『ゴジラ対ヴ級海底軍艦 轟天振武の章』 (モーター戦車)
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プロローグ 第0話「はじまりのはじまり」Aパート
2030年12月31日 午後19時30分
みさきおくバス停留所近郊 嗣野村跡
新月の夜であった。
黒々とした闇を背に、普段であれば月の光によって隠されていたであろう、無数の星々が瞬いている。
80年前漁村があったその浜辺には、人の住まいがあった名残は欠片も残っておらず、街灯一つない浜辺には、静かな潮騒の響きを伴って、波が幾度も押し寄せる。
そんな、およそ人気のない浜辺に、一人の少女が佇んでいた。
腰まで長く伸びた金色の髪が、僅かな星あかりを浴びて輝く。
14才相応の、肉の薄い細い体。
その身を包んでいるのは、黒のダークスーツ。白のワイシャツに黒ネクタイ。
ドイツ系の血に由来した美しい
少女──式波・アスカ・ラングレー中佐は、夜空を見上げたまま、目を細めながら、小さくドイツ語で何かを吟じはじめた。
『
花玻璃の鈴のように澄んだ声音に、誰かが砂を踏みしめる音が混ざる。
少女は吟じるのを止め、足音の方向へ視線を向けた。
「奥方様、今宵は星が綺麗ですニャ」
別の少女の、どこか面白がっているような声が響く。
夜闇の中、くろぐろとそびえる断崖を背に佇んでいるのは、彼女のヴィレ時代からの同僚であり、現在の部下でもある、真希波・マリ・イラストリアス大尉である。
薄茶色の長い髪を首後ろで二股にまとめて垂らしている。赤いリムフレームの眼鏡の色は、今は闇に沈んで見えない。
「皮肉な話よ。半年前の怪獣災害で、首都圏がごっそり壊滅した結果の夜空だもの。とはいえ私達の世界のあの忌々しいL結界も、アレを思わせる紅塵もなしに眺める冬の星っていうのは、風情があっていいわよね。
夏より空が暗くて、星の瞬きも多くて。ほんと綺麗よ」
「ほー。奥方を否定しないか」
揶揄と喜びが半々といった、強いて例えるならチェシャ猫のそれに酷似した笑みを浮かべるマリに、平然と式波は言葉を返した。
「因果地平の彼方から流れ着いた流木同然の存在、パチモノのパチモノでそのまたパチモノ、3秒前仮説……いえ一年前仮説? どっちでもいいけど、
明日どうなるか知れたものでなし、変な意地張ってもしょうがないわよ」
「ほほーう、それならいいか──良くもないかなー?
この一年、艦長共々働き詰めで、年の瀬だってのに今日もお仕事。
働き詰めはお肌によくないですし? 副長もいーかげん25になるんだし、気をつけないとニャ~?」
その言葉をきいた式波は、さすがに眉を潜め、睨み返した。
「四捨五入してアラサーの話はやめなさいよ1万2千才、折るわよ。形象14才で絶賛固定中だっちゅーの。
ともかく、警察と病院と軍隊の緊急案件に、年末もなにもあったもんじゃなし。
ただ正月だけは例外にさせてもらう。
とっとと片付けて、投げる仕事全部投げたら仕事納め、贅沢三昧、無線封止に着信拒否。
三が日は私も艦長も年始休暇なんで連絡不能の旨、よろしく。
館山温泉で房州エビにキンメダイ、コタツにミカン、『九頭龍』の燗。
年越しそばがどん兵衛になりそうな分、新年は仕事もしないし贅沢もさせてもらう。
邪魔するやつは全っ員ブン殴る!」
語気荒く言い放ちながら、胸元で白い手袋に包まれた右手を拳と握る式波に、呆れ半分でマリが表情を引きつらせた。
「館山で温泉だと……こっちでの事務所代わりにしてるいつもの旅館じゃん。
新味ぜんぜんないよ奥さん、たまの休みなんだから別のとこ考えようよ-」
その言葉に、式波は深く項垂れ、ため息を付いた。
「仕方ないでしょ、年末のこの時期に、今から予約間に合うわけないじゃない。
それに見てくれがガキ同然だもの、見た目と身分証がどうにかならないと、予約もなにも取れたもんじゃなし。私と艦長が酒呑んでいいの、超常連で事情持ちだから見過ごしてもらえる『みすず別館』ぐらいのもんよ?
だいたい万が一見つかっちゃって、国籍不明の謎の秘密結社の階級持ちが、未成年者の飲酒で警察に補導とか、SNSの与太話にもならないわよ。注意一秒怪我一生!」
「呑まなきゃいいじゃん」
「原因要因一切不明とは言え、味覚も睡魔も戻ったって-のに飲まいでか喰わいでか!」
「贅沢舌ー」
「なんで嬉しそうな顔しながら揶揄してくるのよ。まあいいけど」
話はこれでおしまい、とばかりに言葉を切り、式波は表情を引き締めた。さっと四方に視線を巡らせる。
刹那、視界の中に膨大な色と可視化された音が様々な帯域の形で広がり、そして消える。それを彼女は一瞬で解読し、把握した。
「艦長と綾波はそれぞれの車を運転してこちらに接近中、HEATシーカーは沖合の予定ポイントで待機。綾波は元々だけど艦長も巧くなったもんよね、運転。
ナイジェル1、ナイジェル2からの映像情報、公安・警察の無線網にも特変なしと。
にしてもこのあたり、物流会社の違法無線多すぎじゃない?
まあ、邪魔になるものじゃなし、チクってたらキリもなし、通報している時間もなし、引き続き、電子的ネズミ探しを継続と。
あーあー、尻尾でも足でも蒸気でもいいから早いことだしてくれれば終わるのに。よりにもよってエヴァパイ組しか来なかったっての、ツイてないにもほどがあるわよ」
その様子を眺めたマリが、呆れたように言う。
「奥さん、ますます情報処理速度上がってない?
セカパクも起きてない世界なのに、一瞥で房総半島南端全域の無線波全部洗うの、この世界の文明レベルだとオーパーツの部類と思うけど」
「鍵とかゲマなんとか、それにあのシヴァ計算機の無限演算よりかは常識の範囲でしょ、EPR相関とマクスウェルの悪魔のちょっとした応用。
情報処理機関による熱・運動エネルギ-出力なんて大腸菌だってやってるんだし、驚くほどのアレじゃないわよ。
この世界と相性がいいのか、やりやすくなったのは認めるけど。ナラタケ参考にブーストも入れてるし」
しれっと式波は言い放った。現状、他人からある程度逸脱した能力なのかもしれないが、何しろナラタケやナイジェルのようなオーバースペックAIが存在してしまっている世界である。遅かれ早かれ追いつかれるに違いないし、逆に言えば10年分程度のアドバンテージはある。
進捗は極めて順調、怪しい棲家の情報下水たる無線波帯を片端から潰して、残りも知れている。現状何一つ問題はない。年の瀬らしく、万事静かに進んで欲しいもんよね。その気持ちが、無意識に式波の口から、歌となってこぼれ出た。
「年のはじめの試しとてー、つーつがなき世の目出度さを……♪」
「奥さんまだ年明けてない、それにそこは、終ーわりなーき世の♪ じゃなかったかニャ」
「つつがないに越したことないじゃない。死人はなるべく出したかないわよ」
言い放つ。
つまるところこの時の彼女は、さっさと終わらせて年始休暇に突入することばかりを考えていたのだった。
人生は面倒と面倒と面倒の繰り返し。今年が終わっても来年も面倒は訪れる。
だからこそ、今年の汚れは今年のうちに、今年の課題は今年のうちに。
「戦争の準備は、平和を守る最も有効な手段のひとつである、だっけ?
何の看板掲げて副業をやろうが、こちとら元々戦争屋だもの。
この世界のこと、私、正直嫌いじゃないし」
「
「珍しい、ハズレ。ジョージ・ワシントン。アメリカ初代大統領」
「もっと穏やかじゃないにゃあ」
「ドイツ的に
「最悪。ベリー最悪」
苦りきった笑みを浮かべるマリに好意的な一瞥を投げ、式波は再び空を見上げた。
部外者であった自分たちに、どこまで何ができるのか、彼女にはわからない。
しかし、どのような形であれ彼女たちはこの世界に出現してしまったし、元の世界には恐らく元の自分たちが、知らぬ間に違法コピーされたなどと知らず、せっせと自分の世界のために戦っているに違いないのだ。
であるのならば、もとより彼女に、否、彼女たち全員に、帰るべき場所などない。ないのであれば、作るだけ。根ざす覚悟を決めるだけ。
少なくとも、彼女と彼女の相方は、既にして己の在り方をそう定めていた。
かつて葦原道幸という科学者は予言した。アーキタイプなる物質が、21世紀にこの世界を完全に作り替えると。
何者かの答えとして世界が出力され、答えが出たはずの問いは、しかして再び問われはじめ、気づくと話が始まっていて、彼女たちの立ち位置は、ゴールであったはずのラインの向こう側、破局を超えたその先に座標している。
数多世界において、破滅として現れる定めを持った黒き獣は現れ、そして消えた。
それは破壊の王であり、終末と破局を齎す獣であり、そして何よりも呼び水である。
故に、その声は続いている。
その曲もまた続いている。
馬頭琴じみて骨を震わせ、その歌は彼方より、未来より、あるいは過去より響き続ける。
これは、彼女たちがこの世界に生まれ出で、持っていたと思っていたものの大半を喪った後の物語であり、破局の向こう側にたどり着いてしまったからこそ、世界がわからなくなってしまった後の話である。
過去が変化を遂げたのならば、現在も、未来も変化してしまっている。
閉じているのか? 開いているのか? あるいは平坦となっているのか?
声が響く。曲が響く。
『
問いが出ぬまま歌は何処へともなく響き、そして物語はこう始まる。
『Hello, world』
『G+A Singular Point Prologue Start』
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プロローグ 第0話「はじまりのはじまり」Bパート
「っし大成功!
バス間に合うってーのに、わざわざタクシー券だしてくれるんだから間違いなく成功よね! ま、エース扱いの私達が出張シェフやったんだし、成功して当然ってもんだけど!」
タクシー後部、右側後部座席でガッツポーズを決める、赤いコート姿の惣流明日香20才を、助手席から振り返りつつ、呆れ半分疲れ半分の半目で以て、碇慎司は見つめていた。
自分の右眉が無意識にひきつるのを感じている。状況が状況とは言え、大学3年の年末休み前半が吹っ飛んだので、内心に非常に複雑な思いがある。
「上手く行ったけどさ……ほんと、惣流って無茶するよね昔から。
店が逃尾に疎開して半年、まだまだ借金が多いからって、電話で片端から飛び込み営業って……ああいうの、神風営業っていうんだよ」
慎司は深々とため息を付いた。
「この年末の時期に、大慌てで営業電話しても普通上手くいかないのに、99件連続失敗して100件目で成功、しかも相手が怪獣災害解決の立役者、今じゃ日本で知らない人居ないんじゃないぐらい有名なオオタキファクトリー相手って、運がいいんだか悪いんだか」
言いながら、彼の口からため息が再び漏れた。
明日香の独断専行の果てに降って湧いた仕事とは言え、仕事である以上手は抜けない。手を抜けば『そういう店』という評判が立つに決まっているのだから、店長や同僚のためにも絶対に手は抜けない。
結果い、参加者全員の味の好みとアレルギー確認に、古いにも程がある町工場もいいところの本社の調理設備の確認、漁港やら何やら巡っての食材の仕入れ、不足している必要機材の搬入、エトセトラエトセトラ。
仕事納めと言うにはあまりにもすることが多すぎたため、碇慎司はもはや完全に疲れ切っていた。
とはいえ、惣流明日香が正社員でもないアルバイトの分際でありながら、慣れない営業の真似事を独断で初めたのにも、あまりに異常過ぎる時代をこの国が、いや全世界が迎えてしまったがゆえの事情があった。
日本に限った話でも、ラドン出現に端を発した一連の怪獣および、紅塵がもたらした大規模怪獣災害、特に大怪獣ゴジラの上陸によって、半年前に東京の首都機能のほぼ全てが壊滅してしまっていた。
東京の山手線地域から東側、下町のあたりまでがゴジラのもたらした異常な気温変動、そして止めとばかりに、紅塵が変異したと思しき謎の青色結晶が、東京中を埋め尽くしてしまったのである。
彼らが通っていた赤坂の大学キャンパスも、彼らがアルバイトしていたイタリアン・レストラン『モンナ・リーザ』もゴジラの吐いた謎の青色光線に破壊されたか紅塵の青色巨大結晶化に巻き込まれたか、今はもはや残っていないだろう。
現在も首都圏は封鎖状態で、侵入が禁止されてしまっている有様だから、確認のしようがないが、都心部はあの青い結晶に完全に埋め尽くされたような有様になっている。
あれで残っていたのなら、むしろ奇跡のたぐいだろう。
大学は当分休校を宣言している。そして、慎司・伶・明日香の3人とも相模原キャンパスには学部都合で縁がない。
慎司と伶が同居していた杉並区のアパートも、下北沢の明日香のマンションも、水道・ガス・電気等の事情から住めたものではなくなってしまい、行政が割り当てた千葉の避難住居への一次避難を余儀なくされてしまっていた。
とはいえ、人間とは、喪失に明け暮れるだけでは生きていけない。食べなければ生きていけないのだ。
怪獣と紅塵がもたらした大規模災害の終結以後、各国政府は迅速に復興へと動きはじめた。
幸い、東京は被災したものの、避難そのものは迅速であり、人的被害はゴジラが上陸するという恐るべき事態が発生した割には、犠牲者自体はだいぶ少ないものに押さえられていた。
彼らが通っていた赤坂学院大学も、日本政府が用意した復興支援制度を利用し、空き地や空きビルを利用して臨時キャンパスを購入しており、2月には授業を再開するという話になっている。
また、店が無くなり肩を落としていた『モンナ・リーザ』の店長は、長年繁盛させてきた店が災害で消滅してしまったことがショックでふさぎ込んでしまっており、店をたたむことを四年に検討していたものの、根強い常連や店員たちの声に応じて店の再開を決意、人口が急増した逃尾市に新たな店を構えた。
結果として、慎司たちはこの厳しい時期にあってどうにか職を喪わずに済み、住まう土地こそ変わったものの、引き続き店長の元で働いている。元々千葉に食材仕入先があったのが幸を奏し、店の収支は赤字と黒字の狭間をすれすれ飛行しているような状態ではあったものが、この調子なら赤字で潰れることはなさそうな程度には稼げていた。給料も無論払われている。
機を見るに敏と判断した慎司たち3人は、それぞれに逃尾の不動産屋に片端から電話し、それぞれの住居を臨時キャンパス近くに確保していた。
なにしろ避難民が隙間風吹く仮設住宅暮らしに耐えかねて、皆こぞって転居先を千葉に求めたものだから、地価と家賃が急騰して気が触れた数値になっている。契約は早めに済ませたほうがいい、というのが彼らの状況判断であり、それは概ね正しい方向に働いていた。
碇慎司は育ての親である親戚とは微妙な仲なので長野に変えるのは御免であり、綾波伶は箱根の古代遺跡に棄てられていた孤児であり、ついでに言えば碇慎司の同居人でもあるのでどうするにせよ新居がひつようであったし、惣流明日香は実家があるドイツで、父親の再婚相手とどうにも生き方や性格が合わず、最終的にお互い別居するのがベストという形で15才で日本に留学名目で逃げ込んできたようなところがある。
全員が全員後退先がない以上、新天地で全力を上げて根差す方向で頑張る他になくなっていた。そのような事情から、『帰るところがもとよりないし、帰れたとしても帰りたくない』という点では方針が一致している。
年末休み、被災で疲れているとはいえ、休日を潰してでもマネタイズしたい、というのは、彼らの偽らざる本音の一つであった。家賃と部屋更新代の事前備蓄や生活費の確保は、彼らにとって火急の責務なのである。
喪ったものは確かに多い。けれど、喪っただけでもないという日々を、この半年、慎司たちは過ごしていたのだ。喪失を埋め戻すかのような、人生万事への一意専心。それにともなう充足の日々。
そういう思いを抱いているのが彼だけではないことを示すかのように、後部座席左側の綾波伶がわずかに微笑みながら、彼の言葉に応えるように呟く。
「私達で臨時に店を経営できたようで、今日は楽しかった。和食に少し寄せた味付けにしてみたけれど、みんな美味しそうに食べてくれたもの。
社長のおじいさん、また頼むなんて言ってたから、また依頼があるかもしれない。その時は頑張らないと」
怜の言葉に、腕を組んだ明日香が然りと頷く。いわゆる『ドヤ顔』とでも言うべき表情を浮かべていた。
「結果オーライでいーのよ営業なんて、神風でも波風でも浜風でも上手く行けば。
あんただって伶だって、疎開の引っ越しでいくらでもお金いるんだし、大学の学費免除だっていつまで続くかわかったもんじゃないし、稼げる時に稼いでおく! 月月火水木金金!
忙しいのは私達だけじゃなくてオオタキファクトリーの人たちもみたいじゃない。
仕事も納めずあの日も私達が来るまで働き詰め、あの会社色々手広くやりすぎてて、果たしていつに休んでいるのやら。
ともかくあの大災害からまだ半年、どこも忙しい、食事を作る手間も惜しい、逆に言えば私達みたいな外食産業にとっては、ある意味稼ぎどきってもんじゃない」
などといいつつ、明日香の勝ち気に自らの勝利を祝う目つきに、若干の疲労がまじり、口の端には苦笑が僅かに混じりはじめた。
多分、あの会社のメンバー(特に約2名)と、その素行について思い出してしまったんだろう。さもありなんと慎司は内心で思った。
まともに話ができそうなのは筋骨粒々とした加藤という社員と事務員の金原という女性(彼女にしたところで派手なピンク色に染めた髪の色と、目の隈のごとき黒いアイシャドー、黒レザージャケットに黒のレザーパンツといった出で立ちなものだから、慎司にとって第一印象で一番の変人に見えた)、インターンと称した事実上の早期入社状態らしい神野銘の3人である。
残りの2人、社長の大滝吾郎と社員の有川ユンは天才か天才と紙一重であり、なんというか、接客をしていてやや気疲れしたことは慎司としても同意だった。悪い人たちでないのは間違いないし、たちの悪い客でもない。それはそれとして、彼らの独特な個性が個性すぎて、慣れるまでにだいぶ疲れてしまったのだ。
明日香が苦笑交じりに、ガレージで行われた立食会のことをぼやきはじめる。
「あの人達、年末だってーのに、最初えっらい疲れた顔してて目で『もう帰りたい』『食事なんてどうでもいい』なんて疲労をこっちに目で訴えてくるから、ホント勘弁してほしかったわよね。
何日鉄火場だったんだか……スーパー……なんだっけ、ワックスの改修だっけ?
都だか自衛隊だかの急ぎの依頼で掛り切りか何か知らないけれど、あんな疲れ切るほどのおお仕事だったら、立食パーティなんかしてないで帰らせてあげなさいっちゅーの」
「それは営業を断られるのとイコールということにならない?」
伶の言葉に明日香がぼやく。
「そうなのはわかってるけど、それはそれとしてに決まってるでしょ。
ものの味がするのこの人達、ってくらい疲れてたじゃない。
それにしてもあの銀髪メガネ、メシならよりによって『ブラジル』のチキンカツのほうがいいんだけどとか抜かし腐って、こいうどうしてやろうかと思ったわよね」
有川さんと加藤さんは小洒落た店より、地に足がついた地元の料理屋の方が好きそうなタイプだものなあ、と碇慎司は内心でだけ呟いて、明日香の愚痴に同意する。最もそのあたりは事前調査済みであり、カルパッチョも旬の寒鰆を使ったものを、醤油とバルサミコ酢などで和風に寄せたタレを使い、好みそうな味に頭を捻って寄せた。
寒い時期でもあるから暖かなものをと、パスタはペシャメルソースとトマトソースを合わせたコクたっぷりのソースをやや太めの新を残したパスタにたっぷりとかけ、オーブンで焼いて仕上げた熱々のキャセロールを提供、これは全員に非常に評判が良かった。
なるべく肉類も手間を掛けず、それでいて受けの良いものをと、子羊とパルマ・ハムとハーブを重ねて焼いたサルティン・ボッカや、シンプルな牛肉のタリアータを手抜きせず、多すぎず少なすぎずだすことで、顧客の心を掴めたように思う。
特に加藤さんが露骨に足りないという顔をしており、リピーターになる顧客様特有の目つきをしていたので、ひょっとしたら常連になってくれるかも知れない、と慎司でさえ胸算段したほどだ。
「サングリアも更に甘口にして正解だった。ホットとアイスの両方を用意したのも正解。
有川さんが甘いのに目がないということは事務員さんから聞いていたから、ジェラートにかけてたべられるようにしたけれど、功を奏してよかった。神野さんも美味しそうに、いい顔をして飲んでいた。きっとベリー多め果実マシマシが正義」
「結果良ければすべてよしよね。皆きれいに食べてくれたし。
それにしても、あの社長さん。
イタリア料理で自分の秘蔵の日本酒だって言いながら開ける人、初めて見たわよ、
東京より魚がいいから魚介メニューには拘ったし、そりゃ合うは合うだろうけれど……出張とは言え自前の酒開ける? 店じゃないからいいのかもしれないけれど、出張シェフでドリンク代も料金入ってるのにそれって……まあ、払いがいいから全て良しだけれど、どーなのかしらね」
「思いついたら即実行の人らしいから……」
一番高齢であるはずなのに一番元気にあれこれ言いながら大騒ぎしていた大滝社長の振る舞いを思い出しつつ、慎司は明日香の言葉に答えた。
調べた限り、相当の高齢のはずなのに、メンバーの中で一番活力にあふれていて元気であり、元気の勢いが余って、大滝社長の口から次々に素人には高度過ぎて意味不明な言葉が怒涛のごとくに繰り出され、しかも有川さんや加藤さんは普通に会話を成立させていたものだから、正直なところかなりおののいたのは事実である。
健康食品の話題から急にAIの学習パターンに話が飛んだと思えば、この世に存在しない動物は果たして何次元まで知覚可能か、それを統合検知できるセンサーはあるかなどなど、ジャンルから話題の内容まで本当に話題が飛び飛びであり、とりあえず流そうとすると不意に今の食い物はなんだ旨えぞとか聞いてくるので一切合切気が抜けず、それでさらに疲労が増したのは慎司だけの秘密だ。
ドンガラの首都防衛移動要塞云々に始まり、地磁気異常がどうの、なんとかいう町の言い伝えがどうのならまだかわいいほうなので、本当に恐ろしい会社だと思う。ゴジラ退治の原動力にして最大殊勲賞、とまで言われるのも妥当だろう。ゴジラ顔負けの活力だ。
普通の日常会話の中からシームレスにあれが最後のゴジラとは思えねえなどの恐ろしい発言が飛び出してみれば、突然『怪獣来たりて有明の、江戸の都を振り捨てて、西海の波濤に~』と氏素性が全くわからない、どこかの浪曲らしいものを突然唸りだすに至っては、どうやって周りの人は会話を成立させているんだろうと頭を抱えたくなったほどだ。
本当に大丈夫なのだろうか、天才と紙一重というのはこういう人のことをいうのだろうかなどと言う言葉が、大滝社長を見ていると脳裏に浮かんでくる。勿論接客業だから、顔にも声にも出さなかったが、今は帰宅中なので脳裏もよぎるし顔にも疲弊の形で出る。
ただ、そうしたおよそ常人には理解し難い人物ではあったけれど、相手をしていて不快なメンタリティを持つ人物でなかったのは確かで、慣れればそういうところに好意を抱かれるタイプの人物なのかもしれない、と思いながら、ふと慎司は自分の左の車窓を眺めた。
夜を照らす街灯と、街路樹として植えられたヤシの木が、タクシーの後方へ流れていく。
この半年ですっかり見慣れた北条海岸通りだ。しかし、どうも景色に馴染みがない。
どうも話し込んでいるうちに、曲がるべき角を随分通り越してしまったようだった。慌てて慎司は運転席のタクシー運転手を振り返る。
「すみません、少し戻って貰えませんか? 道を行き過ぎてます」
「いえ、道は間違っていません」
その返答に、慎司は怪訝な表情を浮かべた。
「いえ、3丁目は2つ前の道を右に──」
しかし、制帽を被り、ティアドロップのサングラスをかけた、今どき古風とすら言える出で立ちのタクシー運転手は、否定するかのように首を振ると、碇慎司の方を向いた。
「少しばかりあなた方と話がしたかったのです、特に碇慎司さん。あなたに確認したいことがあります」
胃の腑に不安がこみ上げる。タクシー会社に伝えたのは名字までのはずなのに、この運転手は自分の名前を知っている。
「話? 確認したいことって、なんですか?」
自分の声が不安に震え、上ずるのを自分の耳で他人事のように聞く。道を間違えた運転手の冗談かなにかであってほしかった。
しかし、運転手の視線はサングラスに隠れて見えず、口元はどこまでも無表情だ。感情を全くみせる気配がない。
あくまでも事務的な、感情を含まない声で、運転手の男は慎司に問いかけてきた。
「はっきり申します。この国が海底軍艦とでも言うべき、恐るべき大軍艦の修復を行っていることを我々は既にして察知している。それにあなた自身が関与していることもです」
何を言ってるんだ、という言葉を慎司は飲み込んだ。海底軍艦? 潜水艦のことだろうか。しかし、潜水艦というのは、慎司の知る限り、『大軍艦』などという表現の似合うものではない。
「海底軍艦? 話がさっぱりわからないんですけれど。人違いじゃないんですか? 僕はただの大学生で、千葉に来たのも被災したから……」
「とぼけないでいただきたい。かつて我らが祖国、ムウ帝国を滅亡の瀬戸際に至らしめ、そして破局を導いたあの忌まわしく恐るべき兵器、海底軍艦轟天号!
この計画に、あなたは確かに名を連ねている! 若輩の身ながら艦長として! 我々ムウ帝国の諜報網を侮らないで頂きたいものですな!」
慎司の言葉を、運転手の語気強い言葉が遮った。サングラスで表情が隠れているにせよ、明らかに怒っているようだった。それも、激怒の類をどうにか礼節で噛み殺しているような気配がある。
「かつて我がムウ帝国を滅ぼした悪魔の艦、轟天号! この復活は、危ういところで滅亡を免れた我らムウ帝国民族に、怪獣災害の混乱にまぎれて止めを刺さんとする企てと見た! 直ちに修復を即刻お止め頂きたい!」
うろたえ、シンジは後部座席に一瞬視線を投げた。
運転手の異常な様子に、普段あまり感情を表にだすことのない綾波が、動揺の表情を見せている。惣流はというと、スマートホン画面を操作していたが、どうも電波が繋がらない様子で、バッグに手を突っ込んでいる。そこに密かにスタンガンを隠し持っていることを、慎司は知っていた。なにしろまだ怪獣災害から半年しか経っておらず、強盗などのニュースは珍しいものではない。警察も状況の沈静化に必死なようではあったが、いかんせん怪獣たちが齎した被害と混乱は、彼らの職掌で対応可能な域を越えていた。
おそらく大滝社長がタクシー券で帰るよう気を回してくれたのも、そういう時節を鑑みてかも知れないが、まさかその運転手が、どう見ても何らかの妄想に取り憑かれた危ない男であるというのは、想像の埒外であったに違いない。
何れにせよ、この人物が危険であることは疑いない。惣流の性格を考えれば、間違いなく仕掛けるだろう。このような相手に手加減できる状況でもない。運転中にスタンガンは危険かもしれないが、狂人の妄想を聞きながらドライブするよりは、多分よほど危険がない。妄想に駆られて海中にでも車ごとダイブされてはたまらないのだ。この冬の時期の海水浴は、間違いなく年令問わず体に悪いに決まっているのだから。
「何の話ですか!? 分かりません、僕はそんなことには全く──」
慎司は運転手に視線を戻し、叫んだ。狼狽していてわけがわからない、という顔をする。本当にそういう気持ちであり、なおかつ狼狽しているのだから、演技でもなんでもない。
しかし、恐ろしいことに、運転手はそれを演技かなにかと本気で思っているようだった。慎司の表情を見ていよいよ真顔となり、唇を強く噛み締めた。血が出ている。明らかな激情。見ず知らずの人間にどうしてここまで怒れるのかがわからない。
「さては記憶操作か。やむを得ません、あなた方には我々のムウ帝国に来ていただく。
いかに記憶を隠そうとも、破壊でなく隠蔽であるのならば情報は健在です。引きずりだすことも不可能ではないのですからな。
乗艦を離れるこの機を逃さずに済んだのは、我々ムウ帝国にとってまさに行幸。
碇慎司艦長、それに式波・アスカ・ラングレー副長、ご観念を」
「だれが! 副長! だっつーの!」
後部座席から惣流の叫び声、次いで強烈な炸裂音が、運転手の首のあたりから響いた。
惣流がバッグの中に護身用に入れていたスタンガンを、最大電圧で運転手の首に押し当てたのだ。危険なのは間違いないが、艦長だの副長蛇のムウ帝国だの、明らかに言動が奇妙だった。それこそ危険極まりない。
「済まない惣流、助かっーー」
礼を言おうとした刹那。しかし運転手はむしろ毛ほども苦痛を感じていないようであった。
「ははは。天下の轟天号の副長ともあろうものが、我々ムウ帝国国民の身体の頑丈さを知らぬとは!
これだから地上の奴隷共は愚かしい!」
「え、何こいつーー」
奴隷!? なにかとてつもない言葉を聞いた気がしたが、しかし慎司はそれどころではないと直感した。最大電圧のスタンガンを頸部に食らってしまえば、大抵の人間は指一本動かせなくなる。そういう護身用具だからだ。それが、この運転手にはまるで聞いていない。むしろ愉快そうに唇に笑みすら浮かべている。
そして運転手は右手を後ろに回すと、惣流の持っているスタンガンをいともたやすく奪い取り、握り──不意に、慎司の視線野崎、運転手の手を包んだ手袋が燃え上がる。
そしてスタンガンが薄赤く光り──そして、あろうことか溶解した!
プラスチックだけではなく、内側の構造まで溶けてしまうほどの高熱を、この運転手は手から出したというのだろうか。
「に、人間じゃ──」
「私こそが人間だ! 地上に棲む脆弱な奴隷が人間を名乗るのがおこがましい! では、あなたがたを全員我々のムウ帝国にお連れ──」
そう言ってムウ帝国国民を名乗る運転手は高らかに笑いながら告げ、ハンドルを右側、街路樹のヤシの木と、その向こう側、浜辺と海が広がる方角へハンドルを切り──
次の瞬間、なにか、途轍もない、牛の鳴き声にも似た、おそらくはエンジンの咆哮が、後方から響いてきた。驚いて慎司は振り返る。
この道は二車線であり、右側の道は対向車線である。しかし、お構いござらんとばかりに、二つのライトがぐんぐんとタクシーめがけて迫ってくるのが見えた。
その車はあっという間にタクシーに追いついた。そして、対向車線であるにも関わらず、海への進路を阻むように、並走する。運転手のドアの窓ごしに、慎司はその車をあっけに取られながら見つめた。
特徴的な鋭角の、赤い車体に見覚えが有り、あれはたしかランボルギーニの──その左側のドアが、縦に旋転して上に開く。ガルウイングのドアなのだ。
左側の座席に座っていたのは、金髪の、どうも見覚えがある少女だった。高校一年生時代の惣流にそっくりだと気づく。左目におおきな黒い眼帯をしていた。葬式の時に着るような、真っ黒いスーツに身を固めている。
惣流の姉妹だろうか? しかし慎司はそんな話は聞いていない。その、惣流にそっくりな少女は、一瞬慎司を右目で見つめ、にこやかな表情で右手を挨拶するように横に振った。
その体が近づいてくる。右ハンドル仕様なのか、運転手がランボルギーニのどのモデルかわからないが、ともかく馬鹿みたいに高いスポーツカーを、アクション映画かなにかのように、無造作にタクシーめがけて幅寄せしてきたのだ。
開いた助手席の側から、金髪の眼帯少女が身を乗り出し、運転手側のドアの窓に触れ──まるで薄ビニールかシャボン玉の泡でも破るかのような容易さで、運転席側の窓ガラスを腕力だけで突き破る!
「何者だ!?」
さすがの狂人も狼狽したが、遅いようだった。眼帯少女は運転手の胸ぐらを掴む。きな臭い音と炸裂音──先程のスタンガンより激しい電流が雷じみて炸裂したような気配があった!
金髪の少女の髪が一瞬電流でも受けたかのように逆立ち、しかし少女は不適に笑い──あまりにも過去の惣流に酷似した彼女の声音が、次の瞬間慎司の耳朶を打った。
「情報通りの生体電流! でも残念ね、対策済みよ蒸気人間! 単に効かないだけだけど!」
「離せ……貴様、何者……いや、貴様こそが本物の!」
運転手の驚愕した叫びが響く。
「あいにくこっちはパチモノ、そっちが本物。認めたくはないけど、私は平行世界の同位体のコピーってとこなんだろうし。ってーか、形象情報ぐらいちゃんと聞いておきなさいよ! 私はそんなに身長も高くなければ!」
金髪の少女の眼帯が、不意に赤黒く光った。まるで少女の怒りに連動しているかのように。否、眼帯を透かしてその奥側の眼球が光っているのだろうか。
だが、それもお構いなしに、少女は右手で運転手の胸ぐらをつかみ──
「胸も尻も大きくない! 成長できない悲しみを知れ、リリンもどきの蒸気オカルト都市伝説人間野郎ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
まるで10年も溜まった怨念をすべて吐き出すような彼女の咆哮が、タクシー車内に響き渡る。次の瞬間、何か凄まじい破断音が響き渡り──次の瞬間、運転手は運転席から消えてしまっていた。
おそらくは引き剥がされないよう抵抗するために掴んでいた運転用のハンドル及び、運転手側のドアもろとも。慎司は呆然と思い出した。
右の真っ赤なランボルギーニが、加速してタクシーを追い抜き、前方へ走り去る。
自分の視界と記憶が発狂しているのでなければ、あの惣流にそっくりな少女は、まるでティッシュ箱からティッシュでも引き抜くかのように、運転手を文字通りドアごと車から引っこ抜いてしまったのだ──
「慎司ィ! ブレーキ! 事故るーーーーー!!」
惣流の絶叫で正気を取り戻し、とっさに慎司は運転席に身体をずらした。アクセルを踏む人間が居なくなったとは言え、タクシーは惰性でなお時速60キロ以上で突進を続けていた。
慌ててブレーキを踏み込む。が、奇妙に軽い。ブレーキが掛かる気配もない。
「ブレーキの油圧……さっきハンドルむしり取られて……逝った?」
顔面から文字通り血が引くのを感じる。寒い日にびゅうびゅうと冷たい風が吹き込んでくるのに、まだ人間は寒さを覚えられるものだろうか。
「碇くん、ハンドル!」
流石に綾波が普段と違う必死の声を上げてくるが、そのハンドルは運転手とドアごと行方不明である。アクセルはもしかしたら効くかも知れないが、死につながるだけだろう。
「もうだめだ」
思わず呟く。
「いやああああああ!!」
後方から惣流の叫び声が聞こえてくる。どうしてこうなったんだ。続いて、制御系を喪った前輪が、致命的な蛇行を開始し、車体が傾いで──今度はタクシー後部から、なにか銛のような物が突き刺さったような金属音が響く。
「今度は何なの」
綾波が怯え気味に呟くが、どうにも答えようがない。正直怪獣騒ぎの頃と大差ないような恐ろしい何かが起きているとしか理解できず、慎司はどう返答したものか困った。ただ、車の速度がみるみるうちに落ちていくのと、前方に引かれるようなGをかんじるあたり、どうも引っ張られているのだろう。
そして、とうとうタクシーが止まった。慎司は振り返る。ジープを更に巨大にしたような車──たしか、ハマーとかいう、米軍が使っている大型の車が後ろに停まっていた。その巨大な車体の右側から、背の高いショートカット、黒髪女性が降りてきた。
日本人離れした形相と美貌。服装は、彼女もまた喪服のような黒スーツだ。そういう制服の組織かなにかなのだろうか。
彼女の右手には、巨大な水中銃のようなものが握られており、その先端からはワイヤーが、丁度タクシーの後部のあたりまで伸びている。
どうもあれをタクシー後部に打ち込んで、ワイヤーで引張ることで暴走状態だったタクシーを停めたようだった。女性にできるのだろうかそんなこと、と慎司は思うが、実際止まったので、できたのだろう。
「モニク・デュプレよりカピタン、あなたのオリジンたちを救助。あまり無理をしないでいただけると助かるわね」
女性はヘッドセットをしている。自身の耳元あたりを右手で操作しつつ、何か慎司にはわからないことを言いながら、慎司の方に歩み寄ってきた。
逃げ出すべきだろうか、などという言葉が脳裏をよぎるが、助けてもらったのであれば、お礼を言うべきかも知れない。しかしどうも思考が上滑りするばかりで、立て続けにおきたあれこれに精神が完全に失調をきたしており、指一本動かせなかった。助かったという安堵のせいか、完全に脳が飽和しており、全身脱力状態である。綾波も惣流も、似たような状態らしかった。
その女性はタクシー右側面の開口部──惣流がまだ子供だった頃の姿をした少女のような誰かにパワーだけで一瞬にしてむしり取られたドアのあった場所までたどり着くと、タクシー内部の様子を見た。瞳に少し安堵の色を浮かべこそするものの、表情は硬く、緊張感が僅かにある。任務遂行中の軍人、という言葉が、ふと慎司の脳裏を過ぎる。
「艦長って、大人になると随分背が伸びるのね」
不意に、背の高い黒髪の女性の後ろ側から、まだ幼さを残した少女の声が聞こえてきた。その声の方を、反射的に慎司は見る。
「私!?」
驚愕の声を、後部座席の綾波が上げた。
彼女の言う通り、黒髪の女性の後ろ側に、綾波とそっくりの、髪も肌も白い少女が立っていた。服装はやはり黒のスーツにネクタイ。興味深げに、運転手席の慎司を見つめている。
「名車初代スカイラインがこの有様。必要とは言え、勿体ないわね。可能なら回収したいけれど、事故偽装には必要。惜しいわね、廃車なんて」
何かをぶつぶつとぼやいている。街灯の光を浴びた瞳は明らかにアルビノの赤。中学生ぐらいの幼さであることをのぞけば綾波そっくりだ、と慎司は思う。しかし、綾波に姉妹なんていない、彼女は孤児で──
「なんなんですか、一体」
漸くのことで、慎司はそれだけの言葉を絞り出した。あまりにも多くの出来事が起きすぎて、言語野はそれだけの言葉しか作り出せないようだった。その言葉に、綾波そっくりの少女が、無表情なまま頷く。
「話せば長い。守秘義務もある。そうね、強いて言うなら──水漏れ、停電、怪現象」
そうして少女は、何かまたしてもよくわからないことを言い始めた。
「幽霊に宇宙人、超能力に都市伝説、多元宇宙論、怪獣騒ぎに素早く対応。
あなたの街の大滝ファクトリー……の提携先ね、強いて言えば。
あまり仔細は話せないから、どうしても疑問なら、大滝社長に聞いてみて」
「いや、でも、お礼とか──」
言わないと、と言いかけて、何を逝っているんだと自分で思う。けれど助けられたのは事実だ。変なドライバーが変なことを言い出して、暴走して、そうしたら惣流そっくりの誰かがドライバーをむしり取って、タクシーは制御不能になり、知らない外人の女性と、綾波そっくりの女の子に助けられ、これ助けられたってカテゴライズしていいのかなこれ──ひたすら胡乱さをましていく脳を、どうにか奮い立たせて碇慎司は何かを言おうとする。
「いいの、無理しなくて。碇、慎司くん。それに惣流明日香さんに、──綾波、伶さん。
あなたたちが普通に生きているだけで嬉しいし、助けられたのが嬉しい。巻き込んだのは私達の方だから。これほど形象が違うのに、勘違いするというのがそもそも計算の外だもの。
そうね、それでは納得できないのなら、闇に隠れて生きる早く人間になりたい、そういう存在だと思ってくれればいい。あなたたちが人間らしく生きられる、それを確かめられただけでも、私達にとって憧れであり、嬉しいことだから」
いや、あの、と必死で声を、綾波伶そっくりの少女に対して、碇慎司は絞り出した。
「ほんと、誰なんですか、あなたたち──」
「通りすがりのメン・イン・ブラックよ。あいにく記憶消去装置が手元にないけれど」
しれっと言い切って、綾波伶によく似た少女は今度こそ慎司たちに背を向け、ハマーの方へ歩み去った。黒髪の外国人女性が、無表情だった顔に、つかの間苦笑じみたものを浮かべた。そして、慎司たちの方を振り返る。
「現在ジエイタイのマツバラ一佐の部下がこちらに急行しています」
少し外国訛り、強いて言うならフランス語に似た響きを持つ日本語で、彼女は慎司に語りかけてきた。
「あなた方の身柄はジエイタイとキョサイタイ……だったかしらね、彼らがともかく保護します。怪我があるといけないから、病院に一度搬送することになると思うけれど、恐らく日本政府がうまくやるでしょう」
「あ、あんたらなんなのよ……」
ようやくのことで精神が復旧してきた気配の惣流が、言葉をどうもフランス系と思しい外国人女性めがけて投げかけた。
黒髪の女性はその言葉に肩をすくめる。
「フランス対外治安総局所属、モニク・デュプレ……と言ってもわからないわね。
もともと非正規部門の上、この世界ではHEATチームは結成されなかったようだし、同位体も異なる人生を歩んでいる。別人のようなものね。トニー・ヒックス上院議員、なんて冗談も起こる。
無駄話が過ぎたわね。
それではごきげんよう。
言いながら、モニクと名乗った女性は踵を返し、ハマーの方へ歩み去っていった。
彼女が乗り込む前に、エンジン音が響き渡る。
運転するのは、あの綾波似の子の方なのか。海外だと、セーフなのかな……と、脳裏をどうでもいい思考が走り抜けていく。
意識が薄らいでいく。脳が状況に対応しきれず、とうとう動作を放棄したようだった。
高熱電気人間、素手で自動車のドアをむしり取るドッペルゲンガー、謎のフランス人、メン・イン・ブラック、よくわからないが、掲示板やSNSにしばしば書かれる怪談には、きっと本物が混じっているのだろう。そういう恐ろしく益体もないことを考えながら、たぶんタクシーの中で夢でも見たんだと思いつつ、碇慎司の意識は途絶した。
後部座席の二人も、疲労も手伝って続々と彼の後を追うように失神する。その後ややあって、盗難されたタクシーの動向を密かに監視していた上空の自律思考ドローン『ナイジェル2』が機体不調を起こしてタクシーの傍らに墜落爆発したが、3人共それには気づかなかった。
──彼らにとって不幸なことに、これは現実であり、目をさますのは病院であった。彼らはその後しばらくの間、見たことを事故に伴う意識の混濁のせい、ということにして済ませることにした。
知らなくてもいい現実というのは、世の中に実に数多くあるものだ。しかし不幸にも、この世界においてこの戦いは紛れもなく現実であり、そして人に知られることなき暗闘は、密やかにその苛烈さを深めていく──。
次回に続く
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プロローグ 第0話「はじまりのはじまり」Cパート
路上を高速で引きずられながら、タクシー運転手、否、ムウ帝国工作員は足掻いた。
アスファルトというおろし金で背中を時速50キロで擦られている状態というのに、手首を掴んだ式波・アスカ・ラングレーの手を振り払おうとして藻掻く。
男の手から再びの生体放電。全身の筋肉が限度を上げて縮んでゆくのを式波は感じた。
自分の体を構成するヒト由来細胞が苦痛で悲鳴を上げるのを、意思の力でねじ伏せる。
形象転移により脆弱化したとは言え、血液沸騰すらありえる電撃を浴びてなお生きていられるのは、細胞内コアの形象維持本能のためであった。
自分がヒトではないということを思い知らせてくる忌まわしい機能ではあったけれど、こういう時には都合がいい。
舌打ちしつつ、彼女は決断を下した。
「思ったより電圧が強い! 引き込んだら車内火災を起こされる、一旦下車するわよ!」
式波・アスカ・ラングレーは、振り向かず叫ぶと、開いたままのドアから掴んだ工作員ごと虚空に踊りだす。
奇妙な無重力感、そして衝撃。
飛び降りた段階で、時速35キロまでランボルギーニ・アヴェンタドールは減速していたものの、地面へ叩きつけられる衝撃は凄まじく、電撃の余韻もあって、アスファルトの上を転げながら、再び意識が飛びそうになる。
不意に身体の旋転が軽くなる。一瞬の隙を突いて、手を引き剥がされたのだ。
「狙撃して!」
考えるよりも早く、彼女は瞬間的に命令を発した。
=====================================
真希波・マリ・イラストリアスはセーフハウスとしている民家の二階で不敵な笑みを浮かべた。
「YES、MAM」
即座に構えたバレットM82A1対物ライフルの引き金を引く。
専用の巨大サプレッサーを着けて尚、大砲の砲声じみた轟音がセーフハウスとしている民家二階に轟いた。
=====================================
何度かアスファルトの上を回転しながら減速し、片膝をつく形で式波は着地を終えた。過去の選定(どちらかと言うと剪定かもしれない)訓練の際に空挺降下訓練までさせられたときのノウハウがこういう形で役立つとは、ユーロネルフの連中も思っていなかったに違いない。
眦を上げると、海を目指して逃げ出すタクシー運転手工作員の背中が浜辺に見え、突然痙攣を起こしたかのように身体を震わせ、倒れ伏した。
ややあって右斜め後方から、遠雷のように砲声の轟きが聞こえてきた。
マリが狙撃したのだ。
「っしゃ! 私が目標の状態を確認する、12.7ミリを食らって千切れてないあたり、データ通りの頑丈さね、連中と連中の防弾装備!」
前の世界以来の仲間であるところの真希波大尉の見事な狙撃に舌を巻く。確保予定地域内とはいえ、カバー範囲はかなり広い。
「ランディくん、引き続き観測手お願い!」
『いいけどさ、死人だけは出さないでくれよ? プリント仮説が事実にしても、人殺しには関わりたかないんだ。
退学沙汰なんて冗談じゃねえよ』
右耳につけた無線用ワイヤレスイヤホンから、ポルトガル訛りとアメリカ東部訛りが混ざったせいで妙なイントネーションがついた日本語が流れてきた。
「ヒックス少佐が爺さんになって上院議員になってる世界、アンタのオリジナルがいたとしても20年は経ってる。
いーかげん色々諦めなさい。自分がパチモノだって認めるのキッツイけど、ま、何ごとも慣れよ慣れ。
観測手ご苦労さま、引き続き残りのナイジェル2で周囲の監視と対象のモニタリングをお願い」
狙撃で倒れた目標に近づきつつ、式波は音声で無線通信相手──HEATチームメインプログラマ、ランディ・ヘルナンデスに返答を返す。
『へいへい、ニックより人使いが荒いなあ。転職考えるか?』
階級を考えない軽口とぼやきが返ってきた。色々とノリが軽い男なのだ。軽薄一本槍可と思いきや、反骨な所があれば妙に真面目で義理堅いところもある。何しろ生身と麻酔銃やエネルギー銃で怪獣と相当にやりあってきたキャリアがあるだけに、見た目や言動ほどシンプルな男ではない。
ナイジェル開発者である天才科学者にしてエンジニアであるメンデル・クレイブンを何かと弄るのは勘弁して上げて欲しいところだけれどね。ナードなところを見ると、ついついからかいたくなるのだろう。しばしばからかいの域を越えることも多いけれど。
などと内心で呟きつつ、式波は彼の言葉に返答を返した。
「人類世界が、怪獣やら宇宙人やらなんやらいる現実と折り合いつけたらね」
『何年後だ?』
「一万二千年後くらい」
『
「マジで」
他愛ない会話を応酬しつつ、砂浜に入り、砂を踏みしめながら、倒れたままの対象に近づく。
周囲に展開したナイジェル2からの監視画像データ──赤外線帯域から紫外線帯域まで多岐に及ぶものだ──が確かならば、流血の気配はない。
死んだかどうかは触れてみないとわからないが。人体なら直撃すればその部分が破壊を通り越して霧散するほどの威力が12.7ミリ弾にはあるのだ。防具や肉体がどうであれ、衝撃でショック死は充分に有り得る。
装備段取りだけでも書類を山程書いたのに、その上死体になられたらますます書類仕事が増えてしまう。年始の休みがパーになる。
仕事を丸投げしてしまうにも、あいにく押し付けるに足る部下は不足と来た。試験運用中のナラタケに丸投げしてもいいが、アドリブでネットに機密情報をオンラインでぶん投げる程度の無茶はしでかしかねないAIなので迷う。それと日本の頭の固い官僚たちがAIに執筆させた報告書を果たして受け入れるだろうか。社印を押印すれば案外受け入れるかも知れない。最近はサインでも受け付けるところは受け付けるらしいけれど。
などと言う間にも、うつ伏せで倒れている男の近くまで来た。
「う……」
運転手の呻き声。
「重畳重畳、生きてるみたいね」
着弾したと思しき右脇腹の、黒いジャケットとワイシャツが破れている。血が滲んでいない。
式波は破れ目に右手の指をかけ、引き破った。黒い、光沢を帯びたゴム質のアンダーウェアが顕になる。
「例の着込みか。12.7ミリを貫通させないなんて何たるデタラメ。
怪獣由来組織、Kエフェクトによる身体防護効果を利用した防弾衣?
変な科学の進歩の仕方をするわけね。こんな厄介なマテリアルがあるなら、半世紀も昔にマリアナ海溝でも余裕な超潜水艦を作れるくせに、妙に文化が古代的ってのもうなずける。で……」
彼女は海に視線を投げた。何人もの人影が、海上に上半身を表し始めている。海水の制約がないかのごとくに、その歩みが早い。おそらくは連中の着込んでいる『ウェットスーツ』の効果だろう。興味深い。式波は笑む。
ワイヤレスイヤホンから、ランディの声が響いてきた。
『ピックアップの連中だ。どうする?』
「近場に連中の母艦が待機してる。鹵獲したいとこだけど」
『俺らの
「最悪、捕虜から吐かせるわよ。連中、ジュネーブ条約に加盟してないだろうしね」
『
「エグいっていわれてもねえ、かつて轟天号がムウ帝国を爆散させてから講和条約を結んだって話はなし。海底大戦争は未だ継続中ってとこじゃないの?
連中にとっては。となれば許容もなく慈悲もなく、右の頬を打たれる前に右脇腹を殴り砕く。キリストだってそうする。私だってそうする」
『
その言葉に、式波は微かに眉をしかめた。HEATチームは確かに部下というわけではなく、同盟関係に近い存在だが、独走されるというのはあまりいい気分がしない。これだから二十歳になったばかりの若い男は、などという言葉が脳裏をよぎった。
「ランディ、艦長も私もまだ指示出してないんだけど」
『二人とも、忙しいかと思ったんで、僭越ながらってやつよ。いや、これから忙しくなるの間違いだったか?』
「違いない」
ため息をつく。
良くも悪くもランディはそういうやつであり、そして言っていることは間違いない。頭から爪先まで全身を複合皮革鎧じみた潜水防護服に身を包んだ工作員の群れは、すでに彼女を取り囲みはじめている。ゾンビ映画ならリテイクを出すところね、海中歩くの早すぎだっつうの。あるいはスーツ自体にパワーアシストなところがある?
推論を脳裏に並べ立てる。数は現状、10対1といったところか。本来の目標が自分から姿を表して回収ポイントに現れたのだ、連中にしてみればこれを襲わない理由はない。つまり予定通り網にかかってくれたってことよね。
そのうちの一人が歩を早めた。それが踏み込みであり、おそらく組打ち狙いと式波は踏む。
「派手にやるわよ。各自、行動開始!」
作戦計画自体が練り上げてある以上、後は命令を下すだけでいい。式波は号令を発すると同時、迫りくるムウ帝国潜水工作員の一人に対し、潜り込むように踏み込んで──
=====================================
ムウ帝国工作員32号は眼前の景色が果たして現実であるのかと、思わず我が目を疑った。
所詮奴隷に過ぎぬ非力な地上奴隷、人ならざる存在との混ざり物という警告を同盟者から受けていたものの、たかが知れていると踏んでいたのだ。
だが、それが侮りであったということを、彼は認めざるを得なかった。
黒いスーツを着込んだ式波という女は、浜辺という足場の悪さを物ともせず、大渦がそのまま人として具象化したかのごとくに荒れ狂っている。
近づいてきた工作員25号の膝が、踏み込みざまに放たれた、幼竜皮革の鎧の護りをも凌駕する威力の下段後ろ回し蹴りで踏み砕かれた。
身体を支えられなくなり、倒れそうになった25号の襟首を彼女は掴む、次の瞬間竜巻のごとく彼女の身体が旋転し、彼女の背後に回り込んでいた41号と42号が棍棒代わりに振るわれた25号の身体を浴びて吹き飛ばされる。
「どおおおおおりゃああああああああああああ!!!!」
そして放電の隙を与えず、64号と65号目掛け、旋転の勢いのまま、25号の身体を高速で投げつけた。
とてつもない速度で吹っ飛んできた25号の身体に押しつぶされるように没する64号と65号。
「91号! 電熱銃で援護せよ! 最大出力で構わん!」
咄嗟に32号は叫ぶ。地上奴隷人種であれば即座に人体発火もありうる出力であったが、同盟者の言うごとく、あれは確かに人の域を越えている。でなければ眷属の皮の護りを得たムウ帝国民を有象無象のごとくに蹴散らすなどどうして出来ようか!
91号が彼の言葉に答え、銃身が円錐形をした大出力大型電熱ライフル銃を構えるが、しかし次の瞬間大出力大型電熱ライフル銃が何かに跳ね飛ばされ……大砲めいた発射音が浜辺のさらに向こう側から響いた。
=====================================
「連携力はこっちが上? 艦長と副長のヨミヨミ通りじゃん。
それにしても、作戦進捗と諸元データがすぐに視界に出るのは悪くない、この眼鏡。目に良くないのがちょっと嫌かなー。ウインドウが視界を遮るのも減点?
実用にはもーちょっと練が必要かニャ~」
右手で構えたバレットM82A1の弾丸が、正体不明の敵の銃器と思しき何かを捉えたのを確認し、真希波・マリ・イラストリアスは目を細めた。
セーフハウス代わりにしていた民家を出て、北条海岸通り路上に立っている。公安を始めとした各省庁への通達は済んでおり、付近住民には『臨時怪獣災害訓練』と称して自宅待機指示が発せられている。多少派手に長物を振り回したところで、住民に見られる可能性は低いだろう。無論、銃声に関して110番の嵐が起こっていることは疑いない。今この時期、房総半島で対物ライフルの銃声を聞く人間が居るとしたら、ここという例外を除けば、陸上自衛隊所属者やそれに関わる存在ぐらいのものだろう。
眼鏡ごしの視界にPCモニタめいていくつかのウインドウが展開され、うごめく敵工作員の距離や位置、状態が矢印と数字で表示される。
見た目こそ普段遣いのリムフレームの赤眼鏡と変わらないが、フレーム各所にレンズに仕込まれた液晶が蛍光を発し、あるいは透過する光の波帯を偏向させることで、作戦に必要な情報を視界の中に上書きするものだ。
大滝ファクトリーの面々とHEATのメンデル・クレイブン博士と艦長副長が寄ってたかって試作した新型光演算回路を試作したものであり、超小型かつ消費電力を低減しながら演算能力は電子演算回路に劣らないすぐれものだ。
ただ、UIに関していえば、一昔前のSFに登場しそうな代物であり、そのあたりをイメージして作ったのかも知れないけれど、そのまんまだと、ちょっと武人の蛮用に耐えるか怪しい、というのが、この新型装備への、マリの個人的な評価である。
『クレイブンは工学の天才なんだけどさ、色々抜けてるんだ。なにしろあいつはセンスがクレイブンだからな』
「そう? 私は嫌いじゃない、ナイジェルの洗練と正反対にあるみたいな寄せ集め感満載のデザイン。かわいいし」
ランディ・ヘルナンデスからの苦笑交じりの通信を、マリは笑って受け流しながら、あのどうにもツキがない奇妙な万能探査用自律ロボット、黄色のナイジェルのことを思い出す。
換装で陸のみならず空から海上、海中まで活動可能な万能性。
光波から音波、重力波のみならず、タキオン波まで検知・分析可能なセンサー性能は、優秀という域から枠を二つ三つ逸脱してすらいる。
しかしあくまで個人制作のためか、肝心要のタイミングで故障する繊細さが、ナイジェルというマシーンには在った。
設計・性能・運用を度外視してもどういうわけかしばしば壊れたり破壊されたりしてしまう、機械にあるまじき『ツキの無さ』も特徴と言えるだろう。
なにより、センサーユニットからマニピュレータ、キャタピラやらなにやらをレゴブロックよろしくゴテゴテと寄せ集めてこさえて黄色く塗りました、機能すればいいでしょうといわんばかりのあの奇怪なデザインは、もう少しなんとかならないのかと誰もが思うところである。
(もっとも作ったクレイブン自身は例外で、自分の血を分けた子のように溺愛しているあたり、多分あのデザインも含めて愛しているのかも知れないが)
そういう、量産性や効率をある種度外視したような歪なデザインは、研究者気質でナードなところのあるクレイブンらしさの具現のようで、人格と口調がまったく安定しないAIも含めて、マリには可愛らしく感じられるのである。とはいえ、眼鏡のデザインはマリ自身が指定して正解だったと思っていたが。
『アレがかわいい? 日本人のセンス、わっかんねーな。せめて最近のアイアンマンぐらいにさぁ』
「私のセンスだよ。副長はむしろ呆れてるからね。
とはいえ私も副長も混血だから、日本人云々となると参考にならないかも。個人的には嫌いじゃない。機械のデザインには開発者の人格が現れやすい、そのへんナイジェルはクレイブンらしさ全開じゃん」
『クレイビニズムに溢れてる、そりゃ間違いない。優秀なのは間違いねーけど、褒めるにゃどうも抜けてるもんな。
で、上空のナイジェル2Bがサーマルモニターで確認、北の海岸から新手だ。どうするよ?』
ランディの言葉とともに、海岸の地図が表示される。海岸北方1キロ、10人程度。浜辺を歩いて南下中。
「別途目的で上陸、想定より進捗が芳しくないもんで方針変更、合流して副長だけでも回収狙いかな。
副長だけでもいいかもだけど、海底適合種合計20人は大変だし……艦長は詰めの一手のため路上を機動中、間に合わない。
これ、私が行くしかないじゃん」
スリングを使って背負っていた予備のバレット対物ライフルを、肩の動きだけでスリングをずらし、銃把を左手で握る。
それぞれの銃のショルダーストックを両脇に挟み込む形で安定させた。
腕力だけで重いバレットを支持するのは相応に苦労がいるが、左右とも肩のスリングで吊っている分、楽ではある。
「ナミナミとマカロニ・ウエスタン見たときから、一度やってみたかったんだよね2丁拳銃。
ランディ、ターゲット位置と弾着観測よろしく~♪」
『クレイジーだな、脳みそ海兵隊か? いいけどさ、ポジション出す』
「さすが天才ハッカー、仕事が早い」
眼鏡に薄明かりでもって投影された、付近に潜伏して監視を行うナイジェル2拡大カメラ映像に、バレットのサプレッサーに内蔵された非可視光レーザーポインターのレーザーが映る。先頭の一人に照準を合わせる。額……は防護服が防いでも脛骨が折れるかもだから、狙うは右胸。
「対物ライフル片手撃ち、試したことないけど、反動コントロールしきれるか……ニャ!」
右トリガーを引く。銃声と言うにはあまりに野太く巨大な砲声が巻き起こった。300メートルをまたたく間に弾丸は飛翔し、狙い過たず右胸に着弾。銃弾はやはり彼らが着想する防御装備を貫けず砕け散ったが、しかし巨大な運動エネルギーまでも殺し切る事はできず、結果として撃たれた工作員はダンプに撥ねられたかのように派手に後方へ向かって吹っ飛んだ。
狼狽する別の工作員の腰を目掛けて左トリガーを引き、もう一発。またしても轟音。こちらに気づいたか、何らかの銃らしきものをマリの方へ向けようとした工作員が、またしても香港映画のワイヤーアクションもかくやという塩梅で吹っ飛んでいく。
「おー、バカみたいに重いけど意外と反動コントロールできる! いいなあこれ、面白ッ!」
咄嗟に街路樹のヤシの木に隠れた工作員をヤシの木ごと撃ちぬく。12.7ミリで撃ち抜かれたヤシの木が自重を支えられず道路へ倒れ、工作員の一人を巻き添えにした。迎撃より一度海に逃げ込んで体勢を立て直すのが正解と睨んだのか、海の方へ向かって残る8人程度の群れが走り始める。
「逃すかーッ!!」
バレットを両手に持ったまま歩き出し、逃げる背中を一つ一つ、しかしてほぼ乱射もいいところの状態でマリは狙撃して転倒させていく。
『なあ、あんたの親戚にエレン・リプリーって居なかったか?』
呆れ半分おもしろ半分の声で回線越しに語りかけてきたランディに、マリは答えた。
「実は母親がサラ・コナーって言ったらどうする?」
『サイバーダインの新型って言われたほうが信じるね。黒スーツで重火器乱射する女だし』
「ほっほーう、いたいけな少女をターミネーター呼ばわりとは」
『似合ってるって意味だって』
「それなら許す。まー、強い女の子が趣味っぽいもんね君。
ところでモニクとの進捗はどお?」
『部屋に入れてもらえた』
「おー、20歳になったし大人扱い? 進捗じゃん!」
『メシ作っていつもどおりカラテの稽古して終わり』
「勝てるまで駄目かな? 何しろDGSEの精鋭だもんねー、一本取るまで厳しそう?」
『俺も稽古してんだけどなかなかねー、でも脈はあるよ多分』
「いいねー、そういう積極性。若いねー、青春だねー」
『俺から見たらジュニアハイスクールの子供みたいなアンタに言われてもなあ……っと、最後の一人昏倒。
こっちは仕舞いだな。回収班呼んで撤収か。派手にやりすぎじゃない? それがオタクらの流儀?』
「街路樹のヤシの木には悪いことしちゃったねー。
恋愛話をしている間に20回近い発射音が響き、そして工作員たちは全員昏倒していた。
何しろ対物ライフルである。下手な障害物など無視して貫通・命中するのだから、逃げ場がない。
バレットM82A1のサイクルレートは毎分32発であり、それを二丁で乱射したのであるから、一秒に一人の勢いで敵は倒れていった。
ナイジェル2という『目』を展開していたのも有利に働いた。射程外から一方的に殲滅できたのである。
「あれ、そういえばナイジェル、燃料……」
『Engine stop.Out of fuel』
マリが疑問に思って呟いた瞬間、通信回線に割り込んでくる機械電子音声が一つ。
『ARRRRRRRRRRG!』
それは断末魔の悲鳴を上げながら狙撃により倒れ伏した工作員たちの傍らに墜落した。ナイジェル2がまた一機墜落したのである。別部隊の索敵に飛び回った後、マリの狙撃のための画像データ蒐集のため飛び回った結果、帰還限界点を越えて活動したため、墜落してしまったのだ。
「あっちゃぁ~クレイブンがまた泣いちゃうねこれは。悪いことしちゃった」
『まあ、いつものこった。代わりは作ればどうとでもなるしな』
流石にマリは罪悪感を覚えるが、ランディの口調はあくまで気楽なものだった。
君のそういうとこ、どうかと思うよ、とマリは内心で呟く。メンデル・クレイブンはナイジェルシリーズのどれが壊れようが本気で悲しむからだ。とはいえセンサーその他の性能を重視するあまり、機動性や安定性その他を度外視し改善しないクレイブンにも問題が在る気がしなくもなく、HEATチームが壊れるナイジェルにドライ気味な対応をするのにも、案外理由があるのかもしれなかった。
「真希波より艦長、敵別働隊を確認、これを補足撃滅。体温データ見る限り犠牲者はヤシ一名。想定外の犠牲だけど、コラテラル・ダメージの範囲内ってことで。それじゃ事後処理よろしく~♪」
『やっぱあんたサイバーダイン関係者じゃないの?』
ランディの軽口に、どうかにゃあ、とこたえてマリは苦笑する。ネルフもサイバーダインも、人類の終末を齎す組織である点では似たようなものでは在ったし、それに反抗する組織に所属していたという意味でも自分は似たような存在かも知れない。それを踏まえれば。
「あいにく、私は終末を齎すほうじゃなくて、それに抗うレジスタンスの方だよ、HEATのハッカー君?」
平然と真希波・マリ・イラストリアスは応えた。
終末にせよ破局にせよ、人の世を、否、地球に満ちる生命を滅ぼすものが来るとするならば、それに抗う。その
「別働隊は仕留めた。仕上げは艦長と副長次第か。
バレットも弾切れ。お手並み拝見だよ、わんこくんと奥さん♪」
次回に続く
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プロローグ 第0話「はじまりのはじまり」Dパート
咄嗟に、建築現場のプレハブ事務所じみた海の家が目に入った。
式波・アスカ・ラングレーは、横一列に並んだ窓の一つに迷わず全力で飛び込む。
思いの外固い感触、しかし防弾ガラスの類ほどではないため、彼女の膂力であれば、いともたやすく突き破ることができた。
ガラスの砕け散る響きが耳朶を打つ。彼女は素早く虚空で猫のように身を翻すと、固い打ち放しのコンクリート床の上に音もなく、片膝を立てるようにして着地した。同時に彼女が突き破ったガラス窓の残滓が、床に大量落下して砕ける響き。真冬時だけに当然人の気配はなく、テーブルや椅子のほかに目立つものはない。勿論、反撃に使えそうなものもない。
あの忌々しい雷鳴が聞こえてこないあたり、電熱線の同時被弾によって不幸な炎上爆発四散を遂げたヤシの木のためにこちらを見失ったのだろう。位置を把握しているなら、攻撃しているはずだ。
彼女は脳裏で自分が担当するマギプラスにシンクロ同調する。
観測した電熱線の光パターンは、大気中で発生する自然の雷ガンマ線による光核反応に酷似していたが、マギプラス3基は、赤外線域から紫外線域までの発光パターンを精査、フーリエ変換してスペクトル解析をかけることにより、大気中にはほぼ存在しないはずの重金属元素の存在を見逃さなかった。
そして、それら重金属核種とその配合によって形成される物体のうち、99.85%の確率で合致するものが、眼帯裏側の光学モニタを通じ、彼女の左目に映像情報となって飛び込んでくる。彼女は小さく舌打ちした。
「ナノマテリアル、この世界でも生成できたってわけ? 基幹となるナノマシン、入手不能だって言ってたくせに。
三味線引いてた? でもないか、あれば使ってる。ベルベのやつ、ムウ帝国から入手した?
ともかく、今考えることじゃないわよね……」
音を全力で殺しながら彼女は自らが破ったガラス窓に忍び寄りつつ、ポケットを探り、右手で5円玉を取り出した。
「ごえんが……」
姿勢を低くし、窓から頭が出ないよう注意しながら窓桁の下の壁に背をもたれさせるようにして座ると、右腕を振り、手にした5円を窓の外へ放り投げた。
直後、雷鳴に酷似した、耳を聾する爆音が轟く。ムウ帝国工作員たちが、飛翔する5円を目撃し、反射的に携帯武装を発砲したのだ。
「なくなったわよね、この音のヤバさ」
連中ともとっとと縁切りして、早く休暇に入りたいんだけどと内心で思いながら舌打ちしつつ、しかし彼女は店内に響いた音響パターンを迅速に分析、敵携帯武装の性質と工作員たちの概算位置の推定を迅速に終わらせていた。
(まずナノマテリアルペレットを射撃に使う曳光弾じみて射出、推進方式は多分射出装置側からのレーザー推進。ナノマテリアルはレーザー光による推進剤反応に押されて飛翔しつつ周囲にナノマテリアルミストを散布、大気状況の改変と散布ナノマテリアル自体で導電回路を空間内に形成する。
直後、銃本体のコンデンサから放電、電撃が形成された回路を伝って目標へ到達すると。何しろナノマシンに誘導された撃つ雷。誘導体であるナノマテリアルペレットだって、食らって体にいいか正直怪しい。ムウ帝国の民は生けるジェネレーターもいいところ、ナノマテリアルも必要量は恐らく微量、500連マガジンをつけた電動ガンより撃てるかしらね、もしかして無限? は、ないか。リルエル・ベルベ、助けた恩を仇で返してくれる。とはいえ、これに関しちゃ向こうも同じことを言いそうだけど)
一瞬で思考と愚痴を終えつつ、彼女は作戦の進捗状況を確認した。
(北部方面の別働隊を捕捉、これを制圧するも弾切れ、しばらく支援不能、ゴメンじゃないっちゅーに。
とっととセーフハウスで補給済ませりゃいいのに、ランディ共々、散歩もいいとこの歩く速さよね。
私達が片付けるって踏んで余裕綽々? もうちょっと勤務態度を……まあいいけど。
身体張った威力偵察で敵情把握は概ね完了、細工は流々)
式波は軽く自らの唇を舐めた。皮膚が相当に乾いている。
(冬だものね。しかもこの冬の潮風だし、しかたがないか。あー、さっさとリップ塗りなおしたい)
益体もないことを考えながら、彼女はその瞬間を待った。
=====================================
「地上の奴隷どもとは違うという、同盟者の警告を聞くべきだったな。
我らの体熱と電撃を受けて制圧できぬとは、全く信じがたい。
この電熱銃ならば制圧しえたかもしれんが、その隙を与えぬとは、恐るべき肉体強度、恐るべき判断力。海底軍艦の副長を勤める器ということか」
轟天号副長を務める少女が立てこもった建築物からやや離れた浜辺から眺めつつ、頭頂からつま先にいたるまでの全身を、大神の眷属の皮衣で鎧ったムウ帝国工作員32号は顔を顰めた。
「しかし包囲しました。逃げるすべもない。
あの少女は、地上奴隷たちのあの野蛮な銃も持ち合わせぬ様子。
北方面の同胞と連絡が取れぬ以上、持てる電熱銃全ての掃射で建物ごと始末してしまいましょう。
奴隷共の援軍が来る前に北の同胞たちを回収する必要もあります」
64号の言葉に、32号は苦い表情を浮かべる。
「何の利も得ず帰っては、偉大なるムウの皇帝と、我らに奴隷共と戦う術を齎した同盟者に申し訳が立たぬ。
まして奴隷ごときにやり込められるとは、ムウ帝国臣民としてこれほどの恥はない」
「一度の恥は一度の勝利で拭えば良いのです。まして轟天号副長を屠る好機、そうは訪れますまい。本来の潜入の目的は果たせずとも、これは間違いなく戦果。地上の奴隷の如き硬直と油断が、先の敗北の原因ではありますまいか。いますぐご決断を」
32号は頷いた。
「そのとおりだ。
総員、電熱銃構え。最大電力で建物ごと轟天号副長、式波・アスカ・ラングレーを抹殺する」
告げ、自らも背負った電熱銃に手を伸ばし、構えようとして──身体が動かないことに32号は気づいた。
「これは」
64号に視線を合わせる。彼の目も狼狽している。
「体が動きません。いえ、身体ではなく纏う眷属の皮衣が動かないのです。一体」
彼の言うとおりだった。32号は気づく。自らの肉体にはなんらの支障もないのだが、彼らが全身に護りとして纏う眷属の生ける皮衣、同盟者と皇帝の聖断によって生み出された、地上の奴隷のあらゆる武器を無効とする鎧が、つい先程までは身体に従い、如何なる服よりも軽やかに動いていたというのに、今や鉛のように重く、ムウ帝国臣民の膂力を持ってしてすら関節がまるで動かない。彼らに万能の力を与えていたものが、今や着る檻のように彼らを束縛してしまっていた。
「何事──」
首をひねることすら至難となった状況で、眼だけを必死に動かして32号は周囲を探ろうとして──不意に、浜辺の砂を踏みしめる足音が、彼の耳に聞こえてきた。
後ろからだ。
近づいてくる。
その足音と気配は32号のすぐ背後で止まった。
「『風下に立ったがうぬが不運よ』って奴ですよ」
まだ幼さを残した、玻璃のなるような涼し気な少年の声音が背後から聞こえてくる。
「忍法『春花の術』──の、真似事です。
つまり昔の忍者の漫画のパクリ──昔の漫画すぎるせいか、誰も読んだことがないようなんですよね。かくいう僕も綾波が見つけてくるまで全然──まあ、どうでもいいですよね。
要するに、あなた方の纏う、『生きた』防護服にだけ効く麻酔ガスを、沖合から散布しただけのことです。
怪獣由来細胞は個体ごとに差異が激しく、未知の要素が多いので研究が難しいんですが、うちは組織成立の都合上、その道のプロが大変多いもので、研究者には困りませんでした。効き目に関しては、いま体験していただいているとおりです」
背後の声が緩やかに彼の右側を通り、正面に回り込み──そして、黒いスーツに白いワイシャツ、黒いネクタイを身に着けた、地上人で言えば14才程度であろう少年が、32号の視界の中に入ってきた。右目を、黒い眼帯で覆っている。少女とは逆の側だ。何か意味があるのか、と32号は思う。
同盟者から話には聞いていたが、驚くほど幼い顔立ちだった。表情は柔らかく、皮肉な笑みすら浮かべている。
しかしその瞳は無表情であり、視線はあまりにも揺るがず、冷ややかだった。
白手袋に包まれた手で、少年は白い軍帽を目深に被り、無形の強い意志を秘めた、異様に鋭い眼光をその鍔で隠した。そして、言葉を冗談めかして続ける。
「一種のパワーアシストスーツとしてマンダの体組織を使うというのは面白い発想ですが、マンダの体組織の強度と生命力に頼るあまり、体組織自体の防御を忘れたのは迂闊でしたね。
我々が生成したガスは、マンダに特化した分子組成です。怪獣の代謝に合わせてあるため、タンパク質としての特異性が高い。通常生物には概ね、そしてあなた方にも無害。
年の瀬にやたら喧しくしてしまいましたが、兎も角、それも仕舞いです」
少年はそこまで言うと、不意に32号から視線をそらした。そして、誰も居ないであろう方向に、語りかけるかのように話し出す。
「状況終了。綾波大尉、真希波大尉、ランディとモニクさんは撤収、お疲れ様です。あとは僕らで引き継ぎますので」
地上人の無線通信のようなものか、と32号は気づく。彼らの精神は、海底軍艦の巨大電子演算装置と直結しているという。人の身でありながら、半ば人たることを捨てた、人としての側面と機械としての側面を持つ存在。それは、同盟者が固執する所以でもある。
だが、と32号は密かに笑む。北の別働隊は恐らく殲滅されたかもしれないが、まだ我々の母艦がある。
この少年は油断した。母艦の予備隊が動けば、海底軍艦の艦長と副長、その二人を同時に──
だが、彼の思考を読んだかのように、海底軍艦の艦長を務める、少年にしか見えない存在は、涼しさすら感じる声音で冷静に彼に告げた。
「あなた方の増援は来ません。母艦なら、先程鹵獲させていただきました。
だからこそこうして僕が顔見世できるわけで」
言いながら、再び少年は彼から視線をそらした。少年の後方、潜んでいた建物の割れた窓から軽やかに飛び出した少女が、やはり軽やかな足取りで、少年と、身動きが取れぬ32号たちがいる場所目指して浜辺を駆けてくる。
2秒ほどで少女は少年の左脇にたどり着く。全力疾走に近いだろうに、そのくせ息も乱していなかった。それも、かれら工作隊と派手な立ち回りを演じた後なのだ。或いはムウ帝国国民より、よほど体力があるのかもしれない。やはり、同盟者の言う通り、彼と彼女は、地上の奴隷どもの域から『外れて』いるのかもしれなかった。
そんな彼のことを、黒い眼帯で左目を覆った少女は、訝しげに見つめ──おもむろに右目を不機嫌そうに、立ったまま素早く右足で以て、32号の足を払った。
全身を覆う皮衣の重み故に立つのがやっととなっていた32号は、それだけでいともたやすく砂浜に転倒してしまう。
「副長、蹴った理由は?」
「人のこと見下してたから」
少年の呆れを滲ませた言葉に、少女は平然と答えた。
「物理的に?」
「精神的にも」
「了解」
「どういたしまして」
仰向けに倒れた彼の視界の中で、少年と少女が茶番じみた会話を交わす。
そして、少女が32号の顔を高圧的な表情で、夜空を背にして見下ろしながら口を開いた。
「人間未満とか仮称ナントカカントカとかBMなんたらかんたらとか言われた時代を思い出させる目つきをする奴って蹴りたくなるのよね。あ、自決とか考える目つきだけど、それ止したほういいわよ?
マンダスーツの拘束状態だから舌噛んで死ぬとか考えそうだけど、苦しいだけでなかなか意識飛ばないし。
身体形象自体は地上人類と酷似してるから、可能っちゃ可能なんだろうけど、見張り番終わったら私らひさっびさのオフだから、仕事増やさないで。マジで。悶え苦しんでる怪力のやつの蘇生で年末年始潰れるとかマジ最悪」
「まともなオフ、どれぐらいぶりだっけ?」
少女の言葉を聞いて、先程の冷徹な無表情とは打って変わって肉体年齢相応のくだけた笑み──苦笑を浮かべた少年に、少女が指を折りながら応える。
「えーと、ひーふーみぃ、第二次二アサーから数えて9──10年ぐらい? んでこっちに来てからもあれやこれやで1年経過だから、勤続11年ってとこか。まあ、プリント仮説だとそう思ってるだけで、せいぜい勤続1年だけど──いや、まともな休み要求するには充分な勤続日数よこれ。月月火水木金金にもほどがあるっちゅーの」
「まあ、悪いことばかりじゃないよ。こっちに飛ばされたおかげで娑婆の空気が吸える。
未来はわからないけれど、少なくとも今はそうだ。初詣にも行ける」
「運は異なもの味なもの、ってやつ? ま、万事悪いことではないわよね。何事も」
「アスカ、それ言うなら運じゃなくて縁だ」
「いいじゃないのよ似たようなもんだし。もう年が終わるんだし」
少年と少女は、全て片付いたかのように、油断し、世間話のような会話すら始めていた。
むろん、それが油断などではなく、そうしても構わないからそうしているだけの余裕であるということに、気づいていない32号ではない。
何故だ? 32号の脳裏を、混乱と疑念が回る。彼の隊を運んだ母艦は、地上の脆く哀れな金属風船のごとき潜水艦など皮革にならぬ速力と潜水性能を誇る。如何な海底軍艦とはいえ、それを、赤子の手をひねるように無力化するなど考えられない。
そんな彼に、再び少女が視線を落としてきた。
「母艦のことが気になってしょうがないってツラね。こっちの戦力が、あんたの母艦の潜水性能も速力も凌駕したってことよ。この辺の海域だと、海底深度の関係上、満足な性能も出せなかったろうし。
そっちの艦の戦術機動は、ナイジェルシリーズやら自衛隊のソナー網使ってモニタリングしてたけど、呆れるぐらい性能いいわね。解析におやっさん混ぜないと機嫌悪くするまで見える。あの形状でどうやって海中をああも静かに突進できるんだか。
ともあれ、潜水艦は拿捕、護衛のゲソラ幼体30匹も敢え無く全滅。ゲソラ幼体、人間相手ならともかく、うちのジュニアが相手じゃ分が悪いわ。ま、ツキがなかったわよ、あんたら。諦めなさい」
30体のゲソラを──幼体とはいえ、全滅? 信じがたい。32号は呻いた。ゲソラは、同盟者が訪れた後、彼らが肥育し始めた最初の怪獣であり、幼体の段階でも油断すればムウ帝国民すらスミで捕獲・捕食する極めて危険な怪獣であった。成体となれば、マンダほどではないにせよ、ムウの新たな護りとして、相応しい神獣の一柱となる。
それほどの存在が、幼体とはいえ、海上に逃れることすら叶わず、敗れる。幼体には母艦を守る本能が与えられていたにも関わらずだ。それほどの獣が? 同盟者は、あの獣はまがい物だ、偽りの破局だ、電熱銃で撃破可能だ、警戒などには値しないと言っていたが──。
「へぇ」
32号の心の言葉を聞いたかのように、金髪の少女は目を細めた。そして、32号の傍らに座り込む。
「ベルベに何吹き込まれたか知らないけど、あんまり舐めないほうがいいわよ?
私達のことじゃなくて、きっとあんたが思い浮かべている、きっと馬鹿にしたことを言われた獣のこと──そ、クレイブン。分析ありがとう。タキオン場に感あり、と。シグナル出てたってことは、この会話、ベルベに丸聞こえ? 性格悪いわねあいつ。所詮生身にこだわる連中はミソッカス扱い。ちょっとだけあんたたちに同情するわよ。この展開、あいつには見えてたってことだもの。ぶっ壊れの
腹立たしげに少女は言い放つと、32号の皮衣の首の後ろ側あたりを掴み、上体を起こした。視界に浜辺と潮騒、そして遠く彼の故郷へと続く、海が広がる。
その視界に姿を表さないまま、少年──碇シンジの、声が響き始めた。
「ベルベさん。聞いているなら、前に君が聞いたことへの答えを告げます。
Noです。僕はハルオという存在の代わりになるつもりはない。彼が何を思い、何を果たすつもりだったのかもわからないし、その後がわからない以上、彼の決断や結論について評価する手段を持たない。
ただ、君が望み、ハルオなる人物に拒絶された未来は、僕もまた拒絶する。君の願いと理想像は誤っている。この世界の機械が、破局と戦うために繰り返した演算の中でそれを証明している。
もちろん、君は決して納得などしないだろう。破局は終わっていないと君は思っているだろうし、僕もそれは否定しない。
だから、ここから先の言葉は、事実上の宣戦布告だ。そこにムウ帝国の皇帝が居るというのなら、この言葉は彼女と彼女の臣民に対して告げたものでもある」
静かで、平静で──凪の海にも似て、しかし奥底に、奇妙なほどの力を秘めた声音。普段は凪いで、万人を受け入れるようでありながら、怒り狂うときは恐るべき大波と成り全てを飲み込む、海底の潮流のような底知れなさが、少年の声音にはあった。
「リルエル・ベルベ。君たちの放浪と戦いがどれほどの長さと激烈さか知らないが、僕らもまた自らの世界で破局と戦った。故に破局に屈するつもりはなく、そして君の齎すものは、僕らの世界の言葉で言うならば旧生命の絶滅、破局にほかならない。
僕ら──我々は、その破局に抗う組織にほかならない」
少年が紡ぎ続ける言霊とともに、緩やかに、ムウ帝国工作員32号の視界を満たす暗い海、その水平線の方角に、なにかゆらぎのような物が見え始めた。
ゆらぎはレンズのように波蟠る海面を歪め──そして、何かが世界を透過し、滲み出てくるかのように姿をあらわす。
工作員32号は目を見張った。
それはあまりにも巨大であった。1キロ近い幅があるだろうか。艦首をこちらに向けているがために、全長はうかがい知ることすらできない。
地上人を遥かに凌駕する彼の両眼は、星灯り程度の光量ですら、その艦が、ムウ帝国で語り継がれた如く、恐るべき巨大な螺旋の衝角を備えているのを見とった。
だが、違う。
かの船は、あれほど馬鹿げた巨艦では無かったはずだ。
あの大きさは、まるでムウ帝国の神話に伝わる救いの方舟にも比肩しよう。救いの方舟。つまりは伝説でしかない、物理的に馬鹿げた規模の超戦艦。同盟者がその存在を伝えはしたが、32号も含め、大半がその巨大さを信じなかった。
語り継がれたかの船は、老人たちの話では、もっと小さかったのだ。
せいぜいが1万トン程度。しかして空、陸、海、その全てを作戦域としうる万能戦艦、ムウ帝国を破局へ至らしめた忌まわしき破壊の船。
だから、奴隷共がかの船を改修し、あるいは再建造するにしても、そのスケールアップと彼ら工作隊は考えていたのだが──しかし、同盟者の言葉は事実だった。そう。かの船が齎した破局より、さらに古代から伝わる『救いの方舟』の伝説に近い巨大さ。
自らの正気を疑う。だが、これが現実だ。
そして、おそらくは人類史上無二であろう、恐るべき巨艦の艦首部、その恐るべき螺旋の衝角の上に、
自らが足場とする巨艦に比べれば小さいにせよ、それはやはり、恐ろしく巨大な生物であった。
全高、60メートル。
地上の奴隷たちのいう『白亜紀』に闊歩していた、二足歩行の肉食恐竜を思わせる姿。
黒い肌、黒色のトカゲめいたフォルム、厳つく四角い顔立ち、しかし何よりも印象的なのは、一等星の如く輝く目だった。
夜の黒の中に溶け込むような体色でありながら、その眼は黄金色に輝いていた。
何かを反射しているのではない。眼自体が、光っているのだ。
32号の震えに気づいたのだろう。少女──式波・アスカ・ラングレーが、何かを楽しげにつぶやき始めた。
「
その詩がその恐るべき獣を詠っているのだと気づいた32号は、いよいよもって全身を怖れに震わせ始める。
彼女が詩を吟じ終えると、少年はその詩に連ねるように言葉を発した。
「僕らは──いえ。我々は
例え万億の生命全てに憎まれたとしても、それでもなお群れたろうと手を伸ばした巨竜、その朋友たる組織です。
僕らのいる世界では、一つルールがありましてね。自らの同位体がいる場合、後進の側が名を変える。
轟天号。法則のエラーを来し、衰えた僕らの艦に宿り、僕らを破局から救った艦。
僕らの艦は、今はその名を戴きました。それこそが今は相応しいからです。
そして、この世界に『碇慎司』がオリジナルとして存在する以上、僕もまた姓名を変えています」
ひどく静かな夜の中。星々が浮かぶ空の下、どの星よりも輝く一対の金色の瞳から目を離せない。しかし、32号には、なぜか、今言葉を連ねる少年こそが、眼前で目を輝かせる巨獣よりも、なお恐ろしいように思われた。
「神宮寺シンジ。
かつて人知れず地上人類を、そして世界を破局より救った人の姓を戴きました。
これが今の僕の名です。戦争相手はこの世界の碇慎司ではない。
これで一度刃を交えた。
二度目、三度目があるというのならば、僕らは合切容赦しません。
アトラゴン旗艦『轟天号』は、あなたの言う下等生命護持のため、総力を上げてこれを撃滅します。
破局を以て破局から救わんと企てるならば、我が『轟天号』もまた、本来は破局たりうる撃槍。そのリスクはあなたもご存知のはず。
破局を以て破局を討つことに、一切合切の躊躇はありません」
少年の声は、どういう手段によるものか、32号を通じて少年の声を聞いているらしき、ムウ帝国の同盟者、リルエル・ベルベに向けられているようだった。つまり、32号は最早眼中にすらないのだ。
地上の奴隷種族の、しかも贋物に過ぎぬらしい少年の、ただ静かなだけの声音が、しかし、32号にはあまりに恐ろしくてならなかった。
その声の静かさ、そして明瞭な発音は、その意思の明確さと、決意を示していた。
討つという以上、彼は躊躇わず討つのだと、32号は理解した。
かつてムウ帝国を襲った破局、轟天号の名を戴いた艦は、まさに今眼前に有り。
その艦は、本来奴隷種たる地上人類などと群れるはずのない恐るべき種族、怪獣をも輩としているのだ。その証拠に、ムウのゲソラ幼体は、そのことごとくがあの恐るべき眼光を放つ獣によって、苦もなく殲滅されてしまったのだろう。
少女が、明確に上機嫌な声音で、先程の詩の続きらしきものを呟いた。
「
その言葉が、ドイツ語であることを、32号は理解できた。だが、その言葉の意味するところまでは、理解できなかった。獣と、獣を作ったものへの問いかけのようであるかのように思われた。
世界と、ケモノの歌。世界の構造の歌。意味はあるのかも知れない。だが、それを理解してはならないと、彼の魂が怯えていた。
わかってはならないうた。耳に響いても理解できない、理解したときには既にして機能している言霊。
それが呪いであるのか、祝いであるのか、32号には理解できなかった。
あるいはこの少年と少女は、既にして言葉でもって、彼の向こう側で彼らの言葉を聞く同盟者と、交戦を開始しているのかも知れなかった。
すでに32号の心理から、戦意は完全に喪失していた。自らが戦っていた戦争が、征服し勝利するだけという単純なものではなく、なにかもっと危険で、弄んではならぬたぐいのものを知らず激発させかねぬ危険なものであったことを、既にして彼は悟ってしまっていた。
「それを選ぶというのなら、躊躇はしません、リルエル・ベルベ。
あなたの理想を、願いで砕く。あなたと共に来るムウ帝国諸共に」
冬の大気よりなお冷たい声音が32号の耳朶を、魂を凍らせ、砕く。この少年は、それを為しうるだろう。
皇帝陛下を止めるべきだった、と32号は思う。それで己が殺されようと。
ムウ帝国は地上になど関わるべきではなかったのだ。同盟者の甘言になど乗るべきでは無かったのだ。
少年と少女。黄金の輝きの眼光の巨獣。それらが同質の、破局を司る、あるいは司りうるものであることを、32号は確信し、かつて轟天号と名付けられた船とその乗り手たちがそうしたように、彼らもまた同質の破局を齎すことを迷わないだろう。自らの破局を阻むためならば。
32号には何も出来ない。戦いの意義を見失い、まして身動きも取れぬ今はなおさらのことだ。絶望の他に、彼にできることはなかった。
重い響きを放つ類の弦楽器を、およそ人には思いもつかぬ奇怪な鳴らし方をすれば、このような音が鳴るだろうか、という響きが、衝撃波めいた重さを孕み、冬の暗い夜天を震わせる。
あの恐るべき艦の衝角、その上で黄金色の眼光を放つ、人智至り得ぬ恐るべき獣が上げた、あらゆる生物を恐怖させ、屈服させずにはおかぬ、獣の王たる種族にこそ相応しい咆哮であった。
その響きに、音圧に、彼は震え上がる。それは恐怖であった。識ってはならぬもの。聞いてはならぬもの。それを聞いている、識ってしまっている、その自覚ゆえの、あまりにも、純粋な、恐怖そのものにほかならなかった。
=====================================
「神々と悪魔たちが海をかき回すと、そこにはまず毒が浮かんだ。
ハラーハラ。アムリタの対、世界と万物を侵す猛毒。
海を沸き立たせ、全てを飲み込むそれを、神々も悪魔もどうにも出来ない、彼らはシヴァに助けを求めた。
シヴァはハラーハラを飲み干し、シヴァの姿は青く変じた。
だが、『万物は毒である』なんて言葉もある。シヴァが不滅となったのは、アムリタではなくハラーハラを飲み干したからこそ。
そう言いたいのかな? 神宮寺シンジ艦長殿」
ベイラ・バーン、通称BBは、借り物のトヨタbBの車内、その運転席でつぶやいた。
北条海岸通りのほど近く、年の瀬で客が来る気配のない、コンビニエンスストアの駐車場である。
アトラゴンが運用する自律無人探査ユニット『ナイジェル2』シリーズの量産には、シヴァ共同事業体関連の企業も参画している。音波電波重力波タキオン波に至るまでを検知する探知能力を誇るがゆえに、盗み聞きをするための盗聴・監視装置を忍び込ませ、未だ謎多きアトラゴンという組織を調査・監視するには最適と言えた。
無論、あの艦長のことだから、そういう仕掛けをしてくること自体は承知の上だろう。むしろ一枚噛ませてそういう仕掛けをさせる余地を残す程度の余裕を、シヴァ共同事業体に対して見せているとも言える。
笑顔で貸しを作って面倒な仕事に巻き込んでくる、面倒な年配の上司の仕草だな、とBBは内心でつぶやいた。
14のガキは14のガキらしく振る舞ったほうが楽なんだが、どうもそういうのは卒業済みのタイプなようだ。若いくせにあまり賢しらなのは嫌われるんだがねえ。まあ、彼の場合は賢しらが過ぎるから当てはまらんかもしれんが。
それにしたって半年かそこらの活動で、日本国首都圏の復興事業に絡んで暗躍したり、日本だけじゃなくアメリカにまでパイプがあるのは、賢しらを通り越して気持ちが悪いというもんだ、とBBは思う。
気持ちが悪いを通り越して、特異点が人の革をかぶって生きているようなもんだ。ミレニアムが過ぎて30年が立つというのに、1945年に終わった戦争絡みの都市伝説であるG資金絡みの文脈で調査報告が上がってきているらしいのも始末に負えない。
だいたいG資金の都市伝説で海軍士官たちが大日本帝国再興のために奪取した伊号403号潜とかいうのは建造中止になってるんだが、そういう与太話を監査部含めて複数筋から上に上がっているんだから始末に悪い。
あるいはあの少年艦長が、冗談半分本当半分に吹聴しているのかもしれなかった。嘘に本当を混ぜ、本当に嘘を混ぜ、境界を曖昧にしてしまい、結果どの調査情報を信じていいかわからなくしてしまうという、一種の欺瞞方法である。
そういうテクニックを使いこなせる、そういう人間が、シヴァ共同事業体という、クリーンとは程遠い組織を相手に笑顔で手を差し伸べ、自ら刺しやすい脇腹を示して見せもする。昔はどうであったにせよ、人生の経緯で間違いなくろくでなしに成り果てた類の存在だろう。
そういうろくでもない、見た目は若造でしかない人間が、疑いなく人類圏でも最強クラスの戦力らしい存在を有する。しかもおそらくは複数。ナイジェル2ひとつとっても、2030年になって未だ理論の中にしか存在しなかった超光速粒子タキオンの存在と、それを用いた超光速通信が前提になっている。タキオンを商売で持ち出すやつは、狂っていてタキオン利用が可能だと本当に信じているか、正気だが詐欺師でバカを騙して金をむしり取ろうとする悪人のどちらかだ。
そして困ったことに、ナイジェル2のタキオンセンサーは、間違いなく本物である。量子レベルの熱力学挙動に完全に当てはまりつつ、さらに前提となるのが虚数質量の超光速粒子が形成する場と、それを伝う波であると、3桁を越える追試が完全に保証してしまっている。
「光速で移動する物体の経過時間はゼロになり、光速を越えだすと今度は時間をさかのぼり始める。そして質量のある物体は決して光速を越えられない。
逆に言えば、質量がどうあがいてもマイナスにしかならないような物体は、どうあがいても光速より下に速度を下げられない。あくまで理論上であり、李の研究対象の一つでもあった。俺もそういう提案をしたし、実際あのAIはやってのけたが──それはあくまで『破局』前の話だ」
『破局』の季節が終わり、紅塵が青く染まり、シヴァもあのAIも喪われた今となっては、再現性がない。空を埋め尽くすラドンも消え、サルンガも青い結晶に冒され余命幾ばくもなし、そのはずなんだが──
「破局駅の次は破局、破局でございます。破局線は破局でお乗り換えください。ホームは3番線となります、お間違えのないように──」
艦長と副長の会話内容が、やれキモノの着付けがどうだの、私のキモノの色が赤だからあんたも赤いハオリハカマにしろだの、お仕着せみたいで嫌だし赤いハオリハカマはないだの、そういうティーンエイジャーのカップルがするようなくだらない内容に変わったところでBBは助手席においたトランクの中の、盗聴システムのスイッチを切った。本年の放送は終了いたしました、来年もご愛顧のほど、何卒よろしくお願いいたします。
ムウ帝国と、あの艦長と知り合いらしい『同盟者』、それに艦長自身と副長、夏に東京を破滅に追いやった巨大怪獣と同じ鳴き声で鳴く黄金の眼光を放つ怪獣。それに、とBBは内ポケットから二枚の写真を取り出した。
写真の一枚には、浜辺から野原にかけてを使って寝転ぶ、強いて例えるならゴリラに似た類人猿が映っている。問題はサイズで、一緒に映っている人間があまりにも小さすぎるため、恐らくサイズは先程ナイジェル2のセンサーを利用して盗撮した黄金の目の怪獣と同等だろう。無論、こんな馬鹿げたサイズのゴリラが、有史以来この地球で確認されたことはない。
撮影場所は、米軍が管轄する小笠原諸島の七軒島という、昭和時代に爆発事故を起こして以来無人島となり、買い手が長らくなかったことから米軍への供与が決まったという曰くのある島であり、撮影者も米軍内に潜り込んだエージェントの一人である。
そしてもう一枚は、アフリカ投げナイフじみた奇怪な形状の、何かの動物の背びれか何かを加工して作ったと思しき手斧であり、運搬用船舶の甲板から推測するに、先程のゴリラの化け物が持てばちょうどよいサイズだろう。
黄金の肉食恐竜型怪獣に、武器を使うと思しきゴリラ型怪獣。そして、それら怪獣よりも遥かに大きな巨大戦艦。
そのいずれもが、サルンガや東京に現れたあの恐るべき獣のように、破局を担いうるとしたら?
あるいは今スティーブンたちがかかりっきりになっているらしい、あの謎めいた骨のように。BBの笑みが深まった。
「葦原ノート。その図形の一つには、無数の破局点が描かれ、その重力的近郊により破局と破局が衝突せず近郊が保たれている、無数の細胞核だか目だか矢印だかの寄せ集めのようなものもあったが、複数の破局点同士の対立。あるいは重力均衡によるグループ化。より巨大な破局を回避するために、破局を敢えて受け入れる。
なるほど、万物は毒であり、量次第で当然薬にもなる。だが、『破局』そのものを飲む覚悟を決められるやつはそうは居ない。
ハラーハラを平然と飲み干して、量を間違えなければ健康にいいですよ、どうですかと言われて飲めるやつはさらに少ない。わかっているのか、いないのか」
神宮寺シンジ。やつのことは好きになれそうにないな。
そう思った矢先、不意にポケットのスマートホンが鳴る。
娘からだった。
「もしもし? ああ、今ホテルに戻る。用事が終わったからな。年が明ける? 仕方ないだろう、明けない年はないからな。
帰る時間? 60年後。 いや1万2千年後だ。あまり夜ふかししないでおとなしく寝てろ、サンタさんが来ないぞ。
ああ、明日は大丈夫だ。ウラヤスの、なんだったか? 大抵のところが怪獣騒ぎに巻き込まれて破壊されたが、微妙に東京から場所がずれていたせいで無事だったとかいうテーマパーク。まあそりゃ混むだろうが──」
マイク会話モードに切り替え、鍵をひねって車のエンジンをかける。通話を切り上げて、彼は車を走らせた。ベイラ・バーンは面倒な男だが、年明けに親と過ごしたがる娘を無視しきれるほどには親を辞めてはいなかったし、怪獣騒ぎで貴重になってしまった類のテーマパークのチケットを娘のために押さえておく程度には優しさもあるのだ。
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2030年の終わりを、彼らはこのようにして迎えた。
2031年が始まる。
破局の夏が終わった時、誰もが破局は最後だと思っていた。
笑い飛ばしたかったのだ。大滝社長の「あのゴジラが最後のゴジラとは思えねえ」という、破局を越えたあと彼が口癖にしてしまったその言葉を。彼のみならず、誰もが内心胸の中に抱いていた不安を、可能性として具象化シたくなかったのだ。
2031年は容赦なくタイムラインに従って始まりつつあり、そしてそれに備えているものたちも、一人や二人ではないのだ。
結局、ジェットジャガーはいかなる破局から彼らを救ったのか?
サルンガが、青色結晶に冒されながら未だ生き延びている理由とは?
神宮寺シンジとは?
ムウ帝国にかつて訪れた破局、それを齎した轟天号とは。
米軍が管轄する島に住まうという、謎の類人猿怪獣とは。
ルールも目的も不明なまま、無数の駒が並べられた。
最後の除夜の鐘が鳴り、年が明けてゆく。
だれもが未だ見えぬゲームの全貌を思いながら、叶う限り高く掛け金を積み上げていく。
それを総取りするのは、果たして誰か──一時の秩序が終わり、
『G+A Singular Point Prologue EOF』
──G+A Singular Point Season1総集編 「怪獣王ゴジラという時代 2031年の闘争」に続く
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