羽賀を照らす流星 (とうゆき)
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羽賀を照らす流星

 羽賀に存在する小さな牧場の主はまだ日の高い15時すぎにもかかわらず既に缶ビールを二本空け、完全に出来上がっていた。

 そんな旦那を見た妻は呆れ顔で空き缶を片付ける。

 

「マルッコ君がダービーに出て嬉しいのは分かるけど、まだレースは始まってないわよ?」

「ばっか、おめぇ。ダービーだぞ? 出られただけでも偉いに決まってんだろ!」

 

 テレビの競馬中継を見ながら男は反論する。

 年間数千頭が生産されるサラブレッドの中で僅か18頭しか出走を許されない日本競馬の最高峰。そこに羽賀で生まれた馬がいる。これで喜ばずにいつ喜ぶというのだ。

 

「ハイセイコーやオグリキャップ、メイセイオペラにハルウララ、有名な地方馬なんて言ったってあいつら生まれは北海道じゃねえか。その点マルッコは立派な九州産馬だ」

 

 「でもマルッコ君も北海道からの持込馬よね」上機嫌な男を前に、空気の読める妻はそんな声を心の内に留めた。

 

 

 

 やがてテレビはパドックの様子を映す。

 父親に似た栗毛の馬体と丸い流星。羽賀にいた頃と比べて見違えたその姿が男の目にはとても輝いて見える。

 

「でも高橋君も可哀想ね。うちのミゾちゃんを勝たせてくれたのに」

「しゃーねーだろ。トモさんと比べたら経験も実績もしょぼいもんだ。それにほれ、トモさんはゴールドフリートに乗ってた事があったろ。父でGⅠを勝った騎手が息子にも乗るってのは浪漫だよなぁ」

 

 不意に男は宝塚という単語と共に謎の頭痛に襲われた。酒の飲みすぎだろうか?

 やがて頭痛は消えたが、レースが近付くにつれてソワソワしてきた。何かをしないと落ち着かない。

 

「よし、ご祝儀って訳でもないが単勝に1万!」

 

 アルコールで震える手でスマホを操作して投票サイトを開くと0を「5回」押す。

 これでよし。今日はめでたい日だ。これくらい惜しくない。

 

 

 

 そしてダービーの発走を迎える。

 男は両手を組んでサタンマルッコの勝利を祈った。応援ではない。応援でどうにかなるとは思えなかった。

 彼の冷静な部分が選び抜かれた優駿17頭を九州産馬が蹴散らすのは無理だと告げる。それでも数頭負かし、あわよくば掲示板に載れば羽賀の誇りだ。

 

 

 

 そんな後ろ向きな予想を裏切り、サタンマルッコは勝った。

 大外という不利をものともせず、無敗の皐月賞馬にも青葉賞で敗北した相手にも、他の駿馬にも一度も先頭を譲らずゴールまで駆け抜けた。

 

「おおおおおおおおおおお!」

 

 気付いた時には男は大声を上げて家を飛び出していた。

 年を重ね、もう無理のきかない体の筈なのにどこまでも走れそうな気がした。

 

 勝った! 羽賀で生まれた馬がダービーを勝った!

 

 自然と涙が零れる。

 九州は種牡馬も肌馬も質が低く、規模が小さいから自治体の理解も得られ辛い。そんな所で馬産をする意味があるのか?

 男の半生には常にそんな疑問が付き纏っていた。環境に恵まれた大牧場への妬みに苛まれた事は一度や二度ではない。

 これからの人生も地方競馬の数合わせや飼料を提供するだけなのだろうという諦念もあった。

 

 それも全て過去の話だ。淀んだ気持ちをあの馬が吹き飛ばしてくれた。

 

 

 

 最初は目的地もなく内なる衝動に突き動かされていた男だったが、やがて足は羽賀競馬場に向かっていた。

 そこにいた人々は突然現れた酔っ払いに対しても邪険にせず、むしろ仲間を歓迎するような雰囲気があった。騎手や調教師は一様に浮き足立っていたし、男と同じように赤ら顔で興奮する客の姿もある。

 理由は明白だ。皆が同じ感動を共有している事に心地好さを覚えつつ、レース場を通りすぎて厩舎に向かう。

 中央はどうか知らないが、羽賀はこの辺り色々と緩い。厩務員に声をかけて上がり込むと馬房の中を覗き込む。

 

「ミゾカ! 元気か?」

 

 呼び声に反応して一頭の牝馬が顔を出す。男はその馬の首筋に抱きついた。

 

「お前の同期がダービーを勝ったぞ! 覚えてっか? 能試で一緒に走ったあの馬だ!」

 

 ミゾカと呼ばれた馬は最初こそ男の言葉を聞いている風だったが、やがて興味をなくしたように男を振り払って馬房の奥に引っ込んだ。

 素っ気ない態度も今は気にならない。高揚感が全身を満たしていた。

 

『勝手に盛り上がっているが、すごいのは中川牧場とサタンマルッコであってお前じゃないだろ』

 

 ああ、そうだ。その通り。俺はまだ何もしていない。

 ただの競馬ファンならサタンマルッコの軌跡を追いかければいいだろう。だが男は生産者だった。

 

「まったく。恨むぞ、中川さん」

 

 言葉とは裏腹に晴れやかな声で男は呟いた。

 これからは九州産馬だから勝てなくても仕方ないなんて言い訳は使えない。

 パン! と両頬を叩いて気合いを入れる。

 

「決めたぞ! ミゾカ、お前とマルッコの仔で中央を目指す! 両親共に羽賀生まれのGⅠ馬を出してやる!」

 

 フリートがまだ健在なので種付け料はそこまで高騰しないだろう。それでも零細牧場からすれば二の足を踏む額になるに違いない。

 無謀。冒険というよりは自爆。妻は反対するだろう。熟年離婚も覚悟するべきかもしれない。

 それでもやりたいと思った。

 男の胸に宿ったもの、それは牧場を継いだ頃には確かに抱いていて、いつしか想うだけで恥ずかしくなっていたもの。

 ──夢だ。

 

 

 

 

 

 




※ミゾカちゃんはヒカルイマイやグリーングラス、ゴールドイーグル、ハクタイセイ等の九州に縁のある馬の血を引いています。
マルッコとの産駒はTGや90年クラシック馬の末裔になりますね。


トモさんがフリートに乗っていた否かについては次のYouTubeの配信で質問してそれ次第で改訂するかもしれません。

このSSは自ブログ「趣味人の宿部屋」にも投稿しています。


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