみたかったとこだよ」

 

 このまま店に着かなければいいと、そんな思いも頭をよぎる。あの頃のように道に迷ってしまったなら、あるいはそれもあるだろうか。

 だがウォレスの足はもう、迷宮の全てを知っていて。何も考えずとも最下四層を抜けていた。唇は流れるように、転移の呪文を唱え始める。

 

 

 

「俺はどうしようもない呑んだくれだし、君だってどうしようもないほどにアレシアじゃない」

 覇王樹亭(サルーン・カクタス)で樽のテーブルに着き、まず頼んだのは中口の(アンバー)だった。それを一息で()し、同時に頼んでおいた濃いの(ブラウン)に口をつけてから。一息に言ったのはそれだった。

 

 胃袋の底から盛大に息を吐き出し、その勢いに乗じて続ける。早口になるのは止められない。

「俺は(こいつ)がなきゃ生きられないバカだし、君はこいつが――」

 布にくるんで横の椅子に乗せた、引き抜いた武器をあごで示した。

「――あったら自分として生きられない龍だ。だろう?」

 

 アレシアは答えず頬杖をついた。ジョッキから軽いの(ペール)を、こく、こく、と喉を鳴らして大きく二口呑み、旨そうに目を細めた。

 

 その仕草が、しなやかな喉の動きが美しくて、ウォレスは目をそらして続けた。無意味に身振り手振りをしながら。

「俺の考えじゃあこうだ、卵だ、龍の宝珠は、卵。龍の卵だ。龍というのがつまり、何なのかはともかく。それを復活させようと、あるいは生み出そうと? 強大な力を持つだろうそれを操る方法を得ようと、王宮は――あるいはかつて魔王も――研究してきた、秘密で。生まれたのは君だ。宝珠(たまご)の殻だけ残してな」

 小さな音を立て、欠片をテーブルへ放り出す。

「じゃあ何で、この殻が隠し通路を開いた? なぜ君はそこの武器を欲した? それに俺は聞いている、『龍の宝珠は喪失迷宮で使われる』と。要は、迷宮と宝珠は関係あるってことだ」

 

 アレシアの表情は変わらない。

 

 ウォレスは続けた。

「まず、あの武器は何かしらの封印。抜けば抜くほど、喪失された者が迷宮に姿を見せ始めた。そして、迷宮ってのは魔方陣だ、立体的な。喪失迷宮もまたそうなんだろう。死者を喪失させる魔方陣――そして、その死者が帰ってきたってんなら、死者を蓄えておく魔方陣?」

 

 アレシアは微笑みながら聞き、時折ジョッキを口に運ぶ。

 

 ウォレスは麦酒(エール)で口を湿して続けた。言葉で斬りつけようとして、それでも目をそらしてしまう。とんでもない見当違いを口にしている気がしてしまう。

「じゃあ何のために死者を? もしかしたら、喪失された、迷宮に食われた者の力を、蓄えておくためじゃあないか? 龍のために。あるいは喪失迷宮は、龍を生み出すための魔方陣。誰がいつ造ったかはともかく。喪失されたものは吸い取られたんだ、龍に力を蓄えるために」

 貫くようにアレシアの目を見た、つもりだ。

 

「迷宮は蓄えていた、死者の力だけじゃない、その姿や記憶まで。それを使って、龍は、君は、アレシアになった……そのふりをした」

 椅子に乗せた武器を取り、布を捨てた。突きつけるようにアレシアへ掲げる。

「この武器。君が集めてるのはこれが封印だからだ、龍の力、死者の力の」

 

 封印。魔王が護っていたというなら、おそらくこれのことだろう。一つは――杖は――彼自身が抜いて持っていたようだが。

 あるいは宮廷魔導師時代、迷宮の研究中に、宝珠と杖とを手に入れたが。龍の力が王宮に渡るのを恐れて、宝珠を持ったまま迷宮へこもった。王宮に軍事力として龍を利用されないよう、王女もそれに賛同し、共に地下へと降りた。それが王女やアミタの言うところの、何もかもを護っていた、ということではないか。

 

「俺に集めさせてるのは封印だからだ、君が直接抜けないからだ。つまり……君は俺を、うまい具合に利用した、その姿を使って。だろう?」

 

 アレシアは麦酒(エール)に口をつけ、音を立ててつまみの燻製した木の実(スモークドナッツ)を噛み砕く。細かく細かく噛み砕き、飲み下し、麦酒(エール)を呑み()す。ジョッキを掲げ、代わりを店主に頼んだ。

 

 ウォレスも武器を置いて手を挙げ、取り置きの唐黍酎(バーボン)を頼む。頼んでしまう。本当に、的外れなバカを言っている気がしてしまう。素面(しらふ)ではとても言えないような類の。

 

 運ばれてきた麦酒(エール)に口をつけ、アレシアは言った。

「大体はまぁ、そんなとこかな。大体はね」

 

 ウォレスはグラスを口につけていた。酒精(アルコール)が舌を焼き喉を(ぬく)め脳髄を揺らす、その感覚の中で聞けたのは幸いだった。感じている揺らぎは全て、酒のせいだと言い張れる。

 

 一つうなずく。小刻みに何度もうなずく。

「だろ。だろう?」

「転がってったの、卵のわたし。宝物庫を抜け出して、君の所へころころころ、とね。そうして孵って、起こしたの。よく寝てたね、ぼく」

 アレシアは微笑む。ころころころ、と喉を鳴らす。

 ウォレスの頭にその音が響く。そうだ、この音。いや、こんな音を確かに聞いた、あのとき。このアレシアと出会う前、酔って寝転がっていたとき。何か転がる音が響いた、部屋の外から。

「そうか、とんだところを見られたな。いや、参った」

 ウォレスは笑っていた。歯を見せて、懸命に笑った。足は床を何度も叩いていた。

 

 とぼけてくれればよかった。否定してくれればよかった。そうすればウォレスも責め立てることができる、何もかも忘れて大声で無理やりに押さえつけ、そのことだけに集中できる。それができたなら、どんなにか今よりいいだろう。

 

 ウォレスは笑ってみせた。妙に目尻が緩んで、泣いているようだと自分で思った。

 言葉がこぼれた。喉に引っかかっていたものが、弾みで転げ落ちたように。

「嬉しかったよ」

 アレシアが怪訝そうに目を瞬かせる。

 構わずにウォレスは言った。

「嬉しかったんだ、本当に。あの人にまた会えて。俺だけじゃない、他の奴らだって友達に会えたとか、会えるかもしれないとか。嬉しかったはずなんだ」

 

 うつむく。情けなく喉が鳴る。酔いのせいか、本当に笑ってしまっている。鼻から目にかけてが熱い。

 顔を上げ、鼻をすすった。

「だからさ、せめて乾杯しよう。あの頃あの人としたように」

 

 アレシアは頬杖をついて微笑む。小さくうなずき、ジョッキを掲げた。

 ウォレスもうなずく。唐黍酎(バーボン)のグラスを置き、残っていた麦酒(エール)のジョッキに向けて手を伸ばし。

頭によぎるのはあの日の日差し、全てを白ませ熱するような。アレシアの眼差し、心臓をむやみに弾ませて、湧き出す血を皆かき混ぜるような。全てを(くら)まし、誘うような闇の匂い、血を沸かすような地の底の冒険。あの日、ウォレスは彼女を殺した。

 

 そして今。手をひるがえし、アレシアを斬った。

 

 



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第29話  引っかかった

 

 ジョッキにやると見せた手は音もなく、腰に差したままの刀の柄をつかんでいた。左手はとうの昔、樽の陰に隠して鞘を握っていた。左手で鞘を返して刃を下へ向けつつ、親指で(つば)を押し上げ。立ち上がりながら右足を踏み込み、流れるように腰を捻り。その動きをしなやかに、そのまま右腕へと受け渡し。右手が刀身を抜き出すと同時、左手は鞘を引き、右手の力を解き放って。斜め上へと抜き放たれながらウォレスの刀は、二人の間の樽ごと、その上のグラスごと。アレシアを斬っていた。

 

 終わったものが、終わる。当たり前だ、そうでないのはウォレスだけだ。ましてやアレシアでないものが、アレシアの顔をしている。終わるべきだ。少なくともこれ以上いるよりは、ずっとましだ。あの日を続けているバカは、ウォレス一人で十分すぎる。

 

 そう考えてウォレスは斬った。そう思い込もうとしながら斬った。が。

 

「何……?」

 つぶやいたのはウォレスだった。引っかかりを感じた、あり得ない引っかかりを。そのせいで刃の軌道は逸れ、ジョッキを持ったままのアレシアの、肩から先を斬り飛ばすに留まった。アレシアは声もなく、樽と一緒に倒れていた。

 心に何かが引っかかった、わけではない。引っかかりがあるのは知った上で、斬った。言うべきことは言った上で、斬った。引っかかりしかないがために、斬った。これ以上の引っかかりに、耐え切れはしないだろうから。

 

 実際それは、現実的な選択肢でもあった。もはや宝珠が存在しない以上、まともに仕事は終わらない。そして彼女が龍だというなら、王宮がその力を――二十年ほども――欲していたなら。渡してろくなことはない、王宮にそこまでの義理もない。

 危険な存在は排除された、誰の手にも入らなくなった、そうしたところで手を打つのが王宮の筋というものだろう。そのためにも、封印の最後一つは残していた。

 

 引っかかったのは。もっと実際的なことだった。刃が、肉に、引っかかった。

 いや、肉ではなかった。骨でもない。そのどちらも存在せず、けれどそれ以上に、刃にそれは引っかかった。

 

 店主がカウンターを飛び越えながら声を上げた。

「先生! 何事です、そいつぁ……何です」

 素手のまま身構える店主に生返事を返しながら、ウォレスは刃に目をやった。そこに血は一滴もなく、ついているのは砂と、砂利粒ほどの小石だった。

 アレシアを斬ったとき。吹き上がったのは血飛沫ではなかった。砂であり、小石だった。刃に引っかかったのは肉ではなかった。石だった。

 

 床に横たわるアレシアの、肩の傷口からのぞくものは。砕けたジョッキを持ったまま転がった肩から先、その切り口からのぞくものは。

石だった。刃物を差し込む隙間もないほど、まるで一つながりのように、積み重ねられた四角い石。その断面。

 

 ころころころ、と、音が鳴る。小石を床石に転がしたような。やがてアレシアは震え出し、起き上がり、唇を吊り上げ。その喉を鳴らす笑い声と分かる。

 残った片腕で斬り落とされた腕を拾い、小脇に抱えながら椅子を起こす。落とされた腕を抱き、その指を残った方の肩に引っかけて。アレシアは、横倒しのボトルを拾い上げた。

 

「乾杯」

 三分の一ほどに減った唐黍酎(バーボン)を一口呑み、焼ける舌を冷やそうとするみたいに外へ出して。それからアレシアは首を傾げた。

「違うんだけどねえ」

 

 跳びかかろうとわずかに身を沈める店主を手で制し、ウォレスは問うた。

「……何がだ」

「違うんだよ、大体合ってて少し間違い。わたしは、まずね、龍じゃない。その一部ではあるんだけどさ。子供っていうか……ほんの切れ端」

「あ?」

 ウォレスは提げていた刀を両手で握る。ゆっくりと掲げ、右肩の前で立てた。

「だったら、何だと――」

 

 言いかけたウォレスの声は予期しない物音にさえぎられた。扉の向こうからそれは聞こえた、がちゃり、がちゃり、と金属のこすれる音。ウォレスのよく知る足音、だが常に規則正しかったそれが今は、片足を床に引きずる音を立てて、それでいてひどく急いだ様子だった。

 

 出入口の鐘が鳴る。

寄りかかるように扉を押し開けていたのは聖騎士ジェイナスだった。元は白銀色だったであろう騎士鎧はかつて迷宮の埃に灰色じみていたが、今は所々ひしゃげたそれが、おおむね赤茶けて見えた。おそらくは彼自身の血で。そのひしゃげ方もおかしかった、まるで(えぐ)り込むように、その下に肩など腹など(あばら)など(すね)など、存在していないかのように歪み、肉体へ食い込んでいた。とんでもない力で鈍器を叩きつけられればそうなるかとも思えた。

 

 取り落としたのか、兜を着けていない彼自身の頭も、頭頂を割る傷から未だ血がこぼれていた。顔の上ではすでに乾いた血が、赤茶けた線を幾筋もでたらめに描いている。その顔もまたひしゃげていた。()き肉のように潰れていくつかに分かれ垂れ下がる片耳。同じ側の頬は丸ごとちぎり去られたのか歯茎を剥き出しにして、折り取られたのかそこに歯の列はなかった。一面の血と相まって、その顔は道化の化粧を施したようにさえ見えた。

 

「旦那……」

 ウォレスの声も聞こえないかのように、ジェイナスは歩いた。引きずる片足分の体重を、杖のようについた剣に――彼が決して許さなかったことだ、そうやって休憩している同業者を見る度に、温厚な彼が声を荒げて説教していた――預けながら。その後へ靴の形に血痕を残し――それもすぐに喪失されていき――、やがて足を止めると、何かを探すように店内を見渡した。

 

 ひどく震えながら片手を掲げ、彼は胸を張った、歪んだ鎧の食い込んだ胸を。その手にあるのは棍鎚(メイス)だった。一面に青く、見覚えのある文字の刻まれた。そうして声を上げた、片側の頬から吐気が洩れるせいで、やたらと聞き取りづらいその声を。口に溜まる血と唾を飛ばし、張り裂けそうに胸を震わせて。

 

「剣の柄に誓って申す! 我が君、詫びは、果たし申した。我が君、我が君よ……我が切先に誓って申す。例の品、確かに持って参り申した!」

 それきり彼は、そのままの姿勢で倒れた。

 

「旦那……!」

 駆け寄ろうとするウォレスの前にしかし、何者かが立ちはだかった。初めそれは、何がいるとも見えなかった。指を弾く音がして、目の前の景色が水面のように揺らいで。

気づけばそこに、長い魔導杖を手にした王女が立っていた。不可視(インビシブル)の力を使ってそこにいたのか。

 

「あんた、何で――」

 尋ねようとしたウォレスに目もくれず、王女はジェイナスのそばにかがみ込んだ。血まみれの手を取り、顔を寄せてささやく。

「大儀でした、我が騎士よ。これにて叶いましょう、貴方の願いと、私の復讐。……ありがとう、ございました」

 

 血に染まった髭を震わせ、横たわったままジェイナスは笑う。その顔のまま首から力が抜け、音を立てて床へ頭が落ちる。やがて床に触れた髪が、髭が、薄れるように消え始めた。

 

 王女は強く目をつむり、騎士の手を自らの額に押し当てる。それから彼が手にした棍鎚(メイス)を取り、立ち上がった。

「龍の子、宝珠から生まれたものよ。受け取るがいい、最後の封印」

 

 アレシアへ向けてそれを放った、軽く、投げ渡すように。

 アレシアは落とされた手を肩に引っかけたまま、残された片腕を伸ばすが。受け取り切れず、音を立てて床に落とした。

 

 構えていた刀を下ろし、だが柄を強く握り、ウォレスは王女の前に立つ。

「どういうことだ」

 どういうことだ。『私が(うぬ)らを護ってやる』、そうではなかったのか? それこそが復讐だと。魔王からも言われたはずだ、『護ってやれ、誰もかれもを』と。

だからこそ俺も、護ると言った。なのに、なぜ。それにジェイナスはどうやって封印の場所、隠し通路へ行ったというのだ? 

 

 王女は薄く、薄く笑った。

「なあ、私はな。許せはせぬよ。許せぬと分かったよ、(うぬ)らを、誰もかれもを。何より私を」

「何を言って――」

 ウォレスの声を、小石を転がしたような笑い声がさえぎる。

 

「あぁあぁ、そちらが元彼女(もとカノ)さんかぁ。……ま、趣味は人それぞれだよね」

 王女を頭から爪先まで見、鼻で笑ったその後で。渡された武器を示してアレシアは続けた。

「でもま、これはさ、ありがとう。マスター、マスター! お客様に赤葡萄酒を、飛びっ切りに上物をね」

 

 落とされた方の片腕を持ち上げ、店主へ向けてひらひらと振る。それからウォレスの方を向き、目をそらしたまま笑った。決まり悪げに。

「それで、あのさ。もう一つさ、違うのは。頼んでたのは君だけじゃない、のね。最後二つは一応ね、その騎士さまにも頼んどいたの。宝珠の欠片を渡してさ」

 

 流れ落ちるジェイナスの血は床に溜まることなく吸い込まれ、投げ出された彼の手もほどなくして床へと沈み始める。肉と骨とをあらわにしながら。

 ウォレスは刀を握ったまま、間抜けに唇を開いていた。

 

 斬り落とされた手と手をつなぎ、振り回しながら、唄うようにアレシアは言った。

「君のようにね、その次に。君と同じに、それ以上。強いからね、この人は。喪失したから、この人は。だからさ、頼んでおいたんだ。君をちょっとね、待たせちゃってね」

 

 そうだ、確か一度。武器を引き抜いた後、彼女が来なかったことが――ふてくされて泥酔していて、その後やっと来たことが――あった。そのとき、彼と会っていたのか。それは分かる。だが、王女はなぜ――

 

 



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第30話  そっくりだ、俺と貴女は

 

 ウォレスの思考を店主の鋭い声がさえぎる。

「先生、こいつぁ敵ですね? ……この迷宮にいて人間じゃねえんなら。ですね?」

 店主の視線はウォレスではなく、傷口から積み石をのぞかせるアレシアに向けられていた。彼の長い指は準備運動をするように、ゆるりと曲げては伸ばされていた。

 

 口を開けていたウォレスはそれで我に返れた。刀を構え直す。

「……ああ。そうだ、一から十までそのとおりだ」

 そうだ、全部はその後でいい。

 

 アレシアは店主に微笑みかける。

「マスター、お酒はまだ来ないの? けれどねでもね、言っとくけどね。グラスは一つじゃ足りないね」

 アレシアの指――床の、斬り落とされた方の手――が、弾く音を一つ鳴らす。

 

 挑発されたと思ったか、それとも不気味に感じたか、店主がわずかに顔をしかめて。その後、視線がわずかに動く。背後の扉で、来客を示す鐘が鳴ったから。

 

「悪いが今日はお仕舞い(カンバン)で、命が惜しけりゃまたの機に」

 アレシアに視線を戻したまま店主は言ったが。聞こえないように客は入り込み、カウンター席へ腰かけた。何か重い音を立て、手にした物をカウンターに置く。

「おい――」

 舌打ち一つ、言いかけて。店主の口がそこで止まった。

 

 ウォレスもそちらへ目を向けると。客の首には頭がなくて、客の頭はカウンターにあった。ねじ切られたような荒い傷口から血を流し、カウンター上の頭は何も言わず店主を見つめた。

 

 アレシアが唄うように声を上げ、それに合わせて指を鳴らす。

「グラスは一つじゃ足りないね、一つっきりじゃあ足りないね」

 

 客は他にもいた。カウンターの向こうから立ち上がった。酒樽の陰から姿を見せた。いつの間にかテーブルを囲んでいた。同じく首を手にした者もいたし、内臓(わた)をこぼした者もいた。服一面を血で濡らした者もいたし、特に傷のない者もいた。何人かはウォレスにも見覚えがあった、喪失されていった者たちだった。

 

 辺りを見回すウォレスを嘲笑うように、王女は喉を鳴らした。

「どうだ、どうだ見よ英雄殿! 解いてやった、解いてやったぞ封印なぞ! 先生が護った封印なぞなぁ!」

「てめえ……!」

 

 ウォレスは王女の襟首をつかんだ。――どういうことだ。護るんじゃなかったのか、魔王の遺志によって? ――言ってやりたかったが言葉にはならず、ウォレスはただ歯を軋らせた。

 

 頬を、唇を、目の端を震わせ、歪んだ顔で王女は笑う。

「なあ、覚えておるか? 汝らが王宮へ参った日のことを。何を持って参ったかなあ?」

 魔王を討ち、その首を王へと献上した日――王女とウォレスが引き合わされた日――か。だが、それがどうした。

 

 歯を剥いたままウォレスの目を見据え、王女は続けた。

「そうよ、私も覚えておるぞ。(うぬ)らのこともだが、その夜のことをよ。盗み聞いたのよ、王が、我が父が。魔導師どもと話すのをよ。――龍復活の法を知る、魔王が死んだことについて。無論、(うぬ)らへの愚痴もあったが、何より話し合われたのは。首だけで、人を蘇生させる魔導はないかということだった」

 

 王女は笑った。喉を鳴らし、体の肉を震わせ、笑った。にらみ殺すような目をして。

「燃やした。燃やしたよ私は、先生の首を。保管された場所へ、密かに忍び込んでなあ――」

 続けてつぶやく王女の顔から、表情は消えていた。

「――そうだ、私が殺した、先生を。あるいはまだ、首だけにせよ、蘇れたであるかもしれぬのに。殺した」

 

 ウォレスは口を開けていた。――ああ、こいつは。そっくりだ、俺と。同じだ――。

 

 ()じ切るように頬を歪めて王女は語った。

「そうよ、私が殺したのだ。それが分かった、再び迷宮に降りて。封印が解けていくにつれ現れた、喪失された者を見て――先生の、首のないお体を見て!」

 まるですがりつくように、両手でウォレスの胸ぐらをつかむ。柔らかな肉づきをした手は生温かく、震えていた。

「どうだ、他の者らは還って来ているというのに。どうだ、先生だけは! どうなろうとあのお体のままだ、語らうことすらできぬのだ! ――だから、あの騎士の誘いに乗った。償いをすることを許した。何もかもを犠牲にしてでも、騎士は友と会いたかった。誰もかれもを見捨ててでも、私は殺したかった。(うぬ)を、私を」

 

 ウォレスは黙って王女を見た。すがりつく彼女は子供のように縮こまり、赤子のような顔で、涙を流して震えていた。小さかった。迷宮から抱えて駆けた、その日のように。

 

 ウォレスは緩やかに息をつく。

「……なるほど」

 なるほど、と、ただそう思った。

会いたかったんだ。俺もあんたも、ジェイナスも。会えなかったんだ、あんただけ。

 

「気の毒に」

 王女の頭をなでた。汗に湿ったその髪は、野の草のようにごわごわと手に絡みつく。それでもなでた。

 

 そっくりだ、俺とあんたは。あんたが俺ならこうなっただろうし、俺があんたならそうしただろう。そうだ、それなら無理もない。俺をあの日フったのも。――眺めて暮らしたいもんじゃない、仇の顔、しかも自分の顔なぞ。

 

 そうだ、あれだって無理もない。俺をフったその直後、自らの手で。邪神を召喚したのも。

 魔王がかつて召喚しようとして、地上への影響を懸念して。中途のまま放棄していた魔方陣、それを彼女が完成させた――そう彼女はかつて語った、懐から出した羊皮紙を広げ、最後の術式を目の前で、己の血で書き入れながら――。俺を、英雄らを殺すために。そもそも彼女の居場所のない、地上への影響など省みず。

 

「気の毒に」

 

 もう一度それだけ言って、さらに増える人だかりの中へ、ウォレスは王女を突き放した。群集の中、未だ辺りを見回す店主と、首のない魔導師の――きっと魔王の――姿が見えた。

 人ごみをかき分け――跳ね飛ばし――、ウォレスはアレシアの方へ向かう。途中で人の波の中、テーブル席を囲む壮年の男を見かけた。鎧も剣も身に帯びてはいなかった、怪我はどこにもなかった。低い笑い声を響かせる、彼の分厚い胸板には藻のような白髭が長く揺れていた。同じく笑ってテーブルを囲む、五人のうち一人には見覚えがある。確か、戦士バルタザール。

 

 ひしゃげた(から)の鎧を足元で蹴散らし、アレシアの背中を追う。アレシアは扉の鐘を鳴らし、外へ出た後だった。

 



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第31話  アレシアたちと

 

 叩き割る勢いで扉を開き、外へ出たところで。ウォレスは目を瞬かせた。

 

 廊下もまた大盛況だった、人と人とがひしめいていた。この店に行列ができる日など想像したこともなかった。

 各々の頭を腕に抱えた者ばかりではなかった、明らかに地上では不要と思える、隆々たる筋肉の持ち主。顔に腕に、彩るように古傷をつけた人種。冒険者、同業者――見知った顔もある、かつて仲間だった者も、ウォレスを見つけて手を振ってくる、喪失された者たちだ――。まるで花が咲くように、壁石が音もなく分かれて口を開け――武器の隠されていた場所がそうなっていたように――、そこからぞろぞろと彼らが吐き出されて、旅行者のように辺りを見回す。

 

 跳ねのけながらウォレスは駆けた。アレシアの姿はもう見えない。途中、壁から出てきた中にまた、仲間と肩を組むジェイナスがいた。気がした。

 

 不意に行く手で炎が上がる。と思う間に爆音が、痺れるほどに壁を天井を震わせ。叩きつける熱風が、人ごみをかき混ぜながら吹き飛ばす。

 手を顔の前に掲げ、腰を落としてこらえた。顔を上げると廊下の端々で燃える火の向こう、紅い鱗の(ドラゴン)が見えた。その首には交差する大きな傷跡があって、それもやはり見覚えがあった。これもまた、喪失されたはずのものだった。

 その(ドラゴン)へ向け、甲高い笑い声を上げながら。枯れ草のように荒れた金髪をたなびかせ、剣と斧とを振り上げて、跳びかかるのは戦士サリッサ。かつてウォレスが仇討ちを――首に交差する傷を持つ紅い鱗の(ドラゴン)爆炎卿(エクスプロード)と呼ばれる古強者の個体を倒すのを――手伝ってやった女。

 

 爆炎卿(エクスプロード)の振り上げた翼に弾かれ、床に転がった後。立ち上がりながらサリッサは笑った。顎から喉へ伝うよだれが炎に照らされて輝く。

「ああ、あああ! 見つけた、とうとう見つけた! 見ろよウォレス、見ろよウォレス! あいつだ、あいつ、あああとあいつも!」

 

 次々と剣の先で指す方を見れば爆炎卿(エクスプロード)がいる。その向こうに爆炎卿(エクスプロード)がいた。その奥の闇を裂き、炎を吐きながら現れたのは爆炎卿(エクスプロード)だった。

 

 サリッサはよだれをすすり上げながら笑った。

「あああ、お前だ、お前で、お前もだ!」

 

 手前の爆炎卿(エクスプロード)へ跳びかかる。振り上げられた翼を今度は、右手の剣で突いては斬って。熟練の職人が細工物を解体するように、肉を穿って筋を断ち骨を外して、自らの通る穴をこじ開けた。くぐり抜けざま体をひねり、左手の大斧を勢いのまま、仇の脳天へと叩き入れた。

 

 爆炎卿(エクスプロード)が崩れ落ちるそこを、さらに体重をかけて斧を押し込むサリッサへ。残り二体の仇が炎を吐いた。燃えながら弾け飛んだサリッサの腕は、剣をつかんだままウォレスの前へ落ちて、吸い込まれるように床へ喰われた。頭や胴――と思われる炎の塊――も壁に打ちつけられて潰れながら、同様に喪失された。

 

 二体の爆炎卿(エクスプロード)がウォレスの方を向いたとき、両側の壁が音もなく分かれた。積み石の間から現れたのは左も右も、それぞれにサリッサだった。防具こそ身につけない、垢の染みた服のままだったが。

 二人はそれぞれ奪うように、転がったままの剣と斧とを拾い、それぞれの仇へ跳びかかった。二人はそれぞれ跳ね飛ばされて、首と胴とに、腹から上と腰から下とに、二つ二つに裂かれていた。その傷口には肉も内臓(わた)もなく、ただ石がのぞいていた。隙間なく積まれた直方体。倒れた最初の爆炎卿(エクスプロード)の、頭蓋の内からも同じものがこぼれていた。

 

 ウォレスは駆けた。刀を振るった。二体の爆炎卿(エクスプロード)をまとめて斬る。その腹からも同じものがこぼれた。

 

 さらに駆けた、刀を振るった、その先の人ごみも斬り裂いた。喪失された者たちの群れは、同じように斬り裂かれた。途中二、三人、ジェイナスも斬った。

 

 その先にアレシアはいた。

 一人、唄うように口を開く。

「うらやましいのね、彼らのことが」

 ウォレスは斬った。

 

 その隣でアレシアが言う。

「失ったものとまた会えて」

 ウォレスは斬った。

 

 その左右でアレシアが同時に口を開く。

「うらやましくて仕方ないよね」

「もう変わらずにいられるからね」

 二人まとめてウォレスは斬った。

 

 左右の壁際でアレシアが声を上げる。

「天国みたいね、まるでここは」

「君もここにいたらいいよね」

 

 アレシアたちをかき分けて右のアレシアを斬り、アレシアらの頭上を跳び越えて左のアレシアを斬った。

 

 奥で一人、ころころころ、と喉を鳴らす。斬り落とされた手と手をつないだ、アレシア。

「ここにいるべき人ね、本当に。ねえ、ぼく、だってそうしたら。アレシアとずっといられるよ。わたしとずっといられるよ」

 

 ウォレスは刀を振りかぶる。一度力を緩めた後、一瞬に強く振るう。刃でなく刀の横腹を向けて。巻き起こす風が奥の一人を残し、その間のアレシアらを一息に薙ぎ倒した。

 

「……悪ふざけはもう終わりだ」

 そうだ、悪ふざけでしかない。あの人といたいわけじゃない。あの日といたいだけだ。あの日にずっといたいだけだ、叶うなら。もしも、仮にこのアレシアの言うとおりなら。ウォレスはあの日に喪失されているべきだったのだろう。

 

 そう考えて、息がこぼれた。息は長く、絞るように長く続き。端の方で苦く、笑みに変わった。

 そうだ、本当にそうだった。――あの日から迷宮に潜り続け、それであの日はどこにあった? それであの日は続いていたのか、それともその先にあったとでも? 

 かぶりを振った。構え直し、切先をアレシアの喉へと向けた。薄闇の中で刀はわずかな光を反射し、鈍く輝いていた。

「終わりさ、とはいえ、賢いらしいな。君は俺より」

 

 気にした風もなく、アレシアはウォレスを見上げていた。

「龍は餌には困らなかったよ」

 

 ウォレスは構えを崩さない。

「へえ」

「だって神さまだったもの。少なくともそう思われた。今じゃなくて昔のことね」

「そうかい」

「だって彼に喰われた者は、変わらぬ姿でまた現れた。そのままずっと変わらなかった」

「……何?」

「そこが天国だと、きっと思ったんだろうね。むしろ喜んで喰われてた、ここに国ができるより昔の、ここに迷宮が在るより前の、人たちは」

「……おい」

「でもさ、そうじゃない人たちもいて。龍に眠りの時期が来たとき、長い休眠の時が来たとき。それを永くする呪いをかけたの。六本の武器を、彼の中に突き刺して」

 

 身じろぎもせず構えたまま、ウォレスの頬が引きつった。

 アレシアは笑って言う。ころころころ、と、床石の上を小石が転がるように喉を鳴らす。

「そうしてずうっと後になって。ある研究者がそれを突き止め、封印の一つを探し出したの。それで龍のほんの一部は、目覚めることができた。龍そのものから切り離されてね」

 

 のぞき込むアレシアの目は闇の色をしていた。黒ではない、寝ぼけたような薄闇の色。見慣れた色、今も辺りを、地下七百二十四階層、迷宮の全てを満たす色。そこにウォレスが映っている。口を開けたまま映っている。

 

 足元が揺れる。気のせいかと思う間に揺れは強まり、壁が天井が軋んだ。

 なるほど、アミタは正しいらしい。龍は長くて、ただし見たことがないほどではない。

 揺さぶられて震える舌で、ウォレスは転移の呪文を唱える。

 

 



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第32話  これはウォレスは知りもしない +第33話  龍は長くて

【第32話】

 

 ――物語は終わってしまって、それはウォレスも知っているが。これはウォレスは知りもしない。

 

 王女はただ抱きついていた、その胸に顔を預けていた。全てが震える迷宮の中で、彼女はじっとそのままでいた。魔王の首の斬り口から、時折垂れる血に濡れたまま。

 

 首のない魔王もまた、そのままでいた。王女を抱くでもなでるでもなく、ただじっとそこにいた。やがてその細腕が、王女の肩を取り、顔を胸から引き離す。

 

「先生……?」

 その薄い手が。叩いた、彼女の頬を。

 叩いた、再び。

 震える指で拳を作り、殴った、一度。

 

「先、生」

 頬に手をやり、つぶやく王女の。その首に魔王は手をかけた。震える両手を、絞るように絞めかけて――不意にその力が緩む。ため息をつくように肩を落とした。

そうして、片手の指を自らの首の斬り口へやり、血に浸す。それで彼女の胸に書いた、呪文の文字列を。

 

「先生!」

 気づいた王女はその手を振り払おうとしたが。そのときにはもう、魔王の指は終止符を打っていた。転移の呪文の文字列の。

 

 水面のように揺れ始める、王女の視界の中を。魔王の背中が遠ざかっていく。ないはずの首を、彼がゆっくりと横へ振る――それを王女は、見た気がした。

 

 その物語も終わってしまって、ウォレスは何も知りはしない。――

 

 

 

 

 

【第33話】

 

「やめときゃよかった」

 本当にそう思う、本当に。こんなことはしたくなかった――ウォレスは一人、胸の中でそうつぶやく。

 

 ひどく静かだと思ったし、あまりにも騒々しいと感じた。何より焼けつくようだった、ぞくりとくる冷気は欠片もない。責め立てるような日差しだった。あるいは逆に、まるで体温の全てを持っていかれるようだった。優しい温もりなどどこにもない。風に、空へ、果てまで、ここは。

 地上(うえ)は。九年ぶりの。

 

 歩いても――辺りを何度も何度も、上も下も見回しながら、小さな歩幅で――歩いても、足音が壁に響かなかった。足元が、石ではない地面が柔らかかった。草の上などはもう、沈み込むようで。倒れてしまいそうな気がして、すぐに他へ移った。

 風の音が絶え間なく鼓膜を揺らし、髪をなぶる。どこからか――どこからか分からないほど遠く、壁にも天井にも阻まれない遠く高くから――鳥の声が聞こえる。それだけでもう、足元がふらつく。そこへきて太陽は、暴き立てるように絶え間なく照る。

真っ白な光だった、顔を上げただけで目が(くら)んだ。肌には打ちすえられるような痛みが走った。それなのに蝶が、(あざけ)るように花の上を舞っていた。

 

 目眩(めまい)がした。何もかも、刺激の過ぎる眺めだった。地が揺れている気がした、空が渦を巻いている気がした。吸い込まれていきそうだった、何もない頭上に。

 刀を杖にして立ち、深く呼吸をする。それでようやく気づいた。空は渦を巻いてはいないが、地が揺れていることに。

 

 地面は揺れていた。ころころころ、と音を立て、小石が跳ねて転がった。

 

 目の上へ片手を掲げて日差しをさえぎり、振り回すように頭をめぐらす。白くぼやけた視界の中、揺れる景色が見えた。頭の奥に残る風景と目の前の光景とが――それぞれ光と時間とに、ぼやけてはいるが――重なり始める。

 

 辺りは荒野、岩と土とわずかばかりの草木。先に見える、大岩の積み重なった小山、その先で角のように二本突き出た石柱と辺りを囲う太い柵、地面の石畳。その先、見慣れた――見慣れていた――迷宮の入口。少し離れて番兵の詰所――もう冒険者相手の物売りは来ていないようだ――。

 ずっと向こう、緩やかに森を下った先には、石壁の家が建ち並ぶ街が見える。なだらかに広がる街の中、大聖堂の三尖塔と堀の向こう、高台の上で城壁に囲まれた王城だけが、空をつつこうとしているみたいに高くそびえていた。遥か先にはそれを鼻で笑うように、あるいは微笑んで見守るように、頭に雪を被った岩山が裾野を広げていた。

 

 その全てが揺れていた。少なくともウォレスにはそう見えた。足元から激しく、揺さぶられるウォレスには。

 

 ころろ、ころろと小石が転がる。そこら中で小石が転がる。地が震え、跳ねるように小石が転がる。見れば小石は皆、一つの方向へ転がっていた。迷宮の出入口、そちらの方向から。ウォレスのいる方へと向けて。

 

 やがてさらに地は震え、張り裂ける音を上げてひび割れた。地面が盛り上がる。膨れ上がる。膨れ上がる。まるで大地の腹を裂いて、何かが生まれ出るかのように。

 

 薄布のように地面を引き裂き、辺りの岩を転がし、柵をへし折り、番兵の詰所を焼き菓子のように砕いて。噴き上がった、それは。男根(まら)のようだとウォレスは思った、石で積まれたそれがあるなら。岩山のように太いそれがあるなら。

 

 それは駆け上がった。地面の膜を引き裂いて、木であれ岩の群れであれ、そこに載ったちっぽけなもの全てを跳ね飛ばして。瀧のように流れ落ちる砂の中、見えた。地の底が天へと立ち昇るのが。積まれ積まれた石の塊、蛇の鱗にも似て一つながりの石の重なり。それがどこまでも噴き上がるのが。

 

 振り落とされる岩を避け、波打つように揺れる大地の上を、ウォレスは後ろへと跳んだ。そのまま後も見ずに駆けた。霧雨のように砂の降りしきる中を駆けた。激しく音を立てて落ちる石を背中で受けながら駆けた。

 駆けながら振り返れば、砂と瓦礫に煙る空の中、影だけが黒く見えた。長く長く、どこまでも長く、影が天に躍るのが。おそらくは、いや間違いなく、地からその身を全て抜け出させた、地下七百二十四階。喪失迷宮が嬉しげに、身をくねらせて天を舞うのが。

 

 降りしきる砂に咳き込み、ウォレスはやがて足を止めた。砂の入った目を拭い、口を開けたまま天を仰ぐ。

 

 ころころころ、と笑う声。

 振り返ればアレシアがいた。何も言わずに天を見上げる。

 

 ウォレスもまた天を見上げた。降り続ける砂に目を細め、片手をひさしに掲げて。

 長かった、それは。一面を砂埃の色に染められた空の中、鈍く銀色に光る太陽の横。じゃれつくように喪失迷宮は、石造りの体をくねらせて舞った。

 

 長い、という言葉がこれほどまでにちっぽけだと、ウォレスは初めて気がついた。その言葉では足りなかった。天高くに遊ぶ灰色の紐のようなものは、手繰っても手繰っても終わらないようにすら見えた。そもそもどこが終わりなのか、先を行く頭はともかく、後ろの端はどこなのか分からなかった。それが躍るごとに空が黒く黒く、塗り潰されていくようにさえ見えた。

 思えば一つの階ですら槍を振るってまだ届かない高さがあるのだ、そして地下七百二十四階。おそらくそうだ、王城の遥か先、雪を頂いた山より、まだ高い。

 

「あれが――」

 ウォレスがつぶやくとアレシアは言った。

「龍よ」

 ウォレスは目を瞬かせる。

「あれは――」

 

 違う。あれの中での冒険譚、それに憧れたものがあれなら。あれは、龍とは違う。あの中へ息せき切らして駆けていったものなら、龍とは違う。あの中でアレシアが、幾多の冒険者が喪失されたものなら、違う。ウォレスや仲間たちが戦い、探り、旅したものなら。全てが終わっても、ウォレスがまだしがみついたものなら。その一部になりそうなほど手放さなかったものなら。龍とは違う。

 

 あれは、あの日だ。

 

 重く唸るような声が天高くで聞こえた、と思ったが。どうやらそれは風を切る音で、あの日が頭を上げたようだった。その体から落ちた石くれが、ウォレスの目の前へ音を立てて突き刺さり、砂を巻き上げる。

 

 ウォレスは微笑む。

「ごあいさつだな。知らない仲じゃないだろうに」

 

 



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第34話  喪失迷宮の続き

 

 アレシアは言う。

「休眠時の餌のためにね。龍は()び寄せるの、異界の魔物を。彼らが持つ宝も一緒に。そうして彼ら自身や、それを狩りにくる人を。龍は食べるの、彼らのうちで死んだものや――生餌は食べられないからね――、体内器官――罠のようなね――で仕留めたものを」

 

 ウォレスはあの日へ向け、片手を掲げ返してみせた。

 

 後ろでアレシアは言う。

「そうして今。わたしが龍を目覚めさせたのはね。迷宮の正体を知って怯え、邪魔する魔王もいなくなって。召喚された、邪神も死んで餌になって。それらを殺した、君が立派に育ったから。立派な餌に育ったから」

 

 笑ったまま、ウォレスはあの日を見上げていた。

「へえ」

 餌だのなんだのはどうでもいい。元々そういう関係だった、互いを食いものにしかしてこなかった、冒険者と迷宮は。

 

 しかしまあ、どうだ、あれは。

 あれのどこなんだ、覇王樹亭(サルーン・カクタス)は? あれほどに振り回されては、店主といえど生きてはいまい。王女は――あるいは首のない魔王も――どうしたか。召使妖精館(クラブ・シルキー)の女たちは住み込みではないだろうが、いなければいい。いたらまあ、気の毒に。

 

 俺の部屋はどこだ、うなるほどに不死鳥の唐黍酎(フェニリクス)を貯め込んだ部屋は? 今頃は全てぶちまけられているだろうが。あれの一番端だろうが――どこなんだ? 

 あのひやりとした床に寝そべりたい。俺のにおいが染みついた部屋で朝となく夜となく――迷宮にそんなものはない――呑んだくれたい。あるいは覇王樹亭(サルーン・カクタス)のカウンターで、麦酒(エール)をあおってぐだぐだと、げっぷを吐いて突っ伏したい。それに召使妖精館(クラブ・シルキー)で、恥ずかしくなるほどのもてなしを受けながら長々と呑みたい、みんなで。笑い合って、乾杯しあって。

 

 天の一角で体をくねらせ続けたまま、あの日がウォレスに顔を向けた。多分顔だろう、一番端で一番上だ。それはただの四角い、石の集まりで。ただ申し訳程度に、角のような二本の柱と小さな口――迷宮の入口――が見えた。

 

 後ろでアレシアが言う。

「ねえ。……ねえ、ぼく」

 返事をせずに見上げたままでいると、アレシアは前に回ってきた。

「ねえ。せっかく出てきた後でさ、こう言うのも悪いけど。喰われたらどう、ぼく。大人しく喰われたら」

 

 目を向ければ、アレシアはうつむいていた。斬り落とされた手と指を絡め、胸の前で握り直していた。

「それがいいよ。だって、それで一番幸せじゃない、みんなが。龍が、君が、ついでにわたしも。君はそれで、ずっと一緒にいられるよ、わたしと、あの迷宮と。わたしも君と一緒がいいよ、知らない人より少しはね。一人はあんまり得意じゃないんだ」

 笑ってウォレスの目をのぞき込む。

「ね、そうしよ、だいじょうぶ。苦しいのはほんの一瞬、わたしのときとは違ってさ」

 

 ウォレスはアレシアの目を見返し、目をつむる。かぶりを振った。

「よせ。君はアレシアじゃない。俺は喰われたりしない」

 アレシアの肩を押しのけ、前へ出る。風が緩く吹く中、大地のかけらがゆっくりと降る。

 

 長く長く空でうごめく、あの日を見返して。ウォレスは刀を握り直した。口の端が吊り上がり、犬歯まで歯がのぞく。肩が、背が震えた。

 しかし、なるほど。確かにこれはあの日かもしれない。だって、きっと大冒険だ。

 

 つぶやく。

「来いよ、やろうぜ。望むところさ、続きならな」

 あの日の続きなら。

 

 それが聞こえたかのように、あの日は大きく頭を上げた。地鳴りのような声を上げ――声なのかは分からないが、少なくともそれは天を揺らし、ウォレスの鼓膜と刀を震わせ、肺の底さえ痺れさせた――、ウォレスへ向けて雪崩(なだ)()ちた。

 

 天の端で小さかったそれが、ただ長いそれが近づくにつれて。ウォレスの顔が正直引きつる。

 大きかった、それは。大きいという言葉で十分表現できる程度ではあったが、大きかった。視界を覆うほどだ、ウォレスの足で縦横約三百二十歩、それが迷宮の、一階層分の面積だった。あの日の――龍の――太さだった。

 

 地を蹴って横へ跳び、連続で何度も跳び続け、あの日の突進からどうにか身をかわしたが。地の砂と共に巻き上がる風圧に、ウォレスの体が浮き上がる。地面へ、不様(ぶざま)に腹から落ちた。

 顔をしかめて立ち上がり、駆けて、さらに後へ続いて流れるあの日の胴――なのか、まだ胸なのかもう尾なのか――から身を離す。頭の方は地面すれすれを飛びながら、砂と一緒に森を――木々を、粉々に――巻き上げ。その先、離れた行く手には。街があった。ウォレスの生まれ育った街。王城の下、ディオンやアランたちが暮らす街。

 

「おい……!」

 

 まだ続く尾――そうであって欲しい、胸や腹ではなく――から身をかわし、走り続けながら。あの日の――龍の――大きさを、ウォレスはそのとき初めて知った。天にあるときは分からなかった。遠かったからだけではない。周りに何もなかったから。比べるものがなかったから。

 今やそれははっきり分かった。王城と大聖堂、それらを重ねても届くかどうかの高さ――その体の太さ――だった。そして横にも、きっちりと同じ幅。

 

 あの日の頭は街を進んだ。石造り煉瓦造り土壁造りの家々が、みっしりと建ち並ぶ街を。行く手に何もないかのように、速度を落とすこともなく。まるで髭を剃るように、街は手もなく剃られていった。積み石を連ねたその体に、巻き起こす風に、壁を砕かれ屋根を巻き上げられ、その中のものもまとめて、ぞりぞりぞりと剃られていった。

 

 ようやくあの日の尾がウォレスの前を過ぎた頃。あの日の行く手、高台の王城の上から、そのふもと、大聖堂の辺りから。それぞれ一斉に幾つも幾つも、数え切れないほどいくつもいくつも、炎の弾が放たれた。王宮や教会の魔導部隊か。

 あの日の頭で爆ぜたそれらは、しかしわずかに石の破片を散らせただけで。(うな)りも上げず進むあの日に、王城は積み木のように崩されて。曲がりくねるその体が軽く触れ、大聖堂もへし折られて。砂埃のような破片が漂う中を、三尖塔がそれぞれに落ちていった。

 

 ウォレスの唇が震える。

「おい。……おい……!」

 

 ディオンは王城にいただろう。守備の指揮を取っていたはずだ、魔導部隊まで仕切っているかは知らないが。シーヤは大聖堂の方か。アランの店はどこだ? ヴェニィはあの腹で逃げられるか? サリウスと店は、俺たちの山獅子亭(クーガーズ)は? 

 街の方へと走りながら、ウォレスの顔が、手の指先が足が震える。体の温度が逃げていく、ただ高い空へ逃げていく。ひとしきり震え終わった後。息を吐いて歯を噛み締める。

「……おい」

 

 知っている。ろくでもないとは知っている、迷宮が。待ち受ける幾多の罠に襲い来る異界の魔物、それでいて甘く惹きつける宝。その全てがろくでもない。

 それはいい、知っている、お互い様だ。ウォレスも。ディオンたちも。アレシアも、王女も、何人もの――もう名前も、顔すら出てこない者もいる――昔の仲間も、他大勢の同業者も、喪失されていった者たちも。全員が全員、ろくでもない。

 

 だが、とウォレスは思う。

 お前は待っていただろう。ただ待っていただろう、俺たちがお前の中へ降りるまで、じっと待っていただろう。酒のようにただじっと。辛抱し切れない俺のような者にはともかくとして。それがどうだ、このざまは? その外でこのざまは? 

 

 迷宮じゃない。あの日じゃない、お前はもう。

 

 ウォレスは唾を吐き捨てた。転移の呪文を唱え始める。

 

 お前がそれでも、あの日だともしも言うのなら。今日で終いだ、悪ふざけは。あの日の続きは。

 

 



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第35話  龍と

 

 何度か転移の呪文を唱え、ウォレスは風の中にいた。宙を舞う龍の背――頭、もしくは首か――の上に。

 乱れ流れる風の中、龍に刀を突き立て、足を踏みしめてこらえる。足元の石は土に汚れている他はなるほど、歩き慣れたいつもの感触だ。

 首をめぐらせ、龍の頭の方を見る。魔法の一斉攻撃を喰らったはずのそこはわずかに焦げが残るのみで、大きく砕けているようには見えなかった。

 

「なるほど、腐っても迷宮か。そう言いたいんだな、要はお前は」

 

 喪失迷宮。その中でいったい何人の魔導者が、あるいは魔物も、魔法を放ってきたのか。業火や爆発、突風に雷撃、極低温の猛吹雪。いったい何度喰らってきたのか、その煽りをこの迷宮は。けれどそれで、壁や床が砕けたという話は聞かない。石の表面ぐらいならともかく。

 おそらく、魔法そのものが効き難い。迷宮の積み石――龍の体――それ自体に、そういう性質があるのだろう。

 

「ふむ」

 刀を突き立てたまましゃがみ、積み石の一つに手をかける。そのまま力を込め、握り砕いた。

 迷宮の一部であるあのアレシアに、ウォレスの刀は充分通った。動揺しても腕を斬り落とせるぐらいには。そして迷宮の石自体も、ウォレスの力なら問題なく砕ける。

 

 喉を震わせて笑った。

――龍だか何だか知らねえがよ。俺を敵に回して良かったのかい? 今の俺は岩石巨人(ストーンゴーレム)でさえ蹴り殺せる、その気になれば握り千切(ちぎ)り殺せる男なんだぜ? もっともあっちには魔法も効くが――。

 とはいえ、視界を胴体の方へ戻して思う。空の遥か先を、風を散らして延々とくねる石の塊を見て思う。(のみ)を手で潰せる男が、その蚤がくっついていた熊を殺せるかというと話は別か。

 

「まあ、やってみるさ」

 突き立てた刀を左手で握り、右手は大きく振りかぶる。拳を握り、体ごと打ち落とすように、足元目がけて突き抜くような拳打を放った。

 

 後悔した。

 確かに打撃は効いていた。思った以上に充分通った。辺り一面の石は、ウォレスの拳を中心にして深々とえぐれるように砕けた。刀を突き立てていた箇所も含めて。そして打った拳の反動で、ウォレスの体は浮き上がる。

 

「うおおおおっ!?」

 なぶるように吹き続ける風が、たちまちウォレスの体をつかんだ。

宙を流れるウォレスの体の下で、それ以上の速さで、石の流れが過ぎていく。それがもし軽く身をくねらせれば、ウォレスの体にぶち当たるだろう。その速度で石の塊が。もし地上でひとしきり寝返りを打てば、それだけで街の跡形もなくなるであろう巨大な質量が。

 

 慌てて転移の呪文を唱え――転移先の座標は龍から離れた宙に定める――、空の一角へ回避する。下に風しかない――その遥か先に小さく街が見えるが、何の慰めにもならない――足を無意味にばたつかせながら、続けて呪文を唱える。浮遊の呪文。本来は迷宮の罠を回避し、水場を渡るため地上からわずかに浮かぶ魔導だったが。今はそこに、風の呪文を併せて唱える。

 温かみさえ感じさせて意のままに巻き起こる風がウォレスの体に絡み、足元を支えて吹き上がる。魔導にそれなりの心得がある者なら、こうして宙を舞うこともできた。天井のある迷宮では全く用をなさない技術ではあったが。

 

 ふらつきつつも足元から風を吹き上げ、龍へと向き直る。

 龍もまた頭をウォレスへと向け、空を震わす声を上げた。

「そんなに俺を喰いたいか」

 

 口に出してみると、確かに手もなく喰われそうで。正直後悔した。

「……コショウぐらいはあるんだろうな。俺は実際、えぐい方だぜ」

 引きつる顔でそう言ってみる。

 龍は笑う様子もなく、風を巻いてウォレスへと迫る。

 

 ウォレスは宙に留まり、呪文を唱え始めた。なるほど、迷宮に魔法は効かない。殴り殺すのも難しそうだ。だが、とっておきのものがウォレスにはある。言葉どおり、取って置いたものが。この九年間、あるいは十八年間。人生の半分以上をかけて。

 

ストロ・ソルフォ・アン・ブロ(藁を敷き飼葉を置きあるいは壁と錠)・ウォル・ロクド・エント・ムーセント(前に隔てた場所にそれを置くだろう)――【厩倉(スタブレム)】!」

 

 ウォレスの指が星に似てひそやかに光る。空を裂くように大きく振るったその先、龍の上で、さっくりと空間が割れた。

 その向こう、歪な虹が揺らぐ別の空間には。剣が鎚が盾が槍が杖が短剣が魔法衣が魔法薬が酒瓶が、渦を巻いて無数にたゆたう。迷宮でウォレスが集め続けた戦利品が。最下層の部屋から溢れ、到底入りきらなくなった武器の類が。呪文によって接続され、荷の保管場所として利用される別空間で。

 

「出ろ、並の武器は全て出ろ。全てだ!」

 

 雨のように、ではなかった。瀧のように、星が全て流れ落ちたように、海の底が抜けたように。全ての武器は降り注いだ。龍へ向けて。

 

 風の呪文を唱え、大ざっぱにそれらの方向を操り、加速させながら。ウォレスは微笑んだ。

 どうだい、こいつは。俺のとっておきは。数えておいた、大体数えておいたんだぜ、集めながらな。暇だったんでな。暇だったんだよ。

 

 硬く突き刺さり、あるいは弾かれ、武器同士がかち合う音が空を満たす中、未だ武器が降り注ぎ続ける中、ウォレスはいっそう堅く笑った。

 どうだい、九万八千三百五十一振りの剣の味は。七万四千七百九十六丁の斧の重さは。六万三千九百三十七本の槍に刺されたことはあるかい? 四万六千二百四十三振りしかない刀だが、なかなかに斬れるだろう? 短剣と、鎚やら何やらはいくつか忘れたが……まあ、足せば剣よりずっと多いよ。

 遠慮せずに受け取れよ、お前が()んだ物だろう? 

 

 針鼠のように海胆(うに)のように、武器が刺さった龍は身をくねらせる。それは苦しんでいるというより、驚き身じろぎするように見えた。

 

 武器が異空間から流れ尽くした後、龍へとウォレスは呪文を唱えた。炎の呪文。自らの身長の倍ほどの炎弾を次々と放つ。魔導の届く範囲、その体の上部だけであったが、龍は炎に包まれた。

 

 それでも炎はすぐにかき消え、変わらぬ姿で龍は吼える。

 

 ウォレスの表情は変わらない。――落ち着けよ、隠し芸には続きがあるんだ――。

 次に唱えたのは吹雪の呪文だった。極低温の氷の渦が、雲のように白く龍の上部を覆う。

 

 ウォレスの策はこうだった。迷宮の石は魔導を受けつけない、だが強度は並の石だ。ならば魔導以外ではどうだ。まず武器を突き刺した後、そこに高温と低温の温度変化をかける。これなら魔導を直接受けているのは武器だ。炎や吹雪自体ではなく、それによる急激な温度変化のみを、武器を介して石に伝える。それで石を砕けるはず。

 

 やがて辺りを吹く風が、氷の雲を散らし。そこには龍が身をくねらせていた。その動きごとにぼろぼろと、体の上を武器から武器へつながって走る亀裂から、石をこぼし続けていたが。変わらず身をくねらせていた。

 

「……思ったほどは、ウケなかったか」

 

 正直、これで粉々になっているという腹積もりだったが。

軽く頬を引きつらせ、ウォレスはさらに呪文を唱えた。転移の呪文を連続で使って近づいた後、風の呪文。足元から、背から風を吹き上げ、龍へと飛んだ。その体の中ほどへと。

 風を切る音を立て、手にした刀を振り上げて。急降下しながらすれ違いざまに斬る。突き刺さった武器の根元から根元、龍の体を走る亀裂に沿って。駆け抜けては斬り、行き過ぎて、別方向から駆けては斬る。その付近一帯を。

 

 妖刀焔正(ムラマサ)とはいえぼろぼろになり、呪文を唱えて別の武器を()んだ。さっきの魔導でも放出せず、別空間に残しておいた、特に貴重な武器。絶聖剣(キャリヴァーン)貴誓槍(ゲッシュボルグ)妖刀焔正(ムラマサ)の替え、他。

 足して九百六十八本のそれらを縦横に振るい、打ち込み、突き入れて、使い捨てながら宙を駆けた。その一帯を、龍の周囲ぐるりと、その一帯だけを。身をくねらせ押し潰そうとする龍から、どうにか身をかわしながら。巨体が起こす風の流れに、何度も弾き飛ばされながら。

 

 全ての武器が折れ曲がりあるいは刃こぼれし切った後。ウォレスは曲がった剣を手にしたまま転移の呪文を続けて唱え、龍の頭上へと移る。残された魔力を絞るように、そこから風の呪文を唱え、飛んだ。上へと、可能な限りの速さで。

 

 吼える声を上げて龍は追う。くねらせていた身を真っすぐに、速度を上げて。

 

 さらにウォレスは呪文を唱え、速度を速め。それでも龍は見る間に、ウォレスへと迫っていた。ウォレスは再び速度を上げ、また龍が追い。さらに速度を上げたが、それでも龍は追い続ける。

 

 まだか。

 ウォレスがそうつぶやいて、その間にも龍の頭が迫る。風を押しのける音を響かせ、視界を潰すように迫り来る。

 

「まだかよ!」

 叫んで、曲がり切った剣を龍へ投げ、それが、かつり、と当たったとき。

 

 龍の体から石がこぼれた。一つ、二つ。見る間にそれはさらにこぼれ、数え切れぬほどにこぼれ。龍の体に穴が開いた、龍の体が大きく欠けた。ウォレスが斬りつけ続けていた一帯、体の中ほどが。

 亀裂は亀裂とつながりさらにまたつながり体の奥深くまで食い込み、こぼれ、砕け、落ち。

 

 折れていた、迷宮が。乾いた音を雷鳴のように立てて。

 

 慌てたように龍は動きを止め、頭を亀裂に向けてめぐらせようとする。そうしていた、龍の頭の方は。上半分は。

 下半分は違った、すでにそれは折れている。止まろうとする頭とは裏腹に、それは飛び続けていた、ウォレス目がけて上へ。

 

 当然それらはぶち当たった、ほぼ同じ質量が。ほぼ同じ強度で、温度変化を受けたかどうかの違いはあるが、どちらにせよ並の石程度の。

 

 砕けた、それらはどちらも。重く轟く音を上げ、悲鳴のように響かせて。積み石の欠片を砂のように、破裂したようにまき散らして。

砕け()ちた、欠片となって。下半分のうち残った塊も、自重を支えきれなくなったかのようにいくつかに分かれながら墜ちていった。

 

 未だ痛いほどに鳴る心臓の音を聞きながら、ウォレスはゆっくりと落ちていった。ある程度風になぶられた後、最後に魔力を残していた転移の呪文を唱える。

 地上へ。

 

 



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第36話  街へ帰る

 着いた先は見覚えのある場所。迷宮の入口のある――あった――荒野だった。とはいえ、入口跡からは離れている。街との間に広がる森のすぐ手前だった。

 

 息をついた。寝転がった。背中で砂利が快かった。大地は温かく、目に差し込む日差しもまた暖かかった。少なくとも全身を風になぶられていたさっきまでよりは。

 

 もう一度大きく息を吸い、吐いた。もう一度。もう一度。今さら震えが体を走る。むずかる子供のように手足を動かし、地面をなでた。揉まれるような土と小石の感覚が心地良かった。

 上体を起こし、また息をついて背を丸める。九年ぶり、いや六、七年ぶりだろうか。体力も魔力も使い切った、運も含めて走り抜けた、命まるごとで切り抜けたこの感覚は。

 

「やったな」

 ああ、やった。自分でそううなずいて、笑った。

 そうして喉の奥を鳴らした。とんだ間抜けだ、あの龍は。あの巨体で最初からウォレスを狙っていれば、執拗に狙っていたならば。ウォレスなどはものの数でもなかったはずだ。それを遊んでいるからこうなった、寝覚めで伸びでもしていたか。

 先に本気になった俺が勝った、それだけだ。切り札は先に使って叩き潰すものだ、相手に手も足も出させずに。それが分かっていなかったとはお笑いぐさだ、喪失迷宮ともあろうものが。

 

「はあ……ふふ」

 何度目かの息をつき、どれほどそこで日に当たっていたか。地面そのものになってしまったかのように。

 

 だが不意に思い出す。

 俺の部屋が――迷宮ごと――なくなって、いったいどこに帰ればいいんだ? 

 

 ああ、そうか。街だ、俺の育った街。あいつらのいる街。俺の、街。

 微笑んで立ち上がり、森の中へと歩き出す。

 喉が渇いた。あいつらに財布の限り麦酒(エール)をおごらせなきゃな。

 森のその辺りは龍が通った場所ではないらしく、木々は変わらず残っていた。

 

 

 

 

 ウォレスの手は震えていた。膝も。冷え切った足の先はそこに地面があるか確かめるように、何度も何度も指を縮めては開いていた。

 ウォレスの見知った街はなかった。もちろん、王城と大聖堂が崩れたのは見た。それだけで国としては大打撃だ、中枢がごっそりなくなったのだから。それでもたとえば王族なら、王や王太子らは死んだとしても。他家に嫁いでいった王女たち――あの王女の妹ら――もいるだろう。そうした者らを旗頭に、どうにかするだろうと思っていた。

 

 街はなかった。龍がその体で剃り取った場所だけではなかった、街の全てが、程度の差はあれそれぞれに、壊れていた。

 

 土壁造りの民家の壁を、突き崩したのは一抱えほどの積み石の塊。石造りの館を粉々にしたのも、商店一帯を軒並み突き崩したのも、広場に横たわる人々の頭を潰し腹を打ち抜いたのも。喪失迷宮の、地下七百二十四階の、山より高いあの龍の、破片。天のあれほど高みから降り注いだ欠片。

 泣き叫ぶ子供の傍らで瞬き一つしない、親らしき者の背に刺さるのは。血を流した人々の、動かない体をいくつもいくつも、路地に縫い止めたようにいくつもいくつも突き刺すのは。九万八千三百五十一振りの剣のうちの一部、六万三千九百三十七本の槍のうちの一部。ほんの一部。

 その残りや七万四千七百九十六丁の斧と四万六千二百四十三振りの刀とそれ以上の他の武器は、どこかに、誰かに、突き刺さっているだろう。この街で。

 

「おい……」

 すすり泣く声であったり誰かの怒号であったり、争うような物音であったり。火を使っているところを崩されたか、瓦礫の中から燃え広がる火の音であったり。音と声の渦の中、ウォレスだけが静かにつぶやいた。

 

 どこだ、ここは。どこなんだ。俺のいた街は。

「やったのか」

 俺がやったのか。

 つぶやいてみた後で、そのとおりだと気づいた。

 

「バカな」

 つぶやいてみてももう嘘にはならず、歩いた。ただ歩いた、そうしているより仕方がなかった。

 しばらく歩いてようやく思う。王城へ、王城へ行こう。他の奴は分からないが、ディオンがいる。近くにシーヤも。

 

 



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最終話  友と  + エピローグ  積もる話を

 王城が動いているのかと思ったが。そんなわけはなかった、それは全て崩れている。宮殿も防壁も、どころかそれらが載った高台ごと。潰れていた。

 

 砕け残ったまま最後に落ちた、龍の尾。言葉どおりの最後尾。崩れかけてもなお見上げるような大きさのそれが、王城とその下の土を潰し。

そして――未だ動いていた。

 

 人々は逃げていた、残った兵はわずかだった、彼らもまた逃げていた。そしてどちらも、餌食にされた。

 龍の尾、その石の群れが音もなく開き、中から細長く積み石がせり出した。幾つも重なり連なって長く、石造りの触手のように。

 それが、無数のそれらが伸び、広がり、体中から伸び、人の頭を足を絡め。口のように開いた石の分かれ目に引き込み、音を立てて咀嚼(そしゃく)する。

あるいは無数の触手が紐のように絡み合い、太いそれを地面にいくつも打ち込んで、引き込む動きで巨体を引きずる。

 

 こんなこともできたのか、ウォレスはただそう思っていた。これをさっき使われていれば、斬りつけるウォレスに使われていれば。自由の利かない空中だ、すぐに捕らえられていただろう。いや、あるいは宙にあったからこそ、こんなことはできなかったか――あの巨体が高速で飛翔する中、これを出して重量バランスを変えたり空気抵抗を増やすことは難しかったのか――。そんなことを思いながら立ち尽くし、口を開けた。

 

 その間にも、空気を切る音を小さく立て、静かに触手は獲物を捕らえ続ける。

 と、不意に一本の触手が断ち切られる、堅い音を立てて。横合いから跳びかかった者に。

 その人影は細身の直剣を、手首を利かせてしなやかに振るい、あるいは断つように力強く突き。二本、三本、まとめて五本、触手を次々と斬り伏せる。

 

 栗色の巻き毛を振り乱しながら、その男は声を上げた。ほうれい線の皺をいっそう深めて。

「何をしている、早く逃げろ! ここはこの私が……いや、逃げるな! 騎士は逃げるな、兵士もだ! 殿下をお護りしろ!」

 引きずるように音を立てて舌打ちしながら、横からの触手を斬り捨てる。その背の後ろにはあの王女がいた。いつ外へ転移したのか、地に腰をつけ、口を開けてただ、龍を見ていた。

 触手を斬り捨てながら唾を飛ばし、ディオンは叫んだ。

「何をやってる、おらんのか本当の(つわもの)は! この私の他に!」

 

 開いていたウォレスの口がそのままで固まり、それから大きく吊り上がる。いた。いてくれた、少なくともディオンは。

 剣を振るい続けるディオンの、足元がしかし震える。その足元、地面が揺れる。割れる。その足元一帯の土ごと、触手の束がディオンを持ち上げる。

「何……!」

 ディオンは目を見開いたまま絡め取られる。

 

 ウォレスもまた目を見開き、しかし噛み締めた歯を剥き出して、笑った。

 いるぜ。ここにいるんだぜディオン。本当の強者(つわもの)は。

 

 地を蹴って跳んだ。何も持たない腕を振るった。ディオンを捕らえた触手の束を片手で断ち、人々をつかんだ触手の群れを逆の手で断ち。着地しながら龍の尾本体へ、揃えた四本の指を突き立てた。座り込んだ王女を横目で見、笑う。

 

 そこからなおも跳んだ、駆けた、触手の森を避けもせず、ただ手を振るってちぎり捨てた。

 足を打ち込みひびを入れて、無理やりに龍の横腹を駆け上がった。地団駄のように足を振るい、龍の背中を砕き散らした。

 跳び下り、足を地面に打ち込み、固定して。反動を殺し、嵐のような拳打を龍へ振るう。振るい続け、振るい続ける。たちまちに石は揺れ、震え、歪み砕け、一帯まるごとえぐれて散る。

 上からの触手をかわして指を繰り出し、掘る。積み石を掘る、粘土のようにバターのように。掘る。

 なおも振り出された触手をつかみ返し、引く。背にその束をかつぎ、歯を食いしばりうめきを洩らし、引く。足はえぐるように地面をかき、その背が石より硬くなる。その根元を砕き散らし、迷宮の中身を見せながら、触手は引っこ抜かれていた。

「そぉらあ!」

 

 それを離さずウォレスは振るった。触手とその先の根元、石の塊を。巨大な分銅鎖(フレイル)の類のように。

龍から距離を取って天高く振り上げ、真っすぐに打ち下ろす。同じ硬さの塊を高速でぶち当てられた、迷宮の中身がたまらず砕ける。

 

 湧き出る笑みを抑えもせず、ウォレスはその調子だった。その調子だった、龍の尾をまるごと潰すまで。それがあった一帯を、石くれだけに変えるまで。日が傾き、やがて地平の先に落ちるときまで。

 

 動きを止めた後ろ端、わずか一山の石塊を残し、戦闘を終えて。乱れた息を整え、笑いながら汗を拭って。ウォレスは振り向く。

 

 いなかった。助けた人々はいなかった。空は残り火のような色の西を残し、どこもすでに青く、暗かった。かつての仲間たち、そして王女だけが遠巻きに、ウォレスを見ていた。

 

 ディオンは乱れた巻き毛を整えもせず、口を薄く開けていた。手にした剣は放り出したように下ろされ、その先が地面についていた。遠くを見るような目でウォレスを見ていた。

 シーヤは破れた法衣から褐色の肌をのぞかせ、唇を噛みしめていた。杖を握る手は震え、ウォレスに向けた目は潤んでいるようだった。

瓦礫の陰に体を隠し、サリウスは顔だけをのぞかせていた。色白な頬は土に汚れ、長い金髪は汗と血で、額の擦り傷に張りついている。頬を引きつらせ、目を見開いてウォレスを見ていた。

 王女は座り込んだまま、ただ口を開けていた。

 

 ウォレスが彼らの方を向いたとき、弾かれたように。

 ディオンは後ずさり身構えた、握った剣がわずかに上を向いていた。シーヤは身を震わせ、口を開きかけた。目の端からは涙がこぼれた。サリウスは瓦礫の後ろに顔を隠した。王女は身じろぎもしなかった、瞬きさえ。アランとヴェニィの姿は見えなかった。

 

 ウォレスは口を開けていた。そうしただけで、言うべき言葉は口から出てはこなかった。何を言うべきなのかも分からなかった。ただ、汗に濡れた体に風が、心地よくも冷たい。

 

 天を見上げた。もう龍はいなかった。

 

 辺りを見た。もう街はなかった。

 

 遠くを見た。もう迷宮はそこになかった。

 

 ウォレスは小さく笑っていた。

 変わった。変わってしまった、何もかも。誰もかれも。

 

 そうして自分の両手に目を落とす。迷宮を、地下七百二十四階を、それ以上を、叩き壊した者の手を。

 変わってしまった。何より、俺が。

 

 かぶりを振って歩き出す。

 

 ディオンは剣を下ろしていた。

「……ウォレス」

 

 応えずウォレスはかぶりを振る。

 誰が悪かったんだ? 下も見ずに戦った俺か、何も考えず切り札を出した俺か。あの状況でしか倒せなかった、それ以上の余裕はなかったとはいえ。

誰が悪かったんだ? 言われるままにほいほいと封印を抜いていった俺か、最後の封印を解いたジェイナスか。そう仕向けたあのアレシアか、魔王の遺志に背いた王女か。最初の封印を解いた魔王か、肝心なことを何も言わなかったアミタか。龍を知りつつ秘密裏にしか手を打とうとしなかった王宮か――あるいはここまでだとは知らなかったか、王女の他は――? だらだらと迷宮に居続けて、龍に目をつけられた俺か。龍を封印するだけで、殺さなかった古代の人間か? それともこんな風に生まれついた龍が? 

 ――誰でもいい。同じだ。

 

 ディオンが剣を鞘に納め、手をウォレスに向けて伸ばした。

「ウォレス……。手伝え」

 

 ディオンはその手を巻き毛に突っ込み、握り締めた。震えるその手を、払うように抜き出した後で言う。視線を地面に落として。

「手伝え、ここはあの迷宮じゃない。蘇生魔法だって効く……効くんだ。そうでなくたって助かる人間が、まだいくらでもいるはずだ。……手伝ってくれ」

 

 ウォレスは残りかすのような魔力を絞り、静かに呪文を唱えた。

ストロ・ソルフォ・アン・ブロ(藁を敷き飼葉を置きあるいは壁と錠)・ウォル・ロクド・エント・ムーセント(前に隔てた場所にそれを置くだろう)――【厩倉(スタブレム)】」

 

 その指が空間を裂くのを見て。ディオンが目を剥いていた。

 弾かれたように、王女が声を上げかけた。

「やめ――」

 

 ディオンの手は斬りつけるような音を立てて剣を引き抜き、その足は前へと踏み込み。その剣はウォレスの喉を目がけ、貫くように突き出されていた。

 

 地面近くで開いた別空間からは、溢れるように様々な物が落ちた。魔法の巻物や魔法薬の類。鎧兜に小手、盾や靴。魔法衣やマントの類。龍に浴びせたものとは別、武器以外の戦利品。

 

 足元で積み重なっていくそれらの上に、ウォレスの手から血がこぼれた。ディオンの剣を、喉の寸前で握り止めた手から。

 

 手を放す。音を立てて剣は落ち、重なっていく道具にやがて埋もれた。

 

 地面に溢れ出続ける品々を残したまま、剣を落としたディオンを残したまま、ウォレスは歩き出す。

「やる。あれはやる、お前たちとこの街の奴らに。王女殿下に。好きに使って、売っていい。それとあの迷宮の残り、端の辺り。俺の部屋があったはずだ、まともな物があったら持ってけ。……それだけだ」

 

 座り込んだままの王女の方へ歩く。手を取り、引き上げて立たせた。目は見られないまま言う。

「悪かった、今度も」

 王女の肩を叩くと、歩きながら続けた。顔だけでも笑みの形を作って。

「ここはもう、あんたの街だ。あんたより上の王族がいりゃ別だがな。きっとそうなっちまったよ、これから。迷宮じゃあなく、あんたの居場所は」

 

 王女は何か言おうとしたのか、ウォレスの方へ手を向けたが。開いたままの口から言葉はなかった。ウォレスを追うように手を伸ばすが、やがてそれも下ろされた。指は拳を作り、強く震えた後、ゆっくりと開かれた。

 

 未だ溢れ続ける道具のうち、いくつかのものが歩くウォレスの足元に転がる。そのうちの一つ、唐黍酎(バーボン)の瓶を拾い上げた。

 

「やっぱり、これだけもらっておくよ。……じゃあな」

 振り返らず歩いていく。後ろはもう見られなかった。

友もきっと、振り返ってはいまい。

 

 

 

 

【エピローグ】

 

 

 残り火のような西の空も、くすぶるようにその色を失っていく。その空を背にアレシアはいた。

 切り離された龍の一部は、斬り落とされた手と手をつないで。ただウォレスを見ていた。懐かしい、薄闇の色をした目で。

 

 ウォレスは立ち止まり、黙ってその目を見返した。その目の中に映る自らを。そのウォレスに表情はなく、薄闇にただ立っていた。

 

 アレシアが目を閉じる。そうして、かぶりを振った。ため息の後で口を開く。

「苦手だね。言ったっけね、一人はさ。……君はさ、どう」

 ウォレスは何も言わなかった。手にした瓶に重みを感じ始めた頃、アレシアが薄く微笑んだ。再び息をつきながら。

 

 どれほどそのままでいたか。ウォレスもまた息をついた。

「呑むかい」

 酒瓶を掲げると、アレシアはいっそう微笑む。

 

 

 

 迷宮のあった荒野のその先、黒い夜を切り取るように、わずかに()いた火を挟んで。かわるがわるに瓶を取り、口へと運ぶ。

 時折ウォレスは小さな物を指で弾き、落ちてくるそれを口で受け止め。硬い音を立てて噛み砕き、飲み下す。

 アレシアは喉を鳴らして笑う。

「美味しいの? そんなの」

 

 ウォレスが手にしていたのは、斬り落とされたアレシアの片腕。その中へ手を突っ込んでは、中の小石をつまみ出す。そうしてまた放り上げ、口で受けては噛み砕く。

 ウォレスは鼻息をこぼした。

「全然。ただ、龍が俺を喰おうとしたなら。俺も龍を喰おうと思ってね」

 そうしたら俺も、迷宮になれるだろうか――龍ではなく、俺が知る迷宮に――。変わらないものに。あるいはあの日に。

 

 かぶりを振る。ウォレスは肩を揺すって笑う。

 アレシアは息をついた後、にんまりと微笑んだ。

 灯りの届く辺りの先は、寝ぼけたような薄闇ではなく、塗りたくったようにただ黒く。

 夜はまだ明けない。明けなくてもいい。迷宮よ、呑もう。それから、積もる話をしよう。

 

 

(了)

 

 

 



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