まつろわぬ少年 (こもせたけとん)
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完成された世界を前に少年は走る
駅を出たサラリーマンとOL風の男女は新しく復興していく街を歩いていた。
揺らめく影が去りそれが少年だと気付いた時にはマリの隣人のスーツがくたりと地面に舞い落ちる所であった。
いきなり中身がなくなったそれを掻き抱いて叫ぶ。
「待ってわんこ君!」
振り返らない少年は白のカッターシャツに黒のズボン、見慣れた中学生の制服だ。
余ったベルトを揺らして全速力で走る。
碇シンジは補完終了間際に現実の世界から作られた世界へと再び身を投じたのだった。
補完を完全に終えたマリに手が届かない過去とも言える次元へと消えゆくシンジを呆然と見送った。
碇シンジは待っていた。
軛からの解放を、そしてそれは補完終了間際であろう事を。
彼の行く先はあのイマジナリーであり自分の精神の中に作った記憶の宮殿であった。
符丁となるイメージを鍵として其れ等を仕舞い込んだ部屋へと、そこに至るべく記憶の回廊へと急いだ。
彼の大切な物を全て拾う為に。
遙か遠くの世界で少女は女性と成った身体を持て余すように椅子に座って長い足を意味なくブラブラさせていた。
仕草にあどけなさが残る。
部屋の外の風の通り道に椅子を置き何処を見る事も無くボンヤリとしている。
黄金の髪に風が戯れ、長い睫毛の奥の碧眼は同じ色をした空に向けられている。
青田から爽やかな風が流れる。
ゆるゆると時は過ぎ去り、日も傾くがアスカは動くことはなかった。
ただ虚空を眺めていた。
心の有り様のままにただ存在した。
遙か彼方、最果てに置いてきた半身だけが彼女の本心を知っている。
とこしえのアリアを唄う半身こそ欠けた心のピースであるのだ、そこに半身を預けたとも言える。
欠けたのならそのままでも良いと言わんばかりに彼女の心はここには無く、風と共に舞っていた。
風の如く疾く早くと疾走し世界と精神が融解する頃、少年は符号を得た。
イマジナリーから自力で生還した者は二人。
正確にはマリがシンジの母から託された力とエヴァ8号機を使い閉じていく世界のシンジを未来と生命溢れる世界へ生還させたのだ。
苦労の末にシンジを補完したマリは再びイマジナリーワールドに行こうなどとは思ってはいない。
だが、アンデルセンのヘンゼルとグレーテルのように自分の家に帰るために何かを目印として点々と置いていたとしたら?
それも置いた者しか気付かない不可視のイメージであるならば尚更。
シンジだけが戻ることを望み、失われたままでは許されないと感じ手に入れようとしているのだ。
世界にばらまかれたカケラの名前は惣流アスカラングレーであり式波アスカラングレーであった。
そして彼女を中心として散ってしまった心と魂でありスピリッツ(精神)とダイナモ(生命力)であった。
熱い血潮で出来た生命は幼き身体に閉じ込められ翻弄されて力尽き切り刻まれ粉砕された。
其れ等全てを一つにするために夢や思考から道を作り、取り戻すために父と同じ轍を踏み混沌へと向かった。
縛り付けていた咎を背負う自分自身は居ない。
限界解除された魂は自身のつけた符丁を想い、自身の記憶に向かう道を回廊に見立て、記憶回路を情報端末から発せられたプログラムの正確さで走る。
始まりの地である過去のドイツネルフであり、そして彼女をよく知る誕生たらしめたアスカの母親の元へと。
碇シンジは何も知らないまま父に翻弄された仕組まれたチルドレンであり只の少年である。
イマジナリーを超え全てを知り得た今、そのままにしておけないことが悔恨としてあった。
綾波レイと渚カヲルは魂の大きさと強さで記憶を統一することは本人の力でできた。
マリは世界に散ることなく永続した存在であった。
では只の人間が切り刻まれて作られた生物になり、それを為すが儘に受け入れるしか術はないのかと思う。
補完したとしても漏れてしまったそれをアスカ自身は拾うことも出来ない。
シンジは自分は死ぬと思っていた。
アスカが過去を知ることなく自分を忘れ人として幸せで在ることを願った。
しかし自分は生きて帰ってきた。
世界線を変え存在させ知らないまま一生を終えることも出来る。
同じ世界でもエヴァの無い今は一生逢わずに生きることも可能だ。
しかしそれでは知ってしまったときの自身の魂の不完全さにアスカは苦悩するだろうと考えていた。
アスカがアスカであるために必要なものを時間も世界も違う場所に行き拾い集める。
それが自分の精一杯の出来ることだからと固く誓ったのだ。
どちらも自分のエゴであるかも知れない、しかし知らなければ選ぶことさえも出来ない。
惣流であるアスカと式波であるアスカが分裂したとしても受け入れる気持ちでいっぱいだ。
円環という潮流にあって逆らうことを許されず、知ることさえ叶わず、ただ一人の男の野望のためにモノとして扱われた不完全な少女は計画にハマっていたとしても、命懸けで世界を救おうとしていたのだ。
万感の思いが胸に迫る。
幾年月の積み重ねであるかはシンジには朧気としかわからないが彼女との微細にも渡る思い出はハッキリとしていた。
そして思い描いた回廊へと足を向けた。
回廊のすぐ横の中庭に幼稚園のスモックを着た幼い碇シンジが砂山を壊していた。
きれいな正三角形の砂山を足で蹴り崩していた。
鼻水と涙でグシャグシャで、自分だけ誰も迎えに来ない砂場で一人格闘していた。
少年は中庭に降り、やさしい目線を向けると幼子に語り掛けた。
「もう、気がすんだかな?かなしい思いをしないために一緒に行こう。友達を取り戻すんだ。」
「うん!」
「よし!手をつないで行こう。」
彼の最初の符丁は『あの時』の悔しさであった。
イメージがイメージを繋ぎそれが道となり記憶と精神の部屋へと導いてくれる。
回廊が鮮やかな赤に染まり彼女のイメージへと繋がっていった。
巨大な赤い獣を左右に従えた門扉が目の前に表れた。
片方の獣は三日月の兜の印を額に付け、右目が一つ潰れた元が緑の四ツ目の獣が鉄輪のドアノッカーを牙だらけの口に咥えている。
もう片方は赤と白の縞模様に緑の四ツ目とシンプルな面構えで、こちらも鉄輪のドアノッカーを咥えている。
扉の平面から半ば飛び出した獣が唸り、喉を鳴らして警戒している。
「こんにちは!にごうきさん!」
強面の警備獣に少しも怯まず、二人はニコニコと手をつないで声を掛けた。
オオオオンと赤黒々と獣は鳴き認証され扉は開いていく。
そこは幼き頃の惣流アスカの母との唯一の思い出、青く高い空と向日葵畑だった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
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