犬と空とフェルナーと (入野れん)
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犬と空とフェルナーと
帝国歴四八九年一月。
アントン・フェルナー大佐は、初めて上官のパウル・フォン・オーベルシュタイン総参謀長の私邸を訪ねた。
オーディン市街の北部に位置する、さほど大きくない館である。門を入ると芝生が広がり、玄関までのアプローチの両脇には季節の花が植えられている。
フェルナーがあたりを見回しながら歩いていると、近くで気配がした。
はっとしてそちらを見ると、一頭のダルマチアンがフェルナーをじっと見ている。
「これ、こちらにおいで」
執事らしき人物が犬を追いやり、「どうも申し訳ありません」と声をかけてきた。
「オーベルシュタイン閣下の部下のフェルナー大佐です。閣下はご在宅ですか」
「はい。少々お待ちください」執事は言って奥に引っ込んだ。
まもなく、私服姿の上官が現れた。
「何か」
「休日のところおそれいります。とりいそぎ、元帥府にお運びいただきたく」フェルナーは頭を下げた。
オーベルシュタインは一瞬、フェルナーの顔を吟味するように視線を向けたが、「しばらく待て」と言い残して部屋を出て行った。
フェルナーは玄関から出て、上官が身支度を整える間、庭で待つことにした。
がさがさっと草をかきわけ、犬が現れた。
「やあ」
フェルナーは言って、犬に手を差し出した。犬は逃げない。
フェルナーは腰を落とした。
「ドルフ?」
犬はぴくり、と耳を動かしたが、じっとしたまま、フェルナーを見ている。
「待たせたな」
軍服を着たオーベルシュタイン総参謀長が現われた。オーベルシュタインは犬に気がつくと、頭を軽くなでた。
フェルナーは立ち上がり、ランドカーへと案内する。
「どうした」
「は。実はシャフト技術大将が……」
フェルナーは技術部から上がってきた情報を、上官に報告した。
元帥府に到着し、さらに詳しく説明する。シャフト技術大将は週明け早々にも、ローエングラム公に作戦の提案をする見込みだった。
オーベルシュタイン総参謀長はフェルナーにいくつか指示すると、帰宅した。
外はよく晴れていたが、冬の日暮れは急ぎ足で近づいていた。元帥府の一室の窓ごしに透明感のある青空を見ながら、フェルナーは数年前のことを思い出していた。
その頃、アントン・フェルナーはゴールデンバウム王朝の門閥貴族、ブラウンシュバイク公爵の私兵だった。陸戦隊に所属していたが、実際のところ皇帝フリードリヒ四世の娘婿であるブラウンシュバイク公とその家族の警護、あるいはお守りが主要な仕事だった。
ある秋の日のことだった。よく晴れていて、空が高かった。ブラウンシュバイク公は、近習とともにオーディン郊外の領地に雁撃ちの狩りに出かけた。ランドカーで数時間走った先に広大な自然林が広がり、湖には雁の大群が羽ばたいていた。
馬に乗り、猟犬を従え、銃をたずさえた公爵は、上機嫌で雁を撃ちつづけた。実際にはその八割がたを仕留めたのは、フェルナーらの近習だったが、皆でさすが公爵閣下、一発必中ですな、などともてはやした。
追従に本気で気をよくするふうの公爵に、扱いが楽で気がいい主君だが、乱世になったときに生き残れるだろうか、という感覚が走ったのを覚えている。
合計十一羽を撃ちとり、引き上げようとしたときだった。一頭の猟犬が、公爵の馬の進路をかすめて走り、馬が驚いて棒立ちになった。公爵はあやうく落馬しかけたが、かろうじて引き綱を握り、馬上に留まった。
「アンスバッハ!」ブラウンシュバイク公は激怒し、側近を呼んだ。
「はっ」
「この犬を撃て!」
「は、しかし…」
「なにを躊躇する、この犬のせいで、危うく落馬し大けがするところだったのだぞ!」
フェルナーは気がついた。犬が馬の進路をじゃまするように走った先には、枯れ葉で隠れていたが、大きな窪みがあった。そのまま馬を走らせていれば、公爵は落馬し、最悪、首の骨を折っていたかもしれない。
犬は、無駄のない体つきのダルマチアンだった。賢そうな瞳で人間たちの様子を見ている。
「何をしている!」
ブラウンシュバイク公は怒りにまかせ、馬の鞭で犬を打った。ギャン、と犬が悲鳴を上げる。長年の経験で、激怒した主君は今、何か言っても受け入れないだろうと判断したアンスバッハ准将は、銃を取り出し、犬の足を狙って撃った。命中し、犬はその場に倒れた。
「公爵閣下、そちらには窪みがあり危険です。回り込んでお通りください」
公爵の癇癪がすこしおさまったのを見計らって、フェルナーが窪みを指しながら言った。ブラウンシュバイク公は窪みに気が付きはっとしたが、ばつの悪さを振り切るように「ふんっ」と言い放つと、馬を進めさせた。
アンスバッハ准将がフェルナーに視線で合図し、フェルナーはうなずいた。アンスバッハ准将らがブラウンシュバイク公とともに立ち去った後、フェルナーは傷ついたダルマチアンを抱え、馬の鞍に乗せた。
この犬は、未来の自分たちの姿かもしれない、とフェルナーは思った。犬が助けようとしたことに気が付いたなら、犬を医者に見せるよう公爵は命じてもよかっただろうに。だが、それをしない人なのだ。それをしなくてもやってこれた人なのだ。
犬が落ちないよう、並足で馬を歩かせ、ブラウンシュバイク公の他の近習たちの目を避けて自分のランドカーに犬を乗せた。自動運転でしばらく走らせたところでアンスバッハ准将から連絡があった。獣医に見せ、後は自分の屋敷に連れてくるように、とのことだった。
フェルナーが連れて行った獣医のところで犬は弾の摘出手術を受け、数週間後にはほぼ完治した。だが、もうあの主君のもとで猟犬として走ることはかなわなかった。アンスバッハ准将は、ドルフという名のそのダルマチアンを自分の飼い犬として屋敷で世話をし、散歩にも連れて行った。
ときたまフェルナーがアンスバッハ准将の屋敷を訪ねると、犬は楽しそうに庭をかけまわっていた。
それから数年して、ローエングラム侯ラインハルトが台頭し、フリードリヒ四世が死去し、後継をめぐってのリップシュタット戦役が始まった。
ローエングラム侯は反乱軍相手に戦勝を重ね、二十歳で元帥に昇進した用兵の天才だった。停滞したゴールデンバウム王朝に不満をもつ平民出身の有能な将兵たちは、次々にローエングラム侯のもとに参集していた。
ブラウンシュバイク公は正々堂々とした戦闘によってローエングラム侯に勝利し、フリードリヒ四世の孫である娘のエリザベートを即位させようとしていた。フェルナーは、数でまさろうと銀河最強のローエングラム軍に勝利することは困難であること、現時点で最良の策はローエングラム侯を暗殺することだと主君に進言した。ブラウンシュバイク公は怒号をもって却下した。フェルナーは独断でローエングラム侯爵の暗殺を謀ったが、あえなく失敗し、投降し、部下にして欲しい旨申し出た。開き直ったフェルナーの言にローエングラム元帥はあきれながらも受け入れ、パウル・フォン・オーベルシュタイン中将に預けた。
それから十カ月。
当初は参謀本部で白い目で見られていたが、切れ者だが冷徹氷のごとしのオーベルシュタイン総参謀長にもひるまず、解毒剤として機能するフェルナーを、周囲は徐々に受け入れていた。
オーベルシュタイン閣下が犬を拾った話は聞いていたが、まさか、あのドルフだったとは。
リップシュタットの際、アンスバッハ准将らはあわただしく帝都オーディンから出立していった。犬のことは使用人にでも申し付けていたのだろうが、彼らも散り散りになったのだろう。犬は餌も十分与えられず、鎖を外して逃げ出したのだろう。賢い犬だった。
そしてあの犬は、オーベルシュタイン閣下を見つけたのだ。
リップシュタット戦役でブラウンシュバイク公は敗北し、ドルフを可愛がっていたアンスバッハ准将はローエングラム侯の右腕、キルヒアイス提督の命を奪った後、果てた。キルヒアイス提督の死に衝撃を受け、三日間彫像のように動かなかったローエングラム公を奮い立たせ、存亡の危機に陥ったローエングラム軍を救ったのは、オーベルシュタイン閣下だった。
ブラウンシュバイク公にも長所はあった。機嫌がよい時には陽気でたいそう気前がよく、フェルナーがいくつか成果を挙げたときには大いに喜び、一足飛びに昇進させた。貴族でもないのにこの年で大佐になったのは、公爵が鷹揚に階級という褒美を取らせたからだ。それでさまざま思うところもあったが、ブラウンシュバイク公のもとにいた。アンスバッハ准将やシュトライト准将もたくみに主君の欠点を補っていた。百年前なら、あれでよかっただろう。
だが、一番肝心なときに、ブラウンシュバイク公はフェルナーらの直言を撥ね付け、滅亡した。
フェルナーは、窓の外を見上げた。
自分はこうして今、オーベルシュタイン閣下のもとで働いている。
冬の空はもう夜のとばりが降ろされ、星々が瞬きはじめていた。
忠誠心であれ、好意であれ、それらを理解し受け入れてくれる相手に向けたほうが、お互いにとって幸福なことだ。フェルナーと犬は、そうした相手と巡りあえることができた。
人生には、よいときもあれば困難なときもある。運や過去に自分がしでかしたことにもよるが、それを選ぶのは、自分たち自身なのだ。
フェルナーは書類を片付けると、元帥府を後にした。
翌日から、新しい戦闘が始まろうとしていた。
犬と空とフェルナーと・終わり
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