月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel (ペタンコ)
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Prologue
Prologue1 屋根裏部屋のラプンツェル


衣遠兄様と駿我さんに、只々狂って欲しい人生でした。
それと、ルナ様やりそなにも(小声)


 塔の上には、髪の長いお姫様が居る。

 彼女は王子様と結ばれ、子供を産んだ。

 ――古い、お伽噺の一つだ。

 

 

 

 

 

『朝日さん、5歳にもなってこんな問題も解けないのですか。

 貴方の無能は、貴方のお母さんの血が劣っているという証明になりますよ』

 

『貴方の母上と同じ過ちを犯さないように、賢く育たなくては行けないのです。

 それが出来ないなら、貴方は母上とお別れする必要があります』

 

『さあ、早く立ち上がりなさい。

 貴方の痛みなど、奥さまが受けた痛みより遥かに小さいものです』

 

 

 

 小さな頃、私はよく泣いていました。

 沢山の家庭教師の人、その人達は優秀でそんな人達が毎日を私の為に時間を割いてくれている。

 私を間違えない、優秀な人間にしてくれるために。

 ただ、お母さまの悪口を言われるのだけは泣いてしまいそうになった。

 だから、夜の屋根裏部屋で、お母さまの胸に埋もれながら小さく溢した。

 

『お母さま、お母さまが悪く言われると辛いです』

 

 そう告げると、優しく歌われていたアイルランドの子守唄が途切れる。

 代わりに、ギュッと私を抱きしめる力が苦しい程に強くなった。

 

『お母さん、悪いことをしてしまったの。

 だから、お母さんが悪く言われるのは仕方ないことなのよ。

 でも、その苦労をあなたに背負わせてしまって、ごめんね……』

 

 お母さまはとても優しい人。

 その胸に抱かれて、子守唄を聞くのが何より好きだった。

 辛いことも、お母さまに抱きしめられて報告すると何とか我慢ができた。

 

 本当は辛くて、凄く逃げ出したい毎日。

 けれど、お母さまと離れ離れになりたくなくて何とか頑張れた。

 お母さまと、お母さまの言葉を頼りに。

 

 ――あの人達は、あなたを厳しさに負けない立派な大人にしてあげたいって思ってるの。

 ――あなたが誰かに尽くせるような、立派な女の子になって欲しいと思ってるの、良かったわね。

 

 本当かどうか、実際のところは懐疑的でした。

 でも、お母様がくれた言葉を大切にしたかったから。

 私はその言葉を信じて、一生懸命に頑張った。

 すると、自然と成果はついてきて、出されていた課題をこなせるようになっていった。

 

 出来ることが増える度に、お母さまの言葉を思い出します。

 厳しさに負けない立派な大人に、家庭教師の先生達がしてくれていると実感が出来たから。

 みんな、私を成長させる為に、心を鬼にしてくれているんだと信じられたのだ。

 

『お母さま、私は誰かの為になれる、立派な大人になります。

 お母さま、産んでくださってありがとうございます』

 

『……ごめんね』

 

 そう言うと、お母さまは悲しそうに微笑んだ。

 私が齢を重ねる程、お母さまは”ごめんね”と言う回数が増えていった。

 成長する毎に激しさを増す教育に、お母さまの胸で弱音を吐くことが多くなっていったから。

 それがお母さまの胸を蝕んでしまったと、今になってそう思う。

 

 

 

『おい、屋根裏のラプンツェルを部屋に戻せ。

 今日はジャンメール伯がいらっしゃるんだぞ、みっともない』

 

『止しなさい、屋根裏のお嬢様には関わるなと言われてるでしょう!』

 

『なんで旦那様も認知したんだか。

 放り出せば、奥さまに睨まれる事もなかっただろうに』

 

 周りの大人の人達の声は、公然と聞こえるように発されていた。

 私に教育を施している家庭教師の方々もそう。

 むしろ意味合いを理解していると分かっていて、このお屋敷での私の立場を教育してくださっているのだ。

 

 お母さまは、いわゆる旦那様の愛人という立場でした。

 だから、他の使用人の人達からも空気の様に扱われている。

 お母さまと私は、微妙な立場の人間として、このお屋敷に存在していたのです。

 私が単身での外出が厳しく制限されていたのも、そのためでしょう。

 

 

 お母さまは旦那様に、深い想いを持っていた様には見えなかった。

 しかし、病弱で身寄りがおらず、幸の薄い人であったが故に、それに縋って生きて行かざるを得なかったのだと思っています。

 一方の旦那様は、わざわざ私を認知して、お屋敷に住まわしてくれる程にお母さまに入れ込んでおられました。

 でも、そのことに対して、お母さまは引き目を感じていた。

 だから、別居していらっしゃる奥さまがお屋敷に来る時は、私はずっと部屋にいなくてはいけなかったのです。

 私が奥さまの目に止まったら、その時点で奥さまは私とお母さまをお許しにならないでしょうから。

 

 

 ――だから、それは必然だったのかもしれない。

 

 

『ごめんね朝日、お願いがあるの』

 

 ある日、お母さまは頬を赤く腫らせて、私に部屋から出ないようにと伝えてきた。

 何故なら、奥さまがお屋敷にいらっしゃってるから。

 快く頷いた私に、お母さまは涙と抱擁を持って応えた。

 

『いつも不憫な思いをさせて、ごめんね。

 でもね、お母さん朝日だけが生き甲斐なの。

 ずっと側に居させてね』

 

 何度も、ごめんねと抱きしめるのを繰り返して、私とお母さまは約束したのでした。

 でも、その約束を、私は破ってしまったのです。

 

 

 

 舌っ足らずの罵声が、その日は聞こえてくる。

 このお屋敷の、子供の親戚同士の喧嘩だろう。

 いつか、大人達が間に入って仲裁する。

 そう考えて、私はお母さまとの約束を守り、家庭教師の先生に与えられた因数分解と向き合っていた。

 

 でも、何時まで経っても終わる気配がない。

 それどころか、女の子の泣き声まで聞こえる始末。

 何事かと、扉に耳を澄ませると、聞こえてくるのは泣き声と恫喝の2種類。

 

『1ポンドで許してやるから、早く出せよ!』

 

『女のくせに、男に逆らってんじゃねえ!』

 

 男の子達が、泣いている女の子にコーラ一本分の要求をしていた。

 女の子は、日本語で”助けて”と叫び、泣いている。

 

 ――あなたが誰かに尽くせるような、立派な女の子になって欲しいと思ってるの

 

 お母さまの言葉を、私は信じていました、心から。

 だから、約束以上に、それには逆らえなかったのです。

 

 私は部屋を出て、男の子達の前に立ち塞がった。

 女の子を背に、怪訝な目を向ける彼らに私は尋ねた。

 

『失礼致します、如何なさいましたか?』

 

 鼻白んだふうに、私と女の子に目を向ける男の子達。

 泣いている女の子に事情を聞くと、良く分からない言葉を大声で話されて怖くなったそうな。

 彼女は、英語をまだ学んでいないそうでした。

 一方で、彼らは女の子が返事もしないし急に泣きじゃくるし、許せなくなったと言うのが言い分。

 

『女の子を泣かせて良いのは、プロポーズの時だけらしいですよ?』

 

 微笑んで、英国ジョークを試してみると、彼らは苛立ちを強くして。

 どうやら見事に逆効果。

 でも、拳を男の子達が握った瞬間に別の男の子が一人、気がついて叫んだ。

 

『こいつ、屋根裏のラプンツェルだ!

 やべえ、こいつと喋ってたら、ママンが首になっちまう!』

 

 そう叫ぶと、彼らは慌ててこの場を立ち去りました。

 どうやら、彼らはここの従業員の子供だったらしい。

 

『皆さん、用事を思い出されて帰ってしまいました。

 仲良くしたかったのに、残念ですね』

 

 残された女の子に日本語で話しかけると、彼女ははにかんで応えた。

 

『じゃあ、貴方が仲良くして! 貴方が良いの!』

 

 後で知ったことだけれど、この娘の名前は大蔵 里想奈。

 この天使のような微笑みを浮かべている子が、私の腹違いの妹だったのだ。

 

『光栄です、姫』

 

『よろしー、ではジュースを持ってまいれ』

 

 私達は、姫と従者ごっこをして、とても楽しく過ごした。

 同世代の女の子と、こうして遊ぶのは初めてのことだった。

 その他にも、日本のこと、日本人のこと、その国花の桜のこと。

 彼女から、様々な事を教えてもらった。

 そうして、また会おうねと指切りを交わし、私達は別れた。

 ――それが、起こった必然の内容。

 

 

 

 その日、お母さまが部屋に帰っていたのは1時間ほど遅れていた。

 帰ってきた時の足取りは重く、なのに重力を失ったかのように儚かった。

 

『どうして……』

 

 そうして、零れ落ちた言葉は半ば呆然として、けれども熱が吹き出していた。

 

『朝日! どうして約束を破ったの!!』

 

 今までに聞いたことのない、お母様の声量。

 私は驚き、直ぐにごめんなさいと告げて。

 でも、お母様は涙を滴らせながら、再びどうして、と呟いていた。

 

『こんなことになって……あなた、どうするの……。

 こんなに異常な境遇で、女の子なのに……』

 

 ここまで、絶望したお母さまの声は初めてだった。

 そこで、ようやく取り返しのつかないことをしてしまったのだと、気づいたのだった。

 

『女の子が、泣いていました。

 だから助けないといけない、誰かに尽くせる人間になりたいって、そう思っていたから。

 ……約束を破ってしまって、ごめんなさい』

 

 震える声でそう告げると、お母さまは私を更に強く抱きしめた。

 涙が止まらず、考えも纏まらない。

 きっと、そういうことだと分かってしまったから。

 

『――それは、いいことをしたわね、朝日』

 

 ただ、お母さまのその言葉だけが、暖かさを感じさせてくれたものだった。

 

『ごめん、なさい』

 

『謝らないで、朝日。

 貴方は正しいことをしたのよ、胸を張っていいの。

 もう誰かのためになれる、優しい女の子に育っていたのね』

 

 お母さまの抱擁に、私も強く抱きしめ返す。

 お母さまの気配をずっと覚えているために。

 それは、泣きたくなるくらいに柔らかくて暖かかった。

 

 

 

 

 

 その後、奥さまの不興を買ってしまった私は、お母さま譲りの髪を全てバリカンで刈られ、フランスのサヴォワへと送られました。

 いわゆる、日本の風習である剃髪と呼ばれるものだと、お世話になっていた家庭教師の先生が仰っていたもの。

 寺院や宗教的な施設で過ごす時の、日本における決まりごとらしい。

 

 

 ――そうして、現在。

 

 

「朝日、こんなところで何してるの?」

 

「メリルさん、少し……お母さまと実家のことを、思い出していました」

 

 私は、お母さまの匂いがする毛布を被り、崖の谷底を覗いていた。

 こうしていると、底の暗闇から色々なことを思い出せるから。

 

「朝日……もうお母さんには会えないけど、でも忘れないで。

 私も、マザーも、みんなだっている。

 一緒に、頑張ろう?」

 

 今、話しかけてくれているのは、メリル・リンチさん。

 私が預けられたサヴォワの修道院で、1歳年上のお姉さん。

 私のことをとても気にかけてくれている、どこか安心できる気配のする人だ。

 

 その優しい人の言葉に頷いて、私は立ち上がった。

 手を繋がれて、そのまま崖をあとにする。

 お母さま、また会いに参りますと、心のなかで告げて。

 

 ――お母さまが亡くなった。

 

 そう聞いたのはまだ寒い、ここに来て1年もの時間が過ぎ去った日のこと。

 何も告げられることなく、経緯の書かれた手紙と、遺品だけがここに届いてから知ったことだった。




 大蔵邸 マンチェスター館のある一室より


「ちっ、いくら雌犬の子といえ女の身。
 あのワイン蔵などに送れば、脆弱なヤツは死に至るだろう。
 だが、アレが死のうが俺にとって何ら問題はないが……」

 そこまで呟いて、彼は親友の”でも殺しだけは勘弁な”とほざいていた、巫山戯た顔を思い出してしまった。
 美しい、ギリシア彫刻の様な男は、忌々しそうな顔をしながら、携帯のある番号を呼び出す。
 大蔵駿我、着信履歴には、その名前が残っていた。


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Prologue2 祈りの日々

プロローグはここまで。


 修道院というには、ここは賑やかで暖かかった。

 元々、孤児院としても機能しているこのサヴォワの教会は、本当の家族の様にみんなで暮らしている。

 全員がシスター服を纏っているけれど、緩く柔らかいおおらかさで、マザー(院長)はみんなを見守っている。

 だから、私もこの場所では心を落ち着けることが出来た。

 修道院のみんなは良い人達で、村の人達も気の良い人ばかり。

 この場所は、ここだけで完結している。

 暖かくて、賑やかで、けれども外界と遮断されている静謐さが存在していた。

 尤も、馴染むのに私は時間を掛けてしまったけれど。

 

 

「女のくせに、何で髪がそんなに短いんだ?」

 

 そう邪気なく聞いてきた村の男の子に、私は困った笑みを浮かべるしかなかった。

 剃髪という概念を、どういう風に伝えようかと考えていたから。

 でも、答えるより前に、一人の女の子がこちらに走ってきた。

 

「ダニー、アンタはデリカシーが無いの!

 そんなんだからモテないんだ」

 

「は? 何でそんなことオルガに言われないといけないんだよ!」

 

「アサヒを虐めてるからよ!」

 

「ち、違う! 気になったことを聞いただけだ!」

 

「もう少し男を磨いてこい!」

 

 そうして、私に話しかけてきた男の子を散らして、彼女は私の頭を撫でた。

 

「あいつ、馬鹿だけど悪いやつじゃないよ、馬鹿だけど。

 でも、酷いこと言われたらアサヒも怒らないと駄目だよ?」

 

 そうして、優しく笑う彼女はオルガさん。

 ほんのりと茶色掛かったクリーム色の髪が大人っぽいと、村で評判の女の子。

 ちょっとせっかちさんなのが、チャーミングポイント。

 

「いいえ、尋ねられたことに答えられなかった私に非があります。

 ダニエルさんは、仲良くしてくれようとしていました」

 

「アサヒ、フランスの女はね、舐められちゃ駄目なの。

 だから、少し強引でも強気に対処しなきゃ」

 

「勉強になります、淑女の嗜みですね?」

 

「そう、イイ女の条件ってやつ」

 

 ちょっぴりオマセなところも、村の男の子達に大人気の理由の一つだ。

 彼女は、誰かのために一生懸命になれる人だった。

 

 

「アサヒ、困っていたら何でも言ってね。

 ここでは、みんなが困りごとを一緒に解決してるんだから」

 

 そう言ってくれたのは、ベアトリスさん。

 気配り上手な金髪の女の子。

 村の男の子達は、付き合いたいのはオルガさんだけど結婚したいのはベアトリスさんと噂しているらしい。

 そんな彼女は、私にもとても気を使ってくれる優しい人だ。

 

「差し当たっては、どんなご飯を作ろうかと考えています」

 

「うーん、チーズ?」

 

「サヴォワはチーズの名産地ですからね」

 

「パンがなければ、チーズを食べれば良いのがサヴォワだしね」

 

 今日の食事当番の私を、自然な成り行きで手伝ってくれる。

 彼女は、誰かのためにそっと手を差し出せる人だった。

 

 

 

「おいしい! アサヒ! アサヒおいしい!」

 

「美味しいのは朝日のご飯で、朝日は美味しくないよ、カトリーヌ」

 

「うるさい! メリル! ずっと服で遊んでたのに、メリルうるさい!」

 

「これは村のみんなに頼まれて、服を修繕してただけ。遊んでなんかないよ」

 

 食卓で賑やかに話しているのは、カトリーヌとメリルさん。

 年少で元気っ子なカトリーヌは、見ているだけで心が和やかになる。

 他のみんなも、カトリーヌの為にお姉さんにならないとと一生懸命な姿を見せる。

 この娘は、この修道院のアイドルで妹だった。

 

「ありがとう、カトリーヌ、メリルさん。

 グラタンに使えるチーズが多くて、幸せの味がするね」

 

「アサヒがずっとご飯作ればいい。

 イジワルなメリルより美味しい」

 

「メリルさんは、優しくて、綺麗で、全然イジワルじゃないよ」

 

「朝日こそ、何時もみんなを手伝ってくれてる。

 みんな、朝日に凄く助けられてるよ。

 優しい朝日がみんな大好きだよ」

 

「そんな事言って、メリルは服の手伝いを朝日にさせるつもり?」

 

「大丈夫だよカトリーヌ、私は好きでメリルさんに教えてもらってるから」

 

「自分からお手伝いするなんて、アサヒ変なの」

 

 カトリーヌの明るさに、私も何度元気づけられたことだろう。

 彼女は、誰かを溌剌さで励ませる人だった。

 

 

 針と糸を駆使し、丁寧に裁縫を行う。

 辺りは暗く、灯りは暖炉の炎のみ。

 そんな中でも、経験が手元を導いてくれる。

 

 神経が集中して、波打つ様に手が動く。

 無言で、夢中で、無垢な時間。

 この時だけは、何も考えないで済む。

 それは、とても楽なひと時。

 私と、裁縫の師にあたるメリルさんとだけの時間。

 行っているのは、村の人達から預かった多様な服の修繕。

 

 農作業着は厚く丈夫に、物持ちが良いように。

 普段着は細かすぎず、去れども雑さが無いように。

 お洒落な服は精緻に、真っすぐと糸を走らせる。

 日常的に着る服は、綺麗さよりも使いやすさが優先だよ、とはメリルさんの教え。

 

 彼女に教えてもらったことを、ひたすら愚直に進めていく。

 最初は苦戦したけれど、メリルさんの手元を見ていたら、自然と習得できた技術。

 不出来なものを見た時の困った顔が、上手く縫えた時の祝福に満ちた顔に変わった時、私は裁縫が好きになっていた。

 また、この楽しいことを共有できる仲間のメリルさんとも、自然と仲良くなっていって。

 今では、毎日夜に、こうして縫い物をする仲間になった。

 自然と、一緒にいることが当たり前になっていたのだ。

 

「うん、本当に上手。

 朝日、毎日上手くなってるね。

 優しさを込めて縫ってるのが、とても伝わってくる」

 

「素敵な先生のお陰です。

 一緒に縫い物をするのが、とても楽しいから。

 日本には、好きなものこそ上手慣れという言葉もあります」

 

「じゃあ、もっと縫い物が好きになれるように、教えるの頑張るね。

 ここと、ここ。

 縫いが少し硬いかな、解くね」

 

 容赦なく、縫ったところが解かれていく。

 初めての裁縫の時、縫ったものの5割が解かれてしまったのは驚いたけど、メリルさんは納得するまで裁縫を繰り返す人だ。

 何度もやり直させるから、他の修道院の人達にはこの作業は敬遠されているけど、私はその工程が誠実さを感じられて好きだった。

 それに、かつての家庭教師の先生方と比べると、メリルさんはとてもお上品な先生だから。

 お陰で繰り返す内に、私の中でも裁縫は得意な分野だと、そう思える様になっていた。

 

「楽しいですね、メリルさん」

 

「うん、朝日のお陰で、私ももっと服を縫ったり、作ったりするのが好きになっちゃった」

 

 メリルさんは、素敵な笑顔でそう言ってくれる。

 彼女の裏表が無い、その天衣無縫さに私は何度も救われていた。

 彼女は、誰かと寄りそって、一緒に笑える人だった。

 

 

 この修道院はフランクといえど、流石に宗教施設ではある。

 なので、聖堂はキチンと備わっていて、そこでみんなも祈りを捧げる……ことは少なかったりする。

 良いのかなと思いつつも、マザー曰く”敬意の無い義務的な祈りは、嘘を呼び込み礼節を欠く”と言っていた。

 お陰で、日曜日の礼拝の時以外は、とても静かな場所。

 その静謐さが満ちている場所で、私は祈りを捧げていた。

 そんな私を見下ろしているのは、十字架と、ステンドグラスから降り注ぐ月光、それと……。

 

「アサヒ、もう10時を回りましたよ」

 

 ランタンの淡い光と共に、マザーがやってきていた。

 彼女は毎夜、こうして誰かが夜更しをしていないか、確かめるために巡回をしている。

 遅くまで起きていると、今のように寝なさいと促しに来る。

 

「夢中になっていました、申し訳ありませんマザー」

 

「1時間、ずっと祈りを捧げていましたね、それも毎日。

 アサヒ、貴方は何を祈っているの?」

 

 責めるでもなく、怒るでもない。

 ありのままで、マザーは私の内面を確かめようとした。

 内面、心理、私の祈りの内容。

 お母さま、大蔵家、そして修道院のみんな。

 それらが脳裏を瞬く間に過ぎり、夜の帳に消えていく。

 それを答えようとしたところで、マザーに肩から毛布を掛けられた。

 そこで、体が冷えていたことにようやく気がつく。

 

「アサヒ、祈りとは誰かの為だけに行うものではありません。

 自分の為にも行わなくてはいけないのです。

 祝福を受けた貴方が、余剰の幸せを他者に分け与える。

 そうしなければ貴方が倒れます。

 それでは、誰も救われないのですよ」

 

 淡々としているけれど、話している内容は厳しい。

 それに、全てを見透かされている。

 私の祈りは、お母さまへの祝福と大蔵家への贖罪だから。

 

「ありがとうございます、お優しいマザー。

 それでも、私がこうしたいのです」

 

「私は聖職者です、子羊を導く義務があります。

 間違っていることは正さねばいけません」

 

 正理が通っており、否定するところがない。

 だから、私は頭を下げるしか無かった。

 これ以上は、マザーの迷惑になるだけだから。

 

「アサヒ、私は事情を知っています。

 貴方を預かる時、オオクラ家の方は言いました。

 苦難と不幸の連続を、アサヒが歩いているということを。

 そして、それが今後とも続くことを。

 いずれ、貴方には迎えが来ます、試練の時が来るのです。

 ですから、ここに居る間だけは心を鎮めてください。

 私が、アサヒを祝福しましょう」

 

 色が無かった声音に、柔らかさが滲み出した。

 そして、この人が上辺だけの人でないことを、私は知っていた。

 故に、深く深く、頭を下げお辞儀をしなければならなかった。

 泣いてしまいそうな顔を、マザーに見られてしまうから。

 

「アサヒ、毎日を楽しく生きなさい。

 私は戒めるのが仕事ですが、貴方は窮屈が過ぎるのです」

 

 それでも、マザーは私を抱き寄せた。

 そうされると、昔のことを思い出してしまうのに。

 

「お母、さま」

 

 小さく呟いてしまうが、マザーはそれを追求しなかった。

 泣かないつもりだったのに、一筋だけ涙が溢れる。

 お母さまの優しいアイルランドの子守唄と、暖かさを思い起こしてしまったから。

 

「失礼……致しました、マザー」

 

「おやすみなさい、アサヒ。

 明日を良い日にするために眠りなさい」

 

 何事もなかった様に、マザーは巡回に戻っていった。

 マザーの敬虔さと穏やかさは、この修道院の誰もが信頼を置くもの。

 全員が、彼女のことをお母さんだと思っている。

 彼女は、誰かを導ける賢い大人であった。

 

 

 この修道院では、誰かが誰かを支えている。

 こうした優しさに包まれて、私の心は少しずつ癒えていった。

 切った髪もショートヘアと言い訳できるまで伸びた、1年という歳月。

 いずれ、お母さまの下には旅費を貯めて向かえば良いんだと、前向きになれるくらいの月日。

 そうした時だった――お母さまが亡くなったと、手紙と遺品が届いたのは。

 

 

 呆然とするしか無かった。

 だって、実感がない。

 ただ、届いた数少ない遺品は、間違いなくあの屋根裏部屋にあったもの。

 だけれども、私は泣くことさえ出来なかった。

 お母さま、この親不孝者の娘をお許しください。

 

 ただ、その日から、どうすれば良いのかが分からなくなってしまった。

 日常を生きるだけでも、それを成す術に不安を抱いてしまう。

 当たり前のことが、当たり前では無くなる感覚。

 それでも生活が出来ていたのは、修道院のみんなが私を助けてくれたから。

 

 オルガさんは、私の手を引いて考える暇を与えず連れ回してくれた。

 ベアトリスさんは、私が間違える度にフォローをしてくれた。

 カトリーヌは、寂しい時に私の手を握ってくれていた。

 メリルさんは、私とずっと一緒に居てくれた。

 マザーは、過ちを犯しそうになる度に、それを引き止めてくれた。

 

 だから、私はこうしてここに居られた。

 それで何とか、機械的にだけれども体を動かせる様になった頃合いの時だった。

 ――迎え、と称する人がやってきたのは。

 

「朝日お嬢様、大蔵家次期当主、大蔵衣遠様の命により参りました。

 貴方を迎える準備が出来た、と仰せです」

 

 目まぐるしく、日々が動いていく。

 穏やかな日々、さようなら。

 こんにちは、不確かな日々。




メモ

メリルは家族に対して、気安さから全員を呼び捨てで呼ぶ。
つまり、朝日は彼女に家族として認められていた。
二人で行っていた裁縫は、初めて共通の言語(服飾)を持つ同士との行為として、神聖さを感じていた。
彼女だけが”朝日”とキチンと発音できていたのは、四六時中一緒に居たから。
曰く、頼りになる大好きな妹。

 
 サヴォワ 修道院の一室にて


「朝日は家族と再会して、幸せになる。
 それは、とっても素敵なこと。
 でも……やっぱり、嘘みたい。
 エッテみたいに、結婚しなかったから、離れ離れになっちゃったのかな……」

 手元で布が縫い合わさる。
 自動的に、あの日の朝日が居た時みたいに。
 けれど、その縫い合わせは完璧で、もう解く必要なんて欠片もない。

 でも、手が勝手に動いていた。
 再び解いて、縫い合わせて。
 それを、何度も繰り返していた。


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第1章 それは散り行く桜のように
第1話 幼年期の終わり


書いていると、朝日が”僕”と言い出したり、衣遠兄様が遊星(ねっとり)と言い出したりして、その度に修正作業をしていました。虱潰しにしたと思いますが、誤字ってたらまたご報告ください。


 拝啓、親愛なるメリル・リンチ様。

 

 私が修道院を離れて幾月か経過致しましたね。

 冬のサヴォワで、如何お過ごしでしょうか?

 私が住んでいる東京は、確かに寒い気配はするものの、あの雪の降りしきるサヴォワに比べれば極めて温暖といえる環境です。

 また、体だけでなく心も暖かく、今は家族と共に暮らしております。

 そうです、家族です。

 

 日本で私を待っていてくれたのは、血の繋がった妹でした。

 名前をりそなと言い、美しいお姫様の様な少女です。

 何かと私の事を気に掛けてくれており、多くの面で助けられています。

 私も日本人であったとはいえ、こうして暮らすのは初めての祖国。

 多くの物が目新しく、聞くと見るとの違いを実感するばかりです。

 

 また、私の家族は妹だけでなく、偉大な兄にも会うことが出来ました。

 この御方は、私の生家を支える優秀な方で、毎日を忙しく過ごしておられます。

 ですが、時折私とりそなの様子を見に来てくださいます。

 兄は私と妹に期待を掛けてくれており、様々な事を学ぶ機会を与えてくださいます。

 特に、メリルさんに教わった裁縫に関しては、続けろと仰って頂けました!

 これからも、貴方や修道院の皆様、また兄妹の事を思いながら糸を繰りたいと思います。

 いつか、メリルさんと並んで作業できる日を夢見て。

 

 そういえば、メリルさんは、日本人の血が混じっていると仰っていましたね。

 もし機会があれば、この日本へいらしてください。

 ソメイヨシノと呼ばれる、日本の国花が咲き乱れる春の光景を一緒に見ましょう。

 貴方と同じものを綺麗と感じ、素敵だと思えたら私は嬉しいのです。

 ですから、これは私の個人的な欲求です。

 メリルさんと、また二人で裁縫ができることを望んでいます。

 

 ……察してしまわれたかもしれませんが、実を言うと修道院での生活に未練があります。

 穏やかで、変わらない日々。

 小さな幸せが、毎日コツコツとある生活。

 大きな幸せも、不幸も、きっと変化と共にやってくるのです。

 故に、その変わらない日々を、私は惜しく思います。

 ですので、また会える日まで、メリルさんを懐かしませてください。

 思い出は、誰にも取り上げることのできない、魔法の宝箱でありますので。

 それでは、またお会いできる日を切に願っております。

 修道院で得た温もりを、今後とも胸に抱いておりますが故に。

 

 大蔵朝日より、祈りを込めて。敬具

 

 

 

 

 

 日本に着いた時、真っ先に案内されたのはとあるマンションの一室だった。

 数は素っ気ないが、品質は上等と言って良いほどのインテリア。

 窓からの景色は、この青山を一望できる程の高層。

 一目で、良い部屋だと分かる場所だった。

 でも、そこで一番異彩を放っていたのは、部屋や景観ではない。

 部屋の中心で立っていた長身の男性こそが、この部屋で一番のインテリアであり、主人であると一目で理解できた。

 

「お初にお目に掛かります、大蔵衣遠様。

 私の名前は、大蔵朝日と申します。

 偉大なる衣遠様にお会いできて、光栄です」

 

「大蔵衣遠だ、どうやら世辞を述べる程度の能力はある様だな」

 

 冷然とした人だった。

 声に温かみがない、あるのは確かに感じる圧の類。

 かつてマンチェスターのお屋敷で見た、背中と確かに重なる。

 彼は私を観察していたのだろう、ジッと見つめていた。

 そして、顔を顰めて、吐き捨てる様にして告げた。 

 

「お前には忌まわしいことに、我が父の血を引いているらしい。

 卑賎な血が混じっていようと、大蔵の血族であることは証明されている。

 ならば、この俺を兄と呼ぶ義務がある」

 

 それは、唐突に与えられた義務であった。

 兄、それは特定の家族を呼ぶ時に用いる呼称。

 今まで、会話を交したことのない人を呼ぶ言葉としては、些か不適切な気もする。

 ――でも、私の中に何らそう呼ぶ事への抵抗はなかった。

 むしろ、歓迎さえしていたのかもしれない。

 

「ありが、とう、ございます、お優しい衣遠兄様」

 

「ちっ、雌犬から引き継いだ情を引き出す手段か。

 惰弱なる妹め、体面だけの言葉で涙を流すとは、恥を知れ」

 

 吐き捨てる様な言動さえ、不思議と傷つかなかった。

 この人が私の家族になってくれたと、そう思うだけで救われた気さえしたから。

 天涯孤独になってしまったと、そう思っていたところに差した光がこの人だった。

 

 マンチェスターのお屋敷では、私は使用人見習いに過ぎなかった。

 遠くから、大蔵の血筋の背中を眺める事しか許されなかった。

 でも、そんな私に、衣遠兄様は兄と呼ぶことを許してくださった。

 

 衣遠兄様から、初めて与えられたもの。

 それは、私にとって掛け替えが無くて、とても大切なもの。

 流した涙を拭い、私は彼の目を初めて真っ直ぐと見た。

 

「衣遠兄様と家族になれたこと、とても嬉しく思います。

 兄様のお役に立てる様に、精一杯頑張ります」

 

「ふん、その媚び諂いがどこまで続くか見物ではある。

 だが、家族の情に縋る惰弱さは唾棄すべき弱さだ。

 心から認められたいのであれば、才能を示せ。

 己の有用性を証明して見せろ、それが貴様の義務だ」

 

 やはり、暖かさを感じることはない視線であった。

 でも、その目の中に、僅かな揺らぎを感じる。

 眼光のレンズが反射して、私の願望を映し出しているだけかもしれない。

 それでも、私は都合よく理解したいと、そう思った。

 

「理解いたしました、衣遠兄様。

 兄様のお役に立てる様に、精進いたします」

 

「それで良い、俺には未だ使える駒が足りていない。

 その為には、お前の様なものも用いる。

 俺が期待しているのはお前ではない。

 お前に流れる大蔵の、万に秀でるその血筋だ。

 それをよく覚えておくことだ」

 

 いつか、衣遠兄様に認められたい。

 未熟な身なれど、そう思う事が私の夢となり、希望となった。

 その為に頑張ろうと、たった今、そう決めていた。

 利用されるだけの関係でも一緒に居られるのなら、家族として心から認められる事があると信じて。

 

「貴様には様々な課題を与える、物にしてみせろ。

 それと、話には聞いている。

 裁縫をサヴォワで行っていたそうだな?」

 

「はい、依頼のあった衣服を修復し、仕立て直す作業をしておりました。

 不勉強ながら、手で作業を覚え、経験を積ませていただきました」

 

 裁縫、メリルさんと行っていた二人の神聖な儀式。

 優しくも厳しい師匠が、私に与えてくれたもの。

 あの時間が、私に楽しさを教えてくれた。

 思い出となるには、まだ地続きで手が覚えている技術。

 それを、衣遠兄様は……初めて表情を変え、僅かに嗤いながら私に命じられた。

 

「ならば、それをこの場で見せてみろ。

 この俺、大蔵衣遠は服飾を愛し、いずれは欧州を俺の服が席捲する事を夢見るデザイナーだ。

 お前は凡才か、それとも原石であるのか、それを見極める」

 

「……よろしいの、ですか?」

 

「見極めるといった。

 芽が無いのなら、その技術と誇りを粉砕する。

 服飾の道に、醜悪さがあるのを俺は許さない。

 それが、身内であるのならばなおさらな」

 

 正直に言えば、胸がドキドキした。

 早速、衣遠兄様のお役に立てる道を示してもらえて、それが私に楽しいという感情を与えてくれたものだったから。

 ありがとうございます、お優しい衣遠兄様、メリルさん。

 私、本気で取り組めるものを見つけたかもしれません。

 お母さま、どうか見守って居てください。

 朝日は、この技術で衣遠兄様を支えてみせます!

 

 やる気マンチェスターです!

 

 

 ……………………

 ………………

 …………

 ……

 

 

「今まで学んできた技術、その全てを捨てろ」

 

 ――メリルさん、私の師匠、聞こえておられますか?

 ――現実は厳しいものです、打ちのめされてしまいそうな程に。

 

高級服(オートクチュール)を縫うには、その手先は俗が過ぎる。

 着やすい服を縫うには良いが、それを重視しすぎている。

 大蔵の名に泥を擦り付けるつもりか、屑め」

 

「申し訳、ございません……」

 

 少しは褒めてもらえるかもしれない、そういう願望があった。

 あのメリルさんのお陰で、少しだけ自信も芽生えかけていた。

 だから、現実とのギャップが、息苦しく感じてしまう。

 

「謝るのは簡単だ、能無しでも出来る。

 だが! それを無条件で行う事は凡俗の行為!

 屈辱と憤怒を感じられぬ者に、成長の兆しはない」

 

 再度の、申し訳ありませんという言葉を飲み込む。

 言った瞬間、彼は私を切り捨てると理解できたから。

 見せかけではない、変わりの誠意を、衣遠兄様は証明してみせろと言っているのだ。

 

「衣遠兄様が望む服を縫える様に、何度も服を縫います。

 努力をし、そのお役に立てる実力を身に着けます」

 

 言葉にした、してしまった。

 この人は実力のない者の大言壮語を嫌うと、今までの才能を愛する姿勢からも理解出来る。

 なら、この言葉を達成できなかった時、私は捨てられてしまうのかもしれない。

 それは……苦しい、ようやくこうして会えた家族だから。

 

「良いだろう、放言したからにはやってみせろ」

 

「良い、のですか?」

 

「縫った物に、着た者に対する姿勢が見えた。

 機械の如く作業する人間に身に付くものではない。

 お前の縫った服を着た人間が、守られていると錯覚する物を縫える素養はある」

 

 技術が追い付かなければ塵に等しいが、と衣遠兄様は最後に付け加えられた。

 でも、私は心底からホッとした。

 素養があるとか、そういう事に対してではない。

 メリルさんとの時間を、全否定されなかった事に対しての安堵。

 あの時、メリルさんが教えてくれた楽しさが服に残っていた。

 メリルさんの気持ちが、私を包んで守ってくれた気さえした。

 

「ありがとうございます、お優しい衣遠兄様」

 

「今のままでは使い物にならん。

 これから与える教材に、服飾全般のものも与える。

 デザイン、型紙、裁縫、これら全てを行え」

 

「誠心誠意、初心を忘れずに励みます」

 

 沢山学びたい、多くの事を身に着けて誰かの役に立ちたい。 

 マンチェスターのお屋敷にいた頃から思っていたこと。

 でも、それは漠然と思っているだけで、具体性が何もなかった。

 それに、僅かに色が滲み出したような気がした。

 

 また、かつての様な教育が行われるのだろう。

 サヴォワでは、送られてきた物を自習するしか無かった。

 家庭教師の先生方は苛烈な面もあった。

 だけれども、確実に自己学習で進めるよりも、確かに効能はあったのだ。

 

「惰眠を貪るな、本気で取り組め。

 それが、お前の成すべきことだ」

 

 衣遠兄様の言葉に、しっかりと頷いた。

 誰かの、ううん、家族にお役に立ちたいから。

 

 僅かな高揚が、私の中で火種の様に燻っていた。




正直、やる気マンチェスターです! はどうしようかと思いましたが、心の中の遊星君が”だったら、やる気マンゴスチンです!”と胡乱な提案をしてきたので、このまま残しました。
因みに、こちら没にしたもの。



 ありがとうございます、お優しい衣遠兄様、メリルさん。
 私、本気で取り組めるものを見つけたかもしれません。

「やる気マンチェスターです!」

「はや狂ったか! 愚かなる妹よ!」


 これを口に出せる関係性なら、朝日も少し楽な道を歩けてると思います。


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第2話 幼さは遠くに

今回は、りそなの視点でのお話になります。


 大蔵家で、定期的に行われる晩餐会。

 大蔵本家で行われるそれは、体裁としては笑顔で和やか。

 でも、本当の笑顔を浮かべているのはあの祖父だけ。

 他の人達は、何かを探り合う様に微笑を浮かべつつも、目が誰も笑ってはいない。

 むしろ、視線こそが凶器で、相手を刺す武器だと殆どの人が思っている。

 お陰で、他人の顔色を伺うのが段々と得意になってきてしまった。

 微塵も、少しも嬉しくなんて無いけど。

 

 元々、この集まりはあまり好きじゃなかった。

 怖い人達でいっぱいで、この場所では何時も優しい母も怖い魔女の様になってしまうから。

 ……いや、違った、ここ以外にもあった。

 あの人、ここには呼んでもらえない私の姉。

 彼女の話をした時も、まるで別人になってしまったかの様な、魔女の様な表情を思い出す。

 

 私は、母にあの姉の事を話したことで、不幸にしてしまったことを知った。

 お母様が、自慢する様に話していたから。

 あの姉の、優しく美しかった黒髪を刈り上げて二度と戻れない地下の世界に追放したと。

 そう語っていた母の笑顔が、何よりも怖かった。

 それ以来、私は姉の話を家族の前でしていない。

 姉への申し訳無さと、母を信用できない気持ちで心を閉ざして守るしか無くなってしまったから。

 

 また、姉に会いたい。

 あの日の様に、従者ごっこをして、いっぱい楽しくお話して、そうして謝りたかった。

 私がキッカケで、苦しめてしまってごめんなさいと。

 ずっと、これからは守りたいと。

 

「里想奈、聞いているのですか、里想奈!」

 

「あ、はい、お母様。

 申し訳ありません、晩餐会での食事が美味しくて衣遠兄様への感謝の言葉を考えていました」

 

「えぇ、流石は衣遠。

 素材の味を引き出す、京都の心というものをよく知っています」

 

 満足そうに頷いて、母は兄と祖父への挨拶へと向かった。

 一方で父は、ムッツリとした表情でこの場に残っていた。

 昔、ある失敗をしたとかで、父は祖父との接触を減らしている。

 だから、こんな時も無言で一人ぼっちで居る。

 

 今も、父と家族は、日本とイギリスとで別々に住んでいる。

 私にとって、父は血族らしいけど他人というのが正直なところの印象だった。

 でも、滅多に会えない父と今が話のできるチャンスだ。

 それも、母には聞かれたくない話なのだから。

 

「あの、お父様」

 

「何だ里想奈?」

 

「姉のことで、少し聞きたいのですが」

 

 尋ねても、彼は僅かたりとも表情を変えない。

 でも、まるで能面そのものな顔は、他の想いを隠す仮面にも見えた。

 

「何も知らない」

 

「助けてあげないのですか?」

 

「知らぬ、だからできない」

 

 目と見て、表情を確かめても、何の揺らぎすら生じない。

 鉄面皮で、頑固さを感じさせる姿。

 恐らく、何も聞いても話してくれない。

 それに、失望を感じざるを得なかった。

 

「失礼致しました、お父様」

 

「良い」

 

 本当に、必要最低限のことしか話さない。

 もう少し饒舌に話すこともあるが、そういう時は説明を口頭で行ってるだけ。

 この人が何を考え、思って生きているのか、私は知りようがなかった。

 

「里想奈さん、少し良いかな?」

 

「え、あ、はい」

 

 父に対してブツブツと考えているところに、声が掛けられた。

 返事をし、顔を上げて――目を見開いた。

 だってその人は、何時も兄と弁舌による応酬を繰り広げていた、あの上の従兄弟だったから。

 

「衣遠に少し伝言を頼みたいのだけど、良いかな?」

 

「か、構いません」

 

 この人は怖い人、あの視線で人を刺せるくらいには。

 そんな人に話しかけられても、父は一瞥しただけで目を閉じてしまう。

 関係ない、関知しないといった感じなのだろうか、酷い親過ぎる!

 

「じゃあ一つだけ。

 屋根裏のラプンツェルの件、アレは貸しだって、それだけ伝えて欲しい」

 

「は? 屋根裏のラプンツェル……あ、あの!」

 

 身構えていた時に掛けられた言葉に、私は反射的に食いついてしまっていた。

 それは今まで知ることが出来なかった、あの姉に関する情報を知ることが出来るかもしれない高揚から。

 私に声を掛けてくる事への意味は、今は考えるのを放棄していた。

 

「何かな?」

 

「教えて下さい、姉について教えて欲しいんです!」

 

 そう告げると、彼は考える様に唇に人差し指を当てて。

 一つの質問を私に投げかけてきた。

 

「それは、どうして?」

 

 探るような目をして、嘘かどうかを見極めている。

 ここで嘘を吐こうものなら、彼も嘘で応えるかもしれない。

 元々、私に彼の言葉が嘘かどうか分からない。

 それでも、姉の事では誠実で居たいと、そう思ったから。

 

「一度だけ、遊んでもらったことがありました。

 それがとても楽しくて、また会おうねと指切りもしました。

 だから、約束を守りたいんです」

 

 迷いなく、私は本音を話していた。

 頼み事をするのに、今ここで私が渡せるものは正直であることだけ。

 怖いと感じていた上の従兄弟の目を真っ直ぐに見て、信じてくださいと伝える。

 今は、恐怖よりも、姉に会いたいという気持ちが何より上だったから。

 

「……里想奈さんは賢い子だ、俺が何を望んでいるかをよく理解している。

 嘘のない思い遣り、この家でそれを感じることが出来るとはね」

 

 彼の顔が、目に見えて柔らかくなった。

 今まで怖いと思っていた目に、人間的な色が垣間見える。

 でも、そんな事を気にしていられないほど、私は前のめりになっていた。

 姉のことが、他の何より気になっていたのだ。

 

「今、日本にいる。

 俺から言えるのはそれだけ、あとは衣遠の方が詳しいだろう」

 

 彼は微笑を浮かべて、頑張ってと言いその場を去った。

 残された私は、ドキドキと早く脈打つ心臓を抑えるのに必死になっていた。

 母の前ではいつもどおりに。

 それを意識して、頭の中で予定表を組み立てていく。

 ここを出て、すぐ兄に連絡を取るために。

 

 ――抑えようとしていた心音は、やっぱり高鳴り続けていた。

 

 

 

 

 

「お忙しい衣遠兄様の黄金にも等しいお時間を頂き、誠にありがとうございます」

 

「能書きは良い、さっさと要件を言え」

 

「……姉が、日本に居ると聞きました」

 

「ちっ、駿我か。

 愚かなる妹と俺を、離間の計で分断するつもりか」

 

「私は、如何なる時も衣遠兄様の味方です。

 ですので、姉について教えて頂きたいのです」

 

 あの後、予定通りに兄に話を通すことが出来た。

 母の居ないホテルの部屋で、姉の事について会談をする。

 煩わしそうな顔をしている兄は、されども話を打ち切ろうとしない。

 兄は私を無視できない、正確には私が姉関連で無茶をして、面倒なことが起こる事を憂慮している。

 自分の至らなさは、時に有能で恐ろしい兄への武器になることがあった。

 だからこそ、彼は私を愚かなる妹と呼ぶのだけれども。

 

「己が罪悪感を隠すために、アレに心を配っている事は知っている。

 だが、その様な些事に俺が構う理由がない。

 アレは、俺が管轄し、教育する。

 何れ、俺の道具として相応の活用をする予定だ。

 お前は臍を噛んで黙っていろ」

 

 関わるな、と端的に告げられる。

 兄としても、私が関わってややこしくなるのは合理的でないのだろう。

 そもそも、求めるだけで還元しない人間を兄は蛇蝎の様に嫌っている。

 なので、私は何か兄に対価を示す必要がある。

 

「姉の……」

 

 それを考えた時、一つの考えが浮かんだ。

 でも、これを言うと、自分が凄く悪い人間になってしまう。

 だから、本当はこんな事は言いたくない。

 けれど、私は兄の言う通り、無力で何も出来ないから。

 こんな、酷いことを言うしか手段がない。

 あの人に会って、謝って、これから一緒に居たい。

 その一心で、私は兄に提案していた。

 

「姉の、鎖になります。

 雁字搦めにして、この妹から離れられなくします。

 これで、私もあの人も、衣遠兄様の下から離れません。

 衣遠兄様を頼りにすることで、自分達が衣遠兄様を裏切れない状況を作ります」

 

 姉が地下に封ぜられたと母から聞いた日、私は世界が思っていた程に輝いてなかった事に気がついた。

 それから、本当の世界が見える様になり、姉に初めて会った日の私はどこかへと消え去った。

 それを悲しく思うこともあるけれど、でも前よりも今の私の方が信用できる。

 考える頭を持ち、賢しく振る舞おうと出来るから。

 あの日にした、無思慮からの後悔を避けれるようになったから。

 

「自ら俺の家畜になると。

 豚のような生き様だな、妹よ」

 

「姉に謝罪を出来ないと、私は動物以下になってしまいます。

 お願いします衣遠兄様。

 どうか姉と、会わせて頂けないでしょうか……」

 

 声がか細くなるのを感じる。

 姉に謝るために、姉の人生を無断で担保にしている。

 明らかに、これは善意からの行動ではない事を理解できてしまっているから。

 私が姉に出来ることは、イザという時に姉を守るだけの手段を構築する事ぐらい。

 その身勝手さを兄に見咎められ、罰を与えられるのを恐れていた。

 そうされれば、あの姉ともう会えない気がしたから。

 

「愚かな提案だ、小賢しい。

 だが、良いだろう。

 どちらにしろあの母の手前、お前に苛烈な教育を施す訳にも行くまい。

 雌犬の子が、お前への楔へとなりうる可能性も、今の様子からすると十分にありえる。

 近日中に、お前が朝日と会う準備を行う」

 

「あ、ありがとうございます!

 この御恩は忘れません、衣遠兄様」

 

 恐ろしさのあまり寒気がし、鳥肌が立っていた。

 それでも、最後まで私は話をできた。

 交渉と言うには、我儘で、一方的で、更には空回りしていたけれど。

 この時ばかりは、兄の計算高さに感謝せざるを得なかった。

 

「お前はただ、俺から一方的に与えられるだけだ。

 俺に与えられるだろうと思い上がるな」

 

「はい、衣遠兄様の言う通りにします。

 それが、私に出来る唯一の事です」

 

「そうだ、愚かなる妹。

 お前が役に立つ時は、道具として扱ってやる。

 しかし、道具には意志は必要ないが、お前を破壊する訳にもいかない。

 故に、雌犬の子を使う。

 お前が裏切ればアレがどうなるか、心得ておけ」

 

 この人は、大体の事を成し遂げられる能力を持っている。

 そして、やると言ったら成し遂げる精神力も持ち合わせている。

 私は姉の為に、この人を裏切る事は出来なくなっていた。

 

 でも、元々この人は私の兄なのだ。

 そんな人を、積極的に裏切る気なんて無い。

 だから、私はとても楽観していた。

 この人と敵対するときなんて、きっと来ないと。

 私は賢く立ち回れる、そう自分に言い聞かせながら。

 

 

 今、この日本のどこかに居る姉に思いを馳せる。

 勝手に貴方をダシに使ってごめんなさい。

 今後は、今までの分だけ私は尽くします。

 どうか、それでも元気で居てください。

 そうして会った時に、あの時みたいに笑いかけてください。





本当は朝日とりそなを再開までさせるつもりだったのですが、ちょっと長くなってしまいました。次の話まで、お待ち下さい。



思い出の欠片

「姫様の髪は、オニキスの如き輝きです」

「おにきすって、何?」

「黒色の宝石で……とりあえず、キラキラしてて綺麗って事ですよ」

「そうなんだ、えへへ。
 えっへん、お姫様の髪はピカピカなんだよ!」

「髪だけじゃなくて、お人形さんみたいに、姫様は可愛いです」

「朝日はいっぱい褒めてくぇる、えらい!」

「ひと目で、好きになってしまいましたよ」

「? 朝日、りそなに一目惚れ、したの?」

「はい、淑女として、貴方に魅入られました」

「女の子なのに、へんなのー。
 でも、嬉しい!
 朝日も、凄くかわいい!」

「ありがとうございます、麗しきりそな姫様」



 忘れられない記憶。
 姉妹で、初めて笑いあった、最初の瞬間。
 多分、大人になっても、ずっと覚えている光景。
 最初に、母に我儘を言ってしまうくらいに、好きになった女の子との記憶。


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第3話 妹、姉には親友と姉と母親役の3つを要求します

お気に入り登録、評価、感想ありがとうございます!
嬉しすぎて、手が震えるここ最近(寒くて物理的にも震えてます)。
今後とも、マイペースながらに更新をして参りますので、よろしくお願いします!
やる気マンゴスチンです!


 あれから、衣遠兄様は様々なことを私に学ばせてくださった。

 服飾以外でも、知識、教養、マナー、技術。

 多岐多様に、どんな時でもお役に立てる様に。

 

 多くの事を学ばせて頂き、高いモチベーションを維持できている。

 今までは、お母さまの教えが支えで、誰かのためにという目的で頑張れていた。

 でも、その誰かの名前が明確になると、より一層頑張れる。

 その事を、お優しい衣遠兄様は、私に教えてくださったのだ。

 

 ここまでの教育を施すには、相応にお金が掛かっているという事を知っている。

 私は、周りの方々よりも、深い程の贅沢をさせて頂いている。

 それを意識し、毎日を学びに費やしていたある日のこと。

 部屋にやってきた衣遠兄様は、唐突に告げたのだ。

 

「今日は、服飾関連の点検に来た訳ではない。

 我が妹、お前にとっても血の繋がりがある末妹が、直ぐそこまで来ている」

 

 無表情で告げるお兄様に、心臓がどきりと高鳴った。

 だってそれは、知覚はしてなかったけれど、私が初めてお話をした家族のあの子を思い出したから。

 日本に連れてきてもらい、そこで出会った彼女が妹である事をお兄様から教えられた。

 また、彼女がお母さまとの別離の原因だと衣遠兄様は言っていた。

 でも、それは違うと知っている。

 

 私が選んだから。

 あの日、部屋から飛び出して、誰かの役に立とうとした。

 それは、誰に決められたからでもない、自分の初めての善行だった。

 お母さまも、良い事をしたと褒めてくださった。

 あの出来事は、私にとってあの出来事は誇りになり得ることなのだ。

 

 なので妹が、あの時の姫様が来たら、笑顔で迎えようと思っていた。

 だからこそ……私は少し困ってしまっていた。

 あの姫様が、泣きながらごめんなさいと言うことに。

 

 

 部屋の扉を開けて、妹がやって来た。

 こちらを見て、丸く目を見開いて、そうして抱きついて来たのだ。

 私も、彼女を受け止めて、抱きしめ返す。

 

 身内の妹、私よりも年下の女の子。

 今まで守ってもらうばかりだった私が、守ってあげないといけない対象。

 胸に飛び込んできた、愛すべき喜びに私はその気持ちを強くして。

 そんな時、彼女が震えている事に気がついた。

 そうして、ほろほろと涙を流し始めた彼女は、こんな事を言い出したのだ。

 

「本当に……本当に、ごめんなさい。

 私は、貴方を大変な目に遭わせてしまいました。

 私は幼く、愚かでした」

 

 幼く、愛らしい私の一歳年下の妹。

 彼女の爛漫さは、かつて他者と関わる楽しさを私に教えてくれたもの。

 それが陰り、今は悲しみの涙を流している。

 私を搔き抱く腕の力が、彼女の感じる後悔の強さを物語っている。

 

 ずっとこの幼い少女は、それを抱えて生きてきた。

 自責の念で、こうして押し潰されてしまう程に。

 私の胸もジクジクと痛んだ。

 彼女の痛みを想像して、後悔を抱える意味を知っていたから。

 

 私も、お母さまに最後に掛けた言葉は、行って参りますだった。

 そう、また会えると無条件に私は信じていた。

 それが、既にあの日と断絶が生まれてしまった。

 

 もう、私はお母さまに会えない。

 その時、私は茫然自失とし、取り返しのつかない現実に、愛を伝えられなかった事を悔やんだ。

 だって、“愛しております、お母さま”という一言が、永遠に届かなくなったのだから。

 

 妹も、私の事を伝え聞いた時、同じ事を思ったのかもしれない。

 私は愛していますで、妹はごめんなさいという言葉の違いはあるけれど。

 共に、断絶が後悔を呼び込んだのは、同じだったから。

 だから、私がこの妹に掛ける言葉は一つだけだった。

 

「泣かないで下さい、こうしてまた会えたのですから。

 私は、貴方が笑っている姿が、とても好きでしたよ」

 

「い、妹に、敬語なんて、使わない、で下さい。

 貴方、は姉で、私は、妹なんですから」

 

 涙でクシャクシャになった顔を上げた彼女に、私の想いを伝える。

 良い子で、私のために泣いてくれている子に。

 

「うん、じゃあ、そうするね。

 それと――りそな、久しぶり。

 あの時、好きになった友達が、妹でとっても嬉しい。

 私、あの時に妹を助けてあげられたんだね。

 立派な姉で居られたかな、私」

 

「――立派でしたっ! 立派じゃない訳無いです!

 あの日に、私は嬉しさと、心強さと、勇気を分けてもらいました!

 私も、あの時の貴方が姉と知り、心から嬉しかった!」

 

 あの時のことが肯定されて、とても嬉しかった。

 正しい事をしたと思っていたから。

 あの日の続きが、ここで幕を下ろす。

 私と妹が再会して、こうして手を取り合えたのだから。

 

「両思いだったんだね、私達。

 こうして話して、分かり会えるのって素敵だね」

 

「貴方が先に、私の事を好きになりました。

 一目惚れって、そう言ってたから。

 ――そうでしょう? 朝日……お姉ちゃん」

 

 照れた顔で私を見上げる妹、大切なりそな。

 その顔に、仕草に、お姉ちゃんと呼んでくれる口に。

 胸から、溢れ出てくる強い気持ちがあった。

 

「りそな、力一杯、抱きしめても良いかな?」

 

「え? ……えぇ、良いです、けど」

 

「それじゃあ、えいっ」

 

 ギュッと抱きしめて、りそなを感じる。

 抱きしめた時に、ウギュっと、苦しそうな声が聞こえたけれど、少しだけ我慢して欲しい。

 だって、本当に愛おしく感じたから。

 

 友達になった子が、妹になって嬉しかった。

 それが、最初にりそながこの部屋に来た時の思い。

 けれど今感じているものは、心の底からこの子の力になりたいという気持ち。

 友達を通り越して、家族だと心がそう認めていた。

 お母さまが私を大切にしてくれた気持ち、今なら分かります。

 こんなの、愛さずには居られない!

 

「そろそろ苦しいです、姉」

 

「ごめんね、もう少しこういさせて」

 

「えぇ……」

 

 流れていた涙は引っ込み、困惑の表情を色濃くするりそな。

 でも、これは仕方のない事なのだ。

 兄妹、姉妹なのだから。

 

 

「……茶番はそこまでにしろ、愚かなる妹達」

 

 そんな私達を制止したのは、今まで見守ってくださっていた衣遠兄様だった。

 りそなは、あっ、と驚いたような声を出している。

 私の事に一生懸命になってくれていたから、それでお兄様の事を思考の隅に追いやってしまっていたのかもしれない。

 

「ありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 あの日に会った妹と再会でき、こうして触れ合うことも出来ました」

 

「姉、姉っ、衣遠兄様の前ですよ。

 早く離して下さい!」

 

 ジタバタとするりそなを、惜しみながら解放する。

 本当は、この抱擁を衣遠兄様も交えて行えたら、更に幸せだったかもしれない。

 でも、それを為す胆力も、失礼さも持ち合わせていなかった。

 

「クク、それにしても、よもやこれ程とは。

 流石は雌犬の子、毒婦の系譜。

 誑かすのは得意といったところか」

 

 衣遠兄様は面白そうに、いや、目は冷ややかに、私達を見ている。

 お兄様にとって、私達の交流は何かの目的があってのもの。

 それは、普段のお兄様を知っていれば、承知できる事だ。

 それでも、こうして妹と会わせて頂けたことに、感謝の念しか浮かばない。

 

「衣遠兄様が、私達の絆を紡ぎ直して下さいました。

 妹と言葉を交わし、心で繋がる事ができたのです。

 心より感激致しました、ありがとうございます」

 

「衣遠兄様、私からも感謝致します。

 こうして姉に謝罪でき、苦しみが和らぎました」

 

 私達の言葉に、彼は鷹揚に頷いた。

 ただ、それは納得を示すものでなく、分かっているのだと暴く動作。

 

「全ては、俺の手の中の事。

 互いが互いに鎖を掛け合う、その滑稽さはいっそ嗤えさえした。

 りそな、なるほど認めよう。

 ことを為す算段があった知能と、その貪欲な偏愛を」

 

 りそなは、私の裾を握った。

 気持ちが揺れ動いている。

 畏怖と、緊張と、少しの後ろめたさ。

 どこか遠慮がちな、その握り方が、それらを伝えてくれる。

 

「私達は、今後ともこうして、交流することが出来るのでしょうか?」

 

 咄嗟に、私は口を挟んでいた。

 反射的に、こうしてしまっていた。

 無礼なのは承知で、けれども耐えきれなかったから。

 

 衣遠兄様は、私を一瞥した。

 温度を排した、けれども激しさを感じさせる目。

 一瞬交錯した視線が、ゾクリと私の背中を撫でる。

 ……妹の気持ちが、少し分かってしまった。

 確かに、この衣遠兄様は、恐ろしく感じてしまう。

 だが、それ以上は何も怒らず、お兄様はつまらなさそうに答えを与えてくれた。

 

「ふん、貴様らを覆う鎖は、逢瀬を繰り返す毎に雁字搦めになるだろう。

 そして、それは最初にこの小賢しい末妹こそが望んだ、籠の鳥になる束縛の証。

 故に、道理はある。

 良いだろう、俺の手が届く範囲での交流を許可する」

 

「ありがとうございます、慈悲深い衣遠兄様!」

 

 理由はどうあれ、私達がこうしている事を衣遠兄様は認めてくださった。

 元々、私は衣遠兄様の下、お役に立つ事を目的に教育して頂いている。

 それは、私が裏切らない、お兄様の道具であってこそのこと。

 なのに、図々しくも今、こうして意見を述べた。

 

 本当なら、それだけで不快だっただろう。

 でも、それを飲み込んで、許可まで与えてくれた。

 結局のところ、衣遠兄様の優しさによってしか私達の交流は成り立たない。

 それが分かっているから、私もりそなも、深く頭を下げるしか無かった。

 

「裏切ることは許さない、それだけは覚えておけ」

 

 衣遠兄様はそう言うと、この場を去っていった。

 あの人は、常に急に来て、颯爽と次の場所へ向かう。

 多種多様な用事があり、お忙しい身であるからだ。

 けれども、こうして足を運んでくださるのは、気にかけて頂いている証左なのではないか。

 そう思うのは、私の願望だろうか。

 望めるのならば、私の憶測が正しくあって下さい。

 かつて教会でそうしていた様に、祈りを込める。

 いつか、お兄様とも笑い会えるように、と。

 

 

 

「りそな、やったね」

 

 そうして、静まり返った部屋で、私はりそなに笑いかけた。

 色々と、思い悩みながらも、こうして来てくれた可愛い妹に。

 

「妹、心臓が止まるかと思いました。

 兄は怖すぎます、交渉なんてもう二度とやりたくないです」

 

 疲れた声を出して、りそなはその場にへたり込んだ。

 この小さな体で、それだけ頑張ってくれていたということ。

 それも、私と会って、謝りたかったという理由から。

 

「そうだね、今度はお兄様とも仲良くお話が出来れば良いね」

 

「――妹、確信しました。

 貴方はあの日の優しい人のままですが、想像以上にド天然ですね」

 

「それって褒めてくれてるの?」

 

「半々です、天然ジゴロ姉。

 でも、そのままで居てくれた事が嬉しいので、やっぱり凄く褒めてることにします」

 

 ピトッとくっついて来た妹を受け入れつつ、少し考えた。

 彼女は私が変わらずに居てくれてと言ったけれど、多分変わったところはある。

 もう、無条件で、誰の前でも笑える訳では無いから。

 りそなの前だから、こうして変わらずに居られるのだ。

 思い出のままで、楽しかったという記憶と、経験と、感触。

 初めてそれを齎してくれたのが、りそなだったから。

 

「うん、どうかしましたか?」

 

「りそなが妹で良かったなって」

 

「なっ、すぐそうやって、妹をキュンとさせる!

 姉は、兄弟姉妹間キュン死取り締まり法違反で、その内に逮捕されますよ!」

 

「じゃあ、りそなも同罪だね。

 私も、とってもりそなが可愛いから」

 

「……お互い、何か変なテンションですね。

 嬉しすぎて、はしゃぎ過ぎてしまいます」

 

「そうかも、でもそれが楽しい」

 

 もしかすると、この妹の前だと、常にこんな感じになってしまうのかもしれない。

 けれど、それが悪いとも、変だとも思わない。

 素敵な事だと、そう思えるのだ。

 

「姉、色々とダシに使ってしまって、ごめんなさい。

 姉と会いたくて、兄に色々と言ってしまいました」

 

 そうした中で、りそながまた謝った。

 恐らくは、鎖がどうとか、二度と衣遠兄様の下から離れられないとか、そんな話。

 そんな事、と私は笑った。

 

「想っているだけでも満たされるけど、想われるのは喜びが溢れちゃうね」

 

 好きでいる事は簡単でも、好かれるのは擽ったい。

 妹の形容表現は、今回のそれだった。

 そう考えると、嬉しく思えど不便さなんて感じる筈がない。

 

「お兄様は鎖と仰って居たけど、それは強固になっていく私達の絆を表現するのに、ピッタリの表現だと思う。

 だからりそな、早速だけど鎖、巻いちゃおうか」

 

 私は小指を出した、いわゆる指切りを行うために。

 りそなは、おずおずと、けれどもしっかりと小指を絡ませて来てくれた。

 もう、後悔をしたくないと、そういう気持ちを込めて。

 

「私達は、これからも一緒にいる約束をします。

 指切りげんまん、嘘ついたら……お兄様の小間使いになぁる、指切った」

 

「悪魔の契約じゃないですか!」

 

「お兄様のお側に置いて頂ける位に頑張ろうって、意思表示も込めたよ」

 

「姉は虐められるの大好きっ子ですか?

 私は大嫌いですので、もうこれは全力で契約を果たすしか無いです」

 

 よく考えたら、私に損のない指切りだったかもしれない。

 でも、針千本は、流石に怖くて試せなかった。

 だからこそ誠実に、私はこの約束を守らないといけない。

 

「りそな!」

 

「はい、何でしょう?」

 

「これから宜しく!」

 

 神様、お母さま、どうか見守って下さいまし。

 どうか私とこの妹が、分かたれることのありませんように。





没ネタ


「……茶番はそこまでにしろ、愚かなる妹達」

 そんな私達を制止したのは、今まで見守ってくださっていた衣遠兄様だった。
 りそなは、あっ、と驚いたような声を出している。
 私の事に一生懸命になってくれていたから、それでお兄様の事を思考の隅に追いやってしまっていたのかもしれない。

「ありがとうございます、お優しい衣遠兄様。
 あの日に会った妹と再会でき、こうして触れ合うことも出来ました」

「姉、姉っ、衣遠兄様の前ですよ。
 早く離して下さい!」

 ジタバタりそなを抱えたまま、お兄様と向かい合う。
 ふと、その時に魔が差した。
 妹の暖かさが、私を強気にしているのか、はたまた神様のお導きか。

「衣遠兄様も、一緒に抱擁いたしましょう?」

 何かとんでもないことを、私は口走っていった。
 腕の中で、ピタリとりそなが大人しくなる。
 更に言えば、何考えてるんですかポンコツ姉あね成人と、信じられないと言わんばかりの目も向けられている。

 ――沈黙が、この部屋を包んだ。

 膨らみ続けた風船を見る気分、誰も触りたがらない。
 爆発音は、戦列で痛烈だろうから。
 ゴクリと、誰かが唾を飲んだ音がして。

「大蔵の男子は……」

 そうして、口を開いたのは衣遠兄様だった。
 彼は、震えつつも、そこから滝の様に言葉を紡ぎ出した。
 流石です、尊敬する衣遠兄様。

「大蔵の男子はその様な軟弱な真似はしなぁい!
 トチ狂ったか妹よ、恥を知れ屑が!
 恐るべき毒婦の遺伝子、その怪腕でこの俺を籠絡するつもりか!
 だが、残念だったな、愚かなる妹よ。
 この俺、大蔵衣遠はその様な誘惑には屈しない!」

 一気呵成に言い捨て、衣遠兄様は部屋から退室された。
 怒りのあまりか、頬を染められていたのが気掛かりだ。

「……妹、兄が分からないです」

「そうだね、お兄様のプライドを傷つけてしまったかもしれません、反省しなきゃ」

「ツッコみませんよ、妹」



 ひと押しすると、おかしな方向に流れが持っていかれる。
 そんな大蔵家の事情、ちょっとエイプリル空間よりな世界線の出来事。


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第4話 祈りは月を通して

遊戯王のゲームがSteamで出たので遊んでいました。
10年ぶりくらいで、結構楽しかったです、が。
そうしてこっちの小説を書こうとすると、遊戯王に侵食されて中々書けませんでした……(言い訳)。


 彼女が縫い物を解く事は少なくなった。

 それでも、縫い目を見て、寂しそうにする癖は抜けていない。

 また、単純なイージーミスを起こす様になったのが、彼女が立ち直れていない事を何より証明していた。

 あの日、愛弟子に憧れの目で見られていた裁縫は、ふわふわ浮いた様になっていた。

 

「メリル、ご飯だよー」

 

「………………」

 

「ご飯だって、っと。

 やっぱ裁縫中かぁ、トランスしてるから邪魔できないんだよねぇ」

 

 邪魔して針で怪我したら怖いし、と呟いているのは、この修道院で一番年上のオルガ。

 何時も通りに呼びに来て、同じ様な調子に溜息を吐く。

 こうなったのは、考えるまでもなく朝日が居なくなったから。

 

 最初はショックのあまり、何も出来ないことが続いた一週間。

 その後は、ぼぉっとしながら、日常に戻ろうとした数か月。

 最近は、ぬぼぉっとしながら作業を行い、イマジナリー朝日と会話をしている。

 

 そういう時に声を掛けると、そそっかしい事になり、何かしらの事故を起こす。

 ここ最近は修道院のみんなも慣れてきて、ハイハイといった感じだが、そろそろ治ってもらわないと困るというのも本当の事だった。

 

 励まそうとした修道院のみんなは、一緒に縫物を行ったりしてみた。

 なお、全て解かれてしまい、全員で憮然としたのもお約束。

 カトリーヌなどは、“メリル、キライ、メリル”と涙目で言い捨てる程。

 どちらにも、大人気といったものは微塵も存在していなかった。

 

「オルガ、メリルは……やはり、こうなっていましたか」

 

「何時ものだよ、マザー。

 まぁ、アサヒは全員で可愛がってたからね。

 気持ちは分かる、分かるんだけどね……」

 

「オルガ、先に皆とご飯を食べていなさい。

 私はメリルと、少しばかりお話をします」

 

 遂に来たか、とオルガは思った。

 マザーの目が、メリルを諭す時のそれになっていたから。

 こういう時、大体メリルが諭される時だ。

 

「マザー、あんまり怒らないで上げてね」

 

「私は怒った事などありません」

 

「そりゃそうだけど、マザーに間違ってるって言われるとメリルがへこむからさ。

 アサヒが居なくて、私だってまだ寂しいよ」

 

 朝日が居なくて寂しいのを間違いと言わないで上げて、とオルガは告げる。

 それにマザーは、心得ていると頷いた。

 

「神は未だ、メリルを見捨てておりません。

 ならば、道は開かれるものです」

 

「そんな大仰な話でもないでしょ」

 

「いいえ、こればかりは私の裁量では決められない事でしたので」

 

 何を持って回った言い回しに、オルガは首を傾げたが、すぐにどうでも良くなった。

 単純にお腹が空いて、ご飯と呼びに来た事を思い出したからだ。

 先に食べてるねと言い残し、オルガは食堂へと向かった。

 残っているのは、宙を見ながら服を縫っているメリルと、それに溜息を吐くマザーのみ。

 

「メリル、聞こえていますかメリル」

 

「はい……朝日……」

 

「私は朝日ではありません」

 

「……あっ、マザー?

 どうしたんですか、こんなところで」

 

「今はもう17時を超えていますよ」

 

「え、もうそんな時間!?

 ごめんなさい、気が付きませんでした」

 

 あまりにも気が抜けているメリルに、マザーは言わなければならない事を告げた。

 それはメリルにとって、どうしようもない事だとしても。

 

「寂しく、立ち止まってしまうのは仕方がないのです。

 ですが、何れはまた歩みださなければなりません。

 メリルは、それができそうですか?」

 

 何についての話か、メリルは直ぐに理解できた。

 それでいて、難しい顔をしてしまう。

 理屈がどうとか、そういう事を抜きにして、寂しいものは寂しいのだから。

 

「分かりません、マザー。

 私はどうすれば良いでしょう……」

 

「それを見つけるのも、人生において大切な事です」

 

「でも、難しいです」

 

 上手に感情を処理できず、メリルとしても困っていた。

 ふと気がついたら、朝日はどうしているだろうと考えている。

 朝日が居た頃は、それだけ自然に寄りそっていたという証左ではある。

 しかし、それがふとした瞬間だけでなくずっとだという事が問題なのだ。

 それだけ、朝日が居るのが当たり前になっていたのだから。

 

「一人では、どうにもならないのですね?」

 

「はい」

 

 一人ではどうにもならないのなら、誰かの力を借りる他にない。

 しかし、この修道院のシスター達では、メリルを正気に戻せなかった。

 だったら、とマザーはある方法を試す他に無くなっていた。

 

「メリル、私は朝日になれないのですから、寂しさを晴らすことは出来ないでしょう。

 けれど、キッカケを作る事は出来ます」

 

「キッカケ?」

 

 不思議そうに首を傾げるメリルに、マザーは一通の手紙を渡した。

 封を開け、中身を改めたメリルは、小さな声で一人の名前を呟いた。

 それは、メリルの止まっていた時計を動き出すキッカケになるだろう。

 マザーは、そう願っていたものが、確信に変わりつつあるのを自覚したのだった。

 

 

 

 

 

 それは麗らかになりつつある、春の玄関口での出来事。

 衣遠兄様が、私の課題をチェックを終えた際に仰ったのが始まり。

 

「手紙、ですか?」

 

「そうだ、サヴォアへと出すものだ」

 

 何のことでしょうと思い尋ねると、それはメリルさんの事だった。

 彼女が私の居ない寂しさを埋めるため、イマジナリー朝日さんという妖精と会話を始めたらしい。

 まさかと思ったけれど、衣遠兄様がしかめっ面で言われた事だから否定もしづらい。

 ただ、衣遠兄様は手紙を書けと指示を出すだけで、細かい指定をされなかった。

 

 私としては、メリルさんが望んでくれているならば、喜んで手紙を書く所存ではある。

 けれど、それはそれとして、どうしても気になる事があったのだ。

 それを、私は恐る恐る衣遠兄様に尋ねていた。

 

「委細承知致しました、私の手紙で解消できることならば、直ぐにでも取り掛かります。

 ですが、一つだけ、この浅学な私にご教授下さい。

 どうして、そこまでメリルさんの事を気にしてくださるのでしょうか?」

 

 そう、衣遠兄様は私の知人だからと気を使ってくださる方ではない。

 縁故を嫌い、才能を愛する人だから。

 どうして、という気持ちを言葉にして。

 衣遠兄様は、まるで用意していた様に、直ぐに返事を返してくれた。

 

「貴様に裁縫の技術を教え込んだのは、その女だと聞いた。

 ならば、それだけで助ける価値があると言える」

 

「私に技術を……ですが、衣遠兄様は、私に技術を全て捨てろと仰っしゃいました」

 

「愚かなる妹よ、お前の能力は毛ほどの才能も感じられないお遊びだった。

 だが、そのお遊びの中に、確かに愛が詰まっていた。

 この俺が! 未熟を許容しても、続けさせてみようと思えるほどのだ。

 だからこそ、それを教えた人材が腐り果てていくのを俺は許容できない。

 ただ、それだけの事だ」

 

 それは……私を通して、メリルさんの技術や才能を垣間見たという事か。

 それも、確かなものと断言出来る程のもの。

 確かに、メリルさんの技術は、私から見ても確かなものがあった。

 あの頃は理解していなくとも、服飾の勉強を始めた今なら分かる。

 裁縫の技術やケース毎への対処は勿論、立体裁断で自作の服などを作っていたあの才能。

 アレを、実際に見ていなくとも、衣遠兄様は感じ取ったのだ。

 

 胸に、ジワリと暖かさを覚えた。

 嬉しかったのだ、衣遠兄様にメリルさんの事を認めて頂いたのが。

 

「お答えくださりありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 理解致しました、私にとってもメリルさんは大切な友人です。

 交友を温める機会を下さり、その温情に私は感動しております」

 

「お為ごかしはいい、必要な事を成せ」

 

 終始、衣遠兄様のしかめっ面が直る事は無かった。

 そんなこの人に、やっぱり優しさを感じずには居られない。

 服飾を愛していて、その力を強く信じておられる。

 お兄様の見えているその風景を、いつか私も理解できればと思わずにはいられない。

 その景色を、メリルさんが掴んでいるというのなら、尚更に。

 

 ――お兄様、私は貴方を理解したいのです。

 

 

 

 メリルさん、修道院で過ごした日々の幸せは貴方と共にありました。

 私は貴方に、人生での楽しさを教えて頂いたのです。

 その上で更に我儘を許して頂けるなら、貴方の世界を私に覗かせて下さい。

 当時、未熟な私は、貴方の世界を1割も理解できていなかったのです。

 今なら、その才能の一片を理解できる気がします。

 

 今は家族に囲まれ、幸福な日々を送っております。

 それでも、修道院での暮らしが私を形作りました。

 ひび割れていた私を、皆さんに治してもらったのです。

 その中で、メリルさんには特に甘えてしまいましたね。

 

 私は自身の欠けた部分を、メリルさんで型取りして修復したのです。

 だから、そのせいでメリルさんが苦しんでいるのなら、私に多くの責任があります。

 その償いになるかは分かりませんが、手紙を出すことをお許し下さい。

 

 その優しさに助けられ、救われた者だから。

 今度は、私が貴方に報いたいのです。

 僅かながらでも、私の書く手紙が貴方の支えになります様に。

 

 

 窓から木漏れ日の様に、月光が差し込んでいる。

 夜、私は眠る前に、やはり祈りを捧げていた。

 今日は、手紙がメリルさんの助けになって欲しいというもの。

 どうかと祈る先は、夜空高くにあるお月さま。

 

 何時だって、私を見守ってくれていたのは、十字架でなく月の優しい光だから。

 私の祈りを見届けてくれていた月こそ、私の信仰の先だった。

 今では、お母さまもそこで見守ってくださっている。

 ですから、どうかお願いします。

 この想いを叶えて下さい。

 

 

 

 

 

 手紙を読む、朝日が書いてくれた綺麗なフランス語での文字を。

 書いてある事といえば、徒然と。

 

 東京はサヴォワより暖かいこと、ご家族のこと。

 私と服を縫いたい気持ちのこと、私もいつか日本に来て欲しいこと。

 私やみんなと過ごした、この修道院での生活が好きだったこと。

 

 あの時には聞きようがなかった、新しい生活を送っている朝日を書いたもの。

 心配していた朝日は、無事に日本での生活を送っているみたい。

 その優しい文字が、ここには居ない朝日を感じさせてくれる。

 そして、だからこそ、近くに朝日が居ない事を強く意識させられた。

 

 ぼんやりとして意識が、強く現実に引き戻される。

 そう、朝日は日本で私はサヴォワ。

 それを自覚して、泣いてしまいそうになった。

 

「マザー、朝日が酷いです。

 私、泣いてしまいそう!」

 

「泣いて良いのです。

 お別れの日に泣けなかった分だけ、いま泣きなさい。

 そうして、前を向いていきましょう」

 

「は、い。はい!」

 

 ポロポロと涙が流れるのを我慢せず、私はマザーに抱きついていた。

 そう、自覚が薄かったけど、私はとても寂しかった。

 手紙を受け取って、朝日が近くで話しかけてくれた気がして、そうして思い至った。

 振り向いても、そこに朝日が居ないという現実を。

 朝日が気持ちを込めて、この手紙を書いてくれたからこそ自覚できた。

 

「メリル、貴方も朝日に返信しなさい。

 文字でも、気持ちがあれば思いが伝わります。

 分かりますね、メリル」

 

「っはい、そうします!」

 

 朝日は、遠く日本でも服の勉強をしている。

 私と、服を作りたいと書いてくれていた。

 だから、私もこれからもっと服を縫おう。

 そうして、また会った時に、朝日にまた沢山の事を教える。

 そうしたいと心から思った。

 

 この気持ちを、私は手紙に綴ろう。

 サヴォワで、ううん、どこででも。

 また朝日と服を作ってみたいから。

 

「マザー、エッテの服のお下がりってあったっけ?」

 

 差し当たっては、服を触り続ける。

 それが、今の私に出来ることだから。

 

「それより先にご飯です、メリル」

 

「あ、本当、お腹が空いてる……」

 

 今まで忘れていた色々なものを、いま思い出した。

 朝日、私はいま元気じゃなかった事に気が付いたの。

 これから、また元気になるよ。

 だから心配しないでいてね、朝日。

 

 ……あと、私も朝日を妹だって思ってるから。

 朝日と私は家族なんだよって、これも手紙に書かなきゃ駄目。

 手紙の内容を考えて、部屋の色合いが少し鮮やかに感じる事ができていた。






送った手紙の内容は、1話目の冒頭にあるものと一緒です。


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第5話 目が覚めた日

今回は駿我さん視点の一人称です。


 大蔵の血は呪われている。

 最初にそう考えたのは、山弌氏が死んだ時の父親の世代だろう。

 俺達の世代、総裁殿から見ての孫世代は、そういった親達の執念を受け継いでの権力争いを更に激化させている。

 

 長男家と次男家、特に俺と衣遠はそういったしがらみに囚われて、お互いを蹴落とそうとしている。

 そんな惨状に、互いの家族間は憎しみを更に募らせるだけ。

 親戚達は上辺だけは取り繕うものだから、総裁殿は上辺だけを見て、家族の仲が良いという。

 

 滑稽という他になかった。

 晩餐会で両家共に内心でナイフを握り合い、相手に隙が生じないかを爬虫類の如く監視している。

 そんな現状に対して嫌気が差しつつも、俺は権力争いからは微塵も降りる気は無かった。

 ――大蔵衣遠、あいつが居る限りは。

 

 権力欲と野心を煮詰めたような男。

 俺の認識する、醜悪な大蔵家そのものの化身。

 あいつが居る限り俺に安寧はなく、俺の感性自体があいつを許容する事を許さなかった。

 

 永遠に、延々と、俺とあいつは貶め合い、追い詰め合うだろうと思っている。

 それは長男家と次男家も同様で……いや、事は親戚間での権力闘争に収まらない。

 次男家では、父親が晩餐会での頭数を増やすという目的の為だけに、弟のアンソニーを生ませた。

 しかも、俺とは腹違いの弟。

 俺の母親が病弱で、次の出産には耐えられないからというのが父親の言い分だった。

 

 クソくらえという気持ちがあった。

 自分の子供を道具そのものとし、傀儡として大蔵家の支配を望む。

 醜悪さとしては、衣遠を上回るものがある。

 あいつは、腐っても自身の実力のみで全てを奪い取ろうという強欲さがあるからだ。

 

 一方で長男家も、腹違いの子供を出産している。

 大蔵の長女、女子という血脈であるが、晩餐会での採決で名前だけ与えて実は与えないという結果が出ている。

 要するに、血の繋がった他人であるというのが彼女に与えられたものだった。

 アンソニーは家族として認められたのに、彼女……屋根裏のラプンツェルと呼ばれていた少女には、それが与えられない。

 それが、総裁殿のいう家族という概念が欺瞞であるという、何よりの証左でもあった。

 尤も、俺の母親はアンソニーが生まれる直前で死んでいて、再婚したのが今の継母なので、そういった運の良さが弟にあったとは言えるのだが。

 

 そんなお家事情の泥沼の中で、俺は風変わりなものを見る事になった。

 それは、ある晩餐会での出来事。

 衣遠やうちの父親が総裁殿のご機嫌取りで忙しい中、従姉妹が真星殿に突っかかっていた。

 総裁殿には気付かれていないが、もしバレようものならば、真星殿は点数を下げられる事になるだろう。

 俺は弱みを握るつもりで、その交わされている会話に耳を傾けて……驚きを感じずには居られなかった。

 

『姉のことで、少し聞きたいことがあるのですが』

 

 姉、彼女は姉と言った。

 名目上、晩餐会では里想奈さんこそが、真星一家の長女となっているにも関わらず。

 つまりは、この場に居ない人物の事を話していると気が付いた。

 それも定義上のもので、家族とは認められていない人物。

 つまりは、屋根裏のラプンツェルその人の事だと察するしか無かった。

 

『何も知らない』

 

『助けてあげないのですか?』

 

『知らぬ、だから出来ない』

 

 真星殿には撥ね付けられているが、従姉妹には怒りと焦り、それに懇願が混じっていた。

 それに、少女の純粋さを垣間見た気がして、俺は思わず口を挟んでいた。

 彼女の表情が、恐怖と警戒に変わったのを認識しつつも、俺は我慢できなかった。

 彼女は日本に居ると、そう伝えずには居られなかった。

 

 この従姉妹は賢い、俺と話すのがどういう意味合いか理解している。

 それでも、かつて縁を紡ぎ、約束をしたという姉の情報を聞き出すために、俺に対する恐怖を乗り越えた。

 無謀を理解しつつも、挑戦をしてみせた。

 

 幼さから来る万能感からかもしれない。

 それでも、そこに愛情が滲み出すのを見逃せなかった。

 彼女の居場所を聞き、心底から嬉しそうな顔をした彼女は、家族を愛せる人だと理解できたから。

 

 それからかもしれない、積極的に弟と交流を持つようになったのは。

 家族間の争いに巻き込みたくなく、純粋な環境で育てるために弟は父から遠ざけていた。

 それは弟が不出来で、父親の期待を掛けられなかった点も追い風となり、実質的に父は弟を見限っていたといっても過言ではない。

 だが、それ故に、俺自身も弟に対して干渉は少なくせざるを得なかった。

 俺の近くに置けば、それだけ父の影響が強くなる故に。

 ……本当の事を言えば、俺が権力闘争のマシーンに弟を育ててしまうかもしれないという懸念があったからだが。

 

 その憂慮を振り払えたのは、里想奈さんと話したからだ。

 家族と見做し、弟を側に置くようになったのは里想奈さんの影響だろう。

 大蔵家にも、家族に対する愛情があると、あの時に確信できたから。

 もしかすると、俺の中にもそういったものがあると信じたくなったのだ。

 

 

 

「兄上~、俺は帝王学というものを理解したかもしれない。

 つまりは、部下の責任を取ること!

 俺はどっしりと構えて、ウンウンと頷いておけば良い!」

 

「勉強をサボる言い訳にしては上等だが、部下の発言の真贋をハッキリさせる判断をお前は下せるのか?

 正しいか否かを判断するためにも、お前は覚えることが山ほどある。

 人間、間違わずには居られないのだからな」

 

 そんな~、と情けない声を上げているのは、俺の弟である大蔵アンソニー。

 前までは家庭教師などに任せっきりだったが、今では空いた時間にこうして勉強を教え込んでいる。

 

 出来は悪いが、あの父親と距離を置かせて育てた甲斐があって、純粋に育っていた。

 尤も、父から“お前は駿我の役に立つだけでいい。それ以外、お前には期待していない”と言い放たれ、幼い時に長幼の序を教え込む為に何度か心を折った事もあった。

 それを考えると弟には恨まれていても仕方がないが、弟は俺に雛鳥の様な情を持ってくれていた。

 俺に全て任せておけば大丈夫という思考になっているのは気になるが、それも俺の責任と考えれば、この弟の面倒を見ることを嫌になる理由は存在しない。

 俺にとって、家族愛を感じさせてくれるのは、この弟の愚直な明るさであった。

 

「ところで兄上、従姉妹殿はどうなっている?

 あ、ここの従姉妹というのは里想奈殿ではなく、屋根裏のラプンツェルの事だ。

 俺にキッカケをくれたのは彼女なんだろう?

 その彼女は大蔵の血族だが、家族に数えられてないという。

 だったら、この俺と結婚すれば、彼女は晴れて大蔵一家の一員だ、ハッハー!」

 

 それに妾の子なら、他の女と交流しても許してくれそうだし、と頭が痛い事を呟いている馬鹿に、俺は呆れ果てながら言い放つ。

 こいつの困ったところの一つは、学生なのに女癖が悪すぎるところだった。

 

「衣遠が許さない。

 屋根裏のラプンツェルを取り込めば、総裁殿が気紛れで採決権を与えるかもしれない。

 それを向こうは恐れている。

 第一、長男家と次男家は婚姻関係を結べる程の関係ではない。

 駆け落ちでもするなら、それも一つの選択だが」

 

「むぅ、そういう事なら仕方ない。

 俺は従姉妹殿を諦めよう。

 でも、いつかは家族皆で仲良くしたいものだな」

 

「あぁ、そうだな」

 

 衣遠と俺の争いや長男家と次男家の確執、更には今までの怨恨。

 それらを含めて、難しいと言わざるを得ない。

 だが、それを口にする程に俺は無粋ではなかった。

 夢を見るだけなら、誰にも口を出す権利は無いのだから。

 

 ただ、気になる事が一つあった。

 それは、さっきアンソニーが言っていた、屋根裏のラプンツェルのこと。

 里想奈さんこそが俺にキッカケを与えてくれたが、その彼女の思いの源泉である人にも、思いを巡らせずには居られない。

 

 彼女とは顔を合わせたことはないが、ちょっとした接点があったから。

 1年程前のあの、衣遠が俺に電話なんかを寄越してきた日。

 権勢力と野心が肥大化し、自信が傲慢へと昇華されたあの男が、俺に頼み事なんかをしたときのことを。

 

 

 

『何のようだ、衣遠。

 プライベートの会話をする程、俺達の仲が友好だったというのは初耳だが?』

 

『なに、文明人たるもの、電話の一つも使いこなすものだ。

 それとも、貴様は俺と顔を合わせて話したいとでも言うのか?』

 

『なるほど、不愉快極まりないな。

 だが、どの道お前との会話自体が毒のようなもの。

 人の気分を害しておいて、然も配慮していると言わんばかりの態度は改めたほうが良い』

 

『ククッ、器の小ささが露呈しているぞ駿我。

 仮にも大蔵家当主の座を競い合うというのなら、相応の大器であるべきだ』

 

『自信と傲慢は別物だ。

 お前は人に道理を説く前に、己の態度を見直した方が良い。

 反感を買う態度を、人は増長という』

 

 俺と衣遠の会話は、何時もの如く険悪な空気で始まった。

 互いに、相手の揚げ足を取ろうとする。

 相手を否定することしか考えていない、嫌いな奴と行う会話そのもの。

 我慢には限度があり、こいつ相手だとそれが更に低くなる。

 電話を切り、着信拒否でもするかと考え始めた時に奴は切り出してきた。

 即ち、リンチ性のあの子を隔離している場所に、一人増やしたいと。

 

『本当はボーヌの酒蔵に送られるところだったが、あの場所は女子の身では死にかねない。

 雌犬の子一人、どうなろうと構わないが大蔵家が殺したとなると面倒になる。

 更に言えば、大蔵の手が広がっていない欧州圏での事件にもなる。

 警察に追求されれば、些か不利だ』

 

 人間の扱いに関する会話をしている風には、とてもじゃないが聞こえなかった。

 だが、それを咎めたところで、こいつは嗤うだけだろう。

 そして何より、こんな話を聞かされて死ねと見捨てるには忍びない。

 どうやら、毎日擦り切れている俺の人間性もまだ捨てたものじゃないらしい。

 

『他に場所があるだろう。

 さっきお前が言った通り、欧州圏は大蔵の手が及んでない。

 だったら、どこへだって隠せるはずだ。

 わざわざ、事故を起こしかねない場所に二人を一緒にする必要は無いだろう』

 

『管理の問題がある。

 アレに対して我が家は苛烈な躾を施してきた。

 それに対して、奴は恨みを募らせているだろう。

 脱走などされれば、それこそ災禍を呼び込む。

 だとすれば、逃げようがない山奥に封印せざるを得まい。

 俺とお前が、リンチの子供にした様に』

 

 善人振るな、と釘を刺された。

 山弌殿の子供であるあの子に、俺達は人道を無視して全てを取り上げた。

 財産、家族、教育、その他全て大蔵家に居たら得られたもの全部。

 その事を思い出せと衣遠は言っている。

 

 ……忌々しい程の正論に、やはり憎悪を募らせてしまう。

 衣遠の言い分は正しい、正しいならそうすべきだとも思う。

 納得し、実行した方が良いと俺自身も計算して弾き出してしまったから。

 この人でなしであれるところに、同族嫌悪で衣遠の事を許せなくなる。

 

『良いだろう、だがこれは貸しだ。

 お前が借りて、今後の負債になる代物だ。

 何故なら、俺もリスクを負うのだからな』

 

 頼み事なら頭を下げろとも思ったが、それでプライドの高い衣遠に憎悪を植え付ける必要はない。

 むしろ、このことに対して交渉権を得た方が、よほど合理的だとも言える。

 衣遠が恩知らずであろう事も承知で、裏切られた時は追い詰める手札にもなる。

 トントン拍子で話は進み、彼女はサヴォワの修道院へ送られる事になった。

 それが、俺と屋根裏のラプンツェルとの関係性。

 忌々しい衣遠を通した、見知らぬ彼女との繋がり。

 そんな彼女は、衣遠の都合で日本に呼ばれている。

 手に届く範囲に居るからこそ、少し気になっていた。

 

 それに、押し付けがましい言い分になるが、俺は彼女の命の恩人に当たるらしい。

 俺が助け舟を出した人物の顔を、少しばかり見てみたいとも思った。

 里想奈さんも、その人物には心を許している。

 それが、俺の中で彼女に対する親近感を覚えさせている一因になっていた。

 

「会ってみたいかな、俺も」

 

「お? おぉ!

 あの兄上が女子に興味を持たれた!

 ようやく精通が来たのか、年頃の男子にしては遅かったが、何にしろ目出度い!

 今夜はパーティーだ!

 お赤飯は個人的に好きじゃないから、ピザで祝おう!」

 

「……黙ってろアンソニー、追い詰めるぞ」

 

 どうやら、俺は弟に不能だと思われていたらしい。

 馬鹿なほど可愛いと言うが、同じくらいに追い詰めたくもなる。

 そんな日常が俺の手の中にあった。





下の従兄弟の設定を少し盛りました。
でも、あそこまで歪んでないと、兄への劣等感はあっても父の悪影響は受けなかったんじゃないかなと……(原作で詳しく書いてあったら、こちらの単純なガバです。その場合は直ぐに訂正致しますので、報告な程よろしくお願いします)。


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第6話 難儀なんです

 りそなと私が会えるのは週に一回。

 りそなの習い事がない日と、奥さまに用事がある平日の日。

 普段は部屋で遊んだり、一緒に勉強したりするくらいだけど、今日は手を引かれて外に出ていた。

 前からの約束で、今日は服を見に行く事になっていたから。

 

「姉、ゴスロリですよ!」

 

 今日のりそなは、とても楽しそうだった。

 私も、可愛い妹と二人で買い物出来て、普通の姉妹になれたみたいでとても嬉しい。

 りそなも、一緒の思いで居てくれている。

 それは、とっても幸せな事だった。

 

「りそなはお姫様だから、とっても似合いそうだね」

 

「何言ってるんです、着るのは貴方ですよ?」

 

「私は精々メイド服ですよ、姫」

 

「駄目ですシンデレラ。

 妹、今日は姫じゃなくて魔法使いですから、しっかり魔法に掛かってください」

 

 何時もは服を着せられる立場のりそなが、今日ばかりはコーディネートをする側に。

 ワクワクする気持ちも分かるから、あまり無下にできない。

 なので、今日の私は、すっかり着せ替え人形になっていた。

 

「こっちの青い薔薇をあしらったデザイン、ゴスロリなのに明るさがあるね」

 

 青い薔薇はかつて、製造が不可能な事から花言葉は存在しないものだった。

 けれど化学の発展によって開発に成功し、現在では夢は叶うという花言葉になっている。

 素敵だね、とりそなに言ったのだけれど、彼女は残念ながらと言った。

 

「この服の薔薇は純粋な青です。

 一方、実際にある青色の薔薇は、やや紫色に近いです。

 なので、この薔薇は非実在性の象徴である、存在しない意味合いの薔薇です」

 

 りそなにお姉さん振ろうとして、知ったか振りをしてしまった。

 顔が熱くなるのを自覚するけど、りそなはそんな私を見てフフンと笑う。

 

「姉は服にはプラスのニュアンスで溢れていると思ってますが、そうでないのもあります。

 例えばゴスロリ、姉はお姫様みたいと褒めてくれますが、どちらかと言えば暗くて退廃的です。

 そういう世界観に連れて行ってくれる、そんな別の私にしてくれる服なんです。

 妹、ゴスロリしか詳しくなくて、他の服についてなんて語れませんが」

 

 常に勉強しているから、私がりそなに教えてあげないと、と思っていた。

 でも、りそなはゴスロリを愛してる。

 自分の好きな物だから、そのジャンルを深堀りして理解している。

 それに、感心せずには居られなかった。

 

 私は広く浅く、まずは知識を埋め込んでいる段階。

 技術の習得に熱を上げていて、デザインだって一通りは描ける様になったけど、自分から見ても作りたいと思える服は無いに等しい。

 それはきっと、服への愛が足りていないから。

 だから、その姿勢を見習いたいなと妹に教えられたのだ。

 好きな事こそ上手なれ、それは素敵なことに決まっているのだから。

 

「りそなに教えてもらってばっかりだね」

 

「いいえ、姉こそ私に色んな事を教えてくれています。

 世界が、思ってたよりも広いと感じたのは姉のお陰です」

 

 世界が広がった。

 りそなが言ってくれたそれは、私にも当てはまる事だ。

 楽しさ、嬉しさ、そして家族との絆。

 沢山の幸せを教えてくれた、今が楽しく思えるのはりそなのお陰でもある。

 

「じゃあ、私達は一緒だね。

 これからも、二人でたくさん学んでいこうね」

 

「はい、勉強は好きじゃないですが、姉となら楽しいです。

 だから、これからもよろしくです……お姉ちゃん」

 

 妹が可愛い、知っていたけどやっぱり思わずにはいられない。

 やる気マンモスです!

 

「抱きしめても良い?」

 

「良いわけ無いでしょう、人前です」

 

 妹は恥ずかしがり屋だった。

 それに正論だから、反論をする余地もない。

 代わりに頭を撫でると、むずがる猫の様にジタバタする。

 

「姉は直ぐに調子に乗ります。

 接触過多だと妹が喜ぶとか思ってませんか?

 嬉しくないとは言いませんが、所構わずは嫌です」

 

「ごめんね、嬉しくなると甘えたくなっちゃうみたい」

 

「え、甘えたかったんですか?

 もしかして、妹になりたかったりします?

 今日から私が姉で、姉が妹になっちゃいますか、このこの~」

 

 私もお調子者だけど、りそなも有頂天になりやすい。

 困ったさんではあるけど、そういった点で似てるのは嫌じゃなかった。

 りそなと心が似通ってる気がして、悪い気がしないから。

 

「じゃあ、りそなお姉さま?」

 

「……ゾワゾワしますね、良くないです。

 妹、甘えられるのも悪くないですが、甘える方が好きみたいです」

 

「いっぱい甘えてね?」

 

 手を広げて、りそなを待つけど、それにはプイッと顔を背けられる……残念。

 

 

 そうして、二人で試着を続けた。

 ゴスロリの他にも、ギシアン・ウェストウッ、ドピュの服なんかも見ていた。

 欧州本場の、衣遠兄様とも取引しているデザイナーの作品。

 パンクファッションを取り扱っていて、アイテムや小物はとてもゴスロリと相性が良い。

 ゴスロリ以外で、りそなが愛好しているファッションの一つだ。

 

「姉は黒との相性が良いですね。

 逆に、赤はちょっと派手かもしれません」

 

「服の着やすさ自体はフワリとしてるのに、不安感は全然ないね!

 でも服が良すぎて、服に着られていないか気になるよ」

 

「言っときますけど、貴方は可愛いです。

 髪は長い方が映えるかもしれませんが、それを差し引いても完璧です」

 

 りそなは、凄く褒めちぎってくれている。

 お世辞じゃないと、ここまで真っすぐ言ってくれると理解してしまう。

 恥ずかしい、恥ずかしいけど、今の私はオシャレな私らしかった。

 

「あ、りがとう、りそな」

 

「大丈夫です、これから少しずつ着慣れていきましょう」

 

 流れで、そのままギシアンを購入することになっていた。

 でも、これはりそなが似合うと言ってくれた服なんだ。

 照れて言い辛いけど、私もゴスロリが似合うようになれたらなと思う。

 

「……あの、少し良いでしょうか?」

 

 そんな交流の最中――ふと、声を掛けられた。

 振り向けば、そこにはクリームの優しい髪色をした外国人の女性の姿。

 着ている服的に、この人もギシアンのファンなのかもしれない。

 

「どうしましたか?」

 

 辿々しい日本語を話していた彼女に、私は英語で聞き返した。

 すると彼女は、成程とオランダ語で呟く。

 どうやら、彼女はベネルスク辺りの出身みたいだ。

 

「英語、お上手なんですね?」

 

「はい、少し前にイギリスに住んでましたから」

 

「道理で、流暢なクイーンズイングリッシュで驚きました。

 日本語も達者な様で……流石は大蔵の血族だということですか

 

「ところで、何か御用でしょうか?」

 

 何かを呟いている彼女に尋ねると、一つ頷いて口にする。

 

「難儀してます」

 

「難儀しているんですか」

 

 何にと聞くと、服にと答えが返ってくる。

 要するに、彼女は新しい服を買いに来たのだ。

 それも慣れない日本でのこと、店員に聞いても要領を得ない。

 だったら自分と同じ立場の消費者に聞いてみよう、と半ばヤケクソ気味に行動していたとの事だった。

 

「あと、着ている服が似合っていました。

 そういう人に聞いた方が、間違えないと思います」

 

「それは、こちらの妹のお陰ですね」

 

 私が視線を向けると、女性の方もりそなへと目を向ける。

 りそなは慌てて、私の背中に隠れた。

 そうして、背中を耳元で怒った声を出す。

 

「ちょっと、英語なので何話してるか分かりません。

 あと、意味深に妹を見つめてくるの止めて下さい」

 

「ごめん、でも、りそなのファッションセンスに興味があるって」

 

「は? 初めて会う人になに話してるんですか。

 私は人見知りです、かなりの内弁慶なんです。

 姉は、そこら辺の事を理解してますか?」

 

「ごめん、ちょっと無頓着だったね。

 りそなが嫌がることをしたい訳じゃない。

 ただ、私の幸福を少しお裾分けしてあげたくて」

 

 私は日本に来てから、ずっと誰かに助けられてきた。

 それを、私以外の人に還元するのは、我儘だけど間違った行動ではない筈。

 誰かの為に、それ自体は変わらずだけど、それを笑顔で出来る事が大事なのだと最近は思ってる。

 

「……分かりました、姉のそういうとこは嫌いじゃないので良いですよ。

 ただ、早く終わって下さいね」

 

 不満そうに、けれどもりそなはお願いを聞いてくれた。

 この子は、賢いだけでなくて優しい子でもあった。

 

「ありがとう、りそな。

 すみません、それではそうですね――」

 

 私は自分の知識と、りそなから教えてもらったことを伝えていく。

 残念ながら、コーディネーター程の知識はまだないけれど、自分に出来る範囲で最善を尽くして。

 話しかけてきた女性は、ウンウンと頷きながらメモを取っていた。

 そうして、ありがとうございますと言って女性が服をレジに持っていった時、溜息を吐いたのはりそなだった。

 

「あー、もぅ。

 妹、何もしてないのに疲れました」

 

「ありがとうりそな、こっちの我儘に付き合わせちゃって」

 

「本当ですよ、今度からは妹最優先にしてくださいね」

 

 頬を膨らませて、りそなはギュッと私の手を握ってきた。

 甘えたいと言うよりかは、もう好き勝手にしては駄目だと釘を刺している感じだけど。

 

「じゃあ、美味しいケーキを出してくれるお店があるんだけど、今から行こっか?」

 

「……食べ物で釣れるほど甘い女じゃありませんよ、妹」

 

「また次の週、一緒に買い物してあげるから許して」

 

「必死な姉が可愛いので、もう少し許してあげないことにします」

 

「えーっ!?」

 

 二人っきりになると、びっくりするくらいに元気になるりそな。

 ちょっと人見知りだけど、頼りになる妹。

 私がしてあげられることは少ないからこそ、甘えてくれるのが凄く嬉しい。

 出来ることを増やして、この妹と堂々と出会うことの出来る立派な人間になりたい。

 最近は、それも目標の内の一つになってる。

 日本に来てから、なりたい自分、目標が増えている。

 それは大変だけど、一生懸命になれる事が素敵だと感じる。

 

「ところでさっきの人、本当に服を買いに来たんですか?」

 

「どうしたの、急に?

 普通に、服を買いに来ただけだと思うけど」

 

「いえ、私と姉が話している時、ジッとこっちを見てメモを取ってたので。

 何故だろう、変だなと思っただけです」

 

「気にし過ぎだと思うけど」

 

「……そうですね、それよりも服を買って甘味屋さんに行きましょう」

 

「うん!」

 

 りそなは聡い、だから周りのことがよく見える。

 誰にでも気を使えるこの妹は、今後はどんな風に成長していくのだろうか。

 それを考えると、将来が楽しみになる親の気持ちが分かった気がした。






 おまけ


 彼女は大変に難儀していた。

「これが彼女、大蔵朝日の生活ルーチンだ」

 ある日、彼女は仕事があると社長室に呼び出された。
 淡々とした声に、特に考える事なく社長室に向かった彼女。
 そこで待ち受けていたのは、幼気な少女の生活を徹底的に調べ上げ、それについて解説する上司の姿。
 そこはかとなく……ううん、無茶苦茶イヤな光景だった。

 けれども、事情は初めに説明されていた。
 彼女は大蔵の、いわゆる妾の子なこと。
 敵対している大蔵欧州グループの保護下にあること。
 相手の弱みたり得る部分だからこそ、素行調査が必要なこと。
 全部分かっていたが、彼女の生活を隅々から調べ上げて発表する社長の姿は社会的にアレだったことは確かだ。

「……そこまで調べられているなら、もう十分なのでは?」

 彼女は耐えかね、話を遮ってしまった。
 本来、この社長は部下への統制を何よりも大切にしている。
 故に、この類の越権行為はとても気に入らない。
 やってしまったと彼女は即座に思ったが、今回ばかりは然程気にした風もなく、社長は理由を話してくれた。
 曰く、人柄が知りたいと。

「大蔵朝日、彼女のことを詳しく知りたい。
 彼女が、里想奈さんとキチンとやって行けるかをね」

 いつも通り無表情ながら、いつもよりも饒舌な社長。
 欧州グループを敵と呼びながら、その仲間である里想奈については敵視をしていない。
 矛盾だと思ったが、それは彼も承知していたのだろう。
 一つ、言葉を付け加えた。

「大蔵朝日がこちらに靡くなら、里想奈さんも仲間にできる。
 かなり入れ込んでいたからね、これはそれを確かめるのに必要なことさ」
 
 淡々としていた中に、少しの感情が混じった。
 それは、つまらないというもの。
 本当に裏切るのなら、面白くないという気持ち。
 要するに社長にとって、そういう口実での調査なだけ。
 本心は別のところにあると、彼女は悟らざるを得なかった。

「私が接触を図り、確かめてくるという事になるのですね」

「そうだ、出来るか?」

「出来るかもしれませんが、あまりお勧めはしません。
 この東京の中心で、年上の外国人に話しかけられるのは警戒されるでしょう。
 別の人物が適任と思われます」

「……他に、いない。
 大蔵の事情を知って、こうして動かせる部下が。
 裏稼業の奴らは殆ど、いい年の大人だからな」

 同僚の事を思い出すと、確かにサングラスやスーツが似合う男ばかり。
 だからこそ、若年の自分が呼ばれたのだとここでようやく理解する。
 けれども、お前はスパイをやれと告げられて、彼女は難儀するしか無かった。
 しかし、事が事なので外部の興信所に依頼する訳にもいかない。
 社長は苦肉の策として、彼女を選ばざるを得なかっただけだ。

「承知致しました」

 難儀ですね、と心の中でだけ彼女は呟いて。
 どうするかに思考を巡らせ始めた。
 この社長は恩人であるため、最善を尽くす理由があったから。





 報告結果

 大蔵朝日様について

 非常に良く気が付き、他人に対しても親切心を忘れない。
 大蔵里想奈様との関係も良好で、両者の間には深い繋がりを確認した。
 また、英語についても巧みに操り、勉学の面に置いても優秀さが垣間見える。
 但し、他人を信じすぎる節があるので、その点が弱点に当たるものと思われる。

 ※第一感であり、僅かに会話しただけで読み取れた情報だけを記載している。
  引き続き、調査を続行する必要性があると思われる。

  報告書作成者 カリン・ボニリン・クロンメリン


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第7話 とんかつにキャベツを添えて

 拝啓 親愛なるメリル・リンチ様

 

 私がサヴォワを離れ、もうすぐ1年ほどになりますね。

 春が散り行き、夏が暮れて、秋が枯れ、冬が訪れました。

 この季節になると、メリルさん達が何をしているのか、思いを巡らせずには居られません。

 

 喜び、悲しみ、様々ありますが、修道院では全てが穏やかさに包まれていました。

 私の中で穏やかで暖かな象徴といえば、メリルさんを思い浮かべます。

 一方で、東京は活気に満ち、皆が時計と相談をし、人生の時間を駆け足で圧縮していく。

 過去を振り返る暇が少ないのです。

 夜の、僅かな祈りの時間こそが、記憶のメリルさんと邂逅する縁となっている。

 その事に気がついた時、メリルさんの送ってくださった手紙を手に取りました。

 大切だったものを、手の中に抱え込んでしまいたいと思ったから。

 

 実は、私は欲張りでした。

 最近になって気が付いたことです。

 家族、夢、希望、幸福、お風呂。

 思った以上のものが日本にはありました。

 ただ、流れ行く時間は、対価として過去を押し流していきます。

 

 お母さまの思い出は思い出せるのですが、思い返すことが少なくなっている。

 その親不孝に、戦慄を禁じえません。

 だからこそ、こうしてメリルさんが思い出になっていないことが喜ばしいのです。

 手紙を欲してくださり、ありがとうございます。

 手紙を書いてくださり、ありがとうございます。

 何時までも、図々しくも貴方の心の隅に居られればと思います。

 

 大蔵朝日より、また会える日を夢見て。敬具

 

 

 

 このマンションの一室は、文字通り私の部屋として機能していた。

 勉学に関すること以外の干渉が、全く行われないから。

 文字通り、プライベートな空間になっている。

 だからこそ、私は様々なことに取り組んでいた。

 掃除、洗濯、その他の諸々家事全般。

 やってみると、これが楽しくのめり込んでしまう。

 

 この部屋に来て1年、気分転換といえば私にとって家事がそれだった。

 特に、デザインが一息ついた時に、家事に頻繁に取り組んでしまう。

 それがどういうことか理解できるが、困ったことに改善する兆候はあまりない。

 お兄様のデザイン以外に食指が伸びないのは、私がお兄様の服を作りたいと思っているから。

 自覚できる位に、私のデザインはお兄様の色彩で満ちていた。

 

 そうして今日も、私はお料理に精を出す。

 お料理なのは、これが一番楽しかったから。

 メリルさん、縫い物以外の趣味が見つかりました。

 何故か青空に、メリルさんの苦笑が見えた気がした。

 

「今日は……うん、上手にできてる!」

 

 豚のロースが、食べやすく柔らかな弾力になっている。

 これなら、食べやすいとんかつが作れそうだ。

 そんな確信を得て、私は嬉々として調理に取り掛かろうとした……その時。

 ガチャリと、部屋の扉が音を立てて開いたのは。

 

「りそな? ごめん、料理中で手が離せないの。少し待ってね」

 

「――俺はりそなではない、愚かなる妹よ」

 

「えっ」

 

 想像していた声色よりも、遥かに張りと覇気のある声。

 ゾクリと背筋が凍り、勢いよく振り返る。

 するとそこには、衣遠兄様が腹立たしそうな顔で立っていた。

 

「お、お兄様、いらっしゃいませ」

 

「ククッ、声が震えているぞ。

 気を抜いていたところを見つかって、恐怖しているのか?

 あるいは、この俺こそを恐れているか。

 大蔵の長男であるこの俺に、畏怖の念を覚えるのは良い本能ではある。

 犬の仔故に、鼻自体は利くらしい」

 

「とんでもございません、敬愛する衣遠兄様。

 ですが、気の抜けたところを見つかってしまったのはその通りです。

 返す言葉もありません、申し訳ございませんでした」

 

「どうやら貴様は、余暇を持てるほどに才能を開花させたらしい。

 良いだろう、見せてみろ」

 

 衣遠兄様は、忙しい身でありながら、とても良く私の事を気に掛けて下さっている。

 それは、卑しくも私が大蔵の血を引いていて、同時に才能を確認するためだ。

 常々、そのことをお兄様は仰られている。

 こうして抜き打ちで訪れるのは、私を向上させようとするお兄様の優しさだ。

 

「わ、分かりました、少々お待ち下さい」

 

 声が震えるのを自覚しながら、私は食材を片付けようとした。

 今日、如何ほどの点数を衣遠兄様に付けられるのかを想像して。

 衣遠兄様の期待に応えられるのか、不安に苛まれながら。

 

「――待て」

 

 だから、その呼び止めが意外だった。

 冷蔵庫に手を掛けて、固まった私に衣遠兄様は問われた。

 即ち、その手に持っているものは、と。

 

「豚肉、それに衣の用意。

 とんかつの準備だろう、それは」

 

「はい、その通りです。

 今日の昼食に、とんかつを準備していました」

 

 僅かに、衣遠兄様の表情が変わられた。

 ほぉ、と小さく声が漏れ、試す様に目を細められた。

 それは、とても珍しい衣遠兄様の興味を示した顔。

 

「その様な油モノを昼間から食べようなどと。

 雌犬の粗野さは隠せていないようだな、愚かなる妹よ」

 

「申し訳ございません、衣遠兄様」

 

 謝るが、衣遠兄様は不快さを感じてはおられない様で。

 言葉とは裏腹に、その視線は豚肉に固定されたままだった。

 

「あの、衣遠兄様、もしよければで良いのですが……」

 

 もしかすると、と私は頭で妄想して。

 恐れ知らずにも、愚かな提案をしようとしていた。

 このお肉を、どうかお兄様にと。

 

「昼食がまだでしたら、このとんかつを食して頂けないでしょうか?」

 

 時に、人は蛮勇に従って行動する。

 大抵は、それらは魔が差したと言っても良い。

 つまり私は今、魔が差していて。

 

「愚かなる妹よ、大蔵の男子に施そうなどとは笑止。

 それも、数多の美食を巡った俺にとんかつなどと!

 ――だが、その愚昧さは最早才能であろう。

 故に応えよう、吐いた唾は飲み込めまい」

 

 衣遠兄様もまた、この場において魔が差しておられた。

 テーブルに座し、食事を待っておられる。

 ドキリと、心臓が高鳴った。

 高揚が、静かに心臓から漏れ出していく。

 

 私が、衣遠兄様のお昼ごはんを。

 そう考えると、冷たい手で背中を触られているみたい。

 でも、それ以上に勇気が湧いて出てきた。

 自信はないけど、衣遠兄様と共に食卓を囲める。

 それこそが、不確かな勇気の源泉だった。

 

「今すぐに取り掛かります!」

 

 お母さま、どうか私に力を与えて下さい。

 お月様、昼間なのでお姿は見えませんが、どうか見守って下さい。

 やる気マンゴスチンです!

 

 

「――どうぞ、お召し上がり下さい」

 

 そうして、私の気持ちを乗せたとんかつが完成した。

 有名店で作られているというデミグラスソースを研究し、ソースとしたもの。

 私が今日作ろうとしていたものより、手を込んだ作りにしたもの。

 

 衣遠兄様は何も仰らない。

 ただ、箸を持ち、緩やかにとんかつを口に運ばれた。

 心臓の高鳴りが、鐘打つように早まるのを感じる。

 静かに咀嚼される衣遠兄様を見つめ、胸が張り裂けそうになる。

 お味は? と聞こうとしても、声が少しも漏れそうになかった。

 

「面白みがない味だ」

 

 だからその言葉が発された時、私は大きな落胆に襲われた。

 また、衣遠兄様を失望させてしまったのだと理解して。

 胸の辺りをギュッと掴む私を他所に、衣遠兄様は二切れ目に手を伸ばした。

 その動作に、僅かな疑問が差し込まれる。

 私の作ったものを、衣遠兄様は落第としつつも食べていたから。

 

「面白みがない、だが研究された味だ。

 味や弾力が柔らかくなる様に、小癪な工夫が仕込まれている。

 これをとんかつというのは、上品に過ぎる」

 

 どういう意味だろうと考えるも、衣遠兄様は黙々と箸を進められた。

 無言だけれども、少なくとも残そうという意思は見られない。

 その事実が、もしかするとと希望を芽吹かせる。

 白米、とんかつ、キャベツ、全てを綺麗に召し上がられた衣遠兄様は、ようやく私へと目を向けてくださった。

 服飾の採点をする時の様な、けれどもそれよりも目尻が柔らかな表情で。

 

「この俺を、大蔵の男子と見込んでのとんかつであった事は認めよう。

 だが! 真のとんかつとは! もっとエネルギーに溢れているものだ!

 お前はとんかつと言うものを、未だに理解しきれていない!

 そもそもキャベツの山盛りが低い!!!

 これは深刻な問題だ、愚かなる妹よ。

 とんかつを饗するならば、それを知る必要がある」

 

 ……凄い勢いで、衣遠兄様はとんかつについて話されていた。

 熱を込めて、これに関しては譲れないという風に。

 それは、ゴスロリを語るりそなにも似ていて。

 ここで兄妹の血を感じることに、意味のない嬉しさを覚えた。

 

 今になって思えば、衣遠兄様の好きなものを服飾以外で知らなかった。

 家族であるのに、私は能動的にそれらを知ろうとしなかった。

 恐れていたから……衣遠兄様に嫌われることを、何よりも。

 

 お兄様は、余分な事を厭う人だ。

 だからこそ、この人と話す時は出来るだけ機械であろうという意志を持っていた。

 けど、そんな意識こそが衣遠兄様を遠ざけていたのかもしれない。

 

 私に親しく話されることに、衣遠兄様は不快感を隠されない。

 けれども、僅かにでも意識を変えることで、衣遠兄様の好きなものを少しずつでも知っていきたい。

 まずは、衣遠兄様の好きな食べ物から。

 そう考える無礼をどうかお許しください、衣遠兄様。

 

「……衣遠兄様の定義するとんかつを、私も味わってみたいです。

 無知な私に、どうか知恵をお与え頂けないでしょうか?」

 

「良いだろう、今すぐに準備しろ朝日。

 これより、我らは青山の一流とんかつ店へと向かう!」

 

「お供いたします、何処までも!」

 

 

 恐る恐る提案したことは、衣遠兄様の情熱と勢いに飲み込まれていく。

 熱に浮かされた様な衣遠兄様に、私も気分が高まってくる。

 いざ、と衣遠兄様と私は勢いのまま、このマンションを旅立った。

 とんかつという、茶色い知恵の実を求めて。

 

 後になって思えば、衣遠兄様は私の出した昼食を食べられた直後であったとか、服飾については如何したものでしょうとか、色々と問題点はあった。

 けれど、衣遠兄様と情熱を共に出来るということは、初めての経験だったから。

 何を差し置いても、それらを優先したことを後悔できない。

 

 私と衣遠兄様が初めて心を通わせたもの、それはとんかつ。

 サヴォワのチーズと共に、私の思い出になった食べ物。

 出来れば服飾で語り合えれば良いものの、私にその実力はまだない。

 だからこそ、この奇貨こそが貴重な繋がりとなった。

 

 いつか、服飾で衣遠兄様のお役に立つと共に、とんかつでも美味しいと言ってもらいたい。

 私に芽生えた、お兄様風に言うならば野心。

 それを達成するための力、多くの技術を学びたい。

 

 光陰矢の如し、日本で時間は待ってくれないから。

 一生懸命に頑張りたい、その気持ちが強くなった。

 

 ……この日以降、お兄様ととんかつ屋さんを巡るツアーが時折発生するようになったのも、この気持ちをより強くしているかもしれない。

 

「朝日、とんかつは濃いソースと絡めてこそだ。

キャベツも、この様に28cm程に盛ることを心掛けろ」

 

「精進致します、お優しい衣遠兄様」

 






面白くない(もう少し下品に作れの意訳)


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第8話 何時かの影

 かつての後ろ髪に、それは似ていた。

 我が母に刈り取られた髪は、時間を掛けてマンチェスターで見た程に伸びて。

 俺を伺う時の表情は、あの雌犬のミニチュアとさえ言って良い。

 微笑み、仕草、儚さ、全てあの雌犬を想起させる。

 

『お兄様、衣遠兄様!』

 

 敬意と畏怖と、僅かに滲み出る親しみ。

 後ろから付いてくる時は、3歩後ろを迷いなく。

 しかし対面すれば、緊張が走りおずおずとした顔を見せる。

 もし俺とあの女に交流があれば、こうなっていたという再演。

 あの時に失われたモノを、雌犬の子が代替する。

 それこそが、俺があの雌犬の子に求めていたものだった。

 

 

 あの屈辱と怨嗟に満ちた事実を秘密とした日に誓った、大蔵の全てを奪い取ると。

 初めに、真星家の全てを掌握した。

 次に父を実権から遠ざけ、マンチェスターへと幽閉した。

 家族から遠ざかり、孤独に浸るしかない日々。

 絶望の果てに朽ち果てると思った父は、しかして希望を掴んでいた。

 

 朽ち果てただろうと思い訪れたマンチェスターで、父は一人の女を囲っていた。

 孤独に耐えかね、不義を働いたのだ。

 大蔵の総裁候補だった男も地に落ちたと、他人事の様にさえ思えた。

 ――あの女が、赤子さえ抱えていなければ。

 

 俺は大蔵の全てを奪う、それは絶対だ。

 大蔵の権能は総裁のみが掌握しうる。

 つまり大蔵の血族が生まれるのは、その分だけ敵が増えるのと同義。

 如何な出自であれ、大蔵の血を継いでいるのならば憎悪せざるを得ない。

 それも男なら、あらゆる面で排除と利用を考えただろう。

 しかし生まれたのは女、故に考える事は、生まれた子供を如何に封じるかのみだった。

 

 更に言えば、父に侍っていた雌犬は虚弱であり、権勢欲も見せていない。

 大蔵の富への執着よりも、静かに暮らすことを望んでいる。

 欲の少ない人間で、向上よりも安寧を望む人間であった。

 如何にも、枯れ果てた父が求めそうな人間だ。

 

 雌犬を父から遠ざけるべく、俺はあらゆる物を提示した。

 だが、現状に甘んじ、多くを求めない。

 それは父に対する義理よりも、母への後ろめたさがそうさせていたのだろう。

 何度か東京で母と対面した時は、言葉も少なく常に怯えていた。

 

 そんな女が、唯一執着を見せていたのが自身の子供。

 迂闊にも、己が子供と引き離されることを常に恐れていた。

 母にそれを見抜かれ、分断されたのは当然の流れだ。

 子供を奪われてからの雌犬は、時間を経る毎に衰弱した。

 抜け殻となったこの女は、数ヶ月で死相が浮かび始めた。

 弱かった体を支えていた精神が、遂に崩れ落ちたが故に。

 

 焦りを覚え、足繁く女の下を訪れ俺のモノとなれと伝えても、微塵も靡こうとしない。

 幾度も出会う内に、この女は裏切らないと理解させられる。

 死期が近付くにつれて、父から奪えぬままに女が零れ落ちる現実が悪夢の様に思えた。

 

 そうして、その日が来た。

 最後の日、あの父は母の呼び出しに応じて東京に向かっていた。

 最後は孤独のまま果てろという、母からの意思表示。

 俺は、最後の機会である死に目を訪れ、その女を見下ろした。

 一人で屋根裏部屋で横たわる雌犬は、どこまでも惨めな存在だった。

 

『俺のものになれば、娘は俺が飼ってやる』

 

 末期の勧告、同情も温情も装っての言葉。

 だが、女の望みは唯一つで。

 ここまで来ても、吐いた言葉は娘の事のみ。

 

『――娘を、兄妹として愛して下さい』

 

 そうして、小さくなりつつある声で最後の望みを告げて、奴は息絶えた。

 節を曲げる事が無かった女は、父の中で生き続け希望となる。

 俺はこの女を、終ぞ手に入れることが出来なかった。

 故に、如何なる理由があっても、それを慰めるために奴の忘れ形見だけは手に入れる必要があった。

 たとえ危険な地雷であっても、その心身を全て俺のものにしなくてはならない。

 小娘一人御せずして、大蔵の総裁席はあり得ないと言い聞かせて。

 

 

 

 

 

 最近、お兄様が頻繁にいらっしゃる。

 前までは、月に1度くらいのペースだったのが、現在では2週間に1度。

 原因を考えても、私自身の至らなさしか思い当たる節がない。

 もしかして、私の能力の無さ故に、見切りをつける作業に入られたのか。

 そう考えると、怖くて夜も眠れなくなる日があった。

 ただ、そのようなことをお兄様に尋ねる訳にもいかない。

 私は必死に、服飾に打ち込む他になかった。 

 

「……髪が、伸びたな」

 

 だから、そう声を掛けられた時、私は意外そうな顔をしていたかもしれない。

 お顔を伺っても透明な表情をしておられて、その気持ちを読み取れなかった。

 お兄様は、普段は感情を隠されない。

 そんな方が気持ちを伏せている、その時点で探ってはいけないと理解した。

 なので真意ではなく、お心に寄りそいたいと思い、言葉を紡ぐ。

 

「ありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 お兄様やりそなが大切に扱ってくださいます。

 ですので、こうして髪を伸ばす喜びに浸れました」

 

「おべっかを取る度に髪は伸びるらしいな、愚かなるピノッキオよ」

 

「とんでもございません。

 苦爪楽髪です、お兄様」

 

 お兄様は、難しい顔をされている。

 不躾があったかと思い返しても、特に思い当たらない。

 考え始めると、色々なことで頭がいっぱいになる。

 

 ――何をお兄様は考えられているのか。

 ――私の髪がどうしたというのか。

 ――お兄様は、長い髪はお好きでいらっしゃるのだろうか。

 

 問題の大本から、枝葉の部分まで様々に想像を巡らせる。

 でも、何故か思考はお兄様の好みを探るものばかりへと傾いていく。

 お兄様は、私の髪をどう思っているのだろうか、と。

 

「お兄様は、その……」

 

 途中まで口にして、言葉がまごついてしまう。

 こんな意味のない質問、お兄様にしても良いのかと逡巡する。

 けれど、お兄様はどちらかというとせっかちなお方で。

 私に苛ついたように、言葉の続きを促した。

 

「言え、くだらない事ならば特別に聞き流してやる」

 

 最近の私は、お兄様に対して甘えてしまう。

 少し距離が縮まったから、調子に乗ってしまっていると自覚しているのに。

 それでも言葉を発してしまうのは、仲良くなりたいという欲求が強くなりつつあるから。

 嫌われたくないという気持ちと同様に、それが態度に現れてしまっている。

 気を引き締めないと、と自分に言い聞かせつつ、私は詮無いことをお兄様に尋ねていた。

 

「はい……お兄様。

 長髪と短髪、どちらがお好きでしょうか?」

 

 常のお兄様なら、バカバカしいと一蹴される質問。

 言葉を発してから、気恥ずかしさと申し訳無さが混ざり合う。

 お兄様、愚かな妹で申し訳ございません。

 

「……それは、一体何を求めての愚問だ?」

 

 やはり、お兄様の口から出た言葉は、妥当で想像通りの言葉。

 でも、少しだけ予想と違ったところもあった。

 それは、お兄様が激怒でも嘲笑でもなく、眉間を指で抑える苦悩のポーズを取られたこと。

 悩ましげなその表情は、私の質問の答えを探しているものとも違う。

 何か、もっと別のところで思いつめられている気配があった。

 

「お兄様の望むようにしたいと思いました。

 お兄様の目から見て、お見苦しさを感じさせたくないのです」

 

「その様なことで、俺が貴様の評価を変える筈があるまい。

 求めるものは才能のみ、それは今までの境遇で理解しているかと思ったが。

 やはり庶子の血が混ざっているからか、貴様は愚か者だ朝日。

 何度も同じ過ちを繰り返す、それを蒙昧と言う」

 

 言葉は辛辣で、そして的確でもある。

 私は理解しながらも、衝動的にそういう事をしてしまっているのだから。

 俯いて、申し訳ございませんと呟くしか無い。

 わざわざ不興を買う真似をした自分は、随分と僭越な人間になってしまったと胸をざわめかせながら。

 だから、その呟きは私の聞き間違いと最初は思った。

 

「――髪は、切るな」

 

「……いっ、いま、なんと!?」

 

 声が上擦ったのは、仕方がないと思う。

 耳から届いた声は、間違いなく衣遠兄様のもの。

 つまりそれは、衣遠兄様が答えをくれたということで!

 

「切るなと言った、愚かな妹よ。

 この大蔵衣遠、貴様の髪型に何ら興味を持ってなどいない!

 だが、一度切ってしまえば、また伸びるのに1年掛かる。

 選択とは、常に持っている者が行うもの。

 ならば、己が手札をむざむざ捨てるのは愚者の行い。

 ただ、それだけの事だ」

 

 お兄様の哲学を、私に授けて下さっている。

 そう思うと、歓喜から頬が緩みそうになる。

 だけど、これ以上の過ちをお兄様の前で行う訳には行かない。

 表情を引き締めて、私は確かにと頷いた。

 

「お兄様の薫陶、しかと受け止めました。

 長い髪を育み、手入れを欠かさないと誓います」

 

「分かれば良い。だが今後は戯けた質問は退ける」

 

「承知しております、慈悲深い衣遠兄様」

 

 不思議な感覚だった。

 何時もは覇気を迸らせ、厳格でいる衣遠兄様が今日はどこか上の空。

 時折、私に構ってくださることはあれど、今日は単純に衣遠兄様が普通ではない。

 言葉で表すにはあやふやで、空想の和を広げるのは不躾だけど。

 今日は何だか、感傷的で物思いに耽られている様に思えた。

 

 

 

 似ている、とやはり思ってしまう。

 ふとした時、気配が同一に感じることも何度かあった。

 ――だが、この妹は俺を見ていた。

 

 俺を知ることで、嬉しいと微笑みさえ浮かべてみせた。

 何を求めているのかを理解し、何が好きなのかを知り、俺のために向上しようとする。

 それは、あの屋敷で朽ちていった女には無かったこと。

 俺やりそなの為ならば、如何に扱われ様と耐えきるであろう。

 

 家族の役に立ちたい。

 家族と仲良くなりたい。

 家族と語らい合いたい。

 

 あの雌犬はそうした欲望を隠したまま死んだが、朝日はそれを滲み出させていた。

 偽る仮面を持たぬ愚か者ではあるが、その愚鈍さは手に取る様に理解できる。

 他者の善性を信じられなくとも、他者の愚かさは深く信じられる。

 俺の母も、父も、人間というのは実に愚かな生き物だからだ。

 

 それ故に、朝日は大蔵の血に相応しくない。

 策略権謀が渦巻く家で、こいつはただ食い荒らされる餌に過ぎない。

 もし手札として使うならば、教育が必要だ。

 

 横目で朝日を見る。

 俺の気を引こうとし、一挙一動に機嫌を損ねたと怯え、そうでないと知ると大げさに喜ぶ。

 そこに、大蔵の陰の気配は微塵も感じない。

 正真正銘この妹が大蔵の人間でないからだ。

 結局のところ、大蔵であるかどうかは育ちによって決まる。

 そうでなければ、俺はこの雌犬の子を理解できない。

 

 あの女に育ち、あの境遇で躾けられ、それでも人を信じようとする。

 朝日の大蔵の因子を、あの女が愛という不確かなモノで断ち切った。

 だから業が渦巻く場で、こいつは毛ほども役には立たない。

 能力も才能も、未だに信じるにたるものを引き出していない。

 だが、それ故に信用出来ずとも信頼できる。

 才能があれば、これ程に常に側へ置いても良いと考える程に。

 

 だから様子を見に来る。

 覚醒を待ち望み、眠ったままの雌犬の子を見て落胆を繰り返す。

 そうして、今日も来てしまった。

 この大蔵長男家を統べ、欧州に! 世界に覇を唱えんとする大蔵衣遠が!

 

 されとて、未だに愚かなる妹は惰眠を貪っている。

 僅かな光明は、裁縫のみが亀の歩みながら進歩している事のみ。

 デザインもパターンも、見るところが全くない。

 いずれ目が出る可能性はあれど、不均衡な投資を行える程に俺は悠長ではない。

 この愚妹の扱いを変え、別の活用法を考えるべきか。

 そう思い始めた――刹那、脳裏にあの雌犬の呪いが囁く。

 

『――娘を、兄妹として愛して下さい』

 

 忌まわしき雌犬、俺に呪いを残した魔女。

 未だ、俺は囚われたままでいる。

 

「お兄様、縫えました」

 

「フン、馴れ馴れしい裁縫をする。

 高級服(オートクチュール)は、着る者に誇りを与える服でなくてはならない。

 着る者を凛とさせる服を縫え。安心感を与えようなどとするな!」

 

「申し訳ございません、衣遠兄様」

 

 やむを得ない事情だ、仕方のない鎖だ。

 故に、俺は朝日の目覚めを待ち続けている。

 少なくとも、この呪いが解けるまでは。



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第9話 あの日も、そうだったかも

 春は目覚めの季節だ。

 寒さが解け、代わりに朗らかさが身を包む。

 冬眠明けの動物が寝ぼけ眼で空を見上げ、木々は枝葉に花を咲かせる。

 私も、そんな春に浮かされているのかもしれない。

 

「は? お花見に行きたい?」

 

「駄目かな、りそな」

 

 そんな私を胡乱な目で見ているりそなは、頭お花畑になりましたかと言いたげでさえあった。

 

「どうしたんですか、急に」

 

「ほら、こうしてマンションからでも桜が見えるでしょ?

 するとね、段々近くで見てみたくなったの!」

 

「勝手に見に行けば良いじゃないですか」

 

「行ったよ。でも周りは人でいっぱいで、他の人と見に来ている人が殆どだった」

 

「それで寂しくて、妹に一緒にお花見しようって言い出したんですか。

 姉、やっぱり頭お花畑ですね。

 私は人混みが嫌いです、知ってますよね」

 

 妹はつれなかった。

 そして、とても辛辣だった。

 口も目も、どちらも雄弁なのは才能だと思う。

 

「寂しいからじゃないよ。

 この感動を、誰かと共有したいって思ったんだ」

 

「だったら兄がいるでしょう。

 兄妹デートでも楽しんでくれば良いじゃないですか」

 

「やだなぁ、りそな。

 お兄様にそんな事言い出せるはずないよ」

 

「え、妹になら何を言っても良いって思ってません?

 妹、姉に甘えるのも甘えられるのも好きですが、甘ったれる姉はそこまで好きじゃないです。

 あと、皮肉だと気付いて下さい。

 兄とデートとか、それだけであり得ないことでしょう」

 

「駄目?」

 

「駄目です」

 

 どうやら駄目みたい。

 少しヘコんだけど、りそなは知らん振りをしていた。

 優しい子だけど、自分が嫌なことでは梃子でも動かない。

 アウトドアよりインドアな、白い肌が素敵な妹だ。

 

「人混みが駄目なの?」

 

「姉、しつこいですよ。

 ……でも、そうです。

 人混みが嫌です、無かったら我慢できるかもしれません」

 

 無かったらですけど、と念押しするりそな。

 この東京で、人の流れが途切れることはない。

 それを見越しての、無理でしょう? という表情に、返す言葉が出なかった。

 

「そんな薄幸の美少女みたいな雰囲気出しても、行きませんからね。

 そんなことより、ゲームしましょう。

 ワイルドでアニマルなレーシングです」

 

「知ってるゲームと違う気がする」

 

「良いじゃないですか。

 姉のために、イギリス産のゲームを探してきたんです」

 

 そこまで気を使ってくれたのなら、拒否するのも可哀想かな。

 そう思い、私はコントローラーを握った。

 そうして30分後、りそなは死んだ目をして遠くの世界を眺めていた。

 

「クソゲーじゃないですか!」

 

「駄目だよ、りそな。

 女の子がクソなんて言ったら」

 

「論点が違うでしょうが!

 妹、何を考えてこのゲームを買ったのか、本気で分からなくなりました」

 

「このゲームは、りそなが思い遣りで買ってきてくれたんだよ」

 

「そんな思い遣り、熨斗付けて兄にでも送りつけます。

 クーリングオフ不可、返品受付終了です」

 

「思い遣りだけにプライスレスだね」

 

「底値で価値が無くなっただけです。

 りそな銀行の思い遣り株価は大暴落しました」

 

 確かに操作性が難しくて、様子も挙動も面白いゲームだった。

 ゲームのディスクを、そっとベッドの下に隠したりそなは、何事も無かったかのように私の前に座る。

 馬鹿馬鹿しくて、だからこそどうでもいいかと拘りを忘れられた僅かな時間で。

 何か言いたげで、けれども察して欲しいという視線。

 私は意を汲んで、りそなに声を掛けた。

 

「出かけよう、りそな」

 

「家に居ても、勉強しかすることがありませんしね。

 仕方ないですね、妹ついていってあげます」

 

 行き先は尋ねてこない。

 りそなは、騙された体で付いてきてくれようとしているから。

 そうして、私達は手を繋いで、外へと旅立つ……その瞬間だった。

 開けても居ない扉が独りでに開き、人が部屋に入って来たのは。

 

「衣遠兄様!?」

 

 動揺したりそなの声は、思っていたよりも大きい。

 一方で、大混乱を起こしているりそなに、お兄様は皮肉げに口元を歪められた。

 

「愚かなる妹達よ、この兄の来訪がそれ程に予想外か。

 ククッ、姉と二人の方が良かったと表情に出ているぞ」

 

「と、とんでもありません。

 ご機嫌麗しゅうございます、衣遠兄様」

 

 嘘だった、りそなは急な出来事に表情を取り繕えていない。

 まじで? と堂々と顔に書いてあった。

 お兄様は、りそなのそんな表情を見て、滑稽さを覚えたのか嗤っていらした。

 

「姉、姉っ」

 

 小さな声で叫ぶという器用なことを行いつつ、りそなは私の耳元に口を近づけてきた。

 何だろうと耳を貸すと、早口気味に捲し立てる。

 

「聞いてませんよ、何で兄がいるんですか!

 それに兄が笑ってますよ、こわぁ」

 

 心底不気味そうに、りそなはお兄様から視線を逸らす。

 気まずさを隠さないのは、お兄様の言う通り取り繕えていないからか。

 すると、一方のお兄様の方に、危うげな笑みが浮かび始める。

 なんというか、加虐的と評しても良さそうなものが。

 

「りそなよ、目を逸らすな。こちらを見ろ」

 

「は、はぃ」

 

 有無を言わせない口調。

 逆らい難い圧を持って、りそなに命令するお兄様。

 何かあったら助けなきゃと思いつつも、心臓が嫌な跳ね方をする。

 

「目を逸らした理由を言ってみろ」

 

「い、衣遠兄様に失望されると感じたからです。

 私は現在、とても腑抜けた顔をしております。

 そんなものを、衣遠兄様に見せるわけには参りませんので」

 

「ふん、相変わらず減らず口を叩く。

 でまかせばかりは才能があったようだな、愚かなる妹よ。

 だが、今回求めているのは、その様な答えではない」

 

 本音を話せと衣遠兄様に促されて、りそなは縮こまってしまった。

 とてもじゃないけれど、お兄様が怖いですと口には出しづらいのだろう。

 りそなの怯えと共に、衣遠兄様の口角が比例して吊り上がる。

 楽しいというよりも、それは獲物を前にした肉食獣にも似ていた。

 

「りそなは偉大なお兄様の前ですと、緊張してしまう様です。

 どうか、寛大なる御心で許しを賜りますようお願い申し上げます」

 

 思わず口を挟んだのは、これ以上にりそながお兄様を悪く思ってほしくないから。

 正直に言うと、お兄様にこんな事を言うのは私も怖い。

 けれど、私はお兄様の妹であると同時に、りそなの姉でもあるのだから。

 姉は、妹のために頑張りたいと思う生き物だ。

 

「ほぅ……朝日、貴様如きが出過ぎた真似をするか。

 そうまでするという事は、貴様は為すべきを成しているということだろう。

 抵抗をするな、成果物を採点してやろう」

 

 お兄様はそういうと、私達の横を通り過ぎて、部屋へと上がられた。

 残された私達は、お互いの手を握りあったまま固まっていた。

 

「兄は相変わらずおっかないです」

 

 りそなが寒々と言うので、私はそうじゃないと否定する。

 お兄様は確かに不機嫌でいらしたけど、それには理由があっただろうから。

 

「ごめんね、りそな。多分巻き込んじゃった。

 お兄様は、私が努力を惜しんでいると考えられている。

 だから、それを糺すために怒られたんだ」

 

「え、でも矛先は私に向いていましたけど?」

 

「だから、巻き込んじゃってごめん。

 りそなをここで怒るのって、凄く理不尽でしょう?

 その理不尽への怒りが、私に火を点けると思ってるのかも……」

 

 私はお兄様ではないから、全ては分からない。

 けれど、私に奮起して欲しいという気持ちは感じている。

 私が、お兄様の求める才能を未だに示せていないのが、その原因と言っても良い。

 私を叱るだけでは足りないと、そう思われたのかもしれない。

 

「そう、ですか。

 元々が理不尽な人ですから、それもあり得ると思います。

 私に立場を分からせる、という理由も幾分含まれてそうですが」

 

 疲れを隠さず、りそなはお兄様のことを話す。

 理不尽で、厳しくて、そして何よりも厳格であること。

 他人に厳しく、努力を怠る人間を何よりも嫌うこと。

 そして、りそな自身が努力をしない人間で、だからこそ嫌われていること。

 話している内に、段々とりそなは不貞腐れた顔をしてきた。

 それは、この理不尽が意味を成さないことを理解して。

 

「それなら、私は怒られ損でしたね。

 姉は申し訳ないと思っても、兄に対して怒る姿が想像できません」

 

「うん、お兄様を許せないという気持ちは、どうしても抱けないよ。

 ただ、私のせいで、りそなが意地悪されたのは事実だから。

 しっかりしないといけないとは思った」

 

「そんな申し訳無さそうな顔、しないで下さい。

 姉は悪くないです、兄が酷いだけですから」

 

 手を握る力が、さっきよりも強くなった。

 自分で思っているよりも、落ち込んだ顔をしていたみたいだ。

 りそなの心配そうな顔が、より申し訳無さを呼び込む。

 りそなの方が、心配されて然るべき状況なのに。

 

 この子に心配を掛けたくないと、気持ちを奮い立たせる。

 私はりそなの姉で、この妹を支えたいと思っているのだと。

 

「りそなの優しさは、何時だって私を救ってくれるね。

 ありがとう、お陰で元気が出てきたよ」

 

 だから、この子の前ではせめて笑っていよう。

 その努力を惜しまず、明るくいよう。

 りそなの力になれるように。

 

 

「今日、もう出かける雰囲気じゃなくなりましたね」

 

 どうしましょうか、とりそなは部屋の方に視線を向けた。

 中では、険しい顔をされた衣遠兄様が、私の服飾の採点をされてる。

 あの様子だと、今日も指摘を受けるだろう。

 口調は厳しくとも、お兄様の言葉は為になる。

 なので、そわそわとお兄様の方を気にしてしまう。

 

「行ってきたらどうですか?

 妹、もう帰る気マンマンですし」

 

 りそなはとても気が付き、賢く立ち回れる子だ。

 誰が何を思っているのかを、容易に汲み取ってみせる。

 それこそ、こちらが申し訳なく思うくらいに。

 

「りそなが来てくれて、今日はとても嬉しかった」

 

「やった事と言えば、クソゲーだけでしたけどね」

 

「楽しくなかった?」

 

「貴方と一緒なら、笑っていられるゲームでした」

 

「なら良かった」

 

 こっそりと、二人だけで私達は笑みを浮かべた。

 きっと、今後もこういった事はある。

 それでも、二人で協力して手を取り合って行こう。

 それが、私達が最初に交した約束だから。

 

 

 静かに帰ったりそなを見届けて、私は部屋に戻った。

 お兄様に、教えと懇願を請う為に。

 

「ふん、愚かなる末妹は逃げ帰ったか」

 

「いいえ、お兄様の邪魔をしてはならないと思ってのことです」

 

「愚者とは群れるものだ。

 そして、他人の足を引く特性を有している。

 無能が無能たる由縁だ。

 それを理解し、戒めろ」

 

「私が成長し、りそなも才を羽ばたかせられる様に努力致します」

 

 鋭い視線で一瞥され、お兄様へ真っ直ぐに視線を返す。

 すると舌打ちをされて、興味を失った様に服飾の教材へと目を落とした。

 そうして、幾つもの指摘を受ける。

 私がまだ至らないままなことを教え、より成長させてくれるために。

 

 

 裁縫の針、型紙の図面、デザインの筆致。

 指摘には様々あれど、最近は裁縫のみを点検されることがお兄様は多い。

 そうして点検の後、お兄様は次の課題を伝えて去られて行く事が殆どだった。

 けれど今日は、点検された後の時間に、一つ尋ねてこられた。

 

「りそなと、どこへ向かおうとしていた?」

 

 お兄様の顔を、失礼に当たるのを承知で、まじまじと見てしまった。

 素っ気ない、けれどもさり気ない表情。

 いつもの、りそなが恐れていた様な怒気も覇気もない。

 ただ、兄妹の様子を気にしているお兄様の姿が垣間見えた気がした。

 こんな表情をりそなが見たら、お兄様への見方が変わるかも。

 そう考えると、少しのワクワクを覚えた。

 

「お花見に行きたいと、そう話しておりました」

 

「馬鹿騒ぎに興じようということか、愚かしい」

 

「いいえ。花を愛でられたら、それで良いのです。

 ただ、それを間近で、家族と観れたのならより幸せだと感じました」

 

 そう告げると、お兄様は考えに耽る為に俯かれた。

 数秒後、顔を上げた衣遠兄様は僅かに忌々しげだった。

 何か、気に障る様な発言をしてしまったのではないか。

 そんな考えが巡り動揺してしまったけど、そうでないと知れたのはお兄様が不機嫌そうに返して来た言葉からだった。

 

「桜を鑑賞し、それでもなお足りないという。

 つまり貴様は、大蔵の人間であるのにも関わらず、未だに桜を見たことが無いということか。

 日本人であるにも関わらず、その真価を!

 姿形の話ではない、心に迫る深層の姿のことだ!」

 

 声を荒げられたのは、それが許せないと思われたからか。

 だけれど、胸の何処からか、知っているよと声が聞こえる。

 そんな声に従って、お兄様がいう桜を脳裏に浮かべてみる。

 

 深層の姿をした桜、きっとそれは日本人の心の底にあるもの。

 淡く光る、ハラハラと舞い散る桜。

 どこか、妖精でも宿っているのではと感じさせられる気配。

 誰か、桜の木に寄り添っている気がするけど、その姿は何処にも見えない。

 ならそれは、私以外の誰かで、無邪気でいられる奥底での気持ちなのだろう。

 

 どうして他の人達が、ああやって桜を囲むのか、少し分かった気がした。

 この気配を共有し、楽しくて嬉しくて仕方がなくなるからだ。

 お兄様が見ている光景を理解できた気がして、話したくて堪らなくなった。

 賢しら振って、多くの言葉を語りたい気持ちになる。

 

「見えております、お兄様。

 桜の原風景こそが、拠り所になりうることを」

 

 けれども、多弁を要するにはそれは美しすぎる。

 私が言葉で価値を付加しようとしても、それは毀損になるだけだ。

 なら、最低限の言葉しかいらないんだと、素直に理解できた。

 

「……最低限の教養は持っていたか、愚かなる妹よ。

 そうだ、拠り所だ。

 馬鹿どもが桜を囲んで騒ぎ立てるのも、それを無意識に自覚してるからだ。

 雌犬の子であっても、魂は日本人の形をしていたらしい」

 

 お兄様の言葉に、ほっと息を吐く。

 美しいものを理解できない人物を、とても嫌う人だから。

 そんな気の緩んだところに、但しとお兄様は付け加えられた。

 

「雑音の多い東京では、桜の姿が捉え辛くなることもあるだろう。

 故に、静寂の中にある桜の園へと、いずれ連れて行こう」

 

 お兄様が口にされたそれは、本当に無償のものだった。

 何ら私の技術や知識に、影響を与えるものではないのだから。

 お兄様が、ある意味で初めて私に心を重ねて下さった。

 それが嬉しくて、大声で叫んでしまいたい衝動に必死に蓋をする。

 ムズムズと湧き上がるかの感情は、おおよそが喜びと称するものだと理解できたから。

 変な事を口走らないようにと、一生懸命にならざるを得なかった。

 

「りそなも共にでしょうか?」

 

「ふん、あの愚かなる末妹も、あれで大蔵家の人間だ。

 桜の美しさを解する心は有しているだろう」

 

 良いだろうと、お兄様はりそなの同行も許可してくれた、

 お兄様のいずれとは、いつのことか分からない。

 もしかしたらそれは、私が一人前になった時の遥かに遠い未来のことかもしれない。

 けれども、この約束があれば、何処へでも遠くへ向かえるような気がした。

 

「ありがとうございます、お優しい衣遠兄様」

 

 お兄様は何も仰らない。

 無表情で、心を全て覆い隠している。

 だから、これは単なる願望でしかない。

 それは、私には見えないお兄様の最奥で、兄妹との語らいを望んで下さったのであれば良いなという、そんな気持ち。

 お兄様、私はいつか兄妹三人で朗らかに語り合える日が来ることを望んでおります。

 さっきの約束が、その萌芽となってくれることをも。

 

 そんな時、携帯電話が音を出して鳴り響いた。

 お兄様に頂いた、二つ折りのもの。

 表示されている名前は、先程帰路についたりそなから。

 さっきのお兄様との約束を伝えたくて、ルンルンとした気持ちで電話を取った。

 

「りそな、りそな、聞いてよ! あのね――」

 

 

『今すぐ逃げてください!』

 

 

 私の言葉を遮って、りそなが叫んだ声がする。

 普段はローテンションで、落ち着いて話すあの子が。

 私の夢想していた喜びの言葉は、形を紡ぐ前に霧散して。

 代わりに、りそなの必死の言葉が流入してくる。

 

『私の母が! 貴方のお母さんに酷い仕打ちをした人が、そちらに向かってるんです!』

 

 ヒヤリと背中が冷えて、肌が粟立つ感触に包まれる。

 りそなの御母上、奥さま。

 お母さまが怖がり、常に怯えていた人。

 絶対に怒らせてはいけない、お母さまを憎んでいた人。

 そして、恐らくは私も憎むに足る理由を持っている方。

 

 その現実に、私は呆然とりそなの言葉を聞いて。

 その大声は、携帯越しでお兄様へも届いていた。

 お兄様は何を馬鹿な、と一笑に付す。

 

「あの母親の動向は、我が部下が監視している。

 そのような事があれば、逐一報告が届く」

 

「り、そな、お兄様の部下の人が見張ってるから、そんな筈ないって!」

 

『今日は家に居ない筈だった母が待ち構えていて、私の頬を引っ叩きました!

 私を溺愛して仕方がなかった、あの母が!

 野良犬は汚く、雌犬ならば尚更だと。

 そんな事を言って、姉を口汚く罵りました!』

 

 涙声交じりのりそなの叫びは、信じるに足る程の切実さがあった。

 流石のお兄様も顔色を変えて、警戒した表情で携帯に手を伸ばした。

 何度かのコールが掛かるけど、何故かその電話は繋がらない。

 

「――何故、出ない。

 まさか、あの母親如きに頭を垂れたとでも言うのか!

 この俺の、才能を見出した部下が!

 本当に裏切ったのか、小早川!!!」

 

 お兄様が、愕然とした表情で携帯を見つめていた。

 自らの部下が、自分を裏切っていた。

 才能を重視し、それを指針として掲げていたにも関わらず。

 お兄様は震えた声で呟かれ、次の瞬間にそれは赫怒へと変化した。

 

「おのれ、忌々しいっ!

 よもや俺を裏切り、母に付く愚か者がいるとは!」

 

 机を殴りつけ、無念さで口惜しさを隠そうとしないお兄様。

 普段の、感情を巧みにコントロールする姿はそこにない。

 自らを全否定されたかの様な、苦しげな姿が痛ましかった。

 

『もう時間がありません!

 私はさっきまで、母の部下に監禁されていました。

 抜け出してこうして電話を掛けられていますが、母が出てから時間が経っているんです!

 急いで下さい、姉! 兄!』

 

 時間がない、その認識は直ぐに私とお兄様との間に共有された。

 怒りよりも優先するのは、私自身の身の確保。

 そう考えてくださったのは、お兄様の切り替えの早さから来るものだ。

 

「朝日、付いてこい」

 

「はい、衣遠兄様」

 

 お兄様と共に、玄関へと向かう。

 早く出なくてはいけない、その一心で。

 

 二人で部屋から出ようとした――その時だった。

 ゆっくりと、扉のドアノブが回されたのは。

 私ではない、お兄様でもない、りそなはこのマンションに居ない。

 つまりは、兄妹以外の誰かが、この向こうに居るということ。

 

 ――そう言えばと思い出す。

 ――お母さまと別れた日も、嬉しいことがあってから悲しみに襲われたな、と。



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第10話 暗転

今回、暴力描写がありますのでご注意下さい。
次回の前書きに、この話の簡単なあらすじを掲載する予定です(忘れて無ければですが)。


「ぁ……」

 

 扉が開かれて、その人物を見た瞬間に震えが止まらなくなった。

 経験が、その感情の正体を知っていた。

 私を睥睨する眼差し、固く握られた拳からこの方が怒りを抱いていることは容易に想像がついた。

 そして、私がどうなるということも。

 

「奥、さま」

 

 震えた声で呟いて、それがこの方の神経に障ってしまった。

 顔色は既に紅蓮の域に達するかの様な程で、後は爆発するのみ。

 許されるなんてこと、元々あり得ない話ではあった。

 でも、その努力すら、私は放棄してしまったのかもしれない。

 

「雌犬の娘っ! いいえ、お前は雌犬そのもの!!

 よくも私の子供達を食い物にし、寄生してくれたな、この売女!!

 キエッーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

 白目を剥いて、けれども大きく開かれた平手は確実に私の頬を打った。

 衝撃が、頬を通り過ぎて行く。

 頭が揺さぶられる衝撃が最初に来て、次に頬に引き攣る痛みがやって来た。

 その場にへたり込んだ私に、奥様は馬乗りになられた。

 そうして、両の手で何度も私の頬を力強く叩かれる。

 

「謝りなさい! 謝りなさい!! 謝りなさいっ!!!

 我が真星一家の栄光を汚した分際で、よくものこのこと顔を出せたものですっ!

 あまつさえ、その妖術で衣遠と里想奈を誑かすなど!!

 恥知らずが! 恩知らずが! この人非人がァ!!!」

 

 何度も叩かれ、頬が腫れていく。

 感情と痛みが綯い交ぜになって、涙が勝手に溢れていく。

 体が言うことを聞いてくれない。

 泣いたら駄目だと言い聞かしても、体はそれを無視してしまう。

 私は、とても弱い人間だ。

 

「っ、申し訳、ござい、ません、奥様っ」

 

「心にもないことぉっ!

 涙を流せば、慈悲を得られると思っているのですか!

 条件反射で泣くように、あの女に躾けられたのでしょうに!

 卑しさを隠さないっ! 卑賤な身の上の! 動物の子供!

 夫を腐らせてっ、次は衣遠の番だとでも言うのかっ!

 一家の、私の栄光をどこまでも汚さんとする女狐!

 我が一家を滅ぼさんとする悪鬼が! 外道が!! 悪魔が!!!

 その様な真似、この大蔵金子が許しませんっ!

 今この場で、貴様を滅ぼし尽くしてくれる!!!」

 

 奥様は本気だった。

 本気で、私の存在を消そうとしていらした。

 けれども、私はそれを止められない。

 何故なら、奥様にとって私は異分子で、旦那様の不貞の子供という事実は変わりないのだから。

 その存在である私が認められないのも通りで、けれどもそれが悲しくて仕方なかった。

 奥様が認めてくれないと、私はお兄様やりそなと共に暮らせないから。

 

「おゆるし、下さいっ。

 共にあることを、お許しくだしゃい!」

 

 頬の腫れが大きくて、言葉を上手に扱えない。

 ボロボロと溢れる涙が、それを更に加速させる。

 どうしようもないほどに、私はボロボロになっていた。

 

 頭が回らない。

 何も考えられない。

 ただ心の奥底から望んでいることを、必死に乞うしかできない。

 けれども、それは更に奥様を怒らせただけだった。

 

「往生際の悪い!

 この期に及んで、よくもその様なことをっ。

 悍ましき売女の遺伝子!

 見目で惑わし、性根で腐らせる傾国の系譜がっ!

 滅びなさい! 滅びろ! 滅びれろ!」

 

 奥様の手が、私の首へと回された。

 あぁ、と理解する。

 奥様は、どうしても私の事が許せなくて仕方ないのだと。

 

 お母さま、どうやら私は貴方の下へと向かえるようです。

 それが不幸かどうなのか、私には判断が付きかねます。

 ですが、お母さまと共にあれるのならば、それは幸せであるはずです。

 

 ……でも、やっぱり少しだけ……ううん、とても残念です。

 衣遠兄様とりそなの二人と、もう会えなくなってしまうのだと思うと。

 一緒に過ごして、愛すべき兄妹のことを理解したいと能動的に思えて。

 この人達と一緒にいるのは、とても幸せなことでしたから。

 未練がましいですが、未だこの様な状況になってでも求めてしまいます。

 まだ一緒に居たいと、共に語らい笑い合いたいと。

 

 体が震えていた。

 心残りが沢山あるからか、まだ死にたくないという気持ちが段々と沸き上がってくる。

 けれども、奥様の両手の力はとても強くて。

 

 ――お母さま! お月様! お師匠様!

 まだ死にたくありません! 私はしたいことがあります!

 ですから、ですから!

 

「母上! 気持ちは分かりますが落ち着いて下さい。

 これ以上は、この雌犬の子が死亡します。

 そうなれば、母上は定義上の犯罪者となる。

 私は母上に栄光を届けたいのです。

 獄中などという、過酷な世界に送り出したくなどありません」

 

 私の首を締めていた手が緩んで、息が吸えるようになる。

 その力の隙間から、必死になって呼吸をする。

 求めて、足りないものを補うために。

 

「衣遠! そもそも貴方が誑かされなければ、この様な事態を招かなかったのですよ!

 大蔵家の長男として、恥を知りなさい!」

 

「申し訳ございません。

 ですが、それでも私はコレに使い道を見つけたのです。

 我が覇道のためならば、悪しき亡霊すら使いこなしてみせましょう」

 

 息をする度に、思考が少しずつクリアになっていく。

 そうして、ようやく事態を少し理解できた。

 今、私を助けてくれたのは、神様ではなく衣遠兄様で。

 部下に裏切られたという屈辱を抑え、こうして奥様を説得して下さっている。

 

 だから衝動を堪えて、必死に歯を食いしばった。

 今、泣いては全てを台無しにしてしまうから。

 私の涙を、奥様は卑劣な武器だと感じている。

 他の何を差し置いても、今だけは泣けなかった。

 ただ、心の中だけでは、感謝の言葉を述べさせて下さい。

 ありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 

「知っているのですよ、衣遠。

 お前はこれに入れ込んでいる、見れば分かります」

 

「母上、お戯れはお止し下さい。

 私にとって、これは道具に過ぎません。

 今は加工している最中で、こうして様子を見に来るのもその一環です」

 

 私の頭の上では、奥様と衣遠兄様が舌鋒を交し合う。

 奥様の冷たい声を、お兄様は軽やかに受け流す。

 爽やかな仮面を被り、本心は誰にも見えない様にして。

 

「――衣遠」

 

 だけれども、奥様は低い声のままだった。

 それどころか、声音の温度も段々と失われていく気配がある。

 お兄様はおくびにも出さないけど、警戒する様に私をその背中に隠した。

 

「この母を、単なる愚昧だと思っているのですか?

 何も調べず、感情のままに乗り込んできたとでも?

 知っていると申しましたよ――貴方が、その雌犬に偏執しているということを!」

 

 まさか、だとか。

 道具故に、だとか。

 衣遠兄様にも、様々な言い分があった筈だ。

 けれど、それを押しのけて、奥様は大きな声でそれを弾劾する。

 奥様が知っている、お兄様の事を全て。

 

「この雌犬がオスであったのならば、その言い分も認めたかもしれません。

 ですが、コレは女として生を受けました!

 髪を伸ばした姿は、あの女に瓜二つ!

 そして、お前はあの汚らしい売女を気にかけていた!

 この母娘が揃って女であったからこそ、私は警戒しました。

 マンチェスターに、私の目を配置する程に!」

 

 一瞬、衣遠兄様は言葉を失してしまった。

 あり得ないと否定するわけでもなく、事情があったと言い訳もしない。

 ただ、忌々しそうに、顔を歪められただけ。

 一方の私も、知らない情報に目を白黒させてしまう。

 

 衣遠兄様が、お母さまを気に掛けていらした?

 それは、妹を産んだ人物だから?

 ううん、それは多分違う。

 だってマンチェスターでは、衣遠兄様は私を気に掛ける素振りを見せられなかったから。

 それなら、衣遠兄様はお母さまに事情があって接触していたと考えるのが妥当で。

 栓のないことを考えて、気を取られてしまった……そんな時だった。

 

「目を覚ましなさい、衣遠!

 貴方は毒されているのです!!」

 

 何かが破裂したような、乾いた音が響き渡った。

 顔を上げれば、呆然としている衣遠兄様と、それを睨み付ける奥様の姿があって。

 信じられない気持ちでいっぱいになる。

 あの衣遠兄様が、偉大な人物であると疑いもしなかった人物が、平手打ちを受けていたのだから!

 

「この俺を、平手打ちにしただと……。

 あの愚かなる母親が……あり得ない……」

 

 お兄様も、信じられない面持ちで現状を受け止めていた。

 それ程に、天地が反転するくらいに信じられないことだった。

 ただ、奥様はそれで気を収められた訳ではなかった。

 白目ではない、お兄様にも似た意志の強い苛烈な瞳が私を捉える。

 

「貴方のせいです、朝日。

 私の栄光が汚れたのも、衣遠が傷ついたのも、全ての災厄は貴様から撒き散らしたこと。

 それに事欠いて、一緒に居たいなどとは笑止の一語。

 生きているだけで不幸を撒き散らす害虫がっ!」

 

 奥様は、懐から鈍色に光る物を取り出された。

 それは、仕立ても良く、切れ味の有りそうな鋏。

 そうしてそれは、迷う素振りもなく、私に振りかざされた。

 ヒュッと風を切る音を耳が捉え、ハラハラと何かが舞い落ちる。

 

 あっ、と声を漏らしてしまった不作法は、今回だけは許してほしかった。

 だってそれは、お兄様に伸ばしてみろと仰って頂いた髪が、パサリと呆気なく床に溢れた音だったのだから。

 

「貴方は不幸を呼びます。

 呪われた出自から、アレの怨念を宿したかの様な容姿に至るまで。

 特に、この髪自体が呪物そのもの。これに衣遠は惑わされた。

 故に、刈り取りました」

 

 髪の長さなんて、今まで気にしたことはなかった。

 ただ、珍しくお兄様にやってみろと言ってもらえて、とても嬉しかった覚えがある。

 それが、私が髪を気にして、よく手入れを始めた理由で。

 こうして分かたれて、初めて思い入れがあったことに気が付いた。

 私、思っていたより自分の髪が好きだったみたい。

 

「お兄、さま。ごめ、んなさい」

 

 髪が好きだった理由は、お兄様が気にしてくださったから。

 好きでいる理由なんて、それだけで十分だったから。

 悲しさの理由の大半は、お兄様に申し訳ないというものばかり。

 この時だけは、奥様への罪悪感よりも、お兄様への気持ちが上回った。

 

「この様な時にも、衣遠衣遠と!!

 魔性が! 毒婦が!

 どれほど衣遠を惑わせ、狂わせようというのか!

 私に苦痛を与えるだけでは済ませず、全てを破壊しようというのか!

 おのれ朝日! おのれ雌犬の遺伝子!

 キ、キエエエエエエエエエエエエエエエ!!!」

 

 奥様の、叫声が辺りに響く。

 憤り、憎悪、焦燥、それらが綯い交ぜになった叫び。

 奥様との和解は、出来そうにないと理解せざるを得ないものがあった。

 

「もうしわけ、ございません!」

 

 涙が止まらなくなる。

 お兄様やりそなと、もう語らいあえないという現実に。

 私の存在そのものが、奥様を傷つけてしまうのだ。

 それならば、私は奥様に近付いてはいけない。

 少なくとも、それが我欲によるものである限り。

 自分勝手になってしまえば、お母さまの私に託してくださった想いが無くなってしまう。

 それだけは、どうしても耐えられそうになかったから。

 

「命ばかりは取らずに居ましょう……出ていきなさい!

 そして、二度と我々の前に立ち塞がらぬことです!

 次は在りません。今度その姿を見た時は、この身命に懸けても葬ってくれるぅ!」

 

 その言葉に従って、私は家から出ようとした。

 お兄様、りそな、これまでありがとうございました。

 多くの思い出を、数多の技術を、多々様々な物を二人は与えて下さいました。

 それらを胸に抱えて、どうにか足掻いて生きて……生きていけるのでしょうか?

 

 私は強い人間ではありません。

 堪えられず、思い出に浸る日々を過ごすかもしれないのです。

 奥様は、それを許して下さるでしょうか……。

 

「待て、朝日っ!」

 

 力強い、けれども懸命な声が聞こえた。

 頼りになると感じて、およそ万能であると信じた人の声が。

 振り返ってはいけない、奥様は怒りを強くされる。

 そう理解していても、どうしても耐えられなかった私は、やはり弱い人間だ。

 

「――衣遠、兄様」

 

 奥様に与えられた、頬への赤い紅葉が残っていた。

 けれども、それは衣遠兄様の雄々しさを微塵も貶めることはない。

 誰よりも、その姿が凛々しく見える。

 

「何のマネですか、衣遠!」

 

「これは俺の物だ!

 爪先から髪の毛一本に至るまで、俺が生殺与奪を握ってなければならない生き物だ!

 そうでなければ、全てを奪ったことにならない。

 故に、お前は俺の妹で居なければならない!」

 

 何を仰っているのか、その意味は私には理解できない。

 けれども、私に分かれば良いことなんて、一つしか存在しなかった。

 自分の妹でいろと、そう衣遠兄様が仰ってくださったこと。

 これだけが、真実何よりも重要なこと。

 

 それに、私は込み上げてくるものを止められない。

 お許しください、衣遠兄様。

 私はどこまでも、愚かな妹です。

 

「血迷いましたか、衣遠!

 骨の芯まで蕩けさせられて!!」

 

「母上がアレの存在を許せない様に、俺もアレが野に放たれるのを許せないのです!」

 

 普段の衣遠兄様なら、その様な言葉を出すのは、奥様を激高させるだけだと計算される。

 けれども、言葉に出して私を呼び止めてくださった。

 それは、お兄様の心の中に、私の居場所を作ってくださっていたということで。

 その事実だけで、どうしても堪えられそうになかった。

 

 ――でも、ごめんなさい。

 貴方の愛を感じても、私がここに居ることを不条理だと感じる方がいらっしゃるから。

 その方に逆らうと、お兄様は多くのものを失うことになりますから。

 私は行かせて頂きます。

 どうか何時までも、お元気にお過ごしください。

 

「――さようなら、衣遠兄様」

 

 悲しみの鎖を断ち切って、私は部屋を飛び出した。

 去り際の、お兄様の裏切られたという顔が、酷く心にこびり付く。

 ごめんなさい、本当に私は不出来な妹です。

 兄不幸を、妹不幸をする私を、どうかお許しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走って、走って、走って。

 涙で視界が潰されながらも、私はがむしゃらに走り続けて。

 本当は悔しくて、辛くて、苦しくて。

 八つ当たりするように、とにかく宛もなく走り続けて。

 そうして、日が暮れ始める頃には、見覚えのない場所で息絶え絶えとなっていた。

 

 これからどうしようか、と考え始めたのはそんな時。

 さっきは考えられる程の理性を失っていたけど、正気に戻ると困ってしまった。

 考えなしに飛び出して、こうして路頭に迷ってしまう。

 全力疾走を行い、酸欠気味の頭で考える。

 アテもなく、お金もなく、家もない。

 むしろ、持っているものがない。

 

 そうか、と理解する。

 奥様がサヴォワでもなく、こうして日本に放逐されたのは行く場所がないと分かっていたから。

 子供の女が一人、生きていく術なんて無いと知っていたからだ。

 

 このままだと警察に補導されてしまうかもと考え、それは避けたいなと思った。

 お兄様達に、ご迷惑を掛けてしまうかもしれないから。

 でも、どうしようこれから。

 

 ジプシーみたいに渡り歩くには、私の体は貧弱だ。

 所謂ホームレスという人達のように暮らすには、私の知識はあまりに足りていない。

 唯一、私にできそうな事は、物乞いくらい。

 それも、警察に捕まらない様にとなると、かなりの難易度。

 

 困りきって、このまま物陰で寝てしまおうか、と考えていた時だった。

 背後から、影が差した。

 私の他に、誰かがいるということ。

 意味もなく後ろめたい気持ちになって、息を止めた。

 誰にも気付かれてはいけない、気付かれたく無いと、そう思っていたから。

 ただ、その人は私の後ろに立ったまま、微塵も動こうとしなかった。

 

 どうして、と息苦しく思う中で不満に思って。

 けれども、俯いて顔を上げなかった私に向かって、その人は話しかけてきた。

 一言、どこかで聞いた声を添えて。

 

「難儀ですね」

 








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第11話 寄る辺を求めて

「目標、マンションを飛び出して走り始めました」

 

『追跡しろ、見失うな』

 

「了解、ストーキングを開始します」

 

『……言い方を考えろ』

 

「失礼致しました」

 

『毒は忍ばせるものだ、振りまくものじゃない』

 

「薬になればと思いまして」

 

『劇薬だよ、全く』

 

 一年間、監視任務に付かされていたからか、少女の様な彼女は少し毒舌だった。

 ただ、それだからこそ、今走っている彼女には思い入れがある。

 人間、可愛いものとか弱いものには存外弱いのかもしれない、と彼女は自己分析する。

 少なくとも、任務以外の同情心が芽生えていたから。

 少女の難儀な身の上を思うと、少し心が痛んだ。

 

 

 

 

 

「難儀ですね」

 

 英語で投げかけられた、聞き覚えのある声だった。

 青山のあの街で、幾度か会話をした覚えがある人。

 けれども、その人の名前さえ未だに知らない人の声。

 

「難儀、なんです」

 

 顔を上げた先に居たのは、ギシアンの服を着た彼女だった。

 知っている顔だった事に安心して、けれども恥ずかしさを感じずにはいられない。

 だって今の私は、泣きっ面で腫れぼったく、髪だって不揃いで満身創痍でもある。

 とてもじゃないけど、人前で誇れる姿とは言い難かったから。

 

「そうですか」

 

 か細く、けれどもか弱さを感じない声。

 彼女は、こんな私を見ても、微塵も動揺した気配を見せなかった。

 おおらかな人なのか、それとも……。

 

「私を、追ってきて下さったのですか?」

 

 知り合いの尋常じゃない姿を見て、思わず後を追ってきたかだ。

 だって、ここは彼女の生活圏ではないのだから。

 少なくとも、前に話を聞いた時はそう言っていた。

 

「はい」

 

 抑揚なく、淡々と彼女は肯定した。

 それに、酷く申し訳なく思う。

 心配を掛けてしまったことに、こんな姿を見せてしまったことに。

 それに、子供の足とはいえ、ここまで走らせてしまった。

 今日は迷惑を掛けてばかりだと、心底思ってしまう。

 

「すみません……お恥ずかしい限りです」

 

 掠れた声で返事をしてしまい、焦ってしまう。

 これじゃあ、余計に心配を掛けてしまうだけだから。

 どうにか元気を振り絞ろうとして、ケホケホとまた咳き込んでしまう。

 何とかしないとと思っても、身体の方が付いてきてくれない。

 あまりの情けなさに、枯れたと思っていた涙がまた滲みそうになる。

 

「焦燥、しておられますね」

 

 淡々としている声の中に、ほんのりと労りが滲んでいた。

 そっと近付いてきたこの人は、斜め切りにされた髪をサラリと触れる。

 パラパラと流れる髪に、彼女はほんの少し顔を顰めた。

 

「手、握ります」

 

「え?」

 

 言うや否や、手をそのまま握られた。

 一方的で驚いてしまうけど、彼女は至って真顔だった。

 もしかして、励まそうとしてくれているのか。

 そうも考えたけれど、どうにも気配がそうではない。

 どちらかというと、しっかりと捕まえられている感触。

 

「あの……どうして?」

 

「どうしてでしょう?」

 

 問いかけを投げても、変わらぬトーンで質問を返される。

 もしかしなくても、私はこの人にからかわれているのか。

 考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。

 この人が、全く表情を変えないから。

 

「……困り、ました」

 

「そうですか」

 

 そうなのだろうか、と思ってしまい頭が混乱する。

 まともに考えようとするには、私は疲れ切っていた。

 

「難儀ですね」

 

「難儀させられています」

 

 貴方に、と口に出さずとも伝わっていた様で。

 ようやく、ここで表情が変わった。

 薄く微笑を浮かべて、軽い調子で頭を撫でられる。

 この人なりに、私のことを励ましてくれようとしていたみたい。

 その意地悪な手法に、私は今日はじめて笑った。

 ちょっと不器用なんだ、と思いながら。

 

「ありがとうございます、元気が出ました」

 

「良かった」

 

 弛緩した空気が、ゆるりと場に流れる。

 この人が優しい人だと、ここで私は信じられたから。

 

「では、行きましょうか」

 

 そう思った途端、彼女は私の手を取ったまま歩き始めた。

 どうして? と疑問符で頭が埋め尽くされるけど、関係ないと言った風に。

 

「どちらに向かうのでしょうか?」

 

「私の住み処です」

 

 住んでいる場所に、と彼女は言った。

 つまり、また青山に戻るということ。

 彼女がどうしてそんな事をするのか、理由が分からない。

 ただ、今はあの土地に戻るわけには行かなかった。

 だって彼処には、奥様やお兄様が住んでおられるのだから。

 

「あの!」

 

 のどが痛いけれど、それでも出した大声に彼女は足を止めた。

 そこに、私は上手く纏められないながら事情を伝える。

 彼処に、私の居場所がないということを。

 

「私は、罪を犯しました。

 人を傷つけることをしてしまったんです。

 その人に、二度と顔を見たくないと言われたから、私は家を出ました。

 それに、私が青山に留まるのなら、私の好きな人に迷惑が掛かってしまいます。

 それだけは、どうしても嫌だったから」

 

 お兄様、私はお兄様のお役に立ちたかったです。

 でも、私の存在そのものが障害になるのなら、居なくなってしまいたい。

 お兄様の足を引っ張る存在にはなりたくないから。

 奥様とお兄様との家族の仲を、断絶なんてさせたくなかったから。

 どうか、私の存在が問題の焦点なら、これで解決しますように、と。

 

 一度、考え始めたら止まらない。

 脳裏に、りそなの顔も浮かんで来た。

 引っ込み思案で、他の人の事をよく見ていて、私の助けになってくれていた優しい子。

 あの子は、私が居なくなって悲しい気持ちになってくれるだろう。

 自惚れそのものだけど、それには自信があったから。

 ごめんね、と苦い気持ちで懺悔する他になかった。

 

 祈りにも似た気持ちで、薄っすらと顔を見せつつあるお月様にお願いする。

 お兄様に武運長久を、りそなにどこまでも悠久の幸せを。

 何時までも、私が生きている限り祈らせて下さい。

 

「……貴方は、優しい人ですね」

 

 そっと、彼女が私の頬を撫でた。

 そこで気がつく、その箇所が濡れていたことに。

 また、私は泣いてしまっていたのだ。

 

「泣いて、しまうのはっ、私が弱い証です!

 本当に優しい人は、誰かの力になれる人なんです!」

 

 訴えるように、心のままに叫んでいた。

 私の未熟を、糊塗して隠したくなかったから。

 

 お兄様は、その溢れんばかりの才能で私を助けてくださった。

 りそなは、その類まれな観察眼で私を支えてくれていた。

 そんな思い遣りを、私は返しきれなかった。

 だから、今流しているのは悔しさの涙。

 決して、優しいものではない。

 

 心から、そう思っていた。

 ……けれども、彼女は諭すような口調で言う。

 変わらないトーンで、けれども柔らかさを携えて。

 

「誰かのために涙を流せるのは、その人を想っているから。

 私には出来ません、社長が死んでも残念だな、で済ませてしまいます。

 その涙は、綺麗なものだと思います」

 

 話しすぎましたね、とこの人は言って。

 やや引っ張り気味に、私の手を引いて歩き始めた。

 私の意見に耳を傾けてくれて、けれども有無を言わさずに。

 そこに、違和感を覚えた。

 

 親切というのなら、説き伏せてくれる筈。

 お節介というなら、押し付けがましい筈。

 照れ隠しというわけでも無さそうで、だったらと考える。

 もしかすると、という希望も込めて。

 

「あの、もしかしてなのですが……」

 

 願望があった。

 そうであったら、希望は続いていると思えるから。

 自分は拒絶しなくては行けない立場だけど、そうだったら喜びに満ちるだろう。

 それは、兄妹の絆を感じることができる命綱だから。

 

「誰かに、依頼されて私を追いかけてきて下さりましたか?」

 

「はい」

 

 肯定されて、心臓が高鳴った。

 そういう事をしてくれるのは、私が知っている限りで世界に一人だけ。

 お兄様、と心の中で呟く。

 日頃から、この方を通して見守って下さっていたと思うと、擽ったさを感じたから。

 半ば、確信的に私は彼女に尋ねた。

 それはつまり、と。

 

「お兄様の、大蔵衣遠様の遣いの方ですね」

 

「……………………いいえ」

 

 表情が、僅かに変わった。

 微かに見せてくれた笑みでも、表情を消した姿でもない。

 ちょっと苦い、困ったといったもの。

 

 そして私も、疑問符で頭がいっぱいになった。

 お兄様しか、心当たりがなかったから。

 では、この人は何の理由で、こうして私の手を取られているのか。

 どこに連れて行こうとしておられるのか。

 そもそも、誰の命令であるのか。

 

 全てが分からずに、答えだと思ったものが解けていく。

 その代わりに、残ったのは結構大きい羞恥心。

 迷惑を掛けたくないなんて思いながら、未だにお兄様に執着していたという事実。

 それが明確に、浮き彫りになってしまったから。

 

「あ、ぅ……」

 

 恥ずかしい人だ、とりそなに何度か言われた事を思い出す。

 自分の中で情報を整理して、そうして悶絶へと至った。

 

 顔が赤い、とっても熱い。

 羞恥というものは、頭に血を登らせてくれるのだと今日はじめて理解した。

 穴に入りたい、居なくなってしまえればという気持ちが強くなる。

 

 ――そうだね、りそな。

 ――初めて自覚したよ、私は恥ずかしい勘違い妹だった!

 

「うぅ……」

 

 グウの音も出ない。

 お兄様に常々、愚かなる妹よ、なんて言われていた。

 それは事実だけれど、もしかするとお兄様の想定を超えて私はポンコツだったのかもしれない。

 そうして、右往左往する私を見て、彼女は一言だけ呟いた。

 

「難儀ですね」

 

 

 

 

 

 日は暮れて、夜になって。

 私は未だに、東京に留まっていた。

 

 私みたいな子供が、遠くへ行けるなんて思ってはいない。

 けれど、気持ちの上では東京を出るつもりだった。

 でも、こうして気持ちが落ち着いてしまったのは、この人の差配が大きい。

 

 奥様やお兄様は、日本のお屋敷に戻られて今日会うことはないと太鼓判を押されたから。

 お二人の状況を知っておられるこの人は、一体何者なのだと思ったけど。

 寄る辺のない私は、死んでしまってもお兄様達にご迷惑をお掛けしてしまう。

 なので、必然的にこの人の手を握る他になかった。

 

「カリンさんってお名前だったのですね」

 

「はい、難儀の人こと、カリン・ボニリン・クロンメリンと申します」

 

「その節は、妹が失礼を致しました」

 

「いえ」

 

 歩きながら、私達は自己紹介をしていた。

 話してみると、表情の起伏からは想像できないくらいに気安く会話をしてくれる。

 今までは、姿を見かけたら軽く会話をするくらいの関係だった。

 それが今は、会話をしているだけなのに、前よりも親しさを感じてしまう。

 名前を知るって不思議だ、と改めて知る。

 

「ここです」

 

「ここ、ですか」

 

 そうして案内されたのは、中々の大きさのホテル。

 恐らくは、東京でも一等地の場所。

 お値段も、かなりの価格がするだろう。

 そんな場所に、私を連れてくる様に指示を出した人がいる。

 きっと、私が知らない人。

 

「付いてきて下さい」

 

 けれども、そんなことはお構いなしと言った感じで彼女、カリンさんは進んでいく。

 エレベーターに乗って、カリンさんが押したのは最上階のボタン。

 一等地ホテルの、それも一番値段が高いであろう場所。

 つまりカリンさんの雇い主は、かなりの財力を有している人物だ。

 

 そんな人が、私に何の用があるのかわからない。

 ただ、私を大蔵の人間だと辺りをつけての接触なら、私は名前だけの人間で大蔵家とは関連性を持たない人間だと伝えないといけない。

 それだけは、ここまで育ててくれた大蔵家への礼節で、私のケジメだから。

 

「この部屋です」

 

 エレベーターを降りて、静かな廊下を歩いた。

 他に人の気配がないフロアで、少し歩いた場所で私達は足を止めた。

 部屋から、僅かながら明かりが漏れている。

 もしかすると、この部屋以外にこの階は人が居ないのかもしれない。

 

 困惑と緊張を交えた心臓を落ち着かせるため、軽く呼吸を入れる。

 その間に、カリンさんは部屋の扉をコンコンと叩いた。

 中から、開いていると若い男性の声がした。

 やっぱり、私の知らない声。

 

「失礼致します」

 

 カリンさんが扉を開けた。

 開いた扉の向こうには、推定していたよりも落ち着いた風情の一室があった。

 ただ、広めの窓からは、東京を一望できる異空間が広がっていて。

 まるで、東京の全てを手に入れたかの様な錯覚を与える、選ばれた人しか入れない部屋。

 そんな部屋に、一人の男性が立っていた。

 

 背が高く、けれども気配はとても落ち着いている。

 窓から見える夜空も相まって、まるで影法師みたいだと感じた。

 

「ようこそ、大蔵朝日」

 

 カリンさんと同じく、感情を見せない表情で。

 淡々と私を迎える黒い人は、まるでタイプが違うのに、衣遠兄様みたいな支配者の気配を持っていた。

 自然と緊張を覚えて、私は震える声で返事をする。

 

「お初にお目に掛かります。

 大蔵朝日と申します、この様な姿で申し訳ございません」

 

 深々と、頭を下げた。

 こんな汚れて、不揃いで、無作法に私は訪れてしまったから。

 酷く場違いな感じがして、申し訳なくなってしまった。

 ただ、彼はそれに穏やかな声で応えた。

 

「うん、礼儀正しい人は好きだな。

 それに、俺が呼びつけたんだ。

 むしろ、その点に関しては俺が頭を下げるべきだな。

 顔を上げてくれ、朝日さん」

 

 呼び方が、朝日さんと変わっていた。

 そして顔を上げたら、僅かに嬉しそうに笑みを浮かべる黒い人の姿が。

 部屋に入った時よりも、雰囲気が柔らかく感じる。

 そんな彼は、冗談めかした口調で名乗りを上げた。

 そうだな、と軽く考えてから。

 

「俺の名前は……うん、小倉だ。

 小倉駿我っていう、出来れば駿我って呼んでくれるとありがたい」

 





大蔵と名乗り、動揺させたくないと考えた駿我さん。
適当に偽名を考えたけど、それが気に入ったご様子。
小倉、悪くないなと内心にっこりしておられます。


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第12話 黒猫の毛皮を被って


なお、猫の皮を被ってるのは駿我さんの模様。


「小倉、駿我さん」

 

 転がす様に口にして、その名前を咀嚼する。

 どこかで聞いた様な、けれども初めて聞くフレーズ。

 不思議と、親しみを覚えられる名前な気がした。

 

「いや、いきなり名前呼びはハードルが高かったかな?」

 

 思案に暮れていると、駿我さんはバツが悪そうに頬を搔いていた。

 私の沈黙を、嫌がっていると思われたのだろうか。

 慌てて、そうではないことを伝える。

 

「いえ、少し考え事をしていました。

 すみません、今後は駿我さんとお呼びしてもよろしいでしょうか?」

 

 そう言うと駿我さんは、探るように私の目を真っ直ぐ見ていた。

 大丈夫ですと、ギュッと両手を握ってアピールすると、彼はまたも目を逸らす。

 

「どうか、されましたか?」

 

「いや、眩しいなと思っただけさ」

 

「眩しい?」

 

「なんでも無い、気にしないでくれ」

 

 駿我さんが何を考えられているのか、私には詳しくは分からない。

 ただ、首を振るこの人の姿は、不快さを感じているということはなさそうで。

 そこに、少しだけ安心感を覚えた。

 

 

 落ち着かれたのか、駿我さんはテーブルの席に着くように促した。

 お互いに椅子に座ったところで(カリンさんは立ったままだった)、駿我さんは言う。

 

「それで、だ。

 急に、こんなところに連れてこられたんだ。

 聞きたいことの一つや二つ、あるだろ?」

 

 それは、私がここに来る間に感じた、どうしてという疑問達のこと。

 私は頷いて、その事を尋ねた。

 今から昔のことに至るまで、様々なことを。

 

「一体何故、私にお声を掛けてくださったのでしょうか?」

 

 まず真っ先に聞いたのは、ここに連れてこられた理由。

 私は、駿我さんという人間のことを知らない。

 だからこそ、助けてもらう理由が分からなかった。

 それこそ、私が大蔵家の人間であるということ以外は。

 

 もし、それが理由だとするならば、私はキッパリと駿我さんのお誘いを断る必要があった。

 私は、これ以上の迷惑を掛けないという理由で、見逃された人間だから。

 それだけは、ハッキリと伝えなければならなかった。

 

「もし、私が大蔵家の人間であるということが理由なら、貴方の好意は受け取れません。

 私は名前こそ大蔵ですが、その事で得られる利益は一つたりともありません。

 私は大蔵家にご迷惑をお掛けした身。

 その私を大蔵家とのパイプにしようとするのなら、ご不興を買うことはあれど益することはございません」

 

 意思を込めて、私は利益を生まない存在であることを伝える。

 駿我さんがそれを期待していたのなら、それを裏切る形となる。

 そうなったら、私はアテもなく彷徨うことになるだろう。

 

 でも、それで良い。

 私を利用することで、お兄様達や駿我さんに迷惑が掛かることなんて無いから。

 だからジッと、私が駿我さんの事を見つめ返した。

 駿我さんを探るためではない。

 私には、こうやって真剣さを伝える事しか出来ないから。

 

 ……駿我さんと視線が交わり、数秒が経過する。

 駿我さんの目は細められていて、見るものによっては蛇にも見えたかもしれない。

 衣遠兄様とは違う類の、絡め取られて全てを曝け出させられるような視線。

 やっぱり、この人は衣遠兄様と同じく傑物なのだと理解する。

 だからこそ、目を逸らさない。

 

 与し易いと思われてはいけない。

 簡単に利用できると思われる訳には行かないから。

 だからこそ、話している相手が対等であると、しっかりと認識をして貰う必要があった。

 

 唯一、私に残されていた意志。

 それはお兄様の道行きを邪魔せず、りそなの家族を壊さないこと。

 何を失っても守らなければと思っているのだから。

 

 空気が僅かに張り詰めて、私は警戒している猫みたいになっていた。

 沈黙は雄弁である。

 意味合いは違えど、この静けさの中では言葉を取り違えて了解してしまいそうになる。

 そんな沈黙を打ち破ったのは、駿我さんの口から出た言葉だった。

 

「……いや、参ったな」

 

 その言葉に、ホッとした気持ちとこれからどうしようという諦観が交わった。

 誰にも迷惑を掛けない代わりに、私は根無し草になる他ないのだから。

 そんな覚悟を決めていると、駿我さんは苦笑していた。

 参ったという言葉を、困ったに言い換えて。

 

「朝日さんには、どうやら俺が悪人に見えているらしい。

 本質が良く見える、良い目をしてるね。

 ただ、今回ばかりは善意だよ。

 ボロボロで、明らかに訳ありな女の子を一人、この東京に放り出す訳に行かないからね」

 

 日本は治安が良いと言っても、犯罪が起きない訳じゃない。

 駿我さんはそう言い置いて、私の頭にポンと手を置いた。

 穏やかな表情とは裏腹に、とても恐る恐る手を動かす。

 不器用だけれど、けれども励ます様に。

 

「この部屋に入ってきた時、君は暗い目をしていた。

 俺を見た時も、僅かな警戒と捨て鉢な気持ちがあった。

 でも、会話をしていると瞳に色が戻って、確かな君を感じられた。

 君は自分の為ではなくて、他の誰かの為に頑張れる人だ。

 それを知れて、とても良かった」

 

 訥々と、頭を撫でながら私のことについて語る駿我さん。

 私はそれに、感情がごった返しになりながら、されるがままになっていた。

 

 駿我さんを疑ってしまった、自分の節穴さと恥ずかしさ。

 優しくされることで感じる、有り難さと申し訳無さ。

 言葉を返そうとすると、喉に引っかかって言葉が出ない情けなさ。

 色んなものが心に溢れていて、どうすれば良いのか分からなくなる。

 

「君は――頑張ったんだね」

 

 けど、その一言で、私の中で何かが決壊した。

 違うんですと否定したいのに、出てくるのは枯れたと思っていた筈の涙ばかり。

 今日は、ずっと泣いてばかりだ。

 お兄様や奥様の前で泣いて、カリンさんや駿我さんの前でも泣いてしまう。

 情けない私は、そうすることでしか自分の気持ちを形容できない。

 だからせめて、歯を食いしばって色々と堪える。

 こんな風になってしまうのは、駿我さんがお兄さんな空気を持っているからだと言い訳して。

 

 

 

 

 

 泣いていた私を、駿我さんは驚いた様に眺めていて。

 そこにカリンさんが、私と駿我さんの間に割って入った。

 曰く、女の子の泣き顔を見つめる男性は、悪趣味で野蛮だなんて言葉を添えて。

 そうして、カリンさんが私を抱きしめて、泣いてグチャグチャになった顔を隠してくれた。

 

 こればかりは、感謝の念を覚える他にない。

 急に泣き出す無礼を覆い隠して、私の酷い顔も駿我さんから隠してくれて。

 こんな事を考えられるなんて、私も一応女の子だったのだと他人事のように自覚した。

 

「正真正銘の悪人になった気分だ。

 女の子に泣かれるのは、かなり堪える。

 これまでの人生で一番動揺したかも知れない」

 

「もぅ、しわけ、ございません。

 めいわく、掛けたくないって言っているのに、駿我さんに迷惑を掛けてしまって」

 

 カリンさんに渡されたティッシュで涙を拭い、鼻をチンとかんで。

 駿我さんの顔を見ると、やっぱり居心地の悪そうな顔をしていた。

 泣きじゃくった私の顔は、見るに堪えない位に腫れぼったくなっているだろう。

 恥ずかしいという気持ちと、何度も抱いた申し訳無さをまた覚えて。

 ……ただ、少しだけ心が軽くなった感覚があった。

 

「社長、泣いている女子にはハンカチを渡すのがマナーです」

 

「いや、失敬。

 初めてのことで、上手く対処できなかった。

 どうやら俺には、伊達男になる才能は無いみたいだ」

 

 いつも超然としていた衣遠兄様と比べて、駿我さんは感情が垣間見える事が多い。

 同じ成功者としての立場を持っている人でも、気配は結構違ってくる。

 私は最初に感じた第一印象で、お兄様みたいな人だと感じて。

 善意が覆い隠されて見えなくなるくらい、駿我さんを警戒しすぎた。

 その事に、私は深い反省を覚える他なかった。

 

「ご無礼の数々、本当に申し訳ございません。

 そして、その寛容さに救われました。

 ありがとうございます、お優しい駿我さん」

 

「そう言われると、ひどく面映い。

 感情を一定に保つ様に訓練しているんだが、それも難しい。

 だから、朝日さんも俺をあまりおだてないでくれ」

 

「思ったままを、口にしたまでです。

 それで擽ったさを覚えるなら、それが駿我さんの人徳の表れです」

 

 駿我さんの本質を見ずに、気配だけで疑ってしまった。

 そんな浅慮な私だからこそ、今は駿我さんの事を出来るだけ信じていたいと思っている。

 今はそれくらいしか、私に出来ることなんて無いから。

 

「言葉にもないことをと他人なら疑うところだけど、純粋な君の言葉だ。

 俺も、その健気さを信じるよ」

 

 サラリと、駿我さんはそんな事を言ってのけた。

 伊達男の才能はない、なんて言っていたけれど、その言葉だけは嘘つきだと確信する。

 この人こそ、立派な見た目以上に謙遜する人なんだと思う。

 

「……お見合い?」

 

「クロンメリン、それ以上は喋るな」

 

「お見合いだったら、私は化粧に大失敗してしまっていますね」

 

 私なりの冗談だけれど、駿我さんにとってはそうならなかったらしい。

 痛ましそうに私を見て、そうして私に一言伝えた。

 

「こんなところに呼び出しておいて申し訳ないが、君は病院に連れていくべきだった。

 配慮に欠けていた、悪い」

 

「いえ、お気になさらないでください。

 それに、私はお金を持ち合わせていませんので……」

 

 そう伝えると、今まで優しげだった駿我さんの雰囲気が僅かに変わった。

 怒っている訳ではない。

 どちらかというと、りそなが呆れている時のそれに似ている。

 

「そんなもの、子供が気にすること自体が間違っている。

 君自身も、こんな姿で申し訳ないと言っていただろう。

 だったら、まずは腫れている頬に異常がないか確かめに行くべきだ」

 

 キッパリと断言されてしまった言葉に、私は返す言葉もなかった。

 少なくとも、今の私の姿はみっともない事は確かだったから。

 縮こまる私を他所に、駿我さんはキーケースから車の鍵を取り出した。

 

「朝日さん、付いてきてくれ」

 

「……はい」

 

 結局、私はご厚意に甘えることとなった。

 私には、遠慮できるだけの力は無かったから。

 自分一人では何も出来ない、そんな無力さばかりが積もる一日だ。

 

「そう悄気げた顔をしないでくれ。

 顔を腫らして落ち込んでいる君は、傍から見れば俺が暴力を振るったみたいだ」

 

「そ、そんなつもりでは……すみません」

 

「やれやれ、直りそうに無いか。

 クロンメリン、しっかりと朝日さんの世話をしてやってくれ」

 

「了解、都合の良い女で居ます」

 

「……全く、口の減らない奴め」

 

 軽快に会話をするお二人に、少しだけ元気を分けてもらった。

 せめて、頑張って普通を装いたいと思うくらいには。

 

「ラプンツェルというより、シンデレラが正しいんじゃないか」

 

「何か、仰っしゃいましたか?」

 

「いいや、なんでも。

 ……到着、これが俺の車。後ろに乗ってくれ」

 

 見るからに値が張る、黒塗りの高級車が駿我さんの愛車だった。

 おずおずと車に乗り込むと、カリンさんも後に続き、全員の搭乗を確認した駿我さんはキーを廻した。

 地下の駐車場を出た車の車窓は暗くて、でも東京特有の明かりが瞬いている。

 だからか、窓に私の顔が映りやすかった。

 

 これは……酷い。

 よくこんな顔で、人前に出られたものだ。

 駿我さんが病院に連れて行こうとした気持ちも、分かってしまった。

 

「病院に行けば治ります」

 

 カリンさんの言葉に、一つ頷いた。

 せめて、真っ当な状態で駿我さんに感謝の言葉を伝えないと、と思って。

 弱った心に、僅かながらも力が過ぎった。

 

 

 

「そういえば、なんですけど」

 

「はい」

 

「私は、どうして駿我さんのご厚意に預かれたのでしょうか?」

 

 そう尋ねると、カリンさんは目を閉じられた。

 まるで、質問自体をシャットアウトするかの様に。

 

「カリンさん?」

 

「……難儀ですね」

 

「どういう意味でしょうか、それは」

 

 遠くを見るカリンさんの姿に、少し不安になった夜だった。




 駿我さんは舐められるのが嫌いなので、普段だったらカリンさんの軽口のあまり許容しません。
 ただ、朝日を元気付けたい気持ちで、ジョークが分かるよと言ったスタンスを装っています。


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第13話 明日は理想の木になろう


りそな視点回です。



 それは、あの人が居なくなった翌日の事だった。

 母はにこやかに、もう里想奈を脅かすものは居ないのですよ、なんて言う。

 私を傷つけたのは、私の頬を叩いた母だけだというのに。

 

 あれから、私は家から出掛けていなかった。

 正確には、母が常に引っ付いているので、出掛けられないが正しい。

 間違いなく、姉を探しに行くことを警戒している。

 私は母の手の下に置かれて、もう逃れることは出来ない。

 その事実に、私はどうにかなってしまいそうだった。

 

 あの日、携帯越しに聞こえてきた母の声は、姉を口汚く詰っていた。

 それも、乾いた破裂音が何度も聞こえてきて。

 恐らくは、母にビンタをされていた音。

 私は情けなくも、トイレで涙を流して我慢する他になかった。

 どうしてこんな事に、と無力さを呪いながら。

 

 私の望みは、姉と一緒に暮らしていることだけだったのに。

 この1年間、私は姉と過ごしてきた。

 最初に抱いた優しい人という印象は間違って無くて、でも一緒にいる内に別の面も見えてくる。

 

 努力家で、兄に何度も無下にされても腐ること無く努力を続けられるところ。

 気配りが上手で、それでいて時々抜けているところ。

 甘やかしたがりで、それなのに甘えようともしてくるところ。

 人を信じ、疑うことが苦手なところ。

 私や――あの兄を大好きなところ。

 

 趣味や嗜好、表情や気配。

 声や仕草を見ているだけで、心が華やいだ。

 この人は、愛されるべくして生まれてきたのだと思った。

 だからこそ、もう辛い目になんて遭わせたくなかった。

 大変だった分だけ、幸せになって欲しいと心から願っていた。

 ――それを壊したのは、また私の母だった。

 

 兄と契約を持ちかけて、私と姉は何時でも分かたれることはない、と指切りをした。

 確か、嘘ついたら兄の小間使いになる、なんて真っ平な内容。

 御免被ります、と二人で笑い合っていたあの約束。

 それはもう、果たされることはなく破られた。

 私と姉を、遠くへと分け隔てて。

 

 諦めたくなんて無いのに、私には何の力もない。

 母に抗うだけの権力も、一人で生きていくだけの財力も。

 絶望的なほどに、私は無力な子供だった。

 

「姉、早く帰ってきて下さいよ……。

 妹、兄の小間使いは嫌だって言ったじゃないですか……」

 

 引っ付く母から逃げて、自分の部屋に閉じこもって枕に顔を押し付けた。

 こうすると、息をするのが苦しくて、姉と一緒の気分を味わえている気にだけなれるから。

 あの人はどうしているだろうか、考えるだけで苦しくなる。

 

 子供の身で、着の身着のままに放り出された姉。

 普通だったら、警察に保護されるはずだけれど、そうなったらここにはもう帰れない。

 母は感情的だけれど、残酷になった時は恐ろしさを感じる程に計算高いから。

 

 二度と顔を見せるなと、母は電話越しに言っていた。

 あれは慈悲でもなんでもなく、姉に約束を破らせるためのものだ。

 一方的に言い捨てただけとはいえ、母にそんな言い分は通じないだろう。

 警察に捕まった暁には、どこか遠くの、私どころか誰にも見えない場所に隠されてしまう。

 母がそういう事を出来る人だと、私は昨日の一件で理解した。

 

 でも、もし姉が見つからなかったら、それは姉が行方知れずになったということ。

 今の姉に、一人で生きていくなんて出来るはずがない。

 それはつまり……考えただけで怖気が走る結論にたどり着く。

 胃から込み上げてくるものがあり、トイレに駆け込む。

 ゲホゲホと空咳をして、刺激臭のする液体を口から吐き出した。

 昨日から何も食べられなくて、出てきた胃酸の量が少なかったのだけは不幸中の幸いか。

 

「姉……ううん、お姉ちゃん。

 帰ってきて、帰ってきてよぉ」

 

 トイレで、膝を抱えて私は姉を呼んだ。

 母に聞こえない様に、とてもとても小さな声で。

 全てが都合よく片付いた未来を、一人で空想しながら。

 

 ……………………

 ………………

 …………

 ……

 

 何かが鳴っている……これは、携帯の音だ。

 目を億劫に開けると、そこはさっきまでと変わらない自室。

 口を濯いだのに、まだすえた感じの感触が残っている。

 枕に顔を押し付けて、突っ伏して寝たのが悪かったのかも知れない。

 

「誰ですか、私の携帯、に」

 

 言葉を口にした途端、飛び起きていた。

 携帯を手にすると、そこには知らない番号が表示されている。

 元々、私の携帯には、姉と母や兄しか登録されていないのだから。

 当然、私の番号を知っているのも、その3人の内の誰かに限られる。

 そして、わざわざ非通知で掛けてくるのは、携帯を落としたあの人しか居ないのだから!

 通話ボタンを押すなり、私は大声を出しすぎない様に、けれども感情を乗せて訴えていた。

 

「もしもし! 姉、姉なのでしょう!

 今どこに居ますか、すぐに衣遠兄様に手配してもらいます!

 心配しましたが、無事で良かった……」

 

 焦りを覚えながら、私は捲し立てて話していた。

 今まで覚えていた不安を、必死になって掻き出すみたいに。

 高揚で、私は抑えが利かなくなっていたのだ。

 そんな私に、冷水を掛けて窘めたのは携帯から聞こえてきた声の主だった。

 

『残念ながら、俺は君の望んだ姉じゃない。悪いね』

 

 え、と声が出てしまった。

 期待があったから、確信に近いものがあったから。

 それを裏切られた時、落胆よりもポッカリとした無に支配されるのだと初めて知った。

 また、その声を私は知っていた。

 

「上の、従兄弟……」

 

『へぇ、裏ではそう呼ばれていたのか』

 

 どこか楽しげに聞こえる声は、気のせいか楽しんでいる様にも感じた。

 だけど、それ以上に私は訂正しなくてはいけない。

 この人は真星の一家の敵で、兄と同じくらい恐ろしい人なのだから。

 

「も、申し訳ありません。

 知らない番号からの電話が、駿我さんのもので動転してしまいました」

 

『その割には、結構スラスラと話せているけど?』

 

「動転したままだからです!」

 

 何故、私の携帯の番号を知っていたのか。

 何の用件があって、私なんかに電話をしたのか。

 疑問が次々に湧いてきて、それを頭が処理していく。

 

 携帯は誰かが漏らした、もしくは盗み見た。

 何の用件か、これについては分からない。

 分からないけど――少し前の光景が頭を過ぎる。

 それは、晩餐会で姉の事に付いて触れてきた件。

 この時期に、わざわざ電話を掛けてくる辺り、それが可能性として一番高い。

 

 胸が脈打つ感触に任せて、私は心臓が高鳴っている内に話し始めた。

 勢いそのままに、私が話せなくなる前に。

 

「姉の、ことですよね。

 姉を調べていて、だから私の携帯の番号も分かった。

 あの晩餐会の日から、ずっと姉を嗅ぎ回っていたんですね。

 だから、こうして電話を掛けてきた。

 ……何が、望みですか?」

 

 電話越しに、わざとらしい拍手の音が聞こえた。

 私の言ったことが間違って無くて、そして恐らくは姉の行方を知っているのはこの人であると確信できたから。

 

 そうだ、あの晩餐会の時だって、善意だけで話しかけてきたはずがない。

 こういう仕込みをして、いつか使える手札として種を蒔いただけ。

 ただ、それが分かっていても、私はこの人の言葉に耳を傾けるしかない。

 何故なら、現状で姉を救えるのが上の従兄弟の他に居ないのだから。

 

『賢いとは常々思っていたけど、これは想定外だ。

 成程、君はお姉さんの事になると本気になれるのか。

 大蔵の血は愛によって目覚める、なんて眉唾だと思っていたがね』

 

 感心した風に装う上の従兄弟に、私は焦らせられているかの様な感触を与えられる。

 求めているのは姉の居場所と、無事かということ。

 この怖い人と楽しくお喋りなんて、それこそキックバックしてお断りしたいくらいなのだから。

 

「答えて、下さい」

 

 声に緊張が含まれているのは、心臓がとても煩いから。

 上の従兄弟と話していることより、姉の安否を確認できそうなことが何よりの原因だ。

 一片も、他の余分を排斥した私の声に、この人は思ったよりも柔らかな声音で答えた。

 

『君の本気に引き込まれて、言葉を無くしていただけさ。

 その誠実さと勇気に敬意を払い、俺も嘘なく答えよう。

 君の姉、大蔵朝日は俺の庇護下にある』

 

 上の従兄弟の下に、姉がいる。

 その言葉は、私に様々な感情を齎した。

 安堵、不安、心配、焦り。

 姉が無事だったことを喜びつつも、その身柄が敵対している人の手元にあるのがソワソワする。

 そして、恐らくはそれを口実に、私を便利に使おうというのだろう。

 ここまで来て、私はもう後に引くきは無かった。

 姉を助けてくれるなら、私は悪魔と取引だって出来そうな気分だったから。

 

「話を、聞きます」

 

 私の声は、問答無用に震えていた。

 でも、一度発してしまった言葉は、もう引っ込みがつかない。

 後は上の従兄弟に任せるしかない、と私は携帯を握りしめて。

 

『別に、特にないよ』

 

 だから、その告げられた言葉が、何よりも意外だった。

 

「な、ぜ?」

 

『君に出来ることなんて、たかが知れているからさ』

 

 一刀両断、バッサリと私の懸念を上の従兄弟は断ち切った。

 確かに、私は自分の力の無さを何よりも実感していた。

 だからこそ、その言葉には真実味を感じられた。

 だけれども、それだと辻褄が合わない。

 それが気持ち悪くて、私は矢継ぎ早に質問を飛ばしていた。

 

「それなら、私に電話を掛けてきた意味が分かりません。

 利用価値があった、もしくはこれから作れると思った。

 だから電話を掛けたのではないですか?」

 

『さっき君の事を賢いと言ったけれど、それは子供にしてはということさ。

 君は自身の価値を大きく見積もっているようだが、それは傲慢だな。

 精々、使い道と言えば、晩餐会での決議権くらいか』

 

 それも、衣遠に煽られれば吹き飛ぶ風見鶏みたいなものだが、と上の従兄弟は付け加えた。

 誂い交じりの言い方で、それが神経に障る。

 姉に関しては、私は間違いなく本気だから。

 

「確かに、衣遠兄様は恐ろしいです。

 脅されれば、私は意見を翻すかも知れません。

 ですが、私は姉と一緒に居ると約束しました。

 その約束さえ守れないなら、せめて姉のために出来ることを一つでもやりたいんです!」

 

 必死だった。

 訴えて、どうにかして私が姉に関われる場所を作ろうとする。

 ただ、返ってきたものは、私が求めていたものではなくて……。

 

『駄目だな、姉の一声で意見が裏返る。

 そんな君を用いるのは、リスクが高い』

 

 にべもなく、私の意見は退けられた。

 この人の言う通り、私は姉の存在自体で意見を翻す可能性がある。

 上の従兄弟が、姉をずっと庇ってくれるとは思っていないから。

 

 言葉を詰まらせる私に、上の従兄弟の声は段々と色が落ちてゆく。

 優しげだった声は、どこか無味乾燥のそれになっていた。

 

『自分が無力だと知れ、里想奈さん。

 君に出来ることなど、何もない。

 君は君の姉に関われない、俺が彼女の生殺与奪を握っている』

 

 淡々とした、私が知っている怖い人物の筆頭その人だった。

 今回の会話だけで、私でも交渉ができると僅かでも思ったのが、そもそもの間違い。

 私とこの人では、交渉にならない程の差が存在する。

 

「私は、どうすれ、ば……」

 

 絶望感を覚えながら振り絞った声は、とても情けないことこの上なかった。

 それでも思考を巡らせるのは、諦めるわけには行かないから。

 姉は私の中で、唯一信頼できる家族なのだから。

 

『今はただ、朝日さんが俺の手の中にあることだけを知っていれば良い。

 それを衣遠に言うも、秘めたまま俺への交渉材料にするも君次第だ』

 

 悪魔と言うには、底意地が悪い物言いだった。

 悪魔だって、契約する相手には都合よく優しくしてくれるものだから。

 それすら許してくれないこの人は、私にとって理不尽そのもの。

 胸につっかえが刺さったままの様な気持ちで、私はそれでも、と言葉を絞り出した。

 

「姉の安全を保障して下さい。

 お願いします、私には貴方の寛大さに掛けるしかないんです」

 

 私に出来るのは、既に慈悲を乞う以外に無かった。

 それは手段でもなんでもない、恥も外聞も捨てた五体投地。

 何の効果も無いことを理解しつつ、こうするしか私には術が残ってないのだから。

 

 その滑稽さ故か、あまりの情けなさからか。

 電話の向こうの人は、溜息を露骨に吐いてから一つの口約束をしてくれた。

 

『……分かった、安全は約束しよう。

 ――大蔵である君を否定して、残ったものは姉への想いのみ、か』

 

 どこか、感慨深そうな声を出して。

 電話越しでも感じていた威圧感のようなものが、スルスルと解けていった感じがした。

 ヘナヘナと、腰をベッドに下ろしてしまったのは、もう気力が残っていないからだ。

 

『実はね、俺は君を応援していた。

 君の想いを知った今は、その幸福を願っていると言っても良い』

 

 上の従兄弟は、今まで与えていたプレッシャーを忘れたかのように話しだした。

 聞いてもいない、私をどう見ていたかということを。

 ただ、私はそれに返事をする元気もなく、ただ耳を傾けている。

 

『ただ、君の母上はあの金子殿だ。

 君は血の繋がりがあの人とある以上、どんなに母を敬遠してもその軛から逃れられない。

 俺が、俺の父から逃れられないようにね』

 

 冗談めかして、でも真実であろうこと。

 私だけでなく、この人も大蔵の血に思うところがある。

 だから、私にこんな話をする。

 乱暴なやり方には言いたいこともあったけど、小さな共感がそれを流させる。

 家も親も選べない、それは裕福でも変わらないのだと実感したから。

 

『親に囚われている君を、残念だが朝日さんには会わせられない。

 君達がどれほど望んでも、世界は君達二人で閉じていないからね。

 より残酷な現実が、二人を過酷な道へと突き落とす。

 大人の理屈だけど、それをむざむざ座して見ているのは悪趣味極まる。

 悪いけど、そういう理由で兄弟姉妹である君達を俺が別つ』

 

 口調は穏やかに、けれども恨めと意図を込めて言う。

 そんな我儘、私が言える立場でもないのに。

 また私を試しているのか、それとも本当に善意だけで言っているのか。

 この人の本心は、電話越しでも、きっと対面していたって分からない。

 でも、そんな事はどうでもいい。

 上の従兄弟のことなんて、知りたいと思っていないのだから。

 私がこの人に興味を抱いているのは、たった一つだけ。

 

「姉と出会うには、私は何をすれば良いのでしょうか?」

 

 この人は、私と姉を会わせられないと言った。

 けれど、永遠の別れになるとは言っていない。

 手段があって、目的があるなら、私だって頑張れる。

 本当は努力なんて嫌だし苦しいけど、今だけはそう思い込んだ。

 

『うん、駄々をこねて求めるだけより、ずっと好ましい』

 

 上の従兄弟は思っていたよりもお喋りだった。

 晩餐会での端的な物言いは、今に限って言えば冗長とさえ言える。

 そんな私の不満を感じたのか、僅かな苦笑が電話越しに聞こえた。

 

『それで、君達を会わせられる条件だったね。

 答えは、至って端的だ。

 ……強く、なるしか無い。

 君が、親に向かって言い返せるくらい。

 少なくとも、君と関わるだけで朝日さんが害されることが無いように』

 

 単純で、それ故に難しい。

 この人は、私に自立を促しているのだから。

 私は、まだまだ文字通りの子供でしかない。

 だからこそ、その先行きは途方もなく感じる。

 暗雲が立ち込めて、先を想像するだけで徒労感を感じそうだ。

 でも、それでもと、私は気持ちを確かめた。

 

 姉と再会できて、幸せだったことを。

 姉との交流で、世界が広がったことを。

 姉と分断されて、心が引き裂かれそうだったことを。

 

 姉が居た1年、これまで生きてきた時間に匹敵するくらい、幸せと楽しさに満ちていた。

 それをくれたのは、間違いなくあの人だから。

 私は、もう既に施しようも無いくらいにシスコンにされてしまっていたと自覚する。

 

 だったら、頑張れると自分に言い聞かせる。

 今、私の持っている武器はシスコン魂だけなのだから!

 

「ありがとう、ございます。

 姉の無事を知らせてくれたことも、ありがとうございます。

 お陰で、少し安心できました」

 

『どういたしまして。

 大人の気遣いが子供に見破られるようでは、俺も未熟だな』

 

「手段が大人気なかったから、そっちを反省して下さい」

 

 違いない! と思ったよりも爽やかな笑い声を残して、その通話は終わった。

 私は、そのままベッドに倒れ込んだ。

 もう、この人と電話をするのは懲りごりだと思いながら。

 

 ただ、倦怠感の様に纏わり付いていた無力であるという気持ちは晴れていた。

 やるべきこと、やりたいこと、それらが決まったから。

 なので、今だけはこの脱力感に身を任せる。

 明日から、この妹は頑張らないといけないので。

 

「明日から本気出す……なんか駄目なフラグみたいですね」

 

 もっと、良い標語がないかと考えてみる。

 グチャグチャとした頭の中を、解すみたいに。

 そして一つ、思いついた。

 

「なろうなろう理想になろう、明日は理想の木になろう」

 

 これだ、と理性よりも感情が訴えた。

 少なくとも、負けフラグは立っていない。

 

「姉、待っていてくださいね。

 妹は理想の木になりますから」

 

 目を閉じて、そのまま姉を空想した。

 今日はこのまま寝たら、きっと良い夢見だろうなと思いながら。

 




次回で、第1章完! となぐり書きのプロット書いてありました。


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第14話 次はどんな夢を見たい?


読者の皆様のお陰で、何とか第一章(この話まで)が終われました。
この小説自体はまだまだ続きますが、邪神エターナルに魅入られずに済みそうなので、この場で感謝の念を伝えさせてください(七五三を終えた親並みの感想)。


 あれから、数日が経った。

 腫れていた頬の赤みが引き、バッサリと斜め切りになっていた髪はショートにまで切り揃えられた。

 病院に行った後、消毒されてガーゼ塗れになっていたのともこれでお別れ。

 消毒液のにおいがしないのが、何だか不思議な気分にも感じる。

 

「治って良かったよ、痛々しかったからね」

 

 私の顔を見た駿我さんは、一安心と言った顔をしていた。

 それだけ、初めに見た時の私の顔は、人様に見せ難いものだったのだろう。

 人並みの顔に戻れたことに、安堵の気持ちを隠せない。

 

「お陰様で、すっかり元通りです。

 ありがとうございます、お優しい駿我さん」

 

 感謝の気持ちを込めて、頭を下げる。

 人並みの容姿に戻して下さり、衣食住を提供して下さったのも、全て駿我さんの手による物だから。

 私は、ただひたすらに駿我さんにご恩を頂いていた。

 返す見通しもないのに、嫌な顔一つしないで。

 だからこそ、そろそろ尋ねないといけない。

 あの日の夜に、はぐらかされたことを。

 

「駿我さん、一つ質問を許して頂けますでしょうか?」

 

 そう尋ねると、勿論と鷹揚に駿我さんは頷かれた。

 何を聞かれても、隠すことなんて無いと言わんばかりに。

 なので、私も遠慮なく質問をする。

 未だに、どうしてと考えてしまうから。

 

「駿我さんは、どういった縁で私を保護して下さったのでしょうか?」

 

 それは、ここ数日慌ただしくて聞けなかったこと。

 最初は、大蔵家へ政略を仕掛ける為に保護されたのだと思った。

 けれど、それは誤解で、駿我さんは明確にそれを否定した。

 子供が一人、夜の東京を彷徨うことを座視できなかったと言って。

 それに対して、善意を疑った私は恥じ入ったが、根本的な部分での疑問は解けていない。

 なら駿我さんは、縁もゆかりも無い子供に対して、どうしてここまでしてくれるのだろうと。

 

 駿我さんの目を、真っ直ぐ見る。

 怜悧な瞳をしているけど、そこに優しさが宿っていることを私は知っていた。

 だから、怯えること無く見つめることが出来る。

 そんな私の不躾な視線を、駿我さんは擽ったそうに受けていた。

 そうして駿我さんは、優しい声音で、表情で、私が考えていなかった答えを提示した。

 

「――里想奈さんだよ」

 

 胸が、キュっと締まる感覚がした。

 私と一番交流して、心から家族と認めてくれた優しい妹の名前。

 私がもう、関わることが許されなくなった大好きな家族。

 そんな彼女は、分かたれても未だ私を守ってくれているのだと感じたから。

 

「お知り合い、だったのですか?」

 

「あぁ、そうだよ。

 パーティーみたいな場所でね、何度か話もしたことがある。

 よく怯えられたけど、姉の話をする時は声が大きくなる子だった。

 驚く程に仲が良いのだと、羨ましく思ったほどだ。

 そんな彼女に、君を頼むと託された」

 

 だから助けた、と微笑みながら駿我さんは言う。

 里想奈さんのお姉さんという理由でね、と付け加えて。

 

 胸に、込み上げてくる感覚があった。

 溢れんばかりのそれは、愛おしいという気持ち。

 未だに、りそなは見捨てずに私を想ってくれている。

 本能的に、りそなを抱き締めたくなるけれど、それが出来ない。

 切ないという感覚を切実に覚えたのは、今が初めてかも知れない。

 ――私は、やはり妹に貰ってばかりだ。

 

「君が感じたその暖かさこそが、俺が助けたいと思った理由だよ」

 

 納得できたかな? という声に私は声なく頷いた。

 いま、言葉を紡ごうとすると、みっともない私が出てきそうだったから。

 

「別に、我慢しなくても良いよ。

 目を潤ませて、必死に耐えなくても良いんだ」

 

 駿我さんの言葉に、頭を振って踏み留まる。

 りそながここまでしてくれているのに、私が弱いままでいたくない。

 あの子の姉なのだから、それに見合うだけの立派さを備えていたい。

 その一心だけで、目をギュッと瞑った。

 零れそうなものを閉じ込めて、次には笑っていたかったから。

 

「やれやれ、今日はハンカチを用意してきたのだけどね」

 

「あ、りがとうご、ざいます。

 それでも、今日は大丈夫ですっ。

 本当に、本当にありがとうございます、お優しい駿我さん」

 

 そして、本当にありがとう、大好きなりそな。

 心から、愛を伝えさせて。

 りそなの想いが、どうにか私を繋ぎ止めてくれた。

 もう会えないけれど、りそなを思って暮らすことだけは許してね。

 

 涙は流れなかった。

 正確に言うと、目頭が熱くて濡れている感触があったけれど。

 それでも、頬を濡らすことはなかった。

 

「里想奈さんから聞いていたけど、君も妹を想っているんだね」

 

「はい、想っていますし、愛しています」

 

 正直に答えると、駿我さんは虚を突かれた顔をし、言葉を詰まらせていた。

 そうして、どうにか捻り出したのは深い溜息。

 間違いない、間違い様がない、という小さな声が何とか聞こえた。

 

「面と向かって、馬鹿正直に告げられるのは中々に堪えたな。

 君達には、俺も人の子だったと思い出させられる。

 信じられないものを信じたくなるな、全く」

 

 駿我さんの大仰だけれども、真に迫った声音。

 その言葉にどういう意味があるのか、私には分からない。

 信じられないもの、というのは前後の話しからすると誰かとの絆のことか。

 だとすれば、りそなと私の仲を気にしてくれているのも分かる。

 けれど、そうであるなら、駿我さんは味方が居ないということになる。

 もしそうなら……それは、寂しいなと思ってしまった。

 

「駿我さんなら、きっと大丈夫です」

 

 でも、そんな事を私が言うのは僭越で、代わりの言葉が口から出ていた。

 貴方なら大丈夫、言うは易しな言葉。

 ただ、駿我さん程に優しくて、余裕があるならどうにか成ると思ったのも確かなこと。

 正しい大人として行動してくれた駿我さんの事を、私は信頼しているから。

 

「君が思っている程、俺は善人でも無いんだけどな」

 

「私が知っているのは、親切で情に厚い駿我さんだけですので」

 

 良く、自分は善人でないと駿我さんは口にする。

 会社を経営し、他社と競争をしているという点で、それも駿我さんの一面であるのかも知れない。

 泊まっていたホテルも、持っている車も、連れて行ってくれた病院も全てが一流だった。

 なので、駿我さんの会社が大企業であるということも理解できる。

 自分の企業を大きくするために、多くの会社と競合して勝利してきたという自覚があるのだとも思う。

 その過程で、恨まれる事もあったのだとも。

 

 でも、それでも行き先に困っていた私を助けてくれたのは駿我さん一人で。

 困っていた私に手を差し伸べてくれたのは、この人だけだった。

 だからこそ、私はこの人の事を良い人だと言い続けたい。

 少なくとも、私はその厚意に救われていたから。

 

「そんな事を言ってくれるのは君と……俺の弟くらいなものさ」

 

 私の批評する様な生意気な言葉も、この人は優しく受け止めてくれる。

 喜んでいるようにも見えるのは、私の願望が入り混じっているのか。

 でも、さっきの言葉の中に、私を助けてくださった理由の一端も垣間見えた。

 

「弟さんがいらっしゃったのですね」

 

「あぁ、不出来ではあるが、陽気で優しい奴さ」

 

 駿我さんの柔らかな表情に、更に微笑みが混じった。

 それだけで、この人は弟さんの事が好きなのだと察せられる。

 信じられる人が居ない、という私の仮定は早々に崩れ去った。

 でも、それで良かったと心より思える。

 

「兄弟は……やはり仲良しが一番ですから」

 

「きょうだい、か」

 

 しみじみと呟いた言葉に、駿我さんも反芻する様に言葉にして。

 ぼんやりとした声音に、駿我さんの複雑な気持ちが垣間見えた。

 もしかすると、私と同様に何か事情があるのかも知れない。

 

「そう言えば、なんだが」

 

 そんな胸の内を隠す様に、駿我さんは表情を心に仕舞う。

 ただ、言葉の軽さは先程と変わらなくて。

 極々自然に、先程の話題を続けてこられた。

 

「君には、確か衣遠というお兄さんが居たね。

 彼とも、仲は良かったのかい?」

 

 里想奈さんは、君と彼とでは話す時の態度が違ってね、と駿我さんは言って。

 ハッキリと、目が合っているのを自覚する程に、マジマジと私の目を見つめてきていた。

 それは、初めて会った時の探る視線にも似ていた。

 

「衣遠兄様は……私の先生でした」

 

 けれども、私の口はスムーズに動く。

 迷うこと無く、隠すこと無く。

 駿我さんを信頼していて、お兄様の事で隠し立てする事実なんて、何一つ存在しなかったから。

 

「先生?」

 

「はい、お兄様は私に様々な事を教えて下さりました」

 

 そう、本当に色々なこと。

 この世界の広さから始まり、家族との交流に様々な技術。

 一般の方に羨まれて然るべき程に、多種多様な事を教授してもらった。

 それも、黄金よりも貴重な、お忙しい衣遠兄様自身の時間を使って。

 他にも家庭教師の先生が来ることもあったけれど、一番顔を見せてくれたのは衣遠兄様だった。

 

「出来ることの楽しさ。

 誰かの力になるという遣り甲斐。

 自発的にしたいことを探せる、そんな気持ち。

 お兄様が与えて下さったものは、私に取って掛け替えの無いものばかりでした」

 

 胸に手を当てて、あの日々を思い出す。

 真剣に私の服飾を見て下さったお兄様の、苛立たしげな顔を。

 時に無表情で、稀に呆れ顔だったお兄様。

 そんなお兄様を、私の作品で綻んだ表情に変えたかった。

 私の作品を褒めて欲しくて、一生懸命に取り組んだ。

 ……それを為す前に、私はもうお兄様と断絶されてしまったけれど。

 

 あの日、最後に別れた時のお兄様の表情。

 信じられない様な、傷ついた様な顔。

 引き止めて下さったお兄様の言葉よりも、奥様の言い分に従った。

 それが間違っていたとは思わない。

 お兄様と奥様が相争う事になるのは、冗談では済まない損害が残るだろうから。

 

 それでも、もしもを空想してしまう。

 あの時、私がお兄様に縋っていたら、お兄様は私の為に戦ってくれたのだろうか、と。

 酷く利己的で、未練がましい妄想。

 けれど、お兄様の切実な声も、必死な表情も、私への気持ちを感じさせてくれたものだから。

 お兄様やりそなと、ずっと居られた方法を考えて、夜にあの日の事を繰り返し思い起こしてしまう。

 私は、あの時にお兄様の手を握っても良かったのですか、と。

 

「……あの大蔵衣遠が、ね。

 遣り手で多才な人物だが、冷酷で苛烈とも聞く。

 本当に彼は、君の前で正しい人間だったのかい?」

 

 駿我さんの言葉には、戸惑いの中に疑いがあった。

 もしかすると、お兄様と出会ったことがあるのかも知れない。

 お兄様は自信を内から溢れ出させて、心をその中に隠されてしまう。

 だから一目お兄様を見ると、この人は怖くておっかない人だと思ってしまう。

 けれど、それだけではないのを、私は知っていた。

 

「お兄様は情熱の人です。

 筆や糸に気持ちを乗せて、どこまでも人を魅了してしまいます。

 私は、そんな人に直々に教えを頂きました。

 確かに、怒らせてばかりで褒められたことは終ぞ無かったです。

 それでも、見捨てずに私に時間を割いてくれて、どこが凡庸なのかを端的に教えて下さいました。

 私にとってそれは標で、どこまでも進んでいきたいと思わせてくれました。

 だったら、それは私にとって正しい事だったのだと思います」

 

 自信を持って、それだけは譲れないとハッキリ言う。

 お兄様との時間は掛け替えがなくて、あの時の私は多くの物を手にしていた。

 あの時間だけは、私はお兄様と家族であると、そう思えていた時間でもあったから。

 

「……分かった、俺が人間であるのと一緒で、彼も人間だったということだろう。

 それに、大切な家族の事で何か言われたら、気分が悪いのは確かだろうな。

 こちらの配慮不足だった、済まない」

 

「いえ、駿我さんにも、何か事情があると思いますので……」

 

 直ぐに、駿我さんは頭を下げた。

 私がお兄様のことを悪く言われるのが嫌だと、話していて察したからだと思う。

 駿我さんはそれ以上を追求せずに、ここでお兄様の話題を止めた。

 もしかすると、かつてお兄様にビジネスで争っていた仲なのかもしれない。

 だからこそ、イメージが先行してああ言う物言いになった。

 そんな憶測を並べて、それが事実なら駿我さんも探られたくないだろうと尋ねることが憚られた。

 何とも言えない、駿我さんの困った顔が後に残っていた。

 

 

「ところで、朝日さん」

 

 それから、少しして。

 さっきの空気を引きずらず、歓談交じりに他愛のない会話が続いていた中で、駿我さんが一つのことを切り出した。

 それは、私がこれからどうするのかということ。

 

「学校に行ってみないか?」

 

「学校、ですか?」

 

「そう、小学校」

 

 駿我さんの提案に、私は少し戸惑ってしまった。

 何故ならば、既に小学生の学習範囲は全て履修済みだったから。

 

「教育に恵まれたこともあり、既に中等科に取り組んでおります」

 

「へぇ、流石と言えば良いのか。

 大蔵なら、これくらいは朝飯前とも言えるかも知れないが」

 

 私を褒めつつも、けどねと駿我さんは続ける。

 学校に行く意味は、それこそ複合的なものだと。

 

「確かに、君の成績面を見ると、小学校に行く事への意味は見いだせないだろう。

 でも、その他にも学ぶべきところは存在する。

 学校というものはね、一定の規格にフォーマットを合わせるためにあるものなんだ。

 君には、周りの人間のレベルと、付き合い方を学んでみて欲しい」

 

 無理強いはしないけどね、と駿我さんは言って判断を任せて下さった。

 少し、考える。

 私のこれから、何をしたいのかを。

 

 私はこの前まで、将来的にお兄様やりそなの役に立ちたいと思い、そのために様々な学習に取り組んできた。

 でも、今はそれを許されない立場になって、私にはやりたいことの芯が無くなってしまった。

 その事実に気がついて、いい得も知れない不安がやって来た。

 したいことができなくなって、どうしたいかも分からない。

 どうしようか、と自分に問いかけても答えは無音で帰ってこない。

 そんな私の動揺を見抜いてか、駿我さんは優しく言った。

 

「君は目的を見失って、したいことが分からなくなってしまった。

 それ自体は仕方ない、急にそうなったら俺だって動揺する。

 むしろ、子供がそこまで考えてやってきたことが相当なことなんだ。

 でもね、だからこそ君は学校に行ってみて欲しい。

 周りの子供を見て、自分が相応に生きていく方法を見つけて欲しい

 君は優秀すぎた故に、あまり甘やかされなかったみたいだしね」

 

 そんな一言を添えて、駿我さんはどうする? と再び尋ねられて。

 それに私は、答えを直ぐに返せなかった。

 本当に、そんな事をしていて良いのか? と思ってしまったから。

 

 今まで様々なことを学んできて、今でも独り立ちするのに様々な事を吸収した方が良いと思っている。

 だからこそ、寄り道をする余裕があるのか、駿我さんの言葉でも逡巡してしまった。

 そんな私に、駿我さんはもう一言を添えられた。

 一つ言おうと、と優しい声で前置きをして。

 

「子供が必死になって、苦しみの中に居ようとしなくていい。

 健全に、同年代の友達と遊んだりして良いんだ。

 不自由の中で、楽しさを見出してみて欲しい」

 

 その言葉を前に、私は心が揺れ動いた。

 駿我さんの勧めということもあるけれど、それ以上に同世代の友達というフレーズに心が惹かれた。

 思えば、私が交流があった人達に、私に近い年齢の人は修道院の人達とりそなだけだったから。

 

 恐る恐る、私は頷いて。

 駿我さんの顔を見ると、楽しげに私を見ていた。

 戸惑っている私を見て、少し楽しんでいるようにも見える。

 ちょっと、駿我さんの意地悪な顔が垣間見えた気がした。

 

「やりたいことを探すモラトリアムさ、これは。

 勿論、小学校の学習以外の事にも取り組んで良い。

 自身が望むなら、やったって良いんだ」

 

 言葉を探す様に、駿我さんは言葉を少し止めて。

 吟味する様に、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「君は、常に周りに精一杯を望まれ続けてきた。

 でも俺は、君に人並みも体験して欲しかったみたいだ。

 エゴ丸出しな俺の我儘を聞いてくれてありがとう」

 

 どこまでも、自虐と優しさに溢れた人だった。

 でも、私が会った人の中で、マザーと同じくらい大人だとも思う。

 かなり若い人で、その人とマザーを並べるのも不可思議な感じだけれど。

 でも、凄く安心できそうな人だと、駿我さんに対しても感じたから。

 

「こちらこそ、ありがとうございます。

 返せない御恩の重さに、不安になってしまうばかりです」

 

「子供の使う言葉じゃないな、それも。

 でも、朝日さんのその生真面目さを俺は気に入っているらしい」

 

「駿我さんの大人気に、私も救われています。

 その……失礼ですが、本当に見た目通りの年齢でしょうか?」

 

「思っていたより、中々に失礼な質問だった。

 だけれど、残念ながら見た目通りの年齢だよ。

 サバを読む程、切羽詰まってはいないからね」

 

 私達はお互いの顔を見て、声を出さずに笑い合った。

 こうして話していて、徐々に気安さが形成されていくのを実感する。

 対等な立場ではないけれど、駿我さんは私にそれを許してくれる。

 それが、私は図々しいながらも、嬉しくて堪らなかった。

 人恋しさが、私を無礼にも駿我さんに甘えさせていたのだと思う。

 

「ありがとうございます、お優しい駿我さん」

 

「どういたしまして、がんばり屋の朝日さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、数日後。

 私は東京から離れて、奥様の目の届かない滋賀の学校に通うことになっていた。

 それも、駿我さんが知り合いのご家庭に私をホームステイをさせてくれる形で。

 曰く、ずっと一緒に居てあげられないが、一人暮らしもさせたくなかったから。

 何から何まで、気配りと手が届く人。

 

 それに、擽ったいけれど、私にとってあの人は何時の間にか身内になっていた。

 少なくとも、名目上は。

 家族の代わりにしていいと、過分な言葉まで掛けてくれた。

 何が彼を、そこまでさせるのか分からない。

 でも、間違いなく、今の私にとっての心強い味方だった。

 

「はじめまして、小倉朝日と申します」

 

 初めて通う学校、転校初日の日。

 私は駿我さんに、新たな名を授かっていた。

 大蔵という名は、災禍を様々に呼び込むからと言う理由で。

 

 私はありきたりな自己紹介をして、仲良くしてやれよと言う担任の言葉と共に席へと案内される。

 隣には見知った顔の、髪が男並みに短い女の子の姿。

 ホームステイ先の家の子で、パワフルだけれど面倒見の良い子だった。

 

「朝日、今日からよろしくな!」

 

「うん、湊こそよろしくね」

 

 

 今日から始まる新生活、駿我さんは言っていた。

 この期間を、モラトリアムにしなさいと。

 やりたいことを探しなさいと、人付き合いを学びなさいと。

 それに対して自信がなかったけれど、人付き合いは見つけられそうだと思った。

 少なくとも、私は隣の席に元気と勇気を分けてもらっていたから。

 

「やる気マンゴスチンです!」

 

「お? 好きな食べ物かい?

 だったら、私も! やる気丁稚羊羹だぁ!」





次からは幕間、滋賀編になります。
これからもよろしくお願い致します!
……ところで、章分けってした方が良いでしょうか?


おまけ

駿我さんのこれまでの行動

・部下に少女を監視させる
・偽名(小倉)を名乗る
・手順前後に物事を話す
 事実→朝日を保護してからりそなに連絡し事後承諾を得た
 朝日へ伝えた時→りそなに言われたから朝日を助けた
・柳ケ瀬家を札束で殴り、後ろ盾になることを約束して偽名の少女の世話を命じる


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第1.5章 私たちに翼はない Prelude
第15話 柳ヶ瀬さん家の湊くん


滋賀編開始です。


 駿我さん曰く、ビジネスパートナー。

 それが柳ヶ瀬家との関係だと言っていた。

 でも、もしかすると対等の関係ではないのかも知れない。

 滋賀に訪れた初日、迎えに来て下さった柳ヶ瀬のご主人は私を送ってくれたカリンさんに深々と頭を下げていたから。

 駿我さんの会社が、一体どんな企業なのかは分からない。

 結局、内緒と面白がっている顔で秘匿されてしまった。

 

 けれど、柳ヶ瀬のご主人は、私に対してはフランクな態度を取って下さった。

 おじさんとでも呼んでくれ、とはご本人の弁。

 お陰で、新しい生活に対してドキドキはしても、不安を覚えずに要られた。

 そうして、おじさん(柳ヶ瀬のご主人のこと)に案内されたのは、彼の持つ一軒家。

 極々普通の、一般的な住宅といって差し支えない。

 

「おーい、帰ったぞー。

 今日は一人、連れて帰ってきたのが居るーっ」

 

 扉を開けて、おじさんは大きな声を出した。

 ちょっと恥ずかしかったけれど、この家庭ではこれが一般的なのかも知れない。

 そうして、おじさんの声に反応して、ザワザワと家の中から声が聞こえた。

 中でも、一等大きな声を上げ返したのは子供の溌剌とした大声。

 

「こらー、ムサシ!

 今度は何を拾ってきたぁ!

 ブラックバスはもう要らないぞ!」

 

 続いて、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえた。

 バンッと、玄関へと続く家の扉が開いて、中から現れたのは凛々しい感じの男の子。

 ”朝日ちゃんはお淑やかだね、うちのはじゃじゃ馬でねぇ”とおじさんが言っていたのはここだけの秘密。

 その子は私を見ると、目を真ん丸に大きくして、次に三角に目を吊り上げた。

 

「……ゆーかいか?」

 

「ん? これから愉快になるってか?

 新しい家族になる娘だ、湊も優しくしてやってくれ」

 

「隠し子かぁ!」

 

「ンゴボァッ!?」

 

 おじさんの顎に、見事に決まったアッパーカット。

 渾身の一撃、おじさんは驚いたことに白目を剥いている。

 一方で打ち込みを見せた男の子は、拳を労るように息を吹きかけていた。

 そのあまりのスピード感に、呆然と私はそれを眺めて……いやっ、誤解を解かないといけない!

 

「待ってください!

 私はホームステイに来た、おお……小倉朝日というものです。

 柳ヶ瀬のご主人の隠し子ではありません!」

 

 慌ただしく説明すると、男の子は怪訝そうな顔をした。

 私の顔と、床に突っ伏しているおじさんを交互に見て、おじさんの頬をペシペシと叩いた。

 返事の代わりに、ビクンビクンとおじさんが跳ねる。

 駄目だこりゃ、と呟いた男の子は次に私の方へと視線を向けた。

 

 爛々としている琥珀色の瞳、そこに零れそうな程の気力が宿っていた。

 さっきの光景も含めて、凄く元気そうな子。

 それが私のこの子への第一感。

 その彼の表情は、困惑と怪訝さが混ざったもの担っていた。

 

「コクラアサヒ、日本人なのにホームステイ?」

 

「諸事情あって、お家が無くなってしまいまして……」

 

 大蔵のことを吹聴するのは止めた方がいいと、駿我さんは仰っていた。

 だからこそ、小倉の名前も与えてもらったのだ。

 ただ、その事情を説明するカバーストーリーを、私は未だに持っていなかった。

 なので、この場で困った顔をするしか無くて。

 ――私と彼は、ジッとお互いを見つめ合った。

 

 ………………

 …………

 ……

 

「しょーがない、ならばこの柳ヶ瀬湊が面倒を見てやろう!」

 

 何かを察してくれたのか、それとも哀れんでくれたのか。

 この子の……湊さんの顔が、ニシシと年相応の笑顔へと変わって。

 胸にドンッと手を当てて、任せろと伝えてくる。

 その姿に、温かい気持ちがふわりと湧いた。

 この人は、ヤンチャだけれど優しいんだと、キチンと理解できたから。

 

「よろしくお願いします、湊さん」

 

「さんだなんて堅苦しい。

 湊で良いよ、私も朝日って呼ぶから。

 それと、敬語も禁止!」

 

 おじさん同様、フランクに手を差し出してくる湊。

 それに対して、私はちょっと気恥ずかしいながらもその手を握り返す。

 初めての男の子の友達、何だか不思議な気分。

 

「その、よろしく、湊っ」

 

「あいよー」

 

 ――握手をした手は、思っていたよりも柔らかいものだった。

 

 

 

「ところでおじさんは……」

 

「ほっとけば? 勝手に目覚ますよ」

 

「せやね」

 

 駄目だと思うと言おうとしたところで、本当におじさんが目を覚ました。

 それに、普通に会話に交ざってきてもいる。

 おかしい、私の想像していた普通とは何かが違う気がする。

 

「ね、言ったっしょ?」

 

 その言葉に、私はおじさんをマジマジと見ながら頷いた。

 ……うーん、やっぱり何かがおかしいような?

 

 

 

 その後、柳ヶ瀬家に私は家族総出で歓迎された。

 湊の妹二人は、私のことをお姉ちゃんと呼んでくれて、柳ヶ瀬の奥様もおばさんと呼んで、とこの家特有の親しみを持って接してくれる。

 夕飯には、みんなでちゃぶ台を囲んで、すき焼きを用意してくれた。

 こんなに賑やかな食卓は初めてだから、目まぐるしくて目が回ってしまいそうだ。

 

「それよりさぁ、ムサシぃ。

 住む人増えるなら事前に言えよな、全く。

 お陰で、朝日の前で馬鹿やっちゃったよ」

 

「元から頭良くないだろうに、お前は、っと。

 こら、父ちゃんの頭を叩こうとするな!」

 

「馬鹿呼ばわりされたから、馬鹿で居てあげようと思う子供心があった。反省も後悔もしてない」

 

「あーあー、悪かった許してくれ。

 ね、朝日ちゃん、こいつ手癖が悪いから気をつけなよ」

 

「私の愛の鞭はムサシ専用だから、安心しろよな!」

 

 親の心子知らずだなぁ、とおじさんが呟く。

 湊も、子供の心親知らずだから同類だい! と即座に反応していた。

 その様子を下の妹達が囃し立てて、おばさんが騒ぎ過ぎと注意する。

 何となくだけれど、駿我さんの言っていた普通の人達とはこういうものなんじゃないか、と想像する。

 実際に見たこと無いけれど、こうだったら毎日が楽しくて寂しくないと思ったから。

 駿我さんの人並みという言葉は、こういう時に使うのかも知れない。

 

「朝日、お肉は取り合いだかんね。

 幾ら朝日の歓迎会と言っても、譲る気は微塵もないよ」

 

「お野菜も美味しいから、大丈夫だよ」

 

「むー、女ならたたかえー!」

 

「男の子的だ……」

 

「滋賀のジャイアン、ガキ大将とはこの私のことだい!」

 

「もう、全くこの子は……誰に似たのかしら」

 

「お前の若い頃じゃないかい?」

 

「……何か言ったかしら?」

 

「ほらやっぱり!」

 

 驚く程の賑やかさ、静かなことが多かった食卓とは別の世界。

 声が聞こえるだけで、世界に色が広がっているように感じる。

 りそなだったら、煩いと顔を顰めそうだけれど、私はこれが嫌じゃなかった。

 むしろ、安心できそうな感じまでする。

 

「むぅ、張り合いないなぁ。

 ほら、野菜ばっかじゃなくて肉食いな」

 

 湊が、自分で取った肉を私のお皿によそってくれる。

 あれだけ取り合いだと言っていたのに、忘れたと言わんばかりに。

 あれはもしかしたら、競って遊ぼうというニュアンスだったのかも知れない。

 

「面倒見良いんだ」

 

「ガキ大将だかんねー」

 

 

 

 ご飯の後には、お風呂が待っている。

 海外ではシャワーが殆どで、それはマンチェスターのお屋敷でも修道院でも変わらなかった。

 けれど、日本の一軒家にはお風呂が普及している!

 これはとても素敵なことだと、私的に伝えたい。

 それは、私がお風呂好きだから。

 海外では湯船について、“大したものじゃない”“シャワーで十分”などと言われている。

 効率重視の人達だからこその観点だけれど、いつか私はお風呂の良さを伝えたかった。

 ……例えば、ヨーロッパに居る友人達に。

 

 そうして私は現在、いわゆる一番風呂という物を頂いていた。

 今まで一人暮らしで、それを十分に堪能させて頂いていたから分からなかったけれど、これは実は贅沢だったらしい。

 私にお風呂に浸かる権利を与えてくださりありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 

 本来なら家主のおじさんにその権利があるのだろうけど、“俺は汚いから、最後に入らないと垢が結構浮くんだよ”とご本人が言っていた。

 だからこそ、柳ヶ瀬家では女の子が先にお風呂に入れるそうな。

 

 頭と体を清めてから、湯船に体を沈めた。

 ふぅ、と吐息が出てしまう。

 そこで思い浮かべたのは、ここには居ない少女のこと。

 りそなではない、私の師匠とも呼べる白髪の少女。

 

 

 メリルさん、お元気で居るでしょうか。

 私は縁に恵まれて、何とか生きていけそうです。

 ただ、残念ながら私は貴方に連絡を取る手段がありません。

 何時も出していたお手紙を、もう出すことができなくなってしまったのです。

 住所が分からずに手紙が出せないのは、住所を書かずともお兄様が手配してくださったから。

 こうなるなら、宛先ぐらいはしっかりと尋ねていた方が良かったです。

 無精で不義理を、どうかお許しください。

 いつか、私の足でまたサヴォワに向かえたらと思います。

 それまでどうか、ご壮健であらせられますように。

 

 

 心の中での近況報告。

 後で手紙をしたためて置くための、脳裏に保管しておく下書き。

 もう出せないと分かっていても、どうしても手紙の準備をしないと落ち着かない。

 

 メリルさんと文通を始めて、離れていても繋がっていられる様な気になっていた。

 文字を介するだけでも、何時もの通りに話している気になれた。

 だからこそ、こうして手紙を出す手段が無くなると、何と儚い繋がりだったのかと思い知らされる。

 

 でも、また会いたい。

 二人で顔を合わせて、静かな帳の下で裁縫を行いたい。

 だから、私が大人になったらサヴォワに行こう。

 

 もう会えない人との繋がりは、悔やんで惜しむしか無い。

 けれども、メリルさん達はそうではないから。

 自分から会いに行きたいと、自然と思えた。

 

 そこまで考えて、はたと気がつく。

 もしかしなくても、これが私のやりたいことリストの第一号。

 少しずつ、やりたいことを見つけていけば良いと言って下さった駿我さん。

 その第一歩目が、修道院のことだった。

 

 頑張ろう、と両手をギュッと握って決意を秘めて。

 ――そんな時のことだった。

 ――ガラリとお風呂場の扉が開いたのは。

 

「あーさひ、一緒に入ろうぜーぃ」

 

 え、と思ったのも束の間。

 頭が追いつくより先に、声が勝手に漏れ出し始める。

 

「み、み、みぃっ!?」

 

「んー? ミンミンゼミ?」

 

「み、湊っ、なんで!?」

 

 動揺を隠せない私に、面白そうな顔をする湊。

 優しい人だと思っていた、けれども気付いて然るべきだった。

 おじさんをはっ倒した時点で、一筋縄では行かないことを!

 

「私もお風呂に入りたかったから?」

 

「現在男子禁制です!!!

 え、えっち! 湊はいま、凄くエッチなことしてる!」

 

 お風呂場に突入してきた湊は、手拭いで前を隠している。

 でも、湊がもしそれを離したら、私は初めてそれを見てしまうかも知れない。

 そう考えると、私は後ろを向いて、必死に見ない様にするしかなかった。

 そんな物を見てしまった日には、私は湊のお嫁さんになるしか無いのだから。

 

「ふーん、やっぱり」

 

 聞こえてくる声は、何だか楽しそうで。

 これは確かに、滋賀のガキ大将の異名が付くと思える程の意地悪っぷり。

 足音が、ヒタヒタと湯船へと近付いてくる。

 え、まさか、と思ったのも一瞬だけ。

 湊は、信じられないことに、思いっきり湯船に飛び込んできたのだ!

 しかも、そのまま私の背中に抱きつくなんてこともして!!!

 

「や、やめて!

 洒落になってないよ湊!

 私なんかと結婚したくないでしょう?

 だから早まらないで、話を聞いて!!」

 

 湊を振り解こうとするけれど、湊は上手に抱きついて離れない。

 お兄様にも見せたことも、触らせたこともないのに!

 色々な現実が押し寄せてきて、頭がフットーしそうになってしまう。

 ただ、私の混乱を他所に、湊はとっても冷静な声を出した。

 それは問いかけ、幾つかに渡る質問。

 

「朝日に問題、私のお胸はペタンコですか?」

 

 意味がわからないけれど、必死でパニックを起こしている私は即座に答えた。

 

「男の子なんだよ、ペタンコに決まってるよ!」

 

 ペシリと軽く頭が叩かれた、とても理不尽だ。

 

「問題その2、私の一人称はどうして私?」

 

 湊の謎の問いかけに、私は頭を悩ませる。

 どうしてこんな質問をというものと、反射的に答えを探しながら。

 

「男の子が私でも、全然問題ないよ。

 ヨーロッパとか、そんなの普通だった!」

 

 ふーん、と言うと一緒に、お腹あたりに力を入れられてギュッとされる。

 もしかしなくても、湊は何かが不満なのかも。

 そんな憶測は、湊の次の質問に押し流されていく。

 

「じゃあ最後の問題。

 乱暴者の私は男の子でしょうか? 女の子でしょうか?」

 

 その質問で、ようやく頭が情報を整理し始める。

 何かがおかしいと、やっと気が付けたから。

 

 1つめの質問、湊の胸はペタンコか。

 考えずに答えを出したけれど、こうしていると……微かに感じる。

 背中にフニっとした感触があった……。

 

 2つ目の質問、私はどうして私という一人称なのか。

 確かに日本では、男の子は俺とか僕とか、そういったものを使うことが多い。

 私はビジネス用か、もしくは女の子が使うもの。

 ……もしかすると、そういうことなの?

 

 最後の質問、湊は男の子か女の子か。

 今までの情報を並べると、もしかするとという答えに行き着く。

 

「おんな、のこ?」

 

「ようやく気がついたか、このニブチンめぇ!」

 

 振り向いて湊を見ると、やっぱり凛々しい感じの人で。

 でも、その体は、確かに未発達だけれども少女のそれ。

 驚いたけど、でも湊のいう事は本当で。

 私は熱気だけではない火照りと共に、思いっきり頭を下げた。

 

「ごめんね、湊!

 男の子だって思ってた」

 

「うん、それ自体は悪いことじゃないよ。

 よく一緒に男の子と遊ぶし、部屋で遊ぶよりも外で遊ぶ方が好きだから。でも……」

 

「でも?」

 

 湊は視線を下へとやった。

 丁度、私の胸の辺りに。

 

「朝日の方がペタンコだろーがぁ!

 気が付けおバカ!!!」

 

 私の頭に、湊が握りこぶしでグリグリと挟み込む。

 ギューっと、結構痛めに力を入れて。

 

「痛い痛い、ごめんなさい湊!!」

 

「おら、ついでだから私の胸も触ってけ!

 朝日のは将来大きくなったら触るから」

 

「ゆ、許して湊ぉ」

 

「ゆるさんぞー」

 

 私の情けない声と湊の楽しげな声が、お風呂場に響いた。

 そして湊の胸は、想像していたよりとっても柔らかかった。

 うん、凄く女の子だった。

 ……私よりも、ずっと。

 

 微妙にショックを受けつつも、少し湊と仲良くなれた気がする。

 慌ただしくも、愉快な一日。

 あの日から感じていた寂しさを、今日は忘れていられた。



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第16話 良い子の朝日ちゃん

 柳ヶ瀬家から学校に通い始めてはや1ヶ月。

 転校初日は席の周りに人集りが出来ていたけれど、現在は若干落ち着いていた。

 転校生とはアレほど持て囃されるものなのか、と実感した日々だった。

 

 “イベントに飢えていて、変わったことがあったら子供は大騒ぎするものさ”と電話で話した駿我さんは言っていた。

 要するに、物珍しいから人が集まっていただけなのだろう。

 でも、クラスのみんなはアッサリ私を受け入れてくれた。

 屈託なく、一緒に遊ぼうと言ってくれている。

 その厚意に甘えて、男子と遊んだら湊と揃って泥だらけになりながら遊んだりもした(帰って二人でおばさんに凄く怒られたけれど)。

 女子と遊んだら、合コンごっことかいうのをやらされた(ショートカットの子が男の子役だった)。

 それらは楽しくて、夕焼けの訪れが疎ましく感じたこともあった。

 

 ただ、やはり私は色々と学ばずにはいられなかった。

 そうしないと、どうしても不安になってしまうから。

 気配なく教室を出て、柳ヶ瀬家で使わせて頂いている部屋で教科書やノートと向かい合う。

 一人で集中して、黙々と。

 

「ふーん、ふんふん。

 なるほど、サッパリわからん」

 

 一人、で……。

 

「図形ってさ、見てるとへし折ってやりたくなるよね。

 積み木風情がみくだしおってーって。

 ムカついたから三角定規壊して、お母さんに私の頭も壊されそうになったけど」

 

「……湊、遊びに行ったんじゃないの?」

 

 問題集に着手して30分くらい経った頃、何故だか湊が部屋に居た。

 教室で、男の子の友達と“おっしゃー、地獄の滋賀デスマッチ鬼ごっこの開幕じゃあ!”と盛り上がっていたのを確かに聞いた。

 今頃湊は、血の代わりに汗を流した死闘を繰り広げていると、そう思っていたけれど。

 どうしてだか、湊はこの場所にいる。

 約束を破る様な子じゃないけれど、と湊の顔を見る。

 湊は教科書に飽きたのか、私の顔を見ていた。

 感情豊かな湊にしては、色がない感じの気配だ。

 

「……顔に何か付いてる?」

 

「口と目と眉毛」

 

 ことも無さげに言う湊は、特に理由なんて無いと言わんばかりの態度。

 何だか、少し居心地が悪い感触。

 ムズムズする感覚に、堪らず私は尋ねていた。

 

「もう一回聞くけど、どうしたの湊?

 みんなと一緒に遊ぶんじゃなかったっけ?」

 

「朝日がいないなら連れてこいって言われた。

 男子達、私と朝日にドッジボールでボコボコにされたこと、まだ根に持ってるよ。

 だから、今日はリベンジマッチがしたかったんだって」

 

 クラスの男の子は、とにかく運動好きな子が多かった。

 昼休みはグラウンドへ降りて、ボール遊び。

 放課後には球技の他に、鬼ごっこやかくれんぼ、その他の遊びも色々とやっている。

 湊は男子と遊んでいる方が楽しいみたいで、必然的に湊に付いていくと漏れなく体を動かすことになる。

 最近では、男子には私と湊をセットで扱う動きもあるみたいだ。

 

「それは……ごめんね」

 

「どうして謝るの?

 別に謝られることじゃないし、行く義務も無いよ」

 

 湊の優しい言葉に、けれどもやっぱり居心地の悪さは胸につかえたまま離れない。

 人に必要とされること、そしてそれを断ること。

 何だか、酷く悪いことをしている気分になるから。

 

「じゃあ、湊は何でここに?」

 

「あいつらより、今は朝日と遊びたいから」

 

 困った、本当に困ったことを湊は言う。

 それが露骨に顔に出ていたのか、湊は実はね、と言葉を続けた。

 

「うん、実は怒ってる」

 

「え、なんで?」

 

 今まで素っ気なかった湊の顔が、正確には眉が吊り上がった。

 ムッとしたのが、明らかに分かるようになる。

 

「朝日が、私に何も言わずに帰ったから。

 コソコソ帰るなんて、何かイヤじゃん」

 

 湊の言い分に、私は確かにと同意してしまっていた。

 だって、それは明らかに私が湊を疎かにしたということだから。

 一言くらい、声を掛けてから帰れば良かった。

 

「ごめんなさい、湊」

 

「うん、謝ったから許してあげよう」

 

 怒っていた表情は、風船が萎むように無くなっていって。

 代わりに、ちょっと笑顔を見せてくれた。

 優しい笑顔は安心を与えてくれるのだと、湊は無意識で分かっているのかも知れない。

 

「今度からは教室で声掛けろよな。

 そうしたら、無理やり外に連れてってやるからさ」

 

「うん……うん?」

 

 今、何か日本語がおかしくなかっただろうか?

 首を傾げると、同じく湊も首を傾げた。

 一旦、頭の中で情報を処理しよう。

 

 帰り際に、教室で湊に声を掛ける。

 これは分かる、そうした方が良いとも思っている。

 

 無理やり外に連れて行く。

 ここで、私の頭がエラーを吐いた。

 だって、明らかにそれは、湊の言うところの義務になり得る行為だから。

 

「義務は、無いんだよね?」

 

「無いよ、でも連れてく」

 

「なんで?」

 

 間が抜けた問いかけに湊は立ち上がると、私の方をビシッと人差し指を差した。

 そうして、とてもおかしなことを言い出した。

 

「朝日は、良い子過ぎる!」

 

 反射的に、そんな事無いよと言おうとした。

 けれど、まだ湊が話している途中だから、その言葉を飲み込んで。

 静かに、湊の言い分に耳を傾けた。

 

「帰ってきて宿題どころか、意味不明な勉強してるし!

 ご飯を作るの手伝って、お母さんの味と違うのにすっごい美味しいし!

 家事掃除だって、ビックリするくらい完璧にしてる!

 朝日は完全超人かってくらい完璧に何でも熟して、私もびっくりだよ!」

 

 褒められている? 様な気もするけれど、湊の顔は別に人を褒める時の表情はしていない。

 むしろ、叱る時の顔そのものだ。

 

「朝日が楽しそうだから、別に怒ったりはしないよ。

 普通に偉いことだし、私だって凄いって何時も思ってる。

 でもね、今の朝日は楽しそうじゃない。

 イヤイヤでもないけど、仕方なくやってる。

 そんな顔するなら、私や友だちと遊んで欲しいって思うよ。

 絶対、私と遊ぶ方が朝日を楽しませてあげられるよ!」

 

 その言葉に、私は返事を返せなかった。

 確かに、私は勉強よりも湊たちと遊ぶ方が楽しいという実感があったから。

 

 理屈で言い返すのは、きっと簡単だ。

 でも、湊は間違いなく本心を曝け出すように話してくれている。

 それに対して、私が心に蓋をして返事をすれば、やっぱり湊は怒ったままだとも思う。

 どうしようかと考えて、どうしたいかも思案して。

 俯きかけた顔を、少し上げて湊の顔を覗き込んだ。

 

「……どしたん、朝日?」

 

 私なにかしちゃいましたか? と言わんばかりの悠然とした表情。

 我関せずと言わんばかりの態度で、この場に存在していた。

 

「湊、怒ってるって言ってたから」

 

「うん、朝日が私とツマンナイことを比べて、ツマンナイ方取られちゃったから。

 ムッとするよ、それは。

 でも、朝日がなにか説明してくれるなら、面白くなくても受け入れるつもり。

 だから、ちゃんと朝日の言葉で伝えて」

 

 ここまで来て、湊の強引さが少し減っていた。

 朝日は私のいうことを聞いて! と言ってくれたら、私はそれに従ったかも知れないのに。

 自分では決め兼ねていたから、またも困ってしまう。

 

 こうしたいという芯が無かった。

 勉強はした方が安心できるもので、でも友達が遊ぼうと言ってくれている。

 なら友達を取るべきだと思っても、それが恒常化してしまえば、勉強をする機会がほとほと減ってしまう。

 それが、今の私には申し訳なくて怖かった。

 

「むずか、しいね」

 

「何が?」

 

「事情が」

 

 結局、私は答えを出せなくて。

 湊に少し、事情をボヤかしながら説明する。

 将来のこと、一人で生きていくための方法、その他の事も。

 

「ふんふん、朝日はお世話になってる人に申し訳なくて、早く独り立ちしたい、と」

 

 私の事情を簡素に一言で纏めた湊は、難しそうな顔をしていた。

 私のことで考えさせてしまうのは申し訳なくて、でも誰かに相談したい位に不安だったのかもしれない。

 そうして、ウンウンと唸っていた湊は、暫くすると唐突に目をカッと見開いた。

 眼力があって、ちょっと怖いと感じるくらいに。

 湊なりに、意見を纏めきったのかもしれない。

 

「うん、分かんない!」

 

「……そっか」

 

 湊の答えに拍子抜けしつつも、でもそうかと納得する。

 そもそも、これは他人に預けるべき問題じゃないのだから。

 私が答えを探さなきゃ、と結論づけようとしたところで、湊は”でも”と続けた。

 

「朝日は、ずっとここに居ても良いと思う」

 

「居ても良い?」

 

「そう。だって恩人の人のところも、居場所だって思えてなくて困ってるんでしょ?

 だったら、うちの子になりなよ。

 お父さんもお母さんも、きっと歓迎してくれるよ!」

 

 朝日が良い子だって知ってるし、と湊は笑っていってくれた。

 だから、と彼女は私に畳み掛けてくる。

 

「そんなことで悩んで、ツマンナイ顔しないで。

 一緒に遊んで、馬鹿やって、笑ってようよ。

 そっちの方が絶対楽しい!

 ううん、私が楽しくしてあげる!」

 

 この家を、私の居場所にしても良い。

 湊の言葉に、私は言葉を失っていた。

 それは私が善意で全てもたれ掛かる形での出来事だし、どうしても遠慮を覚えてしまうことだから。

 ……でも、この優しくて平和な家に、ちょっと憧れが会ったのも事実で。

 咄嗟に、言葉に悩んでしまっていた。

 

「……それは、素敵だね」

 

 何とか、絞り出した言葉がこれ。

 答えにもなっていない、愚にもつかない回答。

 ただ、それでも湊は笑ってくれていた。

 そうでしょ! と元気よく言い、私の手を取って。

 

「どうしようもないことで、悩んでたってしょうがないよ。

 だから、今日のところは遊んじゃおう!」

 

「そうしたら、明日から毎日が湊と外を走り回ることになりそうだね」

 

「楽しいよ、きっと!」

 

「……うん、そうだね」

 

 結局、私は今も結論を出せていない。

 楽しさや幸せの中に、ふと思い出したようにやってくる焦燥感。

 それが、私を落ち着かせてくれない原因。

 

 湊は、うちの子になってくれれば解決だと言ってくれた。

 でも、許されなくても、私の家族はりそなとお兄様に、今は亡きお母さまだけだから。

 柳ヶ瀬家の人達は好きだけれど、どうしても湊のその言葉に頷く気にはなれなかった。

 でも、心が温かくなった事は確かだから。

 お兄様やりそなが大切だと、しっかりと意識させてくれたこともある。

 

「湊、ありがとう」

 

「お、朝日もその気になったね。

 おっし、じゃあこれから男子共を血祭りにあげに行こう!」

 

「そんな事したら、帰ってきた時に私達がおばさんに血祭りにされちゃうよ」

 

「きにしな~い、気にしない」

 

「気にして欲しいかなぁ」

 

 

 駿我さんに、悩んでも良いモラトリアムだと言われている時間。

 それは勢いよく流れていく時間の奔流で、けれども僅かな淀みの部分だけがゆったりと感じる。

 何時か、それを超えられる時が来るのか。

 どうしても、不安を感じてしまう。

 ――けれど。

 

「ほら、行くよ朝日!」

 

 湊に握られている手を見て、思う。

 世の中には、辛いことと同じくらい善意で溢れていると。

 神様は誰にだって平等で、バランスを取ろうとしてくれようとしているのだと。

 

 お母さまが亡くなった時に、迎えに来て下さったお兄様の様に。

 行き場を失い路頭に迷った時に、手を差し伸べて下さった駿我さんの様に。

 助け舟を出してくれていたりそなの様に。

 今、こうして手を繋いでくれている湊の様に。

 

 私は、ずっと誰かに頼って生きている。

 これ以上、望むべきでないとも。

 けれども、私は強欲で、どうしても多くを望んでしまう時がある。

 

 手を引かれて歩く道から、空を見上げれば真っ青な世界があって。

 雲一つ無い、蒼穹が広がっている。

 清々しさから、まるで湊の心みたいだと思った。

 

 何時も問いかけをするお月様は、今は隠れて姿を見せない。

 私の問い掛けに答えてくれるのは、今は湊だけだから。

 

「遊ぼっか、湊」

 

「もう外に出てるぜ、旦那!」

 

 湊の言う通り、難しいことは一旦忘れよう。

 無邪気に、何も考えずに行動しても良い日だってあるかもしれないから。

 もしかしたら、今日がその日だっただけかもしれない。

 

 

 今日は目一杯遊ぼう!

 そうして、私と湊はクラスの男子達が開催している”地獄の滋賀デスマッチ鬼ごっこ”に参加した。

 意味の分からないローカルルールに惑わされながらも、やっぱり最後に勝ったのは私と湊。

 私達は、タッグを組むと結構強いと最近分かってきた。

 

 家に帰れば、おばさんが目を吊り上げて、二人して怒られる。

 でも、私達は笑っていられた。

 だって、間違いなく楽しかったのだから!

 

 駿我さん、貴方の言っていた人並みという言葉が、少しだけ分かった気がします。

 馬鹿をして怒られて、でも反省は少しだけで。

 そんな事をしていても、許容してもらえて明日に迎える毎日が、そういうことなのかも知れません。

 

 焦りも、不安も残っている。

 でも、楽しさだっていっぱい得られる毎日。

 そうして、少しずつ余裕を広げていって欲しいという願い。

 毎日を繰り返す中で、将来へと走り出せる様にする。 

 それが、きっと駿我さんの言う普通なんだろう。

 

 だから不安になることはない、と駿我さんは言いたいのだろう。

 不安なら、この家の子になってしまえという、湊の言い分も分かる。

 その事に、甘えたっきりにはなりたくない。

 ……でも、その優しい手を、もう少し強く握り返しても良いかもしれないとちょっと思えた。

 

 まずは、遊ぶ日と勉強する日を分けよう。

 それが私なりの、ちょっとした甘えに対する妥協になるだろうから。

 お月様、お師匠様、それで一先ず良いですよね?

 

 私の問い掛けに、お月様は今日も淡く輝いていた。




転職致しましたので、もしかすると慣れるまで更新ペースが下がるかも知れません……(そうなったら、申し訳ないです)。


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第17話 妖精チックな七愛さん

「それじゃあ湊、今日は先に帰るね」

 

「うん、ツマンナイ勉強頑張りなよ」

 

 湊の皮肉に見送られて、私は学校の通学路へと向かう。

 結局、あれから湊と話し合って、遊ぶ日と勉強する日を分けたのだ。

 おじさんやおばさんなどは、湊も見習えば? なんて言い、湊が不機嫌になったのは想定外だったけど。

 

 それに、私が部屋で勉強していると、おばさんが帰ってきた湊にグチグチ言う、とは湊談。

 なので、勉強するなら外でしろーっ、と中々に理不尽な要請が湊からされていて。

 でも、湊が可哀想なのもあって、今日から私は図書館で自習を行う予定を立てたのだった。

 

 

「結構広い……」

 

 そうしてやって来た図書館。

 市役所内に設置されている場所だけあって、本棚がお行儀良くも幅広く整列していた。

 これだけ広いなら、探せば雑誌だって存在しそうだ。

 

 服飾関連の本があるのなら読んでみようと思いつつも、今日の目的は自習。

 規模に反してゆとりのある空間に、私は腰を下ろした。

 鞄から取り出した教材とノートを広げて、黙々と勉強に勤しむ。

 

 今日は湊がいないからか、どこか静かに感じる。

 いたら勉強しづらいけれど、居ないと寂しく感じてしまう。

 けれども、お陰でスラスラと勉強自体は取り組めて。

 お陰であっという間にページは進み、気が付けば閉館を促すアナウンスが流れてきた。

 

 いそいそと片付けをする周りに倣って、私も教材を鞄にしまう。

 図書館から出る時、同じ年くらいの女の子が居たのが、少しだけ意外だった。

 今までのクラスメイト達が、パワフル溢れる滋賀っ子ばかりだったから。

 一瞬目が合った、けれども直ぐに逸らされてしまった。

 勝手に図書館仲間のように思えていたから、それが少し残念で。

 クリーム色の髪の後ろ姿を、その子が去るまで眺めていた。

 

 

 

 また図書館に勉強をしに来た日。

 キョロキョロと周りを見渡すと、やはりあの子は本を読んでいた。

 ページを一つ捲るのにも音を立てず、まるで図書館の一部みたいにその場に馴染んでいる。

 

 綺麗とか、格好良いとか、感じた印象によって思うことはままある。

 けれども、この時に感じた似合っているというインスピレーションは、生まれて始めてのものだった。

 似合っているのは、この図書館に。

 本の妖精みたいだ、と思った。

 

 そこで、ようやく一つのことに気が付いた。

 そうだ、私はこの子のことを気にしていたのだ。

 凄く絵になっていて、素敵だなと思ったから。

 

 道理で、と私は納得しながら教材を開いた。

 図書館は静かにしないといけなくて、話しかけたら煩くしてしまうだろうから。

 出る時に、少し話しかけてみようと思い、私は教材と格闘を繰り広げた。

 

 そうして17時、閉館の時間。

 帰宅する人達の中に紛れている筈の、あの子を探す。

 ……けれど、その日は見つからなかった。

 

 

 

 次の日、図書館に行ってみれば、やはり彼女は存在していた。

 今日は、彼女の近くの席に腰を降ろして教材を広げる。

 ――すると、何故か席を移動された。

 

 もしかすると、パーソナルスペースが広い人なのかもしれない。

 そうだとすると、少し申し訳ないことをしてしまった。

 本を読むのを、露骨に邪魔してしまったのかもしれないから。

 

 遠目から、チラチラと彼女のことを覗き込みつつも、私は教材へと意識を次第に落としていった。

 ……今日もやっぱり、閉館前に彼女は帰ってしまっていた。

 気が付いた時には居なくて、肩をガックリ落としてしまう。

 次は、話せたら嬉しいなぁ。

 

 

 

「こんにちは、少しお時間良いでしょうか?」

 

 次の時、閉館の少し前の時間。

 彼女が図書館を離れるのを確認し、ようやく話し掛けることに成功した!

 近くで見るこの子は、優しげな髪の色とは反対に、苛烈な意思を持っている目をしていた。

 ……もっと言うと、強烈なまでに私を睨みつけている。

 

 え、どうして? と思う暇もなく、彼女は返事をした。

 冷たく、素っ気無い感じの声で。

 

「良くない」

 

 それだけ言うと、その場を後にする。

 流石に、これだけの拒否反応を示されて、直ぐに話し掛ける気にはなれなかった。

 もしかすると、人に話し掛けられるのが好きなタイプの人ではないのかもしれない。

 

「どうすれば、良いんだろう……」

 

 少し考えてみたけれど、特に解決策が浮かぶことはなかった。

 けれども、あの妖精みたいな女の子と、私はどうしても話がしてみたかった。

 あの子の雰囲気が、少し寂しげなのに心地よく感じていたから。

 

 

「そういう訳なので、どう話をすれば良いでしょう?」

 

『まさか友達の作り方を相談されるとは』

 

 電話越しに、駿我さんの苦笑い気味の声が聞こえる。

 けれども、私が頼りにしている人でこういうことを話せるのは、駿我さんくらいだったから。

 湊に話してみても良かったけれど、その場合は問答無用で嫌がる図書館のあの子の手を無理矢理にでも繋ぐだろうから。

 それが良いのか悪いのか、私には分からない。

 だからこそ、頼りになる大人の人に話したのだ。

 

『期待されているところ悪いが、俺は友達が多い方じゃない』

 

「それでも、駿我さんの意見が聞きたいです。

 駿我さんの、私が信頼できる人の言葉が」

 

 そう告げると、一度の沈黙がやって来た。

 10秒、20秒と続き、30秒の辺りで駿我さんは言葉を紡いだ。

 らしくない、もにゃもにゃとした口調で。

 

『君の言葉は、何時だって真っ直ぐに届く。

 嘘偽りがなく、誠実であるからだ。

 それを知っていても、どうにも慣れない。

 純粋なものに触れると、汚してしまうんじゃないかって思ってしまうからね』

 

「駿我さんの言葉は傾聴に値するものです、心配なさらないでください。

 それに、私が駿我さんみたいになれたのなら、ちょっと嬉しいです。

 汚れたんじゃなくて、染まれたんだと思えますから」

 

『……朝日さん、嬉しいけどその言葉は将来の誰かの為に取っておいた方が良い。

 些か、俺には情熱的すぎる。

 誰にでも言う言葉じゃない』

 

 誰にでもじゃありません、駿我さんだからこそと言いかけて、言葉を口に留めた。

 少し思い返してみると、さっきの私の言葉は変だったのでは無いかと思って。

 まるで、女性が男性にアプローチする様な、前のめりさがあった感じがしてきて……。

 ぞわぞわと、背中に変な感触がしてしまったから、私は慌てて言い訳していた。

 事実として、駿我さんに嗜められてしまっていたから。

 

「ごめんなさい!

 そう言うことではなくて、尊敬しているとお伝えしたかったのです!

 自意識過剰ですが、謝らせてください。

 言葉足らずな上、未熟な物言いでご不快にさせてしまい申し訳ございません!」

 

『不快になってなんかないよ。

 むしろ、娘がお父さんと結婚するという言葉を聞くのは、こういう感触なのかと感心したくらいだ。

 尤も、すぐに振られてしまったけどね』

 

 慌てるこちらに反比例する様に、駿我さんの楽しそうな声音が聞こえてくる。

 時折、こうして揶揄われてしまうのがむず痒い。

 駿我さんを身近な存在に感じて、お兄様みたいに思ってしまうのが。

 こうしてジャレあうのも、もう普通のことの様にできてしまう。

 揶揄われたままなのは面白くないから、こちらもと思ってしまうくらいには。

 

「駿我さんには、私よりももっと素敵な女性がいると思いますので」

 

『断りの常套句だな。

 直ぐに出てくるのは、マセガキ相手に何度か使ったことがあるからかい?』

 

「残念ながら生まれてこの方、好きだと告白されたのはりそなだけです」

 

『……それは誰も勝ち目がないね。

 どうやら、この世の中で見る目があったのは、里想奈さんだけだったらしい』

 

「優しい子ですから、愛情を込めた分だけ返してくれていました」

 

『過去形にしなくていい。

 現在進行形で、君の様子を良く聞かれる』

 

 駿我さんと電話をすると、こうしてりそなの話をしてくれる事がある。

 駿我さんが知れる範囲での、ちょっとしたことだけだけれども。

 こうして妹の近況を知れることは、何よりも嬉しい。

 

 逆にお兄様に関しては、ファッション雑誌や服飾誌を見るしかお目にする機会がないのだけれど。

 でも、華麗で壮大なデザインに加えて、最近では儚さを持ったデザインさえ送り出し、新たに表現の幅を広げていると注目を浴びている。

 その成功を見るに、御壮健でおられることだろう。

 

「ありがとうございます、お優しい駿我さん。

 こうして罪がある身でも、妹のことを知れるのは駿我さんの温情あってのことです」

 

『君は卑屈になるのが処世術なところがある。

 でも、それは君を貶めこそすれ、良い作用をもたらさない。

 環境を思えば仕方ない事とはいえ、自分を傷つけても仕方ないことだけは知っていて欲しい』

 

 私の物言いを窘めて下さる駿我さんに、申し訳なさを覚えつつも私は首を振った。

 これだけは、忘れてはいけない事だと思っていたから。

 

「いいえ、奥様の心を傷つけ、大蔵家に災禍を齎すところだった事実は変わりません。

 同じ過ちを繰り返さない為に、これだけは心に刻んでいたいのです」

 

『……子供に咎を負わせて、大人が呵々大笑と品なく笑う。

 大蔵家の呪いというのはどこまでも……』

 

「駿我さん?」

 

 小さな声で何か仰っているが、聞こえないので聞き返すと何でもないと駿我さんは言う。

 ただ、平坦な声だったのが、少しだけ気になった。

 

『そんなことよりも、どうすれば仲良くなれるかだったね。

 朝日さんの話を聞く限り、君のことを何も知らないから警戒されているんだと思う。

 だから彼女の興味を引く範囲で、朝日さんのことを知ってもらう必要がある。

 例えば、そうだね……』

 

 駿我さんの言葉に耳を傾ける。

 提示された方法は、確かにと思わせられるものだったから。

 早速、実行してみたいと思えるものだった。

 

 

 

 

 そうして翌日、土曜日にも関わらず、図書館にやはり例の彼女はやって来ていた。

 一瞬目が合うと、今日は露骨にマジかよという、鬱陶しそうな顔をされる。

 にこりと笑いかけると、凄く嫌なものを見た様な表情で、勢いよく目を逸らされた。

 一瞬ヘコミそうになるけれども、脳内のお兄様がそれ以上に冷ややかな視線で私を叱咤して下さった。

 ありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 

 そうして、ある程度の距離を置いて、今日は書架から本を手に取った。

 題される内容は人間失格、あの子が前に読んでいた本だ。

 作者は教科書にも載っている、走れメロスの作者の人。

 

 そう、駿我さんに提案されたことは、あの子が読んでいる本と一緒の物を読んでみればというものだった。

 共通の話題がないから警戒される。

 なら、自分で作って話し掛けてしまえば良いというものが、駿我さんの提案で。

 その通りだと思い、素直にその内容を実行してみたところだった。

 

 

 つらつらと、その内容を読み込んでいく。

 前書きの後に、恥の多い人生を送っていました、という衝撃的な内容から私はその世界に引き摺り込まれていった。

 

 ペラペラと、貪るようにページを捲る。

 人を恐れている主人公が、苦難の中で藻掻き苦しんでいる部分が余りにも生々しく描写されている。

 醜悪な世の中にあって、しがらみが主人公の足を掴み、周りを破滅させながら自分も堕ちていく。

 モルヒネとお酒、女性に溺れて身持ちを崩し、最終的に精神科へと入院させられる。

 そこで廃人の様になり、その物語は幕を閉じる。

 

 読み終えてしばらく、私は呆然としていた。

 余りにも救いがなくて、でも何故だか魅入られた様で。

 気がつくと、手が震えていた。

 だって、どうしてだか身に覚えのある気もする内容だったから。

 境遇が違い、条件も違い、それでも何かしらを見出してしまう。

 心の中で、お前もそうだと告げられている感触。

 主人公である大庭葉蔵と、私との噛み合わない符号が一致している気がして。

 

 怖くなった私は、立ち上がって書架に本を直すと図書館を後にした。

 外に出て、大きく深呼吸をする。

 空は青く、雲は漂い、世界は普通に回っている。

 それが、何だか奇妙な感じ。

 呆然と、私は空をそのまま眺めていた。

 

 

 

「……………………おい」

 

 そうして、気が付けば夕方。

 私のあの主人公の様に、周りを破滅させてしまうかもしれない。

 そんなIFを想像していたところに、酷く鬱陶しげだけれども渋々といった感じの声が掛けられた。

 ぼんやりと振り向けば、そこには例の彼女が。

 そういえば、私は彼女と仲良くなりたかったんだと思い出す。

 だからか、ちょっとだけ心が軽くなった気がした。

 

「お前、自分のこと嫌いなんだろ。

 だから太宰を読んで、共感して苦しくなる

 

 小さな声で、でも近くだからハッキリと聞き取れる声量で私に声を掛けてくれる。

 そして私は、彼女の話す内容に静かに頷いた。

 そうだ、自覚はなかったが私はあまり自分の事が好きではない。

 それを初めて話す人に、今までに会った立派な人達からも指摘されなかったことをアッサリと見抜かれた。

 

 怖いな、と思う反面。

 私が思った通り、本の妖精さんだったと思える少女。

 そんな事に、少し救われた気になる。

 

「小倉、朝日と言います」

 

 だから、私の名前をこの人に知っていて欲しくて。

 自分の名前を名乗ると、彼女は私の顔を鋭く睨みながら口を開いた。

 

名波七愛、覚えなくて良い

 

 その言葉だけで嬉しくて、私は笑顔を浮かべた。

 ただ、それは名波さんにとっては気に入らなかったみたいで。

 不快そうに一言だけ、言葉を発した。

 

私は、お前を嫌いになる才能がある。ストーカー女

 

 言い捨てるようにして、その場を去っていった。

 そうして取り残された私は、何となくその言葉の意味を察していた。

 

「同族嫌悪、ということかぁ」

 

 私としては、もっと仲良くなれたらな、と思っていただけに残念だった。

 きっと、分かってくれるからこそ、居心地は悪く無さそうだと思えたから。

 

「自分が嫌い……」

 

 呟いた一言は、沈殿するみたいに空気に溶けていく。

 ただ、正体不明の謎を突き止めた気分で、深い納得だけがその場に残っていた。




ジャンと会ってないので、自分の事がそんなに好きになれない朝日になりました。
遊星君が自分のことを肯定できる人間になったのは、多分あの酒蔵の時だと思うので。
情操教育って大事。


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第18話 付き合いの良い七愛さん

DemonsRootsって同人ゲーが楽しくてやり込んでたら、更新出来ませんでしたすみません……。


「朝日ー、最近どったの?」

 

「どう、って?」

 

 それは放課後の帰り道のこと。

 湊が難しそうな顔をしながら、私の顔を覗き込んできていた。

 いきなりどうしたのかと尋ねると、湊は立て板に水の如く話し始める。

 その内容と言えば、私が最近おかしいということ。

 

「確かにさ、空は青くて綺麗だと思うよ?

 でもずっと眺めてるのは、もうおじいちゃんおばあちゃんなんよ。

 最近ぼぉっとし過ぎ、私一人でも男子絞められるけど朝日がいないと面白くない。

 そのせいで男子達、朝日がずっと生理だと思い込んでるし。

 1ヶ月もあの日が続いてたら、外で走り回れるわけねーのに」

 

 男子は馬鹿だからさぁ、と語る湊は不満顔。

 どうやら、私のキレが無いことにご立腹みたいだ。

 

 確かに、近頃の私はぼんやりとしている事が多い。

 そのせいで、湊と遊ぶ時も足を引っ張ることが多発してしまっているのだ。

 申し訳ないとは思っても、それが改善される予兆は未だに無い。

 あの日、指摘されて気がついた日からずっとだった。

 

 

 

「こんにちは、七愛さん」

 

「また来たのか、変態同性愛者ストーカー」

 

 あの夕方から、私が七愛さんに話し掛けても無視されなくなっていた。

 キチンと、話し掛ける度に嫌そうな顔をしながら会話をしてくれる。

 私が七愛さんの中で、正体不明の不審者から定期出没する知り合いへと認めてもらった証明でもあった。

 多分、私は彼女に嫌われているけれど、パーソナルスペースに居ても良い人間になったのだと思う。

 

「今日は何の本を読んでおられるのですか?」

 

「嵐が丘、出てくる奴は全員クズ」

 

「個性的で面白そうですね!」

 

「……サイコパスか?」

 

 何故だか胡乱な目で見つめられるけれど、私は気にせずに七愛さんの隣りに座って本を開いた。

 最近では、図書館に来ても自習と読書が半々ずつ。

 この場所は、そうして使うものだと思い始めたから。

 

「図々しさ日本一だよ、お前」

 

「友達が、仲良くなるには隣の席に座るとこからだ! と断言していたので」

 

「ウザったさのドンキホーテだな、そいつ」

 

 言葉は辛辣でも、会話自体はしてくれる。

 こういうやり取りは、お兄様を思い出して懐かしい気持ちになる。

 この様な会話の中で、お兄様は私に疎ましさを覚えつつも許容して下さっていたのでしょうか?

 七愛さんはそうであるからと、都合よく過去のことを回想しながら妄想する。

 そうだったら嬉しいな、と懐かしむ気持ちで。

 

「読み終わった、ほら」

 

「ありがとうございます」

 

 七愛さんが読み終わった本を、私に手渡してくる。

 私が彼女の読んでいた本を読んでみたくなると言ったら、どうでも良さげに本を寄越してくれたのが始まり。

 それ以降、こうして読み終えた本をお下がりのように渡してもらうのが、本を読んでいる時の日課になっている。

 こうすることで、何となく七愛さんと世界観が共有出来ている気がするから。

 それが、どうしてだか嬉しくて。

 私はゆっくりとページを開いた。

 

 

 

 しばらく本に没頭していると、気がつけば閉館のアナウンスが流される。

 顔をあげると、七愛さんも鬱陶しそうな表情で天井を見上げていて。

 そそくさと、本を借りる手続きをカウンターで行い始めた。

 私は丁度読み終えた本を書架に直して、七愛さんと並んで帰路につく。

 

「全員、自分勝手でカスみたいな奴ばかり。

 それが嵐が丘、一周回って喜劇の館。

 ここまで来ると笑えるだろ、あれ」

 

「でも、あの人達はそうするしか無かった。

 それが分かります、私」

 

「あ?」

 

 こうして、並んで帰る時に、ちょっとした感想会を行う。

 普段は言葉数少なめな七愛さんも、この時ばかりは饒舌に語ってくれる。

 けど、今日は私の方がよく喋っていた。

 だって、出てくる登場人物に、敬愛するあの人の影を投影してしまったから。

 怪訝そうな七愛さんに、私は自分の感じたことを素直に吐露する。

 嵐が丘の、苛烈で鮮烈な人のことを。

 

「彼の小説の主人公、ヒースクリフは非常にプライドと能力が高い人間です。

 その人が窮屈な環境に身をやつして、耐え忍ぶ日々を過ごすことが苦痛である事はおおよそ理解できます。

 唯一、愛した人さえも生まれと資産を理由に、他の人と結婚してしまう。

 その事がどれだけ彼を傷つけて、屈辱を与えてしまったことでしょうか。

 きっと、その人は許せなくなって、全てを壊そうと決意するのも仕方ないのかも知れません」

 

「裏切った女と、その夫に対してなら分かる。

 だけど、その親戚や子供まで破滅させようとするのは悪趣味。

 最後に慈悲を見せたからと言って、帳消しになるわけがない。

 ヒースクリフは壮絶に気持ち悪いやつで、登場人物全員が自分を賢いと思い込んでいる馬鹿。

 ある意味で良い趣味している、転落と復讐は物語の華だからな」

 

「人生に苦しみは付き物で、他者を理解することは斯くも難しい。

 だからこそ、他者を慮る必要がある。

 でも、それが出来ない人もいて、そんな人は見えるもの全てを掌握することでしか生きていけない。

 自分の安寧のために、そうする必要があったのだと思います。

 それが許されるかどうかは別として」

 

 訥々と語る私に、やはり七愛さんは眉を寄せて疑り深そうな表情をしている。

 そうして、ボソリと言葉を一つ零した。

 

「見てきたみたいにカスを擁護するな……。

 居るのか? 知り合いにヒースクリフが」

 

 その言葉に、私は多分苦笑いを浮かべていた。

 そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるから。

 

 あの苛烈な気性、卓越した能力はお兄様を想起させるものがある。

 もし、何かを奪われる様な憂き目に遭えば、あの様な悪鬼になり得る可能性もある。

 でも、お兄様の生まれは大蔵家。

 ヒースクリフの様な養子とは違い、大蔵家の棟梁となり得るお方。

 その生まれの差が、お兄様がヒースクリフになり得ない証明だった。

 お兄様からは何者も奪えるものはなく、奪われるものも無いだろうから。

 故に慈悲深さと、あの気高さを備えられた。

 人の上に人を創らずと昔の方は仰ったけど、お兄様は人の上に立つために生まれてきたお方だから。

 

「尊敬しているお方に、少しだけ似ていただけです。

 でも、お金持ちで長男だから、あんな事になることも無いと思います」

 

「金持ちの傲慢クソ男か。

 お前メンヘラの気質があるから、ピッタリだな。

 私に構わずに、そいつに永遠にペットとして飼われれば良いだろ」

 

 その言葉に、胸に切なさが過ぎる。

 そう出来たのならば、どれだけ良かったのかと未だに思う時があるから。

 

「玉の輿は、難しいです」

 

「……捨てられてメンヘラになったタチか。

 こんな時期からマセているとか、将来はびっちだな。

 メンヘラでびっちは救いがない。

 私と一緒にいたら陰キャまで併発するぞ、お前」

 

 七愛さんの鋭さは、本を読んで想像力を鍛えたものなのだろう。

 私がニコリと表情を作ると、七愛さんは酷く気持ち悪いものを見た顔をする。

 正直、私も私を気持ち悪く感じる。

 何だか分からなかったフワフワ感じていたモノの正体を理解して、それに自覚的になってから……少しだけ、苦しかった。

 世界の解像度が上がるということは、何も良いことばかりではないと知れたのはちょっと大人になれた気分。

 大人が、子供に戻りたいと思う気持ちを、今なら理解できる。

 子供の内に色々な事に気がついてしまうと、不便で仕方ないのだろう。

 

「びっちはびっちらしく、新しい彼氏でも見つけろ。

 そして、二度と私の前に顔を見せるな」

 

「残念ながら、彼氏でも無かったです」

 

「そういえばお前、私のストーカーでもあったな……」

 

 七愛さんとの会話は、他の誰よりも気楽だった。

 私の性根を隠す前に、しっかりと暴かれてしまっているから。

 私も遠慮するという概念を、この人の前だけでは忘れてしまっている。

 この人は私を分かってくれていると、酷い押しつけをしているから。

 

「粘着ストーカーのお前は、ずっとこのまま男を思い続けて死ねばいい。

 だから、そいつに執着して私に粘着するのも止めろ」

 

「私がこうしているのは、七愛さんが好きだからですよ」

 

「キショすぎて引いた。

 オラオラ俺様系の次は、百合の花を咲かせようってか?

 馬鹿がっ、近づくな変態」

 

「七愛さんって、結構恋愛脳ですよね。

 全部を全部、色恋に繋げて。

 好きなんですね、恋愛小説」

 

わかった口利いてんじゃねえよ、クソが。

 人付き合いしたことなくて、本で読んだ内容でしか物事を語れない空想と現実をごっちゃにした妄想癖持ち変態陰キャと暗に言いやがったなこの野郎。

 許さねぇ、事実を並べて気持ちいいか?

 気持ちいいよな、そうでなかったら態々揚げ足取りなんてしないな。

 クソ、死ね死ね死ね、死んでくれ頼む

 

「七愛さんの語彙は豊かですね、憧れちゃいます!」

 

 心の底からの言葉を述べたのに、七愛さんは忌々しそうに電柱を思いっきり殴打した。

 そうして次の瞬間には悶絶して、クソがアァ!! という絶叫が住宅街に響き渡る。

 この人は、テンションが上ってくるとこうして面白い人になる。

 それはそれとして、七愛さんの手を確認すると赤く腫れていた。

 近くの公園に連れていき、そこの水道で手を冷やしていると七愛さんも落ち着いてきたのだろう。

 酷く疲れたように溜め息を吐いて、私を力なく睨みつけていた。

 

「純真な面して皮肉屋だよな、お前。

 性格最悪で、私もドン引きだよ」

 

「いいえ、言ったことは全部本音です。

 七愛さんの世界観が、私は好きですから」

 

「ハッ、私の見えてる世界はお花畑かワンダーランドって?

 クソボケ過ぎてムカつくな、ホント」

 

「七愛さんの世界は、他者の奥底を覗けるから。

 自分ばかりを気にしている人に、それは出来ません」

 

そうして、私は根暗の性格最悪の暴言女になった

 

 お前の頭お花畑が、私は嫌いだけど羨ましいよ、と七愛さんは言って。

 薄暗くなる公園の中で、沈黙が私達の間に満ちた。

 二人揃って、自己嫌悪の中を泳いでいる。

 私は自分の無神経さに、七愛さんはきっと彼女の自己認識に。

 私達は仲良く会話をするよりも、嫌悪で結ばれたゆるりとした仲だから。

 こういう時こそ自分のことに必死で、だけれども相手を一番意識する。

 

「そんな七愛さんが、私はやっぱり好きです」

 

 口を開いた私に、七愛さんは態とらしく笑みを浮かべた。

 嗤ったという表現が、きっと一番近い。

 

「私が嫌いなものを、お前が好きだって言う。

 本当に趣味が合わないやつ、小倉朝日は下品なやつだ」

 

「七愛さんって、ロックとかも馬鹿にしてそうなイメージあります」

 

「煩いのは全般的に嫌い。

 つまり、お前のことも嫌いだと心に刻んでおいて」

 

「はい、しっかりと」

 

 この人に、本音を隠されたことは一度たりともなかった。

 だから、この言葉は間違いなく七愛さんの心からの言葉。

 でも、それが私には心地よかった。

 

「ドン引きした、気持ち悪いと言われて笑うな。

 さっきの気色悪い笑いじゃなくて、心からの笑顔なのが尚の事キモい。

 お前、マゾでイジメられるのが趣味なのか?

 だから、口の悪い私に付き纏っていたんだな」

 

 そういえば、前に付き纏ってた男もクソ男だったか、と七愛さんは戦慄しながら呟いて。

 怯え始めた彼女に、私は思わず笑ってしまっていた。

 ここで、そうかも知れませんと適当なことを言えば、七愛さんはどんな表情を浮かべるだろう。

 やったら、間違いなく細い縁を切られると思ったから、余計な口は閉じていたけど。

 

「何わろとんねん、ダボがっ!」

 

「いえ、七愛さんの可愛いところを見つけたと思って」

 

「は? 百万回死に晒した猫になるか?」

 

 悪口のような軽口が、永遠に続くラリーみたいだった。

 きっと、七愛さんの心の源泉からは言葉が溢れて、こうして溢れ出してくる。

 それも反射的に話しているのではなくて、考えて話してくれている。

 舌鋒は丸くなくて鋭いけど、最近は本を読むことでその言葉の裏側を考えるようになった。

 七愛さんは言葉で全て伝えるタイプの人じゃなくて、内心のモノローグで語る事がある人だから。

 なので、私でもその優しさを読み取れることがあった。

 

「私が七愛さんと仲良くしたい理由は、苦しくて依存したいからじゃないです」

 

 だから、そんなことを急に語り始めてしまった。

 常時の七愛さんなら、急にどうした臭いぞお前と言い切るところだけれど、今は言葉を待ってくれている。

 私が語ろうとしていることに、僅かながらでも興味を持ってくれている。

 それを理解して、大事な部分だけを私は抜き出して話していく。

 

「最初は、図書館の空気に凄く溶け込んでいて、まるで妖精の様に感じました。

 七愛さんの人柄じゃなくて、その雰囲気こそに惹かれたんです。

 でも、今は七愛さんの人格そのものが好きです。

 包み隠さずに、真っ直ぐと大切なことを伝えてくれるその真摯さが。

 共感を示してくれて、相手を理解しようとしてくれる真面目さが。

 嫌な感じがして、苦しんでる時に助けてくれようとした優しさが」

 

 だから、一緒に居たいと思いましたと伝えて。

 七愛さんの顔を見ると、口元を一文字に結んでいて、でも何か言いたげな顔。

 風が促すみたいにさざめくと、七愛さんは口元を曲げて話を始めた。

 皮肉げに、吐き捨てるように。

 

「私がお前を嫌いと言ったのは、太宰に共感して自らの愚かさや至らなさを噛み締めているのに、ヘラヘラ笑って他人と馴れ合おうとするから。

 大体、あれをちゃんと理解するやつは、苦しくて辛くて感受性が豊かなやつ。

 暗くて、病んでて、自分勝手。

 そういう奴だけが分かれば良いと、真人間に対して優越感に浸れる数少ない場所で。

 でもお前は、自分が嫌いな癖に世界が結構好き。

 だから笑って他人に話し掛けられるし、生きている事もそこまで嫌いじゃない。

 その精神性が受け入れられそうにないと思った。

 自分のことを嫌いなやつは、世界も嫌いじゃないと道理にあってないから」

 

 頭お花畑なところが特に嫌い、と七愛さんは最後に付け加えて。

 私を見つめる、ただ真っ直ぐに。

 何時ものように睨みつける視線ではなく、真剣な瞳で。

 これは、ここまで付き合ってくれた七愛さんなりの真心だと、それだけで理解できる。

 

「でも、七愛さんは話し掛けると返事をしてくれました」

 

「……美意識に反してると、つい手を上げたくなる。

 事実として、お前に吐いた言葉の大半は悪態や悪口」

 

「でも、それが会話として繋がって、私は嬉しかったです」

 

 そう告げると、七愛さんは深々と溜め息を吐いた。

 周りを包んでいた空気が霧散し、何時もの雰囲気が戻ってくる。

 七愛さんは、思い出したように私を睨んでいた。

 

「構ってちゃんでウザすぎて、餌を与えてしまった。

 七愛、一生の不覚……」

 

 その言葉に、居ても良いと言葉に実際に示してもらった気がして。

 嬉しくて笑ってしまう、七愛さんが怒ると分かっていても。

 案の定、七愛さんは眉を吊り上げて。

 私に対して苦言を呈し始めた。

 でも、こんな友達の関係もあるのかもと知って。

 単に友達と形容するには、独特な関係だとも思えた。

 ――そんな時だった、その声が聞こえたのは。

 

こら~~~~~っ!!!朝日を虐めていたゲシュニンはお前かああぁ!!!

 

 

 




七愛さんは、多分一緒にいてと言っても嫌がるけど、一緒に死んでなら受け入れてくれそうな女の子だと思います(偏見)。


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第19話 かしまし三人娘


なお、一人は声が小さいものとする。


 

こら~~~~~っ!!!朝日を虐めていたゲシュニンはお前かああぁ!!!

 

 その声が聞こえた時、七愛さんは露骨に面倒くさいという顔になっていた。

 私に視線を向けて、どうにかしろよお前、と酷く鬱陶しそうにしている。

 駆けてくる足音が止まり、朝日と呼びかけられる。

 頷いて振り返れば、そこには想像通りに湊が腕を組んで仁王立ちしていて。

 七愛さんをジロジロと、訝しみながら見つめていた。

 

「なんか、思ってたヤツの百倍弱そう」

 

 口を開くなり、意味不明で失礼な言葉を発する湊。

 七愛さんは、その言葉に何故か見下すような視線で応戦している。

 普通に考えれば一触即発の自体だけれど、不思議なことに喧嘩になりそうなまでの空気感まで発展していない。

 

 それは多分、お互いのタイプと戦い方が違うタイプだから。

 湊は愛と握り拳が武器だけれど、七愛さんは本と口で戦う人。

 なので、お互いに構えてみると、何だろうかこいつはと思ってしまうのだと思う。

 なら、私が潤滑剤になれば良いと、二人の間に入っていった。

 当然、二人から視線で刺されるけれど、大したことではないと受け流す。

 

「湊、どうしたの?

 虐めって何? 覚えがないけれど」

 

「朝日は、ここ暫くの遠い目をしている状態を忘れたかというのかい?

 ボーっと、しくさりちらかして!

 その原因を探りに、アマゾンの奥であるこの場所に来た湊さんは、とんでも無いものを見ました。

 それは、朝日が悪口を言われて笑顔を浮かべている、とてもハイトクテキな現場です」

 

「それは確かに、酷い絵面かも知れない……」

 

「先天的なマゾなんだろ、こいつ」

 

「ほらっ、また朝日のことを虐めた!」

 

「小突いただけでも、凄惨な虐めの現場扱いかよ……」

 

「朝日、こいつグーパンで退治しても良い?」

 

「駄目! 七愛さんは友達だから」

 

「じゃあシチュー引き回しの刑!

 シチューの鍋持って、町中を引き回す」

 

「もっと駄目!」

 

眼の前で漫才始めるなよ三流芸人共。

 売れなくて一ヶ月で消えそうな気配を漂わせているくせに。

 第一なんだ、急に現れてペチャクチャ喋りやがって。

 お喋りの前に謝罪が先だろう、冤罪を被せた。

 それが出来ないお前は猿か?

 ごめんな、猿は人間じゃないから社会性のある行動は出来ないよな、森に帰れよ

 

「ん? なんか言ったか?

 聞こえなかったから、もう一回言って」

 

「聞こえるようには喋ってない……」

 

 七愛さん相手に、湊はある程度強かった。

 馬耳東風というか、聞く耳を持っていないというか。

 七愛さんに何か言われても、全然気にしないメンタリティの持ち主だ。

 だから、多分自分の悪口を言われてもガハハと笑い飛ばしてしまうのだろう。

 では、湊が何で怒り眉になりながらここに来たのか?

 その原因を考えると、するべき事も自ずと決まってくる。

 

「湊、私と七愛さんは本当に友達だよ。

 本を読むのが好きで、一緒に感想会をする仲なんだ」

 

「勝手に友達にするな、変態ストーカー女」

 

「でもこいつ、朝日の悪口言ってるけど?」

 

「七愛さんは悪口でしか、日本語を喋れない呪いに掛かっているんだよ」

 

「おかしな属性を追加しやがって、そんなわけねぇだろダボが」

 

「そっか、道理でなぁ。

 口が悪すぎるもんな、こいつ」

 

「お前も信じるな!

 おかしいだろ、呪いってどこから生えてきた設定だよ!

 少しはその脳みそを働かせろよ猿!」

 

「ウキ? ウキキ?」

 

 息も絶え絶え、肩で息をしている七愛さん。

 一方で、湊はどこ吹く風と平然とした顔をしていた。

 ここまで来ると、湊も七愛さんとの会話を楽しみつつある様に感じる。

 ツッコミを返してくれる関西人の血に、湊の血も呼応しつつあるのかもしれなかった。

 

「……IQが10違えば、……会話が噛み合わなくなるって……本当だったのか。

 おい小倉朝日! こいつを……檻に戻してこいっ」

 

「この子面白いな、うちに連れて帰りたい。

 あと、虐めてたって誤解してゴメンな?

 朝日楽しそうだし、友達だってのは本当だったみたいだし」

 

「だから、勝手に友達にするなって、言っているっ」

 

 友達という言葉に反応して、力のある視線で湊を睨む七愛さん。

 友達という概念は、七愛さんにとっては譲れない一線なのだろう。

 “友達ですもん”と心の中で悲しみつつ、けれども私は口を挟まずに様子を見守り続けた。

 今の瞬間は、湊と七愛さんの相互理解の時間だからと思って。

 

 そして湊は、七愛さんの言葉に朗らかに笑ってみせた。

 いつもの明るく、こちらが元気付けられる笑顔。

 それは七愛さんにも効果があったようで、何かを言いかけてモニョモニョと言葉を口の中に仕舞った。

 流石に、あの朗らかさを前に悪態をつくのは難しいだろうから。

 そんな素敵な笑顔を持っている湊は、あのさ、と言葉を続ける。

 私に、友達だからと元気よくぶつかってくれる、一途さと共に。

 

「君……えっと、七愛って呼ぶね。

 それはね、君が朝日といて楽しそうだからだ。

 私がさっき話し掛けた時は声が小さくなって、周りに壁を作って守ってたけど。

 でも、朝日と話す時になると、途端に元気になる。

 それはね、心が朝日を許してるんだよ。

 そうなったら、もう私は友だちと呼ぶ事にしてる。

 もっと言うと、朝日の友達は私の友達でもある。

 だから私と七愛も友達、ね?」

 

 目に見えて、七愛さんが動揺している。

 多分、ここまでの押しの強い、けれども嫌じゃない善意は初めてだろうから。

 私も、湊に初めて会った時は、その強引さと爛漫さにタジタジになっていたことを思い出す。

 パワーがあって、優しくて、善意まっしぐらな湊。

 それに対して、七愛さんの反応はというと……。

 

「あ、頭お花畑かよ」

 

 声が若干震えつつも、まだ心の防壁は機能していた。

 恐らく、好き嫌いの前に、心が湊という生き物をまだ噛み砕けてない。

 でも、何故だか湊の行動は善意で成り立っていると確信できて、どうすれば良いのか分からなくなっているのだ。

 

「頭お花畑かー、一年中春と考えると幸せだよね~。

 褒められてないけど、褒められたことにしとく。

 七愛は褒め上手だね」

 

「おい、おい、小倉朝日!

 こいつ、頭おかしい」

 

 七愛さんは、人の心の機微を読むのが得意な人だ。

 その人を見ているだけでも、どんな人かを理解してしまえる。

 だからこそ、湊に動揺してしまう。

 本当に、裏がなく七愛さんと仲良くしたいと思っているから。

 

「こういう人で、それに強引です。

 七愛さんは、もう逃げられないと思います」

 

 チクリと刺すように、今までの仕返しを少しする。

 七愛さんは、遠い目で空を見上げながら呟いた。

 

「お釈迦様は地獄の様子をご覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました」

 

「蜘蛛の糸、教科書にも載っていましたね」

 

 七愛さんの言い分では、さしづめ私が蜘蛛で湊がお釈迦様か糸そのものか。

 少なくとも、常人ではないと湊のことを見做したのだと思う。

 ただ、決してそれは低い評価などではなく、湊は七愛さんの中でとても良い人だと結論付けられたという事でもある。

 それが嬉しくて、七愛さんに話し掛ける。

 湊のこと、その優しさや天真爛漫さを。

 

「この人はどんな人間だとか、どんな立ち位置だとか、湊は気にしません。

 ただ、自分が仲良くしたいと思ったら、凄く一直線なだけなんです。

 だから湊は、世界観が違う人とだって簡単に仲良くなれちゃうんです」

 

「へへん、これでも友達は結構多い方だよ?」

 

「陽キャがっ」

 

 湊のあまりの強さに、流石の七愛さんも音を上げざるを得なかった。

 これは性格がどうこうよりも、単純に七愛さんにとって湊がとても相性の良い人だから。

 何を言っても気にしなくて、湊に手を握られたら振りほどくのは難しい。

 物理的な話だけではなくて、心理的にも。

 だって、湊が嫌だと感じる人なんて、殆どいないと思える程に愛されている子なのだから。

 

 

「勝ったな、ガハハ」

 

「勝ち負けってあったんだ」

 

「負けてねぇよ、脳筋……」

 

 一段落付いたのか、七愛さんの肩がガックリと落ちて、湊は楽しそうに笑っている。

 湊としては、友達が一人増えたのだろうという感じか。

 七愛さんにしてみれば、なんか増えやがったと思ってそうだけれど。

 

「ところで湊、誤解だって分かったみたいだし、今日は家に帰らない?」

 

 七愛さんから草臥れた雰囲気を察知してそう伝えると、湊はでもなー、と難色を示した。

 七愛さんと遊ぶのは今度にしてあげてと伝えても、そうじゃないと湊は否定して。

 では何なのかと小首を傾げると、“朝日だよ、あ・さ・ひ!”とビシッと私を指さして湊は叫んだ。

 え、私? と困惑していると、湊は言ったじゃんか! と肩を怒らせながら説明を始める。

 

「朝日さ、最近ぼぉっとしたり、上の空だったり、テンション低かったりしてるじゃん。

 だからさ、なにか原因があると思って探しに来たわけよ。

 で、見つけたのが七愛だったってこと。

 でも、友達だし仲良さげで、何か違うみたいだし。

 朝日が元気ないヨーインは何か分からなくて、困ってるの」

 

 心当たり、あるでしょ? とジト目を向けてくる湊。

 あったっけなと小首を傾げると、湊にグーで頭をポコンとされた。

 便乗するように、七愛さんにもギューっとほっぺたを引っ張られる。

 そして、示し合わせたように二人でハイタッチをする湊と七愛さん。

 もう親友みたいな間柄になっていた(湊と七愛さんが仲良いのはとても良いことです)。

 

「イジメっ子同盟……」

 

「朝日が大好きの会だよ」

 

「小倉朝日が疎ましいの会だ、間違えるな」

 

「良かったな、七愛さんも朝日のこと大好きだってさ」

 

「もうお前補聴器つけとけよ」

 

 ゲンナリとした七愛さんに、素敵な笑みを浮かべている湊。

 七愛さんの悪態が少なめなのは、もう諦め……と言うか湊を許容したのかもしれない。

 少なくとも、すぐにこの場から立ち去ろうとしないのは、不愉快だと思ってない証拠だから。

 

「それはさておいて。

 朝日ですよ、あ・さ・ひ!」

 

「会話がループしてない?」

 

「朝日がちゃんとした選択肢を選んでくれないと、ループする処理が世界に仕組まれてるからさ」

 

「その設定、アニメか何かの影響?」

 

「エンドレスエイト、そろそろ進んで欲しいんだけどな……」

 

「よく分かんない」

 

「それじゃあ帰ったら、耐久視聴しような!」

 

 湊と良く分からない約束をしつつ、私が元気のない要因を考える。

 が、正直に言うと、覚えは勿論ある。

 ただ、湊に言い出しづらいだけだ。

 どうしようかと私は考えて、何だろうなと湊は首を捻って。

 二人揃って遠い目をして、夕焼けを眺め始めた時。

 おい、と声が掛けられた。

 

「この茶番、いつまで続く?」

 

「うーん、夕飯時になるまで?」

 

 湊の返事に、長すぎんだろと吐き捨てて、七愛さんがそれを言う。

 私が止める暇もなく、淡々と事実を述べる。

 

「小倉朝日は自分が嫌い。

 本を通じて、それに気が付いた。

 だから、傷を舐め合おうと私なんかに近づいてくる。

 その卑しい行動、この人は分かってくれるみたいな押し付けが嫌い」

 

 七愛さんの言葉で、場に静けさが訪れた。

 気まずい雰囲気……とは何かが違う。

 だって湊の目には、困惑よりも頭に目に見えてハテナマークが浮かびまくっているから。

 声に出さずとも、湊の言いたいことは分かる。

 恐らく、意味わかんないといった感じだろう。

 

「意味わかんない」

 

 実際にそうだったみたい。

 思った通りの言葉が出てきて、ちょっとだけ笑ってしまった。

 ただ、湊的には本当に解せないみたいで。

 だってさ、と言葉を続ける。

 

「朝日って凄く良い子じゃん?

 勉強はできるし、家事手伝いだってするし。

 運動も凄くて、男子にだって負けないし。

 可愛い上に、この湊さまの相方で嫁。

 朝日自身でも嫌いになる要素が無いよ?

 何なら、私が皆に自慢して回りたいくらい」

 

 それなのに、朝日は自分が嫌いなの? と湊は私の目を真っ直ぐ見て尋ねてくる。

 こそばゆくて、モゾモゾして、同時に竦み上がってしまいそうな信頼。

 湊の言葉と目を通してそれを感じて、私は言葉に迷った。

 

 単純に、私が生きているだけで不幸になってしまう人が居て、多くの人に迷惑を掛けてしまう存在であるということを告げたと仮定する。

 でも、駿我さんのお陰で、私は大蔵家と距離を取ることが出来た。

 だから、湊にしてみればもう終わった事だという一言で切り捨てられてしまう。

 気にするだけ馬鹿だと、きっと断言してくれる。

 でも、奥様やお兄様、りそな、それに大蔵家に対して掛けた迷惑と不幸を勘案すると、それらを忘れてしまって良い訳が無いとも思う。

 心に留めて忘れないようにし、過ちを繰り返さない様にした方が良いのだと。

 でも、そんなことを湊に言っても、困らせてしまうだけで。

 言葉に逡巡していたその時、助け舟を出してくれる声がした。

 

「性格の悪い男を好きになってストーカーした挙げ句、振られたらしい。

 で、こんな駄目な私は嫌いだってメンヘラになった。

 小倉朝日は、常識人ヅラしているだけの割と危ない人間」

 

 ただし、その助け舟はアマルダ海戦で用いられた火船そのものだった。

 こちらに見事な飛び火を見せるそれは、湊の疑問をも全て焼き尽くしてしまえる様で。

 湊は驚いた顔をした後に、困惑した様に首を傾げて、そうしてどうにかして言葉を一つ捻り出した。

 

「朝日は私の嫁なんだからな」

 

「さっきから気になってたけど、私はいつ湊のお嫁さんになったの?」

 

「一緒にお風呂に入ってから」

 

「初耳過ぎるよ」

 

こいつバイかよ、本当にヤベえやつだな近付くな。

 半径10メートルに入った時点で、好意を持っていると見做すぞ変態

 

「七愛さんのことは友達だと思っているので、ちょっと難しい提案ですね」

 

 おかしな空気が、別のベクトルでおかしな空気になって。

 いつの間にか、私の失恋を慰める会の様な空気感になっていた。

 どうやら私は、お兄様に恋した挙げ句にストーカーして振られて傷心中という設定が生えてきたらしい。

 でも、否定するとややこしくなるので、愛想笑いで誤魔化して。

 

「決めた、朝日は冗談抜きで嫁にする。

 逃げたらだめだかんね!」

 

お前もレズかよ、真人間は私だけとか終わってるな本当に

 

「女の子同士で結婚できるはず無いよ、正気に戻ってよ湊ぉ!

 それに七愛さん、火種をぶちまけるだけぶち撒けて、帰らないでください!!」

 

 

 

 結局、事態を収集するには家に帰って、おじさんとおばさんに助けて貰う必要があった。

 流石に、同情だけで同性と結婚されたら大変だと、二人は良識的な判断をなされて。

 ただ……、

 

「朝日ちゃんは可愛くて良い子の器量よしだから、悪い男なんて幾らでも見つかるわ」

 

「いやいや、いやいやいや。

 きっとおおく、じゃない。

 小倉さんが光源氏計画の為に、我が家に預けられたんだ。

 だったら、小倉さんと婚約するのが筋だろう。

 そもそも、朝日ちゃんを悪いやつの嫁に出したくない」

 

 結局、私が振られて病んでしまったという誤解だけは解けなかった。

 今日から私は、失恋経験積みの小倉朝日として生きていくことになるみたい。

 空に浮かんでいるお月様にも笑われている気がして、何だか恥ずかしい気持ちになってしまった。

 お月様お月様、どうか私を正しく導いてください……。

 





ゴールデンウィーク、遊び呆けてて更新できませんでした……(すみません)。


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第20話 面倒見が良い駿我さん

「将来の夢かぁ」

 

 その日、学校で作文の宿題が出された。

 内容は湊の言った通り、将来の夢。

 自分が何になりたいのか、何をしたいのか、それを探るためのもの。

 

 クラスの皆はワイワイ話し合いながら、色んな夢を出し合っていた。

 デュエリストだとか、大統領だとか、琵琶湖とか。

 真面目に考えている人達は少ない、ただ楽しげにアレだコレだと語り合う。

 いきなり、その様なことを聞かれても難しいと言うのはその通り。

 だから、これも楽しんでしまおうという気持ちも良く分かる。

 ただ、湊だけは、ウンウンと唸りつつ真剣に考えていた。

 

「てっきり、湊は直ぐに答えを見つけられると思ってた。

 滋賀の独裁者とか、琵琶湖の支配者とか」

 

「それも考えた」

 

「考えたんだ」

 

「でも、今回は止めておいた」

 

「今回は、なんだ」

 

 因みに、湊の幼稚園の頃の夢はゴジラ柳ヶ瀬だったらしい。

 流石に、人間があの大きさに成長できる訳が無いと諦めたらしいけど。

 諦めるポイントがそこな辺り、心意気は間違いなく大型怪獣並みだった。

 

「でもさ、朝日を見てて思った訳ですよ。

 朝日がこれだけ将来を不安に思ってるのに、私は何になれるんだろうなって」

 

「……順当に考えれば、おじさんの跡取りとか?」

 

「嫌に決まってんだろ、ムサシの後継者とか。絶対に弱いじゃん」

 

「そんなこと言うと、おじさんが可哀想だよ?」

 

「可哀想なくらいが丁度いいよ」

 

 ことも無さげにそんな事を言いながら、ジュースを飲む湊。

 帰宅路の側にある公園で、私達はぼんやり空を眺めていた。

 二人揃って、夢というものを具体的に語れない。

 若者には夢が溢れている、とテレビで語っている人がいるけれど、それは大人になったら理解できることなのかもしれない。

 

「ところで湊」

 

「なにー」

 

「夢って、何だろうね?」

 

 湊が、どうしたといった感じに私の方を向いた。

 意味を測りかねていると、そんな感じ。

 でも、夢という概念は、何ともフワフワしていて難しいから。

 ニュアンス的には、将来的にやりたい事とかそんな感じだろうけれど。

 

「独り立ちしたいって、将来の夢になるかなぁ」

 

「またそんなこと言ってる。

 それって、朝日がやりたい事なの?」

 

「しなきゃいけないこと、が正しいかな」

 

「じゃあ違う。

 朝日はずっとうちの子でいればいい」

 

「そっかー」

 

「……やっぱ滋賀の征服とか?

 朝日と私なら、きっとやれる気がする」

 

「もう少し、夢見が良いものを選びたいかな」

 

 今日も空は青く、私達の悩みは陽気に解けていく。

 残念ながら、青空は私達に答えを返してはくれなかった。

 

 

 

『それで、わざわざ俺に電話してきたのかい?』

 

「お忙しい中、申し訳ありません。

 でも、柳ヶ瀬のおじさんもおばさんも、悩め悩めと笑ってばかりで。

 自分なりに考えても見たのですが、駿我さんの意見も聞ければと思いお電話しました」

 

『うん、何も考えもせずに他人に頼るのは怠慢な上にカンニングだが、自分なりの意見を持っているなら意見の幅が広がるからね。

 まずは朝日さんの考えを聞かせてくれたら、こちらもそれに合わせて答えようと思う』

 

 その夜、私はやっぱり駿我さんに電話をしていた。

 甘え過ぎてはいけないと分かっているのに、どうしても頼ってしまう。

 家族に会えない分だけ、どうしても駿我さんにそういった部分を求めてしまっている自覚はある。

 自分のそういった部分に、自身が未熟な子供であると思い知らされる。

 幸いなことに、駿我さんが仰っていた、“家族の様に頼ってくれて良い”という言葉が文字通りの意味であったことが何よりの救いだ。

 ごめんなさい、そしてありがとうございます、お優しい駿我さん。

 

「私の考えとしては、まず夢とは自身の将来像であると感じました。

 こうなりたい、ああなりたいと感じるものです。

 ですから、まずは将来の自分を想像してみるところから始めてみました」

 

『あぁ、そういう……』

 

 何かを察したように、駿我さんが声を出した。

 どこか呆れているトーンのそれは、こちらが言おうとしていることを理解したのだろう。

 こうして良くお話をする中で、駿我さんは私のことをよく理解してくれている。

 その部分に対して、申し訳なさに嬉しさが交じっており、時折自分を浅ましく思ってしまう。

 

『一応聞くけれど、君の将来像はどんなものだい?』

 

「大人になることです。

 広義のものとしてではなくて、隙がなく他人に迷惑を掛けない人の事を指します」

 

『うん、模範的な回答だ。

 俺も、自分に子供が居てそう言われたら、面白みの無い奴だと言って笑っただろう。

 でも、それは俺に似ているという親近感で出るものだ。

 俺は君の性格を知っている。

 それを踏まえた上で言うなら、それは人生に遠慮して控えた事を言っているに過ぎない。

 君には、もっと望んでいるモノがあるだろう?』

 

 駿我さんはそう言って、言葉を噤まれた。

 こちらに考える時間を渡すための所作で、もっと心の奥の物を促されている。

 もっと贅沢を言え、望みを告げてみろと駿我さんは意地悪を言っているのだ。

 ……私が本当に望んでいるものは、許されないのを知っているのに。

 

「善意で言ってくれているのは理解します。

 でも、それは望むべくしても、もう無理なものです。

 夢という言葉と共に望みを添えると、何かが起こってしまいそうで……」

 

『君が望む望まないを別に、事態は往々にして動き出すものさ。

 ――これはここだけの話だけれども、里想奈さんは最近勉学にとても励んでいる様だ。

 それも、あらゆる分野で様々な物を吸収している。

 前から賢い子だと知っていたが、今では教養も身に付けている。

 その理由は、分かるかい?』

 

 わざわざその事を話すということは、今の会話に関連していることは間違いない。

 そしてりそなは、賢い上に面映ゆくも私を好いてくれている。

 当然の様にその発想に行き着いて、私は自分がどう息をしていたのか忘れそうになった。

 あの面倒くさがりで甘えたがりの子がと、そういった部分も含めて。

 

「…………っ」

 

『もしかして、泣いているのかい?

 ……困ったな、君が泣いている時、俺は常にハンカチを渡してあげられないな』

 

「泣いて、ませんっ。

 泣いて良いのは、子供の内だけですから」

 

『大人にだって、泣いてしまう日はあるだろう。

 泣く行為が相手を困らせると分かっている君だからこそ、俺の前でそれだけ素を晒してくれているという自惚れもできる。

 それに、家族の献身というものは、君の身にはとても尊いものだろう。

 君には、泣く権利があると思えば良い』

 

 本当は、目が潤んでいた。

 でも、駿我さんの言葉はありがたくて、心にそっとそれを仕舞った。

 りそなが頑張っているのだから、私がこんなのでどうするんだという気持ちも持って。

 

「いいえ、泣き、ませんっ。

 私は、りそなの姉ですから」

 

 口元が、その事実を口にして綻んだのを自覚する。

 もう会えないから、それが何だというのだろう。

 私はいつだって、りそなに恥じない姉でいる心掛けが必要だ。

 だって、私は今でもこんなにりそなの事が好きなのだから。

 

『そう言われてしまえば、俺からは何も言えない。

 ただ、一つハッキリした事実があるだろう?

 何時だって、君は里想奈さんのことになると気丈になる。

 だったら、もうそれが答えになっていないかい?』

 

 問いかける口調は柔らかく、けれども間違いなく逃げ場を塞いだ質問だった。

 私がそのことで、いいえと言えないのだから。

 言葉を探す沈黙が数秒あって、私は小さな声で呟いた。

 

「――また、一緒に居られることを夢に見ます」

 

『夢に見る、曖昧模糊な表現だ』

 

「夢は、夢ですので」

 

『それでも、同じ夢を見ている家族が居て、その子は夢を現実にしようとしている。

 それは悪いことなのかい?』

 

「……嬉しいです、感動だってします。

 でも、それはりそなだからで、私が行えば天がその行いを許さないでしょう」

 

『それも、一つの生き方かもしれない。

 何事も諦観から入る、悲観的な物の見方をする。

 そうすることで、間違いなく心は守られるからな。

 でも、心から望んでいる物には、必然的に遠ざかる。

 自分が自分に言い訳をするって、そういうことだ』

 

 駿我さんの口調は落ち着いていて、だからかとても深みを感じる。

 もしかすると、駿我さんにもままならない事があり、そういった道を選んだ事があったのかもしれない。

 だから、ここまで親身に伝えてくれているのかも、しれない。

 

 そんな想像をして、胸が切なくなる。

 駿我さん程の人でもそういう事があり、だからこそと応援してくれているのを理解できるから。

 弱くありたくないと思いつつも、逃げてしまう私に失望されてしまいそうで怖くて。

 りそなが現実に向き合って、立ち向かっているのに私は俯いたまま。

 駿我さんに、そんな格好悪いところを見せてしまうのが、酷く苦しい。

 

「わた、しは……弱い人間です」

 

 絞り出す声は、余りに覇気がない。

 臆病で利己的な、余りにも醜い自分。

 何時だって、待っているだけで他力本願。

 お母さまに頼って生きて、お兄様に拾われて、今でも駿我さんや柳ヶ瀬家の皆さんに庇護されている。

 私の人生は、何時だって与えてもらったものだった。

 

 それが、恥ずかしくて悔しい。

 だからこそ、自立したい、一人で生きていける様に、誰の迷惑にもなりたくないと強く思う。

 そんな弱さと愚かさが、私から夢というものを遠ざけていく。

 駿我さんに言われた通り、何時だって私は逃げてきた人間だから。

 

『……人間というものは、何時だって弱い。

 それを自覚しているだけ、朝日さんは上等なものさ』

 

 口調は変わらず穏やかで、だからこそ駿我さんの顔が見えないのが不安になった。

 明らかに、私はりそなの強さに見合っていなかったから。

 見捨てられても仕方がない、惰弱さを私は衣として纏っていたから。

 

『それを忘れずに、顔を上げていけば良い。

 弱いからといって、能力に自信がなくても、誰だって道を歩いて良いんだ。

 公道は、誰の物でもなくて皆のものだからだ。

 それを独占して、勘違いをしている奴にさえならなければ』

 

 何時だって、駿我さんの言葉には含まれているものがあった。

 それは優しさだったり、親しみだったり、時には諭すものもあって。

 今回のそれに、失望が交じっていない様に感じたのは、私を尊重してくれていると感じれた故に。

 主観で曖昧なものだけれど、その事に胸を撫で下ろす。

 もう嫌われたくないと思うくらいに、私は駿我さんの事を大切に感じていたから。

 

『夢は見れるし沢山ある。

 だが、自分が望んでなりたいものは案外少ない。

 自分の好きなもの、思い出なんかを振り返ってみてもいいかもしれない』

 

 教唆した割に結論が在り来りで悪いね、とバツの悪そうな声を駿我さんはしていて。

 今回の話が、私にダメージが来ることを知っていての事だったと暗に認められた。

 その事については、私の情けなさが余りに酷いので何も言うことはない。

 ただ、私の事を気に掛けてくれているのは、確かに伝わってきたから。

 

「何を言われたかではなく、誰に言われたか、だったのかもしれません。

 何かを探そう、見つけようと私も思えましたから。

 在り来りな駿我さんの言葉が、何かを探そうという原動力になります。

 だから、今日も電話を掛けて良かったです」

 

『…………そうか、なら良かった。

 夢は、探せそうかい?』

 

「はい、見つめるだけでなく、まずは外に出かけてみようと思います」

 

『書を捨てよ町へ出ようって風情だね』

 

「百聞は一見に如かず、ですから」

 

 会話が弾んで、笑みが溢れた。

 駿我さんは、私みたいな子供との会話も真面目に取り合ってくれる。

 その距離感で居てくれている事に、とても心地よさを覚える。

 だからこそ、夢という単語でふと思った。

 駿我さんに恩返しをするというのも、もしかすると夢になりうるのかな、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ところで朝日さん、最後に一つ良いかい?』

 

「はい、何でしょう?」

 

『その、大変聞くのは心苦しいところなのだが……。

 君が、大蔵衣遠のことを好いていると、風の噂でね……』

 

「えっと、これには遠大でとても深い訳がありまして」

 

『俺が聞きたいのは、理由ではなく答えなんだ。

 つまりは、その、何だ。本気という訳かい?』

 

「誤解が重なっていると、滋賀の風元にお知らせください!」

 

『流石にそうだよな、分かってはいた。

 いたんだが、論理的でない部分で動揺してしまった。

 よもや、俺自身がここまで未熟だとは……』

 

「……前から気になっていたのですが、衣遠お兄様と何かあったんですか?」

 

『いや、単に性格がね。

 反りが合わないってだけさ。

 もし君が兄妹間で好きあってるとなったら、倫理的にも感情的にも祝福できそうになかった』

 

「私はともかく、衣遠兄様はその様な方ではありません!

 何時だって立派で、才能溢れるお方です。

 私より、もっと素敵なお嫁さんを見つけて結婚して頂きたいです」

 

『好いている部分は、否定しないのかい?』

 

「恋愛的な意味合いではなく、家族的な意味合いでは愛しています」

 

『……朝日さんも里想奈さんも、君達は一人を除いて情が深い兄妹だね』

 

「お兄様も激情家でいらっしゃいますので、情はありあまっておられます」

 

『但し、情は全てを自分の為に使う、と』

 

 やっぱり、駿我さんとお兄様の間には何か因縁があるのだろう。

 ちょっと気になったけれど、答えはやっぱり返ってこない。

 尊敬している人同士がいがみ合っているのは、やっぱり嫌で。

 でも、それを制止出来るほど、私はお二人の事情に詳しくなくて。

 それでも、何時かはお兄様と駿我さんが手を繋げられたらと思う、そんな日のこと。

 これも、もしかしたら夢? の一つに入るのかもしれないと思った瞬間だった。





暫く、このペースで安定してきたので2週間に一回の更新になりそうです。
申し訳ありませんが、今後とも宜しくお願い致します。


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第21話 夢のカタチ 前編

口内炎が舌にできて、悶え苦しんでたら更新できませんでした(言い訳)。
申し訳ありませんでした(小声)。


 

 夢とは何か。

 その問いに、湊は”やりたいこと”と答えた。

 駿我さんは、”望むもの”と教えてくれた。

 

 私は何をやりたいのか、望んでいるものは何なのか。

 考えて、考えて、考えて。

 フラリと町中で見つけたそれは、一冊の雑誌だった。

 

 クワルツ・ド・ロッシュ、高名で歴史のあるファッション誌。

 夢見る学生から職人である玄人までが愛読する、服飾界隈の注目紙。

 そこに、懐かしさを感じさせる衣装が一着存在した。

 

 紙面越しにでも、機械を通さない人の手による均整さが伝わってくる精密さ。

 見た目の瀟洒さからは想像できない程、着ることに重きを置いたパターン。

 各所に巡らされた丁寧さと、デザイン性を両立したそれは、偏執的なまでの情熱を覗かせている。

 手元になく、触れられないことが悔しくなるくらい、端正さが伝わってくるそれは、どこか覚えがあって。

 ――何か、予感じみたものを、私に感じさせられて。

 最優秀賞を受賞した欄には、やはり敬愛するあの人の名があった。

 

「大蔵衣遠、い、おん……兄様」

 

 何時だって、誰よりも優れていると思っていたお兄様。

 その想像は、やはり何時だって正しいと思い起こされる。

 こうして賞を受賞し、高らかにその名を業界へ、世界へと轟かせているのだから。

 

 普通の人なら、これで夢を掴んだと評するかもしれない。

 でも、衣遠兄様は、未だ夢の途上だ。

 大きく飛翔し、羽ばたいている最中に過ぎない。

 そんな姿に、憧れと畏敬の念を覚えた事を思い出す。

 

 お兄様の夢、初めてあった日に聞いた野望。

 服飾の本場である欧州を、お兄様の服で席巻すること。

 常人ならば不可能でも、お兄様ならば出来ると、そう確信できると私は無条件に信じている。

 だって、お兄様なのだから……。

 

 

”俺は君の性格を知っている。

 それを踏まえた上で言うなら、それは人生に遠慮して控えた事を言っているに過ぎない。

 君には、もっと望んでいるモノがあるだろう?”

 

 

 この前の、駿我さんの言葉が脳裏に過る。

 胸に抱いた、お兄様の妹だという気持ちが、駿我さんの言葉へと心を結びつけてしまう。

 本当の望み、胸がジクリと何かに刺された感触がする。

 

 

 敬愛しております衣遠兄様、不肖の妹は迷っております。

 夢と願い、それらは遠い蜃気楼の様に心の中でボヤケていました。

 でも、それは少し前までのこと。

 自分で考え、駿我さんに指向性を頂き、そうして霧は晴れていって。

 こうして、誤魔化しが利かない程に、私の中でハッキリとした実像を結んできてしまっているのです。

 

 ――会いたいのです、お兄様とりそなに。

 

 私が今、感じている胸の痛み以上に、奥様は苦しまれたのでしょう。

 その結果が今で、だからこそと考えないという努力を致しました。

 ですが、こうしてお兄様の栄光を垣間見て胸を揺さぶられると、どうしても考えてしまいます。

 

 どうか、あの日の幸せをもう一度。

 お兄様とりそなと、もう一度やり直せたら。

 ……未練です、恐らくは今死んでしまったら無念のあまり、亡霊にだってなってしまうでしょう。

 そんな私は、とても欲深く反省ができない人間です。

 お兄様が定義するところの、同じ失態を繰り返してしまう無能なのです。

 

 りそなと、何でもない日常で笑い合っていたい。

 お兄様に、また蔑まれながらも服飾を学びたい。

 こうしてタガが外れてしまうと、懲りもせずに何度も空想を広げてしまう。

 過去のみを懐かしみ、未来に対して希望を見いだせない。

 そんな私だからこそ、夢という議題に対してこれほど悩んでしまうのでしょう。

 

 でも、そんな未練から、僅かに抽出できたものも存在します。

 お兄様のデザインを通して、沸々と湧き上がるものがあったのです。

 私がこの服を縫えたら……そんな、かつての夢の残骸。

 そんな実力もなく、資格さえ持っていない私が何をと思われるかもしれません。

 けれど、それは私が、いま確かにやってみたいと思った事柄なのです。

 

 書を捨てよ町へ出よう。

 駿我さんに促され、こうして夢の欠片を拾えました。

 ありがとうございます、お優しい駿我さん。

 ありがとうございます、敬愛する衣遠兄様。

 

 

「……おい、何をしている」

 

 

 そんな感謝の念が渦巻いてる最中で、声を掛けられた。

 振り向くと、そこには明らかに嫌そうな顔を浮かべている七愛さんの姿。

 私がフラリと誘われて入店したのは、個人書店の小さなお店。

 もしかすると、本好きの七愛さんにとって、この店は自身のテリトリーなのかもしれない。

 

「こんにちは、七愛さん」

 

「さも何もなかったみたいに、普通に挨拶をするな気持ち悪い」

 

「?」

 

 首を傾げると、七愛さんは気が付いてなかったのか、とすごい微妙な顔していた。

 何がですと聞くと、お前の顔と答えが帰ってきて。

 

「恍惚とした顔になってた。

 薬でもやってるなら、早く自首した方がいい」

 

「やってません」

 

「やってるような顔をしてた」

 

「冤罪です」

 

「じゃあ、公然わいせつ罪で訴えてやろうか」

 

 じゃあとはなんだろう。

 そんなに譲れないほど、私の顔は許せない表情をしていたのだろうか。

 頬に手を当てると、確かに緩く、甘いものでも食べたかの様な惨状ではあった。

 気恥ずかしさから、七愛さんの顔を真っ直ぐ見れずに、そっと視線を逸らす。

 ただ、その行為自体が疚しさの証明の様になってしまったみたいで、七愛さんはつぶさに私を観察して、そして気が付いたみたいだ。

 

「その手に持っている雑誌」

 

 目端が利くというか、人のことをよく見ているというか。

 私がダラシのない顔をしていた原因が、この雑誌にあると分かったのだろう。

 思わず隠そうとする私に、意地の悪そうな顔をする七愛さん。

 反射的な行動が、逆に七愛さんの好奇心に火を付けてしまったみたいで。

 

「隠さなくても良い、見せろ」

 

「……なんか、嫌です」

 

「隠すということは、疚しさがあると見える。

 エロ本か? びっちが」

 

「違います!」

 

「なら見せられるはず」

 

 そうまで言われると、拒否するのも難しくて。

 渋々と雑誌を差し出すと、七愛さんはペラペラとページを捲る。

 そうして、面白そうだった顔は段々と表情が抜け、次第につまらなさそうになっていった。

 当たり前だけれども、クワルツ・ド・ロッシュはファッション誌なのだから。

 おかしな点というのは、私がニヤついてしまっていた事くらい。

 そうして全てを捲り終えた七愛さんは、で、と尋ねてきた。

 

「誰か知り合いでも? それとも自分の作品でもあったか?」

 

 ビクッと肩が動いてしまう。

 この人は、察する能力が驚くほどに高い。

 看破されてしまったからには、隠し立てするのは誤解を助長する。

 素直に、知り合いがと伝える。

 

「私の、その、大切な方の記事があったんです」

 

「大切……」

 

 ペラペラとまたページを捲り、あるところでそれは止まる。

 丁度、衣遠兄様のページで。

 

「なるほど、これが」

 

 マジマジと、七愛さんはお兄様の顔を見つめる。

 まだ何も言ってないのに、既に私の大切な人がお兄様だと確信しているみたいで。

 私は、居心地の悪さにモジモジと、挙動不審な動きをしてしまっていた。

 

「……まだ、何も言ってないのですが」

 

「お前と釣り合いそうな顔をしてたのが、これくらいだった。

 それに、自信満々で我が強そうな奴。

 前にお前から聞いた話に、ピッタリ合ったから。

 俺様系でサイアクに性格が悪そうなの、本当にお似合いで吐き気がするな。

 でも、振られたんだったな、小倉朝日は」

 

 七愛さんの舌鋒は、今日も実に絶好調。

 でも、今日ばかりは少しだけ口を挟んでしまった。

 頭で考えるよりも先に、感情が口走っていた。

 

「最悪なんかじゃないです」

 

 怪訝そうに、七愛さんが私の顔を見つめた。

 今まで、言われるがままになってたから、何事かと思ったのだろう。

 でも、これは私にとって大事なことだからと、後先考えずに喋ってしまう。

 

「何時だって胸を張っていて、恥じ入ることなんて微塵もなくて。

 困っていても、呆れていても、見捨てられる事なんて無くて。

 衣遠兄様は、とても、とても優しいお方なんです」

 

 とても早口に捲し立てて、そうしてアレ、とふと正気に返った。

 今、私、余計なことを言わなかっただろうか? と。

 

「衣遠、兄様?」

 

 あ、それだ、と七愛さんの反芻で心当たりを見つけた。

 背中が寒くなり、ヒヤリとした汗が流れていくのを感じる。

 

 雑誌を読んで、想いが溢れていて、お兄様のことで頭がいっぱいだった。

 だからといって、あまりにも迂闊。

 大蔵と、私の関係性。

 それを看破されてしまうのは、あまりにも大蔵家にとって外聞がよろしくない。

 そんな怯えの中で七愛さんが呟いた一言は、ちょっと変わっていて独特だった。

 

「そういうプレイ?」

 

 七愛さんは、酷く蔑んだ目をしていた。

 確かに、苗字も違い、顔もあまり似ていないのならば、一目で兄妹と分かるはずもない。

 本来は否定すべきこと、お兄様の名誉を考えれば。

 しかし、タイミング的に、千載一遇ともいうべき助け船でもあった。

 ごめんなさいお兄様、あなたの妹は愚かです。

 そう心の中で懺悔し、そうしてとびっきりににこやかな表情を作った。

 

「七愛さんって結構こういう話、好きですよね。

 もしかして、七愛さんもご経験があるのですか?」

 

「は? あるわけねぇだろ、殺すぞびっち」

 

 蔑みの目が、怒りで塗り替えられる。

 やりました、お兄様!

 心の中で大いに喝采が上がる。

 私自身とお兄様の風評を代償に、迂闊な危機を乗り越えたのだった。

 ……と、話が進めば良かったのだけれど。

 

「嘘を吐いてはいけない。

 道徳の授業で習わなかったか、大蔵朝日」

 

 怒りの視線が、未だに私を貫いている。

 七愛さんは、明確に分かるほど怒っている。

 でも、私は勘違いをしていた。

 言葉遊びで馬鹿にされたと怒ってるのではない。

 私が、適当な言葉で誤魔化そうとしていることに怒りを覚えたのだ。

 

 何のことでしょう? と誤魔化すには、後ろめたくて躊躇ってしまって。

 このまま嘘で塗り固めても、七愛さんはどうしてだか看破してしまっているようだから。

 私は、迷った挙句にごめんなさいと、素直に謝ることしか出来なかった。

 

「何で分かったのでしょうか」

 

 バツの悪さもあるけれど、そちらの方が気になって尋ねてしまった。

 だけどそれに対して、七愛さんは呆れた顔をしていて。

 何が決定的におかしかったのかと思考を巡らせる前に、七愛さんは幾つかあると指折り数えて答えてくれた。

 

「一つ目、あれだけ嬉しそうに笑っていたお前が注目していた人物なこと。

 兄弟ごっこをしていただけの変態相手に、あんな顔はお前は出来ない。

 二つ目、お前が虚言を弄する時に、苦渋の決断をするみたいに葛藤していたこと。

 本当に変態プレイをしていたなら、お前はもっと恥じ入るタイプだ。

 最後の三つ目、お兄様と呼んだ時のお前の真剣さ。

 否定されたことに嫌がっていて、本気で尊敬してるのがみてとれる。

 それに、恋人だ振られただなんて事より、お前の性格的に事情が通る。

 あれだけ落ち込んで、今も悩み続けてメンヘラになるくらいに」

 

 どうだ? と私の顔を覗き込んできた七愛さんに対して、私はどんな顔をしていただろう。

 感嘆した表情だったかもしれないし、諦観した顔をしていたかもしれない。

 ただ、間違いなかったのは、感心して素直に色々と話してしまおうと思ってしまっていたくらいのこと。

 気分的に、崖の上に追い詰められた火曜の晩くらいの心境だった。

 

「流石は七愛さん、名探偵にだってなれますね」

 

「お前が勝手に自白しただけ。

 否定され続けたら、証拠がないからお手上げだった」

 

 そういう七愛さんは、けれども微笑を浮かべていて。

 ちょっと楽しかったのかな、と思えるくらいに気配が柔らかかった。

 それに釣られて、私も長々と話を始めた。

 

 自身が不貞の子であること。

 お兄様と妹、りそなに、優しくされていたこと。

 奥様を傷つけ、駿我さん、今の後継人に拾われたこと。

 七愛さんは幸いにして、大蔵家について知らなかったのも察することができたので、所々を曖昧にして。

 そうして全てを語り合えた時、七愛さんはとても不機嫌そうな顔をしていた。

 つまらない話です、と前置きしておけば良かったかも、なんて考えて。

 しばしの沈黙後、七愛さんは私の手を引っ張って店を出ようとした。

 有無を言わさぬ強引さで、私はそれを拒否することはできそうになくて。

 けれど、店を出る前に七愛さんに一言掛けた。

 

「この雑誌だけ、購入しても良いですか?」

 

 







 勉強は、案外できていた。
 あの日、いつか姉と再会する努力をすると決めた日からずっと。
 私なりに、色々とやってきた。
 言語、教養、学力などを鍛えて、自分が理解できる事柄に驚く毎日。 

 妹、やれば出来る子なんです! と告げたい相手は、今ここに居ない。
 話して、甘えて、褒めて欲しいのに。
 でも、我慢するしかない。
 いつか理想の木になって、姉を見つけて守れる様になりたいから。

 だから頑張れている。
 そんな日々を過ごす中で、携帯が気紛れのように鳴った。
 思わずゲンナリしてしまうのは、この携帯に掛けて来るのはおおよそ三人しか居ないから。

 圧制者である兄。
 教唆犯にして不審な上の従兄弟。
 そして憎くいけれども、肉親であるが故に嫌いきれない母。

 碌でもない組み合わせで、大体が私のMP(マインドポイント)を削ってくる。
 誰が掛けてきても、疲れてしまうというので電源を落としていたいくらいだ。
 でも、そうしないのは、後が怖いから……という他にも、少しだけ理由がある。
 そして、今回電話を掛けてきたのは上の従兄弟。
 私が電話の電源を切れない、最大の要因だ。

『やぁ、里想奈さん』

「こんにちは」

 最初は警戒して喋れなかったけど、人間は良くも悪くも慣れてしまう。
 今では、憎まれ口を平然と叩ける位だ。
 ……尤も、理由がない限り、そんな事はやらないけれど。

「今日のワンコよろしく、今日の姉をよろしくお願いします」

『本当にお姉さんの事が好きだね、君は。
 最初の内は、もう少し遠慮があったというのに』

「もう手遅れですし、開き直っても良いかと思って」

『まあ良いさ、それは後で語ろう。
 悪いけれどその前に、少しお願いがあるんだ』

 お願い、あの上の従兄弟が。
 顔が、苦いものを食べたみたいになる。
 だって、前にそう言っていた時は、兄への伝言を託す伝書鳩の役を任されたのだ。
 結果、私はゴミを見るような兄の目で、冷ややかに罵られる羽目になった。
 大体、酷いことにしかならないから、あまり相手にしたくはない。

「もう兄を相手にしたくないんですけど」

『違うから、安心していい。
 今回頼みたいことは――』

 上の従兄弟から伝えられた内容に、私の心はざわついた。
 だって、これは大事なモノを込められて、姉を想えるものでもあったから。
 珍しく、やる気が満ち溢れてくる。

「そういうことなら、喜んでやらせてもらいます。
 むしろ、こちらからお願いしたいくらいです」

『里想奈さんなら、そう言ってくれると思ったよ。
 ところで、朝日さんの情報だけれどね。
 ……実は君のお兄さんに恋をしていて、失恋したらしいよ』

「は? …………はぁ!?!?!?
 姉は妹一筋ですがっ!
 嘘吐かないでもらっていいですか!!!」


 上の従兄弟が、辛うじて姉と私を繋げている。
 これが、私が携帯の電源を切れない理由。
 このささやかで、信用もして良いのか分からない繋がり。
 でも、今だけは、この人に感謝している。
 怖いけれど、味方でもないけれど、姉のために動いてくれたのはこの人だけだったから。

 私もこの人みたいに、姉を助けられるようになりたい。
 ただ、それだけを望んでいる。
 長く険しく、そうして先が見えない道のり。
 でも、私がそうしたいと決めたのだから。

 こっそりと隠し持っている、携帯内にある私と姉のツーショット。
 二人して、笑っている写真。
 何時かまた、と気持ちを込めて。
 まずは、上の従兄弟に頼まれた物を片付けよう。
 心を込めて、私はペンを手に取った。


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第22話 夢のカタチ 後編 

 七愛さんに手を引かれて来た場所は、何時しかの公園。

 振り解くように手を離した七愛さんは、不機嫌そうに顔を顰めている。

 

 何に怒っているのか、何が不愉快だったのか。

 確かに聞き苦しい話だったとは思う。

 けれども、その程度のことなら“黙れ”と率直に言ってくれるのが七愛さんで。

 機嫌を伺うように七愛さんの顔を覗き込むと、その顔を止めろと忌々しそうにする。

 あの、と堪らずに声を出したのは当然の流れだった。

 

「どうして、七愛さんがそんなに苦しそうな顔をしているのでしょうか?」

 

 おずおずと尋ねると、何を言っているんだと返される。

 “そんな顔、している筈が無い”と力強く断言さえする。

 何故そんなに否定するのか、考えてみると一つの心当たりにぶつかった。

 つまりは、私の事を憐れんでくれているのだと。

 

「大丈夫です、七愛さん」

 

 私から出た声は穏やかだった。

 友達に憐れまれるのには、少し思うところがある。

 けれど、それと同時に、心配してもらえて嬉しいという浅ましい気持ちもあるから。

 

「私は大丈夫です」

 

 多分、笑えていたと思う。

 私なりに、安心させてあげられたらとも思った。

 けれど、七愛さんの表情は晴れなくて。

 いや、むしろ顔に険が更に出ていた。

 かなり低い、ドスの利いた声が七愛さんの口から漏れ出た。

 

「違う、お前は勘違いしている。

 お前如きのことで、私は心を煩わせない。

 ただ、気に入らないだけ」

 

「気に入らない、とは?」

 

 当然の疑問として返した問いは、鋭い視線になって私の身を貫いた。

 

「そうやって、何でもないフリをしてヘラヘラしているところ。

 怒りを覚えずに、自分が悪いとメンヘラになるところ。

 友達と呼んでいる人間に、胸の内を話さないところ」

 

 早口で、私の悪いところを並べていく七愛さん。

 普段、私の事をどう思っているのかということを、これでもかと言う程に伝えてくれる。

 それでも、言葉の中に七愛さんの根っこが見える。

 私の身を思ってくれて、心からそれに怒ってくれているのだ。

 やっぱり、七愛さんは優しい。

 でなければ、他人の為に怒ることはできないのだから。

 

「やっぱり、お前の人間性が嫌いだ」

 

 最後にポツリと呟かれた言葉は、力のないものだった。

 他人の辛さに共感できる人だから、どうしたって傷付いてしまう。

 でも、当の本人である私がこの調子だから、七愛さんはそれも許せないと思ってしまうのだと思う。

 

「私は、七愛さんの人間性が好きですよ」

 

「そうか、意見が合わないな。

 仲良くなんてなれそうにない」

 

「十分仲良しですから、安心してください」

 

「お前、ムカつくよ」

 

 深い、とても深いため息。

 疲れたと言わんばかりの七愛さんは、困った顔をしているであろう私の目を見た。

 何かを訴えるような、そんな淡い色をした目。

 吸い込まれるように、私はそれを眺めていて。

 

「お前は自分が嫌い、それは半分だけしか合ってなかった」

 

 ボンヤリと、七愛さんの言葉に耳を傾ける。

 さっきよりも、落ち着いた感じの声。

 まるで本を読み聞かせてくれるような、文学少女なそれで七愛さんは語る。

 

「そういう感情が心の内にある。

 それは正しいが、でもそれは自分で選んだ感情ではない。

 流されて流されて行き着いたのでも、諦めて放り投げてそうなったのでもない。

 誰かに強制されて、そう思うしか無くなった」

 

 反吐が出る、邪悪だと七愛さんは淡々と吐き捨てた。

 その様子に、どう答えるのが正しいのか、言葉に迷ってしまった。

 私だけの問題じゃない、他の方にも責任を負わせることになる。

 それはつまり、奥様に対して――。

 

「いいえ、単に自分の不甲斐なさに参ってしまっただけです」

 

 口が、勝手に動いていた。

 私が全て悪いのだと、そういう事にしないといけないから。

 でないと、私がどうしてここに居るのか、分からなくなってしまうから。

 言い訳がましく言葉を並べようとして、その時に何かが破裂した様な音がした。

 そして、遅れて感じる頬の熱い感触。

 

 あ、と声を出したのは私で。

 七愛さんはこちらを睨みつけながら、私の頬を叩いた手で私の肩を掴む。

 逃さないし、誤魔化されないと本気の目をして。

 

「私はお前の頬を叩いた。

 理由のない暴力は最低だ、だから私も最低な筈。

 だからこれは、大蔵朝日は悪くない。

 それくらいは、分かるな?」

 

 否定しようとした。

 だって、七愛さんは理屈を説明するためにそうしただけで。

 私の頑迷さや頑固さに問題があるのは、明白だったから。

 

「違います、何時だって七愛さんは優しいです」

 

「っ、お前は最低のグズでノロマで――マゾだ!!」

 

 今度は頭突きだった。

 ガツンと、とても痛い鈍さが頭を襲う。

 当然、私だけでなく七愛さんも、ただでは済まなくて。

 二人して、その場に蹲って悶絶する。

 痛いのは嫌です、と伝えられたら七愛さんもこんな思いをせずに済んだだろう。

 そういう意味合いでは、私は七愛さんに罵られた通りの人間かもしれない。

 

「思考を放棄するな、真面目に考えろ。

 痛いなら痛いと言って、私を張り倒せ。

 ただ単に受動的に自分が悪いと思うのは、高慢で傲慢だ」

 

 痛さのあまりか、七愛さんの声は震えていた。

 私の目も、痛みのあまりか涙で濡れている。

 フラフラとした歩みで、私はハンカチを水道水で濡らした。

 それを、座り込んでいた七愛さんに、ペタリと貼り付ける。

 

「痛いですね、七愛さん」

 

「なんで笑ってる、マゾ野郎」

 

「野郎じゃなくて女の子ですよ、私は」

 

 七愛さんの隣に、私も座り込む。

 砂でスカートが汚れるけれど、それは七愛さんもそうなっているから。

 今は、二人で汚れてしまっても良いか、という気分だった。

 

「私だって、痛い時には痛いと言います。

 でも、自分の痛さよりも他人の痛さの方が、耐えられないみたいなんです」

 

 隠さずに、思っている本音を吐き出していく。

 幼い頃に抱いた気持ち、誰かの役に立てる人間になりたいという願い。

 もう無理かもしれないと思って過ごしている内に、その願いは誰かに迷惑を掛けない人間になりたいというものに変化していた。

 

 夢と言うには苦しくて、目標と言うには味気ない。

 夢で溢れていた大蔵朝日は居なくなり、他人の顔色ばかりを伺う小倉朝日がここに居る。

 だから夢を語るためには、今の私では駄目なのだろう。

 昔の、大蔵朝日が必要なのだから。

 でも、あの頃の私は行方不明で、もうどうしようもない。

 だから、夢って何でしょうね、と七愛さんへと問うてみた。

 みんなに尋ねて、色々と答えてもらっていたそれを。

 

「夢とは、苦しい時でも、辛い時でも、愛を持って語れるもの」

 

 疑問を挟まず、七愛さんは夢というものを語ってくれる。

 私も、口を挟まずに耳を傾けた。

 

「夢中という言葉がある。

 夢の中と書く、つまりそれだけ入れ込んでいること。

 これが、私の思う夢。

 でも、夢の概念なんて人によって変わる。真に受けすぎるな」

 

「いいえ、それで十分です」

 

 七愛さんの語ってくれた夢が、胸にピタリと当てはまった。

 私が納得できる、夢という概念は愛だ。

 謎めいていた問いの答えに、ようやくスッキリとした気持ちになった。

 

「詰られて、叩かれて、それでいて笑っている。

 お前のそういうところが、本当に嫌い。

 ハッキリ言って、キモイと思ってる」

 

 私は笑っている、らしい。

 さもありなん、といった感じだ。

 過程よりも、いま手にしている結果が嬉しく感じてしまうから。

 その時々によって、過程が大事か、結果が大事かは受け取り方が変わってくる。

 今は、こうして七愛さんが自然と私と会話をしてくれていて、親身になってくれたことが凄く嬉しい。

 

「私は七愛さんの、友達のために必死になってくれるところ。

 そこが、凄く好きです。

 正直に言うと、とても嬉しいです」

 

「……はぁ」

 

 諦めた、といった感じのため息。

 気怠げに七愛さんは立ち上がると、私の頭に温くなったハンカチを押し付けてきた。

 さっき私が、七愛さんの頭に載せたものだ。

 じんわりと暖かくて、七愛さんの優しさを分けて貰えた気がした。

 

「もういい。

 迎えもきてるから、帰る」

 

 そう言うと、七愛さんは公園の茂みに向かい、手を伸ばした。

 何だろうと眺めていると、そこからよく見ているピンクの髪の毛が引っ張り出された。

 ギャーッ、と愛嬌たっぷりの悲鳴が木霊する。

 

「……湊?」

 

「アハハ、どもども」

 

「少しずつ、こっちにガサゴソと近付いてきていた。

 最初は動物かと思った。

 でも、アホだからアホ毛を隠し損ねてた」

 

「頭隠してアホ毛を隠さず……なんちってね」

 

 立ち上がった私に、七愛さんは湊の背をドンと押す。

 ふらついた湊が胸にぽふっと飛び込んできて、胸元で何故だかちょっと気まずげにしていて。

 七愛さんは、それを確認すると公園を後にする。

 最後に立ち止まって、一言残してから。

 

「夢、早く見つけろ。

 ――待て、しかして希望せよ、だ」

 

 最後の最後に、立ち去り際にそう言ってくれて。

 公園には、私と湊が残された。

 湊は、私の顔を見て、ウンウンと頷く。

 

「ほっぺたに立派な紅葉があるねぇ」

 

「ちょっと、痴話喧嘩をしてまして」

 

「おうおう、湊ちゃんの前で浮気宣言とは図太いなぁ。

 全く、朝日は! 私に相談一つしないで!

 朝日の相方は、この湊ちゃんだってのに!!

 だからね、朝日は私が一番助けてあげられるって、そう思ってたんだけどな……」

 

 湊は顔を俯かせて、ちょっと悔しいと私の胸の中で漏らして。

 ゆったりと、風が流れた。

 赤くなった頬を、ヌルリと撫でていく。

 熱くて、けれども擽ったい感触。

 

「――うん、でも良いや。

 ずっと良い顔になってる!」

 

 顔を上げた湊は、笑っていた。

 何時もの向日葵の様な笑顔じゃなくて、はにかんだ笑み。

 手、繋いでと静かな声で湊は言って。

 言われた通りに、湊の手をそっと握る。

 ギュッと、握り返された。

 

「帰ろっか、朝日」

 

「うん、帰ろう湊」

 

 

 

 

 

 

 帰り道、いつもは手を繋いで居ると早足で、私を引っ張っていく湊。

 だけれど、今日は私の歩調に合わせてくれている。

 お陰で、私と湊にしてはゆったりとした空気が流れていた。

 

「私さ、自分が朝日の事を一番分かってるって思ってたんだ」

 

 だから、話すテンションも、何時も以上に落ち着いている。

 何でも無い事のように、日常会話の延長みたいに話をしていく。

 

「でもね、朝日が自分が嫌い~、なんて言い出した時、朝日を元気一杯にしてあげられなかった。

 何でも出来る朝日が、初めて隙を見せてくれたから、チャンスだーって思ってたんだけどね」

 

「トドメでも刺すつもりだったの?」

 

「うにゃうにゃ。パーフェクト湊ちゃんの力を以てして、朝日を柳ヶ瀬家から出たくないと思うくらいにメロメロにしようとしてた」

 

「うん、相談に乗ってくれて嬉しかった」

 

「乗っただけで、解決出来なかったのが悔しいんだよなぁ」

 

 それが、湊の最初の発言に戻ってくるんだろう。

 一番分かっている、それは誇りであり、優越感でもあるだろうから。

 

「私さ、今まで本気で騒ぎ倒している私に付いてきてくれる子って少なかったんだ。

 みんな、途中で疲れて、また明日続きをって言う。

 だから、馬鹿みたいにはしゃぎ回っても、最後まで付いてきてくれる朝日が来てくれて嬉しかった。

 湊ちゃん史上、最初の相方になったんだ」

 

「だから、悔しかったの?」

 

「うん、朝日を取られちゃった気がしたから」

 

 案外、嫉妬深かったのかな、と湊はヘナヘナと言う。

 今までこうだと思っていた自分とギャップがあって、困惑している感じ。

 でも、それについては私も少し分かる。

 信じていたものが、裏返って反転する感覚のことなら。

 

「難しいね、自分の事なのにって思うのに、中々上手くいかないし」

 

「そうそう、びっくりだよ。

 でもさぁ、朝日みたいにしんどくはならなくてさ。

 朝日のこと、親友だってしっかり確認できて嬉しいのもあるみたい」

 

 たはは、と照れくさそうに言う湊に、私もむず痒くなってしまう。

 好きには色々あって、それが友情のものだったとしても、こんなに嬉しくなってしまうのだから。

 二人して、ちょっぴり足早になってしまう。

 ソワソワとしたものが、足を伝って広がってるみたい。

 

「好意を伝えられるのって、落ち着かないね」

 

「朝日はさっき、七愛に散々好きって言ってたけどね」

 

「聞いてたんだ」

 

「うん、朝日が七愛にボコボコにされてた時、助けようと思って頭を上げたんだ。

 でも、朝日が笑ってて、七愛が泣きそうだったからやめた。

 朝日が、七愛をイジメてるように見えたから」

 

「私が、七愛さんを……?」

 

 そうだっただろうか、と思い出してみても、出てくるのは痛みに悶えていた七愛さんの姿。

 やっぱり、頭突きはいま思っても無茶してたのだと思う。

 ごめんなさいと、言いそびれたのは、良かったのか悪かったのかが難しい。

 

「私はさ、多分朝日にあそこまで真っ直ぐになれない。

 嫌われても良いや、ってそこまで想ってあげられない。

 私が朝日を好きだから、嫌われたくないってブレーキを掛けちゃう。

 朝日が七愛を優しいって言ってたの、朝日がそれで元に戻ったんだから分かるよ」

 

「うん、私も湊には嫌われたくない。

 七愛さんにも、だけど」

 

 きっと、私は七愛さんの癪に障ってしまう人間なんだろう。

 でも、疎ましさの中に、七愛さんは情が入ってしまう人で。

 だから、もっと仲良くしたいと思ってしまうんだ。

 

「人に心の底から、何かを伝えようって難しいね」

 

「そだね。正直に話しても、話半分にしか伝わらないし」

 

「……根に持ってる?」

 

「割と持ってる」

 

 湊は執念深かった。

 ツンツンと、紅葉色のホッペを突かれる。

 ジンとした、鈍い痛み。

 ごめんねと言うと、仕方ないなぁと湊が言って。

 落ち着いていた空気が、少しだけ何時もみたいに浮き上がってきた。

 

「ところでさ、自分が嫌いっていうのと、七愛の夢の話。

 どうして夢の話で解決したん?」

 

「夢のカタチと、自分が許せない理由が混ざっていったから」

 

 

 湊の唐突な問いかけに、私は落ち着いて答えられていた。

 首を傾げる湊に、私の中で何を伝えるかと纏めて行く。

 

 あの時に、七愛さんが怒っていた理由。

 それは、私が誰かに自分が嫌いというものを押し付けられたからだと言っていた。

 でも、私はそれを認める訳にはいかなくて。

 七愛さんはそれに、痛みを以て違うと諌めてくれた。

 それに対して、私は肯定も否定もしなかった。

 

 でも、七愛さんの気持ちは痛い程(文字通りの意味)に伝わってきて。

 そして、七愛さんに教えてもらった夢のカタチが、それまでのものと混ざり合う。

 

 ――夢とは、苦しい時でも、辛い時でも、愛を持って語れるもの。

 

 奥様は、私に二度と家族と関わるなと仰っしゃられた。

 途方に暮れて、絶望だってした。

 けれど、苦しかった中でも、浮かんでくるのはりそなとお兄様の事ばかり。

 もう、捨てることが出来ない程に根付いた繋がり。

 愛があるから苦しくて、自分を責めるしかなくなる。

 それでも、と思えるように七愛さんは示してくれた。

 

 自分の事が嫌になって仕方なくても、私を大事にしてくれている人はいる。

 駿我さんに湊、柳ヶ瀬のおじさんにおばさん、七愛さんだって。

 愛を持って接してもらって、元気を出せと励ましてくれる。

 愛こそが夢の源泉であるなら、つまりはみんなから少しずつ夢を分けて貰っているということ。

 

 夢とは、自分の中だけで完結するものだと思っていたけれど、他の人からも影響される。

 だからこそ、何時までも自分の中で堂々巡りを繰り返しても仕方がないと、踏ん切りが付けた。

 自分を許せるかどうかで考えると、やっぱり難しいことだけれど、貰った夢のカケラの分は元気になりたいと、そう思えたから。

 ――要するに、私は厚顔無恥に開き直ってしまったのだ。

 でなければ、自分の中にある矛盾を誤魔化せなくなりそうだから。

 

「考えれば考えるほど、こんがらがって言い訳がましくなるから、簡潔に言うね。

 みんなに励まされてるのに、何時までも落ち込んでたって仕方ないと思ったってことかなぁ」

 

「んん?

 それなら、七愛だけじゃなくて、私が励ましたことも意味はあったってこと?」

 

「うん、七愛さんだけじゃなくて、湊も私を立ち直させてくれたんだよ」

 

 そう言うと、とっても嬉しそうな顔をしながら、湊は繋いでいた手を解いて、私の髪の毛をワシャワシャと掻き乱した。

 キャーと黄色い声を上げて、私も笑ってしまう。

 そうだ、何時だって湊とはこういう関係だった。

 楽しくて、気楽で、遠慮がなくて居心地がいい。

 そんな空気を、ここ最近は遠ざけてしまっていた。

 自分の事で、精一杯になって。

 

「湊、ありがとう」

 

「お、ワシャワシャ好きになった?

 じゃあもっとするね、ワシャワシャー!」

 

「キャーって、そうじゃないよ!

 何時も、側に居てくれてありがとうってことだよ」

 

「相方だから当然だろー!」

 

 結局、私の髪はボサボサになるまで湊に掻き回されてしまった。

 でも、それが凄く心地よくて、楽しかった。

 

 

 

 

 

 けれども、一日はまだ終わってなくて。

 私達が家にたどり着いた時に、玄関に人影があった。

 湊が警戒する素振りをしたけれど、私が待ってと声を掛ける。

 薄暗い夕闇の中で、その人の顔を前に見たことがあったから。

 

「お久しぶりです、カリンさん」

 

「朝日さんは、お元気すぎる様で」

 

「あはは、友達と痴話喧嘩してしまいました」

 

「難儀ですね」

 

「難儀してました」

 

 唐突に始まった英語での会話に、湊は宇宙の真理を知ってしまった猫の様な顔をしていた。

 大丈夫、お世話になってる人だよと湊に伝えて、私はそれでと尋ねた。

 

「今日はどうされましたか?

 駿我さんから、何か頼まれたのでしょうか?」

 

「その通りです。こちらを」

 

 カリンさんが取り出して手渡して来たものは、一通の手紙。

 小首を傾げる私に、カリンさんは手紙の中身は知らないのですが、と前置きをする。

 

「社長が今の貴方に必要だから、と。

 郵送の手間すら惜しむもの。

 曰く、魔法が掛かっていると」

 

 駿我さんにしては、とてもメルヘンな言い回し。

 でも、意味もなくそんな事を言う人ではないから、本当に不思議な何かが掛かっている物なのかもしれない。

 宛名も書いていない、謎めいた手紙。

 不可思議に思いながらも、私は誘われるように手紙の封を開けて。

 

 ――そうして、魔法に掛かった。

 

 

 

 拝啓 大蔵朝日様

 

 お久しぶり、とは顔を合わせてもいないのにおかしな感じがしますね。

 だから、お元気でしょうか? と問わせて頂きます。

 

 もう姉がいなくなってから、かなりの時間が経過しました。

 姉が見たいと言っていた桜は、ヴェールを脱いで葉桜となり、儚さよりも快闊さを感じさせられます。

 あの時、一緒に桜を見ようと言ってくれた時に行かなかったこと、実はかなり後悔しています。

 ですので、今度逢えたならば絶対に一緒にお花見をしましょう。

 

 ところで、噂に聞いたところによると姉は元気が無いようですね。

 実は妹、尋ねたくせに答えを知っていました。

 だからこそ、こうして手紙を認めたのです。

 気持ちは凄くわかりますから、実は私もなのです。

 

 姉がいなくなってから、世界はくすんで、斯くも鮮やかだった世界と別れを告げました。

 貴方と見る景色はどんな時でも鮮やかで、どんな場所だって素敵に見えました。

 貴方の隣が、私の指定席だったのです。

 そうして優しく私の名を呼ぶ貴方の声を、私は当然の権利でありずっと続くものだと思っていました。

 鮮明に、今でも思い出せるのです。

 りそな、と優しく呼びかける声を。

 けれども、今は一人ぼっちで荒野にでも居る気分です。

 

 どうして、私達が別れなければならないのでしょう。

 姉妹同士であるといえども、比翼の鳥であったというのに。

 姉は、ただ家族と生きていただけだというのに。

 初めて、この妹は切ないという気持ちを理解しました。

 苦しくて、胸が張り裂けそうで。

 姉のいない日々は、ゆったりとしている分、溺れているかの様にも感じます。

 

 姉のことを想うと、まるで年老いたかの如く懐古に浸り、その郷愁に胸を焦がします。

 姉ともう逢えないことを思い出すと、どこかここではない場所に駆け出したくなります。

 耐えたくない、いいえ、貴方のいない世界に耐えられない。

 

 私は強くない、弱い人間です。

 だから、どうか私を助けてください。

 妹という生き物は、何時だって姉に甘えて優しくされたい生き物なのですから。

 今でも、私は貴方の足跡を追って、何時か巡り会えるようにと準備しています。

 姉も、どうか自分の心に聞いてみてください。

 

 もし、また会うことが許されないと考えているなら、今度は妹が貴方を救いに行きます。

 弱くとも、どんなに弱くとも、心に消えない姉の灯火がありますので。

 大きな木になって、空の上から姉を見つけてあげます。

 

 片翼では飛べず、けれども空からの風景を忘れられない妹より。

 

 

 

 

 

 久しぶりに見た筆跡、りそならしからぬ丁寧な内容。

 だから、この一枚に込めた気持ちの重さを、キチンと理解できる。

 りそなは、きっと駿我さんから聞いたんだ。

 私が寂しくて、我慢していて、世界に迷っていることに。

 

 ――ズルい、本当に狡い。

 

 りそなも、駿我さんも、私が何を求めているのかを分かってしまっている。

 だから、こんな手紙を書けてしまえて、重要だからと直ぐに持って来てしまえる。

 手紙を胸元に当てると、鼓動が高鳴って、ざわめきの様に血潮を感じる。

 

「朝日、泣いてるの……?」

 

 湊の、戸惑った声が聞こえる。

 私は、何時だって泣き虫のままで。

 けれど、嬉しくて泣いてしまうのは、悲しくて泣くのと違うんだって自分に言い訳して。

 

「でも、笑ってもいるね」

 

 湊の言葉に私は涙に濡れながらも、微笑むことが出来た。

 愛は存在し、そのカタチがいま手元にあって、私の胸に芽生えたものがあったから。

 

「素敵な魔法を掛けられちゃったんだ」

 

 きっと、心の底からの笑みを見せていたのだと思う。

 やっぱり、悔しいなぁ。

 そんな寂しげな声が、風に乗って消えていった。



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第23話 やりたいこと

「駿我さん、私……決めたんです」

 

 あの手紙を届けて貰ってから数日。

 ごちゃごちゃになっていた心を、どうにか胸の裡にしまい込んで。

 私は駿我さんに、お話がしたいと連絡していた。

 忙しい人で無理を言っているのに、分かったよと一言で受け入れてくれて。

 今日、私は柳ヶ瀬運送の本社で、駿我さんとお話をしていた。

 心で感じて、理性で考えた事を告げるために。

 

 りそなから手紙を貰ってから、私の中に確かに火が灯った。

 今まで諦めていたもの、意識しないようにしていたこと。

 赤茶けた思い出にしようと努力していたそれらは、鮮明に私の中で瞬き始めて。

 何かをしたい、何かを為したいという衝動へと変化していった。

 

 ――また、兄妹で語り合いたい。

 ――また、同じ時を過ごしたい。

 

 叫びたい程の想いを自覚して、もう誤魔化しが効かなくなってしまったことに申し訳無さが過る。

 奥様に対して、大蔵家に対して、そして事情をややこしくしてしまう駿我さんに対しても。

 

「また家族で過ごせるように、頑張りたいんです!」

 

 お話がしたいと無理を言って会ってもらった駿我さんに、私は胸の思うがままに告げて。

 駿我さんは、その言葉を待っていたよ、と微笑まれた。

 

 さざめくような心、ゾワゾワとする背中。

 少しの後悔と、大きな勇気。

 色々なものに背中を押されて、私は決意を新たにしていた。

 

「それで朝日さん、君はどんな手段でそれに望む?」

 

「――服を、作りたいと思います」

 

 ただ、真っ直ぐに駿我さんへと告げる。

 服、と転がすように言って、駿我さんは顎に指を添わせた。

 意味を測りかねる、といった様子が見て取れる。

 それに私は、これが私に出来る唯一のことですからと告げて。

 

「どうして服を選んだんだ?

 金持ちになって大蔵家と繫がりを作るとか、法律に則って大蔵家と戦うだとか」

 

「いえ、私が成すべきことは、たった一つだけなんです。

 奥様に認められる。

 ただそれだけが、必要なことですから」

 

「すまないが、まだ因果関係が掴めていない。

 服を作ることが、金子さんに認められることに繋がる理由は何かな?」

 

 言いたいことが先走って、一足飛びに話しすぎていた。

 落ち着いたと思っていたソワソワが、駿我さんの前で話そうと思ったところでまた出てきちゃったのかも。

 気恥ずかしさでごめんなさいと小さく言うと、落ち着いて話せば良いさと駿我さんは微笑を浮かべられた。

 

「前提として、私は家族と暮らす権利を、大蔵家と戦って勝ち取ろうとはしていません。

 それでは、逆に反感を買ってしまいますし、認められるという感情からは程遠いところまで行ってしまいます。

 ですので、考えたんです。

 奥様へと居ても良いと思ってもらえるために、私が出来ることを。

 奥様に、喜んで笑みを浮かべて頂けるものを。

 今までの積み重ねと、思い出の迷路を巡って」

 

「それが服、かい?」

 

「はい、りそなから聞いたことがあります。

 奥様は服への拘りがあり、常に一流の服しか身に纏わないのだと。

 そして私は不出来で、限られたことしか出来ません。

 その限られたことの中から選び取れたのが、服を縫うことでした」

 

「自信があるのかい?」

 

「実を言うと、それも分かりません」

 

 目を逸らさずに、駿我さんへ率直に告げる。

 話の流れをおかしくするような、メチャクチャな物言いだと理解していたから。

 せめて、誠実さを持って伝えたいと思って。

 

「服飾を選んだ理由、聞かせてくれるかい」

 

 駿我さんは理由を聞いてくれた。

 否定の言葉から入らずに、そう思い至った考えに思いを巡らせてくれる。

 子供の戯言だともいえる言葉を、すんなりと認めてくれて。

 無条件で、この人は私の味方でいてくれると信じられて、心がとても勇気付けられる。

 

「私が、決死の覚悟で取り組めそうな、唯一のことだったからです」

 

 なので衒いもなく、思うがままに話していく。

 服飾を選んだことの理由、私の今までのことを。

 

 私の師匠、メリルさんとの出会い。

 服を縫うことを教えてもらい、共に笑い合いながら幸せに暮らしていた日々のこと。

 お兄様、大蔵衣遠様との出会い。

 欧州を服で席巻する夢を語り、その一助を担うために学び続けた日々のこと。

 

 取り組む毎に好きになって、共にいる人の反応が知りたくなって。

 いつか、私の縫った服で驚かしてあげたいと思っていたこと。

 認められて、同じ世界で活動したいと思っていたこと。

 私の服で、誰かを笑顔に出来ることを夢見ていたこと。

 

 だからこそ、私は服を選んだ。

 夢、そう夢だ。

 七愛さんの概念が、一番しっくりときたもの。

 苦しくとも、辛くとも、愛を持って接し続けられること。

 私にとって、それが家族で、服もまた夢だったから。

 

 人との繋がりが、私は服から始まることがあまりに多かった。

 だからこそ、強く結びつけたいと思う。

 奥様も、何時かは服から繋がることが出来るかもしれないと。

 

「私にとって、服は夢の形です。

 絆の形でもあり、情熱の形でもあります。

 私の手で形作られた夢を、奥様に纏って頂きたい。

 そうしたら、分かってもらえるかもしれない。

 お兄様が世界を相手に服飾で戦うのなら、私は奥様に認められるために服を縫いたいのです」

 

 夢見がちだと、一笑に付されてもおかしくない物言いだった。

 正直、自分でもりそなの手紙から歯止めが利かなくなって、気が大きくなっているかも知れないと思ってもいる。

 けれど、頑張りたいと思った気持ちは間違いなくて、その為に出来そうな手段がこれだけだったから。

 駿我さんは、“夢か”と呟いて、そうして微笑まれた。

 

「立派な夢だと思う。

 身内贔屓も入っているが、君のそういう誰も傷付けようとしない姿勢が何よりも誇らしい。

 誰にだって笑われない、いや、俺が笑わせない夢だよ」

 

 前に苦しんでいた姿とは大違いだ、と駿我さんは笑っていた。

 私も、駿我さんや多くの人に助けられたお陰です、と笑顔で答える。

 実際に、こうして堂々とお話が出来るのは、私が顔を上げる切っ掛けを皆が作ってくれたから。

 

 最初、滋賀に来た時、服を縫うことすら出来なかった。

 でも、夜に眠れない時間が出来ると、体が勝手に動いてしまう。

 窓際に座って、隠れるようにしながらも手が縫っていた。

 服飾の勉強が出来ていたわけではない。

 雑誌を買ったり、縫い物をしたりして恋々としていただけだ。

 だから、学び続けている人達に努力して並べるかと聞かれたら、正直に言って自信はない。

 でも、全力で頑張りたい。

 それが、心の底で眠っていた、正直な気持ちだったから。

 

 隠れるように縫い物をしていたのは、縫うことが好きだったから。

 奥様を傷付けた私が、楽しみを覚えることに罪悪感を覚えていたから。

 でも、湊や七愛さんと遊ぶことは、やっぱり楽しかった。

 駿我さんとお話をすると心が安らいで、柳ヶ瀬家の皆に褒められると嬉しくなった。

 どうあがいても、私が感情を捨てることが出来ない限りは避けられなかった。

 そんな中で、りそなの手紙がとどめだった。

 

 自分勝手な欲望が、もう抑えられなくなっていった。

 だったら、もう考えを変えるしかない。

 欲望が抑えられないなら、それを使って人の役に立つしかない。

 奥様にも、そうやって幸せを届けて、家族の輪に私を含めてもらおう。

 それが、開き直った私の結論。

 りそなに魔法を掛けられた結果の果ての決意だった。

 ――また、りそなと会うために。

 

「ありがとうございます、お優しい駿我さん。

 そして、伝えさせてください。

 私にとっては、駿我さんが大切な支えになってしまいました。

 あの、その……お兄様やりそなと同じく、大切な人だと思っています」

 

 りそなに手紙を貰った時、心の底から愛していると伝えたかった。

 けれども、奥様に監視されているりそなの下に、手紙などの物証を残すわけにはいかなくて。

 カリンさんに、大好きと言伝するだけが私に許された行動だった。

 

 だから今、こうして出会える人にはしっかりと感謝や自分の気持ちを伝えたかった。

 特に駿我さんは、私にとって新しい家族も同然だったから。

 でも、こうして口にすると、照れくさくて口がもにょっとしてしまう。

 気持ちと口が、とてもこそばゆくて堪らない。

 一方で駿我さんも、目を真ん丸にして居られた。

 面食らったという表現が、一番的確かもしれない。

 

「これは……なるほど。

 衣遠がああなるのも、金子さんが警戒するのも無理はない。

 ――これは、無理だ

 

「駿我さん?」

 

「いや失礼した。

 初めて、女子相手に胸が高鳴った」

 

「結構努力して、照れてしまうのを我慢して伝えたんですよ。

 なのに駿我さん、直ぐに茶化してしまうんですから!」

 

 何時もの通り、駿我さんにからかわれた。

 多分、駿我さんも照れてくれたのだと思う。

 でも、照れ隠しに意地悪されると、イジワルです! と言いたくなる気持ちも出てきてしまう。

 ……でも、駿我さんに俺も大切な家族だと思ってるよと返されていたら、取り繕えない程ににやけてしまったかもしれないから、これで良かったのかもしれないけれど。

 

「いや、半分本心さ」

 

「話半分に聞いておきます」

 

「悪かったって。

 俺はどうやら女心にトコトン疎くてね。

 朝日さんも、それは知ってるだろう?」

 

「私は今、弄ばれてしまわれたので、もう信じません」

 

本当、だったんだけどね

 

 ごめんと謝る駿我さんに、私も大人気なかったと思って謝った。

 気安すぎるとか、失礼がどうとか、自然と頭から抜け落ちていく。

 この距離感が、とても心地よくて好きだから。

 

「今後ともよろしくお願いします、駿我さん」

 

「あぁ、こちらこそよろしく、朝日さん」

 

 何となくの形式張って、二人で握手をする。

 握った駿我さんの手は、やっぱりゴツゴツしていて、大人の男の人だって伝わってきた。

 

 

 

 

 

 それからどうするか、幾つか駿我さんと話し合った。

 服飾を学ぶ為にはどうするのか。

 将来、学ぶのに必要な費用はどうするのか。

 駿我さんから借りるとすれば、どれくらいの目処で返済していくのか。

 

 話せば話すほど、学ぶということにはお金が掛かると理解する。

 でも、駿我さんは、“言っただろう? 俺はお金持ちだって”という言葉だけで、全てを解決してしまおうとする。

 家庭教師の先生や、ミシンなどの費用などを即決で出そうとしてしまって。

 慌てて、何時か返すので、働き始められたら伝えてくださいと言って。

 

「精神的な貸しということでも良いんだけどね」

 

「それだともう千個は借りているので、利息で首が回らなくなっています」

 

「では借金のカタに、朝日さんをうちの子にしてしまおうか」

 

「ちょっと嬉しく思ってしまえたのが悔しいです。

 でも、また兄妹で暮らすのが目標なので、申し訳ないですがそれは出来ません」

 

「やれやれ、また振られたか」

 

「でも、今の私の名前は小倉朝日です。

 大切に思える様になった、私のもう一つの名前です」

 

「……そういうところだよ、全く」

 

 冗談に本音でお返しをしたら、大きな溜息を吐かれてしまった。

 実を言うと、ちょっぴり今の言葉はズルいかもとは思っていた。

 だから、ごめんなさい駿我さん。

 ちょっとしたイジワルに、仕返しをしてみたくなってしまったのです。

 

「まぁ良い、それで本題のお金の話だけどね。

 取り敢えずは、私的な奨学金ということで行こう。

 借金を君に背負わせるのは気が引けるが、真面目な君なら返済すらモチベーションになり得るかもしれないしな」

 

「ありがとうございます! お優しい駿我さん!」

 

「無償のところを、貸し借りという事柄に変更したのに。

 それでお礼を言われると、おかしな気分になる」

 

「駿我さんが、私の考えを尊重してくださったことに対するお礼です。

 子供という記号ではなくて、個人として見てくださりありがとうございます」

 

「君と話していると、本当に子供と話しているという自覚が無くなるから。

 大人の強権で、無理やり押し通してしまった方が良かったかもと後悔もある」

 

 バツの悪そうな駿我さんに、いいえと私はキッパリと伝える。

 私は未だ、与えられる立場に違いはない。

 でも、僅かなことでも選択肢から選んで、これが良いと主張した。

 ハッキリ言うとワガママで、駿我さんには無視できる権利もあった。

 だからこそ、こうして平等に扱ってくれることが嬉しい。

 自分のことを大人だなんて口が裂けても言えないけれど、その階段を上がることを見守っていて下さっているから。

 私が僅かにでも責任を背負うことを、許して下さっているから。

 

「立派になります」

 

 それは宣言だった。

 私のことで悩んで、考えてくれている駿我さんに対する宣言。

 根っこの方には、りそなやお兄様のためにというものはある。

 でも、今だけは駿我さんに伝えたいからこそ、言いたいことを言葉にしていく。

 

「何時か……今より未来に、この時のことを後悔なんてさせません。

 駿我さんが立派に育てたんだって、そう胸を張って貰えるような人になります。

 だからどうか、私に頑張らせてください!」

 

 頭を下げた。

 深く深く、願いの重さと同じくらい。

 また伸ばしていた髪が逆さに流れて、僅かに重い。

 駿我さんと初めて会った時との違いが、過ごした時間を感じさせられる。

 頭を上げて欲しい、と駿我さんの声がした。

 ゆっくりと頭を上げると、駿我さんは表情を整えて私を見つめていた。

 

「言いたいことは色々とあるけれど、端的に伝えるのは難しい。

 だから、敢えて一言で済ませるよ」

 

 本心だけれど、勢いもあった宣言だったから。

 間を作られると、少し落ち着かない。

 そぞろに駿河さんを見上げていると、ポンと私の頭に手を置かれた。

 

「期待、してるよ」

 

 撫でるわけでもなく、ポンポンと軽く叩いて。

 頑張ります、とギュッと拳を握って駿我さんに言って。

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 ――その宣言から、月日が幾つも経っていった。

 

 滋賀に来てからおよそ二年ほどが経っていた。

 家庭教師の先生に教えてもらって、また服飾に取り組み始めた。

 駿我さんの連れてきてくれた先生は褒めて伸ばすタイプだったのか、裁縫とパターンには少しずつ自信が出てきて(逆に、デザインは型通りにしかやらせてもらえなくなったけれど)。

 方向性としては、これが正しいのかなと思い始めたところで。

 

 勉強があったから湊と前ほど一緒にはいなくなったけれど、それでも暇を見つけた時はやっぱり湊が隣に居てくれた。

 ……でも、気が付かない間に、七愛さんと私並みに仲良くなっていたのはビックリした。

 相性は良いかもと思ってたけれど、七愛さんの身に何があったのか。

 それとなく尋ねてみても、たははと湊は誤魔化して、七愛さんは救われたとしか言ってくれない。

 ちょっとだけ、それにジェラシーを感じたのは内緒(七愛さんには見抜かれてた感じがしたけど)。

 

 そうして、気がつけば小学校を卒業して次からは中学生。

 制服が可愛いとか、七愛さんと一緒の学校だとか、そんな話を湊としていた。

 なので、駿我さんが突然やって来て、唐突に伝えられた内容を聞き間違えかと思ってしまった。

 だって、全てにおいて急だったから。

 

「なんと……おっしゃいましたか?」

 

「馴染んでいた土地でもある。

 ショックなのも分かるし、悪いとも思っている。

 だから、君が理解するまで何度だって言おう」

 

 汗が背中を流れて、聞き間違いが無かったかどうかを耳を澄ませて判断する。

 

「事情が変わってね。

 君には欧州、フランスに渡って貰いたいと言ったんだ」

 

 でも、言葉は変わらず、駿我さんは至って無表情で平坦な声で同じ言葉を告げられた。

 ――愛着が出来たこの土地を、家を、そして友達から、別れる時が迫っていた。





次は滋賀編の最後か、りそなか駿我さん視点の番外編になると思います。


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第24話 また逢う日まで

これで滋賀編も最終話です。


 駿我さんに滋賀を離れなければならないことを告げられてから、直ぐに。

 駿我さんがそんなことを言い出した理由を、私は考えていた。

 だって、理由も無く何かを押し付けてくる人ではないのだから。

 というよりも、そんなケースは今回が初めてだ。

 今まで、何があっても私の意思を尊重してくれて、何をするにも“どうしたい?”と聞いてくれるのが駿我さんだったから。

 

 勿論、駿我さんの頼みであるのならば否というつもりはない。

 けれども、どうしたのだろうと推測を巡らせてしまうくらいの付き合いの深さがあったことは自負している。

 だからどうして、と考えて。

 でも、その思考は柳ヶ瀬家に近付くにつれて、段々と脳裏の端側に追いやられていくことになった。

 何故なら、滋賀を離れるならば、必ずあの子達に説明をしなくてはいけないのだから。

 

 

 

「おっかえりぃ!

 朝日、駿我さん何かお土産くれた?」

 

「ただいま、湊。

 うん、今日は東京ひよこだったよ」

 

「おー、今日は東京帰りだったんだ」

 

 嬉しげに、お土産の入った袋を受け取る湊。

 湊には駿我さんのことを、親戚のお兄さんだと紹介していた。

 そして湊にとっては、お土産をくれる気前の良い人だという認識らしい。

 因みに、お土産の種類によって、駿我さんの用事があった場所を推測できるみたいだ。

 京都に寄っていたら八ツ橋、北海道帰りなら白い恋人だったから。

 案外、駿我さんは定番品が好きなのかもしれない。

 

「それでね、湊」

 

 かなり言い辛い気持ちで、私は話しかけた。

 お土産を貰って、機嫌が良い今しかタイミングがないと思ったから。

 

「まだお土産あんの!」

 

「残念ながら、お土産話しかないかな」

 

「じゃあ食べながら聞くから、居間で話そ」

 

 トットットと駆けていく湊。

 相変わらず、軽やかさがある足取り。

 もうこんな姿を見られるのも少しだけだと思うと、寂しくて仕方ない。

 

 

「お、ムサシ~、お茶!」

 

「父さんを何だと思っているんだ、お前は」

 

「ムサシはムサシだよ」

 

「おかしいなぁ、稼いでるの俺なんだけどなぁ。

 ヒエラルキー、下すぎない?」

 

「カレー臭がするのが悪い」

 

「しとらんわ!」

 

 居間に居たおじさんは、ブツブツ言いながらもお茶を沸かしてくれていた。

 なんだかんだ、この人も娘に甘い人だった。

 ……そういえば、おじさんは私がこの家を離れることをもう知っているのだろうか?

 

「で、お土産話って?」

 

 お茶が来る前に、ひよこの頭を貪り食っていた湊が尋ねてくる。

 この段階でも、やっぱり話し辛かった。

 頭の言葉にゴメンを持ってくるべきかとか、それとも何気ないふうに話した方が良いのだろうかとか。

 考えれば考えるほど、話し辛くなってしまう。

 そんな私の様子に、湊も何だか様子が変だと感じ取ったのだろう。

 怪訝な顔で、私を覗き込んで。

 そんなタイミングで、おじさんがお茶を入れてやってきたのだった。

 

「ほらお茶、朝日ちゃんの分も。

 ……でも、こうしてられるのも後少しだと考えると、やっぱり寂しいねぇ」

 

 あ、と声が出たのは、おじさんの口から話そうと思っていた内容が出てきたから。

 おじさんの方は、特に意識した風もなく、でも多分私を気遣ってくれたのだと思う。

 私より先に、この話を知っていたということは、駿我さんも今日話すと伝えていただろうから。

 

「あ? ムサシ転勤するの?

 大阪? 東京? もしかしてアメリカとか?」

 

「サラッと俺を遠隔地に追放しようとするな。

 俺じゃない、朝日ちゃんだよ」

 

「…………は?」

 

 一つ、湊の声のトーンが低くなる。

 意味をキチンと受け取って、でも理解は出来ていないといった感じ。

 ジロリとした視線がおじさんを貫いて、おじさんは私の方に視線を向けた。

 話して良い? と聞いてるのだろう。

 

「おじさん、自分でお話します」

 

「そうかい、じゃあ俺は部屋に戻ってるわ」

 

 よっこらしょと腰を上げて、ここから去っていったおじさん。

 分かりやすく気を利かせてくれて、それに頭を下げて見送った。

 珍しく、喧騒が絶えない柳ヶ瀬家は静かだった。

 おじさん以外、お出かけしてるのか家に居ないのだ。

 

 

「で、どういうこと?」

 

 ムッツリとした顔で、湊が私を促した。

 何かを言う前に、取り敢えず一回話を聞いておこうと言うことなのだろう。

 なのでできるだけ簡潔に、経緯を話し始める。

 まだ私の頭でも整理がついていないけれど、話しながらまとめられたらと思いながら。

 

「私ね、フランスに行かなきゃいけないんだって」

 

「なんで?」

 

 なんでと聞かれると、私も答えを持っていない。

 だから困ってしまったけれど、それでも何とか言葉を繋ぐ。

 駿我さんの頼みで、きっと何かしらの理由がある筈だから。

 

「分からない、でも行きたいかなって思わなくもないよ」

 

「なんでっ」

 

 震えていて、さっきよりも感情が分かりやすくなっている湊の声。

 瞳が揺れていて、私の心もそれに引きずられそうになる。

 でも、そうするには、私は駿我さんのことを好きになりすぎていた。

 湊と優劣なんて付けられないけれど、今回ばかりは駿我さんを優先したかった。

 私も、本音を言えばこの家や滋賀を離れるなんて、まだボンヤリとしか現実を受け入れられてないけれど。

 

 でも、今までお世話になりっぱなしだった駿我さんが、初めて私にこうして欲しいと言ってくれたから。

 どんな事情があっても、私の人生の味方をしてくれた分だけ、何か力になれればと思ってしまう。

 だから、私は私の意思を湊に伝える。

 

「滋賀での……ううん、湊や七愛さんと送る日常が楽しかった。

 だから名残惜しくて、沢山の気持ちが胸で渦巻いてる。

 湊を抱きしめたいし、ここでの暮らしは大好きだって胸を張って言えるよ」

 

「なら、なんで……?」

 

「初めて、駿我さんが私にお願いをしてくれたから。

 何がどうなってるのか、裏の事なんて微塵も分からない。

 でも、そういった駿我さんのお願いを叶えてあげたい。

 生きる術を見失いそうだった時、手を差し伸べてくれたのは駿我さんだったから。

 大げさな話じゃなくて、私は駿我さんに人生一回分の恩を受けてるんだよ」

 

 湊は泣きそうな、でも怒ってしまいたいような、そんなクシャリとした顔をしていた。

 私の言い方が、卑怯だったというのもあるかもしれない。

 問答無用で口を出せなくなってしまいそうな、そんな理由だから。

 でも、紛れもない事実で、寂しさと同様に僅かな使命感が胸にあって。

 

「朝日が私や家族のこと、どうでも良いなんて思ってないことは知ってる。

 知ってるからこそ、やっぱりムカつく。

 ちゃんと考えて、私が選ばれなかった気がするから」

 

「……ごめんね」

 

 口から違うよ、と零れそうなのを我慢する。

 どんな言葉を紡いだって、私が決めたことを覆すことはないから。

 言い訳を並べても、と罪悪感が湧いてくる。

 

「……ゃだ」

 

「え?」

 

「イヤだって言ったの!」

 

 申し訳無さで胸が一杯になりそうになっていた時に、湊はそれを吹き飛ばす勢いで叫んだ。

 分かりやすいほどの意思表明、有無を言わせない強引さ。

 湊らしいなと思う気持ちと、でも困るなという気持ちが同居する。

 確かに急だったし、私も凄く寂しく感じるから気持ちは分かるから。

 

「湊……」

 

「朝日、七愛も呼ぶから」

 

「え?」

 

「私だけじゃ説得できないから、七愛も呼ぶ」

 

 即決即断、湊は電話を掛けていた。

 電話を掛けて二、三言話して、カチャリと受話器が切られた。

 そして戻ってきた湊は、冷めたお茶を一口で飲みきった。

 

「きゅーけい、七愛が来るまで」

 

「電話、直ぐに終わったね」

 

「会いたいから家まで来てって言った」

 

「主語がない……それ、私が怒られるパターンのやつだよね」

 

「そうだよ、朝日はこれから七愛にいっぱいお説教されて、反省してこの家から出たくなくなるの」

 

「そういう意味合いのお説教はされなさそうだけどね」

 

 圧倒的なまでの希望的観測を述べる湊。

 ただ、その道筋は、どこかの分岐でもう通り過ぎてしまった気がする。

 もしかしたら、どこかにそんな未来もあったのかもしれないけれど。

 

 

 

「来ました、湊様」

 

「もぅ、様呼び止めてって言ってるでしょ」

 

「人生の恩を感じておりますので、無理です」

 

「恩を感じてるなら、仇で返すなー」

 

「では、この七愛に腹を切れと?

 湊様を侮蔑するような真似は出来かねますが、仰っしゃられるなら仕方ない。

 七愛は腹を裂き、取り出した腸を肉詰めにしてお嬢様へと饗します。

 死に果てることになっても、お嬢様の一片となって七愛は生き続けるっ」

 

「食うこと前提で話を進めるなー!」

 

 やって来た七愛さんは、何時もの感じの会話を湊と繰り広げていた。

 そう、何時もの。

 湊と七愛さんは、何時の間にかおかしな関係になっていたのだ。

 何があったのかは聞いても、七愛に聞いてとしか湊は言ってくれなくて。

 七愛さんも、意味深に笑うだけ。

 何だか仲間外れにされて、寂しい気持ちになったりもした。

 けれど、それが続くと何時ものことを感じるようになって、私と七愛さんの関係性は微塵も変化が無かったのもあって、何時の間にか慣れてしまっていた。

 唯一、昔と違うことは七愛さんが湊を崇拝し始めただけなのだから。

 ……だけ、というには頭の痛くなるような違いだけれど。

 

「では、どの様な御用で呼ばれたのですか?

 何となく会いたくなったと、そういうことですか?

 もしそうなら、七愛は喜びのあまり昇天してしまいます」

 

「うん、落ち着こうか。

 そして話を聞いて欲しい、七愛。

 今日は朝日のことで話があったんだ」

 

 湊がそう言うと、七愛はジトりとした視線を私に向ける。

 またお前かと言いたげで、やっぱりという気持ちも見え隠れしている。

 意識的に私を無視していたのか、それとも空気扱いだったのかも。

 

「こんにちは、七愛さん」

 

「……大蔵朝日、幾ら正妻だからといって愛妻だとは限らない。

 今はその立場に胡座をかいていろ、その立場を奪ってやる」

 

「違います、正妻じゃなくて親友です」

 

「親友とは、対等な立場の人間同士がなり得るもの。

 つまり下等生物の私やお前は、湊様相手に親友になれないのは周知の事実」

 

「私達が人間だとして、それなら湊は何になるんですか?」

 

「女神の他に何に見える?」

 

 今日も七愛さんは絶好調だった。

 私にとって親しい友人は、七愛さんにとっては神様らしい。

 未だに二人に何があったのか、その内実を教えてもらえていないのは、私が勉強に集中していたから。

 勉強にかまけていて、七愛さんに何かあったであろう時期に何もしなかった。

 そう考えると、ちょっと意地悪されても仕方ないのかもしれない。

 見限られた訳では無いし、前と距離感自体は変わってないから別状は無いのだけれど。

 ただ、もしかして別の道を選んでいたら、二人と一緒に苦労や喜びを共にすることが出来た気がして。

 それが、ちょっと寂しかった。

 

「それでそれで、朝日の話だけれど……七愛、朝日をちょっと叱って欲しいんだ」

 

「恥を知れ、このメス豚!!!」

 

「違う、そうじゃない!」

 

「でも、アレは嬉しそうにしてますよ?」

 

「え、朝日……?」

 

「あらぬ嫌疑を掛けられそうだから答えるけど、何時もと同じ光景を見れて何だか嬉しいなって思ってただけだよ」

 

 何時ものテンポで、何時もの会話。

 これが聞けるのも、もうあと少しだけ。

 私が大人になれば自由に行動できるのだろうけれど、それまでは二人と会うこともままならないかもしれない。

 そう考えると、会話の内容はとにかくとして、やっぱり良いなと思ってしまった。

 こうして、三人で集まって会話をするということが。

 

「それで、何を叱れば良いんですか?」

 

「朝日がね、急に海外に行くって言い出して」

 

「大蔵さん、今までありがとう。

 日本を離れても幸せに暮らしてね」

 

「めっちゃ笑顔で何言ってるのーー!」

 

「新しい門出を祝おうかと」

 

「七愛は寂しくないの?

 朝日と会えなくなるのに!」

 

「若干の寂しさと、大いなる喜びに打ち震えています。

 大蔵さんが居なくなれば、後は七愛だけが湊様に愛を注がれる」

 

 恍惚とした顔で、どこかここではない場所に意識を飛ばしている七愛さん。

 あまりのスピード感に反応できなかったけれど、七愛さんからは笑顔でさよならを言ってもらえた。

 ……ワガママだけれど、少しだけでも惜しんでもらいたかった。

 でないと、ちょっぴり切なく感じてしまう。

 

「ただ……」

 

 ふと、正気に戻ったように、七愛さんが私の顔を覗いてきた。

 マジマジと、私の目の裏側まで見通すように。

 湊と話している時の楽しげな感じではない。

 時折見せる聡明な透明さが、私を貫いていた。

 いま何か嘘を吐いても、きっとそれは全て見抜かれてしまうだろう。

 

「自分を押し殺して笑っているだけなら、その顔を笑えないくらいに整形してやっても良い」

 

 七愛さんの言葉に、嬉しくて顔が綻んだ。

 だって、それは七愛さんなりに心配してくれた言葉だったから。

 私がこんなのだからそう言うしかなくなってしまっているけど、その気持ちがとても暖かい。

 

「見てください湊様。

 笑っている、これがこの女の本性です。

 コレがマゾだと認めてくださいますね?」

 

「違います」

 

「違ってて欲しいな、私も……」

 

「疑わないで、湊」

 

 誤解とは、一度生じると中々解けないもの。

 最近は私に生じるそれを、口の上手い七愛さんが信憑性を持たせようとさえする。

 今回も危ういバランスの上で、何とか誤解を誤解のままにしておけた。

 ここで訂正し損ねると後々まで祟りそうだから、本当に良かった。

 

「あーーーっ!!」

 

 そんなこんなで私がホッとしていると、湊が大声で叫んだ。

 ムシャクシャして、だから大声で叫んだといった感じの様子の湊。

 私と七愛さんは顔を見合わせると、同時に湊の顔を覗き込んでいた。

 

「朝日っ! 本当に、ほんと~っに行っちゃうの?」

 

 私達二人の視線を受け止めた湊は、そのまま私の方に視線を固定した。

 何時も爛漫としている瞳が、今は何かを堪えるかの様に揺れている。

 その眼が、切なげな表情が、彼女の内に宿っている切実さを訴えてくる。

 胸が、ギュウっと締め付けられる。

 ごめんねという言葉が出そうになって、それを何とか飲み込む。

 謝っても、湊がモヤモヤとした気持ちを抱えてしまうだけだから。

 少し考えてから、私は小さく頷いて湊に語りかけた。

 

「うん、行くよ。

 きっと、暫く会えなくだってなる。

 でもね、それでもずっと会えないわけじゃないよ。

 私が、何時かきっと会いに行くから。

 だって、私の心の拠り所になる故郷は、この滋賀だから」

 

 湊の寂しそうな表情が、無くなることはなかった。

 でも、私の言葉が届いて、やんわりと悲しい気持ちがオブラートに包まれた様に隠れて。

 もーぉ、と仕方なさそうに呟いた湊は、真っ直ぐと私を見た。

 不安そうに揺れていた眼が、透き通った様に今は落ち着いていて。

 

「信じてる。

 他の誰でもない、朝日の言葉だから。

 だからね、たまに私が会いたいと思ってることを思い出してね」

 

 そういった後、湊はアハハと苦笑いをして、そっと視線を外した。

 それでも、私にはさっきの湊の、信じてると言った時の眼が焼き付いている。

 まるで、りそなが私を見る時の、心を預けてくれたような目。

 絶対に忘れないと誓わせてくれる、無条件の信頼。

 その正体を、私は知っていた。

 ――親愛と、それは呼ばれているもの。

 

「約束、するね」

 

 そっと小指を差し出すと、湊は戸惑いなく自分の小指を絡ませて。

 二人で一緒に、囁きあいながら二人で謡う。

 

 ――指切りげんまん、嘘吐いたら針千本の~ます。

 ――ゆびきった!

 

 

 それは、誓いだった。

 単純なお(まじな)い、些細な祈りを乗せての行為。

 けれども、だからこそ気持ちを乗せやすい。

 互いのことを想い合うこと、それだけに集中できるから。

 だから、湊の気持ちも十分に伝わってきて。

 絡めた小指を離すのが、ひどく名残惜しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間とは、願っていても止められないもの。

 自分で決意を表明しても、いざとなると心に戸惑いが出てくる。

 もう、気が付けば当日が訪れて。

 迎えに来てくれた駿我さんやカリンさんに頭を下げて、私は柳ヶ瀬家を仰ぎ見た。

 

 私が大変だった時、行き場がない時に居場所になってくれた家。

 住んでる人達は優しくて、一番の親友が出来た場所。

 思い出が沢山、これからもここで過ごした日々を忘れない。

 心を一つ、この場所に置いて行きたい。

 そんな、第2の故郷。

 

 そんな優しい家で、私を見送るために全員が都合を合わせてくれた。

 ここで過ごした2年で、大きくなった湊の弟くんや妹ちゃん達。

 何時も穏やかに見守って、私を受け入れてくれていたおじさんにおばさん。

 

「朝日」

 

 ――そして、私の大切な親友。

 

「湊」

 

 彼女の呼びかけに、私も応える。

 今日を迎えるまでに、多くの言葉を交わしていた。

 なので、今この場で話すことは少ない。

 ……本当は、日常の延長線なら話したいことは沢山有るけれど、それを口にするには時間が足りなくて。

 だから、本当に伝えたい言葉だけを、私たちは口にする。

 

「またね」

 

「うん、また」

 

 私達は、合わせたみたいに近付きあって、互いを互いが抱き寄せた。

 

「元気でね」

 

「うん」

 

「気を付けるんだよ」

 

「うん」

 

「……大切な言葉って、当たり前の言葉ばっかりになるんだ。初めて知った」

 

「大切なことを格好良く言うのって、難しいから」

 

「そっか」

 

 耳元で、二人で囁きあって。

 それから何も語らずに、十秒、二十秒と時間が経って。

 未練はあったけれど、これ以上は耐えられなくなりそうで、そっと私から離れた。

 

「今まで、お世話になりました」

 

 深々と、柳ヶ瀬の一家に頭を下げると、優しい言葉が沢山返ってきた。

 もう家族みたいなもの、何時でも遊びに戻っておいで、お姉ちゃんありがとう。

 言葉の一つ一つに心が温かくなって、込み上げてくるものがあったけれど、それを必死に我慢する。

 最後に泣き顔を見せていなくなるなんて、心配させてしまいそうだから。

 

「私も、皆さんのことが大好きでした」

 

 かわりに、微笑んだ。

 心配しないでと、そういう気持ちで。

 胸いっぱいに、温かさを詰め込んでもらえたから。

 私は最後に笑うことが出来ていた。

 

 

「行こうか、朝日さん」

 

 駿我さんの言葉に頷いて、私は黒色の高級車に乗り込んだ。

 ……車が発進する、この滋賀の地から離れるために。

 後ろでは、皆が手を振ってくれていた。

 私も、その姿が見えなくなるまで振り返す。

 大きな感謝と、お別れの寂しさを込めて。

 

 そうして、その姿が見えなくなった後。

 カリンさんが一言、窓の外に目を向けて言った。

 

「もう一人、いらっしゃってるみたいです」

 

「え?」

 

 心当たりはある。

 けれど、彼女は私がここから離れると聞いた時も淡白な反応で。

 心配はしてくれても、惜しんではくれてなさそうだった。

 だから、窓の外にその姿を見た時、私は胸を抑えていた。

 嬉しさや寂しさが、胸から零れそうな気がしたから。

 

 つまらなさそうな、無関心の様な、けれどもこちらを見てくれている目。

 私のことを嫌いと言っていて、けれども親身で居てくれた。

 ――七愛さん、私が初めて自分から友達になりたいと思った人。

 

「どうします?」

 

 カリンさんの言葉に、私は直ぐに答えれた。

 

「大丈夫です、そのままで」

 

 言葉を交わさなくても、分かることはある。

 そして、こうした場面で七愛さんが姿を見せてくれた理由も。

 話したいとは思ってなくて、それでも心に留めてくれていた。

 それだけで、私は十分に想われていると自覚できたから。

 窓を開けて、私は一方的に声を掛けた。

 七愛さんは気持ちを積極的に伝えてくれるけれど、私はそうでなかったから。

 

「七愛さんのこと、とっても大切なお友達でしたーーーーーっ!!!」

 

 分かりやすく、七愛さんが目を剥いていた。

 ”何言ってるんだ、こいつは”という気配。

 でも最後くらい、七愛さんを驚かせてみたかったから。

 

「ありがとうございましたーーーーっ!!!」

 

 大声を出すと、何となく何時も以上に気持ちが乗ってくれる気がする。

 遠ざかっていく七愛さんの表情を確認して、私はごめんなさいと心の中で呟いた。

 どうにも、私は七愛さんの怒った顔が結構好きだったみたいだから。

 

 名残はあった、心の整理だってまだ済んでない。 

 でも、後悔は残さなかったと断言できる。

 

「また会いましょうねーーーーーーっ!!!」

 

 聞こえているかなんて分からないくらい小さくなった七愛さんに最後の声を投げ掛けて。

 私は滋賀を、この優しい土地を離れて行く。

 またいつか、と空の彼方に約束を投げ掛けて。

 

 このダボーーーーッ!!! と、誰かの声が聞こえた気がして、少し笑ってしまった。







ルート分岐条件

・湊と勉強を天秤に掛けた時に、常に湊を優先する選択肢を取る

・七愛さんに自分のことばかりでなく、七愛さんが抱えている事情を尋ねる

以下の行動を取ると、ルートが分岐して七愛さんの抱えている問題を湊と解決するルートに分岐し、朝日が滋賀から離れたくないと駿我さんに言えるくらいの好感度を稼ぐことが出来るらしいです(空想ワザップより)。



滋賀編の完結により、次からはフランス編……と言いたいのですが、閑話を一話挟んでからになると思いますので、よろしくお願いします!


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閑話 朝日理論とその裏側で

休日出勤が2週連続……(なお、8/1に休日を振り返れて貰えました)。
あと、滋賀編が想定よりも大分伸びたので、1.5章としておきました。

今回はりそなとお兄様視点です。


 それは、姉が出ていって半年が過ぎたくらいのこと。

 兄の様子が、あれからずっとおかしかった。

 言動がおかしいのは何時ものことだけれど、様子までおかしな兄を見るのは初めてだった。

 

 あの日、姉が家から追い出されてから、兄から表情が抜け落ちた様になっていた。

 母の前では平然と“気が違っておりました”と言うくせに、母の見えないところでは透徹した目になる。

 あの激情家で、傲岸不遜で、色で表すならば赤の兄が。

 

 何を考えているのか、何を思っているのかが分からない。

 姉が居なくなってから、兄はまるで仮面を被ったみたいになっていて。

 私のことに関しても、今までは視界に入れば鬱陶しそうにするのに、今では居ないもののように扱われている。

 前までは怒鳴り散らされる様な失敗をしても、今では何の感情も見せることはない。

 

 前も恐ろしい人だったけれど、私は今の方が恐怖を感じる。

 だって、前はどれほど劣っていようと、一応は人間の扱いをされていたから。

 今は、兄の気まぐれでゴミのような扱いを受けるかもしれない。

 そんな疑心ばかりが、私の中で大きくなっていく。

 

 だからこそ、私は安心した。

 ――姉のことを話した時、僅かに兄の顔に色が戻ったから。

 

「……やはりな、この現代社会で人一人がまるごと消え失せることは有り得ない。

 死体が出ていないのであれば、誰かが埋めたか匿っているに相違ない。

 そして、アレを手札にするメリットを持つ者も、おおよそ限られている」

 

 駿我め、と舌打ちをする兄には、確かな忌々しさが表情に出ていて。

 安堵と同時に、震えも同じく体から現れた。

 兄のその目が、私を捉えたから。

 

「それで、りそなよ。

 アレの居場所を報告したのは何故だ、何を企んでいる?

 お前は俺を恐れている、それは間違いない。

 だが、雌犬の子に関して、貴様が妥協しないタチであることを俺は知っている」

 

 兄が目を細めるだけで、私は一歩後ろに引き下がってしまう。

 さっきまでの正体不明の怖さではない。

 心が覚えている、規格が違う上位者に対しての怯え。

 

 ここで、私は思い知った。

 この人がそう簡単に変わるわけがない。

 姉が居なくなって気落ちしていた訳ではなかった。

 単に、私に覗かせていた僅かな信頼すら隠してしまっていただけで。

 兄にとっては、血を分けた肉親ですら油断してはいけない人になっていて。

 ここで初めて、前まで僅かなりとも兄が私を妹扱いしてくれていたことを知った。

 

「私は、衣遠兄様と敵対するつもりはありません。

 だからこそ、こうして姉のことを話しています」

 

 半分は本当で、もう半分は嘘を吐いた。

 兄に従属するなら、上の従兄弟から報告を受けた時点で直ぐに知らせている。

 それをしなかったのは、姉をこれ以上困らせたくなかったから。

 だから上の従兄弟が姉を隠し、防備を固められるまで話をしなかった。

 そうした上で今更話すのは、さっき言った通りに兄と敵対するつもりがないから。

 もし私が兄を心から裏切ったのなら、姉は心から悲しむ。

 姉は、本当に疑問に思うけれども兄のことも好きだから。

 それに……、

 

「だが、駿我は雌犬の子を手に入れた。

 故に、お前に連絡を寄越した。

 お前が、アレの為ならば俺を容易く裏切ることを知ってだ。

 そんな貴様の言葉を、何を持って信じるに値するというのか」

 

 兄の言葉は、確かに正しい。

 私は兄か姉かと聞かれれば、迷いなく姉を取る。

 けれど、それは崖から落ちかけていたらどちらを助けるかという二択での話。

 兄は健在で、足を滑らせる間が抜けたことをしないと、私は何よりも知っている。

 そして、兄が今、何を恐れているかということも。

 

「怖いのですか、衣遠兄様」

 

「――何?」

 

 声に険が交じる。

 上位者としての態度が崩れて、激情家としての兄が面を覗かせた。

 間違いないと、いま確信する。

 兄は、姉のことに関して我慢ができないということを。

 

「誰かに裏切られることに対して、です。

 前の兄ならば、圧を掛けるだけ掛けて、私を泳がせるくらいはやってみせた筈。

 でも、今はひどく慎重です。

 ……姉が、衣遠兄様の下を去ってから」

 

 まるで当て付けるような言葉になってしまっていた。

 けれども、怯えているだけでは会話が出来ないから。

 精一杯の勇気と姉を想うことで、自分が逃げられる橋を落としてしまった。

 背水であるのだから、会話をせざるを得ない状況へと自分を追い詰める。

 もう、傍観しているだけでは嫌だから。

 何かが起こった時、私も何かを起こせるようになっている必要があるから。

 

「言いがかりでマウントを取ったつもりか、愚かなる妹よ。

 アレが売女の娘であることなど、百も承知していた。

 俺の命であれ裏切るのも、それだけで納得がいくというもの」

 

「姉に裏切られたと、そう思われているのですね」

 

「くだらない揚げ足を取って何になる。

 余計に俺の神経をささくれ立たせるだけだと分からないか、無能なる妹よ」

 

「衣遠兄様の、あの時の切実な声。

 家族を想う声を、初めて聞きました。

 電話越しであれ、忘れられる筈ないです」

 

 “お前は、俺の妹で居なければならない”

 あの時、兄は確かにそういった。

 私が初めて聞いた兄の執着、それは姉に対するもの。

 後になって思い返し、驚いて、そうして納得した。

 あの姉ならば、兄の心を溶かすことも出来るかもしれない、と。

 そして、だからこそ兄よりも母の言葉を優先した姉に対して、裏切られたという気持ちになったのだろうと。

 

「……黙れ」

 

「いいえ、黙りません。

 衣遠兄様は確かに姉を、大蔵朝日を想っていました!

 貴方は、あの人を大切に想っていた!

 それは間違えようもない事実です!」

 

「――黙れとッ、言っている!」

 

 机を殴りつけた兄の声で、自身の勢いが止まるのを自覚する。

 そして、取り繕いもない程に激高している兄の姿に、恐怖が身を浸していくのも理解して。

 兄が私を睨みながら近付いてくることに対しても、私は震えて足を動かせなくて。

 私の服の襟首を掴んで引き寄せることに対して、微塵も抵抗することが出来なかった。

 

「お前がどれほど囀ろうと、俺の言葉こそが事実!

 アレが居なくなったことに対して、俺が苦しみを覚えるはずがない!!

 あの時に舐めさせられた苦渋に対しての怒りのみが俺を支配し、行動させる!!!

 忘れるな、愚かなる妹よ!!!!」

 

 地面に叩きつけられるように、その手を離される。

 ケホケホと咳き込む私に、兄の呟きが何故だかクリアに聞こえた。

 

「この俺が執着などと……おのれ、忌まわしき雌犬の系譜がッ」

 

 

 

 

 

 その日から、私は兄に話し掛けることはなかった。

 あれ程の怒りを買って恐ろしかった。

 我に返った自分を、心の底から本気で呪った。

 だけれど、あの日から兄の顔に色が戻っていた。

 そうして、私の顔を見ると忌々しそうな表情を浮かべる様になっていた。

 これは多分……本当に希望的観測だけれど、私を妹として扱ってくれていると思うことにしている。

 

 偶に会話して、舌打ちされて、吐き捨てられる。

 それが私と兄との関係、微塵も好きになれない身内。

 けれども、確かに私は兄を兄と認識していて、私にとっては唯一の肉親である様に感じる。

 母を許せそうになくて、父は家族全てを遠ざけているから。

 

 それに、私は上の従兄弟に対して感謝こそしているけれど、信頼は微塵もしていない。

 兄が姉を好きに扱う権利があると思い込んでいたように、上の従兄弟が姉の生殺与奪を握っている現実が不安で仕方ない。

 あの人は怖い人で、気楽に話をしてくる中に計算が幾つも隠されている人だから。

 だから、兄に姉のことを話した。

 兄が上の従兄弟に噛みついている間は、姉はキチンと人質として機能しているし、粗略に扱われることがないのだから。

 こういう計算ができるようになった自分に憂鬱になりつつ、自分の出来ることにコツコツと取り組んでいく。

 そうすることしか、姉に会える道が無いのだから。

 

 

 

 けれども、私は少し勘違いしていたかもしれない。

 兄は、私の計算の上で踊り続けてくれる程に小さな人物ではなくて。

 そして、世の中には私の知らない事実というものが存在するということに。

 いわゆる大人の事情という世界について、私は知っている様で知らなかった。

 

 だからこそ、私は兄がトチ狂ったのかと思った。

 ある日、どこか知らない別荘に連れてこられて、3月の中頃まで面倒を見ろと知らない女の子を押し付けられた辺りで。

 

「こんにちは、メリル・リンチです」

 

「えぇ……」

 

 

 

 

 

 駿我は、恐らく時期を待っている。

 後継者争いが激化し、その攻防の中で使える切り札。

 それがアレの扱いで、だからこそ後生大事に隠している。

 であればこそ、ジョーカーと思いこんでいるカードがブタであったと思い知らさなければならない。

 役立たずであるのならば、拘る必要はなにもないのだから。

 なればこそ、より強力な手札が必要だった。

 雌犬の子の価値を落とし、家中を掌握するに足る鬼札が。

 それに、一つばかり覚えがあった。

 

 始めに、欧州に潜ませている駿我の配下を根こそぎにした。

 如何に駿我といえど、アレを守るのに必死でこちらにまで人員を回しきれていない。

 共同で封印したモノで、駿我もその危険性については承知している。

 故に、今は無き家の亡霊を呼び起こすのは博打とも言える。

 だが、現在は駿我の策略こそが俺を脅かし、立場を不安定にさせる。

 メリットとデメリットを比較した時、座して待つ愚かさを上回る劇薬がそれだった。

 

「アレに……朝日という女に会わせてやろう」

 

 だからこそ、俺はそれに手を差し伸べる。

 駿我の妨害を粉砕し、ついでにアンソニーに蹴りをくれてやり、俺はここに立っていた。

 

「朝日は……朝日は元気でやってますか?

 急に手紙をくれなくなって、事情を知りたくても分からなくて。

 ずっと、心配していました」

 

「それを知るためには、お前がここから旅立つ必要がある」

 

「この場所に、このサヴォアに戻ってくることは出来ますか?」

 

「全てが終わり、貴様が用済みになれば可能だ」

 

「わかり、ました、付いていきます」

 

 雌犬の遺伝子というものは、誰であれ蕩けさせるのだろう。

 たとえ、それが女であろうとも。

 それ程に、この女からは決意を感じられた。

 

「メリル・リンチです、よろしくお願いします」

 

「大蔵衣遠、これより俺は貴様の飼い主であり、貴様は俺の駒だ。

 それが、この契約の条件だ」

 

「はい……ところで、貴方はお兄様でしょうか?」

 

「大蔵衣遠だ、お兄様などではない」

 

「いえ、朝日が手紙に書いてました。

 とても素敵で、大好きで、尊敬できるお兄様がいるのだと」

 

「……………………衣遠と呼ぶが良い、お兄様などと間違っても呼ぶな」

 

「はい、衣遠さん」

 

 アレは、俺が手紙を検閲していたことを知らなかった。

 だが、抜け抜けと俺を称賛し、くだらないことを書き連ねていたことをこちらは知っている。

 知っているからこそ忌々しい、古い写真に触れて指を切った感覚が近い。

 

 愚かで、愚鈍で、平凡な小娘。

 だが、人の心に土足に踏み込んで住み着く、厚顔さを持ち合わせている。

 しかし、俺は知っていた筈だ。

 アレは飼い主に尻尾を振る能はあれど、飼い主に噛みつく野心も才覚も持ち合わせていないことを。

 なれば、あの時の行動は、本気で俺を案じた末の行為であったということになる。

 そうであったのならば……、

 

「愚か者め……」

 

 奴の愚昧さを見誤っていた俺もまた、目が曇っていたことになる。

 無能なものはやはり、害にならないように檻に閉じ込める必要がある。

 二度と逆らえないよう、躾ける必要があった。

 

 そうでなければ、あの死んだ女を、幽閉している父に思い知らせることなど、出来るはずがないのだから。

 故に、俺はアレを掌握しなくてはならない。

 俺が俺で、大蔵衣遠であるために。

 その過程に、復讐以外の感情が折り混ざることなど有り得ない。

 

「次は、ない」

 

 愚かなる雌犬の子を、屈服させる必要がある。

 俺の言うことに対して、はいと頷く様にしなければ。

 もう二度と、俺の掌から逃げ出そうと思わないように。

 

 

 

 

 

「駿我か、俺だ、大蔵衣遠だ。

 状況はもう把握しているのだろう?

 ならば、今のうちに頭を垂れる権利をやろう。

 雌犬の子と山弌家の遺児では、当然価値が違いすぎる。

 あの爺がどんな判断を下すか、それも理解できよう」

 

『こうもあっさり不可侵を破り捨てるとはね。

 山弌家は既に消滅したと思われていた筈の家。

 その家の系譜がまだ続いていたとなれば、総裁殿は勢いのままに全てをその子に捧げかねない。

 だからこそ、山奥に見つからないように隠したんだろう?

 その子を利用すれば、お前は自分で自分の野心を潰すことになるぞ』

 

「構わない。この女が当主になろうが、爺は相当な歳だ。

 ならば、奴が死んだ後に俺が大蔵を掌握すれば良い」

 

『なら、結局のところ、俺がお前に頭を下げる理由はないな。

 俺はお前が大蔵の全てを掌握させないために、総裁の座を狙っているだけだ。

 一度その子が総裁の座に着くというのならば、俺がその後ろ盾になれば良い』

 

「そうして、傀儡として大蔵を牛耳る黒幕になると。

 クク、陰険な貴様らしい策だな」

 

『お前にどうこう言われようと、考えを曲げる気はない。

 だから何を言われようと、俺は退かないし……朝日さんを引き渡すつもりもない。

 脅迫のつもりだったのだろうが、共倒れはこちらの望むところだ。

 逆に衣遠、お前が焦っているのが手に取るように分かる。

 でなければ、こんな短絡的な手段は取らない』

 

「いいや、俺の方こそ分かる。

 お前の焦燥が! 強がりが!

 冷静に俯瞰すれば分かる筈だ、駿我。

 己が置かれた状況を、そうして強がるしか策がない現状を!」

 

『俺としても、このまま強情を張り合っても良い。

 確かに富士夫一家は、暫し劣勢に立たされる。

 だからといって、即座に大蔵家から排除できる訳がない。

 そしてお前は、一つ見落としをしている。

 山弌家の子が、幽閉していた俺とお前を許しておく訳があると思うか?』

 

「クク、ククク、カハ、ハハハハハハハ!!!」

 

『……何が、おかしい』

 

「残念ながら、お前の願望は何一つ叶わない。

 何故なら、奴が望んでいる願いは一つのみ」

 

 うまく行っている。

 全てが望むままに、自分が望んだ方向に運んでいる。

 その絶対の自信を持ったまま、俺は高らかに告げた。

 

「大蔵朝日、奴の願いはアレとの再会のみだからだっ!」

 

『……なるほど、そう来るか』

 

「取引しようじゃないか、駿我。

 なに、悪い話ではない。

 これが守られる内は、メリル・リンチを爺に見せびらかさずにおこう」

 

『何が望みだ』

 

 苦々しさが垣間見える駿我の言葉が、とても甘美に感じる。

 最早やつが、この選択を避けうることはない、避けても無駄だと理解しているからだ。

 取引に応じて傷を最小限に留めるか、それとも爺に話が回って余計に話がややこしくなるか。

 馬鹿でなければ、選択肢は一つしか無い。

 

「アレを、朝日をフランスへと連れてくるがいい。

 爺に監視されず、ことを運ぶには最適な場所だ」

 

『…………分かった、従おう』

 

「ククッ」

 

 自然と零れそうになった笑い声を、最小に抑える。

 ようやく、アレが手元に戻ってくる手筈が整ったのだから。

 

『だが、一つ訂正させてもらおう』

 

 そんな愉悦の中で、駿我の声が聞こえる。

 寛容な気分でそれに耳を傾けると、駿我はおかしなことを言った。

 

『アレとか、雌犬の子とか、猥雑な表現を止めてもらおう。

 君の妹の名は朝日だ。

 尤も、今の発言で彼女のこれまでの扱いが分かるというものだ。

 やはりお前は信用できない』

 

 言い捨てるように、電話が切られる。

 あとに残ったのは、言いようもしれない不快感だった。

 何故かと分析すれば、自ずと答えは明確になった。

 駿我が、道具であるはずのアレに対して、まるで自らが庇護を与えているかのような……。

 

 そこまで考えて、有り得ないと首を振った。

 あの爬虫類の様な男が、そんな感情を持ち合わせているはずがないのだから。

 あるのは有益か、そうでないか、それだけ。

 それだけの、はず……。

 

「何だというのだ、この不快感はッ」

 

 どうしようもないムカつきに、体を支配される。

 だが、暴れるという選択を取るほどには、それは明瞭な形をしていなくて。

 それを振り切るように、席を立った。

 久しぶりにトンカツを食べようと、そう思って。

 あの日、あの愚妹が消えてから、食べる気が失せてしまっていたから。

 自分に振る舞って、まるで犬が懐いてるようににこやかにしていたあの顔を思い出すから。

 全てが錯覚、そんなものはマヤカシに過ぎないと、自分に言い聞かせて。

 好物があの妹に囚われたまま食せぬ等という軟弱さを、再びまみえる前に振り払う必要があった。

 

「俺は全てを手に入れる。

 大蔵家も、トンカツも、愚かなる妹も、全てッ!」

 

 そう、でなければ許せない。

 それこそが、大蔵衣遠の生き方なのだから。





to be continued

次章 パリ編開始


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第2章 私たちに翼はない
第25話 告白


投稿が遅れてしまってすみませんでした!
弟が濃厚接触者になって、こっちも自宅待機している間に生活習慣が狂って戻すのに苦労しました……(言い訳)。

それはそれとして、ここからパリ編が開始します。
皆様も、どうかよろしくお願いします!


「パリ、かぁ」

 

 フランス、パリ。

 世界の中心とも言える、文化の発生地点。

 憧れや憧憬を抱く人も少なくない、そんな文明の発信地。

 その地に私は立っていて、けれどもその感動を私は味わうことが出来ていない。

 ここに来る前の出来事が、私にそれ以上の揺さぶりを掛けていたから。

 そう、あれはここに来る時に乗っていた飛行機での出来事だった。

 

 

 

 

 

「朝日さん、大事無いかな?」

 

「はい、乗り物酔いにはなったことがございません」

 

「それは重畳、何事にも耐性があるのは良いことさ」

 

 日本の空港をリフトオフしてから少しして。

 駿我さんが所有するプライベートジェットで、私達は空の上を飛んでいた。

 その事実に、私はようやく驚きから解放されつつあった。

 そもそも、航空機を個人で所有するには、溢れるばかりのお金が必要で。

 私とそう歳が離れていない駿我さんが有するには、並大抵のことではないのだと理解している。

 

 ご両親に買って頂くというのも、駿我さんの性格を考慮するとまず無い筈。

 だとすると、駿我さんは自社の経営だけで自由にこれだけ使える資金を用立てているということ。

 駿我さんが泊まって居られたホテル、身に着けている装飾品、所有していた高級車。

 どれも品良く纏められてはいたけど、確かに目を瞠るような高級品ばかりで。

 けれども、そこまではまだあり得る次元の話だった。

 でも、ここまで来ると、流石に次元が違うと認識するしか無い。

 

 会社の社長で、お金持ちなんだと名乗っていた駿我さん。

 その名乗りに嘘はないけれど、あえて訂正するなら、大金持ちと名乗られた方が良いかもしれない。

 それ程に、私は驚いてしまっていて。

 駿我さんはそれを、乗り物酔いと勘違いしたみたいだった。

 だから、その誤解を解いたのがたった今。

 そうか、良かったと言われる駿我さんには心配を掛けてしまったかなと思いつつも、そうしてくれていることに嬉しさを覚える。

 はしたなくてごめんなさい、お優しい駿我さん。

 

「日本からパリ間の飛行は10時間を超える。

 その間、ずっと気分が悪いのは、軽く言っても地獄だ。

 それは可哀想だし、君と話が出来ないのも残念だからね」

 

「全然大丈夫です、沢山お話しましょう!」

 

「そんな気合を入れてもらうことでも……いや、そうだね。

 では、一つ心構えが必要な話をしようか」

 

 軽くそう言った駿我さんに、私はなんだろうと耳を傾けて。

 

「――実はね、今まで名乗っていた小倉駿我って名前は偽名なんだ」

 

「………………え?」

 

 口調と反して、告げられた内容はとても重要で。

 そうして、私の頭を停止させるのには十分な一言だった。

 

「本名は別にあって、君と近付くにあたって別の名前を名乗る方が都合が良かった。

 君に対して善意で近付いたふりをしていたけれど、本当のところは計算を巡らせていたんだ」

 

「そ、それは……一体……?」

 

 頭は、駿我さんが話す内容について行っていないけれど、何か話さずにはいられない。

 それがたとえ、毒にも薬にもならない内容だとしても。

 思考停止したまま駿我さんに尋ねて、そして私はそれを耳にした。

 

「俺の本当の名前は、大蔵駿我。

 朝日さん、君の同類だよ」

 

 感情なくサラリと告げられた言葉は、私の情緒を掻き混ぜた。

 処理をするには情報量があまりにも多くて、私の頭を混乱させる。

 そうして、頭がグルグルと困惑の渦に巻き込まれたまま、私は口を開いていた。

 

「驚き、ました」

 

「うん」

 

「普段と一緒の感じで、世間話みたいに仰るから」

 

「うん」

 

「駿我さん、本当に私の家族、だったんですね」

 

「うん……うん?」

 

「驚いて、ビックリで頭がいっぱいで、まだ困惑していますけど」

 

 顔を上げると、困惑気味の駿我さんの顔が目に入って。

 その姿は、紛れもなく私が頼りにしていて、心の支えになっていた駿我さんそのもので。

 それが、私の中でしっかりとした確信を与えてくれる。

 

「心の繋がりだけでも、十分に嬉しかったです。

 けれど、血の繋がりがあってくれて、それもとても嬉しいです。

 確かな繋がりが、切れない連綿としたものが私と駿我さんとの間にあって、良かったです」

 

 頭は、確かにごちゃっとしていた。

 けど、それは悪いことでは全然なくて。

 むしろ、どうして駿我さんがここまで良くしてくれたのか、そんな理由の答えでもあって。

 だからこそ、私は心から良かったと言いたくなった。

 この繫がりが、きっと私と駿我さんを結んでくれたのだと察することが出来たから。

 

「……聞いても良いんだ。

 大蔵の名前を伏せて、君に近付いた理由を。

 何を企んで、何をしようとしているのかを」

 

 何かを我慢するように、駿我さんはそうする権利が君にあると言う。

 仮面を被ったように、全ての表情を隠して駿我さんは私を見つめていた。

 私も、そっと駿我さんに視線を合わせると、目と目が重なり合って。

 暫く、ジッと私達は見つめ合っていた。

 そうして、数分後。

 声もなくそうしていた中で、先に目を逸したのは駿我さんの方だった。

 

「聞いても良いと言ったのに、無言になられるとこちらも対処のしようがない」

 

「申し訳ございません、駿我さん。

 でも、やっぱりって思いました」

 

「何がだい」

 

「駿我さんは、私を傷つけようとして近付いたわけじゃないってことです」

 

「目を見ていただけで、そんなことが分かるものかな?」

 

「分かります、他ならない駿我さんのことですから」

 

 さっきの駿我さんの目。

 揺らぎの中に迷いがあって、無表情の中でも優しさが隠しきれていない。

 ズルいけれど、気を許していただいている身だからこそ、分かる。

 やっぱり、駿我さんは私のことを家族として好いてくださっているということを。

 

「だから、都合良く話してください。

 全て、それを真に受けさせてください。

 駿我さんの言葉なら、それを全部信じます。

 都合の悪い事実は切り取っても構いません。

 隠し事をしてはダメなんてこと、無いんですから」

 

 駿我さんは、とても後ろめたそうにしている。

 それは、確かに善意以外の理由があったことの証左で。

 けれども、それで良いと私は思う。

 どんな理由があったとしても、あの時に頂いた好意に偽りは無いと知っているから。

 一緒に過ごして、話して、駿我さんがどんな人かを私は知っているから。

 だから、大丈夫ですよと話して。

 

「……君の気持ちは、少し重いな」

 

「甘えさせて頂いた分、糖分過多で愛が重くなっています」

 

「愛、か」

 

「はい、駿我さんに育てて頂いた家族愛です」

 

 照れは勿論あった。

 けれども、それは隠しようもないもので。

 だから明け透けにするのは品がなくとも、もう私に隠し立てるくらいの体裁は無くて。

 ――私に嫌われると感じておられる駿我さんに、思い切りよく伝えてしまえと思っていたから。

 

 

「…………下心、は多分俺にもあったんだ」

 

 そんな独白から俯いて、駿我さんは自ら話し始めた。

 私が言った、都合良くという言葉は耳に入っていなかった様に。

 

「大蔵家は親戚の仲が悪くてね。

 莫大な財貨、権能とさえ言える権力、それらに付随する数多の欲望の数々。

 大蔵家総裁の座を巡って、俺と衣遠は争う仲だった」

 

 語る駿我さんからは、何ら隠し事をしようとする気配がない。

 私がお兄様のことを尊敬していると、駿我さんは知っているから。

 それなのに、私に理解できるようにあらましを話していく。

 

「次期当主になるために、多くのことを行った。

 お互いが総裁殿の関心を得ようとし、相手の足を引き合った。

 自分が成功することよりも、相手の失敗を喜ぶ。

 そんな関係性が俺と衣遠の仲だ。

 最悪なのは、それが個人間だけでなくて家族間で行われていたこと。

 富や権力は人を腐らせるというが、その腐臭は全体にも及んでいた。

 総裁殿は家族は仲良くなんて言っているが、おままごとの関係性でしか俺達は繋がってない」

 

 胸とお腹が、きゅぅっと苦しくなる。

 淡々と語ってくれてはいるけれど、これまでに駿我さんは衣遠兄様のことを良くは思ってない口ぶりだったから。

 きっと、お互いに今まで争ってきたからこそ……。

 無表情のフィルター越しにでも、相手への辟易とした感情が伝わってくる。

 仲が悪い、を通り越している感触が。

 

「ある意味で、俺は衣遠を信頼していた。

 朝日さんの前で言うのも憚られるが、コイツはろくでなしだという信頼だ。

 だからこそ、俺も容赦なく策謀を巡らせた。

 お互いに、相手を破滅させようという気持ちだけは通い合っていた。

 そうして、弱みを探していく内に、俺は朝日さんに辿り着いた」

 

 俯きがちだった駿我さんの顔が、ゆっくりと上がる。

 私を見つめるその目は、吸い込まれそうな黒色で。

 澄んだその目に、私は引き込まれそうになっていた。

 

「君を見つけて、衣遠の弱みになると思った。

 だからカリンに言い付けて、君の周りを探らせたんだ。

 だが報告を受ける中で、君や里想奈さんが他の大蔵とは違うと、お互いを想い合っていることに気がついた。

 思えば、それが俺の君達への好意の始まりだったんだろうな。

 ……あとは、君の知っての通り。

 ずっと監視していたくせに、君が金子さんに追い出されて、ボロボロになって家族と離散したのを傍観していたんだ」

 

 弱々しく、駿我さんは微笑んだ。

 その微笑みと話の流れで、駿我さんが何を仰っしゃりたいのかも理解できた。

 つまりは、駿我さんは私に何を言われても仕方ないと思っているのだろう。

 もしかすると、私を利用するために近付いたと、その行動そのものが裏切りだと断じて欲しいのかもしれない。

 

「駿我さん、さっき私は言いました」

 

 駿我さんは、相手の気持ちを慮ろうとする。

 どれだけ凄い人だとしても、悪いことをしていると感じた時に罪悪感も覚える。

 だからこそ、駿我さんはこうして自虐的に仰るのだ。

 そんな駿我さんだからこそ、私は伝えなければならないという気持ちを強くする。

 

「駿我さんが駿我さんでいてくれる限り、私はそれを受け入れたいです。

 私とお兄様が別れた時のこと、私の気持ちを思って心を痛めて下さった駿我さんは私の知っている駿我さんに相違ありませんから」

 

 胸に手を当てて、今までのことを思い出す。

 手を差し伸べて下さったこと。

 気安く触れ合ってくださったこと。

 優しく教え諭してくださったこと。

 交わした会話には敬愛が混じり、交流は思い出になり、触れ合いは絆となった。

 今更、自分は悪い人なんて言われても、それは違うと私は知っている。

 

「小倉であっても大蔵であったとしても、私は駿我さんを尊敬します。

 ごめんなさい、駿我さん。

 私は利己的で、ワガママです。

 なので、駿我さんの気持ちよりも、私の感情を優先させて下さい」

 

 そこまで言い切って、今度は私から駿我さんの顔を覗き込んだ。

 思い切ったことを言った気がして、心がソワソワしてしまっていたから。

 

「は、ハハ、ハハハッ!」

 

 そして覗き込んだ先には、口を開けて笑っている駿我さんのお顔が。

 気持ち良さげに、楽しげに。

 そうして、私の頭にそっと触れられた駿我さんが一言呟いた。

 

「――キラキラ、している」

 

 駿我さんの瞳に何が映っているのか、私には分からない。

 でも、キラキラしているものを、私の何処かに見出したのは何となく分かって。

 フワリとしていた気持ちに、ムズムズとするものが混じり始める。

 気恥ずかしさが、心をカリカリと掻いている感覚。

 

「……なにが、でしょうか」

 

「……言うのは憚られる、それで察して欲しい」

 

 はい、と私は小さな声で返事をした。

 それ以上聞くのは無粋だとか以前に、私の方が口をモゴモゴさせてしまいそうだったから。

 それから一分、静寂が私達を包んだ。

 秒針が音を立ててたからそれに気が付いたけれど、感触的にはもっと時間が立っていた気がした。

 

「朝日さん」

 

「はい、駿我さん」

 

 そんな中で、先に話して下さったのは駿我さんだった。

 気まずさに近い気恥ずかしさで、それを払拭してくれる立ち回りには有り難さしかない。

 ただ、話をする駿我さんの顔はひどく真剣だった。

 

「俺は衣遠と分かり合えない、分かり合おうとも思わない」

 

 そう切り出した駿我さんは、でも、と続ける。

 私の肩に軽く手を置き、優しげな声で。

 

「君のことは大切に思っている。

 そして、君があの衣遠を慕っていることも分かっている。

 だから君が望むのならば、少し、そう少しだけ譲歩することも考えよう。

 勿論、俺からは歩み寄ったりしないし、攻撃されれば反撃だって行う。

 ただ、停戦する余地だけは残しておく気になった。

 君というバイアスを掛けられるなら、僅かにだが奴の存在も辛抱出来そうなんだ」

 

 そう語る駿我さんに、私は一つ頷いた。

 駿我さんとお兄様が争っているという現実に、戸惑いはある。

 本当のところは、まだしっかりとした状況を認識してはいないのだと思う。

 でも、二人がお互いを傷付け合うよりは、そっぽを向きながらも許容しあって欲しいから。

 

「私にできることを、精一杯やりたいと思います」

 

「うん、頑張れ」

 

 

 

 

 こうして、私はパリでやりたいこと、やるべきことが一つできた。

 それは、お兄様と駿我さんを仲直りさせるということ。

 きっと、すごく大変なことなのだろう。

 駿我さんの言葉の節々に、お兄様に対する棘が隠さずに刺さってきていたから。

 そして、お兄様は自身に敵対的な人に容赦するとも思えない。

 こうしてゆっくり考えてみると、凄く大変なことなのだろう。

 けれど、だからといって投げ出したくなんてない。

 だから……、

 

「空が、青いなぁ」

 

 パリの真ん中で空を見上げた。

 日本でも見ることのできる蒼穹が、パリだとフランス語の喧騒も相まって不思議な情緒を感じる。

 けれどそれが、不安もまた掻き立てる。

 ここには知っている人がいなくて、一人ぼっちな気分にさせられる。

 そもそも、私はフランスに行かなければならない理由を、まだ聞いていなかった。

 恐らくは大蔵家、そしてお兄様関連のことだとは思うのだけれど。

 

 目的も何も分からない。

 そうした不安は、形にならない淀みを胸に生み出して。

 誰か味方がいてくれたらな、と思っていた時のことだった。

 

「……朝日?」

 

 ふと、知り合いの居ない筈のフランスで、私の名前を呼ぶ声がした。

 思わず振り返れば、そこには目を真ん丸に見開いたプラチナ色の髪をした女の子の姿。

 見覚えのある、香るような懐かしさが風に乗っていた気がした。

 私も、思わずその人の名を呟く。

 

「……メリル、さん?」

 

 そう口にした瞬間、彼女が勢い良く胸に飛び込んできた。

 縺れながら、それでも倒れずに彼女を受け止めると、ギュッと強めの力で抱きしめられる。

 懐かしい、素朴だけれど清潔なメリルさんの気配。

 それだけで、感じていた不安から少し救われた気がした。



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第26話 朝日の方が大きくなってた

先月は更新できずにすみません。
今月から、何とか月2更新には戻していきたいです。


 懐かしく感じる感触だった。

 素朴だけれど、優しい匂い。

 健気で、けれどもピッタリと寄り添うような暖かさ。

 私の名前を呼ぶ、柔らかな声。

 幾度の夜も、二人で編み物をした記憶が呼び覚まされる。

 胸が温かくて……だからこそ感じる罪悪感。

 

「朝日、朝日っ!」

 

「ごめんなさい、メリルさん……」

 

 色々あったんです、と言い訳をしたい気持ちもあった。

 本当は、私も寂しかったのだと。

 けれども、私はそういった諸々の喪失感を、湊や七愛さんと交流することで乗り切ってしまえた。

 忘れていた訳ではないけれど、感じていた寂しさのウェイトはある程度緩和できていた。

 だからこそ、こうして腕の中にいるメリルさんに対して申し訳無さを感じてしまう。

 私だけ、何だかずるいことをしてしまった様な気持ちがあったから。

 

「――良かった」

 

 でも、メリルさんの口から出た言葉は、私を糾弾するものではなくて。

 心の底から、本当に安堵した顔。

 目の端に涙を浮かべ、それでも笑顔を浮かべている。

 そこに何らマイナスの気持ちは、やっぱり感じられなくて。

 

 それで、私もさっきまで一緒だった駿我さんの気持ちが少し分かった。

 後ろめたく思っているところに、好意と勢いで流されてしまう。

 胸にごめんなさいという気持ちが沈殿して、それを吐き出せない。

 申し訳ありません駿我さん、これは確かに辛いものですね。

 

「朝日、うん、朝日。

 何かおっきくなっちゃってるけど、間違いなく朝日だ。

 また、会えた……」

 

 でも、この状況で、メリルさんに手紙を出せなかった不義理を糾弾して欲しいなんて、絶対に言えない。

 私だって、メリルさんと再会できたことが、間違いなく嬉しいのだから。

 ジワジワと胸に嬉しさが湧き出してきて、メリルさんの気持ちと重なっている。

 この状況で、水を差すことはできない……したくないが正しいのかもしれない。

 

「もしかしたら、メリルさんがちっちゃくなったのかも、しれませんよ?」

 

「違うよ~、私だって大きくなったんだから!

 もしかして、朝日イジワルになった?

 私の知ってる朝日は、もっと素直だった」

 

 プクッと膨れたメリルさんに、私は笑うのを堪えきれなかった。

 その愛らしさが、今も損なわれていない様子が、とても健気に感じて。

 胸が、じんわりと暖かくて。

 

「ごめんなさい、メリルさん。

 それから、ありがとうございます。

 私も、こうしてまた巡り会えて、とっても嬉しいです」

 

 私のその言葉に、うんとメリルさんは頷いて。

 また私の胸元に、顔をギューっと押し付けた。

 まるで、迷子の子供がお母さんを見つけた時みたいに。

 それに、何だか申し訳なさをおぼえる。

 寂しかったと、回された腕の力が教えてくれる。

 ただ、私はそれに抱擁で応えるしかない。

 いま話そうと思えば、全てが言い訳がましい言葉で塗れてしまいそうだから。

 

「朝日」

 

「はい、メリルさん」

 

「あさ、ひ」

 

「ここに居ますよ、メリルさん」

 

「……うん、嬉しい」

 

「私も、です」

 

 私達は、世界の中心(パリ)で気持ちを伝えあった。

 周りの目が痛かったことは、メリルさんは気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 私達が正気に戻ったのは、通りすがりのパリジャンに舌打ちされたから。

 道のど真ん中で邪魔だと、つまりはそういうことだろう。

 仰る通りです、誠に申し訳ございません。

 そういうわけで、私とメリルさんはそそくさとその場を後にして。

 目指した場所は、指定されていた宿泊先。

 私は駿我さんから、メリルさんは何とお兄様から!

 

「お、お兄様にお会いしたのですか?」

 

「うん。怖い人だけど、朝日をとても大事に思っているみたい」

 

 眉を下げて、困ったようにメリルさんは言う。

 多分、お兄様の雰囲気がメリルさんをそうさせてしまったのだろう。

 でも、それでもお兄様を恐ろしいだけの人だと断定しないのは、彼女の目を通して見たものがあるから。

 私の目から見たものとは、多分違う景色だったのかもしれない。

 

「私のことを……?」

 

「そう。朝日のことを語る時、衣遠さんはどこか遠くを見て。

 思いを馳せる、そういった感じ。

 だから、とても朝日は思われてる。

 朝日が衣遠さんを想う気持ちと同じく、衣遠さんも朝日のことを」

 

 それは、私が時折妄想していた、願望のような話だった。

 私はお兄様の妹としてはあまりに不出来で、だからそこまで期待されていないと感じていたから。

 でも、もしかすると、お兄様も家族の情というものを感じてくださっていたのかもしれない。

 

 胸が、トクンと跳ねる。

 もしも、とても都合の良い言葉。

 何時も私を慰めてくれる、フワフワとしたもの。

 けれど、それが現実だったら?

 期待感だけが、胸の内側で膨らんでいくのを感じる。

 弁えろ、身の程を知れ、と内側から囁く声もある。

 

 どちらも、私の中にある気持ち。

 いずれかは、選択しなければいけない。

 でも、それは今でなくても良い。

 そう言い聞かせて、私は選ぶのを棚上げした。

 どちらかを選ぶ勇気も、臆病さも、まだ足りてなかったから。

 

「そうだと、嬉しいです」

 

「朝日は私の言うこと、信じられない?」

 

「メリルさんの言うことだから、真に受けてしまいそうで困っています」

 

 そう言うと、メリルさんはマジマジと私の目を覗き込んできた。

 覗き込む、というのは探る時に行われる動作だと、どこかで聞いた記憶がある。

 では、メリルさんは何を探しだそうとしているのだろうか。

 考える余裕はなく、メリルさんは口を開いた。

 

「朝日、衣遠さんのこと大好きなのに……」

 

 含みがある、憂いた言い方だった。

 メリルさんの中では、私とお兄様は家族同士で心配し合っているというのが事実なのかもしれない。

 けれども、一方的に好意を抱いていたからといって、無条件でお兄様も私を愛してくださっているとはどうしても思えない。

 能力こそが、才能こそが至高と考えているお方だから。

 浅学非才な私が、何をもってお兄様の志のよすがに入れるというのだろうか。

 まだ、お兄様に誇れる程の才能を持たない私が。

 

「夢とは、どんな時だって愛を持って語れるもの」

 

「? どうしたの、急に」

 

「いいえ、昔、友達から教えてもらった概念です」

 

 七愛さんは言っていた。

 夢とは、好きで居続ける気持ちのことだと。

 私も自分の夢に、家族の形があると自覚した。

 りそなだって、きっとそうで居てくれている。

 でも、自分の夢は誰かの夢ではないから。

 だから、この期待は夢想に違いなくて。

 それでも、と思ってしまう。

 

「私は何時だって、お兄様のことを敬愛しています。

 だから、もし、です。

 もし、お兄様が私のことを家族であると思い続けているのなら……」

 

 心の底から、あさましくも一つの欲望が湧き出てくる。

 間欠泉から吹き出す温水の様に、勢いがある無謀な望み。

 

「――また、お兄様とお会いして、話がしたい」

 

 お兄様は、あの別れの時に自らのことを顧みず呼び止めて下さった。

 その好意を無下にした私が言うには、厚顔無恥なことは承知している。

 けれども、間違いなく私の浅ましい心はそれを望んでいる。

 衣遠さんやお兄様が現実を見ている中で、私だけで都合の良い夢を見ている。

 どうか、最後は幸せにあれますように、と。

 

「叶うよ、きっと」

 

 そんな私に、メリルさんは天使の様に微笑んだ。

 邪気がない、本当の思い遣りを持った素敵な笑み。

 もしかしたら、メリルさんは御使いなのかもしれないと思う時があった。

 

「朝日が良い子なのは、みんな知っているから。

 だから大好きで、会いたいって思う筈だよ」

 

「私は、悪い子です……」

 

「そんなことはないよ」

 

「メリルさんに、手紙を出しませんでした」

 

「………………ちょっぴり、悪い子だったね」

 

「はい」

 

 メリルさんに悪い子と言われてしまった。

 神様、お母さま、お月様、私は悪い子だと明記して下さい。

 メリルさんにそう言われたのなら、もうそれが真実なのですから。

 

「でも、大丈夫だよ!

 朝日がちょっとだけ悪い子でも、良い子の割合の方が多いから!

 サンタさんだって、毎年プレゼントをくださったでしょう?」

 

「それは、まぁ、はい」

 

 脳裏に浮かぶ、コソコソとした足音に、メリークリスマスと小さく呟いたおじさんの声。

 毎年ありがとうございました、柳ヶ瀬のおじさん。

 一方で、私の言葉に深くメリルさんは頷いて。 

 

「だったら、悪い子じゃないってことだよ。分かった?」

 

 その言葉に対して、否定しづらいロジックだと苦笑いしてしまう。

 おじさんの好意を、笑顔で受け止めていた自分が違うとは言いたくなくて。

 

「分かりました、そういうことなら、ですね。

 メリルさん、暫く見ない内に口が上手くなりましたね」

 

「違う、朝日が減らず口になっただけ」

 

「そうでしょうか?」

 

「そうなの」

 

 言い切るメリルさんは、私が知っている以前の彼女と微塵も変わらない。

 そして、私の口数が以前と比べて増えたのも事実。

 というよりも、以前サヴォアに居た時は、感覚がフワフワとしていた。

 辛いことが多すぎて、現実から浮遊してしまったみたいな気持ちで。

 だから、そんな私の面倒を見てくれていた修道院の皆さんには、本当に感謝の念が絶えない。

 特にメリルさんに対しては、特段にそう思っている。

 裁縫を教えてくれて、私の手を引いて現実に踏みとどまらせて、辛い時に寄り添い続けてくれたから。

 今度は、私がメリルさんの力になれたらと思うくらいに。

 

「なら、お喋りな私は嫌いですか?」

 

 そう尋ねると、メリルさんは首をフルフルと振る。

 愛らしい動作だけど、ちょっと目がジトーっとしていた。

 

「嫌いになる訳ないよ、だって朝日なんだから。

 でも、生意気な朝日より素直な朝日の方が好きかも」

 

「では、メリルさんに好かれる私でいましょう」

 

 確かに、修道院に居た頃は、私はメリルさんの後ろを付いて歩く雛鳥だった。

 たくさん甘えていたのも、間違いのない事実。

 逆に考えると、私が素直に甘えられる相手とも言える。

 

 左手の指先で、メリルさんの右の手の甲をツンと突いた。

 愛らしい、小柄だけれども経験を重ねている手。

 りそなや湊と違い、修道院の家事やお手伝いをしている庶民の手。

 かつての私に、服飾を教えてくれた優しい手。

 そうだ、あの時の私は、メリルさんの顔の次に手を見ていた。

 メリルさんに褒めてもらいたいと、もっと裁縫について深く知りたいと思っていたから。

 そう、この小さな手が糸の魔法を生み出しているのだと、私は今でも信じている。

 

「わっ、いきなり手を突かないで朝日」

 

「驚かせてすみません。

 ただ、お師匠様の手だなって」

 

 そう言うと、メリルさんは不思議そうに自分の手を見つめて。

 次に、私の左手をニギニギと、確かめるように触れられた。

 懐かしむような、けれども少し分からなさそうな。

 

「朝日の手は……少し変わったね」

 

「そう、ですか?」

 

「家事疲れしてない、お嬢様の手みたい」

 

 その言葉に、私は確かにと頷いた。

 滋賀に行ってから、とても大事にされていた覚えがあるから。

 家事洗濯は手伝っていたけれど、学校との兼ね合いもあって殆どを柳ヶ瀬のおばさんがやってくださっていたから。

 子供は遊んでなさいと、私が居ない間を縫って飄々と家の課題を片付けてしまう。

 まるで職人さん、少しの訓練を経られれば一流のハウスキーパーにだってなれるだろう。

 だからか、私の手は家事疲れをしていない。

 針胼胝だけが指に残った、限りなく普通の女の子に近い手。

 それが何だか、ちょっと恥ずかしく感じてしまう。

 

「別に、怠けていたわけじゃないんです」

 

 言い訳がましくそう伝えると、メリルさんは分かっていると一つ頷かれて。

 それどころか、とても嬉しそうな顔をされる。

 どうして? とこちらも疑問に思っていると、優しい声でメリルさんは伝えてくれた。

 

「マザーが言ってた。

 慈しむ手も、慈しまれる手も、両方が美しいのだと。

 だから、綺麗な手を持つ相手に、引け目を感じる必要はありません。

 貴方のその手もまた、美しいのですと」

 

 メリルさんが私の手を取って、優しく撫でて下さった。

 擽ったいその感覚は、けれども心地良くて。

 自然と、言葉と共にその行為を受け入れていた。

 

「朝日の手が綺麗になっているのは、とても慈しまれていたから。

 それは恥じ入る必要はないし、喜ばしいこと。

 だって、朝日がとても大切にされていたって証明だから。

 それって、素敵なことだよ」

 

 メリルさんの言葉を、私は否定する術を持たない。

 私の周りの人達からの思い遣りを受けた手、そう考えるととても大切なものにも思えてくる。

 もう駿我さん以外とは別れてしまったけれど、それでもその優しさが手に残っていると考えたら、とても励みになりそうだと思えるから。

 

「流石はマザーです」

 

 私のその言葉に、メリルさんは嬉しそうに首肯した。

 

「うん、マザーは間違えないから」

 

 そんな私達のこれまでを振り返りつつ、辿り着いた場所。

 それは、パリの街に溶け込んだ下宿の一つ。

 メゾンド・パピヨンと看板が掛かっている、恰幅のいい大家さんが出迎えてくれた所だった。

 



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第27話 そこまでやれとは言ってない

「よく来たね」

 

「よろしくお願いします、大家さん」

 

「私も、お願いします!」

 

 淡々と告げる大家さんに、私とメリルさんは二人揃って頭をペコリと下げて。

 それに大家さんは呆れたように、アンタ達ねぇと声を掛けられた。

 

「堅っ苦しいのは苦手なんだよ。

 見れば分かるだろう? この人生の重みを背負った肩と腹を。

 苦労の分だけ大きくなったんだ、これ以上はいらないよ」

 

「そうなんですか、大変な苦労をされて来たんですね。

 道理で包容力を感じると思いました」

 

「えっと、偉大な先達への尊敬を、メリルさんは伝えようとしているんです!」

 

「そうね」

 

 メリルさんのスレスレの言葉に、軽く冷や汗を掻きながらも事態を見守る。

 幸いにも、大家さんは気分を悪くした様子もなく、豊満なお腹を軽く叩いただけだった。

 冷や汗が出ていたのは私だけで、メリルさんはニコニコと話をしている。

 もしかすると、私が単に気にし過ぎなのか。

 

「それで、何時から?」

 

「何がでしょうか?」

 

 そんな私の悩みはともかく、大家さんはジロジロと私達の手を見ていた。

 何時から、と謎の言葉を添えて。

 主語が分からず、メリルさんも不思議そうな顔をして、私達は顔を見合わせた。

 

「なんだい、聞いてないのかい?

 あの憎ったらしい小童のイオンが、金を積み上げてわざわざ自分から頼みに来たってのに」

 

「衣遠兄様、が?」

 

「ここに二人預ける、金も用意する。

 だから面倒を見ろってね。

 頼み事をするなら、頭くらい下げたらどうだいって言ったら胡散臭い表情でホントに下げるし。

 そういった理由で、アンタ達を受け入れたんだよ」

 

「そうだったんですか……」

 

 あのお兄様が頭を下げた。

 それは私からしたら、驚天動地のことだ。

 私が知っているお兄様は、自分が認めた人以外にそんなことはしないはずだから。

 つまり、この大家さんは何かしら、お兄様が認めている能力があるということ。

 不思議な感覚で大家さんを見ていると、それで? と大家さんが又もや告げる。

 

「何時からにするんだい」

 

 まるで謎掛けだった。

 ヒントがあって、それでいて解を求められる。

 何かしら、お兄様にあらかじめ伝えられていることは分かるのだけれど。

 

「あ、大家さんの手」

 

 そんな中で、メリルさんが着目したのは大家さんの手だった。

 ここに来るまでに、私の手を大切に扱われていたと評して下さった。

 そして、大家さんの手はメリルさんの様な働き者の手をしていて。

 ただ、一つ普通の人と違うと言える特徴があった。

 それは、私達と同じ様な胼胝がある指。

 

「大家さんは、縫われているんですね」

 

 メリルさんの言葉に、大家さんはそうね、と簡素に返事をした。

 そう、大家さんは服飾に携わる職人だったのだ。

 それも、お兄様が頼み事をするレベルの。

 この考えに思い至った時、心臓がドクっと跳ねた。

 そんな人から技術を教われる故の感動……も確かに存在する。

 けれども、それ以上に思ったのはお兄様のこと。

 

 まだ、幾年も離れてしまった私を覚えていてくださったこと。

 まだ、私に技術を与えてくださろうとするところ。

 ――まだ、私を見てくれていたこと。

 

 思い上がりか、単なる妄想か。

 ただ、少しでも私のことを気にかけてくださったことが、何よりも嬉しい。

 お兄様にとって、心の片隅にだとしても私が存在していると知れたから。

 

 りそなとは、確かな深い絆を交わしあった。

 駿我さんとも、恐る恐る心に触れ合った。

 けれども、お兄様に対してだけは、私は踏み込めなかったから。

 

 恐れ多い。

 無礼な真似はできない。

 血は繋がっていても、立場が違う。

 私にとって、お兄様とはそういう存在だった。

 

 恩人で肉親で、そして憧れの人。

 高嶺の花、孤高に咲く大輪。

 何時だって、お兄様は高みに座されていた。

 そしてお兄様に認識して頂ける高みに、私は届くことができなかった。

 だからこそ、戯れでも構って頂けることが、愛情と思えて嬉しくて。

 その期待に応えたいと、何時だって思えた。

 僅かながらも、お兄様が私に期待してくれていると思えるのがとても嬉しいから。

 

「大家さん、私頑張ります!」

 

「こら、大声を出すんじゃないよ。

 ここは集合住宅だよ、ったく」

 

「あ、すみません」

 

「で、何を頑張るんだい?」

 

「……はい、服飾を、縫うことを、心を込めて頑張りたいと思いました」

 

 気分が、フワリと高揚する。

 やる気が満ちて、駆け出してしまいたいくらい。

 足よりも、手がソワソワしているけれど。

 

「良い目をしてる、夢見る目だね」

 

 大家さんは私を見つめ、そう言って下さった。

 夢、好きでいるという形。

 私の目に、それが宿っているのなら、それは服飾が好きというだけではなくて、お兄様に対しての想いの分だけ嵩が増されている。

 それは下心とも呼べるかもしれないけど、私にとっては大事で誇らしいものだから。

 

「よろしくお願いします」

 

「あいよ。で、そっちの……マリルだっけ?」

 

「メリルです!」

 

「そうそう、メリル。

 アンタもしっかり指導しろって言われてるから、ちゃんとついて来なよ」

 

「は、はい! 頑張ります!」

 

 メリルさんは、急な展開に目を白黒させていて。

 けれども、元気よく返事をしていた。

 私達は、この日からメゾンド・パピヨンに住み込むお針子になったのだった。

 

 

 

「それはそれとして、アンタ達学校はどうするんだい?」

 

「え?」

 

「わたしゃ何も聞いてないけど、行かないのなら小卒だからね」

 

「え?」

 

 そういえば、ここに来る前は湊と楽しく中学校の制服について話をしていた。

 色々と急だったから、スッカリと頭から離れていたけれど。

 尤も、私については駿我さんの支援もあって、高校卒業までの学力は既に備わっている。

 だから尤も気にするべきは……。

 

 そっとメリルさんに目をやると、そこには不思議そうな顔をしている無垢な存在がいて。

 私よりメリルさんは1歳年上だけれども、およそ勉学については無頓着なところがあった。

 それに、サヴォワの村周辺には少子化により学校が少なく、聖職者が子供達に勉強を教えるという昔ながらの風景がまだ現存していて。

 メリルさんには、学校に行くという概念があまり無いように感じた。

 

「小卒……」

 

「? 朝日、どうしたの?」

 

「いえ、どうしようかと思いまして……」

 

 お兄様。もし私が小卒であっても、家族で居てくれるということなのでしょうか?

 気がつけば、私は携帯を片手に駿我さんへの連絡を行っていた。

 

 

 

 

 

 朝日さんと、リンチの姓を持つ子が合流した。

 その知らせを聞いて、ついに始まったかという気持ちが出てきた。

 衣遠がレールを引いて、あいつの掌で踊る人形劇。

 問題があるとすれば、その人形役に選ばれたのが朝日さん達年少組の少女であること。

 趣味が悪いことはもちろん、そもそもが衣遠に好き勝手に跳梁跋扈されること事態が気に食わない。

 そして一番気に食わないのが、衣遠は朝日さんを自身の両親の目の届かない場所で手に入れるため、こんな手間の掛かることを始めたであろうこと。

 何が問題かは一目瞭然、あの衣遠が一人の人間に執着していることだ。

 

 朝日さん、あの子は大蔵の家において特別とも言える子だ。

 擦れていない、染まっていない、清らかである。

 彼女の美点を挙げればキリがないが、衣遠は人格で人を選り好みするとは思えない。

 凡才は世界の端でひっそりと息をし、才能ある人間が闊歩するべきだと本気で考えている人間だ。

 

 だからこそ、朝日さんへの執着が異様に見える。

 朝日さんは賢く万能で、大蔵の血を引いている才覚は見せつつも、尖ったものは見せていない。

 衣遠の言う才能は、その尖りのことを指している。

 故に、全てに丸い朝日さんを支配しようと欲を出すのは、間違いなく才能以外の部分。

 もっと言えば、彼女自身の人格に依るところが大きいだろう。

 衣遠は彼女を追い求めて、隙を嫌うあの男が無茶もした。

 一度手から離れたからこそ、支配欲は留まるところを知らず、より強大に。

 朝日さんを手に入れれば最後、もう自らのコントロール下から離すことはないだろう。

 金子さんの勢力を調略し、時に排除したのはもう裏切られることがないため。

 本気で、朝日さんを手に入れる準備を奴は行ってきた。

 

 だからこそ、俺は憂慮せざるをえない。

 衣遠がいくら本気でも、それは愛情ではなく独占欲によるものだからだ。

 朝日さんが衣遠をいくら慕っていても、衣遠がそうでないのなら報われることはない。

 朝日さんが、幸せになれるとはとても思えない。

 何より、彼女が不幸になることを俺自身が見過ごせない。

 俺にとって、もうあの子は身内そのものであるのだから。

 ならばどうするのか? 答えは至ってシンプルだ。

 俺のできる手段で、奴の計画を妨害すれば良い。

 

「どういうことかね、大蔵駿我殿」

 

「もう一度言いましょう、欧州の大蔵グループの勢力を弱めたいのです。

 そのために、どうかお力添え頂けないでしょうか――ラグランジェ伯」

 

 目の前に座っている人物は、フランス貴族の血統であり未だ厳然たる影響力を欧州に有している人物。

 フランス国粋主義者としても名高いラグランジェ伯その人だ。

 眉間に皺を寄せて、不愉快そうにこちらを見ている。

 だがその不快さを隠さない理由も、俺が日本人だからだろう。

 立場上、リベラル化が進む欧州でそれを表に出す事はできないが、有色人種のことを見下しているのが在り在りと伝わってくる。

 俺とこうして会談するのは、家の力が衰えているから。

 欧州でも手広く広がる大蔵という黄色人種の家を、憎々しく思っていても粗雑に扱えないからだ。

 

「そうすることで私が得られるメリットと、そもそも貴殿に何の得があるのか。

 私から見れば、わざと挑発を行い、大蔵に反抗的な家を潰す口実にしている様に思えてならないのだが。

 そもそも、味方を売るような人物と繋がりがあるように思われるのは、私にとっても甚だ不名誉だ」

 

 だが、偏見を持っていることと馬鹿であるというのは、必ずしも両立しない。

 警戒をする様に俺を睨みつけて、さりとて席を立とうともしない。

 全て話してみろと促している。

 その上で吟味し、最悪は衣遠の下に駆け込む気だろう。

 はしっこいが、家をそうして保ってきた人物でもある。

 欧州では、目端が利かねば生き延びられない。

 だから俺は、ラグランジェ伯に衣遠に付く以上のメリットを提示しなければならない。

 それは富か、名誉か、それとも感情にか。

 

「大蔵の家も一枚岩じゃないのです。

 俺はアメリカで勢力を伸張し、欧州を管轄する衣遠とは敵対関係にある。

 祖父が亡くなれば、大家にあるお家騒動が俺と衣遠の間で勃発するでしょう。

 だからこそ、それ以前に衣遠の勢力を削いでおく必要がある。

 昔からよくある話だ、お分かり頂けますでしょう?」

 

「貴殿の理屈はな。

 だが、こちらに何の利がある。

 大蔵が乗り込んできて以来、抵抗しようにも我が家はもはや抗う力はない。

 だが、恭順を示した我が家の権益は保証したのだ。

 事実、欧州で大蔵が展開する事業は芸術関連に重きを置いている。

 目障りだからという理由で、損しかない戦いを起こすほど愚かではないつもりだ」

 

 そういうラグランジェ伯の目は、鈍く光っている。

 俺を品定めし、どれほどの価値があるのかを見定めているのだ。

 

「確か、ご令嬢には婚約者がいらしたそうですね」

 

 ピクリと、ラグランジェ伯の眉が動いた。

 不快そうな表情は、直ぐに怒りも混じったものに変わる。

 実際、どの口がそれを言うのだとは思われても仕方ない。

 何故なら、その婚約者とは衣遠のことで、手酷い形で婚約破棄を行ったのも衣遠だったからだ。

 

「大蔵の者が、それを言うのか……」

 

「言ったでしょう?

 俺と衣遠は対立している、同じ大蔵にして敵対者だと」

 

 そう、かつてラグランジェ伯は、娘と衣遠の婚約を契っていた。

 だがある日、とある事件とも呼べるものに娘が巻き込まれ、衣遠は捨てる様に婚約を破棄した。

 所詮は口約束だと、そう言わんばかりに。

 ラグランジェ伯がここまで粗雑に扱われたのも、ある意味で初めての出来事。

 だからこそ、有色人種は信頼できないという思い込みも更に強くなった。

 衣遠は何のフォローもしないまま、わだかまりは奥底に沈殿している。

 

「確かに娘の無念を思えば、私は戦うべきなのかもしれん。

 だが、それは破滅と同義だ。

 彼我の差が分からぬほど、私は盲いてはおらんよ」

 

「何も、大蔵家と対峙して頂きたいという話ではない。

 俺が求めているのは、大蔵衣遠の足を引くこと。

 それも、直接的ではない形で」

 

 ラグランジェ伯は苛立ちの中でも、俺の話を聞いている。

 それは、ここまで心の中で無理やり押さえつけてきたものと相対しているから。

 恨み辛みは忘れがたい。

 ふとした瞬間に、ふとした機会に、心の鍵が壊れて飛び出してきてしまうもの。

 その鍵を、俺は確かにいま、回していた。

 

「……無能を奴は嫌うだろう。

 特に、味方のフリをして足を引っ張るものは、それこそ縊り殺したいと思うほどに。

 大蔵衣遠が完璧主義者であることは、私とて知っていることだぞ」

 

「貴方が、それを行う必要はないのです。

 さりとて、貴方の麾下では衣遠を怖がって、本気になれない。

 でも、この屋敷の中には一人、本気で衣遠に復讐したい人がいるでしょう?

 勝手に先走っても、精々監督不行届で済むような人間が」

 

 俺の言葉に、ラグランジェ伯は目を見開いた。

 手が強く握られて、震えるほどの力を込められた拳が形作られる。

 口を開いた彼は、声も震えていた。

 

「む、娘をけしかけろと!

 あの様な目に合わされた娘に、更に利用するか!!」

 

「はい、そう言っています」

 

 その言葉に、ラグランジェ伯は拳を振り上げていた。

 俺は動かずにその軌跡を追って。

 ラグランジェ伯は逡巡した後、そのまま机にその拳を振り上げた。

 衝動を我慢して、無礼に堪えるしかないように。

 

「貴方の、その良識を歓迎いたします」

 

「協力するとは言っておらん!

 今の拳は、決別のためのものだ。

 貴様は、今すぐに屋敷を出ていってもらおう」

 

「別に、娘さん本人に話を持っていっても良いのです。

 それはご承知の上でのお言葉ですね?」

 

 その言葉に、彼は血走った目を俺に向けた。

 彼の娘は衣遠の一件以来、箍が外れていた。

 黄色人種の人間を雇い入れ、その人物を迫害する。

 使用人が擦り切れる度に捨てて、新たな黄色人種を雇い入れる。

 その繰り返しを、ラグランジェ伯は黙って見過ごしていた。

 誰にもバレていない、仕方のないことだと目を瞑って。

 そんな気性をしている彼女だからこそ、俺の話には乗ってくるという自信があった。

 ラグランジェ伯も、そのことを承知しているのだろう。

 吐き捨てるように、俺に言葉を掛けた。

 

「何を、娘にさせるつもりだっ」

 

「大したことではありません。

 ただ、ある人物と交友を持って頂きたいだけです。

 勿論、衣遠その人ではない」

 

 その言葉を告げた時、多分俺は酷薄な顔をしていた。





駿我さんがプロットを逸脱し始めてる勢いなので、投稿を少し迷いましたが書き直す労力を裂けそうにないので、このまま投稿します(震え声)


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第28話 この中に一人、腹黒いやつがいる

『学校に不自由していると』

 

「はい、そうなります」

 

 あれから直ぐ、私は駿我さんに電話を掛けていた。

 私はともかく、メリルさんが可哀想で仕方なかったから。

 携帯越しに聞こえる駿我さんの声も、心なしか呆れ気味で。

 格好が付かないまま、私は唯一の頼りである駿我さんに縋るしか無かった。

 

『全く、人に対しての責任を何だと思ってるんだ』

 

「いえ、あの、お兄様もきっと悪気があった訳ではないと思います」

 

『だろうな、むしろ端から君達のことを深く考えてた訳がない。

 些事にすぎないと、適当さが滲んだだけだろう』

 

「あはは……」

 

 駿我さんの言葉の節々から、お兄様への感情が漏れ出している。

 あまり良い意味合いでないのが、私としても難しいところだけれど。

 

『分かった、取りあえずは当座の勉強ができる環境は整えよう。

 事情があってね、学校に通わせることは出来ないが、家庭教師を派遣する』

 

「ありがとうございます、お優しい駿我さん!」

 

『うん、当たり前のことだからね。

 むしろ、君もよく気を利かせてくれる』

 

「自分のことなら兎も角、他の人も巻き込んでのことですから」

 

 ホッと一息、良かったと安堵が胸に訪れる。

 メリルさんは“え、何?”と言わんばかりの表情をしていたが、ここは私の押し付けがましいお節介を受けてもらいたい。

 欧州では案外なんとかなるかもしれないが、それでも義務教育で学べる知識は持っていると案外役に立つことが多い。

 教わっていた家庭教師の方が、頭に詰め込んだ知識の差で物事への理解が、Windows98とWindows7位のパフォーマンスの差が生まれると言っていた。

 意味が分からないけれど、きっと大切なことではあるはずだから。

 

『ところで朝日さん、こちらからも一つ良いかな?』

 

「はい、何でしょう?」

 

『丁度良いって理由もあるんだけれどね。

 さっき家庭教師を派遣するって言ったよね?

 そこで、一緒に机を並べて教わって欲しい人がいる。

 所謂、学友ということになるのかな』

 

「それ自体は構いません。

 ですが、私達は大蔵家の事情で、このパリにやって来ました。

 だとすれば共に学ぶというその方もまた、大蔵に連なる方なのでしょうか?」

 

『違う、こっちは単なるパイプ作り。

 一緒に勉強してもらうのは、ラグランジェ伯の娘さん。

 元々交流を持って貰うつもりだったから、この機会でもとね。

 ラグランジェ伯との交流の一環で、君達にも伝手を作っておこうかなって』

 

「それは……過分にも程があるのですが、色々な意味で大丈夫なのでしょうか?」

 

 駿我さんは軽く、折角だからなんて言っているけれど、少しリスキーな行動に思えた。

 私は大蔵家を破門されているような身の上で、その私と一緒に学ぶことでラグランジェ伯は大蔵家に蔑ろにされていると感じないか。

 そも、大胆な行動をすると、私の行方を知った奥様がお怒りになるのではないかという懸念。

 それらを駿我さんに伝えると、少しの沈黙の後に重々しく口を開かれた。

 

『金子殿に関しては大丈夫だろう、この欧州が衣遠の縄張りである限りは。

 念入りに掃除していたはずだし、君のことだからこそ必死になる。

 総裁殿も、俺達のおかしな動きに感づいても、暫くは探りを入れるくらいだろう。

 何やら、最近は調べ物で忙しいみたいだしね』

 

「そうなの、ですね?

 では、ラグランジェ伯に対しては、どう思われているのでしょうか」

 

『そちらの方こそ、何ら問題ない。

 君の気にし過ぎだよ、朝日さん』

 

 今度は笑いながら、私が安心出来るように雰囲気を出してくれながら事情を話してくれる。

 それが行き過ぎたのか、少し演技掛かった位の感じで。

 

『元々が交流を持つ意味合いで、それも社交界とかではなくプライベートレベルの話だ。

 公式的にアクションを起こすわけでないのだし、嫌なら断っているさ。

 そもそも、ラグランジェ伯のご息女は積極的に孤児院を回ってボランティアに精を出す程の趣味人だからね。

 身分の差なんて、あってないものと思えば良い』

 

「理解しました、浅慮にものを言いましたことをお許しください」

 

『そこまで君に畏まられると、俺としても寂しくなるから勘弁してくれ。

 こちらとしても、本当のことを言えば申し訳ないくらいだからね』

 

 先程から、駿我さんの話し方に何か引っ掛かりがある。

 若干、何かを言い難くて悩んでいる様な、何かを隠している様な罪悪感。

 それが、話していると駿我さんから少し漏れている様な気がする。

 駿我さんが何に悩んでいるのか、こちらとしても心配になってくる。

 

「いいえ、駿我さんが作って下さった折角の機会です。

 交流を糧に出来るように、頑張りたいと思います」

 

 でも、駿我さんは賢明で、格好いい大人の人だ。

 その人が話さないなら、話せない事情がある筈。

 だったら、私がとやかく言うのはご迷惑になる。

 それに、辛くなったら駿我さんから話してくれる、と思う。

 私と駿我さんの間に、それくらいの親愛があると信じていたいというのもあったから。

 

『ありがとう、朝日さん。

 苦労させるとは思うけど、悪いことにならないように努力するよ』

 

「ちょっと気になりますけど、敢えて何も聞きません。

 だから、駿我さんも何かあった時は私を頼ってくださいね」

 

 僅かな沈黙、駿我さんと通話している時に偶に起こる現象。

 実際に顔を合わせて話していると、それは駿我さんがびっくりして目を丸くしている時間だと、私は知っていた。

 何に吃驚しているのかは、まるで分からないのだけれど。

 

『至れり尽くせりだな……有り難い限りだよ。

 でも、早速で悪いんだが、その苦労の一端を話すとだね。

 派遣する家庭教師は――俺の、弟なんだ』

 

「え?」

 

 頭の処理が追い付かずに、クエッションで頭が埋まる。

 だけれども、駿我さんはもう一度、今度は苦笑いを含んだような口調で言ってくれた。

 

『不出来だけどね、勉強が出来る馬鹿だから安心して欲しい。

 大蔵アンソニー、俺のかわいい弟だ』

 

 他に丁度いい宛が無いのもあってね、なんて駿我さんは言う。

 けれど、私はその言葉を未だに消化しきれずにいた。

 お兄様やりそな、駿我さん以外の血の関わりがある人。

 駿我さんの弟さん――私の従兄弟さん。

 

 何だか、不思議な気がして胸がドキドキする。

 だって、駿我さんが親戚だと明かしてくれたのは、もうスッカリ仲良くなってからだから。

 私にとって、駿我さんはもうお兄様やりそなと一緒の存在だと考えると、感触的には初めての親戚だから。

 ソワソワして、ドキドキして、不安なようで楽しみだと感じた。

 

 

 

 

 

 そして、その電話から2日後。

 件の家庭教師と、ラグランジェ伯のご息女、それにその付き人の方がこのメゾン・ド・パピヨンに来て下さった。

 家庭教師、駿我さんの弟で私の従兄弟に当たる人は、私を一目見て顔を輝かせながら近付いてきた。

 大蔵アンソニーさん、金髪なのも相まってキラキラと輝いて見える人というのが、私からの第一印象だった。

 

「ハッハーッ! 君が朝日ちゃん! 兄上の麗しの姫君!

 俺は大蔵アンソニー、兄上から聞いてはいると思うが、君の従兄弟だ!

 うーん、確かに美しい、流石は兄上!

 女として熟していないのが気になるところだが、そこは兄上の趣味か。

 彼の光源氏も、生涯の妃を幼少期より教育していたという。

 つまりは、君は兄上に身も心も調教をされた後と言うことだ!

 君は兄上の! 兄上による! 兄上の為の花嫁ということになる!

 つまりは、俺と兄妹になるということでもある。

 よろしく頼むよ、姉上殿」

 

 年下なのに姉上とは、これは倒錯的と楽しそうに笑っているこの人は、一体何を言っているのだろうか。

 呆然としていると、クイクイと袖を引かれる。

 頭が追いつかないまま振り向けば、メリルさんが不思議そうな顔をしていて。

 

「朝日、結婚するの?」

 

「しない、はずです」

 

「なるほど、衣遠との関係も憚って、内縁の妻という奴か!

 兄上の奥方というのもあって手を出す気は無いが、とても興奮してきた!」

 

「既に幾つかの誤解があると思いますが、しないで下さるととても嬉しいです……」

 

「ないえん?」

 

 メリルさんが怪しい言葉を使うのに耐え切れず、私は駿我さんに電話を掛けていた。

 頼れるところが、もうそこしか無いと思ったから。

 

『もしもし、朝日さん。

 そろそろアンソニーのやつが、そちらにたどり着いた頃かな?』

 

「はい、この度は格別なご配慮、誠にありがとうございます。

 それはそれとして、私と駿我さんは婚約していたという事実は存在するのでしょうか?」

 

『……それは初耳だな』

 

「ですよね! 私も初耳でした!」

 

『……アンソニーか?』

 

「はい……」

 

 掛け直すよという言葉と共に切られた電話。

 そして、着信するアンソニーさんの携帯。

 

「お、済まないね君達。

 兄上からの電話が掛かってきたから、少し待っていて欲しい。

 もしもし兄上、無事に朝日ちゃんには挨拶はキッチリ済ませた!

 兄妹としての盟も誓って、これからは大蔵富士夫一家変則三兄妹として頑張っていこうじゃないかとね。

 え? 婚約なんてしてない?

 またまたぁ、あれだけ好き好きチュッチュと語っておいて、それは無いよ兄上~。

 ん? 話が長くなるなら後で掛け直そうか?

 え、今じゃないと駄目なのか?

 分かった、すまないが少し兄上と話をしてくるから、君達は先にリリアーヌ殿と交友を深めていて欲しい」

 

 そう言うと、アンソニーさんは外にフラリと出ていった。

 その場に残されたのは、私とメリルさん、ラグランジェ伯のご息女にその付き人の方。

 私達は困ったように顔を合わせると、恐る恐る会話を交わす。

 先陣を切ってくださったのは、ラグランジェ伯のご息女だった。

 

 

 

「急なことで、吃驚したでござます」

 

「はい。こちらとしても、驚きの連続です」

 

「それで、こちらにおわす御方は、大蔵家にその青い体を売りつけて正妻の座を射止めたシンデレラ売春ガールということで宜しいのでしょうか?」

 

「よろしくないです……」

 

「こら華花!

 品のないことは言ってはいけません!

 そこの方、華花が真心の無いことを言ってしまい、本当に申し訳ありません」

 

「いえ、事実無根ですので大丈夫です」

 

「ばいしゅん?」

 

「メリルさん、変な言葉を覚えないでください。

 教会で使うと、マザーに怒られますよ!」

 

「分かった、忘れる」

 

 ホッと息を吐く私に、笑みを浮かべたラグランジェ伯のご息女が声を掛けて下さった。

 その隣には、何故かガニ股で左右に反復する付き人の方の姿。

 

「初めまして、私の名はリリアーヌ。

 リリアーヌ・セリア・ラグランジェと申します。

 皆からはリリアと呼ばれていますので、貴方がたも気軽にそう呼んでくださると嬉しいです。

 隣にいるのは、使用人の華花……華花、どうしてガニ股で奇妙な動きをしているの?」

 

「はい、リリア様に調教されてふしだらになった体が、次の獲物を求めている動きです。

 具体的には、そこの二人」

 

「もう華花! はしたない真似はお止しなさい!」

 

「すみません、非処女が出てしまいました」

 

 アンソニーさんに続いて、とてもキャラが濃かった。

 そして、その態度を許容しているリリアさんは、とても寛容な人みたいだ。

 言葉ほどに、顔が怒っていないから。

 

「私は大蔵朝日、日本人です。

 故あって大蔵を名乗らせて頂いていますが、実態としてはただの朝日と申しましょうか。

 リリアさんに華花さん、どうかよろしくお願いします」

 

「まぁ……欧州にも良くある話ですから、気を落とされないでくださいまし」

 

 優しく、気遣うようなリリアさんの言葉にホッとする。

 最初は小倉と名乗ろうかと迷ったけれど、駿我さんの紹介と言うこともあって嘘は吐けなかった。

 だからこそ、偏見の無い反応をしてくれたリリアさんには感謝の念しか無い。

 

「私はメリル・リンチ、サヴォワから来ました。

 趣味は服を作ることで、好物はワッフルです!」

 

「因みに聞きますけど、男性経験は?」

 

「? 多分、ありません」

 

「た、多分? ……もしや、そちらの朝日さんは男性で生えてたりしてるんですか!

 それでいて経験して、朝日さんは男性にカウントされないから0人と、そういうことですか!!」

 

「朝日は女の子ですよ」

 

 男性ではないか、などと言われたのは初めてだった。

 流石にこの容姿や髪の長さで、男性などと間違えられたことはない。

 それに、もし私が男性だったら、お兄様に似てギリシア彫刻みたいな格好の良い男性になっている筈なのだから。

 なってる……筈だよね?

 

「はい、残念ながら女です」

 

「では女同士で乳繰り合っていたということ。

 つまり、お二人は処女ということですね」

 

 名探偵の様に宣言する華花さんは、とても安堵した様な表情をしていた。

 そして、隣のリリアさんは、何だか申し訳無さそうな顔をしていて。

 

「華花は貧民の生まれで、言葉遣いが周りに影響されてしまっただけなのです。

 どうか、二人は華花を嫌いにならないであげてください」

 

「言葉遣いには驚きましたけど、同じアジア人同士で仲良くできればと思います」

 

「華花さん、私も貧乏というのは一緒ですから、一緒に頑張りましょうね!」

 

「いや、処女かどうか答えろよ!!!」

 

 

 こうして、私達とリリアさん達の交流が始まった。

 あと、戻ってきたアンソニーさんは、”兄上の家族だが嫁ではない……”と宇宙の真理を知ってしまった猫の様な顔をしていた。

 難しい関係で、申し訳ありません。





想像を絶するくらい、ト兄様と華花さんが喋りはじめて困りました……。


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第29話 欧州は進んでますね


ミストトレインガールズとかいうゲームで今、何故かつり乙コラボが実施されてるらしいですね。
ルナ様とりそなと湊に会えるらしいので、冷やかし程度にやってみても良いかもしれません(遊星くんはどうなっているのか、気になるところです)。


 あれから私達とリリアさんは共に机を並べて学ぶ仲になり、話す中でよりパーソナルな部分にも触れることになった。

 直ぐに分かった部分といえば、リリアさんが服飾のデザインを専攻していること。

 それを知った時、駿我さんが心から学びを共有できる学友を作ってみなさいと仰って下さった気がして、とても嬉しく感じた。

 自然に、けれども当然の帰結のように、私達は勉強の後に服飾も学び合う関係になって。

 

「わぁ、デザインがこんなに沢山!

 私、こんなキラキラした服のデザインを見るの、初めて!

 リリアさん、凄いです!」

 

「そう褒められると、謙虚でいられなくなりそうです。

 ですが、自信を持って描いたものであるのも事実。

 今度賞に出展しようと思っていましたので、とても励みになります」

 

 場所は、勉強をしていたメゾンド・パピヨンの食堂から、その地下室へと移動して。

 そこにはなんと、大家さんが個人で所有していたアトリエがあった。

 驚いたことに、大家さんはアトリエを下宿している人達に開放していたのだ。

 何でも、少し前までは服飾に携わる一級線の人材で、今は若い人達を育てることが楽しいのだとか。

 その好意により、私達にもアトリエは開放されて。

 存分に服飾に取り組める環境が、ここには揃っていた。

 本当にありがとうございます、お優しい大家さんに駿我さん、それにお兄様。

 

 リリアさんのスケッチには、流行を忠実に取り入れつつもそこに自分の色を色濃く反映するタイプのデザインが並んでいた。

 流行に乗るのではなくて、流行を屈服させて染め上げようと言わんばかりの筆致。

 穏やかなリリアさんの性格からは考えられないくらい、我が色濃く現れている。

 ただ、主張が強すぎる部分もあるので、万人に好かれるデザインではない。

 けれど、それだけ強い自分を持っているのは、とても素敵なこと。

 まだ残っている荒削りさが、これからどれほど伸びるのだろうとワクワクさせてくれる。

 

 そんなデザイン達を見て、メリルさんは目をキラキラさせていた。

 

 この服を縫ってみれば、どんな感じに仕上がるのだろうか。

 この服のこの意匠は、どんな意味合いを持っているのか。

 この服の骨子を理解すれば、オートクチュールを縫えるのではないか。

 

 そんな期待が、メリルさんの中で広がっているのを感じる。

 あれこれと矢継ぎ早にメリルさんは質問し、それに淀みなく答えている姿は胸を張っていて。

 この人には成功して欲しいなと、そんな思いが芽生える光景がそこにはあった。

 

 一方で私は、華花さんに型紙を見せてもらっていた。

 彼女が、リリアさんのデザインを元にして書かれた、精緻な設計図を。

 

「――僅かなズレもない、とても綺麗な型紙です」

 

「どうも」

 

 つい感嘆の声を上げると、華花さんは素っ気なく答えて。

 それについ、私は熱を籠もった声で華花さんに投げかけていた。

 

「私、服飾で花があるのは、デザインと意匠だけだと勘違いしていました。

 初めて、なんです。

 デザインでも意匠でもなく、型紙が美しいって感じたのは」

 

「良いことを教えてあげます、初体験乙女。

 型紙なんて、ねちっこいか気が利く人なら、練習を続けてれば上手くなる分野です。

 これ程度に感動しているのは、あなたが未熟だから。

 もっと修行なさい、床下手乙女」

 

「はい、裁縫だけでなく型紙にももっと取り組みます!

 いつか華花さんに認められるような、そんな型紙を作ってみたいです」

 

「馬鹿ですね。認めるも何も、型紙なんて誰にも見向きもされないものです。

 だから、私は貴方のそれを評価しないし、自分で納得をいくものを何度も認め直すしかないんです」

 

「確かに、動機が不純ではデザインに変な思想が混じってしまいますね。

 こちらが愚かでした、参考になります」

 

「ところで大蔵さん、床下手乙女という言葉を否定しなかったですよね。

 つまり、貴方は初体験を済ませているガバガバだということでは……?」

 

「残念ながらまだユニコーンに乗れます」

 

「騎乗位がお望みと。

 なるほど、とんだルーキーがいたものです。

 ほら、あれって突かれる度に“んほー”って絶叫しちゃうじゃないですか?

 私、非処女なので」

 

「それは……女の子的には、男の人に聞かれたくないんですが……」

 

「フッ、勝った」

 

 負けました。

 そんな会話をしつつ、私は華花さんの引いた型紙の線を指でなぞって行く。

 手書きで、けれども機械のような正確さ。

 恐らくは別紙で何度も計算したであろう、デザインの良さを一番にするための道筋。

 触れていると、まるで剃刀の様な切れ味を感じずにはいられない。

 

 うん、私もメリルさんみたいにワクワクしている。

 こんな風になってみたいと、いつかこれでお兄様のデザインをお手伝いしてみたいと。

 どんな自分になりたいかが、まるでパズルのように組み上がっていく。

 自分がなりたい延長上に、華花さんがいるから。

 あ、私はこの人を目標にしたんだと、胸にストンと落ちてきた。

 

 型紙をなぞっていた指を、自分の胸に当ててみる。

 何だか、指先と胸がとっても熱い。

 やりたいという気力と、なりたいという憧れで、心がソワソワする。

 でも、華花さんが言っていたみたいに、華花さんになるんじゃなくて必死に繰り返して、凄い自分を作り上げるしかない。

 そういう職業で、そういう役柄がパタンナーなのだから。

 今日、裁縫と同じくらい頑張る目標が、心に芽生えた。

 

「おぉ、流石は朝日ちゃん! 仕草に色気がある!

 兄上と婚約していないというのなら、俺と一夜を共にしてもらいたいくらいだ。

 ……でも、朝日ちゃんに手を出したら、兄上は処すと言っていた。

 恐らく、俺のビッグサンのことを指しての言葉だろう。

 つまり、朝日ちゃんの貞操と俺の性遺物はトレードオフの関係にあるということ。

 朝日ちゃんは抱いてみたいが、それで二度と女を抱けなくなるのは気が狂いそうだ。

 華花くん、これについてどう思う?」

 

「服飾のことになると分かんなくてダンマリだったのに、下のことになるとペチャクチャ喋りやがって。

 脳味噌に詰まってるのは、灰色の脳細胞じゃなくてナニの海綿体ですか?

 あと、世界平和のために下半身野郎は去勢された方が良いので、是非大蔵さんに手を出すと良いです」

 

 

「やはりそうか。正直見た目は幼い以外はどストライクだし、手を出さない理由は兄上しかない。

 俺のブツと交換なのは気掛かりだが、それに見合う価値なのは確かだ。

 でもなぁ、やっぱりなぁ……my sonとお別れはあまりに切ない。

 息子に適度に構ってやらないと、ネグレクトと呼ばれる世の中だしなぁ。

 うん、あと20年は我慢できるし、人生の最後の楽しみに取っておくか、ハッハ~!」

 

「サラッと人の人生に関わることについて、話さないで下さい。

 困ります、あとアンソニーさんのお嫁さんになる予定はありません……」

 

「聞きましたか、今の?

 抱かれたらその人の所有物になるって、今日びカビが生えた思想をしてますよ」

 

「おっと、それはいけない。

 朝日ちゃん、人生は一度限りなんだぜ。

 それを考えると、精一杯楽しまなきゃ損じゃないか!

 快楽に身を任せるのも、悪いことじゃないんだぜ」

 

「いえ、私はそうしたいという話なだけで、人についてはとやかく言いませんので……」

 

 私の言葉に、アンソニーさんはアメリカ人のテンプレートみたいに肩をすくめて。

 華花さんは、“私、非処女ですから!”と謎のアピールをしていた。

 日本と違って性に大らかなのは、欧州特有の寛容さがあるからだろうか(それにしたって、この二人は少し特殊な気がするが)。

 

「ところで華花くん、さっき騎乗位ならば“んほー”と叫ぶと言っていたが、それは違うぞ。

 正確には“オウイエス!!!”や“カムヒヤー、カモーン!!!”が正しい。

 もしかすると、実は騎乗位はしたことが無いのでは――」

 

「それアメリカ人だからでしょーっが!

 私は非処女ですよ! 誰がなんと言おうがそうなんですよ!!!」

 

 華花さんの声は大きく、その主張はとても熱烈だった。

 リリアさんは顔を赤くして悶えていて、メリルさんは吃驚したように目を見開いている。

 そして、上の階から降臨した大家さんに、黙らないと処女膜を縫い合わせるよと華花さんは怒られていて。

 内容よりも大声の方を注意する。

 欧州と日本の違いが、文化として表れている一幕だった。

 

 

 

 

 

 服飾について、皆で取り組むようになってから数日。

 今日はメリルさんと二人で、地下でミシンを走らせていた。

 そんな静かな一時の出来事だった。

 

「こんにちはーーーっ!」

 

 大声と共に、アトリエの扉が勢いよく開いて。

 そこからひょこっと現れたのは、明るいブラウンの髪をしている溌剌とした少女。

 キョロキョロと辺りを見回して、そして視線をあるところでロックした。

 それは、嬉しそうに顔を綻ばせていたメリルさんと、目が合ったからだろう。

 

「エッテ!」

 

「メリルぅ!!」

 

 その子は、メリルさんへと猛然と近づき、ひしっと抱きしめていた。

 メリルさんも、嫌がる素振りは見せずに抱きしめ返して。

 

「久しぶり~、サヴォワに遊びに行ったのにいなくてビックリしたよ。

 こっちに来たなら、言ってくれれば良かったのに」

 

「忙しくて、すっかり忘れてた」

 

「婚約者のことを忘れるとは何事か~、このこのっ」

 

「わっ! 髪の毛くしゃくしゃにしないで~!」

 

 どうやら、メリルさんとこの方は友達であるようで、それも親しい友人関係にあるみたいだ。

 仲良さげに、お互いのことを確かめあっている様子は、何だか微笑ましげに感じる。

 私も日本に戻った時に、同じ様なやり取りを湊や七愛さんと行うと思う。

 そう考えると、この二人の仲の良さにも合点がいく。

 思わずニコニコとしてしまっていると、メリルさんのご友人の女の子は少し落ち着いたのかこちらを向いた。

 そしてジロジロと私を見て、ウンウンと頷いて。

 

「お初にお目に掛かります、大蔵朝日と申します」

 

 そんな彼女にこちらから挨拶をすると、彼女はやっぱりと呟いた。

 やっぱり? もしかしてどこかで会ったことがあるのかと思い返しても、記憶に引っ掛からない。

 恐らく、私と彼女は初対面の筈なのだから。

 私が何かを尋ねる前に、彼女はビシッと私の方を指さした。

 何だか楽しそうに、それでいてイタズラっぽく。

 

「君がメリルを拐かした張本人の、アサヒ!

 君の名前は、沢山メリルから聞いてたよ。

 それこそ、私がツンツンしちゃうくらいに」

 

「え?」

 

 話の流れについていけてない私に、彼女はメリルさんを舞台俳優の如く大仰に抱き寄せて。

 フフンと、嬉しげに告げたのだ。

 

「私の名前は、ブリュエット・ニコレット・プランケット。

 メリルの婚約者にして、いずれ大女優になる予定だよ。

 メリルは君のことが大好きらしいけど、横恋慕しちゃ嫌だよ」

 

 サラリと、彼女は言ってのけた。

 メリルさんの婚約者、女の子同士でそういう関係なのだと。

 思わずメリルさんに視線を合わせると、勢いよくブンブンと頭を横に振っていた。

 

「メリル、礼拝堂で誓いを交わした仲だよね?

 ずっと一緒にいようってさ、メリルも覚えてるよね?」

 

「うん、確かにやった。

 でもね、それは結婚がずっと離れ離れにならない約束事だって思ってたから。

 色々と知った今は、やっぱり駄目だと思う。

 マザーも、安易に交わして良い契約じゃないって言ってた」

 

「でも、誓ったよね?」

 

「男女じゃないと、神様は聞こえないふりするってマザーが言ってた」

 

「黙認されたってことだよ、それは!」

 

「違うと思う」

 

 二人の間に齟齬があるけれど、仲が良いのは間違いない。

 この二人を見ていると、湊と七愛さんのことを思い出す。

 じゃれ合っている姿が、とても楽しそうだと感じて。

 

「アサヒ、どっちが正しいと思う?」

 

「朝日、マザーが言ってたことが正しいよね?」

 

 ムムムといった表情で、私の方へ振り向いた二人。

 そんなところまで仲良しで、ついつい頬が緩んでしまう。

 

「メリルさんが、どうしたいかによると思います」

 

 そういうと、即座にブリュエットさんはメリルさんのお顔を両手で挟んで尋ねていた。

 

「メリルは、私のこと好きだよね?」

 

「うん」

 

「アサヒ、両思いだった!」

 

「違うからね、朝日!」

 

 渾身のドヤ顔を浮かべるブリュエットさんに、メリルさんがその胸をポカポカと叩く。

 何だかんだで、二人共楽しくて嫌がってないのが二人の仲なのだろう。

 私や湊、それに七愛さんを見ていた大人の人達の反応が、ちょっと分かった一時だった。

 

 

 その後、ここに訪れたリリアさんと華花さんが目をまん丸になっていた。

 リリアさんとブリュエットさんは友達で、しかも貴族の家系であるという。

 それでいても、ブリュエットさんは気さくなままでいてと言っていた。

 世間は狭いと感じたけれど、こんな人もいるんだと世界が広がった日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、私は言いましたよね?

 あの子を品なく、辱めなさいと。

 ……出来たと思っています?」

 

「いえ、出来てません」

 

「そんな事もできないの?」

 

「私の百倍シモいのがいましたので。

 キャラ被りのせいか、大蔵さんも直ぐに慣れちゃいましたしね」

 

「もぅ! あの人にも日本人の血が流れているから!

 元からあんなだなんて、本当に信じられない!

 やっぱりアジア人は下品!!」

 

「どうします?」

 

「……次は、あの子の服飾を否定して。

 前みたいな優しいやつじゃなくて、人格を否定する勢いで」

 

「…………はい、それをお嬢様が望みなら」

 

「――オオクラ家、一杯食わされましたけれど、次回はそうなりませんわ」





これから毎回、とある人物が登場する度に最後にちょこっとあった、ご令嬢惨敗シリーズが開催されるらしいです。
エッテも顔見せをしてくれて、あと少しでパリ編のキャラは全員出揃うと思うのでよろしくお願いします。


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第30話 パリジェンヌは確かめたい

「なんか……仲良いよね」

 

 それは、私とメリルさんが二人で昼食を作っていた時のこと。

 私達の後ろから眺めていたブリュエットさんが、思わずと言った感じで口から零した言葉。

 

 因みにブリュエットさんは、メリルさんと再会した日から毎日の様にメゾン・ド・パピヨンへと現れていた。

 何なら、私もここに住むと言い出した時はとても大変だった(最終的に、大家さんに服飾生専門と言われて諦めていた)。

 

「うん、朝日は大切な家族だから」

 

 メリルさんは手を止めることなく、ことも無さげに言ってのける。

 あまりに自然に言ってくれるその言葉が嬉しくて、私もつい口が滑る。

 

「私も、こんなに可愛いお姉さんが出来て嬉しいです」

 

「朝日、私のことお姉ちゃんって思ってくれてたの?」

 

「いつも優しくしてくれて、有難うございます」

 

「答えになってないよ~、それ」

 

 軽く二人で笑い合うと、またも後方から声を掛けられた。

 それも、今度はムスーっという擬音が付いてそうな声音で。

 

「ちょっとちょっと、二人でイチャイチャしない!

 アサヒも、私言ったよね。

 メリルと婚約してるから、取っちゃ嫌だよって」

 

「もう、またそんなこと言って。

 女の子同士では結婚できないって言ったよね?」

 

「メリル、オランダでは同性婚が認められているんだよ?」

 

「でも、マザーがいけませんって言ってたから」

 

「マザーに直談判……しても駄目かなぁ」

 

 難しそうな顔で、ブリュエットさんは考え込んでしまった。

 この問題に対して、メリルさんはとても強敵だ。

 倫理観が、マザーの言っていたものを基準とした素朴なクリスチャンのものであるから。

 説き伏せるには、余程のことがないと難しいのは確かだった。

 

「……じゃあ、アサヒも女の子なんだから、結婚しないんだよね?」

 

「…………しないよ?」

 

「ちょっと考えた!

 アサヒなら良いかもなんて思ってる!!」

 

「違うよ朝日!

 エッテ、変なこと言わないで!」

 

 いつの間にか、ブリュエットさんが私の背後までやって来ていた。

 ツンツンと、私の背中を突いてくる。

 擽ったくて、っん、と声が出てしまうと、今度は私の耳元で囁きかけてきて。

 

「アサヒ、確かにアサヒは可愛い。

 それはどうしたって認めるしか無い。

 そこで、私は考えてみたことがあるんだ。

 だからさ、アサヒ。君の一日を私にくれないかな?」

 

 楽しげで、面白がっていて、愛嬌がある声。

 魅力的とだけ評するには勿体ない空気を纏って、そんな提案をされて。

 何だかソワソワっとした、流石は女優を目指されているだけある魅惑の囁き。

 

「はい、私で良ければ喜んで」

 

 その空気感に当てられて、私はふわりとした気持ちでブリュエットさんの提案に頷いていた。

 

「あ、出かけるんだ。

 ご飯食べ終わってからかな、お洗濯も干さないといけないから少し待ってね」

 

「メリルは今日大丈夫だから、ゆっくり家事してなよ」

 

「……え?」

 

 意外そうなメリルさんの顔と、つーんと顔を背けているブリュエットさん。

 もしかしたら、私はメリルさんがブリュエットさんにヤキモチを焼いてもらうための当て馬なのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

「アサヒ~、待った?」

 

「いいえ、いま来たところです」

 

 メゾン・ド・パピヨンの玄関で、私とブリュエットさんは落ち合った。

 特に意味のない儀式めいたやり取り、待ち合わせの意味がない待ち合わせ。

 でも、こういうのは雰囲気からだよというブリュエットさんの言葉はとても力強かった。

 

「んふふ~。やってみたかったんだよね、これ」

 

「お友だちとされたことはないのですか?」

 

「みんなさ、”ホントに待ってた!”とか”時間通りでしょ”とか素っ気なくてさ。

 だから、アサヒが言ってくれて嬉しいな」

 

「フランスでも、これあるんですね」

 

「ううん、私とメリルでやってただけだよ」

 

「……実はデートで使う掛け合いなんです」

 

「うん、だから使ったの」

 

 ニンマリと笑うこの人は、とても良い性格をしているみたいだ。

 私としても、そう言われると降参する他にない。

 

「ブリュエットさんは――」

 

「エッテ」

 

「え?」

 

「エッテって呼んで」

 

 軽やかに告げた彼女は、何でもない風で。

 けれども、親しみが感じられるさり気なさだった。

 このお出かけをデートと言って、ヤキモチを焼いている私相手にもこうして接してくれる。

 こうして私を対等に扱って下さるが、その高貴さは微塵も損なわれない。

 そんなブリュエットさん、エッテさんに尊敬の念が湧いてくる。

 どんな時だって、この人は変わらないのだろうと思えたから。

 

「エッテさん、本日はよろしくお願いします」

 

「はい、よろしくされちゃうよ!」

 

 元気良く私の手を握られた彼女に、私は微笑み返していた。

 今日は、楽しい一日になりそうだった。

 

 

「エッテ、朝日と手握ってる……」

 

 

 

 エッテさんに連れられて訪れたのは、プランケット家がオーナーのカフェ。

 店員さんはエッテさんを見ると、笑顔で歓迎していて。

 ここは、彼女にとって実家も同然の場所だと理解する。

 

「パリは街にいる恋人の数だけカフェがあるんだよ」

 

「情熱と愛の街、ですね」

 

「プランケット家が経営してるお店も沢山あるよ。

 因みに、別々のカフェで毎回別の女の子を連れ歩いてる人は、直ぐに噂が広がるから注意が必要だよ」

 

 つまり、プランケット家系列のお店でのことは、大抵エッテさんの耳に入ると言うことなのだろう。

 イタズラっぽく笑う彼女に、私も同様の表情を浮かべて一つ尋ねる。

 

「メリルさんとここに来たことは?」

 

「昨日だよ、自慢したくて連れてきちゃった」

 

「ふふ、エッテさんも隅に置けませんね」

 

 ちょっとしたパリジェンヌジョークのつもりの言葉を掛けると、エッテさんは虚を突かれた顔をしていた。

 想像していた反応ではなく、とても意外そうな表情。

 

「……アサヒって、女の子同士でも良いんだ」

 

 衝撃を受けていたのは、その部分だった。

 ううん、そもそも誤解が入り混じっているのだけれど。

 

「私は、男の人が恋愛対象だと思います。

 でも、エッテさんは女の子を好んでいると知っていますから。

 だから、私と一緒でも楽しんでいただけるかな、と勝手に自惚れてしまっていました」

 

 私の言葉にエッテさんは、ほうほうと頷いて。

 そして、一言。

 

「ちょっとドキッとした」

 

 照れた笑い方ではなくて、楽しくて笑っている表情を浮かべて。

 運ばれてきたカップを軽く人差し指で弾いて、エッテさんは揺れる紅茶の表面を見ていた。

 

「別にさ、男の人でも女の人でも、どっちだって私は良いの。

 ん、いや、これだと誤解されるかな。

 好きになった人がタイプだから、それがメリルだっただけ。

 ……でも」

 

 紅茶の表面で波打つ自分の顔から、エッテさんは顔を上げた。

 

「今、ちょっと良いなって思った。

 恋愛とかそういうのじゃなくてだけど、その気遣いが優しいなって。

 メリルが言う通り、アサヒって素敵な子なんだって分かった」

 

 カップを片手に、ことも無さげにそんなことを言ってのける。

 何となく分かっていたけれど、この人は相当な人誑しなのだろう。

 一方の私は、純粋な感想があまりにも面映ゆくて、視線を落としてしまう。

 紅茶の水面に、ほんのりと赤い頬が覗く。

 辱められるという意味合いを、初めて理解したかもしれない。

 自分が照れているのだと視覚的に自覚するのは、酷くむず痒かった。

 

「……私も、エッテさんの率直なところにドキッとしました。

 悪い女の子ですね、エッテさん」

 

「うん、うんうんうん。

 アサヒ、やっぱりドキッとしてくれてた!

 メリルが素っ気なさ過ぎて自信がなくなってたけど、やっぱり私も悪くないよね!

 偏見があるから、メリルはドキッとしないだけだよね!!」

 

「さて、もしかするとメリルさんはそういうこととは無縁なのかも知れません」

 

「どういうこと?」

 

「天使は恋愛をしてはいけませんから」

 

「あ~、結婚してもらえないのは困るけど、その解釈は凄く分かる!

 アサヒ、中々のメリル専門家だねぇ」

 

「エッテさんの愛情には、負けてしまうかも知れません」

 

 楽しく、私達は語らい合った。

 主にメリルさんのこと、私達が揃って好きな人について。

 私とエッテさんの間では、好きのニュアンスは変わってくるのだけれど。

 けれど、今この時、そんなこと関係なくメリルさんのことを褒めあってお互いに気分が良くなっていったのは事実だった。

 

 

 

「声はよく聞こえないけど、エッテも朝日も楽しそう……。

 どうして連れて行ってくれなかったんだろう」

 

「難儀してますね」

 

「はい……ところで貴方は?」

 

「朝日さんのお友達です」

 

 

 

 それから、エッテさんに案内されてあちこちを巡った。

 ブティックに化粧品店、凱旋門にシャンゼリゼ通り、途中で道に迷ったイギリス人の人を助けたりなんてこともしてみて。

 振り返ってみると観光していた気分、でもこれはデートらしい。

 どちらも素敵だったと回顧できるのだから、そこまで違いは無いのかもしれないけれど。

 アパートの眼の前まで戻ってきた時、寂しいと感じてしまったのは今日が楽しかったからだろう。

 

「今日はありがとうございました」

 

「こっちこそ、色々ありがと」

 

 にこやかなエッテさんに、私はところでと尋ねた。

 なになに? と耳を寄せてくる彼女の耳元で囁く。

 

「今日の目的って、何だったでしょうか?」

 

「アサヒを知ること、最初はそうだった。

 メリルが好きな子のこと、私が好きになれるか確かめたかったの」

 

「好きに、なっていただけましたか?」

 

「とっても」

 

「あはは、ありがとうございます」

 

 真っ直ぐな言葉が、気持ちよく胸に刺さる。

 この人の言葉は、直球だけれども人を傷つけずに胸に沈み込んでくるものがある。

 だからこそ、誰とだって仲良くなれる人なのだろうと思う。

 少なくとも、私は直ぐに好きになっていた。

 

「最後の方は、アサヒと楽しむことが目的、というよりしたいことになってた。あと……」

 

 笑いを堪えながら、エッテさんは目線をこれまで歩いてきた道に向けた。

 正確には、建物の陰から見え隠れしている、ふわふわの白い髪を。

 

「アサヒ、気付いてた?」

 

「はい、途中からですが」

 

「最初っから、私達のあとを付いてきてたよ。

 私とアサヒが仲良くしてると、ムムって顔するの。

 私の婚約者、可愛すぎない?」

 

「……やっぱり、声を掛けてあげた方が良かったでしょうか?」

 

「それはまた今度。今日はアサヒと二人だって、最初から決めてたから」

 

「日本では、人の恋路を邪魔する人は馬に蹴られて死んでしまえという慣用句があります」

 

「大丈夫だよ、今日確信できたから。

 アサヒはとっても良い子、メリルが居なきゃ君を気にしていたかもしれないくらい。

 だからこそ、私が酷いことをしない限り君は見守ってくれる。

 私の感情を、蔑ろにしないでくれる。そうでしょ?」

 

 釘を刺された、のもあるのだと思う。

 けれど、それ以上に私を信じてくれている。

 私は君のことを知ったよと、気持ちで表してくれている。

 そう思うと、裏切りたくないと思ってしまうのは、この人の天性の人徳なのかもしれない。

 

「メリルさんに、その気は無いみたいですよ?」

 

「その気にさせるのが、パリジェンヌの証なんだよ」

 

 くるりと、エッテさんは後ろを向いた。

 今日、一日付いてきていた愛らしい探偵さんに声を掛けるために。

 建物から見つかって、アワアワとしているメリルさんは観念した様に肩を落としていた。

 でも次の瞬間には、次は私も一緒に、と訴えている。

 受け流すエッテさんは、やっぱりメリルさんが一緒の時の方が楽しそうに見えた。

 

「当て馬役、かな」

 

「難儀ですね」

 

「難儀なんです……って、え?」

 

 後ろから掛けられた、どこかで聞いた声に振り向くと、そこには黒スーツ姿のカリンさんが何時の間にか立っていた。

 いつも通り無表情だけれど、少し得意げに見えるのがとても可愛らしい。

 

「カリンさん、いつの間に」

 

「こんにちは、朝日さん。

 あちらの彼女と、今日は一日一緒にいました」

 

 カリンさんが、メリルさんを見遣って言う。

 メリルさんはアレだけ目立っていたのに、カリンさんには全く気が付かなかった。

 もしかすると、忍者の修行でもしているのかと言わんばかりのステルスぶりだ。

 

「……もしかして、ご心配お掛けしました?」

 

「いえ、仕事です。状況が状況ですから」

 

 その言葉の意味がどういうことなのか分からなくて、首を傾げるとカリンさんは“失礼”と一言かけて、私のロングスカートのポケットに手を忍ばせた。

 すると、そこからは見覚えのない手紙が一通出てきて。

 

「え?」

 

 状況について行けずに、困惑してしまう。

 私のポケットから、覚えのない手紙が出てきた。

 それも、フランス語で私の宛名まで書いてある。

 分からないという不安が、じんわりと心を包んでくる。

 

「拝見しても宜しいでしょうか?」

 

「え、あ、はい」

 

 呆然としたまま頷くと、カリンさんは封を開けて手紙に視線を落とす。

 そして全部読み終えたのだろう、そのまま手紙をスーツの内ポケットに入れてしまった。

 

「あの、そのお手紙は一体……」

 

「ラブレターでした、社長の元へ持っていきます」

 

「らぶれたぁ」

 

 復唱して、ようやくその存在を理解する。湊が時々貰っていたやつだ。

 でも、それは大体知り合いから貰っていて、このパリに知り合いなんて数える程しか私にはいない。

 それを考えると、答えは自然とそこにたどり着く。

 ラブレター、恐らくは比喩表現。

 その内容も、どんなものかわからない。

 けれども、わざわざ私なんかに用がある人は……。

 ドキリと、心臓が高鳴った。

 

「おにい、さま?」

 

「分かりません、わざわざフランス語で書く必要は無いのですから。

 だから、危険が無いか調べます」

 

 有無を言わないうちに、カリンさんはそっとこの場を後にした。

 その場に残された私は、胸のざわめきが収まらないままで。

 もし、お兄様ならばと考える。

 

 私を忘れないでいてくれて、この不出来な妹の存在を気にかけて下さって、ありがとうございます、お優しいお兄様。

 そして、お伝えできないこの思いを、胸の内で吐露することをお許しください。

 またお会いできた時――私が愛を向けることをお許しくださいますか?

 

 

 その日は、落ち着かなくて寝られない夜となった。

 





皆さま、投稿が遅れ申し訳ございません。
最近、Victoria3というストラテジーやってて、時間が無限に溶けていきます……。
あと、寒くて手がかじかんだり、エロゲしてたりでして……。

そんなダメダメな中で、皆さまに朗報です!
なんと、つり乙小説がハーメルンに増えてました!(他力本願)
それも、本格派で読み応えがある作品が!
嬉しいですし、楽しみですね!
こっちは、今年中にもう一度更新できるように頑張ります……。


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第31話 舞台裏の出来事


今回は駿我さん視点とりそな視点になります。


 

「社長、こちらを」

 

「ん…………成程、そう来たか」

 

 カリンから渡された手紙は、本当に素っ気ないものだった。

 "我が屋敷にて待つ"

 本文には、それだけしか書かれていない。

 それだけだと、そもそも手紙に不備がある間抜けな話で済むが、それだけで済まないのはその差出人の名前であった。

 そこには、彼のラグランジェ家頭首の名前が記載されており、それがこの手紙を曰く付きの物にしていたのだ。

 

 俺と"仲良くなった"筈の家が、独断で行動して朝日さんにアプローチを掛けてきた。

 こちらの意志の介在しない場所で、身内に陰謀を図られる。

 何を企んでいるのか考える以前に、血が頭に上るのを感じて……俺は胸元から取り出したウォークマンのスイッチを押した。

 

『ありがとうございます、お優しい駿我さん』

 

『駿我さんが立派に育てたんだって、そう胸を張って貰えるような人になります』

 

『駿我さん、本当に私の家族、だったんですね』

 

『分かります、他ならない駿我さんのことですから』

 

 流れてくる彼女の声に、血の気が引いて俯瞰した視点が戻ってくる。

 今日も、彼女に助けられたなと苦笑する。

 そんな俺を見て、カリンが一言漏らした。

 

「良い趣味をされていますね、社長」

 

「そうだな、共犯者」

 

「死ぬ時はご一緒で?」

 

「権力を持つと腐敗するというのは、けだし名言だ。

 俺だけは助かるとしようか」

 

「難儀ですね」

 

 薄ら笑いを浮かべてそう言うと、カリンはアルカイックな笑みを浮かべて一歩下がった。

 忠言耳に逆らうとも言うが、この朝日さんの言葉を録音して編集したのはカリンだ。

 後ろめたさでは、俺に引けを取らないものがある。

 だからこそ、簡単に引き下がった。

 

 しかし、我が事ながら気持ち悪いが、恐らく世の普通の父親というものは得てしてこういうものだろう。

 思春期の娘に気持ち悪がられるというのも、非常に納得できる。

 だからこそ、これを朝日さんにバレるわけにはいかなかった。

 娘の親離れを望む者など、放任主義者かネグレクトを行う親しかいないに違いない。

 

 ……こういった部分で、俺は確かにあの総裁の血を引いているのだろう。

 この呪われた血を自覚し、老害にならない様に気を付けねばならない。

 そう胸に刻んで、俺はウォークマンを仕舞った。

 また、冷静さを欠こうとした時まで。

 

「それで、ラグランジェの話だったか。

 あの家への監視はどうなっている」

 

「来客は多数、しかし名家としては常識の範疇です」

 

「……その中に、衣遠の息が掛かった者は?」

 

「ありません。

 しかし、その知人となれば幾人も候補に。

 1人ずつ、調査を行いますか?」

 

「無意味になる、やめておこう」

 

 欧州は衣遠の庭だ、商売を行う上で様々な糸を張り巡らせている。

 誰がマリオネットでも不思議ではなく、たとえ衣遠の操り人形の糸を切ったとしても、新たな人間が送られてくるだけ。

 ならば、その調査に使う労力をラグランジェ家に向けている方が、支配を確実なものにできる。

 尤も、こちらの駒はそもそも信用ならないのだが。

 

「釈明をさせろ」

 

「既に来てます、謝罪と大蔵衣遠に脅迫されて仕方がなかったと」

 

「コウモリだな、流石の素早さだ」

 

 裏切る気はあった、しかし本気ではなかったと言ったところか。

 彼方も娘が質になっているのだから、手心を加えたのだろう。

 しかし、それでも蠢動してしまうのは貴族のサガか。

 だが、舐められれば尊厳を失うのが上流階級だ。

 このまま、お咎めなしとはいかない。

 

「仕置きを行う、準備をさせろ」

 

「部隊を動かしますか?」

 

「いや、暴力の必要はない」

 

「では?」

 

 無表情の、仕事なら大抵のことを出来るカリンに、俺は告げた。

 

「娘の方だ、あれを家から引き剥がさせろ」

 

 一つ頷いて、カリンは退出した。

 窓に映った俺の顔は、無表情だが酷く醜い。

 朝日さんには見せたくない、そういった穢れが映っていた。

 

 

 

 

 

 今日という日は晴れていて、新しい門出には相応しい日。

 あの人なら、こじ付けでもそう言って鼓舞してくれたかもしれない。

 妹的には、もう少しくらい曇っていても良いのだけれど。

 カーテン越しの日差しに、そんなことを思ってしまう。

 そもそも、ここには日で文字通り焼けてしまう人が居るのだから。

 

「思ったよりも上手く行っている。

 いや、上手くいきすぎているな。

 世の中は大不況だというのに、私達だけ好景気。

 ここまで来ると、不気味になってくる」

 

 私の傍には、透き通る肌に銀色めいた髪をした少女がいた。

 パソコンと睨めっこをして、ブツブツと呟いている。

 

「あー、それは多分、うちのおG様が何かやってるかもしれませんね」

 

「大蔵の?」

 

 顔を上げた彼女の目は、まるで宝石みたいな赤色で。

 人間離れしていると評しても良い程、整った容姿をしていた。

 彼女が綺麗な容姿で可愛いと評されるのは、偏に背の小ささから来る愛くるしさがあるからだ。

 陳腐ながら、妖精と立ち上げた会社の社員からは呼ばれることもある。

 彼女自身は、容姿で苦労してきたから、そういう言が好きなタイプの人間ではないけれど。

 

「別に、助けてください不安なんですとか、そんなことは言ってませんよ。

 ただ、コソコソしていたのに、嗅ぎつけられただけです。

 自分は全部を言いませんが、家族のことは全て知らないと気が済まない人なので」

 

 私の言葉に、彼女の眉が吊り上がった。

 確かに、彼女からしてみれば面白くないどころか、死活問題になり兼ねない話だろう。

 彼女が私と会社を起業し、立ち上げたのは、他ならぬ"家族の呪縛"から逃れるためなのだから。

 

「これが、君が縛られている鎖か、りそな」

 

「そうです。成功は全て管理されていて、失敗は受け止められる。

 決まり事さえ守っていたら、どんなことでも助けてもらえる。

 普通は、それを喜ぶことすれ、嫌がるのは贅沢なのでしょう。

 でも、私が一番望んでいた、家族と……姉と静かに暮らすことが許されなかった」

 

 大蔵家は、華麗なる一族と呼ばれている程に巨大で、だからこそ体面を何よりも気にする。

 姉と暮らす事ができないのも、その出自が不倫して産まれた子供というものだから。

 

 確かに、母は憐れまれて然るべきだ。

 でも、だからといって、姉を迫害して良い理由にはならない。

 それも、優しくて、抜けていて、それでいて私が大好きな姉を。

 

 でも、大蔵では姉は論ずるべき人ではなくて。

 私が出席している晩餐会で、その話題を出した人は一人たりとて居なかった。

 姉のことを知ろうとしなくて、そのまま忘れてしまおうとしている。

 そんな人達が嫌いで、息苦しくて、姉のことを思うと切なかった。

 

 だから、私は翼が欲しかった。

 籠の中で暮らす事より、空を好きな人と飛んでみたい。

 自由に生きて、姉と楽しく笑っていたかったから。

 

「本当にごめんなさい。

 まさかとは思っていました、でも本当にやるとは思ってもいませんでした」

 

「愛されてると言うべきかな」

 

「囚われてると言ってください」

 

 皮肉げな彼女の言葉に、同じく毒を込めて答える。

 許されることならば、余計なことをしないでくださいと言いに行きたい。

 でも、私たちは子供で、だからこそ怒っても唯の癇癪と思われる。

 

 お爺様には、何を言っても無駄なのだ。

 自分が正しいと思っている人に、私の気持ちを汲んで欲しいと言っても、自分の正しさを押し付けられるだけ。

 それを経験則として、私は知っていた。

 

「待っていても、白馬に乗った王子様は来てくれないぞ」

 

「知ってます。私の王子様たり得る人は、お姫様でしたから。

 だから、私が迎えに行くことにしました。

 お姫様が、お姫様を助けてはいけないなんて、お約束にないだけですから」

 

 そう言うと、彼女は"そうだな"と頷いてくれて。

 この心強い同志は、言葉にしてそれを認めてくれる。

 

「自分の好きな様に振る舞うには、相応に力がいる。

 だからこうして会社を立ち上げて、誰にも頼らない様に生きて行こうとしている。

 私も君も、大したことをしているんだ。

 その自覚さえあれば、大体のことには胸を張ってやっていけるさ」

 

 私達が、世間一般の普通からかけ離れていることは良く承知している。

 世間知らずで、大人というには幼くて、けれども無知で無力というには大人の世界が見え過ぎていて。

 そんな世界から、私達は飛び出したかった。

 許されていない、ささやかな物を手に入れるために。

 小さなものを手に入れるために、大きな敵と戦う必要がある。

 その武器になるはずのものが、私達が立ち上げた会社だった。

 尤も、今は魔王の魔力が宿った呪いの装備になりつつあるけれど。

 

「それで、どうしましょうか。

 このままだと、将来的に取引先を全て乗っ取られても不思議じゃないくらいですが」

 

「フザけたスケールでの話だが、もうその兆候はあるからな。

 そうだな……りそなが問題だというなら、私だけで新たに会社を立ち上げるべきか」

 

「え、私見捨てられるんですか?」

 

「りそななら、一人でやっていけるだろう……冗談だ、そんなに不安そうな顔になるな。

 だが、実際に新しく会社を作って、そこは私のワンマンで経営すれば大蔵も介入しようとはしない筈だ。

 その会社で私は独り立ちをして、りそなは別の手段で自立すればいい」

 

「と、言いますと?」

 

「株だ。安定感はないが、会社を経営するよりも大蔵の介入を避けられる。

 今の会社を売却すれば、それなりの資金源になる筈だから元手には困らないだろう」

 

 その言葉に、思考を巡らせ始める。

 株は価値が変動して、細かく売り買いを行う分には小銭程度しか稼げない。

 だけど数千万単位の売買を行えて、それを複数の分野で実行できるのならば、リスクを抑えつつ莫大な資金源を得られる。

 それに分散投資になれば、大蔵家も一々全部になんて介入のしようがない。

 今現在は大不況の真っ只中というのも、起業したり安く買い叩くには絶好の条件でもある。

 目利きを間違えなければ、確かに望んでいる条件が揃っていた。

 

「分かりました、それで行こうと思います」

 

「おーけー、お互いに上手くやるとしよう」

 

「はい。このままでは取引先全部から、NTRビデオレターが送られかねませんからね。

 脳破壊される前に、とっとと何とかしましょう」

 

 ホッと一息吐いて、大丈夫だと自分に言い聞かせる。

 何も決まっていない不安より、何をするのかが確定している方が安心できる。

 そういった心持ちで、今後のことを考える。

 

 姉と暮らしたい、迎えに行く。

 それが私のやりたいことで、夢の形。

 お金を稼ぐのは、その手段。

 

 あの決意した日、非現実的でフワフワしていたものが、今はこうして確実に前進している。

 その成果が嬉しくて、姉を迎えに行くのが待ち遠しくて仕方ない。

 今すぐにでも行動したいけど、そうするには大蔵家の鎖は強大で頑丈だから。

 どうか、不肖の妹が羽ばたける日まで、姉が元気で暮らせています様に。

 

 きっと、今は修道院の人が守ってくれている筈。

 あの人も姉のことが大好きだったから、一緒に暮らしてもいいと思っている。

 独り占めしたいけれど、姉が愛されているのを見ると安心するから。

 姉は、やっぱり素敵な人で、愛されて然るべき人なんだって。

 

 そうして、新たに決意を固めていると、悩ましげな声が聞こえてきた。

 振り向けば、眉を顰めて難しそうな顔をしている彼女の姿が。

 

「……ねと、られ?

 何か不穏な感じの言葉だが、世間ではそんなものが流行っているのか」

 

「いやいやいや、そんなの流行ってたら世の中終わりですよ。

 というか、"ルナちょむ"は私と同じくネットの世界で生きているのに、こんなことも分からないんですか?」

 

「……納得いかない。明らかにふざけた言葉でマウントを取られる意味がわからない。

 そんなに誇らしいものなのか、その何とかビデオレターとやらは。

 どうせ、ネットのロクでもないミームなのだろうに」

 

「分かっていませんね、えぇ。

 事の軽重問わずに、ルナちょむにマウンティングできたという事実が、何よりもポイントが高いんですよ!」

 

「ネットの掃き溜めに帰れ」

 

「いやぁ、あそこにいると掃き溜めに鶴と言いますか何と言いますか……ね」

 

「掃き溜めに鶴じゃない、君は掃き溜めの鶴だ。

 性格の悪さを矯正しないと、最愛の姉上に嫌われるぞ」

 

「それはルナちょむが、実家が大好きになるくらいあり得ないから、安心ですね! ゲへ」

 

「全く、そこまで聖人君子だというのなら、一度は会ってみたいものだな。

 りそなに辱められた分、そちらに仕返しをするとしよう」

 

「あ、その時は私もお手伝いしますので、対戦よろしくお願いします」

 

「何なんだお前は、本当に。

 厄介な偏愛を感じるぞ」

 

 酷く呆れた顔をする、私の友達にして同志。

 ネットの海で出会った、数少ない私の味方。

 桜小路ルナ、別のベクトルから同じ悩みを抱えている仲間。

 他の子が学校に行っている間に、手慰みで行っていたオープンワールド系のゲームで出会った引きこもりの同盟。

 

 いつか、この人のことも姉に紹介できたらと思う。

 将来の夢はデザイナーだから、きっと気にいると思うから。

 その時は、一緒に服の店を出していいかもしれない。

 私と姉、そのにルナちょむや修道院の人も。

 きっと楽しいから、どうかそれまで。

 健やかにお過ごし下さい、妹はあなたとみんなで笑い合える日が来ることを、心の底から切に願っています。





皆さま、暖かくして良い年越しをお過ごし下さい。
来年も不安定ですが、更新していきますのでよろしくお願いします! 

PS この前頂いた感想返しをまだしてませんが、後(明日?)で行いますのでよろしくお願いします!!!


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第32話 新たな住人

年が明けてますね……あの、今年もよろしくお願いします(小声)。
更新が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。


 それは、メリルさんと部屋で雑談をしている時のことだった。

 コンコンと二回ノックされて、扉を開ければそこには弱った顔をしているリリアさんと、華花さんの姿。

 どうしたのかと尋ねれば、思いもよらない答えが返ってきた。

 

「リリアさんが、ここに?」

 

「はい、今日からお世話になります」

 

「この卑しいメスブタめも一緒ですので」

 

「わぁ、そうなんですか!」

 

 唐突なことだった。

 リリアさんと華花さんが、今日からメゾンド・パピヨンに住むと伝えられる。

 そのことに、メリルさんはとても嬉しそうだけれど、こちらとしてはどうして? という疑問が真っ先にきてしまう。

 何より、リリアさんの表情が、事情に踏み入ってしまいたくなるくらいに弱り顔だったから。

 

「大丈夫、なのですか?」

 

 でも、それより先に気にすべきは、リリアさんの心の方。

 見て取れるほどに消沈していて、そのケアが必要だと思えたから。

 

「体調、悪いんですか?

 ベッド、使ってください」

 

 それに気が付いたメリルさんも、慌てて自分の部屋の扉を開けて。

 ただ、リリアさんは手でそれを制して、大丈夫ですと呟いた。

 尤も、そんなリリアさんを華花さんが強引に引っ張って、ベッドの上に座らせていた。

 

「申し訳ございません、メリルさん……」

 

 いつもだったら、もぅ華花っ! と叱っているリリアさんが、大人しくされるがままになっている。

 つまりは、それだけ余裕がないということ。

 何か、温かい飲み物を持って来ようと背を向けたところで、待ってと弱々しい声が掛けられた。

 振り返れば、複雑そうな表情のリリアさんが私たちを見ていて。

 私は、素直にその場でリリアさんの声に耳を傾けていた。

 

「誠に失礼致しました。

 このような無様、他所の方に見せることになるだなんて。

 ラグランジェ家の恥です、忘れてくださいまし」

 

「そんな……寂しいことを仰らないでください。

 私はリリアさんを友達だと思っていますし、体調が悪いのが恥だとも思いません」

 

「ありがとう、メリルさん……」

 

 真摯に手を握るメリルさんに、リリアさんは弱々しく笑みを見せて。

 そこに、華花さんが"えんがちょっ!"と繋がれていた手に軽いチョップを加えた。

 思わず唖然とした視線を送ると、華花さんは平然とした顔で滔々と話し始めた。

 

「リリア様はラグランジェ家の長子。

 いずれはその全てを手に入れる、貴いお方です。

 その人の手を、淫らに触れるのを許すわけには参りません」

 

「華花、淫らではなくみだりですわ。

 それに、私はそんなこと気にしませんのに」

 

「リリア様がしなくとも、ラグランジェ家メイドの私がします。

 なので、今後は気をつけてください」

 

 メリルさんが何か言いたげに華花さんを見つめるが、言葉が咄嗟に出てこなかったみたいで。

 そんなの、寂しいですと呟いたのだけが辛うじて私の耳に届いた。

 その声は切なくて、でも私の胸には温かなものが流れてくる。

 

 昔、私を助けてくれたメリルさんは、今日もここにいたから。

 リリアさんが苦しんでいる中で不謹慎だけれども、その不変さが私は嬉しかった。

 かつて、私がボロボロだった時期、手を握ってくれたメリルさんが何よりも温かかったから。

 

「リリアさん、あなたの身に何があったのか、話せそうですか?」

 

 メリルさんみたいには、きっとやれない。

 誰の心にも寄り添って、一生懸命になれる献身は私にはないと思う。

 ただ、自分のできる範囲でやれることをやる生意気さは持ち合わせていたから。

 

 リリアさんに視線を合わせて、覗き込まないようにしながら話し掛ける。

 リリアさんも、ゆっくりと私に視線を合わせる。

 キラキラとした、エメラルド色の瞳が僅かに見開かれる。

 茫洋とした瞳に、悩みと苦しさが映り込んでいる様な気がした。

 

「ありがとうござます、アサヒさん

 ですが、これは私の不徳から出た問題です。

 それを話すとなると、我が身の恥を晒すようなもの。

 なので、どうか見逃してくださいませんか?」

 

 リリアさんは、視線を逸らしてそう告げた。

 瞳を揺らして、寂しそうな表情で。

 寄る辺のない、迷子の子供のように。

 

 私は、軽く息を吐いた。

 今から話そうとすることに、些かの覚悟が必要だったから。

 けれど、リリアさんにばかり話させるのは、些か以上にアンフェアなのは確かだと思ったのは確かで。

 

「では、リリアさん。

 私の話を聞いてくださいませんか?

 私の話し難いことを、是非に」

 

 だから、私は心を落ち着けてから話し始めた。

 自分のこと、かつての私の過ちを。

 リリアさんの瞳は、今度は逸らされることはなかった。

 

 大蔵の本邸で過ごしていた時、禁を破って追放されたこと。

 そのせいで、お母様の死に目に会えずにそれが最後の別れとなったこと。

 メリルさんと出会い、救われたこと。

 心機一転、日本に渡って新たに家族ができたこと。

 ……そうして最後に、奥様の安寧とお兄さまやりそなの信頼を裏切ってしまったこと。

 でも、未だに浅ましくも、また家族で共に過ごしたいと思っていること。

 

 全部、全部を話し切って。

 そうして話し終えた時、その場には形容し難い光景が広がっていた。

 

 メリルさんは泣いている。

 華花さんは難しい顔で黙り込んで。

 そしてリリアさんは、目を見開いて私をジッと見つめていた。

 

 空気が重い、間違いなく自業自得のこと。

 恥ずかしい、それは自らの浅ましさを見せてしまったから。

 申し訳ない、恐らくはみんなを困らせてしまったので。

 でも、だからこそここまで言ったのだからと自分を奮い立たせて、リリアさんに私は告げた。

 私は恥の多い人生を送って参りました、と。

 

「なので、どうかリリアさんのお話もお聞かせください。

 自分だけが、このような人間なのだと思うと、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうですので」

 

 恐らく、私の顔は真っ赤になっている。

 自分の恥じいるべき過去を、開け広げに語ってしまったのだから。

 後には引けなくて、半ば開き直ってそうしていると、リリアさんは微笑を浮かべられた。

 

「そうですね、それでは私のことをお話し致しましょう。

 アサヒさんに比べると、私は自分が何と小さなことで傷ついていたのだろうと、そちらの方で恥ずかしくなってきますが」

 

「いえ、悩みは主観でしか語り得ません。

 自分が感じた心でしか、測り得ないものです。

 だから、どうかリリアさんが感じたままにお話しくださいますか?」

 

「――ええ、そうします。

 ですが、話し終わったら、アサヒさんに伝えたいことがあります」

 

「わかりました、リリアさん」

 

 私が頷くと、リリアさんはゆっくりと語り始めた。

 自分が、どうしてこのメゾンド・パピヨンにやって来たのかを。

 

「私、家を追い出されたのです」

 

 そう告白したリリアさんは、これまでのことを思い出すように語り始めた。

 彼女の浮かべている表情は透明色で、気持ちが読み取れない。

 ただ、客観的に事実を述べようとしているのは、何となく理解できた。

 

「本当に唐突でした、私の部屋に父がやって来て告げたのです。

 ”今日からお前は、この家を出て暮らしてもらう”と。

 意味が分かりませんでしたし、理解もできませんでした。

 だって、お父様は何も説明して下さらなかったから」

 

「それは……不安でしたでしょう?」

 

「えぇ、急な出来事で動揺してしまって。

 華花にも、苦労を掛けました」

 

「はい、リリア様が悲しみのあまり透明な雫を滴らせ、私を興奮させました」

 

「こんな事を言っているけど、華花はお父様に抗議してくれたの。

 素直じゃないから、イヤらしくて淫乱でHENTAIなことを言っているだけ。

 だから、許してあげてね」

 

「いや言いすぎだろ」

 

「それでね」

 

 リリアさんが泣いたであろうことを教えてくれた華花さんは、とても扱いが雑だった。

 でも、お陰で重苦しかった空気は若干緩和されて、いつもの空気が戻りつつある。

 そして、いつの間にかメリルさんが私の背中にピッタリとくっつきながら話を聞いていた。

 

「抗議してくれた華花に、煩いの一言だけでね。

 有無を聞き流されて、出て行く用意を家の召使いにさせて。

 通帳だけ渡されて、私は追い出された。

 それも、わざわざここに行くように指定されて。

 嫌われたと思うにしては、なんの覚えもないの。

 事情があると思っても、一方的すぎて分からないの。

 ……何なのかしら、一体」

 

 思い出して、納得がいかないと不満げな顔を覗かせるリリアさん。

 でも確かに、話してくれた内容には何故? と思うことが多々あった。

 普通は、家に居られると困るなら、何かしら理由は話してくれるだろう。

 リリアさん程の名家なら、その辺りはキチンとしていないと逆に危ない。

 そもそも、一人娘を突然放り出すのは、家としてのリスクが見るからに高くなる。

 だから、この場合は考えないといけないのは、何かしらの圧力があったこと。

 それも、ラグランジェ家ほどの名家が跳ね返せない、圧倒的な力を持った場所からの。

 

「分かりません、ですが私達は共に学び合う仲です。

 だから、一緒に悩ませてください。

 リリアさんが誰が味方で、何が真実かわからないのなら、私達が味方だという事実は覚えていてください」

 

 私の言葉に、メリルさんも力強く頷いて。

 そうしてリリアさんの目を見ると、瞳は僅かに揺らめいていて。

 私の手をそっと取って、ありがとうございますと告げたのだった。

 リリアさんと華花さんが、ここの住人として増えた日のこと。

 ……そう言えば、リリアさんと目があったのは、今日が初めてだった。

 もしかすると、結構な恥ずかしがり屋さんなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ねぇ、どうしてかしら?」

 

 その声は、枕に突っ伏して発せられてくぐもっていた。

 隣の部屋に聞こえない様に気を付けた、そんな悪足掻き。

 けれども彼女は、もしかしたら聞き耳を立てられているかもと思っていて。

 だって、と思う。

 

(あの子の目は、本物だった……)

 

 今日見た少女、アサヒは本当にこちらのことを心配していた。

 欺瞞を身に付け、他者を欺くことを学んだ彼女だからこそ分かる。

 アレに、嘘偽りなんてなかったと。

 いつも通りの彼女なら、それでもと自分の感性を否定して、日本人であるアサヒを信じなかっただろう。

 そう定義しているからと、今までの人生の軌跡に沿って。

 

 でも今の彼女は、意味も分からずに実家を追い出された上に、庶民が住む様なアパート(服飾に関して行えることだけは、素直に彼女も喜んでいる)へと強制移住をさせられて。

 理由を教えてくれるはずの父も母も、厳しげな顔で出ていけ、早くと繰り返すだけ。

 唯一、信じられる味方と思っていた両親に裏切られた彼女は、もう何を信じて良いのか分からなかった。

 

 ――そんな中で、彼女は見た。

 

 本気で心配してくれている、二人の少女を。

 アサヒさんとメリルさん。

 心の中で、呟くと彼女達の先ほどを思い出す。

 

 温かい、それも美味しい紅茶(こんなアパートのレベルでは信じられない)を入れてくれたアサヒさん。

 手を握って、私を必死に励ましてくれたメリルさん。

 今まで、勝手に内心で見下して来た二人が、一番私のことを考えてくれている。

 意味が分からなかった、否、分かりたくなかった。

 だってそれは、自分のアイデンティティに問題があると、そう告解する様なものだから。

 

 世界で一番なフランス。

 文明の発信地であるパリ。

 その国の貴族で(フランス革命時には、しれっと革命軍側に参加していたけれども)、名家で、誰にだって尊敬される。

 他の国の人間は野蛮(特に欧州圏以外の人間は)で、自分達こそがまともな人間なのだと、そう思っていた。

 

 だけれども、今はどうだと彼女は考える。

 なんの理由もなく家を追い出した彼女の両親と、貧しくも温かく迎えてくれたアサヒさん達。

 何が正しいのか、何を信じれば良いのか、自分自身の中でバラバラになりそうになる。

 彼女はその矛盾に対して、答えを出せそうになくて。

 

「分かりません」

 

 どうして? という問いに、彼女の従者は淡々と答えた。

 その様子に、苛立ちと恨みがましい視線を従者へと向けて。

 

「ですが――」

 

「なに?」

 

「あの人達が善良だからと認めたくないなら、愚かだと思われては如何でしょう。

 底抜けのおバカだから、お嬢様を迎え入れてしまったのだと。

 新大陸(アメリカ)のインディアンや、流刑地(オーストラリア)のアボリジニの様に。

 それでよろしいのではないでしょうか、欧州人(お嬢様)

 

文明開花(服飾を教え)に来たと、そういうこと?」

 

「そうすれば、あなたの意思でここに来たということになります」

 

 従者は、論点をずらしていた。

 ここで言うべきは、バカ真面目な正論ではないと理解していたから。

 

 Q.何故家を追い出されたのか?

 A.こまけえことは気にすんな、あんたは善行を行うためにここに来たんや

 

 まるで答えにはなってないが、心の拠り所がぐらついている彼女にとっては、一つの指標になりそうなテーゼであった。

 少しずつ、彼女の表情に色が戻りつつある。

 ぐらついたものが、急速に別の使命感で埋め立てられつつあるから。

 

「ふふ、そうでしたか。

 これはきっと、神の試練なのですね。

 あの人達は、欧州人ではありませんが、讃えられる才能があると。

 だからこそ、私という選ばれた者が救済し、導かねばならないと」

 

「左様でございます、お嬢様」

 

 内心で、斜め上に行きすぎてんだろと思いつつ、従者は素知らぬ顔で肯定していた。

 いびってくるお嬢様だが、雇ってくれた恩とそれなりの愛着があったから。

 良かったと、心から安堵して。

 

「うふふ、そうとなれば、早速地下へ向かいましょうか。

 デザインを、なんだか無性に描きたくなってきたの!」

 

 そう言って部屋を飛び出していった彼女に苦笑いをしつつ、従者は部屋を整え始めた。

 あとで、お嬢様が戻って来た時にすぐ休めるように。

 

 従者は、従順で忠実だった。

 彼女の実家などは関係なく、彼女そのものに。

 それに、不謹慎ながら、ちょっと嬉しかった。

 何か、自身の主人に変化が起こりそうな予感がしたから。

 

「信じて送り出した娘が、どこぞの外国人に拐かされて照れ顔集合写真を送って来たって状況になるかねー」




書いてたら、プロットを外れてリリアルートに向かおうとするので、悩んだ挙げ句に微改訂くらいで投稿しました。きっと、未来の自分が何とかしてくれるはずです。


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第33話 犯人は駿…(字が滲んで読めない) 上

 リリアさんや華花さんと、一緒の屋根の下に過ごし始めて数日。

 最初こそ、リリアさんは環境の変化に動揺していたけれど、今では俯いていた顔を上げて笑顔を見せてくれるようになった。

 そして、馴染もうと努力もしてくれている。

 華花さんと一緒にキッチンに立ち、料理まで振る舞ってくれたのには驚いた。

 食卓に並んだシチューは野菜が凸凹に剥かれていて、それをリリアさんは恥じらっていたけれども、味付けには成功しておりとても美味しかった。

 それ以降、服飾以外でも少しずつ一緒のことを行うことが増えた。

 例えば、それは今行っている作業だったり……。

 

「アサヒさん、準備はよろしいですか?」

 

「よろしいかよろしくないかで言えば、大変答え辛いのですが……」

 

「大丈夫みたいです、大蔵さんも股下がびしょびしょになっていますし」

 

「それは華花さんだけで、私はなっていません……」

 

「サラッと私のこと淫売扱いしたな、おい」

 

 私達は現在、何時もとは違う装いをしていた。

 リリアさんは、茶色の鴨撃ち帽にインバネスコートを羽織り、赤い縁の伊達メガネを掛けている。

 華花さんはというと、茶色のトレンチコートに身を包み、真っ黒なサングラスを装着していた。

 

「大蔵さん、この淫乱ドスケベメイドのコートの下が全裸だとしたら……どうする?」

 

「脱がせません」

 

 何故だか不敵な笑みを浮かべている華花さんは、とてもいつも通りだった。

 装いが変わろうと、微塵も変わらない芯があるのは素晴らしいことだと思う。

 一方で、私はソワソワとする気持ちを抑えられていない。

 身に付けている服どころか、何もかもが違っているから。

 

「案外似合うな、大蔵さん……いや、小倉くん」

 

「なんだか、すごく落ち着かないです!」

 

 ニヤニヤとする華花さんに、私は悲鳴のような声を上げた。

 今の私の格好は、キャスケット帽に髪を編んで仕舞い込み、白のシャツに半ズボンを穿いている。

 いわゆる新聞売の少年スタイル。

 レトロなそれは、ベーカー街で名探偵ホームズ相手にアルバイトでもしてそうな格好だった。

 しかも、女の子の格好ではなく男の子の格好。

 男装、といって差し支えないものである。

 ついでに偽名まで名乗ってるのは、知り合いに見つかった時に気づかれない為だ……流石に恥ずかしすぎるから。

 

「大丈夫ですわ、アサヒさん。

 とても、とっても似合ってますから」

 

「あ、ありがとうございます?」

 

「小倉くん、今の言葉を意訳してあげます。

 つまりは、”貴方には庶民の格好がお似合いですわ。卑しく私の足を舐めなさい”という、リリアお嬢様からの宣告ですよ」

 

「そんな訳ないでしょう!

 もう、華花ったら、恥ずかしいこと言わないで!」

 

 ポカポカと華花さんを叩いているリリアさんは、何だか楽しそうで。

 それにほっこりしつつ、何故こうなったかということを思い返す。

 私達が、愉快な探偵一行の格好をする様になってしまった理由を。

 

 

 

「やはり、納得がいきません!」

 

 食堂でそう言ったリリアさんの顔は、不承不承が滲み出ていた。

 近くにいた華花さんは、肩を竦めている。

 リリアさんが怒っている姿を見るのは珍しい感じがするけれども、華花さんにとっては何度か見たことのある姿なのかもしれない。

 

「お嬢様、夕食は昨日食べたでしょう」

 

「それは毎日食べさせてください」

 

「それは私の愛が籠った料理であっても?」

 

「愛情が込められているなら、なお良い話ではないですか」

 

「言い直します。それが私の愛液が籠った料理でも?」

 

「料理にその様なものを混ぜる人は、愛を語る資格はありません」

 

「この華花めの愛を、お嬢様は疑われているので?」

 

「正気は疑っているわ」

 

 とてつもなく毒舌で、今日のリリアさんは辛辣だった。

 ただ、私が食堂に顔を覗かせていることに気がついて、少し気まずそうな顔をする。

 

「あ、アサヒさん、これは違うの」

 

「いえ、いま来たばかりで、私は何も存じていません」

 

 私がそう伝えても、リリアさんは恥じいる様に顔を赤らめていた。

 その中で華花さんは、平然とした顔で告げた

 

「まるで不貞を働いた恋人の言い分ですね。

 お嬢様と大蔵さんは、いつからお付き合いを始めたので?」

 

「か、華花!」

 

 100%の揶揄いを受けて、リリアさんは顔を先ほどより更に赤くしていた。

 今回は、羞恥ではなくて怒りで。

 

「え、えっちなことを言うのはおやめなさい!」

 

「なるほど、お嬢様の中だと恋人になるイコール即エッチなんですね。

 良いですね、流石は私の主人。ど淫乱です」

 

「私はともかく、アサヒさんを侮辱するのはやめなさい!」

 

「大蔵さんのことなんて、一言も触れてないんですけど……。

 お嬢様の中では、大蔵さんが淫乱呼ばわりされたことになってるんだ……怖」

 

 二人の何時ものやりとりは、いつの間にか私にまで飛び火していた。

 思わず遠い目になりそうになるけれど、耐性ができてきたのか、苦笑で済ませられていた。

 

「安心してください、リリアさん。

 私は異性愛者です」

 

「お嬢様、振られましたね」

 

「え、私、振られた?

 振られ、大蔵……ウッ、頭が!?」

 

 突如として頭を押さえるリリアさん。

 慌てて崩れ落ちそうになる彼女を支えると、華花さんも手伝ってくれて、そのまま椅子の上にゆっくりとリリアさんを下ろす。

 その顔色は、今度は青色に変わっていた。

 リリアさんは、分かりやすく表情に出る人だった。

 

「大丈夫ですか、リリアさん?」

 

 目をグルグルさせているリリアさんに声を掛けると、ハッとした顔で目の焦点が合う。

 そして私の顔を見て、小さく首を傾げて不思議そうにしていた。

 

「あら、アサヒさん、どうかしまして?」

 

「いえ、リリアさんの体調が悪いのではないかと思ったので」

 

「? いえ、体調は良好ですわ」

 

 微妙に成り立たない会話に不安になっていると、華花さんが私の耳元で囁いた。

 

「お嬢様はキャパオーバーすると、記憶を消すタイプの人です。

 大蔵さんも、覚えていてください」

 

 何か、とんでもないことを言われた気がするが、目の前のリリアさんを見ていると、それが嘘でないとわかる。

 なので、とりあえず華花さんに頷いておいた。

 さっきの会話の、何がリリアさんを追い詰めたかは分からないままだけれど。

 別段、蒸し返すほど気になってる訳でもなく、私は別の疑問へ興味を向けていた。

 

「ところで、何が納得いかないのでしょうか?」

 

 それは、食堂に来た時にリリアさんが憤りながら、口に出していた言葉だった。

 それは、リリアさんは、やっぱり聞こえていたのですねと恥ずかしそうにしながら、私の疑問への答えをくれた。

 

「家を追い出されたことに対して、です。

 ここでの暮らしに慣れて、考える余裕ができたらどうしても気になってしまって」

 

 前までは顔を伏せて話していた内容を、今は堂々と顔を上げて話していた。

 不服ですと、キチンと表情に現して。

 

「確かに、分からないことが多いですね」

 

 そっと華花さんに目線を向けると、それに気がついてくれたのだろう。

 何も知らないと、首を振った。

 

「お嬢様と私がここに来たのは、旦那様の指示があったからです。

 ここに来る時、その他のことは何も話してはもらえませんでした。

 尤も……」

 

 何かを言いかけて、華花さんは口を噤んだ。

 ただ、華花さんの言いたいことはなんとなく察せられた。

 ラグランジェ家に対して、そんな圧力を掛けられる人物は、そう少なくないのだから。

 

 胸が不安で、ザワザワとする。

 考え過ぎると、あらぬ疑いをかけてしまいそうだから。

 そんな私に、華花さんはまた耳元で囁いて。

 

「お嬢様は世間知らずで、そんなことには想像が及びません。

 まぁ、普段は仕掛けられる側ではないので。

 だから、拗れさせないためにも、余計なことは言わないでください」

 

 最後に、でないと行き場がなくなってしまいます、と呟いて。

 華花さんは、そっと私から離れた。

 私は小さく頷くと、華花さんもそれに倣って。

 訝しんでいるリリアさんの方に、向き直った。

 

「隠し事ですか?

 もしかして、お父様から何か聞いておられます?」

 

「いえ、お嬢様はレズかバイかで盛り上がっていました」

 

「華花! ふざけないでください!

 もう、本当にいつも!

 今はもういいって言ってるのに!」

 

「癖になったので、責任とってくださいお嬢様」

 

「……考えておきます。

 それで、本当は何を話していたのですか?」

 

 アサヒさん、と私の方をリリアさんは向いて尋ねた。

 華花さん相手は、煙に巻かれると思ったみたいに。

 ただ、憶測に過ぎないことは、今この場で話すと拗れそうだと言うのは華花さんの言った通りで。

 私は咄嗟に、こんなことを口走った。

 

「今はまだ、語られるべきことではないです」

 

 彼の推理小説で、解答の提示を拒否する時に示されるワトソン氏の文言を、私は引用していた。

 正確な部分は違うけれど、大体のイメージを持って語られる言葉はこれだったから。

 因みに、七愛さん曰く、ホームズに口止めされているワトソン氏の読者への言い訳なので、イメージにある格好いい言葉ではないとのこと。

 

 でも、私の言葉を聞いたリリアさんは、ハッとした顔になって。

 格好つけが成功したかな? と思った瞬間のことだった。

 

「つまりは、証拠を集めればよろしいのですね?」

 

 リリアさんの目が、薄く開かれていた。

 浮かべている淡い笑みは、ともすれば嗜虐的に見える貴族のそれで。

 目の光が、冒険にときめく子供を連想させる。

 咄嗟に華花さんの方へ振り向けば、酷く呆れた顔をしていた。

 

「気になって気になって仕方ない人の前に、勿体ぶればページを捲ろうとするでしょうに」

 

「……はい」

 

 確かに、私の物言いは、まるでヒントが出揃ったら解決する様な味わいがあった。

 我ながら、迂闊すぎたかもしれない。

 

「そもそも、家を追い出されて不安に過ごしてるんです。

 それを解決したいと思うのは、至極当然でしょう。

 それっぽいことを言われれば、やる気にもなってしまいます、

 今更、やっぱり無しだとかいうのも無責任だし。

 大蔵さん、自分の言葉に責任を取ってくださいね」

 

 呆れ顔の華花さんと、目にやる気を灯しているリリアさん。

 その二人を前にして、私は気まずさの中で首を頷かせていたのだった。

 

 因みに、その証拠集め。

 つまりは探偵的な調査をするにあたって、私達は初めて共同作業で服を作成した。

 リリアさんは様式美から入る人で、格好をとても整えたがっていたから。

 制作期間は、何と二週間の弾丸制作。

 

 市販の服をバラして、私が型紙を解析し、リリアさんが規格に合うようデザインをリファインして、それを華花さんで再設計し直したもの。

 縫う時の作業は、目を輝かせて手伝いに来てくれたメリルさんが抜群のセンスを発揮してくれた。

 サヴォアでは、日常的に服を仕立て直していたと懐かしいことを話しながら。

 私も、何とか皆さんに負けない様に、必死にミシンや針を動かして。

 

「ふーん、やるじゃん」

 

 それを見ていた華花さんが、そう言って褒めてくれたのがとても嬉しかった。

 

 

 

 そうしてできた服は、正に探偵一行といった風情で。

 ……誤魔化そうとしたけれど、やはり恥ずかしさは拭えない。

 そして、何よりこれから目的がまずい。

 何となく真実を知りたくない私と、ようやく安定したリリアさん周りの状況が無茶苦茶になることを恐れる華花さん。

 思っていることは、確かに重なっていた。

 私達は目配せしあい、頷き合った。

 

 リリアさんには大変申し訳ないけれど、私は色々なことから目を逸らすことにした。

 私と華花さんは、お互いに目配せをして、そして頷きあう。

 今日は、リリアさんには探偵見習いでなくて、デザイナーの卵としての成果を確かめてもらおう。

 着ている服を楽しんで、通りを歩いて評価され、それで一日が終わりますように。





ソシャゲのヘブバン、ABコラボもあって始めてみたら案外水が合ってやり込んでしまいます。あと、久方ぶりにだーまえ様のシナリオに触れられて、気分が10年ほど若返った気分になりますね!(なお、可処分時間は減る模様)


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第34話 犯人は駿…(字が滲んで読めない) 下

遅れて申し訳ございませんでした(震え声)


 ひそひそ、ひそひそと言葉が交わされている。

 私達ではない、周りの人達の囁き声。

 でも視線は、私達の方へチラチラと向けられていて。

 私が縮こまる中で、リリアさんと華花さんは堂々と歩いていた。

 

「ほら、胸を張って歩いてくださいまし、アサ……コクラ君」

 

「そうですよ、小倉君。

 あなたがそんな歩き方をしてると、私達はハロウィンの時期を間違えたコスプレ集団になるでしょう。

 でも、全員が堂々と歩いていたら、それはファッションだと認識されます」

 

 リリアさんは、こともなさげに。

 華花さんは、からかうように。

 ただ、二人共が私に告げた内容は同じで。

 自信を持って、格好を誇示しなさいというもの。

 自分の中に確かな芯を持っている、しっかりした人の理屈。

 それに私は……助けて下さいという視線で二人を見てしまっていた。

 

「お二人は、とてもお似合いです。

 素敵な探偵さんと刑事さんで、目に止めてしまいます。

 ですが、私は控えめに言っても……」

 

 今の私の格好は、古き良き新聞売りの少年スタイル。

 そう、男の子の格好。

 少年と言い張るには、私はその生態を知らなさ過ぎた。

 そもそも、半ズボンで太ももが露出しているという状況が、なんとも心寂しすぎる。

 

「あ、あの、タイツとは言いません。

 ニーソを履かせて頂いてもよろしいでしょうか」

 

 どうにかなってしまいそうな気持ちでそう告げると、二人は顔を見合わせて呟きあい始めた。

 

「どう思います、華花?」

 

「あの格好にニーソは、似合ってない通り越して倒錯してますね」

 

「では?」

 

「ありだと思います」

 

 二人はとても良い笑顔でこちらを向くと、ニッコリと笑って”どうぞ”とハモった。

 ……さっきの会話を、わざわざ私に聞こえる声量で話して。

 

「――っ、良いです!

 このままで行きます!」

 

 半ば、悲鳴のようにそう告げると、さもありなんと二人は堂々と歩き始めた。

 どうにもやり込められた気がしてならないけれど、後にはもう引けなくて。

 

「私……いいえ、ボクですね、ボク」

 

 まずは、自分の一人称を変える暗示を掛けるところから、私の男の子は始まった。

 

 

 

 

 

「それで、リリアさんは一体何を為さるおつもりで?」

 

 私は、精一杯低めの声を出しながら、今日の目的を尋ねていた。

 このまま、パリの街中を一周して帰るだけでも、相当堪えそうだ。

 でも、それだけで済むのなら、楽しい仮装大会でこの催しは終了する。

 けれども、リリアさんはそれだけで済ます筈がない。

 でなければ、わざわざ服まで作ったりなんてしない。

 もし、直接実家に乗り込もうとするのなら、大変なことになるかもしれない。

 その時は、是が非でも止めなければ。

 

 そんな決意をする私に、リリアさんは淡く微笑んだ。

 ミステリアスな空気で、そっと言葉を添えて。

 

「友人の家を回ります」

 

 

「ご友人の?」

 

 思っていた内容と違い、意味も掴みかねる。

 どういうことだろうと首を傾げると、リリアさんの笑みの質が変わる。

 薄い微笑みから、口角が上がったもの。

 動物は、狩りをする時に笑うのだと、そういったことを思い出せる笑み。

 

「正攻法が上手くいかない時は、揺さぶりを入れるのが嗜みです。

 なので、方々を周ります。

 マトモに相手をしてくれないのならば、してくれるように場を整えるのみです」

 

 リリアさんの発言を聞いても、まだ私は理解できていなかった。

 そんな私を見兼ねたのか、華花さんが解説を添えてくれた。

 無表情で、まるで他人事のようにして。

 

「要するに、愛する娘を放り出した酷い親がいるんですぅって、友達経由で貴族社会に吹聴するってことです。

 醜聞の類は、どの業界でも忌み嫌われます。

 それが、身内から出たものならば、真実味を帯びてくるので特に」

 

 へぇ、そうなんだと聞き流せれば、どれほど良かったことだろう。

 リリアさんがやろうとしていることは、報復と言っても過言ではない内容だった。

 つまりは、ご両親たるラグランジェ伯の顔に、泥を塗る行為。

 慌てて、私はリリアさんに話しかけていた。

 彼女は、とても穏やかな表情をしていた。

 

「待って下さい!

 それでは、敵対するだけです。

 ご両親と仲直りするどころか、更に溝が深まってしまいますよ」

 

 そう告げると、リリアさんはおかしそうに首を傾げた。

 なんで? と思うように。

 

「最初に理不尽を振りかざしたのは、お父様です。

 それは、自分に痛みがないから。

 辛い思いをしたことがないから、他の方を思い遣れない。

 だから、これはお父様のためなのですよ」

 

 諭すようなリリアさんは、とても優しい声音だった。

 いつもの穏やかなリリアさん――口元が、怪しく上がっていること以外は。

 

「……本当に、そうお思いですか?」

 

「どういうことですか?」

 

 表情は変わらず、ただリリアさんの空気だけが変わっている。

 だからこそ、いくら鈍い私でも気が付いた。

 リリアさんは、とても言い表せないほどに怒っているのだと。

 

「リリアさんはお優しい方です。

 自身の親族でも、間違っていたなら糺そうとしてしまう位に」

 

 でも、それを直接指摘するのは憚られた。

 怒っている人に怒るなというのは難しいと、お兄様で経験しているから。

 そういう時は、着地点をずらす必要があるのだと私は学んだ。

 お兄様相手には、全然上手くいかなかったけれど。

 

「……そう、なのかしら?」

 

「えぇ、そうです。

 でも、痛みから学べるのは、辛さに寛容な人だけです。

 痛みは、人に憎しみを与えてしまうこともあります」

 

 嫌なこと、苦しいことに対して、人は背を向けようとする。

 私も、家族と離れて俯くことしかできなかった時期があった。

 体も心も、痛みは劇的で様々な変化を起こしてしまう。

 時には、それが悪いように作用してしまうことだってあるのだ。

 

 なので、と私はリリアさんに伝える。

 この人までもが、家族との歪みを大きくして抱える必要はないと思ったから。

 

「優しい人が、親しい人に疎まれる様なことを為さらないで下さい。

 リリアさんが我慢できたとしても、私は苦しく思ってしまいます。

 あなたは、愛されるべき人だと、そうであって欲しいと願っているからです」

 

 私の言葉に、リリアさんは一度口を噤んだ。

 先程まで変わらなかった表情は難しげに、眉を顰めてしまっている。

 けれども、それは私の言葉をキチンと受け取ってくれたということでもある。

 だから、そんなリリアさんをジッと見つめて。

 

「……そう、ですね」

 

 その言葉が絞り出されて、ようやく私の胸に安堵が訪れた。

 良かったと、心から思えて。

 家族と分たれるというのは、それだけ恐ろしいものなのだから。

 そこまで考えて、私はようやくリリアさんの心細さを本当の意味合いで測ることができた。

 

 家族に見捨てられたと感じる不安。

 味方がいても、自分は一人なのだと感じる焦燥。

 落ち着かなくて、何かしなければという使命感。

 

 全て、私が過去に感じていたこと。

 湊や七愛さんがどうにかして鎮めてくれた、自傷的な衝動。

 私は子供であることを捨てようとして、リリアさんの場合はご両親に意趣返しを行おうとした。

 その差異はあれど、根底には同じものを感じることができたから。

 

 リリアさんは今、とてももどかしそうにしている。

 何をしたら良いのから、するべきなのか分からなくなって。

 私は、そんな彼女の手を、そっと握った。

 貴族として守られてきた、今も慈しまれているこの手を。

 

「大丈夫です、リリアさんは愛されております。

 華花さんだって居て、クレジットカードも止められていません。

 それに華花さん以外にも、私やメリルさん、大家さんだっています。

 味方は沢山います。

 きっとご両親が、その様な場所にリリアさんを預けようと思ったからです」

 

 だから、とその戸惑っている目に、私は告げた。

 

「安心してください、私もリリアさんを支えますから。

 それでも不安なら、一緒に分かち合いましょう。

 リリアさんの感じているもの、嬉しいことも苦しいことも、共有させてください」

 

 真剣に、心を込めて、共感を持てる仲間としてそれを告げる。

 僅かに、応えるように手を握り返されて。

 ただ、沈黙が場を包んでいた。

 静かで、けれどもリリアさんの体温だけは感じられる時間。

 

 ……もしかして、私はとても恥ずかしいことをしているのでは? などと思い始めたのは沈黙が続く時間と比例してのことだった。

 

「な、なんだか照れくさいこと、言っちゃいましたね」

 

 恥ずかしくて、その手を離そうとして……できなかった。

 リリアさんが、先程よりも強く手を繋いでいたから。

 

「あ、あの?」

 

 さっきから照れてリリアさんの顔を見れてなかったが、恐る恐る彼女の様子を伺えば、顔が高揚してるかのように紅潮している。

 見ているこちらが、ソワソワとしてしまうくらいに。

 そうして、ボソリと呟かれた言葉が、近くにいた私にもハッキリと聞こえてしまった。

 

 

「――王子様」

 

 

「おうじ、さま?」

 

 言葉の意味を理解しかねて、おうむ返しにすると、リリアさんは反射的な感じでパッと手を離した。

 フルフルと頭を振る姿は愛らしく、女の子らしさに満ち溢れている。

 そんな挙動を何回か繰り返して、リリアさんが最初に発した言葉は"違うんです"だった。

 

「コクラくんがあまりに格好良いから、男の子と間違えてしまいました」

 

「格好良い……わ、ボクがですか!?」

 

「えぇ、他の男性と比較しても、アナタの方が格好良いですわ」

 

 まさか、と最初は思った。

 私なんかに、そんな要素は微塵もないから。

 でも、リリアさんは嘘を吐いている様子は微塵もなくて。

 本気で、私の、いや、ボクのことを格好良く見てくれている。

 そんな熱っぽさを感じて、なんだか胸が弾みそうになった。

 

 今日はこの3人の中で、一人だけ場違いな気がしていたから。

 心からの気持ちだと分かるから。

 今日の自分がボクであることを認めても良いと思えて。

 

「……うわー、マジかよ。

 人間が堕とされる瞬間、初めて見た」

 

「? 華花さん、何か仰りましたか?」

 

 何やら神妙に、けれども聞こえない声量で呟いた華花さん。

 どうしたのかと尋ねれば、何だか華花さんはフルフルと震えだしていた。

 そうして、ポツリと漏れ出た一言は、私の想像だにしていなかった言葉だった。

 

「お前絶対非処女だろ」

 

「え?」

 

「お前ぇ、散々私のことからかって楽しかったか!!

 哀れな処女が、強がって無様晒してるって笑いものにしてたか!

 そうだよ処女だよ! いいや処女じゃないアルヨ!!!」

 

「え?」

 

 突如として、爆発するように叫んだ華花さん。

 顔は真っ赤で、どうしてだか憤慨している。

 私と華花さんが処女か、処女じゃないかという話のようだけれども。

 

「華花、お恥ずかしい真似はおやめなさい!

 それに、コクラくんにも失礼ですわ」

 

「いえ、リリアさん」

 

 大丈夫だと伝えようとした言葉は、リリアさんの発言によって途切れてしまった。

 ひどく真面目な顔で、毅然として言い放った言葉で。

 

「コクラくんは処女ではありません、童貞です」

 

「リリアさん!?」

 

 訳が分からなくなりそうな展開だった。

 一体急にどうしてしまったのか、何かおかしなことが起こっているのか。

 リリアさんと華花さんは、二人して睨み合っていた。

 意見がぶつかった時に、互いの主張を譲らない論客のように。

 

 ――私が処女ではないのか、童貞であるのかという議論で。

 

「あの~、私は処女です。

 男の人とはお付き合いしたことありません。

 そういう訳で、この後どうしましょうか?」

 

 気が引けつつも、自分の頭を疑いつつある展開を収拾するため、私はそっと二人の間に割って入った。

 にこやかな笑みで、敵意がないのを示しながら。

 どうにかして、今日の目的へと話題を転換しようとして。

 ……けれど、

 

「ほら見なさい、華花!

 この通り、コクラくんは清らかです」

 

「いいえ、いくらお嬢様とはいえ、この人の沽券(股間)に関わる問題は、そうそう分かるはずありません。

 牙を剥いてお嬢様を篭絡した手腕、明らかに清らかな奴の所業ではありません。

 そもそも、何だよ童貞って。

 こいつは女だよおかしいだろ」

 

「コクラくんは男の子です!

 なんと言おうと、この場ではそうです!!」

 

「ハン、だったらコクラ棒で主従揃って調教されますか?

 無いものに縋るって、まるで神様みたいなものですね。

 コクラくんのおにんにんを崇め奉りましょうか」

 

「……ッ、不潔!」

 

「いや、一瞬逡巡するなよ。

 即座に嫌がれよ、どうして受け入れようか検討してたんだよ」

 

 今は静けさが漂う、高級住宅街の道路に私達は居る。

 人通りが少なく、だからこそ余計に私は周囲を見渡してしまっていた。

 こんなところ、もし他の人に見られたら羞恥でお母さまの元に旅立ってしまいそうだから。

 

 そんな決意と祈りのお陰か、周りには誰もいない。

 お陰で私の尊厳は守られているけど、それは二人を止める条件にはならない。

 冷水を浴びせる一言が、きっと必要だから。

 

 多分、これは白昼夢だ。

 そう自分に言い聞かせて、開き直る準備をした。

 すごく、こんな事言うのを家族の誰にも聞かれたくないなと思う言葉を発するために。

 すぅ、はぁ、と軽い呼吸の後、心臓がドキドキするのを無視して私は言い放った。

 

「――わ、私の股間とリリアさんの家庭の事情、どちらが大切なんですか!!!」

 

 言ってしまった、口にしてから後悔が押し寄せてくる。

 二人は正気を失っていたけれど、その仲間に入るような発言をしてしまったから。

 

 でも、その効果はあったようで。

 二人は一瞬黙ると、顔を見合わせてヒソヒソと囁き始めた。

 今度も、私に聞こえるくらいの声の大きさで。

 

「どっちです?

 私としては、コクラくんのブツのデカさが気になるのですが」

 

「………………今日の私は、名探偵のリリアーヌ・セリア・ラグランジェ卿です。

 探るべき謎があるのならば、そちらを優先しなければなりません」

 

「いや、コクラくんのち○ぽの大きさも十分謎だろ」

 

「それは、いずれ解明されるものです」

 

「いや、無いだろと突っ込めよ。

 なんで自分の穴に受け入れる気満々になってんだよ。

 お嬢様、平然とある流れで話を進めないで下さい」

 

「そういうことなので、今日はやるべきことをやりましょう」

 

「流石はお嬢様、人の話を聞かないことに掛けては天才的過ぎる」

 

 どういう、こと、なのだろうか。

 二人は示し合わせたかのように頷いて、私の方に向き直った。

 そうして、一言。

 

「行きましょうか、コクラくん」

 

 そう言って、リリアさんは私の手を取ると、何事もなかったかのように歩き出した。

 頭が理解に追いつかずに呆然としていると、華花さんが私の耳元で囁いた。

 

「お嬢様がナニかに目覚めたら、マジで責任取ってもらうからな」

 

 いつもの、明らかに冗句を言ってる時の様な口調ではない。

 感情のない、事務的な口調に私は震えずにはいられなかった。

 

「? コクラくん、寒いんですの?」

 

 何時も通りのリリアさんに戻っているのを確認し、大丈夫だと自分に言い聞かせる。

 たぶん、きっと、めいびー。

 

 

 

 

 

「御機嫌よう、エッテ」

 

「おサリュ~、リリア!

 それにアサヒと華花さんも!

 みんな、楽しそうなことしてるね」

 

「遊びではなく、必要なことなのです」

 

 結局、あれから私達はリリアさんのお友達の家を周っていた。

 といっても、最初のような流言飛語を流す目的ではない。

 彼女たちに、ラグランジェ家の様子を探る密偵として、活躍してもらおうというお願いをして回っているのだ。

 

 最初の内容と何が違うのかというと、ある意味で探偵ごっこに皆を巻き込んでしまおうという趣旨があった。

 一人ひとりが探偵の真似事として、ラグランジェ家の様子を探りに言ってもらう。

 そうして得た情報で、今後のことを考えていく。

 それが、今回リリアさんが取った選択だった。

 

 それに、生粋のお嬢様達がどのような反応をするか不安もあったのだけれど、その心配は杞憂と化した。

 彼女達は、私達の服装を見て、面白そうと思ってしまっていたから。

 ねぇ、私にもその服用意してもらえるの? とリリアさんは何回も聞かれている。

 それくらいに、この服装でのアピール自体は成功していた。

 尤も、リリアさんが数量限定品ですのよ、と伝えるとひどく残念そうにしていたのだけれど(協力自体は約束してくれた)。

 

「で、メリルどこ?

 ワトソン姿のメリルに、私は猛烈に会いたい気分なんだけど」

 

「メリルさんは、お留守番です。

 今日はなんでも、ご用事があるだとか」

 

「えー」

 

「今度は、仮装をしたメリルさんを連れてくることを約束します。

 なので、ヘソを曲げずに協力していただけますか?」

 

 リリアさんの言葉に、エッテさんは何故だかこちらに視線をやって。

 フムフム、と何やら面白いと顔に出しながら私を観察していた。

 思わず身を捩りそうになるが、その前にスッとリリアさんが間に入ってくれた。

 ありがとうございます、お優しいリリアさん。

 

「お触り、厳禁です」

 

「へー……へぇーーーーー」

 

 但し、エッテさんの表情は更に怪しくニヤつき始めていた。

 リリアさんの言葉に反応して、私とリリアさんを交互に見る。

 面白い、そんな気持ちが堂々と顔に出ていた。

 

「違います」

 

「何も言ってないのに、そんなこと言うのが怪しいなぁ」

 

「違います」

 

 にこやかに、私は言葉を重ねてエッテさんに伝えた。

 否定しておかないと、何やらとんでもないことになりそうな気がしたから。

 

「違うのですか?」

 

「……恐らくは」

 

「恐らくなのですね」

 

 ただ、眉を下げて目を伏せるリリアさんに対しては、あまり強い言葉は使えなかった。

 リリアさん自体は、恐らくという言葉で安堵していたけど。

 困った顔になりかけたところを、軽く華花さんに小突かれた。

 

「責任」

 

「何もしてません!」

 

「誘惑しといてこれかよ、全く」

 

「風評被害です」

 

 そんな私たちのやり取りを見ていたエッテさんは、何度も頷くとコソッとリリアさんの側にやってきて耳打ちをしていた。

 

「私は、結婚式までやったから。

 何かと逃げ出そうとするし、しっかりと捕まえてなきゃダメだよ」

 

 普段は薄くしか開かれないリリアさんの目が、ハッキリと見開かれる。

 それでいて、二人で通じ合ったかの様に握手していた。

 窓から見える空に、何故だかメリルさんの笑顔を幻視した。

 背筋が、ザワザワとさざめいている。

 冷や汗を、すごくリアルに感じてしまったから。

 

「それでエッテ、協力してもらえる?」

 

「勿論、元々友達だったけど今日から親友だから」

 

「ふふ、嬉しい。

 真心を込めて、貴方との友情を誓います」

 

 和やかな空気の中、何か大事なものを捧げてしまった感覚に襲われつつも、エッテさんにも協力を取り付けられた。

 その他にも、多くのご令嬢が協力を約束してくれて、リリアさんの人望を感じた一日となったのだった。

 

 

 

 

 

 

 そうして、私達がメゾン・ド・パピヨンに帰ってくる頃には、既に日が落ちていて。

 私はようやく、小倉くんから元の自分に戻れたのだった。

 今日も色々とあった、大変だった、そんな益体もないことをメリルさんに話そうと思って。

 彼女の部屋を訪ねてみると返事がない、もう遅い時間なのに。

 ――何故だか、胸がザワリとざわついた。

 

 その日、結局メリルさんは帰ってこなかった。

 耐え兼ねて、ごめんなさいと踏み込んだメリルさんの部屋には、誰も登録されていない携帯電話がポツンとあって。

 携帯と一緒に、肌身離さず持っていてくださいと書かれた紙が存在していた。





駿我さん曰く、これは俺じゃないとのこと。


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第35話 お兄様は漬物に味の素をかけるタイプの人間

今回は、メリルさんとお兄様視点です。


『これより俺は貴様の飼い主であり、貴様は俺の駒になる。

 それが、この契約の条件だ』

 

 私が朝日と再会するための条件。

 それは、この人の言う通りにすることだった。

 

 

 

「衣遠さん……」

 

「来たか、メリル・リンチ」

 

 酷薄な笑みを浮かべているこの人は、何を考えているのか。

 それが分からないまま、私はプランケット家が経営するホテルにやって来ていた。

 エッテが日本のお菓子をおみやげに持ってきた翌日は、この場所に来いと指示をされていたから。

 

「無理に、酷い笑顔を浮かべない方が良いと思います」

 

「クク、早々に何を言うかと思えば。

 甘い蜜月を、存分に楽しんだだろう。

 尤も、お前はヤツにとって一番ではなかったようだが」

 

 衣遠さんの言葉は、楽しくて仕方ないといった風だ。

 私が、どれだけ朝日に焦がれていたかを知っているから言える言葉。

 朝日が今はリリアさん達を優先していて、それで寂しかったのは確かだ。

 でも、と思う。

 

「それでこそ、朝日だと思います。

 リリアさんは落ち込んでいました。

 彼女を励まし、元気付けるために一生懸命だった朝日は正しいです」

 

「つまらん解答だ、本心がまるで見えない。

 隙を見せていないつもりか?

 無駄な抵抗はよせ、愚かなる灰かぶりよ」

 

 衣遠さんは、あまり人を信用していない人だ。

 だから、私が伝えた気持ちも受け取ってくれない。

 困った、と思ってしまう。

 朝日なら、こういう時はどうするのだろう。

 この人の心に、キチンと気持ちを届けるには、と。

 

「私は朝日に会いたくて、こうして再会させて頂けたことに感謝しています。

 だから、衣遠さんに嘘を言う理由がありません」

 

「クク、欲をかいて自滅する人間などいくらでもいる。

 アレ欲しさに俺を裏切る、実にありそうな愚行だ」

 

 衣遠さんの言葉を、悲しく思う。

 それは、信じてくれないから生じるものではなく、この人が誰に対しても心を閉ざしてしまっている故に覚えたモノ。

 固く閉ざされた心の扉の取手を、私は回す術を知らない。

 鍵を持っているのは、ここにはいない彼女に他ならないのだから。

 

 胸に苦しいものを抱えながら、私は彼女のことを想う。

 朝日、きっと貴方しか衣遠さんを助けてあげられない。

 私では、悲しいことにどうにもしてあげられない。

 

 私が勝手にいなくなって、朝日はきっと驚いている頃だと思う。

 必死になって、私を探してくれてるのも分かっている。

 そうなると分かっていて、事情を話さなかった私が願うのは凄く身勝手だ。

 それでも、と貴方の事を想ってしまう。

 

 助けてあげて、どうかこの悲しい人を。

 棘だらけで、誰も触れないハリネズミみたいな人を。

 

 朝日は、この人が家族で誇らしいと手紙に書いていた。

 この人も、朝日のことをとても気にしている。

 だから、噛み合えばきっと、やり直せるはずだから。

 

「衣遠さんは、朝日のことをとても魅力的に感じているのですね」

 

「――何だと」

 

 そうなるには、私がどうすれば良いのか。

 考えてみれば、とても答えは簡単だった。

 伝えれば良いんだ! 朝日の良いところをいっぱい!

 

 私が上辺だけの言葉をいっぱい並べるよりも、きっと効果がある気がする。

 真心は伝わるって、マザーも言っていたから。

 それに、修道院でオルガも言ってた。

 ”気になる子に意地悪するのが、男の子”って。

 

「私も、その気持ちは分かります。

 朝日のことは沢山好きで、衣遠さんにとても感謝しているから」

 

 衣遠さんは、苦いものを食べてしまったみたいにこちらを見ていた。

 だから、精一杯の甘さで私はその顔を解きほぐせたらと思って。

 

「朝日の、誰にだって優しいところ。すごく器用で、何だって簡単にできてしまうところ。誰かの助けになりたいと、一生懸命なところ。物覚えが良くて、教えると服を縫うのが直ぐに上手くなってくれるところ。お料理がとても美味しくて、毎日だってこのご飯を食べたいなと思わせてくれるところ。お掃除が得意で、玄関を掃いているのがとても素敵なところ。知らないことを、優しく教えてくれるところ。嬉しい時に、一緒になって喜んでくれるところ。悲しい時に、優しく手を握ってくれるところ。それから――」

 

「もういい、黙れ」

 

 私の声を、衣遠さんが遮った。

 さっきのお薬を丸呑みしたみたいな表情は無くなっていて、無表情に……朝日の手紙に書くところのギリシア彫刻のような無機質さで包まれていた。

 朝日のことを話し始めて、先程までとは違って分かりやすく心を閉ざしてしまった。

 それに、戸惑いよりも寂しさを感じてしまう。

 

「貴方のことを語る朝日の、誇らしげで寂しさの影がある表情を知ってますか?」

 

 だから、もう少しだけと眼の前の人の苛立ちに見ないフリをした。

 貴方の知らない朝日を、側に居られなかった分だけ心の隙間に届けられたらと思ったから。

 

「朝日は衣遠さんと言葉を交わして、食事をして、服飾について語らって、そうして側に居られればと話してくれたことがあります。

 今はできないけれど、そうなれるように努力したいと。

 朝日の服は気持ちが籠もっていて、優しくて、それなのに情熱を感じさせてくれる。

 服が縫えるのだって、お兄様のお陰だって言ってます。

 朝日は、貴方のことを忘れていたことなんて一度だってありません。

 あの子を知っているなら、衣遠さんだって分かりますよね?」

 

 衣遠さんの目に、光が宿った。

 強く何かを想っている、そんな意志が宿った目。

 音もなく私の側にまでやってきた彼は、私を見下ろしながら告げた。

 

「茶番は終わりにしろ。

 でなければ、永遠にアレと引き剥がす。

 俺はそれを簡単にできるのだと、今後は弁えておけ」

 

 淡々と、けれども苛烈な眼光に射竦められて、私は震えてしまった。

 十数センチの身長差と、男の人に怒りを持って見下されるのは初めてで。

 それでも、と声を絞り出す。

 もし朝日と会えなくなったら悲しいけれど、あの子が幸福になってくれるのが一番だから。

 

「朝日は、いつだって貴方の味方で居たいと思っています……」

 

 囁く様な声で、どうにかそれだけが私の口から絞り出された。

 衣遠さんは答えてくれずに、そのまま部屋を後にする。

 不安でいっぱいになる胸をギュッと、衝動的に掴んでいた。

 どうか、朝日の声だけでも、あの人の心に届いてくれますようにと主に祈りながら。

 

 

 

 

 

 ――奪わなければならない。

 

 それが、最初の計画だった。

 あの日、あの場所で、俺は奴を失った。

 愚かにも、自らこの俺の庇護の下を離れた。

 兄である俺の、所有者足り得るこの大蔵衣遠の下を!

 

 許されざる愚行、未だにあの日のことは忘れてなどいない。

 この俺に、屈辱をアレは与えたのだ。

 あの日に、俺を慮ったつもりで、だ。

 

 故に、与えることから始めた。

 かつて分かたれたモノが、己が内に戻ってくる。

 僥倖などではない、この俺が、意のままに状況を整えたに過ぎない。

 

 だが、奴は思い通りの喜びを露わにした。

 かつての友との再会に笑顔を振りまき、愚かにも特に深い理由を考えずにそれを受け入れた。

 想像通り、成長の欠片も感じさせられない愚鈍さだった。

 だからこそ、こうして奪われる。

 

 いつまでも、どこまでも弱者足りうる証左であった。

 草食動物の方が、まだ危機感を持っている。

 愚者でさえ、経験から学ぶという。

 ならば、それすら行えない者は何と形容するのか。

 ――そう、家畜だ。

 

 奴は飼いならされた、そして何時か食い物にされる犬だった。

 馬や牛ほど役には立たない、愛玩動物以上の価値は奴にはない。

 愛されている訳ではない、愛玩されているに過ぎない。

 であるからには、それを教えるのが躾というものだろう。

 

 駿我は、放任することでアレの自我を肥大化させた。

 調べたからこそ、読み取れる。

 奴が他人にアレを預けて、傍に置かなかったことを。

 つまりは、利用するだけの能力を有していないことを駿我は理解しているのだ。

 

 だからこそ、前にアレを気掛かりにしているようだった、奴の態度が気になるのだが。

 駿我は、幼児性愛者の気はなかった筈だ。

 だが、それならば何故……。

 

「待て、何をそこまで気にしている。

 よもや、アレが駿我を篭絡したとでも言うのか。

 …………いや、あり得ない。

 その様な知恵を、アレは有していない。

 安穏とした日々を貪るしか能がない者に、その様な芸当はできまい。

 いやしかし、ならば……」

 

 幾ら雌犬の系譜とは言え、駿我がそれに嵌まる愚を犯すはずがない。

 そもそもが、感情を持たない爬虫類の様な輩であるのだから。

 であれば、駿我がアレを気にかけていた理由は一つだろう。

 

「なるほど、アンソニーにでもくれてやる気か」

 

 アレが住まう場所に、足繁く愚かなる従弟が通い詰めているのは知っている。

 アンソニーと番わし、ジジイの情に訴えて晩餐会の票田にするつもりならばありえなくもない。

 大方、この娘にも大蔵の血は流れていて、アンソニーの嫁ならば卑しさも覆い隠せるといった腹か。

 奴にしては悠長な策ではあるが、打てる手を幾つも放っているつもりなのかもしれない。

 

「だが、だとすれば、奴は俺の敵になり得ない。

 ジジイは、アレが生まれた時に名は与えるがそれ以外を全て与えなかった。

 今更認めるはずがない、忌々しき母も絶対に許さないはずだ。

 そうであるのならば、何の根拠があって――」

 

 その時、ようやく奴の思惑の一端を感じ取れた。

 あの小娘、メリル・リンチだ。

 今まで小娘を保護していた功績を誇って、ジジイに取り入るつもりなのだろう。

 

 本来ならば、もっとやりようがあったはずだが、肝心の小娘は我が手中にあり。

 使える内に、ゴミ札をジョーカーと偽るつもりなのだ。

 俺がシラを切っても、アレと過ごした小娘の痕跡は点在している。

 DNA検査の結果を見せれば、総力を上げてジジイは捜索するだろう。

 そうなれば、いくら俺と言えども隠しきれるものではない。

 駿我も今まで黙っていた咎を受けるだろうが、それ以上に隠し立てした俺の権勢は地に落ちる。

 他者を上回ることを諦めた、陰険で醜悪な策だ。

 如何にも、奴が好みそうな陰謀である。

 

 だが、腹の中を分かっているのならば簡単だ。

 その裏を掻けば良い、幾らでもやりようはある。

 諸共に自爆などさせはしない、地獄には一人で落ちろ。

 

「クク、クククッ、浅はかなり駿我!

 感情を偽ったつもりだろうが、この俺に見抜けぬものなど無い。

 貴様の詭計、しかと逆用させてもらうとしよう。そして――」

 

 そうして、駿我の庇護が無くなった後に、ようやく全てが始まる。

 あの日の屈辱、あの時の衝撃、あの瞬間の心の叫び。

 全てを、アレに返さなければならない。

 泣きべそをかき、己が無力を呪わせなければならない。

 ――アレに与えて良いのは、俺だけだと思い知らさねばならないっ。

 

「待っているがいい、愚かなる妹よ。

 全てを終わらせ、お前を覆う偽りの世界を破壊してくれる。

 愛などという巫山戯た幻想を取り払い、力こそが全てと分からせてやる」

 

 アレは笑って、日々を過ごしている。

 アレは楽しみ、日常を過ごしている。

 アレは喜び、毎日を寿いでいる。

 

 到底、許せることではない。

 自覚させなければならない。

 自身が俺のモノであり、全てを俺に管理されなければ生きていけないのだと。

 

 そうと決めて、俺は内線から秘書に食事の準備をしろと言いつけた。

 幾多の束縛から解き放たれる道筋を見つけ、歓喜の念が湧き出てくる。

 その熱を逃さないように、エネルギーを摂取する必要があった。

 

「社長、失礼致します」

 

 秘書が持ってきた白米の盛られた茶碗に、俺は高級卵を落とし、掻き混ぜながら容赦なく醤油を注ぐ。

 まるで、醤油を卵で希釈したかの様な色合いに、食欲が刺激された。

 そのまま、俺は箸でどす黒く変色した米を掻き込んでいく。

 

「旨いっ、アミノ酸が迸っているっ!

 この旨味を理解できないものはいない!!」

 

 秘書は飯を置いて退室し、この部屋は一人きりだった。

 だが、まるで何人も部屋にいるかのような熱量が俺には備わっていた。

 猛っている、忌々しくも遂にあの妹に分からせることが出来ることに。

 

「クク、クハハッ!

 心しておくがいい、愚かなる妹よ。

 最早、とんかつを作ることにしか人生の意義を見出だせなくしてくれる!」

 

 あの時に止まった、俺の中の時が動き出そうとしている。

 とんかつを食することすらままならず、好物でさえアレに支配されていたという怨念返しせねばならない。

 俺の目は、恐らく憎悪で塗れているだろう。



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第36話 辛い時、傍に居させてくださいますか?

更新が遅れて、申し訳ありませんでした。
ズルズル行きそうで怖いですが、何とかもう少し早くできたらと思います。


 全てを失った、あの幼少の日。

 修道院に送られた私に寄り添ってくれたのは、メリルさんだった。

 修道院のみんなは優しくて、でも腫れ物に触れるように私に接していた中でのこと。

 メリルさんは、ちょっと来てと私の手を握ってご自分の部屋へと案内して。

 そこで、初めて針と糸を持たせてもらったのだ。

 

『落ち込んでる時、ジッとしてるとね、うーってなっちゃうから。

 手を動かしてると、ちょっと楽になるかも』

 

 無気力で茫洋としていた私は、言われるがままに針と糸を使い始めた。

 何度か、針で指を突いてしまって、血が出ても続けた。

 何だか、罰を受けられてるみたいで安心できたから。

 でも、それは服に対して真摯なメリルさんには許容できなかったのは当然のことで。

 

『あ、こら、朝日!

 血のついたまま縫ったら、服が汚れちゃうよ

 水で洗って、絆創膏をして……うん、これで大丈夫!』

 

 慈しみを込めてメリルさんは絆創膏を巻いてくれて……それが、少しお母さまを思い出させてくれた。

 多分、恥ずかしながら私はお母さまを恋しがっていて。

 だから、そういった優しさを分け与えてくれる人に、私は驚くほど簡単に心を開けていった。

 この日が、私が明確にメリルさんがどういう人かと興味を持った日。

 

『朝日、そうじゃなくて……うーん、なんて言ったらいいかな。

 そうじゃなくて、こういう風に……』

 

『こう、ですか?』

 

『そう、上手いよ朝日!』

 

 説明はあまり上手な方ではなかった。

 けれど、決して投げ出さない。

 メリルさんは、ひたすら根気よく私に手の動かし方を教えてくれた。

 そうして、私が新しいことが出来る度にとても喜んでくれる。

 とても新鮮で、心が踊った。

 

 それまでの人生は、学ぶこととは金属を鍛錬する様なものだった。

 叩いて叩いて、隙なく実用的にしていく。

 今の私が多言語を話せるのも、学習において同年代と比べて先行できているのも、家庭教師の先生方のご助力があった。

 なので、あの方法は間違いなく私のためになっていた。

 

 でも、その方法以外の学びは、私に新しい世界を開けてくれた。

 学ぶことは、何も未来のためだけでないと。

 嬉しさと喜びを伴っても良いのだと、私はメリルさんに教えてもらったのだ。

 

 

『メリルさん』

 

『なぁに、朝日』

 

『……いつも有難うございます』

 

『朝日、いま、笑って……』

 

 驚いたように呟いたメリルさんは、そっと私を抱きしめた。

 そうして、耳元で私の方こそ、と言ってくれたのだ。

 

『私の好きなことを、朝日が好きになってくれて嬉しい。

 少しだけでも、私が朝日の助けになれているなら、それも嬉しい』

 

 修道院で、私とメリルさんは一足飛びに距離を縮めていった。

 お互いが、この人のことを知りたい、一緒に居たいなと思ったから。

 それは、時を重ねると一緒にいるのが当たり前みたいになっていて。

 

 だから、離れる時はとても切なかった。

 だから、再会できた時は胸が溢れてしまった。

 

 だから――急に居なくなられた時、胸に気持ちの分だけ穴が空いてしまって、その隙間を不安がいっぱいに埋められてしまっていたのだ。

 

 

 

 

 

 メリルさんがいない、帰ってこない。

 心配して一日が過ぎ、二日目になると動揺して探し回り、三日目になれば耐えられなくなっていた。

 離れ離れになって、また再会できたからこそ、姿が見えないだけで不安が動悸の様に押し寄せてくる。

 

 何か事件に巻き込まれてしまったのでは。

 事故にあって、怪我をしてしまったのでは。

 そう考えると、胸にわだかまりができて落ち着かない。

 何も考えないでメリルさんの姿を探しに街に出てしまう。

 そうして、考えなしに無為に時間だけが過ぎ去っていく。

 まるで、底なし沼にでも居るみたいに。

 

 ただ、私は一人でメリルさんを探しているのではない。

 他にも、頼もしい仲間がいるのだから。

 

 

 

「朝日ちゃん、君は休んだほうがいい。

 君の分だけ、俺があの子を捜索しよう。

 なぁに、心配はいらない!

 俺には、このパリでワンナイトした女の情報網があるからな!」

 

 部屋で草臥れてしまった私に、アンソニーさんはそう声を掛けてくれた。

 

「あー、もしもし?

 そうそう俺だ、大蔵アンソニーだ!

 ん? 残念ながら行為の誘いではない、女を探しているんだ。

 お前も手伝ってくれ!

 え、あ、何故電話を切る、アメリア!」

 

 ただ、中々難しい。

 花の都は常に栄えていて、人を一人見つけるのがとても難しい。

 

 

 

「アサヒさん、私も友人達の心当たりを探ってみたのですが……」

 

「ありがとうございます、リリアさん……」

 

 リリアさんは、とても気遣わしげに私に接してくれている。

 私の目元に触れて、更に眉を下げている。

 

「眠られていますか、アサヒさん?」

 

「えぇ、まぁ……そうですね」

 

「夜中に出歩いてるの見た」

 

 愛想笑いを浮かべようとすると、華花さんにチクリと刺される。

 それでもアハハと力なく笑ってみるけれど、その顔が引き攣っていないかは自信がない。

 そんな私を、華花さんは呆れてバカを見るような目をしており、リリアさんに至ってはそのまま私の手を掴んでベッドの方まで連行された。

 

「いま貴方に必要なのは、深く眠ることです。

 心配で眠れないというのならば、子守唄も歌いましょう」

 

「でも……」

 

「眠らない自慢する奴って居るよな、頑張ってるアピールするので。

 やってること、メンヘラが手首切って病んだとか言うのと変わらないやつ」

 

「っ」

 

「華花、言い方を考えて下さい」

 

 リリアさんは庇ってくれるようにそう言うけれど、否定は一言もしていない。

 つまりは、私は外から見るとそう見えているのだ。

 メリルさんがいなくて、辛くて、自分を傷つけているだけに。

 

 はぁ、と溜め息が出てしまった。

 自分の至らなさが、あまりに情けなくて。

 役にも立たないのに、周りに心配だけを掛けてしまう困った人。

 それが、何者でもない今の私だったから。

 

「……すみません」

 

「分かったなら寝ろ。

 お前がシャカシャカしてると、こっちまで落ち着かないんだよ」

 

「わかり、ました」

 

 諦めて、私はベッドの上で横になった。

 ただ横になっただけで、疲れているのが自覚できた。

 でも、やっぱり昨日までと一緒で、眠気は微塵も訪れなくて。

 部屋を出ていこうとしていた二人は、そんな私に気が付いてしまったのだろう。

 足を止めると、コソコソと二人で話し合って、リリアさんがそのままこちらへと戻ってきた。

 

 

「どう、しましたか?」

 

「子守唄でも、とさっき言いましたので。

 折角なので、聞いてくださりませんか?」

 

「ご迷惑は、掛けたくありません」

 

「私の真心は、迷惑でしょうか……」

 

 リリアさんの表情が、思いやりに満ちていることに今更気が付いた。

 自分のことで精一杯で、あまり周りの事を気に掛けられていなかったことも。

 不安そうに私に手を伸ばそうとして、けれども気にして触れられずに宙を彷徨わせてしまう。

 貴族然としているけど、大きなパワーを秘めているリリアさんらしからぬ弱気さ。

 まるで、壊れかけのアンティークに触るかのように。

 

「私は、アサヒさんとメリルさんの関係性を、あまり知りません。

 昔からの知り合いで、仲の良い友人関係ということだけは知っています。

 だから、アサヒさんが心配こそすれ、ここまで参ってしまう理由も分からないです」

 

 でも、とリリアさんは言い、恐る恐る私の手を両手で包んだ。

 触ることに不安を感じつつも、それでもといった感じで。

 

「アサヒさんの気持ちが分かる、とは残念ながら言えません。

 どうして迷子の子供の様になっているのか、そこまで怯えているのか。

 私には、分かったフリをするくらいしか出来ないからです」

 

 リリアさんの美しい手が、優しく私の手の甲を撫ぜる。

 赤子を寝かしつける母の様に。

 

「それでも、私は貴方と共感したいです。

 その辛さの一端だけでも、分かってあげたいのです。

 傲慢と思われても、その気持が抑えられません。

 だから……どうか、私に話して頂けませんか?

 貴方の心の、その裡側を」

 

 リリアさんの声は、どうしてだか震えていた。

 拒絶されたらどうしようと、そんな声が聞こえてくるように。

 私に、というよりも、自分の善意を否定されるのが怖いのかもしれない。

 正しくない行いだったと、そんな筈がないことを連想させられるくらいに。

 

 リリアさんの性格を考えると、彼女にとって当たり前の優しさなのだろう。

 何も考えていない、ごく普通の日々の中ならばそう思っていたかもしれない。

 でも、今の私はもっと深くリリアさんを見ていた。

 優しさを掛けてくれて、自分のことしか考えられていなかった私の目を覚まさせてくれたから。

 

 今のリリアさんの言葉が、当たり前の優しさなんかじゃなくて、勇気を振り絞ってくれたものなのだと。

 この場に二人だけだから、気が付いた。

 リリアさんの望む、共感が場を包んでいたから。

 私も、リリアさんのことを分かりたいと思い始めていたから。

 

 だから、かつての思い出に想いを馳せながら、私は振り返り始めた。

 メリルさんの優しさと、初めて感じたあの感触のことを。

 

「メリルさんは……夢の始まりだったんです」

 

「夢、ですか?」

 

「はい。辛い時に愛を持って語れるもの……服飾を私にくれたのは、メリルさんでした」

 

 かつて教えてもらった定義を思い出しながら、私の始まりがあの縫い物だったことを思い出す。

 より深くのめり込んでいったのは、お兄様に認められたいと思った時だけれど。

 それでも、服に関わることが楽しいと教えてくれたのはメリルさんだった。

 

 人生の底、奈落へ落ちていく感覚。

 お母さまと別れて、自身の存在自体が罪だと意識して、もう何もしようとは思えなかった時のこと。

 懸命に私に付き合って、いつも一緒にいてくれたのがメリルさんだから。

 

 どうして、ここまで落ち込んでいるのか。

 それは、メリルさんが私にとって大切な人だったから。

 メリルさんは、私の事を家族だと言ってくれる。

 とても嬉しくて、温かな気持ちが芽生える。

 

 でも、私にとってはメリルさんは、私に新しい心をくれた人。

 壊れていた心に、新しい夢を詰め込んでくれた人だから。

 かつてだったら言語化出来ないことも、今なら出来る。

 

 そう、メリルさんは私の人生の恩人だった。

 他にもそういった人は沢山いるけれど、私の心の空洞を埋めてくれたのが彼女だったから。

 

「初めてが、メリルさんだったんです。

 何よりも大切で、かけがえの無いものをくれたのが」

 

 だから、とリリアさんに告げる。

 私の感じるものを、思うがままに。

 

「私の人生に指針を与えてくださったのは、お兄様でした。

 でも、その過程に、意味をくれたのはメリルさんだったんです。

 だから、だから……っ。

 また会えたのに、居なくならないで欲しいと、ワガママですが、思ってしまって……」

 

 湊や七愛さんとは、また会えると踏ん切りがついた。

 けれど、相手がメリルさんだとそうなれない。

 どうして? なんて、考えてみれば直ぐに分かってしまった。

 

「何となく、そう思うことは避けていました。

 それは特別で、見えないけれど確かにある概念だと思っていましたから。

 だから、安易に大切な人でも、その枠に入れるのを躊躇ってしまって」

 

 思えば、衣遠兄様やりそなと別れた時もこうなっていた。

 嫌だと強く思っても、現実がそうだからと打ちひしがれてしまう感覚。

 これほどに、強く思ってしまう理由。

 

「――家族、と。

 メリルさんの言葉を認めるのに戸惑っていて、なのに言葉にしてくれるのは嬉しくて。

 その優しさに、ずっと私は甘えていました。

 私からも、そうだと、それくらいに思っていると、伝えられてなくて……っ」

 

 自分の愚かさが、どこまでもついてくる。

 家族という言葉を神聖視して、メリルさんの言葉を蔑ろにして。

 そうして、今更になって彼女の存在の大きさを思い知る。

 駿我さんのことは、そうだと認められたにも関わらずだ。

 

 メリルさんのことは、友人であり恩人だと思っていた。

 大切な人、という区切りだけおいて深くは考えたこともなかった。

 それなのに、再会してから今日まで、メリルさんは傍に居てくれると無条件に思い込んでいた。

 その無意識の信頼こそが、メリルさんへの気持ちだったのに。

 

「そう、ですか」

 

 私が一方的に話すのを、静かに聞いてくれていたリリアさんの声。

 自分に嫌気が差す感触で、視界が滲みそうになっている時に聞こえたそれは、とても柔らかくて。

 

「アサヒさん。少しだけですが、分かります。

 私も、家族に与えられることに慣れてしまって、自分が返すことなんて考えられませんでしたから」

 

 俯いていた顔を上げて、リリアさんを改めて見る。

 綺麗で、まるでエメラルドの瞳。

 その瞳に私が映っていて、ふとした恥じらいが湧いてくる。

 視線を逸らそうとするが、リリアさん両手で顔を包まれてそれが出来ない。

 リリアさんから、目が離せない。

 

「顔を、逸らさないで下さいな」

 

「……自分のことが恥ずかしくて」

 

「なら、私はもっと恥ずかしい事を語ります。

 どうか、笑わずに聞いていてくださいね」

 

 そう言うとリリアさんは、困り眉になっていた。

 きっと、何か話しづらいことを口にしようとしてくれている。

 私なんかのために、さっきみたいな勇気を出して。

 

「ご無理をなさらないで下さい」

 

「確かに、余裕を持っているわけではありません。

 ですが、ここで口を噤んでしまう様ならば、私はアサヒさんを諦めなくてはならないのです。

 それは、ハッキリ言って嫌なのです。

 真心を持って、共感させてもらいます」

 

 そう告げると、リリアさんはゆっくりと話し始めた。

 自分のこと、昔にあったことを。





ジャンに出会えてないので、ここの朝日は凄く打たれ弱い仕様になっております。


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第37話 身の上話は程々に

リリアさんの過去回想なので、比較的早めに更新できました。

今回はリリアさんの幼少期の再構成的な面もあるので、解釈違いだったら申し訳ないです。


 

 私が、幼い頃のことでした。

 

 それがリリアさんの語りだしで、私は耳を傾ける。

 私のために話してくれる内容なのだから、聞き漏らさないようにと気を張って。

 ただ、その内容を聞き終えた時、私はどんな顔をしていただろう。

 口元を抑えて、彼女に安易に話し掛けるのさえ憚られていたのは覚えている。

 

 

 

 

 

 少女は、自分が裕福できらびやかな家系に生まれたのを自覚していた。

 満ち足りた環境は、時に傲慢さや世間への無関心を育てるが、彼女は両親を尊敬していたが為にそれを難なく乗り越えられた。

 何故なら、両親は皆に尊敬されていて、パーティーなどで口々に讃えられていたから。

 そうして最後に、君はご両親に良く似ていると揃って口にする。

 

 年端も行かない子供に対する言葉。

 リップサービスの類ではあるが、少女はそうなのかと言葉をそのままの意味で受け止めた。

 そうして、浴びせられる言葉の中で、ほんのりとした憧れが少女の中に湧き出てきたのだ。

 自分も、両親の様に優しく立派になりたいな、と。

 

 愛されて育った環境が、幼年な少女に他者への気遣いを芽生えさせた。

 自分のことだけでなく、他人のことも気に掛ける。

 自分が貰った分、他者にもそれを還元したい。

 真心、と少女はその気持ちに名前をつけた。

 両親のように、私も真心を込めて皆に尊敬されるようになりたい、と。

 それが少女にとっての、ノブリス・オブリージュの発芽であった。

 

 少女は行動的で、直ぐに次第を両親へと伝えた。

 父も母も、揃って喜んだ。

 目に入れても痛くない、いや、痛くても我慢できる一人娘から、二人みたいになりたいからお手伝いをさせて欲しいと伝えられて。

 

 ただ、幼い少女に出来ることなんて、当然限られている。

 しかし、愛娘の気持ちを無下にすることも憚られる。

 少女の両親は悩んだ末に、幼い少女でも出来ることを何とか見繕えた。

 それが、慈善事業での恵まれない人達に対する慰撫である。

 

 普通の子供なら、思わずと言った感じで無神経さを発露することもあれど、少女には品位があった。

 思い遣りの心も、他者への哀れみもある。

 貴族らしさを、もう持っている。

 両親はそれを看破し、少女もその目が正しかったことを証明した。

 

 主に、孤児院への寄付(お菓子やおもちゃの現物など)、貧困での炊き出し(中身の入ったスープを配る係)を中心とし、彼女は精一杯に働いた。

 常に笑顔で、落ち込んでいる人がいれば老若男女関係なく励まし、常人でも薄汚れていると形容するであろう人物であっても、その手を握り真心を説く。

 彼女はたちまち、慈善事業界隈において有名人となった。

 

 曰く、偏見を持っていない少女。

 曰く、誰よりも純粋な子供。

 曰く、聖女様。

 

 フランス人らしいからかいも混じりつつ、おおよそが好意的に少女を見ていた。

 中には、どうせ直ぐに飽きる遊びと言う人も居たが、何年も当然の様に慈善を行い続ける姿に、そういった陰口はひっそりと消えていった。

 

 しかし、当然ながら少女には人並みの欲望はあったし、皆が思っているような健気な聖女様でもなかった。

 それどころか、もっと俗物的な欲望の発露さえしていた。

 虚栄心、もっと他人に褒められたいという欲求を。

 

 ただ、少女はそれが、周りが見ている自分のキャラクターと合わないことも理解していた。

 早熟気味で、賢くあったがために。

 彼女は幼い頃に両親に抱いた憧れを縫直し、自分の武器として纏うことにした。

 当然のように周りをコントロールして、少女はより周りから褒められることに成功する。

 もしかしなくても、役者を目指す友人よりも彼女は演技が上手かった。

 

 ある意味で、ここが少女の絶頂期だったのかもしれない。

 欲望は理性である程度は抑制され、早熟さが自制心をよく稼働させていた。

 それでも中学生が感じる万能感のようなモノを、少女が感じてしまったのは無理ないことだ。

 おおよそが、全て上手くいくのだから。

 そもそも、彼女は人の役に立つことを行っており、役に立てて嬉しいという感情も持っていた。

 そのために多くの努力を行っているのだから、誰にも文句を付けられる謂れもない。

 このまま、もしこのまま時が過ぎ去っていったのならば、彼女は現代の貴族として大いに讃えられていただろう。

 ノブリス・オブリージュを体現した者として、称賛の中にあったはずだ。

 

 けれども、世の中の全てが善意と好意で舗装されていると信じている幼さが、それでも少女の中には存在していた。

 生きている人は貧しくても善良で、善意や好意に感謝してくれるのだと無条件で信じていたのだ。

 ……それが、恐らくは世間に対する誤解だと気が付けずに。

 

 彼女は、活動をもっと広げようとした。

 自国の人間だけでなく、昨今の国際化でフランスに訪れている外国人にも慈善の範囲を広げようとした。

 ――そこで、彼女は初めて両親からの反対をうけた。

 

 

 

『リリア、青い血の使命は自国の人間に還元すべきものだ。

 何故ならば、フランス人民から選出された伝統を脈々と引き継いで来たのが我らだからだ。

 フランスの人民には、まだまだ救われない者がいる。

 そちらに目を向ければどうだ』

 

 その言葉に、確かに一つの理はあった。

 それは正しいことだし、認められるところでもある。

 だが彼女の視界には、このパリだけでも多くの外国人労働者が偏見の目を向けられながら働いている。

 多くの難民が職のないまま、飢えと侘しさに襲われている。

 見て見ぬ振りをするのは、彼女は些か善良に過ぎた。

 

『いいえ、お父様。

 人間の権利は平等と、多くの血を流した革命で証明してきたのが我が国です。

 彼らにも、助けられる権利はあると思います』

 

『ならば何故、我らは貴族と呼ばれて尊重されている?

 他の者よりも、多くの尊敬を集められているのだ?

 答えられるか、リリア』

 

『それは……多くの人を助けてきたからで……』

 

『そうだ、多くのフランス人民を助けてきたからだ、覚えておきなさいリリア。

 自国の人間以外、あまり信用するものではないと。

 他国の人間など、権利ばかり主張するハイエナにすぎんのだ』

 

 少女の父は、彼女が早熟に育っている事を理解していた。

 だからこそ、かつては見せなかった”貴族”としての、”当主”としての姿を見せたのだ。

 頭の良い、可愛い娘だから分かってくれると期待を添えて。

 

『……いえ、ダメです』

 

『リリア?』

 

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。

 愛は自慢せず、高慢になりません。

 礼儀に反せず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます』

 

 ただ、父が期待した賢さは、見事に別の方面で発揮されてしまった。

 彼女は聖書の言葉を引用し、容易に否定できない図面を作り上げてしまったのだ。

 信仰を持ち出されては、違うと言えない。

 そこで、ようやく少女が本気であることを父は認めた。

 認めたからこそ……声を荒らげざるを得なかった。

 

『ならん!

 その様な思想は、衰退を招くばかりぞ!

 権利には力が伴うが、それは付属する権利の範囲での話だ。

 我々が有している権能は、フランスの中で完結するもの。

 第一、お前が望んでいる難民共など、食い詰めた居直り強盗に過ぎないではないか!』

 

 少女の家、ラグランジェ家の国粋主義は昔からのものだった。

 ナポレオン時代に完成した、王ではなく国に尽くす在り方だ。

 引き継がれてきたそれは、合理ではなく伝統、もしくは偏執と言ってもいい程のもの。

 そこから逸脱することは、貴族であることを辞めるのと同義とすら捉えている。

 それも、拘りではあるが一つの思想ではあった。

 

 一方の少女も、貧している者を見捨てることは貴族の義務に反すると考えている。

 無論、無制限に身を切り分けるなど出来ないのだが、それでも格好だけは付けたかった。

 困っている人を励ましたいという気持ちは、自分が褒められたいという欲望と同じくらいに求めているものだったから。

 

 そう、少女の思いは、理屈ではすまない思い遣りだった。

 計算の上で善意を乗せる正道ではなく、善意と欲望が混ざりあった在り方だ。

 故に、論理をぶつけられても響かない。

 話している内容が、噛み合っている様で噛み合わない。

 何故なら、互いが自分の言い分を引っ込めることを考えていないから。

 相手の言い分など、端から聞く気などないのだ。

 

『お父様がそういう考えなら、私にも考えがあります。

 この件はお父様に頼らず、私が行うことに致します』

 

『待て! 話はまだ終わっておらん!!』

 

 少女は、父の言葉を無視してその場を去った。

 外国の人にはどの様に手を差し伸べるか、その算段を立てながら。

 

 これが、初めて少女が両親のコントロールから離れた出来事。

 両親の引いたレールではなく、自分でレールを引き始めた最初のこと。

 それがどういう結果を呼んだのか、少女は今でも考えてしまう。

 

 

 

 彼女は両親からの援助を当てに出来ないため、今までの名声を使って寄付を募った。

 これまで彼女を見ていて、ラグランジェ家が国粋主義であることを知っているのを知っていた人々は驚いた。

 今まで彼女を褒めそやしていた人々は、困惑したかのように静観してしまっていた。

 だから、寄付をしてくれたのは一般階級の人やインテリ、活動家が中心であり想像を下回ったもの。

 彼女はそれにムッとしつつも、今支援してくれた人達は味方であるということを心強くも思った。

 

 そうして、外国人に対する慈善もささやかながら行える様になったのだが……。

 今までと違い現実が、彼女の眼の前にはあった。

 感謝して、拙い言葉ながら頭を下げてくれる人達が大部分なのは確かだ。

 だが、彼女が行う支援活動に、これだけ? と落胆を隠せない人は可視化出来るほどにいた。

 フランス人が受けている手厚い慈善内容と比べて、まるでお遊びそのものだと感じていたのだ。

 

 炊き出しではスープだけで、パンを配ることが出来なかった。

 毛布はリサイクル品で、他人の臭いがして落ち着かない物。

 子供たちや病気の人への見舞い品は、やたらと固くて美味しくない。

 

 けれども、これらの品は彼女が必死に頭を下げて、予算内で何とか取り揃えたもの。

 皆に行き渡るようにと、数を揃えられる範囲で集めた品々。

 彼女は必死に努力し、多くの可哀想な人達に手を差し伸べられたらと思っての行動だ。

 ただ、各所で聞こえてくる声は芳しくはないものばかり。

 

 貧相、所詮はお子様の、などは序の口。

 フランス人向けの物資と比べられて、差別主義者なんて弾劾されていたこともあった。

 そこで彼女は初めて、両親の偉大さを実感を持って理解した。

 必要に足る物資を、キチンと届けてこその慈善なのだと理解もした。

 

 正直な話、少女は後悔していた。

 非難ばかり行われて、褒められることなんてなかったから。

 感謝されても、それも心からのものではない。

 やらなければ、とすら感じていた。

 

 でも、ここで投げ出してしまえば、口先だけと言われるのは目に見えている。

 彼女は優しい笑顔の裏には、一人前のプライドが存在していて。

 そんな事を言われるのに引けないと、必死になって自分を鼓舞して活動を行い続けた。

 活動していたら寄付金も増えてくれるはず、みんなだって苦しんでいる人を助けたい筈だと言い聞かせて。

 そうして一年ほどがたって彼女の心が軋み始めていた頃――事件が起きた。

 

 

 

 彼女は、その日は従者を引き連れて移民街を訪れていた。

 交通事故にあった一家の世話を行うために、家の使用人に何とか頼み込んで。

 だが、そこで彼女を待っていたのは――。

 

『ザッケンナコラー!』

 

 突如として襲い来る黄色人種の人間に、家の使用人が殴り飛ばされる。

 ピクリとも動かずにその場に倒れ伏した使用人に、状況の把握が出来ず呆然とする少女。

 そうしている間に、少女は複数人の外国人労働者に包囲されてしまっていた。

 

『貴族様が施しに現れただぁ?

 どの面下げて来てんだよ!

 俺らの仲間はなぁ、貴族様の車にぶつけられて体を壊した上に車内の壺を割ったとかで、とんでもない借金を背負わされたんだぞ!!!』

 

『え? え?』

 

 労働者から語気強く浴びせられた言葉は、少女にとっては寝耳に水だった。

 危害を加えたのに見舞いにも来ず、むしろ借金を背負わせるなど貴族の所業ではないと感じたから。

 いきなり怒鳴られて恐怖と困惑の比率は大きいが、少女は申し訳無さを感じた。

 フランス人、それも貴族の血筋の人間の行いに恥ずかしさを感じたが故に。

 だが、そもそも少女に過失はないのだから、彼らの行動は完全に逆恨みの八つ当たりに過ぎない行為であった。

 けれども、少女が怯えながらも殊勝にしている様子に、彼らは更にヒートアップしていく。

 

『世話なんていらねえから、金を寄越せって言ってんだよこっちは!

 借金と、怪我した仲間を養えるだけの金を!!』

 

『も、持っていません。

 今はお金がありませんが、少し待ってもらえれば……』

 

『信用できるわけないだろ、何の責任も取らなかったやつらが!』

 

『申しわけありません、ですがこのリリアーヌ・セリア・ラグランジェの名において約束を……』

 

『ラグランジェだぁ?

 確かラグランジェって、動けなくなったアイツを解雇した工場の持ち主だろ?』

 

『理由も考慮せずに、怪我してこれなくなったら解雇だぁ?

 お前の家の人間は、どういう神経してんだよ、糞が!』

 

『ザッケンナコラー! スッゾコラー!』

 

 少女も対応しようとしたが、激高している人間にそもそも理屈が通用しない。

 特に、相手を下に見ていて、反撃されないと思っている人間は特に。

 

『それは気の毒に思いますが、お父様はオーナーであって現場責任者ではありません。

 現場で判断したことを、事後報告を受けるだけの立場で……』

 

 少女は、知っている事実をそのままに伝えた。

 最近溝ができているとはいえ、尊敬する父を侮辱されたことに対する怒りもあって。

 但し、そんな事実は周りを囲んでいる人達にとってはどうでもいいこと。

 むしろ、望んでいた反応でないだけに、怒りの火に油を注ぐだけの結果となる。

 彼女は腕を掴まれて、強引に家屋の中へと引きずり込もうとする。

 

『うるせえ、オラ奥来い!

 あいつの家族に謝るんだよ!!!』

 

『ま、待って下さい!

 お話を、お話を聞いてくださ――』

 

『謝れっつってんだろ!!』

 

『んぶっ』

 

 少女のお腹に成人男性のカラテが炸裂し、その痛みと衝撃で彼女はその場に倒れ伏した。

 更には畳み掛けるように足蹴にされて、痛さのあまり涙が少女の頬に涙が零れ落ちてきた。

 

 どうして、痛い、痛い……、痛いっ。

 

 あまりに理不尽なことに、彼女は考えていたことが頭から消し飛び、痛みに悶えるのに精一杯になる。

 そんな彼女を見て、男たちは加虐心が刺激されて、悪辣な笑みを浮かべ始めた。

 

『見てみろよ、このお貴族様は使用人よりも丈夫だぞ』

 

『何だよ、手加減してんのかよ。

 涙まで流して、同情を誘おうってか?』

 

『謝罪はタイセツ、出来なければブッダも怒る』

 

 嘲られ、嬲られるなんてことは、少女にとって初めての経験だった。

 本来ならば、屈辱で腸が煮えくり返りかねない。

 だが、少女は純粋に痛みに慣れていなかった。

 普通の人間でもそうであるのに、少女は取り分けて大切にされていたが故に。

 縋り付くべきプライドはいとも簡単に砕けており、どの様にすれば見逃してもらえるかを必死に考えていた。

 そうして――。

 

『あやまります、ごめんなさいっ。

 だから許して下さい!』

 

『なら土下座をするんだよ、あくしろよ』

 

『DO、GEZA?』

 

『両手と膝を地べたにつけて、頭を下げることだ。

 やれ、やれぇーーーーーーっ!』

 

『は、はい、も、申しわけございませんっ』

 

 少女が震えながら、五体投地と見紛う程の土下座を披露すると、周りにいた男たちは手を叩いてその様子を哄笑する。

 

『うっわ、本当にお貴族様が土下座をしてるよ』

 

『無様過ぎて笑えるな。

 ……でも、なんかスッキリしねえよなぁ』

 

『足りてないんだろ、謝罪が。

 ――脱げよ、パンツ一枚で土下座しろ』

 

『い、いやです、それだけはっ』

 

 拒絶する彼女に対する返答は、額への蹴りだった。

 頭蓋を通して脳に危害を加えられる感覚、少女の白む意識を男達はビンタで気付けする。

 

『分かるか? 脱げっつてんだよ』

 

『はぃ……脱ぎます、だから、だから……』

 

 服に手をかけて、ボロボロと涙を零しながら脱いだ彼女は、そのまま再び土下座する。

 それが、唯一の体を晒さないで済む方法であったから。

 その様子に、男達は最早仲間の敵討ちという体裁を忘れてしまっていた。

 復讐心が、明らかにサディスティックなリビドーへと乗っ取られていた。

 

 それを止めるものは居ない。

 興味深そうに遠巻きにする者と、目を逸らして関わり合いになろうとしない者。

 この移民街にいる人間は、その二種類の行動しか取らなかったから。

 少女は、完全に見捨てられていた。

 

『笑え、顔を上げて笑って土下座しろ』

 

『真心を込めて、全裸で笑顔でごめんなさいって謝るんだぞ!!!』

 

『ドッソイオラー!』

 

 あまりの事態に、非現実的な状況に、彼女の心は乱れていた。

 ただ、その状況で笑顔を浮かべられたのは、いつも慈善のために駆けずり回っていたから。

 どんな人にも、頑張りましょうねと手を握って励ましてきた経験があったから。

 笑顔を浮かべるというのは、彼女にとって自然な行動ではなく特技だったのだ。

 

『は、はい、真心を込めてごめんなさい』

 

『オラっ、ついてこい。

 奥でアイツと奥さんと娘さんに謝ってこい!!!』

 

 

『真心を込めて、真心を込めて、真心を込めてごめんなさい――』

 

 

 

 その日、一人の少女の尊厳が砕け散った。

 花よ蝶よと育てられた、虚栄心が強くもその娘なりに真面目に生きてきた少女の顛末。

 

 その日から、少女は自宅に引き篭もり、ぼんやりと宙を眺めることが増えていった。

 そんな少女を見兼ねて、両親が外国人への敵愾心を煽り始めたのは、ある意味で当然のことだった。

 

 ”だから言っただろう?”

 

 その言葉を否定する余力は、少女には無くて。

 むしろ、今までの外国籍の人間のことを思い出すと、ストンと来た。

 ――あぁ、不満ばかり抱いていたな、与えられる立場なのに。

 

 そうして、彼女はラグランジェ家の伝統に染まった。

 あの日から感じていた後悔、幾度も見た悪夢。

 それらが、侮蔑と蔑視で心を固めるだけで鮮やかに吹き飛んだのだから。

 少女は、喜んで自らをその様に染め上げた。

 

 大蔵家との縁談話が彼女の知らぬ間に吹き飛んでいたが、むしろ清々した。

 だって、あの人達は黄色人種なのだから。

 下劣で、汚く、野蛮な人種。

 フランスに居る連中は、全部掃除してしまいたいくらい。

 

 愚かな私はあの日、生まれ変わった。

 世の真実、共通の価値観を有する人間しか信用できないと知って。

 他の人種は、私たちの様な人間を食い物にするしか能がないのだと。

 そこからは、新しい私を形作る毎日が始まった。

 

 慈善事業は、フランス人に限り続けることに。

 外野が何やら騒いでいたけれど、なんにも聞こえない。

 どうせ私を困らせることだから、知ったことではないのだ。

 

 従者には、黄色い連中を選んだ。

 嫌いなのに、どうして? と問われれば、あの時に失った自尊心を取り戻すためにと答える。

 DOGEZA、東洋の謝罪をする流儀なのでしょう?

 あの時に強要されたものを、真心を込めさせて私に捧げさせた。

 歪んだ屈辱的な顔に、足蹴を食らわせるのがゾクゾクと快感を感じられた。

 それだけで、私は黄色人種を取るに足らない獣と見ることが出来た。

 

 そんな中で、従者におかしなのがやってきた。

 どれだけ虐げても、どれだけ屈辱を与えても、気にした風もなく飄々としている女が。

 服飾の腕も見れるものがあり……コイツだけは少しだけ評価しても良いかと思ってしまったのは、今回話していることの余談になるから別の機会にでも。

 

 

 

 

 

 ふう、と思いっきり息を吐いたリリアさんが、ニコリと笑った。

 いつもの優しい笑顔ではなくて、意地悪そうな笑い方で。

 

「そういう訳なのです、そういう女なのです。

 私は、公衆の面前で破廉恥な格好を晒してDOGEZAを行った、フランス国粋差別主義者なのです。

 貴方に見せていた私は、オブラートに包んだ上辺だけのものに過ぎません。

 これが、私の隠していた秘密で、とても恥ずかしいと今は感じていることです。

 アサヒさんも恥ずかしさなんて、大したものではないと理解頂けましたか?」

 

 自虐するリリアさんを前に、私は言葉を紡げず、境遇を想って涙を流すことしか出来なかった。





あの部分を書くなら、最後まで非情に振り切らないと駄目だと思ったのですが、原作を見返しても胸糞シーンでどうにかなりそうだったので、一部ふざけてしまいました。
なんか、シーンのバランスを崩してしまってそうで申し訳ないです。


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第38話 さようなら、眠気くん

 悲しかった、リリアさんの壮絶な過去が。

 苦しかった、それを抱えて生きてきた身の上を考えると。

 

 それでも、全てを理解はしてあげられない。

 私が想像する以上の痛みだろうから。

 でも、その痛みを癒してあげたいと思ったのは間違いなくて。

 共感したい、痛みを少しでも引き受けてあげられたらと思った。

 

「ダメですね、困らせるつもりなんてなかったのですけど。

 気が付いたら、アサヒさんに全部話してしまっていました。

 アサヒさんを慰めるのが先決なのに、自分のことばかり慰めてしまう。

 こういうところが、ダメなのは分かっていますのに……」

 

「ダメなんかじゃありません。

 リリアさんは、私のことを想って話してくださったのですよね?」

 

「それはそうですけど、本来ならば自分のパーソナルを軽く紹介して終わるつもりでした。

 人には情けないところは誰にでもあって、それを悲しすぎることはないと。

 ですのに、あのように赤裸々に語ってしまったのは私の落ち度です。

 知って欲しい、伝えたいという気持ちが話している内に湧き出てしまって」

 

 いつの間にか、わざとらしい悪い顔は無くなっていた。

 困惑を隠せない、眉がカーブを描いているお顔。

 戸惑いは所作に表れて、頬に手を当てて考え込んでしまっている。

 リリアさん自身も、計画的ではない自身の行動がわからないみたいで。

 そんな彼女を見て、少しの安心感を感じてしまったのは、私が知っているリリアさんの全てが偽物でないと確信できたから。

 

「分かって欲しい、気付いて欲しい。

 そういう気持ちは、誰しもが持っているものです。

 私も、親しい人に私のことを分かっていてもらえたら嬉しいですし、自分が友人のことを知っていると自負したい。

 だから、話してくれてありがとうございました」

 

 私の言葉に、リリアさんは私の目をマジマジと見た。

 私の奥を、心を覗き込むように。

 何を考えているのか、それを理解したいと思ってくれているように。

 

「アサヒさん、困らせたくはないのですが、敢えて言います。

 私は確かに伝えました、自身が差別主義者で黄色人種に関しては特に思うところがあると。

 ですのに、いつもと同じ様に友人として見てくださいます。

 私の過去に涙してくださっても、そこに色眼鏡は加えないで下さいました。

 それは……何故?」

 

 重なり合った視線は、まるで糸で結ばれたかの様に解けない、解かせない。

 ここで目を伏せてしまえば、何かが途切れる様な気がしたから。

 

 リリアさんは真剣で、おおよそ全てを私に曝け出してくれた。

 ずっと裡に隠していたものを、全て解き放った。

 それはきっと、信頼というよりも限界だったから。

 隠し事をするという不誠実に、リリアさんが苦しくなったから。

 私をある意味で頼ってくれたのだ。

 

 それを思うと、応えたいと私の中で僅かな火がついた。

 互いに傷を曝け出して、それを慰め合うと言えば聞こえは悪い。

 けれど、互いに支え合うには、相手の傷が見えていないとできないことだから。

 自然と、流れで私たちはそれを理解している。

 この人の助けになりたいと、お互いが思っていることを。

 さっきの問いは、リリアさんからの最終確認。

 信じても良いですかという、信頼が生まれようとしている瞬間だから。

 

「リリアさんを、私は知っています。

 優しくて、デザインが素敵で、華花さんと仲が良い。

 笑顔が素敵で、でも負けん気も強い貴族のお方。

 このパリで、初めて絆を紡いだ人が貴方でした」

 

「……ですから、それは虚像の私だと告げましたでしょう?」

 

 リリアさんの否定は、力のないもの。

 怯えている風にも感じるそれは、自分の中に感じている本物の自分を怖がっているから。

 

 皆に優しいと言われる自分は、実はそうではないと思っている。

 これまでの話から、その感触を私はリリアさんから受け取れた。

 今は共感しあいたい、相手のことを知りたいと必死な場面だから、リリアさんのことを沢山感じ取れる。

 きっと駿我さんと一緒で、企んでも優しさを混ぜてしまう人だから。

 それを分かった上で、私は首を振った。

 

「いいえ、いつだって私の前ではリリアさんはそうであってくれました。

 思惑があって、結果としてそうなっているだけかもしれません。

 ですが、それで私が救われていたという事実が何よりの結果です。

 ずっと、優しくて華やかなリリアさんでいてくれました。それに……」

 

 ふと、思い出したフレーズがあった。

 それは日本にいた頃、湊から雑談がてらに教えてもらったこと。

 

「好きな人にほど、隠し事をしたり嘘を吐きたくなるらしいですよ?」

 

 冗談交じりに、けれどもそれで良いという気持ちで口にした言葉。

 私のことをリリアさんが好きなどと、普段なら言わない大胆なジョークだけれど、友人としてならば大切にしてもらってると確信を持っていたから。

 笑顔で言い切って、リリアさんの反応を窺う。

 馬鹿馬鹿しくなって、気持ちが和らいでくれたらと思いながら。

 

「あ、え、バレ、て?

 なぜ? どうして?」

 

 けれども、帰ってきた反応は著しく動揺しているリリアさんの姿。

 赤くなったり、頭を振ったり、なぜ、と呟いたり。

 どうしてか、リリアさんは今日の中で一番動揺していた。

 

 どうしてか、と考えてみる。

 リリアさんがあたふたしている、その理由を。

 今日は、分かり合いたいと思っているから。

 

 焦っている、慌てているのは予期せぬことがあって動揺しているから。

 そして、その予期せぬことというのは……会話の前後を考えると、さっき言った冗談以外に心当たりがない。

 ――つまり、リリアさんは私の言葉にとても照れてくださっているということだ!

 

 ……推測が目の前の現実と結合して、眼の前のリリアさん同様に私の顔も熱くなるなる。

 違うというには、リリアさんのことを考えすぎていたから。

 多分、うん、きっと合ってる。

 思い至ってしまえば、ムズムズが体中に広がっていく。

 

 だって、私がリリアさんを口説いてしまっているから。

 軽薄に、同性に不埒なことを言ってしまった感覚。

 リリアさんと目を合わせると、なぜだかマジマジと顔を覗き込まれて。

 頭から湯気でも出てしまうんじゃないか、というくらいに恥ずかしくなってしまう。

 必然的に、違うんですという力ない言葉が口から出てしまってのは仕方のないことだった。

 

「変なこと、言っちゃってごめんなさい。

 とにかく、リリアさんにおかしなことを言うつもりじゃなくて、下手な冗談だったんです」

 

「じょう、だん?」

 

「はい、困らせてしまってごめんなさい」

 

 リリアさんは、お顔から赤さが少し引いて、今は不思議そうに首を傾げていらっしゃる。

 何か、本当に分からないモノに遭遇してしまったみたいに。

 私のジョークセンスは、思っていたよりも数段下だったのかもしれない。

 

「……つまりは、私のことに気が付いたという訳ではないと?」

 

「リリアさんのことですか?」

 

 今度は私が首を傾げると、ホッとしたような、けれども無念でもあるような溜め息をリリアさんは吐いて。

 そうして、ツカツカと私の下までやって来るリリアさん。

 前髪をたくし上げられ、コツンとおでこ同士をぶつけらるのを私は抵抗なく受け入れるしかなかった。

 熱くて、私の方へと温かさが移ってくる感覚。

 でも、風邪みたいなものじゃなくて、何か別の要因でリリアさんは体温が上がっているのを感じる。

 息が掛かる至近距離で、リリアさんはか細く囁いた。

 

「悪い人です、人を弄んで」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「男性の方に愛を告げられたことはあります。

 ですが、女性には初めてです」

 

「あの、本当に違うんです……」

 

「いいえ、違いませんよ。

 私の初めてを、アサヒさんは奪っていきました」

 

「ど、どうしましょうか……」

 

 心から、どうしようかと思ってしまう。

 熱を帯びているのは、リリアさんのおでこだけでは無くなってきている。

 良く分からない熱が、場の空気を支配しつつある。

 おかしな重力が、私とリリアさんの間に存在した。

 

「……フフッ」

 

 リリアさんは、意味深に笑っている。

 その笑みの意味が、私には分からない。

 ただ、ひどくイケナイものを感じてしまい、背筋がゾクリとしてしまう。

 

 ――離れないと。

 そう思うけれど、拒絶するような反応をするのは嫌だった。

 だって、ようやく互いのことに踏み込み合えたのだから。

 よって、固まったように私達は互いの熱を交換しあって……。

 

「次は男の子の、コクラくんになって告白しに来てくださいまし」

 

 その言葉と共に、リリアさんはゆっくりと、名残惜しげにおでこを離した。

 そして私は、思わずと言った感じでその場にへたり込んだ。

 危なかったとも、助かったとも言える心境で。

 

「真心を込めて、お願いしますね」

 

「は、はぃ」

 

 私はひどく情けない声で、気の抜けそうな返事をしてしまっていた。

 どうやらまた、何時か私は男装することになってしまったのだった。

 

 

 

 

 

「ところで、リリアさん」

 

「はい、アサヒさん」

 

 アレから少しして、落ち着いてから一つ抱いた疑問を尋ねていた。

 デリケートなことで、あまり藪を突く真似はしない方が良いとは思ったけれど、それでも友人でいる上で大切なことだと思ったから。

 

「どうして、リリアさんは憎悪を捨てられたのでしょう」

 

 リリアさんは確かに言っていた。

 外国の人間、特に黄色人種に思うところがあると。

 それは、過去の経験からすれば当然のこと。

 貴族の血筋という属性で逆恨みをされ、覚えのない怨恨を塗りたくられたリリアさんは、心を守るためにも自身も属性で相手を憎まざるを得なかった。

 でも、今のリリアさんは確かに私を友人だと思ってくれていて、認めてくださっている。

 それは喜ばしいことだけれど、理由を知らないと私は甘えてもたれ掛かってしまう。

 友情には義務はないけれど、無責任で居られるほどに無関心な関係性ではないから。

 

「何故、私と友人になってくださったのですか?」

 

 傷に触れること、それは痛みが伴ってしまう。

 自分でイタズラに触っても化膿するのに、他人に無思慮に触れられればそれはどれほど不愉快だろう。

 そこに思い至っても、私は尋ねてしまっていた。

 リリアさんとの絆を、突然断ち切られたくないという我儘で。

 ただ、当のリリアさんといえば、不思議そうに首を傾げていて。

 うん? と私も首を傾げたところで、リリアさんは事もなさげに言った。

 

「――許してませんよ、それは」

 

「え?」

 

「アサヒさんが特別なだけで、他の方々を許す道理はどこにあります?」

 

 リリアさんの言葉に、私は確かに動揺していた。

 まだ、彼女は憎しみを捨てていないということに。

 微塵もそんな気配を感じさせないのに、ハッキリと断言されてしまったことに。

 自分の声が震えるのを理解しながら、私は恐る恐る尋ねた。

 

「では、どうして私のことは……」

 

「あなたは、家族に突き放されて宛もなく苦境に立っていた私を支えて励まして、付き添ってくださった方だからです。

 無論、メリルさんもそうです。

 だから、あの人には仕方ないと思えるし、寛容でいられます」

 

 あなただけは特別、脳内が蕩けてしまいそうな言葉。

 正直なことを言うと、動揺もしたけれどホッとした気持ちはあった。

 リリアさんの隣に居てもいいのだと、自分の都合で考えてしまう。

 思わず自己嫌悪に励んでしまいそうになった時、でも、という声がそれを引き止めた。

 

「アサヒさん、あなたや華花のお陰で分かったことがあります。

 それは、偏見を持っていたとして、接することで許せるということです。

 今後、アジア圏の人に出会う度に私は過去を思い出して勝手に見下してしまうでしょう。

 ですが、その後に己の不明を恥じ入ることができるようになったのです。

 覚えていて下さい、私は少しだけでも貴方のお陰で変わることが出来たのだと」

 

 リリアさんの微笑みは、本当に慈しみに満ちたものだった。

 今までにも見たことのある笑みだけれど、今まで以上に素敵に見える。

 リリアさんが、本気で私のことを慮ってくれているのを心から理解できているから。

 

「……その言葉だけで、少しでもお役に立てた気持ちになれて救われます」

 

 ホッと一息吐くと、気疲れしていたことに気が付いた。

 感じた気の緩みが、体に休んでと伝えているようで。

 恥ずかしながら、あの、と声を掛けるとリリアさんは”えぇ”と頷いてくれて。

 

「お休みなさい、アサヒさん。

 昔話にしては無様に過ぎましたが、最後は幸せに暮らしましたと綴るつもりですから」

 

 リリアさんが部屋を出ようとして、ドアノブに手を伸ばす。

 ――そんな時のことだった。

 バタンと勢いよく、部屋の扉が開かれる。

 

 リリアさんではなく、華花さんでもない。

 ここ三日間、自身の情報網を駆使してパリ中を駆けていて、何時も纏っている爽やかで軽快な雰囲気は乱れた髪や服で滲んでしまっている。

 それは私と同じか、それ以上にメリルさんを大事に思っている人。

 

「アサヒッ!

 目撃情報ッ、あったよ!!!」

 

 彼女、エッテさんのその一言で、ようやく訪れた眠気はまた私から離れていった。



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第39話 違うんです、本当なんです信じてください

他の人の小説には楽しみにしてます、毎日更新してください! って思うのに、自分が書く時はマイペースになってしまうのはなぜなのでしょうね……。


 

 メリルさんの居場所が分かった。

 そう伝えてくれたエッテさんは、そこがプランケット家のホテルだったのだと明かす。

 

「長身の東洋系の人と一緒にいるところを見たって!

 きっとそいつがメリルを誘拐した犯人だよ!!」

 

 その言葉に、私は予感のようなものが背筋を走った。

 メリルさんの知り合いで、それができる人物。

 あぁ、と理解する。

 目的が分かりませんが、貴方なのですね、と。

 

「誘拐、ではないのかもしれません」

 

「何か知ってるの、アサヒ?」

 

 はい、と直ぐには答えられなかった。

 そうであろうと思っていても、それは論拠が無いものだから。

 知っているでは語弊がある、それでもと思った内容を私は口にする。

 何とか、変なふうにあの人が誤解されて欲しくはないから。

 

「私の兄、お兄様は長身で顔立ちが整った才能のあるお方です。

 メリルさんともお知り合いで、ここに来る前はお世話になっていたと伺っています」

 

 恐る恐る紡いだ言葉に、返ってきた反応は不思議そうなものだった。

 

「なんで私、アサヒのお兄さんの自慢をされているの?」

 

「じま、ん?」

 

 エッテさんの目はジトリとしており、何とかそう思われた要因について頭に巡らせる。

 お兄様のこと、私は事実を羅列しただけ。

 けれど、それが本当のことだとしても、お兄様を知らない人からすれば美辞麗句に聞こえるのかもしれない。

 なるほど、と私は頷いて呟く。

 

「流石です、お兄様」

 

「……アサヒ、どうしちゃったの?」

 

「アサヒさん、一人で納得なさらないで説明してください」

 

「さすおにって何だよ、ブラコンか?」

 

 私の理解は、どうやら他の人には大変不明なことだったようで。

 この場にいる全員から、胡乱な目で見つめられる事となった。

 けれども、この場でお兄様の凄さを語っても、恐らくは分かってもらえない。

 私の言葉だけで言い表せる人ではないから。

 故に、私は何とか最低限のことだけを伝えようと言葉を紡ぐ。

 

「えっと、お兄様は――」

 

「もう良いから、メリルのことを教えて。

 どういう状況で、なんで居なくなったのか」

 

 私の言葉は、エッテさんの正論に掻き消えることになった。

 そもそも、お兄様を誤解されたくないならば、直接会ってしまうのが一番早い。

 ……お兄様の目的が何なのか、それを知る必要性もある。

 誤解が、もしかしたら解けない可能性もあるのだから。

 

 お兄様との間に何かが起こりそうで、それが怖いのかもしれない。

 お兄様の目的と、私達のメリルさんと一緒に居たいという願いが衝突するかもしれないから。

 才人であり万能でもあるお兄様だけれど、それ故に私の様な凡人には分からないロジックで行動されていることもある。

 その時が訪れたら……私はどうするべきなのだろうか。

 

「アサヒさん?

 顔色がよろしくないようですが……。

 やはり、疲れが取れていないのではないですか?」

 

 私の逡巡に、リリアさんが声を掛けてくださった。

 でも、それに対して私は首を振る。

 もし会えたならと思っている人が近くに居る気がして、気分は間違いなく上向いている。

 ただ、それと同じくらいに不安を感じているだけだから。

 堂々巡りの思考に陥っているだけ、それは答え合わせをしないと解決できないことだから。

 

「大丈夫です、むしろ動かずに入られません。

 だから、行きましょう。

 メリルさんを迎えに、私達で」

 

 だから、開き直った。

 前向きに、前のめりに行くために。

 メリルさんと一緒にいたい、お兄様に……厚顔無恥にも程はあるけれども会いたい。

 そんな考えが、後ろ向きなことを全て捻じ伏せていた。

 単に欲望に素直になって、理性を捨てただけかもしれないけれど。

 

「よく言ったよ、アサヒ! 行こう!

 アサヒのお兄さんに事情を問いただして、メリルを返して貰わなきゃ!」

 

 私の顔に色が戻ったのだろう、エッテさんは力強い宣言に私達は頷いて応えた。

 ただ、リリアさんだけはやはり心配そうにしてくださっていたけれど。

 

 勢い良く、というよりも居ても立っても居られなくて。

 私達はメゾンド・パピヨンを出立した。

 メリルさんを連れて、戻ってくるために。

 

 

 

 

 

 プランケット家の自家用車に揺られること約二十分。

 私達は目的地のホテルへと到着していた。

 ただ、最速で動いたにも関わらず、私達は少し遅かった。

 

「はい、オオクラ様は既にチェックアウトされています」

 

 その言葉に、やはりお兄様だったという緊張感が背中に走るのと、直ぐに会えないことに対する落胆と……少しな安堵。

 私は、お兄様に会ったら、何を話せば良いのか。

 それすら決められてないことが、不安の源泉になっている。

 会った時に何を言われてもおかしくない所業を私はしていたから。

 

 そんな私個人の心情を脇においたとしても、メリルさんへの手掛かりが遠のいたことは確かで。

 やる気が空回りした、そんな重い空気が立ち込めてきて。

 それでもエッテさんはめげずに、直ぐに従業員の人への聞き取り調査を行なっている。

 リリアさんや華花さんと顔を合わせ、影が落ちる表情に蓋をして私達もそうしようと判断した……そんな時のことだった。

 

「ここに居たのかみんな!」

 

 フラリと、メリルさんを探しに街に出てくれていたアンソニーさんが現れたのは。

 そういえば、目の前のことに必死になりすぎて、協力してくれているアンソニーさんや駿我さんに一報を入れていなかった。

 申し訳なさが沸々とジワリと噴き出てきて、私は慌ててアンソニーさんへと駆け寄った。

 

「申し訳ございません、アンソニーさん。

 メリルさんの手掛かりを掴んだので連絡せずに出立してしまいました……」

 

「おぉ、それは重畳!

 ところで、その肝心のメリルちゃんはどこに?」

 

「それが、ちょうどすれ違ってしまったみたいで……」

 

 アンソニーさんは、そうかと肩を落とされた。

 初日から、ずっとあちこちを探し回ってくれているアンソニーさんは、それでもバイタリティーに溢れたままで。

 けれども、いつも瀟洒に磨かれている靴は、反比例するように草臥れていて。

 私たちと一緒で、メリルさんを必死に探してくれている懸命さがそこに現れていた。

 

「――ありがとうございます、お優しいアンソニーさん」

 

 吐息が溢れるように感謝が口を衝いたが、アンソニーさんはキョトンとした顔をした後に安心するような笑みを浮かべられた。

 年上が、年下の子を安心させようとする仕草。

 その仕草が、私を安心させようとする駿我さんにそっくりで、タイプが違うと思っていた二人はやはり兄弟なのだとしみじみ理解する。

 

「なぁに、俺たちは従兄弟!

 大蔵家に於いては家族そのものさ!

 お祖父様や他の家族たちは認めなくとも、俺や兄上はそう思っている。

 それに……俺は弟だったからなぁ。

 一度くらいは、頼れる兄になってみたいという願望もあったのさ」

 

 茶目っ気のあるウインクと暖かな言葉に、動揺していた心を温められる。

 まだメリルさんもお兄様も見つけられていないけれど、私には頼れる人たちがいる。

 そう思えたことで、まだ頑張れそうだと心が奮い立った。

 

 そして、緊張感が解けたからか、ひどく単純な解に気が付いた。

 私とアンソニーさんが家族だというのなら、お兄様ともそうである。

 アンソニーさんは私と違い、正式に認められた大蔵家の一員でもある。

 なら、お兄様の連絡先を知っていても不思議じゃない!

 

「アンソニーさん、実はメリルさんはお兄様の……衣遠兄様の下にいるんです」

 

 逸りが逡巡を飛ばし、口が勢いで捲し立てた言葉が滑りでる。

 これでもしかしたら、と思った言葉。

 それを聞いたアンソニーさんは目を見開いた後、今まで見たことのないほどに眉を顰められていた。

 

「なる、ほど?

 だから兄上は警察じゃなくて自力で探せと言っていた?

 そうだな、衣遠も我が一家と敵対的とはいえ家族だ。

 それが誘拐で捕まるなんて、流石の兄上でも気が引けたのだろう。

 でもそれなら何故、兄上は衣遠の奴に連絡しない?

 いや、しても無駄だったのか?」

 

 アンソニーさんは、遠い目で思考を巡らせ始めていた。

 その思考速度は、いつものアンソニーさんからは考えられないほどに早く、この人も才気がある人なのだと汲み取れる。

 たた、駿我さんがいうところの迂闊なことがあるとすれば、考えていることが全て口から漏れ出てしまっているところだ。

 

 お腹の探り合いは難しいから、駿我さんからは不出来だと言っているのかもしれない。

 ただ、その正直さが滲んでいるところが、この人の良いところなのだ。

 そういったところが、アンソニーさんに親しみを感じさせてくれているのかもしれない。

 

「いや、しかし……」

 

「アンソニーさん、どうかお願いします」

 

 そんな信頼できる人に、私は深々と頭を下げた。

 気分的には、蜘蛛の糸に縋っているカンダタ。

 この糸が断ち切れれば最後、また手掛かりのない暗闇の中に戻るのはあまりに辛い。

 身勝手ながら、大蔵家内でのパワーバランスやアンソニーさんの立場があると承知の上で、私は無理を言っていた。

 

「んー、兄上には危険なところには近づけるなと言われているが……まぁ、少しぐらいならいいか!

 分かった、朝日ちゃんにそうまで言われたらなぁ」

 

 頭を上げた私が見たのは、まるでミントが風になって香った様な笑顔。

 この人がモテているというのは、顔が良いという理由だけではないのだろう。

 そう考えて、駿我さんへの既視感が過る。

 私が困っている時、あの人は平然とそういうことを言うから。

 クスリと笑った私にアンソニーさんが不思議そうな顔をしたので、私は思ったままを素直に伝える。

 

「いえ、駿我さんとアンソニーさんはやはり兄弟であるのだなと。

 困っている女の子がいれは、スマートに助けてくれるあたりが特に」

 

「…………朝日ちゃん、俺は確かにそうだが、兄上に対して君は勘違いをしている。

 あの人は誰にでも優しいわけじゃない。

 君に、特別に優しいだけなんだ」

 

「そんなわけありません、言動の節々が女の子の扱いに慣れておられました」

 

「えぇ……あの兄上が?

 あの女を女とも思わず、男女平等に道具として使っている兄上が?」

 

「アンソニーさん、お仕事中であれば駿我さんは真面目な方ですので私情を交えられないと思いますよ」

 

「兄上はオールパブリックとも言うべき人で、プライベートなど無いに等しい。

 つまりは、そう言うことさ」

 

 ……アンソニーさんの言い分は分かる。

 自覚していることではあるけれど、私を特別扱いしてくれていることは。

 ただ、それは家族の範疇のもので、女の子に対してのものではない。

 だとすると、あの女の子に対する口の上手さは天性の……?

 ならば、やっぱりアンソニーさんと駿我さんは兄弟であるという感触が強まった。

 きっと、女性にすごく強い家系なのだろう。

 

「駿我さんと結婚される方は、毎日がドキドキしてしまうでしょうね」

 

 駿我さんの言葉にアタフタして、優しくされることに照れてしまって。

 女性にそういう事ができるのを、家族の私は知っているから。

 

「おぉ! これは兄上の春も近いかもしないなぁ!」

 

「違いますよ?」

 

「照れることはないが、朝日ちゃんは奥ゆかしいからな!

 そういったところも、兄上にピッタリだ!!」

 

 一方で、アンソニーさんは私と駿我さんの仲をずっと勘違いしたままだった。

 頑なに、駿我さんが光源氏の如く、私に英才教育を施していると思い込んでいる。

 もう私も、一言訂正して笑って流してしまうしかなかった。

 

「それよりもアンソニーさん、どうか……」

 

「おっと、そうだった。衣遠の番号は、と」

 

 一瞬華やいでいた空気が、再び張り詰めたモノに戻る。

 アンソニーさんが、携帯を操作して発信音がした辺りで、私の体をゾワゾワと伝っていくものがある。

 それが親愛による高鳴りなのか、感じていた虫の知らせなのかの判別はつかない。

 そして――。

 

「おぉ、衣遠!

 俺だ、大蔵アンソニーだ!!

 早速で悪いのだが本題に入ろう、メリルちゃんを返して欲しいのだ。

 …………うん? 条件?

 朝日ちゃんを単身、指定の場所に行かせるのが?」

 

 アンソニーさんの声が聞こえて、携帯の向こう側はお兄様と繋がっている。

 そのことに二重の意味で浮足立ちながら、アンソニーさんの声に耳を傾けて。

 

「待て待て、そちらがそのつもりならばこちらにも考えがある。

 兄上と朝日ちゃんの交際を婚約に変更し、物理的にお前の兄弟になるという策だ。

 そうなれば、この無意味な遣り取りも意味を成さなくなるだろう?」

 

「アンソニーさんっ!?」

 

 とんでもない言葉が聞こえてきて、私は人目を憚らずに叫んでしまっていた。

 違います、違うんですお兄様!!!



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第40話 そんなわけないだろう!

お兄様視点です。


 時が来た、いや、作ったのだ。

 奴を捕え、服従させ、羽を手折る時を。

 微睡の時間は終わり、現実に帰ってくる時が。

 

 アンソニーからの電話で、奴が追い詰められていることを確信する。

 あと一押し。僅かな衝撃でも加われば、途端に奴は折れるだろうと目論んで。

 

 俺はアンソニー越しで、奴に指示を出す。

 遂にと逸りそうになる自身に、まだだと言い聞かせて。

 それでいて、どの様な処分を下すかを考える。

 二度と、俺に逆らおうなどと思わせないように。

 

 これは、支配欲。

 忌々しき父を名乗る愚者に、復讐するための道具への。

 職人は道具にこだわりを持ち、気遣い、磨き上げる。

 それらと同じものだと、自身の中に感じる執着を定義して。

 ――そうして。

 

『待て待て、そちらがそのつもりならばこちらにも考えがある。

 兄上と朝日ちゃんの交際を婚約に変更し、物理的にお前の兄弟になるという策だ。

 そうなれば、この無意味な遣り取りも意味を成さなくなるだろう?』

 

 ?

 ???

 ?????

 

「何を、言っている……」

 

 何やら、おかしな幻聴を聞いた。

 あり得ない事象について語られて、妖物に化かされたような感覚。

 それを不快だと認識する暇もなく、更にアンソニーは理解できないことを話し出した。

 

『お爺様は俺たちのことを家族と呼んで憚らないが、大枠の括りではそうでも実際のところは険悪な親戚にすぎない。

 ならば、本当に家族と化してしまえばよいのではないか?

 きっとお爺様も、それならばと朝日ちゃんのことを喜んで受け入れてくれるはずだぁ、ハッハーッ!』

 

 アンソニーの脳みそが腐葉土に埋もれているのはいつものことだが、俺が聞きたいのはそういうことではなかった。

 

 ――アレと駿我が交際している?

 あり得ない、アレは兎も角として駿我は哺乳類ではなく爬虫類。

 人間足りうる情を持ち合わせていることなど、ある筈がない。

 ならば、利用するためにアレを用いようとしている他にない。

 

 俺の道具を、復讐のためのピースを、奴に……?

 脳裏の想像に、悍ましさが伴って飛来する。

 アレは俺のもの、それを他者が、よりにもよって駿我が扱おうなどとなどあり得ないにも程があるっ!

 

「――()れるな、アンソニー。

 それ以上寝言をほざけば……潰すぞ」

 

『ひ、ひぃっ!

 い、衣遠、なぜ怒っているのだ?

 思わず震えてしまったぞ、全く』

 

「ことの真贋をを見抜けない間抜けに、辟易としただけだ。

 考えてもみろ、アンソニー。

 奴が、あの冷酷で弟のお前すら駒として見ている男が、雌犬の子なぞに本気になるか、ないだろう?

 ――利用しようとしているだけだ、簡単な帰着に過ぎない」

 

『あー、なるほど、普段の兄上を見ていたら分かる。

 お前の言い分も理解できるし、朝日ちゃんを心配しているのだな?』

 

 俺の確固たる意志を持った言葉に、アンソニーはようやく理解を示した。

 これだから、無能な人間は困るのだ。

 一を理解させるために、十の説明が必要になるのだから。

 

「心配などしていない、アレは俺の所有物にすぎない。

 他者に触れられれば不快になるだけだ」

 

『え、兄上だけでなく衣遠とも!?

 従兄弟だけではなく、実兄までも……。

 朝日ちゃん、なんて恐ろしい子なのだ』

 

「悍ましいことをほざくなと言った!!!」

 

 どうやら、俺はアンソニーを高く評価しすぎていたらしい。

 無能は十の説明を必要とするが、身につけた事は忘れない。

 しかし、この男は説明した側から忘却していく。

 徒労とは、正にこれと関わった者に訪れる現象だろう。

 

『イヤイヤ、イヤイヤイヤ。

 衣遠、聞いてくれ!

 信じられないかもしれないが、兄上は本気なんだ!

 愛だぞ、愛! あの兄上が愛を見つけたんだ!

 だからこそ、俺は兄上と朝日ちゃんのことを応援している!』

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 伝えることはすでに伝えた。

 俺が指定した場所に、アレがノコノコやってきた時が最後だ。

 そう思い、この無益な電話を切るーーその直前。

 

『……がうんです!』

 

 昔に聞いた、忌々しくも覚えのある声がした。

 

『ア……二ーさん、でん……貸して……』

 

 携帯越しに、アンソニーとアレの声がする。

 薄皮一枚まくった先に、その気配を感じさせられる。

 幾らかの茶番の後の様な口論が途切れながら聞こえて、そうして――。

 

『あの、その、お、お久しぶりでございます、お兄様』

 

 小鳥の囀る様な声が、確かに携帯越しから聞こえてきた。

 

『お兄様が呼び止めてくださったにも関わらず姿を消した自分が、厚顔無恥にもまた貴方に話しかける無礼を、どうかお許しください』

 

 俺は返事をせずに、ただ淡々と携帯に耳を傾ける。

 あの日に失った者、それが手元まで後少しだという実感を得ながら。

 

『その、声を掛けさせていただける機会に、この様な下世話な話をするべきではないということは、重々承知しております。

 ですが、私ではなくて駿我さんの名誉のためにも言わせてください。

 あの、違うんです。

 私と駿我さんが交際していたという事実は存在致しません』

 

 知っていた、そんなことは。

 わざわざ理解していることを告げにくるなど、やはりコレは愚昧が過ぎる。

 ただ、俺へ伺いを立てようとする姿は、俺の所有物としての自覚があるのだろう。

 カエサルの物はカエサルに、世界の道理とはそうあらねばならない。

 それを覚えていたことだけは、無能なりに褒められたところか。

 

『きっと駿我さんは、素敵な女性と巡り合って結婚なされるのだと思います。

 なので、お兄様は駿我さんのことを誤解されないでください』

 

 ……しかし、やけに奴の肩を持つ。

 恐らくは、餌を貰える宿主だからだろうが、良くない傾向だ。

 幾ら大恩あるはずの俺を裏切ったとはいえ、恩義には反射で応えようとする能無しだ。

 だから、あまりに入れ込みすぎられると、後々に面倒になる。

 

『私の一方的な言葉に耳を傾けてくださりありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 ……ですがお兄様、個人的な感情としては、このままお兄様にお話を聞いていてもらいたいです。

 長く空いた空白を塗りつぶす為に、お兄様のお話も拝聴したいです。

 ――でも、その前にお兄様にお尋ねしたいことがあります』

 

 声音が変わる。

 先程までの無駄話の時とは違う、上位者に伺いを立てる弱者のもの。

 おもねりと怯え、震える声からは事のあらましを理解しているであろう事が伝わってくる。

 笑い声が出そうになるのを、なんとか噛み殺す。

 まだだ、まだ早い。

 全てを暴露し、奴を取り戻し、俺から逃れられなくなり絶望の淵に立たせた時こそがその時だ。

 故に、まだ俺は奴の言葉に耳を傾けて。

 

『メリルさんを、私達のところに返してあげてくださいませんか?

 お兄様の深慮について、私は見識を持ち合わせていないので、語ることはできません。

 ですが、メリルさんがいなくなった時は、心配で胸が張り裂けそうになりました。

 私にできうることならば、何でも致します。

 ですので、どうかメリルさんをお返しください』

 

 ――その言葉を待っていた。

 自ら、俺にその身を差し出す覚悟をする、その瞬間を。

 何でもする、文字通りの意味だ。

 奴は他者と自身を比較した時、他者を取る。

 だからこそ、俺はあの時に逃げられた。

 

 俺が無様にも、待てとまで呼び止めてしまった汚辱。

 その後に好物さえ奴を連想させられ、食指が動かなくなった屈辱。

 覇道へ邁進する最中に、奴のことで路傍に寄り道をしなくてはならなくなったことに対する忍辱。

 

 あの日の雪辱を果たす為に、俺はこの様な無駄なことをしている。

 その怨念を果たす時が、ついに来たのだ。

 活力が溢れ出そうになり、高らかに宣言しそうになることを抑えながら、俺は極めて事務的な口調で告げた。

 

「ラグランジェ伯の屋敷まで来い、そうしたら小娘の身柄を解放してやろう。

 但し、貴様が一人でだ。

 条件が破られた時、特に駿我の手先を介入させた場合、小娘は何処へと旅立つことになるだろう。

 足はプランケット家の車を使え、話はつけてある」

 

 息を呑んだ気配が携帯越しにする。

 俺の手が友人の家にまで及んでいたことが、それとも自らの末路を想像して戦慄したのか。

 どちらにしろ、奴は愚かであるのだから一人で来る。

 その時に命脈を絶てば良い。

 勝利を確信して、口角が上がるのを自覚していた……そんな矢先。

 

『お兄様のお声。

 ずっと聞けていなかった、お兄様の声です……』

 

 喜色を滲ませた様な、しみじみとした呟き。

 意味が分からないままに、俺は口を閉ざした。

 俺がコレを喜ばせなければならない道理など、この世に一片たりとも存在しないのだから。

 

『私ばかりが話していて、お兄様のお声が聞けなくて、もしかすると電話を切られてしまうことも覚悟していました。

 ですが、お兄様は私の話を聞いて下さって、メリルさんのことも返していただけると約束してくださいました。

 ですので、ありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 朝日は、お兄様の変わらぬお声が聞けてとても嬉しく思っています』

 

 ……相変わらず、犬の様な反応をする。

 かつてから、俺が話しかけるとこの様な反応をして、尻尾を幻視させる程に喜びを露わにする。

 まるで変わっていない愚かさが、僅かな郷愁を呼ぶ。

 

 この俺がこの時も忘れていない憎悪など、まるでなかったかの様な。

 あの日に何もなかったかの様な、今日まで日々が連続しているかの如き態度。

 もしもなどという仮定は人生には不要なれども、無かったはずの出来事を想起させられる。

 ――間違いようがない程、コレは毒婦であった。

 

 俺は自らの感情を押さえつけながら、何とか電話を切った。

 ただ、口から溢れた一言は、抑えようのないもので。

 

「雌犬の仔めが……」

 

 漏れ出たその言葉は、俺の想定していた激情とは程遠いもの。

 弱りきった人間が吐き出した、虚な負け惜しみじみていて。

 やはり、奴を屈服させる必要性があるのだと強く確信した。

 他の誰でもない、この俺が。

 

 

 

 

 

「りそな、なんで旅支度なんかしているんだ。

 会社の売却案が纏まりそうなんだから、共同経営者として細部を詰める必要があるだろう?」

 

「ルナちょむなら大丈夫です。

 何なら私が余計なことをしない方が、余程上手くいくかと」

 

「……お姉さんのことか?」

 

「あ、分かります?」

 

「君は自堕落だが、責任は果たそうとする人間だ。

 そんな奴が、それらを放り出してどこかに行こうとする。

 なら、とても大切なことに違いないからな」

 

 ルナちょむの言う通り、姉に関する動向で何かがあった。

 ただ、何があったかまだは分からない。

 

 それは、何かあった時のために修道院の人に教えていた携帯の番号。

 大蔵に、特にあの母にバレない様に、ルナちょむのメイド長名義で契約してもらった、誰も登録されていない携帯電話。

 その電話から、こっちの携帯に着信があった。

 ワンコールで切られたそれは、事態が逼迫している証左でもある。

 説明しているほどの時間が無い状況に、修道院の人が追い詰められているのは間違いないのだ。

 そして、修道院の人が危ないということは、姉も同様に危険だということ。

 修道院の人は、姉が大好きで離れようなんて思う筈がないのだから。

 

「そういうことなら仕方ない、こっちは勝手に進めておくとしよう」

 

「ありがとうございます、ルナちょむ。

 暇があればお土産を買って帰ります」

 

「うん。で、どこまで行くんだ?」

 

 今日の空は曇っていて、何だか不安にさせられる。

 

「――パリですね」

 

 そんな虫の知らせが、私を急かしていた。



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第41話 みんな丸太は持ったな!

「は? 何それ」

 

 想像よりも冷ややかな声で、内に秘めた感情を漏らしたのはエッテさんだった。

 私に向ける視線は厳しく、糾弾されている様にも感じる。

 納得云々の前に、意味が理解できないと言わんばかりだった。

 

「えっと、ですので、私がメリルさんを迎えに行くことが条件なんです」

 

「違う、そうじゃないよ、私が言いたいことは。

 アサヒだって、分かってるよね?」

 

 語気が強くなるエッテさんに、私は曖昧に微笑んで。

 それが悪かったのか、エッテさんの表情はしかめっ面から怒りが滲み始めていた。

 

「アサヒのお兄さんだとしても、だよ!

 メリルを何日も勝手に連れ回して! 挙句に、返して欲しかったらアサヒを差し出せなんて!

 どう考えてもふざけてるよ、しんじらんない!」

 

 確かに、エッテさんからしてみれば、お兄様を信用できる要素は微塵もない。

 良くて不良、悪く見れば誘拐犯。

 悪い方ではないのですと言っても、証明する術は私の証言のみ。

 流石に分が悪いのは、自覚する他なかった。

 

「私を差し出せということではなくて、来なさいという指示があっただけで……」

 

「私も反対です、アサヒさんが一人で来いという指定。

 どう考えてもあからさま過ぎます」

 

「リリアさんまで……」

 

 リリアさんも眉を顰めて、首を振っていた。

 そんな二人の言葉に、アンソニーさんは超高速電動赤べこの様に頷いている。

 華花さんも、リリア様に同じくと呆れたように口にして。

 全員が、私がお兄様の元へと向かうことに反対している。

 ただ、事情を説明してメリルさんを連れて帰ってくると伝えるだけだった筈なのに。

 

「朝日ちゃん、俺も反対だ。

 兄妹同士、仲良くしたいのはよ~く分かる。

 だが、朝日ちゃんに何かあったら兄上に申し訳が立たない。

 それに、何故だか兄上に連絡が付かないのだ。

 だからこそ、余計な動きはしない方が良い」

 

「駿我さんも、お忙しい方ですから……」

 

 アンソニーさんの意見に自分の考えを述べると、いやいやと首を振られた。

 朝日ちゃんは兄上がどれだけ本気なのかを分かってない、なんて言葉と一緒に。

 

「兄上は、この欧州に何故来ていると思う?」

 

「それは……お兄様と、その……」

 

 争いに……と口まで出かかった言葉を、何とか押し止める。

 実際に口にしてしまうと、何か大きな出来事が起こってしまいそうだから。

 だけど、アンソニーさんは頷いて言ってしまった。

 

「そうだ、衣遠と兄上は何かを巡って、戦いに来たんだ。

 何が目的か、兄上は俺に話してはくれなかった。

 だが、この時局を迎えて、ようやく理解できた」

 

 澄んだ瞳で、アンソニーさんは私を見ていた。

 彼の瞳に曇りは無くて、だからこそ察してしまった。

 

「わ、たし?」

 

 ただ、意図は汲み取れても理解はできない。

 私を理由に……そんな馬鹿なことで争う意味が分からない。

 偉大な二人が、そんな理由で不毛なことをする必要はまるでない。

 動揺するけれど、それ以上に困惑が大きい。

 

「そう、朝日ちゃん。愛だよ、愛」

 

 そしてアンソニーさんの言葉を、私は信じられなかった。

 駿我さんとの間に確かに絆はあった。

 友愛、家族愛、そういった物を持って貰えていると図々しくも確信している。

 もし私に何かあったら、心苦しくも私の為に戦ってくださるだろうとも。

 

 

 ――では、お兄様には?

 

 ……分からない、ううん、自信がなかった。

 あの方は、何よりも才能を愛している人だから。

 才能のない私を愛するなど、お兄様の道理からは外れている。

 

 けれど、才能のない私に指導してくれたのもお兄様だった。

 呆れられても、失望されても、最後まで見捨てられることはなかった。

 それに――、

 

『待て、朝日っ!』

 

 あの日のお兄様の言葉が、頭に蘇る。

 

『これは俺の物だ!

 爪先から髪の毛一本に至るまで、俺が生殺与奪を握ってなければならない生き物だ!

 そうでなければ、全てを奪ったことにならない。

 故に、お前は俺の妹で居なければならない!』

 

 あの日のお兄様の言葉が、忘れられない。

 だって、お兄様が私のことを妹だと思ってくれている、何よりの証拠だったから。

 

 奥様に平手打ちされて、お顔に痛々しくも残った痕。

 けれども、そんなことが気にならない程にお兄様は怒ってくださった。

 私が居なくならないように、私があの方の妹で居られるように。

 

 それを裏切ったのは私で、戦うことをしないで逃げたのも私。

 お兄様が私に対して怒っているのも、当然のことだと思う。

 

 その気持ちは愛、なのだろうか。

 お兄様は、私を愛してくださっていた、のだろうか?

 

 分からない、私は自分勝手で、自分が愛しているという事実だけで満足していたから。

 恩人で、兄妹で、尊敬して、構って下さることが嬉しくて。

 自分の愛は確認していたから、相手がそうだったら嬉しいと思っていたくらい。

 真剣に、相手が自分をどう思っているかなんて考えたことがなかった。

 だからこそ、今になって無理解が混乱を呼んでしまう。

 お兄様のことを神格化して、与えられるのみで知ろうとしなかった自分が恨めしい。

 

「おにい、さま」

 

 でも、間違いないことは、自分はお兄様やりそなを愛しているということ。

 その一点だけを持ってしても、私は確かめたいという気持ちを抑えきれない。

 

 ――私は、貴方の妹で居ても良いのでしょうか?

 

 そんな愚かしい問い掛けを、堪えられそうにない。

 いつか夢見た形、湊や七愛さん、駿我さんにりそなからの手紙。

 色んなものが混じり合って、望みの形をハッキリさせた。

 

 また家族と一緒に暮らしたい。

 そうして、あの日の続きを取り戻したい。

 浅ましくも確かに芽吹いた欲望は、私の中で今も育まれ続けている。

 ただ、私は勘違いをしていたのかもしれない。

 

 私が家族のもとに戻るのは、奥様に認められれば良い。

 それだけが条件だと思っていたけれど、本当はもっと複雑なものがあるのかもしれない。

 お兄様のことを、もっと知る必要があるのだと思ったから。

 

 私は、心を決めてアンソニーさんに伝える。

 やっぱり、何よりも私自身が話し合わないといけないと思ったから。

 

「自分本位で本当に申し訳ないのですが、それならば尚更にお兄様に尋ねたいのです。

 貴方は、私が為に事を成されているのかと。

 お兄様の目的に、私のことが僅かなりとも含まれているのだと」

 

 自分でも驚くほどに、声に張りがあった。

 確かめたい、その気持ち一つが活力になって私のなけなしの勇気に油を注いでいく。

 

 愚かでも良い。

 愚妹だと言われても、それは仕方がない。

 ただ、それを確認しないことには全てが始まらないから。

 

「行かせてください、どうか……」

 

 アンソニーさんに懇願する。

 この人が行かせまいとすれば、私はここでずっと足を止めることになるから。

 どうか、とその手を握る。

 恥を隠さずに、みっともなく哀願していた。

 この人の優しさに漬け込もうという、卑怯な行為。

 

 ……結果は、悪辣な私の望んだ通りに。

 

「朝日ちゃん……そうか、そうだな。

 俺にも分かる、俺だって兄上のことをもっと知りたいと思っている。

 兄弟間でさえ、理解出来ないのは辛いよな……」

 

 アンソニーさんは、本当に優しい方だ。

 私の甘言に、直ぐに理解を示してくれる。

 本当にごめんなさい、お優しいアンソニーさん。

 

「では?」

 

「うん、分かった。

 確かめたいというのならば、行こうか」

 

 その言葉に、ちくりと胸の良心が痛みつつも、ホッとしたという感触があった。

 これで、力ずくで阻止されるということは無くなったから。

 

「待って、勝手に進めないで」

 

 ただ、問題はまだ解決していない。

 声のした方を振り向けば、明らかにおかんむりなエッテさんがいて。

 リリアさんも無表情で私を見ているのが、あまりにも気まずい。

 もう諦められているのか、華花さんだけは素知らぬフリを決め込んでくれている。

 

 私は何とか二人に向き合う。

 言葉を尽くして、気持ちを伝えて、何とかわかって貰おうと。

 

「ごめんなさい、エッテさん。

 ですが、どうかお願いします。

 心に決めたことで、もうやると決めてしまったんです」

 

「うん、それは良いよ。別に」

 

「はい、ご無理を言ってるのは重々承知で……え?」

 

「家族の問題で、メリルと同じくらいアサヒにとって重要なんでしょ?

 なら、文句は言わない。

 私が気に入らないのは、私たちだけ今更無関係にされるってこと。

 メリルのことが一番好きだけど、アサヒも私に取って大事な友人なんだよ、分かってる?」

 

 その言葉、胸にキッチリと届くくらいに温かくて。

 反論のための言葉が、詰まってしまう。

 

「色々と思うところはありますが、アサヒさん」

 

 そしてリリアさんは、そっと私の耳元まで近づいてきて。

 

「貴女のご家族の問題に巻き込まれたのなら、最後まで責任を取ってくださいまし」

 

 そういうと、イタズラっぽく囁いた。

 ゾクっと背中に走るものは、リリアさんに対する罪悪感か。

 ……ちょっと気持ち良い感じがして、非常にソワソワした。

 

「ですが、皆さんが来られるとメリルさんは……」

 

 その想いが嬉しくて、付いてきてくださいと言いたくなる。

 でも、お兄様は一人で来いと言っていた。

 そうしなければ、メリルさんはどこか遠い場所へと行ってしまうと添えて。

 ならば、やはりそうしなければならない。

 また、メリルさんと一緒にいたいから。

 そう伝えると、二人は難しい顔をしてしまうが、アンソニーさんだけは何故だかキラリと歯を輝かせて。

 

「なら、朝日ちゃんは一人で行けば良い。

 俺達は、偶々同じ方角に向かうとするからさ」

 

「そっか、確かにそれなら行けそう!

 屁理屈だけど、最初に捏ねてきたのは向こうなんだし!」

 

 その言葉に、エッテさんはおっと感心して、アンソニーさんを肘でつついていて。

 リリアさんも、我が意を得たりと頷いていた。

 

 私としては、本当に大丈夫なのか疑念の余地がある。

 けれど、その方法以外に納得してもらえる代案を持ち合わせてもいない。

 なので、渋々ではあるものの、その提案に頷いて。

 

「外までだったら、大丈夫かもしれません。

 中に付いてくるのはダメですからね?」

 

「うんうん、任せておいてくれ。

 で、行き先はどこになるんだ?」

 

 その言葉に、私は言いづらさを覚えながらも行き先を伝える。

 視線を宙に彷徨わせながら。

 

「ラグランジェ伯のお屋敷……リリアさんのお家になります」

 

「は? お父様?」

 

 リリアさんの声が聞こえた気がしたが、私の視線は宙にあるので気付かないふりをした。

 

「それでは、ここから結構遠いじゃないか!

 迎えがくるのかな?」

 

「えっと、エッテさんの実家に連絡してあって、ここにくる時に使わせてもらった車を使用されてもらえるとのことで……」

 

「は? パパ? ママ?」

 

 今度は、エッテさんの低い声が聞こえたけれど、私の視線は宙に浮いているので気づかなかったフリをした。

 ……ただ、見事に友人達のご両親を巻き込まれてしまっている。

 本当に困った時、二人のご両親は頼れないという事に他ならない。

 根回しが見事で、それだけ衣遠兄様はいま成されていることに本気なのだと理解できた。

 

「どう、しましょうか?」

 

 皆さんの足が無くなってしまう。

 付いてくるという行動は、かなり難しくなるだろう。

 そんな私の懸念を、アンソニーさんは笑って消し飛ばした。

 懐から、大蔵の小切手を取り出して。

 

「車なんて、そこらで買えば良いさ。

 なにせ大蔵家は、お金持ちだからな!」

 

 ……あまりにも頼りになる。

 アンソニーさんは自分のことを卑下なさるが、そんなことはない立派な大蔵のお方だった。

 その言葉でそれぞれに頷いて、私たちは行動を開始した。

 

 どうかメリルさん、と願いながら。

 お兄様の胸中を想像しながら……。

 



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第42話 鬼の居ぬ間にまにまにを

 

 私を乗せてくれていたプランケット家の車が、エンジンを止めた。

 眼の前には、歴史を感じさせる大きなお屋敷。

 リリアさんの実家であるラグランジェ邸が、泰然とそこにはあった。

 緊張も相まって、お屋敷の威容が私を威嚇しているようにも感じる。

 

 まだこれからなのに、手汗が滲む。

 けれども、ここまで連れてきてくださった運転手の方に礼を言って、私は何とか車から降りた。

 眼の前の鉄製の門がいかめしく、落ち着かない。

 なので、行動している方が落ち着くかもと思って門を開けようとすると、どこからともなく使用人の方が現れて、私がアタフタしている内に開門された。

 どうぞ、と招き入れられた私は、お屋敷の中に足を踏み入れた。

 

 そうして案内されたのは、客間と思われる一室。

 その中には、一人の男性がいらした。

 お兄様ではない、中高年くらいの男性が一人。

 私の姿を確認すると、にこやかに笑って立ち上がった。

 赤い、リリアさんの情熱の色と思い出す髪の色の人だった。

 

「ようこそ、我が屋敷へ!

 娘が何時も世話になっているようだね、オオクラアサヒさん」

 

「……失礼ながら、ラグランジェ伯であらせられますか?」

 

 緊張と困惑が綯い交ぜになった声に、この人は鷹揚に頷いた。

 リリアさんのお父さん、ラグランジェ家の当主……リリアさんを、私達の元に預けたであろう人。

 身構えてしまいそうになる私を、ラグランジェ伯は手で制した。

 落ち着き給えと、穏やかな声を添えて。

 

「アサヒさん、君の気持ちは分かる。

 ある日、自分が理解しない内に大きな思惑の中に囲まれた気分なのだろう。

 その気持はよく分かる、私もそうだった」

 

「私、も?」

 

「分かるだろう?

 君も私も、同じ境遇の仲間なのだよ」

 

 口元は緩やかに笑みを浮かべていて、けれども目にはクマが出来ていて疲労が透けて見える。

 ただ、何だか安心したような、解放されたような……或いは、投げやり気味な目。

 その目で、私に同情を寄せるように見つめられていた。

 

「お兄様、ですか?」

 

「イオン氏か……確かに恐ろしい人物ではある。

 だが、怖いだけで、害を与えられてはいないな。

 むしろ、この状況では頼れる味方であるとも言える」

 

 味方、とお兄様のことを口にするラグランジェ伯。

 きっと、両者の間で何かしらの取引が行われたのだろう。

 でなければ、お兄様もこの屋敷を指定場所になんて選ばない。

 でも、一体何の取引を、何の目的が行われたのか?

 それについて、私は一切のことが分からない。

 ただ、この状況的に、明るい話題という訳ではないという推測しか立てられない。

 

「失礼ながら、質問をさせていただけますでしょうか?」

 

「気持ちは分かるが、困るな。

 だが、私の問い掛けに答えてくれるのならば、その質問に答えよう」

 

「分かりました、よろしくお願いします」

 

 その条件に、私は直ぐに頷いた。

 恐らくは、ラグランジェ伯が私に聞きたいことなんて、一つしか無いはずだから。

 

「リリアは、どうしていたかな?」

 

 やはりと言うべきか、ラグランジェ伯の問いは大切な一人娘のことだった。

 先程まで浮かべていた笑みは、どこかへと隠れて。

 今は落ち着かなさげな、父親の顔があった。

 それに、私は安心感を感じながら滑らかに答えていた。

 リリアさん、貴方のお父さんにも何か事情があったみたいです、と後で伝えようと決めながら。

 

「酷く落ち込んでおられました。

 お父様やお母様に、私は何か嫌われるようなことをしてしまったのかと。

 それが過ぎ去ると、かなりムッとされていました。

 あとで酷いから、仕返しが出来たらなんて言われてました」

 

 リリアさんには申し訳ないけれど、隠し立てすること無く話していく。

 この人は、リリアさんのことを良く分かっているみたいだから。

 私の話す内容に苦笑して、相変わらずの跳ねっ返りがと呟いているあたりは特に。

 

「ですが、ずっと落ち込んでおられた訳でも、仕返しの計画を練っていた訳でもありません。

 勉学のこと、服飾のこと、友人との交流、それらのことはよく取り組まれていました。

 私とも、交流を持ってくださり、友人として多くのことを互いに学び会えたと思います」

 

 伯はよく頷いて、勤勉ではあるからな、とリリアさんを評された。

 顔に滲んでいる緩みは、多分安堵から来るものか。

 やっぱり、娘を家の外に出さなければならないのは、親にとっても心配なことだったのだろう。

 こうして伯を見ていると、リリアさんの家庭については大丈夫な気がする。

 逆に問題なのは、むしろ私の方なのだろう。

 

「ありがとう、アサヒさん。

 何時も通り……いや、ここに居る時よりもリリアが生き生きとしている様で安心したよ」

 

「リリアさんがこの家に戻られたら、お話をしてあげてください。

 事情が分からなくて、酷く苦しんでおられてたのは事実ですので」

 

「そうしよう、有益な情報だったよ」

 

 それで、とラグランジェ伯は促した。

 私が尋ねたいこと、それを言ってみなさいと。

 私は頭を下げて、ずっと思っていたことを口にした。

 私自身が、事態を理解出来ていないことが根本的に良くないのだと結論づけて。

 

「お兄様は、一体何が目的でこの様なことを成されているのでしょうか?」

 

 それが、ずっと気になっていた。

 アンソニーさんは私の為、なんてことを言っていたけれど、それにしたって迂遠すぎる。

 もし仮にそうだとしても、お兄様ならもっとスマートな手段を持って私に会いに来てくださるだろう。

 

 駿我さんも、お兄様のことでこのパリに来られた。

 メリルさんも、お兄様にお世話になっていたと言っている。

 ラグランジェ家やプランケット家まで巻き込んで、大掛かりなことになっている。

 なのに、その目的が私一人というのは、まず持ってあり得ないから。

 その真意を知らない限りは、私が状況に振り回され続ける他にない。

 だからこその問いに、ラグランジェ伯は頷いて答えてくださった。

 

「分からぬ」

 

「……え?」

 

「私も駒に過ぎないのだろう。

 君はポーンに喋りかけながらチェスをするかね?

 ましてや、イオン氏がその様な行動を取るとでも?」

 

「それは……」

 

 言葉に詰まった。

 お兄様は無意味なことを嫌っていて、必要を感じなければ他のことにリソースを割くだろうから。

 ラグランジェ伯の仰ることは、確かにと思わされて。

 ただ、それならば、先程の伯との取引は……。

 

「言ったであろう、困ると。

 なにせ、答えを持ち合わせておらん」

 

「……いえ、答えてくださり、ありがとうございます」

 

 伯の言葉に、私はため息を漏らしてしまいそうなのを我慢した。

 これが大人の、貴族の話術というものなのかもしれない。

 不平等だと思う気持ちはあったけれど、確かにそれも答えの一つではあったから。

 私が迂闊だっただけだと納得しようとした、そんな困り顔が表に出ていたのだろう。

 伯は、だが、と言葉を紡いでくれた。

 

「これは独り言で、誰も聞いていないからこそ言える、恥じ入るべきことだがね」

 

 はい、と返事しそうな口を閉ざす。

 これは独り言で、返事なんてある筈が無いという体裁だから。

 

「イオン氏の前に、私に接触してきたものが居た。

 その人物もオオクラ家の人物で、その名をスルガという」

 

 知っている、親しい人の名前。

 それが伯の口から出て、動揺しなかったといえば嘘になる。

 ただ、それ以上に今は伯の言葉に耳を傾ける。

 知りたいこと、一つでも情報を知ることが何よりも今は必要だから。

 

「彼は私を脅迫したのだよ。

 娘を利用されたくなければ、イオン氏に立ち向かうための駒となれ、とな」

 

 まさか、とも、そんなはずは、とも思った。

 けれども、途中で口を挟むには私は無知すぎるから。

 もしかしたら、多面的に見ればそういう風に受け取れる物言いを駿我さんはしたのかもしれない。

 そう思い込んで、ひたすらに情報を集める。

 真偽のほどは、駿我さんに後で聞けば良いのだから。

 

「私はオオクラの大きさを知っていた。

 私が足掻いても、彼にとっては赤子の手を撚るようなものだ。

 欧州名家としての屈辱はあったが、受け入れねば私は大きな損害を負ったであろう」

 

 だから、と伯は続けた。

 非常に言いづらい事を、何とか口にするような口上を並べての言葉だった。

 

「リリアを、君のところへ手放さなければならなかった」

 

 ――駿我さんが、リリアさんを外に?

 

 困惑が大きくなり、動揺が顔に現れたのだろう。

 私を見る伯の目が変わっていた。

 にこやかなものから、無表情へと。

 まるで、隙を見せないように様に。

 

「彼らが気にする君が何者なのか、私にも多少の興味があってね。

 こうして話し合いをさせてもらった。

 その上で、敢えて言わせてもらえば特別さは感じない。

 リリアのことを語る時、親しさを感じさせられたのは人柄か。

 好感は抱いたが、取り込まれると思う程惹きつけられもしなかった。

 そういった意味合いで、私にとって君は単なる娘の友人に過ぎない」

 

 だが、とラグランジェ伯は私をマジマジと見られた。

 探るように、深々と。

 

「彼らにとっては、そうではないらしい。

 君は、彼らにとっての重要事項であると、そう自覚し給え」

 

 その言葉に動揺してしまった。

 私は大蔵家の姓を下賜されたが、影響力なんて全く持ち得ていない。

 だから、それならば、私を気にしてくださる意味合いを考えれば、それは家族としての……。

 

 自惚れても良いのか、心の中でのみしまっておくべき事柄なのか。

 整理がつかない頭の中が、更にアレてしまいそうになって。

 ラグランジェ伯は、そんな私に一枚の紙を渡してきた。

 書かれている内容に、私は開きかけた口を閉ざした。

 余計なことを言わないために、頭でそれを整理するために。

 

 ――この部屋は盗聴されている。

 ――この家は大蔵衣遠によって掌握されている。

 ――大蔵駿我は、何らかの理由によりパリから離れた。

 

「それで、君は彼らの妹、で良いのかね?

 それとも、他に情熱的な何かがあるのか?」

 

「家族、と大きな括りの範囲内に入れていただければと思います」

 

「では、ある意味で君と私も、家族のようなものだな。

 正確には、もう少しで家族だったと言えば良いのか。

 彼、イオン氏はリリアと婚約していたことがあるのだよ」

 

「お兄様と、リリアさん、が?」

 

 情報量が、あまりにも多すぎた。

 他に考えるべきことがあるのに、別のことに意識が割かれてしまう。

 グチャグチャになった頭の中が、収集が付けられなくなりつつある。

 

「事情があり、解消されてしまったのだがね。

 だが、ここは欧州だ。

 女子同士での関わりというものも、認められている。

 どうだねアサヒさん、リリアーヌは?

 お転婆ではあるが、君はそれも受け入れてくれそうだ」

 

「その、リリアさんは大切な友人です」

 

「そうか、友人から始めると、そういうことか。

 最近は貴族であっても、恋愛結婚はままあることだよ。

 そういう経緯を辿りたいというのならば、それも良いだろう」

 

 無表情から、今度は何やら面白そうな表情になられて。

 完全にからかう口調で、伯は私に微塵も本気でない提案を並べ立てていた。

 そこで、ようやく気がついた。

 伯が、わざと気を逸そうとしてくれていることに。

 いま色々と考えても、混じり合って潰れてしまいそうだと、気を利かせてくださっているのだろう。

 

「リリアさんは、情熱色の一輪の薔薇でおられます。

 私ごときが手折るのは、価値を理解してないという誹りを受けても仕方がないものでしょう」

 

「しかしねぇ、私が水を注いでも全て地面に零れ落ちてしまうのだよ。

 昨今では、花も好き嫌いをするらしい。

 そういう意味合いでは、花屋が似合いそうな君の水は受け取ってもらえそうだが」

 

「花屋で取り扱うには、手に余ってしまいそうですね」

 

 和やかな空気が……流れているというには、伯の目はあまりにもエネルギッシュだった。

 それになにか不穏な空気を感じて……もしかすると、予感があったのかもしれない。

 私は背筋を正しながら、先程の冗談を口の中で転がした。

 

「その様なことがあれば、結婚式はどちらもローブ・ド・マリエを着ることになりますね」

 

「ブーケも二つと、なるほど物理的にも華やかになるものだな」

 

 傍から聞くと、まるで何気なく話が進んでいる様にも聞こえる会話。

 冗談だと分かっているので、落ち着きながら話ができている。

 ただ、一向に緊張は解れない。

 それは、ただ情報の多さを捌ききれていないという訳ではない。

 コツン、と廊下から聞こえてくる足音に、背筋がピンと伸びた。

 

「おや、ようやく足を運ばれたようだな」

 

 ソワソワと、ざわざわと。

 心が揺れて、今すぐに振り返ってしまいたい。

 けれども、どんな顔をして会えばいいのか分からない。

 怒った顔? 困った顔? それとも、嬉しそうな顔?

 どれも不適切な気がして、気が気じゃない。

 けれども、私の都合に物事が合わせてくれる筈もなくて。

 

「愚かなる……妹よ」

 

 その声が聞こえてきた時、未だに妹と呼んでくれることに対しての喜びも溢れてしまいそうで。

 けれども、メリルさんのことについて、どう聞けばよいのか逡巡しながら。

 

「お、にい、さま」

 

 私は俯いたまま、彼の人のお顔を見れずにその人のことを呼ぶ。

 数年ぶりで、けれどもかつてよりも凛々しく感じるお声だった。




 実はムカついていて、少し引っ掻き回してやるか的な感じで朝日に友好的なラグランジェ伯(本来なら、もう少し塩です)。お兄様は、諸々の手続きで来るのが遅れてました。


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第43話 心に触りたくて

 

 お兄様の足が、私の正面で止まった。

 今、お兄様が私の目の前に居る。

 その事実が夢みたいで、でもどうしてこんな状況になっているのか分からなくて。

 心が動揺したまま、落ち着けない。

 

「これはこれは、イオン殿。

 ご用事は済まされたようで、何よりです。

 アサヒさんを退屈させないように、少しばかりのお話をさせて頂いていました」

 

 この中で、真っ先に話し始めたのはラグランジェ伯だった。

 何の気負いもなく、何の躊躇いもない。

 空気を破るような、そんなマイペースさがあった。

 

「ラグランジェ伯、ご配慮痛み入ります。

 ですが、久方ぶりの兄妹の歓談をさせて頂きたい」

 

 お兄様は口調は丁寧に、けれども素っ気なさを滲ませていた。

 何というか、最低限の礼儀を纏っているといった感じで。

 その言葉に、ラグランジェ伯は頷いたのだろう。

 そっと、この部屋から離れようとしていた。

 

「確かに、それならば積もる話もございましょう。

 イオン殿、ごゆるりとなされてください。

 アサヒさんも、わだかまりなく話せることを願っております」

 

 にこやかな口調でそう言い残し、ラグランジェ伯は颯爽と部屋を去っていった。

 このお屋敷で、お兄様が一番尊重される存在であるかのように。

 

「狸めが」

 

 伯の姿勢に、そんな言葉をお兄様は残して。

 ――視線を、感じた。

 見下ろされている、私のことをお兄様が見ている。

 あの日以来の、思い出の中にだけ存在していたもの。

 それが、私の手の届きそうなところにある。

 その事実に、どうしようもなく混乱させられる。

 事実が嬉しくて、けれども恐ろしくて。

 私は、ずっと俯いたままでいた。

 

「フン」

 

 そんな愚妹に、お兄様は呆れられたのか。

 私の顎に手を添えられて、お兄様の方へと顔を持ち上げられてしまった。

 

「おにい、さま」

 

 精悍な顔立ち、美しいと言えるギリシア彫刻の如きお顔。

 けれども、より大人になられていた。

 身長差はかつてよりも縮んで、お兄様が近くに感じる。

 あの日よりも、私もお兄様も成長されている。

 それが、私達が離れていた年月の長さを実感させられて。

 

「お久しぶりです、朝日です」

 

 忘れられていないかを確かめる様な言葉が、私の口から溢れていた。

 妹の臆病を悟られたのか、もしくは気にされてなんていないのか。

 表情を変えずに、お兄様は私の顔を覗かれて。

 その手が、サラリと私の髪をなぞったところで、思い出したように口に出された。

 

「……やはり、似ている」

 

 誰に? そんな言葉は、きっと愚問だ。

 私が、旦那様に似ているとは思えなかったから。

 なら、きっとそれは……。

 

「髪、また伸ばしてみました」

 

 お兄様が、伸ばしてみろと言っていたから。

 きっと、長い髪がお好きなのだと思って。

 思えば、お母さまの髪もそうだった。

 あの分かたれた日から、多くの人と交流を持ってきた。

 人生に彩りや交流が増えて、より多くを知った。

 それでも、お母さまの髪は特に綺麗だったと思える。

 

「どう、でしょう?」

 

 後ろめたさから目を逸らしていたお兄様を、見上げてその目を覗き込んでしまう。

 我ながらひどく現金で、浅ましい。

 けれど、お兄様に言葉を掛けてもらえる期待を捨てられなくて。

 

「――だが、違う」

 

 だから、その言葉に冷水を掛けられてしまっていた。

 肯定的な言葉でないことだけは、確実だったから。

 期待は萎み、お兄様の瞳に映る私は、何だかションボリとしていて。

 そんな姿をお兄様に見せているのだと思うと、申し訳無さが湧いて出てくる。

 

「あの女は、今にも死んでしまいそうに諦めて笑う女だった。

 お前のその笑い方とは、全くの別物だ」

 

 お兄様の評に、はてと小首を傾げる。

 私の知っているお母さまは、疲れた様に笑うこともあるけれど、お兄様のいう様な笑い方は見たことがない。

 色々な笑みを見せてくれて、私といるのが楽しいと、嬉しいと、幸せだと思ってくれているという実感を与えて下さった。

 だから、やはりお兄様の言葉に違和感は拭えなくて。

 

「お母さまの笑顔は、元気を与えてくださる素敵なものでした」

 

 生意気にも、私はささやかな反駁を行なっていた。

 恐らく、お兄様は確かにそんなお母さまを目撃したのかもしれない。

 けれど、それは一面に過ぎないのだと。

 万華鏡の様に、見方を変えれば別の側面も見えるものなのだと。

 

「私はその笑顔によって育まれて、幼少期を育ちました」

 

 それは、親としての責任感だったのかもしれない。

 もしかしたら、無理をして浮かべていたものなのかもしれない。

 でも、全てがそうだった筈がない。

 口幅たい物言いだけれど、お兄様よりもお母さまと一緒に居たから。

 私の方が沢山、お母さまのことを見てきたから。

 

「私とお母さまの笑顔は、きっと似ています」

 

 自信を持って、そう言い切った。

 我が事ながら、なんて恐れ多いことだと思う。

 けれども、微塵も後悔はしていなかった。

 

 私は、よく感情が顔に出る方だと言われる。

 見れば分かると言われると、自分が単純な人間な気がして複雑だった。

 けど、こうして思い返してみれば、それも当然だったのかもしれない。

 お母さまが分かりやすく感情を示してくれていた様に、私もそうなっていたのだから。

 あえて違いを上げるとするならば、お母さまはスイッチをオン・オフできて、私にはそれがまだ難しいという点くらいだけれど。

 

 お兄様は、私をじっと見つめておられた。

 眼か、表情か、それとも髪か。

 何かしらを観察されていて、そんなお兄様を私は眺めている。

 お美しい顔は芸術品のようで、きっと眺めようと思えば何時までも見ていられる。

 お互いが無言で、そんな時間が過ぎていって。

 

「…………奴には、見せていない表情だ」

 

 ポツリと漏らされたお兄様の言葉は、誰のことだか分からなかった。

 奴と形容するからには、お兄様以外の誰か。

 お母さまはお屋敷に住み込みで暮らしていて、常に私と居てくださった。

 別の言い方をするなら、閉じた世界で暮らしていた。

 だったら、自然と関わり合いになる人の数も少なくなる。

 ならば、とそこまで考えて、一人の人物のお顔が浮かんできた。

 

「旦那、様?」

 

 声に出して言ってみたそれは、何とも言えない響きであった。

 何故なら、その、お母さまと旦那様がいらしたから、私は生まれた訳で。

 お母さまが旦那様を愛しておられたか、それは難しいところだけれども。

 改めてそれを突きつけられると、曖昧に笑って誤魔化すしかなくなる。

 けれども、旦那様に対して何かしらの情は持っておられたはずなのだ。

 でなければ、他者の家庭に踏み入ってまで、そういう関係になられる方ではなかったのだから。

 

「そうだ、奴はお前の母を慰み者にし、される側も虚弱故に寄生する対象と見定めそれを受け入れた」

 

 お兄様の言い方は、酷く意地の悪い言い方で二人の関係を言い表した。

 しかし、一面では間違いではない。

 お母さまと旦那様は、そういう絆で結ばれていたのは確かだ。

 幼い頃は理解しきれていなかったけど、周りの人達が陰口を叩いていたのはそういう一面があったから。

 

「故に、雌犬。

 卑しく飼い主に寄生するしか生きていけない、愛玩の徒。

 生き方だけでも、侮蔑に値すると言える」

 

 じっと、お兄様の言葉に耳を傾ける。

 それは、舌鋒の鋭さに比して、お兄様のお声が小さく、寂しげだったから。

 

「間違いなく魔性ではあった。

 失望し、堕落しきっていたとは言え、あの男が、大蔵家の総裁候補に上がった奴が懐に入れた。

 無能ではあったが、厳格さを纏っていたアレがだ」

 

 お兄様の言うお母さまと、私の知るお母さまが重ならない。

 お母さまに、その様な生き方ができるとは思えないから。

 それ故に、お母さまと旦那さまは運命的なものがあったのだと思う。

 それとも、何か誰かに話せない秘密を共有する仲になったのか。

 二人だけの秘密を作ってしまったからこそ、離れられなくなったのか。

 全部、他愛のない妄想で、答えなんて旦那様を訪ねないと分からないのだけれど。

 

「だからこそ、愚かなる母はあれ程の嫌悪を催した。

 仮にも夫、その人物像は知り尽くしている。

 それがより腑抜けて、取り返しがつかなくなった。

 他者に己の所有物を取り上げられる、さぞ恐怖と憎悪を感じたことだろう。

 与えられる人生で、奪われる立場になったことなどあの時まで無かったのだから」

 

 きっと、お母さまにも事情があった。

 けれど、だからといって不義が許されるわけでもない。

 誰だって、結婚相手が密通することなど考えたくもないのだから。

 奥様の怒りは正当で、お母さまは恨まれても仕方なくて、私は奥様にとって許されない象徴でもある。

 そのことを思えば、生きていられるだけでも温情なのだろう。

 

「だが、愚かなる母は誤謬を犯した。

 奪われる屈辱を知りながら、奪うことを躊躇いもしない。

 覚悟も、努力も、実力も無いままに、己が権能を感情のままに振り回す!!

 いずれ、奪われた者の刃に切り裂かれるなど、想像すらしていないだろう」

 

 お兄様のお顔が歪む。

 怒りを堪え、まだご自分の内に秘されたものを押し込める様に。

 その圧に、私は言葉を失いそうになって。

 

「ですが、お兄様」

 

 お兄様の仰ることに、私が口を出す権利などありはしない。

 でも、思ったのだ。

 奥様に奪われた、とお兄様は口にされた。

 その奪われたと感じたモノの中に、僅かにでも私がいれば。

 そのことで、怒ってくださっているのだとしたら。

 伝えたいことが、私の中にあった。

 

「家族は愛して、愛されて然るべきものです。

 奥様はお兄様を愛しておられて、だからこそ腕の中にいて欲しい。

 毅然としている奥様の、不器用な愛情表現なのでしょう。

 疎ましく感じられても、お兄様を想ってのことでしょう」

 

 だから、分かりあうために、と続けようとして。

 お兄様の表情が、あまりに冷たいことに気がついた。

 まるで、無関心な他人に向けるような視線。

 

 思わず、お兄様から一歩遠ざかる。

 失望は何度もされて来たが、お兄様は見捨てずにいてくださった。

 それはきっと、無能な妹に対する慈悲があった。

 けど今のお兄様は、私を他人に縋られた様な疎ましさを感じていらっしゃる。

 私が感じていた家族というものは、全てまやかしに過ぎないとでも示す様に。

 

「おにい、さま?」

 

 恐々と、家族である確認を取ろうとする呼び方をして。

 お兄様の顔色を伺い、何か嫌な予感が止まらなくて。

 

「――家族、血縁、それにどんな意味があろうものか」

 

 お兄様は、私が夢を見ているものを吐き捨てた。

 価値観が違う、共有できない概念として。

 

「大蔵家、その家の住人は俺よりも劣った連中だった。

 陰謀を弄び、他者を陥れ、己が身を破滅させる。

 身の程を弁えない愚図共と、老いぼれた麒麟が中身を腐らせていく。

 何ら生産性のない、愚かなる一族共」

 

 私は家族に対して、素敵で羨ましいものだと憧れていた。

 私を育んで下さったお母さま、賢くて愛らしいりそな、いつだって尊敬できるお兄様、穏やかに見守り続けて下さった駿我さん。

 これだけ素敵な巡り合わせがあって、だからこそ求めずにはいられなかった。

 幸せな形が、確かにそこにあったから。

 

 けれど、お兄様にとってはそうではない。

 それが、酷く残念で仕方なかった。

 

「だが、奴らは醜く欲望は滾らせている。

 求め、強欲に自分のものにしようとする。

 その底なしの傲慢さは、敬意を表しても良い」

 

 お兄様の口角が上がり、けれどもその目は私を睨めつけていた。

 狩りに出る猛禽類、捕食者の如き威容で。

 

「最も恥ずべき者、それは流されるままに生き、唯々諾々と他者に阿り、困難からは逃げ、何者に対しても戦わぬ者!

 そこまで怠惰な者は、最早人と呼ぶのも烏滸がましい!!

 ――家畜、そう呼び習わされて然るべき存在。

 そうだろう? 愚かなる……いいや、雌犬の子よ」

 

 体が震えた、心が凍った、背中には冷たいものが走っている。

 間違いなく、今の言葉は私に向けての言葉だったから。

 お兄様は私を、私の存在を許せないと、そう仰られた。

 朗らかな話し合いになるとは思っていなかった、険悪になるのも想像していた。

 けれども、実際に目の前に結果があると、頭が白くなりそうになる。

 

 ――でも、私はお兄様を見上げた。

 

 私を嘲弄されている、見下している眼。

 常に魂を燃やしながら生きておられる衣遠兄様にとって、惰弱な私の生き方は癪に障られることでしょう。

 だからこそ、ずっと昔のままではないとお兄様に伝えたかった。

 

 お兄様やりそなと、また一緒に暮らしたい。

 ずっと夢見ていたことで、これが私の欲望だと、それを示す必要があるのだ。

 それが、何よりの成長の証だから。

 

「私だって人間です、それなりの欲があります」

 

 そっと、手を伸ばす。

 人並みの体温、けれども少し冷たく感じるお兄様の手。

 恐れ多くて、かつてはこんなことができなかった。

 いや、今だってそうだ。

 多分、私は照れより緊張でドキドキしている。

 

「何?」

 

 困惑したお兄様の声。

 意味が分からないと、戸惑っておられる呟き。

 だから、私の想いを伝えよう。

 お兄様の心に、届くように。

 

「私には夢があります。

 それは家族で食卓を囲み、共に笑いあうことです。

 あの時に……お兄様に拾われてからの時間に、私の幸せはありました」

 

 笑顔に満ちて、研鑽に溢れ、育まれていたと感じる過去。

 胸の内から、幸せだったと思える思い出。

 お母さまが儚くなり、心が谷底にあった時に救われたあの時。

 兄だと言って下さった時に、私は確かに救われていたのです。

 

「お兄様が与えて下さって、りそなが実感させてくれたもの。

 与えていただいた分だけ、お兄様にも届けたい。

 ――お兄様を、愛しておりますから」

 

 臆面もなく、むしろ胸を張って。

 恥じらいなく言い切れたのは、その気持ちに偽りがないから。

 でも、心はまるで、縫ったものをお兄様に見てもらうくらいにソワソワしていて。

 伝えられるだけを伝えて、私はじっとお兄様の反応を伺っていた。

 

「…………愛、などと。

 ありもしない幻覚で物事を語るなど、恥を知れ愚かなる妹よ。

 この大蔵衣遠をまやかそうなどと、笑止!」

 

 握った手を振りほどかれ、お兄様は表情を歪ませていた。

 少し手を見つめ、忌々しそうに私を睨まれた。

 

「そうやって、貴様の母はあの男に取り入ったのだろう。

 だが、それはあの男が堕落し、蒙昧と化していた故のこと。

 俺に同じ手が通用するなどと思わないことだ」

 

 お兄様の怒りに、私は何とか微笑んだ。

 何となく予想はついていて、そういった感情よりも合理性を重んじられる方だから。

 けれども、私の言葉が今はお兄様の胸に届けられないことは、やはり残念に思えて仕方なかった。

 

 でも、必ずしもお兄様に愛される必要はないのかもしれない。

 本当はそうあって欲しいけれど、両思いなんて世の中にそうあることではないのだから。

 ただ、私がお兄様を敬愛し、尊敬しているのは間違うことのないこと。

 その一点は、確信を持って胸にしまっておける事柄なのだ。

 

「構いません、お兄様はお兄様ですから」

 

 この言葉を発した時、私は微笑めていただろうか。

 キチンと、強がれていたのか。

 自信がなくて、その難しさを実感する。

 

「その笑み……ふん、負け犬特有のモノだということか」

 

 だけど、私の強がりは一応の効果があったようで。

 お兄様は怒りが複雑そうなお顔に覆われて、それを隠すように無表情へと変遷していった。

 

 私の笑みに、お兄様が何を感じられたかは分からない。

 ただ、酷く触れがたいモノがあるのかもしれない。

 ここではないどこかに、想いを馳せられていたように見えた。

 

 

 

「それではお兄様。

 何時までも会話を交わし、どこまでも語り合いたくはありますが……その前にお願いごとがあります」

 

 きっと、これ以上はお兄様の心に触れさせてもらえない。

 だから、本来の目的に立ち返る。

 妹としてではなくて、メリルさんの友人として。

 

 そもそも、再会の喜びに浸るよりも、最初に尋ねるべきことだった。

 出来なかったのは、目の前にお兄様が居るという事実で視界が塗りつぶされていたから。

 それに加えて、もしかしたらという思いも捨てきれていなかったからだ。

 

 笑いながらメリルさんが出てきて、心配掛けてごめんなさいと言ってくださるのを。

 お兄様が、メリルさんと親しげに話しているのを。

 けど、現実はそうではなくて、メリルさんは一向に現れる気配がない。

 

 私は口を震わせながら、何とか本来の目的を尋ねた。

 何か、ボタンを掛け違えてしまった気がしながら。

 

「メリルさんをお返しください。

 私だけでなく、彼女の友人達も酷く心配しています。

 どうか、お兄様……私はお兄様の物であっても、メリルさんはメリルさん自身のものなのです」

 

 私の哀願は、お兄様の苦笑を誘っただけだった。

 まるで、愚かな道理を語るものを見たかのように。

 

「――奴は、既にパリに居ない」

 

「………………え?」

 

 言葉が、よく理解できなかった。

 だって、それは約束なんて最初から守る気がなかったと言わんばかりの対応だったから。

 

「どう、して?」

 

「貴様が来る前に、駿我に嗅ぎつけられた。

 奴は俺との話し合いなど、最早不可能だと理解していたのだろう。

 故に、小娘は外に出した。

 交渉以前に、既に決裂が決まっていたことだ」

 

 ラグランジェ伯に頂いたメモのことを思い出す。

 あれには、駿我さんが今はパリに居ないと書いてあって、つまりは何かしらの事情が生じていたということ。

 それがメリルさんの事ならば納得がいく、のだけれど。

 

「お兄様、メリルさんは一体……何者なのでしょうか?」

 

 もしメリルさんが、単なる私の友人であっただけならば、駿我さんは警察などの機構を頼りにしていただろう。

 お兄様も、私のことだけでメリルさんを利用したといった感じではなく、彼女自身に何かしらの意味を生じている様にも感じる。

 メリルさん自身が重要人物のように。

 

「それは、貴様の預かり知ることではない」

 

 分からない、判明したこと以上に分からないことが増えていく。

 ただ、私は空回りして、メリルさんの行方はまた分からなくなった。

 メリルさんや皆さんに申し訳なく、だからこそこのまま引き下がることもできなくなっていた。

 

「せめて、何かしらの連絡を取りたいのです。

 私はどうなっても良いので、どうか皆さんにメリルさんのことを……」

 

「愚かなる妹よ。

 貴様の言い分など、端から聞き入れられることなどない。

 要求とは、相応の条件を提示できる者にのみ与えられる権利。

 お前如きは、俺の所有物に過ぎず、黙して従う木偶でいればいい。

 何も期待していない、する能が無いのだから」

 

 お兄様に腕を掴まれて、私は自らの浅慮を恥じ入った。

 結局、私はずっと無力なことに変わりはなかったのだと。

 心持ちが変わっても、それは立場が変わることを意味しない。

 なのに、こうも奔放に振る舞ってしまった。

 心配してくれていたリリアさん達に、ごめんなさいと言いたくなった、その時のことだった。

 

 お兄様の眉が揺れた。

 廊下側から、何やら声と足音が聞こえてくる。

 一人はラグランジェ伯で、もう一人は……。

 

「待て、早まるでない、ようやく全てが治まる時局に!

 このお転婆娘が、ジッとしていろ!!」

 

「お父様だって、品なく立ち聞きしていた癖に、偉そうなことを仰らないで!

 何が貴族ですか、匹夫の如き立ち振舞で!」

 

「親になんてことを言うんだ!」

 

「家から追い出したのに、親の振りをなさらないでください!!」

 

 聞き覚えのある、ありすぎる声。

 思わず、唄う様にその名を呟いてしまうくらいに。

 

「リリア、さん」

 

「馬鹿が乗り込んできたかっ」

 

 私の呟きに、お兄様は鬱陶しそうに吐き捨てて。

 何か行動に移る前に、部屋の扉が勢い良く開かれた。

 

「止まりなさい、下衆!

 汚らわしい手で、アサヒさんに触れないでください!!」

 

 赤く、ルビーの煌めきを纏った髪。

 それが赫怒の証に見えたのは、リリアさんの眼が見開かれて、お兄様を視線で縫い付けようとしているみたいだったから。

 廊下では、青い顔をした華花さんがラグランジェ伯に組み付いていた。

 やっべ、クビ確定だわという華花さんの声が、緊張感広がるこの場によく響いていた。





エッテとト兄様は、使用人相手に立ち回ってくれております。


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第44話 あの日の影絵

「リリアさん!」

 

「アサヒさん、その人は貴方の味方ではありません!

 こっちに来てくださいまし!」

 

 リリアさんは勢い良くそう言うと、ツカツカとこちらに歩み寄ってきて。

 お兄様に掴まれている反対の手を、とても強い力で繋いできた。

 そのまま、お兄様に鋭い視線を向けて、切り裂かんばかりの気配を漂わせる。

 

「ラグランジェ家の汚れた娘か。

 よく恥ずかしげもなく、人前を歩けるものだ」

 

「賊が何かを仰っているようですが、フランス語で話さないで下さいます?

 貴方程度に口にされると、音が汚れてしまいます」

 

「お前如きが使っているのならば、それ相応の言語なのだろうよ。

 だが、望むのであれば日本語で話してやろうか?

 少しは学んだのだろう、あの婚約が推し進められていた時に」

 

「っ、良くもおめおめと、我が家に踏み入れたものです!」

 

 唯でさえボルテージが高かったリリアさんが、更にお顔を赤くされて激昂する。

 とても嫌なことを指摘されたみたいに。

 

 日本語を学んでいた……それだけ本気だったということだ。

 お兄様との婚約を、リリアさんは受け入れようとしていた。

 けれども、事件が起こり婚約は無くなった。

 プライドの高いリリアさんは、それにどれだけ傷つけられただろう。

 リリアさんの有色人種嫌いは、この件も一因にあるのだと思う。

 

「追い出された娘が、請われもせぬ内に足を踏み入れる。

 その行為は、俺よりも遥かに無様だがな。

 誇りはやはり穢れ、あの時に犬にでも作り替えられたか。

 ならば、この無礼も理解しよう。

 犬なれば、帰巣本能と呼べる範疇の行動なのだから」

 

「巫山戯ないで!

 私たちはアサヒさんを、貴方の魔の手から助けに来ただけです!

 こんな家、用事が済めば即刻出て行きますわ!」

 

「クク、クハハ!

 この雌犬の子は、女すらも誑かしたか!

 げに恐るべきは大蔵よりも、この雌犬の遺伝子なるやもしれんな」

 

「――何がアサヒさんのお兄様、ですか!

 可憐で優しくて愛らしいアサヒさんを、雌犬呼ばわりなどと!

 アサヒさん、目を覚ましてくださいまし。

 これは貴方を、家族なんて思ってなどいません。

 このままでは、連れ去られて性奴隷にされてしまいます!」

 

「下劣な女は、直ぐに下品な発想に辿り着く。

 それに、そのような価値はない。

 恥を知れ、屑め」

 

「あなたに礼節を説かれたくありません。

 己の罪深さこそを恥いるべきです」

 

 お互いに一歩も譲ろうとしない。

 私を掴む力も、段々と強くなってきている。

 ふと、大岡政談の中にあった子裁きという話を思い出す。

 ……ご勘弁、いただけるのでしょうか。

 

「アサヒさんを離してくださりません?」

 

「貴様こそ、人の所有物から手を引け。

 雌犬の系譜、媚態の権化、貴様の手にこそ余る」

 

「その様な言葉、やはりアサヒさんに気があるから出てくるのでしょう?

 なのに並べる言葉は、雌犬だのこれだの、最悪な口説き文句ばかり。

 論外です、好きとも言えない軟弱な方にアサヒさんは渡せません!」

 

「己の感情を他人に押し付けるな、汚れたラグランジェの娘。

 これを物扱い出来ているのは、俺が正常が故だ。

 情欲を催し、眼前が曇っている貴様に論ぜられることなど何もない」

 

 言葉はもう必要ないと言わんばかりに、お兄様は腕への力を強めて。

 対抗するようにリリアさんも、反対側へ引っ張り始めて。

 

「……お兄様、私はお兄様の所有物であることを認めます」

 

「アサヒさん!? 一体何を仰っているの!」

 

 いよいよとなった段階で、私は思っていたことを口にする。

 リリアさんが目を見開き、驚いた、ううん、傷付いた顔をする。

 お優しい方で、友人としてとても大切にされていたから、この言葉がリリアさんを裏切るような言葉であることは百も承知だった。

 けれども、と私は続けた。

 きっと、この言葉がお兄様の癪に障ることを承知の上で。

 それが、この場を打開する言葉になればという気持ちを載せて。

 

「けれども、メリルさんはお兄様個人のモノではなく、一個人としての立場があります。

 私の友人で、皆さんの友人で、それだけでなくこのパリに迎えられて祝福される才能もあります。

 お兄様は、ご自身の何らかの目的の為に、服飾における一つの才能を摘み取ろうとしておられるのです」

 

「――何?」

 

「お兄様は才能ある人の未来よりも、私のことを求めてくださっているのですか?」

 

 正面からの言葉は、お兄様には通用しない。

 なので、論点のすり替えを行う。

 姑息だけれど、お兄様の信念を盾にして、その正当性に疑問符を投げる。

 ……お兄様相手とはいえ、約束を反故にされて不満は確かにあったから。

 特に、お兄様の様に立派な方には、そういったことをして欲しくなかったので。

 

 初めて、自分の意志でお兄様に楯突いてしまっていた。

 

「貴様に、才能の真贋を見抜ける様な眼力はない」

 

「確かに、私自身には才能がありません。

 ですが、凡人だからこそ、持っている人への憧れはあるのです。

 お兄様に対してそうだったように、メリルさんに対しても光り輝くモノを見ました」

 

 私の言葉に、お兄様は手の緩められて。

 その隙に、リリアさんは力いっぱいに私を引っ張り、お兄様から私を引き剥がした。

 リリアさんと二人揃って、勢い良く尻餅をつく。

 お兄様は胡乱ともいえる目で、私を見ていて。

 

「アサヒさん」

 

 お兄様への視線を遮るように、リリアさんが私を背にお兄様の前へと立っていた。

 リリアさんはお兄様と相対し、けれども私に語りかける。

 怒ったように、困ったように。

 

「二度と、あの様なことは言わないで下さい。

 道具と友となった覚えなど、私にはありません」

 

「……申し訳、ありません」

 

 私の不徳を、優しさを持って咎められた。

 どんな考えがあったとしても、尊厳を捨て去るような物言いは自分以外も傷付ける。

 素直に口にできた謝罪に、リリアさんは頷かれて。

 

「許します、ですのでアサヒさんは今からこの屋敷を脱出して下さい」

 

「え?」

 

 その唐突ぶりに、即座に反応できるだけの神経を、私は持ち合わせていなかった。

 頭が理解に追いつかないまま、言葉だけが零れ出ていく。

 

「だって、お兄様が目の前に……リリアさんも、一緒に」

 

 取りとめない、羅列しても繋がりがない言葉。

 どうしようの一語で全て片付けるには無責任で、だけれど即断即決できるだけの器量もない。

 状況的には、ここにメリルさんは居なくて、お兄様は私の身柄を拘束しようとしている。

 だから、リリアさんの言葉が正しいことは理屈では理解できる。

 

 ――でも、ここで逃げるのは、お兄様に対する裏切りではないか?

 

 雑念が、足元を掬いに来る。

 きっと、それは罪悪感。

 一度、私は既にそれをしてしまっていたから。

 

「アサヒさん、何をしているのですか!」

 

 急かすリリアさんのお声が、耳を通り過ぎていく。

 私はお兄様に向けて、わやくちゃになっている頭から何とか言葉を引っ張り出す。

 一つだけ、これだけは大切なことだと心に留め置いて。

 

「お兄様、メリルさんは……帰ってこられますか?」

 

 それは、既にお兄様から知る必要はないと切り捨てられた問い。

 お兄様は不快に思われるだろうし、実際に無意味な問いではある。

 それでも、私が決断を下すのに、お兄様の言葉が欲しかったから出た問いで。

 

「チッ、貴様がここから逃げ出せば、二度と小娘はこのパリに戻ってくることもなくなる。

 飼い殺しにし、才能があると評した服飾にも近付けさせない。

 分かるか、愚かなる妹よ。

 お前の判断で、貴様が見出したと思い込んでいる才能が消え失せることになる」

 

 ただ、お兄様の返事はあまりにも苛烈だった。

 それこそ、私が思考を放棄して、流されても仕方ないと思えてしまうくらいに。

 全部他人のせいにしてしまえる、そんなレベルのもので。

 

「卑劣極まりましたわね!

 下劣を通り越して醜悪ですらあります、アサヒさんは下衆の言うことを真に受けないで下さい!

 どちらにしろ、既にメリルさんを返す気なんてないのです。

 約束を破ったものは、一度やったことに戸惑うことなんてありません」

 

 私は自分の意志以外で、他者の言葉の重さで行動を決めてしまおうとしていた。

 自分では判断できない、その無形さこそをお兄様が憎んでらっしゃると知っておきながら。

 あまりにも自分の手には余るなんて、お兄様とリリアさんの二人に対して不誠実な言い訳を捻り出して。

 

「私――」

 

「無責任な肘打ち!」

 

「………………何だこの女は」

 

 返答をしようとしたその時、突如として華花さんがお兄様に襲いかかった。

 肘を武器にし、勢い良くそのまま突っ込んで。

 あ、と声を出すまもなく、グサリとその肘をお兄様の背中に刺さった。

 眉をピクリと揺らして、お兄様は華花さんへと視線を落とす。

 

 しなやかに鍛えられたお兄様の肉体に、華花さんの攻撃はあまり効いている様には見えなかった。

 ただ、確実に意識は華花さんへと向けられていて。

 

「あーあ、やっちゃった」

 

「……華花さん?」

 

 無表情でリリアさんの横に並んで、お兄様と相対する華花さん。

 それは仕事だから仕方なくといった振る舞いで、けれどもそれはありえないと理解できる。

 ラグランジェ伯に組み付いた時で既に雇用主に歯向かっていて、お兄様相手に乱暴をしたことで既にこの家に華花さんの居場所は無くなってしまっている。

 けれども、こうしてくれているのは……。

 

「貴女のせいです、大蔵さん」

 

 淡々と、機械的に告げられた言葉は、私に対してのもの。

 

「もうクビになってしまうことが、これで決まりましたね。

 家族への仕送りが出来なくて、私自身も生活は危うくなるでしょう。

 全部、ぜ~んぶお前のせい」

 

「ご――」

 

「だから、ここであっさり捕まられると、私がひたすらに馬鹿を見ただけになる」

 

 めんなさい、と続くはずの言葉が、華花さんによって断ち切られる。

 彼女は、私を糾弾している訳ではなくて。

 

「責任取って雇用先を用意できないなら、とっととどっか行っちゃってください。

 罪悪感を押し売りに来た立場で言うことじゃないけど、それすら出来ないならガバガバビッチ雌奴隷と呼びます」

 

 明らかに、それは私に対しての助け舟で、思いやりだった。

 意志薄弱な私を思って、華花さんは崖から身を投げてくださった。

 理解した途端、動悸が早くなって、体が震えそうになった。

 言われた通り、私には責任なんて取りようがないから。

 

「華花、貴方の友情に感謝を。

 そして、アサヒさん。

 逃げて下さい、これはお願いではなくて……華花の主としての命令です」

 

 そのリリアさんの言葉で、遂に私はお兄様から背を向けてしまった。

 未練と申し訳無さに追いつかれないように、走り出す。

 今回は、お兄様に待てと声を掛けられることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走って、走って、走って。

 脳内に酸素が足りなくて、少しボンヤリする。

 夕日はゆっくりと沈みつつあって、まるでボヤケた頭で思い出したのは、あの日のこと。

 宛もなく彷徨っていた、家族と別れた日。

 着の身着のまま、今回も頼るべき寄る辺はない。

 いや、きっとエッテさんは助けてくれると思うけれど、それには信じられない程のご迷惑が掛かるから。

 だから誰にも頼る訳にはいかず、パリの複雑な街並みを放浪する。

 あの日との違いは、私を探しているお兄様達の部下の方が何人もいらっしゃることだ。

 

 コソコソと隠れながら、必死になって息を整えて。

 何とか、ボロボロの思考で考える。

 これからどうするか、何とかなるのかを。

 でなければ、華花さんのことを考えて、その場で蹲ってしまいそうだから。

 

 公共交通機関には、きっとお兄様の追手が待ち構えている。

 なので、不用意に近付けばその場で捕まってしまう。

 かと言って、メゾンド・パピオンも張られている筈だから、戻る訳にはいかない。

 

 では、他に頼っても良い人は居るのか?

 少し考えてみて、私はどうしようもないと頭を振った。

 駿我さんはパリから出ており、今回は助けてもらうことはできない。

 アンソニーさんなら、何とか頑張ってくれるとは思うけれど、ラグランジェ邸を脱出したあとから携帯に着信できなくなってしまっている。

 リリアさんやエッテさんからも着信はないから、恐らくはお兄様に捕まってしまって、携帯を取り上げられてしまったのだと思う。

 

 良い考えが浮かばない、どうしようもないことが多すぎる。

 何とかしなければならないのに、どうしたって何も思いつけない。

 ……それでも、私はまだ諦めらめてはいけない。

 

 不甲斐ない私を、みんながどうにか逃してくれた。

 私の我儘でお兄様とお話して、そのせいで華花さんを追い詰めてしまった。

 どうしようもなく、私が皆さんの足を引っ張っている。

 

 だからこそ、ギリギリでも意地を張り続けないといけない。

 無力で無能な私だけれど、思い遣りに不義理で返すようになりたくない。

 誰が相手でもそうあるべきだけれど……助けに来てくれたみんなは、パリで出会えた暖かさだから。

 

 みんなが私を逃してくれたのは、私とまた会いたいと思ってくれていたから。

 友達として認めてくれていて、またねと言える間柄で居ようとしてくれている。

 それを、私が簡単に裏切りたくない……ううん、私もそうありたいと思っている。

 

 メリルさん……ごめんなさい。

 今は自分のことで精一杯ですけれど、何とか切り抜けられたら探しに行きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が暮れて、人が減って、私は木陰を歩き渡る。

 ぼぉっとする。意識は朦朧として、まるで夢の中を歩いているみたい。

 休めていなかった疲れが、今になって現れ始めている。

 みんなに心配させて、挙げ句にこの体たらくなのが本当に申し訳がない。

 

 そう言えば、とふとした意識の空白で思い出す。

 最近は心が温かくて、落ち着いていて、あまりお月様に祈りを捧げていなかったことを。

 空にはお月様が、今も昔も変わらずにあるというのに。

 

 お月様、お母さま、メリルさん、私は……。

 何かに縋りたくて、心に浮かんだよすがに思いを馳せようとした、そんな時のこと。

 ブルブルと、何かがポケットで震えて。

 緩慢な動作で取り出したそれは、メリルさんが持っててと書き置いていったアドレスの空っぽな携帯。

 まさか、という気持ちで、蜘蛛の糸を掴むように私は携帯を耳に当てた。

 

『あー、もしもし。

 君はメリル・リンチか』

 

 聞こえてきたのは、同年代くらいの女の子の声。

 話している言語は日本語で、もしメリルさんが携帯を手にしていたら何を言っているのか分からなかっただろう。

 期待があったのか、僅かな落胆を元に返事をする。

 

「すみません、私は大蔵朝日と言います。

 携帯の持ち主であるメリルさんは、現在は遠くにいらしていて……」

 

『あぁ、そっちか。

 分かった、逼迫しているのは本当らしいな』

 

 とても落ち着いている、聞いていると安心してきそうな声。

 メリルさんでなかったことを残念がっていた癖に、電話から聞こえてくる声に安心感を私は抱いていた。

 初めて聞いたはずなのに、何だかピタリと嵌る様な感覚。

 不思議な、第六感的なものを何故か感じていた。

 

『一応聞くが、大変な状況で困っているな?』

 

「は、はい」

 

『分かった、なら私の言うことに従ってほしい。

 嫌なら仕方ないが――』

 

「分かりました」

 

『まだ喋ってる途中だぞ。

 いや、それだけ必死なのか。

 それなら仕方ない、今どこにいる?』

 

「パリのブローニュの森に隠れています」

 

『ちょっと待って、地図で……ここだな。

 分かった、どの地点だ?』

 

「テニス競技場が、比較的近くにあります」

 

『なら、今から15分後に黒のベンツがそっちに向かう。

 それが停まったら、迷いなく駆け込め』

 

「分かりました」

 

『物分りが良くて助かるが、あっさり信じ過ぎじゃないか?』

 

「何ででしょう、特に理由もなく貴方が信じられる人な気がしているんです。

 ……もしかして、お月様でしょうか?」

 

『なんだ、りそなから私のことを聞いていたのか?』

 

「り、そな?

 どうして、りそなの名前が?」

 

『知らずに口にしていたのか、偶然にしても怖いな』

 

 何だか引いたような口調で、彼女は困惑をそのまま口にしていた。

 私も、何を言っているのだろうと赤くなってしまう。

 人に向かって、急にお月様なんて言い出してしまうなんて。

 直後に思い浮かべていたものだとしても、支離滅裂すぎてビックリされて当然だ。

 

「ご、ごめんなさい」

 

『いや、素直か。

 君、ちょっと電波だが面白いな』

 

 クツクツと笑う声が、何だか愛らしい。

 それに、私も綻んで笑ってしまった。

 あれ程感じていた不安は、今は距離を取ってくれていた。

 

 

 

「時間です、ありがとうございました」

 

『あぁ、頑張れ』

 

「はい、ところで聞きそびれてしまっていたのですが、お名前は?」

 

『あった時にでも、直接名乗ることにするよ』

 

「分かりました、ご縁がありましたら。

 ありがとうございます、お優しいお月様」

 

『……やっぱり知ってるんじゃないのか?』

 

 訝しむ彼女の声を最後に携帯は切れ、私は指定の車まで駆け寄った。

 

「すみません、大倉朝日と言います。

 こちらの車に――」

 

 話している最中に後部座席の扉が開き、そのまま車内へと引っ張り込まれた。

 これがお兄様の部下の人たちだったならば、間違いなくお手上げの状態になる。

 だけど、車内に居たのはお兄様の部下の人でも、知らない人でもなくて。

 目の前の顔はかつてよりも成長していて、けれども私が間違える筈のない大好きな家族の顔。

 

「り、そな?」

 

「姉、見ない内に美少女ぶりが上がりましたね」

 

 私の顔をマジマジ見つめて、そっと抱きしめられた。

 知っている感触、心も、体もこの子を覚えている。

 

「りそなは、相変わらずお姫様だね」

 

「この妹をお姫様扱いしてくれるのは、姉だけですよ」

 

 まるで日常の続きのように、何気ない会話を再会した私達は行っていた。



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第45話 ですわ!

 

 鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 チュンチュン、と囁きあうように。

 牧歌的で、落ち着く優しい目覚め。

 

「ここは……」

 

 そうして、ゆっくり私は目を開けて。

 ある部屋の一室のベッドで寝ていたことに、今更ながら気がついた。

 私の記憶があるのは、車に乗せられて、りそながそこにいて、沢山お話をしようとしたこと。

 でも、何かを話す前に、意識は途切れてしまっていたみたい。

 一息つけて、りそながすぐ近くにいて、張り詰めていたモノが切れてしまったのかもしれない。

 

 周りに誰かいないか見回すけど、部屋には私一人だけ。

 部屋の調度品は質が良く広々としたお部屋、お屋敷の一室なのだろう。

 机の上に置いてあるベルを鳴らせば、きっと誰かが来てくれる筈。

 

 でも、私が鳴らして良いものなのか。

 りそなが居たということは、ここは大蔵の別邸である可能性が高い。

 それなのに、私が私用で大蔵家の使用人の方に頼るのは……。

 なんて考え事をしていた時のこと、ドアノブが回されて一人の少女が入室してきた。

 体を起こしている私を見て、あら? と声を上げる。

 

「起きていらしたのですわね」

 

 ブロンドの、緩くウェーブが掛かった髪をツインテールに結んでいる。

 サファイアの様に青い瞳と合わさって、まるで天使様の様にも見える。

 ……それ以前に、この人がいま口にしたのは日本語だった。

 欧州人で、それも一目でその高貴さを見抜ける人が日本語を口にした。

 そのことに混乱しながら、私はフランス語で返事をする。

 

「こ、この様な格好で、大変失礼致しました。

 ご無礼をお許しください」

 

「あら、貴方もこっちの言葉が話せるのですわね。

 そうとは知らず、失礼あそばせ。

 ですが、私も日本語の訓練中でして。

 是非、日本語で話し掛けてくれたら、嬉しくて失禁してしまいそうですわ」

 

 何かが、何かがおかしかった。

 具体的には、異界の言語にも聞こえてくる日本語。

 イントネーションは完璧なのに、日本語と認識できない不可思議さ。

 挨拶を優先しないといけないのに、私は反射的に疑問の方を先立たせてしまっていた。

 

「し、失禁……あの、こちらの言葉の意味はご存知でしょうか?」

 

「? えぇ、お金を失うの意なのでしょう?

 転じて、お金を払いたくなる程に、という大仰な表現だと友人に教わりました」

 

 ……りそな?

 ふと、小悪魔な羽の生えた妹が脳裏に現れて、ダブルピースをする。

 けど、直ぐにそのりそなは、普段のりそなのグーパンによって沈んでいった。

 妹が他人に、そんな事出来るわけ無いでしょう! と激怒している。

 

 確かに、その通りだ。

 ごめんりそな、変に疑って。

 そんな脳内の小芝居を他所に、私は酷く困りながら失禁について解説していた。

 

「その、失禁とは、思わず排泄してしまった時に使う言葉でして……」

 

「なんですった!?」

 

「恐らく、ご友人にからかわれたのでは?」

 

 推測を口にすると、何か思い当たる節があったのか、彼女は顔を真っ赤にして地団駄を踏みだす。

 けれど、それでも自分に課しているのか、日本語だけは崩さずに。

 

「ムッキー!! ルナ、またやってくれましたわね!

 私が言葉を知らないのを良いことに、有ることないこと好き放題に!

 これではまるで、私が嬉しくなるとお漏らしする女ではないですか!」

 

 妖精の様な見た目から繰り出される、あまりにもユニークな日本語。

 本人は至って真面目な様なので、どう声を掛ければ良いのかが非常に難しい。

 そうして彼女は、呆然とその様子を眺めていた私に目をやる。

 人を殺れそうな目をしていた。

 

「違いますですわ。私は人前でお漏らしをして感涙を表すようなふしだらな女ではないのです!」

 

「は、はい」

 

「信じてくれましたかね?」

 

「……はい」

 

 混乱を何とか収めて、私は微笑を作った。

 気にしていない、全て聞かなかったという風に。

 あと、面白い話し方に、思わず笑ってしまいそうで怖くて。

 失礼がないように、どうにか仮面を被っていた。

 

「それならよろしいですわ。

 この程度のことでは挫けないので、日本語で話し続けて下さい。

 初めまして、でよろしくてよ?」

 

「はい、お初にお目に掛かります。

 着替える間もなく、申し訳ございません。

 私は大蔵朝日と申します」

 

「これは御大層に、私はユルシュール=フルール=ジャンメール。

 歴史と伝統あるスイスのジュネーブに生まれた、一輪の花ですわ」

 

 恐らく、ご丁寧にと言ってくれようとしてくれていたのだろう。

 ……それにしても、ジャンメールの名が耳に引っ掛かった。

 確か欧州の有力貴族で、現在でも大きな力を持っている旧伯爵家。

 マンチェスターのお屋敷でも、何度か小耳に挟んだ覚えのある名前だ。

 

「あのジャンメール伯爵家の、ですか?」

 

「ええ、私はその三女として生まれましたわ」

 

 肯定された言葉に、私は目を丸くする。

 あのりそなが、どうやってジャンメール家の人とお友達になったのか。

 あまつさえ、この場で私を気遣って様子を見てくれているのか。

 状況が掴めなくて、あまりの目まぐるしさに落ち着かない。

 

「りそなとは、その……お友達で居たりするのでしょうか?」

 

「いいえ、2日前に初めて会いましたね」

 

「???」

 

 どうなっているのかを確かめようとしても、余計に分からなくなる。

 りそなのお友達でない、だとすればどうして彼女は私を気に掛けてくれているのか。

 

「因みに、この場所は?」

 

「ここはフランスにある、ジャンメール家の別荘ですわ。

 貴方が気絶している間に、ここに運び込みましたの」

 

「あ、ありがとうございます、お優しいユルシュールさん。

 貴方が居なければ、私は……」

 

 あの時、りそなとこの人が迎えに来てくれなかったら、私はどうなっていたか。

 お兄様に捕まって、リリアさんや華花さん達の思い遣りを無に帰したか。

 それとも、もしかすると誰からも見捨てられて、ストリートチルドレンになっていたかもしれない。

 もしもを想像すると、こうして柔らかなベッドの上で目覚められたのが奇跡に思える。

 

「感謝をされると、やはり気分が良いですわね。

 足に使われた時はムッとしましたが、ボロボロの貴方を見て考えを改めました。

 ここには、貴方を脅かそうとするものは、ネズミ一匹だって入れません」

 

「どうして……そこまでしてくださるのでしょうか?」

 

 不思議だった。見ず知らずの人間に対して、ここまでしてくれる訳が。

 私なんかでは、見返りを求められても返せるものもない。

 りそなとも、交友があったわけではなくて。

 それらが積み重なると、どうしてという疑問へと行き着く。

 

「友人に、貴方を助けてあげて欲しいと言われたのですわ。

 だから、落ち着きなさい。

 そんなに不安そうな顔をされると、弱い者いじめをしている気分になりますわ。

 もっと胸を張って、堂々としていなさい」

 

「ご、ごめんなさ……。

 いえ、ありがとうございます、お優しいユルシュールさん」

 

「オーホッホ、構いませんことよ。

 私がいれば鬼に金棒、地獄にダンテ、飛んで火に入る夏の虫ですわ!

 安心して、貴方がするべきことをしなさい」

 

 安心できるようで、微妙に不安になる諺だった。

 けれど、その心意気は間違いのないもので。

 私はそれに、力強く頷いて応えた。

 

 

 

 

 

 

 それから、私達はお互いの情報の擦り合せを行っていた。

 どういう状況で、何があったのかをキチンと把握するために。

 

「ユルシュールさんは大切なお友達の頼みで、私を助けてくださったのですね」

 

「えぇ、数少ない日本の友人が困っていて、君の助けを借りたいんだと。

 捻くれ者ですが、あの子が他人の為に頭を下げたのです。

 プライドの塊がそうしたのですから、私もそれ相応に振る舞いました」

 

「その方と、ユルシュールさんが命の恩人なのですね。

 本当に、感謝が尽きません」

 

「オーホッホッホッホ!

 気分が良いですわ! こんなに人に尊敬されたのは久しぶりですわ!」

 

 ユルシュールさんの事情は、アッサリと聞き終えた。

 彼女に複雑な事情はなくて、友情のままに動いただけなのだと。

 その厚い友情に、ユルシュールさんの優しさに私は助けられた。

 そして、恐らくその友人とは電話をくれたあの人なのだろうと。

 また会った時にと仰っていたから、その方の名前は聞かなかった。

 

 

「つまり貴方は妾の子で、それ故に実家では暮らさず、でも実家筋の要請には従わねばならず、従兄弟にフランスへ連れてこられたと思ったら実の兄に友達を誘拐されて、貴方自身も兄に理由不明なまま追われる身となり、誰にも頼れずに彷徨っていたと」

 

「多大な語弊はありますが、大筋で見たら合っています」

 

「貴方の主観交じりのお話から、私なりに再解釈しての認識です。

 ……ご苦労様でしたのね、朝日」

 

「いえ、多くの人が助けてくれました。

 だから、苦労と思える程のものではありません。

 あと、苦労されてきたのですねが正しいと思われます」

 

 次に私の事情を、大まかな範囲で話していた。

 現状で私は何をするべきなのか、何をできるのかを見つめるために。

 

「私にできること……何かあるのでしょうか」

 

「それは人に尋ねるものではなく、自分で決めることです。

 でも、私から言わせてみれば、貴方に必要なのは休息です。

 私には、貴方が強い人には見えない。

 儚くて、幸が薄い人に思えて仕方ありません」

 

 私の愚かな問いは、ユルシュールさんにすぐさま切り捨てられた。

 自分で決められる意志を持たないのなら、関わるべきでないと。

 自分にできることが見つからないのなら、縁がないのだと。

 

 その言葉には確かな理があり、頷けることも多い。

 実際、私は恥じいるしかなかった。

 この期に及んで、他の人にどうすれば、なんて聞いてしまったことを。

 未だに誰かに縋ろうとする、あまりの自分の弱さに。

 

 でも、と心がのたまっている。

 

「理由がわからないままなのに、大変なことになってしまいました。

 メリルさん……私の友人はパリから離れ、どこかへ行ってしまい、リリアさんの実家はお兄様に掻き乱されました。エッテさんも親友と離れてしまって、日常が唐突に断絶してしまいました。

 その渦中に私はいて、全てを解決して元通りにしたいと思っているのに、どうにもできていません」

 

 そう、責任の一端は私にもある。

 少なくとも、私とお兄様の繋がりがある部分は。

 無関係だと、巻き込まれただけなんて言葉で、私は終わらせたくない。

 そうでないと、何もかも私に関係ないことになってしまう!

 

「ささやかなことでも良いんです。

 足手纏いだということも、重々承知しています。

 ですが、関わり続けないと、誰かと繋がった絆まで無くなってしまいます。

 友達のために、家族のために、ううん、おためごかしですね。

 ――自分のために、何かがしたいんです。

 事態を収拾して、みんなが笑顔でいられるための何かを」

 

 私は無力で、どうしようもない程に愚図だ。

 その上、今は駄々っ子ですらある。

 このまま酷いことになれば、自分の心が引き裂かれてしまうから。

 そんな利己的この上ない理由で、私にも何かさせてと喚いている。

 でも、そんな言葉を吐き出して、私は微塵も恥じらいすら覚えていない。

 

 いつものように、取り繕うことすらしていない。

 何故なら、今の私は必死だから。

 焦燥感や不安が付き纏っているのもある。

 自分のせいで、なんて埒もつかない気持ちも。

 

 けれども、それよりも、またみんなで楽しく暮らしたい。

 その気持ちをリリアさん達から受け取って、私もそうありたいと願ったのだから。

 ここで何もかも放り出したら、自分の気持ちにさえ責任が取れなくなる。

 そんなの、自分で自分が許せなくなってしまう!

 

「なら、今の貴方に何ができようか?

 友人を取り戻せる? 力持つであろう兄を掣肘できる?

 貴方に、何かできるのですか?」

 

「……出来ません、だから困っています」

 

「正直なのは美徳ですわね。

 でも、だから分かりますでしょう?

 今の貴方の言葉は、我が儘以外の何物でもないと」

 

「そう、ですね。

 私にできることは、何もない。

 事実から目を背けて、己の思うと思う通りに世界が動いて欲しいと駄々を捏ねています」

 

 ユルシュールさんがこちらを見つめる目が、先ほどの友好的なものから変わっていた。

 鋭くこちらを見据える、けれども敵対的なものでもない真摯な目。

 無茶を言う私を、嗜めようとしてくれている優しさが隠せていない人の良さが溢れた目。

 

「正直は美徳だと言いましたが、明け透け過ぎるのはスケベです。

 朝日はもっと、貞淑な女性かと思っていましたが」

 

 まるで、別のことを嗜められている気がする言葉だった。

 けれども、私が品ない事をしているのは事実で。

 それに対して、私は深々と頭を下げるしかなかった。

 

「どうかご慈悲を下さい、ユルシュールさん。

 私一人では思いつかなくて、誰か……知恵者のご意見が必要なんです!」

 

「ジャポーネDO・GE・ZA!?」

 

 恥を捨てて、私はユルシュールさんに土下座をしていた。

 自分一人では解決できない問題に、他人を……それも出会ったばかりの人を巻き込もうとしている。

 許されざる所業な上、ユルシュールさんには私に手を貸す理由なんてない。

 既に一度慈悲を与えられた身で、更に求めるのは貪欲が過ぎる。

 

 でも、このままでは袋小路に終わってしまう。

 何も解決できないまま、全てが崩れ落ちてしまう。

 それを打開する方法は、私の中にはなくて。

 どうにか、他の人に共に考えてもらう他に無くって。

 偶々近くに居て、私を助けてくださったユルシュールさんに、みっともなく縋ろうとしている。

 あまりにも醜い行為に、ユルシュールさんの声が背中に掛けられた。

 

「やめなさい、朝日!

 貴方の気持ちは分かりましたから、SEPPUKUなどと早まってはいけません!」

 

「切腹はしません!」

 

「……DO・GE・ZAとSEPPUKUはセットでは?」

 

「それは過酷すぎます」

 

 思わず顔を上げると、ユルシュールさんは非常に難しそうな顔をしていた。

 絶妙にズレた日本文化感に、何やら困惑しておられるのかもしれない。

 ただ、ここに広がっている微妙な空気感は、開き直った私を正気に戻すには十分で。

 穴があったら埋まりたい気持ちの中、羞恥に耐えながら立ち上がる。

 私は顔を真っ赤にしたまま、蚊の鳴くが如き声で頭を下げた。

 

「あの……錯乱してしまい、申し訳ありませんでした」

 

「貴方の覚悟は分かりましたけれど、安売りするのは見過ごせません。

 その行為は、初めて会った男性に3万でどう? と声を掛けるのと同義です」

 

 え、そんなに!?

 

 ユルシュールさんの言葉に、顔をさらに赤くして俯いてしまう。

 私の行為が、売春と一緒なのだと言われるのは流石にショック過ぎる。

 

 そこまで、はしたなくなんてないんです!

 そんな心の叫びと共に、私はベッドに顔を埋めてしまっていた。

 ご無礼をお許し下さい、ユルシュール様。

 

「姉、起きたんで……どういう状況ですか?」

 

 そんなタイミングだった。

 目を擦りながら、りそながこの部屋に入ってきたのは。

 

「朝日さんに、3万でどう、と」

 

「え?」

 

 ユルシュールさん!?

 思わず飛び起きた私に、彼女は呆れた顔をしておられたのだった。

 一方で、りそなは穴でも空くのではないかというくらいに、私のことを見ていた。

 

 ……違うよ、冤罪だよ、りそな。



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