Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜 (ふえるわかめ16グラム)
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01 好奇心は酔っ払いを殺す

 黒江基晴(くろえもとはる)(27)。フルネームの後ろにつく数字が増えることが年々嫌になる今日この頃、彼はまた一つ歳をとった。

 だがしかし、毎年律儀に祝ってくれる友人がいるだけ自分は幸せ者かもしれないと黒江は心のうちで苦笑した。彼はテーブルを囲む、バリエーション豊かな三人の野郎どもの顔を見渡す。誰も彼も片手にビールの注がれたジョッキを掲げ、目をギラギラとさせていた。テーブルの中央は周りより一段低くなっており、そこに置かれた七輪では炭が赤々と燃えている。そして丸い大皿へ盛り付けられているのは、程よくサシの入った牛肉。つまり——焼肉である。

 黒江を除く男どもの眼光の鋭さはもやは剣呑なほどで、とにかくはやく肉を食わせろと言わんばかりだ。それに相反するように冷め気味の黒江の脳内に、しょうもない感想が生まれた。

 たまってる……ってやつなのかな? しょうがないにゃあ……。

 黒江は大仰に「オホン」と咳払いを一つして、ようやく口を開いた。

 

「えーそれではですね、本日はお日柄もよく、皆様におかれましては——」

「カンパーイ!」

「ヴェーイ!!」

 

 本日の主役である黒江がジョッキを掲げ乾杯の音頭を取ろうとした時、哀れ彼の言葉は友人達にぶった切られた。飾らない雰囲気だが提供するものの質は良いと評判の、薄暗い照明の焼肉店の片隅に野郎の野太い歓声が響く。折角の出番を邪魔された黒江はわかりやすく凹んで見せた。

 しかし、黒江はしょげ返ったポーズをとりつつも笑う。なにせここにいる全員、気心知れた仲なのだ。彼は周囲へ軽いツッコミを入れると、笑いながら友人達とジョッキをぶつけあった。そして、まだ霜が溶けきっていない、キンキンに冷えたビールを喉へ流し込む。

 

「ッはぁー!!」

 

 うん! うまい! 優勝!

 極度乾燥(スーパードライ)しちゃった!

 

 炭が発する熱によって温まった顔面によく冷えたビールは一入である。また、日頃のストレスや疲労感がこの一杯で雪がれたようにも感じる。つまり至高だった。

 

 それぞれがビールで喉を潤すと、誰とも言わず熱せられた網に肉をこぞって投下し始めた。するとそれなりに上等な肉から早速脂が溶け出し、炭の上に滴りジュウジュウと官能的なサウンドを奏で始める。これには黒江含め男たちの単純な造りをした脳が『ウヒョーたまんねえっす!』と歓喜の声をあげた。

 

「これもう食えるっしょ!」

「流石にまだ生だべ!」

 

 黒江が適当なことを言えば、席を囲む友人の誰かがすかさず拾ってくれる。実にくだらないやり取りであるが、彼は言葉にしがたい充足感を覚えた。うむ。十分幸せだぜ、俺は。こう、歳を重ねると日々の生活の中の、ちょっとした幸福みたいなものが染みてくるよな。黒江はそう胸中でひとりごち、些細な幸福感を味わった。

 

「んで、クロちゃんはいくつになったんだっけ?」

 

 煙草に火をつけた友人の一人が、煙を吐き出しながらそう訊いてきた。

 

「にじゅうななちゃい!」

 

 黒江はすかさずアヘ顔で即答した。左手がジョッキで塞がっているせいで、シングルピースになっている部分は減点対象であるが。

 

「きたねえ! わはは!」

「んだとコノヤロー! わはは!」

「肉もう食えるわ」

「うんめ肉ヴッメ!」

 

 男だけのむさ苦しい宴は始まったばかりだが、早くも混沌とした様相を呈し始めた。だがそれも親しい友人同士である黒江達にとっては心地の良いものである。各々が好きに動き語り合う。これまでもそうしてきたし、わざわざかしこまったものに変えようともしていなかった。

 

「あ、そうだ。忘れないうちに、これ」

 

 早くも一皿目の肉を全て網の上へ投入し終えたタイミングで、先ほど黒江に歳を訪ねた男が小さな包みを鞄から取り出した。

「えっ何、なんかくれんの!?」

 黒江は予想もしていなかった展開に驚きの声を上げる。すると網の上の肉を丹念に育てていた友人の一人が「なんだ加藤! プロポーズか! めでてえな!」と茶々を入れた。包みを持った男は笑いながら否定するが、当の黒江は「え〜ありがと〜! あたしぃ〜、式はハワイがいいなぁ!」と大げさな身振りで品を作って戯けるから収拾がつかない。雑なフリと悪ノリを重ねたリアクションに、加藤と呼ばれた男は「勘弁してくれよぉ」と笑い、手元のビールをぐっと煽った。黒江たちもどっと笑うと、朗らかな表情のままそれぞれのジョッキを空にしていった。

 

 

 ++++

 

 

(うおー、飲んだぜ。今日は飲んだぜ。これは)

 

 黒江と友人達はその後も数件の居酒屋などをハシゴし、すでに終電間近の時間。彼は有頂天に千鳥足な状態で家路についていた。真夏の重くて湿っぽい空気も、深夜になれば多少は過ごしやすい。丈の短いハーフパンツにTシャツ一枚、肩に斜めがけしたウエストポーチだけという身軽な格好が実に快適である。

 

 黒江はアルコールにたっぷり浸かった脳みそを上機嫌に揺らしながら歩く。日付も変わった時間というのもあるが、めずらしく人通りもないため、つい鼻歌なんかを歌ってしまっていた。

 

(いやあ、それにしてもいい一日だった)

 

 黒江は緩んだ笑みを浮かべる。気の置けない友人たちに誕生日を祝われて(それを口実に集まって馬鹿騒ぎするだけだとしても)、うまいものを好きなだけ飲み食いする。さらにはレザークラフトを趣味にしている友人から、端材で作ったキーケースまでもらってしまった。無着色のヌメ革で拵えられた、存外しっかりとした造りのものだ。彼は早速家の鍵などをそれに仕舞ってみたが、誂えたかのような収まりの良さだった。

 

 ——クロちゃんさぁ、おっちょこちょいだから、ケースごと失くすんじゃね?

 ——だれが天然系愛されボーイだって?

 ——誰もそんなこと言ってねえんだよなあ!

 

 酔いの回った頭で今日の会話を反芻すれば、自然と頬も緩みがちになる。黒江曰く、サンキュートッモ極まれりであった。

 

 そうこうしている間に、黒江の根城であるアパートまであとわずかというところまで来ていた。すると、急に現実に引き戻されたような、どこか祭りの後の寂しさに似たものを彼は感じた。

 

(んがー……。まあ、しょうがないかあ)

 

 黒江は小さくため息をつくと、機嫌がいいあいだに思考を切り替えた。平日頑張って仕事して、週末に遊んで英気を養って。平凡だけど十分いい暮らしじゃないか。楽しかった今日を燃料に、これからもまたお仕事頑張りましょー! おー!

 

 そんな、己を奮い立たせるために心の中で拳を振り上げた時だった。

 

「おん?」

 

 誰もいない脇道に、形容しがたい『(もや)』が浮かんでいた。まるで逃げ水を垂直方向に伸ばしたような靄が、おおよそ腰から顔ぐらいにかけて浮かんでいる。その形は不定形で、全体的に縦長ではあるが常にその曖昧な輪郭を変化させていた。

 黒江は何度か己の目を擦り瞬きをすると、目を細め訝しんだ。だが、相変わらず靄はそのままふよふよと道の上に浮かんでいる。しかし、よくよく見てみればその奥に何かが写っているように思えた。

 

「えっなにこれおもしろ。えーなになに? なんかレアな自然現象?」

 

 酔っ払いの道草力は高い。フットワークも軽い。そして、IQは驚くほど低い。それは通常時のゴキブリに軽く劣るほどである。

 この時黒江は、手から離してしまった風船を追いかける子供のように、一切の迷いもなくその靄に触れようと腕を伸ばしていた。

 

「いてッ!?」

 

 それは一瞬のことだった。静電気を大げさにしたような破裂音が響き、彼は咄嗟に手を引いた。だがしかし、もう、全てが遅かった。あまりに唐突なことだったからあまり覚えていないが、何かとても冷たいものが身体中を貫いた気がした。

 

 黒江は、無機質なほどに冷たい月明かりが射す、石造りの廃墟の中に佇んでいた。屋根はとうの昔に崩れ落ち、壁も所々なくなり、朽ち果てた木材や漆喰に石材が散乱している。

 先ほどまで酒精にまどろんでいた眼をかっと開き周囲を見渡す。三六〇度、どこを見てもごみや瓦礫が雑然と転がっているだけで、生きた人間の気配は感じられない。

 そして、改めて背後を振り返れば。

 

 そこに先ほどまでの靄はひとかけらも見当たらなかった。

 

「はっ……な、なんだこれ……」

 

 むき出しの肌が総毛立つ。

 視野の隅を、白い靄が横切る。

 

「なっ!?」

 

 咄嗟に振り向く。メッシュ素材のスニーカーの靴底が砂を踏み、やけに静かな空間にざりっと音が響いた。その音がまた黒江の精神を逆撫でし、心拍数を向上させる。彼は数回同じように視界の端に映る白い何かを追いかけようとしたが、それはあっという間に消えてしまいどうにもうまくいかない。

 

 そうして、その白い靄は黒江自身が吐き出した呼気らしいということに思い至った時、彼はようやく、この場所の気温が真夏の格好では耐えられないほど低いことに気が付いた。

 

「勘弁してくれよ……」

 

 黒江の呼吸が浅く、間隔は短くなる。ハーフパンツとTシャツだけでは凍えるくらいの寒さだが、無意識に力のこもっていた両手に嫌な汗がにじむ。口腔の奥、唾液が溢れ、背筋にこれまで幾度となく味わってきた悪寒を感じた。

 

「っハァ……ウゥッ」

 

 すり減った石材の床に、宴のあとがぶち撒かれた。咀嚼され混ざり合った諸々が、これまで流し込んできたアルコールとともに床を叩き汚らしい水音を立てる。黒江は(はらわた)を突き上げるような苦しみを、体をくの字に曲げて二度三度と耐えた。その目尻には生理的な反射で涙が浮かんでいる。

 

「なんだこれ、ウソだろ……ははっ……」

 

 空っぽになった胃と、ガンガンと殴られるように痛み始めた頭。

 あまりにも突拍子もない、素面であっても処理できないような状況に、思わず口角が引きつる。

 

 ——一体何が、わけわかんねえ、どこだよここ……。

 

 黒江は掠れた笑い声をあげた。

 その表情はひどく引きつったまま、黒い瞳は己の置かれた状況による不安や恐れに揺れていた。



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02 すこし先の未来、あたたかな陽だまりで

*2023.04.06追記
冒頭の地理関係を中心に修正しました。


 ****

 

 木々の葉が色づき始めた季節。

 連合王国の首都ヘントベリーから南東へ六〇キロほど。ヘントベリーを象徴するドロネス川の河口に面した街、ブレントン。その郊外、小川に沿うように伸びる小道を一人の青年がせかせかと歩いていた。彼の身長は平均以上にあるだろうが、痩せ型の体型も相まって、長い手足を持て余し気味にしている。

 彼の身なりは小綺麗だが、どこかくたびれた印象を受ける。細かいチェック模様の入った背広は関節部分に皺がより、膝下まで届くダブルブレストのコートは所々煤けている。それなりに品の良い山高帽の下から覗くのは、几帳面に撫で付けられた癖のある黒髪。少し歩くペースが早いせいか、思慮深そうなブルーグレーの瞳の下の頬はやや上気していた。

 

 彼の名はルイス・リチャード・パーカー。

 

 ブレントン大学で魔術学(科学の進歩と発展の時代の今、不人気中の不人気なマイナー学問である)を専攻する学生だ。師事する教授から解放された彼は、下宿先である彼の伯母の自宅への帰路を急いでいた。ルイスは片手で持てるトランクのハンドルを握りなおすと、さらに歩幅を大きくする。口を一文字に結んだ彼は、不安半分、期待半分といった表情を顔に浮かべていた。

 

 舗装こそされていないが、丁寧に踏みならされた土の小道をしばらく行くと、少しの植木と小さな庭に囲まれた一軒家へたどり着いた。ここが、ルイスの住まいだ。

 ルイスは小道と庭を区切る鉄製(アイアン)の扉を開け、玄関ポーチへ足を進める。早足で歩いてきたために上がりかけた呼吸を整えると、汗ばんだ首筋とシャツの襟の間に指を突っ込み空気を送り込む。最後に、タイが曲がっていないことを確認し、言うことを聞かない黒髪を撫で付け玄関の重厚なドアを開けた。

 

「んお!?」

 

 ドアのすぐ先には、箒を抱えた少女——純白の毛皮を纏い、猫のような顔をした獣人の少女だ——が佇んでいた。彼女は目の前で開いたドアに瞳を丸くしたが、その原因がルイスであることにすぐ気がつくと破顔して「なんだ、ルイスか、おかえり」と彼を迎え入れた。ルイスは咄嗟に「おっと失礼」と詫びを入れ、彼女へ挨拶を返す。

 

「ただいま戻りました、クロエさん」

「ん、思ってたより早かったな。ほら、預かるよ、それ」

 

 クロエは箒を壁に立てかけると、ルイスのコートや帽子を受け取るために両腕を伸ばした。彼女は給仕服と、所々汚れたピナフォアを着用している。ただ、ストライプ柄のプリント地で仕立てられた古着の給仕服はサイズが合っていない。丈の余った部分はあとで戻せるよう裾上げをしているが、余った袖はカフスに乗っかってしまっていた。彼女の身長はルイスの首元に届くかどうかといったところで、視線を合わせるためにかなり頑張って彼を見上げている。

 

「うん、ありがとう。でも、掃除をしようとしてたんじゃ?」

「あーこれ? やること無くなったから落ち葉だけ寄せようと思って。別に今やらなくてもいいしさ、気にすんな」

「そうですか」

 

 クロエが肩をすくめて、少年のような飾らない笑顔を浮かべた。口調もかなり砕けていて、見る人が見たら眉を顰めたかもれない。だがしかしルイスは特段気にしたようなそぶりはせず、落ち着きのある低い声で笑って帽子をとった。

 クロエも朗らかに笑顔を返すと、ルイスから帽子とコートを受け取った。まだ冬本番を迎えていないためライナーの付いていないコートだが、しっかりとしたウール地で仕立てられたそれはずっしりと重い。そして今回もまた、マグロのごとく動きを止めてしまったら死んでしまうのではないかと思うほど忙しないエルフ族の老教授に、津々浦々を引き摺り回されたのだろう。埃と煙草と汗のにおいがした。

 

「それで……アルマおばさんは?」

「先生はお部屋で休まれてるよ。今日も朝から少しお加減が優れないみたいでな……」

 

 クロエはつい先ほどまでとは打って変わって沈痛な面持ちになる。声のトーンは下がり、ピンと立っていた両耳も伏せがちだ。

 

「そんなに……」

 

 ルイスはクロエの言葉に眉尻を下げると、小さく溜息を吐いて「それにしても、クロエさん。私がいない間、おばさんを任せっきりにしてしまって悪かったね」と話題を切り替えた。

 

「そんなん今更だろ伯母不幸者めぇ。まあ、先生はオレにとって唯一無二の恩人だからな、任せとけよ。……んで、またしばらくはこっちにいるんだっけ?」

「うん、冬が終わるまでは教授のお供もない予定だから、ゆっくりできるよ」

「オーケー。今晩のメシは期待しといていいぞ。クロエちゃんが腕によりをかけて作ったる」

 

 クロエは袖をまくるジェスチャーとともに笑い、「君ももっと肉つけろよな!」とルイスの肩を叩いた。実際にはクロエの身長が微妙に足りず、肩甲骨のあたりを叩かれたルイスも頬を緩め、「クロエさんの身長が伸びるくらいの奇跡があれば考えておくよ」と笑った。クロエは「なんだとテメー!」と耳を後ろに倒しながら憤慨した。

 

 

 ++++

 

 

「ごめんなさいね、クロエ。今日はもうお腹いっぱい」

「そうですか……」

 ベッドで横になったアルマが痩せこけた頬を心苦しげに歪ませる。少し前までそこにあったはずの、朗らかな微笑みが奪われた事実がクロエの胸を突き刺す。クロエは麦粥で満たされた器の乗ったトレーをカートへ戻しつつ、「大丈夫ですよ先生、お料理はいつでも作れますから。召しあがれる時にたくさん召し上がってください。そうすれば……風邪なんてすぐに良くなります」と笑顔を取り繕った。その表情の裏側には、悲痛な思いが渦巻いている。しかしクロエが内心へしまい込んだ感情は、アルマには手に取るように伝わってしまっていた。

 彼女が歩んできた、それなりに長い人生の時間によって、己に残された生がこの先短いことは悟ってしまっている。季節の変わり目にひいた風邪。それは年老いた彼女から生きるための力を急速に奪い去っていった。

 あっという間に起き上がれなくなり、食事も満足に摂れなくなった。

 

「またお休みになりますか?」

 

 クロエの問いかけに、アルマは苦しげな咳をすると「そうね、せっかくだからお茶を淹れてくれるかしら。あと、ルイスとも話がしたいわ」と請うた。

 

「わかりました。ルイスさんをお呼びしますね。それとお茶の用意もすぐに」

 

 クロエはアルマへ微笑むと小さく頭を下げ、食べかけの食事が乗ったカートを押し部屋から出た。

 

 

 ++++

 

 

 夜が更け、月と頼りなく瞬く星々だけが静かに大地を照らす頃。

 ルイスは小さなオイルランプだけを灯した部屋で窓際の寝椅子に横たわりながら、大陸の方では愛飲者も多い紙巻煙草の紫煙を燻らせていた。彼は教授のお気に入りなので、一緒に各地を転々とすることが多い。そのため、パイプや葉巻より手軽な紙巻の煙草を愛飲していた。

 

 濃い闇が支配する部屋の天井へ立ち上る煙を睨みつけながら、ルイスは暗澹たる思いでいた。

 自分が幼い頃、よく面倒を見てくれていた伯母のアルマが風邪をこじらせ床に臥せている。その知らせを受け取ったのは、数日間に渡る教授のお供を終え、ちょうど大学へ戻ったタイミングであった。

 どうして、こんなタイミングで家を空けていたのだろうか。もっと早く、帰ってくることはできなかったんだろうか。ルイスが小さな後悔を積み重ねていた時だ。部屋のドアが控えめなノックの音と共にゆっくりと開いた。

 

「入るぜ……」

 

 薄く開いた扉から顔を出したのはクロエだった。中心の榛色から周囲のグリーンへ、グラデーションを描く虹彩に囲まれた瞳孔を丸くした彼女は、小さくスンスンと空気の匂いを嗅ぐと、さっと部屋の中へ身を滑り込ませた。

 

「クロエさん……夜中に男の部屋に入るのは流石に良くないな」

「うるせえ。オレの中身は男だからノーカンだ」

 

 一日の仕事を終え、ピナフォアを脱いで身軽な格好になったクロエが適当な椅子を抱えルイスの隣へやってくる。

 

「なあ、これ飲んでもいい?」

 

 クロエは寝椅子の側に置かれたテーブルの上、ルイスが飲んでいたウイスキーのボトルを指差すと、彼の返事を待たずグラスを棚から取り出した。

 

「構わないけど、ほどほどにね」

「わかってる。あと、煙草も一本貰うわ」

 

 彼女はテーブルへ投げ出されていたシガレットケースから煙草を一本取り出し、ポケットから取り出したマッチで火を付ける。何度か空気を吸い込み煙草の火を安定させると、煙をたっぷりと吐き出した。

 彼女はくわえ煙草のまま、新しく出したグラスと、ルイスの使っていたグラスへウイスキーを注いだ。いつもなら溌剌とした印象を与えるヘーゼルの瞳は伏せられ、表情も心なしか乏しい。厚めのガラスでできたショットグラスに、琥珀色が満ちる。

 

「ん」

 

 クロエはウイスキーで満たされたグラスをルイスの方へ突き出した。それにルイスは自分のグラスを軽く当てて応える。すると、クロエは一息でその中身を流し込んだ。しかしストレートのウイスキー、それも一気飲みは流石に堪えたらしい。彼女は鼻筋にぎゅっと皺を寄せてうめき声をあげた。ルイスはそれを見て小さく笑うと、使っていなかったグラスへ水差しから真水を注いでクロエへ手渡した。

 

「たすかる」

「そんな飲み方するから」

「思ったよりキツかったわ」

 

 小さく舌を出しておどけるクロエと呆れ顔のルイスが、数年来の友人のように笑い合う。ひとしきり笑った後、自分の椅子に腰をおろしたクロエは少しだけ表情を柔らかくした。

 だが、酒と煙草をせびるためだけにこんな時間に自分の部屋を訪れたのではないだろう。ルイスは、口に入ってしまった煙草の葉をハンカチへぺっぺっとしているクロエを優しい眼差しで眺めつつ、覚悟を決めるために深く息を吐いた。

 

「クロエさん……その……。正直なところ、おばさんの容態は……」

 

 夕食後に、ベッドの上のアルマと交わした会話を思い浮かべつつ、ルイスは話を切り出す。相変わらず忙しそうにしている甥に心配をかけまいと気丈に振る舞う彼女の、辛そうな微笑みが痛々しくてしょうがなかった。

 

 そして、ルイスの問いかけに、クロエはただ首を横に振って答えた。

 

 心のどこかで予想していたはずだが、アルマの身の回りの世話をしているクロエが、あまりにもあっさりと否定の意を表したことにルイスは息を飲んだ。

 再び表情を凍らせたクロエは震える手で、煙草をゆっくりと口元へ運ぶ。一口分吸った後、ひときわ大きく息を吸い込む。沈黙の満ちた部屋へ、煙草の葉が燃える音がジリジリとかすかに響いた。

 

「もう、長くないかも」

 

 クロエは濃い煙を吐き切ると、今にも泣き出しそうな声でそう言った。

 

「だって、エリーと、あの時と同じ匂いがするんだ」

 

 彼女は言葉を続ける。

 風邪の特効薬は古今東西を通じて存在しない。だからクロエは自分にできることはなんでもした。栄養があり、なるべく食べやすい食事を作った。身の回りのものは清潔に保ち、部屋を暖かくし、しかし換気は欠かさずした。クロエはできる限り、必死の看病を続けた。だが、アルマを診察した医者から気が楽になるような言葉を聞くことは終ぞなかった。

 

 彼女は溢れだそうとする感情を必死に堪えるために奥歯をギリっと噛みしめる。しかし、それだけでは足りず、空いている左手で髪紐を解くと、自由になった色素の薄い金色の髪をかきむしった。線の細い黄金が乱れ、窓から差し込む月明かりに煌めく。

 

「どうして、どうしてなんだろうなあ……」

 

 俯くクロエが、ふるえる声で呟いた。ところどころかすれるほど小さな声だが、それはまさに悲鳴であった。

 

「まだ、一年とちょっとしか経ってないんだよ……オレはまだ何も、何も返せてないのに……!」

 

 ふるえる口元から溢れる言葉は次第に音量を増していき、最後は肺の中の空気を絞り出すような、苦しみで塗り固められたような声音になる。

 

 そして、クロエは己の内に渦巻く激情に抗うことをやめた。

 大粒の涙が、彼女の膝をパタパタと叩いた。

 彼女はしずかに、所々しゃくりあげながら言葉を紡ぐ。先ほどのように声を荒げることはなく、どこか優しさの滲む声音で。

 

「先生は、ほんとうに恩人なんだよ……。先生は、オレをもう一度人間にしてくれたんだ。ちゃんと、ヒトとして生きていける人間にしてくれた……」

 

 胸の底から絞り出すような独白を目の当たりにし、ルイスは呼吸の止まるような思いだった。いつもからからと笑い、軽口をたたき合ってきた少女が、急に見ず知らずの人間に様変わりしたようだ。

 

「どうして大切な人ばっかり、いなくなっちゃうんだろうなぁ」

 

 再び頭を上げたクロエは、涙と鼻水でひどいことになった顔へ、どこか悟ったような、困ったような笑顔を浮かべている。

 

「悲しいなあ、悲しいよなあ、生きるって」

 

 涙で濡れた瞳にルイスを写したクロエが、甘く柔らかい、それでいて悲しげな声でそう言った。

 

「クロエさん……」

 

 小さな体の内側に、敬愛する恩人の最期に寄り添おうとする覚悟を秘めたクロエ。彼女は今、余計な言葉は求めていないのだろう。ルイスは何も言わずにクロエに寄り添うと、己のハンカチを差し出しながら、彼女の細い背中を優しくさすり続けた。

 

 

 ++++

 

 

 朝日が昇る少し前、物の少ない質素な部屋でクロエの一日が始まる。これまた質素なベッドの上、上半身を起こした彼女は眠たげに目元をこすると、逃げも隠れもしない男らしい大欠伸をかました。目の端は今だに腫れぼったく、大きく開いた口からは、人と獣の合いの子のような犬歯が覗く。

 

(しゃむ)い……」

 

 クロエは舌足らずにぽつりと呟くと、重く厚い掛け布団からもそもそと抜け出し化粧台の前の椅子に移った。

 年季の入った金属製の洗面器に水を注ぐ。夜の間によく冷えてしまった冷たい水で顔を洗うと、タオルでゴシゴシと水気を拭き取る。ここには、口うるさい友人も、面倒を見てくれる同僚も、恩人であるアルマの目も無い。そのことにどこか苛立ちを覚えながら、クロエは鏡の中に映る白猫の顔をした己を睨め付けた。プラチナブロンドの髪は寝癖で爆発していて、乱暴に拭ったせいで顔中の体毛がうねっていた。その上起きがけの憮然とした表情をしているので、なかなかのブサイクっぷりである。

 クロエはピンク色の鼻で小さなため息をつくと、備え付けの引き出しから大小二つの櫛を取り出し、身繕いを開始した。

 

「ユーセイイエス……アイセイノー……ユーセイストップ……」

 

 ちいさな声で、古い洋楽を口ずさみながら、暴れん坊の髪の毛へ櫛を通していく。その手つきは手慣れたもので、あれほど荒れ狂っていた寝癖は、意外と簡単に大人しくなった。次に小さい方の櫛を手に取ると、顔の輪郭や髪の毛と体毛の切り替わりの部分、比較的長めの体毛の流れを整える。クロエは何度か顔の角度を変えながら櫛を動かし、『なんかこれ髭剃りみたいな動きだよな』と内心面白がった。

 

 クロエは最後にしっかりと編んだ髪の毛を後頭部にまとめると寝間着を脱ぎ、ハンガーに吊るしてあったストライプの給仕服を手に取った。なお、クロエの体格に合うものがなかったため、コルセットは身につけない。ドロワーズにペチコート、シュミーズだけだ。なお、もともと日本生まれ日本育ちのアラサー男性だったクロエにとっては、これだけでも煩わしさを覚えるものだったが。

 彼女の給仕服はフロントボタンのワンピース構造なので、一旦床に降ろして足を突っ込む。そうしたら袖に腕を通し、下から順にボタンをもたもたと留める。最後に付け襟のホックをかけ、後付けのしっぽ穴から自慢の長い尾を外に出した。もともと獣人向けの服ではなかったからクロエの手仕事である。ちょうど尻の上あたりに縦の切り込みを入れ、ほつれないよう丁寧に末端処理を施す。あとは適当な端切れで作ったベルトを取り付けることで、いい感じに位置を微調整——これから体系が変わることもあるかもしれないので——できるようにしてあった。

 

 糊の利いた付け襟の布地が、首の毛を撫でる感触に身が引き締まる思いがする。

 

(そういや、石炭の補充しとかないとなあ)

 

 ふと、暖炉用の石炭を家の中に入れておかなければならないことを思い出し、気分が重くなる。石炭運びは文字通りの重労働なのだ。しかし、病人を抱えたこの時期に暖炉の火を絶やすわけにはいかない。

 

「あ、そっか」

 

 無意識に呟いていた。そう、いいことを思いついたのだ。普段から出突っ張りで、ほとんど大学に住んでいるような男手がちょうどいるではないか。あれは瘦せぎすに見えてなかなかに根性があるし、何よりも()()()()()()な自分がやるよりよほど効率的だ。そうだそうだ。ルイスに手伝ってもらおう。

 

 クロエは大きな伸びをすると、眠りこけているであろうルイスを叩き起こすべく部屋の扉を開けた。

 

 

 ****

 




2022.01.23 誤字修正
ご報告ありがとうございます。


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03 地雷原でピクニックしようぜ

 とにかく、寒さを凌ぐことが最優先だった。頭のなかでぐるぐると考え事ばかりしていてもどうにもならない。半袖のシャツ一枚と、短いハーフパンツだけでは耐えられないほどの寒さなのだ。黒江は慌てて所持品を確認したが、斜めにかけたウエストポーチの中身は財布と圏外のスマートフォンにポケットティッシュくらいしか入っていなかった。ズボンのポケットには部屋や自転車の鍵をしまったキーケースのみ。

 

 ふと、黒江の脳裏に海外のドキュメンタリー番組の一幕が再生された。イギリス陸軍出身の探検家が、世界の秘境で限界まで自分を追い込んでいく番組だ。野草から昆虫、小動物などなど、時にうまそうに、たまに本気でマズそうに食す姿が印象的な彼がよく言っていたことがある。サバイバルにおいて必須な要素とは、火、水、食料、それとシェルターである、と。今最も必要なのは、火かシェルターだろうか。

 

 もし煙草を嗜んでいれば、ライターの一つくらい持っていたかもしれない。しかし残念ながら、黒江に喫煙の習慣はなかった。一瞬、落ちている木片を擦り合わせて火起こしができないかと考えたが、できるかどうかわからないものに時間を費やすより、より詳しく周囲の状況を調べた方がいいと思い直した。この廃墟には、人の気配はないものの様々ながらくたが散乱している。少しお行儀が悪いが、何か拾って活用できるかもしれない。黒江はそう考え、暗闇に目をこらしながら散策を始めた。

 

「てかなんで天井ねえんだよアホかよ天井もっと頑張れよ……」

 

 雲の少ない夜空に浮かぶ青白い満月を睨みつけ呟く。

 とっくの昔に崩れ落ちた天井へ文句を垂れてもしょうがないのだが、今の黒江にとっては憎まれ口の一つくらい言わせてほしいものだった。

 

 黒江は腕を摩りながら、かつては窓だったであろう壁の穴へ足を向ける。とりあえず、今の自分がどんな場所にいるのかを把握するためだった。窓は周囲の壁より少し奥まったところにあったが、それでも外壁の厚さはかなりのものだ。頑丈そうな造りから、この廃墟は何かしら重要な建物だったのでは、と黒江は推察する。

 

 彼は窓から身を乗り出して外の景色を見渡した。

 果たして、廃墟の外には一面、黒々とした景色が広がっていた。つまり、見える範囲に人間の生活の気配がない。

 どうやら、この場所は丘陵地帯のようだった。青白い月明かりに、今黒江がいるような石造りの廃墟のシルエットが所々浮かび上がっている。木々で覆われたなだらかな丘はずっと先まで続き、街の灯りのようなものは何一つ見当たらない。

 

「おおぉう」

 

 黒江が情けない声で呻く。なんとなく想像はしていたが、改めて突きつけられると悲しくなる。それと同時に、強烈な不安が彼を襲った。完全に無防備な状態で、どこかもわからない場所に飛ばされた挙句、文明すらないようなところでどう生き残ればいいのか。彼に特殊な能力は一切ない。音楽系の専門学校を卒業してからは、一般企業の営業職として働いてきた。孤立無援のサバイバルなどできる気が一ミリも湧いてこなかった。

 彼は体を窓の内側に引き戻すと、反対側の壁面を眺めた。そこにも同じような窓が開いている。黒江の胸中に満ちるのはザラザラとした不安ばかりだったが、一縷の望みをかけて駆け出す。かつてはホールかなにかだったのか、無駄に広々とした部屋には屋根の瓦礫が所々散乱しているせいで足場がかなり悪い。黒江は焦っているせいか、強引に最短距離を走り抜けようとした。

 

「うわっ」

 

 ちょうどブロック状の岩を飛び越した先、着地点に襤褸切れが転がっていた。うまい具合に片足を絡め取られた黒江は、野球選手のスライディングのような格好で転倒した。

 

「いってぇ…………」

 

 地面に打ち付けた脚を見れば、大きな擦り傷が出来上がっていた。不幸中の幸いと言うべきか傷自体は深くない。だが、広い範囲に渡って皮膚が破れ、うっすらと血が滲んでいた。

 

「……クソ、最悪だ」

 

 幸福な一日からの急転直下。こんなのあんまりではないか。あまりの惨めさに弱音が溢れる。

 いったい自分が何をしたっていうのだ。こんな目にあうだけの悪行を働いた心当たりは全く無い。労働の義務に従い給料を得て税金その他諸々を支払い、健全で善良で真面目な一人の人間として生きてきただけではないか。多感な思春期の時分なら、こういった非日常に放り込まれることを夢想したかもしれないが、そんな願望はいくつかの黒歴史とともに記憶の中にしまい込んでいた。黒江自身、アニメや漫画に小説、映画といった娯楽はそこそこ楽しんでいたが、フィクションと現実を混同するようなことはなかった。そもそも、実現しようもない願いなら、非課税の五千兆円の方が欲しいお年頃である。こんなワクワクドキドキな冒険の始まりチックなものはびた一文として望んでいなかった。

 

 地味に精神を削っていく痛みに耐え、ティッシュで傷口やその周辺の汚れを大雑把に拭った黒江は立ち上がると、関節などにダメージがないか手足を動かした。ひとしきり体を改めると、「特に捻挫とかはしてねえみたいだな」と声に出して念を押す。そして黒江は、己をとことんまで惨めな思いにさせた襤褸切れを拾い上げた。

 

(ローブかなんかだったのかね?)

 

 元々は黒だった大部分が茶色く退色したそれは、部分部分に模様が刺繍されているし、穴だらけだがフードのようなものも付いている。着ようと思えば着れなくはない。そんな感じであった。大きさ自体もそれなりにあり、上半身から膝くらいまでは覆えそうである。黒江は襤褸の埃を払うと、若干ためらいつつ肩に羽織ってみた。

 意外とその効果は抜群で、前をかきあわせれば上半身の寒さは遥かにましになった。脚はいまだにむき出しのままだが、どこか風の当たらない場所で縮こまれば夜を明かせそうだと黒江は考えた。

 

 単純なもので、目先の不安が一部解消された黒江の心は軽くなった。

 冷たく湿った空気に襤褸のローブをはためかせ、意気揚々と目的の窓まで歩く。

 黒江は前向きな男であった。よく言えばポジティブ、悪く言えば調子に乗りやすい性格をしている。目下の懸念、半袖短パンで凍えることを回避できた彼は「まあ人間、水さえあればしばらくなんとかなるしな」と思うようになっていた。

 そして、反対側から眺めた景色も先ほどとあまり変わらないものだった。なだらかな丘が続き、所々に黒々としたシルエットが点在している。おそらくその全てが、ここと同じように朽ち果ててしまっているのだろう。そんな想像を働かせた黒江は、少しばかりの寂寥感を抱いた。

 

 黒江は白い息を吐き出すと、随分と広いであろう廃墟の奥へ歩き始めた。脚の怪我と引き換えに、最低限寒さを防げるだけの拾い物はあった。だがしかし、これだけで朝まで超熟睡は難しいだろう。もうちょっと何かないだろうか。贅沢を言っているつもりはないが、せめて屋根は欲しい。黒江は月明かりを頼りに散策に戻った。

 

 しばらく歩き回ったことで、この廃墟はそれなりに大きな建物だということがわかった。最初にいた広間と同様の規模の部屋をいくつか見つけたが、どこも酷い有様だった。基本的に天井は無く、酷いところは壁すら崩れ落ちていた。そのほかにも規模の小さな部屋はあったが、ゴミや瓦礫、はたまた立派な木に侵食されていたりで足を踏み入れられなかった箇所もある。また、あまりに暗いところは何があるかわからないのと、無闇にスマートフォンのライトを使い、バッテリーを消費したくなかったため散策していない。黒江は結局、屋根の抜け落ちた最初の部屋に戻ってくることになった。

 

「参ったなこりゃ」

 

 黒江は壁際に落ちていた、腰くらいの高さの岩に腰掛け部屋を見渡した。見てきた中では比較的マシなこの場所を拠点にする以外なさそうである。それに、寒さを防げそうなものも大して見つからなかった。黒江は両腕をさすりながら深いため息を吐く。散々な気分だった。

 

「いい加減寝ないと体力もヤバいよなあ」

 

 そもそもこの場所に飛ばされた時点でいい時間であった。しこたま飲んだアルコールによる酩酊は全くというほど感じられないし、相変わらず不安は胸中をぐるぐるとしている。だが、夜が明ければ新たにわかることがあるかもしれない。そのためにも、なるべく体力を温存するべきだと黒江は考えた。

 

 そうだ、寝床作ろう。

 

 落ちている木材や身に纏えないくらいの襤褸切れを集めて、それこそシェルターを作ってしまおう。瓦礫と瓦礫の間、いい感じで一人が横になれそうな場所もある。黒江はなんだか秘密基地を作るみたいだと心を躍らせた。善は急げである、早速材料を集めようと座っていた岩から飛び降りた。

 

「おんおんおんおん?」

 

 手近なところから手をつけようと、細切れになった絨毯らしきものの端を持ち上げた時だった。

 ずりずりと引っ剥がしてみれば、半分ほど腐った木製の扉がこの下に隠されていた。もしかしたら、その先に地下室か何かがあるのかもしれない。ここで黒江は、地下は年間を通して温度が安定しているということを思い出した。途中で拾った襤褸切れだけでは心許なさを感じていた彼にとって、雨風を防げそうな地下室は渡りに船である。

 黒江は喜び勇んで扉の前まで駆け寄ると、錆びた鉄製の取っ手を掴んでそれを引き開けようとした。

 

「どっこらしょ——!?」

 

 どうやら、この扉の寿命は限界だったらしい。黒江が力を込めた途端、取っ手の部分が引っこ抜けてしまった。彼はしばらく右手に残った扉の部品を眺めると、「しね!!」とオーバースローでそれをぶん投げた。厳かな雰囲気すら覚えるような静けさに、間抜けな金属音がこだまする。

 だがしかし、グズグズに腐っている木製の扉だ。所々穴が空き、その先に階段らしきものが続いているのが見えている。扉を破壊して穴を広げれば、人一人くらい通れるかもしれない。黒江は気を持ち直し、脆そうな箇所を狙って足を踏みつけた。

 

 湿ったメキッとかモキョッとかが混ざり合った音を立て、予想していた以上の穴が開いた。

 

「ぐぇっ」

 

 体勢を崩した黒江は、開けた穴を広げつつ扉の先の空間へ突入する。そして、とことん彼はツイていなかった。雨などが侵入し、日が差さないため湿りがちな石段には、所々苔が生えていて非常に滑りやすくなっていたのである。かなり無理な姿勢のまま片足を階段に乗せた黒江だったが、そのまま足を滑らせ股割り状態になってしまった。

 

「んぎゃ」

 

 情けない悲鳴をあげ階段を滑落する黒江。完全に予想外のことだったので、大した受け身も取れず転がり落ちるしかない。しかも初手で後頭部を強かに打ち付けていた。彼は走馬灯を見る暇もなく地下室へ転げ落ちた。すでに意識を手放していたため、痛みに苦しむことがなかったのは幸いというべきか。

 

 階段の下、倉庫にでも使われていたのだろう雑多な部屋。うつ伏せでピクリとも身動きしない黒江を中心に、赤黒い水たまりが広がっていく。

 その水たまりの直径が広がるにつれ、黒江の生命は終わりを迎えようとしていた。そして、流れた血液が、床に掘られた溝に流れ込んだ時だ。彼の血は粘性を失ったかのようにすっとその溝へ流れ込み、円を基調とした複雑な模様を描き出した。ほぼ視界のない暗闇の中、床の模様が薄ぼんやりと青黒い光を発する。その禍々しさすら覚えるような光は次第に強くなり、倒れたままの黒江の身体を包み込む。

 そして、彼の頭の先からつま先まで包まれると、あまりにもあっけなくその光は消え去った。まるで、LEDの電灯のスイッチを切った時のようなあっけなさである。音もなく、少しの余韻も残さなかった。

 

 再び重苦しい闇が満ち、静けさを取り戻した地下室。そこに、穏やかな寝息が響いていた。



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04 血みどろお散歩デッドエンド

 近年稀に見る最悪なまどろみであった。

 敷布団は尋常でなく硬いし、なぜだか妙に肌寒い。いつぞや泥酔した状態で終電を逃し、適当なベンチで寝た時だってもう少しはマシだったかもしれない。さらに、寝心地が悪いせいか、訳のわからない不気味な廃墟に飛ばされるなんて突拍子のない夢まで見てしまった。これは日頃の疲れが予想以上に溜まっていたみたいだと結論づけ、黒江はようやく目を開けた。

 

 そこに広がるのは、石の床に長年積もった埃と泥へ、黒々とした血液が染み込んだ光景だった。そして蘇る身体中の痛み。その瞬間、全てを思いだした黒江は床に腕をつきガバリと半身を起こした。

 

「うおぉおおおオレ死んだ!?」

 

 穴の空いた扉から光の筋が差し込む地下室に、甲高い少女の叫び声が反響した。

 

「のぁん……?」

 

 そのままの姿勢で硬直した黒江は両目を瞬かせた。昨夜まで黒かったはずの瞳は、中心が榛色で、外側へいくにつれてグリーンになるグラデーションを描くヘーゼルの瞳に変わっている。その中央、ネコ科じみた瞳孔は薄暗い地下室にいるせいか丸く膨らんでいた。いや、膨らんでいるのはなにも瞳孔だけではない。全身を覆う純白——今はその半分くらいが血まみれだが——の毛並みが、喧嘩相手を威嚇する猫さながらに逆立っていた。

 

「おっほ気持ち悪っ」

 

 黒江は、服の下で毛が逆立つ感覚が気色悪く身を捩った。

 

「えぇ……なにこれぇ……」

 

 何とは無しに己の身に起きたことを察した黒江は、恐る恐る手のひらを覗き込んでみた。するとそこには、手の平とそれぞれの指先にピンク色の肉球のある手があった。なお、御多分に洩れず血濡れである。その指の一本一本は白く短い毛並みに覆われており、爪も普通の人間より幅が狭く若干厚いようだ。ちなみに、本物の猫のように格納できないか力んでみたがそれは無理らしい。何にせよ、細かい作業などは苦手そうな両手になってしまっていた。

 

「あー、あー。というかこれ……」

 

 変わり果ててしまった両手から視線を移せば細い腕が目に入る。その腕はダボダボなTシャツの袖へ続く。着ていたシャツは、別段オーバーサイズでルーズなものではない。本来の黒江はそれなりにたっぱがあったが、ジャストサイズな服を好んでいた。それが著しくダボダボになっているのだ。

 黒江はそのことに驚きつつ、全体的に小さく、華奢になった身体を確かめていく。手首から徐々に、両腕を抱くように二の腕へ、肩へ。そして首、顔。もう大体わかりかけてきていたことではあるが、その全てが短く柔らかい毛に覆われている。感触で確かめる顔は、短いながらも鼻と口が一緒に突き出ているし、本来耳があった場所には何もない。今の耳は頭頂部からピンと上を向いて生えていた。それに、黒い短髪だったはずの髪の毛も、背中の真ん中あたりまで伸びた色素の薄いものになっている。

 それと、尻の真上、腰より下になんとも言い難い違和感。意図せずして横座りの姿勢になっていた黒江は、上半身を大きく捻り己の背後を見ようとした。そこでは、ウエストの合わなくなったハーフパンツの上から、長く白い尾がまろび出ていた。

 つまり黒江は今、半ケツであった。

 黒江は鮮度の落ちた魚のような目でそれを眺める。昨日まではなかったはずの身体のパーツは、今の精神状態を表すかのように床を苛立たしげにタシタシと叩いている。これは完全に不随意のものだった。黒江は無意識に動くしっぽに対し、「え、怖……」と呟くと、何とは無しにそれを掴んでみた。一応、本当に自分の肉体なのかと確かめるつもりもあった。

 

「ぉぉぉおおふん」

 

 形容しがたい感覚が黒江の背骨を駆け上がった。なんとも落ち着かない悪寒にも似た感覚であった。とにかく、これは気軽に触ったり触られたりしない方が良さそうである。

 

「なるほどそう来たかぁ……」

 

 黒江は堪らずに大きなため息を吐いた。五臓六腑から滲み出るような深い深いため息だった。

 黒江は限界まで息を絞り出すと、項垂れたままスカスカな襟ぐりから身体の腹側を覗き込んだ。他に比べると若干薄いくらいだろうか。ここも白い毛並みに覆われた、慎ましやかな双丘と桃色の頂があった。

 

(複乳じゃねえんだな)

 

 謎の安堵を覚えながら、黒江は股間を弄った。ここまできたら、変に残っている方が話がややこしくなると思っていた黒江の期待(?)通り、そこに慣れ親しんだモノはなく、なだらかな造形だけがハーフパンツ越しに伝わってきた。

 

 黒江基晴二七歳、独身。

 哀れ、彼と苦楽を共にしてきた相棒は、跡形もなく消え去っていた。黒江は素人童貞であった。

 

「ていうかこれ異世界モノ的なアレかよぉ!?」

 

 黒江は叫んだ。

 黒江はギリギリまで、ここが自分が生まれ育った世界であることを信じようとしていたのだ。むしろ定番のイベントとかなさすぎてワンチャンあってほしかった。だがしかし、ここに来て急にファンタジー的な世界がほぼ確定である。なにせ、何の面白みもないアラサーお兄さんだった自分が、所謂“獣人の女の子”になっているのだから。油断しきっていたところに、予想外のコースへ投げられた豪速球であった。

 

 黒江は思った。

 今どきトラックに轢かれてもいなければブラック企業で過労死とかそんなのなしで異世界送りとかハードコアモードかな? と。できれば途中で神様とかそういう類のアレからズルい能力もらったりとか、世界観の説明も欲しかった。

 

 黒江は唸った。

 だが、逆に考えれば自分は死んでこの世界に来たわけではない。つまり、日本へ帰れる可能性はゼロではないかもしれない。現状をジャンルで表せば、『異世界転生』ではなく『異世界転移』なのである。この場合、夢オチだったりで全て元どおりになることもあり得る。まるで光明が差したような気分だった。

 

 しばしの間考え込んでいた黒江はヨタヨタとその場に立ち上がった。肉体が変化したせいか、昨晩より室内がよく見える気がするのだ。事実、こぢんまりとした地下室には、地上以上に雑多なゴミで溢れていて、そこかしこが鼠の寝床になっているのか糞尿の臭いも酷かった。

 あまり長居したい場所ではない。彼女は身に付けていた襤褸のローブで体を拭うと、それをそこらへんへ投げ捨てて階段を登った。

 

 

 

「ぐあぁっ……やばっ……しんどい!」

 

 本来であれば、なんかこう颯爽と地上へ出たかった。しかし、目測であるが三十センチほど身長が縮んでしまっていたのだ。まともに歩けるはずがない。途中で転んだりして、結果的にもそもそと這い出るような感じで階段を登りきった。

 陽の光で温められた石材の上、横になった黒江はなんともいえない吐き気を堪えながら、ぜえぜえと喉で息をする。なにせ体のサイズ感だけでなく、その中身まで変わってしまっているのだ。彼女のあたらしい五感目掛けて、静かな地下とは桁違いの情報量が容赦無く殺到した。

 

 音の聞こえ方が違う。耳を自由に動かせるようになったからだ。

 肌の感覚が違う。むき出しの地肌は手のひらや鼻の先など限られているからだ。

 目の見え方が違う。視力は良かったはずだが、妙に遠くのものが見づらい。

 

 そういった数種類の違和感が重なり合い、黒江は消耗してしまっていた。捨ててしまった襤褸切れのことを若干後悔しつつ、回復体位で吐き気を耐え忍ぶ。幸い、昨晩と違って寒さはほとんど気にならない。日差しが出ているし、どこか春の始まりの頃のような匂いがそよ風に乗っていた。

 しばらくの間横になっていると、思っていたより早く不快感が治まってきた。回復体位を解いた黒江は仰向けになる。少し霞みがかっているのか、淡い水色の空が広がっていた。大きく息を吸い込んでみれば、先ほどより強く若葉の香りがする。彼女は空を眺めたままウエストポーチをまさぐり、スマートフォンを取り出した。画面下の丸いボタンを押下すると、見慣れた画面が点灯した。昨晩の転倒でも運良く壊れていなかったようだ。そこに表示されているデジタル時計は昼過ぎを示している。なお、この世界も地球と同様に一日二十四時間である保証はないが、天に浮かぶ太陽はそのピークを過ぎているように思えることから、大きく外れてはいないだろうと黒江は思った。

 彼女は慣れないサイズ感の端末に戸惑いながら、パスコードを入力してロックを解除すると腕を真正面に伸ばした。

 

「いえーい」

 

 カシャリ。スマートフォンが鳴った。

 

「おおん。なかなかやばい見た目」

 

 黒江はスマートフォンの画面に映された、新しい自分の顔を見てそう呟いた。その半分近くを黒ずんだ血で染め、どこかツンとした面持ちをした白猫のような顔。つい昨晩までの自分とは、何もかもが違う。どうしてこうなってしまったのかはてんでわからないままだが、なってしまったものはしょうがない。足を滑らせた時に嫌な転び方をしてしまったような気がするが、なんとか五体満足な状態である。それに、生きていれば腹は減るし、喉だって渇く。さて、次は水源と食料を確保しなければ。これから日が暮れていくのなら、残り半日も活動できないだろう。頭を生き残ることへ切り替えた黒江は、スマートフォンの電源を落としバッグへ仕舞い込んだ。

 

 黒江は再び立ち上がると、身繕いをした。ハーフパンツはウエストが紐で調整できたので極限まで絞り、スニーカーも柔らかい素材なので容赦無く靴紐をキツくした。各所の違和感は拭えないが、今はこれに甘んじるしかない。素足で駆け回るよりは何倍もマシだ。

 

 明るくなってから改めて辺りを見回してみたが、黒江の予想通りこの一帯はどこも似たようなものだった。なだらかな丘が続き、廃墟が点在している。針葉樹が中心の森は季節感が乏しいが、その中に混じっている落葉樹の枝先には、薄緑色の新芽が芽吹く準備をしているのが見えた。どうやら季節が春へと移り変わる途中らしい。昨晩の寒さを思い浮かべた黒江は、あれ以上寒くなることはなさそうだと胸をなでおろした。

 

 そして、この廃墟の建つ丘の麓へ目をやった時だ。一定の規則を持って木々が途絶えている箇所があった。

 

「……道か?」

 

 偶然見つけた道はこの丘の麓を迂回するような弧を描き、ずっと向こうまで伸びているようだ。さらに幸運は続く。その道の途中から、薄い煙が立ち上っていたのだ。黒江は歓喜した。しばらくの間、一人孤独に彷徨う可能性も頭の隅にあったが、どうやら火を扱える程度に文明的な異世界人がいるらしい。もし煙の主が異世界ファンタジーにありがちなモンスターや野盗の類だったなら、見つからないうちに逃げ隠れてしまえばいいだろう。失うものもなく、なんとでもなれ状態の黒江はすぐさまこの丘を下る決意をした。

 

「ていうか出口どこだコノヤロー!!」

 

 

 ****

 

 

 かつてこの地に文明が栄えていたことを示唆する、明らかに人の手が入っているだろう岩が転がる斜面を黒江は遮二無二駆け下りた。なにせ異世界ファーストコンタクトの千載一遇のチャンスなのだ。下生えの乏しい苔むした森は走りにくかったが、体重も軽くなっているのか、思いの外軽快に動けたのは嬉しい誤算だった。だが、目印にしていた煙はだんだんと弱くなり、黒江の胸中に焦りが生まれる。なんとか、この機会をものにしなければ。

 

 そして丘を下るにつれ植生が豊かになり、低木の茂みなども増えてきた頃だ。黒江は道沿いの広場に停められた一台の荷馬車を見つけた。所々つぎはぎの施された幌がかけられた荷台の側で、一人の男が焚き火の後始末をしている。一先ずモンスターの類でないことを確認した黒江は、手頃な木の影に身を隠し様子を伺うことにした。すると、馬車の奥でもう一人の男が、少し小柄だが健康そうな馬を一頭世話しているのが見えた。

 

(遠目だからよく見えねえけど外人さんみたいだな。つまり、ここはよくある中世ヨーロッパ的な異世界ってやつか?)

 

 しばらくの間身を潜めていたが、二人の男以外に人の気配を感じることはなかった。

 火の後始末をしている男はフェルト製の中折れ帽を被り、頬まで覆う濃い髭を蓄えている。かなりくたびれたジャケットを羽織り、同じようにくたびれたズボンを履いている。しかしその関節部分は当て布が施されていて頑丈そうだ。馬を世話している男も似たような装いだが髭がなく、丈の短い、厚手のコートを着ていた。

 彼らはちょうど今まで小休止でもしていたのだろう。無造作に置かれた木箱の上には、煤がついたケトルやカップ類が置かれている。髭面の男は五徳を仕舞うと、スコップで灰を集め金属製の缶に入れた。かなり几帳面な後始末である。近年キャンプ場を荒らしているならず者キャンパーにも是非見習っていただきたい所作だ。

 

 そして黒江が懸念していた点がもう一つ。彼らは破落戸なのか否かである。しかし、短い間眺めている限りでは、彼らは黙々と己の仕事をこなしているだけのようだった。特段荒くれ者のような様子は見られないし、刀剣の類の武器も見当たらない。若干の威圧感こそあるが、黒江には十分()()の人間に思えた。

 

 黒江の心臓が脈打つペースを上げる。

 いいのか? 本当に出て行くのか? この世界について、自分は何も知らない。そもそもこんな見た目になってしまったが、この世界にはいろんな種類の人間がいるのか? 種族に違いがあるのだとしたら、それが原因で差別などされないだろうか。今更になって、彼女の脳裏に不安材料が浮かび上がる。だがしかし、背に腹は代えられない状況であるのも事実であった。夢中で走ったため喉は乾いているし、食事も摂っていない。少なくとも、目の前の男たちと馬は自分がよく知る姿形をしているが、それ以外も同じ見た目をしているとは限らない。食べられると思った植物などが、本当に食べられるという保証はないのだ。手足の肉球がじっとりと湿るのを感じる。

 

 黒江が逡巡を重ねている間にも、男たちは出発の準備を進めている。コートを着た男は馬を馬車へ繋ぐと、ケトルの乗っていた木箱を荷台へ積み始めた。焦げ跡のついた地面の処理が終わったのか、髭面の男も荷物をまとめている。

 

 行くべきか、行かざるべきか。

 

 今声を上げなければ、またこんな人気のないところを彷徨う羽目になる。自分には、何の知識も経験もないのだ。覚悟を決めなければ。黒江はなけなしの唾を飲み込むと、身を隠していた木陰から足を踏み出した。

 

 

 

「は、ハァイ。エクスキューズミー?」

 

 黒江は右手を掲げつつ、男たちの前に足を踏み出した。

 予想だにしていなかった黒江の登場に、彼らの表情が凍りつく。なにせ、茂みの中から毛並みや服を血に染めた獣人の少女が現れたのだ。しかも当の本人はなるべくフレンドリーに見えるように笑顔を貼り付け、訳のわからない言葉を発している。ちょっとしたホラーであった。なお、黒江もパニクっていたため、なぜか英語で声をかけている。どうせ伝わらないのであれば最初から日本語で良かったのではと後悔したのも後の祭りであった。

 

「あのぉ、えっと、キャンユーヘルプミー? メイビー、アイアムロスト。あー、ノーフード、ノーウォーター……へへへ……」

 

『な、なんだ、どうしたんだ、そんな格好で……』

 

 くたびれた中折れ帽を被り大量の髭を蓄えた男が声をかけるが、残念、黒江にはちんぷんかんぷんである。彼の操る言語は、残念ながら自分の知っているものではなさそうだ。そして、都合のいい翻訳機能も無しときた。しかし姿を表してしまったものはしょうがない。彼女はとにかく笑顔だけは絶やさないようにして、足を止めた。

 男たちは目を見合わせると、お互いに小声で言葉を交わした。彼らの、驚きで険しくなった表情に心をざわめかせながら、黒江は笑みを浮かべながら佇む。果たして、互いの放つ言葉の意味はわからないが、困ったような笑顔を浮かべる黒江の姿に、男たちは憐憫の念を抱いたようである。髭をたくわえた方の男がジャケットを脱ぎながら黒江に近づくと、彼女の肩にそれを掛けて前を閉じるようなジェスチャーをした。

 

「えぁ、あ、ありがとうございます!」

 

 見上げる男の表情はいまだに少し険しいものだが、自分へ害を与える様子はない。黒江はジェスチャーの通りにジャケットの前のボタンを留めると、笑顔で礼を伝えた。言葉は通じなくとも、感謝や悪意といったニュアンスは伝わるはずである。シャツにベスト姿になった髭面の男も小さく頷くと、黒江の背中を軽く押して馬車の方へ誘導した。

 

 そして、荷物の積み込みを中断していた男の元に着くと、彼らは再びなにかしらの言葉を交わす。

 

『おれらが言えた義理じゃねえがかわいそうな子だ。こんな場所に下着姿で……』

 

 黒江的には何も問題ない(血が染み込んでいることを除けば)装いのつもりだが、彼らにとってはシャツとハーフパンツは下着や肌着にしか見えなかった。つまり、今の黒江は、全身を血で汚した下着姿の少女なのである。黒江の浮かべるジャパニーズ・曖昧スマイルも相まって、なにかしらの事情を抱えているようにしか思えない。

 

『全くだ。でもどうする? 警察に渡すのも難しいぜ。そしたら俺達もついでにパクられちまう』

 

 コートの男が狼狽える。しかし髭面の男は、自分の髭をしごきながら考えを巡らせていた。少しの間沈黙がこの場を支配したが、髭の男がおもむろに口を開いたことで会話が再開された。

 

『……マーレイのババアんとこなら、もしかしたら』

『あ、ああ……なんか聞いたことがあるぞ。変わり種の女が買えるって店だろ……?』

『この嬢ちゃん、汚れてるし言葉は通じねえみたいだが器量はいい。噂じゃこういう行き場のない女の子を優先的に店に入れてるらしいじゃねえか。今まで取引したことはねえが、事情を話せば悪いようには扱われねえだろう』

『そうだなあ、こんな危ねえとこに置いていったら当分はいい夢見れなさそうだ。それがいい』

 

 男たちが議論を交わしている間、黒江は二人を眺めながらただただニコニコしていた。彼らが何を言っているかはまるでわからないので、そうする以外にない。下手に怯えたりして機嫌を損ねるくらいなら、多少バカっぽくても笑顔でいるべきだと黒江は考えた。そんな笑顔の裏、実際には手に汗握りながら眺める彼らの表情が、何か納得したようなものに変化した。

 

『ほら嬢ちゃん、これで顔を拭きな』

 帽子と髭の間、感情の読めない瞳をした男が、水で濡らした布を黒江に手渡し顔を拭うジェスチャーをした。

 

「おおっと、わざわざありがとうござます」

 

 黒江は、手渡された粗末なタオルのような布と男の顔を交互に見て、彼の真似をするように顔を拭った。しかし、すでに乾いていた血液の汚れはなかなか落ちない。それは体や衣服も同じことで、黒江と髭面の男は困ったように笑い合った。

 

『そうしたら馬車に乗りな。こんな場所、とっと抜けちまうに限る』

 

 男は馬車の荷台を軽く叩いて、親指をその中へ向ける。彼はその動作を二回繰り返した。彼が何を言いたいのか理解した黒江は、満面の笑みを浮かべながら何度も頭を下げた。コートの男が重そうな木箱を荷台に乗せると、シャシーと車軸の間のリーフスプリングが苦しげに軋む。

 

「あ、乗せていただけるんですか? いやほんとありがとうございます助かりますー! サンキュー! メルシー! ダンケシェーン! グラッツェ!」

 

 黒江は異世界にて触れた人間の温かみに感動しきりだった。言葉なんて重要じゃねえ。理解(わか)り合おうってマインドが大事なのさブラザー。レッツプリミティブコミュニケーション。

 自分がどこへ向かうのかも知らず、能天気にそんなことを考えていた。

 




2022.01.28 誤字修正
誤字報告ありがとうございます。


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05 墓荒らしにはうってつけの日

 ルイスは疲れていた。

 というのも、念願叶って師事することになった魔術学の権威、エドワード・ルウェイィル=アイヴ・マッケンジー教授が、彼の想像する何倍もアクティブな人だったからだ。幼い頃から病弱だったルイスにとって、泳ぎを止めたら死んでしまうマグロのごとくあちこちを駆け回る老教授のお供を務めることはほとんど命がけであった。

 だが、幼い頃からの憧れであり、目標とするマッケンジーの側で学ぶことができることの代償として多少の無理は当然である。むしろお釣りが来るくらいだ。それに、体の方も慣れてきたせいか、近頃は生まれてからこれ以上ないくらい快調だった。

 

 寒さの緩み始めた三月の初旬。そんな彼らは今、バーガンロウ遺跡群の入口に立っていた。このバーガンロウ遺跡群周辺は、千年以上の昔、古の王朝が滅んで以来歴代の支配者によって禁足地とされてきた。だが、この度ついに立ち入りが解禁されることになったのだ。その本格的な解放に先立ち、事前調査のための先遣隊としてマッケンジー教授一行が派遣された次第である。

 

 古い石塀で閉ざされた、鬱蒼と茂る森へ続く正式な道は一本のみ。その道は頑丈さだけが取り柄のようなゲートによって閉ざされ、両脇には小銃を掲げた歩哨が立っている。今まで乗ってきた馬車はここまでしか入れず、残りは徒歩で現地入りとなる。

 

 目の前に広がる、長い間人を受け入れていない土地の、想像以上の物々しさと緊張感にルイスは息を飲む。しかしその横では、紙巻の煙草を咥えたマッケンジーが枯れ枝のような四肢を伸ばしていた。

 

「ついに……バーガンロウの神秘を暴く時が……」

「ほんと邪魔だったよね、ここ。ヘントベリーに近いくせしてずっと入れないんだもん」

 マッケンジーはマッチで煙草に火を付けると目を細め、年季の入った擦弦楽器のような嗄れ声でそう嘯いた。彼は軸木を持った手を振ってマッチの火を消すと、足元にそれを投げ捨てた。

 

「教授は、その……なにかしら感慨とかは……」

「ないね、特に。僕らはいつも通りにやるだけだよ。パーカー君は力みすぎ」

「は、ハイ!」

 

 ルイスは、この飄々としたエルフ族の老教授のことを半ば崇拝していた。見ようによってはいまいちやる気や覇気の感じられない彼の物腰も、ルイスの脳内フィルターを通せば何でもかんでも美化されて映るのだ。ちなみに今のは『大仕事を目の前にしても普段と変わらず冷静沈着、さらには若輩者の自分のこともしっかり見てくれているなんて素晴らしすぎる』とルイスは受け取った。なかなかどうしてめでたい頭である。

 

 彼ら以外にも続々と馬車から調査隊の人間が降りてくる。しかし大学の関係者などは少なく、そのほとんどが猟師や軍人といった護衛のための人員であった。

 小慣れた動きで荷馬車から荷物や野営のための資材を下ろしていく彼らを眺めながら、ルイスはなんとも言い表せられない心持ちになった。

 

「正直、ここら一帯はもう、魔術的なリスクより野生動物や犯罪者連中に出くわす方が可能性として高いんだよ」

 

 煙草の煙を吐き出したマッケンジーは、ルイスの思いを察したように言葉を溢した。

 

「そうなんですか?」

 

 マッケンジーの言葉に驚いたルイスは、ブルーグレーの瞳を大きく見開いて老教授の方を見る。

 

「長い間雨ざらし、吹きっさらしで原生林となんら変わらないような遺跡だよ? 君も知っている通り、魔術は精密かつ繊細な技術で成し得る奇跡のイミテーションだ。とっくの昔にほとんどが風化しきっているよ。……よしんば生きた陣なんかがあったとしても、現代を生きる我々には起動すらままならないだろうさ」

 

 心底つまらなさそうに吐き捨てるマッケンジーの目は、どこか遠くを眺めているように見える。彼は最後の一口を吸うと、マッチの軸木と同じように地面に放り、煙草の火を踏み消した。

 

「それに、長いこと立ち入りを禁止されていた訳だから、後ろ暗い連中の隠れ蓑にはお誂え向きだろうね」

「なるほど……だから人数の割に軍人が多いんですね」

 

 ルイスは、揃いの外套を着込んだ男たちを横目で捉えながら、耳打ちをするように相槌を打った。

 

「そういうこと。そういえばパーカー君のご実家、軍人一家だったよね。軍人さんの相手するの得意?」

「得意かどうかわかりませんが、慣れてはいると思います」

「そうかそうか。僕は陸軍さんも海軍さんもどっちも嫌いだから、これからそういう接伴は君に任せようかな」

「教授のお役に立てるなら、なんでもやります!」

 

 不健康そうな白い頬を上気させ、双眸を輝かせる若人を眺めマッケンジーは(この子チョロいなあ)と思いながら口髭を撫で付けた。彼は皺の刻まれた瞼の奥、薄緑の瞳を細める。かつては美しかった金髪も寄せる年波には敵わない。トレードマークのハンチング帽から覗く、そのほとんどが白髪になった頭髪を、まだまだ冷たい春風がさわさわと揺らした。

 

 

 ****

 

 

 ルイスは疲れ果てていた。

 バーガンロウの地で活動を始めてから、休みという休みもなく動き回っていたからだ。正式な許可を得ての研究調査にしては冷淡な反応をしていたマッケンジーだったが、蓋を開けてみれば彼が最も精力的に動き回っていた。そしてこのバーガンロウはあたり一面、人の手が入っていない丘陵地帯である。形を残している遺跡は丘の中腹や頂にあることが多く、丘を登っては降り、登っては降りの繰り替えしで疲労困憊だった。

 

 そして、調査メンバーよりも多い猟師や軍人の護衛の必要性も身にしみた。一歩禁足地へ踏み入れれば、そこは人間の手が入っていない手付かずの大自然だ。山歩きに慣れた猟師たちが先導し、危険な野生動物と鉢合わせたりしないよう進み、野営地を選ぶ。そうやってさらに深いところまで進めば、勝手に拓かれた道やバラックの跡があちらこちらから出てきた。

 その道はしっかりと踏み固められ、轍もはっきりと残っていることから、それなりに往来があるということを示していた。バラックも新しいものから朽ち果てそうなものまで選り取り見取りだ。空き缶や空き瓶、さらには空薬莢といったゴミも散乱している。

 

 この地に、神秘のヴェールに包まれた禁足地というイメージを持っていたルイスは、それが幻想だということをまざまざと見せつけられたのだった。

 

 

「きょっきょきょ、教授!!」

 

 そんなバーガンロウの中で最も標高の高い丘にそびえる遺跡——丘の斜面に沿うように建てられた姿から、通称『巨人の堡塁』と呼ばれる——を調査している時だった。この建造物はマッケンジー曰く、あたり一面を取り仕切る行政や大学の機能をひとまとめにした施設だと推測されるらしい。かつて魔術が隆盛を誇った時代、魔術を扱うことは一種の特権とされており、彼らの社会的地位はかなり高かったという。

 そんな栄光も今は昔。屋根は抜け落ち、ほとんどの部分は自然に還りつつある。その中でも比較的程度の良い大部屋にて。慌てふためいたルイスが、床に開いた隠し扉から飛び出してきた。

 

「おや、珍しい鳥がいると思ったら、君はルイス・リチャード・パーカー氏ではないかね」

「こっ、ここ、この下! 地下室になっていまして、そこに血が! 大量の、血痕なんです!」

 

 ルイスは顔を青くしたまま地面の下を指差し、要領を得ないことをまくしたてた。

 

「……君が鳥類から人類に進化できる魔法が見つかることを祈っているよ」

 

 マッケンジーは憎まれ口を叩きながら肩をすくめる。しかし彼は己の手を止めると灯油ランプを片手に、硬い表情をした教え子の元に向かった。

 

 

「これは……」

 

 果たして、石段を降りた先には黒ずんだ血の跡が広がっていた。ランプの橙色の灯によって、血の広がったあたりが部屋の隅以上に薄暗く見える。そして、その血痕の中央には円を基調とした複雑な文様——魔法陣だ——が刻まれていた。血染めの魔法陣を見下ろしたマッケンジーは目を見開き、わずかに息を飲み込んだ。

 というのも、彼は長い研究生活の末、生きた魔術に対する感覚が研ぎ澄まされているのだ。目の前の一見おどろおどろしい魔法陣からは、発動後あまり時間の経っていない、独特の金属めいた臭いがした。最後に動作してから、およそ一週間も経っていないだろうとマッケンジーの経験は告げている。

 

「なるほど、まだ生きてる陣があったなんてね。それについ最近、発動までしたらしい」

 

 マッケンジーは口ひげをいじりながら所感を述べる。ランプの灯が反射する彼の緑の瞳に、知性の色が煌めくのを見据えたルイスは、己の背中に緊張の汗がにじむのを感じた。

 

「教授……この魔法陣は、何か重大な発見だったりするんでしょうか?」

「これは……」

「……これは?」

「これはありふれた変身術だね。イタズラ目的の」

「……イタズラ目的の」

「こういう隠し部屋だったりにはよくあるんだよ。魔術に身を捧げてきたような連中だろう? くだらないイタズラにもやたら凝ったものを用意するんだ。いい性格してるよね」

 

 マッケンジーは「さすが我々のご先祖様だ」と続けると、魔法陣のそばにしゃがみこんだ。

 

「管理者による正式な許可を得ないまま踏むと発火する仕組みかな? ここから上に導線が伸びているから入り口あたりのどこかで判別してそうだね。立ち入ってすぐに発火しないから余計に嫌らしい」

 

 彼は自分自身で「ありふれた」と吐き捨てた割には真剣な眼差しで解読を進めていく。

 

「わざわざ魔法陣を床に掘るかい、普通。意味を持たない飾り文字も多いし、この部屋の主人(あるじ)は相当自信がおありのようだ。呆れるくらい凝ったイタズラだよこれは」

「それで、これにはなんの意味が?」

「意味なんてないよ。これ、引っかかったやつの姿をランダムで変えるだけだもの。困って慌てふためいてるところを見て面白がるためだけの魔術」

「それだけのためにこんな陣を……」

「最早狂的だよね」

 

 マッケンジーは部屋をぐるっと見回すと「それに、この部屋も大して重要な部屋ではなさそうだね」と嘆息した。

 

「それはどうしてでしょうか……」

「だって重要な場所だったら、最初から入りにくくするか殺したほうが早いでしょ。入り口もわかりやすかったし」

「……確かに」

 

 彼の歯に衣着せぬ物言いに、ルイスの顔がくしゃっとなる。彼の敬愛する現代の魔術師は、同時にリアリストでもあった。ルイスの青い高揚感とロマンはあっという間に粉々になった。

 

「浮浪者か破落戸か、何者かが扉を踏み抜いて滑落。運悪く生きた陣に出くわして姿を変えられ、慌てて這い出たってところかな。階段にも血が付いてる」

 

 ルイスはマッケンジーの推察へしきりに感心しながら、「でも、どうして急に起動したんでしょう。普通、設置型でも供給源がなければ起動に必要な分のエーテルは揮発してしまいますよね」と疑問点を口にした。

 

「いいところに気がついたねパーカー君。この遺跡へのエーテル路は完全に枯れているのは確認済みだ。おそらくこの陣が保持できるエーテル量も、保って数年がいいところだろう。ではなぜ直近になって起動した上に発動までしたんだと思う?」

 

 わずかに考え込んだルイスだったが、視線を足元に持っていけば自ずと仮説が浮かんできた。

 

「……血でしょうか? 確か人間の血液は優秀な燃料になり得るという記録があったはずです」

「そう、その通り。古くからエーテルの代替や効率化の可能性を求めて、世界中で人の血液が研究されてきたのは君も知っての通りだ。そして、血液は確かにエーテルの代わりを務められるだけのポテンシャルがあったと記録にもある。……最悪な燃費を除けばね」

「そうなんですか? いかにも効果がありそうですが」

「結局、人間の血なんて大した力を持っていなかったのさ。これ、結構な出血量だけど、多分この陣一回分で打ち止めじゃないかな。こんなイタズラ程度の魔術に人間一人分の血液。どう思う?」

「……割に合わないですね」

「そうだろうそうだろう。人の命が今よりずっと安かった野蛮な時代においても、わざわざ血液だけを元手に魔術を行使することはなかったそうだよ。なにせ無尽蔵にエーテルが溢れ、簡単な術なら従来の手続きなしで行使できた時代だ。まったく、霧が晴れる前の世界というのはデタラメだな」

 

 マッケンジーは床に転がっていた襤褸切れを持ち上げると、少し眺めるだけで「帝国末期の魔術師ギルドのローブだ。こういうところでよく発掘される」と断定した。彼は興味を失ったようにそれを畳むと、手頃な位置にあった瓦礫の上へそっと置いた。

 

 ルイスは落胆のにじむため息を吐くと、あたりをくるりと見回した。これ以上の発見があるとは思えないが、完全に萎れてしまった高揚感を宥め賺すためだ。すると、階段の陰に、手のひらに収まる大きさの何かが落ちているのを発見した。最初は小石か何かかと思ったが、反射した光の質感がどうにも石らしくない。それを不思議に思ったルイスは、その疑問を確かめるために足を向けた。

 

 彼が拾い上げたそれは、無染色の皮革で拵えられた小物であった。使われている革は分厚く上等なもので、コバも丁寧に処理されている。しかし縫い目はわずかに揃っておらず、いささか不恰好であった。もしかすると、このぶち撒けられた血痕の主の所有物ではないだろうか。ルイスはこの場に似つかわしくない革細工をぐるりと眺め、瓦礫の隙間を覗き込むマッケンジーへ声をかけた。

 

「教授、こんなものが落ちていました」

「うん? 随分綺麗な状態の革細工だね。……ここに落ちた誰かさんの持ち物かな」

「ほとんど傷も付いていませんし、革も新しい物みたいですので、私もそう思います」

 

 ルイスから例の革細工を受け取ったマッケンジーも、ルイスと同じような印象を抱いたようだった。彼はそれを興味深目に眺めると、なんのためらいもなくスナップボタンを外した。

 

「ふむ。これは、鍵かな? 見たことのない形だけど」

「本当だ。でも、なんというか……すごく単純な鍵山ですね」

「うん。なんか変な鍵だね。山はほとんどないけど、それの代わりなのかな、この側面の溝と凹みは」

「なるほど、こっちの細長い方も似た感じですね」

 

 真新しい革細工には、二本の鍵が仕舞われていた。片方は一般的な住宅などに使われている鍵で、もう片方は頭がプラスティックに覆われた、チェーンロック用の鍵だ。どちらもディンプルキーで、この世界では未だ発明されていない鍵である。しかし彼らはその形状と大きさからあたりをつけたのだった。

 

「ううん、なんの鍵だろう。工学科の人なら詳しくわかるかな?」

「どうでしょうねえ。……というか教授、それ持って帰る気満々ですか」

「いいじゃないいいじゃない。他に面白そうな物もないんだし。それに、本来ここは立ち入りが禁止されている場所だよ? 我々の調査のサンプルとして持って帰っても文句は言われまい」

「あっはい」

 

 マッケンジーはキーケースをルイスへ手渡すと、腕を組み呆れたような声音で呟いた。横目で床を見つめるその瞳には、わずかに同情の色が窺える。

 

「しかしまあ哀れなものだ。彼だか彼女だか知らないが、もう二度と元の姿には戻れないんだからね。パーカー君も気をつけたまえよ。今回は不運なケースだが、魔術に関わる以上、事故はいつだって起こりうる」

 

 ルイスは手中に収まったキーケースの表面を撫でると、感慨深く頷いた。

 

「はい、肝に命じます! ……ちなみに、もう二度と戻れないとはどういうことでしょう?」

「うん。さっき気づいたんだけど、コレ、解除用の術は施術者に紐づくみたいなんだよね」

「……つまり、元の姿に戻るためには、この魔法陣の作者が必要ということですか」

 

 この遺跡は千年以上昔のものである。比較的長寿と言われるエルフ族ですら人生百年とちょっと。朽ち果てた遺跡の主人が存命とは冗談でも思えない。

 

「そのとおり! おとぎ話の中のエルフなら今もどこかで生きているかもしれないがね! わっはっは!」

 

 マッケンジーは何が面白いのか、ケタケタと笑いながら階段を登っていった。

 その枯れ枝のような後ろ姿を、ルイスは慌てて追いかける。所々苔むした足元へ気を配りながら石段を登りきると、彼は眩しさに目を細めるマッケンジーへ声をかけた。

 

「教授もそれくらい長生きしそうですけど」

「なにを言うんだパーカー君。僕ももう百を超えた老いぼれだよ。よくてあと二、三十年でお迎えさ」

 

 ルイスの声に、マッケンジーはグリーンの目を半眼にして嫌味ったらしく返事をした。ルイスは老教授の演技がかった物言いに小さく笑うと、彼の隣に並んで言葉を続ける。

 

「研究室の皆さんも、教授ならもう百年はピンピンしてるだろうって言ってましたよ」

「それは大変だな。そんなに時間があっては僕一人で世界中の謎と神秘を解き明かしてしまう!」

「ははは。さすがです、教授」

「さて、大方もう見て回っただろう。あたり一帯に特に危険な残留物などなし。我々の仕事もおしまいだ。あとは本隊に任せてさっさと研究室に帰ろう。こんなつまらない場所よりもっと面白いところが世界にはたくさんあるんだ。時間は有限だぞ! それこそ一千年の寿命じゃ足りないくらいにな!」

 

 眼下に広がる遺跡の数々を笑い飛ばしながら、マッケンジーは胸中で独り言ちた。

 

 たとえ千年紀をまたぐ寿命があったところで、この世の全てを知り尽くすことは到底かなわないだろう。

 かつて、夏の早朝の霧が街を覆うように、世界がエーテルで満たされていた頃。おとぎ話のような時代。永い時を生きたと伝えられている先祖たちも、自分と同じようなことを考えたりしただろうか。歳を重ねるたびに身体は言うことを聞かず、五感は鈍くなるばかり。刺激の少なくなった日々に、己の無力さや小ささを感じる。

 

 その度に強く思い知らされるのだ。

 この世界のなんと広いことか!

 

 遥かな宇宙の片隅に浮かぶ母なる大地の隅々で、今も数多の神秘たちが息を潜めて、白日のもとに晒されるのをじっと待っている。もちろん、今回の仕事も言うほど悪くはなかった。しかし、自分に残された時間はあまり多いものではない。そろそろ、仕事を選ぶべきだろうか。

 

 マッケンジーは心のどこか、焦りを感じ続けていた。

 



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06 ザ・ワーカーズ・アー・ゴーイング・ホーム

 黒江が髭面の男に促され馬車の荷台に乗り込むと、そこには先客がいた。赤毛をおさげにしたグリーンの瞳の少女だ。見窄らしいワンピースから覗く指先や頬は、骨が浮き薄汚れている。年の頃は、およそ十四から十六歳くらいだろうか。

 

『おい、この嬢ちゃんが怪我してねえか診てやれ。血は乾いてるみてえだが、どこか大怪我でもしてたら事だ』

『は、はい……』

 

 男は少女へ、黒江に怪我がないか確かめるよう言いつけると、荷台の幌を閉じて御者台に乗り込んだ。男の重さに、車体の下の板バネがギシリと軋む。

 

『あ、あの、もしこの子が怪我をしてたら、私はどうすれば……?』

『そうしたらおれに言え。……あと水だ。必要だったら飲ませてやれ』

 

 荷室の広さは、およそ普通車のトラックの荷台と同じ程度だろうか。黒江の予想以上に木箱などの荷物が詰め込まれた荷台の中、少女が御者台の方へ近寄り声をかけた。すると幌の向こうから男のつっけんどんな返事が届き、その隙間から金属製の水筒を持った手が突き出てきた。その水筒は底が潰れた楕円形をしていて、いたるところに凹みや煤汚れが付いている。鈍い金属光沢をまとったそれは、軍用の水筒によく似ていて、このまま火にかけることで煮沸できるんだろうなと黒江は推察した。

 

 少女は腕を伸ばし水筒を受け取ると、怯えの混じった、訝しむような視線を黒江に向けた。痩せっぽちの少女は、わずかに残ったあどけなさと、強かさが同居した勝気な印象の目をしている。薄暗い荷台の中、彼女の白目だけがひどく浮いて見えた。

 

「あー、大丈夫大丈夫怖がらないで。オレ怪しいもんじゃないよ、ちょーっと見た目がアレなだけで……」

 

 黒江は肩に羽織ったジャケットの前から両腕を出すと、体の前で手のひらをヒラヒラとさせた。すると、血に汚れたシャツや手のひらなどが露わになる。

 薄暗い馬車の中にあってもなお白い毛並みに、黒ずんだ血の跡。

 そして、相変わらずこの世界の住人からしてみれば下着と大差ない格好。少女はハッと息を飲むと、男から言いつけられた事を思い出し黒江へ近寄ろうとした。

 

 ちょうどその時である。手綱を握る、コート姿の男が馬へ合図を送ったのは。

 

「のわっ」『きゃっ』

 

 予期せぬタイミングで動き出した馬車の揺れに、不意打ちを食らった黒江と少女がよろめく。特に赤毛の少女は進行方向に背を向けていたので、勢いよく正面の黒江の方へつんのめってしまった。

 

 現在の黒江はこの少女よりいささか背が低い。だが、黒江の中身はれっきとした成人男性なのである。彼女は、まだ子供と呼んで差し支えない少女の肩を咄嗟に抱きとめようとした。

 

 しかし当たり前といえば当たり前だが、背も縮んで腕も細くなった黒江に、勢いのついた少女の体重を支えられるはずもなく。黒江は少女を受け止めたまま後ろへ倒れこみ、後アオリの縁へ後頭部を強打した。

 

「んがっ…………いっ、でぇぇえおぉぉぁぁぁああああ……」

 

 荷台の中、他の荷物に挟まれたわずかなスペースで黒江がのたうちまわる。器用に転がりながら痛みに耐える黒江を目前に、彼女に庇われた少女は目を丸くしていた。

 ガタゴトと賑やかになってきた馬車の中、「ぐおぉおおぉぉおお」と奇声をあげて転げまわったり海老反りになったりして悶える黒江。しかし、幸いにも大きな怪我などはないようで、うんうん唸っている間に痛みが引いていったようだった。

 

「あ゛ーヤバ、今ので頭二つになったわコレ、どうしよう天才になっちゃう……。あ、きみ大丈夫だった? 怪我とかしてない?」

 

 黒江は後頭部を摩りつつ半身を起こすと、丸い瞳の端に涙を滲ませながら少女へ怪我の有無を問うた。

 

『あっ、いけない!』

 

 赤毛の少女は口元に手をやり声を上げた。そもそも、髭の男から、黒江が怪我をしていないか診てやれと言われていたのだ。彼女は顔を青くすると、胡座をかいて座り込んだ黒江の元へにじり寄る。

 

『さっきはごめんなさい! それと、庇ってくれてありがとう。えっと……怪我はないかしら?』

 

 なぜ黒江と馬車に乗り合わせることになったのか、少女はよく知らない。先刻の小休止の際、男たちが何やら話し合っている声は聞こえていたが、どうせ自分には関係ないことだと聞き流していた。しかし蓋を開けてみれば、血で汚れた得体の知れない獣人の少女と相乗りである。疑問や疑惑は尽きないが、与えられた役目を果たさなくては、という思いがあった。

 

「うおっ。なんだなんだ、頭?」

 

 戸惑う黒江に構わず、少女は黒江の後頭部を覗き込んだ。言葉は通じないが、少女は『ごめんなさいね』と呟くと、黒江の頭髪をかき分けて外傷の有無を確かめる。

 人買いに売られた挙句、荷物と同様の扱いを受けてきた自分とは違って、この獣人の少女は随分と男たちから心配されていたようである。その扱いの差に少しばかり不愉快さを覚えていたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。少女は、黒江の身を案じつつ内省した。

 

「あ、怪我ないか診てくれてるの? いやあごめんねありがと。でもたんこぶくらいだから平気平気。かえって膨らんだ分頭良くなるぐらいだわ、わはは」

 

 黒江はなるべく穏やかな声音で軽口をたたいた。というのも、痛みに耐えている間、目を点にしていた少女の顔色が次第に青ざめていくのを目撃していたのだ。この少女は、自分のせいで怪我をさせてしまったんじゃないか、そう思い込んでしまっているんだろう。黒江は心配無用だと伝えるため、背後に回り込んでいた少女を振り返ろうとした。

 

『あの、ごめんね、私、あなたが他に怪我してないか確かめなくちゃいけないの』

 

 少女は黒江の背後に回ったまま、黒江のシャツの裾を握りしめそう言った。そして、シャツを掴まれ困惑する黒江に対し、いたたまれなさと申し訳なさで視線を落とした少女は、一息に裾をガバリとめくり上げた。

 

「ウワァーッ!?」

 

 黒江は可憐な少女の声音で、ちっとも可愛げのない悲鳴をあげた。

 

『なんだ、何があった!? ……何してるんだ?』

 

 その素っ頓狂な叫び声を聞いて、御者台に座った男たちが荷台を覗き込む。するとそこは、目を丸くし毛並みを逆立たせた黒江が、今まさにシャツをひん剥かれようとしているところであった。

 

 実のところ、赤毛の少女もテンパっていたのだ。わざわざシャツをめくり上げなくとも、むき出しの手足を確かめたり、ボディーランゲージで意思疎通を試み、もっと穏便に済ますことができただろう。後から思えば様々な選択肢が考えられたが、黒江に庇われた負い目や、男からの言いつけを守らなければという焦りによって、頭が真っ白になっていたのだった。

 目を白黒させ硬直する黒江と、イマイチ状況を理解できていない男たち。車体の揺れに合わせて積荷が立てる雑音だけが鳴り響く沈黙の中、赤毛の少女は黒江に怪我がないか体の隅々まで確かめていく。

 

『あの! この子、特に大きな怪我はしていないみたいです!』

 

 少女は黒江が無傷であることを簡潔に報告しながら、捲り上げていたシャツの裾を戻した。

 

『お、おう、そうか……。なら、静かにしていろ。いいな』

「君、なかなかに大胆ね……」

 

 黒江は力なく呟きながら、解放されたシャツの裾をハーフパンツのウエストへ仕舞い込んだ。もともと男である上に、メリもハリもない貧相な体である。誰に見られて減るものではないと思っていたが、なかなかどうして他者にひん剥かれそうになるのは堪える。まるで数年分、急激に老け込んだ気分であった。

 

『あと、これ、お水。喉が渇いてたら飲んでいいって』

 

 赤毛の少女が黒江の目の前へ水筒を掲げる。少女の声に顔を上げると、容器の中で水が揺れるちゃぽんという音がした。実際、黒江は喉の渇きを覚えていた。なにせ昨晩から一切水分を補給していないのだ。そんな状態で、目の前に水で満たされた水筒がある。

 たいして出てこない唾を飲み込んだ黒江と少女の目が合う。

 

「えっと、それ、飲んで、いいの?」

 

 焦りすぎないよう、なるべく落ち着いた声音で、ゆっくりと少女へ問いかけた。

 掲げられた水筒を指差し、次に己の口元を指差す。そして、両手で物を持つ真似をすると、飲み物を飲むジェスチャーをした。

 黒江の問いかけに、少女は痩せた頬へ笑みを浮かべ頷いた。彼女は水筒のスクリューキャップを緩めると、念押しにもう一段黒江の方へ腕を押し出した。

 

「ありがとう」

 

 黒江は少女から水筒を受け取る。己の両手に収まった、凹みの目立つ歪んだ金属水筒はほのかに暖かい。先ほどの広場で沸かした水でも詰めていたのだろう。黒江は緩みそうになる頬を引き締めると、深々と頭を下げ礼を述べた。

 

 自分を馬車へ乗せてくれた男たちにも、後でお礼を伝えなければ。黒江は荷台と御者台を隔てる幌に向けて小さく会釈すると、水筒へ口をつけた。

 

「いただきます——んぐうぉっぷ」

『……ちょっと、なにしてるのよあなた!』

 

 黒江としては、水を施してくれた男や体を気遣ってくれた少女に報いるために出来るだけ美味そうに飲むつもりであった。イメージとしては、スポーツドリンクの広告である。

 しかし、黒江は己の肉体について無頓着すぎた。

 そもそも、口の大きさから形まで、すべてが今までと違うのだ。勢いよく流し込んだ水で、黒江の口内はすぐに一杯になった。彼女は慌てて口を閉めようとしたが、想像以上に水の量が多かったため、その半分ほどが唇の隙間からダダ漏れになってしまったのだった。なお、急に咽せたため鼻からも少し出た。

 

「……ごべんなざい」

 

 口元とシャツ、ハーフパンツを濡らした黒江は、虚ろな目をして少女へ謝罪した。

 いい歳をした大人が——焦って飲み物をこぼす子供のような——粗相をしてしまった。穴があったら入りたいとは正にこのこと。黒江はじくじくと襲いかかるいたたまれなさから、正座になって居住まいを直した。彼女の白い毛並みに覆われた両耳はぺたりと倒れている。ここにSNSなどで定番の「わたしは〇〇をしました」の札を首から掛ければバズること間違いなしだ。この場合、「わたしは大人のくせにお水を飲むのに失敗しドチャクソ溢しました」とでも書けばいいだろうか。

 

『フフッ……アハハ! 大丈夫、私怒ってないから。ねえあなた、名前はなんていうの?』

 

 黒江と向かい合う位置に腰を下ろした少女が、彼女に問いかけた。しかし黒江には、相変わらず何を言っているのかチンプンカンプンである。黒江は眉尻を下げたまま小首を傾げてみせた。

 

『私、マリアっていうの。()()()

 

 赤毛の少女が、胸元を指差しながら、はっきりとした発音で己の名前を告げた。マリアは黒江の目を見つめながら、もう一度名前を口にする。すると黒江の瞳に理解の色が浮かぶのを察した彼女は微笑みながら、自分を指していた手を黒江へ向けた。

 

「黒江。く、ろ、え。も、と、は、る」

 

 黒江もマリアと同じように、一音一音区切るように名乗った。マリアは『クロエ? クロエ、までが名前よね?』と薄汚れた頬に笑みを浮かべた。

 はじめてコミュニケーションが通じあったことに黒江も破顔すると、少女に手を向け“マリア”と、己の胸を指し“黒江”と繰り返した。

 

『クロエ……マリア』

 

 マリアも、黒江と同じことをして見せる。

 二人はしばらくの間、同じ動作を繰り返す。片方がもう片方の名前を呼べばうなずいたり、親指を立てたり指でオーケーのマークを作ってみたりした。そしてその度にくすくすと笑い合う。黒江とマリア、お互い意識せず張り詰めていた緊張の糸が切れたようだった。

 

「よろしく、マリアちゃん」

『素敵な名前ね、クロエ』

 

 

 ****

 

 

 生まれて初めて乗る馬車はひどい乗り心地であった。しかし、少なくとも人間が文明を営んでいる場所へ行けるだろうという安心感から、黒江は荷物に寄りかかって船を漕いでいた。そして、いよいよ深く眠り込んでしまおうかという時、彼女の耳へ様々な騒音が飛び込んできた。たった一日耳にしていなかっただけではあるが、どこか懐かしさを覚えるような喧騒である。

 黒江はその喧しさによって浅い眠りから覚醒した。彼女はひとつ大欠伸をすると、生理現象として滲んだ涙を指先で拭う。

 

 未だ眠気の残る目元を擦る黒江の隣では、マリアが幌の隙間から外を眺めていた。薄汚れた頬は年相応に赤みを帯び、未知の光景に衝撃を受けているのか、グリーンの瞳はキョロキョロと揺れ動いている。

 

「なになに、マリアちゃん、なんかあった?」

『すごい……人が、いっぱい……』

 

 お互い言葉は通じていないが、同じ荷馬車に乗り合わせた仲である。別々の言語を話しながら、なぜか噛み合う会話を交わすとマリアが黒江へ場所を譲った。マリアは体を避けつつ、自分の目と隙間を交互に指差している。お前も見てみろということだと察した黒江はコクコク頷くと、硬い床のせいで痛む腰を労わりながら幌の隙間を覗き込んだ。

 

 幌の隙間、狭い視界の外側は夕暮れ時であった。彼女たちの乗る馬車は、ヘントベリーの郊外へ差し掛かっていた。馬車が何台もすれ違えるような、石畳が敷かれた幅員の広い道だ。人々は皆早足で、乗合馬車などの乗り物も多く行き交っている。田舎から出たことのないアンナにとってはそれだけで驚きだった。

 そして道の向かい側では、煉瓦造りの角ばった建物が規則正しく立ち並んでいる。建物群は橙色に染まった空を背景に、そびえ立つ煙突から黒々とした煙を吐き出していた。黒江はひどく緩慢に空を見上げ(なんか工場団地みたいだな)と感想を抱いたが、それは間違いではない。ここはかつて世界の工場と謳われた、連合王国が誇る工業地帯の外れである。

 

 そんな物々しさすら覚えるような建造物から、労働者たちがぞろぞろと吐き出されていた。そのほとんどは女性で、誰も彼も疲れた顔をしている。そして丁度、黒江の乗る馬車を、バランバランと騒音を撒き散らす自動車がえっちらおっちらと追い抜いていった。

 

(直管マフラーかよ、うっせえなあ……)

 

 黒江は寝起きでぽわぽわする頭のまま自動車の騒音へ悪態を吐いた。ふと視線を移せば、自転車も多数走っている。前輪と後輪のバランスが極端なアレではなく、体の下にペダルがありチェーンで後輪を駆動する、俗にいうママチャリのような見た目の車両だ。そして数は少ないが、二輪車の中にはオートバイも混じっているようである。

 自動車とオートバイ。そのどちらも、馬車に後付けのようなボンネットをくっつけたような造りであったり、自転車のフレームの隙間に小さなエンジンを詰め込んだような原始的なものだ。しかし彼らは元気にガソリンを燃やし、ゴム製のタイヤで大地を蹴りつけていた。黒江にとって馴染み深い排気ガスの臭いを撒き散らしながら。

 

(随分なクラシックカーだなぁ。…………んンゥ自動車!? それにバイク!?)

 

 黒江の眠気は跡形もなく吹き飛んだ。

 

「全然中世じゃないじゃん!! 嘘だ!!」

 

 黒江は勝手に憤っていた。中世じゃないも何も、そもそもが全て黒江の妄想である。黒江は歴史に明るくない人間であった。なんとなく昔っぽい服装だし、移動手段が馬車というだけで勝手に中世ヨーロッパ風異世界と判断していたのだ。

 だがしかし、目前に広がる世界は明らかに中世風のそれではない。

 

「ちょっ……おまっ……ファンタジー要素どこだよ……!? バリバリに科学じゃん? えっ何、剣も魔法もないんだよってこと? なのにオレこんな目に遭ってんの? おかしくない!?」

 

 黒江がこの世界にやってきた時、よくある超常的な存在から何らかの能力を授けられるなんてことはなかった。なかったのだが、現によくわからない何らかのせいで黒江の姿形は変わってしまっている。そんな事があったせいか、彼女はこの世界に、若干のファンタジーなあれそれ(テンプレ)を期待しているところがあった。できることなら、チートで無双とか現代知識でオレスゲーとかやってみたかった。しかし残念ながら、幌の隙間から垣間見た景色は、どこからどうみても産業革命を経てモリモリ発展中の世界である。黒江の妄想とは正反対の、教科書に載っていた白黒写真のような世界が広がっていたのだった。

 

「いや、よく見りゃなんか耳の長い人いんじゃん! エルフか!? あと犬っぽい顔の人もいるし、ワンチャンあるか!?」

 

 確かによくよく見てみれば、自動車の後部座席に乗った紳士の両耳は横に長く伸びていたし、道の端を歩く人々の姿は、黒江のような毛皮に包まれた者や腰ぐらいまでしか背丈のない者など、それなりにバリエーション豊かである。一応、ファンタジー的異世界といって間違いではないらしい。

 

 

 

 黒江はそこそこオタク気質であった。漫画はよく読むし、アニメも気になるものがあれば見る。これは黒江が抱いている悪意百パーセントの偏見だが、音楽系の専門学校に進学するようなやつは自分含め大体オタクの気がある。よくあるチャラいイメージのバンドマンは、高校の文化祭のステージ発表などで満足して普通の大学へ進学するのだ。彼らはそこらへん現実が見えているので、そつなく人生のステージを上げていける人種なのである。

 

 それと比べて、大した成功体験もなく鬱屈したものを抱え、音楽への曖昧な憧れを持ったまま専門学校の門を叩くやつは大体ロクでもないやつらだ(これも自分含め)。しかし、その中で黒江は比較的現実が見えていた方であった。ベース専攻で入学したが、同期には自分よりめちゃくちゃに上手い連中がわらわらいた。そして、そんな連中でも、まともに音楽で食っていけるものは一握りであるという現実。

 

 ちょっと想像すれば入学前にわかるようなことだ。しかし、あまりおつむがよくなかった黒江少年は、入学後にようやくその現実を目の当たりにしたのだ。右も左も今まで見たことないくらい楽器が上手い連中ばかり。それこそ黒江の育っていない耳では、プロと遜色ないように聞こえるレベルだ。先輩なんてまるで現人神である。それなのに、音楽で生計を立てていけるのは一握り。現実を直視した黒江の心は、専門学校入学後にあっけなく折れてしまったのだ。ポッキリと。

 それから黒江は、プレーヤーとしての憧れをさっさと捨て去り、OBや講師との伝手を作りまくった。そのかいあってか、楽器や音響機器の販売・貸し出しを行う企業に勤めるOBに気に入られ、めでたく安定した進路を手に入れたのだった。

 

 

 

「オレどうなっちゃうんだよお!」

 

 外を見るなり何やら喚きだした黒江を、マリアは幼い子供を見守るような面持ちで眺めていた。

 この国の言葉が通じないなんて、きっと、この子はとても遠いところからやってきたのだろう。だからこの、世界一の大都会、ヘントベリーの町並みを見て目を白黒させているのだ。かくいう自分も初めて見るものばかりで驚いたが、クロエの百面相と比べたら可愛いもの。幌の隙間を広げんばかりにかじりつくクロエは、両耳と尻尾を表情に合わせて忙しなく動かしている。マリアはいつの間にか、自分より小さな体つきのクロエに、幼いきょうだい達へ抱く愛情と似た感情を覚えていた。

 

 もし、末の妹がこの景色を見たらどんな反応をするのだろうか。

 マリアはこれから先、もしかしたら二度と会えないであろう家族のことを思い浮かべ、少し切なくなった。

 




二ヶ月ぶりの更新ですね、お久しぶりです。


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07 マイ・ネーム・イズ・クロエ 上

 黒江とマリアを乗せた馬車は、寂れた工業地区の外れ、薄汚れた建物の並ぶ一角で停まった。

 

 ひどくみすぼらしい、小さな倉庫の前だ。煉瓦の外壁は蔦が蔓延り、小さな窓へ嵌まったガラスには度重なる修復の跡。敷地もまた荒れていて、雑草がぽそぽそとまばらに生えている。

 

 この辺りは工業地帯の中でも古い地区のひとつで、産業形態の移り変わりによってすっかりうらぶれてしまっていた。一帯に立ち並ぶ工場や倉庫のどれもが自転車操業で、長いこと空き家のままになっているものも多い。そのせいか、他の地区に比べてもどんよりと淀んだ、不健康な空気が漂っていた。

 

 黒江はマリアに手を引かれ馬車を降りると、その場でスンスンと鼻を鳴らした。

 澱んだ空気に混じる、なにかが腐った臭い。そこに湿った埃や、錆びた鉄を混ぜこぜにしたような臭いだ。彼女は辺りへ満ちるなんとも言い表しがたい臭気に顔をしかめた。

 

『おい』

 

 コートの男が荷物を下ろす傍で、髭面の男がマリアへ声をかける。

 彼女は黒江の手を握ったまま『はい』と答えると、毅然とした面持ちで男のことを見上げた。

 

『裏に水道がある。そっちの嬢ちゃんの血、落としてやれ。できる限りでいい』

 

 男は、マリアのグリーンの瞳と目を合わせることもせず、相方が荷物を運び入れている倉庫の裏の方を指差した。

 

『なら、あの、なにか、クロエが着れるものってありませんか。私も、今着てるものしかありませんし』

『生意気言いやがって。……あぁクソ。わかったからそんな目で見るな。大したもんはねえだろうが見繕ってきてやる。そしたらさっさと行けホラ』

 

 低く不機嫌そうな命令口調にも負けず、マリアは強かにも黒江の服を要求した。黒江はTシャツの上に男のジャケットを羽織ったままで、まともな格好をしているとは言い難い。男は悪態をつくとわずかに逡巡し、新しい服を調達することを約束した。なお、当の黒江本人は、男の声音があからさまに険のあるものに変わったことを感じ、首筋に脂汗がにじむような居心地の悪さを覚えていた。

 

『クロエの新しい服、持ってきてくれるみたい。それじゃあ、日が落ちる前に汚れ落としちゃいましょう』

「おん? なになに、こっち? なんか荷物運んだり手伝わなくて良い感じ?」

 

 マリアは荷物を運ぶ男を指差す黒江のことを引っ張りながら、建物の間を目指しズカズカと足を進める。

 二人の間で明確に伝わるのはお互いの名前だけだ。あとは雰囲気とボディランゲージだけでなんとかコミュニケーションを取っている。己を強く引っ張るマリアに戸惑いつつも、黒江は意図せずして腹の底をくすぐる居心地の悪さから逃げ出せそうだということに安堵した。

 

 

 ****

 

 

 煤けた倉庫の裏庭に、黒江の悲痛な叫びがこだまする。

 

「あァッ! 冷たァッ!! ウアァ!!」

 

 身体についた汚れを落とすため、黒江は素っ裸にひん剥かれていた。

 もちろん、自分より一回り以上年下であろう女の子に、身ぐるみ剥がされてなるものかと思った時期もあった。言わずもがな抵抗もした。しかしマリアにはきょうだいが多い。物心つく頃から子供の世話をしてきたマリアにとって、自分より体格で劣る黒江を素っ裸にするのは朝飯前だった。

 

『ごめんねぇクロエ、冷たくて。でもいちいち変な声出さないの』

「オァン!!」

 

 マリアが水をかける度に黒江は奇声を上げ、己の腕をかき抱き悶える。

 太陽は都会の稜線へその身をすっかりと隠し、残照だけがわずかに空を染めている。まだ本格的な春を迎えていないため、日が沈むと急に冷え込むのだ。それに、汲み上げたばかりの水道水はキンと冷たい。一度手桶に溜めてはいても、何の気休めにもならなかった。

 

『よかったわね。腕や顔以外はそんなに血がついてないし、結構簡単に落ちるわ』

 

 マリアは桶で水をかけ流しながら、黒江の髪を手櫛で梳る。

 黒江の背中の中程まで伸びた、細くしなやかで色の薄い金。マリアの痩せた細い指が通るたび、細い髪の毛から埃や汚れが落ちていく。艶やかさを取り戻した髪は、太陽の残滓とオイルランプの混ざり合った灯りで細やかに煌めく。

 

 マリアは黒江の髪の毛をひと束手に取ると、少女らしい憧れの篭った吐息を漏らした。

 

『クロエ……あなたの髪の毛、ほんとうに綺麗ね……。私の知ってる人の中で一番かも。案外どこかのお嬢様だったりして。……ふふっ、それはないかぁ』

「あばばば冷たい寒い勘弁して、早く終わらせようマリアちゃんオレもう限界だよあばばばばば」

 

 全てをマリアに委ねた黒江は、寒さに奥歯をガチガチ言わせながらより一層身を縮める。彼女は爪先立ちになり、腹側へ巻き込んだ尻尾を抱きしめるようにしていた。これでは濡れ鼠ならぬ濡れ猫状態である。

 

『うん、こんなもんかな。大体、ブラシも何にもないのに、汚れを落とせなんて無理な話よね全く』

「あっ終わりました? もうお水拭いていい? 毛がね、毛がペターッてなって気持ち悪いし寒いんだよ早く拭こうそうしよう」

 

 黒江はマリアの雰囲気から苦行の終わりを感じ取った。一刻でも早く楽になりたい黒江は、替えの服を指差しながら不快感と寒さの限界をしきりに訴える。

 

 黒江の指の先には、タオル代わりの布と男物の肌着とズボン、着古されたジャケット。

 それを持ってきたコートの男が言うには、できる限り小さいサイズを選んだらしい。確かに、工場や倉庫の立ち並ぶここいらで、女物の、それも黒江に合うサイズの服を調達するのは難しいだろう。それに、黒江のメンタルは男のままである。渡された服が男物であることに、黒江は平坦な胸を密かに撫で下ろした。

 

『はいどうぞ』

「かたじけねえ!」

 

 マリアからタオル代わりのボロ布を手渡された黒江は、一刻を争うといった様子で濡れた体を拭き始めた。しかし、水を吸った長い髪や全身を覆う体毛に苦戦する。それを見たマリアは「しょうがない子」とでも言いたげな表情を浮かべ、黒江の手伝いを始めた。

 

「ぅあっぷふぁあ」

 

 布を奪われ、頭のてっぺんから拭き直される黒江。散髪など、金銭を伴わない他人の手によって髪を乾かされる幼少期以来の感覚に、腑抜けた声が漏れ出る。

 

「アッ! 前は、前は自分で拭くんで、堪忍してつかぁさい!」

 

 まるで、風呂上がりの妹を世話する姉といった感じである。体毛の薄い、体の前面を必死になって隠そうとする黒江を、マリアは一切顧みずテキパキと拭き上げていく。

 

「ぬわァ! この子結構力強い!」

『ごめんね、獣人の子がどうやるかわからないの。でもあんまりもたもたしてると怒られそうだし、何より濡れたままじゃ凍えちゃうでしょ?』

 

 またひとつ、黒江の男としての自尊心がへし折られた。

 

 

 **

 

 

 煤けた倉庫の中身は、外見に違わず古びていて、黴臭かった。

 雑多なものが押し込まれた建屋の隅は休憩場になっており、鉄製のストーブが備え付けられている。新たな服に着替えた黒江は、そのストーブの前に置かれた木箱へ腰掛け、わずかに湿り気の残った髪を雑に梳かしていた。

 これまで着ていたTシャツとハーフパンツは固まった血が取れず、目を離した瞬間にマリアによって処分されてしまった。

 ただ、正直、今着ている古着も相当なものである。ズボンは裾を四回ほど折ってようやく引きずらないくらいブカブカで、ウエストも紐で無理やり縛っている始末だ。よく言えば余裕のあるサイズなので、尻尾は片方の脚と同じ穴に通している。上着も似たようなもので、腕をまっすぐ横に伸ばしても指先が顔を出さない。その上、汗や垢が染み込んでいて非常に不快だ。

 それでも、長袖長ズボンは有難かった。自前の毛皮との相乗効果もあって、先刻の苦行のダメージが急速に癒やされていくのを感じていた。

 

『ねえクロエ、髪の毛編んであげる』

「ん?」

 

 ストーブが時折奏でる金属音に耳を傾けていると、マリアが背後にやってきた。

 

『せっかく綺麗な髪なんだから、ちゃんとしてあげなきゃもったいないわ』

「んおお、おっおぉ……」

 

 眼に映る全てが物珍しいのか、延々とキョロキョロとしているくせに、マリアの手助けを頑なに断ろうとする。そんな黒江の振る舞いは、マリアにとって少しでも大人ぶろうとする子供に見えたのか。これまで生家で妹たちにしてやっていたように、ついつい世話を焼いてしまう。

 穏やかな微笑みを浮かべたマリアは、黒江の髪を鼻歌交じりで編んでいく。そして、生まれて初めて髪を結われる未知の感覚に戸惑う黒江。マリアが髪の毛の束を手に取る度、黒江は頭皮を引っ張られる違和感に声をあげる。しかし、決して暴れたりはせず、自分に身を委ねる黒江に、マリアは小さな笑い声をこぼした。

 

『ふふっ』

 

 つい溢れてしまったというような笑い声に、黒江は首をのけぞらせるようにしてマリアの顔を覗き込んだ。灯りの乏しい倉庫の中、瞳孔が丸くなった黒江の瞳。マリアはそのいたずらっぽい瞳に笑顔を向けると、前髪を作ってやりながら言葉を続けた。

 

『家族と離れ離れになったと思ったら、まさかあたらしい妹ができるなんて。何が起きるか分からないものね』

「んー? なーんか、その、新感覚だなあコレ。オレずっと短髪だったしなあ」

 

 お互い通じ合うことのない会話を続けながら、黒江の髪を整えるマリア。まるで機械のように滑らかな手さばきは、まさに体が覚えているといったようだ。そして彼女は袋状の鞄から髪紐を取り出すと、一本に編み上げた黒江の髪の毛の先を縛った。

 

『はい、出来上がり』

 

 マリアは黒江の肩をポンと叩き横顔を覗き込んだ。ストーブの前に陣取った黒江は、わずかに残っていた水気もすっかり乾いて、心なしかふっくらとして見える。

 

「お、できたの?」

『本当はね、二本に分けたり、くるっとまとめたりしてあげたかったんだけど、ピンとかあまり持ってなくて……』

「ん……大丈夫。十分嬉しいよ、ありがとうマリアちゃん」

 

 眉尻を下げるマリアを見て、黒江は出来立てのお下げ髪を顔の前に持ってきて微笑んだ。これで十分満足している、感謝しているのだと伝えるために。マリアは黒江の振る舞いに破顔すると、正面から彼女の頭を撫でた。黒江の髪の毛の質感を慈しむように二、三度手のひらを往復させ、最後にもう一度髪型を整えてやる。黒江とて、年端もいかぬ少女に頭を撫でられることに抵抗のない訳がない。しかし、そんなつまらない意地は捨て去り、黒江は笑顔でマリアを受け入れていた。

 

 側から見れば微笑ましい光景である。

 しかし、姉妹が戯れ合うような心温まる時間は、あっけなく終わりを迎えた。

 冷や水をぶちまけるように、低く冷たい男の声が響く。

 

『おい』

 

 すり減ったモルタルの床を這うような声だった。

 黒江とマリアは声の方を振り向く。塗装の剥げたドアの前に、髭面の男と、形の崩れた帽子を斜めに被った男が立っていた。黒江達に声をかけたのはどうやら髭面の方で、彼の手には紙幣が握られている。元の形がわかないくらいくたびれた帽子を被った男はひどく痩せっぽちで、ギョロついた両目が神経質そうにあたりを見回していた。

 

『ワンピースの方。ええ、赤毛の汎人の方です』

 

 髭面の男が、空いた手でマリアを指差す。帽子の男は何も言わずに小さく頷いた。男たちの短いやりとりを見届けると、彼女は小さく息を呑み黒江に向き直った。

 

 マリアはおもむろに黒江の手を取り、痩けた頬一杯に笑みを湛えて口を開く。

 取り繕われた笑顔と、空元気の滲んだ声。

 

『あはは……。ここで、お別れみたい』

 

 言葉は通じずとも、伏せられた瞳と声色によって、十全にその意味が分かってしまった。

 

 思わず、黒江はつないだままのマリアの手に視線を落としてしまう。

 白い毛に覆われ、桃色の肉球がついた自分の手を、名残惜しそうに撫でる痩せた指。汚れた爪と、あかぎれの目立つ指。まだまだ子供と呼んで差し支えないほどの女の子の手指とは、とてもじゃないが思いたくない指だ。

 そんな彼女の手指に視線を注いでいると、黒江はひどく泣きそうになった。

 

「マリアちゃん……いろいろ世話かけちゃってごめんね。めっちゃ助かったよ……ありがとう」

 

 黒江は、上ずった声で感謝を伝えた。時間にしてみれば、たかだか半日程度の関係。しかし黒江にとってマリアは、異世界に迷い込んでから初めて名前を呼びあった仲なのだ。容赦のない理不尽の連続、その渦中でようやく手にした道理の通じる相手。自分自身のものなのにどう扱っていいかわからない、長い髪を結ってくれた、やさしい少女。

 それも、ここでお別れなのだ。視界の隅で、帽子の男が苛立たしげに身じろぎした。

 

 ——マリアは、この子は売られたんだろう。

 

 この世界のことをほとんど知らない黒江でも、おおよその見当はついていたのだ。

 人気のない寂れた土地で、人目を避けるように仕事をする男たち。ずた袋じみた鞄ひとつだけ持った痩せた少女。黒江の想像以上に発展していた異世界でも、人売りはあったのだ。

 

 まだ子供にしか見えない女の子ひとり、どこかへ売られていく。

 生まれて初めて目の当たりにした過酷な現実は、ストーブで温められたはずの黒江の体温を奪う。「大人である自分がなんとかしなければならないはずだ」という、これまでの常識に基づく正義感が、黒江の腹の底でざわめいた。しかし、思っていた以上に冷え切った理性は、自分一人のちからではなにもできないと黒江に語りかける。

 

 黒江は忸怩たる思いを飲み込み、痛む心を隠すための笑顔を貼り付け、マリアの緑色の瞳を覗き込んだ。

 マリアはそんな黒江のことを優しく抱き寄せると、柔らかな毛並みに包まれた頬へキスを落とした。

 

『さようならクロエ。元気でね』

 

 右手を名残惜しげに残して、男たちの方へ歩みを進めるマリアへ。

 

「さようなら。体に気をつけて」

 

 黒江は、心へ吹き込んだ冷たい風に耐えながら、別れを告げた。

 

 

 ****

 

 

 マリアを見送った黒江は、しばらく倉庫の中で待ちぼうけを食らった後、再び荷馬車へ乗せられた。

 往路とはまた別の品々が積み込まれた荷台の中に、蹄鉄が路面を打つ音と、板バネの軋む音だけが響く。

 

 黒江は、唯一の所持品であるウエストポーチの中身を覗き込んでいた。その真剣さは、玩具箱を漁る子供のようだ。

 

「うん? キーケースどこいった?」

 

 何度確かめても、ウエストポーチの中から出てくるのは、電源を落としたスマートフォンに、革製の長財布だけ。

 

「おいおいおい、ウソだろ……」

 

 彼女は寒気を伴う焦燥感に身を焼きながら、裏地に備えられたポケットの隅まで目を通す。しかし実の所、黒江は半ば確信していた。このバッグの中に、昨晩プレゼントされたキーケースはないということを。酒に酔い、更には異世界へ飛ばされて混乱しきりだった己の記憶が正しければ、ハーフパンツのポケットに突っ込んでいたはずである。

 

(マジかよマジかよマジかよ!?)

 

 黒江の視界が、急激にぼやけ出した。

 喉の奥に何かが詰まったような気がして、呼吸に強い抵抗を感じる。目頭が熱を持ち、鼻の奥に走る痛み。

 今、自分が持っている元の世界との繋がり。その中でも、最も新しく想いの籠ったもの。それが、気付かぬうちにこの手を離れていた。

 

 そのことを理解した瞬間、胸の内に痛みを伴う自責の念が湧き上がる。そうして黒江はようやく、視界をぼやかすものの正体に思い至った。それが目元から溢れてしまわぬうちに、慌てて手のひらで拭い去る。しかし、頭の中は騒々しさを増していくばかり。どうしてこうなる前に、チャックのついたポーチの中へ仕舞わなかったのか。

 

 身体が変わってしまった時、あの廃墟を出ると決めた時。いくらでもポケットを改める機会はあったはずだ。

 一体、どのタイミングで失くしてしまったのだろう。あの丘を駆け降りた時だろうか。汚れを落とすために服を脱いだ時だろうか。それとも――。

 

 無意識のうちに、黒江は馬車の後端の幌を開け放っていた。

 しかし、そこに広がるのは見覚えのない街並み。

 もう既に、彼女を乗せた馬車は引き返せない場所まで来ていた。



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08 マイ・ネーム・イズ・クロエ 中

 

 ——大人の男が、声を上げて泣くだなんてみっともない。

 

 唇をきつく噛み、腹に力を込め涙を堪えようとした。こんなところで泣いたって、何の解決にもならないだろう。これまで培ってきた常識や、男としての意地を総動員して、己の涙腺に抗った。

 

 しかし、そのすべてが無駄だった。

 どうしたことだか、あふれ出した涙を止めることができなかった。

 

 ボロボロと玉のような涙を流し、桃色の鼻の先を赤くして咽び泣く。ただひたすらに頭の中はぐしゃぐしゃで、真っ直ぐな悲しみに胸を貫かれた黒江は、幼子のように泣きじゃくった。

 

 こんなことは初めてだった。

 ——たかが、キーケースを失くしてしまっただけなのに。どうしてこんなに涙が止まらないのだろう。初めこそ躊躇ったが、薄汚れた古着の両袖はすぐにびしょびしょになった。

 

 拭っても拭っても、火傷しそうなほど熱い涙がすぐに溢れだす。

 

 しゃくりあげる間、隙を見てなんとか息を吸う。しかし、胸の中は絡まり合った感情でいっぱいで、空気がなかなか入ろうとしない。そのくせ、悲しみだとか混乱が、腹の底から涙を押し出してくるのだ。喉の奥が突っ張って、唇の端が歪む。まるで酸欠に陥った時のように視界が狭まり、激しい運動の後さながらに浅く荒い呼吸を繰り返す。

 黒江は次第に、姿勢を真っ直ぐ保つこともできなくなり、己の二の腕を抱き寄せ身を屈めた。

 

 言葉にならない嗚咽を噛み締めながら、涙も、鼻水も、涎さえも垂れ流しにする。

 ボタボタと、色々混ざり合った雫が荷台の床板へ滴り落ちる。その水気で生まれた染みをぼやけた視界で眺めていると、キリキリ痛み始めた頭に怒りが湧き出してきた。

 

 大体、意味がわからない。

 なにもかも全部。なにひとつ意味がわからない。

 

 飲み会の帰り、ちょっとした好奇心に身を任せただけじゃないか。それでどうした。言葉の通じない世界へ飛ばされて、挙句の果てにこんな姿形にまでされて。全くもって意味がわからない。

 

 変わってしまった性別も、腰まで伸びた髪の毛も、全身を覆う毛並みも、頭の上の両耳も無意識に動こうとする尻尾も全部!

 

 自分でも気がつかないうちに、何か罰の当たるようなことをしでかしたのか? もしこの現状が何かの罰だとしたら、もう十分じゃないだろうか。とにかく帰らせてほしい。仕事に追われるだけのつまらない人生だとしても、今はただ戻りたくてしょうがない。

 

 骨の髄まで染み付いた、日常の風景が脳裏に去来する。

 その生暖かな記憶の風景へ、二度と戻れないかもしれない。そう思うと、ふたたび涙の勢いが増した。

 

 ぜえぜえと喉を鳴らしながら、涙の流れるままにする。脳内で荒れ狂う激情もあっという間に過ぎ去った。どうせ、無駄なのだ。己の不幸を嘆いたところで状況が好転することなどありえないと、同じ結論に辿り着く。黒江は、思考の隅に冷静さが戻ってくるのを感じた。しかし、ぼやけた視界がクリアになることはない。

 

 ただひたすら、しずかな悲しみだけが胸に広がっていた。着の身着のまま迷い込んだ異界の地で、これまでの世界とのつながりを一つ失ってしまった。唯一の所持品であるウエストポーチの中には、財布と電源を落としたスマートフォンだけ。財布は特にこだわりなく自分で選んだもので、中身はいくらかの現金と、免許証やカード類。もちろん、スマートフォンのストレージには思い出深い写真や音楽が保存されている。だが、これから先充電できる保証はない。バッテリーが空っぽになってしまえば、ただの金属とガラスの板だ。電池の無駄遣いなんてできるはずがなかった。

 

 ぎゅっと閉じた瞼の裏に、つい先日の思い出が蘇る。気が置けない友人たちと過ごした一晩が、ひどく郷愁を掻き立てた。どうしようもなくたまらなくなって、体の前に回していたポーチをひしと抱きしめる。その布地に染み込んでいた、煙草と油の混じった居酒屋のにおいが黒江の鼻先を掠めた。

 

 

 あの倉庫を発って、どれくらい時間が経っただろうか。黒江を運ぶ馬車は、日中とは打って変わって細々とした道を行く。

 

 涙も精魂も尽き果てた黒江は、荷台の縁にもたれかかった。腹の底に、黒々とした虚無感が横たわっている。ぼんやりとした思考の中で、そういえばなんも食ってないなと思い至った。だが、たとえ今食事を出されても、何一つとして喉を通りそうにない。泣き疲れた彼女は規則的な揺れの中、眠りへ落ちていった。

 

 

 ****

 

 

 黒江は昔の夢を見た。

 まだ幼い頃の夢だ。

 夏の日差しの下、駅のホーム、母と並んで立つ。

 数少ない友だちと別れなければならないこと。苗字が変わってしまうこと。身を取り巻く様々なことへ、そこはかとない苛立ちを覚えていた。

 

 隣の母を見上げれば、彼女は携帯電話を首と肩で挟み、肩掛け鞄の中身をまさぐっていた。

 数年間、顔も見ていなければ声も聞いていない母。

 こんな顔だったっけ。黒江はそんなことを考えている。

 

 

 黒江は小学生低学年の頃、両親の離婚を経験している。親権を取った母に連れられ、母方の実家で暮らすようになった。両親のうち、どちらがどう悪かったなどは、特に気にしたことがなかった。

 

 ネグレクトまではいかなくとも、子供に無関心な親だった。黒江少年を祖父母へ任せた母は仕事に没入した。朝から晩まであちこち飛び回り、黒江の授業参観にすら顔を出さない。だから、黒江にとって、育ての親は祖父母だった。

 

 黒江の母の生家は、洋室と和室の数が半々ずつあるような一軒家だった。よく言えばレトロ、悪く言えば古臭い、時代を感じる建物だったが、黒江の瞳にはどれも新鮮に映った。物心ついた頃からマンション住まいの彼にとって、一軒家そのものが物珍しいのだ。日焼けした畳の敷かれた和室も、薄暗い照明が心もとない階段も。そのどれもが初めて見る。まるで異国にやってきたのと同義だった。

 

 黒江はそれまで、自己主張をしない、控えめが服を着せられ歩いているような少年だった。人見知りというわけではないが、イマイチ反応の薄い黒江のことを気に病み、何かと声をかけていた。いつも家にいない母親とは対照的に、祖父母は黒江のことを放っておくつもりはなかったらしい。

 

 ——新しい学校はどう? もう慣れた?

 ——基晴くんは、食べられないものはある?

 ——釣りでもやってみるか? 基晴。

 

 そのかいもあり、次第に表情を豊かにしていく黒江。そこで、ついに彼を変える出会いがあった。

 

 一つは、カワイのアップライトピアノ。

 

 元々は黒江の母が小さい頃に弾いていたピアノだという。白いレースのカバーがかけられ、黒い塗装はいまだに艶を保っている。鍵盤蓋に埃が積もっているようなこともない。定期的な調律まで行っている、現役バリバリの楽器だった。

 

『ばあちゃん、これ弾けるの?』

 

 まだ自己主張の乏しい黒江が、そう祖母に問いかけた時、彼女は皺の刻まれた双眸を細め、うれしそうに微笑んだ。彼女は黒江をピアノ椅子に座らせると、おもむろにポロポロと鍵盤を叩き始めた。

 

 彼女は飛び抜けて上手ということはなかった。ただ、保育士として働いていた経験や、地域の児童館に勤めていたから、黒江にピアノを教えることは造作なかった。

 

 鍵盤を叩くと音が出る。黒江にとって、それは存外に愉快なことだった。子供の目を通してみれば、威圧感すら覚える黒塗りの直方体。太いセリフ体のロゴタイプ。想像していた以上に重たい打鍵感。しかし、黒江の細い指が鍵盤を押し込めば、ピアノは素直にポロンと音を返す。たったそれだけで、黒江の世界に新たな色が加わった。黒江が、世界とつながった瞬間だった。

 

 そしてもう一つは、ブルースやロックンロール、ジャズの古いレコードたち。

 

 祖父が若い頃から集めていたレコードは、音楽に興味を持ち始めた黒江にとって宝の山だった。祖父が仕事から帰るや否や、彼をステレオの前に引っ張り出し再生をねだる。祖母が夕食へ呼ぶ声に返事をせず叱られることも多々あった。それでも、黒江が年相応の笑顔を浮かべるようになったことを彼らは喜んだ。

 

 

 黒江は昔の夢を見る。

 海沿いの街、昭和の匂いが残るちいさな家。

 暖かな明かりの灯ったリビング。

 祖母のピアノと、祖父のアコースティックギター、黒江のエレキベースのアンサンブル。

 そうして祖父と二人、古いロックを歌うのだ。

 

 黒江は荷台の上で膝を抱えながら、もはや記憶の中にしか存在しない、やさしい人と、やさしい場所の夢を見た。

 

 

 ****

 

 

 古いガス灯の並ぶ、狭苦しい道だ。表の大通りであれば、アーク灯がジリジリと音をたて夜の闇を追い払い、多少傍にそれたところでも、マントルを備えたガス灯が煌々と灯っている。しかし、黒江を乗せた荷馬車が進む通りは全体的に薄暗い。通りの両脇に生える街灯の先端へ灯る炎は、大通りのそれに比べて格段に頼りない。橙の光はすぐに減衰し、通りのあちこちに深い闇だまりを作る。だが、道ゆく人々がそれを気にする様子は全くない。さながら、明るすぎると何か困る事情でもあるかのよう。

 それもそうだ。大分夜も更けているはずなのに多い人通りと、その人々の風体。それと立ち並ぶ店屋の構え。狭い通りでは、外套の前をはだけ胸元を露出した女と、舐め回すような視線を送る男が、互いに値踏みをしあっている。

 ここはヘントベリーの南側に広がる王国最大の歓楽街、フォッブズ・エンドの外れ。その中でも、観光客が訪れるようなエリアではない。治安は悪くないが、良くもない地区だ。

 湿った熱のようなものを帯びた空気の中、馬車は控えめなスピードで通りを往く。通行人は怪訝な顔をして馬車を一瞥するが、すぐに興味を失い道を開ける。

 

 そこからさらに進み、より怪しげな雰囲気が増したころ。建物と建物の間の路地を荷台で塞ぐように馬車は停車した。

 

「ジョージ、お前はこのまま残りの分を頼む。おれは、泣き虫お姫さまのエスコートだ」

「ああ……上手くいくといいな」

 

 髭面の男が御者台からのそりと降りるとコートの男へ声をかける。ジョージと呼ばれた男は、神妙な表情を面長な顔に浮かべ頷いた。男はジョージの真面目くさった様子を鼻で笑うと、馬車の後ろへ回り込んだ。そして荷台の幌を開けると、低く潜めた声を投げかけた。

 

『さあ降りな、嬢ちゃん。……なんだ、寝てるのか』

 

 ジョンは黒い瞳を数度瞬かせると、外套の襟を立て荷台へ乗り込む。板バネか床板か、そのどちらかがギィと鳴り、馬車が揺れる。しかし黒江は膝を抱いて丸くなったまま目を覚さない。肩にかけたウエストポーチを腹側に回し抱きしめるその寝相は、どことなく子供じみて見える。彼は「やれやれ。まあ、逆に都合がいいか」と嘆息すると、すっかり眠り込んだ黒江を軽々とおぶった。そのまま荷台から降りると後アオリを戻し、ゴンゴンと叩いて合図をした。

 

 ジョージはその合図と共に馬へ鞭打ち、馬車を発車させる。

 完全に馬車が走り去るまでに、黒江をおぶった男は、路地の闇に飲み込まれていた。

 



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