寂しがり屋の吸血鬼は人間失格と一緒に居たい (龍川芥/タツガワアクタ)
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1.死と孤独

ぺたり、ぺたりと足音がする。

 

人々が寝静まる夜、その影は西洋屋敷の廊下を裸足で歩いていた。

 

廊下は暗く、明かりひとつ灯っていない。

 

何も見通せないはずの暗がりを、人影はゆっくりと規則的な足音だけを残して進む。

 

それは雷雨の夜のこと。

 

ピシャリと窓の外で光った雷光が、一瞬だけその人影を照らし出す。

 

銀の髪が妖しく光り。

 

赤い瞳が闇を見通す。

 

ガタガタと揺れる窓枠、ザアザアと悲鳴のような雨音、突如として響く雷鳴に物怖じひとつせず、人影は歩く。

 

そう、「彼女」は吸血鬼。

 

夜を支配するものが、闇の世界を恐れる筈がない。

 

 

ぺたり、ぺたり。歩みは進む。

 

やがて彼女は、ひとつの扉の前に辿り着くと足を止めた。

 

扉は艶のある黒樫に金の装飾がなされた豪奢なもの。

 

重々しい両開きの扉に彼女の指が触れると、ゆっくりと音を立てて扉が開いた。

 

現れたのはひとつの部屋。

 

暖炉が火を灯し、シックな内装を怪しく照らす。

 

アンティーク調の家具達が彩る部屋は、まるで中世ヨーロッパの貴族の部屋をそのまま現代に持ち出したかのようだ。

 

だが、そんな部屋の中で、吸血鬼が見つめるのはただの一点。

 

部屋の真ん中、そこにあるソファに座る人間の姿が目に入る。

 

吸血鬼は思う。

 

その人間の首を、そこを流れる血を想像して、ただ思う。

 

──「美味しそうだ」、と。

 

 

ぺたり、と部屋の中へ足を踏み出す。

 

蝋より白い肌が光に照らされる。

 

ぎらり、と口から覗く牙が光る。

 

それに構わずぺたり、ぺたりと人間との距離を縮める。

 

フローリングが絨毯となり、もはや足音も出なくなる。

 

もう手を伸ばせば届く距離。

 

そのとき。

何かに気付いたのか、ようやくその人間が振り向いた──

 

 

今までより大きな雷が、雷鳴と共に夜の雨空を駆け落ちた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「──アクタ」

 

でかい雷の音にちょっとびっくりした俺は、その声を聞いて我に返る。

 

俺、龍川(たつがわ)(あくた)の名前を呼んだのは、銀髪に紅目の少女の姿をした「吸血鬼」。どうやら帰っていたらしい。

人間を襲う存在に対して、我ながら不用心だなと思う──まあ、一緒に半年も過ごせば、大抵の事では警戒できなくもなるだろう。

 

その吸血鬼は、俺が座る大きなソファに近づくと、俺のすぐ横に腰を下ろした。

肩や足が触れてしまいそうなほど近い距離。

思わず首を向けると、下からこちらを見つめてくる紅玉(ルビー)のような瞳と目が合う。

 

ちらりと人間のものでは無い牙が覗く口が、言う。

 

「ただいま、アクタ」

「ああ。おかえり、ガブリエラ」

 

吸血鬼──ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトと、ただの人間であるこの俺龍川芥は、この大きな西洋屋敷でかれこれ半年程にもなる同居をしていた。

 

同居といえば聞こえは良いが……要するに俺は保存食である。

吸血鬼(食べる側)と人間(食われる側)、たまたまこっちが殺されてないだけが半年続いたってのが俺たちの関係だ。色気もクソもない。

ま、一応言っておくと……お互いに利益のある関係ではあるけどな。

それに半年も一緒に居れば、情も湧くし多少仲良くもなる。それが例え、自分を餌として見ている吸血鬼が相手でも。

こういうのをストックホルム症候群って言うんだっけな。ま、そんなことはどうでもいいか。

と、その吸血鬼――ガブリエラが動いた。

 

「ふぅ。今日はつかれた」

 

こてん、と体を倒し、俺にもたれ掛かる姿勢になる。

……恐ろしい吸血鬼のイメージ全否定である。

まるで猫が甘えるような感じだ。まあこいつはだいたいこんな感じなので、実は吸血鬼にとっては普通の事なのかもな。

 

「また吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)に絡まれたか。強かったのか?」

「強くは無かったけど、血がニンニク臭くて飲めなかった。おかげでお腹ぺこぺこ」

「はは、そりゃご愁傷さま」

「アクタは何してたの?」

「俺? 俺はいつも通りだよ。ゲームしたり漫画読んだり⋯⋯まあのんびりしてた」

「アクタ、いっつものんびりしてる」

「んだよ、悪いか。これでも外出ないよう気使ってるんだぞ」

「ん、そういうことじゃなくて⋯⋯私もアクタとのんびりしたい」

「そーか。ま、いいんじゃねーの? わざわざ外行かなくたって。俺って保存食がある内は、さ」

「⋯⋯うん。明日はずっと一緒にいよ」

 

俺はガブリエラ、通称ガブを受け止めながら、のんびり会話をする。吸血鬼とくっつくなんてかなり恐ろしげに聞こえるが、もう怖いとか怖くないとかの段階は超えてるんだよな。まあガブは見た目も怖くない方だからな。

俺はくっついてくるガブリエラをまじまじと見る。

 

そこには美しい少女の姿があった。

銀糸の髪、血色に輝く大きな瞳、蝋よりも白く滑らかな肌。

白いワンピースから出た肢体は細く、まるで動く人形のよう。

人間ではありえない、正しく人外の美だ。芸術品の様に整った顔は見るものにどこか空恐ろしさすら感じさせる。⋯⋯いや、実際恐ろしい。人間の本能が叫ぶのだ。目の前の生き物は自分を簡単に殺せるほど遥か格上の存在だと。多分檻を隔てずライオンやトラと向き合ったらこんな怖くなるんだろうな、て感じだ。

ただ俺より年下の少女の姿だからか、微妙に親しみやすさも拭えない。なんとも不思議な感覚だ。

そう、吸血鬼ってのはだいたい人間と同じような姿をしてるんだよな。その方が血が吸いやすいとかあるのだろうか。

 

吸血鬼。

それは人間の血を吸う、つまり人間を捕食する生物。

太陽と銀とニンニクを嫌い、人間を襲って吸血し、永劫の時を生きる⋯⋯まるで御伽噺の存在のようだが、確かにこの世界に居る生き物だ。

それを狩り人間を守る吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)というのも居るっぽいが⋯⋯実は吸血鬼ってのは、そんなに大袈裟な存在じゃない。

この世界の皆が吸血鬼を恐れてるとか、その影に怯えてるとか、そんな大層な存在では無いんだ。

早い話が熊みたいなもん。たまに街に降りてきて人を襲う。襲われた方はたまったもんじゃ無いが、吸血鬼自体数が少ないんだ、そうそうある事じゃない。

人間にとって脅威だが、吸血鬼を恐れるくらいなら車の事故とかを警戒する。ちょっと身近な猛獣とか、毒蛇とか⋯⋯実際の危険度はともかく、一般人目線だとそんくらいの存在なんだよな、吸血鬼ってのは。

 

まあ危険度はともかくとして、この可愛い女の子の見た目したガブリエラも、吸血鬼である以上人間である俺なんかよりよっぽど強いのだが。熊とか毒蛇とかと同等以上に脅威なのだが。

そんな存在にじゃれつかれるのは、ちょっと怖い⋯⋯まあ、拒否出来るわけでもないけどな。

ライオンに懐かれた人間の動画を見たことがあるが、基本そんなイメージだ。無抵抗ならむしろ可愛いもんだし、無理に抵抗して怪我する方がよっぽど怖い。幸い、猛獣と違って吸血鬼は知性があるからな。俺が痛いの嫌いなのはもう知ってるだろうし、「そのとき」もなるべく優しくしてくれるだろう。

 

「⋯⋯クタ、アクタ。聞いてる?」

「おっと、悪い。何の話だっけ?」

 

と、考え事をしていて話を聴き逃していたらしい。見ればガブは不満気な表情。

拗ねたように口を尖らせて、ちょっともじもじしながらねだる子供のように彼女は言う。

 

「だから、その⋯⋯血、吸わせて?」

 

ガブリエラの口、そこから見える牙が、照明の光を反射してぎらりと輝く。

見れば彼女は熱に浮かされたような顔をしていた。そう言えば腹が減っているとも言っていたな。俺も気が利かない奴だな。

 

「⋯⋯いいよ」

 

俺はあっさりと承諾の答えを吐いた。

断る理由は、実は無い。そもそも俺がここに居る訳は「それ」なのだから。

服の襟を引っ張って首筋を出す。吸血鬼が血を吸うのは決まってここだ。

 

ガブリエラはそれを待っていたかのように、首筋目掛けて飛びついてきた。

 

ソファの上に押し倒される形になる。体格差もクソも無い。全く、吸血鬼ってのは馬鹿げた力持ちだ。

 

はぁ、はぁ、と熱い息を首に感じる。

どうやら俺は、未だに垂涎もののご馳走らしい。嬉しいような、そうでも無いような。

 

ぬるり、と肌に濡れた感触。

ぴちゃぴちゃと水音が部屋に響く。

ガブリエラが俺の首をぺろぺろと舐める音だ。

 

「⋯⋯噛んで、いい?」

「ああ」

 

首肯すると、今度はかぷかぷと甘噛みを始める。吸血鬼の食事ってのはなんというか⋯⋯まどろっこしいのだ。甘噛みなんてする意味あるのか? 俺だったら飯を前にして食う以外の選択肢は無いんだけどな⋯⋯匂いを楽しむとか、テイスティングとか、そういう感じなのかな? まあ慣れたし、こいつの好きにやらせるのだが。

 

はぐ、と首筋に硬い牙が押し付けられる。

そのまま力を入れたり抜いたり。

挟んだまま舌で肉を舐めたり。

吸血鬼の唾液で首が濡らされていく。

自分のものでは無い熱が、肌をじりじりと炙るように体に伝わる。

 

「はむ、はふ⋯⋯」

 

⋯⋯うーん、正直恥ずかしい。

絵的には年下の少女に押さえつけられはむはむされてる男性(18)だ。どことなく背徳的というか、なんというか⋯⋯まあとにかく、むずがゆい。

でかい犬とか猫とかなら癒されていいんだが、見た目は完全に美少女だしな。そこまで割り切れるほど図太くない。

 

流石にむずがゆさが勝ち、俺はガブリエラの後頭部をぽんぽんと叩きながらギブアップする。

 

「ガブ、悪いけどそろそろ⋯⋯」

 

ぱぱっと血吸って終わらせてくれないか。その言葉は喉から出なかった。

 

ぱ、と首から口を離したガブリエラと、目が合う。

そこには最早「少女」の貌など無かった。

血色の瞳は爛々と輝き、射すくめるような視線の鋭さは獲物を捕食する肉食獣を想起させる。

頬は捕食の興奮ゆえか白い肌が朱に染まり、唾液の垂れた淫猥なほど赤い口内からは血を吸う為の牙が伸びている。

それは、1体の血に飢えた吸血鬼。

 

──生物としての格が違う。そう感じて硬直してしまった。俺は蛇に睨まれた蛙のように、一瞬喉すら動かなくなったのだ。

 

最早見慣れたはずなのに、それでも尚──永遠に魅入られるほど美しく、今すぐ逃げ出したいほどに恐ろしい。

人間など足元にも及ばない正真正銘の怪物。

食物連鎖の真の頂点、1000年生きる夜の王。

 

人喰いの、吸血鬼。

 

 

ごぼり。

それは幻聴、頭の奥で鳴った泥の音。

 

 

⋯⋯嗚呼、それでいい。

それでこそ”俺の(さいご)にふさわしい”。

 

「ん、わかった。ベッド、いこ」

 

言葉足らずだったが、言いたいことは伝わったらしい。

俺は起き上がり、こっちに体重を預けたままのガブリエラをお姫様抱っこし、ソファから立ち上がってベッドに向かう。ガブも姿や体重は少女だ、俺の力でも運ぶのは容易い。

思えば吸血鬼というのは律儀だ。血を吸う準備はどこでもいいのに、血を吸うのはベッドがいいらしい。

ただ俺が運ぶ理由はあんまり分からないけどな。俺にとってガブの重さが少女なら、ガブにとって俺の重さは赤子くらいだろうに。

 

「⋯⋯アクタ」

「わかってるよ」

 

ベッドへと向かう途中、天井の照明を消す。

これも半年間で学んだことだが、ガブリエラは明るい場所で吸血したくはないらしい。

恥ずかしがり屋なのか、それとも吸血鬼の習性なのか。

ぼんやりとそんなことを考えつつ、俺は暗い部屋を照らすベッドライト目指して歩く。

 

そんなこんなで部屋の隅のベッドに到着し、俺はガブリエラをベッドの上に優しく下ろす。見た目が少女だとこんなとこまで気を使ってしまうのだ。

 

「ありがと」

「どういたしまして、お姫様」

 

馬鹿力の甘えん坊を皮肉りながら、俺もベッドに座る。柔らかくてでかいベッドがぎしりと軋む。

こちらに向き直るガブリエラの目は、まだ爛々とした捕食者のものだ。「血を吸いたい」とその表情が叫んでいる。

 

「アクタ、私ももう⋯⋯」

 

ガブリエラが俺の胸の中に飛び込むようにしなだれかかる。どうやらこいつも我慢の限界のようだ。

 

「ああ。いつでもどうぞ」

 

未だ濡れた首筋を示すと、その目には最早それしか写っていないようだった。

 

「いただきますっ」

 

がぶり、とその牙が突き立てられる。

先程までのお遊びじゃない。正真正銘の吸血鬼の食事⋯⋯吸血の始まりだ。

 

皮膚に穴が空き、注射針より何倍も太い牙が刺さるのを感じる。肉を押し退けながら体に深く沈んでいく凶器。しかし異物感はあれど、大した痛みはない。吸血鬼の体液は傷を癒すというし、その効果だろうか。

 

ガブリエラの手が、ぎゅうと俺の服を掴む。

何かを我慢するような、耐えるような⋯⋯そんな彼女の頭に手を回し、ぽんぽんと軽く叩いてやる。

 

「大丈夫。俺は拒んだりなんかしないよ」

 

そして、ゆるゆると吸血が始まる。

こく、こくと血が吸われる感触。

命が吸い取られる感触。

それが俺の体に伝えられる。

 

未だ知らぬ死がすぐ側にある。

薄皮を突き破り、俺の首に死神の鎌が触れている。

その実感が……絶望が、俺の全てを暴いてゆく。

 

 

どろり、と。

心の洞から闇が溢れた。

それは俺の心を覆い尽くし、余分なものを洗い流していく。

 

死への恐怖。

他人を慮る優しさ。

僅かに残った人間性。

 

その全てを取り除き、塗り替え、嘘と欺瞞の武装が剥がれて俺の真の姿が晒される。

 

暗い、暗い命。

心が人で在ることを捨て、それ以外の何かと成り果てた男。

壊れた魂が象る、生きながらにしてガラクタへと身を堕とした人間。

 

即ち――人間、失格。

 

黒い泥に似た闇は、俺の心を塗り替えた。

龍川芥という人間を、人間失格(ほんとう)龍川芥(おれ)へと。

 

俺は首から血を吸われる感覚を強く感じながら、心中で呟く。

 

 

嗚呼、全く――相変わらず愛おしいなぁ、この感覚は。

 

 

”醜い生”と”美しい死”⋯⋯人はどちらを選ぶだろうか。

俺、龍川芥の答えは後者──つまり、俺は死に惹かれている。それも、とびっきり美しいやつに。

 

自分の命を醜悪だと感じたことはあるか?

生きるべきではない、産まれるべきでは無かったと悟った事は?

俺は、有る。

ずっとずうっと、気付いたときには既にそう思って生きていた。

 

朝起きて、何故目覚めたのかと絶望する。

夜眠る時、何故死ねなかったのかと絶望する。

 

それが龍川芥の人生だった。

 

生きることは苦しい。狂うほどに苦しい。

他の誰もがのうのうと笑って暮らせる世界で、俺だけが俯いて絶望していた。

他人にとっての当たり前は、俺にとってはそうではなく。

人間として社会の中で生きることに、酷い抵抗と不適合感を覚える。

そんな自分が「欠落した人間」だと気付いた時には、既に俺の人生は手遅れだった。

 

救世主は現れず。

愛は当然のように与えられず。

夢はいつしか見るだけで息苦しくなり。

明日はずっと変わらず恐怖の対象で。

そして俺は、最早変わることなど出来なかった。

 

そう、そんな絶望の中……俺は気付いたのだ。

やっとの思いで目覚めたのだ。

 

”醜い生”が苦しいなら……いっそ捨ててしまえばいい。

ただ死ぬのでは無い。

捨てるだけでは勿体ない。

そう、今までの苦しみも、痛みも、そして世界に撒き散らした醜さも、全てを帳消しにできるような。

 

――そんな”美しい死”が欲しい。

 

それが、人間失格が辿り着いた結論で。

そして俺は救われた(狂ってしまった)

”醜い生”を諦念と共に享受する旅が、”美しい死”を求めて歩く旅に変わったから。

 

そして18年間の人生を経て。

死に場所を、死ぬ理由を、死への筋道を。

ただそれだけを求めた俺は、出逢った。

 

そう、出逢えたのだ。

今俺を喰らっている、この美しい吸血鬼に。

 

彼女に喰われて死ぬという――最高に”美しい死”に。

 

俺は恋をした。

ああそうだ、この感情の名は恋だろう。

永劫を生きる人喰いの怪物。

孤独と優しさをその強い躰に不釣り合いに抱えた、まる芸術のような命。

そんな彼女が与えてくれるであろう死は、きっとこの世で最も美しいと信じられる。

それが欲しい。

身を裂く程に欲しい。

この渇望を、この欲望を、何か言い表すとするならば。

それはきっと、俺が知り得なかった「恋」に他ならないだろう。

 

 

――陰惨に、嗤う。

底無しの闇が形を成したような表情。

絶望が象った奇形の希望が、黒く黒く輝く笑顔。

それは、この場に他人が居れば、化け物はこちらだと即答するような悍ましいもので。

その顔はしかし、首に噛み付いた美しい吸血鬼の眼には写らない。

 

 

俺は恋をしたのだ。

世界一綺麗な死神に。

 

 

「――ガブリエラ、俺の”(さいご)”は君のものだ。他の誰にも渡さない」

 

銀の髪を撫でながら、人間失格はそう囁く。

この半年間、毎晩のように血を吸われながらことごとく生き残った俺は、気づけばそう彼女に言うのが通例となっていた。

それは、この心臓(いのち)を君に預けると伝えるが為に。

何時であろうと構わない。どんな終わりでも受け入れよう。

ただ、君が与えてくれるなら。

それはきっと、この世で最も美しい死だと信じているから。

 

吸血は、続く。

俺は細い背中に手を回した。

自然、抱き合う形となる。片方は相手の肩に顔を埋め、もう片方は相手の牙に命を預ける。

それはまるで、愛を求め合う恋人のように。

 

 

そうして、何分たっただろうか。

 

気付けば、首から牙を離したガブリエラがこちらを見ていた。

表情が薄いが、どことなく不安そうな顔だ。⋯⋯流石に抱き返すのは不味かったか、それとも俺の血になにか不具合が。

 

 

ざあざあ、と。

焦りからか、心の泥が引いていく。

戻ってくる。

対話するための心が。

僅かばかりの人間性が。

人間失格の龍川芥が、心の奥深くに隠されていく。

 

 

気付けば俺は、普通の人間の顔に戻っていた。

そんな俺に、彼女はおずおずといった感じで問う。

 

「アクタ、その⋯⋯気持ちいい? 私、ちゃんとできてる?」

 

⋯⋯?

何か分からんが⋯⋯ガブリエラは不安そうだ。

そんな顔を見ると、訳が分からなくてもとりあえず安心させてやりたくなる。

 

「ああ。ちゃんと気持ちいいよ」

 

うーん。嘘をつく理由もない気がするが、まあこれでいいだろう。俺は年下には甘いのだ。⋯⋯ガブリエラは200歳超えてるらしいけど、雰囲気が年下だからいいのだ。

ま、丸っきり嘘って訳じゃないしな。

お前と一緒なら”醜い生”も許せる気がする。それはきっと、快楽より尊いものだろ?

 

「よかった⋯⋯」

 

俺の答えにあからさまにほっとして、また彼女は吸血に戻る。

止まっていたこくこくと血を吸う音、漏れるように聴こえる荒い息の音が再開する。

 

一緒に暮らして半年経つが、未だに吸血鬼の考えていることは分からない。

そもそもガブリエラは表情が希薄だし饒舌な方ではない。俺も保存食の立場を弁えあまり踏み込んだりしてこなかったから、人間との文化の違いはほとんど不明なままだ。

 

そもそも、自分が半年生きている⋯⋯生かされている理由も分からない。さっさと吸い尽くせばいいだろうに、今もちびちびと飲むように吸血に勢いを感じない。

 

ガブリエラは実は超少食な吸血鬼とかなのだろうか。

 

ほとんどのことが分からないまま、半年が過ぎてしまったが⋯⋯まあ、この日常は嫌いでは無い。

 

ここは俺の居場所だ。

人間社会に居た頃は無かった、心の安らぐ場所。

家族も、友人も成れなかったそれを、彼女は俺に与えてくれる。

ガブリエラ。お前が許してくれるなら、俺はお前に喰われるまで傍に居るよ。

だから、これからも楽しく日常を過ごそう。

いずれ訪れる最後の日まで、ね。

 

 

血を吸う美しい吸血鬼。

大人しくそれを受け入れる変わり者の人間。

 

ちょっぴり異常な日常は、今日も変わらず過ぎていく。

 

 

ごぼり。

心の奥で、汚泥に浮いた泡が弾ける。

 

⋯⋯はあ。

どうやら、今日も死ななかったみたいだな。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

私はガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。

吸血鬼だ。

 

昔は色々あったけど、今はタツガワアクタっていう人間と一緒に暮らしてる。

 

アクタは私を救ってくれた、私にとって大事なひと。血を吸う相手ってだけじゃなくて、ほんとに私に必要なひとなんだ。

 

私とアクタは「恋人」だ。

吸血鬼は殺さず攫って一緒に暮らす人間のことをそう呼ぶんだ。日本語は理解したけど、この呼びかたは別にまちがってもないと思う。

 

私はアクタが大事。

アクタにとっての私も多分そうだし、そうであってほしい。

それって「恋人」ってことだよね?

 

 

アクタは、私が「ただいま」って言ったら「おかえり」って言ってくれる。

「きみの居場所はここだよ」って言われてるみたいで、うれしい。

 

アクタは私が近づいたりくっついたりしても、嫌がりも怖がりもしない。

「きみを信用しているよ」って証拠みたいで、なんだか胸があったかくなる。

 

アクタは私とおしゃべりしてくれる。

「きみと関わりたいんだ」ってことだったらいいなあ、ってどうしても夢見ちゃう。

 

 

アクタは──私の吸血を拒まない。

「いいよ」って、ただそう言って受け入れてくれる。

怖くないのかな? 辛くないのかな?

私は吸血鬼なのに。

アクタはただの人間なのに。

なのに、当たり前みたいに、いつも私を受け入れてくれるんだ。

 

だからなのかな。

アクタの血が、他のどんな人間の血よりも、甘くて美味しくて⋯⋯お腹だけじゃなくて、胸の中の「なにか」も満たしてくれるのは。

 

 

アクタの肌は、舐めるとなんだか不思議な味がする。甘い匂いがして、どこか落ち着く。

 

アクタのこと噛むと、自然と体が熱くなる。噛んでも逃げられないのが、どうしようもないくらい嬉しくて。

 

そしたらもう我慢出来なくなって、頭の中がアクタのことでいっぱいになっちゃって、早く血を吸いたくてたまらなくなって⋯⋯こんなんじゃアクタに嫌われるんじゃないかなって、いっつも不安になるけど、それでも止まれないんだ。

 

⋯⋯でも、間違えて吸い殺さないようにだけは気を付けてる。

アクタの血は私と凄く相性が良くて、アクタが死なないくらいの量でも私は生きていける。

私の満腹には全然足りなくなるけど、でもアクタを殺しちゃったら、私はまたひとりぼっちに戻っちゃうから。

そんなの絶対嫌だから⋯⋯。

 

 

──さて、ここでひとつ補足を。

吸血鬼は吸血行為によって快楽を得る。

特に”首を咬む”場合は同族を増やす、所謂「繁殖」と同じ方法の食事となるのだ。

そう、”首からの吸血”を人間の行為に例えるなら⋯⋯それは「食事」と「性行為」の中間または両方と言えるかもしれない──

 

 

私は血を吸ってるとき、とっても気持ちいい。だからゆっくり血を吸って、その時間を長引かせちゃう。

でもアクタがどうかは分からない。私は気持ちよくするやり方を知らないから。

一応、多分だけど、上手くいってるとは思う。アクタも気持ちいいって言ってくれるし。

 

 

「──ガブリエラ、俺の最期は君のものだ。他の誰にも渡さない」

 

どき、と。耳元で囁かれるたび、心臓が跳ねる。吸血のときにアクタは雰囲気が変わる。普段は言わない甘い言葉も言ってくれるようになる。

これはアクタの口癖。血を吸う度に言ってくれる愛の言葉。

愛してるって意味だよね、添い遂げようって意味だよね、ずっと一緒に居ようって意味だよね。

私に(しんぞう)を預けてくれるって、きっとそういう意味だよね。

アクタ、私もだよ。

私のさいごはアクタのもの。ほかのだれにもわたさない。

 

 

だから、私を独りにしないで。

置いていかないで。離れてかないで。

ずっと一緒に暮らそう。

 

抱きしめて。

拒まないで。

全部あげるから。

どうか、ずっとこのままで。

 

寂しいのはもういやだよ、アクタ⋯⋯。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

龍川芥。

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。

 

彼らはどうしようもなくズレている。

 

片や、人間の破綻者。壊れた人格を隠しながら、相手に”美しい死”を求める男。

 

片や、寂しがり屋の吸血鬼。愛に飢えぬくもりに飢え、それを相手に求めた女。

 

 

本来なら噛み合うはずのない運命は、しかし何故か彼らに平穏と幸福を運んでいくこととなる。

 

これは、そんな奇妙で奇跡な彼らの日常の話。

 

 

あえて言うなら──歪みきって尚美しい、愛と救いの物語。



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2.造花

コウモリの鳴き声が聴こえる夕暮れ。

 

ここはT県の片隅に位置する戸張市(とばりし)

海に面した人口20万人ほどのこの市には、大きな街と海辺の工場⋯⋯そしてその中間ほどの場所に、半ばゴーストタウンと化した区画がある。

中途半端に森を拓いて作ったその灰色の区画は、様々な事情により開発途中で放棄され、今は僅かに残る物好きな住人と廃屋が連なるのみ、といった有様だ。

 

そんな戸張市のゴーストタウン──床善町(とこよちょう)に、ひとつの屋敷があった。

それは廃屋に囲まれた大きな屋敷。豪奢ではあるが不気味で古ぼけた、幽霊屋敷のようなその建物は、一見すると他の廃屋達と遜色ないように見える。

しかしよく見てみれば、壁や天井には穴がなく、窓や扉にも傷は無い⋯⋯古ぼけ色褪せては居るが人が暮らせる建物だと分かる。

それを証明するように、屋敷の明かりがぱっとついた。カーテンで覆われた窓からオレンジ色の光が漏れる。暗い街に灯る数少ない光、それが示すのは即ち。

 

夜の始まりだ。

 

そんな夜の闇に包まれ出す街の中で、とある吸血鬼と人間の1日が始まろうとしていた──。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

⋯⋯。

眩しさを感じ、ゆっくりと意識が持ち上がる。

どうやら眠っていたらしい。

 

ぼんやりとした頭のまましばらくぼーっとしていると、だんだんと意識が覚醒してくる。

柔らかい感触、暖かい空気⋯⋯この半年で慣れた、いつもの寝床の匂い。

ゆっくりと、瞼が持ち上がる。

 

っ、目を開けられないほど眩しい。

天井の電灯の光だ。

夜になると自動的に点灯する室内照明がついているということは⋯⋯。

 

「もう夜か⋯⋯」

 

つまり起きる時間⋯⋯1日が始まる時間だ。

 

しかし怠惰な俺は当然のように起き上がる気になれず、そのまま布団の温もりを味わい続ける。大きくて柔らかいベッドと、滑らかな毛布に包まれるこの幸福感はなかなか手放し難い。

 

ふと、俺の体に何かがくっついているのが分かった。

毛布ではない。

くっついてるそれは、重みがあって、ひんやりしていて、小さな鼓動を伝えてくる。

 

少し光に慣れた目を薄く開けて見れば、赤い瞳と目が合った。

 

そこに居たのは、宝石のような大きな目、銀色の乱れた髪の、綺麗な顔をした吸血鬼。

 

「──おはよ、アクタ」

 

へにゃりと柔らかく目尻を下げて、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトはそう言った。

 

どうやら俺にくっついていたのは彼女だったようだ。彼女の体は俺のすぐ右側にあって、半分くらい俺の上に乗るみたいに密着している。

自分以外の体温が、柔らかい命の感触が、花のように甘い匂いが、その存在を雄弁に語っている。

とくん、とくんと小さく鳴る鼓動が、重なった体を通して俺の体内に響いている。

⋯⋯心臓に悪い状況だ。慣れてなきゃ不整脈とかになりそうなレベル。

 

まったく。おかげで目が覚めちまったな。

 

「⋯⋯おはよう、ガブリエラ」

 

ま、寝過ごすよりは良いだろうけど。

そう思いながら、俺は眠気を振り払い、腕の中の可愛らしい吸血鬼に返事をした。

 

 

 

目が覚めたら最初に何をするか。

人によって答えは違うだろうが、俺の場合はまず水を飲む。

寝起きは喉がカラカラだし、水を飲むとある程度目が覚める気がするからな。

 

俺は体に力を入れて上半身を起こす。その際ガブが右横へとずり落ちるが無視。何やら不満の声が聴こえたが、布団は柔らかいしベッドは広いから別にいいだろ。

俺はベッドの横の小さな机に置いてあった水差しを掴んで、その横のコップに水を入れた。

まるで貴族の優雅な朝だが⋯⋯まあ慣れてしまえば日常の一コマだ。

 

コップに口をつけ、ごくごくと水を飲む。体が潤う感覚が気持ちいい。

 

「ガブ、お前も飲むか?」

 

同じように体を起こしベッドの上に座っていたガブリエラは、小さくこくんと頷く。

俺はもうひとつのコップを手に取り、それにも水を入れるとガブに手渡した。

 

「ほら」

「⋯⋯ありがと」

 

彼女はコップを両手で掴むと、そのままぐいっと大きく傾けた。

小さな口では受け止めきれなかった水が、口から溢れて喉へと伝うのが見える。

 

「お前、もうちょっと落ち着いて飲めよな」

「⋯⋯ごめんなさい」

「いや、俺は別にいいけどね。高そうなベッドが濡れちゃうだろ」

 

仕方ないので彼女の濡れた口元を寝間着の袖で拭いてやり、そのままベッドを出る。

 

水を飲んだら次は歯磨きだ。

 

俺がのっそりと歩きだそうとしたとき、左の袖がまったく動かなくなった。

見ると、白く細い指がちょんと袖をつまんでいる。ただそれだけで俺の動きが止められてるんだから、まったく吸血鬼とは馬鹿げた生き物だな。

 

「まって。ついてく」

 

そう言った彼女がベッドを出るのを待って、俺はゆっくりと歩き出す。ガブが袖をつまんだままなので、彼女の小さな歩幅に合わせるとゆっくりとしか歩けないからだ。

 

 

そのままの状態でしばらく屋敷内を歩いて、寝間着で寝起きの俺たちは洗面所に到着。

 

まずは顔を洗う。洗面所のスペースは、2人同時に顔を洗えるほどの余裕がある。全く豪華な屋敷だぜ。

共に顔が濡れた俺たちは、同じでかいタオルで顔を拭く。ガブは拭くのが下手なので、俺が追加できちんと水気を拭き取ってやる。

それが終わったら歯磨きだ。

 

俺は緑色の歯ブラシを取り、ガブは赤色の歯ブラシを取る。

同じ歯磨き粉をつけて、同じように鏡を見ながら歯ブラシをシャカシャカと動かす。

 

「⋯⋯あぅ」

 

ガブの口には吸血鬼特有の長い歯があるからか、どうにも上手くいってないらしい。

もう半年くらい同じことやってるので、そろそろ慣れて欲しいのだが⋯⋯。

 

俺が歯を磨きおわり口をゆすいでいると、拗ねたガブが歯ブラシの持ち手を差し出してくる。

 

「アクタ、やって」

「はいはい」

 

ガブには適当に座ってもらい、俺は彼女の歯を磨く。他人の歯を磨くのはなかなか大変だ。気も使うし単純に難しいし、何より長い牙が磨きにくい。

まあもう慣れたけどな。吸血鬼の最大の特徴を、俺は手際よくゴシゴシと磨く。

 

「⋯⋯ゃ、ふぁ」

 

なんかふるふると震えてるが、まあ嫌なら言ってくるだろ。

 

「終わったぞ。うがいしな」

「⋯⋯ん、あぃがと」

 

そのままガブのうがいが終わるのを待って、部屋に戻る。

歯磨きが終わったら朝食(夕食)だ。

 

部屋にある小さな冷蔵庫、その中からサンドイッチとお茶を取り出す。

サンドイッチはレンジで軽く温め、ふたつを持ってソファに座る。

その間もずっと後を着いてきたガブリエラは当然のように俺の膝の上に、抱き合うようにして座った。コアラかお前は。

 

「アクタ、いい?」

「まあいいけど⋯⋯いつもの事ながら、お互い食いづらくないか? これ」

「ダメなら、やらない⋯⋯」

「全然ダメじゃないからシュンとすんな。お前がいいんだったらそれが全てだ」

 

そして⋯⋯そのまま、「一緒に」朝食を始める。

 

俺は具の溢れそうなサンドイッチに。

ガブリエラは俺の首筋に。

 

「「いただきます」」

 

同時に、食らいつく。

 

これもいつもの事だ。

一緒の食事と言うにはかなり奇妙な光景だろうが、まあ人間と吸血鬼ならこうなるのが普通なのかもな。

 

「んく、んく⋯⋯」

 

首元で御満悦のガブを気にしないようにサンドイッチを頬張る。香りの良いパン、厚切りのベーコン、シャキシャキとしたレタス、甘めのソース⋯⋯間違いなく美味い。まったく、朝から贅沢だぜ。

 

もぐもぐと頬張って完食し、お茶で腹の中に流し込む。

ついでに色んな薬⋯⋯鉄分のサプリとか、増血剤ってのを飲む。くれた奴が言うには、飲んどいた方が良いらしい。

朝食を終了させた俺は、未だひっついたままの吸血鬼の頭をぽんぽんと叩いた。

 

「こっちは終わったぞ。まだ飲むか?」

「⋯⋯ぷは。うんん、我慢する。ごちそうさま」

「ほい、ご馳走様」

 

ふぅー、と食後の一息がてらソファに沈む。

すると当たり前のようにガブリエラがもたれかかってくる。まるで自分の体重を自分で支える気が無いような挙動だ。

自然、至近距離で見つめ合う。

視線がぶつかり、そしてどちらも退かず絡み合った。

俺が見るのはガブリエラの紅い瞳。

目を逸らせなかったのは、魅入られる程深い紅さが、俺の目を捉えるように離さなかったから。

 

ほんとうに宝石のような瞳だ、と思う。

真紅の虹彩にはきらきらと光が浮かび、黒目はまるで吸い込まれるかのような夜の深淵の色。

ふたつの紅はその宝石に見蕩れて覗き込むものを飲み込む蛇の様な、そんな妖しさすら孕んでいる気がした。

美しいほど綺麗なのに、逃げ出したくなるほど不気味。

まさに吸血鬼って感じの目だな⋯⋯。そう思ってると、不意に顔が触られた。

 

ガブがぐにぐにと俺の顔を触ってきたのだ。

 

「⋯⋯なんだよ、ガブ」

 

少し冷たい体温と滑らかな指の感触が顔の皮膚の上を這い回る。

もしかしたらこのまま頭を面白オブジェにでもされんのか⋯⋯? という思考が頭に浮かび、頬に当たる肌と爪の感触に冷や汗が流れる。

しかし想像と違い、その手つきは実に穏やかだった。まるで壊れ物に触るような、おっかなびっくりといった手つき。

そのままおそるおそるひっぱったり、つまんだり⋯⋯興味しんしんの子供かお前は。

するとガブの手は、俺の目の周りで止まった。瞳を優しく広げるような手つきになる。

 

「アクタの目、きれいだね⋯⋯。遠くから見たら真っ黒なのに、近くで見るとそうじゃない。まるで黒い星を閉じ込めた琥珀みたいに、とてもきれいで落ちついた色」

 

ぐぬ。

なんだこいつは。確かに俺の目は分かりにくい茶色だが、こんなこと言われたことねえぞ。

はー、無邪気はかくも恐ろしきだ。

 

「⋯⋯お、お前の瞳も綺麗だぞ」

「ん、ありがと」

 

くっそ、人生で褒められたことが全然無いから、ちょっとした事で照れちまう自分が恥ずかしい⋯⋯。

ガブはそのままなんでもないように、今度は俺の髪を弄り出す。

ひっぱったり、跳ねさせたり、ねじったり⋯⋯ほんと、こうしてるとただの子供だな。

 

俺は手持ち無沙汰に、ついガブの髪を触る。

銀色の美しい髪だ。長く、しっとりとした直毛。まるでシルクかってほど手触りが良いので

ついつい手櫛で整えるように触ってしまう。

 

「⋯⋯なんだかくすぐったい」

「すまん、嫌だったか」

「ちがう。もっとやっていい」

 

ま、ガブもずっと俺の髪で遊んでるしおあいこってことだろう。

そのままお互いしばらく髪を触り合う⋯⋯冷静になったらなんか恥ずかしくなってきた。何してんだ俺たち。

 

「⋯⋯止めるか」

「ん、わかった」

 

お互い手を離し、なんとなく沈黙する。

その間もガブは離れなかったから、まあ不快になった訳じゃないだろうと思って一安心だ。

 

俺はなんとなく気まずい空気を断ち切りたくて、なんとか言葉を絞り出す。

 

「あー⋯⋯その、なんかやりたいこととか無いか? 別になんでもいいんだが⋯⋯」

「んー、アクタと一緒にだらだらのんびりする」

 

答えになってねえよ⋯⋯。ま、だらだらするなら俺の右に出るものはいないから問題無いな。

そのままぐでーとほっぺたを俺の体に押し付けてくるガブを受け止めてぼーっとする。

 

「あ!」

「うわ、どした急に」

 

すると不意にガブリエラが大声を出し、いそいそとテレビを付ける。

しばらくチャンネルを移動し、映ったのは月9の恋愛ドラマだった。

 

「忘れるところだった。先週すごくいいところで終わったから気になる」

 

俺はよく分からんが、旬の俳優と女優が主人公の、ロマンチックに愛を求めるタイプのラブロマンス系ドラマらしい。そういや俺たちは夜起きだから、なんだか朝ドラ見るみたいな感覚だな。

どうやらちゃんとシリーズ通して見てるらしいガブは、あきらかにワクワクした感じで俺の隣に座り直した。

 

「⋯⋯吸血鬼って人間の恋愛に興味あんの?」

「もちろん。このドラマはすごく興味深い。参考になる」

「なんの参考だよ⋯⋯」

「アクタ、今日はいっしょにみよう。きっとアクタも好きになれる」

 

と、キラキラした目のガブリエラに腕を取られる。どうやら一緒に見たいらしい。今までは興味なかったから1人でベッド行ってゲームしてたんだが⋯⋯ま、こいつが望むならそうしよう。

 

テレビの中では、ヒロインの女優をヒーローの俳優が後ろから抱きとめていた。確かあすなろ抱きって名前の格好だったかな? なんというか、凄いテンプレ的だな⋯⋯。

 

「ユリは病気で半年の命。リョウは病気のことを打ち明けられて、それでもユリのことが好きだから一緒に居たいって言った」

「お、おお⋯⋯」

 

いや設定もテンプレかよ。まあ確かに死ネタは安易に感動的だししょうがないか。

あまりにどこかで聞いたことがあるような内容にちょっと戸惑いつつ、隣でふんふん言ってるガブとドラマが進むのを見守る。

俳優⋯⋯確かリョウは、ユリの耳元で『好きだ、ユリ』と言った。驚くユリ、そして流れ出す壮大なBGM。

ちゃんと見てたら結構感動的な告白シーンなのかもしれんが、正直思い入れが無さすぎてなんも感動出来ん。どちらかと言えば「よくそんな恥ずかしいこと出来るな⋯⋯」という感想しか出てこない。

と、ぐいぐいと腕を引っ張られるのを感じて隣を見る。そこにはどことなくキラキラしてるガブリエラの顔が。

う、なんか嫌な予感が⋯⋯。

 

「アクタ、あれやって」

「⋯⋯マジかー」

 

ふん、とガブが元気に背中を向けてくる。リョウがユリにやったくだりをやれと言われているのは誰でも理解出来るが⋯⋯いや、まあやりますけどね。

矮小な人間風情は、吸血鬼サマに逆らえんからな。

でも超恥ずかしい。できるなら逃げ出したい。くそうやりたくねえなあ⋯⋯。

 

「あー、ガブ。やるぞ⋯⋯」

「うん。はやくっ」

 

ええい、もうどうにでもなれ!

 

がばっ、と焦りのあまり勢いよくガブリエラの体を抱きしめる。「きゃ」と小さな悲鳴が腕の中から聴こえて少し慌てるが、ドラマの中でもこんな勢いだったからと自己弁護して正気を保つ。

触れ合う肌が、自分より小柄な体、柔らかい感触、冷たい体温を伝えてくる。

えーと、こっからどうすんだっけ。そうだ、告白シーンだった。

 

「す、好きだ、ガブ(棒読み)」

「ぁぅ」

 

そして俺は勢いよくガブから離れる。

やり遂げた⋯⋯やったぞ俺は! ちくしょう顔あっつ!

 

「これでいいか⋯⋯てかもう絶対やらんぞ俺は」

 

何となく顔を逸らしながらぶっきらぼうに言い放つ。もうほんとに無理だ、次は死ぬ。

振り向いたガブリエラはどこか赤い顔色をしていた⋯⋯お前も恥ずかしかったんじゃねーか。やらせんなこんなこと⋯⋯。

 

お互い沈黙し、何となく再びテレビを見る。

ドラマが終わりに近付くにつれて俺たちの距離も元に戻り、気付けばまた右腕はガブリエラに掴まれていた。相変わらず手癖悪いなお前。なんでもいいけど、力入れすぎて俺の手折らないでくれよ⋯⋯。

 

リョウとユリはこの先どうなるのか、みたいな感じでドラマが終わり、CMが流れ出す。

ガブリエラはほうと息を吐き出し、ソファに背中を埋めながら聞いてきた。

 

「アクタ、ユリとリョウは幸せになれる?」

「いや知らんけど⋯⋯話の内容によるとしか。本人たちがどう感じるかなんじゃねえの」

 

病気とかの境遇は傍から見れば不幸だが、本人がどう思ってるかは他人には分からない。まあそもそもキャラクターだから設定みたいなのでどう思ってるかとかはあるかもしれないけどな。

するとガブリエラはどことなく嬉しそうな雰囲気になった。

 

「なるほど。それなら大丈夫。好きな人と一緒に居れたら幸せ、これはまちがいない」

 

無表情ながらどことなくドヤ顔なのはなんなんだ。変に器用だな。

しかし、なんかお涙頂戴展開に微妙に乗り切れてないなこいつ⋯⋯。なんだよそのよく分からん自信は。

そんなことを考えながら遠い目をしていると、ガブリエラがこちらを覗き込んでいることに気づいた。

 

「⋯⋯アクタはこのドラマ、興味なかった?」

 

うーん、そんな目をされるとなんか罪悪感があるが⋯⋯。

自分の感性は曲げらんねえし、正直に言っちまうか。

 

「興味ないことは無いけど⋯⋯俺は、ちょっとひねくれてるからな」

 

物語としては、この先どうなるのかとか僅かばかりの興味はある。引きも上手いしな。だが題材が⋯⋯恋愛というのが問題だ。

こう言うと実に陳腐な感じだが──つまり俺は、恋愛というやつを全く信じていないのだ。

 

「愛だの恋だの、人は綺麗なものだと言うけどな⋯⋯正直俺には全部茶番に見える。だって俺たちは所詮”生物”でしかない。愛も恋も、DNAに設計されてただけの感情なんだよ」

 

全生物共通の目的は「種の存続」。

しかし恋愛感情を持たない人間の場合、これが正常に行われないおそれがある。

なぜなら人には知性があるから。生存競争を有利にするために獲得したそれが、異性に手を出すことを阻ませた結果、種の破滅を招くなんて笑い話にもなりやしない。

 

だから人には衝動が備わった。愛や恋と名付けられた、理性を突破するための衝動が。

 

「馬鹿みたいな話さ。生物として欠陥にならないためのセーフティに、夢見て憧れてそれこそ恋焦がれて⋯⋯全くもって茶番だろ。このドラマの中でやってるのは、生物としては完璧に無駄な行為。ただの1+1を複雑な数式にしたみたいな、遠回りでしかない喜劇(ドラマ)だよ」

 

どんな生物でもやっている。出会って交尾して子を為して⋯⋯たったそれだけに、人間は何年もの時間をかける。そしてその過程を、本来は無駄なはずの時間を”恋愛”と呼び、なんやかんやと祭り上げては馬鹿騒ぎ⋯⋯万能の霊長が聞いて呆れるぜ。

無駄を愉しむ、あるいはそれこそが人の本質なのかもしれないが⋯⋯それでも愚かなことには変わりないだろう。

 

⋯⋯いや、我ながらひねくれた考えだとは思う。ほんとにな。

恋愛素敵! ハイ終わり! で笑えたら、人生もっと楽だっただろうし。

でもそうはなれなかった。理想と現実にはいつも越えられない溝があって、俺は理想を対岸から眺めるだけ。

 

あるいは、恋をしていれば。

あるいは、愛とは何かを知っていれば。

こんな答えにはたどり着かなったのかも知れないけれど。

 

俺が歪んだ笑顔でそんな答えを吐き終わるまで、いや吐き終わった後も、ガブリエラはじいっとこっちを見ていた。

彼女は⋯⋯何故か、少し寂しそうな表情で。

 

「⋯⋯でも、アクタ。私は綺麗だと思うの。愛も恋も、まるで宝石みたいに綺麗。だってこんなに夢みたいなきもち、他にないから。

”あなたが好き”って思うこと。

”あなたに好かれたい”って思うこと。

”あなたと愛し合いたい”って思えること。

そう思うだけで、私の存在は無駄じゃなかったって感じられるから。

本当は必要無いんだとしても、それは私にとってとっても大事なきもち」

 

俺より幼い見た目の、俺より遥かに年上の吸血鬼は──まるで優しく微笑むように、ただ俺に向かってそう言った。

 

はは、そんな綺麗な答えを出されたら。

俺の言葉なんて、ただの負け惜しみじゃねえかよ。

 

俺は、ただ俯いた。

それは自分の間違いを認めたからなのか、それとも認められなかったからか⋯⋯。

ふと、ガブリエラが俺の頬に触れる。

それはまるで壊れ物を扱うような力加減で。

俯いた俺の顔を覗き込むように、ガブリエラは俺の膝に収まった。

 

「だからアクタ、そんな顔しないで⋯⋯」

 

そんな顔ってなんだよ。

俺は今いったいどんな顔をしているというのだろう。

安いドラマを見たあとならば、小馬鹿にしたような汚い笑顔だろうか。

 

⋯⋯いや、本当は分かっているのだ。

苦々しげに歪む自分の顔を。

笑顔とはかけ離れた醜い表情を。

知っている。他でもない自分のことだから。

これは”裏切られたとき”の表情だ。

 

どうやら俺はこの半年で、ガブリエラに随分と絆されたらしい。

それはとてつもなく自分勝手で、半端無く迷惑なだけの価値観の押し付けとも言うもので。

 

俺はただ──自分だけが苦しいのが許せなかったんだろう。

だから自分と同じ場所で蹲るガブリエラも、この世界が地獄に見えているとどこかで勝手に思っていた。当たり前みたいに妄想していた。

でも現実は当然のように違った。

さっき語るガブリエラの顔は、半年の付き合いがあればはっきりと分かるほどに輝いていたから。

現実が地獄に見えていたのは俺だけだったんだろう、と悟るには十分すぎるほどには。

 

彼女が俺の隣に腰を下ろしたのは、必要だからではなく優しいから。

俺たちの出逢いは、俺にとっては救済だが、彼女にとってはそうでは無いんだろう、と。

そう思ったから、辛かった。

吸血鬼と人間、捕食者と被捕食者、美しいものと醜いもの⋯⋯はなから対等なんかでは無いと知っていたはずなのに──それなのに、ガブリエラと対等でないことが、どうしようもなく不快だ。

 

そして⋯⋯そんなことを思っている自分が、この世の何よりも不快だ。

 

俺は裏切られたのだ。

ガブリエラに、では無い。

「世界の全てに期待しない」と決めていたはずの自分自身に。

 

⋯⋯ま、それでもいつも通りだな。

自分が醜悪なのは知っている。

その上で、俺はいつだって自分の醜さを許せない。

表情に出るほど苦々しく呪ってしまう。

これは俺が俺である以上逃れることができない業みたいなもんだ。

 

「⋯⋯悪かったよ、変な顔して」

 

笑顔をつくってガブリエラの手を払い、彼女から目を逸らす。きっと吸血鬼には、つくった笑顔と本物の違いなんて分からないだろう。

幸いにもテレビはまだついていたから、視線を逸らした言い訳はいくらでも出来る。

ガブリエラがどんな顔してるかは見えない。でもこれだけは言える。

 

そんな⋯⋯俺を許すみたいな顔をするな。

本気で憐れむような目はやめろ。頼むから。

 

俺は救われてるんだ。ゴミを美味しく食べてくれるお前がいる時点で、これ以上ないほどにな。

だから”これ以上”を俺に期待させるな。

こんな醜い命が、誰かに許されていいハズなど無いから。

 

食われるのも、俺が勝手に救われるのもいい。でも俺が許されるのは侮辱だ。

他でも無い、愛も恋も綺麗と言えるような、美しい(おまえたち)への侮辱でしかないんだ。

そして⋯⋯俺が裏切り、棄てたもの達への侮辱でもあるから。

 

「⋯⋯ほら、一緒にテレビ観ようぜ。今度は俺のオススメのバラエティにしよう。昔見てたんだけど、これが滅茶苦茶面白くて⋯⋯」

 

俺は、なんとか明るい声を出すことに成功した。

はあ。柄にもなく沈んじまったな。

俺はいつでも享楽的に刹那的に居たいと思ってる。それがこのクソッタレな現実を楽しむ唯一の手段だから。

だから沈んだ気分を無理やりにでも切り替えようとチャンネルを変えた。

 

テレビの中では、少々刺激が強めの笑いが畳み掛けるように展開されている。

ほら笑えよ俺。

これ以上しみったれた顔すんな。

笑え、笑え⋯⋯。

 

と、俺の服の袖がぎゅっとつままれた。

ガブリエラの細い指で、その力に見合わず弱々しい仕草で。

慌てて横を見れば⋯⋯そこには、くだらない笑いなんて簡単に吹き飛ばすほど悲しげな、美しい吸血鬼の姿があった。

 

「⋯⋯アクタ、私ね。えっと、あのね」

 

彼女は何度か躊躇したように言葉を切り、俯き、しかし顔を上げ。

悲しげに、けれどどこか力強さを感じさせる口調で、言う。

 

「──上手く言えないけど。アクタのこと、いつかちゃんと笑顔にしてみせるから」

 

⋯⋯はは。

なんだそりゃ。

そんな事のために、悲しそうな顔になってんじゃねーよ。

 

「⋯⋯気持ちだけ、受け取っとくよ」

 

そう絞り出した自分の声は微かに震えていた。

 

「⋯⋯迷惑、だった?」

 

裾を掴む手が握り締められる。怒られるのを怖がる子供みたいな仕草。

そうだ、俺は何となく分かってた。

この美しい吸血鬼は、きっと生き辛いほどに優しいということに。

 

「いいや。10年前に親に強請ったものを急にプレゼントされた気分だよ」

 

怯えたような瞳が揺れ、今度は不思議そうに瞬く。

俺は今度こそ笑った。真っ直ぐに、笑えた。

種族の違う存在に。

人を喰う化け物相手に。

優しくて愛らしい、小さな吸血鬼の為に。

 

いつかこいつのために死ねたらいいな、と。そう改めて感じながら。

 

「⋯⋯つまり、嬉しいってことさ」

 

まるで花のような微笑みが、俺の隣で小さく咲いた。



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3.心の在処

全ての命は、他者から奪わなければ生きられない。

場所も、糧も、果てはその命さえも。

 

これは生命が抱える絶対の命題。

逃れることの出来ない世界の摂理。

 

 

当然、奪われる側にも事情は有って。

強者はいつも、それを踏み躙るかどうかの選択を迫られる。

⋯⋯いいや、そんな選択は無いのと同じだ。

天秤に乗っているのは何時だって自分のことだけ。

なのに、いつもほんの少し秤が揺れるのは。

きっと私がどうしようもなく弱いから。

 

獣は迷わない。彼等は獲物を侮辱しない。

人は目を瞑る。彼等は犠牲を直視しない。

ならば、私は。

獣にも人にも成れない私は。

 

 

そう、これは理想(ユメ)のお話。

現実に訪れた夢物語。

こんな中途半端な私に。

こんなにも悲しい世界に似合わない優しい声で、彼は静かに救いをくれた。

 

私がもう、奪わなくて済むように。

 

その血を差し出してくれた、とある人間との日常の話だ。

 

 

◆◆◆

 

 

満月の夜。

 

墨の様な夜闇の中にその街はあった。

暗闇を近付けまいと多種多様の光を放ち、静寂を寄せ付けまいと眠らぬ音が鳴り続ける、人間達の街。

ここは戸張市で最も賑わう都会、世朱町(よあけちょう)

雑多なビル群が背比べでもするように立ち並び、深夜だと言うのに人や車の通りもまばらにある。

そんな喧騒止まぬ都会の中にも、やはりその熱気が届かない場所がある。

 

 

その静かな路地裏に、”彼女”は居た。

町の中心部からは少し外れた、電灯の少ない表通りから繋がる路地裏。

煤けたように汚れた灰色の壁、回っていない換気口の数々、壁に混みあった配管達、散乱したゴミと小さな獣が這い回る薄汚い町の暗部。そんな場所にあってなお際立つ美しさを纏って”彼女”は立っていた。

 

銀の髪、紅い瞳、少女の(かたち)をした吸血鬼。

その名は、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。夜が慄く人喰いの怪物。

 

「⋯⋯今日、こそは」

 

呟きが闇に溶ける。

彼女は空腹を感じていた。

静かな、されど依然として腹から去らぬ空腹を。

 

 

 

 

匂いを頼りに、彼女は夜の街を駆けていた。

ビルの屋上から屋上へと飛び移り、光と光の隙間をすり抜けるように人の街を進む。

夜の闇も相まって、人の目は彼女を捉えることは出来ない様だった。

それほどに速く、鋭く、有り得ない動きで。

空中を泳ぐように跳躍しては羽毛のように着地し、壁を蹴れば次の瞬間には通りを挟んだ建物の屋上を走っている。

人外の動きは、簡単に人の理解を越えて。

眼下を歩く人間達、その誰にも見つからない速度で、彼女は街を駆け抜けていた。

 

吸血鬼は人間を遥かに超える身体能力を持つ。無論、その嗅覚も。

ガブリエラは夜の街を飛び回りながら探していた。自分の好みの血を持つ相手を。

 

吸血鬼には血液型が存在する。

研究者の間でv-血液型と呼ばれるそれは、所謂吸血鬼の嗜好を表わすものだ。

例えばv-A型の吸血鬼は、A型の人間の血を好む。それは単純な味の好みだけに留まらず、摂取する栄養の吸収率にも繋がる。

v-A型の吸血鬼がB型の人間を襲った時、空になるまで吸い尽くしても満腹にはなれなかった、というような事象は幾らでも発生しうるのだ。

だから吸血鬼は一般的に、無差別に人を襲うのではなく自分と同じ血液型の人間を探す。

それはまるで、人間が商店街で好みの店に入るように。

 

「──居た」

 

ガブリエラの鋭敏な嗅覚が、自分の好み(AB型)の血の匂いを嗅ぎとる。

性別、女。年齢、20代後半。脂肪、少なめ。ニンニクの匂い無し。フレッシュな甘さと程よい辛味を想像。

獲物をロックオンした彼女は素早い動きを止め、そのまま上から尾行を開始する。

ゆっくりと気取られぬように、建物から建物を経由しながら、されど視線は外さぬように。

肉食獣のように、チャンスを待つ。

 

いつ襲おうが人間など逃がすことは無い。

しかし人混みは不味い、と吸血鬼の本能は理解していた。

夜の街にはまばらながら人が歩いており、今獲物の女性を襲えば目撃者0とはいかないだろう。

それでは生き残れない。人間は数が多く知恵も回る。

吸血鬼という種は上から下まで全ての個体が分かっているのだ。人間との戦争になれば、数で圧倒的に劣るこちらに勝ち目はないと。

だからこそこっそりと。人間同士が起こす行方不明に紛れるように、慎重に。

 

と、ターゲットの女性が人気の無い路地に曲がる。

ビルの屋上からざっと周囲を見渡しても近くに人は居ない。

吸血鬼の本能は”今”と判断した。

 

 

飛び降りる、否、地面目掛けて飛び込む。

 

音もなく着地しながら人間を捕らえ、そのまま路地の奥へと引きずり込む。

それはまるで、人を攫う銀の風。

悲鳴も反応も無い、完璧な仕事だった。

 

 

──路地裏で呆然とする倒れた人間の女性と、紅い眼を爛々と輝かせ立ちはだかる吸血鬼の構図が瞬く間に出来上がった。

 

女性は呆然としている。その目がガブリエラを捉えると表情は困惑から驚愕へと変わり、そして理解と恐怖の表情へ。

彼女が慌てて息を吸い込むのを察知すると同時、吸血鬼は手を突き出した。

 

「⋯⋯ま、まさか吸血ッ”!?」

「黙ってて」

 

怯えて大声を出しそうになった人間の首を絞め、強引に黙らせる。

殺しはしない。死んだ瞬間血の味は劣化し、とても飲めたものではなくなる。

⋯⋯手のひらに熱を感じる。

人の脈、血の流れ、命の熱さ。

 

牙が疼く。

腹が泣く。

吸いたい。

吸いたい。

血を吸いたい!

 

本能がご馳走を前に制御不能気味に叫び出し、口を開けて肩へと持っていく。

空腹が腹を裂くほどに主張し、牙が獲物に近付くにつれ興奮が高まっていく。

 

アクタ程じゃないけど、おいしそう。

おいしいだろうな。

がまんできない。

はやく、はやく。

もういいよね。

 

いただきま──

 

「助けて⋯⋯お願い⋯⋯」

 

ぴたり。

人間が、喉の奥から絞り出した声。

ぼたぼたと零れる涙。

その涙に、声に、動きが止まった。

 

「許して⋯⋯私が何したって言うの⋯⋯」

 

恐怖に歪んだ表情が、紅い瞳を占領する。

やめろ。

そんな目で見るな。

急に現実が吹き飛び、視界と感覚が遠のき出す。

 

いやだ。

頭の中から声がする。

まるで自分のものじゃ無くなったみたいに言うことを聞かない体の中を、反響するみたいに声が広がる。

いやだ。

いやだ。

意識はすでに現実に無くて。

まるで頭を抱えた子供の鳴き声みたいに、ずっと同じことが内側で暴れ回っている。

いやだ。

いやだ。

否定されるのは、いやだ。

 

「この⋯⋯化け物⋯⋯」

 

どさり。

気付けば手から力が抜け、人間が地面に転がっていた。

ゴホゴホと咳き込んだ彼女は、這いずるようにして立ち上がると声にならない悲鳴を上げながら路地から逃げ出した。

 

「⋯⋯なんで、いつも」

 

狩りは失敗した。

残ったのは、ぽつんと立ち尽くすガブリエラだけ。

呆然とした吸血鬼は、ただ考える。

 

 

私は、吸血鬼。

血を、命を奪うもの。

ずっとこうして生きてきた。

助けを求める声も、恨みの篭もった目も、生きたいと叫ぶ涙も無視して⋯⋯殺してきた。

人を殺して、生きてきた。

それ以外の方法では生きられないから。

自分の命の為に、他の命を奪い続けた。

 

 

アクタの事が頭を埋め尽くす。

血を吸っても拒絶されないこと。

恨まれも泣かれもしないこと。

私に笑いかけてくる、あの優しい笑顔。

 

 

その幸福を覚えてからすぐだった。

私が今みたいな、駄目な吸血鬼になったのは。

 

拒絶されると離してしまう。

涙されると怯んでしまう。

苦しい辛いと拒絶する人間の姿がアクタに重なり、彼に拒絶されることすら幻視させる。

 

何も考えず殺せばいい。

ずっとそうして生きてきた。

なのに今は、余計なことばかり考えている。

 

やめて。

拒まないで。

苦しまないで。

嫌がらないで。

逃げないで。

許して。

憎まないで。

ひとりにしないで。

 

そんなの無理だ。命を奪う側がそれを求めるなんて、なんて酷い傲慢だろうか。

けれど⋯⋯人間は、吸血鬼(わたし)と同じカオをしていて。

愛する人と同じカタチをしていて。

 

それを傷付けるとき、どうしようもなく、胸が切り裂かれるような痛みを覚える。

 

私は駄目な吸血鬼になってしまった。

アクタに出逢って救われたハズなのに、私は弱くなってしまった。

こんなんじゃアクタと一緒に居られない。

いつか空腹に耐えかねて彼を殺してしまうかもしれない。

そんなのいやだ。耐えられない。

 

でも⋯⋯どうすればいいか、わからない。

 

ごめんなさい。

ごめんなさい。

今日もダメだった。

私は弱いままだった。

アクタのために強くなれなかった。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

アクタ、私を見捨てないで⋯⋯。

 

 

ガブリエラは気付いていない。

自分がとても優しいことに。

他者を踏み躙るという行為に⋯⋯すなわち吸血鬼として生きるという行為に、致命的なまでに向いていないことに。

ただ混乱の果てにある彼女が呼ぶのは、いつも同じ人間の名。

 

 

「アクタ⋯⋯」

 

ふらふらと、吸血鬼は帰路につく。

同じ名前を何度も呟きながら。

ほとんど何も考えられず。

ただ、迷子の子供のような弱々しい足取りで。

 

 

◆◆◆

 

 

ドアを開ければ、龍川芥はそこに居た。

いつものように広い部屋のソファに体を預け、黙々と読書に取り組んでいる。

そんな彼がドアの音を聴き、こちらを振り向く。

その顔は、いつも通りの優しい微笑を湛えていた。

 

「おかえり、ガブ」

 

ただそれだけで、ガブリエラは決壊した。

人のように弱々しく走り、彼の胸の中へ飛び込む。

あたたかい。こばまれない。いいにおい。

自制なんて出来なくて、ぎゅっと彼に縋りついた。

 

「アクタぁ⋯⋯っ」

 

驚愕と混乱の声を漏らしつつも、やはり龍川芥は拒まない。

今はそれが、何よりもガブリエラを落ち着かせてくれた。

 

「アクタ、アクタ⋯⋯」

「どした。なんかあったのか?」

 

実は彼女がここまで弱るのは初めてだった。

今までも狩りに失敗することは何度もあったが、その度に気分は落ち込めどこれほど弱さを露出することは無かった。

 

なぜなら、弱さを見せて嫌われたくなかったから。失望されたくなかったから。

薄々大丈夫だとは思っていても、消しきれない1%の”最悪”が彼女をなんとか留めていた。

 

違ったのはふたつ。

ひとつはストレスの積み重ね。半年弱飲み込み続けたそれが、棘のように胸の内を刺し続けていたことによる衰弱。

そしてもうひとつは、最近彼に誓ったこと。

──いつか本当に笑顔にしてみせる。

上手くいえなかったが、つまりそれは幸せにするということで。だからずっと一緒に居てということで。

 

けれど結果はこのザマだ。今夜も彼の命を自分という危険に晒すと決定してしまった。

そして彼女は遂に決壊したのだ。彼女もまた、己の弱さを赦せないが故に。

 

ぐずぐずと子供のように、名前と謝罪だけが辛うじて聞き取れる程の言葉の羅列を吐き出す。

そして冷静に戻った頭の奥から、嫌われるのではという恐怖が湧き出す。

己の無様さに失望して、絶望して──。

 

しかしガブリエラは”最悪”には至らない。なぜなら彼女が縋りついたのは、龍川芥(最愛の恋人)なのだから。

 

「ガブリエラ、大丈夫か。どっか痛いのか。大丈夫、何があっても、俺はお前の味方だよ」

 

それが怯える子供に見えた彼女を宥めるために咄嗟に出た慰めだとしても。

それだけで、ガブリエラの”最悪”は否定された。

安堵が息を詰まらせ、強ばった体を弛緩させる。

ゆっくりと、いたわるように、芥は背中を叩いてくれた。

まるで、親が子供にするように。

 

ぽんぽんと背中を軽く叩く感触に慣れたころ、ようやくガブリエラは正気に戻った。

 

「落ち着いたか、ガブ」

「⋯⋯うん。ごめんなさいアクタ。嫌いにならないで⋯⋯」

「別にならねえよ。それに、こういうときは”ありがとう”でいーんだよ」

「⋯⋯ありがとう」

「どういたしまして」

 

仰向けでソファに寝転がっていた芥の腹の上にくっついたまま、ガブリエラはお礼を言う。

近くにある彼の顔の表情は笑顔で、それが何より胸を満たした。

暖かい気持ちが、触れ合った肌から染み込むようにして胸の中に満ちる。

 

幸せで、幸せで⋯⋯だからこそフラッシュバックした記憶はより鮮明に脳に焼き付いた。

『化け物』⋯⋯。思い出すと指先が冷えていく。不安が思考を邪魔してくる。

 

「アクタ、私は⋯⋯バケモノ、なのかな」

 

気付けばそう問うていた。

否定して欲しかったから。塗り替えて欲しかったから。自分にとって誰よりも大きな存在の人に。

 

「⋯⋯そりゃ視点によるだろ」

 

びくり、と体が震えてしまう。

曖昧な答えに目に見えて不安がったガブリエラを落ち着かせるように撫でながら、彼は慌てたように続けた。

 

「吸血鬼、人を喰う生物。それだけ聞けばほとんどの人間にとってはバケモノだし、怖がられもするだろうさ。

でもそれはお前のことをよく知らないやつだけだよ、ガブリエラ」

 

優しく、傷付けないようにと気を使われた手のひらが、髪を梳き、頭をゆっくりと撫ぜる。

それが何よりの答えで、もう彼女に怯えは無かった。

龍川芥は自分を決して傷付けない。優しい力加減が、くすぐったいけど拒めない柔い感覚が、そう伝えてくれたから。

 

「お前には心があって、優しさがあって、人と同じような魂がある。そんなこと少し触れ合えば分かるさ。

少なくとも俺は、ガブリエラはバケモノなんかじゃないって思ってるぜ」

 

芥は体を起こし、ガブリエラを持ち上げて隣に座らせる。

そして兄のように、少し荒々しく頭を撫でてから離した。

 

ガブリエラは自分の胸に触れる。

小さな鼓動を感じながら、問う。

その中にあると言われたものが信じられなくて。

 

「アクタ⋯⋯私にも、心ってあるのかな」

 

それを聞き、彼は少し憮然とした顔になった。

 

「⋯⋯無いと思ってんのか?」

「心ってたぶん、すごく綺麗で⋯⋯だから、私なんかがもってるのかなって⋯⋯」

 

ただ、俯く。

恋も分かる。愛も分かる。それはアクタに向けるものだから。

けれど”心”は分からない。それは自分の中のものだから。

曖昧で、定義が不完全で、見えも触れもしなくて⋯⋯何より尊く美しい、人間が持つ最高の機能。

それが自分にある、というのがどうしても信じられない。

 

するとアクタは苦笑して、再び私と体ごと向き合った。

 

「それじゃガブ、心ってのはどこにあると思う?」

 

アクタは人差し指で、ガブリエラの心臓の辺りを指さす。

 

「ここ?」

 

ガブリエラが悩んだ隙に、今度は頭⋯⋯脳を指す。

 

「ここか?」

 

混乱気味のガブを尻目に、今度は2人の視線の間に指が動く。

自然、指を挟んでお互いの視線がぶつかる。

 

「人とひとの間かな?」

 

よく分からず何も言えない様子に笑って、彼は手を伸ばしてきた。

人差し指を立てたのと反対の手で、ガブリエラの手が掴まれる。

暖かく優しい力に導かれるように抵抗をしないでいると、2人の手のひらは触れ、開いたまま合わさった。

大きさも、色も、形も、体温も。何もかも違う手のひらが、重なる。

 

「ガブ、俺はな。目に見えないものは”信じること”で初めて生まれると思ってるんだ」

 

手のひらの感覚に意識を奪われているガブリエラの耳に、するりと言葉が入り込む。

 

「想像してみて。この手のひらの中に”心”があるって。

あったかくて目に見えない、自分の”心”があるって信じてみて」

 

それは最も信用する人間の言葉故の思い込みだったのか。

体温や手のひらの感触を混乱した脳で処理しきれなかっただけなのか。

 

でも、確かに──ガブリエラはその手のひらで、心に触れた気がした。

 

鼓動するような。息づくような。

熱を持ち、柔らかく、金色にも銀色にも感じる、光の糸の集合体のようななにか。

そんなイメージの結晶体が⋯⋯心が、この手の中に、ある?

 

指を絡めたふたつの手のひら、その中の心が、自分に近づいてくる。

いや、合わせた手のひらを、アクタが優しくガブリエラの胸の方へ押しているのだ。

 

とん、とガブリエラの手が彼女の胸の中心に触れ。

そして彼女は、あたたかいものをその胸に感じた。

これはただの違和感? それとも本当に⋯⋯

 

「それでも信じきれないなら、俺も一緒に信じるよ。お前の此処に、心があるって」

 

それが、決定打だった。

自分と彼が信じたものが胸の内に在ることを、ガブリエラはもう疑えなかった。

 

「ぁ⋯⋯」

 

小さく漏れる声。

不思議な感触が、いつまでも残る。

とくん、とくんと普段より煩く鳴る心臓。

 

その中に、あたたかいなにかが宿った気がした。

 

「⋯⋯これが、心」

 

呆然と、呟く。

ぱっと顔を上げれば、してやったりと口角を上げるアクタの姿。

 

「ほら、お前にもあっただろ」

 

ああ、本当に⋯⋯敵わない。

完璧に、完膚なきまでに、ガブリエラは心の存在を信じてしまった。

 

そうか、私は⋯⋯心があるんだ。

バケモノじゃないんだ。

アクタと一緒でも、いいんだ。

 

ガブリエラは、再び龍川芥に抱きついた。

言葉はなかった。思考もなかった。躊躇も恐れもどこかへ消えていた。

 

ただ、貰った心を抱きしめる代わりに。

この心が愛を叫ぶ相手の胸へと。

 

熱い体温。

大きい体。

触れた胸が伝える、自分のよりも力強い鼓動の音。

その全てが愛おしい。

好き。

大好き。

 

「アクタ、ありがとう⋯⋯」

 

言葉はそれしか出なかった。

後の1000通りの愛と感謝の言葉は、渋滞を起こして喉の奥から出てこなかった。

けれど、それで十分だった。

だって、アクタが笑ってくれたから。

 

疑うまでもなく感じる、アクタの心。

彼の心臓の中にあるそれが、自分の心と触れ合う気がする。

あたたかい。

嬉しい。

気持ちいい。

すき。

夢心地で、ただ抱きしめる。

困ったようなアクタの声も、未だ消えぬ不安の声も、腹を疼かせる空腹も、今だけは。

 

吸血鬼は祈った。

この心が、決して消えることのないように、と。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

ベッドライトだけが灯る暗い部屋の中、ふたつの息遣いが埃を揺らす。

ひとつは銀の髪を広げながらベッドで眠る、吸血行為後のガブリエラ。

そしてもうひとつは彼女に下半身を占領されている、ベッドに座った龍川芥。

 

泥のような闇が、彼の心の中を埋めていた。

陰惨な笑みが橙色の灯りによって晒される。そんな人間失格は、自分に縋り付くように抱きついた吸血鬼の銀の髪にゆっくりと指を滑らしていた。

彼は誰に語るでもなく、呟く。

 

「驚いたよガブリエラ、君が心を問うなんて」

 

⋯⋯見えないものを信じる、ということ。

それは人が人たる所以。数ある原人という種の中でホモ・サピエンス種が生き残り人の祖先となったのは、彼らにだけ”見えないものを信じる”という能力があったからだ。

人を信じる。神を信じる。相手の良心を信じ、また悪心を信じ、夢が叶うと信じ、分かり合えることを信じた。その果てに、彼らだけが人間となったのだ。

 

”見えないものを信じる”ことは、すなわち人間の証明だ。

 

「君の体は吸血鬼でも、中にある心は人間のもの⋯⋯なのか」

 

それは。

なんというアンバランスさで。

 

なんて⋯⋯嬉しい誤算だろうか。

 

 

君に人の心が在るならば。

 

「──ガブリエラ、君は俺を殺したとき、いったい何を思うんだろう」

 

悲哀? 憐憫? 恍惚? 絶望?

孤独? 快楽? 虚無? 達成感?

何も思わない? それともそういう風に装う?

 

人間失格は嗤う。

そのどれもが待ち遠しいと。

誰に想われて死ねるなんて⋯⋯そんな贅沢、とっくに諦めていたと云うのに。

 

すうすうと寝息を立てる吸血鬼を撫でながら、思わず呟く。

 

「君の心に遺れるなら⋯⋯俺も少しだけ、救われるよ」

 

また懲りずに期待している。自分にとって都合のいい未来を。

けれど今は何故か、そんな都合のいい夢を見ていたい気分だった。

 

吐く息が部屋に融ける。

それは溜息だったのか、それとも別のなにかだったのか。

人間失格は最後に吸血鬼の頬を緩くなぞり、ベッドライトを消した。

 

後にはただ、人では見通せぬ暗闇が部屋を支配するだけだった。



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4.共為存

 

俺、龍川(たつがわ)(あくた)は、1日のほとんどを同じ場所で過ごす。

 

それはソファの上だ。

俺とガブリエラが住んでいる屋敷は昔の西洋貴族が住んでそうな感じの雰囲気だ。当然家具もそれっぽいのばかりなのだが、中でもこのソファはとても良い。

 

骨組みは飴色の木製で、滑らかな曲線とどっしりとした木の重みは高級感を感じさせる。

肌触りの良い革はワインのような赤色で、柔らかい感触はずっと座っていてもストレスなどとは無縁だ。

そしてでかい。何よりでかい。

 

つまり何が言いたいかというと、寝転がれると言うことだ。

自堕落を極めた俺は座ることすら億劫になることがある。そんな時このソファなら、ベッドまで行かずとも横になれる。

傍には机があり漫画やお菓子を置いておけるし、テレビもゲームもあるから退屈はしない。

 

そう、ここは俺の聖域なのだ。

引きこもりヒモニートの不夜城だ。

 

⋯⋯いやまあ、ほんとガブには頭が上がりませんよ。

この環境を揃えるために俺がした努力なぞほとんど無いからな。

いやでも待って欲しい。俺は彼女に血を差し出している。

これは等価交換にはならないだろうか。

ガブは俺を養い、俺はガブを養う⋯⋯はい、私が用意できるのは衣食住の食だけでございます。俺たちの衣も住もガブリエラ負担でございます。

 

⋯⋯死にてえ。

あーやる気失くした。

もう動けんわー。

今日は社会復帰がてらコンビニにでも行こうと思ったんだけどなー(嘘)。

俺は悪くない。

俺のやる気を奪ってくる世界が悪い。

 

だから今日も、俺はソファの上で過ごす。

 

そうだな⋯⋯。今日は映画でも見ようかな。

 

「アクタ、さっきから変な顔してどうしたの?」

「どうもしないよ。それよりガブ、映画見ていいか?」

「うん。私も一緒に見る」

「そうするか。⋯⋯じゃ、リモコン取りたいから1回退いてくれ」

 

ちなみにガブリエラは俺が馬鹿みたいなことを考えている間にもずっと居た。

寝転がった俺の腹の上にベターっとくっついて。

そう、俺の定位置がソファの上であるように、ガブの定位置はここなのだ。何故か。

ちなみに普通に座ってる時は隣に居て、寝転がった時は猫みたいに腹に乗ってくる。

 

何故俺にくっつくのかは前聞いた。

彼女曰く「あたたかいから」らしい。

吸血鬼は基本体温が人間より少し低いから、人肌の温もりがちょうどいいのかもしれん。

 

⋯⋯しかし退いてくれないな。

 

「ガブ?」

「⋯⋯んー」

 

確認のため問いかけてみるも、言葉にならない鳴き声だけ発して腹に居座り続けるぐーたら吸血鬼。

なんなら鳴きながら頬を胸に擦り付けたりしてる。

これはアレだ。

「動きたくないから、退いて欲しいならお前が動かせ」の意思表示だ。

 

「はいお姫様、ちょっと失礼しますよ」

「うー」

 

起き上がり、よいしょとガブリエラの脇の下辺りを掴んで持ち上げる。

しかし軽いな。体格的には順当なんだろうが、吸血鬼ってこんな軽いもんなのか?

ぽす、とガブを隣に座らせて、ちょっと離れたテーブルにリモコンを取りに行く。

 

ついでに映画を100倍楽しむためのコーラとポテチを取りに行こうとすると、グイッと強い力で服が引っ張られた。

振り向けば、ガブリエラが服の端をちょんとつまんでる。あの軽い体のどこにこんな力が⋯⋯。

 

「⋯⋯どこ行くの?」

「いや、お菓子を取りに」

「一緒にいく」

「ほんとにポテチとコーラ取り行くだけだぞ?」

「⋯⋯ダメ?」

「いや、駄目ではないけども⋯⋯」

 

こいつはたまにこうなる。まるで寂しがり屋みたいだが⋯⋯俺の読みは違う。

ガブは俺が逃げ出さないか見張っているのではないか、というのが俺の予想だ。

かれこれ半年経つが、たまに信用出来なくなるのだろう。

分かるぞガブ。人間は基本信用出来ない。

だから存分に疑えばいい。

 

ガブが服の端を握ったまま、とてとてとついてくる。

コーラやお菓子があるのは別室の台所だ。屋敷は普通の家よりは全然広いので、ちょっと歩かないといけない。

 

「ガブ」

「なに?」

 

俺は立ち止まり、彼女がつまんだ服の端を指さす。

 

「服が伸びちゃうから離してくれ」

「⋯⋯わかった」

 

いや俺は逃げないぞ。そんなに不満なら代案をくれてやろう。

 

「ほら、心配ならこっちを握れ」

 

彼女の前に手のひらを差し出す。

彼女の信頼を勝ち取るにはこれでいいはずだ。

それに服は体の一部では無いから切り離せるが、手はそうもいかない。

どうだこの完璧な代案⋯⋯いや唯一の懸念点は、ガブが力加減をミスって俺の手がグチャグチャになることだが、流石に無いと信じたい。

⋯⋯無いよな?

俺がちょっと顔を青ざめさせていると、ガブリエラはおずおずと俺の手を掴んだ。

良かった、思ったよりずっと優しい力加減だ。

やっぱり吸血鬼、人間のより手が冷たいな。

 

「⋯⋯」

 

ガブが俯いたままふるふると震えている。

立ち止まったままだし、このままじゃ台所まで行けないんだが。

 

「どうしたんだ?」

「⋯⋯わかんない。なんか、ヘンなかんじ。嬉しいのに、悲しいときみたいにお腹がきゅーってしてる」

「腹でも減ったのか? とりあえず行くぞー。部屋に戻ったら吸ってもらっていいから」

「⋯⋯うん」

 

吸血鬼のことはよく分からん。心はあるっぽいが、感覚とかは人間と全然違う可能性だってあるしな。

俺はどこか足取りが軽くなったガブリエラに歩幅を合わせながら、そのまま台所へと向かった。

 

 

 

お菓子は用意した。

部屋もちょっと暗くした。

映画の準備は完了した。

 

しかしここで問題がひとつ。

 

ガブリエラの場所がおかしい。

 

「ガブ、隣ならまだ分かるんだ。でもこれは分からん。

なんでお前は、俺の膝の間に座って俺を背もたれにしてるんだ?」

「⋯⋯ダメ?」

「いやダメではないけども⋯⋯」

 

ガブリエラは俺の足と足の間にすっぽりと収まり、背中を俺を背もたれにするみたいに完全に預けていた。

人間映画椅子龍川芥、ここに完成である。手が2つだからジュース2個持てるね、じゃねえんだよ。

⋯⋯だがまあ俺に拒否権は無い。経済的にも生物的にもガブリエラには一切頭が上がらない。むしろ「ご主人様」とか呼ばさせられてないだけありがたい位だ。いや、望めばやりますけどね。ヒモに拒否権なんてないんで。

ガブのサラサラの銀髪がちょっとくすぐったかったり、肌の柔らかさを布越しに感じたり、なんか甘い系の匂いを不可抗力的に吸ってしまう⋯⋯のはいつも通りだったわ。じゃあ別に問題ねえじゃん。

 

「はい、じゃ上映始めまーす。前の席の人は俺の足を蹴らないようにしてくださーい。あとびっくりして飛び上がったりすると俺の顎が破壊されるおそれもあるので気をつけてくださーい」

「わかった」

 

俺は映画の再生を開始する。

内容については語るまでもない。

よくあるヒーローアクション系の洋画だ。金と労力をかけた海外のエンタメ映画は基本的にハズレが無い。

 

派手な音が鳴り派手に画面内が動き、強かったり弱かったりする光が俺とガブを照らしている。

今は冒頭のアクションシーンだ。

 

と、ここで俺はあることに気が付く。

 

ガブがくっついてるせいで、ポテチとコーラのあるテーブルに手が届かねえ。

とんでもない計算違いだ。このままではなんのために台所まで行ったのか分からねえ。

なんとかガブリエラを揺らさないように、彼女の視界を邪魔しないように試行錯誤してみたものの、届かない。

3000のあらゆる手段をシュミレートした俺の脳内コンピュータは「普通に無理」という頼りなさすぎる結論を弾き出した。

⋯⋯と、なんとかなんねーかなと色んなとこを見てると、ガブリエラと目が合った。

彼女は首を思いっきし後ろに倒したみたいな格好で、背後の俺のことを見ている。

気づかれてたか。

 

「すまん、動きすぎた」

「大丈夫。それよりアクタ、困ってる?」

「実はな。ガブ、ポテチの袋取ってくれ」

「わかった」

 

ガブリエラはテーブルまで体ごと手を伸ばしてポテチを取ってきてくれた。

 

「すまん、ありがとな」

「いいよ」

 

俺はなるべく音を立てないように袋を開けて、ポテチをひとつまみ。

まあ机に戻すのは無理だし、この高そうなソファに起きながら食うしかないか⋯⋯と思っていると、ふと疑問が浮かんだ。

 

「なあガブ。吸血鬼ってポテチ⋯⋯というか飯食えんの?」

「んー、多分ひとによる。胃が無い吸血鬼もいるから。私は食べれるけど、大した栄養にならない。分解するのにエネルギーを使っちゃうから」

「ふーん」

 

手に持ったポテチを見つめる。

もう完全に体を捻らせてこっち向いてるガブの顔を見る。

 

「⋯⋯食べる?」

「たべる」

「⋯⋯食べるんだ」

 

食べるらしい。

いや本当に大丈夫なのかな⋯⋯と思いつつも、ポテチを持った手をガブリエラの口元に近づけていく。

 

ぱく。

もぐもぐ。

 

「ん、おいしい」

 

やだ何この子超可愛いんだが。

そう、俺は密かに憧れていたのだ。

動画サイトで見る、ペットに餌をあげる動画のシチュエーションに!

 

「⋯⋯もう1個食うか?」

「うん」

 

ぱく。

もぐもぐ。

 

「⋯⋯もう1個」

「ちょうだい」

 

ぱく。

もぐもぐ。

 

「⋯⋯」

「ありがと」

 

ぱく。

もぐもぐ。

 

⋯⋯ハッ!

完全に正気を失っていた。

なんだこれは。小動物に⋯⋯否小動物系美少女(種族:吸血鬼)に餌付けするのはこんなにも中毒性の高い行為だったのか。

いや餌付けという意味では吸血も餌付けみたいなもんかもしれないが、こう、癒しパワーが違う。

でもポテチって体に悪そうだし、ガブリエラの綺麗な肌に異常が起きても罪悪感ありそうだしなあ⋯⋯。

よし、やめよう。

これは偶に、本当に我慢出来なくなった時にちょっとだけやろう。

 

そんな癒し展開に夢中になりつつ、映画は進む⋯⋯いや正直映画どころでは無かったが。

 

と、俺はここで多大なる失念をもうひとつしていたことに気付いた。

 

⋯⋯ポテチ取ってもらった時、コーラも一緒に頼めばよかった!

 

人間あるある、同じようなこと2回頼むのにちょっと抵抗を感じる。

いや、まあもう机に手が届かないのは分かっているのだ。なのでガブに頼むしか道はない。

 

「あ、あのー。すいませんガブリエラさん、不躾なお願いで大変申し訳無いんですけど、コーラも取って貰えると助かります⋯⋯」

「どうして敬語?」

「ああいえ、別に無理なら無理で構わないんですけれども⋯⋯」

「アクタ、敬語は親しいひと同士は使わなくていい」

「⋯⋯お前は優しいな」

「? 敬語がなんか嫌だっただけ。でも撫でてくれるのはうれしい」

 

あまりの良い子さに思わず頭を撫でてしまった。

まあ嬉しいと言ってくれるならいいが⋯⋯やっぱりさっきの小動物扱いが抜けてないな。人間社会でやってたら即監獄行きだったかもしれん。

⋯⋯あ、もちろん油で汚れてない方の手で撫でたよ?

と考え事をしている間に、ガブリエラはコーラを取ってきてくれた。両手でしっかりホールドしている。

 

「ありがとガブリエラ」

「ん。アクタ、私が開けてあげる。上手くできたらもっかい撫でて」

 

謎にやる気のガブリエラはコーラを両手で掴む。

 

「お前ペットボトルの開け方分かるのか?」

「大丈夫、アクタがやってたのを何回も見た」

「いやそれよりそこで開けるのは危ないんじゃ⋯⋯」

 

ガブリエラはコーラを俺に見せるためかは分からないが、自分の頭上で蓋を開けようとしている。

微妙に斜めってるしちょっとまずいのでは⋯⋯と思った時には、彼女の腕に力が入っていた。

 

「まかせて」

 

そしてペットボトルに力が加わり。

 

パン! と言う音とともに、万力の如き力で握られたペットボトルは破裂した。

バシャー、とコーラの雨がガブリエラと俺に降り注ぐ。

 

「⋯⋯」

「⋯⋯」

 

部屋に満ちる静寂。

 

「⋯⋯ご、ごめんなさい⋯⋯」

 

そして頭から黒い液体をがっつり被った吸血鬼の、めちゃくちゃ申し訳なさそうな素直な謝罪。

俺、お前のそんな消え入りそうな声初めて聞いたぞ。

 

「はぁ。こりゃとりあえずシャワーだな。その後後始末だ」

 

しかしコーラ浴びるとこんな感じになんのか。なんか思ったよりベトベトすんな。

とにかく立ち上がり、ガブの手を取って風呂場に向かおうとする。

しかしガブリエラは動こうとしない。

どうしたのかと振り向くと⋯⋯なんというか、放心してるな。

 

「ガブ、行くぞ」

「でも映画が⋯⋯」

「いやもうそれどころじゃないだろ。ほら、いいからついてこい」

 

濡れ鼠状態の吸血鬼を風呂場に連行しながら、俺はすこし笑ってしまう。

こんな馬鹿みたいなこと起こるんだなーと思いながら。

全く、コイツといると退屈しないな。

 

 

 

風呂上がりのガブリエラの長い銀髪を拭いてやる。

コーラの匂いもしないしベタつきも無いな。これにて一件落着か⋯⋯いやまだソファとか洗わないといけないが。

と、やらかしからずーっと俯き気味で何も言わなかったガブリエラがようやく口を開いた。

 

「⋯⋯アクタ、ごめんなさい。私、褒められたくて⋯⋯。もうしないから、嫌いにならないで⋯⋯」

 

と思ったらなんだコイツは。まだうじうじしてやがるのか。

 

「ガブ、ちょっと待ってろ」

 

俺は小走りで台所に行き”それ”を持ってきた。

それは新品のペットボトルのコーラ。

トラウマにでもなったのか、ガブはびくりと反応する。

俺はそれを彼女に握らせて、なるべく優しく彼女の手を取った。

 

「いいかガブ、あんま力入れんなよ。そう、ここを持って⋯⋯で、回してみな」

 

ぐるり。プシュ、という子気味良い音とともに、ペットボトルの蓋が開く。

 

「今度はちゃんとできたじゃん」

 

ガブリエラが驚いたような顔でこっちを見てくる。俺はそれがちょっと面白くて笑ってしまった。

 

「お前ら吸血鬼はどうか知らないけどな。

人間は誰だって失敗するんだよ。特にやったこと無いこととかは。

でもそれを怖がるようになっちまったら、俺たちはなんもできなくなっちまう。

⋯⋯俺はそうだった。でもお前にはそうなって欲しくない。

だから。

失敗して落ち込んだり悲しくなったりした時はさ、俺に慰めさせてくれ。今みたいに、ただの失敗をいい思い出とか新しい成功とかに変える手伝いをさせてくれよ。

お前との関係は、そういうことが出来ないほど寂しいもんだって、俺は思ってないからさ」

 

ぐしぐしとタオル越しにガブリエラの頭を撫でる。

なんというか、やっぱり小動物扱い・年下扱いが抜けてない気がするな。

けれどまあ⋯⋯何にも成せなかった人間の戯言が、ちょっとでもコイツの慰めになってくれれば幸いだ。

 

ガブリエラは⋯⋯蓋の開いたコーラを両手で抱えたまま、こくりと頷いた。

その表情はタオルを被せていて俯き気味でよく分からなかったが⋯⋯なんかいつもより血色が良かったような気がした。いや、風呂上がりだから気の所為かもな。

 

「ほら、飲んでみな。風呂上がりの炭酸は最高だぞ」

「⋯⋯うん」

 

ガブリエラはくぴくぴと喉をならしながら、ちょっとだけコーラを飲んだ。

 

「ぱちぱちする⋯⋯」

 

目を輝かせながらコーラを持ち上げてそういう彼女は、もう落ち込んだ時の悲しげな雰囲気から脱却できたようだった。

 

「アクタ」

 

と、ガブリエラはしっかり中身の残ったペットボトルを差し出してきた。

 

「ありがと。遅れたけど、コーラ。上手く開けれたから、アクタにあげる」

 

それは。

風呂上がりで上気した頬もあってか、とても人間的な、可愛らしい笑顔で。

 

「⋯⋯おう」

 

そう返すのが精一杯だった。

なんだお前、シンプル超かわいいかよ。

 

俺は何かを誤魔化すように、受け取ったコーラをごくごくと飲んだ。

火照った体に、冷たい炭酸が気持ちいい。

⋯⋯いや顔が熱いのは風呂上がりだからだ。別にそれ以外の何かは無い。

と、ガブリエラがぽつりと呟いた。

 

「⋯⋯あ、関節キス」

「ゲッホ、ゴホゴホ!」

 

噎せた。

⋯⋯どこで学んでくるんだそんなこと。

別にいいだろ今更。血とか吸ってるんだし、そんくらい。

 

 

 

映画は佳境を迎えていた。

まさにクライマックス。畳み掛けるような怒涛の展開に、流石に目が離せなくなる。

俺たちはコーラ事件前の体制のまま、映画鑑賞を再開していた。

 

⋯⋯ちなみに掃除は大変だった。

正直めちゃくちゃダルかった。

でもなんかこう、ここで面倒臭がるとガブリエラにダメージが行っちゃいそうだったから頑張って早めに終わらせた。

ちなみにここ周辺だけ消臭スプレーの匂いが凄い。

しょうがない。一人暮らし経験皆無のヒモと、人間社会ビギナーの吸血鬼ではこれが限界でした。

 

そんなここ最近の現実クライマックスを遠い目で思い出してしまっていると、映画は爆弾をぶっ込んでくる。

 

そう、キスシーンである。

 

⋯⋯またタイムリーな。

そもそもこういうのって誰かと見てる時めちゃくちゃ反応に困るのに。

今日はより微妙な表情にさせる要素が加わってるんだよ。

いやまあ、洋画なんてほぼ百パーセントキスシーンあるので、映画鑑賞を続行したこっちのミスかもしれないが。

 

と、ガブリエラが振り向いてくる。

嫌な予感がするよう。「さっきのは気持ち悪かった」とか言われたら死んじゃうよ俺。

と不安がっていると、ガブは幸いにも全然違うことを聞いてきた。

 

「ねえアクタ。人間はなんでキスするの?」

「⋯⋯な、なんでそんなこと聞くんだ?」

「だって人間の口ってそんな機能ないでしょ? なのになんで唇を合わせたらうれしいの?」

「そんなこと俺に聞かれてもな⋯⋯」

 

こちとら恋人なんぞ出来たことないからな。

当然誰かとキスしたこともないし。

ちょっと悩みつつ、なんとなく思ったことを口に出した。

 

「行為に意味が付与されてるんじゃないか? 口をくっつけることに意味があるんじゃなくて、キスという行為に”相手に愛を伝える”という定義付けが成されている、とか」

「⋯⋯なんかちがう」

 

なんか違うらしい。いやまあそうだよな、こういう答えって多分求められてないよな。

俺はしばらく苦心して⋯⋯そんで、一応といった感じで回答を答えた。

 

「必要無い行為、普通は発生しない行動だからこそ⋯⋯”これをする相手は特別だ”ってことなのかもな。

つまり、キスは”相手への最高の特別扱い”、みたいな」

 

ど、どうでしょうかお姫様。

 

「んー、いちおう納得した」

 

どうやら及第点らしい。

ほ、と息をついてソファに背中を沈めた俺に、ガブリエラはその爆弾を投下してきた。

 

 

「キス、してみる?」

 

 

時間が、止まる。

いや、止まったのは俺の時間だけだ。

走馬灯のように情報が脳内を錯綜しだす。

キス。唇を合わせること。恋人同士がするやつ。

ガブリエラの桜色の唇から目が離せなくなる。

”相手への最高の特別扱い”⋯⋯。

 

「⋯⋯馬鹿言ってんじゃねーよ」

 

俺はチキンだった。

でもそれで良かった気もした。

ガブリエラは多分、人間の文化のことなんてほとんど理解してないだろう。

そんな相手の無知に漬け込む詐欺師みたいなこと、俺は彼女にしたくなかった。

 

「それはな、そんな軽々しく言っていいセリフじゃねえんだよ。⋯⋯多分」

「⋯⋯ん、わかった」

 

いや、吸血鬼にそのセリフが必要になるとも思えんが。

そもそも吸血鬼の恋愛関係ってどんなのなんだ? 繁殖方法は? そのときキスはすんのか?

変なことをグルグルと考え出した俺は、もう映画の内容も⋯⋯ガブリエラがぽつりと漏らした呟きも、聞き取ることは無かった。

 

 

「特別って、伝えたかったのに」



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5.額縁

「――吸血鬼って、なんだと思う?」

 

部屋に、男の声が響いた。

 

そこは不気味な部屋だった。

明滅する古びた電灯が、その中で佇む2つの人影を薄汚れた壁に写し出している。

 

弱い明かりが照らす室内は猥雑とした内装を隠す気もなく広げている。床は何らかの資料や器具が広がり足の踏み場も無く、複数個ある長机の上も空いたスペースが見当たらない程に様々なものが散らかっている。

天井や壁は配管を隠すことも無く、まるで血痕のような汚れも幾つか見受けられる始末。

 

この「研究室」が学校にある理科室と同じ間取りをしていることは、恐らく初見の人間には分からないだろう。そのくらい室内は混沌で満ちていた。

 

泡を浮かべる液体で満ちたフラスコ。

蒸気の様なものを排出する謎の装置。

天井から吊り下げられた人骨の様なもの。

床に散らばる様々な言語で書かれた論文達。

血色を隠そうともしない写真の群れ。

ケージに入れられた小さなモルモット数匹。

点滴台にセットされた輸血パック。

錆びたノコギリ。

乾いた血がこびり付いた鉈のような刃物。

ガスマスク。

水槽の中に浮かぶ数匹の死んだ魚。

部屋の隅で蠢く”なにか”。

ホルマリン漬けにされた赤い眼球。

同じくホルマリン漬けの脳。

謎の生物達。

見るもおぞましく知るも恐ろしい、謎の「実験器具」の数々。

 

そして……様々な機械が装着された殊更目立つガラスケース、その中で弱々しく蠢く赤黒い塊を覗き込む、ひとりの男。

 

彼は痩躯の長身だった。

彼は何故か全身を包帯でぐるぐる巻きにしており、容姿はほとんど判別つかない。

彼は白衣を纏い、学者の様な服装をしていた。

 

包帯の男はガラスケースの中の赤いものを凝視しながら、手元の紙にガリガリと何かを書き込んでいる。

「研究対象」を見つめる大きく見開かれた目には、最早不気味な程純粋な熱意と好奇心があった。

 

そんなマッドサイエンティストを絵に書いた様な男は、愉しそうに質問を繰り返す。

 

「ほら、吸血鬼とは何だと思う? 答えて答えて。なあに、これくらいいいだろう? 僕の好奇心を少ぉし満たすだけ、無理難題でもなんでもない。それで僕と君の良好な関係が保たれるんだから願ったりだろう、ね? ほうら、分かったら早く答えてくれよ」

 

男は愉快そうに、まくし立てるように言う。

その間も問うた相手には顔を向けず、実験器具を弄り何かを書き込むことを繰り返している。

 

そんな男に質問された相手――部屋の入口、入って来た場所で立ち止まっていた、この部屋にいたもう1人の人物は、ため息ひとつの後にゆっくりと答えた。

 

「⋯⋯吸血鬼は、人間の敵です」

 

その声は男のものと違い、高く、凛とした、涼し気な音色で……一欠片の愉悦も含まれていない、鋭い声だった。

 

そこに居たのは、喪服のような黒いセーラー服に身を包んだ、黒髪黒目の少女。

鋭い雰囲気のある少女だ。

まるで日本刀のような……触れるものを傷つける鋭利さが何者も寄せ付けない美を持つような、そんなことを思わせる少女。

 

そんな少女に、男は作業の手を止めずに言う。

 

「いやいや、そんな抽象的なことを聞いてるんじゃなくて、生物学的な話だよ。僕が聞くってのがどういう意味か分からないほど馬鹿じゃ無いだろう? ほら、ネクストアンサープリーズ?」

「……ですから、奴らは人間の敵です。あなたこそ、私に聞くのがどういう意味か分からないほど間抜けだったんですか?」

 

ギラ、と鋭い視線が男に送られる。

しかし男は意にも介さない。会話によって全く態度が変わらない。それもそのはず、彼は少女の方など見もせず、ひたすらに「研究」に明け暮れているのだから。恐らくこの問答さえ、片手間の暇つぶし程度の意味しかないのだろう。

しかし声音にはそんなことをおくびにも出さず、軽薄な声で包帯男は語る。

 

「はぁあ、つまんないねえ。まったく、”メタルスライムってなんですか”って聞いて”モンスターです”って答えられた気分だよ。つまるところ裏切られた気分。もうちょっとこう、”スライムの一種だと思います”とかさあ、そういう生物学的なの無いの?」

「ありません」

 

バッサリと。

その鋭い言葉に、男は今度こそ少し肩を落とした。

 

「うわぁー、仮にも命の取り合いしてる相手にその言い草、ドライだねぇ。カワイソ。そんな興味無いですみたいな態度じゃあ、君に殺された吸血鬼達も悔しくて死ぬに死にきれないでしょ、ねぇ?」

 

そう嘯き、ガラスケースの前に戻る。

中に閉じ込められた赤黒い何かは、ギーギーと鳴くように蠢いていた。

それを煽るようにコンコンとケースを弾きながら、包帯の男はわざとらしく呟く。

 

「残念だねえ。キミ振られちゃったよ。あの子、キミに殺意はあったけど興味は無いってさ」

 

ギーギーと、赤黒いそれは苦しげに蠢く。

ガラスケースの中の、血色の大きなアメーバのようなそれが”吸血鬼の成れの果て”であることを、男も少女も知っていた。

そして、それをこの場に持ってきたのが黒い少女であることも。

嫌な空気を切り替えようとするかのように、少女はゆっくりと口を開く。

 

「……そろそろ本題に入っても?」

「ノンノン。僕らは協力関係でしょ? そんな邪険にしないでさぁ、もうちょっと楽しい楽しいお喋りに付き合っておくれよ」

 

嗤いながら、愉しそうに、男は喋りを続ける。

笑顔の欠片も見せない少女のことを嘲笑うように。

 

「僕も最近分かったんだよねぇ、吸血鬼達の正体。これも君の持ってきてくれた”サンプル”のおかげなんだし、君にも教えてあげようと思ってさ。いやあ、もし僕が何処かの国に属してたら、絶対馬鹿な実験に付き合わされただろうなあ。やっぱりしがらみなんて持つもんじゃない、僕の知識欲の邪魔でしかないよアレは」

 

独り言のような長台詞を愉快そうに語りながら、彼は注射器を手に取った。

赤い液体の入ったビンの蓋にそれを刺し、液体を吸い上げていく。

ピュッ、と注射器の先から漏れた液体が机を濡らすのを、少女は無表情で眺めていた。

 

「ああ話題が逸れたね。そう、吸血鬼の正体についてだ」

 

男はそんな少女に向けてでは無く虚空に向かって話す。

そして彼はケージの中からモルモットを1匹、乱暴に鷲掴んで取り出した。

 

手の中でキーキーと鳴き暴れる小動物を強く握った男は。

 

ブスリ、と。

なんの躊躇いもなく、注射器の針をモルモットの首へと突き刺した。

 

「吸血鬼の正体はねぇ、細胞の集合体なんだよ。彼らは人間に取り付いて、その中で細胞分裂することで種の保存を実行してるのさ。吸血鬼の細胞は空気中では存在出来ないから、生き残る為には居心地のいい宿主が必要なんだね。

要するに、吸血鬼ってのはちょっと変わった寄生生物なんだ」

 

モルモットに、ドクドクと赤い液体が注入されていく。

小さな悲鳴を発しながら鳴く被検体を、男は興味深そうに、少女は目を細めて見ていた。

 

そして、包帯男の手の中で暴れるモルモットは……キーと大きく鳴いた後、目から血を流して動かなくなった。

くたりと力の抜けた肉の塊が、そこから溢れる血が、男の手に巻きついていた包帯を赤く染めていく。

 

死んだモルモットの恐怖に見開かれた瞳は――凡そ生物のものと思えない、毒々しい赤色に染まっていた。

 

注射器で注入していた赤い液体の入ったビン、そこにはこう記されていた……「Vampire(吸血鬼の) cells(細胞)」と。

 

「ま、こんな小動物じゃ宿主足りえないみたいだけどね」と死体をプラプラと振りながら嗤う男に、少女は険しい表情で問う。

 

「⋯⋯つまり、吸血鬼はその”変わった寄生生物”の被害者だと?」

 

その声は敵意に満ちていた。

それは命を弄んだ蛮行への怒気か、それとも。

そんな刺々しい声音を軽く受け流し、男は飄々と続ける。

 

「ま、別にどう思うかは勝手だよ。僕は生物学者で、正義の味方じゃないからね。

……でも面白いとは思わないかい? 彼ら、つまり吸血鬼達は明らかに”自分は人間では無い”と認識している、つまり記憶や認識に影響が出るほど脳を細胞に支配されている」

 

いや、飄々と、では決して無い。

その語り口は明らかに熱を帯びていた。

粘性を感じるほどの執着。熱さを感じさせるほどの欲望。

それが男の――研究者の声にはあった。

唾が飛ぶほどの熱量で、男は独りでに語り続ける。

 

「カマキリを操るハリガネムシなんて比較にもならない! 人格や記憶は残しつつ、人の脳を容易にコントロールし、けれど完全に支配する訳でも無いなんて! 自我を残し人であることを残し、けれど吸血鬼として生まれ変わらせる、その目的は!そもそも吸血衝動のメカニズムは、人の血液からエネルギーを取り出す手段は、人の細胞と同化して再生能力を有する仕組みは一体! 謎だ謎だ、全てが謎に満ちている!

嗚呼、知識欲が抑えられないよ! まったく吸血鬼というのは、度し難いほど興味深い! 研究すればするほど、知れば知るほど知りたいことが増えていく! 最高だ! 最高に過ぎるよ! 君もそう思わないかい? いやそう思うだろう!?」

 

モルモットの死骸を遂には握り潰しながら語る男に、黒髪の少女はため息をついて吐き捨てるように返答した。

 

「⋯⋯知りませんよ、そんなこと。吸血鬼は、人を襲う”正しくないモノ”。正体がなんであれそこに変わりはありません。

吸血鬼は、人間の敵です。だから私は彼等を斬らなければならない」

 

そう言ってヒートアップする男の言葉をバッサリと切り、少女はその鋭い眼を薄暗い部屋の一点に向ける。

 

そこには鞘に収まった刀があった。

艶やかな黒い鞘に、最低限の装飾が成された柄の、誰が見ても日本刀と分かる代物。

纏う気配が他の実験器具達とはまるで違う。その雰囲気は、何処か黒い少女の持つそれと似ていた。

 

論文を踏みつけながら少女は部屋を歩き、乱雑な研究室にやけに似合わないそれを手に取る。

 

「私は約束通り新しい刀を貰いに来ただけです。直ぐに出ます」

 

それを聞き、クールダウンした包帯男は血濡れの手を拭きながらお喋りを再開する。

そこには先程の狂気すら感じる熱は無く、ただどうでもいいような軽薄さだけがあった。

 

「――ああ、それね。合金の銀含有率を10%上げたスグレモノだよ。試しに吸血鬼の細胞を斬ってみたら、これが豆腐を切るみたいで。モチロン強度も問題ナシ。”どうのけん”から”てつのけん”って感じかな? ともかく、吸血鬼に対する有用性は保証するよ」

 

少女が刀を鞘から少しだけ出すと、その刃が薄明かりの中でギラリと光った。

 

「……良くこんなもの作れますね」

「いやあ。僕は知り合いに頑丈な銀合金の理論を提供してるだけだけどね。寝る前の良い暇つぶしになるんだよこれが」

「……はぁ。あなたが変人でさえ無ければ、我々吸血鬼狩りの技術は更に進歩していたでしょうに」

「そりゃ残念だったねえ。ま、僕はしがらみなんて御免だよ。君達には”僕が知りたいと思ったことを知るため”に協力してもらってるに過ぎないからねぇ」

 

くつくつと笑いながら、包帯男は刀を再び鞘に収めた少女を見ながら続ける。

 

「分かってると思うけど、もし研究材料になりそうなものが手に入ったら持ってきてね。肉でも血でも歯でもいいから。吸血鬼って死ぬとすぐに灰になっちゃうから、こんなこと吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)にしか頼めなくて」

「手に入れば、そうします。それに応じて武器を提供してくれるのは、こっちとしても助かりますから」

 

少女は刀を黒い布製のケースに仕舞い、肩に背負った。

そのまま部屋を出ようとする少女に、後ろからニヤついた声がかかる。

 

「復讐パワー、期待してるよ八雲(やくも)ちゃん」

 

少女は、今度こそ苦々しげに表情を歪めた。

鋭い目で非難するように振り返り、吐き捨てる。

 

「⋯⋯変人はデリカシーも無いんですね。さようなら、奥戸(おくと)さん」

「そこは博士(ドクター)って呼んで欲しいなあ⋯⋯あら、行っちゃった」

 

バタリ、と扉が閉じる。

奥戸と呼ばれた包帯男はコツコツという足音が遠のくのを聴きながら、改めて研究机に向き直った。

死んだモルモットをゴミ箱に放り投げる彼は、何が楽しいのか口元からニヤニヤとした笑みを絶やすことはなかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

「アクタ、あーん」

 

やあみんな。俺の名前は龍川芥。人間失格気味、吸血鬼に養われてるプロのヒモ(18歳)。

今日は何故か、夜食のパスタを同居中の吸血鬼ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトちゃんにあーんして食わされそうになってる。

……うん、意味が分からない。どうしてこうなったかも分からない。俺は普通に飯を食おうとしていただけだったんだが……。

じりじりと近づいてくるフォークをいつまでも無視出来ず、俺は意を決してガブリエラに聞いてみることにした。

 

「⋯⋯ガブ、これは一体どういうことだ?」

「? あーんしてる。アクタ、口開けて」

「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくてだな⋯⋯」

 

俺の隣に座っているガブリエラはフォークをグーで握りしめ、そこに一口で収まるか不安なほどパスタを巻き付けて俺の口に押し付けようとしている。

ステンレス製のフォークの持ち手がねじ曲がって見えるのは多分見間違いじゃないだろう。ガブ、食器はそんな力いっぱい持つものじゃねーんだよ。

 

⋯⋯そう。この「あーんをされている」という状況、遠目から見れば甘い光景かもしれんが、当事者として言わせてもらうと……ハッキリ言って怖い。

フォークは顔が口のどっかに刺さりそうだしパスタは多すぎてどこかしら汚れそうだし、なによりこの”慣れてない感”がどんな悲劇を生むか予想出来ないのが怖い。

そんな訳でまず動機から解明し、なんとかこの状況を脱出したかったのだが⋯⋯。

 

「これをすると喜ぶって知った。あーんしてもらったらドキドキするって。アクタどう? ドキドキする?」

「おう、(怖くて)超ドキドキだ」

 

このなんというか、善意100パーセントみたいなガブリエラの態度を見てると簡単に断れねえな⋯⋯。

 

「ほら、口開けてアクタ。あーん」

 

じりじりと近づいてくるフォーク。

 

……はあ、仕方ない。

覚悟を決める。どうせこいつが本気なら断れないのだ。ならせめて、善意には善意で返そうじゃないか。

 

「あ、あーん⋯⋯んぐっ」

 

意を決して、フォークに絡まったパスタに食らいつく。

以外にも悲劇は起こらず、俺は五体満足のままパスタを頬張ることができた。

……味とかまるで分からん。

そんな感じで口いっぱいのパスタをなんとか咀嚼して飲み込むと、隣の吸血鬼はどことなく上機嫌そうな雰囲気を出していた。

 

「どう、おいしい?」

「あ、ああ。おいしいよ」

 

別にお前が作ったわけじゃないだろ⋯⋯と思っていると、ガブリエラはまたフォークを不器用に動かし出した。

おいお前まさかとは思うが⋯⋯。

 

「それじゃ今日は全部あーんしてあげる。アクタがおいしいと私もうれしい」

「⋯⋯ヨロシクオネガイシマス」

 

吸血鬼サマが相手だ、ただの人間に拒否権は無い。

俺は甘んじて、口内を数回刺し口元と服をベトベトに汚す不器用な”あーん”を受け入れた。

 

ま、お前が笑ってくれたんなら、恐怖に耐えたかいはあったかな。

 

 

 

 

――ピンポーン。

 

その音が邸内に響いたのは、ちょうど汚れた服の後始末が終わったときだった。

滅多に聞かない、意識を啄く玄関チャイムの音。

この屋敷を訪れる客は少ない⋯⋯というか素直に歓迎できる相手は1人、いや1体しか居ない。

 

そう、俺たちは隠れ住む身だ。大っぴらに日の下を歩けない。

なんせ吸血鬼と、それに魅入られた人間だ。いつどちらが何を引き寄せてくるか分かったもんじゃない。

警察や吸血鬼狩りに嗅ぎ付けられるかもしれない。吸血鬼が縄張り争い的な感じで襲ってくるかもしれない。

もしそうなったら逃げるか、それとも全て失うか……。

つまり、俺たちの日常は、案外不安定な土台の上に乗っているのだ。

それを、再び強く思い起こす。

 

そもそもこんな夜中に――俺たちが起きてる時間に訪ねてくるのは、吸血鬼か厄介な人間かの二択だ。

自然、ガブリエラと顔を見合わせる。

 

とりあえずふたりで玄関まで行き、ガブに判断を委ねた。

 

「⋯⋯音も匂いも知ってる。出ても大丈夫」

 

とのことなので素直にドアを開ける。

はたして、そこにいたのは顔見知りの吸血鬼だった。

 

晩上好(ワンシャンハオ)、芥サマ。いつもの配達に参りました~」

「どーもっす、フーロンさん。いつもありがとうございます」

 

ぺこり、とお互いに軽くお辞儀する。

キョンシーとかが着てそうな中国系の伝統的な服を着た、中国の(ワン)家というところの吸血鬼、晚福龍(ワンフーロン)。それが来客の名前だった。

 

「フーロン、なにしにきた」

「わっひゃあ! 居たんですかガブリエラサマ⋯⋯。い、いやぁ本日はお日柄も良く⋯⋯あの、もしかしてご機嫌斜めでらっしゃいますか? お願いですからワタクシに八つ当たりはおやめ下さいね、多分楽しくも美味しくもありませんので⋯⋯」

 

晚家は吸血鬼としては珍しく、取引や商売を行う家らしい。そしてフーロンさんは言うなれば日本支部店長という、かなり凄い吸血鬼だそうだが⋯⋯ガブ相手に毎回このビビり様じゃ、とてもそうは思えねーな。

 

「別にガブはなんもしませんよ。それより、今日はいつもより早いっすよね。なんかあったんすか?」

「ん、なんもしない」

「⋯⋯それがですね、実はガブリエラサマにお願いが御座いまして⋯⋯その、ご気分を悪くされなければ嬉しいのですが⋯⋯」

「⋯⋯なに」

 

フーロンさんはおっかなびっくりといった感じで喋っている。

大人な雰囲気にしては小柄な体型と、声からも容姿からも性別が分からないミステリアスな雰囲気の吸血鬼(ひと)なんだが……こうも見た目女の子のガブにびくびくしてるのは、マジで違和感しか無い光景だ。

 

そもそもこの屋敷だって俺の飯だってこの人達のおかげなんだから、もうちょっと強く出てもいいと思うが。

 

ちなみに晚家とガブの取引内容は「ガブリエラが敵対せずたまに依頼を受けてもらうかわりに、食料品やその他の物資を提供する」というものだ。

 

⋯⋯はいそうです、俺はただのヒモでございます。

しかしそんな緩い条件で吸血鬼に不利そうな経済的援助を受けれるなんて、ガブリエラってもしかしてすげぇ吸血鬼なのかもな。

 

蚊帳の外の俺がそんなことを考えていると、吸血鬼同士の話はかなり不穏な空気を感じるものになっていた。

 

「⋯⋯最近、世朱町付近で吸血鬼(どうほう)が襲われることが増えています。うちの吸血鬼もふたりやられました。しかも、その内のひとりは戦闘員です。生半可な腕じゃない」

吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)? 吸血鬼?」

「恐らく吸血鬼狩りだと思われます。戦闘員がやられた現場に、折れた刀が落ちていました。銀が使われてるやつです。そんな武器を使うのは吸血鬼狩りしか居ない」

「⋯⋯私になにをしてほしい?」

「今日、そこそこ大きな”仕事”があります。その見張りをお願いしたいのです。ガブリエラサマなら吸血鬼狩りにも遅れを取ることはないでしょうし」

「ん、わかった」

 

吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)⋯⋯銀の武器で吸血鬼を狩る人間。

 

銀は吸血鬼の弱点のひとつで、細胞をグズグズに焼くらしい。思わずイメージしてしまう。ガブリエラが銀の刃に貫かれる光景を。

……きっと大丈夫、なんて言える性格じゃないんだよな俺は。どこまでも後ろ向きに、吸血鬼狩りという脅威と対峙するのを想像してしまう。

そしてそんな危険にガブが飛び込むことに、俺はひどい抵抗を感じた。

 

「アクタ、用事ができた。すぐ帰るから待ってて」

「あのー、すぐ帰られるとワタクシちょっと困るというか⋯⋯いえなんでもないです! できるだけ早く終わらせますから睨まないで!」

 

普段通りのガブリエラに少し安心しつつも、まだ拭えない不安を胸の内に押し込む。

……ガブなら多分大丈夫だろ。聞く感じめっちゃ強いらしいしな。

いや、例えそうじゃなくなって……俺に出来ることなんてなんにもないのだ。俺は結局、吸血鬼に飼われてる非常食代わりの人間でしか無い。

 

だからこの場で俺が言えることはただひとつだけだ。

 

「……行ってらっしゃい、ガブ」

「いってきます、アクタ」

 

そうして、吸血鬼ふたりは闇に消え、後には食料品の入った袋と俺だけが残った。

俺はなんとも言えない無力感を噛み締めつつ、袋を持って屋敷の中に戻り、分厚いドアを閉めた。

 

 

 

 

「⋯⋯つめたい」

 

ガブリエラはビルの上に居た。

空では月を雲が覆い隠している。

冷たい風が吹き抜けるが、吸血鬼はその程度では凍えない。

だから、冷たいのは心だ。

芥にもらった心が、彼の温もりを忘れてしまうと泣いている。

 

目下では吸血鬼達が”仕事”に勤しんでいる。

いつ終わるんだろうな、とぼんやり眺めていると、ふと近づいてくる気配に気がついた。

 

まるで吸血鬼のように、ビルの屋上から屋上を飛び移って移動するひとつの気配。

しかし匂う⋯⋯鼻につく、不快な銀の匂いが。

 

ガブリエラが振り向いたとき、そこに彼女は立っていた。

 

喪服のように黒いセーラー服。

鞘に収まってなお銀の異臭を放つ刀。

こちらを射抜くような、敵意丸出しの鋭い眼。

 

刀使いの、吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)

 

「【刀使い】⋯⋯」

「銀髪に少女型の吸血鬼⋯⋯まさか、お前【四枚羽】か」

 

視線がぶつかる。

敵意が、殺気が、両者の中心で爆ぜる。

ガブリエラはちらりと下を見た。

その隙が見逃されたのは、両者の戦力差ゆえか。

眼下では、吸血鬼達が”仕事”を続けていた。彼らが仕事を終わらせるにはもう少し時間がかかるだろう。

 

「待って」

 

ガブリエラの提案に、刀を抜こうとしていた少女の手が止まった。

訝しげな表情で続きを促す。

 

「私はべつにあなたに興味無い。逃げるなら見逃す」

 

それは言外に語っていた。

”戦いになればこちらが勝つ”と。

今度は少女が問う番だった。

 

「質問だ。今まで人を殺したことはあるか」

 

鋭い眼が、嘘は許さないと射抜く。

そんな眼を意に介さず、吸血鬼は答えた。

 

「もちろん。むしろ殺したことが無い吸血鬼って、いるの?」

 

銀の匂いが強くなる。

少女が刀を抜いたのだ。抜き身の刃が三日月のように夜を照らす。

もはや吸血鬼狩りの側に、逃走も敗北も選択肢には無かった。

 

「……よく分かった。吸血鬼、お前はここで斬る」

 

白刃を突き付け、吸血鬼狩りは宣言する。

その殺意に、ガブリエラの瞳が細められた。

そこに込められているのは殺気に反応した獣の敵意⋯⋯では無い。

心ある者の、大切なものを否定された時の憤怒。

 

「⋯⋯私は”いってきます”って言った。それは”帰ってくる”ってこと。”おかえり”を貰いに帰るって約束」

 

相手にとって意味不明なことを言うのは、まるで幼い子供のよう。

しかしその顔は、姿は、最早少女のカタチを取っているのが意味をなさない程に”化け物”で。

 

みしり、と。

何かが軋む音がした。

それはガブリエラの体内から響く音だった。

もし彼女の背中を見るものが居れば、何かがその皮膚の下で蠢くのが分かっただろう。

背中、肩甲骨のあるあたり。

その身体の下で、蠢く何かがガブリエラの白い肌を突き破って外に出ようと暴れている。

 

「私を斬るってことは、私を殺すっていうことは……私がアクタに嘘をついた事になる。アクタを裏切った事になる。

そしたら嫌われちゃうかもしれない。

見捨てられるかもしれない。

おまえのせいで、私がアクタと一緒に居れなくなるなんて。

そんなの……絶対に、許せない」

 

支離滅裂な言葉を、紅い瞳の彼女は羅列する。

その表情は見えない――俯いた事でできた陰と、銀の髪が顔を隠しているから。

ただ、その紅い瞳が。

爛々と見開かれた眼が、”敵”を睨みつけていた。

 

ぶちり、と。

遂に皮膚は裂け、その下から紅い肉の塊が飛び出した。

巨大な、おぞましく赤黒い血の色をしたそれは……相対する人間から見れば、まるで大きな翼の様な。

 

「アクタとの約束を邪魔するなら――殺す」

 

月下、吸血鬼(かいぶつ)が顕現した。

 

 

 

吸血鬼は通称「翼」と呼ばれる戦闘器官を持つ。

 

それは彼らの背中から肉を突き破って出てくる、第3第4の腕のようなもの。

血のように赤黒く平べったいそれを、吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)は翼と仮称する。

 

そして翼の大きさと数は、吸血鬼の強さを示す。

翼が1本の吸血鬼は、成り立てで大した強さは無い。

翼が2本の吸血鬼は、吸血鬼として成熟していて手強い。

更に2本の中でも特別翼が大きい者たちは、100年は生きた強力な者たちだ。

 

黒いセーラー服の少女、八雲(やくも)(るい)もそれは知っていた。

彼女が刀を犠牲にしてまで辛勝したのは、普通サイズの翼が2本の吸血鬼。

それゆえ、その特徴が警告とともに流布されている【四枚羽】という吸血鬼がとてつもない強さだということは簡単に予測できた。

 

そう警戒する吸血鬼狩り、八雲泪が構える前で。

銀髪の少女――否、その形をした吸血鬼の背から、血色の翼が飛び出した。

それはまるで、皮膚の下にある赤い肉をそのまま空気の元に晒したかのようなおぞましさで。

けれど矢張り、その巨大な肉の塊は、天に手を伸ばすかの様で――何処までも”翼”だった。

 

ばさり、と翼が広がる。

少女の後ろで、夜を冒涜するように。

【四枚羽】と呼ばれた少女のその背には、しかし……。

 

「(これは、片翼――?)」

 

それはまるで、蝶の羽のような。

上下一対の翼が、少女の右側だけに生えている。

左の翼は、上も下も存在しない。

それは何処か歪で、それでも何処か美しい光景だった。

紅い紅い片翼を携えた、美しい吸血鬼。

それは片方の羽をもがれ地に落ちてきた天使か。

あるいは番を待つ比翼の鳥か。

それ程の魔性。

 

片翼の吸血鬼が、口を開く。

銀髪の間から覗く紅い瞳は――その美貌をかき消すような、爛々と光る殺意と狂気で満ちていて。

 

「――死んで」

 

泪の眼前に”紅い死”が迫り――。

 

轟音。

衝撃。

 

屋上に、大穴が空いていた。

コンクリートは砕け、捻じ切られた鉄筋が覗き、瓦礫が階下の部屋に見える。

まるで爆発でも起きたかのような破壊痕。

それを作った下手人は、不思議そうに首を傾けていた。

 

「……?」

 

ガブリエラの紅い瞳が見るのは、彼女の巨大な紅い翼。

まるで意図しない動きをした自分の手を確認するように、蠢く翼を見つめている。

 

「……当たったと思ったのに」

 

八雲泪は――先程の立ち位置から大きく離れた場所で、片膝をつきながらの無理な体制で刀を構えていた。

彼女の息は荒く、頬を冷や汗が伝っている。

その左腕の肘から上辺りの服が破れ、擦過傷と内出血を引き起こした血色の肌を空気に晒していた。

 

「(速、すぎる……っ! 破壊力も異常、掠っただけで特殊素材の服が破れた! コイツは……危険だ! とんでもなく!)」

 

吸血鬼が片翼の二枚羽と知った時、泪の胸中には僅かだが安堵や油断に似たものがあった。

当然だろう。【四枚羽】という未知の脅威が、二枚羽という現実的な脅威に落ち着いたのだから。

しかし……甘かったと言わざるを得ない。

殺気を感じた瞬間、勘に任せて我武者羅に床を蹴っていなければ死んでいた。ぐちゃぐちゃになって瓦礫の中に混ざっていた。

そう確信できる威力と速度。

 

しかしそれを齎した災害のような吸血鬼は、幼い少女みたいに首を傾げている。

それが堪らなく恐ろしい。

不気味で非現実的で悍ましい。

 

だが……八雲泪は引かなかった。

追撃が無いのを悟り、ゆっくりと立ち上がる。

刀を、構える。

その眼は刃物のように鋭く、此方に向き直った敵を見据えていた。

 

「ふぅ――」

 

息を、吐く。

恐れを迷いを吐き出すように。

邪念を捨て、体をひとつの剣とする。

目的を果たすための機能だけを残して、他を全て体から追い出すイメージ。

 

地を、蹴る。

 

突撃したのは、吸血鬼では無く人間。

弱者が強者に襲いかかる異常。

その蛮勇を許したのは、手に握られている銀の刃故か。

 

「(斬る!)」

 

銀光瞬く。

選んだ技は斜め下からの斬り上げ。

吸血鬼狩りが放った斬撃は、しかし。

 

紅い翼が、泪に迫る。

質量が、破壊が、死が、刃をゆうに超える速度で振るわれる。

 

吸血鬼と人間では、見える速度も違い過ぎる。

例え数年数十年かけて磨き上げた剣術だろうが、吸血鬼にとっては見切れる速度でしか無く。

 

闇夜、血が空に舞った。

 

「――な」

 

斬られたのは――ガブリエラの、紅い翼。

 

続け様に振るわれた追撃の刃。

それを飛び退いて躱し、怪物は大きく距離を取った。

屋上の端、落下防止の柵に飛び乗って「敵」を睨みつける。

その表情は、焦りで僅かに歪んでいた。

 

「(……あの銀の武器。すごく純度が高い。私の翼が触れただけで崩れた……。それに今の剣技、私の攻撃を読んでたみたいに軌道を変えて斬ってきた)」

 

奥戸から譲り受けた銀の刀。

そして八雲流剣術奥義がひとつ、人呼んで”曲がる斬撃”――「うつし月」。

それが、人間が吸血鬼を倒す為に用いた手段だった。

 

そう、吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)とは。

どの国にも古来より存在し、一族代々吸血鬼狩りの技術を受け継いできた人間のこと。

そんな百年単位で対吸血鬼に特化した彼等は、人間の身でありながら絶対強者たる吸血鬼に抗う力を持つ。

 

牛に角があるように。

鼠に牙があるように。

蛙に毒があるように。

捕食される側もまた武器を持ち、それは時に捕食者すら恐れる脅威となる。

 

「ニンゲン、おまえは……ちょっと気をつけて殺さないといけないみたい」

 

ガブリエラは翼を再生させながら、眼前の存在の評価を引き上げた。

「武器を持った人間」から、「危険な吸血鬼狩り」へと。

 

「吸血鬼、お前は……此処で必ず斃す」

 

そして吸血鬼狩り、八雲泪は、再び刀を正眼に構えた。

月光を帯び、銀の刃がギラリと光る。

彼女は呼吸を整えながら……確かに存在する勝機を見据え、再び吸血鬼へと斬り込んだ。

 

 

紅い翼が振るわれる。

銀の刃が数度閃く。

 

空を駆けるように飛び回る銀髪の吸血鬼。

地で踊るように刃を振るう喪服の吸血鬼狩り。

 

勝負は拮抗していた。

いや、お互いに一手足りないと言うべきか。

 

高速で空を舞い、再生させた翼を振るいながらガブリエラは考える。

 

銀の刀に触れることは出来ない。だからこそリーチで勝るこちらは相手を傷つけられない。刀で防御されるだけで、こちらへの攻撃にもなるからだ。

しかし相手の吸血鬼狩りもこちらに有効打は無い。傷が簡単に治らない人間は攻撃を優先して手傷を追うことを忌避しているし、そのために守りを優先すれば彼女の技量ではこちらの喉元まで刃は届かない。

 

しかし問題はそんなことでは無い。

そもそも全盛期のガブリエラであれば、最初の一撃で勝負はついていた。

 

「(私、弱くなった⋯⋯)」

 

吸血鬼の力の源は細胞。そして細胞のエネルギー源は人間の血液だ。

ガブリエラがいかに細胞の量(スペック)に優れていようと、僅かな血液量(ねんりょう)では力を出し切ることは出来ない。

本来四枚羽の彼女が二枚羽となっているのもその影響だ。

僅かなエネルギーを使い果たして仕舞わぬよう、体が全力を出すことにストップをかけているのだ。

故に……未だ対峙した人間を殺せていない。

 

膠着した戦況。

そんな折ふと、相手の人間が話しかけて来た。

 

「⋯⋯吸血鬼。何故お前達は、人の命を奪う」

 

これは多分、体力回復の為の時間稼ぎだろう。人間はすぐに疲れ、動きが鈍る。彼女は荒く肩で息をしていた。

しかし罠である可能性もあるし……何より、時間稼ぎはこちらにも好都合だ。

だからガブリエラは戦闘を継続するのではなく、その問答に乗ることにした。

 

「普通はそうしないと生きれないから。私達にも食事は必要。なのになんでそんなに怒る?」

「なっ⋯⋯!」

 

幼い精神のガブリエラにも、相手が怒っているかどうかくらいは分かる。

目の前の吸血鬼狩りは、自分の言葉に憤怒している。

しかし彼女は……本気で不思議だった。

ずっと疑問に思っていた事があった。

だから丁度いい機会と思い、目の前の人間に聞いてみることにした。

 

「人間も命を奪ってる。牛、豚、鶏、魚、植物や虫⋯⋯なのになんで、吸血鬼はダメ?」

「お前達が殺すのが人だからだ……っ! 我々には帰りを待つ人が居る! 死ねば悲しむ人が居る! 人の命を軽く見るな!」

 

泪の言葉に構わず、ガブリエラは続ける。

 

「私達吸血鬼は生きるために人を殺すだけ。

人間だって生きるために沢山命を奪ってる。

そこに貴賎は無いはず。

それなのになんで人間は、自分達から奪われるのは許せないの? なんで自分達だけは特別だと思ってるの?

――なんで誰かの罪は許せないのに、自分の罪は許せるの?」

「……それ、は」

 

彼女は不思議だった。

人間は犠牲から目を逸らす。

それでも自分の命が他の命を奪って成り立っているって知っているハズ。

だってそれは全ての命が同じだから。

奪われれば死に、同じように奪えなければ死ぬ。

なのに目の前の相手は、奪うことを悪だと言う。

 

龍川芥なら言うだろう。

もし奪うことが悪なら、奪う機会を奪うことも悪になるだろう、と。

 

ガブリエラは思う。

吸血鬼だって、より強い相手からは奪われる。

それは自然の摂理であって、糾弾される行為では無いはずだ、と。

 

人も吸血鬼も皆変わらず、あまねく死体の山の上に立っている。

なるほど確かに、殺人が罪なのは道理だろう。

では目の前の人間は……牛や豚に仇討ちの反乱を起こされた時、黙って罪の裁きを受け入れるのだろうか?

 

と、ガブリエラの鋭敏な聴覚がある規則的な音を拾う。

それは”仕事終了”の合図だ。

つまり……もうこんな場所に居る理由は無い。

動きが止まった人間を前に、彼女は翼を仕舞った。

 

「さよなら」

「⋯⋯っ! 待て!」

 

ガブリエラは既に、殺すと宣言した相手への興味を失っていた。ゆえに闇へと逃げ込む。

”ただいま”を貰いに帰る為に。

彼女の興味はいつだって、たった1人の人間のことだけ。

 

 

半壊したビルの屋上には、黒いセーラー服の少女だけが残っていた。

あの吸血鬼が本気で逃げれば追うことは出来ない。それは直に戦った彼女が1番強く感じていたから、追わなかった。

 

俯いた彼女は刀を握りしめ、ぽつりと呟く。

 

「だったら⋯⋯恨むなって言うの。

私の両親を奪ったのは吸血鬼(あなたたち)なのに、私には恨むことすら許さないって言うの⋯⋯」

 

その言葉を聴いていたのは、雲間に浮かぶ月だけだった。

 

 

 

 

 

⋯⋯俺、龍川芥は何となく、扉を開けて玄関先に座り込んでいた。

吹く風は冷たく、夜は人の目では見通せぬほど暗い。

それでも俺は夜を見ていた。

その中から、待ち人が飛び出してくるのを期待して。

 

俺は……無力だ。

何にも持っていない。

そう改めて、思い知らされる。

この世界には、きっと俺が関わることで成功させられるものなんて何ひとつとして無いのだ。

俺程度が変えられることなぞ、この世の何処にも転がって居ないのだ。

この手の中には……何も無い。

心配で仕方ない彼女を――ガブリエラを守る力も。

彼女を安全な場所に留める力も。

彼女を支えてやるための力も。

何一つとして、持っちゃいない。

だからこうして、無様に帰りを待つことしか出来ないのだ。

探しにも行かず、さりとて部屋にも戻らず。

その中間の玄関先で座り込んで。

諦めと執着の狭間で、どっちつかずの姿を晒すしか無いのだ。

 

ひとりぼっちの夜は、ひたすらに冷たかった。

それはきっと、自分の醜さを隠してくれる、美しい彼女が居ないから。

嗚呼、俺は……また弱くなっちまった。

笑ってくれよガブリエラ。

ガキみたいだろ。

俺は……お前が居ないと寂しいんだ。

 

 

ふと、月が翳る。

けれど視界には光の群れが舞った。

それは見慣れた、銀の髪。

 

……ゆっくりと、ため息をつく。

けれどそれと裏腹に、表情は我知らず笑顔の形を取っていた。

 

「⋯⋯まったく。心配して損したぜ。

──おかえり、ガブリエラ」

「うん。ただいま、アクタ」

 

夜風に冷えた小さな手を取る。

心の中にあった小さな棘は、彼女の笑顔であっさりと消えていった。

 

 

◆◆◆

 

 

戸張市の海沿い近くにある廃工場群。

この辺りは遮蔽物が多くて見通しが利かず、人気も無い。つまりこの場所は、吸血鬼の狩り場として充分な条件を満たしていた。

 

廃工場内にたむろする数体の吸血鬼。

彼らは攫ってきた人間の血をその命ごと吸い終え、食後の満腹感に浸っている最中だった。

干からびた死体を取り囲み、たわいない話で盛り上がっている中――”それ”は訪れた。

 

轟音と共に、錆びた廃工場の壁が吹き飛んだ。

空気が震え埃が舞い、瓦礫が転がって建物が揺れる。

 

「な、何が……」

 

状況を飲み込めない吸血鬼達は、一瞬遅れて気付く。

壁に出来た大穴、埃の舞う工場内を照らす月明かりが入ってくるその場所に、それを遮るような人影が立っていることに。

 

それは「赤」だった。

赤い髪。

赤い眼。

赤い(スーツ)

まるで炎のような、あるいは血のような色のその人影は、破壊後の大穴をまるで玄関のように跨いで廃工場内へと踏み込んだ。

 

「⋯⋯Good night, Jap vamps……あァ、日本語で言うとこんばんわクソ共、だっけか。なんか間の抜けた響きだよなァ、この国の言葉はよォ」

 

それは。

訪問と言うには余りに荒々しく、挨拶と言うには余りに刺々しく……そして人間というには、余りに圧倒的な存在感だった。

 

「な、なんだお前は!」

「見張りは何をしてる!?」

 

狼狽える有象無象の吸血鬼達に、赤い男は小馬鹿にしたように指をさす。

 

「見張りィ? 見張りってのは……ソコに捨てられてるゴミのことかァ?」

 

男が指さした地面には。

血達磨になり、恐怖と痛みで絶望の表情を取った吸血鬼が、ぴくぴくと痙攣しながら転がっていた。

 

「……ッ!」

「き、貴様ぁ! なんてことを!」

 

憤る吸血鬼達を前に……されど赤い下手人は堂々と立っていた。

 

「うるせェなァ雑魚共が。弱ェソイツが悪ィんだぜ? 弱ェクセに、雑魚のクセに、オレをイラつかせたりなんかするからよォ」

 

その眼は。

まるで虫でも見るかのようで。

倉庫内の吸血鬼達は、明らかにその眼に気圧された。

 

ざり、と「赤」が歩を進める。

じり、と吸血鬼達が後ずさる。

 

一触即発の空気の中……されど赤い吸血鬼は、なんでもないように口を開く。

 

「ところでよォ、ジャップ共。聞きてェコトがあるんだが」

「……」

 

無言を肯定と受け取ったのか、赤い吸血鬼は自らの胸元を指さした。

そこにあったのは「K」を象ったバッチ。

 

「”クリムゾン家”……この名に聞き覚えはあるか?」

 

その表情は、逆光で見えない。

しかし吸血鬼達には聞き覚えがあった。

 

「あ、ああ……。半年前までこの辺を仕切ってた吸血鬼集団、奴らが確か”クリムゾン家”を名乗っていたハズだ」

「ああ、アイツらか……俺達の縄張りを侵そうとしてたからな。よく覚えてるぜ」

 

その時。

吸血鬼達の中の一体が、とあることに気付く。

 

「……ちょっと待て、確かソイツらのリーダーは赤髪で、胸に”K”のバッチを付けてたって……」

 

ぞ、と。

戦慄した時にはもう遅かった。

赤髪の吸血鬼が、今喋っていた吸血鬼の目の前に居たのだ。

身長差により見下ろされるような形になる。

威圧しながら、「赤」は問う。

 

「ソイツの名前はよォ」

 

睨みつけられた吸血鬼は、全身から冷や汗を出しながら悟った。

殺される。目の前の存在の機嫌ひとつで、自分は死ぬ、と。

 

「”ノース・クリムゾン”じゃなかったか?」

 

赤い死に見つめられながら……追い詰められた吸血鬼はただ、必死に呼吸を整えながら言葉を紡ぐ。

 

「……そ、そこまでは知らな、いッ!?」

 

がしり、と。

無造作に頭を掴まれる。

めりめり、ミシミシと頭蓋骨が軋んでいるのが激痛と共に分かった。

 

「オレはよォ。弱ェ奴が嫌いなんだよ。弱ェ弱ェ雑魚のクセにオレの役にも立てないならよォ、もう死ぬしかねェよなァ……!」

「あ、ぎぃ、ヒィ……ッ!」

 

まるで暴君の様な振る舞いに、慌てて周囲の吸血鬼達が助け舟を出す。

 

「ま、待て! 俺は知ってるぞ! 確かにそんな名前だったハズだ!」

 

ぐるり、と。

赤い吸血鬼が首を回して声の方を見る。

睨みつけられた吸血鬼は、それでもなんとか仲間を助けようと口を回す。

 

「は、ハッキリと思い出した! そうだ、確かに”ノース・クリムゾン”という名前だった!

あの半年前の事件で、【四枚羽】の吸血鬼が殺した当主の名は……!」

 

ぐしゃり、と。

果実でも握り潰すみたいに、吸血鬼の頭が潰れた。

顔の上半分を失った吸血鬼が、力なく地面に倒れる。

脳漿と血をこぼした死体の前で……蛮行に走った赤い吸血鬼が、俯きながら立っていた。

 

「オイ、テメェ今なんて言った?」

 

誰も、口を開けなかった。

頭の上半分が無くなって死ぬという、余りに異常な暴力が吸血鬼達の思考を奪っていた。

そんな中、ただひとり、赤い吸血鬼は語る。

 

「殺した? 【四枚羽】が、殺した……?

殺されたってのか? ノースが。オレの可愛い可愛い妹が……ノース・クリムゾンが死んだってのか、あ”ァ?」

 

ミチミチ、ギチギチと。

肉が千切れる音がする。皮膚が破ける音がする。

空間を支配するように。

赤い吸血鬼の背中から、巨大な翼が広がろうとしている。

 

「やっぱりテメェらもそう言うのかよ。他の奴も皆そう言うんだけどなァ、イマイチ飲み込めなくてよォ……。

そんでつい、イラついてイラついて、周りの奴ら全員殺しちまうんだけどよォ……!」

 

明確に殺意と狂気を振り回した赤い男に、ようやく吸血鬼達は動き出した。

各々が翼を構え、臨戦態勢に入る。

 

「あァ、そうだよなァ。分かってるぜ。オレもそろそろ現実ってヤツを受け入れるべきだよなァ。

……あァ、じゃあこうするか。

ひとり残して皆殺しだ。

そんでソイツを拷問して、妹殺したクソ野郎について知ってること全部吐いてもらうかァ」

 

日本の吸血鬼には預かり知らぬことではあるが。

赤い吸血鬼、彼の胸元のバッチは……アメリカ最大の吸血鬼組織「クリムゾン家」のトップオブトップ――クリムゾン家の戦闘能力上位5体のみが成れる「K(キングス)」の証である。

つまりそれは、アメリカで五指に入るほど強いということで。

そんな彼に勝てる者など、この場には一体も居なかった。

 

「そうだなァ。妹殺したクソ野郎は、ちゃあんとオレが殺さなきゃなァ。

腕も脚も輪切りにして、天国のノースに懺悔させてから殺してやらねェとなァ。

【四枚羽】、ねェ。あァイラつくなァ。イラついてイラついてしょうがねえから……とりあえず目障りな虫けら共を殺さねェとなァ!!」

 

狂気に飲まれた「赤」が叫び。

 

赤色の暴虐が、舞った。

 

 

 

 

⋯⋯数分後。

廃工場内は惨状で満ちていた。

壁や床はたくさんの切り傷のようなもので傷つき、薄汚れた数体の吸血鬼達が血まみれで転がっている。

 

そんな中で赤髪の吸血鬼だけが、無傷で場を支配していた。

彼は言う。

血みどろの肉袋を……拷問の痕を残した吸血鬼の首を掴みながら。

言葉の端々に、敵意と殺意を迸らせて。

 

「【四枚羽】……ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトねェ。

――殺してやるよ。とびっきり惨たらしくなァ。

オレから妹を奪った報いは、必ず受けてもらうからよォ……ッ!!」



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6.目眩

悪夢を見ていた。

⋯⋯いや、これは違う。

目をつぶって、過去の記憶を思い出しているだけだ。

 

だから間違っても悪夢と呼んではいけない。

思い出すのは他でもない俺の罪で。

それに苦しむのは当然の罰だから。

 

 

銀のナイフを握りしめる。

痛いくらいに、両手で。

硬い金属の感触と、移った体温の温さが気持ち悪い。

それでも手汗で滑らないように、強く握りしめていた。

 

1歩、踏み出す。

倒れている”彼女”の元へと。

がちがちと歯が震える。

呼吸が浅く、視界は狭い。

それは倒れた吸血鬼への恐怖ではなく。

今から行う行為への、未来への恐怖心。

 

ナイフを振り上げる。

怯えながら。

躊躇いながら。

これが正しいのかは分からない。

けれど……俺は自分で選んだ。

この腕を相手へと振り下ろすことを。

 

数秒間で覚悟を決め⋯⋯。

振り下ろすその瞬間、”彼女”と目が合った。

 

それは初めて見る瞳だった。

見たことの無い表情だった。

 

そのとき、なんとなく分かってしまった。

自分が”彼女”に、心の底から恐怖されていることに。

自分が”彼女”の死神になってしまっていることに。

 

やめろ、やめろ。

想起している今の自分が、心のどこかで叫んでいる。

そんなことをしても無駄なのに。これはただの記憶でしかないのに。

それでも嫌だった。

それほどまでに怖かった。

この先を思い出すことが。

 

――刃が、振り下ろされる。

 

鈍い、音。

肉を突く音。

ぐちゃりとした血の音。

噎せ返るほどの鉄臭さ。

手に伝わる、気分の悪い感触。

刃が肉を切り分けるときの沈むような、骨を断ったときの跳ね返るほど硬い、心臓を穿ったときの潰すような感触。

 

命を、奪った。

この手で、奪った。

 

びくり、と”彼女”の体が跳ねる。

どこにも力なんて残ってないはずの体が動いたことに驚いて、思わず怯んでしまう。

けれど金縛りのように、手はナイフから離れない。怯えで強ばる体が離そうとしない。

ぐちゃりと傷口が抉られるその感触が、ただひたすらに気持ち悪かった。

声にならないなにかを吐き出している”彼女”の顔が、胸におぞましいものを抱かせた。

 

最期の瞬間⋯⋯。

絶命の瞬間。

”彼女”は俺を見ていた。

ナイフを握る俺の手を、抵抗するように、刃を抜こうとしているかのように掴む。

それは弱々しい様子とは裏腹に、手形がつくほど強い力で。

痛くて。

怖くて。

冷たくて。

けれど、確かに熱があった。

未だにこの手首から去らない、生々しい命の温度が。

 

そして”彼女”は。

消え入りそうな声で。

様々な感情が入り交じった声で。

 

『⋯⋯死にたく、ない』

 

ただ、最後にそう言って。

”彼女”は死んだ。

 

違う。死んだんじゃない。

俺が、殺したんだ。

 

 

それから何をやっても、その感触は手から消えなくて。

あの最後の表情が、死にたくないという声が、頭から消えることは無くて。

 

死者は恨んで化けて出ることは無い。

だからこれは、俺が勝手に背負った罰だ。

罪が償われる訳では無い。

死者に許される訳でもない。

 

ただ、俺が罪を忘れないために。

そのためだけに訪れる、消えることの無い罰。

 

 

「⋯⋯寝れねえな」

 

ベッドの上で上体を起こして、龍川芥はぽつりと呟いた。

時計は夜8時を示していた。

別に言葉通り眠れなかった訳では無い。

ただ昨日は色々はしゃいだせいで寝るのが遅かったから、起きる時間としては少し早い。

まだ眠気もあるし、少々だが頭も痛む。

だから2度寝でもしたかったのだが⋯⋯思い出してしまった。

 

忘れない、ということは”常にその事を思っている”という訳ではなく、”至る所に思い出す機会がある”ということだ。

普段は意識していなくとも、例えば何かを選ぶときだったり関連した行動を取る時には想起する。

「ああ、俺は罪人なのだ」と。

「奪わなくてもいいハズの命を奪ったのだ」と。

 

それは⋯⋯きっと大事なことだ。

少なくとも忘れるよりはずっといい。

だから、少々睡眠時間が少なくなるのなんて屁でもないさ。

 

「――アクタ、寝れないの?」

 

ふと、声がした。

同じベッドで眠っている吸血鬼の、耳触りの良い声。

振り向くと……紅い瞳と目が合った。

 

「……ガブ。起きてたのか」

「うん。なんだかイヤな夢を見ておきた」

 

俺の横で布団を肩まで被ったガブリエラが、起き上がろうとした俺の体をベッドに戻そうとしてくる。

一緒に寝ようよと言いたいようだが⋯⋯俺はそんな気分になれなかった。

 

「ごめんガブリエラ、ひとりで寝ててくれ」

 

彼女の眉尻が下がり、俺は少し申し訳ない気分になる。

それを振り払うように、ベッドの外側を向いた。

 

「⋯⋯どうして? どこか行くの?」

「いや、別に何処にも行かねえよ。⋯⋯ただ寝れる気がしないだけだ」

 

言いながら、自分の両の手のひらを見る。

 

……この手が、覚えている。

あの感触を。肉を突く感触を。

未だ手首に残る、あの生温さを。

こんな気分で何故、のうのうと眠れるのだろうか。

 

手のひらの感触を、手首の熱を忘れたくて自分の手首を指で撫ぜるのも癖になってしまった。

そしてその度……残り火に触れる度、記憶の中の”彼女”が囁く。

 

忘れるな。

もっと苦しめ。

地獄に堕ちろ。

それが当然の報いだ、と。

 

その声から逃げるようにベッドから立ち上がる⋯⋯と、何故かガブリエラも同じようにベッドから出た。

 

「お前、眠いんじゃないのか?」

「んー……そうだけど、でも寝れないと思う。こんなこと前にもあったから」

 

その表情はどこか翳っている気がした。

彼女にもあるのかもしれない。拭えない過去や、未来への不安が。

何も言えない俺の手を取って、ガブリエラはなにかを振り払うように言った。

 

「だから気分転換しよ」

「気分転換?」

「うん。”血の記憶”が教えてくれた。こういう時は、星を見るといいって」

 

”血の記憶”。

稀に吸血鬼は血を吸った人間の知識や記憶の一部を知ることがあるのだという。

詳しくは聞いてないし知らないが、まあ臓器移植とかの都市伝説みたいな不思議話と同じ雰囲気を感じる。

現代科学では解明できない、肉体に刻まれた記憶や人格というのか⋯⋯ま、俺なんかが考えたところで答えの出ない話だがな。

 

しかし「星を見る」ねえ。

随分とロマンチストだったんだろうな、そいつは。

でも⋯⋯悪くないな。

 

「そうだな。星を見に行くか」

「うん。私、いい場所を知ってる」

「⋯⋯あんま遠いとこはナシな。あと人の目があるとこもダメだぞ」

「大丈夫。すごく近い」

「ならよし」

 

そうと決まれば準備だ。

俺は棚から大きめのブランケットを取り出し、適当に畳んで抱えた。

 

「それは?」

「いや、夜は冷えるだろ。てか人間は寒がりなんだよ。毛布くらい持ってかないと」

「そっか。アクタ、私のぶんも」

「いや別1枚でいいだろ。これそこそこデカいしふたりでも入れるよ」

 

その言葉にガブリエラは一瞬面食らったような表情になり、その後少し俯きがちに顔を隠した。

 

「⋯⋯ならいらない。むしろ1枚がいい」

「ま、2枚持ってくのはめんどいしな。それより星が見える場所ってのはどこなんだ?」

 

俺が聞くと、ガブリエラは指を1本立てた。

そして言う。

 

「この上」

「⋯⋯はい?」

 

 

 

「なるほど、屋根の上か⋯⋯」

 

数分後、俺とガブリエラは屋根の上に居た。

屋敷の屋根は意外と平面が多く、滑り落ちる心配も無さそうだ。

ちなみに屋根の上まではガブリエラに抱えられて地面からひとっ飛びして来た。吸血鬼ってほんとデタラメだな。

 

よっこいせと適当に腰掛け、毛布を羽織る。

ガブリエラも俺の隣に座り、同じ毛布にくるまった。

あったけえ。持ってきて正解だったな。

ふたりでほーっと息をつき、あまりにタイミングが被ったので顔を見合わせて笑う。

半年一緒に居れば、そりゃ文字通り息も合うわな。

 

ひとしきり準備が出来たところで、夜空を見上げる。

 

黒い夜に点々と光る、白い小さな光を放つ星達。

視界の下端には世朱町の放つ光。

月は半月と満月の間の少々歪な円形で、雲ひとつ無い夜空に鎮座していた。

 

何処までも空は広く。

夜の闇は深く黒く。

星はさながら宝石か、はたまた奇跡の群れか。

 

改めて見る夜空は、初めて見るくらい綺麗だった。

 

……なるほど。

こりゃロマンチストになるわけだ。

 

屋根の上、忘我して上を見上げる頬を夜風が撫ぜる。

肺に染み渡る冷たい空気が気持ちいい。

 

そんな風に全身を夜に浸らせていると、隣のガブが呟くのが聴こえた。

 

「⋯⋯綺麗」

 

その瞳には、空の宝石達が瞬いていて。

綺麗なのはどっちだよ、なんて似合わない言葉を飲み込んで、俺は軽口を叩く。

 

「意外だな。吸血鬼なら星空くらい見慣れてるもんだと」

「そうだと思ってたけど。なんでだろ、いつもよりあったかい」

 

熱に浮かされたように、不思議なことを言うガブリエラ。

 

「あったかい? そりゃ毛布被ってるからじゃねえの?」

「⋯⋯そうかも」

「はは、なんだそりゃ」

 

他愛無い話で笑う。

お互いに夜空を見上げながら語る言葉は、どこか新鮮な感じがした。

空の広さに、全てがどうでも良くなるような。

夜の暗さに、苦しさが全て溶けてしまったような。

そんな感覚。

そんな錯覚。

 

「……そうだガブ、星座とか分かるか? 俺なんもわかんねえ」

 

ふと思いついたので、彼女の”血の記憶”に期待してそう聞いてみる。

それはきっと、夜空は見上げるだけじゃ勿体ないと思ったからだろう。

と、ガブは少し眉間に力を入れてから、ふるふると首を振った。

 

「⋯⋯私も知らないみたい」

「そっかー。まあ星座って凄い無理矢理つくったみたいな感じだし、しょうがねえかもな」

 

改めて上を見る。

近い位置にある星と星を繋げてみても、なんの形も見えてこない。

あーでもないこーでもないと架空の星座をつくることに躍起になっていると、隣の吸血鬼が再び口を開く。

 

「ねえアクタ、なんで人間は星を繋げて絵を描いたの?」

 

ふとガブリエラがそう聞いてきた。

頭上では星が瞬いている。

なんとなく指でなぞって、絵を描いてみようとして⋯⋯やっぱり何も見えなかったから、綺麗な答えは出せなかった。

 

「わかんねえけど。

もしかしたら誰かに知って欲しかったのかもな。自分の世界の見え方ってやつを」

「世界の見え方⋯⋯」

 

分かりにくい言葉だったか、と気づいて、俺は続けた。

 

「星を繋いで絵が描ける奴が居れば、それが出来ない奴もいる。

同じものを見たとしても、それについて感じることが皆同じとは限らない……いや、誰かと全くおんなじ感想を抱くなんてことは無い。

夜空を見てどう思うか。

これを聞いてどう考えるか。

千差万別のそれが”世界の見え方”ってことだ。

だから……伝えたかったのかもしれない。

自分の世界にはこんなものがあるんだよ、って」

 

人の心は目に見えない。

自分の考えていることを他人に100パーセント伝える方法なんてものは無い。

好意も悪意も自分の中では絶対のそれは、相手にとって幻想でしかなく。

同じ星空を見ていたって、どんな星座を創るのかも異なるように、俺たちは結局どこまで行っても他人同士だ。

きっと誰かと真に分かり合うなんて出来やしない。

本当の意味で孤独でなくなるなんて、絶対に有り得ない。

 

でも……もしそう願って祈って、どれだけ否定されても諦めきれなかった人が。

星に願いを掛けるように、自分の想いを星座に描いたのだとすれば。

自分にとっての世界を、誰かに伝えたかったのだとするならば。

⋯⋯それは多分、とてもロマンチックな考えというやつで。

 

「いや、ただ自慢したかっただけかもな。自分が描いた綺麗な絵を」

 

なんだか気恥ずかしくなった俺は、苦笑してそう言い直した。

誤魔化すようにガブリエラの方を見た俺に、しかし星空を見つめたままの彼女は言う。

 

「……わかるかも。私もたまに思う。私の心が見せれたらいいのにって」

 

そうして彼女は、自分の胸に手を当てながらこちらを見た。

紅い瞳の中に、星と俺の顔が写っている。

きらきらと瞬く光は……きっと、俺の目の中にも。

 

彼女は言う。

紡ぐように、抱くように……大切なものを、優しく此方に差し出すように。

 

「綺麗なものも、素敵なものも、溢れるくらいたくさん貰えたから。

宝石箱みたいなそれを見せて、”ありがとう”って伝えられたら。

それを、自分の心を、綺麗だって認めて貰えたら。

それはすごく嬉しいことだって思うんだ」

 

それは、一体誰に対しての言葉なのか。

俺は聞かなかった。聞く気にならなかった。

俺が彼女と過ごしたのは、所詮吸血鬼の長寿の中の半年間で。

 

もしかしたらガブリエラは、俺以外の誰かからも沢山貰ったのかもしれない。

本当は俺は、彼女に何一つ”大切”を与えてやれていないのかもしれない。

 

優しさや幸せな思い出も。

彼女の中にある輝かしいものは……醜い俺なんて関われないものなのかもしれない。

 

けれどそれは……彼女の綺麗な心は、確かにこの星空のように。

ひとつの星が欠けても出来上がらない、とても美しいものだろうから。

その星のひとつひとつを創ったのが誰なのか⋯⋯そんなことは、どうでもいい事だ。

 

だから俺は聞かなかった。

誰に、なんて無粋なこと。

ただ……少しだけ痛む胸の奥の感情に、気付かないフリをして。

 

と、急にガブリエラが空に指をさした。

 

「⋯⋯アクタ、あれ!」

 

キラリ、と光の軌跡が夜空を彩る。

 

流れ星か。

 

ガブリエラが「見た?」と視線で聞いてくる。

俺は彼女の目に「ああ」と目で返事をして、また空を見た。

そこにはもう流れ星は無かったが⋯⋯でも確かにそれがあったことを、俺たちはしっかりと覚えていた。

 

「なあガブリエラ」

「なに?」

「人間はな、流れ星に願い事をするんだ」

 

夜空を見上げて流星を思い出しながら、言う。

 

「知らなかった。でも、どうして? 流れ星なんてぜんぜん見れないのに」

「んー、滅多に見れないからじゃないか?」

「⋯⋯よく分からない」

「はは、そっか」

 

俺は、願い事なんて責任転嫁の1種だと思ってた。

自分だけでは背負いきれない願いを、他の何かに肩代わりしてもらうのだ。

神様に祈って成功しなけりゃ神様のせいで、星に願って失敗したら星のせい。

でも今は⋯⋯奇妙なロマンチズムに浸っていたからか、全く違う答えが降って出た。

 

「流れ星を見たってことは、きっとそれは普通に過ごすより覚えてる思い出になるハズだ。

そういうのに願いを掛ければ、沢山思い出せるだろ?

そのとき叶えたかった願い、今も叶えたい願いのことを。

きっと、それが理由だよ」

 

人間は弱い。

どうしても叶えたい願いだって、常に心の真ん中に置き続けておくことは出来ない。

どうでもいいことに固執してしまって、つい忘れてしまうこともあるだろう。

でも、流れ星に願えば。

流れ星を見たことを思い出す度に、願いのことも思い出せるだろうから。

もしかしたら、最初に「星に願いを」と言い出した人は、そう考えたのかもしれないな。

 

そう思っていると、俺の言葉を噛み砕いただろうガブリエラが言う。

 

「……私。私ね。

アクタと流れ星を見たこと忘れない。

きっとこれから、何回も思い出すと思う。

だから、私も流れ星に願い事する」

「へえ。なんてお願いするんだ?」

 

好奇心にまかせて聞いてみると、彼女は毛布の中で俺の手を取りながら答えた。

 

 

「今日のこと、こんな日があったこと。

ずっと忘れませんように」

 

 

柔らかい指が、ひんやりとした手のひらが。

俺の手にこびり付いた消えない感触を、少しの間だけ忘れさせてくれた。

 

⋯⋯く、はは。なんだそりゃ。

思いっきり堂々巡りじゃねえか。

笑いながら⋯⋯けれど、思う。

そういうのも、なんとなくアリだな、と。

 

「……そうだな。俺も流れ星に願うよ」

 

だから……触れた手を、握り返す。

指先どうし、少しだけ。

普段は絶対にやらない振る舞いも……広い夜空が、美しい星が、許してくれるような気がしたから。

 

 

「どうかガブリエラの願いが叶いますように」

 

 

未来永劫、彼女の心の中にこの美しい夜空があるのなら。

俺が隣から去った後も、今日という日を覚えていてくれるなら。

それは何とも言い難い⋯⋯ロマンチックな未来な気がした。

 

俺たちはただ手を繋いだまま、星空を見上げ続けた。

 

 

過去の罪は忘れられないけれど。

決して忘れるべきではないけれど。

それでもたまに、今日のような美しい日も思い出せれば。

それはきっと、悪いことではない気がする。

 

 

 

 

ちなみにこの後ガブが寝落ちして俺が降りれなくなり、2時間ほど高所の恐怖に耐えながら1人しりとりに興じることになったのは⋯⋯まあ、完璧に蛇足だし詳しく語らなくてもいいだろう。



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7.愚者たち

我が家に犬がやってきた。

 

「アクタ、なにこれ」

「何って⋯⋯犬だけど」

 

帰宅したガブリエラの前には、俺こと龍川芥と、その両脇を固める犬2匹。

デカくて毛が長いゴールデンレトリバーと、それより一回りほど小さいドーベルマンだ。

俺はよく見ると目の色が赤みがかったドーベルマンを撫でながら、ガブに逆に問う。

 

「あれ、フーロンさんから聞いてないのか? こいつらちょっとの間預かってくれって。お前には話を通してるって聞いたけど」

 

ガブリエラは訝しげな表情になって⋯⋯何かに気づいたのか眉を少し吊り上げた。

 

「アクタ、たぶん騙された。あいつ嘘つきだから」

「マジか」

 

俺はちょっと前のフーロンさんとの会話を思い出す。

 

 

晩上好(ワンシャンハオ)、アクタサマ。本日はお日柄も良く⋯⋯』

『どうもっすフーロンさん。⋯⋯なんすかその犬2匹は』

『いや~、知り合いにとんでもない変人が居ましてねえ。その人が”犬を吸血鬼にしちゃった”なんて言い出すもんですから。一応同胞ですし、見殺しも後味悪いので引き取ることにしたんですけど⋯⋯』

『けど?』

『ちょっと色々ごたついてましてね。安全な場所を用意するのに時間がかかりそうで。今晩だけでいいんです、彼らをこちらの屋敷に置いといてやってくれませんかね?』

『いや、俺は家主じゃないんで⋯⋯』

『まあまあ、アクタサマの言うことならあの方も素直に聞いて下さると思う⋯⋯じゃなくて、ガブリエラサマには既にご許可を貰っている(大嘘)のでね、何卒~』

『はあ、まあそういうことなら⋯⋯』

 

 

あの人マジか。

ガブリエラと会話するのが怖かったから、すました顔で嘘つきやがったな⋯⋯。

 

俺の脳内で性別不詳の吸血鬼が「てへぺろ」をかました所で、ガブリエラの声が俺を現実に戻した。

 

「フーロンは次来たら”いしゃりょう”をもらう。犬は外に出そ」

「えっ」

「⋯⋯?」

 

あまりにも残酷すぎる言葉に思わず声が漏れた。

吸血鬼って犬の可愛さを知らんのか⋯⋯?

 

「いやガブ、それはちょっと可哀想じゃないか? ほら、こいつらも無害そうだしさ、今日くらい部屋に置いてやっても⋯⋯」

「どうして? 獣は人を襲うこともある。私はイヌよりアクタが大事」

 

わふわふ言いつつも好き勝手うろつかない良い子達のリードを揺らしてアピールしたが、現実は無常だった。

いや、言い分的にはまだあるか?

なんか犬とライオンとかの区別ついてなさそうだしな、吸血鬼って。

 

「でもほら、犬って賢いんだぜ? こいつらも”人を傷つけちゃいけない”って理解してるさ。こんなに大人しくて無害そうじゃん。それに餌も貰ってるし、外に放置ってのは⋯⋯」

 

なんとか同居人に許可を貰おうとする俺は、まるで捨て犬を拾ってきた小学生だった。

 

「⋯⋯アクタ、そんなにそいつらが好き?」

 

ガブリエラはなんというか、少し棘のある声で聞いてきた。

⋯⋯いやまあ?

海外のでっかい犬飼う文化とかに憧れたことも人並みにはありますし?

ペットってどんな感じなのかな、なんて知りたい欲もちょっとあるし?

まあ知識欲としてね? 別に犬のこと可愛いと思ってるとかじゃ⋯⋯。

チラリと両脇を見ると、こちらを無垢な瞳で見つめてくる犬が2匹。

 

「⋯⋯正直好き⋯⋯」

 

ダメだった。

めっちゃ愛くるしかった。

いやこれはしょうがない、こいつらは人間に媚びれるように進化した種族だから。俺が可愛い生き物に弱いとかでは⋯⋯こら、しっぽを振るな! こっちまで嬉しくなっちゃうから!

俺がもふもふを撫でたいという内なる欲望と戦っていると、ガブリエラはなんだか凄くツーンとした表情になった。

 

「⋯⋯やっぱりだめ。私の場所が奪われる気がする」

「なっ、頼むよガブ~。世話は俺がするからさぁ~」

 

もう恥も外聞も無かった。

俺は犬の可愛さに魅了されていた。

いやこいつらは俺が守らなきゃ寒空の下何時間も飼い主を待つことになるんだ。ゆえに俺が守らなければならない、俺にしか守れない!

謎の正義感に駆られ、俺はなんとか頼み込んでみる。

 

「なあガブリエラ、本当に駄目か⋯⋯?」

「⋯⋯アクタがどうしてもって言うなら⋯⋯」

「どうしても頼む」

「⋯⋯わかった。⋯⋯アクタはずるい」

 

許可が降りました。

なんというか、ヒーローってよりはヒモって感じの頼み方になってしまったような気が⋯⋯いや、構わん。目的のためなら手段は選ばない、そんな贅沢な生き方はしてきてないのだ。

という訳で、俺たちと犬2匹の1日が始まった。

 

 

 

「⋯⋯ふん。イヌなんてしょせん獣。私は会話もできるし積み重ねた時間もある。おまえらなんか敵じゃない⋯⋯」

わふわふ。

「わ、くすぐったい。やめ、きゃっ」

わんわん。

「この、いい加減に⋯⋯」

わふわふ。

「⋯⋯あったかい。やわらかい」

わんわん。

「⋯⋯⋯⋯しょうがないから、ちょっとくらい撫でてやってもいい」

 

吸血鬼が犬にオチていた。

ものの見事に陥落していた。

 

そんなガブリエラのことを視界の端で捉えながら、俺は目の前の犬を見る。

いわゆるドーベルマンという犬種のそいつは、そのつぶらな瞳に赤色が混じっている。

そう、こいつはいわば「吸血犬」。吸血鬼となってしまった犬だ。

ちなみにガブリエラと戯れてるでかいゴールデンレトリバーは、この吸血鬼ドーベルマンのご飯係⋯⋯つまり、ガブにとっての俺みたいなポジションらしい。

 

「なあ、お前はどうして吸血鬼になっちまったんだ?」

わん!

 

ドーベルマンを軽く撫でながら思い出す。

吸血鬼ってのはそのほとんどが元人間らしい。人間が吸血鬼になるのは、咬み付いた吸血鬼が食料ではなく手下が欲しくなった時⋯⋯というのがもっぱらの噂だ。

ということはこの犬が吸血鬼になったのは、吸血鬼に咬まれたからか⋯⋯それとも別の理由からか。

まあ考えても答えは出ない。

とりあえず俺は犬をかわいがることにした。

 

「いやしかし大人しい良い子だな。ちょっとだけゾンビ犬みたいなのをイメージしちまったけど、全然杞憂だったみたいだな」

わふ。

「おーよしよし。いやあ、俺は小動物系を飼うのが憧れだったんだが⋯⋯案外でかいのも悪くないな」

わう!

「おー嬉しいか。よしよし」

 

パタパタと尻尾を振る姿が可愛くて撫でるのに夢中になってしまう。

こう、人間と違って裏表が無いというか⋯⋯「今嬉しいよ!」て分かりやすく示してくれるのが実に良い。相手の内面に怯えなくてもいいというのは、動物の癒しポイントのひとつなのかもな。

そんなこんなで犬の魔力に囚われていると、急に横から腕を取られた。

 

「うおっ⋯⋯なんだ、どうしたガブ」

 

振り向けばそこには犬を従えたガブリエラが。

俺の手首あたりを掴んだ彼女は⋯⋯なんだろう、なんか機嫌が悪そうな気配を感じる。

若干怯えながら様子を伺っていると⋯⋯ガブは俺の手を動かして、自分の頭の上に乗っけた。

そしてちょっともじもじしながら、一言。

 

「⋯⋯私は?」

 

”私は?”???

これはなんだ一体?

こいつが何を考えているか分からん。

⋯⋯とりあえず撫でればいいのか?

 

なでなで。

「⋯⋯ん」

 

⋯⋯ほんとにこれで正解なのか?

いや俺の手を自分の頭に乗っけたのはガブだし⋯⋯でもやっぱりこれは女性からするとキモい行為なのでは? いやそもそも吸血鬼にそういう感性ってあるのか?

犬の存在を忘れるほどに不安と猜疑の世界に入り込んでいると、止まっていた手の下のガブリエラが聞いてきた。

 

「⋯⋯どう?」

 

なにがだよ、もうわかんねえよ!

こっちは18年間人間関係失敗続きなんだよ!

この状況で相手が喜ぶ答えなんて知らねえよ!

誰か俺に正解の選択肢を教えてくれよ!

内心の絶叫を押し殺しつつ、もうわかんなくなった俺はただ思うがままを答えた。

 

「サラサラしてる。良い撫で心地だ、と、思います⋯⋯」

「⋯⋯ん」

 

その反応がセーフなのかアウトなのかも俺にはわかんねえんだ。

誰かこいつに、嬉しいと揺れる犬の尻尾をつけてくれ⋯⋯。

俺はようやく手を解放され、ソファの背もたれに沈む。なんかどっと疲れた。

するとまるで俺が疲れたのを嗅ぎ取って癒そうとするかのような動きで、犬2匹が足元に寄ってきた。

なんとかわゆい奴らだ。

俺は優しい犬達をゆっくり撫でてやる。

と、俺の横に座ったガブが聞いてくる。

 

「アクタは、犬が好きなの?」

「うーん、そうだな⋯⋯」

 

俺は犬達の相手をしながら少し考えて、答える。

 

「犬が好きってよりは⋯⋯何も考えなくていい相手が好きなのかもな」

 

人間は皆、違う考えの元生きている。

本質的に分かり合うことは不可能なはずなのに、それでも相手への理解と相手からの理解を求め、それが人間関係というものを重くする。

相手が望む言葉。

それを嘘と共に届けるのは悪なのか。

自分が欲しい言葉。

それを嘘と疑うのは果たして正しいのか。

そんなことを考えているうちに、俺は分からなくなったのだ。

いや、答えは出ている。

社会という”人間の世界”に適応するなら、心を騙してでも嘘をつくべきだと。

そうだな、それでも俺が今ここにいるのは。夜の屋敷に流れ着いたのは。

きっと、諦められなかったからだろうな。

嘘と猜疑で出来た世界を認めたくないという、この潔癖症じみた考え方を。

ま、そんな難しい話でもないか。

結局俺は⋯⋯人を信じたかったから、逆に彼等を嫌いになったのだ。

嘘が無いと生きられず、それを認めてしまう人間という種族のことを。

 

尻尾を振ってこちらを見つめる犬たちを撫でながら、自嘲する。

誰でも出来る妥協をついぞできなかった負け犬、所詮俺の正体はその程度だ。

 

「誰かと関わりたいのに、そうすると傷ついてしまう自分が憎い。

だから俺はこいつらみたいな、言葉も無ければ嘘も無い相手に癒されるのかもな」

 

と、犬たちは俺の手を離れどこかへ行ってしまった。

こんな情けなさ全開の男に撫でられるのは嫌だったかな、とちょっと寂しい笑顔をしてしまうと、ずっと隣に座っていたガブリエラが俺の手を取った。

 

「⋯⋯私は嘘をつかない。私はどこにも行かない。私はアクタを傷つけたくない。

それでもアクタは、私が怖い?」

 

横を向けば、ガブリエラの紅い瞳が俺の顔を見つめていた。

まるで全ての嘘を見抜きそうなほど、真っ直ぐな瞳。

触れ合った手が、体が、そのつめたさがどこか優しくて。

 

「ありがとな。

お前といると救われるよ」

 

ただ、そう言った。

それは答えになって居ないかもしれないけれど。

でも確かに、俺が固執し続けた”真実”だから。

 

俺たちはただ笑って。

そのまましばらく、手を握っていた。

お互いの体温を覚えるくらい、長く。

 

今更気付いたよ。

相手の内面なんて分からなくていい。

ただ、彼女のくれた言葉を真実だと信じきること。

それだけでどこか満たされること。

これがきっと、俺が欲しかった関係なのだ。

 

 

 

 

しばらくのんびりしていた俺は、ふと思い出した。

そうだ、犬達に餌をやらなくちゃいけない。

生き物を飼うというのは、こう⋯⋯凄い責任の重い行為だな。こういうのを毎日やる人とか尊敬するぜ。

 

適当に貰った餌を皿に出して、犬達にあげようと彼らを探す。

結構でかい部屋を見渡して⋯⋯彼らは部屋の隅に、暗がりに隠れるみたいにしてくっついていた。

 

「あいつら仲良しだなあ」

 

なんて呟いて、彼らの元へ餌皿を持っていく。

と、近くに寄った時彼らが何をしているかがようやく分かった。

ドーベルマン、つまり吸血犬が、ゴールデンレトリバーの首に食らいついている。

つまり吸血中ということだ。

 

「⋯⋯なんか外から見ると残酷な構図だな」

 

力が強い方に押さえつけられて血を吸われているようにも見え、ちょっと気の毒だ。

俺は邪魔しないように少し離れた床に皿を置いて、そのままソファまで戻った。

待っていたガブリエラの隣に座る。

 

「なあガブ、あいつ血吸ってたんだけど⋯⋯」

 

放っておいて大丈夫かな、と聞こうとした時、ガブに遮られた。

なんかいつもよりジトーっとした目で⋯⋯ちょっと頬も赤いような。

 

「アクタにはこういうデリカシーが足りてないと思う」

「⋯⋯はあ? どういう意味だよ」

「⋯⋯私の口からは恥ずかしくて言えない」

「?」

 

なんだか良く分からない展開だ。

俺は吸血鬼の文化に詳しくないから、犬達は大丈夫なのか聞きたかっただけなのだが⋯⋯。

チラリと部屋の隅を振り向く。遠目だがまだ両方動いているようだったので一安心し、目線をガブの方へ戻す。

⋯⋯と、一瞬見えた時計の針は前に見たときからかなり動いていた。

あんまり気にして無かったが、もう結構いい時間だな。

 

「なあガブ、あいつらは吸血してるけど、お前は腹減ってないのか? 俺は何時でもいいんだが⋯⋯」

 

なんの気なしにそう聞くと⋯⋯ガブリエラは頬を染めてそっぽを向いた。

そして一言。

 

「⋯⋯アクタのえっち」

「!!??」

 

はあ!?

なにがどうなってそーなるんだよ!

やっぱり吸血鬼って分かんねえわ⋯⋯。

 

 

吸血鬼にとっての吸血とは。

ただ他の生物にとっての食事的意味合いだけでは無い。

特に”首を牙で咬む”という行為は食事である吸血と、同族を増やす⋯⋯いわゆる生殖の両方の行為に共通するため、吸血鬼達にとって首からの吸血はある程度性的なニュアンスを含む。

しかしそんなことを、ただの人間である龍川芥が知る由もなく⋯⋯。

 

 

そして吸血鬼に蓄積されたすれ違いの恥ずかしさは、そのままこの状況を産むことになった元凶へと。

 

 

「いやあ、今日は助かりました。それじゃあ犬はワタクシ達が引き取りますので。ああ、気に入られましたらこちらで飼って頂いても構いませんよ? ここより安全な場所は無いでしょうしね~。

あ、あれ? ガブリエラサマ? なんでじりじりと距離を詰めになさるんですか? ああ確かにアクタサマを騙してしまいましたが、それも全て癒しを提供したいという善意の元⋯⋯。な、なんで一言も仰ってくれないんですか? ワタクシ不安で仕方ないのですが⋯⋯。ヒィィィ、飛びかかって来ないで~!! 許してください~!!」

 

犬を引き取りに来たフーロンへと八つ当たり気味に襲いかかるガブリエラ。

それを白い目で見つめる犬達と、1人だけ状況が分かっていない龍川芥。

彼は言う。

 

「まあ⋯⋯こんな日があってもいいか」

 

夜明け前の星空が、まるで彼らを見守るように瞬いていた。

 

 

◆◆◆

 

 

月下。

世朱町と床善町の間にある山、その山中にひとつの人影があった。

 

赤い髪、赤い目、赤いスーツの男。

否⋯⋯赤い吸血鬼。

 

高所から床善町を見下ろす彼は、片手に”動くもの”を持っていた。

赤髪はその”動くもの”に問う。

 

「オイ。あの寂れた町に【四枚羽】が居るってのは本当なんだな」

 

”動くもの”⋯⋯下半身を無くした、上半身だけの吸血鬼は、弱弱しい言葉で返事をする。

その恐怖に塗れた様子は、彼の身に起こった今までの惨劇を語っているようだった。

 

「あ、う、噂。あくまで噂です。銀髪の美しい吸血鬼があの町に向かっているのを見たことがあるという奴が何体か居て⋯⋯」

「ファック。やっぱ弱えヤツは使えねえなァ」

「ひ、ヒィ⋯⋯っ」

 

怯える吸血鬼は、なんとか生き残ろうと恐怖に痺れた舌を動かす。

 

「あ、あの⋯⋯っ。私はもう用済みでしょう? 私の再生力では、このままだと死んでしまいます⋯⋯。どうか、どうか助けて下さい! ただ人間の前で解放して下さるだけでいいんです!」

 

その必死の訴えに⋯⋯赤髪の吸血鬼は、おもむろに彼を地面に投げた。

ぎゃ、という潰れた悲鳴を聴きながら、赤い吸血鬼は語る。

 

「……オレはよォ、弱けりゃ何を奪われても仕方ねェって思ってんだ。弱者がそれに文句を言う権利はねェ、ってな」

 

傲慢なセリフと共に、彼の翼が姿を表す。

それは死に体の吸血鬼に絶望を与えるものだった。

 

「ファック、テメェみたいな弱えヤツを見てると虫唾が走るぜ。イラついてイラついて、ついぶっ殺したくなっちまう」

「そ、そんな⋯⋯っ!」

「いいか、よーく覚えとけ。テメェがオレに奪われるのはテメェが弱いせい以外の何ものでもねェ。分かったらせいぜい自分の弱さを悔やんで死になァ」

「や、やめ⋯⋯ギャアアアアア!」

 

赤い暴虐が振り下ろされ、憐れな弱者は灰となって死んだ。

吸血鬼は眼下の町を見下ろしながら呟く。

 

「待ってろよ、【四枚羽】⋯⋯いや、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。

テメェの全てを、このオレが──ノーゲート・クリムゾンが奪ってやるからなァ……!」

 

日常の終焉が、足音を立てて近づいて来ていた。



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8.水寂死

この世界はクソだ。

 

 

俺、龍川芥がそう吐き捨てたのはいったいいつだっただろうか。

 

とにかく、まだ学校に通っていた時だとは思う。

そのとき俺は、社会という息苦しい水槽に、人生という苦痛を伴う旅に疲れ切っていた。

だから深夜に居場所のない家から飛び出し、歩道橋の上で道路と夜の街を眺めながら俺はそう言ったのだ。

 

理不尽と不平等という本質を、耳触りの良い嘘と欺瞞で塗り固めた世界。

知恵の実を食べた愚かな人間はその結果死と破壊を無限に生み出し、未来や過去を言い訳にして他人の今日を搾取する。

信仰や祈りは無限の血で彩られ、愛や夢ですら敵を作って何かを傷つけるのが現実だ。

 

けれど別に俺は、そんなことに悪態を吐いた訳ではなかった。

 

世界は綺麗事だけで出来ていない。

でもそんなこと当たり前だ。

 

されど世界は美しい。どうしようもないほど。

 

夜を満たす人の光も、必ず訪れるだろう夜明けも、吹く風も流れる水も、命も愛も夢も、全部全部。

俺は人間を信じている。美しい人間を、強い人間を、綺麗事を真実にしようと藻掻く人間を心の底から美しいと思える。

何十億の魂、その全てに魅せられている。

そんな宝石で埋まった世界が、美しくない訳が無い。

 

例え千の醜さが世界に満ちていたって、それを万の綺麗さが拭い去るように。

そう、世界は美しいのだ。

 

……でも、俺は違う。

俺は醜い。

醜く産まれ、醜く育ち、醜く歪んで歪みきった。

それは心の話なのか体の話なのかは問題じゃない。

純然たる事実として、俺はこの美しい世界で醜い人間として産まれた。

 

だからこの世界はクソだ。

どれだけ美しかろうと、綺麗だろうと、俺の敵だ。

なぜなら俺はそうじゃないから。

他ならぬ俺が、美しくなんてなかったから。

俺をこんなカタチで、醜い失敗作として産み落とした世界はクソッタレだ。

だから憎んだし嫌った。

世界のことを。

家族も友人も他人も。

愛も夢も恋も何もかも。

 

そして何より、こんな醜い自分自身も。

 

全部全部、大嫌いだ。

今すぐ壊れてしまえばいいと思うくらい。

 

 

息を吐く。

その日の息は白かった気がする。

ただ光溢れる人の営みの中では、月も星もよく見えなかったことを覚えている。

 

 

⋯⋯太宰治の「人間失格」を読んだとき。

ただひとつの事を思った。

そう、俺はただ”安堵”したんだ。

自分のような醜い人間が他にもいることに。

この世のどこにも居場所が無く、本質的に無力で無価値で救いようのない命。

それが自分以外にもいるのだと思うと、ただひどく安堵した。

 

「だから俺が生まれたのかな」

 

その声に思わず振り返る。

歩道橋の反対側に、自分と同じ格好でこちらに背中を見せた”そいつ”は居た。

いや、”そいつ”というのは正しい表現ではない。

なぜなら、その声は最も聞き慣れた⋯⋯

 

「怖かったんだろう。

辛かったんだろう。

嫌だったんだろう。

こんなクソッタレな人生は。

いつか思ったことがあるよね。

”誰にも愛されなければ、自分で自分を愛するしかない”と。

もしかしたら、それが本来の俺の役目だったのかな」

 

そいつが振り向く。

その胸には大きな穴が空いていて、そこから黒い泥のようなものが際限なく溢れていた。

どろどろ、ドロドロと。

その顔は、陰惨に嗤う(じぶん)の顔だった。

 

「人間失格の主人公は、より醜くなって生き長らえ、最後はその死に様すら描かれなかった。

それは何より怖いことだ。

忘却という名の2つ目の死を、生きながらにして味わい⋯⋯果ては死んだことすら誰にも知られず、ただ虚無として朽ちていく。

いつか(おれ)は願っていたのさ。

こんな”醜い生”ではなくせめて”美しい死”が欲しい。

劇的で刺激的で、誰かの心に遺れるような……自分を世界に刻みつけられるような、そんな(さいご)を手に入れたい、とね」

 

俺の首にそいつの手がまわる。

そのときようやく、夜空に月が見えた気がした。

 

「俺は(おれ)だ。いずれ分かる」

 

強い力で押され、歩道橋から落下する。

その地面へぶつかるまでの刹那、そいつの胸から溢れていた泥が、俺の口の中へと落ちてきた。

浮遊感の中、喉が、肺が、胸の中が、黒い黒い泥で埋まっていく。

 

溺れる。

黒い泥に、溺れる。

溺れながら堕ちていく。

 

視界が完全に黒に支配される直前、俺は確かにその台詞を聴いた。

 

「大丈夫、恐れる必要は無いよ。

そのために俺は生まれたんだから──」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「⋯⋯最悪の目覚めだ」

 

悪夢を見ていた気がする。

背中は冷や汗をびっしりとかいており、その背筋は未だ不気味な浮遊感を覚えている。

浅く体を起こして周囲を見回すと、いつもと景色が違うことに気がついてそちらが気になり出す。

 

そう言えば昨日、真昼間に目が覚めて⋯⋯。

トイレ行って帰ってきたら、ガブが寝てるベッドになんか入りにくくて、仕方ないから適当にソファで寝たんだったな。

いつもと違う環境で寝たから悪夢なんて見たのかもしれない。

 

「⋯⋯んぅ」

 

と、ベッドの方から小さな声が聞こえた。

ガブも目が覚めたのか。と思ってそちらを見ると、なんかあいつ布団の中をもぞもぞしている。

 

よく分からなくてそのまま見てると、なんかを寝ぼけながら探してるみたいな、そんな感じでずっとゆっくり動いていた。

そのままずりずりと這いずるようにベッドを動き、最終的にベッドから転がり落ちた。

いったいなにをしてるんだあいつは⋯⋯。

 

「⋯⋯?」

 

流石吸血鬼、特に痛みは無いようで起き上がる。

布団を被ったまま寝ぼけまなこで周囲を見回し、やがてその紅い瞳と目が合った。

布団を引きずりながらこっちに歩いてくる。表情から察して、まだ寝ぼけているらしい。

 

「おいガブどうした⋯⋯ぐえっ」

 

寝起きが弱い吸血鬼は、そのままソファに寝てた俺の腹にダイブしてきた。

 

「ちょ、ストップ! 今すげえ汗かいてるから、くっつかれると気持ち悪いの! それにお前も汚れちゃうぞ」

 

軽く引き剥がそうとしてみてもその剛腕にはまったく敵わない。

 

「ガブリエラ? 頼むから起きろ、あと離れろ⋯⋯!」

「⋯⋯やだ」

 

はい?

ぎゅーっと、俺の服が握りしめられるのを感じる。

 

「はぁ? 起きてたのかお前。分かるだろ、今服べちゃべちゃで汚いから⋯⋯」

「やだ」

「いや、ヤダじゃなくてだな⋯⋯」

「やだ。はなれない」

「⋯⋯まだ寝ぼけてんのかな、これは」

 

ガブリエラはそのまま俺の腹の上で二度寝に入りやがった。

まったく。汚れたりしても俺のせいじゃないからな⋯⋯と遠い目をしつつ、しょうがないので俺も目を閉じる。

ちょっと腹が重い。このまま寝たら今度は”象に腹を踏まれる悪夢”とか見そうだな。

⋯⋯そういや、さっき見た悪夢の内容ももうすっかり忘れちまった。

怖かったハズの記憶が、綺麗さっぱり上書きされてら。

ま、その点だけはこのわがまま娘に感謝だな⋯⋯。

 

 

 

 

二度寝から目覚めて、歯磨きとか夕食(ちょうしょく)とかを済ませてソファでだらける。

凄くのんびりとした時間だが、今日はなんかガブリエラの距離が近かった。

いやいつも近いんだが。この吸血鬼は距離感バグってるんだが。

それを踏まえても今日は近すぎだ。もうなんというか、液体化した猫みたいにべったり体に張り付いてくる。

 

「ガブ、お前今日どうした。くっつきすぎだろ。流石に動きにくいからさ、ちょっと離れてくれねえか?」

 

聞いてみるも、ガブリエラは腹の上でこう⋯⋯ツーンとしてる。すぐそっぽ向くし。やっぱりコイツ正体は人型の猫とかじゃなかろうか。

なんとなく不機嫌っぽいのは分かるんだが⋯⋯くっついてくる理由は分からん。

 

「おーい、聞いてるか? これだと次の巻取れないから。テーブルまで行こうとするとお前がずり落ちちゃいそうだから」

 

手に持ってた漫画を振って交渉してみるも、反応ナシ。むしろなんか、よりぐいぐいと体と体を合わせに来てる感じすらする。

 

「⋯⋯なんか言いたいことでもあんの?」

 

ぴく、と僅かにガブリエラの肩が跳ねる。

分かりやすい奴だな⋯⋯。

 

「なんだよ。何が言いたいんだ?」

 

うーん、俺なんかしたっけ⋯⋯?

心当たりはないが、少し不安になってしまう。

多少覚悟しながら聞いてみると、ガブはしばらく無言を挟んだ後、そっぽは向いたまま口を開いた。

 

「⋯⋯うして」

「ん?」

「どうして、ソファ(ここ)で寝てたの?」

 

恐る恐る、という感じの問いかけの意図が分からず、俺は素直に理由を答える。

 

「昼間目が覚めてさ。トイレ行って帰ってきたとき、ベッドに入ると起こしちゃうかなーと思って。だからここで寝てたんだよ」

「⋯⋯私を嫌いになったわけじゃない?」

「なんでだよ。むしろ気を使ったんだぞ、俺は」

 

ようやくこっちを向いたガブリエラは⋯⋯今度は大きく息を吐いて、俺の胸あたりを枕にするみたいに突っ伏した。

 

「⋯⋯二度とここで寝ないで」

「は?」

「私は気にしないから、今度はベッドに入ってきて。起こしてもいい。別々で寝る方が嫌」

「⋯⋯よくわかんねえけど、わかったよ」

 

甘えんぼか、という言葉はかろうじて飲み込んだ。流石に怒らせるのは嫌だしな。

 

「それじゃ解決したところで、ちょっと離れてくれガブ。この漫画の次の巻をテーブルに取りに行きたいから」

「⋯⋯それはやだ」

「なんでだよ。今解決したじゃん。もうくっついてる意味ないだろ」

「やだったらやだ。もうちょっとだけでいいから」

「いやこの前お前の”もうちょっとだけ”鵜呑みにしたら結局朝まで続いたから。吸血鬼の時間感覚なめてたから。頼むよガブ、今いいとこなんだよ~」

「えっちなとこ?」

「ちがわい! 今師匠キャラが死ぬかどうかの瀬戸際なんだよ普通に続きが気になるだけだよ! お前また変なこと覚えやがって⋯⋯」

「人間はすぐ死ぬ。多分その師匠も死ぬ」

「吸血鬼怖すぎだろ! てかお前の”死ぬ”、多分寿命とかも含まれてそうだな。それなら主人公もラスボスもみんな死んじまうよ⋯⋯」

 

ふと。

談笑を楽しんでいたのに、急にガブの顔が神妙な感じになっていた。

 

「死ぬ⋯⋯そう、人間は簡単に死ぬ⋯⋯」

「どーしたガブ。なにブツブツ言ってんだ?」

 

問いに答えは返って来ず、そのまま暫く沈黙か続く。

そして黙りこくったガブがちょっと心配になってきた頃。

ぽつりと、ガブリエラは切り出した。

 

「──アクタは、吸血鬼になるつもりはない?」

 

思わず彼女の方を見てしまう。

紅い瞳がこちらを見ている。

その表情は真剣だった。

彼女の口から覗く牙が、いやに存在を主張していた。

 

「⋯⋯なるかって、なれるもんなのか?」

 

そう聞いたのは、疑問だったからか、それとも。

ガブリエラは真剣そのものな表情で、答える。

 

「なれる。私が噛んで、それで”吸う”んじゃなくて”送る”⋯⋯それでアクタは吸血鬼になる」

 

思わず、いつも噛まれている首筋を抑えてしまった。少しだけ凹んだふたつの穴を指先が感じ、ぞわりと背筋が冷える。

 

「でも、無理矢理はしない。嫌われたくないから。⋯⋯アクタ、答えて」

 

首を抑えた手に、ガブリエラの手が重なる。

ひやりとした感触に、どこか無機質なものを感じてしまう。

時間が伸びたように、たくさんのことを考える。

イエスとノー、その未来。選択の意味。色々な想像が脳内を駆け抜け、やがてひとつの結論を出す。

 

ふぅ、と大きく息を吐いて、俺は力を抜いた。

答えは決まってる。

 

「いや、俺はいいや。吸血鬼には、ならない」

 

結局それが俺の答えだった。

 

「長生きしたってやることも無いし⋯⋯それに、人を襲うってのは嫌だしな」

 

人生は長い。

20年に満たないそれにすら疲れてしまったのに、これ以上伸びてもむしろ困る。

それに吸血鬼になれば、恐らく人を殺して生きることになる。

自分が数多の死の上に成り立っていることは分かっている。

けれどやはり俺も人間と言うべきか、”人の命”ってやつは別格だ。

ガブリエラに示したみたいに心があって。

俺が掴めなかった恋や愛を知っていて。

それを俺が喰うのは⋯⋯何がねじ曲がってもナシだろう。

 

だから俺は人間でいい。

人間のまま死にたい。

俺のその答えを聞いて、しかしガブリエラは食い下がった。

 

「でも、吸血鬼になればずっと一緒に居れるのに」

「それは⋯⋯」

「そうだ。人は私が持ってくる。アクタは私と居てくれればいい。やなことは全部私がする。傷つける全部から私が守る。だから⋯⋯」

「⋯⋯いや、それでも俺は吸血鬼にはならないよ」

 

ガブリエラは⋯⋯泣きそうな子供みたいになった。

ぎゅっと俺の服を握りしめて、懇願するように言う。

 

「どうして。人間のままじゃすぐ死んじゃう。ずっと一緒に居られない。

アクタが居なくなったら、私は、わたしは⋯⋯」

「⋯⋯ごめんな、ガブ」

 

まるで聞き分けのない子供を諭すみたいに、俺は彼女の頭を撫でた。

銀の髪がさらさらと流れる。

 

「俺は人間だ。いくらお前の頼みでも、それだけは聞けないよ。

でも大丈夫。いつか解るさ。

俺たちはずっと一緒に居られる」

 

優しい声と、優しい心で嘘をつく。

いや、まるっきり嘘という訳では無い。けれどそれはあくまで詭弁で、この優しい吸血鬼が望む答えではないことは知っている。

 

でも少なくとも、今はこれでいいハズだ。

ガブリエラの悲しい顔が消せるなら、これで。

答え合わせは、本当に最期の最期でいい。

 

「⋯⋯ほんと?」

「ああ。お前が考えてるのとはちょっと違うかもしれないけどな。”そのとき”になれば、お前にも理解できるようになるよ」

 

いずれ俺はお前に全てを捧げるだろう。

そのとき俺の命はお前を構成する1要素になって、俺だったものはお前のために働き続ける。

それは多分、ずっと一緒とも言えるから。

だから俺は、あくまで笑顔を貫いた。

 

「……うん、わかった。信じる」

 

だから、その表情を見ても、俺に苦しむ権利はない。

騙すようなことをした代わりに、せめて笑顔は崩さなかった。

 

と、ガブが顔を俺の首に近づけてくる。

 

「おいガブ⋯⋯」

「大丈夫。ちょっと吸うだけ」

「本当か?」

「うん。そもそも今の私には、アクタを吸血鬼にできる分の体力はない」

 

そう言われても、こんな話の後じゃ簡単に信じらんねえな。今日も夕食のときに血を吸われたし。

そんな思いで憮然とした顔をしていると、今度はガブリエラが諭すように、俺の髪を撫でながら言った。

 

「ほんとに吸うだけ。

私はアクタの言ったこと信じる。だからアクタも、私のこと信じてほしい」

 

まったく。

やっぱお前には敵わないな、ガブ。

 

「いいよ。好きなだけ吸え」

「⋯⋯ありがとう」

 

くしゃりと、ガブリエラは笑った。

 

そしてその顔は変わる。

少女から、吸血鬼へと。

淫猥な赤に彩られた白い牙が、首筋へと近づいてくる。

肉を穿ち血を啜ろうとする意思が、その興奮が、熱い吐息となって肌に伝わる。

熱っぽい色に濡れた紅い瞳が、俺を見つめている。

 

「アクタ⋯⋯」

 

牙が、口付けするように触れる。

それが皮膚を突き破るその瞬間──。

 

 

 

 

轟音と共に、屋敷の正面玄関のドアが吹き飛んだ。

先程まで扉だった分厚い板が、大階段にぶつかってようやく床へと落ちる。

もうもうと立ち込める埃のなか、姿を表したのは──

 

 

 

 

轟音。衝撃。

正面玄関の方からだ。

俺たちは揃って硬直し⋯⋯先に動き出したのはガブリエラだった。

すぐに俺から離れて立ち上がり、部屋の外に向かって歩き出す。

 

「アクタ、ここにいて。私が見てくる」

 

そう言うないなや、彼女は乱暴に扉を開けて部屋を出た。

 

「おい、待てよガブ!」

 

俺も遅れて立ち上がる。

あの轟音の正体はなんだ。

敵襲か? なら相手は誰だ?

人間? 吸血鬼?

俺に心当たりは無い。

ならばガブリエラ関連か?

頭の中で様々な予測が飛び交いつつも、俺は行動していた。

 

普段は触らない棚を空ける。そこにあったのは、一振りの短剣。

少し華美な装飾の、刃渡り20センチに満たないその剣は、刃が銀製に出来た対吸血鬼の護身用のものだ。

⋯⋯そして、俺の罪の証でもあるのだが⋯⋯今はそんなことはどうでもいい。

 

とにかく、状況を確認しに行く。

漠然とした不安がある⋯⋯いや、本当は分かっている。

懸念事項があるのだ。ずっと意識しないようにしてきたそれが、今になってとてつもなく嫌な予感を放っていた。

 

足手まといになるつもりは無い。

出来ることがなさそうなら直ぐに逃げる。

けれどもし、俺の予想通り”俺にできること”があるなら⋯⋯。

 

短剣を懐にしまい、部屋を飛び出す。

 

ガブリエラは大階段の上から数段だけ降りたところで、1階正面玄関の様子を伺っていた。

 

「ガブ、状況は──」

 

下を覗き込む。

 

 

赤髪に赤いスーツ姿の男が、壊れた扉から侵入してきていた。

 

「……ッ!?」

 

ざり、と。

そんな擬音すら聴こえる程の違和感が、ノイズのように脳内を駆け登る。

なんだ、これは。

赤髪のソイツを見た瞬間、何か得体の知れないものが頭の湧き上がってくるのを感じる。

 

 

……雪の振る日。

 

窓のある部屋。

ベッドの上。

 

隣に誰か座っている。

 

優しい表情。

こちらを見る、誰かの顔。

彼は言う。

 

――約束だ、■■■

 

それは、雪の日の約束。

最も古い、大切な記憶……。

 

 

「今、のは」

 

何も分からず、ただ確信する。

アレは、あの記憶は……俺のものじゃない(・・・・・・・・)

何となく分かる。

ならば……これは一体、誰の記憶だ?

どうしてそんなものが俺に?

 

 

困惑を断ち切る様に、赤髪の吸血鬼の言葉が俺の意識を現実に戻す。

名乗ってもいない彼を「吸血鬼」だと断定してしまっていることに、俺自身気付かぬまま。

 

「銀髪、女のガキの姿⋯⋯ようやく見つけたぜ【四枚羽】」

 

その苛立ったような声も。

何処かで聴いたことがあるような気がする懐かしさで。

しかし、俺の本能は告げている。

この殺意は、この敵意は、紛れもなく本物だと。

自分に向けられているものでもないハズのそれが……足を震えさせるほどに、重い。

 

「……おまえは誰。目的は」

 

ガブリエラが鋭く問う。その表情は立ち位置的に見ることが出来ない。

 

「目的ィ? ファック、吸血鬼が吸血鬼の住処にカチコミかけてんだ、そんなの決まってんだろ」

 

赤髪の吸血鬼はおどけるようにそう言って⋯⋯そして、その顔を軽薄な笑顔から凄味のある威圧顔へと変化させた。

 

「オレはノーゲート・クリムゾン。

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト、テメェを殺しに来た」

 

それは。

俺が想像しうる限り最悪の宣言で。

 

「⋯⋯わかった。でも場所を変えたい。場所はそっちの言うことを聞く」

「なんだァ? その人間がお気に入りか? ⋯⋯まあいいぜ、ちょうどいい場所があるからなァ」

 

そしてもう、俺が入り込める隙はどこにもなかった。

心の奥の冷静な部分が告げている。

これは「吸血鬼の世界」の話だ。

人間が関われる部分など無い。

 

ガブリエラが階段を降りていく。

その背中に、しかし俺は思わず声をかけてしまった。

 

「おいガブ! 大丈夫なのか⋯⋯!?」

 

ガブリエラは俺の声に振り返って⋯⋯そして、笑った。

 

「大丈夫。すぐ帰ってくるから、アクタはここにいて」

 

それは。

俺ですら直ぐに分かるほどの、下手くそな作り笑いで。

 

そして彼女はもう振り返らなかった。

階段の下、睨み合った吸血鬼はお互いに視線を外し、赤髪が先に、ガブはついて行くように外に出た。

 

「こっちだ。あァ、あの人間に言い残したことがあるなら待ってやってもイイぜ?」

「必要ない。言いたいことは、お前を殺して帰ってから言う。早く案内しろ」

「ケッ。その威勢、後悔させてやるよ」

 

そして吸血鬼達は、その脚力でどこかへ飛び立った。

慌てて外に出た俺が見たのは、どこかの屋根へ消えていく銀と赤の軌跡だけ。

 

「⋯⋯ガブリエラ」

 

あいつは⋯⋯意外にまめなやつだった。

どこかへ出かける前には、必ず「いってきます」と言うやつだった。

いつか聞いたとき⋯⋯「いってきますは、帰ってくるって約束」って言ってたっけな。

でも、今回は言わなかった。

つまりさ⋯⋯約束出来ないほどヤバい状況だってことだろ?

 

 

街灯ひとつない寂れた夜の街へ、駆け出す。

懐の短剣を強く握りしめながら。

ノーゲートと名乗った吸血鬼の目的地には、ひとつだけ心当たりがある。

なんの確証も無いが、それでもじっとしては居られない。

 

その言葉は、あまりにも自然に漏れていた。

 

 

「クソったれ⋯⋯これ以上奪われてたまるかよ!」

 

あのときよりも冷たい夜風を感じながら、ただ走る。

不気味なほど明るい満月が、嘲笑うように俺を照らしていた。



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9.人間失格

八雲(やくも)(るい)は言いようのない気持ちを抱えながら夜の床善町を歩いていた。

 

街灯ひとつなく、廃墟か空き地がほとんどの住宅街は不気味だが、それだけ吸血鬼が潜んでいる可能性がある。

彼女は吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)として訓練した暗視能力で注意深く道を進んでいた。

 

「(私は、お父様とお母様の仇を討つために⋯⋯)」

 

彼女の胸に燻るのは、あの銀髪の吸血鬼のこと。

だから泪はあの吸血鬼が逃げた方向にこの町があることを割り出し、一縷の望みをかけて夜の巡回へと繰り出した。

 

 

 

八雲泪は吸血鬼狩りを生業とする一家に生まれた。

吸血鬼が居る以上、吸血鬼狩りは存在する。

人を守ること、吸血鬼を斃すことを使命として背負った一族。

命と向き合う仕事だからか、父も母も厳しさの中に優しさがある人だったのを覚えている。

 

5歳の時、母が死んだ。

吸血鬼による失血死だった。

 

その日は随分と暑い日で。

汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら、私は幼いながらに吸血鬼を憎んだ。

 

その日から私は修行を始めた。

父親には止められた。女の身で吸血鬼狩りなんて危険な仕事をする必要は無いと。

真っ当に幸せになりなさいと。

 

けれど、私は思った。

 

どうやって?

お母様は死んだのに。

あいつらに、悪い吸血鬼達に殺されたのに。

その仇を討たずして、どうして私は幸せになれるの?

 

そして、私の復讐への道は始まった。

 

私には才能があった。

私には努力する理由があった。

吸血鬼を殺す、そのためだけの日々を送って⋯⋯けれど、その時の私は幸せだった。

まだ、誰かと笑えたから。お父さんと笑いあえたから。

 

母の死から10年後。

父も死んだ。吸血鬼に殺された。

 

私は、真に復讐を決意した。

 

この世界は間違っている。

人の命が、幸福が奪われる。

それを奪うのは、いつだってルールの外側に居る”正しくない”モノ。

吸血鬼。

奴らは正しくないモノだ。

誰かが殺さなければならないモノだ。

 

ひたすらに強さを求めた。

人としての生き方は捨てた。

ただ吸血鬼狩りとして強ければ良かった。

 

初めて吸血鬼を殺したとき。

 

あれは私が16歳のとき。その日は雨が降る夜で、路地裏で汚い吸血鬼を刀で斬って殺した。

 

そのとき私は⋯⋯正義を成すことの実感を得た。

 

殺した吸血鬼が食うはずだった人間を救えた。

奪われるはずだった幸せを守れた。

 

そして、手に残る感触を忘れぬように⋯⋯私は吸血鬼を斬り続けた。

 

奪われた幸せの仇を討つために。

吸血鬼は生きいてはいけないのだと、その主張を世界に叩きつけるように。

 

なのに⋯⋯あの銀髪の吸血鬼は、それが間違いだとでも言うような態度だった。

それが気に食わない。悪に正義が否定されるなんて許せない。

 

だから私は、あの吸血鬼を斬ることに執着しているのかもしれない。

 

 

 

と、彼女の人並み外れた聴覚が破壊音を捉えた。

音の感じからしてかなり遠い。

つまりこれは人間の手では難しい破壊行為の音⋯⋯吸血鬼が発した音である可能性が高い。

咄嗟に刀の柄に手を起き、音のした方向へ駆け出そうとする。

 

その瞬間、赤と銀の軌跡が頭上を物凄い速度で通り過ぎた。

 

「あれは⋯⋯」

 

反射的に目が追ってしまった銀色は、どこか見覚えのある色な気がして。

 

「⋯⋯逃がさない!」

 

叫び、泪はふたつの軌跡が消えた方向へと駆け出した。

 

 

◆◆◆

 

 

龍川芥は夜を走る。

彼の胸中は、複雑な想いがひとつの形を結ぼうとしていた。

 

 

靴下を履く余裕はなかったから、スリッパから靴にそのまま履き替えて飛び出した。

足が痛い。

走る度靴裏と足の皮が擦れ、鋭い痛みを伝えてくる。

走る、痛い。

走る、痛い。

走る、走る、走る。

 

なぜ走るのか、と頭のどこかが問うたとき⋯⋯少し昔のことを思い出して、思わず笑ってしまった。

 

人生とは無限の荒野を旅することだ。

装備も、目的地も違う、果ての無い旅。

そんな荒野に、俺は裸足で産まれ落ちた。

言ってしまえばそんな感じだ。

何かが足りず、それでも生まれてしまった命。

踏み出すだけで血が滲む。

他人からすれば訳ない1歩が、ひどく痛い。

誰にも理解されないそれを、俺は抱えて生きてきた。

次第に痛みは気力を奪い、俺はその場に立ち止まって、ただこの旅から解放されることを望んだんだ。

 

なら、なぜ走るのだろう。

痛いなら立ち止まればいい。昔そうしていたように。

苦しいなら終わりを待てばいい。ちょっと前まで、そうしてのうのうと生きていたハズだ。

 

走る、走る。

痛みを押し殺して、走る。

 

そうだ。

多分、どれだけ痛くても諦められないものができたんだ。

俺にもやっとできたんだ。

だから、これを捨ててしまったら。諦めてしまったら。

俺は今度こそ、本当に無価値になってしまう。

 

⋯⋯初めて知ったよ。

こんな想いがあるなんて。

そうだな、認めるよ。

こんな馬鹿みたいなの、俺のキャラじゃないんだけどな。

でもさ⋯⋯今は本気で思ってるんだ。

ガブリエラ。

 

俺は――お前を諦められない。

 

走る。

ただ、走る。

 

待ってろよ。

勝手に死ぬなよ。

まだお前に言うべきことが残ってるんだからさ。

 

 

◆◆◆

 

 

そこは古い教会だった。

 

並んでいる朽ちた木製の長椅子、所々割れたステンドグラス、くすんだ赤色のカーペット。

 

その中で、二体の吸血鬼は対峙していた。

 

いや、鋭い眼で相手を睨んでいるのはガブリエラの方だけだ。

 

出口から見て奥側、ステンドグラスを背にした赤髪の吸血鬼──ノーゲート・クリムゾンは、演者のように語り出した。

 

「テメェを探してる時に見つけたんだよなあ、ココ。知ってるか、オレの国では、人間は懺悔する時教会に来るんだぜ。

カミサマとやらに赦してもらいに、よォ。

いかにも雑魚っぽい考えだよなァ?

強けりゃ正しい。弱けりゃ間違い。

ソレが世界の摂理だってのによォ」

「⋯⋯」

 

ガブリエラは、返す言葉を持たなかった。

ただ警戒だけをしていた。

喋りに興じるだけの敵を。

それに苛立つように、ノーゲートは凄む。

 

「なんとか言えや。しおらしくしやがって。それでも【紅い暴君】の忌み子かよ」

「⋯⋯!」

 

ガブリエラが目を見開く。

【紅い暴君】。

それは吸血鬼の歴史上最悪の名前。

【暴君】の他にも【暴食】【同族喰い】とも呼ばれ、果ては【夜の太陽】とまで畏れられた⋯⋯吸血鬼を喰らう、吸血鬼に畏れられた吸血鬼。

そして、ガブリエラを200年の孤独に追いやった原因。

 

「ファック、バカみてェに驚いたカオしやがって。舐めてんのか?

テメェが【紅い暴君】の死骸から産まれたバケモンだってことは、吸血鬼なら誰でも知ってるぜ」

 

そう。

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは化け物だ。

 

畏れられ忌まれ疎まれ、やがて百体の吸血鬼によって殺された【紅い暴君】という魔王。

それによって全てが解決したと思いきや、その恐怖は終わらなかった。

 

なぜなら、その死骸からガブリエラという吸血鬼が産まれてしまったから。

子に罪は無い、と百体の中で最も強く最も甘かった理想家の吸血鬼が彼女を殺すことを許さなかったことで、ガブリエラは生存を許された。

けれどそれは、多くの吸血鬼にとって恐怖の存続であり、誰もガブリエラに近付こうとはしなかった。

彼女に寄ってくるのは、彼女に敵意を持ち殺そうとするものだけ。

それほどに【紅い暴君】の名は重く、ガブリエラの十字架となってきた。

 

それはこの半年間で忘れたものだった。

龍川芥はこのことを知らない。

だから【紅い暴君】なんて聞きたくもない言葉も、この半年は滅多に聞かなくて済んだ。

 

けれど今、200年間の十字架が蘇る。

ガブリエラはそれが、今までの日常との決別とさえ思ってしまった。

 

「まあよぉ、ンなことはどうだって良いんだよ。オレが聞きてえのはたったひとつだ」

 

押し黙ってしまったガブリエラの前で、ようやくふざけた顔を止めたノーゲートが振り返る。

その眼は、顔は、ガブリエラよりもずっと憎悪と憤怒に塗れていた。

 

「テメェ、ノース・クリムゾンを殺したか。

オレの妹を殺したのがテメェってのは本当か」

 

ぶわりと。

漆黒の意思のようなものがその場を支配する。

それほどの殺気。それほどの強さ。

ガブリエラは⋯⋯罪から逃げられない少女は、真実を語る。

 

「クリムゾン家は⋯⋯私が潰した。

あなたの妹がその中に居たんだったら⋯⋯多分、殺したのは私」

 

クリムゾン家。

半年前、芥と出会った直後に潰した家。

あのときはただ、屋敷が欲しいだけだった。

だから晩家の吸血鬼と契約した。

 

「日本で好き勝手しているクリムゾン家を潰せば、屋敷と半永久的な経済的援助を約束する」という内容で。

 

そう、これは罪だ。

自分のために、身に余る望みのために、必要以上を奪った。

その罰が半年かけて追いついてきた⋯⋯ただ、それだけの話だ。

 

「そうかいそうかい⋯⋯テメェにとってオレの妹は、名を覚える価値もねェ路傍の石だったってワケかよ」

 

みちみち、ギチギチと。

肉が裂ける音がする。

ノーゲートの背から、赤いスーツを持ち上げる”翼”が現れる。

当然のように、強者の証である大きな2本。

 

それは、今のガブリエラの翼より大きく。

 

不思議な形の翼だ。

少し細長い形状で、根本付近に小さな穴が4つ空いている。

 

その穴に指を突っ込み、まるで握るようにしてから、ノーゲートは翼の先をガブリエラに突き付けた。

 

それはまるで──赤黒い巨大な剣。

 

 

「殺す。

手も足も全部斬り落として、ノースに懺悔させてから殺してやるよ。

 

さあ――オレの”強さ”を思い知れや、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトォッ!!!」

 

 

赤い暴虐が、罪深き吸血鬼へと襲いかかった。

 

 

◆◆◆

 

 

ノーゲート・クリムゾン。

赤髪の吸血鬼はそう名乗った。

クリムゾン、それは半年前ガブリエラが潰した吸血鬼の家⋯⋯そして、俺が”あの罪”を背負った、忘れることの出来ない名前。

 

龍川芥は、少ない情報から全体像を想像することに優れている。

それは女性の心の機微に疎い分、ガブリエラ相手には発揮されなかったが⋯⋯錆び付いたその機能が、全力で本領を発揮していた。

 

クリムゾン。アメリカの吸血鬼の家の名前だとフーロンさんが言っていた。

ノーゲート・クリムゾン。恐らくクリムゾン家の頭だったノース・クリムゾン関連。

ちょうどいい場所。もしクリムゾン家が本物の家族同様の絆で繋がった集団だったら⋯⋯。

ガブリエラ達が向かった方角。

床善町の地理。

アメリカに根付いた文化。

吸血鬼が決闘場所として望む条件。

その全てから導き出される答えは──。

 

床善(とこよ)教会⋯⋯廃棄されて取り壊されてない、無人の教会。⋯⋯ここの可能性は、充分に、ある」

 

荒い息を吐きながら、俺は教会を遠目に捉えたところで肩を上下させていた。

足は血が滲んでいるが、もう気にならない。

問題は体力と時間だ。

走り出してからかなりの時間が経っている。

急がなければ。

嫌な予感が拭えない。

 

と、俺の横で足音がした。

反射的に振り返る。

そこに居たのは⋯⋯女の子?

 

喪服のように黒いセーラー服。

顔は見えないが⋯⋯腰に下げているのは、間違いなく刀。

 

こいつ、ガブリエラが言っていた吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)か!

 

「⋯⋯民間人? どうしてこんな所に⋯⋯」

 

少女の猜疑の呟きを聴いた時⋯⋯何かが壊れるような大きな音が、教会の方から聴こえてきた。

 

「……!」

「あそこか!」

 

両者同時に気付く。

あの破壊音は人間には出せない。

爆発するような空気の軋み、何かが激しくぶつかるような音、それが断続的に響いている。

怪物同士のぶつかり合いが教会の中で起こっていることを容易く悟らせるほど、なお続く破壊音は激しいものだった。

 

俺は焦りを覚える。

吸血鬼狩りと出会うこと以外、全てが予想通りだ。だからこそ嫌な予感が拭えない。

いや。

俺の予想は十中八九正しいともう確信している。

故に俺は行かねばならない。

成すべきことを……”俺に出来ること”をするために。

 

そのために1歩、踏み出して。

 

「止まって下さい」

 

刃のような鋭い声に、俺の動きは封じられた。

 

「……おいおい。あんた、人間の味方じゃ無いのかよ」

 

俺の背後で、吸血鬼狩りは刀を抜いていた。

その切っ先が俺の首に突きつけられている。

半年間で麻痺しかけた本能が、それでも告げている。

――動けば、斬られる。

 

「……やはり、貴方はただの民間人では無さそうですね。

普通の人は私を”学生”だと思うはず。けれど貴方は”人間の味方”と言った。

つまり貴方は、私の正体を何らかの方法で知っていた」

 

……マジかよ。

指摘されてからようやく気付く。

その通りだ。一般人なら黒いセーラー服の女の子を見て「吸血鬼狩りだ」とは思わない。

例え長い棒のようなものを入れれるケースを持っていたとしても、いいとこ剣道部とかに所属してるのかなと思うだけだ。

なのに俺は、「人間の味方」と……すなわち吸血鬼狩りと言い当てた。

それはガブリエラから聞いた知識があったからだが……それを知らない吸血鬼狩りは、一体どう思う?

 

「貴方が……いや、お前が吸血鬼なら、私が吸血鬼狩りだと気付くのも容易いだろう。銀の刃は相当臭うらしいからな」

 

冷や汗が頬を伝う。

俺は今、少女の中で「人間に化けた吸血鬼である」と確定されようとしている。

そうなれば……当然の様に斬られるだろう。

吸血鬼は人間の敵なのだから。

そしてそうなれば……俺は、自分の役目を完遂出来なくなる。

それだけは、駄目だ。

 

「……信じられないかもしれないが、俺は人間だ」

 

両手を上げて、答える。

声が固くなってしまったのが不安で仕方ない。

 

「証明がしたい。振り向いていいか」

「……いいでしょう。ただし、少しでも妙な動きを見せれば」

「分かってる」

 

ゆっくりと、両手を上げたまま振り向く。

そこには闇の中で鈍く光る刀と、それよりも鋭いのではないかと思うほど剣呑な眼光の少女の姿があった。

彼女の眼光はしかし……敵意に満ちたものから、訝しげなものへと変化する。

 

「……その目」

「目? 目がどうしたんだよ」

 

知ってるよ、吸血鬼は目が赤い。それは夜闇の中で良く光り、吸血鬼はそれを隠すことは出来ない。

だから知らないふりを装いつつ、俺は続ける。

 

「俺は普通の人間だ、早く解放してくれ。あんたの事は噂で聞いたんだ。”刀持った女子高生の吸血鬼狩りが居る”ってな」

 

多少苦しいが、俺が人間であると証明出来た以上大体の言い分は通るハズだ。

吸血鬼狩りは少し沈黙しながら悩み……そして剣呑な雰囲気を収めた。

 

「……多少腑に落ちませんが……そうですね。勘違いだったみたいです。

刀を向けてしまいすみませんでした」

 

突きつけられていた刀が下ろされ、俺は分かりやすく安堵の息をつく。

しかし、根本的な問題は解決しなかった。

少女は刀を鞘に収めながら言った。

 

「私は吸血鬼を狩りにあの教会に向かいます。貴方は決して近付かず、今すぐ帰って下さい。ただでさえ夜は危険ですから」

 

そうだ。

彼女が吸血鬼狩りなら……人間にとって正義の味方なら。

俺が人間と分かった以上、危険と分かった教会に近付けさせはしないだろう。

その事に、今更ながら気付く。

 

「……どうしました? 早く避難を……」

 

少女が当惑の声を出す。

そう、俺は最初から間違えていた。

勝利条件は……俺にとって必要なことは、少女に「自分が人間である」ということを証明することでは無い。

どうにかして……説得でも無力化でもいい、何とか”吸血鬼狩りの少女”という障害を取り除いて教会に行くこと。

いや、それ以上……”吸血鬼狩りの少女”という、俺が予想した”これからの展開”を邪魔しかねない不確定要素(イレギュラー)を、この盤面から排除することも必要だ。

つまり……。

 

「クソったれ……」

 

小さく、口の中で呟く。

俺は……この最悪のタイミングで吸血鬼狩りと鉢合わせた時点で、ほとんど詰んで居たのだ。

もう、彼女に怪しまれず教会に近付くことは不可能に近い。

そして彼女を教会から遠ざけることも、ガブリエラに近付けないことも同じように苦しく。

何より……その極小の可能性すら、彼女に1度疑われていることにより閉じられてしまう。

 

「やはり貴方、何か様子がおかしいような……」

 

一向に立ち去らない俺に、吸血鬼狩りは再び疑いの目を向ける。刀の柄に手がかかる。

 

 

 

俺は……足元が、崩れていくような気がした。

 

教会が、辿り着くべき目的地が、やけに遠い。

刀が鞘の中で鳴る音が、少女の警告がやけに小さく聴こえる。

 

どうして、こんな邪魔が入ったのだろう。

数分彼女が遅れていれば、俺は予定通り役目を全う出来たハズなのに。

事態が数分早ければ、俺の移動速度がもう少し速ければ、そもそもこんなこと起こらなければ。

 

じくじくと、じわじわと。

焦燥が四肢を満たし、諦念が顔を出そうとしている。

 

俺は、いつもそうだった。

まるで運命に邪魔されているかのように、世界に嫌われているかのように。

”最悪”は、何時だって俺の目の前に現れる。

 

「……分かってたハズなんだけどな」

 

ぽつり、呟く。

もう少女の反応なんて、俺は認識していなかった。

ただ、絶望だけが胸を満たしていた。

この世界への、絶望が。

 

「この世界はクソだ、ってことくらい」

 

 

どろり、と。

心の(あな)から闇が溢れた。

それは黒い泥の様に、ドロドロと心に広がっていく。

 

 

「なあ、俺は間違ってたのかなあ……?」

「……は?」

 

独り言のように、呟く。

それは目の前の少女に問うたのか、それともクソったれな世界に問うたのか……それすら、分からない。

まるで荒れ狂う黒い嵐のような心を、俺は既に制御出来なかった。

衝動に任せ、ただ語る。

口を突いた言葉達を、無意味に無意義に羅列していく。

 

「いや、間違ってたんだろうなあ。

こんな世界で”正しさ”なんて無意味だって、とっくに気付いてたのになあ」

 

 

どろどろ、ドロドロと。

黒い闇は、泥のような”それ”の侵食は止まらない。

まるで脳の皺ひとつひとつに染み込むように、心という気体と結合するように。

黒が、満ちていく。

 

 

「ああ、もう駄目だ。諦めるしか、無いんだ」

 

諦念が、胸を支配する。

ぽつり零した本音は、深く深く心の底へ落ちていく。

昔、憧れたことがあった。

今も憧れていた。

 

「俺は、ヒーローに成れないのか」

 

俺は本当は、何かの主人公で。

自分の守りたいものを、必死になれば救えるのだと。

そんな夢は、今決定的に否定された。

だから、諦めた。

 

「俺は……正気のままだと(・・・・・・・)、好きな奴ひとり救えないのかよ」

 

 

心に空いた穴から、際限なく溢れる泥。

黒い汚泥は止まらない。

最早心という器から溢れ、身体中を満たしていく錯覚すら覚える。

ドロドロと。

止まらない。

そう、黒い汚泥の名は――絶望。

絶望が、俺の体を満たしていく。

 

 

「なら、もういいよ」

 

諦めの言葉を、吐く。

俺は……その言葉と共に、ひとつの思想を捨てた。

 

 

俺は信じていた(・・)

人間の優しさを。

 

利己的で排他的、他人のことなんてどうでも良くて、自分のためなら何でもする。

そんな人間の本質を嫌悪した。

 

誰かに優しく出来るのが人間だと。

人間とは他人を信じられる尊い生物なのだと。

俺にとって、人とは尊いものだった。

何より美しい存在だと信じていた。

 

けれどそれは、きっと何処までも利己的な願いから生まれた思想。

他でもない俺自身が、誰かに優しくされたかったから。誰かに信じて欲しかったから。

だから「人は優しい」と信じていた。そうあるべきだと思っていた。

 

でも、そんなのはもう必要無い。

誰も傷つけずに済む方法では、誰も救えないならば。

容赦なく傷つけよう。

優しさなど捨て去ろう。

誰も信じぬ人で居よう。

 

どんな罰も覚悟している。

俺は永遠に独りでいい。

俺の居場所は地獄で構わない。

もう誰かに優しくされることも、誰かに信じてもらえることも、期待しない。

傷つけることも、傷つけられることも痛いけど……今だけは、その恐怖も忘れよう。

 

修羅でいい。

悪魔でいい。

俺が信じた、誰かに優しい尊い人間(ひと)じゃなくていい。

そんなもの、自分から失格になってやる。

 

他人を地獄に堕としてでも。

誰かを足蹴に蹴落としてでも。

 

俺は、俺の利益を――たったひとりの吸血鬼を優先する。

 

 

そう。

 

「醜悪も、罪悪も、全て認めるよ。

何故なら俺は――」

 

この苦しみを。

この痛みを。

”絶望”を。

他人に、世界に、押し付ける。

 

優しさは捨てた。

他人の良心を信じることも辞めた。

美しい人間の心だったものを、他の何よりも醜く歪めた。

 

目的の為に、他の全てを利用する。

自分の為に、他人の全てを奪うことも辞さない。

 

それはもう、俺が信じた人に非ず。

悍ましい”人間以外の何か”で。

 

 

だから、俺は宣言する。

 

この世界に絶望した者として。

 

この世界に、最悪の運命に、決まりきった敗北に、反旗を翻す者として。

 

そう、俺は。

 

 

「俺は――人間失格だ」

 

 

絶望が、身体に満ちたソレが暴れ出す。

足りない、足りない!

まるで足りない!

狂い足りない!

絶望し足りない!

この世界を犯したい!

この苦しみで、この痛みで!

こんな運命を喰い破りたい!

この俺の絶望で!

もっと寄越せ!

もっと堕ちろ!

絶望し足りない!

狂い足りない!

 

 

俺は――口の端を吊り上げた。

これだけ絶望して、まだ足りないと言うのなら。

狂い足りないと、これではまだ救えないと言うのなら。

 

良いだろう。

この世全てを俺の絶望で満たしてやろう。

それほどの悪意で武装しよう。

 

 

思い出そう。

俺の人生を。

恥の多い生涯を、この絶望で満ちた18年間を。

 

裏切られ続けた期待を。

敗北し続けた現実を。

分かり合え無かったことを。

心が苦しみ傷んだことを。

希望が変質した絶望を。

絶望が創り出した歪な希望を。

砕かれた思いを。

灼かれた願いを。

無意味だった命の果てを。

 

世界を呪った愚かな男の人生を、思い出す。

 

 

心の孔は、遂に埋まった。

溢れ続ける激流のような絶望が、埋まらないハズの孔を埋めたのだ。

ドロドロと、ドロドロと。

絶望の奔流は、世界を汚す。

俺のクソみたいな世界を汚していく。

 

 

そう、この世界はクソだ。

俺がようやく見つけた希望を――絶望の果てにやっと掴んだ救いを。

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトを。

 

俺から奪おうとするのだから。

 

 

だからもう、俺は正攻法では相手しない。

 

努力の末の勝利だとか。

正義の掴んだ未来だとか。

才能が齎した平和だとか。

正しさが産んだ可能性だとか。

 

そんなものは、もう俺には必要無い。

 

最低に。

最悪に。

醜悪に。

極悪に。

下劣に。

悪辣に。

卑劣に。

卑怯に。

そして……最高に最狂に。

美しい世界に、醜く産まれた者として。

この美しい世界に、絶望する者として。

 

「人間失格」として。

 

俺は……この世界(ものがたり)を否定する。

俺に課された運命(バッドエンド)を、俺の絶望で書き変えてやる。

 

 

「人間失格……悪くない響きじゃないか。

吸血鬼の虜になった人間には、全くお似合いの名前だね。

 

なあガブリエラ――君は今の俺を見ても、俺を求めてくれるかな?」

 

 

陰惨に、嗤う。

その顔は――ただ、底無しの絶望に満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

八雲泪は思わず身構えた。

 

吸血鬼を追って辿り着いた教会で、民間人と思われる青年と出会った。

吸血鬼と間違え詰問してしまったが、誤解は解け誤って斬ることも無かった。

それまでは良かった。

問題は、彼がただの民間人ではなさそうなこと。

 

彼女が身構えたのは、先程まで意味不明なことを言っていた男の雰囲気が、明らかに異質なものへと変わったからだ。

 

その青年は赤く光る瞳も、明確な武器も持っていない。

それなのに……なんだ、この血の凍るような雰囲気は!

 

不気味に過ぎる。

警戒してしまう。

悍ましく感じる。

何故か……恐怖さえ抱いてしまう。

それほどに、異質。

 

彼女の反応を見てか、陰惨に嗤った人間失格は、ひとりの少女に語り出す。

 

「――恥の多い生涯を送って来たんだ」

 

それは、独り言なのか。

それとも、別の何かなのか。

それすら分からず、理解出来ず。

ただ、その声は、八雲泪の背筋を粟立てた。

 

「俺には人間の生活というものが見当もつかない。

他人の心を知りたかった時も在ったなあ」

 

男が、踏み出す。

1歩、近付いてくる。

全てが意味不明の中……ただ、彼は語る。

滔々と。堂々と。

その全てに恐怖を侍らせて。

 

「でもね、そんな俺でも――”絶望”が何かは知っている。

嗚呼、自己紹介が遅れたね。

俺は……そうだな、唯の人間失格さ」

 

泪は、まるで理解出来なかった。

聴いたはずの言葉は、脳に入ってこない。

ただ、不気味で。

ただ、不思議で。

それはまるで……人では無い、別の何かと相対しているような。

吸血鬼よりも悍ましい何かと。

そんな錯覚さえ、泪に抱かせる。

 

「ねえ。君は”世界”ってなんだと思う?」

「⋯⋯は、い?」

 

問い掛けを。

言葉を脳が理解してしまい、思わず声が出た。

 

ざり、ざりと彼は近付いてくる。

泪は⋯⋯思わず刀を抜いてしまった。

それなのに、喉は張り付いたみたいに警告の言葉を言うことも出来ない。

 

「(どうして⋯⋯どうして、どんな吸血鬼と向き合ったときより、この人が怖い!?)」

 

泪は……目の前の男に、ただ怯えた。

積み重ねた剣技も、才能に裏打ちされた自信も、何故か恐怖を払ってはくれない。

 

月光が照らす中、彼は続ける。

 

「”世界”というのはね。認知の範囲のことなんだよ。

神を本当に信じている人の世界には神様が居て。

戦争を見たことがある人の世界には地獄があって。

楽園で過ごした幸せな人の世界には楽園しかなくて。

そして何も知らない人間の世界には、なんにも存在しない。

そう、”世界”とは……その人間にとっての全てを指す言葉なんだ」

 

ざり、ざりと足音が近付く。

遂に泪の足はがくがくと震え出した。

身体が言うことを聞かない。

ただ、動けない。

まるで大人に叱られるのに怯える子供のように。

蛇に睨まれた蛙のように。

空間が、感情が、男に支配されている。

 

そんな泪を落ち着かせるように。

彼は「にこり」と笑って。

 

震える刀の先をなんでもないようにつまみ⋯⋯そして、自らの心臓へとその切っ先を持っていった。

 

刀が、服を押す。

男は、依然笑顔のまま。

 

あと一突き力を込めれば、この男の心臓に刃は沈み、この人を殺してしまう。

人を、殺してしまう。

なのに、死の前に立ってさえ。

男の笑顔は、陰惨な笑みは、揺るがない。

 

泪はそのとき、ようやく恐怖の正体に気がついた。

 

 

――理解出来ない。

だから、怖い。

 

 

この人のおぞましい笑顔も、その行動も、口にする言葉も、何もかもが自分の理解の外側にある。

何も推し量れず、何も見いだせない。

 

それはまるで、見えない”死”を恐れるように。

未知に恐怖を抱く人間の本能が、目の前の人間に恐怖している。

 

その「未知」が口を開ける。

 

「恐ろしいかい。人を殺すのは」

 

目が、合う。

その瞳には何も写っていなかった。

ドロドロとした黒い泥を覗き込んだような、そんな不快感と不安感だけがあった。

それは、絶望。

絶望が、視線を通じるように伝播していく。

 

「未知」が、再び口を開く。

 

「恐ろしいよね。怖いよね。

誰かを傷付けることは……殺すことは、嫌だよね。

どうしてか分かるかな?

 

それは”取り返しがつかないから”だよ。

 

刻まれた傷も、訪れた死も、絶対に変えることは出来ない。拭うことは出来ない。

死は絶対の不可逆。

だからこそ、殺人は絶望足り得るんだ」

 

がくがくと、刀を持つ手が震える。

泪は動けなかった。

冷や汗を流し、体を震わせておいて、1歩身を引くことすら出来なかった。

それほどに、圧倒されていた。

絶望を振り撒く異常者に、恐怖していた。

 

そして……「未知」は遂に、核心へと。

 

「さて、君の世界を広げてあげよう」

 

楽しそうに。

愉しそうに。

男は嗤って。

口を開く。

なんの気なしに絶望(しんじつ)は告げられる。

 

 

「──吸血鬼には、人間(ひと)の心があるんだよ」

 

 

その言葉は、何故か否定出来なくて。

 

ドクン、と。

心臓が跳ねる。

じわじわと、足から首目掛けて毒蛇が這い上がってくるような気分だった。

絶望という名の毒を送り込む、毒蛇が。

 

「な、にを、言って……」

「吸血鬼は、人と同じ心を持つ者だと言っているんだ」

「そ、そんなわけがッ⋯⋯」

 

思わず漏れた否定の言葉。

それを言わせたのは理性か、それとも。

 

そんな泪を嘲笑うように、人間失格は語る。

謳うように。ただ、善意だけで助言するように。

 

「彼女はね。笑ったんだ。

”愛や恋は大切な気持ち”だと。

それを抱くだけで、自分を赦せるほどそれらは美しいと」

 

それが誰を指しているかなど、泪にはまるで分からず。

けれど何故か、心にストンと収まってしまう。

猜疑する部分をすり抜けてしまう。

 

「彼女はね、哭いていたんだ。

”奪いたくない”と。”拒絶されたくない”と。

”自分にも心が欲しい”と。

ふふ、今思い出しても愛らしいな。あの時の彼女の顔は」

 

……それは。

それは否定しなければいけない。

それだけは看過してはいけない。

なぜなら、これを認めてしまえば、八雲泪は。

 

「目に見えないものは、在ると信じた場所に生まれる。

吸血鬼は心を望んだ。

それが自分にも在ると信じた。

さあ。間違ってるのはどちらかな?」

 

そして八雲泪は……心の何処かで、奥底で、自らの間違いを認めた。

認めて、しまった。

 

だって彼女は馬鹿ではないから。

彼女は吸血鬼と何年間も向き合い続けたのだから。

復讐の為に、都合の悪いものは封じた。

見なかったフリをし続けた。

人間の弱さに、甘えた。

その、今まで背を向けていた、微小の棘のような可能性が。

それが男の言葉によって育ち出す。

 

「吸血鬼だって苦悩する。

彼等も命を奪う行為に抵抗を覚え、それでも”生きる為”と諦めた。

なら、彼らは誰の為に生きたかったんだろうね?

家族? 友人? 恋人?

……ああ、人間の君にはどうでもいいことか。

”生きる為”に藻掻いていた彼らを、自分の醜いエゴで殺した君には」

「あ、ああ⋯⋯そんな、はずは⋯⋯」

 

反転する。

あの風景が反転する。

 

16歳。雨の降る夜。汚い路地裏。

私は刀を握って立っていて、横には吸血鬼が倒れている。

私が斬った。私が殺した。

⋯⋯正義の行い。だったはずなのに。

 

反転する。

 

人の心がある彼らを。

苦しんでいたかもしれない彼らを。

私は斬って、そして笑った。

「正義を成せた」と笑った。

 

嗚呼、それはなんという。

 

まるで、私は殺人鬼ではないか。

 

正義を語って悪を成す、私が忌み嫌った”正しくないモノ”ではないか。

 

罪の意識が……封印していたソレが、八雲泪の精神を押し潰そうと暴れ出す。

そしてそれを……罪の意識をより重く感じさせている男は、嗤って見守っていた。

そして追い打ちをかけるように、囁く。

 

「さあ。君が今まで斬った吸血鬼のことを思い出そうか」

 

するりと、耳に、脳に染み込む言葉。

それを泪は、駄々っ子のように否定しようとすることしか出来なかった。

 

「君が殺した彼等のことを思い出して」

 

いやだ。

 

「彼らはどうして必死になって抵抗してきた?」

 

考えるな。

 

「彼らは今際の際になんと言っていた?」

 

聴きたくない。

 

「ほら、ゆっくり思い出して。

それとも⋯⋯それを覚えていないほど、君は残酷で冷酷な”人間失格”なのかな?」

 

違う!

その否定と共に、あの光景が再び脳を埋める。

 

汚い路地裏。

雨。

倒れた吸血鬼が言う。

まるで人間のように言う。

横に立つ殺人鬼に懇願する。

 

──死にたくない。

 

彼の脳裏には家族のことがあって。

そして殺人鬼(わたし)は、笑いながら刃を振り下ろして──

 

 

「逃げるなよ。

ソレが君の罪だろう?」

 

 

……殺人が絶望足り得るのは。

どう足掻こうが、奪った命に取り返しがつかないから。

 

 

「う、あああああああああああああああッ!」

 

カランと、投げた刀が土を転がる。

泪は頭を抱えてその場にうずくまった。

 

両親を奪われた痛み、苦しみ。

それを誰よりも理解している少女、八雲泪。

そんな彼女が⋯⋯自分が味わった絶望を振りまいたと知って、その罪の意識に耐えられるわけが無い。

 

ぐちゃぐちゃになった心を制御出来ず、涙と絶叫が絶えず漏れる。

与えられた絶望が、広がった世界が、八雲泪の罪深さを責め立てる。

 

 

私は、殺した。

私は、正しくなんて無かった。

 

 

いや、それだけなら耐えられたハズだ。

冷静ならば反論のひとつも出来たハズだ。

だから、少女の心を必要以上に追い詰めたのは⋯⋯陰惨に嗤う、最悪を絵に書いたような人間。

 

その下手人は、人間失格は⋯⋯父と母の名を救いを求めるように連呼する少女へ、近付く。

そしてゆっくりと刀を拾い、うずくまった八雲泪へと差し出した。

 

「ほら、刀を手に取って。君は殺人者だ。もう戻れない。それならせめて、道を貫こうとは思わないかな?」

「⋯⋯み、ち? わ、たし、わぁ」

 

ボロボロの少女へ、優しく悪魔の手が差し出される。

絶望の底から救い出すための手が。

自分の望む道へと誘導するための手が。

 

「人間を守るんだよ。吸血鬼の手から。

それが君の選んだ道だろう?

ほら、手始めに俺を守ってくれ給えよ」

「まも、る」

 

守る。

殺すのではなく、守る。

その言葉(きれいごと)は、するりと泪の耳へ入り込んだ。

悪魔は問い掛ける。

決まりきった選択肢を提供する。

 

「罪人として蹲るか。

それとも奪った命への責任を果たすか。

さあ、君はどちらを選ぶ?」

 

 

そして⋯⋯。

 

八雲泪は刀を手に取った。

しかし、彼女の心は絶望が支配していた。

その絶望という暗黒の中で、僅かな光を示された方向に歩いているだけだ。

闇の中は嫌だと。

光の中に居たいと。

ただ、迷った子供のように。

 

「まもる……まもる……まもる……ひとを、まもる……」

 

彼女はぶつぶつと呟き続ける。

 

そしてその僅かな希望を示すのは、彼女を絶望に追い込んだ張本人。

龍川芥は、くつくつと嗤う。

陰惨に。

心底愉しそうに。

 

 

「意外と上手くいくものだね。他人(ひと)の心を黒い泥(ぜつぼう)で満たすというのは」

 

人間失格は、他人を絶望の底に叩き込み。

そして都合のいい駒をひとつ手に入れた。

 

 

人間失格は歩む。

教会へと進む。

従者となった少女を連れて。

愉しそうに。嬉しそうに。

 

未だ見ぬ”死”を得る為に。

龍川芥は堂々と、その1歩を踏み出した。



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10.弱者

月光がステンドグラス越しに闇を照らす教会中。

戦闘が、始まっていた。

 

「――オレの”強さ”を思い知れや、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトォッ!!!」

 

吠えると同時、赤い暴虐が突進する。

それは斬撃。刃状の翼を吸血鬼の腕力で振り回して放つ、ただの斬撃。

だが、吸血鬼の細胞はこの世のどんな物質よりも武器として有用で。

吸血鬼の腕力はこの世のどんな生物をも凌ぐ。

さらに、攻撃の主は米国(アメリカ)最強格の吸血鬼――【レッド・リッパー】ノーゲート・クリムゾン。

 

即ちその一撃は、

 

「(は、やいっ!)」

 

神速にして絶死。

 

空気が爆発したかのような音が、刃が振り抜かれてから一瞬遅れて教会に響く。

それは刃の速度が音速を超えた証。

受ければ斬られる所では済まない、骨が砕け肉が削がれ落命すると本能が理解する音。

その一撃の結果は……。

 

「あーあー、この程度で真っ二つかよ……ってことなりゃあ、まだ楽に死ねたのになァ」

 

ガブリエラは、先程の位置から数メートル程後退した場所に立っていた。

二枚の片翼を体を覆うように展開している。

その真ん中辺りに、へし折られたような一筋の痕があった。

そして彼女の足元には、踏ん張った結果地面に焦げ付いた摩擦後が残っていた。

 

ガブリエラは受けたのだ。

翼の斬撃を、同じく翼で。

 

「……なんだテメェ。四枚羽じゃねェのかよ」

 

ノーゲートは訝しげに睨みながらも、大剣を構えて距離を詰めてくる。

それは散歩のようなゆっくりとした足取りだったが、ガブリエラは彼から目を離せなかった。

 

骨まで響く衝撃がある。

あの斬撃をあと数回受ければ、自分の翼は壊れてしまうという確信がある。

ぎらり、と光る肉厚の刃が、巨大な翼が、やけに大きく怖く感じる。

それ程までに重く、鋭い斬撃。

 

彼女の頭の中の冷静な部分が、この相手は「今の状態では勝てない」と結論付けた。

逃げろと本能が叫ぶ。

退けと経験が指示をする。

その全てを……ガブリエラはねじ伏せた。

 

「(力で負けているなら、逃げ切れる保証はどこにも無い。それに――)」

 

そう、ヒトで在りたい彼女は。

優しさに満ちた少女は。

愛を知ってしまった怪物は……。

 

「(私は、自分の罪から逃げたくない。ちゃんと向き合って決着をつけて、少しでもまっすぐ立っていたい。

取り返しのつかない悪行なんて、山ほどやってきたのに。命なんてどれだけ奪ったか分からないのに。自分でも今更だって思うのに。

でも……ほんの少しでも今より綺麗で居られるなら。アクタに貰った心を、綺麗なままにできるなら)」

 

彼女は……ずっと負い目があった。

人を殺し続けたのに、(龍川芥)に縋って生きていくことに罪悪感を感じていた。

虫のいい話だと。

自分勝手で最低だと。

だから彼女は、彼の横で眠る時、いつだって誓っていたのだ。

許されなくていい。

認められなくてもいい。

ただ……自分の罪からは、決して逃げないと。

それが、せめてもの贖罪だと。

 

「四枚羽じゃなくたって……私は、戦う。戦う為の強さは、もう沢山貰ったから!」

 

負ける気は無い。

なぜなら、自分はまだ死ねないのだから。愛しい人とまた会いたいのだから。

そんなガブリエラを見て……ノーゲートは酷く無表情だった。

 

「強さ、強さねェ……」

 

誰にでもなく呟いて……間合いに入るや否や、一閃。

否、閃いた閃光は三つ。

2メートルはあろうかという大剣の、一瞬の間に放たれる三連撃。

 

鮮血が舞う。

 

切断されたのは。

石畳の床。

腐りかけの長椅子。

太い柱。

そして……幾本かの銀色の髪。

 

「――ッ」

 

ガブリエラは、ノーゲートの頭上。

床を蹴り壁を蹴り天井を蹴り、斬撃を避けながら反撃へと躍り出た。

太腿の浅い傷から血を流しながら……彼女は放つ。

翼による破壊の一撃。

 

全身を回転させ、威力を上げる。

狙うはノーゲートの脳天、人も吸血鬼も変わらない弱点である脳をグチャグチャにする為に。

 

直撃。

だが、防がれた。大剣の翼で受けられた。

ならば追撃。

追撃追撃追撃。

 

ガブリエラは翼を振り回す。

しかしノーゲートの体に届かない。

小さい体を活かし、ノーゲートを撹乱するために高速で移動しながら攻撃を繰り返す。

ピンボールのように教会内を跳ね回り、四角から隙から一撃を差し込もうと連撃する。

 

銀光が空を走り、紅の軌跡が闇を縫う。

翼と翼がぶつかる鈍い音が教会内に切れ間なく響く。

秒間数発の乱打。

全方向からの攻撃。

その全てが赤髪の吸血鬼に殺到する。

ガブリエラの翼が、その命を砕こうと猛攻を続ける。

 

だが、届かない。

剣の翼に全て阻まれる。

 

「それ、なら――っ」

 

ガブリエラは自らの2本の翼を絡ませ、1本の武器とする。

イメージは削岩機(ドリル)

人で言うなら、片手持ちから両手持ちに切り替えて剣を振るようなイメージで、両の翼の威力をひとつに集約する。

 

「(翼の防御ごと、貫く!)」

 

後方上からの攻撃、天井を蹴った勢いと全体重を乗せて放つ。

翼を、敵へと押し込む――

 

斬。

 

一瞬、ガブリエラは何が起こったか分からなかった。

紅い塊が、舞っている。

それは……自分の、翼。

 

――斬られた。

そう理解した瞬間、反射に近い動きで距離を置く。

 

両の翼、捻りひとつにしたそれが半ばから断ち切られていた。

翼をミチミチという怪音と共に再生させながら、ガブリエラは必死に前を見る。

教会に佇む、赤い剣の吸血鬼を。

追撃に対応しようと、睨んで。

 

そこには誰も居なかった。

 

「”強い”ってのはよォ、」

 

声が。

存在が、ガブリエラのすぐ横に。

 

「そういうコトじゃねェんだよ」

「――ッ!」

 

振り回した腕は空を切り。

意識の、殴りつけた方向と反対から襲いかかった蹴りが、ガブリエラの体をくの字に折り曲げた。

 

「(速、目で追えな――)」

 

思考すら間に合わず。

吹き飛び、壁に激突する。

衝撃に意識を空白にされながら、何とかすぐに立ち上がろうとした彼女は――。

見た。

眼前に立つ敵を。

振り上げられた脚を。

 

轟音。

衝撃。

 

教会が揺れ、天井から埃が落ちる。

ガブリエラは……強烈な蹴りによって壁に叩きつけられ、体を半ば瓦礫に埋めながら気を失っていた。

そんな彼女の頭を掴み、ノーゲートは言う。

 

「強いってのはこういうコトだ。

どんなものも壊せる。どんな奴にも勝てる。どんな命も奪うことができる……」

 

ノーゲートは……。

握り潰さんばかりに掴んだ彼女の頭を、再び壁に叩きつけた。

鈍い音、壁が壊れる音が教会内に響く。

赤髪の吸血鬼は、刃の翼を手から放し、純粋な腕力でもってガブリエラを傷つけていく。

壁に叩きつける。

何度も、何度も。

 

「これが”強さ”だ!

テメェを殺す、これこそが”強さ”だ!!

それをなんだ、テメェはよォ。強さを誰かに貰っただのなんだの、巫山戯てんのか?

なァ、同じセリフ言ってみろや。

”私は強い”って大見得切ってみろやァ!

……無理だよなァ。出来るわけねェよなァ。

テメェは強くねェもんなァ。

テメェ程度の強さじゃあ、オレは殺せねえもんなァ……!」

 

憤怒が、苛立ちが、彼の顔にあった。声にあった。

絶対優位故か剣は使わない。ただ、その剛力で原始的な暴力を振るう。

怒りを乗せて、硬い壁にガブリエラの頭を叩きつける。

何度も、何度も。

出血して綺麗な銀の髪か汚れる。

一撃の度出血は増えていく。

ガブリエラはもう何の反応も返さない。

それでも止めない。止まらない。

何度も何度も、叩きつける。

 

「雑魚が!

カスが! クズが! 弱者が!

弱ェクセに”強さ”を口に出すんじゃねェ、吐き気がすんだろォが!

テメェら弱者は、何奪われても文句を言う権利すらねェゴミクズなんだよ!

それを自覚してから息しろや!

なァオイ! クソ雑魚のクソ吸血鬼が!

弱ェゴミの癖にオレの妹奪いやがって、お陰でオレは死ぬほどイラついてるぜェ!?

この怒り!

この恨み!

テメェ程度の弱者殺すだけじゃ消えねえよ!

どうしてくれんだ、この、クソ雑魚がァッ!!」

 

ぐしゃり、と。

もはやそう聞こえる程に打ちのめし、叩きつけ、ようやく連撃は止む。

パラパラと瓦礫が降る。

もはや壁はボロボロで……それ以上にガブリエラはボロボロだった。

顔は最早血だるまとなっている。そのダメージは計り知れないだろう。ぐったりと力のない体がそれを物語っていた。

 

けれど。

がしり、と。

震える手が、ノーゲートの手首を掴んだ。

それは彼の骨を軋ませるほどの握力を持っていた。

 

ノーゲートは見る。

眼下の吸血鬼は……その紅い眼は、死んでいない。

ボロボロのガブリエラは、明滅する意識で何とか抗う彼女は……けれどまだ、敗けてはいない。

 

「……あ、なた、には」

 

彼女は言う。

決して譲れぬものがあると、言う。

 

「私の貰った”強さ”、は、大切なものは、分から、ないよ」

 

豪風。

 

ノーゲートはガブリエラから距離を取っていた。

必死に掴まれた腕を振りほどき、必死になって後退した。

 

紅い翼が。

眼前にある。

 

先程まで自分の頭があった場所を、ガブリエラの翼が通り抜けていた。

ぽたりと、掴まれていた手首が、肉が抉れるほど無理やりに引き抜いたそこが出血して床を濡らす。

そこまでして必死になって避けなければならなかった……その事実は、ノーゲートに更に怒りを募らせた。

 

怒りの矛先は。

気高い眼をしたガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

震える声で、絶え絶えの息で、それでも言う。

 

「私が貰った、”強さ”、は。

何かを奪う、ものじゃない。何かを壊すものじゃ、ない。

守る、もの。失くさない、もの。

自分の譲れない、ものを……ちゃんと抱いたまま生きていける、そのための、強さ」

 

その、真っ直ぐな瞳に。

ノーゲートは……頭が真っ白になった。

否。

思考を空白にするほどの怒気の爆発が、彼の胸中を支配したのだ。

 

「……なんだそりゃァよォ。

……テメェ、ホントにイラつくぜ。ア”ァ、有り得ないくらいイラつくぜェェェ……」

 

その表情は……まるで全ての感情が抜け落ちたようで。

しかしその(かお)からは、まるで黒く燃えているような、そんな恐ろしいまでの圧迫感が感じられた。

空間が、灼ける。

彼の憤怒が焼いている。

 

ノーゲートは再び剣を手に取った。

地獄の底から響くような声が、彼の喉から這いずり出てくる。

 

「テメェのチンケな”強さ”を、オレの”強さ”で奪ってやればよォ……。

そうすりゃ二度と言えねェよなァ……。

そんな綺麗事吐けねえよなァ……」

 

おぞましい声の、恐ろしい吸血鬼(バケモノ)を前に。

ガブリエラは、壁から抜け出し、両の足で震えながら立つ。

まだ死ねないと。

こんな奴には負けられないと。

その眼が雄弁に語っている。

 

それが……ノーゲート・クリムゾンには赦せない。

 

「これ以上オレをイラつかせんなァ! テメェ程度の弱者がよォッ!!」

 

そして。

ノーゲートは剣を振り上げ。

ガブリエラは翼を構えて。

同時に床を蹴り。

 

再度、激突。

 

「――、ッ」

「ア”ァ!?」

 

翼が。

巨剣の翼と片翼が、鍔迫り合っていた。

 

ガブリエラは再び両翼を絡ませあっていた。先程よりもキツく硬く。ただ同時に動かすためでは無く、まるでひとつの翼とするように。

それが翼の強度を上げていた。

こんな小細工、彼女は初めてだった。

常に強者であったガブリエラが、今弱者として戦いを強いられている。

彼女は、何処か試されているような気がした。

こんな自分が、空腹を選んだ生き方が、この強者を倒せるのかと。

運命に抗えるのか、と。

 

「ぐッ――ァ!?」

 

赤髪の吸血鬼が呻く。

鍔迫り合いの力を受け流すように上体を逸らし放たれたガブリエラの蹴りが、ノーゲートの鳩尾を刺した。

吸血鬼の身体能力が放つ、蹴撃。

 

どれだけ翼が強かろうが、どれだけ再生能力が強かろうが、吸血鬼の耐久力は基本的に人間と同じだ。翼以外に当たれば、例え蹴りだろうとダメージはある。

後退するノーゲート。

均衡が崩れる。

 

「(――絞り出す! 今出せる全力を!)」

 

ガブリエラは、少ないエネルギーを使い切らない為にセーブしていた力を解放した。

彼女の瞳に、まるで燃えるような強い光が灯る。

 

紅い、翼撃。

 

「ぐッ!?」

 

苦悶の声をあげたのは、今度はノーゲートの方だった。

剣の翼で受けたガブリエラの一撃が重い。

明らかに攻撃の威力が上がっている。

威力だけでは無い。

速度も、迫力も。

先程までの倍はある。

「テメェ、何処にそんな力が……ッ」

 

ボロボロの体で、先程以上の力。

理解できない現象に一瞬思考が鈍る。

 

その隙を、百戦錬磨のガブリエラは見逃さない。

 

「はあああああっ!」

 

気合いの声を放つのも、初めてのことで。

彼女は弱者として、初めて「譲れない戦い」をしていた。

 

全身の細胞を燃焼させる勢いで血を回す。

残り少ないエネルギーを、後先考えず全てつぎ込む。

そうしなければ勝てない。

そうまでして勝ちたい。

覚悟と共に、翼で連撃を放つ。

脳が警鐘を鳴らしている。腹がカラッポで痛み出す。

けれど止まらない。止められるハズが無い。

勝つ為ならば。生き残る為ならば。

アクタとの日常の為ならば。

限界なんて、何度だって超えてやる!

 

「心が、体を動かす――これが私の”強さ”っ!」

 

頭に。

胸に。

胴に。

腕に。

脚に。

ノーゲートのあらゆる部位を狙って、翼が鞭のように振るわれる。

薙ぎが。突きが。

無数の”死”が放たれる。

 

「(受けきれ、ねェッ!?)」

 

二枚の剣の翼を攻撃ではなく防御に使い、乱打の雨を必死に防ぐノーゲート。

彼はガブリエラの燃える瞳を見て――彼女の背後に【紅い暴君】を幻視した。

忘れる事など出来ない、あの絶対の恐怖を。

 

「ッ……テメェ、程度が」

 

しかしノーゲートは……怯えるどころか、なお怒りを深くした。

憎悪が、憤怒が、彼の中で燃え上がり――爆発して、体を攻撃へと動かす。

 

【紅い暴君】(アイツ)を思い出させてんじゃねェぞォッ!!」

 

左腕、左の剣による、下からの斬り上げ。

ガブリエラの翼を断ち斬る為の一撃。

攻撃の起こる瞬間を狙った、完璧なタイミングのカウンター。

 

それを。

ガブリエラは読んでいた。

否、その攻撃を待っていた。

 

「(なにッ!?)」

 

振り抜かれた斬撃。

空気を斬り、遠く離れた天井の梁を切断する衝撃波まで出した一撃は……しかしガブリエラの翼を断つことは無かった。

 

「(手応えが、ほとんどねェ……ッ!?)」

 

残心の構えを取る……つまり左の剣を振り抜いて無防備なノーゲートの懐に。

体を回転させながら翼を構えるガブリエラが飛び込んでいた。

 

「(コイツ、オレの攻撃を読んでやがったッ……! その上で迎え撃つんじゃ無く、攻撃の威力を利用したカウンターを……!)」

 

ノーゲートの剣戟。まともに受ければ翼が切断される鋭利さのそれは……しかし結局のところ翼撃。

翼に日本刀のような鋭さは無い。斬撃の体を無しているのは、あくまで吸血鬼の細胞の強度と攻撃の速さ。

つまり、同じ翼同士なら……ぶつかった所で、簡単には斬れない。剣と剣が硬くぶつかり鍔迫り合うように。

 

ならば……力を抜いて受ければ?

当然、受けた方が弾かれる。

攻撃を放った方は想定外の手応えの無さに勢い余って体勢を崩し……受ける方はその隙を突ける。

さらに攻撃を受ける方に、相手の力を利用する技量があれば。

 

今ガブリエラが行おうとしているように、強力で素早いカウンターが可能となる。

 

「(クソが! 吸血鬼の癖に弱者(ニンゲン)みてェな小細工を……ッ!)」

 

ノーゲートの攻撃の威力、それに抗わず力を利用することで体を急回転、そのまま勢いに乗せて翼で攻撃を放つ。

ガブリエラの構えは突き。

二枚の翼を捻り合体させた、肉を骨を貫く翼撃。

 

「(速ェッ! オレの渾身の力を利用して速度を大幅に上げてやがる!

……だがオレは二刀流、翼を一枚攻撃に使ってももう一枚で防御できる。仕方ねェから体の端はくれてやるよ、どうせすぐ再生するからなァ。

この際守るのは正中線だけでいい。心臓と脳だけを今動かせる右側の翼で防御する。その勢いの攻撃だ、決まろうが決まるまいが絶対に隙ができる!

そうなりゃァ形勢逆転だ、片翼のテメェは二刀の手数で押し切れ……ッ!?)」

 

ノーゲートは。

そこまで高速で思考して、ようやく気付いた。

 

「(――オレの翼に、罅が……ッ!?)」

 

自らの翼……防御に使おうとした右側の翼に、決して小さくない罅が入っていることに。

 

これは偶然では無い。

ガブリエラの連撃は、僅かな血を燃やして放った乱打は、全てこの時の為。

 

今までの戦いややり取りからノーゲートの左利きを読み。

焦れば左手で攻撃してくると踏んで、攻撃の狙いをノーゲートが右側の翼で受けられる範囲に集中した。

その他の部位への攻撃は、全て自らの狙いに気付かれないための目くらまし。

 

まるで弱者の様な小細工。

それが、強者(きゅうけつき)同士の戦いの行方を左右しようとしていた。

 

「(オレの翼は硬質な分痛覚が鈍い! 気付かなかった、いや侮っていた! 最初の雑魚のイメージが抜けてなかった! この程度の奴にオレの翼が壊されるわけねェと思い込んでいた!

……いや、違う! コイツ、最初からこれを狙ってやがったんだ! 眼が光りだしてからずっと! 今思えば、右の翼で受けた攻撃はやけに重かった!

……待て、そんなの有り得んのかよ!? 有り得ねェだろ! オレの行動を何手先まで読めばそんなコトが出来んだよ!

弱ェクセに!雑魚のクセに!一体なんなんだコイツはァッ!!?)」

 

ノーゲートの眼前で。

ガブリエラの瞳が燃えている。

紅く紅く輝く眼が、真っ直ぐ自分の心臓を見据えているのをノーゲートは感じた。

 

「(この壊れかけの翼じゃ受けきれねェ! だがもう動きを変えれねェ! 間に合わねェ!

……負ける!? オレが、コイツにィッ!?

クソが! クソがクソがクソが!)」

 

壊れかけの翼の防御。

今迄で最高の一撃が、それを砕かんと空気を裂きながら襲い来る様を幻視する。

それは一瞬後の未来。

敗北の、予感。

 

ノーゲートがひび割れた翼をなんとか再生しようと慌てて翼に血を送る。

だが遅い。

間に合わない。

 

”死”の一撃が、眼前に。

 

「クソ、がァ――ッ!!」

「(――決める!)」

 

そして。

その一撃は。

積み重ねた一撃は。

弱者として放つ一撃は。

まるで矢のように放たれた。

 

紅い翼が。

突き進む。

敵を喰い破らんと。

防御を穿ち貫かんと。

心臓目掛けて疾走する。

それはまるで、牙を剥く紅い龍か、はたまた血を纏った突撃槍か。

 

翼が。

破壊そのものとなって、ノーゲートを襲う。

 

「(とど、けぇ――っ!)」

 

ガブリエラの、魂の絶叫。

それに呼応するかのように、紅い翼は炎を宿した。

 

夜を灼く翼が。

空を裂き。

音を超え。

光に成り。

「紅」が突進する。

「死」を纏って突き進む。

 

そして。

矛盾、激突。

 

紅蓮の一撃が。

赤い壁を、貫いた。

ノーゲートの防御を貫通した。

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは、敗北の運命を打ち砕いた――

 

 

「――、え」

 

 

――ように見えた。

 

しかしその一撃が、ノーゲートの(しんぞう)に到達することは無かった。

 

剣の翼を僅かに貫通した所で、ガブリエラの一撃は力尽きるように止まっていたのだ。

ノーゲートの胸元まで、たった数センチ。

だが……届いて、いない。届かない。

 

 

「な、んで……」

 

ガブリエラの瞳から、翼から、紅い炎が消えていた。

 

彼女は悟る。

自分の中には、もう攻撃に使えるエネルギーなど残っていない事に。

 

一瞬、たった一瞬なのに、間に合わなかった。

 

血が、尽きた。

生き方が、勝機を逃した。

 

景色が、視界が、ぐにゃりと曲がって。

脚が、動きが、力が入らず止まって。

 

 

――赤い、斬撃。

 

 

ガブリエラの肩口から、血が激しく吹き出た。

小さな体が吹き飛び、床を転がる。

そんな彼女を……ノーゲート・クリムゾンは見下ろしていた。

 

「……イラつくぜ」

 

ざり、ざり、と。

ノーゲートは距離を詰める。

 

「ぐ、うぅ……っ、あッ」

 

ガブリエラは……立ち上がれない。

彼女には最早、立ち上がる力すら残っていない。

何度も必死にもがき、その度床に頽れる。

肩の傷もほとんど再生していない。

床を、赤い血が汚していく。

そんなボロボロの吸血鬼へと、赤髪の吸血鬼は近付く。

 

「ア”ァ、イラつくぜ。

イラつくぜイラつくぜイラつくぜ。

テメェは強ェなァ。ちゃんとあのクソ強ェ暴君のガキだなァ。

なのによォ……心底イラつくくらい、どうしようもねェくらい弱ェなァ……!」

 

音を立てながら、ノーゲートの剣にあった罅が、穴が、容易く治っていく。

状況は最早、誰が見ても明らかだった。

絶対絶命のガブリエラは、なおも立ち上がろうともがいて……その腹に、ノーゲートの蹴りが炸裂した。

 

「ぎ、あっ」

 

体が浮き上がり、再び地面へと激突する。痛みで呻くことすら苦しい。

それでも立ち上がろうと藻掻く。

そんな彼女の、精一杯の力を込めていた脚を、ノーゲートは思いっきり踏みつけた。

 

「あ、ぐう……っ」

 

みしり、と嫌な音がガブリエラの体の中で鳴る。

ノーゲートは……そんな彼女を見下ろしていた。心底腹ただしそうに見下ろしていた。

 

「テメェ、ろくに血を飲んでねェな。それで燃料切れ起こしたんだろ、なァ」

 

ミシミシと。

一言喋る度、踏みつけられた脚に力が入る。

その度に骨が軋み、血管が押しつぶされて、痛みがガブリエラの中を突き抜ける。

必死に歯を食いしばって耐える彼女に、しかしノーゲートは残酷だった。

 

「巫山戯てんのかテメェ。

テメェはただ弱いんじゃねェ。

テメェは強く成れるのに、強く在れるのに、そのための努力を怠ったんだ。なァそうだろ?

オイ。何とか言えよ、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト」

 

怖い。

ガブリエラはただ怖かった。

死の恐怖が、彼女に初めて襲いかかっていた。

失いたくないものがある。

別れたくない人がいる。

だからこそ、死が怖い。

怖くなかったものが怖い。

 

「テメェは……真性の雑魚だ。魂が腑抜けだ。誰かと戦う資格も何かを守ると豪語する資格もねェ、最低の弱者だ。

強く在ろうとせず。

弱さを恥じることもしねェ。

そのくせ奪われるのは嫌だと文句だけは人一倍言う。

それはよォ……この世で1番の罪悪なんだよ。

 

誰かに奪われるのは弱ェからだろうが。

文句しか言えねェのは弱者だからだろうが。

その程度の事も考えず、まるで自分が悲劇の主人公にでもなったみたいに振舞いやがってよォ……。

ちっとも強くなろうとしないクセに、周りが、環境が、自分より強い奴が全部悪ィみてェな顔しやがってよォ……!

テメェみてェなの見てると、オレはホントにホントにイラつくんだよォ……ッ!!」

 

ばき、と。

遂に踏みつけられていた脚の骨が、折れた。

激痛が、ガブリエラの体を跳ねさせる。

 

ノーゲートは……そんな折れた足を、尚も強く踏みつけた。

 

「ぐ、あぁ……っ!」

「痛ェよなァ。苦しいよなァ。踏みつけられて罵倒されて、こんなの嫌だよなァ。

でもよォ。それは全部テメェの自業自得だぜ。

テメェは”強さ”を軽視した。

奪う側でいる努力を放棄した。

そんなカスは――全部奪われて当然なんだよッ!!」

 

再び、蹴りがガブリエラの腹へと炸裂する。

吹き飛び、また崩れ落ちる。

もう悲鳴をあげる力もない。

折れた脚では、この飢餓感では、立ち上がることはもう出来ない。

 

叩きつけるような蹴りが。

動けないガブリエラを襲う。

 

何度も、何度も。

靴底が少女を汚し、傷付け、壊していく。

 

「オラ言ってみろよ!

テメェに何が守れんだ!?

弱ェカスのテメェが、いったいどうして”強さ”を語れんだ!?

テメェは負け犬だろ! クソみてェな弱者だろ!

そんなテメェが偉そうに語れるモノなんて、この世界にはひとつもねェんだよッ!」

 

言葉が。

ガブリエラを苛む。

 

「なァオイ、文句があんなら言ってみろや! テメェの言う”強さ”とやらでオレを押し退けてよォ!

……無理だよなァ、出来ねェよなァ。

テメェが綺麗事言える余裕なんざ、オレが全部奪っちまったからなァ。

こんな簡単に奪えるくらい、テメェは心も弱かったもんなァ!

なァ! この雑魚が! クズが!

クソッタレの弱虫が!

気付いてねェなら教えてやるよ!」

 

自分を否定されて。

大切なものも否定されて。

最愛の人に貰った心を否定されて。

 

それでも尚、何も言えない。

弱ければ文句すら言えない。

ガブリエラは今更ながらに理解した。

自分が甘えていたことを。

龍川芥に、弱さを肯定してくれた存在に甘えていたことを。

本当に彼が大切ならば……強くなるべきだった。彼との日常を奪われないように、強く在らねばならなかった。

でもガブリエラは、そうしなかった。

結局自分は逃げていただけなのだ。

傷付けることから。

否定されることから。

選ぶことから。

奪うことから。

言い訳をして、逃げていた。

罪を犯すことを忌避していた。

それが「罪と向き合う」なんて言葉と最も遠い行為であることに、気付かないフリをして。

 

「テメェは、」

 

嗚呼、私は。

 

「何も、守れねェ」

 

ガツン、と。

ガブリエラの頭が踏みつけられる。

彼女の顔が床に押し付けられる。

乱暴に、乱雑に。

でも……もう彼女に、抵抗する力は無くて。

体にも心にも、そんなものどこにも残ってなくて。

 

「いいか雑魚。

弱ェ奴は奪われても仕方ねェ。その事に文句言う権利すらねェ。

それがこの世界の摂理、クソッタレな弱者の法則だ」

 

剣が。

振るわれた。

それは素振り。恐怖を煽るような、これから起こる惨劇の予行演習。

 

「だからよォ……テメェが何奪われようが、弱ェテメェが悪ィんだよ。

せいぜいそのことを後悔しながら苦しみなァ」

 

ぎらり、と。

ステンドグラス越しの月光が、赤い刃を鈍く光らせる。

 

「先ずは足だ。それから両腕。

ダルマにしてからゆっくりと懺悔させてやる。

テメェが殺したノースのことをなァ……。

その後は、この怒りが収まるまで嬲ってやる。

この憎悪が消えるまで殺さず苦しめてやる。

テメェには、自分がどんだけゴミクズだったかを理解してから死んでもらうからよォ……」

 

ガブリエラは、悲しくて悔しくて……でももう何も出来なくて、ただ諦めて目を閉じた。

瞼の裏にあるのは、アクタの笑った顔。

 

「いってきます」を言わなくて良かった。

約束を破らなくて済むから。

でも……もしひとつだけ、我儘を言うのなら。

 

「さァ、せいぜいクソな悲鳴を上げろや!」

 

翼剣が持ち上げられる。

死が、振り下ろされる。

 

ガブリエラは目をぎゅっと閉じ、祈った。

今まで殺してきた人間のように、無様に願った。

 

最期にもう一度だけ、会いたかった――

 

 

 

「――やあガブリエラ。今日はいい夜だね」

 

その声は。

壊れかけの教会に、やけに大きく響いた。

否。その声が孕んだ底なしの絶望が、不快感となって聴く者の耳に酷く残ったのだ。

 

ノーゲートは思わず動きを止めて振り返る。

ガブリエラは踏みつけられながらも必死に目を動かす。

 

声の出処は教会の入口。

そこには2人の人間が立っていた。

 

ひとりは、黒いセーラー服を着て、刀を握ったまま俯いている少女。

 

そしてもうひとりは――

 

 

ガブリエラが1番会いたかったひと。

ガブリエラが1番好きなひと。

ガブリエラが1番来てほしくなかったひと。

そして、ガブリエラが1番助けて欲しかったひと。

ガブリエラだけの、最高のヒーロー。

 

彼は、言う。

今まで見た事も無い顔で。

 

 

「今日は満月。死ぬにはとても良い日だよ」

 

 

人間失格(たつがわあくた)が、陰惨な笑顔でそこに居た。



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11.ずっと一緒

「今日は満月。死ぬにはとても良い日だよ」

 

龍川芥は、教会の入り口でそう言った。

その口は陰惨な嗤いに歪められ、その瞳は濁って何も写さない。

 

底無しの絶望。

剥き出しの悪意。

絵に書いたような最悪。

 

そんな彼は、祈る者達の空間に土足で踏み入る。

ただ、その絶望に似合わない願いひとつを持って。

 

「テメェは……」

「アクタ、どうして……っ」

 

その声は。

呻くように問うたガブリエラを踏み付けているノーゲート・クリムゾンの存在は、やはり龍川芥の脳を狂わせた。

 

――ざり、と。

得体の知れない、雪の日の約束の記憶が駆け巡る。

しかし……絶望は、謎の記憶も、それへの困惑も、いとも容易くねじ伏せた。

 

精神の強さだとか、特異な才能だとか、断じてそんなものでは無い。

ただ……無際限に湧き出る「絶望」、それのみが龍川芥の武器であり。

それは自分の心も、それ以外も、全てを望み通りに歪めていく。

 

「こんばんは、ノーゲート・クリムゾン。哀れで愚かな復讐者。

自己紹介をしておこう。

俺は龍川芥……君の傷付けたガブリエラの味方の、ただの人間失格さ」

 

絶望は、名乗る。

自分が何をしに来たのかを。

 

「ガブリエラ……助けに来たよ」

 

それは。

人間失格が、全てを捨てて願ったのは……ただひとりの吸血鬼の(いのち)

 

それを聴いて……ノーゲート・クリムゾンは不快げに吐き捨てる。

 

「ファック。何を言い出すかと思えば……。

人間風情が、弱者が、コイツをオレから助ける……?

ア”ー、笑えてくるぜ。

イラついてイラついて、怒り通り越して笑っちまうぜ……」

 

ぶわり、と。

吸血鬼の殺意が、龍川芥へ向けられる。

それはまさに鬼。心の弱いものであれば気絶してしまうほどの恐怖。

 

「弱ェクセに調子乗ってんじゃねェぞ雑魚がッ!

オレはテメェみたいな、身の程知らずの弱者が一番嫌いなんだよ!」

 

殺意の暴風が、怒声と共に龍川芥へと襲いかかる。

 

しかし……陰惨な笑みは、消えなかった。

むしろ嘲るように、嗤うように、人間失格は表情を深くする。

それは……ただ、不気味だった。

吸血鬼に抗うのでもなく、恐れるのでもなく……ただ、見下す。

力で消して勝てないハズの人間が、吸血鬼を見てなお精神の優位を揺るがせない。

 

それは最早人では無い。

狂って狂って狂い果てた先に到達した、人間以外の奇形の精神(こころ)

 

「くふ、くくく……」

「テメェ、何がおかしい」

「いや別に。あまりに安い台詞でね。

弱者を嫌う。弱者を侮る。弱者を殺す。

大いに結構、それが自然の摂理だ。

だが……俺に言わせれば、君には絶望が足りないな」

 

嗤う。嗤う。

ノーゲートという強者を相手に、人にすら勝てないハズの人間失格(じゃくしゃ)は嗤い続ける。

そう、それこそが「絶望」。

それは何者にも拭うことは叶わず。

ただ、全てを汚していく。

 

「”弱い”とは何か。

力が無ければ弱いのか?

知恵が足りなければ弱いのか?

何を持ち得なければ”弱い”という言葉に値するのか、分かるかい?」

「……」

「そう、分からないハズだ。

なぜなら”弱い”とは、強さを持たぬことを指す言葉では無いからね。

それは敗北者のことを、自らの目的を果たせぬ者を見下して使う言葉なんだ。

つまり……”弱い”なんて言葉には、なんの意味もない。

それはただ、勝者面した者が創った、相手を貶すためだけの言葉だよ」

 

人間失格は語る。

なんの根拠も無い言葉の羅列を。

ただ、己の信念(ぜつぼう)に、18年の人生哲学にのみ基づく考え方を。

 

「勝てば”弱い”と嘲られる事は無い。

負ければ”強い”と認められる事も無い。

つまり、そんな言葉に意味は無い。

君はただ傲慢なだけだ。

人間風情には決して負けないと信じているからこそ、勝ってもないのに相手を”弱い”と言えるんだね。

まったく……絶望が足りてなさそうで羨ましい限りだよ」

 

呆れたように、心底羨ましそうに。

けれど、その陰惨な嗤いだけはそのままに、人間失格は語った。

 

それに神経を逆撫でされたのか、ノーゲートは更に声を荒らげた。

 

「ご高説ご苦労なこった……。

なら……テメェにコイツが救えるか!

オレを倒して助けれるのか!?

できるハズねェよなァ!

たかが人間が、吸血鬼(オレ)を倒すヒーローに成れるハズがねェ!」

 

吼えると同時、赤い翼が……巨大な剣が振り上げれる。

助けに来てみろと誘うように。

出来はしないだろうと突きつけるように。

ガブリエラの、泣きそうな瞳と目が合う。

 

その絶望を……龍川芥は、尚も嗤って跳ね除ける。否、受け入れる。

 

「ヒーローになんて成る気は無いよ。

そして君を倒す必要も無い」

 

彼は懐から”それ”を取り出す。

それは、銀の短剣。

護身用の武器にして……龍川芥の罪の証。

 

「君の目的は”仇討ち”だったね。

丁度此処は教会だ、俺の罪を懺悔するとしよう」

 

見せつけるようにして取り出したそのナイフから、ノーゲートは目が離せなかった。

彼の鋭敏な嗅覚は漸く捉える。

この、懐かしい匂いは。

雪の日を思い出す、鉄錆に似た匂いは。

 

「テメェ、人間……これはどういう事だ」

 

困惑とそれ以上の憎悪の声が、吸血鬼から漏れる。

そう、それは……ノーゲートの大切な妹の。

 

「なんでテメェの方から、ノースの匂いがしやがる……ッ!!」

 

くつくつと。

人間失格は嗤う。

 

「分かるのかい? 半年は経っているのにね。

そうかそうか、”彼女”は愛されていた訳だ。

羨ましいなあ。妬ましいなあ。

あんな奴でも愛されるなんて、とんだ絶望もあったものだなあ。

嗚呼、やっぱり……殺しておいて良かったなあ」

 

口を三日月の様に裂けさせて、嗤う。

その胸中は……しかし、表情とも言葉とも真逆のものだった。

 

殺しておいて良かった、だと?

我ながら吐き気のする大嘘をつけるものだ。

その逆だ。

殺したことを後悔しなかった日は、1度だって無いさ。

 

龍川芥は……俺は、想起する。

半年前。俺はガブリエラと出会った事件で、ひとりの吸血鬼を殺している。

 

それは、まるで物語の主人公にでもなった気分で非日常の世界に入り込んだ俺が、その認識の甘さを手遅れになってから初めて知った時。

ガブリエラが死に体にしたひとりの吸血鬼を殺さなければ事態の収集は計れない、と教えられた時、せめて俺は背負うことにしたのだ。

自分の甘さのツケを。

ガブリエラだけが背負うハズだった罪を。

 

あの感触を覚えている。

刃が肉に沈む音。骨を折る重く鈍い手応え。心臓を突き刺し、命を奪った感触。

明瞭に思い出せる最期の表情と、思い出す度背筋を這いずる罪悪感。

あれは罪で、これは罰だ。

 

だから――それすら利用しよう。

絶望で心を歪める。

覚悟も矜恃も実力も足りないのだから、それで補強をするしかない。

絶望だけが、俺の武器なのだから。

 

欺くのだ。

嗤うのだ。

無力の身で、おのが目的を果たす為に。

 

さあ語ろう。

真実を、笑って告白しよう。

そう、俺が殺した吸血鬼の名は──

 

 

「──ノース・クリムゾンを殺したのは俺だよ」

 

 

それが……消えることの無い、龍川芥の罪で。

ノーゲート・クリムゾンを操る為の一手だった。

 

「彼女の最後の表情を知りたいかい?

あれだけ恐怖されたのは初めてだったから、よぉく覚えているよ。

泣きそうな顔で、なんと言っていたかな?

うーん、良く思い出せないなあ。

もしかしたら……”助けてお兄ちゃん”とかだったかな、なぁんて」

 

ニヤニヤと、仮面の嘲笑で。

大嘘を、語る。

分かりやすく挑発する。

 

そして……ノーゲート・クリムゾンは、ガブリエラを踏みつけていた足を床に下ろした。

ただ、龍川芥に向かって歩き出す為に。

 

妹の本当の仇を、彼女を侮辱した人間を、血祭りにあげてやる為に。

 

龍川芥は挑発の成功を確信し……隣で置物のように俯いていた少女へと優しく声をかける。

 

「ほら、君の出番だよ殺人者くん。

あの吸血鬼から、俺を守ってくれ給え」

 

少女はびくりと肩を跳ねさせて……そのまま抵抗の素振りも見せず、刀を構えた。

彼女は既に、思考を放棄していた。

考えてしまえばその分傷つくから。それは絶望の中に居るもの共通の特徴。

だからこそ、八雲泪は人間失格の言葉に従ってしまう。

何も考えたくないから。

誰かに従っていれば、誰かに”正しさ”を委ねれば、傷付かなくて済むから。

 

芥はそんな彼女から目を逸らし、ノーゲートの方を向く。

彼は地獄の底から響くような声で言う。

 

「……殺す」

 

ギラリと、ステンドグラス越しの月光が赤い大剣を光らせる。

けれど……人間失格は揺るがない。

 

「声が小さくて聴こえねーよ、お兄ちゃん」

 

それがトドメだった。

 

「殺してやるッ!! クソッタレの人間があああああアアアアッッ!!!」

 

半狂乱で、赤い吸血鬼は龍川芥へと突進する。

 

「アクタ……っ」

 

助けなきゃ。

ボロボロの体を激痛に支配されながら立ち上がろうとしたガブリエラは……見た。

芥がこっちを見ている。

口の形だけで伝えている。

 

――だいじょうぶ

 

そして、赤い剣が龍川芥に襲いかかり。

 

銀光、一閃。

 

斬り裂かれたのは……脆弱な人間ではなく、赤い大剣の方だった。

 

ノーゲートは勢いのまま、教会の外へ出てしまう。

彼は憎き仇の方を振り向いて……そして見た。

刀を振り抜いた残心の構えを取る、黒い吸血鬼狩りの少女の姿を。

 

――八雲流剣術奥義がひとつ、「(やじり)おとし」。

飛翔する矢を両断したと言われる剣技が、赤い剣を断ち切ったのだ。

しかしその神業を放った少女は、まるで怯える子供のような顔をしていて。

 

震える彼女に、龍川芥は優しく囁く。

 

「ありがとう。君は人を守れる優しい人だね。

さあ、あの吸血鬼はまだ俺を殺そうとしている。

足止めを頼むよ。

彼を教会の中に入れないでくれ。

そうすれば……後は俺が何とかするからさ」

 

それもまた、大嘘。

けれど八雲泪は、それを疑うことも無く。

ただ、教会の中に消える龍川芥を追おうとしたノーゲートの前に立ちはだかった。

 

「退け、雑魚がッ! テメェに用はねェんだよッ!!」

「……まもる、まもるんだ……私は……」

 

復讐者と復讐者の成れ果ての、無意味な戦いが始まった。

 

そんな彼等を振り向きもせず、龍川芥は教会の中へと……ひとりの吸血鬼の元へと歩いていく。

 

「さて。改めて……助けに来たよ、ガブリエラ」

 

 

◆◆◆

 

 

「助けに来たよガブリエラ。

それとも……こんな俺には、失望したかな?」

 

人間失格は、いや俺は……陰惨な笑みではなく、何処か寂しげな微笑みで言った。

ガブリエラは混乱のまま、ただ首を振って否定してくれた。

 

「ありがとう。さて、大丈夫かい? ガブ」

 

俺は倒れた彼女を抱き起こしながら、声をかける。

その体は傷だらけで、顔は酷く憔悴していた。

 

「アクタ、なんで⋯⋯」

 

なんで来たの。言いたいのはそんなところだろうか。

弱々しくそう問うてくる彼女に、俺は笑いながら返す。

 

「俺が君を助けたかったからだよ」

 

俺は……ただ、優しく微笑んだ。

陰惨な嗤いなど、もうどこにも無かった。

それはきっと……彼女にだけは絶望を与えたくないという、人間失格なりのエゴだったのだろう。

 

俺はガブリエラの背中、そこから生えた片翼(ふたつのつばさ)を見ながら言う。

 

「ガブリエラ、やっぱり君、満腹になるまで血を吸ってなかったんだろ」

「⋯⋯」

 

それはずっと疑問だったこと。

それは彼女の様子を見て確信に変わった。

かつて大きな四枚羽だった彼女は、それが見る影もないくらいのサイズの二枚羽に変わっている。

 

お腹が空いた、なんて。

そんなこと、1度も言い出されなかったな。

俺は優しい吸血鬼の頭を、くしゃりと撫でる。

そして、どうしても聞きたかったことを、聞いた。

 

「質問だガブ。俺の血を全部吸えば、あいつに勝てるか?」

「⋯⋯それはっ! それはダメ! アクタが死んじゃう!」

「⋯⋯なるほど。今の答えで充分だよ」

 

彼女は狼狽えてはいても、否定しなかった。

それはきっと⋯⋯ようやく俺にも”(さいご)”の時が来た、ということだろう。

俺は真剣な顔で、言う。

 

「ガブリエラ、時間が無い。聞いてくれ」

「いや! ききたくない! アクタが死んじゃったら、私は、わたしは⋯⋯っ!」

 

半狂乱で力の入らない体を振り回すガブリエラへ⋯⋯人間失格は、絶望で人を操った男は。

 

「ガブ、頼む」

 

ただ、真摯にそう言った。

その言葉に含まれた真剣さが、ガブリエラの動きをゆっくりにさせ、そして止める。

 

俺は彼女に、美しい吸血鬼に――心の底からの願いを、告白した。

 

 

「ガブリエラ、俺の血を吸え。

いつもみたいに勿体ぶらず、俺の全部を持っていけ。

血も、命も、全部君にあげるから。

だから⋯⋯生きてくれ」

 

 

それは、人間失格の、龍川芥の唯一の願い。

全てを捨てた男が、唯一捨てられなかった……否、そのために全てを捨てられたほどの、大切な願いだった。

 

「⋯⋯アクタぁ」

 

それを聞いて、美しい吸血鬼は……ガブリエラは、かつてないほど泣きそうな顔になって、俺の胸元へ縋り着いた。

 

そう言えば聞いたことがあるっけ。

涙は血だから、吸血鬼は泣けないって。

だったら、これで充分だよ、ガブリエラ。

君の涙は、君の優しさは……縋りつかれた胸が感じるこのあたたかさは、確かに受け取った。

 

俺は泣きじゃくる子供のようなガブリエラを座らせ、彼女と目線を合わせる。

ちょっと前、こうやって慰めたっけな。

それも⋯⋯もう最後か。

俺は……大切な思い出の、その再現を始めた。

 

「そうだ、ガブリエラ。心の話は覚えてるか?」

「こころ⋯⋯」

 

ガブリエラが胸に手を当てる。

俺はそれを見て笑いながら、人差し指を立てた。

 

「ガブリエラ。俺の心は何処にあると思う?」

 

自分の心臓を指さす。

血液を身体中に送る臓器。

命の証明である鼓動を響かせる場所。

 

「ここ?」

 

今度は脳味噌。

体を操る、ものを考える場所。

電気信号で、愛や恋を創り出す……不思議な臓器。

 

「ここか?」

 

そして、ガブリエラとの中心点。

彼女と視線がぶつかる場所。

俺とガブリエラ、ふたりがいるから意味を持つ場所。

 

「人とひとの間かな?」

 

ガブリエラは⋯⋯覚えていてくれたのだろう。

おずおずと、その白く細い手を差し出してくる。

ふたつの手のひらが⋯⋯傷だらけの美しい手のひらと、そうではない手のひらが、重なる。

 

「覚えてるかな、ガブリエラ。目に見えないものは」

「⋯⋯あると信じた場所に、ある」

 

俺は⋯⋯ゆっくりと、白く小さな手と指を絡めた。

少し遅れて、彼女も同じことをしてくれる。

 

「俺は信じてる。俺の心は、間違いなくこの中に在るって」

 

それはきっと、彼女のものとは色も形も違って。

目に見えなくて。不確定で。

とても醜いかもしれないけど⋯⋯。

でも、どこか美しい、心。

彼女に恋した分だけ美しい、俺だけの心。

 

「君にも信じて欲しい。俺の心がこの手の中にあることを」

 

繋いだ手を、ゆっくりと押す。

それは、ガブリエラの胸に当たり、彼女に優しく熱を伝えた。

 

まるで、心と心がキスをするみたいに。

 

「そして今は、君の胸の中に」

 

ガブリエラはこの前とは違って、顔を上げて俺の顔を見た。

その表情がどんな感情を表しているのか⋯⋯彼女の心に触れた俺の心は、何より雄弁に感じた気がした。

 

「君の心の隣に、俺の心が在るんだ」

 

彼女を抱きしめるようにして、その口元を……血を吸う牙を、俺の首筋へ持っていく。

手は、繋いだまま。

離さない、離したくないと、お互いの心が言っていたから。

 

「寂しいならさ、俺の心を持って行って」

 

彼女の頭を優しく押す。

自分の首に彼女の牙が当たるように。

びくりと、ガブリエラの体が強ばった。

 

「大丈夫。いつも言ってるだろ?」

 

安心させるように、笑う。

その笑顔は見えていないハズだけど。

けれど、伝わってるって信じてる。

 

牙がゆっくりと、俺の首筋へ沈んでいく。

皮膚を突き破り、肉を押しのけ、血管へと到達する。

それはどっちの力だったのか。

もしかしたら、ふたりの心が重なったゆえの力だったのかもしれない。

俺は……そうだったらいいな、と、ただそう思った。

そして、言う。

彼女のためだけの台詞を。

 

「──俺の”(さいご)”は君のものだ。他の誰にも渡さない。

そして今、その願いは叶うんだ」

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。

俺を救ってくれた吸血鬼。

俺に恋を教えてくれた女の子。

そして⋯⋯俺が本気で愛を願った、この世界で唯一のひと。

 

 

「愛してる」

 

 

本当は、言うつもりじゃなかったんだけどな。

 

他に言いたい10000の言葉は、触れ合った心が直接伝えてくれると信じてる。

君が言いたい1000の言葉は、言葉にせずとも俺の心に届いてるって信じてる。

 

ガブリエラ。生きてくれ。

あんなやつに負けないでくれ。

こんな世界に絶望しないでくれ。

 

俺が屈した運命を⋯⋯お前がぶっ壊してくれ。

 

 

まるで、それが聞こえていたかのように。

 

ゆっくりと。

血が、吸われ始める。

命が、俺を構成するものが、全てが、ガブリエラへと流れ込んでいく。

龍川芥が、人間失格が……綻ぶように、消えていく。

 

そうか。

これが”死”か。

嗚呼。

想像したよりずっと美しくて。

 

――なんて、悲しい”(さいご)”なんだろう。

 

薄れゆく意識の中で、俺は言う。

あの嘘を、ガブリエラを笑顔にするための嘘を、彼女の世界の真実にするために。

冷たくなっていく体に、舌に、俺の最後の力を込めて。

 

⋯⋯大丈夫、俺たちは。

ずっと一緒に居られるよ。

 

 

「──これからは、ずっと一緒だ」

 

 

そうして、俺は目を閉じて。

 

最期に瞼を過ぎるのは、彼女との日常のこと。

俺が居て、ガブリエラが居て、それだけで良かったあの部屋での半年間のこと。

 

ありがとう、ガブリエラ。

俺は――幸せだったよ。

 

微睡むように、俺の意識は遂に消え去り。

 

 

紅色の「死」が顕現した──

 

 

◆◆◆

 

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトの命は、孤独と否定の積み重ねだった。

 

彼女は【紅い暴君】の忌み子として産まれ、そして世界全てから嫌われてきた。

 

吸血鬼達は、彼女を畏れ、呪い、排斥し、そして殺そうとした。

人間達は、死に際の最期まで神に祈り、自分の命と彼女への天罰を願って死んだ。

 

その全てを、強い細胞(からだ)を持ったガブリエラは跳ね除け。

そしてその全てに、普通の心を持っていたガブリエラは傷ついた。

 

そうやって200年間、ただ流れるままに生きてきた。

獣のように、何も考えず生きてきた。

いや、彼女は考えないようにしていたのだ。

人と同じカタチの心を押し殺していたのだ。

 

当たり前のように傷ついてしまう、それが当たり前に嫌だったから。

 

だから彼女は獣だった。

ただ、命を奪うだけの存在だった。

 

そんな哀れな吸血鬼は──200年を超える長い長い旅の果てに、ようやく出逢ったのだ。

 

運命に。

恋人に。

救済に。

 

自らを救ってくれた人間、龍川芥に。

 

 

彼は──ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトを拒まなかった。

 

彼がしたことは、ただそれだけ。

それだけが、どうしようもないくらいにガブリエラを救ったのだ。

獣をヒトへと戻したのだ。

ただ、傷つけないよと優しく手を差し伸べられただけで。

 

ガブリエラは命を奪う獣から、愛や恋が何かを知っていく子供になった。

 

 

そんな彼が⋯⋯ガブリエラを助けに来てくれた。

絶対絶命の運命から、救い出しに来てくれた。

 

対価に──その命を差し出して。

 

 

「ガブリエラ、俺の血を吸え。

いつもみたいに勿体ぶらず、俺の全部を持っていけ。

血も、命も、全部君にあげるから。

だから⋯⋯生きてくれ」

 

 

それは、きっと心のどこかで欲した言葉。

吸血鬼の本能が求めた理想の言葉。

 

そして⋯⋯ヒトとしてのガブリエラが、決して聞きたくなかった言葉だった。

 

 

彼女の脳内を、半年間の記憶が駆け巡る。

 

それは200年間の積み重ねより何百倍も濃い、”人生”とも呼べる半年間。

 

いつも傍らに龍川芥は居て。

私達は笑いあった。

 

いつも一緒に眠った。

芥に抱きついて眠るのは、とても心が安らいだ。

 

いつも一緒に遊んだ。

楽しいってことも、笑うってことも、全部芥に教えて貰った。

 

いつも一緒に過ごした。

私がくっついても受け入れてくれることが、ずっと変わらず嬉しかった。

 

毎日の様に、血を吸った。

愛し合ってる。そう思えた。

ただ愛しかった。

ただ好きだった。

ただ、ずっと一緒に居たかった。

 

 

いつかこんな日が来ることを、ガブリエラは知っていた。

けれど早すぎる。

もっと、ずっと⋯⋯例えいつ終わりが来たとしても、同じようにそう思うことは分かっているけれど。

 

吸血鬼は泣けない。

それでも涙が流れないのが、今は何より苦しかった。

心が壊れてしまいそうな悲しみが、外にも出れず体の中で暴れているから。

 

「ガブリエラ。心の話は覚えてるか?」

 

忘れるハズがない。

芥がくれたこの心。

どうしようもなく苦しくて、どうしようもなく愛しいこれをもらった時のことを覚えている。

 

「俺の心は何処にあると思う?」

 

なんとなく、彼がやろうとしていることが分かってしまった。

だって、そんなことしなくても。

 

私の心はずっと前から、芥と同じ所にあるから。

私はそう信じているから。

 

「覚えてるかな、ガブリエラ。目に見えないものは⋯⋯」

 

あると信じた場所に、ある。

 

だから、信じたくなかった。

彼の中に託した心を、この胸の中に返されることになるなんて。

 

「今は、君の胸の中に。君の心の隣に、俺の心が在るんだ。

寂しいならさ、俺の心を持って行って」

 

寂しいよ。

寂しいよ寂しいよ寂しいよ。

嫌だよ。

離れたくないよ。

やっぱりずっと一緒に居たいよ。

痛いよ。

芥の分まで、胸の中の心が苦しいよ。

 

芥が優しく、私を抱きしめる。

そしてその首筋を⋯⋯自分の命を、私に差し出すように近付ける。

 

牙が、芥の肌に触れる。

脈を、体温を、感じ取ってしまい、私の中で遂に感情が爆発した。

 

嫌だ。

嫌だ嫌だ嫌だ!

死んで欲しくない!

ずっと一緒がいい!

他に何も要らない!

愛されなくたって構わない!

だから、芥には生きてて欲しい!

芥が居ない明日なんて欲しくない!

吸いたくない! 殺したくない!

嫌だ、嫌だよ!

お別れなんて嫌だよ!

だって好きだから!

世界で一番、芥が好きだから⋯⋯!

 

「大丈夫。いつも言ってるだろ。

俺の”(さいご)”は君のものだ。他の誰にも渡さない。

そして今、その願いは叶うんだ」

 

⋯⋯ひどいよ。

 

ぽつり、呟くように思う。

 

芥はひどいよ。

そんなの、ずるいよ。

ばか。

ばかばか。

ゆるせないよ。

かってだよ。

 

⋯⋯でも、すきなの。

だいすき。

だいすきだから。

あなたが本気で望むなら、私に拒めるはずないのに。

 

芥の体に刺さった牙が、彼の命の脈を感じる。

芥に抱きしめられた体が、彼のあたたかさを忘れないように噛み締める。

彼の居ない世界で、彼のことを忘れないように。

彼の居ない明日の、そのつめたさに耐えられるように。

 

 

私の半年間の恋を、永遠に私の心に刻みつけるように。

 

 

「愛してる」

 

 

私は⋯⋯もう、何も言えなかった。

グチャグチャの心は、ただ泣いていた。

心だけが、大粒の涙を流していた。

そして──その涙を拭うみたいな優しさが、私の隣の心から伝わって。

 

言いたい無限個の言葉は、ただ心の中に押し込んだ。

嗚咽と共に飲み込んで、ぎゅっと芥を抱きしめる。

 

 

血を、命を、龍川芥を──私の幸福を、吸っていく。

牙が感じる。腹が感じる。心が感じる。私の全部が芥を感じる。

幸せなくらい、甘い味。

いつもと同じ、愛の味。

そのはずなのに。

その血は、苦い涙の味がした。

 

 

ガブリエラは⋯⋯絶対に言えない言葉を、心の奥底に仕舞い込んだ。

繋がった心から伝わらないように。

決して口から溢れてしまわないように。

 

これは我儘だ。

これは否定だ。

これは身勝手だ。

これを言うのは最低だ。

 

それでも、その言葉は心の中心まで浮かんできてしまった。

なぜならそれが、ガブリエラの1番の願いだったから。

 

 

あのね、芥。

私ね。

本当はね。

これからも、ずっと。

あなたの、隣で。

 

 

「──これからは、ずっと一緒だ」

 

 

ずっと一緒が、良かったな──

 

 

チラリと最後に過ぎるのは、なんでもない日常の風景。

彼が笑い、私が笑い、それで完成されていた世界。

もう、二度と戻らない、私のしあわせ。

 

 

さよなら、芥。

私もずっと、愛してる……っ。

 

 

そうして。

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは、龍川芥の血を満腹まで吸い尽くし。

 

 

──紅い「死」が、彼女の体の内から溢れ出た。

 

 

 

◆◆◆

 

 

「⋯⋯ファック。クソが、雑魚の癖に手こずらせやがって。アイツらに逃げられてたらミンチにして魚の糞にしてやる」

 

教会の外、石畳の道路で。

ノーゲート・クリムゾンは無傷で足元に転がっている八雲泪を蹴り飛ばした。

反応は返ってこない。

彼女の生死は、彼にはどうでもいい事だった。

 

「それよりもあの人間だァ⋯⋯! オレも妹もコケにしやがってッ!

絶対に殺してやる! チリひとつこの世に残さねえッ!」

 

乱暴に歩き、教会の中を覗き込む。

 

足が、止まった。

 

「あァ? なんで⋯⋯」

 

ノーゲート・クリムゾンは目撃した。

 

教会のステンドグラス。

その下に、ガラスの絵の続きのように立っている⋯⋯

 

「死」を。

 

まるで燃えるような、見たことがないほど巨大な四枚羽を背中から生やした、吸血鬼のカタチの災厄を。

 

銀髪に、炎のような光が立ち上る紅い瞳の──ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトの真の姿を。

 

 

「【紅い暴君】⋯⋯ッ!!」

 

総毛立つ。

一度だけ見たことがあるその姿が、ガブリエラと重なる。

 

アレは⋯⋯バケモノだ。

どうしようもない天災だ。

ヒトに似たカタチの大嵐だ。

 

吸血鬼史上最悪の──

 

「ファック! ファックファックファックッ!!」

 

ノーゲートは叫んだ。

それは威圧のためでも、憤怒のためでもなかった。

ただ、恐怖を振り払うためだけの、意味の無い叫び。

彼は……衝動のまま、叫ぶ。

 

「オレが積み重ねてきた”強さ”が⋯⋯テメェに否定されないための”強さ”が⋯⋯。

ただのクソだったなんて、そんなの認められッかよォッ!!!」

 

吼えて。

剣のような翼を構えて。

紅い「死」へと、赤い暴虐は突進して。

 

そして⋯⋯当たり前みたいに、ノーゲート・クリムゾンは吹き飛ばされた。

 

翼は砕け。

骨も砕け。

突進した時の倍の速度で、教会の外へと吹き飛ばされる。

凄まじい速度で地面と衝突し、何度も転がり、ボロボロのドロドロでなんとか起き上がろうと顔を上げる。

 

 

そして彼は見上げることになった。

教会の十字架の上に立つ、燃えるような四枚羽の吸血鬼の姿を。

 

満月を背にして地を睥睨するその姿は。

最早自分程度が圧倒できた頃の面影など微塵も無く。

 

ただ恐ろしく。

ただ美しく。

そう、まるで、万物共通の「死」がそのまま形を成したような。

 

「芥の血から教えて貰った」

 

彼女は唄うように語る。

彼女は怒鳴るように啼く。

彼女は朗読するように言う。

その表情は、声色は、先程までとはまったく違う。

そこには怒りがあり。

悲しみがあり。

苦しみがあり。

憎しみがあり。

痛みがあり。

絶望があり。

空虚があり。

怨嗟があり。

そして、何よりも深い愛憎があり。

どこか神聖ささえ感じてしまう声だった。

 

 

「”死”は人にとっての神だ。

 

絶対で、絶望で、抗いようもなく、時に救いとなって、全ての生物に訪れる。

 

明日が来ないのが怖いか?

夢が絶たれるのが怖いか?

自分が消えてしまうのが、怖いか?

 

ならば⋯⋯崇めろ。

 

地に伏せて存在の存続を懇願しろ。

無様に自らの罪深さを懺悔しろ。

そうすれば、苦しまずに死ぬことを赦してやる。

 

 

私は、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。

 

 

お前にとっての”死神”だ──」

 

 

月が、燃えている。

夜の太陽を従えて、紅い死神は顕現した。



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12.羅生門

「お兄ちゃん、見て!」

 

小さな手が指さす窓の外には、ぱらぱらと雪が舞っていた。

妹のその楽しそうな笑顔を見て、オレも笑う。

 

「ああ、綺麗だな」

 

真っ白で小さい雪は、味気ない窓の外の景色を優しく彩る。

オレは妹に読み聞かせていた本を閉じて、彼女の頭を撫でた。

 

「あんまりはしゃぐなよ。オマエは体が弱いんだから」

 

諭すように、言う。

オレはやるせなかった。

妹は体が弱い。

そのうえ、ろくに治療も受けられなかった。

 

オレの家は貴族だ。金に余裕はある。

けれど妹が未だ病弱な体を充分に癒せていないのは……全部、父上のせいだ。

オレの母上は妹を産んだ際、体力を使い尽くしたように死んでしまった。

そのせいで父上は「妹が母上を殺した」なんて本気で思い込んで、妹が苦しもうが死のうが知らん振りだ。

使用人達も父上や母上の味方ばかりで、更には優しくて完璧な兄上さえ妹には興味が無い。

オレと妹は、この広い家に2人きりだった。

 

オレの内心の苦悩を知ってか知らずか、妹は俯いて聞いてくる。

 

「……お兄ちゃん、あたしはずっとこのままなのかな?」

「……それは」

 

ずっとこのまま。

ベッドの上で寝たきりで過ごし、どこに遊びに行くこともできない。

停滞した悪環境。

それをどうにかする力を持たないオレは、何も言えず続く言葉を待った。

妹は言う。泣きそうな声で。

 

「あたしも外に出てみたい。窓の外にあるものを、自分の手で触ってみたい。

あたし、このまま死んじゃうの? 雪の感触も知らずに死んじゃうの?

お兄ちゃん、あたしそんなのやだよ……」

 

オレは……そのとき思った。

こいつのために出来ることは無いかって。

妹を助けられるのはオレだけなんだからって。

 

「……ちょっと待ってろ」

 

オレは部屋を飛び出て階段を降り、外へと向かった。

1面の雪景色を一瞥もせず、また先程まで居た部屋に戻る。

手の中の”それ”を、妹に届けるために。

 

「お兄ちゃん、それ……」

 

オレは持って来た雪の塊を、妹の方へと差し出した。

 

「これが雪だ。触ってみろよ」

 

その言葉を聞き、彼女は恐る恐る雪に触れる。

 

「つめたい……!」

「冷たいだろ? 雪は冷たいんだぜ」

 

その驚いた表情を見て、オレは少し誇らしくなった。

そしてオレたちは、一緒に笑う。

 

雪の塊を窓枠に起き、しばらく触ったり形を整えたりしている笑顔の妹を見て、オレは決意した。

 

「……オレ、決めたよ。

オレがこの家の当主になる」

 

妹が驚いた表情でこちらを見る。

分かってる。それがどれだけ難しい事かは。

長男の兄上は完璧で、間違いなく跡継ぎと言われてる。

オレの取り柄は剣術くらい。それ以外はひとつも長男に勝てない次男。

けれど。

その難しさは、オレの心を折れなかった。

なぜなら、オレにはどうしても曲げれないものがあるのだから。

 

「そしたらさ。オマエが欲しいもの、全部この部屋に持ってこれる。

オマエの病気も、すげー医者呼んで治してやる。

だから心配すんな。オマエはぜってー死なねえ」

 

オレは……妹にずっと笑顔でいて欲しい。

そのためなら何処までも”強い”奴になってやる。

 

惚けた顔の妹を安心させるように、力強く笑う。

 

 

「オレがオマエを守ってやる。

約束だ、ノース」

 

 

それは、雪の振る日の誓い。

オレの覚えている、最も古い記憶だ。

 

 

◆◆◆

 

 

……随分と昔の話を思い出したな。

 

ノーゲート・クリムゾンは痛む体を無理矢理動かす。

時は夜。場所は教会前。

そして……状況は、絶対絶命。

 

「私はガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。

お前にとっての”死神”だ」

 

燃える月を背に背負い、紅い死神が此方を見ている。

お前を赦さないと。

お前を殺してやると。

 

ノーゲートは吹き飛ばされた体を精査する。

骨折13箇所。

出血多量。

裂傷・打撲多数。

翼、半壊。

 

その全て……再生可能。

 

ボロボロだった体を、細胞が驚異的な速度で分裂し癒していく。

しかしそれは、ダメージが無くなった訳では無い。

ただ、戦闘を継続するために。これからの闘いに支障が出ぬように。

 

再生した体で、ゆっくりと起き上がる。

 

オレは……これから”死”に抗う。

絶対の”強さ”に反抗する。

 

破られた、破ってしまった誓いの精算の為に。

 

ノーゲート・クリムゾンは、口の中で微かに妹の名を呟いて。

そうして、なんとか体の震えを止めた。

その震えは痛み故か、それとも。

それを意識せぬように、彼は胸中で吐き捨てる。

 

 

この世界はクソだ。

 

 

弱ければ強いヤツから奪われる。

 

強くなったって、より強いヤツからは奪われるしかねえ。

 

優しさの欠片もねえ。

 

愛が何かも教えてくれねえ。

 

だから、オレが立ち上がるのは⋯⋯。

 

それはきっと妹のためだ。

 

こんな世界で唯一輝いていた彼女に恥じない兄で居るためだ。

 

 

紅い死神(ガブリエラ)がふわりと地面に着地する。

 

ノーゲートはふらつきながら、なんとか立ち上がる。

 

彼らは同じように翼を広げる。

 

四枚羽と、二枚羽。

 

それが何よりも雄弁に、両者の力関係を暗示していた。

 

四枚羽の死神は告げる。

ただ、己が罪咎を懺悔せよと。

 

「お前が私を殺そうとした理由、今ならなんとなく解る。

⋯⋯さあ、選べ。

ひれ伏して断罪の刻を待つか。

立ち上がり苦痛の中で死ぬか」

 

紅い翼が、燃えている。

あれはもしかしたら、オレに奪われた者の怒りの炎なのかもしれないな、なんて。ノーゲートはどこか他人事のように思った。

 

オレを断罪する、地獄の炎か。

冗談じゃねえ。

 

「ハッ。笑えねえジョークだな。

コッチは妹が奪われてんだ。

それ以上をテメェらから奪わなきゃ割に合わねェだろうが」

 

あくまで強気に笑い。

ノーゲート・クリムゾンは。

死神に、その翼を突き付けた。

剣のように。

断罪するのはこちらだと言わんばかりに。

 

「テメェが炎ならさしずめオレのは断罪の刃、テメェ専用のギロチンだ。

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト……テメェの首を地獄に持って行くくらいしなけりゃ、オレは妹に合わす顔がねェんだよ」

 

ノース・クリムゾンを殺害した男、龍川芥の末路をノーゲートは知らない。

ただ、彼は今、目の前に立つ死神だけを見ていた。

それがいかなる理由の執着かは、彼しか知り得ないが。

 

死神は……ガブリエラはその目を細める。

瞳で燃える炎が、刃となって夜を切り裂く。

その殺意が爆発する。

その憤怒が放出する。

 

「私を殺す?

私から芥を奪っておいて、芥の願いまで奪おうとするのか……ノーゲート・クリムゾン。

お前は、赦せない。

お前の存在そのものが芥への侮辱だ。

――もういい、殺す。お前は私達の世界に要らない」

 

四枚の翼が、四つの炎が、夜を砕くように激しく燃え盛る。

誓いの雪を蒸発させる、否定の業火。

ならばこそそれに抗うのは、ノーゲート・クリムゾンに課せられた宿命だったのかもしれない。

 

空気が焦げる。

殺意が、闘志が、空間を蹂躙する。

張り詰めた糸のような緊張感が世界を支配し……。

 

そして。

 

ノーゲートは突進し。

ガブリエラは歩きながら。

 

両者は、激突した。

 

 

それは言わば、儀式に似ていたのかもしれない。

 

お互いに結果は分かっている行為を、それでも行う。

 

 

翼を振るえば、翼が砕ける。

 

腕を伸ばせば、腕が吹き飛ぶ。

 

足で蹴るなら、足がひしゃげる。

 

何も出来なければ、体の何処かが削られる。

 

それが、ノーゲートに与えられた運命で。

 

 

翼を振るえば、剣を壊し。

 

腕を伸ばせば、血と肉を掴み。

 

足で蹴るなら、骨ごとひしゃげさせ。

 

相手が何も出来なくなれば、ただ暴力で圧倒する。

 

それが、ガブリエラが行った作業だった。

 

 

紅い翼が、暴風のように暴れ回り。

 

赤い色は、嵐の中でただ散っていく。

 

それは見方によっては幻想的で。

まるで月下の舞い。

「死」の舞踊。

 

 

そして決まりきった勝者は決定する。

 

ノーゲート・クリムゾンは死に体で地に倒れ。

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトはそんな彼を見下ろしていた。

 

薄皮1枚、数滴に満たない出血量の傷がひとつ。

 

それがノーゲートがガブリエラに与えた、唯一の抵抗の証で。

それすらも、音を立てながら一瞬で再生、完治してしまった。

 

 

「懺悔しろ」

 

死神は告げる。

けれどその胸中は、絶対的な力に見合わないほどにボロボロだった。

彼女の心は哭いていた。

未だに涙は止まらなかった。

豹変したと思われた人格は、しかし芥の血から得た知識で壊れかけたそれを補強しただけ。

本当は今にも慰めて欲しかった。

抱きしめて欲しかった。

そんなことやめて帰ろうぜと。

いつもみたいに一緒に眠ろうぜと。

言って欲しかった。

それはもう、二度と叶わない願いだけれど。

 

そんなボロボロの死神に見下ろされながら⋯⋯赤髪の吸血鬼は、ただ笑った。

自分の無様さを笑ったのか、相手の胸中を察して嘲笑ったのか。それは本人にすら分からなかった。

彼はただ言った。

 

「ファック」

 

べぇ、と舌を出し、必死の思いで中指を突き立てる。

 

破壊音。

 

ノーゲートは肉を地面に散らしながら、ゴロゴロと転がった。

もう彼にはなんの力も残っていないことが分かる、抵抗も何も無い光景だった。

 

ガブリエラは再び彼の傍に立ち、見下しながら言う。

 

「懺悔しろ」

「イヤ、だね」

 

破壊音。

 

ノーゲートの左腕が吹き飛び、灰になった。

 

「懺悔しろ」

「ぜってぇしねえ」

 

破壊音。

 

ノーゲートの背骨を、紅い翼が貫いた。

 

「懺悔、しろ」

「ハッ。クソ喰らえ」

 

破壊音。

 

ノーゲートは顔面の皮膚を半分持っていかれるほどの威力の一撃を受け、また無様に吹き飛んだ。

 

「懺悔しろ!」

「答えはファック(くたばれ)だ、クソ野郎」

 

破壊音は、しなかった。

ただ、泣きそうな女の子は叫んだ。

 

「⋯⋯どうしてっ!」

 

それを聞いて。

愚かな絶対強者の間違いを正すように。

ノーゲートは⋯⋯まだ自由に動くその眼で感情を剥き出しにして、吼えた。

 

 

「どうしてもクソもあるかよッ!

オレはオレの行動に何一つ負い目はねェ! その結果死んだとしても悔いはねェ!

 

だがよ、オレが嘘でも謝っちまったら⋯⋯オレは妹を裏切ることになるんだよッ!!

あいつの為に戦ったことを否定することになんだッ! 分かるかッ!?

テメェがどれだけ、あの人間を大事にしてたかなんて知らねェよ!!

 

あの人間が死んだなら、オレにとっちゃ仇討ちが終わっただけだ!!

妹殺したカスが死んだってだけだ!

それを懺悔しろだと!?

オレに謝れだと!?

ふざけんじゃねェよ!

テメェの都合押し付けてんじゃねェ!

オレを悪役にすんのは勝手だがよ、オレの譲れねェもんを奪えると思ってんじゃねェぞクソッタレ!!

 

 

テメェのクソみてぇな”強さ”に奪われるほど!!

オレの想いは弱くねェ!!!

 

 

一丁前に被害者面しやがって、冗談じゃねェぞ!

いいか、教えといてやるッ!

 

捨てられねェモン持ってるのは、クソみてえな悲劇背負ってんのは――最愛のひとを殺されてんのは、テメェだけじゃねえんだよッッ!!!」

 

 

それは敗北者の、魂の叫びだった。

決して譲れない、命の意味だった。

 

彼はただ、妹への愛で動いていた。

彼女へ誓った約束と、それを果たせなかった負い目で戦っていた。

 

それはまるで、芥への愛で動いているガブリエラのように。

 

 

 

この世界は残酷だ。

 

ありとあらゆる悲劇がまかり通り、全員が幸せになるハッピーエンドなど存在しない。

 

けれど何より残酷なのは。

 

絶対の正しさなど、この世に存在しないこと。

 

戦いは正義と悪のぶつかり合いではなく。

 

曲げられない意志同士のぶつかり合いで。

 

そしてそれは意志の強さなどではなく。

 

ただ戦いの強さだけで結果が決まってしまう。

 

そう、龍川芥は知っていた。

 

「愛ですら敵をつくり、誰かを傷つけることもある」と。

 

ふたりの譲れぬ愛は……今、互いを敵と認識した。

 

 

 

ガブリエラは⋯⋯ようやく理解する。

 

これは正しさを貫く戦いではない。

 

これは、ふたつの正しさの中から、どちらかを間違いにしてしまう戦いだ。

 

否定するのだ。

蹂躙するのだ。

 

相手が持っているだろう、自分と同じ愛を。

死者の仇を取りたいという悲願を。

彼にもある、ふたつの心の全てを。

 

そう、それが”殺す”ということ。

それが”奪う”ということ。

 

そして、それが”生きる”ということ。

 

自分が自分として生きるために。

誰かの(いのち)を、否定する。

 

 

ぽつり、ガブリエラは呟いた。

決意と覚悟と愛の言葉を。

 

「よく、分かった。

お前に懺悔は求めない。

それは私の傲慢でしかない。

 

私は⋯⋯芥を愛してる。

だから私は、もう彼を言い訳にしない。

傷つけることに、奪うことに、その理由に彼を使わない。

芥の命を奪ったのは私だ。

だから今からすることに、芥は関係ない」

 

四枚の翼が、より激しく燃えるように揺らめく。

 

「ああ、それでいい。

結局オレらは、どこまで行っても敵同士だ。

 

さあ……殺し合いの再開といこうぜ、死神」

 

ノーゲート・クリムゾンは、死神の翼が燃えるのを見ながらゆっくりと立ち上がった。

 

それは奇跡だった。

顔面の半分は肉と骨が露出していて、左腕は再生していない。

両足も間違いなく折れていて、再生する余裕もなかった。

けれど彼は立ち上がった。

唯一自由に動く右腕で、赤い剣を握りしめながら。

それをガブリエラは、何処か当然のように受け入れていた。

 

彼らは⋯⋯戦いが始まってから初めて、彼らは真の意味で目が合った。

 

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは宣言する。

 

「私はお前が赦せない」

 

炎の翼が夜に咲く。

 

 

ノーゲート・クリムゾンは獰猛に笑う。

 

「オレはテメェが気に食わねえ」

 

剣の翼が夜を裂く。

 

 

ふたりの吸血鬼は。

相容れぬ者同士は。

互いの眼を見て、ただ、純粋な思いを口に出す。

 

 

「「だから、(オレ)お前(テメェ)を殺す」」

 

 

言うと同時、彼らは動いた。

 

それは埋められない戦力差こそあれど、決して一方的な蹂躙ではなく。

お互いの全てを賭けた闘争(たたかい)で。

 

 

月夜に赤い暴虐が刃を纏って舞い踊り。

 

その赤色ごと夜を殺す様に、紅い死神が全てを灼く。

 

 

訪れる、激突。

 

そして――。

 

 

◆◆◆

 

 

ノーゲート・クリムゾンの(いのち)は。

ただひたすらに、己の無力さを呪う旅だった。

 

 

――それは、吸血鬼になった日のこと。

屋敷は襲われ、家族は皆殺された。

残ったのは自分と妹だけ。

 

震える体で、剣を構える。

大人にも勝てる剣の腕なぞ、吸血鬼には通用しなかった。

それでも背後の妹を守るために、ノーゲートは剣を離さなかった。

 

どちゃり、と。

先程まで”兄上”だった死体を無造作に放り、吸血鬼は嗤う。

 

「威勢の良い事だ。お前は使えそうだ」

 

それがなんの事かは理解出来ずとも、ノーゲートは吠えた。

 

「妹には手を出すな!」

 

それは虚勢にしかならなかったけれど。

吸血鬼はニヤニヤと嗤い、ノーゲートから背後のノースへと視線を飛ばす。

きゃ、と短い妹の悲鳴に、ノーゲートは慌てて振り向く。

 

「ノース!」

「お兄ちゃんっ!」

 

背後から現れたもう一体の吸血鬼がノースの首を掴んで持ち上げていた。

必死に伸ばした手は、しかし届かない。

 

「お前が妹を愛しているなら……そのために戦ってもらおうか」

 

ぶすり、と。

ノースの首に吸血鬼の牙が沈む。

 

「テメェッ! 妹を離せッ!!」

 

剣を振り上げて突進するノーゲートだが……最初に姿を見せていた吸血鬼に、背後から組み伏せられた。

カラン、と剣が床に落ちる。

 

「ぐっ……ノースッ!!」

 

万力の如き力で床に固定された体は、這いずることすら出来ない。

唯一自由な左手で、必死に妹の方へと手を伸ばすも……無力なノーゲートには、それ以上の何も出来なかった。

その絶望に付け入るように、吸血鬼が背後から囁く。

 

「安心しろ。妹は死なないさ。お前が我々に従ううちは、な」

 

そして、ノーゲートの首に吸血鬼の牙が沈み。

不快感と、それ以上のおぞましい快楽に飲まれながらノーゲートは気を失った。

否……人間としてのノーゲートは死んだ。

 

彼は消えゆく意識の中、ただ呪った。

己の無力さを。

この残酷な世界を。

 

 

 

 

――それは、【紅い暴君】に出会った日のこと。

妹共々吸血鬼となったノーゲートは、妹の身の安全を保証するために憎き仇の手下となっていた。

そんな彼らの前に……それは現れた。

 

それは満月の夜。

群れた吸血鬼を睥睨する”それ”は――既に吸血鬼史上最悪と謳われていた、夜の帝王。

 

「貴様は【紅い暴君】!」

「同胞を喰らう罪深き吸血鬼めが!」

「眷族達よ、ヤツを殺せ!」

 

吸血鬼達が勇ましく、あるいは愚かにも喚く言葉は、ノーゲートの頭に微塵も入ってこなかった。

【紅い暴君】。

そう呼ばれた、目の前の吸血鬼を見る。

 

月が、燃えている。

炎の翼が、月を背に立つ吸血鬼が、満月を太陽の様に見せている。

そしてその燃えるような、夜を否定するような紅い瞳は――絶対の”死”、その顕現にすら見えた。

 

殺される。

絶対に殺される。

勝てるとか勝てないとか。

怖いとか怖くないとか。

そんな次元じゃない。

 

アレに抗えば死ぬ。

アレの気まぐれで死ぬ。

アレは”太陽”。夜の太陽。

アレの前で、吸血鬼なぞ人と同じ弱者でしかない。

 

オレは、オレ達は――ここで死ぬ。

妹を守れず死ぬ。

そんな予感。

それだけがノーゲートを支配し。

 

「ッ、ファックッ!」

 

ノーゲートはただ、鎖で繋がれていた妹を抱いて逃げた。

 

「ノーゲート、貴様ッ!?」

「戻れ腰抜けが!」

「おい来るぞ……ギャアアッ!!」

 

背後から聴こえる、怒声。

それが塗り変わるように放たれる悲鳴。

肉が壊れる音。

”死”が訪れる音。

 

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」

 

ノーゲートは逃げ続けた。

夜が明けるまで、吸血鬼の脚力で走り続けた。

立ち止まれば殺されると、本気で信じて走り続けた。

夜が空けた時……初めて振り向いた背後には当然、恐れた”死”の化身の姿は無く。

何故逃げのびられたのか、それすら不思議だった。

ただ、ノーゲートは……逃げた自分に気付いたそのとき、再びこの世を呪った。

 

「オレは、弱い……弱すぎるッ……!」

 

吸血鬼になってさえ。

強者に奪われるだけなのか。

再びあの化け物に会えば。

妹を守るなんて出来ず、ただ殺されると断言出来る。出来てしまう。

 

ノーゲートは、震える妹の体を抱きしめながら……この世の摂理を悟った。

 

弱ければ奪われる。

その事に文句を言うことも出来ず、弱者は強者にねじ伏せられる。

オレは……強者の側で居なければならない。

そうでなければ、妹を守れない。

 

「強く、ならねェと」

 

ぽつり呟いたソレは、二度目の誓い。

妹を守るための、兄の約束。

 

 

 

 

オレは。

ノーゲートは、何も守れない。

 

「怖かったけど……でも吸血鬼になったおかげで、あたしは強い体を手に入れられた。だからお兄ちゃん、そんなに自分を責めないで」

 

違うんだ、ノース。

オレがもっと強ければ。

吸血鬼を倒して、当主になって、オマエの体を医者に治してもらって

そして、オマエを真っ当に、幸せにできた。

オマエを守れた。

 

「お兄ちゃんがあたしを連れて逃げてくれたから、あたしは生きてるんだよ。あたしひとりだったら死んでたんだから、お兄ちゃんは凄いよ」

 

違うんだよノース。

オレがアイツより……【紅い暴君】より強ければ。

追われることに怯えることも、物陰を恐れることも、故郷を捨てるまで逃げ続けることもなかった。

オマエに怖い思いをさせなくて済んだ。

オマエを守れたんだ。

 

オレが強ければ。

誰よりも強ければ。

 

破り続けた「オマエを守る」って誓いも。

ホンモノに出来たのに。

 

だから、強く。

誰より強く。

奪う者に。

奪われない者に。

 

妹を、守れる兄に。

 

 

 

「……オイ、聞いたぜノース。日本に行くんだってな」

 

アメリカ。国の影である吸血鬼社会を仕切るクリムゾン家の筆頭吸血鬼ふたりは、夜の路地裏で話をしていた。

 

「ああ。ウチ(クリムゾン家)はアメリカ国内で1番影響力がある家だが、あの貴族気取りのイギリスや数だけ多い中国の奴らにゃ相手にもされねー。

アタシ達も外に出る時が来たんだ。手始めに諸国に支部を作る。そーゆー話は兄貴も聞いてるハズだろ」

 

「K」のバッチを胸元で輝かせる、燃えるような赤髪の吸血鬼――吸血鬼として成長した、ノース・クリムゾン。

彼女は吸い尽くした人間の死骸を、ゴミの山へ乱雑に放る。

路地裏は血が飛び散る惨状を見せていた。

人の死体もひとつやふたつでは無い。

そんな死と暴力の撒き散らされた光景の中、返り血を頬に付けた、赤く妖しい女吸血鬼。

そんな彼女に、同じく「K」のバッチをつけた兄、ノーゲートは言う。

 

「だがよ、お前があんな遠い島国まで行くことねェじゃねェか。しかもボスの野郎、オレの同行は許可しねェって話だぜ。もしお前に何かあったら……」

「ハッ。兄貴は過保護過ぎんだよ。アタシはもう昔の病弱なガキじゃねー」

「けどよォ――ッ」

 

ピタリと。

ノース・クリムゾンの翼が、ノーゲートの首に押し当てられた。

それ以上喋るなと言わんばかりに。

夜闇の中で爛々と光る妹の目の中に、得体の知れないものが燃えているのを兄は目撃した。

 

「わりーけどよ、兄貴。アタシは強くなりてーんだ。そのためなら独りで何処へだって行くぜ。

誰からも奪われねー。アタシから奪うなんざ許さねー。

ボスよりも、イギリスのクソ貴族共よりも、他のどんな吸血鬼よりも強くなって――兄貴、いつかアンタも超えてやる」

 

彼女は。

もう誰も信用していなかった。

血を分けた兄ですら、力に任せて自分から奪うかもしれないと……そういう、怖くて寂しい目をしていた。

ノーゲートは……きっと笑ったんだろう。

吸血鬼として生きていくには、それでいいと思ったから。

 

「……分かったよ、ノース。テメェは強くなれ。

誰にも負けねェくらいになァ」

 

ノーゲート・クリムゾンはそう言って、妹の前から立ち去った。

もういいのだと。

きっと妹は、自分が守る必要も無いくらい強くなったのだと。

今はまだ少し不安だが……きっと十年後くらいに会った時は、きっとこの不安も晴れるのだろうと。

そのときに、やっと。

このボロボロの約束は、遂に守られるのだと。

強くなった妹を見て、「妹を守る」という約束は必要無くなり、自分の役目は終わるのだと。

そう思っていた。

希望論だけを信じてしまった。

 

この最後の会話を、一生後悔することになるとも知らずに。

 

 

 

 

そしてそれは――妹が、ノース・クリムゾンが死んだと知った時。

 

数百年に渡る生を支え続けた誓いは、遂に修復不能なまでに砕け散った。

2度破られた約束。

けれど取り返しのついた2回。

3度目は……もう、取り返しなどつこうハズも無い。

死は絶対の不可逆。

だからこそ、ひとは死に絶望するのだ。

 

ノーゲート・クリムゾンはあのとき。

妹の死を知ったあのときから、きっと抜け殻となったのだ。

胸の内を焼き尽くす、憤怒と憎悪と悔恨と悲哀と絶望とが綯い交ぜになった感情の奔流に突き動かされる、ただ強いだけの抜け殻に。

 

 

 

最後の剣撃を放ちながら、ノーゲートは考える。

 

そう、オレは本当は、誰でも良かったのだ。

ただ八つ当たりがしたかった。

こんな世界に、オレの絶望をぶつけられる相手が欲しかった。

丁度現れたかつての【紅い暴君】を連想させる吸血鬼。

コイツを殺せれば、殺せさえすれば……。

その先に待つものなんて考えずに。

考えてしまえば、本当に絶望してしまうから。

戻ってこない妹のことを考えてしまったら、その瞬間に全て無くしてしまうから。

だから、オレは八つ当たりに逃げたのだ。

仇討ちなんて言い訳して。

抜け殻になることを、考えなしに奪うことを選んだのだ。

 

けど。

けれど。

 

思い出す、ノース(いもうと)の笑顔。

 

彼女を守ると誓ったこと、それだけは、その思いだけは本物で。

 

 

弱者は。

何を奪われても仕方ない。

その事に文句を言う権利すら、無い。

 

 

ならば。

この積み重ねた強さなら。

手に入れた吸血鬼としての力なら。

文句のひとつくらい、奪った者に届くのだろうか。

オレから妹を、約束を――人を殺してまで生きる意味を奪った、強い強いクソ野郎に。

 

そうだ。

きっとオレには、それだけが残ったのだ。

だから。

 

 

負けられねえ。

認められねえ。

諦められるハズがねえ。

妹を奪ったこんな世界を。

オレを絶望させた世界を。

このクソみたいな世界を。

 

――全部、ぶっ壊してやるッ!!!

 

 

その吸血鬼は。

妹を守れなかった、無力な兄は。

きっと、この世界の全てを壊したかった。

「誓いのため」「妹のため」と理由をつけて、この残酷な世界の全てを否定したかった。

絶望と。

憤怒と。

無力感を誤魔化すための破壊衝動。

彼にはもう、それしか残っていなかった。

 

全てを無くした吸血鬼は、そのボロボロの魂で叫ぶ。

 

 

――まずはテメェだ、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトォッ!!

 

 

魂の絶叫と共に放つ、ノーゲート渾身の斬撃。

その一撃は。

まるで赤い月。

弧を描く月が、空気を裂いてガブリエラの首へと迫る。

速度は神速。

威力は絶死。

ただ、破壊だけを願った斬撃の果ては――。

 

 

ファック。

分かってたぜ。

こうなることくらい。

 

 

ガブリエラの翼、死神の翼が燃え上がる。

炎の翼が、振るわれる。

それは破壊そのもの。

それは絶望そのもの。

夜を焼く翼が、ノーゲートの一撃と衝突し……ノーゲートの剣は、呆気なく砕け散った。

細胞が。威力が。意地が。

簡単に敗北を認めてしまい。

 

 

だがよ。

止まれるワケねェだろうがッ!

オレの絶望は!

オレが敗けた程度で消える程、ヤワじゃねェ!

思い知れ、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト!

思い知れ、【紅い暴君】のクソ野郎!

思い知れ、このクソッタレな世界の全て!

 

――オレの”(つよ)さ”を思い知れ!!!

 

 

折れた剣を、それでも振るう。

正真正銘最後の一撃。

目指すはガブリエラの首。

細く白い、その一点のみ。

半ばで折れた刀身が、まだやれると叫んでいる。

壊れかけた体に残る力全てが、その斬撃に注がれる。

殺す。

斬り殺す!

 

驚いたようなガブリエラの顔。

その首に迫る刃。

 

風を斬る。

距離を裂く。

命を狙う。

 

届け、届け。

オレの怒りよ、”死”に届け――。

 

 

血が、夜に舞った。

 

 

ノーゲートの剣は、ガブリエラの首に届いていた。

 

……ただし、薄皮一枚分だけ。

 

じわりと滲んだ血が、その細い首を流れる。

 

 

「オレの――敗けか」

 

 

ノーゲートの胸には、巨大な穴が空いていた。

ガブリエラの翼の一撃で、心臓諸共骨肉を吹き飛ばされたのだ。

 

どさり。

ノーゲートは倒れた。

今度こそ、二度と立ち上がれないことを悟った。

 

指1本動かない。

悪態の一言すら吐き出せない。

息も出来ない。

寒い。

ただ寒い。

そう、これが……死か。

 

ノースは、こんなにも怖かったのか。

 

ガブリエラが此方を見下ろしている。

その顔は……されど、勝者のものに相応しくなく。

 

クソッタレ。

なんて顔してやがる。

オレから奪うヤツが悪役じゃねェなんて……そっちのがよっぽど悪夢だぜ。

 

彼女の表情は、ただ寂しげで。

儚げで、まるで今にも泣き出してしまいそうな。

ノーゲートにはそんな頼りないものに見えた。

 

 

ファック。やっぱテメェは気に入らねェ。

……恨むぜ。

テメェを恨みきれねェ自分の弱さを。

そんなテメェを死神に寄越した、クソッタレなこの世界を。

 

嗚呼。

やっと、終わるのか。

終われるのか。

無力で無意味な男の、クソッタレな命が。

ノース、ゴメンな。

オレは……最後まで、弱かった。弱いままだった。

お前の為に戦うなんて言っておいて……この命の終わりに、絶望の終わりに、安堵している自分が居る。

やっぱりオレは最低だ。

お前を裏切り続けた、最低の兄だった。

 

 

視界が、ぼやける。

いや、視力が失われていく。

何もかもが奪われていく。

死が、ノーゲートの全てを奪っていく。

 

寒い、寒い。

冷たい、冷たい。

 

……どうして寒いんだろう。

 

そうだ、きっと雪が……。

 

 

雪が降っていた。

 

しんしんと、降っていた。

 

それが現実なのか、それとも瞼の裏の出来事なのか。

 

もうノーゲートには分からなかった。

 

雪が降っている。

 

ただ、降っている。

 

 

嗚呼、そうか。

 

此処に居たのか、ノース……。

 

ゴメンな、守ってやれなくて。

約束、また破っちまって。

こんな情けねえ兄貴で、ゴメンな……。

 

――お兄ちゃん

 

ノース……?

 

――あたしね、嬉しかったよ。お兄ちゃんに守ってもらえて

 

……オレは、オマエを守れなかったんだぞ。

 

――違うよ。お兄ちゃんはね、ちゃんとあたしを守ってくれたの

 

――だって、あたしの為に、命を懸けて戦ってくれたでしょ?

 

――それって、お兄ちゃんの心の中のあたしを守ってくれたってことだよ

 

――あたし、それで充分だよ

 

 

雪景色の中。

窓の外、決して出れなかったその光景の中に、小さな妹は兄を連れ出す。

それはノーゲートの創り出した幻覚か。

はたまた神と呼ばれる誰かの悪戯か。

 

 

――兄貴、最後にもう一つだけ、約束しよう

 

やく、そく?

 

――ああ。今度はアタシから、アタシを守ってくれた兄貴へ

 

 

雪の降る世界で。

燃えるような赤髪の女吸血鬼は、泣きそうな赤髪の少年へと笑いかける。

 

 

――アタシ達は地獄に堕ちる

 

――でも、もし何百年か後、罪が許されることがあったなら

 

――もし、生まれ変わることが出来たなら

 

 

――そのときは、また兄妹として

今度は、お互いを守り合おう

弱いままでいいから

強くなくてもいいから

ただ、まっすぐに

誰かに、自分達の生き方を誇れるように――

 

 

 

雪の降る中、妹は微笑む。

兄は……ボロボロと涙を流しながら、不器用に笑った。

 

 

――……ッ、ああ、ああ! 約束だ、ノース!

 

 

それは……雪降る日の、最期の誓い。

明日の無い彼等が、それでも笑って死ぬ為の。

この世界では救われなかった兄妹が、それでも救いを得る為の。

 

 

一生涯にひとつしかない、ふたつ目の、来世の分の大切な約束。

 

 

兄は……神に、己の罪に、そして最愛の妹へ誓った。

 

今度こそ、この約束だけは破らない――

 

 

 

吹雪く白の中、赤毛がふたり。

雪の勢いが強くなる。

白が赤色を覆い隠していく。

やがて、完全に見えなくなるその寸前まで。

ふたつの灯火が、ひとつの炎に見えるように。

彼らはただ、静かに寄り添っているように見えた。

 

 

そして。

 

ノーゲート・クリムゾンは。

 

灰になって、死んだ。

 

 

その灰は夜風に攫われて、空に昇っていく。

 

ぽつり。

紅い死神が出した手に、ひとかけらの灰が乗る。

白く、まっさらなそれは。

溶けるようにほどけて、手のひらから消えていった。

彼女は空を見上げる。

そこには、白い灰が舞っていた。

暗い暗い夜空を彩るように。

残酷な満月を霞ませるかのように。

灰は、空に昇る。

ひらひらと、はらはらと。

 

 

その最期は何処か……冷たくて優しい、雪に似ていた。

 

 

◆◆◆

 

 

終わった。

戦いは終わった。

いや⋯⋯きっとそれ以外の多くのものも、ノーゲートの絶命と共に終わって逝った。

彼の最期を看取りながら、ガブリエラはぽつり、呟く。

 

(アクタ)⋯⋯終わったよ」

 

終わっちゃったよ。

私と芥の、夢みたいな半年間(ものがたり)が。

 

燃えるような翼も消え、ガブリエラは死神から吸血鬼へと戻った。

 

フラフラと、教会へと歩いていく。

もう一度、彼の顔が見たかった。

諦められなかった。

捨てたくなかった。

置いて行きたくなかった。

 

何も返ってこなくても。

もう一度だけ、抱きしめたかった。

 

教会の中、紅い絨毯の上に、龍川芥の死体はあった。

 

ステンドグラスに描かれたヘタクソな神様の絵が、嘲笑うみたいに現実を突きつけていた。

 

龍川芥は死んだ。

私が、殺した。

 

けれどガブリエラは、ただ悲しそうな顔をして、それを受け入れた。

彼女はもう、孤独に怯える子供ではなく。

自分の罪を受け止めようとする成長を遂げていた。

 

それを褒めてくれる相手は、もう彼女の隣に居ないけれど。

 

芥の傍に膝を着く。

彼は目を覚まさなかった。

当たり前だった。

その当たり前が、何よりも心を締めつけた。

 

「芥」

 

彼が助けに来てくれた時にそうしてくれたように、抱き起こす。

やけに重い肉の塊は、ぐったりとしていて。

いつもあたたかかった温もりは、今ではひどくつめたかった。

 

「芥、私ね。

この半年間がすごく楽しかった。

誰かと笑い合うことも。

誰かを好きになることも。

誰かに寄り添えることも。

それがとっても嬉しいことだって、全部この半年間で学んだんだ。

芥が教えてくれたんだよ」

 

返事は返って来ない。

相槌も、笑顔も、なにも無い。

頭を撫でてくれることも、頬をつまんでくれることもしない。

 

ガブリエラは⋯⋯笑った。

それはとても痛ましい笑顔だった。

無理矢理つくった偽物の表情だった。

 

けれど、愛した人を送るには。

この顔でなければいけないと思ったから。

 

「⋯⋯そう言えば、これはしてなかったね。

吸血鬼じゃなくて、人間の愛の証」

 

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

静かに眠る龍川芥に、そっと口付けをした。

 

 

世界で一番悲しいファーストキス。

 

触れた唇が、肌が、何よりも相手の死を刻みつけてくる。

 

ガブリエラの瞳から、一雫の液体が溢れた。

 

それは透明な血。

心が傷ついたときに流すもの。

 

それは、涙。

 

吸血鬼は泣かない。

ならばこれは、彼女がヒトであることの証明だったのかもしれない。

 

例え、吸血鬼と呼ばれようと。

誰からバケモノと蔑まれようと。

その胸の中にあるのは確かにヒトの心だという――最愛の人間に貰った心は確かに在るのだという、確かな証。

 

 

涙は流れ、そして唇を伝って芥の唇を濡らした。

 

それ以上の何も起こらなかった。

そう、これは現実で。

乙女の涙が奇跡を起こすなんて、そんな都合のいい話は無くて。

 

 

だから、これから起こるのは。

様々な偶然が重なり合った、ただの必然。

 

運命(バッドエンド)という名の悲劇をひっくり返す、彼らが掴み取ったどんでん返し。

 

 

ガブリエラは、自分の口内に侵入する何かを感じた。

 

慌てて唇を離してから体を引き、芥を覗き込む。

何も変わっていない。

何も動いていない。

 

けれど、あれ?

つめたいけど、感じる。

小さいけど、聴こえる。

さっきまではしなかった、規則的な命の音。

 

これは⋯⋯心臓の、音?

 

 

──聞け、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト

 

それは思念だった。

 

舌に、自分のものでは無い吸血鬼の細胞がこびりついている。

それが細胞を通して直に意志を伝えてくる。

 

──時間が無いから手短に話す、アタシのことを教えてる時間はねえ

 

「え⋯⋯あれ? だって芥は、私が⋯⋯」

 

──龍川芥はまだ死んでねー。コイツに死なれると困るから、アタシが延命させてやったんだ

 

ここに来て。

全ての前提はひっくり返る。

 

ガブリエラは、これからひっそりと生きるつもりだった。

ただ芥のことを思いながら、彼の望み通りに生きていこうと。

 

けれどそれは、龍川芥が死んでしまったからの話で。

彼が生きてさえ居れば。

半年間の日常が、これからも続いていく。

 

ガブリエラの脳裏にあの風景がよぎる。

芥が笑って、私が笑って、それで完成されていた世界。

 

あの幸福が、取り戻せるとするならば。

 

 

──アタシの指示に従え。そうすれば、アンタの求めた”ハッピーエンド”ってやつ、叶えてやるよ

 

 

希望が。

まるで夜明けの朝日のように、ゆっくりと顔を見せ始めていた。



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13.明日へ

深い闇の中で、溺れているみたいだった。

何も見えない。

何も感じない。

ただ冷たい茫洋とした黒の中に、俺は居た。

 

身体も動かない。

呼吸も出来ない。

鼓動も感じない。

 

ただ、沈んでいく。

深く深く、底の方へと。

 

ふと、手に感触を感じた。

 

 

闇が払われる。

視界に明暗が戻ってくる。

 

この感触は。

忘れたくても忘れられない、この光景は。

 

手に銀のナイフ。

目の前に赤髪の少女。

そして、彼女の心臓を突き刺している、俺。

 

これは俺の罪の光景。

決して消えない、魂に刻み付けた罪悪感。

 

モノクロの視界の中で……しかし、イレギュラーは起こる。

殺した吸血鬼。

赤髪の彼女の口が、動く。

 

 

「間に合ったぜ」

 

 

その瞬間、色が弾けた。

音が、感覚が、俺の体に戻ってくる。

 

いつもと同じ罪の光景の中。

まるで冗談みたいに、殺したハズの”彼女”は立っていた。

 

「久しぶりだな。忘れられてないみたいで嬉しーぜ。

なぁ、アタシを殺した人間――いや、人間失格の龍川芥」

「……ノース・クリムゾン、なのか?」

「他の誰に見えんだよ。正真正銘、テメェが殺したノース様だぜ」

 

目が覚めるような赤髪に、吸血鬼の証である赤い瞳。

睨めつけるような目付きの悪さの彼女は、鋭い歯を見せつけるように口の端を吊り上げて笑っていた。

 

「これは一体……」

 

どういうことだ。そう告げようとした時、風景が変わる。

見慣れた殺害現場から、久しぶりに見た学校の教室へと。

 

「ここは現実じゃねー。簡単に言えば夢の中、気絶中のテメェの脳ミソいじくって創り出した幻覚だ。ま、アタシはほとんど死んでるし、こんな方法でしか話が出来なかったもんでな」

「気絶……俺は」

「言っとくがまだ死んでねーぜ。ギリギリのとこで間に合ったからな。ま、これも最高の1滴をくれた【四枚羽】のヤツのお陰だが」

 

ぴ、とノースは俺の心臓を指さし。

 

「テメェの心臓は止まってたが、アタシの細胞が今動かしてる。足りねえ血はどうしようもねえが、まーなんとか延命中だ。

残念だったな、念願の”美しい(さいご)”とやらはお預けだ」

 

意地悪く笑って、そう言った。

それは、自分を殺した相手への意趣返しのつもりなのか、それともそれ以外の理由からの表情なのか。

彼女のことを何も知らない俺は、言う言葉を持たなかった。

……いや、一つだけあった。

どうしても聞きたいことが。

 

「ノース。俺がお前に何かを頼める立場じゃないことは分かってる。それでもこれだけは聞かせて欲しい。

――ガブリエラは、どうなった? あいつは、ちゃんと勝てたのか?」

 

それだけが。

それだけが、罪すら踏みにじる未練だった。

ノースは目を細めて……教卓の上にドカリと腰を下ろす。

 

「はっ。本気のアイツが誰かに負けるなんてことは起きねーよ。それが例え兄貴相手でもな。

……アレはそーゆーモンだ。それはアタシ達が1番良く分かってたハズなのにな」

 

まるで独り言のように、そう言った。

俺はそれを聞いて……ただ、安堵した。

そうか、あいつは無事なのか。

足をプラプラとさせたノースが、不満顔で吐き捨てる。

 

「満足気な顔しやがって。コッチはまだ何も解決してねぇっつーのによ」

「……すまん」

「ちっ、調子狂うぜ。まーいいや、とりあえず聞け」

 

座れよ、と顎で示され、俺は椅子に座る。

教卓の上に座った吸血鬼の、独り言みたいな授業が始まった。

 

「”弱ければ奪われても仕方ない。その事に文句も言えない。だから奪われないように強くなろう。そして全てを奪い返してやろう”……それが兄貴の考えだった」

「……」

「でもアタシは違った。生まれが病弱だったからかな。アタシは死にたくないだけだった。”奪われるのが仕方ない”なんて、どうしても思えなかったんだ。

でも、弱ければ奪われる。強くなっても自分より強いやつから奪われる。

弱いままじゃ、結局いつか殺される。

だから誰よりも強くなりたかった。世界で1番強ければ誰からも奪われないなんて……本気で信じてた時もあった」

 

彼女はフイと教室の外を見る。

窓の向こうには、空では無く俺の記憶達が広がっていた。

記憶の中で、銀の刃が振り下ろされる。

 

「だからアンタに殺されたとき……アタシは本当に絶望したよ」

 

ぶつり、と。

情景が切り替わる。

今度は俺の昔の部屋……普通の人間として生きていた頃の自室だった。

俺の勉強机に腰掛けたノースの言葉を、俺はその横の椅子に座りながら受け止めるように聞く。

 

「アタシは死ぬんだって、もう助からないんだって……今までの全部が否定されて、アタシの全部が奪われる。

心臓が貫かれた時、確かに私は理解した。

死ぬ。

死んだな、って。

でも、こうも思った。

まだ生きたい。

生きていたい。

アタシは……それを諦めきれなかったんだろーな。

だから今、こうしてここに居る」

 

ノースが俺の手首を掴んだ。

記憶がフラッシュバックする。

それは……「死にたくない」とこぼした吸血鬼が、俺の手首を抵抗するように掴む風景。

 

「あのとき、アタシの手からアンタの中に、私の細胞が少しだけ移ったんだ。

それが今のアタシだ。そう、アタシは生き残った訳じゃねー。

死んだノース・クリムゾンの残留思念、ボロボロのバックアップ、アメーバみたいな寄生虫……それが今のアタシだ。

アンタ流に言えば、”死ぬまで消えない罪の証”ってとこかな。

残念だったか? でっかい罪が消えなくて」

 

その時初めて、語り出してからの彼女と目が合った。

それは口調とは裏腹に、どこか親しげな笑顔だった。

 

「ノース・クリムゾン……」

「いーんだよ、もう。アタシは奪い過ぎた。その代償を取り立てに来たのがたまたまアンタ達だっただけだ。

それに今のアタシに人格や知性があるのは、アンタの記憶を借りて補強してるからだ。

アタシにはもう、アンタを恨む理由もその資格もねーよ」

 

それは……どう受け取れば良いのだろう。

アレはそんな簡単に割り切れるものでは無い。

言ってしまえば、ノース・クリムゾンは死ななくても良かったのだ。

ただ、俺の認識が甘かった。

俺に自覚が足りなかった。

それだけの理由で、彼女は死を決定付けられたのだから……。

押し黙る俺に溜息をついて、ノースは呆れ顔で言う。

 

「はぁ。ま、アンタはそーゆーヤツだよな。背負いたいなら勝手にしな、アタシはどっちでも構わねーよ。

それより、もっと大事な話だ」

 

話題が切り替わると同時に、情景も切り替わる。

ここは……とても見慣れた場所。

俺の人生で、唯一”居場所”と呼べた場所。

半年間を過ごした、あの西洋屋敷の部屋。

 

「アンタはこのままじゃ死ぬ」

 

ソファではなく、大理石の机に足を組んで座りながら。

ノース・クリムゾンはそう言った。

だが……それは、分かっていた事だ。とうに覚悟していた事だ。

そして何より……。

 

「俺は……彼女に、ガブリエラに全部を捧げた。捧げることが出来た。

だからもう、悔いは無いよ」

 

それが俺の答えだった。

 

「ま、テメェならそー言うだろうなと思ったけど。

……でもそれじゃアタシが困るんだよ。言ったろ、今のアタシは寄生虫だ。アンタが死ねばアタシも死ぬ。

アタシは今度こそ、死にたくない。だからアンタに死なれちゃ困るんだ」

「……それは」

 

俺は、何も言えなかった。

じゃあ頑張って生き返るよ、なんて、口が裂けても言えなかった。

だって(これ)は、俺が望んだものだから……

 

「はぁ。やっぱりか」

 

彼女は諦めるようにそう言った。

けれどそれは、俺の死を受け入れるための言葉では無かった。

むしろ、その逆。

彼女は……俺を生かすためなら、人の記憶に不躾に踏み入ることを辞さないと決意したのだ。

 

「今のアタシには、アンタの記憶がある。だから教えてやるよ。

アンタの死への執着――”人間失格”の正体を」

 

それは。

呆然とする俺を待たず、彼女は語る。

 

「ある所に1人の人間が居た」

 

情景が変わる。

白の中で、胸に穴の空いた影絵の人型が浮かび上がる。

 

「ソイツは欠けて生まれてきたからか、ずっと生きるのが辛かった」

 

影絵の人型は涙を流す。

 

「いつしかソイツは、漠然と死に憧れた。苦しみながら生きるより、死んだ方がマシだって思いついた」

 

影絵の人型が崖際に立つ。そして黒い激流の中へ飛び込もうとして――。

出来なかった。

 

「でもソイツは普通の人間と同じく、死ぬのが怖かった」

 

ああ、知っている。知っているさ。

あの歩道橋の上で世界はクソだと吐き捨てた日……俺は本当は死ぬつもりだった。飛び降りて人生から解放されるつもりだった。

でも出来なかった。

そう、これは……紛れもない俺の話だ。

 

「ソイツは生への絶望と死への恐怖の中で、少しづつ狂っていった。

そしてある日、その狂いは救いへと変化する」

 

影絵の人型は……泥に呑まれて、そしてその泥で胸の穴を無理矢理に塞いだ。

 

「自分の中にある”死への憧れ”だけをかき集めた狂気。それはソイツが深い絶望を感じた時に現れ、狂うことでソイツの心を絶望から守る。

痛みも苦しみ恐れも、狂うことで感じなくする防衛機能。

誰からも守られなかった男が、自分を守るために創り出した心の鎧。

それが龍川芥――お前の”人間失格”の正体だ」

 

影絵は消える。

ノースに指さされた俺は――答える。

 

「……正解だよ、ノース・クリムゾン」

 

それは俺であって、俺では無かった。

胸に穴が空いている。

そこから黒い闇が溢れている。

俺と同じ顔の……陰惨な笑顔を貼り付けた、俺の狂気。

人間失格。

 

そう、俺はずっと、狂うことで自分を救っていた。

ガブリエラに血を吸われる時、死への恐怖を薄めてくれていたのは、間違いなくその狂気だった。

 

「これで分かったろ。アンタは狂ってたんだよ。でももう気付いたハズだ。だからアンタは(あっち)に戻って良いんだ」

 

胸の穴が閉じた俺に、彼女は語る。

けれど彼女は……俺の記憶は読めても、性格は分かっていなかった。

 

「戻る? どうして戻れるんだ。あんな場所に」

「……オマエ」

 

そうだ。

”美しい死”を求めたのは、確かに狂気に呑まれたからだろう。

けれど俺が生きることに苦しんだのは、紛れもない事実で。

 

「どうしても手が伸ばせなかった、手が届かなかった扉が目の前にあるんだ。

お前には悪いけど、(これ)を選ばせてくれよ」

「どーして、そこまで。オマエはこの半年で、救われたんじゃなかったのか」

 

俺は……誰にも言ったことが無い本音を、ぽつりと溢した。

 

「怖いんだ」

 

生きることは苦痛を伴う。

生が不確定と恐怖の塊なら、死は確定した安寧。

死はゼロだ。幸福(プラス)も無ければ不幸(マイナス)も無い。

喜びも感動も自分さえも無くなるけれど、何かに期待を裏切られることも絶望することも無くなる……それが、死。

俺はずっとそれに逃げたかった。

幸せの中に居ても、ふとした時に自分の醜さを思い出す。

そしてそんな自分の未来を想像した時……いつも決まって怖くなるのだ。

こんな醜い人間が、幸福のままで居られるはずが無い、と。

 

「今までさ、期待は全部裏切られてきたから。今回もそうなんじゃないかって、怯えるのが嫌なんだ。

俺はずっと恐れてるんだ。

だって、幸運にも訪れた幸せな生活なんて、いつどうやって奪われるか分かったもんじゃない」

 

それは、俺の醜い本性で。

誰も信じられなくなった、狂った男の末路で。

 

「俺は……裏切られることが怖いんだ」

 

期待が裏切られるのが怖い。

自分を裏切られるのが怖い。

 

「ガブリエラに裏切られるのが、どうしようもなく怖いんだよ……ッ」

 

だから、俺は生贄で良かった。

彼女の餌で構わなかった。

それ以上を期待して……それを裏切られるのが、否定されるのが、どうしようもなく怖かったから。

 

ガブリエラに”ずっと欲しかったもの”を求めて。

その願いが俺たちの関係を壊してしまうこと、それが何より恐ろしかった。

死ぬことなんかより何倍も、恐怖した。

その絶望だけは受け入れたく無かった。

 

ならば最初から保存食としての価値だけで良いと……そう、俺は諦めていたのだ。

裏切られた時に傷つかないように、過ぎた希望を先んじて諦めた。

 

「俺はもう立ち上がれない。1度倒れてしまえば戻れないことは、俺が1番分かってたんだ。

俺にとって現実は、あまりにも重すぎる。

傷付くのはもう嫌だ。

傷つけられるのは沢山だ。

嫌なんだよ――自分を、他人を、未来を……ガブリエラを疑って怯えながら生きるのは、もう嫌だ……。

俺は……誰より弱いんだ。誰よりも醜い人間なんだ。

些細な事に傷付いて。その責任を誰かに押し付けて。理想の中で、現実から目を背けて生きてきた……そんな俺の本音なんて、”生きるのは苦しいから死にたい”くらいしか無い。

そう、俺は人間失格ですらない……薄っぺらで自己中心的な、ただの臆病者なんだ」

 

俺は結局、自分のことしか考えていなかったんだろう。

ガブリエラの本音が怖かった。

だからそれに向き合わないようにした。

俺にとって彼女は”美しい死”で、それだけで良いと……それ以上は何も望まない、なんて。

そんなの、ガブリエラのことなんて1mmも考えていない、最低最悪の答えだなんて何となく分かってたのに。

 

俺は「愛してる」とまで言った相手のことを。

まるで信じてなどいなかったのだ。

 

「馬鹿野郎が」

 

ノース・クリムゾンは吐き捨てた。

そして……俺の胸倉を掴み、鼻先が触れるほどに顔を近付ける。

紅蓮の瞳が、こちらを射抜いている。

 

「試してやるぜ、龍川芥。これを見てもまだそんなことが言えるのかをな。

テメェが寝てる間に貰ったモン、アタシがきっちり見せてやる!」

 

そうして。

彼女は俺と、唇を重ねた。

 

いや、違う。

これはただのメタファーだ。

大事なのは、これが示した記憶。

それを引き金に、とある情景が頭の中に流れ込んでくる。

 

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

 

全てが終わった教会の中で。

 

物言わぬ龍川芥とキスをしていた。

 

 

情景が頭の中から去っていく。

 

「……これ、は」

 

思わず唇を触る。確かにそこには、彼女の体温が、感触が残っている気がした。

放るように掴んでいた胸倉を離し、怒りとも悲しみともとれない歪んだ表情でノースは言う。

 

「テメェを裏切る奴が、こんな真似するかよ。

いつか言ってたよな……キスは、相手に対する最高の特別扱いだって。

つまり、ガブリエラにとってアンタは、世界で唯一の人なんだよ。

アイツにとって”龍川芥”は、替えのきかねー、かけがえのねー、大好きな人なんだ」

 

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

龍川芥にとっての「夜の太陽」だった。

 

日の当たらない日陰者、常夜の人生を歩む龍川芥を、唯一照らしてくれた光。

綺麗で、眩しくて、直視すれば目が焼けてしまいそうなほど美しくて。

この暗い人生を照らしてくれる光なのに、直接触れるのが怖いほどに暖かい、正に太陽のような存在で。

俺は、ずっと怯えていた。

夜の太陽、その優しい光にさえ怯えていた。

近くに居るのに、一緒にいるのに、自分から触れることも、見つめ合うことも、心のどこかで恐れていた。

龍川芥にはやはり、ガブリエラに救ってもらえるほどの価値なんて何処にも無くて。

 

けれどガブリエラは。

俺にとっての太陽は。

こんな龍川芥に、隅で蹲って怯える俺に、そっと優しく触れてくれた。

人間失格に、寄り添ってくれた。

そして――遂には、その唇を重ねてくれた。

 

嗚呼、嗚呼……。

こんな弱い人間が。醜い人間が。

こんなにも救われていいのだろうか。

こんなにも幸福で、許されるのだろうか。

 

彼女の笑顔が、心を埋める。

それだけで、まるで光の中に入ることを許されたような気分になる。

 

そうだ。

きっと、もう良いのだ。

怯えながらでも、恐れながらでも……けれどもう、諦めなくても良いのだろう。

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトが。

「夜の太陽」が。

こんな俺を照らすことを選ぶと言うなら。

龍川芥にその「特別」を許すと言うなら。

 

月が太陽に照らされて、夜空の中心で輝くように。

彼女の中の1番に……孤独な夜を隣で彩る存在に成ろう。

 

それを――今日から、俺の生きる意味にしよう。

 

”美しい死”なんて捨ててしまえ。

そんなもの、もう俺には必要無いのだから。

 

人間失格でも良い。

臆病者のままで構わない。

こんな俺が、彼女にとっての「特別」に成れるなら。

ガブリエラが俺を「特別」に選んでくれるなら。

それを後悔させない為に生きるのが、きっと龍川芥の産まれた意味なのだ。

この失敗だらけの人生の、俺の無限の絶望達の、いつか消えゆく命の存在した意味なのだ。

たとえ真実が違おうとも、俺はそう信じることにする。

 

 

今、俺の胸の穴は。

人間失格の欠落は。

初めて、独りで抱えた絶望ではなく、誰かと紡いだ愛によって埋められたのだ。

 

 

呆然とする俺に、ノース・クリムゾンは、笑って問う。

 

「女にここまでやらせやがって、ホントにめんどくせー男だぜ。

それで……吹っ切れたか?」

 

そんなの、答えは決まっていた。

 

「……俺も単純だな。愛だの恋だのをあんなにも必死になって否定しておいて……」

 

そう言えば、ガブリエラは言っていたっけか。

愛や恋は、とても綺麗だと。

それが自分の心の中にあるだけで、自分が生きていたことが無駄じゃ無かったと思えるって。

 

……本当、その通りだったよ。

ガブリエラ……きっと俺は、お前に逢うために生まれて来たんだ。

俺が絶望した俺の命は、お前のお陰で無意味なんかじゃ無くなったみたいだよ。

 

「結局、好きな奴からのキスひとつで救われてるんだから」

 

俺の目には、ようやく本物の希望が宿った。

 

そして俺は。

ただ、静かに決意した。

 

期待するのは怖い。

裏切られるのは痛いから。

 

でも、もう一度だけ。

こんな俺でも、信じたいものが出来たんだ。

 

 

「⋯⋯生き返る方法を聞かせてくれ。俺はどうすればいい」

 

 

ノースはニヤリと笑って⋯⋯差し出した指を、俺の心に突きつける。

 

「別に魔法や奇跡を使うワケじゃねー。生命力と吸血鬼の細胞でなんとかするんだ。

だからテメェは強く願え。

──”生きたい”ってな」

 

強く、頷く。

俺はただ、目を閉じた。

 

俺が生きたいと願うなら。

それはたったひとつの目的のため。

 

ただ”生きたい”んじゃない。

 

俺は”ガブリエラと生きたい”んだ。

 

 

明日は不確定でしかない。

現実は不平等に満ちている。

 

だから期待するのが怖かった。

期待が裏切られるのが怖かった。

 

今だって怖い。

これは正しい選択なのか。

生き返ったところで、苦しみと不幸の連続しかないかもしれないのに。

 

でも。

ガブリエラ。

もし、お前と居られる確率が、0.1%でもあるのなら。

俺はその選択肢を選んだことを、後悔はしない。

 

間違えないから選ぶんじゃない。

裏切られないから選ぶんじゃない。

 

例え、また裏切られたとしても。

 

絶対に諦めきれないから、願うんだ。

どうしても欲しいものがあるから、手を伸ばすんだ。

 

今までの人生を全部否定したっていいほどに。

俺はお前が好きだから。

 

 

ガブリエラ。

俺と一緒に、生きてくれ。

俺と――ずっと一緒に居て欲しいんだ。

 

 

◆◆◆

 

 

夜明けが近かった。

 

──そろそろ朝が来る。日光下の吸血鬼は凡人以下だ。そして細胞だけのアタシはお前以上に何にも出来なくなる。だから急げ

 

「分かった。私は何をすればいい?」

 

ガブリエラは、舌の上で救いを謳う細胞に素直に従った。

何となく、細胞同士の接触で伝わったからだ。

信用できると。本当のことを言っていると。

 

──アタシの細胞の量が足りない。少しでいーから血を吸え。⋯⋯確か外に1人転がってただろ。アイツでいい。吸った血は全部コッチに回してくれ

 

ガブリエラは一度教会の外に出る。

道の端に、ボロボロの少女が転がっていた。

黒いセーラー服は至る所が破け、肌も血と土で汚れている。

ヒューヒューと息をしているのが聴こえる。

どうやら生きているようだ。

 

「⋯⋯ちょっとだけ血を貰うね」

 

ガブリエラは彼女の手を掴み、僅かな量だけ血を吸う。

 

──充分だ。次は⋯⋯

 

と、ガブリエラは腕を掴まれた。

ボロボロの少女は、ゆっくりと顔を持ち上げる。

彼女は泣いていた。

 

「わ、わたしは⋯⋯まもれ、た⋯⋯?」

 

ガブリエラはその意味が分からなかったが、掴まれた手を優しく振りほどきながら言った。

 

「⋯⋯ありがとう。あなたのおかげで、私は守れるものがある」

 

ガブリエラは振り返らず、教会の中へと戻る。

その間、誰かの細胞は増殖しながら説明をしていた。

 

──アイツの中でアタシは血を貯めていた。それを使って今は延命してる状態だ。

足りなくなった血をいくらか補って、止まった心臓をアタシの細胞が動かしてる。

でもそれだけじゃ足りねー。何より血が足りねーんだ。

ガブリエラ、テメェ、まだ吸った血全部使い切ったワケじゃねーだろ?

 

「なるほど。私の血を芥に返せば⋯⋯」

 

──そーゆーことだ。要は輸血だな。血を届けるのはアタシの細胞がやる。アンタは余ってる血をアタシにくれ

 

「もうやってる」

 

ガブリエラは体内の細胞を操り、余った血を舌にある細胞達へと供給できるラインを形成する。

それを行うことで、ガブリエラの意識は血を吸う前へと近付いていた。

”血の記憶”が無くなっていき、精神年齢が逆行していく。

 

──よし。あとはさっきみたいに送り込め。出来ればアイツが戻ってきたくなるようなことを言いながらな

 

「⋯⋯さっきみたいに、って」

 

──はあ? アレは計算づくじゃなかったのか? あの最高に美味い1滴の血があったから、アタシの細胞は普通じゃ考えられねーほどのエネルギーを得れたんだが⋯⋯

 

それは。

もしかして⋯⋯キスのこと⋯⋯?

今更、ガブリエラの顔が赤くなる。

 

ふるふると頭を振って、邪念を払う。

こんなことで立ち止まってる時間はない。

 

ガブリエラは再び、芥を抱き起こす。

 

そうだ。

言いたいことがあったんだ。

 

 

「アクタ⋯⋯きいて」

 

すー、はーと息を整えて、ガブリエラは切り出した。

 

聴こえているかは分からない。

伝わってくれるかは分からない。

そして⋯⋯受け入れてくれるかも、分からない。

 

そう、これは告白だ。

恋をして、愛をした人に、自分の想いを伝えること。

 

思えば、ずっとこれは避けてきた気がする。

面と向かって言ってから、否定されたくなかったから。

自分の気持ちと相手の気持ちが、すれ違っていることが怖かったから。

 

でも、もう恐れない。

何よりも怖い喪失の前では、こんな恐怖は意味をなさない。

 

伝えなきゃ。

私の想いを。

 

彼女の紅い瞳には、強い決意があった。

 

今まで決して言えなかったことを──一世一代の告白を告げるための決意が。

ゆっくりと、一言一句を慈しむように、彼女は言葉を紡ぎ出した。

 

「⋯⋯私ね。

ちょっと前まで、生きててもなんにもいいこと無かった。

みんなに怖がられて、誰からも必要とされなくて。

何してても、ずっと胸がからっぽだった。

ほんとはずっと消え去りたかった。こんな世界に生まれたの、ずっと後悔してた。

 

──でも、アクタに会って変わったの。

アクタが私を救ってくれた。生きてていいよって、生きてほしいって、誰にも言われなかったこと言ってくれた」

 

乙女の愛は、きらきらと。

星のように。願いのように。

愛すること、愛されたいと想うこと。

それはきっと、何よりも美しい感情。

 

「私、この半年間が、今までの200年間全部合わせたより、何百倍も幸せだった。

誰かと一緒にいることが、こんなに楽しいなんて知らなかった。

誰かに求められることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。

⋯⋯明日も生きていたいって思えるのが、こんなに幸せなんだって、知らなかった。

全部アクタが教えてくれたんだよ。

アクタは私の、1番大事なひとなんだよ」

 

それは心がつくった奇跡。

誰かを好きだと言えること、誰かに好きだと言われたいこと。

この恋は、きっと私にとって1番の奇跡で。

 

「アクタ、私はアクタのこと、全然知らない。

何が嬉しいのか、何が悲しいのか、まだあんまり分からない。

でも、私は信じてるよ。

私が嬉しいとき、アクタも嬉しいって。

アクタが嬉しいとき、私も嬉しくなれるって。

私たち、一緒に幸せになれるって」

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

紅い目を閉じて、微笑んだ。

 

「アクタ、ずっと一緒に居よう。

雨の日も、晴れの日も、一緒に笑おう。

朝も昼も夜も、お互いのこと考えていよう。

一年中、幸せなことだけ噛み締めよう。

どれだけ傷ついても。

どれだけ苦しくても。

私、アクタが隣に居れば乗り越えられる。

だから──」

 

それは、どうしようも無く美しく。

まるで神に祈りを捧げる聖女のような。

どこまでも無垢で純粋な、祈りにも似た願いの言葉。

 

「──これからも、ずっと私と一緒に居てください」

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

愛の告白をした女の子は、その唇を愛する人と重ねた。

 

 

それはきっと、ふたりの誓いのキスだった。

 

どんな困難も。

どんな苦境も。

ふたりなら乗り越えられると誓う。

 

どんな場所でも。

どんな明日でも。

ふたりは愛し合うことを誓う。

 

たとえ、世界が終わったって。

この愛は決して消えやしない。

 

 

アクタ、私、初めて知った。

キスって、こんなに幸せな味なんだね──

 

 

そうして。

 

永遠にも思えた口付けは離れて。

龍川芥は目を覚ました。

 

彼は笑う。

応えるために。

幸福を伝えるために。

 

 

「⋯⋯ありがとう、ガブリエラ。

俺さ、ずっと言えなかった。

期待するのが怖かったから。

裏切られたくなかったから。

でもさ、このままじゃカッコ悪いから。

お前にそんなとこ見せたくないからさ。

俺にも、言わせてくれ」

 

ガブリエラは芥の手を取る。

芥はガブリエラの手を握る。

そうして、ふたりは寄り添って。

 

 

「俺さ、お前と居て幸せだった。

そんなもの、とっくに諦めてたのに。

けどお前がくれたんだ、ガブリエラ。俺に幸せを教えてくれたのは、お前なんだ。

だからこれからも、お前と一緒に生きていきたいんだ。お前を沢山、幸せにしてやりたいんだ。

俺がお前のために生きることを、お前が許してくれるなら──

 

──これからも、ずっと一緒に居よう」

 

 

そうして。

ガブリエラは笑って頷いて。

 

 

日が、昇る。

黒い夜を、眩しい光が塗り替えていく。

 

 

その光は男女が誓う教会まで届き、優しい陽光が全てを照らしていく。

 

けれど、ステンドグラスが光を反射させ。

彼らの周りだけを、優しく明るく照らしだした。

 

それはまるで⋯⋯神様が、寄り添った人間と吸血鬼を庇うように。

 

 

陽だまりの中の、小さな影で寄り添う彼らは──

 

──ただ、相手への愛を抱えながら、静かに優しく微笑んでいた。

 

 

◆◆◆

 

 

それ以上のことは、あまり語る必要は無いだろう。

 

ノーゲート・クリムゾンは灰になって消えた。彼には彼の理由があって、そのために戦えた彼は幸せだったのかもしれない。

 

八雲泪は吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)の仲間に回収され、治療を受けて立ち直った。彼女を立ち直らせたのは意外にも包帯だらけの胡散臭い男らしい。

 

龍川芥とガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

陽だまりの中、1人は貧血で、ひとりは太陽のせいでフラフラになりながらも、お互いを支えながら家に帰った。

手を繋いで、何度も転んで、そのたびにどちらともなく笑いながら。

ただ、繋いだ手の先に相手が居るのが嬉しくて。

孤独でないのが嬉しくて。

 

――まったく。すげー手のかかる奴らだぜ。

その呟きは、きっと芥の中で確かに聴こえて。

彼は、ありがとうと笑って言った。

それに不思議そうな顔をするガブリエラを見て、また笑って。

今度こそ、溜息と共にもう1人の彼女も笑ってくれた気がした。

 

ただ、人間と吸血鬼は歩く。

我が家へと、日常へと帰るために。

陽だまりの中、笑いあって。

 

そして⋯⋯。

 

 

◆◆◆

 

 

この世のどこを探しても、永劫不変は存在しない。

物語も人生も、常に終わりへと進んでゆく旅なのだ。

 

変わらないものなんて無い。

自分が持ってるもの全ては、いずれ手の中からこぼれ落ち失われる。

 

けれど、それがどうしたと言うのだろう。

 

終わりが来ると言うことは、始まりがあったと言うことで、そして今が続いていくと言うことなのだ。

 

いずれ全てが消えるとしても。

いつか裏切られるとしても。

俺が貰った幸福は、救済は──どうしようもなく楽しい日常は、間違いなく俺の手の中にある。

今、確かに存在している。

それでいい⋯⋯それだけでいいのだ。

 

物語としては3流かもしれない。

最初から何も変わらないストーリーなど、実に陳腐で興ざめだ。

でも、それこそ俺が望んだものだ。

 

だって俺は、寂しがり屋の吸血鬼に拾われた時──そいつと一緒に過ごしていた段階で、きっとそれ以上無いほどに救われて居たのだから。

 

 

西洋屋敷風の大きな部屋の中、実にだらけた空間がある。

ソファに寝転がり映画を見ながら、豪奢な机に置いたお菓子を片手間に食べる男。

その男の腹の上で猫のようにくっついて、映画ではなく彼の顔を眺めている吸血鬼。

 

 

「アクタ、次は何するの?」

 

「映画の次か? これの続編を見ようかな。いや、一緒にゲームでもするか? あ、漫画回し読みするのも楽しそうだな」

 

「⋯⋯私に咬まれたくならない?」

 

「あぁ、そゆこと。それならそうと言ってくれよ」

 

「アクタがやりたいこと、やりたい。でもほんとは、私のやりたいことと、アクタがやりたいこと、同じがいい」

 

「今更遠慮すること無いだろ。ゲームとかはずっとあるんだし、明日やればいいんだよ。それに⋯⋯」

 

「それに?」

 

「俺はさ、お前のために生きてるんだよ。俺の血も俺の命も、お前のために使いたいんだ。

だから、吸いたいときは何時でも吸ってくれ」

 

「⋯⋯」

 

「どうした、ガブ?」

 

「⋯⋯アクタ、好き!」

 

「は!? うわっ、ちょっとがっつきすぎだろ! 痛いって! おい、ガブリエラ!」

 

 

彼らの日常は変わらない。

小さな変化も大きな変化も飲み込んで、どこまでも歪にあり続ける。

求めるものも。

取りこぼしたものも。

何一つ噛み合わない1人と1体は、未だ変わらず日常の中に居る。

 

つまるところ、彼らはどうでもいいのだ。

この関係が本物か偽物かも。

今より幸せな日常があるかどうかも。

どちらの方が負担が大きいかも。

相手が何を抱えているかも。

この先どうなるかも。

全部全部、どうでもいい。

ただ、この日常が続くこと、それだけをずっと願っている。

 

だから今日も、人間失格と寂しがり屋の吸血鬼の、歪で幸せな日常は終わらない。

 

お互いがお互いを無意識に救い、お互いがお互いに勝手に支えてもらい、そうして明日も生きていく。

 

偶にはそんな──誰も救わない、最初から救われていたなんてオチの、馬鹿な物語があってもいいだろう?

 

 

この完璧とは程遠い世界は⋯⋯けれど案外、悪くない。

だって、お前が隣に居るからな。

 

これは、そんな物語。

会えて言葉にするならば──愛と救いの、物語。



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