最強チームを結成したいなあ (ヘビとマングース)
しおりを挟む

序幕
1 後輩は負けず嫌い


 高く放り投げられたボールを見て、まずい、と思った。

 落下してくる軌道に合わせて緊張感が高まっていき、膝を曲げて、心構えも終えた状態で待つのだが反応できる気がしない。

 腕を伸ばせば届く位置に到達して、ラケットが振るわれた。強くインパクト。日頃とは違う回転を与えられたボールが飛んでくる。

 

 ルール上、サーブは規定の範囲内で一度バウンドしてからでなければ打ち返せない。しかし今回のボールは普段とは回転が違っていて、跳ね上がる軌道も違う。

 ツイストサーブ。地面を跳ねると同時に俺の顔面を狙うかのようだった。

 

 幸いにも俺は何度となくそのサーブを体感していた。だから他人より慣れがある。

 ステップを踏んで避けながらスイング。迎え撃つようにラケットで捉える。意外なほどパワーはあるが理解していれば返せないほどではない。わかった上で打ってきているのは間違いないが返さないという選択肢はなかった。

 

 返されたことについて微塵も驚きを見せずにラリーが始まる。

 相変わらず、上手い。

 おそらく単純なパワーは俺の方が上なのだが、スピードやテクニックは相手の方が上。単純な練習量や努力はもちろん、あまり好きな表現じゃないが才能の違いを感じずにはいられない。

 鋭く、速く、狙いが正確で、嫌味なくらい絶妙にギリギリ届く位置や俺の苦手なところに打ち返してくる。こっちが必死になって走り回ってるのに向こうは余裕の笑みだ。針の穴を通すみたいなコントロールは素直に尊敬するが、こういうところはやなやつだと思う。

 

 ラリーを続けて、一定のリズムでボールがコートを行き来する。スピードは相当なものだろうという自負がある。なんせ俺も限界ギリギリで息が切れるし驚くほど集中力が要る。ここまで付き合えたんなら並の部員の中では優秀な方なんじゃないかとさえ思った。

 

 激しいやり合いの最中に、いよいよ勝負を決めにきた、その瞬間を目の当たりにした。

 右手で持っていたラケットを左手に持ち替えたのだ。

 悔しいことに、この生意気な一年生は左が利き手なのに右手でプレーをして、多少は付き合えても所詮は並の部員を弄んでいたのである。しかもさらに悔しいことに、一矢報いてやりたいと息巻いたところで、毎度の如く左手になった途端にポイント取られてしまう。

 

 惚れ惚れするほどきれいなフォームで、さっきより鋭くなって足元を抜かれた。俺の一挙一動を知り尽くしているんじゃないかと思うほど完璧な一球。

 まるでスナイパーだ。

 そんな陳腐な表現しかできない自分が情けないものの、あいつがすごいのは間違いじゃない。

 

 「まだまだだね」

 

 息が切れたまま肩を落とす。

 そう言って、越前リョーマは俺に笑いかけた。

 

 

 *

 

 

 「お前、俺のこと嫌いなの?」

 

 宮瀬悠介の問いかけに、傾けていた缶ジュースを戻して越前リョーマは驚いた。

 どうしてそんな質問をされたのかが理解できない。彼にしてみれば、いつも通りに練習をして、いい汗をかいた程度の感想だったのに、彼はそうではなかったのか。傷つきこそしないが心底不思議そうな顔で座り込む彼を眺め、逆に問いかける。

 

 「どうしたんすか? いきなり」

 「俺を先輩だと思ってる?」

 「思ってますよ。俺なりに慕ってるつもりですけど」

 「俺の心のケアとか、考えることないだろ」

 

 一体何を言われているのかと考えていたら、その一言でああと納得する。

 練習試合のことを言っているのだ。

 日頃からリョーマは悠介とシングルスの試合をすることが多い。連戦連勝、むしろ負けたことなど一度もない。リョーマは誇るつもりこそなかったが、可能性すら感じられずに負け続けている悠介は積もり積もった感情が大きかったようだ。

 

 理由を察してリョーマは冷静にジュースを口にする。

 考えてみればそのジュースもいつものように悠介に奢ってもらったものだ。試合の勝敗で賭けたわけではなく、彼が先輩だから、という理由だとリョーマは理解している。習慣になってずいぶん経つもので、もちろんお礼は言うがそれも気にしているのかもしれない。

 

 「考えませんよ。勝負は勝負、でしょ?」

 「そりゃそうだけど」

 「俺が手ェ抜いて勝っても嬉しくないでしょ?」

 「そりゃそうだ」

 「だからっすよ」

 「ほんっとに可愛げのねぇ」

 

 素っ気ない対応に呆れる悠介は嘆息した。しかしいつも通りの態度であり、指摘するのも今更であって、そんな彼だから気にかけているという点もある。

 気にするだけ無駄だろう。ふてくされるのをやめて、悠介は態度を変えた。

 

 「まだ一回も勝ったことないなー……まあ、左手使わせるようになっただけマシか。俺も成長してるんだって思っとこう」

 「先輩はうまいんだけどプレーがマジメ過ぎるんすよね。うちは変な人多いのに」

 「それは俺も思うけど、お前も含めてうちを普通だと思うなよ。みんなバケモンなんだ」

 

 切り替えは悪くないらしく、悠介の声はすぐに普段と同じ調子を取り戻す。

 気難しく見られがちな越前とも親しい間柄であり、答える声も冷静さを崩さない。

 

 「俺だって、入部当初はそれなりに自信あったんだ。小学生の頃も結構評価が高い方だったし、中学でも活躍するつもりだった。だから青学に……天才とは呼ばれてなかったけどな」

 「うまいと思いますよ、先輩は」

 「お前に言われてどう答えりゃいいんだよ……」

 「ありがとうでいいんじゃないっすか?」

 「ありがとう」

 「いいえ」

 

 やれやれと言いたげにまた深く息を吐き出して、悠介は壁に背を預けて足を伸ばす。

 すでに部活は終了し、片付けも済んで、いつ帰宅してもいいという状況だ。負けが続いて気落ちしているらしい彼はいつも以上に足が重く、立ち上がろうとさえせずにだらしない姿勢を保ち、帰ろうという様子を見せずに座り込んでいる。リョーマは仕方なく彼に付き合っているだけだった。

 ジュースを奢ってもらったとはいえ、そろそろ帰ればいいのに。そう思いながらも敢えて言わずに黙っている。

 

 気にしているのも確かだが、いつからか普段から二人で行動することが多く、悠介と話すことに戸惑いや緊張はない。何をするでもなく缶ジュース片手に駄弁っている状況は珍しくもなかった。

 挨拶をして帰っていく生徒も多い中、二人はだらだら喋って一向に立ち上がろうとしない。

 

 部室のすぐ傍に居たせいか、当然姿を目撃される。

 帰り支度を済ませて出てきた桃城武は二人を見てにやりと笑った。

 真っ直ぐ帰ろうかとも考えていたのだが思わず足を止めて声をかける。珍しくもない組み合わせとはいえなんとなく気になるのも確かだった。

 

 「お前らずっとくっついてんな。で、越前に負けてへこんでんのか?」

 「うるせーやい」

 「そんなに落ち込むなよ。いつものことだろ」

 「あ、余計に傷つく一言」

 「おっ、そうか。わりぃわりぃ」

 

 からからと笑って言ってやれば、悠介はむすっとした顔でそっぽを向いてしまう。良い反応だとその態度を見た桃城は上機嫌そうだ。

 同学年で同じクラス。ついでに同じ部活に所属している。一年生の頃から親しくしていて、からかうとその顔をして、かといって心底傷ついているわけでもない。相変わらずだと笑うのである。

 今は良い相方が居るようで、意外だが面白い組み合わせだった。

 

 「お前だってレギュラー圏内なんだからよ、あともうちょっと頑張りゃ目指せるんだぞ。だからそう腐んなって」

 「そのもうちょっとがどんだけ遠いか、レギュラーのお前はわかってないんだって……」

 「教えてやろうか、ダンクスマッシュ。俺とダブルス組んでダンクコンビなんかどうだ?」

 「できないっての。そもそもパワーが違うんだから。自分の馬鹿力忘れんなよ」

 

 ジト目で見られてからからと笑うのだが、はたと気付いた桃城は、不意に笑みを消すとすかさず思考を巡らせた。

 冗談のつもりで言ったとはいえ、ひょっとしたら。革新的なアイデアを思いつく。

 上手くいくかはわからない。だがただ単に見てみたい、と強く思った。

 

 「そうだ。お前ら、ダブルスやってみたらどうだ?」

 「は?」

 

 当然と言えば当然だろう。即座に悠介が怪訝な顔をした。

 その反応は予想通り。もし自分が同じことを言われても同じ反応をする自信がある。

 それは、以前に身に覚えがあったからに他ならない。

 

 「いやいや、無理に決まってるだろ。だってお前」

 「わかってるって。俺と組んだ時のことだろ? 確かにあの時はどうにもならなかったが、お前がやったら話は別かと思ってよ」

 「ないない。ただのダブルスならともかく、俺にはみんなみたいなとんでも技はないし、何より組む相手が――」

 「俺はいいっすよ」

 

 言い終える前に悠介が硬直し、驚きを見せた桃城はにんまりと笑む。

 視線は当然、発言した本人へ向けられた。

 平然と、なんでもないことのように言ったリョーマは、沈黙した状況を不思議にも思わずに再度言い切る。

 

 「やってみます? 俺と、ダブルス」

 

 リョーマが悠介を見て呟くと、逃げるように視線を逸らされ、ふと空を見上げた。

 

 「明日……雷かな」

 「ぷぷっ。ああ、もしくは地震かもな」

 「ほんっと失礼っすよね、この人たち」

 

 放心している悠介と楽しげな桃城に、リョーマは棘のある声で呟いた。

 その後で、佇まいを正して、空気を変えようと些か真剣に桃城が発言する。

 

 「真面目な話、宮瀬はシングルスよりダブルスで評価されてるだろ。うちじゃ誰と組んでも上手くやれるのは大石先輩かお前くらいしか居ないんだし、そっちに集中したらどうだ?」

 「それはまぁ、考えたことはあるけど……」

 「確かにうちは層が厚いかもしんねぇが、あとはお前のやる気次第だ。三年生が引退するまで待つなんてつまんねーよなあ、つまんねーよ」

 

 図星を突かれた。耳が痛い。

 入部当初、共にレギュラーを取ろうとやる気を見せていた悠介は、先に桃城だけがレギュラーになったのを素直に祝福した。しかし自責の念に駆られてもいて、諦めている一面も否定できない。

 いつかは。そう思っていても時間は限られている。

 三年生の引退まで待ってレギュラーになるのは、果たして、本当に自分がやりたかったテニスなのかと考える瞬間は多かった。

 

 ぐうの音も出ずに閉口してしまった悠介は思わずリョーマの顔を見る。気付いた彼も首を動かして正面から見つめ返された。

 確かに心は動いていた。しかし見つめ合った途端、猛烈な不安に襲われる。

 悠介は思わず桃城に言った。

 

 「それはそうだけど、なんで越前?」

 「面白そうだろ」

 「お前はほんとに悪い奴だよ……」

 「それ、俺にまでダメージありません?」

 

 中学一年生にして天才的な実力と実戦に対する度胸を持ち合わせる越前リョーマに、決してダブルスをやらせてはいけない。不可能だからだ。

 青学テニス部では決まりごとのように語られ、約束されていた。

 原因は地区大会、桃城とのコンビで見せたダブルスとは呼べない唯我独尊のプレイ。あんなにできないならシングルスに固定した方がいいと誰もが口を揃える。

 

 せっかくやる気になったのに。そう思う悠介は頭を抱えてため息をつき、見るからに失礼な態度を隣で見たリョーマはジト目を向けている。

 けらけら笑う桃城だったが、半分は本気、半分は冗談。発破をかけられればいい程度の軽い気持ちで発言していたようだ。

 

 その気になったのは当人たちより、むしろ話を聞いていた他の部員だ。

 突然ずいっと影が差して、覗き込まれたことに気付くと三人は同時に表情を変える。

 太陽が沈みかけているせいか。分厚い眼鏡がきらりと光った気がした。

 

 「面白そうだな。明日、早速試してみるか」

 「い、乾先輩……聞いてましたか」

 「ああ。ばっちりと」

 

 にこりと笑う乾貞治が立ちはだかっていた。

 様々な部員が居るものの、少なくとも悠介にとって、彼ほど怖い先輩は居ない。

 怒っている姿など一度として見たことがなく、面倒見が良くて、常に穏やかな話口調で理路整然と語る人物だ。部員の大半から尊敬されており、下級生から声をかけられることも多い。しかしその一方で恐れられている一面もある。主に怪しげなドリンクを作る点などだ。

 

 乾がやると言えばおそらく実行されるだろう。頭脳明晰で信用されているだけでなく、様々な選手のデータ収集に燃える彼が黙って見過ごすはずがない。

 げんなりする悠介に対し、気を取り直した桃城は再び笑みを浮かべた。

 

 「宮瀬のダブルスの可能性は慎重に考慮する予定だったが、越前をパートナーにするのは考えもしなかったな。良いデータが取れそうだ」

 「先輩、今までのデータだけで無理だってわかってるんじゃないですか? 一旦冷静になって考えてください。相手はあの越前ですよ」

 「そんなに言われます? 俺」

 「物は試しだ。やってみれば案外ハマるかもしれない」

 

 秘蔵のノートを開き、これまで集めたデータを見ながら、ぶつぶつ言い始めた。

 最も怖い時の乾だ。データが関わると人が変わる。プレーだけでなく全てを見透かされるような気がするのはレギュラー経験のない悠介であっても同じだった。

 

 「じゃ、早速明日だな。楽しみにしてるぜ。逃げんなよ宮瀬」

 「ふむ。軽い練習を用意しておくか。その後は試合だな」

 

 意気揚々といった様子の桃城と乾を見て、悠介は大きく肩を落とした。

 ちらりとリョーマの表情を窺う。

 彼は普段と変わらず、何を考えているのかわからないクールな無表情だ。

 

 「先輩。逃げないでくださいよ」

 

 それなりに付き合いがあるせいか、ついわかってしまった。

 どうやら怒らせてしまったようだ。

 負けず嫌いが本気になった時、どうなるか。同じ部活に居て痛いほど身に沁みている。

 逃げられるわけがないだろうと、悠介には気まずげに顔を逸らすことしかできなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2 ダブルスをやってみよう

 曰く、天才少年だとか。

 曰く、百年に一人の逸材だとか。

 曰く、颯爽と現れた美少年王子だとか。

 

 誰が考えたのか、いつの間にか彼を表現する言葉が増えているのは気になるのだが、日頃から比較的接する機会の多い俺からすればそのどれもがしっくり来ない。

 確かにテニスは天才的。センスはずば抜けてるし練習も真面目にやる。顔が良いのも確かだから美少年も嘘じゃない。百年に一人と言うけど、もっと年数を増やしていいんじゃないかってくらいカリスマ性があるのも認めてる。

 

 ただそれはテニスが関わればの話。

 普段の越前はそこまで褒められたもんじゃない。と、俺は素直に思うわけだ。

 

 まず最初に出てくるのが生意気で、一応とはいえ先輩である俺に対する尊敬が感じられなくて、友達みたいに接してる。

 それは別に怒るようなことじゃないと思ってるし構わないんだが、友達みたいな割には結構無愛想な気がして、笑顔を見る時は大体テニスに勝った時か、ちょっとした勝負に勝った時とか、帰り道で見かけた猫に俺が手を伸ばした途端に逃げられた時とか、ちょっと俺をバカにしてるんじゃないだろうかってタイミングが多かった。

 

 聞いた話じゃ授業中に寝てることも多いらしいし、真面目な生徒ではない。

 帰りにコンビニ寄った時は大抵俺が奢ってる。

 口数が少なくて何を考えてるかわからないことも多くて、実際何も考えてなかったりする。

 あと負けず嫌いで、たまに俺がテニス以外で勝ったりするとすかさず再戦しようとする。

 

 結局、美少年に憧れる女性諸君には申し訳ないのだが、みんなが理想とする優しい王子様なんかじゃなくて、想像よりずっと子供っぽくてSっ気がある生意気小僧なのだ。

 それはそれでギャップがあっていい、とは言われそうだけど。やっぱり顔がいいと有利なのか。

 

 「先輩。次のゲーム、ジュースでも賭けません?」

 

 また始まった。

 勝率は明らかに俺の方が悪い。にもかかわらずこういう提案をしてくるのだ、こいつは。

 これがみんなの理想の優しい王子様なら、「いつも付き合ってもらってすみません。今日は俺が奢りますよ」くらい言ってくれるはずだ。

 

 俺は嫌だと言ってやった。負けるとわかってて誰が乗るか。

 全部説明はしなかったが俺の考えがわかっていたんだろうか。越前はやれやれと言いたげな顔でさっさとコートに入っていく。

 

 「負けるためにやったことなんか一回もないでしょ。やりますよ」

 

 俺の意見を無視するように、そう言って先に構えている。

 こういう状況で位置につくからまた試合をしなきゃいけなくなるんだ。

 やめておけばいいのにと思いながらも、一人で立たせておくわけにもいかないし、仕方なく俺もコートに入ってラケットを構えた。

 

 

 *

 

 

 今日ばかりは部活に参加するのが気が重い。

 悠介の足取りは重く、とぼとぼという表現がやけに似合う速度だった。

 部員に会えば間違いなく言われる。その予想はまさに現実のものとなった。

 

 「うっおほーい! 聞いたよユースケ、おチビとダブルス組むんだって? 面白そうじゃん!」

 「それ、ほんと純粋に面白がってますよね……」

 

 準備を終える前に、飛び付くようにして肩を組まれて、菊丸英二に絡まれた。天真爛漫で人好きな彼は先輩でありながらそう感じさせない態度で慕われている。心底楽しそうに声をかけられるのは今日が初めてのことではない。

 ただ迎える悠介の心境が普段とは違い、いつものように笑顔で返事ができなかった。

 

 「あり? なんかテンション低いじゃん。どったの?」

 「言っときますけどね、俺は普通の人間なんですよ」

 「俺だって普通の人間だよ?」

 「残像できるくらい高速移動できる人を普通とは言いません」

 「あ~菊丸ステップね。教えてあげよっか? 今のユースケだったらちょーっと走り込み頑張んなきゃだめだと思うけどね」

 「ちょっとで済んだら、世の中のテニスは分身だらけですよ……」

 

 げんなりした顔で背中に菊丸を張り付けたまま、ラケットを手にした悠介は部室を出る。

 最初でこれだ。みんな全力でからかってくるに違いない。

 幾分憂鬱な気分になりながら、悠介は菊丸と共にコートへ入った。

 

 そこではすでにリョーマが待っていた。簡単にアップを済ませ、すでにラケットを手にし、事前にメニューを考えたのだろう乾の隣に立っている。

 準備は万端。そう見える状況だ。

 逃げられるはずもない。よしっと気合いを入れて、腹を括ろうと覚悟を決める。

 

 「宮瀬、越前とダブルス組むって? すごいことを考えたな」

 

 そんな矢先、うきうきした様子の大石秀一郎がひょっこり顔を見せてきた。

 出鼻をくじかれる。顔つきを変えたはずの悠介は再び気の抜けた顔になってしまい、ずいぶん嬉しそうな副部長に嫌そうな視線を向けた。

 

 「お前はダブルスに向いてると思ってたんだ。今日は練習の成果が出せそうだな」

 「大石先輩……なんか嬉しそうですね」

 「うん、もちろん。ダブルス1は俺たちが任されることが多いけど、うちはダブルス2が変動的だからな。二人に任せられるならこんなに頼もしいことはないよ」

 「多いも何も、ダブルス1は黄金(ゴールデン)ペアが固定でしょうに……」

 

 全国区と称された大石・菊丸の黄金(ゴールデン)ペア。青学テニス部が誇る唯一のダブルスであり、その他の広く知られた選手はほとんどがシングルスプレイヤーだった。

 三年生として、二年生に後継者となる部員を見つけられる可能性を感じて、いつになく頬を崩して喜んでいるのだろう。

 珍しい姿を見てしまって、なんとなく居心地が悪くなった悠介は困り果てていた。

 

 喜ぶ大石を見てしまうと断ることができなくなる。

 全国大会優勝を目指し、視野に入っている青学テニス部だ。悠介は、自分ではそのレベルについていけるはずがないと思っていて、期待されていると察して胸が苦しくなる。

 

 純粋に喜ぶ大石を見て、ペアを組む菊丸もそれもそうだと喜んでおり、この二人と比べられるのはかなり辛いとどんどんプレッシャーが大きくなる。

 止めてくれる人はきっと居ないのだろう。

 全学年、男子テニス部の全員が噂を聞いて注目していた。

 

 「わかってると思いますけど、俺は別に、全国区のプレイヤーじゃないんで……」

 「何言ってるんだ。お前だって青学の練習についてきただろ? もっと自信を持て」

 「そーそー。ま、とりあえずやってみなきゃわかんないにゃー」

 「気楽に考えて……」

 「いーぬいっ。ユースケとおチビの相手、俺たちがやるよん」

 「えっ」

 

 菊丸の提案に悠介が驚愕した。

 勢いよく乾を見たのは抗議のつもりである。断ってくれ。彼の目は雄弁に語っていた。

 その目と熱意を感じた乾は頷く。

 

 「そうだな。何パターンか試すつもりだから、最初は二人にやってもらおう」

 「鬼かあんたはっ!?」

 「ん? なんで?」

 「俺の話ちっとも聞いてませんよね……! 俺はテニスプレイヤーとして普通ですよ、普通! 全国区のバケモンレベルとやれるわけないでしょ!?」

 「そうとも限らないさ。シングルスならともかく、ダブルスだ」

 

 あっけらかんと否定されて、覆りそうもないと瞬時に察し、大きく肩を落とした。

 やれやれと言いたげなリョーマがため息をつき、落ち込む悠介に語りかける。

 

 「ビビり過ぎなんすよ、先輩は。そんなんじゃ誰とやっても勝てませんよ」

 「お前だって全国区だろうからさぁ、普通のレベルの気持ちがわかってないんだって……」

 「弱音はいいんで、とりあえずやりましょ。俺はもう準備できてるんで」

 「越前もこう言ってるんだ。先輩のお前がそんな態度でどうする」

 「後輩でもこいつの方が強いんですよ? あーもう……」

 

 聞く耳を持たない先輩たちに辟易としながら、逆らおうともせずに悠介は閉口する。

 

 「色んな意味で勝てるわけないよなぁ。個性が強過ぎるんだから」

 「先輩はあんまないですからね」

 「お前俺のこと尊敬してないよね? 馬鹿にしてる? 結構下に見てる?」

 「見てないっす。尊敬してますよ、先輩として」

 

 どうだかな、と不貞腐れ気味に自嘲して、悠介は菊丸たちと共にウォーミングアップを始める。部員たちは体を温めながらもそわそわしており、誰もがその時を待ち切れずにいたようだ。

 一年生にして実力でレギュラーの座を勝ち取った越前リョーマ。シングルスは天才的に強い、ダブルスは壊滅的に弱い彼が、いつもくっついている宮瀬悠介とダブルスをする。こんなに面白い事態があり得るとは想像もしなかった。

 

 気が乗らないのは別として、怪我をしないために準備運動は入念にする。特に今日はおそらくかなり動かされる。フフフと笑う乾が恐ろしかった。

 ようやく一息つける頃、タイミングを見計らっていただろう他の先輩もやってきた。

 

 「やあ宮瀬」

 「あっ、不二先輩。河村先輩」

 

 パッと悠介の表情が明るくなった。

 穏やかな表情で近付いてきた不二周助と河村隆は、他の部員と同様、すでに噂を聞き付けて楽しみにしている様子に見える。

 悠介からも歩み寄り、正面に立って向き合った。

 

 「聞いたよ。面白いことになってるね」

 「あの越前とダブルスかぁ。前のことがあったから、考えもしなかったよ」

 「お二人も楽しんでるみたいですね」

 「うん」

 「いやぁ、宮瀬の気持ちもわかるんだよ? 俺も似たようなものだからさ。他のみんなが凄過ぎて気後れしちゃって……」

 

 悠介にジトっとした目で見られたからだろう、平然と答える不二とは異なり、わずかに焦りを見せた河村が頭を掻きながら咄嗟に言った。

 その様子を見た菊丸がにししと笑ったのを、悠介は視界の端で捉えていた。

 嫌な予感がする。そう思った直後にはラケットを持ってきた菊丸が小走りで接近し、気まずげにしている河村へ手渡した。

 

 「バーニングッ!! オラオラ宮瀬ェ! しょぼくれてるんじゃねぇぞ! カモーン!」

 「なんで渡すんですか」

 「にゃははっ。勇気づけようと思って」

 「逆効果でしょうよ……ほら、ラケット振り回して」

 

 ラケットを持つと豹変する。河村隆の最も大きな特徴だった。

 普段は温厚で心優しい彼なのだが、ラケットを握った途端に異様なほどテンションが上がって、英語交じりで絶叫する。入部した生徒がまず最初に衝突する壁だ。

 今ではすっかり慣れている悠介も、初めて見た時にはあまりの変わりぶりに開いた口が塞がらなかったことを思い出す。

 

 満足した菊丸は早々に去っていき、練習試合に備えるため大石と軽くラリーでもしようとコートへ入っていく。

 残された悠介は温和に微笑む不二と共に、通称“バーニング状態”の河村を眺め、なんとも言えない気持ちで立ち尽くしたままだった。

 

 「あれがなければ、わかるって話も受け入れられるんだけどなぁ……」

 「変わりっぷりが面白いよね、タカさんは」

 「不二先輩も似たようなもんですけどね、結構」

 「そう?」

 

 自覚がないのかきょとんとしている。

 温厚さは平時の河村と似たようなものだが、不二周助は“天才”と称され、名実ともに青学テニス部のNo.2として知られている。普段は優しいこの男も、試合になればその普段を忘れるほどの強さを見せつけ、全国区として期待されている。

 とんでもない奴しか居ないのかと、悠介は逃げるように視線を外した。

 

 「ほんとに、ここの人たちは、俺からすれば正直立海を見るより心折れますよ」

 「宮瀬は乾と一緒にデータ収集行ってるもんね。今年も手伝ってるの?」

 「まあぼちぼちと。後輩の面倒看るのも忙しいんですけどね。かなり手がかかるんで」

 

 ちらりと見られたリョーマは視線に気付いて振り返った。

 

 「なんすか?」

 「可愛い後輩を持って嬉しいって言ったんだよ」

 「でしょーね」

 「あ、怒りたいな」

 「どうぞ。俺先にコート入ってますから」

 「聞く気ねぇじゃねぇか」

 

 言い終えて本当に背を向けて遠ざかってしまい、口を閉じざるを得なかった。

 どことなく悔しげな悠介を見て不二は楽しそうに笑う。

 

 「ふふっ。仲が良いね」

 「そう見えますか……まあ慣れましたけどね」

 「おい」

 

 傍を通り過ぎる一瞬、声をかけられて悠介は海堂薫に気付いた。

 無愛想で怒りっぽくどこか不気味。しかしテニスにかける情熱は人一倍。人は彼を“マムシ”と呼んで恐れている。

 同学年である悠介は微塵も恐れずに顔を向け、こちらを見ない海堂に答えた。

 

 「ダブルス組むだと? 本気か?」

 「そうらしい。俺の意思じゃないんだけど」

 「フン……足引っ張るんじゃねぇぞ」

 「なんでそういうこと言うの? ねぇ?」

 

 ちょうど気にしている一点をぐさりと刺されて、ほんのわずかだが足が揺れた。悠介は恨めしく睨みつけるのだが海堂は意に介さず、早々に練習へ向かってしまう。

 まるで当て逃げのようだと、話すことさえ許されない状況にもやもやした感情が残った。

 

 「発破をかけたんだよ」

 「俺はそう思いたくないです」

 「おーっす宮瀬。準備できてるか?」

 「ああ、残念ながらね」

 

 駆け寄ってきた桃城が豪快に悠介と肩を組む。

 もうどうにでもしてくれといった心境だ。抵抗はせず、力を加えられるがままに体が揺れる。

 桃城はずいぶん楽しそうで、他の部員同様に心待ちにしている様子だった。

 

 「手塚部長も認めてくれたってよ。今日は特別、お前が主役だ」

 「嬉しくないなぁ……」

 

 桃城に促されて視線を動かすと、青学テニス部の絶対的No.1である、全国区どころか強豪校も高校も大学も、プロテニスプレイヤーでさえ注目する部長がこちらを見ているのに気付いた。

 手塚国光。“天才”不二周助でさえ勝てない圧倒的な実力者。

 クールで口数が少ない彼とは会話した回数が多くない。不思議と緊張してしまう。それなりに距離があってもなぜか姿勢を正してしまった。

 

 途端に固まった悠介に笑い、顔を寄せて桃城が囁く。

 視線を向ける相手は手塚。青学テニス部が誇る柱。中学テニス界でも中心に居る人物。

 

 「お前は不本意かもしれないけど、チャンスだぞ。今まで黙ってたのが不思議なくらいだ。そろそろ爆発して、本当の力を見せてやれよ」

 「お前俺のことサイヤ人かなんかだと思ってる? 全然違うから。一緒にすんなよ」

 「まあ物は試しだ。手ェ抜かないで思いっきりやれ」

 「そりゃ、手を抜くつもりはないけどさ……」

 「だったら大丈夫だ。行ってこい」

 

 背中を叩かれて強引に前へ出される。馬鹿力に表情を歪めながら、悠介は自分を待っているであろう手塚、乾、リョーマの下まで進んでいった。

 迎えられて緊張が増す。せっかく温めた体も冷えてしまったのではないか。

 いつまで経っても手塚には慣れず、些か表情を硬くしながら悠介が到着した。

 

 「宮瀬、話は聞いている」

 「どうも……すいません、なんか。急な展開で俺も驚いてて」

 「いい機会だ。今後お前がダブルスを率いるようになれば、青学の戦力は大幅に向上する」

 

 一瞬、きょとんとしてしまった。

 誰の話をしているのだろう。そう思ってしまう。

 自分についての話をされているとは思えずに困惑してしまい、沈黙が生まれて、わずかに時間を置いてからようやく察した悠介が恐る恐る口を開いた。

 

 「……え? 俺、ですか?」

 「そうだ」

 「なんか、その……結構評価されてる感じ、に聞こえたんですけど」

 「その通りだよ。俺たちはお前が思ってるほど下になんて見ていないぞ」

 

 答えたのは乾だった。すでに頭の中ではこれから始める練習試合、今後のオーダー、三年生が引退した後の部活動についても思案している。

 混乱する悠介を置き去りに、そそくさと話を進めようとしていた。

 

 「早速だけど始めようか。先に簡単なダブルスの基礎的な動作を確認して、それからすぐに試合に移ろう」

 「ちょ、ちょっと、まだ俺のショックが引いてないんですけど……せめて落ち着いてから」

 「時間がもったいない。それじゃあ越前、まず大石と菊丸から基礎を――」

 「あ、待ってください乾先輩」

 

 混乱したままだったとはいえ、確固たる考えはあったようだ。

 乾を止めたのは悠介で、言葉を止めて発言を促されるとすかさず伝えた。

 

 「練習はいいです。試合からやりましょう」

 「いいのか?」

 「こいつを型にはめて基礎通りにプレーさせる方が難しいでしょ? 実戦経験積ませた方がいいと思うんで、細かいことは後でなんとかします」

 「ふむ、確かに……問題はあるか?」

 「俺はいいっすよ。そっちの方が手っ取り早いんで」

 

 ぼすぼすと軽く叩くように頭を撫でられ、目深にかぶってしまった帽子の位置を直す。平然と受け入れたリョーマは抗議もしなかった。

 あの越前が、ずいぶんな懐きようではないか。

 驚きを込めて二人を眺めて、乾は嬉しそうに微笑む。喜ぶのは二人が良い関係を築いているからではない。この関係なら良いデータが取れそうだからだ。

 

 「早速始めるか。二人とも、コートへ入ってくれ」

 

 言われた通りに悠介とリョーマがラケットを手にコートの中へ移動する。

 ネットを挟んで向こう側、わくわくした顔で菊丸と大石がすでに待っていた。

 やるしかない。諦めにも似た覚悟を持って、悠介はまず最初にリョーマへ声をかけた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3 ダブルスをやってみよう

 例の如く帰り道でジュースを奢ってやって、別に何をするでもなく公園のベンチに座り、走り回る子供たちを見ながらふと思い立った。

 本人は学校に流れる噂について知っているんだろうか。

 試しに越前に聞いてみた。

 

 「なんすか、それ。王子様?」

 

 そう言っている人が居るらしい。多分女子。

 教えてやるとふーんって生返事をして、さほど興味なさそうにジュースをすすってる。

 

 確かに、前々から異性への関心を見せない美少年だった。照れているのか、と普通なら思うかもしれないが、日頃付き合ってると演技じゃないことがわかる。本当に興味がないのだろう。

 一方で交流のあるらしい女子の話も聞いたことがあって、それはそれで安心したが、こういうことを考える俺は親なのかと自分でつっこみたくなる。

 とはいえ、おそらく交際するとかそういうのはないだろう。決して嫌ってるわけじゃないようだが日頃から気にかけているという様子でもないし、本人に会えばそれなりの会話はするようだが、慌てふためくドジっ子の面倒を看ているといった感じだ。

 

 彼女ができたと言われたら、俺はひっくり返る自信がある。それくらい素振りはない。

 まだしばらく遠巻きに眺める女子たちの黄色い声援は続くのだろう。

 確かにわからなくもない。顔はきれいだし、テニスは素人目に見たって全国レベル。クールで女子に興味を示さないマイペースさも、ファンにとっては堪らないポイントなのだと予想する。

 残念ながら、俺にはないものばかりだ。女子からの人気も含めて。

 

 「先輩は結構地味っすからね。ゴールデンペアとか、そういうのあれば別ですけど」

 

 うるせーやい。そんなの、言われなくても自覚してる。

 うちのテニス部は化け物揃い。少なくとも俺はそう思ってる。

 

 これでも俺だってそれなりにテニスが上手いつもりで部に入った。小学生の頃からやってたし、成績は良い方で、全国的に名前が知られるとかそんな展開はもちろんないけど、中学の部活程度ならそこそこやれる自負があった。

 それなのに入ってみれば、ほとんどが俺なんて足元にも及ばないレベルで、補欠組では一番上手いけどレギュラーにはなれない。それが定位置。

 

 二年生でもレギュラーになってる奴は居るのに、俺はそうなれず。

 新入部員の指導役として頼りにされているけど実は一番辛い位置にも思えて。

 まあ、そのおかげで、このとっつきにくい越前と仲良くなれたんだけど。

 

 「いっそのこと、俺とダブルス組みません?」

 

 まさかの提案だった。当然一笑に付す。

 そんな俺に越前の反応は意外なものだった。

 

 「結構、本気なんすけどね」

 

 

 *

 

 

 「とりあえず、テニスの基礎とか考えるな。俺たちのルールでやろう」

 

 試合開始を前にして、悠介はリョーマにだけ語りかけていた。

 うきうきして待つ菊丸と大石だが、ダブルスを専門として腕を上げただけはあり、二人の会話が重要だと知っているのだろう。文句も言わずに終わるのを待っている。待たせているのは申し訳ないと思いながら、最初の取り決めは重要だと悠介は妥協しなかった。

 

 「いいですけど、俺たちのルールって?」

 「お前ダブルス嫌いだろ」

 「まあ、どっちかと言えば」

 「俺から見るとはっきり鮮明に嫌いそうなんだけど、今それはいいや。前に乾先輩が言ってた。お前はシングルスが得意だし、基本の守備範囲が広過ぎる。だから普通なら取れないような球も拾えてしまって、それがチームの不和になる」

 

 リョーマは以前地区大会で桃城と組んだダブルスの試合を思い出した。

 思う通りに動けず、事前の取り決めでセンターに来たボールは返せるものの、それ以外の打球でずいぶん苦労した。

 動きが良過ぎて、広範囲を守れるのに、二人で動くと新たな穴が生まれる。にもかかわらずお互いにフォローができない。

 

 苦い思い出だ。

 その後、桃城は別の人とダブルスを組んで一定の評価を得ていたのも複雑な気持ちだった。

 他でもない悠介が気にかけてくれていたのが唯一の救いだ。

 

 「気にすんな。拾いたいやつは全部拾え。拾えないのを、俺が拾う」

 

 だからか、そう言われたのを驚きもせずに、すとんと何かにハマるように納得できた。

 リョーマは普段と変わらない表情で悠介を見つめ返す。

 

 「いいんすか? そんなので」

 「それくらいの方が簡単だし実行しやすいだろ」

 「確かに……俺が取れない球、全部取れます?」

 「ううん、いや、努力はする。でも取れなくても怒らないでほしい」

 「さあ、それはどうでしょう」

 「お前はさあ、ダブルスとして上手く付き合おうって気持ちはある?」

 

 悠介の右手がリョーマの顔を掴み、両頬をむぎゅっと中心へ寄せられた。痛くはないが屈辱的な格好である。リョーマは咄嗟に離れて彼の手から逃れた。

 周りからくすくすと笑われていた。いつものやり取りだ。期待されている反面、なんとなく微笑ましく見守られている気もして居心地が悪い。

 はあ、と息を吐く。意識を切り替えた。

 

 グリップを握り直す。

 体調は万全。やる気も十分。

 不思議と燃えるものがあって、確かにシングルスとは違うようだ。

 

 「俺、先輩に気ィ使いませんよ」

 「使ったことなんかないだろ。いいよ。点を取りに行け。できる限りフォローしてやる」

 「りょーかい」

 

 作戦らしい作戦もないが、ひとまずルールは決まった。

 ようやく大石と菊丸に向き直って、準備が整う。待ちきれないと言いたげな菊丸は早くも腕の上でラケットを回しており、本気で挑む気概を見せていた。

 

 「お待たせしてすみません。もう大丈夫なんで」

 「遅いぞー! 早くやろやろー!」

 「構わないよ。話し合いは大切だ。練習とはいえ良い試合をしよう」

 「っス」

 

 ネットを挟んで対峙して、審判台には発案者の乾が座った。

 やる気を見せる四人に対して、乾が指を伸ばしながら説明を始める。

 

 「いくつかパターンを試したいから、一試合3ゲームで終了。タイブレークはなし。先にどちらかが3ゲーム取った時点で決着とする」

 「おっけー」

 「わかったよ」

 「じゃあ始めよう。サーブは大石から」

 

 乾の態度を見れば何を考えているのかよくわかる。様々なデータが取りたいから、目一杯今日を使ってあらゆる組み合わせを試すつもりだ。そのために些か急いでいるのを感じる。

 試合がどんな展開になろうと間違いなく疲れる流れだ。

 始まる前から気疲れしたが、大口を叩いた以上はそれなりに良いところを見せなければ。気合いを入れ直して悠介は定位置に移動した。

 

 同校に所属する以上、練習の中で先輩と試合をする機会はあった。

 今日は今までと何かが違う。悠介は対峙する大石と菊丸の本気をひしひしと感じ、同じように感じているだろうリョーマが平然としている姿に肝を冷やした。

 度胸が据わっている。後輩だが、頼りになると思うくらい堂に入っていた。

 

 気付けばしんと静まり返っている。

 練習していた部員たちが、試合が始まるのを察して手を止めたのだ。

 誰もが注目している。良い緊張感だ。

 

 大石がボールを上げて、サーブを打つ。

 基本に忠実な美しいフォーム。狙い違わずのコントロール。鋭い打球が地面を跳ねて、待ち構えていた悠介の正面へ飛び込んできた。

 こちらも基本通りのフォームでタイミングを待って打ち返す。

 早速仕掛けたのが菊丸だった。ネット際まで素早く駆け付けて、躊躇いもせず跳び、大胆なダイビングボレーで二人の間を抜こうと飛び込んできた。

 

 黄金(ゴールデン)ペアはここからなのだ。仕掛けるきっかけは大抵菊丸で、攻撃的で柔軟性の高いアクロバティックプレーを得意とする。敵の目を引く菊丸が起爆剤となり、派手さはないが広い視野と柔軟な判断力、緻密なコントロールを持つ大石が全体を指揮する。まさに理想的なダブルス。息の合い方も尋常ではない。

 最初の展開から二人の本気を感じ取り、悠介は思わずぞくりとした。

 

 間を狙われるだろうと悟っていたのだろう、わずかに後ろへ下がっていたリョーマが冷静に待ち構えて菊丸の打球を返す。

 驚くのはその直後だ。逆サイドに居た菊丸がもう目の前に居た。

 リョーマの打球をボレーで返し、慌てて悠介が拾う。

 

 「おチビ、俺と勝負する?」

 「いいっすよ。自信失くさないでくださいね」

 「にゃはは。面白いこと言うじゃん」

 

 リョーマも前へ出てネットについた。挑発に乗って菊丸と対峙する。

 その間にベースラインで向き合った大石と悠介がストロークを打ち合い、お手本通りのきれいなラリーが何往復も繰り返された。

 

 「はっ!」

 「大石先輩、良い打球……!」

 

 きゅっと靴音が鳴った。

 菊丸が準備をするように足を動かし、ふっと息を吐く。

 二人のストロークを見ながら眼だけがくりくりとよく動いていた。

 

 「おチビさぁ、俺の試合見てたから知ってると思うけど、俺――」

 

 リョーマの視界から菊丸の姿が掻き消える。気付いた時には大石と悠介のラリーに一息で割って入り、ベースラインまで刺さる鋭い打球をボレーで捉えた。

 虚を衝かれた悠介の肩が跳ね、打球を返しながら菊丸が笑う。

 

 「けっこー足速いんだよね」

 「知ってますよ」

 

 その直後、リョーマが眼前に現れる。

 菊丸のボレーをボレーで返して、空いたスペースへ飛び込むのを冷静に大石が拾いに行った。

 さほど驚いてもいなかったが、正面に捉えた菊丸を見て笑う。

 

 「でも俺もけっこー速いんで」

 「にゃはは、面白い!」

 

 逆サイドへの打球に危なげなく追いついた大石が、空いたスペースへ打ち返す。

 すでに走っていた悠介が当然のように追いつき、すかさず打ち返した。

 

 「本当に、お前の気持ちがわかる気がするんだ! 宮瀬!」

 「はい?」

 

 再びストローク勝負になり、大石と悠介が互いに相手の足を縫い付けるべく打ち合う。

 そんな最中、楽しそうに笑って大石が言った。

 

 「気ままな相方を持つと、苦労するよな!」

 「はは、まったく、その通りです」

 

 悠介がボールを打ち返した時、瞬間移動したかのように菊丸の姿が現れ、打ち返されると間髪入れずにリョーマが打ち返し、相手のコートへ返す。

 今度は違う。リョーマのボレーを、再び菊丸がボレーで返したのだ。

 リョーマでも反応できない速攻。あり得ない速度で反応されてしまった。

 

 アクロバティックプレーの本領発揮であった。

 大胆に飛び込み、しなやかに着地、起き上がるより先にボールへ跳びついている。

 まるで猫だ。ネット際であのスピードに対応できる選手は多くない。

 

 後衛を務める悠介が前へ出て追いつき、菊丸が居る位置とは逆サイドへ打ち返そうとする。その刹那、すでに逆サイドへ移動し終わっている大石の姿を見た。

 正面に打つことになるが仕方ない。判断は一瞬。

 悠介が眉を動かしたのはボールを打ち返した後だった。タイミングを合わせて打球を待ってから構えが変えられる。視認した瞬間、考えもせず咄嗟に叫んでいた。

 

 「越前! 後ろだ!」

 

 越前も状況を理解し、反射的に足を動かそうとする。

 大石の十八番、ムーンボレー。強烈なトップスピンをかけたボールは、相手選手の頭上を越えて大きな半月状の弧を描き、ライン上ぴったりに着地してポイントを取る。

 咄嗟の判断で悠介はそれが来ると判断した。しかし大石は、そうするだろうと思って敢えていつもの構えを見せ、リョーマの動きを見てからスイングを変える。

 

 高く舞い上がるムーンボレーではなく、直線的にボールが進むただのストローク。得意技が知られていることを利用したフェイントだった。

 悠介は呆気に取られ、してやられたと思う。

 一方でリョーマは違った。

 

 「知ってるよ」

 

 きつい角度で来る打球を、回避するため動いた菊丸が取れない位置へ、強烈なボレーで見事に沈めて返した。今度の打球は誰にも触れられずに2バウンドを超える。

 今度は大石と菊丸が唖然としていた。

 乾が手を上げて宣言する中、テニスコート全体に重い沈黙が広がる。

 

 「0-15」

 

 言い終えた途端、わっと歓声が上がった。

 見応えのある高レベルの攻防に加えて、上級生であり、青学No.1ダブルスの“黄金(ゴールデン)ペア”から先にポイントを取ったのが、あの越前なのだ。ダブルスだけは信じられないくらいド下手くそな越前リョーマがダブルスで点を取ったのだ。

 部員の盛り上がりは早くも最高潮に達し、テニスコートは異様な熱気に包まれる。

 

 まだ試合は始まったばかり。たった一回ポイントを取られただけ。

 それでも、大石の喜びと、菊丸の悔しさは周囲と大差なく、大げさなほどに大きかった。

 

 「くっそー! 悔しい! おチビに点取られたぁ~!」

 「すごいな。完璧に逆をついたと思ったのに、読まれてたのか……」

 

 周囲がやかましく、リョーマはやれやれと帽子のつばに触れる。

 この程度で何を喜んでいるんだか。

 呆れてそう思っていると、近付いてきた悠介に声をかけられた。

 

 「越前」

 

 わずかに上げた右手が差し出されていて、やれやれと思いながらもぱしんと叩く。

 

 「ナイスプレー」

 「ども」

 「よくわかったな」

 「先輩だってわかってたでしょ?」

 「両方あるのは知ってるけど、流石にあの一瞬じゃ判断できないって。お前がすごかった。あれでいいからな」

 

 どういう意味なのだろうと顔を見上げれば、彼の顔には笑みがある。

 程よく緊張を残しながら、余分な力は抜けたらしい。晴れ晴れとした表情だった。

 

 「多分、俺が指示を出すこともあるけど、聞いてもいいし聞かなくてもいい。判断は任せるよ。とにかく点を取れば勝てるんだから点だけ取りゃいい」

 「それ、元も子もないこと言ってません?」

 「でも真理だろ? とにかく、今のプレーはよかったってことだ」

 

 言って悠介は定位置につくため離れていく。

 リョーマは再度、照れ隠しのように帽子のつばに触れた。

 ダブルスなんて。そう思っていた節もあったが、今の感想は少し違う。

 心境の変化は彼だけではなかったようだ。

 

 「あのさ」

 「はい?」

 「こういう、本気でやり合うみたいな試合、久々なんだけど……」

 

 照れていたのかもしれない。振り返った悠介は子供のようににこりと笑った。

 

 「結構、楽しいな」

 

 虚を衝かれてきょとんとしてしまった。意外な言葉だ。

 すぐにフッとニヒルな笑みを見せ、リョーマは普段の振る舞いを取り戻す。

 

 「勝ちに行きますよ。途中で気ィ抜かないでください」

 「おし。って、なんか逆転してない? そういうのって俺が言う……」

 「いいから、ほら。早く戻って」

 「おチビー! ユースケ~! こっから本気だからな! ぜーったい負けないかんな~!」

 

 菊丸の気合いの入った大声も通り、再度意識を研ぎ澄ます。

 たった1ポイント。この後完封されては意味がない。

 勝負はまだこれからだ。

 更なる気合いと覚悟を込めて、周囲の熱気にも負けぬよう、二人は身構えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4 ダブルスをやってみよう

 以前、一年生と組んでダブルスをやった姿を見たことがある。

 その結果、越前に対する部員の評価はこれ以外ないとはっきり固定された。

 シングルスは天才的。ダブルスは凡才以下。

 

 とにかく息が合っていなくて、些細なミスを繰り返すのだ。シングルスとして考えて動けばその技術はむしろ中学生とは思えないほど素晴らしくて、きっと見せる場所に見せればスカウトが止まらないほどだろうと思える。

 それなのに、ダブルスとなるとなぜか動きに躊躇いが生まれて、コンビを組んでいる人間と動きが合わずにちぐはぐになり、それほどすごい球でなくても拾えなくなる。結構短気だからイライラしてシングルスとして動き出すと、それはそれでコンビの不和を生んで、ほんの一時盛り返すことができても結局は勝てない。

 

 本人が言うには、ダブルスになると途端にコートが狭くなるらしい。

 一人で自由にさせておくから強いんであって、この男を使うなら確実にシングルスで。それは上級生も同級生もなく全員一致でそう思った。それくらいひどい試合をしていた。

 誰と組んでもそうだったのだ。ここまでくると逆に才能なんじゃないかとさえ思う。

 

 そんな越前が、唯一ダブルスの可能性を感じさせたのが、なんでか知らないが俺だったわけだ。

 任せる時は素直に任せて、自分のテリトリーに来たら思うままに打ち返して、他の人と組むのに比べて格段に伸び伸びしていた。それは一緒にプレーしていた俺も思う。

 逐一俺が指示を出しながらの試合ではあったとはいえ、結果的に負けたのだが、唯一良い試合をしたとして拍手をもらってしまった。

 あの時の越前は複雑そうな顔をしていて、でもほんの少しだけ嬉しそうだったと思う。

 

 あれ以来、誰も越前にダブルスをやらせようとはしなかったし、本人も言い出さなかった。個人のスキルを上げた方がよほど効率的だと思ったんだろう。

 俺も同意見だったので、尚更その発言が恐ろしかったのだ。

 

 「先輩と俺なら、練習すればなんとかなる気しません?」

 

 表情を改めて確認する。

 これが意外と、ふざけているようには見えないから困る。口角が少し上がっていて、なんだか楽しいことを考えたという雰囲気だ。

 どう判断すべきなんだろう。返答に困る。

 

 「そしたら先輩もレギュラーになれそうですし。うち、ダブルス足りないんでしょ?」

 

 それは確かにそうなのだ。

 有名な三年生の“黄金(ゴールデン)ペア”が居る一方で、もう一組戦力が欲しいところ。

 先生もそう言っていたとはいえ、果たしてそれが俺と越前でいいのか?

 冗談ですよ。そう言ってほしいのに言ってもらえず、しばらく俺は考え込む羽目になった。

 

 

 *

 

 

 地響きのような歓声を聞いて、学校中の生徒が異変に気付いていた。

 その中で興味を持って見に行こうとするのは一部だっただろうが、青春学園中等部の男子テニス部がやたらと強いのは広く知られていることだった。

 何かあったのだと気付き、足早に向かう人物は少なくない。

 

 「桜乃、早く! 絶っ対リョーマ様よ! リョーマ様が活躍してるんだわ!」

 「ま、待ってよ朋ちゃん……」

 

 男子テニス部で何かがあったと悟り、女子テニス部の部員が観戦に行ってしまった。

 その気に乗じて、女子テニス部員の竜崎桜乃(さくの)と、その友達の小坂田朋香は、憧れの存在である越前リョーマの雄姿を一目見ようと急いでいた。

 

 「堀尾君早く! 今日、越前君がダブルスの練習試合するって!」

 「絶対もう始まってるよ! だってさっきの声……!」

 「あーもうっ、わかってるって! 委員会だったんだからしょうがないだろ!」

 

 男子テニス部一年生、堀尾、カチロー、カツオの三名は練習に遅れており、特別な大イベントがあると知っているが故に急いでいた。

 なんとしても、越前リョーマのダブルスは見なければ。

 そういった熱意が感じられる走りでコートへ急いでいた。

 

 「さあて、どうなるか……」

 

 男子テニス部顧問、竜崎スミレも、少し遅れてテニスコートへ現れた。

 予想していたとはいえ、盛り上がりは上々。

 試合の模様をその目にした時、穏やかだった笑みはさらに深まった。

 

 激しいラリー。負けん気の強い奇襲。奇抜なアクロバティック。

 技の応酬で激戦となり、取って取られて、互いに攻撃の手を緩めない殴り合いとなった。白熱した攻防はただ見ているだけの観衆まで熱くし、かっこいい人が居るだろうと思ってやってきたテニスを知らない生徒にまで拳を作らせる。

 部員同士では珍しい、本気のぶつかり合いがいとも容易く人々を変えていた。

 

 一瞬の隙をついて菊丸がフリーになった。ネット際の攻防に執着し、徹底的なマークで追い縋ろうとしていたリョーマは、珍しいことに目を丸くする。

 ふわりと浮いた甘い球。大石のムーンボレーがチャンスを作った。

 すかさず着弾点を察知し、悠介は後ろへ引き、リョーマは直接取ろうと走る。

 

 「菊丸(きっくまる)ビームッ!」

 

 高く跳んで回転しながらラケットで叩きつけ、鋭いスマッシュがコートを跳ねる。

 リョーマと悠介、二人がかりでも厳しい一打で取ることができず、ポイントを許してしまった。着地と同時に菊丸は嬉しそうにピースをする。

 

 「ゲーム大石・菊丸。2-1」

 

 爆発するような歓声が上がる。

 レギュラーを決めるランキング戦とも違う、それより重要度は低いただの練習試合。だというのにどうしてここまで白熱するのか。

 大勢の生徒がわらわらと集まり、選手たちの動きに一喜一憂している。

 

 ぷはっと大きく息を吐き出し、観客へのアピールが済んだ菊丸は大石へ振り返った。

 想像とはまるで違った。楽しい。だが疲れる。

 舌を出す菊丸に笑いかけ、大石は歩み寄ってハイタッチをした。

 

 「んもーしぶとすぎー。おチビの奴、普通にダブルスできるじゃん」

 「予想外だったな。あいつらいいコンビだよ」

 

 視線を向けると悠介とリョーマは悔しそうな顔をしていて、まだ闘志は死んでいない。

 何がなんでもやり返す。目を見ただけでそんな意思が伝わってきた。

 

 「にゃろう」

 「黄金(ゴールデン)ペアとはよく言ったもんだよ。どっちも攻めるし守れるし、片方潰そうとしても上手くコンビネーションで逃げられる。菊丸先輩ノラすとほんと厄介だな」

 

 深く息を吐いて体の内に溜まった熱を逃がす。1セットもしていないのに汗だくで、運動量の多さを言葉より雄弁に物語っていた。

 閉塞感を感じる。この状況を打開するには何かが必要だ。

 勝ちを諦めるつもりはなく、二人は対戦相手を睨むように見据えていた。

 

 「なんか、一発逆転できるような必殺技とかないの?」

 「あったらもうやってますよ」

 「そりゃそうだ……かといって、無理をしても通用しないだろうし」

 

 サーブ権はリョーマに渡っていた。ここは落とせない。

 菊丸と大石は集中力を保ち、すでに迎え撃つ準備を済ませていた。

 定位置に立った二人だったが、リョーマがサーブする前に、振り返って悠介が言う。

 

 「越前、わかるか?」

 

 何が、とは言わない。しかし不思議と理解できた。

 闘志を燃やすリョーマは迷わない。

 

 「当然」

 「よし。じゃあよろしく」

 

 そう言って動いた悠介を見て、テニス部員を中心としてどよめきが起こる。

 知識があればなおのこと、誰もが目を疑う光景だった。

 前衛に立った悠介がセンターラインを跨いで立ち、頭を下げて低く構えたのである。その行動を当然のものとして、リョーマもセンターラインからサーブしようとしていた。

 紛れもなく黄金(ゴールデン)ペアが得意とする“オーストラリアンフォーメーション”だった。

 

 「おいおい……」

 「あ~。俺たちのまねっこだぞー」

 

 大石は絶句し、菊丸はぶーぶーと文句を言い始める。

 今日の試合では披露していない。だがおそらく青学テニス部にこのフォーメーションを知らしめたのは阿吽の呼吸を持つこの二人で、他の誰かでは再現できない。そう思われていた。

 挑戦する気なのか。面白いと思うより先に不安を抱く。

 できるはずがないという気持ちは、油断とは別に拭い切れない感想だった。

 

 リョーマがボールを上げる。次いで、菊丸が待つ方向へ打った。

 一度目のバウンドと同時に悠介が動き、ネット際、菊丸の前方に入ってくる。

 そちらへ返せば嫌な角度へのボレーが来る。嫌そうな顔で、仕方なく菊丸が逆へ打った。

 

 大石は咄嗟に後ろへ下がっていた。怖かったのではない、どんな打球が来ようと確実に返すため最善策を取ったのである。しかし予想は即座に外れた。

 菊丸のリターンとほぼ同時、リョーマがスライディングで前へ来る。

 跳び上がりながらボールを打ち返し、大石の頭上を越えた打球は急激に落下して、叩きつけられるようにラインの内側に落ちて跳ねた。

 一瞬の出来事だ。中々どうして、フォーメーションとよく合った戦法だろう。

 

 「ドライブB……!?」

 「マジ!?」

 

 再び歓声が上がった。今度はリョーマと悠介を称えるための声だ。

 やってやったと二人は軽くハイタッチをして、驚く大石と菊丸に笑顔を見せた。日頃なら生意気なのはリョーマだけだが、今ばかりは悠介も同様に感じる。

 

 「ナイスショット」

 「先輩が誘導してくれたんで」

 「あ、なんか素直」

 「やっぱ今のなし」

 「なんで!?」

 

 大石は笑った。

 仲が良いのは知っていた。だがそれだけでできるフォーメーションではない。事前に練習していたわけでもないのだろう。思いつきで、ぶっつけ本番でやってみた。あの二人ならそうだとしてもおかしくない。

 それでも上手くやってしまうのなら、自分たちのプレイを試合で見せてきた意味もあったということだろう。してやられたのになぜか嬉しくなる。

 

 突然、鼻先を弾かれて痛いと声が出る。見れば指先を伸ばした菊丸が目の前に居た。

 むすっとした顔で拗ねており、どうやら笑っていたのがいけなかったらしい。

 今度は苦笑し、つい自分の指で鼻先を撫でる。

 

 「なに笑ってんの。こっちがやられてんのに」

 「ごめん。つい、嬉しくてな」

 「あいつらの成長が? 大石ジジくさー」

 「いや、違っ……!?」

 「だからってさ。俺たちが負けていい理由にはなんないぜ?」

 

 気を引き締め直す一言だった。

 菊丸の表情を見た大石は再び戦意を露わにし、静かに臨戦態勢を整える。にこりと笑った時にはもうすでに試合へ臨む時の彼だ。

 

 「ああ、もちろんだ。勝ちに行くぞ」

 「もち!」

 

 試合が再開される。

 悠介とリョーマは再びオーストラリアンフォーメーションで挑もうとしている。

 サーブが打たれると、リターンをする大石は冷静にコート内を見ていた。

 

 悠介は大石の前へ移動する。先程と同様の動き。その間にリョーマは逆サイド、前方へ走り込んでこようとしている。

 青学で唯一、フォーメーションを完成させたのは彼ら二人だ。

 実戦で利用した経験も踏まえて、対処法ならば誰よりも理解している。

 

 (ここだ! 頭を越える!)

 

 二人が前に居るのなら、後ろはガラ空き。大石は正確無比なコントロールを用いて、悠介の頭上を越えて後ろに落とそうと強烈なトップスピンをかけて高く上げた。

 狙い澄ました通りの一打。確実にコート内へ入るが、しかし再び驚愕することになる。

 大石がボールにインパクトする寸前、踵を返した悠介が後ろへ走り、リョーマと交差するようにして下がったのだ。

 

 気付いた時にはすでに遅く、放たれた打球は悠介が待ち構える場所へ行く。

 またしても裏を読まれたのだが、かといってそれが直接不利になるわけではない。取られはしてもラリーが始まれば話は変わる。

 

 悠介のスイングは驚くほど静かで、ボールは打ち返され、ネット際までふわふわ飛んだ。

 ドロップショット。勢いを上手く殺して、手前に転がそうとしている。

 その球は菊丸が取れるはずだ。しかしその後は。咄嗟の判断力と洞察力により、先の展開を読んだ大石は全力で走った。

 

 菊丸がダイビングショットで空中に身を投げ出しながらボレーで返した。その途端、あらかじめどこに返るか察していて、待ち構えていたリョーマがボレーで返す。

 その打球はセオリーを無視して、大石がフォローに走った右サイドではなく、先程まで大石が居たはずの位置を強い打球が抜けていった。

 大石は間違っていなかった。ただ、寸での判断でリョーマが狙う先を変えたのだ。

 ポイントが入るや否や、またしても喝采が巻き起こる。

 

 「30-0」

 

 揺さぶりが上手く効いているのだ。

 自分たちだけの奥の手だと思っていたフォーメーションを相手に使われ、しかもその相手がダブルス経験の浅いリョーマだという事実が、思った以上に動揺を生んでいるらしい。

 シャツの袖で汗を拭った大石は、自らのミスを静かに反省する。

 敵は越前リョーマ。だけではなく、自分たちをよく知る宮瀬悠介でもある。

 

 「くっそー! また上手いことやられちゃったよ!」

 「考えてるな……悪い、英二。俺がちょっと先走った」

 「うんにゃ。おチビならどっちにも打ち分けられたし、今のはどっちみちきつかったって」

 

 悠介とリョーマのハイタッチをまた見ることになった。

 悔しさが増して、感覚は鋭くなり、汗を掻いていてもさらに体が熱くなってくる。

 

 「このまま調子乗らせるとまずいっしょ」

 「そうだな。ここらで止めておかないと」

 「俺ら本職のダブルスなんだし」

 「たとえ練習でも、急造コンビには負けられないな」

 

 彼らの思わぬ善戦が新たに火を点けたようだ。

 顔つきを変えた大石と菊丸を見れば、負けてたまるかとさらに燃え上がるというもの。

 手を緩めるつもりはない。退けば負ける展開だ。

 悠介は敢えて先程と同じ位置には立たず、リョーマと同じラインに立って後ろで待ち受けた。

 

 またおかしなことを始めた。しかしだからこそ面白い。

 リョーマのサーブでプレーが始まり、試合は更なる佳境へ突入する。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5 ダブルスをやってみよう

 仲良くなるきっかけは一年生の指導につきっきりだったからだけど、そもそもを思えば、あいつのことを心配していたのかもしれない。

 入部当初から越前は頭一つどころか二つ三つ飛び抜けてテニスが上手くて、それはそれでいいことなんだけど、あまり特別過ぎると孤立するかもしれないと思った。現に二年の荒井たちに目をつけられたそうで、こそこそ陰湿なことをするのは好きじゃないから俺からも言った。本人にも謝らせたし、越前も気にしてないんだろう。でもやっぱり本音としては気になる。

 

 あいつを一人にさせとくのはまずいんじゃないか。

 だったらせめて俺だけでも近くで見といてやらないと。

 そう思ったことが、越前との距離が近くなったきっかけだった。

 

 幸い、同学年にも話し相手や気にかけてくれる人は居るようだし、桃城とも仲が良いみたいで、完全に孤立してるわけじゃなさそうだ。しかし一度自分から声をかけた手前、途中でやめられるわけでもないし、なんだかんだと行動を共にすることが多くなった。

 寂しいとか、そういうのはそもそもなかったんだろう。俺が心配し過ぎてたんだ。

 

 越前はすごい奴だった。

 一年生とかそういうのは置いといて、レギュラーを決めるランキング戦では海堂にも乾先輩にも勝ってしまうし、試合に出てもちっともビビらない。むしろ勝負を楽しんでるとこすらある。

 近くで見ていて、いつの間にか俺は尊敬するようにさえなっていた。

 あいつのようにはなれない。諦める理由にしてしまった覚えだってある。

 

 「俺さぁ、プロになりたかったんだよ」

 

 一度、本音を告げたことがある。

 子供の頃、通っていたスクールの先生を尊敬していて、元プロだった人が熱心に指導してくれたのが自分にとって大きな財産だった。

 普段はあまり自分のプロ時代のことを語りたがらないけれど、たまにぽろっとこぼす話がすごくかっこよく思えて、この人みたいになりたいって思ったんだ。

 

 「ここに入学してからすっかり折られた。でも、今でもたまにふと思い出すんだよな」

 「ふーん。もう諦めたんすか」

 「そりゃ、正直俺の力じゃ太刀打ちできないし」

 「まだまだだね」

 

 その時ばかりはぐうの音も出ない。反論できるはずもなかった。

 越前ならきっと。

 そんな風に考えるようになっていた俺に、あいつは怒りも笑いもせず、いつも通りだった。

 

 「先輩、とりあえずレギュラー取りましょうよ。そんな顔されてるとつまんないんで」

 

 後輩なのに俺を導いてくれるみたいで。

 頼っていたのは、俺の方だったのかもしれない。

 

 「プロになるのはその後でいいでしょ」

 

 

 *

 

 

 「ゲームセット。ウォンバイ大石・菊丸」

 

 辺りを埋め尽くすような怒号と拍手に包まれる。

 菊丸は観衆に向かって腕を突き上げてアピールしており、大石も恥じらいながら手を振った。

 表情が優れない悠介は荒く息を吐き、リョーマも悔しげに帽子をかぶり直す。

 

 「結局負けかよ。蓋開けてみたら、返せたのは1ゲームだけだったな」

 「先輩が途中で集中切らすから」

 「お前が俺のとこに突っ込んでくるからだろ」

 「好きにやれって言ったの先輩ですよ」

 「限度があるわ。頭から飛び込んでくる奴があるか」

 

 不貞腐れた顔で言い合った二人は、反省にもならない振り返りを終えて、ため息をついた。

 途中までは確実に気持ちよかった。なのに一旦集中が途切れると立て直すのが困難で、ゲーム数が少なかったのも手伝ってテンションが上がり切る前に終わってしまったように感じる。

 1セット戦っていても勝てなかったかもしれないが、もう少し何かを掴めたかもしれない。

 どちらもフラストレーションを残したままの決着だった。

 

 ある程度のアピールを終えた大石と菊丸は改めて二人を見る。

 本人たちは満足していないだろうが、今後の可能性を感じる場面が多々あった。少なくとも大石は現在の二人を認めていて、菊丸は心底面白いと思っている。

 

 「ダブルス2、決まるかな?」

 「まだ練習が必要だ。本人の意思も。だが」

 「その気になったら十分あり得る?」

 「俺たちの次の代は心配なさそうだな」

 

 堪え切れずにぷぷっと笑った菊丸に、良い気分になっていた大石は不思議そうな顔をする。

 

 「やっぱ大石ジジくさー」

 「そ、そんなことないって。これは副部長として――」

 「あはははっ。くさくさくっさ~」

 「お、おい英二!?」

 

 最後まで聞かずに菊丸は逃げるようにコートから出ていき、大石もその後を追う。

 菊丸が逃げ込んだ先に他のレギュラー陣が居て、試合が終わって拍手で迎えられた。

 白熱した試合に触発され、特にうずうずしている様子の桃城が笑顔で迎え入れ、一番最初に駆け込んできた菊丸へ声をかけた。

 

 「英二先輩! お疲れ様っす! ナイスゲーム!」

 「ありがとー桃! まだまだ後輩には負けてらんないにゃー」

 

 笑顔で見守っていた不二が頷き、遅れてやってきた大石に目を向ける。

 隣には河村も居て、すかさず持っていたタオルと飲み物を渡してやった。

 

 「いい勝負だったね」

 「ほんと、見てて興奮したよ。あいつら初めてのダブルスでオーストラリアンフォーメーションなんてやるんだもん」

 「ああ、あれには俺も驚いた。見ただけで盗むなんて大した奴らだよ」

 「そーそー! ほんとはあれ俺たちの技だもんなー! 見ただけでやっちゃってさ、一回ガツンと言ってやんなきゃだめだな! 俺たちがどんなに苦労したか!」

 

 怒ったふりで言う菊丸だが、二人を認めているからこその発言だろう。心底怒っているならそれほど楽しそうには言わないし、彼はそう言うが、案外すんなり習得したのではないか、というのが黄金(ゴールデン)ペアに向けられる期待と想像だった。

 コートを出ようとして乾に呼び止められる二人を見て、不二がにこりと笑う。

 

 「もうガツンと言われてるみたいだけど」

 「んお?」

 「二人はそのまま残ってくれ。次の試合を始めるから」

 「はっ?」

 

 心底驚いたという顔で悠介が素っ頓狂な声を発している。

 恐れていたことが現実になった。休む暇もなく次の試合が始められようとしている。重要で興味深いデータが取れそうだとあって今の乾は誰よりもノッていた。

 振り返ってレギュラー陣に顔を向け、審判台に座ったまま話を進めている。

 

 「桃城、海堂、入ってくれ」

 「おっしゃあ! 待ってました!」

 「フシュー……」

 

 おそらく待ち構えていたのだろう。呼ばれた二人の行動は素早かった。

 ラケットを手にして意気揚々とコートへ入っていき、観衆の興奮も冷めやらぬ中、早くも次の試合が始められようとしている。

 多分言っても無駄だろう。そう思いながら、念のためにわなわなと震える悠介は、早く始めろと言いたげな乾へ言ってみた。

 

 「乾先輩、きゅ、休憩とかそういうものは」

 「ないぞ? 始めてくれ」

 「ほーら出た。だからこの人が怖いんだ……」

 「水分補給はしてくれよ。倒れられるとデータが取れない」

 「いいか越前、俺はお前より一年長くこういう人たちと付き合ってるんだぞ」

 「大変っすね。まあ、なんとなくわかってきたんで俺はいいっすけど」

 

 越前もすぐにやる気になった。

 コートの対面にはすでに桃城と海堂が位置についている。早く構えろと凝視されていた。

 ちらりと越前を見る。早く構えろと凝視されてしまう。

 おもむろに肩を落とした悠介は大きくため息をつき、静かに移動して腰を落とした。

 

 「わかりましたよ、やりますよ。どうせ俺に拒否権なんかないんだから」

 「先輩、ファイト」

 「うるせー」

 「行くぞ宮瀬。まだだぞ。緊張の糸切らすなよ」

 「もう切れたよ……」

 

 桃城のサーブから試合が始まる。

 不貞腐れていたが悠介が的確にリターンを返し、海堂が長い腕を伸ばして対応した。

 リョーマも攻め気で前へ出て、以前に比べていくらかダブルスへの疑問も減ったらしく、攻撃に集中してボールを打ち返す。

 

 興奮が落ち着く前にまた次なる試合が始まって、観衆のボルテージが下がる様子はなかった。

 騒がしい環境の中、水分補給をしながら菊丸が呟く。

 近くに居たレギュラーメンバーは当然のように反応していた。

 

 「しっかし不思議だなー。ユースケはいいとして、おチビをダブルス起用ってあり得んの?」

 「うーん、どうだろう。地区大会、都大会、関東大会、どれもシングルスだったからね」

 「俺はあると思ってるよ。もちろん越前のシングルスは頼りになるけど、だからこそダブルスも任せられるようになれば鬼に金棒だ」

 

 菊丸が提示した疑問に、不二は慎重な態度を示し、大石は期待も込めて好意的に考える。

 ううむと唸って、河村は試合を見ながら呟いた。

 

 「俺もそう思うけど、ただ、パートナーは限定されそうだね……」

 「いいんじゃん? ユースケが頑張ればいいだけっしょ」

 「あはは。確かに、宮瀬なら誰と組んでも上手くやれそうだから」

 

 コートの中では海堂と悠介の一騎討ちが始まっていた。

 執拗なまでに大きく曲がる“スネイク”が繰り出され、右へ左へ激しく振られ、しつこく喰らいついて悠介が拾っている。

 数度繰り返して最後の一打は辛うじて返し、軽く浮いた球がふわりと相手コートへ移った。

 

 絶好球だ。桃城が意気揚々と高く跳ぶ。

 狙う位置がわかったため、咄嗟に悠介が動こうとするが、すでにリョーマが待っていた。

 狙い違わず、構わないと言わんばかりに、桃城が豪快なスマッシュを行う。

 

 「いっけー桃ちゃん先輩!」

 「ダンクスマッシュだーっ!」

 

 すかさずリョーマが拾おうとしたが、強烈な打球が地面へ突き刺さるように跳ね、一瞬にして傍を通り過ぎてしまった。

 反応は悪くない。単純に凄まじいパワーだったのだ。

 加えて今の桃城は本気の黄金(ゴールデン)ペアと、彼らに抵抗した悠介とリョーマを見た直後でテンションが上がっており、普段にも増してコンディションが良い。

 桃城の一打が異様に優れていたことに、間近で見たリョーマも驚きを露わにしていた。

 

 「どーん」

 「ほんっと、いい先輩ばっかりっすね」

 

 呆れた口調で呟き、リョーマは手の中でくるりとラケットを回す。

 彼を恨めしげに見る悠介は激しく呼吸を乱しており、必死に整えようとしながら、落ち着けないまま我慢できずに喋り出した。

 

 「それは俺も言いたいんだけど、なんか俺ばっかりスネイク拾ってない? ねぇ後輩」

 「気のせいっす」

 「つーか同級生、お前俺がギリギリ拾えるとこ狙って打ってるだろ。スネイクばっかり。お前そういうとこほんと良くないぞ」

 「うるせぇ。トレーニングは続けてんだろ。走れ」

 「お前、性格悪いって言われてるぞ。友達少ないぞ」

 「あぁ!?」

 「あー怖っ」

 

 強引に走らされているせいでゼェゼェと呼吸は荒く、本人も落ち着かせるより先に文句を言うことを優先してしまい、中々整わなかった。

 一方でリョーマは一呼吸も乱さず、余裕を窺わせている。

 

 「ダブルスって、結構いいもんっすね」

 「それどういう意味? 堂々と休めるからか? 先輩を走らせられるからか?」

 「思ってたのと違うからっすよ。早く息整えてください」

 「お前俺のこと嫌いなの?」

 「好きですよ。早くして」

 「あぁ、もっとみんなに愛されたい……ハァ、フゥ」

 

 残念ながら敵も味方も対応が冷たく、項垂れた悠介は素直に従う。

 試合は再開され、一旦止まれば無駄口を叩くも、プレーが始まれば全員が本気だ。手を抜いて適当に済ませようなどと考える者は一人として居ない。

 海堂の戦法は止まらず、悠介が必死に対応して紙一重な攻防が続いている。

 桃城とリョーマは虎視眈々とチャンスを窺い、図らずもどちらもが一発に賭けていた。

 

 同じダブルスでも、相手が変わっただけで全く違った展開になる。全員が本気でぶつかり合い、見ていて飽きない一戦だ。

 あのコートに居るのは一年生と二年生のみ。

 観戦する三年生たちは頼もしそうに後輩たちを眺めている。

 

 「みんな頼もしいな。前よりずっと強くなってる」

 「そうだにゃー。ぐちぐち言いながらユースケもしっかりついてきてるし」

 「彼は人一倍努力してるから。俺たちから技を盗もうと、すごく協力してくれているからね」

 

 まるで自分の弟か息子を眺めるかのように、優しく微笑む河村が呟く。

 一年生の頃から社交的で面倒見がよく、先輩との関係も良好で、自ら声をかけてよく教えを乞うていた真面目な部員だ。先に頭角を現したのはライバル関係にある桃城や海堂だったが、彼らとは異なる道を選んだが故に、彼らとは違った能力を会得している。

 三人の中で、最もダブルスで優れるのは宮瀬悠介。三年生と二年生は口を揃えてそう言う。

 

 「あとはもう少し自信がつけばね……」

 「タカさんのせいなんじゃないの?」

 「えっ!? 俺!?」

 「ほら、ラケット持ったらさ」

 

 言いながら菊丸が河村にラケットを渡すと、途端に目つきが変わる。

 

 「オラオラ小僧どもォ! さっさと終わらせろよ! 次は俺が相手だ、バーニングッ!」

 「ぷぷぷ。ほらね」

 「あはは……強く否定はできないけど、英二や不二だってそうだと思うぞ」

 「え~? 俺も?」

 「ああ。それに、手塚や乾も。俺も宮瀬と同じことを思うことがあるからさ。みんなすごく個性的でプレーにも特徴があるから、気負ったり自信を失くしたり、わからなくもないんだ」

 

 バーニング状態の河村が大声で応援する傍ら、幾分真剣な声色で大石が言う。

 顔を見合わせた菊丸と不二は、ふと思い出す光景があった。

 

 「ボウリングの時は大石だってすごく個性的じゃない」

 「そうだよ。おかげで俺たち地獄見たもんな」

 「あ、いや、あれはちょっと趣味で……」

 

 気まずそうに頭を掻く大石に、二人はくすくすと笑った。

 その反面、悠介が負い目のようなものを感じているのは上級生なら誰しもが感じていたことだ。まるで自分は役立たずだと自分自身を責めるかのような。

 静かに目を開いた不二はプレー中の悠介を見て呟く。

 

 「そんなことないのにな……」

 

 誰かに伝えたかったわけではないらしい。

 誰かが聞くこともなく、小さな言葉は応援の声に紛れてどこかへ消えてしまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6 先輩は迷っている

 テニスをやめようと思ったことは一度もない。

 子供の頃の夢は、多くの小学生が野球選手やサッカー選手に憧れるのと同じで、俺はたまたまプロテニス選手に憧れていた。

 きっと無理なんだろうなんて思っても、相変わらずテニスは好きなままだった。

 せめて部活として、充実したテニス生活を送りたい、と思う程度には興味を持ったまま。

 レギュラーを取りたいと思うのも自分的には自然な流れだったのだ。

 

 憧れだけで青春学園中等部に入学したわけだが、同級生に居る桃城と海堂を見て、素直にあちゃあと思った。

 なぜかそりが合わない二人は練習中は常に競い合っていて、そのせいか練習量も他の部員に比べて何倍も多くて、メキメキ実力を上げていった。その姿を間近で見ていて、これはまずいと危機感を覚えるくらいだから相当な努力だったんだろう。

 

 このままではまずいと思って、俺も人一倍努力する必要があると考えた。

 だからって同じことをしてても意味はない。あの二人とは違う個性を得る必要がある。

 パワーは桃城だし、テクニックは海堂。あの二人に勝つためにはどうすればいいんだろう。

 

 俺は、なんでもできるようになりたいと思った。

 パワーで負けても、テクニックで負けても、他の部分で勝っていて、例えばそれは、全部じゃなくてどこか一つだけでもいい。宮瀬の方がすごいと一つでいいから言ってほしかった。

 多分俺はそこまで才能がある方じゃない。だから努力するしかなかったのだ。

 

 なんでもできるようになるためには、色んな人から教わればいいと思った。

 幸い、青学の先輩は右も左も曲者だらけで、わかりやすくバケモンみたいな人ばっかり。

 片っぱしから特技を学んで、一つ一つは誰かのコピーでしょうもなくても、そんなコピーを誰よりも多く持っていれば、きっと誰かの役に立つ。

 それを俺のアイデンティティにしようと、俺自身が決めた。

 

 俺はとにかく色んな人に頭を下げて、時にはギブアンドテイクでパシリめいたこともやって、色んな人からテニスを教えてもらった。

 合ってるのか間違ってるのかわからない。自信を持つにはただ続けるしかなかった。

 

 粉々に砕かれたのはきっと、越前と出会ってからだろう。

 俺が他人に教えを乞うて、何週間も何ヶ月も努力して会得したことを、あいつは一人で、誰にも教わらずに、しかも実戦の中で試してみて使えるレベルに達してしまう。

 すごい! と思う一方で、目の前が真っ白になるくらいショックを受けた。

 

 「俺は多分、お前みたいになりたかったんだ」

 

 あいつに伝えた時、珍しく返事はなかった。

 

 

 *

 

 

 「ゲームセット。ウォンバイ桃城・海堂」

 「あー惜しい!」

 「もうちょっとだったのに!」

 「2-2まで追いついたのになぁ」

 

 乾の宣言を受けて堀尾とカチローが思わず声を出した。

 残念そうに呟いたカツオの一言がきっかけで、迫力を増した最終ゲームを思い返す。

 

 文句の一つも言わず、声かけの一つもなく、各々が自らの持てる力を出し切った渾身のラリー。優位を取ったのはパワーで勝る桃城と得意技の“スネイク”を武器にする海堂で、緩急を効かせて広いコートを端から端まで使い、リョーマと悠介に防戦を強いた。

 最後のラリーは五分以上続き、ただの練習試合とは思えない盛り上がりを見せていた。

 

 流れが変わったのが悠介のロブだ。

 明らかにミスではないだろう、しかし見るからに危険な一打を上げて、間髪入れずに真っ正面から挑むために桃城が跳び、決め球をダンクスマッシュに決めて振りかぶる。

 その一瞬、悠介がリョーマにアイコンタクトで指示を出し、彼は素直に従った。

 真っ向から対峙。図らずも一騎討ちとなった。

 

 バスケットボールのダンクシュートのように、最上段から打ち降ろす渾身のスマッシュ。優れたパワーでラケットごと吹き飛ばそうという気迫を感じた。

 そのスマッシュを、リョーマは全身を回転させて、遠心力を利用して打ち返した。ふわりとした軌道で空を舞い、高く跳んだ桃城の頭上も越えてコートの端へ落とす。

 “天才”不二周助が編み出した“三種の返し球(トリプルカウンター)”の一つ、(ひぐま)落とし。

 シングルスであれば間違いなく決まっていた一打だ。しかしそこで終わらなかった。

 

 悠介のロブに奇妙なものを感じた海堂は何が起こっても対応できるように備えていた。

 そしてリョーマの動きを見た途端、振り返らずに走った。

 羆落としはスマッシュを完全に無効化してパワーを殺し、スマッシュした本人の頭上を越えて止められない位置に落とす。幸か不幸か、その打球自体に威力はなく、見た目には遅い。

 

 あらかじめ備えて、技の出だしで気付いたことにより、余裕で追いついた海堂はそのまま自らの攻撃に転じた。不二の技だが再現は完璧だ。ライン上に落とされようとしているボールのバウンドを待たずに打とうとしたのである。

 海堂の動きに気付いた悠介も備えていた。決め球もわかっている。あの位置から繰り出す技は間違いなく一つしかない。

 全身から余分な力を抜いて、大胆なスイングでボールにインパクトする。

 海堂が放った渾身の一撃はコートの外へ飛び出し、ポールの外を回って急激に曲がり、相手側のコートへ再び戻ってきた。

 

 異様な機動力を持つポール回し、通称“ブーメランスネイク”。

 血の滲むような努力で会得したそれを、海堂薫が躊躇うはずがなかった。

 悠介もまた、来ない場合は想定せずに返せる位置まで走る。

 

 振り返ると同時にブーメランスネイクを迎えて、待ち構えるようにスイング。ガットで確実に受け止めて、しかし初めて受ける予想以上のパワーに押され、狙いがずれる。

 返された打球はポールに激突し、地面を転がった。

 歓喜と落胆が入り混じった声が爆発する。悠介は呆然と立ち尽くしていた。

 

 試合が終わった後、コート内に居た四人は口を開かず、喜びもせずに黙り込んでいた。

 激しく息を切らしていた悠介が頭を振り、前を向いたままリョーマへ言う。

 

 「ごめん」

 「いいっすよ。別に気にしてないんで」

 

 リョーマもまた、振り返って悠介の顔を見ようとはしなかった。自身の感情より、彼がそうしてほしくないだろうと察しての判断である。

 二人のやり取りを見てから、彼らのためではなく、自分のために桃城は乾へ言った。

 

 「乾先輩、あと3ゲームやらせてもらえません? ちょうど体あったまってきたんで」

 「うん、そう言うと思ってたけどだめだ。次が詰まってる」

 「え~? そんなぁ」

 「じゃあ次は不二と河村。頼む」

 

 せっかくテンションが最高潮に達して、お互いに死力を尽くして、我を忘れるほど熱中する時間を体感していた。

 もっともっと楽しみたい。戦いたい。そんな桃城の願いはさらりと流され、乾は見ていた三年生に振り返って指名する。

 

 名前を呼ばれてすぐ、不二は上着を脱いでラケットを持ち、コートへ向かった。

 河村も上着を脱いだ上で参加し、気合いを入れてぐるぐる肩を回している。

 見送った菊丸と大石が上機嫌に頬を緩めた。

 

 「おっ、師弟対決」

 「なんとなく久々に感じるな。あの二人が戦うのは」

 

 先輩がやってきてコートを空けないわけにはいかずに、名残惜しそうに桃城が出ていく。

 海堂もそうしようとしたのだが、その寸前、ちらりと悠介に目を向けた。

 

 「おい」

 「ん?」

 「簡単に返せると思うんじゃねぇよ。次も俺が勝つ」

 

 言い切ってからコートを後にし、交代するように不二と河村が入ってきた。

 不二は正面に見据えた悠介へ穏やかに笑いかける。

 

 「気を使われちゃったね。次は返せるよ」

 「オーケーイ! 切り替えろよ宮瀬! 落ち込んでる場合じゃナッシング! 次は俺たちとエキサイティングしようぜ!」

 

 きょとんとした後、我に返ってくしゃりと表情を崩して苦笑した。

 気にしている場合ではない。休ませてはもらえないのだ。

 自分の頬を叩いた悠介は気合いを入れ直し、よしっと背筋を伸ばして、今度こそリョーマの顔を見て声をかけた。

 

 「悪い越前。切り替えていこう。一回くらいは勝たないとな」

 「俺はもう切り替えてますよ。切り替えられてないの先輩だけでしょ?」

 「お前には俺と仲良くしようという気持ちがないのか?」

 「ありますって。パワハラやめてください」

 

 いつものように顎の辺りを掴まれて頬をむぎゅっとされる。リョーマは抵抗しないが普段と変わらない冷静な目で静かに抗議した。

 気持ちを戻せたのだろう。安堵した様子で不二と河村が微笑む。

 

 タオルで汗を拭ったり、水分補給もほどほどに、すぐ次の試合が始められる。

 サーブは河村から。桃城にも負けない、むしろ単純なパワーのみなら彼をも凌駕する。

 流石にリョーマに任せるのは酷だろうと思い、肩を回して、穏やかな気持ちで集中し始めた悠介は考えを巡らせながら、両手打ちでリターンした。

 

 3ゲーム制とはいえ満足な休憩もなく次々に試合が始められる。

 熱狂していた観衆は三試合目となって心配し始め、先程と比べて歓声が小さくなりつつある。しかし河村が初っ端から響かせた重いインパクト音と、不二が見せた華麗なラケット捌きが瞬く間に人々を魅了し、帰ろうとする生徒は居なかったようだ。

 連戦を続けているのはハンデどころか有利にさえ感じられ、先輩が相手でも悠介とリョーマはますますのコンビネーションを見せながら強気に挑みかかっていた。

 

 「あのー……大石先輩」

 「ん? どうかしたか?」

 

 強烈なインパクトの音を聞きながら、堀尾を先頭にしてカチローとカツオ、三人が恐る恐る観戦中だった大石へ声をかけた。

 優しく応じた大石に安堵しつつ、三人の一年生は質問をする。

 

 「さっきちらっと聞こえたんですけど、師弟関係って?」

 「誰のこと言ってるんですか?」

 「越前君じゃないですよね? あ、でも越前君と宮瀬先輩……」

 「いや、違うんだ。さっきのは」

 「ユースケと不二のことだよん」

 

 答えようとした矢先に大石の隣に居た菊丸が告げた。

 三人は聞いた途端に目を丸くし、初耳だったようで驚愕する。

 

 「えっ!? 宮瀬先輩と不二先輩が師弟関係!?」

 「じゃあ、不二先輩が宮瀬先輩の師匠ってことですよね」

 「初めて聞いた……」

 「わざわざ話すことでもないからね。俺たちの間では当たり前なんだけど」

 「ユースケは不二に憧れてんだよ。部長でも大石でも乾でもなくってね」

 

 言葉を失った三人は、示し合わせたわけでもないのにゆっくり同時に試合へ振り返る。

 ダブルスではあるが確かに悠介と不二が打ち合っていて、聞く前と後では、事情も詳しく知らないのに不思議とどこか違って見える。

 長く続くラリーを見ながら、大石と菊丸は思い出すように呟いていた。

 

 「宮瀬は入部した当初から不二に憧れて、一番最初に教えを乞うたのも不二だった。細かいことは色んな先輩に聞いてたけど、基礎から実戦から普段の勉強まで、大抵は不二に教わってる」

 「ほら、今のユースケとおチビの感じ。去年はあれが不二とユースケだったんだ」

 「ええっ? じゃあ……」

 「ほんといっつもくっついてたんだから」

 「後輩ができて面倒看るようになったから最近はあまり見なくなったけど、今でも宮瀬にとっては不二が特別なんだよ」

 

 はあ~と感嘆する息だけ吐き出して、堀尾とカチローとカツオは口を開けたまま黙る。

 一年生にとって宮瀬悠介は優しく指導してくれる先輩で、面倒見が良くてよく声をかけてくれて後輩からも声をかけやすい。ジュースやお菓子を奢ってもらったことがある者も居るという。

 後輩から非常に人気のある人物だった。

 日頃から先輩の中では最も近くに居る人物でもあり、それだけに、不二に憧れているという話を初めて聞いて驚きが大きかった。

 

 話していてふと大石が疑問を抱いた。

 そういえば近頃、悠介と不二が二人で行動している姿をあまり見かけない。関係が悪化したわけではないだろう。部活の前後や最中、会話する姿を見ることはあって、その時の悠介の態度は以前と何も変わらない。

 てっきり後輩の面倒を看ているからだと思ったが、少し不思議にも思う。

 

 「プレースタイルこそ違うものを目指したようだけど、宮瀬はいつも不二に敬意を払ってる。だからあいつも器用になんでもできて――」

 「気に入らねぇんだよ。最近のあいつは」

 

 割って入った声によって一年生の肩がビクッと跳ねた。

 一同が首の向きを変えると、壁に背を預けて立つ海堂がコートを睨みつけている。

 

 「海堂……」

 「すっかり牙も抜けちまって、勝ち気がなくなってやがる。俺と同じトレーニングは続けてるのに試合になるとあれだ。昔の方がずっと強かったぜ」

 

 声色は静かだが我慢できない苛立ちが滲んでいる。腕を組んで微塵も動かず、怒りを体現するかのように、彼の視線は忌々しげに悠介のプレーを睨んでいた。

 思うところがあるのか、笑みが消えた大石と菊丸は何も言わなくなって、同じことを考えていたのだろう桃城が二人に向けて口を挟む。

 

 「あいつ、あれ使わなくなりましたよね。“三種の返し球(トリプルカウンター)”。最初に覚えた決め技だったのに」

 「え゛……!?」

 

 思わず堀尾が声を出した直後、カチローとカツオは勢いよくコートを見た。

 不二が編み出したという必殺のカウンター。あまりに美しく、且つ強力で、誰もが憧れこそするがほとんどの者が真似できないすでに伝説的な秘技。

 不二以外に、こんなにも近くに使い手が居たのかと、固まる三人は信じることができなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7 先輩は迷っている

 「悠介」

 

 声だけで気付いた。

 振り返るとやっぱり不二先輩が居る。

 なんとなく嬉しくなる瞬間だ。まさか恋をしてるわけでもあるまいし、我ながらおかしな反応なんだけど、でもこの人に会うと自然に頬が緩むのを自覚している。

 尊敬する人に会うだけでこれだ。ちょろい奴だと自分でも思った。

 

 「今帰り?」

 「はい。ちょっと竜崎先生の手伝いで」

 「そうなんだ。越前は一緒じゃないの?」

 「事務的な仕事だったんで、先に帰らせたんですよ。多分めんどくさがるだろうし、最悪手伝わせても足手纏いになりかねないんで」

 「ふふ、確かに。せっかくだから一緒に帰らない?」

 

 正直に言うと少しだけ緊張した。でも断るという考えはない。

 

 「いいんですか?」

 「もちろん。僕から誘ってるんだから」

 「あはは、それもそうですね」

 「行こうか」

 「はい」

 

 不二先輩が前を歩いて、俺がその後ろを歩く。

 少し前まではこれが日常だった。

 最初の頃は俺からねだってたんだけど、慣れた後は特に何を言うわけでもないのに、いつの間にかこうして一緒に帰るのが当たり前になった。

 

 ずいぶん久しぶりに感じる。

 そういえば、しばらく不二先輩と二人で帰ってない。

 二人っきりで喋るのも、多分久しぶりだ。そう思ってたら先輩もそう思ってたみたいだ。

 

 「久しぶりだよね。こうやって二人で帰るの」

 「そうですよね。なんでなんでしょう」

 「僕は一緒に帰りたかったんだよ。でも悠介が忙しそうだったからさ」

 「あー、まあ、確かに。後輩と関わるのとか、今まであんまり経験なくて。なんかそっちに気ィ取られてたんですかね。最初は結構緊張してたけど、最近やっと慣れてきて」

 「すっかり先輩だね。最近の悠介を見てると成長したんだなって思うよ」

 「そんな、俺なんか別に」

 

 不二先輩の傍に居るのは居心地がよかった。

 それこそ最初の頃は、あんまり近付くのはおこがましいとか、嫌われたくないからあんまり近くに行けないとか、そういうのがあったんだけど。今はここが一番落ち着く。

 それでも、最近はめっきり減っていた。

 なんでだっけ……それを考えるのが、少し怖かった。

 

 「みんな悠介が居て助かってるよ。一年生は指導してもらって、二年生と三年生はフォローしてもらって、練習も雑務もやってもらってさ」

 「いや、俺はただ、テニス部の役に立てればいいなって思っただけで……」

 「ねぇ悠介」

 

 なぜか、肩がびくつく。

 怒られてるわけじゃないはずなのに、俺は、きっと何かを恐れてる。

 二人っきりにならなくなったのは、不二先輩に指摘されるのが怖かったから?

 歩くのをやめて、不二先輩が俺に振り返った。

 

 「僕に何か隠してない?」

 

 それだけは、言われたくなかったのに。

 

 

 *

 

 

 「3-0」

 

 試合が終わった。

 歓声は上がらず辺りは静まり返っている。

 審判台に座っていた乾が淡々と発言し、結果を伝えていた。

 

 「ゲームセット。ウォンバイ不二・河村」

 

 先程までの二試合における激闘が嘘のように、1ゲームも取れずに敗北した。

 リョーマが珍しいほど呼吸を乱して俯いている。滝のように流れる汗がコートへ落ち、小さな斑点をいくつも作っていた。

 反面、彼に比べて幾分か落ち着いている悠介は呆然としている様子だった。

 

 一体何が起こったのか。

 見ていた者たちですら上手く理解できない。

 ただ、リョーマが髪を振り乱し、帽子を投げ捨ててまで、必死に足掻くように端から端まで走り回っていたのが印象的だった。慣れないダブルスでもシングルスでも、あそこまで必死なプレーはそう滅多に見られるものではない。

 反対に今回の悠介は、素人が見ていても気付くほど動けていなかった。

 

 「僕は今回、勝ちに拘ったよ」

 

 不二が冷静な声で言う。

 相手は当然、悠介だった。彼の体が小さく跳ね、緊張した表情に変わっている。

 

 「前とは逆の立場だね」

 「あ……」

 

 瞬間的に記憶が蘇る。

 以前に聞いた話だ。悩んでいるかのように、救いを求めるかのように、不二には悠介に吐露した過去がある。勝ちに拘ることができない自分が居る。団体戦なのに仲間のためを想えず、自分は本当にレギュラーとして参加していいのか。もっと適任が居るのではないか。そう語っていた。

 

 場合によっては、仲間に迷惑をかけるくらいならレギュラーから外すよう、部長の手塚に頼んだこともあるのだという。

 あの時、自分は何と言ったのか。思い出せない。

 

 真剣な表情を見せていた不二はにこりと笑いかけた。いつもの彼だ。

 それでも悠介は安心できず、胸に苦しさを覚えている。

 

 「あの時、君が言ったんだ。みんなと一緒に勝ち上がりたい。そのためならなんでもする覚悟ができてるって」

 

 少し、思い出す。

 プロは諦めた後かもしれない。けれど新たな目標ができて、レギュラーになって、大好きな部員のために全校制覇を成し遂げようと決意した日がある。

 ほんの少しでも役に立てるならどんな努力だって諦めずにやり切ろう。

 目指すプレースタイルが決まって、覚悟が決まった日だ。

 

 「僕はもう変わったよ。だから待ってる。君と一緒に目指したいからね」

 

 憧れの人だ。忘れようとしていても強引にでも思い出させられる。

 表情が歪んで、子供のように感情が溢れていた。

 珍しいと思う人も多いだろうが、不二にとっては見慣れた顔だ。

 

 「みんなを気遣うのはもういいんじゃない? 君は十分過ぎるほど支えてくれた。おかげでみんなが感謝してる。だからそろそろ――」

 

 ちらりと乾を見て、彼が頷いた。

 最後まで言わずに不二は踵を返して河村とコートを出て行こうとする。

 

 「大石。変わってもらえるかな?」

 「ああ」

 

 審判台を下りた乾が上着を脱いでラケットを手にする。代わりに試合を終えて休んでいた大石が審判台に座って準備を整えた。

 もう一人、試合をするためにコートへ入ってくる。

 悠介だけでなくリョーマも、彼を見てきゅっと唇を結んだ。

 

 「準備はいいか」

 

 青学最強の男、手塚国光が乾と共に対面へ立った。

 眼光鋭く、睨むわけではなく見据えられて、全てを見透かされるかのような気がする。決して隣に乾が居るからではないだろう。

 

 「1セットマッチだ。宮瀬、越前、本気で来い」

 

 対峙しても悠介は動けず、気圧されるように手塚と視線を合わせたままだ。

 思考が形を為さない。何をすればいいのかがわからない。

 唐突に背中をトンっと押された。

 その時ばかりは体が動いて、咄嗟に振り返るとリョーマがすぐ傍に立っていた。

 

 「まだまだだね」

 

 いつも通りの生意気な態度で薄く笑っている。見慣れたはずだが、不思議と今は頼もしい。

 

 「一回くらい勝ちましょうよ。俺、負けるの嫌いなんですよね」

 

 色々思うことはあるだろう。だがこの期に及んで自分を誘って、あくまで勝ちが欲しいと駄々を捏ねるのだ。この生意気で負けず嫌いの後輩は。

 はーっと思い切り息を吐き出して自分の髪を乱暴に掻く。

 

 いつまで落ち込んでいるのか。自分のことながら異常にしつこい。

 腹は括った。理由ならある。後輩がそれを望んでるのと、自分が勝ちたいからだ。

 相手はプロですら注目する手塚国光。怪しげなジュースで脅してくる変な先輩。相手にとって不足ないではないか。

 今まで溜まった鬱憤を全てぶつけるには最高の相手だ。

 

 「勝てると思ってるか?」

 「当然」

 「正直言うと俺もだ」

 

 ようやく顔つきが変わった。確認してからリョーマは拾った帽子をかぶる。

 すでに敵は前に居て、ちょうど勝ちたいと思っていた相手。

 体を蝕む疲労は大きいが気分だけは最高潮。さっきよりも動ける気がする。

 乾が投げ渡したボールを受け取り、二人は静かに定位置についた。

 

 「疲れてないっすよね?」

 「いや流石に疲れてるって。コンディション今までで最悪だからな」

 「ちょうどいいじゃないっすか。余計なことあれこれ考えなくて」

 「なんか釈然としないんだけど、言っとくけど俺は普通だから。うちのレギュラー陣の方がおかしいってみんな言うからな。荒井とか」

 「荒井……って誰でしたっけ」

 「おい……まあいいや。なんかその辺の奴だ」

 

 一騒動あったはずの先輩について、敢えて説明しようとしなかったのは疲労が理由ではなく、単純に面倒だったからだ。忘れていても特に問題ないと判断してしまった。

 それよりも今は試合だ。もう気持ちは変わった。迷わずに向き合わなければ。

 

 汗が引く暇もなく、リョーマのサーブで試合が始まる。

 乾は危なげなくリターンしてサーバーのリョーマへ返そうとした。

 それを阻止するかのように、飛び込むように悠介がポーチを行って、不思議と飛び込んでくるその姿は、ついさっき見たはずの桃城によく似ていた。

 

 「おいおい、ジャックナイフかよ!」

 「ひゅ~。いきなりやるじゃん」

 「フン……最初からそうしろ」

 

 返された打球はラインギリギリで弾み、後ろに居た乾が的確に拾う。

 手塚が回避する形で逆サイドへ打ち込んで、待ち望んでいたようにリョーマがスライディングをしながら飛び込んでくる。

 ジャンプすると同時に打ち返し、強烈なドライブBが、どちらにも触れさせずに相手のコートを素早く駆け抜けていった。

 

 「15-0」

 「おぉ、おおおぉ……!」

 

 思わず堀尾が唸るものの、爆発するその時を待つかの如く、観衆はぐっと声を抑える。

 何を狙ったわけではなかった。しかしそのせいなのか、リョーマが先に手を上げて、歩み寄った悠介が強くその手を叩いた瞬間、地響きのような声が上がった。

 手塚は冷静な表情を崩さず、乾はやれやれと言いたげな顔で眼鏡の位置を直した。

 

 「すいませんでした部長。ご迷惑おかけしました。勝ちに、拘ります」

 

 深々と頭を下げた悠介は手塚に呼びかけ、頭を上げた時にはいつもの気の抜けた顔だった。

 

 「部長が相手でも全く負けるつもりないんで、そのつもりでお願いします」

 「ああ。遠慮せずに来い。俺も負けるつもりはない」

 「あと俺は、実は部長より不二先輩の方が強いんじゃないかって思ってます」

 「知っている」

 

 言いたいことを言い終えて、リョーマのサーブで再びプレイが始まる。

 利き手の左で思い切り打ち込み、地面にバウンドした後、強力なスピンがかかって打球が本来とは逆側に跳ね上がった。リョーマの代名詞ともされている“ツイストサーブ”だ。

 普段ならば顔に向かって飛んでくる軌道を利用するため、右利きの選手には右手で打って顔面を狙うのが常だ。しかし今回は右利きの選手に左手で打った。意表を衝くために他ならない。

 

 「この時点でのツイストサーブの確率、82%だ」

 

 冷静に動く乾はまるで驚かず冷静に打ち返した。

 事前に、入念に集めたデータを基にして、相手の行動を予測しながら戦う“データテニス”。それが乾の代名詞であり、最も得意とする戦法だ。

 悠介とリョーマのダブルスによるデータは集まった。それ故に乾は動じていない。

 

 ただし全てを把握しているわけではない。

 ネットを越えてきたボールには強烈なスピンがかかっている。

 自らが用意したわけではないそのスピンさえ利用して、悠介はガットに滑らせた。

 

 手塚と乾、どちらも眉を動かした時、すでに地面へ触れたボールは全く弾まず転がるようにして足元を通り抜けていた。

 見覚えがあって、忘れるはずもない。

 観衆、特にテニス部はその技を見て驚き、一年生は言葉を失って、二年生と三年生はついに来たと言いたげに興奮している。

 不二がにこりと微笑んでいた。

 

 「“つばめ返し”だァ!!」

 「不二先輩の“三種の返し球(トリプルカウンター)”!」

 「宮瀬ェ! 行ってやれ弟子ィ!」

 

 外野が俄然うるさくなり、呆れながら見回す悠介だが、それ以上に呆れていたのが初めて彼のそれを見たリョーマだ。それなりに近くに居たというのに今初めて知った。

 どこか納得がいかないという様子で、リョーマは悠介に尋ねる。

 

 「なんでそんなの隠してたんすか。使えばいいのに」

 「お前のせいだよ」

 「は?」

 「あと、俺に諦め癖がついてからかな。悪かったよ、黙ってて」

 

 気を取り直して肩を回し、同じ方向に目を向けた。

 今は倒さなければならない敵が居る。喧嘩は余計で、している場合ではない。

 

 「今はいいっす。勝てばいいんで点取ってください」

 「それ俺が言ったんだけど」

 「そしたら少しは尊敬してあげますよ」

 「あれ? 今は?」

 「してましたけど、今は幻滅してますね」

 「なんでっ!?」

 

 様子が変わった悠介を見やり、喜びと呆れを混ぜ合わせて、しかし今の打球は見事だったと認める乾が笑っていた。

 手塚はいつもの鉄仮面を崩さないが同じ気持ちだろう。素っ気なくて厳しいと思われがちだが誰よりも部のことを考えているのが彼だ。

 

 「ようやく吹っ切れたみたいだな」

 「ああ。試合は無駄ではなかったらしい」

 「ずいぶん待たされたよ。流石に動きも格段に違うな。さっきのダブルスのデータに宮瀬個人のデータを合わせる必要がある」

 

 頷いた手塚は、視線に気付いた悠介を見つめて思案する。

 

 「シングルスでは他のメンバーに敵うほどの爆発力はないかもしれない。だがダブルスになると話は別だ。戦況によってプレースタイルを変えられるあいつが、コート内を支配できる」

 「越前も攻めやすくなるだろう。結果的に大石とは違ったダブルスプレイヤーになるな」

 「あいつこそ、今の青学に必要な力だった」

 

 特に苦手としている先輩たちに凝視されていて、いつの間にか悠介は居心地が悪そうに挙動不審になり、助けを求めるようにリョーマへ視線を送った。

 きょとんとする彼は状況を理解していない顔で見つめ返してくる。

 

 「なんか、すげぇ見られてんだけど……怒られんの?」

 「怒られた方がいいと思うっすけどね。一回くらい」

 「お前に言われたくないんだぞ」

 「前向いてくださいって」

 「どうも軽んじられてるよな……」

 「ほら、行きますよ」

 

 リョーマのサーブで試合が再開され、悠介のプレースタイルが変わったことにより、ただそれだけとも言えるが、再び凄まじい熱狂が生まれる。

 それだけでなく相手が青学No.1と言われる手塚とNo.3の乾のダブルスだ。黙って見ていられるはずもなくて、その態度はテニス部員であればこそより熱くなる。

 長期戦が予想されたがちっとも構わない。

 応援の声は大きくなり、大会にも負けない絶叫がテニスコートを包み込もうとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8 トラブル・ゲーム

 「僕に何か隠してない?」

 

 それだけは、言われたくなかったのに。

 突き付けられた後で無視するわけにもいかなくて。

 

 「あー……俺、その」

 

 頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 何を考えてるのかわからなくて、自分のことすらわからなくなりそうだった。

 それでも何か答えなきゃいけないって思ってたのは事実で。

 気付けば俺は、本当に考えていたことを言ってしまっていた。

 

 「マネージャーになろうかなって、思ってたんです」

 

 不二先輩は驚いていたみたいだった。普段は目を細めて微笑んでいることが多いのに、きれいに開いているのを見る機会はあまり多くない。

 言うつもりはなかった。言ってしまった後で怒られる覚悟をした。

 きっと、先輩はそんなこと望んじゃいない。

 でもなぜか、いつの間にか俺はそんな気持ちになっていて、嘘をついているわけじゃなかった。この場を切り抜けようと冗談を言ったつもりもない。

 

 「去年もそうでしたけど、先輩のお世話をするのは好きだし、今年になって後輩ができて、あれこれ面倒看てるのも結構向いてるなって。ほら、指導役ってのも向いてると思うんですよ。練習には参加するけどチーム力の向上に集中するとか――」

 「それでいいの?」

 

 ひやりとした声。そんな声色、初めて聞いた。

 少なくとも、今まで俺に向けられたことはない。

 あの不二先輩が怒っているのだと、一瞬で理解した。

 

 「君は本当に、それで納得できるの?」

 

 ……何も言えなくなってしまう。

 良い考えだと思っていた。先輩も同級生も後輩も、みんなから頼りにされてる自負はあったし、俺も部の雑務をするのは嫌いじゃなかった。三年生が引退すればきっと桃城と海堂が部長と副部長を引き継いでチームを支える。俺はそのサポート。考え得る最高の布陣だと思っていたんだけど。

 

 そう言ってしまえば、不二先輩をさらに怒らせてしまう気がして。

 それ以上に、一度問いかけられただけで、確信を持とうとさえしていた自分の考えに自信を失いそうになって、本当にそれで納得できるのか、わからなくなる。

 

 何も言えない俺を見て、先輩は静かに目を伏せた。

 失望、されたんだと思う。

 今までどんなことよりも恐れていたことだ。憧れるこの人にだけは失望されたくない。心底そう思っていたのに今、現実になってしまった。

 足元がぐらついた気がして、顔を上げられなくなる。

 

 「僕は今でも待ってるよ。君と一緒にプレーできるのを」

 

 地面を見つめていた時、いつもと変わらない、先輩の優しい声を聞いた。

 

 「君が僕を本気にしてくれたからだ。だから僕は、君と一緒にテニスがしたい。それまでずっと待ってる」

 

 

 *

 

 

 ライン上を狙った正確無比なストロークを返した途端、悠介は驚愕した。

 素早く前に出た手塚がすでに待ち構えている。それだけならまだしも、ラケットを構えるその姿は忘れられるはずもなく、次の光景が簡単に想像できてしまう。

 

 「前!」

 

 的確な指示もできず端的に叫んだ。

 瞬時に理解したリョーマは全力で前へ走る。

 それでも間に合わず、繰り出された伝家の宝刀“零式ドロップ”は、地面に触れた途端に強烈なスピンで地面を転がり、前に居るリョーマではなくネットの向こうに居る手塚目掛けて戻っていく。

 

 完成された必殺の一打に観衆はわっと沸いた。ほんの一球で場の空気を自分の物に変えている。あれほどの凄技を見せられればそうなるのは当然だろう。

 呆然と立ち尽くす二人はしばし身じろぎすることもできなかった。

 

 「ゲーム手塚・乾! 4-3!」

 「うおおおおっ!? 手塚部長スゲー!」

 「宮瀬先輩と越前君がノッてきても、確実に決めてくる……!」

 「か、勝てるのかな? 越前君……」

 

 他のプレイヤーならばすでに心を折られていてもおかしくないゲーム展開だ。

 あらゆる手を尽くして攻撃を続ける悠介とリョーマに対し、どれだけ揺さぶられようとも即座に対処して、冷静な攻撃と防御で着実にポイントを重ねている。

 悠介とリョーマはすでに初戦と今とではまるで別人のように成長している。それなのにリードされているのは、ただ純粋に相手の地力が上回っているからに他ならない。

 

 「だから嫌なんだよ。どっちもバリバリのシングルスプレーヤーなのに、どこ打っても返してきやがんの。防御力高過ぎ」

 「攻撃し続けて抜けばいいでしょ。攻撃力ガン上げっスよ」

 「それで負けてるんですが?」

 「まだまだ。もっと、もっと」

 「ハァ……ほんと、楽しい後輩」

 

 大きく息を吐き出して、コートチェンジのため移動をしようとする。

 コートに入る寸前、軽いステップで疲労を感じさせずに、唐突に菊丸がやってきた。足を止めた悠介とリョーマが迎える。

 

 「助っ人さんじょー。ほいドリンク」

 「ありがとうございます」

 「どうも」

 「しっかし強いね、あの二人。部長だってほとんどダブルスやったことないはずなのにフツーに上手いでやんの。あれじゃどうしようもないじゃん」

 「ですね。うちの越前と大違い」

 「ちょっと」

 

 リョーマの抗議はさらりと受け流して、悠介は菊丸に注意を向ける。わざわざここへ来てくれたのはただドリンクを渡すためではないはずだ。

 期待に応えるべく菊丸はビシッと悠介を指差す。

 

 「そこで先輩からアドバイス! 有り難いからよーく聞いとけよ」

 「おっ、待ってました」

 

 悠介の表情がパッと明るくなると、菊丸は悪戯っぽく笑って声を大きくした。

 

 「攻めて攻めて攻めまくれ!」

 「期待して損した……」

 「やっぱそうっすよね」

 「あり? だめだった?」

 

 落胆してがっくり肩を落とす悠介とは反対に、リョーマは心得たと言わんばかりに頷く。

 俯いた悠介の背をぽんぽんと叩いて菊丸は手塚と乾を見ながら言う。

 

 「でもさぁ、やっぱダブルスなんだからシングルスとは違うじゃん? みんな頭じゃわかってても経験で知ってんのはユースケだけだよ」

 「乾先輩もダブルスやってましたけど……」

 「乾だってシングルスの方が長いじゃん。俺と大石の練習に一番付き合ってんのはユースケなんだからさ、アレやんなよ」

 

 そう言うと多少のアドバイスにはなったようだ。悠介がわずかに表情を変える。

 にやっと笑った菊丸は退散すべく二人からドリンクを受け取り、来た時と同様に飄々と元の位置へ帰っていった。

 改めてコートに入り、並んで立つ二人は敵を見据えながら話す。

 

 「越前。後ろのボール、全部取れるか?」

 「もちろん。一個も逃がしませんよ」

 「揺さぶるぞ。これはダブルスなんだ。シングルスとは違うってこと、先輩方に教えてやろう」

 「言いますね。珍しい」

 

 次のサーブは乾から。

 位置につくまでの短い間、悠介はリョーマに声をかけ続けた。

 

 「逐一指示する余裕はないだろうから、なんとなく俺の考え感じ取ってくれよ。こういう時に日頃の信頼関係が出るんだぞ」

 「先輩だって無茶言うじゃないっすか」

 「信じてるからな。お前も俺を信じろ」

 「……っス」

 「まだ折れていないみたいだな」

 

 フッと笑って、乾が得意の高速サーブを放った。

 ワンバウンドの後、ベースラインで待ち構えていた悠介がクロスで打ち返し、ボールは再び乾の下へ戻っていく。

 打ち返そうとするスイングの最中、乾は不意に呆気にとられた。

 

 普段から攻撃を好むリョーマが後ろへ走り、サポートを主としていた悠介が前へ出てくる。今までとまるで逆の体制。戦法を変えようとしている。

 構わずに乾はスイングを続行し、敢えて先程の狙い通り、悠介の正面へ打った。

 

 さあ、どう出る。

 楽しみにしながら乾が待っていると、瞬時に悠介が見せた構えで驚く。

 バックハンドのスイング。その挙動は別に珍しくもないがよく似ていた。

 彼の場合はこれがある。多種多様の技と、不意を衝くための戦法。あらゆる人物から学んだために予想を裏切って攻め込む強みがある。

 

 「手塚!」

 

 油断せずに身構えていた手塚は驚きもせずに、自身の方へ来た急角度の打球を迎える。

 海堂の“スネイク”だ。冷静沈着な手塚でなければ反応できなかったであろう一打である。

 おおっと観衆が声を漏らす中、手塚は的確に打ち返し、拾いに走ったリョーマが再び手塚の前へボールを出した。

 

 インパクトの寸前、飛び込むようにして悠介が眼前に現れた。

 強靭なボディバランスと冷静な判断力によって、手塚はストレートで打とうとしたスイングを咄嗟に変え、クロスで返す。悠介の背中を抜こうとしたのだ。

 

 本来ならば取れない打球。しかし、乾は取れると判断した。

 後ろへ跳んだ悠介が、まるで菊丸のように背面へ腕とラケットを伸ばして、打ち返す。

 落とすようにコートの端を叩いたボールには乾も間に合わず、ポイントが入る。

 コールが少し遅れていた。審判を務める大石が驚いていたのだろう。ハッと我に返った後で得点を告げ、観衆は盛大な拍手で迎え入れた。

 

 背中から倒れた悠介はぼんやりと空を見上げる。

 疲れた。体の節々が痛い。明日は確実にきつい筋肉痛だろう。

 こんなことなら、もっと普段から試合形式の練習をしておけばよかった。

 頭上に影が差したことでリョーマを見上げる。

 

 「ナイスファイト」

 「あの人絶対おかしいよ……こんなのやってたら絶対体壊れる」

 「筋肉の付き方が違うんでしょ。先輩いまだに体硬いし」

 

 差し出された右手を握って、ぐいっと引いてもらって起き上がる。

 立ち上がった悠介には盛り上がる歓声も応援の声も聞こえていなかった。

 集中力が増し、今は対戦相手のことしか見えない。

 

 「アレってなんすか?」

 「菊丸流ダブルスの心得だよ。攻めて攻めて攻めまくれってこと。主な戦場はネット際」

 「へぇ。気に入りましたよ」

 

 簡単に言葉を交わして定位置へ戻る。

 乾がサーブをして、リョーマが打ち返した。

 その時にはすでに悠介がネットに張り付いており、リョーマがリターンを終えた直後に手塚の目の前へ移動した。視線がかち合い、正面から対峙する。

 

 挑むだけではない。勝とうという意思を感じた。今までとは別人のように、苦手とさえしていた手塚に対して強い挑戦の意思をぶつけている。

 逃げるつもりはなかった。応じるために手塚も本気を尽くそうと再度決意する。

 

 その後で、まるで逃げ出すように悠介が走り出す。

 ラリーを続けていた乾とリョーマの間へ割って入ってボールを奪う。姿勢が流れて満足な状態ではなかったが、力を込めて打球を上げた。

 手塚の頭上を越えてやろうと考える一球。だが手塚も読んでいたのだろう、悠介と時を同じくして後ろへ下がって、絶好の位置でストロークを打つ。

 

 二人とも下がった。絶好の状況。

 手塚の強烈な打球へ向かって飛び込み、激突の心配をされる中、ラケットを差し出した悠介が柔らかくボールを受け止める。

 ネット際に優しく転がして、素っ気なく背中を向け、どっと地面が揺れる歓声が沸いた。

 

 待っていたリョーマの手をぱしんと叩いて、大きく息を吐き出す。

 一球ごとに生きた心地がしない。試合が止まる度に生きててよかったと思うのだ。

 

 「先輩だって、人のこと言えないじゃないすか」

 「何が?」

 「十分普通じゃないっすよ」

 「いやいや、お前が言ったって説得力ないって」

 

 フォーメーションを変えた途端に印象ががらりと変わった。

 観衆の盛り上がりも当然だ。

 フゥと息を吐く乾に、冷静さを崩さない手塚が言った。

 

 「よく見ている」

 「ああ。しかも度胸もある」

 「待った甲斐があったようだ。だが、俺たちは負けない」

 「フッ、そうだな。あいつらには同情する。どうやら、厄介な男を本気にさせたようだ」

 

 乾のサーブでゲームが始まる。

 先程同様、リターンの後で悠介とリョーマが入れ替わり、あくまでもネットプレーで攻め続ける選択を提示してきた。

 

 勝つためには、こちらからも攻めなければならない。

 得心した手塚は悠介より先に動き、ラリーの最中にボールを奪った。

 急角度で手前を狙われ、咄嗟に反応した悠介がダイビングボレーで辛うじて返すのだが、甘い球が手塚の眼前へ向かってしまう。

 起き上がりは素早く、悠介は迷わずに走る。

 

 手塚の鋭い打球がネットを越えた。

 後先考えずに走ったおかげか、悠介が追いつく。しかしなぜか打たずに避けてしまう。

 今度こそ手塚が驚愕して目を見開いた。

 悠介が打球の傍を通り過ぎるフェイントを行った直後、スライディングしてきたリョーマが力強く跳び上がり、渾身の力を込めて打ち返した。

 手塚の頭上を飛び越え、乾の予想を裏切って、ボールは誰も居ないスペースを通過する。

 観衆が沸くと同時に二人は軽くハイタッチしていた。

 

 振り返れば誰も居ない。自分たちのコートは隙だらけだった。

 仮にミスをすればどちらもフォローできない、攻撃にのみ専念した危険な賭け。それでもやり通してポイントを取った二人は大きな達成感を覚えていた。

 やれやれと苦笑する乾に対し、手塚は早くも気持ちを切り替え、集中力を高めている。

 

 「何が何でも勝たないとな。正攻法で無理なら、攻めて攻めて攻めまくるぞ」

 「りょーかい。そっちの方が性に合ってていいや」

 

 不敵に笑う後輩二人。いまだ発展途上なのが恐ろしい。

 その成長を見ているのは喜ばしいが、かといって手を抜くのは失礼で考えられない。ならば本気で勝ちを取りに行く必要がある。

 手塚と乾もますます気合いが入り、留まることなくさらに動きを良くしていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9 トラブル・ゲーム

 逃げているだけだと知っていた。

 諦める理由を他人に見つけて、やる気がないって言い聞かせて、それでも今まで通りのメニューを続けてるのは本当に諦め切れていないからだ。

 本音は違うのに、なぜか諦めようと頑張っている。

 一体何がしたいんだろう。そう思うことが増えていた。

 

 「マネージャー?」

 「うん。どう思う?」

 「冗談でしょ?」

 「あ、俺の本気が簡単に扱われてる」

 

 越前に言ったのは相談のつもりじゃなかった。ただなんとなく、本当になんとなくだ。反応を期待しているわけじゃなかったし、普段の会話の一つ程度に思っていた。

 言ってみたらやっぱり重く受け止めるわけでもなくて、だけどその時は、不思議と意外なほどに真剣な感じにも受け止められた。

 

 「本気だったら俺に言わないでもうやめてますよ。やめたくないから言ってるんでしょ?」

 「え……」

 「続けましょうよ。じゃないと退屈になっちゃうんで」

 

 笑いかけてくる越前は珍しく感じられた。

 口は悪いし、微妙に俺を下に見てるんじゃないかって感じの後輩だけど、その時の顔はなぜか、俺に考えさせる優しいものだった。

 

 別に何をするでもなく、缶ジュースなんて飲みながら歩く帰り道。

 今日はやたらと町が静かで考える暇を与えてくれる。

 越前は口数が多い男じゃなくて、何も考えずにぼけっとしてる瞬間も多い。俺がほっとくと隙あらば昼寝しようという特徴もあった。

 

 「スランプくらい誰にでもあるでしょ。今やめたって後悔するだけっすよ」

 「お前はそういうのなさそうだなぁ……」

 「まあね」

 「励ましたいのか煽りたいのかどっちなんだ」

 

 その日の越前は、なんとなく普段よりも喋るような気がした。

 気を使われてるんだろうと察しても指摘しなかったのは居心地の良さを感じたからだ。

 

 「なんなら今から俺とやります? うちのコートで」

 「え? ひょっとしてお前お金持ち?」

 「そういうわけじゃないっす。柄の悪い坊さんが知り合いなだけ」

 「それはそれで怖いんだけど。じゃあいいやとはならないぞ?」

 

 以前にも別のどこかで感じたことがある感覚。

 ここは妙に落ち着く。

 会話の最中もつい考えてしまっていて、そんな俺に気付いているのかいないのか、越前はいつもとなんら変わらない口調で喋っていた。

 

 「多分、俺、まだ本気の先輩と戦ってませんよね? だから勝っても勝った気がしない」

 

 なんでかわからないけど驚いてしまった。

 思わず立ち止まってしまった俺とは違って、越前は数歩進んでから振り返る。

 

 「ちゃんと勝つまで逃がしませんよ。やめてもやめなくても勝負しに行くんでそのつもりで」

 

 にやりと笑う顔は生意気。

 いつも通りだけど今日はやけに心地が良かった。

 

 

 *

 

 

 試合は大方の予想を裏切って短期決戦となっていた。

 熾烈さを増す度に展開するスピードが速くなり、互いに激しく点を取り合い、ゲームを取られても気にせず攻め続ける。

 一進一退、それどころか進み続けて激突しようが道を間違えようが止まらない。

 どちらも攻撃に重きを置いて、ミスを恐れずに俄然前へ出ようとしていた。

 

 疲労を感じさせることもなく、間違いなく観衆の熱狂はこれまでで最も強くなっている。

 もはや手塚が居るからという理由ではない。ただ純粋に熱くなる試合だったのだ。

 すでに試合を終えたレギュラー陣まで拳を握り、何を考えるでもなく声を出して応援していた。

 

 「いっけぇ~おチビ! ミスんなよ!」

 「堪えろよお前ら! 歯ァくいしばれ!」

 「まだ終わらせちゃだめだ! 頑張れー!」

 

 熱くなった菊丸と桃城がコートのすぐ傍までやってきて身を乗り出し、河村も大声を出して支えようとしている。

 他の部員もだんだん近くなっていて、いつになく熱中していた。

 

 ぼたぼたと大量の汗を落としながら、リョーマは必死に走っていた。

 もはや周囲を気にかける余裕も失われている。みんなの声も聞こえない。

 集中力が増して、今は余計な情報が一切入ってこなかった。

 だからか、手塚が見せたその姿勢が、試合を終わらせようとしているのだと悟り、限界を超えて追いつこうと全力で足を動かしていたのだ。

 

 コートの中央を狙う必殺の一撃、零式ドロップ。

 放たれると同時、怪我をする危険性も考慮せぬまま、菊丸よろしく飛び込んだ。

 思い切りのいいダイビングボレーでリョーマが地面に触れる前にボールを拾って、ライン上を狙う正確さで相手コートへ返した。

 

 「残念無念……!」

 

 ずざっと滑るようにリョーマが倒れた。

 咄嗟に踵を返した手塚がギリギリで拾い、ボールを返す。

 ミスはなかった。危険な打球を放ったわけでもない。

 振り返った時、しかし手塚は、待ち構えていた悠介が前方に向かってジャンプするのを見て表情を変える。

 

 「また来週!」

 

 強烈なスマッシュが地面に叩きつけられ、乾でも取れずにコートを貫いた。

 わあっと大勢の人が声を出し、拳を突き上げて喜びを露わにする。

 

 「よっしゃあっ! できんじゃねぇかダンクスマッシュ!」

 「よく拾ったおチビー! ナイスガッツ!」

 「すごい、本当にすごいよ……!」

 

 歓声にかき消されぬよう少し間を置いてから、大石は改めてコールする。

 

 「ゲーム宮瀬・越前! 6-6!」

 「タイブレークだぁ~!!」

 

 これまでで最も強い力で、二人は勢いよく互いの手を叩く。

 力が漲り、全身から熱を放出している。

 もはや自分たちでも制御ができない状態で、突発的に感情を爆発させた。

 

 「っし!」

 「追いついた!」

 

 危機、また危機と流石に強く、勝つのは簡単ではないが、だからといって簡単には勝たせない。異様なしつこさで追撃する二人はまたしてもポイントを並べた。

 ここから先はタイブレーク。7ポイント先取した方が勝ちというルールで、7ポイント時点で2点差がつけられていなければ、どちらかが2ポイント連取するまで無制限に試合が続く。

 根比べはここからだと、どちらのペアも油断してはいなかった。

 

 ふと気付けば手塚とダブルスを組むのは初めてであり、乾は苦笑する。

 条件は同じ。個人技と経験で勝っている反面、ダブルスとしての成長では彼らに劣るだろう。試合の中で見る見るうちに強くなっていくのを見るのは嬉しくもあり、恐ろしくもあった。

 

 「まったく、大した奴らだよ。ここまで喰らいつかれるなんて」

 「すまない乾。俺の返球をもう少し考えるべきだった」

 「いや、あれは返した宮瀬がすごい。手塚がミスしたわけじゃないさ」

 

 関係性が悪いわけでもない。だからといって際立って良いわけではなく、大石と菊丸のようにできないのは致し方ないことだ。

 それでも、試合はいよいよ終盤。

 何を思っていようと決着はつけられる。

 

 「何にせよ、このタイブレークで終わる」

 「ああ。油断せずに行こう」

 

 気合いを入れ直した手塚と乾を見て、二人は集中を途切れさせていない。

 動いている間は何も聞こえなくなるというのに、プレーが止まれば途端に応援が力になる。負けてたまるかと勝ち気が鮮明に戻ってくるのだ。

 

 「タイブレークか……変則的だな」

 「問題ないでしょ。今まで通りっす」

 「ま、やることは変わらないよな」

 「攻めあるのみ」

 

 ぐりっと肩を回して位置へつく。

 サーブを打って試合が始まり、すぐさま激しい攻防になった。

 盛り上がる観衆に辺りを埋め尽くされながら、不二がふと話し始める。

 

 「本当にすごいね」

 「うん。始まるまではどうなるかと思ったけど、連戦した後でこの試合だもん……きっと竜崎先生も黙ってないよね」

 

 応じたのは河村だった。

 目が離せない試合とはいえ、ちらりと不二の顔を見て、浮かべられた微笑みを確認する。

 

 「あんなに楽しそうにプレーする悠介を見るの、久しぶりだ」

 「はは。最近は基礎と個人練習以外、ほとんど後輩の指導してたから」

 「越前が変えてくれたんだね」

 「うーん、それは違うよ」

 

 予想外の返答に驚いて不二が河村の顔を見れば、にこりと笑いかけられる。

 

 「不二が宮瀬に基礎を教えて、俺たちみんなでそれを育てて、今度は宮瀬が一年生に教えて、越前が引っ張ってくれた。そして今日の試合で、レギュラー陣が火を点けたんだ。宮瀬を変えたのは俺たち青学テニス部全員だよ」

 「ふふ……そうだね」

 「あ、でも師匠の不二としては、自分でなんとかしたかったかな?」

 「そんなことないよ。これで十分」

 

 必死になってボールを追いかける悠介を見ると、不思議と胸の内が暖かくなって、穏やかに微笑んだ不二は満足そうに頷く。

 納得した様子の河村も上機嫌そうに、コートへ向けて悠介の名を呼んだ。

 

 「そんなに時間は経ってないはずなのに、なんだか懐かしいや」

 

 不二も珍しく大声を出し、悠介と越前の名を呼んで応援を始める。

 本人たちだけでなく見ている人間まで熱くなり、ボルテージはますます高まっていった。

 

 ラインギリギリに刺し込まれたストロークをなんとか返して、転びかけた悠介は厳しい表情で顔を上げ、チャンスボールだと危機感を覚える。

 見逃してくれる相手であるはずがなかった。

 ただでさえ長身。高く跳んだ乾が猛然とラケットを振り下ろし、鋭いスマッシュが二人の間を抜けて通り過ぎていく。

 

 「3-2!」

 「あ~やばい!」

 「集中切らすなよ! 次だ次ィ!」

 

 悠介がサーブして、スピードが衰えない打球を手塚が返す。

 その直後にリョーマが飛んできて、鋭いドライブBで虚を衝いた。

 あまりの勢いに辛うじて乾が拾った時、すでに悠介が高く跳んでいて、お返しとばかりに強烈なスマッシュを叩き込んだ。

 

 「3-3!」

 「よぉし! ナイスダンク!」

 「いいぞユースケ~!」

 

 再び悠介のサーブ。

 乾が的確にリターンして、正面で捉えた悠介がストレートで返し、危なげなく手塚が打ち返す。

 打った後になってリョーマの動きに気付き、タイミングを見計らい、バッチリ捉える。

 手塚の打球をボレーで打ち返して、急角度をつけて手塚の眼前からポイントを奪ってしまった。

 

 「4-3!」

 「越前くーん!」

 「いっけぇ~!」

 

 サーブ権が移り、乾が打った。

 冷静にリョーマが返すが、驚いたのは手塚の行動だ。突発的にポーチを行った彼は鋭い打球で、すでに駆け出していたリョーマの足元を撃ち抜くようにポイントを取る。

 

 「4-4!」

 「す、すげぇ!?」

 「神業かよ!?」

 

 どちらかが取れば、どちらかが取り返し、決して2ポイント差をつけさせない。

 興奮冷めやらぬまま勝負は長引き、だが疲れて動けなくなるどころか、動きはさらに迫力を増して良くなる一方であった。

 どう決着するのかはわからない。それでも観衆は応援を続けた。

 こんなにすごい試合、滅多に見られない。

 

 打球は強く、速く、狙った通りの場所へ落ちる。

 息もつかせぬほど忙しなく、走って、走って、走り続けた。

 もはや思考など構っている暇はなかった。考えもせずに動き続けるしかない。

 

 足元へ来たボールを、自分の身を守るように打ち上げて、次に来る攻撃を理解しながら悠介は逃げようとしなかった。

 最良のポジションを最速で取った手塚が強烈にスマッシュする。

 落下地点へ入った悠介は体を回転させ、遠心力を使い、決め球を軽快に返してしまった。

 

 スマッシュを無効化した羆落としだが、ダブルスの場合は危機が去ったわけではない。

 先読みしていた乾が素早くボールの落下地点に入り、ゆっくり落ちてくるのを待った後で、高身長を利用したジャンピングスマッシュを行う。

 その時にはすでに悠介は彼らへ背を向け、後方をフォローするため走っていた。

 入れ替わりに前へ走ってきたリョーマが乾のスマッシュへ向かって跳び、衝突を恐れずに力尽くでラケットを叩きつける。

 

 「9-8!」

 

 攻められれば、攻め返す。

 もはや防御は必要としていない。相手より多く点を取った方が勝つ。

 手塚は針の穴を通すかの如きコントロールで、跳びついても取れない絶妙の位置を射抜いた。

 

 「14-13!」

 

 終わりの見えない展開の中で意識が冴え渡っていく。

 まだ終わりたくない。終わってほしくない。

 悠介が死に物狂いで着地を考えずにボールへ跳びつき、ラインを割るギリギリの足元を抜く。

 

 「19-18!」

 

 異様なほどハイになっているのは理解している。

 理屈じゃない。考えることさえ無駄に思える本能のぶつかり合いだ。

 乾は渾身のスマッシュをガラ空きになったスペースへ放り込み、思い切り地面へ叩きつけた。

 

 「23-22!」

 

 体は疲れ切っているのに、不思議と良い気分だった。

 もう勝利しか見えていない。いつまでだって戦える気になってくる。

 リョーマが跳び、らしくもなく叫びながら放ったストロークが、誰にも触れられずに落ちる。

 

 「27-26!」

 

 いつになったら終わるというのか。

 限界を超えて、勝ちたい一心で諦めずに戦い続けている。

 肉体の疲労とは裏腹に、気分はやけに晴れやかだった。

 

 29-29まで追いついた時、悠介はプレーとプレーの間の短い隙間に、膝に手を置いて俯いて、激しい呼吸を繰り返していた。

 いつ倒れてもおかしくない状態であろう。練習だとか、試合だとか、そんな些細なことはすでに頭から抜けている。倒れてもいいから勝ちたい。それが今、ふらふらの体を支える唯一にして絶対の動機だ。

 

 「先輩。まだ限界じゃないっすよね」

 

 リョーマに声をかけられて辛うじて顔を上げる。

 帽子を捨て、にやりと笑い、楽しそうに悠介を見ている。

 

 「俺はあと100ゲームいけますよ」

 「ハァ、ゼェ……俺もだ」

 

 上体を起こして再び臨む。

 不思議な気分だ。そんな些細なやり取りでまた力が沸いてくる。

 大石が言っていた、これがダブルスの力なのだろう。

 二人はそう思い、手塚と乾を超えるためにゲームを始めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10 後輩は構われたい

 気付けばすっかり空の色が変わっていた。

 辺りの風景が茜色に染まって、生徒の多くもすでに帰路へついている。

 あれだけ集まっていた生徒もすっかり居なくなってしまって、耳が痛くなる喧騒はどこへやら。校内はずいぶん静かになっていた。

 

 一年生が片付けとコートの整備をしている。談笑が聞こえてきて、決して大きな声ではないのに和気あいあいとした雰囲気が伝わってきた。

 どこか和やかな風景に心を癒される。

 

 テニスコートを眺めながら、校舎の壁に体重を預けて、だらしない姿勢で座る悠介は大きく息を吸い込んだ後、苦しくなるまで吐き切った。

 すでに制服に着替えた後。いつでも帰ることはできる。しかし体の疲労と、なんとなく動きたくない気分だという理由で、いまだに家へ帰らずにいる。

 あれだけ晴れやかだった気分も、試合が終わってしまえば夢か幻のように消えてしまった。

 

 「あんだけやって全敗だもんなー……なんだかなあ」

 

 隣に座っていたリョーマがちらりと悠介の顔を見た。

 激しい試合をしたからと、一年生でありながら片付けを免除された彼もすでに制服に着替えて帰り支度を済ませている。それなのに帰らないのは悠介がこんな調子だからだ。

 いつものように買ってもらった缶ジュースに口をつけながら、冷静に呟いた。

 

 「初めてにしてはよくやった方でしょ。部長も褒めてましたよ」

 「んー、でもなー……試合とか久々だったし、勝ちたかったなー」

 「俺は公式戦出てましたけどね」

 「……んっ? 自慢?」

 「まさか。そんなつもりないっす」

 

 平然とするリョーマに噛みつくのもそこそこに、悠介はまたため息をつく。

 体のどこにも力が入らず、みっともないほど四肢が脱力していた。

 

 「にしても疲れた……お前よく大会とか出られたな」

 「まあ、慣れっすよ。客とかあんまり気にならないし」

 「どっちみち俺は無理そうだなー。緊張するし、我に返るとわけわかんないし。みんなああいう環境でやってんだもんなー……」

 「緊張してました? いつも通りだったっすけど」

 「してたよ。でもなんかもう、あんまり覚えてないなあ、さっきのこと……」

 

 ぐったりした悠介は本人が言う通り、疲れた顔で眠そうにしている。

 本人が言うところによれば、個人練習で体力作りを継続しており、本来乾が海堂のために渡す予定だったメニューを毎日こなしているのだという。海堂はそのメニューを2倍にして取り組んでいるらしいので桁違いだが、それでも悠介だってスタミナがある方だと言われていた。

 確かに、彼がぐったりしている姿はあまり見たことがない。

 ここまで疲れた顔をしているのは、本人が言う通り緊張が大きかったからかもしれない。

 

 考えてみれば悠介は部内でもずいぶん忙しい立場だ。

 マネージャーが居ない代わりに雑務をこなして、一年生の世話をして、三年生のお守りをして、二年生を適当にあしらって、自分の練習もして、部活が終われば個人練習をする。

 何気なく傍に居たものの、よくよく考えればすごい人なのだなと、リョーマは気付いた。

 

 「先輩はすごいっすね」

 「ん? 何、急に」

 「素直に褒めようかと思って」

 「あー……じゃあもうちょっと褒めてくれない?」

 「いや」

 「あれ?」

 

 それはそれとして扱い方は普段と変えずに淡々と言い切る。

 よっぽど疲れているのか、ため息混じりの悠介もしつこく食い下がろうとはしない。

 

 「そもそも、なんであんなに試合したんだっけ? ダブルスの練習とか言ってたのに」

 「先輩のためっすよ」

 「俺?」

 「メンタル激ヨワだからみんなで元気付けたんでしょ、あれは」

 「あ、なんかいじめの予感。変なあだ名つけないでくれる?」

 「メンタル激ヨワ先輩っすか」

 「お前敬う気ないよね? ねぇ?」

 

 睨みつけてくる悠介をさらりと無視してリョーマは顔を逸らす。

 普段であれば頬でもつねって折檻してやるところだが、あいにく腕を上げるのも億劫だ。今回ばかりは見逃してやることにして悠介は寝そべる。

 

 「そういえば俺、タイブレークって多分初めてだ」

 「え? マジっすか?」

 

 うん、と恥じることもなく頷いた。

 驚きを隠せないリョーマは悠介の顔を見つめており、視線に気付いて、そんなに変なことだろうかと心配になりながら説明する。

 

 「まあ、試合経験自体少ないし、ランキング戦とか練習試合くらいしかないから。勝つのも負けるのもそこまで長引いたことなくてさ」

 「へぇ……初めて聞いた」

 「別にかっこいい話でもないから、わざわざ言う必要もないんだけど」

 「じゃあ今日は得る物多かったんじゃないすか?」

 

 からかうわけではない。意外にも真面目に問われてううんと唸った。

 

 「そうなのかな……でも、終わってみれば楽しかったよ。疲れたけど、やってよかった」

 「俺も、楽しかった」

 「試合って楽しいな。久々だからちょっと忘れてた」

 「データは取られたでしょうけどね」

 「あー、乾先輩……勝ったことよりデータの方が嬉しそうだったもんなあ。俺もしばらくああいうプレーしてなかったし、色々思い出させたかも」

 「部室から出てこないっすからね……」

 

 二人してげんなりした顔で部室を眺める。

 きっと今頃は乾が凄まじい勢いでノートに収集したデータを書き込んでいることだろう。試合直後にフフフと笑う怪しげな姿は見慣れていても恐ろしかった。

 そういえば他の先輩も留まっている様子だが、何をしているのか。

 

 部室を気にした後、ふとリョーマは悠介の発言を気にした。

 しばらくああいうプレーをしてなかった。

 確かにそうだ。悠介があそこまでアグレッシブな攻めをするのも、青学レギュラーの技を次々に使い分けてペースを掴もうとするのも、一年生は今日になって初めて知った。おかげで片付けに従事しながらも彼らの話題は宮瀬先輩で持ちきりだ。

 

 「なんでプレースタイル変えたんすか?」

 「うん?」

 

 いつの間にかすっかり仰向けに寝転んで、組んだ腕に後頭部を預けている。悠介はリョーマの視線を受けて気まずそうにして、珍しく言い淀む。

 なんとなく察しているのにこの期に及んで隠すつもりなのか。

 リョーマはなんとしても聞き出す覚悟だったが、幸い、そうした意思が悟られたのかもしれず、強引に詰め寄る前に、大きなため息の後にぽつりと呟かれた。

 

 「多分、お前のプレーを見たからじゃないかな。自信なんか粉々に砕かれたよ。俺の目指したとこにはすでにお前が居たんだって気付いた」

 「ランキング戦っすか」

 「そうだな。海堂戦で衝撃を受けて、その後は乾先輩だもんな。俺は必要ないって思った。お前をもっと成長させればな」

 

 そうした本音を初めて聞いた。本人が言っていた、社交的じゃないから心配だ、というのも嘘をついたわけではないだろう。気にかける理由の一つではあったはずだ。しかしそれ以上に自分の目標を達成している人間を見つけて、たとえ後輩でも、こいつしか居ないと信じたのである。

 青学が全国制覇するためには、越前リョーマが居ればいい。

 誰にも言わずに勝手にそう信じて、そのために傍で支えてやろうと決意した。ジュースを奢るのはたかられているからでもあるのだが、やたらと気にかけたのは青学テニス部全体のためだ。

 

 「事実、お前は大会でも結果を出して、重要な勝負を勝って決めた。お前のおかげで青学が勝ち進んだのは間違いない。だから俺は、多分間違ってなかったんだろうって思ってる」

 「メンタル激ヨワっすからね……」

 「それやめろ。定着させんな」

 

 ふーっと息を吐いて、上体を起こした悠介がリョーマの顔を覗き込む。

 穏やかに微笑んでいて、いつもそうするように優しい顔をしていた。

 

 「今日のダブルスは意外によくできたし楽しかったけど、俺は今でも、お前はシングルスに専念した方がいいと思ってるよ。大会で結果も出してるしさ」

 「まあ……」

 「部長に言われたんだろ? 青学の柱になれって」

 

 言葉に詰まったリョーマは気まずそうな顔をする。

 手塚とのやり取りを知っている相手は少ない。その場に居た手塚と大石を除けば、おそらく目の前に居る悠介だけだ。意識的に話したのは彼しか居ない。

 片付けの済んだきれいなコートへ視線を移して、悠介は静かに言った。

 

 「俺もそうした方がいいと思う。お前になら任せられるからさ」

 「……勝手っすよ、そんなの」

 

 憤りを滲ませる声を聞いて目を向けると、リョーマは真っ直ぐ悠介を見ていた。

 

 「まだ一回も勝ってないでしょ? 俺は諦めてないんで」

 

 それは、すでに決意した声だった。

 誰が何と言おうとやる。そうした強い意思を感じる。その相手があれこれと理由をつけてかっこつけようとするメンタル激ヨワ男ならば尚更、自分が引くつもりはない。

 

 呆気にとられた悠介は困ったように苦笑した。

 以前から知っていたはずだ。彼は強い。それは何もテニスだけではなかった。

 きっと言っても意見を曲げないだろうということまで知っていて、主張のぶつけ合いで勝てるとは思っていない。だからメンタルが、と言われるのかもしれないと不意に気付きながら、仕方なく悠介は道を譲るように承諾する。

 

 「ハァ、わかったよ……とりあえず一勝。お前に渡すまでは頑張る」

 「その後は?」

 「その後はまあ、どうなるかわからないけど、やめたりはしない」

 「まだまだだね」

 

 やれやれと言いたげに呟いたリョーマにむっとするが、悠介は嘆息して何も言わない。

 ちょうど、部室からレギュラー陣が出てきたのが見えた。

 近付いてくるのを察して笑顔で迎える。

 

 「ユースケとおチビお疲れ~!」

 「やっぱ帰ってなかったのかお前ら」

 「お疲れ様です。流石にもう、疲れちゃって」

 

 いの一番に駆けてきた菊丸と桃城を最初に迎えて、当然とばかりに続々と集まってくる。

 ぬっと顔を出した乾が悠介に言った。

 

 「宮瀬。明日も練習試合やるからそのつもりで」

 「は? ちょ、なんか今、さらっと死刑宣告みたいなことを……」

 「心配しなくていいよ。今日ほど長くないから。手塚の意向もあったから最後は1セットマッチにしたけどもう少し色んなパターンを試してみたいんだ。明日は2ゲーム先取で、次々パートナーを変えてみよう。ついでにレギュラー陣のダブルスパターンも考えられる」

 「ちなみに拒否権とかは……?」

 「もちろんあるよ。でも、そうだな、その練習試合ができないとなると……ちょうど新しい栄養ドリンクができたから試しにそれを――」

 「やります! 試合やらせてください! うわぁい嬉しいなぁ!」

 

 わーいと大声を発して悠介が両手を上げた。乾は満足そうに微笑む。

 一方、周囲に集まったレギュラー陣は怯えた表情に変わり、憐れみの目を向ける。拒否権はあるが拒否すれば卒倒するだけだ。事実上ないに等しい。

 

 喜んで見せた後に悠介は肩を落とし、重々しくため息をついた。それも当然だろうと“新しい栄養ドリンク”の存在を知らされた一同は同情している。

 その反応は予想通りだった。部員の様々なデータを収集している乾にわからないことはない。

 そうなれば当然、弱気な悠介をその気にさせることだって簡単だった。

 

 「不二とも組めるぞ」

 「えっ」

 

 悠介が明らかにぐらついた。乾の栄養ドリンクより強い影響力で表情が変わる。

 期待する様子で不二をちらりと見れば、にこりと微笑んだ彼が頷いた。

 

 「うん。悠介と組めるなんて久しぶりだね。嬉しいな。明日はよろしくね」

 「あ、い、いえ、こちらこそ。俺も嬉しいです」

 

 これが本当に、隠し切れないくらい心底嬉しそうなのだから、明らかな表情の変化を見た部員たちが呆れるのも当然だった。

 宮瀬を釣るには不二を餌にすればいい。青学テニス部にまつわる定説だ。

 あっという間に釣られた悠介は動けそうにないくらいの疲労も忘れてガッツポーズを作り、相変わらずの態度に不二は微笑ましそうに見ていた。

 他の部員には白い目で見られている。

 

 (また釣られてんなあ、また釣られてるよ)

 (すっげーちょろい。おチビ嫉妬すんじゃないの?)

 (アホだ……)

 (データ通りだな)

 (よかった。相変わらず宮瀬は不二が好きなんだな)

 

 そんな姿を優しく見守っているのは河村だけである。

 何も言わないが悠介の個性的な部分として、こいつはヤバい、と誰しもが思う点だ。

 隣に座るリョーマも明らかに白い目をしており、どこが普通だ、という気持ちがより強くなる。

 

 「そうだ。越前はいつも通りの練習でいいぞ」

 「え? なんでっすか?」

 

 乾が告げるとリョーマは不思議そうにする。質問すると乾はノートを開きながら答えた。

 

 「お前たちのダブルスについては大体わかった。意外と物になりそうだと思ったし、まずは他の可能性について探っていきたい。レギュラー陣と宮瀬を組ませて相性を確かめたくてな」

 「えっ、ちょっ――」

 「まー越前はバリバリのシングルスって感じっスからね」

 「そーそー。ユースケはダブルス専門にした方が良さそうな感じだし」

 「もう手ェ抜くんじゃねぇぞ」

 「今日の試合を見てたら大丈夫そうだな。よろしく、宮瀬」

 「そういうわけだから、明日はいつも通りシングルスに戻ってくれ」

 

 呆然とするリョーマは口を挟む余地も見出せず、大きな衝撃を受けて固まる。

 なんて言えばいいのか。

 ちらりと悠介の顔を見ると、視線に気付いた彼だが、なぜか照れた様子で嬉しそうに笑う。

 

 「いや、俺はほら、さっき言ったのもあるし……不二先輩と組めるからさ」

 

 妙にイラッとした。

 いつも彼にされるように、片手で顎の辺りをガッと掴んで、頬をぐにっとしてやった。

 普段から生意気な態度とはいえ、そんな行動は珍しい。

 呆気にとられる一同に振り返って、リョーマはいくらか怒りを感じさせながら呟く。

 

 「俺もやります……ダブルス」

 「ん、まあ慣れてきたところだろうし、データにはなるけど……」

 「乾~、これは素直にやらせた方がいいんじゃない? 後が怖いよ?」

 

 その細腕のどこにそれほどのパワーがあったのか、掴まれた悠介がぎゃあと叫び、逃れようともがいているのだが逃げられない。

 これは確かに受け入れた方が良さそうだ。

 それはそれで悪くない。乾が承諾するのは早かった。

 

 「そうだな。それじゃあ越前もダブルスに加わってもらおう。宮瀬もいいな?」

 「痛い痛い!? もげるもげる!?」

 「良さそうだ」

 「宮瀬、今のはお前が悪いわ。しょうがねーよなあ、しょうがねーよ」

 

 ぎゃあぎゃあと途端に騒がしくなった集団を少し離れた位置から眺めて、大石は感じ入る様子で頬を緩ませて、手塚はいつものクールな無表情だった。

 一時はどうなることかと思ったが、結果は将来的な期待を持てるもの。

 予想外に長い試合になったのも、公式戦にも劣らない熱量も、決して無駄ではない。

 満足のいく結末に大石がふーっと息を吐いた。

 

 「やっとその気になったみたいだな。桃城と海堂がレギュラーを取って、それから越前が入学早々頭角を現してきたからな。仕方ない部分もあると思うけど」

 「シングルスで能力を測るランキング戦では、ああいうタイプが振り落とされることもある」

 「そりゃ、個性的なシングルスプレイヤーばかり揃うわけだ」

 

 大石は仕方なさそうに苦笑して言ったが、耳が痛い一言だ。

 腕を組んで目を伏せた手塚は静かに思案する。

 レギュラーを決定するランキング戦は個人が必ずシングルスで勝敗を競う。シングルスに適性がある強い者が残るのは当然であり、大石や菊丸のようなダブルスを得意とする者が勝つのは稀。こうした方針で黄金(ゴールデン)ペアが生まれたのは奇跡にも等しいだろう。

 

 悠介とリョーマがシングルスで戦えば、本来のスタイルに戻っても間違いなくリョーマが勝つ。彼らを知るレギュラー陣は誰しもが自信を持ってそう考えていた。

 その一方、シングルスを専門とするリョーマをダブルスに起用するには、パートナーを悠介にする必要があって、他の誰かでは務まるはずがないとも考えられている。

 

 目指すは全国制覇。

 すでに関東大会を優勝して制覇したが、苦戦はあった。

 改革が必要な時かもしれない。手塚はそう考える。

 

 共に戦ってきた仲間たちを信頼している。しかしその反面、埋もれたままの逸材を放置しておいていいのかという葛藤もあった。

 敗北したとはいえ、宮瀬悠介は力を見せた。まだ強くなる兆しも見せている。現時点での実力が全てなのではない。

 何より大石と菊丸がいつになく嬉しそうで、新たなダブルスプレイヤーの台頭に危機感を覚えるどころか素直に喜んでいるのが印象的だった。

 

 「一度、考えてみる必要があるな。青学のためになる別の方法があるのか否か」

 「そうだな。俺たちの代じゃ間に合わなくても、あいつらが居るなら」

 「ああ……」

 

 変革の時が来たのかもしれないと思案する。しかし騒がしい一同を眺めながらというのは些か無理があるらしい。

 今日のリョーマはいつになくキレているらしく、いつの間にか悠介の額を掴むアイアンクローに変わっている。

 

 「ちなみに越前、宮瀬と不二が組んだダブルスは全戦全勝だ。不二と組んだ時はやけにやる気が漲るらしくてな。手塚と大石のペアにも勝っている」

 「へえ~……」

 「もげちゃうもげちゃう!? あっ! 俺ちょっとヤバいかもしれない!?」

 「お、おい、ちょい待て越前。そろそろ許してやれって。こいつも悪気はなかったんだ、な?」

 「うんうん、嘘じゃないよ。ただ不二のことになると目の色が変わるだけだから」

 

 信頼はしている。が、聞こえてくる会話に一抹の不安を覚えないでもない。

 

 「ついでに言えば、不二がダブルスを提案した時は即決で承諾しているな。宮瀬曰く“手塚部長と真田さんが相手でも負ける気がしない”そうだ。おっと、越前の時は言わなかったな?」

 「ぎゃああああっ!?」

 「どうどう越前! い、乾先輩も余計なこと言わないで!?」

 「ふふふ。可愛い後輩じゃないか」

 「あはは……不二にとってはね」

 

 そうしたやり取りを見ていると、果たして本当に大丈夫だろうかと思わないでもなかった。

 手塚は眉間の皺を深くして悩んでしまい、大石は力なく苦笑する。

 今日の部活は終わってしまった。明日はレギュラー陣全員でグラウンド100周してから練習を始めようと決意して、手塚は大石と共にようやく彼らの下へ歩み寄っていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

チームを作ろう
11 大会の噂


 本当に学校なのだろうかと疑ってしまうほど豪華で広い会議室だ。

 数々の中学校からテニス部の顧問が集められており、珍しい状況に期待と不安が入り混じって、多くの人が年齢を問わずに覚悟している。

 主催となる氷帝学園男子テニス部顧問、榊太郎が説明を続けていた。

 

 「試合はダブルス、シングルス2、シングルス1で構成し、先に2勝したチームを勝利とします。チームのメンバーは最低でも4人、最高で5人までと定め、1人の補欠メンバーを許可します」

 

 配られた資料にはいまだかつてない、中学テニス界を変革させようとするかのようなイベントについて記されている。

 企画したのは榊だが、多くの教師に理解を得た上で提案していた。

 

 「このように、“関東ジュニアオープンテニス”は学生たちの自主性を尊重し、各々が好きなようにチームを組んで参加する団体戦です。他校の生徒と交流することで、テニスの技術を競い合わせて向上させるだけでなく、チームを組むことでリーダーシップや協調性を養ってもらいたい」

 

 彼が提案するのはあらゆる学校の生徒が、個人の判断で独自のチームを作り、学校ごとに参加する大会とは違った刺激を与え、新たな刺激を得てテニスに向き合うことを目的としていた。

 もちろん学校に通いながら部活動を行う、それ自体を否定するつもりはない。しかしそればかりではレギュラーメンバーは固定され、生徒たちの思考も一極化してしまい、多様性を理解する機会を失わせてしまう場合が考慮される。

 才能を埋もれさせたまま、部活動を引退してしまう生徒が居る可能性を否定できないのも事実。それならあらゆる生徒にチャンスを与える機会があってもいいのではないか。

 

 榊が提案する“関東ジュニアオープンテニス”というイベントはその先駆け。

 試験的に関東地方の学校に協力してもらうことになるが、生徒に与える影響を考慮し、有用性を認められれば全国的に広めていく可能性もある。

 これはあくまでも生徒たち、未来を担う若者たちのためだと語っていた。

 

 「社会に出る者、或いはプロを目指す者、どのような道を選んだとしても必ずや学生たちの糧となるはずです。我々は教師……テニスを指導するのは教育の一環として。ならば、今一度学校という区切りを取り払い、一人の人間として、テニスを愛好する者として、学生たちの成長を見守って頂きたい」

 

 会議は静かに進展していたものの、無関心なわけではない。

 これから来るであろう未来を見据えて考える教師が集まっていたのだ。

 

 「ここに集まった皆さんの力を合わせれば問題はないはずです。賛成の方は挙手を」

 

 そう締めくくり、榊は会議室に集まった面々をぐるりと見回した。

 

 

 *

 

 

 「関東ジュニアオープンテニス?」

 「ああ。もう噂になってるぜ」

 

 部活が始まる直前、着替えを終えて外へ出た悠介は桃城の話を聞いてきょとんとした。

 聞き覚えのない大会だがそれも当然。新たに作られるらしい。また大それた事態になったものだと心底感心する。

 

 「発起人は氷帝の顧問だってよ」

 「あの怖い人か……」

 「要するに、余所の学校の奴らも含めて、好きな奴とチーム組んで勝てって大会だ。練習期間も結構長く、何ヶ月間か設けるらしい」

 「へぇ~、本格的」

 

 初めて聞いた。面白そうだと悠介は思う。

 他人事のように考えて、自分が参加する可能性など考えず、他校の生徒がチームを組むなら面白い試合が見られそうだなと楽観的に考えていた。

 彼の表情は穏やかで、楽しげに笑って桃城の話を聞いている。

 

 「でもリーダーはどうやって決めんの? 責任重大じゃん」

 「顧問の先生が任命するって噂だけどな。まあ初めてのことだし、手探りも多いんだろ」

 「ふーん。これから毎年やんのかな」

 「上手くいきゃそうなるんじゃねぇの? 仮に今年だけになったとしても、俺らにしてみりゃ面白い話だ。他校の奴とチーム組むなんてそうなさそうだしな」

 「そうだけど、他校の生徒と組むからなあ」

 

 悠介は隣を歩く海堂に目を向けた。

 彼は桃城とは仲が悪く、近付けば喧嘩、ダブルスを組めば中々のコンビネーションを見せるのだがやはりそりが合わない一方、悠介にはいくらか柔軟な態度を見せる。越前リョーマと出会って腑抜けている間はイライラすることも多かったようだが、プレーが改善された今ではまた元の関係に戻っていた。

 

 その海堂がとにかく社交性がないことをよく知っている。テニスの腕前は青学でレギュラーを取るほどで、大会ではいくつも勝利をもぎ取っているが、だからといって安心できない。

 心配なのは実力よりもチーム内の空気で、その場面を想像する悠介は意地悪そうに笑っていた。

 

 「じゃあ海堂はきつそうだな。実力はあるのに協調性ないんだもん」

 「あぁ!? 喧嘩売ってんのかてめぇ!」

 「こうだもん」

 「わっはっはっは! 確かに! 諦めろ海堂、お前の負けだ」

 「チッ、何が負けだ……」

 

 苛立った様子で早足になり、海堂は先に行ってしまう。

 仕方なさそうに見送りながらいつものことだと考え、二人は追わなかった。

 

 「宮瀬がリーダーだったら面白いのにな」

 「は? なんで俺」

 「お前だったらあれこれ気ィ使えるし、海堂とか越前とも絡めるしな。他校でも大体の奴と上手く付き合えるんじゃねぇか?」

 「流石に他校は無理だろ。青学のみんなは同じ学校だし、毎日顔合わせるし、やっぱり状況が違うんだからさ」

 「そうか? 俺はいけると思うんだけどな」

 

 無理だ無理だと軽く手を振る悠介は、多少の意識の改革はあれども、やはり控えめな態度で自分に自信を持てていないようだった。

 彼に言わせれば、青学のレギュラーも他校の選手も、至って普通な自分じゃどうしたって敵わない必殺技持ちのバケモノらしい。

 そのレギュラーの技をある程度使えるお前はどうなんだと思うのだが、なぜか聞き入れてはもらえなかった。

 

 ふむと思案した桃城は想像する。

 仮に悠介がリーダーに選ばれた場合、誰をメンバーに選ぶのか。

 諦めたようにあぁ~と苦笑してしまい、確かにやめた方がいいかもしれないと意見を変えた。

 

 「そうだな、お前がリーダーになったらまず最初に不二先輩誘うだろうし」

 「あっ」

 

 ピタッと悠介が歩みを止めた。嫌な反応だ。

 自分がリーダーになった場合はメンバーを集める必要がある。桃城の一言で気付いた。当の本人は余計なことを言ったかもしれないと思うわけだが、悠介は真剣に考えてみる。

 熱狂的に、盲目的に、絶対的に不二に心酔する彼が反応するのは当然だったのだ。

 

 「リーダー……そうか」

 「言っとくけど、最低4人、もしもの時の交代要員入れて5人までだからな?」

 「まあでもその辺はどうにかできるだろうし。越前も誘えるし。うんうん」

 

 さっきの無理はどこへ行ったのやら。自信満々に頷いて歩き出した悠介に、見送ってみた桃城は苦笑しながら呆れている。

 この男は、尊敬する不二周助が関わった時だけ別人のように目の色を変える。理解していたはずなのに久々に生き生きしている姿を見て、戻ってきたのだな、と実感した。こんな戻り方でいいのかは心配してしまうものの、とりあえずやる気を取り戻したのでよかったことにする。

 

 練習のためにテニスコートへ入るとやけに盛り上がっている。

 話題は関東ジュニアオープンテニスに独占されており、青学からは誰が出るのか、他校とどんな組み合わせになるのかと妄想を膨らませていた。

 

 さて、あいつはどうだろう。桃城は真っ先にリョーマを探そうとした。

 どんな反応をするのか気になるところだ。

 参加しないとは言わないだろうが、今までならシングルスを狙うのは確実だった。悠介とのダブルスを経験してどう判断するのかが気になる。

 

 「宮瀬、ちょっといいかな?」

 「おはようございます乾先輩。嫌な予感しかしないんで断りたいんですが」

 「おっとドリンクが」

 「聞きます!」

 

 その前に、到着したばかりの悠介に乾が声をかけていた。

 まずはそっちを気にしないわけにはいかない。桃城も軽いステップで近付いて参加する。

 

 「昨日までの練習試合でダブルスの相性は大体理解できた。やはり飛び抜けて不二がいいが越前も悪くないな。ひどく攻撃的で危険もあるけど、良いスパイスだと判断しておこう。あとは河村、菊丸、意外なところで海堂か」

 「ふぅ、ほんと疲れましたよ。連日試合、試合、また試合で……」

 「それも終わりだ。今日からはもう少しダブルスの練習をしていこうか。菊丸はパートナーに大石が居るから、今日から順繰りでそれ以外の人とコートへ入ってくれ」

 「乾先輩、俺と宮瀬はだめだったんスか?」

 

 桃城が口を挟むと乾は機嫌を悪くすることもなく答えてくれた。

 

 「悪くはないけど、桃の場合、自分でゲームメイクする方が個性を生かせると思ってな。曲者同士が組むより、海堂や河村のような一芸に秀でた選手の方が爆発力が増す」

 「ふぅん、なるほど。俺とタカさん、海堂と宮瀬とかっスね」

 「ああ、それはいいな。今日のところはそのペアで練習してみよう。俺の見立てだと桃はシングルスとダブルス両方に適性がある。学んでおいた方がいいよ」

 「うぃー」

 

 変化が起ころうとしている状況を好意的に受け止めたため、桃城はにっと笑った。

 不満そうだったのが悠介だ。眉間に皺を寄せてこれでもかと不満を訴えている。

 理由を聞かなくてもわかるが乾は敢えて聞いてやることにした。そうしたところは、彼が如何に宮瀬悠介という人間を面白がっているのかよくわかる。

 

 「不二先輩じゃないんですか」

 「お前と不二のペアはもう完成されてるからな。今すぐ試合に出しても恥ずかしくないよ」

 「俺は海堂のこと好きですけど、不二先輩はもっと好きです」

 「知ってるよ。じゃあ、練習始めようか」

 

 聞きはしても変更はせず、あっさり振り返った乾は平然とした態度で遠ざかっていく。近頃の彼は宮瀬に関する様々なデータが取れて、新たなオーダーを考えるのが楽しくて仕方ないようだ。

 そうなると宮瀬のレギュラー入りも近いのではないか? 

 桃城はそう考えてうずうずする。

 自分と海堂と宮瀬、先輩の座を奪ってレギュラーに就こうと決めた三人が揃うかもしれない。

 

 桃城は悠介に視線を向けて、ぐるりと振り返ってこちらを見る彼の表情に危機感を覚えた。

 当の本人は全く状況を理解していない。それだけならまだしも、不二と聞いていつものように様子がおかしくなっており、しばらく離れていたせいなのか以前よりも状態が悪化していた。

 

 「完成してるんなら、もうそれでいいと思うんだけどなあ。大石先輩と菊丸先輩みたいに深くまで集中して追求するというか」

 「いや……正直俺は、お前にはあんまり不二先輩に近付いてほしくない」

 「えっ、なんで?」

 

 目がヤバい。

 咄嗟に、あり得ないと知っているとはいえ、ドーピングを疑いたくなってしまう。

 ここ最近は後輩の一年生に対して優しい顔を見せていたので忘れていた。本来はこういう奴だ。異常な愛情には海堂ですら閉口する。

 少し離れた期間が反動となり、より危なくなっているように感じた。

 

 ふーっと大きく息を吐いた後、やっといつもの顔になる。

 桃城は静かに胸を撫で下ろした。

 普段の方が格段に付き合いやすい。早々に戻ってくれたのは幸いだった。

 

 「まあいいや。海堂も乾先輩と組んでたから結構やりやすいし、越前と組むと走り回らなきゃいけないから大変で」

 「聞こえてますよ」

 

 背後から声が聞こえて、振り返った悠介はにこりと笑ってリョーマに手を振る。

 

 「やあ越前君。今日もかっこいいね」

 「さっきの覚えましたから」

 「そんなに怖い顔するなよ。怖くなるだろ」

 「先輩って、普通を騙ろうとする詐欺師っすよね」

 

 うんうんと力強く桃城が頷く。さっきの出来事があったから同意の気持ちが止められない。

 じとりとした目で見られても桃城は意見を変えなかった。

 

 「なんで頷いてんの」

 「よくよく考えたら俺が一番普通じゃねぇか。お前はもう一回自分を見つめ直せ」

 「そんなことないって。俺なんか別に、大した特徴もないんだから」

 

 そう言った途端、桃城とリョーマの目がひどく冷たくなった。

 なぜそうなるのか本当にわからない悠介は困惑し、逃げるように視線を逸らす。

 パッと表情が明るくなった瞬間、二人は、視線の先に誰が居るのかをすでに理解していた。

 

 「悠介」

 「不二先輩」

 

 軽く手を振って歩み寄ってきたのが不二だった。

 すっかり後輩の顔になり、呆れる二人を意にも介さず悠介も不二へ駆け寄る。

 

 「調子よさそうだね。今日は海堂と組むって?」

 「はい。また乾先輩が色々試したいみたいで」

 「乾も最近機嫌がいいからね。悠介がやる気になってくれて、みんなに良い影響を与えてるよ」

 「そんな、俺は別に……」

 

 恥じらうようにはにかんで、見るからに照れながら笑っていて、別人ではないかと思わずにいられない二人は怒りとも絶望とも取れる表情で開いた口が塞がらない。よく知っている人物を見ながらあれは誰だと心が叫んでいた。

 そう思われているとも知らずに、まるで主人を見つけて大喜びしながらじゃれる飼い犬の如く、だらしなく表情を緩ませる悠介は不二の傍を離れない。

 

 「なんか、先輩のキャラがどんどん……」

 「言うな越前。あいつは元々ああなんだ。今までは心が折れてたから大人しかっただけで、実は誰よりも自分の欲望に忠実な奴だってことを忘れるなよ。」

 「あぁ……そうっすか」

 

 確かに悠介はリョーマを始め、部員の協力で立ち直り、再び本気でテニスに向き合う覚悟を固めることができたようだ。まだまだ弱気な部分があって改善の余地があるとはいえ、自ら忘れようとしていた技やプレースタイルを取り戻しているのは大きな変化だろう。

 その反面、妙な特徴まで戻ってきてしまったようで、一年生が驚愕し、多くの二年生と三年生が深いため息をついて目を逸らしているのはそのためだった。

 

 そう思うのはもう何度目になるだろう。

 どこが普通だ。

 リョーマは気まずそうに頭を掻き、所在なさげに帽子のつばへ触れる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12 大会の噂

 部長の手塚と、副部長の大石を前にした、男子テニス部顧問の竜崎スミレは、毅然とした態度で二人に視線を送っていた。

 どうやら迷いはないらしい。決断は彼女ではなく彼らがした。

 面白いことを考えたな、と認める一方では、彼らの提案は賭けのようにも感じられる。今一度覚悟を問う必要があった。

 

 「本当にいいんだね?」

 「はい」

 「もう決めたことですから」

 「あたしは悪いとは思わないさ。むしろ面白い提案だと思うし、あんたたちの口からそう言ってくれることを嬉しく思う。だが、三年生を無下に扱ったとは思われないかい?」

 

 スミレの発言は責任ある二人を案じてのものだったのだろう。正直な意見を聞きたがっていて、本当にそれでいいのかを問うている。

 それでも構わない。大石がにこりと笑って答えた。

 

 「あいつらはそんな風に受け取りませんよ」

 「俺たちは全国制覇を目指しています。今もその気持ちは変わりません。ただ、そのために三年生に残された時間は少ない。成長を望むのなら後輩たちに任せた方がいい」

 「ふむ……確かにそれは来年の青学テニス部にとっても有り難い話だけどね」

 

 思案するスミレは三年生を気遣っているらしい。

 その心配はいらない。そう言って手塚と大石は自信を窺わせていた。

 

 「それにリーダーじゃなくてもチームのメンバーとして参加することはできるでしょう?」

 「まあね。スカウトされれば、だけど」

 「あはは……仮にスカウトされなくても部活はできますし」

 「あいつらに賭けてみたいんです。全国へ行く前に、今後の青学のために」

 

 手塚の強い意志を聞いて、スミレは苦笑してやれやれと呟いた。

 

 「仕方ないね。そこまで言われて認めないわけにはいかないよ。それで行こう」

 「ありがとうございます」

 「そうと決まればあいつらを呼んできておくれ。あたしから話すよ」

 「わかりました」

 

 スミレが認めると、手塚の表情は普段と変わらなかったものの、彼を見る大石は嬉しそうに微笑んでいて、よほど期待しているのだろうと察することができる。

 後輩想いなのか、或いは新たなレベルへ達する予感がして喜んでいるのか。

 その両方かもしれないと思い、スミレは微笑んでいた。

 

 「あ、そうだ。手塚、あれも言っておかないと」

 「ああ、そうだな」

 「まだ何かあるのかい?」

 

 踵を返そうとした寸前で大石が何かに気付いたようだった。

 言われて手塚が再びスミレに向き直る。

 

 「いくつか条件をつけてやってほしいんです」

 「ほう。それはまた、あいつらに枷でもつけるつもりかい?」

 「はい。何もかも自由にさせるより、あいつらが伸びると思うんです」

 

 それはそうだと認めて、スミレは考えもせずに承諾した。

 

 

 *

 

 

 乾が打ったボールを待ち構え、力を込めて強力に打ち返した。

 河村の一打は大きな音を立ててコートの向こう側に落ち、球出しをしている乾は納得した様子でその軌道を見送る。

 

 「グレイトー! 絶好調だぜ!」

 「さっすがタカさん、パワフル~」

 

 それから少し遅れて、隣のコートで悠介がボールを打ってコートの向こうへ返す。

 プレーに問題はなかった。しばしの無言。

 思わず振り向いた悠介は海堂を見る。

 打ち返す様を見ていたはずだが、何も言ってこなかった。

 

 「ああいう声掛けとかないの?」

 「うるせぇ。必要ねぇだろ」

 「ほんっとにこの子は口が悪いし愛想も悪い」

 「どけ」

 

 素っ気ない海堂に友好を求めるも、あえなく撃沈する。

 一年以上付き合ってこんなものかと悠介が嘆息する頃に、テニスコートへ入ってきた二年生の荒井が大きな声で呼んできた。

 

 「宮瀬ー! 越前! ちょっと来てくれ!」

 

 何事かと思って乾に視線を送り、頷いたのを確認してから向かう。

 リョーマも共にやってきて荒井の前に立った。

 

 「どうした荒井。トラブルか?」

 「お前はなんで俺を見たら必ずそう言うんだよ。もう何もしてねぇぞ」

 「前科があるからなぁ。越前、ほら、こいつが荒井」

 「あぁ……」

 「ちょっ、おまっ、忘れてんのか!? あんなことがあったのに!」

 

 驚愕する荒井だったがリョーマは見るからに興味がなさそうな顔をしている。以前、他の二年生も加えて彼らの間に諍いがあったのだがすっかり忘れているらしい。

 リョーマは元々他者に対する関心がない。他人の名前と顔を覚えるのも苦手だった。

 それにしたって覚えているだろうと絶望する荒井を気遣い、悠介が顔を寄せてこっそり囁く。

 

 「ほら、お前のラケット隠して、お前にボロボロのラケット使わせて試合したけどズタボロにされて大負けした器がちっちぇ先輩」

 「あーはいはい。あの荒井先輩」

 「いいよ説明しなくて! つーかお前の表現ひどいな!? 俺は謝って反省したんだよ!」

 

 荒井は数ヶ月前の自分を恥じる様子で、掻き消そうとするかのように大声を出した。

 なんて良い反応をするのだろう。

 こういう反応が欲しかったのだと振り返って海堂を確認してみれば、悠介がそうするだろうと察していた彼があらかじめ厳しく睨んでおり、視線が合って苦笑する。友好的に軽く手を振ってみると海堂はそっぽを向いてしまった。

 

 呼ばれた理由を荒井に聞いたのはその後だった。

 別に大した用事でもないのだろうと興味を見せない二人を前にして、どこか普段と違った態度の彼は急いでいたようだ。

 

 「で、何の用? 早く戻らないとデータが取れないから乾先輩に怒られるんだぞ」

 「それがよ、お前らを呼んでる奴が校門で待ってるんだ。来てほしいってよ」

 「校門で? うちの生徒……ならここまで来るよな。他校の人?」

 「ああ。しかも、その、なんだ……」

 

 何かを言おうとして荒井は言い淀んだ。言っていいのかという躊躇いが感じられ、なぜそう思うのかはわからないが困惑しているのは間違いない。

 なんとなく不安を覚える状況である。悠介とリョーマは不思議そうに互いを見合った。

 

 「とにかく行ってみてくれ。ここまで来ないのはつまり、騒ぎになるからで、お前らが行かねぇと話は進まないんだろうからな」

 「うーん。よくわからないけど行ってみるか」

 「そっすね」

 

 二人が了承しても荒井の表情は晴れなかった。

 ラケットをコートの隅へ置いて、悠介が了解を得ようと乾に声をかける。

 

 「乾先輩。俺たち呼ばれてるらしいんでちょっと行ってきます」

 「ああ。早く帰ってこいよ」

 

 我が子の心配をする親のような言葉を受け取って出発する。

 校門まで呼び出されるなど初めての経験だ。これがリョーマ一人だけなら女生徒からの愛の告白かもしれないと思うのに、一緒に呼び出されてはそれも違うだろう。呼び出される理由がわからずに悠介はあれこれ考えを巡らせる。

 

 「他校の人からの呼び出し……誰だろ? しかもなんで俺たち二人?」

 「さあ。なんか悪いことしました?」

 「いや、してない、と思う……」

 「万引きとかしてませんよね」

 「してたらお前が気付くだろ。最近ずっと一緒に帰ってるし。っていうかお前が捕まえろ」

 「俺だって四六時中先輩を見てるわけじゃないんで、速く取られたらわかんないじゃないすか」

 「そもそもさあ、取るはずないってなんで思えないわけ? お前は」

 「痛いっす」

 

 感情の赴くままにほっぺたをぎゅっと摘んでやりながら、理由が気になって足取りは速く、校門に到着するまでさほど時間はかからなかった。

 学校の敷地内にそれらしき人物は見当たらない。居るとしたら外だ。

 さあ誰だ。どこからでも来い。

 二人はそんな気合いを入れて校門の外へ出る。

 

 探していた人物はすぐに見つかった。

 他校の制服を着て、彼らを待っていたのだろう、ぽつんと立っていたのをすぐに見つける。しかしその人物があまりに意外で、驚愕した悠介は硬直していた。

 

 「こんにちは。初めまして、だよね?」

 

 ふわりと柔らかく微笑むきれいな顔。細身の優男といった様相だが只者ではなくて、他人の顔と名前を覚えるのが苦手なリョーマでも、彼はどこか特別だと察する。

 ひょっとしたら有名な人なのかもしれない。リョーマは隣に立つ悠介を見た。なぜか彼はいつにも増してアホ面を晒していて、口を開けたままわなわなと震えている。

 

 「先輩? どうかしたんすか?」

 「え、えええっと、あ、あなたは……」

 「自己紹介からした方がいいかな。俺は幸村精市。一応、立海大附属中学校のテニス部部長をしてるんだ。よろしくね」

 

 名前を聞いて悠介の肩がビクッと動いた。見るからに動揺して慌てふためいており、不二と対峙している時より挙動不審になっている。

 彼がおかしいのは珍しいことではないと思っているリョーマだが、ここまでの反応と、何より立海大附属中学テニス部と聞いて何かに気付いた。

 関東大会の決勝で戦った学校だ。あの厳しい激闘を忘れるはずがない。

 

 「立海大附属って……あの帽子の人のとこですよね。へぇ、部長さんなんだ」

 「アホだなお前はっ」

 「アホじゃないっす」

 

 いつもとまるで変わらない口調と声色で喋り出したリョーマに素早く反応し、がしっと両手で彼の頭を掴んで押さえる。果たしてその行動に意味があるのかは知らないが、リョーマは頭を掴まれた状態で悠介の顔を睨みつけた。

 ぐぐぐと押し合う二人を前にして、幸村はにこにこして見守っている。

 

 「多分わかってないだろうから言っとくけど、立海大附属の幸村さんって言ったら、正直日本中学テニス界で最強の男だ。一年の頃から誰も勝てないくらい強いんだぞ」

 「テニス界最強?」

 「俺のこと知ってくれてたんだ。ありがとう」

 

 穏やかな声で幸村に声をかけられ、悠介は彼を見ると再び固まった。

 本物だ。おそらく、多分、間違いなく、噂に聞いた本物の幸村が目の前に居る。

 失礼があってはならないと慌てて身だしなみを整え、ぼけっとするリョーマの背筋を手で押さえて伸ばさせてやり、緊張した面持ちの悠介もきれいに直立する。

 落ち着きのない悠介に呆れながら、リョーマはすぐに背を丸めた。

 

 中学テニス界最強の男。悠介が緊張する理由は多分それだろう。

 立海のことは覚えている。リョーマが戦った真田弦一郎は副部長の立場で、まるで侍。嫌に威圧感を感じさせる中学生には見えない男だった。

 

 目の前に居る彼は、その真田と比べて、全く正反対の印象を受ける。

 柔らかな笑顔。線の細い体。女性にも見えてしまう中性的な容姿。涼やかな声まで美しい。

 力強さを感じる非常に男性的だった真田の方が部長に見えてしまうほど、良く言えば目を止めずにはいられない美青年だが、悪く言えば頼りなさそうな外見だ。

 

 テニス界最強と聞いた時点で負けん気を見せるリョーマは緊張というより警戒している。

 本当にこの男は強いのか。睨むわけでもなく、じっと幸村を見据えている。

 

 「でもそれは前の話だよ。病気になってしまってね。青学との試合も出場できなかった」

 「あ……聞きました。お体は大丈夫ですか?」

 「うん。手術が上手くいったんだ。今はリハビリの段階だよ。完全復帰とはいかないけど、前に比べればずいぶん動ける」

 

 少なくとも真田のように対峙しただけで怖いと思うような相手ではなかった。

 それでも、機嫌良く話してにこりと笑いかけられるだけで、ガチガチになる悠介は気をつけをしたまま動けずにいる。ずいぶんな緊張だった。

 

 「一人で外出するのも許されたし、少しずつだけど、リハビリがてらにテニスを再開したんだ。テニス界最強だなんて昔の話だよ」

 「そ、そうなんですか。それでもすごいことですけどね……」

 「今は、ただテニスができるだけで嬉しい。そんな感じかな。何もかも新鮮に感じてるよ」

 

 緊張している一方、幸村に笑いかけられて悠介はずいぶん喜んでいる様子だった。

 忙しい反応だな、と呆れつつ、ちっとも感動しないリョーマは冷静に尋ねる。

 

 「で、俺たちに何の用っすか?」

 「越前おバカっ!? 口の利き方に気をつけろ! 桃や海堂とは違うんだぞ!」

 「いや、いいんだ。普段通りに話してくれればいい。その方が俺も有り難いから」

 

 リョーマが退屈そうにしているのに気付いたのだろう。どうやら彼は自分のことを知らなかったようだということまで理解して、しかし気分を害したようには見えない。

 早速本題に入った方が良さそうだ。

 幸村は改めて二人を見やり、先程までと変わらない口調でさらりと告げる。

 

 「早速だけどいいかな? 俺はね、君たちをスカウトに来たんだ」

 「は?」

 「スカウト?」

 

 上ずった声を出した悠介にくすりと笑いつつ、幸村が頷く。

 

 「関東ジュニアオープンテニスについては聞いてる?」

 「あ、あぁ、はい。なんか、氷帝の先生が発案して開かれることになったって」

 「そう。立海ももちろん参加する。そこで俺も、リーダーとして参加したいと思ってね。君たちにはうちのチームに加わってほしいんだ」

 「……はぁっ!?」

 

 堪らず悠介が大声を出した。帰宅しようとしていた生徒が驚いて大勢振り返っている。

 今回ばかりはリョーマもまた驚愕している。見知らぬ相手から突然のスカウト。思い当たる理由が見つからなくて困惑する。

 嘘や冗談を言っている様子はない。幸村は真剣に彼らを見ていた。

 

 「俺自身はまだ満足なプレーができない。体力も戻ってないしね。だから、次の世代を担う有望な選手を集めて育ててみたいと思ったんだ。リーダーというより監督の立場かな」

 「い、いや、越前はいいですけど、俺は別に……」

 「数日前の噂を聞いたよ。越前君とダブルスを組んだそうだね」

 

 口を開けたまま固まってしまった悠介は、笑みを深める幸村に真っ直ぐ見つめられている。

 

 「ダブルスで手塚といい勝負をしたそうじゃないか」

 「あ、あー……えー……」

 「確かに君のことはこれまでよく知らなかった。ごめんね。だけどうちの柳がきちんとチェックしていたよ。ダブルスが得意で、不二周助の技を本人から受け継いだんだって」

 

 意味もなくあわあわと口だけ動かして、混乱が極まって何も言えなくなってしまう。

 動揺する悠介とリョーマを、幸村は決意を抱いて誘った。

 

 「本人に会って決めたよ。今の君は自信がないかもしれない。俺は、君みたいな人をもっと強く育て上げてみたいんだ。一緒に来てくれないかな?」

 

 おそらく、理解の範疇を超えたのだろう。

 何かが切れるような、或いは小さな爆発か、確かに音を聞いた気がした。

 目を回した悠介はひっくり返ってしまい、リョーマと幸村も反応が間に合わず、突然倒れた彼を見て校門前にちょっとした騒ぎが起こってしまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13 大会の噂

 職員室へ行った手塚と大石が帰ってきたのを見て、テニス部員のほとんどが、噂の関東ジュニアオープンテニスに関する話題なのではないかと予想していた。

 何を言われるのだろうと待ち切れない部員が多い中、現れた手塚は真っ先に言った。

 

 「桃城、海堂、職員室へ行け。竜崎先生から話がある」

 「バァさんが? あ、ってことは例の大会の? ……なんで俺と海堂だ?」

 「詳細は職員室で聞け。それから宮瀬。宮瀬はどこへ行った?」

 

 情報が少なくても察するものはある。部員たちのざわめきが大きくなった。

 テニスコート全体が大きく動揺する中、報告しておいた方がいいだろうと思って荒井が手塚の傍まで駆け寄る。

 

 「あの、部長……宮瀬と越前なんですけど」

 「どうした荒井。何があった?」

 「さっき、校門のとこで二人を呼んでる人が居たらしくて、俺は又聞きしたんで会いに行ったんですけど……」

 

 言い淀む荒井を手塚が見つめて、助け舟を出すように大石が歩み寄ってくる。

 

 「宮瀬と越前はその人のところに行ったのか?」

 「はい……それで、その人が」

 「荒井。言いたいことがあるならはっきり言ってみろ」

 

 手塚に促されたことで決意し、荒井は思い切って発言する。

 

 「その人、立海の幸村だったんです……多分」

 「はああぁ~っ!? なんだそりゃ!」

 

 咄嗟に大声を出したのが桃城だったが、他の部員も似たような反応だった。

 慌てて桃城が駆け寄ってきて荒井に詰め寄る。彼は本人を見たはずだ。本物だとしたらあり得ないはずの事態が現実になっていることになる。

 

 「確かなのか!? 立海の幸村は病気で入院してたって話だろ!」

 「た、多分本物だ。本人も名乗ったし、本人にしか見えなかったから……」

 「ってことは、宮瀬と越前……はあっ!? ど、どういうことっすか手塚部長!」

 

 テニスコートの中で大騒ぎになっている。

 普段であれば手塚が練習を続けるよう一喝するところだが、彼自身も驚いているのか、すぐに部員を落ち着かせることができなかった。

 良からぬ予感がして冷や汗を掻く大石が小声で尋ねる。

 

 「て、手塚……それってつまり」

 「先手を打たれた、ということか」

 「幸村が復帰したのか? ずいぶん早い……」

 

 衝撃に見舞われる青学テニス部だったが、そこへ二年の女生徒が駆け込んでくる。

 息を切らして走ってきた彼女は、部員たちの動揺にも負けないよう、大声を発した。応対したのは振り返った大石だった。

 

 「あの! 男子テニス部さん!」

 「あ、ああ。どうかしたのか?」

 「さっき、校門で宮瀬君が倒れたんです!」

 「はああぁ~!?」

 

 またしても桃城が口火を切り、部員たちの絶叫が続く。

 度重なる変化にテニス部はパニックに陥った。

 

 

 *

 

 

 目を開けてすぐ、どこかで見た覚えがある天井が目に入った。

 気分はすっきりしていて少し混乱する。

 どうして寝ているのだろう? ここはどこだ? 今何時?

 疑問が次々に浮かんでくるが答えはわからないまま。白いシーツを敷かれた清潔なベッドに、仰向けで寝転がったまま必死に考える。

 

 死んだわけではなさそうだ。必死に考えて出した結論がそれだった。

 恐る恐る起きてみようとした時、シャッとカーテンが素早く開けられてビクッとする。しかし物音の向こうに居たのがリョーマだと視認して気付き、ほっとした。

 

 「起きました?」

 「お、おぉ……ここどこ? 保健室?」

 「そうっすよ。先輩がパニック起こして気絶したんで、手伝ってもらって運んできました」

 「そうなんだ。えーっと、ありがとう」

 「どういたしまして」

 

 ベッドの端に腰掛けたリョーマが見てくる。

 悠介はまだ少し混乱しており、困惑しているのが見て取れた。

 今更、呆れたところで見捨てるつもりなどないものの、リョーマはため息交じりに質問する。

 

 「何があったか、覚えてます?」

 「え? えー……覚えてない」

 「でしょうね。簡単に言えば、先輩のメンタルが激ヨワだから気絶したってことですよ」

 「なんだよそれ。確かに頭とか打った覚えはないけど……俺何してたんだっけ?」

 

 あまりにショックが大きかったようで、直前の出来事をすっかり忘れている。

 今度こそ大きくため息をついて、リョーマは指に挟んだ小さな紙切れを差し出した。

 

 「これ」

 「ん? 何これ?」

 「また会おうだってさ」

 

 何か書いてある。上体を起こすと紙切れを受け取って広げてみた。

 文字を確認した悠介があっと声を漏らし、何が起きたのか、映像として鮮明に思い出す。途端にまたしても頭がくらっとした。

 そうなるだろうと予想していたリョーマが咄嗟に背中を支えて、体を起こすのも億劫で、しなだれかかるような姿勢で悠介が弱々しく呟いた。

 

 「お、思い出した……幸村さん」

 「ほんと激ヨワっすね。会っただけで気絶します?」

 「う、うるさいな。だから言ってるだろ。俺は普通だ……」

 「普通より弱いっすよ。暴力振るわれたわけでもないのに。優しかったじゃないっすか」

 「うぐっ、ぐっ」

 

 ぐうの音も出ずに反論はできなかった。

 確かに、会っただけなのだ。会って話をしただけで目を回してしまった。しかしそれは彼について逸話を知っているからだという気持ちもあって、知らなかった越前とは違うだろう、とも思う。

 

 起き上がれそうにないと判断してリョーマは支えていた彼を寝かしてやる。普段の態度はともかく気遣いのある優しい手つきだった。

 ぐったりする悠介を寝かしてやり、枕元に座って顔を見下ろす。

 喋るくらいはできるだろう。色々知っていそうだから質問しなければならなかった。

 

 「あの人、強いんすか」

 「強いなんてもんじゃないよ。中学テニス界最強。“神の子”なんて呼ばれてる」

 「ふーん……神ねぇ」

 「試合してるとこ見ればわかるよ。あの人は別次元だ。手塚部長や跡部さん、真田さんの試合なら俺だって見たことあるけど……全く別物だった」

 

 ぴくりと眉が動く。

 強いことは察していた。どれほどなのかと思っていたがずいぶんな物言いだ。

 果たしてそれは悠介個人の判断なのか、それとも。

 興味を覗かせたリョーマは冷静に聞いた。

 

 「じゃあ、手塚部長よりも強いってことっすか?」

 「うーん、それは……病気したらしいし、今はなんとも言えないけど」

 「先輩はどう思うんすか? 勝手な意見でいいんで教えてくださいよ」

 

 悠介は閉口し、過去に観た試合を思い返す。

 映像でも、現地でも観戦した。圧倒的な試合。何をしているのかもよくわからなかった。

 

 「俺が観たあの試合。印象としては、幸村さんの方が強い……と思う」

 「へぇ。かなり評価高いっすね」

 「それはまあ、その、単に俺がファンだからってのもあるけど」

 

 意外な発言にリョーマがわずかに目を丸くした。

 なんとなく合点がいく。会って喋っただけでパニックになり、気絶して倒れたのは、単なる緊張だけではなくてそういった理由があったのか。

 

 「またっすか。好きな人が多いんすね」

 「う、うるさいなっ。それだけすごい人だってことだ。いいだろ、それくらい」

 「とにかく、病気はしたけどめちゃくちゃ強い人ってことっすね」

 

 体感はしていないが情報として理解する。

 クールな瞳の奥、メラメラと炎が滾っているのを、悠介はこれまでの付き合いがあるために理解していた。今度はこちらがやれやれといった態度で嘆息する。

 負けず嫌いで向上心がある。大した奴だと、後輩ながら尊敬の念を覚える。

 

 現在の状況はわかった。

 つまり、幸村に出会ったことで気絶してしまい、保健室に運ばれた。

 ようやく時計を確認する。最後に時間を確認してから一時間と少し経っていた。どうやら一時間近くは気絶したままだったらしい。

 その間、リョーマは傍に居てくれたようで、くすぐったさを覚えながら安堵する。

 

 特に疲れているわけでもないのにぼけっとしてしまう。

 幸村に会った衝撃は大きく、説明を聞いてもまだ現実味を帯びない。

 悠介はどこか夢見心地でぼんやりいていて、不意にリョーマも心配そうに見つめる。

 

 「あっ、部活……」

 「部長も副部長も様子見に来てくれたんで大丈夫っすよ」

 「そっか。でも俺、起きたから」

 「まだ本調子には見えないっすけど。寝てた方がいいでしょ」

 「うん……越前は、戻った方がいいんじゃないか?」

 「流石にこの状態のあんたを置いていけませんって」

 

 普段は生意気だがこういう優しい一面がある奴なのだ。

 頬を緩ませた悠介は抵抗せず、素直に受け入れる。

 

 「ごめんな。ありがとう」

 「別に……いっつも世話になってるんで」

 

 言いながらリョーマは帽子を目深にかぶり、そっぽを向いてしまう。

 いい奴だな、などと思い、感動すら覚えて悠介はしばらく感じ入るように黙っていたのだが、顔を背ける彼を見ていて、何かおかしいと気付いた。

 不思議と体に力が戻り、悠介は彼の腕をそっと掴む。

 

 「あれ? おい、ちょっと、まさか照れてる? 顔見せろよ」

 「照れるわけないでしょ。最近先輩きもいっすよ」

 「きもい言うな。いいからこっち向けって。お前なんか照れてるだろ」

 「照れてない」

 「素直じゃないからなー」

 「あ~うっさい……」

 

 完全に背を向けられてしまったが部屋を出て行こうとしないあたり、拗ねてしまっても心配はしてくれているらしい。

 振り払われた腕をベッドへ置いて、悠介は上機嫌そうに笑っていた。

 

 ため息ではなく、深く息を吐き出して、ふと冷静になる。

 幸村が来たのには理由があった。それを思い出す。

 ひょっとしてからかおうとしていたのだろうかとも考えたが、やはり自身が憧れている人を疑うのは憚られるのか、初対面なのにそれはないだろうとすぐにその考えを捨てる。それならあれはどういう意味だったのだろう。自分の記憶に自信のない彼は、リョーマへ尋ねた。

 

 「幸村さん……スカウトに来た、って言ってたよな」

 

 ぽつりと呟くような問いかけ。

 表情を変えたリョーマは振り向いて悠介を見る。

 ぼんやり天井を見上げる彼は覇気を失って、いつものように悶々と思案していたようだ。

 

 「あれ、どういう意味だろ」

 「そのままの意味じゃないっすか。多分」

 「そうなんだけど。ほら、越前はさ、真田さんに勝ったからわかるとして、なんで俺まで巻き込まれてんのかなーって思って」

 「柳って人と、赤也って人に話を聞いて、うちに来たって言ってましたよ」

 

 悠介がリョーマの顔を見る。視線は交わり、照れることもなく話せた。

 

 「俺が気絶した後、幸村さんと喋ったのか?」

 「ちょっとだけ。色々言ってましたけど、とりあえず、面白そうだから一緒にやりたいって」

 「その色々が知りたいのに。ちゃんと覚えといてくれよ……」

 「気絶する先輩が悪いんでしょ。俺にあたらないでくださいよ」

 

 二人がほぼ同時にため息をついて、お互いを責めるように一呼吸置く。

 むっとした顔になりつつも、伝えるためにリョーマが悠介の持つ紙切れを指差した。

 

 「とにかく、それ」

 「あ、そっか」

 「また会おうってそういうことでしょ?」

 

 紙切れには幸村のものと思われる連絡先が書かれている。状況からして連絡をくれという意味なのだろう。それはそれで緊張するので、悠介の眉間には深い皺が刻まれた。

 考えるだけで緊張して息苦しくなってくる。

 悶える悠介を見て当たり前のようにさらっと受け流し、そういえばとリョーマが切り出した。

 

 「これも言っといた方がいいと思うんすけど」

 「何? なんか大事件?」

 「さっき桃先輩と海堂先輩が竜崎先生(おばさん)に呼び出されたらしくて」

 「ふ、不祥事か? 殴り合いの流血沙汰?」

 「違いますよ。例のオープンテニスなんちゃらとかいうやつ、あれのリーダーやれって言われたらしいっす。さっき様子見に来て言ってました」

 

 聞かされた瞬間はきょとんとしてしまい、一拍ほど遅れて理解する。

 まさかそんな事態になるとは予想していなくて動揺してしまった。だが動揺する悠介などいつでも見られるのでリョーマは大してなんとも思わない。

 

 「お、おぉ、そうなんだ。桃と海堂? 部長と副部長じゃなくて?」

 「そうみたいっすね」

 「なんかすげー意外な人選。二年に任せようとしたのかな」

 「先輩も含まれてたらしいっすよ」

 「はぁ!?」

 

 今度の反応は早かった。

 目を見開いた悠介は思わず飛び起き、リョーマの顔を覗き込む。

 

 「お、俺が? リーダーやれって?」

 「一応ね。でも、あの人が来たから今は保留にするって」

 「ああ、うん、そうか……それもそうだな。先に誘われたのは幸村さんだし。でもリーダーってなんで俺……」

 「二年に任せようとしたんじゃないっすか。先輩も一応二年だし」

 「そ、そうか……うーん」

 

 情報が多く、一つ一つが当人にとっては衝撃的で余裕がないらしく、一応と言われても噛みつくこともしない。悠介は頭を抱えてしまった。

 まったく世話が焼ける。リョーマは呆れた顔で言った。

 

 「まあ俺は、どっちみち先輩とセットにされる予定だったみたいなんで、どっちにしろあんまり変わりませんけど」

 「そうなのか。それ、俺は有り難いけど、お前はいいの?」

 「別に断る理由もないんで」

 

 視線を外して発言した。ふと戻すと悠介がじっと顔を見つめてくる。

 嫌な気配がした。

 リョーマが嫌悪感を込めて睨みつけると、にやりと笑われる。

 

 「照れないんだ」

 「きもい」

 「きもいはやめろ。真剣に傷つくだろが」

 「傷ついてほしいから言ってるんすよ」

 「まったく、なんでこんな刺々しい性格になったんだか」

 「先輩に対しては先輩のせいだから」

 

 刺し合うように会話するのだが空気が剣呑になることはなく、いつも通りに過ごしている。

 落ち着く時間が必要だと判断し、再びベッドに倒れた悠介ははぁ~っと深く息を吐いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14 立海事変

 「本気なのか? まだ安静にしておくべきだろう」

 

 険しい表情で真田弦一郎が心配するが故に詰め寄る。

 普段から険しい顔をしている彼だが今はどこか不安そうにも感じられ、少し離れた位置に立ち、同じ気持ちでいる柳蓮二は沈黙を保っている。

 椅子に座って彼らを見上げる幸村精市は、いつものように微笑んでいた。

 

 「平気だよ。試合をするわけじゃないし、軽い運動くらいはできるさ」

 「だが完治ではない。病み上がりで無理をして、病状が悪化したらどうする。確かに手術は成功したがいまだ油断を許さない状況だ」

 「わかってる。だから無理はしない。何かあればちゃんと休むから」

 「何かあってからでは遅いのだ。何も起こさぬために治療を行っているのだぞ」

 「ふふふ、そうだね」

 

 叱られているのに微笑んで、悪びれもせず、自分の意見を変える様子も見せない。

 柳はその反応を予想していたに違いない。言っても聞かない幸村の意見を変えることができるとすれば、それはきっと真田だけだ。

 任せるように柳が黙っている一方で、真田は幸村のため真摯に語りかける。

 それでもうんと言わないのだから彼も頑固な人間だった。

 

 「我々にはまだお前が必要なのだ。全国で青学に借りを返す必要もある。その時、全快したお前にはコートに立っていてほしい」

 「もちろんそのつもりさ。でもね真田」

 「なんだ?」

 「君たちが負けたのは事実だ。勝ったのは青学で、立海大附属は負けている」

 

 背筋にひやりとしたものが走り、真田は声を詰まらせて黙ってしまった。

 剣術の心得があるだけにわかってしまう。首筋に冷たい刃を触れさせられているような、常人には感じられないであろう異常な緊張感が生まれていた。

 柳も気付いており、静かに冷や汗を掻いている。

 

 幸村の表情は変わっていない。しかし目は言葉よりも雄弁だ。

 まるで捕食者。睨まれた獲物は、逃げることもできずに恐怖するばかり。

 幸村は優しげな、穏やかな声で話していた。

 

 「例の大会、良い機会だと思う。俺と真田と柳、三人別々で参加しよう。それぞれにチームを結成して競うんだ。もちろん目指すのは優勝しかない」

 「幸村……関東大会のことは」

 「何も言わなくていいよ。何も……ただ、俺もじっとしてはいられない。やっと回復に向かってテニスができそうなんだ」

 

 真田と柳は肝を冷やし、自らの意思を言葉にできなくなる。

 確かに回復に向かっているようだ。それがよくわかった。

 

 「敗北は許されない。そうだろう?」

 

 にこりと笑う幸村から目が離せなくなり、彼との試合を、今になって思い出した。

 

 「君たちも、もっと本気にならなきゃね」

 

 

 *

 

 

 「幸村部長! 青学一年をチームに誘ったって本当っすか!?」

 

 飛び込むように走り込んできて、ぶつかる勢いで顔を覗き込む切原赤也の一言に、きょとんとした幸村は少し考えてみた。

 にこりと微笑み、優しく返答する。

 

 「うん。本当だよ」

 「なんでぇ!? それより先に俺でしょうよ! 立海大附属の最終兵器にして二年生エース! 俺より先になんで他校のあいつなんすか!」

 「ごめんね。興味があったんだ」

 

 心底嘆いていると言いたげな赤也が、悲しげな顔で必死に訴えてきた。

 苦笑こそすれども、幸村はその選択を後悔していないらしく、それじゃあ君も、とは待ってみても言い出さなかった。別の誰かを誘ったことよりその事実の方が寂しい。

 

 「だったら! 俺にあいつと試合させてくださいよ! 勝った方がチームに入る! せっかく部長が帰ってきたのに、余所の一年坊に横取りされるのは癪っすからね!」

 「赤也ァ、余計なこと言うんじゃねェよ。幸村には幸村の考えがあるんだ。尊敬してるっていうなら少しは好きにさせてやったらどうだ」

 

 赤也の大声に反応し、幸村に助け舟を出すため、ブラジルと日本のハーフであるジャッカル桑原が口を挟んできた。

 面倒見がよく、聞かん坊な赤也のフォローも多々こなす男だ。彼が言って止まるだろうと予想する者も居たとはいえ、やっと部に帰ってきた幸村が相手とあってか、今日ばかりはジャッカルの言うことでも聞かずにべっと舌を見せる。

 

 「嫌っすよ。これだけは譲れねぇっす。大体、選ばれたのがあのクソ生意気な一年だってのが気に入らねぇ。なんでわざわざあいつなんすか」

 「クソ生意気はお前だろうが。今俺に何したかわかってんのか」

 「いつものことでしょ。何を今更」

 「お前は、一回本気でシメとかないとだめだよなぁ……!」

 

 見るからに表情を変えたジャッカルを視認し、はたと気付いた赤也が素早く逃げ出した。口元は笑っているのに目が笑っていないのは本気の時だ。戦うよりも逃げるに限る。

 どたばたと部室を飛び出していった二人を見送り、幸村は変わらずにこにこしていた。

 

 全快祝いに赤也が買ってきたという袋を漁って、丸井ブン太はケーキを発見した。

 幸村に了解を得て一つ貰い、大胆にかぶりつきながら、彼は外で騒いでいる二人を気にする。

 

 「しかしまぁ、赤也の言うこともわからんでもないな。大会がどうこうとか聞いてたけど、全国の前にわざわざやるかね」

 「ブン太は参加しないのかい?」

 「ん~、気に入るチームがあったらだなあ。誰でもいいってわけじゃないじゃん? 俺は攻撃担当だからきっちり防御してくれる奴がいいな」

 「それじゃあダブルス志望なんだね」

 「一応今はな。だってシングルスになるとコート広いじゃん」

 「ブン太らしいね」

 

 日頃、ブン太はダブルスを組む機会が多く、本人がそれを望んでいるからだった。

 多彩なボレーを駆使してプレーを魅せる彼は何よりも攻撃を得意としており、ディフェンスは組むことが多いジャッカルに一任するのも珍しくなくて、自分が攻撃さえすれば必ず点は取れるという自信を持っていた。事実、彼がその気になって攻めに転じれば、誰も止められないボレーの妙技だけで得点を重ねていく。

 

 面倒なことは全部ジャッカルに。

 シングルスでも結果は出せるとはいえ、走るのが面倒だからやらない。

 ブン太の思考は単純明快で、幸村は独特なそれをあっさり受け入れている。

 

 どたどたと再び部室に転がり込んできた後、スピードは負けてもスタミナで勝るジャッカルは思い切りのいいタックルで赤也を捕まえ、首に腕をかけてヘッドロックを繰り出した。

 悲鳴と怒声が入り混じり、激しく動き回って埃が舞う。

 ブン太は一向に気にしなかったが、嘆息した柳生比呂士が彼らを叱った。

 

 「二人ともやめなさい。部長は病み上がりですよ。揉め事なら外で済ませてきなさい」

 「ぐっ、ほ、ほらっ、言われてますよ先輩……!」

 「てめぇ、その前に言うことがあるんじゃねぇのか、二年坊……!」

 

 一向にやめようとしない二人に柳生がピクリと眉を動かす。

 普段は温厚で礼儀正しい“紳士(ジェントルマン)”だが、だからこそキレた時には何をしでかすかわからない。誰も見たことがないからだ。

 その時、柳生は急に押し黙ってラケットとボールを拾い上げた。

 幸いにしてその行動に気付いた赤也とジャッカルはぽかんとした顔をする。

 

 「子供のように聞き分けがないなら仕方ありませんね……私の“レーザービーム”は、標的を逃さずに芯を撃ち抜く」

 「ややっ、やめます! ほら、俺たちこんなに仲良し!」

 「そ、そうそう! ちょっとじゃれ合ってただけだ! 本気じゃねェからさ!」

 「そうですか。では、部長の体に障らないように頼みますよ」

 

 柳生が静かにラケットとボールを置いたのを見て、咄嗟に肩を組んでアピールした二人は安堵した顔で大きく息を吐く。

 まさかあんな行動に出るとは思わなかった。これなら副部長の平手打ちの方がマシだ。

 

 柳生の手前、一度は止まったが、二人はすぐに至近距離まで顔を寄せて睨み合う。

 今は一旦やめておく。だがこれで終わったわけではない。

 日頃は仲が良いとはいえ、彼からは先輩への敬意が感じられない。ジャッカルはわからせる必要があると判断して怒りを醸し出し、その念を浴びても赤也はにやりと笑っていた。

 

 「今は泣いといてやるよ。後で覚えてろ。地の果てまで追いかけてやるからな」

 「へっ、だったら潰しといた方がいいっすかねぇ? 俺は退く気はねぇっすよ」

 「前に貸した3000円の返済がまだだったな?」

 「それはもうちょい待ってほしいっす。今色々きちーんで」

 

 しばし睨み合った後で勢いよく離れ、立ち上がった赤也はすぐに幸村へ詰め寄った。

 さっきの話がまだ済んでいない。赤也が提案しただけで、幸村からの返答がまだだったはずだ。これを聞かない限りは話を次に進められない。

 

 「ねぇ部長~! 頼んますよ! ちょうどあいつには返さなきゃいけない借りがあるんで、部長の前でぶっ潰してやりますから! そしたら俺をチームに入れてください!」

 「やめときんしゃい。しつこく言うても結果は同じや」

 

 今まで沈黙を保っていた仁王雅治が口を開き、赤也が振り返って彼を見た。

 眼差しは冷ややかで何を考えているかわからない彼は、赤也を凝視して静かに呟く。

 

 「それにお前、余計なひと言言っちまったぜよ」

 「へ?」

 「ねぇ赤也」

 「はい! なんすか?」

 

 幸村に呼ばれて素早く彼を見る。幸村は先程と変わらずにこにこしていた。

 

 「関東大会決勝シングルス2、負けたらしいね」

 

 ピンと空気が張り詰めた気がした。

 一瞬にして部室にある雰囲気が変異し、まるで別次元のようである。

 そうなれば部員の行動は速かった。ケーキを食べ終えたブン太は素早く幸村の傍を離れ、柳生はすでに壁際に立っており、ジャッカルは地を這うようにそーっと動き、仁王は初めから居なかったかの如く姿を消している。

 

 部長に呼ばれて笑顔になっていた赤也は、今更その笑みを引っ込めることもできず、かといって楽しげに笑っていられる状況でもなくて、表情が固まって口の端だけぴくぴくしていた。

 幸村は赤也だけを見つめている。逃げられない。

 

 「それだけじゃなくて、もう一回負けてるの?」

 「い、いやぁ、そのぉ……油断してっ……はいなかったんですけど……」

 

 なぜかだらだらと大粒の汗を掻き始める。室内の温度は変わっていないのに止まらなかった。

 幸村はにこにこしている。しかし、視線が脇へ外れない。

 沈黙ができてしまい、ますます気まずくなる。何か言わなければ。必死に言葉を考えるのだが一向に出てこないまま、意を決して、赤也は勢いでてへっと笑ってみた。

 

 「そう。越前リョーマに負けたんだね」

 「……つ、次は勝ちます! 絶対!」

 「君は、自分の感情をコントロールできなくてすぐキレるし、マナーが悪いし、試合時間に無駄な拘りを持っているし、英語はできないし、先輩への態度も不評を買っている」

 「そ、そんなに言わなくても……」

 

 つらつらと悪い部分を挙げられてしまい、落ち込んだ赤也が肩を落としてしまう。

 

 「それでも君が、エースとして、レギュラーとシングルス2を任されたのは勝てるからだ。相手が誰でも勝ちを掴み取るという信頼があったからだ」

 

 ぞわりと肌が泡立ち、背を丸くしていた赤也が、目を見開きながら背を反らした。

 目を細めて微笑んでいた幸村がはっきりと目を開く。

 真っ向から見つめられて息を呑み、硬直する赤也に幸村はあくまでも優しく言った。

 

 「君は勝たなきゃいけなかった。そうだね?」

 「は、はい」

 「改めて俺に言われなくたって、ちゃんとわかってるよね?」

 「もちろんっすよ! 絶対、今度は、負けません!」

 「うん。そうか……じゃあこうしよう」

 

 そう言って幸村が近くにあった、自分の物ではない、適当なラケットを握った。

 すっくと立ち上がり、赤也へ穏やかに笑いかける。

 

 「俺と勝負しよう。赤也が勝ったら改めてスカウトするよ。きちんと頭を下げてね」

 「なっ!?」

 

 予想外の発言に全員が反応した。

 避難していた部員が一気に集まってきて、消えたはずの仁王もいつの間にか戻っている。馬鹿げた提案をした幸村へ駆け寄り、必死に止めようとしたのだ。

 

 「何言ってんだ幸村! お前まだ全快じゃないだろ!」

 「そうだぜ。こんなことでまたなんかあったら」

 「正しい判断とは思えませんね。少なくとも試合はやめるべきです」

 「プリッ」

 「みんなありがとう。でも大丈夫だよ。軽い運動だ。本気ではやらないからさ」

 

 赤也は、その発言で幸村の体を心配しながらも、同時に、抑えようとしても自覚せずにはいられないほどの、どうにかなってしまいそうな興奮を覚えていた。

 幸村のことは好きだ。部長として、テニスプレイヤーとして尊敬もしている。だが彼にとってはいずれ超えなければならない相手でもあって、そのチャンスが今巡ってきた。

 心配する気持ちと同じくらい、勝ちたくて仕方ないという衝動から目が離せなくなる。

 

 幸村は気付いていたはずだ。

 集まってきたみんなに笑みを見せ、掻き分けるようにして赤也の前に立つ。

 戦いたい。表情でそう語る彼を前にしていつものように微笑んでいた。

 

 「赤也。悪いんだけど俺はまだ1セットマッチできるほどの状態にない。だから、2ゲーム先取した方を勝ちにしよう。それくらいなら大丈夫なはずだから」

 「おいっ、幸村!」

 「どうかな? 勝ったら約束の通りにする」

 「俺が勝ったら……幸村部長に、勝ったら」

 

 もはや目的さえも見失ってしまう。細かい条件なんてクソ喰らえだ。

 勝負して勝ちたい。幸村精市に勝ちたい。テニス界最強の男を、超えたい。

 赤也はいつになく好戦的に笑い、返答はその顔だけで十分だった。

 

 「俺もまだ満足に動けないからね。お手柔らかに頼むよ」

 「へっ、何言ってんすか幸村部長……俺は手なんか抜かねぇっすよ。この学校に来たのは、あんたをぶっ倒してNo.1になるためなんだ」

 「ふふ、そうか。じゃあ仕方ない。俺もできるだけ頑張るよ」

 

 素早く着替えて、ラケットを持ってコートへ向かう。

 衝動が体内を駆け巡っている。待ち切れない。早く試合がしたい。

 狂気的に勝負を求める赤也に先輩たちも誰一人といて止めようとはせずに、何も言わなかった。しかし彼らが心配していたのは、赤也の方だ。

 

 確かに回復したばかりの体は心配だが、彼は。

 ユニフォームに着替え、涼しい顔で悠々と歩く幸村を見ると、やはり赤也が無事でいられるかばかり気にしてしまっていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15 参加しますか? しませんか?

 竜崎スミレに呼び出されたことは、悠介にとっては珍しいことではなかった。

 

 「先手を打たれたそうだねぇ」

 「はあ……先手を打たれたというか、なんというか」

 

 マネージャーの代わりに雑用をこなしているといつの間にか頼られるようになった。今日も何か用事があるのかと思っていたのだが違ったらしい。

 話の内容からして、幸村のことを言っているのだろう。

 言い回しは気になったが悠介は困惑した顔で言い淀んだ。

 

 「桃城と海堂同様、あんたにもリーダーを任せようと思ってたんだけどね。そういうわけにもいかなくなったかい?」

 「そもそも、俺にリーダーっていうのがどうかと思うんですけど」

 「またあんたは。あれだけの試合をやってまだ自信が持てないかい?」

 

 気まずそうに視線を逸らされる。

 相変わらずの態度にスミレは思わずため息をついた。

 

 「メンタル激ヨワとは言い得て妙だね……あんたにぴったりだ」

 「それやめてくださいよ。いじめが始まるでしょう」

 「だったら強くなりな。身も心も強くなればからかってくる奴も居なくなるよ」

 「そんな無茶な」

 

 気のいい奴で普段は頼れるのに、ここぞという場面で及び腰になる。立海の幸村にスカウトされるという他人なら大喜びするシチュエーションも、彼にとっては逃げ出したくなるような恐怖の場面でしかないのだろう。それが彼のいいところであると同時に弱点でもあった。

 どうしたものか。予定を変える必要がありそうでスミレは悠介を前にして思案する。

 

 「で、どうするんだい? スカウトを受けるのか?」

 「えー……っと」

 

 悠介は真剣に考え込むのだが、注目を浴びる思わぬ事態になると思考が停止してしまい、決断力が鈍る癖があった。今回も無視したいわけではないのだが二の句を告げられない。

 試合中のあの決断力がここで出ればいいのに。誰もがそう言う。

 仕方なく嘆息したスミレが言い出した。

 

 「とにかくもう一度幸村に会って話してきな。連絡先は受け取ったんだろ?」

 「はい、でも……」

 「多分怒るだろうけど、いいよ。言ってみな」

 「越前だけ行かせた方がいいんじゃないですか……? その、あいつが寂しがるようなら付き添いしますけど」

 「バカモノ!」

 

 大声を出されて悠介の肩が大きく跳ねる。

 ずいっと詰め寄られて、あからさまに怖がった彼は逃げ出す余裕もなかった。

 

 「一緒に行け。リョーマじゃなくてお前の身の振り方を、お前自身で決めるためにだ。帰ってきて中途半端なこと言うようなら承知しないよ」

 「はい……」

 「不二接触禁止令でも出そうかねぇ?」

 「えっ!? すぐ連絡します!」

 

 言うや否や悠介は慌てて職員室を出ていった。あの決断力が普段からあればいいのだが。

 スミレは大きくため息をついた。

 

 

 *

 

 

 練習はいつも通り行われている。しかしどこか浮ついた雰囲気があった。

 やはり昨日の顛末だろう。部員の大半が話題にするのが、関東ジュニアオープンテニス、そして青学テニス部に立海大附属の幸村が来たという衝撃的な出来事だった。しかも呼び出されたのが今年の大会で大金星を挙げた話題のルーキーである越前リョーマと、彼がやけに懐いていると噂のレギュラー経験皆無の事実上マネージャー兼平部員、宮瀬悠介。

 誰も予想できなかった事態に、果たしてどうなるのか、注目が集まっていた。

 

 コートの対面からトスされたボールに向かって跳び、桃城がスマッシュを打つ。得意技でもある強烈なダンクスマッシュは絶好調で地面に叩き付けられた。

 見ていてリアクションがなく、ぼけっとした顔で機械的にトスを出していた菊丸は、もう何度話しただろう話題をまた口にする。

 

 「なーんでユースケだったのかなー。だって公式戦出たことないのに」

 「俺にとっちゃけっこー嬉しい展開っスけどね。ようやく宮瀬に光が当たるってことで」

 

 言った通りに嬉しそうな笑顔を見せる桃城に対して、ううむと唸る菊丸は納得できない様子だ。

 ずっと引っかかっているのはまだそれほど時間が経っていないからというのもあるが、入部当初から人懐っこくて、それはお互い様だが、何かと可愛がってきた後輩だ。喜んだ方がいいのかもしれないと思いながらも、脚光を浴びるのなら、という気持ちを抱いてしまう。

 

 「でもさぁ、せっかくなら青学で活躍してからにしてほしかったって気がしない? なーんか急に横から取られちゃった感じがして微妙なんだよなー」

 「それは確かにありますけど、決めるのはあいつですから」

 「う~ん、複雑~」

 

 菊丸は納得しかねている表情で、いつになく難しい顔をしている。楽天家で気まぐれな彼がずいぶん引っかかっているのだから、それだけ悠介を可愛がっていたのだと伝わってくる。

 苦笑する桃城はしかし、それはそれで、と思っている。同じ気持ちを抱きながら、どうせあいつが自ら目立とうとするはずもないのだから無理やり引っ張りだされた方がいい。それが本音だ。

 信頼しているが故にできるはずがないとも知っている。だからこそ純粋に喜べたのだ。

 

 二人のやり取りを聞いていた乾が表情を変えずに参加してくる。

 周囲を取り巻く状況が変化して、宮瀬は忙しなくしている。おかげで今日の部活にはまだ参加さえできていない。これが関東ジュニアオープンテニスの影響力なのだろうと彼は納得していた。

 

 「立海には蓮二が居る。青学の部員全員のデータを持っていてもおかしくはない」

 「乾みたいな奴がもう一人居るんだもんなー」

 「正直怖いっスね。データテニスは懲り懲りっスよ」

 「つまり、関東ジュニアオープンテニスはこういう事態が起こり得るということだろう。やけに仕掛けが早かったが、同様のケースはこれからいくらでも起こる」

 

 菊丸がトスの手を止めた。

 データ収集癖がある乾は情報通だ。彼に聞けば大抵のことはわかる。

 

 「じゃあ俺たちもスカウトされるってこと?」

 「そうなるな。お声がかかればの話だけど」

 「ふーん。でも桃はリーダーなんだよね?」

 「そうっスよ。青学のメンバーには声かけるなって条件で」

 

 桃城と海堂は昨日の時点でスミレに呼び出され、関東ジュニアオープンテニスにリーダーとして参加するよう打診されていた。自らの意思でメンバーを集め、チームを結成し、練習を重ねて優勝してこいと尻を叩かれている。

 その際、条件として提示されたのは、青学レギュラー陣をメンバーにしないこと。他校の生徒のみでチームを構成して勝負に挑めと言われていた。

 条件はあっさり承諾し、桃城と海堂はリーダーに就任したのである。

 

 「ほんとはそこに宮瀬も居たんスけどね」

 「ほらー、取られちゃってんじゃん」

 「仕方ないよ。そういう状況だから、宮瀬が評価されたことを喜ぼう」

 「ちぇー。じゃあみんなバラバラか~」

 

 再び菊丸がトスを上げ始めて、反応した桃城が練習を再開する。

 ズドンとボールが叩きつけられる音を聞きつつ、乾が冷静に言った。

 

 「それが今回の目的だからね。お互いにある程度のデータは持ってるけど、敵として会うのと味方として会うのは違う。急造チームでどこまでやれるか、結束力を見る大会だ」

 「俺はリーダーよりメンバーの方がいいなぁ。色々大変そうだもん。桃頑張れ~」

 「平気っスよ。俺は結構楽しみにしてるんで!」

 

 ズドンっとスマッシュが叩き込まれ、調子は良さそうだと察する。テンションも上がっているようで気合いは十分。彼は上手くやるだろう。

 そうなると心配なのは海堂と宮瀬だ。彼らは上手くやれるのだろうか。

 乾の隣に立っていた大石は二人を想って心配そうな顔をする。

 

 「桃は大丈夫だろうけど、海堂は意外に協調性はあるが社交性に難があるからな。次期部長の話もあるけど今回の件で成長するといいな。宮瀬は社交性と協調性はあるんだけど」

 「不二が絡むと様子がおかしくなる。あとは異常にメンタルが弱いことが問題か」

 「しかし、予想とは違ってリーダーの話は流れそうだ……どうするつもりだろう」

 「心配はいらないんじゃないか? 越前が一緒だ」

 

 我が子を想うような態度の大石へ口元を緩めた乾が言う。

 悠介をリーダーにしようと提案したのは手塚と大石の意思であり、その際、桃城と海堂の二人とは違って越前リョーマを同行させるという条件をつけた。距離が近かったのも関係しているのか、自分に自信を持てない彼には生意気ながらも強い意志を持つリョーマがいいと判断し、たとえダブルスを組まないとしても、強引に腕を引っ張って前進させてくれることを期待していた。

 

 当初の予定とは違ったとはいえ、どうやらリョーマだけは悠介と同行しそうだ。まだ本人にも伝えていなかったが不幸中の幸いだったと言える。

 リョーマの名前を聞いて、大石も同意するために小さく頷いた。

 

 「うん、そうだな。越前が居ればなんとかしてくれるだろう。あいつもちょっと問題児的なところがあるけどそれは宮瀬が止められるし」

 「不二じゃなくてよかったな」

 「不幸中の幸いかな。それは俺たちも禁止してたくらいだから」

 

 大石と乾が視線を送ると、不二はにこりと笑って反応した。

 

 「残念だね。どうも僕と悠介は遠ざけられる傾向にあるみたいだ」

 「残念だけどそれは仕方ないかなぁ」

 「原因は主に宮瀬にあるだろう」

 「僕はもっと仲良くしたいんだよ? 最近越前ばかり構ってるようだから」

 「ううん、みんな遠ざけたいのかもしれないな……不二には悪いけど、その方が安心だから」

 

 苦笑して渇いた笑い声を発する大石に、不二もくすくす笑っていた。

 悠介の様子がおかしくなるのは知っている。彼はそれを良しとしていた。誰かに害を与えるような後輩ではないし、周りが引いているのは理解しているが、それほど好かれているのは意外にも気分が良いものだ。

 それ故に不二は素直に言うのである。可愛い後輩じゃないかと。

 

 彼もズレているのではないかという共通認識はあったが誰も口にしなかった。

 不二と宮瀬。青学の静かな問題コンビとして部内ではすっかり有名である。

 その自覚があるのかないのか、不二は部員の戦慄を気にせずににこにこしていた。

 

 大石の心配と乾の含み笑いが重なり、一瞬の沈黙ができたことで不二が口を挟んだ。

 ふと気付いた事実を口にしてみたようだった。

 

 「だけど立海の幸村に誘われたってのがすごいよね。呑んでも断っても話題は広まるよ。悠介もついに全国区だ」

 「いや、話題だけで全国区ってのは……」

 「注目を浴びるのは確かだな。しかし心配なのは幸村のスカウトを受けた場合、そうは言っても立海は全国に進む強豪校。次の対戦に備えて使い潰されたりしないかな」

 

 不意に思いついたアイデアを乾は躊躇わずに口にしてみる。

 否定したのは大石だった。

 人となりを深く知るわけではないとはいえ、常識的な思考で考えずに反応する。

 

 「流石にそれはないだろう。幸村は誠実な選手だって聞いてるよ」

 「結構怖いらしいぞ」

 「そうなのか? うーん、こりゃ大変……」

 「ただ、本当に幸村と練習ができるなら、今よりもずっと成長して帰ってくるかもしれない。敵に塩を送ることになるけど、そこまで考えているのかな」

 「多分、わかっているけど関係ないんじゃないかな」

 

 想像でしかないとはいえ、不二は確信に近い自信を持って呟いていた。

 

 「立海の選手は勝ちに拘る。たとえ他校の選手を強くしてしまうとしても、試合に負けてもいいと考えてチームを作るとは思えない。いつかの対戦相手を強くして、それでも勝つ。そういう覚悟があるんだと思う」

 「なるほど……全国のために関東ジュニアオープンテニスを捨てるわけがない」

 「どっちも勝つ覚悟で他校に手の内を明かすのか。条件はイーブンとはいえ、これはどこも苦労することになるぞ」

 

 データの収集が忙しくなりそうだ。小声で呟いた乾は持っていたノートをパラパラめくり、ぶつぶつ呟きながら思考を働かせ始める。

 大石は苦笑し、不二は微笑む。

 みんな本気で取り組むのはいいことだ。この大会はきっと盛り上がる。

 

 彼らが話し込んでいるところへ、どこぞへ行っていたらしい河村が走ってくる。

 話していた三人と練習中の菊丸と桃城も気付くのだが、おーいと言って河村は通り過ぎ、海堂と打ち合っていたリョーマの下で立ち止まった。

 

 「越前、宮瀬から伝言があるよ。立海の幸村と会うから近くのファミレスに来てくれって」

 「先輩が? 本気っすか」

 「うん。なんだか焦ってるようだったけど……不二先輩と引き剥がされる! って怯えてた」

 

 聞いていた全員があぁ、と思った。

 スミレに何か言われたのは間違いない。彼が職員室へ呼ばれたのは知っているからだ。その内容もほんの一言明かされただけで簡単にわかってしまう。

 呆れながらもリョーマが了承し、ため息と共に帽子のつばを触る。

 

 「で、先輩は先に行ってるんすか」

 「幸村を迎えに行くって言ってたよ。向こうもこっちに来るらしいけど」

 「どうも。じゃあちょっと行ってきます」

 

 海堂と大石に了解を得て、リョーマは着替えるために部室へ向かった。

 噂を聞いてからほんの数日。早くも状況は動き出そうとしている。

 部活動に支障をきたす恐れがあるものの、一方で学校の部活では得られない何かが得られる可能性も感じられて、先輩たちは何も言わずに見送った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16 参加しますか? しませんか?

 これは、なんだ?

 赤也は息を切らしながら呆然と立っていた。

 何かが違う。何かがおかしい。それだけはわかっていた。

 

 「大丈夫? 次行くよ、赤也」

 

 音が聞こえない。コートの対面に立つ幸村が口を動かしているのが見えているのに、こちらまで声が届いていなかった。

 それどころか、周囲にある音が全て聞こえなくなっている。

 風も、先輩の声も、自分の靴が地面を踏み締める音さえ、聞こえない。

 

 「そうか。聴覚を失ったんだね……平気だよ。プレーが終わればまた戻ってくる」

 

 幸村がボールを上げて、サーブを打ってきた。

 混乱しながらも赤也はラケットを振って打ち返す。

 

 無音の世界でするテニスは、驚くほど孤独を感じた。

 動きの一つ一つから音を取り外されて、自分の行動から実感が一つ消える。

 驚愕は取り払えず、精神に与える影響は大きいが、負けるわけにはいかなかった。

 

 赤也は必死に幸村の打球に反応し、ボールを打ち返した。

 攻めても、攻めても、攻め続けても返ってくる。どこへ打っても隙がない。何度打ち返しても一点さえ取れなかった。

 軽い運動をする。その通りではないか。

 無音の世界が絶望感をより大きくし、ラリーを長く続ける間、精神が摩耗する。

 

 やがて赤也は正面に来た打球を打ち返そうとしてぴたりと止まる。

 ラケットが、消えている。

 さっきボールを打った場所に自分のラケットが落ちていて、間に合うはずもないのに、走った彼は転がるようにして拾った。

 

 「触覚を失ったんだね。気をつけた方がいいよ」

 

 幸村が何を言っているのか聞き取れない。

 ラケットを握っているのにその感覚がない。

 赤也はぶるぶる震え、幸村は彼が立ち上がるまで待ち、サーブを打たなかった。

 

 「どうしたの? まだ試合は終わってない。さあ、続けよう」

 

 感じていたのは途方もない恐怖だ。

 発したはずの自分の声すら聞こえなかった。

 

 ネットの向こう側に居るのは、尊敬して、憧れて、いつか倒すと決めた相手。こんなチャンスは滅多にない。やっと巡ってきたと思った。

 それなのに、今は彼がこんなにも怖い。

 今までの自分のテニスが全て否定される気がして、赤也は言いようもなく絶望していた。

 

 「君はもっと強くなる。でも、リハビリ程度しか動けない俺にこの様だ。それが君の現在地」

 

 絶叫しながら赤也は立ち上がった。

 その声も聞こえない。ラケットを握る感覚もない。それがどうした。

 勝つんだ。あいつに勝って最強になる。

 構えた赤也を見て、幸村は優しく微笑むとサーブを始める。

 

 「行くよ赤也。あと一球――」

 

 

 *

 

 

 学校近くのファミレスに着いた時、リョーマは目元を覆いたくなった。

 悠介と一緒に入ったことがある。迷うこともなく、制服に着替えてすぐ駆け付けた。

 先に到着していたその悠介は、隣に幸村が立っているだけでぎこちない笑顔になって、やあと震える声で挨拶してきた。

 相変わらずのヘタレぶりで、リョーマはあからさまにため息をついて俯く。

 

 共に店へ入り、同じ席に着いた。

 リョーマと悠介が並んで座り、その正面に幸村が座る。

 ここは僕が奢るからなんでも頼んで。幸村に言われてリョーマはまずパフェを注文した。

 

 「最初から話した方がいいかな?」

 「は、はひっ!? あぁいえ! なんとなく聞いたので大丈夫です!」

 「そうか。じゃあ、考えてもらえた?」

 

 みっともないほど緊張している悠介が、首が取れるのではないかというほど頷いている。

 呆れるリョーマは我関せずの態度を貫き、しばらく静観することにした。

 

 「俺は、俺のチームへ君たち二人に入ってほしいと思うんだけど、どうだろう」

 「あ、あのー……それについては少し、お聞きしたいんですけど……」

 「何? なんでも聞いて。答えられることは答えるから」

 「あ、ありがとうございます。えー……それで……」

 

 見るからに挙動不審な悠介は視線をうろうろさせて、喋るスピードも遅くなり、考えもまとまらず悪戯に時間を浪費している。

 幸村はにこにこ微笑み、そんな彼を急かしもせずに待っていた。

 我関せずのリョーマは届いたパフェを食べ始めている。

 

 「越前は、わかるんですよ。大会でも試合出てて、確か負けなし。決勝でも真田さんと試合して勝っちゃったんで……」

 「ビデオを見たよ。素晴らしい試合だった。君は強いね」

 「どもっす」

 「だから、越前のスカウトはいいんですけど、なんで俺……」

 「なるほど。まずは君のその不安を取り除く必要があるわけだ。うーん、そうだね……」

 

 少し考える素振りを見せた幸村は慎重に言葉を選ぶ。

 何から説明しよう。

 そう考える笑顔はほんわかしていて優しさを感じ、真摯に向き合われているのだと思う。それが余計にファンである悠介を緊張させるのだが本人は気付いていなかった。

 

 「今回の大会があるって聞いて、すぐに参加したいって思った。それから、チームを作るためにまずは他校の選手を知ろうと思って柳を頼ったんだけど。わかるかな?」

 「あ、はい。乾先輩と戦った……昔はダブルス組んでたって」

 「うん。彼は立海の参謀でね、色んな情報を持っている。まずは柳からおススメを聞いてみようと思ってそうしたら、越前君の名前が挙がった」

 

 興味がないと言いたげな態度で聞いていたリョーマはちらりと一瞥するのみ。

 機嫌を悪くすることもなく、くすりと笑って幸村が続ける。

 

 「真田を倒した一年生だ。試合の映像を見てプレーも気に入った。だけどまだまだ強くなると感じたし、一度会ってみたいと思ったんだ」

 「そう、でしょうね。こいつは色んな人に評価されてるし。そこまではわかるんですけど」

 

 悠介がリョーマを見ると、彼はちらっと見つめ返してきて、べっと舌を出した。緊張している自分を嘲笑うつもりだ。後でその舌を掴んで引っ張ってやろうと決意する。

 悠介の怒気に気付きながらも、幸村は冷静に語っていた。

 

 「その時に柳から君の噂を聞いたんだ。レギュラーではないけどダブルスが得意で、越前君が最も信頼している先輩だって」

 「言うほどっすけどね」

 「お前は黙って。パフェ食ってなさい」

 「その後、赤也からも君のことを聞いてね。以前、越前君と野良試合をした時、君と話していい奴だから気に入ったって」

 

 悠介は関東大会決勝、立海との試合より前の出来事を思い出す。

 ラケットのガットが切れたリョーマが遠くの店へ向かう際、迷わないようにと付き添いとして同行した悠介は、切原赤也とジャッカル桑原に出会った。

 あの時は物の弾みで止める暇もなくリョーマが赤也に喧嘩を売ってしまい、コートへ移動して試合を行った。その移動中の会話を言っているのだろう。

 

 「あー、覚えてます。プレーは怖かったけど喋ってる時は結構いい奴で」

 「同い年なんだよね」

 「はい。ただ、やっぱ試合を見てちょっと怖かったから、その後は全然なんですけど」

 「あはは、それは俺からも言っておくよ。普段は意外に可愛い奴なんだけど、マナーが悪いのとラフプレーが得意なところはどうにかしなきゃね」

 

 悪口みたいなことを言いたくはなかったが、嘘をつくのも躊躇われたので正直に言った。悠介はバツが悪そうな顔になって口ごもる。

 幸村は気にしていなかった様子だ。自分が頼んだコーヒーを口にしながら言う。

 

 「君はレギュラーになったことがないそうだね」

 「はい……うちはみんな、バケモノみたいな人ばっかなんで」

 「だけど君も上手だと聞いたよ」

 「そんな、俺なんか全然。越前にも一回も勝ったことないし」

 「ふふ。だからかな」

 「え?」

 

 ソーサーの上にカップを置いて、幸村は改めて悠介の顔を覗き込んだ。

 

 「もどかしそうな君を見て、力を貸してあげたいと思ったんだ。自慢じゃないけど俺は部長で、後輩に指導したことだってある。腕はいいそうだし、君を鍛えてどこまで上がるか、見てみたいと思ったから。それが君をスカウトした理由」

 「は、はあ……」

 「練習試合で手塚ともいい勝負をしたそうだしね。俺が育てた青学の後輩が手塚に勝つって面白そうじゃない?」

 「いや、それは部長が慣れてないダブルスだからで、それでも負けましたし……大体俺が部長に勝つなんてあり得ませんよ」

 「そう思うでしょ? だから俺が教えるんだよ。君たちをもっと強くするために」

 

 悠介だけでなくリョーマも彼の顔をじっと見つめた。

 本気だろうか。他校の生徒が、本気でそんなことを考えているのか。

 幸村は二人の視線を受け止めたところで微塵も揺らがず、不信感ありありで向けられる疑念をにこりと受け流してさえ見せる。

 

 半分以上パフェを食べていたリョーマだが、一旦手を止めると唐突に問いかける。

 やはり幸村は動揺せずに正面から受け止めようとしていた。

 

 「俺たち青学っすけど、いいんすか?」

 「もちろん」

 「いずれ全国で会うんでしょ」

 「立海が今よりさらに強くなるためにはもっと強力なライバルが必要だ。自分たちばかり得をすると思ったかい? 残念ながらそうはならないよ。君たちを強くすることが立海のためになる」

 

 優しい口調だが強い意志を感じる。初めて違った理由で悠介が怯えた瞬間だ。

 

 「手塚程度で満足してもらっちゃ、更なる高みを目指せないじゃないか」

 「へぇ……じゃああんたは手塚部長より強いんだ?」

 「お、おい越前、口の利き方」

 「いいんだ。好きに話してくれていい」

 

 優しい人なのだろうと想像していたが途端に印象が変わる。

 やはり“常勝立海”の部長という肩書は嘘ではない。

 穏やかな顔と口調で、幸村は静かに語り、同時に揺るぎない自信を感じさせた。

 

 「今の俺は手塚より弱いよ。病気になって、まだ1セットマッチも満足にできない。それどころか君たちと試合をしたって勝てないだろう」

 「ふーん」

 「でも俺に時間をくれるなら、手塚に勝てるようになるまで強くすることができると思う。それくらいの逸材を見つけたと思ってるんだけどね」

 

 態度とはちぐはぐな自信満々の発言だった。

 これには悠介だけでなくリョーマまで驚いてしまい、目を丸くして口を閉ざす。

 

 「たとえこの大会が終わって全国へ行っても、その頃にはうちの部員も強くなっている。負けるつもりはさらさらないよ」

 「にゃろう……面白いじゃん」

 

 今の一言でわかる。悠介より先にリョーマがやる気になってしまったようだ。

 まさかと思った途端、嫌な予感を覚えた悠介より先にリョーマが発言した。それは彼の意思や迷いなど無視した決定事項だった。

 

 「チームに入りますよ。先輩も一緒に」

 「お前っ、バカ!? 俺何も言ってないだろうが!」

 「どうせ先輩に決められるわけないんすから。いいでしょ?」

 「二人ともよろしくね」

 「ちょっと!?」

 

 逃がさないと言わんばかりに、リョーマと幸村は互いを見合って早々に会話を切った。

 抵抗したいが、どうすればいいかわからない悠介は悩み、為す術もなく逃避するように頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまう。

 

 「あれぇ……あれ~?」

 「うるさいっすよ」

 「時間はあるから、ちょっとずつ慣れていけばいいよ。仲良くしようね」

 

 どうせ考え込んだところで決断力はないのだからこれでいいのだ。

 リョーマは残っていたパフェを食べ始め、悠介は頭を抱えてうんうん唸って動かず、幸村は兄のようにそんな二人を見守っている。

 

 大会が始まるまで準備期間が設けられている。それまでにメンバーを集めて、練習をして、親睦を深めてチームになればいい。

 焦ってはいなかった。予定は立てていないがなんとかなる気がする。幸村は妙な自信で行き当たりばったりに進もうとしていた。

 そうとは知らない悠介には、やはり言わない方がいいだろうと改めて思った。

 

 「とりあえずしたい話は決まったね。この後、予定はある? ないならこのままお茶してから帰ろうかと思ってたんだけど」

 「ねぇ、それよりさ。リハビリやろーよ。ボール打つくらいできるんでしょ?」

 「口の利き方っ」

 「寝てていいっすよ先輩」

 

 ぺろりとパフェを平らげたリョーマが言う。挑発的な態度と強い闘争心。なるほど、柳が教えてくれた通りの人物だ。

 あっさり受け入れた幸村は拒否しなかった。

 本調子ではないが適度な運動は必要だ。少しボールを打つくらい許されるだろう。

 飛び起きた悠介を押さえつけるように再び寝かしつけるリョーマへ、仲が良いなと思いながら、微笑む幸村が承諾した。

 

 「いいよ。話し合うよりそっちの方が仲良くなれそうだしね」

 「決まりだね」

 「越前君っ、ちょっと、痛いなぁ……! 俺別に寝てたわけじゃないんだけどっ」

 

 手を離してやると不満そうな悠介が体を起こす。すぐに復讐を行い、リョーマの両頬が普段よりも幾分か強めにつねられ、引っ張られた。

 堪らずリョーマも無言で同じことをやり返し、大声こそ出さないが静かな喧嘩が始まる。

 まるで兄弟のようだ。妹が居る幸村は微笑ましそうに見守っていた。

 

 「コートはどうしようか。青学だとテニス部員の迷惑になっちゃうよね」

 「じゃあ、ストリートのコートで。無料で夜でもできるとこあるんで」

 「そういう場所知ってるんだ。いいね。じゃあそこにしよう」

 「それは俺も行くんですか?」

 「当たり前でしょ。何聞いてたんすか」

 「お前はさぁ、ほんっとにそういう冷たい言い方するよね」

 「そりゃ先輩がしっかりしないんだから」

 

 むぎゅむぎゅとほっぺたを引っ張り合う二人の姿はなんだか滑稽で、本当に攻撃になっているのかも定かではないのに中々やめようとしない。

 それが二人の日常なのだろうと理解して、幸村はくすくす笑っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17 立海事変

 外出と軽い運動を認められるようになって、幸村は毎日のように上機嫌な様子だった。

 入院生活は他人が思うより辛さを感じていたのだろう。多くは言わないが、彼の態度や笑顔を見ているとずいぶん嬉しそうにしている。

 奇跡的な回復力だと聞いていた。手術も成功している。幸村本人も入院する前から、すぐに戻れるようにと可能な限りの努力をしていた。

 それでも早過ぎる気はするのだが、彼はすっかりやる気だった。

 

 関東ジュニアオープンテニスの話を聞いて、真っ先に飛びついたのが幸村だ。

 立海大附属中学テニス部は全国大会の常連校。今まで数々の輝かしい功績がある。そして今年も全国大会への切符を勝ち取っている。それなのにそちらへの関心はほどほどで、なぜか幸村は至極嬉しそうに準備を始めようとしていたのだ。

 

 柳蓮二は不安を覚えていた。

 入院する前と後とでわずかに本人への印象さえ変わってしまい、心配になる。

 彼に協力することになったが、体調の不安も含めて、本当にいいのかと悩むようになる。

 

 「生き急いではいないか? 手術は成功した。全国なら俺たちが勝ち進む。お前はもう少しゆとりを持って休んでもいいんだぞ」

 

 柳がデータをまとめた資料に目を通す幸村へ言う。

 今の彼は以前にも増して行動力と決断力が高まっている。柳には彼が無理をしているようにも見えてしまって、自分たちを信用してもっと休んでほしかった。

 

 確かに関東大会決勝、初めての黒星がついたのは理解している。“常勝立海”には許されない結果で大会を締めくくった。しかも特別な私情があったとはいえ、否、だからこそか、自身の敗戦から続けて三連敗を喫して優勝を逃したことに責任を感じずにはいられない。

 考え込む柳はこれも自分たちのせいだと思っている。

 

 こちらを向いた幸村はそんな心情を否定した。

 仲間たちのことは信頼している。これはただの興味本位だと。

 

 「やってみたいんだ。ただテニスがしたい。頑張る理由はそれだけだよ」

 

 果たして、本当にそうだろうか。

 自分でも知らない内に疑ってしまった事実に気付いた時、柳は動揺した。

 真田と自分と幸村。“三強”と言われた三人で立海に勝利をもたらす。最も信頼すべき相手に疑いを向けたことを、柳は誰にも告げられずに恥じた。

 

 「今まで満足に動けなかったんだ。久々にできることが嬉しくてね」

 「そうか……それなら構わんが、無理はするなよ」

 「ありがとう。きっと俺は、病気になったおかげで再認識できたんだ」

 

 ぽつりと言った幸村の一言を今も覚えている。

 

 「テニスって、楽しいよね」

 

 子供のような無邪気さとは裏腹に、なぜか彼が大きく見えて、底知れない恐怖を感じた。

 

 

 *

 

 

 幸村に敗北した後、赤也はコートを出ようとはしなかった。

 駄々を捏ねる子供のように先輩たちへ頭を下げ、更なる勝負を望んだ。

 負けたのはなぜか? 自分が弱かったからだ。もっと強くならなければならない。誰にも負けないくらい圧倒的に強く。

 

 大汗を掻きながらコートを走り回り、打ち返されるボールをひたすらに打った。

 右へ左へ、或いは前へ後ろへ、息つく暇もない。

 それでいい。追い詰められなければ限界など超えられるはずがないからだ。

 

 「本当によォ! お前の負けん気には尊敬するぜ!」

 

 ライン上に着地する深いストロークはジャッカルに拾われる。脅威のディフェンス能力とずば抜けたスタミナで広大なコートを守る守護神。彼を抜くことは難しい。

 赤也は一歩たりとも足を止めずに駆け回った。

 

 「あの結果は当然だろうよ。なんせ幸村は天才なんか及ばない“神の子”だ」

 

 妙技のボレーを武器とするブン太がネットに張り付いている。彼がボールに触れた途端、予測できない動きをする打球には散々惑わされた。

 怪我も怖がらずに赤也は跳び、肌を擦り剥きながらダイビングボレーで辛うじて拾う。

 

 「君のプレーが悪かったわけではありません。ただひたすらに、幸村部長が強かった」

 

 コートを両断するかのような強烈なパッシングショット、“レーザービーム”が放たれ、柳生が最も得意とするそれはそう簡単に止められるものではない。

 倒れ込みながらも赤也は辛うじて拾って、肩をぶつけてもすぐに立ち上がった。

 

 「今のお前じゃ逆立ちしたって勝てねぇ」

 

 ネット際に立つ仁王がボールを強く打ちつけると、ボールはネットを越えた瞬間に視界から消えてしまった。“ダーティートリック”。彼の詐欺(ペテン)は人体の視覚すらも騙す。

 きっと自分に向かってくるはずだ。咄嗟に赤也は自分を守るようにボールを返した。

 

 ふわりと浮かぶボールがネットに当たって自陣に落ちる。

 その向こうには四人のプレイヤーが存在した。

 何分、何時間経っただろう。ボールは一度としてネットの向こうで止まっていない。得点こそ数えていないが、これが試合なら一方的にポイントを取られ続けている。

 

 肩が大きく上下するほど激しく呼吸を乱して、赤也は脱力して跪いた。

 練習とは呼べないリンチにも似たそれは、赤也自身が頼んで実現した状況だ。この程度で負けていては幸村には勝てない。彼ら四人を同時に相手にして勝つ必要がある。そう思って何度も挑み続けているのに、いまだ一度として得点できない。

 疲労は大きいが、思考はますます先鋭化され、忘我の状態でも異様な力が漲っていた。

 

 顔を上げた赤也は真っ赤に充血した両目でギロリと敵を見る。

 ラフプレーを乱用する赤目の状態、通称“危険モード”と呼ばれていた。

 以前から知っていた四人の先輩はそれを見ても驚かずに見据える。

 

 「威勢とやる気は認めるが、勢いだけじゃどうにもならねェよ」

 「お前が相手にしてんのは“王者立海”だぜ?」

 「切原君。テニスは一朝一夕では伸びない。一度冷静になって練習に身を費やすべきです」

 「超えてぇよなあ、超えてぇよ」

 

 ゆらりと立ち上がった彼は両手でグリップを握り、再び構えた。

 早く来いと態度で伝えている。

 言っても聞くつもりはなさそうだ。仕方なくジャッカルは次のボールを持ち、サーブを打って無茶な状況を再開させた。

 

 “危険モード”になった赤也は純粋なパワーとスピードが格段に向上する。攻撃的な意思も明確に強くなって、これまでの試合では相手の体にボールをぶつける、怪我させることも厭わない物理的な攻撃を多用するようになる特徴があった。

 ボールに追いつく速度が見るからに速くなり、打ち返す力も増していた。

 四人も居れば打ち漏らすことはなかったが、先程までと比べて攻め辛くなったのは確かだ。

 

 「やれやれ、またこれですか」

 「マジでキレやすいなぁ。どうするよ」

 「怪我する前に止めた方がいいんじゃねぇか?」

 「任せんしゃい」

 

 数度のラリーを行うものの、赤也の打球はミスをすれば体に激突する軌道だった。先輩であろうと容赦なく潰そうとしている。

 引き受けた仁王が大胆に赤也の打球の前へ躍り出た。

 高速のパッシングショット。“レーザービーム”で返して赤也の額に激突させる。くるりと簡単にひっくり返った彼は勢いよくコートを転がった。

 

 「仁王君。私の技を、人殺しの道具にするのはやめてください」

 「あの程度で死ぬんなら、こんなとこには立ってねぇべや」

 

 赤也はしばらく動かなかった。

 本当に死んだのか、と見つめる四人が心配する頃、ようやく四肢を踏ん張って立ち上がる。数秒気絶していたらしい。大きく頭を振って、再び四人に視線を向ける。

 その目はもう赤くない。普段の彼に戻っていた。

 

 「ここまでにしましょう切原君。君の行動はあまりに危険過ぎる。まずは自制心を鍛えなさい。そのすぐキレる性格を改善しない限り、同じことの繰り返しです」

 「逃げるんすか……先輩。俺はまだやれますよ」

 

 わずかだが、額から血が流れている。

 柳生は眉を動かし、咄嗟に彼の体を心配した。

 

 「仁王君」

 「プリッ」

 「これ以上続けるわけにはいきませんね。まずは怪我の手当てをしましょう。さあ切原君、早くこっちへ」

 「血ぐらいどーってことないっすよ。戻ってください、柳生先輩」

 

 救急箱を取りに行こうと部室へ足を向けた柳生を呼び止め、戻るように言う。

 赤也は笑っていた。目は充血していないがかつてない雰囲気に身を包み、見ているだけで嫌な感覚がする姿で四人を同時に威圧している。

 

 「要はネットの向こうへ返しゃあいいんでしょ。腕でも足でもくれてやらぁ。ボールさえ向こうに行きゃあいいんだからな」

 「おいおい……」

 「いつもと違うキレ方してやがる。柳生、取ってこい。俺と仁王で止める」

 「やれやれ……」

 

 救急箱を取りに行く前に、柳生は赤也を説得しようと体の正面を彼に向けた。

 このままやらせてもいいことにはならない。先輩として、なんとしてでも止めなければならないとようやく決心したのだ。

 

 「切原君。我々がこれまであなたに何も言ってこなかったのは、ラフプレーも危険モードも勝利のために利用できると思ったからです。マナーより何より、勝たなければならないと思っていた。しかし今の君はだめだ。自分自身さえ壊してしまいますよ」

 「戻ってくださいよ、柳生先輩」

 「切原君……私はもう戻るわけには――」

 「やらせたらいいだろ」

 

 柳生の言葉を遮り、言い切ったのは仁王だった。

 三人が絶句する一方、彼だけは冷静な声で淡々と言う。

 

 「お前ら三人、外出とれ。俺一人で十分ぜよ」

 「仁王君、そういうわけにはいきません。怪我をさせるつもりですか」

 「言ってもわからん奴は体に教えなきゃいかんピョン」

 

 ボールが入っているカートを引っ掴み、サーブの位置まで移動する。

 どうやら本気で続行するようだ。

 ブン太ははぁ~と大きく息を吐き、やれやれと言いたげなジャッカルも敢えて止めなかった。

 

 「アホらし。付き合ってらんねー」

 「やり過ぎんなよ仁王。再起不能になったらシャレにならねぇぞ」

 「ちょっと、君たち」

 「いいからお前もこっち来いって。どうせこいつら言ったって聞かねぇんだから」

 

 呆れたブン太とジャッカルが先にコートを出て柳生を呼び寄せる。彼もこの状況にはまるで納得できずにいたが、残った二人が動かないのを見ると仕方なさそうに外へ出る。

 それからようやく、仁王がサーブを放った。

 赤也は当然のように返し、さっきまでに比べれば至極常識的なラリーが始まる。

 

 仁王は、底知れない男だ。

 実力の全ては悟らせず、得意の“詐欺(ペテン)”で堂々と敵を騙してしまう。

 口調も言動も外見も、何もかも嘘に思わせる。テニスの腕前ですら理解不能だ。

 

 「弱くなったなぁ、赤也」

 「あぁ!?」

 「だってお前に勝てないんだから」

 

 赤也が返したボールを、仁王が待ち受け、低い弾道のそれをスマッシュで返す。

 狙い違わずに赤也の額に激突した。

 さっきの繰り返しのように、赤也の体は軽々と吹き飛び、大の字になって倒れる。

 狙っていないはずがない。わざとだ。コートの外で立っていた三人は驚愕し、開けた口も閉じられずに言葉を失っていた。

 

 「立ちんしゃい。お前に教えてやるぜよ」

 

 倒れたままで赤也は仁王を睨みつけ、全身に力が漲る。

 

 「お前のテニスを」

 

 絶叫しながら赤也は立ち上がった。

 そこからの仁王のプレーは、確かに赤也を見ているようであった。“危険モード”で暴走した彼と同じパワー、同じスピード、同じスタイルでラフプレーを行い、執拗なまでに赤也自身にボールをぶつけていく。

 何度も、何度も、何度でも。全身、ありとあらゆる場所へボールをぶつけ、それでもなお止まらずに仁王のサーブからプレーは始まる。

 

 皮膚が裂けて、血が流れても、血反吐を吐いても、赤也が転んで起き上がれなくても強烈な打球が体にぶつかっていく。

 柳生とジャッカルが大声で叫んでも、ブン太が慌てて真田と柳を呼びに行っても、仁王の攻撃は間髪入れずに行われた。

 

 それでも赤也は心を折られず、ただひたすら怒りを溜めて、必ず立ち上がった。

 このままでは終われない。何が何でも勝ってやる。

 そうして力が漲っていく様を見計らい、仁王は、全てを理解しているかのように呟く。

 

 「お前じゃ誰にも勝てねーよ。幸村にも、越前リョーマにも」

 

 ブチン、と。

 何かが切れる音が聞こえた。

 

 変化は一瞬だった。ダメージが蓄積する内に打球を返せなくなっていたはずの赤也が、仁王の鋭い打球を打ち返し、油断していない彼の足元を通過させる。

 取らなかったのではない。取れなかったのだ。反応さえ許されないスピードだった。

 今のは威嚇。次に攻撃的な思念が空気を伝って全身へぶつけられる。

 

 「フフッ。ハハハハッ。ヒャハハハハハッ!」

 

 肌が赤みを帯び、髪は真っ白になり、目は“危険モード”同様に真っ赤になっている。

 赤也の様子が変わっていた。

 狂ったように笑った彼は、憎悪を抱いて仁王を見据えた。

 

 「テニス、教えてくださいよ、仁王先輩。全部、あんたの全部ぶっ潰してやるッ!!」

 「はははぁ……面白いピョン」

 

 仁王はひどく楽しげだった。

 動揺することもなくサーブを構えて、平然と続けようとする。

 止める暇はあったかもしれない。だが状況を理解できないことと、何より変貌した赤也を恐ろしいと思ったことで、ゲームが始まるまで柳生とジャッカルは一歩たりとも動けなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18 立海事変

 結局、そんなに急ぐ理由もないだろうという流れになり、いまだファミレスに居座っていた。

 頬杖をついて拗ねた顔をする悠介は、また始まったと言いたげなリョーマの冷たい視線に晒されながら話している。幸村だけが変わらずにこにこ聞いていた。

 

 「みんな俺に期待し過ぎっていうか……俺はほんとに、普通くらいのレベルなんですよ」

 「そうなんだ」

 「みんなみたいに必殺技とか、そりゃ、不二先輩に習ったりとかしましたけど、別にそれもオリジナルなわけじゃないし。でも他のみんなは色々自分だけの技とか持ってるでしょ?」

 「そうだよね。越前君も、COOLドライブだっけ? あれはすごかった」

 「こいつは他にも色々技があるんですよ。しかも自分発信で急に見せてくるし、大体実戦で急に使って勝つし、それだけじゃなくてみんなの技もちょっと真似しただけでできちゃうし。なんかもう越前一人居ればよくない? みたいな感じになっちゃって」

 

 なんだか良くない話をされている。

 越前は我関せずと無視を決め込んでいたが、幸村が聞くものだから止まらない。悠介は新たな理解者を得たと言わんばかりに饒舌に喋っていた。

 

 「そうか……越前君自体がコンプレックスのようになってしまったんだ」

 「そうなんですよ。しかも生意気でしょ? 気持ちはちょっと複雑だけど、ほっといて孤立したらどうしようとか思っちゃって」

 「宮瀬君は優しいね。だから一人で抱え込んで辛くなっちゃうんだと思う」

 「いや、そんな、別に優しいとかじゃ……」

 

 ため息を我慢できずに、リョーマは退屈そうに顔を背けてはぁ~と吐き出していた。

 

 「生意気な後輩って案外可愛いものだよ。うちにも赤也が居るでしょ? 生意気で負けず嫌いだけど付き合ってみれば、結構気が利くいい奴なんだ」

 「それ、本当ですか? 俺は不二先輩との試合も見てるから、ちょっと複雑……」

 「その件に関してはすまなかった。あいつにもきちんと謝らせるよ。不二君にも、君にも。でもあの試合だけで嫌わないであげてほしいんだ」

 「うっ、それは、まあ……」

 

 いつになったら移動するのか。リョーマは不貞腐れていた。

 二人は親しくなりつつあるようだが、話題が話題だけに入っていく気になれない。

 早くテニスがしたいと、待ち疲れるリョーマは窓の外の空を眺めていた。

 

 「ちょっとマナーの悪さは否めないけど、普段は明るくて優しい奴なんだ。もっと話してみたらきっと仲良くなれると思う」

 「うーん、幸村さんがそう言うなら、信じてみますけど」

 「今度、俺から紹介するよ。友達になってくれたら嬉しいな」

 

 

 *

 

 

 もはや手に負えない事態となり、ブン太が呼びに行って少し経ってから。

 真田と柳が到着した時、目の前の光景に二人は驚かずにはいられなかった。

 

 「何をしている!」

 「あれは……赤也か!?」

 

 コートの中でボールを打ち合っているのは、仁王と、些か風貌が違うがおそらく赤也だ。何かが起こったことは確かだがその何かはわからない。

 理解し難い状況に真田と柳が立ち尽くし、状況を知っているブン太が前へ出た。

 

 「わりぃ、赤也に頼まれて無茶な稽古つけてたんだけどよ。あいつぶちキレちまって……」

 「ええいっ、馬鹿げたことを……!」

 

 怒り狂う真田がコートへ近付いていく。

 当然気付いていた仁王だが、止めるつもりはまるでなかった。

 

 「今すぐやめろ! 赤也! 仁王!」

 「おーこわっ。鬼さんのおでましだぞい」

 「関係ねぇよ! ヒャーハハハッ!」

 「赤也! 仁王!」

 

 鉄拳制裁も辞さない厳格な真田が現れても、二人の勝負は止まらず継続される。

 近くで見ればより異常性がわかる。

 足を止めた真田は、赤也の外見を見て息を呑んだ。

 

 赤みを帯びた肌、白く染まった髪、“危険モード”と同じ赤い目。全身至るところから血を流しながらプレーを続けており、血を吐き出しながら、猟奇的な笑みを浮かべている。痛々しい見た目に反してひどく楽しそうだ。

 これは赤也ではない。反射的についそう思ってしまうが、紛れもなく彼の知る赤也だ。

 止める必要がある。決断する真田が踏み出そうとした瞬間、仁王が口を開いた。

 

 「止めんなや」

 「仁王……! どういうつもりだ!」

 「こいつが言ったんだぜ。もっと強くなりたいって」

 

 二人のラリーはいまだかつて見たことがないほど強く、物々しい。一打ごとにガットがはち切れそうな悲鳴を上げ、キシキシと叫びながらボールを返している。

 赤也と互角に打ち合いながら仁王は普段と同じ涼しい顔をしていた。

 

 「強くしてやってる最中だ。誰も邪魔するな」

 「貴様……!」

 

 空気を切り裂く音がする。

 憤る真田だったが、咄嗟に柳が肩を掴んで止め、迂闊に飛び込めばただでは済まないと見るだけで理解していた。止めたくても簡単には止められないのだ。

 

 「あれが、本当に赤也なのか……?」

 

 赤也のプレーを見て柳が呟いた。

 外見だけではなく何もかもが違っている。

 柳の体感では、パワーは本気の真田と同等かそれ以上にまで飛躍しており、ほぼ同じ場所に打ち返されて移動を見ることはないとはいえ、動き出しやスイングのスピードは今までの倍以上に速くなっている。それだけでなく離れていても肌に感じる打球の危険性は、今までの赤也からは考えられないほど高まっていた。

 

 下手をすれば死人が出るかもしれない。だからこそ近付けなかった。

 見ていることしかできずに立ち尽くす彼らは悔しげに歯を食いしばる。

 その間も二人の打ち合いは激しさを増し、さらにスピードを上げようとしていた。

 

 仁王は強化された赤也と互角に打ち合っていて、一歩も遅れを取らずに渡り合っている。もはやそれはテニスの試合ではなかった。

 互いに相手の正面へ、腹にぶつけることを狙って同じコースを通しており、一ミリも外さない正確無比なコントロールで微塵もブレずに同じ軌跡を作っている。

 

 これは戦いだ。

 相手に一発叩き込むことを目的とし、それは殴り合いの喧嘩に近い。

 

 「ヒャハハハハハッ!」

 「のう赤也。まだまだ弱いな~お前は」

 

 仁王が呟いて赤也が口角を吊り上げる。

 パワーはさらに増し、インパクトの音がどこか遠くまで響いた。

 負けじと仁王も打ち返して、ラリーは一向に終わらない。

 

 「もう一度言ってやろうか。お前じゃ誰にも勝てんぜよ」

 

 少しずつ汗が引いていき、踏み込む足の力が強くなる。

 赤也の肉体にますますの力が生まれてくる。

 

 「強くなったとでも思ったか? 上手くなったとでも思ったか?」

 

 仁王の呟きは鮮明に聞こえて、その一つ一つが新たな力をもたらしてくれる。

 思考がクリアになっていく。

 疲労はすっかり忘れてしまって、驚くほどに調子が良かった。

 

 「二年生エース? 立海の最終兵器? 笑わせんな」

 

 ラリーを繰り返す度に上っていた階段が、ついに終わりを見る。

 

 「こんな程度がお前の限界だ」

 

 もう一度ブチンっと音を聞いた。

 完全に汗の引いた赤也の全身からオーラが放出され、目撃した全員が驚愕する。

 

 「無我の境地!?」

 「あの状態でか!? 一体……どうなる!」

 「ヒャーッハッハッハ!!」

 

 最高の気分だった。

 まるで背中に天使の羽が生えたかのようだ。今ならなんでもできる気がする。目の前の敵を踏み潰すことだって難しくない。

 上機嫌に笑う赤也は目の前へ来たボールに対して、見えないほど速いスイングをした。

 

 「死ねよ」

 「プリッ」

 

 一瞬の視線の交差。打球は仁王の額を狙っていた。

 必ず一度はバウンドさせていたボールを、今回は真っ直ぐ直線で向かわせる。最短距離で額にぶつければ、アレは黙るはずだった。煩わしい言葉を喋らなくなる。だから今すぐ黙らせよう。最高の一打で終わらせよう。

 

 ラケットを離れたボールは空を駆け、しかし、仁王へ届く前に力尽くで叩き落とされる。常人では反応できない一打がラケットによって地面を跳ねて空へ飛んだ。

 その直後、赤也は頬に真田の平手打ちを受け、受け身も取れずに倒れた。

 

 「やめんかっ!!」

 「あ……うっ……真田副部長……?」

 

 オーラが消えて、肌も髪も元の色に戻り、充血していた目も落ち着いた。

 ひどく疲弊する赤也は憤怒の形相でこちらを睨む真田を確認し、混乱したまま、状況を理解する暇もなく意識を手放した。頭が落ちて静かに眠ってしまう。

 

 重苦しい沈黙が広がった。

 真田は倒れた赤也を見下ろして動かず、駆け寄った柳が容体を見る。

 仁王がラケットを下ろして、柳生もブン太もジャッカルも口を開けずにいて、誰しもが混乱した状況を整えられずにいた。

 自身のラケットを強く握りしめ、ようやく動き出した真田が視界に仁王を捉える。

 

 前々から謎の多い男だった。素性も実力も本音も隠し、同じ部活の仲間、肩を並べるレギュラーにすら心情を明かさない。

 その結果がこれだ。一体何を考えているというのか。

 真田は縫い付けられたかのようにその場を動かず、強い怒りの念を発していた。

 

 「どういうつもりだ」

 「赤也のためだピョン。ほうら、強くなった」

 「己が御し切れんこんな力を、強さとは呼ばん!」

 「真田は頭固すぎ。勝ったらどんな力も同じ。そいつは今、俺に勝ったんだべ」

 

 真田の眼光は鋭く、仁王を睨みつけて絶対に認めようとはしなかった。

 そうと知りながら仁王は肩をすくめ、やれやれといった顔をする。

 

 「もうやめろ二人とも。この件は後回しでいい。一度離れて頭を冷やせ」

 「俺はずっと冷えてるよん」

 「仁王」

 「ハイ」

 

 このままではさらにまずいことになる。自分たちはテニス部であり、全国大会への切符も手に入れているのだ。殴り合いの喧嘩や、ましてや、テニスを自己主張の武器にしてはならない。

 冷静だった柳が声をかけ、赤也の体を抱き上げる。

 保健室へ運んだ方が安全だろう。彼はよろめきもせず歩き出した。

 

 「俺は赤也を運ぶ。お前たち、今日はもう帰れ」

 「お、おい……でも」

 「バカっ、余計なこと言うな。すまない柳、そうするよ……」

 「ああ。弦一郎」

 

 怒りの頂点に達したのか、真田は沈黙して声すら漏らさず。

 視線はずっと挑発的に笑う仁王を見ていた。

 

 「冷静になれ。お前が怒りに囚われてどうする。心は鍛えていたはずだ。今までの時間と努力を無駄にするなよ」

 「……わかっている」

 

 深く息を吸って吐き出す。目を伏せ、何度か深呼吸を繰り返して、真田は落ち着いた。

 柳は赤也を運び、部員たちも帰り支度をするために部室へ戻っていく。

 疲れた気配が漂う中、コートに残ったのは真田と仁王だけだった。

 

 「幸村に怒られただろ」

 「何の話だ」

 「関東決勝。負けたのはあの時だけだべや」

 

 よく知っている。大会が終わって幸村に回復の目処が立った後、彼と話した。負けたことを忘れてはならないと釘を刺された。

 真田はすでに冷静になっていた。挑発的な態度でも怒り狂うことはない。

 歩み寄ってきた仁王がネットを挟まずに目の前へ立って、真っ直ぐ目を覗き込んでくる。

 

 「別にあんたが悪かったわけじゃない。かといって相手が強過ぎたわけでもない。勝てる勝負で負けたってだけだ」

 「何が言いたい」

 「あんたは武人で武士で侍だ。でも本気で勝ちにいこうと思ったら、使えるものはなんでも使わないとにゃあ」

 

 にやりと笑いかけられ、それでも真田は厳しい表情を崩さなかった。しかしもう怒気を孕んで仁王を睨んではおらず、一笑に付す。

 彼の態度には強さと自信があった。仁王の言葉にも堂々と返す。

 

 「策を弄する必要もない。テニスはスポーツだ。心を強く鍛え、ひたすらに修練する。関東大会での失態はただ己の力の無さが理由だった」

 「相変わらずの脳筋。せっかく覚醒したのに」

 「あれは体を蝕む危険な力だ。お前は赤也を死なせたいのか?」

 「強くなりたいと望んでたんだ。大事なのは本人の意思だろうよい」

 

 ふらりと歩き出した仁王は部室へ向かおうとする。

 逃げるわけではない。そろそろ興味が薄れてきただけだ。彼は振り返りもせず、後腐れもなく去ろうとしていた。

 

 「負けるくらいなら死んだ方がマシって奴も居るぜ……」

 「精神の鍛錬が足らんのだ。赤也はそうはさせん」

 

 ひらひらと手を振りながら歩き去った。相変わらず妙な男だ。

 真田は彼を追わず、踵を返すと保健室へ歩を進める。

 

 考え事をしながらも不安に押し潰されずにいるのは武道で心を鍛えているからだ。他人であろうと厳しく導き、自分自身にはさらに厳しく接し、強くなろうと努力してきた。

 努力を重ねれば強くなれることは自らで立証している。

 危険な力に魅入られた赤也を思い出して、真田は歩く間に覚悟を決めた。

 

 保健室へ辿り着き、扉を開ける。

 奥へ向かうとベッドに赤也が寝かされていて、傍らのパイプ椅子に柳が座っている。気配を隠すこともなく近付いた真田に、柳が振り返りもせずに声をかけた。

 

 「俺も関東ジュニアオープンテニスに参加する」

 

 唐突な宣言だった。

 前に回り込むことも許されず、真田は足を止めて彼の背中を見つめる。

 柳の声は冷静であり、だが普段ともどこか違っていて、理由はわからないが何かしらの変化と覚悟があったのは確かだ。

 

 「いい機会だと思う。他校の選手と練習を共にし、試合へ臨む努力を積めば、変化や成長も起こり得るだろう」

 「うむ、そうだな。有意義なものとなればいいが」

 「初めは幸村が心配だった。あいつが遠くへ行ってしまわないかと」

 

 柳が椅子から立ち上がって振り返る。

 いつものように冷静な面持ちだが、声にはいくらか温かみが見られた。

 

 「だがさっきのことがあった。俺には奴らを止める力がない」

 「まったく、抑えの利かん連中だ……明日は説教だな」

 「武者修行だ。あいつらのことは信頼しているが、このまま傍に居ても成長はない。冷たい海の中へ飛び込み、さらに厳しい戦いへ臨まねばな」

 

 真田が少し驚いた顔を見せると、柳は口元に小さな弧を描いた。

 

 「明日から俺は部活に顔を出さない。自らのチームを結成し、大会へ挑む。お前もいずれはそうするだろう……弦一郎」

 「そうか……ついに決意したのだな」

 「一時の別れだ。大会まで顔を合わすつもりはない。もしどこかで戦うことになれば、同じ学校や部活も関係ない。互いに敵同士だ」

 「わかった。せいぜい準備しておくことだな。俺は誰であろうと手を抜くつもりはない」

 

 フッと笑った後、柳はベッドで寝ている赤也へ視線を送る。

 つられて真田もそちらを見て、柳の優しくも静かな声を聞いた。

 

 「赤也はもう少しお前が見てやってくれ。俺では手に負えんだろうし、幸村は発破をかけてから距離を取ったようだ。あいつが壊れてしまわないよう、お前に導いてほしい」

 「無論だ」

 

 真田は考えもせずに答え、柳に約束するため、力強く頷いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19 ストリート・ファイト

 ゆっくり目を開いてすぐ、見覚えのない天井が目に入った。

 気分はすっきりしているが体がぐったり疲れている。

 どうして寝ているのだろう? ここはどこだ? 今何時?

 少し混乱しているようで状況を知るために体を起こそうとした。だが意外なほどに自分の思う通り動かず、寝返りを打つことさえ時間がかかる。

 

 節々が痛い。筋肉の筋の痛みさえ鮮明に理解できた。

 窓の外を見るとすっかり暗くなっている。どうやら夜になっているらしい。何が起きたか思い出せずにますます混乱が深まっていると、唐突に声がかけられて驚いた。

 

 「起きたようだな」

 「さ、真田副部長……ここは?」

 「保健室だ。学校のな」

 「なんでそんなとこに……俺、死んでませんよね?」

 「辛うじてな。立てるか?」

 

 真田が力強く腕を掴んでくる。瞬間、激痛が腕から全身へ走った。

 

 「いででででっ!?」

 「ふむ。やはりだめか」

 「やはりって、わかっててやったんすかぁ!? 鬼ィ! 人殺しィ! 悪魔ァ! もっと優しく起こしてくださいよぉ!」

 「甘えるな。これもお前の鍛錬が足りんせいだ」

 

 ぐいっと上体を起こしてやって、ひとまずベッドの上に座った。その間も赤也は大声で喚くのだが真田は一切意に介さなかった。

 ようやく座らされて、ひどく疲れ切った状態で赤也が肩を下ろす。

 

 「いててて……ほぼ拷問じゃないっすか。なんでこんな」

 「覚えていないのか?」

 「へ? なんかありましたっけ?」

 

 きょとんとしている赤也が嘘をついているようには見えない。

 真田は真相を告げずに仮説を立てた。

 

 「“無我の境地”との併用か……或いは力を上手く操れていないからだな」

 「は? 何言ってんすか、急に」

 「なんでもない。それよりもう遅い。帰るぞ」

 

 言うと真田はパイプ椅子に置いていた鞄を取り、赤也の分は投げて渡した。

 受け止める際にぎゃあと発して、目に涙を浮かべながら抗議される。

 

 「手渡しでいいでしょうよぉ! なんで投げるんすか!」

 「痛みに耐えることもまた鍛錬になるぞ」

 「あんたいつの時代の人間だよっ!? 今時そんなスポ根誰も信じてねぇからな!」

 「口の利き方に気をつけろ」

 「ぎゃあああああっ!?」

 

 さほど力も入れず、友人に挨拶するかのように、肩をポンっと叩いてやった。

 絶叫した赤也は再びベッドの上に倒れてしまって、自力では起き上がれず、鋭い痛みに耐えながら芋虫のようにもぞもぞ動く。

 

 「うぅ、俺が何したってんだ……なんだよこの仕打ち。幸村部長ぉ~、柳せんぱーい……」

 「あいつらは居ないぞ。代わりではないが、少し付き合え」

 「え?」

 

 意外な発言を聞いて目を丸くする。

 赤也がそうして真田に誘われたのは初めてのことだった。

 

 

 *

 

 

 目的地であるストリートテニスコートに着いた時には、空はすでに真っ暗だった。

 照明に照らされたコートは昼間の学校とは違ってどこか風情がある。

 遅いと怒るリョーマの頭を撫でてあやしながら、悠介は再び緊張しつつあり、後ろからついてくる幸村の存在が表情を強張らせる。

 

 ファミレスで駄弁っている時点では、一歳年上の優しい先輩で、他校の生徒ではあるが初対面とは思えないほど親しく話せた。しかし一緒にコートに入るのはわけが違う。

 なんとなく不安になってしまい、目敏く気付かれてリョーマの冷たい眼差しを浴びせられた。

 

 「なんなんすかその顔は」

 「いや、なんか、やっぱりあの幸村さんだなーって思い出しつつあって……」

 「ほーんとメンタル紙っすよね。気にしてもしょうがないんだから気にしないでよ」

 「お前はむしろ分厚過ぎるだろ……」

 

 嫌だ嫌だと思っていても到着する。

 階段を上り切って照明を浴び、急に視界が広がった。

 コートには数人の男女が集まっていたようだ。四人でダブルスの試合をしており、他の者は周囲で寛ぎながら眺めている。

 辺りを見回した幸村は感心するように微笑んでいた。

 

 「へぇ、こんなところがあるんだ。無料で使えるなんてすごいじゃないか」

 「でもダブルス専用らしいですよ。ここで一回、越前とうちの桃城がひどい目に遭いまして」

 「うっさい。余計なのいいから」

 「よお、お前らまた来たのか。今日は新顔も一緒か?」

 

 以前訪れた際にこのコートで出会った、玉林中の泉と布川が声をかけてくる。

 会ったことがあるだけでなく、悠介とリョーマは関東大会で優勝した青学の生徒だ。忘れるはずもなく、以前に比べて優しくされている気もした。

 当然一緒に居る幸村にも注目されるのだが、途端に悠介はあからさまに怯んだ。

 

 「あれ? どっかで見たことあるような……」

 「こういう場合、言ってもいいんですかね?」

 「いいんじゃないかな。芸能人じゃないし、凶悪犯でもないから」

 「ある意味有名人ではありますけどね……」

 

 緊張しながらおずおずと、悠介は手で指し示しながら二人に紹介する。

 

 「えーっと、騙すのもあれなので紹介しますけど……立海大附属の幸村さん」

 「こんにちは。あ、こんばんはかな」

 「こんばんは~。ん? 立海?」

 「え? 幸村っ!?」

 

 思わず大声が出てしまい、勢いよく後ずさる。

 泉と布川が驚いたことによって、コートに居た全員が彼に気付いた。

 

 「かかか“神の子”幸村!? ほ、本物!?」

 「どうしてこんな野良コートに!?」

 「野良コート……独特の表現」

 「でも言いやすくていいっすね。野良コート」

 「この二人に紹介してもらったんだ。お邪魔してもいいかな?」

 「は、はいぃ! もちろん!」

 「どーぞこちらへ!」

 「ありがとう」

 

 初対面でありながら一瞬にしてまるでVIPのような扱いだ。

 すでに夜だというのに悲鳴や歓喜の声があちこちから聞こえてきて、芸能人かと見間違うほどわらわら人が集まってしまい、どうぞどうぞと連れていかれる。

 いつの間にか幸村は制服姿でコートに立っていて、コートの外から性別など関係なく黄色い声が飛んでいた。

 

 「俺が先に使わせてもらっていいの? みんなは?」

 「いいえ全然! お気になさらずお先に!」

 「俺たちもう飽きるくらい散々やってたんで!」

 「そうなんだ。ごめんね」

 「幸村さん、ラケットありますか! なければ私のどうぞ!」

 「タオルはどうですか!」

 「水は!」

 「スポーツドリンクもあります!」

 「みんなありがとう。大丈夫だよ。ラケットだけ、少し借りていいかな?」

 

 凄まじい盛り上がりを目の前で見て取り残されてしまう。

 蚊帳の外に置かれてしまった悠介とリョーマはやるせない気持ちで眺めていた。

 

 「ほぼ芸能人じゃん……」

 「どうだ、すごいだろ。俺のリアクションがおかしいわけじゃないだろ?」

 「先輩は大体おかしいっすよ」

 「お前の性根という性根を叩き壊してやりたい」

 

 悠介がリョーマの両耳を引っ張り始めた矢先、軽いステップで目の前に少女が現れた。

 時折ここへ訪れているという、橘杏だ。以前にここへ訪れた時にも会っており、交わした言葉は多くないがすでに顔見知りである。

 にこっと笑いかけられて、悠介はリョーマの耳を引っ張りながら笑顔で応じた。

 

 「君も有名人だよ、越前くん。関東大会の決勝で真田さんに勝ったって。ここではその前から知られてたけど、やっぱりあれからよく話題に上がるんだ」

 「へぇ、そうすか」

 「その素っ気ない態度なんとかしなさい。せっかくの人気もなくなるぞ」

 「余計なお世話っすよ。俺より知られてない宮瀬先輩」

 「ぐはっ」

 

 しばらくは集まってくる人々と話していた幸村だが、せっかくコートに来たのだ。そろそろ始めようとリョーマと悠介に声をかける。

 なぜか悠介が胸に手を当てて跪いており、杏がくすくす笑っているものの、何かあったのだろうということだけ理解して詳細は聞かなかった。

 当初の目的はやはりテニスだ。二人をコートへ誘う。

 

 「二人とも、そろそろやろうか。せっかく来たから軽く体を動かすくらいはね」

 「いいっすよ。病み上がりの人潰すつもりもないんで、ちょっとだけ」

 「俺の心は潰れたよ……」

 「元々潰れてるでしょ。行きますよ」

 「お前気遣いとかないの? 優しさとか慈愛とか。ねぇ」

 

 いつものようにぶちぶち文句を言いながら、軽い運動だと聞いて着替える手間を省き、制服の上着だけ脱いでラケットを持つ。

 コートに入って幸村と向き合った時、そういえばダブルス専用だったと思い出した。

 肩を並べる悠介とリョーマを見て幸村が観衆へ振り返る。

 

 「ごめん、ここダブルス専用だったよね? 良ければ誰かもう一人手伝ってくれないかな。軽く体を動かす程度だから」

 

 そう伝えた途端、全員が一斉に後ろへ下がった。

 はて、先程の人気ぶりはどうしたのだろう。

 コート内の三人がきょとんとしていて、盛り上がっていた観衆は見るからに動揺していた。

 

 「ゆ、幸村さんと組むとか、そんな恐れ多いことできねぇよ……!」

 「そうそうっ。緊張しちゃうし……」

 「ミスしたら一生忘れられないだろうな。悪い意味で」

 「ううん、やっぱり無理だ!」

 

 どうやら全員が尊敬するがあまり勇気が出ないようだった。

 それはそうだろうと悠介は共感し、リョーマは飽き飽きだという顔をしている。

 

 「そうだ橘! お前しかいない!」

 「え? 私?」

 「お前は兄貴がすごいから耐性があるし、テニスも上手い! お前しかいないんだ!」

 「ちょ、ちょっと……!」

 

 やいのやいのと背中を押され、ラケットを持たされ、コートへ入れられてしまった。

 呆然とする杏は幸村を前にしてようやく状況を理解したらしい。なるほど、“神の子”と恐れられたプレイヤーとペアを組むのはひどく肩に力が入る。

 幸村はにこりと微笑みかけ、緊張していた彼女はびくっと反応してしまった。

 

 「巻き込んでしまってすまない。少しだけ、力を貸してもらっていいかな?」

 「えっと、はい。よろしくお願いします」

 「うん。こちらこそ」

 

 ようやく始められる。

 待ち侘びていたリョーマは肩を回して準備をした。その時、ふと視線を感じると思えば何も言わずに悠介が見つめてくる。どうせまた碌でもないことしか考えていないのだ。睨むつもりはないのだが目に力を入れて見つめ返し、リョーマは冷たく言い放った。

 

 「なんすか」

 「俺もあっちの方がいいなあと思って」

 「三対一でやるテニスなんかありませんよ。バカ言ってないで構えて」

 「あっちの二人は優しそうだなー……」

 

 渋々といった態度で悠介が離れていき、レシーバーの位置に立つ。

 リョーマは前衛として前に立ち、ボールは幸村から橘へ渡されたようだった。

 

 「サーブは彼女からでいい? レディファーストで」

 「いいっすよ。ガチの試合じゃないんで」

 「じゃあお願いするよ。好きな時にどうぞ」

 「はい。それじゃあいくわよ、宮瀬くん」

 「あっ、名前知っててくれた」

 

 杏がきれいなフォームでサーブを打った。

 制服とはいえ手を抜くつもりはない。ワンバウンドしたボールを悠介が正面で迎え、ストレートで幸村の前へ飛ばした。

 

 構えるだけでおおっという声が聞こえる中、闘志を燃やすリョーマが動き、ネットに張り付いて勝気に幸村の前へ躍り出る。

 背後は悠介が守ってくれるはず。今は少しも心配せず、ダブルスへの戸惑いもない。

 油断は微塵もしていなかった。その時、リョーマの脇腹の横をボールが通過する。

 

 タンっと軽い着地音を聞いた時、振り向けばすでにボールはそこにあって、フォローのため逆サイドへ向かおうとしていた悠介が途中で拾い上げる。突然の出来事に驚いていて、リョーマも視認が遅れて通過した瞬間がわかっていなかった。

 立っている位置からして、今のは間違いなく幸村が打った、はずだ。

 観衆も同様、たった一球で掌握される。

 

 ふらふらと力なく上がったボールが見上げられる。

 幸村は動かず、ただボールを見ていた。

 

 「お願いできる?」

 「え? あっ、はい!」

 

 素早く着地点に駆け込んだ杏がバウンドする前にスマッシュした。

 浅い位置でバウンドしたため対処は容易い。正面に陣取り、悠介が危なげなく返す。咄嗟の判断でセンターに立っていた杏を避け、幸村とは逆サイドのコーナーを狙った。

 

 打ち返されたのを見てから幸村が駆け出して、一度バウンドしてからベースラインを越える前に追いつく。軽い運動とは言っていたがずいぶん速い。

 負けじとリョーマも走っており、ネット際で幸村の正面を陣取って待った。

 来るなら来い。さっきとは違ってメラメラ燃えている目が何よりも雄弁に語っている。

 

 「行くよ、越前君」

 

 スイングを見た。ボールの軌道も今度は見える。しかしラケットを振り上げた時、打球はすでにリョーマの顔のすぐ傍を通過していた。

 ライン上で弾んでからコートの外へ出ていく。

 リョーマを信じ、逆サイドをフォローしようとしていた悠介も取れず、何よりも正面で向き合う一騎打ちでリョーマが抜かれた事実に驚きを隠せない表情だった。

 

 「病み上がりでもこれくらいできるよ。どうだい? 少しは気を使わずに戦えそうかな」

 

 ペアを辞退した観衆の人々は間違っていなかったのだろう。

 あんな人と一度でも肩を並べてしまったら、今後どんな選手でも物足りなくなる。

 背筋がぞわりとした悠介は、青ざめてそう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20 新たな一歩

 軽い運動だ。

 そう言っていた過去はいざ始まれば忘れてしまった。

 汗が流れてもなお走り、一球も逃したくないと全力で動き回る。

 

 リョーマは挑むために敢えて幸村の前へボールを出した。すでに何度か見えている。どこにでも打ってこいと強気で待ち構えた。

 幸村も挑発に乗り、涼やかな微笑みを保ったままでショットを打つ。

 打球は左を抜けようとしている。確実に見えていた。

 

 素早い反応でボールを捉えて、わずかに押されながらも打ち返した。

 ようやくやり返せる。そう思ったリョーマは、ネット際まで攻めてきている幸村に気付き、驚愕した瞬間には手が届くだろう右側を抜かれていた。

 咄嗟に振り向くと悠介は間に合わない。

 ボールは誰にも触れられずにコートを出てしまい、壁へぶつかった。

 

 「こういうこともできるよ。うん、前より調子はよくなってるみたいだ」

 「そうっすか……侮れないね」

 「ありがとう。君もとてもいい動きをしているよ」

 

 皮肉にしか聞こえない。遥か上の次元から言われているかのようだ。

 真田と戦った時とは違う。

 どちらが強いとか、どちらが弱いとかではない。立っている場所が違い過ぎるのだ。汗を掻くほど本気で動き回ってもいまだ対応できずにいる。

 

 体への負担を可能な限り減らすためという理由で、幸村はここまで杏にサーブを任せていた。点を取り合うきちんとした試合でもない。

 観衆の許可ももらって、打った回数は9球。

 10球目を打った時、杏が一番最初に声を漏らした。

 サービスエース。悠介がボールを拾えずに見送ってしまったのだ。

 

 「先輩?」

 「え、越前……俺」

 

 リョーマが振り返ると悠介は呆然と立っている。

 取れなかったはずはない。杏の打球はテクニックこそあるがパワーはさほどなく、サーブは確かにきれいだが悠介であれば取れるはずだ。

 

 わずかに体が震えていた。ゆっくりと左手を上げて掌を見ている。

 不自然な動作にリョーマが違和感を持っていると、誰よりも先に幸村が気付いた。

 

 「視覚を失ったんだ。今、彼には何も見えていない」

 

 聞いた瞬間は意味がわからなかった。だが、理解した途端、リョーマは静かに驚愕する。

 悠介は恐る恐る顔を動かして、リョーマを探している様子なのだが、どこに居るのかわからないようで視線は恐怖しながら緩慢に動いている。

 そんなことがあり得るのか。当の本人だけでなく周囲の誰もが混乱していた。

 

 「心配いらないよ。プレーが終われば元に戻る」

 

 リョーマは幸村へ振り返った。

 先程とまるで変わらず、この異常事態で笑い、穏やかな態度を保っている。

 

 「最後に一球。越前君、俺と勝負してくれないか。君のシングルスが見たい」

 

 そう言って幸村はラケットを構えた。

 

 

 *

 

 

 「やっぱ似合ってないっすね」

 

 暗くなっても時間は浅く、店内にはそれなりに客が入って賑わっている。

 真田は普段と同様、厳しい表情を崩さず、ただ純粋に包みを開いてハンバーガーを口にしようとしていただけだ。目の前に座る赤也もそうしている。この店では何ら不思議ではない当たり前の行為をしているだけなのに、なぜか赤也は気に入らない様子で眉間に皺を作っていた。

 

 「やっぱ真田副部長は和のイメージっすよ。お茶点てて抹茶とか、和菓子とか、寺とか刀とかそういうのっすよ。制服でハンバーガーって違うと思いません?」

 「俺とて学生だ。帰宅途中の買い食いくらいする」

 「そりゃそうですけど、ちょっとイメージがなあ」

 「それともなんだ。俺はハンバーガーを食ってはいかんと言うのか?」

 「いえいえ、そんなことは言いませんけど」

 

 言いながらも真田は大口を開けてハンバーガーにかぶりつく。大胆な判断と豪快な食べ方は男らしくてよく似合っているのだが、やはり何か違う。

 不承不承という表情で赤也も自身のハンバーガーを口にし、しかし先輩に奢ってもらった食い物は格別だと喜んだ。

 

 我ながら珍しい状況だ。

 真田と赤也は二人っきりでファーストフード店へ訪れている。今までそんな経験はない。誘われたのも今日が初めてのことだった。

 

 周りから見ればきっと何でもない学生の帰り道なのだろう。同じ学校の生徒が客として店に来てハンバーガーとセットのポテトを食べているだけだ。大声で騒ぐこともなくて、片方は頻繁に成人男性に間違われはするが落ち着いた態度で礼儀正しい。

 当人にしてみればこんなにも異常な状況はそう滅多にないのだが、そう気付く人は居ない。他の客はそれぞれ思い思いに過ごしている。

 こんなにも異常事態なのにな、と赤也は口には出さず考えていた。

 

 理由もないのに呼び出されるはずはない。

 おそらくは説教。赤也は真田に怒られてばかりいた。

 そもそもが厳格で鉄拳制裁すら辞さない指導好きの男だ。真面目で融通も利かない。二人きりになって怒られないはずがない。

 表面上の態度はいつも通りで、赤也は内心、大変緊張していた。

 

 「時に赤也よ」

 「はい? なんでしょう、真田副部長」

 「嫌に緊張しているな。まあそれはいい……さっきのことは思い出したのか?」

 「さっきのこと? あぁ、保健室で寝てたあれ」

 「その理由だ。覚えているのか?」

 「いやぁ、さっぱり。俺ってやっぱりなんかやっちゃいました?」

 「お前を呼び出したのは他でもなくそのことだ」

 「やっぱり……」

 

 何もなく一緒に帰るぞなどと言われるはずがなかった。やはり説教のためなのだ。わかっていたとはいえ少し残念な気持ちも隠せない。どれだけ厳しくて、いずれ倒す目標だと見定めていても、先輩とこうして一緒に居る時間は嫌いではなかった。

 少しばかりがっかりする赤也を気に掛けず、先を急ぐ真田は改めて問いかける。

 

 「理由もわからないのに言っても反省はできん」

 「そう言われても、俺は本当に何があったのか……」

 「わかっている。だが思い出せ。お前はコートで仁王と打ち合っていたんだ」

 「仁王先輩と? 俺が――」

 

 言いかけた時におぼろげな映像が脳裏に蘇ってきた。

 ああ、そうだった。四人の先輩に一斉にコートへ入ってもらい、同時に相手をしたのだ。

 

 「あ~そうだ。先輩方に頼んで同時に相手してもらったんすよ。そうでもしなきゃ、俺は」

 

 言いかけて次なる映像が思い浮かぶ。

 なぜ四人を同時に相手にしたのか。はっきり言って無茶な行動だ。既定のコートに四人も詰め込めばどこへ打っても返ってくるのは決まっている。

 その理由は、圧倒的な恐怖として思い出された。

 

 「あ、あぁ、そうか。そうだった……幸村部長に、負けたから」

 

 真田は表情を変えずに険しい顔で聞いている。

 全てを聞いたわけではない。そうか、幸村と戦ったのか。今初めて聞いて、なるほどと納得してから無言で先を促す。

 

 赤也は思い出そうとしている。

 少しずつ、一つずつ自身の経験が、自分の見た映像として蘇ってくる。

 キーワードは仁王。戦っていた。彼と一対一で。

 その時赤也は、まるで背に羽が生えたかのような解放感を感じる。風を掴んで、どこまでも飛んで行けそうな。そんな錯覚を覚える感覚が全身を駆け抜けた。

 

 「あの時、俺は……!」

 「そうだ。おそらくお前は赤目の状態を進化させ、そのまま“無我の境地”へ到達した」

 

 持っていたハンバーガーを落としてしまう。普段なら大騒ぎする出来事だが、真田の顔を凝視する赤也は微動だにせず呼吸を乱した。

 “無我の境地”。関東大会の決勝でも聞いた言葉だ。どんなものかは覚えている。

 赤也の指先がぶるぶる震えていた。

 

 「忘れろ。抑えるのだ。それはお前を死に至らしめる力だ」

 

 歓喜が胸の内を満たそうかという瞬間、狙い澄ましたかのように真田が止めた。

 固まった赤也は息を短く吐き出し、落ち着こうとする。

 どういう意味だ? なぜ忘れなければいけない?

 理解できずにいる赤也に真田はいつになく穏やかに語った。

 

 「お前の見出したそれは危険な力だ。使い続ければ取り込まれ、依存し、本来のお前自身に戻れなくなる。自分を忘れることになるぞ」

 「何、言ってんすか……俺の力でしょ? 他の誰でもない、俺の」

 「たわけ。その考えが魅入られているというのだ。お前自身の力だが、そのお前の力がお前自身を破壊しようとしている。その力は、使わない方が身の為だ」

 

 真田は叱っているのではない。説得しているのだ。日頃の態度とは違って、赤也を心配して止めようとしている。

 その違いに赤也も気付いていたが、今は目を逸らせない衝動に襲われて気付いてもいた。

 

 殺し合いのような仁王とのラリーを経験して、自分の中の何かが目覚めた。

 真田はそれを危険だという。触れない方がいい。真田はいつも正しいことをしてきた。赤也を正道に進ませようとしていたのも常に彼だった。その彼が言っているのだから、忘れた方がいい。目を合わせない方がいい。

 そう思いながらも誘惑には勝てず、赤也は、振り返ろうとして。

 

 「落ち着け。息をしろ。ゆっくりとだ」

 

 真田に肩を掴まれて、穏やかな口調でそう言われた。

 過呼吸になりかけていた赤也はやっと自分の状態に気付き、ゆっくり呼吸を繰り返す。

 なるほど、理解できた。こういうことだ。真田はこれを止めたいのだ。彼に止められなければおそらくすでに掴んでいたはずだ。

 

 自らの意思で変化できそうなことに恐怖する。

 手を伸ばせば、いつでも掴める位置にそれがあるのだ。

 恐怖する一方で、心は勝手に動き、気付けば赤也の口元には笑みが浮かんでいる。

 

 真田の目から見れば赤也の表情はちぐはぐだった。

 瞳には恐怖が映って、見開いた状態で困惑しているというのに、口元だけが喜びを表している。すでにどこか違和感がある。これが本来の赤也の状態とは思えない。

 良からぬ扉を開けてしまったようだ。

 彼自身が心を強く持たなければ、いつでもその力を使えてしまう。そして使い続ければいずれ、彼は切原赤也ではなくなってしまうかもしれない。

 

 真田が彼の下へ残ったのはこのためだ。

 柳でもない、幸村でもない、真田こそが今の赤也に必要なのだ。少なくとも本人と柳はそう判断したからこの状況に至っており、迷う彼を導いてやるために向き合っている。

 ハンバーガーをがぶりと噛んで咀嚼し、真田は赤也にも食事を促した。

 

 「まずは食え。腹が減ると碌なことは考えん。対処法はその後に教えてやる」

 「食欲、すっかり失せましたよ……」

 「それでも食え。食えば力が増してくるぞ」

 

 苦悩する赤也だが、言われた通りにハンバーガーにかぶりついた。

 負けじと真田も自らのそれを大口で喰らい、あっという間に食べつくしてしまう。

 

 店を出た後、二人は夜の道を歩いた。

 どこへ行くのか告げられていない。それでもついていくのは何か考えがあるからなのだろうと言われずとも察していたからだ。

 

 「お前は確かに強い。立海のエースという称号は嘘ではない」

 「っス……」

 「だがまだ未熟だ。テニスの力量は無論、精神を鍛えねばなるまい。今のお前に必要なのは自制と忍耐、そして誇りだ。立海の看板を受け継ぐつもりならばテニスのマナーを身につけろ」

 

 前々から言われていたとはいえ、改めて注意されたことにより気まずさを覚える。

 赤也は所在なさげに首の後ろを触り、従順に真田の背中についていった。

 

 「これからしばらくの間、俺がお前を鍛えてやる」

 「え? じゃあ俺、真田副部長のチームに――」

 「甘えるな。それがお前の望みだったか? 己の野望を妥協するな」

 

 ぴしゃりと言われてハッとした気になる。その場に居なかった彼は知っていたのだ。

 

 「お前が幸村に挑んだのはなぜだ?」

 「あの人に……認められたかった」

 「ならば俺のチームで己を慰めるな。もっと強くなれ。今のお前が持つ力はいまだ未熟さを隠し切れん半端なものだ。それでは幸村は認めず、誰もついてこないだろう」

 

 真田が足を止めた先に、古風な道場がある。目的地はそこだったようだ。

 ファーストフードやハンバーガーよりよほど似合う場所ではないか。

 やはりそういうことかと考えて、ここで何が行われるのか、期待を表して赤也の口元に薄く笑みができつつある。

 

 「赤也よ。俺はお前を次期部長に推す気はこれっぽっちもない」

 「え!? なんでっすか! 俺は――!」

 「三年生の引退後、部を引っ張る力となるのは間違いなくお前だろう。しかし今のお前はあまりに不安定だ。今のような試合を続けていれば必ずや部に軋轢を生み、部員の心は離れていく。それでは俺たちの期待に応えられんはずだ」

 

 鍵を開けて、中へ入る。

 無人の小さな道場はひんやりしていて空気がそこにあることをより鮮明に認識できるかのよう。

 堂々と足を踏み入れた真田に続き、赤也は戸惑いながら靴を脱ぐ。

 

 「俺を失望させるなよ。力を蓄え、俺を超えていくがいい。そう簡単にはいかんがな」

 「は、はいっ!」

 「では構えろ。一から鍛え直してやる」

 

 竹刀をぽんと投げ渡されたことで、赤也は慌てて鞄を置いた。

 俺はまだ強くなることができる。何をさせられるのかはわかっていないものの、真田が直々に鍛えてくれるこの状況、そして期待されているのだという事実が確かに決意に変わった。

 言われるがままに竹刀を構え、真田の特訓は誰にも知られずに始まった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21 踏み出してみよう

 急な来訪でも竜崎スミレは流石の貫録でまるで動じなかった。

 わざわざ職員室ではなく応接室を用意したのは、客人であるという理由だけでなく、相手に敬意を払う態度があったからである。丁重に扱う必要があるだろうとの判断があった。たとえ相手が学生だとしても。

 

 「なるほどね……そういうことかい」

 

 スミレの呟きに幸村はにこりと微笑んだ。

 理解してもらえたようでよかった。そんな様子が窺える。

 まさかの提案であったが、なるほど、そんなことを考えていたとは。中々面白いと思ってスミレは笑みを浮かべていた。

 おそらく受け入れてもらえるだろうと幸村が思うのも当然だった。

 

 「あんたはそれでいいのかい?」

 「はい。彼なら大丈夫だと思うので」

 「こちらとしては嬉しい話だけど、あんたに何の得があるのかわからないんだ。ぜひ聞かせてもらいたいんだけどねぇ」

 

 問いかけても幸村は迷いを見せず、穏やかだが毅然とした態度だ。

 強い覚悟を感じる瞬間だった。

 スミレは感心して話を聞く。

 

 「できることはなんでもやってみたいんです。しばらく入院していましたから」

 「噂は聞いているよ。もう平気なんだね?」

 「ええ。周りには心配されているんですがね。流石に試合をできるほどではありませんが、日常生活に問題がない程度には回復しました。本当はテニスがしたいんですけどそれもできないので、だから自分以外の誰かを導きたいと、そう思ったんです」

 「その考えは立派だけど、立海の方は平気かい?」

 「彼らのことは心配していませんよ。俺が居ない間も上手くやっていました」

 

 幸村は笑みを絶やさずに、目には意志を表しながら語っている。

 

 「むしろ、彼らと少し距離を置くことでさらに強くなってくれるのではないかと思っています。まあ、大会に参加したい俺のわがままかもしれませんがね」

 「たとえそうだとしてもあんたを否定したりはしないさ。ただあまり無理をするんじゃないよ。体を壊さないように十分注意しな。仮に指導だけだとしてもね」

 「ははは、気をつけます。みんなにもよく言い聞かせられているので」

 

 幸村が佇まいを直して立ち上がった。

 もう行くのだろう。やる気が感じられるので一所でじっとしていられないのかもしれない。

 スミレも立ち上がり、彼を送ってやろうとする。

 

 「勝手で失礼ですが、俺はそろそろ次へ行きます。まだメンバーを探さなければならないので」

 「ああ。あいつらにもよろしく言っておくれ。負けるなよ、とね」

 「はい。ちゃんと伝えておきます」

 「手続きの方はきちんとやっておくよ」

 「ありがとうございます。それでは」

 

 スミレがそう言うと、幸村は心底嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 *

 

 

 幸村のチームに加入することになって以降、学校の部活動への参加は免除されるらしい。コートを貸してほしいのならば話は別だが、そうでもないなら顔を出す必要はないと言われてしまった。スミレには端的に「帰りな」とまで言われている。

 普段は青春学園のテニスコートで練習している時間に、追い出されてしまった悠介とリョーマは数日前にも訪れたストリートコートに来ていた。

 

 近頃は人が来ていないのか、それとも時間帯の問題か、利用者は少ない。

 橘杏が居たのは不思議と安心する要因だった。まだ友達と呼べるほど親しくなったつもりはないものの、顔見知りである彼女が快く迎えてくれたのは有り難い展開だ。

 

 「宮瀬君、ちゃんとテニスできる?」

 「えっ? 何をいきなり」

 

 心配そうな顔の杏に問いかけられて、言葉面だけを受け取り、早々にディスられているのか? と悠介はどうしようもなく心配になった。

 よくよく表情を見れば傷つけようとする意思がないことはわかるはずなのだが、ただでさえ同じ学校の女子ですら話す機会は多くない青少年だ。見てくれを見て滅茶苦茶下に見られているのかもしれないと疑心暗鬼になってしまう。

 そうなっているのだろうと気付いたらしく、杏はすかさず説明を始めた。

 

 「そうじゃなくて、この間、幸村さんと試合したでしょ? そのことだよ」

 「あ、ああ、そうなんだ。そのこと……ってどういうこと?」

 「あの後、気になって調べてみたんだ。そうしたら、幸村さんの噂を聞いたの」

 「まあ、全国常連のすごい人だからね」

 「幸村さんと対戦した人、ほとんど必ずと言っていいほどテニスをするのが怖くなってイップスになってるんだって。あの時、宮瀬君も目が見えなくなったんでしょ?」

 

 言われて思い出す。

 あの夜を想えば今でも恐怖が湧き上がってくる。だからあまり考えないようにしていた。

 プレーの間だけ見えなくなったはずの左手の掌を見つめて、悠介は記憶を辿った。

 

 まだ万全ではないと言っていた幸村は、それでも驚くほど強く、ボールをどこへ打っても必ず自陣へ返ってくる。それだけならば上手い人はいくらでも居るため珍しくもない。だが幸村のテニスは明らかに他とは一線を画していた。

 徐々に視界が狭まってくる感覚があったのだ。おそらく、どこへ打っても必ず返されるというイメージが頭から離れなくなり、自らの肉体に影響を及ぼしていたのであろう。

 

 幸村はただテニスをしていただけだ。だがあまりに強過ぎた。

 強過ぎることが相手に勝てないという強迫観念を持たせ、五感を奪い取ってしまう。

 一つでも感覚を失えば普段通りにはプレーができなくなり、逃れようのないイップスとなって、やがて幸村に敗北する。

 

 噂は聞いていた。知っているつもりになっていた。体感して驚いたのは、凡人の予想など遥かに超える衝撃を与えられたからだ。

 最強と呼ばれるのも納得だ。あの人に勝てる人物を誰一人として想像できない。

 

 「正直、思い出すと怖くなるよ。突然目が見えなくなって何が起こったのか理解できなかった。今ならわかるけど、あれは、俺が幸村さんを怖いと思ったからだ」

 「うん……」

 

 幸村自身はいつも優しい。

 言葉遣いは柔らかく、悠介の想いに共感を示して、考えが違っても穏やかな態度を崩さず、異なる選択肢を提示するに留まり、決して変化することを強要しなかった。ここ数日のやり取りを通してみても、本人と接した悠介は彼を優しい人なのだと思っている。

 

 だからこそ、その反動も手伝って、まるで隙の見えない彼のテニスは恐ろしい。勢いで押しても攻撃に専念しても持久戦に持ち込んでも、絶対に勝てない。そんなイメージを叩き込まれて体が思うように動かなくなり、まるで縄で縛られたかのように歩くことさえ難しくなった。

 あのまま続けていても、きっと自分一人だったならば降参して試合を放棄したはずだ。

 越前はどうだっただろうか。ふとそう思う悠介は、リョーマならきっと最後まで続けようとしたのだろうな、と考える。

 

 ふーっと息を吐いてコートを眺める。

 行き交うボールは気合いを入れて打ち返されていて、それは打っている本人を見ずともインパクトの音を聞けばよくわかった。

 

 「大丈夫、テニスができなくなるほどじゃないよ。でも今は、幸村さんと試合をするのが怖い。またああなるんだろうなって思うから」

 「そうだよね……でもよかった。テニスをやめようとは思ってなくて」

 

 杏がにこりと笑いかけると、少し驚いた顔をした悠介の表情から力が抜けて苦笑した。

 

 「もうちょっと前だったらやめてたかもね。ちょうどぐらついてた時があるから、立ち直っててよかったかな」

 「そうなんだ。何かあったの?」

 「うーん、優秀な同級生と生意気な一年のせいかも」

 「ふふ、なるほど。それはしょうがない」

 

 納得した様子の杏がコートへ視線を戻した。

 今日はずいぶん荒れているなと思っていたところで、理由は間違いなく幸村だろう。しかし悠介とは対照的な姿になんとなく理解した気になる。

 

 一人でコートへ入ったリョーマの対面には、偶然訪れていた青少年が四人立っている。本人の希望によって四人を同時に相手にして点を取ろうとしている。

 これで取れなきゃ、あいつから取れない。

 やけに怒っているリョーマはそう言って臨んでおり、その目はすでに超えなければならない男を見据えているようだった。

 

 「本当にすごいね。越前君」

 「うん。俺なんかよりずっとすごい」

 

 今日のリョーマは何かが違っていた。相手コートへ打ち込む打球はいつにも増して迫力があり、四人が同時に守るコートから点を取ろうと躍起になっていて、打ち返す度に打球が強くなっているようにすら感じられた。

 一体どこまで行くつもりだ。限界はあるのか。

 コートの外で見守る悠介は寂しげにも見え、杏がその表情を気にする。

 

 「宮瀬君だって頑張らなきゃいけないでしょ? 負けてられないよ」

 「そりゃ、頑張ろうと思ってるけどあいつには勝てないって」

 「そんなことない。諦めたらそこで試合終了だよ? 諦めなきゃチャンスはあるんだから」

 「あ゛ぁ~、メンタルが激ヨワだってあいつに言われてるなぁ、俺」

 「ふふふ。ここから、ここから。幸村さんくらい強い人と戦ったら逆に諦めもつくでしょ。死ぬ気で努力すれば何とかなる」

 

 可愛い女の子が応援してくれるという、思春期の男子としては嬉しい状況だ。ただ悠介は異様にメンタルが弱いことを指摘されていて、嬉しい反面、ぐっと心に重くのしかかる。

 両腕で抱えた自分の膝に頭を預け、彼は見るからに疲れた顔を見せた。

 

 「ひょっとして俺のこと死なせようとしてる?」

 「え? そうなっちゃうかな」

 「結構頑張ってるつもりだったんだけどなー……結局あの結果だもんなぁ」

 「いや、うん、頑張ってるよ。宮瀬君はよく頑張ってる。ただちょっとレベルが、あっ、いやそうじゃなくて」

 「そもそもレベルが違い過ぎるからなー……」

 「ううんっ。そんなつもりじゃなかったの、ごめんね?」

 

 ますます落ち込んでしまったようだ。

 自らの膝に顔を押しつけてしまう悠介に、杏はそっと寄り添い、困りながらも元気付けようと優しい声をかけていて、肩に触れてわずかに揺り動かした。

 拗ねてはいるが一応顔を上げてくれる。しかし悠介は大きくため息をついた。

 

 「スポーツは結局才能か……」

 「そんなことないよ。うちの石田君や神尾君だって精一杯努力して強くなったんだから。宮瀬君だってまだまだこれから成長できるよ」

 「石田君って、ガット破ってた人でしょ?」

 「うっ」

 「神尾君は走ってる自転車追い抜いちゃうし」

 「それは私もどうかと思うけど。でも努力すれば誰でも――」

 

 言いかけて杏自身も疑問を持ち、果たしてそうだろうかと考えてしまう。

 答えはすでにわかっている気もしたが、縋るように悠介は聞いてみた。

 

 「……できるようになる?」

 「うーん……」

 

 杏は腕組みをして目を伏せ、眉間にはわずかに皺ができ、改めて真剣に考えてみる。

 やはり即答はできなかったようだ。

 改めて考えれば考えるほどとんでもない技を持った選手が多い。努力すれば誰でも彼らのようになることができる、と言い切ってしまうのは無理がある気がする。

 

 「でも、なんとかなるかもしれないから」

 「俺はそう思えないんだけどなぁ……」

 「ほっといていいっすよ。この人いっつもこうなんで」

 

 テニスウェア姿で汗を掻き、タオルで顔を拭いながらリョーマがやってきた。

 杏は咄嗟に彼を見て、興味を持つようにリョーマの言葉を待つ。

 

 「必殺技ないとか言ってますけど、不二先輩の“三種の返し球(トリプルカウンター)”使えますからね」

 「えっ、そうなの? すごいじゃない宮瀬君。もっと自信持った方がいいよ」

 「それは無理っすよ。メンタル激ヨワなんで」

 「うん、それはちょっと思った」

 「お前らが敵にしか見えなくなってきた……」

 

 馬鹿にされているらしいと察して悠介は敵意を露わにし始めた。

 苦笑した杏は否定するために小さく手を振って、いつものことだとリョーマは意にも介さない。あらかじめ用意しておいたドリンクを口にしている。

 

 「自信持ったってレギュラーにはなれないしさ。それで痛い目に遭ったんだ」

 「あはは……青学は部員も多いだろうからね。そういう人も当然居るよね」

 「それはいいですけど、次は先輩ですよ」

 「は?」

 「四人居るんで点取ってください」

 

 リョーマに指し示されて悠介は絶句した。なんて馬鹿げたことを言っているのだろう。関東大会で真田に勝ったリョーマですらずいぶん苦労したというのに、できるわけがない。

 態度を見ただけで逃げ腰なのだとわかる。そこまでは予想通りだ。

 嫌そうな彼の顔を見てもリョーマは驚いてはいなかった。

 

 「あれお前の練習じゃないの?」

 「違いますよ。あれくらいできなきゃあの人には勝てないんだから先輩もでしょ?」

 「ダブルスで挑もうと思ってる?」

 「ダブルスで負けたじゃないっすか」

 「俺、幸村さんに勝てる気がしないんだけど」

 「頑張ればなんとかなるでしょ」

 

 呆れた悠介は開いた口を閉じられぬまま、一瞬黙ってから改めて言う。

 

 「お前バカだなぁ」

 「先輩もバカでしょ」

 「まあまあ」

 

 苦笑する杏が止めに入るとリョーマが再びラケットを握った。

 もう一度やるのだろうか。そう思った悠介に振り返る。

 

 「だったら、俺と試合しましょうよ。今度は本気で」

 

 正面に立ったリョーマは目を覗き込んで、真剣な表情で言ってくる。

 今になって思い出したが、本来のプレースタイルに戻してからリョーマに勝負を挑まれたことは一度としてなかった。大会のことや色々があったから暇がなかったのも確かだが、言われるまで全く気付かなかった。

 

 関係は変わらずに続いていたため、てっきりもうなくなったのかと思っていた。

 リョーマは真剣な様子だ。冗談や苛立ちをぶつけるためではない。

 今ここで、本気の悠介と戦ってみたいと、強い意思を示すその目が雄弁に語っている。

 

 「先輩は勝てないみたいなこと言いますけど、俺と本気でやったことなんかないじゃないすか」

 「それは……その」

 「もう腹括ったんなら、やってくださいよ」

 

 表情からは迷いが感じられたが、結局、後輩のおねだりには弱い男だ。

 盛大にため息をつき、仕方ないという態度ではあったものの、すぐにラケットを手にとって立ち上がる。制服を脱いでテニスウェアになったのも本気の証だ。

 思いがけない試合が見られそうだと知って杏が期待して頬を綻ばせていた。

 

 「しょうがない……一回だけだからな」

 「1セットマッチですからね」

 「はいはい」

 「じゃあ私審判やる。二人とも頑張ってね」

 

 生き生きと杏もコートの傍へ立つ。

 向き合った二人は表情が変わり、急に決まったゲームだが、本気でやり合おうとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22 本気開始

 「えっと……確かに彼はうちのテニス部員だけど」

 「どこにおんの?」

 

 青春学園のテニスコートの入り口前に立ち、大石は困惑していた。

 すでにチームへ加入するようスカウトを受けていた彼だが、続々と先輩たちが練習に参加できなくなる状況を心配して、部活動の様子を見に来ることが多い。今日もそうして部員のメンタルに気を配っていた時、来訪者は突然現れた。

 副部長として向き合い、渡された写真を見て嫌な予感を覚えたのである。

 

 少年は前触れもなく一人で現れた。

 逆立った赤い髪、豹柄のタンクトップ、古びたラケットを背負い、非常に小柄だ。目はくりくりと大きく、感情表現が豊かで、今は唇をきゅっと結んでいる。

 

 目的はおそらく道場破り。テニスであるこの場合はコート破りとでも言うべきか。とにかく写真の男を探しているのは勝負するためではないかと察するのだ。

 こういった状況は初めてだ。過去の活動でも経験がない。全く初めての体験に大石は困惑すると共にどうしたものかと悩んでいる。

 

 「彼は今、関東ジュニアオープンテニスという大会に出場するために、チームのメンバーと練習しているんだ。だからここには居ないんだよ」

 「ほんならどこに行ったん?」

 「それは、俺にもわからないけど……」

 「多分あそこっすよ。大石副部長」

 

 大石が言い淀む一瞬、助け船を出そうと桃城が声をかけてきた。

 近頃は自らのチームを結成するために駆け回っていた彼だが、練習場所として青学のAコートを使わせてもらっているらしく、彼だけはメンバーを連れて青学で練習している。

 助けてくれたのは有り難いが、果たして教えていいものかどうか。

 悩む大石とは裏腹に、桃城は面白そうだと思って教えた。

 

 「無料で夜も使える一面だけのストリートコートがあるんで、そこに行ってるんすよ。宮瀬から聞いたんで間違いないっす」

 「そ、そうか。だそうだけど、場所はどこかわからないし……」

 「俺が教えましょうか? 前に行ったことあるんで」

 「おい、桃」

 「大丈夫っすよ。多分大石副部長が考えてる通りでしょうけど、面白そうじゃないっすか」

 

 可愛げのある笑顔ではあるが悪巧みをするように笑っている。

 大石は頭を抱えて嘆息した。

 宮瀬の苦悩がわかる気がする。こういった仲間に囲まれて振り回されているのだから、確かに気が滅入るのもわからなくはない。

 

 「つーわけで、俺が連れてってやるぜ」

 「おう。よろしくなー」

 

 年上だとわかっているのかいないのか、気楽な関西弁で喋って少年は笑う。

 大石から写真を返された彼は、写っている顔を見て闘志を覗かせた。

 

 「ようやく戦えるなぁ……コシマエリョーマ」

 「え? いや、彼は……」

 

 

 *

 

 

 一球目のサーブを打つ前から、リョーマは左手でラケットを握っていた。

 これまでの練習試合では右手に持っていることが多くて、一度も勝ったことはない。その時も手を抜いていたつもりはない。ただプレースタイルは明確に違っていて、覚えた技の一切を使わなくなっていたのは確かなのである。

 それを許さない。リョーマの鋭い眼差しははっきりと伝えていた。

 

 もちろん、そのつもりはない。

 今日ばかりは本来のスタイルで、持てる力を全て注ぎ込む。

 そうしなければ後が怖いだろうと、こんな時でも悠介は不安に襲われていた。

 

 「行きますよ」

 「どうぞ」

 

 宣言してからリョーマがサーブを放つ。

 逆回転ではない。真っ直ぐやってきたボールを打ち、相手コートへ返した。

 ひどく静かな立ち上がりだ。際立った特徴もなく、スイングや打球は美しいが、それだけならばほんの五人程度の観客も驚きはしない。

 

 早速攻めようとリョーマが勝ち気を見せた。

 ボールを強く打ち返し、素早く前へ走ってくる。シングルスを、殊更ネット際での決め手を得意としている彼に迷いはなかった。

 

 そうした戦法を知っている悠介だが、あまりにもリョーマが速く、ネットに到着する前に返すことは難しい。

 咄嗟の判断でロブを上げる。

 そう来るのはさほど珍しい判断ではない。誰にでもできることだろう。踵を返したリョーマは素早く追いついて、振り向いてから打つ程度には余裕があった。

 

 どちらが仕掛けるのか。

 杏が考えた途端、悠介が動く。

 

 ネット際の対決を得意とするリョーマを相手に、悠介が前へ出てきたのだ。スピードは見るからにリョーマの方が速い。それでも、ロブを上げて後ろへ下げたため彼の方がネットに近付く。

 返ってきた鋭い打球を返そうとする。

 その構えを見て、咄嗟に気付いたリョーマは先に走った。

 

 繰り出された“スネイク”は大きく曲がって地面を跳ねた。

 気付くのも走る速度も速いリョーマは追いつき、逆に隙だらけに見えるスペースを狙う。力を入れてストレートで打球を返した。

 

 意外にも、菊丸を連想させるダイビングボレーで悠介が飛びついてくる。ネット際から急角度でボールを返されて、常人であれば得点されていただろう。

 諦めずに走っていたリョーマは確実に以前より速くなっていた。

 今しがた見たのと同じように、地面を蹴って着地を考えずに跳び、背筋と腕を伸ばして辛うじて打球を拾う。返ったのはギリギリだったがそれが良かったのだろう。

 急いで起き上がっていた悠介はコートの端に落ちるボールには届かなかった。

 

 「くそっ」

 「残念。足は俺の方が速いんで」

 「いちいち言わなくていい」

 「ふぃ、15-0……」

 

 観客が居ないせいか、意外なほど静かだったが、たった今見た攻防はおよそ普通とは言えない。

 海堂薫の得意技“スネイク”に、菊丸英二を思い出させるダイビングボレー、常人を超えた足の速さと一瞬の判断力。

 流石は青学。そう言われずにはいられない1ポイントだった。

 

 「マジかよ……」

 「速過ぎね?」

 「こっちのはレギュラーじゃないって聞いたのに」

 「めちゃくちゃ球曲がったけど……」

 

 先程、リョーマに協力してその強さを痛いほど思い知った四人が言葉を失っている。

 彼らの反応など気にならない。ラインの外まで戻り、地面にボールをつきながらリョーマが悠介を見て言った。

 

 「俺、負ける気ないんで」

 「知ってるよ。一回も負けたことないんだから」

 「だから本気でいきますよ」

 

 リョーマが放ったサーブは、地面に触れると同時にぎゅっと沈み込む。凄まじい逆回転で一瞬力を溜めてから、弾き出されるように跳ね上がった。

 その技は知っている。悠介はいつもの通り、ツイストサーブに反応した。

 確かに普段より力強さは感じたが、彼と試合をした回数は最も多い。たとえ敵わないと知っていても経験ならば誰よりも積んでいる。

 強烈なストロークで真っ直ぐ返した。

 

 打ち返した後になってリョーマの姿が見えないことに気付いた。

 スライディングで姿勢を低くしていた彼がネットの下から勢いよく飛び出してくる。

 狙う場所は知っている。だが届かない。繰り出されたドライブBがコートの隅を叩いて、まるで悠介から逃れるように外へ出ていった。

 

 「へへっ」

 「くそ~、俺だってわかってるんだぞ?」

 「だったら返してくださいよ」

 「あ、傷つく一言」

 

 すぐに準備をしてリョーマがサーブを打つ。

 もはや観客がついてきているか否かなどまるで気にしない。リズム良く打って自分のペースに巻き込もうとしている。

 そうでなくとも彼は観衆の反応など気にしないだろう。悠介も冷静に対処した。

 

 とにかく攻撃を得意とするプレーヤーなのだ。攻めて攻めて攻めまくる。何よりもそんなテニスを得意としている。

 対して悠介は状況によって対処を変える手数の多さを武器にしようとしていた。抑えの利かない爆発力を持つリョーマとは相性が最悪。考えている間にまた攻められているので一手が遅れる場面が非常に多かった。

 

 これまでの経験から、向き合い方を変えなければいけないと判断する。

 悠介は最初の一手から攻めた。

 相手が攻めてくるのなら敢えてこちらからも。単純だがリョーマの虚を衝くことに成功する。

 

 大石直伝の“ムーンボレー”を放ち、大きな半月状を描いてベースライン上を狙う。

 前へ出ようとしていたリョーマは冷静に、しかし急いで踵を返した。彼の足ならば間違いなく追いつくことができるだろう。問題はその後だ。

 後ろを向いたままジャンプして、リョーマはコートに背を向けたままボールを打ち返した。

 

 素晴らしいテクニックで返ってきたボールを見ても驚きはない。それが越前リョーマの当たり前だからだ。悠介は冷静に打ち返そうとしていた。

 驚いたのはリョーマの方だ。視線でボールを追っていると彼の構えを見て声を漏らす。

 返球を予想して前へ出ていた悠介が優しくラケットを振るい、ボールに触れた。

 ふわりと飛んでネットを越え、地面に触れた途端、強烈なスピンで転がる。ころころと転がるそれは悠介の方へ向かっていく。

 

 手塚が誇る伝家の宝刀、“零式ドロップ”。

 なんてものを持っているんだと、リョーマは思わず苦笑していた。

 

 「よくもまぁ、そんないっぱい……」

 「一番苦労したんだぞ。手塚部長もいい人なんだけど口数は少ないし」

 「まあ俺もできますけどね。教えられてないけど」

 「あ、そっちの方が傷つく……」

 

 がっくりと肩を落としてしまう悠介は、どうにもメンタルが弱かった。性格をよく知るリョーマだからこそでもあるが、比べられてしまうとどうにも気落ちしがちだ。

 そうして彼がショックを受けた瞬間、黙っていることができなくなり、コールも忘れた杏が思わず悠介へ声をかけてきた。なぜかちょっと怖い顔をしていて、その背後に居る青年たちも開いた口が塞がっておらず、おや? と不思議に思ってしまう。

 

 「ちょっと、宮瀬君」

 「何? アウトじゃないよね?」

 「違うけど、あなたなんで落ち込んでたの?」

 「なんでって……」

 「あなた、全然普通じゃないわよ」

 「え、なんで」

 

 四人の男たちもうんうんと首を縦に振っている。何やら緊迫した雰囲気に感じられて、それほどおかしなことをしただろうかと考えてしまった。

 悠介にしてみれば、教えてもらった手塚とは比べ物にならないほどバレバレの攻撃で、実戦で使うには奇襲くらいしか使い道がない一打である。手塚のそれは他の攻撃とほぼ変化がなく、本当にどちらかわからない状態で奇襲に使える。しかし悠介の零式ドロップはラケットヘッドが大幅に下がるため、見る人が見れば何を狙っているのかは即座に伝わってしまう。

 

 本物をよく知るが故にまだまだだと考えるのだ。

 たとえ質の悪い模倣でも、使えること自体が凄いとは思っていない。

 なぜ彼らが恐れ戦いているのか、悠介にはまるで伝わっていなかったようだ。

 

 「はぁ、心配して損した……」

 「ほーんと嫌味な先輩ですよね」

 「あれ? 嫌われようとしている」

 

 目指す位置が高過ぎたのか、はたまた越前リョーマとの試合の日々が感覚を狂わせたのか、杏には不評を受けたようで少し傷つく。

 それでも試合は続くらしかった。

 リョーマが再び位置につき、悠介も自然と意識を試合へ戻していく。

 

 「本気で行くって言った手前、俺もアレ使わなきゃだめっすよね?」

 「いやいやいや。ちょっと待って越前君。俺取ったの1ポイントだけだよ? そもそも真田さんとか手塚部長とかじゃないんだからね」

 「さっきの、ちょっとイラッとしたんで」

 「ど、どうしてでしょう。謝るからやめとかない?」

 「You still have lots more to work on.(まだまだだね)」

 

 フオンっと風の音がした。

 サーブを構えるリョーマの体からオーラが吹き出されて辺りの空気が一変した。

 関東大会決勝、真田弦一郎と戦った時に見せた状態だ。行動を共にすることが多い悠介は切原赤也と戦った際にもこれを見ている。

 

 どうやら“無我の境地”という状態らしい。

 精神が研ぎ澄まされ、肉体は普段以上の身体能力を得て、能力は格段に向上する。

 いわゆる覚醒した状態なのだと、その手の話に詳しい人物が語っていたのを聞いたことがある。

 

 この状態になった時、リョーマの真価が発揮される。真田との試合を見ている限りでは制限時間は非常に短く、下手をすれば満足に動けなくなるほど疲弊する技なのだが、中学一年生とは思えないほどのスタミナと気迫を持つリョーマはその力を使いこなしているように見えた。

 今まで見た様々なテニス、様々な技を模倣し、時には本人さえも超えて、自らのテニスをさらに強化させてプレーを行うことができる。

 悠介は思わず冷や汗を垂らした。何もそこまで本気になることはないじゃないか。

 

 「あのー、越前君。僕は普通のテニスをする予定だったんですけど……」

 「行きますね」

 「聞いてくれるわけありませんよね。あぁもう、やるよ。やりますよ」

 

 ボールが放り上げられて、ラケットが振るわれる。

 直後には腰を落として身構える悠介の股の間を抜かれた。

 速過ぎて反応できない。それどころか見ていた人々は何があったのかも理解していなくて、あんぐりと口を開けたまま硬直し、コールもなかった。

 

 「ちなみに今の入ってるよ」

 「え? え? え?」

 「はぁ~……またボロ負けの予感が」

 

 混乱する杏は中々状況を理解できず、とりあえずでリョーマに従って得点を告げた。果たしてこの試合の審判を務められるのだろうかと大きな不安に襲われていた。

 それは悠介も同じで、このままでは滅茶苦茶にされてしまうと心から不安で震えている。

 リョーマだけが楽しげに、本気の勝負を楽しもうと口元に弧を描いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23 スーパールーキーの乱入者

 日のある内にストリートコートへ行くのは久々だった。

 以前、ランキング戦で先輩に敗北して、へこんでいた時もここへ来てひたすら球を打っていた。その時に玉林中のダブルスペアや橘杏、氷帝学園テニス部の正レギュラーに会ったのだ。

 しばらくは大会などで忙しくて訪れていない。

 彼らが利用すると聞いた時、よく考えたなと思ったことを思い返す。

 

 「もうすぐ着くぜ。ほら、この上だ」

 

 階段を指して桃城が笑顔で言う。

 軽い動きでひょいひょいついてくる少年はどうにも落ち着きがなく、あちらへこちらへふらふら歩いていて、気になる物があればすぐに引き寄せられるかのように近付いていった。おかげで予定よりもずいぶん時間を食っている。

 

 苦笑する桃城だが彼のことは嫌いではなかった。

 話を聞いていると面白い奴だと判断する。

 リョーマはどう思うか知らないが、悠介は気に入りそうだと早くも予想していた。

 

 「なあ、今更だけどお前関西?」

 「そうやで。大阪や!」

 「そうだろうな。喋りが全然違うんだから。東京は初めてか?」

 「うん。やっぱり初めて来るとこはあかんなー。一人やったら絶対迷ってるわ」

 

 幾分気疲れした様子で息を吐く。

 体力はあるのだが道を覚えるのが苦手なのだろう。さっきの歩き方をしていれば当然だ。桃城は同行することを申し出た自分を褒めてやりたくなる。

 

 遥々大阪から来た面白そうなテニスプレーヤー。聞けばリョーマと同じ一年生だという。どうしても会わせてやりたいものではないか。

 うきうきしながら桃城が先導し、彼は肉体的な疲れはまるで見せずに、一段どころか二段ずつ飛ばしながら軽々と跳んで階段を上っている。

 大した奴ではないかと改めて感心する瞬間だった。

 

 二人は階段を上り切ってテニスコートを目撃した。

 面白いことに、ちょうど悠介とリョーマがシングルスで試合をしている。

 桃城がにやりと笑うと同時、気持ちは同じだったのだろう、嬉しそうに少年が笑った。待ちきれない様子で近付いて観戦を始める。

 

 関東大会以来だ。リョーマが不思議なオーラを纏っているのは。

 軽快に走る彼は強烈にスピンをかけてボールを打ち、地面に落ちたそれは、本来とは逆の方向へ跳ねて逃げるかのような挙動を見せる。

 悠介は必死に走って追いつき、サーブではないツイストの回転に苦悩していた。

 返してもすぐにリョーマがボールへ接近し、強烈なショットを放つ。

 今度は着地と同時に高く跳ね上がる“ツイストスピンショット”だ。ライジングを狙うしかない。

 

 「ああくそっ! それは俺戦ってないって!」

 

 文句を言いながら悠介は着地した直後の跳ね上がる瞬間を狙い、予想外のパワーに腕を痺れさせながらもなんとか返した。

 問題は次だ。攻撃は隙間なく続いていて間髪入れずに襲ってくる。

 一息つく暇も与えられず、リョーマはドロップショットを行い、強烈なスピンがかかって地面に着いた途端に転がる。

 

 「ハァ、ハァ……やり返された」

 「俺もできるんで」

 

 当然のように“零式ドロップ”を使われて、あっという間に得点される。

 もはや数えられないだろうということで杏はあっさり審判の座を辞任してしまったが、これが試合なら当然ポイントを取られている。

 様々な技で走らされ、息を乱した悠介は深呼吸で整えようとした。

 

 “無我の境地”の恐ろしさは様々な技を使えるだけではない。普段のリョーマをよく知るが故によくわかる。パワーもスピードも段違いだ。同じ人間だとは思えない。

 一体どういう原理なのか。知りたくても理解できそうになかった。

 

 オーラを吹き出すリョーマは以前より体に馴染んだのか、使用時間が伸びている気がする。

 これまで出会った強敵の技を軽々と使い、その使い方もオリジナリティがあって対応が難しい。

 ますます俺のやってきたことは何だったのか。覚醒したリョーマを目の当たりにして、自らが対戦してみて、以前よりもその想いが強くなる。

 諦めたくなる衝動に駆られながらも必死に自分へ活を入れ、どうにか喰らいついているのが現状であった。得点を数えないなら今すぐにもやめてほしいというのが本音である。

 

 「本気でやるって言いましたよね?」

 「言ったかもしれないけど、それ使っていいなんて言ってない」

 「使っちゃだめとも言われてませんよ」

 「はぁ~昔の俺のバカ。だってそんなぽんぽん使えるとも思ってなかったし……」

 「次行きます」

 

 一応声をかけてからサーブをされる。

 明らかに普通ではない、ツイストサーブでもないそれは、小さな体を目一杯使って繰り出される超絶高速弾“スカッドサーブ”。氷帝の二年生が得意とする技だった。

 初めて体感する悠介だが、偶然か狙ってか、必死に反応しようとして差し出したラケットの端に辛うじて当たった。ボールはふらふらと宙へ飛んでネットを越える。

 

 あれをリターンとは呼びたくない。

 何せ、相手にチャンスを与えるだけなのだ。

 一瞬にして届く距離まで跳び付いたリョーマは、強烈なスマッシュでコートへ叩き込んだ。

 

 「どーん」

 「いいか越前、お前が今やってるのはいじめだぞ。あんなサーブ取れるわけないだろ」

 「取ったじゃないっすか」

 「取ったんじゃなくて当たったの」

 「返せばいいんだから当たっただけでいいんですよ。じゃ、次」

 「うーん、どんどん自信が破壊されていく……」

 

 見ているだけで興奮する光景だった。

 繰り出される技の多彩さ。細身で小柄とは思えないパワー。走るスピードは速く、大胆な攻め方は観客を盛り上げる。何より体から出てくるオーラ、あれがかっこいい。

 

 わくわくする少年は我慢できずに駆け出した。

 ポールのすぐ傍へ立ってリョーマを指差し、大声を発する。

 落ち込んでいた悠介が顔を上げて、ゲームに集中していたリョーマが、新たにコートへ現れた人物に気付いたのはちょうどそんなタイミングだった。

 

 「コシマエリョーマ!」

 「は? ……誰?」

 「ワイは大阪から来た遠山金太郎! 今からワイと勝負せぇ!」

 

 そう言って背中に差していたラケットを抜き取って右手に持ち、赤毛の少年、遠山金太郎は堂々と正面から宣戦布告した。

 勝気な笑顔で興奮を抑えきれず、見るからにわくわくしているといった表情である。

 突然水を差された状態となった二人はぽかんとしてしまい、何が起こったのか、理解するまでに少し時間を必要としていたようだった。

 

 「知り合いか?」

 「全然」

 

 悠介の問いかけに素っ気なく答えて、フシュッとリョーマが纏っていたオーラが消えてしまう。

 それを見た途端、金太郎が絶望した様子で悲鳴を発した。

 

 「あぁっ!? なんでそれ消してまうねん! それが強そうやったのに!」

 「あんた誰?」

 「だからぁ! 遠山金太郎やー言うとるやろ! 関東大会で一番注目されたルーキー、コシマエリョーマ! お前を倒す男や!」

 

 よくよく辺りを見てみれば、すっかりただの観客と化していた杏とその他の男たち四人はぽかんと口を開けて固まっているが、笑いそうになって必死に口元を押さえている桃城を見つけた。彼が連れてきたのだとその瞬間に理解する。

 少なくともリョーマを目的としていることはわかった。悠介はリョーマに目を向ける。

 

 「お前と試合したいらしいけど、どうする? コシマエ君」

 「絶対わざとでしょ……あのさぁ、俺、えちぜんリョーマなんだけど」

 「さっきのぶわぁってやつもっかいやれや! なんかめちゃくちゃ技使ってたし、見た目かっこええやんけ! どうせやったらあれがええわ!」

 「いや、だから」

 「なぁそこの兄ちゃん、ちょっとでもええわ。ワイと代わってくれへん?」

 

 金太郎はリョーマと試合していた悠介へ目を向け、手を合わせて、リョーマに向かって挑発する際とは違って懇願するように言い出した。

 ちょうどいい。彼にしてみれば拷問のような時間が続いていたところだ。

 あっさり承諾した悠介は金太郎に笑顔を見せた。

 

 「俺はいいよ。コシマエ君がいいなら」

 「ほんまかっ!? ありがとう! ほんならコシマエ、後はお前次第や! ワイと勝負しよう!」

 「いやぁ、やってくれるんじゃない? コシマエ君なら。ちょうど力が有り余ってるから」

 「よっしゃ! ほんならちょーどええやんけ! 今からすぐやろ!」

 「あいつ、後で絶対泣かしてやる……」

 

 恨めしそうに悠介を睨みつけるリョーマだが、勝負だ、勝負だとうるさい金太郎に気を取られ、苛立ちが募っていく。

 ただでさえ腹立たしい先輩が二人も含み笑いをして注意が逸れるのに、見たことない派手な奴が大声で喚き立てているのである。

 普段はクールなリョーマが珍しく大声を出すのも無理もなかった。

 

 「あ~うっさい! 大体、俺今先輩とやってたんだけど」

 「でもその先輩はええって言うてるやんけ」

 「そうだそうだ」

 

 後ろから援護するように悠介が同意する。イラッとした。

 

 「まだ決着ついてないし……」

 「あーそうか。ほんならもうちょっと待った方がええ?」

 「いいよ。どうせ今、ポイント数えてなかったから、永遠に続く感じだったし。勝負はついてるからむしろ終わらせてくれて有り難いくらい」

 「そうなん? せやったら、ワイと戦ってもええってことやな?」

 「うんうん、全然問題ない」

 「勝負やコシマエ! ワイと試合しよ!」

 「いいぞー。しろしろー」

 

 リョーマの体からオーラが吹き出した。

 呑気な顔で立っている悠介の足元に何かが着地し、体の傍を強い風が通り過ぎる。笑顔が硬直して危機感を覚え、さっきのはリョーマのサーブなのだと、壁に激突してから足元まで転がってきたボールを見て理解した。

 

 まずい。珍しくキレている。

 今のサーブ、ほんの少し狙いをずらすだけで悠介の体に当たっていた。

 途端に背筋を伸ばした彼はリョーマに睨まれて精一杯ぎこちない笑顔を見せる。

 

 「おおっ! それそれ!」

 「あ、あの……!」

 「黙ってて」

 「はい……」

 「なぁ~ええやろ? この兄ちゃんもええって言うてるしわざわざ大阪から来たんやから。お前と勝負するためにここまで来たんやで」

 

 だからどうしたと言いたくなるのだが、どうやら悠介の集中は切れてしまったようだし、この苛立ちを解消するための方法は一つしかなさそうだった。

 正直に言って不満だ。確かに得点は諦めたが、まだ悠介が本気でぶつかってもいない。“無我の境地”を出したのはやり過ぎにしても、もっと必死に戦うはずだったのに。

 

 そもそも、誰かも知らない奴にいきなり勝負だと言われて、ずっと名前を間違われている。

 初対面で好感を持てというのが無理な話だ。

 リョーマはあからさまに金太郎を警戒しており、人懐っこい笑顔を見ても評価は変わらない。

 

 それでもやろうと決意したのは、ぶつけようもない苛立ちを発散するためだった。

 腑抜けになった悠介はもう相手にならない。このまま続けても本気にはならないだろう。

 適当にやって、適当に勝って、その後で折檻をしてやればいい。リョーマが考えるのはどんな方法で悠介に後悔させてやろうかというただ一点のみだった。

 手の中でグリップをくるりと回し、リョーマは金太郎の視線に応えた。

 

 「ハァ、わかった……1ゲームマッチでいい? 後の予定が詰まってるから」

 「よっしゃあ! それでええよ! さあやるでー!」

 「あ、あの、越前君、その後の予定っていうのは……」

 「そこ座ってて。逃げたらわかってるよね?」

 「はい……」

 

 ラケットで位置を示されて、悠介は言われた通りにベンチへ腰掛けた。

 いつの間にか桃城の姿が消えている。リョーマの怒気を感じて巻き込まれないように逃げたに違いない。こういう時はあいつの要領の良さが恨めしい。

 しょんぼりして座る悠介の下へ、少し気まずそうに苦笑して杏が近付いてきた。

 

 「調子に乗って煽るから」

 「うぅ、やり返すチャンスだと思って……」

 「前から思ってたけど、あなたたち仲がいいのね」

 「あれを見ても?」

 「うん。ちゃんと大事にした方がいいよ」

 

 えーと声を漏らす悠介はリョーマの視線に気付いて慌てて口を閉じる。

 ため息を一つ。コートで金太郎と対峙し、仕方ないと切り替えてリョーマは目つきを変え、試合に集中しようとした。

 

 こうなればさっさと終わらせよう。

 急ぐからこそ油断はなく、力を隠そうというつもりはない。

 その一方で言われる通りにするのも癪だった。“無我の境地”は使わない。右手にラケットを持ち替えて左手でボールを地面に弾ませる。

 

 「あれ? あのぶわってやつやらへんの? ワイはあれが見たいのに」

 「あれ結構疲れるから」

 

 ボールをつくのをやめて手に取る。

 大胆な動作でサーブを打ち、強烈なスピンをかけて相手コートへ打ち込んだ。

 わずかに不満そうではあったものの、金太郎は嬉々とした様子で待ち構え、ラケットを振るおうとした姿勢でボールを見ていた。その時、素早く跳ね上がったボールは金太郎の顔面へ向かって、思わずぎょっと目を見開く。

 

 その直後、驚いたのはリョーマを含む見ていた人々だった。

 当たると思って体が強張った瞬間、他でもない金太郎本人は驚きながらも怖がらず、素早い反応でラケットを振り抜くとツイストサーブを捉えたのだ。

 打球はリョーマのコートへ勢いよく返り、突っ立っている彼には取れずに2バウンドする。

 

 しばし互いに言葉を失っていた。

 リョーマは平然とツイストサーブを返されたことを、金太郎は変なサーブを打たれたことを、上手く表現できない気持ちで認識している。だがどちらも驚愕していたことは確かだ。

 

 「すっ……すっげぇ!? なんや今のサーブ! 顔面狙ってきよったで!」

 「ふーん……やるじゃん」

 

 油断しているつもりはなかった。しかし今の一打でさらに集中力が高まる。

 リョーマは再び右手で構え、ツイストサーブを打った。

 目がいいのだろう。回転の方向を見るだけで先程のサーブだと気付き、金太郎は怯えるどころか嬉々として待ち構える。再び体の方へ来たボールを快く受け入れた。

 

 素早いスイング。強烈なインパクト。

 小柄で体は細いが、意外なほどのパワーが感じられた。

 初めから手を抜くつもりのないリョーマはすかさずラケットを左手に持って応じる。

 

 「おっ、左! 二刀流か!」

 「いいじゃん、別に」

 

 ガットに打球を受けた瞬間、ギリギリと奇妙な音が鳴り、押し切られそうになっている。腕にずしんと来る重さも半端ではない。

 連想するのは桃城や河村、或いはそれ以上。

 背丈や細身を見れば意外だが、やたら大声を出す性格を考えれば妙に納得できる。

 そういうタイプなのだろうと察して、リョーマは動揺せずに打ち返した。

 

 こちらのコートに向かってくる美しいストロークに、金太郎は躍り出すように飛び掛かった。

 強靭な脚力で驚きの跳躍を見せ、空中で無駄にくるりと回る身軽さもあって、激突を恐れずに打球へ接近するとラケットを振り抜く。

 飛んでくる勢いさえ利用して、さらに強烈なショットが打たれた。

 

 動きは滅茶苦茶でも、認めざるを得ない。

 テクニックはまだわかりかねるものの、パワーとスピードは相当なもの。思わず唸ってしまうくらいには優れたものだった。

 

 何より迫力が凄まじい。

 リョーマは的確に返すのだが、一発を返すだけでずしんと衝撃が腕を重くする。

 間髪入れずに金太郎が一足飛びで追いつき、決して弱くはないストロークを軽々返す。リョーマを走らせるようにコートの端に深く刺さった。

 彼のスピードなら追いつける。それでも危機感を覚えずにはいられない。

 

 「ははっ! 聞いてた通りやっぱやるなぁ! コシマエ!」

 「えちぜんだっつーの……!」

 

 少しムキになって強気で打ち返す。

 大きく曲がる“スネイク”は獲物を狙う蛇が如く、鋭くコートを食い破ろうとしている。

 おおっと声を漏らして驚きながらも、やはり金太郎は大げさに跳び、一瞬にして追いつくと微塵も恐れずにラケットを振るった。気付けば両手でグリップを握り、回転しながら振り回すその姿は野球にも近いが、空中に躍り出たほんの一瞬で反撃を済ませる。

 鋭く刺さるような打球は強力で、即座に追いついたリョーマは眉間に皺を寄せた。

 

 「にゃろう」

 「ほらほらぁ! まだまだいくでェ!」

 

 あまりに対照的なフォームの二人によるラリーが続く。

 英才教育を受けただろう、無駄を省いた美しいフォームでクールに動くリョーマに対し、金太郎の動きは感情を露わにするかのような荒々しさがあって、黙っていても見ているだけで騒がしい。本人がインパクトの際に気合いの入った声を出すので尚更だ。

 

 見応えのある試合に観衆は言葉を失う。偶然居合わせた四人と杏はもちろん、これまで先輩方の飛び抜けておかしな試合を数々見てきた悠介ですら固まっている。

 ラリーは中々終わらず、互角の状況がしばらく続いていた。

 

 やがてテンションが上がっていき、金太郎がへへっと楽しげに笑う。

 ぴょんぴょん跳び回っていた彼が突然足を止めた。

 腕をぐるぐる回して、すかさず返ってきたリョーマの返球を見てから、初めて構えらしい構えを見せて動き出す。

 相変わらずの突進戦法だったが今度は気合いが違った。

 

 「行くでコシマエ! ワイの必殺! 超ウルトラグレートデリシャス大車輪山嵐ィ!!」

 「長っ……」

 

 一息で言い切り、全身を捻る力を利用し、超強力なショットを打つ。

 パワーにのみ特化した、確かに必殺の一撃。打ち出された瞬間、あまりのスピードにリョーマは目を見開き、体は考えるまでもなく動いていた。

 

 ボールがコートを縦に割った。

 観衆は思わず声を出し、予想外の結果に混乱してしまう。

 リョーマは確かにラケットで捉えたはずである。それなのに打ち返せなかったのは、あまりに強烈なパワーにガットが突き破られてしまい、ラケットの中央を通り抜けたからだ。

 結果を見てリョーマは愕然としており、金太郎は歓喜で跳び回る。

 

 「よっしゃー! 見たかコシマエ! ワイかてお前に負けてへんからなー!」

 「ふーん……」

 

 穴の開いたガットを見る。ラケットを弾かれずに済んだのは、おそらくは一瞬、身の危険を感じて“無我の境地”のオーラを纏ったからだ。意識的に使用したのではない。体が勝手に反応して無意識的に纏っていた。あれがなければ腕を持っていかれて折られていたかもしれない。

 静かに状況を整理したリョーマは悠介に視線を送る。

 

 「先輩、俺のラケット取ってください」

 「ま、まだやんの? 危ないからやめといた方がいいんじゃ……」

 「0-30っすよ。ここでやめたら負けじゃないっすか」

 「死ぬよりはいいんじゃないの?」

 「やだ」

 「ハァ……しょうがないな」

 

 リョーマのバッグから別のラケットを出してやり、悠介が近付いて手渡してやる。

 

 「怪我すんなよ。大会とかそんなの関係なくまずいから」

 「どーも。でもさっきの忘れてないんで」

 「ご、ごめんね?」

 「許さない」

 

 冷たく言ってリョーマはサーブの位置へ戻る。

 予想とはまるで違った。燃えてくる。やられっぱなしでは終われない。

 金太郎も彼の戦意を感じ取り、尚更燃え上がるようで大きく肩を回していた。

 

 「へへっ、そうやんな。まだやれるよな。ワイも勝負には負けたない。やると決めたんなら勝たんとおもろないわ」

 「ねぇ、見たかったんでしょ?」

 

 呟いた直後にリョーマがオーラを身に纏う。

 金太郎は目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。

 

 「本気で行くよ」

 「あったり前や! こっからが本番やでェ!」

 

 今度は左手でサーブをする。鋭く素早い打球が気付いた時には目の前に来ていて、瞬間的に反応する金太郎は驚きながら正確にリターンした。

 続いてさらに驚くことになる。

 一瞬にして前へ出たリョーマがスライディングし、跳び上がる勢いで強烈なショットを打つ。

 

 何も考えずに跳びついていた金太郎は、アウトかと思われた打球が急落下してラインの内側を叩いたのを見て驚愕する。

 反射速度は凄まじく、急な変化にも金太郎はラケットに当てて真っ直ぐの軌道で打ち返した。

 

 「おわぁっ!? すっげー! なんやこれ!?」

 

 力に物を言わせて返した打球を、リョーマは再びドライブBで打ち抜いた。

 同じ軌道でたたんと2バウンド。あっという間に終了する。

 唖然とする金太郎とは裏腹に、冷静なリョーマはすぐに踵を返してベースラインへ戻る。籠から次のボールを手にしてサーブの準備を整えた。

 その後でようやく金太郎は動き出し、自分がポイントを取られたのだと理解する。

 

 「マジかっ!? なんやそれ!」

 「15-30だよ。先輩、数えてくださいよ」

 「くぅぅ……! すごいなお前ェ! お前に会いに来てよかった!」

 

 喜びに打ち震える金太郎はすぐにリターンの位置へつき、嬉しそうにラケットを構えた。

 

 「面白いなぁお前は! もっとこの試合やりたい! まだまだ戦い足りへんわ!」

 「俺もそう思うよ。ちょっとだけ」

 「よーし、かかってこいコシマエ! もう今のにはやられへんで!」

 「だからえちぜんだって」

 

 リョーマのサーブでゲームが始まる。

 金太郎は豪快に腕を振るってリターンで応えた。

 またしても始まった、さらに過酷になる規格外のテニスに人々は言葉を奪われ、今ならば逃げても平気かと思案した悠介だが、後が怖くなるのでその試合を見続けることを静かに決めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24 兄ちゃん金ちゃん

 学校の垣根を越えてチームを結成してテニスの大会に挑む。

 関東ジュニアオープンテニス。

 突如として始まったその大イベントは、開催前から関東を中心として日本中学テニス界に大きな衝撃をもたらしていた。

 

 「おい手塚、まさかまだイップスだなんて言わねぇよなあ」

 「ああ、もう治った。問題はない」

 

 青春学園中等部のテニスコートへ突如として現れたのは、全国大会常連である氷帝学園中等部のテニス部部長、跡部景吾その人だった。

 見るからに美形でお金持ち、尊大な態度だがテニスの腕前は全国区レベル。

 関東大会の初戦において、肩を痛めたとはいえ手塚を破った人物なのだ。

 

 その人が今、単身青学のコートへ現れ、手塚と対峙している。

 注目しないはずもなく、大勢の人間が二人の姿を見ていた。

 

 「大会でお前を倒すことも考えたんだが、個人としちゃそれは関東大会でもうやってる。同じことを繰り返しても仕方ねぇだろ?」

 

 ざわざわと周囲が動揺していても跡部は止まらない。

 注目されることには慣れている。むしろ当然だという自負さえあった。

 部員数200名を超える氷帝学園テニス部をまとめる帝王は、自信満々に手塚へ手を差し出した。

 

 「手を組もうぜ。俺様のチームに入れてやる。一緒に来い」

 

 ほぼ全ての生徒が息を呑んでいた。

 確かに跡部は手塚に勝っている。当時の手塚は悪くしていた肘が完治したばかりであり、無意識に庇っていたせいで肩に負担をかけ、激痛に襲われながらも長期戦に挑んだ。

 それは当初の跡部が狙っていたものだったが、それでも手塚は無敗を誇っていた青学最強の男。青学テニス部にとっては驚愕の結果であった。

 

 その跡部と手塚が一つのチームで揃おうとしている。

 わざわざ説明するつもりもなかったものの、跡部は最初のメンバーに手塚を選んだ。

 求めるものは勝利のみ。優勝を求めるが故であった。

 

 しばし沈黙を保った後、真剣に考え込んだのだろう、ついに手塚が口を開く。

 一体どうなるのか。誰もが固唾を呑んでその時を待っていた。

 

 「わかった。お前のチームに入ろう」

 「当然だな。俺様のレベルについてこれるのは、お前くらいのもんだからな。アーン?」

 

 手塚が手を出して跡部の手を握り、固く握手をする。

 おおっと誰かの声が漏れて、続けて大きなどよめきが辺りへ広がった。

 これはきっと歴史的な出来事だ。全国区レベル、関東最強の男たちが手を組み、同じチームに所属するその瞬間を見たのである。

 青学で起こった事件は瞬く間に噂となって各地へ伝えられ、話題は更なる広がりを見せた。

 

 「肘と肩ならもう問題ない。気に病むことはないぞ」

 「あぁん? 同情だと思ってんのか? 最初から気にしちゃいねぇよ」

 

 

 *

 

 

 鋭い打球がラインを越えて、壁に激突するまで止められなかった。

 金太郎はああっと大声を発して、リョーマはにやりと笑う。

 ようやく終わった。一回のラリーが長く、1ゲーム勝負とは思えないほど時間がかかっている。

 いつの間にかリョーマはぼたぼたと垂らすほど大汗を掻いており、慣れつつあるとはいえ、あまりに強力な“無我の境地”の副作用に疲弊した様子だ。対する金太郎はまだまだ余力を残し、悔しさで飛び跳ねるほどには元気だった。

 

 「くっそー! あかん!」

 「1ゲームだよ。はい、俺の勝ち」

 「ちょっと待ってぇや!? あともう1ゲーム……いや5ゲーム!」

 「1セットマッチじゃん。やだよ、もう疲れたから」

 「そんなぁ~!? こんなんまだ満足できへんわー! めちゃくちゃおもろいのに!」

 

 必死な抗議を聞かずにリョーマは早々にコートを出た。

 金太郎はそれでも懇願し続けるのだが、ふぅと息を吐くリョーマは悠介に歩み寄り、タオルとドリンクを持って立ち、にこにこしている彼からそれらを受け取る。

 

 「お疲れ様ですリョーマ様。素晴らしい試合でした」

 「ありがと。じゃ、次は先輩」

 「えっ!?」

 「勝ったら、許してあげますよ」

 「遠山君、次は俺が相手になろう。できれば負けてくれたら嬉しいなっ」

 

 リョーマが椅子へ座って汗を拭い、喉を潤す間、素早くラケットを取った悠介が前へ出た。

 あからさまに表情を変えた金太郎は残念そうだ。

 彼は越前リョーマを倒すためにやってきた。公式戦で大きく名を上げたスーパールーキー。とにかく滅茶苦茶強いと聞いて確かめに来たのである。明らかに頼りなさそうな悠介が出てきて満足できないのは当然だろう。

 

 「え~? 兄ちゃん強いんか? ワイはコシマエが強いって聞いたから倒しに来たんや。もっとコシマエとやりたいわ」

 「ああ言ってますが」

 「俺、ナックルサーブって使えるんすよね」

 「ああ板挟みっ。ち、ちなみに負けても何もありませんよね?」

 「勝ったら、って言ったでしょ」

 

 じろりと見られて悠介はすかさず視線を外した。あまりしつこく言うとさらに怒らせることになるのは知っている。

 すっかり小さくなってしまった悠介は恐る恐るコートへ向かい、苦笑する杏はこれが二人の関係性なのだろうと理解し、敢えて止めようとはしない。

 

 やる気もなさそうに、泣きそうな顔で入ってくる悠介を見てやりきれない気持ちになる。

 せっかく興奮していたのだが、他ならぬリョーマがもう試合をするつもりがなく、おそらく先輩だろう彼の扱いを見て金太郎はなんとなく悲しくなってしまった。

 

 「兄ちゃん、いじめられてんのか? あいつ後輩やろ?」

 「うん……俺もちょっとわからなくなってきた」

 「自業自得でしょ」

 「まあええわ。手は抜いてやれんけど、兄ちゃんもテニスやってんのやろ? ほんならこのまま勝負しようや。ワイまだ体動かしとーてしゃあないわ」

 「あいつも多分敵なんだな……」

 

 大きなため息をつきながらも、仕方ないと諦めて、悠介がボールを手に取った。

 敵うはずはないと思うので結果はわかっているのだが。そう思いながらもやらない場合の怒りを恐れて気合いを入れようとしている。

 

 「サーブは?」

 「兄ちゃんからでええよ。ワイのことは金太郎でええで。それかみんなが呼ぶから金ちゃん」

 「ありがとう金ちゃん。じゃあ始めるよ」

 「ええでー! いつでも来ーい!」

 

 同じ歳でこんなにも違うものかと涙が出そうになる。

 悠介はサーブを行い、金太郎が立つコートへボールを打ち込んだ。

 

 「おっしゃ! 思いっきり行くで~!」

 「いや、手ぇ抜いてほしいんだけど……俺のためにも」

 

 ドカッというテニスにあるまじき音を立ててボールが返ってくる。

 先程見ていたが凄まじいパワーだ。外見からは想像もできない。

 実際に自分で打ってみて、悠介は腕に来る衝撃に目を見開き、危なげなく返したものの、まるで本気の河村先輩を相手にしているようだと驚きを隠せなかった。

 

 「重っ……!」

 「へへっ、なんや兄ちゃん。ちゃんと返せるやん」

 

 手を抜いているという自負はない。だからこそ、金太郎は悠介がきちんと打ち返してきたのを見て喜びを露わにした。

 中途半端な相手では簡単にラケットを落としてしまう。一発で心を折ることも珍しくない。始まる前は不安も抱いていたがあっという間に評価は変わった。

 彼なら大丈夫だろうと考え、ジャンプしてボールへ接近し、異様なフォームで思い切り打つ。

 

 「おらァ!」

 「いやいや重過ぎ!? あの子怖っ」

 

 怯えながらも悠介は素早くボールへ追いつき、的確に返している。一球ごとに腕が無理やり震わされるような重い衝撃を覚え、次はもう嫌だと思う一方で、これまでのリョーマとの対戦が金太郎のスピードにも対応できるまでに彼を鍛えていたようだ。

 ラリーは長引き、打ち返される度に金太郎は彼を見返していく。

 

 点を取られる心配が一切なかったのは攻撃の手が弱いからだ。

 防御は上手いが攻めるつもりがない。金太郎は悠介とのラリーを続けてそう思い、しかしまだ何か隠していそうだと肌で感じている。

 

 あのコシマエリョーマが先輩と呼ぶのだから、ひょっとしたら何かあるのでは?

 確かめるためには全力でぶつかるしかない。

 十回以上のラリーを経て、二十回もそろそろかという頃、ただの普通な打球では抜けないと判断した金太郎は一旦足を止めた。

 肩を回し、腕を回して、極端な攻撃の意思を見せたために悠介はびくっと怯えた。

 

 「これでわかるやろ」

 「ちょっと、何しようとして……!」

 「喰らいーや! 超ウルトラグレートデリシャス大車輪山嵐ィ!!」

 「バカだなぁあいつ!?」

 

 激しく全身を回転させて、その力を利用して必殺の一打をボールに叩きつける。

 打球は風となり、凄まじい勢いで直進してきた。

 心底怖がっていた悠介だが、しかし、敢えて逃げずにラケットを振るう。

 

 先程のリョーマの試合を見ていたからわかった。このボールには強烈なスピンがかかっている。ならば彼が敬愛してやまない師匠の技を破れるはずはない。

 体を開いた構えからラケットを袈裟切りのように斜めへ振り下ろし、ガットへ受けたボールにかけられている力を受け流す。

 これならどうだ。悠介はグリップを握る手に力を込めた。

 

 ガラガラッと大きな音を立ててラケットが勢いよく地面を転がった。

 よしっと思う暇もなく、金太郎は目を見開く。

 

 彼の仲間である部員ですらそう簡単には返せない打球が、試合を見ていたとはいえ、初見で打ち返されたのだ。ボールは確実に金太郎のコートへ向かってきている。

 悔しいと思うより先に胸の中に喜びが広がり、思わず笑ってしまった。

 きっと面白い勝負になる。金太郎はいつものようにぴょんと跳んで、バウンドしたところをもう一度必殺技で返してやろうと考える。だが、そこで再び驚いた。

 地面に触れたボールは弾まず、凄まじいスピンで転がりながら足元を通り抜けていく。

 

 ああっと大声を出して見送ってしまった。

 今のはポイントを取られたのだ。打ち返すことができなかった。何が起きたのか、自分の目で見ても終わってから考えてみてもわからない。

 金太郎はぐるりと悠介へ振り返り、感情を抑えられず輝くような笑顔になった。

 

 「いっ……てぇ」

 「すっ……げぇ! ワイの超ウルトラグレートデリシャス大車輪山嵐をよう返したな! なんや今の!? なぁ、今何したん!?」

 「よく噛まずに言えるな、その名前。覚えられん……」

 

 パワーに押し負けた悠介は手首を押さえていた。危うく怪我をするところだ。そんな状態で返せたのは奇跡にも等しいと本人は思っている。

 不二ならもっと上手く返したのだろう。手首にダメージなど受けないはずだ。

 土壇場の“つばめ返し”だったが選択は悪くなかったらしく、当たれば気絶では済まなそうな強烈な一打を相手に、少々手首を痛めた程度ならよくやった方だと考える。

 

 金太郎が嬉しそうに駆け寄ってきた。

 やはり足は速いようで、まるで瞬間移動したかのように感じるほど、気付けばネット際に立って悠介の顔を覗き込もうとしてくる。

 

 「すごいやんか兄ちゃん! さっきの何!? ほんまに兄ちゃんがやったんか!?」

 「一応ね」

 「なんや、自信なさそうやったから大したことないんかと思たけど、全然そんなことないやん。流石コシマエリョーマの先輩やな! ほな次行こー! もう一回やったるでー!」

 「いやいやいやもう勘弁!? もう一回やられたら手首壊れるから!」

 

 うきうきしてベースラインへ戻ろうとする金太郎を、焦った悠介が慌てて止めた。

 これ以上やるのは確実にまずい。下手すればテニスができなくなる。

 危機感を覚える彼に対し、まだ満足していない金太郎は不服そうだった。

 

 「え~なんでー? だってさっきの技で返したやん。もっとやろうや」

 「さっきの技で返して手首がびっくりするくらい痛いのっ。次やったら骨が折れるか、手首が捩じ切れてどっか飛んでっちゃう」

 「大丈夫やって。ワイもそんな奴見たことないから」

 「俺が初めての男になったらどうするんだよ」

 「それはそれで話題になるし。とにかくやってみようや。ほんまにあかんかったらやめるけど、全然元気そうやから大丈夫やって」

 「なんて押しが強い。誰かさんを見てるみたいだ」

 

 ちらりと背後へ振り返って確認すると、うんと頷いて、言外にやれと言われた。彼との付き合いを考えてしまう瞬間だった。

 後が怖いが流石に今回は危機感が強い。

 何かあれば幸村にも悪いと考え、強い意志を見せた悠介は毅然として断り、折られるのが怖いから絶対にやるものかと決意した。

 

 「無理だって。故障したら幸村さんにも悪いし、今日はこれで終わり」

 「えー……」

 「それならコシマエ君とやったら? ちょっと休んだし、あいつならもうできるよ」

 「おっ、そやな! コシマエ! もっかいワイとやろーや!」

 

 やれやれと首を振って、リョーマがラケットを持って立ち上がった。

 悠介の傍まで迷いなく歩み寄り、じろりと目を見つめる。

 

 「弱虫」

 「弱虫だもん」

 「あとコシマエ君って言いましたよね?」

 「そ、それはほら、金ちゃんに伝わりやすいように」

 「ちゃんと覚えてるんでまたの機会にね」

 

 一体何をされるのだろう。震える悠介は上手く歩けなかった。

 投げ捨てるように手放してしまった自身のラケットを回収して、杏が居る場所へ戻る。彼女は笑顔で温かく迎えてくれたが恐怖で上手く笑えなかった。

 

 「お疲れ様。さっきのすごかったね」

 「やっぱり俺は普通の人間だったよ……危うく壊されかけたもん」

 「ううん、そうだね。あれを見ちゃうとやっぱり普通なのかなって思っちゃうかも。越前君はなんでか平気そうだったし……」

 「あの子もどんどん超人になっていくからなぁ」

 

 視線の先ではリョーマが軽くボールを打ち、金太郎がボールを受け取っていた。

 サーブ権を渡したらしい。

 帽子をかぶり直してふぅと気持ちを切り替えてから、リョーマは早く早くと言いたげな金太郎に目を向けて笑みを見せる。

 

 「そろそろうちのリーダーが来るはずだから、あと1ゲームだけ」

 「よしっ! 今度は負けへんからなー!」

 「ふーん。俺も負けないけど」

 「アホ言うなっ! ワイの方が負けへんわ!」

 

 言い合いをする二人を見て杏が笑みをこぼして、悠介は苦笑してため息をつく。

 

 「ふふ。どっちも負けず嫌いだね」

 「意外と似たとこあるのかな。俺に矛先が向かなきゃいいんだけど」

 

 嫌な予感を覚えて呟いた悠介に、なんとなくそうなりそうだな、と杏が思う。敢えて本人には伝えなかった。言えばきっと彼は落ち込むだろう。

 二人の見ている前で金太郎がサーブをして、再び彼らのゲームが始まった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25 新チーム結成

 呼び出された橋が見える河川敷に、彼は立っていた。

 川を眺めて背を向けている。ジャージではなく制服姿だった。それでもこれとわかる後ろ姿で、一度足を止めたが近付いていく。

 足音が聞こえれば相手がわかったのだろう。声をかける前に振り向いた。

 

 「約束の時間ちょうどに来る確率、100%だ」

 「そちらこそ、約束の時間の五分前に来る確率100%だよ」

 

 出迎えた柳蓮二の前で立ち止まり、乾貞治は次の言葉を待った。

 妙な緊張感があった。互いにデータ収集を得意とする者。何の話であるかは悟っていて、また理解した上で来ているだろうこともわかっていた。

 

 意思を窺うかのような幾ばくかの沈黙があった後、柳が口を開く。

 その声からは不思議と強い決意が感じられた。

 

 「貞治、俺のチームに入ってくれないか? 優勝するにはお前の力が必要だ」

 

 冷静沈着な彼には珍しい力の入りようだと感じる。その提案自体は予想できていたとはいえ、乾は一瞬、気圧されて言葉を失った。

 よほどの事情があったのか、そうした態度は予想していない。だからこそなのか、乾は自分でも驚くほど迷わずに決断する。

 

 予感はあった。

 仮に彼から誘われればおそらく自分は迷わないだろう。そう判断すると知っていた。

 

 フッと笑った乾は鞄からノートを取り出す。

 膨大な情報が収められたそれはいつしか彼の専売特許のように扱われている。だがそもそもを振り返れば教えてくれたのは目の前に居る柳だ。

 

 「俺のデータが必要なら、喜んで力を貸すよ」

 「データだけではないさ。お前なら心から信用できる。俺に勝って青学を優勝させたテニスを、今度は俺のために使ってほしい」

 「それでまた強力なライバルを作ってしまいそうだな、教授」

 「次は負けんぞ、博士。だがその前にまずは関東ジュニアオープンテニスだ」

 

 柳も薄く笑みを浮かべて、彼を迎え入れる。

 幼少の頃、かつてダブルスを組んでいた二人が再び力を合わせることになった。

 良い成績で終わろうだなんて思わない。目指すのは優勝、それのみである。乾は瞬く間にそうした柳の意思を汲み取り、同意した。

 

 「大会に勝ち進めば手塚や真田とも戦うことになるだろう。俺たちのデータを揃えれば対処法を見つけられるかもしれない。研究が必要だな」

 「ああ。それに奴らもこの準備期間で腕を上げてくるはずだ」

 「他のメンバーは?」

 「これから探す。だからお前の力が必要なんだ」

 「責任重大だな」

 

 そう呟く乾だが顔には笑みが浮かんでいる。

 厄介とも称することができる相手ばかり思い出されるが燃えてくる展開だ。何があろうとも勝たなければと思う。

 柳と乾はやる気を見せ、早速手元にあるデータの共有を始めた。

 

 

 *

 

 

 「なんだか面白いことになっているね」

 「面白くないですよ。怒られるし手首痛いし……」

 

 ぶすっと拗ねた顔の悠介を見て、尚更幸村はにこにこしている。

 彼の到着によって二人の試合は中断されてしまい、もっとやらせろと金太郎がうるさいが、面倒に感じていたリョーマはあっさり負けを認めた。どうせ一回勝ったし、と思っていたら中断されては勝ったとは思えないらしく、金太郎は鋭意抗議の最中である。

 

 近頃はあちこちへ赴いていたらしい幸村と会うのは妙に久しぶりに感じる。

 試合をするとなれば怖いと思うとはいえ、普段の彼はむしろ好きだ。

 拗ねてはいてもファンを自認する悠介はいくらか喜んでおり、当然のように彼へ笑顔を見せる。

 

 「四天宝寺の一年生、遠山金太郎君か。噂には聞いてるよ。全国大会出場を決めたらしいね」

 「へぇ。有名な子なんですか」

 「関西ではスーパールーキーと呼ばれているらしいよ。越前君と同じだね」

 「あぁ~、それで戦いに来たって……」

 「なー頼むわコシマエ。もっかいやろうや~。こんなん勝ったわけやないも~ん」

 「しつこいって」

 

 強気の主張が通らないと察してついに駄々を捏ね始めている。リョーマは面倒そうに回避しようとするのだがそれでもめげずに正面へ回って懇願していた。

 およそ“西のスーパールーキー”には見えない姿である。

 それでいてリョーマとは案外仲良くできそうなのではないかとも思い、悠介は微笑ましく二人のやり取りを見ていたのだが、幸村の視点では違ったようだ。

 

 「彼を君のチームに入れられないかな」

 「それは無理でしょう。大会に関東ってついてるくらいですから、関西の学校には話通ってないでしょうし、そもそも授業もあるでしょうし」

 「うーん、でもなんだか残念だね。彼もきっと凄い逸材だと思うんだけど」

 「確かにすごかったですよ。ちっこい奴なのにとんでもないパワーでしたから」

 「ちっこい言うなや!」

 「ちょっと落ち着きないですけど」

 「やっぱり惜しい。このまま手放すのは惜し過ぎるな」

 

 ふむふむと頷いた幸村は何か思いついたらしく、悠介に振り返ってにこりと微笑む。

 

 「氷帝の榊先生を頼って交渉してもらおうか。特例として彼だけ認めてもらえないかな」

 「えー? 無理だと思いますけどね。あの人頭固そうだし、関西の事情もあるでしょうし」

 「だけどこのまま諦めるのは悔やまれるよ。君のチームに彼が加入すれば戦力が――」

 「あれ? さっきも気になりましたけど君のチームって言ってません?」

 「あっ」

 

 悠介と幸村が異常を感じてぴたりと固まった。

 激しい交渉をしていたリョーマと金太郎も異変に気付き、二人に目を向ける。今は話を聞いておいた方が良さそうだと判断したのだ。

 

 「しまった」

 「えっ!? なんか話違いません!? 俺は幸村さんのチームに入ったんですよね!?」

 「うん、当初はその予定だったんだけどね。やっぱり君がリーダーをした方がいいんじゃないかと竜崎先生にお願いしておいたんだ。だから今は君がリーダーかな?」

 「何それっ!? ちょ、何を勝手にそんな……!」

 「まあまあ落ち着いて。ちゃんと説明するから」

 

 激しく動揺して騒ぎ出す悠介の肩をぽんぽんと叩き、ひとまず近くの椅子へ座らせる。

 幸村は普段と変わらずにこにこしており、今ばかりは敵意を削ごうという明確な考えがあった。

 

 「考えてみたんだけど、俺は試合には出られない。監督やコーチをするだけなら正規メンバーとして参加する必要もないと思うんだ。リーダーは試合に出る人間が務めた方がいい」

 「いやっ、それは……」

 「だってそうしなきゃ試合に出られないリーダーを含めて五人編成のチームになる。それだと結果的にメンバーが四人なのと何も変わらないんだ。だから俺を外して、君がリーダーになって、残る四人のメンバーを集めた方がもしもの場合に備えられる」

 「そうかもしれませんけど、えっと、色々言いたいことがあって」

 

 頭を抱える悠介はうーんと思い悩み、普段にも増して思考を素早く巡らせる。

 言いたいことはここで今すぐ言っておかなければ。今回ばかりは流石にファンだとか憧れているとか言っていられない。全く予想しなかったとんでもない事態になろうとしている。

 今ここで止めなければと、必要以上ににこにこする幸村へ訴えかけた。

 

 「事前にそれを思いついていなかったんですね?」

 「うん。全く気付かなかった」

 「俺と喋ってて気付いたわけですか」

 「そうだね。チームについて色々話したからね」

 「で、俺をリーダーにしようと。それもちょっと問題だと思うんですけど、それ以上に、なぜそれを俺に言わないんですか?」

 「……サプライズをしようと思って」

 「ひょっとして忘れてました?」

 「まさか。俺がそんなに大事なことを忘れるわけないじゃないか。ごめんね?」

 

 はははと大げさに笑って見せて、幸村は勢いでこの場を乗り切ろうとしていたようだ。

 言葉を失う悠介とリョーマは白い目をしていて、金太郎だけがなんや? なんや? と覗き込もうとしている。

 

 「まったく、少し入院していたからかな。本気でテニスができない分暗躍しようかと思ったけど意外に上手くいかなくてね」

 「暗躍って……それは別に病気とか入院関係ないんじゃ」

 「実は今日までにメンバーのスカウトも失敗していてね。氷帝の日吉君と不動峰の伊武君に断られてしまったんだ」

 「えぇ……」

 「ふふふ。まさかの反応だったよ。どうやら俺が来たのが気に入らなかったらしい」

 

 一瞬、遠い目をした幸村はすぐに笑顔でそれを隠した。

 どうやらそれなりにショックだったらしい。あぁ、と二人は妙に納得してしまう。

 

 「当初の予定では君たちと日吉君、伊武君、あともう一人を加えたチームにしようと思って、俺がリーダーになると邪魔だなと思ったわけだけど、結局そっちもダメになっちゃったね。あはっ」

 「いや笑えませんって」

 「そういうわけだから、関西のスーパールーキーをもらうくらいしなきゃやってられないよね」

 「なんか幸村さんのキャラがどんどん……」

 「退院の解放感でおかしくなったんじゃないっすか?」

 

 にこにこしているがどこか傷ついているようにも見える。

 あまり滅多なことは言えず、悠介が気まずそうに黙ってしまうものの、リョーマはやれやれと言いながら背を向けてしまった。

 わかっていなさそうな金太郎だけが小首を傾げて不思議そうにしている。

 

 「ふぅ。ちょっとはしゃぎ過ぎたことは否めない。だからやっぱり宮瀬君がリーダーになった方がいいんじゃないかと思うんだ」

 「なんとなく俺もそんな気がしてきました……」

 「ただ安心してほしいのは、君たちを鍛えると言ったことは嘘じゃないよ。本来の目的はそっちだから専念しようと思う。これからはコーチとしてね」

 

 そう言われて悠介ははたと気付いた。

 幸村は彼らを見捨てようというつもりなのではない。これからもチームの傍で支えてくれる。ただ立場や肩書きがほんの少し変わっただけだ。

 それなら、誰がリーダーになっても変わらないのでは?

 思案した悠介は好意的に受け止めようとする。責任の所在がわかって少しほっとした。

 

 「ってことは、リーダーとは名ばかりで、結局は幸村さんのチームだってことですよね?」

 「うーん、それはどうだろう。大会にエントリーされるのはリーダーだけだからね」

 「越前、リーダーやんない?」

 「やらないっす」

 「安心してよ。言ってもそれほど重労働もないからさ」

 

 幸村は気楽に見える態度でそう言うのだが、悠介にとっては気が気でない。青学だけでも桃城と海堂が、他校であればおそらく真田弦一郎や柳蓮二などがリーダーとして注目される。その中に一人だけ自分のような無名の素人みたいな男が混じっていれば必ず悪目立ちするはずだ。何より幸村が傍に居るのにリーダーではないのだから気にされないはずがない。

 将来的に起こるだろう批判の嵐を想像して悠介は震えていた。

 彼がそうしてトリップしている間に、幸村は金太郎へ大会の説明をしていたようだ。

 

 「やる! ワイも参加するわ!」

 「許可がないから無理なんじゃないの?」

 「そんなんなんとかなるやろ。それよりおもろそうやん! 強い奴いっぱい出るんやろ?」

 「もちろん。強い人ばっかりだよ」

 「ほんならやる! ほんまええ時に来たわー。幸村もありがとうな」

 「ふふ、どういたしまして」

 

 やはり今日の幸村はどこかおかしいようだ。或いはこれが本来の姿だったのか。

 出会ったばかりのリョーマには判別できないものの、乗り気になった金太郎を前にして楽しそうにしている幸村を見て、呆れた様子で嘆息する。

 その間も悠介は不安に押し潰されそうになっているのだから、面倒な奴ばかり集まっていた。

 

 「いつまでやってるつもり?」

 「はっ!? ナイフ持った女子高生は!?」

 「どういう妄想っすか。先輩も相当ヤバいですね」

 

 危機感を覚えていた悠介がようやく我に返った。

 呆れるリョーマは嘆息を禁じ得ない。

 右を見ても左を見ても変な奴ばかりだ。

 

 「ほんと、バカばっかり……」

 「ちょっと待ってくれ。挽回するから。ただリーダーだけ変わってほしい」

 「いや」

 「なんでこうなるんだろうなぁ……」

 

 こっちが言いたい、とは思ったがリョーマは敢えて言わなかった。

 悠介がしょぼくれている姿など珍しくもない。相手にするだけ無駄なのだ。

 

 話はなんとなくまとまろうとしている。

 様子がおかしい幸村がコーチに専念することになり、出会ったばかりの遠山金太郎をチームに引き入れるべく交渉するようで、リーダーは新たに悠介が担当することになった。

 それで事態は進展するだろうか。不安はあったが現時点でできることは少ない。

 

 「そうだ宮瀬君。こうなったら残るメンバーは君に集めてほしいんだけど、一人待ってほしい相手が居るんだ」

 

 晴れやかな表情の幸村が言い、対照的に悠介はげんなりした顔をする。

 

 「俺がリーダーになるのは決まってるわけですね……」

 「うん。病み上がりだから、俺は。仕方ないね」

 「ずいぶん元気な病み上がりですこと。視覚奪われましたけどね」

 「心当たりがあって、ひょっとしたら彼が来るかもしれない。だから待ってあげてほしい」

 

 悠介の恨み言はさらりと聞き流して、以前のように余裕を窺わせる態度で優しく言われた。だが先程までのはっちゃけた姿を見た後では冷静に見られない。

 彼は歴戦の猛者たる威風堂々さを発揮し、決して迷いを見せようとはしなかった。

 

 「チームの管理と残る一人のメンバーは任せてもいいかな?」

 「ノーって言えます?」

 「ああ、言ってもいいけど、聞けるかどうかは」

 「でしょうね……はあ」

 「俺は心配していないよ。君のことは柳に聞いていたから。やっぱりリーダーを務めるのはプレイヤーとしてコートに立てる人の方がいいと思う。今の俺では中途半端だ」

 

 ふざけてはいても、それは本音だろう。

 声色や態度から察した悠介は真剣に考えてみる。

 どうにも自分は自信がなくて怖がりである。つい最近まで自信を失くしてテニスと向き合うことから逃げていて、ようやく気持ちを入れ替えて頑張ろうと思っていたところだ。メンタル激ヨワとも言われてまた逃げるつもりでいるのか。

 

 迷いはあったが、ここで言わなければ前には進めない。

 ちらりと確認した二人が一年生であることも手伝ったのかもしれない。

 小声で、自信はなさそうだが悠介が意見を変える。

 

 「まあ……やってみますよ。上手くできるかはわかりませんけど」

 「ありがとう」

 「無理だって思ったら代わってもらえます?」

 「ふふ、どうだろう。考えておくよ」

 「これはないな、絶対……」

 

 悠介は大きく肩を落として嘆息した。

 ようやくか。そろそろ逃げるのをやめてこういうのもやってもらわないと。

 そう思っていたリョーマは当然のように受け止める。

 幸村は万事上手くいっていると言いたげににこにこしていて、あまり状況をわかっていないだろう金太郎はきょとんとするも、直後には何の不安も抱かずににぱっと笑っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む