ヴィルマフレアの英雄譚 (Senritsu)
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序章 『ヴィルマ』と『フレア』
第1話 吹き抜ける風と青空へ向けて



 これは、モンスターハンターという言葉が世界に広まるよりも、ずっと前の話だ。
 ハンターという職を象徴する、かの伝説の片手剣が創られるよりも、さらに遡って。
 人という生き物が外の世界へと目を向け始めた、手を伸ばしざるを得なくなった、そんな頃の物語となる。

 人々はまだ、多くのことを知らなかった。
 竜の名前はひとつに定まっていなかった。龍の存在はほとんど知られていなかった。
 未来のハンターに関わる様々なものは、発明どころか発想にすら至っていなかった。

 ただ、厄災があったことだけは知っていた。

 この物語は、閉じている。遺っているものはそこにある双剣しかない。
 未来まで継がれたが、もはや、史実か創作かすら明らかでない。逸話のみが引き継がれ、歴史は置き去りにされた。

 双剣は既に語り終えている。想像の余地を、短い詩だけを残して、閉じている。
 だからきっと、この物語は、その始まりから終わりに至るまでの過程にしかなり得ないけれど。

 古い、旧い。やっと、人が竜に触れたばかりという程の、昔に。
 殺し合って、愛し合って。醜くもあって、生々しくもあって、そんな、人らしい営みが確かに在ったのだ、と。
 それを、書き綴れたらいい。



 

 寒風の吹き荒ぶ日だった。

 粉雪は地に落ちるということを忘れ、縦横無尽に空を舞っていた。

 雲は幾層にも重なり合い、見たこともない速さで上空を駆けている。日の光など差し込む余地もない。

 周囲は夜と見紛う程に暗く、尋常でない天候であることは誰の目から見ても明らかだった。それが竜巻の兆候、いや、竜巻そのものであることを知る者もいるかもしれなかった。

 

 何にせよ、誰もが逃れなければならない場であることに違いはない。それは竜種とて例外ではない。

 アレに近づいてはだめだ。あの暴風に吞まれたなら、翼はへし折れ、脚は大地を掴めなくなる。枯葉のように成す術もなく吹き飛ばされてしまう。

 

 だから、それはただの自然の摂理として。その地に生物の姿はないはずだ。

 ただ一つの例外、この荒天を引き起こしている風が、なぜか生物のかたちに収まっているということを除けば、ただの一匹も。

 そこに留まる者がいるとすれば、それはどうしようもなく逃げ遅れてしまったか、あるいは、気が触れたか。少なくとも、多くの生物はそう見なすことだろう。

 

 今、ごうごうと唸る風の中で場違いな(こえ)が発せられる。

 

「息吹が来るぞ! ──大楯構え!!」

 

 それは精一杯に声を張った号令だった。それでもなお、強風にかき消されて数十歩の距離にすら届かない。だが、その範囲の内にいる人々に伝わるように。

 続いてがつがつと重そうな金具が組まれる音が響く。よく訓練された動きだった。風の煽りを受けながらも、地面が捲れあがったかのような木組みの壁が屹立する。

 

 そこに、姿かたちを伴わない、しかし、他の何よりも重たい砲弾がぶち当たる。

 めきめき、と悲鳴を上げて拉げるのは障壁の方だ。人であれば大槌を持って数十人がかりだろう壁がこんなにも容易くこじ開けられる。

 しかも、その隙間から吹き込んだり、逸れて回り込んだりした風だけでも軽々と人を吹き飛ばす。

 

「負傷者は撤退させろ! 第二波来るぞ、塹壕に身を隠せ!」

 

 今、この平野には小さな生物たちが忙しなく蠢いていた。あくまでこの暴風の主から見てすれば、ではあるが。

 圧倒的な自然の力に、今にも押し潰されんとする蟲のようだ。しかし彼らは、既に四半日に渡ってこの災害と対峙し続けている。

 

「大弩用意! 息吹の後は手薄だ、即座に撃て!」

 

 ごと、ごと、と物々しい姿をした荷車が運ばれてきて、これまた数人がかりで照準を合わせて鉄の針を放つ。

 横へ動くにも上下を向くにも、息吹を放つ竜たちの足元にも及ばない遅さだ。連発もできないのだろう。時間をかけて一発放ち、再装填。それが彼らの最先端だ。

 まれに風に煽られて荷車自体が横転し、巻き込まれた人が担架に担ぎ込まれる様は滑稽にすら映るかもしれない。しかし、扱う者の練度など、この暴風雪の中でどれだけ通用するだろうか。

 

 それでも、数だけはやたらと多い。まさに数を撃てば、の理論で彼らは動いていた。

 一見するとそこはただのだだっ広い平原だが、小さな生き物たち、つまり人々にとってはまさに決戦の地と言えた。雪で隠れてはいるものの、そこは彼らが大至急かつ全力をかけて作り上げた前線基地だった。

 

 膨大な金と人手をかけて。この戦いに拮抗できているかと言えば、それは否だろう。

 既に大幅に前線は押し下げられている。平原には無惨に破壊された兵器や建物が点在し、雪に埋もれている。

 山崩れに対して、人がいくら徒党を組もうとあっけなく押し流される結末に変わりはないだろう。今ここの惨状はそれに近いものがあった。

 天候に対して基本的に人は無力だ。しかし、ただひとつ、この世界の人々にこそ許されている手がある。

 

 この竜巻が生物の形に収まっていること。鋼の大翼を有し、四つ足で立っていること。

 それに尽きる。過酷すぎる環境に刻々と削られていく中で、その主さえ追い返すことができれば、それは竜巻の進路を人の手で変えたことと同義だ。

 

「外れてもいい、頭を狙え。いや、頭以外に当てても外したと思え! 外の弩隊にも伝令を走らせろ。奴が大弩を壊し尽くす前に、急げ……!」

 

 そのことが分かっているから、この場で指揮を執る彼は声を張り続けるのだ。声を枯らすことは、決して許されない。

 彼自身も戦いに身を投じる役職でありつつも、そして、彼が動かなければならない状況が迫っていることを肌で感じながら。

 拳を握り締めて、未だ立ち上がらず。仲間を限界まで使い潰す。そうでなければ勝てない。それを皆が分かっていて、それだけの信頼を得てしまっている。

 

 風切りの音はもはやそれ自体が竜の咆哮に匹敵するかのように感じられた。

 天幕などとうの昔に吹き飛ばされ、地面を掘って作った塹壕を急造の拠点としている。そしてこれより後ろには補給線しか残されていない。ここを突破されれば敗北ということだ。

 

 指揮を執っていた男は、寒さで口元を震わせながら、絶対的な力に対する恐れを自覚しながら、しかし口角を持ち上げてみせた。

 それは、彼らにとってすればいつものことでしかなかったからだ。

 

 いつだって彼らはそうだった。今回はそのなかでもとびきりの危機と言えるものだが、これに近しいものなら、いくらでも。

 相手は人よりも遥かに強大でかつ、種が違えば何もかもが異なる。

 組み上げた作戦は九割方何の意味も成さず、臨機応変という言葉は理想でしかなく、追い詰められなかったことの方が珍しい程で。

 

 本当に、この世界でどうして未だ人が生きていけているのか、不思議なくらいだ。

 

「観測員より報告! 鋼の龍の頭部より出血を確認……! アレも、血を流すモノだとは!」

「落ち着け。あれは生き物だと何度も言っただろうに。……だが、朗報ではある! ここで畳み込ませてもらおう!」

 

 息も絶え絶えに駆け込んできた伝令を諭しつつ、彼は立ち上がった。周りの仲間もそれに続く。

 それは決して、勝利の手柄のみを取りに行く行為ではない。まともに動ける人員がもうほとんど残されていないという、単純明快かつ指揮者としては忌避すべき事態に陥った。

 自らを、死地に飛び込む駒として扱う時が来たということだ。

 

 強風に耐えて身を屈ませながら、吹き荒れる風の中に身を晒す。

 威風堂々とは程遠い。しかし、このとき彼の視線は確かに、この激戦の相手と真っ向からぶつかりあっていた。

 海のように青く深い、鋼の龍の瞳は彼を確と捉えていた。

 

「できる限りの足止めを!! その上で、ここに突っ込ませろ!」

 

 剣を抜いたりはしない。楯も構えない。これは人同士の争いではないのだから。

 傷つき倒れた工作兵の補充要因として、その部隊の元へ駆け寄りながら指示を飛ばす。

 

 彼が指示を出した足止めというのは率直に言って囮のことであり、つまるところ死んでこいと言われていることに等しい。

 それは彼とより親密な間柄の仲間が積極的に請け負った。彼には人望があり、彼もまた仲間に全幅の信頼を置いていた。死んでこいと言われて素直に従うほど柔な連中ではない、と信じている。

 

 鋼の龍は未だ健在だった。むしろ活力に満ちてさえいた。まるでこの吹雪から力を受けているかのように空を駆けている。

 しかし、無傷ではない。血を流している箇所もいくつかある。

 特に頭部を覆う鋼には罅が入っているようだった。故にこそ、かの龍はこの争いに飽きもせず苛立ちを募らせているのかもしれなかった。

 

 かくして。現実には短いながらも、身も心も擦り切れるような時間が過ぎ去っていく。削り出されていく。

 防護壁は砕かれて大弩も吹き飛ばされた。鋼の龍が近づくだけで何もかもが押し退けられていく様は、人知を超えているようにさえ思えた。

 

 残りの地虫はあと何匹だ、と。鋼の龍は周囲を睨めつける。不快な感触は未だ拭い去れないでいる。

 かの龍にとって大弩の鉄の杭は珍しく痛いと感じたが、残りのほとんどはそもそも届かないか痒みと大差ない。

 そんな健気な抵抗をしている者が残っている。これまでに相当な鬱憤が溜まっていたのだろう、鋼の龍は目の前の景色そのものへ向けて、特大の息吹を放った。

 

 息吹はそのまま地面を這う竜巻と化した。もはや阻む盾もなく、もとは草原だった雪原が風に蹂躙されていく。巻き込まれた人がいたのだろう、風の一部が血飛沫に染まるのも見て取れた。

 抵抗勢力は、ない。それでも鋼の龍は地に降り立って様子を伺う。

 種として敵が少ない鋼の龍に用心の概念はほぼ無いが、どちらかといえば、今回歯向かってきた地虫たちのあまりのしぶとさに疑い深くなっている様子だった。

 

 故に、またしても飛来してきた小物を見て、煩わしそうに風をぶつけて、地面に叩きつけて。

 それが生きた光蟲であることに気が付かず、眩い光がその視界をひと時の間奪った。

 

 この龍が悠久の時を生きた個体であれば、この時にあえて空へ飛び立ったり、何かに衝突することも覚悟でその場から離れたりすることができただろう。

 しかし、ここにいるかの龍は反射的にその場で身構えてしまった。白んだ視界が戻るまでの間、その場から動かないことを選んだ。結果的にそれが、決定的な隙となった。

 

 鋼の龍は風の鎧を纏う。それは弓矢程度であれば容易にはじき返す強固な護りだ。

 ただ、風は音を発する。そして匂いを吹き散らす。強く纏うほど、音や匂いを上書きしてしまう。

 それはかの龍にとっては弱みになり得る要素ではあったが、それを知るには、かの龍はあまりに強すぎた。

 

 大きく粗い音が響き続けていた戦場で、足音すらも隠すように鋼の龍へ忍び寄る人々の姿。

 向かい風に抗うように数人がかりで押して運ぶ荷車には、厚い布が幾重にも貼り付けられていた。

 知らず知らず、これまでの生を視覚に偏って頼っていた鋼の龍が、ごとんと間近で響いた音に驚いたときには。嗅ぎ慣れない臭いを感じ取って、逃れるよりも先に訝しんだときには。

 

 龍の風圧を掻い潜り、最も危険で失敗できない火付け役は、これまで指揮を執っていた彼が担った。

 

 爆炎が咲く。衝撃波が舞い散る雪をはね飛ばす。

 現状、人々の知る唯一の火薬という道具の使い道は、爆弾という極めて単純なもの。近くに対象がいなければ意味がない。だから、そうできる状況を整えた。

 

 鋼の龍の眼前で炸裂したそれは、その図体を仰け反らせる程の強烈な一撃となった。

 天を仰ぐ龍の頭部で。その角の辺りに入っていた罅がより深く広がっていき、ついに、砕け散った。

 その日、人々は初めて龍の悲鳴というものを聞いた。

 

 地面に倒れ伏した鋼の龍に対し、追撃を仕掛ける余力は人々の側には残されていなかった。これで進行を止めないようであれば撤退だ。

 龍の目的は人ではなくどこかへ向かうものであったと思われるが、それをわざわざ地上から挑発したものだから。かの龍がどのような判断を下すかは五分五分だ。

 少なくともこれだけで死にはしないだろうことは誰もが察していたし、この荒天が未だ晴れていないことから明らかだった。

 しかし、心なしかその風がほんの少しだけ和らいだような。

 

 鋼の龍が身を起こす。自らを襲った爆発の跡と、その周辺にいる人々を一瞥する。

 そのまま、数秒の沈黙があって。

 

 ふわり、と。地を歩くときには鎧武者のような鋼の音を響かせているのにも関わらず、その飛翔は体重を感じさせないほどに軽やかだ。

 たった数度の羽ばたきで、人の手の決して届かない高空まで飛んでいく。地上に降り立ったのは本当にただの戯れだったのではないか、と、人々にそう思わせる程に見事な飛翔だった。

 

 そして、鋼の龍が再びその戦場に降り立つことはなかった。

 前線基地の背後に築かれた街から、少しだけ。嫌がるように進路を変えて。

 地に縛られた人という小さな生き物を置き去りにして、鋼の龍は飛び去って行った。

 

 過ぎ去っていく吹雪を、人々は呆然と見上げる。自分たちの為したことが飲み込めないまま、ただ粉雪だけが地面をさらっていく。

 

「……目的は、果たされた! 我々の勝利だ!!」

 

 最初にそう宣言したのは、前線で指示を飛ばし続け、決め手を担った彼だった。

 どうせ掠るだけで致命傷なのだと上官らしからぬ軽装で戦場を駆けた彼は、未だ青年だった。

 

 その宣言を皮切りに、周辺から次々と歓声が上がる。あと僅かなところで耐え抜いた前線から、飽和しつつあった救護室から、今まさに担架で運ばれていく人までもが。

 打ち倒してもいない。撃退できたわけでもない。ただ、ほんの少し嵐の行先を逸らしただけ。

 ただそれだけのことが筆舌に尽くしがたいほどに困難で、きっと何よりも価値のある結果だった。紛れもない功績だった。

 

 拳を掲げてみせた青年の元へ、仲間たちが駆け寄っていく。血を流していたり、足を引きずっていたり、無事な者は誰一人としていない。けれど、皆笑顔だ。

 この後しばらくすれば、死傷者の確認と戦場の後始末が始まる。そうなれば笑顔のままでもいられなくなるだろう。けれど、今この時だけは生きている者同士で喜び合えるように。

 

 そんな雰囲気の中、今は目立たずに放置されてしまっている。

 砕け散った荷車の残骸に混じる、鈍色の破片。

 この戦いの収穫として、この場に用意された兵器全てと秤にかけても釣り合いが取れる。風を駆ける鋼の龍の角の欠片だ。

 彼らがそれに気づき、拾い上げるのはもう少し後の話になるが、今は流石に仕方がないと言えた。

 

 厚く空を覆っていた雲に切れ目ができて、陽の光が粉雪に反射して柱のように戦場に差し込んでくる。

 彼らが見上げた青空は、きっと、心の底から待ち望んでいたものだ。

 





作中設定解説

【大弩】
移動用の車輪を備え付けた大型の弩。火薬を用いない構造で、未来に登場するバリスタとは似て異なる。
この時代の最新の対竜兵器。弓矢よりも高い威力を発揮するが、重くかさばるため運搬に難がある。


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第2話 火と灰に塗れた大地へ向けて

 

 

 もし、地獄というものが実在するとするなら。

 それはきっと、今この目の前に広がる光景を指すのだろう。

 

 森が焼けていた。火を吐く竜が暴れても燃え広がらない程にたくましい深緑の森が、今や真っ赤な火の海と化していた。

 火災の規模に比べて、煙の量は少ない。燻るような燃え方はしていないということだ。炎が吹き上げる風によって雲が作られて雨を降らせているが、それも空中で蒸発してしまう。

 

 何もかもが焼けて辺り一面灰となった地で、ひとりの少女が立って歩いていた。

 浅く息をする。その度に煤が肺に入り込んで咳をする。激しい頭痛が酸欠によるものだと知らないまま、幽鬼のようにふらふらと歩いている。

 

 その周囲には、かつて彼女と同じ部隊だった人々がいた。

 今はもう、それが誰かを判別することもできない。もはや原形を留めてすらいない、黒焦げになった人形があちこちに転がっている。

 死屍累々。そんな光景が、延々と続いている。

 土の焼ける匂いに混じって、何か、おかしな臭いが混じっている。生身の人を焼き焦がしたらこんな臭いだったっけな、と、少女は場違いなことを思った。

 

 そう、さっきまでは生きていたのだ。つい数日前まで、言葉を交わしてすらいたのだ。

 寄せ集めの部隊だった。固い絆で結ばれた、とか、そういうのは全くなくて、少女自身もよく分からないものではあったが。

 

 頼りにしていると頭を撫でてくれた人がいた。気味が悪いと言いながらも食糧を分けてくれた人がいた。

 欲を持て余して寝込みを襲うような人もいた。それを諫めて部屋を分けるべきかと提案してくれる人もいた。いろんな人がいた、はずなのに。

 今、傍で倒れている人を持ち上げても、それが誰かなんて全く分からないくらいぐちゃぐちゃになってしまっているだろう。

 

 ああ、と少女は呟いた。今回は、いつにも増して酷い。

 

 向こう側を見れば、まだ生きている人もいる。殺されても、殺されても、次がいる。それが少女を含めた人々の唯一の取柄だった。

 粗鉄でできたなまくらな剣を掲げて、愚直に突貫していく。数秒後にその命は尽きるだろう。

 ……ほら、少女の思った通りだ。一瞬で炎に包まれて、小さな灰の山ができあがる。あれでは遺骨すら残らない。

 

 いっそのこと逃げてしまえばいいのに。とは思わなかった。これだけの火事だ。逃げたところで火に囲まれて死んでしまう。

 土を掘ってやり過ごそうにも、その土すらも深くまで燃えている。惨い死に方になることは目に見えている。

 逃げる術がもうないから、自棄になって立ち向かっていくのだ。その突撃に希望なんてなかった。むしろ、いっそのこと早く殺してくれと願って向かっているのかもしれなかった。

 

 また一人、また一人と。まるで果実を摘むように命が失われていく。

 陽炎がゆらゆらと揺らめいて、その真ん中にかの龍はいた。

 

 名前なんて知らない。そもそも、この山火事が何かの生物によって引き起こされたものだなんて誰も思ってはいなかった。

 一対の翼、四本の脚。真っ赤なたてがみに、蒼い瞳。場違いなまでに蒼く、美しい瞳。

 ふと、その龍と目が合ったような気がした。そのついでに、また一人死んだ。少女は、拳を握り締めた。

 

 別に、この龍に対して怒っているわけではない、と少女は走りながら考える。かつて人だったモノを跨いで、踏み越えながら走っていく。

 いや、少しは恨みというものもあるのかもしれない。かといって憎むことができるほど、少女は周りの人々との関わりを持っていなかった。

 それに、最初にこの龍に手を出して、火災をここまで広げさせたのは人の方なのだ。ある意味で自業自得なのだと少女は思っている。

 

 ならば、この胸の内にある強い感情はいったい何なのだろう。自分はいったい何に突き動かされて、他の人と同じように駆けているのだろう。

 分からない。少女にはまだ分からなかった。それを言語化できる程の教養なんて身に着けていなかったし、今はそんなことを考えている場合ではなかった。

 

 炎の龍が唸る。その顔には心なしか、疲労が滲んでいるように見えた。

 無理もないかもしれないと少女は淡い共感を覚える。最初こそ怒りに身を任せて暴れ回っていたが、それももう数時間前の話だ。

 この龍はもう何人の人を殺しただろう。千だろうか、万だろうか。数えきれないくらい、ということだけは分かる。

 自分の意識の外で勝手に死ぬのならまだいい。人々が歩くだけで知らず知らず踏み潰している虫がいるように。それを考え出すときりがない。

 今回はそれとは違う。明確な意志を持って、殺そうとして殺しているのだ。

 

 かつて、一時にここまで多くの命を奪ったことがこの龍にはあるのだろうか。こんな愚かな歯向かい方をするのは、たぶん人くらいのものだ。

 さぞ気味が悪いだろう。際限がないのかというくらい、延々と、得体のしれない生き物の断末魔を聴き続ける。後味はとても悪そうだ。

 

 龍の吐く炎からはもはや作業じみた単調さを感じた。それだけで簡単に何十人も死んでいったのだから無理もない。集団で盾を構えたところで、その盾が融け落ちて自らに降りかかるだけだったというのに。

 眼を動かし、その炎を掻い潜る。背中に激しい痛みが走って、装備越しに焼けている感じがした。別にいいのだ。これから全身そうなるのだから。

 

 焔の吐息を突破してきた少女に対して、炎の龍は僅かに驚いたように眦を上げると、翼を軽くはためかせた。

 灰が巻き上げられるが、その中にうっすらと赤い粉のようなものが混じる。ちりちり、という細かな音も聞き取れた。

 数瞬後に起こることを察して、少女は身を仰け反らせてその場から飛び退く。それとほぼ同時に、がちっという歯を噛むような音がした。

 その目の前で、何もないはずの空気が連鎖的に爆発を起こす。人々が苦労して作る火薬の爆弾を軽く超える威力だ。

 辛くも余波を受けるだけで済んだ。飛んできた灰が目に入って痛かったが、それだけだったことが幸運だ。

 

 この攻撃を凌ぐことができたのも、その前に炎の龍を取り囲んで牽制しようとしていた人々が木端微塵になったのを見てきたからだ。

 ただ、誰かの犠牲で得た学びだなんて絶対に言うもんかと少女は思う。彼らの死に意味を見出すことなんてしたくなかった。

 

 爆発による土煙が晴れて、未だ少女が立ち続けているのを見て、炎の龍はようやく少し目の色を変えた。

 少なくとも、少女が死ぬために突撃してきたわけではないことを悟ったようだ。

 

 前脚で引っ掻く。もう何人もその手で引き裂いただろうに、鋭利な爪はまだ鈍ることを知らないし、肉が爪の隙間に詰まっても、たちまち焼け落ちてしまうのだろう。

 両脚で駆ける。その脚で蹴り飛ばされれば、人の身体はまず曲がってはいけない方向に曲がる。ただ、それは別に他の竜だろうと変わりはないか。

 尻尾で薙ぎ払う。それだけを見ればいいのではなく、尻尾の周りに先ほどの塵が舞っていることに気付けなければ、その数秒後には爆発に巻き込まれて即死する。

 

 もう何もかもが人の死に結び付いていて、その全てが焼けているというのに、龍の全身から死の匂いが漂ってくるようだった。

 

 ああ、熱い。嫌になる熱さだ。

 焚火で暖を取るにしても、その火の中に直接手を突っ込むような真似をする人はいないだろう。そんな例えしかできなさそうな熱さだ。

 装備が燻り始めているのを感じる。既に顔は焼け爛れていて目を開くのも億劫だけれど、装備まで焼けてくるのは嫌だなと少女は思った。裸で戦うなんて正気の沙汰じゃない。

 

 こんなことになっている理由は、かの龍の近くにいるから。ただそれだけ。炎の龍はその名の通り、全身に火を纏って近寄る者を炙り続ける。

 もう人という生き物を殺すことにかけては完璧と言ってもいい。私たちが立ち向かっていい存在ではなかったのだろうな、と少女はしみじみと思う。

 

 隙らしい隙も見当たらず、動けるだけ動いてみたけれど、笑ってしまうくらい生き残れる見込みがない。

 投げやりになって雑に特攻していく人の気持ちも分かる気がした。今、まさに自分がそうして剣を抜いているのだから。

 少女の視点から離れて、第三者の視点から見れば、彼女は炎の龍を相手に凄まじい立ち回りをしていたのだが、当の本人の気分は何も波立ってはいなかった。何かの感情を薪にして動く何かでしかないと考えていた。

 

 いつしか、炎の龍の瞳から憐れみのようなものが感じられたような気がして、少女は苦笑いを浮かべた。

 もしその感覚が合っていたとしたなら、この龍も災難なものだ。こんな人如き、何の想いも抱く必要はないだろうに。

 そんな皮肉とは裏腹に、想いはより強くなっていく。せめて一撃は見舞ってやるという想いが。たぶん自分は、怒っているみたいだけれど、と少女は内心で他人事のように首を傾げた。

 

 もう残された時間は少ない。本当に装備に火が付いてしまう。

 というよりも、この剣が溶けてしまうのではなかろうか。流石に素手で殴っても相手は痛くも痒くもないだろうし、それをすればこの腕はすぐに炭と化して崩れ落ちるだろう。

 だからもう、とりあえず。喉が焼けるので息を止めて、噛みついてくるのを寸前で避けて肉薄して。

 

 えいっ、と。なまくらの剣をかの龍の角にぶつけてみせた。少女の身の丈よりも大きい、王冠のようにも見える角だった。

 

 当然、斬れない。少女としてはそれなりの力を込めたつもりだったけれど、少しも食い込むことなく弾かれる。

 それはそうだろうな、と納得し、隙を晒したことで殺されるだろう自分の姿が思い浮かんで、少しだけ身を強張らせた。そのときだった。

 

 ぴし、という、何かが割れたような音が響いた。

 少女は自分の剣が砕けたのだと思った。熱にやられて脆くなっていただろうから。しかし、剣の方は少しへこんで曲がっただけで折れている様子はない。

 その後に、炎の龍の方を見て。

 その巨体が雷に打たれたかのように仰け反っていくのと、剣を当てたところの角が、罅割れて砕けていく様を目にした。

 

「え?」

 

 そんな少女の素の声と、ごとん、と角の欠片が地面に落ちる生々しい音が重なった。

 少女は困惑する。いったい何が起こったのか。

 自分がそんな、重い一撃を当てたなんて思ってもいない。理屈としてもおかしい、もしそうなら自分の剣は根元から折れているはずだ。

 

 そう言えば、と少女は思い返す。今更になって思い出したけれど、この戦地へと向かわされる前に、部隊の全員に向けて指示が出てきた。たしか、頭だけを狙えとか、そんな内容だった。

 その指示を守れた人は果たして何人いただろうか。十人に一人よりももっと少ないだろう。大部分は何もできずに死んでいったはずだ。

 ただ、運よく攻撃を当てることができた人が、あの指示に律義に従っていたとするなら。

 その傷が重ねられて、既に罅は広がっていて、今の攻撃が止めになったということになる……のだろうか。

 俄かには信じがたい。あれほどの存在を前に、そんなことはありえないはずだけれど、少女はそれくらいしか思いつかなかった。

 

 十数秒、少女は剣を振り下ろした格好のままで呆然としていた。

 そして、炎の龍が起き上がるのを見て、我に返る。

 

 そうだ。龍はまだ角が折れただけで死んではいないのだ。むしろ人への怒りを取り戻させてしまったかもしれない。そうなってしまえば、やはり少女が死ぬ未来に変わりはないだろう。

 

 ゆっくりと起き上がった龍は、彼もまた痛みよりも驚愕の方が上回っているようだった。

 呻き声にも聞こえるような唸り声をあげて、眩暈を振り払うように首を振り、そして、ちらりと少女に一瞥をよこした。

 

 翼を広げる。その大翼は未だ健在で、けれど、これまでのような翼で熱風を叩きつける仕草とは違う。

 かの龍は地上を見なかった──空を、見ていた。

 少女の口から再び「え?」という戸惑いの声が漏れ出た。

 

 そんな彼女を無視して、炎の龍は何度か羽ばたいてから一気に空高く飛び立つ。

 尋常でない数の人の命を奪い、その分だけ駆け回っていただろうに、その疲れとはまた別と言わんばかりの飛び方だった。

 あっという間に人の手には届かない域まで舞い上がり、遠く山の麓まで達している火の海と戦場を見渡す。しばらくしてその身を翻し、もう振り返ることはなかった。

 

 あ。と、少女はまた場違いなことを思う。

 あの方向は、かの龍が進んできた道のりとは少し方向がずれている。人々が集う都市からは逸れていく方向だ。

 つまり、かの災いを退けろという、偉い人の本来の目的は達成されたということだろうか。

 

 彼からしても、もうしばらくは人なんて見たくもないだろう。嫌気が差したとでも言いたげな立ち去り方のようにも見えたから。

 そう考えると、彼らを追い返す手段は何も、戦いを仕掛けて打ち勝つだけとは限らないのかもしれない、などと。

 

「……え?」

 

 少女の口から三度続けて零れ出たその言葉は、自らの頬を伝う雫に気付いたことによるものだった。

 どうして、と少女は戸惑う。なぜここで自分は泣くのか。いや、実のところずっと涙を流していて、それがかの龍の熱気で蒸発していただけだったのかもしれない。そうだとしても、だ。

 

 痛いから泣いているのだろうか。確かに、素肌を晒して焼け爛れた頬はすごく染みているけれど。

 生き残れたから泣いているのだろうか。生き物の本能として。それはまあ、生き残ることはかなり諦めてはいたけれど。

 仲間の死が辛いから泣いているのだろうか。それで泣くことができるほどに自分はできた人だっただろうか。悲しいことではあるかもしれないけれど。

 

 それでも、少女の涙は止まらなかった。

 思い出したように強い喉の渇きが来て、もう少しで破けそうな革袋の水を飲み干した。蒸発してすっからかんになっていると思ったけれど、栓をしていたおかげで熱湯と化すだけで済んでいた。

 涙も拭い取って口に運ぶ。山火事による雨はもうすぐ晴れる。焦土と化したこの地で、水は何よりも貴重になるだろう。

 

 ようやく考えることに頭を使えるようになってきて、胸の内から湧き上がって涙となって出てきているこの気持ちは、おかしい、であることに気が付いた。

 可笑しい、ではなく、変だ、の意味合いだ。今のこの状況の全てが受け入れ難くて、少女は泣いているのだった。まるで駄々っ子のように。

 

 だって、これだけの人が死ぬ理由がない。こうでもしなければもっとたくさんの人が死んでいたかもしれないなんていう理屈では納得できない。

 今この場に延々と続いている光景を見ても、そう言えるのであれば、少女はそれにこそ大きな怒りを覚えるかもしれない。

 死ぬにしても、もっとましな結末があるはずだ。こんな、無造作にくべられた薪のような死に方なんて。いや、薪ですら手際よくくべて暖を取るという役目を見出すこともできるから、それにも劣るというのか。

 炎の龍の方もきっとうんざりしていた。命のぶつかり合いなどという大義名分なんて全くなくて、ただ人の命を湯水のように使って、炎の龍の尊厳を傷つけただけだった。

 

 そう、少女は尊厳というものを知っていた。その意味を教えてもらっていた。少女の境遇から理解に至ることはできないはずのものを、切々と教えてくれた存在がいた。

 ここには、そんな理想から真逆に位置するような景色が広がっている。人も、竜も、この大地も痛めつけるだけ痛めつけて、後には炭と灰しか残っていない。

 尊厳なんてどこにもない、自分も含めて、ただただ惨めでしかない。

 

 生き残りは何人いるのだろうか。この報告を受けて彼らの上に立つ者は何を思うのだろうか。

 規模が規模だから、慰め程度の検死や遺品整理は行われるだろうか。少女と関わりのあった人の痕跡を見つけることはできるだろうか。

 

 死んでいった彼らに何ができるとは言うまいが。

 したくもない憐れみを覚える以外に、何を感じろというのだろうか。

 

 焼け爛れていた空が晴れる。雲の向こうには虚ろなまでに青い空が広がっている。炎の龍が飛び去ったことによって、少しずつ火の手が収まっていく。

 垣間見える青空を見たくなくて、少女は足元に視線を寄越した。未だ熱を発し続けているかの龍の角の欠片と共に、無数に広がる死体の中心に佇んでいた。

 

 その手には粗鉄の剣が握られたまま。強く強く、うっ血するほどに固く拳を握り締めて。

 

 社会にも世界にも疎い、しかし、この時代というものを誰よりも実感している少女は。

 この世界でどうして、人という生き物が生きていけているのか、それだけを考えていた。

 

 



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第一章 誉か、咎か
第3話 相反属性


 

 

 あの日の出来事から、何月か経った。

 

 北の大地に竜巻が吹き荒れて、西の大地でかつてない規模の山火事があった。そんな噂が世間で広がったが、当事者ではなかった人々には次第に過去の話として認識されつつあった。

 これで都市が滅んだり、大きな権力が傾いたりしていたなら、また話は違ったのかもしれないが、そうはならなかったものだから。

 むしろ、それらと人が争ったということすらうまく想像ができずに、ただ単に天候が悪かった、被害を免れたのは偶然だろう、と思っている人の方が遥かに多いのかもしれない。

 

 だとしても、忘れ去られる出来事にしたことこそを誇ろうではないか、と。

 北の竜巻を凌いでみせた青年は、そう言って祝宴を催した。

 

 雪が融けて人の往来がしやすくなった頃合いに各地へと招待状を送り、身分を問わずもてなしをすると約束した。

 年若く人脈もあるとは言えない彼が呼びかけられる範囲には限りがあったが、招待状に記された「龍」という単語が、彼の足りない分の知名度を補っていた。

 

 

 

 かくしてその夜、彼は祝杯をあげるべく壇上に立つ。

 その背中には一本の鈍色の長剣が担がれていた。無骨で粗削りな外見に反して、ただならぬ気配を宿している。

 祝いの場に集った人々の視線を浴びながら、未だ年若い彼は朗々と挨拶を述べる。

 

「皆々、今日ここに集まってくれたことに感謝する。特に遠方から長旅を経て訪れていただいた方々には深くお礼申し上げる。

 改めて歓迎させていただこう。……ようこそ、東シュレイドの前線都市リーヴェルへ! この城に住む者は竜専門の戦士ばかりだ。堅苦しさは抜きにして祝宴に興じていただきたい」

 

 青年はそう言って盃を持った。細かい作法に違いはあれど、この程度であればどの地域でも共通だ。場にいる人々もそれに倣う。

 あまり長い挨拶をしても料理が冷めるばかりだ。早々に切り上げたいとは思いつつも、これだけは言っておこうと青年は表情を引き締めた。

 

「幾月か前、風を纏う鋼の龍が空へ限りなく近い山(ヒンメルン)を隔てた先の街道に迫り来て、我々は辛くもこれを退けた。

 同時期に、かの隣国の西シュレイドでも炎を纏う龍が現れ、我々と同様に街道を守り抜いたのだという」

 

 少しばかり会場がざわつく。それは炎の龍のことを知らなかったからというより、彼の口から西シュレイドという言葉が出てきたからだ。

 ただ、そんなざわめきを意にも介さず、気を揉む必要はないとでもいう風に彼は話を続ける。

 

「西シュレイドと東シュレイドを繋ぐ街道はひとつのみ。どちらが破られたとしても国益を損なっただろうことは間違いない。それは多くの者が認めざるを得ん事実だろう。

 政治は切っても切り離せないものとはいえ、せめて我々は竜に対して真摯に向き合い、此度のような結果を純粋に喜ばしいこととして受け入れたいと願う。

 ……たとえこの場には居なくとも、二つの災いを払いのけた功績が、明日への礎となるように!」

 

 青年が盃を掲げ、乾杯、と。それが宴の始まりの合図となった。

 静かだった会場に雑多な話し声が広がっていく。青年も壇上を降りて人の群れの中に混じった。

 

 立食形式で、卓に並べられている料理には肉や魚が多い。穀物は少ないが、代わりに果実や葉野菜で補っている。

 目を引くのは丸鳥の姿焼きだろうか。辺境から来た貴族が持ち寄ってきたもので、この辺の鳥とは比べ物にならない大きさに驚く人は多いようだった。

 

 貴族たちの服装は豪華なもので、装飾の少ない広間ではやや浮いているように見える。しかし、流石にこの手の催しには慣れたものなのか、振る舞いには余裕があった。

 むしろ落ち着かない様子なのは、ここを本拠地とするはずの青年の仲間たちだ。ある程度の教養と話力を兼ね備えた面子を選んだはずだが、慣れない服を着て柄にもなく緊張しているらしい。

 この辺は仕方がないと青年は無理強いせず、自分から率先して話しかけに行く。彼自身にとってもリーヴェルの外から来た貴族と話せる機会は貴重だ。

 

「ふむ。やはり西シュレイドにも竜の被害はある、と……火の竜、リオレウスと言ったか。何度か話は聞くが、あまり北には来ない種なのかもしれない」

 

 例えばこうして、滅多に聞くことのない隣国の情報を仕入れることができる。敵国と訳す者も多くいたが、青年にとっては些事に過ぎなかった。

 天災に対する祝勝会の名目で開かれた宴であるからか、自然と話題は竜やそれによる被害に関するものへと移っていく。

 

 竜を巡る話は意外と複雑で、それが青年たちを政治から遠ざけている要因でもある。

 彼らの立ち位置は基本的に災害と同じだ。決して無視のできない被害を社会に与えうるが、人の思惑に従って動くわけでもなく、人がどうこうできる相手でもない。

 つまり、西シュレイドと東シュレイドの双方を脅かす第三勢力として扱われている節があった。共通の脅威とも言えるか。

 竜による災害に対処するには専門性が必要なものだから、人を相手取る軍隊はあまり干渉せず、その分野に特化した部隊が編成されていた。

 この青年が率いる兵団はまさにそれで、国の情勢に頓着しないのもそういう背景からだった。

 

「変わった怪物と言えば、今食べている蟹……これを遥かに凶悪にしたやつがいてな。現れたが最後、なにもかも切り刻まれてしまう。開拓地の数ある脅威のひとつに過ぎないんだが」

 

 そう語ると、貴族たちは何とも言えないような表情を浮かべた。

 知識として聞くに留めて、できるだけ関わり合いになりたくないという気持ちが透けて見えるようだった。

 竜から得ることのできる毛皮や牙、辺境の開拓地などの情報を得ることができれば、利権や商売に話を繋げて旨みを得ることができるかもしれない。

 しかし、それを目論むには皆があまりにも竜について知らなさすぎるのだった。

 未だ憶測や迷信が飛び交う分野だ。下手な手出しはむしろ痛い目を見ることだけは貴族もよく知っている。

 

「あの、ヴィルマ様と言いましたか。貴方の背負っているその剣は……」

「あぁ、これこそが我らがかの大竜巻を凌ぎ切った証、氷の剣だ。

 本来武器など宴会の場に持ち出すべきではないが、これはこの宴の主演と言えるものだからな」

 

 ドレスに身を包んだ女性がおずおずと尋ねると、名を呼ばれた青年──ヴィルマは特に隠すようなこともせずに答えてみせた。

 おお、と感嘆の声が周囲から零れる。ヴィルマの背丈ほどもあるその長剣は否応なく人々の目を引き、そして意図せず威圧してしまっていたのだろう。

 彼が素直にそれを詫びると、人々の恐れは薄れ、好奇心の方が上回ったようだった。

 

「戦人の担ぐ弓や剣に比べると少々大きいようですが、これは竜を相手取るため、と?」

「大きすぎる、くらい言ってくれてもいい。その通り、これは人を斬るための剣ではなく、竜を斬るための剣だとも。

 ……ただ、言っては何だが私でも手に余る代物でな。実際に竜を斬れるかは、まだ分からない」

 

 そう言いながらヴィルマは剣の柄を手に取ろうとして、止めた。その仕草に首を傾げる貴族たちに向けてやんわりと微笑む。

 良ければその際の話を聞かせていただければ、と彼らが言うので、ヴィルマは景気よく当時に出来事を語って聞かせた。

 この場に機密にうるさい士官が居たら大いに睨まれていたかもしれないが、ヴィルマの思惑はまた違うところにあるため躊躇はなかった。場が盛り上がればそれで良いのだ。

 

「龍、と言いましたか。まるで御伽噺のようですが、その角を折ってみせるとは。我が国はあなたがいる限り、竜の災いに悩まされることはなさそうですな」

「できればそう在りたいものだが、まだまだ戦力の強化は必要だ。

 占いの者たちから聞いた話によれば、我々のかち合った鋼の龍と、西で広く森を焼いた炎の龍は、互いに争って元から傷ついていた可能性が高いということだ。

 我々が辛くも窮地を凌げたのは、彼らの疲弊に依るところが大きいのだろう」

「ははあ……占いの者たち、と言いますと、災いを予言するあの方々のことでしょうか」

 

 その問いにヴィルマは深く頷き返した。

 古龍占い師、と呼ばれることもある彼らは、国の垣根を超えて流浪している変わり者たちだ。そのほとんどが竜人という長寿の人種であり、占いと銘打ちつつもその取り組みは学問や研究に近い。

 今回、ヴィルマたちが鋼の龍を相手に大規模な拠点を作って迎え撃てたのも、彼らがその進路の予測を立ててくれたからだ。

 いささか予測が遅すぎるし、あてが外れることも多々あるけれども、何も知らないまま突っ込まれるよりは遥かにありがたい。

 

 龍たちが飛び去って行った後も彼らは調査を続け、ヴィルマにひとつの忠言を寄越した。

 決して人の力が龍に届いたわけではなく、此度は運が味方をしたと思った方が良い、と。

 まだ、龍という災害に人は太刀打ちできない。龍同士で争い、消耗した後に追い打ちをかけるようにしてようやく得られた結果だということだ。

 それはあの場で戦った兵士たちを落胆させるものではあったが、ヴィルマは素直にその忠言を聞き入れて、彼らの推測は当たっているだろうと受け止めていた。

 

「そうだ! この話題になったからには、ぜひとも聞いておきたいことがある」

 

 当時の出来事について話している間に、あることを思い出してヴィルマは声の調子を上げた。あえて周りの人々にも聞こえるように話す。

 

「もともと消耗していたとはいえ、鋼の龍はそれでも圧倒的なまでに強かった。恐らくは西シュレイドが対処した炎の龍も同じだったはずだ。

 我々の戦いは先に語った通りだが、彼らは如何にして炎の龍を退けたのだろうか? 何か話を知る者がいれば、ぜひお聞かせ願いたい」

 

 それはこの祝宴におけるヴィルマの目的のひとつだった。

 ヴィルマは己の立てた作戦には未だ粗が多いと感じている。良い成果を引き当てられたにしろ、だ。

 西シュレイドの炎の龍についての情報は全くと言っていい程に得られていない。街道は無事であったという結果が届いているだけだ。

 全く同じ作戦ということはないだろうから、そこから学びや知見を見出すことができないか、と思っての呼びかけだったが。

 

「……いない、か。いや、気にすることはない。少し興味があっただけだからな」

 

 声を上げる者はおらず、再びヴィルマがその場を取り持った。

 自分のところに話が来ていないだけで、人脈の広い貴族や商人たちならあるいは、と思ったが、やはり仲の良くない隣国の情報はそう易々とは出回らないようだ。

 多少残念に思うところはあるものの、気を取り直し、いくらか食べ物を口に運んでから貴族たちの輪の中に入っていこうとした。

 

 ふと、人混みの中に、変わった服装の少女を見かけた。

 

「……?」

 

 あのような姿の者が来賓にいただろうか。壇上に立ったとき、一通り見渡したつもりだったが。

 衣装は他の貴族に比べると質素なものだが、頭から薄い布を被せて顔と髪を覆っている。どことなく不思議な雰囲気だ。

 しかも、気を抜くとすぐに見失いそうになる。そこまで人が密集しているわけでもないのに、いつの間にか人と人との間に紛れていなくなってしまう。そんな気配の薄さというか、抜け穴のようなものが感じ取れた。

 

「ちょっと待ってくれ、そこの、お嬢さん」

 

 このままではまた見失ってしまう。そんな焦りにも似た感情がヴィルマを動かした。

 その少女は、呼び止められているのは自分だと気付くまでに時間がかかったようで、ヴィルマが歩み寄り始めてからようやく顔を上げた。

 

「私に、何か用ですか」

「……いや、すまない。考えるよりも先に話しかけてしまった」

 

 少女はやや驚いているようだった。この宴の主催者から一方的に話しかけられたのだから、無理もないだろう。

 どこかの息女であれば咄嗟に親の元へ走って逃げてしまっていたかもしれないが、少女はそんな素振りも見せず、淡々とヴィルマに向き合った。

 

「その、顔を覆っている布はいったい?」

「……幼い頃から、顔に大きな傷があるんです。その痕は、人が見て気持ちの良いものではないので」

「そうか。これは不躾な質問だったな。すまない」

「大丈夫です。もう、慣れたことですから」

 

 彼女の声に抑揚はなく、心持ちがとても平坦な人なのだろうか、とヴィルマは思った。声音は少女そのものだというのに。

 ヴィルマはふと周囲を見たが、二人の間で始まった会話を聞いている者はいなかった。ヴィルマは氷の剣を背負っているため否応なく目立つし、一応認知はされているようなのだが、なぜか注目は集まってこない。

 

「君は招待を受けてここに来たのだろうが、一体どこから? 親御さんはいらっしゃるのだろうか」

「場所は……国境近くの辺境から。内地を見てきなさいと、父に送り出されました」

「なんと! 一人でここまで来たのか。しかも国境付近ということは、空へ限りなく近い山(ヒンメルン)の向こうの街道近くになるな。本当に長旅だっただろう」

「はい。竜車を乗り継いで、何十日もかかりました。こんなに遠いとは私も思いませんでした」

 

 彼女の返事は本心から来る言葉のようだった。

 空へ限りなく近い山(ヒンメルン)は人が越えられるような標高ではなく、しかも延々と連なっているため、この都市も含めた内地へ行くにはぐるりと回り道をする必要がある。

 しかも、街道や辺境は内地と違って安全とは限らない。竜などに襲われる危険もあるのだ。幼げに見えてかなり肝は据わっているかもしれない、と青年は認識を改めた。

 そして、話をしていてふと思いついたことをヴィルマはためらわずに少女に話した。

 

「先ほどの話、聞いていただろうか? 西シュレイドの炎の龍の話だ。国境付近に住んでいるなら、何か話が入ってきたりしていないだろうか」

 

 少女はそこで、初めて迷うような仕草を見せた。それとなく周囲を見回している。

 あまり聞かれたくないことだったのかもしれない。先ほどのヴィルマの呼びかけに応えなかったのもそういうことだろう。

 しかし、相変わらず周囲はこちらを気にせずに歓談している。それが彼女の背中を押したのかもしれなかった。

 

「煙が、見えました。空が真っ赤に焼けているのも見ました。とても広く森が焼けて、煙が流れた周りの街はしばらく灰が降り続けたと聞きました。

 たくさんの人が死んだ、と…………そう、聞きました」

 

 これまでとは違い、何か思いつめるような声だった。それもそうだろうと思える話の内容に、ヴィルマはしばらく口を閉ざした。

 戦況はヴィルマが思っていたよりもずっと悪かったようだ。それは勝ちと言えるものだったのか。

 ひょっとすると、炎の龍の方は退けたというよりも気まぐれで立ち去っただけなのかもしれない。

 

「そう、か。すまない。確かにこれは、知っていてもあまり大勢に話すべきことではないな。それでも、話してくれてありがとう。本当に、向こうで何が起こっていたかは全く分からなかったんだ」

「いえ。気になさらないでください。……私からも、ひとつ聞いてもいいですか」

 

 ほう、とヴィルマは眉を上げた。彼女の方からこちらへ向けて尋ねることがあるとは。そのようなことをするとは思えなかったが。

 

「ああ。こちらから質問するばかりだったからな。答えられることなら、答えよう」

「ありがとうございます。……その、あなたが鋼の龍に立ち向かったという話は聞きました。そのときには、どれくらいの人が死んだのですか」

 

 死、という直接的な言葉に、ヴィルマはとんと胸を突かれたような感触を覚えた。

 少し言葉に詰まったが、これは正直に答えてもいいだろう。反省はあるものの、ヴィルマたちの部隊の大きな成果がそこにあるのだから。

 

「十八人だ。本来はもっと数を抑えたかった。零が理想ではあるが、これが最も難しいと改めて思い知らされたな」

「…………」

 

 ヴィルマの言葉を聞いて、少女は黙り込んでしまった。

 多いと感じたか、それとも少ないと感じたか。顔は薄布で隠されているため、表情から伺い知ることもできない。

 ただ、少しの沈黙の後に少女が呟いた言葉は、ヴィルマにしばらく二の句を紡げなくした。

 

「ちゃんと、覚えていられる数ですね。たぶん、その方がいいと思います」

 

 何を、と問う前に、背後から肩を叩かれてヴィルマは振り返った。

 見れば、ヴィルマの仲間が困り顔をしていた。場慣れしていないからか早々に酒に酔った兵士が何人かいるらしく、何か失礼をはたらく前に連れ出しておくぞ、という趣旨の連絡だった。

 嘆息し、そういうことは律義に報告しなくてもいい、と伝える。改めて少女の元へと向き直る、と、彼女の姿は既にいなくなっていた。

 もうこの話は終わった、と言わんばかりの離れ方だった。いないとは言ってもこの会場のどこかには居続けているのだろうが、また見つけ出すには骨が折れそうだったし、個人にそこまでの時間も割いていられない。

 

 最後に少女に言われたことを頭の片隅に止めながら、ヴィルマは祝宴の主役へと自らの振る舞いを戻していった。

 

 

 

 祝宴はつつがなく終わり、宿へ向かう来賓を見送ったヴィルマは、自室に戻るべく長い廊下を歩いていた。

 かつかつと石畳の床に靴音が響く。ひんやりとした空気が少しずつ酒気を散らしていく。

 

 先ほどまでの朗らかな笑みは引っ込めて、彼は視線を落として思案顔をしていた。

 少なくとも彼は、ただ誇りたいがために祝宴を開いたのではない。そこにははっきりとした思惑があり、きっと来賓の多くも気付いていた。

 

 ヴィルマたちは、先の鋼の龍との戦いには価値があったのだ、という認識を世間に広めなくてはいけない。特に、東シュレイドの要人へ向けて。

 なぜなら、ヴィルマたちの戦いには金がかかる。特に、あの鋼の龍との攻防の裏には凄まじい出費があった。

 人の背丈の何倍もある大楯、車輪のついた大弩、貴重な火薬を詰め込んだ爆弾、塹壕掘りなどの土木作業をするための道具、それらを扱う兵士たちへの報酬。

 さながら攻城戦だ。当時、準備を進めていたヴィルマたちを他人が見ていたなら、国に反旗でも翻したかと思ってしまうかもしれない。

 

 それだけの財を投じて、手に入ったのは鋼の龍の角の欠片と、街道に被害はなかったという結果だけ。見る人が見れば、国費の無駄遣いとみなされかねない。

 ヴィルマは影の活躍者の立ち位置に甘んじるつもりはない。自分たちは表舞台に立っているのだと主張しなければならない。

 さも当然のことであるかのように、堂々と資金を拝借し、設備を整えて、次の戦いへ備え続けなくてはならない。だから、あのような祝宴を開いて人々を牽制したのだ。

 

 そう、この組織を維持するためには、国や貴族からの支援が必要だ。

 前線都市リーヴェルは大きな借金を抱え、ヴィルマの部隊はいつでも赤字続きだ。これまでの彼の工夫をもってしても、この構造は覆せなかった。

 金という明確な数字が、人が竜に挑むなど身の丈を超えた行いなのだと示しているようで、ヴィルマはそのことに忸怩たる想いを抱いていた。

 

 考え事をしながら歩いていたヴィルマは、いつの間にか自室の近くにまで来ていることに気が付き、苦笑した。

 何かに没頭しているとつい周りのことが目に入らなくなってしまう。これまでにも何度か自室や執務室を通り過ぎたことがあった。指揮官としては悪い癖だ。

 

 背中に担いでいる氷の剣のおかげで身体が冷えるな、などと思いながら曲がり角を曲がった、そのとき。人影があることにヴィルマは気付いた。

 視線を上げる、と、それは一目で見て分かった。先の祝宴で言葉を交わしたあの少女だ。服装もあのときのまま、まるで場所だけが入れ替わったかのように静かに佇んでいる。

 その様子にヴィルマも拍子抜けしてしまい、一体どうしたのだと声をかけようとした。帰りがけに道に迷ったとしても、こんなところには来ないだろうに、と。

 

 あるいは、ヴィルマ自身に用があるのか。だとすれば、それは。

 ヴィルマはあまりにも悠長に構えていた。自身も言う通り、この手のことには疎いから、と、そんな言い訳でも苦しいものだ。

 

 ヴィルマがはっとしたときには、灯火の光をきらりと映す白刃が自らの喉元にまで迫っていた。

 

 反射的に腰元の細剣を抜く。身を仰け反らせながら振り上げた細剣は、間一髪で凶刃を弾き返した。

 いや、僅かに遅かったか、かっとした痛みが肩から走り、ヴィルマは僅かに顔を顰めた。布越しに浅く斬られたようだ。

 

 少なくとも、鬼門の初撃は凌ぐことができた。しかし、少女の方はさほど動揺する様子も見せず、手を止めるつもりもないらしい。

 剣同士で打ち合う。甲高い音が連続して響く。少女は愚直なまでにヴィルマの急所を狙っていた。大声で誰かを呼ぼうにも、それができるだけの隙が全く見出せない。

 相手は小柄だ。身のこなしも軽く、懐に入り込もうとしてくる。ならばとヴィルマは片腕で少女を掴みかかろうとした。この体格差ならそのまま地面に叩きつけることもできるだろう。

 

 しかし、少女はヴィルマの手をするりと抜けていく。衣すらも空を切らせて、傍にいるのに触れられない。

 地面に張り付くかというほどに姿勢を低くして視界から消える。それを蹴り上げようとしても、やはり布を蹴るような感触で捉えきれない。

 少女は相当に戦い慣れているようだった。それにしては初撃を失敗しているが、少なくともヴィルマは防戦一方になっている。

 あちらは宴のときの衣装のままで、相変わらず頭部も薄い布で覆っている。今思えば変装の類だったのだろうが、その見た目からは想像もつかない身軽さでヴィルマを翻弄していた。

 

 このままでは押し切られる、とヴィルマは思った。

 あちらは本格的な短剣を使っているようだが、ヴィルマが手に持っている細剣は装飾用だ。先ほどから刀身が悲鳴を上げている。もういつ折れてもおかしくはない。

 そもそも、少女の攻撃を捌き切れていないのだが。生傷は次々と増えていく。

 これで毒でも塗ってあったならお終いだろうが、少女が攻勢を緩めないことからもその線は薄いのか。

 

 …………。

 今、思いついたのは明らかに悪手だぞ、とヴィルマは自分へ向けて問いかけた。

 ここは廊下、屋内だ。大きな得物を振るうには向いていない。それは少女が優勢に立っている理由のひとつでもある。

 けれども、他に打つ手もない。息が詰まるとはこのことだ。実際、打ち合いを始めてからヴィルマはほとんど息継ぎができていない。それがヴィルマの思考力を奪いつつある。

 とにかく一拍間を置きたい。もはや少女との間に話し合いの余地はないだろう。ただ、これを見て過剰に警戒する、なんてことは期待できるかもしれない。

 

 ヴィルマは、これまでただの荷物と化していた、背に担いだ長剣の柄を手に取った。

 瞬間、彼の腕を刀で斬られるよりもおぞましい感触が駆け抜けた。ヴィルマは僅かに唇を噛んで、しかし動きを止めることなく、その剣を抜き放った。

 少女が僅かに息を飲んだような気がした。上段から振り下ろされるそれを、短剣で捌くのはまずいと判断したのだろう。咄嗟に床を蹴って飛び退く。

 

 その斬り下ろしは虚しく空を斬った。空を斬ったが、まるで扇でも仰いだかのような風が吹いて、抜刀後の隙を狙っていた少女を強く牽制した。

 冷たい、と少女は思った。真冬の風のような冷たさだ。すうっと鳥肌が立つ。これは明らかに、ただの剣ではない。これが、鋼の龍の剣か。

 

 はあっとヴィルマが荒く息を吐く。その息は剣の周囲でだけ白く染まった。目の光は失われていない。少女は一息つく暇を彼に与えた。下段に氷の剣を構え、今度はヴィルマの方から突貫する。

 見え透いた薙ぎ払いだった。あれだけの長物となれば仕方がないか。それでも、切先が壁にぶつかっても力押しで振るわれたそれは、相対する者の足を竦ませるには十分すぎるほどの圧があった。

 呑まれるな。少女は己にそう言い聞かせるようにして再び斬撃を避ける。そして、今度こそその間合いの内に入った。露になった喉へ、短剣を突きつけようとする。

 

 伸びあがった少女の腹に、先ほど振るわれた氷の剣の柄がめり込んだ。

 いや、そのように見えた、だ。これも避けられるのか、とヴィルマは歯噛みする。恐ろしい程の反応速度だ。暗殺の能力というより、戦闘能力が高すぎる。

 ただ、無傷とはいかなかったようで、すれ違った先で少女は僅かによろめいた。あの軽そうな体だ。ヴィルマの攻撃は掠っただけでもかなり重いだろう。

 

 それでも、その見えない顔から滲む殺意は消えない。少女は再び肉薄し、もう十は超えただろう打ち合いが重ねられる。

 それはもはや、暗殺者との凌ぎ合いというよりもむしろ、単純な殺し合いに近しかった。真剣を用いての、命を懸けての試合のようにも見えただろう。

 

 何故、とヴィルマは問いたかった。今まさに死に相対しているのにも関わらず、怒りよりも先に疑問が来た。なぜ自分なのか、と。

 祝宴のときに不思議なやり取りがあった。あれまでもが演技であったとは思えない。

 この場では少女と一言も言葉を交わせていなかった。そんな余裕はないし、彼女の側にそのつもりもないのだろうが、ヴィルマは無性にもどかしさを覚えた。

 

 殺し合いは、始まってしまえばもう後戻りできない。どちらかが死ぬまで、どちらかが命尽きるまで争うのみだ。

 あのとき彼女がかけた言葉にはどんな意図があったのか。それを尋ねることができないままにこのような事態に陥っていることに、悲しみを覚えた。

 その、一瞬だった。

 

「────」

 

 少女を斬ることと、急所を守ることだけを考えて氷の剣を振るっていたヴィルマは、ふと、動きを止めて自らの腕を見た。

 そこには、今まで打ち合っていた短剣ではない。深緑を暗い紫に染めた、茨の棘を何十倍にも大きくしたような針が、己の腕に深々と突き刺さっている。

 と、と、と少女が後退るのが見えた。その動きで悟る。そうか、これが本命か。

 短剣に毒が塗られていなかったのも、やたらと戦闘を長引かせたのも、ヴィルマを錯覚させるためだったのだ。

 恐らく、代えの利かない代物なのだろう。出会い頭に用いて万が一にでも弾かれるようなことがあってはいけなかったから、確実に突き刺せる瞬間を眈々と窺っていた。

 

 これまではっきりとした殺意を見せていた少女が、ここに来ていくらか動揺しているように見える。ヴィルマは少女に、少しばかりの憐憫を覚えた。

 

 そして、渾身の気合を込めて、少女に向かって切り込んだ。

 

 敵が見せた初めての隙だ。これを狩らないという手はない。

 本来であれば、自らの身がどうなろうと彼女を捕らえるべく人を呼ぶことが正解だろう。しかし、ヴィルマは彼女の強さを憂いた。

 最悪の場合、自分以外に何人も死ぬことになる。竜に対処できる人材は貴重だ。このような人同士の慣れない戦闘で命を落とすべきではない。

 だから、せめてその脚の一本でも切り落とす。既にしてやられた身だ。ヴィルマに躊躇はなかった。

 

 少女がはっとしたときにはもう遅い。彼女の背後に壁が来るようにヴィルマは動いていた。

 ここからどのように避けようと、この剣の間合いからは逃れられない。短剣で受けるならそれごと叩き伏せるまで。ヴィルマは、少女を袈裟斬りにする覚悟すら決めていた。

 

 少女は。彼女自身も、自分が反射的に取った行動に驚いたのだろう。あ、という声が零れ出たように聞こえた。

 夜空を思わせる紫紺の衣装。恐らくその袖や懐の内には数々の暗器が仕舞われている。そこから、彼女は新しく一本の剣を抜き放った。

 

 ヴィルマは目を見張った。緋色だ。

 大きさこそ先ほどの短剣より一回り大きい程度だが、その存在感は桁違いだ。剣の輪郭がはっきりしていない。まるで陽炎のように刀身がゆらめいている。

 ヴィルマは止まれない。止まらない。それは少女の方も同じだ。僅かな時間をその緋色の剣を抜くことに使った。殺されないためには、これで受けるしかない。

 

 ヴィルマの持つ鈍色の長剣と、緋色の短剣が接触する───。

 

 爆発音が、周辺に響き渡った。

 

 少女を切り裂かんとしていた氷の剣が、その持ち主ごと吹き飛ばされる。少女の方も同じく、緋色の剣を手にしたまま壁に叩きつけられた。

 

 手から伝ってきた反動に思わず呻く。一瞬、両腕が千切れたかと思った。

 二人の間には蒸気のような靄が漂っている。いったい何が起こったというのか。ふつうの剣戟ではまず起こり得ないことが起こったことは確かだ。

 よろよろと起き上がりながら、直前の光景を反芻する。

 その爆発は互いの刀身が触れあった瞬間に起こった。ヴィルマの剣の冷気が膨れ上がり、何か、それに触発されるように熱気(・・)が弾けたように見えた。

 そして、互いにはねのけ合うようにして、凄まじい勢いで剣が弾かれたのだ。爆発はそれに伴って起こった事象に過ぎない。

 

 空気が歪むような拒絶反応。ヴィルマの持つ剣の冷気を吹き飛ばすだけの力。そのような剣、この世の中にそうそうあるとは思えない。

 この数秒間でヴィルマが考える限り、直近でそんな芸当が適うのは。

 

 はら、と。薄く編まれた紫紺の布が、地面に落ちた。ヴィルマは、前を見た。

 

 そこには、燃えるような赤い髪と、青い瞳。

 ヴィルマと同じ瞳の色。しかし、印象が異なる。高温の炎は青い光を放つというが、それを彷彿とさせるような。氷や海に例えられがちなヴィルマの瞳とは真反対の青だ。

 

 ああ、とヴィルマは思った。

 顔に火傷の痕があるというあのときの言葉は、どうやら本当だったらしい。

 直感ながら、それはほとんど確信に近しかった。彼女が、目の前の少女こそが。

 

 そのとき、通路の向こうの方から複数人の足音と声が聞こえてきた。先ほどの爆発音で騒ぎに気が付いたのだろう。

 ヴィルマの状態からすると、やや手遅れだが。その点でも、少女の襲撃は用意周到だったということか。

 そんな彼女は、早々に撤退を決め込んだようだった。新しい衣をさっと被ると、木枠の窓から飛び降りて夜闇の中へ溶けていく。獣のような身のこなしだった。

 

 もちろん、ヴィルマも黙って見逃がすつもりはなかった。が、しかし、興奮による痛みの緩和にも限度というものがある。

 がらん、と音を立ててヴィルマの握っていた剣が石床に転がった。嫌な脂汗が滲む。あの針を刺された方の腕が、蕩けるような痛みを発していた。

 尋常でない毒であることは明らかだ。この拠点は竜の毒に対してある程度の備えがあるが、それでも対処しきれるかどうか。

 

 あまりの痛みにヴィルマが床に膝を付いたそのとき、ヴィルマの部下が彼の元へと駆け付けた。それから間を置かず、拠点全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 まさかこの日に襲撃を受けるなど。しかし、確かに今日の警備は宴会場に集中していて、それ以外が手薄になっていた。暗殺を目論むにはこれ以上にない機会だったのだ。

 

 彼女は逃げ切るだろうな、と。担架で運ばれながら、ヴィルマは漠然とそう思った。

 一通りの検問はこの街でも行われているのに、あれだけの武器を平然と持ち込んでみせたのだから。あの服に何らかの細工があったのだろうが、ヴィルマにも分からない。

 あの身のこなしだ。支援をする者が他にいたとして、人追いが放たれる頃には国境を越えてしまっているだろう。

 

 祝宴を終えた日の夜はこうして更けていく。

 仲間の必死の呼びかけにも応えられなくなりつつあったヴィルマは。凄まじい痛みに支配されつつも、その片隅でなぜか場違いなことを考えていた。

 

 あの瞬間に初めて素顔を晒した彼女のことを。

 瞳の内に蒼い炎を映す少女のことを、考えていた。

 






作中設定解説

【少女が身に着けていた衣装】
ある霞の龍の素材(作中では未知の素材)から編まれた装具。特性としては遠い未来の『装衣』に近しい。
光の屈折と生物の認識を阻害する毒の合わせ技で、視覚的・聴覚的な気配遮断を行う。
加工とは名ばかりで皮を継ぎ合わせただけの作りのため、機能は長持ちも回復もしない。いわゆる使い捨てである。


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第4話 (ふるい)から零れた砂礫

 

 

 少女が自らの拠点に帰り着いたのは、課せられた任務を終えてからひと月と少しが経った頃だった。

 

 行きよりも帰りが大変だろうことは覚悟していた。けれども、想定していないことが多々起こった。人追いの相手は慣れていなかった。

 それだけ、あの人物は偉い立場にいたのか。あるいは、西シュレイドの刺客が深く東シュレイドに入り込んだという事実が気に障ったのか。

 どちらにせよ、逃亡にはかなりの苦労があった。もう本当に逃げ場がないと、空に限りなく近い山(ヒンメルン)を越えようかと考えたほどだった。

 

 少女一人では掴まってしまっていたかもしれない。いや、そもそも任務を遂行できなかった。

 潜入にも逃亡にも、少女には数人の仲間がついていた。彼女とは違い、暗殺や諜報を生業とする人々だ。

 彼らで事を済ませても良かっただろうに。そうしなかったのは、やはり竜という存在を怖れ、それに携わる人々を理解の外に置いているからなのだろうか。

 

 そんな彼らも、山脈を折り返して国境へ辿り着こうかという頃には散り散りになってしまっていた。

 相手側の人追いが優秀だったというよりも、道中で肉食竜の群れに目を付けられてしまったことが理由だろう。皮肉にも、それが東シュレイド側の追跡を諦めさせる出来事となったようだったが。

 人を殺めることに特化した彼らの暗器は、竜の命を絶つには手間をかけてしまう。その間に群れに囲まれてしまうともう、逃げ出すことは難しい。

 双方の国の人々の断末魔が深い森に染みこんでいくようで、少女はただ、自らの身を守りながら走り去ることしかできなかった。

 

 国境となる大河を越えて、追跡を振り切ったことを入念に確認し、その確信を得てからは、身を隠しながらも街道に出て竜車に乗れるくらいにはなった。

 これ以上人の気配や視線に気を配らなくてもよくなったことに安心を感じつつも、どことなく辟易とした気持ちになる。その理由も分からないまま、少女は西シュレイドのある都市へと向かう。

 

 国境と垂直に交わる山脈をぐるりと回り道し、一度西の端の方まで行ってから引き返す。東シュレイドの都市リーヴェルと対になるような道を辿る。

 深緑の森と、集落や畑が点在する丘陵地帯が延々と続いた先に、小高い台地に聳える城壁が見えた。

 周囲の景色から浮きすぎないようにしつつも、人が見れば一目で分かる。夜は篝火が焚かれ、道行く人の目印となる。

 西シュレイドで最大規模と言われるその都市は、ヴェルドと呼ばれていた。

 

 少女の拠点と言える街でありながら、彼女はそこをあまり好いてはいなかった。それこそ、あのよく目立つ城壁のせいだ。

 近づけは近づくほど、立派な造りをしていることが分かる。人はおろか、竜すらも真正面から打ち崩すのは難しいだろう。

 

 あの壁の内側には、この国の中枢たる西シュレイド王がいる。広大な敷地に荘厳な城を構え、城下町を見下ろしている。

 国の首都というだけあって、人や物の行き来も盛んで活気がある。少なくとも、彼女が見てきたリーヴェルよりは繫栄していると言えるのかもしれない。

 

 けれども、その恩恵を受けることができるのは、壁の内側に住む人々だけだ。

 少女は、あの壁を許可なく通れる身分の人間ではなかった。

 

 大勢の人がいる城門の手前で竜車を降りて、重い身体に鞭打って歩を進める。

 今回は壁の内にいる要人に任務の成果を伝えるという要件がある。公に明かせる内容ではないので、憲兵に事情を言って中に入れてもらわなければならない。

 頭巾で顔を隠しながら関所にいる兵士に話しかけると、詰所の裏口を案内された。正式な通行証がないため、特別処置になったようだ。

 一連のやり取りで彼女の身分を察したのだろう。話を通した兵士の目にはどこか憐れみの色があった。既に慣れていた少女は、特に思うところもなかった。

 

 報告は、実に手短に進められた。

 それなりに大きな仕事を負わされているはずだったのだが、拍子抜けしてしまうほどにあっけない。

 少女は依頼人と直接顔を合わせることすら叶わなかった。その使用人らしき人物と個室で言葉を交わし、ろくな証拠がないことも特に咎められないままに報酬だけが手渡された。

 少女には確実に致命の一撃だったと言い切れるだけの自負がある。しかし、相手の首や耳などを持ち寄ってきたわけではないのだ。それを責められもしないのは、どこか不気味ですらあった。

 

 仲間が消息を絶ち、彼女一人で戻ってきたことについても触れられることはなかった。

 これについては、いつものことだ。捕虜にでもされていれば都合が良くないだろうことは少女でも想像がつくのに、まるで意図的に話題を避けているのではと感じるほどだった。

 

 急かされるように壁の外へ連行される。表立って貶されるようなことはなかったが、その対応は街そのものが彼女を忌避しているようだった。

 僅かに拳を握る。けれども、何もしない、できない。何も彼女には変えられないし、変える術など思いつかない。

 この任務だってきっと、街の表通りの明るさに照らされてできた、いくつもの影のひとつに過ぎないのだろう。

 

 国とかいうものが関わっているから、こんなに面倒なんだろうな、と。彼女は小さく独り言ちた。

 

 

 

 長旅の疲れに徒労感までも重なって、少女の顔色は悪かった。しかし、それはどちらかと言えば心の方から来る不調だ。

 体の方は特に病を患うということもなく、一連の戦いで負った傷も、日が経ったことでそれなりに治りが見えてきていたのだが。

 彼女を出迎える側にとっては、そんなこともお構いなしだったようだ。

 

「にゃ──っ!! フレアさまっ、よくぞご無事でそして診療院送りにゃ!」

「サミ。別に私は……」

「診療院に行こうにゃ!!」

「……うん」

 

 フレア、という名を。少女は自身の名前を久しぶりに聞いたような気がした。実際はそんなはずはないのにそう感じるのは、名を呼んだのが彼女と長い付き合いのアイルーだからか。

 正直、適当な場所で泥のように眠ってしまいたかった。が、有無を言わせない勢いで袖を引っ張るアイルーに押し切られて、瞼をこすりながら医術師のもとへ足を運ぶ。

 

 周りの景色は城壁内とは全く異なるものになっていた。

 道の舗装はされておらず、土埃が舞っている。家屋のほとんどが簡素で、人は多けれど活気があるというよりかは荒れていて、余裕のなさや貧しさと言ったものが滲み出ていた。

 視線を上げれば、自分たちを囲うことのない城壁が見える。世界の違いをあえて見せつけるような存在感を放ち、外にいればいつも視界に入ってくる。

 あの城壁は決して自分たちを守らない。人からも、竜からも。ここはそういう国だ。こういう仕組みなのに人が増える。いや、だからこそ人が集うのかもしれない。

 

 フレアたちは、王都ヴェルドの壁の外で暮らしている。

 この国の大多数を占めながら、市民にすらなり得ない。階級制度としての最下層に位置する民。

 奴隷と、ほとんど同義だ。

 

 

 

 診療院には多くの人がいた。城壁内の唯一の良心とも言える医術師が、格安で病や傷を診てくれている。決して潤沢ではないが薬や寝台も用意されている、フレアがよく世話になる施設だ。

 そこの医術師とはもう顔見知りになっていて、来院したフレアに気付くや否や、診察室へと運ばれて入院の運びとなった。

 いったい自分のことを何だと思っているのか、とフレアは思ったけれど、心当たりがありすぎるので何も言えなかった。フレアには自分の身体に無頓着なきらいがあった。

 

 竜による傷は治りが悪くなることが多く、何度も診療院の人々を走り回らせた実績がフレアにはある。

 ただ、今回はそれとは様子が異なる。診る人が診ればすぐに気が付くだろうが、深く聞かれることはなかった。触れないでほしいというフレアのそれとない意思を汲み取ってくれたのかもしれない。

 とにかく今は眠ってしまいたいと正直に言うと、少し質の良い寝具を用意してもらえた。ここまで歩いた気力を引き合いにしても、ありがたい対応だった。

 

 久しぶりの柔らかな感触が、ここ数か月で浅くなった眠りを相殺してくれる。

 もう警戒の必要はないんだと何度か自分に言い聞かせてから、フレアはようやく眠気に身を任せた。

 

 

 

 目覚めはついうとうととしてしまう。

 ぼうっとしつつも、ここに至るまでの経緯を思い返し、しっかりと記憶が地続きになっていることを自覚して、ふうっと息を吐く。そう、今は跳ね起きる必要はない。

 しばらくして、自分の服が着せ替えられていることに気が付いた。体中のざらりとした感触もなくなっているように感じる。

 身じろぎをすると、その気配を察したのだろう、足元の辺りから声が聞こえてきた。

 

「申し訳にゃいですけれど、体を拭かせてもらったにゃ。服も同じく、にゃ」

「ありがとう。……おはよう、サミ」

「おはようございますにゃ、フレアさま。リンゴをもらったから食べましょうにゃ。でもその前に口をゆすいでくださいにゃ。たぶん土の味しかしにゃいですにゃよ」

「……ん」

 

 フレアの寝ているベッドの周りをとてとてと歩く、白い毛並みのアイルーがフレアの世話係だった。

 フレアさまの体は軽いから、にゃーでも体を拭けて良いにゃ。まあ、それはそれで心配ですけれどにゃ……などと呟きながら、小さな手で器用に刃物を扱ってリンゴの皮を剝いている。

 どうやら、丸一日近く時間は眠っていたようだ。腰や肩の辺りが少し傷む。しかし、鉛のように重かった体は、気怠いくらいにまでは持ち直していた。

 ゆっくりと上体を起こす。リンゴはすりおろしまでされていて、病気じゃないんだから、とは口にしつつも、じんわりとした食感にほっとさせられる。

 

「お仕事はうまく行きましたかにゃ?」

「たぶん。あれは生き延びられないと思う」

「フレアさまがそこまで言うのでしたら、確実でしょうにゃあ」

 

 何の前置きもなく物騒な話題が始まるが、フレアもアイルーのサミも気にする様子はない。無自覚ながら、この手の話題に慣れきってしまっていた。

 他に人がいれば口にはしないが、個室をあてがってもらっているし、別に機密を守れとも言われていない。その点で言えば気楽なのかもしれないが。

 

「今回ばかりは生きて帰れないと思っていましたにゃ。でも、いつだってフレアさまは戻ってくるにゃね」

「今回も運が良かっただけ。他の人たちは死んだ……と思う。帰ってこれたのは、私だけだった」

「あらら……奇しくもこの前と同じですかにゃー。案外この街が嫌になって逃げただけかもしれにゃいにゃよ。フレアさまもそうしたいならお手伝いしますけどにゃ」

 

 サミは少し変わった性格をしていた。フレアを主として仕えていて、他の人はどうでもよさそうな言動をしつつも、フレアに過度に依存しているようでもない。

 取って付けたような「さま」がフレアにはむず痒く、何度か外すように言っているのだが、今のところ聞き入れられる様子はなかった。

 

「フレアさまが留守の間、これといった事件はなかったですにゃ。運がよかったにゃあ」

「……そう」

「ま、何か事件が起こったってどうしようもないですにゃ。こないだの火の龍と毒の飛竜、止めの霞の災いで使い捨てる人すらいなくなってしまいましたにゃ。数を揃えるのにはもう少し時間がかかりますにゃ」

 

 まったく、人は虫みたいに増えるわけじゃにゃいんだから、そう簡単に補充が効かないってことを思い知るといいにゃ、と。

 相変わらず殺伐としたことを言うサミだが、フレアもその意見には概ね同意している。ただ、命令を出す側の人──恐らくは西シュレイド王室──はきっと気にも留めないだろう。

 

 夥しい数の死者を出した炎の龍の撃退作戦は、人のみならず、周辺の地域一帯に甚大な被害をもたらした。

 炎の龍の怒りは凄まじく、かつ天災となってかたちを伴う。山ひとつ分でも全く足りない。西シュレイドの地図が書き換えられてしまうほどの大規模な火災が、様々な禍根を残していった。

 

 その中でも特に深刻だったものが、異様なまでに狂暴化した毒の飛竜の出現だった。

 現地の開拓者たちはたしか、雌火竜だとか陸の女王だとか言っていたが。アレはもはや、龍と同じような災害の具現化だとフレアは思った。

 火災によって住処を追われたのだろう。そういう生き物は他にも大勢いて、生き残るために争って、争い続けてあのような姿になってしまった。

 一月近くも降り注いで陽の光を遮った煤煙も、かの竜を狂わせた要因のひとつだったのかもしれない。

 

 炎の龍が立ち去った後、かろうじて生き残った人々と共に帰途に就いている最中に新たな命令が下ったときには、流石に耳を疑った。

 追加の人員も出すから、と。またしても竜と出会ったことすらない人々が集められているのを見たとき、ああ、これは正気で言っているのだ、と悟った。

 フレアのような場慣れしている人が彼らを従えなければ、彼らの無駄死にはほぼ間違いない。そんな残酷さを突きつけられているような気がした。

 

 そしてフレアは、指揮官の役をするにはあまりにも不向きだった。自分が最前線に出て死なずにいること以外、何も取柄などなかった。

 またしても、人の側はほどんど壊滅した。炎の龍の撃退作戦で奇跡的に生き残った人も、何人かはここで力尽きてしまった。

 

 フレアも僅かながら気化した毒を吸ってしまい、途端に身体が仰け反るほどの激痛と硬直に見舞われて、その激烈さを思い知った。

 草木すら枯らして毒沼と化した森で、かの竜の棘を直接その身に受けて生還できた者はいなかった。その場に優秀な医術師がいたとしても対処できたかどうか。

 結局、暴れるだけ暴れられて、尻尾の一部を千切った時点で飛び去られ、後を追うことができなくなった。一応撃退には成功したことにはなっているが、実態はそんなものだ。

 

 二度の死地を経て、心身ともに疲れ果てて。やっとの思いでヴェルドに帰って来てみれば、更に立て続けに報せが寄せられる。

 

 フレアたちとは別動隊で、人知れず霞に沈んだ辺境の集落に赴いて、その痕跡を手に入れるという任務が下されていたこと。その任務でも、やはり多数の死人が出たこと。

 炎の龍が残していった角の欠片が、延々と高熱を発して焼け続ける凄まじい素材であったこと。その角の欠片を削って作られた剣が、フレアへの報酬として渡されるということ。

 

 そして、手渡されたばかりのその剣を携えて、遠く東シュレイドの前線都市リーヴェルまで赴くという任務が下されていたこと。

 その標的が、吹雪をもたらす鋼の龍を退けたという青年だということ。

 

 最低限の休息だけが与えられて、フレアはすぐに交易用の竜車に乗り込んだ。もはや、まともに物事を考える時間すらなかった。

 

「…………」

「フレアさま、元気がありませんかにゃ?」

「……ううん」

 

 その言葉に偽りはない。ただ、考え事をすることはあまり得意ではなくて、それなのに否応なく考えさせられてしまうことが短い間にたくさん起こったから、言葉に詰まってしまうのだ。

 あの炎の龍の出来事から、全てが繋がっていたのだろうか。毒の飛竜や霞の災いも、全てが仕組まれたことであるかのような気がしてくる。

 

 霞の災いの被災地で回収された鱗や皮。それらを編み込んで作られた衣装は、こちらが驚くような不思議な性質を見せた。

 あの宴会の場においても、簡単なものではあったが、来場者に対して所有物の検査があった。フレアはこれに対して、特に兵士の買収などもすることなく切り抜けている。

 存在感を消す、というよりも、人が何かに気付く力そのものを歪めてしまう、という表し方が合っているように思う。まやかしのようなものか。

 着ている方のフレアにも影響を及ぼす代物で、リーヴェルに辿り着くまでの道中は、あれを着てまともに歩けるようになるまでの訓練に置き換えられていたと言っていい。

 

 毒の飛竜の棘もそうだ。生物が扱う毒というものは鮮度があるものが多く、日を置くと腐って使いものにならなくなることがままある。

 かの竜の毒もその例に漏れず、効力は落ちていたのかもしれない。けれども、試験体として捕らえた小動物はその針が掠っただけで死に至った。

 同格の竜を倒すためには、それくらいの劇毒でなければいけないのかもしれない。しかし、植物すら枯らしていたあの毒はやはり過剰なのではないか。そして、人を殺すのにこれ以上に適した道具もそうそうないだろう。

 

 フレアに命令を下した者が、そのときあったモノと人を上手く使っただけだと言うのなら、それ以上は何も言い返せない。実際、毒の飛竜や霞の災いでは人々や集落に被害が出ていたという理由もある。

 けれども、何か順序が逆になっているような感覚をフレアは拭えなかった。

 あのヴィルマという青年を殺すために、この国の幾多の人々を使い捨てた、のだとしたら。

 

 そもそも、暗殺を計画するに至った理由をフレアは知らない。

 仲が良いとは言えずとも表立って争ってもいない、均衡を保つ二国でこんなことをするのは相当なことだと、それはフレアでも分かる。

 あの青年が証言でもしない限り、誰かを特定するような証拠は残していないはずだ。だからこちら側が知らぬ存ぜぬを貫き通せばいいのかもしれないが、それでも疑いの目は深まっただろう。

 フレアは、あまりそのことを考えたくはなかった。本来は最も深く考えるべきことだったとしても、何と言い表すべきか、竜に相対するときとは質の異なる空恐ろしさを感じていた。

 

 そして、もうひとつ、何故か忘れることができずに心の中で燻り続けているものがある。

 フレアは自分の左腕を見た。今でも、あの剣戟の感触が余韻となって響いているような、そんな感じがした。

 

 不思議な感じのする人だった。もう、この手で殺してしまったけれど。

 最初は、祝宴なんて皮肉なことをする人だと思った。フレアたちの境遇を彼の側にも当てはめて、どれだけの人の死の上にこの催しは成り立っているのだろうと、そんなことを思ったりもした。

 けれど、違ったのだ。フレアと彼の状況は全く違った。死者数は十八人と答えてみせたときの彼の表情には、諦念など一切浮かんではいなかった。

 もっとやりようはあった。まだ人死には少なくできたと、そんな悔しさが滲み出ているようだった。

 

 あの後も密かに彼の話を聞いていたが、組織としてはフレアのそれと似ていても、下地がだいぶ違うことが分かった。

 東シュレイドは冬がとても厳しく、人の数がそもそも多くない。使い捨てられるだけの人がいないから、道具や兵器に頼り、なるべく死傷者が出ないような作戦を取っている。

 ただ、その分ひとつひとつの作戦に金がかかることが悩みのようだった。フレアたちとはまるで真逆だ。初めにそれなりの額の金を群衆に渡して、後は勝手に特攻させる西シュレイドのやり方とは、相反している。

 

 そもそも、あの場でフレアを見つけ出せた時点でかなり勘の鋭い人なのだろうと思った。

 本当に、誰からも話しかけられず、注目を受けることもなく、そのまま宴の終わりを待っているだけでよかったはずだった。しかし、彼は目敏くフレアを見つけて話しかけてきた。

 フレアは驚いて少し返答に戸惑ってしまったのだが、あまり不信感は抱かれなかったらしい。警戒感が薄いと言えばその通りなのかもしれないが、仕方のないことのように思う。

 

 フレアと同じような生業で似たような感性があるのなら、たぶん無意識に思い込んでしまうのだ。

 自分はいつか竜に殺されるのだろう、と。翻せば、人に殺されるという未来が思いつかなくなる。そんなこと、考える余裕がないのだ。フレアはそこに付け込んで、彼を襲った。

 

「フレアさま……人を殺めるのはこれっきりにした方が良さそうだにゃ。たぶん、向いてないんだと思うにゃ」

「そう、かも」

 

 まあ、命令されれば選択の余地はないのだが。少なくとも、人を相手取るのは向いていないというサミの言葉には頷きざるを得なかった。

 竜を殺すのとは違う。いや、竜の命を奪うまでいったこともそうそうないが、人に限ってはあまりやりたくない、と、フレアの中で珍しく拒むような気持ちが芽生えていた。

 

 初めての標的が彼だったというのもまた、大きな理由なのかもしれない。

 今でも、彼の片腕に毒の棘を突き刺したときの感覚は思い出せる。やけに生々しい記憶だった。

 そして、その後に一度だけ交わされた打ち合いは、剣が擦れ合う音を響かせる前に、互いにとって想定外過ぎる反応を起こした。

 

 フレアの左手に響き続ける余韻は、きっとそこから来ている。

 鋼の龍の迎撃戦による死者数の少なさを知ったとき、もしかしたらその龍は炎の龍に比べると弱かったのかもしれない、ともフレアは考えていた。

 しかし、その推測が外れていることはもう疑いようがない。そうでなければ、フレアが炎の剣を抜き放った時点で計画は台無しと言えるような結末を迎えていたはずだった。

 

 炎の龍の角を削り出したあの剣──今も手元に置かれている──は常軌を逸している。

 切れ味が良いとは決して言えない。その刀身をまともに研げる石がないからだ。剣の形も歪んでいる。あれを融かして形を整えるといったような加工が一切できなかったからだ。

 それでも、あの剣が鉄製の剣と打ち合うようなことがあれば、まったく理不尽な結果が待ち受けているだろう。──鉄の剣の方が溶断されるという結末を。

 

 恐ろしい剣だと皆が恐れ、特殊な鉱石でできた鞘に納められ、半ば封印のような扱いを受けていた。

 けれど、あの氷の剣だけは違った。溶断という剣としての敗北を真っ向から拒んで、挙句大爆発を起こして弾き返してみせた。

 そもそも、フレアの正体が分かってしまうので余程のことがない限りは使わないつもりだったのに、咄嗟に剣を抜かせたあの青年の執念も凄まじいものだったが。

 

 あのとき、フレアが顔を隠すために被っていた薄布が吹き飛んで、初めてフレアと彼は互いの顔をはっきりと見た。爆発の耳鳴りで周りの音が入ってこない中で、一瞬の空白があった。

 それまでは、薄布越しでははっきりと見えなかった。既に腕に毒棘が突き刺さり、凄まじい痛みに襲われているだろうに、その青色の瞳は確とフレアを見つめていた。

 手に持つ氷の剣の色を映したかのような銀髪に、フレアと同じ色の瞳。しかし、まるで底の見えない湖か厚い氷のような印象を与えてくる、フレアとは質の違う碧眼だった。

 それよりも、それまでフレアに向けていた敵意とはっきりとした殺意が、驚きに彩られて霧散していくように感じられたのが、フレアは忘れられずにいる。

 

 あのとき、彼はいったい何を思ったのだろうか。窓から飛び降りて逃げるフレアに対して、何か言葉をかけようとしていたようだったが、聞き取る余裕はなかった。

 

 彼は、殺してもよい人だったのだろうか。

 フレアは目を瞑って首を振った。やはり、人殺しはもうやりたくない。普段は考えないことを考えないといけないから、余計に疲れる。より命の危険があったとしても、生きるか死ぬかの竜の相手をしていた方がよっぽど気が楽だ。

 彼が亡くなった後の氷の剣の行く先だとか、組織への影響だとか、そういうことがぐるぐると頭を巡る。本当に、らしくもないとフレアは自分に言い聞かせる。

 

 多少強引かもしれないけれど、竜と同じだ。同じ命あるものだ。

 フレアは今までにもたくさんの命を奪ってきた。たくさんの命を見捨ててきた。そういう生業で生きていき、いつかは自分が死ぬ側になる。それだけの話だ。

 

 フレアが黙って考え事をしている間、サミもまた黙って雑事をしていた。

 どうやら難しいことを考えているようだから話しかけると混乱させるかにゃ、程度の配慮だったが、そういう気配りが、サミが傍にいることをフレアが許している理由のひとつなのかもしれなかった。

 

 さて、リンゴだけでは足りないでしょうし、麦粥でも作りますかにゃ、とサミが部屋の外へと出ようとしたちょうどそのとき、こんこんと扉が叩かれた。

 

「にゃ? 誰ですかにゃ看護士さんですにゃ?」

「はい。ええと、フレアさん宛に手紙が届きまして。この院まで持ってきてくださったので、お渡しに来ました」

「手紙? にゃあ……まあ、ありがとうにゃ。受け取りますにゃ」

 

 サミは不思議そうに首を傾げたが、ベッドで座っているフレアもまたきょとんとした顔をしていた。続けて、少し顔を曇らせる。

 手紙と聞くと慣れないように感じるが、それは新しい任務の指令書なのではないだろうか。恐らくはこの都市の城壁の内側にいる偉い人からの。むしろそれしか思い当たらない。

 診療院にいる人にそれらの区別はつかないだろう。だから手紙と言ったのだ。サミもフレアと同じことを思ったらしく、作り笑顔で手紙を受け取って扉を閉めた後に盛大なしかめっ面をする。

 

「人使いが荒すぎないかにゃ……?」

「いよいよ私も使い捨てられる側、なのかも」

「そんなことにゃいって言いたいですけど、なんかそんな感じがしてきましたにゃあ……」

 

 呆れや諦め、さまざまな感情を飲み込んで先の暗い軽口を交わす。

 手渡された封筒はやや風変わりな装丁が施されていた。雪と雪鹿(ガウシカ)を模したような模様があり、しっかりと蝋封がされている。一見すると本当に手紙だった。

 

「あれ、宛先が書いてあるにゃね。名前だけですけれどにゃ。よくこれで届いたにゃね。しかもなんというか、手が込んでるにゃ」

「……私たちの事情を知っている人が、他の人に知られたらいけない指令書を、手紙に隠して届けに来てくれた、とか」

「…………にゃ~、見なかったことにしたいにゃあ。自分ごとなのによくそんな暗いことが言えますにゃね……」

「とにかく、確認してみるしかない。開けて読んでみて」

 

 フレアの指示を受けて、サミは半ばいやいやと言った風に蝋封を切った。

 

「にゃ。……にゃ?」

 

 サミが戸惑いの声を上げる。封筒の中には幾重にも重ねられた便箋が入っていた。これまでの指令書はとても簡潔で一枚で済ませられているものも多かったのに、これら全てに文字が綴られているとするなら相当な文字数になる。

 フレアとサミは顔を見合わせた。もしかして、本当にこれ手紙なのではないですかにゃ? いや、全然身に覚えがないけれど。と、そんな視線のやり取りが交わされる。

 

 とりあえず文章は置いておいて、サミは便箋の右上と左下に目を通した。すると、特に隠されるでもなく、あっさりと送り主らしき名前が書かれているのを見つけた。

 これで結局、西シュレイド王国政府とか書かれてるおちじゃないかにゃ、と最後まで疑いを捨てずにその文字を読んだサミの体が、固まった。

 

「……サミ?」

 

 まさか、西シュレイド王直々の文だったりするのか。

 フレアが恐る恐る話しかけるが、サミは黙ったままで、間をおいてフレアがもう一度呼びかけようとしたそのときに、ようやく口を開いた。

 

「フレアさま。つかぬ事を聞きますけれどにゃ、先の暗殺任務の目的地と標的の名前を言ってもらってもいいですかにゃ」

「え、と。街の名前がリーヴェルで、あの人の名前は……ヴィルマだったと思う」

「にゃあ、やっぱり記憶違いじゃあないにゃ。それで、暗殺はうまくいったのですよにゃ?」

「うん。ちゃんと腕に毒の飛竜の棘を突き刺したから……」

 

 サミの体毛がざわついている。かなり動揺している証拠だ。

 ここまで来るとフレアにもなんとなく察しがついて、しかし、信じられないという想いの方が強かった。

 そんな、まさか。ありえない。

 

 しかし、フレアがそれを声に出すよりも先に、サミが決定的な言葉を呟いた。

 

「どうして今になって、殺したはずのヴィルマ氏が送り主の手紙が、フレアさまの元に届くのにゃ……?」

 






作中設定解説

【毒の飛竜】
後世ではリオレイアと呼ばれる飛竜種。
その中でも、過剰な生存競争や環境変化に晒されて狂暴かつ攻撃的になった特殊個体をヌシリオレイアという。紫毒姫リオレイアとも。
類似の特殊個体は他の種にも存在するが、リオレイアの場合は保有する毒が変質し強烈になる傾向にある。
作中ではそもそもリオレイアという種がはっきりと定義されていないため、特殊個体との区別はなされていない。


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第5話 あの日の続きを(したた)める

 

 

 フレアは文章を読むということができない。

 そもそも、ヴェルドの城壁の外にいる人々の中で、まともに文字が読める人はほとんどいなかった。本が市場に出回ることはなく、読み書きを教える学舎もない。

 いくつかの文字の形と貨幣というものの価値さえ分かっていれば、この街では最低限生きていくことができる。

 働いて僅かな金を得て、飯を買って食べ、疲れ切った体で眠る。そこに文書というものが入り込む余地はない。

 

 サミは、そんな街の実態を逆手にとって人の社会に入っていったアイルーだった。

 アイルー、という言葉も最近になって広まったものだ。最近になってちらほらとその姿を見かけるようになった、辺境から訪れる獣人。

 人が集うことで生まれる富に惹かれたか、種族として何らかの思惑があるのか。目的ははっきりとしていないにしろ、その扱いは決して人並みではない。

 同時期に現れて各地で盗みを働いているメラルーという別種族と同一視され、卑しい獣人だと迫害される。それが今のアイルーが置かれている現状だった。

 

 サミもまた迫害の対象になり得る。その手から逃れるために、彼女は人の言葉を学ぶという策を講じた。

 独りで言語を学ぶには教本が必要になる。どうやってそれを手に入れたのか、どのようにして学んだのか。サミはあまり話そうとしない。

 ひとつだけはっきりと言えるのは、サミもまた苦労の多い人生を歩んできたということだ。

 

 結果的にサミは、人とアイルーの両方の言語を流暢に話せるようになっただけでなく、読み書きまで習得した。それらは識字というらしい。

 アイルーどころか、人ですらそうそう持ち得ない技能だ。当然、彼女にしかできない仕事が舞い込んでくるようになり、今はこうしてフレアの使用人としての職を得ている。

 フレアとサミの間で交わした、あくまで個人的な契約ではあるが。他の連中よりはだいぶ、いやかなりましですにゃ。というサミの言葉に誇張はなさそうだった。

 

 ヴェルドの上層部から伝令でなく依頼書が来たときには、サミがそれを読み上げてフレアに内容を伝えることになっている。

 もう何年も続けられていたやり取りだ。けれども、手紙というものを読み上げるのは初めてのことだった。そもそも、手紙という文化がこんな下層の民に届くものとは思ってもいなかった。

 

 しかし、差出人はあのリーヴェルの戦士、フレアが殺したとはっきり告げた、ヴィルマという男だ。国が違えば常識というものも変わってくるのかもしれない。

 例え偽装だったとしても、読んでみないことには事が始まらない。幸いと言うべきか、東西シュレイドの言語は同じものが使われている。

 文字に若干癖があって読みづらいにゃ、地域差ってやつですかにゃ、とサミは言っていたが、読めないことはないようで、フレアの指示通り初めから手紙を読み始めた。

 フレアは、病室の寝具に腰かけてサミの声に耳を傾けた。

 

『もし、この手紙が奇跡的に正しく届けられていたのなら、それを願い、先に挨拶を記しておく。

 初めまして、西の地の君。こちらは短い夏の只中で、慌ただしい日々を皆が送っている。

 南の空を見上げれば空へ限りなく近い山(ヒンメルン)が。どんな季節でもその頂が白く染まっているのは、そちらの地方でも同じなのだろうか。

 

 さて、これらの文に対して全く身に覚えがないならば、この手紙の先は読まずに破棄していただきたい。これから届くだろう分も、全て。

 それらは見知らぬ貴方の不幸を招くかもしれない。遠い地の変人が人違いの便りを寄越している。そう思って燃やすか紙屑にでもしていただけると幸いだ。

 気を揉むことはない。そうしておけば、いずれ途切れて忘れられていくだろう』

 

「……続けて」

「……にゃ」

 

 便箋をめくる。一枚目を短文で締めくくり、残りを余白としているのは、望んだ宛先へ届かなかった場合の対策ということか。

 そんなことを、考えてしまう。

 

『では、前置きはここまでにして本題へと移ろう。

 まずは、この手紙が届いてから最も気になっているだろうことを、結論から述べる。

 

 私は、生きている。

 危うかったが、生き延びた。

 未だ腕はうまく動かせないが、時間が経つにつれてそれも元に戻るだろう』

 

「───」

 

 フレアは、目を瞑った。

 殺せなかった。暗殺は失敗した。言葉通りに受け取るなら、再起不能にすることすら叶わなかった。

 わざわざそれを伝えるということが、偽装の可能性を狭めている。遅かれ早かれ無事は知られていたのかもしれないが、こうして自ら内情を明かしに行く理由がない。

 

 一応、この手紙が届いた時点で予感はしていた。であれば、続くのは生きていることに対する疑問だ。

 もし立場が逆転していて、フレアがあの棘を腕に突き刺されていたならば、まず助かる見込みはなかった。

 それはあの毒の飛竜と相対し、何人もの命が蝕み尽くされていくのを見てきたからこその確信だ。決して例外はない。そのはずなのに。

 

『命拾いした理由についても先に記しておく。次に殺しに来るときには気を付けるといい。

 とは言っても、他ならない君ならば想像はつくのではないだろうか。私の予見が間違っていなければ、だが。

 

 私はあのとき、緋色の剣を取った君の腕が瞬く間に焼けていくのを見た。私の剣も、それと同じだ』

 

 やはり、視られていた。フレアは自らの手の平を見やる。

 しかし、二人が持つ剣と、彼が生還したことに何か繋がりがあるのだろうか。

 しばらく自分の手を眺めて、はっと顔を上げたとき、サミはフレアの気付きに覆い被せるようにして続きを読んだ。

 

『見事な一撃だった。仕事柄、人同士の組手や剣術も嗜んではいたが、全く気が付かなかった。

 ただ、腕を。それも肘より先を狙ったのが良くなかったな。

 

 棘を突き刺したとき、君は小さな違和感を覚えたのではないだろうか。

 見た目は布地を狙ったのに、何か固い板に阻まれているような感触があったはずだ。

 あれは私の骨ではない。私の腕そのものだ。

 あえて言うなら、氷の剣から逆流した冷気で凍り付いた私の腕だ』

 

「……」

 

『互いに元の龍の力が制御できないばかりに難儀な剣を担ぐことになったものだが、今回はそれに助けられた形だ。

 本来なら致死量を優に上回る毒が血管を伝って私の全身を駆け巡り、そう時間も置かずに死に至っていたことだろう。

 

 氷の剣は長く担いではいられない。剣を持つ手に血が回らなくなって、やがて凍傷になって手先から腐り落ちてしまう。

 代わりに、私も初めてのことで驚いたが、毒の巡りもかなり抑えられていた。

 私はあの後も氷の剣をあえて握り、その間にあの毒への対処を図ることができた、という筋書きだ。結果的に腕の切断もせずに済んだのは幸運だった。

 

 それと、これは医術師との間で話していたのだが、あの棘から滴る毒は火で炙ってもまったく弱まらないが、冷やすと凝固して毒性を崩しやすくなるようだ。

 この結果から推測するに、この猛毒の棘の主は火山などの極めて熱い地域で生きているか、あるいは自身が強力な炎を扱うかのどちらかだと考えている。

 冷やされることを想定していない毒、という解釈が的外れでなければいいが。どうだろうか。

 

 何れにせよ、こちらの組織下で目下同定中のため、次は対策が取られると思っていてもらいたい』

 

 それは、聞いているフレアたちが空恐ろしさを感じる程に冷静な文章だった。

 暗殺を仕掛けたフレアに対する怒りを微塵も感じさせない。解毒を済ませるどころか、腕に突き刺さったままになっていた棘を回収したのだろう。毒の分析まで行って、フレアたちですら知らない事実を突きつけてみせた。

 

 書き手だろうヴィルマの推測は当たっている。毒の飛竜は確かに強力な火も駆使してきた。

 炎の龍ほどではないが、フレアがこれまでに相対した竜の中でも屈指の火力があったことに間違いはなく、毒でなく炎によって死傷した者も少なくなかった。

 

 流石に、あのとき剣を交えていた僅かな時間の間に、彼の腕の状態を察することまではできなかった。彼もまた同じだ。後になって分かったことが多い。

 腹部に突き刺すことは難しかった。当時、彼は礼装を着ていたとはいえ、それ自体が氷の剣を担げるだけの生地の強さを持った装備だ。棘が十分に突き刺さるよりも前に阻まれてしまう。

 強いて言うのであれば腿か顔にでも突き刺していれば結果が変わっていたのかもしれないが、それは今考えたところでどうしようもないことだ。

 

 運が強い。まるでこの場を切り抜けることが宿命づけられていたかのようだ。

 フレアはぎゅっと拳を握り締めた。

 

「まだ半分くらいしか読めてないですにゃあ……どうしますかにゃ?」

「……続きを」

 

 フレアに請われるまま、サミは続きの文章へと目を通す。ここまで来たなら最後の一文まで付き合うしかない。

 まだ、相手の思惑が分かっていない。フレアを混乱させたいだけなのか、同様の文を西シュレイドの要人へ送った上での挑発か。サミはまだ、体毛のざわつく感覚を拭えてはいなかった。

 

『もちろん、自身の過失に目を背けるつもりもない。人を相手取る軍からしてみれば嘲笑されるほどの失態だったことは十分に認めている。

 君に殺されかけたときのような無様な姿はもう見せない。人を相手取る生業の者を城に呼び、直々に指導を受けることにした。あの日の君を殺せるような先見を抱けるまで、自分を鍛える。

 もちろん警備も強化する。君はあのとき不思議な衣を纏っていたが、そういった不測の事態にも柔軟に対応できるように皆で知恵を出し合っている。

 その点で言えば、君の襲撃はある意味でとても良い教訓になった。皮肉にもならないが。

 

 私は竜を相手取る戦士だ。まだ若輩者だが、十年近くそうしているうちに、人に命を狙われ人の手で殺されるかもしれないという想定がごっそりと抜け落ちてしまっていた。

 ただ、これは君に対しても同じことが言えるのではないかと思う。だからこそ、私を殺すためにわざわざ君が出向くことになった。流石に憶測が過ぎるだろうか』

 

「…………」

 

『君は強かった。単純な剣の打ち合いで、互いに支援のない状況だったなら、毒など使われずとも私は死んでいたはずだ。

 技量の差は明確だった。後から、ひょっとすると君は竜人だったのかもしれないと思ったが、違うのだろうな。彼らは争いを好まないし、あのような命の使い方は竜人には難しい。

 

 一瞬だけ見えた君の顔は、私よりも若く見えた。それであの実力だ。いったいどれだけ濃密な死線を潜ってきたのか、なかなか想像がつかない。

 だが、その死線のほとんどが人でなく、竜との戦いで越えてきたものであるだろうことは、予想がつく。

 ここまで書けば、私が何を言いたいかも、私が君のことを誰だと思っているかも、言わずとも知れるだろう』

 

 静かに話を聞いていたフレアの目が、そっと伏せられた。

 言わずとも知れる。書き手の言う通りだった。フレアは決定的な証拠を彼にだけはっきりと見せてしまっている。他ならない彼だからこそ、確信に至ってしまうだろう剣を抜き放っている。

 サミはちらりとフレアの顔を見て、フレアも時折向けられるその視線には気づいているのだろう。何も口を挟まずに手紙を読み進めた。

 

『私は本国の一部の人々の間で東の英雄と呼ばれている。より多くの資金を得て、仲間の命を守るために、その呼び名を自ら名乗ることも厭わない。

 それに対するなら、他ならない君こそが西の英雄───』

 

 途端、青い灯を思わせるフレアの碧眼がふっと翳った。

 それと共に、彼女の焼けつくような赤髪が、ちりっと火の粉を発したような。

 まるでくすんだ薪のように、静かだけれど、確かな熱を感じる。そんな気配をフレアは纏った。

 

『───などという呼び名を、君は最も忌避するだろう。だから、あえてそうは言うまい。

 祝宴の場でのやり取りだけでそれは察せる。どうやら西シュレイドの竜への対処はこちらとは大きく異なるらしい。

 

 今思えば、当事者だった君に対して酷な問いをしてしまった。知る由もなかったとはいえ、興味が先立って配慮が欠如してしまっていた。

 ふざけた手紙のように思われているだろうが、この場を借りて謝罪したい。

 

 君は、勝ち取った者というよりも、生き残った者。前を向いて凱旋したというよりも、失ったものを振り返りながら帰還した。

 毒から回復し、この筆を手に取るまでの間に、私はそう思った。あくまで妄想に過ぎないものだが、それでも君を英雄とは言わないでおく』

 

 荒ぶる獣を宥めるような筆運び(手付き)だ。

 目に見えて曇っていたフレアの表情と、火の粉を散らすような雰囲気が、少しずつ鎮まっていく。

 代わりに、僅かだが動揺するような色が混じっている。瞳の揺れ具合からそれを感じ取れる。もしかすると、彼の妄言とやらはかなり的を射ていたのかもしれない。

 

 何と言うべきか、このヴィルマという男、妙に文章の間合いの取り方がいい。サミはそう思った。

 フレアは気付いていないかもしれないが、半分会話のようなやり取りになっている。まるで今この場にヴィルマがいるかのようだ。

 

 ひとつひとつの読み上げの区切りはサミがつけているので、それも理由のひとつなのかもしれない。しかし、どちらかと言えば文章に誘導されている感覚がサミにはあった。

 暗殺の前の祝宴で少しだけ互いに話す機会があったとフレアは言っていたが、そこから彼女と話す際の感覚というものを探ったのかもしれない。

 

『私の剣は、呪われているとは言わずとも、なかなかに因果な剣だ。

 まともな剣でもひとたび打ち合えば、凍えるような冷気と共に刀身を蝕んで砕かせる。騎士の誇りを砕く剣だ。

 しかし、竜に対する抑止力、人に対する求心力としては大いに役立つ。それ故に、あえて私はこの剣を担いでいる。

 

 君が手に持っていた短剣では恐らく防ぎきれなかっただろう。私は本気で君を叩き斬るつもりだったからな。せめて相討つ覚悟だった。

 私がこの剣を使って最初で最後に斬る相手は人になるのか、などと思いを馳せたりもした。

 

 しかし、そんな予感を全て覆して、今に至る。

 君は死んでいないだろう。私も死ななかった。いつかは前線に復帰する。

 弾かれないはずの剣は弾かれた。恐らくは唯一無二、君だけが持つ炎の龍の剣だからこそ。

 

 私は、君という人物に興味を持った』

 

 うわ、変な人にゃ、こいつ。

 というのが、サミの率直な感想だった。

 

 変質者などこの街では掃いて捨てるほどにいる。遠征中に襲われそうになったとフレアが話したことも一度や二度ではない。

 ただ、これは方向性が違うというか。ある意味かなり厄介な人に目を付けられたんじゃないかにゃ、とサミは思いざるを得なかった。

 

 仮にも組織の指揮を執る人物で、しかも病み上がりだろうに。時間と労力を割いて届くかも分からない手紙を寄越してきた。

 このヴェルドの中でならともかく、隣国の、さらに遠方の都市からとなると規模感が全く異なってくる。

 密書なのだろうが、どうしてこんな用途に使うのか。暇、なのだろうか。

 

 呆れや困惑が浮かぶばかりでサミは唸ってしまったが、対するフレアの反応は薄い。

 聞いていないわけではないのだろうが、何かサミとは別のことを考えているのかもしれない。

 特に止められることもなく、ようやく手紙もあと少しのところまで来たので、サミは仕方なく読み切ってしまうことにした。

 

『私の暗殺に君を仕向けた理由は先に推察したが、それくらいしか思いつかないというのが正直なところだ。

 そもそもなぜ、共和制である東シュレイドの中でも重鎮とは決して言えない私が狙われたのか、という疑問があるが、これでは話が迷宮入りしかねない。

 

 少なくとも私は明らかに油断していたのだし、人殺しを雇った方が確実だったように思う。

 しかし、真相は君にすら知らされていないのかもしれないな』

 

「……」

 

『この手紙は君にしか送っていない。その点に関しては安心してほしい。

 まかり間違って君を動かした人物にまで届かないことを祈るばかりだ。君が処罰されることを私は望んではいない。私の暗殺を画策した者には二言三言あるけれども。

 

 だが、私が思っていたよりも遥かに西シュレイドは混沌としているようだ。私はそれについても興味を抱いている。

 君に対する君の国の扱いも不思議なものだ。一応、君は大罪人に相当するからな。私が指示を出さずとも、既に周りが動いている。

 

 君という存在は秘匿されているわけではないようだ。けれども、成果は少なかった。

 国内の人物であれば、半月もせずとも見つけ出され身の回りのことも全て曝け出されるそうだが。一月をかけてようやく名前とざっくりとした居所が掴めた、という程度だ。

 驚くほどあっさりと糸口は見つかるし、口止めや操作がなされている様子も見受けられない。

 しかし、何と言うべきか、誰も君のことを特別視していないものだから、却って情報が錯綜する有様だったらしい。

 

 君はもしかすると、市井の民なのだろうか。

 要職に就いているわけでも、組織を率いるでもない。一兵士と変わらない身分の、どこにでもいる一人、なのだろうか。君ほどの者が。

 俄かには信じがたいが、それならば、君をほぼ単身でリーヴェルへ送り込んだことにもある程度の道理が通る。

 それに、別の見方をすれば都合がいい。君がその立場なら、この手紙のやり取りもさして注目されないだろう』

 

 再びサミは唸った。変な人という印象は変わらないが、勘はかなり鋭い。

 得られた情報は少なかったと書いてありつつも、フレアの現状をかなり的確に言い当てている。

 

 もしかすると、彼はフレアに対して的確な評価を下している数少ない人物、ということになってしまうのだろうか。

 壁内の人々はフレアの有用性には気づいているだろう。世に二つとない炎の剣を預けていることからもそれは分かる。けれども、せいぜい生還率の高い駒程度にしか思われていない。恐らくは根幹の認識が異なっている。

 フレアの周りの人々は、彼女のことを不気味がっている。どんな任務に赴いても、必ず戻ってくるからだ。それを英雄と持て囃すような世間の土壌はここにはない。

 

 彼女のありのままを見ているのはサミくらいのもので、ここ数年変わることもなく、これからも変わらないだろうと思っていた。

 そんな彼女のことを、たった一度殺し合っただけの男が見出そうとしている。見出している。

 

『ふむ、結局現状の報告と謎解きだけで締めることになってしまった。面白みのない手紙になってしまったことを申し訳なく思う。

 次はもう少し趣のある手紙を書こう。恐らく君は、人と竜の狭間に立つ当事者でありながら、多くのことを知らずにいる。私もその例に漏れないが。

 

 返事はしなくても構わない。自分でもどうかとは思うのだが、自然と筆が進んで送りつけているだけなのだ。仕事ではなく、酔狂で書くとはこういうことなのかもしれない。

 届け人はクラフタという名のアイルーのはずだ。手紙を送るのを止めてほしければ、彼にそう伝えてくれ。

 ただ、せっかくの縁だ。二国間の対竜の戦士が繋がっているという状況は私としては好ましいし面白いと感じているので、読むことだけでも続けてもらえると嬉しく思う。

 

 それでは、また季節が移ろう頃に。早くともその間隔だ。

 これだけの距離を駆けて私を殺しに来た、君の執念は凄まじいものだな』

 

 

 

「……終わり?」

「終わりにゃ。にゃ~長かったにゃ。舌が回らなくなるにゃあ……」

 

 サミはぱさっと机の上に便箋を置くと、ぴちゃぴちゃとコップの水を飲んだ。

 普段、こんなに話し続けることもそうそうない。黙って本を読むよりも数段疲れる。

 

 フレアはベッドから下りて、何枚にも綴られた手紙を手に取った。

 そこに並ぶ文章に目を落とし、青い瞳がゆらゆらと文字を映すが、やがて小さく嘆息した。

 

「読めない」

「書き方に訛りがありますからにゃあ。独特の筆記体というか……普段見慣れている文字でもそうは見えなかったりするにゃ。それにしてもフレアさま、特に動じることなく最後まで聞いてましたにゃね」

「話してることの半分くらいしか分からなかったから。文章を書ける人は難しい言葉を使う」

「にゃ~……」

 

 言われてみればそうだ。サミの耳がしゅんと垂れた。

 普段は、フレアにも分かるように指令書などの内容をかみ砕いて伝えていたのだ。

 今回はただの読み上げだったので、汲み取ることのできない言葉も多かっただろう。彼女が黙っていたのは、話の筋道を把握するのに精いっぱいだったからなのかもしれない。

 

 書き手の彼はこのことを分かっていたのだろうか。いや、そこまで考えが及んでいたらもっと言葉を選んでいたはずだ。

 教養があり、周りもそうである人はこの辺りを見落としやすい。話し言葉ならともかく、文字というものは万人に通用する道具ではないのだ。

 フレアの代わりにそんな文句を返事として書いて突き返してしまいたいとサミは思ったが、この手紙の処遇はフレアの手に委ねられている。サミはあくまで彼女の使用人なのだ。

 

「どうしますかにゃ。一方的に送り付けられたけれど、内壁の人たちに送ったらまずいことになりそうだし、送り返すにももう届け人はいなくなってるでしょうし、地味に扱いが面倒ですにゃ……」

「ああ、それなら気にしなくてもいい」

 

 フレアのあっさりとした返事に、にゃ? とサミは顔を上げた。

 

 その眼前に、真っ赤な火が閃いた。

 

「にゃぁ……」

 

 声をかける間もない。

 

 フレアはいつの間にか、手紙を持っていない方の手であの炎の剣を握っていた。決して人に盗られてはいけないからと、常に持ち歩いている。

 握りは最小限で、見境のない炎が腕まで食らいつかないように。軽く、しかし手早く、その剣で手紙を切り裂いた。

 音もなく、部屋全体が一時だけ明るくなって。フレアが何をしたかは、サミ以外誰も気が付かなかっただろう。

 

 フレアが剣を鞘にそっと戻したときには、手紙はそれを入れた封筒まで含めて、細かな塵になって跡形もなくなっていた。

 紙に火が付いて燃える、という過程すらなかった。たった一振りで、そこに文書があったという事実はサミとフレアしか知り得ないものになった。

 

「ええと、フレアさま、何か気に障ることでもありましたかにゃ。それともヴィルマ氏のことが嫌いにゃ?」

「いや。後に残したらまずいってことは分かってたから、そうしただけ」

 

 淡々とフレアは答えるが、サミの顔が引きつっているのを見て少し戸惑うような仕草を見せる。何か悪いことをした? とでもいう風に。

 サミは現実逃避気味に、これを書き手のヴィルマ氏が見たら唖然としそうだにゃあ、なんてことを考えていた。

 証拠隠滅として手紙を燃やす、という選択肢はあった。ただ、手紙を読み上げたその場で、何の躊躇いもなく斬って捨てられるとは思わなかったし、彼も思うまい。

 

「脈なしだにゃ。全く響いても届いてもいないにゃ。変なことは止めて生き残れたことを喜ぶだけにしとくといいにゃ」

「何を言っているの?」

「独り言にゃー」

 

 フレアには伝わらないことを自覚しつつ、はぐらかしながら床と机に落ちた塵を箒でかき集める。

 手紙が来たときにはどうなることやらと不安もあったが、たしかに、こうしてしまえば日常に元通りだ。変に気を揉むこともなくフレアの家を守る仕事に専念できる。

 

 フレアは未だに何かを考えているようだが、それも日が経てば落ち着くはずだ。

 もしまた手紙が届いたとしても、同じような対処をするだけだ。フレアが不在のときに保管しておくかどうかは、また後で聞いておけばいい。

 

 フレアさまの怪我も今回は軽いようですし、診療所から家に戻れたら奮発して何か料理を作りましょうかにゃ、などと。サミはたくましく思考を切り替えつつあった。

 

 

 

 そうして、ヴィルマの暗殺任務に伴う出来事には一応の区切りがつけらた。

 

 流れるようにして月日は過ぎて、ふたつの龍の噂もとっくに過去のものとなり。

 フレアとサミの予想通り、フレアに暇など与えられず過酷な任務が次々と課せられて、ヴェルドになかなか戻れないという日常が繰り返される。

 

 ただ、そんな彼女の数少ない日課として。非日常に身を置く彼女の数少ない日常のひとつに。

 数か月おきに届く、ヴィルマからの手紙を聞くことが付け加えられた。

 

 






作中設定解説

【東シュレイドと西シュレイドの比較】
気候:東シュレイドは大部分が亜寒帯、西シュレイドは温帯に位置する。
面積:東シュレイドの方が広いとされているが、詳細は定かでない。東シュレイドでは東部、西シュレイドでは南部がそれぞれ辺境開拓地域となっている。
人口:西シュレイドの方が多い。気候の影響が大きいとされている。
言語:同一。何らかの背景があるようだが……。
貨幣:同一。一般的にゼニーと呼ばれている。
経済:物的な豊かさは東シュレイドが劣る。生産人口の差が出ているようだ。
政治:東シュレイドは共和制、西シュレイドは王政を敷いている。この違いが両国の隔たりを生んでいるとされる。



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第二章 左手に剣を、右手に筆を
第6話 欠け落ちた円環の逸話


 

 

 クラフタは国を跨いでの運送屋を営むアイルーだ。

 東シュレイドから西シュレイドへ、その逆も然り。身軽さを保つことのできる最大限の荷物をポーチに詰めて運ぶ。

 行商と道を共にすることもあるが、その身一つで道なき道を駆け回ることも少なくない。

 

 同業者は少なく、その分報酬は多い。少なくとも、奴隷扱いの同族とは比べ物にならない額の金は手にしている。

 稼いだ金は専らマタタビの粉末へと消えていく。人がアイルーを従えるために使う一種の薬物だが、クラフタもその虜になった一匹に過ぎない。

 

 アイルーはもともと狩猟採集で日々を生きていて、農耕は得意でない。いや、そもそもの発想がないと言うべきか。クラフタも人の畑というものを初めて見たときには驚いたものだった。

 つまり、同族にとってマタタビの栽培などもっての外であり、野生のマタタビを見つければその場ですぐに奪い合いが起こるか独占されるかして消費されきってしまう。

 だからこそ、人々の手によるマタタビの安定供給はクラフタが仕事を続ける理由としては十分すぎるものだった。

 

 今日も今日とて、クラフタは荷物を運ぶ。

 行き交った人々に蹴とばされないように気を付けながら。ポーチが雨に濡れたり土に汚れたりしないように注意を払いながら。

 長い時間をかけてようやく成り立たせた職業だ。人々の側からしてみれば、ようやくその利用価値に気付き始めた、程度のものなのかもしれないが。

 荷物の状態が損なわれれば、まして紛失などしようものなら信用など脆くも崩れ去り、泥水をすするような生活に後戻りすることになるだろう。それ以前に命すら危うい。

 

 その道のりも決して楽とは言えない。むしろ危険に塗れている。同業者が少ないのはそのためだ。

 アイルーは野性的な直観には優れている。その分社会的な考え方が得意でなく、人々に利用される立場に追い込まれている、という皮肉も併せ持っている。

 人の往来はそれなりにある。これは、そこまで不自然なことでもない。

 国同士で争っていても、商業は別だからと別の場所で手を握るような生き物だ。余程のことがない限りは細々とでも道が残されるだろう。

 

 二年ほど前、その余程のことが立て続けに二度起こったことがあった。

 意志を持って闊歩する吹雪と山火事。国境を繋ぐ道をあれらが飲み込んでいたならば、その後の十年くらいは人の往来ができなくなっていたかもしれない。一度崩された地形を元に戻すには長い月日がかかる。

 アイルーのクラフタはそれでも何とかする心意気でいたが、舗装された道がないとどうにもならなくなるような荷物の運び方をしている人々にとっては、気が気ではなかっただろう。

 

 結果としては、古の災いと呼ばれたどちらともが人の手によって行く手を阻まれ、引き返すなり進路を変えるなりして、壊滅的な被害は免れた。

 ただ山火事の方は影響が大きかったらしく、西シュレイドの一部では数か月に渡って煤塵が降り注ぎ、心身を病む人や竜が続出したらしい。これでも最悪の事態には程遠いと言えた。

 

 そういう自然の脅威にアイルーは敏感だ。だから一度、人の社会の閉鎖的な身の安全を知ってしまうと抜け出せなくなる。国境を跨ぐような仕事からは手を引くようになってしまう。

 つまり、クラフタは変わり種だった。もともとひねくれ者で、マタタビに酔いつつも常に自由でありたい欲求を抱えている。

 ハイリスクハイリターン、とどこかの商人が言っていたが、まさに自分はそれなのだ、とクラフタは自負していた。

 

 そして、もうひとつ言えることとして、東西シュレイドの国境付近が敬遠されているのには相応の理由がある。

 何か目で見て分かるような、不毛の地だとかそういうことはない。空に限りなく近い山々(ヒンメルン)に沿って延々と森が続き、野生のアイルーだっているし、何なら川渡船を生業とする人の集落もある。

 けれど、差別的な物言いをあえてするならば、感覚が麻痺しているのだ。人に限っては鈍感なだけなのかもしれないが、他の地域から来たアイルーならば分かる。

 恐ろしい、という一言では表しきれない、別の言い方をすれば、蠱惑的ですらある。なんとなく怖いはずなのに、惹きつけられるものがある。

 この一帯だけ、森の緑が色濃く深いような、そんな錯覚さえクラフタは抱いていた。

 

 シュレイド地方の真中が、どうしてそのようなことになっているのか。

 多くの生き物がその理由を知らないが、両国の首脳陣たちはよくよく分かっているようだ。

 国を渡る大掛かりな商売をしている商人の一部にも、噂や与太話に交えて密かに伝えられている。

 

 クラフタもまた、これらの事情に近づいてしまった者の一人だった。

 知ろうと思って知ったわけではなかったが、人の使う文字や言葉を学んでしまったばかりに要らぬ知識を得た。おかげで仕事をする間、考えることが増えてしまった。

 

 

 

 道中に雨が降ると、木の下や洞窟で雨宿りをすることになる。ポーチを濡らすわけにはいかないからだ。

 そうやって足を止めているときは、求められた届け日に間に合うかを逆算し、じりじりと心を焦がす。それだけでは気が滅入ってくるため、クラフタは物思いに更けることを覚えた。

 

 もう何度目になるか、クラフタは自分の身が置かれている状況を考える。回りくどく、この世の中を頭の中で整理するところから始める。

 

 実のところ、西シュレイドの都市と東シュレイドの都市を行き来するのにここまで難儀することはないはずなのだ。

 特に、東シュレイドの前線都市リーヴェルと西シュレイドの城塞都市ヴェルドは、直線距離で結べばそう遠くない。何なら、それぞれの自国の辺境にある街よりも明らかに近いまである。

 

 空に限りなく近い山々(ヒンメルン)の東の端と西の端を迂回して結ぶ今の道のりは、それはもう大変な遠回りなのだ。

 わざわざそんな回り道をせずとも、山の裾野に沿って真っすぐに互いの都市を目指せば、今の十分の一の時間で到着することができるだろう。

 

 けれど、それはしない。できない。地図上でもそれは不可能とされている。

 二つの都市の間には空に限りなく近い山々(ヒンメルン)の一部が突き出るようにして聳えている。標高はそこまででもないが、地質が脆く道路や隧道を敷くことができない。

 さらに危険な竜が生息しているため近づくことすらできず、陸路となると今のような迂回をするしかない、という、そういう設定になっている。

 そう、そういう建前なのだ。

 

 真相は己が掴んでいる、などとはクラフタは思わない。自らの目で確かめたことではないからだ。

 それらの内のいくつかには事実が含まれているかもしれないし、全てはクラフタの思い込みということだってあるかもしれない。

 けれど、クラフタは自らが幼い頃に同族の集落で聞いた伝承と、仕事の伝手に貴族や商人から聞き及んだ話が頭から離れないでいる。

 

 どうやら西シュレイドと東シュレイドは、太古の昔からそういう在り方だったわけではないらしいのだ。

 詳しいことははっきりとは分からないが、元はひとつにまとまっていたのだと。空に限りなく近い山々(ヒンメルン)に対して垂直に伸びるような今の国境は、その概念すらなかったということだ。

 

 その説を聞いてクラフタはひとつ、腑に落ちるものがあった。

 東西シュレイドを何度も渡り歩いているから分かる。両国の国境はとても曖昧というか、分かりづらいのだ。

 一応、空に限りなく近い山々(ヒンメルン)から遥か南の海へと流れていく河のひとつが国境ということにはなっている。

 けれどもその河はいくつもの支流を持ち、その内のどれで区切られているのかははっきりしていない。

 

 本来はもっと、それこそ空に限りなく近い山々(ヒンメルン)の峰を隔てて南北シュレイド、と言われた方がよっぽど分かりやすいし、治世だってやりやすいだろう。

 長い歴史の中で、どうしてあの山脈を無視して国が分かたれているのか、クラフタは不思議でならなかった。

 

 そして、そんな疑問に対する答えもまた、口伝や詩歌の中に見え隠れしていた。

 

 

 

 かつて、大きな災いがあった。

 先の山火事や吹雪を優に上回るような規模の災厄が、この地域に舞い降りた。

 それがいつの出来事だったかは定かではないが、相当に昔であることは確かだ。アイルーも人も、何代も、場合によっては何十代も遡ることになるかもしれない。

 

 その災いの名前は不吉とされていて、知っていても口には出してはいけないことになっている。運命や、鉄を熔かす火に例えられるらしいが、クラフタも積極的に首を突っ込んでいきたいとは思わない。

 クラフタにとってはむしろ、その手の話の端々に出てくるシュレイド国という名前が興味深かった。

 東、西と区別されない。シュレイド地方をそのまま当てはめたような、今は存在しない国名。単語そのものは聞き飽きる程なのに、はっとさせられる。

 

 きっと、その災いこそがかのシュレイド国を割ったのだ。血を通わせる巨大な生き物を胴の部分から引き千切るようにして。

 生き物であれば断末魔を上げて、避けられない死を迎えることだろう。けれども、人という生き物の群れはなんとか生き延びて、持ちこたえた。

 支配や秩序というものを失い、都市ごとに小国に分かれて小競り合いをするような過程を踏みながら、時間をかけて今の東西シュレイドという二大国ができあがっていったのではないかと、クラフタはそう考えている。

 

 そして、ここからは本当にクラフタの推測の域を出ないが。

 その災禍の禍根は、今でも拭いきれずに残っている。根付いてしまったといった方がいいのかもしれない。

 恐らくは、あの空に限りなく近い山々(ヒンメルン)の向こう。本来は真っすぐに道を敷けるはずの、リーヴェルとヴェルドの中間に位置する場所。そこに、何かがある。

 

 両国の地図共に通行できないと明言しているどころか、半ば立ち入り禁止のような雰囲気を醸し出している。

 あれは国境などではなく、互いの国の、不可侵領域なのではないだろうか。

 災いの爪痕はこうして山を隔てたこちら側にまで及び、この曖昧な国境一帯に薄く広がっている異様な雰囲気の根源となっているのではないか。

 

 クラフタはいつも、この辺で考えることを止めてしまう。何か触れてはいけないものに触れそうになっている感じがして、息を吐いて頭を振り、無理やり思考を振り払う。

 どうせ、誰かに話すこともできない。壮大な妄想だと笑われるならまだいい。むしろ全部外れていてほしいとすら思っている。

 けれども、もし今の思考の一欠片でも真相に当たっていようものなら、西シュレイド辺りであっさり事故死してしまいそうだ。そんな死に方はクラフタにはごめんだった。

 

 好奇心は我らを殺す。アイルーの間に広く伝わる戒めはクラフタ自身にも当てはまる。

 未知に対して迂闊に手を伸ばさず、生き延びるために必要な情報だけを拾って、自らの仕事に集中する。

 何度だって自身に言い聞かせるべきだ。このような職で金を稼ぐクラフタには。そのための道具として、クラフタは今の思考を使っている。ちょっとした劇薬のようなものだ。

 

 では、生き延びるために必要な情報とは。これは堂々と考えを巡らすことができるし、積極的に手に入れていかなくてはならない。

 例えば、先に東シュレイドの都市リーヴェルで手紙を託された際に、ある老人が零してくれた龍渡りの話は興味深かった。

 文字を読めるアイルーは珍しい。加えて本を読み、歴史や政治の事情までも知っている者ともなるとごく一握りだ。その一匹であるクラフタについ口が軽くなってしまったのだろう。

 

 曰く、龍渡りは百年から数百年に一度の頻度で起こり、連綿と続く災いだ。暦にも記されていないが、龍占いと呼ばれる人々の間で今盛んに議論が行われているのだという。

 災いの種類は多岐に渡る。干ばつや毒霧、地震や星降りなど、一見して何の繋がりもない天災が立て続けに起こる。

 共通しているのは、それらが季節の巡りや地形に関係なく、一定の方角へと向かって移ろっていることであり、この傾向に倣って渡りという名が付けられた。

 

 先の噂や与太話と大差のない新説だが、ここ最近に起こった二つの災いがこの周期と重なっており、俄かに話が盛り上がっている。

 一介の労働者であるクラフタからすれば、迷惑千万といったところではある。東西シュレイドのいざこざに加え、国境の不穏、常々の竜への警戒と、既に腹いっぱいだと苦言を呈したい。

 けれども、自然に対して文句を言ったところで返ってくるのは山彦か、腹を空かせた竜くらいのものだ。黙って付き合っていくしかない。

 

 この大地では、竜ですら意に介さない大きな力が、それぞれ無関係に、それぞれの目的や仕組みに沿って時間だけを共有して動いている。

 人の社会も似たようなものだろう。個体としての力は小さいけれど、これが都市や国家という大きな集合体になると、それ自体が何かの息遣いを宿すようにも感じる。

 この同時進行性とでも言うべきものを最も実感している者のひとりが、クラフタなのかもしれなかった。

 

 

 

 雨が止めば、再び歩き出す。方角を見定めて、うっかり獣道や竜道に入っていないことを入念に確かめながら。

 木々の隙間から顔を覗かせる月や、浮雲の流れていく青空を何度も見上げた。星空や陽射しの元を走った。これらもまた、クラフタの仕事の一側面だ。

 

 月単位の時間をかけて、延々と続いた山脈を回り込む。気が付けば折り返しの目的地が近づいている。

 丘に登れば遠くからでも見える岩肌のような城壁は、西シュレイドの統治者の住む街、ヴェルドだ。

 堅実な見た目とは裏腹に、あの城壁の内と外ではっきりと貧富が分かれていて、何の権利も保証されていない壁外の人々の方が圧倒的に多い。複雑でいくつもの顔を持つ街だ。

 クラフタが病的に欲しているマタタビもここで手に入る。壁内では正規の高級品が、壁外では闇市の量産品が。どちらもクラフタを魅了して止まない。混沌としたこの街をクラフタが好む唯一の理由だった。

 

 既に竜の気配は遠のき、広々とした畑や集落から立ち昇る煙、道行く人々も増えて、人の気配が濃くなっていく。

 この辺で竜が現れたら大騒ぎになるだろう。彼らの存在を知らない人々もここには数多くいる。空に限りなく近い山々(ヒンメルン)を境としたこの生息系の違いはクラフタでも驚くほどだった。

 

 道中、いくつもの街や村に立ち寄って書簡や小包を手渡してきた。

 クラフタの客の多くは貴族や大商人など、一定以上の身分を持つ者だ。豪勢な屋敷に上がり込んだことも一度や二度ではない。

 それもそのはず、国を跨いでやり取りをするような繋がりなど、その辺の市井の民が築けるはずもないのだ。国境があのような状況である限り、交易以外の交わりは起こり得ないだろう。

 

 その上でアイルーという手段を用いて連絡を取り合う。

 人よりも小さくすばしっこくて、足取りを追いにくい。大きい荷物は運べないが、文書ひとつ程度であればもってこいだ。交易商人の密輸取り締まりなどとは違って、アイルーの往来に対する法整備がまだ十分でないことも追い風になっている。

 差出人が中身を説明することは滅多にないし、クラフタも知ろうとしない。輸送に秘密を課せられることなど日常茶飯事だった。他人に話せない事情しかないのだろう。

 中身が黒かろうと何だろうと、クラフタは淡々と運ぶのみだ。そもそも種族が違うので情も湧かない。

 人々の側も、隣国のことが気になりはすれど、すぐ近くにいるアイルーに関心を抱くことなどあまりないだろう。せいぜい、メラルーのように盗みを働きやしないかと疑いの目をかけてくるくらいだ。

 

 ヴェルドは西シュレイドでは最大と言えるほどの都市でありながら、国土の端の方に位置している。かの「地図上では立ち入れない国境」の近くだ。ここまで重厚な城壁を建てたのも、隣国の東シュレイドを意識してのことだろうか。

 ともかく、ここでの配達と集荷を終えれば折り返しだ。来た道を引き返し、また東シュレイドへと向かうことになる。

 ここでしばらく時間を潰すのもいいだろう。過酷な旅を何か月も続けたのだ。数日間くらい、マタタビに酔う至福の時を味わっても誰にも文句は言われまい。

 

 懐で温まっている金と、それらが魔性の草の束へと変わっていく光景を思い浮かべて、つい口元が緩んでヒゲが下がりそうになる。

 妄想を振り払うようにクラフタは首を振った。まだ配達の仕事が残っている。ヴェルドはアイルーへの迫害が強い街だから、油断しないようにしなければ。

 

 そう言えば、またあの変わり種の手紙が最後に残ったな、とクラフタは思った。

 ここ一、二年の話だが、ヴェルドへ赴くときには必ずこの手紙が付き添うようになった。また、東シュレイドのリーヴェルへ手紙を受け取りに行く流れもお決まりのようになっている。

 正直なところ、クラフタはこの二都市の往復を少し面倒に感じているが、報酬が良いため付き合いざるを得なかった。

 

 差出人は驚くべきことに、かの東シュレイド対竜兵団の指揮官を務めている男だ。

 決して嘘偽りではない。なぜなら、クラフタはこのためだけに前線都市リーヴェルの基地へと呼び出され、本人から直々に手紙を受け取っているからだ。

 宛先はヴェルドの壁外に住んでいる少女だ。とはいっても彼女は大抵不在にしていて、使用人らしきアイルーが代わりに手紙を受け取ることがほとんどだった。

 

 ヴェルド壁内の身分の高い人々へ宛てたものであるならともかく、壁外の誰とも知れない少女が宛先となると正直困惑が隠せない。

 特に最初は「恐らく壁外で知名度はそれなりにあるはず」という情報しか与えられなかったため、この無数の貧困層がひしめく壁外で人探しから始める羽目になった。よく途中で放り出さなかったものだとクラフタは思う。

 何度か同じ配達をする度に、その少女が西シュレイドの対竜戦士として戦っている身であることが分かった。どうやらかなり強いらしいが、有名というよりも気味悪がられている、という印象を受けた。

 

 どちらも竜と戦う立場である点で共通点がある。いや、それ以外では結びつきを見出せないと言った方が正しいか。

 どこかで合同作戦でもしていたのだろうか、とクラフタは考えていたが、それ以上は考えることを止めていた。

 

 そして、この配達依頼の違和感の極めつけともいえるものが、少女の側からの返事の手紙がないことだった。

 クラフタの配達は双方向が基本だ。小包を渡せば別の品を託され、書簡を渡せば返信を任される。一方通行の案件もあるにはあるが、そういう場合は一回きりだったりすることが多い。

 しかし、この手紙に限っては例外だ。もう数回は同じことを繰り返しているが、少女の側から、その使用人のアイルーから返事のひとつも貰った試しがない。

 

 一応クラフタの側にも責任と自負があるため、確実に送り届け、そしてしっかり受け取られていることを依頼人に報告している。

 リーヴェルの依頼人はその報告で十分なようで、よくやったとクラフタを労い、クラフタが西シュレイドに言っている間に次の手紙を書いてしまうのだろう。また厚めの手紙を前金と共に託される、ということが続いていた。

 

 他人事には首を突っ込まない主義のクラフタだが、流石にこれには困惑を隠せなかった。

 一時期は少女の方が東シュレイドの密偵か何かで、リーヴェルの依頼人はこの手紙を通じて命令を出しているのか、などと考えたりもした。

 しかし、それをするなら宛先は間違いなく城壁内の誰かになるはずだ。

 壁外は壁外で、個人を特定されづらくできるなどの恩恵はあるだろうが、西シュレイドの内情を探るなどの目的に対しては重すぎる制約がある。ヴェルドの格差社会を舐めてはいけない。

 

 そうでないなら、あまり考えたくないことではあったが。

 ただ単に差出人が変人なだけで、少女は付きまとわれているようなものだとか、そういう落ちだったりするのだろうか。

 ある組織の指揮官、実質的な都市の統治者ともなれば、何かしら常人にはない感性や信念を持ち合わせていてもおかしくはない。若いなら尚更だ。

 その熱意が遠い異国の少女に送られている。例え返事が無くとも熱心に、めげることなく繰り返して。一方的に手紙が送り届けられ続けている。

 なんだか急に、少女のことを気の毒に思い始めたクラフタだった。

 

 まあ、何にせよ手紙は受け取られている。その気になれば突き返したり目の前で破いたりすることすらできるはずだが、それをしないのは何らかの意図があってのことだろう。

 手紙の差出人と受取人のことはともかく、クラフタはむしろ少女の使用人のアイルーのことが気にかかっている。

 

 種族が同じということもあるが、彼女もまた変わったアイルーのようだった。主たる少女を深く親愛しているのか、不在がちな彼女の家をしっかり守っているようだった。

 暮らしぶりは周りと比べるとかなりましな方のようだったが、壁内に住む人々の家とは及ぶべくもない。外面を良くしても盗人や強盗に狙われるだけだとかの要因もあるのだろう。

 少女のような功績のあげ方では決して城壁の内側に囲い入れようとはしない。ヴェルドの思想が透けて見えるようだった、そこまで徹底しているからこそ、これだけの繁栄を遂げたとも言えるのかもしれないが。

 

 仕事の都合上、差出人と受取人の名前は知っている。けれど、そのアイルーの名前をクラフタは未だに知らなかったし、特に尋ねることもしなかった。

 向こうも同じくだ。渦中にいるのはあくまで主や依頼人たる彼らであって、自分たちは間接的に関わっているだけに過ぎない。配達人と代理受取人、それ以上になることはないのだ。

 

 ただ、仕事として互いに二言三言話したりすることはあって、そのときに彼女が人の言語を話せるだけでなく、読み書きまでできて、ちょっとした読書家であることを知った。

 正直に言えば、かなり驚いた。相手の方もまた、クラフタが人の言語を習得していることに驚いているようだった。

 ヴェルドの壁外に至っては人々にすら普及していない。アイルーともなればその数はぐっと限られてくることだろう。

 

 クラフタは自身の生業としてどうしても教養を身に着ける必要があったからで、特段誇ることでもない。

 しかしヴェルド壁外のこの環境下で、かつアイルーである彼女が教養を身に着けているとなると話は変わってくる。

 あくまでクラフタの見立てだが、彼女ほどの才があるならアイルーであれども城壁内で仕事を得て暮らすことだってできるはずだ。アイルーだからこそできる役回りがあるのは、クラフタ自身が証明している。

 

 それでもなお壁外に留まり、迫害を受けながらも主の元で仕え続けている。

 恐らく彼女なりの思惑があるのだろう。それは自由を求めたクラフタとは方向性を違えるものだが、あえて選択をしているのだ、ということだけは汲み取れた。

 そして今日もまた、主の帰りを待つ家の戸を叩いたクラフタを出迎える。人用に設計された戸はアイルーには少々開けづらい。そのちぐはぐさに少し空しさを覚えた。

 

「こんにちは。お届け物です」

「こんにちはにゃ。いつもお疲れさまですにゃー。半年ぶりくらいですかにゃ。いつものお手紙ですかにゃ?」

「ええ。東シュレイドのリーヴェルから。代金は既に貰ってますので」

「こりないものですにゃあ……。分かりましたにゃ。悪いですけれど今日もフレアさまは不在でしてにゃ……代理で受け取っておきますにゃ」

「……それでは、たしかにお届けしましたんで」

 

 手紙を渡したクラフタは、そのまま身を翻す。

 これまでに差出人について問われることは何度かあった。特に口止めもされていなかったため包み隠さず話したが、それももう粗方伝えきってしまった。そうなるともう、特に話すこともない。

 しかし、そんなクラフタの背後から、「にゃ、ちょっとお待ちくださいにゃ!」と声がかかった。

 

「どうしました? ……ああ、受け取り拒否ですか。それなら着払いでいいですよ」

「そのうちそうなるだろうにゃってこっちも考えていたにゃ。けれど、別件なのですにゃ。ある手紙をリーヴェルまで届けてほしいのですにゃ。前金もお支払いしますにゃ」

 

 彼女はそう言って戸の傍の棚から小さな封筒を取り出すと、丁寧な仕草でクラフタの手にそれを乗せた。

 どことなく手作り感のある質素な封筒だが、中身を守るだけの頑丈さはありそうだ。宛先は───東シュレイド。リーヴェルの対竜兵団団長のヴィルマさん。

 

「……ニャ?」

 

 つい、素の声が出てしまった。

 

「あ、ニャって言ったにゃ」

「……聞かなかったことにしていただければ」

「いやーあなたもアイルーなのにゃねー。とにかく、その宛先の通りにゃ。こんなことになるなんて思いもしませんでしたけれどにゃ。フレアさまなりに何か思うところがあったみたいにゃね」

 

 普段は気だるげに半目になっているクラフタの目が僅かに見開かれた。

 続いて彼女の方を見ると、人がするような仕草で肩をすくめて斜め上に視線を向ける。

 

「返事は別にいいってフレアさまは仰っていましたけれどにゃ。まあそうはならないでしょうにゃね」

 

 ただの気まぐれで、もうこれっきりかもしれないということを伝えてほしい、と彼女はクラフタへ伝言を付け加え、続けざまにそっとため息をついた。

 

「さて、これからどうなることやら、にゃ」

 

 






作中設定解説

【ヒンメルン山脈】
東シュレイド北端から西シュレイド南端にかけて、二国に渡り聳え立つ山脈。人々からは「空へ限りなく近い山」と呼ばれている。
シュレイド地方の気候にも大きな影響を及ぼしており、東シュレイドからこの山脈を越えると温帯となる。
北西部に広がる西竜洋と並び、モンスターの進出を阻む天然の防壁のようになっており、シュレイド地方の人々の繁栄、および歴史に深く関わっている。


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第7話 千の言葉に一を返す

 

 

『この手紙が届くころには、そちらも寒さが厳しくなってきているだろうと思う。

 こちらではそろそろ小さな道が閉ざされる頃合いだ。

 これから降る雪は真綿のようで、春が来るまで溶けることなく積もり続ける。やがて地表を白く染め上げて、背の低い木々はすっぽりと雪に埋まってしまうだろう。

 こうなるともう、歩いて街や集落を往来することは難しくなる。手紙屋のアイルーもそれをよく分かっているらしい。計画的で手際の良い集荷に感心するばかりだ。

 

 そちらでは時季を問わず道を走っているだろう荷車は、冬季の東シュレイドでは身動きが取れなくなってしまう。深く雪の積もった道は、延々と続く泥沼と似たようなものだ。

 だからといって、冬季の東シュレイドがそれぞれの街の門を閉じ、完全に眠りにつくかというとそうでもない。むしろ、この時季だからこそ威勢が良くなる人々がこの国にはいる。

 君は、雪鹿(ガウシカ)ソリを知っているだろうか? そちらの地方ではほとんど馴染みがないと聞くが、こちらでは誰でも知っている冬の風物詩だ。

 

 ソリというのは、荷車の車輪の代わりに、細長い鉄の板を取り付けたものだ。先端の部分が反り上がっていて、多少の段差や石も乗り越えられるようになっている。

 獣の側に刃を当てるとき、先端を突くように当てれば簡単に穴が開くが、刀身を寝かせて撫でると破けずに鞣すことができるだろう。あれと同じだ。雪で均された道を滑って走るのが雪鹿ソリだ。

 牽手は主に雪鹿(ガウシカ)の群れが担う。滑るには速度がいるものだから、毛象(ポポ)や草食竜はあまり適していない。

 雪鹿は力こそ草食竜に劣るが、列を組んで何頭も連結させることでそれを補うということだ。各々がばらばらの方向に走っては前に進まないから、御者には統率力がいる。

 手練れの者ともなると大したものだ。鞭を使わず、掛け声や笛を巧みに使って、まるで意思を共有して共に走っているかのようにソリを進ませる。若輩者の私にはとてもできない芸当で、乗り手として感嘆するばかりだ。

 雪鹿たちも各々の役割がだいたい決まっている。先頭で進路決定を担う者、その後ろで全体の速度を調整する者、真中で最も力強くソリを引く者、後方で群れ全体の動向を見守る者……互いにぶつからないように予め角を丸められている個体も多いというのに、何よりも誇り高く見えてくる。

 

 凍えるほどの寒さの中、人が走るよりも早く風を切る。雪鹿たちは平気かもしれないが、雪国育ちの私たちでも、正直に言えばとても寒い。厚手の帽子を被っていても、耳や鼻が千切れそうな痛みを感じる。

 そうだ。もし冬季に東シュレイドに来ることがあれば、温身の薬湯(ホットドリンク)を携帯しておくことをおすすめする。そちらではあまり普及していないと聞いたが、交易の者に聞けば材料を渡してくれるはずだ。

 

 中身は何てこともない、雪国で良く育つトウガラシという植物の実を粉末にして、水か湯に溶かして飲む。こちらでは日常的な香辛料として、茸と漬けたり肉にまぶしたり、といった工夫も見られるな。

 乾燥させておけばかなり日持ちするから、少しずつ使っていくといい。体の内に炉が灯ったようになって、芯から冷え込むのを防いでくれる。

 ただ、流石に足先や手先までとなると効果は鈍るから、凍傷に対しての過信は禁物だな。あと、寒いからと一気に摂取するのもおすすめしない。後で腹を下して酷い目を見る。

 そして、この効能を長引かせる薬合わせの技もあるが……この話まではしなくてもいいだろう。むしろ飲む気が失せてしまうかもしれない。私ですらあれは少々どうかと思った程だ。

 

 とにかく、これらが冬の東シュレイド、ひいてはリーヴェルの特色と言えるものだ。

 温身の薬湯(ホットドリンク)については勧めたばかりだが、雪鹿ソリにもぜひ乗ってみてほしい。君の赤髪が風にたなびく光景を想い浮かべると、少しわくわくしてくる。

 

 こちらとしては、次は観光か交流の目的で訪れてくれることを願うばかりだ』

 

 

 

『こんにちは。まずは、配達屋のアイルーを通じて君の生死を知ることを許してくれたことに感謝の意を表したい。

 

 私の好き勝手に君を付き合わせてしまっているとはいえ、死んでしまった者を相手に手紙を送るのは流石に忍びないものだからな。故人の墓に手紙が重ねられていくのは、あまり考えたくない光景だ。

 そして、この生業ではそういったことが特段珍しくもないものだから。私も君も、なんてことはなかったはずの任務であっさりと命を落とし得る。これは君も頷けるのではないかと思う。

 

 実際、この間も危うく死にかけたところだ。君にとっては、もはや聞き飽きた話かもしれないが。

 

 ヴェルドの西、そして北には西竜洋が広がっている。それは君たちの住むヴェルドでも同じこととは思うが、東シュレイドの北海ともなると同じ海でも様子が変わってくる。

 流氷、と言われてもぴんとこないかもしれないな。そもそも君が海を実際に見たことがあるかも分からない……まあ、対岸が見えない程に大きな湖だと思ってもらえればいい。

 氷、は見たことがあるかと思う。西シュレイドでも雪は降ると聞くし、氷結晶を見たことも一度や二度ではないかもしれないな。

 基本、この大地は北へ行けば行くほど寒くなっていくが、それも度を越すと海までもが凍り始めるんだ。そうして自然に作られ、海岸まで押し寄せてくる氷を私たちは流氷と呼んでいる。

 

 冬の始まりから終わりにかけて、これも風物詩のひとつと言えるのかもしれないが、前の手紙では話していなかったな。それに、この流氷に紛れて厄介な生き物がやってくるものだから、あまり歓迎されてはいない。

 君なら既に察しは付いただろう。そう、竜だ。本当に、人の領域の外にならどこにでもいるんだな、彼らは。ヴェルドやリーヴェル周辺が平穏なのがとても不思議に思えてくる。

 

 現地の人々は、彼らのことを噛鮫とか血吸い鮫とか言って怖れている。冬の寒さが厳しい年はよく現れるそうだ。この年はそれに当たってしまったようで、何人も行方知れずの者が出て、私たちに掃討の任務が下った。

 防寒具を着込んで、作戦を練って、補給の準備を整えて部隊を出発させた。ここまでは良かった。以前にも一度同じ任務に当たっていたから、相手の姿かたちは知っていた。

 

 血吸い鮫の個体としての手強さは、だいたいあの青い肉食竜──走竜と同じくらいだ。喰らい付かれると生きたまま血を吸われる恐怖を味わうことになるが、だからこそ、そうならないように。集団で相手をすればどうにか対処できる。

 ただ、それは海岸線で対峙するときに限った話で、これが漁師たちのように船の上だったなら、成す術がないくらいの苦戦を強いられていたことだろう。あくまで彼らの本拠地は海だから何とかなったんだ。

 それに、今回は以前とは違って隠し玉がいた。……あれが群れという程の統率力を持っているかは分からないが、つまるところ、親玉がいたんだ。

 

 その風貌は何とも言葉にし難いものがある……実際、私たちの都市(リーヴェル)の抱える学者たちが現場に立ち会った仲間たちから話を聞こうとしても、まず一致した解釈を得ることはできないだろう。

 少なくとも、あれは血吸いなどという域を越えて、人を丸々吞み込める人呑み鮫であったことは間違いない。単体で強い類の竜だ。

 

 不測の事態によって、自分も含めて、何人もの兵士が重症を負ったし、残念ながら、死者も出てしまった。一番の課題は、これらの情報把握が遅れてしまったことだ。

 反省を次に活かすことは前提として、この件で腕や脚を失った兵士や遺族に対しては、しっかりとその身を保証してやらなくては。と、この文章を書きながら改めて決意したところだ。

 

 さて、そんな経緯で、陸だけでなく海でも竜の脅威はなくならないことを改めて思い知った。

 一応、知識としては頭に入れていたのだが、実際に赴いて肌で感じるとより納得感が増す気がする。

 この話だけ聞くと、どうしてそんな危ない土地に人が住んでいるのか、と思うかもしれないな。わざわざ私たちを出兵させずに、住民を退避させるという選択も確かにある。

 

 けれども、こういうのも何だが、今回騒ぎになった村を含めた海岸一帯の集落は、東シュレイドの食糧事情的に決して切り離すことができない。

 リーヴェルで魚介類が食卓によく並ぶのも彼らのおかげだ。特に冬場に水揚げ量が増えるのが大きい。地上が雪に閉ざされて、ごく限られた果実や野菜しか収穫が見込めない中で、この海の幸は大きな支えになっている。

 漁師たちにとっても冬が主な収入源だ。流氷に負けない船は高いからな。採算を取るのに必死だ。けれども流石に竜の襲撃までは防げないし、だからこそ私たちを頼ってでも、なんとか海に出ようとするんだろう。

 

 ……ところで、こうして書いている途中にふと思いついた話題なのだが。

 君は、西シュレイドと東シュレイドの間で船による交易が行われていないことは知っているだろうか。その理由も含めて。

 空を見上げれば、果てなく君のいる都市まで続いているように、西竜洋もまた西シュレイドにまで渡っている。それを使えば陸路以外にも交易の手段が増えて、あの配達屋にここまで頼りきりになることもなかったかもしれない。

 そんなことを考えたことはなかっただろうか。こう尋ねるからには、私はそう思ったということだな。それで、この国の歴史や地理に詳しい文官に聞いてみたことがある。

 

 何せ、あの氷の漂う海へと単身で乗り込んでいく漁師がいるのだ。もっと国費をかけて大きな船と港を整備すれば、海運もできるのではないかと考えた。

 しかし、専門外の私程度が思いつくようなことは、とっくの昔に先人が考えついていた。文官の話によれば、もう百年以上も前にその試みは行われていて、そして失敗に終わっているのだという。

 

 何でも、西竜洋には潮の流れ、海流というものがある。空の天気が移り変わるあの風のように、海の中でも風のようなものが吹いているということだな。これは現地の漁師たちからもちらりと話を聞いていた。

 この海の中の風に乗ると、帆を使って海上の風を捕らえずとも自然と西シュレイドの方へ進むことができるらしい。そう聞くとより楽になったように聞こえるけれども、これこそが大きな罠なのだそうだ。

 

 記録によれば、ちょうど地上の国境の延長線上辺りで船の進みは止まり、深い霧が立ち込めて舵取りができなくなった。

 そうしているうちに、見たこともない大渦が海上で大口を広げていて、幾多の船がそこに呑み込まれて帰ってこなかったのだという。

 何とも不思議な話だが、その信憑性はともかく、異様なまでに船が沈む海域があることは確かだと言えよう。

 

 両国とも何度かは同じような試みをしたそうだが、時期や航路を変えてみても状況は変わらず、相手国へと辿り着けた船はごくごく一部だけだった。

 決して抜けられないというわけではないが、陸路よりさらに大きな博打になってしまうということだな。しかも、陸上なら単身でも徒歩や野宿という手があるが、大海原にその身一つで放り出されようものならまず生きては帰れない。

 こんな様では交易としても、外交としても船という手段は使えない。試みは早々に凍結されて、それ以降の進展を見せていないということだ。

 

 文官からその話を聞いたときには少々残念に思ったものだ。やはり、隣国であるはずなのにどの辺境よりも遠く感じるな、西シュレイドは。

 それでも、いつかもっと頑丈で、その大渦とやらを突破できるような船が作れるようになったなら、海伝いに国を渡ることができるようになるかもしれない。

 それはそれで、また外交上の問題を生むような気がするが……竜に頭を悩ませてばかりのこのご時世に、少しはそんな夢を考えてみたいと思う。

 

 今回はこの辺で筆を置くことにしよう。君もどうか、海の近くで竜を相手取るときには気を付けてほしい。彼らの常識は陸の生き物たちとは違うから、足元を掬われないように』

 

 

 

『こんにちは。「久しぶり」という言葉を続けても良いものか、しばらく迷っていた。この間隔での便りとなると、一度使うとずっと同じ言葉を繰り返すことになりそうだ。

 

 今は執務室で筆を取っている。ちょうど君とやり合った辺りの部屋だな。立場上それなりに広い部屋をあてがわれているんだが、外回りが多いこの生業故に、あまり使われずに埃を被りそうになっている。

 今まで君に宛てた手紙も、遠征先の仮設基地や各地の滞在施設で書いていることが多かった。リーヴェルへ戻る度に使用人に手紙を渡し、間接的に配達屋のアイルーへと渡してもらう、という流れだ。

 もっとも、状況はそちらでも似たようなものだろうとは思う。実際に戦うにしろ指揮を執るにしろ、現場に赴かなくては始まらないからな。

 各地の領主たちも自主的な取り組みは見せているのだが、どうしても練度で劣る。走竜の群れを追い払うので精いっぱいといった具合だ。私たちのような専門職が必要なくなることは当面ないだろう。

 

 以前は冬の終わりの血吸い鮫と人吞み鮫の話をしたように思う。今度は東シュレイドの東部に広がる湿地帯の調査に行ってきた。

 毎回同じような話にばかりなってしまって申し訳なく思う。もっと含蓄に富むような文章が書ければいいのだが、これでは何かの報告書のようだ。少々反省しつつもこうして筆を走らせている。

 

 東シュレイドの東部は今、国として熱心に開拓を進めようとしている地域だ。

 時折遭遇する原住民との交渉や交流はともかく、そんな彼らですらも手を出せていない未開の地はとても広大だ。その先遣隊として私たちを寄越そうという訳だな。

 辺境の領主や国の開拓を担当する大臣は、土地を広げて耕作や牧畜の面積を増やすというよりも、辺境で採れる資源に注目しているらしい。鉱石や木材、岩塩などが該当するだろうか。

 実際、私はあまり関わらなかったのだが、北東部の雪国の方ではかなり良質な鉄鉱石の鉱脈が見つかったらしい。手放しに喜んでいいのかは分からないが、兵器に鉄材を使う私たちにとっては朗報と言えるだろう。

 

 それと同じような成果を見込んでの東部湿地帯の調査だったが、私としては、この辺りは人が定住するどころか出向くことすら難しいのではないかというのが正直な見方だ。

 この湿地帯は既に何度か訪れているのだが、かなり危険な竜が何頭も生息している。

 先に書いた雪山は、その寒さ故に竜たちの活動も鈍っているからこそ何とかなるのかもしれない。

 特に、毒を使ってくる竜が多いのが厄介だ。あの湿地に広く生息している紫の走竜は、シュレイド地方にいる青い走竜と違って毒液を吐いてくる。けたたましい声で鳴いて、毒液を吐き散らしながら暴れ回る怪鳥にも手を焼いた。

 

 まあ、組織としてそういった経験があったからこそ、私が君に毒で殺されかけたときにも何とか解毒の手段を見つけることができたというのはあるのだが。そういう意味では無駄ではなかったと言えるのかもしれない。

 それはさておいても、極めつけは洞窟の辺りに生息する両手鎌の巨大な蟹だ。かつて、君が忍び込んでいた宴会でも話していたと思うが、あれは危険すぎる。

 大型の竜の突進や吐息なら何とか耐えてくれる大楯が()()()()()()など、いったい誰が想像するだろうか。あの蟹の持つ鎌は、恐らくどんな竜の鱗や牙よりも鋭利なのだろう。

 あそこで何人も死者が出てから、あの地の調査は時期尚早だと何度も国に進言しているのだが、あまり聞き入れられる様子はない。

 内地の安全な都市の中で、議会の決定だなんだといっている連中をあの湿地に突き出してやりたい……すまない。愚痴が出てしまったな。

 

 ともかく、いつもよりも神経を尖らせて臨んだ辺境の湿地帯の調査は何とか無事に終えることができた。

 君はこれすら温いと思われるような環境にいるのかもしれないな。君の境遇を憂うことも、こちらの価値観で話す権利も私は持ち合わせていないが、ただ、君の無事を願うばかりだ。

 

 これから私たちはしばらく休息を取って、リーヴェルの西に現れた黒蛇の翼竜の群れを対処しに行く予定だ。

 リーヴェルの西側に人はほとんどいないのだが、監視の者たちが見慣れない翼竜がいると報告してきてな。大きさは走竜と同程度らしいが、数が多いらしい。

 リーヴェルの書庫にもあまり資料がない、十数年ほど前に似たような姿の翼竜が目撃されたか、というくらいの珍しさだ。私も相手取るのは初めてになる。

 何にせよ、翼をもつ竜たちをこの都市に入れるわけにはいかない。迎え撃つか、打って出るか、これから状況を見極めていくことになるだろう。

 

 地理的に、そちらの都市の方面にも現れる可能性がなくはない。次の手紙を書くときにでも報告するつもりだが、念のため、気を付けてくれ』

 

 

 

 ……懲りない人だにゃあ、とサミは呟いた。

 

 自らの主であるフレアへと向けて送られて来る手紙。使用人は本来その内容について触れるべきではないかもしれないが、サミは手紙を読み聞かせる立場にあるため、一通り目を通すことになる。

 そして、声に出して読むとどうにもその文章が記憶に残ってしまうのだ。直接的には何ら関わりのない人に対して色々と考えさせられている現状がある。

 

 今この時もその例に漏れない。遠征から戻ってきて、剣を振るう手以外はどうでもいいともう片方の腕を折ってきたフレアに対して苦言を呈することもなく、お決まりの流れとして診療所へと担ぎ込む。

 そして、フレアが不在の間に配達屋のクラフタから届けられた手紙を読み上げる。フレアがひとつの任務をこなすよりも、クラフタが西シュレイドと東シュレイドを往復してくるまでの時間の方がやや長いので、機会は二回に一度程度だ。それをもう何度も繰り返している。

 

 これが、例えば西シュレイド内の隣街同士、などであれば微笑ましく、かつ珍しくもないのかもしれないが、それらとは一線を画している。

 クラフタの足の速さ的にも、四半年以上はどうしてもかかる。良くて半年に一度、天候や竜の気まぐれで足止めを食らい、往復に一年弱かかることも珍しくなかった。

 

 これでもクラフタはかなり頑張っている方だろうとサミは思う。

 サミは都市での生活に慣れて、旅という行為や地理、土地勘というものが分からなくなってきている。しかし、仕事をさぼりながらでは年に一度の往復すら叶わないだろうことは察することができた。

 身体を酷使して、足腰を悪くするようなことが無ければよいのだが。同族として、そんなことをちらりと思ったサミだったが、それを口に出すことはしなかった。

 

 そんな、悠々と季節を跨ぐようなやり取りを、何度も、なのだ。

 幼くして戦士となり、彼の暗殺に赴いたときも少女と呼べる年齢だったフレアは、段々と大人に近づきつつある。

 

 フレアに向けて最初の手紙が届いてから、三年弱もの月日が過ぎようとしていた。

 

 

 

 こうして毎回長文の手紙を寄越してくる彼からは、読書家の気配がした。同類の気配をサミはなんとなく感じ取っていた。

 同時に筆まめでもあるのだろうが、暇人というわけではないようだ。手紙の内容が真実であれば、だが。

 実際、かなり腕が経つということはフレアから聞いている。氷の剣がフレアの炎の剣と同じくして尋常でない力を持つことも。それは日々戦いに身を置いていることの裏返しだ。

 手紙の中でも、拠点でじっくりと手紙を書いてはいられない、といったようなことが書かれていた。任務先や遠征の道中で綴っていることが多い、と。

 

 文章を書くことは、それを読むよりも遥かに長い時間がかかる。サミはそのことをよく分かっているつもりだ。

 その上でこれだけの手紙を毎回寄越してくるということは、だ。慌ただしい日々の隙間にできた貴重な時間の中で、決して片手間とは言えない優先度で筆を執っているのだろう。

 代理受取人かつ代読者として思うところがいろいろとあるサミだが、最終的には先ほど呟いた「懲りない人だにゃ」に集約されていた。

 

 さらに、この呆れにも近い感情の矛先はご主人(フレアさま)にも向く。サミはそう思わざるを得なかった。

 使用人としてはとても良くない言い草だが、彼女の対応もまた、サミを困惑させる理由のひとつになっている。

 

 最初の手紙こそ、証拠隠滅と言いながら炎の剣で跡形もなく手紙を燃やし尽くすという容赦のなさを見せたフレアだったが、以降の手紙は基本的に保管を命じられている。

 こちらの同意もなく勝手に送り付けられているのだから、本来なら読む必要さえない。しかしフレアは毎回サミに代読を頼んできた。診療院の寝具で横になっているときも、途中で眠ることもせずしっかりと話を聞いていた。

 それらが義務ではないということはフレアも分かっていて、それでも手紙を読み続けるということは、彼女の中で何かしらの心境の変化があったと見るべきなのかもしれない。

 実際、サミが代筆で断りの手紙を書こうかと提案したときも、少し考え込んでからその必要はないと答えた。ある種の譲歩を彼女も見せているということだ。

 

 その理由はサミには分からない。フレアとしても色々と思うところがありそうなものだったから、あえて触れないでいる。

 だから、これはサミの憶測とはなるが、フレアは手紙の内容に興味があるのかもしれない。送り手への興味はともかくとして、だ。

 

 ヴィルマの話題は多岐に渡っていた。部隊を束ね、各地を渡り歩いているだけのことはあるということか。

 ともすれば彼自身やフレアのことはそっちのけで別の話を延々と続けるものだから、何の目的で送ってきているのか分からなくなることがある。一応、恋文の類だろうとサミは思ってはいるのだが。

 

 読み手の性格によっては、これ以上につまらない話もないだろうというくらい教本的だったり実務的だったりする手紙を。しかしフレアは興味深そうに聞くのだった。

 これは全くの偶然なのだろうか。あるいは、差出人がたぐいまれな洞察力を持っていてフレアに合わせているのだろうか。

 どちらも考えられなくはない話だが、サミはもうひとつ、彼らが今置かれている境遇が、ある意味では似通っているからかもしれないと考えていた。

 

 特に、竜に対する話題はその最たるものだろう。一般人はそのほとんどが恐るべき外敵としか思っておらず、話としては避けられがちな傾向にある。

 しかし、フレアとヴィルマ氏だと話は別だ。互いにとって最も関心のある事柄だろう。普段はどんな竜が相手でもどうでもいいという態度を見せているフレアも、他人が熱心にその事柄について話しているとつい耳を傾けてしまう。

 

 こちらから何をするという訳でもない。ただ聞いているだけでいいため、ある程度気を楽に持てるということもある。

 サミは用心深いので、手紙に何か政治的な意図や東シュレイドに引き込むような内容が隠されてはいないかと警戒していた。

 けれど、その警戒感も最近は緩みつつある。ヴィルマ氏は一貫してそういった意図を感じさせない、含みのない文章を綴り続けていた。何度読み返しても、書いてある内容以上の情報は出てこない。

 この気持ちの緩みまでも含めて彼の作戦なのだとすれば、恐るべきことだとサミは思う。指揮官故に人心掌握に長けていると言うべきか、詐欺師の素質があると言うべきか。

 

 

 

 何年にも渡って続いている片想いの手紙。その内の最も新しいものには、これから彼が対峙するらしい竜のことが書かれていた。

 黒蛇の翼竜。独特の例えだが、サミはなんとなく聞き覚えがあるような気がした。それは他ならない。サミの主の口からだ。

 しかし、たとえフレアがその翼竜と戦った経験があったとしても、こちらからできることは何もない。手助けに入るなど到底不可能だし、情報を届けるにしてもせいぜいクラフタに言伝を残すくらいだ。そして、これまでの慣例としてもそういった働きかけをフレアが起こすことはないだろう。

 

 むしろサミは、段々と積み重なってきた手紙の数々が思い浮かび、感心やら呆れやらで若干上の空になりながらの読み聞かせになってしまっていた。それこそ「懲りない人だにゃあ」の気持ちだった。

 だからだろうか、その話の後にフレアが口にした言葉に対して、サミは「分かりましたにゃフレアさま。この手紙はいつもの棚に仕舞っておきますにゃ」とお決まりの言葉を投げかけそうになった。

 

「サミ、紙はある?」

「わかりまし…………にゃ?」

「……どうしたの?」

「え、にゃ。ごめんなさいにゃ。ちゃんと聞いていなかったかもしれませんにゃ。もう一度言ってもらえませんかにゃ」

「紙と、それから筆。無いなら買ってきてほしい」

 

 それは、まあ。あるにはあるが。一応、国からの仕事を請け負っているフレアに対して発生する事務仕事のために。

 けれど、一体何をするつもりなのか。サミがそういう旨のことをフレアに聞き返すと、フレアはきょとんとした顔で言った。

 

「返事、書くから」

「……これ以上聞き返しても野暮ですしにゃ。分かりましたにゃ。少しお待ちくださいにゃ」

 

 驚きや疑問といった様々な感情をいったん全て飲み込んで、サミは主の指示に従った。

 診療所からフレアの自宅まではそう遠くない。その日の内に言われたものを持ってきたサミと共に、フレアは診療所にある小さな机に向かう。

 

「フレアさま? お返事でしたら代わりに書きますにゃ」

「私が書いてもいい?」

「にゃ、にゃあ……分かりましたにゃ。でも失礼にゃがら、フレアさまは文字を書くことができないにゃ? それに、今持ってきてるのはアイルーの手の形に削った筆にゃ。とっても持ちにくいと思うにゃ……」

「うん、分かってる。だから、こっちこそわがままになるけど、その……一緒に書いてほしい。それと、大変かもしれないけど、文字を私に教えてほしい」

 

 今度こそ、サミはアイルー族特有の目をまんまるに開いた。

 まさか、ご主人(フレアさま)がそのようなことを言い出す日が来ようとは。

 

 サミとフレアの分業は、ごく自然の成り行きだった。フレアが文字を覚えることを面倒くさがったとか、そういった外付けの理由はない。

 フレアは素直なので、サミが読み書きを教えようとすれば、それを拒むようなことはしなかっただろう。ただ単純にそうする暇や気持ちの余裕がなくて、考えもしなかったというだけだ。

 サミもまた、フレアに文字を教えることを嫌だとは思わない。これをきっかけにサミの仕事が減ってしまうかもしれない、とふと考えたが、それを理由にサミを手放すような人ではないことは、サミ自身がよくよく分かっている。

 

 ただ、そのきっかけがかのヴィルマ氏の手紙からとなるとは全く想像していなかった。

 ひょっとすると、フレアもまた、サミと似たような心境でいるのかもしれない。

 

 かくして、サミの付添いのもと、フレアの初めての文字書きが始まった。

 

「フレアさまはヴィルマ氏に何を伝えたいと思ったにゃ?」

「あの人が黒蛇の翼竜って言ってたやつ。飛竜に比べたら弱いけど、群れると気を付けないといけないことがある」

「そのことにゃね。じゃあ、難しい言葉は使わなくても伝わるにゃ。言葉はこっちで考えていいですかにゃ?」

「うん」

「分かったにゃ! いきなり書くことから入るから。最初はぜんぜん分からないかもしれにゃいですけれど、それでもいいですにゃ。まずは模様をなぞるくらいの気持ちでいきましょうにゃ」

「分かった。…………サミ、紙を手で押さえてもらってもいい?」

「あっ気が利かずごめんなさいにゃ。フレアさまは今片腕しか使えないんにゃね。分かったにゃ。次に練習をするときは文鎮も用意しますにゃ」

 

 

 

 そして、場面はかの配達屋に手紙を託すところまで遡る。

 サミと比べるとかなり表情に乏しいかのアイルーが、初めて目を見開いた。それだけ彼にとっても予想外の出来事であっただろうことを察しつつ、彼の手に渡ったものを見て、サミは肩をすくめてみせる。

 

「返事は別にいいってフレアさまは仰っていましたけれどにゃ。まあそうはならないでしょうにゃね。……さて、これからどうなることやら、にゃ」

 






作中設定解説

【走竜】
ランポス種のこと。この他、ギアノスやゲネポス、イーオスも該当するが、この頃は一緒くたに走竜と呼ばれている。
後の時代、学術院の手で生物樹系図を組み上げるにあたり、この呼び名がそのまま下目として登録された。
ジャギィやフロギィ、バギィは狗竜と呼ばれ区別されているが、この時代のシュレイド地方には生息していない。

【西竜洋】
シュレイド地方の西部に広がる海のこと。国境付近の濃霧及び大渦については公式に記録がある。
これらは南からの暖流と北の極地からの寒流がぶつかり合うことによって発生する自然現象だが、作中の時代にはその原理も明らかになっていない。

【紙・製紙技術】
作中の時代では羊皮紙(動物の毛皮を薄く伸ばしたもの)がよく用いられている。
単価が高いため無駄遣いはできず、冊子や巻物が高級品と呼ばれる理由のひとつとなっている。
未来においては植物を繊維としたものも出回り、またハンターたちによって皮素材が大量に供給されるようになったこともあり、世間一般にまで普及してきている。


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第8話 一の言葉に千を返す

 

 

 この城にて代々続く主従関係の中でも、彼は特に変わった人間だ。

 

 机に向かい、黙々と書き物をする青年、ヴィルマの背中を見ながら、彼の従者はそんなことを思った。

 

 夢想家であり理想家。顔立ちや立ち振る舞いこそ落ち着いて見えるものの、何かと言葉で表現をしたがり、話や文書が長くなりがちだ。

 この性格だけを挙げれば街や国の書士にも同じような者がいるかもしれないが、これでいて彼は歴とした武官なのだ。相手取る敵が、賊や兵士とは少々異なるというだけで。

 

 彼のいる書斎はあまり外の光を取り込まない構造のため、薄暗さを蠟燭の火で補っている。暖炉の薪が燃える音と、彼が筆を動かす音だけが聞こえている。

 本棚にあまり書籍は並んでいない。代わりに束ねられた皮紙や、細長い巻物が置かれていた。本という形をまだ成せない雑多な書類たちだ。

 加えて、これが何より独特と言えるだろう、粉末や薬液の入った瓶に何かの竜の鱗や骨など、貴族たちですらまず持ち得ていないであろう物品が並べられていた。

 清掃や点検といった主の居場所の維持が従者の業務とはいえ、この風変わりな書斎の手入れをするのは骨の折れることだった。

 

 主の後ろに立つという業務の中でこのような考え事をしている、その時点で従者としては非常識なことなのかもしれない。

 けれども、人対人の文化で正しいとされる習わしも、ここではその意義すら薄れているように感じられる。

 

「……人に背中を向けたまま作業をするというのは、馴染まないものだな」

「……あなたのような立場の方から発せられる言葉とは思えませんね」

「仕方がないだろ、事実なんだから。前に側近を付けたのはもう十数年も前か?

 あのときはまだ子どもだった。庇護される側であることに納得していたから自然と受け止めていたんだ」

 

 だから、こうして彼が突然話しかけてきたとしても、あまり言葉選びに迷うことはなかった。

 大人になった今、こうして見守られることはやはり窮屈に感じる。と、彼は軽く伸びをしながらぼやいた。筆を止める気はまだないようだ。

 

「実際、もし再び彼女がここを訪れたとして、扉の前に立つ護衛が捕らえられると思うか? 最悪死ぬぞ。せっかくの命が勿体ない」

「護衛には聞こえないでしょうが、あまりそういうことを仰られませんよう。彼らにも面目というものがあります。それに襲撃があった際、一声を上げられるか否か、それだけでも違うものです」

「まあ、それはそうだろうが。お前もその一人だと?」

「……私は元より文官です。私が居る場でそのような状況に見えたなら、せめて声を上げる役に徹するとしましょう」

 

 従者は目を閉じて淡々と返す。ヴィルマは嘆息して、再び机の上の紙に向き合った。

 彼が今語った通り、この都市の主たるヴィルマの身の回りの人々が増えたのは、数年前の祝宴の日に、彼が賊による襲撃を受けてからだ。

 それまでの彼は私事に他人を付き添わせたがらず、時おり城下町を一人で出回るようなことまでしていた。城にいる人々も、そんな彼を諫めはしなかった。

 

 厳しい財政と気候の中で暮らす人々の治安は決して良いとは言えない。政治に反感を持つ者も少なからずいるだろう。

 しかし、それでもこの都市と賊という存在は縁遠いと認識されていた。不満の矛先が、領主だけに留まらないからだ。

 竜という他の都市にない肩代わり先があることで、治世は他の都市よりやりやすいのかもしれない。多くの人がそう思っていたのだ。

 

 そんな中で起こったのが、かの祝宴の夜の襲撃だった。

 ヴィルマは毒を撃ち込まれて倒れ、何日も生死の境を彷徨った。

 彼の傘下の者たちが作った解毒薬と、彼自身の生命力、そして毒を撃たれた腕が()()()()()()()()()()()ことでその巡りが抑えられたこと。どれか一つでも欠ければ彼はそのまま息を引き取っていただろう。

 手足の痺れや目立った後遺症もなく回復に至ったのは奇跡にも等しいと、彼の治療に当たった医術師が当時の記録にそう記している。医術師ですらそう素直に書きざるを得ない程に激烈な毒だったようだ。

 

 何にせよ、彼の命を明確に狙う者がいたという事実に街は衝撃を受けた。

 あまりに想定外な状況に現場は混乱し、主犯を街の外まで取り逃がしてしまった程だ。これについては流石に国からの指導が入り、復帰したヴィルマ自身も苦い顔をしていた。

 だが、国は国でその後の追跡を引き継ぎながら、捕縛には失敗している。

 賊とその追手たちは、国境付近で肉食竜の群れに襲われたらしい。追手はその多くが命を落とし、あの状況では賊の方も生き延びることは難しいとして帰還してきた。

 

 ならば賊は逃げ延びただろうと、国とは全く別の見解を出したのがヴィルマだった。

 特段国を責めることはしなかった。今、国の保有する兵で竜を相手取ることは不可能に等しい。それこそヴィルマの兵団が引き受ける案件だが、捜査はそこで打ち切りとなった。

 

 何にせよ、賊という存在を認め、対策を練ることをヴィルマたちは検討しなければならなくなった。

 国からの使者も入り会議が行われる中、まだ療養中のヴィルマが当事者だからと参加し、いろいろと個性的な意見を飛ばしたため、そこでも苦言を受けたのだとか。

 アレは人の姿をした大型の竜に近しいので、対竜兵器を小型化して城に配備した方が良いだとかなんとか。言っていることが滅茶苦茶だ。流石に従者も擁護できない。

 

 結局、こうして護衛を付けるという定石の対策になったわけだ。

 それに対し、未だに不服そうにしているのが目の前のヴィルマということになる。

 しかも、彼が納得していない理由が、彼にとって合理的でないというだけでなく──これは従者の勘だが──恐らく、面白みを感じていない。

 自らの命に対して面白みも何もないはずなのだが、ヴィルマにはそういうところがある。それが従者の持つ彼への印象だった。

 

 一応決め事ではあるため従っているが、あまり身勝手に振る舞えなくなった窮屈さをこの書き物にぶつけるとでもいう風に、ヴィルマは一心に筆を走らせていた。

 領主という立場の人が自分の手で書き物をすることはそう多くない。文書に目を通し、判を押すことは数多くあれど、文書作成は文官や書記に任せる場合がほとんどだ。

 いや、ヴィルマもまたその例に漏れないのだが。

 ではどうして彼がこうして自ら筆を執っているかと言えば、それはこれが報告書だとか告示だとかの公文書ではなく、私的な文書、つまりは趣味で書いているものだからだった。他の誰かに任せて出来上がるものではないのだ。

 

 彼には無数の仕事ややるべきことがあるが、この書き物の時間だけはしっかりと確保しているようだった。外勤中でも変わらない習慣のようで、それだけ彼にとって大切な時間でることは間違いない。

 詩歌を嗜む貴族は珍しくない。彼もその一人かと思いきや──実際ヴィルマはその分野でも活躍した可能性はあるが──少なくとも今書いているものはやや方向性が異なる。

 

 ヴィルマが書いているものは、手紙だ。

 便箋で何枚にも渡る、もはや小説じみた手紙を彼は延々と綴っているのだった。

 

 

 

「──よし、こんなところだろう」

 

 ヴィルマが筆を置いたのは、それより前に彼が従者に話しかけてから大分時間が経ってからのことだった。

 時折、自らの書く言葉の適切さを調べるために本を手に取ったり、ふと物思いに更けることはあったが、それ以外は淡々と筆を運んでいた。

 ただ、暗くてよく見えないまでも、彼の雰囲気はさっきよりもすっきりしているように思われた。彼にとってはこれも息抜きに数えられるということなのだろうか。

 

 見直しのために紙を手に取って始めから終わりまで一通り目を通し、よし、ともう一度呟いたヴィルマは、従者の方へと振り返った。

 

「アズバー、いつもの通り校正を頼んだ。封はいつもの通りで」

「承知しました」

「前に配達屋が来たのはいつだったかな?」

「今年の春の早い頃でしたね」

「それなら今は、ちょうどこの国に戻ってこようかという行程か。リーヴェルに着くのはもう少し先になるだろうな」

 

 彼の想定よりやや早い時間に書き終わったのか、従者へと手紙を渡した彼は、すぐには書斎を出ず、棚に置かれた竜の鱗や瓶詰の粉を眺めていた。

 アズバーと名を呼ばれた従者は、自らに手渡された手紙をちら、と見た。

 手紙の内容を隠し読むようなことがあれば、付き人とはいえ重罪に問われる──などということはなく、彼に限ってはその手紙を読むことを許されている。

 

 アズバーは先ほどの言葉通りの文官であり、彼の手紙の校正役を務めていた。実際はヴィルマが文の運びや文字を間違えることなどほとんどないため、事務手続きが主になってしまっているのだが。

 アズバーとヴィルマの間にだけ共有されているこの手紙を、いかにして「従者が遠方の家族宛に出す手紙」を装って特定の運び屋に託すか。アズバーの悩みの種はむしろそちらの方にこそあった。

 

 だから、今ここでヴィルマの手紙の内容を垣間見たところで特段何も言われない。だが、その内容については既に大方の見立てがついていた。

 いつもの通り、半ば日記のような、けれど事細かな記録とそれに対する彼の思いが綴られているのだろう。これまで、()()()そうだったように。

 

「今度の遠征は西側とお聞きしました」

「ああ、珍しくな。あそこから先は西シュレイドに至るまで不毛の大地だが、なぜかやたらと竜がいる。その間引きに行く予定だ」

「あちらでも手紙を書きますか?」

「いや、そこまで長い日程にはならないはずだ。少なくともヒンメルン山脈を回り道するよりずっと早く着く」

 

 彼は忙しい身の上だった。こうして西方の拠点へ出向くこともあれば、東の辺境やヒンメルン山脈麓の国境の駐屯地に長期で滞在していたりもする。

 しかもそれは、外交や視察といった類ではなく、もっと直接的に命に関わる危険な任務だ。いつ街に戻って来れなくなってもおかしくない、そんな環境の中にヴィルマはいる。

 この街の政治が領主無しても成り立つようになっているのはそのためだ。彼が命を落とした場合は、国からすぐに代理または後継ぎが入るような仕組みになっている。

 

 風変わりな書斎を持ち、竜絡みの様々な物品を集めている彼だが、城にいる時間自体はあまり長くない、というよりも短い。一年の内、五十日も城にいればいいほうといった具合だ。

 そんな日々の中でも、彼は定期的に手紙を書き続けている。宿泊地で、駐屯地で、あるいは前線の天幕の下で。

 遠征にアズバーが連れ立つことはほとんどない。それこそ、他都市や貴族との交流があったときくらいだ。アズバーは城に居続けて彼を出迎える側だった。

 手紙の運び屋はヴィルマの居場所など知る由もないので、出先で手紙が書かれたときには、それは一度城へと送られ、アズバーが一度開封して封をし直してから運び屋に渡すという手順になっていた。

 

 もう何年も経つというのに、飽きもせずよく続けられるものだ。……返事が見込めない、一方通行の便りだというのに。

 ヴィルマがいる手前、口にこそ出さなかったが、アズバーはそう思わずにはいられなかった。

 もし仮に口に出したとしてもヴィルマは怒り出したりしないだろうが、何を言っても、まだしばらくの間、彼が手紙を書くことを止めることはないだろう。

 それは、校正のついでに手紙を読んでいたアズバーが最もよく分かっていた。

 

 ヴィルマはアズバーに話しかけるでもなく、本という形を持たない雑多な書類をいくつか手にとっては考え事をしていた。いずれも竜に関する伝承や記載のあるものだ。

 竜に対する有効な手立てが見つかるかもしれないと、ヴィルマが行く先々で集めてくるものだが、整理する時間が圧倒的に足りていなかった。

 粗雑な紙の劣化は思った以上に早い。過去に古龍占い師たちへの提供をアズバーが提案したが、その是非を考えているのかもしれない。

 

 明日は次の遠征の布陣や対策についてヴィルマとその部下たちの間で協議がある。時間は待ってはくれない。

 自覚はあったのだろう。アズバーが声をかけるよりも早く、ヴィルマは気持ちを切り替えるように嘆息し、アズバーと共に書斎から出ようとした。そのときだった。

 

「む?」

 

 書斎の扉がノックされる。扉越しにヴィルマが名と要件を問うと、扉の前で護衛をしていた兵士が返事をした。

 

「ヴィルマ殿に来客です。クラフタという名の獣人で、ヴィルマ殿に渡したい書類があると。以前と同様に許可証を携えておりますが、如何いたしましょうか」

「ああ、ここまで連れてきてやってくれ。いつもの国の使いだろう」

 

 ヴィルマの指示に従って客人を案内するべく、遠ざかっていく兵士の足音が聞こえた。

 ヴィルマとアズバーは顔を見合わせた。狙い澄ましたかのような頃合いだ。それ自体は偶然だろうが、予想していたよりもずいぶんと早い。訪問する都市の順序を変えてきたのだろうか。

 

 しばらくして、再び扉がノックされ、人であれば通り抜けられない程の幅に開けられた扉から、一人の獣人が姿を現した。

 使い込まれた雰囲気のある灰色のコートに、自らの背丈と同じくらいの大きさの背負い鞄、普段被っている深めの帽子は謁見のために外しているのか、素顔と地毛が隠れずに見える。

 書斎の薄暗さに合わせて、その瞳孔がくっと開き、周りの光を取り込んで淡く光るのが見て取れた。

 

「やあ、久しぶりだなクラフタ。息災か?」

「お久しぶりです。旦那様。秘書様も、お二人でいるのを見るのは……何年ぶりでしたか」

「そうだな、一、二……たしか二年と少しくらいだ。雇い主が不在ばかりですまないな」

「いえ、旦那様があちこちを転々としている話は他でも伺っておりますんで」

 

 旦那様こそ元気そうで何よりです、と、普段から口数の少ないアイルーはかしこまって挨拶し、頭を下げた。

 クラフタは郵便屋であり、ヴィルマが手紙を託し、信頼を寄せる契約相手でもあった。口が固く、そもそも種族的に人からの尋問を受けにくく、仕事はきちんとこなす。

 ヴィルマとは遠征先で知り合ったようで、大猪とその子分による立往生を食らっていたところをヴィルマの率いる部隊が解決したのだとか。良い縁ができたと当時のヴィルマは喜んでいた。

 

 この城へ来る前に最低限の身なりを整えてきたのか、服の煤は落とされていて、尻尾や脚も泥に汚れている様子はない。そうでなければ門前払いされてしまうので当然か。

 リーヴェルに獣人族はほとんどいない。雪鹿か毛象であればどこにでもいるが、あとはほぼ人の街だ。だからこそ周囲に溶け込むために身なりを整えるのだろう。立っていれば、遠目に見れば人の子に見えなくもない。

 アイルーの世知辛さについてアズバーが考えている間にも、クラフタとヴィルマの会話は続いていた。とは言っても、ヴィルマの他愛のない話にクラフタが短く応える程度だ。

 

「また竜には遭ったか?」

「火の怪鳥に」

「ああ、けたたましい声で鳴くアレか! あれはちょうどお前のような大きさの生物を追いかけ回すようだからな。次は癇癪玉を多く持っていくといい」

「雨の日ではどうにも不発が多く……」

「それならばらまくだけでもいいんだ。あの竜は空をあまり飛ばないから勝手に踏み潰して、その重さで癇癪玉は弾ける。しばらくしたら雨に溶けるから、後から来る行商人に迷惑もかからないだろう」

「なるほど、分かりました」

「それと、草食竜たちに特におかしな動きはなかったか?」

「はい」

「ふむ、それならヒンメルン山の向こう側はしばらく平穏と見ていいか。駐屯任務の者たちもなんとかやれているようだな」

 

 クラフタとヴィルマの間で交わされている話にアズバーはついていけない。そのほとんどが想像で補うしかない領域だ。

 ヴィルマが稀に持ち帰る、討伐された竜の亡骸を見たことは何度かあったが、生きた竜を見たことはまだ一度もなかった。大部分の国民がアズバーと同じ境遇だろう。

 アズバーにとってクラフタは、ヴィルマに負けず劣らずの冒険家のようにも見えた。

 

「と、失礼。こちらから一方的に立ち話とは。今回もいつものように手紙の受け取りだろうか?」

「はい。それと、別件もあり」

「む、もしや依頼人が増えたか?」

「いえ。旦那様に対してお届け物が」

 

 届け物、それにヴィルマに? ヴィルマは眉を上げて、アズバーは背筋に冷汗が伝うのを感じた。

 まさかとは思ったが、ヴィルマの手紙を巡る所業が第三者に知れてしまったか。

 国の関係者であればさらにまずい。彼の手紙の内容と送り先は、国賊とまではいかずとも、審問に賭けられてもおかしくないものだ。

 

 場に緊張感が伝う中で、クラフタは自らの鞄をごそごそとまさぐり、目当てのものを取り出した。何かを気にするように後ろを向く、扉の向こうにいる護衛だろうか。

 そして、アズバーが送り主を問うために口を開くよりも早く、いつもよりくぐもった声で言った。

 

「あちらの国のフレア様より返事の手紙を預かりました……ニャ」

 

 お、珍しくアイルーらしい語尾を付けたな、と。そんなことを思うまでもなく。

 ヴィルマもアズバーも、驚愕に息を吞んだ。声を上げなかったのは護衛を不審がらせないためだったが、それにも最大限の自制が必要なほどの驚きだった。

 

 あちらの国とは、西シュレイド王国のこと。ヴィルマやアズバーのいる東シュレイドとは国境を接している。

 フレアという名は、現在東シュレイドで目下指名手配中であり──ヴィルマを襲撃した犯人とされている名だ。

 ヴィルマが、数年間手紙を送り続けた相手でもある。

 

 手紙を書けば、少なからず返事は来るもの。そんな考えは、ヴィルマとアズバーの頭から抜け落ちてしまっていた。

 この数年間、ヴィルマは何度も彼女に宛てて手紙を書き、その文量は便箋にして何十枚にも渡るが、返事が返ってきたことなど一度もなかった。

 本人の手元に届けられているか否かすら、クラフタの証言以外に証拠がなく、故にアズバーの目にはヴィルマの行いが執着的なまでに映ったのだ。

 

 クラフタが手に持っている封筒はごく質素なものだった。飾りも何もない、平民が扱うようなもの。送り先も、差出人の名前も書かれてはいなかった。

 クラフタが差し出したそれを、ヴィルマは慎重に受け取る。安い糊で留めたのか、封は固着しペーパーナイフを使う必要があった。

 クラフタは黙して語らない。事情は手紙を読んで把握しろということなのだろう。アズバーもそれに倣い、ヴィルマを見守る。

 

 ヴィルマはがらにもなく緊張している様子だった。竜の咆哮に何度もさらされ、多少の修羅場では動じなくなっている彼が、だ。

 ペーパーナイフで封を切ると、中には一枚だけ紙が入っていた。クラフタは鞄の中の荷物を濡らすことは決してしないが、何十日もの移動と気温や湿度の変化を経て、その紙はくたくたになっていた。

 

 四つ折りされた便箋を開くと、そこには何度も何度も文字を書いてはそれを塗り潰した跡があった。その跡から、差出人は書く中身に悩んだのでなく、文字を書くという行為そのものに苦慮していたことが見て取れた。

 そして、大部分がそのような塗り潰しで埋められている中で、紙の左端、残り数行を書けるかという余白に、大きく、そして力の加減もできていないような筆跡でそれは綴られていた。

 

『くろい へびの とぶ りゅうは どくを はく。むれで けがを したひとを おいつめる』

『みんなで あつまって あいてを したほうがいい。はぐれる ひとを つくらないように きをつけて』

 

 ヴィルマが目を見開く。

 それは、ここにいる人々の中でヴィルマにしか分からない。竜を知らないアズバーでは表面的にしか読み取れない。

 ヴィルマがひとつ前の手紙で話題に上げていた、次なる任務の内容に触れるもの。明確な注意喚起であり、彼女が既にそれと対峙したことがあると告げている。

 その文は、あの日、あのとき、二体の龍を巡って互いに言葉を交わしたときの、失った人の命の数を何よりも悼んでいた彼女そのものだ。

 

『フレア』

 

 最後の文字は、彼女の名前で締めくくられていた。

 クラフタに事実を問い直すまでもない。それはヴィルマが知る上ではほぼ間違いなく、彼女にしか書くことのできない手紙だった。

 

 文章自体はものの数秒で読み終わる程度の長さであったものの、ヴィルマはしばらくその場で黙っていた。

 クラフタは反応が読めずに少し身構える素振りを見せたが、アズバーは察することができた。

 

「なあ、アズバー、まさかこんな日が来るとは……全く思いもしなかったな」

「そうですね。あなたが最も遠いと仰られていた展開ですから」

 

 信じていただとか、ようやく通じただとか、そういう言葉をヴィルマは使わない。

 返事というものへの期待が無かったかといえば噓になるだろうが、そもそもの趣旨がそれとは別のところにあった。

 淡々と手紙を書いて誰かに送り、特に見返りも求めず、それを何年も続ける。日常の内にあるような自然さでそうしている。

 面の皮が厚いのか、謙虚なのか分からない、しかし明らかにふつうではない考え方だ。

 

 大勢の人の上に立つ者は、どこまでも堅実か、あるいは突出したものを持っている。従者の家系で育ったアズバーはよくそんなことを聞いていた。

 ヴィルマの場合、一見すると前者だが、少し付き合えば後者であることが分かる。隠し通せていないので、彼の滲み出る内面を知っている部下も少なくなかった。

 

 クラフタもようやく気が付いたようだ。部屋の裏がりは表情の読み取りを鈍らせる。

 ヴィルマは笑っていた。それも、子どもらしい単純さと思春期の苦々しさを混ぜ合わせたような、多面性のある苦笑いを浮かべていた。

 初めて手紙のやり取りというものが成立した。情動は差し置いて、交流という事実が生じたこと、それそのものを彼は喜んでいる。いや、違う。おもしろがっていた。

 

 ヴィルマはやはり、自身が面白さを感じるか否かを念頭に動いてしまう。

 普段はよく抑えている方だ。そうアズバーが感心するほどにその傾向は強く、自覚があるからか、自制心も強い。

 

「しかし、限られた言葉の中で実に有用な情報を詰め込んでいるな……。

 今ここで他の誰かがここに来て手紙を読んだとて、竜の襲来に勇敢にも立ち向かった村の住民からの報告と言えば、あっさりと追及を躱せてしまいそうだ」

 

 フレアという差出人は、どうやらそんな彼の枷を取っ払ってしまえる人らしい。

 普段は領主や指揮官としての責務に身を固めていて、かなり厳重に組まれた枷は、アズバーですら解ける人は自分を含めていないだろうと思わせていた。

 それが、たったの二言、三言の言葉の羅列で瓦解させているのだから、ある意味立場が無い。

 

「しかも、彼女は文字が書けなかったのだな。彼女の境遇を考えると自然なことか。これでは読むことすら……きっと誰かが彼女に読み聞かせていたのだろうな。ありがたいことだ」

「……それがあちらの国の要人である可能性は?」

「自分は大罪人になるだろうな。あまり機密に関わることは書いていないつもりだが」

 

 あけすけにそんなことを言うので、アズバーは思わずため息をついてしまった。思わぬ悪事に片足を突っ込んでしまったものだ。

 自分が共犯者として捕まらないためにも、そして、彼の手紙を読むことを許されている唯一の従者として。

 今後は手紙の内容で機密的に危ういものがあれば迷わず進言していこうと、アズバーは改めて決意した。

 

 ヴィルマは、このやり取りをする中でクラフタが僅かに首を振ったのを見て取っていた。

 その仕草は、恐らく手紙の読み聞かせをしているのは政治と関係のない人物であろうことを指し示していた。

 しかし、それを問うたところでクラフタは答えを渋るだろう。応えてくれないことはないだろうが、そこまで追求せずとも、ヴィルマにとってはその仕草で十分だった。

 

 クラフタは嗜好品に目が無いらしいが、顧客の情報はあまり表に出さない方だ。その気になれば情報屋にだってなれるだろうに、配達屋の仕事に徹底している。

 それが自分の身を守ることに繋がると分かっているからなのだろうが、ヴィルマという権力者の前でもその姿勢を崩さないなら、尊重するべきだとヴィルマは思った。

 

「クラフタ、お前はしばらく東シュレイドに滞在する予定はあるか?」

「四、五十日ほどは」

「であれば、もう一度リーヴェルに戻ってきてくれないか? 返事を書きたいんだ」

「できますが……三、四日はリーヴェルにいますんで、その間に書いて渡してもらうとありがたいです」

「すまない。ここ数日は手紙を書けそうになくてな。この受け取った手紙のおかげで、軍議を開かなくてはならなくなった。それに、この手紙の返事は次の作戦を終えてから書いた方がいい」

 

 ヴィルマがそう言うのなら、クラフタはそれ以上何も言わない。

 自費で支払っているらしいが、毎度、かなりの額の報酬を渡してくれる上客からのお願いだ。無下にすることはできない。

 今回は東シュレイドに来るまでが早かったため、多少は滞在日数を伸ばせるだろう。クラフタは何度かヒゲをなぞってから答えた。

 

「では、また一月と少し後に来ます」

「うん、よろしく頼む」

「それでは……」

「ああ、ちょっと待ってくれ。見送ろう」

「……大丈夫です、ニャ。お忙しいでしょうから」

「久しぶりに会ったんだ。それくらいはさせてくれ。それにこうした方が、お前が正規の客だと周りに報せられるからな」

「……ニャ」

 

 クラフタはヴィルマのことが少々苦手のようだ。背後に控えるアズバーは二人のやり取りを見てそう思った。

 ヴィルマは押しが強いところがあるので、勢いに押されて引き気味になる相手は多い。表の身分が一都市の領主なので尚更だ。

 動揺したクラフタが獣人族固有の語尾を連発しているのを見て、アズバーは僅かに苦笑いを浮かべた。

 

 書斎の扉を開くと、ヴィルマの姿を見て護衛が礼をする。ヴィルマは護衛に向けて、軍議をするから召集の連絡をしてくれと言葉をかけた。

 何も後ろめたいことはないかのようにヴィルマは堂々と歩いていたが、時折、いつもの考え込む仕草をすることがあった。

 アズバーが問うと、かの手紙から伝えられた情報をもとに、どのように陣を敷けば被害を抑えられるか、既にヴィルマの頭の中で戦略の組み立てが始まっているらしかった。

 

 返事が来たことを嬉しく思う気持ちはまだ落ち着いてもいないだろうが、結局竜を優先してしまうところがヴィルマらしい。

 手紙の返事を書いた西シュレイドの彼女もまた、いろいろとヴィルマが話題を投げかけた中で返した内容があれなのだから、同じようなところがあるのかもしれない。

 

 この手紙のやりとりが一度きりなのか、それとも、これが始まりとなるのか。

 このときのアズバーは、まだ予想ができなかった。

 

 






作中設定解説

【古龍占い師】
現在の古龍観測隊の前身となる組織。所属メンバーのほとんどを竜人族が占める。
東西シュレイドに留まらず、辺境の小国や集落にもネットワークを広げているが、表立っての活動はしておらず、知名度は低い。
作中の時代は古龍種の分類や定義が定まっていないため、どちらかと言えば天災や災害を手当たり次第に取り扱っている。
作中では鋼龍クシャルダオラと炎王龍テオ・テスカトルの古龍渡りを予言し、また進行経路を予想して東西シュレイドに提言していた。


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第9話 歳月を数える手紙

 

 

『先の手紙で、黒蛇の翼竜について警告をくれたこと、心から感謝する。

 おかげで、部隊の被害を最小限に抑えることができた。誰も死人が出なかったのは、君のおかげだ。

 報酬に何か贈りたいくらいだが、金は足がついてしまうし、物品では運び屋のアイルーの負担になってしまう。結局このように文面で感謝を伝えるしかないのが心苦しいところだ。

 

 君の言った通り、黒蛇の翼竜は弱った獲物を的確に見分けて、集まって襲い掛かる習性があるようだ。走竜にも言えることだが、彼らは特にその傾向が強い。

 空を飛んでいる分、状況を俯瞰しやすいからなのだろうな。部隊の中に、途中で足を痛めて隊列から遅れた者がいたが、それめがけて瞬く間に集まるものだから肝が冷えた。

 集まったなら一斉に毒を浴びせかけて、連れ去って崖下に落とすなり毒で弱らせるなりして命を奪う。容赦がないが賢いやり口だ。

 

 だが、君の手紙のおかげで先んじて対策を打つことができた。

 毒性自体はそこまで強くなかったことが幸いしたな。自前で用意した解毒薬が効いてくれた。

 前にも書いたが、こちらが管轄している湿地帯には毒を使う生物が多い。鎌蟹の幼体や、紫の走竜、狂走の鳥竜もそうだ。だから、毒に対しては一通りの備えがある。

 あの翼竜たちの耐久力自体はそこまで高くなかった。飛ぶために体重を軽くしているのだろう。走竜用の弓矢で対処ができたのは僥倖だった。

 ただ、空を飛ぶ小さな的というのはそれだけで厄介なものだな。高所の利を常に取られているようなものだ。

 君が指摘した通り、まとまった人数で相手をして、数を撃つことが有効だな。費用はかさむが、安全に対処できる。

 

 ところで、後になって黒蛇の翼竜に関する資料、いや、言い伝えを聞いて知ったのだが、この翼竜は天災や強大な竜に伴って姿を現すそうだ。

 今思い返せばたしかに、彼らは死肉か、瀕死の生物の肉を啄むことの方が得意な竜のように見える。

 群れの長も見当たらず、統率力もそこまで強くはなかったから、種として狩りが不得意そうな気配がした。

 大方、大型竜たちの捕食や争いに巻き込まれた生き物を狙って食べるような生態をしているのだろう。

 一匹単位ではそこまでの脅威ではないと書いたが、他に大型竜がいる状況では何よりも厄介な存在になるだろうことは想像に難くない。

 

 今回は幸運にもあの翼竜以外は見当たらなかったが、この一度だけではあの言い伝えを棄却できない。より状況を悪くし得るものは慎重に吟味したいと思う。

 もしよければ、君が黒蛇の翼竜と相対したときの状況を教えてはくれないだろうか。参考になるかもしれない。

 

 君の地方でもかの翼竜の被害が出ていなければ良いのだが。別国とは言えど、竜災は共通の脅威なのだから、連携して対策を取りたいものだと願っている。

 それと、運び屋から聞いたのだが、国境付近の街道で火の怪鳥が出ているそうだ。

 珍しくもない竜だから話題に上げるまでもないかもしれないが、そちらの国に飛ぶことがあるかもしれない。念のため、報告しておく』

 

 

 

『くろい へびの りゅうは いまは ここには でてない。

 まえは りゅうに やられた むらに でてきた。にげられなかった ひと たべてた。あなたの いってること たぶん あってる。

 

 ひの かいちょう は なきごえが くぇーの おおきな みみの りゅうか? 

 あれなら さいきん ふえてる。このまえ にひき くらい たおしたのに。そっちの くにから きてるのか?』

 

 

 

『早速の返事を感謝する。質問に答えてくれてありがとう。

 黒蛇の翼竜はやはり死肉を食らうのだな。竜に襲われた村に出たというのも、言い伝えの内容に沿っているように思う。

 

 実は、この手紙のやり取りの間にまた現れたんだ。規模は以前と同程度で、数にしては被害も少ない方だったが、これまで数十年も現れていなかっただけに、少し気になっている。

 少なくとも、そちらには出ていないようでよかった。この件で何かあったらまた教えてくれると嬉しい。こちらでも知恵を貸すくらいはできるかもしれない。

 

 火の怪鳥については、君の解釈の通りだ。けたたましく鳴くし、大きな耳がかなり目立つ。

 二匹倒したというのは、まさかとは思うが、君単独でか? 走竜であればともかく、まさかそんなことは、とは思うが。

 たしかに、運び屋の話を聞いても、そちらの国(西シュレイド)に流れているような雰囲気がある。しかし、東シュレイド側で何かしているというわけではなさそうだ。

 

 こちらで調べを入れているが、如何せん人と竜の歴史が浅いせいで情報が少ない。黒蛇の翼竜のような言い伝えは例外中の例外だ。

 今、不確定ながらも掴んでいる話として、火の怪鳥は稀に急に数を増やす年があるらしい。

 私たちがヒンメルン山脈の東側、湿地帯の調査をしている話は前にも手紙で書いたが、そちらにも火の怪鳥が生息している。もしかしたら、そこから飛んできているのかもしれない。

 竜は自分の縄張りと住んでいる環境をそうそう変えないが、東シュレイドから来ているように感じるのであれば、出所はそことしか考えられないんだ。

 

 少し注意して取り組んだ方が良さそうだ。もしかしたら事が大きくなるかもしれない。

 この手紙は空き時間を使って数日かけて書いているんだが、今しがた、火の怪鳥が普段見ない区域を飛んでいるという知らせが入った。

 相手は空飛ぶ竜だからすぐに見失ってしまうかもしれないが、できるだけ追いかけて動向を探ろうと思う。

 

 追伸:もし口外禁止になっていなければ、君が任務で相手をした竜や獣について教えてくれないだろうか』

 

 

 

『黒い へびの りゅうは やっぱり 見あたらない。そっちに 集まっているのかも しれない。

 かわりに 火の かいちょう が あいかわらず 多い。まえの てがみから もう 二ひき たおしたのに。

 

 火の かいちょう は みんなで たおすことに なってる。わたしが おとりになって みんなが なわで落とす。

 がんじょうな あみなら あのりゅうは ぬけだせない。もっと 大きな りゅうなら むりだけど。

 でも あみは だいたい がんじょう じゃないし ねらいも むずかしいから ぬけだされたり つかまらなかったり することの 方が 多い。

 そのときは わたしが たおす ことになる。あの あなたに はじかれた けんを つかう。

 火の かいちょうは ひとは 食べないから。まだ だいじょうぶ。おこらせたら あぶない くらい。

 

 りゅうが こっちに 来ても べつに しらせなくていい。

 ぜんぶ 国からの めいれい だから。めいれいが あったら そこに 行くだけ。わたしから うごくことは ない。

 

 ほかに たたかった りゅうについて 書きます。

 火の ひりゅう。りおれうすって 名まえ らしい。火の かいちょう より 強い。おいはらうまで 何人も 人がしんだ。やけどの あとが いたくなるから にがて。

 かみなりの ひりゅう。りおれうすと たたかってたら わりこんできた。りおれうすより きょうぼう。けが人も しんだ人も 多かった。

 わたしも やられて むねの ほねが 折れて いきが しづらかった。

 

 ほかは、あなたが 走るりゅうって 書いてる あの あかいとさかの むれとか。いのししの むれとか。わたしくらいの 大きさの 羽虫とか。

 そっちの方が たおしてるかずは 多い。草を 食べる りゅうも 食りょうかくほの ために たおすことが あります』

 

 

 

『また返事を書いてくれてありがとう。

 こちらは今、一面雪景色となっているが、雪の訪れに乗じて、北から毎年のように乗り込んでくる竜がいる。

 雪山に住む、白い走竜だ。空に限りなく近い山(ヒンメルン)にも棲んでいるという噂があるな。君の知っている青い走竜が白くなった姿を想像してもらえればいい。

 それを追い払う任務から今帰ってきたところだ。今は暖炉の火が何よりもありがたく感じる。

 

 白い走竜は氷水の塊を吐いてくるんだ。これをまともに浴びてしまったら、凍傷になるし、体温が一気に下がってかなり危ない。

 それだけでも厄介だが、今回は群れの親玉まで出てきて、全面抗争の構図になった。結果的に追い返せはしたが、かなり際どかったな。抜けられていたら集落の家畜がやられていただろう。

 

 さて、本題に移ろうかと思ったが、君から貰った手紙でこちらからの報告は特に要らないと書いていたから、堅苦しい内容は省こうと思う。

 君の事情を汲み取れていなくて申し訳ない。自分の役職と、周囲の環境に恵まれていることにいい加減気が付かないといけないな。

 君は戦士であって軍師ではないのだから。ただ現れた竜を相手することが使命であり、その周辺のことを把握したり報告する義理はないんだ。

 こうして文章に書き留めておくことで、私自身へ言い聞かせておく。

 

 代わりに、君が倒した竜について思ったことを書こう。せっかく答えてくれたのだから。

 

 リオレウスという名の竜はたまに話に聞くんだ。文献にもたびたび出てくる。

 他の飛竜なんてそうそう話に出てこないし、あってもひどく曖昧な言われ方をしているから、かなり著名な竜のひとつなのだろうな。

 それに、名前が似たような竜なら相対したことがある。撃退止まりだったが、同じく火の飛竜だ。

 どうやら名はリオレイアというらしい。体色は緑で、強い毒も持った手強い竜だ。こちらでも殉職者が出ることを防げなかった。

 これがそちらで言うところのリオレウスなんだろうか? 地域によって呼び名に微妙な違いがあることはよくあることだが。

 ただ、推測になるが、そのリオレウスとリオレイアは同種だが違う存在、雄と雌の関係なのではと思う。文献での描かれ方がそのような雰囲気なんだ。

 興味深い話だが、真相が明らかになるのはまだ先のことになりそうだな。

 ただでさえ危険な飛竜だ。できれば出会わない方がいいし、もし相対しても観察なんてしている余裕はないだろう。

 

 雷の飛竜は二体ほど心当たりがあるな。かのリオレウスとやらとやり合っていたということは、恐らく緑色の雷を扱う黒光りの竜なのではないかと思う。

 もう一体は白くて気味の悪い……こちらの隊に大きな被害をもたらした、因縁付きの物の怪の竜なのだが、これが火の飛竜と争うとは考えにくい。

 もう少し端的に、緑雷の飛竜とでも呼ぶか。あれもこちらの隊では最上級に危険な存在としている。飛竜の時点で脅威度としてはほとんど高止まりではあるんだが。

 何部隊かに分かれての探索中に、運悪く遭遇した小隊が全滅の憂き目に遭った。その後に襲われてなんとか凌ぎ切ったが、あの執念深さと攻撃性たるや凄まじいものがある。

 

 無論、それらと戦って生き残っている君にこそ瞠目だ。自分もその一人ではあるが、お互いに悪運が強いとでも言うべきなのか。

 戦闘経験だけで見るなら君の方がよほど熟練しているのだろうな。それが良いことか否かは別として、単なる事実として。

 

 曲がり牙の猪や草食みの竜を食糧目的で狩るのは同じだな。鳥や兎とは違って、一体倒すだけで数十人規模の腹を満たせるのはかなり大きい。

 正直、脅威となる竜との戦い方よりも曲がり牙の猪の腹の捌き方のほうが上手くなっている。

 対竜の兵士の実情なんてそんなものなんだが、市民にはなかなか伝わらないだろうな。

 

 今回の手紙はこの辺までか。また書いている途中に次の遠征の話が入ってきてしまった。

 何度か書いているが、機会があればそちらの国にも赴いてみたいものだ。

 そちらの都市には内の街と外界とを隔てる巨大な城壁があると聞く。決して良いものとは言えないと運び屋のアイルーは言っていたが、為政者の一人として気になってしまうことはたしかだ。

 君のいる国にも、君の所属する部隊の方針に対してもとやかく言う気持ちは一切ないが、ただ、知りたいと思う。

 こんなぼやきが君の国の為政者に知れようものなら、また暗殺依頼が君に伝えられてしまうな。あまり話は広げずに筆を置こう。それでは。

 

 追伸:先の文で、君の国に行った獣や竜についての報告はしないでおく、と書いたが、結びの文を書いた後の会議で気になる話があったので記しておく。話し半分程度に聞いてもらえればいい。

 

 再び黒蛇の翼竜を目撃したという知らせが寄せられた。今度はリーヴェルの西の方面でなく、ヒンメルン山脈を越えた、街道の方に現れたというんだ。

 前の手紙で考察したように彼らは、彼らよりも強大な存在が暴れた後のおこぼれを狙っているように見える。

 これまでの討伐任務では彼らだけしか出てこなかったが、偶然出会わなかったというだけで、何かしらの脅威の後を追って移動してきたのかもしれない。

 

 そこが、最近の火の怪鳥の急増と大移動の区域と重なっているのも気になるところだ。

 偶然の可能性も十分にあるし、思い込みや早とちりは判断の誤りに繋がるが、念頭には置いておきたい。

 黒蛇の翼竜だけでも、旅人にとっては十分すぎる脅威だ。今回は火の怪鳥と違って、西シュレイドとの国境付近とはいえ、東シュレイド側で起こっていることなので、こちらの隊が出向く予定でいる。

 君に伝えておきたいのは、もし君が同時期に街道付近に遠征することになったのなら、こちらの隊にはあまり近づかないようにしてほしいということだ。

 万が一のことを考えて、こちらは対竜兵器をいくつか持ち込む予定でいる。それが君の国、君のいる部隊を刺激してしまうかもしれない。

 一般の兵士ならともかく、竜相手の戦士たちが互いにいがみあうことほど不毛なことはないんだが、取り急ぎ、君だけでも巻き込まれなければ幸いだ』

 

 

 

 ここまでに、一年と半年。

 最初にヴィルマがフレアに宛てて手紙を書いてから、四年もの時が過ぎていた。

 

「サミ、為政者って何?」

「政治を取り仕切る人のことにゃ。国のお偉いさんと思っておけばいいにゃ」

 

 フレアは、サミの手助けを借りながら、ヴィルマからの手紙を自分で解読していた。

 筆を握る時間がとれず、字を書くことはまだ未熟だが、次に手紙を自分で書くときには、その前よりも確実にはっきりとした文書を綴れるだろう。

 それを見守るサミの気持ちはやや複雑だ。

 自分の出番が少なくなったことではなく、フレアの成長があのヴィルマとかいう変人によってもたらされていることに対して釈然としない心持ちなのだった。

 

 フレアはそんなサミの内心を知らないまま、黙って手紙を読んでいる。

 いつもなら読んだ後に返事を書き、その後に証拠隠滅のために、かの炎の剣で手紙を焼き払うまでが定石なのだが、この日、手紙を解読し終えたらしいフレアはすぐに立ち上がった。

 

「もうすぐ王国からの呼び出しが来る」

「もう次の任務ですかにゃ。診療院から戻ってきて、まだ二日しか経ってないにゃ……」

「私たちが拒否なんてできるはずがない」

 

 フレアの口調は淡々としたものだった。

 サミは、正直なところ、フレアが国に対してここまで従順であることを不思議に思わずにはいられなかった。

 内情はほとんど分からないが、もし国の命令に従わなかったとして、すぐに報復が来るようには思えない。

 フレアの自己評価は低いが、彼女は西シュレイドの要人の一人と言っていい人物だ。しかも、恐らく他に替えが効かない。

 だから、フレアの発言権はそれなりにあるものなのでは、とサミは思っているのだが、フレアの待遇は依然として悪く、フレアも不満を出そうとしない。まるで最初から諦めてしまっているかのように。

 

 サミはこのことをたびたびフレアに進言しているが、フレアはほとんど真に受けていない様子だった。

 もう少し強めに訴えかけてもいいのだろうが、サミはいつもそこで踏み止まってしまう。

 それは、フレアの諦観が、それ自体が彼女の意志のように感じられるからで、その源泉は付き合いの長いサミでも探り切れてはいなかった。

 

「手紙は……まだ捨てられない。隠すことはできる?」

「隠し場所なら割とどこにでもありますにゃ。了解しましたにゃ」

 

 布で覆われた炎の剣を腰に携えて、彼女は外に出る。

 冬の終わりを告げるような強い風が、彼女の被ったフードをたなびかせていた。

 

 



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第三章 攻めの守勢/黎明
第10話 朝焼けに墨を散らす


 

 

 雪解けを迎えた街道近辺の地面は、泥のようにぬかるんでいた。

 固い地面を選び、石や砂利で舗装された街道をヴィルマはありがたく思った。

 これが通っていなければ、重く図体の大きい対竜兵器を長い距離運ぶことはできなかっただろうし、西シュレイドと東シュレイドの交易は今よりも大幅に後退していただろう。

 鋼の龍を迎え撃った際には街道から東に出て陣地を展開したが、ヴィルマの今回の遠征では、街道から西へ出てヒンメルン山脈の麓へと向かっていく。

 

 目撃情報のあった黒蛇の翼竜たちは、ヒンメルン山脈を越えてきたと推察されていた。

 雲よりも高く峻険なあの峰々を越えることはほぼ不可能と言われているが、それは人に限った話だ。

 彼らは翼を持ち、小柄ゆえに小回りが利く。素直に飛び越えたのではなく、人には通れない洞窟や谷などを通ったのではないかと学者たちは話していた。

 そうだとしてもこの時期の山越えは過酷なはずで、何が彼らを駆り立てているのか、そこまでは誰もはっきりとした見立てを立てられていない。

 何にせよ、彼らがこのまま東に飛んで街道に出てしまえば、相応の被害が出るだろうことは分かっていて、故にこうしてヴィルマが遠征してきているわけだが。

 

「また、よく分からないことをしているな……」

 

 ヴィルマは空を見上げる。その視線の先、ちょうど人の建物で例えたところの物見櫓の屋根くらいの高さを、彼らはいつも飛んでいたはずなのだが。

 今、黒蛇の翼竜の姿は羽虫ほどの大きさにしか見えない。かろうじて翼を羽ばたかせていることが見て分かる程の高さだ。目算、ヴィルマの本拠地であるリーヴェルの城の頂上よりもさらに高くを飛んでいる。

 数は多く、優に百を超えている。空を覆い尽くすとまではいかないが、翼を広げると人の背丈は軽く超える大きさの竜が、群れて高空を舞う光景は異様なものがあった。

 

「あれでは弓矢が届きませんね……大弩の射角を限界まで上げればあるいは届くやもしれませんが」

「そこまではしなくてもいい。あちらが吐いてくる毒液もこの高さでは散ってしまうだろうから、持久戦に持ち込みたいな」

 

 黒蛇の翼竜が有利かと思いきや、お互いに有効打のない、睨み合いの状況だ。

 彼らもゆったりと羽ばたき、時折滑空するなどして消耗を抑えているようだが、じきに体力の限界が来る。空を飛んでいる限り、限界が来るのは彼らの方が先だろう。

 可能な限り黒蛇の翼竜の群れを地上から追いかけて、疲れ切って降りてきたところを弓矢で仕留める。ヴィルマの提案に表立って反対する者はいなかった。

 彼らがこのあと大移動を始めたりなどしたら厄介だが、その場で旋回をしている個体も多く、この場に留まる意思が強いように見える。

 

 もしかしたら、西で我々にさんざんやられたので、山越えしてこちらに逃げてきて、それでも我々がいるものだからうろたえているのかもしれない。兵士の一人がそう言って皆の笑いを取った。

 実際、そのような理由であればよいのだが、とヴィルマはまた空を見上げた。

 何にせよ、長期戦が想定される。空に幾多の黒い影が舞う中で、前線と櫓の設営を指示し、自分もその作業に加わった。

 

 

 

 急造ながら塹壕を掘り、櫓を組み、柵を立てて、篝火を焚きながら夜を明かす。

 やがて暗かった地平線が白み始め、人々が眠りから起き出しても、空を飛ぶ翼竜の様子は昨日と変わりなかった。

 思っていたよりも持久力がある。畑を荒らす小鳥程度なら、村人総出で何時間も追いかけ回せば疲れて飛べなくなってしまうものだが、小柄でも竜種といったところか。

 

 実はテントだけでなく陣地を立てようと提案したとき、釈然としない表情だった兵士がちらほらといた。実際、各々のつくりは普段より簡素なものになっている。

 相手が走竜だったり、都市が近いなら話は別だが、黒蛇の翼竜はほとんど地上に降りないので、地上の設備を充実させる意味が薄い。

 むしろ彼らが移動したときに、こちらの動きが鈍くなりかねないというのが、兵士たちの主張だろう。

 その主張は概ね正しいのだが、それでも権限を使って部下を動かしたのは、ヴィルマの中で胸騒ぎがするからだった。

 表向きそうとは伝えず、慣例に沿ってだとか、他の竜が乱入してくるかもしれないからなどの理由を取り繕った。

 実際には、こうして陣地を敷くことも、大弩のような対竜兵器をわざわざ運んできたこともその胸騒ぎから来るものだ。外れることを、願うばかりだが。

 

 かれこれ一年近くに渡り、黒蛇の翼竜の群れとの戦いは続いてきたが、彼らの動きや特徴から推察される生態に反し、乱入者の気配もない単純なぶつかり合いになることが多かった。

 今は少し様子が異なるけども、結局は同じような展開になるはずだ、と。これは、現場で実際にやり合っているからこそ抱いてしまう感覚なのだろう。

 

 ただ、ヴィルマと共に鍛え、鋼の龍すら退けた部隊に落ち着きはあれど慢心はない。

 作戦が実行に移されれば、次は負傷者を出さないように、毒を浴びないように、と、気を引き締めて弓を担ぐはずだ。

 もし乱入者が出ても、今の布陣であればある程度は応戦できる。臆病も度が過ぎると却って良くない。兵士たちの実力を過小評価していることになるからだ。

 ヴィルマは背に担いだ氷の剣の、その柄から漂う冷気にそっと触れた。

 

「報告! 西の方角、黒き蛇の竜の群れの辺りに……人型の獣の姿、あり」

 

 平穏を破いたのは、そんな、報告者自身がその内容を疑うような、物見櫓からの報せだった。

 

 

 

「遠見の筒でもはっきり見えんな」

「四つん這いの人のように見えないか? 少なくとも竜ではないだろ」

「たしかにそうだが、あんな場所に人がいると思うか? 俺たちの部隊の誰かだったら笑えんが、あんな所にまで偵察に出たなんて話は聞いてないぞ」

「あの竜の群れの真下だからな、空の高いところにいるとはいえ、危なすぎる。一応狼煙を上げてみるか?」

「いや……いや、まて」

 

 もともと当番で櫓にいた一人と、その彼から呼び止められて登ってきた一人の兵士は、交互に遠見の筒を覗いていた。

 しかし、目視で目を凝らしていた兵士が怪訝そうな呟きを零したので、どうした、とだけ聞く。自身もまた、同じような懸念に至った気がしたからだ。

 

「あれ、やたらと大きくないか」

「……ああ、見誤っただけかもしれんと思っていたが、あれは……」

「人なんかじゃない。しかも、こっちに歩いてきてるぞ!」

「……本部に報告を走らせよう。まだ間に合うはずだ」

 

 その後、緊急事態を報せる鐘が鳴り響き、武器の手入れや食料調達の準備をしていた兵士たちは驚いて各々の持ち場へと走った。

 空を見渡しても、黒蛇の翼竜たちが地上付近に降りてくる様子はない。であれば、乱入か。

 他の竜より小さいとはいえ、あの数が空を舞っている中に乗り込んでくる者はそうそういないだろうに、と首を傾げる兵士も多かった。

 間もなくヴィルマが本部から顔を出した。この部隊の指揮官である彼は、見張りから遠見の筒を借りて報告のあった方角を見る。

 

 それは、疎らに草木の生える平原にぽつんと佇んでいた。

 人型といえばその通りで、竜のようにはとても見えず、これまで何度もやり合った大猪とも異なる体つきをしている。

 一度、冬の遠征で北の地からやってきたらしい白い雪猿と相対したことがあったが、あれに近い姿だ。こちらの体色は真っ黒だが。心なしか他の竜よりも地味に見える。

 しかし、何よりも目を引くのは頭部から左右に生えている角だった。

 今、見えているのはヴィルマだけかもしれないが、見る者をぞっとさせるような迫力がある。

 

 腕を交互に前へと出して歩んでいる。ヴィルマたちのいる方に向けてまっすぐと。こちらを既に認識できていて、敵対を前提とするような歩き方だった。

 仲間はいないようだ。いつかの白い雪猿は何匹かで群れを組んでいたが、その気配はない。

 大きさは、人とは比べ物にならないが、飛竜と比べると小さいかもしれない。大猪より一回り大きく、火の怪鳥と同じくらいの図体をしている。

 大きければ強い。多少の例外はあるものの、概ねどの竜や獣にも当てはまる経験則だ。

 ただ、その経験則に当てはめるには、かの獣の振る舞いはあまりにも堂々としたものだった。

 

「打って出ますか?」

「いや、せっかく陣を構えたのだから、ここは迎え撃とう。初めての相手だから様子見もしておきたい」

「では、持ち場の対竜兵器はそのまま装填に移らせます。……まるで人の軍を相手にしているようですな」

「……ああ、たしかに」

 

 指示に従って動く兵士たちを脇目に、砲兵部隊の隊長の言葉に対しヴィルマは頷きを返す。

 陣地を作って迎え撃つことも、こちらから打って出て野戦に持ち込むことも多々あったが、ここまではっきりと、面と面とで向かい合う構図はヴィルマにも初めてのことだった。

 人の軍隊同士が戦いを始めるときの緊張感とはこのようなものなのかもしれない。こちらが相手をするのはたった一体の獣だけという違いはあるが。

 国の内部には多々いる、竜や獣のことを全く知らない貴族たちからしてみれば、一体の獣狩りにどれだけの手間をかけているのかと一笑に付すところかもしれない。

 

 かの獣はいよいよ近づいてきて、兵士たちも目視でその風貌を確認できるようになった。

 そのねじれた双角といかつい腕に怯む者は多かったが、やはり、飛竜などと比べると一回り小さいことがひとつの安心材料になっているのか、腰を抜かしたり逃げ出したりする者はいなかった。

 ここは街道から近い。黒蛇の翼竜の件がどうなろうと、あの獣は対処せざるを得ないことに変わりがないのなら、あえてここで片を付けようと腹をくくっている様子だ。

 黒蛇の翼竜が便乗してきたらかなり厄介だが、現状ではその素振りは見せていない。両者の争いに巻き込まれたくないのかもしれないとヴィルマは思った。

 いや、むしろあの竜たちはこれを見越して高く飛んで地上の様子を伺っているのかもしれない。死肉や食べ残しが彼らの餌ならば、あるいは。

 

「黒の獅子、止まりました」

 

 部下の報告でヴィルマは思考を戻した。黒の獅子は暫定の名付けだ。

 ヒンメルン山脈の峰々からやって来てここまで歩んできたかの獣は、対竜兵団の陣からやや遠くのところで足を止めた。

 大弩の射程からはやや遠い。竜との戦いに正式な火蓋や合図というものはなく、ヴィルマのような上官の指示を待たずとも、各々の判断で先制攻撃をしてもよい、と伝えてあるが、もう少し引き付けたいといったところか。

 意図せず睨み合いの構図となり、兵士たちは今一度だけかの獅子を俯瞰的に眺める時間ができる。

 

 日の出と朝焼けは東から、陣を敷く人々の背後の空が、向き合う黒い獅子の正面の空が焼けている。

 西のヒンメルン山脈は雲が出ていて、無数の黒蛇の翼竜が空高く飛んでいる。雲と山の稜線は既に日に照らされていた。

 黒い獅子の背後に黒蛇の翼竜が舞い、それらが赤く染まる構図は、朝焼けながら、その不穏さを感嘆に裏返してしまうほどに絵になった。

 

 その絵が、巨大な岩盤によって塗り潰されるまでは。

 

「…………は?」

 

 黒い獅子はまず、おもむろに地面を掴んだ。

 両腕の筋肉が膨れ上がり、たちまち不気味な音を立てて地表が罅割れていって。

 かの獣が初めて張り上げた咆哮と共に、大地を捲りあげるようにして立ち上がる。

 いや、大地を捲りあげるようにして、ではない。捲りあげて立ち上がった、だ。

 両手で支えられたその岩盤の大きさは、黒の獅子自身の背丈を優に超えて、飛竜がその翼を広げて届くかどうか────。

 

 伏せろ、と我に返ったヴィルマが声を張り上げるよりも先に、その巨岩は宙を舞った。

 目の前の出来事が信じられず、圧倒されていた人々の瞳に、放物線を描く岩盤が映った。

 前線を優に飛び越えて、ヴィルマの目の前、仮設拠点の門にそれがぶち当たり、轟音を立てて門が吹き飛ぶまでの、数秒間。

 

 何も反応ができなかった門兵が、崩れ落ちる柱や丸太に圧し潰されて、一瞬でその姿が見えなくなるまで。

 ヴィルマたちは、声もなくその光景を見ていることしかできなかった。

 

 先手は、黒い獅子が取った。

 戦いの火蓋、などとはとても言えない、暴力による破壊が始まった。

 






作中設定解説

【黒蛇の翼竜】
後世ではガブラスと呼ばれる蛇竜種。
身体に対する翼の割合が大きく、飛行能力に優れる。黒光りする滑らかな皮が特徴。
作中ではその見た目から翼竜と呼ばれているが、後の時代に翼竜と呼ばれるメルノスやラフィノスとは別種であるとされている。
また、古龍種という分類が定義され、それに伴う目撃情報が寄せられ、不吉の象徴という認識が広まるのも遠い未来の話である。



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第11話 それは獣の王たらん

 

 

 それはまさに、暴力の申し子と言える獣だった。

 

「うわあぁぁっ!? ぁがッ」

 

 一般の、走竜の皮を編んだ防具を着こんだ兵士が、黒い獅子の手中に収まった。

 指を広げて兵士の胴を鷲掴みにし、さも小枝でも拾い上げたかのように軽々と持ち上げる。

 掴まった兵士は恐怖に慄きながら抜け出そうとするが、かの獣の指の一本すらぴくりとも動かせない。

 それどころか、兵士の喚き声が煩わしかったのか、黒い獅子はその握り拳に力を込めた。

 腕の筋肉が盛り上がり、みし、と軋むような音が鳴る。

 その兵士は声を失って、血を吐いて喘いだ。身を守るはずの防具が、硝子のように砕けて兵士の肉にねじ込まれる。

 

 このままでは兵士の口から内臓が吐き出されてしまう。

 その凄惨な光景を受け入れられなかった周辺の弓兵は、兵士に矢が当たる恐れを飲み込んででも次々と矢を放ち、黒い獅子の注意を逸らそうとする。

 その目論見は功を奏したが、代わりにかの獣の報復を招いた。

 今、かの獣の手には物言わぬ肉塊が握られている。指の隙間からは血が滲んでいた。

 弓矢という小さな棘は、やや遠方から放たれていた。近づけば逃げられてしまうだろう。であれば、やることは一つだ。

 今一度腕に力を込めて、振り被る。弓矢が放たれている場所めがけて、肉塊を投げた。

 

 兵士の体が目にも止まらない速さで空を飛んだ。放物線を描くことなく、一直線に弓兵たちのもとへと向かう。

 弓兵たちにそれを受け止めることはできなかった。自分たちも無事では済まないだろうことが見て取れたからだ。

 投げ捨てられた兵士は、木の板でできた壁にぶつかり、それをへし折って、立てかけられていた弓や矢筒をさんざんに散らかし、血反吐をぶちまけて、ようやく地面に転がった。

 もはや今、生きているかも怪しい、たとえ生きていたとして、遠からず命を落とすだろう。

 それでも弓兵たちは、彼を助け起こして塹壕の中に連れ込んだ。ただただ不運だった彼を見捨てることはできなかった。

 

 黒い獅子はここが縄張りだとか、この障害を突破して進みたいだとか、そういった目的は持ち合わせていないように感じられた。

 もしかしたら、今この場にいる人々を完膚なきまでに討ち倒すこと、あるいは戦いそのものを目的としているのか。

 そんな、ありえないはずの動機を見出してしまうくらい、かの獣の攻撃性は凄まじく、かつ徹底したものだった。

 

「っ、大楯構えぇっ! 突っ込んでくるぞ!」

 

 数々の竜との戦いで指揮を執り、生き残り続けてきたヴィルマですら、咄嗟の状況への対処で精一杯になっていた。

 何人もの盾兵が長年の訓練で反復を繰り返したことにより、身の丈を優に超える大きさの楯があっという間に地面に突き立つ。

 木組みの楯の表面には、赤と黄、黒を基調とした派手な塗装が施されている。

 鈍重で回り込まれると効力を失う弱点を、あえて挑発し、さらに複数枚展開することで防ごうというもの。

 その一枚一枚が、都市の主門扉に匹敵する程に分厚く、頑丈だ。竜の炎を真正面から何発も浴びたとしても耐え切ることができる。

 

 兵士たちの練度がなければ、その大楯を持ち上げるよりも先に黒の獅子が突っ込んできていただろう。

 けれどもかの獣には、目の前に壁が聳え立ったとして、その勢いを止める理由には全くならないようだった。

 戦いが始まる前の、気迫を内に宿して歩いていたときとはまるで異なる、闘気を全面に押し出しながらの突進。前腕が地を掴み、その身を一気に加速させる。

 走りながら、かの獣は拳を握った。腕を捩じる。かの獣は自らの拳で繰り出せる破壊の最高効率を知っている。

 突進の勢いのままに、隆々と膨れた筋肉を乗せて、捩じり込むようにして渾身の一撃を放つ。

 

 鈍く、何よりも重い響き。大楯が跳ね上げられる様をヴィルマは初めて目撃した。

 まるで薄紙を指ではじいたかのように。杭の原理で地面に縫い留められていた大楯が浮き上がる。そのまま、地響きと共に地面に倒れた。

 人の手で組み立てられる以上、大楯の守りは人の手も借りている。あの盾であれば、一枚当たり三人から四人。いずれも力自慢の兵士たちだ。

 それがたったの一撃。一瞬の出来事だ。下敷きになっている者がいるだろうことは間違いなく、それよりも、あの拳の一撃は当然のように大楯を構成する全てに伝播している。

 ヴィルマの口から、歯ぎしりの音が漏れた。

 

 状況は刻々と進む。黒い獅子は次の標的に目を付けた。

 一度展開された大楯はすぐには撤収できない。それに、ここで退けば部隊の壊滅がより早まることを盾兵たちは理解していた。

 いずれの大楯も屹立したまま、黒の獅子は手当たり次第に向かっていく。

 次は大楯の正面に立つ。それ自体はかの獣の背丈を上回っている。

 こうして見れば黒の獅子の図体は他の竜に比べても小さいことが分かるが、もはやそれは何の慰めにもならない。

 

 両の拳を握る。殴る。

 殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る────。

 

 間もなく、二つめの大楯が打ち破られた。

 決壊した堤のように、折れて、拉げ、割れ、砕け、まだかろうじて立ち続けていたが、もはや壁としての役割は果たせなくなった。

 血飛沫が舞う、それはかの獣の拳から滲み出ていた。強靭な壁を何度も殴り続けたことによって、手の甲の皮が破けているのだ。

 しかし、黒の獅子はその程度の傷など気にも留めない。実際、彼らの驚異的なまでの傷の修復力ならば、何の懸念にもなりはしないのだろう。

 

 飽きもせずに次の標的を探す黒い獅子は、そこでようやく肩や後ろ脚からの痛みに気が付いたようだった。

 細く、いくつかは折れている木の矢に加えて、人の腕ほどの太さの鉄製の矢が各所に突き刺さっている。

 既に塞ぎかかっている傷跡もあるが、矢が深く食い込んでいる傷は激しく動いたことによりむしろ広がり、少なくない量の血を地面に零していた。

 

 黒の獅子が大楯の破壊を始める前から、その後方で弓兵と大弩を牽く砲兵たちが盛んに矢を射続けていた。

 兵士たちの心の支えとなったのは、彼らの放つ矢がかの獣に確実に傷を与えていることが目に見えていたことだ。

 かつての鋼の龍との戦いでは、風の鎧を傷つけることすら途方もなく困難なことだった。今回、流血が確認できるのは大きい。

 

 突き刺さった矢の何本かを引き抜き、黒の獅子は咆哮する。

 大楯から標的を切り替えた。黒の獅子を取り囲むようにして配置された砲台のひとつへ向けて地を蹴る。

 

 近付けたくない弓兵や砲兵たちが迎撃するが、射撃の瞬間をその目でしかと見ている黒の獅子にはもはや意味をなさなかった。

 左右にステップを踏みながらじぐざぐに跳ぶ様は、まるで竜のブレスを掻い潜る戦士のようだ。狙いが定まらず、的中数が大幅に下がる。

 それでも何本かは当たっているのだが、かの獣は怯む素振りを全く見せなかった。むしろ、牙を剥き出しにして迫る強烈な殺意にあてられて、弓や矢を取り零す兵士もいた。

 大楯の破壊に集中していたときも然り、痛みの忌避という生物の本能を取捨選択し、あるいは投げ捨てているかのような行動に、ヴィルマを含めた人々は動揺を隠せなかった。

 

 砲台に黒の獅子が迫る。身の危険が迫った弓兵や砲兵たちは、上官の指示に従って次々と砲台から飛び降りる。

 ぎりぎりまで粘っていた彼らに襲いかかることもできたが、そうはせずに、黒の獅子は大弩の銃身を鷲掴みにした。

 みしみし、めきめきと金属の悲鳴のような音が響く。接合部が外れ、機構がねじ切れて、あっという間に大弩はその機能を失った。

 

 それだけに留まらず、いや、元より大弩の破壊は二の次だったのだろう。

 先に身の丈を優に超える大岩を地面から引き抜いたときと同じく、いや、それよりは軽い挙動で、車輪付きの大弩の本体を両手で持ち上げた。

 大弩が宙を舞う。落下点にいた兵士たちは間一髪でその場から飛び退いた。

 ずん、と、半ば地面にめり込むようにして大弩だった残骸が四散する。修復など望むべくもない。

 厚い金属であるはずの銃身がねじ曲がっている。いったいどれだけの力が加わればそうなるのか、一部始終を見ていた兵士は思わず身震いした

 

 次は、と黒の獅子は辺りを見渡す。矢を射たなら、その場から殺す、と宣言するかのように。

 数秒後、野太い笛の音が人々を、そして黒の獅子を振り向かせた。

 

 大楯が立ち並んでいた方角からだ。

 倒壊した大楯の下敷きになっていた兵士の救出を終えたらしく、最後に残った二人組が肩を貸し合いながら塹壕へと逃げ込んでいく様が見えた。

 彼らから注意を逸らすようにして掲げられているのは二枚の大楯だ。健在なまま残されている最後の二枚だった。

 先ほどと配置を変えて、崖を背にして二枚を並べている。大楯は複数枚を重ねつつ繋げられるような構造となっているため、さながら二枚扉のようだ。

 

 その正面で、一人の兵士が角笛を吹き鳴らしていた。

 毛象の角を削り出して作られたそれは、人にとってはただの大きく良く響く音のようにしか聞こえない。

 しかし、竜や獣はかなり不快に感じるようで、彼らの動きを制御できる数少ない道具としてよく用いられてきた。

 黒の獅子もその例に漏れなかったらしい。他の砲台を破壊すべく動こうとしていたが、それを中断して大楯の方を向き、唸り声を上げている。

 

 誘い込もうとしている。黒の獅子もそれには気が付いただろうか。

 かつて、似たような誘導を仕掛けようとした際には、警戒して踏み止まる仕草を見せる竜もいた。

 このような駆け引きは、竜同士の争いの中でも繰り広げられているのだろう。彼らは人が思う以上に賢い。

 しかし、これまでの黒の獅子は、駆け引きなどという技を全て力でねじ伏せる戦い方をしていた。

 初めに様子見をしていた人々の不意を突いたり、自らを狙う矢を外させる立ち回りをしたりなど、戦いの勘は間違いなく鋭い。けれども、結局最後には自らの力に頼っている。

 故に、かの獣はここでも真正面から飛びかかることを選んだ。

 

 再び戦場を駆け抜けて、大楯の元へと舞い戻る。背後からの弓矢による追撃は無かった。

 二枚の大楯を互い違いに重ね、固く閉ざされた門。殴って倒すことも、壊して崩すこともできるだろうが、二枚が組み合わさっている以上、先ほどよりも時間と労力がかかるだろう。

 故に、かの獣は扉と扉の間にできた僅かな隙間に、指の爪を滑り込ませた。

 

 ぎっ、と力の加わる音が響いた。

 かの獣の爪が大楯に食い込む。鋭く尖った爪に全ての負荷がかかっているため、数秒も経つと指先が裂けて血が流れ出し始める。

 しかし、やがて大楯を構築する木材がその爪で削り取られ、指が入る隙間ができ、指先を充血させながらさらに隙間をこじ開けて、手の甲まで滑り込むようになった。

 

 二枚の大楯と大地とを繋ぎ止める杭が僅かずつ浮き上がり始める。さらに、幾重にも繋がれた閂状の留め具が限界まで張り詰める。

 大楯と獣の攻防ではあるものの、外観は閉ざされた門をこじ開けようとする大男のそれだ。

 組み合わされた大楯は、ヴィルマたちの率いる部隊で最も強固と言えるものだった。

 これ以上の防御を構築したいならば、大楯自体でなく、基礎の強化や支えの追加が必要になってくる。

 実際、今この時が黒の獅子を最も長く拘束できていた。大楯を殴り飛ばし、打ち壊し、砲台に飛び掛かって大弩を投げ捨てた、その各々の過程よりも長い時間をかけている。

 

 それでも、時間を稼ぐことができたとしても、竜や獣との争いにおいて、大楯が何かを最後まで護り切るということは難しいことだった。それはこの場においても例外ではなかった。

 牢の檻を力でこじ開けるかのようにして、楯と楯との間に隙間が広げられていく。

 留め具は一本、また一本と弾け飛び、その分だけ残された留め具への負担が増していくため、連鎖的な瓦解に至りつつあった。

 そして、愚直なまでの力押しで、肩から湯気が出るほどに力を込めていた黒の獅子が、気合を入れて一際強く息を吐いたとき、とうとうそのときが訪れた。

 

 大楯を支えていた杭がその効力を失った。全ての留め具が千切れ、黒の獅子を食い止める力は大楯の自重だけとなり、それはかの獣にとって片手で扱えるほどに軽い。

 二枚扉を開け放つ。地面には壮絶な力比べの痕が残され、かの獣の両手の爪先から流れ出ていた血は既に固まりつつあった。

 

 この先に必死の守りを続ける兵士がいて、ここからが殺しの始まりだ。

 大楯の守りの内へと入り込むとき、かの獣はそんなことを思ったのかもしれない。

 退けられた大楯には、誘い込みのための塗装とはまた別で、強い臭気を伴う果実の汁が塗布されていた。

 その臭気は、竜や獣の敏感な嗅覚による探りを阻害する。大楯の壁をこじ開けて踏み入った先で黒い獅子が嗅ぎつけたのは、大量の火薬の匂いだ。

 

 かの獣はその正体に覚えがあるような反応を示した。人のみならず幾多の竜を屠ってきただろう獣だ。火に塗れた経験があってもおかしくはない。

 反射的に飛び退こうとした、その瞬間。

 爆炎が、大楯を宙に浮かせるほどの炎が、黒の獅子を飲み込んだ。

 

 かの獣が吼えて、しかしそれも爆発音にかき消されて。

 人々たちに本能的な怖れを抱かせていた大角の片方が、爆風と共に宙を舞った。

 

「よし……!」

 

 ヴィルマの隣で観測をしていた工作部隊の隊長が身を乗り出して歓声をあげた。

 不用意に扱えば暴発しかねない爆弾を突貫で運び出し、火薬の匂いで警戒することのないように偽装し、ここぞという瞬間で爆破させてみせた。

 盾兵、弓兵、砲兵と様々な役職がある中で、工作兵もまた自分たちの役割を果たした。まさしく組織の戦い方だ。

 黒の獅子の行動が読みやすかったというのもあるが、相手が一体のみでこちらは複数人が並行して動けるという、数の利を最大限に活かしていた。

 

「崖、崩れます!」

 

 立て続けに報告が上がる。大楯の背後にある崖が、爆発によって崩れようとしていた。

 地響きはやがて轟音へと移ろっていく。堆く積み上げた積み木の基礎の一部を抜き取ったかのように、崩落は連鎖的に広がって土砂と岩が爆心地を飲み込んだ。

 濛々と土煙が上がる中、黒の獅子が飛び出してくる気配はない。

 それでも兵士たちが安堵の声を上げないのは、あの獣はこの程度では力尽きないだろうという共通認識があったからだ。

 ヴィルマたちの部隊は、土砂崩れや洪水といった地形を利用した罠を他の竜や獣にも仕掛けている。流石に仕留めただろうと油断して、痛い目を見るという経験は何度もあった。

 ただ、倒すことまではできずとも、戦いの趨勢を決することはできたのではないかと、そういう希望を抱く者はいる。

 

「鋼の龍は角を折った直後に飛び去りました。この獣も古の龍ならば……」

「楽観視はするな。こちらはほとんど全ての手札を切った。これで相手が退かなかったときの采配を今のうちに考えておくんだ」

 

 興奮気味の工作部隊長に対してヴィルマは冷静に諭す。

 彼らの心情も分かる。今の時点で戦況は相当に厳しいのだ。だからこそ、早く終わってくれ、さっさと決着がついてくれという焦りが言動に現れる。

 あれは古の龍だとする見方も同様だ。黒の獅子の剛力は常軌を逸していた。大型の竜すら余裕で投げ飛ばしかねないあの膂力は、鋼の龍が放つ風と似た理を感じる。

 もしこの後も戦いが続くなら、既に死人が出ていて後に引けない状況だとしても、撤退を視野に入れざるを得ないな、と。あえて口には出さないものの、ヴィルマはそのように考えていた。

 

 爆弾の炸裂に崖崩れが重なったことにより、土埃はしばらく収まる気配を見せなかった。

 余韻が先に過ぎ去り、夜が明けてから今に至るまで訪れることのなかった静寂に急造の戦場が包まれる。

 塹壕を伝って持ち場についている、兵士の誰もが固唾を飲んで事の成り行きを見守っていた。

 

「では、一度資材小屋へ戻ります。御用があれば伝令を走らせてください」

「分かった。もし可能なら、救護班に援護を寄越してやってくれ」

「了解です。こちらから何人か────」

 

 その声が、途中で途切れた。

 

「──は?」

 

 見たままを伝えるなら、掻き消えたと言う方が正しいか。

 今まさに塹壕へと戻っていこうとした。その地面ごと抉り取るように。

 目の前のヴィルマの視界を埋め尽くすほどに眩く、肌や防具を焼き焦がす熱量を持った光の奔流──恐らくは雷──が、そこにいた一人の人間を飲み込んだ。

 数秒間がひどく長く引き延ばされたように感じる、その雷の束がやがて細い光となって消えゆくときには。

 焼け焦げて火山のように赤く染まった地表と、ひらひらと舞い落ちる布の切れ端だけを残して。

 その場には焼け焦げた人の姿どころか、灰すらも残っていなかった。

 

 ヴィルマが振り返る。視界は暗く、耳鳴りが酷い。

 壁も、地面も、煙すらもぶち抜かれ、その一本の道筋は、光線を放った者の姿を遠くに示す。ヴィルマは、その姿を覗き見た。

 

 金色がそこにいた。

 夜闇よりも黒く艶があるようにすら見えた体毛は、今や逆立ち、雷を纏っているかのような放電を起こしていた。

 片角が折れてはいるものの、それが戦意を大きく削ぐようなことはなく、むしろ元からあった殺意と怒りが際限なく膨れ上がっていた。

 

 遠くに竜を見るとき、竜は近くにお前を見ている。ヴィルマの部隊の中での戒めとしてよく言われていたものだが。

 獅子と一対一で視線を交わし、心臓を直接握り潰されているかのような底知れない恐怖をヴィルマは感じ取った。

 

 黒の獅子、いや、金色の獅子が立ち上がる。天を仰ぎ、腕を振り上げて咆哮した。

 本物の蹂躙が、始まった。

 






作中設定解説

【黒の獅子/金色の獅子】
後世ではラージャンと呼ばれる牙獣種。
一般的な飛竜種よりも小さな体躯に比類なき膂力を秘める、超攻撃的生物。
作中の時代から遠い未来に至るまで古龍種と同列の扱いを受けていた。古龍の枠組みから外れ、牙獣種に分類されたのは現代でもつい最近のことである。
自然現象や生態系の崩壊を伴わずに単身で移動するため、古龍占い師(古龍観測隊)の予報が実質不可能であり、神出鬼没の要因になっている。


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第12話 手向けるは夢の終点

 

 

 それは、鋼の龍との激戦を乗り越えて、勝利を祝う宴への招待状を書いていた頃のこと。

 暖炉に薪をくべて厳しい寒さを凌ぐ冬のことだった。

 

 槌が鉄を打ち、蒸気が吹き上がる音が響く。石畳を歩くヴィルマの足音はほとんどかき消されていた。

 前線都市リーヴェルの工房。建材から武器、鍋などの日用品まで幅広く扱うが、近ごろはほぼ兵器工場の体を為していた。

 炉の火を絶やさないために、昼夜を問わず数十人もの工員が交代で動いている大規模な工房だが、その中でも群を抜いて長い時間居座り続ける人物がいた。

 

 その人物を尋ねるべく足を運んだヴィルマは、既に工員たちから顔を覚えられていて、次々とかしこまった挨拶をされる。

 それに応えながら歩いていると、やがて辿り着く。黙々と炉の火に向き合っていた老婆は、周りの声で気が付いたのか、ふうっと息を吐きながら顔を上げた。

 

「いらっしゃい、旦那。何か用かい」

「お疲れ、鉄婆さん。大弩の修復の具合を見に来たんだが……」

 

 鉄婆と呼ばれたその老婆は、この工房の長であり、ヴィルマが生まれる前から槌を振るい続ける生粋の職人だった。

 長年、鉄や鋼が打たれる音を耳栓もなしに聞き続けていたので、大分耳が遠くなっている。ヴィルマが大声で、親しみを込めて話しかけると、彼女は鷹揚に頷いた。

 

「数が多い。壊れ具合が酷い。しかしあんたからの納期は短い。何か言い訳はあるかい」

「まったくもって弁明のしようがない。他の工房にも依頼しようかと思ったんだが……」

「ばか言え。こんな突飛な兵器、ふつうの工房の連中に扱えるわけないだろ。人向けの兵器に改造してほしいのかい」

「そんなわけない。そんなわけないから鉄婆に頼むしかないんだよな……本当に無茶な要求だったら遠慮なく言ってくれ」

「ふん。助けてくれとは一言も言ってないだろ」

 

 今、ヴィルマが鉄婆に頼んでいるのは、鋼の龍との戦いで損傷した兵器の修繕だった。

 かの戦いでは、大弩や大楯、兵士たちの武具が、都市内の予備まで含めてほぼ全て投入された。そうすることで平野に三重四重の防衛線を築く、まさに総力戦だった。

 その攻防が最終的に最後の防衛線までもつれ込んだのだから、兵器の損耗具合は推して知るべしといったところだった。

 

 つまり今は、竜に対する手札がほとんど無いという状況だ。手堅く立て直したいところだが、竜や獣は機を待たない。

 もし竜絡みの緊急の任務が国から発出されたとして、兵器無しで出向くのは自殺行為にも等しい。最低限の兵装はどうしても必要になる。

 結果、間違いなく国で唯一だろう、対竜兵器を扱えるこの工房の負荷がかつてなく高まっているのだった。

 

「ただし、鉄材の供給が一時でも途絶えたらその分後ろ倒れるからね。努力で鉄が早く冷えたりはしないんだ」

「分かった。肝に銘じておく」

 

 鉄婆は根っからの職人気質だ。彼女ができないと言ったことはできないし、必要なことだけを言う。

 良くも悪くも融通の利かない彼女に対し、ヴィルマは小さい頃から気を許していた。砕けた口調で話すことのできる数少ない一人だ。

 

「そう言えば、雪山遠征の帰りで渡したあの青い鉱石は何かに使えそうだったか? ええと、燕雀石だったか」

「いいや。ありゃあ使えん。強いて言うならあたしらにゃまだ早い。今の炉と鉄のハンマーじゃあ、あの硬さの鉱石は加工できないね」

「そうか……」

 

 職人に対して雑談は長くは続かない。

 それでも所在無げに、工房での作業に目が行っているふりをしてその場に佇んでいるヴィルマに対し、鉄婆は呆れた風にため息をついた。

 

「鋼の龍の角ならもう剣にできてるよ」

「えっ?」

「えっじゃないよ。さっきの燕雀石の話も、鋼の龍の角と組み合わせて加工できたらって思ってたんだろ。ふん、探りなんて入れずに最初からそうと言えばいいものを」

「ごめん……それで、その剣は近場にあるのか?」

 

 ヴィルマの問いに、鉄婆はまた鼻を鳴らした。

 小さい頃と性根がまるで変わっていない。もったいぶっているようで、自分の興味を抑えられていないではないか。

 この若造が都市の領主だなんて、よくやっていけているものだ。鉄婆は彼に会う度にそう思っている。

 

 若手の工員を二人呼びつけて、工房の隣の倉庫に向かわせた。しばらくすると、人の身の丈ほどに大きく頑丈そうな木箱が二人がかりで運ばれてきた。

 見るからに重そうだ。それに、氷室から運ばれてきた氷のように、薄く冷気を放っている。

 作業台の上に慎重に置かれたそれを、ヴィルマは興味津々といった様子で見つめていた。

 そんな彼の様子をちらと横目に見た鉄婆は、あまり焦らすこともなく木箱の留め具を外し、蓋を開けてその中身を晒した。

 

 一振りの剣が、眠るようにその身を横たえていた。

 工房は炉の熱で汗が噴き出るほどに暑いが、その熱気の中にあっても、ひんやりとした靄が足元に広がる。

 木箱の中には石綿を敷き詰めて保護をしているようだったが、石綿自体が結露して縮んでしまっている。木箱から漂っていた冷気は、その内にあった剣から生じていたのか。

 

「長剣か」

「そうだよ。あんたの希望通りにしたつもりだがね」

「ああ、十分だ。これだけ大きければ竜を叩き斬れるかもしれない」

 

 それに、皆の象徴にもなれる、とヴィルマは付け加えた。

 ただそこにあるだけで存在感を放つ、一目で強大であると分かる魅力的な剣だ。その柄を握ろうと、ヴィルマの手が自然と伸びる。

 その手を、鉄婆の手がぱしりと叩いた。

 

「……?」

「不用意に触ろうとするんじゃないよ。あんたは戦場に落ちた竜の棘に素手で触るのかい」

「いや、何も刀身に触れようとしたわけじゃない。剣の柄を握るくらいはしてもいいだろう?」

 

 困惑気味のヴィルマの声に、鉄婆は答えなかった。その代わりに、おもむろに両手に装着していた加工用の手袋を外す。

 年老いて筋張った手は、ところどころに包帯や布が巻かれていた。素肌が見える部分でも、腫れていたり、血色が悪い部分がある。特に指先は例外なくひどい有様だった。

 鉄婆は熟練の職人だ。彼女の手の大切さは彼女自身が最もよく分かっていて、今までに派手な怪我をしたことなどなかった。

 そんな鉄婆でも油断することがあるのだろうか……。

 自身の思い違いに気が付いたヴィルマは、はっと眉を上げた。

 

「何も考えずに触れるなって、そう言った理由が分かったかい」

「まさか……鉄婆のその手、凍傷なのか」

「そうだよ。この手の有様は全部、その剣を作る過程でできたものさ」

 

 まったくもって腹立たしいね。と鉄婆は木箱の中の剣を見ながら言った。

 

「とてもじゃないが、これは加工しただなんて言えない。戦場から拾い集められた鋼の龍の鱗と角を継ぎ接ぎして、型に嵌めて剣の形に押し込んだだけの代物だ。

 その作業だけで、こんだけの手痛いしっぺ返しをくらっちまった」

「……銘は?」

「銘なんてものは……いや、氷の剣とでもしておけばいいよ。銘をしっかり考えても、それを刀身に彫ろうものならこっちの腕が氷漬けになっちまう」

 

 匙を投げたような物言いの鉄婆だったが、彼女にも職人の矜持がある。

 誰にも触れられない剣になってしまわないように、最低限、剣を背負う者が体温を奪い尽くされないように保護はしているらしかった。

 ただし、剣の核である角にほど近い柄にまで保護を施すことはできなかった。どんなに握りを厚くしても、たちどころに冷気が伝っていってしまう。

 

「癪だがね、欠陥品さ、これは。燕雀石とは比べ物にならない天上の素材だ、あたしたちの手には負えなかった。

 それでも、担ごうと思うかい?」

 

 職人技術の敗北を包み隠さず伝えて、鉄婆はヴィルマの意志を確かめようとする。

 ヴィルマは微笑んで返そうとして、ふと、その表情を消した。

 一瞬だけ押し黙ったヴィルマは、しかし瞬きの間にいつもの好奇心旺盛そうな雰囲気を取り戻し、怖気づくそぶりも見せずに笑ってみせた。

 

「要は使い手が耐えればいいってだけの話だろ。剣の形に収まっただけでも大成功だ。むしろこれだけの曰くつきなら竜にも効くと確信できる」

 

 ヴィルマはそう言って、木箱ごと剣を引き取ることにした。

 使用人の手で丁重に木箱が運ばれていく様を鉄婆は黙って見ていたが、やがて本来の仕事である大弩の修繕に戻る。

 本来は職人のいるその場で試し斬りなどして細かな調整を行うべきだ。

 しかし、あの氷の剣に限ってはそう簡単に触れられる代物でもなく、調整など望むべくもない。

 加えて、あの剣は今後、ヴィルマを含む役人たちの協議にかけられるだろう。あらゆる意味で、普通の剣ではないからだ。

 政治的な運用まで視野に入ってくるのなら、それはもはや工房の手を離れていた。

 

 工房から出るときに、ヴィルマは自らの手を見た。鉄婆ほどではないが、細かな傷だらけで筋張っている。

 あの器用な鉄婆があそこまでの負傷を余儀なくされた剣だ。当然のようにヴィルマにも牙を剥くだろう。

 下手をすれば、剣に己を食われてしまうかもしれない。先ほど、無意識に手を伸ばしかけたように。

 既に傷だらけで深手も多く、明日竜に腕ごと食われても全くおかしくはない身だ。そう身構えることではないかもしれないが。

 

 開いていたその手を握る。そして前を見て石畳の道を歩いた。

 示さなくてはならない。たとえ自らの腕が蝕まれても、使いものにならなくなったとしても。

 竜に打ち負けない剣は存在するということを、この手で証明してみせる。

 

 

 

 それは、赤髪の少女による襲撃を辛くも乗り越え、遠征に出れるまで体力を戻した頃のこと。

 長く続いた降雪がようやく収まり、人々が雪かきに追われる冬の終わりのことだった。

 

 雪に包まれた前線都市リーヴェルの通りに、かん、かんと甲高い音が響き、人々は顔を上げた。ちらほらと、街の門に向けて歩き出す者もいる。

 久々に大きく開放された城門の向こうに、何台もの荷車を毛象に引かせながら歩く集団の姿があった。

 商隊にしては多すぎる人の数に、防寒具にしては物々しい装備。

 荷車には投石器や丸太を削り出した杭が並べられており、まるで戦争にでも赴いていたかのようだ。

 街の人々は誰もがその正体を分かっている。この都市だけが有する軍隊、ヴィルマの率いる対竜兵団が遠征から帰ってきたのだった。

 

 雪の中を長く歩いてきたからか、兵士たちは疲れを顔に滲ませていた。

 しかし、皆が皆沈んだ顔をしているわけではない。街に帰ってきてほっとした表情を浮かべる者や、仲間と談笑し笑みを浮かべている者もいる。

 遠征が失敗に終わったわけではなさそうだ。もしそうなら、先行して街に知らせが来るので、街の人々もある程度は分かってはいたのだが。

 竜に対する備えや素材流通が経済の一翼を担うこの都市では、対竜兵団の遠征の結果次第で景気も変わってくる。

 年に何度かは出動しているため、そこまで珍しいという光景というわけでもないが、それでも通りには毎回多くの人々が集まって出迎えをするのだった。

 

 対竜兵団を率いているのは、この街の統治者も兼任しているヴィルマだ。

 政治の方ではほとんど籍のみ置いているような立場だが、人当たりがよく、龍の剣と噂の長剣を担いでいるという英雄的な側面もあることから、民衆から街の長として受け入れられてきた。

 人々が道端に避けて、一本道ができあがる。通りの人々から手を振られればそれに応え、あとはまっすぐと城の方を見て歩を進める。

 そこへ、一人の女性が駆けこんできた。

 

 隊列が止まり、護衛がさっとヴィルマの前に出る。ヴィルマは、まだ捕らえなくてもいいと手で護衛たちを制止した。

 女性は荒い息を整えようとしている。ヴィルマたちの帰還の鐘の音を聞いて走ってきたのだろう。

 

「ご婦人、どうされた?」

「はあ、はぁ……私、アザリーの、姉です。アザリーはこの遠征に出ていて、せ、戦死したって……」

 

 それを聞いたヴィルマは視線を落とす。

 女性が駆けてきた時点で、ある程度予想はできていた。

 

「皆は先に城へ戻ってくれ。指揮は副指令に任せる」

「分かりました。護衛を二人付けます」

「一人で……いや、分かった。後で戻るから、兵器の片付けと戦利品の整理を頼む」

 

 簡潔に指示を出し、隊列を先に行かせる。

 こういった呼び止めは過去にも何度かあったし、禁止されてもいない。慣れている兵士も多かった。

 道端に移動したヴィルマを、後列の兵士たちが歩いて追い越していく。

 ちらちらと向けられる視線に構うことなく、護衛を後ろに下がらせて、ヴィルマは女性に話しかけた。

 

「失礼。アザリーのお姉さんと言いましたか」

「は、はい。一昨日に訃報が届いて……居ても経ってもいられなくて。急に飛び出してしまってすみません。すみません」

「いえ。お気になさらないでください」

「それで、弟が……アザリーが命を落としたというのは、本当のことなのでしょうか……?」

「……残念ながら」

 

 短いながらはっきりと告げたヴィルマに、女性は声を失い、その表情は徐々に失意の顔を濃くしていった。

 女性が崩れ落ちるなら、それを支えなければならないとヴィルマは思っていた。ヴィルマに縋りつこうとするなら、護衛が止めただろう。護衛を制止することはできない。

 しかし、浅く息をし、俯きながらも、女性は告げられた言葉をなんとか受け止めようとしているようだった。

 それができたのは、必要最低限だけの言葉が綴られた木簡、訃報だけが先に、彼の肉親の元へ届けられていたからなのかもしれなかった。

 

「あ、あ……アザリーは帰ってきたのでしょうか」

「遺体は見つかっています。右腕と足の一部が失われてしまっていますが」

「ということは、やはり竜に襲われて……?」

「戦って、亡くなりました」

 

 嘘だ。

 けれども、事実だ。

 

 女性の言葉をあえて言い換えて告げたヴィルマに、焦点の定まっていなかった女性の瞳が初めてヴィルマの目を見る。

 

「辛いかもしれないが、聞きますか」

「…………き、聞きます。聞かせてください」

「……我々は、北の漁村に現れた血吸い鮫を追い払う任務に出ていました。

 冬の海は流氷が流れ着く。そこを根城にする彼らと渡り合うには、我々から流氷の上に乗らなければなりません」

 

 ヴィルマの遠征部隊は基本、百人から数百人程度で編成される。

 都市に残る予備軍や、各地の辺境へ常駐任務に出ている人数を含めると、ヴィルマの所有する軍隊はさらに大きいが、ひとつの作戦で動員する兵士の数はその規模だ。

 あまりに人の数が少ないと竜たちに蹴散らされて終わるが、人の数が多すぎても、今度は身動きが取りづらくなって竜たちに翻弄されてしまう。

 いつも辺境に赴くが故に補給が難しいという問題もあり、ヴィルマは部隊の人数をある程度絞る運用をしていた。

 また、百人という部隊規模はヴィルマにとって大きな意義を有している。──兵士一人ひとりの名前や動向、性格や背景まで頭に入れることができるからだ。

 

「結論から言えば、アザリーは流氷の下に潜んでいた血吸い鮫の頭目に襲撃され、海の中に引きずり込まれて、そのときの怪我と低体温で亡くなりました。

 何とか海からは引き上げられたが、間に合わなかった」

「そんな……まさか凍え死ぬなんて、アザリー……」

「彼と同じ班で行動を共にしていた兵士が言っていました。

 巨大な血吸い鮫が突然現れてアザリーに噛みついたとき、アザリーは仲間の腕や服を掴んで助かろうとすることもできた。

 もしそうしていたら、自分もまた海に落ちてそのまま死んでいただろうと」

「…………」

「けれどもアザリーはそうはせず、むしろ咄嗟に仲間を手で押して氷上に押し留め、ここに敵がいることを本隊に伝えてくれと叫んだ。

 海上でも、装備していた刀剣で必死に抵抗して、その血飛沫が後続の目印になった。

 彼があそこまでの酷い怪我を負っているのは、あの恐ろしい大口から何度も外に出ようと足掻いたからだと。

 実際、私の元へ届いた第一報、敵発見の知らせは彼からもたらされたものでした。

 あの場で先遣隊が全滅していたら、間違いなく被害はさらに大きくなっていたでしょう」

 

 彼女が望んだこととはいえ、このような話は気休めにもならないだろうとヴィルマは思った。

 どのような過程であれ、彼はもう死んでいるのだ。この語りは生身の彼でなく、彼の死を飾り立てているだけに過ぎない。

 

「これは戦って死んだと言えるのか否か、人によって見方は違うでしょう。先遣隊を遠くまで調査に行かせた私にも責任はある。

 彼の死の評価は、私がこの場で下していいものではない。

 しかし、単なる事実としてあなたにはっきりと言えるのは、彼は間違いなく、極寒の海に潜む脅威から我々を守ったのだということです。

 彼に直接礼を言えなかったことが、私自身、残念でなりません。救出がもう少しでも早ければ、せめて遺言くらいは聞けたのだが……」

「……わかりました。もう、大丈夫です」

 

 途中から声を落としていたヴィルマの言葉は、女性の一言で締めくくられた。

 女性は途中から涙を流していた。春が近いとはいえ、吐く息が瞬く間に白く染まる寒さの中で、頬を伝う涙がうっすらと凍っていく。

 

「ヴィルマ様、いえ、領主様。引止めしてしまってごめんなさい。罪状があれば従います」

「いえ。罪には該当しません。あなたは通りを歩く人をしばらく引き留めただけだ。そうでしょう?」

「……ふふ」

 

 無理をして笑っている。目元が腫れてやつれているのは、訃報が届いた数日前から今まで憔悴した日々を送っていたからかもしれない。

 この人は強いな、とヴィルマは思った。

 

「他ならない領主様が、亡くなったアザリーのことをこんなに悔やんでいる。それを知れてよかった」

「こちらこそ。もし同じく悲しみに暮れているご家族がいらっしゃれば、すまないが、今のことを教えてやってください」

「はい。分かりました。領主様」

 

 そう言って女性は頭を下げて、フードで顔を隠しながら立ち去っていった。

 ヴィルマは少しの間そこに佇んでいたが、やがて背後にいる護衛に声をかける。

 

「よし、行こうか。今からなら隊列の最後尾に追いつけるかもしれない」

「はっ」

 

 護衛は特に何も言及せずにヴィルマに付き従っていく。

 今のやり取りに思うところがないわけでもないのだろうが、それこそ、このような状況に慣れきってしまっているのが彼らだった。

 ヴィルマもまた、自身の心があまり波風立たずに今の会話をやり過ごしたことを自覚している。

 一つひとつの死を深く悲しむこともできなくはないのだろうが、一度に多くの方向を見据えることはできないから。

 身内の死を悲しむ者がいる。怪我の痛みを堪えて歩く者がいる。戦果を上げて喜ぶ者がいる。仲間とただ談笑している者がいる。

 

 様々な人の心が死なずに生きていること、それそのものに意味を見出すヴィルマがいる。

 リーヴェルの人々の活力が、都市を守らず、辺境に出向き、藪蛇のように竜をつつくばかりの対竜兵団を支えている。

 それがどんなに得難いことであるか、誰よりもよく知っているからだ。

 

 

 

 それは、赤髪の少女に一方的に送っていて、その返事が来て文通が始まるより前の頃。

 雪解け水でぬかるんでいた地面がようやく乾き、都市間の人々の往来が盛んになる、夏の初めのことだった。

 

 だだっぴろい会議場の一席にヴィルマは座っていた。劇場のように、低い位置の中心から同心円状、階段状に高くなっていき、中心を囲むように人々が座っている。

 ヴィルマの本拠地であるリーヴェルは、このような大型の劇場も会議場も持ち合わせていない。せいぜい城の広間で宴を開くことができる程度だ。

 リーヴェルよりも規模の大きい、東シュレイド共和国の中でも三本指には入るだろう大都市。ヴィルマは国からの要請を受け、そこに足を運んでいた。

 会議場には、各都市の領主や貴族、議員が集まっている。持ち得る権力としては、ヴィルマと並ぶかそれ以上といった面々だ。

 周辺は厳戒態勢が敷かれ、物々しい雰囲気を醸し出していた。

 

 年に一度開かれる、東シュレイドという国の舵取りのための会議。

 ヴィルマはもちろんのこと、付添いに書記のアズバーと副司令官を連れて、リーヴェルからの参加者としては万全の構えだ。

 しかし、会議が始まる前からある程度予想はできていたが、ヴィルマたちは周囲から厳しい目を向けられていた。

 

「前線都市リーヴェルから報告されている予算だが、これは何かの冗談か? 老若男女、全ての市民が軍隊に入っていたとしても、軍事費はここまで膨れ上がらないはずだ」

「負債はこれ以上増えないように足掻いているようだが、それも国からの補助金が増えたからだろう。リーヴェル市民の負担がそのまま東シュレイド国民の負担に置き換わっただけではないか」

「まるで底のない穴のようだ。ただの一都市に少なくない資源が放り込まれ、何も返ってくることなく失われていく。恐ろしいことだが」

「……前線都市リーヴェル代表、ヴィルマ殿、何か意見はあるかね」

 

 ほとんど袋叩きのような有様だが、会議場の中央に立つ議長はその無数の矛を間引くことなくヴィルマへと渡す。

 ヴィルマは静かにその場から立ち上がった。あんな態度だが、議長はまだ話の分かる人物だ。今までの批判はヴィルマでも一通り捌けると踏んで、話を振ったのだろう。

 そうでなければ、これまでのリーヴェルへの資金援助など、議会を通っていたはずもないのだ。

 その場で軽く一礼し、口を開く。

 

「議員の皆さんもご存じかと存じますが、一昨年は鋼の龍の迎撃作戦が行われました。

 人的被害はある程度抑えられたものの、かの龍の生み出す嵐と風の砲弾により、わが軍の保有する対竜兵器は壊滅的な被害を受けました。

 今回計上している損失は、そのほとんどが対竜兵器の修理、または再生産のための費用となります」

「君等は淡々と経緯を述べるしかないのかもしれんが……それで損失が軽くなるわけではない。せめて、今後の展望はないのか?」

「対竜兵器や道具の改良は年々進んでおり、これまで撃退が限界だった竜の討伐や、捨て置くしかなかった素材の回収ができるようになってきています。

 我々の課題として長年指摘されてきた、投資の対価を提示できる日も近づいているものと考えます」

 

「商業連盟代表殿、今のヴィルマ殿の見解についてどう思う? 対竜兵団が回収した素材の扱いは、リーヴェルまたは君たちに任せられていると聞くが」

「そうだな……リーヴェル代表殿の展望がその通りになるなら何とも言えないが、少なくとも今のままだと商流に乗せるのは厳しいってのが正直なところだな。

 竜の素材が優秀ってのは認める。走竜ってやつの皮から作った鞄は頑丈で、石を詰め込んだって底が抜けねえって評判で、商人の間でも人気がある。

 けどな、如何せん数が足りねぇ。せいぜいが荷車ひとつ分、それより少ないことのが多いし、何の素材かは連中が遠征から戻って来ないと分からないときた。

 これじゃあどっちかっていうと商いよりも博打のそれだ。物はいいんだろうが加工ができなかったり、活かす先が見つからずに埃を被っている素材も少なくないからな……。

 持て余した素材は学術院殿に格安で投げてるってのが実情なんだが、連中は喜んでるみたいだぜ。その辺にいるから話を聞いてみろよ」

 

「が、学術院代表です。商業連盟代表殿の仰る通り、対竜兵団が持ち帰ってきた竜や獣の素材の一部はこちらで引き取っています。

 特に錬金術師や古龍占い師に重宝されており、ヴィルマ殿の活動は我々としては歓迎したいところです。しかし、資金面となると……」

「……課題はまだ山積みのようだな」

 

 やはり、一筋縄ではいかないか。

 ヴィルマはふと、会議場の外の詰所に預けている氷の剣のことを思った。

 今話題に上がった竜の素材と比べてもなお、一線を画すような鋼の龍の素材。

 その角を芯に据えた氷の剣を引き抜き、実際にヴィルマの腕が霜を生やして凍り付く様を目にすれば、様々な議論をすっ飛ばしてしまえるのではないか、と。

 圧倒的な力は、いつの時代も、どのような状況でも、それそのものが唯一無二の価値であることを示すことができるから。

 

 しかし、やはり、それは現実からの逃避に他ならない。

 この場で剣を引き抜こうものなら、それがどのような理由であれ、瞬く間に衛兵に叩き出され、この会議に参画する資格は二度と得られないだろう。

 そうでなくとも、力を誇示して周りを従わせる行為は有効ではあるものの、他の手の検討もせずに短絡的にその方法に走ると、大抵どこかで綻びが生じるものだ。

 暗殺という形で自らの命を脅かされる経験は、あの一件でもうこりごりだった。

 

 ヴィルマとも面識のある大商人と筆頭書士が席に着き、代わりに別の貴族が立ち上がった。こちらは見慣れない顔だ。

 

「そも、対竜兵器とかいう代物はそこまで金がかかるものなのかね? 

 資金の獲得や成果物の資源化が厳しいのであれば、出費を抑えることも検討しなければなるまい。

 それらを遠征に運び出すのにも難儀しているようだし、持って行っても壊れるのなら、いっそそれらに頼らない作戦を練れば良いではないか」

 

「……我々としても、対竜兵器に頼らない戦い方は模索していますが、人的被害がその分大きくなってしまうというのが実情です。

 我が国の正式軍の装備、兵器は他国にも引けを取らないものと考えます。しかし、竜を倒しきるにはどうしても一手足りないのです。

 弱いとか、脆いという話ではなく、単純に土俵が違っているのです。

 もし刀剣のみで戦うならば、人を相手取る剣を、過剰なまでに重く、太く。そうしてようやく彼らの鱗を裂くことができます。

 それらは当然、人が振るうのにも難儀する代物ですから、動きは鈍く、疲れやすくなります。結果として、負傷者が目に見えて増えました。

 この矛盾の解決も我々対竜兵団の課題ではありますが、現状ではこれ以上、対竜兵器の動員数は減らせないというのが回答になります」

 

 質問を投げかけた貴族は、恐らく初めてこの議会に出席したのだろう。

 共和制を掲げていながら貴族を称する者がいるように、東シュレイドという大国の政治もまた、目まぐるしく変革を続けている。

 過去に何度も話したことのある説明を、既視感と共にヴィルマは繰り返した。

 ただ、ヴィルマの話を聞く貴族が眉を顰めているのを見て、面目を潰してしまったか、と若干の危うさを感じた。

 

「その言葉、どこまでが真実なのかは視察の余地があるのではないかね。今の説明は、あくまでも貴殿と、貴殿の保有する軍隊の主観だろう」

「……その通りです」

「私の領地でも、竜が出たという話があった。そのときには、集落の住民が自力で追い払ったそうだ。彼らは戦の指南も受けていないというのに、貴殿等は──」

「──どこで竜が出たのですか」

「……私の領地と言ったはずだが」

「失礼。あなたの治める地域を教えていただけますか。それと、もし聞いていれば、竜の見た目も。

 副指令、地図を出してくれ。アズバー、別紙に記録を頼む」

 

 話の途中で急に態度を変えてきたヴィルマに対し、その貴族は僅かにたじろいだ。

 会議場にもざわめきが広がるが、進行の権限を有する議長はやはり何も言わない。

 問う側と答える側が逆転する。あるいは会議の内容そのものよりも真剣な様子のヴィルマは、いくつかの質問を投げかけた。

 それに貴族が答えると、ヴィルマたちは身内で声を抑えて言葉を交わす。

 

「……やはり、ヒンメルン山脈の西、内地にも走竜が生息していると見るしかなさそうだな。はぐれ者がここまで来るとは考えにくい」

「事実確認と、もし本当だった場合は偵察に出たいですが、あの険しい山をどこまで登れるのやら、検討も尽きませんな。信仰的な理由でも入山が制限されるやもしれません」

「その辺は交渉してみよう。内地の話となると、他人事ではいられないはずだ。……大変失礼。少々無視できかねる話題でしたので」

「……やはりおかしな連中だ」

 

 気味の悪いものを見るような目で、その貴族はヴィルマたちを見つめていた。

 議会での心証を悪くすることは望ましいことではないのだが、経済的な問題を抱えているリーヴェルはなおのこと槍玉にあげられやすい。

 

 最も厄介な点はやはり、今しがたの問答にも如実にそれが表れているが、人々があまりに竜について知らなさすぎることだった。

 それこそ本当に、近年まで、この国がヒンメルン山脈の向こうの世界にまで興味を広げたことでようやく、認知され始めた存在が竜だったのだ。もとよりその存在を知っていたという者は、ごく少数に限られていた。

 庶民には未だに、おとぎ話の存在として竜の存在を信じない者も多い。あるいは吹雪や山火事、洪水といった自然の脅威の化身、精霊というような見方をしている者もいる。

 ヴィルマたちからすれば、それは傍に立っている隣人がまるで見えていないかのような、正気を疑う程の危うさを感じるのだが、それが現実なのだった。

 

 実際、人々の生活圏と竜は不思議なくらいに接点を持たない。

 今、東シュレイド共和国の領土のどこにも竜はいない。人が立ち入らない広大な森も、山や谷だってあるのに、竜と名の付く生き物は見る影もない。

 人の群れなど簡単に蹴散らしてしまえるだろう竜がまるで、この東シュレイドという領域そのものを避けているかのようだった。隣国の西シュレイドも同様だ。

 それこそ、最近になるまで、東西シュレイドを繋ぐ街道にすら竜の気配はなかった。空を隅々まで見渡しても、地平線の向こうに至るまで、空を飛ぶ竜の姿など皆無だったという。

 

 歴史上からも竜の存在はほとんど読み取れない。忘れた頃に、伝承の切れ端から竜を示唆するような記述が見つかる程度だ。

 歴史という学問自体がこの国で禁じられていなければ、もっと掘り下げることもできただろう。

 しかし、その禁を解くことができるはずのこの議会でも、半ば暗黙の了解と化していて、慣習に対する疑問すら言い出せない始末だった。

 

 ヴィルマがこの会議やリーヴェルへの招待を通じて認知を訴えかけ、時に剥製や素材を持ち寄って見せることで、ようやく竜の存在がヴィルマの妄言でないことが周知され始めている。

 それでも、ヴィルマの影響力はこの会議場の内に留まっていて、初めて会議に参加するような者は、やはり竜について何も知らないのだった。

 そして、予定調和じみた竜に対する知識の無さは、時として思いもよらない発想を生む。

 

「貴殿からの提案は有効とは言い難く、我々の提案も受け入れられない。議論を平行線に持ち込んで、うやむやにして流すことで、皆の賛同が得られるとは思わないことだ」

「……我々も資金の問題は深刻に捉えています。次の年には鋼の龍から受けた損害を全て取り戻すことと、商業連盟の方々へ、より安定した竜素材の提供を行うことを約束いたします」

「苦し紛れな返しだ。──そうだ、いい考えがある。素材を売るよりよほど稼げるやり方が」

「……何でしょう」

「竜を倒すのではなく、捕縛して市場に流せばよいではないか。

 飼い慣らせば労働力として使えるかもしれんし、飛竜とかいうやつは私も興味があるぞ。

 愛玩用に金を出してやってもいい。闘技場に放って戦士と戦わせてもおもしろいかもしれんな──」

 

 そんなことをすれば、国は内側から簡単に崩壊する。

 竜を知らない人々が見上げる空に、大翼を広げて飛竜が舞う。そんな光景がヴィルマの脳裏に描かれ、軽い眩暈を覚えた。

 そもそも、人同士の戦争であっても、敵軍の兵士を殺さずに生け捕りにすることはより難しいとされている。相手が竜であってもそれは同じだというのに。

 流石に悪意を感じなくもない提案だが、もし本心からそう思って言っているのなら。

 それは、自身の庭で兎狩りをする以外に武器を握ったことがないと宣言しているようなものなのだが。

 

 別の意味でヴィルマが返答に窮していると、その貴族は先ほどの仕返しとばかりにさらに畳み掛けようとし、そこで議長がようやく一声を上げた。

 

「話が逸れてきているようだ。長引く議論には投票で決を採るのが通例だが、ヴィルマ氏、それで良いかね」

「……承知しました」

 

 ヴィルマはようやく席に着く。

 そう長い時間立っていたわけではないが、どっと疲れを感じた。人々の無理解を目の当たりにするのにも、そろそろ慣れてきたつもりなのだが。

 

 ヴィルマは最悪、自分自身の解任と左遷、対竜兵団の解体、この二つさえ防げれば、まだ取り返しがつくと考えている。国からの支援が打ち切られても相当に苦しいが、まだ負けではない。

 翻せば、対竜兵団と自身の立場が守られるのなら、こういった議会で問題児扱いされ、尊厳を蔑ろにするような言葉を吐かれ続けても、限界までヴィルマは耐えるだろう。

 

 対竜兵団を存続させる。前線都市リーヴェルの代表と、対竜兵団の指揮官であり続ける。

 自身の有する権力に全力でしがみ付いてみせる。

 そうしなければならない理由が、今のヴィルマにはあるからだ。

 

 断絶されていた人と竜、互いの関係の持ち方について。集団と個とで殺し合うしかない現状と、未だ見えることのない将来について。

 ヴィルマが生涯をかけて探っていきたいと思い続けている、()()()()()()()

 それを見定めるまでは、まだ。

 

 

 

「…………──マどの、ヴィルマ殿っ!!」

 

 はっ、と。

 泥沼から引きずり出されるような目覚めの感覚と共に、自身の名を呼ぶ声が聞こえた。

 

「起きた……! 聞こえますか、聞こえてますかっ! 聞こえているなら返事を!」

「ぅ、ぁ……ごほっ、こほっ……聞こえ、ている」

 

 声は生きている。音も拾えているようだ。

 視界はまだ焦点が合わずぼやけているが、少なくとも、声をかけてきた兵士が血塗れであることは見て取ることができた。

 状況把握に思考を割くよりも先に、自身の身体の状態を確かめる。

 脚は……持ち上がる。腕も動かせる。手を開いて、握って力を籠めることもできた。頭も、ひどく重かったり痛かったりはしていない。

 痛みは、全身にある。ある特定の部位が痛いというよりも、全身の肌と筋肉がひりつくような痛みを発している。

 この手の痛みが残っているということは、全身を何かに叩かれて、その拍子に意識を持っていかれたな、と。

 ここまでに半秒。気絶の中でもましなほうだと判断を下す。

 残りの半秒で瞳を動かし、起き上がっても問題がないかを見て、肘をついて上体を起こした。

 ぐらっと視界が揺れる、が、持ち直した。ここで倒れるなら本格的にまずかった。

 

「ヴィルマ殿!?」

「大丈夫だ! それより状況を教えてほしい」

「はっ! ヴィルマ殿は金の獅子の体当たりを受けて意識を失い、現在地下の救護所におります! 既に総員撤退の命を受けて各自退避を続けておりますが、金の獅子の追撃を振り切れておりません!」

「分かった。俺は外へ出るから、他の者の手当てを進めてくれ」

「本当に大丈夫でありますか……!?」

「大丈夫だ。一人で立ち上がれる。もう身分どうこうの段階は過ぎた。総撤退時の心構えに沿って、怪我の重さと助かる見込みで判断を頼む!」

 

 ようやく意識が途切れる前後が繋がり、状況が呑み込めてきた。自身も気が動転する一歩手前か、と思いながらヴィルマは塹壕の中を走る。

 兵士が報告する通り、外は喚声と怒号、そして破壊の音が絶えず響いていた。塹壕の中は地獄のようだ。逃げ遅れたか、通路に倒れ伏す兵士をヴィルマは何度も踏み越えた。

 塹壕を出た瞬間、かの獣に目を付けられるかもしれないことは分かっている。だからヴィルマは走り、救護所があった場所から最低の限距離を取って、迷わずにその身を地上に出した。

 

 これまでにヴィルマが生きてきた中で、最も凄惨な光景が広がっていた。

 

 人同士が殺し合う戦争と、竜と人々との戦いでは、人の死ぬ数は同じでも、その有様は大きく異なるとされている。

 竜が肉食で人を食らおうとしている場合には、かなり残虐な光景も覚悟しなくてはならないが、今、目の前に広がっている光景はそれとは違う。

 ある意味、人同士の戦争の方が近いかもしれない。あの獣は人を食わないのだ。

 だが、それはあまりにも一方的すぎた。

 

 木っ端微塵に砕けた大楯。立て直そうとした形跡の見られる大弩に、べったりと張り付いた血痕。

 千切れた片腕から血を流し、瀕死のみみずのように蠢く弓兵。木の板によりかかって項垂れる兵士と、なんとかその肩を抱いて責務を果たそうとする衛生兵。

 一人の盾兵が、よろめきながら立ち上がった。何とか注意を引き付けるべく、小盾を構える。元々が黒い蛇の竜の掃討だったために支給してきた、毒液から身を守るためのもの。

 

 金色の暴風が、その盾兵を飲み込んだ。

 バンッ、と、聞こえていいはずのない、鉄塊をぶつけたような音がして、その盾は一撃で砕け散って宙を舞う。

 振り抜かれた拳は、それは肉と皮が詰まっているはずなのに、焼入れした鉄のように赤熱化していた。

 大きく仰け反り何度も後退った盾兵は、そのまま崩れ落ちた。だらりとぶら下がったその腕は、もはや今後、使いものにならないだろう。もはや人が受け止められる膂力ではなかった。

 

 その頭上へ、巌の如く力の込められた握り拳が振り下ろされた。

 あっと声を上げる間もない。全てはもう遅かった。

 飛び散った鮮血は、その兵士が即死しただろうことを表していた。その腕にぶちまけられた返り血が、腕の熱にあてられてしゅうしゅうと湯気を出していた。

 久しく感じることのなかった、言葉を失う感覚をヴィルマは覚えた。それは軍の指揮官としては大きな隙と言えるもので、その間にも戦況は目まぐるしく動いていく。

 

 盾兵の命が奪われてから数秒後、眩い光が金の獅子の目の前で弾けた。

 近年になって開発が進んでいる道具、閃光癇癪玉だ。絶命する瞬間に強烈な閃光を発する昆虫を用いたもので、生物に踏み潰されるか、火薬と併用することで炸裂する。

 光の強さにかなりのむらがあるものの、竜や獣の目をくらませることができる道具だ。緊急時、命の危険が差し迫ったときの離脱手段として多くの兵士が所持していた。

 今の状況は十分に模範的と言える。盾兵が止めの一撃を受ける前に、と考える者はいるだろうが、あの至近距離だ。結末を変えることはできなかっただろう。

 

 故にその閃光癇癪玉は、盾兵でなく自身や仲間を守るためのもの。

 数人の弓兵がその場に留まって矢を射かけ、その後方で助け出されたらしい負傷兵が周りの力を借りながら戦線離脱しようとしていた。

 

 閃光に晒された金の獅子は両腕で顔面を覆う。放たれた矢はその腕に当たり、金属質な音と共に、当たり前のように弾かれた。

 大弩ではないにしろ、先ほどまでかの獣の腹部や臀部に突き立つことができていた矢だ。もはやあの赤く染まった腕は、常軌を逸した何かへ変貌を遂げている。

 弾かれた矢が地面に転がって、次の矢が放たれるよりも前に、金の獅子は大した目測もつけずに矢が放たれた方に向かって大口を広げた。

 放たれたのは、雷を束ねて一直線に放たれる光線だ。その衝撃波だけで地表の土がめくれ上がる。光線はどこまでも伸びて、人であれば何十歩とかかる距離を塗り潰していた。

 ヴィルマたちが見る他の竜の吐息とは比べ物にならない。もはやそれは、実体を持った巨大な光の剣だ。目がくらんで狙いが定まらずとも、薙ぎ払うだけで十分すぎる殲滅力を誇っている。

 

 地面を砕き、空を貫き、手当たり次第に放たれるブレスが、地面に伏せていた弓兵の一人を捉えた。

 戦況を俯瞰しているヴィルマに、弓兵の悲鳴は届かない。あのブレスに身を焼かれる感覚は、ヴィルマでさえも想像もできなかった。

 ブレスに飲み込まれたのは一瞬。反射的に転がって上半身は余波を受けるだけで済んだようだが、腰から下、片足は完全に持っていかれていた。

 余波を受けるだけでも、その弓兵の装備は砕けている。目や耳まで焼かれてしまったかもしれない。極度の痛みが彼をのたうち回らせ、ブレスで削られた地面の窪みへ転がり落ちる。

 ブレスを何とか凌いだ仲間が救助に入った。もはや、歩けない者の数が歩ける者を上回っている。手に持っていた弓矢は仲間を助けるために放り投げるしかなかった。

 

 そこへ、金の獅子が迫り来る。目くらましからの復帰が早い。

 恐らくは、総員撤退の指令が出されてから今までの間に、ヴィルマが気を失っている間に何度も使われていたのだろう。強烈な閃光も、慣れればすぐに立て直すようになる。

 救助をしている兵士は、脚を失った仲間を起き上がらせるために必死で、金の獅子に気が付いていない。いや、構っている余裕がないだけか。助け出すと決めた時点で腹をくくっていたのだろう。

 数秒後、そこには新しい肉塊が二つできあがっているだろう。真っ赤な血溜まりと共に。

 

 ヴィルマは、手に持っていた角笛を吹き鳴らした。

 

 金の獅子が振り返る。視認した。ヴィルマは角笛を放り投げた。

 ヴィルマはただ茫然と立ち尽くして兵士たちの死を見ていたわけではない。戦況を見ながらも、倒壊した櫓から角笛を拾い出し、半ば埋もれた武器庫から氷の剣を持ち出して背中に担いでいた。

 冷静さを失っている自覚はあった。

 総員撤退は、もはや組織立っての作戦が維持できなくなったために、散り散りになって自分一人でも生き残って逃げろという最後の命令だ。

 誰かが襲われているのなら、それを囮にしてでも逃げなくてはならない。ましてヴィルマは兵団の指揮官だ。生き残って、この惨状の責任を取らなくてはならない立場だ。

 目の前の命を見捨てられなかったとか、一矢報いたかったとか、そのようなきれいごとで取り繕っても、ヴィルマがここで命を落とすことは、指揮官としての責任を放置していることになる。

 他ならないヴィルマが、最もよく分かっている。ヴィルマはそのために冷酷な判断ができる人間だ。

 

「くそ……っ!」

 

 心の底からの悪態がヴィルマの口から零れ出た。

 向かってくる金の獅子の、さらにその向こうの光景を睨みつけながら。

 

 曇天の下で、黒い死神たちが舞い降りる。

 戦線離脱しようとする兵士たちの頭上に、黒蛇の翼竜の群れが次々と襲い掛かっていた。

 

 ヴィルマの予想していた通りだ。黒蛇の翼竜は強大な存在による蹂躙の現場こそを主食としている。

 彼らはこの獣の後を追ってヒンメルン山脈を越えてきたのだ。金の獅子の比類なき強さに惹かれ、そのおこぼれに預かるために。

 高空を舞っていたのは、金の獅子の暴力に巻き込まれないようにするためか。

 もしかすると、あえて目立つことで周囲の生物をおびき寄せる目的もあったのかもしれない。であれば、ヴィルマたちはまんまと誘い込まれたことになる。

 

 今や、彼らは一斉に低空まで降りてきて、地に倒れ伏した兵士の亡骸を啄み、逃げ遅れたり、負傷者に肩を貸している兵士の背中を追いかけて、盛んに毒液を吐きかけている。

 通常の任務であれば問題なく対処できる彼らの毒液も、今は致命的な追い打ちと化している。既に消耗している兵士には尚更だ。

 だからと言って彼らの相手をしていれば、その分だけ足が止まる。そうこうしているうちにかの獣がやってくるのだ。

 躍起になって追い払おうとしていた黒蛇の翼竜たちが突然その場から飛び去ったとき、金の獅子の拳は既に目前に迫っている。

 

 詰みだ。進むも退くも光明が見えてこない。

 総員撤退が遅々として進んでいなかったのはこのためだ。

 この戦いが始まったときから、退路は既に閉ざされてしまっていた。

 

 故にヴィルマは己の剣を手に取った。

 口をついて出た悪態は、考え得る限り一番の悪手を打たざるを得なくなった、自分自身に向けられたものだ。

 

 剣の柄から染み入って、腕の血流を極度に鈍らせる。そのまま心臓まで凍り付くような錯覚をも抱かせる、冷気の侵食。氷の剣を握る感触は久しぶりだった。

 しかし、感慨に浸っている間はない。金の獅子はヴィルマの目前にまで迫っていた。

 その凶悪な顔面を叩き斬ってやる。葛藤や後悔をかなぐり捨て、渾身の気合を込めて、振り被った氷の剣で上段斬りを放った。

 

 先に大楯を殴り飛ばしたときのように、疾走する勢いのままにヴィルマを殴りつけようとしていたのだろう。金の獅子もまた拳を振り被っていた。

 しかし、目の前に立つ矮小な生物が、何やら尋常でない気配を放つ棒きれで迎え撃とうとしていることに気が付き、咄嗟に両腕で顔を覆った。

 回避することもできただろうにそうしなかったのは、ヴィルマの攻撃を防ぎつつ、そのまま体当たりして打ち飛ばそうとする算段からか。

 お互いにもう止まることはできない。肥大化し赤熱した金の獅子の腕に、周囲の熱を奪い去る風を纏った刀身が叩きつけられた。

 

 ぎん、という耳障りな音が響く。金属が弾かれる音。

 仰け反るかに思われたヴィルマは、しかし刀身が滑って体勢を崩し、金の獅子とすれ違うようにして地面に倒れた。

 あまりの衝撃に腕が痺れる。剣を取り零しそうになったが、氷の剣は握力が失われた程度では手放すことはできない。剣の冷気がヴィルマの手をがっちりと掴んでいる。

 それよりもヴィルマは、氷の剣でも弾かれたという結果を重く見ていた。

 貫通力のある弓矢でも弾かれていた時点で、人ひとりが振るう刃が通るはずもないことは分かってはいたものの、この剣であれば、という期待があったことは否定できない。

 

 ただ、その剣が特異であるということだけは、この獣にもしっかりと伝わったようだ。

 突進の勢いのまま地面に突っ込んで盛大に地表を抉った金の獅子は、起き上がるや否や、ヴィルマ本人ではなく、ヴィルマの握る氷の剣に飛びついた。

 

「なっ……!」

 

 金の獅子の拳が刀身をむんずと掴む。

 ヴィルマから氷の剣を奪い取り、己の手でへし折ってしまおうという算段か。

 そういった行動に出るということは、この剣が危険であると認めたということだ。であれば、尚更手放すわけにはいかない。

 ヴィルマは痺れの残る両腕にできる限りの力を込めて、金の獅子に抗った。

 

 肉の赤色が剥き出しになったかのようなその腕は、熱いほどの熱を放ち、さらにばちばちと雷のようなものを纏っている。

 至近距離で見れば、突然黒から金へ変貌した体毛は、その毛の一本一本が逆立ち、その憤怒に呼応するように光を迸らせていた。

 金の獅子の腕は人の胴よりも遥かに太く、はち切れんばかりの密度を持っている。その膂力は圧倒的で、ヴィルマは剣を持ったまま軽々と片手で持ち上げられた。

 

 しぶといが、あとは適当に振り回しでもすれば剥がれるだろう。殺意の籠った瞳でそう語る金の獅子だが、しかし、すぐに己の手の異常に気が付いた。

 刀身を握る拳から湯気が出ている。いや、違う。冷気だ。金の獅子の腕で熱せられた空気が、氷の剣の冷気に当てられ、尋常でない結露を起こしている。

 滾る腕によって気付くのが遅れた。見れば、拳の内から冷気と共に霜がじわじわと広がり、熱を奪われた指の感触が徐々に鈍くなっていく。

 反射的に、金の獅子は握っていた氷の剣を放り投げた。

 

「うっ、ぐ……!」

 

 当然、必死に剣の柄を握っていたヴィルマも共に宙を舞った。

 あんなに無造作な仕草で、こうも軽々と人を投げ飛ばすのか。人の足で軽く数十歩ほど吹き飛んだヴィルマは、その場でどうにか受け身を取った。

 周囲には櫓の残骸が四散している。落下地点が平らな地面で幸いだった。この剣に自身の身体が触れないように受け身を取らなければ、刀身が頭にでも当たろうものなら容易に自滅してしまう。

 すぐに立ち上がれるのは奇跡にも等しい。一度は意識を奪われているのに、後に引きずるような傷はほとんどなくこうして動けている。

 せめて、黒蛇の翼竜に襲われている兵士たちの生存率を少しでも上げてやりたい。

 氷の剣のおぞましい感触を自らの意志で抑えつけ、まともに振るうことができる戦士は、この部隊ではヴィルマしかいないのだ。

 

 金の獅子はしばらく己の手を地面に叩きつけたり、拳を握っては開いたりと霜の感触を追い払うことに執心していた。

 やがてヴィルマのいる方を向き、牙を剥き出しにして唸る。標的は完全にヴィルマに切り替わったようだ。

 ヴィルマもまた、身構える。本能は狂ったように警鐘を鳴らし続け、向き合い続けようとすると吐きそうになってくるが、目を逸らすわけにはいかない。

 先ほどは腕を組んで突進してきた。今度はどうだ。同じく突っ込んでくるか、今度こそ殴りかかってくるか、ブレスということもある。何にせよ、ヴィルマ自身も即座に反応しなければ────。

 

 がら、と。背後の瓦礫が崩れる音がした。

 次いで、黒蛇の翼竜の喚声と人々の悲鳴、風や火事も重なった喧騒の中で、消え入りそうなほどに掠れきった声がヴィルマの耳に届いた。

 

「ヴィル、マ、さ……?」

 

 自然と、声のする方へ視線が向く。

 ヴィルマの背後に折り重なった拠点の残骸。その瓦礫の下から、血塗れの若い兵士が一人、顔と手だけを覗かせていた。

 息を呑む。それは、この戦いでの最初の犠牲者と思われていた兵士だった。

 誰もが想像すらできなかった、岩盤を捲りあげての投擲。あえなく一撃で崩れ落ちた砦の門と、逃げる間もなく倒壊に巻き込まれた門兵。

 生きていたのだ。無数の瓦礫の下敷きになって、血塗れになる程の重傷を負いながら、それでも何とか這い出ようともがき続けていた。

 そして、もう体力も尽きようかという頃に、ようやく外の景色を見ることが叶って。

 目の前に、自らの兵団の指揮官が立ったのだ。

 

 ヴィルマが背後の青年に視線を寄越していた時間は、一秒にも満たない。

 しかしその僅かな間、明らかに金の獅子への注目は途切れていて、それはこの駆け引きにおいて致命的な隙となった。

 ヴィルマが再び正面を見たときには、金の獅子は既に地を蹴って、たったの一足でヴィルマの目前に迫り、力の漲った巨腕を振り被っていた。

 

 時間が引き延ばされる感覚とはこれか、とヴィルマは思った。

 物事の流れはゆっくりと感じられるが、絶望的なまでに身体が付いてこない。ここからヴィルマの取れる行動はあまりにも限られている。

 背後の門兵は、何が起こっているか全く分かっていないだろう。あの怪我では視覚や聴覚がどこまで保たれているかも怪しい。

 それでいて、かの獣が知ってか知らずか、あの破壊的な拳が振るわれれば、確実に巻き込まれるであろう位置に彼はいる。

 もはやヴィルマが干渉できる域にはなく、その頭蓋が砕かれるか、再び瓦礫に埋もれるか。どちらにせよ、命を落とす未来は確定してしまった。

 では、己は。ヴィルマは、どうする。

 

「────ちっ」

 

 どうにもならない。舌打ちするくらいしかできない。

 門兵の手を取ることも、氷の剣で迎え撃つことも、この刹那の間には間に合わないということだけ、分かる。

 

 気を失っている間に見ていた記憶の断片が、なぜか今になって脳裏に蘇ってくる。

 

 竜や獣から目を逸らさず向き合っているのが前線都市リーヴェルだけで、他の都市や人々は現実をおとぎ話として認識していると知ったとき、この状況を変えたいとヴィルマは強く思った。

 ヒンメルン山脈という自然の防壁の内で繫栄すれば良いと考え、外の世界を決して見ないという選択は、竜や獣と人とのあらゆる可能性を閉ざしていることと同じだから。

 能動的に干渉し、試行錯誤し、どうしても相容れないと判断して閉じ籠る選択をしたなら納得できるが、それすらしていないなら、それは棲み分けとは呼べない。まだ分からないではないか、と。

 

 積極的に遠征に出た。開拓と領土の拡大を後押しした。竜に対する備えの重要さを説き続けた。世界は広く、おとぎ話は現実のものなのだと訴えかけた。

 認知は遅々として進まなかった。聞き入れてもらっても、今度は藪蛇だと批判された。下手に干渉することで彼らの怒りを買い、今の情勢を崩す可能性については、ヴィルマ自身も認めなくてはいけなかった。

 ましてや、竜のみならず古の龍すらいるのだ。人が挑もうとすること自体がおこがましいという主張があれば、ヴィルマはそれを否定しない。

 

 けれど、それは。人々が自然に喰われる側として、最初から諦める理由にはならない。

 歴史を封じられ、何も知らないヴィルマを含む人々は手を伸ばしてもいいはずだ、と、証明したかったのだ。

 

 その終点がここならば、黙って受け入れるしかないのだろうか。

 破壊の申し子のような獣が逆に証明する。外の世界で自然に歯向かえばどうなるか、他ならないヴィルマに現実を叩きつけている。

 あるいは、自身の夢は馬鹿げていたとヴィルマが認め、身の程というものを弁えると誓えば、瞬きの後に訪れるであろう死からも逃れれらるのだろうか。

 

 そんなわけがない。絶対に認めてなるものか。

 子どもの駄々と大差ない意地だ。ヴィルマの根のところはやはり幼い。

 ヴィルマは金の獅子の爛々とした瞳から目を逸らさず、俯瞰してその拳の軌道を読むことに全力を注ぐ。

 

 半身だけでも逸らせないか、致命傷を避けることはできないか。

 背後にいる門兵は死ぬだろう。そのことが一生の心残りになるとしても、むしろ、彼を囮にするくらいの罪を被れ。

 

 ああ、自分があと僅かでも潔い人間であれば。

 命尽きるまで自分だけが助かろうとした指揮官などと、後世に伝えられるような決断はしなかっただろうに。

 

 刹那、空気が裂けた。

 

「……?」

 

 火花のような余韻と、揺らめいて消えていく炎だけが、その空間に何かが駆け抜けたことを示していた。

 一瞬のうちにヴィルマの胴と門兵の頭をぶち抜いていただろう拳がやってこない。

 それどころか、急に力が抜けたように獅子はその場で膝を付く。赤熱化していた腕も、雷が溢れ出ていた体毛も、波が引くようにその色を失い、もとの黒色へと戻っていく。

 金の獅子が、再び黒の獅子へと立ち返った。

 

 膝を付いてなお、よろめきかけた黒の獅子は、前腕で地面を叩き横跳びして距離を取った。

 そうすることでヴィルマはようやく、今の一閃が目の前に立つ人物の放った斬撃であることに気が付いた。

 金の獅子に気取られることなく疾駆し、その背後を取り、斬撃を入れた。それだけでも十分に信じがたいことだ。

 

 けれど、ヴィルマが目の前の光景を現実のものとして受け止められるようになるには、もう数秒の時間が必要かもしれない。

 剣を振り抜いたことで脱げたのであろう頭巾から、真っ赤な髪と青い瞳が覗く。

 

「君は……どうして」

「……西シュレイド王室からの命令で」

 

 いつかに見た姿よりも少し背が伸びて、しかし顔に刻まれた火傷の痕と、淡々とした口調は変わらない。

 

「あなたを、殺しに来た」

 

 その手には、燃え盛る炎の短剣が握られていた。

 






作中設定解説

【血吸い鮫/人呑み鮫】
後世ではスクアギル、ザボアザギルと呼ばれる両生種。
寒冷地の海や浅瀬に生息しており、流氷と共に移動してくることがある。
血吸いと名のつく通り、幼体は襲った獲物の血を吸う習性がある。成長度合いによっては人の身程の大きさでも吸血行動を取ってくるため、非常に危険。
成体は人の身を優に超すほどの大きさになるほか、伸縮性のある腹部の皮を一気に膨らませ、瞬く間に体積を増大させることがある。
これらの習性から、見た目に関する証言が人によってばらばらで、()()()()という言葉が先行するきっかけとなった。


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第13話 雷裂くは炎の剣

 

 

 四年越しに見た彼女の表情は、しかし、大人びたという表現はそぐわないように思えた。

 見た目から推測される年齢からも、身体の成長はするだろうし、実際にその通りに見えたが、表情だけが年月にそぐわないように見えるのが少し不思議だった。

 ただ、あのときは毒を撃ち込まれていたし、今は先ほど黒の獅子に投げ飛ばされたために視界が若干霞んでいて、はっきり見えているとは言えないのが実情ではあったが。

 

 彼女はヴィルマをちらっとだけ見て、視線を交わすこともなくすぐに黒の獅子の方を向く。それを見たヴィルマも、呆気に取られていた己を無理やり現実へ引き戻した。

 今の数秒間の空白が、己にとってこの戦いの最大の隙と言えるようにしよう。そう自分に言い聞かせ、今一度立ち上がった感触を確かめる。

 金色の雷を無理やり引き剥がされた黒の獅子は、ヴィルマたちよりも、自らの力が抜けた要因が気になっているのか、苛ただしげに尻尾の辺りを擦っている。

 彼女の斬撃は相当深くまで入ったようだ。それなのに鮮血が噴き出していないのは、彼女の握る炎の剣が、その傷跡を焼き切ってしまったからだろう。

 切り傷が一瞬で止血されるというのは一見難点のように思えるが、火傷の治りはふつうの傷よりも遥かに悪い。それは竜や獣であっても恐らく同じだ。

 黒の獅子がこちらへの注目を逸らしていることを十分に確認した上で、ヴィルマは駆け付けた彼女に声をかけた。視線は、黒の獅子から外さない。

 

「君は、一人でここに?」

「ううん、このあと本隊が来る。進むのが遅いから先に来ただけ」

「同じく黒蛇の竜退治か……俺が生きていたこともばれたみたいだな」

「うん。だからどさくさに紛れて殺してこいって」

「それなら、今の黒の獅子を止めなければよかったんじゃないか?」

 

 彼女に阻まれたことで放たれなかったあの拳は、まさに致命の一撃だった。ヴィルマに迎撃も回避も選択させない、十分に死を与え得る機会だっただろうに。

 そんなヴィルマの疑問に、彼女は小さく嘆息してから答えた。

 

「あそこであなたが死んだら、私が困る。あの獣相手に一人でやり合えるとは思えない」

「それは、まあ、たしかにそうだが……」

 

 つまり、ヴィルマを囮として運用したいがためにあえて生き残らせた、ということなのだろうか。

 歯切れの悪い返事をしたヴィルマは、後に続けようとする言葉を一度飲み込んだ。

 今は詮索をしている時ではない。この場を切り抜ければ、おのずと見えてくるものもあるだろう。

 この暴力の嵐を相手に、彼女が命を捨てにきたわけではないことが分かった。であれば、元が殺し合う者同士であっても協力はできるはずだ。

 

「場所を移したいんだが、できるか?」

「そこの人を巻き込みたくないから?」

「ああ。発煙筒を転がしておくから、まだ動ける兵士がいれば助けに来てくれるかもしれない」

「当てはある?」

「ここから右に何十歩か、残骸が少ない広場に出るはずだ。そっちの方が動きやすい」

「分かった。急ごう」

 

 自らの意思で戦いの場を移せる機会なんて今後は訪れないだろう。選択肢は常に強者が握っていて、力で及ばぬ者はその隙を伺って動くしかない。

 ヴィルマたちがそっと駆け出したのを、黒の獅子もまた見ていた。尻尾と臀部を切り裂かれた怒りがふつふつと湧いてきたのか、牙を剥いて地を蹴る。

 人の足と獣の足とでは、圧倒的なまでに速さが違う。その差はみるみるうちに縮まっていき、あわや接触か、という直前に二人揃って身を投げ出した。

 黒の獅子の腕と指が空を斬る。あれに掴まれようものなら、その腕力で肋骨が砕けるまで鷲掴みにされ、口から噴水のように血を吐く未来が見える。

 

「ペッ……なんとか辿り着いた……う、ぉっ」

 

 泥まみれで土を吐きながら、しかし、言葉を話す間すらない。

 ヴィルマの頭上から降ってきた拳は、掠るだけでもヴィルマの頸椎が軽くへし折れるだろう力を漲らせていた。

 間一髪で避けられた拳はそのまま地面に叩きつけられ、重々しい振動と共に、地表に膝が埋まるほどの深さの跡を残す。

 

 息が詰まる。走った後の息継ぎすらままならない。次が来たら苦しいが、見逃されはしないだろう。

 とにかく視線を外さないことだ。ヴィルマが振り返ろうとしたところで、再び彼女が動いた。

 小柄な身長を活かし、ヴィルマと黒の獅子の間をすり抜けるようにして剣を振るう。

 黒の獅子の腕に吸い込まれていった刃は、かつてのように弾かれることなく黒い毛皮を切り裂いた。

 あの、もとが筋肉だったとは思えない鋼のような硬度は、やはり金色の雷に紐づいていたのか、と再確認する。

 そして、今回は炎の軌跡が描かれなかったことに気付き、彼女の持つ剣を見た。

 炎の剣ではない。標準的な鉄製の剣だ。よく鍛えられていて切れ味も申し分ないようだが、黒の獅子の厚い毛皮を一撃で突破するには至らない。

 その証拠に、黒の獅子の腕からの流血はほとんどなかった。じわりと毛に染み込む程度だ。

 

 僅かに動きを止めた黒の獅子は、しかし、纏わりつく小蠅を追い払うように無茶苦茶に腕を振るい始めた。

 巻き込まれて、軽くあの腕が振れるだけでも大怪我に繋がりかねない。二人して何とか抜け出して、ようやく、一息だけをついた。

 

「あなたも、ふつうの剣を持って」

「え?」

「今持っている剣、氷の剣でしょ。腕が凍るっていう、あの。早く手を離した方がいい」

 

 黒の獅子が吼える。今度は目の前のもの全てを薙ぎ払っていくような殴打の連続を繰り出してきた。

 ヴィルマは取り急ぎ、彼女の回避の仕方を真似ることにした。ヴィルマには、こんなにも長い時間、敵からの標的であり続けた経験がほとんどなかった。

 対して、彼女はヴィルマに声をかける余裕すらある。彼女の指摘を受けて、ヴィルマは己の腕から感覚がなくなりかけていることに気が付いた。

 

 氷の剣の柄から伝う霜は、既に肘まで達していた。凍傷はもう間違いない。このまま握り続けていれば、指から腐り落ちていくだろう。

 もともと、そこまで長く握り続けることを想定されていないのだ。一太刀入れたらすぐに鞘に戻し、しばらく手を休めるのが本来の使い方だ。

 彼女もそれを分かっての指摘だったのだろうが、ヴィルマは迷いを抱えていた。

 

「だが、これでなければ……ッ、まともに攻撃が通らない!」

 

 黒の獅子の猛攻は続く。ただでさえ遮蔽物の少ない広場に走ってきたのだ。建築物や塹壕を隠れ蓑にすることもできず、その身一つでかの獅子の攻撃から逃れ続けるしかない。

 舌を噛まないように声を発することだけで精いっぱいだった。呻きにも近しいヴィルマの言葉は、ともすれば黒の獅子が暴れる音にかき消されそうになる。

 

「分かってる。でも、無茶をするのは今じゃない!」

「今でなくてどうするんだ!? たとえ俺の腕が潰れようと、兵団の皆と君が逃げる時間を稼がなければ……!」

「さっき、私ひとりじゃ太刀打ちできないって言った。あなたの腕がダメになったら、この獣は倒せなくなる!」

「倒す……!? もう対竜兵器は使えない。俺たちの兵団は撤退しているんだ! 君のいる部隊が来るまで持ちこたえろと!?」

「違う。なんで……」

 

 掴まれそうになって、それを避ける。角に串刺しにされそうになって、体を捻る。地面の振動に、手をついて耐える。斬撃を与え、少しでも傷を与える。

 黒の獅子の雄叫びに負けないように声を張り上げていたヴィルマたちは、しかし、かの獣が距離と取ったことで並んで身構えた。

 

「なんで、他の人がいないと、この獣が倒せないってことになるの?」

「それは──待て。君は……俺と君の二人でアレを倒そうと考えてるのか……?」

「何かおかしい? 切り抜けるには、それしかないと思う」

「そう、だが……」

 

 それは、可能なのだろうか?

 彼女の言わんとすることは、人という種が持てる兵器や数の利といった武器をかなぐり捨てて、その身一つで化物を討ち取れということだ。

 ヴィルマも兵団を率いる身であるため、軍学や戦術を一通り学んできている。その教えのどこにも、竜や獣を一人二人で相手取れるとは書いていない。それが成り立ってしまうなら、あらゆる戦術は根底から瓦解してしまう。

 ヴィルマの常識的には、ありえないことを彼女は話している。ヴィルマが考えもしなかった手段を、彼女は思い描き、ヴィルマに示している。

 あの状況に追い込まれた時点で、捨て身になるしかないような考え方をしたのも、組織でなければ竜には立ち向かえないという思想が根底にあったからだ。

 

 距離を取っていた黒の獅子は、こちらを誘い出そうとしていたようだ。この膂力に加えて知恵もはたらくなど厄介極まりない。

 しかし、周りを巻き込まないためにも、ヴィルマたちはその場で動かず身構える。その様を見て、黒の獅子は唸り声をあげて突進してきた。

 腕を前に出すのではなく、角を振り上げるような仕草。爆弾により片割れを失い、歪さを増したあの角は、幾多の兵士を打ち据え、貫いてきたのだろう。

 避けようとする直前に、付け加えるように彼女が呟くのを、ヴィルマはかろうじて聞き取った。

 

「あなたは、あんなにも生きようとしてたのに」

「──それは」

「あなたの手紙を読んで、私はここに来た」

 

 互いに左右逆の方向へ、横っ飛びして突進を避ける。

 黒の獅子は彼女の方を狙い、軌道を変えて執拗に追いかけたが、身を屈めて半ば四足で走った彼女は、何とかその場を潜り抜けた。

 彼女の短い言葉には、数々の言外の意思が込められている。そのことだけは、分かった。

 彼女は彼女のやりたいようにやる。ヴィルマの命を奪うはずだった一撃を切り裂き、今、必死に走り回っているように。

 それは、ヴィルマがどれだけ仲間を失っていようが、圧倒的な力に打ちのめされていようが、関係なくだ。

 

 あとは、彼女の提案にヴィルマが乗るかどうか。

 先に暗殺されかけたときもそうだったが、彼女は──フレアは、本人の意志に因るものかは分からないが、ヴィルマの人生を量るような選択を強いてくる。

 

「────十秒だ! 十秒引き付けてくれ!」

 

 ヴィルマの声に対し、フレアからの返答はなかった。状況的にそれどころではないというのが正しいが。

 しかし、ヴィルマの動きによって彼女の動きが明らかに変わった。回避一等辺だった足を突然逆に踏切り、剣を抜いて黒の獅子に肉薄していく。

 

「……づっ、ぐ……!」

 

 長く握り続けた氷の剣を離すのは至難の業だ。

 黒の獅子に刀身を鷲掴みにされ、そのまま放り投げられても剣を手放さないでいられたのは、剣の柄の方がヴィルマの手を離さなかったから。

 厚い氷で押し固められた手を無理やり引き剥がそうとしているような、感覚を失った腕に渾身の力を込めて、ゆっくりと指を動かしていく。

 歯を食いしばり、唸り声をあげて、ただ剣を離すという動作に何秒もかけて、ようやくその束縛から逃れたとき。

 その掌からは、細かな膜状の氷と霜がはらはらと零れ落ちていった。

 

 しばらくすると襲ってくるであろう凍傷の痛みと痒みを覚悟して、こわごわと拳を握っては開く。頬に手を当てれば、ほぼ氷も同然の冷たさが伝ってきた。

 腰に提げた鉄製の片手剣は、まだ何とか握れる。しばらくはまともに振るえないだろうが、牽制くらいはできるだろう。

 氷の剣を握っていた今、その片手剣はあまりに細く頼りなさげに感じたが、それこそ、力に溺れていた証拠と言えるのかもしれない。

 ここまでに十秒。しっかりと彼女に任せてしまった。

 

「すまない! 遅くなった!」

 

 声を張り上げて地を蹴る。剣と拳による熾烈な攻防の中へと踏み込んでいく。

 ここから先は、ヴィルマの知らない領域だ。

 たった二人の人間と、あまりにも短い時間で百人の人間を屠った化物との戦いが始まった。

 

 

 

 フレアに殺されかけたあの日から、ヴィルマは内密に対人戦闘の訓練を重ねていた。

 国の守護を担う騎士や軍に依頼し、剣の打ち合いを重ね、切札である氷の剣の有効な使い方も模索してきた。

 そのため、兵団を指揮する立場ではありつつも、戦闘技術は以前よりも向上していると自負していたのだが。

 フレアという戦士を前にすると、そんな自信は見る影もなく萎れていってしまう。

 

 それこそ、竜や獣を相手取ったときの彼女は、ヴィルマも初めて見るものではあったが、もはや次元が違う。

 そのいずれの動きもが人という生物の範疇を超えないものだ。果てしない実戦経験から形作られたのであろう、対竜専用の立ち回りだと読み取れてしまうが故に。

 フレアが、数ある兵士の一人という立場でありながら、単身で竜を相手取る場面がほとんどであり。

 彼女こそが西シュレイド王国の対竜兵器と言って差し支えない、ということまで、頷きざるを得なかった。

 

「後ろに飛び退いてくる。蹴られるから一旦引いて!」

「ああ!」

「私を見てる。背中が空くはず。相手をするから斬って!」

「……ッ、分かった!」

 

 目まぐるしく指示が飛ぶ。いつ息継ぎをしているんだ、と疑問を抱きながら、ヴィルマはフレアの指示に従っていた。

 鎧袖一触を体現する黒の獅子の攻撃を躱していく。黒の獅子は何も適当に相手しているわけではない。羽虫のごときそれを早く捕まえて、地面に叩きつけてやりたいはずだ。

 拳を突き出せば後退し、頭突きを見舞えば潜り込み、両手で叩けばその腕に細い手を突いてひらりと飛び越える。黒の獅子の鼻息がどんどんと荒くなっていく。

 あんな動きはふつうできない。正面に立っただけで腰が抜けそうになる程の圧だ。委縮して、身体が強張るのが当たり前のはずで、ヴィルマを含む対竜兵団の動きがそうだった。

 あの獣と一対一でやり合うという恐ろしい光景を傍目に見ながら、ヴィルマはその背後を取る。

 

 目まぐるしく動く肉体に刃を当てること自体が至難の業だ。しかし、やらなくてはならない。ヴィルマは一気に踏み込んだ。

 両手で鉄の剣を握り、振り抜く。フレアが最初に炎の剣で刻んだ火傷の痕の、指三本分ほど上に刀身が当たる。

 当然、刃は厚い毛皮に阻まれる。木こりであればへたくそだと笑われるだろう。しかし、なりふり構ってはいられない。

 

 黒の獅子は即座に反応した。振り向く動作に付いてくる腕は肘打ちや裏拳と同義だ。フレアのように受け流す技術を持たないヴィルマは大きく避けるしかない。

 木に食いこんだ斧のようにつかえた刀身を引き抜き、すぐに飛び退く。あと一秒でも手間取っていたら、剣を手放すことになっていただろう。

 

 大丈夫だ。ヴィルマを前にするということは、フレアに背後を取られるということ。

 正真正銘の化物である黒の獅子も、背後に目が付いていたり、同時に二人を相手取れるほどに直感に優れているわけではない。

 黒の獅子の瞼がひくついた。フレアが斬ったのだ。ヴィルマのようには外さない。

 今度こそ鮮血が吹き出る。大弩の矢が当たったとき以来だ。ますますフレアが対竜兵器じみてきている。段階を重ねているとはいえ、大弩と同じ火力を彼女が出していること自体が尋常ではない。

 

 みち、と、黒の獅子の箍が外れる音がした。こうも分かりやすいのか、とヴィルマは思った。恐らく、全身の筋肉が容積を増した音だ。

 

 黒の獅子から金の獅子へ。フレアが小さく息を呑むのが見えた。そういった反応を見せるのも頷ける。

 荒々しい雷を身に纏い、黄金の毛を逆立たせる様は、見る者の心を奪うものがある。

 そのまま後ろに飛び退いた黒の獅子の口元からは雷が迸っている。その様を見るなり反射的に動いた己の身体をヴィルマは褒めた。

 半ば飛び込むようにして、少女の肩を押す。

 

吐息(ブレス)だ!! 逃げ……ッ!」

 

 ヴィルマの声を遮って、雷の束が空気を焼いていく。

 楯を構えようが、地面に伏せようと無駄だ。あれに触れてしまった時点で、防具だろうが四肢だろうが、命さえも消し飛んでしまう。

 フレアと共にごろごろと地面を転がり、追従してくる雷の束に恐れおののき、地面に手を突いてさらに走る。

 どんなに無様だろうと構わない。ヴィルマは逃げることに必死だったが、フレアは違ったようだ。

 目を見開き、四つ足の方が速いのではという勢いで金の獅子の方へ肉薄していく。

 

 金の獅子はこのブレスに自信を持っているようだった。実際、何人もの兵士をその雷で葬り去ってきたのだろう。薙ぎ払えば、自身が暴れるよりも何倍も広い領域が更地と化す。

 怒りによって増幅された雷を存分に吐き出し、息継ぎをするために出力を少しずつ絞っていき、溜まっていた鬱憤が少しは晴れたかと呼気を紛らせた。

 フレアの掌ほどの小さな白刃が、金の獅子の目と鼻の先で踊った。

 

 跳躍。暗殺用の短剣を手に取り、その眼を狙って刃を走らせる。

 金の獅子は目覚ましい反応を見せた。途切れる寸前だった口元の雷が再燃する。

 かつてのヴィルマとの打ち合いのように、暴発気味にブレスが弾け、フレアの身体が紙のように舞った。

 

「フレアッ!!」

 

 金の獅子の悲鳴が聞こえると共に、ヴィルマが滑り込む。フレアは軽いだろうが、受け身も取らずに地面に激突すれば無事では済まない。

 ここしばらくヴィルマは地に膝や尻をつくばかりだ。背中に背負った氷の剣の鞘ががりがりと地面を引っ掻き、間一髪、その手元にフレアの身体が収まった。

 

「くっ、つぅ……」

「大丈夫か?」

「……うん」

 

 目が焼かれたり鼓膜が破けたりしていないか、本人も不安に駆られていたようだったが、運よくどちらも無事だったようだ。

 ただ、体の怪我は酷い。あの一瞬で雷が彼女を焼いたようで、衣はところどころ破け、表皮も黒ずんでいる。あれを連続して浴び続ければ文字通り塵と化すため、これでもまだましな方なのか。

 

「立てるか?」

「うん」

 

 酷だが、支障がないならすぐに立たせる必要がある。今までの間、ヴィルマはほとんどフレアを見ずに金の獅子の動向を窺っていた。

 ただ、今の隙だらけのヴィルマたちに対して追撃が来ない時点で、金の獅子の状況もある程度は察することができる。

 

 くぐもった声、口元を手で覆う仕草、その手からぼたぼたと流れ出る血。

 尻尾を斬られたときと違って脱力しているわけではないようだが、状態としては遥かに深刻であることが見て取れる。

 ヴィルマからははっきりと見えなかったが、一体何が起こったのか。その疑問には、ヴィルマの腕を借りつつ立ち上がったフレアが答えてくれた。

 

「眼は守ってきたから、代わりにあの口の中にナイフを投げた。でも、ほとんど自滅だと思う」

 

 腰に提げたポーチから乾燥した草の葉を取り出し、患部に擦りつけると共に、無造作に口に入れる。兵団や軍隊でも広く使われている薬草だろう。

 彼女もまた、金の獅子を見ていた。

 

 彼女が手に持っていた短刀は、咄嗟の判断でかの獣の口内に投げ入れられた。

 あの筋力と鋭い牙であれば、普通であれば短刀程度余裕で噛み砕けるのだろうが、ブレスを放とうとしていた直前だったのが悪かったようだ。

 彼女のことだ。鋭い投擲は金の獅子の喉奥を貫き、一時だけでも息を詰まらせたのだろう。人であれば即死だ。

 結果としてあの雷の制御が効かなくなり、弾けたブレスは口内を焼いた。べったりとした血と共に、牙が抜けて零れ落ちる。

 短刀も誤って飲み込んでしまったのだろう。息をしずらそうにえずく様がその証拠だ。

 

 ヴィルマはただ驚いていた。あの化物が追い詰められているように見えるのが不思議でならない。

 この感覚は鋼の龍と相対しているときも感じたが、今、それを成したのはたった一人の戦士だ。それが何よりも信じ難かった。

 

「追撃を入れよう」

 

 フレアが問題なく立てていることを確かめてから、ヴィルマはフレアに声をかけ、駆け出した。頷いたフレアも後を追う。

 この好機を逃す手はない。気を急いては痛い目を見るため観察に徹していたが、もう十分に待った。

 二人が迫ってきていることに金の獅子は気付いているようだったが、未だにその場から動けずにいた。ぐらりと大きくよろめく様は、尻尾を切ったときすらも見せなかった。

 氷の剣の抜き時かと考える。できれば畳み掛けてしまいたい。今、一番の火力を出すにはそれしかないだろう。

 

 ようやく血が巡り始めた指先を再び凍らせるのは酷なことだが、と、ヴィルマが氷の剣の柄に手を伸ばしたとき、金の獅子の両腕が強く地面を叩いた。

 どん、と、周辺の地表に触れていた物たちが僅かに宙に浮く。その場で小さな地震を起こしたようなものだ。ヴィルマたちの足も強引に止められる。

 

 金の獅子が古の龍ならば、それはその比類なき膂力か、どこからか溢れ出てくる黄金の雷のどちらかだろうと考えていた。

 しかし、その何れもが果てしない闘争本能と際限のない怒りによってもたらされたものであるとすれば、龍としての本質はそこにあるのかもしれない。

 口からの流血は続いている。これまでに負った傷が塞がったわけでもない。しかし、もはや己さえも顧みず、金の獅子は咆哮と共に両腕で天を掻きむしった。

 腕の筋肉が限界を超えて膨張する。筋繊維が表皮を圧迫し、金色から赤く染め上げていく。体液はすぐに揮発して湯気となり、背の雷が伝って火花のように散る。

 

 これだ。この状態の金の獅子がヴィルマの部隊を壊滅に追い込んだのだ。

 つまり、これからが本番ということ。本当の正念場は今、ここから始まる。

 

「どうしてこんな化物と正面切って戦ってるんだ? 罠、不意討ち、遠方からの一方的な射撃が定石じゃないのか」

「それができる相手だと思う?」

「……一周回ってってことだな」

 

 膝の震えは隠せそうにない。腹の底から湧き上がってくる恐怖をごまかすためにヴィルマは軽口を叩いたが、あっさりとフレアに返されてしまった。その淡々とした返答が、むしろ落ち着きを取り戻してくれる。

 

 ふっとフレアが息を吐いた。手持ちの剣は刃毀れしたり取り落としたりと、ずいぶんと少なくなっている。

 それ故か、最初の一撃を除けば初めて、フレアは炎の剣を手に取った。

 指で柄に触れて、反射的に放しそうになり、それを無理やりにでも掴む。

 炎を直に掴んでいるようなものなのだろう。手袋をしたところでほとんど意味は成さない。彼女の腕が刺青のように黒ずんでいるのはそのためだ。

 ヴィルマも同様に、氷の剣を手に取った。氷の塊に手を突っ込むような痛みに慣れる日が来ることはないのだろう。ただ、痛いことそのものに慣れることはできる。

 

「これでも様子見。後ですぐに仕舞って」

「分かってる」

 

 まだ金の獅子の体力は尽きない。けれど、かの獣から流れる血が有限の命を指し示しているようで、湧き上がる興奮が早鐘を打たせる。

 こういうときこそ視野が広がり、冷静になるのがヴィルマだ。懐疑的だった心はもう覚悟を決めた。後はどちらかが死ぬまで戦うのみだ。

 

 炎の剣が熾り、氷の剣が覚める。雷の獣が拳を握る。

 激闘が幕を開けた。

 



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第14話 闘魂断つは氷の剣

 

 日の出の頃に始まった人と獣との戦いは、日が高く昇ってもなお続いていた。

 戦場にはあちこちに息絶えた兵士や人のかたちを留めていない遺体、兵器や武器の残骸が転がっている。血煙が目に見えるようだった。

 濃い血の匂いは周辺に広がり、肉食竜や小動物まで引き寄せかねない程だったが、それにしては一帯は閑散としていた。

 実際、黒蛇の翼竜もそのほとんどが地上から高空に追いやられており、実際に死肉を啄めている個体は少ない。多くの生物を寄せ付けない空間がそこにはあった。

 

 いったい何が起こっているのか、その答えは明白だ。

 地上で繰り広げられている戦いは、黒蛇の翼竜が好む一方的な蹂躙ではない。

 面白くないとでもいう風にやや高度を落として喚いていた一頭が、今、空を突き抜ける雷の束に貫かれて墜ちていった。周りの翼竜たちは必死に羽ばたいて逃げ回る。

 近づくだけで巻き添えを食らいかねない、ただ遠くで傍観することしか叶わない。

 言葉を持つこともないが、彼らもまた、地上の激闘を見守る観測者と言えるのかもしれなかった。

 

 

 

 かの獣の咆哮を聞くのはこれで何度目だろうか。

 びりびりと周辺の空気を歪ませ、これでもかと鼓膜を揺らす。慣れたというよりも、耳が遠くなってきている感覚があった。

 これでも声量は弱まっているのだから恐ろしい。あのとき彼女が黒の獅子の口内にナイフを投げ込み、喉を切り裂いていなかったらどうなっていたことか。

 

 肩で息をして、ヴィルマは汗を拭った。日の上り方からしてまだ戦い始めてから一刻と過ぎていないのだろうが、既にだいぶ身体が重い。

 今生きているということ自体が奇跡的ではあるのだが、それは目的ではない。目的である獣は目の前で吼えていて、これを倒すか退かせない限りは、将来的な死は避けられそうもない。

 対する金の獅子は、未だ揺るぎない暴力を振るっていた。

 休みなく戦い続けて、傷つき、消耗していることは確かだ。確かなはずなのだが、力が弱まる気配だけは全く見えないのはどういうことか。

 きっと、かの獣は命の火が途切れるその瞬間まで全力で戦い続けるのだろう。相対する人は、延々とそれに付いていかなくてはならない。

 金の獅子を交代なしで相手し続けるなど、とても正気の沙汰とは思えなかった。

 

 つまり、ヴィルマと目の前の少女は、今まさに、これまでの常識を覆し続けていることになる。

 少なくともヴィルマの戦いの常識は、その何もかもが崩れ去りつつあった。

 

 金の獅子が跳躍する。その高さはもはや空と言える領域、かの獣自身の背丈よりも何倍も高い。

 前腕に比べれば後脚はやや見劣りするにも関わらず、軽く身構えただけでその跳躍だ。驚きを通り越して呆れてしまう。

 本来は空を飛ぶ竜を無理やり落とすために使われるのだろうその脚力は、今はヴィルマとフレアを叩き潰すためだけに振るわれた。

 

 身に纏った雷を一際迸らせ、自らを巨大な雷弾としてヴィルマたちの元へ高速で落ちてくる。雷の威力も凄まじいが、かの獣自身の質量を伴っているのが何よりの脅威だ。

 ヴィルマは空中で金の獅子が身を屈めるのを目で見て、後は地上のかの獣の影だけに注目して走った。

 見上げ続けていると回避が遅くなる。とにかく足を止めずに真っすぐに走ることがこの攻撃への対処法だ。

 ヴィルマのすぐ背後で地面に激突した雷弾は、まるで落雷のような音を響かせて、その衝撃でヴィルマの足をつんのめらせた。

 次の一歩を大きく踏み出し、半ば手を付きつつも何とか転倒を避ける。

 顔だけ振り返って見てみれば、ヴィルマを狙った金の獅子は、ヴィルマに背を向けるかたちで地面に降り立っていた。

 

 抜刀、身を翻す。耳鳴りと背中の痛みを押し退けて、無理やり体を反転させた。剣術などかなぐり捨てた、遠心力の身を乗せた力任せの剣が弧を描く。

 金の獅子が反応して振り向くよりも僅かに早く、ヴィルマの剣がその後ろ脚を斬った。

 

 ざっと、金色の毛が飛び散る。その毛は宙に舞ってしばらくするとたちまちその色を失い、黒い毛となって風に流されていく。

 血は流れていない。斬ったというより、掠った程度か。あのヴィルマの太刀筋ではいずれにせよ弾かれていただろうことを考えると、ある意味望ましい結果と言えるかもしれない。

 そんな一瞬の考察をも打ち切るように、ヴィルマは身を仰け反らせた。真っ赤に染まった腕が風音を立ててヴィルマの目前を横切っていく。

 いや、少しだけ掠ってしまったようだ。鼻の辺りがかっと熱くなって、何歩か後退って手で鼻の辺りを撫でる。

 深く裂けてしまったのだろう、その手にはべったりと血が付着していた。

 少し擦過しただけ、あるいは風圧だけでこれだ。まともに受ければ冗談抜きで首が飛ぶ。

 鼻が効かなくなった。息もしづらい。咄嗟に目を瞑っていてよかった。もし目をやられていたら、その数秒後に命があったかも怪しかった。

 

 口に鉄の匂いが広がって、鼻から口内へ滴る血で咽ないように気を付ける。

 金の獅子の追撃が一、二回で終わるはずもない。振るわれる拳のその何れもが、次は避けさせるものかという強い意志と殺意を伴っている。

 受け流すとか、躱すとかいう次元ではない。思わず頭を手で覆ってしゃがみこんでしまいたくなる程の殴打の嵐に、震える足に鞭打って逃げ惑うというのが正しい表現だ。

 地面を砕き割りながら殴打を続ける金の獅子に対し、ヴィルマの目前で赤髪の少女が駆けていった。

 ヴィルマと入れ替わるようなかたちであり、ヴィルマを追いかけていた金の獅子の瞳が逸れて彼女を映し出す。

 

 両腕を振り上げて立ち上がり、突貫してきたフレアを圧し潰そうとする。

 踏み止まったところで飛びついて潰すと言わんばかりの構えに対し、フレアはさらに踏み込んでいった。

 直後、猛然と倒れ込んだ金の獅子の肉体は、大地を揺らし、風圧で砂や小石を吹き飛ばす。

 果たしてその攻撃は、かの獣と地表との間にあった空気を押し潰すのみに留まった。

 

 恐らくかの獣の股下に滑り込んだのだろう。獅子の背後からフレアは飛び出してきた。毛の密度の薄い股関節をすれ違い様に切り裂くことも忘れない。

 半ば倒れ込むような体勢からすぐに立ち上がろうとしたフレアだが、金の獅子の後脚がぐっと撓むのを見て再び地面に伏せた。

 大きく後ろに飛び退く金の獅子の動作は、それ自体が飛びかかりと同じ威力を持っている。かの獣にとってはただの移動であったとしても、巻き込まれるわけにはいかない。

 フレアの頭上を金の獅子の体躯が通り過ぎていく。風圧でフレアの赤髪がばさばさと揺れた。

 

 かの獣が一旦飛び退いて距離を取った後には、多彩な行動の派生がある。

 ただ一つ言えるのは、少なくともこの獣は回り込んでかく乱するような真似をしないということだ。

 ブレスも選択肢の一つにあるが、今はかの獣にとっても負担の大きい技となった。先ほど放ったブレスの後に、何度も喀血していたのがその証拠だ。

 フレアから受けた口内の傷は致命傷からは程遠いのだろうが、雷の束を放つことで傷口が開いてしまうのだろう。

 あのブレスを諸刃の剣にしたというだけでも、フレアの功績は大きい。

 

 かくして、かの獣の判断は。ぐっと、その身を弓なりに撓ませた。

 力を溜めている。ヴィルマが警告のために声を発する前に、引き絞られた弦は解き放たれた。狙いは、フレアだ。

 もしこの瞬間に瞬きをしていたなら、それが命取りになっただろう。開けた距離は一足飛びで埋められて、その隆々とした肩から飛び込んで地面に激突する。

 

 全てが一秒足らずの出来事だ。狙われていたのがヴィルマだったなら、恐らく避けきれなかった。そもそも反応ができたかどうか怪しい。

 金の獅子も確殺のつもりだっただろう。地面を転がって飛び込みの勢いを殺し、受け身を取って鞠のように跳ねて体勢を立て直す。一撃の重さと動きの軽快さがまるで噛み合っていない。

 明確に削り取られた跡のある地表に、真っ赤な血でもぶちまけられていれば目論見通りだ。金の獅子の溜まりに溜まった鬱憤は、しかし、ここでも晴れることはなかった。

 

 伏せたままだったフレアは再び起き上がった。少しふらつきはしたものの、擦り傷以上の傷は負っていない様子だ。

 そこはどう見ても金の獅子が飛び込んで抉り取った場所なのだが、無事でいる以上、避け切っていることになる。

 人の足に土踏まずがあるように、かの獣と地表との隙間に体と四肢を滑り込ませたということか。

 それをするには、衝突の間際までかの獣を食い入るように見ていなくてはならないはずだが、つまり、それをやってのけたということなのだろう。

 

 ここまで暴れても捉えることができずにいる、それ自体がかの獣にとっては異常なことなのだろう。

 あの矮小な生物の小さな頭を食い千切るつもりで走り、貧弱な骨を粉砕するつもりで腕を振るっている。しかしその結果が伴わない。

 地団駄を踏むように拳で地面を叩く金の獅子に対し、フレアは荒い息をしながら再び身構えた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 やや離れた位置にいるヴィルマでも、フレアがひどく疲れている様子は見て取れる。しかし、それだけ疲労が溜まるのも仕方のないことだった。

 金の獅子がとにかくフレアを狙うのだ。ヴィルマが標的となるのはそのついでとも思えるほどに少なく、割合で言うなら七対三くらいは偏りがある。

 

 戦いの上手さで比較すれば、ヴィルマよりもフレアが強いのは間違いない。ただ、金の獅子は個人というよりも二人の連携に手を焼いている様子だった。

 まずは連携を崩すという観点では、より弱く仕留めやすそうなヴィルマをまずは集中して狙って落とすのが定石だろう。実際、走竜の群れや黒蛇の翼竜だってそうやって獲物を狩っている。

 フレアに執着するその戦い方は、やはりその満ち満ちる闘争の意欲が何よりも優先されているが故か。

 ただ、その偏りのおかげでヴィルマは命拾いしている。フレアが消耗しているのは言うまでもないが、仮に平等に狙われていれば今頃ヴィルマは亡き者になっているかもしれない。

 

 それにしても、こちら側は決め手に欠ける。

 金の獅子の猛攻を掻い潜るうち、ヴィルマはそう思うようになった。

 

 恐らく、これは本当にヴィルマの勘に過ぎないが。

 かの獣の片角をへし折ったあの爆弾くらいの威力をもう一度ぶつけることができれば、かの獣にかなりの深手を負わせられる予感がヴィルマにはあった。

 何度も己に言い聞かせているように、かの獣も相応に追い詰められている。

 何度も血を吐き、時折僅かにふらつく。肉を切らせて骨を断つという戦い方から、こちらの刃を明確に避けたり払ったりすることが多くなっている。

 無尽蔵の体力を持つと錯覚しそうになるのは、今もそうであるように、その赤熱した腕をはじめとした攻撃性だけは維持し続けているからだ。

 その代償として犠牲になっているものが必ずあるはずなのだ。生物の枠に収まる存在である限りは、必ず。

 

 かの獣の体力をここまで削ったのは、ヴィルマとフレアの奮闘ももちろんあるのだろう。

 しかし、それよりも前、ヴィルマの部隊による必死の抵抗も多分に含まれているだろうことは間違いない。

 恐らくだが、ヴィルマが気を失っている間にも、総撤退の命令に従いながらも、壊れかけの大弩を操り、弓矢を射かけ、刀剣や槍で足掻いた兵士たちがいたのだ。

 それらの大半は怒り荒ぶる獅子の拳によって薙ぎ払われたのだとしても、与えた傷は確実に獅子の身体に刻み込まれていった。

 そのときに失われた血が、今のかの獣の足取りを不確かなものにしている。浅いが夥しい数の傷が、その筋肉を膨れ上がらせる度に開いては血を流させている。

 

 削ることはできている。巌はもう崩れようとしているはずだ。だからこそ、もう一度の深手が欲しい。

 その一撃が、あまりにも遠い。

 

 今の時点でこちらが持ち得る武器は、炎の剣と氷の剣、そして刃毀れが目立ち始めた鉄製の剣くらいしかない。

 かの竜の得意な領域だろう近接の武器しかないのが、難しさを際立たせている。

 ヴィルマの部隊の兵士が遺した弓矢ならその辺に転がっているかもしれないが、それらはやはりかすり傷にしかならない。

 対竜兵器の大弩ならあるいはといったところだが、それらはほとんど全壊しているし、まだ使えるものが残っていたとして、装填から射出までの間にかの獣に潰されてしまうだろう。

 あるいは、後続しているというフレアの部隊に託すという手もあるが、それまでヴィルマたちが持ちこたえられるかと言えば、それは否だ。

 正直、二人とも全力を出しすぎている。特にフレアは今酸欠で倒れたとしてもなんら不思議ではない。

 

 そこまで考えを巡らせていたヴィルマだったが、ふと、全くそんな場合ではないのに、少しだけ笑ってしまった。

 一刻前、かの獣に対して思っていたことと言えば、死ぬ前に一矢報いる方法くらいのものだった。

 撃退すら考えもしていなかったのに、今は如何にしてかの獣を倒すかについて思考を巡らせている。

 我ながら調子に乗るものだ。その機運は全て、共に戦っている彼女が運んできたものではあるのだが。

 

 かの獣の攻勢は続いている。ヴィルマたちが主導権を握るような場面はただのひとつとしてなく、これからも覆ることはないだろう。

 数歩分の間合いを取ったフレアが肉薄しようとするも、かの獣はその場で勢いよく回転することで彼女を近づけまいとする。

 舞い上がった土埃に身を隠してヴィルマが駆け寄るが、その足音を聞き取ったか、ろくな狙いも定めずに拳を振り上げて二度三度と地面に叩きつける。

 一帯は泥沼というわけでもないのに、拳の半分が地表にめり込み、生々しい音と跡を残して引き抜かれた。

 地面の窪みは転倒や捻挫に繋がるため軽視できない。振るわれる拳そのものの威力からしても、剣の間合いに入るほど近づくことはできなかった。

 

 ヴィルマたちを近寄らせたくない。そんな意図を感じさせる牽制だ。

 これ以上傷を負いたくないという意志表示であれば良いのだが、二人の疲労を感じ取って戦いを長引かせようとしている線もあり得る。後者であればかなり厄介だ。

 

 攻めあぐねるヴィルマとフレアに対し、金の獅子はさらに奇策をもって追い打ちを仕掛けてきた。

 唐突に地面を掴む。いつかの地盤ごと捲り上げて放り投げる攻撃かとヴィルマたちは身構えたが、金の獅子はすぐに腕を持ち上げた。

 その手に握られているのは、強引に砕かれて細かな破片となった岩や小石だ。この時点で何をしてくるか悟り、二人はせめて目を守るべく片腕で顔を覆った。

 これを避けるというのは不可能に近い。金の獅子は赤熱した腕を大きく振りかぶり、力任せにその礫をばらまいた。

 

 土を使った目潰し。対人戦闘でも有効な手だが、尋常でない筋力を有する金の獅子がその手を使えば、恐ろしい攻撃に変貌する。

 礫のひとつひとつが弓矢とほとんど変わらない速度で放たれ、二人の元へ殺到する。衣服を貫き、肉にめり込む。針の筵に全身を押し付けられたようなものだ。

 

 突風を感じたかと思えば、ヴィルマの耳に先と似た痛みが走った。腕も、腹も、脚も立て続けに熱を発し、礫が服を貫通して肌を切り裂いていったことを知覚する。

 痛覚に溺れかけた頭が、逆にすっと冷えていく。一周回ったな、とヴィルマは感じた。

 怪我の種類にもよるが、その程度が度を越したとき、一時だけ痛みを忘れるときがある。ヴィルマがよく知る感覚だった。

 これでも、砂や土が多分に含まれているために威力は下がっているのだろう。

 河原などでこれをやられていたなら、身体に無数の風穴を開けられて死んでいただろうことは想像に難くない。

 

 多量出血の怖れがある。すぐに包帯などで止血したいところだが、片手間ですらそんな暇をかの獣が与えてくれるはずもない。

 目を覆っていた腕を外す。今の攻撃は、金の獅子の側に負担がほとんどない。追撃はすぐに来る。

 それに、はったりでも平気なふりをしなければ、学習したかの獅子がこの目潰しを連発してくるかもしれない。そうなれば詰みだ。

 

 自身の怪我よりも先に、ヴィルマはフレアの方を見た。

 彼女は金の獅子のブレスを封じた際、至近距離でその雷を受けているため、既にかなり装備が痛んでいる。

 それに、西シュレイドの軍の防具はお世辞にも質が高いとは言えないようで、この戦いの中でも着々と破れや断線が進んでるようだった。

 そんな状態で今の攻撃を浴びればどうなるか。──やはりだ。

 

 フレアの怪我の程度はヴィルマよりも重かった。血塗れと言っても過言ではない。

 その装備は最早防具の体を為していなかった。武器を留める帯と、少しばかり厚く編まれた急所の部位を除いては、そのほとんどが破けてしまっている。

 いくつかの礫はその肌を食い破り、生々しく突き刺さっている。この戦いで初めて、彼女は自らの意思に依らず膝を付いていた。

 かの獣が少し工夫を凝らすだけで、あの赤い腕は必殺の飛び道具にもなり得る。

 こちらは油断もミスもしていないのにここまで削られる。今に至っても力の差は圧倒的だった。

 

 フレアも目や耳は守ったようだが、身体が追いついてこないようだ。これまでならすぐにその場から離れるが、未だ動き出せないでいる。

 それを見逃す獣ではない。やはり金の獅子は、彼女を倒すことを何よりも優先して動いていた。

 

 前腕に力を籠める。後脚を屈めて力を溜める。肩から背にかけて迸る雷が、黄金の毛を介して腕へと伝い、殺意や気迫がかたちを成すかのように纏わりついた。

 吼える。これがかの獣の繰り出せる全力だ。その眼は最後までフレアから目を逸らさず、金の獅子は跳躍した。

 今度は下手な小細工も入れない。かの獣の最大の信頼は結局、その巨腕以外になかった。

 叩きつける。血が湯立つほどに熱く、鋼のように硬く、その源泉である雷をも纏った腕を、直下の地面へ。

 避ける暇は与えない。その場で跳んで両手を叩きつけるのみ。

 最早、肉片すらも残すものか。

 

 ──地面に蹲るフレアと空から降ってくる金の獅子との間に、ヴィルマが滑り込んだ。

 

 突き飛ばす、抱え込む。刹那の後にそれは地表に激突した。

 

「が……ッ!」

 

 雷に打たれたかのような。

 全身をつんざくような衝撃が走り、吹き飛ばされたヴィルマは悲鳴を上げた。

 

「ぁ、かッ……」

 

 ごろごろと地面を転がる。声が出ない。痛みは飛んでしまっているが、背中が抉り取られてしまったかのような浮遊感を覚える。

 視界が明滅する。高音の耳鳴りが響いている。重い痺れが全身へと広がっていき、しばらく動くことすらできなかった。

 今のは間一髪で避けたと言えるのか。そうであると信じたい。首もまともに動かないので確認ができない。

 直接あの腕に触れたわけでもないのにこの威力か。もはや爆弾と相違ないではないか。

 思考すらままならない中で、気絶だけはするものかとヴィルマは必死に意識を繋いでいた。

 

 この攻撃は流石の金の獅子にも負担がかかるようで、地面にめり込んだ腕を持ち上げるのに苦労している様子だった。

 しかし、かの獣の視線は変わらずこちらへ向けられている。寸前に割り込んできたヴィルマに対する怒りを滾らせて、腕を引きずってでもこちらへ歩んできそうな勢いだ。

 自分の意思に応じない身体にヴィルマが焦りを抱いていたその時、唐突にヴィルマの開いた口に何かが突っ込まれた。

 

 これは、自分ではない誰かの指。フレアだ。そうだ、フレアは無事なのか。

 感触を探ると、彼女はまだヴィルマの腕の中にいた。抱え込まれたままで何かをしていたようだ。

 少なくとも先の大技から彼女を庇うことはできたらしい。それに安堵するより先に、フレアが声を発した。

 

「サミがくれた竜人族の薬。噛んで、飲み込んで。すぐに動けるようになる」

 

 ヴィルマの口から指を引き抜いたフレアの指示に素直に従う。口の中に置かれた丸薬を噛み潰し、味など気にせずに飲み込んだ。

 フレアがヴィルマの腰に手を回す。ヴィルマの氷の剣が落とされてないか、触れて確かめたようだ。

 幸運にも、肩から提げた頑丈な革帯は千切れ飛んではいなかった。それ以外の、装備の背中部分は雷によって焼け焦げてしまったようだが、肉が削げ落ちていないなら幸運の範囲内だろう。

 氷の剣とヴィルマの無事を同時に確かめたフレアは、ヴィルマの胸元で再び呟いた。

 

「決めよう。もう持たない」

「……ああ」

 

 フレアがヴィルマのもとで立ち上がる。そのままヴィルマの手を取って引っ張り上げた。

 起こされたところで再び崩れ落ちるかと思われたヴィルマだが、足取りは覚束ないながらもそのまま立ち上がることができた。

 痛覚は遠く、感覚は鈍く、身体の内が熱を持った感じがする。治癒というより気付けの類だろうが、よく効いている。少なくとも今はこれで良いのだ。

 

 おかげで、今、振るわれた金の獅子の拳から逃れることができた。

 人の胴より遥かに太い腕が、先ほどまで二人が横たわっていた地面を砕く。

 ヴィルマは氷の剣を手に取った。柄から逆流する冷気は、感覚の鈍っている今では少しばかり苦痛が減じているように思える。

 目視はしていないものの、フレアも同様に炎の剣を手に取っただろう。

 きっと今後、二人の側か、金の獅子か、どちらかが倒れるまでもう手放すことはない。

 

 

 

 疲労はすぐに訪れた。やはりフレアを庇ったあのときの傷が響いているようだ。ヴィルマの背中は今、ひどい有様になっているのだろう。

 もともと無理をしていた身体だ。目の前の獣のように誤魔化すことはできず、怪我の類は忍耐したところでそう長く持ちこたえられるものでもない。

 限界を引き延ばすような真似は極力避けたい。喉が張り付くような渇きと痛みを覚えながら、ヴィルマは目の前の金の獅子を見た。

 

 いや、その金色は。その雷は、今まさに黒へと変じつつある。

 まだ瀕死というわけではない。その力は完全に失われるには至っておらず、以前として強靭な拳を振るい続けている。

 ただ、あの異常なまでの筋肉の硬化や身に纏う雷は決して無制限ではなかったのだ。そうでなければ、そもそも黒の獅子の状態を持つ理由がないから。

 長年竜と戦い続けたヴィルマとフレアは、その点の見解は一致していた。

 だからこそ、その燃え滾る怒りが続く限り存分に暴れさせ、自然にあの状態が解けるまで待ったのだ。

 金の獅子が自らの意思で、あるいは意図せずとも生物の限界として己の雷を手放すとき、しばらくはどうやっても雷を扱えなくなるはずだ。

 その瞬間を、狙う。

 

 金の獅子は己の身体を掻きむしっていた。ヴィルマとフレアを亡き者にしていないのに、自らの雷が解けることが許せないのだろう。

 しかし、既に相当の無茶をして長引かせていたであろう金色は、抗いようもなく波を引くように引いていった。

 今思えば、この戦場にフレアが駆け付けて戦いが本格化してから今に至るまで、延々とかの獣は雷を纏っていた。恐らく、ヴィルマが気絶していた時間よりも長い。

 

 これほどまでに長く争い続けた経験が、ひょっとするとかの獣にはないのかもしれない。それは、かの獣があまりに強すぎるが故に。

 白い息を吐きながら、ヴィルマは嗤った。

 もしそうならば、ひとつの戦いを長引かせるという点でのみ、こちらの方が経験豊富ということか。

 何せ、鋼の龍との決戦では、今この場に転がっている対竜兵器の十倍近い数を動員して、半日に渡って延々と争い続けたのだから。

 

 駆ける。もう駆け引きは終わった。こちらが倒れる前に、力を振り絞れるうちに、走るのだ。

 途中でフレアが合流した。かの獣の正面から、二人して愚直なまでに真っすぐ走る。互いの手には、氷の長剣と、炎の短剣が握られている。

 

 当然、黒の獅子は迎え撃つことを選んだ。ここで迎撃を選ばないのはもはや己ではないのだとでもいう風に。

 雷を纏えなくなったとしても、以前として人ひとりを殺すには十分すぎる力を持っている。

 これまでに軽く数百回は振るわれただろうその拳が、ヴィルマたちを屠るべく力を籠める。

 ヴィルマたちは剣で受ける構えのようだ。もしくは、その刃で拳ごと斬るつもりか。

 

 黒の獅子は賢く、人の使う道具というものを感覚的に理解しつつあった。二人の扱うその剣は確かに数少ない脅威足り得るが、どちらもこの腕で受けることができる。

 特にヴィルマの剣とは一度打ち合っているし、実際に手で握りもした。もう驚くこともない。

 雷なぞ纏わずとも、十分に受けきれる。いくらかの肉はくれてやってもいい。

 代わりに今度こそ、今度こそ、その唯一とでも言うべき切札を封じた上で殺すのだ。強き者の蹂躙を、蹂躙のままに終えるのだ。

 

 獅子の拳が襲い掛かる。氷の剣が振り下ろされ、炎の剣が突き出される。

 瞬きの後、それらは激しくぶつかり合う────はずだった。

 

 ばんっ、と、炸裂音がその場に響き渡った。

 これまでの戦いでは発されたことのない音だった。それと同時に、爆弾ほどではないものの、小規模な爆発が黒の獅子の拳の先で弾ける。

 かの獣は反射的に手を引いた。対竜兵団と交戦していたときに受けた爆弾の爆発が脳裏によぎったのだろう。

 もし、咄嗟の反応を捻じ曲げて強引に拳を突き出していたなら、その後の展開は大きく変わっていたかもしれない。

 

 どつ、と。

 

 二本足で立ち上がり、殴りかかる体勢で僅かに身を逸らしていた黒の獅子が、その体制のままびくりとその身を震わせた。

 幾多の竜と戦ってきたであろう黒の獅子にとって、最も狙われにくく、それ故に最も守りの弱い部位。

 漆黒の毛が最も薄い腹に、これまでほとんど振るわれることなく、切れ味を保っていた氷の剣が深々と突き刺さっていた。

 

 明らかな深手だ。けれど、黒の獅子は氷の剣と、それを突き刺したヴィルマを見ることはしなかった。

 かの獣は頭上を見ている。ソレに対処しなければいけないことは分かっているが、今、己の腹に氷の剣が突き刺さった衝撃で、動きが緩慢になる。

 今、炎の剣を逆手に持って飛びかかってくるフレアに対処しなければならないのに──。

 

「ああああぁぁッ!!」

 

 氷の剣と炎の剣を強く打ち合わせることで起こる爆発。いつかのヴィルマとフレアを吹き飛ばした剣戟。

 黒の獅子どころか、二人以外の誰も知らない特異な反応の爆風を受け、フレアの身体は宙に舞う。

 

 そして、渾身の力を込めて。

 かの獣の爛々と光る眼を、炎の剣で切り裂いた。

 

 炎の軌跡が弧を描く。振り抜かれても血飛沫は舞わない。

 落下したフレアはごろごろと地面を転がった。無茶をした反動か、すぐに起き上がることができず、苦しそうに息をしながら黒の獅子を睨む。

 黒の獅子は、まるで時が止まったかのように、両腕を振り上げた体勢のまま微動だにしなかった。

 

 黒の獅子の腹に突き刺さっていた氷の剣をヴィルマが引き抜く。

 氷と霜に上塗りされたその傷からは、やはりすぐに血は噴き出ず、しかし、かの獣の体温で少しずつ溶け始めたことで、徐々に決壊していく堰のように血を流し始めた。

 剣を引き抜いたヴィルマが二歩、三歩と後退ったところで、ようやくかの獣の手足が動き始める。

 

 黒の獅子の片方の手は、ヴィルマに貫かれた腹へ。もう片方の手は、その顔面に当てられた。

 斬撃の直前、反射的に閉じられた瞼は、その厚い皮膚により竜の鱗や炎から目を守る。

 けれど、龍の発する炎は。使用者の腕すら焼き焦がす灰燼の剣による斬撃まで、防ぎきることはできなかったようだ。

 フレアの斬撃は黒の獅子の両眼と、それを仕舞う頭蓋までも、一文字に焼き切っていた。

 

 四つ足になる。その場で何度もよろめく。痛手を負ったことによる怒りは、点火することなく霧散していった。

 呻き声をあげ、黒の獅子はあてもなく歩き出した。腹の傷を庇って、足を引きずりながら、この戦場から離れようとする。

 人が歩くほどの速さでゆらゆらと歩く黒の獅子の目の前に、ヴィルマが立った。

 

 ヴィルマの手には氷の剣が握られている。その腕はかつてと同じように霜で覆われている。

 ヴィルマの足音に黒の獅子は気付いていただろうが、最早、片腕を振り払うことすら、かの獣はできなかった。

 ヴィルマの兵士たちがどんなに手を尽くしても届かず、フレアですら一瞬触れるだけで精一杯だったかの獣の頭部が、無防備にヴィルマの頭上に晒されている。

 

 ヴィルマは氷の剣を振り被った。

 

 既に罅割れていた片角が、重い音を立てて地面に転がった。

 

 

 

 氷の剣の柄から手を離すのは、やはり難儀する作業だった。

 先ほどと同じように、痛覚以外の感覚と握力がほとんど失われた手から剣を引き剥がしていく。皮膚は氷に癒着していて、掌の皮はほとんど捲れてしまったかもしれない。

 氷の剣の刀身は血に汚れることがなかった。返り血を浴びたところで、その全てを凍て付かせて膜のように剥がれ落ちていくのだろう。

 

 フレアの元へと歩く。ふらふらと、気を抜くとそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

 フレアは寝転んだ体勢のまま、ただ息をしていた。精魂尽き果てたという様子だ。手放された炎の剣が、ちりちりと火花を発していた。

 ヴィルマはフレアの傍に膝を付き、手を伸ばした。

 

「立てるか?」

「うん。……あれはもう死んだ?」

「ああ。もう息はしてない」

 

 フレアが伸ばした手を取る。そのまま、フレアの身を起こした。

 自分で起きれなくはなかったのだろうが、それすら億劫なのだろう。素直にヴィルマの手を取って起こしてもらったフレアはしかし、二人ともそのまま手を離さなかった。

 

「冷たい」「温かいな」

 

 ほとんど無意識に零れ出た言葉だったのだろう。ヴィルマとフレアは互いの腕を見る。

 互いの手の様相とその温度は、あまりにも対照的だった。一方は赤黒く、炭と見紛う程に灼けていて、一方は青白く、氷像と見紛う程に凍てついている。

 あまりに痛々しい有様に、思わず両手を重ね合わせた。

 この焼け焦げた手が熱を与えられるなら、この凍り付いた手が熱を奪えるのなら、醜いこの手を差し出す意味があるのかもしれないと思った。

 

「ありがとう」

 

 フレアが顔を上げると、ヴィルマが俯いているのが見えた。僅かに震えている肩が、彼が何かを堪えていることを物語っていた。

 感じ取れるか否かという程の弱々しい力でフレアの手を握る。今、ヴィルマが込められる力はそれが全てだった。

 はっ、はっ、と。息を整えるフレアの呼吸の音が、激闘の余韻として沈黙を埋めている。

 

「ありがとう。本当にありがとう。君のおかげで、俺は……」

「…………」

 

 ヴィルマの言葉にフレアは何も返さず、ゆっくりと辺りの景色を見渡した。

 ほとんどの兵士が退避を終えただろう戦場には、兵器の残骸と逃げ遅れた兵士の遺体が散乱していた。

 空中で喚いていた黒い蛇の竜はいつの間にかその数を減らし、数匹だけが未だ高空を舞っている。

 きっと、この人はこれからが大変なんだろうな、とフレアは思った。仲間の一人ひとりを大切にする人だがら。

 

 風が吹く。傷跡が染みる。窪みと罅割れだらけの広場に、二人だけがいる。

 彼は今、どのような気持ちでフレアに言葉をかけているのだろう。

 

 かすかな力で握られた手を、それよりも少しだけ強く握り返した。

 



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第四章 識字/言葉を知ること
第15話 追悼する者たちへ


 

 

『随分と月日が空いてしまったが、無事でいるだろうか。

 怪我の治療や公務に追われていて、なかなか手紙を書く時間を取れなかった。

 

 まずは、あのときも伝えたが、戦場に駆け付けてくれてありがとう。君が来ていなかったら、私は間違いなく死んでいただろう。

 とは言っても、君は私を殺しに来たのだから、話がやや矛盾しているのかもしれないが……。

 

 「あなたは金の獅子に殺された。これだけの被害が出てるんだから、当然そうなる」と話されたとき、思わず笑ってしまってすまなかった。もちろん、その通りだと思う。

 実際、君の提案は実に的を射ていた。

 後から着いた君の部隊がすぐに退いていったのは、東シュレイドの対竜兵団が壊滅したと彼らが認識したからだろう? 

 

 金の獅子は倒れておらず、手負いのまま周辺を彷徨っている。幾多の兵士の死体が肉食竜を呼び込み、先行した君は大怪我を負った。

 そんな話を聞けば、部隊を率いるのが私だったとしても二の足を踏む。その状況でさらに進むことは、決して勇気ある行動などではないからだ。

 満身創痍で倒れそうな君が話したからこそ、現場を見ずとも疑いようのない話になっていく。実際、死臭くらいはそちらに漂っていたかもしれないしな。

 

 後は君の国の王室が、私が死んだという話を信じたか否かが気がかりだ。君が疑いの目を向けられていないか心配なんだが、どうだろうか。

 この話が検閲に引っかかってしまったら間抜けもいいところだが……。

 運び屋は今までそういう探りには遭ったことがないと言っていたから、両国の関係が悪化しないことを祈るばかりだ。

 

 さて、こちらの対竜兵団の現状もいくつか記そう。自分の中での整理も兼ねて。

 まず、ほぼ全滅した兵団に対する国の反応について……結論から言えば、お咎めなしだ。

 今の立場から退く指示が出てもおかしくないと思っていたし、そうなった場合はどうしたものかと考えていたが、何の処罰も下されないとは思わなかった。

 

 どうして国の上層部や議会がこのような判断を下したのか。

 それは、あの黒の獅子の素材が大層な値で取引されたからだ。

 

 かの獣の毛皮は全体的にかなり傷ついていたはずだが、それでも宝石のような漆黒の艶と丈夫さが高貴な人々の目を引いたらしい。

 既存の織物の技術では裁断すらできなかっただろうに、職人が本気を出したのか、あれらは着物や羽織、絨毯などに生まれ変わった。

 それに、どうやら先の戦いの話に尾ひれがついて広まっているようで、英雄がその命と引き換えに倒した悪魔の毛皮だとか、そういう話を聞いている。

 故に、所持者の権威や格を示すのにうってつけの品物になったとかで、値段は吊り上がりに吊り上がり、市民には一生かかっても手に入らない法外な額になった。

 折れたあの角も同じだ。

 あれはとても加工できるものではないからそのまま市場に出ていったが、やはり凄まじい競争の果てに両角とも豪商が手に入れていた。屋敷にでも飾るつもりなのだろう。

 

 この一件で出回った資源の多くは商人の手に渡っただろうが、もちろん、提供元である我々も見返りを得ることができた。

 実際、このような外の世界の未知の素材を提供できる者は現状では対竜兵団しかいない。むやみに蔑ろにはできないという理屈だ。

 私が死んだという噂話はまあ、西シュレイド側で君に広めてもらった話と合致して都合が良いので、特に咎めたりはしていない。

 けれど、次はもっと良い状態で、なるべく傷つけずに頼むと商人に言われたときには、笑みが引きつってしまうのを抑えられなかった。

 気楽に「次」を期待されると、なんだか気が遠くなってくる。やはり、感覚の隔たりは大きいな。

 

 そしてもうひとつ、国からの処罰がなかった理由がある。

 あの戦いで死んだ兵士が少なかったからだ。

 いや、これは直接の理由ではないな。あの戦いで破壊された対竜兵器が少なかったからだ。

 

 あの戦いでは百人を優に超す人々が死んだ。いつかの鋼の龍とやり合ったときよりも遥かに多い数だ。

 しかし、国からしてみれば、あまり気になる数字ではないようだ。その程度であればすぐに再編できるだろうとまで言われてしまった。

 

 たしかに、当初の作戦は黒蛇の翼竜の掃討のみだったから、戦力を抑えて編成した部隊であったことは間違いない。

 ただ、それでも対竜兵団としては全く無視できる犠牲ではなかった。正直、大量の兵器が破壊されるよりもよほど痛い。

 

 対竜兵団はとにかく専門性と経験が問われる。竜を前に立ち竦んでしまったら多くの仲間たちの足並みを乱すし、過酷な環境で兵器を使いこなせないといけない。

 だから否応なく、兵士一人ひとりの質は高く、育成できる数は絞られることになる。一人の新人を死なせずに一人前まで育てるのは大変な手間がかかる。

 兵器は資材と金さえあればなんとかできることが多いが、人材は如何ともしがたい。一般の軍隊の兵士からの転属も難しいしな。むしろ早死にさせてしまう。

 

 この観点が、国とはどうやら真逆のようだ。彼らは兵器を作るためにかかる直接的な金で物事を測っている。

 あの戦いに持ち込まれた兵器がそもそも少なく、死んだ兵士の数も千人以下ならば、鋼の龍の損害よりよほどまし、そういう見方なのだと思う。

 自分が不利になる主張をわざわざ言うまでもないので黙っていたが、自分が彼らの地位まで上り詰めなかったのは、むしろよかったことなのかもしれない。

 

 兵士たちの遺品は、あのあと別部隊が遠征に出て回収してきた。

 最低限、装備やタグなどを外して別の場所に集めておいてよかった。遺体はほとんど残っていなかったそうだ。

 肉食竜や大型昆虫、蟲や鳥などが食べ尽くしたのだろう。あれだけ酷かった死臭もほとんど無かったというのだから驚きだ。

 

 当時は黒の獅子の亡骸の運搬を優先したからな。兵士の遺品回収は後回しにせざるを得なかった。

 生き残った兵士たちもほとんどが負傷していて、街道を行く商隊に応援を募っても、何かを切り捨てるしかない状況だった。

 為政者の心苦しいところだ。仲間の死を悼む兵士たちは憤りを隠せなかったし、たとえ心情が汲み取れたとしても、意見を曲げることはできなかった。

 

 ただ、本当に頑張らないといけなかったのは、リーヴェルに帰ってきてからだ。

 対竜兵団の兵士たちは、ほとんどがリーヴェルの出身だ。外から出稼ぎで来ている兵士はそう多くない。

 つまり、リーヴェルの中だけで相当数の遺族が生まれたことになる。その人々に向き合う義務があった。

 あの背中の怪我に、腕の凍傷だ。帰途ではずっと熱に魘されていたし、街に帰った頃にはほとんど病人だったろうが、それを理由に休むわけにもいかない。

 

 もちろん、悲嘆に暮れる遺族たちが向ける怒りは相当なものだった。遺品だけで遺体は回収しないと予め告げたとき、暴動が起こりかけたほどだ。

 国に正式に報告するよりも前に、この場で領主の座から引きずり降ろされる未来もあったのだろうな。

 

 この窮地は一人では到底乗り越えられなかった。私一人では黒の獅子に手も足も出なかったように。

 膨れ上がる悲しみと怒りを抑えてくれたのは、私が知らない間に都市の内で繋がっていた、戦死者の遺族の互助組織だった。

 

 聞くところによれば、その組織は十年以上前から小規模ながら活動していて、ここ数年でよく知られるようになったそうだ。

 対竜兵団はどうしても働き盛りの男が多くなりがちだ。そんな彼らが戦死したり重い障害を負って引退したりすれば、残された家族の負担はとても大きくなる。

 リーヴェルとしてもある程度の補償はしてきたが、特に心の部分までは面倒を見ることができない。その組織は、この心の欠落を補うために活動をしていた。

 戦死者の遺族や引退者の孤立を防ぐために、互いに連絡を取り合って、慰め合いだろうと、愚痴の言い合いだろうと、とにかく関係者の話を聞いている。

 今回の騒ぎで、この組織が日の目を浴びた。私などよりよっぽど人の心に寄り添うことに長けている。

 彼らが根回しをして、話し合いを通じて不安を抑え、代表者を立てて兵団と交渉することまでやってくれたんだ。本当に頭が上がらない。

 

 組織の代表者はかつて、冬の遠征で人呑み鮫と戦って亡くなった兵士の肉親だった。私と面識のある人物だ。

 その兵士が亡くなったときには取り乱していた彼女が、まさか巡り巡って私を助けることになろうとは。

 彼女は、自分が表立って出てくることはそう何度もあってはならないと話していた。それに頷き返すことの重さを、よくよく忘れないようにしたいと思う。

 

 黒の獅子を巡る騒動はこれで一応の一段落を迎えた。

 その後は集団の葬儀を執り行ったり、先に言った国への説明のために首都へと出向いたり、自分の怪我の回復に努めたりと、ばたばたとした日々が今に至るまで続いている。

 この間、大掛かりな遠征が必要な事態が訪れなかったのは幸運だった。

 竜や獣の活動は控えめだったし、黒蛇の翼竜もあれ以来は見かけることもなくなっている。

 もしかすると、黒の獅子の影響もあったのかもしれない。あの獣は大型の竜どころか、古の龍すらあの力だけでねじ伏せてしまいそうだ。

 

 ここまで長々と自分の話ばかりしてしまった。次は、他愛もない話ができるといいんだが。

 もしよければ、君の近況を教えてもらえると嬉しい。

 ひどい火傷を負っていたようだから、少し心配だ。無事に治っていたら良いのだが。

 それに、西シュレイドは無茶な命令を君に下しがちなようだから、怪我が治りきらない内にまた遠出するような事態になっていないことを祈るばかりだ。

 

 次は冬を越して、また春の頃になるだろう。

 君がまた返事をくれる気があるのなら、それを受け取れることをとても楽しみにしている』

 

 

 

『こういうときにはいつもお疲れさまって言えばいい? 

 あなたはいつも忙しそうですね。

 考えることもたくさんありそう。

 私は、命令がなかったら診りょう所で寝ているか、一緒にいるアイルーの手伝いをしています。

 

 あなたの手紙に書かれていた、黒い()()のあとのこと。

 私も、国からは何も言われませんでした。

 どうしてあなたの首とか持ってこなかったのかって言われたけど、黒い()()のことでそれどころじゃなかったって言ったら、納得してくれたのかも。

 それよりも、黒い()()が金色になったことについてたくさん聞かれた。今まで竜とか獣とかについてはそんなに聞かれなかったから、少し不思議です。

 

 私の怪我はいつものことです。

 これよりひどい怪我をしたこともたくさんあったから、気にしなくて大丈夫。

 手だけ、爪がはがれたりして少し大変だった。でも、今は前と同じように剣を持てます。

 

 あなたは百人の仲間が死んでも、やっぱりその一人ひとりを覚えてますか? 

 

 私の国では、いろいろな街で行き場を無くした人たちが竜のとうばつたいに入ります。

 私より小さな子どもから、おじいさんのような人まで。どれいの人たちも多いです。

 辺きょうの異民族もおおかた取り込んでしまったから、兵士だったり、それを目指していた人たちが余っている、とそばにいるアイルーが話していますが、私にはよく分かりません。

 竜を殺すだけでお金がもらえるので、難しいことはありません。毎回、たくさんの人が集まります。

 

 訓練はしません。防具もほとんど渡されないので、みんな薄衣だけです。剣と盾だけが渡されるので、けんかで死ぬ人も多い。

 私にとっては、一回のえんせいで百人が死ぬことはよくあることです。おそうしきなんてしないし、お墓もないです。

 遺品も、量が多すぎて誰が誰のか分かりません。持って帰ってこなくても、そのことで怒る人も見たことがない。

 死にすぎて人が少なくなることはあっても、すぐにまた国中から集まります。

 みんな、このことに慣れているんだと思います。

 

 私は街に帰ってきてから、二回くらいにんむに行きました。

 一回はヒンメルンの山のふもとで、どうくつに入って帰ってこない人が多いから、何かいないか探してこいって命令でした。

 何十人の人たちと一緒に探したけど、何日もかけても何も見つかりませんでした。

 途中で何人かいなくなったので、何かがいるのはまちがいなさそうだけど。

 もしかしたら、また同じ任務で探しに行くことがあるかもしれません。

 

 もうひとつは、てっこうせきを掘りに行く人たちのごえいをしろって命令でした。

 私たちのもつ剣のもとになるそうです。辺きょうのどうくつにたくさんあるらしい。

 このにんむは思ってたより簡単でした。どうくつにすんでいた肉食竜を殺すだけです。

 こういう命令ばかりだったらいいのにと思います。

 

 たくさん話を書いて疲れました。手紙を運ぶアイルーにたくさんマタタビを上げてください』

 

 

 

「サミ、為政者(いせいしゃ)ってどういう意味?」

「実際に政治をする人……言い換えるにゃ、つまりこの街の偉い人と同じようなものにゃ。税金の重さとか、街の決まりとかを決めてるにゃ」

「議会って?」

「偉い人同士の話し合いのことにゃー。あっちの国は王様がなんでも決めるって仕組みじゃにゃいみたいにゃね」

 

 西シュレイドの城塞都市ヴェルド。その郊外にひしめく土くれの居住区の一室で、赤髪の少女とその付添いのアイルーが話をしていた。

 ふむ、とひとしきり考えて、フレアはまた皮紙にがりがりと文字を書き込んでいく。質問に答えてくれたサミに対するお礼の言葉も、どこか生返事のようだった。

 筆の持ち方や姿勢は拙さを感じさせるものだったが、つい半年ほど前までは床に皮紙を敷いてお絵描きをするように書いていたのだ。

 それが、粗末ながら机を手に入れ、丸太の端材を椅子にして座って書いている。これだけでも驚くべき変化だった。

 

 加えて、サミに対する質問攻めだ。よく飽きたりしないものだとサミは思う。

 これまでは分からない言い回しや単語は大方無視してサミの読み聞かせを聞いていたのだが、独力で手紙を読み始めるようになってからは、書いてあることの解読に熱が入るようになっている。

 まるで学び舎に通い始めた人の子どものようだ。これまで機会に恵まれなかっただけだったとしても、フレアはもうそのような年齢ではないはずなのだが。

 とりあえずサミは、隣国で難解な文章を書き綴っては、フレアの質問攻めを引き起こす原因になっているヴィルマ氏に内心で悪口を言うことにした。

 

「…………」

 

 サミにはもう一つ、気になっていることがある。

 サミは顔も知らないヴィルマ氏がどうにも好きになれないのだが、目の前の彼女はどうやら違うようなのだ。

 

 東西シュレイドの国境付近で起こった黒の獅子の事件について、ヴェルドの王室から命令が下ったとき、フレアは特に動揺もせず、普段通りに準備をして出発していった。

 あのときには既に、任務を律義に完遂するつもりはなく、ヴィルマの死をごまかす算段をつけていたのかもしれない。

 

 フレアの帰還後、サミは本人から事の顛末を直接聞いていたし、彼女は隠し事をするような性格ではないため、語られていないこともないように思える。

 しかし、この二度目の邂逅と共闘を経て、フレアという人となりに、彼女でも説明のできない変化が起こっているような気がしてならなかった。

 

 手紙を書く筆の音が止まった。サミは彼女の方を見る。

 フレアが自身の腕を見ていた。

 幾重にも巻かれていた包帯はようやく解けて、煤けて黒ずんだ素肌を晒している。

 彼女が任務に出て、炎の剣を手に取りざるを得ない状況に陥り、その柄を握るたびに、彼女の腕の黒ずみは濃くなっていった。

 皮膚は罅割れて硬くなり、皺が寄って角ばっている。その手だけが彼女を置き去りにして何十年と年を取ったかのようだ。

 

 感覚も歪なものになっているのだろう。筆が上手く握れないのもそのためだ。

 彼女が自身の腕を見る仕草は、今に始まったことではないのだが。

 かつてはほとんど感情を読み取れなかったその行為が、今は何かしらの思いを宿しているようにサミには感じられた。

 その理由を聞くのはなんとなく憚られて、サミは静かに毛づくろいをして、フレアと居場所を共有することを優先した。

 

 変化のきっかけは唐突に訪れて、一度起こった流れは止められないものだ。

 どこかの本に書いてあって、そんなものだろうかと首を傾げた言葉が、今になってサミの記憶から呼び起こされていた。

 



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第16話 傍観する者たちへ

 

 

 林道に立ち入ったときには疎らに降るくらいだった雪は、歩いていくうちに少しずつ強まり、やがて遠くの景色を白で覆い隠すまでになっていた。

 葉を落とした木々は雪をそのまま地表へ落とし、目に見えて増えた積雪は、道行くアイルーの肩の辺りまで達しつつあった。四足歩行で走ろうものなら、すぐに雪に埋もれてしまうだろう。

 

 クラフタは雪道を黙々と歩いていた。

 アイルーの体毛を以てすればそこまで厳しく感じる寒さでもないのだが、単純に雪に足を取られて歩きにくい。

 背中に背負っている、手紙や食糧の入った鞄もクラフタの歩みを重くする要因の一つだが、これを手放すわけにはいかない。

 今日の内に目的地に辿り着きたい、とクラフタは考えていた。雪洞を掘って休むのも手だが、このまま吹雪にでもなれば行程がさらに遅れてしまう。

 

 ここはクラフタも足を運んだことのない土地だった。東シュレイドの北東、ヒンメルン山脈が途切れて、さらに北の峰々が聳えるまでに広がる丘陵地帯だ。

 人族はヒンメルン山脈の西側に分布しているため、この地域はほとんど人がいない。

 手紙の運び屋であるクラフタにとってはほとんど行く意味のない地域かもしれないが、別に当てもなく来たわけでもなくては、遭難でもない。事情があるから足を運んでいるのだ。

 

 こういうときばかりは、アイルーよりも背の高い人族を羨ましく感じる、などと、そう思うのはほんの僅かだ。代替手段はいくらでもある。

 適当な枯れ木に目を付けたクラフタは、木の根元に鞄を置き、幹に爪を立ててするすると木に登った。うっかり服を破いてしまわないように気を付ける。

 木の上から見渡せば、視界は格段に開ける。

 

 雪に紛れがちな景色に対してクラフタは目を眇めて遠くを見ていたが、やがてその眼差しが一点に向けられ、ほっとしたような息をついた。

 思っていたよりも早くに見つかった。良い方面の誤算であれば大歓迎だ。

 クラフタが見つめていた先には、星のように瞬く赤い光、連なる篝火が見えた。目を凝らせば、櫓のような建造物や、宙にはためく旗もぼんやりと見えたかもしれない。

 そこがクラフタの目的地だ。普段は疎らに小さな集落があるだけの雪原に、前触れもなく現れたその拠点は、ある人物が保有する軍隊の象徴とも言えるかもしれない。

 

 ヴィルマ率いる対竜兵団の野営地まで、あと少しだ。

 

 

 

「会議中に失礼いたします。ヴィルマ殿へ客人がいらしております」

「客人? 用向きは?」

「獣人族です。封書を届けに来たとのことですが……」

「おお、彼か。分かった。軍議を終えたら呼ぶから、建物の中で休ませてやってくれ」

「承知しました」

 

 木で組まれた、だだっ広い平屋のような建物。その一室で仲間と共に地図を囲んで話し合いをしていたヴィルマは、軍議の後の雑談は参加できそうにないと周囲の面々に詫びた。

 半刻ほどが過ぎて、隊長格の兵士たちが部屋を出ていくと、入れ替わるようにして一匹のアイルーが伝令兵に連れられてヴィルマと対面した。

 

「遠路はるばるご苦労様だ、クラフタ。ここまで足を運んでくれるとは思わなかったが、何か急ぎの用事があるのか?」

「いえ。いつも通る村で、旦那様の部隊が近場に野営しているという話を聞いたので、手紙だけでも届けようかと」

「気を利かせてくれたんだな。ありがとう。道中の集落は特に変わりなかったか?」

「はい。竜や獣に襲われたという話も特には」

 

 雑談を交えながら、クラフタは鞄から取り出した手紙をヴィルマへと差し出した。

 見た目は質素なもので、封書といえばその通りなのだが、中身は公的でもなんでもないヴィルマの私事だ。

 この寒さで糊は固まってしまっていて、ヴィルマは戸棚からペーパーナイフを取り出した。

 

「ここは旦那様の新しい拠点でしょうか」

「ん? ああ、当たらずとも遠からずといったところかな。

 ここは元々、哨戒兵たちが泊まるだけの小屋だったんだが、改築して拠点に作り変えたんだ。

 今、取り仕切っている作戦をまとめるのにちょうどいい立地だったものでね」

「作戦、ですか」

「ここから遥か北のフラヒヤと呼ばれる山々から、雪の獅子が群れを成して下ってきているんだ。そこに剥製があるぞ?」

 

 部屋の奥を見ていなかったクラフタが目を凝らすと、ペーパーナイフで封を切っているヴィルマの背後に、真っ白な体毛で今にも襲い掛かりそうな獣の姿が見えた。

 

「ニャッ……」

「ははっ、驚かせてしまったな。兵士たちに戦う相手をよく知ってもらうために作ったから、妙に迫力があるだろ」

「グルル……」

「すまんすまん。いたずらが過ぎたな。まあ、その獣の群れを追い返すために、兵団で長期戦を仕掛けてるってわけだ。ここはその本部ってことだよ」

 

 本当に驚いたのか、しばらく警戒した様子を崩さないクラフタに対し、ヴィルマは苦笑いをしながら謝った。

 封を切り、慎重に中の便箋を広げる。西シュレイドの彼女が使う紙はお世辞にも質が良いとは言えないため、破いたりしないためには慎重に扱う必要があった。

 

 瞳だけを、左から右へ泳がせる。それを何度か繰り返す。

 お、と思ったのはクラフタだけではなく、手紙を読むヴィルマ本人も感じたことだろう。

 視線の往復が、これまでと比べても明らかに多い。何より、その便箋は()()に渡っていた。それが最も驚くべきことかもしれない。

 一通り目を通し、それからもう一度、一から読み返す。クラフタは先ほど跳ね上がった脈拍を落ち着かせながら、黙ってその様子を見ていた。

 

「最初の手紙をお前に託してから五年になるか。アイルーの年齢には明るくないんだが、二国間の往復がきつくなったりはしてないか?」

「……いえ。昔とそう変わりません」

「それはよかった。まだしばらくはお前の力を借りることになりそうだ」

 

 この手紙は、お前を含めて、誰か一人でも欠けたり繋がりを拒むだけで途切れる細い糸のようなものだからな、とヴィルマは付け加えた。

 しかし、繊細な話題であろうにも関わらず、ヴィルマの口調はどことなく楽しげなのだった。クラフタと対面するときのヴィルマは基本そのような雰囲気だ。

 

「返事を書いていきますか」

「いや、すまないが落ち着いて返事を書くにはもう少しかかりそうだ。

 お前は他の人たちにも手紙を渡す仕事があるだろうし、先に街道へ戻ってもらえるか。もちろん、何日か休みたいなら部屋を手配するが」

「いえ、お気遣いなさらず。ただ、旦那様が手紙を持ち続けるとすれ違いになるかもしれません」

「書き上げたらリーヴェルに使者を送るから大丈夫だ。城に居るアズバーがうまくやってくれるだろう。お前は気にせずに各都市を巡りながらリーヴェルへ向かってくれ」

「分かりました」

 

 実際、東シュレイドでは一度時期が来て雪が降り始めると、あとは春まで積雪が増していく一方になる。初冬の今、数日でも早く動けるならそれに越したことはない。

 ヴィルマの提案を受け入れたクラフタは、次の日の早朝に出発することにした。

 

「旦那様。件の雪の獅子ですが、帰りの道中に遭うことはなさそうですか」

「どうだろうな。彼らは雪の中に潜むから、雪の走竜よりも見つけるのが難しいんだ。兵団の目を潜り抜けたはぐれ者が、その辺に潜んでいるかも……」

「……ニャア」

「ふふ、冗談だ。そんな状況なら補給線が断たれてとっくにこの拠点は落ちている。そうならないための迎撃作戦だ。なんなら護衛を付けようか?」

「……遠慮しておきますニャ」

 

 やはり、クラフタはヴィルマのことが少々苦手なのだった。

 

 

 

『金の獅子の件、君も無事なようでよかった。

 この手紙を書くとき、あれからもう半年以上が経っていることを思い出した。

 月日が過ぎるのは早いな。事後対応に追われていたからか、最近は特にそう感じる。

 

 君の手紙で書いていたことについて触れていこう。

 「百人の仲間が死んでも、あなたはその一人ひとりを覚えているか」という問いについてだが、時に彼らに死を命ずる立場の者として、一人残らず覚えておくことが理想だとは思う。

 けれど、君にそれを問われたなら、厳密には違うと答えざるを得ない。

 

 死者や負傷者の数を偽ったり隠したりするつもりは毛頭ないが、そのひとり一人まで対話をして、記憶に留めておくことは難しい。

 組織が大きければ大きくなるほど、抱えきれずに零れ落ちていくものは増えていく。兵団に入ってから、何人の死を見送ったかももはや定かではなくなってきた。

 

 ただ、それでも兵団の中で亡くなった仲間を覚えている誰かがいるということは忘れないようにしたいと思う。彼らから戦死者の思い出話を聞くことも。

 亡くなった兵士にも家族や同僚、その人なりの人生があった。その事実まで軽んじてしまえるようになったら、もはや私は現場の人間ではなくなってしまうだろう。

 

 こういうことを話すと理想家だと笑われてしまうんだが、君の話を聞いてからは、現実に追いつかない理想でも向き合い続けるべきだとより強く思うようになった。

 初めて手紙を書いたときにも語ったが、やはり君のいる西シュレイドとこちらとでは竜に対する人の使い方が大きく違っている。

 西シュレイドは基本的に東シュレイドよりも国力があって豊かだという話はよく聞くが、その分、いろいろな問題を抱えているんだな。

 

 人同士で争うための軍隊とも違う。彼らはある程度厳格な規律と身分のもとで生きている。そうでなくては足手まといになってしまうからだ。

 そういった枠組みや基準をすべて省くことで、それだけの人が集まるんだな。これは私も知らなかったし、見えにくいところなのかもしれない。

 本来は政治家へ向かうべき民衆の不満や軋轢を、人の域の外にいる竜へ向けることで秩序を保っている。そんな風に見える。

 

 隣に立つ者を仲間と認識する前に死なれてしまうような、入れ替わりの激しい場所で生き残り続けている君だからこそ、いつかの祝宴での、あの言葉があったように思う。

 西シュレイドの事情に口を挟む権利を私は持ち合わせていないが、当事者である君は、自分の考えを持ったり、それを表明する大義名分を持っている。

 君がもし私の率いる対竜兵団を肯定的に見てくれているなら、これほど嬉しいことはない。

 

 

 さて、全く話は変わってしまうのだが、ぜひ書いておきたいことがある。

 君は、とても文章が上手くなったな。

 勉強をしたのだろうか? そうだとしても凄いことだ。ここまでの成長がみられるとは、正直思っていなかった。

 何か偉そうな文章だが、君から伝えられる話がより詳しく鮮明になったことを、子どものように喜んでいる私がいる。

 

 文字を知って読んだり書いたりできるようになると、いろいろと楽しめることが多くなると思っている。

 興味を持ってもらえるかは分からないが……いくつか紹介させてほしい。

 

 まずはひとつ。自分の気持ちや見聞きした物事を伝えたり、表現しやすくなる。

 自分の中で、知っている言葉では言い表せないもやもやとした感情や想いを抱えた経験は君にもあると思う。

 あの感覚がきれいさっぱりなくなる、ということには残念ながらならないんだが、ひとつ単語を知って、あのときはあの言葉が使えるんだ、と知ったときの嬉しさはなかなかのものだ。

 世の中には膨大な種類の単語があるし、君の国にはあって私の国にはない言葉だってあるだろう。

 そういったものをまとめた冊子は時に辞典と呼ばれるが、とても一般に伝わる代物ではないのが惜しいところだ。

 

 もうひとつ。世の中に存在する本や巻物を読めるようになる。

 何も難しい本である必要はないんだ。もともとどちらの国も読み書きができる人はそう多くはないから、絵巻のように文字を使わない巻物も多い。

 先に語った辞典に、物語、技術本、歴史、軍学、図鑑……本にもさまざまな種類がある。

 君の国では本は貴重なものかもしれないが、もし手に取れるなら、ぜひ読んでみてほしい。

 

 おすすめは、やはり物語だ。

 その多くは口伝で受け継がれていて、吟遊詩人に託されているものが多いが、いくつかは本として綴られている。

 私たちがよく相対している竜や獣については、存在を信じられていないからか、おとぎ話として多く出てくる印象だ。

 あまりに竜と人の接点がないおかげで、そもそものおとぎ話自体がそう多くはないんだが、もしかしたら君の見覚えのある竜が描かれていたりするかもしれないな。

 あの手の本を読むと、竜や獣に対する見方が少し変わってくるかもしれない。人としての受け入れ方に幅があることを知る、とでも言うべきか。

 結局、私たちのすることに変わりはないんだが、そういった別の視点を得ることも悪いことではないように思う。

 

 

 この手紙に君がどのように返してくれるのか、君から語られる話はどのようなものになるのか、とても楽しみだ。

 そもそも君から返事が送られてくることそのものが得難いことであるのに、なんともわがままなものだな。

 あの戦場で一日くらい語り合ってみたかったものだが、元を辿れば君は私を殺す任務を請け負ってきていたわけだから、なんとも微妙な距離感になりそうだ、ということを考えれば、やはり手紙が最適なのかもしれない。

 君も私も、穏やかに過ごせる時間は限られているようだから、せめて、君が次も生き残れますように。

 

 

 追記

 君の手紙に、ヒンメルン山麓の洞窟で行方不明者が出ている元凶を探しに行ったが見つからなかった、という話があったので、周りにそういった噂がないか聞いてみた。

 すると、東シュレイドでも北方の集落で似たような話があったんだ。聞くところによれば、雪や雨を凌ぐために立ち寄った村人や旅人がよく行方をくらませる洞窟があるらしく、立ち入りを禁じているだとか。

 天井から這い寄る影が人を喰らう、そう伝えられているらしい。白い()()()()だというが、誰もはっきりとした姿は見たことがないそうだ。

 

 もし君が再びその任務を負わされるようなことがあれば、灯りをともして天井を注意深く見てみるといいかもしれない。

 単純に岩盤の崩落や足を滑らせて沢に落ちたという線も考えられなくはないが、あるかもしれない不意打ちを警戒するに越したことはないと思う。

 

 君の希望通り、鉄鉱石の採掘の護衛で退屈しているのが一番望ましいだろうが、君はいろいろと巻き込まれやすいような気がするので、追記させてもらった』

 

 

 

 クラフタがリーヴェルに到着したのは、ヴィルマに手紙を渡してからひと月が過ぎてのことだった。

 他の都市とは違う、大掛かりな兵器を運ぶためのだだっ広い大通りや、兵器や刀剣をつくる工房の槌の音が響く中、寒さに鼻をすすりながらクラフタは歩く。

 対竜兵団の本拠地である都市中央の城はいつもより閑散としていた。守衛は半年に一度訪れるクラフタのことを覚えたようで、すぐに話を通して中に入れてくれた。

 

 クラフタを出迎えたのは、ヴィルマの従者であるアズバーだ。

 ヴィルマと同じく五年近い付き合いになる彼だが、初めて会ったときよりも少し老けたかもしない、とクラフタは思った。

 

「長旅ご苦労様です。ヴィルマ様からの指示は伝わっています」

「まだ、旦那様は帰ってきていないですか」

「ええ。雪の獅子の進行が落ち着くまでは今しばらくかかるらしく。手紙は受け取っておりますので、クラフタ殿への依頼に支障はありません」

 

 アズバーはそう言って、丁寧な装丁のされた封書をクラフタに渡した。

 これを西シュレイドのヴェルドまで運ぶのが、クラフタのいつもの仕事だ。一見質素なように見えて、機密は他の何よりも高い。

 万が一、関所などで所持品の検査にあっても見つからないように、クラフタは鞄の隠された隙間にその手紙を仕舞い入れた。

 

「それと、こちらが今回の報酬です」

 

 続けて、アズバーは棚に置かれていた小包をクラフタに手渡す。人にとっては小包と言えるが、アイルーであるクラフタにとってはそれなりの大きさだ。

 けれど、クラフタは何の不満もなくその小包を受け取った。それどころか、滅多に感情を表に出さない彼の尻尾がゆらゆらと波打っている。

 

 小包の中身は、乾燥させたマタタビの葉だ。なるべく質の良いものを厳選し、その手間を考えればそれなりの額になるだろう。

 リーヴェルにはアイルーがほとんどいないため、直接金を渡しても使い道が限られている。故にこその嗜好品の現物支給なのだが、思いのほかクラフタには受け入れられているらしかった。

 非公認の市場や牢獄などでは煙草が通貨の代わりになることがある。嗜好品にはそれだけの価値があるのだろうと、クラフタを見ていたアズバーは思った。

 

「休憩されていきますか? 部屋を用意いたしますが」

「大丈夫です……ニャ。お手紙確かに受け取りました、にゃ」

 

 快楽を隠しきれていない。若干の不安すら感じる返事だったが、これまでも報酬を渡したときにはいつもこのような状態であったし、この後に仕事のミスもないので問題はないだろう。

 厚手のコートを身に着け、深めの帽子を被り、ゆらゆらと尻尾を揺らしながら出口へと向かっていくクラフタを、その姿が門の向こうに消えてゆくまで、アズバーは見送っていた。

 

 

 

 遠ざかるクラフタの後ろ姿を見ながら、アズバーは彼とのやり取りの中で結局口にしなかったことについて考えていた。

 

『ヴィルマ様に何か変わりはありましたか』

 

 何気ない風を装ってそう聞ければよかったのだが、かの手紙の運び屋は勘が鋭い。

 その問いの背景に気付いてしまうかもしれないし、クラフタまで巻き込むことはないと思い、すんでのところでアズバーはその言葉を飲み込んだのだった。

 

 金の獅子との死闘の件は、ヴィルマがリーヴェルに戻ってくるよりも先にアズバーの耳に届いていた。

 ヴィルマを含む生存者の負傷があまりに重篤だったため、帰還のための長旅に体が持たず、道中の街や集落で休息を取りながらの帰途になったからだ。

 兵団の帰還がもう少しでも遅ければ、もはやヴィルマは復帰できないものとみなされ、領主の座を引き継ぐべく議論が始まっていたかもしれない。

 

 しかし、結局ヴィルマは戻ってきた。治りきっていない身体を引きずりながら、数多の戦死者への対応に向けて街を奔走した。

 たしかに兵団への被害は甚大であり、本人も未だに腕や背中に違和感を覚えることもあるようだが、彼の在り方を変えるには至らなかったというのが人々の見方だった。

 ただ、負った傷や兵団内外での立場はともかくとして、変わりがなかったという見方には見落としがあるようにアズバーは思えるのだった。

 

『俺の目に狂いはなかった。いや、それどころか俺の目では全く足りていなかった』

『彼女は、可能性の塊だ』

 

 リーヴェルに戻ってきた彼は、執務室で誰に話しかけるでもなくそう呟いた。

 それの意図するところをアズバーは知り得ない。かの戦場で何があったのか、ヴィルマの口から大まかに聞き及んではいるものの、当時の情景が鮮明に浮かぶわけでもない。

 故にアズバーはヴィルマのその呟きについての言及を避けた。彼女とはフレアのことで間違いないだろうが、分かるのはそこまでだ。

 ヴィルマが彼女に何を見出し、可能性とは何のことなのか、ヴィルマの口から聞いてもアズバーには到底理解が及ばないだろう。

 

 それからというもの、ヴィルマは心なしか鉄婆という加工屋の統領のもとへよく足を運ぶようになったように思う。

 以前から対竜兵器関連の相談で、ヴィルマが鉄婆に直接顔を合わせに行く場面は多々あった。

 しかし、直近の彼は事後処理で忙しくしていたため、意識して選択をしなければ、加工屋に自ら訪れる時間は無かったはずだ。

 

 城の中とはいえ、護衛でもないアズバーが加工屋まで付き添う理由はないため、何の話をしているかは分からない。

 金の獅子との戦いでは対竜兵器が軒並み破壊されたそうだから、改良についての話をしに行っているだけかもしれない。

 だがアズバーは、ヴィルマがこれまでとは何か別の意図をもって、職人たちとの関わりを見直そうとしているように見えてならなかった。

 

 自分は何か疑い深くなるようなことでもあっただろうか、とアズバーは自問するが、思い当たる節がない。

 つまり、アズバーが己の直感を信じるならば、それはヴィルマが自身の変化を隠そうともしていないということだ。

 あるいは、ヴィルマ自身が気付いていないか。実際、変化というには些細な事柄だ。どの線も彼ならばあり得る。

 

 彼は元より野心を持った人間だ。そうでなければ一都市の領主と、死と隣り合わせの兵団の指揮官を兼任したりはしない。

 持って生まれた血統まで駆使して権力を手に入れ、それに伴った責任故に野心を制御せざるを得なくなった、ある意味で不器用な人間だ。

 牛歩でも前へ進むことを選択していたはずの彼を変えたのは、紛れもない。あの夜にたった一人でヴィルマの暗殺を決行した少女なのだ。

 

 熱を宿し、ただ静かに焼けていくだけだった炭に、彼女は火を入れた。

 火を宿し、ぱちぱちと音を立て始めた炭火に、彼女は再び息を吹き込んだ。

 

 アズバーの目にはそう映るというだけの話だ。具体的な話は何一つとしてできないし、誇張した表現であることも否定はできない。

 少なくとも、手紙を通じた繋がりは今後も続いていくのだろう。ヴィルマとフレア、どちらかが死ぬか、繋がりを拒むことをしない限りは。

 

 領主と暗殺者。本来は殺し合う間柄にある二人は、互いに影響を及ぼし、思想を与えることを避けられない。

 既に背中は押されている。金の獅子ですら、不揃いな彼らの歩みを留めるには至らなかった。そんな見方すらできるかもしれない。

 

 そしてまた、ヴィルマの手紙を持った運び屋が、隣国の西シュレイドへと旅立っていく。

 手紙の内容だけではなく、そのやり取りの一つひとつが有する意味を、アズバーは考え続けていた。

 



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第五章 ひとつの竜の物語
第17話 炭筆と炭色の手


 

 

 赤い鶏冠の走竜は、三匹ほどの小さな群れを一つのまとまりとして動いていることが多い。

 小さな獲物はその群れだけで狩ってしまって、大物や手強い敵に対しては大声で鳴いて仲間を呼ぶ。

 鳴かれると次々と増援がやって来て、あっという間に取り囲まれてしまう。特別大きな図体と長い爪の親玉まで現れてしまったら、ほとんどの人はもう成す術もない。

 

 だから、もし彼らとの接触を避けられないのであれば、仲間を呼ばれる前に不意打ちするか速攻で片付けてしまうしかない。

 幸いなことに、人という生物を見慣れていない彼らは、自分よりいくらか背丈の小さい女性を見ても仲間を呼ぶほどの獲物とは思わないようだった。

 

 結局、あまり背は伸びなかったな。

 

 フレアはそんなことを考えながら、今まさに自らを捕食対象と見なして襲いかかってきた走竜の首を短剣で切り裂いた。

 ひゅっと息を詰めて、走竜はもんどりうって倒れる。

 

 近くにいた二匹目は何が起こったかまだ気づいていないようで、訝しみながらフレアの元へ歩み寄ってきた。

 今度はフレアから飛びかかる。驚いた二匹目は反射的に飛び退くが、その脚にフレアの投擲した投げ縄が絡まり、転んで呻き声を上げた。

 肉食竜は草食の竜と違い、俊敏に逃げ回るということができない。相手が草食の獣などであれば、そううまくはいかなかっただろう。

 もがく走竜に対し、フレアは木の枝を差し出した。咄嗟に噛みついた走竜の喉元へ向け、素早く刃を突き立てる。硬い布を裂くような手応えと共に、多量の血が噴き出した。

 

 三匹目は少し離れた場所にいた。仲間に何があったのかを掴み損ねているようで、その場で立ち止まってきょろきょろと辺りを見渡している。

 音は届いているのだろうが、大型の竜が出たわけではないのに仲間の断末魔だけが聞こえたことに戸惑っているのだろう。彼らは大猪程度であればある程度持ちこたえられるだけの強靭さを持ち合わせている。

 本来はすぐに逃げるべきだったし、実際に数秒後には持ち前の跳躍力で逃げ去っていたのだろうが、その脚が動くよりも先に、近くの落ち葉ががさりと揺れた。

 

 三匹目は弾かれたように物音がした方を向いて、それが放られた小石がたてた音であると気付くよりも先に、その首を羽交い締めにされる。

 転倒し、本能的に暴れ回ろうとしたところで、その頭部に剣の柄がめり込んだ。

 くぐもった悲鳴。そのまま、殺意を鈍らせずに頭部を殴り続ける。走竜の抵抗は、十秒と持たなかった。

 

 私も、弓が使えたらな。

 

 フレアはそんなことを考えながら、動かなくなった走竜と地面に挟まれた自らの脚を抜け出させた。

 もし弓矢を使えたら、もう少し手際よく竜たちを倒せる。今の戦い方は、いわゆる原始的で泥臭いと言われるものだ。

 フレアもそれは分かっていて、たまに弓や弩が支給されたときにはそれを使ったりもしているのだが、結局は煩わしくなって近接戦に持ち込んでしまうのだった。

 

 随分と返り血を浴びてしまった。水に浸した布で拭い取らないといけない。

 立ち上がって来た道を戻る。道と言ってもただの山の斜面だ。藪や木の枝を掻い潜り、羽虫や蜘蛛の巣を払いながら歩く。さながら獣の歩みだ。

 持ち場へ戻ったときには、体のあちこちに泥や落ち葉が付いていた。丈の長い衣でよかったとフレアは思う。この支給品は大事にして次も使いたい。

 

 遠くから、かーん、かーんという音が響いてくる。森の中で大きく口を開けている洞窟の、その奥からだ。

 西シュレイドの南の開拓地。数十人もの雇われ人が、この洞窟で採掘の作業をしている。フレアはその護衛を担っていた。

 何度か同じような命令を受けているものの、その度に違う洞窟へ行かされる。常に開拓の最前線に連れて行かされているのだろう。最も危ない任務はフレアに回されるいつもの流れだ。

 

 目的の洞窟が竜の住処になっていた場合は、追い出しを試みることになるのでとても大変なのだが、そうでなければこうして見張りをするだけの仕事だ。

 楽になる可能性がある分、フレアはこの任務を好ましく思っていた。

 他の護衛はお世辞にも役に立つとは言えない。西シュレイドの対竜軍の慣習に倣って素人なので仕方がない。

 採掘の作業者もなかなかに重労働のようで、休憩や寝るときにはくたくたになっているので、別の意味でフレアが襲われにくいというのも利点のひとつだ。

 

 とは言っても、最近のフレアはいよいよ外傷の痕が増えてきて、特に腕の黒い煤はとても人の素肌とは思えない様相を成しているので、気味悪がられて襲われることも減っているのだが。

 とにかく、たまに興味本位で様子を見に来る肉食竜を迎え撃つほかは、周辺を注意深く見守るだけでいい。

 一人で居れる時間を多く取れるなら、それに越したことはなかった。

 

 フレアが洞窟の入り口に戻ると、見張りの男が怪訝そうに顔を向けてくる。フレアが軽く手を上げて脅威が去ったことを伝えると、彼らはほっとした顔をした。

 ここも開拓地扱いはされているが、竜や獣たちが寄り付かない窪地や沢にひっそりと集落を立てて息を潜めているだけだ。国からの命令で移住させられた奴隷扱いの人も多い。

 そんな彼らにとっては、走竜の群れは正しく命を脅かす存在だった。

 一匹を相手取るのにも大人が数人がかりで、三匹が相手となればそこは虐殺の現場となるのだろう。

 

 考え方が違うのだけどな、と、そうした話を聞くたびにフレアは思う。

 たしかに人という生物は、鋭い牙や硬い鱗もない捕食者側なのかもしれない。けれど、剣や衣服といった道具、さらに作戦があれば、こちらが優位に立つこともある。

 こちら側が命を奪う側だという感覚、死なずに渡り合うにはどうすればいいかという思考、虚勢であってもその心持ちでいることが、竜との向き合い方を変えるのかもしれない。

 

 返り血を拭き取り、見張りの引継ぎをし、僅かな眠気と疲れを深呼吸で散らしながらフレアは思う。

 こんなことを考えるようになったのも、だいたいはヴィルマと手紙のやり取りを始めたのが原因だ。

 かつてのフレアは周りの人のことなんてほとんど考えなかった。任務が大変すぎて周りを見る余裕がなかったのもあるが、自分も含めて、興味を持つということがほとんどなかったように思う。

 

 炎の龍を相手に、あまりにもたくさんの人の死を目にして、心の中で絞り出される声に気が付いた。

 ヴィルマの暗殺のために異国へと赴き、かの国の対竜兵団の在り方を聞いて、自分のいる国のやり方を見比べるようになった。

 そして、殺し損ねた彼からの手紙が届き、気まぐれに返事を返してから、言葉と表現、社会の成り立ち、相手の立場というものを知った。

 

 今のフレアはもはや、かつてのように、自らの視界に映る様々な事柄について、何も考えずにいることができなくなりつつある。

 言葉を知り、読み書きができるようになることは、ただ言葉通りの技術であることを越えて、いくつもの気付きと思考を与えるということを、フレアは知りつつあった。

 

 かーん、かーんという採掘の音は途切れずに続いている。外にいるフレアの傍には、掘り出されたばかりだろう赤錆色の鉄鉱石が木箱に積まれていた。

 人の声のようなものも僅かに響いてくる。その声の中に自分の名が入っていないかだけを意識しながら、フレアは数か月前の出来事を思い描いていた。

 

 いろいろと考えることが増えたというだけでも、フレアとしては思いもしなかった事態だ。しかし、ヴィルマからの影響はそれだけに留まらなかった。

 国からの命令を淡々と遂行するだけだった身が、あの日、意を決して自分から行動を起こした。

 識字という技術は、本当に思った以上のものを、フレア自身にもたらしているのかもしれなかった。

 

 

 

「図書館に行きたい、にゃ?」

 

 数か月前、相も変わらず国からの命令に追われるフレアは、その日は珍しく自室のベッドで眠ろうとしていた。

 いつもフレアの布団で一緒に眠るサミは、質問の内容が突拍子もないものだったからか、フレアの言葉をそのまま反芻し、フレアはそれに頷いた。

 

「図書館ってところには、本や巻物がたくさん置いてあるって聞いた。買わなくても本が読めるって」

「それは、そうですけれどにゃ。どこでそれを聞いたんですかにゃ?」

「診療所の先生とかから」

「にゃあ……あまりにも言葉足らずすぎるにゃ……」

 

 サミはがっくりと声の調子を落とす。

 どうしてそのようなことを聞くのかとサミは続けたかったが、結局フレアに尋ねることはしなかった。

 かさ、と、皮紙が擦れる音がした。フレアがヴィルマからの手紙を手に持っているのだ。

 相談事の出所など、もはや聞くまでもないことだった。

 

「あちらの国の事情は知らにゃいですけどにゃ。こっちの西シュレイドじゃそう簡単に本とか図書館に行きつくことすらできないんですにゃ」

「それは、どうして?」

「身分の制限があるんですにゃ。図書館があるのはヴェルドのあの城壁の中、相応の身分ないと入ることすらできませんにゃ」

 

 本というものは基本的にとても高価だ。

 皮紙の一枚一枚がそれなりの値段であることに加えて、鍋や椅子のようには量産できない。

 専門の学者や文官が長い時間をかけて書き写すことで、ようやく一冊の複製ができる。

 その学術的な価値も相まって、図書館という施設は宝石店をも凌ぐほどの警護を当てられている。

 言うまでもなく、ヴェルドの城壁の外で暮らす人々には、とても手が届かない代物だ。

 

 それでも、城壁の中でそれなりの身分が認められる人であれば、入館が許可されることをサミは知っていた。

 ごく一握りの者にだけ閲覧を制限してもおかしくはないのだが、西シュレイドにしては珍しい寛容さのように思えた。

 いや、これに関してはむしろ、城壁があるからこそ緩んでいる制限なのか。

 

 西シュレイド国王の座する王城と城下町を取り囲む城壁。その内側は、驚くほどに秩序だっている。

 内々では貴族や富豪による派閥争いの策謀が渦巻いていると噂されているものの、表立った盗みや喧嘩などはほとんどないと言っていい。

 壁内に住む人々は、奴隷や使用人を除けばその多くが識字できる。詩歌を嗜み、勉学に励み、礼儀作法を知っている。当然、本の価値も正しく理解できているだろう。

 だからこそ、西シュレイドは彼らに対してのみ図書館を開放するのだ。

 王立の学術院は有名な学術機関だ。国を強く、豊かにするという目的のためにも、高い身分の人々がより多くを学ぶことを西シュレイドは認めているのかもしれない。

 

「診療院の先生はもともと壁内に住んでた人だし、医術師だから図書館に入れたってことですにゃ」

「そう、なんだ」

 

 フレアが浮かない顔をするのはサミでも心苦しいが、こればかりは仕方がない。城壁の外で暮らしている人々の宿命ともいえるものだ。

 壁外の人々は壁内の市民を羨み、妬み、いつか自分もあの城壁の門を堂々とくぐれるようになりたいと切望する。ヴェルドに出稼ぎに来る人が絶えない理由だ。

 実際には壁外ではまともな学舎すらなく、壁内の商人に使われるばかりで商機もなく、一発逆転の目などことごとく潰されている。

 最終的には、名ばかりの対竜の兵士となって辺境へと赴き、命を失う羽目になる人すらいるのに、それでも下民の夢は絶えることがなかった。

 

「フレアさまが城壁の外に住んでいること、残念ながらそれが全てなのですにゃ。どうしてフレアさまが壁外の身分なのかは、正直分からないですけどにゃ…………にゃ?」

「サミ?」

 

 困り顔ながらもはっきりとした口調でフレアの望みを止めようとしたサミだが、その最後の一言だけ少し声が上ずった。

 フレアが首を傾げるが、サミはフレアの呼びかけには答えずに考え事をしている。彼女が口を開いたのは、十数秒ほどの沈黙を置いた後だった。

 

「ヴェルドの城壁の通行許可証を手に入れるには、正式な身分証と、お金を積む必要がありますにゃ」

「お金は、あると思うけど」

「そうなのですにゃ。フレアさまはお金を持っておりますにゃ。じゃあ、あとは身分証を手に入れたらいいですにゃ」

「でも、私が持ってる身分証は、任務の報告のときに少しの間、壁の内にいれるだけ……どこにでも行けるわけじゃないよ」

「その通りですにゃ。さらにそこから図書館の入館許可となると、ちょっと詳しい話は分からないですけれどにゃ。たぶん城壁の通行許可証だけじゃ足りませんにゃ」

「……忍び込んでみる?」

「今度こそ殺されちゃいますにゃ~……。ええと、たぶん学徒か教師、貴族や役人くらいなら確実に入館できると思いますにゃ」

 

 それではやはり、とフレアが肩を落とそうとしたところで、そこでにゃ、とサミは付け加えた。

 

「フレアさま、学術院の試験を受けるつもりはありませんかにゃ?」

「……え?」

 

 

 

 もう何十日か前のこととなるが、そんなサミとのやりとりがあった後に、フレアはこの任務に就いている。

 

 サミの話によれば、何もこれから研究者や教師になれという提案をしているわけではない。何なら試験自体は落ちてもいい。

 ただ、ある程度の素養さえ示すことができれば、まずは城壁の通行許可証は手に入る。働きながら学ぶ人は多く、そういった人々と壁外の生活は相容れないためだ。

 そして、表向きでも学術院を目指す者に図書館の門戸が開くかは、その施設の寛容さ次第といったところだが、壁内であればそう無下にはしないのではないか。

 

『でも、私が私だってばれたら、追い出されるかも』

『たしかに、フレアさまは国の命令が直接下りてくる特殊な立場にゃ。でも、そんな人が学徒を志すなんて誰が気付けますかにゃ?』

 

 身分の確認をする担当者が違っていれば、フレアが要注意人物とみなされることもない。

 それがサミの意見だった。彼女は壁内の守衛組織をあまり信用していないようだ。

 

 次いでフレアが心配したのは、自身がこれまで学に励んだことがないということだった。

 フレアにとって、学者や役人というのは自分から最も縁遠い存在だった。幼い頃から学んできたのであろう彼らに、フレアが今から追いつけるとは到底思えなかったのだ。

 そういった不安をサミに語ると、彼女は少し大げさにため息をついた。

 

『フレアさま、やっぱり気付いてなかったですにゃ』

『何のこと……?』

『フレアさまの識字は、もう壁内の学徒と並ぶくらいにはなっていますにゃ。そもそも、ヴェルドの知識って学者と貴族に固まってるから、そこまで水準が高いとは言えませんにゃ』

 

 目をぱちくりさせるという言葉は、このときのフレアによく当てはまっただろう。

 そうなったのも、ヴィルマ氏の手紙に難しい言葉が入り乱れていたおかげにゃ、とサミは続けた。

 

 たしかにヴィルマの手紙は、一文を読むごとに知らない単語が山ほど出てくるくらいには難しかった。

 サミに読み聞かせてもらうだけなら、雰囲気さえつかめば知らない単語は多少聞き流しても良かったが、自分で読み書きするようになってからはそうも言っていられなくなった。

 大抵の質問にはサミが答えてくれるので彼女ばかりを頼っていたのだが、何から何までを聞くとサミがぐったりしてしまうため、自分で考え、推測することも少なくなかった。

 

 そうこうしているうちに、少なくとも読み書きについては、城壁の中でも生きていけるくらいの素養を身に着けてしまっていたらしい。

 サミの指摘の通り、フレアはその指摘を受けるまではまるで意識していなかった。このことについて人と比べることをしなかったというのが正しいかもしれない。

 とにかく、言語能力については今の段階でほとんど問題ないとサミは見ているようだった。

 さらに、政治や経済についても、ヴィルマの話題が偏っているおかげで基礎的な感性はフレアも身に着けてしまったらしく、サミは少し呆れていた。

 

『あとは西シュレイドの地理とか、計算を身に付ければ、少なくとも試験で太刀打ちできないなんてことにはならないと思いますにゃ。

 計算は前にお金の数え方を教えたときに躓かなかったから大丈夫だと思うにゃ。あとは暗記ができるかかにゃー』

 

 既にフレアが試験を受けることを前提として呟いているサミを、寝間着姿のフレアはぼんやりと見つめていた。

 どうして彼女はここまでヴェルドの事情に詳しいのだろう。城壁の外にフレアと共に住んでいるのに、壁内のことについて推測までできている。

 それに、フレアが試験を受けるに相応しいか判断ができ、足りない部分を教えることまでできる。教本もなしに、だ。

 もしサミが試験を受ければ、余裕で突破してしまえるのでは、という気がした。アイルーだから、いろいろと制約があるかもしれないけれど。

 いったい、彼女は何者なのだろう。

 

 フレアはそんなことを思ったが、不思議なことがあるのはお互い様かな、と思ったので、結局黙っていた。

 サミもまた、フレアについて、どうしてこうも国から特別扱いを受けるのかとよく疑問を口にしている。あれは本心からきているように思えた。

 それに、もしサミに後ろめたく思うようなことがあるなら、今のような提案をフレアにすることはないだろう。

 力になれないとひとこと言うだけでいいのに、こうして手間をかけてまでフレアの願望を叶えようとしてくれる。

 そんな彼女を見ていると、今は別にいいか、という気持ちになった。

 

 

 

「ここがアルコリス地方で、ここから西の海が西竜洋。東北がクルプティオスで、開拓が進んでいるのはここまで。西シュレイドの都市の名前は……」

 

 見張りをしながら、ぶつぶつと暗唱する。端から見れば、一体何を言っているんだと不気味に思われてしまうかもしれない。

 実際、さっきまで血に濡れた剣を拭いていた女性が、試験に向けて暗記をしていると言っても、信じてもらえないだろう。

 

 見張りをしている間はこの程度のことしかできないが、交代して休憩に入ったら、サミが皮紙に書いて預けてきた計算の問題の続きをしなくてはならない。

 いざ挑戦となると、サミは意外と容赦なく教え役を務めてきた。別にフレアが問題を解かずとも怒りはしないだろうが、フレアならこなせると見込む量が単純に多い。

 別段、それがつらいわけでもなかった。

 手紙越しのヴィルマのように、何にでも興味を持って、貧欲に知識を求めるとまではいかない。それは早々に見切りをつけた。

 けれど、彼が紹介してくれた物語というものに触れるためなら、そのための手段として消化していける。

 

 あるいは、もっと別の例えをするなら。

 こうやって勉強という行為をしていくこともまた、彼の手紙を読むことの延長線として自分自身は捉えているのかもしれない。

 それなら、つまらなく感じないのも納得がいく。

 

 この任務が無事に終われば、そして、次の任務がすぐに課せられるようなことがなければ、フレアは学術院の試験を受けに行く。

 試験を受けられるかは五分五分といったところだが、フレアはあまり慌ててはいなかった。もしだめなら、そのように手紙を書けばいいのだ。

 

 もうすぐ日が暮れ始める。洞窟の中の作業者たちも今日は撤収し始める頃合いだ。目安とされた鉄鉱石の採掘量に届いていればいいが。

 フレアはもう一度、今日までに暗記する内容を諳んじ始めた。

 



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第18話 十歩先の別世界

 

 

 検問所を通り抜け、石畳の通りに足を踏み入れたフレアは、思わずその場で足を止めてしまった。

 その通りは壮観とまではいかないものの、整然とした街並みが見て取れる。景観に気を遣うとはこういうことなのだろうな、とフレアは思った。

 

 通りを行く人々の身なりもある程度は充実していて、少なくともぼろ一枚の裸足で歩くような人はいない。

 もしそういう人がいたとしても、それは奴隷なのだろう。通りの隅にいるような乞食の姿すらも見当たらなかった。

 これまでにフレアが生きてきた街とは、まるで全く別の地へ足を踏み入れたかのようだ。実際には、検問所を境に数十歩ほど歩いただけなのだが。

 

 初めてこの街を訪れる人は、その多くが入り口で足を止めるようだ。フレアの外にも、同じように立ち止まって街並みを見ている人がいる。

 それ故にフレアの様子を周りの人々が気にすることはなかったが、やがてフレアはそそくさと周りに合わせて歩き始めた。

 別に悪事を働いているわけではないのだが、今の彼女は一見して怪しまれかねない格好をしている。

 多少悪目立ちすることは避けられないので、なるべく人目を避けながら歩きたい。

 

 城塞都市ヴェルドの城壁の内側、限られた人々しか住めない街の探索の始まりだ。

 

 結論から言うと、フレアは学術院の試験に落ちた。

 これ自体は特段驚くべきことでもないのだが、サミはどうやらフレアが合格するものと思っていたようで、釈然としない顔をしていた。

 王立の学術院は、西シュレイドの各都市の秀才が上級の職を得るために入るような学び舎だ。フレアが簡単に合格してしまっては彼らの面目が立たない。

 それに、試験に落ちはしたものの、あと少しのところではあったようで、予備生の資格をフレアは得ることができた。それこそ、サミの目論見通りだ。

 

 予備生は次の年以降の学術院への入学を目指して勉学に励む者のことで、相応の金を支払う必要はあるものの、ヴェルドの壁内へ入ることができる。

 下働きなどをしながら図書館や教師の下で学び、来年の試験に備えろという、ある種の救済措置のような制度だ。

 多少金を積んだだけでは、特に身なりが貧相な壁外の下民は意地でも壁内へ入れないヴェルドにしては、かなり珍しい温情といえた。

 

 まずはサミの言った通り、寄り道をせずに街の図書館を探すことにしよう。

 サミも詳しい場所まで知っているわけではなかったけれど、一応は公共の施設なので、裏路地などにはないはずだと言っていた。

 道行く人に話しかけるわけにもいかないので、それなりに歩き回ることになりそうだ。

 日没までには自分の家に戻らなければいけないので、今日はひとまず図書館を見つけることを目標とした。

 

 通りの奥は曲がり角になっていて、遠くまで見通すことはできない。それでも、ふと視線を上げれば、家屋の屋根の向こうに立派な宮殿が垣間見えた。

 あれが西シュレイドの国王が住まう王城だ。西シュレイドの政治や軍事を司っていることを、今のフレアは知っている。

 フレアにこれまで差し向けられてきた依頼や無理難題も、たぶんあの王城から発せられているのだろう。

 そう考えると複雑な気持ちにはなるものの、今はあの城に目移りしている場合ではなかった。それに、どちらかといえばあまり目には入れたくない建物だ。

 

 城壁の内へと足を踏み入れること自体は、任務の報告のこともあり、これまでに何度か経験していた。

 けれど、今になってこうも新鮮に感じられるのは、それまで案内役の兵士に連れられて歩いていた路地が裏通りだったから。

 そして、ここを歩いている間はいつも、深く俯いていたからだろうとフレアは思った。

 ここは自分たちとは関係のない場所なんだと、興味や関心を持たないようにしていたのだ。

 実際、裏路地でも土が剥き出しになっていない、小綺麗な石畳の景色ばかり記憶に残っている。

 

 そう考えると、今はまるで別人のようだ。

 実際、今の容姿は過去の自分からしてみても別人に思えてしまうだろうが。

 

 頭髪は黒く染めている。フード付きの外套を深く被り、火傷の痕が酷い腕には手袋を付けていた。

 全て、フレアが当人であると気付かせないための変装だ。

 顔の火傷だけはそのままにしてある。もし街の憲兵などに呼び止められたときに、こうして素肌を晒さないようにしている理由が火傷のためだと思わせるためだ。

 実はこれら全てがサミの受け売りなのだが、フレア本人としては憲兵に掴まってしまったらうまくやり過ごせる自信がない。早いところ図書館にその身を滑り込ませたいところだった。

 

 サミには感謝している。彼女がいなければ、城壁の通行許可証を手に入れるために勉強をするなどという作戦はまず思い浮かばなかったし、実現もできなかった。

 そもそも、数年前にヴィルマから初めて手紙が届いたとき、サミがいなければそれを読むことすら叶わなかったのだ。

 そういう意味では、フレアにとっては、あの手紙の運び人であるクラフタさん並みの橋渡し役をサミは担っていると言っていい。

 

 ヴィルマの手紙をようやく一人でも読むことができるようになり、壁内に入れるようになった今でも、いろいろとフレアの足りないところで面倒を見てくれる。

 主人に尽くすという面では本当にこれ以上ない世話係といえるだろう。フレアにとっても大切な存在だ。

 

 だからこそ、だろう。サミのことを思うとフレアは少し胸が痛んだ。

 こうして壁内に来たのは、ただヴィルマからの手紙にあったように物語を読む、ただそれだけの理由ではない。

 サミには話していない目的がフレアにはあった。

 目指すべきところが王立の図書館であることには変わりはない。物語の本を手に取るだろうところまでも嘘偽りはなかった。

 ただ、その動機のひとつを、フレアは誰にも話さないままここまで来ている。

 サミに相談せずに動くことは、実は任務絡みでよくあることだ。主に彼女を心配させ過ぎないためだけれど、この件では後ろめたい気持ちを抱かずにはいられなかった。

 

 でも、サミは聡いアイルーだ。この手の隠し事は既におおよそ気付かれてしまっているのかもしれない。

 それでも、サミに言わないでここまで来たという事実があって、それがフレアの判断を示している。

 彼女には悪いが、という表現がこれほど適する状況もそうそうないだろう。

 

 なぜ、自分は今に至るまで生き残ることができたのか。自らの強さの由来は何か。

 なぜ、当たり前のように西シュレイド王室に服従しているのか。そうなったのはいつからか。

 なぜ、西シュレイド王室はフレアに過酷な任務を課すのか。どうやってフレアを見つけたのか。

 なぜ、ヴィルマの暗殺依頼を下すに至ったのか。彼らの目的は何なのか。

 なぜ、ヴィルマとフレアは殺し合うのか。

 二人の間を繋ぐ糸は、手紙だけに留まらないのではないか。

 

 全て、ヴィルマと手紙のやり取りをする中で浮かんできた疑問だった。

 もともと、フレアは物事を深く考える性分ではなかった。意図的に封じてきたと言うべきだろう、そうでないと次々と下される任務に追いつけなかったからだ。

 フレアが何年もかけて丁寧に施してきたその封を、ヴィルマの手紙は少しずつ取り除いていった。

 

 一度生じた疑問はそうそう忘れられない。今まで思いつきもしなかったことと、思いついたものを意識して考えないようにするのとでは全く違う。

 ヴィルマからの手紙を読むたびに、その疑問はひとつ、またひとつと降り積もっていって、結びつくと共に新たな謎を生じさせる。

 そうして、いつしかフレアをこうして行動に駆り立てるに至ったのだ。

 

 まず、フレアは自分の過去のほとんどを思い出すことができない。

 より詳しく言えば、壁内からの任務を受け始めて、サミを迎え入れた辺りからだ。それよりも前のことは霞みがかったかのようになっている。

 月日が過ぎて忘れてしまっただけだとか、そういった単純な話ではないだろうことはフレアにも察せられた。自分から思い出すことはまずできないだろうということも。

 

 なんとなく、幼い頃から戦っていたような気がする。そしてそれは、今フレアが住んでいる家や壁外の街で繰り広げられていたわけではなかった。

 これ以上は無理だ。何度か試みてはいるものの、まるで記憶そのものに拒絶されているかのように強引に集中がぼやかされてしまう。

 恐らく、何らかの理由で自分から思い出を切り離すことを選んだのだろう。再びそれを手繰り寄せることは、火に手を突っ込むことと同じことのように思う。

 思い出した途端にひどく取り乱したり、後悔に苛まれたりするのだろうか。

 ぼんやりとフレアは思うが、もはや自らの関心を抑えることはできなかった。

 

 自分から思い出せないのなら、周りの人や記録などから囲い込んで探っていくのみだ。ふとした知識や言葉から結びつくようなこともあるかもしれない。

 失った思い出が肝だと直感が告げている。先に浮かべた「なぜ」の多くはただそれだけで解消できるように思えるのだ。

 図書館で本を読むことによって、そのきっかけを得ることをフレアは目論んでいた。

 

 その上で、ヴィルマとフレアの不思議な関係を少しでも解き明かしたい。

 二度に渡り、フレアはヴィルマ暗殺の任務を受けた。別に手紙の件が無くとも、もう一度出会う定めではあったということだ。

 何か、恣意的なものを感じるのは必然のように思う。二人にまつわる話を聞けば、多くの人はこう考えるはずだ。

 

 ヴィルマを殺すのはフレアでなくてはならない。あるいは、フレアを死に至らしめるのはヴィルマでなくてはならない。

 そういった決まりじみたものがあるのではないか、と。

 

 けれども、もしその憶測が当たっていたとして、そうなる理由はフレアには全く思い当たらなかった。

 この社会についていくらか学び、そしてサミと話し合って導き出したのは、西シュレイドは東シュレイドの開拓地を掠め取ろうとしているのではないか、ということだ。

 両国の領地拡大と開拓は、それぞれの持つ対竜組織に大きく左右される。正規の軍隊が派遣されるのは、開拓の過程で現住民族などと出会ってしまったときのみだ。

 その点で東西シュレイドにおいてヴィルマとフレアは重要な駒であり、つまり、ヴィルマを討つことで東シュレイドの対竜兵団を弱体化させることができる。

 その間に西シュレイドのやり方である、数の暴力で彼らの開拓地を掠め取る。そのための刺客として、フレアを前線都市リーヴェルへと送り込んだ。

 この推測なら、いくらか納得できるところもありそうだ。

 

 ただ、この説の弱いところは、別にフレアが死のうがヴィルマが死のうが、それぞれの対竜組織にとって致命傷にはなり難いことだった。

 たしかにフレアは、西シュレイドの対竜軍の中では一騎当千に値するのかもしれない。

 ただ、それはフレアが死んだとしても千人の兵士で代替できるということでもあるのだ。西シュレイドであれば、その対応は難しくない。

 東シュレイドであればなおさらだ。手紙を読む限り、ヴィルマの対竜兵団は兵士の質を高めることに注力している。

 仮にヴィルマが死んだところで、彼らはほとんど滞りなくこれまでの務めを果たすことができるだろう。

 

 だから、フレアに命令を下した人々が何かを勘違いでもしていない限り、フレアがヴィルマを暗殺することは、国同士の諍いの火種になるくらいの影響しか与えない。

 ヴィルマという人物を明確に特定している以上、それくらいの見立てはできているはずなのだが。

 それでも、西シュレイド王室はヴィルマとフレアに執着し続けている、とも取れる。

 

 推測で語れるのはここまでだ。これ以上は、サミはともかくフレアの頭ではついていけなくなってしまう。

 とにかくヴィルマも含めて、フレアたちは西シュレイド、ひいては城塞都市ヴェルドの壁内や王室について知らなさすぎる。

 彼らに対する見聞や知識を身に付ければ、また違った見方ができるかもしれない。袋小路に入ってしまった考えの突破口をフレアは欲していた。

 

 都合よく、これら全ての答えが件の図書館にあるとはフレアも思わない。せいぜい痕跡の欠片を手に入れるくらいだろう。

 怪しまれないことが第一優先ではあるし、深く突っ込みすぎないことの方が大切だ。

 今の自分が正規の身分で壁内にいるとはいえ、フレア本人であることが王室や軍の内部にでも知られれば、追い出された挙句に尋問されることは間違いないだろうから。

 

 大通りに差し掛かった。人通りが多くなったのはもちろんのこと、噴水や彫刻といったような壁外ではまず見ることのない設備までもが拵えられている。

 道行く人々の身なりも、より上質なものになっているような気がする。壁内の中でもさらに段階的に身分が分けられているのかもしれない。

 

 そんな中、フレアと同じようなフードを被った人たちが談笑しながら並んで歩いていくのが見えた。

 彼らが手に持っている物にフレアは注目した。あれは、本だ。

 本はかなりの貴重品だとサミは話していたが、だとすればあれは写本だろうか。

 どちらにせよ、彼らは学術院の学徒かもしれないとフレアは思った。だとすれば、この後図書館に赴くことも十分に考えられる。

 跡をつけさせてもらおう、と。フレアはすぐに行動を移した。この辺の対応力は暗殺任務などといった薄暗い経験の副産物といえそうだ。

 彼らが飯屋などではなく目的地まで導いてくれることを願いつつ、彼らを見失わないようにフレアはそっと歩調を速めた。

 

 

 

『果てなく連なりし御山は、白栲の冠を頂いて、天上に日を授け、天下に人を瞰む。

 

 古い本に書かれていた、ヒンメルン山脈の例えです。

 古い本は難しい言葉が多いので読むことも書き写すことも大変だけど、今にはないようなふしぎな例えがあります。

 

 あなたのおすすめしていた本を読むために、図書館という施設に行ってみました。王都ヴェルドの王城の近くにある。

 本や巻物、石板がたくさん置いてあります。買ったり借りたりすることはできません。

 鎖で繋がれた本もたくさんあります。本は高い、というよりも貴重なものなので、盗まれないためにそうしているそうです。

 石板の棚の部屋には入らせてもらえませんでした。国の偉い人や学者の人だけが見れるそうです。

 でも、学徒の人たち向けに飾られている何枚かの石板を見ると、そこに書いてある文字は読めないけど、竜のことが今よりちゃんと書いてあるような気がします。

 

 あなたは物語をおすすめしてくれたので、先にいくつか読んでみてます。

 絵巻物語は文字がほとんどないので、読みやすいです。ばらばらだった西シュレイドがひとつにまとまっていく、その中での物語が多いです。

 竜のようなものが書かれていて、それを倒す英雄、という物語もありました。

 でも、そこに書かれている生き物は、足や翼が何十本も生えていたり、首が四つもあったりして、私たちが戦っている竜や獣ではないみたいです。

 

 他には、あなたのいる東シュレイドについて書いてある本もありました。

 でも、そこに書かれていることは、私のいる西シュレイドが東シュレイドよりどれだけ優れているかとか、そういうことばかりです。

 西シュレイドの方が東シュレイドより豊かだとか、東シュレイドは王がいないからまとまりがなくて野蛮だとか、書いてあります。

 それが本当のことか、私は分からないです。でも、もやもやとした気持ちにはなります。

 私があなたを殺しに東シュレイドにいったときに感じたことは、西シュレイドと変わらない「人」がここでも暮らしているというだけのことでした。

 あの本たちは、東シュレイドの人たちは私たちと違う生き物だとでもいう風な書き方をしていました。

 

 あなたが手紙に書くように竜や獣と戦って、仲間を大切にしていることなんて、図書館にある本には全く書かれていないのです。

 あなたの国はどうですか。西シュレイドや、竜についてちゃんと書かれていますか。

 

 眠る前に、あなたの手紙を読み返すようになりました。

 今になってようやく、あなたの書いていたこの文章の言いたかったことはこれなんだ、と気付くことがあります。

 私向けに、できるだけ伝わりやすいような言葉を選んでいるとは思うけど、それでもちょっと難しいと思います。

 あなたくらいたくさん言葉を使いこなせるなら、あなたは国で本を書いたりしていますか。

 

 最初の頃に貰っていた手紙は全て焼いてしまったので、読むことができません。

 あのときの方が読めていないところは多かったはずなのに、残念に思います。

 量も多いので、あなたの手紙が私の持っている唯一の本といえるかもしれません。

 あなたの言葉の使い方を考えているとすぐに眠くなるし、よく眠れます。だから寝る前に読むようにしています。

 

 私が前の手紙に書いて、あなたが調べてくれた白いばけものについてですが、また同じような任務がありました。

 鉄鉱石を掘りに行く人たちの護衛任務と重なっていて、洞窟に何かが潜んでいて、人がどんどんいなくなって採掘ができないから、犯人を追い払えという命令でした。

 走竜の巣になっていたなら鳴き声がするはずだし、盗賊がいたのなら薪の跡とかが残っているはずです。

 そういうのがなくてひっそりと人が消えていくそうなので、白いばけものかなと思いました。

 

 天井に張り付いているかも、とあなたの手紙に書かれていたので、藁とか香草をたくさん集めてきて、洞窟の中で一斉に焚いてみました。

 煙は上に上がっていくので、わざと煙の出やすい草を燃やして天井に立ち込めさせたら嫌がるんじゃないかなと思いました。

 すると、始めてからしばらく経ったくらいのときに、金切り声を何十も集めたみたいなすごい声がして、洞窟の中から何かが飛び去っていきました。

 煤と灰で汚れていたけど、たしかにすごく白かったので、噂は当たっていたのかもしれません。

 怒って襲い掛かってくるかもと思ったけど、そのままどこかに行ってしまったので、追い払うだけで済んでよかったです。

 

 最近、採掘の護衛の任務が多くなっていて、おかげで図書館に行って落ち着いて本が読めるようになりました。

 到底敵わないような竜と無理やり戦わされるよりよっぽどいいです。私の思い通りになることなんて今までになかったので、驚いています。

 でも、ここまで一生懸命に採掘に行ったり新しい洞窟を探しに行ったりするということは、どこかの国と戦争をするつもりか、また炎の龍のような相手と戦わせようとしているのかもしれません。

 せっかくなら、新しく城や街を作るだとか、そういう使い方だったらいいなと思います。

 

 

 

 追記

 あなたの真似です。

 あなたの手紙に書いてある文字と、図書館で書いてある文字がちょっと違う感じだったので、なんでだろうと思っていました。

 商人の人に聞いてみたら、西シュレイドと東シュレイドは同じ文字を使うけど、文字の書き方の癖がそれぞれ違うそうです。

 そして、私はあなたの手紙をもとに文字を勉強していたので、東シュレイドの書き方になっているようです。

 商人の人が珍しそうにしていたので、気を付けようと思います』

 



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第19話 千の言葉に千を返す

 

 

『果てなく広がりし大海原は、白霧を湛えて黙し、天下に日を呑み、天上の月を映す。

 

 君が以前の手紙に書き写していた一文の続きは、これなのではないかと思うんだが、どうだろうか。

 東シュレイドの書庫にも置いてある本だったはずだ。となると、どちらかが原本か、どちらも写本ということもあるかもしれないな。

 君は文章表現に着目したそうだが、実際、言葉というものは年を経るごとに移り変わっていくらしい。

 老人の話が聞きとりづらいときがあるように、文章も年を取るということだ。私も、古い文献を見ているときは、知らない言葉に対してよく頭を抱えている。

 

 それに、件の書き物はシュレイド地方を旅したという詩人によって綴られたものだったと思う。

 彼らは独特で豊かな表現を好む。比喩や遠回しな言い回しも多い。私からの手紙が主な学びの材料だとすれば、慣れない表現が多いかもしれない。

 私も、せっかく手紙を書くのだから、もう少し詩的なことを言えればいいんだが……どうにも気恥ずかしいんだ。この年にもなって融通の利かないものだな。

 

 図書館という施設に行ったとのことで、それは、東シュレイドでいうところの国営書庫に近いようなものだろうかと考えている。

 本や巻物、石板が各地から集められている点は同じだが、市民まで受け入れているというのは驚きだ。こちらの国営図書はそのような管理はされていない。

 あそこに入れるのは確か役人と学者だけだ。リーヴェルでない別の都市にあるから、私の立場でも入館は面倒だったと記憶している。

 

 実のところ、君に物語をおすすめしたことを少し後悔していたんだ。

 私はリーヴェルの城にも書物をいろいろと集めている。街の書士に収集を依頼したり、国営書庫から書き写したり、遠征先の集落で自ら手に入れたりしていた。

 だから物語や書き物に慣れ親しんでいるという具合なんだが、その環境で深く考えもせずに君に勧めてしまったものだから。

 だが、君が本を読むためにここまでの行動を起こすとは思ってもいなかった。

 

 詳しくは書かれていないし、君はそう思っていないかもしれないが、相当な努力があったのだと思う。

 君の文章力がその裏付けだ。一年前ですら驚かされたというのに、先の手紙はそれよりさらに上達しているし、それを使いこなすだけの知識まで身についてしまっている。

 もはや私と大差ないと世辞なしに思う。ただでさえ戦いの才がずば抜けているというのに、思わず嫉妬すら覚えるほどだ。

 

 君が手紙に書いていた通り、東シュレイドでも竜について正確に書かれた本はほとんどない。

 石板や壁画の方がまだ現実味があるという感想にも同感だ。当時の人々はまだ、外の世界に対して誠実に向き合っていたんだろう。

 こうなったら対竜兵団に画家でも招き入れようと思って、実際雇っているんだが、危なすぎるので遠征にはなかなか同行させられないというのが現状だ。

 

 どうやら君の話によれば、西シュレイドも東シュレイドも辿って来た道は同じらしい。

 東シュレイドも、初めはいくつかの街や集落のまとまりに過ぎず、長年の応酬や交渉を経て周りの小国を取り込んでいったという背景があるみたいだ。

 もっとも、今もその流れは変わらない。私が遠征に出ると、こんなところに人が住んでいたのかと驚かされるような独立した集落に出くわすことも珍しくない。君も一度か二度は覚えがあるのではないだろうか。

 

 西シュレイドも東シュレイドも、互いを誹って身内を立てるのは変わらないさ。

 こちらでも西シュレイドは圧政を敷いているだとか、貧しい民が多いだとか、いろいろと好き放題を言っている。

 もっとも、物的な豊かさでそちらが優れることは認めざるを得ないようで、その辺を避けた物言いになってしまっているが。

 ヒンメルン山脈を迂回して東西シュレイドが街道で繋がってしまった今、こういう牽制をしておかないと、民が移ってしまいかねない。それを心配しているんだと思う。

 

 君の言う通り、君も私も、私の周りの仲間たちも、西シュレイドの人と変わらない生き物だ。

 人々の竜に対する認識と同じように、そもそも違う生き物だと思えば関心を持たずにいられるし、そこに行ってみたいとも思わなくなる。

 君のもやもやとした思いを少しでも払拭できればいいんだが、もしかするとそれは、すっきりと分けるべきではない概念なのかもしれないな。

 ただ、両国の竜に対する立場を少しでも変えることができれば、そこを共通点、起点にしていろいろと模索できるのでは、と考えている。

 少なくとも今は、西シュレイドでも、君という人が私のことを知ってくれているというだけでも十分だ。

 

 これまでも、これからも、こういう話をする以上は、私の手紙は燃やしておくに越したことはないな。

 こうやって手紙を送っている立場でどの口が、という話だが、君に余計な面倒事が付いてきかねないから。

 ただ、私の文章が君の本として、そして教材として扱われているということなら、身が引き締まる思いだ。

 

 私も昔、文字や言葉を学んでいた時期に、本や絵巻物語を頭を捻らせながら読んでいたものだ。

 一日の学びではそう変わらずとも、一月の学びではだいぶ違う。あのときの感触を思い出して懐かしくなった。

 こんなことを言うと爺臭いかもしれないが、あれはなかなか貴重な感動だったなと後になって思うので、時おり思い出しておくといいかもしれない。

 

 思えばもう、七年近く経つのか。君に手紙を送り始めてから。

 一つひとつの出来事は濃く感じられるのに、まとめて振り返ると短いように思えるのが不思議だ。

 このやり取りの中で最も私たちに貢献しているのはかの手紙の運び人、クラフタということになるかもしれないな。

 相変わらず国境付近は竜の出る危険地帯だというのに、ここまで失敗なく手紙を届けられるというのは凄いことだ。彼をもっと労わってやらないといけないな。

 

 本を読めるまでに成長した君へ、懲りずにひとつ、おすすめしたい物語があるんだ。とは言っても、もう読んでしまっているかもしれないが。

 君は、五匹の竜の話という絵巻を知っているだろうか。

 人に問われるがまま、島に姿を変えてしまった五匹の竜と、彼らがそうした理由を訊ねに海を渡った青年の話だ。

 竜に関する資料が見当たらない中で、この物語は未だ語り継がれ、本としても形を残している。

 あまりにも内容が抽象的なものだから、やはり現実でなく空想の竜として人々には思い描かれているのだとは思うが。

 

 私はこの話が妙に記憶に残り続けているんだ。

 何が私の琴線に触れたのかは言葉にするのが難しい。

 ただ、この五匹の竜の話は、そこで語られている世界という言葉の範囲は、私よりも広く捉えられている。そんな気がしてならないから、なのかもしれない。

 

 先にも語ったが、冒頭の一文を書いた詩人はシュレイドを旅して詩を作っている。

 だが、詩人の書いてあることとは違い、ヒンメルン山脈は本当に果てしなく続いているわけではない。

 山脈が東西シュレイドを縦断し、一方の国に留まっていては果てが見えないからそう表現されているだけだ。これは君も知るところだろう。

 東シュレイドからさらに北にあるフラヒヤ山脈まで含めると、本当に大地の端まで連なっているように思えてくるが、あれもいつかは途切れるはずだ。

 東の果てには何があるのだろう。もしかしたら、私たちとは違う別の文明が栄えているのかもしれない。

 私たちがときどき初探索の地で人の集落を見つけたり、竜人族と言葉を交わすたびにそう思うんだ。私たちは、とても小さな社会に属して生きているのかもしれない、と。

 

 西竜洋もそうだ。こればかりは確証を持って言えないが、恐らく私たちは、大海のごく始まりのところしか見えていないのだと思う。

 近海に立ち込める濃霧のおかげで、私たちは海を渡るという発想をほとんどしなくなった。

 ただ、あの広大な海の向こうには、もしかしたら陸地があるのかもしれない。五匹の竜の話に海を渡ったと書かれていたように。

 フラヒヤ山脈が東の果てなら、西竜洋は西の果て、ということだ。どちらも私の代では辿り着くどころか、探索すらしようとしないだろう。

 

 突然、夢物語のような話をしてしまってすまない。君には馴染みがなく、戸惑っただろうと思う。

 実のところ、こうして竜や開拓地について話し込める人が身内にすらほとんどいないものだから、つい筆が乗ってしまうんだ。

 五匹の竜の話ともなると、さらに前のめりになってしまう。君の国には無い物語かもしれないから、話半分くらいに読んでもらえると嬉しい。

 

 君は今日も今日とて、遠征で強大な竜と相対し、街では図書館に通っているのだろうか。

 もし君の傍にいることのできる立場だったなら、はらはらし、励まし、語り、鍛える、そんな飽きの来ない日々だっただろうなと思う。今の立場でも十分、退屈はしていないけれども。

 君は私への刺客であり続けているが、それでもぜひ、明日を生き残ってほしいと願わずにいられない。今から返事が楽しみだ。

 

 ちなみに、君が先の手紙の最後に指摘した私の文字の手癖についてだが、実際にその通りだ。

 言い訳のようだが、リーヴェルは東シュレイドでも田舎とされる地方だから、国の訛りがより強調されてしまっているのだと思う。

 西シュレイドの本が手元にあまりなく、比較して修正しようにもそれができないのが口惜しいところだ。

 君にその手癖が移っているとは思わず、やや肝が冷えた。可能なら、西シュレイドの書き方というものに手を慣らしてみてほしい』

 

 

 

『あなたがおすすめしていた五匹の竜の話について、あなたに手紙を送っている間に読んでいました。

 物語を読んでいるときに思ったことを書こうと思います。

 

 私は海に沈んで陸になった竜を知りません。でも、大きな竜は死ぬ前に空を見ることがあるので、空を見上げて山になった竜は知っているかもしれません。

 私はうずくまって湖になった竜を知りません。でも、大きな竜が死んだ後はたくさんの生き物が来て草木が生えるので、眠りについて森になった竜は知っているかもしれません。

 

 空にのぼって青い星になった竜について、ふしぎだなと思いました。

 五匹の竜の話とは別の石板に、空を駆ける真っ赤な箒星が描かれていたので、あれが青い箒星になって空を流れていく様を思い浮かべました。

 白いせかいというものについては分かりませんが、太陽のことは知っています。読んでいるときに、どうしてか炎の龍のことを思い出しました。

 

 白いせかいにいた人々は、私たちとは違うと思います。

 本当にたくさんの人が集まれば、物語に書かれていたように、陸や山、湖、森を作れてしまうかもしれません。

 でも、あの夜空に浮かんだ月まではどうやっても作れないように思います。ひとつの例えなのかもしれませんが。

 

 描かれていた絵も綺麗で、言葉の数は少ないのに、引き込まれる感じがしました。

 他の多くの物語がこの国やヒンメルン山脈をもとに描かれているのに、海や空のずっと向こうまで書かれていたので、空想でも凄いな、と思っていました。

 

 でも、あなたの手紙を読んで、見方が少し変わった気がします。

 あの物語が、あなたのいう世界の広さを正しく知った上で描かれていたのだとしたら、空想の中で生きているのは私たちかもしれない、という考えが浮かびました。

 

 私は遠征でもあまり海にはいかないので、思い出しながらですが。

 あの水平線の向こうに五匹の竜の話の島があるのかもしれないと思うと、ふしぎな気持ちになります。

 船ではとても行けなさそうだし、竜だって飛んでは行けないと思うのですが、前に戦った炎の龍と、あなたが戦ったという鋼の龍だけは辿り着けそうな気がしました。

 

 私は今、学徒としてヴェルドの街に入っています。でも、立て続けに命令が下されることの方が多いので、半年に二、三回行ければいい方です。

 私が物語の本や絵巻ばかり探すので、周りの人からは子どもを見ているような目で接されています。おかげで、正体がばれずに助かっています。

 

 今、私にはもうひとつ気になっていることがあります。

 気になることがあれば手紙にでも書いてくれとあなたは伝えてくれたので、書いてみようと思います。

 

 私は、私自身のことが気になって、図書館で手掛かりを探しています。

 でも、知りたいことを教えてくれる本はなかなか見つからなくて、私自身、詳しく何を知りたいのかが分かっていないこともあって、うまくいっていません。

 私は昔のことを覚えていないので、そのことを知れたらと思っています。

 けれど、いくつか本を手に取ってみても、私に知らない何かを教えてくれるばかりで、繋がってはくれないという感じです。

 

 たとえその本が外れでも、知らないことを知れるので受け入れることはできます。

 あなたが教えてくれたように、こうやっていろいろなことを知れば、いつかは網のようになって昔の私に辿り着けるのかもしれません。

 でも、どうしてももどかしい気持ちになってしまいます。だから、こうして文章にして書き出してみました。

 

 もし、またあなたと向き合うことになったとき、それがあなたを殺すためか、別の理由かは別として。

 もう少し、自分のことを知った上で。ただ任務をこなすだけ、と考えることを止めてしまわないようにしたいと思っています。

 

 西シュレイドの私の身の周りのことなんて、あなたは知る由もないかもしれませんが。

 私の名前、顔、髪色、剣捌き、あなたが暗殺される、あなたなりの心当たり。

 なんでもいいので、何か知っていることがあれば、教えてほしいです。

 

 もし何も思い浮かばなくても、大丈夫です。手紙には、またおすすめの物語を教えてください。

 昔の手紙のように、あなたの身の回りであった出来事を書くだけでもいいです。物語と一緒に、それを読むのが楽しみです。

 私がそれを楽しみにしていたということに、最近になって気が付きました』

 

 

 

「君がその手がかりを得られないのも道理だ。……東西シュレイドは過去の詮索そのものを禁じているからな」

 

 半年に一度、そしてまた、半年に一度。

 まるで季節の便りのように交わされてきた手紙の、最も新しい一枚を手に取って、ヴィルマは呟いた。

 その口角はやや上がっている。いつにも増して考えていることの読めない顔だと、彼の傍に立つ従者のアズバーは思った。

 

「シュレイドは決して歴史を語らない。かつて起こった出来事を見ない。何のためにそうしたかすら、誰にも分からなくなっている」

「何よりも、忘れ去られること、それ自体を重要視したからだ。……以前はそう話されていましたね」

「よく覚えてたな。お前には何度か話してたか。何年も調べていたが、推測の中身は変わらないままだったな」

 

 ヴィルマは便箋を指で捲りながら、アズバーの声に答えた。

 紙の質は昔と変わらず、こちらの方で何らかの修繕を行わなければ、ひとりでにぼろぼろになってしまいそうなほどにくたびれている。

 手紙の差出人の経済状況は差し置いて、上質な皮紙が手に入りづらい環境なのだろう。書きづらさもあるだろうに、根気よく向き合うものだ。

 

 初めて彼女からの手紙が来たときには、一枚の皮紙に何度も打ち消し線を引いた文字を並べながら、一言二言の文言が綴られていただけだった。

 今は、文字は小さくまとめられ、何十と行を重ねても文字列が曲がっていくことなく、誤字や脱字もそうそう見られない。ぱっと見では役人が書いたと偽ってもばれないだろう。

 それが数枚に渡って続いている。一通目から五年以上が経っていることを考慮しても、戦士である彼女がここまでの上達を見せるなんて、誰も想像できなかった。

 

 西シュレイドにいる彼の文通相手は、今までに実情を感じさせるような相談をしてきたことはなかった。

 そういった思いをそもそも抱かない人のように前は感じられたが、前の手紙辺りから、言葉を選ばずにいれば、彼女は次第に人らしくなっているように思える。

 であれば尚のこと、彼女の相談事に応えてやりたいのがヴィルマの心境だろう。

 

「アズバー、代々の従者であるお前の一族に、何か口伝のようなものはあるか?」

「あるにはありますが、大したものでは。従者としての心構えと主への恩、程度のものです」

「そうか、まあ現行の戒めでは物語の形にでもしていなければ、言い伝えることすら難しいからな。

 もしかしたら、かつて父や祖父の代にも西シュレイドからの刺客が現れていたのかもしれないが、今やそれを知る術はない」

 

 その頃となるとまだリーヴェルも街と呼べるほど人がいたわけでなく、隣接する西シュレイドに対しての人の軍の駐屯基地という面が強かった。

 さらにその前となると、東シュレイドの建国、発展の時代になってくるため、いよいよ誰も知らなくなってくる。

 存命の者が居らず、存命の間に語ることもせず、竜人族ともほとんど関わりを持たなかったために、伝承、継承という人ならではの技術はほとんど途絶えてしまった。

 この家系は何年続いているらしいとか、この城は何年前のものだとか、そういった大枠だけで中身のない逸話だけが虚しく残り続けている。

 この徹底した戒めによって、小国を取り込んだ後でも反発や反乱が起こりにくくなっているという利点もあるようだが、ヴィルマは損失の方が大きいと考えているようだった。

 

「それにしても、彼女の方から聞いてくるとは……話を切り出すとしたらどうするべきか悩んでいたが、手間が省けたな」

「これまでの話とはまるで風向きの違う話と顔色をされていますが」

「そうだな、その通りだ。推測を重ねたところで視野が狭くなるから話さないでいたが、事情が変わったな。

 あの燃えるような赤髪と碧眼は、ひとつの証拠足りうる。

 どちらの性質も国にはそれなりにいるから確証は持てないが、提示するくらいはしてもいいだろう」

 

 ヴィルマはそう言って手紙を置き、皮紙と筆を手に取った。返事の手紙を書く前に、どのように話をまとめるのか下書きをするつもりなのだろう。

 今回は珍しく、ヴィルマがリーヴェルの城にいる間に手紙が届いている。この機を逃す手はないとやる気を出してのことだったのだろうが。

 そこで、ほんの僅かにだけ、周囲の空気が揺れた。

 

「……?」

「お、気付いたか? 勘は鋭いんだな」

「歩いていたら気付きませんでした。ここのところ毎日なので、気になってしまっているところもありますが」

 

 地鳴りというには静かすぎる、風というには一瞬すぎる、まるで遥か遠くで轟いた雷の余韻が響いているような、そんな感覚だった。

 本当に小さな振動のため、気付いていなかったり気にしていない人の方が多い。

 これで空の向こうに雷雲でもあれば話は単純なのだが、快晴で辺りに雲のない日にも感じたことがあったので、アズバーは少しの気がかりを感じていた。

 

「一応調査は出してはいるが、あまり期待しない方がいい。出所が分からないから聞き込みをしているような段階だ」

「地揺れや山崩れの前触れでなければよいのですが」

「そうだな……その通りだ」

 

 アズバーの言葉に、ヴィルマは口数少なく答えた。何かしら考えていることはあるのだろうが、まだ話すべきではないと判断したのだろう。

 アズバーはそのことよりも、彼女の手紙を読んだヴィルマが終始、口元に小さな笑みを浮かべていることの方が気になった。

 ヴィルマは面白さを念頭に動きたがる人物だが、何を面白いと思うかはアズバーにも与り知らないところがある。

 

 今、微笑んでいるということは、彼にとっては面白いと思える状況だということだ。

 普段はヴィルマから話しかけられない限り口を開かないアズバーだが、今はもうひとつだけ問いたいことを優先した。

 

「以前、彼女は可能性の塊だと仰っていましたね」

「ああ」

「彼女が知りたがっていることの提示というのは、その可能性と繋がるものなのですか?」

 

 アズバーの問いに、ヴィルマはその表情を少しだけ深めて答えた。

 

「もし繋がってしまったら、それは彼女の運命と言う他ないな」

 






作中設定解説

【五匹の竜の話】
後世では新大陸発見の大本となる伝承。
伝承の全文については『五匹の竜の話』で検索のこと。
新大陸古龍調査団のエンブレムに用いられるなど、重用されている。
新大陸の調査拠点『アステラ』の星の船に、この伝承を模った『五匹の竜の間』が存在する。


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第20話 千夜一夜の興亡史

 

 見つからない。

 ただそれだけのことで、フレアは疲れを感じざるを得なかった。

 

 今日もフレアは城塞都市ヴェルドの図書館に足を運んでいた。

 先日まで遠征に行っていて、日にちは空いてしまっているが、回数だけならとうに両手の指で数えられる数を超えている。

 この施設の主は資料の収集に余念がないようで、来るたびに何冊か新しい巻物や石板が増えている。加えて年季もあるので、もともとの蔵書もかなり多かった。

 それ故に、毎回何かしらの期待を込めてフレアは足を運んでいるのだが、その期待にしっかりと応えてくれる本には未だ巡り合えてはいなかった。

 

 遠い隣国の彼の薦める、物語という分野に限ってはかなり詳しくなれているかもしれない。

 国を跨いで連なるヒンメルン山脈にまつわる信仰の本から、市井の民の恋物語に至るまで。

 さらには軍に招聘されて家を出たきり帰ってこなかった家族を悼む詩から、恐らく走竜だろう化物の襲撃を凌いだ村の英雄の話に至るまで。

 彼が話題に上げていた五匹の竜の話も含めて、多くの物語にフレアは触れて、読み解き、思い出に仕舞っている。

 

 物語もまた、フレアが進んで触れようと思っているもののひとつだ。彼への手紙の話題の種が増えると考えれば、読むことに時間を費やすのは苦にならない。

 けれど、それだけではフレアの知りたいことを満たすには足りないようだった。

 それは、フレア自身が知りたいことを明確にできていないからかもしれない。

 そう思うことは何度もあったものの、ここまで手がかりを掴めないと、どうしても残念な気持ちになってしまう。

 

 故にこうして、本や巻物の置いてある棚の前にフレアは立ち尽くしていた。

 粘土や木の匂いが入り混じる薄暗い広間には、ちらほらと人がいるものの、外の通りのような雑多な物音からは隔絶されている。まさに読み書きをする人のための場所だ。

 髪色を黒く染め、フードを被り、火傷を隠すために手袋を身に着けたフレアの姿は、一見して俗世を嫌う学者のようだ。

 それで声をかけづらい雰囲気になっているのなら、むしろ望むところだった。

 

 蔵書はその多くが盗難対策で鎖繋ぎになっているため、その場の机に広げて読むことになる。フレアはもう随分と長く、この場に留まっているような気がした。

 肩が凝っている感じがして、フレアはその場で何度か首を回した。最近になってようやく文字を読むということに慣れてきたが、やはり疲れは溜まってしまう。

 

 自分自身の過去に繋がるような記録や噂。フレアがこの図書館で探し求めているものだ。

 そういったものが図書館にないならないで構わないのだが、どうにもそこに違和感のようなものを感じてしまう。

 

 過去の出来事を順番に並べて説明していくものを歴史と呼ぶことを、フレアは別の本から学んでいる。

 フレアが探し求めている資料の分類はまさしくそれなのだろうが、それを探そうとすると、まるで突然崖にでも立ってしまったかのように手応えが途絶えてしまう。

 国の歴史も分かる範囲ではとても大雑把で簡単な説明しかなく、それよりも前となると絶無と言っていい。竜の存在をほのめかす本の方がまだ見つかるかといった程だ。

 知識は受け継がれていくものだと、フレアが読んだある本には書いてあった。だからこそ文字というものは大切なのだと。

 その教訓に倣って、技術書などはこの図書館を通じてしっかりと後世へ引き継がれているというのに、こと国や人のこととなると途端に口を閉ざされる。

 

 難儀なものだ。いったいどうしてこのようなことになっているのかすら分からないようでは打つ手がない。

 それは本当に蔵書としても『無い』のかもしれないし、あるいは数々の石板のように、市井の民には見せられないからと立ち入り禁止の区画に仕舞われているのかもしれない。

 一度ここの管理員の人にでも聞いてみた方がいいのかもしれないが、役人とほぼ同義の彼らにこちらから声をかけるのもなんとなく憚られて、足踏みのままになっていた。

 

 そうして、いろいろな事情を思い浮かべながら本の探索を続けていると、いつの間にか夕の刻の前鐘が遠くから鳴り響くのだ。

 本棚の置かれる部屋は窓があまりなく、空模様から時間を察することが難しい。しかしたしかに、天上を見れば西日が差し込んできているように見えた。

 今日はそろそろ切り上げ時かな、とフレアは思った。疲れを自覚したら、それに無理を重ねても話が頭に入って来なくなってしまう

 

 伸びをする、わけにはいかないので、軽く首を回して肩の凝りをほぐしてから立ち去ろうとする。

 そのとき、背後に人の気配がした。

 

「もし、そちらの方よ」

 

 声は少し遠い。すぐ傍に立たれたならフレアであれば気付くので、忍んでいるわけではないようだ。

 フレアに話しかけているのはほぼ間違いないだろう。ここから無視して立ち去ればむしろ怪しまれてしまうので、素直に本を置いて振り返った。

 

「私ですか」

「うむ。熱心に勉強をしているようだから、気になってしまってね」

 

 フレアはその人の姿を見て、思わず眉を上げた。フレアはあまり背が高くないにもかかわらず、その声はフレアの目線の下で発されていたからだ。

 小柄な体に丸く曲がった腰。ほとんど頭巾で隠されているが、耳が長く尖っている。

 竜人だ。ヴェルドの街にもいるとは思わなかった。フレアはほとんど見たことのないので、ついじっと見つめてしまった。

 

「学術院の学生さんかね?」

「……いえ。学術院を目指している、学徒です」

「なるほど。君のような者が学びに来ているのは喜ばしいことだ」

「……あなたは?」

「おお、すまん。儂としたことが自己紹介もしないとは」

 

 老いた竜人はその頭をとんとんと叩くと、少し咳払いをしてから話した。

 

「儂はアイハル。古龍占い師のアイハルじゃ」

 

 フレアは今度こそ分かりやすく驚いた。古龍占い師。

 かつてのフレアであれば聞き覚えのない言葉だっただろうが、学術院に入るための勉強をした今は違う。彼らが国の賢者と呼ばれる人たちであることを、今のフレアは知っていた。

 素直に名乗り返しても良いものか。偽名を使うこともフレアは考えたが、彼からはフレアを警戒したり詰問するような気配は感じない。

 フレアは自身の直感を信じることにした。それに、彼が賢者なのであれば、この場で聞きたいことがある。

 

「私は、フレアといいます」

「うむ。もし学術院の学者であればフレア女史と呼ぶところだが、学徒ならばフレア君と呼ばせていただこうか」

 

 物腰柔らかな竜人の翁の話し方は、フレアの声色が少し強張っていることを感じ取ってのものなのだろう。もしくは、彼の元来の雰囲気なのか。

 紫色の衣をゆったりと襟に巻き、近眼用か、片眼鏡をかけたその姿は、一見して偉い身分とは思えない。それが逆に竜人族らしいと言えるのかもしれなかった。

 

「……私、今、あることを調べていて」

「話してみるといい。儂から話しかけたんじゃ。手伝えることであれば手を貸そう。見たところ、文学に興味を持っているようだが」

「物語を読んでいるのには別の理由があります。私が本当に知りたいのは」

 

 これはまたとない機会だ。一生で出会わない人が大半だろう希少な竜人族と話せる場面なんて、今後巡り合えるかも分からない。

 故にフレアは迷わなかった。老いた彼にも聞こえるように、はっきりとした声で伝えた。

 

「この国の歴史と、竜と、十数年前の出来事について知りたいんです」

「……!」

 

 言い切るか否かの間際に、アイハルというその竜人の目がはっと開かれたのをフレアは見た。

 彼はフレアに対し、待て、とでもいう風に手のひらを突き出すと、焦った様子で周りに目を向ける。次いで、二人以外の話し声や足音が聞こえないか、耳をそばたてた。

 その剣幕にフレアも黙ってアイハルの様子を見守る。しばらくして、周りに誰もいなかったことを確認したらしい彼はふうっと息を吐き、先ほどよりもずっと声を潜めて話し出した。

 

「君、とんでもない質問をするね。儂の学者人生の中でも、類を見ないような切れ味だ」

「それは、どういうことですか」

「そうだな。そうだろう。信じられないことだが、知らないからこそあそこまではっきりと言及することができたということじゃ。……ついてきなさい」

 

 アイハルは最後に一言だけそう言うと、素早く踵を返してフレアを促す。

 フレアは少しばかり逡巡したが、すぐに手荷物をまとめてアイハルへとついていった。彼の指示に従わない選択はなかった。

 先ほどの会話を聞いていた者がいなかったか、アイハルは図書館を一通り回って入念に確認した後に、建物の外へ出た。

 

 竜人が滅多にいないこの街で目立たないようにするためか、アイハルもまた外では外套を羽織っていた。フレアと併せてフードの二人組だ。

 通りで衛兵に呼び止められなかったのは幸運と言えるだろう。尾行などがないか、フレアはそれとなく気を配っていたが、そういった気配は感じられなかった。

 

 通りを抜けて、路地裏へと入り、何度かそれを繰り返す。城塞都市ヴェルドは王城を中心にして同心円状に街や通りが広がるため、曲がり角や小さな道も多い。

 ずいぶんと歩かされている。既に日も暮れてきていて、帰りはだいぶ遅くなりそうだ。

 土地勘もないので、道に迷ってしまうかもしれない、などと、今の状況とは見当違いなことを考えながら、フレアはアイハルの後を追っていた。

 

 やがて行き付いたのは、木々が林立する雑木林のような区画だ。

 街の中にこういった自然があることにフレアは驚いた。わざわざ人の手で植林したのか、街路樹の規模を越えて、ちょっとした森のようになっている。

 そこは壁内の人々にとっての憩いの地となっているのだろう。散歩をしたり石段に座ったりしている人の姿を垣間見ながらも、アイハルは黙々と進んでいく。

 雑木林の中の小道は何度も枝分かれし、時折現れる石畳が足跡を追わせにくくする。限られた空間に作られた迷路のような構造だ。

 手練れた足取りで小道を歩んでいたアイハルは、やがてようやく足を止めた。フレアが顔を上げると、そこだけは木々が途切れて、小さな丸太小屋が建っていた。

 

「儂の仕事部屋にようこそ。とはいっても、ほとんど空けてしまっているがね」

「……」

 

 アイハルは小屋の扉を開けると、部屋の中へフレアを招き入れた。

 フレアが中へ入ると、埃っぽさと紙、そして香のような匂いが漂ってきた。所狭しと物が置かれて、人が三人も入ればもういっぱいだろう。

 家具や什器は竜人の体格に合わせてか、少し小さめになっている。背の低いフレアは特に問題ないが、それこそヴィルマなどは居心地が悪いかもしれない。

 

「急なことで驚いただろう。よく何も言わずに付いてきてくれたね。飲み物を用意するから待っていなさい」

 

 アイハルはそう言って、暖炉に火を入れ始めた。

 それなりに歩いていたはずなのに、息が上がっている様子はない。この部屋はあまり使ってないと言っていたし、彼もまた外に出て探索に勤しむような人なのかもしれない。

 やがて差し出されたのは、熱い茶だった。先にアイハルが少し飲んで、問題ないことを示してからフレアに渡す。

 その仕草はたしかに、西シュレイドの王族や貴族と交流があることを示していた。

 

「それでは、改めて自己紹介をしようか。さっきは手短なままに済ませてしまっていたから。

 儂の名はアイハル。古龍占い師じゃ。古龍占い師のことは知っているかね?」

「はい」

「ほう。君のような学徒が儂の職業を知っているというのは、かなり珍しいことなんだが、どういう経緯で知ったのか教えてくれないかね」

「……」

 

 自分の本当の身分を明かすべきか、フレアは黙って少しの間考え、判断を下した。

 

「あなたたちの占いで、炎の龍と戦いました」

 

 少し遠まわしだが、明かそう。恐らく隠し通せるものではない。

 古龍占い師とフレアでは、あまりにも接点が多すぎる。

 

「炎の龍……それはもしや、六、七年前のあの焦土の決戦かね」

「はい」

「なんと、君は軍人だったのか! それも、あの戦いの生き残りとは」

 

 ひとしきり驚いたアイハルは、あのとき、炎の龍の出現を占ったのは儂なのだ、と明かした。

 偶然の繋がりではあったものの、その事実はフレアを驚かせはしなかった。

 古龍占い師、すなわち竜人はあまりに希少だ。アイハルから職を聞かされた時点で、そういうこともあるかもしれないとフレアは思っていた。

 

「あの戦いで前線に出ていた兵士たちはほとんどが命を落としたと聞いたが、君は後方支援を担当していたのかな」

「いえ、前線に出て、あの龍とも直に戦っています」

 

 実際のところは、あの熱気を前に手も足も出ず、最後に僅かに抗っただけだが。

 今でもフレアは、あのときの消し炭になりそうなほどの熱波と、夥しい数の兵士の亡骸が積み上がる光景を思い出すことができる。

 

「フレア……そうか、フレアという名だったな。まさか君がそうなのか? 赤髪の女だったと聞いていたんだが」

 

 そこまでの話は城壁の内側でも出回っているのか。いや、彼だから知り得ているような噂話なのかもしれない。

 変装のために髪を黒く染めていることをフレアは思い出した。フードは既に脱いでいるが、髪色で繋がらなかったのだろう。

 フレアは自分の指につばをつけて、髪をひとつまみして指の腹で何度か擦ってみせた。

 しばらくすると黒色の染髪料が少しずつ解れ、一部分だけだが地毛の赤色が露わになる。

 今まで半信半疑といった様子のアイハルだったが、それでようやく合点がいったようだった。

 

「なんとも奇特な縁もあったものじゃ。戦場や辺境の地でならともかく、よもや図書館で相まみえるとは。

 つまり君は、二年前の黒の獅子との戦にも立ち会っているのかね」

「知っているんですか?」

「うむ。儂ら古龍占い師に東西の垣根はそうそうないからの。その様子では、やはりやり合ったことがあるのか。

 あの龍は占うのが極めて難しいモノでな、後手後手に回ってしまって、東シュレイドの兵士たちを災難な目に遭わせてしまった」

 

 そんなアイハルの話を、フレアは不思議に思いながら聞いていた。

 フレア自身の交友関係がほとんどないということもあるが、特に竜の話については、ヴィルマ以外の誰も進んで話をしてくることなどなかった。

 こうして兵士や戦士でない者が、それも、国の内情に詳しそうな人物が竜や龍の話をするのは、その道理が通っているものであったとしても、なかなか想像しがたいものだった。

 

「いやはや、龍と渡り合う女性とはいったいどのような出で立ちかと考えていたが、外見は市井の婦人と変わらんではないか……。

 もし、よければだが、炎の龍や黒の獅子との戦いについて、話してみてくれないかね。

 儂らは遥か空の向こうで強大な生き物たちの気配を占うばかりで、この目で直に見ることは全く叶わんのだ」

「それなら、私のことを国の人たちに秘密にしてくれますか」

「無論だとも、何かしら事情があるのは間違いない。安心しなさい。儂ら竜人はたしかに多くを知っているのかもしれないが、おかげで政にはほとんど立ち入れぬからの」

 

 そう言うアイハルにフレアは頷き返し、かつての戦いについて思い出しながら話をした。

 昔であれば、当事者であるにもかかわらず、二言三言くらいしか話せなかったかもしれない。使える言葉の数がとても少ないので、頭に思い浮かべることの欠片ほども伝えられなかった。

 しかし今は、思った以上にたくさんのことを、時間をかけて話した。

 フレア自身、そのことを意外に思った。それはきっと、手紙というものを自分で書くことによって、伝えるべきことを自分で考えるようになったから身についた話術だったが、フレアは無自覚なままだった。

 

 フレアが話している間、アイハルは真剣な表情で耳を傾け、時おり質問も交えながら、すらすらと筆で内容を書き留めていた。

 龍の出現を何月も前から言い当てるという予言者のような人が、ひとりの戦士に過ぎないフレアの話を真剣に聞くというのは、なんとも不思議なことのように思えた。

 

 一通りを話し終える頃には、既に日は沈み、夜空の星がはっきり見えるようになっていた。

 この対話はとても長いものになる。話の途中でそう悟ったフレアは、既に次の日に帰る算段を立てていた。サミが心配するかもしれないが、一日程度であればよくあることだ。

 

「ありがとう。今の君の話で、儂はたくさんの学びを得ることができた」

「どういたし……まして?」

 

 私の話なんかがあなたのような人の役に立つのか。

 フレアが正直に思ったことを話すと、アイハルは朗らかに笑ってみせた。

 

「儂なぞはしがない学者に過ぎぬよ。この大地が今に至るまでにかけてきた年月からすれば、人も竜人も些細な違いにしかならん。

 儂ができるのはせいぜい、国に助言をして、学びの道を目指す者を図書館に迎え入れるようにした程度じゃ」

 

 アイハルはそう言って目配せをした。思いがけないところで合点がいった。

 図書館の入館基準を緩くしたのはアイハルだったのだ。この様子だと、城門の検問所の立ち入り基準にも何かしらの影響を与えたのかもしれない。

 学徒という元来の身分に左右されない立場とはいえ、学術院に入ったわけでもない者を例外的に壁内に入れるというのは、サミが疑問を抱くほどに寛容なものだった。

 それらが目の前の老人の手引きだとしたなら納得がいく。アイハルの俗世離れした柔和な雰囲気からは、西シュレイドの強烈な差別意識に染まらない意思が感じられた。

 

「ありがとう、ございます。私のような人を、図書館へ迎え入れてくれて」

「はは、これは恩着せがましかったな。むしろ礼を言うべきは、貴重な話を聞くことのできた儂の方だというのに」

 

 好奇心に従うがままに話をどんどん脇道に逸らしていくのは儂の悪い癖だ、とアイハルは頭を掻いた。

 フレア自身も、そういえばそうだったと思ってしまうほど、先ほどまでの話は白熱していたようだ。

 しかし、おかげでフレアとアイハルの間にあった初対面の壁はだいぶ取り払われたように思えた。主だって壁を築いていたのはフレアの方ではあったが。

 そういう意味では、これは悪くない前置きだろう。より腰を据えてこれからの話ができるなら、これまでの過程の話は無駄にはならない。

 

「それでは早速だが、君はこの国で歴史そのものが禁忌として扱われていることを知っているかね?」

「……いえ」

「そうか。学術院の勉強をする中で、気付かなかったのは意外と言うべきか、いや、試験項目にも入ってこない以上、実はあり得ることなのかもしれぬな」

 

 君をここまで連れてきた理由がそれだよ、とアイハルは続けた。

 もし、図書館でのフレアの話を市井の人々に聞かれたら、衛兵にそれを伝えられて、たちまち捕まってしまうそうだ。

 実際には、フレアもなんとなく知っていたことではあった。試験の勉強をしているときにサミからそれらしきことを聞いていたのだ。

 ただ、その禁じの程度がここまで深刻であるとは思っていなかった。

 フレアがサミに自身の目的について話していないので、サミも詳しくは話さなかったのだろう。それに、サミは獣人族なのでこの辺の事情には詳しくないかもしれない。

 

「たとえこの国で歴史を紐解くことの重大さを知らなかったのだとしても、そのために勉学に励んで図書館へ入る身分を得るというのは相当なことだ。

 よければ、どうしてそこまでの志を持ったのか教えてくれないかね」

「私は……」

 

 核心を突く問いに、フレアは僅かに言葉を詰まらせた。

 いや、今更迷うことはない。自分の名や職分を明かした以上、この人を手掛かりに知りたいことへ近づくと決めたのだ。

 

「私は、自分がどうして今の状況にいるのかを知りたいんです」

 

 フレアはアイハルに、ここに至るまでの経緯を語った。

 物心つくより前のことを、ほとんど忘れてしまっていること。今の名前すら本来のものか分からないこと。

 西シュレイド王室の無茶な依頼が絶えないこと。それに忠実に従い続ける自分のこと。

 昔の自分について知るために、図書館で調べ物をしていたこと。けれども、肝心の歴史に全く辿り着けず、途方に暮れていたこと。

 

 なるべく多くのことをフレアは話したが、唯一、ヴィルマの暗殺任務と、その彼と文通をしていることについては話さなかった。

 ヴィルマは一応、異国の要人だ。彼は気にしないかもしれないが、自分から話すことはなるべく避けた方がいいだろう。

 

 アイハルは始めの方は相槌を打ちながらフレアの話を聞いていたが、途中からは眉を顰め、さきほどよりも深刻そうな表情をしていた。

 それでも話を遮ることをしなかったのは、単純にフレアの話に合わせてのものか、彼の中で何かしらの懸念があったのか。

 フレアには初対面のアイハルの内心など推し量れるものではなく、そのまま話し終えるまでアイハルに気を遣うことはしなかった。

 

 口が疲れている感じがする。先ほどの龍の話に引き続き、一時の間にこんなにたくさん話したのは初めてのことだったかもしれない。

 ふと口に含んだ茶は既に冷めきってしまっていた。いつの間にか夜は更けている。

 

「赤い髪に青い瞳、そしてフレアという名前……。なるほど、そういうわけか。今ここに至ってようやく気付くとは、儂も耄碌したものよ」

 

 アイハルは深くため息をつき、フレアの顔をじっと見た。彼はフレアよりも背が低いため、見上げるようなかたちになる。

 対してフレアは、アイハルの呟きに全くと言っていいほど心当たりがなく、首を傾げるしかなかった。

 けれど、少なくとも、何らかの手応えがあったことは間違いなさそうだ。むしろ、ここまでの反応をされるとは思っていなかった。

 

「フレア君。君に歴史がどうこうと説くことは止めにしよう。

 明確に伏せているのは国なのだろうが、君が疑問を抱いてしまった以上、事実を知る権利が君にはある。そう儂は思うのじゃ。

 今でなくとも、いずれ知ることにはなっていたはず。そうならば、今ここで明かすのが最も穏便なようにも思えるしの」

「私は……私に、なにかそこまでのものが?」

「ああ。()()()()()()()じゃ。それでも聞いていくかね?」

 

 アイハルは今、フレアには権利があるといった。つまり、知らないままでいることもできるということだ。

 ここに来たのも半日前のことなのに、と思えなくもなかったが、急に告げられる理不尽な任務然り、かつての手紙然り、急な出来事には慣れている。

 

「教えてください。私の過去について、思い当たることを」

 

 もし、またヴィルマを殺しに行くことになったときに、別の任務で死にそうになったときに。自分で振り返って、判断ができるように。

 自分の中での納得を求めて、フレアはここまでやってきたのだ。

 

「相分かった。ではまず、君の出自を明らかにしよう。……君は、黒龍伝説を知っているかね」

「こくりゅう? 黒い龍という意味ですか」

「そうだ。伝説の名を、ミラボレアスという。古くは運命や戦い、災いといった概念を指す言葉だ。龍という名がついてはいるが、実態は何らかの現象とされておる」

 

 このことは決して誰にも言ってはいけないよ、と、アイハルは念を押した。

 フレアは誰かに言いふらせるほどの人脈を持ち合わせてはいない。そこに関しては問題ないだろうが、フレアは今、それどころではない違和感に襲われていた。

 

 ミラボレアス。初めて聞く言葉だ。初めて聞く言葉であるはずだ。図書館の本や巻物で読んだ覚えもない。

 だというのに、どうしてかざわざわと鳥肌が立つ。まるでその言葉が身体に染み込むかのように、肌や胸の内が冷える。

 それは、炎の龍や金の獅子といったような、圧倒的な存在から睨みつけられたときの恐怖に似ていた。

 

 手袋に覆われた腕を、無意識に擦っていることに気付いたのだろう。アイハルは見込んだ通りとでもいう風に頷いた。

 

「君であれば、聞き覚えがあるはずなんじゃ。表面的には忘れていても、深層の部分でしっかりと覚えているだろうと思う」

「これは、私の……」

「そう、君が幼いときに聞いたであろう物語だ。そして、東西シュレイドがもっとも忘れたい過去であり、歴史を封じるに至った元凶だとも」

 

 本や巻物はすべて焼かれた。石板は砕かれ、遺跡は打ち壊され、口伝すら厳しく取り締まられた。

 アイハルが語る国の取り組みは執念すら感じるものであり、彼がそれを知っているのは、ひとえに竜人であるからなのだろう。今に至り、一般の人々でそれを知る者はほぼ絶無だ。

 そんな伝承を、アイハルは半ば確信を持って、フレアは知っているはずだと語った。そしてフレアは、知らないはずなのに知っているような反応を返している。

 フレアが考え得る限り、市民が知らないことを知れる立場というのはひとつしかない。

 

「私は、西シュレイドの王室と関係が……?」

「あるにはあるのだろうな。申し訳ないが、そこの詳細は分からなんだ。

 儂が語れることは、君が生まれるよりずっと前の、君の根源に関わるところの話じゃ。君の記憶については、そこから付随して思い出せるように君自身が取り組むしかないだろう」

 

 軽く動悸がする。フレアは擦っていた腕をぐっと掴んだ。

 こういうとき、かつてのフレアは、誰の手や裾を握っていたのだろう。今、誰にも頼ることのできないフレアは、本当は誰と共にこの話に臨みたかったのだろう。

 どうしてか、いつかの戦場での、ヴィルマの顔が思い出された。

 

「正直なところ、人に疎い儂から見ても、今の君と西シュレイド王室との直接的な繋がりなぞ、ごくごく浅いものだ。因縁は深いかもしれんがな。

 言ってしまえば、今の王室、王族は歴史の簒奪者であり、君の一族は歴史の証人足り得る。君たちに限っては黒龍伝説を絶やさないだろうからね」

「……教えてくれませんか。あなたからみた私は、何者なのか」

「ああ、いいとも」

 

「フレア君、君は、今は無き古シュレイド王国の王族の末裔であり、王位継承権保持者だ。

 東西シュレイドの間に佇むシュレイド城が、一夜にして焼け落ちていく様を見ながら逃げ延びた一族のひとつ。

 赤い髪に青い瞳、焚書によって絶えた伝承に語られていた亡命者。

 その子孫が、恐らくは君だ」

 






作中設定解説

【竜人族】
人間(人族)とは異なる種族の人。獣人族(アイルーやテトルー)とは区別されている。
人間より遥かに大きな背丈の者もいれば、大人の腰ほどの背丈の者もいる。その他、様々な身体的特徴を有する。
また、一部もしくは全部が長命であり、それ故に人間とは価値観や文化が異なっている部分がある。
人間との交流は長らく限定的で、人間社会に溶け込むような事例は最近になってからのことである。
逆に人間と関わりを持つ竜人は、その特性を活かして学者や村長などの要職に就くことが多い。


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第21話 火花が散って

 

 今より、何百年も昔。

 空に限りなく近い山(ヒンメルン)と西竜洋に囲まれた広大な土地に、ひとつの国が建ちました。

 竜が入り込めず、人々が栄え、長きに渡る隆盛を誇ったその国を、シュレイド王国といいました。

 

 小国の群雄割拠をまとめあげたシュレイド王国の基盤は揺るぎなく、人々は歴史を紡ぎ、街は豊かに発展していきました。

 遠くヒンメルン山脈の麓から水を運ぶ水道橋。うなりをあげる蒸気機関。石畳や城壁も堅牢なつくりで、誰にも打ち破れない王城は権力の証とされました。

 

 王都では盛んに兵器が作られました。ヒンメルン山脈の向こうには、あるいは西竜洋の向こうには、幾多の竜が息づいていることを人々は知っていたのです。

 竜麟を打ち崩す大砲に、火薬を用いて弾を飛ばす弩、さらには巨大な鋼鉄の槍に至るまで。

 それらは時に、王国の支配に従わない人々に対しても振るわれました。圧倒的な力を前に、太刀打ちができる者は誰もいないとされていました。

 

 王都から離れれば耕地が広がり、西と東で異なる気候をもとに農耕も発展していきました。

 さらに王都から離れた地は辺境と呼ばれ、国が遣わせた防人たちが、国土の外から竜や獣が入ってこないように、厳しく見張りをしていました。

 

 そんな人の楽園では、人の楽園であったからこそ、権力を巡った争いが絶えることはありませんでした。

 シュレイド王国が滅びるとすれば、それは王族同士の争いの果てにあるだろうと噂されるほど、陰謀は渦巻き、派閥争いは熱を帯びていきました。

 

 王族の歴史は古く、世襲制を何代も続け、王の血を継ぐ親族が増えて、家系図は枝葉のように広がっていました。

 親族たちの家には役職が与えられ、それは年を経て伝統と化しました。

 農業や公共事業を司る家、文書や学問を管理する家、税金や金融を取り扱う家、地方の貴族を監視する家など、役職は多岐に渡りました。

 

 そんな中、国外の竜に対抗するべく、兵士や戦士を束ねる役職の家がありました。

 それは人を相手取る軍人とは別枠で扱われ、最も位の高い血筋ではないものの、正当な王位継承権を有する武家が代々取り仕切っていました。

 彼ら自身もまた戦士の一族であり、その優れた武でもって竜との一騎打ちにも勝利し、剣闘士としても国の民を喜ばせる存在でした。

 

 対して、竜という強大な生き物を如何にして己の手中に収めるか、そういったことを模索する一族もありました。

 飛竜の背に乗り、彼らの吐く炎を自在に操ることができれば、シュレイド王国はさらなる躍進を遂げる。そんな野心が彼らを突き動かしていました。

 また、人の数の利や対竜の兵器を活かして竜を封じ込めることにも長けていました。それもまた、竜を利用するために必要な手段でした。

 

 二つの武家は共に竜による災害から国や人々を護り、時に人の支配域を拡大するための先駆者となる者ではあったものの、互いの仲は良好ではなかったようでした。

 片や竜を自らの手で撃ち滅ぼさんと戦う者であり、片や竜を用いて竜を制しようとした者であるため、目指すところがまるで異なっていたのでした。

 彼らは先祖に同じ血を分け合う者でありながら、時にぶつかり、殺し合いまでしてみせるほどでしたが、その血に濡れた争いが決着することはついにありませんでした。

 

 この二家のみならず、例えば大侯爵同士の権力争いだとか、兄弟姉妹の確執だとか。

 暗殺や毒殺は珍しいことではなく、日々権謀術数が繰り広げられ、それはまるで絡み合いながら共食いをする竜のようでした。

 それはいわゆる政治の腐敗と見なされるものでしたが、それでも体制が揺らがずにいたのは、ひとえにその豊かな資源と国力の賜物といえるものでした。

 

 シュレイド王国は、まさに人の栄華を極めた国のひとつでした。

 シュレイド以外にも、火の国や密林の国など、様々な国が興っては、疫病や内乱、あるいは竜や龍によって滅んでいく中で、一際輝いた文明と言えるでしょう。

 そして、沈むことはないとされた大国の落陽もまた、あるいは人という種そのものの歴史に影響を与えるほどの鮮烈さをもって迎えられることとなります。

 

 シュレイド王国は閉ざされた国であり、人と異なる容姿の竜人族が土地に入り込むことはありませんでした。

 それ故に、彼らは竜人に頼ることなく、独力で学問を立ち上げ、継承を重ね、技術を身に着け、そうして竜や龍を量ろうとしていました。

 故に、あるとき起こった異変についても、彼らは彼らなりに、備えや解析を懸命に行っていたのでした。

 

 まず、小さな地響きが何度も聞こえるようになりました。

 次いで、王都の近郊の森やヒンメルン山脈の麓でぼやや火災が起こるようになりました。

 辺境で竜の動向を見張っていた兵士たちは、いつの間にか、その竜たちがすっかりいなくなっていることに気が付きました。

 遠方を除いた王国のほぼ全土が厚い雲に覆われ、日照不足によって深刻な飢饉が起こりました。

 決して触れてはならないと言い伝えられていた、いくつかの禁足地にいる龍という生物もまた、姿を見せなくなっていました。

 

 立て続けに起こった異常気象に、民は大いに恐れおののきました。

 いったい何が原因でこのようなことが起こっているのか分からなかったものですから、対策のしようがなかったのです。

 避難をしようとも、西竜洋とヒンメルン山脈に阻まれてしまいます。

 むしろ、これらの凶兆は他所の土地から訪れているという噂が広まり、地理的に国土の中心に位置する、王都へと多くの国民が詰め寄せる始末でした。

 

 混乱の中で、王都の人々も、国の要人たちも、民衆に構っている余裕はありません。

 『何か』が起こったときのために、あらゆる備えをすることで躍起になりました。

 王都の城、すなわちシュレイド城には様々な対竜兵器が配備されました。兵士を総動員し、王都や王城、または辺境の守護に当たらせました。

 貴族や王族たちは、この騒ぎに乗ずるものから逃げ出すものまで様々でした。

 王都を離れるということは、持っていた権力や財を手放すということであり、それに、王都が最も安全とする見方も多かったので、王城に留まる権力者も多くいました。

 国王が民衆の支えとして居座ることを選んだのか、あるいは保身のために居残ったのか、今となっては定かではありません。少なくとも、彼とその肉親もまた城に留まることとなりました。

 

 そうやって一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一月が経ち。

 やがて、そのときがやってきました。

 そして、過ぎ去る頃には全てが終わっていました。

 

 その日、シュレイド王国は『消えた』のでした。

 

 王都や王城で何があったのかは、実は何も、誰にも分かっていません。

 『何か』があって、恐らくは滅んでしまったということだけ、はっきりしています。

 

 立ち込めていた雲が一際暗くなったその夜、シュレイドの王都からの音が途絶えました。

 その音とは人の声であり、兵器の筒音であり、あるいは灯火でもあり、そういったものが全て、一切なくなってしまって、あるのはほの暗い赤と静寂だけになりました。

 どうしてか、逃げ出した民衆もほとんどいませんでした。かろうじて暗がりから抜け出した幾人かも、酷く錯乱していて話になりませんでした。

 

 故に、ミラボレアスという物語は、黒龍伝説は、始まりもしないうちに途切れるのです。

 それが地震や大雨といった天災によるものなのか、民衆と王族など、人同士の戦争によるものなのか、竜や龍、あるいは疫病、少なくとも生物によって引き起こされたものなのか。

 生物に因るものだとして、どうして国の中枢である王都だけが呑まれたのか、突然そこに現れるような真似ができるのか。

 ひとつの都市、それも一国の首都が一夜にして陥落するという異常事態の要因なんてものは、学者たちですら皆目見当もつかなかったのです。

 

 分かっているのは、その後のシュレイド王国はすぐに崩壊したということだけ。

 シュレイド王国は集権的な国でした。国の運営のために必要な機能も、技術も、知識も、あらゆるものは全て王都に集められていました。

 政の一切が行えなくなっただけでなく、国民の数割にも及ぶ人口が消息を絶ち、王位継承権を有する王族もそのほとんどが音沙汰を無くしました。

 

 王都の奪還を試みる者もいましたが、いつの間にか王都には不気味な翼竜を始めとした竜や獣が押し寄せていて、兵を送っても誰も帰ってこない死地と化していました。

 王都を中心として、その近辺は誰も近寄れなくなりました。国土は西と東で二分され、行き交うことができなくなりました。

 

 地方に留まっていた人々、あるいは辛くも逃げ延びた人々は、西と東のそれぞれが生き残っているかも知らぬまま、命を繋ぐとこだけを考えるしかありません。

 西では、王族ではない地方貴族が突然王になることを宣言しました。混乱の中、先導する者を求めた民衆はその宣言を受け入れて、西シュレイド王国が建てられました。

 東では、統率する者が現れることはなく、かつての民族や地方貴族が小国のようになって小競り合いを続け、後世で東シュレイド共和国というかたちにまとまっていきました。

 

 両国の文明は明らかに衰退しました。もはや民に十分に食べさせることすらままならない始末でした。

 農耕の技術や、農作物の種や苗。竜と戦うための龍鉱石の精錬方法。火薬の調合や兵器の使い方。王国の歴史と詩。暦や国の運営方法。一国の、文明の全て。

 現物はおろか、これらの知識に関わった人までもが軒並み消えてしまい、その喪失による衰退に歯止めをかけることはできませんでした。

 

 東西のシュレイドがそのまま滅びずに踏み止まることができたのは、厄災や竜の侵入が旧王都の周辺に留まっていたからでした。

 けれども、それによって、再興した二国は互いの国境に深刻な爆弾を抱えることとなります。

 いつ、旧王都から竜たちが押し寄せてくるかも分かりません。生きるためなら故郷を捨てることもやむなしですが、外の大地もまた人の領域ではなく、竜に抗する技術は失われたため、丸腰も同然の流民となってしまいます。

 そのときから、シュレイドの地は人々を閉じ込める牢獄と化しました。

 

 東西シュレイドの統治者たちはあまりにも重い決断を迫られました。

 命の危険と地続きであるという恐怖は、民衆を恐慌へと陥らせるのに十分な重圧を与えます。旧王都の不気味な状況が噂となって広まるのは時間の問題でした。

 このままでは、苦労して立ち上げた新体制はすぐに瓦解してしまいます。ぐずぐずと悩んでいる時間はありませんでした。

 

 そうして、()()()()()()()()()()()()取り組みが始まりました。

 ミラボレアス、あるいは黒龍伝説はけっして語ってはいけない禁忌となりました。

 緘口令を敷くだけであれば、噂として水面下でいくらでも広がろうものでしたが、口にすれば呪われ、旧王都と同じ命運を辿るという恐怖と紐づけたことで、誰もが律義に口を閉ざしました。

 旧シュレイド王国に関する図書や歴史書は手当たり次第に焚書されました。ミラボレアスに関わってはいけないという暗黙の了解に繋げてしまえば、実に効率的に事は進みました。

 もちろん、口伝や民謡とすることも禁じられました。当代の記憶にのみ留めて、子孫へとそれを伝えないという操作が徹底されました。

 

 シュレイドの地図は書き換えられ、旧王都は歴史的にも地形的にも無かったものにされ、架空の峰と断崖によって禁足地として語り継がれるのみとなりました。

 外の大地の調査も打ち切られ、疑似的な鎖国も行われました。

 旧王都だけでなく、竜や獣という存在への認知も薄れさせることで、気付きや関心、違和感すら覚えさせないようにしました。

 王都の人々が軒並み消えたというのも、ある意味では効果的にはたらきました。

 地方の集落に住む人々にとっては、支配体制が変わっただけでそこまで固執することもなかったのです。

 

 人の手では決して届かないであろう、厄災と共存しながら生きる術。

 その答えは、厄災のそれ自体を忘れ、決してその方向を見ないというものでした。

 

 取り掛かった年月に違いはあれど、東シュレイドと西シュレイドは、互いに連絡を取り合う手段がなかったのにも関わらず、驚くほど似通った回答を出しました。

 それはある意味では、彼らは共通の祖国から分離したのだということをはっきりと示していたのです。

 

 旧王都の厄災の後に生まれた二世代目は、旧シュレイド王国のことを朧げにしか知らないままに、次の世代でその断片すら途切れさせるという盟約を課せられました。

 三世代目の、当事者が祖父母となる世代では、もはや語るべきでないものが何かすら分からないようになりました。

 そうして、当時を知る者が全てこの世を去って代替わりとなったとき、人々の記憶からも、ミラボレアスという伝説は消え去ったのでした。

 

 ……西シュレイドと東シュレイド、それぞれの国の体制に下った人々の記憶から、黒龍伝説はかき消されました。

 けれど、どのような事象においても、それが種の絶滅などではない限り、遍く同族の全てを巻き込むということは叶わない理想であることが多く。

 例外というものは、どの時代、どの出来事においても起こり得ます。

 

 旧王都が沈黙したその日、民衆を含めたほぼ全ての人々が逃げ遅れては巻き込まれていく中で、辛うじて逃げ延びていた人々がいました。

 彼らの中でも、誰の助力を乞うでもなく、遠くへ遠くへと逃げていった者たちは、新体制の政府や王室であったとしても観測できない存在となりました。

 皮肉にも、そのような逃避行をやり遂げることのできたのは、ミラボレアスという厄災に真っ向から立ち向かった武家の者でした。

 初めの蹂躙の後に押し寄せた、竜や獣の群れに対して突破口を開くことができたのは、それらと戦うことができる者に限られたのです。

 

 王族に近しい武家と言えど、生き残りはそう多くはありませんでした。

 かろうじて子どもを連れだすことができた程度で、それだけでも多くの仲間が犠牲になりました。

 けれども、唯一彼らだけが、逃避行の道中で旧王都を振り返り、その滅びゆく過程と、『何か』を目にすることができていました。

 

 東シュレイドと西シュレイド、それぞれの領地へと逃げ延びていった王家の親族たちは、彼ら独自の黒龍伝説と、シュレイドの性を細々と引き継いでいきました。

 そのうちのひとつが、先に語られた竜戦士の一族。しなやかで強靭な肉体を有し、蒼眼赤髪を代々引き継ぐ剣闘士の系譜です。

 もうひとつが、竜操術士の一族。柔軟な発想と堅実な戦術をもってして竜と戦う、蒼眼銀髪を代々引き継ぐ指揮官の系譜です。

 かつて指針の違いから敵対し、竜という共通の敵を相手にしながら殺し合うことまでしていた二家は、それぞれが別の道へと歩んでいくこととなります。

 

 厄災から国を守るという務めを果たすことができなかった彼らの悔恨は深く、王位を継ぐことのできる身分であってもそれを誇示することはありませんでした。

 彼らは辺境のさらに奥地へと踏み入っていき、そのまま国に属さない流浪の民となりました。

 人里に下りて交流することはほとんどなく、その存在を知る者もごく少数に限られています。

 ミラボレアスを忘れるという国と国民の選択に迎合することなく。

 あの日を忘れないことを一族の使命として、細々と黒龍伝説を語り継いでいったのです。

 

 

 

「これが、儂の知っている古シュレイド王国の顛末じゃ」

 

 物語の語り部のように歴史の一部始終を話したアイハルは、これを人に話す日が来るとは思わなかった、と付け加えた。

 状況的に当事者以外の者が知るはずのないことをアイハルが知っているのは、彼が竜人族であり、なおかつ古龍占い師であるからだった。

 なにしろ、彼らの暮らす秘境に偶然にも迷い込み、その話を聞いたのが百年以上も前なのだ。人族ではとうに寿命を迎えている。

 流浪の彼らもまた人族なので、あれから既に三代か五代くらいの代替わりが進んでいるだろう。彼らの近況はアイハルにも分からない。

 

「いくらシュレイドの国土が海洋と山脈に囲まれた天然の要塞であったとしても、何百年もの間、目立って竜が入ってこないというのは、偶然で片づけられるものではないのだよ。

 旧王都に触れてはならないモノがあるということを、竜や獣もまた人以上によく感じ取っているということじゃな」

 

 アイハルは静かにそう語った。

 あくまで推測だ、けれど、古龍占い師としての長年の研究と直感がそう告げていた。

 

 アイハルがこうして人の社会に入っていくようになったきっかけも、あの流浪の一族との邂逅があったからだ。

 古龍占い師は人族が定めた役職ではない。竜人族の生き方のひとつ、とでも言うべき習性であり、一人でも生きていける彼にとって人の社会との関わりは不要だった。

 それでも、あの秘境で聞いた歴史にアイハルは衝撃を受けたのだ。竜人族の間ではまず起こり得ない、複雑かつ情動的な物語は、アイハルの人への興味を掻き立てた。

 

 今、目の前には蒼眼赤髪の人族の女性がいる。少女というにはもう大人びているが、子どものような純粋さも残しているように感じられる。

 アイハルですら、対面すればどうすることもできない炎の龍や黒の獅子を退けた人物だ。彼女は偶然だと言うが、そもそも彼らと戦って五体満足で戻ってきているという時点で尋常ではない。

 

 これであの一族との繋がりがないというのは、まずありえないだろうとアイハルは思う。東シュレイドのある人物のように、何かしらに導かれてここまで来たのだ。

 ただ、彼女がここにいて、かつ国の対竜軍の一員として任務を受けているということは、あの一族の掟に何かしらの変化があったということだ。そうでなければ、彼女は今もあの辺境の奥地でひっそりと暮らしていたはず。

 その推察の手がかり、いや、答えとでも言うべきものは、これまでの話を聞いてきた彼女の、フレアの表情に表れているようだった。

 

 

 

 耳鳴りがする。

 目の前で話す竜人の翁の言葉は聞き取れてはいるものの、その言葉は泥のようにフレアの頭の中に入っていき、理解をひどく緩慢なものにしていた。

 アイハルが心配そうな顔をしている。きっと自分の顔色が悪いのだろうとフレアは思った。血の気が引く感じが続いていて、呼吸はやたらと浅かった。

 思い出した。少しずつではあるものの、記憶の蓋が罅割れ、中から思い出が漏れ出した。

 

「私は……シュレイドの血を引いている」

 

 誰に聞かせるでもなく、フレアはそう呟いた。

 王位継承権を持つと、アイハルはそう言っていた。その通りだ。同じような話をフレアはかつて聞いたことがある。あれは乳母からだったか、あるいは、母からだったか。

 フレアがまだ幼かったころ、誰かからある詩を聞いたのだ。どうしてか恐ろしくて聞くことを拒んでいたフレアを、これは一族の定めだからと諭す人がいた。

 思い出に施された封が破れていく。喪っていたのではなく、封じていた。記憶を閉ざしたのは、他ならない自分自身だ。

 

 耳鳴りが酷くなる。それは強い緊張と焦燥から来るもののように思われたが、何かが違う。

 「────」と、思い出が何かを謡う。その声は少しずつ鮮明になっていく。思い出したくないと別の自分が訴えかけるような気がしたが、もう留まることはない。

 そうだ、これは記憶の中から響く声だ。思わず口ずさまずにはいられない、フレアの記憶に焼き付いた詩だ。

 

「キョダイリュウノ、ゼツメイニヨリ……」

「……それは」

 

 フレアを心配そうに見ていたアイハルが眉を上げた。聞き覚えのある詩だったのか。

 フレアはこの詩を諳んじることができる。けれど、とてもそのような気分にはなれなかった。

 丸太小屋の壁の隙間から光が差し込んでいる。夜はとうに明けて、朝から昼になりつつあった。

 半日近くこの小屋で話をしていたことになる。とても長い語り合いであり、とても短い時間に感じられるようでもあった。

 語られた内容を考えると、たったの半日とは思えないほどの密度と量だ。今の記憶の奔流を抜きにしても、軽く眩暈を感じかねない程の歴史だったというのに。

 

「……長居してごめんなさい。今日は帰ります」

「それは……いや、今は何も言うまい。君も整理する時間が必要だろう。城壁の検問所まで送るから、フードを被りなさい」

「いえ……いえ。よろしくお願いします」

 

 フレアはアイハルの申し出を咄嗟に断ろうとして、止めた。

 今の自分は深く物事を考えていられるような状態にない。このまま帰途に就けば、今いる森ですら簡単には抜けられないかもしれなかった。

 

 アイハルもまた、フレアの状態を察してはいながらも、この小屋に留まって休むように提案することはしなかった。

 初対面である彼女がこの小屋で落ち着いて考え事をするのは難しいだろうし、何より、アイハルが近くにいればまたいろいろと話したくなってしまうかもしれない。

 多少無理にでもフレアの家には戻るべきだし、サミへの説明も必要だった。

 

 アイハルに連れられ、通りと路地裏を足早に歩く間も、フレアの頭の中では記憶が湧き出してはぐるぐると渦巻いていた。

 考えることを止めようとしても、抑えが効かない。いっそのこと眠ってしまいたかったが、そうしたら今度は夢となって湧き出し続けるのだろう。

 自らが望んで招き、それが叶った形とはいえ、ここまでの衝撃を自身に与えるとはフレアも思ってはいなかった。

 いや、もしかしたら、封じ込めていたものがここまで大きかったからこそ、それを抱えたままでいるのが苦しくて、その蓋を開けることを無意識に切望したのかもしれない。

 

 アイハルが道案内できるのは検問所までだ。そこまでの過程も、怪しまれこそすれ、呼び止められることはなかった。

 壁内から壁外へ出る分には、特に検査が行われることはない。フレアもそこまでにはなんとか動悸を抑えて、表向きの平穏を取り戻していた。

 

「今日明日くらいまではゆっくり休みなさい。今は落ち着かずとも、時間が経てば少しずつでも冷静に考えられるようになるじゃろう」

「はい。……また、来てもいいですか」

「いいとも。また図書館かあの小屋を尋ねてくると良い。留守にしていることも多いかもしれんが、儂も君から聞きたいことがあるのでな」

 

 今回はあまりに突然の出来事だった。次はしっかりと時間を作り、相応の覚悟を決めてから話し合いに臨むべきだ。

 互いに疲れてはいたものの、その合意だけはしっかり取って、フレアは一人、検問所へと向かっていく。

 

 そのとき、遠くで爆発音のような音が響き渡った。

 

「!?」

「む……雷か? そのような雲は見えないが……」

 

 フレアは弾かれたかのように振り返り、アイハルもまた眉を顰めて辺りを見渡す。

 派手な音だったからか、道行く人も一斉に足を止めて音がした方向を見ていた。ざわめきが通りと検問所に広がっていく。

 その数秒後、今度は金板を一斉に打ち鳴らしたかのような耳障りな響きが伝ってくる。ここではかなり弱まっていたが、出所は凄まじいだろう。

 

 アイハルがはっとしたときには、フレアは既に駆け出していた。

 平和ぼけとはかくも感覚を鈍らせるものかと、アイハルは苦い顔をした。最初の音が届いた時点で、フレアは察しがついていたのだ。

 既に彼女はアイハルの声が届く距離にいない。装備を取りに行くか、あるいは直接向かうのか。少なくとも、アイハルは助言すらかけてやれなかった。

 

 また炸裂音が伝ってくる。民衆の戸惑いが不安の色に変わりだした。

 あと数分もすれば、今いる検問所の辺りは人の波に吞まれるだろう。そうなる前に、アイハルは急いで歩き出す。

 

「なんということじゃ……。彼女は本当に、運命の申し子とでも言うつもりか……?」

 

 思わず独り言ちる。古龍占い師として様々な理外の力を目にしてきた彼を以てしても、仰天では済まされない程の機の重なりだ。

 観測しなくては。古龍占い師として、人と関わる竜人族として。

 これは歴史の転換点足り得る。それは人の、西シュレイド王国の歴史のみならず、このシュレイド地方の自然環境そのものの歴史だ。

 フレアは、その渦の中心に立つ人物なのかもしれない。

 

 その日、一頭の竜が西シュレイド王国の首都、ヴェルドを襲撃した。

 何十年、何百年振りどころではなく、建国以降一切起こったことのなかった事態に、城塞都市ヴェルドは大混乱に陥ることになる。

 

 火花が散って、火蓋は切られた。

 竜を知らないシュレイドの民の、積み重ねてきた歴史の清算が始まった。

 



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第22話 そして狼が吼える

 

 

 西シュレイド王国の王都、ヴェルドの街の規模は非常に大きく、それそのものがひとつの丘陵を占有している。

 その広大さは、たとえ王都から時刻を報せるための大銅鑼を鳴らしても、壁外の端に住む貧民たちの耳には届かない程だ。

 

 そんな街の中で突如として起こった爆発、それと喚声は、ともすれば王城の大銅鑼をも超えるほどの広範囲にその音を伝播させた。

 民衆の間に戸惑いと不安が広がっていく中で、アイルーのサミもまた、びりびりとした空気の揺れをその髭で感じ取り、落ち着かなさげに辺りを見回していた。

 昨日からフレアが帰ってきていないことと何か関係しているのだろうか、などと勘繰っている最中、突然、挨拶もなく彼女の主の部屋に飛び込んできた人がいた。

 

「ニャッ……、フレアさまにゃ?」

「あ、サミ……ごめん、後で」

 

 これまでにないくらいの勢いで駆け込んできたフレアは、驚いて毛を逆立たせたサミを一瞥だけして言葉をかける。

 そして、ものの数分もしない内に手当たり次第に自らの装備をかき集め、風のように去っていった。

 普段とは全く違う気配に、サミは何も言葉をかけることができなかった。

 特に、彼女の目つきがとても剣吞としていて、さらにどうしてかいつもとは違う感情を宿しているような感じがして、思わず怯んでしまったのだ。

 

 彼女があのような雰囲気でいるということは、サミは今までに見たことがないが、つまり、この爆発の主犯はそういうことなのだろう。

 昨日の件に続き、本当はいろいろと聞きたいことがあったものの、この様子ではしばらくお預けということになりそうだ。

 フレアは強い。彼女の実績を知っているサミは、戦いに行く彼女のことをあまり心配することはなかった。

 ただ、今回はどうしてか、ふと尻尾を振ってしまうような不安がよぎっている。

 

 先ほどのフレアは何を憂いていたのだろう? 

 彼女の向かった先の事件がどのような形で終わろうと、それだけではない何かが起こりそうな予感がして、サミの毛並みをざわつかせていた。

 

「……にゃ? あの爆発がした方向、貧民街の北側……アイルーの集会所がなかったかにゃ? ええと、ヴィルマ氏に最後の手紙を送ってから半年弱……。

 ……まさか、にゃ」

 

 

 

 外の大通りは、騒動の元凶らしきモノから逃げようとする人々でごった返していた。

 押し合い圧し合い、まるで濁流のようだ。このままでは転倒や圧迫で重傷を負う人すら出てくるだろうに、我先にと逃げ惑う。

 竜や獣なんて見たことも聞いたこともない、そんな大多数の民衆たちは、この爆発を天変地異か、どこかの貧民の蜂起か、なんて思っているかもしれない。

 いや、実際に天変地異ではあるのかもしれないが。このヴェルドの街においては。

 

 これが東シュレイドの都市リーヴェルであれば。フレアはついそんなことを考えてしまう。

 竜に対する物的な備えも、心構えもできているあの街であれば、既に見回りの兵士たちによる対応が始まっているはずだ。

 しかし、西シュレイドではそういったことは一切ない。この街の衛兵では、とてもではないがこの騒ぎには対応できない。

 この騒ぎを鎮められる者は、今の段階ではかなり限られている。王族直々の命令で部隊を編成できれば良いのだろうが、そうするには時間がかかるだろう。

 

 逃げ惑う人々の中で、フレアだけが彼らとすれ違うかたちで反対方向に走っている。

 正直、ぶつかってくる人々が煩わしい。埒が明かないと思ったフレアは、思い切って通りに沿って立ち並ぶ家屋の天井に駆け上った。

 貧民街の家屋はほとんどが粗雑な造りだ。天井を踏み抜くことも大いにあり得るのであまりこの手段はとりたくなかったが、なりふり構ってはいられない。

 屋根から屋根へ、川渡りのように飛び移る。今の騒ぎに乗ずればそう目立つこともない。フレアがするべきは一刻も早く元凶の元へ辿り着くことだ。

 

 屋根に上ると、遮蔽物が少なくなって遠くまで見渡すことができるようになる。

 延々と続いているように見える貧民街の奥の方で、何やら濛々と煙が上がっている。規模の大きな火事が起こっているようだ。

 空まで立ち昇る天幕のようになった煙の中を、何か鳥のような影がちらちらと舞っているのが垣間見えた。

 ただ、この距離でそのように見えるということは、近場に着けば、あれはとても鳥とは呼べない大きさなのだろう。

 加えて、火災の音とはまた別の、人ではとても発することのできなさそうな騒音が先ほどよりも大きく鮮明に聞こえている。

 人々の恐怖を煽っているのはこの音だろう。フレアも聞いたことがないので、恐らくはフレアも相対したことのない何かがそこにいるということだ。

 

 駆ける。壁外にひしめくあばら家の屋根を踏み越え、ときに踏み抜きながら疾駆する。

 すれ違う人々はある地点を超えた辺りから減っていって、逃げ遅れた人々と、空き家泥棒を狙う命知らずだけになっていた。

 彼らもまた、煙の臭いが漂ってくるくらいの、本当に身の危険を感じる辺りからはいなくなっていて、そこにいるのはフレアだけだ。

 小さな町なら端から端まで辿り着けるくらいには走って、息も切れようかという頃に、とうとうフレアはこの動乱の主を視界に収めた。

 

「黒い……怪鳥?」

 

 衛兵たちも全てが臆病というわけでもなく、壁外であろうと民衆を守ろうと立ち上がる者がいたのだろう。

 そういった兵士たちの鎧を容易く砕き、べったりとした血に湯気を漂わせながら、その竜は嘶いていた。

 見た目だけであれば、火の怪鳥にとても似ている。かの竜も火を使う。けれど、全くもって火の怪鳥の同類とは思えない。

 雰囲気だけで語るなら、むしろ、いつかの黒の獅子の方が近いようにすら思える────視認された。

 

「────ッ!」

 

 隠れていた物陰から飛び出す。積み上げられていた木箱や丸太が吹っ飛んだ。

 熱風を浴びて、フレアは驚く。これは、かつてヴィルマを殺すために戦って、ヴィルマの手紙でリオレイアと呼ばれていた、あの毒の飛竜と同じ火球だ。

 何かの間違いかとかの竜へもう一度目を向けて、そこにいるはずの竜の姿がない。

 咄嗟に身を投げ出すことができたのは、ほとんど直感によるものだった。

 

 落ちてくる。鉄杭のように地上に突き刺さる。

 かの竜の全身の鱗が波打って、いん、とさざ波のような音が走った。

 黒の獅子と並び立つほどの巨体が頭から地面にめり込む様は、この竜はこれまで戦ってきた相手と何かが違う、と思わせるには十分な異様さを見せていた。

 

 直撃していれば死んでいただろう。兵士を殺したであろう攻撃も恐らくはあれだ。火の怪鳥と同じような嘴だが、あれがここまで凶悪な武器になるとは。

 ただ、避けてしまえば隙になるか。深く地中に埋まった嘴を一瞥して、フレアは踵を返してその特徴的な耳に向けて刃を走らせる。火の怪鳥は、あの耳が最も弱かった。

 黒紫の怪鳥の瞳がフレアを捉える。跳ね起きるように勢いよく嘴を引き抜いて、そのまま手当たり次第に頭部を地面に叩きつけた。

 攻勢を中断して飛び退く。とても近付けない。

 もしあれが人であれば、あのように頭を叩きつけていれば死すら見えそうなものだが、この竜はまるで堪えていないらしい。

 

 辺りは倒壊し火のついた家屋が散乱していて、土煙と煤煙にまみれて視認性が酷い。

 けれど、その動きづらさはかの竜にとっても同じはずだ。翼があるにもかかわらず地上で暴れているし、そういう意味では同じ舞台に立っている。

 とにかく、戦ってみるしかない。こちらに注目を向けているのは、フレアとしても好都合だ。フレアが引き付けられるなら、余計な感情を負わずに済む。

 

 叩きつけた嘴からの手応えがないと察するや否や、かの竜はフレアの逃れた先を素早く見つけて突っ込んでくる。

 無茶苦茶に走っているように見えて、冷静にフレアへ視線を合わせ続けている。それを感じ取ったフレアは、かの竜を十分に引き付けてから掻い潜るように突進を避ける。

 多少の岩程度であれば迷いなく突っ込む彼ら竜種にとって、人の家、それも貧民街のあばら家なんていい緩衝材程度のものだろう。

 隣の家屋を巻き込みながら突進の勢いを殺して倒れ込む黒紫の怪鳥に、フレアはその背後から再度切り込んだ。

 

 かの竜が起き上がるより先に、瓦礫に飛び乗ってその尻尾めがけて短刀を走らせる。炎の剣は、まだ抜かない。

 鱗の生え揃っていない腹の側の皮を狙い、深く切り裂くべく振るわれた剣は、しかし、思いがけない感触と共に弾き返された。

 

「──硬い!」

 

 目を見張る。刃毀れした刃の欠片がきらりと舞った。

 このような感触が返ってきたのは、かの金の獅子の赤熱化した腕を叩いて以来かもしれない。岩石に刃をぶつけたかのような手応えだった。

 鱗の生え揃っていない部分でこれか。思いがけない弾かれ方で痛いほどに痺れる腕を庇いながら、すぐにその場から飛び退く。

 尻尾を打たれたという感触はあったのだろう。思いきり背後を蹴たぐった後ろ足は、間一髪でフレアを捉えきれずに空を斬った。

 

 街が襲撃されたという時点でほとんど最悪に近い想像はしていたが、その最悪に見合うだけの状況だ。

 炎の龍や金の獅子ほど絶望的ではないとはいえ、彼らに手が届くほどの脅威をひしひしと感じる。少なくとも少しの判断の誤りで致命傷を受ける未来は簡単に想像できた。

 

 しかも、よりにもよって今日という日に。

 今のフレアは本調子からは程遠い。まだ任務で遠出させられる方がましだったかもしれない。昨晩のアイハルの話を、フレアはまだ全く整理できていないのだ。

 既に、周囲の惨憺たる有様を見て心がざわつき始めている。

 いつもなら戦いになればすぐに閉ざせる感情の蓋が壊れてしまっている。こんなことは炎の龍の一件以来だ。

 

 派手な叫び声を上げながら、黒紫の怪鳥が瓦礫の中から跳び上がる。

 巨大な嘴の上に付いた目は異様なほどにぎらついていて、何かしらの強い怒りのような気迫が滲んでいた。

 頭痛までしてきたことにフレアは顔を顰めながら、黒紫の怪鳥と対峙する。

 先ほどまで家屋の形をしていた瓦礫の山の中から呻き声のようなものが聴こえたような気がしたが、もはやそれらに構っている余裕はない。

 黒紫の怪鳥がフレアに対して興味を失うことのないように。フレアは再び地を蹴った。

 

 

 

 幼い頃、私にも母と呼べる人がいた。

 そのことを、覚えている。思い出している。

 

 長く伸ばされた髪は、フレアと同じ紅色をしていた。普段は結っていたようだから、眠る前の髪を解いた彼女と話をしていたのだろう。

 会話の中で何かの物語も語り聞かされていたように思う。当時の自分は幼くて、話の内容が分からずに、その声の音の並びだけが記憶に残されている。

 

 飢えてはいなかったが、貧しくはあった。あえて人の住めないような渓谷地帯に棲みつき、外との関わりを断って生活していたため、衣食住の全てを自分たちでこなさなければいけなかった。

 それでも、フレアとその父母だけではなかったという記憶がある。茶髪や黒髪の人たちもいて、フレアたちの手伝いをしてくれていた。

 今思えば、あれはフレアの一家だけの暮らしではなかった。言わば、ひとつの集落のようなものだったのだろう。かつての家来や領民たちを連れて、皆で流浪の民となったのだ。

 それでも人の数は少なかったように思うが、どうやって子孫を繋いでいたのかは分からない。

 元々の人の数が多かったのかもしれないし、ときどき外の集落の人を入れていたのかもしれない。とにかく、そうやって連綿と紡いでいた中でフレアは生まれた。

 

 一族には戒律があり、それらは恐らく、かつてのシュレイド王国の歴史や物語を忘れずに語り継いでいくことだった。

 新興の西シュレイド王国の手によってかつての書物が焚書の憂き目に遭う中で、歴史の流れに抗い、過去を忘れずにいることを一族の使命として定め、それを守らせた。

 厳しい生活だったはずだ。西シュレイドの支配が伸びている地域では誰の手も借りることもできず、かといって外の大地に目を向ければそこは竜の領域だ。

 

 自然と追い詰められていく一族は、それでも辺境を旅していくことを選択した。時に竜たちと縄張りを争いながら、かつての国土の外へ、外へと移り住んでいった。

 古くは竜と戦う戦士の一族だったというのは事実なのだろう。そうでなければできない選択だったはずだ。

 フレアの母もまた弓や剣を手に握っていたのかは分からない。少なくとも、フレアに触れるその手が決して柔らかいばかりではなかったことだけは覚えている。

 

 幼かったフレアも、あと数年もすれば、木刀でも握って誰かと共に竜と戦うための鍛錬を始めていたのかもしれない。

 いや、フレアが遊びと判別しなかっただけで、既に訓練のようなものは始まっていたような気もする。今となってははっきりしないことばかりだ。

 どちらかと言えば、何もするにも人の手が足りなくて、子どもながらに縫物や種植えなど、生活の手伝いをしていた思い出ばかりが浮かんでくる。

 同年代の友だちも、いたような、いなかったような。よく疲れてうたた寝をしていたことだけは確かだ。微睡の中でフレアを起こすのは、大抵は母の手と声だった。

 

 あのときのフレアは笑っていただろうか。今はもう、ほとんど笑うことなんてなくなってしまったが。

 ある日を境に、フレアの表情や感情はとても希薄なものとなり、その後生きていく中で、その出涸らしもさらに鈍く単調なものへとなっていった。

 今や、フレアは忘れていた思い出の全てを思い出しつつある。けれどそれは、情緒を取り戻すことにはならないのだろう。

 むしろ、記憶を封じた上で新しく育ちつつあった心の土壌を削り取り、再び荒ませていく。

 

 フレアの心の原風景は、乾いた炎に塗れている。

 

 

 

 頭上から叩きつけるようにして振るわれた尻尾が、虚を突かれたフレアの反応を振り切り、先端の棘をフレアの腕にえぐりこませた。

 僅かに表情を歪めて、フレアはその場から飛び退く。

 棘が突き刺さったままになることはなかったが、手袋を貫通された。もうこの手袋は使いものにならない。

 器用な動きをするものだ。翼の羽ばたきひとつでフレアの背後に回り込み、間髪置かずに踵落としの要領で尻尾を叩きつけてきた。

 滞空していながらこれだ。走竜や大猪くらいであればたちまち狩られてしまうに違いない。明らかに戦い慣れた動きだった。

 

 鞭で打たれたようになって、だらんと片腕を下ろして感覚が戻るのを待っていたフレアだが、傷口から流れ出す血の量を見て眉を顰めた。

 血が止まる気配がない。出血の毒か。

 だくだくと流れ出す血は、視覚からも、感触からも、フレアの命そのものが零れ落ちていくような感じがした。

 それでもフレアは焦らない。ただ、何もそこまで毒の飛竜(リオレイア)を模倣しなくてもいいのに、と心の中で悪態をつくくらいだ。

 

 ヴィルマの暗殺のために棘を引き抜いた毒の飛竜との戦いでも、同じような毒を使われた。

 あの竜は出血の毒以外にもさまざまな毒を駆使していたようなので、同じ成分とは言えないかもしれないが。

 かつてあの竜が振るった毒々しい色の尻尾は、辺りに気化した毒を撒き散らしてもいた。

 それを吸ってしまった兵士の一人が、口から血を撒き散らしながら仰向けに倒れる様は今でも印象に残っている。

 

 あれに比べれば、まだやれる。

 巨大な鉄の杭を何度も打ち付けている、といった表現が最適そうな嘴による攻撃を掻い潜りながら、フレアは毒を吸いだしては吐き、血が滞らない程度に布を巻き、懐に忍ばせた薬草を食んだ。

 炎の剣を持つようになってからというもの、腕の黒ずみは増していく一方だが、なぜか毒の類はそこまで怖れなくなったような気がする。

 どうしてかは分からないが、それこそ、何かの物語にあった加護のようなものなのだろうか。

 

 今度は黒紫の怪鳥の嘴から炎が迸り、火球が吐き出される。頭の位置を低くして、掬い上げるようにして放たれたそれを、十分に引き付けてから身を翻して回避する。

 すぐ傍を火の玉が駆け抜けていき、熱い空気が肌と髪を焼く。けれど、皮肉なことにフレアにはもう慣れた感覚となりつつあった。

 でも、とフレアは振り返ることのできない背後を思う。

 数秒後、フレアという目標から外れて飛んでいった火球は、まだ崩れていなかった家屋に直撃した。

 威力は落ち、崩れ落ちはしなかったものの、油か何かに引火したのだろう、激しく炎が立ち上がり、壁や柱を飲み込んでいく。

 

 こういう状況は初めてだ。いわゆる市街地戦というものはこんなにも目に入れ難い光景となるのか。

 図書館で読んだ戦争の話の、市民がいる中での戦闘は凄惨の一言に尽きるとの記述に、今のフレアなら心から頷くことができるだろう。

 

 端から端まで歩けば優に数分はかかるだろう範囲の区画が、灰と炎に包まれている。

 黒紫の怪鳥は時に、手当たり次第に辺りに火を撒き散らした。物陰に身を隠したフレアを炙りだすためだ。それらが貧民街の木材や藁、粘土に火をつけて燃え上がらせている。

 黒紫の怪鳥が突進するたびに壁や柱が崩れ、空を飛ぶたびに風圧で道に瓦礫が散乱する。かの竜にとっては建物なんて視界の邪魔にしかならない。更地にした方が好都合だ。

 

 そうして面影もなくなった瓦礫の山の底から、時に赤い染みが滴っては地面に広がっていくのだ。

 

 フレアは決して万能ではない。この街に思い入れがあるわけでもないし、正義感や人情なんて、炎の龍の一件で焼き尽くした。

 それでも、決して何も感じないことはできない。逃げ遅れ、成す術もなく崩れる家屋と運命を共にしただろう弱者の血だまりからは目を逸らしたくなる。

 フレアができることは、既に更地となった区画に黒紫の怪鳥に留まらせるよう努めることくらいだ。

 しかし、黒紫の怪鳥は間違いなく強敵であり、戦うためならば、フレアは今後も生き残りの家屋に身を隠し、周りに被害が及ぶと分かっても火球を避ける。

 

 では、一体何がここまでフレアの心を沈めているのか。

 あるいは、かつて炎の龍の惨状を目にしたとき、フレアが激情に呑まれそうになったのは、ただその現場にいた以外の理由があるのではないか。

 

 今なら分かる。思い出すことができる。

 フレアは、炎の龍と戦うよりもずっと前に、大火が空を焼く景色を見ているのだ。

 

 

 

 今なら分かる。説明がつく。

 あれはつまり、西シュレイドの王室にフレアたちの一族が見つかったからなのだろう。

 

 突如として集落を襲撃し、フレアの母を殺したのは、竜ではなかった。人だったのだ。

 ただ、幼いフレアにはいったい何が起こっているかも分からず、竜が襲ってきたものと勘違いしていたような気もする。

 実際に見てはいないので分からないが、恐らくは軍隊を動かしたのだろう。フレアたちの一族の何十倍もの人数で隠し集落を取り囲み、一斉に火矢を放ったのだ。

 一族の者が異変に気付いた頃にはもう遅かった。遠出していた者も、斥候によって先んじて殺されていた。一族の者は誰一人として逃げ出すことはできなかった。

 

 フレアの一族は竜との戦いに長けるが、人との戦いには慣れていない。特に策略や戦略では本職には遠く及ばない。

 西シュレイドの手の者が竜の棲む辺境にまで踏み込んで来れたなら、その時点でほとんど詰みだったのだ。

 

 母の最期をフレアは知らない。戦って死んだのかもしれないし、捕まって処刑されたのかもしれない。彼女が武人だったのかは、最後まで分からなかった。

 ただ、集落の人々の指示で隠れていた倉庫にも火を付けられ、兵士に捕まって連行されるまでの間、フレアは燃え落ちていく故郷をその目ではっきりと見た。

 見知った景色を上書きするように倒れ込む一族の人々の身体には、何本もの弓矢や槍が突き立っていた。

 彼らの暮らしていた家屋や倉庫は、その収納物まで含めて入念に火を付けられ、炎が激しく立ち昇っては風を吹かせた。

 

 ろくな抗戦すらできず、たったの一夜にして一変した集落の光景は、幼いフレアには受け入れがたいものだった。

 何度もえずき、腕を縛られて耳や目を塞ぐこともできず、目を強く瞑って目の前の事実を拒否し続けた。

 それでも、これは悪い夢か、あるいは物語の中にいるのだと期待を込めて目を開く度に、真っ赤な火に覆われて死体の転がる景色が目に飛び込んできた。

 

 熱い火で喉が焼けて、焼け爛れた鼻がかろうじて拾った匂いが、煤煙と血肉の焼かれる匂いだった。

 人の死体が焼けていくときはこういう匂いなんだな、とふと思ったということを、一度全てを忘れた上で、覚えている。

 

 灰や炎とフレアとの縁は断ち切れることなく、今に至るまで続いている。

 逃げようと、立ち向かおうと、それを望んでいるわけではないのに、何度でもフレアの前に見知った光景を広げていくのだ。

 

 

 

 突如、何の前触れもなく響き渡った大音響に、フレアは一瞬だけ意識を奪われかけた。

 これまで聞いたことのない、金属音に似た高い音だ。それだけならひどく耳障りというだけで済むが、音量が尋常ではない。

 犯人は明白だ。翼を広げて仁王立ちし、声を張り上げる黒紫の怪鳥の姿が目前にある。

 

 街の遠くから響いてきた音はこれか。これならば都市の反対側にすら優に届くだろう。

 黒の獅子すら凌駕するほどの大咆哮がかの竜の口から放たれるとは思わなかった。それをもろに受けたフレアは耳を抑え、何歩かよろよろと後退る。

 その隙を見逃す相手ではない。再び翼を羽ばたかせて飛び上がり、かの竜は嘴による強襲を見舞う。

 それが来るとフレアは分かってはいたが、平衡感覚がおぼつかずに大きく距離を取れなかった。

 

「うぁっ、ぐ……!」

 

 吹き飛ばされる。体にかの竜の嘴がめり込むような事態はかろうじて避けたが、衝撃を殺すまではできなかった。

 地面に転がり、なんとか受け身を取り、口に入った煤を吐き、乱れる息を落ち着かせる。尖った瓦礫によって全身擦り傷塗れだ。

 いん、いん、と耳鳴りがする。耳から血が出ているような気配はないので鼓膜は破れていないようだが、音を拾う機能は麻痺してしまったかもしれない。

 

 厄介極まりない。本当に生還できるかが怪しくなってきた。

 一応、フレアの側でも有効打を与えることはできているし、かの竜の鱗の防御が薄い部位も試行を重ねて把握しつつある。

 火力で押し切りに行くには、布で覆って背中に担いだままになっている炎の剣を取り出せばいいが、黒紫の怪鳥の体力の底が見えない中で、消耗戦になる恐れがあった。

 黒の獅子の時には互いに守りが弱く肉弾戦のようなかたちになったが、ここまで鉄壁の防御を固められるとどうしても慎重になりざるを得ない。

 

 それこそ、こういう時こそ、ヴィルマたち東シュレイドの部隊の保有する対竜兵器が役立つのかもしれない。

 硬い鱗を貫通したり砕いたりするのに大弩や爆弾は役立つというし、衛生兵がいれば毒への対応も少しはましになるだろう。

 あるいはヴィルマが共闘してくれたなら、今の時点で撃退も見えていた気がする。

 ヴィルマはよく謙遜するが、しっかりと強い。フレアが背中を預けられると心から思える相手は彼くらいのものだ。

 

 ……今この場にいない人のことを考えても仕方がないか。

 フレアにもそれは分かってはいるものの、激しい戦闘の中で無意識に心の片隅で別のことを考えてしまう。

 

 そう言えば、今このときにこんなことを考えるのはおかしいのだが。

 ヴィルマに手紙を送ってからもうすぐ半年が経つ。いつもであればそろそろ返事が来てもおかしくはない。

 この騒ぎであの手紙の運び人も足止めされてしまうかもしれないが、少なくとも壁内が無事であれば、ヴェルドには足を運んでくれるはずだ。

 そう考えると、気休めでも少しは心が軽くなる気がした。

 孤立無援の中、生きてこの竜を退けられるかは分からないが、それができれば彼の手紙を受け取ることができるかもしれない。

 

 サミの存在もそうだが、国を守る、民を守るという大義を持つよりも、誰かからの手紙が楽しみというようなことの方が、フレアにとっては活力を得られるようだ。

 手紙を読み、それを書くという行為が自分の中で大きな位置を占めていたんだということに、フレアは自分事であるにも関わらず、今になって驚いていた。

 

 そのときだ。突然、ひゅうっという風切りの音がして、その直後に破砕音が響き渡った。

 黒紫の怪鳥が興奮するように羽ばたき、フレアも音が響いた方に目を向ける。

 濛々と立ち込める土煙の中で垣間見えたのは、フレアの身長は優に超そうかという程の岩石だった。

 相当な勢いで地面に叩きつけられたのか、辺りの瓦礫を吹き飛ばして、岩自身も砕けてしまっている。

 そしてまた、ひゅうっという音が鳴り響き、今度はフレアと黒紫の怪鳥のすぐ近くに大岩が落ちてきた。

 瓦礫の破片が飛び散ってフレアの肌に当たるが、それよりも、意識の外から飛んでくるこの石がフレアに当たれば命が危ない。フレアは今一度、今度は石が飛んできたと思われる方向を見送った。

 

 フレアの見た方向にはヴェルドの城壁が立ち塞がっていた。あそこに到達させないようにとフレアが立ち回り、中は混乱に陥っているであろう王都の守護壁だ。

 その城壁の上に、何本もの木組みの塔のようなものが立ち並んでいるのが見えた。傍にいる小さな点の集まりは兵士たちだろう。

 その光景を見てフレアは言葉を失う。あれは、投石器だ。

 主に攻城戦など、人対人との戦いで使う、図体が大きすぎて竜との戦いには使えないとされていた兵器だ。実際に見たことはこれまで一度もなかった。

 

 たしかに、こういった場面において投石器は有効かもしれない。

 流石にこの危機的状況への対処をフレアに任せきりにするということはなく、王都は王都で動いていたのだ。

 ただ、まず前提として、ここは少し前までふつうに人々が行き交って暮らしていた下町だ。それがあるから、兵器の類は使うことができないと思っていたのだが。

 怒りは湧いてこない。驚きはしたが、ヴェルドはそういう街だと理解している。炎の龍に対し何千何万の人を死にに行かせるような人たちなのだから、こういうこともする。

 

 かの竜が暴れた範囲の外まで無差別な投石が繰り広げられる中、とうとうその内のひとつが黒紫の怪鳥を捉えた。

 片翼に直撃したそれは、翼をへし折るには至らなかったものの、翼膜を裂いてかの竜の体勢を崩す。

 フレアもまた、投石から身を守らなければならなかった。柱や瓦礫に身を隠しても、投石はそれらをも潰してくる。であれば、あえて視界の開ける場所に立って避けた方がいい。

 軍の人々も、フレアが黒紫の怪鳥の近くで戦っていることは見て分かっているだろう。分かっていてなお、お構いなしに投石器を使っているのだ。

 以前サミがフレアに対して言っていた、壁内の、特に王室や軍部ではフレアのことを人扱いしていないという説が真実味を帯びてきた。

 

 フレアに被害が及んだところで構わないと考えているのか、フレアならばどうせ生き残ると考えているのか。

 ただ、無理やり良い方に考えれば、この支援を受けて黒紫の怪鳥の撃退が見えてきたかもしれない。

 かの竜は突然の反撃に怒り狂っている様子だが、その場から離脱するつもりはないようだ。依然として殺意の矛先はフレアに向いている。

 であれば、あとは投石器のある城壁の方に黒紫の怪鳥を突貫させないよう、全力を尽くすのみだ。

 

 畳み掛けよう。これまで使ってこなかった炎の剣を取り出そうとする。

 その最中、かの竜が咄嗟に放った火球を避けて、ふと、その火球が飛んでいった方向が気になった。

 

「────え」

 

 そこに、クラフタがいた。

 倒れている。身に着けているあの大きな鞄は目を引くため間違えようがない。

 どうしてこんなところに。既にヴェルドに着いていたのか。フレアたちに手紙を渡す前にどこかに立ち寄って、巻き込まれてしまったのか。

 そんなことよりも、そんなことよりもだ。彼が動いてくれない。

 アイルーたちは大きな音が苦手だというから、襲撃直後の咆哮で気絶してしまったのかもしれない。

 でも、動かなければ。今すぐにその脚で地面を蹴らなければ。

 

 火球が迫る。フレアを通り過ぎていったそれを、フレアが追いかけることは叶わない。

 思考だけが一気に過熱して、全く身体の方は追いついていなかった。

 今このときほど、自身の身体能力の限界というものを思い知らされた日は無かったかもしれない。

 

「──逃げて!!」

 

 フレアはただ、そう叫ぶことしか叶わず。

 無情にも、その叫びは届くことなく。

 

 ヴィルマの手紙を持っているであろう運び人(クラフタ)の傍で火球が弾け、その姿が瓦礫の中へ埋もれていく。

 フレアの口から、声にならない掠れた悲鳴が漏れた。

 



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