両思いなのにお互い勘違いしている令嬢と侯爵様の話 (霞草。)
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第一章
第1話


皆さん初めまして、霞草。です!
至らぬ点も多々あると思いますが、少しでもお楽しみ頂けると幸いです✨


そこは、この国の首都であるセントポーリア都市を見渡せる丘だった。

 

遠くには白が基調の、重厚感漂う城も見える。

 

風が吹けば、草木や花は揺らめいた。

 

かといって人の気配はしない、静かなところ。

 

そんな美しい丘から、美しい風景を眺める。

 

 

─“彼”と一緒に。

 

 

◇◇◇

 

 

「いいか?くれぐれもミスを犯すなよ?

お前が妻として正しく務められれば、我が家は更に領地を広げられる。より大きな力が得られる。

クロッカス家の頭脳を使えば完璧なんだ。」

 

 

それって、私が犠牲になればみんなが潤うってことですよね?

お父様。

 

 

「そうよ。親孝行だと思いなさい。大丈夫、貴女は顔が良いから。向こうでもきっと上手くいくわ。私達の役に立って頂戴。」

 

 

それが、冷酷無慈悲と噂される侯爵様に送る娘への言葉ですか?

お母様。

 

私は嘲笑気味に笑った。

 

ガタガタと揺れる馬車は、クロッカス家へと走っている。

 

私の婚約者となる、クロッカス侯爵。

 

彼には、美しい外見とは裏腹に、冷酷な一面もある…という噂があった。

 

ある戦場で活躍したとしても知られる彼。

 

我が国はその聡明な作戦で勝利を掴んだと言っても過言ではない。

 

でも、その一方で。

 

彼は敵国の兵士をいとも容易く殺した。

 

大量に、残酷に。

 

人を殺すことに何の感情も持たない人。

 

英雄と言われると共に、冷酷とも言われるようになった。

 

そして、冷酷と囁かれるもう1つの理由。

 

それは、5年前、彼の両親が事故死した時。

 

彼は悲しむ素振りすら見せず、淡々と葬式を行い、何なら終始、ほっとしたような表情を見せたから。

 

実の両親が惨めな姿で事故死したというのに。

 

そこから、噂は一気に広まった。

 

この情報は街の人から。

 

平民にすら広がる程の内容だったのだ。

 

彼の両親は生前、彼の妻となる女性を見つけられなかった。

 

確実に将来有望。剣の腕前や聡明さは本物で、家の財産も計り知れない。

 

だけど、その冷酷な性格が令嬢達を遠ざけた。

 

そして彼の両親は事故死し、急遽クロッカス家の主となった彼だが、当主となるにはいい加減妻が必要で。

 

その配偶者に選ばれたのは、アメリアン家の一人娘、アイリス・アメリアン─すなわち、私だった。

 

クロッカス家では婚約したその日から、屋敷での同居生活が始まる。

 

今日からだ。

 

横を見れば、華々しい宝石を身に纏う母と父がいた。

 

何かを考えている様子だったけれど、何を考えているのかは顔で分かる。

 

 

「娘をどのように使うか」

 

 

私の両親は身勝手な人だった。

 

元々は資金がほとんど平民の家だったが、前々から手を出していた事業が成功してからは好き放題だ。

 

すっかり経済力のある家となったアメリアン家は、クロッカス家の“頭脳”を欲しがった。

 

それもそのはず、だって彼らは─

 

 

(強欲なくせに、馬鹿なんだから。)

 

 

こんな家に生まれたことに、私は大きく嘆息した。

 

私もできることならこの結婚をしたくない。

 

誰だって冷酷と噂される男に嫁ぎに行くのは嫌だろう。

 

それに正直、こんな結婚をどうしてクロッカス家が受け入れたのかも分からなかった。

 

勿論、妻の役割をする女性は必要だったのだろう。

 

でも最悪の場合は、生活に困っているような家の令嬢を貰っても問題ではない。

 

残念ながら、この国ではそれはよくあることらしい。

 

なのに、何故。

 

身分の差もある。

 

アメリアン家は子爵家で、クロッカス家は侯爵家。

 

でも何よりの理由は─私の両親は頭が悪いことで知られているから。

 

知識量は皆無、頭の回転も遅い。

 

そのくせ癇癪持ちで、利用できるものはとことん利用しようとし、慈悲もまるでない。

 

その娘は、社交界にも全く出席しない。

 

この歳─既に18歳にも関わらず社交にもほとんど参加しておらず、貴族達の集まりやアカデミー等にも行ってなかった。

 

つまり、私は貴族に一切知られていない。

 

そして親はあんな調子。

 

誰だって私も能無しだと思うだろう。

 

 

(誰が欲しがるのだろう。)

 

 

ちなみに私には、貴族ならほとんどがいる家庭教師もいなかった。

 

私の知識は全て、街の図書館のものだ。

 

“彼”と出会っていない時には、丘に行って、『セントポーリア』という名の図書館で本の虫と化す。

 

平穏な生活だった。

 

なのに。

 

事業が成功して、私は“経済力のある家の令嬢”になった。

 

親は私を利用できる“物”として見始めた。

 

だんだんと、私の日常が規制されていった。

 

そのくせ学はつけさせなかった。

 

母のあの言葉を、今でも覚えている。

 

 

「女は黙って偉い人の話を聞いていれば良いの。何も分からない顔をしながら指を咥えて、ね。」

 

 

私のいる家は、そんなところだった。

 

価値ある物として見ているくせに、女性に学は必要ないという古い概念にとらわれ続ける。

 

今まで放置していたのを家の中に閉じ込めただけ。

 

結局は家の中でも放置だった。

 

両親はきっと、“価値あるもの”を手元に置いておきたかったのだろう。

 

逃がさないように、瓶の中に閉じ込めるように。

 

自らの私欲の為に物を使う。でもやり方は愚かで。

 

自分中心に世界が回っていると、本気で勘違いしていそう。

 

 

(…もういいや。何も考えたくない。)

 

 

吐き気を感じさせる、両親のことを思い出した時。

 

こんな時にいつも思い出すのは、決まって子供の頃の温かい思い出だった。

 

あの頃はまだ事業は成功していなくて、比較的自由だった。

 

何より、“彼”との時間は格別で。

 

 

(死ぬまでに、もう一度だけ彼に会いたいな…)

 

 

私はつい、彼と初めて会った時のことを思い出した。

 

◇◇◇

 

いつものように、この丘へと足を踏み入れた。

 

紛れもなく“美しい”光景。

 

これを見ると、悩んでいることや考えていることが全部ちっぽけに見えて、心が洗われた。

 

私はお母様にもお父様にもメイドにも放置されているから、自由だ。

 

家では、日に日に落ちぶれていくアメリアン家をどうにか立て直そうと奮闘している両親の怒声が飛び交う。

 

こんな家になんて、いたくないに決まってる。

 

 

(ん…?)

 

 

斜面を登って丘の頂に着くと、そこには1つの人影があった。

 

 

(男の子…かな?)

 

 

随分粗末な服を着ている。平民だろうか。

 

それにしても珍しい。普段こんなところに人なんて来ない。

 

それもそのはず、ここまでの道のりが長いからだ。

 

少なくとも、この長い道のりを経てここに辿り着く令嬢は私以外にいないだろう。

 

 

「こんにちは。隣に座っても良い?」

 

 

緊張はしたものの、ここで帰るのは嫌。

 

なるべく家にはいたくないし、単純に、彼への興味もある。

 

そう思って、話し掛けた。

 

声を掛けられた少年は、びくっとして振り向いた。

 

美しい少年だった。

 

まだあどけない可愛らしさも兼ね備えた、随分の美形。

 

でもその頬は、涙で濡れていた。

 

 

「だ、大丈夫…?」

 

 

驚いて思わずそう声を掛けたが、泣いているのに大丈夫な筈がない。

 

 

「ひ、1人になりたい?だ、だったら帰るね。何かごめんね。」

 

 

何も言わずに泣き続ける彼に、私は困惑した。

 

私はあまり人と接して来なかったため、人とのコミュニケーションがどのようなものか、知らなかったから。

 

ここで何かを口にすると、泣いている理由となっているその傷に塩を塗ってしまうかもしれない。

 

変に話さないで放っといた方が良いと思い、そっと帰ろうとした私だったが。

 

 

「え…?」

 

 

安い生地で自分で作った水色が基調の私のワンピースの端を、少年はきゅっと掴んだ。

 

少年は横目に私を見た。

 

何かを訴え掛けているようだった。

 

 

(隣に、いて欲しいのかな…?)

 

 

私は少年の隣にすとんと座った。

 

 

「…貴方、名前は?」

 

 

それでもただ泣いているだけだったから、とりあえず名前だけでも、と思い、そう聞いた。

 

 

「…レオン。」

 

 

凛としていて、でもどこか怯えていて。

 

初めて聞いたレオンの声は、そんな声だった。

 

 

「そっか。…私はアイリス。アイリス・アメリアン。私ね、いっつもここに来ているの。」

 

 

私は泣いているレオンの背中をそっと撫でながら、そう言って微笑んだ。

 

その時、初めて彼が私の顔を真っ直ぐ見た。

 

真正面から見たレオンの目は、今までに見たことがない色だった。

 

 

「綺麗な目…」

 

 

思わずそう言った。

 

レオンの青みがかった黒い目を見て思った、素直な感想だった。

 

 

「…き、綺麗?これが…?」

 

 

だけどレオンは困惑したような顔で私を見た。

 

未知のものに出会ったような顔。

 

 

「うん、綺麗。」

 

 

私は彼の表情の意味は分からなかったが、素直にそう答えた。

 

でも、目を見て惚けている私を、彼は突然睨んだ。

 

弱々しいけど、確実に警戒している目。

 

 

(あれ、私、何か言ったっけ…?)

 

 

何かいけないことをした?

 

まさか、目を褒められるのが嫌だった?

 

でも、私のそれらの考察は全て外れた。

 

 

「…そ、それは、皮肉?…黒い目なんて、この国では不吉…だろ?」

 

 

途切れ途切れで話すレオン。

 

普段口数が少ないのか、話すのに慣れていないようだった。

 

 

「そうなの?」

 

 

私には、“風潮”というものが分からない。

 

街の図書館には最近の流行なんて載っていない。

 

それと同じ。風潮なんて載っていない。

 

 

「…いつも、僕の両親は、そう言う。だから…虐げられるんだ。」

 

 

「な、何それ!?」

 

 

私はつい、大声を上げた。

 

彼は怯えたようにびくっとする。

 

その姿は、まるで肉食動物に出会ってしまって今にも食べられそうな小動物。

 

こちらが苦しくなるほど怯えていた。

 

 

(…いつもこんな風に、虐げられるのかな。)

 

 

─たかが目の色で?

 

 

「ご、ごめんね?急に大きな声出して。

でも、そんなのおかしい!目の色で虐めるなんて、正気じゃないわ。

私ね、黒い目が不吉とか、そういう風習は分からないけれど、綺麗だと思う。」

 

 

「…これが?」

 

 

「うん!青みがかった黒い目なんて初めて見たわ。奥深い感じで、とっても綺麗。」

 

 

彼は私の言葉を聞いて「…ほ、ほんとに?」と、期待と困惑に満ちた目で聞いた。

 

私は勿論、迷うことなく「ほんとに!」と答える。

 

レオンは驚いたような表情をして、そして─笑った。

 

そんな、美しくて儚さもある優しい彼の笑顔に、私は惹かれたのだった。

 




ご覧頂きありがとうございました!
次話もご覧頂けると幸いです(*´꒳`*)


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第2話

皆さん、あけましておめでとうございます✨
まだたったの2話しか出していませんが、今後ともこの作品をお楽しみ頂けますと幸いです(*´꒳`*)


遂に、馬車が止まった。

 

重厚感がある白亜の城。

 

 

(ここは…あの丘から見えるお城…!)

 

 

あの丘、という単語だけで、温かな思い出が胸に蘇った。

 

 

(もしかしたら、窓からあの丘が見えるかもしれないわ…)

 

 

少しだけ、ほんの少しだけだけど、胸が軽くなった。

 

そんな城へと、足を踏み入れる。

 

白い壁に映える鮮やかなステンドグラスの窓。

 

広い玄関は細かくて美しい装飾がされていて。

 

玄関から見える廊下には、高級品ばかりだけれど落ち着きのある骨董品。

 

豪華さより上品さが目立つ城だった。

 

中央の大きな階段には使用人達がずらりと2列で並び、一番前にはこの家の主であり私の婚約者の“彼”がいた。

 

 

(彼が噂の…確かに美形ね。)

 

 

高身長かつ女性的な美しさや儚さも兼ね備え、整った、いや、整い過ぎた顔。

 

 

目の色は─

 

 

(青みがかった、黒色…?)

 

 

まるでレオンのような─

 

 

(いやいや、何を考えているの。そんな筈…そんな筈はないわ。

だって彼は、粗末な服を纏っていて…きっと平民だもの。

貴族…それも侯爵な訳がない。)

 

 

「アイリス嬢。クロッカス侯爵家のリアンだ。

これから、どうぞよろしく。」

 

 

ふんわりと微笑み、透き通った声で挨拶をし、綺麗な辞儀をする。

 

その美しい笑みに、一体何を隠しているのだろう。

 

戦略?憎悪?

 

自分でそう考えてから、ぞっとした。

 

いっそのこと、最初から冷たい方が良い。

 

そちらの方が混乱しないだろう。

 

 

(使用人の前だから、人当たりの良い笑みを見せているのかも…)

 

 

なら、私も。

 

この日の為に母が贈ってきた豪華なドレスの端を掴んで、礼をする。

 

 

「アメリアン子爵家のアイリスと申します。よろしくお願い致します、侯爵様。」

 

 

慣れないシチュエーションだ。

 

愛想笑いで礼をすることなんて、私は貴族との交流も無いから、中々無かった。

 

ぎごちない微笑みになってないことを願う。

 

笑うことなんてもう何年も─

 

 

(私が最後に心から笑ったのは…レオンと最後に会った5年前かしら。虚しい人生ね…)

 

 

「そこまで遠くないとはいえ、馬車に乗り続けるのは疲れただろう。

こちらの侍女に部屋を案内させるから、今日はのんびりしてくれ。」

 

 

紹介された侍女は、リリスと言った。

 

 

「よろしくお願い致します、アイリス様。」

 

 

緩いカーブが掛かった黒髪を一本結びした触覚ヘア。

 

整った顔立ちと澄んだ茶色の目。

 

清潔感のある可愛らしくて美しいメイドだった。

 

 

(うちの家にいるメイドとは大違い…)

 

 

アメリアン家にいた唯一のメイドは、中年で太っていて、私の世話なんてしない。

 

隙あれば私の自作の服を盗んで売ろうとするような、お金のことしか考えていない醜い人だった。

 

 

(ここが…私の部屋。)

 

 

思った数倍広かった。

 

ベッドもソファーもあって、大きい窓や大きい机もあって。

 

アンティークな家具が多く、私の好みの部屋だった。

 

 

「アイリス様、どうなさいましたか?」

 

 

「いや…あ、何でもないわ。」

 

 

しばらく驚いて固まっていると、侍女に心配された。

 

私の両親のことは有名だから知っている筈なのに、それでもこうやって普通に接してくれる。

 

例え裏でどんなに陰口を叩いていたとしても、私にはそれが嬉しかった。

 

 

「アイリス様、これからどうなさいますか?」

 

 

そう聞かれ「部屋で1人にさせて」と答えそうになったが、窓から見えた美しい庭園が気になった。

 

気分転換には良いかもしれない。

 

今日はいつもより沢山アメリアン家のことを思い出してしまったから。

 

クロッカス侯爵は「のんびりして良い」とおっしゃっていたから、庭園でのんびりしても良い筈。

 

 

「…庭園。庭園に行っても良いかしら?」

 

 

「勿論です。行きましょう。」

 

 

人当たりの良いにっこりとした笑顔でそう返してくれた。

 

 

(やっぱり優しい…)

 

 

“優しい”

 

 

その言葉でまた、私は“彼”を思い出す。

 

頭の中で1日に何度も何度もちらつく、5年前で時が止まったレオンの笑顔。

 

私は今日までに、忘れようとしていた。いくらなんでも、婚約者の前で他の異性を思い出すのは良くないから。

 

でも、ずっとずっと心の支えになっていた大切な人をいきなり忘れるなんて、無理だった。

 

婚約者が出来たというのに。

 

思ったより、自分は不誠実だ。

 

いっそのこと、レオンのことを告白してしまおうか。

 

追い出されたとしても、“ごく普通の町娘”となってどこか遠い町に住めば良い。

 

平民として街で暮らす。

 

昔の経験を活かして服を作ってみたり、料理を作ってみたりして働き、いつしか普通の男性と結婚して、幸せな家庭を。

 

勿論、その暮らしも楽なことばかりではないだろう。

 

でも…今よりかは良いかもしれない。何より楽しそうだ。

 

いっそのこと、この城を追い出されて全てを忘れるのも、ありかもしれない。

 

◇◇◇

 

そこには、沢山の花々が広がっていた。ユリやチューリップ、バラにミモザ。

 

春らしい植物が生き生きと咲いていた。管理がしっかりしていることが分かる。

 

 

(ん?これは…)

 

 

「アイリス…?」

 

 

そこには、白や紫、青のアイリスの花があった。

 

思わずそう呟くと、隣にいたリリスが反応する。

 

 

「よくご存知ですね、アイリス様!実はこれ、旦那様がお選びになったんです。」

 

 

「侯爵様が…?」

 

 

「はい!特に白色のアイリスは旦那様のお気に入りで。

ほら、沢山あるでしょう?」

 

 

周りを見渡すと、確かに白色のアイリスを初めとして沢山のアイリスがあった。

 

 

(侯爵様はロマンチストなのかしら。ここまで良くしてくれることを考えると…もしかしたら、そこまで拒絶されてないのかも。)

 

クロッカス侯爵の心の内は知らないが、少なくとも根っから拒絶はされていないだろう。

 

 

─否、違う。

 

 

もしかしたらこうして安心させるのが作戦なのかもしれない。

 

思惑は分からないが、この後に何かしらをしようとして。

 

私は思わず嘆息した。

 

何を信じたら良いのか分からないから。

 

それにしても。

 

クロッカス侯爵の話をしてから何故かうきうきしているように見えるリリスの方が気になる。

 

 

(主人思いなのかしら。…どちらにせよ、良い方なのかも。)

 

 

リリスのそれが演技ではないことをただただ願う。

 

その時。

 

 

「アイリス様、旦那様がいらっしゃいます!」

 

 

「え…?」

 

 

何故か嬉々としながら、リリスは言った。

 

後ろを振り返ると、確かに彼が私に向かって静かに歩いていた。

 

私が彼に気付いたことが分かると、微笑んで。

 

 

(一体何の用…?庭園に私がいることが気に食わないのかしら。)

 

 

「侯爵様。何でしょうか。」

 

 

警戒を心剥き出しにしないように取り繕う。

 

 

「いや、偶然見つけたから。」

 

 

答えは意外なものだった。

 

胸の内に何かを秘めているのではないかと疑ったが、その自然な顔を見る限り本心なのだろう。

 

 

「そうですか。」

 

 

「美しい庭園だろう。」

 

 

「はい。」

 

 

そんな、どこかぎこちない会話をして、しばらく沈黙が流れた。

 

隣をちらりと見るが、庭園を見渡していて微塵も動こうとしない。

 

 

(侯爵様は何のつもりだろう…でも、“あのこと”を話すのは今しかない、か。)

 

 

「侯爵様。話しておきたいことがあります。気分は害されるでしょうけれど、それでも。」

 

 

驚いたように私を見ながら「何だ?」と聞いた。

 

クロッカス侯爵についている侍女とリリスには離れてもらった。

 

とてもじゃないけど、使用人達には聞かせられない。

 

 

(話すなら、今しかない。なるべく早い内でないと…)

 

 

「侯爵様。」

 

 

少しだけ息を吸って、告白した。

 

 

「正直に申し上げます。私には想い人がいるのです。」

 

 

(言ってしまった…)

 

 

でも、私が好きなのはレオン。それはずっと変わらない。

 

そして、これを隠すのは不誠実で。

 

言いたいことを言えたすっきり感と申し訳なさで身体が満たされた。

 

 

「は…?」

 

 

クロッカス侯爵は怒るというより驚愕の表情だった。

 

でも、それでも、私は続けた。

 

両親の前でも正直に過ごせない日々。

 

…いい加減、素直になりたい。

 

 

「勿論、不貞を働くつもりはありません。

でも、この結婚は私達の意図ではありません。

公の場でのみ親しくすれば、お互い問題はない…むしろお互い良い筈です。

それに…この告白は、少しでも自分の不誠実さを減らしたかったからでもあります。

自己満足かもしれませんが、知っておいて欲しかった。申し訳ありません。」

 

 

それが、今思うことの全てだった。

 

私の気持ちが別の人にあることを伝えておきたかった。

 

そこまで不誠実にはいられないのだ。

 

でも、この気持ちも十分不誠実。

 

これで向こうが私を追い出しても構わない。

 

 

「…いや、お、想い人…?」

 

 

困惑しているのだろうか。

 

顎に手を当て、何かを必死に考えているような雰囲気を醸し出していた。

 

クロッカス侯爵もあの外見だから、愛人の1人や2人いそうなのに。

 

それとも、ただ単に従順な妻が欲しかっただけなのか。

 

それなら申し訳ないが。

 

 

「はい。追い出して頂いても構いません。」

 

 

私は平常心を保ちながら、静かに告げた。

 

 

「お、追い出す!?そんなことはしないっ!」

 

 

でもクロッカス侯爵は、慌てて否定してくれた。

 

1人の女性の人生を、婚約で一瞬だけでも縛ってしまった責任感からだろうか。

 

どちらにせよ、良い方なのかもしれない。

 

だったら尚更…私はいなくなった方が良い。

 

 

「…失礼します。」

 

 

私はそう言って、静かに彼を庭園に置いて去った。

 

1度だけ、振り返ってみた。

 

彼はそれでも棒立ちで、呆然としていたのだった。

 

 

 

 

「リリス、今日はもう横になるわ。今日1日ありがとう。」

 

 

丸一日お世話をしてくれたリリスに、感謝を伝える。

 

まさか、こんなに良い待遇を受けられるなんて。

 

「いいえ!滅相もない。当たり前のことをしたまでです。」

 

「そうなの?アメリアン家のメイドはこんなに優しくなかったわ…あっ、いえ。何でもないの。お休みなさい。」

 

 

パタン、とドアが閉まった。

 

無機質な音に聞こえてしまうのは、きっと今の自分の心が複雑だから。

 

 

(まさかあんなに驚愕するなんて…)

 

 

静かに窓を見ながらぼんやりと思った。

 

 

「…あっ」

 

 

遠くの方に目をやると、そこには─

 

 

「あの丘だ…」

 

 

まさか私室から見えるとは。

 

 

(やっぱり、レオンに会いたいな…)

 

 

今は何をしているんだろう。

 

彼と過ごした3年間は格別だった。

 

それがもう、5年も会っていない。

 

両親が丘へ行くのを禁じた前日。

 

彼は毎日来ていたのに、その日だけは来なかった。

 

そこから5年も経つ。

 

ちゃんと良い人に出会って、お世話をしてもらって、容姿端麗に育ったら、可愛らしい女性と結婚─

 

胸がちくっと痛くなった。

 

これは、どうしようもないのに。

 

◇◇◇

 

仕事の書類を机に散らかしながら、彼女のことを考えていた。

 

 

(アイリス…)

 

 

何があったんだろう。

 

“あの丘”で会って5年もの年月が流れたが、その間に何があったのだろう。

 

久しぶりに会った彼女は、5年前よりも更に美しく可愛らしくなっていた。

 

私のこの目を綺麗だと言ってくれた、明るい金髪でエメラルドグリーンの目の、天使。

 

なのにどうしてだろう。

 

あの疲弊している顔は。何故一度も笑ってくれない?

 

 

そして─

 

 

(想い人って何だ?アイリス…)

 

 

この5年で好きな人ができたのか。

 

私はこの5年、君を迎え入れる準備でいっぱいいっぱいだったのに。

 

胸がちくっと痛くなった。

 

でも、私が優先するべきなのはこんな恋心ではない。

 

彼女の、アイリスの、心を閉ざした理由だ。

 

まるで幼い頃の私を見ているようだった。

 

無機質な声で、暗い瞳。

 

でも私は、身分がバレるのを恐れ“レオン”という名前の少年になって、彼女に救われた。

 

 

(今度は、私が助けなければ。) 

 

 

辛くて苦しかった少年時代の光は、アイリスだった。

 

恋心は全て秘めて、彼女を救おう。

 

 

─コンコン

 

 

不意に、ドアのノック音がした。

 

 

「旦那様。」

 

 

その声の主は、アイリスの侍女、リリス。

 

 

「何かあったのか?」

 

 

「いいえ。しかし、ご報告がございます。」

 

 

─リリス。

 

 

彼女は侍女としては超が付く程の一流だった。

 

数年前は王宮で働いていたが、家から遠いから、という理由で辞めた。

 

王宮で働くのは大変名誉なことだ。

 

それをそんな理由で辞退してしまうのは、もったいないにも程がある。

 

腕前は十分、メイドとしては完璧。

 

だけど少しマイペースで、お金や名誉に興味はない。

 

そんな人物だ。

 

 

「報告…?」

 

 

「はい。

私は本日、普通の侍女と変わらずにアイリス様をお世話させて頂きました。

庭園を案内したり、部屋でアイリス様の身支度をしたり。

けれど、アイリス様がおっしゃっていました。

“アメリアン家のメイドはこんなに優しくなかった。”と。」

 

 

私に感謝の言葉まで述べておられました、とリリスは言う。

 

 

貴族に案内をしたり、身支度をしたりするのはごく一般的。

 

例え地位の低い貴族でもされることだ。

 

 

(そんな、ごく普通の行いがされていなかった?)

 

 

彼女はこの5年間、一体どんな生活を送っていたのだろう。

 

私はそこで、はっとした。

 

 

─ひょっとしたら、5年間どころではないかもしれない。

 

 

丘にいた彼女はいつも明るくて…幸せそうだった。

 

でもよく考えたら、例え身分の低い子爵家の娘とて、あんなに登るのに時間が掛かる丘に一日中いれるのだろうか。

 

そういえば、親の姿もメイドの姿も一度も見たことがない。

 

 

(普通は心配して迎えに来るのでは…?)

 

 

分からない。

 

自分の家が普通ではなかったから。

 

家族愛について知らないから。

 

それでも、あの丘で共に過ごした3年間、彼女は一日中丘にいた。

 

慣れた様子で。

 

 

「アイリス様の周辺について、少し調べた方が良さそうです。

特に両親。」

 

 

「そうだな。」

 

 

優秀の一言だ。

 

リリスを侍女にして、本当に良かった。

 

でも─

 

 

「旦那様が惚れられた女性は、もっと明るくいらっしゃるのでしょう?」

 

 

にまっとしながらこんなことを聞くリリスにはうんざりする。

 

 

「からかうなと言っただろう。」

 

 

「ふふっ、はい。

そういえば、アイリス様は庭園で何を話されていたのですか?」

 

 

「それは─…」

 

 

ここで話さないのもどうなんだろう、と思い、話してしまった。

 

リリスには今まで散々、所謂“惚気”を聞かせてきた。

 

愛らしい外見や、明るい性格、他にも沢山のことを。

 

5年間会っていないのに惚気ることができるだけの魅力が、当時の彼女にはあった。

 

 

「あら。つまり…拒否されてしまったのですね。」

 

 

「そ、そんな言い方…ないだろ!」

 

 

取り乱す私を見て、呆れたように笑う。

 

 

「仕方ないじゃないですか。そういうことでしょう。」

 

 

「それでも言い方ってもんが…はぁ。」

 

 

でも、それは確かに事実なのだ。

 

私はつい、髪の毛をくしゃっと乱した。

 

 

「あっ、それでも、良いことはありましたよ。」

 

 

「ん?何だ、まだあるのか…?」

 

 

自分でも分かる程の疲弊した顔でリリスに聞いた。

 

驚愕とショックが次々に襲ったものだから、疲れるのも無理はないと思う。

 

 

「アイリス様、アイリスの花に気が付いてらっしゃいました。

ちゃんと言っておきましたよ。

旦那様が選んだんだって。」

 

 

「っ!?どうだった!?彼女は何か言ってたか!?」

 

 

私はつい前のめりになって、リリスに聞いた。

 

 

でも恥ずかしくなって、こほんと咳をして急いで椅子に座り直す。

 

 

それを見て、またリリスはくすっと笑った。

 

 

嫌な奴だ。腕前が確かなのはそうなんだが…

 

 

「いえ、何も。

でも、ロマンチストだな、くらいには考えてそうでした。」

 

 

「…そうか。」

 

 

どうなんだろう。男がロマンチスト、というのは良いことなのだろうか?

 

女性と接する経験も浅かったから、よく分からない。

 

 

(まぁ、アイリス以外の女性に恋心は抱かないが。)

 

 

「そういえば、白色のアイリスが多いのは理由があるんですか?

旦那様は随分、お気に召していましたが。」

 

 

アイリス様にもそれは伝えておきましたけど、とリリスは言う。

 

そう、商人にアイリスの花を頼む時、白色のものは多く頼んでおいた。

 

城の庭師には白色のアイリスを目立たせるようにとお願いもした。

 

それが何故か。

 

それは─

 

 

「ああ。白色のアイリスの花言葉はな、“貴女を大切にします”なんだ!」

 

 

私は勢いよくそう言った。

 

自分で言うのもどうかと思うが、あの花を選んだのは中々良かったと思う。

 

でも何故か、しばらくの沈黙のあとリリスには苦笑いで「ロ、ロマンチック…ですね…」と言われた。

 

◇◇◇

 

 

(なーんかなぁ…)

 

 

私、リリスは、静寂に包まれる夜の廊下を歩いていた。

 

 

(何だろう。本当に勘なんだけど…アイリス様の想い人って旦那様だったりしないのかな…)

 

 

そんな勘違いラブコメ展開にはならないだろう、と思いながらも、やっぱりその可能性も完全には拭いきれない。

 

 

(あぁ、でもその想い人と旦那様の名前は違うのか。)

 

 

名前が同じならきっと、気付くだろうから。

 

それにしても、と私は思った。

 

アイリス様は…“あの”アメリアン家の娘、とはとても思えなかった。

 

天使のように美しい人。

 

初めて見た時、そう思った。

 

真っ直ぐな金髪をシンプルな一本結び。

 

瞳は宝石のように綺麗なエメラルドグリーン。

 

整い過ぎた顔に真っ白な肌、華奢な身体。

 

誰が見ても“麗しい”と評価されるだろう。

 

アイリス様の雰囲気は、今まで接してきた貴族とは違うものの、凛としていて神聖さすら感じた。

 

言葉遣いや様子からも、全く教養がないとは思えない。

 

少なくとも、花を見ただけで名前が分かる程。

 

だとしたら。

 

一体、アイリス様はどこで知識を得たのか。

 

 

(…旦那様に報告することがまた増えたわね。)

 

 

あの時に、旦那様から「何かあったらその都度報告してくれ。どんなに細かいことでも。」と頼まれている。

 

 

(本当に、愛していらっしゃるんだな…)

 

 

花言葉に気持ちを隠すなんて、ちょっと引い…ロマンチストだなと思ったけれど、愛が感じられた。

 

 

─旦那様の“過去”を知っているのは、今の城では私しかいない。

 

 

私はいち侍女として、2人の幸せを願う他ないだろう。

 

でも。

 

 

(精一杯、やれることはやろう…)




ご覧頂きありがとうございました!
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第3話

夜明け。

 

貴族の娘が起きる時間としては早いけれど、私はいつものこの時間に起きた。

 

アメリアン家には1人だけメイドがいた。

 

中年で太った、醜女。

 

そのメイドがすることは、両親によって荒ぶれた家の掃除や服の洗濯、身支度、食事の準備だった。

 

無論、“私の”洗濯、身支度、食事は除外して。

 

主人が子を放置すれば、使用人も子を放置する。

 

私は放置されていた。

 

だから私はこの時間に起きて食事の調達をする。

 

まずは家のキッチン。

 

盗んでもバレなさそうなものを探した。

 

バレたとしてもほとんど暴力は受けない(多分触りたくないから)が、メイドには「卑しい子ね。」なんていう嫌みを言われ、それからしばらくはキッチンの警備が厳しくなる。

 

 

「今日は…あっ、お肉ある!」

 

 

私は、小声で喜んだ。

 

木の実なんかの量があるものや、沢山お肉がある日にはお肉の一部を切り取ったりして、よく持っていっていった。

 

今日はお肉だ。中々運が良い。

 

次に、自分が持っていた数少ない銅貨を持って市場に出た。

 

 

─何故銅貨を持っていたのかは、また別のお話。

 

 

八百屋には、いつもの愛想の良いお婆さんがいた。

 

 

「お婆さん!」

 

 

「おぉ、ミモザ。」

 

 

ちなみに、私はこの街の人と話す時は偽名を使っている。

 

丘の上に住む父親が足を怪我していて歩けなくて、母親は病弱の貧乏娘、という設定。

 

まぁ割と標高の高いところに住んでいるし、貧乏も合っているからあながち間違いではない。

 

両親も私のために行動してくれたことはほとんど無いし。

 

でも、ここで“貴族”ということがバレると、例え子爵家でも貴族の娘が何をしているんだと噂される可能性が高い。

 

そうなると面倒臭い。

 

それも、家名を知られることは絶対に嫌だ。

 

この平和で和やかな街にも時折彼らは来て、たかが子爵家のくせに嫌みたっぷりで見下してくる。

 

そんな家の娘だなんて、知られたくない。

 

それでも、レオンと話した時には思わず本名を教えてしまった。

 

なんなら家名まで。

 

 

(何故だか、彼には私の親を知っても拒絶されない気がしたから。)

 

 

ちなみに「ミモザ」にしたのは理由があって。

 

ミモザはヨーロッパの春を表す花。

 

そんな春のように明るくて無邪気で、何より幸せの象徴のような子に…なりたかった。

 

そういう願望。

 

 

「今日は惣菜を分けてくれませんか?お肉はあるから。」

 

 

「分かった。野菜炒めで良いか?」

 

 

「はいっ!ありがとうございます!」

 

 

お婆さんは八百屋の奥へと消えていく。

 

私は毎朝、ここで食事を貰っていた。

 

勿論、ある程度の銅貨は払っているけれど、それで随分安価だ。

 

野菜を貰っても良いのだが、調味料もなければ、調理する際に家のキッチンを使わなければいけない。

 

特に家の調理器具なんかは使ったらすぐにバレる。

 

そもそも家には両親かメイドの誰かはいるのだから、使える機会なんてない。

 

そして、お婆さんには申し訳ないが、私はここで「両親と自分の分の朝食」を貰っていることになっている。

 

実際には私の1日分の食事になっているのだが。

 

まぁ、最近ではレオンと私の1日分の食事になりつつある。

 

私は数年前にここで「食事に困っているんです。でも、母と父にはのっぴきならない事情があって…働けないんです。ちゃんと相応の金銭はお渡しします。だから、お婆さんに朝食を多めに作って分けて欲しいんです。お願いします!」なんて言って懇願した。

 

確か、家にあるバレない程度の食料では力尽きてしまうと本能的に感じた、寒い寒い冬のこと。

 

冬だというのに安価な薄い布で作った服を纏い、今にも凍え死にそうな私を見て、お婆さんはどう思ったのだろう。

 

同情したのか。

 

はたまた可愛い孫娘のような存在のように感じたのか。

 

それは分からないが、快諾してくれた。

 

それから毎日ここに通っているのだ。

 

 

「ミモザ、持ってきたわよ!」

 

 

約束通り野菜炒めをお皿に乗っけて、お婆さんは戻ってきてくれた。

 

良い匂いだ。

 

色とりどりの野菜には食欲がそそられる。

 

 

「わあ…ありがとうございます!父も母も、いつもありがとうございますと伝えておいてくれって言っていました!」

 

 

私は無邪気にそう言った─両親なんて、いないようなものなのに。

 

こういうところが、自分の汚いところだと思う。

 

純粋なだけではいられないところ。

 

でも仕方ない、生きるため。

 

何度自分にそう言い聞かせたか。

 

それでも時折思う。

 

私に“ミモザ”は似合わない、と。

 

 

「そうかい。大したことないと伝えておいてくれ。銅貨は…10枚で良いよ。」

 

 

「本当ですか!?いつもすみません。ありがとうございます!」

 

 

銅貨10枚はかなりの安価だ。

 

普通は20枚以上だろう。

 

感謝しかない。

 

今日は銅貨10枚だけしか持っていないから。後払いにならなくて良かった。

 

 

「じゃあ、ありがとうございました!また明日!」

 

 

そう言って私は手を振りながら八百屋を去った。

 

そして。

 

貰った野菜炒めを溢さないように、慎重に丘を登る。

 

 

「ふぅ…あとちょっと…」

 

 

この丘は人の気配がない。

 

単純に距離があるため、登るのに時間が掛かるから。

 

結局、私の足では2時間掛かった。

 

 

(あ、いる…!)

 

 

疲れ果てていたくせに、“彼”を見ると途端に元気になった自分に呆れた。

 

それでも、ただただ嬉しくて。

 

 

「レオンっ!」

 

 

私は勢いよく隣に座った。

 

 

「アイリス…!待ってたよ。」

 

 

最近、レオンは随分笑えるようになった。

 

穏やかな表情で私を迎え入れる。

 

 

「ごめんね?今日はいつもより登る時間掛かっちゃった。それよりね!」

 

 

私は、見て見て!と言ってお肉と野菜炒めを差し出した。

 

 

「今日は何と!お肉があります!」

 

 

私はにっこにこでレオンに見せびらかす。

 

盗んだものだけど。

 

でも良いんだ。

 

レオンが目をきらきらさせて、涎を垂らしそうな程嬉しそうだったから。

 

 

「た、食べて良いの?」

 

 

「もっちろん!ほら、焼こう!」

 

 

気付けば午前10時。

 

いい加減お腹が減った。

 

近くにあった細い木を2人でかき集め、家に残っていたマッチで火を付ける。

 

その火でお肉焼いた。

 

 

「う~ん、良い匂い~。」

 

 

「そうだね、美味しそう。」

 

 

レオンが以前自分の家から取ってきたという2つのフォークで。

 

 

「せ~の!頂きますっ!」

 

 

2人してお肉をすぐに口の中に入れた。

 

 

「うん!美味しい!」

 

 

口の中で肉汁が溢れて、美味しいの一言。

 

今日のお肉はかなり質が良さそうだ。

 

何かの記念日だろうか。

 

 

(あ…お父様の誕生日ね。)

 

 

そうだ、“家族”の誕生日。

 

私は、思い出してしまった家のことを慌てて頭から消した。

 

この丘にいる時間は、家のことなんて思い出すべきではない。

 

もう、時間が勿体ない。

 

 

「んー…美味しい。」

 

 

片手をほっぺに添えながら食べるレオンも、かなり美味しそうに食べていて良かった。

 

かなり痩せていたから心配してたけど、この調子なら大丈夫そうだ。

 

 

(健康面でも体力面でも…まだまだ心配ではあるけど。)

 

 

野菜炒めは、以前に家で捨てられそうになっていた、元々は両手鍋の筈が片手鍋になってしまっている鍋に入れて、夜まで保存。

 

今朝の分は1つのお皿で2人で食べた。

 

あのお婆さんの料理は素朴な味で、素材本来の美味しさを引き出している感じがして、たまらない。

 

あっという間の完食だった。

 

 

「美味しかった…」

 

 

レオンもお腹が満たされてすっかりぼーっとしている。

 

 

─たった1食のご飯で、こんなに満たされたような顔をするなんて。

 

 

(一体レオンの両親はどんな仕打ちを…)

 

 

私と会って数週間が経ったレオンだが、そんな今でもまだ、レオンはこの世界の全てに新鮮さを感じているように見える。

 

初めて会った日なんかは草木や花を触っても不思議そうにしていたし、川に連れていった時には目をきらきらさせて水の流れをずっと見つめていた。

 

時折思う。レオンは今までどうやって生きてきたのだろうか、と。

 

家では虐げられ、かと言って外に出る訳でもなく。

 

ずっとずっと、家の中で縮こまっていたのだろうか。

 

不意に、レオンの灰色の長袖のシャツが春の温かい風に吹かれて、袖がめくれた。

 

あざや切り傷のある、痛々しい腕が見えた。

 

なのに平然とした表情で景色を眺めるレオン。

 

 

 

「…レオン…」

 

 

「なあに?…って、どうしたの!?アイリス?」

 

 

私は驚愕で目を見張って固まり、やがて頬を濡らしてしまった。

 

レオンはいきなり泣き始めた私を見て、すっかりおどおどと動揺している。

 

泣いたって仕方がないのは分かっている。

 

 

(分かってる、けど…)

 

 

どうしようもなく悔しかった。悲しかった。

 

たかが目の色で差別を受け、両親に身体と心の傷を負わされた。

 

それが物凄く悔しい。

 

そして、そんなレオンの人生に、どうしようもなく悲しくなった。

 

 

「アイリス、どうしたの?泣かないで。」

 

レオンは私を酷く心配した口調で言った後、たどたどしく私の背中を撫でた。

 

 

(ごめん。何で私が泣いてるんだろ…辛いのは貴方なのに。)

 

 

「レオン、もっと怒って良いんだよ。泣いても良いんだよ。」

 

 

震えながら絞り出した声は、涙声だった。

 

 

「え…?」

 

 

「レオンの両親、最低だよ。極悪非道よ?貴方は悪くないの。お願いだから…自分を大切にして…」

 

 

レオンはきょとんとした顔になった。

 

ああ、彼には負の感情がないのだろうか。

 

怒ることも悲しむことも忘れるほど、虐げられることが当たり前の日常になってしまっているのだろうか。

 

しばらく私は下を向いて泣いていたが、そのうち収まった。

 

ゆっくりと目線を上げ、レオンと目を合わせる。

 

彼は結局、怒るも悲しむもしなかった。

 

 

でも─

 

 

「ありがとう。僕のために怒ってくれて、泣いてくれて。」

 

 

笑っていた。

 

今はその笑顔だけで、良いかもしれない。

 

そんなことを考えた。

 

願わくば、私の存在で少しだけでも彼を救えますように。

 

 

「ふふっ、久しぶりに泣いちゃった。」

 

 

私は悪戯がバレてしまった子供のように、へらっとした。

 

 

「久しぶり?」

 

 

「うん。ずーっと泣いてなかなかったから。」

 

 

そう、泣く必要がなかったから。

 

いつも、泣く感情の前に、泣く意義を考えていた。

 

だから、感情が先に押し寄せたのは久しぶりだ。

 

 

「じゃあ最後に泣いたのは?」

 

 

「うーん…確かね、2年くらい前かな。あの、丘の麓に森があるの分かる?」

 

 

「うん、不気味だよね。」

 

 

「そうそう。そこの森が怖くてね。2年前に入ってみたんだよね。」

 

 

「ええ!?どうだった?」

 

 

レオンはあの森に興味があったらしく、思った以上の食い付きを見せた。

 

 

「すっごい怖かった。へへっ、それでちょっと泣いちゃったの。まだ私も幼かったしね。」

 

 

「そんなことが…」

 

 

「あ、でも今は大丈夫。あの森ね、奥に入ると道がある程度開けてるんだ。あったかい日差しが木を照らして、和やかな雰囲気になるの。」

 

 

あの森は怖いのは見た目だけ。

 

中身を見るとむしろ温かい。

 

 

─人間はそんなに一筋縄ではいかないけれど。

 

 

「そうなんだ!でも入り口は怖いよね。」

 

 

その森の入り口を思い出してぶるっと身を震わすレオンに、少し可愛いなんて思っちゃったり。

 

でも、“可愛い”とは言わなかった。

 

だって、前に読んだ小説に“男性に可愛いは禁句”って書いてあったからね。

 

 

「ふふっ、そうだよね!…あっ、そうだ!」

 

 

私はあることを思い付いた。

 

自分でも分かるほどのきらきらとした笑顔でレオンに話す。

 

 

「うん?」

 

 

好奇心旺盛なのだろうか、目をきらきらさせて話を聞いてくれた。

 

 

「行ってみる!?あの森!」

 

 

「え!?僕と!?」

 

 

ずっと、誰かとあの森の奥に入ってみたかった。

 

誰かと遊んでみたかった。

 

一人遊びしかやってこなかった私にとって、ずっと“友達”に憧れていたから。

 

 

「うん!大丈夫、怖くないから。たまに冒険しよ。」

 

 

「うーん…そんなに言うなら、行ってみようかな。」

 

 

渋々といった感じだが、了承してくれた。

 

 

「ふふっ、そう来なくちゃ。」

 

 

そう言って、朝食を食べたばかりだというのに森に出掛けた。

 

思えば、この時は本当に元気だった。

 

放置されている分、外で目一杯動いていたから、体力もあって健康だった。

 

丘の付近には小さな森がある。

 

木が生い茂り、外からでは中の様子を確認できない。ただ暗闇が映るだけ。何とも不気味な森。

 

 

(どうも外見は怖いんだよね…)

 

 

だからだろうが、人の気配もない。

 

 

「アイリス。ここ、危ない動物とか出たりしないの?」

 

 

「ん~、まぁ、たまに。」

 

 

そして、この森に人の気配がない、もう1つの理由。

 

それは、人食いの獣が出るっていう噂があるから。

 

実際、人食いまではいかなくても突進されたりして負傷した人はいるらしい。

 

 

(まぁ、私は2年くらいここに来てるけれど、見たことはないね。)

 

 

けろっとしてそう言った私だったが、レオンは驚いたようだった。

 

 

「え!?あ、危ないよ…!」

 

 

「大丈夫。私は慣れてるからレオンに害がないよう気を付けられる。心配しないで!」

 

 

にこっとしてピースをした私だったが、その腕をレオンはがしっと握った。

 

つい、奥へ奥へと歩いていた足を止めてしまう。

 

 

(…え?)

 

 

レオンから私にしっかりと触られたのは初めてだったから、少しだけ戸惑ってしまった。

 

 

「そうじゃなくて!僕が心配なのは、アイリスなんだ。で、でも、慣れてるって言うなら…」

 

 

レオンは、目を見られるのを嫌がっていた少し前とは打って変わって、私の目を見つめた。

 

 

「ぼ、僕が、守るから…!」

 

 

でも、すぐに恥ずかしそうに目線は下になる。

 

すると、僅かに風が吹いた。

 

熱くなった顔が少しだけ風に冷まされたのだろうか。

 

今度こそ私の目をしっかりと見つめた。

 

格好良い台詞を言えるようになったレオンに、私は少し驚いていた。

 

あんなにひ弱そうだった少年がたった数日で変わり始めていた。

 

おどおどしていたのに、今では目は随分“真っ直ぐ”になった。

 

 

「ふふっ、ありがとう。」

 

 

私は微笑みながら、そう返した。

 

照れながらも凛としたその表情と先程の台詞。

 

“可愛い”なんて、もう微塵も思わなかった。

 

少しだけ、ほんの少しだけ、“格好良い”なんて─思ったり、思わなかったり。

 

 

 

 

午後7:00。

 

 

「レオン、じゃあね。」

 

 

私は微笑みながら手を振る。

 

昼食を食べて、また丘に登って、目一杯遊んで、話して、笑い合って、夕食を食べたら、もう“じゃあね”の時間だ。

 

名残惜しい。

 

この幸せな一時を、あと少しだけでも堪能したい。

 

そう思って夕食をゆっくり食べてしまうのはいつものこと。

 

でも、帰らない訳にはいかない。

 

夜の丘は危険だ。

 

野生の獣に襲われることも、ここ一帯の夜は気温が適切ではないことも、治安の良い街とはいえ…ということもある。

 

 

「レオン、毎日そんな顔していたら切りがないよ。」

 

 

幼子を嗜めるようにそう言ってみるが、自分の顔にも“寂しい”が漂っていることは知っている。

 

午後7:00はぎりぎりの時間。

 

本当はもっと長くいたいけれど、丘を下るのには1、2時間掛かる。夜中に帰るわけにはいかない。

 

 

「…“じゃあね”じゃなくて。」

 

 

そこまで黙っていたレオンが、静かに口を開いた。

 

 

「え?」

 

 

「“またね”って言って欲しい。出来れば“また明日ね”って。」

 

 

レオンの青みがかった黒い目は、懇願するような訴えるような必死の目だった。

 

しかし、その目には今にも泣きそうに微笑んでいる少女が映っている。

 

 

「うん。また明日ね。」

 

 

その彼の目に映る少女はにっこりと笑った。

 

寂しそうに、それでも笑顔で。

 

 

(永遠の別れじゃないのに。きっと、明日も会えるのに。)

 

 

“ここまで自分の心を昂らせる原因は一体何だろう。”

 

 

2人で丘を降りて麓の別れ道まで歩いた。

 

私がその間に考えていたことは、やっぱり名残惜しい気持ちと、その“原因”の正体について、それだけだった。

 

 

─夜空を背景にした、月明かりに照らされて儚く微笑む少年を見つめながら。

 

 

◇◇◇

 

あれは確か、8年も前のこと。

 

もう今では、あの時の疑問に答えられる。

 

 

“ここまで自分の心を昂らせる原因は一体何だろう。”

 

 

それは、私がレオンを─愛していたから。




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第4話

夜が明け、眩しい太陽が昇り始めた頃。

 

いつもの時間に、ぱっちりと目を覚ましてしまった。

 

あれから─外出が禁じられた5年前から、一時はもう少し遅く起きようと思ってもみたが、長年に渡って身体に染み付いた体内時計を変えることは無理だった。

 

リリスの姿は無かった。

 

まぁ、子爵家とて貴族の娘がこんなに早く起きるとは思わないのだろう。

 

私は1人で起きて、顔を洗った。

 

装飾が施された鏡に映る自分の顔には疲労が見られる。

 

 

(意外と疲れてるのね…)

 

 

自分で髪を整えてからクローゼットを開けた。

 

中には母が用意した、女性的─言い換えれば大胆で派手な服が並んでいる。

 

婚約の前日に用意したものらしい。

 

私が今まで自作で作っていた服は、安価で地味だからという理由で捨てられてしまった。

 

布は安くても、中々良いデザインに出来たのに。

 

母親の言う“地味”の基準は、一般的とは言えない。

 

けばけばしい母親の服は、いつ見ても気分が悪くなる。

 

悔やしがってもいても仕方がないので、一番質素で落ち着いた服を取った。

 

それでも、胸が強調された紺のドレス。

 

宝石も装飾されている。

 

 

(もう嫌になる…)

 

 

両親から離れてもなお、両親のことを思い出さなければいけないなんて。

 

着替え終わった丁度に、リリスが部屋に入ってきた。

 

 

「アイリス様!?もう起きていらしたのですか!?申し訳ありません。何時に起きていらっしゃるのですか?次からはその時間に合わせて参りますので…」

 

 

慌てふためいているのがよく分かった。

 

仕事をきちんと成し遂げようとする姿勢も。

 

 

「…日の出の時に目が覚めてしまうの。でも大丈夫よ。そんなこと言ったらリリス、大変だから。」

 

 

リリスはぶんぶんと首を振った。

 

 

「とんでもありません!それが私の仕事ですから。」

 

 

むしろ自分が悪かった、と心底申し訳なさそうに縮こまっているリリスを見て、私は微笑んだ。

 

 

「ありがとう。」

 

 

◇◇◇

 

リリスと共にダイニングに向かうと、爽やかなシャツ姿の、“未来の旦那様”がいた。

 

 

「アイリス嬢。おはよう。」

 

 

挨拶と共に向けられた笑みも、やっぱり爽やかで─でも、人当たりが良い笑顔過ぎて少し怖い。

 

 

「おはようございます、侯爵様。」

 

 

綺麗に微笑もうとするが、意識すればする程自然ではなくなる感じがして。

 

 

(ぎこちなく感じてないと良いけど。)

 

 

「お待たせ致しました。ご朝食の準備が整いました。」

 

 

若い男性のシェフがそう言った。

 

明るい茶髪と澄んだ水色の目。

 

外見は好青年と言った感じで中々の好印象なのに、自信がないようにおどおどしている。

 

彼は、アルフィーと名乗った。

 

中々若いけれど、ここで働けるということは腕は本物なんだろう。

 

 

「…!」

 

 

味付け抜群の白身魚のカルパッチョ、色とりどりの野菜ポタージュ。

 

香ばしい仔牛の香草焼きに、お肉と野菜の美味しさを最大限に引き出した鶏肉とキャベツのトゥルト。

 

デザートには最高級の苺をふんだんに使ったソースが掛かった程よく甘い苺のミルフィーユ。

 

 

「アイリス様、如何ですか…?」

 

 

おどおどしながら恐る恐る聞くシェフ。

 

私の親のこともあるし「高飛車な性格だろうから何としても気に入られよう」と思っているのだろうか。

 

それは分からない。

 

けれど。

 

 

「とても美味しいわ!」

 

 

あまりの美味しさに、少し無邪気になってしまったかも。

 

 

でも仕方がない。

 

だって、本でしか見たことがなかった手の込んでいて外見も美しく飾られている美味の食事が、目の前にあるんだもの。

 

こんなに美味しいなんて。

 

 

「…アイリス嬢。」

 

 

不意に、クロッカス侯爵は私を呼んだ。

 

ある程度食事が終わった時だった。

 

 

「何でしょう?」

 

 

彼は、自分が呼んだのに何故か言い出しにくそうに下を向いた。

 

 

「その…何と言うか。アイリス嬢の服は華々しいなと思って。…それが好みなのか?」

 

 

何だ、そんなことか。

 

確かに胸が強調された服は少し淫らかもしれない。

 

侯爵家の婚約者には合わないだろう。

 

 

「いえ。これは母が選んだもので、私は…あまり好みではありません。」

 

 

そんなことを告白するのにも、少しだけ勇気が必要だった。

 

母とは違うと見せつけたい感じになっていないか、少し心配になったから。

 

 

「そうか。好きな服装の系統とかはあるのか?」

 

 

何故そんなことを聞くのだろう、と思ったけれど、好きな服装と聞いて真っ先に思い出すのは丘にいた時の自作の服。

 

 

(本当は…清楚系の爽やかな服装が好み。)

 

 

とは、さすがに言えないので。

 

 

「特にありません。宝石が沢山付いていたり、けばけばしかったりしなければ。」

 

 

そう答えたが、クロッカス侯爵は何やら考え込んでしまった。

 

 

(何かいけなかったのかしら?)

 

 

「あの…?」

 

 

私が上目遣いでクロッカス侯爵を覗くと、彼ははっとして「いや、何でもない。」と言った。

 

 

(何だったのかしら?)

 

 

「あっ、それともう1つ。」

 

 

クロッカス侯爵が何を考えているのか推測していると、彼は慌てて人差し指を真っ直ぐに立てた。

 

 

「アメリアン家とクロッカス家は…その、マナーに違いがあるだろう。そなたは夜会にも全く出席していないと聞いた。だからそなたは…何と言うか、失礼かもしれないが、侯爵家の婚約者としては経験が豊富とは言えないところがあるかもしれない。」

 

 

“マナーに違いがある”は、要するに身分差があるということ。

 

“侯爵家の婚約者としては経験が豊富とは言えないところがある”は、要するに未熟者ということ。

 

なるべくオブラートに包み、相手を不快にさせないようにしようとする気持ちが分かった。

 

失礼に値するかもしれない時は言葉を詰まらせていて。

 

何だか、そこまで悪い方ではないのかも、と思ったり。

 

 

「それで何だが…そなたさえ良かったら、家庭教師を付けないか?」

 

 

クロッカス侯爵の提案には、つい「えっ」と声を出してしまった。

 

まだ婚約者の段階で、しかも“想い人がいる”人だが、一応立ち位置としては未来の侯爵夫人だから、それを気にしての提案なのは分かっている。

 

それでも、“想い人がいる”なんていうことを告白した身分違いの婚約者に、ここまで言ってくれるとは。

 

 

「是非、よろしくお願いします。家庭教師の元で学びたいです。」

 

 

私は視線を真っ直ぐ彼に向けた。

 

クロッカス侯爵は、その回答を望んでいたのだろうか。

 

なら良かったと微笑み、頷いた。

 

 

 

一週間後。

 

侯爵家には、随分と慣れてきた。

 

リリスは当初と変わらず親切で、シェフのアルフィーの腕前も素晴らしい。

 

ここに足を踏み入れる前は、使用人に馬鹿にされても仕方がないと思っていたが、さすが侯爵家。

 

私を馬鹿にする者は1人もいなくて、みんな優しく接してくれた。

 

 

「ん~…はぁ。良い匂い…」

 

 

あれから庭園にはほとんど毎日通っている。

 

リリスに日傘を差して貰うのは心苦しいが、それでもこの鮮やかな景色と花の優しい匂いが好きで。

 

 

「アイリス様。おはようございます。」

 

 

そう言ったのは、庭師のエチア。

 

小さくて何だか可愛らしい“おじいちゃん”のような人。

 

笑顔が本当にあったかくて、優しい。

 

でも植物の話をする時だけは熱く語り始めるので、少しだけ注意が要る。

 

 

「そうだ、アイリス様にお話がございまして。裏庭に空いている花壇があるのをご存知でしょうか?」

 

 

突然切り出された話に少し困惑しながらもこくっと頷いた。

 

この壮大な城の裏側には、ここと同じようにレンガでできた花壇がある。

 

前に見た時は、花の量が少なくて、威厳があるとも殺風景とも言える雰囲気だった。

 

 

「ですので、コスモスを植えようと思っているのです。コスモスはご存知ですか?」

 

 

「…っ!知ってるわ!秋に咲くのが楽しみね。」

 

 

実物は何度も見たことがある。

 

あの丘は秋になると、一面にコスモスが咲いたから。

 

秋には、レオンと一緒にはしゃいだ記憶がある。

 

 

「よくご存知で!今はまだ、あまり知られていない品種ですので…。コスモスは淡く可憐な美しい植物です!無数に咲き誇るコスモスも勿論良いのですが、コスモスの花びらはとても薄いので、光を透過しやすいんです!秋空を背景に透けるコスモスの花びらは本当に麗しくて…。後ろ姿さえも美しいなんて、素晴らしいと思われませんか!?第一コスモスは─」

 

 

「エチア!アイリス様が目眩を起こしていらっしゃいます。程々にして下さい。」

 

 

コスモスの魅力を語り始めるエチアを、リリスは力強く止めた。

 

 

(目眩は起こってない。ただ、起こしそうになっているだけ…)

 

 

「もう、一体いつになったらその癖を止めるんですか?語り出したら止まらない癖。」

 

 

「いやー…私だって…」

 

 

「はい?」

 

 

リリスは、圧100%の笑顔でエチアを見た。

 

 

「わ、悪かったって…。…こほん、アイリス様、申し訳ございませんでした。」

 

 

しょぼんとしているエチアを見て、少し和んでしまったのは置いておいて。

 

植物の話を始めたエチアをいつも叱ってくれるのはリリスだ。

 

別にエチアには微塵も怒っていないが、困惑はしてしまうから助かる。

 

リリスはにこっと微笑んで「何かあったらおっしゃって下さいね。いざとなったらこの老人を解雇するよう旦那様に伝えておきますから。」とだけ言った。

 

彼女のどす黒い笑みに含まれた優しさに、思わず微笑んだ。

 

当然、解雇なんてしなくて良いけど。

 

 

「こほん。ええと…アイリス様はコスモスの色は何が良いと思われますか?」

 

 

聞きたかったことは、これのようだ。

 

それはやはり、レオンと見たコスモスの中でもとりわけ忘れられない色─

 

 

「赤が良いわ。」

 

 

私の返答に、すっかり正気に戻ったエチアはにこやかに微笑んだ。

 

 

─その時。

 

 

微かに足音がし始めた。

 

ゆったりとした足取りが近づく。

 

 

(誰…?)

 

 

距離が長くて、その人の顔が霞んでいる。

 

でも、段々と見えてきた。

 

白い頭部を帽子で覆い、鮮やかな鶯色のドレスを着て堂々とした貴婦人が前から歩いてきていた。

 

私は、春風に吹かれて彼女の帽子のつばがずれた瞬間を、見逃さなかった。

 

 

(あの人は…!)

 

 

「…お婆様?ガーベラお婆様!」

 

 

街にいた時の無邪気な声で、祖母のような存在だった愛しい女性の名を叫んだ。

 

 

「…ミ、ミモザ!?ミモザなの!?」

 

 

お婆様も気付いたようだ。

 

私は、私を見て涙を流しているお婆様に向かって駆けた。

 

ぎゅっと、あの頃のように抱きしめてくれた。

 

5年前より弱々しくなったが、それでもしっかりとした力で。

 

 

「会いたかった…!」

 

 

私も泣きじゃくりながらそう呟いた。

 

ああ、これだ。

 

このあったかい体温は、お婆様だ。

 

お婆様は、血縁関係ではない。

 

けれども、両親の代わりに愛を注いでくれた大切な人。

 

初めて会ったのは確か─寒い寒い、クリスマスの日。




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第5話

凍えそうな身体を震わせながら、6歳の私は家を出た。

 

その日の街は、至るところに灯りがあって、赤や緑に染められた、幻想的な雰囲気に包まれていた。

 

 

(この日のこと…何て言うんだっけ。)

 

 

私は無知だった。

 

家を頻繁に一人で出始めたのが丁度今年から。

 

アメリアン家の再築が上手くいかずに焦って飛び交う両親の罵声から逃げてきた。

 

街の人とはあまり話したことがないし、知らないことだらけだ。

 

辛うじてどこからか聞いたことのある今日のことも、既に忘れてしまったようだ。

 

何かの記念日…だった気がする。

 

 

(…羨ましいな。)

 

 

周りを見渡すと、そこには至るところに“幸せな家族”があった。

 

娘や息子達が雪だるまを作るのを両親は温かい目で見守る。

 

暖炉が付いていて温かそうな家の窓には、弟妹達が責任感が強そうな姉の目を盗んでお肉を食べようとしている姿がある。

 

自分がこれを体験出来ないのは百も承知。

 

 

(でも、夢を見るだけなら良いよね?)

 

 

こぢんまりとした温かい家、美味しいご飯、優しい両親。

 

沢山食べたあとは外に出て雪合戦。

 

それからお父様がかまくらを作ってくれて、みんなでぬくぬくと温まる。

 

お母様とは仲良く雪だるまを作って。

 

 

─そんな非現実的なことを考えていたからだろうか。

 

 

「うっ…」

 

 

目が眩んだ。

 

私の目に映る銀世界はぼやけて歪む。

 

この寒さでこんな薄着。

 

こうして雪の中に倒れるのも無理はないだろう。

 

問題は、助けてくれる人がいるかどうか。

 

否、きっといない。

 

 

(私には…誰もいないんだから。)

 

 

助けてくれる人なんて─

 

 

─「…お嬢さん!?大丈夫?立てるかしら?」

 

 

この声は…?一体誰…?

 

聞いたことがない声だ。

 

でも、温かみがある優しい声。

 

 

「身体が冷たいわね…今助けるわ。」

 

 

そのお婆さんは、家から毛布を持ってくると言って私から離れようとした。

 

 

今考えてもその時の自分が何を思ったのかはよく分からないが、私は─

 

 

「…ま、待って…隣、にいて欲しい…の。」

 

 

寒さで口をガタガタ震わせながら懸命に言葉を吐く私を見て、お婆さんはどう思ったのだろうか。

 

でもお婆さんは、そんな私に微笑みかけ、そのままぎゅっと抱きしめてくれた。

 

 

「分かったわ。とりあえず一緒に、私の家に行きましょう?暖まらなくてはいけません。」

 

 

一人暮らしに丁度良いサイズの、レンガ造りの家だった。

 

家具やカーペットは、暖色が使われていて温かみがあるデザイン。

 

暖炉の近くで暖まったのはいつぶりだろう。

 

いつも家の暖炉の近くには両親やメイドがいて、近付けなかったから。

 

部屋には小さな木があって、きらびやかに飾り付けられていた。

 

 

(この木…何て言うんだっけ…?)

 

 

駄目だ、思い出せない。

 

 

「とりあえず横になりましょう。暖炉の前のソファーで寝るべきよ。ほら…」

 

 

お婆さんはそう言って、私をソファーに寝かせた。

 

そして膝枕をして、私に布団を掛ける。

 

今はまだ昼間なのに、寝ても良いのだろうか。

 

でも、身体が限界を迎えていたからか思考が浅く、思いのままに眠ることにした。

 

 

「何があったの?あんなところに、1人で。」

 

 

両親に見放されていて、何かご飯があればと思ったのと両親の罵声に耐えられなくて、街に出てました。

 

 

─とは言えない。

 

 

何て言えば良いのか分からず黙りこくっていると

 

 

「言わなくても良いわ。でも、辛くなったからまたここに来て良いわよ。」

 

 

そう言ってくれた。

 

私は見ず知らずの他人なのに、何て優しい人なんだろう。

 

 

「…聞いても、良いですか?」

 

 

もうしばらく誰かと話していなかったが、懸命に口を動かした。

 

 

「なぁに?」

 

 

「今日は…何の日、ですか?」

 

私のその質問に、お婆さんが驚き、そして泣きそうに顔を歪めたというのは、私の勘違いだろうか。

 

真相は分からないが。

 

 

「…クリスマスよ。今日はクリスマス。」

 

 

ああ、そうか。

 

どこかで聞いたことがある単語だ。

 

 

(今日はクリスマス、かぁ。)

 

 

「…この部屋にある、小さな木は?飾りが、付いている。」

 

 

「…あれはクリスマスツリーよ。」

 

 

「そう、なんだ。ありがとう…ございます。」

 

 

(凄く親切な人。会ったばかりの人なのに、助けてくれたばかりではなく、沢山のことをわざわざ教えてくれる。)

 

 

「…貴女。」

 

 

貴女。それはきっと、私のことだ。

 

初めて貴女なんて呼ばれたから、妙に緊張してしまった。

 

 

「…何ですか?」

 

 

「聞きたいことがあったらいつでも聞きなさい。沢山教えてあげるわ。質問が難しいものだったら、2人で図書館に行って調べましょう。私は司書をやっているから、簡単に本を探せるわ。だから、だから─」

 

 

勘違い、気のせい…ではないのだろうか。

 

お婆さんは悲しそうに顔を歪ませている。

 

 

「もう大丈夫よ。」

 

 

何が“大丈夫”なのか。

 

 

─その愛に溢れた言葉を、6歳になったばかりの少女にはまだ、理解できなかった。

 

 

でも、これだけは分かった。

 

お婆さんは優しい。

 

 

「貴女の名前は?」

 

 

「わ、私は…」

 

 

アイリス。

 

そう言ったら、アメリアン家であることが分かってしまうだろうか。

 

 

(あの両親と同じには…見られたくないな。)

 

 

「み、ミモザ。ミモザ、です。」

 

 

咄嗟に思い付いた、春の花。

 

今年の春、街に出掛けた際、ある花壇の花が目に止まった。

 

可憐に咲く、日の光のような黄色い花。

 

 

『あっ、あの。お婆さん、この花の名前、教えて頂けませんか?』

 

 

勇気を振り絞って八百屋のお婆さんに聞いた。

 

 

─ミモザ。春を告げる花。

 

 

春のように明るく、そして無邪気でいられるようになりたい。

 

周りを和ませるような温かい力を持っている人になりたい。

 

そして、何とかこの冬を乗り越えたい。

 

また麗らかな春が見たい。

 

そんな願いが込もった名前が、ミモザだった。

 

 

「良い名前ね。」

 

 

目を細めて微笑んでくれたお婆さんは、そのまま私を就寝に誘った。

 

 

「良い夢を見なさいね。お休みなさい。」

 

 

こんな温かい言葉を掛けて貰ったことが、果たしてあっただろうか。

 

頭を撫でられているうちに、段々と瞼が重くなった。

 

 

(人生の中で一度でも、こんなに温かく眠れるなんて…幸せね。)

 

 

 

あれから一年。

 

今でも私はお婆様にお世話になっている。

 

とはいえ、八百屋のお婆さんや街の人には、私は家族の面倒を見ている設定なので、お婆様の家に行っていることを知られると怪しまれる。

 

そもそも私は家族の面倒を見ている設定だから、その設定上だとそう何時間も街にいられない筈だ。

 

最近では丘に登ることが多くなった。

 

街にいるだけでも不信感を抱かれるかもしれないから。

 

だから私は、お婆様とは図書館で会う。

 

 

─セントポーリア図書館。

 

 

このセントポーリア都市はこの国の首都。

 

この地域はセントポーリア都市の外れにあるとて、首都の図書館が小さくて良いものか。

 

図書館全体を回るのに、ざっと2日は掛かりそうなくらい大きな場所。

 

ここなら街の人と鉢合わせすることも、仮にしたとしても、図書館なら不信感は抱かないだろう。

 

何より、この図書館には私の知らないことが沢山ある。

 

お婆様に教えて貰った文字の読み方で、次々に吸収していった。

 

植物の育て方。

 

裁縫の仕方、服の作り方。

 

この国の歴史や特産。

 

様々な言語や文化。

 

美味しそうな料理。

 

一般的な年中行事。

 

マナー作法に哲学。

 

楽器やスポーツ。

 

時には小説を読んだこともある。

 

推理小説や、自分とは縁がない恋愛小説まで。

 

本は、他にも沢山のことを私に教えてくれた。

 

勿論、本を読むことは楽しい。

 

学ぶことは楽しい。

 

でもそれ以前に、自分の気を落ち着かせてくれた。

 

 

「ガーベラお婆様。」

 

 

いつの間にか呼び方が“お婆さん”から“お婆様”になった。

 

 

─本当の祖母のような存在だったからかな?

 

 

「あら、ミモザ。今日はお手伝い、お休みじゃなかったかしら?」

 

 

半年前から私は、お婆様のお手伝いをしている。

 

それは、返却された本の整理、貸し出し履歴を記すこと、本のポップ作りなど多岐にわたる。

 

でもこれはほとんど、お金のためにやっている。

 

自分でお金を貯めて、自分でご飯を食べて、ゆくゆくは自分で家を借りて、暮らす。

 

そう、生きるために。

 

さすがにお小遣いをせびるなんていう“恩を仇で返す”もいい所のことを出来はしない。

 

自立をしなければ。

 

だから、何とかお婆様に頼み込んで働かせて貰っている。

 

 

「いえ。純粋に本を読みに来たんです。何より外は寒くて…」

 

 

「ああ、そういうことね。最近は冷え込むものね。今日はクリスマスだし、寒さ凌ぎも無理ないわ。」

 

 

─ああ、今日はクリスマスか。

 

1年前と比べて、充実したクリスマスだ。

 

“幸せな家族”とまではいかないものの、祖母のような存在の人が居る。

 

 

(それだけで、十分幸せ。)

 

 

「ガーベラお婆様。」

 

愛しい人の名を、ゆっくりと呼んだ。

 

「何?ミモザ。」

 

お婆様はくるっと振り返り、その一本にまとめられた長いシルバーの髪を揺らす。

 

宝石のように美しいその吸い込まれるような紫の目で、私をじっと見つめた。

 

 

「1年前、助けてくれてありがとうございました。」

 

 

私は深々と辞儀をした。

 

否、本当は1年前のあの日だけではない。

 

この1年の全てに感謝を込めて。

 

 

「お礼を言われるようなこと、していないわ。」

 

 

そう微笑むお婆様は、何だか嬉しそうだった。




“セントポーリア都市”の“セントポーリア”という花の花言葉は“小さな愛”です。
アイリスが居た街の人々は、アイリスを心底心配していました。
誰もアイリスの親に会いに行って直談判することやアイリスを養子にすることなんてしなかったけれど、沢山の人がアイリスを気にしていました。
お店でアイリスが買い物をした際に少しだけ安くしてあげたり、街にいるところを見ると何となく気に掛けてあげたり。
アイリスは、クリスマスに倒れてしまった日に“私には誰もいない”と思っていましたが、恐らく、お婆様が居ないところで倒れていたとしても誰かしらには助けられた筈。
アイリスは、“1人”でも“独り”ではなかったのです。
もちろんアイリス本人は気が付いていないのですが。
だから“小さな愛”です。所詮は他人に対する愛。
でも、アイリスが思うより世界は優しそう。
このささやかな愛情を知った時、アイリスはどんな表情をするんでしょうね。
…という裏設定をたった今速攻で作りました笑


あ、最後に!
ここで出てくる図書館は、勿論架空の仕組みです。
現実では子供が図書館でいち司書の私情で働いてお金を稼ぐなんて有り得ないにも程がありますが…まあ現代ではありませんし、そもそもファンタジーですし…((小声


ご覧頂きありがとうございました!
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第6話

「ええと…アイリス様、こちらの方とお知り合いでいらっしゃるのですか?」

 

 

しばらく2人で抱きしめ合った後、ある程度間を置いてリリスが話し掛けてきた。

 

その澄んだ茶色い瞳は困惑したように私達を交互に映す。

 

 

(ああ、そうだ。何にも説明していないわ。)

 

 

「リリス、ごめんなさい。

お婆様…いえ、こちらの方にはとてもお世話になっていたの。

セントポーリア図書館の司書でもあるわ。

色んなことを教えてくれて、祖母のような愛情を注いでくれて…本当に大切な人なの…本当に。」

 

 

私はお婆様を見て、思わず微笑んだ。

 

まさかもう一度会えるなんて夢にも思わなかったから。

 

 

「ミモザ、綺麗になったわね。」

 

 

まるで久しぶりに会った孫に向かって言うような、優しい声色。

 

 

「ふふっ、ありがとうございます。

…でもごめんなさい。私の本当の名前は─」

 

 

そう、両親の代わりに愛情を注いでくれた祖母のような人にも、私は偽名を使っていた。

 

この名前で、嫌われたくなくて。

 

なのに。

 

 

「知ってるわ。“アイリス”でしょう。

ずっと前から知ってたわ。」

 

 

「え?…知っていた…?」

 

 

平然とそう言うお婆様に、思わずため口が漏れてしまった。

 

 

(隠し通せてなかった?

…でもお婆様は、私がアメリアン家であることを知っていても尚、そばにいてくれたってこと…?)

 

 

「貴女をこっそり追いかけたのよ。

娘がこんな状態なのに、親は何をしているんだと思ってね。

アメリアン家に入る貴女を見たわ。

アメリアン家の一人娘の名は確かアイリスだから、ミモザは偽名だと分かったの。

でも、だからといって何もないわ。

だって、ミモザはミモザなんだもの。

あの憎たらしい家から来た娘、という印象は全くないわ。安心しなさい。」

 

 

愛しそうに私を見て、頭を一撫でした。

 

本当に、良い人に出会ったものだ。

 

一生分の運を使い果たしたのではないか?と思う。

 

 

(ああ、どうしよう。幸せ。)

 

 

─でも。

 

 

(お婆様は何故ここにいるの?)

 

 

貴族の家、しかも上級貴族である侯爵家に入るには、勿論正当な理由が必要だ。

 

お婆様が、招待されたとしても、事前に連絡を取ったとしても、筋の通った理由が思い浮かばない。

 

困惑しがちにお婆様を見ると、それを見透かしたかのように微笑んだ。

 

 

「ミモザ、いえ、アイリス。

今日から私は、貴女の家庭教師になるわ。」

 

 

お婆様はあの頃と変わらない堂々とした美しい笑みを浮かべた。

 

 

「え…?」

 

 

(家庭教師…家庭教師!?)

 

 

「まさか…侯爵様が言っていた家庭教師…?」

 

 

何と、それがお婆様だったとは。

 

でも、まだ疑問は残る。

 

一応未来の侯爵夫人の家庭教師は、基本的には貴族だ。

 

平民であってはいけない。

 

それが常識。

 

 

だったら─

 

 

(お婆様は一体何者…?)

 

 

「“お婆様は一体何者…?”って顔をしてるわね。アイリス。」

 

 

ふふっと意地悪そうな笑顔。

 

からかわれているのだろうが、図星だから何とも言えない。

 

 

「アイリス様。デルフィーン伯爵家のガーベラと申します。」

 

 

お婆様は、わざと畏まったように丁寧な口調で綺麗な礼をした。

 

 

(は、伯爵家!?私より身分が高いじゃない!)

 

 

「も、申し訳ありませんっ!ガーベラ様!

今まで数えきれない程のご無礼を…!」

 

 

慌てて深く深く礼をするが、今までの“お婆様呼び”を初めとした行為を考えると土下座をした方が良いかもしれない。

 

 

(私は何てことを…!)

 

 

「あらあら、良いのよアイリス。

私は確かにデルフィーン家だけれどね。

夫は亡くなり、息子に爵位を移して、私は1人であの別荘…とも言えない小さな家で暮らしていたのよ。

財産は多少あったけれど、贅沢は好まないタイプでね。

使用人もいなかった。独りだった。

だから、アイリスがいてくれたお陰で楽しかったわ。

ありがとう。」

 

 

寂しそうに、それでも幸せそうに、そして懐かしそうに。

 

確かに、お婆様は1人だった。

 

家に行った度も、使用人も夫も子供も、誰一人としていなかった。

 

近くにいたのは─案外、両親に見放されて1人きりだった私だけだったのかもしれない。

 

それは嬉しいことである反面、だとしたらこの5年はお婆様は“独り”が続いたことになる。

 

 

「ガーベラ様。」

 

 

「ああ、いつも通り呼んで頂戴。前と変わらず。」

 

 

「えっと…お婆様。」

 

 

「何かしら?」

 

 

朗らかに微笑むお婆様に、私は更に心苦しくなった。

 

だって─

 

 

「この5年、1人きりにしてごめんなさい。

何も言わずにいなくなって…ごめんなさい。」

 

 

目が潤んできた。

 

例え故意ではないにしろ、1人にしてしまった。

 

 

「両親が…閉じ込めたんです。

私を、狭くて暗い物置部屋に、鍵まで掛けて。

虐げられていた訳ではないので、そこはそんなに気にしなくても良いのですが…とにかく、ごめんなさい。」

 

 

私にとっては中々勇気がいる告白だった。

 

両親に虐げられていた訳ではないにしろ、放置されていた。

 

そのことを口に出すのは、自分の非力さがくっきりと際立つ気がして。

 

 

「そう、だったの。

…守ってあげられなくてごめんなさいね。」

 

 

紫の瞳からは、宝石のように輝く雫が溢れる。

 

その涙を見て、やっぱり私は良い人に巡り合えたな、と改めて実感できた。

 

 

 

 

 

「ええと…では、明日から毎日1、2時間程授業をしますね。」

 

 

「はい、分かりました。お婆様…いえ、ガーベラ先生。」

 

 

私の広い私室で、そう会話した。

 

お婆様はアンティークなソファー、私は机の前の椅子に座って。

 

話をしていると、お婆様は昔から様々な勉学に励んでいたらしい。

 

 

─お婆様の両親や夫、子供。誰にも称賛はされなかったようだが。

 

 

マナー作法や常識的なものは勿論、歩き方や挨拶、今の貴族や世界の情勢や、貴族方のご機嫌取りまで、今の私に必要なことも知っているらしい。

 

そんな人が家庭教師なんて、心強い。

 

 

「では、また明日。」

 

 

お婆様は小さく手を振る。

 

身分を全く気にしていないように感じて、何だか嬉しく思った。

 

 

「はい、また。」

 

 

私は久しぶりの心からの笑顔で、手を振り返した。

 

◇◇◇

 

私室のテラスから月が見えた。

 

今夜は満月らしい。

 

月は辺りを明るく照らし、草木をや家を幻想的にぼんやりと光らせる。

 

1人で外をぼんやりと眺め、思いに更けるのは良い。

 

丘にいた時の感覚だ。

 

目を閉じ、胸いっぱいに夜風を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。

 

 

─「アイリス嬢。家庭教師には会ったか?」

 

 

「きゃあ!」

 

 

静寂に包まれる中、突然声を掛けられて、思わず声を上げてしまった。

 

声の主はクロッカス侯爵ではないか。

 

私の部屋の隣はクロッカス侯爵の部屋だが、そこのテラスから声を掛けてきたようだ。

 

何故か、親しげに手を振っている。

 

 

「も、申し訳ありません!つい、驚いてしまって…」

 

 

くっくっと笑いながら「いや、私も悪い。」と言った。

 

 

「それで、家庭教師には会えたか?」

 

 

本題を思い出したかのように問う。

 

 

「はい。知り合いだったのですが、やっぱり良い方でした。」

 

 

「そうか…良かった。」

 

 

その後、私は再び外を眺めた。

 

特にすることもないし、この景色を見ていると何だか落ち着くから。

 

美しい色とりどりの侯爵家の庭園、小さな家々、照らされた植物、そして遠くの方の思い出の丘をぼんやりと見つめる。

 

繊細で儚い美しさ。

 

そう、今にも崩れ落ちそうな脆さ。

 

だけど私はいつも、否、いつもよりそれに魅了された。

 

 

「綺麗…」

 

 

こうしていると、ついつい丘にいた時のレオンを思い出してしまう。

 

私は、丘から景色を眺めて惚けているレオンの横顔が好きだった。

 

レオンの美しい横顔もまた、どこか儚げで。

 

でも、こちらの“儚い”は崩れて去ってしまった。

 

私はレオンのことを何も知らない。

 

所在や現在の生活─生死すら。

 

きっと、もう二度と会うことが出来ないだろう。

 

私は、“崩れ落ちてしまった儚さ”を知っている。

 

だから、儚い美しさに魅了されるのかもしれない。

 

その儚さが、脆さが、繊細さが、懐かしくて…でもやっぱり寂しくて。

 

 

「確かに綺麗だな。」

 

 

急に声が聞こえたので少しびくっとして隣を見ると、まだクロッカス侯爵がいた。

 

てっきり、もういないと思っていたのに。

 

 

「は、はい。幻想的ですね。

それに、冬でもないのに夜空の星がこんなにくっきりと見えるなんて、珍しいです。」

 

 

いけない。

 

レオンを思い出してしまったこととクロッカス侯爵がまだいたことに、心が少しだけ取り乱してしまっている。

 

思い切り混乱して、何故か適当な雑談を入れてしまった。

 

 

「ああ。」

 

 

そこからずっと、虫と風の音だけが響いた。

 

結局クロッカス侯爵は空を見上げたまま、穏やかな表情でずっと隣にいる。

 

お互いに特に話さず、ただ夜空を仰いだ。

 

それだけ。

 

なのに何故だろう。

 

 

─こんなに心地が良いのは。

 

 

◇◇◇

 

 

「リリス、今日の報告はあるか?」

 

 

凛とした声が書斎に響く。

 

 

─当主、リアン・クロッカス様の声。

 

 

「今日一番の報告は…やはり、家庭教師のことでしょうか。」

 

 

「ほう、どんなだった?

アイリスは知り合いだったと言っていたが。」

 

 

そういえばいつの間にかアイリス様の名前を呼び捨てにしている、ちゃっかりしているな、と思ったのは内緒。

 

 

家庭教師がセントポーリア図書館の司書でありそこでアイリス様と会っていたこと、随分親しかったこと、そして、アイリス様の“お婆様”のような存在だったことを伝えた。

 

 

「そうだったのか。

…運が良かったな。良い方を選べたようだ。」

 

 

ほっと安堵している旦那様。

 

確かにアイリス様にとって良い方だったのは確かだが…

 

 

「良い方も何も、あの方はかの有名なガーベラ・デルフィーン様ですからね。

随分前に引退されましたが、下級貴族にも関わらず王宮にも招待された程の凄腕の家庭教師なのですから。

彼女の元で学んだ生徒は皆、ずば抜けた知識量を持てるという逸話も持っていらっしゃいますし。

今ではすっかり行方を眩ませていたというのに、どうやって見つけたのですか?」

 

 

思わず早口で話してしまったが、“あの”ガーベラ様は簡単に言うならば“とんでもない方”だ。

 

一番有名な話をするなら、現皇帝は10数年前…遠回りな言い方をするなら、勉学に進んで励む方ではなかった。

 

それを更生、更に聡明さを付けたのがガーベラ様。

 

一時期には家に押し掛ける上級貴族が現れる程に依頼が殺到し、今でもガーベラ様を探している方を見掛ける。

 

でも、ガーベラ様はすっかり姿を消した。

 

これは憶測だが、周りからの期待や妬み、そして疲れもあったのかもしれない。

 

ガーベラ様は何年も見つからなかった。

 

見つかりさえすれば、ガーベラ様は自身の位置する伯爵家より身分が高い貴族の依頼は断れない。

 

だからこそガーベラ様は、あの平穏な街を選び、息を潜めて暮らしていたのだろう。

 

それでも旦那様は、

“アイリスには家庭教師が必要だろう。

ならばとりあえずガーベラ・デルフィーンが適任ではないか?”

という短絡的な思考で、ものの数日で見つけてしまった。

 

 

「…うーん…それは…」

 

 

旦那様は、先程の質問にどう答えを濁そうと考えられている様子。

 

一体どんな手段、そして膨大な資金を使ったのだろう。

 

それはすっかり闇の中だが、アイリス様への溺愛ぶりをよく表す出来事だった。

 

 

「あっ、やっぱり良いです。合法ではなさそうなので。」

 

 

私は圧を含んだ意味深な微笑みをした。

 

 

旦那様はアイリス様のこととなれば何でもする。

 

軽い違法なことくらいは平気でやりそうな勢いで…正直めちゃくちゃ怖い。

 

 

「あっ、それから…アイリス様の両親について、また一つ。」

 

 

私は少し息を吐いて旦那様の目を見た。

 

その青みがかった黒い瞳には、静かに憤慨する私が映っている。

 

 

「“両親が…閉じ込めたんです。私を、狭くて暗い物置部屋に、鍵まで掛けて。”

そうガーベラ様に話されていましたよ。

虐げられていた訳では無さそうですが、放置されていた可能性が高いです。」

 

 

私の言葉を聞いた旦那様は一瞬目を見開き、机を拳でダンと叩いて舌打ちをした。

 

 

「…っ!?何だとっ!?あの家…どうやって潰そうか。やはりあの事業を潰すところから始めなければ…そもそもあの家の領地は─」

 

 

ぶつぶつとアメリアン家を潰す作戦を企て始める旦那様。

 

 

─5年前に私が旦那様の元へ来た時には、負の感情がない青年でいらしたのに。

 

 

アイリス様が絡むとこんなにも人間味が溢れ出るなんて。

 

 

そう思ったけれど、勿論口には出さなかった。

 

 

「ああ、止めてください。とりあえず私は失礼します。

まだやり残した仕事があるので。」

 

 

ダークサイドの人間と化した旦那様は面倒臭い。

 

適当に理由をでっち上げ、いそいそと部屋を出た。

 

私は扉をパタンと閉め、息を吐いて壁に寄りかかった。

 

アイリス様を思い浮かべる。

 

華奢過ぎる身体、貴族とは思えない起床時間。

 

美しい容姿である反面、久々に人の優しさに触れたとでも言うようなあの顔、無機質な声、暗い瞳。

 

 

(アイリス様を…否、それ以前に、人をあそこまで傷つけるなんて。)

 

 

私は良くないと分かっていながらも、苛立ちを押さえきれず、自分の親指の爪先を少しだけ噛んだ。




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第7話

「侯爵様。」

 

 

私はリリスを連れて階段を下り、クロッカス侯爵のお見送りに出向いた。

 

私に呼ばれたクロッカス侯爵は、1週間分の服や日常品をメイドに持たせている。

 

今日からは1週間出張らしい。

 

隣国の上級貴族達との会食をする、と昨夜の食事で話していた。

 

ジャボがついた白いシャツ、胸の真ん中には希少な翡翠の宝石。

 

品がある紺のジャケットに細やかな金の刺繍。

 

呼び掛けられて振り返ったクロッカス侯爵は、麗しく、凛々しい姿だった。

 

 

「行ってらっしゃいませ。」

 

 

綺麗な礼を心掛けながらそう言うと、クロッカス侯爵は何故か口を紡ぎ、わびしげな表情をした。

 

 

「あの…何か?」

 

 

騎士の1人が「旦那様、もう時間です!早くいらして下さい…!」と叫んでいるので、何だか申し訳なくなる。

 

クロッカス侯爵はたっぷり間を取ってから

 

 

「“侯爵様”より、“旦那様”とか…名前呼びとかが良いんじゃないか?」

 

 

と、おずおずと尋ねてきた。

 

そんな変なことを言ったクロッカス侯爵は、懇願するような瞳をしてじっと私を見つめる。

 

 

(親密アピールをしたかったのかしら?)

 

 

クロッカス侯爵の発言の意図が分からず、首を横に振った。

 

 

「旦那様だなんて…婚約ですのに。」

 

 

私はそう否定するも、クロッカス侯爵がすかさず

 

 

「婚約期間で旦那様と呼んでも問題無いんだ。…まぁ名前呼びの方が─」

 

 

と驚愕的な発言をした。

 

クロッカス侯爵は若干顔を赤らめながら下を向くが、私は対照的に冷や汗をかいた。

 

 

(えっ?侯爵様を名前呼び…正気?)

 

 

「な、なら旦那様と呼ばせていただきますね。

侯爵様を名前で呼ぶだなんて…恐れ多いです。」

 

 

私は思わずフリーズしてしまうも、慌てて取り繕った。

 

婚約の期間、しかも会って間もない、それに加えて身分差…この状況で名前呼びできる程、私は図太くない。

 

 

「そ、そうか。」

 

 

「では、行ってらっしゃいませ。」

 

 

「早く出発して下さい」の合図のつもりだったが、それでもクロッカス侯爵は一歩も動かない。

 

その美しい瞳で、私をじっと見る。

 

 

(一体どれだけの人が侯爵様のことを待っているのかしら…早くしなくちゃ。)

 

 

今周りにいるだけでも、使用人と騎士を合わせて、ざっと100人はいる。

 

仕事関係で合流する人だって沢山いるだろう。

 

調子に乗っていると思われたり、図々しいと思われたりしたら嫌だから、あまりそんな呼び方をしたくはないが─

 

 

「…旦那様。」

 

 

仕方なく、そう付け加えた。

 

何故だか羞恥を抱いてしまい、顔が暑くなる。

 

 

(恥ずかしがることではないのに…そう、ただ申し訳ないからこの呼び方をしただけよ。)

 

 

そう、本当にそれだけ。

 

 

「…!?ああ、行ってくる!すぐに帰ってくるからな!」

 

 

何故か晴れ渡るような笑顔で手を振りながら、“旦那様”は馬車に乗り込んでいった。

 

◇◇◇

 

「あれは絶対、旦那様はアイリス様のことがお好きよね。」

 

 

「でしょうね!

元々旦那様がアイリス様に対して好意的だったのは周知のことだけれど、今朝のはもう…」

 

 

「アイリス様以外、全員が気が付いたわよね!」

 

 

「普段は社交なんかでも近寄る女性をばっさばっさと斬っていくのに…アイリス様の前ならにやけ顔なのねぇ…」

 

 

私は、メイド達の間でそんな会話がされていたことなんて露知らず、城の案内をして貰っていた。

 

クロッカス侯爵…ええと、旦那様がいない1週間で、この広い城の内訳について知れたら上出来だ。

 

なんせ、ここの城は3階建てで1階分の面積は私の家の総面積3つ以上。

 

要するに広い。

 

小部屋の数も数知れず、完璧に覚えるのには一週間以上掛かりそうだ。

 

私の部屋は階段を登ったところの突き当たりで分かりやすいが、他の部屋はそうはいかない。

 

 

「アイリス様、お初にお目にかかります。

ラリアと申します。」

 

 

可愛らしい感じに緩く結んだ三編みのおさげ、人懐っこそうな童顔、ぱっちりとした瞳、誰が見ても不快感を抱かないと断定できるような、ふわっとした笑顔…可愛らしいメイドだった。

 

 

「ラリアね、よろしく。

部屋の解説はある程度で良いわ。」

 

 

「承知致しました、アイリス様。」

 

 

美しい礼と、忠誠を感じさせる表情。

 

15歳くらいだろうか。自分より幼いと感じる。

 

しかも見た目は物凄く可愛いのに、しっかりとした礼儀があった。

 

 

(もしかしたらリリスの教育が素晴らしいのかも…)

 

 

リリスは旦那様には同行していないが、この時間は溜まっていた他の仕事をしなければいけないらしい。

 

リリスは、私の侍女、教育係、そして城の出費や支出の管理をする執事の手伝いもしているらしい。

 

それを全て完璧にこなせる程、リリスは優秀なのだ。

 

ぱっと見ても要領の良さは格別で、思わず感嘆を漏らしてしまう。

 

 

「こちらが厨房です。

清潔維持は本当に徹底されているのでご安心を。」

 

 

「こちらは応接室です。

来客様に不快感を与えぬよう、この城の中でもかなり上等な家具でございます。」

 

 

「こちらは所謂サロンです。

ここにはメイクアップや身体磨きに長けた者が集っていますので、ぜひ1度はご利用下さい。」

 

 

「こちらはパーティーホールです。

かなり装飾されています。

また、この国の伝統的なデザインが目立ちます。」

 

 

「こちらは─」

 

 

途中に食事や休憩を挟んだものの、いつの間にか、晴れ渡っていた空は夕暮れになっていた。

 

城がオレンジ色に染まる。

 

 

「最後は─」

 

 

紹介していなかった最後の部屋をラリアが紹介しようとしたその時。

 

 

「この部屋は私が説明させていただきますわ、アイリス様。」

 

 

振り返った先には、珍しく慌てて小走りにこちらに来るリリスの姿があった。

 

その手にはメモ帳のようなものがあった。

 

「リリスさん?どうして─」

 

リリスは困惑が見て取れる表情をするラリアに、そっと耳打ちした。

 

耳打ちなら本来聞こえないのだが、私には何とか聞き取れてしまった。

 

 

『この部屋は紹介しなくて良いわ。決して立ち入っては駄目よ。旦那様にも言われたでしょう?』

 

 

“立ち入ってはいけない”?

 

聞き取れたは良いが、それが何故かはさっぱり分からない。

 

入ってはいけない理由も全く思い付かない。

 

 

「では、失礼します。」

 

 

少しリリスと離した後、ラリアはあっという間に帰ってしまい、リリスは扉の前で足を止めた。

 

 

「アイリス様、こちらの部屋は入ってはいけません。

5年間に渡って誰の行き来もなかったので不潔でしょう。

何より、旦那様によって行き来が禁じられているのです。」

 

 

リリスは、珍しく無表情で淡々とそう語った。

 

 

「…理由を聞いても?」

 

 

「申し訳ございません。

使用人の中で理由を存じているのは私しかいませんが、旦那様には話すなという命を受けております。

申し訳ございません。」

 

 

ただただ謝るリリスに、私はこれ以上深掘りすることができなかった。

 

何を言われても話さないという、彼女の固い決心に気が付いたからだ。

 

 

もやもやした気持ちのまま、私は自室に籠った。

 

 

(何でなんだろう…でも、聞いてはいけないわ…)

 

 

気持ちは晴れないが─まぁ良い。

 

城の内部を知れただけでも十分な進歩だ。

 

 

その部屋は私に関係無さそうだし、気にすることではないだろう。

 

それに私には─

 

 

「ガーベラでございます。

アイリス様、失礼致します。」

 

 

お婆様がいるのだから。

 

 

「お婆様っ!」

 

 

それが嬉しくて、思わず抱きついた。

 

勢いよく飛び付いたからか、お婆様の瞳の色と同じ紫のドレスのスカートが揺れてしまった。

 

 

「アイリス様、いけませんわ。

ここでの関係は教師と生徒なのですから。

でも─」

 

 

お婆様は私を戒めたあと、悪戯っ子のような笑みで人差し指を唇に当てながら

 

 

「授業が終わったら、私は“お婆様”ですわ。」

 

 

そう言った。

 

 

「ふふっ、はい!」

 

 

 

 

 

「本日はここまでです。

質問等はございますか?」

 

 

私は迷わず「無いです!」と答えた。

 

今やっているのは確認テストのようなもの。

 

図書館の知識があればある程度は解ける。

 

簡単なものばかりだ。

 

 

「お婆様!」

 

 

私はくしゃっと笑ってまた抱きついた。

 

久しぶりの祖母の温もりに、胸まで温かくなる。

 

 

「今日のアイリスは甘えん坊ね。」

 

 

そう呆れたように言いながらも、温かい目で見てくれていることを私はよく知っている。

 

 

「…侯爵様が、“旦那様”か名前で呼んでっておっしゃっていたんです。」

 

 

しばらく沈黙が続いた後、私は突然、呟きとも受け取れるような小さな声で言った。

 

 

「あらあら。」

 

お婆様はこれが相談だと分かったらしく、頬に手を当てる。

 

 

「何を…何を考えていらっしゃるのですか?

やっぱり使用人にも親密さを見せつけるためですか?

それともまた別の─」

 

 

何の意図を持ってそう話したのか、私にはさっぱり理解できなかった。

 

この5年、人と話すことがほとんど無かったからだろうか。

 

でもそんな私を、お婆様は私の名を呼んで遮った。

 

 

「そんなに深く考えなくて良いわ。

貴女は昔から考え過ぎることが多々あるもの。

名前呼びを提示するだなんて…シンプルに受けとれば、こちらに好意的だということよね?」

 

 

「まあ…そうですけど。」

 

 

でも、と呟いた私を、お婆様はまた遮った。

 

 

「良いのよそれで。

とりあえず気を楽にして、物事全てを浅く考えなさい。

貴女は考え過ぎよ。」

 

 

「物事全てを浅く?」

 

 

「そう。そのまま受け取りなさい。

少なくとも社交界に入る前まではそれで構わないわ。

もっと素を見せても、誰も咎めない。

もし何か言われてしまっても、私は味方よ。」

 

 

その真っ直ぐな紫の瞳に、心が揺れた。

 

こんなに真っ直ぐ想いを伝えてくれる人の存在が、どんなにありがたいか。

 

 

「…へへっ、ありがとうございます。」

 

 

今までで味方だと断言してくれた人は、お婆様とレオンだけだったから。

 

◇◇◇

 

 

「おい、カイル!早く行くぞ!」

 

 

私はそう言って、道中の休憩で休んでいた1人の騎士─カイルを急かした。

 

 

「待って下さいよ!

そもそも旦那様が遅れたくせにー!」

 

 

私も一応は侯爵家の当主。

 

でも、5年前─“あの方”に連れられてやって来たカイルとは、友としての意識が強い。

 

つまり、他の騎士が私にこんな口を利いていたら問題だが、カイルだけは暗黙の了解ということ。

 

だから先程、私がアイリスと話しているのを「早く来て」の叫び声で邪魔されても、うるさいとは思ったが処罰なんてものはしない。

 

 

─アイリス。

 

 

夜明け前の出発だったからか、着替えはしていたものの、まだ髪は緩く編まれた三編みの横結びだった。

 

少しだけ眠そうな顔なのに、相変わらず澄んだ瞳。

 

 

『…旦那様。』

 

 

下向きがちにその言葉を紡いだ。

 

少し恥ずかしそうに呼んでいたのは、気のせいだろうか。

 

名前で呼んでくれたらもっと嬉しかった。

 

でも─

 

 

(可愛かった…)

 

 

その時、急いで荷物をまとめていたカイルが声を掛けてきた。

 

 

「何なんですか?そのにやけ顔。

普段のクールな麗しき当主に戻って下さいよ。」

 

 

冷やかしと取れるその一言。

 

 

「にやけ顔なんてしてないが?」

 

 

「いやいや、してますよそれ。

自覚ないんですか?旦那様。ははっ。

だってその顔─」

 

 

もう一度私の顔を見た瞬間、彼は「ひゅっ」と顔を真っ青にして怯えた。

 

気に障ることがあったからつい顔に出てしまったのだろう。

 

何がとは言わないが。

 

 

「ていうか不思議ですよね。」

 

 

「何がだ?」

 

 

「旦那様は、社交では近寄る女性に目もくれないし、“貴女に興味はない”の一蹴。

そんな人が任務のための移動中にも想い人を想ってにやにやしているんですから。

恋って偉大ですねぇ。」

 

 

そう言ってからかうカイル。

 

 

その整っているはずの顔も、にまっとした変な笑みになっているのだからもはや勿体ない。

 

 

(でもこの気持ちは─)

 

 

「いやでも、恋というより…愛、というか。

何て言うか。」

 

 

少し下を向きながら言ったが、何だか気恥ずかしくて赤面してしまった。

 

 

「うわっ、それ重くないですか?

恋って言った方がオブラートに包まれていて良いですよ。

アイリス様にとっては、会って数週間の親が決めた婚約者なんだから。」

 

 

そんな自分の気持ちも知らず、ずかずかと心の内に入ってくるカイル。

 

遠慮というものが存在しない。

 

 

「というより旦那様、あれですよね。

社交の時に他の男性と踊っているのを見るの、辛くなるタイプですよね。」

 

 

急に話題が変わったが、少し想像してみる。

 

社交パーティーで美しいドレス姿のアイリスが、私を置いて、他の男と踊っている。

 

 

─嫉妬で狂いそうだ。

 

 

「…踊らせなくても問題ないのでは?」

 

 

「何言ってるんですか。

さすがに礼儀がないですよ。

ははっ、絶対に束縛タイプですよ、旦那様。」

 

 

面白いものを見る目でケタケタと笑うカイル。

 

馬鹿にされているようで苛立ったが、ぐっと堪える。

 

カイルは腕だけは良いのだから。

 

剣術の腕は、ベテランでも叶わないと言われる程。

 

まぁただ、それ“だけ”だが。

 

 

「まぁ分かりますよ?アイリス様は確かに可憐で美しかったです。」

 

 

「そうだろ?そんな麗しい女性がそこらの男と踊るなんて、何事だって話だろ?」

 

 

「いやいや、そうはならないですよ。

仕方がないじゃないですか。」

 

 

やっぱり社交ダンスはさせなければいけないのだろうか。

 

あの無垢で可愛い天使のようなアイリスを誰かに見せるなんて…自分の中の黒くて暗い感情が湧き上がるだろう。

 

カイルが言うくだらない“礼儀”が腹立たしくて、思わずぎゅっと口を噤んだ。

 

 

「あははっ、諦めて下さいよ。旦那様。」

 

 

私はそんな友人に「うるさい。」とだけ言って、また、馬車ゆっくりと走らせた。




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第8話

忙しない一週間が経った。

 

城の内部を覚え、お婆様の授業で確認テストを受けた後に、旦那様の仕事内容等を把握しなければいけない。

 

領地経営は勿論、国の政治にも関わりがあり、国境付近での警備や整地も任されているのが侯爵、らしい。

 

本には、貴族の歴史については載っているが、貴族の仕組みについてや個々の貴族の情勢はほとんど載っていなかったから、知らないことも多い。

 

公の場に出る前に、ある程度知らなければ。

 

リリスが用意してくれた上品な紅茶を満喫しながら、テラスで読書をする。

 

春風に吹かれるのが心地良いので、旦那様が出張になってからはずっとこうしていた。

 

でもこの1週間で、春風は段々と薫風へと変わっていっている気がする。

 

この5年間風を感じることなんてなかったから、勘違いかもしれないけど。

 

 

(今日で1週間が経ったけれど…旦那様はどうしているのかしら?)

 

 

今日、帰ってくるのかな。

 

何故かソワソワしてしまって落ち着かない。

 

 

「アイリス様。」

 

 

少しの間私から離れていたリリスがテラスに入ってきた。

 

旦那様のことを考えていて結局読み進めなかった本を、静かに閉じる。

 

でも私に用件があるのはリリスではなく、リリスの後ろにいた若い騎士だったらしい。

 

 

「アイリス様、突然申し訳ございません。」

 

 

息を切らしながら謝る、茶髪に茶色の目の美声年。

 

その胸には光輝く称号がいくつも付けられていて、相当優秀な人材だと窺える。

 

 

「どうされたのですか?」

 

 

「実は…旦那様が帰還の道中に、国境付近で隣国と我が国の平民同士の食物を巡った争いが起き、それに巻き込まれたらしく…」

 

 

(争い?巻き込まれた?)

 

 

自分の息が一瞬、衝撃で止まったのが分かった。

 

 

「だ、大丈夫なのですか!?怪我は…?」

 

 

「まだ分かりませんが、それは心配要りません。旦那様は確かな腕前をお持ちですから。

でも、もう数日は帰宅出来ないかと思われます。

そして、よろしければ…」

 

 

私が「良かった…」と声を漏らしたが、後にカイルと名乗ったその騎士は、少し悪戯気のある笑みを浮かべてこう言った。

 

 

「よろしければ、争いが終息したら馬車でお迎えに上がって頂けませんか。

喜びます。」

 

 

「えっ?喜ぶ…?」

 

 

「はい。

旦那様はアイリス様のことが大好きでいらっしゃいますから。」

 

 

(え?何を言っているの、そんな訳…)

 

 

そう、思ったが。

 

 

─とりあえず気を楽にして、物事全てを浅く考えなさい。そのまま受け取りなさい。

 

 

お婆様の、そんな言葉を思い出した。

 

“お婆様は私のことを、私より知っている”

 

お婆様と過ごした時間の中で事あるごとに、いつもそう思っていた。

 

(浅く、そのまま、受け取る…)

 

 

“大好き”なのはカイルの勘違いだろうけれど、“喜ぶ”のが本当だったら嬉しい。

 

 

「分かりました。

終わり次第、報告をお願いしますわ。」

 

 

カイルは私の返答を聞いて人懐っこそうな笑顔で「承知しました!」と言った。

 

◇◇◇

 

カイルに“終息”を報告されて数十分後。

 

すぐに馬車を走らせた。

 

自分でも何故こんなに急いでいたのかは分からないけれど、早く到着するに越したことはないだろう。

 

数時間経ち、ようやく国境付近に辿り着いた。

 

恐る恐る馬車を下りると、そこに広がっていたのは、枯れ果てた草木、干からびた大地、やつれた人々。

 

首都とかけ離れた光景だった。

 

 

(ああ、これで食物の争いが起こったのね。)

 

 

今の私は良い。

 

上質な服、贅沢な食事、広い城。

 

衣食住も当たり前のように全て揃い、プラス“財産”も付いている。

 

でも、彼らはどうだ。

 

その痩せた小さな身体で食物を欲しがる。

 

その時私は少しだけ、本当に少しだけ、今までは思い出さないようにしていたある小さい少女を思い浮かべた。

 

両親とメイドはその少女をいない者として扱い、少女は痩せ細った身体で食べ物を求めるも無視された。

 

6歳で街に出掛けて人の優しさに触れるまで、教養も無ければ容姿も優れない、メイドには出来損ないだと罵られ、息を吸って吐くだけの生活を続けた幼い子爵家の娘。

 

 

─彼らはまるで、幼い頃の自分のよう。

 

 

(私に何か出来ることは…いや、私は何の力も持っていないわ。

無力な私には無理、か。)

 

 

私にも何か、力があれば良かったのに。

 

人を助けられる力。

 

人を守れる力。

 

私は静かに街を見つめ続けた。

 

そして、乾燥した風が強く吹いた時─1人の男性が前から歩いてきた。

 

 

(…旦那様だわ…)

 

 

向こうは元々気が付いていたらしく、小さく手を振る。

 

手を振る行為がに良いのかどうかは置いておいて。

 

 

「アイリス嬢っ!」

 

 

周りに聞こえるであろう大きな声で、私の名を呼んだ。

 

気恥ずかしい気もするが、私の方に駆けてきてくれる旦那様には、何も言えなかった。

 

旦那様は、私の目の前で足を止める。

 

一週間と数日会っていないだけで、随分会えていなかったように感じた。

 

 

「お疲れさまでした、旦那様。」

 

 

彼の、その青みがかった黒い目を見ながら、労りの言葉を言う。

 

 

「ああ。それにしても、随分すんなり旦那様と呼べるようになったんだな。」

 

 

旦那様はくっくっと笑い、

 

 

「え、ええ。まぁ…」

 

 

と曖昧な返事をした私を見て微笑んだ。

 

 

(これは…からかわれている?)

 

 

旦那様をじっと見つめると、その目線に気が付いたようでくしゃっと笑う。

 

 

「帰ろうか。」

 

 

旦那様は静かに私の手を取った。

 

私の冷えた手とは対照的に、温かくて優しい手。

 

初めて旦那様に握られた手に、私も少しだけ力を込めた。

 

馬車に乗り込んで最初のうちはリリスが城での出来事等を旦那様に報告していたが、やがて口数は無くなった。

 

馬車が走る音と虫の音だけが響く。

 

向かいにはリリス、隣には旦那様。

 

ふと横を見ると、旦那様は疲れていたようでうとうとし始めていた。

 

辺りを見れば、もう夜中に近いと推測出来る暗さと星の明るさ。

 

無理もない。

 

 

「あっ…」

 

 

夜空を見ると、まん丸の月があった。

 

今日は満月らしい。

 

月の影が、本を読む少女のように映る。

 

 

─もう少し月が見たくて窓に近付こうとした、その時。

 

 

「きゃっ…」

 

 

左側の肩に、明らかな感触。

 

目をやると、そこには旦那様が寄りかかっていた。

 

顔の距離も、物凄く近い。

 

羞恥で顔が真っ赤になってしまった自分の顔が窓に映る。

 

 

「あらあら、旦那様…。

アイリス様、どうなさいますか?お嫌なら起こしましょうか?」

 

 

リリスは旦那様に呆れているよう。

 

旦那様はそんなやり取りも露知らずといった感じで、ぐっすりと眠っている。

 

そうだ。

 

一週間働き詰めで、更に争いに巻き込まれたんだった。

 

疲労困憊は当たり前だ。

 

 

「いえ。…嫌では…ないわ。」

 

 

私が微笑みながらそう答えた、その時。

 

 

「アイリス…」

 

 

旦那様は突然、うわ言のように私の名前を呼んだ。

 

しかも呼び捨てで。

 

 

「えっ!?」

 

 

思わず声を上げてしまい、旦那様が少しだけ寝返りを打ったので、起こさないようにとすぐに自分の手で口を塞いだ。

 

その直後には、また穏やかな寝息が聞こえてきた。

 

 

(寝言か…でも何だったのかしら。)

 

 

旦那様の寝顔を、少し背徳感を感じながら見つめた。

 

普段よりいくらか幼く見える。

 

その綺麗な瞳は見えないが、顔は微笑んでいた。

 

私は魔が差して、何故かその艶のある綺麗な黒髪を触ってしまった。

 

それでも旦那様は穏やかに眠る。

 

その安らぎを感じさせる旦那様の寝顔を見ながら、私は、ただただ平穏な時間が続くことをぼんやりと願った。

 

そうして私は、ゆっくりと睡魔に侵されていった。




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第9話

これは夢だろうか。

 

ふと気が付けば、幼い頃の自分が目の前にいた。無機質な表情、呪いだと言われた黒くて暗い瞳。疲れ果てて魂が抜けたような目で私を見つめる。

 

そして、彼は私に聞いた。

 

 

『もう…死んでも良いかな?』

 

 

それは、何もかもに絶望を感じていた8年前の声。

 

私はそんな彼に、静かに首を横に振った。

 

◇◇◇

 

また今日も、朝が来た。

 

快晴の空、暖かい気温、鳥のさえずり。

 

誰だって清らかな朝に思うだろうが、僕には憂鬱そのものだ。

 

ベッドから上がった、丁度そのタイミングで、ノックもせずにメイドが入ってきた。

 

 

「ふわぁ…眠。坊っちゃま、おはようございまーす。ちゃんと食べて下さいね。ははっ。」

 

 

薄汚い机の上に食事と服を雑に置いて、僕を一瞥。

 

汚いものを見るような目で僕を見て嘲笑ってから、すぐに出て行った。

 

ゆっくりと机に向かうと、そこには黒いカビが点々とあるパンと水で薄めたようなスープがあった。

 

きっと、パンの方は料理長の、スープの方はさっきのメイドの嫌がらせ。

 

机に置いてあった服は、メイドの兄弟の古着を更に土で汚したもの。

 

証拠として、知らない男の子の名前が記してあり、更に土が床にまで落ちている。

 

 

「はぁ…」

 

 

もう、何年経ったのだろう。

 

こんな生活を続けて、一体何の価値があるのだろう。心が腐れていくだけなのに。

 

もう11年。ずっと変わらない。

 

生まれた時から、僕の周りの人達はこぞって僕を嫌った。

 

 

─僕は、呪われている悪魔のような子だから。

 

 

赤子の時から目の色が暗かった。

 

青が黒ずんだような、印象の悪い目。

 

幼い頃から母親に会うと「貴方は私達の子じゃない。悪魔よ。」と冷笑を浮かべて言われた。

 

父親は無視一択。

 

両親が僕の身体に触れたことは、記憶の限り一度も無いし、きっも赤子の時も無かっただろう。

 

使用人達からは嫌がらせや蹂躙を受けた。

 

この身体に、どれだけの傷を負ったか。

 

生きていて意味はあるのかな。

 

この、人として扱われない人生に。

 

 

(それならいっそ…)

 

 

そう思って、僕は小さな窓を開けた。

 

僕が入れるサイズではある。

 

 

(もう、思い残すことないよね。)

 

 

全てを諦めた無の感情を抱きながら、外を見つめた。

 

 

「来世は…在り来たりで良いから、“幸せ”が欲しいな。」

 

 

そう呟き、窓に身を投げ出そうとした瞬間だった。

 

遠くに、ある丘が見えた。

 

別に花が咲き誇って特別美しい訳でもないし、沢山の人がいる訳でもない。

 

なのに、何故か釘付けになってしまった。

 

その丘だけに、特別感を抱いた。

 

 

(どうせ死ぬなら最期くらいここを出て…出来ればあそこで死にたいな。)

 

 

最期くらい、好きにしたい。

 

死ぬ場所くらい好きに選んでも良い筈。

 

僕のことを虐げるくせに、皆、揃いも揃って僕をこの城から出さなかった。

 

僕を人として見ていない奴らにいつも虐げられるこの“檻”から。

 

閉じ込める理由はきっと、親に言いつけられているの半分、自分の鬱憤晴らしにしたいの半分。

 

だからずっと、この城から出たことがなかった。

 

優しい人に出会いたい、あわよくば幸せになりたい。

 

そんなことはもうとっくに諦めた。

 

でも、今の僕には生きる理由が出来たから。少しだけ気力が湧いてきた。

 

正門から外に出るのが一番楽だろうが、門の前には番人がいて、以前通ろうとしたら「しっしっ。呪われたガキはあっちいけ。」と虫のように扱われた。

 

正門は使えない、だとしたら残るは窓。

 

自分の部屋の窓から出て、近くに生える木を登り、その高い塀を越える。

 

塀を越えたら外にある近くの木に移り、地面に下りる。

 

そうしたら丘に向かって歩き続ける、それだけ。

 

肝心なのは、窓から出て木に登る程の体力が、塀から木に移って下りる程の体力が、その後に歩き続けられる程の体力が、そしてそこまでの気力が、僕にあるかどうかだった。

 

ずっと部屋に閉じ籠っていた僕は、きっと力がない。

 

一般的に見たら弱々しいだろう。

 

 

(でも、初めて自分からやりたいと思えたことなんだし…)

 

 

それから。

 

窓から見えた騎士達のトレーニングを見よう見真似でやった。

 

部屋の中で走る練習もした。最初は息が続かなかったが、それでも、今までで一番一生懸命に。

 

3ヶ月後のある夜明け。

 

窓を全開にし、近くの木によじ登った。

 

 

「うっ…」

 

 

予想以上に木の表面が荒く、太ももの皮膚を切ってしまった。赤い涙が流れる。

 

でも、諦めるなんて。

 

ただここを出ることだけを目標に、必死に、必死に、必死に─“檻”を出た。

 

 

「やった…」

 

 

外の地面に足を付けた時、身体に涼しい風が染み渡った。

 

こんなに気持ちの良い風、受けたことがない。

 

清々しい気分だった。これが“自由”なのか。

 

もし脱走したことが使用人や両親にバレても構わない、そう思えた。

 

丘で死んでしまえばそれまでだし、たとえ死なないで城に戻ってきてまた虐げられても、今の僕は大丈夫。

 

今の僕はきっと、強く在れる。

 

自由って、こんなに強かったのか。

 

11年間に渡って僕に絡み付いていた鎖が取れたような気がした。

 

丘の頂に行くまでに掛かる時間は、想像の倍以上だった。

 

でも、さほど苦でもなかった。

 

初めて間近で見た草木や花を新鮮に思いながら楽しく歩けたから。

 

 

「うわぁ…」

 

 

息を切らしながら頂に辿り着いてその風景を見た時には、生きてきた中で一番気分が優れた。

 

眩しい朝日が昇り、草木や街が照らされる。

 

照らされた草木や街は生き生きと輝き、世界中がきらきらと光って見えた。

 

城よりかは標高は低いはずだけれど、この丘からの景色の方が美しく見えた。

 

草木や建物が見える角度、もしくは時間帯の問題だろうか?それとも今の気持ちの問題?

 

分からないけれど。

 

 

「これが“綺麗”か…」

 

 

思わず、涙が出てきた。

 

色々な感情や環境に会って、心がパンクしたように。

 

初めて、生きてきて良かったと思えた。

 

 

─その時。

 

 

「こんにちは。隣に座っても良い?」

 

 

あどけなさが入った、可愛らしい声が聞こえた。

 

僕は反射的にびくっと身体を震わせてしまった。

 

僕のことを呼ぶ人は大体、汚いものを見る目で僕を見たから。

 

でも声の主は美しい金髪の女の子で、その目は汚いものを見る目ではなく、光を奥に宿したような美しいエメラルドグリーンだった。

 

雰囲気があったかくて、優しそうで、まるで天使のよう。

 

 

「だ、大丈夫…?」

 

 

その少女は、泣いている僕を見て慌てながらそう言った。

 

 

“大丈夫?”

 

 

生まれて初めて掛けられた言葉だった。

 

まさか僕に、誰かに心配される日が来るなんて。

 

 

「ひ、1人になりたい?だ、だったら帰るね。何かごめんね」

 

 

だけど女の子は、慌てたようにそそくさと帰ろうとしてしまう。

 

後ろを向いて、歩き出そうと─

 

 

「え…?」

 

 

僕は無意識に、その女の子の服の端を握った。

 

女の子は驚いたように振り返る。

 

礼儀が悪いのは分かっていたけれど、帰って欲しくなくて。一緒にいて欲しくて。

 

いつから僕は、こんなに欲張りになったんだろう。

 

でもその温かい空気をずっと隣で感じていたかった。

 

その思いが伝わったのだろうか。女の子はゆっくりと僕の隣に座ってくれた。

 

 

「…貴方、名前は?」

 

 

名前…僕の名前はリアン、だけれど。

 

僕は、この前メイドが言っていたことを思い出した。

 

“リアン”はここら辺では珍しくてそれでいて綺麗な名前で貴方には似合わない、と。

 

もしこの名前を伝えて、この子に侯爵家の呪われた息子だって知られてしまったら。

 

 

(嫌だな…)

 

 

「…レオン。」

 

 

咄嗟に出た名前は、レオン。

 

この丘に来る時にある少女が少年に「レオンっ!」と、幸せそうに呼んでいたから。

 

偽名といっても一般的な名前を知らなかったから、“レオン”が丁度よかった。

 

実際にある名前なら、その名前が不自然である可能性は低くなるだろうし、僕が変に創作するよりよっぽど良い。

 

まぁ、半分は幸せそうな時を過ごしていたその2人に対しての羨望だけど。

 

 

「そっか。…私はアイリス。アイリス・アメリアン。私ね、いっつもここに来ているの。」

 

 

アイリスは、まだ少しだけ泣いている僕の背中を温かい手でそっと撫でながら、そう言って微笑んでくれた。

 

 

(あったかいなぁ…)

 

 

星のような金髪が風で靡いた。

 

その光輝く目は、弧を描く。

 

その時のこの少女があまりにも美しく神秘的で、僕はアイリスの顔を真っ直ぐ見つめてしまった。

 

正面から見た僕の目がどれ程気持ちが悪いか、散々知っている筈なのに。

 

 

「綺麗な目…」

 

 

でも、アイリスが放った言葉は意外そのものだった。

 

 

「…き、綺麗?これが…?」

 

 

(これが綺麗?何を言ってる?)

 

 

困惑する僕に、アイリスは平然として「うん、綺麗。」と答えた。

 

あろうことか、まるで惚けているような顔色。

 

 

「…そ、それは、皮肉?…黒い目なんて、この国では不吉…だろ?」

 

 

これが、喧嘩を売られるということなのだろうか。

 

僕は途切れ途切れになりながらも懸命に言葉を紡いだ。

 

そして、きゅっと彼女を睨む。

 

馬鹿にされないように。

 

 

「そうなの?」

 

 

でも彼女は、そんな風潮を知らなかったようで。

 

 

「…いつも、僕の両親は、そう言う。だから…虐げられるんだ。」

 

 

思えばこれが初対面なのに、何でこんなことを話したのだろう。

 

しかも、話すことに慣れていないのがバレバレな口調になってしまっている。

 

僕のそんな言葉に、アイリスが大きな声で「な、何それ!?」と言った。

 

僕はその大声に怯え、びくっと身体を震わせてしまう。

 

大声は僕にとって悪いことでしかない。

 

誰かに怒られる時、叩かれる時、蹴られる時。

 

そのどの時も、騒がしい怒鳴り声が飛び交った。

 

 

(これは…失礼だよね…)

 

 

人に怯えるなんて、失礼そのもの。

 

アイリスの様子からして、きっと彼女はそんなつもり無かったのに。

 

 

(怒られる、かな。)

 

 

無礼を詫びろ、なんて言われると思っていた。

 

 

─でも、アイリスは。

 

 

「ご、ごめんね?急に大きな声出して。でも、そんなのおかしいよ!目の色で虐めるなんて、正気じゃないわ。

私ね、黒い目が不吉とか、そういう風習は分からないけれど、綺麗だと思う。」

 

 

「…これが?」

 

 

「うん!青みがかった黒い目なんて初めて見たわ。奥深い感じで、とっても綺麗。」

 

 

アイリスは、両親に怒ってくれて、この目を綺麗だと言ってくれた。

 

生まれて初めて、僕を肯定してくれた。

 

アイリスのその言葉は、僕には“生きていて良い”と言われたように感じた。

 

僕という存在を肯定してくれた気がした。

 

 

─どうしてこんなに、あったかいんだろう。

 

 

虚無感で埋まっていたこの胸の中に、ぽつぽつと温かくてきらきらした光のようなものが入ってくる感覚がした。

 

僕の代わりに怒ってくれるなんて。

 

この目を褒めてくれるなんて。

 

その温かさに、思わずまた泣いてしまった。

 

泣くことは忘れたと思っていたのに、今日一日、沢山の涙が溢れた。

 

 

「…ほ、ほんとに?」

 

 

本当の本当に?それが本心なの?

 

 

─信じて良い?

 

 

アイリスは一切迷うことなく「ほんとに!」と答えてくれた。

 

 

(あったかい…嬉しい。)

 

 

初めて出会った、人の優しさ。

 

僕は一生、今日のことを忘れないだろう。

 

アイリスが僕の顔を見て笑った。

 

まるで天使のように、美しく、可憐で、愛らしく、何より眩しい笑顔だった。

 

◇◇◇

 

そんな幼い頃の出来事を思い出していた次の瞬間、私は目が覚めた。

 

それでも辺りは真っ暗。多分、ここもまた夢の中。

 

ぐるっと周りを見渡して、遠くの方に一筋の明かりがあることに気が付いた。

 

どこに行けば良いのか分からず、とりあえずそこに向かって真っ直ぐに歩く。

 

歩いて、歩いて。

 

どのくらい時間が経ったのだろうか。

 

ある時、辺りが光に包まれた。

 

 

『…っ。』

 

 

眩し過ぎる光に、思わずきゅっと目を閉じた。

 

しばらくして、静かに目を開けると。

 

 

『アイリス…』

 

 

そこには、色とりどりの花々に囲まれたアイリスがいた。

 

現在のアイリスと同じくらいの背丈だが、今よりも健康状態は良さそうだ。

 

その金髪は真っ直ぐに下ろされ、美しいレースやフリルが使われた純白のドレスを身に纏うアイリス。

 

そんな彼女は私を見て、天使のように麗しい、飛びっきりの笑顔を浮かべて言った。

 

 

『リアンっ!』

 

 

心が温かくなる、愛しい声で。




余談ですが、レオン(クロッカス侯爵、リアン)の“青みがかった黒い目”は、日本人の真っ黒な目とヨーロッパ系の澄んだ青い目がハーフになったイメージです!
見たことがないのでよく分かりませんが…笑

ご覧頂きありがとうございました!
次話もご覧頂けると幸いです(*´꒳`*)


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第10話

記念すべき第10話です!1話からここまで見て下さっている方、ありがとうございます✨
拙い作品ですが、是非ご覧くださいな。


はっとして目を覚ました。

 

見覚えのある真っ白な天井が目に映る。

 

上質な素材を使っているがシンプルな机、椅子。アンティークな小さな棚、そして今いるベッド。

 

それだけ。

 

殺風景な、見慣れた自室だ。

 

 

「私は…馬車に乗って…それで?アイリスは…?」

 

 

覚えていない。どうやって帰ってきたか。

 

窓を見れば、夜が明けて朝日が昇り始めている。

 

おもむろに扉を開けると、丁度リリスがノックをするところのようだった。

 

こんな早朝だというのに、既に着替えて仕事モードの顔だ。

 

完璧なメイドだと思う一方、一体いつ休息を取っているのかと心配になってくる。

 

 

「おはようございます、旦那様。」

 

 

「あ、ああ。…」

 

 

昨晩何があったのかを聞き出したかったが、いざとなると何て聞けば良いのか分からない。

 

そのことに気が付いたのだろうか。

 

新しいからかい要素を見つけたとほくそ笑むリリスがいた。

 

 

─いくら完璧なメイドでも、この性格のせいで台無した。

 

 

「昨晩のことですねぇ?教えて差し上げますよ。」

 

 

にやつきながらリリスはこそこそと話した。

 

 

「…アイリスの、肩に?」

 

 

「はい!アイリス様の左肩でぐっすりと眠ってらっしゃいましたよ。随分と微笑んでおりましたねぇ。」

 

 

(うわぁぁぁぁ…)

 

 

これは、やってしまった。

 

好きでもない男に肩で眠られるなど、嫌で仕方がないはずだ。

 

私は思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 

 

「ああ、でも私、アイリス様に伺ったんです。お嫌だったら起こしますけれど、どうなさいますか?って。」

 

 

「アイリスは…?何て言ってた?」

 

 

絶望と自己嫌悪で沈んだ気持ちだったが、どうにか問う。

 

 

「…“嫌ではないわ”と、一言。」

 

 

(…!?)

 

 

驚いて、リリスの顔を見る。

 

 

「本当か!?本当に?嫌ではないと?!」

 

 

リリスは取り乱した私を見てくすくすと笑いながら「そうですよ。」と言った。

 

 

「その後、旦那様は寝言でアイリス様を呼び捨てにして呼ばれました。」

 

 

「は!?」

 

 

私は思わず大声を上げた。

 

でも、隣のアイリスを起こしてしまうかもしれないと、すぐに口を手で塞ぐ。

 

そして、先程の夢を思い出した。心当たりが存分にある。

 

 

(夢の中で私は、彼女の名を…ああ。)

 

 

羞恥で体感温度が大幅に上がり、冷や汗も含めた汗をかいてしまった。

 

 

「旦那様、一体どんな夢を見ていらしたのですか?」

 

 

心当たりを話すと、口に片手を当て、にやにやしながら私にそう問うリリス。もはや悪魔に見える。

 

でも、私は夢の内容を正直に話した。

 

辛い日々の中アイリスと初めて会った日を思い出したこと、そして─

 

 

「花に囲まれ、純白のドレスを身に纏ったアイリスがいたんだ。最高の笑顔で、名前を呼んでくれて…」

 

 

そう告白してから、耳まで赤くなってしまったのが自分でも分かる。

 

こんな夢を見たことが恥ずかしい。

 

所謂“穴があれば入りたい”の気持ちだ。

 

その話を聞いたリリスはらからかい半分、気遣い(だと思う)半分で話した。

 

 

「ふふふっ。そのアイリス様のお召し物、ひょっとしたらウェディングドレスかもしれませんね。」

 

 

「う、ウェディングドレスっ!?」

 

 

夢の中では美しいくらいにしか思わなかったけれど、言われてみればそうだ。

 

あの真っ白で美しいものドレスは、確かにウェディングドレスを連想させる。

 

 

(だとしたら私は、まだ心が打ち解け合っていない女性のウェディングドレス姿を夢で見たってことか?…ああ。)

 

 

自分でも分かる、アイリスにとって、さすがに気味が悪いだろう。

 

まだ好いてもいない男に、こんなことを想像されるなんて。

 

 

(自分で思っても気色悪いな…)

 

 

でもリリスの表情は、いつものからかう時の笑みから優しさで溢れた笑みに変わった。

 

 

「正夢になると良いですね。」

 

 

優しいトーンで温かな声色。

 

珍しく私に気を使ったのか、それとも私の幸せを願ってくれたのか。

 

そんな優しい笑みを浮かべられると、むしろこちらの調子が狂う。

 

でも、ありがたい。

 

 

(正夢…なれば良いがな。)

 

 

「…それより、アイリスはどんな反応をしていた?」

 

 

ある程度時間を置いて、小さい声でそう聞いた。

 

私に名を呼ばれて、どう思ったのだろう。

 

そもそも、夢の内容は知られていないとしても、いきなり名前で呼ばれて驚いたのは明白だが。

 

 

「アイリス様は驚かれて、顔を赤面されていました。旦那様の髪も、少しだけ触られていましたよ。そのうち、アイリス様は肩に旦那様を乗せたまま眠られました。」

 

 

リリスがアイリスの部屋の扉を見て微笑んだ。

 

リリスにくすくすと笑われながらも、私は思わず自分の黒髪に手を伸ばす。

 

 

「そ、そうだったのか…」

 

 

嫌ではなかった、赤面した、髪に触れた…

 

彼女は私のことを嫌っていないのか?

 

 

なら─

 

 

「脈あり…?」

 

 

私はかあっと熱くなって、手を伸ばしていた髪をくしゃっと乱した。

 

想い人がいたとしても、私も慕ってくれるかもしれない。

 

そんな、淡い期待を抱きながら。

 

 

 

 

 

「それより、旦那様。お仕事させて頂きましたよ。」

 

 

リリスの顔から急速に笑みが消え去り、その黒髪の後れ毛を耳に掛けた。

 

冷徹メイドモードだ。

 

 

「彼女の5年について、か。」

 

 

リリスにはこの一週間、私が出張をしている間に調べものをして貰っていた。

 

アイリスの、空白の5年間。

 

閉じ込められて放置されていたとは言っていたらしいが、まだ、事の奥の方を知らない。

 

 

「アメリアン家で働いていた中年のメイドに話を聞けました。旦那様から頂いた資金を使って。たっぷり乗せたら快く話してくれましたよ。…気色悪いですが。」

 

 

リリスは汚いものを思い出したように顔を歪めた。

 

軽蔑したことを表すように、その澄んだ茶色の目を細める。

 

資金を渡しておいて良かった。

 

勿論、最終的にはメイドにも罪を償って貰うつもりだが、今は情報源だ。

 

しかし、そこまで金に執着しているとは…確かに気色悪い。

 

何より愚かだ。

 

 

「アイリス様は…アイリス様は、両親に物置小屋で閉じ込められていたそうです。小屋には最低限生活できるものしか置いてなかったそうです。食事は1日1回。メイドが小さな窓からパンやら果物やらを投げ入れたって…。この5年、アイリス様は外にすら出ていなかったのです。忌々しいあの両親とメイドがいたせいで…!」

 

 

怒りで身体を震わせながら、そして泣きそうになりながら、リリスは言った。

 

5年が経って再開した最初の日のことを思い出す。

 

あの、華奢過ぎる身体。

 

 

(害悪め…!)

 

 

思わず、壁をドンと叩いた。

 

壁にぶつけて真っ赤になった私の手を、リリスは包み込むように優しく握り、静かに下ろす。

 

 

「…報告、ありがとう。必ず償わせる。」

 

 

リリスは腹立たしい気持ちを抑えるようにぎゅっと口を噤み、力強く頷いた。

 

◇◇◇

 

 

(私、何をやっているのかしら?!侯爵家の当主を肩で…だなんて。身の丈に合っていないにも程があるわ。)

 

 

恥ずかしい。

 

私はいつもより朝早く起きたもののベッドの上で悶々としていた。

 

 

「アイリス様、おはようございます。失礼致します。」

 

 

その時、ノック音と共にリリスの声が聞こえてきた。

 

 

「おはよう、リリス。」

 

 

リリスは一瞬、私を見て、顔を泣きそうに歪めたがしたが、次見た時はすぐにいつもの優しい微笑みを浮かべていた。

 

 

(…?何かしら?)

 

 

リリスには隙がない。

 

いつも完璧で有能なメイド。

 

その仮面が外れることはない─と思っていたが。

 

時折感じられるのは、人間味のある表情。

 

でも、それがまたどういう意味なのかは…まだ分からない。

 

リリスのことは、まだまだ知らないことだらけだ。

 

 

「さぁ、今日は旦那様は休日ですよ。」

 

 

「あら、そうなの?」

 

 

「はい、出張明けですからね。今日一日だけ休みだそうです。明日も出勤は午後だけのようです。」

 

 

(丸一日休み…!?どんな顔で会ったら良いのか分からないわ。)

 

 

でも、私はふと思った。

 

旦那様は熟睡されていたし、私が顔に出さなければ問題ないのではないか、と。

 

 

(そうね、向こうは気が付いていないだろうし。平常心、平常心。)

 

 

鏡を見ると、手慣れた仕草で私の髪を三編みのハーフアップにするリリスがいた。

 

丁寧に丁寧に髪をセットして、薄くメイクを施す。

 

 

(リリスは私を…馬鹿にしないのね。)

 

 

それどころか、あんな両親がいるのに、この城の皆、私に対して優しい。

 

本当に私は、良い人達に出会った。

 

 

「旦那様、おはようございます。」

 

 

ダイニングにいる旦那様に、礼をした。

 

休日だから、私服姿だった。

 

白いシャツにブラウンのジャケット。

 

いつもよりはラフな格好で、新鮮さを感じて思わず目がいってしまった。

 

それにしても、一週間と数日ぶりの旦那様との食事だ。

 

品の良い料理ばかりだが、更に美味しく感じる。

 

 

「そうだ、アイリス嬢。今日は街に出ないか?」

 

 

「街…ですか。」

 

 

最後に街に出て5年前。

 

この城に来る道のりでも、ほとんど外を見ていない。

 

そしてこの城に来て1ヶ月以上は経ったが、外出はしてこなかった。

 

外に慣れていないから、少しだけ不安だ。

 

 

「アイリス嬢、服を買いに行かないか?」

 

 

「服を…?」

 

 

何故急に?私は服なんて…

 

 

(あっ!)

 

 

─「アイリス嬢の服は華々しいなと思って。…それが好みなのか?」

 

 

─「いえ。これは母が選んだもので、私は…あまり好みではありません。」

 

 

─「そうか。好きな服装の系統とかはあるのか?」

 

 

─「特にありません。宝石が沢山付いていたり、けばけばしかったりしなければ。」

 

 

絶対にこれだ。

 

 

(きっと、派手な服を着ているから侯爵家の品格に合わない、と思われたんだわ。)

 

 

例え体裁を気にしてのことでも、なんて優しいのだろう。

 

いつか誰かに聞いた“冷酷無慈悲”の噂は、やはり嘘だ。

 

こんな優しい人の婚約者が、想い人がいることを告げている人だなんて、彼には本当に申し訳ない。

 

でも、レオンが常に頭の中にいるのは変わらない。不可抗力でもあるが。

 

 

(やっぱり、絶縁した方が良いのかしら。)

 

 

そんなことを考えていると。

 

 

「どうだ?行かないか?」

 

 

様子を窺っていた旦那様がもう一度私に問う。

 

 

(でも…少しくらい、甘えても良いわよね。)

 

 

あと少しだけ幸せを体感しても…許されるかな。

 

こんなに優しい人を縛り付けているような感覚に襲われながら、それでも少しだけお世話になりたいと思ってしまった。

 

 

「はい。」

 

 

旦那様は私の回答を聞いて、満足そうに紅茶を飲んだ。

 

その優雅で麗しい姿勢や飲み方には感嘆してしまう。

 

 

─あれ?

 

 

(侯爵家は、デザイナーを家に呼ぶくらいの財産は十分にある筈だけれど。)

 

 

私にもっとお金を使ってと言う訳でもないが、その方が旦那様も遥かに楽なのでは…?

 

◇◇◇

 

侯爵家の馬車は、アメリアン家の馬車の何倍も乗り心地が良かった。

 

旦那様の迎えに上がった時も侯爵家の馬車だったが、その時は慌てていたのでよく覚えていない。

 

窓を覗くと、活気の良い町並みと、美しい緑があった。

 

 

─セントポーリア都市。

 

 

国内最大の都市であり、首都。

 

私のいる西部は、中心部と比べては田舎だが、それでも物珍しいものも並ぶ。

 

外国からの輸入品や見たことのない機械。

 

好奇心がくすぐられる。

 

馬車から見える店の品を見ていると、旦那様は「何か欲しいものがあったか?」と聞いてくださった。

 

確かに私のとっては不思議な商品で溢れていたが、旦那様に服以外の何かに財産を使って頂くなんて、申し訳なさ過ぎる。

 

 

「滅相もありません!」

 

 

私は慌てて大きな声で言ってしまい、それをまた旦那様はからかうように笑った。

 

 

馬車を下りると、大きくて可愛らしいお店が建っていた。

 

赤茶のレンガで作られ、金色の窓縁が付いた窓からは沢山の布が顔を出す。

 

 

「ここは庶民のスペースと貴族のスペースに別れているんだ。沢山の宝石が強調される訳ではなく、美しい生地でデザイン性や技術を重視している。派手ではない服ばかりだ。何より─」

 

 

何故か、女性の洋服店について事細かに語る旦那様。

 

何故そんなにも詳しいのだろう、女性ものの服なんて縁がない筈なのに。

 

 

─否。

 

 

私は、隣で微笑む旦那様をチラリと見た。

 

容姿端麗とはまさにこのこと。女性に人気だと言われてもまるで違和感を覚えない。

 

 

(…もしかしたら、旦那様にも“そういうお方”がいるのかもしれないわ。)

 

 

そう考えると、妙に納得してしまった。

 

 

「さぁ、行こう。」

 

 

そんな私の思考も露知らず、旦那様は微笑んで私に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

「か、可愛い…!」

 

 

店内で思わずはしゃいでしまった。

 

今思えばはしたないが、その時の私はそれどころではなかった。

 

自分でお店に行って、自分の好きなものを買える。

 

それだけでも十分嬉しいのに、店内には私好みの、清楚系の爽やかな服がずらりと並んでいた。

 

宝石も所々お洒落に付いているだけで、あくまで服そのものを目立たせている。

 

肌の露出や大胆なデザインも少なく、全然派手じゃない。

 

 

「ご試着はどうなさいますか?」

 

 

店員が営業スマイルで問う。

 

服を試着した後に気に入ったものを選び、そこからデザインやサイズを調整していくそうだ。

 

本の中の貴族は、デザイナーが1からデザインを考えて作ることが当たり前だったが、今の私には到底出来そうにないので良かった。

 

 

(もしかしたら、旦那様が気遣ってくださったのかも?)

 

 

「是非!」

 

 

珍しく舞い上がった気分で、着々と着替えをしていった。

 

旦那様に「似合ってる」「可愛い」なんていう感想を貰いながら。

 

 

(うぅ、恥ずかしい…私には勿体無さ過ぎる言葉ね。)

 

 

「旦那様、何着まで買って良いのですか?」

 

 

私は、服をじっくりと見て私に運んできてくれる旦那様に上目遣いで問う。

 

既に何着か着ている。着たものを買わないのは心苦しい。

 

 

「何を言っているんだ。アイリス嬢は立派な未来の侯爵夫人だろう。いくつ買っても構わない。何だったら、ここにある全ての服を買っても誰も咎めない。」

 

 

「えっ、えぇ!?」

 

 

平然と微笑んで言う旦那様だが、想い人がいる婚約者にそんなことを言うなんて。

 

 

(器が大きいにも程があるわ…)

 

 

第一、全部だなんて買っても着れない。

 

 

「アイリス嬢。時間はたっぷりあるのだから、沢山試着して、良いものを沢山決めよう。」

 

 

「そ、そんな、贅沢な!わ、私は2、3着あれば十分です!」

 

 

私は首を思い切り横にぶんぶん振るが、旦那様も引かないようだ。

 

 

「まぁまぁそう言わずに。贅沢して良いんだ。…今までの分も─」

 

 

そこまで言って、旦那様は、口を滑らせたことに気が付いたように口に手を当てた。

 

“今までの分も”?

 

旦那様は、私の過去を知っているのだろうか?

 

だとしたら、一体どうやって調べたのだろう?

 

調べた理由も分からない。

 

私はそんなことを疑問に思いながらも、結局、可愛らしいワンピースに手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、選んだものは全てクロッカス家に。会計はその時で。よろしく。」

 

 

結局、私は服をたっぷり買ってしまい、旦那様は自分の服を一切見ずに私の買い物に付き添った形になってしまった。

 

 

(何だか申し訳ないわ…)

 

 

店頭を出て街にある時計を見ると、午後3時を示していた。

 

揺れる馬車に乗り、ゆっくりと街並みを味わっていく。

 

5年ぶりに見た街には、大きな変化はなかった。

 

変わらぬ姿で、私を待ち続けてくれたように感じた。

 

閉じこめられている間私が考えることと言えば、街や丘のこと、お婆様やレオンのこと、それだけ。

 

変わらぬ姿でそこに在る─レオンもそうだったら良かったのに。

 

なんて、ありもしない希望を抱いてしまった。




ご覧頂きありがとうございました!
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第11話

(…ん?)

 

 

今、私は洋服店から馬車で城に帰っている─筈だけど。

 

しばらくは窓を眺めていたが、明らかに城から店に辿り着くまでの時間以上を走っている。

 

そして、全く見たことがない景色が広がっていた。

 

どうして今まで気が付かなかったのか。

 

 

「だ、旦那様!?この馬車はどこに…?」

 

 

慌てる私を見て、旦那様は悪戯な顔でくすっと笑い、人差し指を唇に当てて「秘密。」と言った。

 

 

(秘密!?私、拉致されるとか…ではないか。私がいなくなっても探す人なんていないし。じゃあ何?何をされるの?)

 

 

私はそこまで考え、あることを思い出した。

 

デザイナーを城に呼ばなかったことに疑問を抱いていたことだ。

 

ひょっとしたら─

 

 

(私を街に連れて行くため、だったり。)

 

 

何と、元々計画に含まれていたのだ。

 

疑問が解消されたと同時に、また、どこにい連れていかれるのか分からない不安に襲われた。

 

まさかここまで優しく接していたのが全てこの時のためで、私はここから─

 

考えただけでもぞっとしたが、その答えは予想外過ぎるものだった。

 

馬車はあるところでぴたっと止まる。

 

 

(ここは…)

 

 

2階建ての茶色と赤色で着色されたお洒落な建物が目の前に立つ。

 

看板の文字は─

 

 

「…カフェ!?」

 

 

思わず、子供の頃のように無意識に大きな声で叫んでしまった。

 

慌てて手で口を塞ぐ。

 

旦那様はからかうように笑うが、今はそんなことどうでも良い。

 

 

「旦那様、カフェなんてどうして…?」

 

 

戸惑う私の頭に、旦那様は何故か、ぽんと手を置いた。

 

大きく温かい手が、私の頭を撫でた。

 

私は一気に熱を出す。

 

 

(…!?手っ!?何故!?)

 

 

手を乗せるきっかけなど、どこにあったのだろうか。

 

私が上目遣いに旦那様を見ると、旦那様は変わらずいつもの微笑を浮かべた。

 

 

─愛しい者を見るような目をしながら。

 

 

意味が分からなければ羞恥も混ざり、混乱する私に構わず旦那様は話し続ける。

 

 

「最近人気のカフェだ。安価だが多種の一口サイズのケーキが上品で美味でね。貴族からの評判も良いんだ。いつも賑わっているらしいから、今日は貸し切り。」

 

 

「貸し切り!?」

 

 

(そんな人気のカフェを、私のために貸し切り?)

 

 

莫大な料金が発生することは、平民寄りの私にも分かる。

 

 

(私にお金を掛けて…何になるのかしら。)

 

 

何か別の考えが?他の思惑が?

 

 

(いや…変に詮索するのはやめよう。)

 

 

お婆様に言われたではないか。

 

深く考えなくて良い、と。

 

まあ、“深く”の基準がどこかは分からないけれど。

 

 

「ほら、行こう。」

 

 

いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、旦那様は私の手を取った。

 

 

(うわぁ…)

 

 

カフェという場所は本で見たことがある。

 

でもそれはイラストが付いていなくて、文で表現されたものだった。

 

そこのカフェは、風景画が飾ってあるクリーム色の壁に赤色の生地を使った黒い椅子が差し色になっていて、装飾の美しいシャンデリアや鮮やかなステンドグラスも目立っているところだった。

 

大きな窓からは色とりどりの庭園も見える。

 

随分凝っているんだな、と感嘆してしまった。

 

 

「お待たせ致しました。」

 

 

店員は私達を奥の部屋へと案内する。

 

そこには、旦那様が言っていた通り、一口サイズの様々なケーキがずらりと並んだ大きなテーブルがあった。

 

私は色とりどりのお洒落なケーキ達に驚くも、たどたどしく席に座った。

 

 

「えっ、これ…食べて良いのですか?」

 

 

「ああ、勿論。遠慮しないで食べるんだ。」

 

 

そんな優しい言葉に甘えて、目の前に広がるケーキを見て1つずつ食べていく。

 

ビスケットの下敷きに鮮やかな苺を挟んだスポンジを置き、その上には淡い桃色の苺クリーム、そして光輝く大きな苺が自分が主役だとでも言いたそうに乗る、可愛らしいケーキ。

 

きらきらとしたオレンジのゼリーの上にふわふわの淡黄のムース、更にグレープフルーツとライムが綺麗に並ぶ、爽やかなケーキ。

 

薫り高い抹茶と練乳クリームを交互に積み重ねた、程よい苦味と甘味を感じるスポンジに、星のように輝く金箔がふんだんに使われた、美しいケーキ。

 

タルト生地に中が見えない程に沢山の黄蘗(キハダ)のクリームがホイップされ、お洒落で甘過ぎないマロングラッセが数個乗せられた、お洒落なケーキ。

 

 

「…美味しいです!」

 

 

仄かな甘さと最大級の美味しさを噛み締める。

 

私はお菓子を食べる機会なんてほぼ無かった。

 

否、もはや皆無に等しい。

 

だからこんなに甘くて美味しいお菓子を、人生で1度でも食べられるなんて思いもしなかった。

 

でも、旦那様は嬉しい気持ちでいっぱいの私を見つめて微笑んでいるが、肝心のケーキは数口しか食べなかった。

 

 

「旦那様は、召し上がらないのですか?」

 

 

思わずそう問うと、旦那様は一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 

「実は…私はそこまで、甘いものに興味はなくてね。嫌いという訳でも無いんだが。」

 

 

言いにくそうに、申し訳なさそうに、小さな声で。

 

旦那様は、私のためにこの場を用意してくださったのだろうか。

 

そんな義理も無ければ、冷たく接しても許される程のことをしている私のために。

 

 

(私のため“だけ”に?)

 

 

店員が持ってきた紅茶に口を付ける旦那様に、私はほとんど無意識で言った。

 

 

「ありがとうございます。」

 

 

◇◇◇

 

 

出会った初日から、アイリスの服が気に掛かっていた。

 

自分で服を作っていたという昔に比べて、随分と大胆で派手なものを纏っている。

 

彼女から話を聞くと、やはり、彼女の好みではないそうだ。

 

 

(前のような、爽やかな服装が良いかもしれないな。)

 

 

閉じ込められていた間、きっと彼女の中の時間は止まってしまっていただろう。

 

だからまだ、そちらの服の方が良いかもしれない。

 

私は丸1日かけて行う筈だった仕事を半日で済ませ、すぐさま城の若い使用人達に最近の流行りの洋服店やカフェを聞いて回った。

 

一番有力な情報をくれたのはラリアで、いくつかのカフェと洋服店を候補として挙げてくれた。

 

ちなみにリリスにも聞いたのだが─

 

 

『申し訳ありません。生憎、私はこの城からほとんど外出しないので…』

 

 

とのこと。

 

休暇を使って街に出ないのかと聞いても、彼女はそもそも街に興味がないらしい。

 

最低限の日用品を揃えて城に籠っているのだとか…仕事人間にも程がある。

 

私はそんなリリスに呆れながらも、当日を迎えた。

 

最初は洋服店。

 

割とこじんまりとした店だった。

 

そこは既製品を元にして少しアレンジを加えるだけの、どちらかと言えば庶民寄りの店。

 

1からデザインして貰うよりかは、アイリスも着た時のことを想像しやすくて良いだろう。

 

更衣室からは、着替えたアイリスが少しだけ恥ずかしそうに出てきた。

 

 

「い、如何ですか…?」

 

淡い桃色の生地に首周りとスカートの端には白いレースが施された七分袖のワンピース。

 

腰回りには協調的に薔薇色のリボンがぐるりと結ばれている。

 

 

(ガーリーな衣装だが甘過ぎず、アイリスの金髪でより可憐さが際立っている。何よりその可愛らしい服を纏いながらはにかむアイリスは天使のように愛らしくて…)

 

 

「可愛らしい。」

 

 

思っていることの全てを吐き出すと間違いなく引かれるので一言だけ。

 

次にアイリスが着たのは、スカートと袖がふんわりと膨らんだ白色が基調のワンピースで、胸の中心部には深みがあるブルーサファイア。ベルトはシンプルなブラウン。

 

 

(先程とは打って変わって清楚なドレスだ。美しいエメラルドグリーンの瞳と相まって神秘的な美しさ…)

 

 

「よく似合っている。」

 

 

更にアイリスが着たのは、白いリボンが袖についた紺色のワンピース。スカートの上には金色の粒をまぶしたチュールレースが乗り、夜空を連想させる服装。

 

 

(深い紺色に恒星のような明るい金髪と真っ白な肌がよく映えている。夜空がモチーフであることに気が付き、照れ笑いのような仄かな微笑みを浮かべる姿にはもはや神々しさすら感じる…)

 

 

「綺麗だ。」

 

 

正直、思っていることをそのまま伝えたかった。

 

でも、せっかくアイリスとの距離を縮められたのに引かれてしまったら今までの努力が全て水の泡だ。

 

心に思っていることを押し殺し、一言だけで収める。

 

そんなやり取りを幾度となく繰り返し、次に向かったのはカフェだった。

 

道中、アイリスは城に戻っていないことに気が付いていなかったらしく、気が付いた時には『だ、旦那様!?この馬車はどこに…?』とかなり焦っていた。

 

可愛らしい反応なのは勿論だが、アイリスは今の今まで全く疑うことなく上の空で外を眺めていたため、少しだけ緊張感の無さを感じた。

 

 

─それはそれで、庇護欲がそそるが。

 

 

カフェでは、貸し切りにした店内のテーブルに並べられたケーキに目をきらきらさせながら、少しずつ美味しそうに食べていくアイリスが見れた。

 

アイリスは頬を紅潮させながらお洒落なケーキをじっくりと観察し、楽しそうに食していく。

 

控えめに言って、とても可愛いらしい。

 

そんなことを考えていたが、アイリスは私がケーキを食していないことに気が付いたようだ。

 

少しは気に掛けてくれてるのだろうか。

 

私が甘いものが苦手なことを知ると、彼女は申し訳なさそうに下を向いた。

 

自分だけが楽しんでいると勘違いしているのだろうか。

 

私はアイリスが楽しそうに、嬉しそうにしているのを見るだけで癒されるというのに。

 

しかし彼女はもう一度目線を上げて、私の方を見て─

 

 

『ありがとうございます。』

 

 

次の瞬間、私は目を見開いた。

 

蕾が綻ぶように。

 

初夏の眩しい光のように。

 

その感謝と共に添えられた表情は、あの頃のような無垢で麗しく、眩しい笑顔だったから。




ご覧頂きありがとうございました!
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第12話

久しぶりの投稿となってしまいまして…待って下さっていた方がいらっしゃいましたら、本当に申し訳ございません 


一人きりとなった私室には、時計の針だけが静かにチッチッチと鳴り響く。

 

その針は、日付が変わる少し前を示していた。

 

 

(そろそろ就寝…出来るかしら。)

 

 

でも、いざベッドで横になってみても寝付けないのが現状だ。

 

今日ははしゃぎ過ぎたのだろうか。

 

久しぶり…本当に久しぶりの外出。

 

買い物を楽しんでカフェにも足を踏み入れ、たくさん“良い思い”をした。

 

旦那様がずっとずっと優しくて。

 

胸が弾んだその時間の余韻が残っているのか、中々上手く寝付けなかった。

 

気分転換になればと思い窓を開け、窓際にある小さな椅子に腰掛けた。

 

涼しげな夜風が身体を包む。

 

静かに息をする虫達の声が聞こえ、木々は星彩を反射しながら揺らめき、漆黒の夜空には欠けた月が見える。

 

思いきり息を吸うと、何とも言葉に言い表せない匂いがした。

 

まるで闇にまぶされた煌めきが光るかのように、生き物達が生き生きと輝いている─そんな雰囲気を感じさせるような良い匂い。

 

これが初夏。夏の始まり。

 

この初夏の匂いは、5年前のものと何ら変わりはなかった。

 

やはり、人は変わるけれど自然は変わらない。

 

 

─そう、レオンはきっと、変わってしまったけれど。

 

 

もう私には婚約者がいる。

 

だから、レオンの変化を嘆く資格すらないのかもしれない。

 

でも、変化がないことに安堵を覚えるのは私だけなのだろうか。

 

私はこれからもずっと、せめて彼らにはこのまま在って欲しい。

 

私が静かにそんなことを希っていると、その音の少ない空間に静かなノック音が入り込んだ。

 

 

「はい、どうぞ。」

 

 

私が声を掛けると共に部屋に足を踏み入れたのは、ラフな格好をした旦那様だった。

 

入浴した直後なのだろうか。

 

その黒髪は水が滴れない程に僅かに湿っていて、顔も紅潮している気がする。

 

 

「アイリス。まだ寝ていなかったんだな。」

 

 

「はい。…あっ…申し訳ありません。もう着替えてしまっていて…」

 

 

全体的に緩いため着心地が良い、真っ白なワンピースの寝間着。

 

この城に来た初日、リリスが「この中から好きなものを取って下さいね。」と言って並べられた十何着の寝間着の中の、一番質素なものだ。

 

余分な飾りが付いていないから、本当に着心地が良い。

 

しかし、いくら婚約関係だからといってこんな姿を侯爵家の当主様にお見せするのは如何なものか。

 

そして何より…お目汚しにならないだろうか。

 

 

「あ…すまない。寝間着姿を見られるのは気分が良いものではないな。今日はお暇しようか。」

 

 

(え…?そういう意味で言った訳では…!)

 

 

私は無意識のうちに椅子から立ち上がり、小走りに旦那様の側に行って大きな水色のシャツの端を掴んだ。

 

ドアを開け、去ろうとしていた旦那様は驚いたように目を見開く。

 

旦那様の服の端を掴んだ時、ふと我に返った。

 

私は何をしているんだ、と。

 

とんでもなく無礼な行為なのは勿論。

 

でも、初めは全く信用していなかった筈の旦那様に今では─

 

 

(誤解を解きたいと思うほどに、私は旦那様を信用しているのかしら…)

 

 

ちらりと旦那様を見ると、彼はその青みがかった黒い─そう、まるで夜空のような瞳を弧の形にして口角を上げていた。

 

穏やかで安堵感を抱ける、いつもの笑み。

 

私はいつから旦那様に、そんなことを思うようになったのだろう。

 

そんな自分の変化に戸惑いながらも、私はそのまま言葉を紡いだ。

 

 

「あっ、あの…そんな意味ではなくて…その…」

 

 

あたふたと言い訳めいたことを言う私に、旦那様は─そっと頭を撫でた。

 

 

(ま、また!?…恥ずかしい。)

 

 

温かくて大きな手で、まるで幼子をあやすように優しく。

 

羞恥でどうにかなりそうだが、かと言って止めてとも言えない─否、言わないのかもしれない。

 

こうされている時は羞恥の反面、何故か心が落ち着いてしまうから。

 

 

(いえ…その前に誤解を解かなくては。)

 

 

私は気を取り直したように一度目を強く瞑ってから、上目遣いで旦那様を見た。

 

 

「私は、その…寝間着姿をお見せすると不快な気分にさせてしまうのではないかと思って。無礼なのは勿論ですが、私はただでさえ…不恰好な容姿なので…」

 

 

最後の言葉を発する時には、声も小さく目線も下に下がってしまっていた気がする。

 

自分で言葉に出して言うと、何だか余計に傷ついてしまったから。

 

“不恰好”“不細工”“気持ち悪い”

 

私がしつこく両親やメイドに構うと幾度となく言われていた。

 

幼い頃はとにかく構って欲しくて、幼いながらに色々考えてどうにか話して貰おうとしていた。

 

でもただの1度も成功したことはなく、しつこいと感じられてしまうと暴言を吐かれた。

 

そんな幼少期を思い出すと、少しだけ落ち込んでしまう。

 

 

「いや…え?不恰好?何を言ってる?」

 

 

でも、旦那様の反応は意外そのもので。

 

信じられないものを見たとでも言うように目を見開き、口を開けた。

 

 

「…はい?」

 

 

旦那様は手を私の肩に置き、私と同じ目線になるよう屈む。

 

突然のことに驚きながらも、真剣そうな旦那様の、私が映った目を見た。

 

 

「アイリス嬢。君は全く不恰好なんかじゃないし、むしろ麗しいよ。まるでてん─」

 

 

“麗しい”

 

それがお世辞だとしても、どんなに嬉しいか。

 

気遣いというものに5年ぶりに触れ、少し心が温かくなった。

 

しかし、その後に続く言葉を紡ごうとした旦那様の口は色白の手によって押さえられた。

 

横を見ると、開けっ放しのドアから入ってきたと思われるリリスがいた。

 

ひそひそと旦那様に何かを言い、それを聞いた旦那様は顔を真っ青にして急いで「いや、何でもない!」と言った。

 

 

「えっ、あの…何が…?」

 

 

リリスは悪戯をしている子供のように意地悪気に微笑んだ。

 

 

「どうかお気になさらず。」

 

 

私は、旦那様が何を言ったかより、リリスがそんな表情をしたことにひどく驚いた。

 

時々垣間見れる、リリスの人間味のある表情。

 

また新たな一面を見られた気がする。

 

…それが良い表情と言えるのかは分からないけれど。

 

 

「…こほんっ、とにかく。」

 

 

旦那様は仕切り直すようなわざとらしい咳払いをし、急いでリリスを部屋から出した。

 

その姿に人間味を感じ、何だか可笑しく思ってしまった。

 

 

「ん?どうかしたか?」

 

 

そんな私の心情が読めるのだろうか。

 

それとも顔に出ていた?

 

旦那様は私の心情の変化を察知し、すぐに問うた。

 

 

「いえ…何でもないです。」

 

 

「本当にどうした?」

 

 

「大丈夫です。何にもありませんから。」

 

 

旦那様は私にそうきっぱりと言われて不服そうな目で私を見た。

 

そんな姿が…侯爵家の当主様に言うべきではないのだろうが、何と言うか可愛らしくて。

 

 

「そうだ。それで…。君は容姿に自信を持って良い。絶対に。むしろ持たなくてはいけない。世の女性を敵に回すぞ。」

 

 

持たなくてはいけない?世の女性を敵に?

 

意味が分からないと思う私を見て「ふっ。」と笑い「何でもない。」と言う旦那様に、ますます困惑した。

 

 

「それで、話は戻るが…私が言いたかったのは、アイリス嬢が寝間着姿を私に見られるのが不快ではないか、と言うことだったんだ。私は勿論君の寝間着姿を見ても不快にならないし、むしろ…いや、何でもない。」

 

 

旦那様は少し顔を赤らめて口に手を当てた。

 

先ほどから「何でもない」ばっかり言う旦那様だが、そんなに言えないことなのだろうか。

 

 

(何だかムズムズするわ…)

 

 

と思ったが、自分も先ほど同じことを言っていたので追及は出来ない。

 

 

「私が旦那様に寝間着姿をお見せして不快になるなんて、滅相もありません。それより旦那様が不快になられていないのなら良かったです…ソファーにお掛けになりますか?」

 

 

「ありがとう。」

 

 

そこで会話が途切れ、しばらくの間沈黙が続いた。

 

私は何を話せば良いのか分からず、ちらちらと旦那様を見た。

 

 

(相変わらず、美麗なこと…)

 

 

特にその、青みがかった黒い目。

 

まるで奥深くに光を秘めているよう。

 

“夜空”

 

さっきの自分の例えを思い出して、本当に良い例えだなと思った。

 

開けたまま放置していた窓からは美しい夜空が広がるが、それが旦那様の目にそっくり。

 

その私の視線に彼は気が付いたのだろう。

 

ばっちりと目があってしまった。

 

 

「…私の顔に何かついてるか?」

 

 

「い、いえ!何でもないです!申し訳ありません…」

 

 

ぶんぶんと頭を振り、急いで謝った。

 

まさか、言える筈がない。

 

“その美しい瞳に惹き込まれていました”なんて。

 

そんなことを言ったら羞恥でどうにかなってしまいそう。

 

 

「と、ところで!何か用件があったのでは…?」

 

 

話題、話題と必死に探し、何とか言葉を紡いだ。

 

 

「いや…特に用はないよ。」

 

 

「え…?」

 

 

「何となく、話せたら良いなと思って。今日のデートはどうだった?」

 

 

旦那様は何故か顔を赤らめながら─

 

 

(えっ?デート!?)

 

 

「デートじゃないです!あれはお出掛けでしょう?」

 

 

旦那様は一体何を考えているのだろう?

 

デートというのは“そういう仲”である男女がするもので─

 

 

(いえ、私達はそんな仲じゃないわ!)

 

 

「え…いやいや、あれはデートだろう?」

 

 

「お出掛けですよ!」

 

 

「デートだって。」

 

 

「お出掛けです!」

 

 

「デート!」

 

 

そこまでして、しばらくの沈黙が流れた。

 

こんな水掛け論を侯爵家の当主様とやっているなんて後から思えば無礼だが、当時はそんなことを考えられる程の余裕はなかった。

 

でも、しばらくして。

 

 

「ふふっ。」

 

 

つい笑いが込み上げてしまった。

 

その言い争いが何だか可笑しくて。

 

笑っている私を見て、旦那様も同じように笑った。

 

旦那様が声を上げて笑うところは初めて見たが、その夜空ような美しい目に相応しい、月のような輝きを放つ笑みだった。 

 

先ほどとは一転して、和やかな空気が流れ始める。

 

 

「君もそんな風に自分の考えを言えるんだな。」

 

 

それが旦那様にとって嬉しいことであるかのように、そして眩しそうに言った。

 

自分の考えを言う…よく考えると本当に久しぶりのことかもしれない。

 

と思ったけれど、よく考えたらレオンのことを旦那様に話していた。

 

出会って初日に、想い人の存在を…

 

 

(何て、自分勝手なんだろう。)

 

 

でも何より、身勝手だと分かっていてもレオンを好きでいることを止められない自分に、一番嫌悪感を抱く。

 

 

「そうだ…アイリス嬢。本当に用がないという訳ではなく…一応話があるんだ。」

 

 

穏やかな静寂が室内を包みしばらく経った頃、不意に旦那  様が口を開き、一通の手紙を出した。

 

真っ白い封筒を赤い紋章の印で止められた手紙。

 

この紋章は確か─

 

 

「皇室…?」

 

 

「ああ、そうだ。実は…皇室に、建国記念のパーティーに招待された。」

 

 

「建国記念…ああ、建国記念日は2週間後でしたね。」

 

 

我が国、エストレヤ。

 

エストレヤが建国されたのは5000年以上昔のこと。

 

当時のエストレヤでは天候不良による凶作が酷く、長期に及ぶ食料を巡った争いが繰り広げられていた。

 

また人々の精神状態も常に不安定であったため、異教間の領地の取り合い等も絶えなかった。

 

人々が疲弊し切った中、後に“初めの聖女”と呼ばれるようになった少女が現れる。

 

それはそれは美しい少女だったらしいが、その最大の特徴は血の色だった。

 

 

─薔薇色の血を持つ聖女。

 

 

現代にも100~200年に1人現れるということ以外情報が公開されていない謎多き話だが、その“初めの聖女”が行ったことだけは広く知られている。

 

彼女は自分の血が他の人と違うことを知っていた。

 

そして、自分には何かしらの“能力”があるということも。

 

彼女は、戦火により焼け野原と化していた土地に足を踏み入れ、正座のまま、飲まず食わずで祈り続けた。

 

平和だけを、ただただ願って。

 

そして約1ヶ月後、ある暁に唐突に彼女は強烈な光に包まれて消え去り、エストレヤ一帯の土地が甦った。

 

荒れ果てた土地は緑を取り戻し、人々は戦意を喪失し、彼女が祈り続けていた場所には現在も使われている“神殿”が建立された。

 

人々は武器を捨て、話し合い、現在の皇室に繋がる国の代表者を決める。

 

そうして誕生したのがエストレヤ国だ。

 

 

「私も…招待されているのですか?」

 

 

「ああ。君は侯爵家の配偶者候補だからな。何より名指しだから、参加するしかない。皇室の命は絶対だから…」

 

 

そんなことを言いながら、苦そうに顔をしかめる旦那様。

 

もしかして、旦那様も行きたくはないのだろうか。

 

でも、その端麗さがあれば誰だって─

 

 

(あ…)

 

 

私は忘れていたのだろうか。

 

ここに来て彼の優しさに触れるまで、どんな噂で彼を判断していたのか。

 

“冷酷無慈悲”

 

そう囁かれていたではないか。

 

 

(それに…)

 

 

旦那様の目をチラリと見ると、綺麗な青みがかった夜空のような黒色。

 

レオンとそっくり。

 

そのレオンは昔、私に話していた。

 

“黒い目なんて、この国では不吉…だろう?”

 

私は社交に参加したことはないけれど、私の両親のことを考えても、社交界が優しさに溢れているとは到底思えない。

 

そんな環境で、そんな人がいたら。

 

きゅっと胸が締め付けられた。

 

その旦那様の苦い顔は、今までの出来事を語っているようで胸が苦しくなる。

 

 

(私達は…そう変わらないのかもしれないわ。)

 

 

私はずっとのけ者にされていたけれど、旦那様も似たような境遇だったのかもしれない。

 

麗しく権力もある旦那様の周りには人が集まる。

 

でも、それは上辺だけ。

 

実際にはそんな噂が立つくらい陰口を言われていた。

 

当の本人は皇室からの手紙を何度も読み、その度に自身の名前を確認して顔を歪めていた。

 

先程のは私の想像に過ぎない話だけど、そこまで間違ってはいなさそう。

 

私達は案外、似た者同士…だったりして。

 

 

「旦那様。」

 

 

ほぼ無意識に、声を掛けていた。

 

 

「私は婚約者として、旦那様の側にいます。だから…大丈夫です。」

 

 

口が勝手に動いた、というのはこういう時に使うのだろう。

 

思っていないこと─否、もしかしたら心の奥底で思っていたのかもしれないことが、自然に声に出た。

 

自分では、何故言ったのかは勿論、声に出た“大丈夫”の意味も分からなかった。

 

私が隣にいたところで旦那様が助かるわけでもないのに、何が“大丈夫”だ。

 

根拠もなければ頼りがいもない台詞だったと思う。

 

 

─でも。

 

 

その言葉には、眩しい笑みが添えられた「ありがとう。」を旦那様から引き出す程の力はあったようだ。




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第13話

※若干重めなので注意です


クロッカス家の城の中は、ここ数ヶ月で見違えたように変わった。

 

とは言っても、別にこれまでが劣悪な環境だった訳ではない。

 

使用人達はいつだって仕事は完璧で、楽しげに会話を弾ませる場面もある。

 

それでもどこか、私が抱えてる小さな虚無感が城全体に漂っていた。

 

 

─でも今は違う。

 

 

何故なら、アイリスがいるから。

 

初めこそ暗い表情をしていたが、時折見られるその可憐な笑顔はやっぱり眩しい。

 

 

「アイリス。」

 

 

私に呼び掛けられたアイリスは、きょとんとした顔をしてゆっくりと振り向いた。

 

華奢で麗しい、天使のような神聖さすら持ち合わせる彼女。

 

幸せにしてあげたい。

 

否、離したくない。

 

 

─例え、アイリスに“想い人”がいても。

 

 

◇◇◇

 

 

「何でしょう、旦那様。」

 

 

いつの間にか慣れてきた大きなこの城の廊下で、自室に戻ろうとする私を呼び止めた。

 

そろそろ仕事へ向かう時間だ。

 

シワ一つ無い真っ白なシャツに紺のジャケットを羽織っている旦那様は、相変わらず美麗の一言。

 

 

「今日は早めに帰るから、帰り次第デザイナーを呼ぼうと思ってる。“ポットアム”のマダムに建国記念パーティーの服をデザインして貰おう。」

 

 

“ポットアム”の意味を頭の中で考えていると、隣にいたリリスが小声で、ポットアムはセントポーリアの貴族令嬢達がこぞって買い求める仕立て屋だと教えてくれた。

 

そこら辺の知識は浅いため、正直とても助かる。

 

図書館の本には流行や文化は載っていなかった。

 

仮に載っていたとしても、一昔前に大流行したものだけだろう。

 

街で売られている新聞を読めば良かったのかもしれない。

 

政治関係のゴシップが記載していると認識にしていたが、もしかしたら流行りものも取り上げていたかも。

 

まあ、当時の私には新聞は高価で手が出せなかったけれど。

 

そんなことを考えていたら、旦那様に様子を窺っているような顔をさせてしまっていた。

 

 

(ああ、駄目ね。考え込んでしまう癖、早く直さないと。)

 

 

「すみません。最近服を買い込んで頂いたばかりなので申し訳ないですが…。パーティー用ということなら、よろしくお願いします。」

 

 

リリスは“貴族令嬢達がこぞって買い求める”と言っていたので、値段が張ってしまうのならすみません、と付け足す。

 

 

「そんなこと気にしないでくれ。…まあそういうことだから、また夜に会おう。」 

 

 

行ってくる、と笑みを浮かべて控えめに手を振る旦那様。

 

侯爵様に手を振り返すのは気が引けるので、お気を付けて、の言葉と会釈を返した。

 

 

(本当に、親切な方ね…)

 

 

想い人がいる婚約者に、こんなに気を遣える人は他にいるのだろうか。

 

散財させてしまうと申し訳なくなり、こんなに優しい方が私なんかの婚約者であることを考えて更に申し訳なくなり。

 

こんなことをぐるぐると考えて、また─

 

 

(…レオンは今頃どうしているのかな…)

 

 

こんな思考に辿り着く自分に、本当に嫌気が差す。

 

彼がこの場にいたら、何と言ってくれるのだろうか。

 

 

『そんなに卑屈にならないで。』

 

 

『何の心配もいらないよ。』

 

 

そんな優しい言葉を紡いでくれる気がする。

 

 

(私はいつもこうね…)

 

 

自分に自信がなくなって申し訳なさや悲しさなどの感情が心に湧くと、すぐにレオンの優しさを思い出す。

 

一種の依存なのだろうか。

 

 

(真っ新になりたい…)

 

 

いっそのこと、全てを忘れて。

 

 

─しかし、レオンがこういった感情に囚われていた時にその沼から救い出したのは奇しくも幼い自分だったことを、アイリスは知らなかった─

 

 

◇◇◇

 

 

「ねぇ、アイリス。」

 

 

皮肉なほどに真っ青な空の下、2人の子供が爽やかな青葉の木陰で話していた。

 

それは勿論、僕とアイリス。

 

 

「なぁに?」

 

 

その光沢のある金髪をさらっと動かしてこちらに視線を向けるアイリスは、今日も美麗だ。

 

 

「アイリスは、真っ新になりたいことってある?」

 

 

「真っ新?」

 

 

不思議そうに、きょとんした顔で僕を見つめた。

 

それもその筈、自分でもどうしてこんな表現をしたのか分からないから。

 

アイリスと出会って数ヶ月が経ったが、ここ最近、両親と使用人の僕への当たりがきつくなっていた。

 

罵倒や蹂躙、僕の身の回りのものを壊すなど、多岐に渡って行われるその虐げは、徐々に僕の心を踏みにじっていく。

 

 

「僕たちが生きている理由って…何かな?」

 

 

丘から見下ろすと皆、楽しそうにはしゃぎながら街を歩いている。

 

子供は無邪気に軽やかなステップを取り、大人はそんな子供に呆れたように笑いながら、それでも楽しそうに、愛おしそうにして。

 

皮肉なほどに、皆が幸せそうだ。

 

一方で、僕は?

 

アイリスという光で和らいだが、それでも悪夢のような毎日が続く。

 

 

(どうしてこんなに差があるんだろう。でも、何より─)

 

 

他人と辛さの比較をしてしまう自分が、嫌いで。

 

 

「全部を忘れて、真っ新になりたいな…」

 

 

そんな感情が入り乱れてこんなにも重たい質問をしてしまったが、アイリスは「うーん…」と真剣に悩んでくれる。

 

 

「死にたくないんじゃない?」

 

 

「え?」

 

 

少し考え込んでいた彼女だったが、やがてけろっとしながらそう口にした。

 

 

「生きているのに大それた意味なんて無くて、本能的にも精神的にも、結局はみんな死にたくないんだよ。生きている理由なんて、死にたくないで十分でしょう。」

 

 

思いの外あっさりとした答えが返ってきた。

 

 

(生きている理由は死にたくないから、か…)

 

 

完全に納得したという訳ではない。

 

正直、その言葉の意味はよく分からないし。

 

でも、ぐるぐると生きている理由の持論を頭の中で展開していた時に比べ、心はずっと軽くなった気がする。

 

そのくらいの心構えで堂々としていた方が良いのかもしれない。

 

そんなことを考えながらふと横を見ると、アイリスは喜楽とは明らかに違う微笑を浮かべていた。

 

哀しみや諦めといった感情を必死に抑え付けているような。

 

これが10歳の少女がする表情なのだろうか。

 

しかし、そう思ったのも束の間、アイリスはすぐに表情を変えた。

 

 

「ねぇ。せっかく何かを考えるなら、もっと他のこと考えようよ。」

 

 

「他のこと?」

 

 

アイリスはすく、と立ち上がり、身体を回転させて、視線を僕から街に移した。

 

大きく両腕を広げ、この街を抱える。

 

 

「もしこの街の景色全部が真っ白なキャンパスだったら、レオンは何を(えが)く?」

 

 

「え…?」

 

 

真っ白のキャンパスなんて、想像したこともなかった。

 

絵だって、小さい頃は冬の窓に吐息をかけて指で描いていたが、それ以外は全く関わりがない。

 

 

(真っ白なキャンパス、か…)

 

 

そこで、僕はふと思った。

 

真っ白─真っ新になりたいと先程呟いたばかりだが、仮に真っ新になったとして、それが僕の願いなのだろうか。

 

 

(僕は本当に…消えたいの?)

 

 

全てを─この街の風景も、木々や花々の感触も、そしてアイリスも、その全てを忘れたいのか。

 

何も考えないのは楽。

 

この凄惨な人生を忘れ、苦痛もまるで感じない。

 

 

─でも同時に、幸福や希望も忘れてしまう。

 

 

(そうか…僕は本当に消えたい─真っ新になりたい訳じゃないんだね、アイリス。)

 

 

それを悟った時、僕は彼女と目を合わせた。

 

もしかしたら、今の僕の顔に“光”があったのかもしれない。

 

彼女は満面の笑みを浮かべていた。

 

その笑みの光がノースリーブの真っ白なワンピースに反射し、より一層彼女が光輝いて見える。

 

 

─美しい街並みを背景に、真夏の輝かしい太陽に照らされながら眩しい笑みを浮かべるこの麗しき少女を、僕は描きたい。

 

 

◇◇◇

 

 

「お帰りなさいませ、旦那様。」

 

 

日は暮れ、星彩が辺りを照らし始めた頃。

 

彼は予定より少しだけ遅く帰宅した。

 

仕事が立て込んでしまったそうだ。

 

食事はご一緒したいと思っていたけれど、料理人のアルフィー曰く「毎日決まった時間に食べることが健康に良いのですよ。」ということで、もう済ませてしまっている。

 

その旨を伝えると、旦那様は「私の部屋で待っていてくれないか。」と言い残し、急いでダイニングに向かっていった。

 

 

(旦那様の部屋に入るのは初めてね。)

 

 

だからか、少しだけ嬉しさとわくわくした感情に包まれる。

 

リリスは急用で城を空けていたためラリアと共に中に入ると、そこは意外にもこじんまりとした、シックな部屋だった。

 

旦那様の部屋の隣は扉で繋がっていて、そこが丁度来賓室らしい。

 

旦那様が自室で待っていてくれと言っていたのは恐らく、来賓室より自室の方がリラックス出来るのではないかと判断したからだろう。

 

どこまでも優しい旦那様だ。

 

そんな中ソファーにちょこんと座り、ぐるりと辺りを見渡したが、やはり気になるのはテーブルの上にある大量の書類だろうか。

 

 

「…申し訳ありません、アイリス様。旦那様は恐らく、テーブルは片付けたと勘違いされたのでしょう。散乱としていて気になさりますよね。しかし、旦那様のみが処理可能な重要書類が多々あるので、私どもは触れられないんです。」

 

 

ラリアは申し訳なさそうに謝り、せめてもと近くにあったテーブルクロスで書類を覆った。

 

 

「大丈夫よ、そんなことしなくても。」

 

 

私は普通の子爵令嬢ではないのに、優しいなぁ、と思いながら、ラリアが置いたテーブルクロスを取ってそっと折り畳んだ。

 

 

─その時。

 

 

(あら?綺麗な絵…)

 

 

テーブルの端の方に置かれた、数枚の色付けされた絵。 

 

画材は水性絵具だろうか。

 

柔らかいタッチが印象に残る、優しくて綺麗な絵だった。

 

 

ラリアは私がこれらの絵に興味を持ったことに気が付いたらしく。

 

 

「それは、旦那様が描かれたのですよ。」

 

 

「旦那様が…?」

 

 

あんなに端麗な容姿で、こんなにも引き込まれる絵も描けるのか。

 

欠点がいくら探しても見当たらない。

 

 

(…ん?この絵…)

 

 

今までの絵は主に風景画。

 

だけどこの1枚だけは、女の子が描かれていた。

 

真夏…だろうか。

 

ノースリーブの白いワンピースを着た少女が、こちらを見て微笑んでいる。

 

少女は太陽に照らされ、背景には穏やかな街並み。

 

そしてその、絵の柔らかさ。

 

 

─作者がこの女の子を好いているような雰囲気がした。

 

 

(金髪にエメラルドグリーンの瞳…ふふっ、私に似てるわね。)

 

 

やっぱり旦那様にも、“そういう”人がいたのね。

 

 

(─何だろう。)

 

 

だからといって私は特に何もない。

 

 

─その筈なんだけど。

 

 

(胸が…痛い…?)




ご覧頂きありがとうございました!
次話もご覧頂けると幸いです(*´꒳`*)


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第14話

…さすがに投稿が遅すぎますね、もうこんな作品お忘れでしょうか笑
約一ヶ月(以上)ぶりの更新ですが、第14話、お楽しみ頂けたら幸いです!


仕立て屋ポットアムのマダムは、旦那様が戻ってきてすぐにやって来た。

 

銀髪に、ここらでは珍しいであろう赤い瞳をしたマダムは、その瞳以外は至って普通の老婆だ。

 

澄んだ瞳で、旦那様の要望通りに描いたデッサンを見つめる。

 

 

「これで如何でしょう?ご確認下さい。」

 

 

「ああ。…デザインは良いが、ここの色はアイリスとの相性があまり良くないな。あと、制作の際にはコルセットをきつく締めないような、出来るだけ着心地が良いようにしてくれ。そしてその首元のパールには、ヴェルリアで採れるものを使って欲しい。」

 

 

一通りデッサンを眺めたあとそう言った旦那様。

 

私も気になってそのスケッチを覗いたが、庶民同然だった私には文句の付け所が全くと言って良いほどなかった。

 

デッサンにあったのは、紺色が基調の夜空のような七分袖のドレス。

 

まだデッサンの状態なのに、美しいドレスになることは明確だと感じさせる。

 

 

「っ!?クロッカス侯爵様、ヴェルリアと仰いましたか!?」

 

 

マダムは目を見開き、若干興奮気味で聞き返した。

 

確か、ヴェルリアはここから数百キロ離れた地域。

 

真珠が名産だなんて聞いたことがない。

 

 

「ラリア、ヴェルリアの真珠はそんなに価値があるの?」

 

 

密やかな声で聞くと、旦那様を前に呆然としていたラリアは、気を取り直したように答えてくれた。

 

 

「はい。ヴェルリアの真珠の別名は人魚の泪(にんぎょのなみだ)とされていて、上級貴族の方々でも中々手に入らない代物でございます。ヴェルリアの真珠は輝きが他のものに比べ大変強いことで知られており、また、奥深い色合いも特徴的です。」

 

 

「ヴェルリアが真珠の名産地だとは聞いたことがないけれど…」

 

 

図書館の本は私にとって一番の情報源だった。

 

だから私は、それに記されていないことになると一気に弱くなってしまう。

 

 

「数も少なく、稀有な存在でございますから。皇族が身に付けるような宝石なので仕方がありません。」

 

 

そうなんだ、と納得する一方で、僅かに情けなさが込み上げてきた。

 

流行や常識というものが分からないのは、私の最大の弱みかもしれない。

 

 

(もっと…ガーベラお婆様に教えて貰わなきゃ。)

 

 

「─リス?アイリス?」

 

 

自分の名を呼ぶ声が聞こえ、思わずはっとする。

 

旦那様だった。

 

 

「も、申し訳ありません、旦那様。」

 

 

「具合が悪いのか?」

 

 

心配そうに私を覗き込み、右手が私の頬に触れた。

 

 

(な…!?)

 

 

「いえ!本当に何でもないです!体調も良いですし!」

 

 

私が思い切り早口でそう言うと、沈黙が室内を包んだ。

 

 

(は、恥ずかしい…何でこんなに焦ったのかしら…)

 

 

すると、旦那様は羞恥で身体が熱い私を見て、その沈黙を破って「ふっ、そんなに焦ってどうしたんだ?」と笑う。

 

そのにんまりとした笑顔を見て、私はようやくからかわれたことに気が付いた。

 

 

「な…!?…何なんですか、もう…」

 

 

呆れて息を吐く私に、また旦那様は笑った。

 

 

「そう恨めしい目で見ないでくれ。体調に問題がないのなら良かった。ほら、アクセサリーはどうする?」

 

 

そう言って旦那様が差し出したのは宝石の商品一覧といくつかのサンプル。

 

でも私はあまり興味が無いし、そもそも私には宝石の価値がよく分からない。

 

正直、全部輝き過ぎて眩しい。

 

でも一つだけ分かるのは、確実に私が手出し出来るような金額ではないということ。

 

…というか、何かをスルーしているような気がする。

 

 

─「あっ!だ、旦那様!」

 

 

突然の大声に「な、何だ?」と驚く旦那様。

 

後から考えると、淑女たるもの云々以前の羞恥が込み上げてくる。

 

 

「ヴェルリアの真珠って何ですか!?皇族が身に付けるものだなんて…!」

 

 

「大丈夫だ、この家には沢山の財産があるから。」

 

 

「そうではなくて…!」

 

 

旦那様は得意気な顔で私を見つめる。

 

私は別に、財産の心配をしている訳ではない。

 

経済力は国内上位で、財産は計りしれないクロッカス家なのだから。

 

 

でも─

 

 

「…私には勿体ないです。前に申し上げたではないですか。想い人がいる、と。」

 

 

メイドにもマダムにも聞こえないような小さな声で、真っ直ぐで優しい旦那様に申し訳なくて少しだけ罪悪感を抱いていたあの一言を、また口にした。

 

旦那様が心優し過ぎる故、私と婚約破棄をして新しい女性にその真珠を渡して欲しいと思ってしまった。

 

そうすれば、私もレオンのことを純粋に想いながら平穏に暮らせる筈。

 

これが旦那様の幸せで、私の幸せで、妥当な判断。

 

 

─なのに。

 

 

(どうして、そんな顔をするのですか…?)

 

 

何故そんなにも、泣きそうなほどに悲しげな顔を。

 

こんな私達を見兼ねて…なのかは分からないが、マダムは私に向かってにっこりと話し掛けた。

 

 

「外部の人間がそんなことを言うのはどうかと思われるかもしれませんが…受け取られては如何ですか?」

 

 

「え…?」

 

 

「クロッカス侯爵様は、ヴェルリアのパールをアイリス様にお渡ししたいのだと存じます。何が起きたのかは分かりかねますが…受け取られては?」

 

 

横を見ると、旦那様と目が合った。

 

私とマダムの会話は聞こえていたらしく、彼は力強く何度も頷く。

 

今度はそばにいたラリアに視線を移したが、彼女もまた、微笑みながら頷く。

 

完全に四面楚歌だ。

 

 

「…わ、分かりました。受け取らせて頂きます。」

 

 

周りの圧半分、何故か悲しげな表情をする旦那様に対する罪悪感半分で根負けした。

 

まるで私が駄々をこねた子供のような雰囲気だっだが、そう言った瞬間、場の空気は温かくなり、他の宝石選びへと話は変わっていった。

 

華やかで美しい宝石達を次々と選んでいく。

 

心の中で小さく嘆息した。

 

彼の気遣いはありがたいが、自分に使われる費用が何とも勿体なくて、申し訳なくて。

 

◇◇◇

 

次の日の午後。

 

いつもの時間に、お婆様兼ガーベラ先生はやって来た。

 

 

「ごきげんよう、アイリス様。」

 

 

その、麗しい礼と微笑。

 

お婆様がしていることはただの辞儀だが、その立ち振舞い一つ一つに優美で華麗な貴婦人の雰囲気が漂う。

 

 

(お婆様は、凄いな…)

 

 

表面上、私は未来の侯爵夫人。

 

私もこの地位に居続ける限りはお婆様のようにならなければいけない。

 

そして、そんな私の“礼儀”の土台は、本と幼い頃にお婆様に教えて貰ったことだけ。

 

もはや平民と言われても言い返せない。

 

だから、建国記念パーティーも近いということもあり、最近はほとんどが作法や各家門についての勉強だ。

 

各家門についてとは、例えばその家門の勢力や歴史、好きなもの、好きな話題…地位の高い方々と親睦を深めるために欠かせないことを学ぶ。

 

幸い私は記憶力は長けている方だから、すらすらと覚えていけた。

 

そう、幼い頃から記憶力はあって─

 

 

『そんなことも覚えているの?助かりはしたけれど、やっぱり気味悪いわね。』

 

 

─(はっ!…ああ。)

 

 

かつて聞いた、母の声。

 

確かあれは、当時の母が半年前に出たパーティーに着ていたドレスについてデザイナーと話していた時だった。

 

当時の集まりと半年前のパーティーでのドレスの色合いが被らないようにしたかったようで、街にも出掛けていなかった頃の幼い私は、役に立ちたい一心で声を掛けた。

 

 

『そのパーティーのお母様のドレスは、水色だったと思います。フリルとレースには、白色と紺色が使われていました。』

 

 

母にしては珍しい装飾が控えめの水色のドレスだったから覚えていたけれど、これを聞いた母は私を気味悪がった。

 

それでも幼い私は、“もしかしたら役に立ったかもしれない”という希望を見い出し、あまつさえそれに喜んでしまった。

 

あの時の状況は洗脳に近かったのかもしれない。

 

 

(随分と苦い記憶が蘇ってしまったわね…)

 

 

今ではお婆様やレオンのお陰で洗脳が解けたが、アメリアン家を思い出した時の嫌悪感と吐き気はいつまでも続く。

 

最近は旦那様と楽しく過ごせていたからか、耐性が弱くなっている気がする。

 

幸せだからこそ、心が脆くなっている。

 

 

─「アイリス様?」

 

 

気付けば、お婆様が心配そうに私を見つめていた。

 

どうやら私は、また自分の世界に入ってしまったようだ。

 

 

「申し訳ありません、ガーベラ先生。」

 

 

「大丈夫ですか?ご気分が優れない際には、すぐさま仰って下さいね。」

 

 

本当に心配そうに紫の瞳で私を見る。

 

でもどうしてだろう。

 

その鋭い瞳は、私の心を透かしているようにも思える。

 

 

「そして、パーティーの主催者、現皇帝に続き次に偉いお方がこのご令嬢です。」

 

 

紙には大きく“ラスティル・ミリア・アシェット”の名前が記され、赤い筆で丸く囲まれた。

 

どうやらこのご令嬢はこの国唯一の大公爵家の方らしい。

 

その桃色の髪が特徴の優しそうな容姿とは裏腹に、一度も笑うところを見られていないと言われるほどに冷血なお方。

 

 

─小さな胸騒ぎを感じるのは、何故だろう。

 

 

◇◇◇

 

皇室からの招待状が来て2週間後。

 

忙しない日々はあっという間に過ぎ、建国記念パーティー当日となってしまった。

 

朝早くから支度を始めていたが、今は既に真っ昼間だ。

 

クロッカス家から皇宮までは少々掛かるが、開催時刻には余裕があるため問題ないと言えるだろう。

 

 

「アイリス様…!とてもお似合いです!」

 

 

「はい!まるで天使が舞い降りてきたかのような麗しさです…」

 

 

支度も終盤に差し掛かった中、メイド達の称賛の声が次々に飛び交った。

 

私が着ているのは先日のポットアムのドレス。

 

紺色が基調の華やかなドレスは、胸元には月のような黄色いオパール、スカートには金箔が散りばめられたチュール素材が使われていて、美しい夜空を連想させる。

 

そして首元には光り輝く例のパール。

 

逆にドレスに“着られている感”がないか心配な程に美しい。

 

 

「あ…あ、ありがとう。」

 

 

メイド達に褒められ、にわかに顔が熱くなる。

 

でもすぐにリリスやラリアを中心とした沢山のメイドにメイクや髪のセットをして貰い、待たせてしまっているであろう旦那様の元に向かった。

 

城の外に出ると、既に馬車が用意されており、使用人の何人かも待っているようだった。

 

支度に時間が掛かり申し訳なく思いながら、馬車へと歩く。

 

 

─私のドレスの色合いと合わせたのだろうか。

 

 

紺色のブラウスとズボンに身を包み、ジャボの中心には私と同じくオパールの宝石が輝いていた。

 

その青みがかった黒い瞳もまた光る。

 

麗しき旦那様だ。

 

少しだけその姿に惚けてしまい、慌てて我に返って旦那様の元へと急ぐ。

 

 

「お、お待たせしてしまい、申し訳ありません…」

 

 

見惚れていたのがバレていないだろうか。

 

そんな自分に動揺したのがバレていないだろうか。

 

そんな私の動揺もよそに、旦那様は朗らかに笑った。

 

 

「さほど待ってない。…その…き、綺麗だ。」

 

 

数秒は旦那様が何を綺麗と言ったのか分からなかったが、やっと私のドレス姿のことだと気が付いた。

 

旦那様に褒めて頂けるとは。

 

 

「あ、ありがとうございます…」

 

 

私はメイド達が褒めてくれた時と同じように顔が熱くなってしまった─けれど、その時とはどこか違う感情のような気もする。

 

でも、どこが違うのかと問われても分からなくて。

 

 

「あ、あの…旦那様もお美しいです…」

 

 

私は思い切ってそう言い旦那様を見上げるが、ばっちりと目が合ったあと、彼は何故か視線を逸らしてしまった。

 

美しいというのは不躾だっただろうか。

 

 

「…では、乗ろうか。」

 

 

たっぷりの沈黙のあと、馬車の扉が開いた。

 

大きくて温かい旦那様の手に引かれ、いつもより広い馬車に乗り込む。

 

クロッカス家では、普段用と遠出用で馬車を分けるらしい。

 

遠出用は初めてだったが、乗り心地は抜群だった。

 

ふかふかの純白なソファーは、座ったままでも熟睡出来そうなくらい座り心地が良い。

 

近くの小窓を覗くと、先ほどとは比べ物にならないほど沢山の使用人や騎士の方々が見送りにきてくれていた。

 

どうやら私は、旦那様と思ったよりも長く黙り合っていたようだ。

 

馬車の一番近くには、リリスを初め特に親しい使用人がにっこりと笑っていた。

 

それに嬉しくなり、思わず窓を開ける。

 

その時ばかりは舞い上がっていたのか、小さく手を振った。

 

 

「みんな、行ってきます…!」

 

 

口々に笑いながら「行ってらっしゃいませ」と答えてくれる使用人達を見て、何とも言えない温かさを感じた。

 

見送りをされたことは、ただの一度も無かったから。

 

馬車の扉は閉まり、ゆっくりと動き出した。

 

段々と城から遠ざかる。

 

思えば、私のとってこの城は既に“居場所”となっていた。

 

私がいても、許される場所。

 

ただ、私には想い人がいるため、実際にはそんなことないのだけれど。

 

 

「寂しいのか?使用人達との一時の別れは。」

 

 

「え…?」

 

 

馬車が動き出して少し経った頃 旦那様は、唐突に口を開いた。

 

 

「顔に出ている。」

 

 

「そ、そうですか?」

 

 

そのくらい分かりやすかったのだろうか。

 

確かに寂しさは感じていたけれど。

 

顔に出やすいというのは良くないと、お婆様にも教えて貰った。

 

社交界で素直さは仇になるから、と。

 

そんな世界にこれから向かわなければいけないと思い出し、少し身震いする。

 

 

「ああ。それより、先ほどは随分とはしゃいでいたな?かなり元気そうで安心した。」

 

 

(か、かなり元気そう…?これはまさか─)

 

 

「また、か、からかっているの、ですか…?」

 

 

「さあ、どうだろうな。」

 

 

涼しい顔をしてとぼける旦那様。

 

これは確実にからかっていたのだろう。

 

またからかわれたのかと、少しむっとする。

 

 

「…くれ。」

 

 

そんな中、旦那様はまた言葉を紡いだ。

 

でも私がぼうっとしていたからか、私の耳に彼の声は届かなかった。

 

申し訳なく思いながらも聞き返す。

 

 

「何と仰いました?」

 

 

「何かあったら呼んでくれ。すぐに駆け付けるから。」

 

 

先ほどまでからかっていた筈なのに、急に真剣な眼差しで。

 

そのギャップが、少しだけ微笑ましく思った。

 

 

「ふふっ…ありがとうございます。」

 

 

出会った当時では考えられなかったが、旦那様と私は目を合わせてにっこりと笑った。

 

 

─さあ、建国パーティーはもうすぐだ。




第1章完結、です。
今考えている構成としては4章で完結、番外編兼5章付きって感じです!
(一体いつになったら完結に辿り着くのか…)
こんな作品ですが、是非最後までお付き合い頂けると幸いです✨

ご覧頂きありがとうございました!
次話もご覧頂けると幸いです(*´꒳`*)


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第二章
第15話


お久しぶりです!
大変長い間、更新せずにいましたが…本当に申し訳ございません…
こんな作品なんて誰も覚えていないと思いますので、ぜひ一話からご覧ください()


昼下がりの暖かく心地よい初夏の空気が身を包んだ。

 

旦那様に手を引かれ、ゆっくりと馬車から降りる。

 

皇宮は、今まで出会った建物の中で一番と言っていいほど大きかった。

 

重厚感溢れる門、美しく可憐な花々が咲き誇る庭園、その先にある細部に渡って装飾が施された白亜の城、そしてそれを守る礼儀正しく勇敢そうな数えきれないほどの騎士達。

 

皇帝の凄さに驚いた反面、自分は完全なる場違いなんだと思い知らされた。

 

思わず、城から目を背ける。

 

そんな私の考えを見透かしたかのように旦那様は

 

 

「何にも心配はいらない。大丈夫だ。」

 

 

と微笑んだ。

 

いつもの優しくて温かい笑み。

 

…でも、その肩は微かに震えている。

 

“呪われた瞳を持つ冷酷無慈悲な人”

 

私が知っている旦那様の噂と、かつてレオンが話していた黒い瞳の話を統合すると、社交界ではそんなようなことを囁かれているのかもしれない。

 

そんなことを考えると、本当に悔しくなる。

 

 

「旦那様…」

 

 

「うん?」

 

 

苦しそうな表情を懸命に抑えて笑っていた。

 

きっと耐えているのだろう。

 

恐怖と、嫌悪感に。

 

旦那様は口をぎゅっと噤み、私は話し掛けたものの掛ける言葉が見つからず、結局お互いに黙ってしまった。

 

そのまま門から皇宮の扉まで、重い足取りで歩く。

 

扉の前に着いた時、沈黙を破ったのは旦那様だった。

 

 

「あの…アイリス。」

 

 

まさか声を掛けられるとは思っていなくて、私は数回瞬きしてから

 

 

「どうかなさいましたか?」

 

 

と返した。

 

 

「な、名前で…“リアン様”と…呼んでくれるなら、頑張れるから…パーティーの間だけで良いから、そう呼んでくれない、か…?」

 

 

途切れ途切れで、終始目線を逸らしながら。

 

 

(どうして私が旦那様の名前を呼ぶと、頑張れるのだろう…?)

 

 

何の補足もせずに旦那様は黙ってしまうし。

 

私が名前を呼んで良くなることなんて…

 

 

「あっ!確かに名前で呼び合っていた方が、上辺だけの婚約関係だとは気付かれにくいですね。

頑張れる、という表現とは少し違う気がしますが…承知しました!」

 

 

なるほど、そういうことだったのか。

 

私はそう納得できたが、旦那様は少し間を空けてから「そう、そういうことだ。」と言い、なぜか苦笑いをした。

 

◇◇◇

 

扉が開き、私はホールの大きさと人の多さにしばし固まってしまった。

 

見たこともないような大きいシャンデリアや埃一つない壁や床、光輝く豪華な食事が私を圧倒させる。

 

そして、凛々しいスーツ姿の殿方と華々しいドレスを纏う貴婦人達が、一斉に私達を見た。

 

冷たくて鋭い視線だ。

 

 

(うっ、視線が痛い…)

 

 

しかし、ここで耐えなければどうする。

 

少しだけ場の空気が凍ったが、その後すぐに人が集まってきた。

 

 

「クロッカス侯爵様。お目にかかれて光栄です。」

 

 

「ライル伯爵様…お声掛け頂き、ありがとうございます。」

 

 

旦那様に最初に話し掛けたのはライル伯爵と呼ばれた方だった。

 

30代半ばの細身で茶色のつり目を持つ、神経質そうな男性。

 

隣には華々しいドレスを纏う、妻であろう女性がいた。

 

 

「改めて、この度はご婚約おめでとうございます。本当に素敵な婚約者でいらっしゃいますね。」

 

 

私のことをちらりと一瞥し、褒めた。

 

でもこれが社交辞令であることは明白だ。

 

その目が、笑っていない。

 

 

「ありがとうございます。」

 

 

旦那様は静かに笑い、挨拶回りがあるからとすぐに彼の元から離れた。

 

 

「あの方とは親しいのですか?」

 

 

彼の目がこちらを蔑んだようなものだったからか、会場で最初に話し掛けるほどの仲だとは、どうしても思えなかった。

 

 

「いや、まあ…それなりに、だ。仕事の関係で一時的に連絡を取り合っていた時はあったから。」

 

 

そう言う旦那様の表情は、思ったより柔らかかった。

 

なるほど、仕事上ではあるがそれなりに良い関係はあったようだ。

 

 

(思えば、彼が旦那様を見ている時は特段不快そうだったという訳ではなかったわね。…やっぱり、私…)

 

 

安心した反面、自分ではどうしようもなかった境遇だったのは分かっているけれど小さな自己嫌悪を抱いてしまう。

 

さて、今回の開催者である皇帝が姿を現すまで、私と旦那様は着々と挨拶回りをしていった。

 

相変わらずの“目”で、ひそひそと何かを言われる。

 

気にしたって仕方がないのだろうけど。

 

 

「アイリス」

 

 

そう囁き声で呼ばれ、身体をぴくっと動かす。

 

 

「どうかされましたか?」

 

 

平然を装い、そっと微笑む。

 

 

「挨拶回りも一通り済んだし、殿下がいらっしゃるまで時間があるから─」

 

 

旦那様は、珍しく茶目っ気のある顔で

 

 

「少しだけお茶をしないか?」

 

 

と誘った。

 

そこは外にある皇宮のテラスだった。

 

繊細な彫刻が施された純白の椅子2つと机が佇むようにひっそりとある。

 

本来ここは招待客であれば誰が使っても良いそうだが、上級貴族への配慮と言うか忖度と言えば良いのだろうか、一部の身分が高い方しか使っていないのだそう。

 

しばらく雑談をしていると、皇宮の使用人が紅茶と菓子を持ってきてくれた。

 

アーモンドが乗せられたブラウニーと苺が主役の小さなカップケーキ。

 

食べるや否や、それまでにあった曇りの感情が晴れてしまった。

 

 

「美味しい…!とっても美味しいです!

シェフのアルフィーが作るお菓子とはまた焼き加減や風味が違うのですが、こちらもまた良いですね。」

 

 

さすがは皇宮と言ったところか。

 

私はあっという間に食べ終えてしまった。

 

しかし、そんな私を微笑みながら眺める旦那様の前には、無糖の紅茶しかない。

 

 

「…甘いものは、苦手でいらっしゃいますよね。申し訳ありません、一人で舞い上がってしまって。」

 

 

いくら美味だったとはいえ配慮に欠けていた。

 

旦那様は食べていないのに…

 

 

「いいんだ。十分、楽しんでいるから。」

 

 

─旦那様は静かに私の頭にその手を乗せ、数回撫でた。

 

 

「…っ!」

 

 

(ま、またそういうことを…!)

 

 

旦那様にはもしかしたら、羞恥という言葉がないのかもしれない。

 

第一、こんな私を見て“楽しんでいる”なんて意味が分からない。

 

 

「…もう、夕暮れか。」

 

 

少しの沈黙のあと、旦那様はそう呟いた。

 

 

「あ…本当ですね。もうそんな時間…」

 

 

気づけばずいぶん長い間お茶をしていたようだ。

 

街はオレンジに染まり、賑やかな街の人々がよく映えている。

 

小さな子供達が「またね」と笑顔いっぱいに別れを告げ、男性たちは仕事を終え汗を拭いながら帰路につき、女性たちは子供を迎えに行った後、これから調理するのであろうパンや野菜を忙しなく家に運ぶ。

 

私たちより明らかに大変で、忙しくて、なのに、幸せそうで。

 

 

「…幸せそうだな。」

 

 

旦那様からほろりと溢れた、羨望の一言だったのかもしれない。

 

 

「ふふっ、リアン様も同じことを考えていらしたのですね。」

 

 

気持ちを共有出来るというのは、本当に幸せなことだ。

 

思わず微笑んだ私だったが、対照的に旦那様の顔はみるみるうちに赤面していった。

 

 

「…え、ど、どうかされましたか?」

 

 

とうとう顔を隠してしまった旦那様に向かい、あわあわと困惑してしまう。

 

何かまずいことを言っただろうか。

 

 

「な、何があったのですか…?」

 

 

しびれを切らした私は少しだけ声に芯を持たせ、旦那様に問う。

 

 

「…君が、急に名前を呼ぶから…」

 

 

観念したかのように声を絞り出す旦那様。

 

元々名前で呼ぶように促したのは旦那様のはずなのに。

 

なぜそんなに、顔を赤くするのだろう。

 

否、それだけじゃない。

 

旦那様は、どうして私にここまで気遣ってくれるのだろう。

 

旦那様が優しい方だから…それだけ?

 

手を繋いだり、頭を撫でたり、名前を呼ばれて恥じらったり。

 

旦那様が私に抱いている感情はなんだろう。

 

その時私は、いつか図書館で見た小説を思い出した。

 

旦那様と全く同じことをヒロインの女性にする主人公。

 

それは確か─恋愛小説。

 

 

「…旦那様は、私のことを…」

 

 

─好きなのですか。

 

 

その自分でも分かるほど小さくて拙い声は、旦那様には届かずに皇宮の中にいる何やら騒がしい人の声でかき消された。

 

◇◇◇

 

どうやら、皇帝と皇后が登場するようだった。

 

旦那様は持っていたティーカップを置き、席を立ち「私たちも向かおう」と一言。

 

通りで騒がしいわけだ。

 

私たちが会場に再び足を踏み入れたのと2人が姿を現したのはほとんど同時だった。

 

扉が開かれ、さっきまでそわそわとしていた貴族たちが一瞬で静まる。

 

皇族の証だと古くから伝えられている銀髪と紫の瞳をした、神々しい皇帝と皇后。

 

その姿は圧巻そのもので、この世のものとは思えないほど美しい顔立ちだった。

 

 

「皆さま、よくぞおいでくださいました。本日は、我が国・エストレヤの建国記念日にございます。今日までの国の繁栄を築いた先人達への感謝を捧げると共に、エストレヤの新たなる発展を祈りましょう。」

 

 

皇帝は赤いワイン入りのグラスで乾杯をし、その彫刻のような美しい顔に微笑を浮かばせた。

 

そうしてようやく、開催主のいるパーティーが始まった。

 

皆、先ほどのように談笑をしているが、どこかギクシャクしているような─やはり、これが皇族の力というものなのだろうか。

 

 

「アイリス。立ったままで、疲れていないか?」

 

 

ふと、旦那様が声を掛けてくれた。

 

疲れていない─とは言いきれないが、別に、我慢できないほどでもない。

 

この圧倒的な“場違い感”にも、少しだけ慣れてしまったし。

 

「いいえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 

心配そうな顔をする旦那様は、すぐに安堵して微笑んでくれた。

 

そして、持っていたグラスをくいっと傾けて嗜む。

 

 

「…それは、お酒ですか?」

 

 

少し気になってしまい、思わずそう問う。

 

 

「ああ。…ガーベラは教えてくれなかったのか?」

 

 

恐らく、各家門やマナーレッスンなどに時間がかかり、教えそびれてしまったのだろう。

 

旦那様はグラスを私に近づけ、見せてくれた。

 

黄色とオレンジ色が混ざった淡くて温かみがある色で、小さな泡のようなものがふつふつと弾ける。

 

図書館で読んだ小説で、こんな飲み物があったような─

 

 

「…あっ、シャンパン…ですか?」

 

 

どうやら正解のようで、旦那様は驚いたように笑う。

 

 

「そうだ。よく知っているな。」

 

 

「はい…昔、街の図書館で読みましたから」

 

 

「…街の図書館?」

 

 

不思議そうに首をかしげる。

 

確かに、旦那様のような地位の高い方には街の図書館なんて新鮮だろう。

 

 

「そうです。貴族の方々は国立の図書館や自宅の本棚を使われるのでしょうが、私には生憎そういった手段がなくて…でも、街の図書館にもたくさんの本があるんですよ。リアン様は少し意外に思われるかもしれませんが」

 

 

この時ばかりは自然に笑みが溢れていたかもしれない。

 

この思い出は、本当に温かいものだから。

 

そんな私を見てなのか、旦那様も楽しそうに微笑んだ。

 

 

「そうなのか…私はそういった施設を利用したことがないのだが、楽しそうだな。今度、連れていってくれるか?」

 

 

「わ、私がですか?」

 

 

驚いて、思わず旦那様の方を見た。

 

私なんかが旦那様をそのような場所に案内しても良いのだろうか。

 

でも旦那様は「他に誰がいる?」と笑う。

 

 

「しかし…やっぱり、普段旦那様が利用される図書館には規模も質も負けてしまいそうな気がしますが…」

 

 

「それでも、だ」

 

 

絶対に行きたいという意思があるのだろうか?

 

旦那様はまっすぐに私を見つめる。

 

 

「…ふふっ、分かりましたよ。いつかその日が来たら、旦那様にお楽しみ頂けるように頑張りますね」

 

 

「約束だからな?」

 

 

「はい」

 

 

そんな些細な約束を交わし、そっと微笑み合った。




すみません振り仮名の付け方を忘れてしまいました…笑
ルビで入力することはわかるのですが、なぜかできない…( ; ; )
そして次話ですが、実は既に完成していて、仕上げをしてから11月上旬には投稿しようと思っています。 (詳しい日時は活動報告にて)
今回は平和回でしたが、次話では新しい登場人物も増やしていきます!!
見るしかないですね?()


最後までご覧頂きありがとうございました!
次話もご覧頂けると幸いです(*´꒳`*)


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第16話

シャンパンが入っていたグラスも空になった頃。

 

 

「リアン!」

 

 

不意に旦那様が呼ばれた─それも、名前で。

 

声の主は─

 

 

「叔母様…!」

 

 

旦那様は大きく目を見開き、嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑って、“叔母様”に歩み寄った。

 

 

「久しぶりね!元気にしてたかしら?」

 

 

「はい。叔母様もお元気そうで何よりです」

 

 

(旦那様の両親は亡くなられていると聞いていたけれど…良かった、血縁関係者の方はいらっしゃったのね。しかも─)

 

 

旦那様と“叔母様”に視線をやると、笑みを浮かべる旦那様と、まるで我が子を見るかのように愛おしそうな目をする“叔母様”。

 

 

(…ふふっ、とっても仲睦まじそうね)

 

 

1人でほっこりとした気分になっていた私だったが「…ああ、すまない。アイリスがいるのに勝手に盛り上がってしまったね」と旦那様に言われ、自分がまだ彼女に挨拶をしていないことに気が付いた。

 

 

「い、いえ…。…お初にお目にかかります、貴婦人。私は、アメリアン子爵家のアイリスと申します」

 

 

私は静かに礼をした。

 

 

「こちらこそ初めまして!私はリアンの叔母、アメリですわ。貴女がリアンの婚約者ね?」

 

 

「は、はい。…未熟者ながら、彼に少しでも相応しい女性となれるよう、日々精進して参ります」

 

 

「まあ!」

 

 

私がそう答えた瞬間、アメリ様は満面の笑みを浮かべた。

 

 

「リアン!アイリスちゃん、とーっても良い子じゃない!それに凄く可愛らしいわ!ふふっ、良かったわね」

 

 

“良い子”、“可愛らしい”。

 

 

(良かった…認めて下さったんだわ)

 

 

両家の合意の上ではあるものの、どうしても身分上、差別的な扱いを受ける場合もあると思っていた。

 

だから優しく微笑むアメリ様を見て、大きな安堵を抱いた。

 

そしてアメリ様は朗らかに笑い、旦那様の黒髪を一撫で。

 

旦那様は「もう、からかわないで下さい…」と恥ずかしそうにするものの満更でもない様子。

 

 

─まるで、親子だ。

 

 

(…少し、羨ましい気もするけど…)

 

 

「…そうだ、リアン。少しお話したいことがあるのだけれど、良いかしら?」

 

 

「はい、何でしょう」

 

 

そんな私の羨望はよそに、どうやらアメリ様が旦那様に会いに来た最大の目的は“久しぶりに顔を見たかった”でも“婚約者”でもないようで。

 

 

「ここでは話しづらいわ…庭園で話しても良いかしら?あまり人には聞かれたくない話だから…」

 

 

俯きがちに周囲を見渡し、静かな声で問う。

 

どうやら本当に話しにくい内容らしい。

 

 

「はい、庭園に行くこと自体はもちろん良いのですが…アイリスを同行させてもよろしいですか?」

 

 

「…できれば、控えてほしいわ」

 

 

アメリ様はその藍色の瞳で私を申し訳なさそうに見つめ、旦那様は私の背中を僅かに押す。

 

旦那様の心配はありがたいが、ここまで来ると、私が旦那様を必死に引き留めている駄々をこねた子供みたいだ。

 

 

「リアン様、私は大丈夫です。お話があるのですから、ここはどうかアメリ様の元へ」

 

 

旦那様はそれでも心配そうな瞳で見るから、私は力強く頷いた。

 

諦めたかのように「…わかった。確かにそうだよな」とため息と共に吐く。

 

恐らく、他の招待客に肉体的に傷つけられることはないはずだ。

 

仮にも「侯爵」の称号を持つクロッカス家の配偶者候補そのようなことをしたことが知り渡れば、社交界での生涯はほぼ確実に終えるはず。

 

 

(だから…一人でも大丈夫)

 

 

「…じゃあ、すぐに戻ってくるから。この場から動かないで、待っていてくれ。」

 

 

そう言って庭園に向かいながら、私が見えなくなるまで何度もこちらを見る旦那様。

 

その気持ちが自分には勿体無いと感じるほど嬉しい。

 

一人壁際で先ほど取ってきた焼き菓子を食べながら、わずかに微笑んだ。

 

周りを見渡せば、皆楽しそうに談笑し、美味しそうに食し、笑う。

 

皆の笑顔の中、ただ一人、私だけは独り。

 

この状況は以前にも経験したことがある。

 

その時は孤独感でいっぱいだった─けれど。

 

 

(あの時とこんなにも気の持ちようが違うのは、やっぱり、旦那様のおかげなのかしら)

 

 

私は穏やかな心情のまま過去を辿った。

 

◇◇◇

 

それは、まだ街に降りたこともなかった幼い頃の話。

 

 

「パーティー…ですか?」

 

 

「ええ、ここから馬車で小一時間のある伯爵家にね。お前も今すぐ準備しなさい」

 

 

「ええと…私も同行してもよろしいのでしょうか?」

 

 

相変わらずけばけばしく着飾り、きつい香水の匂いを漂わす母に、その時私はまだ母の母性愛を信じていて、何とか自分を好きになってほしくて、できる限り機嫌を伺いながら生きていた私は、躊躇いがちに聞いた。

 

 

「私だってお前なんて連れて行きたくないわよ…」

 

 

「当たり前じゃない」とでも言いたげな顔だ。

 

 

「…でも、今日行く伯爵家の当主は子供が大好きなの。その方は気難しくてね…お前みたいな子供いたら少しは気を良くするかもしれないでしょ?

あの伯爵家、鉱山をたくさん持ってるから、なるべく仲良くなっておきたいのよ…もしかしたら、分けてもらえるかも?」

 

 

手で口を隠しにやりと笑う。確かに無類の宝石好きの母にとっては、それは願ってもみない話だっただろう。

 

…まあ今考えれば、そんな簡単に鉱山がもらえたら苦労しないって話だけど。

 

 

「まあお前はそんな痩せっぽっちだし、不細工だし、気味悪いから、気に入ってもらえないかもしれないけど…一応ね?

もし天変地異が起こって気にいられたら、そのまま売り飛ばしてしまいましょうか!」

 

 

ぱちっと手を叩き「我ながら名案ね!」と笑う母。

 

母の顔はある程度整っていて、随分昔にはいろいろな男性を誘惑して家に連れ込んでいたこともあった。

 

美人…何だろうけど、どうしても昔から、母の顔を好きになることはなく、今となっては嫌悪でいっぱいだ。

 

─特に、私を蔑んでる時の顔は。

 

その伯爵家は、もちろん皇宮には比べ物にはならないが、少なくともアメリアン家よりかは広かった。

 

簡易的ではあったが初めてのパーティー、立派な食事、広い庭園。

 

胸を躍らせたのと同時に、マナーは何も知らなかったから、たくさんの失敗をした。

 

特に覚えているのは、食器を片付けようとしたこと。

 

もちろんありえない行為だし、それに伯爵様も引いていた気がする。

 

もちろん気に入られることもなく、両親には帰宅後怒られた。

 

でも何よりその日の出来事で覚えているのは孤独感だった。

 

誰も私とは話そうとせず、皆見て見ぬふり。

 

誰かは食を楽しみ、誰かはお酒を嗜み、誰かは踊り、誰もが笑う。

 

皆、独りじゃない。私を除いて。

 

そして、私を見てはこう言う。

 

 

『可哀想に…』

 

 

その嘲笑に耐えきれず、その日はほとんど庭園で過ごし、草木や花を見て楽しんだ。

 

かなり丁寧に整備されていて、綺麗で鮮やかな薔薇が咲いていたのを覚えている。

 

それだけだった。

 

◇◇◇

 

 

─「あら?貴女、アメリアン子爵家の方でいらして?」

 

 

ふと声をかけられ、過去に浸っていた私は急いで顔を上げる。

 

視線の先には、華やかなドレスを纏った数人の令嬢たちがいた。

 

このグループの取り巻きたちは一歩下がり、ある一人の令嬢が前に出てきた。

 

蔑むような目で私を見て、にやりと笑う。

 

 

「せっかくのパーティーなのに、クロッカス侯爵様とはご一緒ではないのですか?」

 

 

先ほどまで私はずっと旦那様といた。

 

きっと、私が一人になったタイミングを狙って嫌味を言いにきたのだろう。

 

 

(はぁ…旦那様も時間的にまだ帰ってこないでしょうし…)

 

 

「はい、リアン様はご用事で席を外されています。もしかしてリアン様に何かご用事がございましたか?」

 

 

心の中でため息を吐く私に、令嬢はまくし立てるように話し続けた。

 

 

「あら、そんなに侯爵家の当主様のお名前を軽々しく呼んで…淑女としてのマナーがなっていないのではありませんこと?

一体何を勘違いしてるのかしら、貴女の出生は子爵家ですのよ?…まあ、お似合いなところはあるかもしれませんけど。」

 

 

通常異性の婚約者ともなれば、名前もしくは愛称で呼ぶのが一般的であり、それにはマナーも何もない。

 

だからきっとこの令嬢の言葉の意味は「貴女みたいな人が侯爵家に嫁ぐなんて、全く釣り合っていないわ。なんて卑しいのでしょう。」だろう。

 

でも別に、私がその言葉で傷ついたわけではない。

 

身分が釣り合っていないのは客観的に見ても明白だし、それについては同意だ。

 

でも、次の言葉は何か。

 

私を貶した後に「お似合いだ」なんて。

 

この「お似合い」の意味の受け取り方は2つあるだろう。

 

1つは単純に「貴女と彼の容姿が美しくお似合いだ」というポジティブな意味。

 

そしてもう1つは、「卑しい貴女と呪われた瞳を持つ侯爵様がお似合いだ」という意味。

 

 

─私のことを散々貶しておいて、前者な訳がない。

 

 

(旦那様のことを何にも知らないくせに、醜悪な噂は信じ切るなんて…)

 

 

齢20前後、恐らく私とほぼ同世代の令嬢。

 

艶のある髪、透き通るような瞳、整った顔。

 

そんな顔に負けないほど美しく華やかなドレス。

 

ここまでの人生を大切に不自由なく過ごしていることはわかる。

 

軽く受け流すつもりだったけれど─どうも、彼のことを悪く言われては虫唾が走る。

 

 

「…しかし、淑女云々をおっしゃる資格は、貴女にあるのでしょうか。」

 

 

意を決して力強く問う。

 

 

「はぁ!?本当に失礼ですわね!やはり卑しい…ろくに社交界にも出ていないせいかしら?」

 

 

彼女は持っていた扇子を力強く畳み憤慨する。

 

 

「私は少なくとも、自身のことを名乗りもせずに相手に一方的に話しかける方が淑女だなんて思いません。」

 

 

「なっ…」

 

 

「貴女はそうは思いませんか?ミラット伯爵家のソフィア様」

 

 

「ど、どうして名前を…」

 

 

身分の高さゆえ、人に反抗されることに慣れていないらしくそれを言うだけであっという間にたじろいだ。

 

名前なんて、実際にはただお婆様に教えてもらっただけだけど。

 

 

「…さて、私はそろそろここを離れようと思うのですが、よろしいですか?」

 

 

動揺している間にそそくさとこの場から離れようとした。

 

これ以上誰かに絡まれるのはご免だ。

 

 

─その時だった。

 

 

「いい加減になさい!!」

 

 

ソフィア様は私のドレスを鷲掴み、扇子を投げ捨てて手を振りかざす。

 

その瞬間、私はフラッシュバックのように思い出してしまった。

 

 

『うるさいわね!黙ってなさい!!』

 

 

幼い時に掛けられた言葉と、頬を叩く母親の手の平。

 

 

(あっ…あぁ…)

 

 

動けない。

 

こんなの避けれるはずなのに。

 

平手打ちを避けて、ドレスを掴まれている手を振り払う。

 

頭ではわかるのに。

 

自分が何とも情けない。

 

完全に硬直した私は、諦めて目を瞑り、叩かれるまで待つ。

 

 

─(あれ…?)

 

 

しかし、いつまで待っても平手打ちは来ない。

 

思わず目を開けると─私を叩こうとしていたソフィア様の腕が、ある人に掴まれていた。

 

艶のある桃色の髪、ルビーのような瞳、そんな可愛らしい顔立ちとは対照的に冷血そうな冷たい表情をする令嬢。

 

お婆さまが教えてくれた記憶を辿ると、確かにそんな特徴を持った令嬢がいた。

 

彼女は確か─「この国唯一の大公爵家のご令嬢、ラスティル・ミリア・アシェット」




ご覧頂きありがとうございました!
次話もご覧頂けると幸いです(*´꒳`*)

…ご感想を頂けると泣いて喜びますので是非…!


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第17話

「なっ、何!?邪魔しないで頂戴…って─」

 

 

ソフィア様は激しく憤慨し、自分の腕を掴む人物へと視線を向け、凍り付いた。

 

隣に立っていたのは、可愛らしい顔立ちとは対照的に氷のように冷たい表情をするラスティル様だったから。

 

大公爵の地位を持つ家門は、この国でただ一つ、アシェット家しかいない。

 

数々の事業を成功させて莫大な資産を得ている上、皇族が政策についての意見を聞くほど知見も信用も深い。

 

そんな家で生まれた彼女は、「笑顔を見せた事がない」と言われるほど冷血だと囁かれるものの誰もが認めるほどの才色兼備らしい。

 

そして、現皇太子と婚約関係にある。

 

 

─そんな彼女に歯向かえる人間が、この国に一体何人いるのだろうか。

 

 

「ら、ラスティル様…」

 

 

彼女を見た途端、ソフィア様はカタカタと震え怯えた。

 

ラスティル様は無表情のまま、振り落とすかのように乱暴にソフィア様の手を離した。

 

 

「貴女、ここが皇宮だということはお分かりで?

自分の感情すらもをコントロールできないような卑しい醜女が、

どうしてこのような厳粛な場所にいられるのか、不思議でしょうがないわ。

見ていて不愉快極まりない。」

 

 

そう、吐き捨てるように言う。

 

 

「い、卑しい…醜女…」

 

 

ソフィア様は衝撃を受けたかのようにぶるぶると震えながらこちらを睨んだ。

 

先ほどまで私に思っていたことが自分に返され、悔しく感じたのだろうか。

 

 

(私の知ったことではないけれど…)

 

 

それでもなおここに留まるソフィア様だったが

 

 

「早く立ち去りなさい。」

 

 

というラスティル様の言葉で、取り巻きを含めそそくさとこの場を離れていった。

 

ここに残ったのは、ラスティル様と私だけ。

 

少しの沈黙の後、ラスティル様は「少し、人気がないところに行きましょう。」とだけ言って、私の手を引いて歩いてしまった。

 

確かに人が集まりかけてきたところではあったが─

 

 

(“話す”って何を…)

 

 

先ほどのソフィア様に比べ、何を考えているのかも読めない。

 

その凛々しい横顔に目を向けながら、早歩きで移動する。

 

結局私たちが足を止めたのは、件の場所から遠く離れた廊下だった。

 

 

「…あの、ラスティル様。」

 

 

「何かしら。」

 

 

その返事の声は、先ほどとは驚くほど異なり、柔らかく温かい声だった。

 

 

「申し遅れました、私、アメリアン子爵家のアイリスと申します。

助けて頂きありがとうござました。

ラスティル様は助けたつもりはないかもしれませんが…それでも、感謝申し上げます。」

 

 

深々と礼をする。

 

彼女がいなければあのまま叩かれていただろうし、叩かれていなくてもあの場を乗り切るのは難しかっただろう。

 

例えば私が「ミラット伯爵家に暴行未遂を受けた」と話したとて、いくら「侯爵家の配偶者候補」であっても、実家の身分も低く社交界にほとんど顔を出したことのないような私が勝てるわけもなく、あっという間に揉み消され、もっと酷い行為をされたかもしてない。

 

それは旦那様の弱点にだってなり得る。

 

でも私はそこまでのことを瞬時に考えずに、相手を刺激するような軽率な行動を取ってしまった。

 

 

(…ある意味で、淑女失格なのかもしれないわ…)

 

 

しかし、ラスティル様が助けたことで状況は一変した。

 

皇族の次に地位の高い大公爵のアシェット家に「卑しいと吐き捨てられた者」と「助けられた者」ならば、世論が傾くのはどっちだろう。

 

ソフィア様の暴行未遂も相まって、あっという間に彼女の地位は墜ちてしまうだろう。

 

確かミラット家は衣服の装飾品の事業をしている。

 

不買運動か何かが起こる可能性もなきにしもあらずだ。

 

それだけラスティル様─そしてアシェット家が、強力な影響力を持っているということだ。

 

私はしばらく辞儀をしたままだったが、彼女の反応がなかったのでゆっくりと顔を上げた。

 

目が合うと彼女は「…礼には及ばないわ。」とそっぽを向いた。

 

 

「普段の私なら、ああいう面倒ごとは無視していたわ。騒ぎは嫌いだから。

…でも、自分より高貴な人に罵倒されても何も言えない人がほとんどだというのに、貴女は思い切り言い返していた。

そういう真っ直ぐな人が、どうしても好きで、守ってあげたかった…そんな、ただの自己満足よ。」

 

 

言い終わると、彼女は静かに私の方を向いた。

 

 

「えっ…」

 

 

「貴女みたいな人、私は好きよ。」

 

 

彼女─「笑顔を見せた事がない」と言われるほど冷血だと囁かれるこのご令嬢は、清廉で美しい笑みを溢していた。

 

 

「…ラスティル様は、こんなにも素敵な笑顔をお持ちなのですね。」

 

 

釣られてこちらが笑ってしまうような、天使の笑み。

 

どうしてこのような笑みを持っているのにも関わらず、冷血だなんて噂が流れるのだろう。

 

でも彼女は私の言葉を聞くと身体をピクリと動かし、驚いたように目を見開いた。

 

 

「私の笑みが…分かるの?」

 

 

声を震わせ、先ほどの威勢はどこへいったのか、か細く聞いた。

 

 

「…?…ええ、だってあんなに素敵に笑ってらっしゃったではないですか。」

 

 

何を当たり前のことを、とすら言いたい。

 

なのに、彼女は目を見開いたまま硬直してしまった。

 

まるで、信じられないものを見たかのように。

 

とうとう彼女は、一筋、細い涙を流してしまった。

 

窓から差し込む月の光は涙に反射し、劇のワンシーンのような瞬間。

 

それはそれは清らかで麗しいものだったが、今の私にはどうして泣いているのか分からず、それどころではなかった。

 

何か悪いことをしただろうか、何か気に触ることでも─

 

 

(いえ…違うわ。)

 

 

私は昔から人の感情を察する事が得意らしい。

 

些細な言動を見逃さず、そしてその観察力で得た情報をこれまた得意な“記憶”で覚える。

 

私自身特に意識はしていなかったが、街の人にもお婆様にも、レオンにも言われてしまったため、さすがに自覚した。

 

観察力が長けている理由はきっと─皮肉にもあの両親のおかげだろう。

 

物心ついた瞬間から彼らの顔色を伺って生きてきたから。

 

この涙の意味もきっと、両親に彼らを持たなければわからなかっただろう。

 

 

(これは哀愁ではなく…喜び、感動…?)

 

 

「…失礼します。もし不快になられましたら、すぐにおっしゃってくださいね。」

 

 

啜り泣きが響く廊下に静かに呟き、そっと彼女の背を撫でた。

 

私より背が高く、とても細いウェスト。

 

深い紫色の華々しいドレスに身を包む彼女は、先ほどまではとても勇敢で逞しい女性に見えていた。

 

でも今はどうしても─泣きじゃくるか弱き少女のようにしか見えなかった。

 

◇◇◇

 

 

「ごめんなさい、取り乱してしまって。」

 

 

落ち着きを取り戻したラスティル様はそう言って頭を下げた。

 

 

「頭をお上げください。私は全く気にしておりません。」

 

 

私なんかに頭を下げるなんて、勿体無くて仕方がない。

 

 

─「…私は、噂にもある通り、誰にも笑わない人…いえ、“誰からも笑顔を認知されない人”だったの。」

 

 

数分の沈黙が続き、そろそろお暇してもいいか聞こうとした時、彼女は突然口を開いた。

 

そう言った彼女の表情はこちらの胸が痛くなるほど何とも悲しそうで、思わず躊躇いがちに距離を縮めた。

 

 

「昔からそうだったわ。私は感情が表情に現れづらいみたいね。

殿下─婚約者や家族ですら、私の笑みには気付かないみたい。」

 

 

─諦めて見切りをつけたような、それでもやっぱり寂しげな、そんな風な泣き笑いだった。

 

 

アシェット家は家族仲が良いとどこかで聞いたことがある。

 

現公爵─彼女の父親も、母親も、子供たちにはよく尽くしていたらしい。

 

どんなに多忙でも一日一食はを共に過ごすし、季節が変わるごとにはるか遠くへ家族旅行に赴き、服飾や学費にもこれでもかとお金を注ぎ込む。

 

一緒にいる時間が長ければ幸せ、お金が多ければ幸せ、とは決して思わないけれど、この話をどこかで聞いた時に自分が羨望を抱いたことは確かだった。

 

才色兼備だと持て囃されて、お金にも不自由ない生活で、家族愛にも恵まれている。

 

そんな彼女にすら、長年の辛さ、苦しさ、葛藤があったのだろうか。

 

 

「…でも、貴女は気付いてくれた。“私”に。」

 

 

それは本当に嬉しそうで、輝くような笑みで、だからこそ─申し訳ない。

 

私は世間の評価やお婆様の情報に流されて、自分の目で確かめようとしていなかった。

 

結局は私も、旦那様の噂を信じ拡散した者と同じということだ。

 

そんな私に感謝されるほどの価値は─

 

 

「…だからね、私は貴女に、話し相手になってほしいの。」

 

 

「えっ…?」

 

 

にわかに照れながら、彼女はそう続けた。

 

 

「クロッカス家はアシェット家と同じ皇帝派で、関係も…まあ良好だと言えると思うの。

だから少しくらいお茶をしても問題ないでしょうし、むしろそういった繋がりが政治的に必要になる場合もあるくらいでしょう。

だから…貴女さえ良かったら…」

 

 

「…それは、友達、ということですか?」

 

 

恥ずかしがって下を向いている彼女にそう問うた。

 

“友達”というのは、レオンとの出会い以降実に数年ぶりに出した単語で、18歳にもなる私が声に出すには、少しだけ羞恥のある響きだった。

 

それは3つ年上の彼女にも当然言えることだろう。

 

 

「そ、そう…いうことに、なるのかしら…そう。」

 

 

しどろもどろの返事は、少し赤面しながらもやっぱり嬉しそうだった。

 

 

「…やっぱり話し掛けて良かったわ。勇敢で眩しい貴女に、ね。」

 

 

(“勇敢で眩しい”…?)

 

 

この、私が?

 

 

「…私の出自を知っても、ですか?」

 

 

その質問に、彼女はピクッと眉を動かした。

 

少し、いやだいぶ、意地の悪い質問だったかもしれない。

 

変えることもできなければ擁護しようにも出来ない私の過去は、あまりにも意地悪だ。

 

 

─それでも彼女は、笑ってくれた。

 

 

「ええ。私は貴女の世論がどんなものでも、出自がどこでも、自分が見たことだけを信じるわ。

…そして、“私”を見つけてくれてありがとう、アイリス。」

 

 

その瞳は、真っ直ぐで、揺るぎないもの。

 

“本当に眩しいのは貴女です”

 

そう言いたかったけれど、どうせ信じてもらえなさそうだったので、そっと口を噤んだ。

 

 

「恐れ多いですが、“友達”、私こそよろしくお願い致します。」

 

 

彼女は顔をぱぁっと輝かせて手を差し出し、私は静かに手を重ねた。

 

それはまるで、契りのような握手だった。

 

証人はたった2人だけれど。

 



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第18話

さて、午後8時に始まる毎年建国記念日に行われる儀式と宴では、皇族とその配偶者並びに婚約者も前に立つらしい。

 

つまり、彼女もそこに行かなければいけないということ。

 

現在時刻は午後6時を過ぎており、そろそろ準備をするのだと意気込んでいた。

 

 

「アイリスもそろそろ戻った方が良いわよ。

騒ぎも落ち着いているでしょうし、何より侯爵様が心配でいらっしゃるかも。」

 

 

侯爵様というのは、それはつまり旦那様のことで─

 

 

(そういえば、旦那様と離れてからかなり経ってるわね。)

 

 

─「ここから動かないで、待っていてくれ。」

 

 

そこで私はやっと、旦那様が言っていた言葉を思い出した。

 

 

「あっ…!」

 

 

(どうしよう、動かないでとおっしゃっていたのに、ホールからこんなに遠くに…!)

 

 

「リアン様が、“この場を動くな”とおっしゃっていたのを忘れていました…!

ど、どうしましょう、すぐ戻るともおっしゃっていたので、もしかしたら探していらっしゃるかもしれません!」

 

 

旦那様と別れてから時間は1時間近く経っている。

 

とっくのとうにメアリ様との話し合いは終わっていてもおかしくない。

 

 

(何で忘れていたんだろう…今頃旦那様はどこに…)

 

 

「大丈夫よ、落ち着いて。

皇宮も広いとはいえ招待客が入れるスペースは限られているし、きっとすぐに会えるわよ。」

 

 

ラスティル様は私を宥めてから「少し待ってて」と数分ここを離れ、1人の侍女を連れて帰ってきた。

 

 

「私の専属の侍女よ。1人だと心細いと思うし、この子と一緒に探しに行ったらどうかしら。」

 

 

(自分専属の侍女を、私に…)

 

 

本来自分専属の侍女というものは、絶対に手放すことはない。

 

一番自分と相性が良いのも一番信頼度が高いのも、専属の侍女だから。

 

そんな人材を私に寄越すというのは、それだけ私に心を許しているという証なのかもしれない。

 

 

「また、会いましょうね。

今日はもうお互い忙しくて会えないかもしれないけれど、今度お茶でも誘うわ。」

 

 

別れ際、彼女は名残り惜しそうにそんなことを約束してくれた。

 

 

「はい…っ!」

 

 

彼女の侍女─リノは、かなり気さくな人だった。

 

ホールに着くまで沢山の話を聞かせてくれたが、1番印象に残ったのは─

 

 

「実はですね…お嬢様、幼少期からずっとぬいぐるみと一緒に寝てるんですよっ!」

 

 

「どうですかうちのお嬢様。可愛くないですか!?」と言わんばかりのきらきらした顔で、恐らく大事に隠しておいた方がいい情報を話した。

 

 

「…話してしまって、大丈夫なのですか?」

 

 

躊躇いがちに聞くと「大丈夫ですよ!…バレなければ。」と悪戯な顔で笑う。

 

 

「…ふふっ」

 

 

そんな笑みに釣られ、思わず私も笑ってしまった。

 

 

(ラスティル様は愛されているお方なんだわ。

たとえ笑顔が認知されなくても、きっとそのお人柄が伝わっていたのね。)

 

 

良かった、と心の底から安堵した。

 

その表情のせいでもし距離を置かれていたのなら。

 

そんなことは考えたくもない。

 

 

「アイリス様。もうそろそろホールに着きますが、どこにいるかの目星はございますか?」

 

 

旦那様と別れた場所は、旦那様とお茶をしたテラスの近くだった。

 

 

「多分…あの辺りに─」

 

 

ホールに足を踏み入れ、テラスに指を差してそう言った時。

 

 

「アイリスっ!!」

 

 

聞き馴染みのある声質、でも、焦りが伝わる声。

 

 

「り、リアン様…」

 

 

振り向けば、セットした髪も乱れ、しかし酷く安堵した旦那様がいた。

 

そんな彼に、勢いのまま強く抱擁される。

 

 

「どこに行っていたんだ…何かあったのか?怪我はないか?」

 

 

抱きしめたまま、赤子を宥めるように背中をさする。

 

割れ物を扱うかのように、私に触れる手は柔らかく優しかった。

 

 

「も、申し訳ございません。少し騒動があって、ここを大公爵令嬢と共に離れていました…」

 

 

「騒動…?まさか、アイリスにとっついた輩がいたのか?誰だ、何をされた?

それに大公爵令嬢と?何か言われたのか?脅されたのか?」

 

 

怒りを露わにして私を更に強く抱擁する旦那様はどうも…

 

 

(何だろう…?)

 

 

過保護、そんな言葉が合うかもしれない。

 

決して彼の優しさを無下にするわけではないが、何だかいつもより更に焦燥感があるような。

 

 

「脅されるだなんてとんでもない。優しくして頂きました。

…ここでは人目がありますから、他の場所に移動しませんか?」

 

 

少し強引に身体を引き離し、控えめに促す。

 

 

「…あ、ああ。」

 

 

渋々、といった形で旦那様も距離を取ってくれた。

 

 

「リノさん、お世話になりました。ラスティル様にもお礼をお伝えください。」

 

 

唐突に話し掛けられた彼女は、気が抜けていたのかびくっと身体を動かし「はい、承知しました!」と微笑んだ。

 

そして早歩きで廊下を進み、はねたショートカットの明るい茶髪を揺らしながらラスティル様の元へと帰っていく。

 

その可愛らしい姿に、何だか和んでしまった。

 

◇◇◇

 

ホールから少し離れたところで、歩いていた足を止め、アイリスに事の真相を聞いた。

 

ミラット家の令嬢が言ったこと、アシェット家の令嬢が助けてくれたこと、そして彼女と親しくなったこと、その全てを。

 

 

「そのような暴言を放った挙句に暴力…?ふざけるのも大概に…」

 

 

─どうしてこう、上手くいかないのだろう。

 

 

少し離れるくらいなら大丈夫、そんな甘い考えをした自分にすら憤慨を感じる。

 

叔母様との話は、一言で言ってしまえば今後のクロッカス家の方針だった。

 

それは確かにかなり大事な内容で、アイリスが聞いていいのかも分からない。

 

でもせめて、庭園に一緒に行くくらいはしてもよかったのではないだろうか。

 

私はどれだけ過ちを犯すのだろう。

 

どうして彼女ばかりこんな目に遭うのだろう。

 

 

(…なのに、貴女ときたら。)

 

 

「旦那様…良いんです、事実ですから。」

 

 

諦めのような笑みを浮かべ、まるで少しも傷ついていないかのよう。

 

…否、本当に傷ついていないのかもしれない。

 

 

(何でだ…何なんだよ…)

 

 

「アイリス、何でそんなことを言う?」

 

 

「…え?」

 

 

いつの間にか、そんな言葉を口にしていた。

 

一度口にするとそれはどんどん溢れてきてしまう。

 

 

「どうしてそんなに自尊心がないんだ?」

 

 

理由なんて、彼女の家族を見れば一目瞭然だ。

 

アイリスは何も悪くない。

 

なのに。

 

 

「人にそんなことを言われて、辛くないのか?心が痛くないのか?」

 

 

「し、しかし…身分は変え難いものですし、客観視しても釣り合わないのは明白です。」

 

 

しどろもどろしながらもまだそんなことを言う彼女に、やつ当たりに近い苛立ちすら覚えてしまう。

 

 

「そんなことを言っているのではない。何も感じないのか?

私が罵倒された時に庇ってくれたのは嬉しい。でも、自分に関しては何も思わないのか?」

 

 

「そ、それは…」

 

 

それでもなお煮え切らない返答をする彼女。

 

 

─かつてアイリスに救われた自分も、初めはこんな感じだったのだろうか。

 

 

生きることに諦めを感じていた幼少期。

 

彼女には救ってもらったのに…私は。

 

 

「淑女とは、自分に誉れや誇りといった類のプライドを持っているものだ。

そして私はそれを持ちすぎた人間は好ましく思えない。

…でも、全く持たないのも話が違う。」

 

 

違う、こんな言い方をしたいわけでは。

 

責めたい訳では無いのに。

 

 

「どうして自分をもっと大切にできないんだ。

罵倒されたら心が苦しくなっていい、暴力を振るわれそうになったら泣いてもいいんだ。

なのに貴女は…」

 

 

彼女にとってそれはできないこと。

 

そんなの分かりきっていることだし、それを責めるのは違う。

 

なのにどうして、言い方しかできないのだろう。

 

こんな、棘のある言い方。

 

 

「…も、申し訳、ありません…」

 

 

ついに、彼女は謝罪と共に─一粒の涙をこぼしてしまった。

 

丘の上で過ごした日々でも、現在の婚約者としての生活でも、泣いたところはほどんど見せなかったのに。

 

 

(私が、泣かしてしまった…?)

 

 

彼女はその小さい身体を酷く震えさせながら、ひたすらに謝った。

 

 

─こんなに、小さい身体だっただろうか。

 

 

美しいと思っていた彼女の藍のドレスも、今では着尽くされた古着のように頼りなく見える。

 

 

(…私は何をしているのだろう。)

 

 

今まで人一倍傷ついてきた彼女を、決してこれ以上傷つけてはいけなかったのに。

 

掛ける言葉が見つからなくて、否、言葉を掛けていいのかすらも分からなくて、ただただその場に立ち尽くした。

 

◇◇◇

 

 

「…少し、庭園を回ってきます。

建国記念の宴の時刻にも近いですし、ほとんどの人がホールにいると思うので、ご心配いりません。」

 

 

この場の空気に耐えられず、私は旦那様にそう伝えて皇宮を出た。

 

 

─わかってる、これは自分が悪い。

 

 

自尊心なんて、はるか昔にどこかに置いてきてしまった。

 

そんなものを持っているところで、余計現実を辛く感じ、苦しむだけだから。

 

皇宮の夜の庭園は、驚くほど綺麗だった。

 

庭園は隅々まで整備されていた。

 

一輪たりとも花壇からはみ出さず、また、虫に食われるなどもなく状態は完璧だ。

 

そして、初夏ということもあり、蛍が宙を飛び交う。

 

幻想的で美しい─のだろう。

 

どうしてだろう。

 

この庭園に比べ、ほとんど手入れもされていない“あの丘”の方が美しく感じるのは。

 

 

─その時だった。

 

 

「レディ、そろそろ宴が始まるよ。行かなくていいの?」

 

 

真後ろから、男性の声がした。

 

 

(どうして、ここに人が…)

 

 

振り返ると、1人の、月のように光る金髪に深い紫の瞳を持つ男性が立っていた。

 

人とは思えぬ美しい容姿。

 

それなのに愛らしく人懐っこい笑みを浮かべる彼には、きっと老若男女誰でも好感を抱いてしまうのだろう。

 

 

「私はただ、庭園を眺めていただけです。

…私がいることでご迷惑をかけてしまうようでしたら、おっしゃってください。」

 

 

「迷惑だなんてまさか。僕はただ、美しいご令嬢がいたから声を掛けただけ。

大体、貴女みたいな綺麗な人と一緒にいたくない男なんて、いないでしょ?」

 

 

ね?とおちゃらけたように笑い、私との距離を詰め、そっと私の手を取った。

 

 

「…勿体ないお言葉を頂戴し、感謝申し上げます。」

 

 

「えぇー?そんな他人みたいな言い回し…

もっとフランクに話そうよ。」

 

 

拗ねたように口を尖らせるその姿は、愛らしさそのもの。

 

きっと今まで、本当に色々な人に好感を持たれたことだろう。

 

 

(金髪に紫の瞳、誰にでも好かれるような人懐っこい性格…

彼が誰なのか心当たりはあるけれど、確証を持てな…)

 

 

その時、彼のペンダントのアメジストが月の光に反射され輝き、そのアメジストの奥底にある刻印が見えた。

 

 

(…どうやら、正解だったみたい。)

 

 

私は今一度姿勢を正し、できるだけ美しくなるよう心がけて辞儀をした。

 

 

「トラッシュ王国の王太子殿下に拝謁致します。アメリアン子爵家のアイリスと申します。

ご挨拶が遅れてしまいましたこと、謝罪申し上げます。」




再掲の件、申し訳ありません…!

では、どうかお身体にお気を付けて、良いお年を。


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