足山九音が幽霊なのは間違っている。 (仔羊肉)
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春先【人形】

 家を出る前に書き終えた課題作文について思い出す。

 

 高校生活を振り返ってという課題に対して、俺は一言では表せないほどに複雑怪奇な感情を羅列した。決して前向きな部分などなく、どこまでも後ろ向きで、正しくなんてなく、誰にも理解してもらえないであろう文字の集合体。感情をそのまま書き殴った文字列はどこまでも後ろ向きな内容。

 

 それほどまでに高校一年生の生活は悲惨であり、悲壮であり、悲劇的であった。

 

 ――心霊体験。

 

 その言葉が人に襲いかかるとしても生涯に一、二度ほどがせいぜいで。そんな常人が遭遇するかわからぬ出来事を幾度も味わってきた。何倍、何十倍にも圧縮したような一年を送ってきたのだ。そりゃあ後ろ向きな内容にもなる。

 

 濃密で、濃厚で、未だにどろどろとへばりついて。そして、今もまた同じように時間が流れている。

 

 ――深夜の廃ホテル跡地で白衣を着た童女。

 

 それだけの経験を積んでいるのならばそろそろ慣れた頃で、実践に入れば問題なく対処できればいいのだろうが、殊更この経験というものが何の役にも立たないことが多い。

 

 むしろ思い込みや勘違いで酷い目に遭うというのだから溜まらない。

 

 同じような状況にあった試しなど一度たりとも存在しない。通信教育講座のように「この問題、ゼミでやったな」なんてご都合主義的な問題は出ず、横着を扱いて同じように対処できると高を括れば裏目などざらにあって。

 

 命からがら乗り越えても将来的に何の益体にもなりやしない。それでいながら体験料に命が賭けられているのだから割にあっていない。

 

 毎度毎度、ギリギリの所を生き延びてきた。初めて遭った病院も、誰も覚えていない公園も、這いずり回った旧校舎も。すべてがニューゲーム。強くもなってもおらず、それでいて難易度だけはヘルモード。その上ミスリードからの初見殺しなんてあるもんだから世界が俺に厳しすぎる。

 

『ねね! ねー! ねー! 八幡くん、流石にヤバいんじゃないの?』

 

 耳元で囁くように甘い声。ソプラノで流れる音は焦っているような言葉を選びながら、状況を楽しんでいる声色が隠せてない。

 

『ここで君がゲームオーバーになって私の仲間入りするのは大歓迎なんだけど、それでいいの? こんな道半ばで彷徨う未練となった君と夜の墓場で運動会どころか、ベッドの上でプロレスに興じるのも吝かではないのだけれど、ゲームクリア直前でキーアイテムをロストするなんて間抜けなエンディングは苦笑を零すレベルの間の抜け方だよね』

 

 ふよふよと、ふわふわと。

 

 浮かぶ半透明の女子高生が楽しそうに言葉を並べる。どころどころゲーマーにしかわからないような揶揄で此方の様子を眺めては目を細めて猫みたいな表情でカラカラと嗤う。しかし、次の瞬間驚きに目を見開いて――

 

『やば!?』

 

 ぐるんと宙返り。その瞬間に腹部に衝撃。

 

 衝撃に対して歯を食いしばりながら耐えれば、背中側がまるでリングロープに引っかかったかのように跳ね返される。そして、何度か前後に揺れ、元の位置へと帰る。

 

 衝撃の正体は拳。

 

 拳闘である。それも小学生のような体格の童女から放たれたい一撃。両手両足を粘性のナニカで宙吊りにされていてはどこにもいけず、衝撃を受けて吹き飛ばされてはリングロープで返るかのように少女の前に再び浮かぶ。

 

『このままだと本当に死んじゃうんじゃない? うーん、祝言は和風? 洋風?』

 

 そんな妄言を吐きながら意地悪気に嗤う。余裕な表情が癪に触る。しかしながら意地悪な笑み浮かべる彼女に言い募ったところで馬耳東風。

 

 幾ら呪い蔑み殺そうと思ったところで相手が死んでいるのなら何の意味があるのだろうか。振り返る余裕など無いにも関わらず、間抜けにも俺は戯言に対して耳を貸してしまう。

 

 再び、衝撃。

 

 余力などないのに、目を逸し、背け、現状から逃避してしまえば襲ってくるのだ、現実が。

 

 そこに在る限り、逸らすことなど命取りとわかっていながらもいつものように間抜けに軽口へと反応してしまう。

 

 戻された意識は再度の衝撃により飛びそうになる。しかしながら、三度、四度と鋭い痛みが腹を打つのだから気絶などできやしない。

 

 繰り返される度に骨が軋みをあげ、口から吐いた血で地を染めて、痛みに心は砕かれ始める。

 

『ほんと、仕方ないなぁ……はち太くんは。もうちょい待ってて』

 

 まるで出来の悪い幼子を評するかのような台詞を吐いて、その女子高生は――壁へと消えていく。

 

 衝撃、衝撃、衝撃、衝撃。

 

 肉を叩く音だけがこのボロボロの廃ホテルの二階に響き渡る。既に心は悲鳴を上げ、泣き言を口にしそうになったその時。

 

『――間抜け。ほんと、君ったら間が抜けているよね。中学生を助けに来ておいて、間抜けにも自分が死ぬ目に合うなんてお人好しを通り過ぎて救いようがないや。それが例え、妹ちゃんだったとしても、さ。血が繋がってるだけの他人。他人は他人で、自分は自分。それなのに、ほんとのほんとに、駄目駄目だよね』

 

 言葉と一緒にリュックが眼の前に現れる。突如として現れた代物は俺のもの。心霊スポットを探検していた中学生がパニックに陥り、間違って持ち帰った俺の背嚢。

 

 そんなリュックが宙を舞い、目の前に現れる。間抜けに開いた口を目掛け、右腕を伸ばす。

 

 ギチギチと何かが切れる音は筋繊維か、それとも縛っているものか。それすら判断も出来ず伸ばす。

 

 届かない。微かに指先にかかるが掴むには足りない。

 

 足りなかった距離はリュックが勝手に動くことで届き、掴む。

 

 掴んだソレを決して離さないように力強く握る。そして、もう一度、眼前の人ではないナニカを見る。

 

 少女――ナース服を着用して、大きな一つ目の複眼を持ち、小学生低学年程度の体躯の少女。

 

 正確にはこの廃病院で人が産み出した化け物。根も葉も無い噺から生まれた怪物。

 

 噂、都市伝説、怪異譚、怪奇伝、地方伝承、奇々怪々、魑魅魍魎にモンスター。呼び名など幾らでもあり、幾つでもある。その顔がどれだけ存在するのか想像などつきやしない。

 

 そして――総称して不思議とでも分類しようか。その不思議を人は勝手に呼称し、真実など関係ありませんとばかりに名付ける。

 

 名をつける。そうあれ、と。

 

 悲惨であれと、悲壮であれと、悲劇的であれと『望まれた』存在。誰もがそう囁き望んだ結果が彼女なのだ。

 

 蜘蛛と看護服と女の子。

 

 この化け物のモチーフはその三つ。誰もが本当のところを知らぬまま、誰もが本当のことなど調べぬまま、誰もが本当のことなんて興味がないまま。

 

 好奇心の成れの果て。悪意と欺瞞の混成物。

 

 間違った形で伝わった果ての、テキトウな口伝により産まれし化け物。

 

『八幡くん、掴んだ?』

 

 半透明の女子高生の言葉に俺は首肯く。彼女がキーアイテムとまで呼んだソレを掴んだまま、リュックの口に食われていた腕はその身を解放する。

 

 手に掴んだこれを持ってくるだけにどれだけ遠回りをしたのだろうか。仕込みの時点で既に終わったかのように振る舞い、辿り着いてみれば予定外の出来事ばかり。

 

 ただ渡すといった簡単なこと。それだけにも関わらず、気がつけば絶体絶命の窮地。

 

 苦労なんて呼べる苦労は在るはずもなく、お遣いをこなすだけという甘い認識がここまで惨めな姿を晒した原因。

 

 用心を欠いていたといえばそれだけで、胡座をかいていたといえばそれにしかすぎず、慣れたつもりで自惚れていたといえばそれ以上のことはない。

 

 人知が及ばぬ相手に油断するなどあってはならない。そもそもが油断ならぬ相手なのだから。対等なんかではなく、常に自分よりも遥か雲の上にいる存在であるのだから。

 

 腐っても、今回は――神相手の出来事だ。歪に歪められ、本当の姿を忘れ去られ、誰も覚えておらず、その御話すら調べることがなくなり、間違って伝わり、間違いが信じられた。

 

 故に俺は――彼の存在に正しく自分の姿を見せることで怒りを収めてもらうしか他にならなかった。

 

 神前にも関わらず、神であるにも関わらず――俺はあろうことか我を忘れ、神を忘れ、人を優先してしまったのだ。

 

 忘れられたことが罪なのだから、蔑ろにしたのが悪かったのだからーー罰が中たるのは仕方ない出来事。

 

 頭から抜けた原因と対処法。妹を見つけた途端に冷静さなど消えてしまった。そんな間抜けなのだ、俺は。

 

 だから恐怖と錯乱で荷物を逃げた中学生たちを責めるのはお門違い。むしろ抜け目がないことを称えるほど。ただし降ろしていたリュックを間違って持って帰らなければ満点だったが。

 

 そんな計算外で起きた窮地は半透明の浮遊霊が仕方ないとばかりにカバーして、ここまでお膳立てされれば間の抜けた俺でも解決へ向かえる。

 

 複眼に映るのは――人形。

 

 すべては人の悪意から始まった御話。

 

 しゅるしゅる、と腕に絡みつく糸が解けていく。ゆっくりと溶けた白糸はまるで最初から無かったかのように消えてゆく。

 

 無かった『噺』なのだから当然で。

 

 そして――複眼の代わりに二つの目を得た幼子の震える指は差し出した人形に。

 

「三十、二年前、とある、少女がこの病院で息を引き取った……」

 

 大きく息を吸い込む、呼吸が定まらず、声を出すのも辛い。続けなければならない、途中で言葉を切ってはならない、とわかっているにも関わらず、感ずる圧力と内から響く痛みに音を綴れない。

 

『病院は場所を移し、跡地にはホテルが建つ。そのホテルでは一つの噺が出る。女の幽霊が出る、と』

 

 ソプラノボイスで続く祝詞、その間に息を整える。そして、再び続きを口にする。

 

「そのホテルが潰れてからは再び、噂が立つ――ナースの幽霊が出ると」

 

 下唇を噛み、痛みで言葉が邪魔されないよう必死に堪える。

 

『そこからさらに噂は転じ、今度は蜘蛛の女が出る。そして歪に噂は重なりいつからか言われるようになった噺。廃病院のナース服を着た蜘蛛女』

 

 最後の真実を示す。このお話の真相を、歪められた御話の大本を。

 

「けれども、最初に語られたのは人形。亡くなった少女の持っていた人形の噺。亡くなった少女の大事にしていた人形の御話なんだ。俺は、いや俺たちは知っている。少女が死んだことを、少女が人形を大事にしていたことを、決してそれは面白おかしく変えられてはならないということを――」

 

 条件過多、属性盛りすぎなこの噺、本質を忘れて歪になり、間違った都市伝説となる。そして大本たるのは少女の霊、けれどももっと正鵠を射るのならば、少女が大事にしていた人形の霊なのだ。少女のことを忘れ去れないように動いた人形の怪異だったのだ。

 

 人形とは生きやすい――来易い魑魅魍魎である。人の形として人に寄り添い、人から大切にされ、人を大切にしてきたのだ。人形に魂が宿るといった御話は古今東西どこにでもある御話なのだ。人形は、霊は良かれと思った行動が裏目になり、その形を忘れ、願いを曲解され、それでも生きていた少女を忘れ去られないように現れた、形を変えたものたちを恨みながら。

 

 故に言わなければならなかった。その意を汲んでいると、少女のことは忘れていないと、誰もこんな呪いなど望んでいないと。少女が死に、それを知っている人間がいることを証明するだけ。それだけだったのだ。

 

 そもそもが逆鱗を逆撫でしたのは人間だ。少女の死というものを悼わず、それどころから姿形を忘れ、名を忘れ、挙句の果てには蜘蛛という化け物が加わり、付随し、口伝したのである。

 

 怒りに触れないわけがなかった、怒らないわけがなかった。

 

 罷り間違えても――神だったのだから。

 

「お納め下さい」

 

 付喪神。百年に一足らず、九十九。長い年月、九十九年の時を経て、物には魂が宿ると言われている。無論、俺の持ってきた人形にそのような歴史は無い。亡くなった少女の人形が百年物だったかどうかも定かではない。けれども人形は移し身であり、依代である。そもそもが百年も経たずに動き出す話など世に幾多と存在している。

 

 争点はそこではなく、論点はそこではない。

 

 正体は付喪神なのか、それとも唯の人形の霊なのかではなく、歪に伝えられた噺を正しき形に戻すのが話の纏め。

 

『お納め下さい』

 

 何に怒っているのか、何を怒っているのか、何を恨んでいるのか、何を思っているのか、何を持って害をなすのか。

 

 それを知り、理解し、求めているものを差し出すことで怒りの矛先を収めてもらうしかない。

 

 根源は少女の死を面白おかしく弄ったことだ――少女の霊を辱めたことなのだ。

 

 だから少女の霊、人形の霊、人の写し身の霊に知っていると、忘れていないと伝えることで矛先を収めてもらう。少女を覚えている、悼んでいることを知ってもらう。少女の死が書き換えられていることを面白おかしく扱っていない、そんなことを望んでいないものが居ることを知って貰うのだ。

 

 歪んだ嘘に対して真実を持って怒りを納めて希う。失われていた依代を持ってくる。彷徨い降り注ぐ悪意からの避難先を持ってくる。

 

 写し身を傷つけ続けることは本意ではないのだから。

 

 ――ぁ

 

 ゆっくりと少女の手が人形に伸びる。複眼が消えた日本人形のような綺麗な造りの顔がふにゃふにゃと崩れる。服もいつの間にか病衣に戻り。

 

 ――あリがトう

 

 そう残して、ゆっくりと人形の中に消えていった。

 

 それを確認した瞬間に、全身の力がどっと抜ける。自分の吐いた血溜りに膝をつく。そのまま、ずれてごろりと大の字になれば目の前には未だにこの場に残った女幽霊。

 

『幼女の笑顔を見た瞬間に全身の筋肉を緩ませて喜ぶなんて変態じゃんー。うわー、引いちゃうよねー、ぷー、クスクス』

 

 どこか小馬鹿にした笑いを浮かべる物理的に浮いている女子高生。そんな姿を見て、ぽつりと呟く。

 

「チェンジで」

 

『おい! まさかこの私よりもさっきの幼女の方が良かっただなんて言わないだろうねっ!? この変態ッ! 変態ッ! 変態ッ!』

 

「……あっちの方がマシまであるわ」

 

 そんなことを口に出しながら、ゆっくりと立ち上がり、暗闇に慣れた視界に映ったリュックを拾い上げる。中にある懐中電灯をつけて、ホテル跡地を後にした。落ちた人形を拾って、今度は正しく奉られるよう、誰にも汚されぬよう、依り代で写し身の人形を大事に抱えて。

 

 

 

~~~~~~~

 

 翌日の話。

 

 今年から受験生にも関わらず、友人と心霊スポットに行った妹は朝から非常にテンションが高かった。暗闇と半狂乱。ちょっとしたトランス状態であった中学生達を助けに来たのが兄であったことを知らない妹は興奮気味に朝食の席で騒いでいた。

 

「ねぇ!! 聞いてよ、お兄ちゃん!」

 

 聞いてと言いながらも俺の意思を欠片として慮るつもりはないらしい。否と答えたところで話を続けるのは想像に容易いテンションの高さ。

 

「……何をそんなに興奮してんだよ」

 

 嫌々ながらも妹の話に付き合う。

 

「昨日ね! 幽霊にあったの! 幽霊! ほんとヤバかった、みんな金縛りにあったし!」

 

 実際のところ金縛りではなく蜘蛛の巣。その蜘蛛の巣は用意していたアルカリ洗剤で溶かしたのだがそんなことを知りもしないのだろう。

 

 妹の馬鹿テンションに朝から付き合わされているのだからうんざりする。

 

 俺はというもの、とある少女が眠る墓地に人形を奉納し、帰ってきた頃には夜が明けていた。おかげでぐんぐんと眠気や疲労は増し気力は減り続けている。

 

「でさ、その時さー、超カッコいい人が助けに来てくれたんだよねぇ」

 

 危うく味噌汁を噴出しそうになった。

 

「はぁ? カッコいいって顔でも見たのかよ」

 

「きっと超イケメンだよ! だってあんな場所に助けに来てくれるんだもん。小町にはわかるんだよねー。声もなんだか安心感あって、きっと顔もカッコいいんだろうなぁ……高校生くらいかなぁ、もう一度会いたいなぁ……」

 

 願望じゃねぇか……。うっとりとしている妹の顔にげんなりとする。正体こそばれてなかったものの夢想している相手が実は俺などという事実は喜劇にもなれない失笑劇、もしくは嘲笑劇。いや、笑えねぇわ。

 

「顔も見てねーのにどうやってイケメンだって判断してんだよ」

 

「こころ……?」

 

「なんか凄い良いこと言ったみたいな結論になってるけど、そんな場所に深夜に遊びまわるような奴と付き合うのはやめとけ。ろくなやつじゃねぇぞ」

 

 俺の発言に対してぷくーっと頬を膨らませる愚妹。

 

「ごみいちゃんが言うの、それ?」

 

 こっちは心配してるからね。お前の身をめっちゃ心配してるからな。むしろそんな所に行って不良になり、挙げ句には不良と付き合うようになったら俺はその男を殺してしまう。でもきっと先に親父が殺すであろうから俺は「いつかやると思っていました」ってインタビューの練習しなきゃいけねぇじゃねぇか。

 

 そんな俺の兄心など知ったことかとばかりに不機嫌になっている。兄心妹知らず。

 

『ほんと、シスコンだよね』

 

 中途半端に嫌味を言う程度に留めている俺を見て、その辺にふよふよと浮いている女子高生の霊は呆れていた。そんな評価にほっとけと小さく目で合図を返す。千葉の兄妹でシスコンブラコンじゃない姉弟はいないのだ。だから、俺が直接怒れない代わりに。

 

「ちなみにそんなとこ行ったのはかーちゃんにちくっとくな」

 

 家庭内ヒエラルキーの頂点に君臨する母君に告げ口ならぬ告げメールを送っておく。夜勤帰りで今は夢の世界に行っている母親が現実に帰還した時こそが愛する妹に雷が落ちることだろう。

 

「えぇえーっ! なんでそんなことするの! お兄ちゃんの意地悪! 馬鹿っ! 鬼っ! 八幡っ!」

 

「最後のは俺の名前でしょ……悪口じゃねぇよ……」

 

 ぶつぶつと未だに恨めしげに「お兄ちゃんの方がいつも夜出歩いてるのに」と呟いている。

 

 確かに事実。現在の比企谷さん家の八幡くんったら最近、帰りが遅いんですよ、やーねという井戸端会議で話される程度には近隣付近で目立っている。

 

 おかげで家庭内では最下層。猫のかーくんより下である。そもそもがかーくんより上だった試しねぇや、比企谷家が俺に厳しすぎる……。

 

「まぁ、そんだけ怖い目にあったんなら大人しく受験勉強でもしとけ。母ちゃんもそっちのが安心できんだろ」

 

 そんな俺の話など中途半端に聞いてるかのように箸を咥えたまま小さく口にする。

 

「また心霊スポットいったら会えないかな」

 

 ポソリと呟いた小町の言葉が耳に入り頭を疑った。いよいよ脳内が色づき始めていやがる。しかしながらいま頭ごなしに駄目だといったところで意固地になるだろう。数日ほど時間をおいて、ほとぼりが冷めた頃に話すとしよう。

 

『八幡くん、もう時間じゃない?』

 

 ふよふよと浮く幽霊が時計を指差す。確かに学校へ向かうにはいい時間帯を示していた。

 

「……小町、少し急げよ」

 

「わっ、もうこんな時間!?」

 

 慌てて食べる小町を横目に食器を片付ける。いそいそと準備をしながら、未だに中空にふわふわと浮かぶ霊と目があった。

 

 一年近くの付き合いか。

 

 一年前の交通事故で運ばれた病院で目を覚ました夜に――俺は出会った。

 

 自称浮幽霊である『足山 九音』という女子高生に。

 

 名前だけしか覚えておらず、名前だけを大切にして、そこにたった一人ぼっちでいた女子高生の霊と俺は出『合』った。

 

 それこそが悲劇、それこそが間違い。そうやって出遭った存在達にずるずると引きずられ、えっちらおっちらと死にそうな目にあいながらも生き抜き、なんとか今日という日を迎えている。

 

 別に今日が特別な日ということはない。そして明日もまたそうではあるが、死にそうな目に合う度に思う。大げさなまでに生き延びているという実感を抱きながら日々を過ごしている。

 

 そんな生き方は間違っているし、そんなことは解っている。それでも俺は間違っているとわかっていながら生きていくことしかできない。

 

 こんな生き方しか選べない俺はきっとどこまでも間違っている。

 



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春先【邂逅】

 高校生活を振り返ってという課題作文を、担任である平塚先生が淡々と読み上げる。

 

 最後の『呪われろ』と冗談染みた呪詛で締めくくられた内容は彼女の名前の通りに静に粛々と声に出すのだから、俺の中途半端な文章力などカバーしておどろおどろしさを醸していた。

 

 三人も集まらずとも、二人程度であーだこーだと試行錯誤の末に出来上がった作文はどうやら大変に不評であるらしい。

 

 正確に述べるのなら二人というよりかは一人と一匹、もしくは一人と一体、一人と一人。生者と死者による合作の顛末はクオリティを上げるはおろか、愚かしくも放課後に職員室に呼び出されるというバッドエンド。

 

 呼び出した当人である平塚先生は淡々と読み上げた後に大きく息を吐く。呼吸というよりかはため息。

 

「なぁ、比企谷。私の出した課題は一体なんだったのか、覚えているか?」

 

「あーっと、見た通りの高校生活を振り返ってという内容だったと思いますが……」

 

『うんうん、何も間違いはないね』

 

 ふよふよと、ふわふわと。首に纏わりつく自称浮幽霊の女子高生が記憶違い見間違いではないことを肯定する。

 

「あぁ、そうだな。それで何故君は呪詛めいた奇文を書き上げているんだ? 呪術師なのか? それともバカなのか?」

 

『だから言ったんだよぉ、そんなの提出したら怒られちゃうよって。はぁ、やれやれやっぱり寝てない頭じゃろくなものが出来ないなんて、どうしてわからなかったのかなぁ』

 

 一緒になって変なテンションで書き上げた文章の片棒を担いだ幽霊が自分は関係ないとばかりに注意してくるのが腹が立たしい。

 

 裏切りも甚だしい少女の顔を間近でにらみつけていると――紙束で頭が叩かれる。

 

「君はどっちを向きながら聞いてるんだ、こちらを見なさい」

 

「……すいません」

 

『ぷぅー、くすくす、怒られてやんのぉー』

 

 ぴゅぉーと軽快に空中に浮かびあがる浮幽霊。天井付近にいるにも関わらず、小器用にスカートの中は防がれている。完全に物理法則に喧嘩を売っているような布の揺れ、しかしながら存在自体が科学に喧嘩を売っているというのだから考えても詮無きこと。

 

「君の目はアレだな、腐った魚のような目をしているな」

 

「そんな出会うだけでSAN値削りそうな顔してます? ダイス振らなきゃいけないっすね」

 

 女教師の頬が引きつる。口角も少し上がっていた。笑顔とは決して友好のためだけに存在しているわけではない。人は沸点を超えると笑うこともしばしばとあるらしい。

 

「比企谷、この作文はなんだ? 一応の言い訳は聞いておこう」

 

 睨み付けられて竦む。にらみつけるとは防御力を下げるだけではなく、美人が繰り出せば竦みあがらせることも可能だと体感した。つーか、なまじ美人である分、目力があって怖ぇ。たとえそれがホラー・オカルト・怪現象に巻き込まれることが多く多少の耐性が出来ていたとしても何の意味もなかった。そんな怖さとは別種の怖さにはまるでこうかがないみたいだ。

 

「ひ、お、俺はちゃんとした高校生活を送ってましてね? 作文に書いたカップルで廃墟探索みたいなことをする人種を差別し軽蔑し、怖さのドキドキと恋愛のドキドキを勘違いするような人種を見下しながら日々を生きてますし、近頃の高校生は大体、そんな感じですし、何の問題もないかと……」

 

「普通、こういう時は自分の生活を振り返りながら書くものだろう」

 

「なら、次はそうちゃんと前置きしておいて欲しいですね。そしたらこっちも素直に書きますよ。これは先生の出題ミスです」

 

「小僧、屁理屈述べるなよ……」

 

「こ、小僧って、いや確かに先生のお年からしてみれば小僧なんですが――ッ!?」

 

 風が吹く。

 

 頬を撫でた風の出所を見ればグーがあった。見間違えることなく固く閉じられた掌。拳が風を切り、撫でたのだ。ノーモーションからの繰り出しは昨今の都市伝説の化け物並みに血の気が多い。

 

「次は当てる」

 

 マジだった。目がマジだった。二言はないとばかりに睨んでいた。

 

「すいませんでした、すぐに書き直させていただきます」

 

 即座に喉から出た謝罪。問答無用の謝罪などいつもの出来事で、謝りを持って怒りを流してもらおうと試みる。

 

 しかしながら、平塚先生には満足していただけないようだった。その目が訴える胡乱気な視線に土下座しかねーな、と結論づける。ズボンの皺を払うように伸ばし、いざ右足をつけてげざろうとする。

 

 そもそもが土下座など日常茶飯事で謝ることで減るものがあるのなら、俺にはきっと残ってない。なんなら今は此方の様子を伺っている浮幽霊にも定期的に行っている。

 

 そういえば何か最初の頃は恥ずかしいなとか感じていたような気もしなくもないが、たぶん気のせいだろう。土下座など心を込めずとも相手が勝手に本気で謝意を感じてくれる有用なカードなのだ。ふっ、勝ったな、この勝負。

 

「あー、比企谷。別にな? 私は怒っているわけではないんだ」

 

 あーはいはい。あー出たよ出た、出た出た、こういうパターン。めんどくさいパターンだわ、これ。怒っていない人間がその台詞吐いた試しあんの? 少なくとも俺の短い小僧とも呼べる人生の中ではなかった。

 

 だが、表情を伺ってみれば確かに平塚先生は怒っているようではない。年齢の話以外では。やっぱ怒ってんじゃねーか。

 

「んー……」

 

 平塚先生は軽く伸びをして、豊満な胸が自己主張するブラウスのポケットからタバコを取り出し、葉が落ちるようにフィルターを下向けに何度か机に叩きつけては葉っぱを詰める。

 

 そして安物のライターで火をつけて吐き出す紫煙。何度か吸って精神を落ち着ける様をボケーッと眺めていると、天に向かう煙を避けながらヒュルヒュルと幽霊が首元まで移動してくる。

 

 あすなろ抱きの要領で腕を回されれば囁きは耳元へ。質感もなければ、重量も無い。触れているのに、触われず、くっついているのに、どこまでも遠くにいるソレは鼓膜を震わせる。

 

『胸ェ、見てたよねェ……』

 

 答えず、騒がず、俺にしか聞こえず。俺にしか知覚できないソレに受け答えなどするわけにはいかない。答えない俺に対して苛立ちと癇癪が混じりあい恨めしげな声と共に後頭部を拳で打ち抜いてくる。貫通した拳が薄透明色で急に現れるのだからもしもこれが初見ならば驚きでもした。こんなじゃれ合いに今更、反応などしない。けれども、目の前出ては吸い込まれる拳にリアクションを返さずとも集中力は削がれる。

 

「君は確か部活には入っていなかったよな?」

 

 そんな幽霊のことなど見えるわけも無い先生の質問は唐突な話。あまりにも突拍子にもない話題だったために勢いで「はい」と素直に頷いてしまう。

 

「……友達とかはいるか?」

 

 友達がいないことを前提とした聞かれ方をした。少なくとも背後で『しゅっ! しゅっ!』と女の子らしいソプラノボイスでシャドー音を口に出すコレは友人枠には到底なりえない。

 

「平等をモットーに他人に優先順位や評価、裁定をしない主義ですので、特に親しい人間を作らないようにしているんです」

 

「……あー、いないということだな?」

 

「まぁ、端的に言えばそういうことになりますかね?」

 

「そうか! やはりいないか! 君の腐った目を見ればそれくらいまるっとお見通しだったぞ!」

 

『うっわぁ、この人本当に教師? 聖職者としてその発言どうなのって思うよ。しかも本人まったく悪気ないから怒るにも怒れないよね……』

 

 幽霊の手を止めるほどにドン引きな台詞を放つ女教師。確かに言の通り、怒るに怒れないモニョモニョとした気持ちが浮かんではくる。浮かぼうとする名状し難き感情に何とか蓋をしていると、平塚先生はうんうんと納得で頷きながら、何かを考えるような仕草に変わる。

 

 そして、幾つか言葉を選んだのだろう。口を開いて。

 

「……彼女とかは居るのか?」

 

 とかって何だよ。彼女に近い何か、彼氏でもいたら大事じゃねぇか。幾らそういうのに対して寛容になりつつある世の中になってきたからといってそんなに簡単にカミングアウト出来るわけねーだろ。しかしながら、彼女ではないが同棲どころか一緒の部屋で寝食を共にする存在は居るのだからあながち大ハズレとも言えないのかもしれないが。

 

「あぁ、そうですね……今は居ませんね」

 

 あえて考え込み、更に今はという部分にアクセントをつける。こうすることにより、相手に「あれ、もしかして居たのかも」という印象を抱かせることが出来る。さらにいえば過去にはいたかもしれないと深読みをさせる。

 

 そして俺は過去のことを振り返らないというスタンスを付け加え、明日のことは考えてすらいないので完璧に今のことだけを見ていることに。

 

 こうすることで俺の視点で彼女が居るかどうかは判らなくなる。メタファンクションにおいて俺の彼女が居たかどうかなんてわからなくなるという完璧な技法。比企谷八幡の彼女の有無はことここに至って完全な迷宮入り。勝ったな、この勝負。

 

『八幡くん、彼女居たことないよね』

 

 ばっか、お前、ふざけんな。お前の知らない過去でいたかもしれないじゃん。そういうのやめろよ、一年来の付き合いであるお前がいうとマジで居なかった可能性が急上昇するじゃねぇか、やめろよそういうの。

 

 そんな内心など知ったことかとばかりに再度として『シュッ! シュシュッ!』と俺の顔面を打ち抜くシャドーボクシングを再開しはじめた。

 

 そして平塚先生の方といえば「そうか……そっかぁ……」と哀れみの篭った少し潤んだ瞳で見つめてくる。その潤みって紫煙が目に染みただけだと信じたい。決して俺の彼女の有無が先生の涙腺を潤ませたなど考えたくも無い。そんな現実を突きつけられただけで凄く可哀想な奴にすら思えてくる。必死に現実を見つめない比企谷少年の構図になって凄く哀れな存在になっちゃう。

 

 というか、この話の流れは何なのだろうか。熱血教師なのか? そのうち腐ったみかんがどーこーとか言い始めちゃうわけ? その理論がまかり通るなら腐ったみかんはさっさと捨てちゃいましょうねーとばかりに取り除かれるのだろうか。でも安心してほしい、腐ったみかんに影響を受けるようなみかんは、そもそもが同じ箱には入っていない。

 

 一見すれば同じ箱、同じ学校の中に入っているようできちんと区分けはされている。故に見ている物が違うし――魅入られるのも異なる。みかんはきっと混同しない。混同なんてさせなどしない。俺たちは混同することなく、別の箱で、別々の出荷先に送られる。青春を謳歌せし者たちがこっちにくることは殆どない。もしも何かの間違いで混同したのならば入っている箱が間違っているとばかりに追い出すのが俺の仕事なのだから。腐ったみかんは他のみかんに腐食を遷す前に突き放すのが腐ったものなりの役割。

 

 ここは危険だと、こっちは腐っていると、どろどろと――おどろおどろと目に見えて危ない場所に立っているだけ。間違っても混同なんてされないように。されても追い払えるように。ただ在るのがレゾンデートル。

 

 勿論、こんなことは平塚先生には通じなどしない。ゆらめく煙の先にある瞳は何かを考えているのだろう。俺にはそんな価値などきっとないのにも関わらず。

 

「よし、こうしよう。レポートは書き直せ」

 

「はい」

 

『だよねぇ』

 

 幽霊の言うとおり当たり前の結論だった。

 

 今度の課題作文は当たり障りの無い文章で埋めよう。それこそ、中学英語の例文のように『これはペンですか』『いいえ、ペンではありません』という構文のように。まかり間違っても『これはペンですか』『いいえ、ペンではありません』『じゃあ何ですかナニナニナニナニナニ!? ナンナノヨォォォォォォォアアアアアアアアアアアッ!』といった御話にならぬように。それじゃあ背景が変わりすぎてどうしようもなさすぎる。

 

 不思議な部分など何もないように、どろどろとしたものを垂れ流さないように。つまらなく、どこにでもありそうな高校生らしく学生としての模範的な内容を書くとしよう。

 

「だが、君の心ない態度と言葉で私の心が酷く傷つけられたのは事実だ。女性に歳の話をするなと耳にしたことはないか? なので君には一つ罰を、奉仕活動を命じる。罪には罰を与えなければな」

 

 やっぱり怒ってたじゃねぇか。

 

 とはいえ傷ついた女性らしさなど微塵にも見せずに平塚先生は嬉々とした様相で言った。あまりの様子に傷つくってどんな意味だっけとか一瞬考えるほど。呆けていれば平塚先生は立ち上がる、すると視線の高さは自然と豊満な胸に目がいくことに。

 

『……さっさと目を放せ』

 

 ドスが利き、さらには普段の口調が崩れた悪霊の声。若干ビビる。

 

『君は胸があれば誰でもいいのかい? この節操なし!』

 

 ばっか、胸なら誰でもいいわけねーだろ。女性かつ、美人で巨乳であるのならば目の保養になるのは古文書から紐解いた歴史にきちんと記されている。

 

 先生には聞き取れないであろうほどの声で幽霊に対して猛講義。

 

『記されてるわけないだろう。歴史に謝れ、積み重ねに謝れ、そして一番に私に謝って!』

 

 反論に無視を決め込み、本題たる内容を平塚先生に尋ねる。

 

「奉仕活動って……何をさせられるんですか?」

 

「ついてきたまえ」

 

 山のようにつまれたタバコの残骸に新たな犠牲者を増やして平塚先生は立ち上がる。そして職員室をさっさと出ようとする先生を見送る。

 

「おい、早くしたまえ」

 

 促されてから慌ててその後に続く。

 

『そんな反射神経で『ナニカ』にあったとき大丈夫?』

 

 からかうような声が隣から聞こえた。少しだけ口をへの字に曲げては平塚先生を追う。そして俺の後に続くように足山九音は憑いてくる。

 

 

 

~~~~~~~~~

 

 

 俺こと比企谷八幡が通う千葉市立総武高校の校舎の形は歪である。

 

 上空から見れば口の形をし、口の下に視聴覚室を足せば俯瞰図はあっさりと完成。北東側に玄関口が存在しているにも関わらず、南西に吹き抜けるように裏口が在る。そして両方の口には確りと水場が存在しているというのだから救いようが無い。

 

 工事施工者がいるのならば何を考えてこのような配置にしたのか小一時間ほどお話するべき立地条件であり、そんな場所に大多数の人間が無知なまま通っている。

 

 誰も意識などしてなく、誰も考えようとしていない。不吉も不吉、救いようもなく不吉で歪な図の中心は生徒達が常日頃から戯れる中庭が在る。リア充御用達が愛してやまない中庭。昼休み、放課後と愛を語らい、友情を演出し、絆を叫ぶ。

 

 なんとも物語的な場所なんだろう、なんとも栄える場所なんだろう。そんなことをしてしまえば『物語』を作ってしまえば。不吉蔓延るこの校舎はいつだってそれを『元』とした『ナニカ』が沸いてきてもおかしくなどない。きっと、妊娠で高校中退した女子校生の数よりもこの校舎を基点として生み出された化け物の総数が多そうなのはホラーを通り越して一種の笑い話だ。

 

 南西から吹き抜ける生ぬるく気持ち悪い潮風が吹く。風がやってきた方向には青春を謳歌している高校生達の姿。それを見ては滑稽だと思うにも関わらず、笑うことなど決してできない。

 

 だが、普通ならばそうなのだ。当たり前に考えたらそうあるべきなのだろう。

 

 自分たちの高校の鬼門と裏鬼門について考察する高校生は果たして世の中にどれほど居るというのか。オカルト齧りであったとしても千葉県内には様々な心霊スポットは存在する。わざわざ自分の学校の俯瞰図を確認する人間はどれほどのものか。そもそも考えてみればそこまで神経質になるような人間が、この不穏渦巻く、邪念強き学校に通うなどするだろうか。

 

 それこそ俺のように後天的に霊と関わる機会でもなければきっと入り口の配置になど気にも留めないだろう。入学式前の俺は何も知らずに。高校生活を無垢に、無知に、白痴に楽しみにしていた俺が。

 

 いまや自分だけがこの世界の歪さに気づき嘆く。後天的で切っ掛けでもなければ気づかなかったような彼是にいまさらながら未練たらしく嘆いているのだ。

 

 そんな不吉極まる校舎の廊下――特別棟の廊下を平塚先生の背後に続くように歩く。リノリウムの床がコッコッと響き、まるで自分たちがチャンネルを間違えたかのように静かな世界。しかしながら未だにうぇいうぇいとはしゃぐリア充達が廊下の窓から見える。はっきりいって見るだけで不快ではあるが、同時に安心感も覚えてしまう。

 

『奉仕活動って何なんだろうね?』

 

 ふと浮幽霊たる美少女女子校生(自称)が呟く。本人は名前しか覚えておらず、その他一切が詳細不明。怪しいことこの上ない存在の言葉に俺は前を歩く平塚先生に聞こえないように小さく独り言のように返す。

 

 ――奉仕活動って卑猥な響きだよな。

 

『いや、君さ。八幡くんさ。私が女子高校生って忘れてない? なんで当たり前のように猥談ふってくるわけ? 男友達じゃねーんだぞ』

 

 ――なに、言ってんだこいつ。お前がふってきたんだろうが。

 

『いや、言ってないからね!? 言いがかりもここまで来れば当たり屋だってびびる竦みあがるよ! 奉仕という言葉で即座にエッチな連想をする君には本当にがっかりだよ! がっかり!』

 

 最後のがっかりという部分を力強く主張する幽霊。

 

 いやいや、仕方ないのだこれは。普通の男子高校生なんて奉仕という言葉を聴いたらちょっとエッチな単語に聞こえる機能は搭載している。それどころか平塚先生のような美人が口にすれば耳に残るレベル。むしろ奉仕という言葉を聴いて平常心で居られる男性なんているの? いや、いない。

 

『うーわ……絶対にろくでもないことを考えてる顔だぁ、変態』

 

 じっとりとした視線を受けつつも無視を決め込む。しかしながら妄想は妄想で現実ではない。そんな都合の良い出来事なんてあるわけねーんだ。俺知ってンだ。

 

 特別棟にまで案内されて罰を予測してみる。音楽室、生物室なんて不穏極まる場所の片付けといった雑用が思いついた。奉仕という名前の強制労働である。働かないをかつて標語していた身としては先手を打っておくべきだと結論づいた。前を歩く平塚先生に向かって今、瞬間的に思いついた言い訳を述べて何とか回避を試みる。

 

「あの、平塚先生……俺、持病でしゃくとり虫でしてね? 激しい動きとか重いものを持つのはちょっと……」

 

「君が言いたいのは癪持ちだということかね? 君に内臓疾患があるなんて初耳なんだが? それならご両親に尋ねてみようか? あと安心したまえ、お願いするのは力仕事ではない」

 

 完全に馬鹿を見る目で見られている。

 

『八幡くん……』

 

 幽霊の方向からも完全に哀れみの意がこめられていた。

 

「俺、家に三千人の部下がいましてね、早く帰ってあげないと」

 

「君はいつからながっぱなの狙撃手になったんだ、なんだ? 君は麦わらの一味なのか?」

 

 少年漫画を読んでるらしい。とはいえ、どうにも避けられそうにない。力仕事ではないと言っていたからデスクワークするだけなのかも。流石に連日続けて不幸な目に遭うなんて早々ないだろう。

 

「着いたぞ」

 

 辿り着いた先には何の変哲も無い扉。プレートには何も記されていない。自分が一体何者なのか、どんな存在なのか、どんな場所なのかを証明することを怠っていた。

 

 立ち止まってプレートを眺めていると、平塚先生はこちらを気にも留めずにあっさりと扉を開く。

 

 飛び込んできた教室は自己紹介を兼ねていた。隅に積まれた机と椅子が空き教室であることを主張している。しかしながら、中央に置かれた長テーブルと、その横に座る少女が居たから――何かの部活動室であることを証明していた。

 

 まるで一枚絵になるような――斜陽の中で本を読む少女が居たから、この場所が特別な空間のよう。

 

『ほぉ、まぁまぁだね。まっ、私の方が美少女ですけど』

 

 自信過剰にして、自信満々の幽霊が絵になる少女に張り合う。

 

 空き教室に居た少女は確かに絵になるほど綺麗な少女だった。けれども、それはあの夜のように決して『魅入る』程ではなかった。

 

 彼女は来訪した俺たちに気づくと、文庫本を音を鳴らしながら閉じる。

 

「平塚先生。入室をする際はノックをしてくださいと何度もお願いしているハズですが」

 

 端正な顔立ちに、流れるような黒髪。奇しくも幽霊と同じような特徴を持つ美少女。しかしながらあくまで特徴が部分的に一緒というだけであるだけ。どちらも特徴的なまでの美少女、種類の違う少女達。

 

 かつて病衣を纏った頃を思い出す。月明かりに黒の髪が垂れ下がり、楽しそうに窓の外を眺め、俺とお揃いの病衣を纏っていた少女。今では後ろで流すように結ばれていて、腕にはシュシュが巻かれている、スカートは生真面目な生徒よりかは短いというのだからなぜこいつが病院の幽霊だと思うだろうか。きっと初見の人間にはわかりなどしないだろう。彼女がどこにいたのかなんて。

 

「ノックをしても君が返事をした試しなどないじゃないか」

 

「それは先生がノックに返事をする間もなくいつも扉を開くからです」

 

 不満げな少女と先生のやり取りを他人事のように眺める。さっさと用事終わらせて帰りたいんだが。

 

「それでそのぬぼーっとした人は?」

 

 冷めた視線がこちらを射抜く。無論、それは俺に向いたものであり、首に抱きつくように纏わりつく幽霊のことなどではないだろう。

 

『雪ノ下雪乃さんだっけ?』

 

 幽霊が俺の代わりに人物の名前を中てる。幽霊すら知っている有名人。総武高校内でトップクラスの著名人。そんな人物であるからもちろん、俺は会話などしたことはない。

 

 二年J組雪ノ下雪乃。

 

 総武高校には普通科九クラスと国際教養科というのが一クラス存在する。別学科となる国際教養科は普通科よりも偏差値が高く、帰国子女や留学志望の生徒が数多く在籍している。

 

 そんな総武高校内で派手に目立つクラスの中でも一際異彩を放っているのが目の前にいる少女――雪ノ下雪乃なのだ。

 

 彼女は定期テスト、実力テストにおいて常日頃から一位に鎮座している成績優秀者。さらにそこに見惚れるほどの美貌を兼ね備えているというのだから有名人にならないわけがない。

 

 かたや俺は知る人ぞ知る程度の凡庸な一般学生。総武高校において比企谷八幡なんて大抵やべぇやつ扱い。勿論、雪ノ下のように皆が皆、噂などしているわけではなく、一年次に起こした奇行が原因でクラス内を超えてやばい男子がいる程度に囁かれているのだ。

 

 だから、彼女が俺のことを知らずとも傷つくことなどない。むしろ知らないことで自分の奇行が知れ渡っていないことに安堵を覚えるまで。

 

 しかしながら、ぬぼーっとって表現は幾許か傷ついた。どれくらい傷ついたかというとぬぼーっと表現を考えた時に思い浮かんだのがぬっぺふほふ(のっぺらぼう)のことかな? と頭によぎり、某有名漫画家のイメージで描かれたぬっぺふほふを思い浮かべては自分と似ていないよな? と現実逃避を行う程度。つまり全然傷ついてなんかない。ないったらないのだ。

 

「彼は比企谷。入部希望者だ」

 

 平塚先生に紹介され、ぺこりと軽く会釈。頭を下げたついでになんか余計な言葉がついてたようなと思っていたら横から『いや、入部希望ってなにさ』と補足してくれる。いや、マジで入部希望ってなんだよ。俺も流石に耳の方を疑ってしまう。しかしながら同じように聞き取れた幽霊が幻聴でないことを証明していた。

 

「えっと、比企谷です……というか、入部希望ってなんすか一体」

 

 俺の疑問に対して平塚先生は答えてくれるらしく口を開く。

 

「君には罰としてここの部活動を命じる。異論反論抗議質問口答えその他類するものを一切禁じる。しばらく頭を冷やしたまえ、反省しろ」

 

 俺の意思を赦さずに下された判決は圧倒的なまでに有罪であり、執行猶予すらない実刑判決。自己弁護すら許可は下りなかった。

 

「と、いうわけで、一目見ればわかると思うが彼は中々に根性が腐っているのでな。そのせいで常々往々として孤独で中々に可哀想なやつだ」

 

 一目でわかっちゃうのかよ。

 

『うぅん、なんか八幡くんは私が馬鹿にするのはいいけどさぁ……他の人にされると中々くるものがあるなぁ……はっ!? これが噂の寝取られ!』

 

 馬鹿が居る。そんな馬鹿を無視しながら生者達の話し合いに耳を傾ける。

 

「人との付き合い方を学べば多少マシになると思う。彼の捻くれた孤独体質の改善を君に依頼したい」

 

 先生の要望に雪ノ下は非常にめんどくさそうな表情を浮かべている。おっ、いいぞ、このまま断ってくれ。

 

「それなら先生が教育的指導という名目の下で躾ければ良いと思うのですが」

 

『やばいよ、この子』

 

 こえーわ、こいつ。幽霊をもってしてヤバイと言わしめる少女に恐怖を覚える。

 

「私だってできることならそうするさ。しかしながら最近はどこもそういうものに煩くてな……特に肉体的なものはマスコミを一直線だ」

 

 俺は生まれて初めてマスコミに感謝した。ついでに言えば別に精神的なものは赦されているわけではないのだが……

 

「お断りします。そこの男から感じる下種な雰囲気と下卑た視線から身の危険を感じます」

 

 両肩を抱くように俺を睨み付ける雪ノ下雪乃。

 

『し、失敬な! 八幡くんのタイプは私のような美乳なんだぞぅ!』

 

 とんでもない言いがかりで背後から撃たれる。完全にフレンドリーファイア。不名誉にも程がある話だった。俺という人間は胸の大きさで人の優劣をつけることなどしない。そんな人間では断じてない。ほんとだよ? ほんとにほんとだよ? はちまんうそつかない。

 

「安心したまえ、伊達にそこの男は性根から目まで腐っているわけではないさ。リスクとリターン、自己保身にかけては目を見張るものがある。刑事罰に問われるようなことは割りに遭わないときちんと理解していることだろう」

 

「何一つとして擁護してねぇ……リスクとかリターンとか自己保身とかじゃなくて、ちゃんと身の程を弁えてると評価してほしいです」

 

「小者、小悪党……理解しました」

 

「聞いてないうえに理解されちゃったよ……」

 

 平塚先生の演説が効を成したのか、それとも俺の溢れ出る小物小悪党臭が実を結んだのかは定かではないが、どちらにせよ不名誉な形で先生の要望は雪ノ下に通ることとなる。勿論、此方の意思なんて誰も聞いてこない。

 

「まぁ、先生からの依頼に関しては無碍に断ることはできませんし……承りました」

 

「そうか、なら後のことは頼んだぞ」

 

 満足とばかりに笑みを浮かべて軽やかにさっさと去っていく。

 

 完全に俺と幽霊は置いてけぼり。しかしながら幽霊を置いていくという意味合いに関して考えれば正しい。けれどそこに俺も置いて行くのだからやっぱ正しくねーわ。

 

『えー、えぇぇぇぇ、おいおい、本気かよ、あの先生。八幡くんが美少女と二人っきりとかマジで性質の悪いラノベみたいな展開じゃあないか』

 

 幽霊の呟きに辟易とする。小町もこいつも恋愛脳。女の子と二人っきりでいるだけで、空き教室で美少女と二人なだけですぐにそっちに持っていく。俺としては恋愛よりもオカルト的に考えてしまうまで。碌でもないシチュエーションだ、男女の二人きりなど恰好の餌食。ペンションだろうがガレージだろうが学校だろうが、美少女と二人きりのモブなんて大抵さっさと死ぬ。

 

 確かに恋愛的な側面で見たらそうなのかもしれない――そこに幽霊がいなければという前提がつくが。足山九音という少女が居る時点でラブもコメも始まらず、ホラーでしかない。そよ風が吹き、ついぞ九音が居なかった時代の、女の子と二人きりだった教室での出来事を思い出す。あの青く、甘酸っぱく、甘い記憶を。

 

 ――友達じゃ駄目かなぁ。

 

『全然、甘くねーよ。むしろ苦い思い出じゃないか。むしろそれ腐って酸味どころか発酵してんじゃん』

 

 幽霊からの突込みが入る。友達どころかその後の中学生活で一切の会話をしなかったという完全に無欠にして正しく苦く酸っぱい思い出。

 

 そういった過去の経験から例え美少女と二人だったとしても、九音の介在がなかったとしても俺はラブコメのシチュエーションなんて思いはしなかっただろう。現実にラブコメなんてきっと無い。そんな都合のいいお話は絶対にない。

 

 きちんとした対美少女に対する調練を受けてきた身である。例え学園一の美貌と知性を兼ね備えた才媛であろうと油断はしない。罠にかかると判っていて男探知で飛び込むような人間ではないのだ。女子とは古来よりイケメンやリア充に価値を見出すものであり、俺のような凡庸かつ得体の知れない男子高校生に開く股など持ち合わせてない。

 

 つまるところ――敵だ。

 

『なんか、今すっげぇくだらない理由で全女子を敵に回すようなことを考えてたよね』

 

 美少女を自称する幽霊もきっと俺ではなく、イケメンに憑いていたのならもっと何か違ったのだろう。

 

『あ"ぁー? なんか今、もっっの凄く失礼なことを言われた気がするんだけど? 殺すぞ? 殺したあとに君を娶るぞ? ん?』

 

 目の前にふわりと降り立つ幽霊がビデオで繁殖する呪いもかくやの睨みを効かせてくる。しかしながら俺も負けじと睨み返し、お互いに『がるるるる』と呻りあう。

 

 すると半透明の先からうっすらと見える雪ノ下が此方をまるで汚物を見るかのような視線で見ていた。そして彼女は大きな瞳を細めてせせらぎのような声で俺に言葉を投げる。

 

「気味の悪い唸り声あげないで。気持ち悪い、座ったら?」

 

「……はい、すいません」

 

 蔑視に敵視。九音の睨みなど日常茶飯事で慣れてはいるものの、雪ノ下の睨みに対しては大人しく縮こまり謝罪。やっぱこぇーわ、この女。

 

 俺が女子を軽視するよりも前に雪ノ下は俺を――いや、男子を敵と認識していた。なんなら何人か殺しちゃってるまである眼力に逆らえずに粛々と乱雑に置いてあるパイプ椅子を一つとっては少し離れた位置に広げ、腰を下ろす。

 

 それきり雪ノ下は文庫本に目を戻し、こちらへの関心を失った。ページを捲る音だけが室内に木霊し、放課後の喧騒が遠くに聞こえる。まるでここだけ世界が違うかのような雰囲気はミステリアスというよりかは不気味。嫌な予感をひしひしと感じるがそれでも未だに何の異変も目に見えては起きてなどいないのできっと安全なんだろうと高を括る。

 

 そして部屋の主を伺って見れば彼女の読んでいるものはなんだろうか、と疑問がわき上がった。文学的なものであるんだろう。勝手なイメージをしてはそこから何人かの作者を思い浮かべる。

 

 ドストエフスキーやトルストイ辺りの名前が雰囲気的には相応しいと感じ、少なくともライトノベルを楽しんで読んでることはないんだろうな、と勝手に此方から自分と彼女の間違い探し、格差探しを始めてしまう。

 

 そんな文学的な本を読み耽る少女、一人で居る文学少女、絵になる美少女、酷く美しい少女。

 

 これだけの条件が出揃えば、俺としては嫌な予感しかわかない。不吉なこの校舎ではあまりにも似合いすぎるのだ。そこに噺の種があれば、噂の種があれば『成り得る』というのだから性質が悪い。そんな酷く危うい場所に腰をかける少女を眺め見る。

 

 こんなわけのわからない展開でわけもわからないまま近づくことになるとは思わなかった。勿論、近づいたのは表面上であり、精神的距離はもとより、住んでいる世界はどこまでも違う少女ではあるのだが。そういう意味に置いては部活動といえど接点ができるなんて想像もしていなかった御話で。

 

『それで、ここで何をすればいいんだろうね』

 

 幽霊の呟きに俺は考える。しかし何も出揃っていない以上、黙っているしかない。暇を持て余し視線を動かして室内全体の様子を伺う。すると雪ノ下がこちらを見ていることに気がつく。彼女は口を開き。

 

「……何か?」

 

 まるで此方が見てきたかのような物言いである。

 

「あー、悪い。どうしたもんかと思ってな」

 

「だから、何が?」

 

 言葉の無い抽象的な表現を汲み取ってくれる様相は無い。俺は一から現状を説明する。

 

「いや、何の説明もなく連れてこられたものだから何をしたらいいのかと思ってな」

 

 俺の挙動と言動に不機嫌になったのか軽くめんどくさそうに舌打ちをした後に文庫本を閉じる。そして虫けらを見るかのような目で俺を見た後に仕方ないとばかりに溜息を吐いた。

 

「では、ゲームをしましょう」

 

「はぁ、ゲーム」

 

「そう、ゲーム。この部が何の部かを当てるゲーム。どう? やりなさい」

 

 どう? と尋ねて置きながらの強制参加命令。中々に強引なやり口である。

 

 しかしながら――そう、まことに不本意ながらこういったゲームに関しては経験がある。それどころか経験過多、過剰にして過激なまでに行ってきた。そのどれもが命がけでゲームと呼ぶにはあまりにも重々しい体験。本質を、事実を見抜けねば死んでいたかもしれないという経験が今生きようとしていた。

 

「なぁ、少し室内を調べるぞ」

 

「え? えぇ……いいわ」

 

 予想もしていない展開だったのだろう、少しだけ驚いた後に許可を出す雪ノ下から幽霊に視線を移しアイコンタクト。

 

『いいよ、協力したげる。くっくっく、学年一のいけすかない女に敗北の苦渋を飲ませてやる……』

 

 ろくでもない台詞を述べながらぴゅおーっと部屋の入り口の扉からすり抜ける。と思いきや、すぐさま戻ってきた。戻ってきては凄く何とも言えない顔をしていた。

 

『なんでもない……とりあえず、クラスプレートには何も書いてなかったよ』

 

 その言葉を聞いて室内をぐるりと見回す。

 

 まず目についたのはポットと食器。正確に述べるのなら一人分のティーセット。そして、その利用者は恐らく今しがたゲームを仕掛けた張本人。

 

 次に黒板側の戸棚を調べる。開いて見ればそこには恐らくこの部活が使っているであろう雑品。反対側を調べていた九音は判りやすく手をバツを描き、向こうには何も入っていないことが判る。

 

 つまり、この教室において使われている棚はここだけを示していた。

 

 少なくとも後ろのロッカー群は詰まれている椅子や机を考えて見れば否。事前にこのゲームを仕掛けるつもりだったのだとしても、そこまでする意味は少ない。付け加えれば先ほどの雪ノ下の面倒とばかりの態度を見れば突発的出来事だと判断できるだろう。

 

 結論付けるならこの目の前の紙コップや紙皿に幾つかの紅茶の缶の入った箱がこの部活で唯一使われる――かもしれないといった部活道具。

 

『えっ、部活の私物、少なすぎ……?』

 

 どこかのOLのような表現をする幽霊の言は的を得ている。だからこそ、絞れる。

 

 紅茶の缶の種類に関しては――判らない。そこから何らかのヒントを得れるほどに紅茶のことは詳しくない。そして手にとって見る紙皿と紙コップ。

 

「ん、これは……」

 

 手にとって判ったのは紙皿が未開封という事実。そして対照的に紙コップの数は幾つか減っている。

 

『いや、わっかんねーわ、こりゃ。こんなの無理でしょ、八幡くん。ここいらで私が本気を出してゲーム台無しにするっていう最終奥義もあるけど、どうする?』

 

 するわけねーだろ。呆れた視線を送りながら、俺は最後のピースを埋めるべく一つだけ尋ねることにした。

 

「……雪ノ下、この部の現在の部員数は?」

 

「一人よ」

 

 短的にして端的。どこまでも短いその四文字の事実からすべては括りつく。そして、俺は脳内に集まった事実を振り返り、組み立てれば答えはなんとなく見えてきた。

 

「ボランティア部、もしくは人助けに関する活動をする部活」

 

「……へぇ」

 

 雪ノ下の目が一瞬だけ驚きに開かれ、再度細められる。

 

「その心は?」

 

『私も気になる、なんでなんで?』

 

 幽霊がいつものように背後に回り耳元でなんでと連呼。俺は先ほど見つけた箱を棚から取り出して机に置く。

 

「まず、一つ目にここにある物が少なすぎる。何かしらの歴史ある部活動ならばかつて活動に使ったもの、活動を記録したもの、活動の実績や結果の一つくらいは残ってもおかしくないだろう。けれどもこの部室には何一つとして存在しない。つまるところ、この部活動は歴史が無いという結論づけることができる」

 

『なるほどね、紅茶の缶に、あんまり減ってない紙コップに未開封の紙皿。つまりこの部活動は殆ど活動実績がないということだね』

 

 俺の言にちらりと耳を傾けて、雪ノ下は挑発するかのようにこちらへ言葉を投げてくる。

 

「あら、どうして何も無いと言えるのかしら。あなた部屋の棚を全部探したの? そんな素振り見えなかったけれど」

 

「じゃあ、あるのか?」

 

「……質問に質問で返さないでちょうだい。慈悲深い心で答えてあげるけれど、無いわ。荷物と呼べるのはそれくらいよ」

 

 つい、いつものように見えない存在が集めた事実を当たり前のように語ってしまい、突っ込まれて焦る。何とか切り抜けて続きを話す。

 

『まぬけー』

 

 うっせぇ。幽霊の野次を流して、手に紙コップの束を取る。

 

「まず、この紙コップと紙皿。紙コップの残量は八で紙皿は十。恐らく、紙コップの数は全部で十だったのだろう、減った数は二つ。つまり、この紙コップを使う機会は二回あったということだ。厳密に言えば二回しかなかった。皺のより具合を考えれば購入されたのは二ヶ月とかじゃ聞かないだろう、半年以上じゃねぇか? 少なくとも紙皿と紙コップの包装の皺を確認して見ればこれだけの差異が生まれている以上、少なくともそれなりの期間があったと考えられる」

 

 紙皿と紙コップをまとめて入っていた箱に再びしまう。

 

「それぞれ用意された二つの代物の数は十。考えてみれば十個いりという数は部活で使うにしては少なすぎると思わないか? 推測するに常用的に使われることを目的としたものではなく、使われるかもしれないという希望的観測を下に用意されたと思えばしっくりくる。少なくとも雪ノ下自身がそのティーセットを使っている以上、使う機会など殆どなかったんだろう。つまりここを常日頃から利用しているのは雪ノ下だけという結論が出せる」

 

 そこまで騙ると――雪ノ下は両手で自分を抱き、ちょっと距離をとっていた。

 

「……何、あなた、ストーカー?」

 

「ちげぇよ! 推理したんだよ……んんっ」

 

 咳払いをして、結論を出そう。

 

「歴史が浅く、それでいて一人でも出切る部活動。もしくは部室を貰える同好会というものを考えた時に俺は一つしか思いつかない。まず、前提として文芸部や何らかの研究会というのは殆どが除外される。何故なら、それらは学校が認めるほどの益が存在しないからだ。黙認する理由がない以上、それらの部活は選択肢から外れる。では、どんな部活動なら存在を認められるのか」

 

 一人で存続することができ、かつ俺が一年生の頃に設立したであろう部活動。それでいて成績優秀者の少女。文化部活動で一人で活動が出来、なおかつ学校側にメリットがある部活動があるとするのならば――【君には奉仕活動をしてもらう】

 

 つまりは奉仕活動、ボランティア。

 

 つまりは平塚先生の掌の上、言の通り。

 

 彼女は言っていたのだ、奉仕活動をしてもらうと。それはこの部活動に所属することではない。この部活動がその活動をするからこそ、連れてこられた。故にこの部活動の名前は。

 

「ボランティア部。もしかしたら他の呼び名かもしれないが、お悩み相談部とか助っ人団とかかもしんねーけど、そこいらだろ」

 

『ひゃあ……私の八幡きゅん、かっこよしゅぎぃ……しゅきぃ……』

 

 さて、俺の答えは――

 

「……ハズレよ」

 

『うっわ、クソださっ! だっさ! いやいや、八幡くん、めっちゃダサいんだけど……えぇっ……』

 

 掌を返したように言い放つクソ幽霊。やめろよ、今の俺にそれはめっちゃ効くから。渾身とばかりに長々と語った分、羞恥心が大きい。いますぐ布団に飛び込みたい。

 

「奉仕部よ、ボランティア部及びお悩み相談部とか助っ人団なんて名前ではないわ」

 

「……そんでその奉仕部とやらでは一体何をするんですかね」

 

 色々と言いたいことはあったが、文句は飲み込み具体的な活動を尋ねて見る。

 

「比企谷くん、女子と話したのは何年ぶり?」

 

 雪ノ下の問いを聞いて俺はふと中学時代の記憶がよみがえる。

 

 とある女子が俺に話しかけてきた。俺は同じクラスだったので片手をあげて返事をしたが――話しかけていたのは俺じゃなく、俺の後ろにいた女子だったというオチ。俺はそのあげたままの手を誤魔化す為にわざとらしく伸びでもしたが「うわっ、絶対あいつあたしに話しかけられたと思ってるよ」「ウケるわ、それ」「それなー」とクスクス笑いが耳に入った。今でも思い出すだけで心臓から胃にかけて内臓器官ではないどこかがじくじくと反応する黒歴史。記憶の底から這い出てきてはうっかり俺を殺しにくるレベルの代物。思い出すたんびに枕に顔をうずめてしまうので低反発の枕は完全に俺の顔の形を模っている。

 

 軽く脳内で記憶のプチ旅行をしていれば雪ノ下の声が現実に引き戻す。

 

「持つものが持たざる者に慈悲の心を持って之を与える。人はそれをボランティ……んんっ、奉仕と呼ぶの。途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを、モテない男子にはちょっとした会話を。困っている人に手を差し伸べる。これがこの部の活動内容よ」

 

 完全にボランティアって言いかけてたのにわざわざ奉仕と言いなおしやがった。雪ノ下は立ち上がり、挑戦気味に笑う。

 

「ようこそ、奉仕部へ。歓迎するわ」

 

『……ボランティア部でよかったんじゃ?』

 

 ほんとそれな。

 

 浮かぶ幽霊の言に完全に同意であった。むしろ要らん恥までかいたわ。恐らくではあるが、雪ノ下は負けを認めるのが嫌でわざわざボランティアではなく、奉仕と言いなおし、此処は奉仕部であると明言したのだ。どんだけ負けず嫌いなんだこの女。

 

「平塚先生曰く、優れた人間は哀れなものを救う義務があるそうよ。頼まれた以上、きちんと責任を持ってあなたを更正させるわ。感謝なさい」

 

 高貴なる者の義務、ノブレスオブリージュ。腕を組んで佇む雪ノ下の姿はまさに貴族令嬢といった様。実際に成績や見かけを鑑みれば決して大げさな表現ではない。しかしながらいつだって貴族に革命を起こすのは民衆である。何の肩書きも持たない民衆の俺は貴族然とした雪ノ下に小声で抗議する。小声で言うのが実に俺らしい。

 

「……別に間違ってなかっただろ」

 

 だが貴族令嬢は俺の小さな、本当に小さな呟きに耳ざとく反応する。

 

「いいえ、きちんと正式名称を当てれなかったのだから貴方の負けよ」

 

『八幡くん! だっさと言ったけど合ってたなら全然ださくないよ! かっこ良さの余韻とか全然ないけど、なんか凄い微妙な感じだけど、少なくともダサくはない……んじゃないかなぁ!』

 

 言葉数が増えるだけ惨めに見えるフォローを受けつつ、俺は雪ノ下の先ほどの言葉を思い出す。ノブレスオブリージュ、それは持っているものが持たざるものに施す行為。そもそも、雪ノ下から施しを受けるほど何も困ってなどいない。

 

「雪ノ下、俺は自分で言うのもなんだがそこそこに優秀なんだぞ? こう見えてもが国語は学年でトップクラス、この前の実力テストでは二位であり、顔だって悪くない。友達が居ないことと彼女が居ないこと。それと時折起こす奇行を除けば基本的に高スペックだ」

 

「最後に並べられた欠陥が致命的な気がするのだけれど……それを自信満々に言うなんて在る意味凄いわね。気持ち悪いわ、変な人」

 

「お前にだけは言われたくねぇよ、変な女」

 

『そーだ、そーだ!』

 

 俺の発言に肯定する存在。これで二対一である。民主主義によればこちら側の意見が有利。しかしながら民主主義は幽霊の存在を決して一票とは数えないので結局のところ一体一。

 

『それにしても雪ノ下さんってこんな人だったんだね。私みたいな誰から見ても完璧な美少女からしてみればヤバイ女認定だよ』

 

 ヤバさとは何を示しているのかは抽象的ではあるが、言わんとするニュアンスはなんとなく判る。けれどもヤバさという意味合いでは、お前のほうが圧倒的にヤバいんだが、という言葉は飲み込み、確かにヤバいというジャンルにおいて足山九音という存在と比較対象に並ぶ雪ノ下は十二分に変人と言えるだろう。

 

 確かに九音の言うとおり、伝え聞いていた雪ノ下雪乃というイメージ像とは完全に異なっていた。むしろ俺がファンなら「これは夢……」と現実逃避くらいしちゃう乖離っぷり。目の前のサディスティックに笑みを浮かべる少女と噂の少女が同一人物だとはまず思えない。

 

「さて、まずは居た堪れない貴方に居場所を作ってあげましょう。居場所でも出来て、あなたの奇行を止める人がいればあなたの愚かな行動はきっと減るわ。蝋の翼で太陽に向かって飛ぶなんて馬鹿な真似をせずに済むわよ」

 

「イカロスかよ」

 

 イカロスの翼。

 

 迷宮ラビリントスに幽閉されたイカロスは助けに来た父から蝋の翼を貰う。その貰った蝋の翼で脱出するお話だ。

 

 イカロスの父、ダイタロスはきちんと高く飛ばないように、節度を持つようにイカロスに忠告したハズなのに、禁を破り、太陽に近づきすぎて、最後は翼が溶けては――墜ちる。

 

 その教訓は人に過ぎたテクノロジーは人の欲望を刺激し、最後は滅びの末路が待つといった本能と慢心に対する警告。しかしながら――読んだ当時とは違った感想。昔、読んだ時には到底思えなかった事が俺の中で湧き上がる。

 

 ――あぁ、なんとも人間らしいと。

 

 俺は好ましく思ってしまうのだ。愚かなことに。

 

 駄目だとわかっていながら、危険だと知っていながら、それでも近づいてしまう愚かさは人間らしいと親近感を抱いてしまう。取り返しのつかない今となってはそう思ってしまうのだ。

 

「……意外だわ、ギリシャ神話からの教訓なんて底辺以下の男子高校生が知っているなんて思わなかった」

 

 ちょっぴりセンチに浸っているとさりげなくド底辺扱いされていた。

 

「今、さらりと底辺扱いしなかったっか……?」

 

「ごめんなさい。言葉が過ぎたわ。人間未満というのが正しいわよね」

 

 そういう一理ある正解の仕方やめろ、何も言えなくなるじゃねぇか……。ある意味において正しすぎるまでに正しい認識に文句すら思い浮かばない。何とか反論を試みようと頭を捻り。

 

「お前、俺が学年二位だって話が聞こえなかったのかよ」

 

「私以下の成績でいい気になっている時点で天狗甚だしいわね。大体、一科目程度で知能の証明を行っているというのだから人間性が証明できるというものよ」

 

 昨今のライトノベルに登場する悪役貴族でもここまで言葉に出して劣等扱いはしない。尖った貴族令嬢は微笑しながらさらに言葉を放つ。

 

「けれど、貴方をイカロスと例えるのは幾ら何でもイカロスに失礼よね。彼の肖像画見たことある?」

 

「さりげなく俺がイケメンではないと言ってるのか……っ」

 

「イケメンではない? 大きく出たわね、あなた」

 

「言外に不細工とでも言いたいのか……」

 

「そんなこと言えるわけないじゃない。わたし、心優しい少女だから」

 

「ほぼ言ってんだよなぁ……」

 

 雪ノ下は俺のそんな呟きを聞き優しくこういった。

 

「真実から目を背けてはいけないわ。あとギリシャ神話や彫像や絵画の彼らを見た後にきちんと鏡を見て反省して」

 

 全然優しくねーわ。

 

「いやいやいやいや、自分で言うのは何だが、俺は割りと顔立ちは整っている……方だ! 妹から「お兄ちゃん、ずっと黙っていればいいのに」とか『よくよく見れば墓場が似合いそうな顔をしてる』とか言われるほどだ」

 

「一度たりとも褒め言葉が入っていないのだけれど……」

 

 俺の反論に雪ノ下はドン引きした様子で呟いた。

 

 確かにこの性悪幽霊にはかつて怒涛のごとく顔の駄目出しをされたことはあるが、今ではそれなりに身嗜みに気をつけている。そのお陰が『八幡くんはイケメンだよ! 墓場が似合いそう!』と隣から猛烈にフォローしてもらっている最中。墓場が似合うイケメンってなんだよ……

 

 そんな俺の様子を雪ノ下は哀れみと呆れを持って見ている。

 

「あなたと私しかいない空間で主観でしかない美的感覚を述べるなら私の言うことだけが他者評価になるの。あなたの主張など所詮は思い込みにしかすぎないわ」

 

 例の如く、幽霊の意見はカウントはされない。

 

「そもそも造詣はともかく、あなたの腐った魚のような目は全体の印象を著しく下げるわ。他のパーツが整っていたとしてもその目だけで表情から受け取る印象はすべてマイナスに塗り替えられる」

 

『はぁーん!? そこがいいんだろぉ! このやる気の欠片もない目! まるで死んでいるかのような目! 私が居なきゃ何もできないから何とかしてあげなきゃって思うね! なーんもわかってないこの女! ど素人がっ!』

 

 最早、散々であった。平塚先生及び雪ノ下は人の顔を魚類に分類しているが、そこまで俺の顔はインスマス顔だろうか。出会う度にGMから静止の声がかかり、ダイスを振らされちゃうのだろうか。軽く涙出そう。

 

「大体、そういう表層的にしか判らないもので勝ち誇る時点であなたの程度というものが窺い知れるわ。あと腐った目でも」

 

 完全に矛盾した物言いだった。

 

「目のことはもうやめてくれよ……」

 

「そうね、もう取り返しがつかないものね」

 

「そろそろ俺の両親から苦情寄せられるレベルだぞ」

 

 すると言葉が通じたのか、雪ノ下が少しばかりしおらしくなる。

 

「そうね、ごめんなさい。確かに辛いのはご両親だものね」

 

 どうやら塩は塩でも使い道は塗る方向だった。

 

「もういい、悪かった、俺の顔が悪かった……」

 

 俺が降参の旗をあげれば、ようやっととして雪ノ下は鋭すぎる毒の混じった矛を収める。

 

『おーよちよち、可哀想だね、八幡くん。おっぱいでもみりゅ?』

 

 ついつい『見る』と答えちゃいそうになるほどにメンタルは傷ついていた。そんな俺たちのやり取りなど雪ノ下は判るわけも無く彼女は話を続ける。

 

「さて、これで会話は終了よ。私のような可愛い女の子とこれだけ喋れたのなら今後の人生に何の悔いも無いわね」

 

 まるで一仕事、頑固な汚れやっつけたとばかりに充実感あふれる表情を浮かべる雪ノ下。しかしながら、その後にすぐさま思案顔になる。

 

「けれど、これじゃあ依頼は解決できたと言い難いわ。他に方法はないかしら? それこそ貴方が転校するとか」

 

「それは解決ではなく、闇に葬るという意味での迷宮入りだ」

 

「あら、貴方は存在的には被害者ではなく、どちらかといえば加害者側でしょ」

 

「日陰者だからな……ってやかましいわ」

 

 迷宮入りの事件。殺人事件が起きたとして、隠れる必要があるのは死体ではなく犯人。死体は『普通』は歩かない。歩かないからこそ日陰にずっと居ることなど出来ずに日向に出てくる。だから常に陰を選んで歩くのは加害者。陰を歩く日陰者は犯人でしかない。そんな遠回りすぎて判る人間など殆どいないだろうやり取り、受け答えにニヤっと笑みを浮かべてみれば「死んだら?」とばかりに冷やっこい視線をこちらに向けてくる雪ノ下。

 

「うざ……」

 

 そんな雪ノ下の反応に続いたのはノック、そして返事を待たずとした入室。

 

「だから、ノックを」

 

 再度として小言を言われて入ってきた平塚先生はバツが悪そうに頬をかく。

 

「あぁ、すまない。様子を見に来ただけだ。何か話していたのなら構わずに続けてくれ」

 

 入室した先生は苦笑交じりで扉近くの壁に寄りかかる。

 

『……』

 

 そんな先生の様子を見て、九音は滅茶苦茶微妙そうな顔をしていた。

 

「大変仲が良さそうで結構だ」

 

『この人の目玉はビー玉で出来てるの?』

 

 先生の節穴っぷりを揶揄する九音だが、そもそも先生が入ってきてから雪ノ下と俺は何も話してなどいない。どこを見てこの人はそう判断したのだろうか。

 

「うむ、比企谷もこの調子でまっとうな人間になれるよう更正に勤めるんだぞ。では私は戻る、君たちも最終下校時刻前には解散したまえ、ではな」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 

 颯爽と去ろうとする平塚先生を追い近づく。しかしながら背後から近づいた俺は――綺麗に次の瞬間には腕がねじとられていた。

 

『うっわ、だっさ』

 

 何が起きたか判らず、目をパチクリとしてみれば。

 

「なんだ、比企谷か。私の後ろに立つなよ、攻撃しちゃうだろ……」

 

 背後霊とは縁遠い台詞。さらには守護霊も追い返していそうなまで。この人、何者なんだよ……スナイパーかよ……

 

「それでどうかしたのか?」

 

「えぇ……まるで何事も無かったみたいな顔して……どうもこうも更正ってなんすか。まるで俺が非行少年みたいじゃないっすか。大体こんなところに連れてこられる謂れは無いっすよ」

 

 俺の問いに先生は少しばかり思案する。

 

「この部は自己変革を促し、悩みを解決することを目的としている。そして私が必要だと思った生徒にはここへ案内している。ゲームで言うならばベルベットルーム。主人公のレベルを上げるだけでは何の意味もなく、きちんと悪魔合体をしていなければ何れはタルタロスで詰む。そんなところだ」

 

「分かり難いし、年齢でますよ」

 

「何か言ったか?」

 

 あまりの形相に俺は即座に「な、何でもないっす!」と返答する。そんな俺の様子を見ては平塚先生はそっと溜息を零した。

 

「雪ノ下、どうやら更正には手古摺っているようだな」

 

「本人が問題を自覚していなからです」

 

 淡々と答える雪ノ下。そんな二人に向かって俺よりも遥かに憤慨している幽霊が一匹。

 

『こ、こいつら、いうにことかいて私の八幡くんのこと何だと思っているのさ! 八幡くんを馬鹿にしていいのも! 罵倒していいのも! 問題児扱いしていいのも! 私だけなんだから!』

 

 いや、よくねーわ。そもそもが、だ。前提が異なるのだ。それを主張する為に俺は口を開く。

 

「あの、そもそも当人の意思を聞かずに勝手に更正だの、経験だのと好き勝手に騒いでますけど、別に俺はそんなもの求めてないんですが」

 

 俺の意見を確りと伝えると平塚先生が不思議そうに「……?」と疑問符を浮かべていた。ついでに小首をかしげるといった可愛らしい動作をするには幾許か年齢を重ねすぎている。

 

「あなた、本気で言ってるの? 変わらないと社会に混じれないレベルで不味いわよ」

 

 雪ノ下は当然のことを述べるように言い放つ。それがまるで当たり前で、当たり障りなく、当って然るべきとばかりに。

 

 それこそ『幽霊なんてものは居ない。居てはならない』とばかりに。

 

「あなたの人間性が著しく劣っているのは誰の目にも明らかよ。なぜ、そんな自分を変えたいと思わないのかしら。向上心という心がないの?」

 

 雪ノ下は心底理解できないとばかりに見つめてくる。

 

 きっと理解なんて出来ないだろう。それでも俺は、間違っていると判っていながら。

 

「そうじゃねぇだろ。なんで前提が変わるだの、変われだのって話になるんだよ。そんなに簡単に変われるんなら自分じゃねーだろ、人に言われたくらいで変わるような人間性が自分だって言えんのかよ。そもそもが過去の自分を殺してまで新しい自分を産みなおさなきゃなんねーのかよ。自分が持っている、僅かな人間性で頑張ったら駄目なのかよ」

 

「あなたのそれは逃げているだけじゃない。変わらなければ前に進めないのに、それを理由をつけて避けているだけ」

 

 雪ノ下の言葉は刺々しい。強く怜悧で正しい言葉はまるで断罪する刃のように無慈悲で余りにも強い。

 

「逃げて何が悪いんだよ。変わって前に進むことだけが賛美に値するかのように言ってんな。そうやって変わることも逃げることには変わりねーじゃねぇか。そうやって変わって、逃げることよりも踏ん張って今ある問題と必死に向き合う自分を、今手元にあるものだけで必死に抗おうとする自分をどうして肯定してあげられないんだよ」

 

 俺の言葉は――恐らく雪ノ下のナニカに触れてしまった。

 

 大きく目を見開き、こちらを憎憎しく見つめている。

 

「それじゃあ! 何も変わらないし! 誰も救われないじゃないっ!」

 

 鬼気迫るその言葉は――果たして俺に向けられたものなのだろうか。気迫の篭った慟哭にも似た叫びに思わず怯んでしまう。浮幽霊など完全に威圧に当てられ、俺の背中に隠れていた。

 

 言葉の中にあった異彩を放つ「救う」という言葉は余りにも高校生には荷が勝ちすぎる。学年一位、才色兼備――しかしながら唯の女子校生。そんな少女が持つ思想の形態として誰かを救うという「聖女」のような物言いにジンワリと嫌な汗が浮かぶ。

 

「二人とも、落ち着きたまえ」

 

 険悪に満ちた雰囲気を破ったのは冷静にこの場を観察していた平塚先生の一言だった。見ればその顔にはちょっとした笑みが浮かんでいる。なんで?

 

「面白いことになってきたな。こういう展開は大好物だ。少年漫画チックで実にいいじゃないか。大変結構」

 

 一人だけ違う方向にテンションがあがっている人が居た。現在は俺の背後霊と化している九音も『ふぇぇぇ、この女教師、絶対に頭おかしいよぉ』と呟いている。

 

「古来より正義の敵は別の正義と決まっている。まるでガンダムのようだな!」

 

『やばい、一ミリも判らない……やっぱこの人、おかしいよぉ、八幡くん』

 

 あまりにも未知の存在すぎて九音が異物を見るような視線を送っていた。そんなことを知る由もない女教師は高笑いをあげて俺たちに向かって宣言する。

 

「では、こうしよう! これから君たちの前に悩める子羊を導く。その子羊たちを君たちなりに助けて見たまえ! 各々のやり方で果たしてどちらの正義が正しいのか証明するのだ! 果たしてどちらがより人に奉仕できるのかっ!? 奉仕部大団円! 希望の未来へレディー・ゴーッ!」

 

「嫌です」

 

『最終回じゃん。頭終わってんな』

 

 雪ノ下にばっさりと切り捨てられ、見えもしない存在にゴミのような視線を受ける平塚先生。ちなみに俺は割りと両人の意見に賛成ではあるので頷いておく。

 

「くそっ、しまった。エヴァの次回予告のように言ってやるべきだったか……」

 

「そういう問題じゃねぇよ」

 

 前時代すぎるアニメのラインナップが問題ではない。

 

「己が正しさを証明するためには勝ち取るしかないだろっ! 生きるためには戦わなければならないっ! 勝負しろったら勝負しろ!」

 

 俺はあまりの態度に「お、横暴すぎる……」と戦き、幽霊も『無茶苦茶だ……』と慄いていた。

 

 胸だけは成長していて頭は子供、身体は大人という卑猥を体現している女教師は尚も妄言を吐き続ける。

 

「無論、褒美は用意してやろう……勝った方が負けたほうに何でも命令できる、というのはどうだ?」

 

『詐欺じゃん』

 

 性質の悪い詐欺師を見るかのように悪霊が呟く。それも致し方なし、褒美を用意するといっておきながら、実質的に命令を聞くのは対戦相手。場を用意した平塚先生の懐は何も痛まない。

 

「この男が相手だと貞操の危険を感じるのでお断りします」

 

「言いがかりだろ! 男子高校生が誰もが誰も卑猥なことばかり要求すると思うなよ!」

 

『そうなの?』

 

 くりくりと純粋な瞳を向けてくる自称美少女浮幽霊。ばっか、当たり前だろ、俺が嘘ついたことあんのかよ!

 

『え、えっと、いや、あるけどさ……』

 

 はいはい、この話は終わり。早くも終了ですね。俺は全男子高校生の名誉を守るためにさっさとこの弾劾裁判を閉廷する。そんな俺たちを他所に平塚先生はニィッと笑みを浮かべていた。

 

「ほぅ、かの雪ノ下といえど流石に恐れるか。いやはや、そんなに勝つ自信がないのかね?」

 

 程度の低い煽りだった。流石にこんな挑発に乗るわけがないと雪ノ下の方向を見ていると。

 

「いいでしょう、その安い挑発にのってあげましょう。受けてたちます。ついでとばかりにそこの男も処理も」

 

 俺と九音は一人と一体そろって挑発に乗った雪ノ下に対して――うわぁ、といった表情を向けてしまう。負けず嫌い、ここに極まれり。

 

 ついでに一言だけいうなら処理って表現こえーよ……

 

『処理って捌いて始末するって意味だったよね』

 

 怖ぇよ……

 

「決まりだな」

 

 シニカルな笑みを浮かべて満足とばかりの平塚先生。

 

「あれ、俺の意思は?」

 

「男子高校生の意思など聞かずともわかるぞ」

 

 待ってほしい。それは完全に冤罪である。先ほどの会話から男子高校生の全てが下心を前提に行動しているという扱い。その話は無罪で判決が下ったのでこれ以上の議論や裁判は無意味。一時不再理が成立している。下心は無いってことで終わっているのだ。

 

「勝ち負けは私が決める。勿論、判断の基準となるのは私の独断と偏見だ。まぁ、あまり気張らず肩肘張らずに適当に頑張りたまえ」

 

 そういい残し氏平塚先生は奉仕部から去っていった。そして空き教室には俺と雪ノ下と幽霊がぽつねんと取り残される。

 

 それから間もなくもして最終下校時刻が近づいてる合成音声のメロディーが流れ始めた。俺はいまだに色々と考えてはいたが、対照的に雪ノ下はさっさと帰りの準備をしている。そして荷物をまとめ終わったのか、こちらを最後に一瞥する。

 

 そして一瞥しただけで何も言わずに帰った。挨拶も何もなく、すたすたとすたこらさっさと帰ってしまう。

 

『うーわ、挨拶もなかったよ……最初から最後まで嫌なやつだったよね』

 

 幽霊も雪ノ下の様子に最早驚くといったリアクションはとらずに呆れの境地に達している。

 

 俺は、といえば。

 

「……ふぅ」

 

 大きく溜息を吐いて椅子に座り込む。気張っていた糸が少しばかり緩んだ。

 

『厄日だったね……いや、そんなことないか。というかこんだけの事があって厄日じゃないって最近、ほんとヤバイよね、八幡くん』

 

 ほんとそれな。

 

 自分で言っておきながら、即座に否定する幽霊の物言いを俺は肯定する。たとえ、いきなり職員室に呼び出され、わけのわからない部活動に入部させられ、整った顔であるが故に効果的な切り口鋭い罵倒で心を刻まれて、わけのわからない勝負事に巻き込まれていたとしても。

 

 決して厄日ではないのだ。怪我の危険もなければ、命の危機もない。九死に一生の経験も積まなければ、半死状態で命からがらで逃げてもいない。

 

 ふと、今日書いた作文の内容を思い出す。青春についての彼是。そしてその内容はきっと間違いじゃない。

 

 少なくとも口を開けば罵倒が飛び出すような女子生徒と二人きりの教室に居たとして、そこから色々とあったとしても。きっとそれは碌でもないものだろう。けれども青春という二文字を免罪符にすれば美しい思い出にできる。

 

 思い出にしたのならばきっと青春だけではなく、すべてがすべて都合のいい作り物で思い込み。こんな口論にもならなかった話を人は青春とでも呼ぶのだろう。ただ文字にすれば女子に口で罵られただけでしかないにも関わらず。青春という学校というスパイスさえ混ぜれば美しきものに早代わり。

 

 そうやって塗り固められた欺瞞。その欺瞞は思い込みでしかない。

 

 やはり青春とは欺瞞であるのだろう。そこに一切の異論や反論を挟むつもりはない。そうやって免罪符を盾にすれば何をしても赦されるといった風潮がやはり俺はどこまでも嫌いで。取り返しがつかなくなるまで気づかないそんな世界が嫌いで。結局のところ書いた作文の修正点というものを見つけることはできなかった。




※単語近傍文末重複チェックは入れました


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春先【遭遇】

『男性にとって寝取られというシチュエーションには三つの楽しみ方があると思うんだよ、八幡くん』

 

 本日の最後の授業は数学。耳にする文字列が睡魔となって襲いかかり、夢の世界へと引きずり込もうと躍起になる。そんな数学の時間は寝るのが自然の摂理とばかりに瞼は重力のまま引かれていく。そんな摂理に待ったとばかりに自称美少女の浮幽霊、足山九音が話を広げ始めた。

 

『一つはATM側の視点。いわゆる寝取られる側というヤツだね。つまり陰鬱とした感情を楽しむマゾヒスト。次に寝取る側の視点、君がこそこそと読んでいる漫画に出てくる竿役という視点。でも、よくよく考えてみればアレは寝取られというよりも寝取りといった方が分かりやすいような気がするんだけど。少なくとも大多数の読者が感情移入するのはATMよりも間男側じゃない?』

 

 数学の時間である。そんな時間帯にベラベラと、薄っぺらい内容かつ九音自身もどうでもいい上に大して興味もないであろう話題をこれでもかとばかりに風呂敷を広げては話し続ける。

 

 ちなみに主張させてもらうが俺が読む漫画にそういった偏りは断じて存在しない。ないったらないのである。

 

『……まぁ、君がそういうならそれでいいけどさ。ともかく、同人であれ、二次創作であれ主人公の恋人ないしヒロインが寝取られるという意味合いでは寝取られって成り立つんだと思うんだけど、オリジナルのキャラクターもしくは女性キャラクターを視点に物語が進んだらそれはもう寝取られというよりかは寝取りだったり浮気なんじゃない? って思うんだ。っとと、ちょっと話がそれたね、そうそう、三つ目の視点だ。第三の視点の御話。特殊なパターンで女性に感情移入しては寝取られる側の視点もあることにはあると思うけど、それは特殊性癖すぎると思うから今回は除外させてもらうね。ともかく、ATM、竿役に続いて第三の視点、第三者の視点』

 

 先日、猥談を振ったとき呆れた視線は記憶に新しい。こいつそのこと忘れてねーか? 数学の時間に猥談にふける男子高校生と女子高生の幽霊。しかも微妙に興味がそそられない話題のジャンルである。

 

『第三者の視点。そうだね、覗きという表現が近いかな。メタ視点といえばちょっぴり神様の視点っぽくて、でもやっぱりこんなゲスな視点を神様呼びは相応しくないから、やっぱり覗き。うんうん、覗きゲス野郎的な視点、出歯亀するような楽しみ方の話なんだよ。この寝取られというジャンルを考えたときに三つ目の視点で楽しむ人間って決して少なくないと思うんだけど。寝取られたATMの惨めな姿、寝取られた女の浅ましい倫理観、寝取る男の、そんなことが罷り通る狂った世界観。ぶっちゃけどこをとってもどこに興奮するのか私には理解できないジャンルなんだよね。フランスにも似たような文化があるらしいけどやっぱりよく分かんないや』

 

 やれやれとため息を吐いて、尚も話を続ける。割とこの話についてはお腹一杯になってきたのだが。

 

『私は昨日、色々と考えた結果、この寝取られっていうジャンルはファンタジーだって話に気づいたんだ』

 

 聞き流していたのかいきなり飛んだ話題にどうしてそうなったのか耳を傾けてしまう。

 

『ぶっちゃけさ、パートナーを裏切って性行為に夢中になるなんてさ、病気じゃん? そんなの嘆いている前に病院連れていけよって話なんだよね。とはいえ、そんなことがまかり通っている以上、その世界の常識や倫理は舞台設定に従う他ないんだよね。そこに現実的な考えや判断なんて必要ないんだから。もしもさ、寝取られという題材で寝取られない女性が出てきて、いよいよ最終回を迎えて紆余曲折あって結局のところ寝取られない! ってなればギャグなら許されるけど、真面目に寝取られ漫画展開していて期待しながら読んでた読者が居たなら大炎上。それとは真逆で少年誌なラブコメにおいて寝取られなんていい火種。この二つ例が炎上するのはどうしてなのか、考えずとも丸わかりだよね。だって、そんなの誰も『求めていない』から。ラブコメにおいてヒロインの心変わりも、ヒロインが他の男性にときめくということも。何もかも許されない。ヒロインは主人公以外の男性に恋をしてはならない。これは少年ラブコメの不文律』

 

 そこまで話して九音はひゅっと軽快に飛び上がり、ぐるりと教室を見回す。

 

『でも、それって本当に恋愛なのかな。ヒロイン達が本当に主人公のことだけが大好きで、他の男子に見向きなんてしないってコメディーなんて笑い話じゃなくてぞっとするくらい気持ち悪さが残るホラーだよ。もしもそんなヒロインが居て、血が通っているのなら間違いなく病んでいて、一人の男で頭が一杯で、他の男が見えやしない盲目なんて私達、化け物の領分。それほどまでに狂おしい愛を抱くのは私達であって人間なんかじゃあないんだ。もしもそんな人間が居たのなら、人間ではなくて人間がどうか怪しい人、存在なんだよね。だからもしもそんな存在が人間として扱われるならフィクション、物語でしかないと思うんだ』

 

 九音の瞳は一人の女子生徒に止まった。クラス内でトップカーストに所属する女子だったと記憶している。

 

『ねぇ、知ってる? 女って生き物は男が思っているほどにバカじゃないんだよ。漫画の中にあるラブコメのヒロイン達にもしもリアリティを追求するなら主人公のことを大好きだって主張をしておきながら、仲の良い男子は他にも居るし、好みなタイプの異性が色っぽい仕草をすれば惚けちゃうし、もしかすればキープとして思わせぶりな態度をとっている相手がいるかもしれない。でもね、フィクションである少年漫画、青春ラブコメにはそんな描写は一切存在しない、許されない。誰も望んでいないのだから。だって、そういう展開を繰り広げれば君たち男子高校生はそういうものを寝取られだと騒ぎたて、女性をビッチ扱いするでしょう?』

 

 何故、こんなにも益体もない話をべらべらと。九音自身も興味が薄い話をするのか。俺はそっと机の中から顔を出した小テストの点数を眺める。

 

『まぁ、ヒロインという言葉は呪いなんだろうね。読者にとっての都合の良い玩具でしかないんだからさ』

 

 殆どがペケで埋まった一枚の紙。そこから生じた余計なおせっかい。迂遠すぎてもはや体をなしていない。根本の目的などまるで忘れたかのようなやり取り。それでも最低限の目標は達成している。

 

『つまりね、リアルに居る女性とフィクションのヒロインっていうのはまったくの別物なんだよ。この物語はフィクションですって書いてるのに、それに心を入れすぎるから大騒ぎしちゃう。寝取られだって騒ぐ前にきちんとそれが作り物だってことを忘れるべきじゃないと思うんだ。作り物で偽物の御話をまるで現実にいる自分が傷つけられただなんてどんな呪いの書なんだって思うんだ。そもそもが仮にヒロインが主人公のものだったとして、それはお前の、お前らのものなんかじゃないと思うんだけど、そこんとこどーよ、八幡くんとしては、さ』

 

 数学の時間になるたびにこうやっては毎回くだらない話を広げ始める。それは一重に俺を『寝させない』ためだけのおせっかい。けれどもその真の目的たる数学の授業を受けるという部分が達成できていないのだから片手落ち。

 

 そしてつらつらと、うつらうつらと話半分で聞いていた内容に一言だけ申すことがあるのならば。旦那や彼氏をATMと呼ぶのはやめてさしあげろ。やっぱ、悪霊だわ、こいつ。

 

 

~~~~~~~

 

 何とか意識を保ち、寝ずに済んだ数学の授業を終えた後、眠気のピークが過ぎ去ってはホームルームを受ける。つつがなく進み、終礼が終わってさぁ、帰るぞと鞄と幽霊を背負いながら教室を出る。

 

 仁王立ちの平塚先生。行く手を遮らんとばかりに堂々と立っていた。その姿を見て逃走を選べるほどの頭の冴えはなく、気がついた時には完全に回り込まれている。

 

「比企谷、部活の時間だぞ」

 

 逃げることは許さないとばかりに爛々と目が輝いていた。どう見ても野獣の眼光。

 

『うへぇぇ、またあの女のところ行くの……めんどくさぁ』

 

 正妻面をしたかのような台詞。嫌そうな表情を浮かべる幽霊と感情の見えない笑みを浮かべる平塚先生。幽霊ですら既定路線と感じている。だが、俺は諦めてなどいなかった。

 

 確かに世の中には部活動生が部活に行くのは当然という風潮があるのかもしれない。しかしながら幽霊部員という言葉があるように部員であるから必ずしも部活動に参加するというわけではないのだ。

 

「行くぞ」

 

 そう言って平塚先生が伸ばしてきた手をさらりと避ける。避けられたのが癪に触ったのか意固地とばかりに伸ばした手を避ける。

 

「先生、高校生という大人になる過程の男子には選択するという自主性を尊重するべきだと思うんですよ。行く自由に、行かない自由。そういった自由を奪って強制的に物事を進めるのは昨今の教育現場において非常に不味いことだと思います」

 

『うっわ、往生際悪っ……』

 

 幽霊にすら往生際の悪いと言われる。しかしながら、俺の悪あがきは平塚先生のボディーブローにより沈黙させられた。

 

「非常に残念だが大人が自由という考え方自体が間違っているな。その上で行く、行かないといった行動方針に頭を悩ませるものは殆どいない。皆が皆、嫌でも勤務先に行かなければならないし、嫌でも重要な会議には参加しなければならなのだ。そこに自由意志など存在しない。今のうちにそうやって嫌でも行くということに慣れておきたまえ」

 

 痛みに蹲る俺の腕を取り平塚先生が耳元で囁く。

 

「次に小賢しい真似でもしたら、グーが唸るぞ、グーが」

 

 既に唸っているし、唸らせても居る。俺はそのまま連行されるかのように歩行。逆方向に同じように腕を絡ませ始める幽霊。その口から『大人しくしてたら痛い目見ずに済んだのにねぇ』と呟いていた。うるせぇ。

 

 そして数歩、歩いたところで平塚先生が口を開く。

 

「あぁ、そうだ。勝負から逃げようとするのは構わないが、そうなった場合は問答無用で不戦敗だ。ついでにさらに罰も科すつもりなので頭にはいれておくように」

 

 罰の内容をわざわざ口にしないことで恐怖を煽ってくる平塚先生。先んじてどのような罰が待っているのか言ってくれれば身構えることも出来るのだろうが、あえてぼかすことで無駄に豊かな想像力を働かせてしまうことになってしまう。

 

『前もって逃げ道塞がれちゃったね』

 

 平塚先生の逆サイドで腕を組む幽霊が往生際の悪い俺に対して『諦めろ』と言外に示していた。

 

 そんな傍から見れば女教師と腕を組む男子高校生。けれど、もしも俺と同じように『見える』人物がいたのなら両手に華の状態。しかしながら女教師側は間接を極めていて当たる胸の感触を楽しむ余裕などなく、体勢を無理にでも変えようものなら痛みが湧き上がる。逆の方向はそもそもが質感もないというのだから楽しむ余地などなにもない。結論からして何も楽しくない。

 

「あの、先生……流石にもう逃げようと考えないので、一人でいけますよ」

 

 放して下さいと視線で伝えてみる。ついでに腕をくいくいと動かして意思表示。

 

『……おい、今、肘の先で胸を楽しんだろ』

 

 動かした手とは逆側から非難の声があがる。なんのことかわからない、かんぜんにえんざい。素知らぬ顔で平塚先生の返事を待つ。

 

「そう、つれないことを言うな。私が君と一緒に行きたいんだよ」

 

 優しさの含まれる微笑を浮かべた平塚先生にそんな台詞を言われれば勘違いする男が居てもおかしくない。ほんの数分前の暴力的な側面を見ていたせいか、そのギャップに胸が高鳴る。

 

「君を逃す可能性も捨てきれないし、万が一にでもそんなことが起こって腹を立てるくらいならこうやってしょっ引いた方がストレスもたまらん」

 

 清清しいまでに自分本位だった。なんなら俺に対しての優しさなど微塵もなかった。なんか優しい側面なのかな? と期待していたのならメンタルに結構なダメージを負うところ。

 

「理由が最低っすね」

 

「何を言うんだ。嫌々ながらも君の更生のためにわざわざ付き合ってるんだぞ? こんなの愛がなければ出来んよ」

 

『おまえ! よくも私に断りもなく八幡くんに愛を囁いたな! このぉ、許さんぞぉ! 乳! 牛! 巨乳!』

 

 悪口ではなかった。少なくとも最後の部分に関しては悪口ではなく事実。人によっては褒め言葉。そもそもが最初の乳の時点で悪口ではなく、全体の三分の二が悪気とでないのならば悪口ではないのでは? と一瞬思ったがすこぶるどうでもいい。

 

「……こんな愛いらねぇ」

 

「君は本当に素直に受け取らないな。そうやって捻くれてばかりだと、そのうち田んぼや水田で君と間違われるようなやつも出てくるぞ」

 

「道理で誰も俺の理解者がいないわけっすね。納得しました、ありがとうございます」

 

 人をさりげに都市伝説のくねくね扱いする女教師に皮肉をとして返礼。

 

「そこで素直に気をつけますと言わないところが可愛げがないよ。捻くれて生きるというのは別段に楽しくないだろう?」

 

「楽して生きるだけの人生なんて幻想でしょ。痛みも苦しみもない人生の方がよっぽど歪な気がしますけどね」

 

「楽しく生きてる奴らは別に楽して生きているわけじゃないさ。君は本当に典型的だな。高校二年生という時分もあいまって典型的な男子高校二年生だ。どこまでも立派すぎるまでに立派な高二病だよ」

 

 さらっと人を病気扱いしてきた。しかしそうじゃないのだろう。

 

「立派な高二病ってなんだよ……」

 

 高二病というのは聞き覚えは薄いが推測することは可能。おそらく親類辺りに中二病ちゃんがいるのだろう。

 

「君は漫画や小説は好きかね?」

 

 俺の発言など無視して別の話題を投げよこしてきた平塚先生。

 

「活字離れという言葉が出てきている昨今の中ではそれなりに。漫画もそこそこですね。それに日本のサブカル分野は最近伸びてきていますからね。外国も注目してる分野で経済面にも影響がありますし」

 

「では一般文芸はどうだ」

 

「読みますよ、そこそこに。しかしまぁ、有名になった作家は軒並み名前が売れていなかった時代の頃のほうが熱量あった気がしますが」

 

「さて、好きなライトノベルレーベルはどこかね」

 

「講談社B○X……まぁ、ライトノベルと呼んでいいかは怪しいもんですが」

 

 先生は答えを聞けば聞くほど呆れた表情を浮かべていた。

 

『……今の何が悪いんだよ、いい加減呪い殺すぞ、この女教師』

 

 先生の視線は俺よりか遥かに九音の方が反応してしまう。理解できないが――この幽霊は俺よりも俺のことが好きで、何がどうして好きなのか何一つとして理解ができず、それでいつ頃からこんな感じになったのかなんて覚えていない。何一つとして判らない女幽霊は唇を尖らせて、触れもできないのに強くしがみつくかのように腕にまとわりつく。

 

「……そんで、高二病ってなんすか」

 

「高二病は高二病だ。高校生にありがちな思想形態。斜に構えた考えをカッコいいと思ったり、ネットにある『働いた負け』といったような下らない言葉をもてはやして好んで使いそれらしい意見を付属してみたり、売れている漫画家や小説家を売れる前のほうが良かったと批評家ぶり、痩せたアーティストを太っている時期のほうが聞き応えあったなどと言って見たり、自分だけがわかっている正しい物事という顔をしてみれば、皆がありがたがる前向きな言葉を馬鹿にする。その上で、同類であるオタクという人種も下に見ている。また、簡単に言うなら嫌な奴だよ」

 

『嫌な奴はお前だよ! この不良教師!』

 

 俺よりも遥かに怒りを顕にする存在がいるせいか妙に簡単に聞き流せる。普通なら怒る場面なのかもしれない。ここまで言われれば少しばかりは腹を立てるようなものなのだろうが、まちがっていない部分が多いと納得してしまう程。

 

「あぁ、比企谷、勘違いするなよ、別に貶めているわけではない。近ごろの生徒は表面上はきちんとしている生徒が多く、誰も彼もが大人しい。教師としてはまったくを以て張り合いがない」

 

「近頃の生徒は……ですか」

 

 軽く苦笑をこぼす。よく耳にする『最近の若者は』という常套句。先日、年齢で怒った教師が吐いた言葉だと言うのだから油断しているにも程がある。こんなツッコミどころしかない言葉に大して一言口にしようと思っていると平塚先生がこちらをじっと見ていた。

 

「そういうところが、だよ」

 

 あまりにも優しく、慈愛染みた微笑みを浮かべているのだから言葉は喉を通り胃に落ちる。

 

「割と本気で褒めているのだよ。そうやってきちんと考えて言葉にしようとする君が好きだよ、私は。まぁ、捻くれているがね」

 

 未だに怒り収まらぬ九音は平塚先生の言葉では納得できないのか未だに睨みつけている。

 

『こいつ、さらりと告白しやがったぞ! 私の八幡くんに!』

 

 全然違うところで怒っていやがった。わ―ぎゃーと煩い幽霊の心などわかるはずもなく、俺は放って置くこととする。

 

「そんな捻くれた君から見て雪ノ下はどう思う?」

 

「嫌な奴」

 

『嫌な奴、嫌な奴、嫌な奴!』

 

 逆に好きになっちゃうやつじゃねぇか。俺は隣から聞こえてきた言葉に呆れながらも同意見。同時に二人して意見が一致するほどに雪ノ下の嫌な奴っぷりは堂に入りすぎていた。

 

 俺の返答が面白かったのか少し喉を鳴らして苦笑いする平塚先生。

 

「そうか。非常に優秀な生徒ではあるんだがな……持つ者には持つものなりの苦悩があるのだよ。けれど、優しい子だ」

 

 九音も俺も納得いかないとばかりに平塚先生を見る。俺としては優しいという言葉には懐疑的であり、むしろ母親の胎内に優しさの成分を置き忘れたとしか思えない。

 

「きっと彼女も病んでいるのだろう。優しくて正しい。けれども世の中が優しくなくて、正しくないからな。さぞ生き難いだろう」

 

「あいつが優しいか優しくないかは別にして、世の中が正しくないことが多いという話には概ね同意します」

 

 俺の言葉に「だろう?」と得意げに見てきた。

 

「やはり、君たちは捻くれているな。社会に適応出来なさそうで心配だよ」

 

 君たちというのは俺と九音ではなく俺と雪ノ下なのだろう。そんな俺達二人を集めた奉仕部部室。

 

「あそこは隔離病棟かなんかっすか」

 

「そうだな……うん、そうだ。君たちのような生徒は面白くて好きだからな。だから目の届く、手の届く範囲に集めおいておきたいのかもしれんな」

 

 楽しそうに目を細める。相変わらず腕の関節は極っている。しかし先程よりも胸に近いのか肘先が少しだけ肉に埋まる感覚にどぎまぎしてしまう。そんなことが誰にもバレないように必死に無表情を装う。けれどもそんな俺の努力などただの徒労でじっとりとした視線が平塚先生とは逆サイドから投げられる。

 

『そんなに楽しいのかい? ほんっと八幡くんって変態だよね。でも、隔離病棟か……』

 

 思うところがあるのか思案顔を浮かべる女子高生。

 

『あそこはそんな人に優しい場所じゃなくてさ、呪われた部屋、オカルトスポットとかのほうが遥かに近いよね』

 

 的を得ている例えに俺は苦笑する他なかった。けれどもその話を始めれば、この学校自体が廃校になっていないのが不思議なレベルの不吉な土地ではあるのだが。

 

 

~~~~~~

 

 

 特別棟までいけば流石に逃げるという心配は消えたのか、極っていた関節はようやく解放される。それでも去り際に何度もこちらの様子を見返していたのは決して名残惜しさやフラグといったプラス方向の物事ではなく、単なるさっさと部活動に行けという牽制でしかない。

 

 そんな視線に従いながら奉仕部のある部室の方向へ歩いていく。片方は解放されてはいるがもう片方は未だにしがみついたまま。

 

 コッコッコと静まり返った特別棟には革靴の音が響き渡る。その音は一つ。しがみつき、纏わり憑く幽霊の足音などひびかない。どこか薄ら寒さすら感じるフロアはあまりにも現状に似合いすぎていた。

 

 他の部活動の活動があっているにも関わらず、喧騒すらどこか遠く、まるで部屋越しに聞こえるテレビの音のよう。微かに耳に入る音に一つだけ交じる違和感。

 

「九音……」

 

 俺は振り返り、廊下の奥を見る。俺の声に遅れて幽霊の方もあたりをキョロキョロと見回す。

 

『うん、聞こえたね、居たね――ナニカが居たね。間違いなく居た。見られてたよね。八幡くんってば、本当に好かれるよねぇ』

 

 その言葉にげんなりとしては溜息を吐く。

 

 特別棟の四階にある一番奥にある部室。そこにいる神秘的で静寂な世界は雪ノ下雪乃という少女には似合いすぎている。そして、立地条件の悪い建物でただ一人でいる女子生徒。そこに美人で成績優秀で非の打ち所がないとなればヒロイン性、主人公性は噺の種には十分、十二分。そんな危ない場所にも関わらず、幽霊を引き憑れている俺だ。何が起きてもおかしくなどない。

 

「どうしたもんかね……」

 

 先程まで多少は参加する理由を見出していた俺は不参加でも良い理由を耳にしてしまった。気づいてしまった。

 

 二重に響いた革靴の音。誰かが俺をつけていた音。それは四階廊下が見渡せるほどの奥地を歩く俺の耳に飛び込んでくるにはあまりにも大きすぎる足の音。

 

 まるで背後数メートル後ろに誰かが居たような感覚。警戒しながら周りを見回していると――唐突に扉が開かれる。

 

「貴方、いつまでそこに居るつもり?」

 

 開かれた扉の向こうには冷えた視線を投げよこす雪ノ下が立っていた。

 

「……すまん」

 

 軽く謝罪を口に出して、いよいよもって帰るタイミングを見失ってしまう。雪ノ下はそそくさと自分の席に戻ると此方に一度視線を向けた後に読みかけの文庫本へと目を戻した。

 

『うわぁ、挨拶も無しかよ……やな感じぃ』

 

 九音の言葉に苦笑い。挨拶を交わす機会が一年ほど前から朝に一回だけ増えた身としてはあまり大差はない。あまり気にする程のことでもなく。

 

「うっす」

 

 俺が小さく入室と挨拶をすると雪ノ下は文庫本を閉じて此方を見ていた。

 

「あなた、もしかしてソレが挨拶のつもりかしら。社会にでてから苦労するわよ」

 

『だ、大丈夫! 八幡くんは頑張ったもんね! わかってるよ! 八幡くん的には頑張ったんだ! 私は評価するよ!』

 

 物凄い勢いで幽霊に慰められる。むしろお前がそこまで必死になって言うとまるで俺が間違っていたかのように感じちゃうんだけど、やめてくんない?

 

「コンニチハ」

 

 ロボット染みた挨拶をしてみれば、雪ノ下は満足がいったのか笑みを浮かべた。不覚にもその笑みが綺麗で少しばかり見惚れてしまう。やっぱ顔面偏差値だけは高ぇんだよな。

 

「こんにちは、もう来ないと思っていたわ」

 

「平塚先生に逃げたら不戦敗って言われたから来ただけだ」

 

 俺は乱雑に壁にかけられていたパイプ椅子を広げ、雪ノ下の対面側、机の端を陣取る。

 

「それでもあれだけこっぴどく言われれば普通来ないと思うのだけれど……もしかして貴方、マゾヒスト?」

 

 心底不思議といった様子で尋ねてきた内容は醜聞があまりにも酷いものだった。

 

「じゃあ、ストーカーかしら。怖いわ」

 

「なんで俺がお前に好意を持っている前提なんだよ……違う」

 

「違うの?」

 

 小首を傾げて尋ねてくる様子を見て、俺は美人は得だなといった感想を持ってしまう。

 

『ぜんっぜん、ちっがいますぅー! バーカ! バーカ!』

 

 絵になるような小首を傾げる美少女と絵になる筈のお見せできない変顔で馬鹿にする美少女の構図。なんて酷い顔だ……俺はドン引きしながら九音を見る。

 

「……なんでそんなに自意識過剰なんだよ。違うに決まってんだろう」

 

「そう、てっきり私のこと好きだと思ったわ」

 

 淡々と、昨日となんら変わりない様子で当たり前のことだとばかりに呟く。

 

『はぁーん! 八幡くんが顔だけに惚れるメンクイチョロインだと言ってんのか! 呪うぞ、お前!』

 

 過激派に所属する幽霊が変顔から一転、犬歯をむき出しにしてがるるると雪ノ下を睨む。勿論、美少女と美少女(霊)の争いに発展することなどはなく、時は進もうとする。

 

 しかしながら雪ノ下のあまりの自信過剰な態度に一言申したくなるのは俺も同じだった。あまりにも自信が過剰で少しばかり心配になる俺の菩薩にも似た優しさが、嫌な奴代表格である雪ノ下にすら慈悲を見せてしまう。将来的に雪ノ下が取り返しのつかなくなる前に彼女の過剰な自惚れについて一言物申すとしようか。慎重に言葉を選び、考えて、口に出す。

 

「雪ノ下、お前の自信は過剰すぎる。一度、霊媒師かなにかに守護霊を見てもらい、なんなら変えて貰った方がいいと思うぞ」

 

『うっわ、ひっど……八幡くん、それは言い過ぎでは?」

 

 そうか? 俺自身が必死に選んだ言葉は幽霊には大変不評のようで、かくいう雪ノ下も。

 

「少しは歯に衣を着せることを覚えなさい。あなた自身の身のためよ」

 

 雪ノ下の目は一切笑ってなかった。身の程、身の丈を弁えろではなく、身のため。むしろ身の危険性を訴えてきたあたりが恐怖を倍率ドンで表現している。さらには仄暗い微笑だけを口元に浮かべているというのだから恐怖は加速度的に増していた。

 

「まぁ……底辺の比企谷くんには理解できないのでしょうね。あなたにとっては過剰にして、異様に見えるのかもしれないけれど私にとっては当然の考え方なの、経験則で言えばね」

 

 雪ノ下が自慢気に鼻を鳴らす。高慢ちきな仕草を一つとっても似合っているのだから美人というのは本当に得である。

 

 経験則。経験にして体験であり、体感にして実感。人間の価値観を築く上で重要なファクターである。見るから知れるのだ、見たから、見えたから知ることができる。信じるとか信じないという段階を通り越してあることを認め知るのだ。

 

 そういう意味では彼女の経験というのは容姿の部分で自信を過剰に与えるほどのことがあったのだろう。しかしながら、それは。俺に比べてなんとも、まぁ……

 

「華やかな人生なこって」

 

 今更羨ましいなどとは思わない。俺が選んだ、選んでしまった出来事だ。それでも零れた言葉はまるで羨んでいるようで。

 

「そ、そうね。学校生活でこれといって困ったこともなく実に平穏な生活を送ってきたわ」

 

 一瞬だけ言葉に詰まった雪ノ下を見る。視線は文庫本とは関係ない方向へ。こちらからは伺えない逸らされた顔、そのせいで表情は伺うことは出来ない。

 

『いやいや、何を言ってるのさ、八幡くん。そんなわけないでしょ、普通に考えてみてよ、こんな女と友達になりたいの? 私は絶対に嫌』

 

 ないない、ありえないとばかりに手を振る幽霊の言葉。しかしながら少し考えても見れば納得がいく。確かに言動を振り返ってみれば雪ノ下に友達が居るとはどうして思えようか。初対面時の攻撃的な罵倒でも振り返ればその理由など丸わかりである。

 

 どこをとって彼女の華やかな生活を想像できるというのだろうか。

 

 彩られているとしてもそれは毒々しいまでに派手で、一目ではっきりとわかるほどの危険色。それほどまでに切れ味鋭い舌刀が打たれたのには理由がきっとある。

 

『そう想像してみると、よっぽど敵だらけだったんだろうね』

 

 哀れみを篭めた視線を投げる幽霊。もしも本人がそんな目で見られていると知れば屈辱のあまりに震えることは少ない会話でも伺いしれる。

 

「友達……居んのか?」

 

 つい、とばかりに漏れた疑問は答えなど無くても仕方ない。もしも居ると答えたのならば素直に事実を喜ぶべき事項で。その友達は大切にするんだよ、とまるで孫を見守る好々爺のような感想を抱くことだろう。

 

「そ、そうね。友達という言葉は非常に曖昧で抽象的な言葉は使うのが難しいわ。顔見知り、知り合い、クラスメート、友達。こういった区分分けは非常に難しいかつデリケートな――」

 

「あ、もういいわ。それ友達いない奴の台詞じゃねーか」

 

 ついついと。あまりにも雪ノ下が喋りだした内容が判りやすく、もしも彼女のクラスメートが居たならば「ゆ、雪ノ下さんは、だ、大丈夫、ちゃんと友達だから」と声を震わせて言ってくれる可能性が産まれちゃうレベル。

 

『ゆ、雪ノ下さんはが、頑張れば友達できると思うな!』

 

 あまりの居た堪れなさに毛嫌いしていた筈の九音ですらフォローに回る始末。無論、聞こえもしないし、慰められもしていないだろう。そして聞こえていたのならば負けず嫌いを考慮してプライドが傷ついていたこと間違いなし。

 

「まぁ、友達が居ないのはなんとなくわかった。この話はここまでにしよう」

 

 俺が強引に話を閉じようとすると、雪ノ下がキッと目を細めて睨みつけてくる。

 

「居ないとはいってないでしょう? 仮に居ないとしても何か不利益でもあるのかしら?」

 

 未だに強く睨みつける瞳に両手をあげて何の文句も問題はないとジェスチャー。

 

「いや、人に好かれると豪語してたから、ついな」

 

 今度はむっとした表情を浮かべては視線を逸らす。

 

「あなたにはわからないわよ」

 

 その言葉はきっとどこまでも正しい。分かるわけがない、分かりあえるわけがない。知ったような口を利くことは出来るだろう、賛同を示すこともまたできる。

 

 だが、それだけだ。理解などきっと雪ノ下本人にしか出来ない。

 

 内容を聞かせてもらったところで俺と雪ノ下はまったくの別人なのだから。

 

 しかしながら、友人が居ないことに関しては俺も一家言持っている。きちんとこだわりを持ち、俺なりに出した結論、思考を有している。

 

「まぁ、お前の言い分はわからなくもない。一人で楽しめるものなんてこの世にはたくさんあるし、一人で居ちゃいけないなんて意見には気持ち悪さすら覚える」

 

 横目で伺えば雪ノ下も含む所があるのか、視線は俯き、文庫本の方に向いていながら目を瞑り考え込んでいた。

 

「好きで一人で居るにも関わらず、連中は寂しい奴だと勝手に哀れむんだよな。わかるわかる」

 

「貴方ごときと一緒だなんて程度が違うといいたいところだけれど、好きで一人でいるという部分には共感がもてるわ……少し癪だけれど」

 

 ぼっちに関して張り合おうかと一瞬だけ思ったが、隣にふよふよと浮かぶ顔を見る。

 

『ん? どーかした?』

 

 能天気にこちらを見た幽霊を見ればこれ以上言葉を続ける気が失せる。少なくとも一人きりという言葉とは程遠く、一人であっても憑いて回るこいつがいる限り、雪ノ下と張り合うことには嘘が混じる気がしたから。確かに教室に雑談をする友人一人も居なければ、共に昼食をとるクラスメートすら居ない。けれども寂しいと思うことが出来ないくらいに賑やかしが居る現状をボッチと誇るには少し違う気がした。

 

「人に好かれるという言葉とボッチって似合わなくないか?」

 

 だから自然と構図は雪ノ下のボッチについての話題。

 

「短慮ね、思ったらすぐに口に出しているのかしら。少しは考えて発言すればどう? 人に好かれるということがどういうことか理解できて――あぁ、そういう経験がないから……ごめんなさい、こちらこそ配慮が足りなかったわ」

 

 勝手に自己完結した上で謝られた。つらい。

 

「はいはい、それで人に好かれるのがなんですって?」

 

 半ば投げやりに尋ねる。そして雪ノ下は少し考えるかのように顎に手をあてた。そして小さくうんと頷き納得がいったのか続きを口にする。

 

「ごめんなさい、人に好かれたことがない貴方には嫌な話になるかもしれないけど」

 

 謝られることで心に傷を負い、既に嫌な話であった。返事をしないことで続けてくれるよう促す。

 

「私って昔から可愛かったから、近づく男子は軒並み私に好意を持っていたわ」

 

『……ある意味、すっごいね、この子』

 

 九音は絶句していた。かという俺も話の流れで、キツイな、この女……とギブアップ寸前。そんな俺の様子になど気づくことなく雪ノ下は話を続ける。

 

「小学生高学年くらいから、ずっと」

 

 言葉を切った雪ノ下の顔に翳りが見えた。異性からの剥き出し好意を向けられるというのはどういう気分なのだろうか。それこそ、俺が半年かそこいら感じているようなものと一緒なのだろうか。いいや、一緒なんかではないだろう、きっと。

 

 理解し難く、名状にし難い。

 

 そんな感情だったとしても、俺と雪ノ下は違うのだ。

 

 なぜ、足山九音がこれほどまでに比企谷八幡に対して好意を抱いたのかなんてわかりやしない。まったく理解できずに、理解できるわけもなく、ただただ怖い。怖くて仕方ないのだ。

 

 仮に雪ノ下がむき出しの好意に恐怖を抱いたとして。

 

 俺が足山九音の剥き出しの好意に恐怖を抱いたとして。

 

 その恐れはまったくの別物であり、別種である。似て非なるどころか、見た目形すら、それどころかチャンネルすら違う。

 

 もしも雪ノ下がこの話を人にすれば人によっては単なる自慢話にしか聞こえないだろう。けれども、俺の話はどうだ。早い話が『女の幽霊に好かれている』なんて羨ましがるのはオカルトに傾倒している人間くらいで、ただの恐怖譚。興味がある野次馬根性丸出しな人間は無知ゆえの傲慢他ならない。

 

 ――けど、それだけじゃないんだろう。

 

 俺は再び雪ノ下の話に頭を戻す。剥き出しの好意というプラスの感情。それには必ず対となる感情があるはずだ。悪意というどこまでも醜くどす黒い感情。

 

 それらは決して人にぶつけ過ぎていいものではない。ぶつけた人間よりもぶつけられた人間の方が遥かに痛みがある。

 

「まぁ、嫌われるよりかはマシだろ」

 

 暗くなりそうな話題だったので強引に対の感情を引き合いにだして話題転換を試みる。そんな話題に反応した雪ノ下の表情はなんとも言えないものだった。ため息を吐き、浮かべた表情は決して笑顔ではない。口元だけは少し弧に曲がった表情にあえて名前をつけるとするのならば自嘲。

 

「別に人に好かれたいと思ったことはないわ」

 

 そこで一度、言葉を止める。そしてぽつりと付け足された言葉。

 

「もしくは本当にみんなに好かれるのならば良かったのだけれど」

 

 あまりにも小さな。願望すら篭っていそうなその言葉は自嘲の表情と相俟って本音に聞こえた。

 

「ねぇ」

 

 雪ノ下に声をかけられて顔を向ける。こんな軽口にもならない話題の応酬にしては真面目な顔に少しだけ緊張。

 

「あなたの友達で常に女子に人気のある男の子がいたらどうする?」

 

「愚問だな、俺には友達がいないから答える必要がない」

 

 即答した。なんなら、食い気味に。言葉を切る前に答える準備が出来ていたくらいだ。

 

 そんな俺の返答を雪ノ下は面食らう。あまりにも早すぎる回答は雪ノ下の予想を大きく上回ったのだろう、さしもの彼女ですら間の抜けたような表情を浮かべては考え込む。

 

「あまりにも堂々としすぎてかっこいいこと言ったと勘違いしてしまったわ……」

 

 頭が痛いとばかりにこめかみをひたし指で何度か揉み解している。

 

『か、かっこいいじゃん! 内容さえ考えなければ、ここまで力強くはっきりと言葉に出せるスタンスを私は評価するね! かっこよすぎて濡れるよ!』

 

 大事な部分が幽霊の評価内容から抜き取られていた。

 

「仮の話と考えてもらっても構わないわ」

 

「呪い殺す」

 

 俺の即答に雪ノ下は満足がいったのかうんうんと頷く。ちなみに幽霊は『八幡くんさ、君はもう少しゆとりというか、心の余裕を持ってだね』とがみがみ小言を放ってくる。

 

「ほら、排除しようとするじゃない。理性のない獣にも劣る人間。そんな連中は私の学校にもたくさん居たわ。そういった行為でしか自分を慰められない哀れな連中が」

 

 雪ノ下は見下すように笑った。確かに彼女の言うとおりなのだろう、その通りなのだろう。そういう連中に囲まれてきた経験が今の雪ノ下を作り上げた。

 

『女子に嫌われるタイプなのは間違いないんだろうけどね。それでも表だって何かがあったのなら本人にカリスマが足りなかったんだよ』

 

 カリスマ、と呟いた幽霊の方向を横目で伺う。

 

『カリスマというのは重要だよ、八幡くん。人間は手を出していい相手と、手を出してはいけない相手を見分ける時に何をどう見るか。そこにカリスマという分野が入ってくる。もしも彼女にカリスマがあったのなら別の話になってたのかもね。空気、雰囲気が彼女自身を守ってくれたかも。でも生憎、彼女にはそれよがなかった。けれどカリスマがある人間はある人間なりに悩みがあるんだろうけどね。あ! 八幡くんは心配しなくてもいいから! 君には全然として、依然としてまったくもって関係ない話だから気にしないで! 安心して!』

 

 付け加えた慰めの言葉は何の効力もない。むしろ、それ俺を傷つけているだけなんですが? と睨みつけてみれば当の幽霊は腕で額の汗を拭うように『ふぅ、上手くフォローできた!』といったような仕草をしている。

 

「小学生のころに六十回ほど上履きを隠されたことがあるのだけれど、うち五十回が同級生女子の犯行だったわ」

 

 雪ノ下の声に再び現実に引き戻される。俺は言われた内容を吟味してから疑問を口に出した。

 

「残り十回は何だよ」

 

「男子が隠したのが三回、教師が買い取ったのが二回、犬が隠したのが五回よ」

 

「犬率、高ぇーよ」

 

『流石に……冗談だよね?』

 

 真顔で淡々と語る雪ノ下の表情からは真偽はつかない。教師が買い取ったという部分――昨今、ロリコン教師による性犯罪が増えてきたというニュースが流れる日本においては非常に説得力がありすぎて笑えやしない。

 

「驚くべきところはそこではないのだけれど」

 

「あえて、触れなかったんだよ……」

 

 勿論、彼女が言いたかったのは総数、もしくは女子からの嫌がらせ、悪意の数なのだろう。

 

「おかげで私は毎日上履きを持って帰る羽目になったし、リコーダーも必ず持って帰るようにしていたわ」

 

 うんざりとばかりに過去の出来事を振り返る雪ノ下。その経験には流石に同情せざるを得なかった。

 

「大変だったんだな」

 

「そう、大変なのよ。私、可愛いから」

 

 自嘲気味に笑う雪ノ下。九音も話を聞いては少しだけ同情的な視線を送っていた。あくまでも少しである。他の大部分は『まぁ、私の方が可愛いけど』とかそんな所。

 

「でも、仕方ないわ。人は完璧でないから、弱くて、心が醜くて、人に嫉妬して蹴落とそうとする。不思議なことにこの世界は優れた人間のほうが生き辛いのよ。そんなのおかしいじゃない、だから私は変えるのよ。人ごと、この世界を」

 

 雪ノ下は本気でそう言っていた。

 

「努力の方向性が明らかにぶっ飛びすぎだろ……」

 

「そうかしら? それでもあなたのように変わらないで乾いて死んでいくよりかは遥かにマシだと思うけど。あなたのそういう部分、嫌いだわ」

 

 そう言って、こちらに向けていた視線をふいっと窓の外へ移した。そして俺はその言葉に反応しない。

 

 こちらが何の反論もしないことがわかると雪ノ下は再び文庫本を開き、読み始める。

 

 もしもの話だ。

 

 もしも俺が――足山九音と一緒じゃなければ何かを言ったのだろうか。

 

 ふとそんなことを考える。雪ノ下の孤独を目にして、雪ノ下の傷を見ては共感して、彼女の考え方に思うところがあって。自分と雪ノ下をと重ね合わせては雪ノ下に向かって何か言ったりしたのだろうか。たとえば――友人になろうとか。

 

 詮無きこと。ありえない、意味の無いIFを思い浮かべてはこの世界で起こりえないことだと理解する。

 

 俺が雪ノ下と友人になることはきっとない。

 

 品行方正の優等生。性格は問題あるどころか大問題。けれども事前に聞いていた平塚先生の話から察するに持っている者であるが故の苦悩を抱えている。けれどもその苦悩も彼女が折れればきっと折り合いがつく話で、世の中の大多数の人間はそうやって生きている。人に恨まれないように自分を折り曲げて、屈折しながら生きていけば――こんな世界では生き易い。

 

『なんか昨日今日と一通り話して思ったんだけれど、雪ノ下さんって噂よりかは遥かに人間らしいんだね』

 

 それが雪ノ下雪乃を観察した足山九音の感想だった。

 

 そしてその感想にはどこまでも同意する。伝え聞いていた雪ノ下雪乃像とは似ても似つかない。まるで別人の雪ノ下の評価は彼女以外が望んでいるもので。中身は結局、こんなもん。

 

 ふと時計を見れば時間もそこそこ。そろそろ下校のチャイムの時間が近づいてきた。

 

「今日はここまでにしましょう。依頼人も来る様子は無いみたいだし」

 

 雪ノ下の合図を受けて、俺はそそくさと帰る支度を始める。

 

「じゃあな」

 

「えぇ」

 

 その短いやりとりを最後に部室を後にしようと扉に手をかける。そして開けば――視界の先は黒。

 

「は?」

 

 黒の布、いや黒のレインコート。不吉な程に黒く、見た人間を不安にさせるような闇色。フードまですっぽりとかぶり、前をボタンか何かでしっかりと留めた立ち姿は黒ずくめ。

 

 顔はマスクと便底の分厚い眼鏡。表情どころか肌の色さえはっきりとわからない。ただ一つだけ言えるのならば――身長が二メートルを大きく超えて、三メートルはあるのではないかと疑わせるその巨体は少なくとも人げ――何かが風を切る。

 

 瞬間、衝撃。

 

「ぎっ、がっ、がァッっ、ァァァッ、アアアッ!」

 

『八幡くんっ!?』

 

 喉から遅れたかのように悲鳴が漏れる。全身が軋むような感覚。背中には――机。

 

 わずかのたった一振りで。腕の一振りで入り口の扉から教室の隅まで吹き飛ばされた。眼圧の上昇による視界の星、殴られた場所に鈍く響く痛み、鼻からは血がポタポタと垂れ落ちる。

 

「ぐっ、ふっ、ふぅ、ふっ、ふぅ、ぐぅぅぅっ」

 

 切れそうになる意識の電源を呻きをあげることで必死に維持する。必死につなぎ止めた意識で視界を動かせば――ソレが居た。

 

 放課後も放課後、最終下校時刻のチャイムが鳴る直前に『ソレ』は俺たちの目の前に突如として現れた。




※次回投下予定日は二月四日です。遅れそうな時はあらすじで報告します。


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春先【正体】

 きりもみ回転。

 

 きりもみしながら落ちた、吹っ飛んだという表現を偶に目にすることがある。しかしながら、この言葉は人体に使う言葉ではなく主に飛行機が墜落した時に相応しい言葉だろう。錐を両手で持って回すような軌道、螺旋の軌道を描くには人体はあまりにも適していない。故に人体に適用するように使うのならばきりもみのように、比喩表現的な手法になると考える。そもそもが人間は飛べない、飛ばないのだ。だからその軌道は跳んだだけ。飛べない豚がただの豚であるように、どこまでも人間でしかない俺はただただ堕ちるしかないのだ。

 

 両足に力を込める、未だにゆらゆらと揺れる視界。

 

 机たちを巻き込みながら、毎度のように血を垂れ流す。放物線を描いて吹き飛んだ俺はそんなどうでもいい内容が頭の中に浮かんだ。

 

『八幡くんっ! ねぇっ! 八幡くんっ! 大丈夫!?』

 

 涙でかすみ、未だに揺れる世界の端で、近づいてきた女子高生に大丈夫だ、と小さく口にする。

 

『ぜんっぜん、大丈夫そうには見えないんですけどっ!』

 

 揺れが少しずつ正常になり、俺は元凶を、原因を見る。奉仕部部室にのっそりと巨躯を進ませたナニカ。視界をずらせば雪ノ下が硬直している姿が見えた。吹き飛ばされた俺よりも、吹き飛ばした原因に注目していた。

 

 美しい相貌は恐怖に彩られ、何かを言おうと唇をわなわなと震わせているあたり彼女の気の強さが伺いしれる。左下腹部を押さえる余裕なんてなく、俺は机の群れから脱出を図った。雑に動いた俺は机を引きずるような音を出してようやく入り口とは逆の扉へ近づく。幸いに吹き飛ばされた時に巻き込んだ机達は俺の移動を大きく阻害することはなかった。

 

 もしも埋まるようなことでもあれば、自前の筋力で抜け出すには時間がかかっただろう。ここ一年の間に始めた筋トレはあれど、簡単なことではないことが想像に容易い。

 

 ――カチャリ

 

 後ろ扉の鍵を開く。存外に音は室内に大きく響き渡った。勿論、その音は注目を集める。気づいたのは化け物ではない。黒の巨体はまるで俺に興味がないかのようにゆっくりと雪ノ下に近づいている。気づいたのは人間だ。俺以外でたった一人生きている女子生徒がこちらを二つの瞳で見つめていた。

 

 あの雪ノ下が。雪ノ下雪乃が、だ。どこまでも気が強く、プライドの高い少女がまるで助けを請うかのように此方を見ていた。俺はその事実に対して驚かない。驚けるわけがない。どれだけ気が強かろうと、どれだけ意地を張っていようとも。そんなものは化け物を目にしてしまえば脆くも崩れ去る。

 

 誰だってそうだ、勿論、俺だって。去年の夏だって――この世に怖いものなど何もないとばかりに青春を謳歌せしもの達も。一度、恐怖の坩堝に叩き落されれば顔や表情が歪むだけではなく、尊厳もプライドも人間性も何もかもを歪にして捨て去ろうとしてお互いを犠牲にしようと、他人を贄にしまで生き残ろうと必死だった。俺はそんな大学生達に完全に巻き込まれるという形で死ぬ程辛い目にあった。こんな馬鹿な大学生には絶対にならないぞ! という教訓を得るだけで何の実りも無い思い出。実際に実らずに未だに死に目に合っているのだから滑稽にも程がある。

 

 ふと雪ノ下の表情が何故かそんな一夏の出来事と重なり、思い出してしまった。

 

 だから、俺は――脚を引く。そのまま、足を後退させてしまう。そして回れ右をして扉を開き、廊下に飛び出す。

 

「ま、待って!」

 

 雪ノ下らしからぬ絶叫。金切り声に近いSOSを背に受けて俺はそのまま走り出す。

 

『ひゅーぅ! さっすが八幡くん! 実に堂の入った逃げ足っぷり。本当に惚れ惚れしちゃうぜ!』

 

 ひゅるりと背中に纏わり憑く霊。幽霊にも関わらず、自称美少女の霊を勝手に名乗り、時々悪霊らしさも出すこの仮称幽霊の九音が嬉々とばかりに囃し立てる。俺の修羅場に土壇場となれば何故かこいつはワクワクし始めて口数が増える。そう考えれば最も口数が増える数学の時間はもしかすればなのだがかなりヤバイのかもしれない。

 

「……流石に一桁のテスト結果はヤバイのか」

 

『いや急にどうしたよ、何の話なの……』

 

 幽霊が真顔になって突っ込みを入れてきた。俺は頭の中に総武高校の地図を思い浮かべては最短ルートを描きつつ目的地を目指す。そして――再び、踵を返す。

 

『……うっひゃぁ、凄くなったねぇ、八幡くん。果たして筋トレの効果なのか、それとも親の顔より見た修羅場土壇場火事場の馬鹿力なのかはわからないけど。それでも身体能力は本当にあがったよねぇ。一年前のもやしだった君を少し懐かしく思うよ』

 

 お褒めにあがり光栄で。皮肉気味に返す言葉は喉を通らず視線で訴える。しかしながら確かに今の俺ならば陸上部あたりに所属してもそれなりについていける自信はある。そこで集団競技を選ばないあたりが自分のセンスを信じていないことまるわかり。チームスポーツなんて輪の中に入れない以上、力の見せようがないのだ。

 

 そして――開きっぱなしの扉から見えたのは黒い巨躯。雪ノ下に馬乗りになってるのだろう、黒の体躯の下に白い足が二本生えている。

 

『やれやれだよね』

 

 九音の呆れたような声。それも仕方ない。わざわざ逃げたにも関わらず、逃げれていたにも関わらず、もう一度戻ってくるなんて馬鹿にも程がある。こういう場所、こういう世界では何が何でも自分を助けるという強い意思が進退を決めるのは経験則で知っている筈なのに。

 

 俺はそのまま走り、勢いづけて――ちゃぷり。

 

 足元の水気に足を取られて、滑る。

 

『あっ、お馬鹿! しっかたないなぁ!』

 

 滑った足の次の足を必死にふんばり、もう一歩。無理やりに動かされる滑った右足で大きく踏み抜き、腰から上半身を捻り振りかぶる。

 

『本当、大したもんだよね。私ですら持ち上げるのにひぃひぃ言っちゃうような重い物でも君はなんなく持って、さらには全力疾走。流石、男の子』

 

 そして勢いよく――振り抜くッ!

 

 ゴギャツ、とあまりにも気持ち悪い音が室内に響き渡った。

 

 手に持っていたのは消火器。爛々と輝く赤色と白色の鉄器の威力は黒の巨躯を沈めることに成功した。

 

 俺は一度、消火器を置き、下にいるであろう雪ノ下を引っ張りだす。このナニカの体液だろうか、濡れた地面が酷く気持ち悪い。

 

「こほっ、けほっ、こ、殺したの?」

 

 なんとも可愛らしい反応だと、俺は目の前の存在があくまでも人間だと思っている雪ノ下にそんな感想を抱いた。

 

 再度として消火器を手に取り闇色の巨躯から後ずさりながら距離をとる。

 

 ――ォォォォォオオオオオオオオッ!

 

 地の底から響くような呻き声が室内に響き渡る。

 

「走るぞっ!」

 

 俺は消火器のピンを抜き、ホースを向け、一切の躊躇いなくレバーを押し込んだ。真っ白な粉末消化剤が黒を中心として白の世界を作り出す。

 

 五秒ほどレバーを押し込んだ後に、もはや見えなくなったナニカを目掛けて正面に消火器本体を投げ込む。鈍く低い音が再度として室内に響き渡る。

 

 俺は未だにどうすればいいのかわからず呆けて残っている雪ノ下の手をとり、たまたま近くにあった鞄を回収しては廊下へと飛び出す。

 

 雪ノ下の手を取り、廊下を走る。

 

 こんな場面だけを切り出してみればまるで真っ当な青春にすら見えてしまう。しかしながらそんな甘酸っぱいお話なんかじゃない。これは命のやりとりにしか他ならない。苦く腐り果てた逃走劇。

 

 もしもこれが噺だとして、その噺に温度を示すというのなら。どこまでも冷え切っているに違いない。何の喜びも楽しさも無い物語に温度なんてあるわけがないのだから。それこそ雪ノ下という少女の表情を例える表現のように。

 

 これはどこまでも冷え切った残酷な逃走劇。

 

 

~~~~~~~

 

 

「ひ、比企谷くんっ……少し、ペースをっ……ッ」

 

 玄関口に向かう途中、雪ノ下が口にしたのはペース配分について。男女の走力の差を考えてみれば当然で、むしろここまで文句も言わずに手を引かれていた雪ノ下に驚きが出るほど。

 

「……すまん」

 

 背後をちらりと見れば荒い息を吐きながら雪ノ下は恨みがましく睨み上げてくる。一階廊下のど真ん中、両端を見渡せる上に中庭からも上層階からも丸見えのこの位置は狩人にいつ見つかってもおかしくない。けれど逆に考えれば俺たちからも化け物の様子が発見しやすいのだ。あれだけの巨躯を見逃すことなどないだろう。

 

『それでいつまで繋いでいるのさ?』

 

 浮かぶ女子高生が俺と雪ノ下の物理的な接点を指差す。

 

「……悪い」

 

 再度として謝罪。気づかせてくれた九音に対してのお礼も含み、なおかつ雪ノ下への謝意も込めていた。ゆっくりと手を離すと今まで繋いでいた温かい熱は周りの震えるように寒い空間に同化する。手のひらにじんわりと滲んだ汗が冷たい風を主張しては体温を奪う。

 

「いえ……緊急事態だったし……」

 

 強く握り締めていたのか、握っていた部分をさすりながら答える雪ノ下を幽霊は睨みつける。

 

『な、何、ちょっと嬉しそうに繋いだ部分をさすさすしてんだ! ずるいっ!』

 

 完全に言いがかりである。少なくとも俺の目にはそんな様子などなく、単純に荒い息を整えているようにしか見えない。頬と耳が紅潮しているのも同じ理由でしかない。それを嬉しそうだと思うには流石に穿ちすぎた見方すぎる。単純に言いがかりをつけたいだけで、恐らく大きく間違っていない。

 

「歩けるか?」

 

「……そ、それくらいなら、だ、大丈夫よ」

 

 雪ノ下の返事を聞いて再び廊下を進む。じんじんと脇腹が痛みを訴えてくるが無視をしてゆっくりと進む。背中が申し訳程度引っ張られる。恐らく雪ノ下が制服を掴んでいるのだろう。そんな俺たちの様子を前を飛ぶ幽霊がジトリとした目で見てきた。

 

『すけべ、えっち』

 

 なんでだよ。急な罵倒に返答しそうになるがぐっと堪える。

 

「正直……」

 

 俺たちの様子など知る由も無い雪ノ下がぽつりと小さく零す。静か過ぎる廊下では呟きですら問題なく耳に入ってくる。

 

「正直、見捨てられたかと思ったわ」

 

「……悪かった」

 

 状況から考えれば見捨てたと思われても仕方ない。別に雪ノ下と俺の関係には特別なものなんてなく、ましてや親しいなんてことは決してない。見捨てる見捨てないに葛藤するほどに二者択一を突きつけられるような縁も所以もないのだから。

 

 それでも雪ノ下が助けを一度求めて、その助けを振り切ったのは事実であり、そんな関係ではなかったことを現状でわざわざ説明して口論できるほど余裕なんてなかった。それに――理解などしてもらえるわけがない。消火器を確保して、問答無用で殴りつけるつもりだったなど、最も殺傷力の高い代物を脳裏に描いたなど。健全な人間に理解してもらえるなど思ってもいなかった。

 

 「……ごめんなさい。責めているわけじゃないの。私だってそうしたかもしれないし、それに助けにきてくれるなんて……私ならできなかった」

 

 もしも逆の立ち位置だったのなら雪ノ下はどうしただろうか。彼女をそこまで知らない俺は考えてもわからない。ましてや囁かれていた噂と実際の雪ノ下があまりにも違いすぎて、いまだに雪ノ下という少女を掴みかねている。負けず嫌いで、口が悪いなんて、ちょっとした情報しか知らないのだ。少しだけ、足を止めて雪ノ下の方向を伺い見る。

 

「~~~~ッ!? あ、あまり見ないで」

 

 目が合った。ばっちりと上目使いでこちらを見ていた雪ノ下の首元には赤黒い指の跡、そして自ら掻いたであろう吉川線。余りにも凄惨な傷跡から視線を下にずらせば――ライムグリーンのブラが見えた。縦に裂かれた制服を必死に襟を掴んでは面積を引き伸ばして隠そうとしている。そして空いた手で俺の制服の裾をちょんと握っていた。

 

 見上げるような形で雪ノ下が口にした言葉は冷たさと鋭さを失い、むしろ哀願に近く熱が篭っている程。

 

「……はぁ」

 

 小さくため息を吐いて、雪ノ下に少し離してくれと言葉で告げれば、恐る恐ると指は開かれた。自由になった身体でブレザーを脱ぐ。そして、視線をそらしたまま雪ノ下に手渡した。

 

「肩の上のボタンを外せば、前隠せるから」

 

「あ、ありがとう……」

 

「別にお前のためじゃねぇ。緊急事態時にそんな格好でうろつかれたら危機感とか、緊張感とか、警戒心を殺がれるくらいなら、上着くらい貸すっての。そっちの方が断然、効率いいだろ」

 

『……うっわぁ、捻デレ』

 

 幽霊が俺の早口に対して呆れたような目で見ていた。俺の「かんぺきにしてかんぷなきまでのりろん」に何の穴も無いので文句を黙殺する。

 

「くふっ、ふふっ、貴方、こ、こんな時でも」

 

 背後から聞こえるクスクスと笑い声が聞こえる。少し緩んだ空気に気恥ずかしい思い。まるで一人だけずれているという疎外感と孤独感を味わうが、そもそもが毎日味わっているものではあるので何の新鮮味も無い。

 

 雪ノ下が着終えるまで待ち、再び歩き始める。緩んだ空気の中、曲がり角へ差し掛かろうとすれば、先行く九音が確認をして無問題の合図が出た。頷き、歩み進めれば目的地である玄関までは目前と迫っている。

 

 だが、俺はその事実に震えてしまう。何の影も無い、誰も居ないという事実が俺の背筋を凍らせ。

 

 影も形も人影も人ごみも無い――まさに無人と呼べる玄関出口。

 

 最終下校時刻。その直前ともなれば部活帰りの生徒が一人や二人、部活を終えた後に職員室に戻る先生とすれ違ってもおかしくない。にもかかわらず、全くといっていいほど気配が無い。

 

「ね、ねぇ……比企谷くん」

 

 恐らく雪ノ下も同じように違和感を覚えたのだろう。しかしながら俺は返答など出来やしない、その違和感の答えなど持ち合わせていないのだから。

 

 一歩、また一歩とゆっくりと進み玄関口に辿り着く。律儀に全てが閉まっている玄関口は何の変哲も見えない――しかし、昨日の光景を思い出し、比べればおかしいのだ。

 

 そう、玄関口が一つとして開いていないことは違和感でしかない。普段ならば何らかの理由で一つや二つ、開きっぱなしの玄関。風通しをよくするためなのか、出入りをし易くするためなのかは定かではない。それでも冬が終わり、春になると玄関は止め具で固定されたまま開きっぱなしという状態であった筈だ。

 

 部活にも入っていなかった俺だ。最終下校時刻付近は閉じられているのではないのか? 否、それは昨日の記憶が否定する。

 

 今日、偶々全部閉められているだけでは。成るほど、可能性はある。しかしながら――俺たちがナニカに襲われている異常と今回の偶然は何の関係もないと思い込める程、俺は楽観視など出来やしない。

 

 だから慌てて玄関口に近づき、押し込む。

 

 開かない。開かない。開かない。

 

 どれだけ力を込めても扉が開く気がしない。鍵がかかっている――そんな物理的な意味合いを持つのなら話は簡単だった。

 

 手ごたえは壁。

 

 壁に扉が描かれて、俺は必死に押して開こうとするそんな間抜けな構図にすら思える。間抜けな俺はそれでも未だに開こうと必死に押し込み続ける。

 

「ひ、比企谷くんっ、こっちも駄目だわ……」

 

 同じように別の扉を押しては開こうとしていた雪ノ下の表情が翳る。

 

『異界』

 

 横から毀れる言葉に嫌な汗が流れた。

 

『……異界に迷い込んじゃったんじゃない? ここはもう現実世界じゃない』

 

 心臓が早鳴り、どこか遠くの音にすら聞こえる。油断したつもりもなければ、油断などしていなかった。だがそんな俺の警戒心など意味がなかった。いつだって理不尽は唐突に襲い掛かってくるのだから。

 

 それでも早すぎるだろう、と未だに悪あがきのように言い訳が思い浮かぶ。あぁ、しかしながら。

 

 そんな往生際の悪い駄々は集めた知識が叩きのめす。夜深く、闇深い時間にのみ怪異・怪現象に遭うなど誰が決めたのだろうが。

 

 むしろ今こそ絶好。今、この瞬間こそが絶好なのだ。どう考えても遭う時間だ。出遭う瞬間だ。

 

 魔が差す時間、魔に遭う時刻。夕方から夜にかけてのこの時間帯は何があってもおかしくなどない。だから、人は今この時間を『逢魔時―大禍時』と呼ぶのだ。夜じゃないから安全? いいや十分に魔に合っている。

 

 愚かしいまでにおろか。愚物の中の愚か者。何を考えて俺は普通に帰れると思ったのか、昨日も帰れたから今日も大人しく帰れる。馬鹿か、俺は。

 

 早くなる鼓動に合わせて、わきばらが鈍い痛みを訴える。脂汗が額に滲み、心を混乱と発狂に惹かれ委ねようとする。持っていこうとする心を必死にしがみつき、放さないように繋ぎとどめる。

 

「ひ、比企谷くんッ!」

 

 雪ノ下の切羽詰まった声が絶望に滲む心を引き戻す。

 

 振り向けば居た。のっそりと近づいてくる巨体が確かに居た。明らかに人とは異なる存在は緩慢な動きで俺たちに近づいてくる。

 

「逃げるぞ、雪ノ下ッ!」

 

「ど、どこによ! ここから出られないのにどこに行けって言うのっ!」

 

 反論など耳に留めず、腕を取り走り出す。先ほど走ってきた方向とは逆の方へ。職員室前の廊下へ出て、目にしたのは。

 

『おいおいおい、いやいやいや、これは流石にやりすぎでしょう……?』

 

 変な笑みを浮かべながら眼前の光景を評する。そして俺も完全に同意見。雪ノ下は小さく嗚咽を零し始めている。

 

 逃げ出した。逃げ出した元には? 勿論、漆黒のレインコートを着た化け物。

 

 じゃあ、俺が目にしているのは? 廊下の奥にいるそれは?

 

 同じく漆黒のレインコート。それも一体ではなく、二体。その二体が完全に廊下の角奥からやってくる。背後など気にする必要もない、物音が、歩く度に響く振動が見ずとも居ることを証明している。

 

「中庭しか」

 

 俺は呟き、考える間もなく窓に寄る。寄っては破ろうと叩いてみれば手ごたえがある。俺の叩いた窓は手応えがありすぎた。割れるなんて都合のいい展開じゃない。

 

 俺の叩いた窓は絶対に割れないと、まるで壁を叩くような感覚。玄関口と同じように何の解決も見込めない。

 

 上に行く方法もなければ玄関からも出られない、ましてや窓の外に逃げ出すことなんか出来やしない。それでも俺は諦めが悪く、背後を見る。

 

 

 選択肢が五つ。

 

 ――職員室、保健室、教員用トイレが二つに、生活指導室。

 

 足音がどんどん大きくなっている。もはや視界の隅にすら現れた黒を意識しないように見比べる。

 

 俺は――男子トイレを選び、ノブを回す。手ごたえは固くは無い。

 

「雪ノ下ッ! こっちだ!」

 

 声をあげて雪ノ下を呼び寄せる。しかし蹲る雪ノ下は動く気配がない。俺は慌てて近づき無理やりに立たせようとする、しかし雪ノ下は全身から力を抜いていた。もう諦めたかのように空ろな視線。それでも無理やりに引きずる、そしてトイレ入り口の足元、段差でこけてしまう。

 

 なんと致命的な。ここぞという場面で間抜けを体現する俺は切羽詰った状況にも関わらず、足が縺れる。

 

 俺はせめて怪我をしないように下敷きになり、トイレに背中から飛び込む形で入る。二人で転がるように飛び込んだ職員トイレは水気がなく、どこか腐臭漂う場所だった。

 

 起き上がらなければ。起き上がって、まずはトイレの窓を調べよう。

 

 そう、両足に力を入れようとした時に必死になってYシャツにしがみつく雪ノ下に気づく。震えていた。その震える両肩を邪険に押し退ける勇気を俺は持てずに、包み込むように手を回す。

 

 ――終わった。

 

 目を瞑り、屈する。この一年間、同じようなことを何度も何度も考えてはその度に奇跡的に生き残ることが出来た。

 

 少なくとも今までは俺と九音の一人と一体で終わっていく。そんな感覚があった。だから雪ノ下と共に終わるこの瞬間に新鮮さを感じてしまう。少なくとも俺たちだけで死んでいくということはなく、性格には難あれどこれほどまでの美少女共に終わりを迎えるというのなら悪くないと柄にもなくそう思ってしまった。

 

 必死に声を押し殺す呼吸が聞こえる。女の子特有の甘い匂いと職員室トイレの臭いが混ざり合って鼻腔をくすぐる。胸のYシャツに埋められた唇から吐かれた息が湿り気を帯びる。下腹部からふとももに押し付けられた控えめながらも男性とは違う胸の柔らかさに少しどきどきして、震える肩を力強く抱きしめる。

 

 一分、二分――だろうか。

 

 どれほどの時間が立ったのかわからない。

 

『八幡くんっ! 朗報、朗報! っては? 何やってんの?』

 

 声に反応して目を開けばうっすらと天井が見える。その前には重なるように宙を浮かぶ透明色の女子高生が居るのだが。

 

『はぁー、私が殿でトイレ前で張ってたっていうのに、はぁぁぁぁ?』

 

 マジで信じられない! とばかりに視線で訴えてくる幽霊。

 

『おかしいと思ったんだ! トイレの窓から一向に立ち上がる気配がなかったし、どうなってんだろってすっごく気になってたけど、私は健気にトイレ前にあいつらがやってきて何とか出来ないか一杯考えて、目の前通った時はすっごい怖かったけど! それでも頑張って見張ってたのに! はぁぁぁぁぁァァ!? そんなことあるぅ?』

 

 浮かぶ少女の機嫌は急転直下。ふわふわと、ふよふよと浮かぶ少女の鋭き眼差しにどうしたもんか、と頭を悩ませる。

 

『い・つ・ま・で! そうやってんのさ。あの化け物たちならとっくにトイレの前を素通りしていったよ!』

 

 またしでも奇跡的に命を繋ぐ。何が理由でどうしてそうなったのかはわからないが、俺たちは男子トイレに逃げ込むことで難を逃れた。

 

「ゆ、雪ノ下」

 

 無論、そうなると次は震える雪ノ下に立ってもらうようお願いしなければならない。いつまでもこの体制は流石に困ってしまう。生命の危機、安堵感が交じり合い不覚にも生理現象が発生してしまう。

 

「い、一度、体勢を立て直そう。どうやら、ここには入ってこなかったみたいだ」

 

 半ば無理やりぐいっと雪ノ下の肩を押して持ち上げる。ぺたんと女の子すわりになる雪ノ下とは対照的に俺は立ち上がる。

 

『このっ、このっ!』

 

 ごそごそと俺は雪ノ下に背を向けて色んなポジションを立て直していれば九音が猫パンチを繰り出してきた。

 

『あ、この女! いいや、雌猫、泥棒猫! 今、何かに気づいたぞ』

 

 おい、その報告は俺にもダメージが来るからやめてくれ。地味に効く。

 

 雪ノ下がナニに気づいたのかは判らないフリをしながら、職員用男子トイレを練り歩く。窓を調べてみれば例のごとく固い手応え。奥の便座から警戒を強めながら覗き、ひとつひとつを見て回る。そして最後に掃除用具の扉を開き、中を確認。モップが一つにラバーカップ、柄つきたわしにバケツが二つ。

 

 俺は中からバケツを取り出した。椅子代わりに座って、雪ノ下にもう一つを手渡す。自分が地べたに座っていたことに気づいた雪ノ下は慌てて立ち上がり、ポケットからハンカチを出してはバケツの上に座る。

 

「……少し考えをまとめたいんだが、大丈夫か?」

 

「え、えぇ、そうね」

 

 雪ノ下はこちらをちらちらと見れば、視線が合いそうになると俯く。

 

『……頭茹っちゃってんよ。八幡くん、こいつどうにかすべきじゃない? ほら、今までの鬱憤はらす意味でさ。トイレに水なんて幾らでもあるんだし』

 

 やるかよ。しかしながら、耳元まで真っ赤にした雪ノ下に対して下手なことをいえば自分にも傷を負うことは明白。とりあえず、何でもないかのように話を始めよう。

 

「まず、そうだな……あの得体の知れない化け物について。何か心当たりはあるか? どんなことでもいい。ちなみに俺は当然ない」

 

 自信満々に胸を張る。ついでに口元を袖で拭えばベッタリと紅に染まる。

 

 こんなことを言いでもすれば昨日の雪ノ下の様子から予想すれば『自信が無いことをそんなに胸を張って言わないで頂戴。呆れるどころか哀れむわ。どうやったらそんな恥ずかしい真似が出来るのかしら? ねぇ、恥って言葉は知ってる?』なとど返ってくるかもしれない。うわ、めっちゃ言いそう。

 

 しかしながら、雪ノ下の返答は――

 

「私も、わからないわ……」

 

 軽口に返答する余裕は無いらしい。いや、考えてみればそうか、それが当たり前だった。

 

『いやぁ、八幡くん。君ってば本当に現場慣れしすぎだよね……死に目に遭いそうになる以外の場所では君は本当にいつも通りだよね。』

 

 いつも通りと言った九音の様子も――いや、いつも通りではない。むしろいつもの土壇場に比べてかなりおとなしい。

 

『ん? おやおやぁ、私が大人しいことに疑問でも持っちゃった感じ? そりゃそうだよ、最悪八幡くんが死んでもいっかなって私は毎回思ってるし。仮にそうなったとしても化けて出た君とイチャラブチュッチュ出来ればいいだけだし。でもね、流石に今回は私だってそんな野次馬みたいにテンション上がってわーきゃー騒ぐって状況じゃないからね。今回は別、まったく別のお話、別問題』

 

 ふわふわと雪ノ下の背後に移動し、ゆっくりとその頭の上に座って足を組む。

 

『この子、邪魔なんだよね。お邪魔虫で泥棒猫。もしもこの場所で君が命を失って、化けて出たとしてもそれはきっと君だけじゃなくて余計なオマケもついてきそう。私は君と二人で居れればいいけど、この子憑いて回る可能性があるでしょ。ぶっちゃけ、私はそれが非常に気に喰わないし、納得がいかない。日本の一夫一妻という制度って私、好きなんだよね。それを邪魔する虫や猫は要らないってわけさ』

 

 言い切るとひゅるりと再び俺の背後へじゃれるように纏わり、憑く。

 

『だからね、今回は』

 

 耳元で甘く囁く。それこそ愛を語らうかのような声色で。

 

『全面的に何の躊躇いも無く、何の策謀も、何の策略も、何の邪魔もなく素直に君の味方をしてあげるよ』

 

 そりゃ安心できる、と俯きながら声に出さずにこぼす。納得も納得、ぐうの音が出ないほどに九音らしい理由に合点がいく。

 

 そんな黙り込みながらも表情と視線だけで伝わっているかも怪しい会話をする俺たち。けれども雪ノ下からしてみれば沈黙が支配する場、状況でしかない。そんな状況に不安を覚えているのだろう、挙動不審に視線を彷徨わせる。そして不安はついぞ口から漏れる。

 

「ねえ、どうしましょう……これから」

 

「そりゃあ……どうにかして、ここを出て家に帰るだろ」

 

「そ、そんなことッ! 私だって!? ッ……」

 

 大きな声を出した雪ノ下は慌てて声量を落とす。

 

「悪い、そんな話じゃなくて具体的にどうするかだよな」

 

「い、いえ、こちらこそごめんなさい」

 

 普段から部室でお互いにこれくらい気を使っていれば口論にはきっとならない。しかしながらそうなれば話しかけすらしないだろう。

 

「とりあえず、一つ。俺たちは今、理解を超えた、常識では考えられない何かに巻き込まれている。その認識は大丈夫か?」

 

 まずは共通認識。自分たちが今、どのような状況下に居るのかをまとめる。

 

「そう……そう、ね。どう考えても玄関のあの固さは普通じゃなかったわ、」

 

「あぁ、それには同意見だ。普通なら鍵が閉まっていても隙間がある。開かないにしても何かしらの音が鳴る筈だ。正面玄関と中庭、それとトイレの窓にはそれらが一切無い」

 

 その事実を告げると雪ノ下の表情はさらに翳る。

 

「ここに閉じ込められたということね」

 

 ようやく頭が回り始めたのだろう。思案顔に顎に手をあてる仕草は理知的な少女に似合う――座っているのが椅子ではなくバケツというのが構図として台無しにしているが。

 

「誰かを当てにするにもこんなわけのわからない状況で偶然に助けに来てくれる人なんて心当たりがない。その上で」

 

 玄関口を思い出す。人通りが皆無であったことから、この世界に俺と雪ノ下を除いて生者がいるかも怪しい。

 

「……助けを、外から助けを呼べないかしら」

 

 ふるふると告げられた内容は酷く現実的な内容だ。非現実で通用するかはさておき。それでも可能性に縋るように口に出す。

 

「雪ノ下、お前の携帯は使えるか?」

 

「ごめんなさい、鞄の中にあるわ」

 

 その言葉を聞いて、俺だけが縋ったその糸が切れたのを知ってしまう。

 

「比企谷くん、あなたの携帯は?」

 

 俺は懐から携帯を取り出して、絶望を突きつけなければならない。

 

「すまん、この通りだ」

 

 ポケットから取り出したスマートフォンは画面が粉々であった。電源すら入らない。

 

「何が、もしかして、あの時……比企谷くん! あなた、身体は大丈夫なのっ!?」

 

『あーらら。ようやっと気づいたのか。私の八幡くんをぶっ飛ばされたことを今、ようやく思い出したらしいよ。救えないよね、こいつ、自分のことばかりでさ。八幡くんにおんぶに抱っこ。手を引いてここまで辿り着いたのにさ。ほんっとお荷物だよね』

 

 九音の咎めるような台詞、しかしながら俺は責める気などまったくない。むしろ雪ノ下の人間らしさが見えて安心した。自分が失った人間性を垣間見て眩しく羨ましくすら思えた。勿論、俺が雪ノ下よりも精神的に安定しているのはただの経験値。同じような目を繰り返せば雪ノ下は俺なんかよりもきっと上手くやるだろう。そもそも死にそうな目に合うので何回も味合うものではないが。

 

 俺は人間である、間違いなく。けれどもこの一年は失ったものばかりが目に入る。消火器を躊躇いも無くナニカ振るうことが出来る人間がどれくらい居るだろう。人の形をした存在に、殺す気で振りぬくなどまともな人間の神経をしていたならできやしない。だから出来なくて正しいのだ。出来る方が間違っている。

 

「まぁ、運よく携帯で威力が減衰したんだろ、所々打ったが問題ない。俺の怪我なんかより、まずはここからどうやって出るか考えるべきだろ」

 

「けれど」

 

 言いよどむ声に九音が反応する。

 

『まぁるでヒロインみたいな面して心配しちゃってさ。こいつ全然状況を理解してないよね。君が心配したところで何が出来るの? 心配したところで救われるのはこの女の心であって八幡くんじゃない。手当てでも出来るの? 治療でも出来るの? 出来ないでしょ。仮に肋骨が折れてたとしても自分ならどうにか出来るとでも? ほんと、見ててイライラしちゃうなぁ』

 

 棘のある言葉だ。しかしながら棘を抜いてみればどこまでも真実だった。事実として雪ノ下に現状してもらうことなどない。ましてや治療など必要ないのだから。彼女がすべきはまずは己が身なのだ。自分の身を心配して、生き残ることを理解してもらわなければならない。中途半端なチームワークで乗り越えることが出来るなど思わない。俺を心配して、配慮するなど今は必要ないことなのだ。そんなの今じゃなくてもっと早くにやってくれ、と軽口の一つくらいは叩きたくなる。

 

「雪ノ下、そんなことより――」

 

「そんなことって貴方! 自分の身体のことを――」

 

「そんなことなんだよ、雪ノ下。俺の身体がどうとかは脱出できてからでいいだろ」

 

 言葉を重ね返す。はっきりとした拒絶。

 

「ち、ちがう、違うわ、比企谷くん。あ、貴方の身体状況を考えることで出来る作業というものは変わってくるわ。逃げる時に貴方の体の状態を知っておくのは重要なことよ」

 

 切れが無い。鋭さを失っている。鈍らで付け焼刃。とってつけたかのような言葉は理論的に見えてあまりにも弱い。

 

「逃げる時に俺が遅れるようなら見捨てろ」

 

 簡単な話だ。簡潔な答えだ。そもそもが勘定に俺を入れているのが大間違い。二人で生き残るなんて意思はきっと必要ない。自分の手で一杯な以上、自分のことを助けるべきなのだ。

 

 雪ノ下は言った。持つものには義務がある、と。

 

 けれども現状、雪ノ下も俺も持たざる者なのだ。にも関わらず、誰かを助けようなんて傲慢。雪ノ下の頑なに此方を救おうとする意思は彼女らしい。けれども現状を冷静に分析できず、足を引っ張る味方を切り捨てない優柔不断さは彼女らしからぬともいえる。そんな曖昧で、緩んだ理論を展開する彼女は信じられないとばかり。

 

「貴方、本気で言ってるの?」

 

 怒気混じりの声に縦に頷くことで返答。

 

「ふざけないでっ」

 

 声を最大限に殺しながらも、それでも強く鋭く言い放つ言葉は静か過ぎる空間にはやけに響く。

 

「ふざけてなんてねーよ。俺は誰かの重荷になんてなりたくない。俺の責任は俺だけのものだ。訳知り顔で救いの手を伸ばされて掴んで重荷になるくらいなら、一人でもがいた方がマシだっつーの」

 

「そういう問題ではないわ。二人で協力したほうが効率的だと言っているのよ!」

 

「協力はする。効率的に動くように心がける。それでも見捨てれる時は見捨てろって言ってるんだ。俺は助けを求めてない、求めてなんかいないんだよ」

 

 理解できないとばかりにぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。綺麗な筈の黒髪はいまや乱れ散らかっている。

 

「……少し時間置くか。一分後に死んでいることはなさそうだからな」

 

 雪ノ下の背後にある入り口の窓からは巨体の姿は見えない。それだけを安全帯にして一息をいれるとしよう。

 

 

~~~~~~

 

 

 

 沈黙がひたすらに続く。体感で一時間、いや二時間以上が経った頃だろうか。

 

 玄関や中庭は扉が開きやしないのに、紅は終わりを告げ、黒の世界が訪れる。電気もつかないトイレでは窓から入る月明かりだけが光源だった。

 

 俺も雪ノ下も特別に言葉を発するということは無かった。最後の会話が言い争いだったせいか、此方から話題を振るというのはなんとなく躊躇ってしまう。かといってどっちかが何かしようと動く気配も無い。偶に廊下を確認しては化け物が来ていないかを確認するだけ。扉の外、すぐ傍に化け物が待ち伏せている様子がないことは理解できているものの安全地点として辿り着いたこの場所を捨てて動く切欠が見つからず、未だにずるずると引きこもっていた。

 

 そんな静寂を破るかのように間の抜けるような音が聞こえた。

 

 音源の雪ノ下を横目で盗み見ると顔を真っ赤にして俯いている。猛獣のような唸り声だった。まかり間違っても可愛らしいとかそんな形容の仕方ではなく肉食獣の音だった。

 

『八幡くん! 聞いた!? 今の音!』

 

 俺と一緒に窓を覗いては時折しゃべりかけていた幽霊が嬉々とばかりに声を弾ませる。いや、お前さ……と呆れたような表情を浮かべてしまう。確かに雪ノ下のことは嫌なやつという意見で一致していたが、それでも他人の不幸に諸手をあげて喜ぶ趣味はあまりない。強いて言うならイケメンが振られる場面くらいでしか笑わないつもりである。そもそもそんな現場に遭遇することないであろうが。

 

 ましてや同級生女子のお腹の音に対して馬鹿にしたり、嘲笑ったりするようなつもりは毛頭ない。

 

「く、空腹時におきる胃や腸の収縮運動。単なる生理現象であり恥ずかしいことなんて一つもないわ」

 

 淡々と告げられる内容の割には耳まで真っ赤である。俺はかろうじて回収した鞄を拾い上げ中からチョコバーを二本取り出し、一本を雪ノ下へ向ける。

 

「ほ、施しは」

 

 そこまで言って、再び獣の鳴き声。

 

「安心しろ、雪ノ下。これは投資だ。一見すればお前はそれなりにお金持ちそうな雰囲気を持っているからな。チョコバーを渡すことによってお前からの返礼を期待するという投資でしかない。つまり、これはお前のためでなく――」

 

「……いただくわ」

 

 喋っている途中で雪ノ下は奪い去る。なんたる傍若無人であろうか。頭が痛いとばかりにコメカミを抑える仕草は少しだけいつもの彼女に戻った気がした。

 

 もそもそと二人だけで食べる晩餐。ふと、そこで飲み物は自分の鞄の中にあるペットボトルのスポーツドリンクしかないことに気がつく。

 

「……けほっ、っ」

 

 喉に詰まったのか軽く咳き込む雪ノ下に何も言わずにペットボトルを手渡す。

 

「あ、ありがとう……」

 

 お礼に対して「ん」と一言だけ返す。こくこくと鳴る雪ノ下の喉。ふぅ、と一息吐いたところで雪ノ下は何かに気づいたのか忙しなくペットボトルと俺の顔を交互に見た。そんな視線に気づかぬフリをして携帯食料を食べるのに集中しているというスタンスで床のタイルを見つめていた。

 

『ラブコメかよ』

 

 けっと唾を吐き捨てるような勢いで飛んできた言葉は刺々しい。

 

 はぁ!? 違うんですけど、こんなコッテコテなラブコメあるわけないだろぉ! と視線で言い訳をしてみる。流石に出さなかった言葉は伝わらず、九音は尻を天井に向けてこちらに電波を飛ばすかのように両手のひらを向けてきた。

 

『ラブコメの雰囲気壊れろぉー、ラブコメの雰囲気壊れろぉぉぉぉ』

 

 ついぞ念、いや呪詛を送り始めた。

 

 そういうのじゃねぇよ、と言い訳染みた視線を送ってもまったくの無視。確かに雪ノ下のような美少女と男性用トイレで傍から見れば二人きりという特別なシチュエーションではあるが、俺からしてみれば明日の朝日が拝めるかどうかの瀬戸際なのだ。色ぼける余裕なんてねぇよ。それは多分、雪ノ下も。

 

『……現実逃避をするなら異性がいるなんて好都合だけどね。昨日今日と雪ノ下さんの超人伝説と目の前の雪ノ下さん本人がまったくの別物だって思い知っている筈なのに。どうしてその事実から目を背けようとするのかな、八幡くんは』

 

 浅い考えなどまるで判っていると、透かしていると。呪詛をやめた九音は忠告するかのように肩に乗っては放つ。

 

『八幡くん。私の大好きな八幡くん、私だけの八幡くん。君の愚かさも、君の間抜けさも愛おしく思うけどさ……そんな君に近寄る女は許せないんだよね。こればっかりは幽霊らしく、悪霊らしく怨念染みて、守護霊らしくお節介を持って君の欺瞞を暴かせてもらうよ』

 

 くすくすと邪悪に嗤う。

 

『君も知っている通り、君も知った通り、雪ノ下雪乃は語るべくもなく普通の女の子だ。どこにでも居る、頭がよくて、顔の形がよくて、性格が悪い。それこそ育った環境が少しでも違えば援助交際に手を染めたり、彼氏とキープ君との二股をかけたりする程度には普通の女の子なんだ。騙されちゃいけないよ。いいや、違うか。顔が綺麗で美人だから嘘もつかない女の子? いいや、君の経験では美人こそ嘘を吐く生き物だって教わってきた筈さ。だから、君は決して雪ノ下雪乃を特別な女の子だなんて思ってや居ない。君がもし誰かに騙されようとするのなら、それは君自身が嘘をつくんだ。自分に対して』

 

 肩に乗ったまま九音は雪ノ下を見下ろす。

 

『そんな普通な女の子が今、何をしているのか判るかい? 逃避だよ、逃避。現実からの、現状からの、恐怖からの逃避。だから君に従うままにこんなトイレで身を隠しているし、こんな不衛生なところから外に出ようなんて動かない。噂通りの少女ならば、完璧超人の少女ならこんなことになっていない。それでも部室でのあの顔を取り創ろうことが出来るメンタリティがあればこんな状況に陥ってない。君は理解しているんだよ。雪ノ下雪乃なんて強気な仮面をつけていた唯の道化でどこにでもいる、それこそホラー映画に出てきたなら最後まで生き残るヒロインなんて役柄じゃなくて、途中で死ぬ一般生徒だって』

 

 クスクスクスと意地の悪い声が耳元に流れる。

 

『そんな普通の女の子なんだからさ、君に惹かれるなんて当たり前なんだよ。日常で君が好かれるような部分は無かったとしても、非日常で、こんな化け物の世界で一番魅力的な男の子なんだから。ピンチを救ってもらって、行動力の塊で危機を脱し、それでいて自分を守ってくれている。そんなお姫様気分を感じて惹かれるなんて別に不思議な噺じゃないでしょう? だから、彼女は雪ノ下雪乃は君が思っているよりも何倍も何乗も君に惹かれている。多少は頼ってもらっているなんて嘘や言い訳は否認的で欺瞞そのものだよね』

 

 普通の男子高校生ならば雪ノ下――これだけの女の子に好かれ始めているというのならば吉報であり、喜んだり、浮かれたりの一つや二つはあるのだろう。しかし、俺は俺という男子高校生を知っている。生き残った後に現実に返った後のことなど判っている。だから喜ぶなんてこともしなければ期待もしない。

 

 雪ノ下からの信頼や期待や好意を嬉しく思うなど糠に釘でぬか喜び。そんな結末を無邪気に信じられるわけもない。信じもしない。

 

『ふぅん……ま、そこまで自惚れているわけでもなさそうだ。こんなふやけた恋愛シチュエーションに酔いしれて、都合のいい妄想なんかしてたら続けて喝入れようと思ったけど。だから』

 

 本題だろう。ここまでは前フリ。そしてその本題すら判ってしまう。いつだって足山九音は悪霊らしく悪辣に俺を唆すのだから。

 

『見捨てちゃえよ』

 

 その提案は俺の悪魔も囁いていた。

 

『優しくする理由も、信頼されている現状も、気を遣う必要もない。そんなものは非現実な君とそこの女関係だってわかってるなら見捨ててもいいじゃん。君の助けどころか足を引っ張るだけの女の子なんて放っておいて、さっさと私と君でこの異変を終わらせに行こうよ。その過程で彼女が死ぬか生きるかなんてどうでもいいじゃん。だから、私の名前を呼んで? 一年生の頃のように何も無い空中に喋りかける高校生だなんて思われてもいいから私に助けを求めなよ。私を必要として叫んでよ!』

 

 俺の肩から降りて、目の前に立つ。両手を広げて求める少女を俺は―ー無視した。

 

『……』

 

「あの、比企谷くん、こ、これ」

 

 九音の向こう側からおずおずと雪ノ下がペットボトルを差し出してくる。

 

「いや、俺はいい。水道水でも飲んでるから使ってくれ」

 

 俺は二人――いや、一人と一体の美少女達から目を逸して、入り口近くの洗面台を覗き込む。蛇口を捻れば音が鳴り水は流れる。両手で水溜まりを作っては水を啜る。鉛とチョコの味が混じり合い、喉から胃へ。

 

 二度、三度と続けて顔をあげれば鏡に写った顔は酷いありさまだった。

 

 鼻から垂れていたであろう赤と、拭った唇から線を引いた紅。どちらも水気を含ませることによって乾きから開放されて動き出す。

 

 俺はハンカチで拭い、再びバケツへ腰を下ろす。

 

 動き出した時間は俺の顔の変化だけではなく、雪ノ下にも変化を促していた。

 

「ねぇ、比企谷くん。私達これからどうなるのかしら。学校でわけのわからない化け物に襲われて、閉じ込められて」

 

「わからん」

 

 短く答える。希望を口に出すのは簡単で、慰める言葉も安易で、優しさを伝えるのも楽だった。きっと下心の一つや二つがあれば安易にそんな言葉を口に出せた、無責任に無根拠に。雪ノ下にアプローチをかけるなら絶好の機会。

 

 けれども同学年女子と接することなど殆どない俺だ。まともに会話をするような機会など無かった俺だ。女子に対する態度など赤点常習の俺の返答はぶっきらぼうであまりにも怜悧な現状を示した冷たい言葉。

 

「そう、そうよね……ごめんなさい。変なことを聞いて」

 

 距離を近づける機会は失われる。選択は男子高校生としては落第で感情移入した誰かが居るのならもっと気の利いたことを言ってやれと野次が飛んでくるかもしれない。

 

 そもそもの前提として、女子に大して気の利いた人間ならばこんなことにはきっとなってない。なんなら女子だけではなく男子にすら嫌われるどころか興味を持たれていない。人間関係皆無な俺にそんな答えを期待するなんて無駄無謀無意味。

 

 体面を気にせずに実利のために行動しようとする。そんなものは社会という和の中では間違っている。そんなことずっと言われてきたし、理解も判ってもいる。納得だけを置き去りにすればきっとそんな素敵な世界のお仲間にしてもらえるのかもしれない。何とも縁遠い噺。

 

『……ぅ』

 

 した体面に関して脳を動かしていれば自称美少女の幽霊が爪を噛みながら涙目でこちらを見ていた。しかもその口からは聞こえない程度にぶつぶつと独り言が漏れている。

 

 俺が見ていることに気づけば潤んだ瞳がギョロリと動き、その瞬間に髪を結んでいた紐が切れる。そして恨み骨髄といった瞳で睨まれればホラー映画もかくやといった恐怖を覚えてしまう。

 

 完全に機嫌を損ねている。恐らく雪ノ下と自分を天秤にかけて俺が雪ノ下を選んだとでも思っているのだろう。実際に傍から見ればそう見えるのかもしれない。結局のところ、俺は九音も雪ノ下も天秤になんて載せてはおらず、乗せたのは俺自身。二つの天秤ではなく、三方向の天秤で考えていたのだが。

 

『……私の方がずっとずっとずっとずっと役に立つのに。こんな女なんか足を引っ張る程度で何の役にも立たない肉塊なのに。ただ不安を口に出すだけで撒き散らすだけのゲロ袋じゃん。私はずっとずっと君の心配してるのに。あいつは終始自分がどうなるかだけ。それだけじゃん。自己中で自意識過剰で自分勝手なクソ女。クソ袋なんてさっさと見捨てちゃってなんの問題もないのに。ソレってゴミをゴミとして捨てるだけなんだよ? そうだよ、この女はゴミなだけ。そう、ゴミなんだよ。ゴミゴミゴミゴミ。こんなゴミと私だったら私の方がずっとずっと尽くしてるのにぃ。どうしてわかってくれないんだよぉ。こんなに好きなのに、愛してるのにぃ、どうしてわかってくれないの……そこの女みたいにちょっと頼りがいがあるだけですぐに誰かに惚れちゃうような淫売なんかじゃなくて、八幡くんとずっと一緒にこの一年間を過ごして、君の中身も性格も顔も身体もぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ愛してるのに。どうしてそんな女なんかを選ぶのさああああああああ。ああああああああっ!  ムカつくムカつくムカつく! イライラする! 全部この女が悪い。淫売クソビッチ疫病神。あのまま化け物に殺されてろよ、役立たず! お前なんか勝手に野ざらしになって死んでてよ。ビッチならあの化け物相手に股でも開いてろクソゴミ。前も後ろも口も下も全部の穴を犯されてろ、クソ女。そしたらその間に私達が色々と調べるからさぁ。それくらいしか役に立たないでしょ? そうだ、そうしよ。この女が犯されている間にやればいいんだ。だからさっさと自分で立って動けよ、クソ女。化け物相手に媚びでも売って絶望してろ、そのまま死んでいって。私の八幡くんに色目を使うな、それは私のもの。私だけのものなんだから。取らないでよぉ、八幡くんしか居ない私から取らないでよぉ。お願いだから死んで死んで死んで。お願いだから消えてなくなって、八幡くんの視界からいますぐ消えてよぉぉぉぉぉおおっお! あああああああっぁあああああ!』

 

 髪の毛を乱雑に掻き毟りながら雪ノ下の周囲で呪詛を吐き散らしてはに叫び散らす。俺はその二人からそっと目を逸らす。悪霊然とする九音の恨み言を聞き流してはどうするべきかと再度として考える。そして答えなど出ないことも。俯いている雪ノ下から妙案が出ることもなく唯唯、時間だけが過ぎていく。

 

 幸いなことに此処から出て行くと短絡的な行動を取らないことに救われる。だが同時に此処から出て行こうと思えるような気力は一度の遭遇で味わった恐怖が塗りつぶしてしまったのだろう。未だに残る赤黒い指の跡は余りにも痛々しかった。

 

 

~~~~~~~

 

 

 どれほど時間が過ぎただろうか。正確な時間を計れない以上は感覚で推測することしかできない。少なくとも晩飯と呼ぶにはあまりにも侘しいチョコバーを口にしてから一時間ほどだろうか。個人的には沈黙が苦手でないタイプの俺は雪ノ下に話しかけることもせず、気まずいと感じるには未だに恨み言を呟き続ける存在が居たために退屈は感じなかった。

 

 あくまで俺の話ではある。未だに座り続けている雪ノ下は少しぼーっとしている。怪物で濡れたであろう制服が体温を奪っているせいか、それとも男子のブレザーが暖かさ主張しているせいか。少なくとも緊張し続けるには余りにも辛い状況下。時間が経ち、糸が緩みはじめてきたせいか小さく欠伸が漏れたのが見えた。

 

「眠いのか?」

 

「ご、ごめんなさい、その……こんな時に」

 

 しゅん、と項垂れる雪ノ下。俺は一つのことを思い出し、鞄から取り出す。幸いなことに濡れずにすんだそれを雪ノ下に渡す。

 

「……いつまでも濡れっぱなしだったら風邪引くから」

 

 ジャージの袋を渡せば、それを恐る恐るといった形で手を伸ばす。

 

「でも、貴方も濡れてるじゃない……貴方が着るべきよ」

 

「いいから着替えろ」

 

 半ば強引に手渡せば俯いて小さな声でお礼が聞こえた。そしてトイレの個室に潜ってごそごそと音が聞こえる。

 

『あああああああああ、あ"-あ"-あ"あ"ぁぁぁんっ、うあ"ああぁぁぁぁんっ』

 

 そんな雪ノ下の様子を見ては大声で泣き叫ぶ幽霊。指差して何かを伝えようとしてくるが、その意図はわからない。

 

『う"ら"や"まじぃぃぃぃいいいい!』

 

 そういうことか、と半分呆れながら俺は此れからのどうすべきかを考える。

 

 朝が来れば終わるのか? 朝になるのか? 空腹で満足に動けなくなる前に動くのか? 雪ノ下を連れて? 人を一振りで吹き飛ばすような化けものを。消火器で勢いよく殴っても死なない化け物を、消化粉末剤をたっぷりかけたのに平気な顔をして歩いた化け物を? 一体ではなく、複数で少なくとも目に見えた三体は最低居る存在を? 

 

 ぐるぐると思考が廻る。何度も何度も考えては否定した事柄。俺は俺の行動で雪ノ下を連れていけやしない。無事で居られる保障もない。それならば一人で行動をしたいが説明したところで納得してもらえるわけがない。

 

「……そ、その比企谷くん、ありがとう」

 

 トイレの個室から出てきた雪ノ下はダボダボのジャージ姿で現れる。

 

「……雪ノ下、提案なんだが一度仮眠を取らないか?」

 

「仮眠?」

 

「少なくともここにあいつらが現れる様子は一度も無い。だからお互いに少しずつ眠って体力を回復させてから動くかどうかを話し合おう。そこから朝を待ってみるのも、行動するのかも」

 

「で、でも寝る場所なんて」

 

 雪ノ下はぐるりとトイレを見回しては横になれる場所を否定する。もちろん、あるわけがない。

 

「トイレの個室がある。便座をおろしてタンクを背もたれ代わりにすれば一応……そのままブレザーを上掛けにして使ってもらえば多少の暖は確保できると思う」

 

「と、トイレで寝るの……?」

 

「勿論、嫌なら断ってもらっても構わない」

 

「い、いえ……えぇ、やってみるわ、あなたの言うとおりに」

 

 そう言って雪ノ下はトイレの個室に再び消えていく。それを俺は見送ろうとした――が、即座に踵を返してこちらに来る。

 

「ひ、比企谷くん」

 

「どうした?」

 

「そ、そのどこにもいったりしないわよね? 現状であなたと私が別れるという事態は今後の展開に大きく影響すると思うの。このわけのわからない現状であなたと私が別れたことによって起きるデメリットは非常に大きいものと考えるわ。勝手に一人で外にいったり、行動しようとしたりしたら絶対に許さないから。そんなの許可しないわ」

 

 つらつらと早口で並べられた言葉は要約すれば人手が足りないから勝手な行動を取るなということだろう。その言葉に苦笑いが浮かび「わかった、わかった」と返事をする。すれば三度個室に潜ろうとする雪ノ下。その扉が再度しまろうとした瞬間に雪ノ下が顔だけ此方に出してじっと見つめてくる。

 

「ね、寝てるところにいやらしいことしたり、襲おうとか男子高校生の下種な考えがあったりするのかしら?」

 

「信用してないなら鍵でもかけてろ」

 

 ため息を吐きながら答える。こう何度もちょろちょろとされては此方としても落ち着けない。そして、いよいよと閉じようと扉を閉められたると思いきやまたもや開く。

 

 いい加減に天丼すぎて開け閉めされているトイレの個室扉は『使うのか、使わないのか、どっちなんだい!?』とキレてもいいレベル。それほどまでに忙しく落ち着きがない。

 

「そ、その比企谷くん、あなたのことを信頼してもいいわ」

 

 そう言っては手でこちらへ来い来いと手招き。

 

「なんだよ……」

 

 一体、なんなのだろうか。言われるがままに扉のほうへ。

 

「あ、あなたのことを信頼してお願いするわ。い、一緒に個室に入ってくれない……? 私が寝ている間、その、手とまでは言わないけど、その、袖を握ってていいかしら?」

 

『ぞう"いう"のやめろよお"ぉぉぉおおおお! あ"あああーああぁぁああああ!』

 

 九音の絶叫と俺の心臓がやけに煩かった。雪ノ下を滂沱の涙を流しながら睨み付ける九音は悪霊、もはや怨念で殺せたらとばかりの雰囲気を醸し出していた。

 

「……わかった」

 

『わ"がん"ないでよぉぉぉぉ!』

 

 心臓が早鐘を刻む。恐怖とは違ったここまでの緊張を味わったのはいつぶりくらいだろうか。異性を意識して心臓を高鳴らせたなど久しぶりのような気がする。

 

 雪ノ下はハンカチを下ろした蓋の上に敷き、目を瞑って何度か体勢を整える。俺はその間――必死に九音を見ていた。

 

 決壊寸前。むしろ良く持ったほうで下手をすれば雪ノ下に危害を与えてもおかしくない幽霊。この幽霊にはそのくらいの力はあるのだ。だから、必死に目で懇願していた。

 

 心臓は二重の恐怖で音を鳴らし、理性もまた壊されるような状態。あまりにも無防備な華奢なその身体は、もしも中学生時代にこんなシチュエーションに陥ったのならば勘違いして告白する。ついでに一夜の過ちを期待して鼻息でも荒くなる。

 

 しかしながら、中学時代の御話。少なくともその頃の俺から変わらざるを得なかった俺だ。変わりたいと思っていなかったにも関わらず、改めなければならなかった数々の経験が勘違いと肯定し、都合のいい妄想を粉々にする。

 

 座って眠るという行為は中々に難しい。慣れていないと厳しいものもあるだろう。それに近くに誰かが居ると眠りにくいという人間もいる。

 

 だが、時間が経つにつれて規則正しく聞こえ始める呼吸で杞憂だったと気づく。

 

『うわきものぉ、うわきものぉ』

 

 トイレの扉から顔だけ出して、恨めしそうにこちらを見ている姿はあまりにも似合っている。彼女に対しては申し訳なさそうな顔をしてやりすごすしかない。

 

『本当なら殺したいくらいだけど、現状で殺したら化けて出てきそうだし、八幡くんに憑かれたらやだし、だから我慢してるんだよぉ。めっちゃ健気な私になんて酷い仕打ちをするんだ、君は……』

 

 第三者から見れば現状において雪ノ下雪乃と足山九音のどちらに気を遣っているのかなんて丸わかり。俺もそれは認める。

 

 嫌なやつ代表であった雪ノ下に対して俺は確かに気遣いしていたのは大いに認めるところである。

 

 けれども、それは――俺のためであった。それは俺の罪悪感、俺の責任なのだから。すべてが原因とまでは思わないが、少なくとも雪ノ下を巻き込んだと俺は思っている。そもそもがあいつを引き付けたのは俺だ。奉仕部前に聞いた足音は――よくよく考えれば同じものだったのだろう。背後数メートルに聞こえた、なのにすぐ後ろには居なかった。

 

 あの巨体が廊下の奥で鳴らした地響きは人間大なら背後数メートルと俺は勘違いしたのではないだろうか。そう考えるとしっくり来る。

 

 それに雪ノ下は素人、初心者、ニュービーといった存在である。仮に原因が俺ではないとして、巻き込んだのも俺が理由じゃなかったとしても、せめて先導者としては雪ノ下の面倒を見るくらいはするのだ。

 

 勿論、俺がそんな柄ではないことを重々承知している。けれども、雪ノ下を放りだして勝手に死なせたとなって自分は関係なかったと割り切れるほど淡白じゃない。そんなことを平然と行える人でなしに俺はなりたくなかったのだ。全部が全部自分のため。自分がなりたくない自分に変わらないように、人ならざるものが跋扈する世界で、人でなくなるくらいなら雪ノ下に情けをかける。

 

 だから、最低限の気を遣った。それこそ、本当に最低限だ。道端に空のペットボトルが目の前に転がってきたら拾って捨てるくらいの当たり前。別にそれは俺が誰かに褒められたくてやっているわけではない。自分の中に引っかかりを解消するためでしかない。だから偽善でもなければ善でもないのだ。どこまでも自分のため、自己満足にしかすぎない。

 

 さて、と頭を切り替える。

 

 化け物の正体を考える。何度も脳内でぐるぐると考えては結論のでない答え。

 

 黒いレインコート、大きな瓶底眼鏡に、うっすらとしか見えない輪郭は殆ど闇色で見えない。巨体で、腕の一振りで男子生徒を教室の隅へと吹き飛ばす。

 

 まったくの正体不明の意味不明。俺が知っている知識で絞るにはあまりにも情報が少なすぎる。候補を絞るというにはあまりにも心当たりがなさすぎる。新種の新発見の化け物と定義づけたくなる。しかしそうじゃない、そうではないのだ。

 

 きっとあの化け物にはナニカがあって現れた。経験したすべての心霊体験は何らかの理由があり、何らかの原因があるのだ。そのナニカさえ判れば、対処法の一つや二つは見つかるかもしれない。勿論、正体が判ったときには既に手遅れだという逸話もある。

 

 何があったのか、あの化け物が現れた理由は。もしもあの場所、奉仕部に居る存在ならばもっと前から話や事件が起きている。そうじゃない筈だ。俺と雪ノ下が出会ったからなのか? 俺と雪ノ下の関係性を考えたときに繋がる要素など何も無い。

 

 そもそも何故、俺や雪ノ下が狙われたのか、巻き込まれたのか。

 

『八幡くん……八幡くぅん……』

 

 めそめそと泣きべそをかく女幽霊。なんとも似合いすぎだろ。俺は雪ノ下の様子を伺いながら――力の抜けた指先から抜け出す。音を殺したまま個室から出て、声を殺して幽霊に話しかける。

 

「……九音」

 

『ッ!? ~~~~ッ!』

 

 判りやすいくらいに顔を弾ませて――頬を膨らませていた。

 

『ど、どうしたんだい! 急に話しかけたりして! さっきまではずっと無視してたのに! もしかして、もしかして、もしかしてぇ? いまさら私の力を借りたいっていうのかい? まさか使い勝手のいい女扱い? 信じられないや。ほんっとーに君って、最低のクズだね!』

 

 詰るような言葉は隠しきれてない笑みが説得力を消す。

 

『私以外の女に優しくして、女子と男子トイレに二人っきりでこもるなんていかがわしさ以外の何ものにも聞こえないようなことを私の目の前でしておいて、その上で私にお願いするの? 本当に屑だね、最低だね!』

 

 楽しそうに俺の周囲を廻っては不満をここぞとばかりに伝えてくる存在に俺は懇願するしかない。希うしかないのだ。縋ることしかできない俺には言葉を使ってお願いするしかないのだ。

 

『なら、嘘でもいいからさ。囁いてよ、愛を』

 

 九音の甘ったるく強請る声。何度と、何度として彼女にこの言葉を放っただろうか。どうしようもなく、自分の安全のためにいつからか俺は彼女に何度も嘘で塗れた言葉を放ち続けてきた。それは欺瞞で、嘘が嫌いで、本物なんて欠片もなく、心の篭ってない心にも無い言葉で。

 

 ――あぁ、頼む。九音、俺を助けてくれ、好きだ、愛している。

 

 こんな軽薄な言葉を使う自分が嫌いだった。命惜しさに自分を曲げてしまうことが嫌いだった。変わってしまうことが、前に進むために醜く汚れる自分の舌先を切り落としたかった。自分の命を守るために危機に陥ればどんなことでもしてしまう自分が嫌いだった。

 

『んふっ、んふっ、いいよぉー、やったげるよぉ。愛する八幡くんのためだもん。君がたとえ、別にあの女に気を使うのが気にいらなくても、それが別にあの女のためではなく、八幡くんのためじゃないって判ってたからねぇー……んふふ、あの女いい気味だよねぇ、無様だよねぇ。最初っから脈無いのに勘違いしちゃってさぁ、思い出しただけで笑う、うぷぷぷぷ』

 

 満足とばかりに飛び立ち、その姿を見送る。

 

 しかも――こいつ、解っていながらあんだけ雪ノ下に呪詛やら何やら言っていたのか。

 

 数分もしないうちに戻ってきた九音は空中に浮かびながら、俺の胸に猫のようにじゃれつく。そして首に手を回してはぶら下がるような体勢へ。重なるような存在は質量は存在しない。欠片も、微塵たりとも。にも関わらず俺の動きに合わせてぴったりと生きた人間がじゃれつくように憑いてくる。

 

『なぁーんにもいなかったよ。周辺どころか、一階も、二階も、三階も、四階も。校舎をくまなく見てきてなんの影も見えなかった』

 

 どういうことだ? 

 

 雪ノ下を起こすべきかまず悩む。だが、万が一を考えればここがセーフティーであったことはこの数時間で理解できている。あの化け物は『男子トイレ』には侵入できないのだろう。無論、こんなものは推測で裏づけなんてあるわけもない。しかしながら、この状況で裏付ける証拠など現時点での感覚論で十分だった。

 

 追い詰められていた俺たちを見逃したあの出来事はその推測を強める。俺たちはこの場所から逃れることは出来なかった。完全な袋小路。それでも見つからなかったのはあの化け物が男子トイレが捜索範囲外ということだけだ。

 

 何故だ?

 

 俺は何かを勘違いしているのか?

 

『くふふ、戻ってきたときにあの女が居なかったりして。それはそれで面白い展開だね』

 

 どこまでも雪ノ下の不幸を願う幽霊を引き連れて、ゆっくりと男子トイレから飛び出す。ひんやりとした廊下はたいした光源がないせいか自分の両目だけが頼りになる。うっすらと入る月明かりを頼りに廊下を息を殺しながら進む。

 

「……まずは奉仕部を目指すか。雪ノ下の荷物もあればアレを最初に見た場所だからな」

 

『そうだね、彼女の荷物を確認するべきだよ。女の子の秘密を探るなんてやったね! 八幡くん! 友達減るぞ! あっ、いっないか! あっははは』

 

 嬉しそうに響く笑い声。こんなことをばれれば友達どころか学校を追い出される。噂など底値で、評判など最低値。むしろこれから上がるだけと嘯いて見れば、なんとも明るい未来だろうか。

 

 リノリウムの床をゆっくりと進む。自分の真下から響く音が暗い空間の中でやけに大きく響く。重ならないその音が孤独を肯定し、同時に安心感を与えてくれた。

 

 そうして中間地点、無人の玄関ホールへと辿り着く。

 

 音がした。何かがすり抜ける音が耳に入ってくる。幻聴の可能性もよぎったが、耳をすませば再び聞こえる音の方へ近づいていく。

 

「隙間風……か」

 

 正体を見破って安堵の溜息を吐く。しかしながら疑念がわきあがってくる。その疑念を晴らすべく、俺は扉へ触れた。

 

 ――ガチャッガチャ

 

 そうなのだ。吹くわけの無い風、吹いてなどいなかった風。俺の勘違いで気づかなかっただけではない。

 

 あの時、絶対にこの先にいけないと感じた壁は、いまやガラスを蹴破って脱出できる。いよいよもって頭が混迷を極めていた。

 

 何故、急に? 終わったのか? 出てもいいのか?

 

 元々、ナニか勘違いしていたのではないだろうか。

 

 俺が巻き込んだのではなく――巻き込まれたのか?

 

 今まで勝手に加害者ではないにしろ、少なくとも原因の一つであったと思い込んでいた。そうではないのか?

 

『こういう状況だと、もしかしたらあの女、あの雌猫自身が化け物、怪現象の正体の可能性を感じちゃうよね』

 

 クスクスと嗤うつぶやき。それは雪ノ下雪乃が化物、正体不明、亡くなっている。そして先程まで一緒にいたのは――

 

『くふふっ』

 

 いやありえない。過熱する妄想をかきけす。水を差す。それはありえないと冷静に振り返れば判るはずだ。

 

 この女幽霊がそんなことはありえない証拠なのだ。もしも雪ノ下が怪現象そのもので近づいてくるのなら――足山九音が見逃すはずもない。黙っているわけもない。俺がグラビアアイドルを見てたら間に入って邪魔するくらいに狭量な女だ。自分の所有物に近づく同類を見逃すはずがないのだ。

 

「冗談はよせ、雪ノ下は生きていた。間違いない。怪物、怪現象の類にも見えない」

 

『ちぇっ……つまんないの。そうだよ、そのとーりだよ。あの発情雌猫は生きてるよ、生者にして生存者。毎度のこと、死に掛ける八幡くんに比べて五体満足でピンピンな健康優良児さ』

 

 唇を尖らせている割には目が笑っていた。ちょっとした悪戯なのだろう。

 

 しかしながら、そうなるとなぜ、今の時点でこの扉が開けるのだろうか。

 

「……雪ノ下がいないから?」

 

 その瞬間に紐解ける。

 

 間違いにも大間違い。半ば今までの経験上で化け物に追われることが多かったために起きた勘違い。自意識過剰で赤っ恥。物語の主役の顔をして、物語の原因の面をしておきながら実は完全な脇役、オマケ。

 

 そもそもが、だ。初めから化け物は雪ノ下を狙っていた。俺が襲われたと勘違いしたのは吹き飛ばされたからだ。違う、それも悪意や害意なんてものではない。ただ、俺が進行上に立っていたから払い除けただけ。

 

 雪ノ下を狙う存在、雪ノ下を襲う存在。

 

 俺は全速力で奉仕部へ向かう。リノリウムに反響する靴音。そして――うっすらと聞こえ始める機械音。

 

 その音は目的地に近づくにつれて大きく鳴り続けていた。一定の音を出しては切れ、別の音を出しては元の音へ。二種類の音が交互に鳴り渡る不協和音に俺は一つの結論を導き出す。

 

 開けっ放しの奉仕部後方の扉から音源を探す。

 

 割れたティーカップに水溜り。そして教室の隅に吹き飛ばされた机の横。

 

 俺はゆっくりと近づき、目を凝らす。鞄だ。

 

 おそらく、雪ノ下の鞄だ。音源がそこからずっと鳴り響いている。

 

 ――rrrrrrrrrrrrrr

 

 ――rrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

 ――rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

 そして、俺は音源である携帯電話を拾い上げた時におおよその概観を掴む。

 

『なぁーる、ほぉーどぉーねぇー。こりゃ、簡単な話だよ、八幡くん。もう一度言うけどさ、いや何度でも言うけどさ。君が雪ノ下雪乃を見捨てれば助かる。今回の化け物はそういう存在だよ』

 

 肩から覗き込む九音の言うとおり。俺の出した結論も似たようなものだった。比企谷八幡が簡単に助かる道は唯一つ、雪ノ下を見捨てればいいだけだった。今度は悪魔だけではなく、理性すらもその答えを肯定していた。合理的で冷徹な囁きは最も簡単な解決方法を提示する。

 

 俺だけは助かる。ただし、それは雪ノ下の墓標の上で。

 

 もしも見捨てればどうなるだろうか。彼女がこの問題を自ら解決できるとは到底思えない。いや、出来ないといっても過言ではない。もしも見捨てればどうなるか? 命はとられずとも発狂状態、植物状態で見つかる。そんな出来事を俺は知っている。行方不明となり死体すら見つからない噺を俺は知っている。呪いに、化け物に殺されて無惨な死体で見つかる可能性も十分にある。

 

 結論として碌な結果など見えやしない。

 

 握り締めた携帯が震えて消える。そして再度としてけたたましい音を鳴らして震える。薄暗い世界でディスプレイに映る『非通知』の文字こそが怪物の正体。

 

 運動靴の五回分。リコーダーを持って帰る羽目。破かれた衣服、美しい少女の裸体。

 

 総武高校において雪ノ下は有名人だった。人見知りな俺が知っている程に。けれど俺は本質を見抜いてなかったんだろう、想定が甘かったのだろう。

 

 雪ノ下の神秘性、話題性、美しさは遥かに超えていたのだ、俺の想像を、俺の聞いた噂話を。少なくとも化け物が産み出される程度には、化け物に思われる程度には。

 

『着信が二一七件に、メールが五二七通。おぉ、怖い怖い。なんとも身の危険を感じちゃうね』

 

 九音の呟きが答えを表す。語らずとも雄弁に、明言せずとも明確に。ディスプレイに映る文字たちが正体を語っていたのだ。

 

 だから、これは。これは――雪ノ下雪乃とストーカーに纏わる御話だ。




※今回推敲する暇がありませんでした。時間がある時にします。
※次回投稿予定日は一週間後の二月十一日です


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春先【結末】

 ストーカー。

 

 ストーキング行為、付き纏い行為を行う人物。しかし探偵の張り込みなどは該当しない。そもそもが英語のストークという動詞に接尾語をつけてストーキング、ストーカーとなる。

 

 ならば大本たるストークという動詞が何を意味しているのか。人や動物を捕らえたり、害を与えるために忍び寄るという意味合いであるらしい。

 

 捕らえる、害を与える。まさしく現在、雪ノ下雪乃が総武高校で味わっている恐怖体験そのもの。

 

 日本では付き纏い行為の意味合いで認知されている。一般的なストーカー行為は「恋愛感情」を伴う、もしくは「恋愛感情を果たせなかったがための復讐行為」という認識ではないだろうか。少なくとも先日の雪ノ下との会話ではそのつもりで答えていた。

 

 そして、今回の非日常、異界化した際に現れた化物も規則正しく踏襲しているように見える。

 

 正しくストーカー。正しく付き纏う者。間違った行為を正しく行っているという笑えない。俺はそんな状況下で巻き込まれた普通の男子高校生。ならば、そのストーカーという存在は人間であるのか。答えは否。その部分だけが今回の味噌であり、雪ノ下雪乃という少女を追い詰めた要因。決定的な違いで決定的なまでの間違い。

 

 彼女を想う化け物が男子という害虫が近づいたために顕現したに過ぎない。むしろ俺は切欠でしかなく重要なパーツですらない。代わりはいくらでもあるだろう、必要だったのは俺の性別のみで股間にある代物くらいであっただけの御話。もしもこれが普通のストーカーならば警察に連絡をしてお終いである。そして普通じゃないストーカーであるが故に有名な都市伝説を踏襲するかのように携帯を使って連絡を取れば御仕舞ということも十二分に起こりうる。

 

 アメリカには逆探知という都市伝説が存在する。

 

 ベビーシッターのアルバイトを始めた女性の御話だ。ある日、彼女に一つの仕事が舞い込む。とある会社を経営する夫婦の子供を預かるといった内容の仕事。引き受けた彼女は夜に二階で子供を寝かしつけてテレビを見ていた。すると一本の電話がかかってくる。受話器からは不気味な声で『殺してやる……』と告げられ、切れる。恐怖から彼女は急いで警察へと電話した。電話を受けた警察は逆探知を仕掛けるので次に掛かってきたら電話を引き伸ばして欲しいと指示する。女は警察の指示に従い、かかってきた電話に出ては相手に必死に話しかけた。しかしながら不気味な声の主は『殺す』『死ね』といった理解の及ばない言葉ばかり。とうとう耐え切れなくなった彼女は電話を切る、そして続けざまにベルが鳴り響いた。恐る恐る、電話口へ耳をあてると――警察からの電話だった。耳に飛び込んできたのは怒号だ。警察の声はまるで怒鳴るかのような代物。そして彼女の耳に入ってきた言葉は。

 

 ――早く逃げてください! 今、男はその家の二階に居ます!

 

 その後、警官がかけつけた頃には既に子供たちは皆、息絶えていた。子の屍の傍らで不気味に笑う男が一人。彼はナイフを片手に立ち尽くし哄笑していたそうだ。

 

 男の背景はベビーシッターを依頼した夫婦の会社に勤めていた元従業員。失業して精神を病み、凶行に至ったという。

 

 この御話にはストーカーはでてこない。出てくるのはベビーシッターと狂人と警察。しかしながら、逆探知というお話を元に一つの都市伝説が日本に生まれている。それが狂人をストーカーに変え、ベビーシッターをストーカー被害者に変えた都市伝説。

 

 ストーカーの都市伝説。現代に産まれた怖い噺。この都市伝説の通りに踏襲するのならば警察に連絡、助けに連絡を入れるのは最悪の悪手であることは想像に容易い。連絡をした時点で詰みなのだ。その時点で既に近くに居る、襲われる直前の再現になってしまう可能性が十分にある。少なくとも世間の常識とは異なる、常識を疑わなければならないような状況下では罷り間違っても、普通ならという基準で楽な選択をしてはならない。

 

 携帯のバイブレーションが奉仕部がある空き教室に響きわたる。出ないことが正しいとはわかっていても、煽る恐怖が通話ボタンを押しそうになる。俺は決してボタンを押してはならないにも関わらず、抗えぬ魔力かのように指が動いていく。

 

「……ッ!」

 

 怪人と呼べる化け物。雪ノ下に執着する化け物をどうすればいいのか考えて足が止まる。

 

 九音の囁く通りに見捨てればいい。そうするだけで俺の命は助かるのだから。ストーカーの化け物は雪ノ下を捕まえて、俺は生き残れる。双方にメリットのある提案である。ただし、そこは雪ノ下雪乃という少女の亡骸の上。命まで奪われるかなんてわからない。しかしながら過去の経験からは碌な結末しか想像できない。

 

 どれも悲惨であり惨たらしい。巻き込まれた俺が、俺の最期が、そのような形になるというのが怖くて仕方がない。見てきたからこそ、見知ったからこそ、そんな結末だけは嫌だと恐怖に心が叫びをあげ、軋み始める。だから雪ノ下さえ見捨てれば自分の安全が保障されるとするのならば、それを選んで当然だろうと過去の経験が、理性が甘く誘う。同時にこの場で最も信頼している悪霊が『それでいい』と肯定してくる。

 

 なんだかんだ言いながらも最後は助けてくれる幽霊がそうした方がいいと提案してくるのだ。口では『死んだら娶ってあげる』だの『死んだら全国のお墓にハネムーン行こう』だのと戯言を抜かす幽霊が俺を生かす最大限の方法を提示してくるのだ。俺が、俺だけが助かるためなら雪ノ下を見捨てるべきだと言うのだ。だから――

 

「悪い、九音」

 

 だから。だから――零れた謝罪は最大限に身を心配する相手への意見を、提案を、思いやりを棄却したから。自分の身すら守れない俺が危険に飛び込もうとするのだから。言葉に出した瞬間に惹かれる指から力は抜け、魔への引力は完全に消え去る。

 

『ほんっと、八幡くんはさぁ……なぁんで、死に急ぐかなぁ。別に君が死んでも私がつれていくけど。君の苦しむ顔も嫌いじゃないけど。君の血を飲んでみたいとも、君の髪の毛を食べてみたいとも、骨までしゃぶりつくしたいとも思うけれども。その死に急ぐ理由が他人のためだなんて、私のためじゃないだなんてイライラしちゃうんだよね。ねぇ、わかってる? 嫉妬しちゃうんだよ』

 

 わかっている。好かれる理由も、愛される理由も何一つとして理解していないけれど、何一つとして心当たりなんてないけれど――足山九音が比企谷八幡に抱く執着心は痛い程に感じている。それこそ悪霊らしく、幽霊らしく。未練がましく恨みがましいほどの剥き出しの感情をぶつけられて鈍感に惚けるなんてこと出来やしない。

 

『……ほんと、惚れた弱みだなぁ。八幡くんを止める手立ては私にないけれど、八幡くんに協力してあげるくらいの力はあるからね。手伝ってあげるよ、八幡くん』

 

「あぁ、頼む」

 

 俺には何の力も無い。幽霊を浄化することも出来なければ、化け物に対する知識も半端でいつも命からがらに汚く生き延びてはその度に足山九音という少女に頼り切りだった。漫画のように、アニメのように特別な力が何一つとして持たない俺で、ドラマや小説のように特別な力を持っている人も居ない冷たい現実で。只の人間には抵抗など出来ない領域で。それでも、願えば。

 

『おぅけぃ、なら化け物が出たら殿は任せてよ。足止めくらいはしてあげる。幸いなことに鈍間で此方に気がつかない間抜けなら幾らでも邪魔してあげるよ』

 

 願えば時間を稼ぐことができる。他力本願で人任せな奥の手。奥の手でありながら、解決方法なんてものではなく、せいぜい足止め程度のこと。

 

 それでも格段に上がる生存率は彼女なしでは語れない。九音の力を借りることで俺はようやく方針を定める。一度、トイレに戻って――その瞬間に湧いた。

 

 確かに目の前に影が沸いた、。黒いレインコートがその場に現れた。

 

『八幡くんッ!』

 

 九音が叫び、仕事をしていない蛍光灯が割れては舞い散る。降り注ぐガラス片は巨体へ迫る。

 

 ――ォォォォォオオオオオオッ!

 

 呻き声をあげて上空より降り注ぐ破片から身を守っていた。頭を隠すように両腕は動かされ、手が邪魔で通りにくかった廊下の端を俺と九音は縫うように通り抜け、走り出す。

 

 トイレに居た雪ノ下に何かあったのか、目を覚まさないだろうと、早く戻ればいいと、雪ノ下ならあの場所から出ないだろう、と勝手に高を括ったツケを払っている。どんな理由であれ、どんな言い訳であれ、俺が読み間違えたことは確かなのだ。両足に力を入れて全速力で職員室横の男子トイレを目指す。

 

 夜の廊下に響き渡る音が幾つも重なる。

 

 一つや二つなんて話じゃねぇ。地響きにすら聞こえる大きな音は三体なんかではない。廊下の角を曲がり、すぐさま俺は気がつく。

 

 玄関ホールの隅。玄関口扉を必死にあけようとするジャージ姿の少女。そして対面の廊下奥には黒、黒、黒。

 

 埋め尽くされた黒の間を縫って職員室前までたどり着くには不可能に近い。

 

 地響きは一歩、また一歩と雪ノ下に迫っていた。

 

「あ、開きなさいっ、開きなさいよぉっ! 開いてよぉっ!」

 

 涙交じりの声が耳に届く。俺は雪ノ下の腕を掴む。

 

「ひっ!?」

 

 短い悲鳴。雪ノ下の表情を確認することなく走り出す。

 

「比企谷、くん……」

 

 俺は玄関ホールから再び戻り、二階へ続く階段へ。しかしながら、踊り場から左右両方向を見ても黒の巨体が近づいてきている。上しかない。

 

 再度、階段を上り、三階へ。そこには先回りしていた九音の姿があった。

 

『八幡くんっ! どっちも駄目ッ! 屋上しか道がない! もう他の階層にもうようよといつの間にか現れてるッ!』

 

 九音の言葉に舌打ちが毀れる。雪ノ下の手首を掴んだまま、最終ゴール地点へ駆け上る。もはや逃げ場などない屋上へと足をすすめる。

 

 屋上の扉はドアノブが回る。けれども鍵がかかっていて開くことが出来ない。無意味に何度もガチャガチャとまわしてみるが開く気配は一向に無い。

 

 ――rrrrrrrrr

 

 鳴り響く携帯が焦燥感を強める。

 

「ひ、比企谷くん、その携帯、私の……」

 

 雪ノ下が俺の持っている鞄が自分のものであると気づいたようだ。

 

「わ、私、信じていたのにっ……あなたが居てくれるって……許さないって、言ったのにぃ」

 

 恨み言と泣き声。その二つに反応する暇も無い。屋上の扉を何度も、何度も、何度も蹴る。歪み、軋みをあげていた扉を蹴破る。

 

 小さく嗚咽をこぼす少女の手をとり、屋上へ入る。幸いなことに屋上にはレインコートは一つとして見えない。

 

 だが、下から追われている以上、このままでは不味い。隠れる場所を探さなければ――給水塔ッ。

 

 入り口の真上にあるであろう給水塔を思い出し、入り口横の梯子へ。先に雪ノ下を押し込み。

 

「昇れッ! 早くッ!」

 

 最早、命令系統の単語しか伝えることができない。雪ノ下はカツンカツンと上っていき、俺は階段下を警戒しながら雪ノ下が上り切るのを待つ。

 

「――ぁ」

 

 上り終えたのだろう。俺は梯子を急いで昇りきり、目に映ったのは雪ノ下の姿。

 

 彼女はへたり込んで座っていた。決して広くは無いスペースで絶望の表情を浮かべている。

 

 視線の先には黒の海。死角で見えなかった黒の闇。闇色の人ごみ。怪人で埋め尽くされたグラウンドが目に届く。何百と、何千と彼女に対する怪人が此方を見上げていた。

 

 背後から聞こえる携帯の着信音も目の前の絶望の海に比べれば可愛いものだった。梯子から降りた先の携帯音が消える。そして再度、音が鳴り響く。

 

「こんなの……逃げられっこないじゃない……」

 

 眼下に広がる光景は失望するにも絶望するにも十分であった。心が折られるにはあまりにも強い圧迫感。

 

「……雪ノ下」

 

 座り込む雪ノ下。蹲り泣いている様はまるで普通の女の子。あの雪ノ下がどこにでもいる少女のよう。

 

 毒舌を吐くこともなく。強気な姿勢を見せることもなく。負けず嫌いを前面に出すこともなく。凛とした立ち姿も、意思の気高さもなく。

 

 どこにでもいる、普通の、普通過ぎる女の子がそこには座っていた。

 

「……どうして」

 

 震えた声から出た問いかけに耳を傾ける。

 

「どうして、うそついたの……」

 

 まるで幼子のような問いかけ。主語なんて必要とせず、それでも生きている人間が俺だけなのだから俺に向けられた責め。まるで普通の女の子が彼氏を問いつめるかのような詰り方。

 

「……寝てる間に雪ノ下のバッグを取りにいくつもりだった。走ることになったらひとりの方が逃げ回れるから」

 

「……しんじてたのに、いっしょにいてくれるっていったのに」

 

「すまん……」

 

 何が正解だったのか。何をすればよかったのか。考えてみても答えなど簡単に出ずに後悔ばかりが募る。安易に行動をした結果、追い詰められた現状はいつものように俺の間抜けさから。せめて雪ノ下が男子トイレに篭っていてくれれば、などと最低な責任転嫁が頭によぎるくらいに――ぁ?

 

 その時、俺は思い出す。

 

 当然のように考えていたその場所を。当たり前のようにセーフティーゾーンと捉えていたその場所を。職員室横の男子トイレという場所を。

 

「――あ」

 

 怪人、ストーカー、男子トイレ、濡れた水溜り、安全帯、開く屋上、そして美しく神秘的な少女。誰もが憧れる少女。品行方正で孤高の美しき少女。噂だけが一人歩きした少女。

 

 都市伝説には下地がある。何故、囁かれるようになったのか。何故、現れたのか。必ず理由が付き纏う。噂される、興味を引くだけの何かが必要なのだ。

 

 かつて人面犬という都市伝説が爆発的に流行った時期がある。一九九〇年前後に小学生相手に流行した都市伝説。顔は人間で身体は犬であり人語を話す。深夜の高速道路に現れては追い抜かれた車は事故を起こす。繁華街でゴミ漁りをしており、声をかければ「うるせぇ、ほっとけ」と返答され。また町でいちゃつくカップルを見れば罵倒する。

 

 歴史を遡れば江戸時代にも目撃談があり、梅毒治療には牝犬との性交が効果があるという流言の果てに産まれた妖怪であるらしい。そもそも何故、そんな江戸時代の妖怪が都市伝説に囁かれるほどのブームに至ったのかは定かではない。ラジオ、雑誌、漫画などと様々な憶測は飛び交ってはいるものの決め手となる情報は少ない。

 

 しかしながら、そうやって産まれたブームが目撃談を爆発的に増やし、さらなるブームへと加熱する。何故、そんなことになったのか。それは望まれ興味を持たれ囁かれてきたからだ。人を媒介にした噂話、都市伝説、口頭による伝承、人為伝承。そういったものは信じられて力を持ち、信じられて形を成す、信じられるからこそ害をなし、信じられたからこそ現れる。

 

 そして今回の一件も、雪ノ下雪乃に対するストーカーも下地がある筈であった。

 

 美人だからストーカーの化け物に追われて殺されるのならこの世は謎の変死体で溢れている。総武高校がそういったものが集まりやすい場所であったとしても雪ノ下雪乃以外にも被害者は既に居る筈で。なればこそ雪ノ下雪乃が遭遇するに至る理由がある筈で。

 

 ――あぁ、だから、これは賭けだ。確証も確信も持てないけれど、現状で出来る最後の手段。

 

「雪ノ下」

 

 俺は少女の名前を呼ぶ。いまだに眼下の光景に呆けている女の子に近づき、肩に手をあてて俺は覚悟を決める。

 

「雪ノ下――キスしていいか?」

 

「えっ?」

 

 へたりこんだまま、彼女は俺の方向へ首だけ動かして振り向く。返答など待たずに。

 

「比企谷くん、んぅッ!?」

 

 不意打ち気味に唇を重ねた。彼女の驚きに見開いていた目も、一秒、二秒と経てば静かにそっと閉じる。そして、何秒経っただろうか。唇を離せば、感じる熱が再び屋上の冷えた空気に晒される。

 

「……ひ、ひきょうもの、答えてないのに」

 

 拗ねたように呟き。屋上に辿りついていない化け物たち、眼下には見えるレインコートの群れ、鳴り響く携帯の音、どこかでガラスや電灯が割れる音。それらが全て遠くの世界のようで。

 

「……比企谷くん、あなたも一回したのだからこちらも一回仕返しするわ。目には目を、歯には歯を、よ」

 

 そういって、雪ノ下も立ち上がり、至近距離で見つめあう。

 

「ま、まっ」

 

 ハムラビ法典を持ち出す雪ノ下。彼女が何を言いたいのか理解する前に俺は両頬を押さえられる。

 

「ハムラビ法典はやられたこと以上のことはするなと書かれているけれど――」

 

 雪ノ下の唇が再度として重なる。重ねてくる。

 

 それだけではなく、ぬるりと。口の中を蹂躙するかのように舌が入ってきた。舌先で感じるのはチョコレートの味と雪ノ下の味。キスはレモン味というのはどうやら嘘であったらしい。俺は雪ノ下の味としか表現することが出来ず、そしてそれを不思議と不快には思わない。

 

「んぅ、ふっ……んんっ」

 

 雪ノ下のキスが上手いのかはわからない。初体験であり、比べる相手などいなかった俺は比較する等できる筈も無く。

 

 何秒と経っただろうか。自然とお互いに顔を離して、伸びては消えていく糸が先ほどまでの繋がりを示す。

 

「初めてなんだから、初めてだったのよ、ひきょうもの」

 

 ポツリと呟かれた言葉に俺はどう返していいのかわからなかった。

 

「ずるいわ、あなた。こんな時にキスをせがむなんて。断れるわけないじゃない」

 

 文句を口にしながらも、月明かりで見えた顔は微笑んでいるように見えた。

 

「……ねぇ、比企谷くん。もう一度――」

 

 その時。

 

 光が当てられる。あまりの眩しさに目を細め、そして光の次に続いて飛んできたのは――怒声だった。

 

 

 

「こらっ! お前たち、こんな夜遅くに何しているッ!」

 

 

 野太い声だった。三度目のキスに待ったをかけたのは俺の理性でもなく、目の前に居る雪ノ下でもなく、殿をつとめた九音でもなく、青い制服を着た中年の男性だった。正確に述べるのなら夜間警備の仕事人であり、俺はここから先、どう言い訳するかにひたすら頭を悩ませる。

 

「えっ?」

 

 きょとんとした雪ノ下の声。

 

 悪夢から目を醒ますのはキスが定番である、とそんな綺麗な御話ではない。ましてやキスをすることで物語の主人公やヒロインの面をするつもりも毛頭ない。これはそんな愛が溢れる御話なんかじゃないのだ。

 

 俺がやったのは――雪ノ下雪乃という少女の存在価値をひたすらに下げただけ。それだけに過ぎない。

 

『……八幡くんさぁ! なにがどういうわけかぜんっぜんわっかんねーけど! わっかんないけど! ともかくこういう解決の仕方は本当にどうかと思うよ! お前さぁ!』

 

 そしていつの間にか追い憑いていた幽霊。どこから見られていたのかは謎で、どうやら大変ご立腹であるらしい。半切れで君ではなくお前呼ばわり。本気で腹を立てている証拠である。本当にいつ来たのか気づかなかった。

 

 怒る警備員に、憤る幽霊、困惑を浮かべながらもどこか不満そうな雪ノ下。

 

 しかし、こんな局面いつだって俺は乗り越えてきた。なんなら得意分野。現実世界で俺に出来る最強のカードを持っている。

 

 任せろ、謝ることに関してなら俺はプロフェッショナルだ。

 

 

 

~~~~~~~~

 

 

 

 長く辛い戦いであった。まさか俺の渾身の土下座を持ってしても家に電話されることになりかけるとは。そんな俺を哀れに思った女幽霊が架空の不良を作り出して俺たちは解放された。

 

 具体的には窓ガラスが割れる音を聞いた警備員さんが俺たちと割れた現場を天秤にかけて解放してもらっただけ。俺たちに最後っ屁のように二度とするなよ、まっすぐ帰りなさい! と言っては慌てて居もしない架空の不良生徒を探しに行った、実に忍びない。今度匿名で何かお菓子や飲み物でも差し入れしようと思ってしまう。いや、ほんと、ごめんなさい。

 

『感謝してよねぇ。まぁ、あの警備員さん、ねちねち煩かったしね。何が最近の若いものは、だっつーの。お前も若いころやんちゃなことたくさんしてきたんだろっての。これだから大人ってやだよねぇ』

 

 流石にここまで開き直ることは出来ない。警備員の人も職務上必要なことだろうし、そもそも此方の荒唐無稽な噺など出来るわけもない。だから残っていた生徒が入っちゃいけない屋上に時間を忘れて盛っていたという結論を否定することが出来なかったのだ。なお、警備員さんは雪ノ下の名前を聞いた瞬間に青ざめ、どうしようと頭を悩ませていたようにも感じたが何故だろう。

 

 俺は雪ノ下のパーソナルデータを大まかにしか知らない。家が金持ちで成績優秀くらい。もしかしたら、思っていたよりも雪ノ下という名前はいろんな場所に顔が効くのだろうか。

 

「ねぇ、比企谷くん。アレらは何だったのかしら……」

 

 異常な体験、非日常。壊れた筈の蛍光灯も、蹴破った屋上もすべては何事もなかったかのように元通り。

 

「さぁな」

 

 からからと自転車が回る音だけが帰り道に木霊する。といっても俺ではなく雪ノ下の帰宅路だが。

 

「もっと真剣に考えられないのかしら? それとも頭を使うという当たり前のことができないの? それなら、ごめんなさい。貴方の低脳っぷりを甘く見ていたわ」

 

 呆れたような目と罵倒が横を歩く雪ノ下から飛んでくる。切れ味は完全復活。むしろ、これで切れない奴いるの? ってな具合の尖りっぷり。

 

「考えてもわからないものを考えない主義だ。むしろ効率的といってほしい」

 

「あなたのその向上心のなさには呆れを通り越して軽蔑すら覚えるわ」

 

 月下の中、歩く雪ノ下の表情は呆れながらも声色はどこか楽しそうで、地に足がついていないような雰囲気に思える。

 

「ねぇ、比企谷くん。私たち――付き合うってことでいいのよね?」

 

 音が止まる。なんなら呼吸まで止まる。女幽霊である九音ですら驚きで止まっている。

 

「……いや、待て、雪ノ下。これはあの変な体験で勢いで盛り上がったあれこれに過ぎない。冷静に考えたら役不足だ。俺なんかにとって過ぎたるものだよ。そう、だから冷静に」

 

「あら、あなた。この私にキスをしておいてただで済むと思っているのかしら」

 

 ただより高いものは無い。けれどもただで済むのなら越したことは無い。

 

「そ、その話は、あ、明日にでもしよう」

 

「逃げるの?」

 

 その通り。逃げに徹する、三十六計逃げるに如かず、逃げるに決まっている。俺が明後日の方向へ向いて気まずそうに目を逸らしていると雪ノ下も諦めたのか溜息を吐く。

 

「比企谷くん、今日は諦めてあげる。けれどもお詫びを要求します。携帯電話の番号を教えなさい。あとアドレスも」

 

 俺はそっとその言葉に対してさっと目を逸らす。

 

「お、覚えてない」

 

「嘘ね、いますぐノートの切れ端にでも何でもいいから書きなさい」

 

 立ち止まり、雪ノ下の方を見れば両の瞳は爛々と輝いている。こ、殺される……

 

 俺はしぶしぶと鞄からルーズリーフを取り出し、携帯番号とアドレスを記入。上機嫌になった雪ノ下をマンションまで送り届ければミッションコンプリート。

 

 オートロックの玄関口前で俺たちは解散となった。

 

「本当にこのまま病院にいかなくてよかったの?」

 

「あぁ、明日でも大丈夫だろ、幸いに今は痛くねーし……」

 

「そう、ジャージはその、洗って返すから……一応、明日、病院が終わってから連絡頂戴」

 

「あぁ、じゃあな」

 

 俺はそのまま帰ろうとすると、帰り際に。

 

「ひ、比企谷くんっ! ま、また明日」

 

 俺はその言葉に後ろ手にふって自転車置き場へ。そして、雪ノ下家のマンションから五分くらい進んだところで九音が再起動しては深刻な顔をして一つの結論を口に出す。

 

『八幡くん、悪いことは言わない、これは嫉妬でも何でもないからね。あの女、思ってたよりもヤバいよ……付き合うってなんだよ、お前、さっきまで死に目に会ってたんでしょ、何考えてんの、こわぁぁ』

 

 九音のげんなりとした顔。恐怖から吐き出された意見は間違っていない。けれども足山九音のヤバさを俺は理解しているのでお前も似たようなもんじゃねーかと脳内だけで突っ込みしておく。

 

『んで、さ。八幡くん、私は全体像の半分くらいしか今回の件を理解していないんだけど、どうしてあの異界から帰ってこれたの?』

 

 俺はその疑問に答える。

 

 ストーカーの正体について。中りをつけたストーカーの構成したものたちについてを。

 

 まず最初の勘違いを思い出そう。最初期の俺は自分が雪ノ下を巻き込んだと勘違いしていた。奉仕部前で聞いた音、薙ぎ飛ばす腕の一撃。この事実から俺は『俺と雪ノ下』が怪異、いや怪人に襲われていると錯覚した。

 

 次に男子トイレ。俺たちが逃げ込んだ先の男子トイレはセーフティーゾーン。何故、安全なのかは後に語るとして、この事実があったからこそ俺は目処が立った。

 

 それから雪ノ下と離れた時に急に出入り口が開いた仕組みについて。ここで俺たちは一つ目の勘違いを訂正した。俺は巻きこんだのではなく、巻き込まれたのだと。

 

 そして奉仕部に忘れ去られていた携帯電話。着信履歴や着信メールの数により俺は今回の黒いレインコートの正体をストーカーに纏わる話だと中りをつける。

 

 そこで本題に入ろう。ストーカーを構成したものについて。

 

 根本の勘違い、根本の思い違い。俺は途中で雪ノ下が原因でストーカーが産み出されたと想像した。もっと言えば雪ノ下が何かをしたからストーカーが湧いたのだと思っていた。しかし事実は異なる。そうではない。そうじゃなかったんだ。それこそが間違いで勘違い。最も理解しなければならなかった問題点。

 

 雪ノ下雪乃はただの被害者である。

 

 ただ綺麗で美しかっただけで、ただ神秘的であっただけで、ただ孤高であったに過ぎなかったのだ。だからこそ惚れられた、だからこそ囁かれたのだ。化け物に? いいや違う。そう、それもまた大きな勘違い。雪ノ下は異形に好かれたわけではない。雪ノ下に惚れたのは人間なのだ、人間で凡俗でどこにでもいる男子高校生達が雪ノ下雪乃を好きになっただけだ。

 

 化け物を作り上げたのはその男子高校生の想いだ。だから逆なのだ異形は雪ノ下を好きになったわけではない、好きになったが故に雪ノ下への異形が産まれたのだ。不特定多数の雪ノ下に対する情念がストーカーという化け物を産み出したにすぎない。故に群体だったのだ。一人ではなく測定不能。

 

 だが、どうして雪ノ下だけが? それは彼女の秘匿性にある。それこそ噂の正体、雪ノ下に関する噂を俺は耳にしたことがあった筈だ。そして実物と会って、噂の張本人かと疑ったほど。噂だけが一人歩きして、噂だけの少女が強く思われて現れた。想いが形となり、化け物を産み出した。孤高である、孤独であるとは何を囁かれてもおかしなことなどなく、一人でいることはその神秘性を強めることとなる。

 

 だから引き金は、やはり俺との邂逅なのだ。雪ノ下雪乃に近づく男子生徒を許せるわけがなく、暴走した想いは化け物となり異界と化した。

 

 それでも俺が助かったのは想いの原泉が雪ノ下へのものだったからだろう。だから異形は切欠の俺なんかよりも雪ノ下を優先した、その劣情を、その下卑た想いを優先したのだ。その証拠が縦に切り裂かれた彼女のブラウス。

 

 しかし、最初に襲った時に化け物にとって不都合が一つだけ存在した。それが水溜りの正体。

 

 俺は雪ノ下の鞄を取りにいった後に化け物の真横をすり抜けたが、その時一つの事実に気づいていた。それは化け物が濡れていないという事実に。レインコートを着ているから濡れているなどというのは先入観で、あのレインコートは姿を隠すため、顔を隠すための代物。だから濡れていなくても不思議はない。用途が異なるのだから。

 

 だが奉仕部の部室の中で出来ていた水溜りはどう説明するのか? 零れた紅茶にしては量が多かった。だから、それは――人体から漏れ出た液体なのだ。異形と暴力。その二つの恐怖から失禁をするなど普通に考えて有り得ること。けれどもそれは俺から見た雪ノ下で、化け物の信じる少女には有ってならないことだった。

 

 故に消火器の一撃で倒れたのだ。俺は正直、あの瞬間は拍子抜けしていたのだ。わざわざ消火器を取りにいった理由はそれが最も殺傷能力が高いからだ。教室にあった机や椅子を使えばもっと早く助けることができたのでは? と考えていたほどだ。そうじゃない、必要だったのは殺傷能力ではなく化け物の弱体化。

 

 化け物の行動特徴はそれだけではない。男子トイレに入れなかった理由も、屋上への道だけ侵入可能だった理由も――品行方正で美しい少女に相応しくないという勝手なレッテル貼りからその場所はセーフティーゾーンとなったのだろう。本来女性が入ってはならない場所、優等生が入ってはいけない場所。

 

 雪ノ下雪乃が男子トイレに居るわけも無く、学年トップの成績優秀者が屋上に侵入するわけがない。

 

 化け物の行動特徴から俺は賭けに出た。

 

 それが――屋上での雪ノ下へのキスだった。

 

 あってはならなかったのだ。彼らにとってそんなことが。夜の学校で雪ノ下雪乃がキスをするなど許してはならなかったのだ。信じる存在がそんなことをするなんて決して見たくなかったのだ。

 

 怪人が求めていた雪ノ下雪乃という少女の神秘性を粉々にした。簡単に言うなら幻滅させただけにすぎない。勝手な思い込みから創られた雪ノ下の神秘性を、神話性を砕いたにすぎない。

 

 特別棟の離れた部室で一人で居る美しく優れた少女。そんな少女が同じ部活動生、冴えない男子高校生、なんなら評判が悪く寄行する男子高校生とキスをするなんてありえなかった。そんな普通の女子高校生などではないはずだった。

 

 ストーカーが、焦がれるほどの怨念が、そんな雪ノ下を認めてはならなかった。彼女は孤独でなければならず、あまつさえキスをするなんて不埒なことをしてはならず、孤高で美しくなければならなかった。罷り間違っても部活の同級生程度に自らキスを仕掛けるなんてことは絶対にしてはならない。ましてや立ち入り禁止の屋上に忍び込んで男子とキスするなんて出来事は完全にタブーなのだ。

 

 雪ノ下雪乃の神話崩壊、神秘性の崩壊、ヒロイン性の崩壊。

 

 だから、ストーカーは音もなく消え去った。初めから雪ノ下雪乃のことを好きだと思っていなかったとばかりに。こんなビッチは初めから好きじゃないとばかりに。思い込みに願望に押し付けがましさ。

 

 皮肉なことに自分自身を一度は巻き込まれた被害者と勘違いしていた。そう思っていたが大間違い。どうやら俺は加害者であったかもしれないのだ。俺にだって雪ノ下という女の子の噂を耳にしていた。仮に俺じゃなく違う男子生徒が雪ノ下に近づいたとしても今回と同じようなことが起きえただろう。俺の信じていた雪ノ下、噂通りの雪ノ下を巡っては、想いはストーカーとなり、怪異となったのだろう。たとえそこに俺自身の大きな想いなどなかったとしても。塵のように積もった幻想神話の果てに雪ノ下を守ろうとしたのだろう。純粋ならば守ったのだろう。けれども不純物もあったから雪ノ下を手中に収めようとしたのだ。手に入れようと躍起になったのだ。例え、それが死体であったとしても。

 

『……なるほどねぇ』

 

 夜道を自転車で走る。暗い暗い世界で、俺はペダルをこぎながら思う。ストーカーに対する正しい対策とは何か、と。ストーカーなどされたことはない俺では答えられない。けれども好きな女の子一人や二人は居た俺である。恋愛における負け方になら百戦錬磨。だから、俺はその道の人間としてこう言おう。

 

 幻滅させてあげるのが一番だと。相手から諦めさせるのがいい方法だと。

 

 推しのキス画像が出回ったのでファンやめます、どこでも聞くような噺なのだ。勝手に押し付けて、勝手にそういうもんだと決め込んで。ならその期待を裏切ってやるのが一番だ。ファンをやめる? 勝手にどうぞ、とばかりに。ましてやアイドルでもなければ都合のいいヒロインなんかでもない。

 

 雪ノ下ほどの有名人が屋上でキスしていたなど、たとえ知っている人間が警備員だけだったとしてもその内、話が漏れるのは明白で。職員会議で先生から、そして生徒へ伝播し、数日中には誰かが屋上でキスしていたなんて話題がまことしやかに囁かれるだろう。普通の女の子のような。普通の女子がやっていることを。誰が誰とキスをしたなんて、誰かと誰かが夜の校舎に忍び込んでいたなんて、そんな傍から見ればどうしようもなく下らない噺がきっと総武高校に広まるのだ。

 

 なんとも下世話で、そんな下世話な話くらいが高校生には丁度いい。まかり間違っても神聖視されてストーカーに付け狙われるよりかは、よっぽど。

 

 

 

 

~~~~~~~~

 

 翌日の御話。

 

 保険証をもって病院へ行った。母親からはまた怪我するような遊びをしたのかと非難めいた視線を貰いつつ、妹からも「ほら、やっぱりお兄ちゃんの方が危ないことしてんじゃん」と非難を受けつつも何とか説き伏せては病院へ。勿論、こちらとしても言い分はあるのだが馬鹿正直に全てを話してしまえば案内先は外科から精神科に変わることは想像に容易いので余計なことなど一言も漏らさずに黙って非難を受け入れる。

 

 病院だってタダじゃないんだからね、という母親の小言にいつものように謝罪して小さくなっていたのは遥か昔、そう一時間くらいの前の話である。

 

 外科での診察はつつがなく進み、レントゲンで骨に異常はなく、外傷も所々に打ち身はあるもののそこまで酷い状況ではないらしい。異常がないことが異常ではあるのだが、そもそもが化け物相手の出来事。何があってもおかしくない。医者も何があればこんなくっきりと痕が残るのか不思議そうな顔をしていた。

 

 ちなみに残った打撲痕は脇腹ではなく鳩尾。この一年で綺麗に割ったシックスパックの頂点付近にくっきりと幾つも残り続けている形。赤黒く残るその跡は神様の朱印。本命の脇腹には痕すら残っていないのに、いまだに消えない霊障は流石は神様と戦いてしまう。やはり持っているモノの桁が違う。

 

 病院が終わり、自転車に跨っては次の目的地である携帯ショップに。なんか学校とか行かなきゃいけない気がしたけど、多分、完全に気のせい。隣に居る幽霊が真面目くさって『学校に行きなよ……』とかいうが、そもそも今日は既に学校に行く気は無かった。もはや断固として学校に行かないとまで主張をする。堂々とサボりを公言すれば呆れている霊ではあったが『それなら、デートでいっか』と切り替えがすんだらしい。

 

 それからお昼にらーめんを食べて、本屋で面白そうな本を見繕い、近くの公園にあるベンチに座って読みふけては時間を潰した。残るはエピローグのみと腕時計を確認してみれば帰宅するにはいい頃合であったため、続きは寝る前にでも読むか、と帰る準備をして帰宅路を自転車で辿る。

 

 なんて平和すぎる一日だったのだろう、と。

 

 毎日がこんなに平和ならな、と思わざるを得ない。というかさすがに連日酷い目に遭いすぎでしょ。むしろ一日くらいで全然リカバー出来ないんですが。もう一日くらいさぼってもいいわ、なんなら。完璧なりろん武装である。俺なら納得しちゃうね。けれど、同じことを平塚先生に言ったときに彼女が納得してくれるかと聞かれれば絶対にノー。

 

 あー、明日なんて言い訳しようかと憂鬱になってくる。そもそもが朝のうちに学校へ病院が終わってから行きますと連絡はしていた。完全に嘘をつく形にはなるので申し訳ないと思う。

 

 しかしながら言い訳させて貰えるなら朝の途中までは行くつもりではあったのだ。けれども病院を出たあたりでお腹が空いてらーめん食いてぇな、と思っただけ。嘘をつくつもりなんて無かった、結果として嘘をついた形にはるので大変申し訳はないと思っており、今後このようなことはないよう注意して日々を過ごすのでご容赦ください。完璧な言い訳だ、勝ったな、これは。

 

 勿論、有言実行はする俺である。注意はするつもり。実行? いやー、それはちょっと難しいかもしれません。そんなわけで対平塚先生への言い訳を考えていればあっさりと家へ辿りつき、小町の「おかえりー」という言葉に対して重なる声で「ただいま」と答え部屋へいそいそと戻る。

 

 鞄から新しい文庫本を机の上にだし、ついでに代理の携帯を取り出した。学校からの連絡に出れないよう護身として電源を切っていたので入れ直す、立ち上がりの遅い携帯を乱雑に机の上へ。

 

 とりあえず、飯の合間に何かテレビでも見るかと階下へ降りようとした瞬間。

 

 ――rrrrrrrrrrrrrr

 

 ――rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

 けたたましく鳴る着信音。

 

「……電話とか珍しいな、やっべ、先生とかだったらどうしよう」

 

 連絡先が家族と学校くらいな俺である。電話が鳴るなんて珍しい出来事。手に取った瞬間にタイミング悪く切れて、着信履歴を確認する。

 

 ――rrrrrrrrrrr

 

 ――rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

 再度として鳴り始める。背中の汗腺が一気に開く。

 

『……で、出ちゃ不味くない?』

 

「いや、出ないほうが不味くねぇか?」

 

 俺はとりあえず部屋のクローゼット、ベッドの下を確認して通話ボタンを押そうとした瞬間に再度として切れる。そして画面には――不在着信567件、新着メール527通。

 

『いやいやいやいや! まずいってこれ! 絶対に出ちゃ駄目だからね!』

 

 そして再び――rrrrrrrrrrrr

 

 俺は着信画面の数字に見覚え、いや聞き覚えがあり、恐る恐ると通話ボタンをスライド。

 

『はぁーっ!? 何、出てんの、八幡くん!?』

 

 多分、相手が想像できてない九音が信じられないとばかりにこちらを見ていた。

 

「も、もしもし……」

 

 通話先から聞こえる女の浅い吐息、そして一言――どウして、きョウ、ブかツこナカッたノ?

 

 俺は慌てて電話を切る。再び鳴り響く着信音。未設定の単調な音が部屋の中に響き渡る。

 

『だ、だから言ったんだ、私は! あの女はやべー女だって! 怖いよぉ!』

 

 鳴り響き震える携帯電話を持ったまま思う。俺だって怖ぇよ、と。




※次回投稿は2月18日の予定です


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仲春【遁走】

 

 調理実習どころか学校をさぼった罰として平塚先生からの説教を長々と受けた後、重い足取りで奉仕部へと向かう。明日までに家庭科の調理実習に対する補修レポート提出せねばならず、なんなら今から家にまっすぐ帰って真面目に課題に取り組む姿すら見せてもよい今日このごろ。

 

『……ねぇ、八幡くん。やっぱ帰ろうよぉ』

 

 ふよふよと浮かびながら提案されたのは大変魅力的な代物。声の主である浮遊霊、足山九音が出した案に後ろ髪が凄く惹かれるが、それでも俺の両の足は真面目に目的地へ一直線。リノリウムの床が俺の足音でずん、ずんと鳴っている気がする。まるで重りをつけたかのように重い足取りで廊下をまた一歩、また一歩とと進んでいた。

 

 先程の頷いてしまいそうな名案は一つ欠点を含んでいり。平塚先生との約束、奉仕部での賭け事。このまま帰ってしまえばなし崩し的に敗北が決まり、奉仕部での賭けは自動的に俺の負けとなり、命令権が渡ってしまう。

 

 賭けの相手は雪ノ下雪乃。総武高校二年生で偏差値の高い国際教養科に属しており、そんなエリートの中で成績優秀者のトップに君臨する才媛。それでいて類を見ないほどの美少女でもある。

 

 ただし、足山九音というヤバい女にすら「ヤバい女」扱いされちゃうヤベぇ奴。ちょっとした怪現象に巻き込まれた俺と雪ノ下は紆余曲折を経て解決し。しかしながら全ての出来事に解決したのかというとそうではない。

 

 責任。

 

 重々しい二つの文字を俺は雪ノ下に求められる羽目になっていた。昨晩のうちに電話で話したことを纏めるとおおよそ三つの事項に纏められる。

 

 まず一つ目。比企谷八幡は雪ノ下雪乃に対して男としての責任を取らなければならない。

 

 二つ目、比企谷八幡は雪ノ下雪乃のことが好きである。

 

 三つ目、比企谷八幡は雪ノ下雪乃と結婚を前提にしたお付き合いをしなければならない。

 

 この話を最初に聞いた瞬間、俺は「……? ???」と完全に困惑していた。隣に浮かんで聞き耳立てていた幽霊も目を点にして『……? ???』と混乱していた。

 

 なんど聞いても意味がわからず、昨日の電話は一方的な話し合いのまま終了。俺は今日こそは犬に噛まれたと思って、忘れろ、な? と伝えるつもりで。そんな俺の意思を隣に浮く幽霊は『さいてー、くずー、女の敵ぃ、八幡! でもでも私じゃなくて違う女の子にそんなこと言っちゃう八幡くん、私は好き!』との温かい言葉をいただき、いざ伝えるぞ、と意気こみながら今日の朝を迎えた。

 

 すると、校内では雪ノ下雪乃に想い人が居るという話題でもちきりだった。ひそひそと聞こえる話題は別に盗み聞きしなくとも耳に入ってくる。

 

 少しすれば職員会議で生徒達が侵入していたことが話題に出て、全校生徒に伝わるのは覚悟していたつもりではあったがこの伝播速度は想定外。昭和時代の田舎でもここまで情報拡散は早くないだろう。

 

 噂の内容はキス、接吻、口吸い。

 

 呼び名はどうあれ、高校生が飛びつくには格好の餌食。むしろここから発生した嫉妬が怪異と成り果てた時に狙われると考えれば夜も眠れねぇ。おいおいおい、いよいよもって学校に来ている場合じゃない。こんな場所に居られるか、俺は帰らせてもらう。

 

 そんな意気込みで奉仕部へ向かっていた足をくるりと反転させた瞬間。

 

「こんにちは」

 

『ひぃっ!?』

 

 幽霊すら気配に気づかず、俺の背後にいつの間にか着いてきていた雪ノ下。そして、此方が立ち止まればテクテクと近づき眼前まで。あまりの距離の近さに一歩と足を引いてみれば、一歩と距離は詰められ、また一歩と引けば一歩と近づく。

 

 吐息があたる距離、女子特有の甘い匂いが鼻孔をくすぐり、艶めかしい唇が目に入る。その唇と重なった記憶が甦り、自分の唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。だから普段なら気づいたとしても言わないような台詞が口から漏れ出る。

 

「……その、リップ塗ってるんだな」

 

 間抜けにも俺の口から漏れたのは雪ノ下の変化について。もっと言うべきことがあるだろう、怖いとか、怖いとか、怖いとか。けれどもそんな間抜けな言葉に破邪の効果があったのか、眼前の雪ノ下は一歩を足を引いては妖艶に微笑む。

 

「似合うかしら?」

 

 さながら口裂け女の問いのよう。綺麗と答えても次なる恐怖が待ち受け、ブサイクと言ってしまえば碌なことにならず。つまりはどう答えても詰みに近い現状。

 

 それでも雪ノ下と口裂け女の違いを述べるのなら、件の都市伝説には対処法が幾つもあることに対して雪ノ下に対する解答に明確な答えなど俺は知らない。

 

「あ、あぁ……」

 

 故に喉から絞り出されたのは受身的な肯定。助かるのなら褒め称えるくらいのことはする。女子を褒め称えるリア充の真似事なんて俺の風上にもおけないが命が助かるのならそれくらいはする。命、狙われちゃってるのかよ、雪ノ下に。

 

 雪ノ下の変化ばかりに注視していたせいか、彼女は人差し指を唇にあてて禁言のジェスチャーをした。

 

「キスでもしたくなるの? でも、今は駄目よ、さぁ、行きましょ」

 

 そのまま並ぶように隣へ。特段と何も言えずにテクテクテクと歩き出す。頼みの綱である九音は犬歯をむき出しにしながら威嚇をしているが、その腰は若干引けていた。

 

 俺よりもびびっている存在が居てくれるおかげで震えていた心は少しずつ安定する。余裕が出来た俺は盗み見るように横を伺う。横を歩く少女の細く白いはずの首に人肌よりも真っ白な包帯が巻かれていた。

 

「雪ノ下……その首は?」

 

「内出血してたのよ、ほら、先日のアレの時に」

 

 ぼやかした言葉の内容は先日の出来事。異界とも呼べる世界で首を締められていた彼女を思い出す。どれほどの圧がかかっていたのか、トイレで見た記憶、赤黒く残った指跡を俺は覚えていた。

 

 余りにも気持ち悪い夜の出来事。気持ち悪さしか残らなかった怪事件。お互いに生きて帰れてよかったね、今度からこんな目に遭わないようにしよう、それじゃ! と片手をあげてバイバイしたくなる。けれどもそんなことをすれば俺が現世からさよならバイバイしちゃうくらいにドロりとした執着を雪ノ下の視線から感じてしまう。

 

「お、お祓いにでもいったほうがいいんじゃないか?」

 

 雪ノ下の熱病にも浮かされた現状を見て提案した。あの世界、あの怪異から何らかの悪影響を受けた可能性は十二分にある。もちろん、雪ノ下が恋愛において盲目的になりやすい依存体質であり、今回の出来事がアレルギー反応を引き起こすかのように過敏に、顕著に現れた可能性もある。

 

 彼女のことをよく知らない俺、噂話を鵜呑みにしていた俺からしてみれば雪ノ下のことを、雪ノ下の恋愛観に関してを何一つとして言えるわけもないのだ。

 

 それでも、似たような執着心を、見たような感情を。つい先日に体験したとなれば話は別で。偶然と考えるほどに楽観視できない俺は、噂と想念から生み出された化物から何らかの悪影響を貰っていると考えるのは悲観論が先立つ身としては極々自然なことだった。

 

「そう……? この痕を見てるとあなたとのことを思い出せるのだけれど」

 

 愛おしく首を撫でる雪ノ下を見てドキりと胸が高鳴り、ドクドクと血流が加速し、息が浅くなる。うっとりと傷痕を包帯越しに撫でる艶めかしい仕草に普通の男子高校生ならば見惚れるのだろう。俺も惚けて見つめてしまう。けれども、何を、どうして、そう思うのかを整理してしまえば高鳴った胸の意味合いはトキメキではなく恐怖へ。意味合いは大きく異なった。

 

『完全にやべぇ女じゃん……』

 

 ドン引きしている九音の言う通り。あの体験は決して雪ノ下が思い出しているように甘い体験なんかではなく、苦く粘ついた経験であった筈。

 

 あまりの認識の違いに俺はついぞ頭を下げては懇願してしまった。

 

「雪ノ下、悪いことは言わねぇ。一度、お祓いにいっておけ。ほんとに、頼むから。身が心配なんだ」

 

「え? えぇ……あなたがそこまで言うなら。でも、ふふっ、幾らなんでも心配しすぎよ、比企谷くん。こんなところでお前の身が心配だなんて。でも嬉しいわ」

 

 俺の必死な懇願に雪ノ下は機嫌良さそうに笑う。ちなみに心配している身は我が身であるのだが余計なことは言わないでおこう。

 

『うわぁ、悪い男だ……八幡くん、いつからそんなに悪い男になっちゃったの? ちゃんと覚えてる? ヒモにはならないって、諦めるって私との約束を忘れたわけじゃないだろうね』

 

 その言葉は一年ほど前の記憶。俺の専業主婦への夢に対しての口論を思い出す。ヒモではなく専業主婦。完璧なまでに叩きのめされ、完膚なきまでに叩き潰された夢の記憶。

 

 ――忘れてねぇよ。

 

 小声で答えれば『それなら良し』と満足したらしく笑顔一杯浮かべては雪ノ下とは逆の方向へ回り込み、いつものように腕に纏わり憑く。

 

「……? 何か言ったかしら?」

 

 俺の小声はどうやら雪ノ下の耳に入ったようで、俺はなんでもないと首を振る。

 

「そう、気のせいかしら」

 

 きょとんと小首をかしげる仕草さえ可愛いという感想が出るのだから美人ってほんと得。

 

 そんな女の子とキスの一つや二つしたのだから本来であるのならば役得以外の何者でもないのだが、それ以上の恐怖体験をしたので差し引きトントンどころかもう二度と体験したくない程にマイナス。

 

 男子生徒の憧れである少女とのキスという役得以上に損している生き方は誰がどう見ても間違っていた。

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 俺と雪ノ下の話し合いは壮絶なものとなった。主に俺の胃の辺りが。

 

 知り合ったばかり、吊橋効果で熱に浮かされた状態だったことを懇々と説明し、お互いの妥協点を探りあうことに。俺の目から見た雪ノ下は明らかに異常と呼んでもおかしくなかった。彼女からの好意は明らかに過ぎたるものであり、普通の状態と呼べるものではなく、そもそもが非日常での関係が日常で継続できるのかなど怪しく。そもそもの前提があの世界でこそお互いに協力し合ったが、それより前の日常でのお互いのやり取りは決して仲良いものとは言えなかった。そして、俺には泣き落としは通用しないことを必死に伝えた。

 

 俺の言い分は雪ノ下の名刀、悉くとしてその鋭い舌により叩き切られる。

 

 好きな人が居るから、と居もしない架空の人物を作り上げては「相手が貴方を好きになることがあるの?」という言葉から始まり、相手が好きになる可能性が絶無という理由をこれでもかと突きつけられ泣きそうになり。おまけとばかりに追撃であの歪な世界での貴方を見ていないと貴方を好きになる人間なんて出てこないわ、と素の俺に対する評価に泣きそうになった。俺が泣き落としてんじゃねぇか……。

 

 お前、俺のこと好きなんじゃねーの? という自惚れも甚だしい勘違いクソ野朗みたいな台詞が喉元まで昇ってくる。自惚れに近い台詞は自尊心が押し留め、話をそらすかのようにお互いが吊橋効果的に熱に浮かされていたと論法づければ、熱が冷めない様にお互いが維持する方向性でいつの間にか纏まりそうだったので慌てて方向転換。むしろ、話を聞いている内に俺の悪いところが出るわ出るわ、まるで俺の悪いところ百選みたいな流れになり、こんな俺でも受け入れてくれるのは雪ノ下以外いないのでは……と錯覚しそうになった。

 

 最後に愛とか、好意など関係なく、助けられた義務感として付き合わなければという強迫観念に襲われているだけ、と口にだした時には雪ノ下に殴られそうになる始末。その辺に漂っていた幽霊にすら『サイテー』と言わせるほどにはデリカシーの無い発言であったらしい。

 

 兎にも角にもお互いが譲らぬ平行線、どこまでも踊り続ける議論、いつまでも出ない結論。

 

 何れ幻滅されるにしても、何れ愛想をつかされるにしても――きっと『さめる』時がくるのだとしても。お互いに付き合っていたという過去は無いほうが見のため。我が身のためであり、雪ノ下の身のため。

 

 頑なに彼女は今の感情を信じているが、それは刹那的なものであり永遠ではない。久遠ではないのだ。

 

 そこで一つの提案をすることにした。もしも、奉仕部での賭けで雪ノ下が勝ったのならば、俺は文句を垂れることなく受け入れる。もちろん、賭けの内容を変更しても構わない、俺に出来ることなら何でもしようと。

 

 お互いの妥協点はここいらが着地点。部活動の殆どの時間を好いた惚れたという噺で使っているというのだから何とも高校生らしい一日であったと皮肉気味に感想づける。

 

 だから――油断していたのだ。

 

 奉仕部が終わり、雪ノ下の傲岸不遜な――送れという命令に嫌そうな顔しつつも、誰のせいで最終下校時刻まで残る羽目になったのかと責任追及された後に言い訳でもしようものなら怖い笑みと切れ味鋭い罵倒が飛んでくるのは難しくない未来予想図。そんなわけで渋々と押され気味に受け入れては雪ノ下を送ることとなった。

 

 取り憑いてる幽霊がわーきゃーと騒ぎながら雪ノ下を一昨日と同じ帰り道で送っていく。

 

 そしてマンションまでたどり着き、お見送りをしていざ自転車に跨がろうとした瞬間に『ソレ』は居たのだ。

 

 いや、正確に言うのなら産まれた、出遭ったとでも言おうか。俺は自転車を押して雪ノ下が消えてったエントランスの入り口を名残惜しむかのように振り向いた瞬間に現れた。

 

 犬。

 

 どこまでも犬。見間違うことなく犬。一見しただけではその犬のどこがおかしいのかなんて判らない。それでもその犬は間違うことなく化け物の類である。

 

 もちろん、成人男性の顔を持つことなどなく、他の身体的特徴に歪な点があるわけでもない。

 

 しかしながら俺の目の前で重厚な玄関ロビーの入り口をすり抜けるように現れたのなら化け物以外になんと呼べばいいのか。

 

 一日おきの化物譚。本来ならばそんな経験など一生のうちに一度か二度でお腹がいっぱいなのに。俺は何度も何度も吐いては食べて、胃の中の空にしてはまた詰め込むかのように。満腹中枢を壊すかのように心霊体験をしていれば俺のどこかが壊れても何もおかしくなどない。

 

 経験過多にして経験過剰。経験豊富な俺は即断即決で太ももから、ふくらはぎにかけて力を込める。

 

「ち、ちきしょうっ……」

 

 サドルに跨がらず、中腰のまま漕ぎ出す。理性よりも早くに逃げなければならないと告げた本能のまま両足を必死に回し始めた。

 

『ひゅーっ! 相変わらずの逃げ足にびっくらこいちゃうぜ!』

 

 まるで質量がないかの如く軽快に、喜々とした様子ではしゃぐ九音。重力に逆らいながら並走する幽霊の表情は喜色満面。

 

『今回は助けてあげよっかなぁ、どうしよっかなぁ。邪魔者いないし、あの雌猫が憑いてくるなんてこともないからなぁ、どっしよっかなぁ』

 

 どうしようどうしようと楽しげに囁く女幽霊。そんな幽霊の戯言を耳にしながら全速力で市街地を滑走する。

 

「ッ〜〜〜〜!」

 

 あえて一方通行の細い路地を選ぶ。カーブミラーを見ればしっかりと犬は追いかけてくる。犬らしく、どこまでも四本脚で。背後にべったりと、自転車の後方にべったりと。

 

 曲がり角にさしかかり、カーブミラーに車や人影がないことをか確認して曲がる。けたたましいブレーキ音が鳴り響く。

 

 軽く押し込んだブレーキ、タイヤの擦る音が日の沈んだ住宅街に響き渡った。誰が聞いても騒音で、然しながら迷惑を省みる暇などなく、緩んだ速度を両の足を力強く踏み込むことで回復を目指す。

 

『がんばれっ、がんばれっ』

 

 語尾にハートでもつけてんのかよ。苛立つようなエールを送ってくる幽霊。明らかに此方の様子を楽しむ姿に呪詛が溢れる。

 

 息は上がり始め、けれども速度を落とすなんて出来やしない。そのままサイクリングコースのある公園を目指す。

 

 道中で後方を確認すれば未だにしっかりと憑いてくる犬。どうにか振り切ろうと何度も何度も曲がってみたとしてもしっかりと後を憑いてくる。

 

「ちっきしょぉ……」

 

 公園に辿り着くまでに振り切ることなど出来ず、そのままサイクリングコースへ。

 

 夜の公園で幾つかのロードバイクが走っているのが横目に見えた。走ることに特化した自転車をあっさりと追い越すママチャリ。自転車に関するマナー、サイクリングコースを使う際のルールなど知ったことではなく、傍から見れば暴走行為にすら見えるだろう。

 

 それでも俺はスピードを緩めることなど出来ない。どんどんと自転車を追い抜いて、時には歩行者レーンにはみ出してはひたすらに逃げる。

 

 健康のために走っている自転車と命をかけて漕いでいる自転車では燃料の差がそのまま速度の違いに出る。もちろん、ぐんぐんと離れていく他の自転車乗りを引き離したいわけではない。引き離したいのは。

 

 ――バウッバウッ! バウッ!

 

 背後で吠える犬。犬の大きな鳴き声に、身体は震え、目尻には涙が浮かんでしまう。それでも力の限り、漕いでは引き離せず。何も変わらないまま公園を一周することに。

 

「はぁっ、はぁっ、くそっ!」

 

 悪態をついた所で背後からの鳴き声は止まらない。むしろ、大きく鳴り響いている。公園で周回ラップでも測るかのように全速力で自転車を漕ぐ。

 

『八幡くん、助かりたいかい?』

 

 並走していた九音はいつの間にか荷台に乗っていた。ニヤニヤと浮かべた笑みに腹が立つが。

 

「た、助けてくれ、九音。九音様っ、お願いしますっ!」

 

 プライドも何もなかった。なんなら奉公に来た丁稚のように「でへへ」と媚びるような笑みを浮かべてもいい。

 

『うーん、そうじゃない。そうじゃないでしょ、八幡くん。私に助けを求めるときはいつもそう言ってほしいんだ。こんな広い公園で、隅々どころか近隣周辺に知れ渡るように、響き渡るように。それこそ、ここが世界の中心とばかりに叫んでおくれよ』

 

 ここぞとばかりの取引。夜闇に静まり返る公園、住宅地で「そんなこと」を叫んでしまえば社会的にヤバい奴と認定される。顔バレでもした日には死んでしまう。

 

『さぁ、今こそ叫んでよ。高らかに、いつもの台詞を、私への愛をッ!』

 

 完全に自殺の教唆。社会的に自分を殺す台詞を求める悪霊。そんな悪霊に対して、心で呪詛を唱えながら。

 

 いつものように、思ってもなく、心にも無く、嘘と欺瞞に満ち溢れた言葉を。息絶え絶えに、やけっぱちに叫ぶ。

 

「愛してるぞぉぉぉぉぉぉぉ、九音ッ!」

 

 ひゅるりと頭上を通り、荷台にすっぽりとお尻をはめて楽しそうに足をばたばたとさせて九音はこう言った。

 

『うん、私も愛してる。好きだよ、八幡くん』

 

 足はペダルを踏み込み、息は荒くなるばかり。まるで蛇のなく音のように軽快な自転車の音を俺は公園で弾き鳴らす。

 

 そんな音と共に眼下からは『んふっ、んふっ』と喜びなのかよくわからない気持ち悪い声と鼻をすぴすぴと鳴らしながらご満悦の幽霊。

 

「いやっ、お前、何くつろいでんのっ!?」

 

『おやおやぁ、そんな口聞いてもいいのかにゃぁ』

 

「ご、めんなさい、はっ、はよ、言え、早く言えっ、言ってくださいっ!」

 

 どうしよっかなぁ、と悩む幽霊は楽しそうな表情を浮かべている。

 

『まぁ、愛する八幡くんが苦しむ姿は堪能したからね、教えてあげてしんぜよう』

 

 偉そうに笑う幽霊はくすくすと笑いながら、今度は背中に纏わり耳元で囁くように呟いた。

 

 ――三年峠。

 

 甘い吐息に、蕩けるような声が太ももへの限界と重なる。一瞬だけ力が入らなくなった太ももから力が抜けて影響は右足全体に。がくんと右足がペダルから外れ、その瞬間に自転車は操縦不能となった。

 

 ブレーキをかけるも速度は緩まず、コースアウトするかのように公園の端、植木林の茂みへ突っ込む。

 

 突進。舞うように中空へ。ふわりと重力に逆らえば、残るは墜落。

 

 耳鳴りがするほどに盛大に、一回転しながら突っ込んだ世界は真っ逆さま。茂み、藪を椅子にして仰向けになる。ビーチサイドチェアの頭と尻の位置を間違えて使っている俺の耳に。

 

 上下反転の世界で音が飛び込んできた。

 

 ――ウウウウウウゥゥゥゥッ

 

 唸り声が聞こえた。あべこべの世界で見えた犬は笑っているかのように見える。笑う犬、しかしながらそれは笑みではないのだ。人は獣に襲われる瞬間、牙を剥き出しにしている姿を笑っていると勘違いする。

 

 故に直前。襲われる直前。絶体絶命の危機。

 

 けれども、九音が言葉にした単語は俺が答えを導き出すには十分だった。

 

「どっこいしょぉぉぉぉぉぉぉっ」

 

 暴走しながら誰かへの愛を叫び、そのままコースアウトして頭から藪に突っ込んで、最後には「どっこいしょ」と叫ぶ高校生。傍から見れば完全に頭のおかしい男子高校生だった。

 

 こんな人間を見てしまえば笑うに笑えない、むしろ心配をしてしまう。連絡する先は警察か病院。通報しては頭のおかしいやつがいる、といった説明しちゃう程。決して笑えない状況なのは他人から見ても同じであり、そして犬にとっても同じだった。

 

 犬にすら浮かべた笑みを引っ込めさせるほどの無様。

 

『あ、あっぶ、危ないなっ、八幡くんっ。いや、君さ、どう考えてももっとやり方あったんじゃないの? スピードを緩めたりとか、ブレーキを踏んだりとか』

 

 焦りと呆れの混じった表情を浮かべる九音にお前の声が耳元だったからバランス崩したんだよ、と思ったが口には出せない。何が悲しくてこいつの艶めかしい声に反応しただなんて言えるのか。絶対に言わねぇ。

 

 ブレーキ音が響いて、先程までロードバイクで走っていた社会人らしき男性が駆け寄ってくる。

 

「だ、大丈夫かい?」

 

 誰がどう見ても暴走行為の果てに転んだようにしか見えないだろう。だが世界の誰が今の俺を転んだと見ても、俺だけはこう言い張ろう。

 

「えぇ、大丈夫です。休憩してるんで」

 

「えぇー……」

 

 俺だって同じような場面で声をかけて、同じようなことを返されたら、同じような顔をしてしまう。不思議と人見知りで人嫌いの俺ではあるのだが初対面のお兄さんとは気が合いそうだと思った。

 

『いや、誰だってそんな顔になるでしょ……』

 

 九音の呆れを混じえた呟きを無視して、俺はゆっくりと立ち上がり、お家に帰ることにした。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 犬の中の犬。有名所も有名で全国的にもポピュラーな妖怪。

 

 送り犬。

 

 それが今回の憑いてきた犬の正体だった。有名所にも程があり、少しでも怪異に興味がある人がいれば知っていてもおかしくなどない程にメジャーな妖怪。目撃談は東北から九州にかけての全国区であり、行動や姿が若干異なることもあるが大体のところは『送る』のだ。

 

 家に帰る人間を背後から憑けて送るだけの妖怪。

 

 たった一つの条件として――転びさえしなければという注釈が必要であるが。

 

 送り犬は夜に出歩く人間をつけ回し、転んだら襲いかかると伝承がある。もちろん、全国区に広がる伝承であるが故に詳細は少しずつ違いがあり、転倒に関する噺でさえ、転んだら襲われるという話、犬が体当たりしては転ばせるといった話にわかれ、姿かたちなどイタチ、タヌキ、オオカミと複数存在する。

 

 関東では他の呼び名の方がメジャーであり、代名詞――送り狼。

 

 現代では『親切を装い女の子を送る様相を見せた後に女性を狙う軟派な男』を揶揄するこの言葉は、元々は送り犬と同種の妖怪の送り狼が語源となる。

 

 つまる所、送り犬――送り狼に俺は憑け狙われてしまったのだ。

 

『八幡くんって本当に馬鹿だよねぇ、間抜けだよねぇ、愚かだよねぇ。自転車を押して帰る方がよっぽど安全だったのに』

 

 九音の言のとおり、自転車を押している状態であれば転ばぬ先の杖となり、押していればわざわざ転ぶ心配も無いにも関わらず暴走の果てに襲われるという無様。

 

 帰り道、からからと回る自転車を押しながらしっかりと転ばぬように家路を辿り。転びそうになる心配など支えとなるものがある時点で有りえず、こんな安全性を捨ててまで全速力で引き離そうと危険運転をしていたのだから救うに救えない愚物である。

 

 バックミラーを見ずとも背後には犬の気配。遠吠えすらしない犬は、ハッ、ハッ、と特有の鼻息の音を鳴らしては存在をアピールしていた。

 

 雪ノ下を送っていた、女の子を送っていた俺が送り狼に出遭うとは何たる皮肉だろうか。あれだけの美少女を送り狼するような輩はこの世に五万と居る筈で、しかしながらそんな人種と異なり、送り狼になることもせずに紳士的に振舞った結果がこの様である。

 

 むしろ、送り狼でなかったからこそのこの様か。

 

 狼とは社会的な動物である。群れを成す動物で、仲間と見られなかったからこそ獲物と間違われた。

 

 不運と不幸と必然の三重奏。確かに俺は狼ではない、狼にはきっとなれやしない、それこそ一匹狼にすら。群れのリーダーを決める戦いに敗れ、単独で行動する個体を一匹狼と呼ぶのなら――そもそもが最初から戦いになど挑まない。初めから群れない。群れの中で誰かのために戦おうなんて選択肢すら浮かばない。それこそ狼ではなく、犬のように尻尾を巻いて逃げるだけ。

 

 そんなことを考えながら何とか無事に家まで辿りつく。憑いてきた犬は律儀に玄関前で立ち止まっては、うるうるとした円らな瞳で此方を見つめてきた。

 

「……おいぬさま、おみおくり、ありがとうございました」

 

 呪詛を吐くかのように苦々しく、祝詞を唱えるかのように恭しく、独り言のよう未だに冷える寒空に向かって――口にする。

 

 しかしながら未完成。

 

 本来ならば捧げもの、供物を渡さなければならない。その証拠に未だに消えずにうるうるとこっちを見ている瞳があった。

 

 鞄の中を見れば――食べ物となるのはたった一つだけ。

 

『ふぅーん? いいんじゃないー? 別にあげても! むしろあげないと大変なことになるから、あげるべきだと思うな。ねっ、ねっ! あげようよ、そのクッキーを!』

 

 九音の猛烈な後押し。俺の中の倫理観と安全本能が鬩ぎあい、結局のところ魔の囁きへ我が身可愛さ故に屈してしまう。

 

 鞄から取り出したのは可愛らしいラッピングのされた包装。中を開けば、市販のクッキーのような完成度。

 

 ――手作りなのだけれど、その、あなたの口に合うと嬉しいわ。

 

 今日の放課後、奉仕部に入ってまず手渡された包み紙。チョコバーのお返しは手作りクッキー。むしろ、雪ノ下雪乃の手作りクッキーともなれば総武高校区域においてプレミアレベルのお宝であろう。

 

 ――バゥバゥッ!

 

 袋を開いた瞬間に送り犬が早く寄越せ、いますぐ寄越せと吼える。俺は恐る恐ると地面に置いては未練がましく一枚だけ貰おうと指を伸ばした。

 

 ――バゥッ!

 

 痛ったッ!? ガブリと、勢いよくガブリと噛まれた。絶対に渡さないと強い意志で犬はクッキーを死守。な、なんて卑しい犬だ。

 

『うわぁー、卑しいなぁ、八幡くん。自分の安全性のために女の子の気持ちがこもった手作りクッキーを犬に食わせるなんてさ。もしもこれが私のあげたクッキーなら怒りのあまりにぶん殴るレベルだよぉ! でも私のじゃないから全然オッケー!』

 

 にんまりと笑顔で消えていくクッキーを眺める九音。俺は未だに痛む指を息を吹きかけては冷やす。

 

『それにしても今日は自爆だったよねー、八幡くん。君なら犬に関する怪現象怪異魑魅魍魎に妖怪なんてすぐにでも思いつきそうなものだけど。まさか、私がヒントを出すまで気づかないなんてねー。んふふー、最近、弛んでるんじゃない?』

 

 勝ち誇ったかのような幽霊を引き憑れて俺は玄関口へ。

 

 ――三年峠。

 

 さんねん峠。彼女の出したヒントは日本ではなく国外、朝鮮の民話。内容はさんねん峠で転んだものは三年しか生きられないといった峠に由来するお話だ。主人公は峠で転んだおじいさん。この民話は絵本や童謡で取り扱われ、三年で終わるといった悲劇ではない。余命に怯えていたおじいさんが知り合いに聞いた話により危機を脱出する御話なのだ。一度転んでは三年、ならば二度転べば六年、十度転べば三十年、百辺転べば三百年といったように何度も何度も転ぶのだ。

 

 勿論、今回の犬とさんねん峠では噺が違う。けれども共通項はあるのだ――それは不文律。そのお話のどちらにも『転んではならない』という不文律が存在している。

 

 怪現象という観点から見ると不文律という存在は重要であることが多い。一昨日の雪ノ下と怪人の件も然り、今回のことも然り。ルールに縛られるのは人も、そして怪異も一緒なのだ。そして人が禁則を破るから、痛い目を、酷い目を見るのだ。

 

 そして今回の送り犬という妖怪は『転んではならぬ』という禁則事項を持った妖怪である。

 

 転んだのならば最後、犬に襲われると伝承にある。故に俺は転ばずに家に帰ればよかっただけで、しかしながら俺は暴走行為の果てに体勢を崩す。だから犬は笑ったのだ――転んだだろう、と。だから犬は襲おうとしたのだ――転んだのだから、と。

 

 故に俺はヤケクソ気味に叫んだ。誰がどう見ても、怪異から見ても転んだように見えたとしても。俺は言い張ったのだ。

 

 これは一休みしている、と。転んでなんかないです、と。どっこいしょって言ったでしょ、腰を下ろす合図があったでしょ、と。いやいやこれ休憩だから、俺を転ばせたら大したもんですよ、とばかりに。

 

 どこまでも面の皮厚く、どこまでも恥知らずに大見得を張っただけ。

 

 ふと、玄関口を開いた後に後ろを振り向けばクッキーの包み紙だけが寂しく残っていた。俺はそれを拾い上げて、再度として玄関口を潜る。家に辿りついて、俺はようやくいつものように――ただいま、と重なる声で挨拶をした。その合図にリビングからパタパタパタと足音が聞こえてきて。

 

「おっかえりー、相変わらず帰ってくるのがおっ……って、うわ、お兄ちゃん、その恰好どうしたの?」

 

 出迎えた最愛の妹である小町がアイスを片手にボロボロの俺を見て尋ねてきた。だから、俺はこう答えるしかない。

 

「公園の茂みで休憩してた」

 

「馬鹿なの……?」

 

 俺だってそう思う。

 




次回は2月25日の投稿予定としています


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仲春【菓子】

『痴漢って最低だと思うかい、八幡くん?』

 

 数学の時間、数字の時間。人の優劣や価値をつける時にこれほど判りやすい指標はないだろう。秤さえ間違っていないのならば傾きから一目瞭然。数字という指標さえあるのならば差がどれほどあるのかまではっきりと判る。

 

 数字は偉大、数学は偉大と優生思想が支配する世界に俺は唯、一人抗う。そうやって優劣をつける世界に対して反抗し、争うことを嫌い、非武装を掲げている。この競争世界、学歴社会に支配された構造に苦痛すら覚えている。

 

 非暴力不服従を信念としたガンジストたる俺は絶対に数学をしない、数字を追わない、数学的思考力を鍛えないと頑なに心へ誓った。そんなわけで九音の痴漢がどうとかって云う話に耳を傾けることに。

 

 数学するか、九音の痴漢の話を聞くか。クソみたいな究極の選択。

 

『最低、底辺の底辺。最も下という言葉には似つかわしくないと言えるけど。皆が皆、人が悪いことをしたときには『最低』だって揶揄するよね。本当に最低なのか精査することなんてなくて、ただ感情のままにその言葉を吐きつける。本当の最低を目撃した八幡くんからしてみれば、去年の八月、去年の八月八日前後に体験したあの事件、あの怪異、あの異形を振り返れば、最低なんて言葉は簡単には使えない。アレこそ最底辺で地獄に落ちるべきで、巻き込まれて、混沌と恐怖と阿鼻叫喚の地獄絵図を見て。アレが最低であり、最低とはそのレベルの御話だと思うんだ。それでも、私も八幡くんもそんなことを忘れて日常的に最低という言葉を揶揄する。それだけじゃない、私達だけじゃなくて世の中の大抵の人間が最低という言葉を使う時、最低じゃなくても比喩する。痴漢なんてものに対しての意見もそうだと思わない? 世の中の女性にとって痴漢よりも最低なことって存在すると思うけれど、それでも彼女たちは最低扱いするんだよね。もしも痴漢が最低だとするなら罰となる量刑はあまりにも軽すぎだと思わない?』

 

 クソみたいな話を聞きながらノートに落書きを始める。しかしながら絵心がついてきていないので犬なのか、猫なのか中途半端な生物が出来上がった。

 

『もちろん、私は痴漢をする人の擁護をするつもりはないよ。私だって好きな人以外に身体を触られるなんて想像しただけで殺意が湧くし、呪いたくなる。最低だって心の底から思って、死刑にしてくれなんて生ぬるい刑罰じゃなくて私に殺させてって思っちゃうよ。それが自分事であるのなら』

 

 痴漢、駄目、絶対! とばかりに手でペケを作る。

 

『他人事である痴漢のお話を少し考えてみようか。痴漢の視点、痴漢の考え方。そこら辺を少しでも噺してみれば彼らに対する同情が出来るかもしれないね。勿論、擁護するつもりはないけれどね。罪を許すつもりもないけれど。それでも一ミリたりとも同情の余地がないのか。果たしてどうなんだろう』

 

 擁護する気もなければ許す気も無い。けれども同情の余地があるのかどうか。完全に他人事の野次馬根性。

 

『痴漢だけではなく、犯罪をするような人間を私は理解する気も擁護する気も無いんだ。けれども同情だけは別。同情をすればするほど、哀れみと憐憫を持つほど自分が持っているって思わない? 同情なんて代物は持っている者が出来る特権じゃん。だから私はいろんな出来事に同情しちゃんだよ。なんて可哀想なんだって。それにこの世の未練の体現たる私と、この世の未練が見える君はたくさんの物事に同情できるのに。こんな好機を生かさないなんて損した気分になるよ』

 

 性格悪く、自分のために他人に同情する、自尊心を満たすために自分より劣っているものを見下す。足山九音は今日も悪霊らしく絶好調であった。

 

『痴漢とは依存行為で本人に罪悪感があって、やめたくてもやめられない常習性があるって病気の話もあるのだけれど、今日はそんな常習的な噺じゃなくて、始めの一回、最初の一回について考えてみようか。それこそ――魔が差した。そう呼ばれるような初めての出来事を。八幡くんだってあるだろう? 魔が差してやっちゃった悪い行為の一つや二つ。例えば小学生の頃、他人のリコーダーの口を舐めたことくらいは。あぁ、安心してよ。私は寛容な女の子だから君が小学生の頃にやっちゃった出来事に今更目くじら立てて怒ったりしないよ』

 

 は? それどこ情報だよ。俺は他人のリコーダーを舐めたりなんてしていない。他人のリコーダーの上の部分と自分のリコーダーの上の部分を交換したことくらいならあるが、他人のリコーダーを舐めるなんて行為したことは一度たりともない。なんて風評被害だ。

 

 むしろ交換したのだからそれは既に俺のものであって、同価値の代物、いや俺のリコーダーの方が使用回数が少ないことから損耗度の低さを考慮して此方が善意の交換を行っただけと言っても差し支えない。

 

 九音に見えるようにシャーペンを動かして俺の意見を確りと伝える。

 

『差し支えあるでしょ……というか、そんなこと本当にやってたの。いや、この際八幡くんのリコーダーの話なんてもうどうでもいいし。君が変態、なのは前からわかってたし!』

 

 自分から振っといて怒り始める幽霊。

 

 そもそも変態ってなんだ、変態って。こんなの冗談に決まってるじゃねぇか、ほんとほんと、ほんとに冗談だって、ほんと。

 

『めっちゃ挙動不審になってる……と、とりあえず! とーりーあーえーずっ! 話を戻すけどさ。八幡くんも心当たりがあるように誰にだって過ちというものはあると思うんだよ。なんか今でも過ち間違いばかりな気もするけど、それは置いといて。過ちも過ち、過去のこと。過ぎた、去った魔の話』

 

 空中で『魔』の一文字を書いた九音は終わりとばかりに先程の話を流す。

 

『最初の一回、天秤が傾くその瞬間。痴漢をした人間だって最初の一回を朝から入念に準備して気合を入れて今日痴漢をして、今後の一生を痴漢しながら生きていくぞ! なんて強い決意があるわけもない。むしろ殆どが些細な弾み。イライラしていたとかストレスが溜まっていたとか、本人にしか分からぬ辛苦。傍から見ればどうでもいい些細なことで、もしかすれば本人にすら些細に見えてしまう筈の小さな歪み』

 

 確かに悪いとわかっていながらも間違う時は誰しもありえる。それこそ大であれ小であれ。すべての出来事に正しくあれなど聖人にしかできないことで。

 

 犯罪行為を例に挙げると大袈裟かもしれないが、モラル・マナーという側面で破ったことがある人間の方が大多数である。

 

 ポイ捨てをしてはいけない。歩きながら携帯を弄ってはならない、コンビニの前でたむろってはならない、間違いを笑ってはいけない、人の嫌がることをしてはいけない――嘘をついてはいけない。

 

 その項目をすべて守っている人間が果たしているのだろうか。居るわけがない。守れるわけもない。守っていると口だけで言う愚か者は居たとしても本当に守ってきた聖人などこの世にはきっと存在しないのだ。

 

『何かしらのルールを破る時、ヒトは皆が皆として考える。それでも破っちゃうのは色々と理由はあれど大した理由などではなく、ルールを破る理由に値しない。それこそ親を殺されようと、家族を殺されようと、恋人を殺されようとも人は人を殺していい理由にはならないし、復讐していい理由にはならない。今までルールに守られて生きてきたくせに、ルールを破っていい理由には、道理にはならないから。他人がルールを破ったからといって自分もルールを破っていい道理なんて存在しないんだよ。それでも人はそれを判っていながらルールを破る、破ることに惹かれる。魔が差す、魔が囁く、魔が背中を押してくれるんだ』

 

 わかっていてもやってしまう。悪いとわかっていてもしてしまう。まさに悪魔の囁きそのもの。

 

『別に私は復讐論の是非について話したいわけじゃなくて。修羅に堕ちるなんて如何にもな話をしたいわけでもなくて。するならすればいいし、境遇に同情するけど擁護なんてしないからね。肯定も否定もしなければ、今の私には興味ない御話。復讐論の正しさなんて永遠に終わらないテーマと思うから。こんな話は気分次第でどっちかについて相手のマウントをとって楽しんでいればいいんじゃない? 少し本題からそれちゃったね』

 

 本題。魔が差す魔について。

 

『魔が差す、悪魔が囁くなんてことは誰にでもあるって話なんだ。だからそうやって誰にでも起こりうることを最低だと言うのって人間らしくていいなぁって思わない? まるで自分は決して間違ったことをしてませんとばかりに聖人面しておいて、清く正しく美しく清純に生きてますなんて生きてて恥ずかしくならないのかな。痴漢をしている人間が非人道なんて判りきった話をこれ幸いとばかりに第三者がコメントするなんて。魔が差し終えて、魔に魅入られた人間が人間なわけないじゃないか。それを私知ってます的に言うのって子供が新しい言葉を覚えて頻繁に使っちゃうような出来事みたいで微笑ましくて嗤っちゃうよねぇ』

 

 クスクスと意地悪く嗤う幽霊の言葉を振り返る。噛み砕いて自分なりに解釈し、そういうことかと手を叩く。つまり――つまり俺のリコーダーに関するお話は許されたってこと?

 

 訪ねて見れば九音は聖母を彷彿させるような慈愛に満ちた笑みを浮かべて。

 

『許されるわけないだろ、殺すぞ』

 

 一切の慈愛なんて無かった。先程まで寛容な女を自称していた幽霊は完全に怒っていた。過去のこと、過ぎ去った筈の魔は今の目の前の幽霊の怒りの琴線に弾いていた。全然、話違うじゃねぇか。

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

「君は調理実習にでもトラウマがあるのかね?」

 

 先日の罰。調理実習のレポートを確りと書いた記憶があるにも関わらず、俺は職員室に居た。軽い既視感どころか学校で利用する部屋として教室の次に多い職員室。

 

「先生って現国の教師ですよね……」

 

 言外に管轄外と指摘してみれば、コメカミをペンでグリグリと揉みほぐした平塚先生の表情は苦虫を潰したかのよう。

 

「私は生活指導担当なのだよ。家庭科の鶴見先生は問題を丸投げしてきた」

 

 職員室の片隅を見やると件の鶴見先生は観葉植物に話しかけていた。俺と先生はそんな鶴見先生の方向をちらりと見て再度としてお互いに向き合う。

 

「……既に先日のサボりの件はもういい。それは既に終わった話だ。問題はこれだ、これ」

 

 机の上をバンバンと叩いた先にあるのは俺が提出した調理実習のレポート。美味しいカレーの作り方についてだった。

 

「美味しいカレーの作り方。味は辛すぎないほうがよい。辛口が人間関係を壊すように、辛味を追求すると文句が出る可能性がある。正論を嫌う大衆のように辛みはなぁなぁなくらいがちょうどいい……皮肉を混ぜる暇があるのならルーを混ぜてろ」

 

「先生、上手いこと言ったみたいな顔をやめてください……居たたまれないです」

 

「私だってこんなこと言いたくもないさ。君もわかっている通り、再提出だ」

 

 つきかえされるレポートを受け取ると先生はタバコを取り出し咥える。ジジッと灰が燃え、紫煙ともはぁ、と大きな溜息が零れた。

 

「それで……君は料理ができるのか?」

 

 雑談とばかりにふられた話題は俺の料理に対する腕前に関して。スパイスから作ったのならまだしも、カレー云々で料理の腕前は計れないであろう。それこそ市販されているルーのパッケージに書いてあるとおりに進めればカレーなど美味しく出来上がる。

 

「えぇ、まぁ、人並みには」

 

 曖昧に濁して答えた。人並みってどれくらいが人並みなのかなど人によって判断基準が異なり、俺の言う人並みを平塚先生がどう受け取るのかで話が変わってくるだろう。

 

「ほ、ほほぅ……チャーハンとか野菜炒めとか作れるのか感心、感心」

 

『あっ……』

 

 九音は手を口にあてて可哀想な人とばかりに平塚先生を見ていた。何かを悟ったかのような瞳で全てを察したといった様子で。

 

「知っているか、比企谷。チャーハンはな、卵かけごはんのように先にご飯を混ぜ込んでおいた方がいいんだぞ?」

 

 ここぞとばかりにトリビアを出してドヤ顔を作る平塚先生。九音など既にもう、見ていられないとばかりに両目を両手で覆っていた。

 

 いやいや、九音さんや、ちょっと待ちなされ。平塚先生は料理が出来ないというのはお前の先入観の可能性は十分にある。

 

 必死に平塚先生のことを無言で弁明してみる。たとえアラサーの女教師が「炒飯は卵かけご飯したら上手に作れるゾ!」とか、出来る料理のラインナップが焼き飯に野菜炒めといった意識が低いレパートリーだったとしても、カレー如きで料理が出来るというジャッジラインだったとしても。その全てが直接的に平塚先生の料理下手に結びついているわけではない。

 

 そう、証明することなど出来はしないのだ。たとえそれが幾ら怪しかったとしても有罪などには出来ない。状況証拠どころか、証言からの推論でしかない。たとえ料理上手な人が一々、カレーや野菜炒めが作れることにわざわざ感心しなくとも。ご飯を卵でコーティングするというトリビアをここぞとばかりに披露するのが恥ずかしいことだと知らなくても。

 

 どこにも無いのだ平塚先生が料理下手だという根拠は。

 

「ふむ、君は料理が出来ると言ったが将来はコックでも目指すのかね?」

 

 カレーが作れる程度でコックを目指すのなら全国の男子高校生の進路希望先料理系の専門学校で埋まってしまう。あまりにも頓珍漢すぎる受け答えに俺はついぞ、この話題はずれているという真実を口に出してしまう。

 

「あの……先生、カレーくらいなら大抵の男子高校生なら作れますよ」

 

「う、嘘だろう……」

 

 平塚先生の咥えていた煙草がポロリと落ちる。目を見開き、信じられないとばかりに此方を見ていた。信じられないのは俺だよ。返せよ、俺の弁明。

 

「さ、最近の家電は扱いが難しく、それを使って料理を出来るとでも言うのか最近の男子高校生は」

 

「いえ、難しくないでしょう」

 

「そうか……そっかぁ……」

 

 二度も納得の言葉を吐くほどに、なんなら二度目は少し素が出てるかのように。ポロリと言葉が漏れるほどに平塚先生の中では革命的出来事であったらしい。

 

「いや、しかし、待てよ。普通の男子高校生が料理などしないだろう?」

 

「まぁ、さっきの二つならまだしも自作のお弁当や晩飯を頻繁に作っているとかなると珍しいじゃないんですかね」

 

「そ、そうだよな! まぁ、そうだよな!」

 

 何故か非常に嬉しそうな平塚先生。九音など見ていられないらしく明後日の方向を見ては『今日もいいお天気ですわ。太陽さん、御機嫌よう』とのほほんとキャラブレしていた。

 

「こほん、比企谷。君が男子高校生は料理ができるというあまりにも荒唐無稽なことを言うからびっくりしたぞ」

 

 言ってねぇよ。何一つとして言ってねぇ。

 

「しかし君は料理が人並みとは言っていたが一人暮らしではないだろう? 男子高校生くらいなら手伝いもせんだろう」

 

 多分、その偏見はあまり大きくずれていない。炒飯や野菜炒めを作れる高校生が居たとしても人様に食べさせても問題ないレベルの代物となれば話は変わる。俺の場合は少し事情が異なり、少なくとも他人に出しても問題ない程度の料理は作れるつもりである。少し前まで専業主婦を目指していた身だ、レパートリーには自信がある。揚げ物、粉物、魚を下ろすのも問題なく可能。

 

 たった一つ想定外があるとするなら専業主婦を辞めた後の方がレパートリーが増えているという事実なのだが。

 

「まぁ、少し前まで専業主婦になりたかったんで」

 

「なんとも君らしい夢だな。しかし、過去系ということは今は違うのだろう?」

 

「えぇ」

 

 期待しているぞ、とばかりに平塚先生は答えを待っている。

 

『ほ、本当に言っちゃうの? や、やめといた方がいいと思うなぁ』

 

 キャラぶれから戻った九音が夢を語るのをやめておけと静止する。

 

 ふざけんな、夢を語るのはいつだって自由だろうが。俺は俺の夢を笑わない、誰が何を言おうとも俺は絶対に夢を諦めない。信じれば叶うとかそういう意味じゃない。信じるも何も、俺は確信しているのだ。夢は叶うって。

 

 だから、俺は自信を持って、胸を張って言おう。俺の夢は終わらねェ!

 

「駐車場経営をします」

 

「比企谷、君にはがっかりだよ……はぁ……」

 

 呆れたかのように深い溜息と共に言われた。心底がっかりしたようだ。けれども待ってほしい、こちらにはきちんと「かんぺきないいぶん」を用意している。

 

「それで……? 参考までに聞くが、君がどのような将来を想像しているんだ」

 

「はい、まずはそれなりに良い大学に進学します」

 

『いきなりふわっふわな人生設計……』

 

 九音の茶々にうるさいと返したくなる衝動を堪えて続きを口にする。

 

「本来ならここで美人で優秀な子を見繕って結婚して、家庭に入る方向だったのですが、駄目だしされて」

 

「私はその駄目だしした人物に感謝と文句を覚えるよ。駐車場経営も駄目だししておいて欲しかった」

 

「まぁ、どうやら曰く俺に専業主婦は向いてないらしいです。そもそも専業主婦に向いている人間はヒモの素質がないといけないそうで。だから諦めて、普通に就職して二、三年程度は働きながら貯金してそこからちょっとした土地を買い駐車場にします。上手く言ったら親に相談をして追加の資金を受けて二つ、三つの駐車場を経営しながら生活していくつもりです」

 

 俺の淡々と語る様子に平塚先生は「お、おぅ……」と引いていた。そんな先生の姿を見て思い出すのは去年の出来事、俺の専業主婦の夢敗れた日。それは去年の仲春頃に遡る。

 

『そもそも結婚相手を見つけても君が女の子から好かれると思っているのかい? 無理だよ、無理、君はモテない男子だし』

 

 自室で将来のことを尋ねられて軽く答えれば悪霊の口から飛び出してきたのは棘だらけの駄目だし。

 

『そもそもヒモも専業主夫も顔と性格ありきだよ。顔の合格ラインに達していないくせに何、夢見てんだよ。その上で君の場合は性格も最悪ときたもんだ。はいはい、無理無理。ヒモにしろ、専業主夫にしろ女の子に切り捨てられたら終わりなんだから媚びて甘えれる素養が必要なんだよ。それで甘えられて嬉しいのはイケメンの特権。甘えてくるイケメンが癒しになるから女も頑張ろうって思えるんだよ。男だって逆だったら同じように思うでしょ、美人な奥さん、美人な彼女のために仕事バリバリ頑張るなんてそこらへんに落ちている話じゃないか。働いてきた女の子、経済的に支えてもらっている子を癒すのが本来のお仕事。そうやって最初期は甘やかして、情で雁字搦めになるまでいい顔して、都合のいい女扱いできるようになったら無事、寄生に成功。そしたらヒモに昇格ってわけ。はい、論破、君には致命的に素養がないですぅ、君のどこが癒し系なのさ。癒しどころか一緒にいると不快にさせるだけじゃん、不快系男子、うぷぷ』

 

 ――も、もしかしたら俺のことを愛嬌があって可愛いと思ってくれる人が居るかもしれねぇじゃねーか。

 

『はーん? 何、夢見てんのぉ? まぁ、も・し・か・し・た・ら居るかもね。でも居たとしてもどうやって探すの? 手当たり次第ナンパでもするのかい? それとも大学にいった時に合コンに参加するの? それともお見合いパーティー? そんな場所に行ける勇気も無い癖に夢見るだけは一丁前。そもそも接点すらもてないくせに。そうやって愚図ってる間に君をもしかしたら好きになってくれる子もいなくなって、結局一人。君は獲物を奪われる側だよ』

 

 ――はーん、程度の低い煽りですね。舐めんなよ、俺は好きになったら翌日に告白するくらいの行動力は持っている。

 

『で? それでぇ? 結果は? ほらほら、言ってみなよぉ、比企谷八幡くん。そんな自信満々な行動力の結果を言ってみなよぉ。それだけ自信たっぷりなら彼氏彼女と無事なれました、とさぞ素敵な結果が出るんだろうね。そこんところどうなんだい? 事の顛末を教えてよ、この私にさぁ』

 

 散々言われ俺がふて腐れて寝たこの一件の影響により、俺は一人でも働かずに済む職業をし、色々と調べていざ再戦とばかりに九音に駐車場の夢を語ったのは四ヶ月程後の出来事。夏休みの終わり近くに徹底抗戦の姿勢で夢を語れば肩透かし。およそ、俺の夢を言葉の暴力で叩き潰した女と思えないほどに丸くなっていた為に「あー、うん、そう……頑張れ」と欠片も興味なさそうに応援された。なんなら、そこから調べごとは手伝って貰ったほど。

 

 そんな記憶を回想していると、どうやら平塚先生の方でも琴線に触れるものがあったらしい。聞きとり辛い声量でぶつぶつと呟いていた。

 

「ヒモは駄目だ。あいつらは結婚をちらつかせては家にあがりこみ、いつの間にか作っていた合鍵で自分の荷物を部屋へ運び込み、友達と飲みに行くからといって金をせびっては都合が悪くなるとSEXや愛を免罪符に誤魔化して、挙句の果てには私がめんどくさい女扱いになって、別れる際には別の女の部屋に私のものだった家具家電まで持っていく始末……何から何まで全部ぅ……うぅっ、ヒモはいかんぞ、ヒモは。いいか、比企谷!」

 

 生々しい噺だった。滅茶苦茶、生々しい話が聞こえてきた。誰のことなのは言ってはないものの余りにも実感の篭った台詞と内容のせいで平塚先生の話にしか聞こえなかった。

 

「ま、まぁまぁ。ヒモはまだしも俺は専業主夫という夢に関してはそう悪くない選択だと思うんですよね。ついでに駐車場経営も」

 

「……ふむ、続けろ」

 

 平塚先生の腰掛けている椅子がぎしりと鳴る。深く腰掛けた先生の両目がくださいなことを言ったらわかるな? と語りかけてきた。

 

「まず男女共同参画社会という現状において女性の社会進出は規定路線であり、今は職業的に性差があることはあまり歓迎されていません。そうなると未来的には女性の社会進出が当たり前どころか、男性の育児への参加すら当然のことになりそうな世の中じゃないですか」

 

「まぁ、そうだな。男性が育休を取るといった選択は一昔前までは考えられなかったと言われてるしな。育休、子供、幸せな家庭、結婚……うっ」

 

 勝手に自分で言葉を重ねて涙目になる平塚先生。俺はそっと目をそらして話を続ける。

 

「けど、よく考えれば女性が仕事に参加するようになればそれだけ仕事の数が割り振られるわけです。そうなると割り振られた仕事の元は男性であるのは間違いないですよね? 男女平等を謳う世の中ならば今まで男性の仕事だった分も女性にも、仕事が割り振られるようになるわけです。そうなると自ずと男性の仕事が減るのは自明の理で」

 

「……」

 

 未だにダメージ継続中なのかうるうると視線が潤んでいた。いや、効きすぎでしょう? どんだけしたいんだよ、結婚。誰か早く貰ってあげて……。

 

「勿論、女性だけが仕事を奪うわけではありません。機械化が進んでいる現状では人の力すら必要なくなってくるわけで。それに昔ならいざしらず、最近の家電は男女共々しっかりと使えるようになっている。そうなればクオリティなんてものの差は専門職以外は少なくなってくるわけです。今までは女性の仕事だったものに男性が参加するのも一つの新たな道だと思うんですよ。本当の男女平等を訴えるのなら男の限られたパイを配分するわけじゃなくて、女性の持っていたパイも混ぜて全体に均等すべきと考えてます。そうなると男性が家庭に入るという選択は悪い選択ではない。そして駐車場経営だって同じです。今は専門的な知識は大きく必要とせず気軽に出来る投資の一つとして形づいているわけです。どのような職種にも貴賎は無い以上、投資という形で駐車場を経営するのは悪くない選択だと思いますよ」

 

「う、む……しかしだな、比企谷。投資というのは知識があったとしてもギャンブル性が」

 

「確かにギャンブル的な要素はあるかもしれません。でも人生ってのは一度きりなんです! 男には賭けなきゃいけない時があるんですよ」

 

「そう言って夢を追いかけていた奴は結局、別の女のところへ転がっていったよ」

 

『ひ、ひぃっ!?』

 

 仄暗い過去が見え隠れ、いや殆ど丸みえだった。余りの怖さに九音などびびり竦みあがっている。俺も怖い。うちの学校、怖い女多すぎでしょ……。

 

「と、とみょかく! 要するにそうやって殆ど動かないで金銭を得る仕事があるにも関わらず、必死に労働をしている人間だけが賛美されて駐車場経営だけで生活できる人を非難するのはちゃんちゃらおかしいわけですよ」

 

 完璧な結論であった。働いたら負けかなと誰が言ったかなど今や覚えていないが実にそう思う。

 

「君は、本当に……はぁ」

 

 平塚先生はまるで問題児を見るかのような呆れ果てた視線を送ってくる。だが、すぐに何かを思いついたらしく意地悪そうに口角をつりあげる。

 

「女子からの手作り料理でも振る舞って貰えば君の勤労に対するスタンスに変化が起こるかもしれないな」

 

 そう言って立ち上がり、両肩をぐいぐいと押し始める。それと同時に九音は俺の首に腕を回してわーきゃーと叫ぶ始末。まるで遊園地にありそうなアトラクションのようにぶらぶらと揺れて実に楽しそう。

 

「ちょ、押さないでっ、痛い、痛いですってば!」

 

 ぎりぎりと締め上げられる肩。押すなと抗議すればさらに押してくる。まるで俺の肩と平塚先生の力比べみたいな構図。面白いとばかりに笑みを深めさらに力を増して押してくる。いや、そういうノリじゃないんですけど。俺の抗議などまるで聞く耳持たずに職員室から追い出される。そして最後にドンッと背中に一撃を貰い、つんのめりそうになるがギリギリで踏みとどまることが出来た。

 

 少し抗議しようと振り返れば――ピシャンと明太子のような擬音をつけて扉は無常にも閉められる。

 

『先生の言ってた――異論反論抗議質問口答え、その他に類するものを一切禁じるって奴だね』

 

 まるで呪禁令のように抗弁を封じられてしまえば職員室の扉を開いてまで何か言おうとは思えない。ストライキとばかりに無言で部活をばっくれようか、と頭によぎるがそんなことをしてしまえば雪ノ下に命令権が渡ってしまう。今現在の賭け相手の様子を思い出してみれば非常に不味いので仕方なしに部室の方向へ足を向ける。

 

 色々と重い足取りのまま奉仕部へ。今日もリア充が元気にうぇいうぇいするのを眺めながら歩いた廊下は対極の空気。特別棟の離れにある奉仕部までの道のりは静か。唯一、変わったことの心あたりと言えば、扉を開いた先に居るであろう雪ノ下雪乃。昨日と数日前ではあまりにも違いすぎる少女。

 

 奉仕部へたどり着き、精神的に重い扉を開き、目にする彼女の姿は予想通り。昨日となんら変化の無い様子で首に包帯を巻いた少女が居た。

 

「うす」

 

「こんにちは、比企谷くん。私のような美少女を前にしたら照れて普通の挨拶ができないのは理解できるけれど、きちんとこんにちはと言えた方が社会に出る時に役に立つわよ」

 

 数日前に比べて棘成分が八割ほど減退している。お前は俺のかーちゃんかよ、と言いたくなるような小言を頂く羽目に。

 

 小さく溜息を吐いて――そして気づく。

 

 ――ハッハッハッ

 

 人間の声、人間の息とは異なるその音に。そして俺は気づいて天を仰ぎたい気分になる。

 

 確かに雪ノ下は昨日と同じだった。首元には包帯で、相変わらずそこいらの女子から嫉妬されそうな程に綺麗な顔。

 

 だがしかし。そう逆説を重複させるほどの変化、それこそ強調せねばなるまいよ、とばかりに使命感を持って。

 

 ――ワン!

 

 犬が居た。どこまでも犬だった。それはもう飛びっきりに犬であった。昨日の見た犬がそのままサイズが一回り小さくなったかのようにそこに居たのだ。

 

 ――ハッハッハ

 

 人懐っこい鼻息を鳴らしては俺の足元に寄ってきて媚びるようにくぅーん、くぅーんと鳴いてズボンに身体を押し付けてくる。

 

『ま、間違いなく昨日の送り犬だよね……』

 

 そう『送り犬』である。送られて見送った筈の犬が部室で待ち構えていたのだ。大きさこそ多少違えど、ほぼ直感的に昨日の犬だとわかてしまう。そもそもが雪ノ下に見えていない犬は間違いなく妖の類であり、幾らメジャー級に有名な妖怪といえど連日見る犬が違う存在、別種であるなんてことはないだろう。無いと思いたい。

 

 そもそも、が――俺の持つ目。霊視とでも呼ぼうか。俺の霊視はそこまで万能なものじゃない。幽霊、妖怪、怪異ならば何でも見えるわけじゃあないのだ。九音曰く、俺が見える範囲は害をなす、人に悪影響を与える存在しか見えないらしい。この両目では九音が見えている他の浮幽霊も、時たま居るらしい誰かに憑いている自己主張の激しい守護霊も見えやしない。ましてや善霊を見ることは決してないとのこと。

 

 どこまでも悪霊だけが見える、と。それは間違いなく不幸である、と。足山九音は優しい笑顔で言ったのは去年の、一年前の出来事。

 

 そう、俺を助けてくれるのはいつだってこの性悪幽霊だけだった。九音だけが俺の命を助けてくれた。

 

 浮幽霊なのかも判らず、悪霊なのかも解らない。正体不明のわけのわからない幽霊しか助けてくれなかった。霊視を出来ない半端者、誰も助けてくれない一人ぼっちの霊能者。霊能力者と呼ぶには抗う力も無く怪異に対して何も出来ずに片手落ち。そして普通の人呼ぶには余りにも半人前。

 

「どうかしたの、そんな所で立ち止まって」

 

 思い出に浸っている間に雪ノ下がパイプ椅子を用意してくれていた。しかしながらその位置は雪ノ下の真横と呼んでも差し支えない距離。肩と肩が触れ合うような距離に用意されたパイプ椅子を眺めていると。

 

 ――ワゥワゥ! グゥゥゥゥゥゥッ!

 

 急に不機嫌になった犬がズボンの裾を噛んで椅子の方へ引っ張る。

 

『……おいおいおいおい。そこの新参妖怪ちゃんよぉ。誰に許可を得て八幡くんのズボンに噛み付くなんて羨ましいことしちゃってるんだい……え? ねぇねぇ、それどうやってやるの? ねぇ、それが出来るようになれば私と八幡くんが触れ合えるようになるわけだよね。ねねっ、それどうやるの? 教えてくれよ、ねぇ、教えてください、お願いします、お犬様』

 

 チンピラのように強気を見せたのも束の間、即座に媚びるかのように揉み手をしながら犬へと近づく九音。もはや即落ち二コマなんて話じゃなくて、吹き出しの途中で即落ちしていた。しかしながら、そんな幽霊になど目もくれず椅子の方向へ俺を引っ張る犬。

 

『ね、ねぇ、教えてって。教えろったら。こ、こいつ……人が下手に出ていれば調子に乗りやがって、この雌犬! ほら、さっさと吐け! 私に教えろよ! 賢い私にさっさとやり方教えろ! そろそろ怒るぞ! 怒るぞっ!』

 

 賢さの欠片もなかった。賢い人間の請い方には全然見えない。むしろ小学生の方がまだ交渉の駆け引き、ノウハウを知っているレベルのやり取り。拳を作って脅す九音に。

 

 ――バウッ!

 

『ひ、ひぃっ、ひぇぇぇぇっ』

 

 一喝で追い払う犬。情けないまでに情けない女幽霊。犬は「はん、雑魚が」とばかり、高慢ちきに鼻を鳴らして再度として俺を椅子へ引っ張る。

 

『こ、怖くないぞぉー! お、お前なんか私が本気出したらけちょんけちょんなんだからなっ! お前、ほんと、大概にし、しとけよぉ、ぉぉ……」

 

 もういっそ哀れだ。背中に隠れて背中越しに声を震わせて文句を言う女の幽霊。そんな俺の足の袖を噛んでは引っ張る犬の妖怪。奉仕部内が怪異の温床となりつつある現状に内心で大きく溜息を吐きつつ俺はパイプ椅子をずらして座る。雪ノ下とは二人分くらいの距離をとり長机の真ん中へと腰を下ろす。

 

「つれないのね。いえ、この場合は釣った魚に餌をあげないのかしら」

 

「釣りをしたことがねぇからな。どうしたらいいのかわかんねーんだ」

 

 軽口を叩いて俺も鞄から本を取り出す。犬は不満そうに足元でうーっと唸り、幽霊はその犬から距離をとるかのように、足は天井側へ、腕は頭にしがみついてうーっと犬を睨む。知能が獣レベルと化していた。

 

「そういえば比企谷くん。クッキーの味どうだったかしら? 口に合えばよかったのだけれど」

 

「ん? あぁ、まるで店で売っているような完成度だったな。大したもんだ」

 

 嘘は言ってない。見た目は綺麗なもので店売りの代物と見分けがつかないほどに立派な出来であった。

 

「そう、それは良かったわ。あまり褒められたような気はしないけれど、それが貴方なりの最大級の褒め言葉と受け取っておきましょう」

 

 自信の塊のような女である。しかしながらその自信に相応しい腕であるのは確か。少しは平塚先生にもその料理の腕前を分け与えてあげるべきだ。いやいや、まだ料理下手って決まったわけではないけどね? ほら、一応保険というか。

 

 そんなことを内心で考えていると雪ノ下はふと、何かを思いついたらしく。

 

「ねぇ、比企谷くん。貴方、いつも購買のパンよね」

 

 なんで知ってるの、怖い。

 

「そんな貴方に朗報があるわ。私、料理が出来る女なの。お弁当も手作りしてるわ。ついでに貴方の分も作ってきてもいいかしら?」

 

「や、それはいい」

 

「どうして? 健康面でも金銭面でも余裕が出来るじゃない。勿論、材料費は要らないわ。私が作りたくて作るわけだし。それに先日のチョコの件も」

 

 

 一見タダに見えるその罠はきっとタダですまない。そもそもが、だ。俺は女の子に養われるつもりはあっても。

 

「俺、施しは受けないタイプなんだよ。昼も現状に不満ないしな。この前のチョコはクッキーで十分だ。いや、十二分に有難かったわ。だから、この話は終わりだ、終わり」

 

 ――ウウーッ! バウッバウッ!

 

 俺の返答に対して雪ノ下の足元で丸まっていた子犬が反応する。そして、そのまま――雪ノ下の椅子に体当たりをし始める。

 

「えっ、地震?」

 

 雪ノ下は起きても居ない地震を感知しては立ち上がる。

 

「えっ……比企谷くん、今揺れなかった――きゃっ」

 

 そして、今度は雪ノ下の足元に体当たり。膝裏に体当たりして雪ノ下の体勢を崩す犬。勿論――見えていない彼女はバランスを崩して倒れそうになる。

 

 俺は即座に立ち上がり、雪ノ下を身体を受け止める。

 

 俺は子犬を見つめる。彼奴は間違いなく己が意思で雪ノ下を転ばせた。送り犬の伝承のとおりに転ばせようとしたのだ。

 

 バクバクと心臓が早鳴りを打つ。妖怪が居る現状に気は緩んでいるつもりは無かった。おかげで転倒を阻ぐことができた。

 

「あ、ありがとう、比企谷くん。今のはわざとでないのよ、本当に地震を感じて、その……」

 

 恥ずかしそうにする雪ノ下をそっと立たせる。か細い身体をそっと手放しては俺は「気にすんな」と声をかけてから再び椅子に座りなおす。

 

『いやいや、八幡くん。そんな大げさにしなくても、別にそいつ助けなくても大丈夫だったよ。そもそもがその女は犬に出遭ってないんだから。だから妖怪としてその犬が転ばせたところで何の意味もない。その上で転ばせようとしてるんだから、おかしいよ』

 

 九音の言葉に異論を挟む余地がない。

 

 そうだ、その筈だ。転んだから犬が現れて襲われるのではない。犬が現れて転んだら襲われるのだ。順番が異なる、つまるところ。

 

 ――わふぅ?

 

 この犬は何のために雪ノ下を転ばせようとしたのか? 睨み付けてもすっとぼけて此方をクリクリとした目で見つめてくる。まるで悪いことしてませんとばかりに純粋無垢に。何も知らぬとばかりに、何かありましたか? とばかりに後ろ足で耳をかいては知らん知らんとばかりにふてぶてしい表情。

 

「……ねぇ、比企谷くん」

 

 耳元で甘く響く。考え事と犬に意識を割いていたせいか、いつの間にか肩の当たる距離に雪ノ下が近づいてきたことに気がつかなかった。囁やかれた方向を見れば――。

 

『あ"ぁあ"ぁぁぁ! この雌! この雌犬! 泥棒犬! 顔が雌ってる! 八幡くん、離れて、危ないからっ! 食べられちゃう!』

 

 九音の叫び。顔が雌るという聞きなじみの無い表現。しかしながら大体のニュアンスを察することが出来てしまう。

 

 ぽふっと肩に頭が乗ってくる。

 

 その状態は質量さえ無ければよく知っている状況。けれども覚えがないのは肩にかかる重量から。

 

 横目で雪ノ下を見ると彼女も此方を上目で伺うように見て来ていた。確かに近くで見る雪ノ下は女の顔していた。それこそ、華奢な体躯のどこにその色気を隠していたのかという程に。

 

 綺麗なものを汚してしまいたいという男の情欲を誘うような。男が好む処女性から生まれた色気。本来なら相反するような清楚さと色気が同時に絡み合い本能に訴えてくる。

 

 ――喉が鳴る。

 

 鳴ったのは俺の喉。ただ自分の音だけが響く。ぎゃーすかと騒ぐ筈の九音の声がどこか遠くの世界のように聞こえる。心臓と俺の荒い息遣いだけが響く。ぐるぐると視界が回る、触れるように近い少女の顔。その彼女がこくりと頷き、目を瞑る。

 

 拙い。

 

 俺の脳内に浮かんだ言葉。九音の『何が拙い言ってみろ! 許さんぞ貴様らーっ! じわじわと呪い殺してやるぅぅぅう!』と騒ぐ声、犬のワフンと満足気な顔も見えているのに、俺の身体は。

 

「んっ、早く」

 

 その色っぽい台詞に俺はまさに魔がさす、魔に惹かれる、悪魔に――コンコン。

 

 慌てて椅子ごと離れる。あと一秒か二秒、遅ければ何がどうなっていたのかわからない。

 

 そして雪ノ下は俺の椅子ごと引いた姿を見た後に、不機嫌そうな表情を浮かべて扉の方向を見る。そして底冷えするような声で。

 

「……どうぞ」

 

 心底、機嫌が悪そう。弱弱しいノックに対して余りにも威圧的な返答。

 

 若さゆえの過ちにそのまま墓場まで引きずられそうだった。普通ならキスの一つや二つで墓場まで行くことはないけれども、今の雪ノ下雪乃という少女にはそのたった一回ですら連れていかれそう。それこそ、非常事態の非日常ではなく、こんなお天道様が見ている前で白昼堂々と、日常でキスをしてしまえばそのまま一直線。俺の入る墓は比企谷家から違う苗字の墓に入る可能性すらよぎってしまう。

 

 そんな俺の救世主に対して心の底からお礼を言いたい。けれども口に出せば雪ノ下を怒らせることは薄々と察せるので心の中だけで頭をさげておく。

 

「し、失礼しまーす」

 

 威圧のせいか緊張気味に恐る恐ると扉は開かれた。そして開かれた隙間は僅かなもので、そんな僅かな隙間から身を滑らせるように侵入してきたのは女子生徒。

 

 緩く肩までウェーブした茶髪、制服の着こなしは雪ノ下と対照的で今風といえば聞こえは良いものの悪く言えばだらしない。スカートの短さは雪ノ下より短い九音、それより更に短く。服装のおかげかなんとなくどのようなカーストなのか予測がつき始めていた。

 

 そんな女子が物珍し気に室内をきょろきょろと見ていれば、俺と視線があって停止ボタンが押される。

 

「ひっ」

 

 おっ、正気度ロール失敗してんな。今度はSAN値減少のダイズ振ってくださいねー……じゃねぇんだよ。なんで一目で凄惨な現場に出くわした、根源的に恐怖を覚える生物に遭遇したみたいな反応なんだよ。俺の顔がクトゥルフに出てくる可能性が増々上がってるじゃねぇか。やめてくれよ……。

 

「なんでヒッキーがここにいるの!?」

 

 俺の方向を見て言ったのだから俺のことなんだろう。そして何故、と問われれば。

 

「いや、俺ここの部員だし……」

 

 そう答えるしかない。というか誰、この子? 助けてくれたことには感謝するけど、その後の正気度ロール失敗からのSAN値チェックのせいで俺の印象はプラスマイナスつかずのトントンといった所。

 

『由比ヶ浜さんだ、八幡くん。由比ヶ浜結衣、同じクラスの』

 

 俺の問いに答えてくれたのは未だにジト目を維持したままの九音。

 

 いや、良かったわ。実は正気度失敗して知らない人でも知っているとかいった狂気ロールプレイしてる可能性考えちゃったわ……。とはいえ、九音の情報を与えられたところで何も思い出せない。

 

 制服のブラウスのボタンは三つ目まで開き、そこから見えるネックレス、脱色された髪に短いスカート。まさに青春を謳歌している女子高生といった見た目。それこそ彼氏や彼氏グループと一緒に廃墟にでも肝試しにいって「やーん、怖いー」とか言いながら彼氏の腕に抱きついてそうなリア充オブリア充の雰囲気を感じ取る。いわゆる量産型女子高生、もちろん顔のスペックは高く、スタイルもかなり良い。そうでなければリア充としては片手落ち。そしてホラー映画とかに出てきたのなら大体お色気シーンがあった後に死んじゃう奴。

 

「あー、由比ヶ浜だっけ? まぁ、とにかく座って座って」

 

 パイプ椅子を用意して紳士的に勧める。そこにスタイルをじっくり眺めた疚しい気持ちによる罪悪感など無い。自称美少女の幽霊のあられもない姿をかなり見てきた俺は女体に対してかなりの耐性を持つと自負している。勿論、大きさなど人それぞれで九音よりも遥かにボリュームを主張する胸なんかに誘惑されたりしない。胸なんかに絶対に負けない!

 

『変態クソ野郎のおっぱい星人、いつまで見てるの? 潰すぞ』

 

 九音さん、それ目……ですよね? 目だよね? と恐る恐る視線で尋ねてみてもニッコリと嗤うだけ。怖い。

 

 そそくさと席に戻って小さくなる。俺の中にあった女体の神秘に対する探究心も熱も完全に奪い去られた。人のやる気を奪うなんてなんたる悪霊なのか。

 

「あ、ありがと……名前、覚えてくれてたんだ、えへへ、嬉しいな」

 

 頬をポリポリとかく仕草に罪悪感がわいてくる。俺が正直者村出身なら今すぐにでも覚えてませんでした、ごめんなさいと言う所。しかしながら素直に知らなかったといえば無駄に落胆されたり、同じクラスなのにといった口論に発展するのも面倒くさいので、俺は否定も肯定もせずに曖昧に答えを濁し、想像にお任せできるよう黙って椅子に腰掛ける。

 

「……へぇ」

 

 冷たく響いた感嘆詞。ゾクリと震える背筋はまるで氷柱を入れられた――そんな錯覚すら覚える。感嘆詞の出所は隣、九音は頭にしがみつき、そして由比ヶ浜は対面に座っている。そうなると残るは一人。

 

 残った一人の表情を盗み見るかのように視線を動かしてみればギョロリ、と。

 

 ホラー映画を見た程度の経験値なら漏らしていた。あってよかった心霊体験。俺は生まれて初めて今までの様々な心霊体験に感謝した。そして感謝と同時にお腹一杯なのでもういいですとお断りもしておいた。

 

「あ、あのぅ……」

 

 由比ヶ浜が自己主張するかのように小さく手をあげる。

 

「由比ヶ浜結衣さん、ね」

 

 雪ノ下はフルネームを呼ぶことで自分も貴方のことは知っていると主張した。

 

「あ、あたしのこと知ってくれているんだ」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下に呼ばれたことに表情を明るくする。自分の名前が知られて嬉しいということにはあんまり共感を抱けない。そもそも俺の名前が良い意味で知れ渡るならまだしも、大抵は碌な話なので知らないでいて欲しいまである。

 

「お前、よく知ってたな。別のクラスだろ? もしかして全校生徒の名前覚えてんの? すげぇな」

 

 ここぞとばかりにヨイショ。先ほどのホラー映画もかくやの視線を思い出して少しでも怒りの矛先を収めて貰わねば。こんな扱いは先日の神様以来。やっぱこの女、おっかねぇわ。

 

「いいえ、そんなことはないわ。現に貴方のことは知らなかったもの、比企谷くん。貴方のように異性の名前だけを覚えているような人間と違って、意識せずとも自然に耳に入ってくる人のことしか知らないわよ」

 

 ちょっと雪ノ下さん? その言い方だとまるで俺が下心あるみたいな言い方じゃありません? 内心でお嬢言葉になる程の扱き下ろしに対して俺は抗弁を試みる。

 

「ちょっと待て、雪ノ下。俺は異性の名前だから知っていたわけじゃない」

 

「あら、それならどうして?」

 

「いいか、俺は同姓であれ異性であれ殆どの人間の名前も覚えていない。由比ヶ浜の名前もつい最近、日直かなんかで見かけただけで偶々覚えていただけだ。近々、いや明日には忘れてる自信はあるぞ」

 

「自分が鳥頭であること自慢げに語るなんて貴方、馬鹿なの? 欠点を自慢げに言うその自虐スタイルが会話の流れで面白いと思っているのなら救いようがないわね。何事にも飽きっていうのがあるの。使い古されているにも関わらず何度も同じような会話のテンポを楽しんでいるなんて貴方の程度が知れるのだけれど。いつまでそれが面白いと思っているのかしら、私、心配だわ」

 

 雪ノ下の罵倒しているというスタイルはいつになったら飽きるんですかね。舌刀で滅多刺しにしてくる猟奇的会話術の部長は今日もいつにも増して絶好調だった。誰だよ、棘成分八割減とか言ったやつ。嘘じゃねぇか。

 

「ねぇ、それでお前心配しているつもりなの? 心配するよりもお前が新しくつけている傷の方が遥かに大きいからね? むしろお前の傷しか残っていないからね?」

 

「調教しているのよ、私。少しは飼い主の苦労もわかってほしいわ。あなたの更正活動にここまで真面目に取り組んでいるのだから感謝なさい」

 

 良い仕事しているわ、と満足気味に前髪を払う雪ノ下。そんな俺と雪ノ下のやり取りを蚊帳の外で見ていた少女が呟く。

 

「なんか、楽しそうな部活だね」

 

 言い争う二人を見てそんな感想が漏れたらしい。由比ヶ浜の表情は明るく、俺の苦い顔が見えないらしい。これが楽しそうに見えるわけ? どんな目してんだ、こいつ。

 

「別に貴女にとって面白おかしくしているつもりは無いのだけれど。それにどうしてそんな表情を浮かべているのかしら」

 

「あ、ご、ごめんね、雪ノ下さん。二人とも、その……なんていうか、自然だなって思って。ほらっ! ひ、ヒッキーもクラスに居る時より喋るし!」

 

「いや、喋るよ、そりゃあ……無視とかしてたら感じ悪いだろ」

 

 どんだけコミュ障だと思われているんだろうか、俺は……そこまで考えて過去一年のクラスでの会話を思い出してみる。

 

『仕方ないよね。だって八幡くんってクラスの誰かと会話してたらそれだけでレア扱いされるレベルだもん』

 

 ぽんぽんと優しく肩を叩いてくる九音。勿論、質感も何も存在しない慰め。この女幽霊からしてみれば由比ヶ浜の感想はどうやら妥当であったらしい。

 

「そ、そうだけど。クラスでは他の誰とも喋らないじゃん」

 

 九音と同じような理由で由比ヶ浜も判断していたらしい。確かに教室で会話した記憶など殆ど残っていない。けれども。

 

「喋らないだけでコミュ障扱いってのは偏見だろ。昔から雄弁は銀、沈黙は金って言うだろ。黙っていることがペチャクチャ喋っていることに劣るわけじゃない。むしろ金銀の価値を考えた時に金の価値が高いのは当たり前であるように沈黙という選択は誇るべきことだ」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜はキョトンとして、それからもごもごと口の中で何かを繰り返して、意を決したかのように口を開く。

 

「ゆ、ゆーべんはぎん? きん……し、知ってるよ、オリンピックだよね……?」

 

 俺は心底馬鹿にしたような顔で鼻を鳴らし、由比ヶ浜を嘲笑った。ちょっとこの子アホすぎない?

 

「はぁ!? なんだし! その顔っ、ちょっと間違えただけじゃん! 人の間違いを笑うなんて感じ悪い! そんなんだからクラスでも友達居ないんだよ、いっつもきょどってるしっ! きもいし!」

 

 烈火の如く怒る由比ヶ浜。そんな俺を怒りの目で見る視線に続いて呆れた視線が二つ。

 

『八幡くん、さっきの慣用句は雄弁も価値はあるが、沈黙すべき時を心得るのはもっと価値があるって意味だよ。決して黙りっぱなしが一等賞とか喋りっぱなしが偉いとかじゃないからね』

 

 知ってる。ついでに雪ノ下も同じような感想なのか「ものは言いようね」と呆れていた。

 

 ともあれ、この短いやり取りで俺は由比ヶ浜のカーストと人種をはっきりと理解した。コイツは。

 

「……ビッチか」

 

 ボソリと小声で呟く。そう、俺の敵。いや俺達、男子の敵とも呼べる存在。色々と気を使って損した気分だ。そんな俺の小声は由比ヶ浜の耳に届いたらしく怒涛の勢いでこちらに噛み付いてきた。

 

「はぁ!? ビッチって何!? あたしはまだ、ヴァ……な、なんでもない! なんでもないから!」

 

 顔を真赤にしてあわあわと手をふる由比ヶ浜。まるで自分の発した言葉をかき消すようにバタバタと手を動かしていた。そして、そんな少女の様子を見て九音が。

 

『かぁーっ! ペッ』

 

 まるでおっさんのような態度で地面に痰を吐くような真似をしていた。ちなみにあくまでフリである。流石に本当に吐き出すなんて尊厳を捨てるような真似をしていなかった。

 

『なんだい、こいつは! 一見、ビッチに見せかけて処女というカミングアウトっ! あざといぞ、あざといにも程があるね! ペッペッ、ほんとあざといっ。ぷんすかぷん!』

 

 ぷんすかぷんとか言うやつが他人のあざとさにツッコミを入れるのか……。

 

 それに九音自身があざとさの仕草としてプンスカプンという言葉を選んだのならセンスが古すぎる。

 

 そんな幽霊など見えもしないだろう雪ノ下は由比ヶ浜に向かって言葉を放つ。

 

「別に恥ずべきことではないでしょう。私達の年齢を考えたらヴァージ」

 

「わわわわーっ! 何言ってんの、雪ノ下さん!? まだとか普通に恥ずかしいから! 雪ノ下さん、女子力足りないんじゃないの!?」

 

「……くだらない」

 

 一度、途中で言葉を遮られた雪ノ下は由比ヶ浜を興味すら沸かない理解不能な珍種の動物かのように見ている。

 

「にしても、女子力って単語がなんかこう……もうビッチ感丸出しよな」

 

『……は、八幡くん、そんなことはないんじゃない? 別に女子力って単語を日常会話に混ぜる程度でビッチ呼ばわりは流石に可哀想じゃないかな?』

 

 唐突に由比ヶ浜の擁護を始める幽霊。実際のところ、自分の擁護であることを知っている。この幽霊も度々と女子力という言葉を使うことは多々とある。

 

「また言ったし! 人をビッチ呼ばわりって酷すぎ! キモい! ヒッキーマジキモいっ!」

 

『うんうん、わかるわかる。分かるわー。女子力、イコールビッチって発言は今にでも撤回すべきだと思うな! そう、女子力って単語を使っていても純情可憐な子も居る筈だよ! そう、私みたいな……私みたいな!』

 

 純情可憐、純真無垢。どちらも穢れなく可愛らしいことを指す四字熟語。もしも使うとするのならば善良な美少女に対してであるべきだ。足山九音という少女に綺麗だとか可愛いといった形容詞はついたとしても善い、善良なんて言葉は決してつかない。

 

 そんな二対一の抗議をまともに取り扱うつもりもない俺は体面に座ってうーっと悔しそうに睨んでくる由比ヶ浜に答える。

 

「俺がキモくても、ビッチ呼ばわりを訂正するつもりはないがな」

 

 というか俺ってクラスでヒッキーとか呼ばれてんの? そうなのか……新事実に若干落ち込む。引きこもりに対する蔑称にしか聞こえないあだ名がクラス内で使われていると思うと憂鬱になる。九音あたりは知っていて変な気を回して伝えなかったかもしれない。陰口とは本人の耳に入ることで予想もしないダメージを与えるということを思い知った。だからこそ、陰口ではなく俺はこの場ではっきりと面と向かって伝えることにした。

 

「この、ビッチが」

 

『ねぇ、それ、私に向かって言ってないよね? 違うよね? ね? ね? あの由比ヶ浜とかいう女に向けてだよね? ね?』

 

 ねぇねぇ、ねーってば、と俺の背中にしがみつき両肩の後ろから交互に顔を覗かせながら尋ねてくる九音。その必死さに少しばかり罪悪感がわく。ビッチ呼ばわりとはそこまで酷いものなのだろうか? 対極に見える男のヤリチンという言葉はスラングでありながらもそこで酷いものではないように思えるのだが。

 

「こっのぉ、マジうざい……マジきもい! つーか死ねば!?」

 

 キレた由比ヶ浜の言葉に普段は錆びついて切れない剃刀のごとく穏やかで菩薩のような俺も反応してしまう。こちとら死という単語には敏感なのだ、決して悪口や言い合いで簡単に口にいていい単語ではない。絶対に許さねぇ!

 

「おまえ、死ねとか殺すとか安易に使うんじゃねぇよ! そういうの良くねーだろ! 呪い殺すぞ!」

 

「あ……うん、そだね、ごめん……。ん? 今、言ったよ! しかも呪うとかも言ってた! 怖い!」

 

 やはり由比ヶ浜の頭は少し弱いようであった。

 

 しかしながら、少しだけ新発見。見た目からは俺なんかに頭を下げるなんてプライドが許さないと思ったが偏見にしかすぎず、確りと自分の非を認め謝ることができるタイプらしい。

 

 つい先日、見た目と噂の違いに命をもぎ取られそうになった俺は何の成長もしていない。少しばかりそういった部分は考えなければいけないのかもしれない。

 

『うぅーっ、ビッチじゃないもん! 私はビッチじゃないんだからねっ!』

 

 未だに先程の話題にズルズルと引きずる九音。そんなに嫌だったのかと思い、罪悪感を視線だけで伝えてみると九音に伝わったらしく、ぷくーっと頬を膨らませて主張してきた。

 

『そりゃそうだよ! まかり間違っても八幡くんだけにはそういうことを思ってほしくない。他のどこのどいつが足山九音はビッチであるって信じても、君にだけはそう思われたくない。だって、私は君のことを好きなんだよ? そういう淫売、売女扱いは傷つくよ。それこそ、うっかり呪い殺してしまいそうになるほどに』

 

 背中にしがみつきながら九音はそういった。それなら由比ヶ浜に対してはさしたる問題ではないだろう。何故なら由比ヶ浜と俺には何の関係性もないのだ。俺がビッチって思っていようが何の影響もない。

 

 そんな由比ヶ浜は言い合うのは時間の無駄だと気づいたらしく、おずおずと雪ノ下に向かって話しかける。

 

「あ、あのさ、平塚先生から聞いたんだけど、この部活って生徒のお願いを叶えてくれるんだよね」

 

 ようやく本題。どうやら彼女は依頼者だったらしい。いや、知ってた知ってた、知ってたわ。この部活がボランティアや何かしらの相談を受ける部活動って前にも推理していたし、あまりにも依頼人が来なくて本質を忘れていたなんてことは欠片もない。ほんとほんと。

 

「少し違うかしら。あくまで私達は手助けにすぎない。願いが叶うかどうかはあなた次第よ」

 

 初耳のその心意気は雪ノ下にとって何か意味のあるものらしい。どこか信念、決意めいた言葉を語る雪ノ下、それを受け取る由比ヶ浜。真剣な雰囲気を感じ取った俺は黙って聞きに徹することにした。

 

「どう、違うの?」

 

 由比ヶ浜の問いに雪ノ下は暫し瞑目し、言葉を選びながら続けた。

 

「飢えている人に魚を与えるのか、それとも魚の捕り方を教えてあげるのか、その違いよ。ボランティアとは本来ならばそういった方法論であって、結果だけを与えるのではないの。自立を促すというのが一番近い表現かしら」

 

 ジリっと後頭部、忘れたい記憶が熱を持った感覚。飢えているというその言葉に嫌な思い出が一瞬だけ蘇る。しかしながら、それは過去のこと、既に終わった御話。

 

 頭を切り替えて雪ノ下の話を考える。彼女の理念に基づくこの部活は、自立と協力により依頼者の目標のために働く、そういった類のものなのだろう。恐らくおおよそは間違っていない筈だ。

 

「すごいねっ、なんかっ!」

 

 由比ヶ浜のとりあえず、よくわかんないけど凄い! という雰囲気をありありと感じ取る。こいつ友人に騙されてそのまま悪徳な宗教団愛に嵌りそう。やはり、胸に栄養が……と一瞬だけ胸と知性に関する都市伝説がよぎった。

 

 対象的な雪ノ下。彼女は宗教団体に騙されそうにない……と俺は思わなかった。得てして自分に自信がある人間は往々にして騙しやすい。自分は絶対に騙されないと思っている人間こそが騙されるなんてよくある話。

 

 必ずしも知識、知性とは騙されることに対する耐性の高さと比例するものではない。

 

 閑話休題。

 

「あなたの願いは叶うとは決まっていないけれども、最大限の手助けは約束するわ」

 

 雪ノ下の力強い言葉に意を決したのか、由比ヶ浜は立ち上がり、そしてぎゅぅっと両手を握り合わせて勇気を振り絞るかのよう。

 

「あの……、あのあの、あのねっ! クッキーを……」

 

『何だ、こいつあざとすぎでしょ。あのあのあのねってあざとい奴パクろう。私が言ったら超可愛くなるし……っとと、八幡くん、どうやら私達はお邪魔みたいだよ』

 

 九音は由比ヶ浜が言葉を止めた理由を察したらしい。俺は九音の言葉から察して立ち上がる。

 

「比企谷くん」

 

 立ち上がった俺に雪ノ下が紙幣を取り出してきた。同世代の女子からお金を差し出される状態ってまるでヒモみたいだ。平塚先生って毎回こんな感じだったのかな。ちょっと怖ぇわ。

 

「一応、聞いておくが何だ、これ?」

 

「これで私と貴方と由比ヶ浜さんの飲み物を買ってきて頂戴。お釣りはいいわ。あと私、野菜生活一〇〇イチゴヨーグルトミックス」

 

 いや、いいんだけれども。俺も時間潰すために売店行こうと思ってたからいいだけれども。問題は――

 

「いや、そんな貢がれるみたいな感じは、その、ちょっと困る……」

 

「貢ぐ? 人聞きの悪いことを言わないで頂戴。私が男に貢ぐタイプに見えるというの? それに高々ジュース程度の貸し借りなんて作らないわ。黙ってかってきなさい。それでも嫌ならこれは投資とでも思ってなさい」

 

 めっちゃ見えるし、それにどんな形で配当を返せばいけないのか怖くて仕方ない。ともあれ、雪ノ下の飲み物も買ってくる以上、紙幣を受け取り幽霊を引き憑れて廊下へと出る。

 

『八幡くん、自分の分は自分で買おうね』

 

 俺はその言葉に素直に頷いた。正直言って女の子からお金を貰うシチュエーションがこんなにも怖いとは思っていなかった。やった、お金貰えたラッキー! なんて無邪気に喜べるのはかーちゃんくらいである。かーちゃんは俺にもっとお小遣いやってくれ。

 

 金には魔力がある、と言ったのは何の漫画だったか。しかしながらそれは事実だろう。骨身に染みてその事実を理解している俺は貸し借りという言葉には敏感すぎるくらいに敏感なのだ。奢る、奢らないなど議論もしたくなければ、施しを受けるつもりもさらさらない。

 

 廊下をゆっくりと歩くことで時間を潰していく。特別棟の最奥、離れの離れにある奉仕部の部室が四階。購買は一階にあり、人に見られないように幽霊と他愛もない受け答えをして往復すれば二人の相談の時間を稼ぐことができるだろう。

 

 どんな人間であれど初めての依頼人である。つまり、俺と雪ノ下との勝負の幕開けというわけだ。

 

 よくよく考えれば勝ち目など殆どない。俺に今出来ることは雪ノ下の熱が冷めるのを待つことだけ。そうなれば流石にお願いの内容も変わるだろう。あんまり無茶なことを言われなければいいが。

 

『それにしてもクッキーねぇ』

 

 購買に辿り着いた時に九音はお菓子のコーナーを眺めながらポツリと呟いた。

 

『ねーねー、八幡くん。フォーチュンクッキーって知ってる?』

 

 先んじてお遣いを済ませる。スポーツドリンクと雪ノ下の注文、そして由比ヶ浜にはカフェオレあたりでいいだろう。雪ノ下の分を紙幣で買い、残りを手持ちの小銭で支払う。

 

 そして九音と同じように売店のお菓子を覗き込みながら問いに答える。

 

「確か、中にお御籤が入ってるやつだったか?」

 

『そうそう。けれどもね、原型は煎餅って知ってた? 日本を中心に辻占い菓子、辻占い煎餅として一般的に知られてたんだよ。けれども特許の関係でいつからか名を変えてフォーチュンクッキーという新しい形になって生まれた。アメリカ辺りでは結構な数でフォーチュンクッキーは中国の習慣だと思っているらしいよ。勿論、愛国心からそのことに文句を言う! なんてつもりはさらさらない。だって私達にとって今の所何の関係もないからね』

 

 購買の品揃えを楽しんでいる九音を眺めていると購買のおばちゃんがいつの間にか此方を怪訝な顔で見ていた。どうやら油断しすぎて九音と会話している様子を見られたらしい。傍から見れば完全に独り言を呟くヤバいやつ。

 

 そんな視線に耐えきれずにそそくさと退散。戻ってもいい時間だろう。

 

『でも、私達は名前の大事さをこの前思い知ったばかり。皆がそう信じているのなら例え一人が真実を知っていてもどうしようもない、手遅れな時もある。この前の人形の一見は裏取りしてない唯の噂話だから助かった。けれどもこれが広がり、真実ではなく偽物の方が信じられていたと考えるとほんと、思い出したら震えてくるよね。八幡くんはさ、この前の出来事、下準備出来て解決方法を思いついたから大丈夫って思ってたみたいだけど、本当にそうだったのかな? もしも一歩間違えれば本当に死ぬ羽目になっていたんじゃないかな。だって蜘蛛、女の蜘蛛、女郎蜘蛛なんてメジャーな妖怪に君と私で対処なんて出来たんだろうかって考えちゃうよ』

 

 九音の警告は判りやすい。判りやすいまでに辛味を帯びた正論だった。

 

『まぁ、別に君が油断して死んじゃったら私が娶るんだけど。それなら死んじゃっても別にいいんだけど。それでも最近、気を抜いてない? いつだって命からがらなのに慣れたとかニュービーだとか、他人の面倒とか見ている場合じゃなくない?』

 

 そんなこと判っている。そもそもが俺は何の力も無い、何の力も無いくせにそんなことをしている余裕なんてない。

 

『……わかってるじゃん。なのにどうしてあの雌犬とか妹ちゃんを優先して死に目にあってんのかなぁ』

 

 小言を呟く九音を無視しながら奉仕部へと戻る。

 

 俺は誰かを選ぶほどの力を持っていない、何せ自分ですらも満足に守れないのだから。それこそ、誰かを救うなんて、誰かを助けるなんて。友達も恋人も唯の知り合い、家族ですら俺が助けるなど傲慢な考え。

 

 俺はその事実を解っている、といつものようにつぶやく。けれども解っていれど、いつも間違えているのなら世話ないのだが。

 

 

 

 




※次回は三月四日投稿予定です。


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仲春【形成】

 家庭科室は調理実習室と家庭科教室という二つの側面を持つ。二面性で部屋と部屋が繋がる室内には、この世で最も殺傷目的で使われる道具が存在する。

 

 殺傷。

 

 殺したり、傷つけたりする力。教育現場でありながら、そういう力が一点に集まっているというのは些かバランスが悪く感じた。校内で殺傷可能な道具が少ないのだから殊更そんな印象が強くなる。

 

 消化器を殺傷目的で使うとするのならば相応の筋肉が必要となり、使い方次第では体育倉庫に眠る大縄、知識を有しているのなら理科準備室にある薬品などでも出来るだろう。

 

 相応の何かしらがあれば他人を傷つけたり、殺すことは可能なのだ。しかしながらそんな知識などなくとも、最も簡単に使える代物で、各家庭に一つ以上用意してあり、そして現在の日本国内で最も殺人と傷害に使われている道具といえば――包丁である。

 

 身近であるが故にその危険性は誰でも知っていて、知っているにも関わらず、最も使われる殺人道具。

 

 もしも、そうもしも。

 

 家庭科室に纏わる怪異譚があるのならば主役はソレだろうと想像に難くない。文化祭の主人公をリア充が務めるように、間違いなく、当たり前のように抜擢されて噺されるのは『包丁』ではないだろうか。女性の家庭的な姿が好まれる昨今、男性の想像する大和撫子に包丁を具材から人へと向かせるだけでハートフルなストーリーからサスペンスへと早変わり。

 

『八幡くん、現実逃避はそろそろやめたら。どうしようも無いんだし』

 

 九音の諦めを促す言葉と質感もない癖に慰めるように肩を叩く仕草。そして目に飛び込んでくるのは奉仕部ではなく、家庭科教室の天井。

 

 飲み物を購入して、雪ノ下に彼女の飲み物分だけを差し引いたお釣りを手渡し、そこで少しばかりの口論をしては、そこから由比ヶ浜の依頼についてであったり、由比ヶ浜の見た目とクッキー作りに関する噺であったり、それから家庭科室へやってきて、その顛末が目の前のコレだ。

 

 どうやら俺は家庭科室というものを甘く見ていたらしい。勝手に調理実習室であるからこの怪談話の主役は包丁でしょ? なんて先入観が俺を殺すのだ。大体いつもそうである。早とちり、勘違い、思い込みでいつも失敗し、死に目に遭う。

 

 そして今回、舞台の主役に踊り出たのはクッキー。堂々とリア充を押しのけて主役に立候補するかのように。それは想像していなかった。

 

 いや、そもそも俺の目に一瞬だけ見えたのは果たしてクッキーだったのだろうか? いやいや、俺の見間違いかもしれない。大体、クッキー作るって言っててあんなもの出てくるわけないだろ。

 

 自分の中にある勇気を振り絞り下を見やるとやはり、ソコにあった。

 

 黒、黒、黒。

 

 その真っ黒な存在は姿形は違うのに先日の出来事を彷彿させる不気味さを醸し出している。

 

 一つ手にとると、ポロポロと。ポロポロポロと、欠片が宙を舞う。黒いチョークの塊を俺は恐る恐ると口へと運び、噛むよりも早く舌先が脳へ危険信号を。

 

 噛んではならないという不文律が一瞬にして定まり、そのルールを出来うることなら守りたいのに、噛まずにこのまま吐き出したいのに噛まなければならないという事態。

 

 そして、咀嚼してはついぞ、俺は口の中の物体の正体を言い当てる。

 

「……も、木炭」

 

 木炭なんか食べたことないにも関わらず、この味は間違いなく木炭であろうと結論づいた。完全に炭。咀嚼して、飲み込めないわけではないというギリギリ食べられるという部分がひどく現実的で、それでいながら走馬灯を見てしまう。

 

 どうして、こんな目に……。俺は振り返る、数十分前を。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

「比企谷くん、お釣りが多いわ。あなた計算も出来ないの? あとお釣りは要らないって言った気がするのだけれど」

 

 手渡した硬貨の枚数は五枚。うち四枚が同じ価値を持っている。本来ならば由比ヶ浜の分は折半するつもりではあったのだが無意識のうちに俺は持っている五十円硬貨を二枚使ったせいで折半することは叶わない。

 

「理由なく施しを受けるつもりはねーよ。さっきも言っただろ。それに由比ヶ浜の分くらいなら小銭が余ってたし、なんつーか、奢ってもらうのには抵抗があるんだよ」

 

 慣れない台詞に慣れない言葉。女性に金を出させないなど昨今のジェンダーレス思想からしてみれば周回遅れの古臭い慣習で、女に優しく、紳士的に振る舞うなど柄ではない。

 

 しかしながらこの一年間は口やかましい女幽霊が居たせいで多少なりとも彼是は考えるようにはなった。あくまで考えるだけで実行できているのかは別。

 

 由比ヶ浜にカフェオレを手渡して席へと戻る。

 

「あ、あの、あたしの分なら自分で払うよ!」

 

 由比ヶ浜の言葉に手の甲で払う仕草で不要の意を示す。

 

「そ、そんなわけには……」

 

 俺は雪ノ下の方向を向くことで受け取らない姿勢を作った。そもそもこんな事でお金を受け取れば押し売りと一緒だ。由比ヶ浜が望んだわけでもないのに勝手に買ってきてお金でも受け取ればそっちのほうが気に揉むわ。

 

 背後で小さく、むぅという唸り声が聞こえた後に、耳に届くような声で。

 

「……ありがと、えへへ」

 

「ふぅん、由比ヶ浜さんには男の甲斐性を見せて、私には見せてくれないのかしら。別にいいのだけれど」

 

 雪ノ下の機嫌が下降している。恐らく、金銭云々の問題では無いのだろう。高級マンションとも呼べる場所に一人暮らししている少女であるのだから。

 

 勿論、高級マンションと金銭への無頓着な部分に直接的な因果関係はない。けれども先程、あっさりと渡してきた紙幣のことを考えてみれば、自ずと結論へ導ける。

 

 普段から購買のパン一つでやりくりしている俺からしてみればセレブにしか見えなかった。もしも俺が専業主夫を夢見ていれば雪ノ下に対してほいほい付いていったかもしれない。

 

 だが今の俺は駐車場経営による不労所得を目指す立派な男なのだ。あまりの自立心に惚れ惚れしてしまう。

 

『いやぁ、わかる……わかるっ! 自分の目の前で違う女に餌を与えている姿って見ていてムカつくもんね。言うならば皆で遊びに来ているにも関わらずアプローチしている彼が自分じゃない女の子にアレコレと世話焼いているのを見るようなもんだよね』

 

 皆で遊んだことのない俺にとっては縁遠い言葉であった。ついでに言えば皆と遊ぶこともないので今後とも縁遠い話でもある。

 

『わかるわかる、超わかるわー、むしろわかりみしかない。いつも八幡くんは私に対してそんな感じで扱うから凄くわかっちゃう。少しだけ雌犬に共感しちゃったよ』

 

 手を組んでうんうんと縦に何度も頷く九音。人聞きの悪いことをぬかすなよ。

 

 これは俺と雪ノ下のお互いのためになる距離感。こうやって将来的に冷めるであろう熱、醒めるであろう何かに対して気を使っていうるのだ。予防線のようなもん。

 

 そのうちに幻滅されるのは既に規定路線。レーンの切り替えも無い一直線の道筋。彼女が抱えることになるであろう俺を好きだったという黒歴史。その黒歴史の中でわざわざ行った出来事、思い出を減らすことでダメージを少なくするという優しさなのだ。ついでに言えば自己保身。

 

 今現在、様子のおかしい雪ノ下に対して適切なアプローチと取れるのではないだろうか。少なくとも俺はそう思う。

 

「あー、なんだ、話は終わったのか?」

 

 俺の言葉に雪ノ下は小さく「ふぅん?」と呟く。本日二度目の感嘆詞は先程よりも温度が下がり、ひんやりなんて生ぬるい冷たさではなく凍傷するレベル。

 

 そんな視線のまま――

 

「えぇ、下心丸出しにして調子に乗る男子が居なかったおかげでスムーズにことを運ぶことができたわ。どうもありがとう」

 

 感謝の言葉が強調することで「私、不機嫌だわ」と自己主張していた。

 

「……そうか、で、何をするんだ?」

 

 彼女の機嫌を慮って、気持ちを推し量って、ここいらで優しい言葉の一つや二つ投げかけるのは俺の役割なんかじゃない。雪ノ下の好意は決して本心ではないのだろう。

 

 勿論、勝手な思い込み、穿った見方なのかもしれない。けれども俺は怪異に巻き込まれて起きた感情を、その動きを――本心だと数えない。あれは一時の夢で、醒めるべき悪夢で、冷めるべき熱なのだ。いずれは消えていく彼是をまるで持っているかのように振る舞えない。

 

「ほんと、つれない」

 

 拗ねたような言葉に罪悪感が湧きそうになる。俺の中の正当性をもって浮き上がる感情を打ち消す。怪異が日常を巻き込んではならない。怪現象と現実をすり合わせてはならない。こんな非日常を日常の一部なんて、思い出になんてするべきじゃない。

 

 御話は夢のようにさっさと忘れて、現実に戻るべき。怪異がまた新たな怪異を呼び寄せる前に。

 

 そんなことつらつらと言い訳のように考えていれば雪ノ下が今からの行動を示す。

 

「家庭科室に行くわ。貴方も一緒にね」

 

「家庭科室に? あぁ、なるほど」

 

 飲み物を買ってくる前に由比ヶ浜が呟いた単語、クッキーという言葉と家庭科室を結びつければ答えは簡単に出た。

 

「察しがいいのね、比企谷くん。ちなみに何をするか予想は付いているの?」

 

「俺が出る直前に由比ヶ浜が言ってたクッキーってのを作るんじゃないのか? わざわざ家庭科室に行くんだし」

 

「耳聡いわね。そういう癖は普通の相手なら嫌悪に値するわ。黙るべき時は雄弁よりも価値があるとはよく言ったものね」

 

 こんなの罠でしょ。いや、まぁ、雪ノ下の諫言に対しては一以上の理はある。由比ヶ浜のクッキーの一言と家庭科室を結びつけてそこから行動を予測する。確かにあんまり気味のいいものではない。

 

 いつだって勘の良いガキは嫌われる。可愛げがない上に年齢相応ではなく、薄気味悪くすらあるのだから。

 

「あ、で、でも、あたしは頭いいんだなーって思うな!」

 

 由比ヶ浜からフォローが入り、それに雪ノ下は小さく嗤って。

 

「ふふっ、まさに沈黙は金、雄弁は銀よね」

 

「そー! そう! あたしもそれだと思う!」

 

 由比ヶ浜のよくわかってない雄弁なフォローは雪ノ下の皮肉を手助けしていた。やっぱ沈黙が一等賞だわ、ハンタでもクラピカが言ってたし。沈黙することは誰も傷つけない、つまり俺は教室に居る間、誰も傷つけない聖人のような存在というわけだ。

 

 そんなどうでもいいことを考えながら黙って続きを待つ。雉も鳴かずば打たれまい。

 

「まぁ、貴方も大方は察していた通り依頼内容は彼女のクッキー作りを手伝うことよ。何でも渡したい相手が居るそうで……そうなのよね?」

 

「う、うん……」

 

 由比ヶ浜は俯きながらも確りと頷いた。しかしながら疑問が一つ湧いた。

 

「お前、友達多そうだけど何でそっちに頼まないんだ」

 

 俺の疑問に即座に返答したのは宙でソファーに横になるかのように浮いていた九音だった。

 

『むしろ友達多いから駄目なんじゃない? 友達や彼氏って何でも相談出来るゴミ箱じゃないからねぇ』

 

 なんで友達居ないこいつに諭されてんだ俺。その九音の意見が正しいのかはわからない。なにせ友達居ねぇからな。

 

「いやー、優美子と姫菜にも聞いたんだけど、そういうの流行んないっていうし。だから作ろうと思っても言えないし……」

 

『うーわ、めんどくさぁ……自分のやりたいこと一つにも顔色伺わなきゃいけないわけ? いや、でも友達ってそんなもんか。何でも相談してとか言いながらも裏では面倒ごとは勘弁って。やっぱ友達って良いものだよね。見てて微笑ましいよ。友達が多いから友達のめんどくささに忖度して、皆仲良し、世界も平和、面倒事もなくて、皆頭がハッピッピーなんていいよねー。笑顔で「何でも相談してよ」とか抜かしておいて本心は「きちんと空気読んでね」なんて。どうやら、この女は空気を読んで、おともだちに問題ごとを持ってこずに此処に問題ごと持ってきたんだね、賢いーっ! いや、賢い賢い。だって見知らぬ他人なら面倒ごとに巻き込んでも良心は痛まないもんねっ!』

 

 良い笑顔で全力で由比ヶ浜を貶す九音。元々から口が悪い奴ではあるがどこか機嫌が悪そう。

 

 見た目こそ何も考えていない女子高生。しかし足山九音曰く、きちんと空気を読んで考えている女の子。きっと俺なんかよりも毎日頭を使って、人間関係に苦悩しながら生きているのだろう。

 

「……確かにそうね。貴女のような派手な外見の女の子がやりそうなことではないわね」

 

 雪ノ下の発言に由比ヶ浜はバツが悪そうに笑って誤魔化す。特段と咎めているつもりはないのだろう、それでも空気を読んで今にでも謝りそうな由比ヶ浜の表情は彼女なりの処世術で。

 

『こういう時さ、人間関係って面倒って傍から見てて思うよ。勿論、そこの雌犬じゃなくて由比ヶ浜さんの方ね。めんどくさいよね、柄にも無いことをするのは悪いことだって、柄じゃないことをすれば気味悪がられるって、仲間外れは悪いことだって。この部屋に居る誰よりも正しくわかってて、どこまでも正直』

 

 背中から離れて対面の由比ヶ浜の方向へ九音は飛んで近づく。

 

『ずっと多数派だったんだろうね。人間関係つくりの上手な人種ってやつ。そんな多数派はいつだって少数派を排除排斥する。少数派は悪いことだって、育っていく環境で学び知ったんだろうね。そういう意味では学ばない八幡くんやわかっていながらルールをどうにかしようなんて無茶を言う雌犬よりもよっぽど賢いよね』

 

 そして、多数派である少女は己が少数意見を翻すように小さく自重するかのように呟いた。

 

「だ、だよね、変だよね……ごめん、やっぱりいいや」

 

 柄でもないことをするのは変なことで、変なことをするやつは気味が悪く、気味が悪いやつは多数派から排除をせざるを得ない。大多数の人間が気味の悪さ、気持ち悪さを許容できないように。

 

 けれども少数派からしてみれば少数派で居ることを悪いだなんて思ったことはない。少数派が勝手に恥ずかしいだとか悪いことだとか多数派の勝手な自意識過剰。

 

「別に柄でもないとか似合わないとかキャラじゃないとか、俺たちに言われても困るわ。だって純粋にお前に興味ないし」

 

「はぁ!? めちゃくちゃ失礼なんですけどっ! 腹立ってきたし! こう見えてもあたしはやれば出来る子なんだからねっ!」

 

 それは自称ではなく他称で初めて純粋に評価として成り立つものだ。俺はそれを教えてやるべく口を開く。

 

「そういうのは両親が言う台詞だ。学校の話をときたま聞いてくる両親が「お前はやれば出来る人間だと思ってたんだがな……」とか、そんな感じだ」

 

「あんたの両親諦めちゃってるじゃん!」

 

「……何をすればそんなことを言われるのかしら」

 

 むしろ何もしてないんですが。健全な高校生活というものを営んでいない俺が日曜日のふとした拍子に言われた言葉。九音と全力で喧嘩していた時に一人でエア友達と遊んでいると勘違いした両親から受けた一言である。その日から少しだけ父親が優しくなったのがなお更傷ついたという出来事。そもそもが家庭内トラウマを量産してきた俺にとってはいつものこと。

 

「まぁ、カレーくらいなら作れるし、手伝えることがあったら手伝う」

 

 由比ヶ浜はどうやら作る方向で話が進んでいることに気がついたようで安心したかのように、胸の前に手を当ててほっと息を吐いた。

 

「あ、あんがと……」

 

 由比ヶ浜の小さなお礼が聞こえたが、わざわざ小声に反応するのも無粋だろう。俺は無視していると雪ノ下が此方を見ていた。

 

「比企谷くん、勝手にやる気出すのは貴女の自由だけれども、貴方は座って味見するだけよ? もともと料理の腕を男子に期待なんてしていないわ」

 

 実に一言多い女だった。こいつ、俺のことほんとに好きなの? とか思っちゃう。

 

 小さく溜息を吐いて、椅子から立ち上がる。部室から出て行く由比ヶ浜と雪ノ下の背を追う。鞄を片手に無人の部室を見渡せばいつの間にか丸くなり寝転がっている犬の姿。

 

『八幡くん、気にしても仕方ないんじゃない? 見送った犬が出戻りするなんて聞いたこともないよ。不安でもわざわざ此方から殴りかかるなんてことのほうがよっぽど危険だと思うけどね』

 

 確かにその通り。幾ら何でも怪異がいるから此方から仕掛けるなど愚の骨頂。愚かの極み。人間という弱者が妖怪や怪異という強者に挑むことなど自殺行為でしかない。

 

 それでも目の前で拳銃を突きつけられておきながら平静で居られるほど修羅場に慣れてもいない。そんな度胸を持ち合わせていない。

 

 どうにも出来ないとわかっていながらも、どうにかしようと考えている俺は本当にどこまでも本当に無意味で諦めが悪い愚か者だった。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

 家庭科室に辿り着くと、雪ノ下がテキパキと動き出す。必要な道具を揃える手際は見事なもので何が必要なのかを理解した上で動く彼女の動きには一切の淀みがない。

 

 元々、綺麗な見た目のクッキーから雪ノ下の調理技術の高さを予想はしていたが、予想を遥かに超えた腕前を持っていそう。

 

 調理器具、材料を用意し終えた雪ノ下は慣れた手付きでエプロンをつける。対象的に渡されたエプロンに四苦八苦しているのは由比ヶ浜。結び目も酷いもので、二人のそれを霊能力で例えるのなら雪ノ下はしっかりと呪い返しが成功するレベルに対して、由比ヶ浜は呪い返しが失敗してさらに呪われちゃうレベル。

 

 俄然として不安になってきた。

 

「由比ヶ浜さん、あなたエプロンもまともに着れないの? 結び目もぐちゃぐちゃだし、曲がってるわよ」

 

「え、エプロンくらい大丈夫だよ!」

 

「そう、ならちゃんと着けなさい」

 

 由比ヶ浜を指摘し終えた雪ノ下はテクテクと此方に近付いてきた。広い調理実習室の隅っこにいた俺の前に立つ。特段と何かしていたわけでもない為に少し身構えて彼女の出方を伺う。

 

「どうかしら?」

 

 腰に手をあててモデルもかくやといった感じで問いを投げてきた。そして俺はそんな雪ノ下に確りと答える。

 

「え? 何が?」

 

 スゥーっと目が細くなる。

 

 我が妹曰く――女性が尋ねてきたのならとりあえず褒めろといった法則が世の中にはあるらしい。九音もその言葉には賛同しているらしいが、俺はそんな甘い男ではない。

 

 自分に対してはひたすらに甘やかすが他人には厳しくしている。そもそもが他人が俺に厳しいから俺くらいは俺を甘やかさなければバランスは取れない。そして他人は他人に対して俺よりも甘く接するからあえて俺が厳しく接しなければいけない。この世のバランスを司っているとまで言える俺、学校では評価されない項目ですがね。

 

 そんな俺の厳しいスタンスに雪ノ下の目もどんどん厳しくなっている。結局のところ、この厳しいスタンスが他人を厳しくしているのなら厳しさについてマッチポンプなのかもしれない、と反省しちゃいそうなほど雪ノ下の目が怖い。つまりはとっても怖い。

 

 ついぞ媚びへつらって謝った上で褒め称えるということをしてしまいそうになる俺の心の弱さを憎んでしまう。結局、自分にも厳しいじゃねぇか、と自分に対する甘やかしスタイルを突き崩す雪ノ下の氷の視線に戦慄する。

 

 そして我慢大会は先に雪ノ下が口を開くことで中断した。

 

「エプロン姿」

 

「……黄色だよな、それが――すまん悪かった」

 

 それでも自分を奮起させてはすっとぼけようとしたが、雪ノ下の視線が家庭科室の包丁を管理している棚で止まった瞬間に俺は謝った。

 

「あら、どうかしたの、比企谷くん。あなたが謝るようなこは何も無いと思うけれど。ねぇ? それとも謝るということは何か心当たりがあたのかしら? 教えてくれない?」

 

 包丁棚に視線を投げたままサディスティックな笑みを浮かべる雪ノ下。心底、楽しそうである。

 

 その様子をくすくすと笑う声が聞こえた。俺はその笑い声に聞き覚えが少ない。

 

「……由比ヶ浜さん、まだ着てないの? それとも着られないの? ……はぁ、後ろ向いて」

 

 雪ノ下は由比ヶ浜に近づいていく。

 

「い、いいのかな?」

 

 その遠慮気味な笑顔はまるで機嫌を損ねないように浮かべられたようで。幼い子ども特有の不安さを含んだような声色が彼女の中の躊躇いを表していた。

 

「早く」

 

 雪ノ下の苛立った、有無も言わせぬ言葉は由比ヶ浜には効果抜群。

 

「ご、ごごごごめんなさい!」

 

 素早く後ろを向いて忠実に待機する姿はまるで子犬のよう。

 

 雪ノ下自身、靴を盗まれたり、こかされたりと犬に縁が深い女である。そんな子犬のエプロンを素早い手付きで結び直す。

 

「なんか雪ノ下さん、お姉ちゃんみたい」

 

「そう、こんな不出来な子を妹とは思いたくないけれど。まぁ、もしも貴方が妹ならばこれで二人目ね」

 

「えっ? 雪ノ下さん、妹居るの?」

 

「今は居ないわね」

 

「今は……どゆことだろ?」

 

 由比ヶ浜の頭上に幾つもの疑問符が浮かんでいるよう。

 

『……八幡くん、小町ちゃんのこと雌犬に話したことあったっけ? 少なくとも私の記憶には無いんだけど』

 

 冷や汗が背中を伝う。俺の記憶にも無いが、もしかしたら話したかもしれないし、それに小町のことじゃないかもしれない。クラスや後輩に妹分が居る可能性を捨ててはならない。そうだろう、きっとそうである。そうだよね……?

 

 必死に自分に自己暗示のように言い聞かせて、怖いものなど何も無かったと思い込む。怖い。

 

 そんなことを考えているときちんとエプロンを着た由比ヶ浜が此方を見ていた。

 

「ね、ねぇ、ヒッキーはさ、そのぅ」

 

 パタパタと寄ってきて何かを口でもごもごとしながら言葉を選んでいた。何か用事でもあるのだろうか。

 

「そ、そのさ? 料理をする女の子ってどうかな?」

 

『に、二号ぉぉぉぉぉおおおおおっ!!』

 

 九音の絶叫に驚く。どうしたよ、こいつ、急に……いつの間にかヘアゴムが切れては血走る目で由比ヶ浜を睨んでいた。えっ、何、急に……怖ぁ。

 

「ど、どうかした?」

 

 そんな俺のあらぬ方向を見ていたことに対して疑問に思ったのか。俺は慌てて取り繕いながら答えを考える。料理をする女の子か‥…。

 

「あー、なんでもない。料理をする女の子なら男なら誰でも憧れるんじゃねーの?」

 

「そ、そなんだ……」

 

 誤魔化す為に口にした一般論に納得がいったのかトテトテと材料が揃っている場所に戻っていく。同じく雪ノ下も聞いてらしく、うんと何かに納得するかのように頷いては由比ヶ浜に続いて行く。

 

 そして取り残された唯一人の女子は由比ヶ浜の方向を睨みながらぶつぶつと呟いている。

 

『こ、こいつぁ、ぷんぷん臭うぜぇ、プンプンだよ八幡くん!』

 

 怒ってんのか、臭いだってんのかわかんねぇわ。小さな声で「何がだよ」と尋ねて見れば『わかんないの!?』とご立腹。

 

『あ、あのクソビッチは雌犬二号なのっ!』

 

 ビシィッと勢いよく指を指す。白く綺麗に伸びた先端の延長線上には由比ヶ浜。

 

『二号なのっ、アレっ! 一号二号揃い踏み! あいつとあいつでダブル雌犬なのっ!』

 

 九音のぎゃーすかとした主張に頭を抱える。こいつ恋愛経験の少ない童貞みたいなこと言いやがって。

 

 確かに中学生の俺だったら「あれ、こいつ俺のこと好きなの……?」とか「多分、俺の意見だよな?」とか勘違いしてそのうち告白していただろう。そして振られちゃう。自意識過剰で悶死。その後、恥ずかしさのあまりに化けて出るレベルの黒歴史と化すだろう。

 

 何、こいつ恥ずかしい勘違いしちゃってるわけ? と呆れた視線で九音を見る。

 

『あーっ! 信じてない、その目信じてないよねっ!? 本当のことだもん! 私の勘が囁いてるね! そもそも女子が興味の無い男子に好みを聞くなんてありえねーよ、八幡くん。ましてや横の繋がりもうっすい八幡くんに聞くメリットないじゃん! 一号二号に警戒心持って! 危機感持って! 今すぐ持って!』

 

 誰も居ないテーブルを叩いて音も出さずには危機感を持ってと叫ぶ仕草。そんな俺達の様子など知ったことかとばかりに脳天気な声が聞こえてきた。

 

 はぁ、アホらし。

 

 壁に寄りかかって目をつむる。ぎゃーすか煩い幽霊をBGMに瞑想していれば声は少しずつ小さくなって無音になる。

 

 それは俺が集中したのではなく、九音が声を出すのをやめたからだろう。その証拠に未だに何らかの金属音は聞こえる。

 

 その直後。

 

『あ、あわ、あわわわ、あわわわわわわ』

 

 震えた九音の声が耳に入ってきた。何だよ、と思って目を開けてみれば特段としておかしなところは無い。

 

 九音が青い顔をして指を差している方向を見ても由比ヶ浜が調理している姿しか――よくよく見れば雪ノ下も顔を真っ青にしている。

 

 何が? と思って二人の視線が交わる先である由比ヶ浜。何もおかしく――そこで気づく。

 

 なんだアレ……?

 

 視線の先、由比ヶ浜の手元。そのボールの中に黒い山が出来ていた。なんで……?

 

 そして俺が見ているのに気づいた由比ヶ浜。視線があっては小さく「あっ」とお互いに漏れ、重なる。

 

「だ、大丈夫だし! ちょっと隠し味多くなっちゃったけど、こっから調整すれば問題ないから」

 

 自信満々に言い張る。前言の通りにリカバリーとばかりに塩が入る、こんもりと。白と黒の山、果たしてどちらが隠し味なのか。隠し味にしてはあまりにも自己主張が激しすぎる。白と黒は合わさり、そこに新たな色として溶き卵が追加。

 

 泡立て器を使って混ぜている様は女の子らしい。しかしながら、先ほどの光景を思い出してみれば魔女が鍋を混ぜているかのようだ。

 

 そして俺はその先を見舞いと目を瞑っていれば――暫くして香ばしい臭いが家庭科室に漂う。少し時間が経てば異臭に変わった。

 

 目を開けて様子を見ていればオーブンを開いている。発生源が顔を覗かせれば、爆発するかのように悪臭が部屋中に広がる。

 

 その臭いの元を取り出して綺麗に皿に並べられる。出来上がった代物を見て由比ヶ浜はうんと一言頷いては呟いた。

 

「なんで……?」

 

 由比ヶ浜の愕然とした言葉。それもそうだろう、彼女の視線の先には謎の黒い物体があるのだから。部屋の隅からエプロンをつけた二人の視線の先へ近づく。

 

 うおっ、近くで見れば迫力あるな……! 迫力あるクッキーって何だよ。

 

「理解不能ね、どうやればあれだけのミスを重ねるのかしら……」

 

 雪ノ下の小声は由比ヶ浜の耳には届かなかったのだろう。すれ違い様に聞こえた台詞は思わずといった形で呟かれていた。それほどまでに謎の物体のインパクトは凄い。

 

「……見た目はアレだけど、食べてみないことにはわからないよ!」

 

 由比ヶ浜の前向きな言葉。確かに食べてしまえば前のめりになりそう。

 

「……そう。そう……ね、食べられないものは使っていない筈だから」

 

 雪ノ下は此方に視線を向けて。

 

「それに二人で食べればきっと何があっても大丈夫よ」

 

 悲壮感たっぷりにヒロイズムに酔いながら言った。つまりそれほどまでに危険だと雪ノ下も思っているのだ。圧倒的なまでの臭気が俺たちの不安を掻き立てる。

 

「もはや、これ味見じゃなくて毒見だろ……」

 

「ど、どこが毒よ! ……うーん、やっぱり毒かなぁ?」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜は反論してきたが、手に持ってみては自信が失われる。

 

 ――ゴクリ。

 

 誰の喉が鳴ったのか。俺はとうとう現実逃避を始めてしまう――そして、走馬灯は消えて我に返った。

 

 

~~~~~~~

 

 

 走馬灯。

 

 別名、回り灯篭。影絵を中に仕込み、中の影絵が回転をしながら写していく細工の灯篭のことである。たまに小説などで人が臨死体験をする際に走馬灯がよぎると比喩表現をするが、それは脳を死を避けるべく、高速で過去の出来事を思い出して助かろうとする本能のことであるらしい。その振り返る数々の思い出を影絵として表現しているのだ。

 

 由比ヶ浜のクッキーは走馬灯がよぎる程に破壊力があった。勿論、死ぬわけではないのだろう。怪現象と遭遇して死と巡りあうわけでもない。しかしながら、それでも事実として俺は口に入れた瞬間にこの一時間の色々なことが蘇って助かろうとした。俺が助かりたいと願ったからよぎったのだ。そして俺は――助かりたいと願っても解決方法は見つからなかった。

 

 ガリ、ガリッと。

 

 噛めば噛むほど走馬灯がどんどんと消えていく感覚。なんだ、大丈夫だったじゃねぇか。大丈夫、大丈夫、死にはしない。

 

 ちょっと想像よりも苦くてしょっぱくて涙が出そうで強かっただけである。そもそも無生物であるクッキーに強弱の概念を生み出して時点で由比ヶ浜のクッキーは強敵すぎた。

 

『言え! どうしてこんなになるまでほっといたんだ!』

 

 俺の余りの苦悶な表情を見てか、雪ノ下に詰る九音。勿論、聞こえていない雪ノ下はクッキーを瞑目したまま食べて何とか飲み干す。そして続きを無言のまま口にする。

 

 何故、こうなったのか。

 

 雪ノ下の理念である魚の取り方を考えた場合に由比ヶ浜の腕前を把握するつもりだったのか、それとも驚きのあまり思考が止まったということも。

 

 正直、どちらもありそうだった。もしくは複合的に。腕前を見るつもりで始めさせたら、止めるタイミングを見失ったとか。そしてそんな脅威の作り手は。

 

「うぇぇぇ、苦いよぉ、しょっぱいよぉ、なんでぇー?」

 

 むしろこっちが聞きたい。涙ながらにクッキーを食べる由比ヶ浜に雪ノ下がそっとティーカップを渡す。

 

「舌に触れないように飲み込みなさい。それは劇物のようなものだから」

 

 人の作ったものを劇物扱いする様は流石。確かに劇物という単語はしっくりきてしまうほどの代物。注いで貰った紅茶で由比ヶ浜は何とか口の中の阿鼻叫喚図を救おうと試みる。おいおいおいおい、口の中は地獄絵図かよ。

 

 それでも少しずつ、少しずつ食べてお互いに何とか割り振られたノルマを無事に達成して一心地。

 

 間違ってうっかり地獄に落ちてしまい亡者の群れの中から奇跡的に生還したかのように清清しい気分。由比ヶ浜のクッキーは実に生きていることの大切さを身に染みて教えてくれた。生きることに対して俺に再認識させるなんて予想以上の代物。

 

「さて、どうすれば由比ヶ浜さんが少しでも現状からよくなるかか考えましょう」

 

「その料理の腕を封印すること」

 

『ちゃんとクビをシシ神様に謝らないとね』

 

 完全に呪い扱いであった。創作物で人を祟る存在扱いしていた。けれども俺も封印とか言っているので大差ない。

 

「全否定されちゃった!?」

 

 由比ヶ浜が驚いているが当然だ。むしろそれ以外の何か方法でもあんの?

 

「比企谷くん、それは本当に最後の手段よ」

 

「それで解決するんだっ!?」

 

 驚愕し、落胆する由比ヶ浜。がっくりとした様相の後に自虐的な笑みを浮かべる。

 

「やっぱ、あたしには料理向いてないのかなぁ……なんていうか、才能? そういうのないから」

 

 そんな後ろ向きな言葉を聞いた雪ノ下は短く息を吐く。傍から見れば腹を括ったかのように強い決意が瞳の中に浮かんで見えた。

 

「なるほど、解決方法ができたわ」

 

「どうすんだ?」

 

 尋ねてみれば実に堂々と雪ノ下は――

 

「努力あるのみ」

 

 きっぱりと言い切る。

 

「……それ解決方法なのかよ」

 

 完全に精神的な御話だった。俺が思う限り最も最悪な形のあがき。

 

 もはや頼るものが何もなく、ただひたすらに足を動かすことしかできない。解決策も無いのにただただ彷徨うだけのあがきを努力だといった女幽霊が居た。頑張れと、諦めないでと囁き続けた幽霊が居た。

 

 努力なんて解決方法ではなく、もっと簡単に、もっと準備しておけば良かったにも関わらず、怠惰に身を任せた結果あがいているのに。今からでも遅くないと、死が傍にあって手を伸ばせば届く距離にあるのに、血だらけになっても頑張れといい続けた幽霊が居たのだ。

 

 無策であることを言葉綺麗に誤魔化して、生す術がないことを綺麗な形に言い換えて。生き汚いことをそんな言葉で欺く。

 

 諦める方が早く、受け入れることが最も簡単な手だて。無駄な努力など唯の徒労でしかないのに。

 

『ぷっくく……』

 

 くすくすと笑う幽霊は思わず漏れたという笑い声。

 

『八幡くん、わっかりやすぅー。努力だとか、あがきだとか。嫌よ嫌よも好きなうちみたいに。怖がりながらも諦めず、痛がりながらも足掻いた君が努力なんて解決方法じゃないなんて言っちゃ駄目だよ。君のあがきが、君の努力が――無策であっても未来を切り開いたんじゃないか』

 

 いいや、それでも俺は否定する。努力しか出来ることがないなんて最悪だと。準備さえしておけば、そもそも近づかなければ、最初から関わらなければ。しなくていいものをしているのだから、それは徒労なのだ。努力なんて言い換えは嘘で誤魔化しで。努力なんて賛美は都合のいい詭弁でしかない。

 

「比企谷くん、努力は正しいやり方さえすれば立派な解決方法になりえるわよ」

 

 雪ノ下の意見はそうなのだろう。そして九音の意見も同じで。

 

「由比ヶ浜さん、あなた才能が無いと言ったわよね」

 

「え、う、うん……」

 

「その認識を改めることからしなさい。最低限の努力すらしない人に才能のある人を羨む資格なんて皆無よ。成功しない人間は成功した人間が努力をしていないとでも思っているのかしら? 他人は努力をしているってことを想像できないから成功できないのよ、貴方たちは」

 

 雪ノ下の鋭い言葉。辛辣すぎてド正論。辛味を追求し、極めたその言葉は反論を許さないほど強く放たれる。

 

 由比ヶ浜はそんな雪ノ下の迫力と言葉に喉が詰まったかのように、うっと怯む。

 

 なぁなぁで多数派で居続けるためには強すぎる正論は嫌われる。だからここまで極限に辛味だけを追求した言葉を真正面からぶつけられた経験は多くはないのだろう。もしかしたら初めてですらあるのかもしれない。彼女の顔には恐怖と戸惑いがはっきりと浮かんでいた。

 

 そして、そんな空気を中和するかのように、矛先を収めて貰おうと情けない笑みを浮かべる。媚びるような笑みは怒りを抑えるために用意された彼女なりの処世術。

 

「で、でも。こんなこと、みんなやらないし……最近、流行ってないし。やっぱりこういうのってあたしには合ってないんだよ、きっと」

 

 自分が悪いと、自分が向いてないからと。悪いのは自分だと。尻尾を振る、腹を見せて降伏して白旗を掲げて。子犬のような少女はこれでもかと媚びるように笑って自分が悪いと、出来ない私が悪いからと諦めては怒りの発生源へ曖昧に微笑む。

 

 張り詰めた空気を皆という理由を盾にして身を守り、それでも無理なら自分が悪いからとトドメを加えられぬよう口にして身を守る。

 

『……ずるい子だよねぇ。皆がしないから自分もできなくて当然、向いてないからやっても意味がない。それって理由になるのかな? 怪異に人間が勝てないのは当たり前で、手段がないから諦めて死を待つなんて選択を一切しなかった。私の八幡くんが選んできた選択を否定するようなこいつの甘ったれた弱音をぼっこぼこにしてやりたい、物理的に』

 

 いや、そこは言葉でいってやれよ……。なんで物理に頼るんだよ、原始的過ぎない? 野蛮人じゃん。

 

 切れ味鋭く嫌味を言う九音。それだけでなく物理的に叩きのめそうとか言っているから雪ノ下よりも遥かに性質が悪い。

 

『いい? 八幡くん。ちゃんと話を聴いて相手のためを思って言葉を重ねるなんて愛がなきゃ出来ないんだよ? まぁ、世の中には愛を建前に躾と称して脳みそがチンパンジー以下の分際で教育といって手をあげる輩も多いけど。知ってる? 聖職者とか名乗りながらそんな行動してた奴が日本に居るんだよ? アラサー女教師とか。だからね、愛の持てない相手に言葉の積み重ねなんて無理。拳でわからせるしか無いんだよ。シュッ、シュ!』

 

 シャドーボクシングをし始めた女幽霊。

 

 けれども、俺だけは由比ヶ浜のその諦観を、その納得を肯定してしまう。

 

 怪異から生き延びることが異端で、手段が見つからないから諦めるのは理知的で。俺が愚かだったから選べなかったアレコレを俺は決して否定しない。捨てる時に迷いなんかしないのに、捨てた後にいつも俺は後悔をしてしまう。

 

 あの時、死んでいれば良かったなんては思わない。けれども、あの時死んでいればこんな恐怖を味合わなかったのにと思うことはある。

 

 俺にとって由比ヶ浜が詰られている動機は、協調性は、社会性は二度と手に入らない大事なもののように眩しく見えてしまうのだ。

 

 ――コトリ、と。

 

 小さくカップを置いた音が鳴る。小さな音にも関わらず、視線は吸い寄せられた。その先にいる雪ノ下は冷え冷えとした雰囲気を放っている。聡慧で美しい少女のその姿はまるで一枚絵のよう。

 

「その周囲にあわせようとする態度やめて頂戴。見聞きして酷く不快だわ。自己の欠点である不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて……。あなた恥ずかしくないの?」

 

『ひゅーっ! やるじゃん! 言ったれ、言ったれ! ついでに酷い言葉たくさん使ってそこの二号だけじゃなくて八幡くんもドン引きさせろ!』

 

 九音の言葉にそっと引く。雪ノ下の背後に回り飛ばす野次はまるでおっさん。

 

 雪ノ下の苛烈とも取れる言葉に由比ヶ浜は俯いて黙り込み、俺は九音の汚い人格を見てはこの女の性悪さにドン引きする。

 

 俯いた少女はスカートの裾を握り締めて、その震える指先が彼女の心を表しているようだった。

 

 由比ヶ浜結衣の交友関係は俺や雪ノ下なんかよりかずっと広いのだろう。短い付き合いでありながらも彼女のコミュニケーション能力や特徴を伺い知れば周囲に溶け込む努力をしてきたのは目に見えてわかる。

 

 それこそ俺や雪ノ下――そして九音。こんなボッチ気質のやつらが相手ではなかったのならば上手に合わせて、円満な関係を築けたのかもしれない。

 

 けれども違う、今此処に居るのは空気を読んで協調することを良しとする人間ではない。周囲とうまくやろうと意思を汲み取って尊重してくれる女でもない。雪ノ下雪乃なのだ。

 

 足山九音という幽霊を以って『ヤバい』と言わしめる女である。十分、いや十二分にヤバイ女である九音すらヤバイ女扱い、我が道を貫く人間。

 

 それこそ幽霊のように何に干渉されるわけでもないのに、数多の障害や困難がある現実で突き進む女なのだ。この世ならざる者のように一人で居続けた雪ノ下は由比ヶ浜結衣という少女とどこまでも異なる。

 

 まったくもって異なるタイプの女の子たち。教室ではもしかすれば由比ヶ浜の方が正しかったのかもしれない。集団においては確実に彼女も力があったのだろう。けれども個人と個人になったときにそのパワーバランスは一気に傾く。むしろ一人ですら集団の天秤に乗っては状況をひっくり返しそう。

 

 そんな苛烈で辛辣で醜く正しき言葉を受けた由比ヶ浜が顔をあげる。その瞳は若干潤んでいる。

 

「か……」

 

 一度、言葉を止める由比ヶ浜。そりゃあ、ここまで言われれば「帰る」よな。俺ならもっと早くに心折れているレベル。むしろよく持った方、ことここに至って涙を零さない彼女の心は想像や見た目よりかずっと強いのかもしれない。

 

「かっこいい……」

 

 え? なんだって……。

 

 いやいや、マジで今何て言ったんだこいつ。俺の聞き間違いか、と思い周囲を見れば九音も雪ノ下も驚愕の表情。危うく鈍感ハーレム野朗の台詞を聞き間違いで吐いたと思って心配しちまった。

 

「な、なんていうかっ!」

 

 鼻息をふんす! とばかりに鳴らして雪ノ下に近づいていく。

 

『ひ、ヒィッ……』

 

 雪ノ下の近くでもっと言えとばかりに野次を飛ばしていた九音。意味不明の理解不能な存在とばかりに道への恐怖を覚えて由比ヶ浜から逃げ帰ってきた。

 

「ちょ、ちょっとこの子、何を言っているの? 話を聞いてた? 私、これでも苛烈な言葉を放ってたつもりだったのだけれど」

 

「……苛烈?」

 

 きょとんと疑問符を浮かべる由比ヶ浜に俺は「厳しいって意味だよ」と教える。

 

「う、ううん! そ、そんなこと――あ、いや……うん、確かにヒドって思ったし、ぶっちゃけ軽くひいたけど」

 

 だろうな。俺ももっと酷いサンプルが無かったらひいてた自信あるわ。けれども由比ヶ浜が感じ取ったのはそれだけではないらしい。

 

「でも本音って感じがする。ヒッキーと言い合ってる時もそうだけど、酷いこと言い合ってるばかりだけど……。それでも! それでもちゃんと話してるって感じがして、ちゃんと話してて……私、いつも人に合わせてばかりだったから。こういうの……初めて」

 

 雪ノ下の言葉から由比ヶ浜は逃げなかった。逃げることをやめずに正面から向き合っていた。諦めも足掻きも今の彼女の表情の中には無い。

 

『ふぅん……八幡くん的にはどうなのさ』

 

 由比ヶ浜の姿を見て、俺は徒労だと思うのか――それでも俺は。俺は失ったものに対して得たものが何もない今を決して肯定できない。けれども、足掻こうという由比ヶ浜の結論を否定するつもりもない。

 

『そっか……私は私の好きな人のことを、君にも好きになって貰えたら嬉しい』

 

 別に俺は自分のことが嫌いじゃない。むしろ大好きな自分大好き人間だ。何を見たらこいつはこんなことを思うのか。

 

『……ほんっと、捻くれものの大嘘つき』

 

 首にしゅるりと巻きつく幽霊。嘘なんかじゃないっての。

 

「ごめん、次はちゃんとやる」

 

 由比ヶ浜の強い意志。そのまっすぐな瞳は雪ノ下へ向けられた。対照的に鋭い視線を送っていた雪ノ下は向けられた瞳の強さに怯えたかのようにそっと目を逸らす。

 

 強い言葉をぶつけられたのが由比ヶ浜にとって初めての経験なら、強い言葉を向けられてもなお強い決意を向けられたのは雪ノ下にとっての初体験なのかもしれない。

 

 余りにも鋭すぎる刀は今まで幾人もを切り裂いてきたのだろう。鋭い舌先から放たれる言葉を受け止めてもらえたことは果たしてあったのか。普通なら顔を真っ赤にして怒るというのは想像できる。

 

 そんな雪ノ下は何か返そうと唇を震わせてみれば、言葉を飲み込む。

 

『この前の件から思ったけどアドリブすっごい弱いよね、この子』

 

 想定外の状況に言葉が出ない雪ノ下、沈黙が場を包み込み――俺は口を挟む。

 

「雪ノ下、教えてやれよ。正しいやり方ってやつを。そして由比ヶ浜は確り言うことを聞くこと」

 

 ちょっと偉そうに口に出してみれば雪ノ下が此方を見てきて――そして、ふっと力なく笑った。それはどういう意味の笑みなのか俺にはわからない。

 

「そう、そうね……由比ヶ浜さん、今から一度お手本を見せるからその通りにやってみて」

 

「はーい! あと、ヒッキー偉そうに言わないでよね。私だってちゃんとやれば出来るんだから」

 

 その台詞をさっきも聞いて、あんな目にあったんだが。

 

 喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、肩を竦めて使っていない調理テーブルへ寄りかかる。

 

 そして雪ノ下は腕を捲くり材料へと向かった。

 

『うっは……早っ……』

 

 九音の言も仕方なし。その手際はつい感嘆の言葉が漏れるほどに鮮やかだった。由比ヶ浜のたどたどしい手つきとは大違い。まるでお菓子作りのお手本動画のよう。あっという間に作られた生地を型抜きでハート型に整形すればオーブンの中へすぐさま届けられる。

 

 暫くすると漂ってきたのは甘いバターの匂い。過程を見ただけで仕上がりも想像できるように、この時点で味も美味しいとわかってしまう。

 

 そしてじっと無言のまま焼き時間は流れて、オーブンが開かれた瞬間に爆発的にいい匂いが広がる。そしてさっさと取り皿に並べられたクッキー。

 

「どうぞ、召し上がれ」

 

 雪ノ下の許可を得て、俺は未だに熱を持つクッキーに手を伸ばす。少し熱いが火傷しないように端っこを摘み、口に放り込む。

 

 ――うまっ!?

 

 ジュッと舌先が火傷しそうな熱は口の中で段々と冷まされる。そして口の中に広がるのは芳醇なバター。溶けるように消えていく食感は見事なもので最早、店売りと言われても驚かないほど。

 

「いや……美味いわ、お前、何者だよ」

 

 正直な感想が漏れた。そしてついついと次のクッキーに手が伸びてしまう。

 

 そうそう、クッキーってこれだよ、これ。やっぱさっきのアレはクッキーじゃなかったな。最早、クッキーの偽者とかクッキーの残骸とかクッキーになれなかった怨念の塊とか呪いの品とかそこらへん。比べることすら失礼な代物だったわ。

 

「あ、ほんとだ! おいしーっ!」 

 

「ありがとう」

 

 俺と由比ヶ浜の感想を受けて短く一言御礼を告げる雪ノ下。そして視線はそのまま俺へ。

 

 俺はクッキーを食べながらなんで見られてるんだろう、と疑問を浮かべてしまう。

 

「ねぇ、比企谷くん」

 

「……ん?」

 

「あなた、この前のクッキー食べたの?」

 

 何故、バレた……九音の方向を見ればあちゃーとばかりに手を額に当てている。背中からじんわりと冷や汗が出れば。雪ノ下や由比ヶ浜から見えないが膝もがくがくと震えていた。机の向こう側の二人には何とか見えない程度ではあるが動揺が現れてしまう。今、このタイミングで、どうしてバレた……

 

『八幡くん』

 

 耳元での囁き。答えを知っているとばかりの女幽霊。

 

『八幡くん、そのクッキーは完全じゃないんだよ? だってクッキーは置くんだから。美味しくするために』

 

 置く。

 

 置くという言葉は色々なものに適用される。物体であることもあれば人間であることもある。そしてこの場合は――時間である。

 

 カレーは一日置いた方がいいという都市伝説がある。

 

 この議論には賛否両論が存在し、科学が進んだ今ではそれを裏付ける話もあれば否定する話も存在する。実際にはスパイスの関係上、出来たてが一番美味しいという話が濃厚なような気もするが、それでも置いた方が美味しいという説にも根拠があるのだ。カレーは時間を置くことによりジャガイモが溶け舌触りが日本人の好みになるという話、具材の旨味がソースに溶け出すといった説。つまりは人それぞれではあるものの確かにカレーは置くことで美味しくなるという説はありえるのだ。

 

 物と好みによっては時間を置いた方が美味しく感じるものは存在する。そしてクッキーは。

 

『八幡くん、クッキーは置いた方が美味しいんだよ。ましてや普通のクッキーなんだから、冷ますのが普通。今回みたいに生地を冷ます工程を省いたり、仕上げに冷ます工程を省いたのなら完璧に程遠いクッキーなんだよ。それをあたかも初めて食べたかのように言っちゃったら――そりゃあ間抜けで愚かで致命的ミスなんだよね……』

 

 九音のお菓子作り講座を聞き終えて、なるほどと納得してしまった。

 

「ねぇ、比企谷くん。美味しいって言ってくれて嬉しいのだけれど、前と比べてどうだったの?」

 

 ニッコリと微笑む雪ノ下。答えを間違ったら恐ろしい結末になりそうだ……俺はクッキーを冷ます理由を。

 

『食感だよ、食感。君の想像するバタークッキーの歯ごたえってどんな感じ?』

 

 本当に助かるアシストだった。

 

「あー、前のさくさくしてたし見た目もよかったが、今回のしっとりしたタイプのクッキーも美味いわ……それに、由比ヶ浜のクッキーを食べたせいか一際、美味く感じるわ……」

 

 九音の言葉から推測した以前の代物と今回の代物の違いを、そして今回の状況と前回の状況を比べて口に出す。なおかつ俺は嘘をついていない。さくさくしていたのは本当だろうし、見た目も前回の方が確かによかった。

 

「……まぁ、あの出来栄えと比べて貰ったらね」

 

 雪ノ下は先程のクッキーを思い出しているのか眉をひそめていた。

 

「二人とも酷いっ!?」

 

「あぁ、まったくだ……」

 

 雪ノ下は由比ヶ浜に対して酷いことを言うし、由比ヶ浜はクッキーの腕前が酷かった。人数的に何もおかしなところなどない。間違いはありません。

 

『いや、一番酷いのは君だよ……。まるで詐欺師のような口ぶりじゃん。嘘を吐いてないところが尚更、性質が悪い。まぁ、ぶっちゃけた話、酷くされているのは私以外の女だから全然いいけどねー』

 

 九音の呆れた視線と、由比ヶ浜の責めるような視線、そして雪ノ下のなんで他人事のような顔をしているのかとばかりに詰る視線。

 

 ここまで注目を集めたのは高校で初めて――じゃねぇな、別に。まだこの女幽霊と共に授業を受けることに慣れて無かった時期に教室で思いっきり反論した時のほうが注目されていた。注目された後にそっと一年の時の数学教師に保健室を勧められた痛ましい記憶。

 

「由比ヶ浜さん、別にこれは特別な作り方をしたわけじゃないの。むしろ幾つかの下準備や仕上げを省いている分、完璧とは程遠い代物なのよ」

 

「これで!?」

 

「ええ。けれども、貴女にも出来る範囲よ。きっと同じように作れるわ。むしろ作れないのならどうかしているわよ」

 

 雪ノ下にとってこのクオリティは満足のいくものではないらしい。しかしながら教授させるという意味合いにおいては適していると判断したようだ。

 

「あ、あたしにも出来るかな? あたしにも雪ノ下さんみたいに美味しいクッキー作れるかな」

 

「えぇ。教えるとおりに、レシピ通りにさえやればね」

 

 きちんと釘をさす雪ノ下。そして由比ヶ浜は「よーし、やるぞー」と気炎を吐きながらお菓子作りに取り組む。

 

 そして言の通りに雪ノ下と同じ工程、同じ挙動を試みる。

 

 試みることは大切だ、試しにやって挫折するのもまたいい経験であると大人は言う。果たしてそうなのだろうかと思いながら目をそっと瞑った。

 

「由比ヶ浜さん、きちんと計量して。少しくらいならいいやとか曖昧なズレで入れようとするのはやめて。わかる? メモリがあるでしょ? メモリって何の為に存在しているのか理解しているの?」

 

「由比ヶ浜さん、ようやく混ぜれるように、えぇ、その感じで――待って、めんどくさがらないで。きちんと言った通りに……それ混ざってないの。むしろ中心で回転してるだけで混ざってないから。ゴムベラの想定外の使い方やめて頂戴」

 

「違う、もういいの。もう手を加えるのは……そう、いい子よ、そっと生地から手を離して。いいえ! 隠し味はもういいからっ! いいの! 隠し味は! そう、その手に持ったものを下ろして……そう、いい子よ」

 

「えっ!? なんでまた混ぜてるの! 暇になったから? 暇になったからって何かしなくてもいいの。そう、手を止めてちょうだい。はい、生地を置いて。はぁ……。――って、なんでオーブンをあけているの!? 熱が逃げるから! 閉めて、早くっ! あなたは少し落ち着いてちょうだい! 時には待つというのも――」

 

 雪ノ下が翻弄されていた。

 

 クッキー作りをBGMに瞑目していたらひたすらに雪ノ下が声を出して混乱していた。しかも由比ヶ浜自身は悪気がなさそうなのが怖い。

 

 そして雪ノ下が散々な目に合いながらも完成にこぎつけたクッキー。皿に並べられたクッキーを全員で一口食べて最初に感想を呟いたのは本件の依頼者。

 

「なんか、違うね……」

 

 捨てられた子犬のようにしょんぼりしていた。食べ比べてみれば確かに雪ノ下のクッキーとは出来が段違い。

 

 しかしながら最初の代物に比べれば十分にクッキーと呼べる。やっぱ最初のやつ食べ物じゃなかったわ。

 

 二人は俺の感想とは別に考え込んでいた。

 

「どうすれば上手に伝わるのかしら」

 

 小さな雪ノ下の呟き。けれども明確な解決方法が思い浮かばないのか沈黙が調理実習室を包む。

 

『無理じゃない? 諦めたら?』

 

 飽きたとばかりにさっさと終わんないかなーと漏らす九音。

 

 土台無理な話なのだ。雪ノ下の視点と由比ヶ浜の視点は異なるのだから。優秀な少女の見ている光景を出来ない人間は同じように見れない。

 

 いつかは見えるのかもしれないが、それは今じゃない。

 

「なんで上手くいかないのかなぁ」

 

 由比ヶ浜は一度、雪ノ下の光景を味わった。そしてその同じものを目指している。雪ノ下も同じような光景を見せたいと考えている。

 

「うーん、やっぱり雪ノ下さんと違う……」

 

 クッキーを口にした由比ヶ浜がついとばかりに漏らす。そして俺も横からクッキーを一つ取って咀嚼。

 

 そして俺は口にする。

 

「なんでお前らは上手いクッキーを作ろうとしてるんだ?」

 

「はぁ?」

 

 明らかに此方を馬鹿にしくさった由比ヶ浜の視線。こいつ、何で自分が童貞なのかわかってないんじゃないの? とばかりの視線にイラッとする。

 

「お前、ビッチのくせに男心全然わかってねーな」

 

「だから、ビッチって言わないでよ! 仕方ないでしょ! お、男の子と付き合ったことないんだしっ! そ、そりゃあ友達には付き合っている子とかいるけど、そういう子に合わせてたらこうなったし」

 

 耳元で『ぺっ』と何か吐き捨てるような音がした。ちょっと、汚いからやめてくんない?

 

『いいかい? こいつは天然で男を落としに来るタイプだよ。このカミングアウトは一見、恥ずかしいことであるみたいに思ってるみたいだけど、実のところは男心をくすぐる精神攻撃。完全にサキュバスだよ、サキュバス! おっぱいおばけ!』

 

 むしろお化けはお前なんだが……。人を淫魔扱いする幽霊の戯言を聞き流していると雪ノ下が口を開く。

 

「由比ヶ浜さんの下半身事情なんて本当にどうでもいいのだけれど。比企谷くん、一体貴方は何を言いたいの?」

 

『か、下半身事情ってこの女……ほんと、凄い発言するよね。女子力どころか女としてどうなのって思っちゃう。こいつほんとに女の自覚あるわけ?』

 

 九音の言い分もわからなくない。けれども、現在は関係の無い話なのでスルーして俺は由比ヶ浜の方向へ向き直る。

 

 そして――ニヤァっと笑みを浮かべて鼻を鳴らしては肩をすくめる。

 

「はぁー、おたくらはどうやら本当のクッキーを食べたことが無いようでして。外でテキトーに時間つぶしてきてくださいよ。十分後に俺が本当のクッキーというものを食べさせてあげますから」

 

 アメリカナイズにやれやれと首を振れば、どうやら目論見通りに二人をカチンとさせることには成功したようだ。

 

「なんっ、ですって! 雪ノ下さん、いこっ! 上等じゃない、楽しみにしてやるからっ!」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下の手を引いて教室から出ていく。雪ノ下も教室を出るまでは底冷えした視線を此方に向けていた。あんまりにも冷たい視線に内心ぶるってたわ……。

 

『相変わらずクソムカつく煽りだね。関係のない私まで腹パンしちゃったよ。腹パンできないからそこらへんの器具使って殴っていい?』

 

「なんで急に暴力キャラになってんだよ」

 

『だってぇ、ここいらで私のキャラ属性追加しておかないと……まさか、あんなダークホースが居たなんて』

 

 思い込みの激しい呟きに俺は溜息混じりに言い返す。

 

「まるで由比ヶ浜が俺に気があるなんて物言いやめろよ……勘違いして告白して振られちゃったらどうしてくれんだよ」

 

 俺の言葉に九音は満面の笑みを浮かべて。

 

『そんなことをしようと考えた瞬間に君をボコボコに叩きのめす。告白のことなんて忘れるくらいに愛してあげる。そして私の物理的な愛に君が根負けして愛を叫んだ後に前言撤回させて九音ちゃん様の好きなところを百個くらい言わせてあげる。君が鳴くまで私はポルターガイストで攻撃するのをやめない』

 

 ……俺に彼女が出来るのはまだまだ先の話になりそうだった。

 

 

 

 

 




※3/11までに仲春を終わらせる予定です(残り二話)


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仲春【完成】

 雪ノ下と由比ヶ浜を煽って十数分。家庭科室に戻ってきた女生徒達の視線は厳しいものであった。

 

 俺は二人の座った席にそっと皿を並べる。そして一目見た瞬間に雪ノ下はクッキーの評価を始める。

 

「自信満々にわざわざ追い出してまで作ったのがこの手作りクッキーなの? 形も無駄に広がっていて不恰好である上にところどころ焦げも見えるわね」

 

 黒い皿に並べられたお菓子は酷評を受ける。そして由比ヶ浜もクッキーを見ては笑い出した。

 

「あははっ、大口叩いていた割には大したことないんですけどー。マジうける! 食べるまでもないよ!」

 

 馬鹿にしくさった笑いにイラッとくるが、食べてもらわなければ話は進まないのだ。内心を必死に押し殺し、ひくひくと引き攣る頬のまま、何とか食べてもらえるよう言葉を付け加える。

 

「そんなの食べてみないとわかりませんよ……」

 

 自信のある態度を崩さない。まるで料理漫画のように逆転の一手があるとばかりに。

 

「ふぅん……隠し味によっぽど自信があるのかしら?」

 

 雪ノ下はクッキーを手にとり裏側と表側を見ては興味深そうに眺め。由比ヶ浜も「そこまで言うなら……」と渋々手を伸ばし始めた。

 

 そして二人は口に入れて――目を見開く。

 

「こ、これは――」

 

 由比ヶ浜の呟き。まるで信じられないとばかりの驚愕。舌が受けた衝撃、それを何回か咀嚼して怒涛の如く感想を並べる。

 

「別に美味しくないし! なんかぬるっとしてるし! はっきり言ってそこまで美味しくないっ!」

 

「えぇ……。比企谷くん、これきちんと火を通したの? まだ生焼けで――もしかして、これって」

 

 どうやら皿の色を変えたくらいでは雪ノ下は誤魔化しきれなかったらしい。由比ヶ浜が皿の中を見て信じられないとばかりに目を外している瞬間に、雪ノ下へ黙るよう合図を送る。偶然にもその仕草は彼女がリップを初めて塗ってきた時の仕草と同じだった。

 

 小さくコクリと頷く返答を見て俺は由比ヶ浜の方向を見て掠れた声で。

 

「そっ、か……頑張ったんだけどな」

 

「あ、や、その……ごめん」

 

 由比ヶ浜は言い過ぎたと思ったのかすぐさま謝罪を投げてきた。俺はそっと目を伏せて、由比ヶ浜の皿に手を伸ばす。ショックを受けたとばかりに声を震わせて。

 

「悪い、捨てるわ……」

 

 表情を決して見られないようにうつむきながら掴む。由比ヶ浜から俺の表情はきっと見えないのだろう、そして俺も同じ。

 

 見えないということは想像するしかない。今、由比ヶ浜がどんな顔をしているのか俺は知らない。

 

「ちょ、ま、待ってよ」

 

 掴んだ腕の皿の上からひったくるようにクッキーが奪われる。そしてそのまま口へ。

 

「す、捨てなくてもいいじゃん……その言うほど不味くないんだし」

 

「……そっか、ごめんな。これで満足してもらえるか?」

 

 後ろめたさを含んだ笑みを浮かべてそう呟いた。

 

「う、うん……いいよ、これで」

 

 気を使わせて悪いと曖昧に微笑んで、それでも褒めて貰えて嬉しいといった表情をはにかんで。色々な感情を含んだ曖昧な笑みを浮かべる。

 

 お互いに目があって、無言が続く。そして由比ヶ浜もまた無言を貫き、窓からさした夕日が彼女の頬を染める。

 

 頬を赤くした少女がそっと目を逸らした瞬間に――

 

「まぁ、そのクッキーはお前のなんですけどね」

 

「……はぁ?」

 

 しれっとネタばらし。由比ヶ浜は俺の発言が意味わからないとばかりに目をパチクリとして驚く。

 

 そもそも俺が十数分間でクッキーなど作れるわけがない。この家庭科室で俺がやっていたのはただひたすらに九音による演技指導を受けていただけだ。惨めさと哀れさをかもし出し、同情を誘うような表情を浮かべる練習をしていただけ。

 

 果たして必要があったのかはわからない。しかし由比ヶ浜の他者を慮る気持ちとかみ合って今の状況に至る。

 

「は? え? どういうこと?」

 

 目をぱちくりとして雪ノ下と俺を交互に見つめる由比ヶ浜。わかるわー、わかるわかる。人を騙すなんて最低だよな、何て女だ足山九音。さすが悪霊だ、汚い。

 

「で、比企谷くん。今の茶番に一体どういう意味があったのかしら?」

 

 途中で誰のクッキーなのか感づいたであろう雪ノ下が不機嫌そうに睨んでくる。

 

「あー、雪ノ下。この世で最も万能かつ、有名な隠し味とは何だと思う?」

 

 俺の問いに対して雪ノ下は小さく「質問に質問で返さないでちょうだい」と言った後に考え込む。そしてすぐに呆れたような瞳でこっちを見ていた。

 

「料理によって千差万別で、クッキーに合う隠し味がカレーに合うとは限らないのだし、質問自体ナンセンスね」

 

 俺はふっと笑ってから自信満々に言う。

 

「甘いな、雪ノ下。世の中にはこんな言葉がある――料理の隠し味は愛情! ってな」

 

 俺は笑みを浮かべて自信満々に答えたが女子二人は馬鹿を見る目でこちらを見ていた。

 

「精神論じゃない……」

 

「古くさっ!」

 

 頭がいたいとばかりに額を押さえる雪ノ下に時代遅れだと突っ込む由比ヶ浜。

 

 そりゃそうだ。料理は愛情だなんて俺たちが生まれるよりも前の言葉だ。料理番組でその台詞が使われたのは遥か昔。

 

 そして料理は愛情で、料理の隠し味が愛情であるなんて昔から誰もが知っていて、その概念は信仰されてきた。そんな異物混入を人類は有史以来ずっと続けてきている。きっと、それは隠し味なんて概念が生まれるずっと前から。

 

「お前ら、ハードル上げすぎ」

 

 小さく笑いがこぼれる。俺だけが答えをわかっている優越感に笑みが漏れる。ついつい無駄口の一つや二つ叩きそうだ。

 

「ふっ、いいか? ハードル競技の目標は如何に最速でゴールするかだ。飛び越えることじゃない。必ずしもハードルは飛び越えるというルールな――」

 

「あぁ、そういうこと。したり顔が鬱陶しいから、もういいわ、比企谷くん」

 

 ルールなど存在せず、なぎ倒したり、手を使わずにどけたり、通り抜けたりしてもいい。そんな言葉を継ぐことが出来ずにピシャリと止められる。辛味効きすぎでしょ……。

 

「今までは手段と目的を取り違えていたのね」

 

 釈然としないままだが彼女の言葉がすべてであった。続きを口にしようとする気概と機会は完全に奪われる。

 

 唯一、わかっていない由比ヶ浜には伝わるように崩すことにしよう。

 

「せっかくの手作りクッキーなんだ。店や高いレベルであればいいってわけじゃねーよ。むしろ見た目は不恰好、味は悪いくらいがちょうどいいんだ」

 

「味が悪いのがいいの? なんで?」

 

「そうだ、悪いほうがむしろ一生懸命作った感が出て男は『俺のために頑張ったんだ』って自意識過剰に喜んじゃうんだよ。ほんと悲しいことにな」

 

 そうやって勘違いして告白した後に振られた男子諸君の屍がこの世にどれだけあることやら。未練の塊としてそのうち邂逅しそうで戦々恐々となる。

 

「えー、そんな単純なわけないでしょ」

 

 由比ヶ浜の懐疑的で否定的な姿勢。仕方ない、ここはわかりやすく例え話を一つしてやろう。

 

「いいか? これはとある男の話だ。俺の友達の友達の話。そいつが高校一年生の――そう、今頃か。丁度、今の時期にとある湖の近くで痴話喧嘩の末路を見た後の御話だ。別に見たくも無い男女のアレコレを見せられて愛だの恋だのに食傷気味になって家に帰ろうとした時の話」

 

「……なんだか色々と言いたいことがあるのだけれど」

 

 雪ノ下の意見を無視して話を続ける。

 

「そもそも痴話喧嘩に巻き込まれたのは三日前。色々と解決に奔走して最後には湖でとある女性と会うように男の方に手紙を届けたのが切っ掛けなんだ。まぁ、これは関係の無い話なんで脇においておくが……まぁ、その痴話喧嘩で紆余曲折あったせいで心身共にボロボロでそいつ……少年は早く家に帰りたかった」

 

「ねぇ、ヒッキー。それって関係ある話なの? 全然、そんな風に聞こえないんですけど」

 

 疑うかのような失礼な視線に答えることもせずに俺は話を続ける。

 

「しかし湖は都市部から遠い位置、山奥に近い場所にあった。おかげでタクシー呼ぶにも電波が入り辛い。そもそも少年はその時、携帯を壊していたので連絡のとりようもなかった。山道を通る車の数は少なくて、街頭すら数少なく、遠めにポツリポツリとある程度。歩いて帰ろうとするもののあまりにも光がある場所が遠すぎる。夜もいい時間帯だったのでどこかでバスや電車に乗るってことも出来ない。キツイ道のりだった。しかしながら、歩いている途中に――ゥゥゥゥゥンと背後から車の音がする。勢いよく振り向けば車が此方へ向かってくる。逆光のライトが眩しくてどんな車なのか一瞬わからなかった。認識してから手をあげるまで時間がかかる。タクシーとわかる行灯に気づいたのはすれ違う直前だ。慌てて手をあげる。そもそも夜の山道だ、車のライトだけですぐさまタクシーだと一目で判断できる筈もない。だから慌ててあげた手が運転手に見えたかどうかわからない。見えていたのなら過ぎ去った後に止まってくれるだろう、本来ならそうなる筈だった。けれども、違った。タクシーは手をあげた瞬間に目の前でピタリと止まったんだ。まるで乗るのがわかっていたかのように。予約していたかのように。ぴったりと目の前で止まって後部座席の扉が開く」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜の視線がじっとりとした視線に変わっていく。

 

「……凄い偶然だとか、きっと人が歩いているのに気づいていたから咄嗟に反応できただとか。随分と都合のいいことを考えて助手席の後ろへと座る。どこかしら、心の奥のどこかしらかで変だなと不安になる心は疲れが黙殺する。勿論、乗った瞬間に違和感なんてものは掻き消えたよ。座り心地のよいシート、疲労困憊で歩いていたからまるで天国のように感じてしまう。だからタクシー運転手が当たり前のように尋ねてきた――どちらまで? という声に反応が遅れちまった。少年は少し考えてから家から一番近いコンビニを指定。そして、ゆっくりとタクシーは山道を進み始めた。車が走る音、ロードノイズのリズムと振動が疲れていた身体に酷く染みこむ。このまま眠ってしまいたい。もともと、愛想が悪い少年だ、目的地を告げた後に会話するつもりはないとばかりに目を瞑った。けれども、どうしてだろうな? タクシーの運転手という人種はどうにも会話や雑談、小噺が好きなようで真夜中にも関わらずあれやこれやと話し始める」

 

「あー、わかる。タクシーの人ってそんなイメージ」

 

 由比ヶ浜が二度頷いていた。どうやら彼女にも似た経験があるようだ。

 

「少年はイライラしつつも無愛想に「はぁ」やら「まぁ」とかテキトーに相槌を打っていた。そもそも話の内容なんて殆ど聞いちゃいない。目をあけて窓の外を見て霧が濃いなといった別のことを考える始末。寝れないのならせめて普段は見れない夜の風景でも楽しんでおこうと思ってたんだ。けれども窓の外は何も見えない。ついてない、と思った瞬間に一つの事実に気づく。少年の歩いていた山道沿いは上りと下りが多い。だから車が坂を上り続けるのは間違いじゃない。けれどもいつからだ? いつからだったのだろうか、車はずっと斜面を登りつづけている。緩やかなのぼりをゆっくりと、ゆっくりと進んでいるのだ」

 

「え、ちょ、ちょっと、やめてよヒッキー」

 

「少年はつい口で尋ねてしまう。これ、目的地あってます? と。しかしながら運転手が答えたのは頓珍漢な関係の無い話。自分の彼女について熱く語っていた。そういえばずっと同じ話題で……いやいや、そんなの聞いてないですから! 目的地あってます! 自分の彼女がどれだけ素晴らしいか。だからどこにと聞いても自分はどれだけ彼女を愛しているのか。とうとう堪忍袋の緒が切れた少年は持っていたリュックから財布を取り出して五千円札を出してここで降りると告げる。けれども運転手は止まる気配がない。下ろしてくれと叫んでも運転手の話は自分のことばかり。そこで少年は自分がヤバい何かに巻き込まれていると気がついた」

 

 少しでも臨場感が出るように当時の記憶を鮮明に思い出しては語る。

 

「ガチャガチャと、タクシーの扉を開こうとするも鍵が閉まったままで当然開く気配がない。窓をドンドンドン! と叩いても割れる気配は一向に無い。瞬間、ほんの少しだけ霧が晴れる。見えたのは林道。まったく見覚えのない、見知らぬ森の中を車はゆっくり、ゆっくりと進んでいたのだ。たまらなかった、絶対に変なことに巻き込まれている! そう気づいた少年は運がいいことに、本当に幸運なことにオカルト関係、幽霊や怖い話に対して都合よく調べていた。だから除霊をしようと考え始める。素人の浅はかな考え。そもそもタクシーの運転手が幽霊や化け物とは限らないのに、恐怖で混乱していた少年は必死に運転手の話に耳を傾ける」

 

 素人の除霊。ホラー映画なら典型的に死ぬタイプの失敗。勿論のごとく、例のごとく、当たり前のように、俺らしく。その除霊は失敗する。失敗も何も効果がなかった。

 

「ネットで聞きかじった知識で霊の話を聞く、未練の話に耳を傾けることで何とか供養しようとしたんだ。この方法に果たして何の効果があったのか。けれども運転手は人が変わったかのように機嫌よくベラベラと調子に乗って饒舌になった。自分の彼女が可愛いところ、自分の彼女の素敵なところ、自分の彼女の誕生日に送ったもの、自分の彼女といった場所、自分の彼女との馴れ初め、自分の彼女との記念日の御話。聞いているだけで頭がおかしくなりそうだった。同じような話を延々と似たような言葉で賛美しては誉めそやす。だが、一つだけ、たった一つだけ気づいてしまった。誕生日の話も、行った場所も、なれ初めも、記念日も。明らかにおかしい。明らかに変だ。だってまるでその話は――元カノ。そう数年前の彼女の話しかしていないのだ。すべて二年以上前の話しかしていない。最近の出来事なんて一つとしてなかった。だから――きっと、そこに鍵がある。そんな簡単に考えてしまった。むしろ、明らかに変で触れてはいけないかもしれない部分を。恐怖と混乱の最中で見つかった微かな糸に縋ってしまう。だから、聞いてしまったんだ――最近はどうなんですか? なんて」

 

「……」

 

 雪ノ下も由比ヶ浜もいつのまにか真剣に聞いてくれていた。どちらのものなのかはわからないが唾を飲んだ音が調理実習室に響く。

 

「運転手は答えたよ。あっさりと何でもないかのように。最近も仲がいいと。いや、以前よりも仲がいいと。いつだって私たちはラブラブだよと。そんな答えを聞いて少年は落胆と安堵を覚えてしまった。鍵と思った話が関係なかったという落胆と、言った後に聞いちゃ駄目な話だったのかもという後悔を払拭する安堵。二律背反の感情でタクシーの天板を見つめる。しかしながら運転手の話には続きがあった――相席させて貰ってもうしわけないね、と。聞こえた瞬間にぎょっとした様子で俺は隣を見てしまった。勿論、隣には誰もいない。いる筈もない。ずっと乗っていたんだ、それくらいはわかる。じゃあ、前は?」

 

 想像力が豊かなのだろう、由比ヶ浜は小さく悲鳴を挙げた。

 

「前は? 前は、前には――誰も居ない。誰も座っていなかった。助手席のシートの首を乗せる部分、ヘッドレストからは何も見えない。勿論、小さな視界だ。ヘッドレストの小さな穴から見える光景なんて人が居るかどうか確認するくらいでどんな特徴なのかまではわからない。けれども居るかどうかさえわかれば良かった。あぁ、良かった、誰も居ない。前に誰も居なけりゃ安心だ――すると、ドンドン! ドンドン! と音が鳴る。俺は座っている後ろ――後部座席の後ろから何かが叩く音がする。どこに人がいるのかわかった瞬間に悲鳴が漏れそうになった。後部座席の後ろ、荷物を入れる場所。トランクの中に人が居る。背後から、ドンドン! ドンドン! ドンドン! 何度も何度も音が鳴る。すると、タクシーの運転手が小さく舌打ちをした。そして俺にこう言った。すいませんね、うるさくして。そう言って運転手は再び話し始める。前からは頭がおかしくなるような話、後ろからは助けを呼ぶかのように鳴り続ける音。少年はとうとう我慢できずに泣き言と恨み言を口にした。あんたは彼女を荷台に入れるのかよ! いいから止めてくれ! もう下ろしてくれっ! と。すると運転手は不思議そうな声でこう言ったんだ――何言ってるんですか。彼女ならずっと僕の隣に座ってますよ? って。いやいや、隣って助手席には誰もいない、誰も見えない、座っていない、そう思った瞬間にダッシュボードに転がるように現れた。まるでボールみたいに転がって。タクシーの受け渡しのトレイを押しのけて生首が。目は腐り落ちて、蝿は集っている生首が転がってきたんだ。その瞬間にタクシーの中に悪臭が蔓延する。腐ったような臭いに我慢できずに開かないとわかっていても無意味に何度もガチャガチャと扉を開こうとしてしまう。出してくれ! 帰してくれ! と大声で叫ぶ俺に運転手は優しくこう言ったんだ。お客さんも私たちと同じで仲のよさそうなカップルで微笑ましい、羨ましい。そんな人を見ると私もつい、連れて逝きたくなるんですよ、とそう言いながらゆっくりと、ゆっくりと進む。少しずつ晴れていく霧、見えたのは崖。ゴールはどこかわからない山道で崖にむかって進んでいた。そこへゆっくりと車は進んでいった……この話はここでお終い。つまりは今回のクッキー作りはそういうことなんだよ」

 

「どういうこと!?」

 

 察しが悪いなと由比ヶ浜に呆れたとばかりに視線を送る。

 

「つまりだな、そうやってカップルの痴話喧嘩の帰り道に変な出来事にも巻き込まれたにも関わらず、その少年は普通に二ヶ月後には綺麗な女の人を見てはどきどきしたり、キャンプをするリア充どもに対して妬ましいとか思っちゃうんだよ。ついこの間まで恋愛なんて散々だとか思いながら、手のひらを返したかのようにそんなことを思っちゃうんだ」

 

「あー、生きてたんだ、その子……絶対に死んだと思ったし」

 

 俺も死ぬかと思ったわ。

 

「……ねぇ、比企谷くん」

 

 雪ノ下は今の話を聞いて疑問点があるのか問いかけるかのように俺の名前を呼ぶ。

 

「その少年なんだけれど……山道から帰ってくる時に恋愛に関して散々って言っていたのよね」

 

「あぁ、もう恋なんてしないよと言うくらいにはな」

 

「なのに男女、というか女の人と一緒に帰ったの……?」

 

「おいおい、冗談言うなよ。深夜に女連れで歩けるようなリア充っぽいこと出来るわけねーだろ……」

 

「二重に憑かれてるじゃない……その体験が本当の話なら貴方こそお祓いに行ったほうがいいわよ……」

 

 呆れ返ったような雪ノ下の発言。由比ヶ浜はわかっていなかったらしく頭に幾つもはてなを浮かべていた。

 

「えっ? これ、ヒッキーの話なの!?」

 

「ばっか、俺じゃねぇし、俺じゃねぇし……」

 

 ほんと俺の話じゃなかったらどれだけ良かったことか。

 

 解決編として話をするのならば、俺の隣に座って同じように怯えていた、同乗していた女。正確に言えば女幽霊を外に追い出すことによって難を逃れた。今でもねっとりとした声で「あれェー? お客さンもカップルだと思ったんですけど、違ったようですネぇ。こりゃ、失礼しました」といった台詞が耳に残る。それから崖付近をUターンして家へ。トランクからの音は消えたが、未だに残る生首と極力視線を合わさないようにして、臭いをかがないように口呼吸で過ごしたした数十分は今でも覚えている。一生物のトラウマ。ついでに言えばこの一年間でこれ以上怖かったり、死にそうだったりしたことは幾らでもある。

 

 ちなみに数年前千葉東京間で活動していたとあるタクシー運転手がカップルを轢いて、今もなおタクシー運転手もカップルも行方不明という事件があったらしい。

 

「結局、何が言いたかったの?」

 

「男ってのは、いや、男に限んねぇけど、人間ってのは危険ってのを都合よく忘れるんだよ。んで危機感が育ってなきゃ能天気にも都合のいいように解釈しちまうんだ。まるで自分が物語の主人公とばかりにな。そんで綺麗な女の人と話して嬉しくなって好きになっちゃう男ってのは山ほどいるんだよ。いや、ほんとに……。そんで話しかけられただけで、こいつ、俺のこと好きなんじゃねーの……とか自意識過剰に勘違いする。ましてや手作りクッキーなんて貰ったあかつきには勘違いして告白するまである。やべぇな、男子」

 

「……ふぅん」

 

 雪ノ下は俺の言葉に何か思うところがあるのか顎に手をあててじっと考えていた。

 

「はっきり言って手作りクッキーであれば不味くたっていいんだよ。別に取り立てて美味しいわけでなく、生焼けで小麦粉っぽさが残ってる上に焦げてジャリッとするようなクッキーで」

 

「――ッ! う、うるさいっ!」

 

 自分のクッキーを馬鹿にされたことを怒ったのか顔を真赤にしてその辺にあるものを投げてくる。きちんと怪我をしないように柔らかいものを選んだりしてるあたり心根が優しいことがわかってしまう。 どこかの女幽霊はそんな配慮なんてしないしな。

 

 そんな心根の優しさ、気遣いをされてしまえば勘違いするやつの一人や二人出てきてもおかしくない。あれ? 俺のこと好きなの? とか思っちゃう。俺が中学生の頃なら好きになってた。危ない。

 

「ヒッキー、マジでムカつくし! もう帰るッ!」

 

 乱暴に鞄を掴んだ由比ヶ浜がキッとこちらを睨んでくる。ヤバイヤバイ、このままじゃクラスで俺の悪評広がっちゃう。あんまりにも語られすぎた悪意が怪異になる可能性はゼロではないので慌ててフォローに入る。

 

「まぁ、待て待て。お前が頑張ったって姿勢が伝わるなら、向こうだって悪い気はしねぇよって話だ」

 

 俺の言葉に何か思うことがあるのかじっと此方を見てからゆっくりと。

 

「ヒッキーも悪い気はしないの……?」

 

 そう問われた。だから肩をすくめて答える。普段から邪険に扱われるどころか居ないもの扱いの俺である。なんか貰えると思ったら舞い上がって喜んで告白しちゃう可能性まであるわ。少なくとも中学生の頃にはそんな失敗を山のようにしてきた。だから、経験則で俺は悪い気はしない。だってこっちが勝手に期待して喜んだだけ相手に何の責も無い。

 

 故に今の俺は。

 

「あぁ、勿論。俺は気にしないな」

 

 その答えが正しかったのか、間違っているのかわからない。俺の返答に由比ヶ浜は「ふ、ふぅん」と気の無い返事を漏らす。ドアを手にしたままの由比ヶ浜に向けて雪ノ下が問いかける。

 

「由比ヶ浜さん、依頼の方はどうするの?」

 

「あー、ありがと! あれはもういいや! 今度は自分のやりかたでやって見るから。ありがとね! 雪ノ下さん!」

 

 ガラリとドアを開いて一歩出る由比ヶ浜、そのまま帰ると思いきや一度、こちらを振り向いて。

 

「また明日ね、雪ノ下さん。それと、オマケにヒッキーも。じゃ、ばいばい」

 

 女の子特有の手の振り方をしてそのまま帰っていった。エプロンを外すのも忘れて、片付けすらもしないで。

 

「本当にこれでよかったのかしら」

 

 雪ノ下が閉まった扉を見てついとばかりに小声で呟く。本当に小さな声ではあったのだが生憎、距離が近かったせいかしっかりと耳に届いた。俺が聞いていたと気づくと。

 

「いいえ、何でもないわ。それにこっちの方が私にとっても都合がいいかもしれないから」

 

 そう言いながらも複雑な表情を浮かべていた。葛藤、二律背反。まるで自分の信念と欲望がせめぎ合っているような。

 

 勿論、気の所為、思い込みである可能性は高い。そもそもが俺と雪ノ下はそこまで仲がいいわけではないしな。

 

「ねぇ、比企谷くん。今週末にでも一緒に御祓いに行かない? 貴方が以前言っていた話を真面目に考えようと思うの」

 

 未だに包帯が巻かれている首元を撫でながら雪ノ下は呟く。

 

「いいや、俺はいいよ。別に何の問題もねぇし」

 

「少なくともさっきの例え話が本当なら一度、行くべきだと思うのだけれど……’

 

「本気にすんな。友達の友達の話って言ったじゃねぇか……」

 

「……あなた、その台詞言ってて悲しくならない?」

 

 そういうこと言うのやめてくれる? 居たたまれないじゃん……

 

 

 

 

~~~~~~~~

 

 

 ようやく奉仕部らしい活動をした数日後のことである。初の依頼人に対処し問題解決に乗り出して幾ばくか経った後の御話。

 

 この数日は本当に平和だった。その前日にクッキーで走馬灯を見たことが帳消しになるくらいに平和であったのだ。

 

 相変わらず奉仕部内は怪異の温床だし、雪ノ下は都度都度、距離感が近いし。いつの間にか色違いで揃えられていたティーカップも怖いし。

 

 それでも平穏と言えるのではないだろうか。少なくとも怪異絡みで命の危険があったわけではないのだし。

 

 直近の怪異といえば日に日にそのサイズが小さくなって、今では子犬と呼べるほどの大きさに。送り犬……なんだよな? 未だにくぅーんと此方を見上げては時々、雪ノ下にぶつかっては転ばせようとしている。その度にこっちは雪ノ下を受け止めなければならないというのだから困ってしまう。

 

 一体、何がしたいというのだろうか。

 

 俺は文庫本を片手に持ってはいるが、ページは全く進まない。油断するつもりはない。幾ら日に日に小さくなっている、まるで命が消えていくように、弱くなっていくかのようであっても妖怪は妖怪なのだ。

 

 実際に最初の頃に比べて、ズボンの裾を咥えて引っ張っぱる力は弱くなっている。

 

 一度、本を閉じて頭を悩ませる元凶をじっと見つめる。

 

『ほんと、なんなんだろうね、この犬……なんか不気味ぃ』

 

 そう居るだけなのだ、この部室に。ただそれだけなのに、それだけが気味が悪い。

 

 眠そうに欠伸をしては陽のあたる場所で丸くなって寝始める。

 

 静かな空間だった。だからだろう、戸を叩く音がやけに大きく室内に響いた。珍しくも今日は来客があるようだった。

 

「やっはろー!」

 

 脱力を引き起こすような間の抜けた挨拶。扉から飛びこんできたのはそんな頭の悪い挨拶と頭の緩そうな女子高生。

 

 短いスカートに、豊満な胸元。まるで男を誘うかのようにガードが緩々の制服は、繁華街に一人でいれば「幾ら?」とおっさんが尋ねてきそうな着こなし。

 

「……何か?」

 

 雪ノ下は若干の不機嫌さを含んで由比ヶ浜に対して返事をしていた。そんな返事に想像してなかったとばかりに驚き戸惑う侵入者。

 

「え……も、もしかしてあまり歓迎されてない感じ? ひょ、ひょっとして雪ノ下さんってあたしのこと嫌い?」

 

「別に……特別に嫌いというわけではないわ……。ただ邪魔で苦手だと思ってるくらいよ」

 

「それ女子の間で嫌いと同じだからねっ!?」

 

 むしろ男子でも嫌いと同義である。辛辣な言葉を投げられた由比ヶ浜はあたふたとしていた。流石に面と向かって嫌いといわれるのは嫌なようで雪ノ下の隣へパイプ椅子を自分で用意して近づき抗弁し始める。

 

「それで何か用でもあるの?」

 

 本題とばかりに雪ノ下は依頼人であろう由比ヶ浜に話を切り出す。由比ヶ浜は気合を入れて鼻息あらくふんすふんすとばかりに雪ノ下に近づいていく。

 

「ほら、あたしって最近料理に嵌っているじゃん?」

 

「……私からしてみれば初耳なのだけれど」

 

「で、こないだの御礼っていうのかな? あたし、雪ノ下さんにクッキー作ってきたんだ!」

 

 由比ヶ浜を除いて殆どが顔を青ざめる。唯一、知らないであろう犬だけがグースカピーと暢気に寝ていた。正直、妖怪よりも由比ヶ浜のクッキーが怖いんだが。怪異と人間のパワーバランス崩れてるじゃねぇか。なんだよ、この女。

 

「あまり食欲がないから結構よ」

 

 食欲はこの瞬間に消失したのだろう。由比ヶ浜のクッキーと聞けば腹の虫もきっと黙っちゃう。それをわざわざ直接的に食べたくないと言わないのは雪ノ下の優しさだった。

 

 しかしながら、由比ヶ浜がそんな雪ノ下の裏の言葉を察することなく、楽しげにごそごそと鞄を漁り始めた。普段は空気読める奴であろう。けれども雪ノ下は辛辣で直情的に物事を言うという側面を見せたが故に由比ヶ浜は裏を読まない。字義通りに「へー、そなんだー」とテキトーに相槌。

 

 鼻歌混じりで取り出された代物は前回の家庭科室で最後に彼女が作った代物よりも木炭の方が近い。やっぱ、一人で作らせたら駄目だったのか……。可愛らしい包装と不釣合いな中身が恐怖感を掻き立てる。

 

 ギャップというのは萌えだけではなく恐怖にも使えるのかと勉強になってしまった。どうしてホラー映画にお色気シーンが多いのか体感してしまった。おらぁ、胸がドキドキ(胸焼け)してきたぞ……。

 

「いやー、あのさ。料理ってやってみると楽しいもんだよねー。今度はお弁当を作ってみようかなって思ってるんだ。あ、でさー、ゆきのんってお昼何食べてるの? 学食? 購買? 一緒に食べようよー」

 

「い、いえ、お昼は静かに食べるのが好きで騒がしいのは少し。それからゆきのんって気味が悪いからやめて」

 

「うっそ……寂しくない? ねーねー、ゆきのんはどこでお昼食べてるの?」

 

「部室だけれど、ねぇ、私の話を聞いていたのかしら?」

 

「あ、それでさぁ! あたしも放課後暇だし部活手伝うよ。いやーなんていうの? 御礼? これも御礼だから全然気にしなくていいから。はい、クッキー!」

 

「……あ、ありがとう。ねぇ、私の話聞いてる?」

 

 律儀にクッキーを受け取る雪ノ下。やっぱこいつアドリブというか押しに弱ぇわ。

 

 由比ヶ浜のなだれるかのような喋りに戸惑う雪ノ下。俺の方をちらちら見ては何かを伝えたいかのよう。俺は軽く肩をすくめて立ち上がる。

 

 非日常でもなければ、命の危険も無い。こんな世界においてどっちが玄人でどっちが素人なんて区切り方も存在しない。むしろ人間関係においては俺は生まれてこの方ずっと素人。これからも多分ずっと素人。

 

 それに由比ヶ浜結衣はお前の友達なんだし。

 

 まじめな話、あれこれ楽しそうに喋る彼女の目的は俺ではなく雪ノ下なのだ。そして、御礼の品を持ってきたのもおんなじ。部長である彼女が真剣に問題に向き合い、取り組んだこそである。

 

 なればこそ受け取る権利があるのは尽力したであろう少女だ。それと同時に義務でもある。

 

 お邪魔な蟲は俺であり、むしろ助けに従って口を挟めば碌なことにならないのは経験則。伊達に小学校、中学校と人間関係で酷いことになってきたわけじゃない。大体が「あれ? 俺なにかやっちゃいました?」みたいなことを言って実際にやらかしていて総スカンをくらってきた人間なのだ。給食で運んでいたカレーを零しては他のクラスにカレーを貰いにいく行脚を思い出す。おかしくない? 二人で運んでいたのになんで俺一人が先生と一緒に他のクラスを回っているわけ?

 

 そんな思い出を懐かしく思って、そっと鞄に文庫本を戻す。時計を見れば部活が終わるには少し早い時間帯ではあるが――別にいいだろう。空気を読んで比企谷八幡はクールに去るぜ。

 

 後は若い二人でとばかりに小声で「お疲れさん」と呟く、雪ノ下が信じられない! とばかりに此方を見てきていたが気にしない気にしない。

 

 そして部室を出て、歩き始めたときに――。

 

「あ、ヒッキー!」

 

 背後から声をかけられた。振り向き様に視界に飛び込んできた物を反射的に掴む。

 

「いちおー、お礼の気持ちっていうか……そのヒッキーも手伝ってくれたし。じゃあ、ばいばい!」

 

 そう言って再び部室の中へ。

 

 手中には黒々としたハート。ハートには諸説あるが一説では心臓であり、心臓の形を模したものであるという。そして、そのハートを黒々と燃やし尽くしているのならむしろ呪術的な意味合いで恨まれてるのかな? って穿ってみちまう。ついでに味も酷いもんであろうか、やっぱり恨まれてるでしょ、これ。とか思っちゃう。

 

 そこはかとなく不吉で不穏なクッキーではあるが御礼というのなら一応貰っておこう。

 

 そのまま片手に黒々とした心臓を持ち歩き、購買でスポーツドリンクを買っては家に帰るまでにこの呪具を処理しておくか、と結論づける。

 

 中庭に寄って人気の少ないベンチに腰掛ける。そしてクッキーの包装を開いてみれば、匂いなんて漂ってくる筈も無いのに一瞬だけ焦げ臭い何かを感じてしまった。よっぽど家庭科室での出来事がトラウマになっているらしい。

 

『え、食べるの……? 大丈夫?』

 

 いや、食べるよ、そりゃあ……大丈夫かどうかまではわかんねぇけど。

 

 そして、一口。

 

『うっわ、ほんとに食べちゃったよ……』

 

 宙に浮いている幽霊が、まるで昆虫食を口にしているかのを見る日本人とばかりの視線を送ってくる。そんな失礼な視線に耐えながら、ガリッ、ガリッと食べる。なんか歯ごたえおかしくない? とか思いつつ飲み込んで、鞄からスポーツドリンクを取り出して胃に落とす。

 

 そして――ふと思ってしまう。

 

 由比ヶ浜のやつ、もしかして俺のこと好きなんじゃ?

 

 いやいや、そんなわけ。でも、あれじゃね? クッキーなんて男子に普通、渡すか? そんなの好きじゃなきゃできないでしょ。いや、でも違うかも。というかよくよく考えてみれば由比ヶ浜って滅茶苦茶、可愛くないか? いや、そりゃスクールカーストが上の方だから可愛いに決まってるんだが。驚いたのは由比ヶ浜ってあんな見た目の割には意外とそういうことやってないんだよな。なんか誰とも付き合ったことないとか言ってたし。それってもしかして。いや、だからといって。でも、あんだけ可愛けりゃ人気あるよな。なんとかして仲良くなれないかな。

 

「……由比ヶ浜と仲良くなれねぇかな」

 

『あ"?』

 

 ついぞ、と漏れる呟き。口から出た瞬間に顔が火照るかのよう。しまった、暑い……手で仰ぎながら気づく。なんか、今一瞬聞こえたなって。

 

『はぁーん? もう一度、言ってみろよ、お前』

 

「は? 何キレてんの……いや、別に不思議なことじゃねぇだろ、今のはつい漏れたっていうか」

 

『は? は? はぁ? ねぇねぇねぇ、八幡くん。おいおいおいおい八幡くん。私の大好きな八幡くん、私の愛した八幡くん。なんか急に色めきだって脳内お花畑になってる八幡くん。まるでお薬キメたかのように変なこと言い出しはじめた八幡くん。今しがた呟いたことをもう一度呟いてくれない? まさか本音とか言わないだろうね。君の本当の気持ちってのを私に教えてよ』

 

 ブチブチブチ、と切れる。

 

 九音の髪を後ろで縛る紐が切れていく。そして微笑んでいるが、目は笑ってない。

 

「い、いや、別に変なことじゃねぇだろ。由比ヶ浜って美人で可愛いし、スタイルもいいし……近づきたいとか思うのは男子として結構、普通っていうか、当たり前っていうか」

 

 一文字。

 

 微笑んでいた筈の口元は真一文字になる。怖ぇ……。春も半ばというのに中庭の温度が急激に下がったかのよう。

 

『へぇ……取り消さないんだ。そうなんだ。そうかい、よくわかったよ。わかった、わかった。取り繕わないんだね。言い訳しないんだね。前言撤回しないんだね。そっか……それならさ、それなら――もう、後は命のやり取りくらいしか残っちゃいないよね?』

 

 ふよふよと目の前で浮かぶ九音の背後、逆光さす光景が変化し始める。

 

 幽霊と同じようにふわふわと。浮かび始める石。様々なサイズの石が、大きいものでは拳大ほどの石が、威力によっては人を殺せそうな石が幾つも浮かんでいた。

 

 眩しさに目を細める。冷や汗が背中を伝う。嫌な汗がどんどんと溢れる。

 

 どうやら俺の言葉は九音の逆鱗に触れたらしい。ついぞと零した言葉を九音は冗談と片付けられず、俺も冗談じゃなかったと抗弁してみれば彼女の堪忍袋の緒を綺麗にチョッキンっと切断してしまったらしい。

 

 そんな女幽霊に向かって、俺はつい独り言を零してしまった。

 

「器ちっさすぎでしょ……心狭いよな。少しは由比ヶ浜を見習って優しい女の子を目指してみたらどうなんだよ」

 

 しかしながら、俺の言葉はばっちり聞こえていたらしい。逆光に浮かぶ幽霊はその両目から静かに涙を流して――満面の笑みで。

 

「……ころちゅ」

 

 舌ったらずなところがリアリティありすぎて怖い……。

 

 




※次回の更新は金曜日を予定しています


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仲春【中味】

 騒々しい中庭。時間帯を考えれば未だに運動部も文化部も活動をしているにも関わらず、そんな日常の音があまりにも遠くの出来事だと感じてしまうのは耳に入る音色が異なるから。

 

 風を切る音が幾重にも響く。ヒュンヒュンヒュンヒュンと、軽快に空で軽やかに踊る石たちがステップを踏む音が此方に恐怖を与えてくる。

 

 ――ヒュ、っと。耳元で、耳の真横を何かが通り過ぎ去った。

 

 背後から飛んできて、耳の傍を通った拳大の石は鋭い直線を描きながら九音の手中に。

 

 それを片手でぽんぽんと上空に投げてはキャッチする様子はまるで野球のロージンパック、滑り止めをしているかのよう。そして、振りかぶり投げる――脇腹の横、学生服を掠めてはブーメランの如く石はUターンをして再び手の中に。

 

『おっとー、外しちゃったなー、ミスっちゃったなぁー。いやぁー、ピッチャーって難しい』

 

 ニヤニヤと嗤う。内心で嘘吐けと愚痴りながら、ジリッと足を一歩引く。少なくともこの女に外すなんて概念は存在しない。俺が避けるといったことは出来たとしても、足山九音が狙った場所に当てれない等あり得ないことなのだ。

 

 人間ならば投擲に手腕や技術が必要かもしれない。けれども化け物がやっているのは投げているふりだ。そこに技術も練習も努力も必要ない。

 

 彼女が使っている能力――足山九音らしいその能力に名前をつけるのならばこう言おう。

 

 ポルターガイスト、と。

 

 ポルターガイスト現象。幽霊らしく、悪霊らしいとも取れるその能力。ドイツ語のポルターは騒々しい、ガイストとはゴースト、つまりは幽霊。

 

 数学の時間に興味もない話をペチャクチャと喋っては、機嫌が悪くなるとぶつぶつと此方が滅入るような怨念を零す、時折小学生もかくやといった騒ぎ方や駄々のこね方をするのだから何とも似合いすぎる能力だ。

 

 超心理学において通常では説明のつかない現象の総称であるポルターガイスト。たとえば誰も手にとっていないにも関わらず物が浮いたり、動いたり。誰も居ない筈なのに音が鳴るラップ現象も含み。そして寝ている人間が翌朝、別の場所で目が覚めたという例も存在する。

 

 名は体を現すように一人でも三人くらいは煩い女幽霊は俺と自分の周囲でビュンビュンと石たちに激しいダンスを強いる。時折、ぶつかっては激しい火花が散らし、まるで此方を脅すかのような警告音は――当たれば痛いくらいじゃ済まないぞと気炎を吐いていた。

 

 故に俺はゆっくりと口を開きながら対策を練る。この好戦的な状況を一旦、どうにかしなければ。

 

「おいおいおいおい、雑魚幽霊の九音ちゃんにしては短慮すぎない? 喧嘩なんて下らないことやめようぜ。お互いに痛い目あいたくないだろ、な?」

 

『何言ってんの? 痛い目を見るのは八幡くんだけだよ。中途半端な霊視くらいしか取り柄がないくせに何イキっちゃってんの?』

 

「馬鹿、お前。九音、バカ。お前、俺の筋肉甘く見んなよ。筋肉あるぞ、俺は、筋肉」

 

『……それが何の役に立つっていうのさ』

 

 呆れたとばかりに此方を見る九音。胸板を叩いて筋肉アピールをし、ボケてみることで何とか怒りを沈下して……。

 

『で? そんな小賢しい小ボケで私の毒気が抜かれるとでも思ったの?』

 

 筒抜けだった。むしろ付き合いが濃厚な一年だった分、俺の小賢しい真似にイラッと来ているのがわかる。向こうが俺のことをわかるなら、此方も向こうのことがよくわかる。

 

 そもそも彼女は俺を殺す気などさらさら無い。けれども浮いた石達は悪ふざけでもない。こちらを半殺しする程度には痛めつける気はありますという意思が伝わってくる。

 

 ジリッと足を一歩引く。額に浮いた汗は間違いなく精神性発汗と呼ばれる代物。恐怖と緊張により生まれでた。

 

「……南無三ッ!」

 

 鞄を手に取って逃げようという意気を声に出して足元に手を伸ばす。

 

 南無三とは驚きや困った時に人間自らではどうしようもないから神に救いを求める時に使う言葉だ。

 

『フンッ、読んでるっての!』

 

 伸ばした先の鞄に宙に浮いていた石達が続々と襲い掛かる。俺は慌てて飛び退く。そして――石は一箇所に固まった。

 

 こっちこそ、読んでたっつーの! 

 

 俺が鞄を持って逃げ出すなんてことはこの幽霊にはバレている。だから俺がまず鞄を掴もうとするのを邪魔されるのは承知の上。

 

 故に俺が目的としたのは一箇所に石を集めること。

 

 一箇所にすべての石が集まったのなら――襲い掛かる石の軌道は比較的にわかりやすい。

 

 今は何度も何度も鞄に襲い掛かっては鞄の中に入っているペットボトルやノート、教科書、文庫本ごとボロボロにしている。潰れた鞄は破損されたペットボトルのせいか水が漏れ出ていた。

 

 故にこれはブラフ。鞄は最初から諦めていた、この女幽霊はここに至ってまだ甘い。

 

 ボコボコにするとか、半殺しにしてやるとか思っていながらまず狙ったのは俺を逃がさないための対応。宙に浮く石達を俺目掛けて殺到させなかったのだから詰めが甘い。

 

 俺は中庭の出入り口を目指して全力疾走するために、石が集まってる箇所から目を離さずに方向転換しようとする。これなら、仮にあの石たちが此方を目指してきても軌道を見やすい。そして他の石を動かすにも距離が遠すぎる。

 

 そして、俺は逃げ出そうと足を動かした瞬間に――

 

「ッィァッ!?」

 

 脛に激痛が迸る。そして体勢を崩して、そのまま倒れこんでは打たれた泣き所を抑える。クソ痛ぇ……。

 

『あれあれェー? もしかしてー、私が全部の石を鞄のために集めていたとか思っちゃったァ? ごっめーぇん! ごめんねぇ、八幡くん』

 

 ころころころ、と蹲って脛を押さえる俺の目の前に石が転がってくる。そして、突如としてガタガタガタガタと地面を鳴らして飛び去った。まるで浅はかな俺の考えをあざ笑っているかのように。

 

 完全に引っかかったのは俺かよ。そもそもこういう読み合いをさせたのなら俺がこの女に勝てる未来は想像できない。

 

 普段こそ頭が悪く、駄々をこねて、幼稚な言動を見せることが多い九音ではあるが――悪霊なのだ、幽霊なのだ。罷り間違っても、悪意、騙しあいといった競技で彼女を上回ることなど出来る筈もない。

 

『はぁ……悲しい。私はとっても悲しいや、八幡くん。とてもとても悲しい。愚かしい八幡くんを見ると可愛いな好きだなって思うけど。馬鹿な君を見るとしゅきだな、結婚しよとも思うけど。反面その行為が私から逃げる行為に使われると凄く凄く哀れで愚かで可哀想で酷く悲しくて、とっても腹が立つ。腸が煮えくり返っちゃう。そもそもタクシーに並走出来る私からどうやって逃げようというのさ。そりゃあ、距離をとることは出来るかもしれないけど、逃げられなんかしないんだよ。もしかして逃げればその内、頭を冷やすとか考えちゃった? 逆でしょ、逃げれば逃げるほど私は君に対してたくさんのことを思って、この想いをぶつけちゃうんだよ。物理的に』

 

 悪あがきなのは重々承知していた。痛い目に遭いたくないなんて神頼みすらした始末だ。今まで祈りが届いたことなど心当たりが無いにも関わらず。

 

『八幡くん、提案があるんだけど。三つの選択肢を君に与えちゃう。三つもだよ、三つも』

 

 三本の指を立てて此方に向けて判りやすく示してくる。涙で霞む視界にうっすらと浮かぶ指はまずは一つと閉じられた。

 

『前言を撤回して私への愛を叫びながら『ぼこぼこ』ってされる。私のおすすめはコレだね』

 

 随分と柔らかく可愛らしい口調でぼこぼこと口にする九音。そして二つ目の指が折れる。

 

『次に後悔をしながら私に『ぼこっ! ぼこっ!』っとされてから前言を撤回する。あんまお勧めはしないかな』

 

 そして残った中指をくるりと返して甲を見せつけて。

 

『三つ目。いつものように中途半端に祈ってみる。前言撤回もせず、なんなら本心だったと口にして、これ以上に私を怒らせてみて中途半端に神様に助けを求め続ける。今まで君は悪あがきとばかりに様々な怪異に諦め悪くしぶとく何とかしようと試みてきた。だから今回も同様にそうすると言うのならば止めないよ。私、理解ある女だから。ただその場合は酷い目に合うと思うな、明日の朝日が見れなくなっちゃうかも。お勧めはしないよ』

 

 なにが、理解ある女だ……。くそっ、前言撤回したくなるじゃねぇか。けれども俺は口にした言葉の責任を嘘だと言うつもりはない。由比ヶ浜は確かに可愛い、少なくともこんな性悪よりかは。

 

 確かに見てくれは足山九音に敵う存在はそうそう居ない。主観的に言うのなら俺は見たことすらない。

 

 それほどまでに整った顔をしているが、中身は酷いもの。そりゃ、悪霊になるでしょ……。とばかりの性格をしている。

 

『じゅー、きゅー、はーち』

 

 カウントダウンが始まる。

 

 三つの選択肢。未だに脛が痛み、目は涙で滲む。

 

 考えろ、考えろ、考えろ。そもそも考えても全部ボコボコにされるじゃねぇか、と結論づける。俺に残された手立ては最早無い。少なくとも立って動くよりも九音のポルターガイストによる叩きのめしの方が圧倒的に早い。

 

 だから俺が考え始めたのは現実逃避。心を強く持つ方法。

 

 由比ヶ浜結衣のことだ。

 

 可愛い、スタイルがいい。気遣いはできて、ああいう性格なら一緒に居て楽しいだろう。初対面こそビッチ臭かったという印象も真実を知ればギャップ萌えというやつなのか可愛く見えてきた。現に足山九音も天然のサキュバスと称すほどに男子高校生の好感度が高そうな性格をしている。

 

 いやいやいやいや、そうじゃないだろ。確かに由比ヶ浜のことを俺が魅力的に思ったところで。別に俺は下種な考えではないのだ。ただちょっと繋がりが出来たが故にお近づきになれるかもしれないという淡い希望が一瞬燃えただけ。そもそも美人と接点を持てばちょっと自意識過剰に勘違いしちゃうのは男の性。

 

 由比ヶ浜を嫌う人間なんて中々現れないだろう。あぁいうタイプは嫉妬はされど、憎悪をもたれることは少ないと思う。上手く立ち回れるタイプ。けれども先日の怪異、ストーカーの御話を想像してみればフラれた男子が復讐する可能性は十分にありえる。また人的に直接ではないにしろ、怪異的な物事に襲われる可能性はあるのだ。

 

『さ、さーん! さーん! にー! にー! にー! は、早く、前言撤回しないとゼロになるよ! ゼロに! いいのっ! 早くごめんなさいしなくてっ!』

 

 九音の声に俺は嗤う。さっきから何秒経ってるよ。

 

 いっそ一思いにやってくれ、と身体を大の字に広げて仰向けになる。素直に一番か、二番を選んでいればいいのかもしれない。嘘をつき、取り繕い、本心を隠して、本音を殺す。九音に向かって心無い愛を叫ぶなどいつものことで、心無き言葉をかけるのはいつもどおり。諦めて、降参して、助かるために命乞いするのは何度だってやってきた。

 

『いーーーーーーーーち! ほ、ほんとうにいいんだねっ! 手加減しないからねっ!』

 

 なんでお前が泣いてんだ、と呆れてしまう。

 

『……八幡くんのバカぁーっ! 頑固者! もう嫌いっ! だいっきらいっ!』

 

 宙に舞った石が――。

 

 ――ゥゥゥウウウウッ! バウッ! バウッ!

 

 その時である。中庭にやってきたのは一匹の犬。見た目は子犬ほどの大きさ。見た目と違い、鳴き声は成犬もかくやとばかりの迫力。

 

 バッと現れて俺と幽霊の間に立ち、そして九音に向けて吼える姿はまるで此方を守るかのよう。

 

『……なんの真似? 一体、どういうこと? どういう手腕でこの犬を味方につけたって言うのさ、八幡くん。今まで誰も君を助けてなんてこなかったのに、どうしてこの犬は君を味方しているわけ? はぁ? ちょっと、それは、本当に、ホントニ――ユルセナイんだケど……?』

 

 由比ヶ浜の件よりもキレていた。というかなまじ由比ヶ浜の件はボコボコにするとか宣言しながらも躊躇いを感じたが、今の九音の目、怨念すら込めていそうな視線は憎悪と憤怒が入り混じっている。

 

『いや、お前……誰のモノに向かって守護者面してるワケ?』

 

 強い風が吹く。土ぼこりすら舞い上がる強風に目をあけることすら叶わない。

 

 ――バウッ!

 

 けれども犬は勇敢に吼えては引く気は無いとばかりの態度。

 

『はぁ……これ、舐められちゃってるね、舐められてるね。もはや人を転がすことも出来ない、自分の本質すら見失った妖怪でもない、かといって動物霊に満たない雑魚怪異が』

 

 本質を見失う。その言葉は事実だった。今の犬の妖怪は妖怪未満の存在なのだ。

 

 人間である俺が敵わないのは理解できる。きっと雪ノ下も、由比ヶ浜も、平塚先生でも人間である限り化け物に勝つことなんて出来ないだろう。しかしながら足山九音は別なのだ。

 

 そもそもが同じ土俵の上にいる。化け物のカテゴライズの雑魚幽霊だとしても――妖怪でなくなった送り犬だった何かが勝てる道理は見つからないのだ。動物霊にすら、幽霊にすら満たない怪異をなんと呼べばいいのか。力を殆ど持たない雑霊もどきをどう表現すればいいのか。

 

 小手調べとばかりに一つの石が襲い掛かる。そして二つ、三つと続いて襲い掛かる。

 

 避ける、避ける、避ける――が、必死に避ける様相は段々と余裕がなくなっていく。

 

 そして、そのうち一つが確りと犬の腹部を捕らえて、吹き飛ばす。

 

 鈍い音と墜落する音。

 

 犬の体躯が打ち落とされ、二度、三度とバウンドして目の前へ。俺は脳裏で妖怪に石という原始的な物理攻撃通じちゃうのか、とか全然関係のないことを思っていた。けれど、一応、こいつは俺の味方なわけで。一応、心配していたスタンスをとるとするか。小さく咳払いをして俺は本格派俳優のごとく大声でリアクションを取ることにした。

 

「い、犬。イヌゥゥゥゥゥゥゥゥッ!」

 

『いや、あのさぁ……犬だよ、八幡くん。そりゃあ名前なんてつけているわけでもないし、何か味方っぽかったからそうやって叫ぶというか謝意の念で口にするのもわかるけど。けどさぁ、種族名を述べたところでさぁ……』

 

 人が感動シーンを演出しているのに水を差す女であった。しかしながら俺の目論見は半分達成していた。九音のジトリとした視線は完全に毒気を抜かれた証拠。クククッ、これでお開きッ……。

 

『で、何、こっそり立ち上がってんの? 許したなんて一言もいってないんだけど』

 

 許されてなかった。いいじゃん、もうお開きで。暴れたから解散でよくね? 俺の訴える視線ににっこりと嗤う幽霊。

 

『許すわけないんですけど。一つは前言撤回しなかった罪、一つは私に対して愛を叫ばなかった罪、最後に私以外に守ってもらった罪。特に三つ目は罪が重いんだよ。知らなかった?』

 

 どんな六法辞書つんでんだ、お前の頭。独裁者すぎる……。というか一番の重罪は俺の意思じゃないじゃん……。

 

 ――クゥン……

 

 小さな鳴き声。足元を見ればうるうると円らな瞳が俺を見上げていた。儚さのあまりに俺はそっと手を伸ばす。手を伸ばしたついでにもう一回戦ってくれ、というか戦えと祈りを込める。

 

 そして犬は後は任せておけ、と力強い瞳で。

 

 ――バウッ!

 

 ガブリと。オノマトペ付きでしっかりと噛み付いては、深々と刺さった歯でダメージを与えた。俺に。

 

「が、アッ!? い、ってぇぇぇぇええええっ!!」

 

『ぷふーっ! ~~~~ッ! あはははっ! だっさっ、だっせっ、あはははっ!』

 

 俺は噛まれた手とは逆の手で必死に引き離そうとする。鼻を掴んでは顎を開こうと試みるが決して開かない。犬はこの命燃やしきるまでは絶対に開かないと強い意志を目にしていた。そもそもこいつ触れるじゃねーか! とかこいつ本当に妖怪なのか! 味方じゃねーのかよ! もはや妖怪なのか、ただの犬なのか、霊体なのか何なのか。様々な疑問が浮かんできては痛みによって途切れる。

 

 涙目で九音の方向を見れば腹を抱えて笑っていた。あ、あの性悪幽霊……。

 

「い、いでぇっ! 離せっつーのぉっ!」

 

 歯の間に指を突っ込み、引っ張るが全然開かない。

 

『ひぃひぃ……ぷくくっ、もぉー! しっかたないなぁ……』

 

 その声と共に突如として吹き上がる砂嵐。そして襲い掛かる石礫の嵐、噛み付く犬と腕からなるべく距離をとり、顔は片腕で隠して石が当たらないように片腕だけを残して亀の体勢に移行。

 

「いたっ! 痛いっ! 九音さん? 九音さん! 痛いですって!」

 

『痛くしないと反省しないでしょ』

 

 酷い……とはいえ、腕にあたる石は少しずつ減る。それと同時に刺さった牙が抜ける感覚と共に礫による打撃も止まる。

 

 亀の体勢のまま一分、二分。

 

 鈍い音と何らかの鳴き声が耳の中に入ってくる。そして、鳴き声は途中から弱くなって、最後には消えた。その後にただひたすら、肉を打つような音が。そして、最後にベチャリと何かが地面に落ちる音がして恐る恐る顔をあげてみれば。

 

 ベンチの近くにピンク色の物体が出来上がっていた。

 

 まるでミキサーにかけたかのようなひき肉の映像に吐き気すら覚えてしまう。完全にグロ画像、眼前のグロ映像。

 

 なんて一日だ、踏んだり蹴ったりすぎる。平和な一日返してくれよ、もう癒しが欲しくてたまらない。癒し……暖かい布団とか、練乳入りの珈琲とか、好きな本を読む時間とか。

 

 後は――好きな女の子と居る時間とか。

 

 そして好きな女の子という抽象的な代物を思い浮かべた時に俺が思いついたのは由比ヶ浜結衣ではなく――雪ノ下雪乃だった。

 

 確かに由比ヶ浜は可愛い。けれどもこの胸にあるのは憧れに近い代物。そもそもが違う人種なのだ。カーストも違えば、今後話すこともないだろう。故に恋愛対象という意味合いにおいて期待と呼ぶにはあまりにも薄弱な代物くらいにしか成りえない。

 

 対して雪ノ下とは接点がある。部活動という細い繋がりが。それでも身近に女性が居ない以上、俺には最も近くに居る女性ではないだろうか。

 

 最近、関わることになった少女を思い浮かべる。

 

 整った顔立ち。抱きしめたときには折れそうだった細い身体。過去のこととして片付けた怪事件中に行った彼女とキスを思い出す。

 

 顔が火照り、熱があるかのよう。ドキドキと胸が高鳴る。

 

 いやいや、まさか……そんなわけ。

 

 高鳴る胸の理由を否定する。けれども否定すればするほどに、考えれば考えるほどに顔は火照り、胸の鼓動は早鳴る。

 

「……雪ノ下、か」

 

 俺は思い浮かべた少女を口に出す。そして、その言葉がこの場に居る一体の少女の耳に届いたことに遅まきながら気づき、そちらの方向を伺う。

 

 怒りなのか、呆れなのか。それとも悲しみなのか。

 

 けれどもその全ての表情ではない。寧ろ、苦虫を噛み潰したかのような渋面で『そういうこと……!』と呟いていた。

 

『あ、あ、あんのクソ犬……最後の最後に余計なことしていきやがって。つまりはそういうことなのかよ……呆れた、呆れる。ほんと、そういうこと』

 

 

 ナニかに気づいたのか一人でブツブツと呟く九音。俺はそっと足を動かそうとすれば――ヒュンっと足元に刺さるかのように鋭い軌跡で石が飛んできた。

 

「あー、九音、九音さん? ここいらで解散でよくね?」

 

『あ゛?』

 

 ギロリと睨むその目は女幽霊の名に相応しき迫力。

 

「いや、さぁ……お前の暴力性とかさ、もっと女の子らしくだな。由比ヶ浜や、雪ノ下くらいの女の――」

 

『……あ゛ぁ゛。もういい、少し黙って八幡くん。黙って口を開けて』

 

 すっと目を逸らす。あまりの怖さに直視できなかった。すぐに黙った。今にでも逃げ出すべき。せっかく味方だったのか何なのかよくわからない犬が作った状況を使って逃げ出してみたらどうだ、と悪魔が囁く。けれども機は完全に逸している。もう少し早く動くべきだった。

 

『早く口を開ける! それとも永久に開きっぱなしになるようにされたいの?』

 

 脅し文句に従い俺は大きく口を開ける。次の瞬間――。

 

『ほんっと、仕方ないよね。これは本意じゃないんだよ? 君をボッコボコにするつもりだったけど、別にここまでのことはするつもり無かったんだ。君が涙目で許して、愛してる、九音ちゃんさまって言うのなら矛を収めるつもりだったんだ。だから私が吐かせたいのは言葉であって――』

 

 瞬間、身体の中、内蔵。正式に言えば胃の中がかき混ぜられる感覚。競りあがってくる何かは――。

 

「ごっ、おっ、おぇ、がぽっ」

 

 ――食道から逆流し口から地面へ。その瞬間に理解した。理解してしまった。作り物に贋作を。吐瀉物が飛び散った地に膝をつき、元凶の幽霊を睨みつける。

 

『こんなものじゃないんだよね。そして、ついでに、さ』

 

「がっ!? ごっ!!」

 

 ふわふわと浮かぶ水。水球となって浮かぶ存在が俺の口に無理やり入ってくる。まともに言葉など紡げずに悲鳴になれなかった音だけが口から漏れる。

 

 泥の混じった、砂利の混じった水が暴力的に食道を通り抜けて胃に堕ちる。

 

『うえぇぇぇ、ばっちぃ……まぁ、ばっちいけど八幡くんのなら私は我慢してあげる。それで? 八幡くんは私に言うことはあるのかな?』

 

 空中で足を組んで見下ろす九音。俺は荒い息のまま目尻に涙を浮かべて、睨みつけて言う。素直に吐き出した想いに対しての恨み言を込めながら。

 

 いつもの通り、いつもの如く。

 

 お礼と前言の撤回と彼女が望んだ言葉を。心無い言葉を。心にもない愛の囁きを。失った想いを、熱を膝で踏んだまま。

 

 

~~~~~~~

 

 

 今回の出来事、そのまとめ。

 

 翌日の朝、登校時の体調は最悪であった。お腹は壊して、身体は重く、何なら休んでもいいにも関わらず学校に行く俺はまるで学校大好き人間。

 

 休んでも怒られやしないであろう体調ではあるが、今回程度で休んでいては怪異に遭う都度、休まなければならず、下手を打てば長期入院すら可能性のある可能性もあるので休めない。むしろ今回は軽症、ちょっとお腹がヤバくて、頭が痛くて、顔から血の気は引き、具合が悪い程度。俺が永遠の高校生と題うった怪異にならない為にも行ける時に行っておくスタイル。

 

 この前のストーカーの翌日に休んでいたのが痛かった。せめて半日でていれば今日くらい休んでも良かったと思うのだが、過去に色々と休みを積み重ねた結果、一年生の学年末に酷い目にあった。

 

 去年は一学期のスタートダッシュが悪かったのだから仕方ないと諦めることはできる。そして二年生は同様の大怪我でもしない限りそんな心配をしなくてもいいのだろうが、少なくとも春だけで既に四つ目の怪異絡みの事件である。

 

 人形、怪人、犬、そして今回の件。

 

 スパンがあまりにも短かすぎる。呪われてるんじゃねぇか、と冗談にもならないことを思ってしまう。

 

 実際に今回の件を区分けするのなら、犬から始まった――いや、終わった犬を使いまわすかのように始まり、俺が想いと一緒に吐き捨てた吐瀉物までの出来事。

 

 もしもテーマがあるとしたのなら『病、病気』なのだろう。

 

 熱に浮かされていた、浮いていた、頭の中が。

 

 そして俺はまさに病に冒されていた。正確に言うのなら犬からの伝染病――媒介者。

 

 病原菌を宿主から宿主へ運ぶ生き物を指す言葉。妖怪が生き物なのかという議論はさておき、犬は媒介者であるという話は古今東西において有名な話である。

 

 家庭科室の怪異の大御所が包丁なら媒介者の大御所は蚊。そしてその取り巻きくらいの位置に犬は存在する。

 

 そして今回の出来事で包丁さんの取り巻きとなったクッキーと犬により今回の一件は引き起こされたのだ。

 

 蚊に比べて犬は媒介者としての知名度、脅威度は格段に落ち、家庭科室を舞台とした怪異のアレコレにおいてクッキーなど新人どころか今回が初受賞クラス。そんなクッキーも本質だけを見るのならば包丁よりか遥かにメジャーで判りやすく。オカルト的な出来事と考えれば最古参クラス。そんな最古参の正体は。

 

 異物混入。

 

 隠し味は愛情であるとはよく言ったもので、隠し味に愛情を持ってお呪いをしたのならそりゃあ呪われる、呪われもする。当たり前だ、そしてそれが本意ではなく、魔がさしたというのなら呪いが力を持って当然であった。むしろ素人がガムシャラに呪うつもりよりかはよっぽど確度の高い。

 

 それでいて幽霊に取り憑かれていて日頃から怪異に縁がある霊媒体質。そして不吉な建物、まるでそうあれと誰かが造った総武高校という場所に通う学生ならば成就してもおかしくない。

 

 恐らく、由比ヶ浜も――そして雪ノ下も。本気で呪いが完成するなどと微塵も思っていなかったのだろう。けれども人間が何かを作るときに、何かを心を込めて作ることに異物混入など当たり前で。愛情を込める、友情を込める、気持ちを込める、思いを込めるなんてものはごくごく当たり前で。

 

 その過程で何らかの呪術的な要素が混じって完成したのかもしれない。それは意識的なのか、無意識的な代物なのかはわからないが。

 

 由比ヶ浜のクッキーには強い思いは無かったのだろう、だからあのような中途半端な憧憬に留まった。雪ノ下のクッキーは完璧ではなかったのだろう。その思いを直接的に口にしたのは俺ではなく犬だったのだから。

 

 だから犬に噛まれた俺は病にかかったのだ、病にかかっていた犬がうつすかのように。

 

 故に熱病、病だったと結論づける。かつてどこかのライトノベルヒロインが大仰に恋とは一時の気の迷いで、精神病の一種だと。賛否両論あるだろうこの意見に少なくとも俺は部分的に同意する。

 

 少なくとも、数秒前に思ってもなく、まるで違う自分の、自分の考えを、自分の根底にあるものを忘れて恋などと錯覚していた昨日の俺はやはり病だったのだ、とそう思うのだ。少なくとも冷静に振り返れば熱病に浮かされていて、盲目に見えなくて、その熱だけが魅力的で唯一の代物だなんて到底思えないのだから。まぁ、殆どが憶測に過ぎず状況からの推論でしかないのだが。

 

 さて、そんな俺の状態に関して真っ先に気づいたのは九音だった。犬に噛まれた後の俺の表情は見るに耐えない代物だったらしい。それ言う必要ある? って思ったが『言わないと伝わらないでしょ! 二度とあんな顔を私以外にしちゃ駄目だからねっ!』と怒っていた。お前にするつもりも無いんだが。

 

 そんなわけで最初の原因、由比ヶ浜に対する憧憬、仲良くなりたいと思った根源に九音は対処した。胃の中身ごと吐き出させるという力技で。

 

 雪ノ下の方には――水。

 

 あの時、飲んだ水のおかげなのだろう。それが唯の水なら効能の程はわからないが唯の水ではなかったというのが今回の解呪に至った理由。ついでにお腹を壊している理由でもある。

 

 ――グルルルルル、と。

 

 腹の虫が要望ではなく悲鳴をあげてのたうち回っている。

 

『うわぁ……ほんと、調子悪そう……休めばよかったのに』

 

 まるで他人事のようにそんな台詞を言っては自転車に並走しながら飛んでいる。昨日この女幽霊にもうちょっと穏便な方法が無かったのか尋ねれば。

 

『八幡くんの態度が気にいらなかった。反省はしてない』

 

 と悪びれもせずに堂々と言ってのけた。もちろん、感謝の念はあるのだが文句なく感謝はしきれない。

 

『薬、効かないの?』

 

 心配をする瞳。こういう目で見られたら変に皮肉も吐けないのだから困る。痛みに苦しみながらも自転車を必死の思いで漕いで、漕いで――ようやく学校へたどり着いた。

 

 自転車を置き場が見えた時には、多少ではあるものの腹の痛みのピークは過ぎて少しだけ喋る元気は戻る。

 

 やっとたどり着いた自転車置き場で一息を吐こうとした瞬間に――衝撃。普段ならば肩を軽く叩かれた程度の衝撃が、現状に置いては瀕死に誘う一撃と化す。

 

 そして俺を瀕死の重症に追い込もうとした人間を見れば能天気に笑顔で。

 

「やっはろー!」

 

 朝から頭の悪い挨拶。声の先には相変わらずビッチ力の高そうな由比ヶ浜がニコニコと立っていた。

 

「……なんだよ」

 

「ありゃ? 具合悪そう……。大丈夫、ヒッキー?」

 

 屈んだ瞬間に揺れる胸に目が――。

 

『反省し足りないの……?』

 

 ドスの効いた声が耳元で。俺は即座に目を逸らす。

 

「低血圧なんだよ。それで、何のようだ……」

 

「ありゃ、てーけつあつ? なんだ……。そっかー、私はヒッキー見かけたからさ! 挨拶しただけ!」

 

 そんな能天気な笑顔を向けられれば文句も喉からやる気をなくして引っ込んでしまう。まぁ、挨拶前のアンブッシュは一度だけ認められてるからな。許してやろう。

 

「はいはい、そうかよ、おはよーさん」

 

 やる気なく返事をしてのっそりと歩き出すと隣にピトリとつけてくる由比ヶ浜。一歩、二歩と歩けば同じようにぴったりと歩数を合わせて歩いてきた。

 

「は? いや、先にいけよ……」

 

 そんな俺の言葉に目を丸くして。

 

「ひどっ!? どうしてそーいうこというかな……もっとヒッキーと仲良くなりたいのに」

 

 その言葉に俺も目を丸くする。何言ってるんだ、こいつ、とばかりに見てしまう。しかし俺のそんな視線に気づいた由比ヶ浜は微笑んでは楽しそうに笑うだけ。その笑顔は男子を勘違いさせるには十分な破壊力がある。勘違いして告白して失敗した後に復讐心からストーカーになっちゃったらどうしてくれるわけ? 完全な逆恨み理論を展開していると九音が由比ヶ浜じぃっと見ていた。

 

『むむむ……ちょっと、もしかして、これ、というか』

 

 訝し気味に由比ヶ浜を見て、一度頷いて結論づけるかのように最後に呟いた。

 

『あ、これ呪い返しちゃってるっぽい……なんかそんな感じする』

 

 なんでそんなこと分かるんだよと睨み付ける。

 

『はぁー? なにさ、その失礼な視線。一応、こう見えても幽霊なんですけどぉ! そういうののスペシャリストなんですけどぉ!』

 

 なに専門家面してんだ、こいつ……とはいえ、由比ヶ浜の態度を見れば確かにその線が濃そうだ。

 

「あ、そだそだ。ヒッキーから感想もらってないや! ねぇねぇ、クッキー食べてクれタ?」

 

 問われた瞬間にぞわりと産毛が立つ。嫌なことを思いださせんなよ、と由比ヶ浜を見ると髪色と同じ瞳が爛々と輝いていた。

 

「あ、あぁ……食った。クソ不味かった」

 

「そっかぁ……また作るね!」

 

 おいばかやめろ……俺を殺す気かよ、こいつ……

 

「今度は隠し味とかやめてくれよ……」

 

 せめてとばかりに抗議。次からはシンプルなやつで頼むわ……。生焼けでジョリッとするくらいで不味いだけで済むのならまだマシ。

 

「隠し味……? うぇぇぇぇぇっ!? はぁ? なんで知ってるし!」

 

 俺は予想外の反応に戸惑う。隠し味も何もあんだけ不味けりゃ普通の作り方じゃないことはわかるだろ……それとも、あれか? 家庭科室のようにコーヒーの山とかと一緒で隠しているつもりだったのか?

 

「いや、お前、あんな味普通に作って出来るわけねーだろ……またコーヒーの粉を山のように入れたとかじゃねぇの……?」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜は目をパチクリとする。そして言葉を噛み砕いて再び再起動。というかその反応違うのか、コーヒーよりヤバイ隠し味ってなんだよ。

 

「あ、あーね! び、びっくりしたぁ……というかそんなに入れてないし!」

 

 信用ならねぇ……と心の中で突っ込みを入れながら歩いていると、ふと肩から伸びる半透明の腕がいつものようについてきていないことに気がつく。振り返ってみれば九音は宙で立ち尽くしたまま青い顔をしていた。

 

 そして、ひゅるりと慌てて俺の背中に纏わり憑き。

 

『そうだよ……そうなんだよ、考えてみればそうじゃん。当たり前だよね、そうだよね。君が熱で浮かれてたから分からないかもしれなかったけど、私も一杯一杯で考える余裕なんてなかったけど』

 

 何か大事なことを見落としていたとばかりに呟く九音。一体、何を――。

 

『お呪い、呪い、のろい。手順もそうだけど、必要なのは愛情なんかじゃない。必要なのは、媒介……媒体なんだよ。君は隠し味は愛情でそれが転じて呪いとなったって結論づけたけど、足りないじゃん。足りないよね……悪意が』

 

 悪意と言った。そして彼女の言う悪とは。

 

『魔がさす、悪魔が囁くなんて悪いこと。思いを、愛情を隠すなんてそれは別に全然悪いことじゃない。そんなのに魔が力を貸すわけがない。もしも魔が差すほどに悪いと思って、魔が差してやっちゃったとなると一体、彼女たちは何を思って入れちゃいけないものをクッキーに混ぜたんだろうね……?』

 

 胃がキュッと絞まる。先を歩いていた由比ヶ浜が此方へ振り向いた。その笑顔は綺麗で、可愛らしい。

 

『ねぇ、ヒッキー! また作ってくるから、ちゃんと――食べテネ?」

 

 既に消えてなくなったものを証明する術はどこにも残っていなかった。

 




次回更新は三月十八日の予定です。


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『仲春【現在:教室】』

 お昼のチャイムというのは大部分の学生にとって福音であるらしい。意気揚々と動き出す大多数を見続けて私はそういう感想を持つようになった。

 

 わざわざ「らしい」と付けたのは「私」が学生服を身に纏っていながら学生生活といったものに縁も所縁も記憶も無いから。こういう言い方をすれば学生のコスプレをする痛々しい人間みたいな表現になってしまう。もしもそんな人物だったとしても学園生活というものを体験したことがあろうが故に同じ結論に至ることはきっとない。

 

 じゃあ、私は?

 

 私という存在は何なのか。まるで高校生がアイデンティティーについて考えるかのように自分の存在に酷く悩んだ時期もある。けれどもそれは遥か昔。大体一年前くらいの御話。

 

 私の認識上では一年よりも前の記憶が無い以上、一年前の出来事というのはずっとずっと昔のことなのだ。

 

 そんな私のことを人間と呼ぶ人は居ないだろう。人間じゃない存在の数え方は一人なのか。それとも一体なのか、一匹なのか、はたまた一柱なのか未だによくわかっていない。

 

 幽霊。

 

 この世を彷徨う未練の塊。名は体を表すように、見える人が見ても私を通して向こう側の景色がうっすら見えるとのこと。けれども私の輪郭を、私の顔をはっきりと認識してくれる人は現状でただ一人。そして、これからもずっと一人でいいとすら思ってしまう。相棒たる彼が唯一見てくれるだけで満足なのだから。

 

 相棒とは些か私都合による表現。一般的には宿り主、取り憑き先、そして世界と私を繋いでくれる取り次ぎ先。

 

 現世と私を繋ぐ少年、十六歳の男子高校生は現在気怠げな表情を浮かべては窓の外を眺めていた。そのやる気のなさとか無気力感とかアンニュイな表情は実に似合ってる。うーん、好き。

 

「ねぇねぇ、八幡くん、八幡くん。トイレでご飯食べようよ。トイレ飯だっけ? ともかくそれをしようよ。そうすれば私に気兼ねなく話しかけることが出来るでしょ。普段使っている場所は今日、雨で駄目なんだし、トイレでご飯食べようよぉ」

 

 肩に乗って「そうしよそうしよ」と声をかけても返答代わりにちらりと向けてきた視線はやる気なし。そんなやる気の欠片も見えない彼の名前は――比企谷八幡。

 

 私の宿り木にして最愛の男性。中途半端な霊視と――を持つだけの少年。魚の腐ったような目という表現がピッタリと当てはまり、墓場を背景に写真を取るのが世界で一番似合うナイスガイ。顔立ちは整っていても死んだような目が表情を台無しにしていると、とある女が抜かしたが、何もわかっちゃいない。素人が。

 

 そこがいいんでしょ。ほんと、何もわかってないよね。その目が最高にキューティーで愛らしいでしょ。むしろその眼球を眠っている間に取り出して一晩中、舌先で転がしながらキャンディーのように味わい舐めたい。そして朝がきたらちゃんと返してあげる。

 

 髪型は男子にしては長いほうで随分とボリュームがある。朝出かける時は最低限の整え方をしているが、自転車の風でいつも崩れてぴょんとアンテナみたいに跳ねてしまう。跳ねたアホ毛は彼の間抜けで可愛い所を表している。

 

 もしも触れ合えるのなら跳ねたアホ毛を私がハムハムと咥えて、唾液たっぷりと含めた後に丁寧にセットしてあげたい。

 

 これほどまでに好きで好きで愛して愛しているのに。彼の態度は常日頃からつれないもの。

 

 けどそれでいいと思っちゃう私も居る。確かに先日のあの惚けた、熱に浮かれていた顔を私に向けてくれたのなら嬉しいけど、今の君を見るのも私は楽しいのだ。

 

 それに私が愛していればいい。彼が愛してくれなくても、私がその愛を疑わなければいいのだ。それにきっと彼が生きている女性を本当に好きになっても私に敵うわけがない。

 

 肉を持つ女は、生きた女は――結局別れたり、死んだりする。最終的に側に居るのは私なのだから、多少の心移り程度寛大な心で見守るつもりである。つもりである!

 

 そんな彼に憑く私、幽霊である私には幾つかの能力を持ち合わせている。彼が言うには最も私らしい能力はポルターガイストらしいけど。私の意見は違う。

 

 私が一番嬉しくて、私が一番好きな能力で私だけのオリジナル。他ではあんまり見たことがないその能力は様々な衣装に着替えることが出来るという代物。朝と夜は可愛らしいパジャマ、今は制服、休みの日は気分によって色々。髪型も自由にいじれるし、履いてる靴からつけているヘアゴムまで自由自在。

 

 勿論、私の知っているという前置きが必要になるけれど。だから、私は彼の妹である小町ちゃんと一緒にファッション雑誌よく見るし、彼のお母さん、私のお義母さんの見ている通販番組を横で見ることもよくある。

 

 霊視も霊感もない二人からしてみれば想像もしていないことだろう。隣で私が見ているなんて。もしも見ていると判ったらどんな顔をするんだろうね。そんな話をふと八幡くんとしていたら『いやビビるでしょ……』とか味気の無い結論を貰った。いや、そりゃそうなんだけどさ。もしかしたら「なんでこんなに可愛い子が? うちの八幡をお願いします! ってお願いされるかもしれないじゃん!」とか反論すれば鼻で笑われた。悔しい。

 

 さて、少しばかり話が脱線したが私の霊体質についてもう少し振り返ろう。霊という存在は背後霊や武者霊といったように立ち位置から立ち姿まで基本的に定まっている。

 

 そんな霊業界に風穴を開けるが如く、突如として新星のように現れた可愛い私は彼の背後どころか横に並んで歩くこともでき、前に立って守ってあげることが出来るヒロインの鑑みたいな存在。壁のすり抜けだってなんのそのだし、顔だけ出して隣の部屋の様子を探るのもお茶の子さいさい。

 

 そして姿格好も病衣から始まって制服を経由ファッションモデルばりの服装からコスプレまで。何でもござれなのだ。女の子なら誰でも欲しがるような能力を持っている。完璧でしょ? こんな女の子に惚れない男なんてこの世に居るわけ? いや、居ない。

 

 特に服装に関しての彼是は私以外の幽霊が持っているところを見たことがない。いっつも同じ服装でお前、それしか服持ってないの? とかマウント取れちゃう。

 

 完全な固有能力。もはや固有能力と書くだけで最強にすら見えちゃうね。雑魚幽霊だなんて酷い風評被害だ。

 

 ちなみにこの私だけの、私オンリーの能力を『それ、何の役に立つわけ……? そもそも生きてる人間でお前が見える奴なんて見たことねぇし。無駄じゃん』とか言ったデリカシーの欠片も無い酷い男が居る。

 

 そんな男の子は一年間もの間でデリカシーがまるで成長していない。どうすればここまで成長できないのか。そこいらの公園で鼻たらしているクソガキですらもうちょっと成長する。

 

 はてさて、そんなデリカシーの無い男の子と言えば、私のトイレでご飯食べようという提案を無視して窓の外でパラパラと降り流れる水を眺めていた。はぁー、憂鬱な表情しゅてき、しゅき……。

 

 そんな八幡くんが此方を見て、そこら辺に居ろと視線で訴えてくる。命令される謂れも、言うことを聞く義務なんてものの無いのだけれど君がそう望むのならそうしてあげましょう。

 

 はぁ、やれやれと首を振って本日欠員となっている空席の机の上に腰をおろしては足を組む。

 

『んぐっ……!?』

 

 何かが喉に詰まったかのような反応。こっちを見ずに視線は窓の外に向いているが、チラチラと盗み見るかのような視線を感じた。ははぁーん。

 

 わざとらしく足を組み替えてみれば、チラッとしていた視線が一瞬だけ凝視。そして私が意地悪そうに嗤っているのに気がついた彼は再びそっぽを向くかのように外を見る。

 

 ぷくく、可愛い。

 

 パンを頬張りながら、欠片も興味ありませんよという態度をしているけれど丸わかり。まぁ、仕方ないよね。こんだけの美少女のパンチラを見たいなんてものは男子諸君の夢だからね。

 

 私は鏡に殆ど映ることなく、水にも映らない。けれども彼の瞳だけは、その両目の中には確りと映っている。偶におねだりして至近距離で眼球の中から見える私を見せてもらう。大変可愛いものだった。これ以上の美少女はこの世に存在しないでしょってレベル。けれどもそういやぁ、最近八幡くんの目を通して自分を見ていないことに気づく。

 

 偶にはおねだりしてもいいかなぁ。でもあれ八幡くん凄い嫌がるんだよね。なんでだろ。

 

 こんな美人の顔を間近で見れるチャンスなのに。

 

 腰まで届くどころかお尻まで届くくらいに長い黒髪は特に手入れをしないでも真っ黒つやつや。幽霊に時間の概念や変化なんて概念があるのかわからないのだが私の髪質が悪くなることは決してない。

 

 時々、怪異がらみの事件で傷ついたり切れたりするけどそれでも時間が経てば元通り。

 

 そんな綺麗な黒髪をローテールで纏めているのは八幡くんの反応が良かったから。ぷくく、最初にこの髪型で着物を着た時は顔を真赤にしてたんだよね。

 

 そんな私のうなじを至近距離で見れるのにどうして嫌がるんだろう。もったいない。

 

 まぁ、流石に毎日同じ髪型なのはせっかく持っている能力を腐らせるので土日には色々と試したりしている。

 

 時折、感情が高ぶったときに髪を結ぶ紐が千切れたりするらしいんだけど、私は菩薩よりも遥かに慈悲深い心を持っているのでキレるなんてことはそうそうない。もしも私を怒らせたら大したもんですよって思うね。ほんと。

 

 顔も可愛くて、性格も良い。それでいてスタイルも良い。大きすぎず小さすぎず。正確な数値を測ったことないけど、今まで色々な人と見比べてきたから判る。

 

 私は持っている側の存在なのだと。

 

 流石に雌犬二号や暴力教師ほどは持っていないが、少なくとも平均を超えていて、それでいてバランスが良い。ま、まぁ、も、もうちょっと欲しいか欲しくないかと問われればあっても困らないかなって感じ。

 

 そもそも全部が全部、彼が悪い。

 

 これだけスタイルも良くて、顔もよくて、性格も良いという私が近くに居るのに。雌犬やら暴力教師やらに鼻を伸ばすのが悪い。ほんとムカつく。

 

 そんなわけで人類が産み出した究極の美の化身たる私がもしもこの教室に居たのならと考えてしまう。そして想像した結果、毎日のように告白されるんだろうな、と結論。ほら、男って馬鹿だからさ、私みたいな可愛くて性格もいい人間がちょっと優しくしたら俺のこと好きなのかもって勘違いしちゃうんでしょ。知ってる知ってる。

 

 私がこの地球で最も優しさを持つ存在なのはわかりきってる。だからその優しさが私に無駄な労力をかけさせるなんて、なんて可哀想な女の子なんだろう。そんな私に労力をかけるなんてやっぱり男って基本的に駄目な存在だよね。鏡見てから釣り合うかどうか考えて欲しいもの。

 

 それに私がこのクラスに在籍するだけで顔面偏差値の平均をものすごく上げてしまう。殆どの人間に赤点をつきつけてしまうことになる。うーん、申し訳ない。可愛すぎて申し訳ない。

 

 そんな私であるが見える人は殆どいない。偶に霊感が強い人間とすれ違うこともあるが、そんな人間ですら声も届かなければ、姿の輪郭すらも見えないらしい。人類、損してない? 大丈夫?

 

 でもでもそれって裏を返せばたった一人の男の子に独占されてるって考えも出来るのでそれはそれで良し。八幡くんは自分がどれだけ恵まれているのか考えてほしいものだよね。やれやれ。

 

 さてさて、そんな八幡くんを引き続きからかって遊ぶとしようか。再び、大きく足を組み替えて。

 

『……ッ!?』

 

 はっきりと感じる視線。こういう所は本当に馬鹿カワイイ。略してばかわいい。女というものは男が想像しているよりも遥かに視線に敏感なのだ。

 

 ふふーん、遊んであげよう。

 

 そうやって足を組み替えようとした瞬間に。

 

 ――ちょ、お前、ハンマーとか!

 ――ガンランス余裕でした^^

 

 私が腰をかけている席から三つほど離れた場所でPSPをしている男子高校生の騒ぐ声。その声に――奪われた。

 

 八幡くんの視線を奪われた……私は騒ぎ立てる男子二人を睨みつける。何の効果も無い。

 

 若干、羨ましそうにその二人を見る彼の視線にムカムカムカと腹が煮立つ。煮えくり返りそうな腸。

 

 いやいや、ちょっとまってくださいよ。待って、待って。私のパンツよりもそんなゲームでわーきゃー騒ぐ奴らの方が気になっちゃうわけ? いやいや、許されないでしょ、そんなの。

 

 私は元凶の二人に向けて死なねーかなと祈ってみる。なんか面白い死に方しないかな、こいつらと神様にお願いしてみる。なんか八幡くんと私が盛り上がれるようなネタ死しないかなって切に祈る。

 

 生きてる価値なんてなさそうなキモオタ二人。何、お前らごときが私と八幡くんのお楽しみタイムを邪魔してくれちゃってるわけ? 名前は確か田原と小田……だっけか。

 

 お前らみたいな冴えない男子高校生が私のために出来る唯一のことって面白死することくらいなんだよね。そうじゃあないなら呼吸とか止めてくれないかなぁ。なんかその手に握ってるゲーム機でインターネットに繋いでインターネット版牛の首みたいな怪異に遭遇して三日三晩恐怖にを味わって苦悶の表情を浮かべたまま家族に発見され家族を恐怖の坩堝に落とした後にパソコンの丸秘フォルダを発見されて恥ずかしい思いのままこの世を彷徨うことなく地獄に落ちてくれないかなぁ。

 

 そんな私の願いなど知りもしない二人はゲームに熱中し盛り上がっていた。私だけでなく他の人間からの視線に気づくこともなく。

 

 八幡くん、八幡くん。安心して。

 

 君は彼らを羨ましそうに見ているけど、私は君が彼らと一緒に盛り上がっていなくて心の底から嬉しいし安堵しているから。勿論、君が勇気を振り絞って『いーれーて』と言えるのなら止めやしない。止めやしないけど小言の一つや二つを言っちゃうかな。

 

 ほら、見渡してご覧よ。女子たちのまるで汚物を見るかのような視線を。

 

 場所を考えろ、雰囲気を弁えろなんて訴える視線たちを。

 

 別に総武高校の校則なんて読んだことないけど、ゲーム機器の持ち込みに関してグレーかアウトかなんてどうでもいいけれど。ただ校則でセーフだったとしても女子から見た男としてはアウトだよね。だって痛々しいし、気持ち悪いじゃん。

 

 本人たちが楽しければいいなんて理論で生きているのなら別にいいけど。それはあいつらの理論であって私達の理論じゃないし。少なくとも恥って言葉を知っているのならあぁいうこと出来ない。そんな刹那的な感覚で失うものを認識していないんだよ、あいつら。

 

 周りからの評価とか、周囲からの評判とか。

 

 勿論、そんなものは気にしないという人間も居るだろうね。多いだろうね。本心なんてどうかはわかんないけど。

 

 将来的にクラスや好きな女の子が出来た時に自分の評判や自分が他人からどう見られていたのかなんて取り返しのつかないなんて考えもしないんだろう。未来のことを話せば鬼は笑うかもしれないけれど、未来のことなど何一つとしてわかりもしない人間風情がどうして簡単に可能性を捨てちゃえるんだろう。

 

 もしも彼らがゲーム好きの女の子が話しかけてくるかもしれないというクッソくだらない妄想をしているのなら叩き潰し、そもそも彼らが評価や評判を気にしない女の子を待っているというのならその夢を叩き壊して、ちょっと女の子に優しくされただけで意識しちゃうようなら、その顔に唾を吐きかけて無理でしょと現実を見せつけて。そもそも彼女なんていらねーよという強がりを持つ嘘つきならそもそも八幡くんの友達に相応しくなんてない。

 

 だから君が羨む必要は無いんだよ。

 

 あんな非モテクソ男子と一緒にクソみたいな青春を過ごす必要は無いんだよ。こんな傍から見れば女と縁遠そうな顔面偏差値も恋愛偏差値も低い奴らと一緒に過ごせば八幡くんの格が下がるのだから。あいつらは今後寂しくしこしこと自慰のようにお互いを慰めていればいい。あいつらは君以下で、君にはもっと価値があって――

 

 

 

 ――えー、何のゲームしてんの?

 ――モンハンだけど……

 ――あたしの弟もやってるんだけど面白いの?

 ――めっちゃ面白いし

 ――今度やってみようかな。教えてくんない?

 ――えっ、そ、そう。ま、まぁ、いいけど。

 ――ほんとー? 嬉しい!

 

 

 

 ファック、ユー……呪い殺すぞ、ゴミめら……。

 

 なんであいつら青春っぽいことしてんの? ふざけんなよ、クソヤロウ。十把一絡げの女子とはいえイチャイチャしてんじゃねーぞ。グロ画像じゃん、こんなの。あとモブ女も餌を撒くかのように頭ゆるく愛嬌振りまくな。この程度の男子なら私でもいけるかもとかオタサーの姫的なノリで騒いでるんじゃない。なんで興味のない男女のイチャコラを私は見せつけられないといけないんですか。こんなの視覚の暴力でしょ。青春していいのは私と八幡くんくらいなのに、なんで八幡くんとイチャイチャできていないのに・・・・・・お前らがしていいわけないじゃん。そんなの許されない!

 

 八幡くんとイチャイチャタイムを邪魔した害虫如きが幸せなのは許されない。もう怒った――ていやっ!

 

 

 ――ふぁっ!?

 ――いたっ、なんで消しゴムが急に飛んできたの!?

 ――ど、どこから!? って、これ俺の消しゴムじゃん

 

 

 私は悪くない。悪いのは身の程を弁えてない奴らだよね。悪を滅ぼした私は一仕事したとばかりに額の汗を手の甲で拭う。

 

 視線を感じた。

 

 ジィっと見つめるその視線はじっとりと。

 

『……』

 

 無言のままアホを見るかのように此方を見てくる八幡くん。ちょっと意味わかんない。

 

「なんだい、八幡くん? 私がどうかした? あー、でもわかるわかる。私ってカワイイからね。何もなくても見つめていたいもんね。もう、八幡くんの欲張りさん! いいよ、私の顔をオカズにパンを食べるのを許可してあげる!」

 

 苛むかのような視線。けれども何も悪いことなんてしてないので全然へっちゃら。わ、悪いことしてないし。

 

『……性悪』

 

 小さくボソリと呟いた言葉ははっきりと耳に届いた。

 

「はぁー!? 性悪って何さ、性悪って! 私ほど性格が善く器量の良い女なんて居ないんだからねっ!」

 

 私の抗議に対して駄目だこりゃ、とばかりの視線。失礼! とても失礼な目! でもしゅき!

 

 く、くそぅ……ちょっとジト目で見られてるの癖になっちゃう。どうしてくれんのさ。責任とってよ、責任問題!

 

 そんな彼はどこ吹く風とばかり。

 

 彼、曰く――足山九音は性格が悪い。

 

 どこをとったらそんな結論になるのかよくわからないけど、彼の言い分としては。

 

 性悪で器が小さく、人の欠点を挙げさせればピカイチで悪し様なんてものを言わせればピンからキリまで小さいことから大きいことまで目敏く非難し。足を引っ張る、嫌がらせをするなどは一人前どころか百人力。もしも見た目がよろしくなければ今すぐにでも殴りたい女。見た目を差し引いても今すぐに殴りたい衝動が残るとのこと。そして見た目がいい分、顔を殴るのは躊躇うので腹パンするという結論。結局殴られてるじゃん、私。

 

 しかし、まぁ……。

 

 まぁ、ちょっとだけ。ほんとーにちょっとだけ。ほんの少しだけ納得できる要素はあるのだ。八幡くんが私を性悪だと勘違いしちゃうのも少しだけ仕方ないかなって話はある。

 

 出会い方は最悪で、出会ってからも険悪で、取り憑いていたと気づいた時には嫌な顔をされて。少なくとも出会って間もなくの頃、彼は私が嫌いだった。

 

 そして――私も好きじゃなかった。

 

 いや、これは甘えだ。甘々な表現だ。はっきり言えば大嫌いだったし、彼のことを見下していた。夢なんかも壊して、彼の性格を全否定して、見た目から何から認めていなかった。

 

 彼からしてみれば雪ノ下雪乃なんて女の子からの毒舌なんて大したものじゃないだろう。なにせ、私は心当たりがある。当時は本当に心の底から嫌いだったし、辛辣だったし、罵倒していた。

 

 私と彼の一年間を振り返れば奉仕部で過ごす日々は平穏で生温い。

 

 当時のことを振り返ると私はこう結論づける。やさぐれていた、と。

 

 そうやさぐれていたのだ。少なくとも全部が全部本心なんかではないし、触れるものを全て傷つけちゃうお年頃だったのだ。だから、少しだけ余裕が出来て、周りが見えるようになって、彼と過ごすようになって。育んできたこの気持ちに嘘は無い。

 

 だから、当時あったことなど水にでも流したいが中々に流れないのが悔しい。

 

 でもさ、でもさ! 当時の君だって酷いもんだったじゃん! 私のこと雑に扱うし! 今も雑だけど! 私のこと馬鹿にするし! 今も馬鹿にされるけど! 

 

 ……何も変わってなくない?

 

 いやいや、そんなことない。そんなことない。八幡くんは照れて中々言ってくれないけど私のこと大好きだし、愛しているし。勿論、言わせている側面も無きにしもあらずって感じがあるけど。本心じゃないよねって弱気な私の中のゴーストが囁くけど。

 

 まぁ、でもあの時の八幡くんも悪い部分はたくさんあったのだ。陰キャで皮肉屋で嫌われものになりやすいという性格に難のある子だったのだ。今もまぁ陰キャで、皮肉屋のひねくれ者で、嫌われもの街道まっしぐら。

 

 ……悪化してない?

 

 でも、まぁ……そんなこと関係なく、いやそんな所も含めて君が好きなわけなんだけど。くそぅ、この男。

 

 彼の担任である暴力教師がどこまでもわかりやすく言って表現した『嫌な奴』という人間性に初対面の私が好意的になれなかったのは事実だ。仕方ないことなのだ、いや、本当に。

 

 隣人を愛せなどという戯言や、初めから相手の嫌な部分に目を瞑れる人間はどれだけ居るというのか。私は「幸い」なことにそんな異常性は持ち合わせていなかった。全ての人間に対して愛を持って接するなんて宗教狂いか扁桃体がぶっ壊れた人間くらいしかいない。

 

 嫌なやつは嫌なやつで。嫌われものは嫌われもので。

 

 私は順当に嫌な奴で嫌われ者な少年のことが嫌いだったのだ。もしも彼のことが初対面で好きだという人間はよっぽどの物好き、いや物好きでももうちょい選ぶでしょってな具合に酷い代物。

 

 そう考えれば最初から割と好意的に接してきたのは彼の担任である女教師くらいだ。けれども、それは恋慕や思慕といった類ではなく大人と子供という視点から起きる微笑ましさから。

 

 少なくとも男女間において比企谷八幡という少年を好感度高く接する存在の方が不気味。そんなの怪現象でしょ。

 

 だから、私はあの雌犬二号のことが気になっている。クッキーに入っていた思いは何だったのか。

 

 きっと狂おしいほどの慕情ではない。けれども影響を与える程度に何かを思っていたはずだ。初対面じゃない。幼馴染の可能性? いやいや話を聞く限り暗黒期だった小中学校で出会った子じゃない筈。じゃあ去年? 確かに同じクラスだったけど一度も喋ったことないよね。

 

 クラス内で警戒してみて初めて判ったんだけど、意外と二号に八幡くん見られてる……勿論クッキーの影響かもしれないのだけれど。

 

 深く考え事をしていたせいか八幡くんの変化に気づかなかった。視線はキョロキョロと忙しく動き、意識はどうやら教室後方へ。そして微妙に鼻の下が伸びている気がする。

 

 私は後方の集団を睨み付ける。そこにはこのクラスの中では美男美女軍団。カースト制度という代物をクラス内で当てはめた時に王侯貴族辺りの扱いのやつら。その中にはあの二号の姿もあった。皆に混じって楽しそうに談笑している。

 

 なるほど、八幡くんがクラス後方を気にしているのはわかった。あの二号の様子が変だもんね。そりゃあ、気になるか……でも、私の目はごまかせない。君の鼻の下が伸びていることなんてお見通しなんだよ。

 

『……んだよ』

 

 私がじっとりと睨み付けていると何も悪いことはしてませんという素振りと小声。はぁー? そんなこと言っちゃうんだ。

 

「鼻の下伸びすぎ。教えてごらん、何を想像してたのか。優しい私が君の懺悔を聞いてあげましょう」

 

『伸びてねぇし』

 

 はい、嘘ー! 鼻の下と一緒に鼻まで伸びたやつー! へし折ってやる。私は嘘を暴いて、伸びた鼻をへし折ってから『嘘をついてましたごめんなさい』と頭を下げさせるために後方集団をよくよく観察する。

 

 男子はまず除外。八幡くんはノンケだからね。なので集まっている女子集団を見る。

 

 まぁ、このクラスの面子の中ではなかなかに整っている方だ。私の足元にも及ばないけれど。女子は三人、うち一人はあの雌犬二号。残りの二人はキャバ嬢と陽キャメガネ。はぁーん、負ける気がしないんだけど、これ。私の圧勝でしょ……顔も器量も性格もまったくもって負ける気がしない。ミスコンがあったとして、審査員百人の投票結果は百、ゼロでの圧勝しちゃうレベル。

 

 まぁ、私よりかは遥かに格下ではあるんだけど、このクラスでは上澄み。大体のクラスの物事は彼女たちと近くに居る男子の意向で決まっちゃう。

 

 近くに居る男子は四人か。

 

 うち一人だけは異彩を放って、残り三人はとんとん。あの葉山って男子は私の記憶の中にある。まぁまぁ目立つし。残りの三人のうち一人、戸部だっけ? あれも覚えている。なんかうるさいし。他の二人はよく知らない。

 

 そんな男女混合グループは王様と女王様を中心に取り巻きがやいのやいのと騒いでいた。なんかじゃれあいというかどっか遊びにいく話をしている。なんか物凄い人間関係どろどろドラマ構築してんな、あそこ。めんどくさぁ……。

 

「それで? 八幡くん、君が気になってたのは誰なのかな? 鼻を伸ばしていたのは雌犬二号?」

 

 八幡くんはわざとらしく目を逸らす。ふぅん、雌犬二号じゃないみたいだ。

 

「それじゃ、あの陽キャメガネ?」 

 

 このクラスで隠れたファンが多そうな陽キャメガネを指定。これまたわざとらしく視線を下に向けていた。うーん、これも違う。

 

「えっ? じゃあ、あのケバケバした女?」

 

 八幡くんの瞳が一切動かなかった。まるで違いますという目の動きに私は頬を膨らませる。

 

 名前は確か三浦なんたら。キングではなくクイーン三浦。特徴は人並みくらいには整った容姿をあえて目立たせるための高校生にしては濃ゆいメイク。クルクルとパーマをあてたゆるふわ縦ロールの金髪は本当にここ、進学校なの? って疑うほど目立つ。総武高校内において一目でわかるほどに目立つ外見。クラス内で女子の中心、カリスマ気取ってるけどちょっとお近づきになれない。キッツ……。

 

「ねぇねぇ、何を思って鼻を伸ばしたの? ねぇねぇ、怒らないから言ってみ? 私に言ってみ?」

 

 私は耳を八幡くんの口元へ寄せる。すると観念したのか彼は小さく口を開く。誰にも聞こえないほどの声で――。

 

『いや、ぜんぜん見てねぇし。冤罪だろ、んなの。俺が見たって証拠どこだよ』

 

 欠片も観念しちゃいない。お、往生際が悪い……。強く睨み付けて私は八幡くんを引き続き尋問することにした。

 

「胸」

 

 ……今度は反応が無い。ひたすらにまっすぐ私越しに黒板を見ている。

 

「顔」

 

 まったく微動だにしない。へぇ、その程度で私を誤魔化しきれると思っているんだ。

 

「おしり、足、太もも、スカートからみえる太もも……へぇ! ふとももを凝視してたんだ! 変態っ!」

 

『まてまて、どこに証拠があるよ……別に俺はスカート短ぇな、くらいにしか思ってなかったのに』

 

「はい! 間抜けは見つかりましたーっ! 自供頂きました! やっぱ私以外の女の子をねっとり見つめてたじゃん!」

 

 ぐぬぬ、そんなにスカートが短いのがいいのか……こうなったら。

 

「ちょっと待ってて!」

 

 私は隣の教室に飛び込む。さて、これからどういう服装で八幡くんを誘惑しようか、と考える。

 

 この部屋に参考になりそうなものは無いので次の部屋へ。教室から教室へ練り歩き。

 

『ひっ!?』

 

 なんか一瞬声がした。後ろを振り向いてみると男女の集団がお昼ごはんを食べている。キョロキョロと周りを見回してみればここは――どこの部屋だろう?

 

 長机が四角に並べられていてホワイトボードがある。そこには職場見学について幾つか書いてある。職員室じゃないのに何の部屋?

 

 そう思って入り口の扉をすり抜けてネームプレートを確認してみれば、そこには『生徒会室』と書かれていた。

 

 へぇ、ここ生徒会室だったんだ。見覚えの無い部屋をすり抜けて、目的地へ。あそこなら何かあるでしょ、と辿りついたのは図書室。

 

 ちらほらとしか人が居ない部屋で、私はとりあえず端っこの方へ行く。そしてお目当ての本がありそうな本棚から――『男心をくすぐる服装』といった百科事典を見つけた。それを取り出して、パラパラと読む。

 

「ふんふん、なるほど……違うなぁ……」

 

 ポンとその辺に投げ捨てて次へ。

 

「世界服飾歴史……? おもしろそう」

 

 呟いて手に取る。うーん。

 

「違うんだよなぁ。流石に服を着るようになった歴史から見たいわけじゃないんだよね……興味あるけど、また今度」

 

 ぽいっとその辺にまたまた投げ捨てて次の本へ。

 

「花魁……ふーん! なんかちょっとエッチな服装かも! いいかも!」

 

 えっと、なになに内掛けにってうわ、こんなに着込むんだ……凄ぉ、大変じゃん! まぁ、でも私にかかればちょちょいのちょいだね。

 

 へーっ、足は素足に草履、そして下駄かぁ……こんな感じかな。そんで髪の毛は、と……へぇ、たくさん種類あるんだね。この伊達兵庫巻きってのでいいや! そんでかんざしかんざし、と。うん、こんな感じかな。

 

 よーっし、後は八幡くんの目でちゃんと出来てるか確認をすれば完成。なんか久々にがっつり着替えたなぁ。本をその辺に投げ捨てて、八幡くんの居る教室へ戻る。

 

「どーよっ! 八幡くんっ! 短いだけがエロいんじゃないよ! ……ん?」

 

 引きずるほどに長い裾を見せながら登場してみれば八幡くんの目はキョロキョロと。

 

 まるで此方に向ける余裕がないかのよう。

 

「何してんの?」

 

 私が問いかけてみれば――此方を気にもせずに背後を気にしながら目をキョロキョロとしていた。まるで不審者。

 

「……何かあったの?」

 

 教室を見回してみれば八幡くんだけじゃない。全体的に変な空気が漂っている。

 

「ねぇねぇ、八幡くん……何があったの?」

 

 私が聞いても答えようともしない。うーん、むかつく。

 

 うん、むかつく。とってもむかつく。八幡くんの為にせっかく着替えてきたのに反応の一つすらない。なんで? ネェネェ、ナンデ?

 

 私は原因を探るべく教室を見回す。先程ぎゃーすか騒いでいた男子生徒も、それに粉をかけていた女子も息をとめるかのよう。そして教室の後方の集団も王様も気まずそうにしていて、他の男子も完全に目を逸らしている。

 

 女子――雌犬二号は俯いてて、眼鏡は女王様になだめるかのように声をかけてて。そして件の金髪巻髪は。

 

 目じりをつりあげて何かに怒っていた。

 

 あっ、ふーん、コイツかぁ……。それで八幡くんは何をしていたんだろう。えっ? いやいや怒ってないですよ。全然怒ってない。せっかく着替えてきたのに感動台無しだとか、感想無しだとか。こっちに注目すらしてくれないことに腹を立てたりなんて全然してないから。

 

「八幡くん。まさかまさか。私がいない間にちょっぴり調子にのって何かしようとした? 例えばそこの雌犬二号とかを助けようとかそれに失敗したとか」

 

 私の発言に八幡くんは目を逸らさない。けれども汗を一筋かいていた。

 

「はーん、ふーん、そーなんだー。いくら八幡くんのお昼時間帯にリア充どもが邪魔だったとしても、わざわざあの二号を助けようだなんて思わないよね。まさか女の子を助けてカッコいいとこ見せようと思ったの? えっ、私が見ていない前で? 私が見てる前でもギリギリ浮気なのに、見ていない前で助けようとしたならやっぱり浮気じゃん! 浮気ってよくないことだよね。まだクッキーの後遺症残ってるわけじゃないよね。どうしてそう思ったのか私に教えてよ」

 

 私の言葉に全くの無反応。

 

 ふーん、あくまで無視するんだ……。はぁ、これどうしよっかなぁ、どうしてくれよっかなぁ。

 

「ねね、八幡くん、あんな奴らを見るよりか私に注目して。ほら、花魁だよ。花魁コス! 色っぽいでしょ、セクシーだよね」

 

 くるりと一回転。綺麗に舞っては引きずるように長い裾が一瞬だけ浮く。しゃんしゃんと鳴る簪の音すら無視していた。

 

『あんさー、あーしはユイのために言うけどさ、そーいうはっきりしないって態度、イラってくんだよね』

 

 トントン、と机を指で叩く音。イラついた声。そしてそんな声に八幡くんはピクリと反応した。

 

 ――へェ

 

 そうなんだ。私よりもやっぱりあの女が気になるんだ。そもそもあの女のせいで着替えたのに。八幡くんが鼻の下伸ばすかのように誘惑する短いスカート履いちゃってさ。挙句の果てには今の私よりもそっちの方が気になるって。こいつはめちゃ許せない。正直、二号がハブられようが、これを機に皆から無視されたり苛められたりしようが全然構わない。むしろ、八幡くんと仲良くしたいなんて言う女だ、構わんやれって感じなんだけど。

 

 それはそれで、これはこれなんだよね。

 

 誰の許可とって八幡くんの意識独占してんの? 

 

 もしもこれが怪事件の最中ならギリギリわかる。納得もほんの少しだけする。

 

 けど、そうじゃないでしょ。

 

 私は――掴む。

 

 八幡くんの机の上にあったシャーペンを。

 

 瞬間、八幡くんと目が合う。手元で急に動き出したシャーペンを見て、ようやく此方を向いた。

 

 ようやく気づいてくれた。

 

 私の愛しい男の子はここに至って私が何をしようとしていたのか理解していた。彼の向いていた意識は後ろから此方へ。

 

 ――やめろ、頼む、やめてくれ。

 

 そんな懇願が瞳から見えた。けれどね、もう遅い。

 

 不快なんだよね、あの女。そもそも私の目の前で偉そうに口を利くのってムカつく。そもそも八幡くんが何かしようとして失敗したのだってあの女関係だろう。多分、そう、きっとそう。むしろ関係無かったとしてもやる。

 

 あの女は直接的原因なんかじゃない。原因はこっちを見てくれない八幡くんが悪い。私は何も悪くない。むしろ私は彼のために目の保養となるよう着替えてきたのに此方を見向きもしないのが要因。

 

 だから、ボールペンを彼の手を経由して弾け飛ぶように宙へ、そしてくるくるくるくると天井付近まで回転しながら飛び――刺さる。

 

 ペン先が指の先、トントンと苛立ちまぎれに叩いていた指をあわやといった感じで垂直にテーブルへ。斜塔の如き角度で見事に机の上に軸を埋めそり立つ。下手をすればネイルの指に刺さっていたとばかりに。

 

 小さくない叫び声が教室の中で響いた。そして次々と何が起きたのかわからないとばかりに集団は騒ぎ出す。殆どの面子は教室の後方に注目していて、八幡くんを見ていた人物は誰一人としていない。急に空から降ってきたとばかりに天井を見上げているのも数人。だから出所である八幡くんは肩を狭め、息を殺し目立たぬようにしていた。

 

 そして睨み付けるかのようにこちらを見てきている。そして小さく呟いた。

 

『……最悪だ』

 

 ぼそりとこぼれ出た独り言。困ったように落とした眉、どろどろと目が腐っていく。うーん、やさぐれた目ってとても可愛い。

 

「いやぁー、ごめんね? 最近、ストレス溜まりまくりだからさ! ほら、ここでうんと発散しとかないと! それに先日のボコボコもそういやあんましてなかったし! それに君からしてみたら私って悪霊なんでしょ? ほら悪事の一つや二つくらいしとかないと本質的に強さ失っちゃうわけだしさ。別に血生臭いことしてるわけじゃないし。誰も傷ついてないからね。もしもあの自称女王様の指が傷ついたとしていてもそのうち忘れるだろうしさ。だから――」

 

 教室の背後で唐突にはじまった犯人探し。女王の命とも呼べるネイルを狙った不届き者の炙り出しが行われ始める。

 

『誰が投げたし!』

 

 憤怒を撒き散らしながら立ち上がる。その怒りに対して八幡くんは恐る恐ると手をあげていた。だから、そんな君に向かって、私は愛情をたっぷり込めて。

 

「あとはがんばってね」

 

 はぁと、と語尾につけるかのようにたっぷりと思いを篭めて八幡くんに囁く。

 

 怒れる女王がはてさてどのような手打ちにするのか。八幡くんはどのように切り抜けるのか。高みの見物でもしていよう。

 

 王様、女王様。このクラスの有名人が二人揃って八幡くんの席へ。

 

 でもでも知名度でも君は負けちゃいないんだよ? 方向性は愚か者とか道化とかそういう方面なのだけれど。

 

 勿論、原因はすべて私の仕業。癇癪起こしたりするといつも彼が出来事に対して責任を負ったかのように請け負ってくれる。

 

 これってある意味私の責任が八幡くんの責任と化しているからもはや恋人を通り越して夫婦でいいのでは? と思わなくも無い。

 

 さてさて、今回はどんな結末になるんだろうね。果たして相手が水に流してくれるのか、それとも誰かが水を差すのか、それとも彼のお得意の口八丁で水掛け論に持っていき水入りとするのか。

 

 楽しみながら見守ろう。雨だれの音を聞きながら。少しばかり思い出を振り返りながら。とても不快で、それでも忘れられなくて。

 

 不快なだけじゃなくて、私と彼の初めてばかりの生活のことを。初めて遭ったのは病院だったけど、彼に憑いていたと初めて知ったあの出来事を。

 

 水に関するお話を。比企谷八幡も知らない水に纏わる怪異譚を。




※次回の投稿は三月二十五日を予定しています


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『仲春【一年前:水に纏わる御話・前】』

 比企谷八幡――ひきがやはちまん。

 

 初対面で彼の名前を一発で読める人間がどれほど居るだろうか。少なくとも、彼の名前を自発的に名乗らせるまでは苗字をヒキタニと思っていたし、それ以上に名前を呼ぶことなどせずに「君」だとか「お前」だとか二人称代名詞を使うことが彼と私の関係では当たり前だった。

 

 病院で出逢い、病院で事件に巻き込まれ、それでいて嫌いだった彼を少しだけ見直して、勝手に何もかもを終わらせて。

 

 そして今日。先程、無事に何事もなかったかのように受付へ行って一人でさっさと退院手続きして出て行った。丁度、今。窓の下から車に乗り込む彼の姿が見える。舌を出してべぇーとしてみても、此方を見向きもしやしない。

 

 寂しいなんてことはなく、清々した。清々したはずなのに……気持ちを振り払うかのように私は病院内の看護師さんの背後を憑け舞わそうとくるりと振り返る。お医者さんごっこをするために前を歩くのもいいのかもしれない。なんかお医者さんが出るドラマで偉い人が回診するみたいな感じで。

 

 ……なんであいつしか見えないかな。

 

 私が見えるのはあいつと――あの化け物たちだけ。その化け物たちはもう居ない。あいつが勝手に終わらせたから。私だって当事者だった筈なのに。なのにいつの間にか終わっていた出来事。聞いてもよくわからなかったし、どうでもよかった。

 

「……まぁ、いいやあんなやつ。暗くてキモくて目が腐ってて」

 

 さってと切り替え切り替え。そういって私はカルテを片手に歩く看護師さんの前を歩こうとして――およよ?

 

 なんか引っ張られる、えっ? 引っ張られて。えっ? 怖い怖い怖い。なにこれ!?

 

 必死に踏ん張ろうとしても力はどんどんと強くなり、ついぞ耐えられず――勢いよく飛ぶ。

 

 ナースステーションを飛び越えて、そのまま病院の壁に。

 

 ぶつかる、と思って手で頭を隠せば、するりと壁抜け。

 

 そして外の世界へ。ふわぁ、空飛んでる・・・・・・。

 

 見たことも無い光景。引っ張ってくる力に身を任せ、流れのままに空からの景色を楽しむ。

 

 流れは不定期で一方向に進んでいれば、急に方向を変えたり、完全に力が消失してその辺を見て回ろうとすれば急に引っ張られたり。今はどこかの山周辺をぐるりと回って、そして――止まる。

 

「……あれ?」

 

 引力の果ては一軒家。最近、見覚えのある苗字が表札に。

 

「……どういうこと?」

 

 きょとんと小首を傾げて家を眺めていると、タイミングよく玄関が開く。扉から出てきたのは男の子。そして、そいつは私をはっきりと目視した瞬間に――。

 

『……うわぁ』

 

 死ぬほど嫌そうな顔をした。

 

 髪の毛はボサボサで特に整えられてなく、吊り下げられた三角巾が印象的で、顔のパーツはそこそこ揃っているのかもしれないけど、あまりいい印象とはいえない目があからさまに細められて、嫌そうな表情も相まって実にムカつく男だという感想を抱く。

 

 そんな相手でも私は笑顔で片手をあげて挨拶をする。こんな男にも気安さと親しみやすさを演出してあげるなんて、私はなんていい女なんだろうか。

 

「やっ! また遭ったね、比企谷くん」

 

 完璧なポーズに美少女スマイル。本来ならお金を払ってでも男がこぞって見にくるであろう代物。むしろこんな挨拶を私からされたら世の中の男全員を勘違いさせちゃう。ほんと、可愛く生まれて罪深い生き物とは私のことだよね。

 

 もしかすれば私が幽霊なのもそういった事柄でストーカーや嫉妬に狂った女から狙われて亡くなったのかもしれない。なるほど、私の正体に関するヒントは最近世の中で訃報があった美少女タレントやアイドルあたりか……。

 

 そんな可愛い可愛い私に対して、彼は表情を変えずに独り言のように呟いた。

 

『悪夢だ……』

 

 心の底から嫌そう……。

 

「殺すぞ、お前」

 

 笑顔のまま言ってあげると彼はそっと目を逸らした。というかどんだけ嫌なんだろうか、この私のことが。こっちは超絶可愛い美少女なのに。

 

 そんな彼の服装は中々珍しい恰好であった。外行きようのファッションという奴だろうか。

 

 上は黒のパーカーって呼ばれるやつなんだろう。前には山……あれって多分、富士山ってやつが書かれていて。その上には日本語に訳せばニューヨークへようこそって書いてある。ひょっとして新手のギャグなんだろうか。下はだぼだぼ、というか裾が擦れる程に長い黒のメンズパンツ。なんだろ花魁か何かかな? そして銀色の用途不明のチェーンがじゃらじゃらと伸びていて、アクセサリーがついた代物がベルトを通すところ、なんだっけ? ベルトループだったかな。そこに姦しくぶら下がっている。ついでにベルトは無い。ファッションに関してあんまり詳しくない私ではあるけれど、殆ど記憶というものが無い私ではあるのだけれど。これだけは判る。

 

「うっわ、だっさ……生きてて恥ずかしくない?」

 

『え、何、お前、それだけを言いにここに来たわけ? 俺の私服姿を貶すためだけにわざわざ来たの?』

 

「いや、違うけど……違うけど、クソダサいことだけはわかるよ」

 

『……お前、記憶ないとか言ってなかったか? そんなんでファッションのあれこれわかんのかよ』

 

「そんな記憶の無い私から見てもわかるくらいにダサダサなんだよねぇ」

 

『あぁ、そうかよ。それで? 何の用だよ』

 

 投げやりに此方へ質問してきた。なんたる自意識過剰。

 

「別に君に用なんかないよーだっ! 自意識過剰なんじゃないの? 私はここに引っ張られただけ。そこにお前が居ただけだもん」

 

 いーっと舌を出して恥ずかしい勘違いを指摘。私が君に会いにきたなんて恥ずかしい思い違いしないで欲しいよ、まったく。

 

「それで君は? そんな外に出るのも恥ずかしい恰好でどこに行こうっての? 死ぬの? 不細工が祟って死ぬの? 自殺するの? それなら憑いていって見学するから」

 

『……床屋だよ。ついてくんな』

 

 あぁ、と納得。確かに彼の髪はボサボサとしてて男子にしてはかなり長い。

 

「なるほどね、お前の髪とか死ぬほど興味ないや。どっか行け」

 

 しっしと追い払うかのように手で仕草すると彼は無言のまま家の扉に鍵をかけて歩き出す。彼が歩き出す方向を見てから私も反対側へ歩いていく。――およよよよよ?

 

 まるで引っ張られるように。逆方向へ。

 

 私が行きたいのは向こうなんですけど! ぬーっと力を入れて前のめりになってもジリジリと後退していく。仕方ないので力の方向へ。

 

 引っ張られる感覚に逆らわずに流れていくと――また、アイツだ。しかも目が合った。

 

『何なの、お前……』

 

 いきなりの第一声。クソ失礼な自意識過剰の台詞。

 

「だから、君に用なんて無いんだってば! なんか知らないけど引っ張られるの!」

 

『……何でだよ』

 

「知らないってば! なんかさっきも変な店、らーめん屋さんに引っ張られたし!」

 

『……らーめん』

 

「かと思えばその後赤い車に引っ張られて、この周辺で力が弱くなったし!」

 

『……赤い車』

 

「大体、この時間帯はみずぼらしい病院食を食べる間抜け面の患者どもを拝むのが日課なのに。優雅な私のお昼の時間の筈なのに!」

 

『……性悪。まさか』

 

 その瞬間に何かに気づいたかのように呟く。そしてその目がドロドロと腐っていた。本当に嫌なことを思いついたとばかりに。

 

「なんだよ、その顔。なにか気づいたんなら言ってよ、不細工」

 

 判断が遅い間抜け面を指摘する。大切なことに気づいたらちゃんと報告するよう習ってこなかったのだろうか。まったくホウレンソウしっかりしてよね! ところでなんでほうれん草なんだろ。

 

『なに、お前、ひょっとして俺のこと好きなの?』

 

「殺すぞ、お前、マジで」

 

 滅茶苦茶、失礼で不快な台詞を放ってきた。お前鏡見たことあんのかよ。少なくとも私が時折写る(三~四時間に一回)鏡では信じられないほどの美少女が写る。まるでこの世のものとは思えないほどの美少女。この美少女は誰なんだ、初めて見た時は恐れ戦いた。そしてその美しい少女の正体は私だった。そんな私とお前が吊り合うだなんてありえるわけないでしょ。マジで考えてから物を言ってよね。頭悪いんじゃない、こいつ。

 

 自意識過剰にして勘違いもここまで酷ければ呆れや苛立ちを通り越し殺意が沸いてくる。

 

『……この性悪に取り憑かれたとか』

 

「はぁ!? 誰が性悪だって、この不細工! この私が君に取り憑くなんて……憑くなんて…・・・ぁぁぁあああっ! それだぁぁっ!」

 

 取り憑くと言葉に出した瞬間にカチリと何かが嵌るかのように。私自身が感じているこの流れる力の正体。彼の方向へ引っ張られる状況に関して感覚的に理解してしまう。

 

 私はこの目の前の少年、この目の前の冴えない男子高校生――比企谷八幡に憑いている。

 

「えっ、やだ、うそ……うそうそ、こんなのやだぁぁぁぁぁっ! あんまりだぁぁぁっ! 私が生前なんの罪を犯したって言うんだ! こんな冴えない男子高校生に私っていう絶世の美少女幽霊が憑かなきゃいけないってどんな罰なんだよぉぉぉ、酷いっ、酷すぎるっ」

 

 しっくりと来た答え。あまりの惨い罰に愕然とする。生前にそこまでの悪行をしたのか。罰として彼に取り憑かなければならないほどの罪を重ねたのか。可愛すぎることが罪だとしても、これはあんまりすぎる。あまりのショックについぞ、膝をついてしまう。

 

『なんでお前の方がショック受けてるんだよ……勘弁してくれよ、マジで、どっかいけよぉ』

 

 この男はこれだけ可憐な美少女があまりにも酷い罰を受けているにも関わらず、優しい言葉の一つもかけやしない。なんて男だ!

 

「行けるものならそうしてるよ! でも引っ張られるんだよ! 解放してよ! どうにかしろよ、お前!」

 

 私が必死の思いで下手に出て懇願してもこの男は――。

 

『成仏すれば?』

 

 小さく鼻を鳴らしてはい解決とばかりに呟き去っていく。そんな男に見えない縄で括られ引きずられるかのようにズルズルと。スライドするかのように道路を滑る。この私をコケにしやがって、絶対に許さない!

 

「ちょっと待ってよ、クソダサ私服野郎。その意味不明なパーカーに裾がボロボロのメンパンににアクセサリージャラジャラしとけばいいんでしょ? とばかりに滑ったセンスをカッコいいと勘違いしてそうな脳味噌を搭載しているナルシスト勘違い野郎」

 

 私の言葉一つ一つにビクリと肩を震わせる彼。どうやら指摘に心当たりがあるようだ。

 

『は、はぁ? べ、べべべべ別にかっこつけてつけてるわけじゃねーし!』

 

「嘘つき! 間抜け! 挙動不審だから丸わかりなんだよね、意味不明な英語ロゴもそうだけど、ズルズルとみっともない裾もそうだけど、何よりもその耳障りなアクセサリーが君の口なんかよりもよっぽど雄弁にオシャレ意識してますって語ってんだよ! 痛々しいんだよ! イタガヤくん! もはや歩く公害。この世の中には見るだけで不快になる虫は害虫なんだよ? この害虫!」

 

『そ、そこまで言うことないだろ……というかそこまでダサくねぇだろ……』

 

 銀色のチェーンを腰から外して私と見比べる。

 

『そもそも病院の入院患者っぽい服装のお前にオシャレのいろはとかわかるわけ? しかも裸足だし』

 

 な、なんてことを言うんだ、この男は。

 

「君、それ言ったら駄目だろ! しょうがないじゃん! どうすればいいっていうの! そんなに文句あんなら服持ってきてよ、服!」

 

『無茶言うなよ……』

 

 私の命令にめんどくさいという表情を浮かべていた。未だに未練がましくアクセサリーを見ては『ださいのか……』と呟いている。

 

「はん、背伸びして黒に黒を重ねた格好するからブサイクなんだよ。モノトーン一色ならオシャレとか鵜呑みにしちゃってんじゃないの。自分の外見も考慮したらどうなんだよ。オタク臭さがこれでもかと出ちゃってるんだよね。ナルシス不細工野郎」

 

『ぶ、不細工じゃねーだろ、その、そこまで酷くねぇよ』

 

「私みたいな美少女からしてみれば君くらいの顔は不細工扱いなんだよ。弁えろ、不細工。君は落第、赤点、入店拒否の出禁でお断りなのさ!」

 

 胸の前で手を交差し視覚でわかりやすくペケをつける。

 

『ほんと、うぜぇ……』

 

 吐き捨てるように呟いて、そのまま歩き始める。その間もずーるずる、ずーるずると何かに引かれるように移動。少し前に病院のテレビで特集していた歩く道路に乗ってるみたい。

 

「どうしてこんな男に取り憑かなきゃいけないんだよぉ。ひっく、こんなのあんまりだぁ、酷すぎる。悪夢どころの騒ぎじゃないよぉ、地獄だよぉ、今、ここが地獄だよぉ」

 

『聞いてて気が滅入る。そもそもお前、なんでそんなに好戦的なんだよ。お互い不干渉、関わりあい無しで無視してりゃいいだろうが』

 

 足を止めてやさぐれながらこっちを見てくる。こっちがやさぐれたいんだけど。何もわかってないな、こいつ。

 

「なんで可愛い私と不細工な君の我慢が等価値だと思ってんの。目の前にいたらそりゃ愚痴の一つや二つ吐きたくなるでしょ。なんでお前なんかに合わせて妥協して我慢しなくちゃいけないわけ? 格上の可愛い私が格下の君に合わせてあげるメリット述べろよ。ゴキブリ見たら気持ちわるいって言っちゃうでしょ。なんで、それを私が我慢しなきゃいけないんですかー? ねーねー、教えてくれよー」

 

 私が懇切丁寧に説明してあげたのに無視し始めた。こいつ、マジ礼儀知らないよね。礼儀といえば。

 

「大体、君さぁ。退院の前に何で私に挨拶に来なかったわけ? 礼儀知らないの? 礼節弁えてないの? あんだけのアレコレあったのに何も言わずに出ていくって薄情で冷血にも程があるでしょ」

 

 そう、そうなのだ。この男はこの私がせっかく見直してあげたにも関わらず、碌に説明も挨拶もせずに去っていったのだ。こんなの許されるわけないでしょ。

 

『え? 何、お前……拗ねてんの? 俺が挨拶に行かなかったことで?』

 

 振り返った彼は本気で疑問符を浮かべるかのような顔で私を見てきた。そ、そ、そそそんなわけ――。

 

『そんなわけないでしょ! 君みたいな礼儀知らずなんて居なくなって清々してるよ! 寂しくなんてなかったし! 何、勘違いしてるわけ!? 調子にのんな! ハゲ! このナルシストハゲ!」

 

『お、おまっ、ハゲてねぇだろ! ねぇよな……? ともかく人の髪を笑うのはやめろよ」

 

 立ち止まって軽く頭皮を触って確認している。私に指図すんな!

 

「はぁぁぁぁ……最悪ぅ、本当に最悪だよぉ。こんなナルシス野郎に取り憑いただなんて不幸すぎるでしょ。せめてイケメンなら取り憑くのならギリ許せた。イケメンが良かった。ほんと、見てて不快になる顔面偏差値Fラン野郎とかさぁ……そもそもなんでコイツ、私よりも私よりブスだった二人を先に成仏させてんだよ。もっと私に尽くすべきでしょ。あんなブス共よりも私に関わること調べてくれればよかったのに」

 

 思い出すのはサイコパスな看護師二名。あろうことかこの私を襲おうとしたどブス共。そんな病院に纏わる御話を解決したらしい。詳しくは知らないけどいつの間にかいなくなっていた。

 

 そんな女達よりも私のことをどうにかしてほしい。

 

 私には記憶が無い。何も無い。なんであんな場所に居たのかもよくわからない。死んだとか言われても実感が無い。ないない尽くしで不安なのに、この男の子はちっともこっちのことを考えてくれない。

 

 そんな彼はポリポリと後頭部をかく。振り向いた目はドロドロと濁って、幽霊の私よりも遥かに化け物らしい。むしろ私のおめめはパチクリしてて可愛い。

 

『……はぁ』

 

 めんどくさいとばかりに溜息を吐いていた。そんな失礼な視線と態度に腹が立ちながらも私は言葉を待つ。

 

『ほんっと、面倒くせぇけど、仕方ないからお前を除霊する方法くらい探してやるよ……』

 

 ポリポリと頬をかきながら照れるかのような口ぶりでそんな言葉を放ってきた。仕方ない仕方ないとばかりに面倒臭そうな彼の表情を見て私は――

 

「今! 除霊って言ったなお前! 成仏じゃなくて除霊とか言いやがった!」

 

 舌打ちで返答される。勝手に人を悪霊扱いしやがって! ほんと、こいつ嫌い! だいっきらい! 完全に自分のことしか考えてない。少しは私の役に立ちたいとかもっと殊勝な態度見せろよ。

 

『被害者はこっちだっての。マジで御祓いとか頼もうかな』

 

 なんか滅茶苦茶、物騒なこと呟いていた。

 

「お、おい、おいってば! ねぇってば! やめなよ、そういうの! ぜ、全然びびってないけど未練があってこの世を彷徨う超絶可愛い私が悪霊くたと一緒に祓われちゃうとどうなるのかわかんないでしょ! もっと慎重にことを進めてよ!」

 

 全然ビビってない。ビビってなんかいない。私をビビらせたら大したもので、お祓いとか全然怖くも何とも無いけど、幽霊って祓われたらどうなっちゃうの?

 

 ちゃんと天国に行けるのなら問題ないけど。間違って地獄へ案内されたり、無に帰すみたいな展開は望んでない。こ、怖くはないけど流石にそれは短慮すぎ。もっと私の未練を解消するとか正体を探るとか順序立ててきちんと計画を練ってからやってほしい。

 

『いや、どうなるのかなんて知らんけど』

 

 そんな私の考えなどどうでもいいとばかりの態度。こんなの許されないでしょ! 面倒臭そうに歩き出してんじゃねーよ! 知らないじゃないんですよ! 知っとけよ! この美少女が天国にいけなかったら天国の損失なんだぞ。天国の全住人がショックのあまり消滅しちゃうレベルだぞ。

 

 私はその事実を伝えるために懇切丁寧に説明してあげることにした。

 

「ね、ねぇ、比企谷くん。除霊……はちょっと待とうよ。うん、全然怖くないし、なんなら私を除霊しようとした奴を呪い殺してやるけれどさ。除霊って短慮じゃない? うんうん、私はそう思うよ。何も悪霊らしいことをしたいわけじゃないんだし。私に本当の力を解放させるのは君だって本意じゃないはずだ。そういう命を奪わせるようなことを私にさせないでくれたまへ」

 

 私の心優しき発言にさぞ感激して涙を流すことだろうと思っていたが、彼が浮かべているのはどこか私を小馬鹿にした笑み。

 

『だっせ、ビビってやんの』

 

「殺すぞ、お前」

 

『はんっ、お前に何が出来るって言うんだよ』

 

 急遽、強気になってはそんなことを言い始めた。た、たしかに今の私には出来ることなんてあんま無いけど。

 

「き、君は本当に失礼なやつだな! 呪えるようになったら真っ先に呪ってやる!」

 

 勝ち誇ったままの顔で歩き初めた比企谷くん。そんな彼を困らせる方法をうんうんと考える。そして一つ思いついたのが――。

 

「例えば夜中の間ずっと眠らせないよう喋りかけるとか」

 

『おまえ、マジでやめろ』

 

 真顔で怒られた。よっぽど嫌だったらしい。むしろ私と喋れるなんてご褒美だという解釈もできるんだけど。

 

 先程の得意げな表情は打って変わって余裕なんてない素振り。どうやら交渉ができそうだ。

 

「いいよ、やめてあげる。停戦だよ、停戦。お互いに平和に取引と行こうじゃん。私は夜中の間中、君にずっと喋り続けることをしない。君は私を除霊しようとしない。どうだい? 公平な解決だよね」

 

『何が平和だ……完全に脅迫じゃねぇか。ほんと最悪だ』

 

 げんなりとして再び歩き出した彼の頭に、ポタリ、と。ポタリ、ポタリと目に見えるほど大きな雨粒が落ちていた。

 

「雨? こんなに晴れて――」

 

 次の瞬間、彼の頭に当たったのは――魚。

 

 魚が音を立てて、彼に降り注ぐ。信じられないと目を見開いていた彼の頭に再び魚。局所的豪雨に混じって降り注いでいるのは魚・魚・魚。

 

 まるでお魚の天国とばかりに空からビチビチと降り注ぐ。そして、そんな魚は――。

 

「あいたァ!?」

 

 私にもぶちあたる。なんか変なもの、雨? 雨とか水とか魚とか。感じたこともない感覚が頭上から降り注ぐ。透過することなく水も魚も私に当たってはビチビチと地面を跳ねる。

 

「なにこれ!? なんか臭い! 怖い! なんだこれ!」

 

 半ばパニックを起こしながら、彼を盾にするかのように背後へ回る。

 

『……なんで、魚が』

 

 呆然と呟く彼はその魚たちを見つめていた。そんな二人分の視線を受けていた魚たちは――勢いよく跳ね上がって、彼の足首に噛み付く。

 

『ぎぃっ!? なんだよっ、これっ』

 

 おちょぼ口の見たこともない色をした魚が噛み付いていた。困惑していた私は痛みにうずくまる彼を見て。

 

「あっははは、だっさぁ! 魚に噛みつかれてぎぃっだって! ぎぃって、あはははっ、ださ――ぎょぇぇぇぇぇっ!?」

 

 足元を見れば同じように私の足元にも噛み付いていた。喉から叫びとか目から涙とか色んなものをこぼしながら足元の魚を引き剥がそうと指を伸ばす。そこへ追撃とばかりに白魚のような指へ魚たちが群がり始める。

 

「痛い痛い痛い! たすけ、助けてっ! 誰かァ!」

 

 泣きわめいてぶんぶんと腕や足を振る。けれども魚は離す様子がなく。

 

『離せってってのぉ!』

 

 近くからぶちぶちと音がする。半ば無理やり魚を掴み離した彼の足首からはまるで抉られるかのような傷痕が見えた。

 

 蹲っていた私は自由となった彼を見上げる。相手も此方を見ている。

 

『……』

 

 あ、やばい、これ本当に見捨てられるんじゃ……? 

「い、今までのこと謝るからっ!」

 

 口からこぼれたのはそんな言葉。何に謝ればいいのかよくわかっていないけど。それでもこのままじゃ見捨てられ――

 

「ほんとに! 全部謝ってあげるから! 助けて、助けてよぉ……痛いよぉ……」

 

 小さく舌打ちが聞こえた。そして、此方にかけよって――。

 

「いたっ! 痛いってば! もっと丁寧に外してよ! もっと優しくしてよ!」

 

『いい加減黙って、ろっ』

 

 私の指を目掛けていた魚たちは新たに現れた肌に次々と襲いかかる。

 

『ぎっ、ぇあっ』

 

 食い縛った歯の間から漏れ出る小さな悲鳴。痛みに脂汗を滲ませて私の指に噛みつく魚を剥がしている。痛みのあまりに涙と鼻水が止まらない。霞む視界から見える朧げな景色からは必死な形相の比企谷くんだけが見えた。

 

 このままじゃ――。

 

 私の手を噛んでいる魚は少なくなっていく。けれども加速度的に彼の腕に纏わりつく魚の数は増えていく。

 

 き、君はどうするんだよ……。

 

 喉から言葉が出ない。もしもそう聞いて見捨てられたら私に対処する術がない。彼を助けることなんて出来やしない。

 

 だから、聞けない。

 

 その時――カツン、と。

 

 カツン、カツン、カツンと。

 

 音が鳴り響く。音が響く度に魚たちが一瞬痙攣をしては噛んでいた彼の手から力なく地面へ落ちる。

 

 何が、と思って回りを見渡せば音源であろう場所には石が幾つも落ちていた。

 

 そして――カツン。

 

 空から石が降ってくる。最後の石が落ちて、ころころと足元へ。空を見上げれば――。

 

 いや空じゃなくて地上。数メートル背後にその女は居た。その腕には幾つかの石が抱えられている。

 

 あの女が投げたの? 何のために?

 

「魚の化け物、魚の妖怪というのは割とこういう手法が効くと聞いていたんですけれど本当だったみたいですね」

 

 見知らぬ女は足元へ近づこうとする魚たちに向けて石を投げる。コントロールが悪いのか魚の直前で落ちそう。

 

 ――カツン。

 

 落ちた石は魚に当たったわけではないのに。なのに――死んだかのように地に横たわる。

 

 血まみれの手で目元をこすり、涙を吹く。そして、もう一人の被害者を見つめる。

 

「……だ、だいじょぶ?」

 

 小声で尋ねて見れば返事がない。腕を抱えてうずくまるように亀になっていた。

 

「ね、ねぇ、なんかもう大丈夫みたい……」

 

 顔を上げた彼の髪の毛はずぶ濡れだった。そして私もずぶ濡れ。さらに言えば――唐突に現れた謎の女もずぶ濡れ。

 

 謎の女。長い髪の毛はボサボサで特に手入れをされているようには思えず。青い着物も相まってどこか幽霊めいた存在。

 

『……あなたは?』

 

 比企谷くんは女を見上げて尋ねる。そんな彼に対して謎女は優しく微笑んで。

 

「自己紹介は後にしましょうか。目覚めないうちに移動したほうが良きと出ています。あくまで仮説で俗説だったので確証なんて無かった応急処置ですから。こういう相手には楽観論で行動するのではなく、悲観論で動きましょう。さぁ、こっちへ」

 

 水を含んだ前髪をかきあげて、振り返り歩き始める。数歩進んでは少しだけ振り返り小さな笑みを浮かべて害意がないと示すと先導し始めた。彼は慌てて立ち上がり、その背を追う。私も二人に置いてかれぬよう移動する。

 

 横たわる魚群を放置して。わけもわからぬ魚を放っておいて。

 

 

 

 

 

~~~~~~~

 

 

 近場の公園までやってきた私達。先導していた女が最初にしたのは彼の治療からだった。

 

 いつの間にか持っていたペットボトルの中から彼の傷口を洗い流していた。

 

『ッぅううう!?』

 

 小さくない声が響く。痛みで傷口を押さえている比企谷くん。たかだか水で洗い流しただけで大袈裟すぎでしょ。それでも男の子なの? だっさぁ。

 

「ねーねー。お姉さん、そんなやつのことよりも私の方を治療してよ。ほら、指からこんなに血が出てる、こんなに怪我してるんだよ? 可哀想……」

 

 水の後に手に持っていた巾着から軟膏を取り出した女性。それを私に向けてくるかと思えば引き続き、比企谷くんの腕へ塗っていた。

 

「いや、だからそんな奴よりも――」

 

「一応、これで応急処置をしました。少し痛かったかもしれませんが……どうですか? 効いているといいのだけれど」

 

 め、めっちゃ無視される……。いやいやこっちは大怪我してるんですけど!

 

「だぁかぁらっ! 私っ! 大怪我!」

 

「貴方は幽霊でしょうに……それに見た目からしてみて彼と違いそこまでの怪我を負っているようには見えませんが」

 

 こ、こいつ目が節穴かよ! 私の指に二箇所も歯型があって血が出てるし、足首付近には四箇所も噛まれている!

 

『……痛みが引いていく』

 

「効いてよかったです。あぁいう霊障に対して効能があるかは半信半疑だったのですが」

 

「えっ、実験体にされてたのかよ。でも効果あったってことは塗ってよ、私に!」

 

「お断りします。こう見えても貴重な代物ですので。幽霊に使うなんて勿体ない」

 

 そういって再び、軟膏とペットボトルは巾着袋の中に。

 

 あー、なるほど。そうかそういうことね。はぁー、そういうことかぁ。

 

 このどブスが!

 

 きっと可愛い私に嫉妬してるんだね。あー理解理解。完全に理解できちゃったね。確かにこの女の顔面偏差値は中の下。そこにいる男の子とどっこいくらい。

 

 一応、助けてくれた? という形になるけど、その善行ポイントも今全部を放出した。むしろマイナス。

 

 自らの嫉妬により積んだ徳を無意味に帰した女のつま先から頭まで眺める。デカ女で貧しい乳。大女とも呼べる。その巨躯から伸びる髪の毛は腰元まで。顔は芋っぽく、そばかすがちらほら。大人の女のくせにメイクの一つもしてないすっぴんは年齢を弁えろと苦言を呈したくなるところ。総合して田舎臭い芋女という結論。

 

 そんな田舎女がこの私を蔑ろにしていいわけあるの? いやない。けれどもそんな女は私に対して呆れたような視線を送ってきている。許されないでしょ、これ。

 

「貴女が大怪我なら彼をどう表現すれば? それにしても我慢強いですね、君。本来なら塩水で傷口を洗い流した時に絶叫や恨み言の一つや二つくらいは覚悟していたのですが」

 

『し、塩水……』

 

「えぇ、正確には塩と酒を混ぜ合わせたものなんですが。効いてよかったです」

 

 そう言って女は彼に微笑む。ポケぇと比企谷くんはデカ女に見とれていた。は? なんだ、その表情。

 

『あ、あの、ありがとうございます』

 

 軟膏を手ずから塗り塗りっとしてもらった比企谷くんは顔を真っ赤にしながら御礼を言っていた。なんだ、こいつチョロすぎでしょ! すっごい癪に障る。むかつくむかつくむかつく!

 

 美人な私が蔑ろにされている状況もそうだけど、私はぞんざいに扱うくせにこんな芋臭い女に顔を真っ赤にしている彼に一番腹が立つ。

 

 どう見ても、どう考えても私のほうが圧倒的美少女なんですけど!

 

「ねぇねぇねぇ比企谷くん! 何顔を真っ赤にしてんだよ! まさかこの女に惚れでもしたの! 待ってよ、こんな近くに美少女がいるのに、そんなことってあるぅ!?」

 

 彼は私の顔を見上げた後にげんなりとした様子で溜息を吐いた。

 

『そんなんじゃねぇよ、それにお前の顔、今酷いぞ』

 

「はあ!? 私の顔のどこが酷いっていうのさ! パチクリ可愛いお目々に、バランスの取れた目鼻立ち、綺麗な桜色の唇! もう顔だけで最強な私の顔に何の文句があるのさ!」

 

『血だらけなんだが……怖ぇわ』

 

 指摘されて傍と気づく。そういえばさっき涙と鼻水を拭くために袖で顔をごしごししちゃったっけ……。というか、私の血って顔につくんだ、それに出るんだ。

 

 というか何だよあの魚。どうにかして顔を洗おうと思うものの、私は水には触れられないし、代わりになるものも存在しない。

 

「ど、どどど、どうしよう! どうすればいいの!? 私の美貌がちょっとホラーちっくな美少女になっちゃった! お姉さん、どうすればいいの?」

 

 唯一、この状況を何とか出来そうな人物に解決方法を尋ねる。この場で唯一の男の子が小さく『めっちゃ余裕あんな、こいつ……』と呟いていたが、余裕なんてあるわけがない。

 

「いや、私は知らないですが」

 

 短い言葉で塩対応。このドブスはどうでもいいとばかりに此方をみていた。おい、ふざけんなよ、お前。お前みたいなブスが私を格下に見るのは鼻持ちならないし、雑に扱うなんて絶対に許されない。

 

「お互いに自己紹介しましょうか。申し遅れました、私は金野と言います。貴方は?」

 

 貧乳の前で柏手を一打ち。欠片もこっちを注目せずに芋女はそんな提案をした後、自分の名前を告げる。

 

『あ、そ、その、比企谷八みゃんです!』

 

 おいおいおいおい、狙ってやってんのかよ。いつからそんな可愛い名前になったよ、君。

 

「はちみゃんくんですか」

 

『待って……待ってください、その噛んだだけです。八幡、八幡様の八幡です』

 

 顔を真っ赤にして否定する比企谷くん。くっそ、こいつらムカつくなぁ。なんでこいつはデレデレしてんだよ。ムカつく。マジで殺すぞ。呪い殺すぞ。呪いが出来るようになったら真っ先に呪ってやるんだからな。

 

『なるほど、八幡くんですか。ふむ』

 

 名乗りを聞いた大女は何かに納得がいくかのように考え込んで、何かを思いついたのか顔をパァッと明るくした後に胸の前でまた柏手を打つ。

 

「如何にも怪現象に襲われそうな名前ですね!」

 

 ニッコニコと笑顔のまま凄いセリフを言った。流石にデレデレしていた男子高校生もこの笑顔と台詞には絶句。一瞬、パクパクと口を金魚のように動かしては、発す筈の言葉を飲み込み、ゆっくりと選びながら言葉を紡ぎ始める。

 

『えっ? 俺の名前、そんなに怪現象に遭いそうなんですか? えっ、マジで……』

 

 思いの外、ショックが大きいらしく片手で頭を抱えている。

 

「えぇ、中々に凄い名前ですね。ここまで怪現象に遭遇しそうなお名前は中々お目にかかれないと思いますね。私は評価しますよ。人の身でありながら八百万の依代という意味合い。引受先、引受人。これだけの条件が合えばそりゃあ怪異にも出遭いますよね」

 

 ウンウンと何度も頷いては楽しそうに喋る女と対照的に顔が渋くなる比企谷くん。

 

『あの八幡って八幡神から取られてつけられたんですけど……』

 

「ほう! 八幡神! 八幡とは一般的な神道において応神天皇の神霊というのが普通の認識ですが、八幡神となると少しだけ話が変わります。八幡神とはどの神を指すのかと問われた時に簡単に答えられる人は少ないでしょう」

 

 大女の言葉に比企谷くんは深く頷く。どうやら彼もこの話を知っていたようだ。

 

「八幡三神、主座に応神天皇、左右に二座を配して三神のことを指します。この左右二座に関しては諸説あり、認識も様々で偏に八幡神は一柱で数えることは難しいといえるでしょう。まぁ、今回の焦点はそこではないのです。人の身で神の名を騙るなど出来る筈もないのですから、ましてや神を名乗るのは傲慢ですらあるのですから、神以外の意味を捉えなければなりません」

 

『べ、別に俺は神を名乗るなんて大袈裟な。そ、そんなこと一度も本気で思っちゃいないですけど』

 

 仰々しい話に比企谷くんは恐る恐るとあかりに手をあげて反論する。

 

「勿論、大抵の人間はそうです。そして君もそうだったのでしょう。けれども君が思わずとも君以外がどう捉えるのかが重要なのです。運がいいのか、悪いのか。こればかりは判断し辛いのですが……神ではない八幡という言葉を紐解いていきましょう。八幡神の語源である八幡――ヤハタ。その意味を解いた時に君は怪異に対して縁が深いどころか、出遭って当然とも言える名前をもっていることに気づく筈です」

 

 八幡くんは小さく呻く。自分が置かれている現状が信じられないとばかりに。ついでに私は飽き始めている、この話いつ終わるのかなと。

 

「ヤハタ。そもそもハチマンとはヤハタが音読みへと転化した形なのです。なればこそ、元来の意味を探りましょう。ヤハタの八とは数字の八を意味しています。日本において末広がりの八という数字は大きい、多いことを意味しています。次に幡とは旗であり、旗とは依代」

 

 完全に飽き始めた私は、ぼーっと公園を見回す。そんな私の様子など二人は気にも留めずに話続ける。特に女は何が楽しいのか、拾ってきた棒で彼の名前を地面に書き図解を描き始めていた。彼も彼で真剣に聞き入っている。

 

 陰キャ同士のオカルト談義なんて凄く退屈なんですけど……これ、私も付き合わないといけないわけ? こういう知識を嬉々として語り始めている女って絶対にやばいよね。友達は少ないどころか多分いない。私にはわかるね。きっと高校時代はクラスの隅っこで呪いとか書きながら昼休みを過ごしていたタイプでしょ。気持ち悪ぅ……。

 

「数多くの依代。もしもこれが八幡という名前の意味とするのならば、怪現象や怪異、霊や妖怪に出逢い易いなんて噺ではあいません。むしろ君は惹きつける。君は怪異に巻き込まれる、この世界を仲介させるために名付けられたといっても過言ではないですね」

 

『す、すいません、多分、そんな深い意味絶対にないです……多分誕生日とかその辺からテキトーにつけたと思うんですけど』

 

「ふふっ、そうなんですか。それでも君の名前は意味を持ってしまった。それが重要なんですよ。君の名前が意味を持つ切っ掛けが遭ってしまった。そうすることで君の名が働いた。勿論、聞くまでもないのですが、あなたは最近怪現象に巻き込まれた経験がありますね? まぁ、そこの幽霊に憑かれている現状を見れば絶賛、巻き込まれている最中とも言えるのですが」

 

 大女が失礼なことに棒で私を指してくる。

 

『あ、はい……そのそいつはオマケみたいなもんで。ちょっと入院していた病院で色々とありまして』

 

「なるほど。今回の出来事も大きく言えばその出来事からの続きなのでしょう。そこの幽霊も然りで。例え不吉を惹き付ける名前を持っていたとしても。怪異に関わらなければ、近づかなければ人は一人でも生きていけるものです。ですが一度でも出遭ってしまったのなら、貴方の場合は特に別でしょう。ましてや、幽霊を引き憑れていれば巡り合って、巻き込まれてしまうのは極めて自然なこととも言えます」

 

 大女は原因の一つが私にあるとばかりにさしてきた。

 

「ちょ、ちょっとまってよ!」

 

 急に私が悪いみたいな結論になっているのは異議がある。なんかよくわかんない噺だったけど人のせいにするのはよくない!

 

「比企谷くん! そこのブスの話を信じるわけじゃないだろうね! 私、悪い幽霊じゃないよ! 悪さできないし、むしろ何も出来ない幽霊だよ! 安全で安心な唯の美少女!」

 

 私の訴えなど大女は聞きもせずに彼に再び問いかける。

 

「どうでしょう、比企谷八幡くん。わたしに任せて貰えれば、彼女を祓うことが出来る伝手があるのですが」

 

 その言葉に彼は顎に手をあてて考え込んでしまう。考える時間が私に恐怖を募らせる。

 

「え……え? マジで悩んでるの……? やめろよ! やめてください! うああああー! しにたくないぃぃぃぃいぃ!」

 

「……いや、死んでるでしょう、貴女」

 

 涙をボロボロにこぼしながら殺さないでぇと比企谷くんにお願いする。必死に生きることの大切さを表現してみる。大女の冷血な提案を叩き潰すたあめに頭を働かせるものの何も思いつかない。死にたくないよぉ。

 

 そして彼は結論づけたのか、此方を一度見てから再び大女の方向へ向き直る。嫌だぁぁ!

 

『まぁ、それは今は大丈夫です……。それと色々とこいつがすいません……』

 

 てっきり受け入れると思っていた。けれども彼は芋女の提案を蹴った。そして断った理由を察してしまう。なるほど! そういうことか!

 

『なに? 君、私のこと好きなわけ……? いや、率直に言って困るというかキモいっていうか。まぁ祓わないでくれたことには感謝してあげるけど、君と私じゃ釣り合わないことを覚えておいてね? ほんと弁えててね? 少しは感謝してあげるけど、勘違いしないでね? や、これ、ほんとに』

 

 スススっと少し距離をとって彼の下心に忠告しておく。ほんとこいつ身の程弁えてよね。

 

 私の言葉をうけた彼は逆恨みなのか此方を冷ややかな視線で見てくる。なんだよ、こいつ、恋愛下手糞か。私のことが好きならそういう態度は減点だゾ。それともやっぱり釣り合わないから悟られぬように忍んでいるわけ? まぁ、それには感心感心。私と君が釣り合うわけないって考え方は謙虚でいいぞ。そのまま慎ましく生きろよ、お前。つつましみ。

 

『……あの、そういう体質ってどうにか出来ますか? あの名前を変える以外の方法で』

 

 再び大女に向けて話しかける比企谷くん。はぁ、女に泣きつくなんてダサダサだよね。という感想を抱きながら私にも多少関係のある話なので耳を傾ける。

 

「すいません、特に思いつくことはありませんね。でも名前を変えるというのはいい手かと。比企谷くんは賢いですねぇ」

 

 おっとりとした様子で大女はパチパチと手をたたく。はぁー、つっかえ……この女、本当に使えませんわ。

 

「体質をどうこうすることは思いつきませんが、予防策として怪異に近づかない……正確に言えば悪意の、悪い気が集まる場所には近寄らないといった行動が必要ですね。今の君は先日事件に遭遇したばかりで、幽霊を引き憑れて歩き、名前は特殊である。そんな条件下である以上、警戒するに越したことはありません」

 

 言葉を重ねるごとに襲われて当然とばかりの内容に彼の表情は見る見ると青褪めていく。

 

「ある意味、怪現象と遭遇するバランスが非常に整っているとも言えますね。一本の柱だけだと目印で、二本の柱ならば鳥居で入り口、三つも理由があるのならそれは居場所になる。せめて二本を外したいところですね。最低でも一本を、二本ならば入り口を作れど社を作ることはできませんから」

 

 一人で納得するかのようにブツブツと呟く大女。比企谷くんはそれを一つたりとも聞き逃さないように耳を傾けていた。

 

 しかしほんとアレだよね。こういう奴らってアレだよ、自分が分かっているからとばかりに話を進めがちなんだよね。相手も判るはずって自己中心的な考え。ほんと自己中な奴らだ。私なんか八神さまとやらの件から全然ついていけてないのに、ほんとつまんないや。私に判るように話をしろよな。

 

「そう、ですね……そう。では私が思いつく対処法なのですが怪異について編纂編集をするというのは如何でしょうか? 遭遇した存在を紙に移すといった形から初めるというのは」

 

『紙に……写す?』

 

 オウム返しのように間抜けな顔のまま言葉を返している。うーん興味ないなぁ。なんか面白いことないかなぁ。

 

「えぇ。儀礼的な意味合いで一枚の用紙に怪異のことを記します。噺として、終わらせるのです。遭遇した存在を、怪現象を出会いから解決まで全て記しましょう。正確に。そうすることで――過去の噺として終わらせる、水に流す」

 

「そんなことで……いいんですか?」

 

 あっさりとした解決方法に驚く比企谷くんが溢した言葉、そんな言葉に対して大女はくすくすと小さく笑う。彼は笑われている理由にとんと検討がつかず見る見るうちに小さくなる。

 

 なーんかつまんない。おもしろくないー。

 

 そもそも君さ、私に対する態度と違いすぎない? なんでその女に敬意払ってるっぽくて、私には払わないわけ? これじゃあ私が小物みたいじゃん。

 

「ごめんなさい、馬鹿にしているわけではなくて。その、なんというか、可愛らしなぁ、と思って、ふふっ」

 

『か、かわっ!?』

 

 大女の言葉に大きくリアクションを取った後に、頬を真っ赤にしていた。その光景を見ながら思う。

 

 はぁぁぁぁぁ?

 

 ペッペッと地面に唾を吐き捨てる。なんで私がお前らのラブコメもどきを眺めなきゃいけないんですかね。不快も不快で大不快。そもそもがそこの男子高校生! 君は私相手に照れたことが何度あるよ。普通の男子みたいに照れて驚くみたいなリアクションを今してんじゃねーよ! カス! 不細工! 八幡!

 

「勿論、必ずしも正しい方法という確証があるわけではありません。私とてスペシャリストというわけではありませんからね。ですが騙されたと思ってやってみて効果があればお得じゃないですか? 古来よりも紙というものには力が宿り、霊能力者が力を振るえばそれは霊符となり、呪符となり、護符になる。勿論、貴方に霊力がどの程度あるのかなんてわかりません。けれど霊視が可能なレベルの力はある。貴方の書いた代物が他人を守れるほどの効力があるのかまでは少し自信ないですけれど。けれども自分の問題を片付けるくらいならきっとできますよ」

 

『自分の問題……』

 

 ポツリと呟く言葉に比企谷くんは黙り込む。対する私は胡散臭さを大女から感じていた。

 

 なんだよ、こいつ。いきなり親切すぎるなんて怪しいことこの上ないね。私みたいな美少女に優しくするのは分かる。だってそれが人類の仕事だから。でも私じゃなくこの男の子に優しくする意味がわかんない。だからデレデレとしている情けない男に慈悲の心で忠告してあげるとしよう。

 

「ねぇねぇ、この女怪しくない? モテない女が男子高校生を誑かす。こんなの完全に事件の臭いがするんですけど」

 

「祓いますよ」

 

「ひ、ひぃぃぃぇぇぇぇぇっ」

 

 私は彼の背後へ。盾にするかのように隠れる。

 

 大女はそれ以上、私に興味はないとばかりに視線を比企谷くんに戻していた。なんだよ、こいつ、気に食わない。この女が本能的に気に食わない。そもそもこんな私よりも冴えない男子高校生に優しくしているのもそうだし、なんかいきなり出てきて親切にするのもそう、理解者とばかりに彼に近づいているのもそう。こんなの怪しい以外何者でもないじゃないか。君も君でなんでぺこぺこと謝るかな。何も悪いことなんて言ってないのに。

 

『ほんっと、さっきから失礼ですいません。あの、こいつ無視していいですから。雑魚幽霊で何も出来ないんで。こんな奴よりもさっきの話の続きを聞かせて貰えませんか? 紙に書くってどんな感じがいいんでしょうか』

 

 は? いま、このクソ男子はなんて言った? せっかくお前の心配してあげてんのに! 何勝手に話を勧めてるの! 納得いかないし! なんで私よりもこの大女に媚びうってんだ! 

 

 色々と言いたいことはあるけど我慢する。今は口を挟まない、あくまで今は。あの大女が居なくなったら覚えてろよぉ。

 

「紙、そうですね形態というなら……先程も口にしたように編纂、編集という形の図解がお勧めですね。具体的な詳細を、絵も一緒にあったら素敵です。あなたの中の不安、恐怖、畏れを――未知を既知に書き代えることが重要だと考えますね。そして書き記すということは出遭った顛末、結果。故に過去のこととしての折り合いをつけることができると私は考えます」

 

『書き写して、編纂、編集する……あの、その書き終えたものはどうした方がいいですか? たとえば燃やした方がいいとか』

 

 二人の話はとんとんとんとんと進み、まるでこっちを気にしていないかのよう。退屈すぎる、私はとうとう寝そべり空を見上げては雲を眺める……暇ぁ。

 

「燃やす……うーん、どうでしょう。炎は浄化を意味することもありますが一例では蘇り、再燃という側面もあります。下手に燃やして問題を再び繰り返す可能性がありますね。個人的には編纂、編集したものを人目につかない所に隠すことをおすすめします。君自身が過去のこととしたならば、問題が再び起こらないように誰の目にも入らぬよう身近に隠しておく、そういったことがいいかもしれませんね。勿論、相応の儀式や儀礼を以ってしてみれば燃やすという方法もありなのでしょうが、そこらへんになると時間もお金もかかりそうです。勿論、君にそういう伝手があるのならそちらをおススメしますが」

 

『……ないです。その、ありがとうございます』

 

「いえいえ、こちらも中途半端な提案でごめんなさい。もっと力になれたらいいのだけれど……」

 

 二人があーだこーだ喋ってる場所から少し離れた場所にある自販機の前へ。病院のラインナップどころか自販機そのものが違うので物珍しさに少し興奮してしまう。

 

「ふぅむ……カロリーゼロとかいう飲み物あるんだぁ。私のような完璧な美少女には縁の無い言葉だよねぇ。世の中のカロリーを気にして生きなきゃいけない全女性を可哀想だと思うよ。ほんと、かわいそー」

 

 興味深い赤色の自販機から少しだけ視線を逸らす――居た。

 

 なんか居た! プルプルプルと腰を曲げて杖をついたお爺ちゃん。完全に半透明で足が無い。そしてそのお爺ちゃんがギョロリと。目と目が合う。これって――。

 

「ぎ、ぎぃゃあっ! で、出た! お化けッ!」

 

 慌てて二人のところに戻る。なんかお互いに笑い合って楽しげに談笑しているのが凄いむかつく! こっちは変なジジイの幽霊と目があったというのに。こんなに私が怖い目にあっているのに楽しそうにしてんじゃない!

 

「お、おば、お化け出た! なんかジジイのお化け!」

 

 私は慌てて自販機の方向を指差す。そして指の先にはしっかりとジジイの霊が居た。あろうことか、そのジジイは親しげにこっちへ手を振ってきた。振ってくんな!

 

『はぁ? 何、言ってんの。むしろお化けはお前だろ……』

 

「そ、そうだけどさ、そうだけどさぁ! でも見てよ、あそこ! ジジイの霊がいるよ! ジジイ! 怖い!」

 

「……確かに居ますね」

 

 私の指さした方向を二人が見る。そして大女はあっさりとジジイを認識して呟いた。けれども比企谷くんはごしごしと何度も目をこすっては自販機の方向を凝視している。

 

『え……俺には何も見えないんですけど……』

 

「は? 君は何のためにそんな微妙な目つきしてると思っているの? お化け見るためでしょ! さぼらないでよね」

 

『誰もそんな仕事引き受けてねぇよ』

 

 唯一と言っても差し支えない才能を指摘してやると生意気にも反論してきた。

 

「……ふむ、どうやら君の両目は何でも見れるというわけではなさそうですね。興味深いです。さて。比企谷八幡くん、本題に入りましょうか」

 

『本題……?』

 

「えぇ。君と御話するのが楽しくて少しばかり脱線しましたけれど、先程の怪異、怪現象の御話です。編纂や編集するのにも必要だと思いますからね」

 

『……あっ』

 

 間抜け面を浮かべていた。さっきまで両手両足を噛まれて大怪我していたにも関わらず随分と暢気な男だこと。こっちは未だに魚の歯型がつきっぱなしでじくじくと痛いのに。

 

「ねーねー、ブス……じゃなくてお姉さん。私の怪我も治してよー、私の怪我も!」

 

 自分の腕と足を出して主張する。ほら、見てよ、こんなに綺麗な白い肌が血だらけなんだよ? 可哀想でしょ。

 

 しかしながら目の前の大女は下らないとばかりに冷たい視線を此方に投げ寄越す。なんだよ、こいつ。

 

「どうやって?」

 

「え、そりゃあお姉さんの不思議パワーとか。さっきの軟膏とかで」

 

「触れられないし、できないし、持っていないし、やる気もおきません」

 

 あっさりと答える大女。な、な、なんだァ! こいつ! 比企谷くんと私に対して温度差ありすぎでしょ! こいつ同性に優しく出来ないタイプの女かよ! 器ちっさ! かぁーっ、嫌な女だね!

 

「比企谷くん、こいつ役に立たないよ。さっさと髪を切りにいこう。はぁー、無駄な時間を使っちゃったなぁ」

 

『ほんとすいません、こいつがすいません』

 

 ベンチの上で何度もぺこぺこと謝っている。ちょっと私が問題児みたいな扱いやめてよね。私は何も問題起こしてないのに。完全に冤罪。

 

「いえ、君が謝ることではありませんよ。悪霊ですから仕方ありませんもの。では先程の怪現象の話を始めましょうか」

 

 なんかさっきからこの女、私に対してカチンカチンさせるかのような物言いするよね。やっぱ私が可愛いから嫉妬してるんだろうか。はぁー、可哀想、私って美少女だからなぁー、同性から恨まれるのは仕方ないもんなぁ。

 

「空か魚が降ってくる。君はこの都市伝説を知っていますか?」

 

『……いえ』

 

 私の返事なんて聞いてないだろうから反応しない。けれども私にも関係があった話なので聞き耳を立てる。

 

「ファフロツキーズ現象とも呼ばれるこの現象はアメリカの超科学研究をしている方が名付け親となっています。正式な名前は――Falls From The Skies. 直訳すると空から落下物。つまりは本来ならその場にある筈のないものが空から降ってくる現象の総称をファフロツキーズ現象と呼びます」

 

 空からの落下物。確かにあの水の後に魚が落ちてきた。魚好きなら嬉しいかもしれないけれど、魚とか好きじゃないので全然嬉しくない。

 

「この現象の中には幾つもの説ががあります。一つの説としてあるのが錯覚説。とある街を蛙が大量に発生し横切ったことから地面に居る蛙たちが降ってきたと錯覚したという御話。そして他の説の中には魚が降ってきたという話もあります。本来ならば地面に落ちている筈もない魚があったから空から魚が降ってきたのだろうと誤認するといった御話なのです。故に今回の御話を語るとするのならそれなんでしょう、空から魚が降ってくるというのは君の体験に合致するのではありませんか?」

 

「……確かに!」

 

 言われてみればなんとなくそんな感じがする。しかし比企谷くんは小首をかしげながら何かを考えていた。しかしながら数秒後に何かに折り合いがついたのか考えていたことを口にすることは無かった。

 

「信じられる下地があれば怪異は形とあり、なりを、形態を顕し御成りになるんです。あなたは間が悪く、運が悪く、それでいて資質を抱えていたのでしょう。遭遇した怪異、魚たちへの対処方は――解決方法はあなた方が見ていた通り。石を落としただけです。いいえ、落とすというよりかは打つ、水面ではなく地を。水を泳ぐのではなく地を這う魚たちなのですから石で地を叩いてあげれば効き目はあります。古来より伝わる石打漁の如く」

 

 なるほど、だからこの女は地面を石に投げていたのか。

 

「今回の怪異はそれで解決したといったところでしょうか。貴重な体験でした」

 

 話を聞き終えた彼は何か思いついたらしく凄く落ち着かない様子で目をきょろきょろと動かしていた。そして頭を下げて――。

 

『わ、わかりました。そ、そのありがとうございました』

 

「いいえ、構いませんよ」

 

『そ、その俺に何か払えるもの、出来ることってありませんか……? そのお世話になりっぱなしっていうのは』

 

 うじうじと、キョロキョロと。落ち着きの無い様はまるで憧れの女性を目の前にしたかのよう。殊勝な態度はちっとも面白くない。こんな女に惹かれる要素もなければ、チョロすぎでしょとか思う。そもそも私相手に一度だってそういうこと言ってきたことがない。俺にこんな美少女が憑くなんて幸運のあまりに申し訳ないという一言すらない。膨らむ頬で怒ってますとアピールしても決して此方を向かない。ムカつくなぁ!

 

「……では一つだけお願いごとをしてもよろしいでしょうか」

 

 そう大女が呟いた瞬間に比企谷くんはピーンと背筋を伸ばす。いや、ほんとこの女のどこに惚れる要素があるわけぇ? 顔は大したことないし、私が美人だし。性格は根暗だし、私は可愛いし。

 

「この手紙を届けて貰えませんか? 出来うるなら手渡しで」

 

 女が巾着から取り出したのは一つの便箋だった。白い便箋には宛名も書かれてなく、裏には差出人の名前すらない。

 

「あぁ、ごめんなさい……少し待っててね」

 

 そう言って女は巾着から小さな紙を一枚取り出して、筆ペンでさらさらと住所を書き記す。

 

「ごめんなさい。うっかりしていました。住所はこれに。渡すだけで構いません、お願いできますか?」

 

 女の問いに壊れたラジオのように頷く比企谷くん。だからお前、本当にいい加減しとけっつーの! そこまで顔を赤くするほどの美人じゃないでしょ。

 

「それと――これは出来うるならでいいのですが魚には毒をもつ存在もいます。出来ることなら帰ったら、君はお清めすることをおススメします。一応、わたしの塗った軟膏や塩水でもいいのですがもっと効果の高い、あら塩、酒、酢を入れた湯船に身体を浸けるのが良いかと。最後は冷や水で身体を打ってください。そうするだけでも傷跡や霊痕、霊性による毒性は消えると思いますので」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 なんか今、一瞬毒とか聞こえなかった? 比企谷くんはそれでいいんだろうけどさぁ、私はどうなるの? 未だにくっきり歯型あるし、血はにじんでるし、じくじく痛いし!

 

 去っていく大女に私はやけくそ気味に尋ねる。

 

「私はどうするんですかっ!」

 

 そして大女は初めて、初めて私に笑顔向けて言った。

 

「知りません。それじゃあ、比企谷くん。縁があったらまた遭いましょう」

 

 最後の最後にそれだけ残して去って行った。私は恨めしげな視線を、彼はどこか憧れめいた視線でその女を見送った。

 

 

 

~~~~~~

 

 結局、散髪にはいかずに商店街でお酒の購入を企む比企谷くん。あら塩と酢は問題なく買えたもののお酒だけが買えずにいくつもの店をさ迷う。結局、上手く買えずに家に戻ってがさごそとキッチンを漁って取り出したのはなんか高そうなお酒だった。立派な箱に入って中々に難しい漢字をあしらったお酒を盗み、脱衣所へ。

 

 お風呂を掃除して、お湯を注ぎその様子を眺めながら半分くらい溜まったところへお酒を豪快にぶち込む。そして買ってきた塩も全部投入して、お酢も入れる。なんか変な感覚が鼻の中へ、これって匂いだ。多分、アルコールとか色々混じっちゃった臭い……。

 

「ねぇ、分量ってそんなにテキトーでよかったの?」

 

『……だって聞くの忘れてたし』

 

「間抜け」

 

 私の罵倒にそっと目を逸らす彼。雑すぎる準備にあきれ果ててしまう。準備の仕方も雑であれば手順なんてものもテキトーで。空っぽになった酒瓶を見て私はふと思う。

 

「ねぇー、それ怒られないの? 高そうなお酒に見えるんだけど」

 

『高い酒なんて家にあるわけねぇだろ、多分大丈夫だろ、ずっと使ってなかったやつみたいだし』

 

 いや、それ取っておきとかいう奴じゃないの……?

 

 私もお酒の詳しいことはわからないけど少なくとも使ってないから大丈夫な奴って発想は安直すぎない?

 

 こいつ意外と確りしてそうに見えて結構雑なところある……そもそも考えてみればたかだか高校生だ。そりゃあ少しは頭がいいかもって思ったけど出遭ったばかりの大女に惚けるし、今回のことだってろくすっぽ準備せずにやるし。計画性も何もない男だ。絶対デートとかしてもプラン考えてこないタイプ。一緒にいても楽しくなさそう。とはいえ。

 

「ふーん、まぁ、いいや! 一番風呂もーらいっ!」

 

 私が湯船に浸かれるかどうかわからないけれど、ほくほくと湯気を出す熱湯目掛けて突入――。

 

『あ、おまっ!』

 

「ひゃっはぁあ! いちばあ"ぁあ"ぁ"ぁぁ! いだ、いだだだいだいだいだぁい"ぃぃぃっ!」

 

 湯船に飛び込んだ瞬間に触れた部分が焼けるような痛みを訴えてきた! こちとら物理攻撃が効かない筈なのに! そもそも水に触れられない筈なのに! なんか今日だけで痛い目見る事が多すぎる! 訴えてやる!

 

『ぶはっ、ひぃぃっ、ひひっ』

 

 気持ち悪い声をあげながら腹を抱えてゲラゲラと笑い始める比企谷くん。私は湯船から飛び出して全身をぶるぶると震わせて水を弾く。まるでそれは水浴びをした犬のように。

 

『ふひっ、ば、馬鹿だっ、くふっ、くくっ、腹、痛ぇ、くふっ、ひひひっ』

 

 未だに笑いが止まらないのかお風呂場の床タイルに膝をついて蹲ってお腹を抱えていた。

 

 な、な、なんて奴だ! これだけの美少女が痛がっているというのに心配するどころか笑いものにしてやがる。ほんとこいつ性格が悪い!

 

「少しは心配しろよっ! 滅茶苦茶痛かったんだぞっ!」

 

 なんかこころなしか肌からジュウジュウと音がした気がした。それもゆっくりと消えていって、いつの間にかジクジクと痛んでいた傷痕――噛まれた痕も綺麗に消えていた。

 

 治ってる!? 凄い!

 

「ねぇねぇ! 見てみて! 美少女完全復活ッ!」

 

 私は未だに蹲る比企谷くんに向けて足と手を見せる。蹲ったまま此方を見る比企谷くんは立ち上がり。

 

『……ふぅ、ふーっ、ふひっ。あー、笑った笑った。はぁ……今から風呂に入るからどっかいけよ』

 

 目尻をこすりながら此方に命令してくる。その前にいう言葉があるでしょう! 何様だ、こいつぅ……

 

「はんっ! 君の貧相な身体なんて見たくないけど、どうして私がここをどかなきゃいけないのさ! もっと誠心誠意お願いするところからやり直してよね」

 

『お湯かけるぞ』

 

 ひ、ヒィィっ!? な、なんてことを言うんだこの男……。あれだけ痛がっていた様子を見ておきながら同じ痛みを味合わせようなんて鬼畜陰険野郎だ……。なんたる外道、クソ野郎。

 

 私は舌を出してあっかんべぇーとばかりにお風呂から飛び出る。脅しに屈したわけじゃないし。ほら私って大人だから。こういうので争うなんて子供っぽいことしないわけで。別にお湯にビビってるわけじゃないからね。全然、平気。あんなの我慢できるもん。

 

 お風呂場から脱衣所へ、そこから廊下に出てリビングへ。

 

 今、この家には彼の妹も母親も父親も不在。あと少しすれば妹ちゃんが中学校なるものから帰ってくるであろう時間帯。彼の妹ちゃんを思い出す。そして結論、似てない。

 

 入院中に見舞いに来ていた女の子がそうなのだろう。少なくとも彼女という線は絶対に無い。こっそりと盗み見た、楽しそうに話していた二人の姿を見比べては驚いた記憶が蘇ってくる。

 

 何度も言うが似てない。

 

 少なくとも彼の妹ちゃんはまぁまぁ。私から見てまぁまぁなので世の中ではかなり可愛い方だと思う。まぁ、私に比べたらアオミドロみたいなものだけどね。アオミドロってなんだろ。

 

 そんな彼女の部屋へ侵入し見渡す。小物やインテリアはどこか可愛いものを中心。ファッション誌や雑誌の類が乱雑に置かれていることから片付けは得意じゃないのかもしれない。けれども規則正しく並んでいる参考書みたいな代物を見れば勘違いかも……と思ったけれど、綺麗に並んでいる本の上には埃が溜まっていることを見ればこれ使ってないだけだ! という事実に気づく。

 

 さて、次の部屋ー。

 

 壁をすり抜けて隣の部屋を見れば――うわぁ。

 

 呟いて一言。面白くなさそう。

 

 綺麗に片付いてるのは評価対象だけれど物が少なすぎる。思い出の品を示すものも少なくて、机とベッドの上は彼の性格を示すような代物は一つも存在しない。

 

 小さな本棚を覗いてみると漫画と小説が数冊。押入れの方向を除いてみれば薄暗い暗闇の中から見えたのは積んであるダンボール。あの中に思い出の品とかアルバムとかあるのかな。

 

 けれども触れない私にはどうしようもない。結局のところ大したものが見つからず、リビングへ。

 

 一般家庭よりも収入が多そうな家のリビングにはこれみよがしに存在を主張している存在がある。

 

 それは壁一面の本棚。

 

 大型の本棚は小さな図書館といったばりの蔵書数。両親が無類の本好きなのか、そのジャンルは実用書から娯楽小説まで様々であった。本、一つ一つの値段もそうだけどこの内装にどれくらいのお金がかかったのだろうか、意外と小金持ちだな、比企谷家。

 

 だから部屋の本棚は少なかったのか。このリビングでごろごろしながら本でも読んでいればそりゃあ部屋に戻る必要ないよね。

 

 ……家族仲いいじゃん。

 

 ふと、私はそんなことを思ってしまう。いつだったか。彼が入院中に自虐のように呟いたエピソード、家族間でのトラウマを聞いて私は虐待されてるもんだと思っていたけれども完全に拡大解釈で誇張表現の過大報告。

 

 珍しくも電線に烏が集まっていて、数匹の集団を大袈裟に言って。まるで百羽居たとばかりに装飾盛り盛りで。

 

 嘘つき。

 

 小さく呟いて再び家探しへ。なーんか気に食わない。なんかムカつく。意地悪の一つや二つしてやりたい気分。

 

 そんなことを思いながら入った部屋は――多分、彼の両親の寝室。少し前まで誰かが寝ていたのか布団にくっきりと跡が残っていた。そういえば彼の母親が病院に迎えに来たんだっけ。

 

 ふぅんと色々と物色していると、ふとベッドの近くにある化粧台の上に箱があった。それをよくよく覗き込んで見ると――。

 

「こ、これは!」

 

 ふんふんとパッケージを裏を見て内容物を確認。そしてニンマリと笑顔を浮かべてすぐさまお風呂場へ向かう。

 

 ぷくく、これを聞いたらどんな顔するかな。

 

 脱衣所から風呂場へ飛び込み、私は意気揚々と。

 

「比企谷くん、比企谷くん! お前の両親の寝室にぃぃぃぃぃ!? あっぶな! 何すんのさ! お湯かけないでよ! 今、私にかかるところだったぞ!」

 

 突撃して此方を見上げた瞬間に有無をいわさずにお湯をかけてきやがった。なんたる無礼!

 

『なに? お前、痴女なわけ……? さっさと出てけよ』

 

 ほんのりと濁った湯船の中で急所を隠しながらこっちを睨みつけてくる。

 

「はぁ? 別に君の貧相な身体に貧相なモノなんて興味ないんだけど……自意識過剰じゃない?」

 

 自惚れも大概にしてよね。まったくやれやれだ。

 

『おまっ、俺のモノが貧相だってどうしてわかんだよ! 見たことねーだろ!』

 

「見ーなーくーてーも! わかりますゥ! そもそも使い道なんて無いだろうから貧相であろうがなかろうが関係ないじゃん。そうだね、貧相でなくても問題外だったね。ごーめーんーねー!」

 

 変顔をしながら謝ってあげる。よほどイラッと来たらしく、隠していた手を外して、手指を組み、両親指を此方に向けてきた。あわわ! か、隠せよ、お前! 馬鹿っ!

 

『滅ッ!』

 

 なんかどこかの漫画かアニメみたいな台詞を吐きながら――水を飛ばして来たァ!? 台詞だけは一丁前で鉄砲魚のごときお湯を――危ない、馬鹿め! 私はひゅるりと天井へ逃げて水を避ける。

 

「間抜け、あたるかっての! はーやだやだ、君って頭の回転が悪いよね。私がその程度避けられないとでも……お、おい、やめろよ、桶はずるいでしょ……このクソ短気、あっ! うそうそ! 冗談だから、こ、こ、こうして見ると君ってそこはかとなくいい身体してるよね」

 

 私はその手に持ったものを下ろすかのように交渉する。ふっ、ここまで言えば流石に怒りも収まるだろう。私のような美少女に褒められれば誰だって嬉しいもの。

 

 その証拠に比企谷くんは片手で大事な場所を隠しながら、風呂桶を片手に微笑む。

 

 笑うってことは赦された……?

 

『死ね』

 

「も、もう死んでるってばあああああァァっ!」

 

 振りかぶる瞬間が目に入り慌てて脱衣所へ逃げ帰る。クソぅ、彼の両親の部屋にスキンがあったことを教えてあげようと思ったのに。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 その日の夜。

 

 彼の将来の夢が専業主夫だとか鏡を見たことが無い人間が抜かす戯言を全否定した夜の話。帰ってきたお母さんと妹ちゃんにお風呂場の惨状をこってりと説教されて凹んだ夜の噺で、空から魚が降ってきた夜の御話である。

 

 深夜も深夜、彼の寝息が室内に響く時間帯。隣を除いても妹ちゃんも寝ていて、階下で両親がハッスルすることなく静かな夜の時間帯。

 

 短針は頂点から六十度進んでいて。数時間前までは一方的に駄目だししていたけれど今は布団で寝ているせいか文句の言い甲斐が全くといっていいほど無い。そもそも一方的に会話を終わらせて布団の中で丸くなった男の子は幸せそうに寝ていることだろう。

 

 私は寝ることなんて出来ないのに。

 

「暇だなー、それにしても馬鹿だよねー、塩風呂にお酒と塩とお酢を入れすぎて怒られるなんてバッカだよねぇ、バカバカ」

 

 声をかけても反応はない。つまんない。

 

 私はひゅりと窓枠へ腰掛けて月明かりを眺める。

 

「いいよねー、君たちは。寝ることが出来て。こっちは暇なんだぞぅ。外をお散歩することも出来ないし、夜勤の看護婦の後ろをついて回って暇を潰すこともできない。看護婦ごっこも出来ないって暇なんだぞぅ、そこんところわかってるのかよぉ」

 

 寝入ってるであろう彼へと愚痴をこぼす。あんまり正面きって強く言えないのは、お風呂あがりに彼が除霊悪霊とパソコンで検索していたから。

 

 ……夢の話とか全否定しちゃったけど大丈夫だよね?

 

 いや、でもあれは彼が悪かったし。こっちが完全に正論だったからセーフ! 問題ない問題ない。

 

 とはいえいつもの調子でからかえばもしかしたらあの霧吹きがまた出てくるかも。

 

 お風呂の水を霧吹きにつめ薄めていた。私が何かを言おうとすれば口を此方に向けてきて黙らせようとする。なんて奴だ。

 

 一応、汚れは完全に取れたけどさ。

 

 手の甲と足の指を見る。そこには一切の傷痕も血の跡も残っていなかった。お風呂場に突入した時に大部分は消えていたけれど、少しだけ残っていた跡は霧吹きの水で完全に消えた。

 

 もしかしてそれを狙って? いやいや無い無い。そんな気が利く男の子なんかじゃあない。

 

「鏡でも見て自分の姿が映るのを待っていようかなぁ」

 

 私が出来る暇つぶしの一つ。何時間か待てば数秒だけ映る。何かの条件があるのかわからないが、それでも私の美少女っぷりにうっとりできる素晴らしい暇つぶし。

 

「……暇だなぁ」

 

 止まらない呟き。彼と喋っている時はほんの少し、本当に少し。本当に本当にちょびっとだけ。

 

 楽しい。

 

 も、勿論、彼も私みたいな美少女とおしゃべり出来ているのだから楽しいに決まっている。

 

 病院に居る時はここまで暇なことはまぁまぁ少なかった……少しだけ嘘。看護婦ごっこもすぐに飽きたし、鏡でにらめっこも割と飽き飽きしている。 

 

 今、思えば彼に対して当たりは少しだけ強いかもしれない。だって退院する時に何の躊躇いもなかったし――なし! 今の無し。

 

 今のは嘘。うそうそ。全然、寂しいとかじゃない。別にそういうのじゃなくて。ほら、顔見知りが居なくなるってこう色々とあるでしょう? だからそれが人によって寂しいと思うことなのかもしれないけれど。違う、そんな簡単な言葉じゃない。痛みすら帯びたこの感覚を寂しいだなんて一言で済ませてなんていいわけない。多分怒りとかそっちの方。きっとそう。

 

「君はもうちょっと私に構えよ。なんで他のことを優先するのかな、信じられない。こんなに可愛いのに。こんなに美少女なのに」

 

 私が美少女なのは自覚している。私の特徴はそれだけ。持っているのは名前と可愛いってことだけ。

 

 そういえばまだ会ってから一度も名前を呼んでもらってない。今日、というより昨日は一度も私を呼んでくれていない。

 

 そ、そりゃあ少しくらいはワガママで口が悪いかもしれないけど。けどさ! こんだけ可愛い女の子のワガママや悪口は赦される範囲。むしろこんな私に罵って貰えるならご褒美だよ。

 

 ……しょうがないじゃん。こんな性格なんだし。

 

 一人で自問自答をずっとしていると色々と思うところが出てくる。嫌い、こんな時間嫌い。私に自分を見つめ直す時間なんて必要ない。だって私は悪くないもん。

 

 夜は嫌いだ。夜闇は嫌い。

 

 一人だから、一人ぼっちだから。誰も私に話しかけてくれないから。誰も起きていないから。

 

「暇だなぁ……」

 

 また再びこぼす。この言葉を何度呟いた時に夜は明けるのだろうか。彼は目を覚ますのだろうか――

 

 ――むくり。

 

 そんなことを考えていたら唐突に比企谷くんが布団から這い出て起き上がった。急な動きに驚きの言葉すら出ず、窓枠に腰掛けたまま彼の動きを眺めていた。

 

 てっきりトイレとかそこらへんかと思っていたら鞄を漁り始め。唐突な奇行に目をパチクリとするばかり。夢遊病患者の気質があるのだろうか。やべぇよ、こいつ……。

 

 そんな感じでジトリと睨んでいると机の上にコトリと何かが置かれる。そのままカチャカチャと置いたものを弄っていると――音が聞こえた。

 

 コミカルな音が幽かに響く。

 

 それを確認すれば再び眠たそうに目をこすりながら、布団へ潜り込んでいた。

 

「……」

 

 音源の正体はMP3プレイヤー。彼が病院で偶に使っていたものだと記憶している。電源が入れられて、生きている人間が聞くにはあまりにも心もとない。

 

 机の上に伸びるイヤホン。ひゅるひゅると近づいて音源に耳をあてていればポップな音楽が聞こえた。

 

 こんなの……。こんなことで。

 

 もっと色々とあるんじゃないか、とか。色々とできるんじゃないかとか。憎まれ口を叩こうと彼の背中を睨むものの、月明かりで見える後頭部は此方の言葉を一切受け付けないとばかり。

 

「……べ、別に感謝なんかしないし。君が私に優しくするのは、あ、当たり前だよ、わ、私、美少女だし!」

 

 こんな言葉を投げるつもりじゃなかった。素直に出てこない言葉がもどかしく。別にこんなことで君を好きになったりなんかしない。霧吹きで意地悪されたことも絶対に忘れない。そもそもこんな美少女をさしおいて芋っぽい大女にデレデレしていた今日の君を忘れてやったりなんかしない。

 

 私は彼と背中に合わせにして机に突っ伏す。万が一にも今の顔を見られたくなくて。月明かりにすら盗み見されるのが嫌で。

 

 目を閉じて自然と耳に入ってくる音楽はやはりセンスがなくて。少なくとも美少女や女の子が聞くにしては微妙な選曲で。不満ばっかりある代物であるけれども。

 

 ――いつの間にか日が昇る。あの言葉を一度も呟かずにまた、朝が来た。

 




※次回は四月一日に投稿を予定しています。


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『仲春【一年前:水に纏わる御話・後】』

 終わらない夜が無いように、朝日はいつも通りに昇る。寝れば自然と起きるように生きている人間は必ず起き上がるのだ。

 

 病院でも殆どの人がそうだった。勿論、起きる時間は様々で早朝から元気一杯のおじいちゃん、昼前までぐずぐずと起きない女の子、偶に夕方から寝ては深夜に起きて暴れる人も。

 

 それでも朝が来たのならば起きるのが自然とばかりに彼も――比企谷くんも自然と起き上がる。

 

 音の出ているイヤホンに耳を傾けていた私はのっそりと動き出した彼に対して何て言葉をかけるべきなのか迷ってしまう。

 

 机の上に横になっていた私は目が覚めた彼と視線がバッチリあっては口をパクパクと動かして飲み込んでしまう。それでも声を出そうと試みれば「あー」やら「うー」など私らしからぬ言葉ばかり。

 

 いやいや、少し優しくされたくらいでこの体たらく。なんたる様だ、足山九音。こんなんじゃ数多居る美少女たちの中で最弱チョロ女とか呼ばれちゃう。そんなの許されるわけがない。

 

 自分自身にしっかりと鼓舞を入れ朝一発目の挨拶をかましてやることにした。

 

「こ、こんな美少女の顔を朝から拝めるなんて大した幸運の持ち主みたいだね! この世に私という幽霊が居ることと自分の幸運に感謝するといいさ!」

 

 喉から出たのはそんな言葉。い、いや、そうじゃなくて。私が可愛いのは判ってるし、認めるけど。その、いや、もっと言うべき……いやいや、よくよく考えればお礼とか必要ないし! 別に私がしてとか言ったわけじゃないし。そうだよ! 別に他にも暇つぶしなんてたくさんあるし! 鏡を前に自分が映る瞬間を見逃さないようジッと鏡面見つめ続ける三時間耐久マッチでもしてればよかったんだし! そ、それに私が可愛いから優しくしたくなるのは男として仕方ないもんね。だからアレは下心! 感謝なんてしなくてもいい!

 

「と、ともかくさ! 私が言いたいのはつまり、その、なんだ、あ、えっと、うぅぁ……お、おはよぅ……」

 

 私の身体が温冷の判断すら出来ぬにも関わらず頬に熱が籠もるかのような錯覚。朝の挨拶を絞り出すのに何故、これほどまでに時間がかかったのか。いつもどおりらしくない自分自身に少しばかり腹が立つ。この頬の熱だって錯覚で。もしも錯覚でないとしたら自分の不甲斐なさに対して怒りが湧いているとかそこらへん。きっとそう、そうそう。

 

 そんな私に対して彼は。

 

『……あー、おはようさん』

 

 眠たげに目をこすりながらあっさりと布団から起き上がってはさっさと部屋を出る。

 

「……? …………はぁっ?」

 

 いやいやめっちゃ腹立つ! こう私がめっちゃ悩んだのにナニ簡単にスルーしてんの!? こう私を見てなんか一言とか。もっとほら、こう……あるでしょ! 何故、部屋の中に美少女が!? とかそんなリアクションするべき! もっと私を見てどう思ったとか感想口にしろっ! 

 

 私は部屋を出て、彼を追いかける。階段を降りてトイレへ。流石にトイレに突入するのは躊躇うのでリビングで待つことに。

 

 テーブルの上にはメモとお皿。丁寧にラップがかけられた皿の中にはスクランブルエッグとベーコンと千切りキャベツ。バランス良さそう。

 

 そんな感想を抱きながら用意してある席の真向かいに座り、彼を待つ。

 

 ……おっそい! 遅い遅い遅い!

 

 そして少しして彼がのそのそとリビングに入ってくる。眠たげな瞳で此方をちらりと一瞥したが特に何かを言うわけでもなく着席して食事を摂る。

 

 黙々と食事を摂る。

 

 いや、そうじゃなくてさ! 

 

「ひ、比企谷くん」

 

 頬がひくひくと痙攣する。怒らずに声をかける私はマジガンジー。ガンジーって人のことあんま知らないけど、なんか非暴力とか不服従とかで偉い人だったことは薄っすらと覚えがある。つまりはそれほどまで私は我慢強く偉いというわけだ。

 

 たとえ、呼びかけてめんどくさそうに此方を見る彼にイライラとしても我慢する私は超偉い。めっちゃ渋々といった感じで見てくることにプッツンせずに本当に偉い。

 

 そして、私はこほんと咳払いをして宙に浮き、その場でくるりと一回転。もはや美少女すぎてやばい。完璧に美少女だった。もしもこんな美少女が病院に居たのなら怪我も病気もしていないのに毎日病院へ通っちゃうレベル。あぁ、美少女でごめんなさい。

 

 そしてトドメとばかりにバチコンとウインク。

 

 フッ、勝ったな。ここまでのことをされれば幾ら鈍感なクソ野郎だって私の美少女っぷりを褒め称えずにはいられまい。

 

 そんな美少女光線を受けた張本人は呟く。

 

『え? 何が? こわ……』

 

 あーはいはい。そーくるわけね。そう来たのか。わかるわかる。照れちゃってるんだろうなぁー。素直に私を褒められないんだろうね。けれども私は理解のある女である。全世界の男共の考えてることなど丸わかりなのだ。

 

「出たよ、出た出た。私にはお見通しなんだゾ? 朝から私のような美少女を拝めて嬉しい気持ちはわかってるんだよ。うんうん、恥ずかしいんだよね。でもそういうことはきちんと口に出さないと駄目なんだゾ?」

 

 優しく語りかける。こういうのはきちんと恥ずかしくないことだって教えてあげなきゃね。

 

 しかしそんな私の心遣いに対して出てきた言葉は。

 

『朝からうぜぇ……』

 

 余りにも無体な言葉だった。照れ隠しにしても酷すぎる。あまりにも酷い一言は彼が男としても、人間としても大事な心が欠けている証拠だった。どういう教育を受ければこんな子に育つのか。幾ら私のことが可愛すぎて、素直に褒めるなんてことが出来ない捻くれ者であってもこれだけのお膳立てをすれば可愛いの一言は出てもいいはずで。

 

 つまり、それを言えない比企谷八幡はアレだ。アレなのだ!

 

「この甲斐性なしっ!」

 

『いや、今のどこに甲斐性に関する話があったよ……めんどくせぇ』

 

 それだけを呟いて、ラップのかけられた食事とテーブルの上にあった生食パンを再び食べ始める。

 

 こ、この男……この私を称える権利を放棄して飯を食べ始めやがった。とんでもないやつだ。

 

 ……くそぅ、こいつ、ほんとなんなのさ、これだけの美少女幽霊が憑いておきながら褒めもせず、可愛いなんて口にもせず、挙げ句の果てにはあの変なデカ女に目を奪われるやら顔を真っ赤にするやら。不敬者すぎるでしょ。

 

 私は怒り半分、私を褒めることが出来ないひねくれ者に対して哀れみ半分を抱きながら彼の食事風景を眺める。

 

 ご飯ってどんな味がするんだろ。

 

 少なくとも私が知っている味というものは昨日の水で。苦くてしょっぱいっていう記憶がある。けれどもあれだけじゃないんだろうな。

 

 ふと、そんなことを考えながら時計を見てみれば短針が九を指している。いつものこの時間帯前後は看護士達の申し送りを盗み聞きする時間帯。けれども病院じゃないのでそんなイベントはない。

 

 そもそも高校生は。

 

「ねーねー、比企谷くん。学校は? ニート?」

 

 高校生って朝は学校に行くのが仕事だったよね。八時半位には出席を取らなきゃいけない筈って情報が私の中にはある。場所によっては九時や十時に始まったり、夕方から出席を取る学校もあるらしいけど、彼は違うということを私は知っている。

 

 もしかして高校生という肩書忘れちゃったの? それを失ったらニートいう呼ばれるヤツだ。多分。

 

『自主休校だ。今週までは学校を休むんだよ』

 

「今週って言ったら、今日まだ水曜だよ? しかも土日明けたら大型連休ってヤツなんでしょ?」

 

 リビングの隅にあるカレンダーの五の月は赤の印字が幾つもの並んでいた。病院のナースステーションで大型連休の出勤について骨肉を争うかのように醜い争いをしていたから覚えている。あれで天使とか呼ばれるんだから嗤っちゃうよね。

 

『ふっ……。他の人間があくせく勉強をしている間、優雅に過ごすこの優越感。働かずに食う飯は今日も美味い』

 

 スクランブルエッグを白米にのせ、上から醤油をかけながらドヤ顔で恥知らずな台詞を吐いていた。

 

「でも、君ってば学校滅茶苦茶楽しみにしてたじゃん。めっちゃ新学期にワクワク求めてたじゃん」

 

 私は彼がわざわざ早朝に自転車を飛ばして人よりも早い時間帯に入学式へ向かっていたことを知っている。

 

 この捻くれ者は高校生になるってことを楽しみにしていて、初っ端から躓いたことにショックを受けたという事実を私は聞いていたのだ。一人で呟くかのような、誰にも聞かせないようにしていた独り言を。

 

 だから私だけは知っているのだ、彼がどれだけ楽しみにしていたのかを。だから私はニヤッと嗤って意地悪気に尋ねる。

 

「あっれぇ? もしかして今更びびってる?」

 

『はぁ? びびってねぇし』

 

「はいはい、強がらなくていいよ。私には判ってるから」

 

『あ? 何を勘違いしているのか知らないけどお前の中の話をこっちに押し付けんなよな。そもそもビビリはお前じゃん』

 

 ……カチン。

 

 はーん? ふーん……。ほーん!

 

 そういう態度取っちゃうわけかぁ。こっちが朝から優しく接してあげてたら調子に乗っちゃったかぁ。いやはや、私を怒らせるなんて大したものですよ……。

 

「誰が雑魚だって? ビビリ谷くん! ただでさえ中学校時代のトラウマから猜疑心バリバリな君だ。もしかすれば高校生活の最初の一歩に変わる決意を持っていてそれを挫かれでもしたのならそりゃあビビるよね。ビビリもするよねぇ!」

 

 私の言葉を無視し始めた。けれども聞いてはいるらしく眉間に皺が寄っている。

 

「いい? 無知で無謀で恥知らずで面の皮厚い君に私が真理を教えてあげる――変わるもんか。中学から高校へ進学したとしても。中学時代のトラウマを過去の出来事のように、水に流すかのように綺麗さっぱり忘れて振る舞うつもりでも。何も流れちゃいないし、何も変化していない」

 

 高校デビューという言葉がある。病院に入院していた誰かと誰かが話していたその言葉を聞いて思うのだ。

 

 中学時代に大して目立たなかった人間が高校に入って急に垢抜けたとしも――それは本人が心から変化を起こして行動することでしか成り立たない。

 

 だから比企谷八幡に高校デビューなんてありえない。環境が変わって新しい場所に朝早く行ったところで。本人の心根や考え方が変わっていないのだから何も変化しない。

 

 ましてや急に友人が出来るとか、仲のいい女子が現れるとか、お節介なクラスメートが世話焼きをしてくれるとか、理解してもらえる人物が現れるなんて。無い、絶対に無い。

 

 その全ての事柄において否定する。環境が変わったところで、育っていく場所が変わった所で。本人が何も変わっていなければ何も変わらないのだ。

 

 今まで彼は一度たりとも人を好きになり、恋人を作ろうとしたことはなかったのだろうか。いいや、あった筈だ。けれどもその恋は報われず、想いは叶わず、挙句の果てにはぷちトラウマなんて呼べる黒歴史になっている。

 

 自分が変わりもしないのに、現実がいつの間にか優しい夢物語の世界観へ変貌しているなんてことは夢想、妄想の類。夢を見すぎている哀れな男子高校生に私は事実を口にする。

 

「今まで失敗ばかりしてきた人間が新しい生活で成功できるわけないじゃん。そんなの当たり前」

 

 だから私は君の新しい生活に君の望んだ希みが無いことを指摘した。希望的観測を当たり前のように否定する。楽観視を塞いで、悲観論なんかではない現実的な御話を突きつける。

 

 けれども彼は思うところがあるのか、箸を止めて此方を不機嫌そうに見ながら言った。

 

『それじゃあ、陰気なやつは一生、陰気じゃなきゃいけねぇのかよ』

 

 ポツリと漏れた反論にもならない言葉に私は何を当たり前のことをとばかりに呆れてしまった。何も知らない白痴の君に一つ教えてあげるとしよう。

 

「そうだよ? 陰キャは一生そのまま陰日向を歩くし、気持ち悪いやつは何をしたって気持ち悪い。キモいやつは何をしたってキモいし。もしも必死に頑張っていたとしてもそれはかっこよくもなんともなくて、必死過ぎて引いちゃうだけ。痛々しいやつはいつだって大多数から排除される。なんにも変わりはしないよ。せめて息を殺すことで端っこに存在するのを赦されるのに。皆、仲良くなんて言葉を鵜呑みにして皆の中に混じれるわけないじゃん。優しい世界なんてのはお話の中だけで夢見るのは自由だけどね」

 

 完全に箸をおいていた。

 

「どうしたの? ご飯食べないの?」

 

 食事をやめる理由がとんとわからずに尋ねる。尋ねてみれど、彼が食事を再開する様子はない。睨むには弱々しい視線がまるでこちらが悪いことをしたかのように責めてくる。

 

 当たり前のことを言って何が悪いのだろうか?

 

 こう見えても彼が不快にならないように十二分に言葉を選んだつもり。陰気なやつは死んだほうがマシとまでは言ってないし、キモいやつは死んでほしいと呪詛も漏らしていない。

 

 しかしながら、そんな私の心遣いなどまるで気にせずに彼は此方を責めてくる。

 

『まるで気持ち悪いやつは生きてちゃいけないみたいな言い方だよな』

 

 その言葉に曖昧な笑みが浮かんでしまった。せっかく言わないであげたのに、どうして自分から聞きにいくんだろう。

 

 言うつもりはない、言うつもりはないけれど――思ったりはする。

 

 だって不快な昆虫を見かけた時にこの世からいなくなればいいと思うのは極々、当然のことで。それを口に出さないだけの気遣いをしていたのに。

 

「せっかく気を使ってあげてたのに。私は心優しき女の子で、器量良しの心配りできる女だからね。そこまでは言わないよ。でもね、言わないだけでキモイ、死ねばいいのにって冗談で口にするやつごまんといるじゃん。その言葉はきっと全部が全部嘘じゃないんだよ。自分の知らない場所で、自分が見て居ない場所で、自分が関係ない形で死んでくれたら。これ以上目障りなやつが視界に入らずに済むのにって願望を持つのは自然じゃない? 実際にそいつが死んだとなると悲しむふりをして、悼むふりをしながら心の中で舌を出すだなんて往々にしてありうることだと思うけどね」

 

『……そんなに悪意ばっかの世界じゃねぇだろ』

 

 そんな呟きを私は嘲笑う。

 

「あはっ、この私に悪意に関して説教するの? まるで自分が人間の悪意を知ってます、スペシャリストです、第一人者ですみたいな面しないでくんない? ねぇ、知ってる? 君が入院していた総合病院で死んだお爺さんが居るんだけど、そのお爺さんは死ぬ前日まで病室の外で行われている骨肉の争いを聞いていた。それだけじゃない、セクハラで鬱陶しい患者が容態が急変して亡くなったりもしたけど、亡くなっても悲しむどころか清々したと呟く看護婦が居る始末。君はこの二つに悪意を感じるの? 私はこれだけ酷い現場を見てきても悪意の一つすら感じなかったよ。だって、そこに悪意なんてものは無いんだから。骨肉の争いをお爺さんに聞かせる、けれどもそれは自分の家族の利益を思ってだ。何も知らない人間が勝手に悪意があると想像するんだ、看護婦の件だってそうだ。明日からセクハラされずに済むって考えたら安心したのを他人が聞いたら悪意がある物言いだなんて解釈をする。結局、悪意なんて物は勝手な思い込みで受け取る側の勝手な加害妄想なんだよ、生きてる人間である限りは」

 

 完全に止まった食事。時計の音だけがチクタクチクタクと鳴り響く。

 

「いやー、かわいそかわいそ。例えば一人娘が病気で大金が必要で遺産の分配を譲れない男が必死に言い募っても、他人からしてみればただの遺産相続で揉める金に汚い亡者。何度注意しても止まないセクハラにストレス過多で今にも職場を止めたいところに届いた原因の訃報に漏れた一言は、他人からしてみれば人の心が無い冷血漢。まったくまったく、悪意がある人間だなんて言葉を使いながら最も悪意があるのは悪意を以って見ている側なのにね」

 

『摩り替えるなよ、話を』

 

「摩り替える? 君がまるで悪意について全てを知っているみたいな顔をしていたから脱線したわけじゃん。なら本線に戻して説明してあげるね、比企谷くん、比企谷八幡くん。何も私たちは悪意を以って気持ち悪い奴らに死んでくれなんて思ってないんだ。むしろ純粋に心の底から本当にキモイから消えてくれって思ってるだけなの。見た目が不細工なら不快になるし、汚れた見た目をしていたら不潔に感じる。だから、こいつら消えるか、死なないかななんて願望を私が――いや、私たちが持つのは自由でしょ? 陰キャは陰を歩いて生きてほしいし、見た目がゴキブリは見えないところで勝手にくたばってほしいし、不細工は整形するつもりなら生きてる価値なんてないでしょ、なんて思うのが悪いの?」

 

 私ははっきりと自分の考えを言った。人権? そんなの知らない、そもそも人間じゃないし。

 

 仮に人間だったとしても私が何を信じて、何を思って、何を発言して、誰と仲良くして、誰を差別するのかなんて自由だ。それに反論されたところで興味がない。間違いを指摘されたってどうでもいい。だって、それはそいつの意見や見え方であって、私じゃないのだから。

 

『……お前、本当に悪霊だよな』

 

 彼は断言するかのように、断定するかのように呟く。それがちゃんちゃらおかしくて。

 

「いやいや、こんなことで悪霊なんて断じないでよね。むしろ私は正直者で善良な区分になる意見を言ったつもりなんだけど。君たちだって嫌な奴を死んでしまえ、痛い目を見てしまえ、破滅してしまえって思うでしょ?」

 

『心の底からは思わねぇよ』

 

 比企谷くんのその言葉に私はにんまりと笑顔を浮かべて言う。声を大にして――うそつきと。

 

「う・そ・つ・き! うそつきウソツキ嘘ツキ、嘘吐き! 大嘘吐きだよね! 君は! 本当にどの口で言うんだろうね! 嘘も大嘘! 君たちは物語で嫌な奴が出てきて死んだら胸がスカッとするんでしょ? 嫌なやつが転落していく様を嘲笑うんでしょう? 憎いやつが泣き顔で酷く惨めにみっともなく命乞いをして雑に扱われている瞬間を清清しい気持ちで見るじゃないか! ホラー映画で嫌な奴が出てきたら、そいつの死を予想して死んだらあぁやっぱりとばかりに予測するくせに。何が心の底から思わないだ、嘘吐き。人類の創作物ですらそうなのに、排除されるのに。現実世界で排除できない嫌な奴や嫌いな奴に死ねと願望を抱かないなんて嘘もいい所じゃないか! 死ねとか死ねばいいのにとか一度も思った事が無いだなんて法螺吹き野郎の大嘘じゃないか。狼少年くん」

 

 私が彼の正体を言い当てた時に、彼は椅子から立ち上がり部屋から去ろうとする。その背中に向かって言葉を投げ続ける。

 

「心の底で思わなきゃどこで思うわけ? 心の中で思わなきゃ口に出すくらいしか出来ないじゃん。心から口に出してしまえば、冗談と取り繕わなくてはいけなくて。冗談じゃないとするのなら罰を受けるしかないから。だから心の中で済ませるんだろうがよ。聖人ぶるな、捻くれ者」

 

 そこまで言った所でリビングの入り口から彼が出て行った。テーブルの上には中途半端に残された朝食。

 

 私はにんまりとして残された朝食を見つめる。あー、朝から清清しい気分! うんうん、そうそう、これだよ、これ。

 

 やっぱ比企谷くんはこうでなくっちゃ! 大女相手にラブコメとかしてる姿なんて似合わない。あんなクソダサドブス女相手にきょどきょどして顔真っ赤にするよりかはこうやって私に苛められて顔真っ赤にしているほうがよっぽどいい。

 

 するとすぐさまリビングの扉は再び開かれる。部屋に帰って顔を悔しさと私の美貌に対する照れで真っ赤にしてるのかな? と思ってたら意外とすぐに戻ってきた。

 

「ねぇねぇ、まだ言われたりないの? 癖になっちゃったの? マゾなの?」

 

 私は笑顔でしょうがないなぁとばかりに近づく。目を細めて此方を見る比企谷くんの方へ。そして――。

 

『悪霊退散』

 

「あんぎゃぁあああああッ!?」

 

 顔面に何かが吹きかけられた! 軽くジュゥゥゥゥウと音がする! 必死にぶるぶると顔を振って、彼を睨めば手に持っていたのは霧吹き。昨日の薄めたタイプではなく、分かりやすく髑髏のマークでラベリングされている原液そのもの。塩ぷらす酒ぷらすお酢ぷらす比企谷菌で構成された液体。彼が除霊液と名付けた代物は私の顔面に夥しいダメージを与えてきた。めっちゃジンジンする!

 

「おまっ! 顔はやめろよぉ! 顔は!」

 

 両手で未だにジンジンする顔を擦りながら抗議する。

 

『はんっ、朝から飯が不味くなる話をする方が悪いんだよ』

 

 鼻を鳴らしてそんなことを言った彼はこっちのことなど知るかとばかりに食事を再開した。

 

 何も悪いことしてないし、不味くなるようなことも言ってないのに! 乱暴をした挙句に朝食を食べる彼から少し距離をとってシクシクと涙を零してしまう。

 

 そんな私を心配することなく美味しそうに朝食を取っている彼はなんて男なんだろうか。まるで悪霊を一匹倒したとばかりに清清しい様子で、美味しそうにご飯を食べていた。

 

 う、うらめしぃ……。

 

 そしてご飯を食べ終わって、食器を片付け、窓から差す陽光を浴びながら片手だけで背伸びをする様はまるで爽やかな朝だとばかり。私が恨めしげな視線を送っていることなど気にも留めずに彼は肩をまわしている。

 

『さて、出かけるか』

 

 ソファーの上で睨み付けていると伸びをし終えた彼がそんなことを呟いては部屋に戻っていく。私はつきっ放しのテレビを眺めながらコメンテーターの意見にフンフンと頷く。

 

 わかんないや。

 

 うん、全然、何を言ってるのかわかんない。昨今の政治事情とか経済事情とか言われても本当によくわかんない。主婦だって興味ないでしょ、こんなの。誰が得するんだよとかテレビに文句をつけつつ膝を抱えながらゴロゴロ。そして階段を下りる音が聞こえてきてそのまま玄関へ。いや、こっちに声かけろよ……

 

 私を無視して出かけようとする比企谷くんを追う。ひゅるーっとリビングから廊下へ、そして彼の服装は昨日よりマシ……マシじゃねぇや。なんか昨日の服装と底辺で争うような服装だ。ジャージにジーパン。しかも青と青。上から下まで青ざめている。しかも前を確りと止めているから上から下までほぼ一色。ワントーンどころか完全に一色、青人間。

 

 でも文句を言ったらまた霧吹きで攻撃されるかもしれないし。玄関で靴を履く彼の元へ近寄って、少しだけ説得を試みる。

 

「ね、比企谷くん」

 

『んだよ』

 

「なんでも力で解決するというのは良くないことなんだよ? 痛みを持って相手を黙らせるなんて文明人が行うことじゃないと思うんだ。きちんと対話と云う方式があるのだから、君が私の口を噤ませるのならそっちを取るべきだよ。顔を真っ赤にして暴力を振るうなんてそこらへんに居る不良という名のチンパンジー達と一緒なんだよ? 早く人間になりなよ」

 

 子供に言い聞かせるかのように優しい言葉で説明してあげた。お馬鹿な比企谷くん相手にも判りやすく噛み砕いて説明してあげる私はやはり天使なのではないだろうか? むむむ? もしかして私は幽霊ではなく天使だった? これは急いで検討すべき事項である気がする。

 

『いやお前と話したくもねぇのにベラベラとうるせぇじゃねぇか』

 

「……え? いやいや、こんな美少女とお話したくないって嘘でしょ、またまたぁー……。え? 君、ちゃんとついているの? 大丈夫? 男の子なの? いや、ついてたけど。使うつもりあるの?」

 

『なんで自己評価がそこまで高いんですかねぇ……』

 

 呆れたとばかりに失礼な視線。トントンと軽く靴を鳴らしては玄関から出ていく彼に憑いていく。勿論、これは私の意志ではない。彼とお出かけが嬉しいなんてことは欠片もない。いやいや、本当に。憑かざるを得ないから憑いていくのだ。本当に私って可哀想……。

 

「でも君だって現実で同じようなことを言われて相手を殴ったりするタイプじゃないでしょう? ましてや美少女に毒を吐かれたってリスクを考えて何もできない。でも私にはやっちゃうってことを考えたら、これは私がそんじょそこらの美少女ではないことの証明で、ありあまる魅力が君の支配欲求を刺激しちゃって、男心を擽っちゃったって私は推測するね。すると君は私が好きと云うことになる」

 

 か、かんぺきなりろんだ……!? どこをどうとってもこれいじょうないとばかりのかんぺきなりろん! なにももんだいなし!

 

『自宅で家族以外の女に毒を吐かれたら追い返すに決まってんだろ。追い出せないなら法治国家らしく警察さんの出番だ。警察さんでも対応できないのなら自分でどうにかするしかねぇだろ。ましてや部屋に入ってきてまで罵倒してくるような奴に付き合う程の忍耐力なんて持ち合わせちゃいねぇよ』

 

「……きもい。きもきもきも! 度量ちっさ! 器ちっさ! 兼ね備えておきなよ、そんくらい! あーあー! ちっさい男ぉ!」

 

『俺の器が小さいと判って不快になるくらいなら黙っておけばいいだろ』

 

「それだと私が負けたみたいじゃん! 嫌だよ、そんなの!」

 

 テクテクテクとそんな言い合いをしながら歩く、少し大通りに出れば人目が出てきて会話はそこで完全にストップ。向こうからのボールの返却が完全に無くなったのだ。色々と話しかけても反応すらなく、他人の視線が気になるのか、こっちに目を合わせようともしない。

 

「ねーねー。どこいくの? どこにいくんだってば! 気になるでしょ、教えてよぉ」

 

 先程から何十回と尋ねてみれど一向に返事は無い。無視とかいい度胸。そっちがその気ならどうしてやろう……くそぅ、私に何か能力の一つや二つあってくれれば。才色兼備前代未聞超級美少女という能力に全振りしているせいか他に出来ることが何も無い。

 

 何も出来ないことに歯噛みしつつ彼の後ろをひゅるひゅると憑いていくと、辿りついたのはバス停。時間帯は十時少し過ぎ、郊外へ向かう路線のせいか、もしくは朝の通勤ラッシュも終わっているせいか。バスを待つ人たちは多くはない。平日の昼間ということもあるのか。少なくとも私が見た事のある朝や昼間のバス停の様子は蟻が獲物に群がるように人とバスがごっちゃになっていた。故に珍しいというか初めてみるかのような光景、状況。

 

 勿論、人目が皆無というわけではないので彼が私に向かって話しかけてくることはない。そのままさらに人の少ないバスの待合室へ。

 

「ひーまーだーよー! 暇っ! 比企谷くん、何か芸でもしてよ! ほらっ! ほらほらっ!」

 

 ぱん、ぱんぱんと手を叩いても此方に向けて反応の一つもしてくれない。してくれないくせに聞こえているらしく溜息だけは吐く。

 

 すると誰にも見えない角度で二度ほどポンポンと隣を叩いた。私は大人しくそこへ座ると――彼が携帯を取り出してテレビを流す。角度は見えやすく調節されていて、肩から伸ばされたイヤホンから少しだけ音が漏れている。

 

「……光栄に思いなよ」

 

 頭を肩に預けるかのように乗っける。そこから見えるテレビは時代劇でほぼほぼエンディングが近い。とても偉い人に逆らう小物が仲間を呼ぶ瞬間。こんなもの時間つぶしにもなんないし、面白くも何とも無い。女の子が見るテレビ番組としてはセンスがゴミゴミ。

 

 けど、まぁ、その、まぁ、文句は言わないでおこう。

 

 ふと、彼が今、どんな表情をしているのか想像してみる。多分、この美少女に見とれているか。もしくは顔を真っ赤にして目を逸しているか。ポーカーフェイスを気取って興味ありませんとばかりに強がっているのか。

 

 これはからかうネタに出来るかな?

 

 そう思って見ると、そこには視線をキョロキョロと挙動不審。美少女に照れて挙動不審になるのはまぁ、理解できる。予想の範囲内。

 

 けれど、違う。こう、何かが違う感じ。照れてどうこうじゃない気がする。どうしたよ、君? と尋ねようと喉元まで言葉が装填された瞬間に気づく。

 

「めっちゃ婆見てきてる!」

 

 バスの待合室の対面に座るおばあさんが杖を正面に突き、座ったまま見てきていた。目玉は飛び出さんばかりの勢いで凝視、ガン睨みしてきている。

 

『す、すいません……』

 

 比企谷くんは慌てて携帯のテレビを切って鞄の中へ。どうやら音漏れをババアは睨みで注意してきていたようだ。目は口ほどにものを言う、ババアの睨みは口頭注意よりも遥かに効果的だった。

 

 どう考えても比企谷くんのマナー違反だったので彼は謝ることしかできないようで。居心地の悪い彼にとって蜘蛛の糸のように現れたバス。彼はそれに飛び乗り、一番うしろの席へ。

 

 一息つこうと安堵の溜息を吐いて席に深く腰を下ろす彼の隣へ私は座った。

 

 けれども、カツンカツンとバスの内部に杖が鳴り響く。そして最後部座席前の斜め前に先程と同じババアが座る。そして比企谷くんを睨んでいた。

 

 なんで、こいつこんな目にあってんの……ぷくく、面白すぎでしょ……日頃の行いが悪いからだね。

 

 厄介なお婆さんに絡まれている比企谷くんは全身を緊張させては辛そうな移動時間。結局、バスの終点間際にババアは降車し、そこでようやく安堵の溜息を彼は吐いた。

 

「ねぇ、もう誰も居ないし、そろそろ何処にいくのか教えてくれてもいいでしょー?」

 

 彼は降車ボタンを押しながら小さく呟く。手のひらの中には小さなメモ紙。そこには電光掲示板が示す終点駅と同じ名前が記入されていた。小さくバスの時間とバスの番号もメモられている。

 

『金野さんからの頼まれごとだ』

 

 短く答えたその言葉、誰だっけ、それ……と思い返してみればそういえば昨日の大女の名前がそんな感じだった気がする。そういえば去り際に何かお願いされたんだっけ?

 

「へぇ、仕事早いな君。やっぱ三下だから? そうやって少しでも早く物事をこなさないと怒られるって経験で学んじゃったわけ? 学んだから早く仕事するような癖がついちゃったの? 下っ端根性が根付いちゃってるのかな?」

 

『お前は少しでも素直に認めるってことは出来ねぇのかよ』

 

「比企谷くんはブサイク」

 

『そこは素直に認めんな。口にも出すなよな……あとそこまでブサイクじゃなくない? 顔のパーツとか割と整っていると思うんだが』

 

 だんだんと弱気になる彼の発言にくすくすと笑みが溢れる。そこでバスは停車し、比企谷くんは降りる。その背中に憑いていき私は再度として言葉を投げる。

 

「ねぇねぇ、それって私の顔と見比べても同じ台詞履けちゃうだけ? 私の美貌を前に言えるものなら言ってみなよ」

 

『……お前が美人なのと俺がブサイクなのは直接的な因果関係は関係ないだろ』

 

「ばっかだなぁ。比較対象が私ほどの美人だったら君くらいの顔はブサイクだってジャッジは間逃れないんだよねぇ。私くらいになるとそこら辺を歩いている人は相対的に全員ブサイクだから独りじゃないよ。良かったね。一人ぼっちは寂しいもんね、ブサイク同士で傷のなめあいできるじゃん。うらやましい。でもそれって酷くみっともないから私は可愛く生まれてよかった。あー、美人で良かったー」

 

 ことここに至って、未だに自分はブサイクではないと言い張る彼はもう何も言う気がないのかどんどんと歩みを進める。その間に彼の駄目なところを歌にして歌ったり、捻くれ者の歌を考えて歌ったりした。

 

『っと、ここか』

 

 一時間は歩いてないだろう。それでも結構な時間を歩き回りようやく目的地へ辿り着く。マンションと呼ぶには貧相で、アパートと呼ぶには立派な建物。四階建てのその建築物は一階のエントランスで入門審査があるらしく、オートロックの前で彼は立ち尽くす。

 

『これ、押さなきゃ駄目だよなぁ……』

 

 どうやら彼にとってこの入門審査は非常に面倒くさいらしい。たかだかオートロック一つで何やってんだか。

 

 本人曰く、コミュ障ではないという自己申告があったがこんなことくらいでいちいち躊躇っていては説得力の欠片もない。さっさと部屋番号を押して、用件を言って、手紙を渡すだけ。それだけにも関わらず、彼の指先は数字のボタンを押さずに彷徨う。私はその様子に呆れてつい口を出してしまう。

 

「さっさと押しなよ」

 

『こ、心の準備ってものが、だな』

 

「めんどくさい子だねぇ」

 

 そんな私の言葉が決意を促したのか、それともこれ以上バカにされたくなかったのか。まぁ、どっちでもいいのだけれど、彼はゆっくりと部屋番号を押して深呼吸を挟み呼び出しボタンを押した。

 

 ピンポーンピンポーンと二回軽快な音が鳴って、少し待てば――

 

 ――はい、どちらさま?

 

 女の声だった。若いのか若くないのかよくわからない女の声が響く。その声に彼はびくんと跳ねるように立ち竦んでは忙しなく視線は動き、足は一歩後退していた。やっぱコミュ障じゃん。

 

 ――あの? もしもし!

 

 女の声に少し苛立ちが増している。いつまでも返事をしない比企谷くんに焦れているようだ。おかげで彼も半ばパニックになっている。慌てて手紙を取り出して、オートロックシステムに向けて見せる。残念ながら、カメラ機能は見当たらない。

 

「あ、あの! 手紙を渡せって言われて!」

 

 声も大きければリアクションも大きい。多分、インターフォン越しとはいえそこまで声量は要らない筈。

 

 ――は? 手紙?

 

 比企谷くんの物言いに完全に相手はお客さんに対する態度を崩していた。まったくもって無様極まりない。

 

 ――手紙って何?

 

 威圧的な質問に比企谷くんはビクリと肩を震わせて、一度深呼吸をする。

 

「あの、金野さんから手紙を預かってきました」

 

 ようやくそこでミッションコンプリートとばかりに一仕事したと安堵の溜息を吐く。いや、何も終わっちゃいないでしょ……ちょいちょいコイツ間抜けだよね。インターフォン越しでこれだけビビってるのに対面したらどうなるんだよ、と呆れてしまう。

 

 ――金野……? あぁ、開けるから上に持ってきてくれない?

 

「え? アッ、はい……」

 

 威圧的な声にナチュラルにパシられる比企谷くん。開いたオートロックの扉に慌てて入り、挙動不審に周囲の様子を伺いながら恐る恐るとエレベーター前へ。完全に不審者。

 

 待つ必要もなく開くエレベーター。中へ入って先ほどの部屋番号と頭の文字は同じ階層を選んでは扉を閉める。

 

 うぃんうぃんと動き出すエレベーターの中ではお互いに無言。ナチュラルにパシらされたダサい男の子を見ては、手紙の受け取り主を推測してみる。

 

 女の声か。

 

 女性免疫など殆ど無い男の子である。スムーズにことが進むとは思えず、不安に頭を悩ませていると目的の階層へ。

 

 まぁ、トントン拍子で物事進まなくても比企谷くんの問題だしまぁいいか。そんなことを考えてエレベーターから出た彼の後に憑いていこうとした瞬間。

 

 消える。

 

 唐突に視界から消えて――遅れて聞こえたのは。

 

『ひっ!?』

 

 小さな悲鳴。出処は右。そこには比企谷くんが唐突に視覚から伸ばされた腕に胸ぐら掴まれていた。

 

 余りにも急な出来事に目をパチクリとするばかり。伸びた手は無骨。上下が黒のジャージ、サンダルといったラフな格好の男に彼は胸ぐらを掴まれたまま、ガンを飛ばされていた。

 

 男の顔の造形はまぁ、ブサイク。ただでさえブサイクなのに、頭にはソリコミ、鼻にはピアス、口には煙草。耳にも大量の穴が開いていて。少なくとも比企谷くんとはお友達になれそうな人種ではない。そもそも同じ人類と思いたくないくらいの類人猿。

 

 ジャージの前を開けているのはわざとなのか、前を全開にして肌色が主張している。セックスアピールなのか何なのかよくわからない。私はその不快な光景を見せられて眉を潜める。

 

『んだぁ、ガキじゃねぇか……チッ』

 

 小さく舌打ちをした後に、咥えていた煙草をを共用廊下の排水溝目掛けて捨ててから比企谷くんを投げ放す。

 

 膝をついて咳き込む彼の背後に周り、男を見上げる。

 

 ……なんだ、コイツ。

 

 私は今の彼をみっともないと笑う気にはなれなかった。完全に腰を抜かして涙目で足は震えている様子を。

 

 馬鹿になんてできやしない。手紙を渡そうとしただけなのに、急に話も通じないようなチンパンジーが襲いかかってきたのだ。まるで違う人種、それも彼からしてみれば自分たちとは縁遠いやつら、縁も所縁もなさそうな相手から胸ぐらを掴まれれば誰だって驚く。

 

 それに彼は一ヶ月ちょい前までは中学生。そんな彼が大人で、それも柄の悪い、威圧的な相手に胸ぐらをいきなり掴まれてしまえばビビるのなんて当然で、誰が馬鹿になんてできようか。

 

 少なくともこんな相手に対等な心意気で立ち向かえる中学生が居るのなら。頭が悪いか、危険を察知できない馬鹿だけで。少なくとも彼はそうじゃない。危険に対して身が竦むし、理解できない存在を怖がる。

 

 ましてや片手を怪我している状態なのだから。

 

『……てめぇが金野の知り合いってか?』

 

『あ、え?』

 

 その瞬間に、ガンっとエレベーターの扉が蹴られた。金属音が威嚇するかのように反響し比企谷くんを脅す。

 

 その様子を半笑いで楽しむかのように見下ろす男にイライラと、自分の中で何かが沸き起こる。

 

『あ? 聞いてることにさっさと答えろよ』

 

『あ、き、昨日、金野さんから、手紙を』

 

『さっさと出せ、遅ぇんだよ』

 

 慌てた手付きで握ったままの手紙を渡す。それをひったくるかのように奪う猿。

 

『……おい、金は?』

 

『え? は? いえ、それだけしか預かってないです』

 

『あ゛ぁ? どういうことだ……おい、お前、いつこの手紙を受け取ったんだ?』

 

『き、昨日ですけど』

 

『……どこで?』

 

『あの、公園で』

 

『あ゛公園?』

 

 男はそこまで聞くとめんどくさそうに頭をかいて、ジャージのポケットから煙草を取り出し火をつける。

 

『……ちっ、まぁいい。そんでタツコのやつはどこにいんだ?』

 

 柄の悪い男は見知らぬ名前を口にする。タツコ……? 

 

『た、タツコって金野さんのことですか……?』

 

『決まってんだろ、んで、どこにいんだよ? 家、知ってんだろ?』

 

『え? 家? そ、そのわからないです……』

 

『あー、安心しろ、あいつは元カノなんだよ。だから言っても問題ねーから。さっさと言えや』

 

『え、いや、し、知りません。ちょっと公園で遭ってお世話になっただけで!』

 

『嘘、言ってんじゃねぇぞ。殺すぞ、お前?』

 

 再び胸ぐらを掴まれる比企谷くん。

 

『さっさと言え、舐めてんのか? あ゛?』

 

 男が幾ら凄んでも彼は首を横にふるばかり。そして、一秒、二秒と締め続けられて――解放される。

 

『ちっ、そうかよ……あのクソアマ、見つけたらただじゃおかねぇからな』

 

 再び、地面に向かって咳き込む比企谷くん。男はそのまま、一番奥の部屋に帰っていく。男が扉を潜る直前に見えたネグリジェの女。化粧が濃い女が欠伸を噛み殺して扉を閉める。どうやらずっとこっちの様子を伺っていたようだ。

 

 私はそっと地面で咳き込んでいた彼に声をかける。

 

「えっと、大丈夫……?」

 

 私の問いかけに比企谷くんは反応しない。外れた三角巾から伸びるギプスが弱々しさと痛々しさを感じさせる。馬鹿にしようとか、からかうとか。いつもなら口に出して何かを言う場面なんだけど。決して挙げない顔を、伺えない表情が私の唇を縫い付ける。

 

 目の前で悲惨な交通事故があって、被害者は知り合いで。

 

 けれども今までの軽口が、過去の私の罵倒が。心配を口に出すまいと、通さないとばかりにせり上がる言葉を止める。

 

 言葉に出せないまま。何も言えないまま。そのまま、彼は一人で立ち上がって、独りでエレベーターへ。歩いて乗って、そのまま道路へ。

 

 一人でトボトボと歩く彼、私はその後ろを憑いて回っているだけ。

 

 まるで嵐のような一幕だった。一連の出来事は朝のやり取りや、昨日の夜のことなんて全て壊して。

 

 彼は手紙を渡す前どんな気持ちだったのか。何を予想していたのか。少なくともこんな顛末は想像していなかったに違いない。

 

 海辺の街に潮風が吹く。強い風は彼のバッグを揺らして、天高く昇るお陽様に背くようにふせられた彼の顔は。陰になって決して見せないその顔は。切るのを忘れて伸びた髪は横顔をすら隠して。

 

 隣を歩きながら私は一生懸命、考える。何を言えば良いのか。

 

 高校生活の初っ端に事故に遭い、退院してからこんな目に遭うなんて尽くとしてついてない。間が悪い。

 

 髪の隙間から一瞬だけ見えた瞳はどろどろと死んでいく。淀んで、溶けて、どんよりと沈んでいく。

 

 だから、ろくすっぽに言葉なんて思いついていないのに。私の口から言葉が勝手に飛び出す。

 

「げ、元気だしなよ! た、たかだかDQNにびびらされただけじゃんか。あっ、それともぉ、これだけの美少女の前に情けない格好をしたのが恥ずかしかったとか? 安心しなよ、今更そんな程度で幻滅したりしないから」

 

 仲春の千葉、磯の香りが漂うであろう海辺の道で彼の後ろに憑いてはそんな言葉を口に出す。

 

 励ますなんてことをしたことがなかった。どうすれば慰められるのかなんて考えたことなかった。だから、私にはいつも通りにしか言葉が選べない。それが酷くもどかしい。

 

「で、でもそれって私の前ではカッコつけたいって男心の現れなの? な、なんだよぉ、君。私のこと好きすぎじゃない? もう、仕方ないなぁ、どんだけ私のことが好きなんだよぉ? このこのぉ」

 

 裸足で歩く公道の質感は感じ無い。歩けど歩けど疲れなんてたまらないし、歩くことをやめて宙を泳ぐことも出来る。けれども、揺蕩うこともせずに彼の三歩後ろを歩く。

 

 一人でトボトボと歩く彼の後ろを。一人で、一体で、一匹で、一柱でトボトボと。

 

「……世の中って多分あんな奴らってたくさん居るんだよ。そしてあんな男が良いなんて、好きだって女もたくさん居る。むしろ君の通ってた中学校の女子にあぁいう腕っぷしだけの馬鹿が好きだって女居なかったの? 居るんだよ、君が理解ができなくても」

 

 足が止まる、そして私も。

 

「君があの大女にどんな感情を抱いていたのかは私は知らないよ。知りたくもないし。傍から見てただけだし。春に、仲春に出遭ったミステリアスな年上のお姉さんに憧憬のようなものを君が勝手に抱いたとして。君が想像するような素敵なお姉さんじゃなくて。あんなチンパンジーと付き合っていた、金銭のトラブルがあったなんて過去を知らずに勝手に描いて傷ついたのなら――」

 

 そんな勝手な予測、勝手な願望、勝手な期待は。

 

「それはやっぱり君のせいなんだよ。君が勝手に傷ついているだけ」

 

 そんなのは唯の自傷行為。憧れを勝手に抱いて勝手に幻滅するのは勝手だけれども、それで他人を責めるとするのならばなんと自分勝手なんだろう。

 

 私の言葉に彼は消えるような声で。潮風にかき消されるほどの声で。

 

『……そういうんじゃねぇよ』

 

 ポツリと呟いた言葉は弱々しい。けれども私はその真意を確かめようと思わなかった。彼が何に傷ついて、彼が何が嫌だったのか。もしも私の想像通りで、憧憬が、憧れが、好意が、思慕が、恋慕があったのなら。それを口にされたのなら。

 

 それは凄く、凄く嫌な気分になる。

 

 彼の口からあの大女のことで好意的な台詞を聞きたくなんてない。だから私は深く尋ねない。

 

 別に比企谷くんのことなんて好きでも何でもないけれど。

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

 二十四時間というものは意外と早いもので。嵐のような出来事も一昼夜も経てば遥か昔の過去のこと。

 

 昨日はあの後、まっすに家に帰ってひたすらぼーっとしていた。そして今日も同じようにぼーっとしている。雑に机の置かれた音楽プレイヤーは繰り返しては二十四時間。そろそろ聞き飽きて諳んじて歌えちゃうレベル。

 

 彼本人は読書をしている様相を見せているがページの進みは酷く遅い。完全に読んでいるフリでしかない。

 

 無為にまた今日も一日が終わるのだろう、時刻はすでに夕方。昨日と同じ時間に彼の妹ちゃんが帰ってくるのならそろそろ音が聞こえてきてもおかしくない。

 

『……』

 

 相変わらず視点は動かず、読んでいるフリとしても落第点。こっちからしてみればよくよく観察せずとも判るレベル。そんな様子にイライラとしてきた。

 

 読み進めるのならさっさとページ捲れば? 読まないのならさっさと戻せば? 色々と考えては我慢している。ほんと、私って我慢強くて優しいよね。そんな私の偉大な慈悲など彼は気づいてもいない。

 

「ねぇ、そろそろ失恋のショックから立ち直ったら? あんなの恋でも何でもなくて憧憬みたいなもんでしょ。頭の中世欧州の恋愛観みたいになってるの? 目と目が遭うだけで運命の人だとか歌い出しちゃうの? ロミオとジュリエット? 死ぬじゃん、心中しちゃうじゃん」

 

『だから、そういうんじゃねーって言ってんだろ……』

 

 何度目かの同じようなやりとり。彼は頑なに否定するが、君が助けてもらったお姉さんに憧れを抱いて、そのお姉さんがチンピラみたいなやつに寝取られていたみたいな気分、先に僕が好きだったのにとばかりに欝ってるだけ。そもそも後なんだよなぁ、と呆れ混じりに突っ込みたいが可哀想なのでやめておく。ほんと頭の可哀想な男の子だよね。こんだけ気を使っているなんて知ったらきっと惚れ直すことに違いない。

 

 私っていい女だなぁ……。

 

「ねーねー、いい加減整理しなよ。今日のお昼のワイドショーで言ってたけど男ってどうしてこう昔の女に未練たらたらなの?」

 

『昔も何も付き合っても無いんですけど……』

 

 おっ、そこはちゃんと認識出来てるのか。勝手に自分の中で両想い判定していると思ったよ、失敬失敬。

 

「じゃあなんなのさ? やっぱり近所の憧れのお姉さんが大学のサークルでDQNにどハマリしちゃってるのを目撃したかのような気分なわけ?」

 

『違う……』

 

 また違うって。もう何回繰り返すんだろう、この無意味な問答。男って本当にプライド高いよね。小さく溜息を吐いて、再び私は流れる音楽プレーヤーに耳を傾ける。そろそろ歌詞も覚えたので鼻歌も交えてみる。そして、五分、十分と経った時に。

 

『……なぁ』

 

「ん?」

 

『……お前は今でもやっぱり嫌な奴は死んじまえって思うか?』

 

 比企谷くんの質問は唐突で。急で。あんまり意味がわかんない――嫌な奴……あぁ、昨日のチンピラか。

 

「思う思う、超思う。昨日のチンピラみたいな奴とか社会のゴミくずにしか見えないから誰も居ないところで勝手に産業廃棄物として処理されて勝手に死ねと思うよ。君は思わなかったの? アレだけされて?」

 

『……そこまでじゃねぇけど、多少は』

 

「だよね。流石にそこで否定されたらお前、頭大丈夫? って心配してたよ。あんな脳みそが入っているかも分からない、原始時代の猿だってまだ同種族に対して友好に接するだろうから猿以下の自称人間に一方的に怖い目見せられたんだから死ねってくらい思うよね。思わないって言ったら脳みその感情機能が完全にぶっ壊れてるから病院をおすすめしちゃうよ」

 

 いまさら、そんな当たり前のことを聞いてどうしたんだろう。私は胸をはって嫌な奴は死ねと答える。

 

『お前とか口の悪さから死ねとか思われるだろ。そう思われてたらどうすんだよ』

 

「ハァっ? 馬鹿だね、比企谷くん! 私のような美少女に死ねとか思う奴がいるわけないじゃん。だから目が腐ってるんだよ」

 

『死ね』

 

「お前が死ね! 私は死なない! 生きるッ!」

 

『もう死んでるじゃねーか……生きてねぇよ』

 

 呆れたような瞳で此方を見てくる。いや、そうなんだけど。

 

「はぁ、いいかい、比企谷くん。世間知らずの君にまた一つの真理を教えてあげよう。世の中はね、残念なことに、ひっじょうに! 残念なことに嫌われ者の方が長生きするんだよ。憎まれっ子の方が生き延びたりするんだ。だから、私みたいな美少女で善良な存在は薄命なんだ……私が幽霊なのはそういうことなんだと思うよ……やっぱり足山九音が幽霊なのは間違っていないってわけ。だって私ほどのスーパー美少女だよ? 生まれながらにして命の危険たくさんあったんだろうねぇ、しみじみ」

 

『いや、多分、違ぇわ』

 

 なんか一瞬聞こえたけど無視無視。

 

「まぁ、そんなわけでね。嫌な奴は中々死なないの。映画や漫画じゃあるまいし。死なないから小説や演劇で死んじゃうの。殺しちゃうんだよ、皆。だって現実でそれをやったらアウトだから。禁を破る行為だから。だからありったけの憎悪を込めて創作物で人は嫌なやつを殺すんだ。だから現実でやっちゃ駄目だよ、わかった? おねーさんとの約束だゾ!」

 

『別にお前に言われなくてもする気なんざさらさらねーよ』

 

「本当? でも君、陰キャじゃん。中学時代にウサギとか鶏とか殺してない? そんな噂されたことない? 私だったら同じ中学校に君が通っていたらそれくらいしそうって口に出すね」

 

『ちょっと、やめてくんない? マジでそういうこと言われてたかもとか不安になるじゃねぇか。ほんと、やめろ……』

 

 彼の辟易とした返事に私はくすくすと笑みを零す。少し元気が出てきたのかな? 

 

 そして彼はそのまま本を置いて、顎に手をあてながら瞑目し考え込む。それはまるで自分の記憶の中身を再奏するかのように深く、深く。まるで何かの答えを手繰り寄せるかのような様相。その真剣な横顔を見つめながら何を考えているのか想像する。もしかして本当に中学校で言われてなかったかって振り返ってるのかな?

 

『なぁ、もう一つ質問していいか?』

 

「別にいいけど。でも、今日はやけに積極的に話しかけてくるよね。まぁ、いいんだけど」

 

 やれやれとばかりに肩を竦める。けれどもそんな私の態度は彼の真剣な両の瞳で射抜かれて止まってしまう。

 

「それで? 何が聞きたいの?」

 

『一昨日、そう一昨日だ。俺は玄関を開けたらお前が居た。お前はどうやって、どんな風に来たんだ』

 

 なんだそんな事か。というかなんでそんなことを聞きたがるのだろう。

 

 けれど、私は一昨日の体験を口にする。決して人間では楽しめない、君たちじゃ見る事が出来ない光景を。自慢するかの如く言ってやる。覚えたての詩みたいな現象を比喩に使って。

 

 ――Falls From the Skies. 空からの贈り物。

 

「空から私が降ってきたんだよ」

 

 私の、幽霊だけの、怪異だけの権利を。私はピシッと天井を指差しながら堂々と胸を張って主張した。

 

 

 

~~~~~~~~

 

 

 

 ひきがやはちまん。

 

 比企谷くんの嫌いな部分を述べろと言われたのなら私は少しだけ口が重くなる。

 

 いつも口にしている陰険や不細工といった事は決して彼を嫌いになる要素としては成り立っていないから。もちろん、そんなことを誰かに正直に言うつもりなんてない。キモイとか気持ち悪いとか思うこともあるけどそれで嫌悪や憎悪が沸き起こるわけではない。だから私はその部分だけで物事を言うのならば別に比企谷八幡という男の子を嫌いではないのだ。

 

 確かに嫌いなものを、理解できないものを排除する一派は世の中の大多数だろう。私もその一派の行動理念には一理あると思う。けれどもその気持ち悪いという代物にも程度というものがあって、すべてをすべて切り捨てていたのならきっと人は生きていけないのだろう。人ではない私にすらそう思うのだ、生きている人間は尚更。

 

 だから気持ち悪い、心の底から嫌い、憎いといった代物は限られてくる。

 

 日曜の朝の女児向け番組を楽しみに見ている男子高校生を私は気持ち悪ぅとは思ったけれども存在そのものを全否定するつもりはない。けれども一方で全国ニュースとなる殺人鬼のわけわからない主張を聞いた時は気持ち悪さ、嫌悪感が湧き上がる。少なくとも前者と後者は共に気持ち悪い存在ではあるのだけれど、その種類は別物だということ。

 

 私はたとえ、その殺人鬼がイケメンで仕事も出来て要領もよく人当りが一見良かったとしても相容れない。良い所を見たとしても決して見直したりしない。むしろさらに理解不能に陥るだけ。

 

 けれども比企谷くんは気持ち悪い存在ではあれど、いい所があったのなら見直すし、少しは。ほんの、ほぉんの少しくらいは好きになれるところくらいはあるのかもしれないと思う。

 

 ……言いたいのは私は別に彼がきもくて根暗だから嫌ってるというわけではないこと。悪口や否定的な態度には理由がある、私の、私だけが知っている理由があるのだ、ちゃんと。

 

 ならなんで優しく出来ないのだろうか。

 

 そう、私は決して彼に優しく出来ない。したことがない。優しくなどしたくもない。

 

 自分のことながらそれを理解して、今の所は直すつもりはない――無かった。

 

 私が彼を認められないのは。

 

 一番いやだった部分は。

 

 一番、ムカついて、一番、腹が立って、いっちばん、納得できないことは。

 

 一方的に私を助けておきながら、助けたつもりは無いと言い張って。それでいて困っていても結局一人で何とかしようとして。それでいて――何とか出来てしまうところだ。

 

 まるで自分は一人で生きていけるというばかりの態度が酷く気に食わなかった。私なんて必要ないという態度がとても嫌いだった。

 

 だから、だから、だから。

 

 私は自分が頼られないことが嫌だった。嫌で仕方なかった。

 

 だって……私を唯一。

 

 唯一、私が見える彼が私の存在を否定するかのような態度が。本当に嫌だったのだ。

 

 病院で月明かりを見ていた私を見つけてくれた彼が。一緒に病院の怪異に遭遇した彼が。唯一の話し相手の比企谷八幡が。

 

 何も言わずに私を置いていって、挨拶もせずにさっさと退院するような薄情な彼が大嫌いだ。大嫌いだったのだ。

 

 病院での出来事を一人で解決して、私の心配を他所に無茶をしていて、それでいて気がつけば解決していて、それでいて簡単にさよなら。いいや、さよならすら無かった。

 

 だから嫌い。本当に嫌い。だいっきらい。心の底から憎たらしいし、何度死ねばいいと思ったことか。

 

「ほんっと、やなやつ、やなやつ、やなやつ……やなやつ」

 

 必死に呟く。嫌な奴とまるで自分に言い聞かせるように。

 

 ひゅるひゅると薄暗い廊下を進む。時刻は既に夕方が終わり闇が始まる時間。片付いていない廊下を進み、うっすらと見えたシンクには空き缶がいくつもつまれている。汚い部屋。

 

「あざといにも程があるよね……ほんと、ちくしょう」

 

 闇の衣が姿を隠す。きっと私の表情は見えない。そもそもが私を見る事ができる人なんていないけれど、私を見ることが出来る人なんていま、この場所にはいないけれど。それでも私は今の表情を誰にも何にも見られたくない。

 

 力んでいないと変わりそうな頬が、色の変わっていそうなみみたぶが。自分でもわかるくらいの変化を誰かに見られたくなんてない。

 

「……嬉しくなんかないんだからね。全然、ちっとも、少しも」

 

 嘘。呟いてみて、なんとも空しい嘘なのかと後悔する。誰に聞かれているわけでもないのに口に出してしまう。

 

 口ではどれだけ文句を言っても――。

 

「ッ!?」

 

 鏡に一瞬だけ映った自分の姿が証拠として瞼に焼きつく。なんて顔だ、足山九音。

 

 別に美少女じゃなくなったとかじゃない。ちゃんといつも通りに可愛い顔で、綺麗なお手手におみ足で。それでいて宙に浮かんだ身体を包む病衣が神秘的な雰囲気で。

 

 そこじゃない。そうじゃない。

 

 一瞬、写った顔は――思い出すな、思い出すな。ぶんぶんと頭をふって見なかったことにする。思わなかったことにする。

 

 ――幽霊で良かった、だなんて。

 

 肉体があればとか、生きてればとか考えることはたくさんあった。けれども幽霊で良かっただなんて思うのは間違っている。

 

 でもこの身体が肉の塊でなかったからこそ。幽霊だったからこそ――彼は始めて、私に初めて。

 

 お願いをしてきたのだ。

 

 もしも人の身で出来ることなら彼は自分でやろうとしただろう。けれども人間には決して出来ないことをするのならば――それこそ、私にお願いするしかないのならば。

 

 お願いされて嬉しいと思ってしまった。彼のお願いを心の底から喜んでしまった。彼から必要とされたことが――嬉しかった。

 

 私は別に比企谷くんが好きではないけれど!

 

「……っと、コレ。かなぁ」

 

 私は机の上に広げられた一枚の手紙を見る。その周囲には幾つもの写真や紙切れがあるけれど裏返っていてよく見えない。

 

「……あっ、これっぽい」

 

 手紙の近くにはご丁寧に乱雑に破られた便箋が。一昨日、彼が渡されて。昨日、彼が渡した手紙。

 

 ここは昨日、手紙を渡した男が住んでいた部屋。男も女も留守なようで。

 

 夕方から外に出て。オートロックを侵入するために出てくる人を十数分待ち続けて、それでいて部屋に辿りついたのは数分前。

 

 外で待つ彼は言った――『嫌な奴が死ぬ』ということを。

 

 それが比企谷くんの見解らしい。どうしてそういう結論に至ったのか。痴情のもつれ? お金のもつれ? よくわからないけれど彼にはそういう予感がするとのことらしい。

 

 だからこそ、ここに来て待ち合わせ場所の可能性、手紙の中に何かヒントがあるかもしれないと、わざわざ痛い目にあったこの場所へとやってきたのだ。

 

 彼がそんなことをする理由も、止める理由も――胸が痛む。もしかしてあの大女のため?

 

 チクチク、イライラとしながらも手紙に目を通す。

 

 それとも手紙を渡したからそういうことが起きたとか不要な責任を感じて? 殺人幇助とかわけのわからない理論を展開して? そう、きっとそう。別にあの大女のためとかじゃないよね、きっと。

 

 どうでもいい、そんなことはどうでもいい。

 

 胸を差す痛みも、すぐに消える。

 

 だって私にしか出来ないことだから。私にしか出来ないと言ってくれたから。何度も何度も何度も何度も。

 

 耳の中であの時の言葉が木霊する。

 

 まぁ、彼が私に頭をさげて助けてくださいと頼ったんだ。大女だろうが、嫌な男だろうが助け舟くらいは出してあげる。

 

 一つだけ言っておくと別にこれは比企谷くんが好きだからとかじゃない。別に私は彼が好きなわけではないのだから。

 

 けれども、今は――今は、彼を嫌っていた理由がないこともしっかりと自覚していた。

 

 

 

 

~~~~~~~~

 

 零時前。

 

 時計の針が頂点を指すその時間帯が手紙での待ち合わせ場所だった。指定されていたのはチンピラ猿のアパートから少し歩いた所にある山道沿いの神社。

 

 それが「コンノタツコ」がしていた場所。

 

 比企谷くんは肩掛け鞄に三角巾。黒のフードパーカーに黒のチノパン。山道を歩くためのスニーカー。空いている手には確りと握られた懐中電灯。

 

 照らし出す一本の光は石段を照らす。たった一つの光源では暗闇の中は心もとなく、時折吹く強い潮風は不気味に木々を揺らす。

 

 悪い足場と暗闇で張り詰めた神経は予想以上に比企谷くんの体力を奪っている。

 

「……大丈夫?」

 

「あぁ」

 

 顔は緊張でこわばっている。想像してみれば当たり前か、って結論。

 

 ムカつくことだけど片や憧れのお姉さん。片やチンピラのチンパンジー。その両者の痴話喧嘩、痴情の縺れに関わろうとしてるのだ。わざわざこんな不気味で疲れる場所を歩いてまで。

 

 彼はどんなことを考えているのだろう。内心を知ることも出来なければ、触れられもしないから緊張で鼓動が早くなるのかどうかすら確かめられない。

 

 山中を登っているんだから鼓動が早くなるのは当たり前。運動で心拍数が上がるのは当然の帰結。それでもそれ以外で早鳴っているのか。

 

 そんな彼の姿を眺めて私は言う。

 

「入院中にもっと身体を動かしておくべきだったね。貧相な体つきで一ヶ月も入院生活をしていたんじゃあ基礎体力もないもやしじゃん。すぐに腐って使い物にならなくなるんだからもっと日頃から運動するべきだね、このもやし!」

 

『なんか、お前、罵倒が雑っていうか下手糞になってねぇか?』

 

 荒い息を吐きながら此方を見上げてくる彼は私が下手糞とか抜かして来た。抜かしよる……。

 

「は、はぁ? それ、どこ情報なの! 上手いし! チョー上手いし! 君を馬鹿にさせたら世界一だよ、私は!」

 

『あー、いや、なんつーか。キレがないってか、キレてないっていうか』

 

「いつから私がキレキャラになったよ! そもそも君に対する認識が変わるなんてことありえるわけないでしょ! 自惚れないで! バカっ!」

 

 はいはいと雑に終わらせる比企谷くん。どうも納得していないようだ。

 

 ……確かに! 確かに少しだけキレっていうかちょっと言葉が柔らかいというか。それを指摘されると恥ずかしい。なんだよ、これ。別に君を傷つけるのに躊躇いなんてないし、必要ともしないし、傷ついた君を心配するわけでもないけど。

 

 言ったら傷つくかな? とか考えるなんて実に私らしくない。なんだよ、ほんと。調子狂うなぁ、比企谷くんのくせに。生意気っ!

 

 そっぽを向いて彼を盗み見る。ほんと、こいつ何だよ。イライラする。こいつは駄目な奴だ。駄目な男だ。何というか、その……非常に間が悪い。

 

 間が悪いのだ、本当に。

 

 こういう男が成長したらどうなるのかなんて考えたくもない。きっと悪いやつになる。悪い男になる。そう考えると私が一昨日否定した彼の夢はまさにファインプレイ。

 

 世の中の女性を救ったといっても過言ではない。こんな間が悪くするりと心に入ってくるようなやつは女の敵だ。間違いない。

 

 入院していた女の子が読んでいた雑誌の中に恋愛必勝コラム、間を制するものが勝つなんてあったけれど実にその通りなのかもしれない。

 

 例えばの話。

 

 社会に出て上司にも認めてもらえず部下も舐めたやつが多い職場で休日はアルコール浸りの女性が居たとしよう。そんな女性がふとした切っ掛け、ふとした言葉で満たされてしまったのならば。相手への好意や手順や積み重ねをふっとばして恋慕を抱くなんてことは往々とある。

 

 要は肝心なのはタイミングなんだろう。必要としているときに、飢えている時に。するりと現れたのなら。

 

 それはもうどうしようもないのだ。確かに顔の偏差値もそうだろう、機知の効いた会話やノリの良さも必要なのかもしれない。けれども最終的なのはタイミングってのは今の私は思ってしまう。

 

 ちょっと間が悪ければ、間が良ければ。理想視していた男性よりもタイミングのあった相手に惹かれて、落ちてしまうこともきっとある。

 

 いやぁ、私じゃなかったら危ないところだった。ほんとほんと。私みたいな思慮深くて素敵な女は天然とも呼べる攻勢に大してくらりと来ることはあっったとしても全力でガードできるのだ。それが美少女たる私が常に高値の花である理由。

 

 ほんとほんと。別に全然意識なんてしていないし、普段から誰にも頼らないと強がっている彼が頼ってきたところで嬉しいとか思っても、別にそれがどーのこーのなるわけじゃない。いやいやほんとほんと。

 

 そんな私の、少し乱された、ほぉんの少しだけ乱された内心のことなど欠片も知らない彼はどんどんと階段を昇る。

 

 山の途中に建てられた神社の石段は月明かりすら遮っている。頼りない灯火だけで一歩、一歩と昇っていると。

 

『……見えた』

 

 彼の呟きの通りに見上げた先にはうっすらと光が見える。そして、ゆっくりゆっくり足を進めていけば鳥居へ。そこから一歩と踏み出せば境内へ。

 

 境内の中には篝火が二本だけ。入り口近くにあるというのだから奥の社周辺は未だに真っ暗闇。

 

 そんな闇の世界に一人の影が浮かんで見える。その影は空を見上げて誰かを待つかのように。

 

 影の正体は背中。背中の黒く長い髪、そして片手には巾着袋。足元はサンダルで青い着物。

 

 あの大女だと気づくまでには時間は要らなかった。

 

「……こんばんは、比企谷くん」

 

 女は背を向けたまま、此方も見ずにそう言ってきた。それがますます不気味で、すでに春も中頃だというのに酷く寒いと感じてしまう。体温など無く、寒暖差すら感じない私ですら精神的にそんな恐怖を覚えてしまうのだ。

 

 帰りたい。そんな言葉が漏れそうになった瞬間に。

 

『……こんばんは、金野さん』

 

 比企谷くんは闇の中心に居る女へ、一歩、二歩と近づいていく。しかし、そこでピタリと足は止まって。まるで足が縫い付けられたかのように。よくよく見れば足は震えていて。

 

「どうかしましたか?」

 

 振り向いたであろう女。けれども闇が表情を隠す。不気味で、ヒュぅっと吹いた風が身体の体温を奪うかのように。

 

『金野さん、一つ聞いていいですか?』

 

 声は震えていた。震えながらも確りとコンノタツコに向けて問いかける。

 

「えぇ、勿論。何かわからないことがありましたら答えましょう」

 

 おかしな雰囲気、おかしな状態。私達はあの女とその元カレの痴情の縺れを止めに来たわけじゃないのか? なんであの男は居ないのか。いや待ち合わせ時間よりも少し早いから、もしかしたらこれから来るのかも。

 

『狙ったのはあのカップルの男ですか……? それとも俺ですか?』

 

 比企谷くんの発言に思考が止まる。何を言っているのか。君が狙われる理由なんてないだろう。この女が待っていたのはあの男で、あの嫌な奴、君が嫌いな嫌な奴を殺す準備をしているからそれを止めに来ただけで。

 

 私達は嫌なヤツが殺されるのを止めに来ただけなのに。

 

 確かに君は嫌なヤツだけど。比企谷くんが、比企谷八幡が嫌なヤツなのは認める。大いに認める。

 

 けれどもそれは私から見てであって、あの大女は別だろう。あれだけお互いに話があって、お互いに仲良くしてて、オカルト談義で盛り上がって。

 

 だから君が狙われる理由なんてないのに。

 

『それとも……それとも』

 

 彼は言いよどむ。何を躊躇っているのか。何が起きているのか。わからない。

 

『……足山、あしやまくおんを貴方は殺そうとしているんですか?』

 

 呼吸が止まる。生きてなどいないにも関わらず、呼吸なんてしなくてもいいにも関わらず。吸い込んだ息が喉元でヒュッと鳴った気がした。

 

「そう、ですね……そう。彼らはそう、手遅れだから何の意味もないんですよ。そう、君が言った通り、私は彼らを殺したかった。けれど、それに君たちは必要なかった。けれども狙っていたというのならそうでしょう。でも安心してください、ちゃんと女の方は殺しましたから」

 

 何でもないことのように、当然のことだとばかりに殺した漏らす。女の顔は見えない、霊体であるにも関わらず、私は酷く寒くて、両肩を抱いてその場に蹲って。

 

 怖い。

 

 怖い怖い怖い。

 

「に、逃げたとか殺したとか、う、嘘だよ! だってこの時間帯にこの場所で待ち合わせしたじゃん!」

 

「なるほど、その様子じゃ私がどんな手紙を送ったのかまでは知らないようですね。てっきり中身を渡す前に君たちが見たから此処に来たと思ったのですが」

 

 その言葉に比企谷くんは足を一歩引く。そして言う。

 

『元々、俺達をおびき出すために?』

 

「いいえ、違いますよ。けれど約束を破った相手に、禁を破った相手が罰を受けるのは当然でしょう。ましてや怪異絡みの出来事なのだから」

 

『だったら! だったらーー俺達は! 俺も足山も何も破っていない。いないから、見逃してください』

 

 わからない、わからない。何を話しているのか。

 

「で、でもなんで!? あの手紙の内容だったらあの男たちが逃げる必要なんてーー」

 

『手紙だけじゃ無かったんだろ。あの男たちが内容を見て逃げるには十分の代物がきっとあったんだ。そして、多分、俺達は、あの手紙は渡しても、渡さなくても良かったんだ……』

 

「いいえ、違いますよ。君が、君たちが届けてくれたからわたしは計画を早めに実行できたのです。ありがとうございます」

 

 寒々しい御礼。その瞬間、何かが鼻の中を刺激する。あぁ、これを臭いだ。臭いってやつだ。つい先日、同じ感覚を味わったばかりの私は間違う筈もなかった。

 

『摩り替えないでください。話を、論点を。俺は良いんです、あの二人がどうなろうが、どうなっただろうが……ここに来ないってことは俺に出来ることなんてなくて、そもそも手紙を渡したくらいでどうにかなるんだったら俺にはどうしようも無かった。だから、そんなことはどうでもいい』

 

 彼はそんな言葉を呟いていた。嘘だ、嘘つき。

 

 震える膝に指の跡がくっきりとつくほどに力を込めておいてその台詞は嘘。

 

『……手紙の中身を、禁を破らせて殺したかったのは。狙いは違ったんでしょう』

 

 その瞬間、響く。

 

 うふっ。あはっ。あははははっ。ひぁっ、ひははははっ。ひひひひひっ、うふふふふふっ、いひひひっ、あはっ、ひゃっ、あははははははハハハはははははは。

 

 嫌な笑い声が境内に響き渡る。げらげらと、げらげらげらと。不快な音。深夜とも呼べる時間帯で嗤う女が気持ち悪くて仕方ない。

 

 あぁ、この気持ち悪さは受け入れられない。間違いなく害あるもので、間違いなく嫌悪すべき対象で、唾棄すべき存在。恐怖を呼び起こすような気持ち悪い笑い声を私は決して受け入れない。受け入れられない。

 

「良いッ。あなたはイイですね。比企谷くん、比企谷八幡くんっ! 本当に羨ましい。私も見たかった、私もそんなふうになりたかった。そんな風に機知を働かせて、物語の主人公のように、ミステリーに出てくる探偵のように、怪異に対するスペシャリストとばかりにっ! 私もっ、私も私も私もぉ! そんなふうに怪現象と遭遇したかったっ!」

 

 意味、がわからなかった。理解できない。理解が及ばない。

 

 一昨日、石を投げて魚を追い払った女の。怪異に対する深い知識を持つ女の。比企谷くんとは違いどんな幽霊でも見れる女の。オカルト好きでオカルトに対抗策を持っていてスペシャリストと呼ぶならそっちの方が――。

 

『あ、足山は悪い幽霊じゃないんです。性格が悪くても、口が悪くとも。ただそれだけで、無害で、何の力も無い。貴方の敵になるような存在じゃないんです。あなたを害すような――』

 

「そうッ! そういう思考を、機転を回せるのが羨ましい。理解しているとばかりに言い訳をするのが好ましい、何をどうすればいいのかと解決策を選んで口を開く態度が妬ましい。いいな、いいなぁ、いいなぁ、いいなぁ! イイナァ! 私もそうなりたかった! そうありたかった! そうであるべきだった! そうなるべきだった! そうすればそうすればそうすればそうすればァ! そうすれば……そうすれば、そう、すれば……男に溺れずに、死なずに、シヌなンテしなカッたのニ」

 

 しぬなんてしなかったのに。死ぬなんてしなかったのに。死ぬ、死んでいる……? 死んでいて、でも目の前に居て、間違いなく生きていて。

 

 肉の身体があるから化け物じゃないなんて。

 

 私は。

 

 間抜け、大間抜け。今更ながら理解した。嫌なやつは死ななきゃいけない、嫌いなやつは殺される。殺されるのは誰、殺そうとしていたのは誰。生きてなんかいないから、殺されるなんて思ってなくて。命もないのに、それを奪われようとしていたのは。

 

「どうしてどうしてドウしてドウシテどうしてわかったのですか?」

 

 一歩と女が近づいてくる。先程飛び込んできた生臭さが強烈に増す。あまりの臭気にまるで人間のように私は鼻と口を抑えてしまう。

 

 そして見えた。

 

 ぴちょぴちょと、水を垂らしながら近づいてくる女の顔がようやく見えた。

 

「――ッぅ!?」

 

 抑えていたおかげで漏れた悲鳴は小さく。それでも今すぐにでも目をそむけたい程の醜さ。

 

 膨らんでいた、どこまでも、ブクブクと。ブクブクに膨らんだ顔は肉で、肉だけで出来た顔だった。

 

 眼球は肉で埋まり、膨張した唇はおぞましく。近づけ近づくほどにわかる。着物が見苦しいまでに膨らんだ肢体。足首や胸元からはあまりにも醜く太った肉がはみ出していて。

 

 おぞましい、おぞましいまでの化け物。人の形すら殆ど残していない存在。

 

『お、俺の名前に仮に意味があったとして、怪異に出遭ったことからそういう噂が近寄ってきて、それでいて現在進行形でっ、幽霊に憑かれていたとしてもっ……魚に遭う理由がない、俺が出遭う原因がない。そんな偶然なんか信じちゃいない。病院の幽霊達は噂があった、噂を聞いた、だから――きっと出遭った。なのに、唐突に襲われて、俺を助けてくれるなんて。誰かが俺を助てくれるなんて、優しくしてくれるなんて信じない』

 

 近づかれた分だけ彼は足を後退させる。

 

『凡庸で、平凡で、一回遭っただけの俺が何かを呼び寄せるのならっ、相応の理由があって。でも、俺には心当たりが無い。俺なんかが遭う理由なんかよりも、よっぽど……よっぽど、判りやすい理由があった。俺を助けてくれる理由があったわけじゃなくて、足山九音が狙われる理由の方が遥かに説得力があって判りやすい』

 

 異臭がどんどんと酷くなる、肉塊にしか見えないひとがたはずるっと、ずるっと引きずるような音でゆっくりと、ゆっくりと。

 

『俺が置いていったから、憑かれているなんて判らずに置いていったから。その目立つ容姿は狙われてるとも知らずに、誰かから憎悪を抱かれてるとも知らずに空を散歩していて。俺が退院したのは朝一で、母に連れられてこの近隣で食事をして、食事が終わってようやく家に辿りついた。だから正午に足山は現れた、俺の家の前に降り立った、俺の家で待っていたわけじゃなくて、俺の後を憑けていた』

 

 彷徨い続けた果て。地理も知らぬ私はこの界隈を飛んでいたことなどすっかり忘れていて。

 

『あんたが、あんたのその姿がッ! その姿が怪異としての本質を現すならっ、足山九音は許されるわけがない。うらやましい程に、妬ましい程に、見蕩れる程に、魅入られる程に、そして憎憎しいまでに綺麗な理由の方がよっぽど説明がつく。だって、俺たちを襲ったのは害意なんだから。悪意なんだから。嫉妬や憎悪は十分に理由となる。俺が、俺なんかが誰かに優しくされるなんてことよりかは、よっぽど』

 

 唾を飲む音が響く。これが自分のものだとは遅れて気づいた。普段は褒めてやくれないくせに、こんな場面で、素直な言葉が飛び出していて。本当だったら嬉しい筈なのに。いつも憎まれ口を叩く彼がその言葉を言ってくれた、そう思ってくれていた。

 

 違う、そうじゃない。

 

 比企谷八幡は、唯の事実としてそう言っているだけなのだ。客観的事実として口にしているだけで。決して心から出た想いなんかじゃない。だから、その言葉が酷く空しくて悲しい。

 

『怪異、怪現象に遭遇して。俺を助けてくれて。俺に優しくしてくれて。あれこれ手ほどきをしてくれる女の人が現れる。そんなご都合主義よりかは、醜い化物に美しい幽霊が妬まれ、嫉まれ、恨まれ、狙われた。ただ空を散歩しているつもりの間抜けが要らぬ恨みを買っていた方がよっぽど筋が通る、筋書きがある』

 

 彼はまた一歩下がる。とうとう動けなかった私のところにまでたどり着き、そして私も彼が後退するのと同時に一歩下がる。五歩圏内にいる化物は腫れぼった唇からブクブクと白い泡を飛ばしながら、にたにたと笑みを作っていた。

 

「……そう、そうですね。容姿の良い彼女が一目見た時にうらやましかった。何も知らずに空を飛んでいる姿を見て痛めつけようと思った。幽霊だからとかそんなの関係ない。ただそこにいるだけで不快な存在でした。つまり、それ、そいつ、そこの、貴女、お前が気に入らない。顔が整っているのが、顔が綺麗なことが、顔が良いだけなのが。気に入らない、気に入らない、気に入らない。まったくもって気に入らない。そして――貴方も」

 

 殺意が分割される。全方向と受け取っていた粘ついた意思が比企谷くんにも分けられる。

 

「あなたは顔がいいから助けたのでしょう。そこの女が綺麗だったから。綺麗だから一緒に居る。だったら私は? 私なら助けないでしょ、気味悪がるでしょう、醜いと罵るでしょう。男って所詮、そんなもの」

 

 水が近づく、落ちる水滴が近づいてくる。女の着物からボタボタボタと水が零れて地に溜まっていく。

 

「一つ提案をしましょう。比企谷くん。君は見逃してあげます。見逃してあげるんです。けれど、そこの幽霊は置いていきなさい。そもそもが幽霊なんて憑れて歩いているほうが間違っている。そんなの誰だってわかること。だからその女を置いていけ」

 

 幽霊が一緒なんてものは間違っている。そんなのは誰だって分かっていること、ましてや仲良くなんてなっていけない。生と死が戯れてはならないように。私と比企谷くんが一緒なのは間違っている。

 

 だから、だから――見捨てても仕方ない。しょうがない。見捨てられることはたくさんしてきた。たくさんの悪口を言ってきた。

 

 きっと彼に暴力を振るった男も女を差し出せと言われたら差し出すだろう。誰だって自分の命が一番だ、それは当然だ。生きている人間同士ですらそうなのに。

 

 自分の身を守れもしないのに、誰かを助けようなんてしちゃいけない。

 

 だけど、何でだろう。なんでなんだろう。私には確信があって。初めてのことなのに、初めて見た選択なのに。私は彼の言うであろう言葉の方向性をうっすらと理解してしまった。

 

『……俺とあんたを一緒にしないでくれ』

 

 ポツリと零れた呟きに私は思ってしまった。思ってしまったのだ、やっぱり、と。それでいて――沸いてくるのは。

 

『別に顔がいいから助けたわけじゃない。そもそもが耳障りに助けろ助けろって言うから助けただけで、顔が良いとか悪いとか考える暇なんてあんのかよ。あそこで俺が見捨てたら俺が嫌だろうが、こいつのために頑張ったとか誰かのために頑張ったとか全然お門違いなんだよ。俺は俺のために頑張ったのに、どうしてそれを人のためだとか、あいつの為だとか、誰かの為だとか奪うんだよ』

 

 その慟哭にも似た叫びは――。

 

『仲良くしてる誰かしか助けちゃ駄目なのかよ、好きな者同士しか助けたら駄目なのかよ、一人ぼっちの人間が誰かを助けるのに他の誰かの許可が必要なのかよっ、理由が必要なのかよ!』

 

 声を震わせながら、恐怖に震えていても。曲げない、彼は決して曲がらない。賞賛されたくてやったわけじゃないのに、誰かに褒められたくてやったわけではないのに、誰かに認められたくてやったわけなんかじゃないのに。

 

 周りが勝手にそう思う。そう思われることが苦痛で仕方ないとばかりに言い放つ。知ったような顔で、知った風な口を利く眼前の相手が不快とばかりに言い放つ。その気迫は――彼女の足を後退させる。そして化物は自分の足元を見て。

 

「もういいっ! 黙って、もう聞きたくなんてない! 黙って口を閉じて、そのまま、そのマまァ!」

 

 ぐぱりと開く。眼前にまで近づいていた巨大な肉塊が唇の稼動域を超えて捕食するかのごとく開かれる。

 

 酷い臭いだった。腐り果てた臭い。吐かれた吐息は腐りきっていて。その瞬間、懐中電灯が消える。光源は石灯篭の中にうっすらと光る篝火だけ。何が起こったのか――。

 

「――ッ! あ゛あああああああああああッ」

 

 絶叫が響く。境内に響く絶叫が目の前から。地を鳴らす足音が聞こえて、遠ざかっていく。目の前にまで近づいて居た化け物が二歩、三歩と後退しては断末魔のような叫びをあげる。同時に、何かが。しゅわしゅわと炭酸の空気が抜けるかのような音が絶叫と混じり合っては不協和音を奏でる。

 

『ッ、ハァ、ハァッ……』

 

 荒い呼吸が目の前から響く。そして彼は足元の懐中時計を。同時に捨てるかのように置かれたのは空のペットボトル。強引にはずされた霧吹きの蓋も一緒に地面に転がっていて。

 

 あの化物はこの中身を諸に食らったのだ。その証拠に顔を地面にこすりつけるかのように、地で、泥で顔を洗うかのようにこすりつける。それでも絶叫は止まず、境内の中で反響するかのように大きく響き渡る。

 

『ッ!』

 

 続け様に鞄からペットボトルをもう一本取り出して、ギブスのついている腕の指先で強引に取って、蓋を開いたまま化物に近寄っていく。

 

「いや、いやだ、こないで、くるな、くるなくるな、来ないでくださいっ!」

 

 懇願する化物の声に比企谷くんの動きが一瞬、止まる。それでも躊躇いを消してまた一歩と近づいた時に。

 

 生えた。

 

 シルエットしか見えない。暗闇の中では大雑把な影絵だけ。けれども、その絵の中で比企谷くんの腹部に一本の細長い棒が生えていた――瞬間、絶叫。女の声ではなく。比企谷くんの。

 

「あ、え、え――え?」

 

 なんでどうしてどうしてどうして? 何が起こってるの、何が起こったの? ぐらりと揺れて、近づいてトドメをさそうとしていた男の子の体が地に沈む。

 

「ッ、ぅ……あァ、痛い、痛い、いたいいたいいたいいたい」

 

 化物は痛みを口から言葉として零しながらふらふらと立ち上がって顔を抑えながら唯々繰り返す。消えた明かりに目が慣れて、うっすらと理由が見え始める。

 

「あぁ、ほんとに痛い、これは、あぁ……塩水、いえお酢に塩、酒……それもかなり高価な。あぁ、そりゃあ効きますよ、これは効きます。ほんと、素晴らしいですね、ほんと、あぁ、痛む……」

 

 顔を抑えて立ち上がる女の腕は肉が溶けて骨が見えていた。そしてその鋭利な骨の先にはべっとりとついた血の痕。

 

「あぁ、痛い……こんなこと予定になかったのですが」

 

 動けない、動けない。怖い。怖くて動けない。彼が倒れている場所に近づくことすら出来ない。あの化け物が真横に立っていて。本能が私を動かさないように引き止める。自分が消えることへの恐怖が、一昨日の痛みが。警鐘を打ち鳴らす。本能のままに、本能に抗えず、私は立ちつくす。まるで生きている人間みたいに。

 

「……あはァ、どちらから殺しましょうか」

 

 溶けて頭蓋骨が、埋まっていた眼球が此方を睨み付ける。

 

 動けない、怖い、動けない、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い嫌だ怖い嫌だ怖い嫌だ怖い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ逃げろ嫌だ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ――ニゲロ。

 

 頭の中で鐘が鳴り響き、地に着く足などないのに、一歩下がる。死んでいるにも関わらず、死に目に対して怯えてみっともなく生者の如く生き足掻こうとする。

 

「……ふぅ、あぁ、駄目ですね。あぁ、これは駄目です。致死量ですね、ほんと凄い。もっともっとたくさん殺すつもりだったのに、もっともっとたくさん恐怖を与える筈だったのに。あはっ、殺せたのはたった二人。あの女も殺したし、あの男はもうどうにもならない。そしてこの子も殺した。もう、思い残すこともないですね……ふふっ、最後に私が手に入れられなかったものを持っている男の子を殺すとしましょう、アレはもういい、もういいや、もう、どうでもいいや、あははっ、あははははっ」

 

 化物は私を一度見て、そして再び比企谷くんを見る。そして私のことはどうでもいいと言った。もう、どうでもいいって。

 

 助かった、自分だけは助かったという事実に安堵していた。心の底から喜んでしまった。

 

「……貴女、本当に無様ですね」

 

 化け物が呟く。こちらを見もせずに。勝ち誇ったかのように嗤って。

 

「幽霊として何一つとして出来ない。霊としてそこにあるだけ。善霊でもなければ、守護霊でもない。悪霊でもなければ、怨霊なんてなれやしない。綺麗な見てくれも無様でみっともなくて。今のあなた綺麗だなんてとんでもない。ただの不細工、幽霊として不出来の落ち零れ。ふふっ、みっともなぁい、涙に鼻水たらして、あははは、ざまぁないです」

 

 クスクスと嗤われる。見下されて嗤われる。馬鹿にされて嗤われる。それでもいい、どうでもいいからと納得している自分が居る。助かるのならそれでいいとすら思ってしまう。

 

『……ざ、けんな、ふざ、けんな』

 

 突っ伏したままの男の子。彼は搾り出すかのように言う。未だに蹲って、お腹を押さえて、流れ出る血は手で抑えたところで止められなくて。今にも殺されそうなのに、今にも死にそうなのに。彼は否定する、化物を、化物の嘲笑を。

 

 媚びれば助かるかもしれないのに、命乞いをすれば助かるかもしれないのに、私を差し出せば助かっていたのに。

 

 それでも彼は斜に構えたかのように否定的で、正しいありかたなんてものには興味なくて。ただ愚直に己が言葉を絞りだす。

 

『何が、無様だ、何がざまぁないだ。無様で様無しなのはあんだ、だろッ! どうせ、あんたみたいな女はずっとボッチだったんだ、小中高と、大学でも。陰険でクラスでも居場所がなくて、はぶられて、馬鹿にされてて』

 

 一歩、女が彼に近づく。瞳が空ろで、もはや自分で何を言っているのかわからない彼に向けてゆっくりと。

 

「……それが? もう、そんなことどうでもいいです。確かに貴方の言うとおりの人生だったとして。それを指摘されたところでどうとも思いません」

 

『どうとでも思ったから溺れたんだろうが、一人で居る自分を認められなくて、一人で頑張った自分を誇ってやれなくてッ……男相手に溺れてたって言った癖にッ、それを後悔している癖に、化物になって呟いてしまうくらい、未練がましく綺麗だったのならって恨んでしまうくらいに!』

 

 荒い声に混じって、歪な呼吸音が聞こえる。空気を吸おうともがいているにも関わらず、空気を吸えない、吸い込めないとばかりに。

 

「あっ――ッハァッ!? あ、あがこうと、あがこうとするアイツを見て、死にたくない、消えたくないって足掻こうとする相手を見て無様? 鏡見て言ってみろよ、あんた」

 

 異常な呼吸音。それでも命のシグナルを無視して、彼は言葉を続ける。もはやボリュームなど気にも出来ずに、力の限り、振り絞るかのように。

 

「あんたの恨みは筋違いなんだよ。恨むんなら恨めよ、自分を殺した自分を! あんたは殺されたんじゃない、自分で死んだんだ! 何が恨みだ、何が怨念だ。自分を一番恨むべきで、人に害を為すなんて筋が違うだろ、うが、よ……ッ」

 

 一歩、と近づく。そしてまた一歩。

 

 彼が見上げる化物は黙って聞きいっていた。見上げた顔には脂汗がびっしりと。それでいて眼球は既に焦点があっておらず、瞳孔が開きはじめている、苦悶を、痛みを押さえ込むためについた下唇の歯形は皮を破いて痛々しく。そして痛みに歪む顔からは搾り出した声は自分の命を燃料にして。

 

 どうして――どうして、彼は。

 

 彼は、比企谷八幡は――尚も「コンノタツコ」を救おうとしているのか。彼女の未練の正体を、思い違いを、勘違いを、道理を、正しさを、正論を、正当性をぶつけて。死者と、化物となった存在と対話しようと試みるのか。

 

 ふよふよと浮かぶ感覚。今までにないほど私は恨んでいた、怨んでいた、憾んでいた、憎んでいた。比企谷くんを、比企谷八幡を。

 

 惨めにも痙攣して、汚らしく口から泡を飛ばして、痛みと悪寒を感じてもなお曲げない自分を。彼の姿を。助かろうとしない彼を。死に逝く彼を。

 

「……そこの役にも立たない浮遊霊に一つ教えてあげましょう」

 

「……」

 

「悪霊、怨霊の本質は悪行にある。貴方が悪い事をして力を得るのならばきっとあなたは悪霊なのでしょう。人を殺した化物は相応の力を得る、私はあの二人を殺そうとして一人を殺し、一人を廃人とした。それで得た力はとてつもない万能感を与えてくれる程のものでした。それ以前よりも怪異として人々を脅かして得た力は――ほら、この通り、覚えているでしょう、この魚」

 

 すべてが仕組まれていた。すべてがこいつの思惑通りで。すべてこいつが悪い。だから――。

 

「ごちゃごちゃうるさい死ね」

 

 私の背後、何かが蠢く。あぁ、これは石柱か。わかる、わかる、わかる――。こいつを叩き潰せばいいんでしょ? 階段から毟り取った石の塊。

 

 飛んでくる魚、襲って来る魚はすべて――落ちている石ころの餌で。

 

「怪異には源があります、貴方と彼が出会った原因もきっとある。偶然なんかじゃあきっとない。それでいて貴方が今、唐突にそのような力が目覚めたのにも理由がある。まるで土壇場で漫画のように覚醒するなんてご都合的な御話は無いんですよ」

 

 二メートルほどの石柱でその女を真上から叩き潰す――汚い。

 

「ぎぃっ、がっ」

 

 汚い悲鳴と汚物のような汁を飛び散らす。

 

 こんな奴許せるわけがない。存在していいわけがない。その汚い声を一秒でもこの世界から消し去ってしまわなければ。腐った生ゴミはゴミ箱に。未だ生きているのか肉片が、動く、動いて――音を鳴らす。

 

「くふっ、そうだ、くふふふっ、あぁ、そうだ――!」

 

 化物はもう一度人の形を取ろうとする。けれども顔の形は描けど、他の醜い部分は溶けて戻らない。

 

 人の形でも何でもすればいい。何度でも叩き潰す、ミンチにして、音が出なくなるまで、声を出せなくなるまで、意識がなくなるまですり潰す。

 

「私、やっぱり貴方のことが嫌いです。殺したいほど憎いです。でも、どうやら勝てそうにありませんから――あなたに対して一番効果的な、効果がありそうなことはきっとこれでしょう」

 

 その人の肉塊は嗤っていた、嗤っては既に物言わなくなった彼の躯に覆いかぶさって、そして顔と顔を近づける。唇を重ね――。

 

「――なに、や、ってんの……?」

 

 私の質問に顔をあげた女は――その唇から血を垂れ流して嗤う。

 

「ねぇ、役に立たない間抜けさん。今、どんな気持ちですか」

 

 もはや顔くらいしかまともに形成できない、力も残ってない満身創痍の化物は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。そしてその笑みにちっとも嗤う気なんてなれなくて、ただ一言だけ呟く。

 

「殺す」

 

 彼の身体をゆっくりと引き離して。私は周囲を見渡す。落ちていたコンクリートブロック、石柱、かがり火の灯篭、賽銭箱。

 

 すべてを使って――叩き潰す。汚い汁がびちゃびちゃと散ろうとも。悲鳴があがろうとも。声が聞こえなくなろうとも。ミンチ状になろうとも、液状になったとしても。地に染みこんだとしても。

 

 私が満足するまでそのすり身を叩く、叩く、叩く。徹底的に、あの女の笑みが私の網膜から消えるまで、記憶から消えるまで。

 

 悪霊らしく、怨霊らしく、化物らしく化物に。

 

 誰も見ていないこの場所で、私は唯の化物になった。

 

 

 

~~~~~~~

 

 

 横たわる彼に近づく。空ろな瞳、口は涎が垂れ流されていて、呼吸音が非常に浅い。

 

 私は近づいて、彼を仰向けに動かし――そして膝の上に乗せる。もちろん、質量なんて無い、感じれない。だから、これはフリで、ごっこ遊び。

 

 髪を撫でるような仕草も、すべてがすべてそう見えるだけ。実際には触れ合うこともできずに、肌の温もりを感じることもない。これだけ近くに居るのに、どこまでも遠い。

 

『……あし、やま?』

 

 夢見心地なのか、それとももう見えないのか、わからないのか。

 

「……おはよう、比企谷くん。比企谷八幡くん」

 

 私は状況を深く語らずに撫でるに手を動かし続ける。

 

 今回の出来事に私は御礼を言わない。彼が――嫌な奴を助けようとしたことに対して決して御礼なんて言わない。

 

 もしもそれを口にしてしまえば、それはきっと私の問題になってしまって。彼が関係なかった第三者になる気がしたから。この御話に君が関係なかっただなんて口が裂けても言うつもりはない。関係の無い君が首を突っ込んだだけなんてそんなことは思わない。

 

 之は、此の御話は。君と私の問題で、私たちの御話だったのだ、と。

 

 たとえ傍から見れば原因が私で、巻き込まれただけに君が見えたとしても。

 

 残ったのが私で、誰も救えなかった御話だとしても。

 

 比企谷八幡も、足山九音も、コンノタツコも、柄の悪い男も、そいつの女も。

 

 誰もが誰も助からなかったとしても――私はこの御話を君が私を病院に置き去りにしたせいだって頬を膨らませて文句を言うし、君は私が美人で狙われ易いんだから気をつけろって注意するべきだ。

 

 だから、さ、いつもみたいにふてぶてしく、その憎まれ口を開いてほしい。

 

「ねぇ、比企谷くん、聞こえてる? 私ね、君がなんでおじいさんの幽霊が見えなかったのか考えたんだ」

 

 ゆっくりと目が閉じられる。

 

「比企谷くん、比企谷八幡くん。他の霊が見えなくて君は安心した? それならちゃんちゃらおかしいよ。君は見えないことを嘆かなければならないんだ。今後、君が害を為す存在と対峙した時に一体、誰が助けてくれるの? 一体誰が君を導いてくれるの? これからも一人で立たなくてはいけないし、一人で解決しなくてはいけない。守護霊の導きも、善霊の助けも期待できない。だぁれも君を助けてなんかくれないんだ」

 

 一人ですべてをこなして、一人で生きていかなければいけない。そんなの、そんなこと――。

 

「私は嫌だ。そんなの嫌。だから、私は、私くらいは――私だけは君のための化物になるよ。君だけの悪霊になるよ。も、もちろん、その、さ……君のことを好きだなんてわけじゃないよ。そんなの口が裂けても言わないし、言ってやるつもりもないけど。それでも私は君を助けるよ」

 

 だって、あんなに嬉しかったから。きっと他の誰かに私が見えたとしても、他の誰かに同じように頭を下げられたとしても。同じ気持ちになることは決して無い。ありえない。

 

 君が、そんな君が、こんなにボロボロになるまでの君が。私が必要だって言ってくれたから。それが酷く嬉しくて、心の隙間にするりと張りこんできて。

 

『……ハッ、化物気取りの自称悪霊かよ、雑魚幽霊のくせに』

 

 小さく笑って、小さく呟く。

 

「ふふっ、今のうちに言っておくといいよ。私の力がその内必要だって泣いて懇願させてあげるんだから。今は、今は――何も知らない私だけれど、君のように頭の回転が早くもなくて、狙われていることにも気づかないで、化物の正体なんて微塵も思ってなかった、こんな私だけど。君のために少し、ほんの少しだよ!? ほんの少しだけ頑張るから。か、勘違いしないでね。少しだけ、本当にちょびっとだけ。だから、だからね? だから、また私を頼ってね、比企谷くん。別に私は君のことなんて好きだとか思っていないけど。君が私のことを好きだとか愛しているとか訴えて助けを求めてくれるのなら、私は助けてあげる。私が助けてあげる。私だけが君を助けるから」

 

 髪を梳くように指に絡める。揺れる髪は私の手ではなく、風が撫でているから。どうしてこんなに近いのに触れ合えないのか、この距離が酷くもどかしい。

 

「おやすみ、比企谷くん、比企谷八幡くん」

 

 私は彼の名前を呼ぶ、そして彼も。

 

『あぁ、少し寝る……おやすみ、足山』

 

 彼が呼んでくれる。あしやま、あしやまくおん。

 

 触れることも出来なければ、温もりを感じることも出来ない。でも君が呼んでくれたからはっきりとわかる。私は、私は――ここに居る。




※いつもよりギリギリの日時投稿許して(本当)
※次回の投稿は量も少ないので早めの投稿を予定しています。遅くとも四月八日までには一回以上投稿する予定です(本当)


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『仲春【現在:職員室】』

 今回のお話の着水点。

 

 八幡くんがやっていたのはペン回しということで決着がついた。そんな言い訳は大半の人が信じず、あんな勢いで飛ぶわけがないと声を大にして言っていたけれど。

 

 再演することでその文句を完全に封じる。はぁー! 私の美技で愚民どもが黙りこくるの最高に気持ちいい!

 

 そんじょそこらのペン回しではなく、エクストリームペン回し。私のポルターガイストによるペン回しはそれは人間離れした代物。舞というよりかは武とか抜かしてきたクラスメイトたちに対してこれでもかとばかりに見事ペンは舞って見せる。

 

 勿論、完全に誤魔化しきれたわけじゃない。クラスの中で成績も優秀な王様が『そんなわけないだろ……』とか言っていたので「なんだァ、てめェ……」とその横顔目掛けてペンを飛ばしてあげた。

 

 頬をかすめて背後の黒板に刺さったのでそれ以上文句を言ってこなかった王様は賢いとも言える。そうそうそんな感じで黙ってろ、雑魚がって感じ。

 

 ちなみにそんな感じで大暴れしていればドンドンと死んでいく八幡くんの目。ドロドロと死んでいくのを見て惚れ直す。しゅてき……しゅきぃ……

 

 ともあれそんな形で不思議を不思議で無くしたのはいいんだけれど、非現実ではなく現実の問題となったのならば犯人はクラス全体から非難轟々。女王様に烈火の如く怒鳴られて、王様には苦言を混じえられて、モブ共からはやいのやいのと野次を飛ばされ晒しあげ。

 

 なんて可哀想なんだろ、うぷぷ、可愛い。

 

 クラスメイトから危険人物のレッテルを貼られた彼は流石に教室に残り続けることなど出来もせずに、微妙な空気のまま退場。その際に雌犬二号がなんか潤んだ瞳で見つめてきていたけど、気の所為。というかその反応何か違うくない? なんでぇ?

 

 教室を出たところで八幡くんの足取りは保健室へ。次の時間が数学なのをいいことにどうやら午後はサボる気満々らしい。まぁ、でも今回のことは可哀想だから認めてあげましょう。

 

 ほんと、私って甘々だよね。もう、こんなに甘やかすなんてどれだけ彼が好きだって言うんだよぉ。いっぱいちゅき。

 

 保健室の方向へ歩いていく途中に八幡くんは雌犬一号と遭遇した。お昼を誘われたが、お断りする。その際に押し切られそうになったことは減点だけど。

 

 雌犬二号の潤んだ瞳に気づかずに、雌犬一号の捨てられた犬のような目を振り切ってたどり着いた保健室。

 

 一号と二号はどうやら一緒にお昼を約束していたようで、教室の騒ぎもそのうち耳に入るだろう。

 

 つまり間接的にあの雌犬一号の耳に入るように仕向けたことになる。ペン回しの話を聞けばあの犬だって八幡くんに対して好感度は下がるだろう。なんてペン回しなのかしら、かっこいい、しゅき……なんてなるわけない。ペン回しが上手いくらいで好感度が上がるのは小学校低学年男子くらい。

 

 私ってほんと策士……えんぼーしんりょにも程がある! ほんとほんと、偶然とかじゃなくて私のちせいの勝利。

 

 そんなわけで数学を無事にサボって放課後。

 

 比企谷くんはいつものように職員室に呼び出されていた。いつも……? 可哀想……。

 

『それで? 比企谷。そのエクストリームペン回しというのはどういうものなんだ』

 

 こいつ頭の中、小学生男子かよ……。キラッキラとした瞳でペンを渡してくる担任教師。

 

 軽いお説教のあと、そんな危ないことは教室でやるなよと警告してさぁ今からが本題とばかり。

 

『なんでそんなに興味津津なんですか』

 

『エクストリームだぞ? エクストリームスポーツと聞いて憧れない人類がいるか? いや、いない』

 

 わざわざ反語を使ってまで強調する女教師。完全に女捨てちゃってる……。

 

 インターネットのアングラやネタサイトで有名なエクストリームスポーツには少年の心に響くものがあるのだろう。いい年なのに。

 

 そんなわけで八幡くんはペンを渡されて職員室内でペン回しをする羽目に。完全に目が死んでる。

 

 やだ……今日の八幡くん、素敵しゅぎない……? まぁいつも素敵なんですけどね!

 

 そんなことを考えながら彼の親指と人差し指に挟まれたペンをポルターガイストの容量でくるくると回し始める。

 

 目の前の女教師は目を輝かせては驚き、職員室に居る他の先生も遠目から『おぉっ……』と驚愕する。

 

『こ、これが黄金の回転……ッ』

 

 この人の記憶の中には少女時代というものがあったのだろうか。くるくるくる、くるくるくると指先だけではなく腕周辺、ひじ、二の腕を旋回しては戻り最後は元の位置へ。締めに大袈裟に音を鳴らして指で挟めんでキャッチすれば、返答には拍手が。

 

 とりあえず満足したらしい平塚先生は彼が差し出すペンを受け取り、トリックでもないかひっくり返したり、分解したりと忙しい。

 

 八幡くんと私はその光景を呆れながら眺めていた。そんな視線に気づいたのだろう、照れるように咳払い。そこから二度と教室内に人が居るように注意してくるのだから威厳がクソほどもない。

 

『しかし比企谷、君は本当に職員室によく来るな』

 

『問題児のつもりなんて無いんですけどね』

 

『現実から目を背けるな。君は紛うことなき問題児だよ』

 

 いつものように煙草を取り出す不良教師。勿論、喫煙室ではないので火を点けることはない。口寂しさを少し紛らわしながら再び煙草を机に置く。

 

『君はアレだな。問題を起こし続けるな。一度、その顔に麦わらの髑髏でも描かなければわからんか?』

 

『流石に顔面を壁に打ち付けるような奇行は頻繁にしてるつもりないですけど』

 

『頻繁じゃなければするのか……』

 

 ドン引きしている女教師。いやぁ、懐かしい懐かしい。そういえばポルターガイストを覚えた当時は何度かそういう目に合わせたんだけっけ?

 

 とはいえ暗喩された大人しくしろという部分において彼が出来ることなんてほとんど無い。むしろ無い。

 

 というか何で比企谷くんって自発的にアレコレするわけじゃないのにこんなに毎回ひどい目に遭ってるんだろう、可哀想。一体、誰の仕業なんだ。

 

『君だってガミガミ言われるのは好きではないだろう? それも女相手に』

 

『や、別に女どうこうってあんま関係ないんじゃなんですか? それに平塚先生は美人ですしそういうのがご褒美だって一定数居そうですけどね』

 

 それはそう。ガミガミ言われるのに男女関係ない。むしろ男であろうが女であろうが嫌なモノ。

 

『よ、余計なことを言うなっ……まったく。しかし、君のその男女平等観というのは好ましいものだがな。まぁ、世の中はそう上手くはないものだ』

 

 ポツリとこぼれた言葉。それは――耳に入るには余りにも小さくて。会話のためではない、まるで愚痴のような言葉を。

 

 この男の子はあろうことか拾ってしまう。

 

『や、そんなもんでしょ。だって出る杭は打たれるわけですし』

 

『でる、杭?』

 

『え? いや、平塚先生の話じゃないんですか? 生活指導とか色々やってみたいですし。そんなの先生が優秀だから打たれてるわけで。男とか女とか以前に仕事を任せれるのはやっぱ先生が凄いからじゃないんですか? それに嫉妬とかも混じってるとか。なるほど、そうなると俺は優秀さを示さないように、もぐらたたきや杭のように頭を出さず、誰かに見つかるような尻を出す真似なんてこともせずに――先生?』

 

 うんうんと頷いている比企谷くん。スタップ、すたっぷ、ストーップ! 何、お前、ナチュラルに口説くというかよいしょしてんだよ!

 

 返事やリアクションが無いことに不審に思ったのか彼は目の前の女性の名前を呼んでみる。

 

『ッ、わかったわかった、君の戯言はもういいよ。お説教はこれくらいにしておく。君も寄り道をせずに奉仕部へ向かうように』

 

 慌てた手付きで煙草をとって喫煙室の方向へ。雑に解放された彼は『なんか不味い地雷踏んじまったかな……』と見当違いの方向へ。違う、バカ、そうじゃない。

 

 私は見ていた……見ていたぞ、と恨みを込めるかのように睨む。ほんと、こいつは……本当に、この男は。

 

 間が悪い。

 

 卑屈めいた言葉で、皮肉めいた自虐で言葉を流すつもりだったのかもしれないけれど。本質は、本音は、本心は――しっかりと届けたい言葉を、相手が欲しがっていた。君にではなく、君以外の誰かに求めていた言葉だとしても。

 

 たったこれだけで、と思うかもしれない。けれども私は見ていたのだ得意気に語る彼の眼前で見る見るうちに顔を惚けさせ、顔を赤らめ、瞳が潤んだ瞬間を。

 

 君みたいな奴がそんなことを言っちゃ駄目だろう! 駄目だってば! むしろ捻くれ者で皮肉屋の君がストレートに褒めたら駄目なんだって。だって、だってだってだってだって。

 

 そんな本心で褒められたのなら嬉しくて仕方なくなるのは私が一番体感している。

 

 ほんと、間が悪い上に性質が悪い。

 

 も、勿論、女教師だし、大人だから大丈夫だよね! 距離感も何もかもが遠く、同い年や年齢の近い男女では無いんだから大丈夫、大丈夫。そ、それに比企谷くんは高校生。高校生は犯罪だし、そんなことないないありえない。

 

 自分で思って薄っすらと冷や汗をかく。

 

 いやいやいやいや、ないないないない。教え子に手を出すなんて三流の官能小説じゃあるまいし。教師として褒められて胸がポカポカしたからといって恋に落ちるだなんてどんだけ恋愛耐性低いんだよって話なんですよ。まったく。どんだけ男に飢えてるわけ? あの見てくれなら男に困ってなんて居ないんだろうし! 大丈夫、きっと大丈夫。

 

 そう言い聞かせてふと今朝のニュースを思い出す。日本の教育現場の闇。小学生教師、出会い系アプリであった少女への強制猥褻で逮捕。

 

「……」

 

 蘇るのはこの一年で知った様々な噂。教え子との結婚。年の差カップル、在学中のお付き合い、彼女が学生の間は健全なお突き合いをしていまたした。

 

 いや、こ、こんなの噂だし、ごくごく少数のお話……少数とはいえ居るんだよね。

 

 飲み込んだ唾音がやけに自分の中で響く。

 

「ひ、比企谷くん、ちょっとトイレ」

 

『……何いってんだ、お前』

 

 呆れたような返答を受けて私は彼の側を離れる。そして喫煙室の中へ。そして目的の女教師はソファーの端で。

 

 喫煙室に飛び込むまでの間、わずか三秒。

 

 その間にボケナス八幡くんに文句を呟く。ほんと、こいつなんで無意識天然で心のスキマお埋めしてるわけ? 敏腕営業マンかよ……喪黒さんだってもうちょい順序立てて行動する。

 

 も、もしもだよ?

 

 例えばの話。働いている女性で今の同僚や周囲の人間に男っ気がなくてどんどんと同性の友人も減っていって、苦楽を分かち合う相手が現状殆ど居なくて、それでいて休日は無為に過ごし、結婚に憧れているような女に優しい言葉をかければ病んじゃうかもしれないんだぞ。ほんとすぐに病むぞ。ストレスと上手に付き合えていない女に優しくするとすぐに依存先に認定されて勝手に依存物にされちゃうんだからな!

 

 彼に対して内心だけでお説教をする。うちの八幡くんがごめんね。わ・た・しの八幡くんが本当にごめん。

 

 とはいえ、多少の危機感はあれどそこまで心配はしてない。ほんとほんと、ここにこうやって見に来たのも一応だし。相手は大人だし、比企谷くんのことなんてそういう対象になるわけない。ほんとほんと、社会の闇とか病巣とか遠い世界の出来事。そうそう、そのはず、そう……

 

 私はそう信じながら女教師を見る。瞑目したままタバコを深く吸い込み、そして天井を見上げて紫煙を吐き出す。そして――。

 

『……比企谷、か』

 

 うっそでしょ、あんた。嘘だよね、教師。働け社会通念、戦え職業倫理。

 

 女の顔とも呼べる表情で彼の名前を呟いていた。いやいや、そういうこととは決まったわけじゃないし。だ、大丈夫、大丈夫、平塚静はきっと強い子! 休日は女友達と楽しくショッピングしたりランチしたり、時々合コンで男を見繕て、コンパで隣の席のやつといい感じになったり。そんな感じで人生を楽しんでいるはず。決して男に飢えているなどきっとない。それにほら見てくれはまぁまぁなんだし! 大丈夫大丈夫、八幡くんは大丈夫……。

 

 無性に不安になったので職員室へ戻る。

 

「……居ない」

 

 職員室に戻れば彼の姿が見えない。私は頬を膨らませて廊下へ飛び出る。そして特別棟の方向へ歩く猫背の姿。

 

「居た! どうして置いてくの! こんな可愛い子を置いてくなんて信じられないよ! 甲斐性もって! いますぐ持って! ちゃんと勉強しといて! でもやっぱり持ちすぎないでっ!」

 

『……いや、お前がわけわかんないこと言って勝手に消えていっただけなんだが』

 

「わけわかんないことなんて私が言う筈ないでしょ!」

 

『もう、それでいいか……ハァ』

 

 溜息を吐く彼の背中に乗っかる。相変わらず鬱陶しそうに此方を一瞬だけ見る目に私は微笑む。

 

 これだけ近いのに触れられない。耳たぶを甘噛みできるような距離、彼の髪の毛の匂いを嗅げる距離、ちょっと強引に振り向かせれば唇を奪える距離。それでも永遠に私たちは重なれない。それが酷く悲しい。

 

 ほんと、ままならないな。

 

 彼の背中に取り憑いたまま振り返る。もしも一年前、もっと素直だったら。もしも一年前、もっと君に好意的に接していたら今よりももっと仲良くなれたのだろうか。もっともっと素敵な関係を築けていたのだろうか。

 

 例え、八幡くんがあの時の態度を水に流したとしても。水は決して戻らない。盆から流した水は水として流れることしか出来ず、ナニカがあった痕跡を消すことなどできない。

 

 

 彼の息遣いが聞こえる、彼の鼓動が聞こえる、彼が――生きていることを感じる。

 

 偶に嘯いて死んでもいい、死んでも一緒に居てあげるなんて私は言うけれど。彼が助けを求めるのなら私は助けてしまう。生きたいと願うのならば助けてしまう。そうやって幾つも私は誤魔化すんだ。誤魔化しきれなくなるその日まで。彼がその秘密に気づくまで。

 

 ――自分が死ねないと絶望するまで、私は誤魔化し続ける。

 

 今の彼の状態を振り返る。その時、私はアメリカの宇宙人の話を一緒に思い出してしまう。

 

 キャトルミューティレーション。

 

 動物の死骸が惨殺される事件。血液の中身が全て吸い取られた変死体。アメリカで爆発的に流行った都市伝説。事件現場からは謎の飛行物体に対する目撃証言が相次ぎ宇宙人の仕業であると信じている人もいる。動物の変死体は宇宙人の実験結果による産物だという噂も流布している。そして中には宇宙人に浚われた人間の御話も。攫われて改造された人間も居るらしい。

 

 けれども私は思うのだ。自分を改造されたということを知っているのは何たる幸運なのか、と。もしも知らない間に自分の身体が何か別の物に変えられていたとするならば、それはどれほど怖い話なのだろうか。本人にとってどれほどの恐怖を与えるのか。

 

 それこそ水の化物。水に纏わる化物。魚の化物――人の形をした魚の化物。

 

 今なら理解できる。死ぬと思って目を閉じた彼が目覚めた理由を。能天気にも運が良かったなどと安堵していた自分を殴り倒したくなる。それでいて正体に気づくまでに時間を必要として、気づいた時には既に手遅れで。それでいて教えてあげることも出来ずに。そして今もなお、隠し続けている。

 

 彼は気づいていない。自分の体のことを。

 

 総武高校という不穏な場所、足山九音という幽霊に憑かれている現状、比企谷八幡という数多の依代を意味する名前――そして身体を化け物に侵食されている、いや違う、彼自身が一種の化物となりつつある事実。

 

 ストーカーの時に彼が吹き飛ばされて大した怪我も無く済んだと云う頑強さ。血溜まりを作り上げるほどに神様に殴られても翌日にはピンピンしていたという回復力。僅か一年間の筋トレで現役の陸上部に並ぶ、超える健脚や重い物を軽々ともてる筋肉の成長率。くっきりと霊痕があるにも関わらず不自由なく動ける肉体。

 

 そもそもが山奥で死にかけておいて助けがくるはずも無い場所で腹を貫かれて血を流しておきながら。瞳孔が開き、呼吸が完全に停止しておきながら――それでいて唐突に息を吹き返すなんて、生き永らえるなんてそんな都合のいい話なわけがない。

 

 あの化け物が、あの魚の化け物が残した呪い。死ぬ寸前で、未だに瞼の裏にこびりつく光景は――自分の舌を切り落として、食べさせた。

 

 比企谷八幡を騙そうとペラを回していた二枚舌の一枚を食べさせて、刺身を食べさせた。自らの刺身を。

 

 呪ったのだ、私と彼を。

 

 ――水に纏わる御話は誰も救われなかった。私も彼も。

 

 金野龍子はその回復力で私たちを殺せたかも知れないのに関わらず本願を為さなかった。

 

 カップルの片割れは化物に女を差し出して車で逃げる途中に事故にあって気をやった。

 

 差し出された女は水死体となって浮かんでいた。

 

 そして比企谷八幡は――何も知らされずにその身を化物に変えられた。

 

 誰も救われなかった、何も救いがなかった。生き残っている狂った男は精神病院の閉鎖病棟で歌うらしい。耳障りで呪いじみた声で。まるで歌っている時だけ別人が歌っているとばかりに。

 

 あんな不愉快な存在のことはもうどうでもいい。けれどもそれ以上に不愉快な女の姿を思い出して――。

 

『九音……?』

 

 一階廊下の踊り場、そこで私は唐突に声をかけられる。

 

「はえっ!? ど、どうかしたのかい、急に? えっ? 何々」

 

『……なんでもねぇよ』

 

 どこか此方を伺うかのような瞳。心配かけちゃったのだろうか。私にはわからない。

 

 少なくとも一年前に彼があの大女に惚れていたなんて致命的な勘違いをしていた私には自惚れて彼の心を完璧に代弁することなどできやしない。

 

 それでも今なら少しだけわかるのだ、振りかえって、ようやく。

 

 違ったのだろう、あれは恋なんかや好意なんかでなくて。自分にも優しくしてくれる人が居るという可能性を、その可能性を。自分より凄い人が、自分より立派な人が、自分なんかに優しくしてくれる。

 

 自分より優れている人間と話した時に少し嬉しくなってしまう、そんなボッチ特有の感情。多分、そんな感じ。

 

 それを勝手に穿って、勝手に勘違いして、勝手に決め付けて。

 

 だから私は知った風な口で彼の本心を語ることはできないだろう。おどけて口にすることはあったとしても真面目に本気で言葉にするつもりはない。出来る筈もない。

 

 きっと、私と彼は永遠に理解し合えない。そんな両方向の素敵な関係は築けない。

 

 だから、せめて、せめてだ。

 

 彼は私を愛してくれなくてもいい。空っぽの言葉でいい。私はそれで嬉しいから、それで満足だから。私が君を愛するだけでいいんだから。

 

 もしもこの先、彼が自分の身のことに気づいたとして。それで絶望したとしても私だけは傍に居る。ずっと私だけが君の悪霊で在り続けよう。

 

 ただ、君が、君が人であり続けたいと思うのなら。私は祈るしか出来ないけど、祈る言葉くらいしか呟けないけど。

 

 人間として――君は死んでもいいんだって祈り言葉を零すことくらいは。

 

「ねぇ、八幡くん。そういえば、さ。前に一緒の墓に入ろうって君に言ったことあるじゃん? でもでも、よくよく考えたらさ、一緒の墓に入るって最高にエッチな言葉だよね。ほら棺に中に二人で入って一体何をするんだよぅ、って感じ。というかナニするわけ? ねぇねぇ、一緒にお墓に入ろうよー」

 

『一人で入ってろ、馬鹿』

 

 呆れた視線に私は頬を膨らませる。今日もつれない君が好きだ。

 

 私は比企谷八幡が好き。君は知らない君の体のことも、私だけが知っている君の秘密も言えはしないけれど。

 

 私は――比企谷八幡を愛している。

 




※次回の更新予定日は四月八日です
※感想ありがとうございます。本当に嬉しいです


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晩春【小説】

 とある日のことである。

 

 由比ヶ浜が奉仕部に入り浸るようになり、それなりの時間が経った日のこと。

 

 普段なら奉仕部の中には雪ノ下が居て、俺と由比ヶ浜のどちらかが次に部屋へ辿り着く。由比ヶ浜は教室内で声がかけられることが多いので、まっすぐ特別棟へ向かう俺の方が二番乗りになるのは自明の理。しかしながら職員室に呼ばれることもあるのでその戦績はフィフティーフィフティー。むしろちょっと負けてそう。職員室に呼ばれ過ぎでは?

 

 本日も職員室に無事に呼ばれて少しばかりの苦言を頂き奉仕部へ。今日も黒星か、と思っていたのだが――ゴールテープは切られていない。むしろ一番乗りすら入ってなさそう。

 

 ゴールの手前、奉仕部の扉の前。二人は固まって部室の中を伺っていた。部屋の主である雪ノ下雪乃は共に由比ヶ浜結衣をひきつれて。見てくれは最高に美少女然としているのにやっている行動は完全に不審者のそれ。

 

 雪ノ下雪乃。ストーカーに襲われるほどに、ストーカーになるほどの思いを産み出させた美しき少女。怪現象のアレコレを経て好意を直接的に伝えられて……伝えられたか?

 

 まぁ、とりあえず怪現象のアレコレにおいてちょっと影響を受けているらしい女の子。勿論、怪現象のアレコレであるのでその好意を素直に受け取る気持ちはない。むしろ受け取れない。

 

 少なくとも首を締めて自分で独占しようするような思いを俺は受け入れられるわけがない。そんな化け物からの影響である。甘く見て良い訳あるまい。

 

 そして由比ヶ浜結衣。ふとしたお呪いによる呪い返しにより俺と仲良くなりたいと人前で公言した女子生徒。朝の人通りが少ない自転車置場とはいえ堂々と何でもないかのように言われては警戒せずには居られない。

 

 美少女二人とそれなりに距離の近い日常を過ごしている俺である。中学生時代の自分が見れば何をやれやれ系気取ってんだ、と文句の一つ以上は言うことだろう。実情を知らなければ、怪異なんてさえ見えなければ。

 

 怪異を甘く見て痛い目ばかり見ている俺からしてみればふざけんなと叫びたい。可愛い女の子と仲良くなるためなら命の一つや二つは賭けれるという人種も世の中には居るだろう。けれども俺はそうじゃない。それに一回や二回で済んでない。

 

 俺が求めているのはきゃっきゃうふふと楽しいラブコメなんかではなくただ植物のように平穏で安全な日常なのだ。それがかなり無理目の願いとはわかりつつも。

 

 そんな現在進行系で悩みのタネとなっている少女二人は不審極まりない行動を取っていた。

 

『何してるんだろ、アレ』

 

 背中に張り憑く女幽霊の疑問は俺と同じもの。少なくとも室内を盗み見る二人は傍から見れば完全に不審人物。

 

「……何やってんの、お前ら」

 

 そんな二人に声をかけた。肩が跳ね上がるように驚き、此方を恨みがましそうに見てくる。

 

「きゅ、急に話しかけないで貰えるかしら……びっくりするじゃない」

 

 無様を晒したせいかいつもはクール然を装っている少女が不機嫌とばかりに目を細めている。その表情は我が家で買っている猫に酷似していて、九音が呼ぶ雌犬という言葉に疑問視が浮かび、どちらかと言えば猫のようだよなと益体も関係も無い考えが浮かんだ。

 

「……悪かったよ、それで何してんの?」

 

 改めて尋ねると由比ヶ浜がもう一度室内を覗き見て、そして中を確認した後にしっかりと言った。

 

「部室に不審者がいんの」

 

「不審人物はお前らだっての」

 

 彼女の訴えに対して客観的に見た場合にどう思うかを答えた。どうやらそれが少し気に障ったようでぷくりと頬を膨らませている。

 

『なんか、あるかもだし、私が見てこようか?』

 

 九音の提案に少し考えてから頷く。万に一つの可能性よりかはよっぽど縁が深い怪異絡みの可能性を鑑みて。もしも足山九音がどうこうなるような相手だったら俺ごときじゃどうしようもないのだから。

 

『にひひ、んじゃ、ちょっと待っててね』

 

 何がおかしいのか面倒事や危険を押し付けただけなのに嬉しそうに笑う。こいつのツボも地雷も相変わらずわかんねぇ。

 

 そんな理解不能な笑みを浮かべた顔だけ壁に埋めて――すぐさま戻す。笑みは完全に真顔に。変面のような技術であった。そしてすぐさま面倒臭そうな表情を浮かべていた。

 

『あー、大丈夫……ソッチ関係じゃないよぉ……でも、不審者』

 

 いや、ソッチ関係じゃない不審者の方が怖いんだが。とはいえ、九音の反応が怖いではなく面倒といった感じから危険は無いと判断して扉を引く。

 

 開いた瞬間に潮風が突風のように吹いた。

 

 海沿いにある総武高校では珍しいことではない。開いている部室の窓と入り口の扉が風の通り道を作っただけ。吹き抜ける以上の大きな理由が無いにも関わらず、飛び散る紙の束がまるで意味があるかのような演出にため息が溢れる。

 

 ばっさばさと。空き教室の中は九音のポルターガイストもかくやという勢いで紙が踊る。偶然の演出としては上出来の部類、意図して行われたとは到底思えないが。

 

 そんな演出された舞台に一人。汗を掻きながらもコートを羽織り、指抜きグローブをつけた片手で顔を隠した恰幅のいい男。

 

「クククッ、まさかこのようなところで再会するとはな……待ちわびたぞォ、比企谷八幡!」

 

 まさかの再会に驚いて、待ち望んでいたとは。情緒が滅茶苦茶すぎでしょ。こいつ頭の中にもうひとりの僕でも飼ってるわけ?

 

 そんな戯言の発生源を見てみれば――知らない男だった。誰だ、こいつ……知らねェ。

 

『いや……八幡くんさ、堂々と知らないしてるフリしてるけど完全に名指しされてるじゃん』

 

 九音のそんな言葉に俺は知らない知らないと訴える。小首を傾げて姿に見覚えも声に聞き覚えもないとジェスチャーで主張する。

 

「比企谷くん……あちらは貴方のことを知っているみたいだけれど」

 

 背中の隠れたうちの一人である雪ノ下が顔だけを覗かせては目の前の男と俺を見比べてはそう言った。そんな視線を受けた謎の男は一瞬怯むが、すぐさまの俺の方向へ目を逸らしたことにより難を逃れる。いやこいつにとって女子と目が遭うことすら難しい出来事なのか……。

 

「クックック……よもやこの相棒たる我の顔を忘れたとはな、見下げたぞ、比企谷八幡!」

 

『誰に断って相棒名乗ってんだ、こいつ。マジで殺すぞ』

 

 一瞬で九音の機嫌が急転直下。先程までの疲れたような表情が一転して敵意剥き出しの表情に早変わり。最近でこそ丸くなった性格は元々、不細工、不格好、不躾といった人種には厳しい性根。そんな九音に対して見えてもいないのに言葉一つで嫌悪感を丸出しにさせるなんて中々できることじゃあない。

 

 流石は材木座……材木座? 誰それ、知らない知らない。材木座義輝なんて俺の知り合いの中には存在しない。そもそも顔見知りどころか見知った仲になりたくない人物。

 

「相棒って言ってるけど」

 

 由比ヶ浜も後ろから顔を出して此方に問いかけてくる。その視線にそっと目をそらす。いや一緒くたにされたくないし、一緒に居て噂されると困る。

 

「そうだ、貴様も覚えているであろう……あの悪しき風習を、そして地獄のような時間を共に駆け抜けた日々を」

 

「体育時間のペアになった話じゃねぇか……」

 

 ついぞ我慢できずに反論してしまう。反論に思うところがあったのか苦々しい表情を浮かべていた。こっちが浮かべてぇわ、その表情。二人の女子からのやっぱり知り合いじゃないという視線からそっと顔をそらす。

 

「あのような風習など悪しきものでしか無い。好きなやつと組めだと? 我は戦いに生き、戦いに死す一匹の修羅よ。行き着く先は所詮地獄。そのような物に巻き込むのならば好きな者など初めから作らぬわ!」

 

『どこの鳳凰座だよ、お前』

 

 呆れたように呟いた九音とまったく同じツッコミを入れそうになった。こいつを見ていると頭痛がしてくる。こめかみをグリグリと揉みほぐしては耳の中にこびりついた痛々しい台詞をゆっくりと流し落として本題を尋ねることにした。こいつの相手などいつまでもしてらんねぇ。

 

「それで何のようだよ、材木座」

 

「むっ、我が魂に刻まれた真実の名を口にしたか。如何にも。我こそが剣豪将軍、材木座義輝だ」

 

 大袈裟にコートを靡かせ、でっぷりと肉の乗った首の上に男前なつもりであろうキリリッとした表情を浮かべてこちらを振り向く材木座。自分の作った剣豪将軍という役割に完全に入り込んでいる。それを見るだけで心が痛い、こう、心の奥底の胃の上の部分。名称など不明な臓器がジクジクと疼く。

 

『……八幡くんにもこんな時代があったんだよね。一度くらい見てみたいなぁ』

 

 やめろ、やめて、やめてください。

 

 九音のどこか遠くを見るような瞳、雪ノ下と由比ヶ浜の困惑に満ちた瞳。その三つの視線を一挙に受けては謎の臓器はさらにジクジクと疼きが増していくばかり。

 

「ねぇ、ヒッキー。ソレ、何?」

 

 由比ヶ浜のあまり多くは表現したくないとばかりに問われた材木座。あまりの不快感のせいか、それとも類友と判断したのか此方を見てくる目は細められている。まことに遺憾である。俺自身ですら奴のことを欠片も理解しちゃあいないのだ。

 

 だから紹介できるとするのなら名前と関係性くらいなもの。俺は小さくため息を吐いて渋々とばかりに正体を口にする。

 

「こいつは材木座。体育の時間に俺とペアを組んでる奴だよ」

 

 ソレ以外の関係性などありはしない。まぁ、しかし、やつの言う部分の一つだけは理解を示せる。体育時間に好きなやつと組めという言葉が地獄だということだけは。

 

 少なくとも事実として体育のペアは毎回組んではいるのだ、こいつとは……相棒という表現は誇張すぎるけれども。

 

 こんなこと口にすれば九音の機嫌が悪くなるのは想像に難くないので口にせず、そもそもが俺自身が可哀想な奴にすら思えてくるので絶対に認めたくはない。

 

 いや、ほんとにさ。好きなやつと組めなんて拷問だよな。そもそも大人が好き嫌いしちゃいけませんって教えておきながら、いざって時は好きなものを選んでねなんて矛盾している。幼少期から与えられ続けてきた二つの命令系統にロジカルエラーが起きるのも致し方なし。余り者ができるのは俺が悪いわけではなく、なんもかんも社会が悪い。そんな社会の闇、病巣の被害を一身に背負った俺は体育の時間で別の余り者グループである材木座と組むことになり、初めの一回以来ずっと一緒のペアなのだ。

 

 そんなペアを見比べて雪ノ下は口を開く。

 

「比企谷くん、お友達は選んだ方がいいわよ。幾ら類は友を呼ぶとは言っても……ねぇ?」

 

 最悪に分類する邪推であった。

 

「ばっか、こいつと一緒にすんな。俺はあんなに痛々しくねぇ! それに友達でも無いっつーの」

 

「ふっ、それには激しく同意せざるを得んな。然り、我には友だと居らぬ! ……マジで一人、ふひっ」

 

 小さな自虐で素に戻ってやがんぞ、コイツ……。

 

 材木座の小さく悲しげなつぶやきは誰一人として同情を誘わない。むしろ九音なんか『さっさとこいつ消えねーか』と霊のくせにいっちょ前に塩を撒くかのような勢い。

 

「比企谷くん、お友達選びは私が手伝ってあげるから、一度、縁を切っておきましょう? そうしなさい」

 

「お前は俺のかーちゃんかよ……。なに急に教育ママみたいなこと言ってんだよ」

 

 あと友達じゃねーから、ほんとに。

 

 さりげなく俺を傷つけるだけではなくて同時に材木座もディスっていく雪ノ下の口撃スタイルに舌を巻く。

 

「一応、その元お友達は貴方にようがあるみたいだけれども」

 

 雪ノ下のジャッジによると材木座との縁は既に切られた後である。それにしてもさっきの台詞といい、こいつの彼氏になる奴って大変そう。友達付き合いですら干渉対象なわけ?

 

 これが霊障のせいか元々抱えていた本人の気質なのかは判断しづらい。現在進行系では他人事ではないが、将来的には知らない人の出来事。特に大きく問題視せずに未来に居るであろう雪ノ下の彼氏に対して同情するという形で決着する。

 

 そんな雪ノ下に迂遠的に駄目だしされたにも関わらず材木座は呵々と笑っていた。

 

「モハハハ、これは失念しておったわ。八幡よ、奉仕部というのはここであっているな?」

 

 キャラを再度立て直した材木座が発言をした雪ノ下ではなく俺の方向を見て尋ねてくる。

 

「えぇ、そうよ。ここが奉仕部であっているわ」

 

 後ろから出てきて雪ノ下が答える。すると材木座は一瞬だけ雪ノ下を見ては再び俺へと視線を治す。だから、なんでこっちばっか見てんだよ。

 

「そ、そうであったか。では平塚教諭に助言を貰った通りならば八幡、貴様には我が願いを叶える義務があるのだな? 幾星霜の時を経ても尚主従関係があるとは、これもすべては八幡大菩薩のお導きか……」

 

『ねぇよ、義務も無ければ、主従関係も無いし、導きもあるわけないだろ、このデブ。ふざけんな、いい加減、殺すぞ』

 

 材木座が俺との繋がりをアピールすればするほど九音の機嫌は不機嫌に下降していく。こいつ居るだけで女子からの敵意を稼ぎすぎでしょ。流石に同情するわ……。

 

「別に奉仕部には貴方のお願いを叶える義務は存在しないわ。手助けはするけれども。勘違いしないでちょうだい」

 

 雪ノ下も厳しい口調であった。少し棘を含んだ物言いではあるが言葉を受けた材木座は。

 

「こ、これが女子からの勘違いしないでちょうだい、か……。ほむん」

 

 雪ノ下の言葉に思うところがあるのか言葉を反芻するかのように呟いた。いや、その言葉は多分額面通りに受け取っていいやつだぞ。

 

「ふ、ふふ、ふむ! ならば、八幡よ! 我に手を貸せ。くふふ、思えば我とお主は対等な存在であったな。よかろう、かつてのように手と手を取り合いながら再び天下を目指そうではないか」

 

「主従関係はどこに消えたよ。後、俺はお前の翻訳機じゃねぇんだ。いちいち会話に俺を挟むなよ……」

 

「ゴラムゴラム! 我とお主の仲にそのような些細なことは問題ない! 特別に赦そう」

 

『お前は問題なくてもこっちには問題がありまくりだっての。お前を地獄に落とすぞスメアゴル』

 

 いや特段と材木座も深い意味でゴラムと呟いたのではないのだろう。聞き覚えと五感の良い単語を考えなしで使っているだけだと思う。

 

 少なくともそんな言葉一つで醜いホビット扱いする九音から材木座をついつい心の中で弁護してしまう。

 

 そんな幽霊に醜い化け物扱いされた材木座は、やはりというか雪ノ下の方向も見ずにこちらに顔を向けたまま喋る。

 

「すまぬな、この時代の在り方はあの室町の日々に比べてみれば随分と穢れているようだ――人の心の有様が、な。あの時代が懐かしいと思わぬか、八幡よ」

 

「思わねぇよ。もうお前黙ってろ、呪われるぞ。つーか呪われてろ」

 

 弁護して損したわ。欠片も同情する余地ねぇわ、こいつ。

 

「ククク、この我に呪いなど効かぬ! 既にこの身は野望という呪いに罹っているのだからな!」

 

 コートをわざとらしくはためかせてポーズを取る。流石はボッチなだけはある。呪詛耐性の強靭さには一家言あるのだろう。

 

 日頃から死ね、キモいなどといった負の言葉を受けて育ってきたボッチ。そういった言葉を受けてきた人間は少なからず耐性が持つ。心の防壁を自動的に作っている人間は呪いの言葉に対する折り合いの付け方など履修済み。負に纏わる言葉、呪詛、呪いにボッチは強いという新説を唱えたいところだが、つい先日痛い目を見たばかりの俺がそんな新説を唱えたところで信憑性の欠片も無い。

 

「うわぁ……」

 

 由比ヶ浜がドン引きしていた。まるで台所に居る黒光りを見るかのような視線が材木座に刺さっている。俺はこの視線の類を知ってる。かつて病院の個室でプリキュアを見ていた時に幽霊がそのような目で見てきた記憶が確かにある。今も時々……いや、最近は諦めめいた視線に進化しているな。

 

 俺が由比ヶ浜の視線に過去を馳せていればクイクイと袖を雪ノ下に引っ張られた。

 

「比企谷くん、ちょっとこっちに」

 

 雪ノ下、由比ヶ浜と共に奉仕部の片隅に移動。三人で内緒話をするかのように円陣を組む。九音も俺の背中に張り付いたまま耳を傾けていた。

 

「ねぇ、何かしら、あの剣豪将軍というのは?」

 

 雪ノ下の疑問に対して明確な一言が存在する。

 

「ありゃ、中二病だ、中二病」

 

 中学二年生をターゲットとしたスラング。よく彼らの年頃に見られる痛々しい言動や態度、行動のことを指し示す。中でも材木座が罹っている症状は『邪気眼』や『厨設定』に分類される代物だろう。ちなみに亜種としてDQN系、サブカル系などが存在する。

 

 さて、材木座が罹患している邪気眼系厨設定についてなんて説明をすればいいのか頭を悩ませる。

 

『ごっこ遊びでいいんじゃない?』

 

 九音の言葉は有り体に中学生どころか幼年期男子に対する物言いであった。しかしながら言い得て妙であり、その言葉で大体考えが纏まって雪ノ下達に説明する。

 

 漫画やアニメの件りから始まり、何故そういう設定を持つと考えるように至ったのかを説明し終えると雪ノ下にはどうやら伝わったようだが、由比ヶ浜にはいまいち伝わりづらかったようで未だにきょとんとしている。

 

「意味わかんない……」

 

 カッコいいからロールプレイをする、カッコいいからありもしない能力をあるかのように振舞う。見栄というものにあまり理解が及ばない少女にとってはイマイチ実感が湧かないようであった。

 

「つまり、彼は自分で作った設定を演じているようなものと捉えていいのね?」

 

「あぁ、概ねそんな感じだ。あいつの場合は自分の名前と重ね合わせて室町幕府第十三代征夷大将軍である足利義輝を下敷きに設定を作っている」

 

「なるほど、それなら貴方を仲間とみなしているのは何故なの?」

 

 ふと雪ノ下が問いかけてきた内容が古傷に障る。その質問に関しては答えすぎるほどに答えられる。名前の問題、名の問題。それはどうしてもあのヒトのことを思い出してしまうから。ただ疲れただけの思い出が蘇るから。

 

 何を得るわけでもなく、何も出来なくて、何も残らなかった。結局のところ足山九音が自分で自分の問題に、自分の危険に対処しただけで。狙ってきた怪異を返り討ちにしただけの記憶を。

 

「……比企谷くん?」

 

 名を呼ばれて我に返る。慌てて思考を戻し聞かれた内容を答えることにした。

 

「あいつの言う八幡というのは八幡大神。八幡信仰のことだ。足利氏の家系は清和源氏の流れを組んでいる。そこから清和源氏を含む武家からの信仰が篤い八幡神を関連付けているんだろう」

 

 俺の返答に対して雪ノ下は目をパチクリとしながらこちらを見てきた。

 

「驚いた、随分と詳しいのね」

 

「……まぁ、な」

 

 苦い思い出、苦々しい思い出。去年の仲春の出来事はきっとこうやって名前の意味を聞かれる度に思い出すのだろう。決して流れない、へばりついた記憶が自分の名前の物々しさが忘れてはいけないと警告する。

 

 そんな話題を切り替えるために今は材木座について話をすることにする。

 

「材木座は史実をベースにしているようだから幾分かマシに見えるな。世の中にはもっと酷い患者も居るしな」

 

「あれより酷いのが居るの……?」

 

 雪ノ下は一度材木座に視線をやって心底嫌そうな顔で呟いた。そして俺はそんな雪ノ下に向かって頷き答える。

 

「居る」

 

 俺の返答に女子二人は眉を顰めて顔をしかめる。

 

「参考までに聞くけれど、どのような?」

 

 俺は小さく咳払いをして物々しく声を絞り。

 

「元々、この世界には七人の神が存在した。創造神三柱、破壊神三柱。そして最後に名も無き神。常に繁栄と衰退を繰り返し、世界を何度もやり直していた。そして七回目の世界がこの世界であり、この世界の衰退を防ぐために日本政府は七人の神の転生体を探し出す結論を導く。その中に居る、能力も何もかもが詳細不明の名もなき神の転生体がこの比企――っと、違う、今のはあくまで例え話だ」

 

 途中まで饒舌に話していたせいか二人が此方を見る目は酷く冷めたものであった。

 

「気持ち悪い」

 

 由比ヶ浜の率直な一言により心の底からダメージを負う。

 

『完全に墓穴なんだよねぇ』

 

 背中に張り憑く幽霊も呆れた様子でそう呟いた。

 

「えっと、つまり比企谷くんもその中二病……? に罹っているのね。道理で剣豪将軍とやらについても詳しいわけだわ」

 

「いやいや違うから。そんな訳ないでしょう、雪ノ下さん。勘違いしてもらっては困りますよ。それは俺が日本史選択してるからだよ? ちょっと趣味で伝承や民話について齧ってるからだよ?」

 

「ふぅん?」

 

 欠片も信じていない様子で納得の感嘆詞を口にする雪ノ下。視線も疑わしいといったばかり。

 

 背後からは『伝承や民話を齧ってるって傍から見れば中二卒業できてるとは言い難いよねぇ』とこっちの言い分を潰しに来ていやがる。というか、そっちは調べておかないと生き死に関わってくるから仕方ない。

 

 しかしながら、俺は材木座と違うと断言できる。かつてこそは同類ではあった。過去にそういう隠された力を夢見ていたのは否定しない。けれども夢は夢で御伽噺。八幡という名前が特別な意味を持つなんて聞かされて喜ぶことも笑うことも今は出来やしない。名前が原因ではないが、少なくとも遭遇し続ける一因であるのだから。

 

 名前にそういう意味合いがあったとしても、特別な力や特別な代物は一つとして持ち合わせてなかった。だから俺はもう夢を見ない。

 

 非日常なんて懲り懲りで、特別な力も要らず、ただ平穏を望む。争いを望み、特別な力を求める中二病なんかと決して相容れるわけが無いのだ。だから、そういう意味合いも含めて俺は雪ノ下たちに答える。

 

「昔はそうだったかもしれないけれど、今は違う」

 

「そうなの? まぁ、いいわ」

 

 雪ノ下はこちらを流し目で見て悪戯っぽく笑う。そして材木座の方向へ向き直り一歩前に。

 

『……まぁ、中二能力よろしく怪現象に切った張った出来てたら感想も違うんだろうけど。現実は厳しいからねぇ』

 

 ほんとそれな。九音の言葉が俺の中二病に対しての熱が完全に冷めた理由の全て。少しでも何かしらの能力でもあれば別だったのだろう。少しでも対抗できる何かがあれば違ったのだろう。けれども悲しいかな、そんなことは無かった。現実はそんなに都合よく無かった。都合悪い事ばかり起きるくせに、都合のいいことなんて何一つとしてないのだ。偶々、生き残ってはいるが生き残るのには偶然ではなく理由があって、俺の持つ何かの能力で助かったことなどなくて。俺自身は役立たずで、見逃されて続けて、助けられ続けたに過ぎないだけ。

 

 そしてもしも能力を手にする機会があったとしても俺は手に取ることはきっとない。

 

 それは自ら巻き込まれることを選ぶのだから。愚かしいまでに愚かな選択、愚の骨頂極まる答え。扱いきれない、人間以上の力など持つべきではない。それが新たな問題を引き寄せるのは考えずとも判ること。だから一番賢く正しい選択は関わらないこと。ただそれだけが怪異や化物に対する絶対の正解。

 

『……まぁ、判っていながらも自ら巻き込まれにいっちゃう子も居るからねぇ。現実は厳しくて残酷なのに。それでもやっぱり自ら危険に飛び込んじゃう君はやっぱり愚かだよ』

 

 耳元で渡された囁きに否定なんて出来ない。否定どころか言葉一つ付け加える必要がない満点回答なので黙りこくる。

 

「だいたい理解したわ、あなたのその病気を治すのが依頼ということでいいのかしら?」

 

 材木座の方向へ向かった雪ノ下が堂々と言い放つ。放たれた言葉を受け止めた巨漢は一度だけ申し訳程度に発言主を見てから再度、俺の方向へ向き直る。

 

「八幡よ! 拙僧と汝の契約の下、某の願いを叶えんがためにこの場に応じた。実にそれは立派な志であり、気高き魂とも言え、ただ一つの魂とも言えよう」

 

『もう何を言ってるかわかんないよね、こいつ……ってか、このスメアゴルさぁ、もしかして女子と喋れないんじゃない?』

 

 薄っすらと俺も察しつつある材木座の言動。雪ノ下が喋る度にわざわざ此方を見る材木座の態度の答えはまさにソレだと言える。

 

 けれども悲しい事に、残念ながら雪ノ下はそんな気持ちを慮ってくれるような生易しい奴ではない。あと可哀想だからスメアゴル扱いはやめてさしあげろ……。

 

「話しているのは私よ、人と話すときはこちらを見なさい」

 

 雪ノ下は材木座に近づき威圧する。近づかれた材木座は瞬時に挙動不審っぷりが増していた。

 

「も、モハハハ、これは然り」

 

「その喋り方、不快だからやめて」

 

「……」

 

 容赦なき罵倒により完全に沈黙してしまう。容赦無ぇ……。

 

「それでどうして貴方は今の時季にコートを着ているの?」

 

「ふ、ふむん。興味あるのか? このコートは十二の神器の一つであり――」

 

「喋り方」

 

「あ、はい……」

 

「その指貫グローブの意味は? 寒い時期でないにも関わらず付ける必要あるの?」

 

「あ、はい、これは……ふはははははっ! よくぞ気づいた! これも十二の神器の――」

 

「笑い方」

 

「は、ははぁ……ハァ……」

 

 聞いておきながらまともに話させない雪ノ下。完全に意気消沈した材木座に雪ノ下が気の毒そうかつ優しげな目と声で尋ねる。

 

「その病気を治すってことが依頼でいいのね?」

 

 完全に可哀想な奴、もしくは病人扱いであった。

 

「あ、いえ、病気じゃない、っすけど」

 

 とうとう素に戻った材木座が普通に答える。此方に助けを求めるかのような視線をチラチラと送ってきている。さて、どうするかと頭を悩ませているとふわふわと浮かんでいた九音がいつのまにか地面にかがみこんでいた。そして指差している先には――散乱した紙。そのうちの一枚を指差している。

 

『八幡くん、用件ってこれじゃない?』

 

 俺は指の延長線上にあった一枚の裏向きの紙を手に取る。

 

「これは――」

 

 拾い上げて見るとそこにはびっしりと文字の羅列がしきつめられていた。そしてご丁寧にページ数が割り振ってあり、何枚か確認のために拾い集めているとその紙の正体に確信。

 

「ふむ、言わずとも通じるとはな……流石は八幡。共に地獄を生き延びた修羅よな」

 

「いや、お前も拾え」

 

 なんで人様に拾わせておいて偉そうにしてんだ、コイツ。俺の睨みに材木座も散らばった原稿用紙を集め始めた。見かねた由比ヶ浜も拾い集める。そして手伝い始め、集め終わった頃には具体的な依頼内容に察しがついた。

 

「比企谷くん、それ何?」

 

 こぽこぽといつの間にか紅茶の用意を始めていた雪ノ下がこちらを伺いながら尋ねてくる。

 

「小説の原稿……だと思う」

 

 俺の言葉に反応した材木座は咳払いをひとつはらい自己主張。俺たちは仕方なしに視線を向ける。

 

「大した観察眼だ。そうだ、八幡。これはとあるライトノベル新人賞に応募しようと考えていた物だ。しかしながら我には友達が居らぬ、だから読んで感想をくれ」

 

「今何か、さらりと悲しい事実を主張された気がするわ……」

 

 雪ノ下の哀れみを含んだ視線。でもよくよく考えれば最近まで友達が居なかったのはこいつも一緒である。

 

 とはいえそんな事実を口にしようものなら要らぬ反感を買うので手元の紙束を眺める。中二病の果てが自作の小説というのは珍しいことではない。しかしながら一つだけ疑問が浮かびあがった。

 

「投稿サイトがあるじゃねぇか。そっちの方が意見聞けるだろ」

 

「それは無理だ。彼奴らは容赦が無い。投稿して炎上でもしようものなら多分死ぬぞ、我」

 

『大丈夫だ、安心しろ、お前の紙束、燃えるほど目立たないから』

 

 九音の意見はさもありなん。しかしながら材木座の不安もわからなくもない。顔も知らない相手にならば人はどこまでも酷評できるだろう。とはいえ材木座のメンタルには驚いてしまう。強いのか、弱いのかわかんねーな、こいつ。よくそんな心構えで人に見せようって気になったよなと感心。

 

 まぁ、距離感で言えば悪いわけではないだろう、人の顔が見える以上、ネットのようにただひたすらに酷評することは多分無い……いや、待てよ――雪ノ下の方向を見る。

 

「どうかしたの? 比企谷くん」

 

 きょとんとして可愛らしく小首を傾げる雪ノ下。その綺麗な容姿だけを見ただけなら判断はつかないだろう。けれど俺は多少は知っているつもりだと嘯く。雪ノ下雪乃のことを少しだけ判っている。俺の知っている雪ノ下雪乃というパーソナルデータを鑑みて一つの結論を導いた。

 

「雪ノ下の方が容赦ないよ?」

 

 投稿サイトよりかは多分、よっぽど。

 

 

~~~~~~~~

 

 分量が分量であった為にそれぞれ持ち帰って読む事になった材木座の原稿。さりげなく三部用意してくるあたり結構な力の入れ具合が見て取れる。残りの二部を机の上に置き、材木座が依頼をするだけして帰ろうとした矢先の出来事だった。

 

「わきゃ、蜘蛛ッ!?」

 

 材木座が開いた扉の上に見事な蜘蛛が居た。そしてその蜘蛛は地面に降り立ち、そそくさと入室してくる。その見事な大きさと色に由比ヶ浜が可愛らしい悲鳴を漏らす。雪ノ下も同様に苦手であるらしく由比ヶ浜と共に蜘蛛から離れた位置に避難して様子を伺っていた。俺はその蜘蛛を眺めて――

 

「……」

 

 とりあえず近くにあった紙束を丸めて叩こうと立ち上がる。

 

「待て待て待てーい!」

 

「……なんだよ、材木座」

 

「いや、八幡よ、それ我の原稿」

 

「そうだな」

 

『八幡くんってさ、私たち女子の態度がスメアゴルに対して酷いって言うけどさ、君の方も中々に中々だよ? しかも自覚が無いのが尚酷い』

 

 そんな幽霊の小言を無視しながら俺は蜘蛛の方へ歩いていき、地面で小休憩している蜘蛛に振り下ろす。

 

「ちょぉぉぉっ!? 八幡、お主!」 

 

 しかしながら危険を感じたらしき蜘蛛は間一髪で紙束を避ける。尚も振り下ろそうとする紙の束の間に機敏に材木座が割り込んできた。

 

「ちっ、わかったよ……ったく」

 

「えっ? 今、舌打ちされた? えっ? 我が悪いの?」

 

 俺は原稿を机の上に置き、鞄からティッシュを取り出す。

 

「いや、別に殺さずとも良いであろう、八幡よ」

 

「あぁん?」

 

 そう言って材木座は奉仕部の窓をあけて小器用に机の上にあった紙束の上に蜘蛛を乗せて、そのまま外へ放る。お前はそれでいいのかよ。

 

「フッ、虫にも五分の魂というだろう八幡。日本には古来より蜘蛛は殺すなという言葉がある。知らんのか?」

 

 渾身のドヤ顔。少し遠くにいた雪ノ下達は蜘蛛が居なくなったのか安堵の溜息を吐いて紙束の近くへ。材木座の手に握ってある紙束以外をさりげなく確保していた。

 

「……それ朝蜘蛛の話だぞ」

 

「えっ、そうなの?」

 

 材木座の自信に満ち溢れた顔はすぐさま崩れ、まるで梯子をはずされたかのような顔でこちらを見てくる。

 

「そうだよ、朝蜘蛛、下がり蜘蛛は来客の証で福蜘蛛として待ち人来ると喜ばれ。夜は盗人の先走り。夜蜘蛛は親でも殺せってのが日本に伝わる風習の一つだ」

 

「へぇ、ヒッキー難しいこと知ってるね。さきばしり?」

 

『このあざとい雌犬二号! 淫乱な言葉を使っておいてわからないって顔してる! あざとい! 実にあざとい! このクソビッチめ!」

 

 いや、真っ先にその方向に話が行くお前の頭の方が心配なんだが。喚く幽霊の頭の中が頭痛の種。コメカミをぐりぐりと抑えながら、俺は由比ヶ浜に向かって言葉の説明を施す。

 

「前触れ、前兆とかそういう意味だ……」

 

 そんなことを呟きながら部室の窓を見る。そこは先ほど、材木座が蜘蛛を逃した窓。もはや見えることはないだろう蜘蛛の行方を思い描いてしまう。

 

「……」

 

『八幡くん、どうかしたの?」

 

 窓の外を眺めていると九音も同じように窓を眺めては尋ねてくる。俺は軽く首をふり、なんでもない、と小さく呟く。

 

『ふぅん?』

 

 他のメンバーに続き俺も帰り支度を始めた。考えていた内容は先ほど見た蜘蛛が屋内に発生し易いアシダカグモではないことや、春という時期にしてはあまりにも立派なジョロウグモであったからこそ気になってしまっただけ。

 

『でも、あれだね、八幡くん』

 

 ふと窓の外を眺めたまま九音が呟いた。

 

 他のメンバーが既に退室を始めていて、雪ノ下と由比ヶ浜が教室の外へ出ようとしている最中、足山九音は当たり前のように、何でもないかのように、当然の如く言ってくる。

 

『もしもあの蜘蛛が怪異になったらさ、間違いなく君への恨みは骨髄で、この恨み晴らさずにおくべきかって意気込みで。間違いなく君は狙われちゃうよね』

 

 そんな不穏すぎる言葉に嫌な表情を浮かべてしまう。そんな不吉な予言はこの学校だと起きてしまってもおかしくないのだから、簡単に笑い飛ばすなんて出来なかった。




※次回の投下予定日は四月十五日です。


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晩春【中心】

『主人公とはどういう存在なんだろうね、八幡くん』

 

 毎度の如くお決まりのように足山九音は数学の時間に前フリも無い唐突な雑談を始める。しかしながら今日の俺はいつもと違う、数学の時間でありながら寝ることを第一目的とはしていないのだ。

 

 俺の机の上には材木座の小説。正直数学の授業よりも眠くなる。

 

『……なんかいつもより眠そうだよね』

 

 それはそう。昨日の深夜から明け方にかけて一度読み終えたが最後にもう一度軽く全体に目を通している最中。

 

 ただでさえ睡眠不足に加えて数学教師の呪文、目の前の呪詛。二重のラリホーに耐えている状況。むしろ寝ていいんじゃねぇかな、コレ。

 

『ほんと、律儀だよねぇ。八幡くんのそういうとこ、生真面目だなぁ。私なんて最初の二ページでギブだったのに』

 

 昨日の夜、肩に乗って一緒に読もうとしていた幽霊は早々と離れ、部屋にあった漫画を読みながら音楽プレーヤーを聞いていた。

 

『んじゃま、今日の数学に代わるお話なんだけど……眠いよね、仕方ない仕方ない。子守唄代わりに流してくれてもいいよ。勿論、君がちゃんと聞いてくれるのなら嬉しいけどね』

 

 最後までパラパラとした材木座の小説を机の中へ片付け、数学の教科書を立てては腕を組み顔を伏せる。

 

『主人公、主役、メインキャスト、主演、メインキャラクター。まぁ、色んな呼び名があるけどさ。私のような見目麗しい人物が主役なんて物語は既にありきたりにありふれて。当たり前過ぎて面白みがなくなった過去の代物。流行り的に言えば平成の今の時代の主人公は顔がよくなくても務め上げれるんだよね。俺の名前は足山九音、どこにでもいる普通の高校生なーんて自称する流行は十年後には廃れそう』

 

 ――主役は顔がいい方がいいんじゃねぇか?

 

 俺は疑問を小さく口パクで伝えて見るが浮かぶ幽霊はふるふると首を横にふる。

 

『一概にそう言えないんじゃない? 昨今のラノベ事情からしてみればかっこいい主人公なんて読み手が感情移入し辛いだろうし。勿論、ヒロイン役や王子様役には美男美女が求められるだろうけどさ。少なくともブスや不細工なんかが大量に登場する作品が主流になることはないだろうね。大抵の読者はブヒブヒ言いながらぼくちんの大好きな主人公くんちゃんがこんなブサイク共に好かれるとか得なんて無いブヒ! なんて言ってそう』

 

 相変わらず悪意のある言い方だよな。けれども言いたいことはわからなくもない。自己投影しているキャラクターが顔の造詣が悪い相手に思慕を寄せるのは理解し難い。

 

 第三者視点の物語としてならまだしも感情移入する自分のお話とするのならNGなのだろう。いや、好かれるくらいは構わないのだろうが、長々と描写されることは安易に赦されることではない。きっと誰にも求められていないから。

 

『ライトノベルの作家っていうのはそういう意味じゃ大変な客商売なんだろうね。少なくとも本当に自分が書きたいものを書いているだけじゃあ成立しないんだろうし。売れるヒロインに売れるお話を作らなきゃいけない。ほんとプロの作家様って大変なお仕事だよね。むしろ普通の小説家よりもよっぽど大変なお仕事だと思うよ』

 

 確かにライトノベルに出てくるヒロインは魅力的でなければならないのだと俺も思う。少なくとも第四の壁を超えて魅力が伝わるくらいには、夢中にさせるくらいには。

 

 第四の壁。創作物と現実の壁。演者と観客の仕切り。

 

『でもさ、前提を完全に消し去ってしまって今度はその魅力的なヒロインの視点で物語を考えてみよう。そうなるとヒロインは都合よく冴えない男子高校生に恋することなんてあるのかなって。ヒロイン側から見たお話からしてみればそんなの赦されないよね。だって、ブサイクとまでは言わないけれど冴えない男子高校生なんて求められていないんだから。冴えない男子高校生がハーレム作りましたなんてお話もヒロインが主役の物語からしてみれば何でってお話なんでよね。なんであんな冴えない男に惚れていてその上でハーレムクソ野郎なんかの動向を伺わなくちゃいけないの? そもそもそんな奴視界にすら入らないモブじゃん。頭が高いんですけどって感じ』

 

 頭が高いのはお前なんですがって思ったが口にはすまい。わざわざ顔を挙げてまで反論することでもないし。

 

 顔面偏差値至上主義を掲げる九音の方向を見ると。

 

『ん、何?』

 

 俺は小さく呟く。お前メンクイの気質あるよな。

 

『……うーん、違うんだよねぇ。別に私はメンクイじゃないよ。ただ私が可愛すぎるだけだからその基準で色々と考えちゃうってだけ。うんうん、仕方ない』

 

 聞き飽きた自画自賛。相変わらずの自信っぷりに呆れてしまう。

 

『だからね、よくあるご都合主義って言葉は学園ラブコメにこそ相応しいんじゃないかって思うんだ。だってそうでしょ? 本来なら視界にも入らないモブ顔のくせに色んな美人と接点や関係性を築くなんて頭が高いんだよね。こんなものご都合とか都合のいい妄想って呼ばなくてなんて呼ぶの? 現実じゃあ最初から選択肢にも入れやしないってのにね。冴えない男子高校生に謎の力があったところで美人の物語にはスタッフロールにすら名前がつかない役どころなのに。だから本当にライトノベル作家って大変。その嘘臭さを消すのって並大抵の技術ではないだろうからね。主人公は等身大で感情移入しやすく、けれどもヒロインはバチクソ可愛い。こんなの無理難題なんだよね、本当なら。だから、あのスメアゴルのラノベから感じる悪臭は読むの耐えられなさそう。最初の二ページすら読む気失せるのに、ヒロイン出したらどれだけ酷いんだろう』

 

 九音の言の通り、材木座の小説に登場するヒロインに関しては多くは語れない。語りたくも無い。

 

『でもさでもさ、世の中にはこんな戯言があるらしいよ――人生の主役は自分だ、って』

 

 前向きな言葉なのだろう。励ましの言葉ですらあるのかもしれない。けれども足山九音が口にしたのなら、その意味を、その裏を読んでしまう。そもそも戯言なんて言っている時点で前向きな言葉と捉えてすらいない。

 

『うんうん、実にいい言葉、とってもステキー! 各々の人生の主役は各々だと。うんうん、とっても素敵な言葉』

 

 まるで壊す予定のトランプタワー。俺は知っている、判っている。積んでいるのは壊すためで、肯定的な言葉は扱き下ろす為の前準備。

 

『けどさ、同時に私はこう思うんだよね。お前らが主役の演劇って詰まんなさそうって。お前らが主演の物語なんて価値あるわけって。いや、だってそうでしょ? 大体の他人の人生って詰まんないものばかりじゃん。ドラマティックなノンフィクション、脚色をもりもりに盛ったノンフィクションですらも売れない時代にモブ同然の奴らの御話なんて肥溜にすらなりやしないよ。他人の自慢話を、他人の苦労話を、他人の成功談なんてものを。漫談出来るほどの喋り上手ならまだしも盆暗どもの自分語りなんて聞いてて退屈しちゃう。お前の人生の見どころどこなの? 結論から言えよ、タコってね。というかさ、そんなクッソつまらない人生しか送って居ない大衆が滑稽にも物語にご都合主義なんて言うんだから、笑っちゃうよね』

 

 全力で扱き下ろす性悪の幽霊。口も悪ければ性格も悪い。顔が良いのが尚、性質が悪い。

 

『創作物にご都合主義だって騒ぐ。うんうん判る判る。けどさ、ご都合主義じゃなくてリアリティを求められてもさ、お前らのクソ詰まんない人生観や経験側を前提にリアリティ求められてもさ。どうあがいても人にお見せできるものじゃなくなるよね。詰まらないどころか目を通すことも苦痛などうでもいい話になっちゃうじゃん。美人に惚れられることもなくて、劇的でもなければ華やかさも存在しない。そんな無味無臭の人生しか送ってないやつのリアリティってなんなの? リアリティがなくて説得力が無いって言葉を使うお前の説得力が無いんだよねって話』

 

 悪意のある――物の、人の見方、悪意の味方。足山九音はどこまでも口悪く自分以外の存在を簡単に悪し様に扱う。

 

『世の中には作者の都合によって殺されたキャラ、痛い目を見るキャラ。そんなレッテルが存在するんだけどそれなら果たして誰の都合なら殺していいわけって話なんだよね。話の都合? いやいや、その話を作った人間が殺してるんだから都合いいわけじゃんかよ。結局こういうのって読んでる人間の都合じゃないから騒いでる間抜けどもなんだよね。勝手に自分で好きになっておきながら、勝手に感情を移入してながら裏切られたら騒ぐ間抜けどもなんだよ。だから自分の納得がいかない展開を作者の都合なんて言い換えちゃう。自分の都合を押し付けておきながら、自分の勝手な妄想を繰り広げておきながら。結局こういうやつらって痛い目を見たくないのは自分で、だから自分の都合通りの注文をつけるオキャクサマってわけ。ほんとどっちがご都合主義なんだよって話。けれども客商売である以上、そういうところに気を配らないといけないってほんと作家さんって大変。ほんとちょっとしたことで炎上して、ちょっとした納得のいかなさで否定する。その上、自分は上客だとばかりに批評家面するやつらの多い事多い事』

 

 やれやれとばかりに首をふる九音は大変だと零していた。まったくもって大変だと思って居ない女幽霊。こいつにとってどうでもいい事で結局のところ他人事。一欠片の憐憫も心配も持ち合わせてなどいない。

 

『ちょっと話を戻すけどさ、主人公。ご都合主義なんて寄り道しちゃったけど主人公について御話しようか。ぶっちゃけご都合主義のアレコレなんて明日には意見を翻してる可能性あるしね。今読んでる少女マンガの続きももしかしたら将来的にこんなの作者の都合でしょ! って憤怒するかもしれないし。私が話したいのは君の御話、比企谷八幡くんが主人公の御話』

 

 何、言ってんだ、こいつ……と呆れた視線を投げてしまう。そんなご都合主義があったのなら俺はもっと平穏な筈なんだが。もしも何かしらの事件があったとしてもこんなに惨めったらしく色々としなくてもいいんだが。

 

『もしも、ね。もしもの話だよ。私と君の物語において君の運が悪すぎるなんてことはきっとないから。君って運は少しは悪いけど、不運ではあるんだけど悪運が強いからさ。もしも君に味方が、勝利の女神がいないなら周囲を疑ってみるといいよ。もしも君に都合が本当に悪すぎて、誰かにとって都合が良すぎるのなら、それは誰が求めているものなのか想像してみるといい。まぁ、様々な化物の望みや異変を乗り越えてきた君にとっては釈迦に説法なのかもしれないけれど』

 

 うとうとと瞼が重く、睡魔が襲いかかってくる。そろそろ限界が近く――最後に九音に一つだけ尋ねることにした。結局のところ材木座の小説、ご都合主義ばかりしか見えなかった物語について、あれは果たしてあれで良かったのかと。

 

『……ん? ごめんね、八幡くん。私は一般的に値段がつけられて商業用として販売してある価値ある代物の御話したつもりであってスメアゴルの排泄物の話をしたつもりじゃないんだ。だからアレにご都合主義に見える代物があったところで今回の話とはまったく別。あんまり汚い話しないでよ、汚れちゃうでしょ』

 

 こいつ、材木座に対して塩すぎない?

 

 

~~~~~~~

 

 足山九音が憑いていないことを俺の中でどう表現していいのか判らなかった。

 

 この一年間。あまりにも濃密で濃厚な時間は俺にとって九音が居るのが当たり前になっていて。居なければ、隣に、後ろに、前に、上に。どこにも居ない現状にこの上なく不安を覚えてしまう。

 

 九音無しで過不足無かった筈で。何も問題なんてなくて、怪異なんて関わり合いになくても平気であったはずなのに。

 

 けれども彼女ありきで過ごしたこの一年間は、助けがなければ生き残ることなんで出来ず、足山九音なくして迎えることはできなかった。

 

 そんな彼女の居ない状態、状況を表現するのならどう言うべきか。まるで臓器の一つがなくなった……いいや、そんな代替が聞くかもしれない物事ではない。そんなものじゃ足りていない。

 

 日常を送るのに不足していて、異常をきたし、送ることなどできやしない。今の俺は一人で生きていく自信など欠片も無い。

 

 普通に生きていくのに必要なくても、もはや普通に生きていくことが出来ず。普通の平穏を望んでいながら騒がしいトラブルメーカーを望んでしまう。

 

 普通に生きることなどできない――怪異、妖怪、都市伝説、呪術、摩訶不思議、奇々怪々、魑魅魍魎。そういったものと対峙することに、遭遇することに今は不足しているのだ。

 

 酷い矛盾だ、酷い願いだ。

 

 足山九音と共に居るということはそういった存在から離れられないとわかっていて、それでも平穏を望んでしまうという矛盾。憑いてる幽霊が居る現状を受け入れておきながら虫が良いことに危険に遭遇したくないという甘え。九音という『保険』を捨てることに俺は余りにも――。

 

 十五年生きてきた俺には必要なかった存在。けれども十六年生きてきた俺には不可欠な存在で。遭って当たり前、合って当然とも呼べる女幽霊。

 

 出遭った当時は思いもせず、病院に置き去りにして、憑いてきたときには厄介だと辟易し、八月の頭には性格の悪い居候で。

 

 けれどもそんな彼女に生かされてきたというのは事実で。居なくなって、繋がりが消えて初めてどれだけ俺が彼女に頼り切りだったのかが判る。

 

 少なくとも現状、そう現状の話。

 

 誰も居ない教室にぽつねんと一人取り残されていて。あまりにも静かな校舎の中で。足山九音が居ないという事実が酷く心細い。

 

 もしもこれが人気のある場所で、何の変哲もない陽だまりだったのならば何の問題もなかった。けれども解りやすい異常、非日常。

 

 そんな状況下で徒人たる俺ができることなど多くない、いや殆ど無い。できることを探す方が難しい。

 

 騒がしいまでの幽霊、一人で三人分は口うるさい女幽霊との繋がりが感じなくなって数分。目を醒まして数分。

 

 あの数学の時間の雑談ですら本当にあった出来事だったのかと怪しい代物。

 

 もしかすれば俺が寝ている間に教室にいる皆は俺に声をかけずに一人放置しただけ。九音は少し校舎内を回っているだけ。クラスメイトはボッチに気を回して誰も声をかけなかった。幽霊は浮遊霊の如く散策に回った。

 

 そんな都合のいい妄想に笑いが溢れる。

 

 時刻は短針の三より少し前。生徒を消し去るにしてもあまりにも時間が悪すぎる。今のこの時間帯はまだ数学の時間なのだ。

 

 誰も居なくなった教室で深く、深く息を吸い――吐く。

 

 深呼吸をしていますぐにでも混乱に身を委ねそうな思考や感情を引き止める。すべてを捨て去って逃げようとする思考の足を引っ張る。

 

 足山九音が居ない。つまりは化け物と遭遇する時には頼りない自分の身一つでどうにかせねばならないということ。

 

 足山九音が居ない。つまりは知識はすべて俺一人分で賄わなければならず、対して詰まってもいないだろう記憶と頭だけで判断しなければならないということ。

 

 足山九音が居ない。つまりはこの恐怖に対して気を紛らわせることが出来ない。目をそらすことなんて出来やしない。自分自身の内なる恐怖から目をそむけてはならないということ。

 

 再度、呼吸を整える。油断をすれば吐き出しそうになるほどの濃密な恐怖を必死に堪えて周囲を見渡す。

 

 無人の教室、窓から見える光景にも人の形、影は何一つとして存在しなかった。それどころか自分を学生だと示す部品の一つ、学生鞄の所在すら掴めない。

 

 ――不味いな。

 

 あの鞄の中には対霊としてはそれなりに厳選した道具が入っている。勿論、それがすべての怪異に効くだなんて自惚れていない。幽霊には効果はあるかもしれないが妖怪や怪人には効果が無い可能性は十分にある。しかしながら、無いよりかはあったほうがに遥かにマシで。

 

 自分の席から離れて背後の掃除道具箱を見つめる。そういえばこの中に箒があったか。

 

 化け物相手にはあまりにも貧弱な装備かもしれないが、それでも徒手空拳よりかはマシだろう。そんな軽い気持ちで中身を拝見しようとした瞬間に産毛だつ。

 

 指先をカサカサと這うような感覚。

 

 あまりの気持ち悪さに手を引き、逆の手で原因を叩き払う。そこには子グモ。五ミリも無いであろう蜘蛛の群れ。

 

 その蜘蛛の群れが足元から散らすかのように去っていく。

 

 そして勢いづけて開いた掃除箱の中には――閉める。即座に閉める。閉めた際に挟まれた『足』が未だに悶えるかのように動いている。

 

 掃除箱の中には大量の蜘蛛の巣、そして蜘蛛の大群。

 

 あまりの気持ち悪さ、恐怖に胃が締め付けられて。逆流しようとする胃液を必死の思いで堪える。

 

 成虫と呼ぶにふさわしい蜘蛛の足は未だに挟まったまま。気分の悪さに口元を抑えたままゆっくりと教室後方の扉を開く。

 

 視界に入るのは見慣れた光景。人こそいないがそこは俺がいつも見ている光景で。

 

 けれども、一瞬視界に映ったソレは。決して目を逸らしてはいけないというソレは。声の一つも挙げないソレは見間違いじゃない。

 

 人間。

 

 人間が天井に絡め取られていた。蜘蛛の糸がまるで操り人形のように手足を絡みとり、それでいてマリオネットのように人間の可動域には不可能な折れ方をする腕。

 

「――――ッ!?」

 

 喉から零れそうな、今にも飛び出そうな悲鳴を手で押さえて殺す。音とは居場所を示すもので、もしも無防備に驚き、叫び、戸惑っていれば、ここに居ると報せてしまえば何もわからない状況で何が起こるかわからない。

 

 ぽた、ぽた、ぽたぽたと。

 

 ポタポタと落ちる赤い糸は地までつながっていて、地面に作られた赤い蜘蛛の巣には網目が無い。

 

「顔、が……無い……」

 

 それだけじゃない、よくよく見れば片方の胸も無惨に食い千切られ、足首も同じようにギザギザとした雑な切断面。

 

 周囲を見渡せば赤の斑点が廊下の奥へと伸びている。まるで道標とばかりに残されたソレを見て、顔を奪ったナニかが既に移動した後だというのが明白にわかった。

 

 いいや、移動した後が判ったなんてそんな事実だけではない。現状の状態からの推測であれば、もはやここまでお膳立てさせられたのなら。

 

 間違いようがなく、判りやすいまでの正体。まるで隠すつもりが無い化け物の正体が浮かび上がる。

 

 蜘蛛。

 

 蜘蛛の巣、蜘蛛の子、蜘蛛だらけのロッカーの中身、そして白い糸で絡め取られた死体。ここまでお膳立てされておいて蜘蛛以外のバケモノなわけがない。

 

 何をどう間違おうとも、今回のことをお話として編纂、編集するのならばまさしく蜘蛛について。

 

 問題は蜘蛛というバケモノに心当たりが多すぎること。

 

 古今東西において蜘蛛のバケモノは多すぎるほどに多い。それでいて一部には遭遇しただけでどうしようもない、手も打てない、手に負えない怪物も存在する。

 

 オカルト的な見地からしてみれば蜘蛛はあまりにも馴染みが深すぎるのだ。古来より吉凶の証としてどちらの側面も司ってきた蜘蛛という存在にたった一人で立ち向かうにはあまりにも心もとない。

 

 唾を飲む音が響く。諦観渦巻く思考をせき止める。

 

 そして――ふと思い出したのは昨日の蜘蛛。俺が殺そうとした蜘蛛の御話だ。

 

「……待てよ、ただの動物霊なら」

 

 呟いて、思い出して、立ち止まる。

 

 自然と赤の斑点から離れようとしていた足を引き止めて。

 

 そして反転して科学準備室を目指す。赤のまだら模様の先、視界に何かがよぎればいつでも対応できるように周囲を気にしながら。

 

 細心の注意を払いながら、物音一つ逃さないように、自分の息さえも殺しながら。

 

 けれどもあっさりと。びっくりするほどに呆気なくたどり着く。心配事は完全に杞憂で。そして目的の扉を掴み――回す。

 

「回った……ッ」

 

 つい喜びの声が漏れてしまう。そして、目的のものが閉まってある場所を、薬品棚を目指して歩みを進めた。

 

「……あった」

 

 目的の代物は最前列に並んでいた。薬品棚の戸は鍵がかかってないらしくあっさりとスライドして、手を伸ばした瞬間――掴まれる。

 

 がっちりと、力強く。痛いほどに力強く。

 

 その白魚のように細い指が俺の手首を締め付けながら掴んでいる。

 

「比企谷くん……なに、してるの』

 

 悲鳴が漏れそうになったが、急に手を掴んだ相手の声があまりにも聞き覚えがあったので安堵のため息を漏らす。

 

「ゆき……のした、か。掴む前に声をかけてくれ、驚くだろう」

 

「質問してるのは此方よ、比企谷くん。こんなところで貴方、何をしているの?』

 

 まるで俺を問い詰めるかのような台詞。しかし少し考えれば納得も行く。これが何も不思議の無い日常だったのならば確かに俺がやっていることは狂人、気狂いの類かもしれない。

 

 科学準備室に保管されている薬品棚から薬品を許可なく取りだそうとしている。それどころか教師の目が届いてない場所で勝手に持ち出そうとしているのだから雪ノ下が止めるのは理がある。

 

 故に雪ノ下雪乃にオカシイところは何も無い。むしろ学生として模範的であり、倫理観ある生徒ならば至極当然とばかりの台詞と行動。

 

 けれども。

 

「雪ノ下、この状況をおかしいと思わないか?」

 

「この……状況』

 

 オウム返しにこぼす。眼の前の彼女は何がオカシイのかさっぱりとわからないとばかりに見渡す。それと同時に理解する。理解出来てしまった、理解が及んでしまった。

 

「何がオカシイの?』

 

 ゾワリと背中が産毛だつ。握られた指先の爪が肌に食い込む。

 

 考えても見ろ。俺がこの場所に入っていくには理由があった。目的があった。けれども彼女は? 眼の前の雪ノ下は?

 

 何故、科学準備室に居るのか。

 

 嫌な予感に背中の汗がじっとりとにじみ出る。

 

「雪ノ下、ゆっくりで。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから俺の手を離してくれ」

 

 俺は懇願する。すると彼女は表情を強張らせた後に俯いて。

 

「……ダメ』

 

 血が滲み出る。爪が皮を破り、肉へ。鋭い痛みと締め付けられる鈍い痛みに苦悶の声が漏れる。

 

「ダメ、ダメなの……ねぇ、どうして』

 

 その問われた声は低い。

 

『ねぇ、どうしてそんなにすぐ行動出来たの? ねぇ、どうしてまっすぐ此処に来たの? ねぇ、どうしてそんなに早く解決できるの? ダメ。そんなのダメ。赦されない。そんな御話ないわ、そんな展開は望んでない。そんなに単純に解決しちゃだめ。こんな予定は立てていないの。無い、ダメ。ダメ、ナイナイナイ、ありえない、こんなにあっさり、あっさりあっさりアッサリ』

 

 締め付ける指を勢いよく払う。解放された腕、吹き飛ばした華奢な肉体。それらを無視して俺は保管されてるエタノールへ手をのばす。

 

 けれども雪ノ下は跳ねるように起き上がって俺の腕目掛けて突撃してくる。軽く舌打ちをしてその突進を避けた。

 

 絶対に渡さないという意思は薬品棚に衝突するほどに強く、突進により戸棚のガラスは割れて破片と瓶が彼女に降り注いだ。

 

 こぼれた中身が床に飛び散り混ざり合う。

 

「まっず……」

 

 顔を腕で隠して吸い込まないように慌てて準備室から飛び出した。明らかにやばい反応の音と煙。

 

『――――ゃぁぁああああッ!』

 

 科学室から出ようと目指していた足は止まってしまう。絶叫、金切り声が耳に入ってきて。

 

 明らかに雪ノ下雪乃の様子はおかしかった。異常であった。態度も反応もおかしく、彼女が発していた言葉はナニかを知っているとばかりで。そしてソノ何かを守るために行動を阻害していきたかのように見える。

 

 見捨ててもいい理由が。離れてもいい理由が幾つも頭の中に浮かび上がる。

 

 逆の理由など一つくらいしか思い浮かばず。

 

 雪ノ下雪乃を大切に思っているなんて虚言ではなく、女の子を見捨てたくないなんて義侠心でもなく、人のため、他人のためなんて薄ら寒い理由なんかではない。

 

 俺が、たくさんのものを失った俺がせめて人間らしく、人間のような、人間のフリをして生きていくための。

 

 失いすぎた人間性の欠片の代替でしかない。人が死ぬのを何の躊躇いもなく見捨てるような自分の足をそのまま進めてしまえば、後はバケモノのように堕ちるしかないことを知っている。

 

 異界、化物が蔓延る世界で人間が人間の役割を失ってしまえば、何が残るというのか。何も無い、何も無いから――せめてとばかりに一度見捨てかけておきながら再び科学準備室へ踏み込む。

 

「雪ノ下……?」

 

 開いた先から少女は消えていた。科学準備室で悲鳴をあげていた女の子は忽然と姿を消し、残っているのは散乱しているガラス片、割れている薬瓶、音を立てている液体。

 

「ど――」

 

 瞬間に全身が震える。背筋が震えてはナニかを訴える。何を、何を――間違えた。

 

 あぁ、なるほど、間違えたのだ。

 

 いつも間違えているような俺の勘がはっきりと告げる。毎度のごとく馴染み深い。当たり前のように感じ取るソレは、自らが選択した行動が間違いだったと伝えてくる。

 

 ポタリ、ポタポタ、と。

 

 先程、頭頂部に一瞬感じた水気は気の所為ではない。まるで背筋に氷が入ったかのように背中に落ちた水は気のせいじゃない。

 

 生暖かいはずなのに、まるで氷のようで。

 

 頭上から降り続ける液体、生温いその水の色は――透明。粘性を含む液体はナニかが頭上に居ることを指し示す。

 

 その水の正体が涎。

 

 ごちそうを目の前にしたナニかが我慢ならぬとばかりに垂らし続けている。上を向くことなど出来やしない。身じろぐことすら出来ずに。

 

 足山九音が居たのなら、と。

 

 他力本願な願いばかりが漏れ出る。

 

 見上げる。見上げてしまった、恐怖に打ち負けて。逃げることすら出来ずに、滴り落ち続ける水の原因を見てしまう。

 

 目が合う。

 

 悲鳴を漏らさなかったのは二度目だから。人の顔に――巨大な複眼を見たのは二回目。

 

 けれども悲鳴を漏らさなかっただけで、恐怖を克服したわけではない。足は完全に地面に張り付いて、動けない。

 

 ギョロギョロと。

 

 ギョロギョロとした大きな複眼が、蜘蛛のような一つ目の複眼が。限界をとうに超えて裂けている口が、開いている口から見える牙が。

 

 美しさの欠片も残っていなかった。人型すら保っていなかった。奉仕部で一枚絵になるような美少女の面影なんて欠片も残さず。

 

 見上げて顔にふりかから水滴に。あまりの悲惨な結末に。諦めが浮かび、目をつむる。

 

『ヤサシイのね、ひきガヤクん、モドってキてクレるなンて』

 

 二重音声のようで酷く聞きづらい声が甘えるかのような台詞で耳を打つ。気持ち悪さに背筋は震え、動けと足に命令するものの心は既に折れていて。

 

 眼の前の少女。いや、眼前の化物のおぞましさに心が壊れてしまいそ――

 

 ――ブラッディナイトメアスラッシャーッッッ!

 

 気が抜けた。無様に水たまりに尻もちをついて全身から力が抜ける。そんな俺の眼前に切り裂かれた蜘蛛の足が、血が降りかかる。

 

 そして――。

 

「ふっ……八幡よ、無事か」

 

 唐突にかけられる声。そのどこか男臭さを感じる声にたいして。素直に、心の底から素直にこう思う――シリアス、返して、と。

 

 少なくとも助かったとかありがとうなんて言葉は出てきそうになかった。

 

 

~~~~~~~~~~

 

 シリアスブレイク。ホラーブレイク。

 

 まるで悪い夢かのような出来事はあっさりと謎の力――材木座曰く由緒正しき精霊刀の力であるらしい――によって追い払われた。その跡地で俺は大穴を見上げたまま間抜けな顔を未だに浮かべている。

 

 蜘蛛の化け物が居たであろう穴は闇深く奥行きは決して見えない。

 

「……流石に着替えた方がいいだろう。教室にジャージ置いてある、それに着替えておいた方がいい」

 

 材木座は片手に刀を構えたままニヒルに笑う。反射した眼鏡の光が眩しくて鬱陶しい。

 

 あぁ、なるほど、そういうことか――理解が及ぶ。この不思議な状況を、不可思議な状況を。

 

 理解したが故に何故、材木座が都合よくジャージが置いてあることを知っているのか、という疑問が一瞬で浮かんできては消えた。

 

 何の怪異なのか、何の不可思議なのか、何に巻き込まれているのか。

 

 そして同時に足山九音が居ない理由すら察してしまう。察することができてしまう。

 

 俺は材木座の提案に頷き、準備室を出た。そして廊下を二人で練り歩く。後方で大手を振って歩いている材木座はまるで敵なしといった佇まい。そんな様子に溜息の一つや二つ吐きたくなる。

 

 九音辺りがいれば――こんな奴に助けられるなんて悪夢だよ……、なんて言いそう。

 

 事実その通り悪夢。悪い夢、そう、夢なのだ、この世界は。

 

 それさえ判れば対処法などたやすく、蜘蛛の怪異と夢と言う繋がりがあるのならこの謎の世界観の答えは導ける。

 

 ドリームキャッチャー。

 

 日本語へ直訳すればポジティブで前向きな言葉辺りに変換されそうなその言葉はアメリカの風習である。その風習をモチーフとしたアクセサリーも販売されていて、蜘蛛の巣状の網に装飾が施されるその代物はアメリカやカナダの一部先住民のアイデンティティーの象徴としても扱われている。

 

 悪夢を絡め取る。蜘蛛の巣の網目は悪夢を絡めとる。眠る際にベッドの上に飾ることで良い夢を見せると言われている。

 

 なればこそ、蜘蛛。

 

 足山九音の嫌な予言はあたる、恨みを抱いた蜘蛛が怪異となって復讐するなんてあの校舎ではなくもない。

 

 それと同時に――同時にこれは恩返しなのだろう、鶴の恩ならぬ蜘蛛の恩。この材木座の都合のいい夢。良い目を見ている材木座の夢の中。

 

 故に足山九音は存在しない。なぜなら材木座義輝に認識されていないから。

 

 俺にとっての悪夢でも材木座にとっては良夢。俺は完全に巻き込まれていた。

 

 ――そりゃあ、殺そうとしたら呪われるよね。

 

 もしも九音がいればそんな台詞で突っ込まれただろう。主目的が返礼ならば、副目的は復讐で。

 

 つまり、この頭が痛いと頭を抱えるほどに頭の悪い夢は俺への復讐も兼ねているのだ。それと同時にこの怪異に人を殺せる力など無い、人を害するほどの力を持って居ないことを察せる。

 

 それこそ殺されそうになっておきながら、俺を殺すことなく舞台の役者として登場させている。人を殺せるほどの怨念が、恨み辛みがそんな役どころを割り振るわけがない。いのいちで殺し、糧とする。怪異が人を殺すというのは力を得ると同義なのだから。俺は一度たりとも傷を、痛みを与えられない。人を傷つけることが出来ないという、蜘蛛の怪異が持つ力の限界を現していた。

 

 だからせめて驚かせて、恐怖を抱かせて、怖れさせて。

 

 せめて俺が発狂でもしていれば変わったのだろうが、タイミングがいいのか悪いのか。材木座の登場により俺の化物に対する恐怖は完全に霧散していた。それどころか九音が居ない理由にも合点し未知ではなくなったのだ。

 

 それだけではない。

 

 あろうことか怪異でありながら蜘蛛の化物の方が恐怖を抱いていた。最短ルートでエタノールを取りに行く俺を、舞台脚本を無視して足掻く俺を。わざわざ血痕まで残して威嚇していた道を無視した俺に。

 

 故に俺が恐怖を抱いたところで大きく力を得ることなど出来なかったのだろう、諦めに近い心境でありながら。

 

 のんびりと口を開けたままいつまでも悠長に脅していたのは余裕があったからではない、余力が無かったから。初めから蜘蛛は俺を傷つける力を持ち合わせていなかったのだ。

 

 故に問題があるとするならば、だ。

 

 どうやってこの夢を終わらせるか、その一点に尽きる。思い浮かぶ方法は二つ。

 

 一つは化物退治に乗り出すか、そして――終幕へたどり着くか。

 

 前者は確実に乱暴な方法であり、はっきり言えば論外だ。確かに怪異が俺を傷つけるほど大きな力を持つ存在ではなかった。傷つけるような逸話もないのだろう。けれどもだからといって化物相手に大立ち回りなど愚の骨頂。力無き怪異であったとしても俺自身は力無き人間で、ましてやろくすっぽな解決方法など思い浮かばない上に徒手空拳で。

 

 勝率なんてあるわけがない。無力なもの同士の争いであったとしても相手は化物なのだ、仮にも。

 

 せめえエタノール、アルコール、酒でも持ち合わせていたのなら取れる手段はある。それでも大きな危険が伴うが。蜘蛛の怪異に対する特攻の神器が三つ揃っていたところで取り扱う人間が凡俗であるのならば上手に使えず痛い目を見るのかもしれない。酒精は蜘蛛殺しに最適であったとしても、酒精アルコールは怪異に対して効き目が強かったとしても。

 

 俺はその武器を器用に扱いこなせるほど自分を信じちゃいない。ここぞという時、今この時にという場面で最適な行動を取れる人間は多くない。そして日常において人と居るときは少数派なくせに、そういう大事な場面では大多数に所属する俺である。信じきれるわけがない。

 

 そしてそんなたった一度の間違いを赦してもらえると思えるほど生易しい存在は居なかった。一つのミスが命取りになることはよく身に染みていた。もしも殺す気、退治に挑み失敗すれば怪異は決して赦さないだろう。そうであるならば命と命のやり取りになる。そしてその命のやり取りほど馬鹿らしいことはない。そんなリスクを取るなんて遠回りな自殺と変わりゃしない。

 

 あほらしい。

 

 本当に阿呆らしい。そんな死と隣り合わせの選択をするなど頭が悪すぎる。物語の主人公、主役、大役あたりなら死に怯えずに戦う選択でもするのだろうが生憎そんなつもりはさらさらない。人間の強さを証明するために怪異と戦うなんてそういう奴らが勝手にやっててくれと切実にそう思う。

 

 何故、自らを危険に追いやるのか、飛び込むのか。危険は回避できるなら回避していくべきで。

 

 若い頃の苦労は買ってでもせよという言葉がある。苦労なんて買う必要はない、世の中にはタダ同然で落ちているのだから。けれども買ってでも欲しい苦労にはきっと価値があるのだ。苦労に見合ったリターンが存在するのだ。ガムシャラにその辺に落ちている苦労なんかとは異なり、買う価値があるのはリターンが大きい上質な苦労だけ。

 

 だから買う価値も、賭ける価値も、背負う価値も無い苦労など背負い込む必要はどこにもない。

 

 故に選ぶのは夢の終着点。この物語とも呼べる材木座の対する御礼の物語に付き合うしかない。

 

 それが今回、俺が選ぶ手段。いつだって他力本願で人任せ。

 

 安全であるが苦痛で、痛々しくて目もあてられない物語に付き合い見届ける。なんとも傍迷惑な呪いなのか。地味に効果はバツグンだ。

 

 そんなことを結論づけていると背後に居る材木座が意気揚々と声をかけてくる。

 

「ふっ、八幡よ。安心するがいい、この剣豪将軍と精霊刀がある限り怪異など物の数ではないわ!」

 

 ふぅーはっはっは! と高笑いしながら俺を追い抜き前を歩き始める材木座。その後ろをとぼとぼと歩く。

 

 何が悲しくてこんな目に、こんな夢に遭わなければならないのだろうか。そりゃあやっぱ蜘蛛を殺そうとしたことか。いやいや、それは仕方ねぇだろ、蜘蛛は害虫なのだ。間違うことなく。

 

 科学的根拠に基づくのなら益虫と考えてもいいのだろう。しかしながら九音の言葉を借りるのなら見るだけでも不快な存在、見るだけで不快な昆虫は有害と認定されるのだ。世の中には不快害虫という言葉があるように見てくれや音で存在を拒否されるものは数多く存在する。

 

 そして最近も見かけるだけで痛々しくその存在があまりにも辛い代物があった。それは前を歩く男が持ってきた紙束のこと。

 

 読むだけで苦労し、痛々しくて直視など出来やしない。

 

 けれども、だ。そう逆説を言わせて貰えるのならば、マイノリティ的な嗜好の人間は存在する。蜘蛛や毛虫を好む人間が居るように材木座の小説も少数の人間に支持があるのではないか、と。

 

 たとえ日本語の間違いが多かろうとも、痛々しくて読むのが苦痛であったとしても。そういうものを好む人間は少ないながらも存在する筈だ。

 

 本当にちやほやされたい、褒められたい、認められたいというのならばそういう集団の中で、集まる場所で投稿すべきだったのではないだろうか。

 

「なぁ、材木座。お前、どうして投稿サイトにアップしなかったんだ?」

 

 大袈裟に手を振りながら前を歩く材木座に問いかける。

 

「……何の話、む? 小説の話か」

 

 急に立ち止まる材木座。どうやら夢の世界であっても昨日の小説のことを思い出せたらしい。自分で振っておきながら話題が通じない可能性も考えていたがどうやら杞憂だった模様。

 

「別に叩く奴らばかりじゃねぇだろ。あぁいうサイトにはお前の小説を肯定してくれる奴も居るんじゃねぇのか?」

 

 材木座が口にした理由。容赦なく叩くと酷評されるといった理由。けれども足山九音はこう言った、材木座の小説を読む直前に嫌悪感丸出しにしながら言ったのだ。

 

『こんなの小説投稿サイトに出したところで酷評されるなんて被害妄想もいいところだよね。完全に自意識過剰なんだよ。そもそもさ、投稿するだけでみんなが見てくれるってなんて自分があたかも世界の中心、主役みたいな物言いでムカつく。そもそもこんな小説モドキに時間を割くやつなんているの? 読んで面白くもない代物に時間を割いて指摘する暇人も少ないと思うよ。酷評? バカな話だよね。酷評するのだってエネルギー使うんだよ。排泄物にそんなエネルギーを使う人間なんてマイノリティなんだよ。好きなものならまだしも自分が嫌いなものをわざわざ言葉を使ってクソだって説明するのにどれだけのエネルギーがいると思うのさ。排泄された物体を見て、この排泄物はクソですだなんてスカトロ趣味のキ印なんてどう考えても少数だよ。そんなものより自分の好きなものを探す方がよっぽど有意義。君だってそうでしょう』

 

 開始一ページでこの感想。それ以降、材木座の小説をスメアゴルの排泄物扱いで見向きもしなくなった。

 

 つまりは、だ。九音の言の通り興味の無い人間に読ませるよりも同好の士を募った方がよっぽど建設的だったのでは? ということだ。

 

「ふむん、たしかに。一定数いるかもしれんな。酷評される恐れは多少持ち合わせていたが我は自分の作品に少なからず自信がある。人に見せる以上、最低限の誇りを持ち合わせている。けれども他の者の目に止まるというあやふやな可能性に賭けるよりかは必ず読んでくれる者に批評をお願いするのは当然の理であろう」

 

「だから奉仕部に?」

 

「うむ、せっかくの作品なのだ。感想を聞きたい。別にチヤホヤされたいわけでないのだ。いや、少しはちやほやされたいが――それでも忌憚なき意見というものも聞きたいのだ。そしてその意見を言ってくれる人間というものはこの世の中、存外と少ない」

 

 材木座の言葉に俺は頷く。

 

 上辺だけの付き合い、友達付き合いで小説を見せられたところで果たして心からその小説に対して正直に物を言えるだろうか。意見をぶつけ合ってそれでも付き合いづづけることができるだろうか。

 

 生み出した、産み出したソレを否定されることにどれだけの痛みが痛みが帯びるのか想像しかできない。けれども想像もしない。結局のところその痛みは他人の物で、此方が勝手に想像して慮っても他人事。

 

 他人事のくせに痛さに対して判ったようなふりをするのはその痛みを覚悟した人間に対して失礼だと思うから。

 

「ふは、それに今は無名であれどいつかはその頂点に立つ我だ。多少の批判や意見などは糧にしてくれよう!」

 

 意気揚々と答えるその姿が少しばかり眩しい。中二病を突き詰めて、文まで起こし、自分では作品と自惚れるくらいの代物を作り上げる。その足掻きにあがいた代物を他人に見せるという勇気をも持っているのだ。

 

「はんっ」

 

 自嘲が溢れる。こんな質問は愚問。

 

 誰かに否定されるのを覚悟で、晒したソレは。きっと俺がほしいと思っているものになんとなく近い気がする。他人から笑いものにされようとも、それでも形として成り立った小説は材木座にとって、きっと。

 

 話しているうちに自然と教室へたどり着く。目的地である場所の扉を開こうとして気づく。俺への恐怖を煽る意味合いで用意されたギミック、血を流していた死体は消え去って、血溜まりだけが残っていた。

 

 正体を見たり、枯れ尾花ではないが蜘蛛の思惑はやはり恐怖を与えて力を得るためだったのだろう。

 

 半ば確信めいて俺は教室に用意してある体操服袋を広げる。そこにはいつもと違う色が目に入った。

 

 白。

 

 ジャージを愛用している俺は久しく目にした体操服を取り出す。そこには半袖半ズボンの体操服。

 

 思い出すのはあの幽霊のこと。九音は俺が初めて体操服を着た際に。

 

『ぷふーっ! は・ん・ず・ぼ・ん! あははははっ! だっさ! 八幡くん、君、私を笑い殺す気なのぉ! 高校生のくせに堂々と半ズボン姿で立つのやめてくれよ! 指定の服装だからって一切の羞恥心なく半ズボンとか! ぷくく、くすくすくす、もやしっぷりが強調されて、ぶひゃひゃひゃひゃ!』

 

 高校始まって初めての体育の時に馬鹿にされた俺はそれ以降、夏場でもジャージ着用で過ごすようになった。しかし季節は一回りして今年の春に再び半ズボンのサイズを測るために部屋で着替えていれば、今度は違う意味で酷い感想を貰い二度と着れなくなった。

 

『ぱ、パッツンパッツン……!? じゅ、ジュルリ、い、いい太もも! ねね! 八幡くん! 今度からは半ズボンで体育しようよ! 半ズボン最高だよね! そのぱっつんぱっつん具合にもっこり具合! 凄く好き! ぁ……ああああぁぁぁっ! でも、これを同じクラスの女子どもに見られるのか! それはやだぁぁぁぁぁぁっ! いやぁぁぁぁぁっ! 八幡くんと私が育てた筋肉がァ、八幡くんがぁ他の女子のオカズになっちゃうぅぅぅ……うぁぁぁっ、でも見たいぃぃぃ、八幡くんがその姿でマラソンする姿とか、超見たいぃぃぃぃ……』

 

 学生服からは見た目の変化に気づかなかったが体操服姿になれば一目瞭然で。自分の体格が大きく変わっているのが丸分かり、特に太ももに至っては去年よりも遥かに大きくなっているらしく体操服が少しはちきれそうだった。そういえばちょこちょことカッターシャツはサイズを変えていたから肩周りも大きくなっているのだろう。

 

 そんな嫌な記憶を思い出して、そっと体操服を直そうとすれば蜘蛛が机の引き出しから現れて足にかさかさと纏わりつく。そして引き出せば蜘蛛は散らすように机の中へ。

 

 ちょっと待て。これは材木座にとっての良夢なんだろ……なんで俺の体操服姿が必要なわけ? えっ、怖い怖い怖い。なんか今日一番で恐怖感じてる。

 

 数分迷った後に演目上必要とあるならばと渋々着替える。おかしいな、上は買い換えたからサイズ調整は終わっている筈なのに上下ともにぱっつんぱっつん。

 

 俺は着替え終えて教室を出る。廊下でふんっ、ふんっと素振りしていた材木座はこちらへ向いて一言。

 

「……小さくない?」

 

 お前のせいなんだが。いや厳密に言えば夢の世界を司るシナリオライターのせい。もしかしてこの蜘蛛腐ってるんじゃ。ぶるると身を震わせて。

 

「ちょっと材木座、離れて歩け」

 

「なんで!?」

 

 驚いた後に一歩近づいてくる材木座。身の危険を感じて後ずさる。

 

「は、八幡、おぬし何か勘違いしてない?」

 

 のっそりとさらに近づく材木座。その片手には刀を持っていて。巨漢に片手には愛刀。もうこの時点で子供なら泣くレベル、女の子なら走って逃げる、俺ですら身の危険を感じる。

 

「わかったから離れてくれ」

 

「ちょっと、おぬし、マジで我に対する誤解もって無い!?」

 

 誤解も何も解は既に出ている。間違っていようとも解は解なのだ。結論づいているのだ。

 

「ちょっとその離れ方不審者に対する扱いじゃない? 我、女子好きだからね? そこほんと勘違いしないで……」

 

 気の毒とは思うがこんな服装を用意した奴が悪いのであって俺は悪くない。どうしてこんな人気の少ない校舎でわざわざ小さい体操服を用意しているのか、何を考えているのか。ほんと身も凍る思いがする。

 

 材木座と一定の距離を保ちながら校舎を練り歩く。材木座が先導しているが勘で歩いているらしい。なんとなく化け物が居る方向へ歩いているだとか。そこはもうちょっと設定を頑張って刀が指し示すとかやっとけよ、と思った。なんとも中途半端にふわっとした理由に呆れながら渋々と従う。

 

 悪夢だ……

 

 先ほどのあほらしいと切って捨てた覚悟は一度考え直さなければいけないかもしれない。ただシナリオ通りに進んでいたら恐ろしいことになるかも。二の腕と太ももを締め付ける体操服がそう主張してくる。罰ゲームのような服装で校舎を闊歩する現状に身の危険……貞操の危険を覚えてしまう。

 

「ふむ、こちらから気配がするな」

 

 前を歩く材木座は方向を変えて特別棟の方へ。そして階段を四階まで昇れば幾ら鈍感といえど目的地には気づくだろう。目指す終焉の舞台は特別棟の奥の奥、普段は神秘すぎる少女が待つ空き教室。

 

 その静謐で、荘厳な空気を持つ離れにある部室こそが目的地。そこに先ほどの蜘蛛の化物が待っているのだろう。

 

 ふと。

 

 そう、ふとしたことだ。単純に目指す先に居る化物について考えたときに。待っているのは雪ノ下雪乃という少女であると結論でづけられる。

 

 故にこの舞台は主人公が材木座で敵役は雪ノ下。そして俺は材木座の活躍を見届けるモブAといったあたり。別に俺がモブなのは構わない、何の違和感もない。

 

 けれども、だ。

 

 材木座が雪ノ下を敵視する理由について。彼女を悪者に仕立てあげて、倒すべきラスボスと配役した意味について考えてしまった。

 

 確かに昨日の様子を思い出せば一方的に材木座が叩きのめされていたように見える。けれどもそれは果たして真実なのだろうか。本当に材木座は雪ノ下に叱責されて――相手にされてもらって敵意を抱いたのだろうか。それこそ倒すべき怨敵とするほどまでに。

 

 材木座は自他共に認めるボッチである。それこそ女子からは敬遠されて、男子からも疎まれて。挙句の果てに俺にはめんどくさがられて、幽霊にも唾棄されて。

 

 そんな男子高校生が少しでも声をかけてもらえた雪ノ下に対して敵意を持つだろうか。憎悪を抱くのだろうか。嫌悪に値するのだろうか、恩讐と成り得るのだろうか。

 

 当たり前のように従い、当たり前のようについていき、当たり前のようにモブの配役として立った俺だが――果たしてそれは、その立ち位置は本当に正しいのだろうか。

 

 疑問が次々と脳裏に浮かび上がる。そしてそういうときは大抵――舞台。

 

 脳裏に浮かび上がるのはこのシナリオについて。今回の蜘蛛を倒すという御話は武家のお仕事であるが故に刀を持つ、ロールプレイをこなす材木座は主人公として違和感は覚えない。

 

 なら――俺は? 本当に俺はただのモブでよかったのか?

 

 これは侍が化物を倒す物語、退魔の御話。材木座にとっての良夢ならそれで何もおかしくはない。けれども俺にとっての悪夢というのなら倒されるべき悪役、敵役、やられ役なんてものは俺に相応しく。

 

 決して雪ノ下雪乃ではない筈だ。むしろ雪ノ下なら。あの少女なら。

 

 材木座にとって昨日の触れあいがプラスに捉えることがあったのならば、それこそヒロイン役に抜擢されてもおかしくない程に美しき少女。それが何故、仇役などに――

 

「――――は?」

 

 だから間の抜けた声。遅れて間抜けな声が喉から飛び出る。

 

 目の前の光景があまりにも荒唐無稽でありながら、油断しているとすればあまりにもお粗末で、材木座が主人公とするならばあってはならない展開。

 

 奉仕部の扉から生えてきた棒――いや足だ。蜘蛛の足が扉を易々と突き破って、さらには材木座の胸を一突きして。

 

 そして巨大な蜘蛛の足に貫かれた材木座は目を見開いたまま絶命していた。あっさりと、自信満々の表情のまま、何が起きたかも理解できずに。

 

 そのまま廊下へ無造作に投げ捨てられた後に一度、二度痙攣しては完全に沈黙する。最後のひきつけはまるで魂が抜かれたかのようで。

 

 即死。即ち死んでいる。既に死んでいる。即時に息絶えたのだ。

 

 そして、蜘蛛の足は再び俺を目掛けて襲ってきた――。




※次回の投下は四月二十二日を予定しています


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晩春【夢想】

「がッッ!? あがっ、ぎっ、あガぁアアアァァっ!?」

 

 生きたまま喰われる。生きたまま臓物を引きずり出す。生き肝を食べるといった行為は化物習性を考える上でなんら不思議なことは無い。むしろどこまでも化物らしく、どこまでも怪物らしい習性。

 

 人間ですら他の生物をおどり食いすることもあるのだ、化物が人間を生きたまま食べるなど何一つとして不思議な点は存在しない。

 

 そして――抉られた肩。臓物ではなく、肩をくちゃくちゃと音を鳴らしながら食べる化物。

 

 両手両足をイモムシのように縛られた俺はまな板の上の鯉とばかり。襲いかかってきた蜘蛛の足を避けることも叶わず、そのまま巻き取られるような形で無理やり入室すれば、両手両足を突如として虚空から伸びてきた紐で縛られて地面に転がる。

 

 化物退治なんて甘い考えだった。そもそもが前に立つ、対峙することすらも叶わず、そのまま雪ノ下雪乃の眼前に無様に転がっている。

 

 地面に転がったまま見上げる形で俺は雪ノ下を見ていた。彼女は運ばれた餌に即座に反応した。肩に噛みつき、噛み切られて。

 

 俺はそんな目にあっても無様にも転がっているだけなのだ。

 

 喉は絶叫を挙げていて、頭は混乱していて。それでいて今にも命乞いをしなければならない状況にも関わらず、どこか俯瞰した、達観した、諦観した心持で俺は美しき少女を眺めていた。

 

 複眼でもなければ、口も裂けておらず、襲いかかってきた蜘蛛の足などどこにもなくて。ただどこまでも美少女と呼べる雪ノ下が。その綺麗な形の薄い唇を不釣り合いな真紅の口紅で染め上げていて。

 

『〜〜〜〜〜ッ!』

 

 身を震わせてこちらを大きく見開いていた。痛みのあまりに叫んでいた喉は少しずつ声量が落ちて。

 

 夢で、夢物語でもある筈なのに帯びた痛みと熱はリアルのソレとなんら違いは無い。食い千切られた肩から飛び出る血が地面に血溜まりを作り上げて、痛みで跳ねる身体のせいで顔にこべりつく。

 

 鼻に届く鉄の臭い。

 

 歯を食い縛って痛みを堪える。からみつく蜘蛛の糸、手首足首に力を込めて意識を逸らそうと試みる。絞まる糸に圧迫されては痛みを訴えている。

 

『おいしい……おいしいおイシいおいシイ美味シイ! 比企谷くん! あなたすごく美味しいわ! 凄く凄く凄く凄ク凄く美味しいの! 好き、大好き、愛してるわ! こんなに美味しいんだもの! あなたと私はきっと相性抜群なのね! いいえ! きっとじゃない絶対よ!』

 

 複眼でもなければ、裂けた口の化物でもない。美しい少女の顔のまま口元を血で染め上げて美味しいと叫ぶその姿はあのおぞましい姿よりもよっぽど化物らしい。

 

 だらしなく口元を緩めて、頬をおさえて身体全体をくねらせる雪ノ下の足元で俺は無様な芋虫のまま許しを希う。

 

「ぐッ、が、ゆ、ゆき、のした、れい、冷静にな、なろうッ、お、おち、落ちつ、いてく、くれ、頼む……」

 

 弱々しい懇願。声に混じり合った嗚咽が言葉をつまらせる。痛みで溢れる涙は血と混じり合い、そんな状態のままみっともなく希ってしまう。

 

「き、気づい、て、いるんだろ? こ、これは夢で、現実なんかじゃなくて。夢の中だからって、好き勝手、こんなこと、するなんて、おまえらしく、ない。お前は、現実を変える、んだろう? こんな夢の、中でいつ、までも……」

 

 都合のいい言葉がぺらぺらと。薄っぺらな説得は何の根拠もない。そんなペラ回しに雪ノ下は無垢に幼気な笑みを浮かべている。そしてその表情はころりと変わり。

 

『さいきん、つめたイの』

 

 そのまま俺の眼前にかがみ込む――視線が合う。眼前に映るその表情はあまりにも悲しげで。感情を素直に出す少女ではなかったハズで。けれども目の前の少女が到底偽物とは思えず。

 

 細い指先が伸びてくる。そして指先は――。

 

「ァァァァあああああああああっ!?」

 

 抉られた肩の中へ。グチュグチュと指で肉をかき混ぜる音と悲鳴が混じり合ってあまりの痛みに悶絶してしまう。

 

 そして、赤い糸を引く指先を咥えてぴちゃぴちゃと舐める。舌先で指を遊ぶ音が、頬を染めて目を細める艶やかな表情が、恐怖感を煽ってくる。

 

 その指先を再度と首まで伸ばされた。撫でられる頸動脈。まるで命を握られてるような感覚に肩が、足が、全身が寒気を訴えてくる。

 

『……比企谷くんが。比企谷くんが冷たいの。こんなにも好きなのに、あの時みたいに優しくしてくれない。まるであの時のことは間違いだった。夢だったとばかりに冷たくするのよ』

 

 どこか幼児を彷彿させる物言い。幼い少女の拗ねたような口ぶりで放たれた事柄は状況を結びつけるには十分だった。

 

 するすると氷解する。

 

 どうしてこんな状態になったのか。ここはどこで何でこんな目に遭っているのか。

 

 その全ての疑問は流れるように理解してしまった。すべては間違っていた、間違ってしまっていたのだ。

 

 今回の出来事も、今回の顛末も。俺自身も、そして蜘蛛の怪異自体も。

 

 根本的にストーリーテラーを勘違いしていたのだ。配役どころか神を、作者を、語り部を、話し手を間違って認識していた。

 

 そして一番の間違いは。

 

 雪ノ下雪乃本人の問題を余りにも軽視していたのだ。放置しすぎていた。軽視して放置していたにも関わらず、関わり続けていた。

 

 怪異に纏わる現象は悲観論で捉えなければならないと教えられていた筈なのに。それなのに表面上に問題が無いから大きな問題には見えずその内なんとかなるだろうと楽観視していた。

 

 そりゃあ、致命的だ。

 

 命に至るわけだ、それは。

 

 これは材木座の物語だったことに間違いはない。そこだけは今でもはっきりと自信がある。材木座にとっての良夢であったのは間違いはない。

 

 蜘蛛の恩返し、蜘蛛の恩。しかし蜘蛛は虎の尾を踏んだのだ。これが引っ張り込んだのが比企谷八幡、雪ノ下雪乃だったのが大間違いで。

 

 そもそもがヒロイン役程度に雪ノ下が収まるなんて考えが間違いだったのだ。人間が驕るように、怪異もまた驕っていたのだ。人間ごときと。

 

 眼の前の雪ノ下がどのようにして蜘蛛の怪異の力を奪ったのか、成り代わったのか、勝利したのか。その方法はわからない。

 

 もしかすれば俺と同じように科学準備室の道具を手に本来のラスボスを倒した可能性もあるだろう。けれどもどうやって勝利したかなんてことは既に些細な出来事で。

 

 あぁ、そうか。

 

 あの宙吊りのマリオネットを思い出す。あの無惨な死体は――由比ヶ浜結衣だったのだ。

 

 化物らしい愛情表現だ、と嗤ってしまう。引き千切られた胸や首。あれが誰の死体だったのか今更気づいてしまう。

 

 あれは夢の世界での食べ残し、保存食。蜘蛛の化物らしいなんともらしすぎる痕跡。愛の残骸。

 

『ねぇ、比企谷くん。舌を出して』

 

 俺は既に心が折れていた。既にどうしようもない。後の祭りでエピローグ。もしもこれが化物対人間の御話なら最後のオチなのだ。

 

 ただ人間が負けて喰われるという。

 

 顔が近づく、唇が重なる。無理矢理に開かれては侵入してきた舌に口内を蹂躙される。一度目のキスとは異なりあまりにも血生臭いその口づけ結末は――激痛。

 

「〜〜〜〜!」

 

 脳髄に直接響くような鋭い痛みに目を見開く。言葉を発しようとも回る舌がなければ意味がなく、叫び声が声ではなく音に成り下がり、獣じみた絶叫が喉から飛び出てしまう。

 

『比企谷くんの、舌、好き……』

 

 くちゃくちゃと、音を立てながら響く咀嚼音。自分の口の中がどうなっているのかすらわからない。既に口内の感覚は痛み以外の感覚は麻痺していて、早くこの痛みから逃れたいと心の底から思ってしまう。

 

『……おいしい。おいシイ、おいしいおいしい! やっぱり、比企谷くん、好き。私、比企谷くんのことが好きなの。ねぇ、比企谷くん。比企谷くんは、私のこと、好き……?』

 

 黒髪を揺らしながら、小首をかしげる。

 

 どう足掻いたとしてもバットエンド。どの道、助かる方法なんて既に無い。ここまで来たら結末は迎えている。奇跡など起こるわけもなく、起こす必要もなく。

 

 視界の端には開きっぱなしの扉。そこからうっすらと見える材木座。舞台にすら乗れないモブと化していて。

 

 雪ノ下の背後には食い散らかされている肉片。女子高生の躯。

 

 命乞いもする必要もなければ媚びる必要もない。だから俺の答えは一つだけ。

 

『そう、そうなの……でも、私は好きよ。比企谷くん』

 

 その言葉が俺たちの最後の会話だった。その後の言葉はすべて雪ノ下の独り言で俺には関係ない。ただただ、俺は抉られ、喰われ。

 

 限界がくれば出来の悪いテレビの電源が落ちるかのように意識を手放した。

 

~~~~~~~~

 

 夢の終わり。終幕、終着点は後味の悪い代物だった。

 

 夢の中で死ねば、殺されれれば現実でも死ぬなんて言ったことはなく。勿論の如く夢オチ。

 

 天狗裁きのように夢から醒めればまた同じような展開といったこともなく。巨匠と呼ばれる漫画家が最低の技法とまで呼んだオチの御話。

 

 気分悪く目覚めると教室では続々と帰る準備をしているクラスの連中が目に入る。

 

『おはよ、八幡くん。いい夢見れたかい?』 

 

 最悪の夢見であったことを伝えるにはあまりにも人目がありすぎて。その脳天気な質問に皮肉の一つも返すことができない。

 

 不機嫌そうな俺を見てきては小首を傾げる九音。ふと、九音の背後、教室の後方が普段よりも盛り上がっていることに気づく。

 

 どうやら女王は居ないもののカーストトップの集団が盛り上がっているようだった。その集団の中には由比ヶ浜の姿も見える。

 

『あぁ、アレ? アレは雌犬二号が八幡くん同様に居眠りしていたんだけど、悲鳴をあげて起き上がったんだ。だからリア充グループはそれで盛り上がってるってわけなのさ。数学の先生に怒られるやら、みんなの前で赤っ恥かくやらでいい見物だったよぉ。プークスクス』

 

 意地悪く笑う九音に俺は同調することなど出来やしない。

 

 そりゃあ、悲鳴の一つや二つは挙げるよな。

 

 もしも同じ夢を見ていたのなら、同じ不可思議な現象に巻き込まれていたのなら。

 

 そんな悪夢に関する思考を切り替えてはもうすぐ始まるであろうホームルームの準備をする。未だに気分悪い俺を他所に帰りのホームルームは恙なく進み、踊るような議題は存在しない以上、形式的な報告事項と挨拶によりさっさとしめられる。

 

 そして重い足取りで部室へ向かっていれば。

 

 背中に軽い衝撃。

 

 振り向いてみると体操服のバッグであろう、巾着を片手に持った由比ヶ浜が居た。

 

「やっはろぉ」

 

 いつもよりも沈んだ挨拶。そそくさと隣を歩き始める由比ヶ浜と足並みを揃えては奉仕部へ。わざわざ元気が無い理由を聞く必要もない。

 

 疑似死体験をしていたとするならばその態度はふさわしい。そしてテクテクと二人で無言のまま歩いていれば奉仕部にたどり着き。

 

 扉に大きな穴があいているということも、廊下に材木座の死体が転がっているということもない。

 

 扉を開いてみても血溜まりの一つも無ければ――揺れるカーテン、その春の麗らかな陽だまりの中で珍しく居眠りをしている少女の寝顔が目に入った。

 

 扉を開いたことに気づいたのか目を少しだけ開くがうつらうつらと。

 

「……お疲れさん」

 

 俺は机の上に浮かれた紙束を見ては居眠りの理由を察する。今、雪ノ下の見ているのはあの夢の続きなのだろうか。

 

 もしかすればあんな夢を見たのは俺だけで、由比ヶ浜の悲鳴も違う理由だったのかもしれない。それならそれで別にいいと思う。蜘蛛の怪異なんて無かったし、そういう話は存在しなかった。それでもいいと思うのだ。

 

 声をかけられた雪ノ下は小さく欠伸をしては寝ぼけたままこんにちは、と呟いて立ち上がる。由比ヶ浜もいつもの挨拶をしているがどこか夢心地な雪ノ下に届いたのかどうかまではわからない。

 

 とろんとした瞳に、朱のさす頬。その表情はどこか艶めかしくて。近づいてくる雪ノ下は俺の目の前に立ち、ぽーっと此方を見つめてきた。

 

『おっ? なんだなんだ? やんのか? あぁん? お前、やんのか?』

 

 知能指数が二桁以上下がっていそうな女幽霊の物言い。昨今の漫画でも見ないようなチンピラの絡み方をしていた。完全にアホである。

 

 勿論、雪ノ下が見えるわけもなく。視線はじぃーっと俺を捉えていて。そして――。

 

「ぎぃぃぃっ!?」

 

 俺の悲鳴が奉仕部に響く。そしてようやく雪ノ下は目を覚ましたかのように目を開き、由比ヶ浜も目を見開いては手を口にあてて驚いていた。

 

「ご、ごめんなさい……完全に寝ぼけていたわ」

 

 ポケットからハンカチを出しては俺の鼻にあてている。どうやら少し血が出ているようだった。

 

 俺は貫通するほどの勢いでついた歯型を、借り物のハンカチで抑える。

 

「ゆ、ゆきのん、びっくりしたよぉ! ど、どんな夢見てたの? 食べ物?」

 

 由比ヶ浜の明るい声が場の空気を変えるかのように。有り体に言えば何事も無かったかのように。

 

 けれどもここに一人、いや一匹流せなかったやつが居て。顔を真っ赤にし、耳まで染め上げて、髪を逆立てて。

 

『ほっ、ほぁ、ほぁーっ!? おま、おまおまおままっ! な、ナニ、何羨ましいことやってんだ、この犬! 雌犬! 卑しか犬ばい、この女ァ!』

 

 雪ノ下の近くに飛んではボディーを抉るように拳を打ち込んで居た。二人には何の影響も受けてないし見えてもいない。完全に一人相撲状態。

 

『あ、あがががっ! 八幡くん! ポルターガイストでやっつけちゃってもいいよね! これいいよね! なんか色々と君との約束破るけどいいよね!』

 

 知能がサルかゴリラ程度になっている九音がウホウホと怒りのあまり騒いでいるが俺は解りやすく首を振って否と意思表示。

 

 足山九音は悪霊と自称しつつも俺以外の人間を傷つけたことなど殆ど無い。それこそ、驚かす、脅かすといったことはしたとしても肉体的な損傷を与えた場面を俺は一度も見たことがないのだ。

 

 完全に口先だけの女幽霊、雑魚幽霊。

 

『う、うぎぎぎっ、うぎぎぎぎぎ』

 

 どこからか取り出したシルクハンカチを噛み悔しさをこれでもかと表現している九音の様子にため息を吐きながら鼻を擦る。結構な深さの歯型だ。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜は今日の午後について話していて。片や昨日から徹夜していたせいで今日の午後の授業で居眠りしていたことを恥じていて。それに同調するかのように由比ヶ浜も教室の出来事を身振り手振りで楽しそうに説明している。

 

 まったく呑気なことで。

 

 二人の様子を見た後に俺は我関せずとばかりに鞄から材木座の小説を取り出して机に置く。おそらく今日またやってくるであろう主役の座を追いやられた三枚目を頭に浮かべながら。

 

 それにしても夢で良かったと心底思う。これが現実での出来事なら間違いなくバッドエンドどころかビターエンド。後味の悪い終わり方の残り香を苦々しいとすら思うこともなかっただろう。

 

 なら夢なら良かったのかと問われれば、俺は「そうだ」と肯定する。夢だからいいのだと答えざるを得ない。夢が現実に影響しない限りはただの悪夢で済ませられるのだから。

 

 悪い夢でも初戦は夢。どのような夢物語を見たところで現実では無いのだ、決して。

 

 鞄から文庫本を取り出して目的の人物が来るのを待つ。俺達が奉仕部に着いてから十数分、その戸を叩く音は聞こえてきた。

 

「頼もう」

 

 荒々しく現れたのは材木座義輝。夢の中でさえ出オチであった奴に対して俺は少しだけ優しく接してやろうと心がける。

 

『あ、スメアゴルだ』

 

 そう、こんな幽霊も居るくらいだ。来ることを忘れている奴が居る始末だ。

 

 俺一人くらいは材木座に対して優しくしてやってもいい。あまりにも世界が材木座に対して厳しすぎる。

 

「では感想を聞かせてもらおうか」

 

 自分で用意したパイプ椅子にどっかりと座り、偉そうに堂々と、自信たっぷりの様子で奉仕部の面々に問いかけてくる。

 

 まるで面接官のように並んで座る俺達。その中心に座る雪ノ下が珍しくも申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 

「……先に謝っておくわ。私、こういうのに詳しくないのだけれど」

 

「構わぬ。凡俗の意見に耳を傾けるのも務めよ。率直に素直な賛美や評価をしてくれて構わぬよ」

 

 偉ぶり自惚れていた。称賛や評価という言葉の時点で材木座の自信が見て取れる。夢での殊勝な態度は完全に形を潜めていて、所詮は夢かと呆れ果ててしまう。

 

「そう。じゃあ率直に言うけれど、つまらなかった。想像を凌駕するつまらなさ」

 

「けぷぅっ!?」

 

 雪ノ下の鋭き舌刀は一太刀で見事に材木座を切り裂く。もしもこれが殺陣なら鍔迫り合いもなく真横一文字に切り捨てられてるレベル。ガタガタと一度転げ落ちては椅子の回りでのたうち回りながらも再び這い上がろうとする材木座。

 

「さ、参考までにどの辺がつまらなかったのか教授願おうか」

 

「まず文法が滅茶苦茶ね。なぜ毎回倒置法を使うの? てにをはって知ってる? 小学校で先生に教えてもらわなかった?」

 

 詰問に継ぐ詰問。圧倒的なまでに非難に材木座はボクシング漫画のように一言一言に打たれては呻きを上げている。

 

「そ、それは易しい文体で読者にわかりやすさを――」

 

「易しいのは貴方の頭の中だけで実情として物凄く読みにくいわ。読者への優しさと言えば漢字を読むのにひっかかることが多い。造語を作るのはこういう本では普通なのかはわからないのだけれど、それでも流石に多すぎると何を言っているのかわからない。日本語でお願いしていい? 能力にちからなんて読み方は存在しない上に、この『幻』『紅』『刃』『閃き』の四文字がどうしてブラッティーナイトメアスラッシャーなんて言葉になるの? 血はどこに言ったの? 紅の暗喩的な表現? そうすると幻がナイトメアなの? 

 ナイトメアって悪夢のことでしょう? 暗喩比喩の前に英語の勉強をしたらどう? もしかしたらこういうセンスが良いっていうのなら申し訳ないけれど私には何一つとして理解できない。それに――」

 

『うっわ、スカトロ趣味のマイノリティー女だ……略してクソ女』

 

 うげぇっとだらしなく舌を出す女幽霊。偶然にも昨晩九音が言っていたとおりに嫌いなものに関してエネルギーを消費するタイプの女の子であるらしい。生真面目な雪ノ下らしくもある。

 

 どんな仕事にも手を抜かず一所懸命。手を抜かずに酷評しているさまはさすがと言ったところ。彼女の手元のメモには悪いところがずらりと書かれているのだろう。怖い。

 

『いやぁ、こんだけスラスラと罵倒できるってよっぽど人を傷つけるのが趣味じゃない限り出来ないでしょ……なんて性格の悪い女なんだっ!』

 

 芝居染みて雪ノ下を非難する九音であるが性格の悪さに関して言うのなら……安心しろ、お前が一等賞だ。

 

『……いやいや、待ってよ八幡くん! こんなの性格が悪くなきゃ出来ないことだよ! 私だったらこんな労力払わずに二号みたいに読まないもん!』

 

 さりげなく由比ヶ浜が読んでいないことを指摘する。居眠りをしていたし昨晩遅くまで読んでたんじゃねぇの? と思ったがよくよく観察してみれば新品同様の紙束が。

 

 折り目どころか無線綴じのようにびっしりと一枚一枚が張り付いている様子はめくってなさそうにすら見えて、九音の指摘が中っているように見える。

 

『真面目ちゃんはクソ掃除もしなきゃいけないのか……大変そうな生き方だよねぇ』

 

 見下す物言いと視線に気づくこともない雪ノ下は尚も材木座の悪い点を執拗以上に詰っていた。対する材木座は打たれすぎてビクンビクンと地べたでその身体を震わせている。完全に打ち上がったマグロ。

 

「ゆ、雪ノ下。あんまり一片に言ったところで頭に入らないだろ……そ、その辺でいいんじゃねぇか?」

 

 九音の方向に意識を割いていたせいかリングにタオルを投げ入れるのが完全に遅れてしまう。燃え尽きた材木座は口撃が止まると同時にノロノロと起き上がって椅子に座り。もはや最初の自惚れ、自信などは真っ白な灰燼と化していた。

 

「そう……? まだまだ言いたいことあったのだけれど。比企谷くんが言うのならやめておくわ」

 

「けぷこんっ!?」

 

 何故かその瞬間、再度として殴られたかのように叫ぶ材木座。なんなんだ、一体……。胡乱げな瞳で見つめていると。

 

「じゃあ、次は由比ヶ浜さん」

 

 自信を完全に砕いて挽いて粉状にしておきながらも、まだまだあると言う雪ノ下。そんな少し物足りなさを感じる少女から完全に傍観者面をしていた少女へバトンはうつる。

 

「あ、あたし!? えっ!? ど、どうしよ……」

 

 渡されたバトンは見事なこぼれ方。パラパラと眺めては唸り、もう一度パラパラと捲っては小さく唸る。その様子が小型犬のように見えなくもない。

 

 そしてその様子を祈るかのようにうるうると瞳を潤ませた材木座の視線。

 

『うっわ、きも』

 

 九音のやつはドン引きしていた。いや判んなくもないが流石に可哀想。そんな俺と同じ気持ちなのか由比ヶ浜は若干引き気味になりながらもなんとか笑みを作り出して絞り出すように言う。

 

「え、えっと、えとえと。む、難しい日本語知ってるね! 凄い!」

 

「あぷぱっ!?」

 

 断末魔をあげて再度として沈み込む。由比ヶ浜の言葉は短いながらも雪ノ下の刀並に殺傷力があった。

 

 選んだ言葉は作家業にとっては禁句であり、禁呪である。褒めるところがそれしか無い上に、内容を触れないといった呪禁は材木座を見事にKOする。

 

 触れないことは優しさで相手の身に染みる。完全に塩を擦り込むかのような優しさに戦慄してしまった。

 

「じゃ、じゃあ次はヒッキーね」

 

 ガタガタと椅子を動かしては俺の背後に逃げるように隠れた由比ヶ浜。同様に雪ノ下も移動してきて、さらには背後霊まで居るというのだから背負うものが多すぎる。

 

 そして目の前からは期待をした瞳が飛んでくるというのだからまた一つと背負わせられようとしていた。

 

「は、八幡、貴様ならわかってくれるよな? 我の書いた物語が、ライトノベルの深奥が! 貴様には理解できるな! 凡愚どもが理解できなかった地平の世界が!」

 

 はぁ、と小さくため息を吐く。

 

 けれども背負うくらいは慣れっこである。背負いたくもない苦労を勝手に荷袋に入れられることは今まで何度とあった。むしろ非日常であんだけ背負わされた俺は荷物持ち、パシリとしては超一流と呼ばれてても過言じゃあない。そんな俺からしてみれば眼の前の材木座の期待の視線などお茶の子さいさい。

 

 それに、お前とは夢の中で約束したしな。

 

 任せろと心の中で小さく呟き、前に座る材木座の方向をしっかりと見つめて。自分に出来うる最高に優しい瞳で。言葉をしっかりと選び、放つ。

 

「で、あれ何のパクり? ヒロインのモデル誰? お前のクラスメート?」

 

「ぶひっ!? ぶひっ、ぶひひ、ぶひひひひ……」

 

 俺の言葉に材木座は椅子から飛び上がり、地面に転がりまわる。そしてゴロゴロと転がってついぞ空き教室の壁までたどり着き、ぶつかり、ビクンビクンと痙攣した後に完全に沈黙した。

 

 また勝ってしまった、敗北を知りたい……。

 

 夢の世界での死体っぷりを再現するかのよう。夢は叶う、と前向きな言葉を心の中で発してはいい仕事したなって充実感が胸の中で湧き上がる。

 

「比企谷くん、貴方……容赦なさすぎじゃない……? 何が私のほうが容赦が無いよ、貴方のほうがよっぽど酷いわ」

 

 女子三人。もしくは女子二人と女子一匹が居る背後を振り向けば全員が引いていた。

 

『うっわぁ、完全に息の根を止めにかかってたよね。筆を折る勢いじゃん……八幡くん、えげつな。単純に面白くないとかつまらないとかいう感想よりもよっぽど酷い。盗作の臭わせやさりげなく好きな人をバラすとか。こんなの残虐すぎて流石の私も閉口しちゃう……』

 

 まったくもって閉口していない。むしろ開きっぱなし。

 

 そんな感想を抱く俺の横腹を人差し指でツンツンと由比ヶ浜がつついてきた。どうやら同情を引くくらいには無様な死にっぷりらしい。フォローしたらと言外に訴えてくる視線に俺はうなずいて言葉を選ぶ。

 

 任せとけ。

 

「まぁ、中身なんてそんなに重要なもんじゃねぇよ。大事なのはイラストだから」

 

『鞭で、蹴りで、蜂じゃん……』

 

 九音の呆れたような言葉が材木座義輝の小説に関する批評の締めとなった。

 

 その後、なんとか息を整えて起き上がった材木座は千鳥足で椅子までたどり着き、一息ついた後にぷるぷるとした両足で立ち上がる。

 

 その様相が今回の件の悲惨さを醸し出していた。そんな様子であるものの扉の前まで歩いて最後に少しだけ振り向く。

 

 まぁ、ここまで酷評したんだ、恨み言の一つや二つは飛んでくるだろう。

 

「……また、読んでくれるであろうか」

 

 だから耳に届いたその言葉は予想外の代物。いや、夢の出来事を思い出せば当然なのかもしれない。

 

 確かに夢の話で現実感の無いお話だ。

 

 それでも夢の中の材木座の言葉は嘘じゃないのだろう。ちやほやされたいだけじゃないという。賛辞だけが欲しいわけではないと。

 

 率直な感想を求めていたのだ。そこを汲むのなら材木座の言葉に不思議は何もない、むしろどこまでも自然なのだ。

 

 どのような結果であれ、どのような批判であれ。折られるような言葉であったとしても。それを受け入れる覚悟で見せてきたのだ。

 

 この奉仕部の扉を叩いた時には、叩く前からきっとその覚悟は決まっていたのだと。

 

「……どMなの?」

 

 由比ヶ浜の辛辣な意見。九音も同様の意見なのか縦に首を振っては肯定を示していた。

 

 俺は二人の意見を代弁するかのように尋ねる。答えなど既にわかっていた愚問だとしても。尋ねずには居られなかった。

 

「あんだけ言われてもまだやる気かよ」

 

「無論。そりゃあ、あれだけ言われたら我以外の人類は皆死ねとか、なんで八幡は女子に挟まれて楽しく部活動で青春してるんだとか、我が先に好きだったのにとか、どうせ生きててもモテないし友達居ないし、死んじゃおっかなとかも思ったりもした」

 

「だよな。あんだけ言われればそうなる」

 

 苦笑を零す。むしろ苦笑しか出ない。けれども材木座は笑みも見せず、自嘲もせずにはっきりと言う。批判も批評も非難も指摘も飲み干して言うのだ。

 

「それでもやっぱり嬉しかったのだ。自分の書いた作品を読んでもらい、感想を貰うというものは本当によいものだ。この想いに何と名前をつければいいのか判然とはせぬが――それでも読んでもらえるとやっぱり嬉しいよ」

 

 そこでようやく材木座は笑う。

 

 それは決して剣豪将軍として作られた笑みではなく、痛々しいロールプレイではなくて。

 

 材木座義輝の、素の材木座の笑顔だった。

 

 中二病も突き抜けて、それを形にできる作家病に昇華したのならばそれはもう立派に一つの業なのだ。書きたいことが、伝えたいことがあって形にして、そして少しでも誰かの心に響いたのなら嬉しくて。それが誰にも認められずとも書いて、書いて、書き続ける。そこまで貫いたのなら立派な病人だ。

 

 だから返答など決まっていた。眩しくも突き詰めた材木座の真剣の形なら。

 

「読むよ」

 

 読むに決まっていた。嫌われても、白眼視されても、馬鹿にされても、嘲笑われても。それでも形にしたナニカがあるのならきっと俺は読む。

 

 曲げずに諦観することなく、足掻きに足掻いた人間らしさならば俺は読んでしまうのだろう。

 

『……生意気だよね、コイツ。ムカつく』

 

 両肩に回される手。呟いた九音の言葉は不機嫌で。少なくとも俺と同じように材木座に眩しさを見たのならその言葉には納得が行く。

 

 小さく聞こえた、漏れ出た舌打ち。悔しさと生への嫉妬が九音の心境を表しているような気がした。

 

「また新作が出来たら持ってくるよ」

 

 そう言い残して材木座は堂々とした足取りで。まるで夢の世界での、堂々とした立ち振舞と同じように。

 

 敵無しとばかりに去っていった。その背後に向かって。

 

『ばぁーか! ばーかっ! 持ってくんな! 排泄物!』

 

 あまりの堂々とした態度が悪霊一匹の機嫌を奪っていくのだから立派なもんだ。

 

 たとえ幼く間違っているように見えたとしても。幼子のように夢は叶うものという大人の言葉を真に受けた態度であろうとも。

 

 それを最後まで貫けるのならばその生き方はきっと酷く、残酷な程なまでに正しい。

 

 間違った生き方をしている人間には眩すぎて直視出来ないほどには。誰かに非難をされて自分を変えてしまうくらいならきっと偽物で。本心ではないのだろう。

 

 だから曲げず、折れずに貫こうとするその姿勢は変わらなくていいと思ってしまう。願ってしまう。

 

 たった一つ。あの気持ち悪い部分を除けばの話だが。

 

 今回の御話を総じて考えるとやはりメインキャストは材木座の御話だったのかもしれない。不思議とそう思う。

 

 白昼夢も蜘蛛の恩もオマケで。例えストーリーテラーの役割を奪った女の子の話だったとしても。

 

 それでもそんなものを差し置いてメインの御話は小説だったのだ、と思えるほどに立派な去り際であった。

 

 もちろん、こんな感想は俺だけで。既に去った依頼人に対して興味など失った女子三人、もしくは女子二人と一匹にとっては何の関係も無い御話なのかもしれないが。

 

~~~~~~~~

 

 後日譚。数日後の御話。

 

 夢の件を九音に話して、蜘蛛の巣と夢に纏わる怪現象に遭遇して数日経った今日の六限目は体育。

 

 いつもの如く、ペアの相手は材木座であり、あいも変わらず痛々しい男である。

 

 変わったことなど殆どなく。友達になったわけでも無ければ、気安い関係になったわけでもない。ただ少し会話が増えた程度のこと。

 

「八幡よ、流行の神絵師といえば誰であろうか?」

 

 二人一組のストレッチ。背中合わせになった材木座を背負いながらそんな台詞を耳にする。そして交代で背負われ、背中の筋肉を伸ばしながら問いかけに答える。

 

「気が早すぎだっての。そういうのは賞を獲ったやつが考えることだっての……」

 

「ふむん、なるほどな。ならばどこの出版社に応募してやろうか……どこが我に似合うと思う?」

 

「なんで賞を取って出版できる前提なんだよ。自信だけありすぎだろ」

 

「……売れたらメディア化して声優や女優と結婚できたりするかな?」

 

「ほんと、そういうのは書いてから言えよ……まずは書け。話はそれからだろうが」

 

 少し変わった関係。友達では決して無い。気安くもなんともない。ただまったくの見知らぬ他人よりかは少しだけ近い距離感。顔見知りにカウントするのも恥ずかしいレベル。

 

 会話の中身も大した内容でなければ残念で陰キャ同士に相応しく、笑いが溢れるような面白さは欠片も無く。気の利かない小噺。前提から崩壊している矛盾だらけで頭の悪い会話。

 

 けれども少なくとも嫌な時間ではなかった。

 

 まぁ、それだけであり、それ以上のことはない。

 

 ストレッチを終えた時にふと、カサカサと材木座の肩に乗った蜘蛛を発見する。布越しだからか材木座に気づいた様子はなく、俺は指をさして指摘する。

 

「おい、材木座、肩に蜘蛛のってんぞ」

 

『スメアゴル、ほんとに蜘蛛に好かれるよね。やっぱ気持ち悪い不快な存在同士だからかな? お仲間だからかな? というかこの前の蜘蛛じゃん。色もあれだし』

 

 九音の言の通り、黄色鮮やかな蜘蛛は春の終わり、初夏の前、梅雨前には珍しいジョロウグモ。

 

 俺の指摘に気づいた材木座は蜘蛛を――。

 

「うぇっ、気持ち悪っ」

 

 パンッとはたき落とし、運動靴で踏みつけて確りと殺した。その体重を確りと載せた踏みつけては確実に命を奪った。

 

 その様子を俺と九音は絶句しながら見つめる。

 

 そんな視線を知らぬ材木座は「うぇえ、ばっちいばっちぃ」と呟きながらマラソンコースのスタート地点へ向かっていく。

 

 ぴくぴくと痙攣しているのが最後の足掻きなのか、やがて動かなくなった蜘蛛を見て俺は素直にこう思った。

 

 やっぱ材木座ってクズだわ、と……。




※次回は二十九日の投下予定となっています


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暮春【始因】

 比企谷小町。

 

 比企谷家の長女にして地元中学の三年生。中学最終学年という年齢にも関わらず遊び呆けている愚妹である。

 

 九音曰く、愚かしさと可愛さは比例するとのことで愚かしいまでに愚かな我が妹の可愛さは天井知らず。まるで可愛いの化身。こんなの妖精や天使ほかならない。

 

 ついつい朝っぱらから頭の悪い、偏差値が二十か三十そこらの雑誌を眺めていても可愛い。たとえそこに激モテやらラブ活やらラブフェロモンやら。とにかくひたすらに頭の悪い単語が並んでいたとしても小町の愚かさを伝えてくるばかりで可愛さに関しては何ら影響はない。むしろ公式で言えば可愛さは比例して増すばかり。おいおいこれ以上、可愛くなったらどうなるんだよ。

 

『なるほど、愛され系は目で殺す、か、なるほどぉ』

 

 うんうんと同じ程度の知能指数に成り下がった九音が小町の後ろから仲良く見るかのように背後霊と化しては頭の悪い発言をしていた。全然かわいくねーわ、ただの馬鹿だわ、これ……。

 

 現在二人が読んでいる雑誌は中高生女子の間で爆発的に流行っている雑誌らしい。読んでいないとクラスでハブにされる程とのこと。

 

 おいおい、いつからこの日本はここまで頭が悪くなったんだ。毒されている世間を心配してみる。けれども悲しいかな。世を憂いエントランス活動を行ったとしても所詮は一人。誰も聞きやしないし、誰も同調してくれない。所詮はマイノリティー、俺一人が声を大にして指摘したところで多数派からの非難轟々を受けることになるだろう。

 

 なんたることだ、真実は常に愚かな大衆に捻じ曲げられる。日本の沈み行く光景が目に浮かびながらも止めることができない。なんて俺は無力なんだ……。

 

 そんな朝食の光景。片やジャムを塗りたくったトーストをボロボロと雑誌の上に溢し、片や日本の今後を憂いながらもパンくずはちゃんと皿の上に落とす行儀のいい男。

 

 妹の行儀の悪さに一つ目小僧が現れたら家全体の運気が下がりそう。そんな愚妹の背後には頭の悪い幽霊が。そして行儀もマナーも知ったことかとばかりに朝食を食べる妹を注意することも無い兄。

 

 なんて光景だろう。マシな存在は俺だけだった。

 

『およ、八幡くん。そろそろ時間だね』

 

 雑誌から視線を外して時計を見た九音による指摘。同じように時計を見れば長針が八と九の間を指し示している。

 

「おい、時間」

 

 雑誌にのめり込んでいる妹に声をかけると三人目の確認者は慌てふためきはじめる。

 

「やっばぁ!」

 

 音を立てて雑誌を閉じ、ソファーに投げ捨てられ。その際にボロボロと挟まったパンくずが粒子のように宙を舞い、地面へ。後でかーちゃんに怒られるやつ。

 

 そんなことに気づいていない小町は唇の横にペースト状のイチゴを失敗した口紅のようにつけたままテーブルを去ろうとしていた。

 

「唇の横にジャムつけたまんまだぞ」

 

「え? 嘘、ジャムってる?」

 

「口がコピー機なわけ? ジャムるの使い方間違ってんでしょ」

 

 そのまま可愛らしいパジャマの袖でジャムを拭い、脱ぎ始める。

 

「お兄ちゃんって時々言っている意味がわかんなよねー。日本語大丈夫?」

 

「俺の日本語力を心配する暇があるなら自分の英語力を見直せ」

 

『辛辣だねぇ。まぁ、小町ちゃんは国語も英語もお察しだしねぇ』

 

 二つの教科だけで済めばいいが、その他の教科も中々に心配になってくる。中学三年生になった小町の進学志望先は今のところ総武らしい。が、このままでは難しいと言わざるを得ない。

 

 俺からしてみれば総武高校なんてやめとけって言いたいところなのだが根拠を聞かれたところで正直に打ち明けるつもりはない。打ち明ける理由が無い以上、否定する理由が弱いので心の中で呟くので精一杯。

 

 それに数日前まで頭が茹だってスピリチュアル、オカルトに関する雑誌を読んでいた人間をわざわざ再燃させる必要もあるまい。

 

 心境の変化なのか何なのか。何があったのかよく知らないが、一昨日、昨日と気落ちしている姿を見かけては毎朝のようにぎゃーすかと煩かったオカルトについては口を噤んでいた。何があったのだろうか。

 

 まぁ、根堀葉掘り聞くことじゃねぇか。

 

 少なくとも俺だって人に言えないことが一つや二つ、いやよくよく考えれば人に言えないことばかりなので比べる方が失礼。そもそも人に言ったところで誰も興味を示さないのだが。

 

 そんな受験生はブラにショーツといった立ち姿。しかしながら妹である。幾ら可愛かろうと所詮は妹。色気を感じることも無ければ性欲を刺激されることもない。

 

 むしろその立ち姿に共感性の羞恥を抱いてしまう。見てくれがどうとか、スタイルがどうとか言うわけでは無く。その開けっぴろげの行儀の悪さに顔を赤くしては恥じ入るばかり。所詮リアル妹なんてこんなもん。千葉であろうとなかろうと妹相手に恋心を抱くなどファンタジー。

 

 食後に水を飲んでいるとそそくさと着替えている姿が目に入る。ほんと恥とか無いのかしら、この子。

 

 そんなことを思いながらコップの中身を飲み干す。本来なら朝くらいは至高の珈琲である黄色と茶色の縦縞を口にしたい所であるがぎゃいのぎゃいのと煩い幽霊のせいで久しく口にしていない。

 

 去年の夏頃くらいからだろうか。急に健康志向に目覚めた女幽霊は『こんな身体に悪いのを毎朝飲むなんて禁止! 馬鹿じゃないの! 私の目が黒い内は君の口に練乳入り珈琲など飲ませるもんか!』と禁止令を発したのだ。

 

 もちろん、俺が従う義理など無い。けれども飲むたびにブツブツと呪詛を呟いたり、ポルターガイストを駆使して悪戯をされては溜まったものではない。

 

 それに禁断症状が出る寸前にはきちんとお許しをくれるというのだから完全に調教された犬かのよう。

 

「準備ができたよ、お兄ちゃん」

 

 二杯目を口にしていれば意気揚々とばかりに声をかけてくる小町。

 

「兄がまだ飲み物を飲んでいる途中でしょうが」

 

 怒りもせずにイントネーションだけで北の国のモノマネをしても小町に伝わる様子は欠片も無かった。伝わったのは幽霊のみでその幽霊もシラッとした瞳で見てくることから恥ずかしさがこみ上げる。

 

 そんな俺の心境など知ったことかとばかりに遅刻〜遅刻〜と鼻歌を口ずさんでいた。

 

 いや、そうしない為にわざわざお前の鞄を持って通学路をわざわざ遠回りしてるんだからね? ちょっとやる気が出なくなるような歌、歌わないでくんない?

 

 思い出すのはかれこれ数ヶ月前の出来事。冬真っ盛りの高校一年生の時のこと。

 

 小町を自転車の荷台に乗せて送り届けたことがあった。それ以来、この妹は兄を利用しては学校へ行くという方法を学んだのだ。そんな賢しい術を学ぶよりかは学校の勉強をしなさいとかーちゃんもとーちゃんも言わない台詞を口にしたくなる。

 

 けれどもこのくらいの年齢に口酸っぱく言ったところで効果は雀の涙ほども無いだろう。むしろ反感買って勉強をしなくなる。間違いない、ソースは俺。

 

 そんなわけでこれ以上に頭が悪くなったら困るので小町に勉強をしなさいと俺は口にしない。口にしなかったことで結局のところ勉強してないんだから何の効果もないのでは? と思わなくもない。

 

 そんな都合のいいことだけは学ぶといった要領の良さはピカイチのものがある小町。少なくとも俺を利用するといったスキルに関しては太鼓判を押せる。

 

 もちろん、小町だけではなくそこに居る悪霊にも利用されるし、何なら今まで遭遇したことのある女性の形を模した怪異にも利用されたこともある。俺の女性に対する不信感は着々と育ちつつある。

 

 靴に履き替える養育者に対して俺は一言ぽつりと皮肉を溢す。

 

「もしも俺に恋人とか彼女が出来なくて生涯独り身だったらお前のせいもあるんだぞ」

 

「ん? 何の話? まぁ、でも……その時は小町に任せて!」

 

 にっこりと微笑む小町。

 

 えっ……なになに。俺としては呆れられたり馬鹿にされたりするかと思っていたのに蓋を開けてみれば慈愛に満ちた瞳に優しい答え。

 

 ドキドキと胸が高鳴る。

 

『……いや、多分、それ期待してるような答えじゃないと、思う』

 

 悪霊が何か戯言を抜かしていた。こんな小町を疑うなんてこいつ正気かよ。見ろよ、この優しさに溢れた可愛いお顔。俺を貶すなんてことを考えてない無垢な瞳を。

 

 はぁー、ほんと。信じるという心を失ったらほんとダメだわ。

 

 俺は小町の言葉の続きを待つ。俺を養ってくれるとか、一生側に居てあげるとか。俺の妹がこんなに可愛いわけがないわけが無い。

 

「頑張って施設に入れてあげるね! 小町は素敵な旦那さんと二人で幸せに生活するんだー」

 

 酷いってレベルじゃなかった。その上で何の施設なのかわからないあたりが凄く怖い。というか、それ以上に――。

 

「えっ!? 彼氏居んのか!?」

 

 朝っぱらから聞かされた衝撃的な内容。テンションが下がる。そのようなゴミムシが発生してたというのだからやる気も下がるというもんだ。もちろん、そのような虫は我が家の敷地を跨るものなら、いや千葉県内に存在するというのなら駆除しなければなるまい。

 

 これに関しては父親からも賛同を貰えることだろう。なにせ「小町に近づく男は兄でも殺す」とクレイジーな思考を持つ男なのだ。もしも世間のお茶の間を賑わせることになったら息子としてきちんと「間違いなくいつかやると思っていました」と証言してやる。小町の彼氏くんよ、安心してくれ、きちんと法で裁くから迷わず成仏してほしい。

 

 彼氏の嬉々的状況に気づかぬ小町はくねくねと身体と揺らし、テレテレとばかりに頬を掻きながら俺の言葉に反応する。

 

「えー、いやー、彼氏っていうか、まだそうじゃないけどぉ……」

 

「えっ、何お前。彼氏でも無いのに彼氏とか言っちゃってるわけ……えっ、こわっ」

 

「なっ!? お、お兄ちゃんのバカっ! いいじゃん! 好きな人相手に少しくらい妄想したって! お兄ちゃんなんて脳内でお友達作って部屋で喧嘩するくせに!」

 

 以前、部屋の中で九音と軽い口論になった際に夕飯を呼びに来た小町によって引き起こされた惨劇の御話。父親は優しくなったし、母親も優しくなった。小町も三日間くらいは凄く優しかった。

 

 あれ以来、お互いに触れないでおいたアンタッチャブルをここぞとばかりに持ち出す小町。癇癪の虫が騒いでいるであろう少女を抑えるためにとりあえず頭は下げずとも口先だけでも謝罪をする。

 

「わかった、わかったよ、悪かった……。それで遅刻するんじゃねーの?」

 

「あーもー! お兄ちゃんのせいだっ!」

 

 えぇ、他罰すぎんでしょ。ぷんすかと先に出る小町の後を追う。横に並ぶ幽霊の口元は手で隠されているが、クスクスと笑い声が漏れている。 

 

『こんなの八幡くんが悪いに決まってるよ。乙女心は繊細なんだからもっと大事に扱ってくれなきゃ』

 

 悪霊の戯言を聞き流しながら準備を終えて家を出る。そして自転車を見て見ると籠の中には既に鞄だけ置いてあった。

 

 鞄の入った自転車を漕いでは高校の方向――ではなく中学校時代の通学路。てれてれと漕いでいれば視線の先には走っている小町の姿が。

 

 二人乗りでもすればもっと余裕をもって中学校へ辿りつけるだろう。しかしながら普段から禁を破る行為と云うのは避けている身だ。正確に述べるなら一度だけ遭遇した二人乗りに関する怪談を体験して以来やるつもりは無い。

 

 たとえ一度は無事に切り抜けたとしても二度、三度と同じ目に遭うなんて馬鹿らしい。近寄らない、近寄らせないと云ったのはボッチの対人関係における基本ではあるが、対怪異においての基本的なスタンスでもある。

 

 そういうわけで二人乗りで送り届けるなんてことは二度とせずに、鞄だけ持って中学校近くまで偶に小町を送っているのだ。

 

「ハッ、ハッ、ホッ、ホッ」

 

 目的の人物の隣につけて並走していると、さらに後ろを憑ける幽霊が呟く。

 

『なんかエッチなゲームに出てきそうな呼吸だよね』

 

 人の妹になんてこと言いやがるんだ、この悪霊。

 

 くそ失礼なことを言う幽霊を無視したまま、小町の鞄を眺める。中学校時代の鞄というものは非常に重い。自転車の籠ですら少し沈み込む。

 

 鞄を預かって走って登校するのと、鞄を持ったまま歩いて登校するのじゃ掛かる時間は段違い。八と九が示していたデッドラインもこのペースだと易々とクリアできるだろう。

 

 二人乗りを自らに禁止した当初はぶーぶーと文句をたれていた女子中学生も慣れたもので。スピード配分や走る仕草に迷いが無い。最近では兄と似て逞しくなってきた太ももが悩みだとか。

 

 お前のどこが太ってんの? と疑問を投げれば非難殺到。幽霊も加わり二対一でチクチクとデリカシーの無さを厭味ったらしく懇々と説かれたのは少し前の出来事。

 

 そんなことを考えていると歩きのデッドライン組みに合流したらしく、中学の制服を着た男女がチラホラと。

 

 ゆっくりと歩き、息を整え始める。そして完全に整った後に。

 

「お兄ちゃん、タオル」

 

「はいよ」

 

 籠の中の鞄からタオルを取りだして汗をかく小町へ。小町は軽く顔や手を拭いた後にこちらへ渡してくる。それを鞄へ。

 

「制汗シート」

 

「はいよ」

 

 そういって籠の中から指定の代物を取り出し手渡す。シートで各部位を拭いた後にくるくると丸めて籠の中へ。

 

 そして鞄を取りだして俺の背後を指差す小町。

 

「いってよし」

 

「……あいよ」

 

 相も変わらず我侭放題の妹であった。ゆっくりと自転車を漕ぎだして時計を見る。

 

 こりゃあ、間に合いそうにねぇわ。

 

 小さく溜息を吐いてはぎーこぎーこと。

 

『妹を遅刻しないように送っていながら兄が遅刻してるんだから遅刻しない為だなんて本末転倒だよね。ほんっとシスコン。シースーコーンっ!』

 

 ふわりと自転車の荷台に座る九音。

 

 小町と二人乗りをして送り届けた後に起きた怪現象。その際は二度と小町を後ろに乗せたりしないと俺は誓った。

 

 そういえばこれは二人乗りになるのだろうか。幽霊は果たして乗員になるのだろうか。一度でもタクシーで乗員認定された俺としては荷台にわざわざ座る必要のない幽霊に向かって何か言おうと後ろを盗み見る。

 

『ん? どしたの?』

 

 肩越しに見えた顔を見て結局のところ降りろという小言を飲み込む。

 

 女ってずるいわ、本当。

 

 幽霊を果たして女性としてカウントしていいのか等甚だ疑問ではあるものの。それでも面と向かって文句の一つや二つを言えやしない以上数えていいだろう。小町にだってそうである。

 

 それが雪ノ下や由比ヶ浜になれば文句を言うどころか文句ばかりを頂く始末。

 

 概念的な御話で言えば女性のイメージは口論や口喧嘩に強いというものを俺は持っている。そんな強者にわざわざ挑むほどマゾではないのだ。

 

 女性というアレゴリーが持つ概念、認識は有史以来の積み重ねによって出来た代物。だから三人も集まれば姦しいと言われる。

 

 一人、一匹でありながら三人分くらい煩い幽霊を荷台に載せて、機嫌よく口ずさむ鼻歌を耳にしながら我が母校を目指す。

 

 二人乗りという禁に関しては黒寄りのグレーでギリギリ罰せられなかったとしても、遅刻という禁を破る。禁を破れば罰がある、それが怪異絡みでないのならまぁ、いいかと思ってる程度には感覚が麻痺してきた。

 

 強いて言い訳させて貰えれば俺は悪くない。言いたいことも言えない世の中が大体悪い。やっぱなんもかんも社会が悪いわ。

 

~~~~~~

 

 

 本日の選択体育はテニスかサッカーの二択。三クラスが合同の体育はむさ苦しさ満載の六十人もの男が運動場の片隅に集まっていることから始まった。

 

 ここから六十という人間を二分割するのだが前期のバレーと陸上に比べたら偏りは少なくであろうと予測する。

 

 前回までの三クラスによるスポーツテストは終わり、今回からが体育本番とばかりにぎゃいのぎゃいのと騒いでいる連中が目に入る。うるせぇ……。

 

 そんな俺達に向かって体育教師である厚木が選択希望を取る。

 

 さて今回は、と……。

 

 予測というものは外れるもので、五十人近い人間がテニスに手を挙げた。なんでこんな人気なんだ……譲れよ、そこは。俺にチームスポーツなどできるわけがねぇだろ。

 

 絶対に譲らぬという固い信念を抱きつつも体育教師は運否天賦、じゃんけんによりサッカーに回る人選を決めることに。

 

 ここで勝ったところで要らぬ嫉妬を買い、負けたところでチームスポーツに参加させられる。

 

 誰かが聞いていればそんなことくらいで嫉妬を買うなんて、と言うかもしれない。確かにそうだ、俺だってそう思う。

 

 けれども俺がそう思うことと他人がそう思うことは必ずしも同義ではないのだ。むしろそんな軽口を叩いて人間の感情の機微など全部理解していますなどと口で言うほど対人関係があるわけでもない。

 

 たかがじゃんけん一つに無駄なことをつらつらと考えてしまった。きっと見知らぬ男子生徒が出した意思の強き石の象徴が、その手の持ち主の表情が。そんな無駄なこと考えさせたのだろう。

 

 そんな意思の強さも俺の紙袋が上回るというのだからいちいち嫉妬や恨みに気を揉むほうが無駄なのだ、きっと。

 

『うっわぁ、めっちゃ恨みがましそうに見てるぅ、八幡くんにも勝てない雑魚のくせに、ざぁこ、ざぁこ!』

 

 ぷーくすくすと背中に張り憑いている幽霊が名も知らぬ同級生をこれでもかと馬鹿にする。

 

 しかしながらこの幽霊は実のところじゃんけんはクソ弱。こいつがじゃんけんするときは基本的にチョキしか出さない。それでいてこっちが勝てば勝つまでやるとばかりに何度も何度も挑んでくるのだから負けず嫌いここに極まれり。

 

 だから俺としても常日頃からそんなめんどくささを嫌ってパーを出す習慣が身についていたらしい。今回もそれに準じての結果。

 

 ちなみにこの幽霊がチョキを出す割合が多いのは理由がある。この女幽霊はチョキが指を一番綺麗に見せるというのを真に受けてアホみたいにじゃんけんはチョキと決めているのだ。ジンクスもクソも無い。ただの実利でただの自己主張。

 

 現実逃避するくらいには目の前の恨み骨髄とばかりの視線が気になってしまう。そんな視線から逃れるためにそそくさと退散して別の生徒たちが集まる場所に移動すれば、図体のデカい男がグローブをつけた自分の手を呆然と見つめていた。

 

 その男は振り返り、俺が見ていたことに遅まきながら気づいたようで。

 

「……勝った?」

 

「勝った」

 

 野太い呻きを漏らしながらそのまま自分の手と片膝を地に置く。同じ紙袋であったとしても奴の代物はずたずたに引き裂かれてしまったらしい。

 

 地面に蹲る男――材木座は手負いの騎士か武士かのように片膝立ちで苦悶の声を漏らす。

 

「ふ、ふふっ、ふはっ、八幡よ! これは敗北ではない。我にサッカーせよと神が導いたのだ――紙だけにな、ふひっ」

 

 開いた手のひらを此方に向けて気持ち悪い笑いをこぼす材木座。九音など不快この上ないとばかりにストレートに『死ねば?』と罵倒していた。

 

「お主に我の『魔球』を披露出来ぬようだ。実に残念だ……ところで八幡、我は一体、誰とパスの練習をすればいいの?」

 

 最初の方こそ鷹揚に堂々としていたが途中からどんどんと声のトーンは下がり最後には素に戻って涙目で此方へ訴えてくる。知るか。

 

 欠片も興味がわかず、心底どうでもいいことであった。そもそも材木座のことよりかはまずは自分のこと。俺も誰とパスすればいいのか。

 

 そんな心配は無情にも体育教師の笛の音で中断される羽目に。移動を余儀なくされたサッカー組は殆どの人間がテンションが下がっていた。ぞろぞろと影を落としつつ移動する様は亡者の群れのよう。

 

 最後まで材木座と名前の知らない男子生徒は此方を恨みがましく、未練がましく見ていた。そんな連中を無視してさっさと移動。テニス担当である厚木がテニス組を集めている輪の後方を位置取り、話に耳を傾ける。

 

 集められた生徒たちは一通りの基礎をレクチャーされた後に指示された。

 

「よーし、お前ら。まずは打ってみろ、二人一組を作れー」

 

 ボッチを殺しにくる教師。最早、いつ打ち合わせしたのかわからない程に光の早さでペアを組んでいる面子もチラホラと。こんなの熟年夫婦ですら勝てない。そんな以心伝心っぷりに恐れおののいていると、遅れてペアを探しはじめる大多数にすら出遅れてしまう。そして最後の相手が見つけられない奴らが残っている。その中には俺の姿もあった。

 

 この中からお互いに組んで余り者にすらなる自信のある俺は先手を打つべく体育教師へと提案をした。

 

「あの、すいません。俺、あんま調子よくなくて。ペアの相手に迷惑かけちゃうと思うので壁打ちしていいですか。すいません」

 

 言いたいことだけを宣告して返事も待たずにそそくさと移動しては壁打ちを始める。始めてしまうと厚木もタイミングを逸したのか、止めることもなく他の面々を見回し始めた。

 

『……性質悪ぅ』

 

 俺が選んだ壁の近くにあるベンチに腰掛けて足をぷらぷらさせながら九音が言ってきた。なんとでも言ってろ。

 

「……ふっ、敗北が知りたい」

 

 完璧なまでに完璧な手腕。調子が悪い事を先んじて告げては、対案を出す。さらには体育自体にはやる気ある事を告げるのがミソ。もっと言えば一番最初に謝罪をもって来たことにより相手の頭に「何のことだ」という疑問を湧かせて、その間に怒涛の勢いで押す。完璧なまでの展開に我が事ながら恐れおののいてしまう。天才かよ……。

 

 遅刻をするときも同じように謝罪、理由、謝罪をおこうなうことによって数多の出来事を赦してもらってきているのだ。実績は凄い。

 

『いやいや、赦してもらってないから。許して貰えてないから奉仕部なんかに入って、よく先生に顎で使われちゃうんでしょ』

 

 嫌な現実をつきつけてくる女幽霊を無視して壁打ちを続ける。打球を追いかけながら打ち、さらには跳ね返ってきたボールを打つ。何度か打ってみればそれなりのコツは掴み、上手くラケットの面に中てれれば走る距離は段々と少なくなってくる。

 

 そんな俺の様子を楽しそうに微笑みながら見る幽霊。何が楽しいのやらさっぱりで。少なくとも他の男子の試合もどきの方がよっぽど見応えがありそうなもんだが。

 

 そんな疑問を抱きながら黙々とひたすらボールを打ち返していると、一番近くのコートで大声が上がった。

 

「うらあっ! おっ、今のよくね? やばくね?」

 

「今のやーばーいわー。あんなの取れねぇーわ! 激熱だわ」

 

 男であっても集まれば姦しい。騒がしい面々の顔ぶれを見て見ればリア充の帝王である葉山の姿もあった。どうやら四人組であるらしく、よくつるんでいる金髪ともう一人がキャッキャキャッキャと楽しそうにテニスをしている。そのカルテットが織り成す不協和音は隅っこで壁打ちしている俺にまで届く。

 

『あーうざい……死なないかな、あいつら』

 

 どうやら耳障りだったのは俺だけではないらしい。視線だけを軽く葉山のグループに向けていれば耳に届いたのは近くからの愚痴。いつの間にか背後に回っていた九音が不機嫌そうに呟いていた。

 

 その言葉に嫌な汗が流れ始める。いや、大丈夫だ、あの材木座にイライラしつつも結局は何もなかったじゃねぇか。幾ら気の短い癇癪持ちの幽霊だからって毎度毎度問題起こすわけない、ない筈だ……。

 

 心穏やかに体育を終わらせた身としては黙々と壁打ちを続けながらも何も起こらないように祈ることしか出来ない。

 

 そんな俺の心配など知らぬとばかりに再び金髪が大声で寄生をあげる。何事かとばかりに他のコートからも注目が集まった。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉっ!? 凄くね!? 葉山くんの球、今曲がったくね? マジやべーっしょ!」

 

「いや、悪いミスった。偶然打球がスライスしただけだ」

 

 片手をあげて謝る葉山。しかしながら王様の謝罪の意を汲んだ木っ端はここぞとばかりに持ち上げる。

 

「マジ!? スライスとか魔球じゃーん。やっぱ葉山くんぱないわ! マジ超ぱない!」

 

「やっぱそうかなー。サンキュ」

 

 ヨイショヨイショとする金髪に乗っかる王様。そんな王様の下へぞろぞろと新たな臣民が二人ほどやってくる。

 

「葉山くん、テニスもうめーじゃん。スライスだっけ? さっきの。あれ、俺たちにも教えてよー」

 

 四人組は六人組へ。

 

 そして六人組になったことで元々、テニスコートで覇権を取っていた国がさらに国力を増す。こうして葉山キングダムはテニスコートの覇者として君臨することに。葉山王国民以外は自ずと声も小さくなり、こそこそと。そして王国民はぞろぞろと数を増してうぇいうぇいうぇいうぇいと楽しそうに。

 

『……はぁ、あの金髪死なないかな。毛根全部引っこ抜いてやろうかなぁ』

 

 女幽霊の目が少しずつ据わる。本能的に不味いかもと予感が――。

 

『しないよしないしない。でももっとストイックにテニスしろっては思うかな。せっかく私が八幡くんを眺めながら応援するマネージャーのイメージプレイしてたのに……これじゃあ台無しだよ、もぅ』

 

 どうしてこの女幽霊が楽しそうに壁打ちを眺めているのか理解して呆れてしまう。

 

『なんだよぉ、その目! いいじゃん、いいじゃん、マネージャーのイメージプレイ。ほら、私を甲子園につ――』

 

「スラーイスッ! うげ!」

 

 大きな弧を描いたボールが飛んでくる。黄色の硬式ボールは今しがた何かを言おうとしていた肩に乗っていた九音にぶちあたり、貫通した。

 

『……。……ッ! ……ハァ、人がしゃべっている時に邪魔をしちゃいけないって習わなかったのかな? というか八幡くんと私の会話中に邪魔するだなんて空気読めないよねあの金髪。よし、死ね』

 

 握っているラケットがグググッと引っ張られる。必死に握ったまま、それでもラケットは動かされ、壁打ちをしていた壁にぶち当たって足元に転がってきたボールを。

 

 ラケットでボールを掬い、宙に浮く。一秒、二秒と滞空したボールは網によって打ちぬかれた。

 

 最早、抵抗するのを諦めて、せめてこの光景に不思議が纏わらないように見てくれだけは整えて。

 

 サーブを打つかのように上から下へ、振りぬく力も込めずにただラケットの動きに腕を合わせる。

 

『ひゃっほー! ストラーイクッ! 死ねッッ!』

 

 テニスに多分そんな用語は存在しない。しかしながら九音の狙い通りに球は綺麗に飛んでいき、超スピードで先ほどまで楽しんでいた葉山王国民の足元に叩き付けられる。幸いなことに人には当てなかったらしい。

 

 減退しない威力のまま彼らの背後の網に綺麗に嵌るというのだから溜息しか出ない。

 

 顔を上げて見れば静まり返ったコートの上には呆然とした視線の数々。

 

『はぁーっ! 超きもちいい! お山の大将どもがレベチに呆然とする視線気持ちいい! そうそう! これだよね、これ。身の程を弁えとけよー、お前らー。次はお前らの頭ぶち抜くぞー、調子乗んなよー、お前らー』

 

 実に生き生きと楽しそうに笑う女幽霊。

 

 楽しいのはこいつだけでしかない。コート内の空気は死んでいるし、俺の目も腐っている。ドロドロと溶かしてはどうしたもんかと頭を悩ませていると――。

 

「あ、ありがとねー」

 

「う、うす」

 

 葉山が間を持ってくれることにより「飛んできたボールを返した」という状況にしてくれる。例え、そのボールの勢いに返球する以上の怨みが込められていたとしても。見なかったことにしてくれるようだ。

 

 小声で返した頭は本来ならばもっと深く下げるべきで。

 

 こんな出来事があったからと言ってリア充よりも満たされるわけもなく。ましてや上だなんて到底思えず。ただただ気まずさが残るだけ。

 

 静まり返って黙々とテニスを始めるコート。不協和音が聞こえてこなくなったにも関わらず酷く居心地が悪い。

 

 テニスの時くらいは黙々と考えるのをやめて爽やかな汗を流したかったのだがそうもいかないらしい。

 

 青春なんてさせないとばかりの悪戯に恨みがましい視線を向けてしまう。

 

『……ふふっ』

 

 楽しそうに嗤う九音は苦悩をまるでわかっていますとばかりに微笑んでいて。そんな幽霊が見ている前で壁打ちを続ける。まるでお通夜のように静まり返ったコートの隣で。一人と一匹ぼっちで黙々と。

 

 

~~~~~~~~

 

 

 昼休み、いつもの昼食スポットでいつものように飯を食う。特別棟の保健室、購買近くの小階段。石段三つの段差でも階段と呼ぶことをどれくらいが認知しているのだろうか。

 

 唯の段差くらいのイメージが殆どの石に腰を下ろす。マイベストプレイスとも呼べるこの場所。購買の近くでありながら人気の少ない落ち着いたこの空間は居心地が頗るいい。そんな場所で俺は黙々と不味いパンを食べる。

 

 学生には筆頭不人気を誇るであろうほうれん草や人参をふんだんに挟んだパンは今日も不味い。

 

 何故、こんな苦行をしているかと言えば隣に座る浮遊霊が原因。奴の頭の中で謎に蔓延る健康志向はお昼のパン枠を一つ確保している。

 

 この女幽霊の機嫌不機嫌一つでお昼に多大な影響があるというのだからめんどくさい。ちなみに今日は別に不機嫌というわけではなく、四限が体育でテニスだったために謎の健康志向がアップを始めて健康に良さそうという抽象的かつ頭の中がカラッポな理由でほうれん草人参パンが選出された。

 

 コッペパンの中に雑に挟まれた茹でた人参とほうれん草と謎のソースが絶妙に食欲を奪ってくる珍品だ。泣きそう。

 

 口直しに他のパンを食べれるのならそうしたいが、あいにく嫌なことはいつまでもしないタイプ。何なら仕事だって本来ならしないタイプ。そんなわけでウインナーロール、ツナおにぎりと食べてからのゲテモノ食い。こんなんじゃ俺、午後の数学、さぼりたくなっちまうよ……。

 

 そんな全ての元凶たる幽霊は隣に座っている。耳元から聞こえる鼻歌が機嫌の良さを示していた。お昼前にあれだけ暴れれば機嫌も良くなるってもんだ。

 

 テニスをしていた生者の意気を奪っているというのだから機嫌の一つや二つはよくなって当たり前。ならせめてパンの方ももう少し手加減してくれても良かったのだが。

 

 未だに口の中で後を引く緑黄色野菜の自己主張を忘れるべく近くに置いてあるスポーツドリンクで胃に流す。

 

 なんとか口の中の嫌な感覚が拭えた後、一陣の風が吹く。その吹き抜ける風は不穏で生温い。九音と俺の視線の先、ジャージ姿でテニスをしている女の子もそのテニスボールが風に揺られてあらぬ方向へ飛んでいた。

 

 臨海部に位置する総武高校は昼を境に向きが変わる。朝方は海からの潮風が、大体この時間帯を境に向きを変えて大きく吹き抜ける。そしても一度還るかのように吹き抜ける。

 

「あれ、ヒッキー?」

 

 還る風に乗って聞こえてきた声は最近よく聞くようになった女の子のもの。振り向けば――由比ヶ浜がきょとんとこちらを不思議そうに見ていた。

 

 由比ヶ浜結衣。クッキーの女の子、クッキーに御呪いをした女の子。そして呪いが還った女の子。

 

 呪いと聞けばおどろおどろしさがあるが恐らく女子中高生あたりで流行ってるであろうお呪いとかそこら辺だろう。

 

 本格的な知識もなければ、怨念や怨讐じみた気持ちもきっと無い。あってたまるか、いつだって怪異と遭遇した時に見せられてきたあの質量を込めたなど思えるわけもない。思いたくもない。

 

 そんなわけでちょっとしたおまじないの果てに起きた結果により現在取り扱いに少し困惑している。

 

 奉仕部における初の依頼人であり、今は奉仕部に入り浸っている少女。放置していても問題ないか、と俺は思っているが――それでも先日の蜘蛛の件。雪ノ下との夢の話を考えればその考え方が本当に正しいのかわからなくなる。

 

 けれども今まで自ら進んで解呪と云った対応をしてきなかった身である。というかおいそれてそんな儀礼的なやり取りを俺如きができるなど思えない。それにこの問題の切っ掛け、取っ掛かりすらどう掴んでいいのかも曖昧だ。

 

 素直に「俺の食べたクッキーにお呪いした? 悪い呪い返ししちゃった」と言えば返されるのは馬鹿にされたり、アホを見るような視線。いやそれくらいで済めばいいが最悪救急車の出番である。俺だって同じようなことを何も知らずに言われればアホを見る目で返すだろう。

 

『心配しすぎじゃない? 確かに一号の方はさ、なんかそのうちどうにかしないと不味い気が少しするけど、二号は自然と解決しそうだし。たかがクラスメートじゃん』

 

 それも、そうか……。

 

 確かに警戒しすぎ……なのか? ここ最近、雪ノ下に関することが多すぎたからそれに準ずるように由比ヶ浜に対しても警戒を抱いていたがそれは俺の思い過ごしなのだろうか。

 

『所詮はただの御呪いでしょ? そもそも本命は君じゃないだろうし。本気で恋やら愛やらを込めていたなんて思えないし。あのお呪いだって仲良くなりたいの延長線上でしょ? それに思いが成就したなら既に終わった御話じゃん。あの女に比べたら驚異でもなんでもないよ。怪異に直接影響を貰ったわけでもなし、巻き込まれたことはあれど舞台の主役に立てやしないモブだよ、モブ』

 

 本命。考えてみればそうか、と納得が行く。あのクッキーは御礼のために作られた。その相手は誰なのか、考えるまでもない。雪ノ下だ、雪ノ下雪乃なのだ。

 

 その思いの行き先をその呪いの行き先を勝手に自意識過剰に自分だと。なんとも恥ずかしい勘違い。

 

 あまりの勘違いに顔は熱を帯び始める。呪い返しどうこうだとかそもそもがそんな大きく捉えるのが大間違いだったのだ。

 

「ヒッキー……? もしもーし」

 

 九音とは逆の方向からポンポンと軽く肩を叩かれて我に変える。そもそも由比ヶ浜の近い距離感が勘違いさせるのだ。中学時代だったら危なかった。勘違いして、逐一目で追っちゃうところだったわ。ついでに偶然とばかりに帰り道で遭遇して通報されるレベル。

 

「あ、おぉ……」

 

「ようやく気づいた。そっち何があんの?」

 

 そう言って立ったままひょっこりと肩越しに九音の方向を見るが由比ヶ浜の目には俺と自分の新しく出来た影しか映らない。

 

 足山九音の腰掛ける場所を見れど、その瞳には――。

 

「何も無いじゃん」

 

 もちろん、何も映らない。由比ヶ浜には見えないし、それは正しい。どこまでも間違っていないことなのだ。

 

「ところでさ、こんなとこで何してんの?」

 

 空っぽの袋、今はラップしか入ってないビニールを片手で持ち上げてわかりやすい証明品で返答する。

 

「ここで昼飯食ってんだ」

 

「ふーん、そーなん。でもなんで? 教室で食べれば良くない?」

 

『この女邪魔ぁ、せっかく八幡くんと二人っきりだったのに……最近こういうの多くない? 多いよね? ねね? ねっ?』

 

 挟まれての質問攻めにげんなりする。片や答えるとしても恥ずかしく、片や答えることも出来ず。どちらの質問に対しても答えることでデメリットしか産まないので話をすり替えることにした。

 

「んで、どーしたんだよ、お前は。こんなとこで」

 

 質問に質問で返すというマナー違反。完全無視した方は『ねね? ねーってばぁ、ねーねー』と鬱陶しい。

 

 由比ヶ浜はそんな俺を責めもせずに気分を害した様子もなく嬉しそうな表情を浮かべていた。

 

「そう! それ! 実はゆきのんとジャン負けしてさー、バツゲームってやつ?」

 

『あー! この女、とうとう八幡くんと罰ゲームって言いやがった! なんて失礼な女なんだ!』

 

 いや、お前の方がクソ失礼だからね?

 

 ガルルルと唸りながら肩越しに由比ヶ浜を睨む。俺はこのやかましい幽霊にため息が漏れてしまう。

 

 すると由比ヶ浜はそれを違う方向に勘違いしたらしい。わたわたと手を振っては違う違うと言う。

 

「ジャン負けの内容はジュース買いに行くやつだから!」

 

 その仕草を座って見上げている形のせいか、手をふる先にあるものに注視してしまう。慌てて振っているせいかたゆんたゆんと揺れる胸が心做しか強調されているかのように見えなくもない。ふむ……。

 

『おいこら』

 

 背後から怨念の篭った声が聞こえたので明後日の方向へと目をそらす。

 

 すると「んしょ」と可愛らしい声で由比ヶ浜は九音と逆サイドに腰を下ろした。その小さな漏れ出た声から女の子らしさを感じる。少なくとも背後から『どっかいけよぉ、いけよぉ、行けってばぁ』とぶつぶつ呟く声よりかはよっぽど。

 

「ゆきのんさー、最初は『自分の糧くらいは自分で手に入れられるわ。そんなささやかなことで承認欲求、競争心を満たそうだなんて浅ましい』とか言って渋ってたんだけどね」

 

『うわぁ、滅茶苦茶言いそう』

 

 九音の言葉に同感。めっちゃ言いそう。

 

 頷いた俺に由比ヶ浜は楽しそうに話を続ける。声色こそ似てなかったが特徴と捉えた物言いはなんとなく雪ノ下を彷彿させた。

 

「そこでさー、あたしが自信無いんだ? って言ったらノッてきた」

 

『滅茶苦茶ノリそう……』

 

 それな。九音の言葉がすべてだった。

 

 最早、このエピソードだけで雪ノ下雪乃の人物像の一部分が語れるほどに判りやすい御話。極度の負けず嫌い、先日の奉仕部で平塚先生の挑発を受けた雪ノ下らしい話である。

 

「あいつ、らしいな」

 

 俺の言葉ににこにこと頷く由比ヶ浜。そんな優しい微笑み、楽しそうな微笑みを浮かべる女の子が隣に居るというのが酷く居心地が悪い。若干距離が近いというのも拍車をかけている。

 

 そんな俺の様子をいつの間にか段差下の正面で見上げるようにかがみ込んだ九音がじっとりとした視線を送ってくる、

 

『鼻の下伸びてるんですけど』

 

 間抜けならばここで鼻の下を確認することだろう。あいにく、俺は年がら年中、間が抜けているわけではない。そっと視線を逸らして何の話とばかりに白を切る。

 

「でさー、ゆきのんったら勝った時に小さくガッツポーズしたんだよ。もうなんか、すっっごい可愛かった」

 

 楽しげに話すその顔にはたしかな満足が浮かんでいた。そして、少しだけ陰る。

 

「なんか、うん。なんかこのゲーム初めて楽しいって思えたんだ。負けても楽しかった」

 

 珍しくもその言葉には棘があった。いや、それは俺が産み出した幻想の棘なのかもしれない。けれどもその疲れたように呟いた最後の一言と、初めてと強調された部分が。俺に棘を幻視させたのだ。

 

「前にも、あったのか?」

 

 言葉は出た後に後悔する。触れても良かったのかと。けれども悔いの残る言葉に、踏み込んだ言葉に由比ヶ浜は答える。

 

「うん、前に、ちょっとね」

 

 曖昧に濁らせながら。

 

 その言葉にソレ以上踏み込む気にはなれなかった。そうやって言葉を濁して、分かりやすく覚悟を問われれば、俺は足を引き返す。

 

 超えないように、触れないように。お互いの関係を変えてしまうことがないように。

 

 だからさっさと流すかのように、どうでもいいとばかりに軽口を叩ける。

 

「はんっ、内輪ノリってヤツかね。興味ねーわ」

 

 詳しいことはどうでもいいとばかりに口に出す。 

 

 そして思い出すのはクラスでの出来事。教室の一角でぎゃあぎゃあとはしゃいでいた集団が居たという記憶。それを小馬鹿にすることはあれど同情したことは一度たりともない。憐憫も持たない俺に何も言えることは無いはずだ。

 

 もしも由比ヶ浜結衣と仲良くなりたいなら赤点の反応なんだろう。証拠に由比ヶ浜は面白くないと小さく頬を膨らませていた。

 

「その反応感じ悪い。なによ、そーいうの嫌いなの?」

 

「身内ノリとか楽屋ネタとか面白くねーだろ。あ、内紛は好きだぞ、俺は内側にいたことねーからな」

 

「がくやねた? ないふん?」

 

 幼い子どもが聞きなれぬ言葉を繰り返す様子で由比ヶ浜の口から言葉が飛び出す。

 

「全部楽屋ネタは内輪ノリとか内輪受けとかと似たようなもんだ。ちなみに内紛は内輪揉めのほうだ」

 

『厳密に言えば楽屋ネタって違う気がするんだけど……まぁ、別にいっか』

 

 正面の女幽霊は屈んででは膝の上に肘を設置して、その上に顔を載せたままそんなことを呟いた。

 

 もちろん、そんな呟きは由比ヶ浜には届かず、会話を思い出しているのか「うーん」と小さく唸っていた。そして理解が及んだのか小さく手を打つ。

 

 その後にじっとりの睨む様子に物を申したくなる。

 

 手打ち、膝打ちとは人間が納得した時に打たれるものなのだ。つまりは問題が解決した時に打つべき祝音。つまり問題が解決したくせに睨む由比ヶ浜が間違っているだけであって、俺は間違っていない。完璧な理論、QED証明終了。

 

「理由が悲しいし、性格がゲスじゃん」

 

「ほっとけ」

 

 完璧な理論ではあったが感情論で論破されてしまった。

 

 再度として風が吹く。吹き抜ける不吉のせいで舞う髪を押さえる由比ヶ浜。ちらりと横顔を覗き見れば、目が合う。

 

 その瞬間ににへらと笑みを零されれば、初対面と何か印象が変わった気がする。

 

 そうか、少しメイクが薄くなっているのか……。以前に比べると明らかに薄くなった化粧はナチュラルメイクと呼ばれるような代物だろう。その化粧が童顔をさらに際立たせる。

 

 素顔に近い由比ヶ浜は笑うと垂れ目になり、それが一層増して幼げに見えてしまう。

 

 由比ヶ浜の変化の証。それが何でかは理由はわからない。予想することは出きれど、その胸中を完全に当てることなど出来やしない。けれどもその理由に雪ノ下が関係してくるのかもしれないと思ってしまう。

 

「というか、ヒッキーも嫌いだって言う割には内輪ノリ多いじゃん。ゆきのんと部室で話しているときとか楽しそうだし! あー、あたし入れないなーって思うことたくさんあるし」

 

 膝に顔をうずめる。そしてそのまま少しだけ動かして見上げるような顔で不満を溢す。

 

「あたしだってもっとお話したいなー、とか。仲良くなりたいのに……あ! ち、ちち、違うよ! 別に変な意味じゃなくて! ゆきのんみたいに部活仲間として仲良くなりたいってことだからっ! 勘違いしないでよねっ! その辺ちゃんとわかってる!?」

 

『何年前のツンデレだよ、こいつ……』

 

 呆れたように俺から由比ヶ浜へと視線をずらして呟く九音。

 

 由比ヶ浜はワタワタと手を振って焦っているが、安心しとけ。勘違いすることなど決して無い。どこをどう勘違うのか、どう捉えるのか。

 

 由比ヶ浜結衣が比企谷八幡に対して異性として好意を抱いている? ありえない。決してありえない、断じてないと俺は言い切る。

 

 俺は、俺は――。

 

 足山九音からの好意ですら疑ってしまうのだ。一年前からの付き合いで、いつからこんなに言い始めたのか覚えておらず、こんな関係性に至ったのか覚えてもいないが。

 

 むしろ最初期にはあれだけボロクソ言っていたこいつが俺を好きだなんてどんな心変わりなんだと。

 

 直接確認することもしなければする気も起きない。そしてその言葉に納得してしまえばどういう関係になるのか想像できやしない。

 

 もしも俺がその答えを、その返答を、間違った答えを、いつものように間違ってしまえば。もしも九音が居なくなってしまえば、死ぬ。

 

 夢の中で味わった。あの後味悪いバッドエンドは俺一人では怪異に対峙できないという証明。

 

 力も無い、知識も満足に持ち合わせて無い、能力すら無く。無いものでしかない俺が九音を手放すことがどれほど恐ろしいことなのかつい先日体感してしまった。

 

 しかしながら日常では常日頃から鬱陶しがっている俺が。そんな嘘付きの言葉にどれだけの価値があるというのか。思っていない愛を吐き出して、吐き出し続けた俺が、足山九音を引き止める術を持っていない。

 

 ただの寄生虫、ただ利用しているだけの恥知らず。

 

「ヒッキー……?」

 

 どこか心配そうに覗き込んでくる視線で我に返る。誤魔化すかのように皮肉げな笑みを浮かべては答えた。

 

「安心しろ、お前相手に関しては勘違いしねーから」

 

「ど、どういう意味だっ!?」

 

 がばっと顔をあげて怒る由比ヶ浜。ぷんぷんとばかりに頬を膨らませてはこちらを両手で殴りかかろうとしてくるのでこちらも両手のひらを前にして「どうどう、落ち着け」と制す。

 

「まぁ、落ち着け。雪ノ下に関しては別だろ。ありゃ、不可抗力だ」

 

「どーいうこと?」

 

「あぁ、ごめんな。不可抗力とは『人の力ではどうにもならないこと』って意味だ。難しい言葉使って悪い」

 

「違うしっ! そこじゃないしっ! あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて! 意味がわからないとかじゃなくて、あたしのことバカにしすぎっ! あたしだってちゃんと入試を受けて総武高校に受かったんだからねっ!?」

 

 ズビシと由比ヶ浜のチョップが喉を憑く。ツッコミというには余りにも的確に入った地獄突きに軽く咳き込む。そんな俺の様子をちらちらと盗み見ながら由比ヶ浜は話を再び始めた。

 

「……ねぇ、ヒッキーってさ。入試じゃなくて、えっと、入学式の時のこととか覚えてる?」

 

 残念ながら由比ヶ浜は知らないであろうが俺が入学式のことを覚えれるわけもない。何一つとして記憶に無い。

 

 なにせ、入学式の朝に事故に遭い、新入生歓迎をみんなが受けている頃に俺は手術を受けていた。

 

 一生忘れることは無いであろう思い出を、その日に築いたにも関わらず、その内容はあまりにも異なる。

 

 あの恐ろしいまでに綺麗で、見惚れるほどに魅入るほどに綺麗な幽霊との出逢いを、出遭った日をきっと忘れない。この先、何があったとしても、どんな風になったとしても。

 

 高校生活など風化するほどの時間が経ったとしても。俺はきっと忘れない。忘れることなどできない。

 

 そんな一日だったのだ。式典など参加せずに病院に居た俺にはその質問に答えようが無かった。

 

「あー、そもそも俺は入学式の日、事故に遭ってんだ。だから参加してねーんだよ」

 

「……事故」

 

「あぁ、入学式の朝にアホな飼い主が犬のリードを離してな。そのワンちゃんを英雄の如く救った俺、それはもうカッコよすぎた日のことだ」

 

 大げさにフィルターをかけて自己肯定感を高めてみる。当時のことは九音も知らない。九音も知らないなら誰にも知られていない出来事なのだ。

 

 多少盛ったところえ誰にもバレない嘘。

 

 そもそも誰も褒めちゃくれないからこうやって自分自身を褒めてあげないといけないのだ。嘘をついた原因も考えると社会が悪いとまで言える。俺を褒めない社会が大体、悪い。

 

 とはいえ、思っていた反応と異なる由比ヶ浜の様子。呆れでもなく小馬鹿にした様子でもなく。

 

 口角を引きつらせてはどこか苦しそうに言葉を出す。

 

「あ、アホって……ヒッキーはその子のこと覚えてないの?」

 

「や、それどころじゃなかったし。痛くなければ覚えませぬってわけじゃねーけど、あんまりにも痛すぎて痛い以外の記憶殆どねぇ。まぁ、印象に無いってことは地味な子だったんじゃねぇの?」

 

 今でこそ振り返れば軟弱だったと振り返る。あの時以上の痛みや苦しみなどざらにあり、それ以上の命の危機も数多とあった。

 

 あの程度のことで錯乱していた自分を責めるのか、それともこの一年間で上回る痛みを経験しすぎな自分を嘆くべきか。

 

 少しタイミングが異なればもう少しマシな怪我だったのかもしれないが、犬を突き飛ばして頭から車に突っ込んだ結果、俺の黄金の右手は見事に折れていた。

 

 それだけではなく、擦過傷は出来るし、転がったせいか制服はボロボロ。そもそも意識を取り戻した時は病衣であり、当時の出来事など碌に覚えちゃいないのだ。

 

「――」

 

 由比ヶ浜がモゴモゴと小さく何か呟いた。当時のことを遡っていた俺はその余りにも小さな言葉を聞き取ることなど出来ず、聞き返そうとした時に気づく。

 

 小さく、小さく弾けた音。

 

 ゾワリと産毛立ち、音の方向を見れば――足山九音の髪を縛る紐が切れていた。

 

 その髪紐は彼女の怒りが頂点に達した時にいつも解けた。けれども今回は異なる。その表情は苦悶。

 

 色んな感情が綯い交ぜになり、憤激、驚愕、恐れ、不安、納得、自制、理解。そんな表情を浮かべては俺と目が合っていることに気が付き俯く。まるで隠し事をするかのように。

 

『……なんでもないから』

 

 なんでもないわけねぇだろ。けれども聞き返すことなど出来やしない。俺がこいつの何を知っているのかと問われれば何も知らないのだから。正体も、どんな幽霊なのかも、浮遊霊なのか、悪霊なのか、善霊なのか。

 

 なにもかも知りやしないのだ。だからそんな立場でありながら、ただの恥ずべき存在でありながら。訳知り顔でそんな台詞を履けるわけもない。らしくないなど言えるわけもない。

 

 それでもやっぱり思ってしまうのだ、足山九音らしくないと。

 

 言いたいことをずけずけと言って。悪意たっぷりに小馬鹿にしながら。皮肉気味に上から目線で。色んなことを言ってきた九音が言葉を濁すというのは酷く珍しい光景であるからこそ、そう思ってしまう。

 

 それこそ我慢するその様子はまるで痛みすら帯びているかのようで。けれども本人が言わないと決めたなら聞けるわけもなく、何もないというのならそれ以上気にしないように努めよう。

 

 話題を切り替えるかのように俺は由比ヶ浜との話に戻る。

 

「そんで、それがどーしたよ?」

 

 同じように、何かを言いたいけれども言えない雰囲気を醸し出す少女に尋ねる。するとがばりと急に顔を上げてこっちを真剣な瞳で見つめてきた後に――自嘲するかのような笑みを浮かべた。

 

「なん……でもないや、うん、なんでもない。と、ともかくヒッキーは入学式のこと覚えてないんだよね? 事故にあってその犬の飼い主、女の子のことも覚えてないんだよね?」

 

「ん? 俺、女の子って言ったか?」

 

 言った記憶の無い情報に違和感を感じて――。

 

『地味な子って言ったから勝手に向こうも女の子や小さい子って思ったんじゃない? 男なら地味なヤツとか地味な男って言うって考えたんじゃないかな』

 

 九音の言葉にそういう視点もあるかと納得はするが、どこか気持ち悪い違和感だけが残る。けれどもその違和感は。

 

「言った言った、超言ってた! むしろ女の子としか言ってなかった!」

 

「どんだけ女って言ってんだよ。気持ち悪いだろ、それ……。ちょっと女に飢えてるみたいなレッテルやめてくんない?」

 

 アホの発言で拭い去られる。まぁ、言葉一つに深い意味でもあるまいし、別にいいか。

 

 俺の返答にたはは、と下手糞な笑いを浮かべながら視線をそらす。そして視線は自ずと正面へ。

 

 テニスコート裏に続く路地、壁打ちをしていた女テニの女の子へと向かう。どうやら丁度終わるようで、片付けて向かってくる途中で由比ヶ浜が手を振る。

 

「おーい、さいちゃーん!」

 

 ぶんぶんと手を振るその仕草はどうやら知り合いのよう。さいちゃんとやらも由比ヶ浜に気づいたのか小さく手を振ってはとててと可愛らしい擬音をつけて小走りでやってくる。

 

「よっす、練習?」

 

 敬礼ポーズの由比ヶ浜の問いにさいちゃんとやらは小さく破顔しては頷く。

 

「うん、うちの部弱いから昼休みも練習しないと……お昼にも練習してるんだ。コートもお昼に使わせてくださいってお願いしててようやく許可が下りそうなんだ。由比ヶ浜さんと比企谷くんは何をしているの?」

 

 どうやら俺の名前を知っているらしい。名が売れていることを喜べるわけもなく、そもそもが悪評。

 

 この小柄な女子に過去のアレコレが知られていると思うと少し物哀しい。中学時代の俺だったのならば名前を知られていることから「あれ、この子、俺に興味あるのか?」と俺自身が興味を示し、勝手に「この子、俺を意識してね?」と俺が意識し、最終的に「あれ、この子、俺のこと好きなんじゃね?」とか勘違いして俺が好きになっちゃう。そして告白しては振られる。

 

 それはもう様式美とばかりに綺麗さっぱりと振られる。ふぅ、危ない危ない。今の俺は名字を呼ばれたところで好いた惚れたなどに発展はしない。

 

 よくよく考えれば名字を呼ばれる度に惚れた腫れたしていれば職員室に呼ばれる度に平塚先生に惚れてしまうところ。振られても翌日には焼けぼっくいに火がつくかのように再燃してしまう。そんなの嫌だ……。

 

『うっわ、くっそ下らないこと考えてる顔だ』

 

 さいちゃんとやらの隣で屈む九音がアホを見るかのような失礼な視線を送ってくる。しかしながらこうして見るとさいちゃんとやらは女子の中でも小柄な方であるらしい。

 

 九音は女子の中でも平均より少し高身長くらいなので、それよりも一回り小さい。さらには由比ヶ浜より少し小柄に見える。どこか小動物を思わせる少女は可愛らしく小首を傾げていた。

 

「やー、何もしてないよ。ね?」

 

 由比ヶ浜は同意を求めていたが、少なくとも俺は心地の良いランチタイムの途中であった。というか、こいつ、パシリの途中だったのでは? と完全に目的を見失っている由比ヶ浜。実に残念なやつであった。

 

「そうなんだ」

 

 さいちゃんとやらは小さくクスクスと笑った。笑うポイントがあったのかは不明だが微笑ましそうなその笑みをわざわざ崩すような真似をする必要もあるまい。

 

 視線をずらして九音を見ればそちらは何故かこちらを貫くかのような強い視線。目を細めて何かを疑うかのような様子は何を疑われていることやら。

 

『……ねぇ、八幡くん。あ、でも、待てよ』

 

 一旦呼びかけては再び何かを考えこむ様子。何なんだよ、一体。中途半端な呼びかけにもやもやが残る。女子三人、うち一匹は幽霊ではあるが、そんな状況は非常に肩身が狭く、居心地が悪い。

 

「さいちゃん、授業でもテニスだったよね? それっでお昼もテニス? 大変だねー」

 

「ううん、好きでやってることだから」

 

 話を初めた二人。只々ひたすらに黙って聞く置物と化す。女子の会話に割って入るなど俺にとってはハードルが高すぎる。

 

 そもそも振られてもいない話題に勝手に入り「こいつ、急に何。キモ……」という雰囲気になったら居た堪れなくなって死ぬ。ちなみに話を振られても上手く答えることが出来ずに死ぬ。

 

 やっぱ振るなんてことは良くない。告白にせよ、話題にせよ、仕事にせよ。振ることによって傷つけるというのなら初めから関わらない方がいい。つまり、俺が人と関わらないのは他人を傷つけないためである。こんなの俺の優しさで世界が救われちゃうわ。

 

「あ、そういえば、比企谷くん! 比企谷くんってとってもテニスが上手なんだね!」

 

 はい死亡。完全に置物と化していた俺は話を振られるなんて微塵も思っておらず目をパチクリとするばかり。

 

「そーなん?」

 

「うん! フォームも綺麗だし! 今日なんて足元に転がったボールをそのまますくい上げてそのままサーブしてボールを返球してたんだぁ。すごくかっこよかった!」

 

 え、この子、俺のこと好きなわけ?

 

 ――ハッ、危ない危ない。興奮気味にカッコいいとか言われたからつい好きになっちゃうところだった……。

 

 生きている女子にキラキラとした視線を送られたのは果たしていつぶりだろうか。少なくとも幼い頃の小町にくらいしか送られたことのない類の視線に居心地の悪さを覚える。どう反応すればいいのか迷いに迷って、結局の所その言葉に便乗することにした。

 

「え? あー、いや、あっはっは、照れるな」

 

「うん、凄いや! 比企谷くんは!」

 

 やっぱこの子、俺のこと好きなんじゃない……?

 

 ――ッハァ!? あ、危ない危ない、今度こそ好きになってなんなら偶然を装って放課後待ち伏せした挙句一緒に帰ろうと提案しちゃうところだったわ。あんまりにもべた褒めしてくるから俺が好きになっちゃうところ。

 

 ついでに言えば罪悪感もマッハ。なにせ褒めている内容はすべてあの悪霊の仕業である。そんな原因の幽霊はさいちゃんとやらと俺の顔を交互に見ながら『ん? んぅ? んんんんぅ?』と唸っていた。

 

 こちらから誰コレと合図を送って見ても幽霊はとんと気づかず、むしろ何かを考えこむような仕草。

 

 しょうなしに俺は隣に居る由比ヶ浜に耳打ちをするかのように尋ねた。本来なら九音に聞くのが一番ベストな答えなのだろうが、由比ヶ浜に小声で尋ねることもまたベターな選択と言えよう。見覚えの無い女の子に直接「で、お前誰?」なんて傷つけるような台詞は間違いなく赤点。

 

『あぁぁぁ!! やっぱり! この変態ッ! さっきから視線がやらしいと思ったんだ!』

 

「はぁぁぁ!? 同じクラスじゃん! っていうか体育一緒だったんでしょ!? なんで名前忘れてんの! 馬鹿じゃない!」

 

 二人に一方的になじられる。ベターな選択の筈が由比ヶ浜が大声で俺が覚えてないことをばらしたためにさいちゃんとやらにまで伝わってしまう。

 

 というか九音の言葉の意味がわからない。二人の非常識を問い詰める言葉、さいちゃんの少しだけ潤んだ瞳に俺は言葉を搾り出す。

 

「ばっか、お前。お前、ばか! 覚えてるっつーの! 記憶の引き出し方忘れただけで超覚えてるから! そもそも女子は体育の場所ちげーだろ!」

 

 明らかな罠選択肢に引っかかったらしい。ベターに思えた選択はどうやら大間違い。こちらの気遣いを完全に無視した由比ヶ浜の暴露により、俺が名前を知らないことが伝わってしまった。

 

 筋違いとはわかりつつも由比ヶ浜のせいだと思わずにはいられない。どうするべきかとさいちゃんとやらの表情を伺うと――瞳をうるうるっと、うるっとさせていた。

 

 この目はやばい。もう妖怪でいうところの赤殿中や座敷わらしを泣かすような気分。罪悪感で胸が痛い。

 

 可愛らしさとかいじましさが交じり合って、今にも決壊しそうな涙腺を必死に堪えて笑うさいちゃん。そのさいちゃんがおずおずと言葉を搾り出す。

 

「あ、あはは、ご、ごめんね。やっぱりぼくの名前覚えてないよね……同じクラスの戸塚彩加です」

 

「こ、こっちこそすまん。クラス替えしてから時間も経ってねぇし。人の名前を覚えるのあまり得意じゃねぇんだ」

 

 言い訳にならないような言い訳を重ねる。それでもないよりマシだろと思って口に出した言葉は。

 

「あ……。え、えへへ。い、一年の時も同じクラスだったんだよ……えへへ、ぼくって影が薄いから」

 

 ダブルで墓穴。ダブルボケ……そもそも墓穴しか掘ってない気がする。

 

「やー、そんなことねぇから! あれだ! ほら、俺ってそもそもクラスの連中と関わり薄いし、そもそもあんまりクラスメートの名前も覚えてねぇし。隣に座るこいつだって今、名前何だったっけとか必死に思い出している最中」

 

「あ! そういえば今日、名前で呼ばれて無い気がする! 本気で忘れてる!?」

 

 流石にそれは冗談であるが。隣で「由比ヶ浜だから! 由比ヶ浜結衣!」と自己主張の激しい女の子。覚えろとばかりに頭をぺしぺしと叩いてくるが生憎と電化製品ではないので叩いたところで直ることはない。

 

 しかしそんなやり取りですら戸塚という女子生徒は羨ましそうに見てきた。

 

「……そっか、由比ヶ浜さんとは仲いいんだ」

 

「え? えぇぇぇっ!? な、仲良くなんてないよっ! ないない! ぜんっぜん! ほんと! もう殺意くらいしかないから! ヒッキー殺してあたしも死ぬとか! そんな感じ!」

 

『ちょっと! 人の属性奪わないで! ヤンデレとかやめて! そういうの私の専売特許なんだけど! やめろよ、そういうの、ほんとやめろよぉ……』

 

 場が混沌としてきた。由比ヶ浜は否定するあまりヤンデレみたいなことを言い出して、その台詞に女幽霊はショックを受けて、そんな光景を羨ましそうに見るテニスの少女。

 

「いやいや、心中とかやめてくれよ、愛が重いよ、お前……」

 

「ち、違うし! 馬鹿じゃない? 馬鹿じゃない!? そ、そういう意味で使ってないし!」

 

『わ、私はそういう意味だからね! 八幡くんを殺して私も死ぬみたいなことできるからね! むしろ八幡くんは私が殺す! くらいには想ってるからね! 褒めて!』

 

 褒めねぇよ。どこに褒める要素があったよ、今。ぎゃあぎゃあと騒がしい二人とは対照的に戸塚は小さく呟く。

 

「ほんと、仲いいね……」

 

 その呟きの後に一歩と近づく戸塚。

 

 九音が座る場所から一歩と、そしてもう一歩と近づく。眼前とも呼べるその距離、見上げれば吐息があたりそうなその距離で見つめられる視線は真剣で。

 

 ひゅるりと飛んでは隣に座る九音が腕にしがみつく。そんな幽霊に視線を反らさず、目の前の少女を見続ける。

 

 目が合う。儚げに笑う戸塚という少女。その笑みが何を意味しているのかわからない。けれどもどこか寂しそうに笑うその姿は何かを告白するかのような前触れで。

 

 ドキドキと高鳴る胸。姿勢を正して戸塚の言葉を待つ。

 

『男だよ、そいつ』

 

 不意打ち気味の言葉。完全に心臓が一度止まった。

 

「ぼく、男の子なんだけどなぁ……そんなに弱そうに見えるかかなぁ」

 

 三つ目の墓穴が完成していた。

 

 彫りすぎた墓穴に止まった心臓と、止まり続ける戸塚の視線。間抜けな声が一瞬飛び出した俺は出来の悪いブリキのように由比ヶ浜の方向へ。こくりと小さく縦に頷く。

 

 そして再び油の指していないブリキは首を動かして先んじて正体を口にした幽霊の方向を見る。完全に呆れた目をしては頷く。

 

 最後の力を振り絞り正面の戸塚彩加を見る。はにかむ、可愛い。

 

 はにかんだ後に戸塚は視線を逸らしてもじもじと此方を伺うかのような上目遣い。可愛い、うっそだろ、ありえねぇ、またまた、御冗談でしょ? という俺の視線を受けた戸塚はとうとうとばかりにコチラへ解決方法を提示した。

 

 綺麗な指先がハーフパンツにゆっくりと伸びて、熱心に見つめた指先はぎゅっと小さく裾を握る。あまりの艶めかしさにゴクリと唾を飲み込んでしまう。

 

「証拠……」

 

 戸塚が小さく呟く。そして吐息があたる程の近くで可愛い戸塚が勇気を振り絞るかのように呟く、

 

「証拠、見せてもいいよ……?」

 

 心臓が早鳴る。まるで止まった分を取り戻すかのようにドクドクと血液の循環が加速する。

 

 突如として心の中に産まれたデビル八幡が囁く。

 

 いいじゃねぇかよ、見せてもらえよ。もしかしたらラッキーなことが起きるかもしれねぇぜ? と甘美な提案。

 

 しかしながら俺の中に残った僅かな良心がエンジェル八幡を産み出してはその甘言に待ったをかけた。お待ちなさい。どうせなら上も脱いでもらうのはどうでしょう? と。完全に悪魔と同一個体であった。良心残ってねぇのかよ。

 

 エンジェルの皮を被った悪魔であった。そもそもが同一人物から派生する善悪である。同一の意見どころか善も悪も一緒くたであったところで何もおかしいところはない。俺の中の良心は完全に死んでいて。悪魔も天使も悪いやつばっか、悲しいことに俺に良心は残ってないらしい……。

 

 まぁ、しかしながら。まぁね? ほら、本人が証拠を見せてもいいと言ってるわけだし? 本人から言い出しているわけだから――。

 

『殺すぞ』

 

 一気に冷えた。天使も悪魔も一斉にかき消されるような底冷えした声が隣から聞こえてきた。おそるおそると視線を動かしては見えた幽霊の顔は実にイイ笑顔。目が完全に笑ってない。

 

 俺はいやいや何でもねーから、大丈夫だから、何も問題ないから。こういう性別不詳の子は性別が不詳のままの方が人気でるし、そのままの方が良いまであると冷静かつ的確でスマートな結論を出すところだったからと心の中で弁明。

 

 その言い訳が通じたのか幽霊はそのまま首をコテンと横に倒して、笑顔のまま。

 

『ころすぞ』

 

 即座に戸塚に向かって手のひらを広げて待ったをかける。

 

「いや、悪かった。知らなかったとはいえ、やな思いさせちまったな。配慮が足りなかった。ほんとすまん」

 

 俺の言葉に戸塚は首を横に振り、慈愛のこもった微笑で。

 

「ううん、別にいいよ」

 

 ニコっと笑っては許してくれる。しかしながら隣に座る悪霊は未だに不機嫌で、唇を尖らせては不満と言った表情。

 

 この不味い流れを断ち切るために話題を変えることにした。

 

「そ、それにしても戸塚はよく俺の名前を覚えてたな」

 

「う、うん、比企谷くん、目立つもん」

 

 その一言で全てを察した。そりゃあ去年も一緒のクラスであったのだ、数々の寄行を思い出してみれば知られていて当然。むしろヤバイ奴認定されてても仕方なし。そんな俺に笑顔向けてくる戸塚はもしかして天使か何かなのか?

 

 そんな天使の言葉に隣に座る由比ヶ浜も「あー確かに」とばかりに納得していた。そして先ほどまで不機嫌そうな幽霊は吹けもしない口笛で明後日の方向を向いている。絶妙に吹けてない口笛の音が腹立たしい。

 

「ヒッキーってば変な行動多いもんね。この前の、えっと、えくすぺんまわし、だっけ? それもめっちゃ凄かったけど、どうして教室でやり始めたの? って思ったし、ねぇ、あれってもしかして――」

 

「ばっか、変じゃねぇっつーの! むしろ目立つ事が無いから中学の時は比企谷……誰? とか隣の席のやつに言われたことあるし」

 

「悲しい話だ!? あ、や、なんかごめんね……」

 

 それきり由比ヶ浜は目を逸らしていた。そんな重々しい空気をパンッと拍手一つで戸塚がフォロー。

 

「そ、それよりさ、比企谷くん。テニス上手いよね? もしかして経験者?」

 

「や、小学校の頃に配管工のテニスゲームをやってたくらいだ。リアルではやったことない」

 

「あー、あれね! みんなでやるやつ。あたしもやったことあるよ、ダブルスとか超楽しいよね!」

 

「いや、俺、コンピューターとしか対戦したことねぇからわかんねぇわ」

 

「……なんかごめん」

 

「お前、心の地雷見つけるの上手すぎでしょ? 見つけては確認のために一度踏んでみるみたいな男探知しないでくんない? 男前すぎるでしょ」

 

「ヒッキーが爆弾抱えすぎなんでしょ! あと女だから、あたし!」

 

 知ってるつーの、例えだよ、例え。

 

 そう返そうと口を開き返るが、その言葉は鐘の音により引っ込む。昼休みの終了をつげるチャイムが校内に響き渡っては全員で目を見合わせ。

 

「もどろっか」

 

 戸塚の合図により由比ヶ浜も立ち上がる。俺はその二人が歩いていく姿を見て少しだけ不思議な感覚に陥った。

 

 普段、あまり人ごみの中に居なかった俺である。だから、二人の生きている人間が傍から離れていくという感覚に違和感を覚えてしまったのだ。けれどもそれは普通の人間なら特別なことではないのだろう。由比ヶ浜や戸塚にとっては珍しいことではないのだろう。こんなことに珍しさを覚えている俺の方がおかしいのだ。

 

 ましてや、振り返っては此方を見る視線に覚えがなくても当然で。

 

「ヒッキー、何してんの? 戻ろうよ」

 

 あっけらかんと言われたその言葉に『俺も一緒に行っていいのか?』なんて愚問を口にしそうになる。そんなことを聞いてしまいそうになるくらいに珍しかったのだ、この光景が。

 

 けれどもそんな台詞はあまりにも無粋で、幼くて、恥ずかしくて、みっともなくて。俺の対人スキルの底を見せるかのようでついついと口に出たのは別のこと。

 

「お前、ジュースのパシりはいいのかよ?」

 

「……はぁ? なんの――あっ!?」

 

 由比ヶ浜は今思い出したとばかりの表情に呆れて笑い二人に並ぶ。

 

 そして、俺は憑いてこない女の子へ振り向く。いつもならば自然と回される腕に溜息を吐いているが、今日は違った。

 

 足山九音は座ったまま、段差に腰を下ろしたままじっと見ていた。

 

 俺ではなく――由比ヶ浜結衣を。

 

 そのあまりにも冷たく関心が無いかのような瞳は。焦げるほどに怨嗟の篭った瞳は。ない交ぜになった二つの瞳が由比ヶ浜を打ち貫いていた

 

『そりゃあ、因縁だよね』

 

 要領を得ない呟き。俺にだけしか聞こえない声。そして溜息、まるで厄介事に気づいたかのような。

 

『オマケじゃなくてそっちが本命だなんて気がつくわけがないじゃん。こんなのユルセナイ、ユルセナイ、許せない――けど、けれど、そのおかげで……』

 

 そこまで言葉を紡いで、必死に呑み込む。

 

 俺が見ていることに気がついた九音は間抜けにも驚き、そして眼を逸らして。

 

『何でもないから、何でも』

 

 そうやってようやく再起動。ひゅるひゅると飛んではしがみついて来る。けれども回されている腕は、いつもよりも食い込んでいて。いつもと違う、感覚に違和感。

 

 まるで必死にしがみつくような、そんな風に見えた。

 

 もちろん、俺の気のせいかもしれない。それでも何かを必死に堪える横顔が何を思っているのか。

 

 俺は足山九音についてまだ何も知らない。

 

「どーしたの?」

 

 立ち止まっていた俺を由比ヶ浜が尋ねてくる。軽く返事をして歩き出す。

 

 足山九音に何が見えたのか、何を思っているのか。遠回りに拒絶されては踏み込めなどできやしない。

 

 ましてや雪ノ下の問題を何一つとして解決してないにも関わらず、夢の中で食い殺されたにも関わらず――あの夢が果たして本当に唯の夢として終わらせていいのかもわからず。

 

 それでいて実は何一つとして解決していないという可能性すら頭によぎるのに、俺は何も出来ないことを言い訳にしていた。




※次の投稿は五月六日になります


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暮春【相談】

 数日の時を経て再びおとずれた体育の時間。当たり前のようにテニスコートの隅に移動しては霊の監修の下、壁にボールを叩き込む準備を。

 

 一人遊びには随分と慣れたもので今や一歩も動かずにボールを返すだけの機械と慣れる実力を身に着けた。それもこれも全てはこの壁さんとのおつき合いとの賜物である。

 

 しかしながら悲しいかな、そんな彼女(壁)との付き合いも今日までで。

 

 もしも壁に関する御話で有名なものを一つ出すなら頭に浮かぶのは塗り壁。一部の地域発症の妖怪ではあるものの知名度は全国レベル。とある漫画やアニメを切っ掛けに瞬く間にその名を広めたシンデレラガール。

 

 灰色の壁をもしたその妖怪はあくまで創作上の出で立ちで。一節によれば正体は狸の陰嚢を目いっぱいに広げて視界を隠すといったものらしい。全然、壁じゃねぇ。

 

 見えない壁として語り継がれることもあれば視界を隠されることにより壁が現れたという目隠し説も存在する。そして祖形となったという仮説は家の壁に耳や口があったとのこと。

 

 つまるところその姿形など話それぞれで、人には問題や悩みの壁が立ちふさがるように、人によってその形を変える妖怪。人によって態度を変えなければ現代においては当然のように身近でシンパシーを覚える妖怪なのだろう。

 

 無論、妖怪でも何でもない唯のテニスコート横の壁を慈しみを持って撫でる。今日でお別れか……。明日から始まるであろう試合形式の授業が俺たちを引き割く。後ろ髪引かれる思い、愛着すら湧いている壁ちゃんとの別れが辛い。

 

『……ねぇ、その茶番さっさと終わらせて壁打ちしたら?』

 

 情緒も無ければ、粋も無い女だった。

 

 呆れたかのようにベンチの上で例の如く足をぷらぷらさせる九音。無粋な女だと呆れる視線を送るが、向こうは馬鹿を見る目でこちらを見ている。解せぬ。

 

 しかし、その視線は次の瞬間に表情ごと変わる。

 

『……うげぇ』

 

 まるで嫌なものでも見たとばかりの表情。それはあたかも由比ヶ浜や雪ノ下を見かけた時と同じような。ちなみに材木座クラスになると黙って舌打ちの後に地面に唾を吐く。態度悪すぎない?

 

 何を見たのやらと不思議に思っていると――ちょんちょんと右肩を叩かれた。誰だよ、俺と壁ちゃんとの最後の青春を邪魔する奴は、と振り返ればぷにりと指が頬に刺さった。

 

「あはっ、ひっかかった」

 

 振り返った先には悪戯成功とばかりに笑顔を浮かべる戸塚彩加の姿。

 

 え、うそ、可愛すぎでしょ、これ……何、この気持ち。心臓が早鐘を打ち、まるで怪奇現象にあったときのよう。この可愛さはある意味では摩訶不思議であるので間違いではない。悪魔的可愛い……。

 

 そもそもが悪魔と天使は表裏一体、むしろ同一個体。性別すら超越する摩訶不思議代表格の一角である。そう考えると悪魔的に可愛い戸塚は天使だった……?

 

 それに天使って性別ねぇんだよな。

 

『男だよ』

 

 いつの間にか背後にしがみつくように回っていた九音が苛立ち混じりに呟いてくる。ははは、何を馬鹿な――そうだった、戸塚は男である。

 

 何を馬鹿なと自分でも思うが戸塚彩加は男であるらしい。でも確認してないから百パー男であるとは言いきれ無くない? ふぅ、危ない危ない。危うく告白するところだったぜ、次の機会にしておこう。

 

『……男だって。いい加減にしてね?』

 

 声が余りにも低いトーンだったので心拍数が一度ゼロになる。

 

「ど、どした?」

 

 動揺を顔に出さないようにポーカーフェイスで挑むもののあまりの恐怖に止まった心臓のせいでどもってしまう。背中から感じる圧力に決して屈さないように必死に平静を装う。

 

 そんな俺を見ながらもじもじとしながら、戸塚は勇気を振り絞るかのように深呼吸をしている。もしかしてこれは――こくは。

 

『……イッペンシンデミル?』

 

 ヒュッ――と恐怖に喉がなって反射的に背筋が伸びる、怖い。

 

「あ、あの、今日さ、いつもぼくと組んでいるペアの子がお休みなんだぁ。だ、だからさ、その、その……よかったら、ぼくと、シてくれない?」

 

『主語をはっきりさせろよ! この雌犬三号!』

 

 上目遣いで見てきた戸塚に対して怒髪天を着くかのように荒ぶる九音。

 

 いやいや雌じゃねぇだろ、と脳内で突っ込みをいれるがうるうるとした瞳に染まった頬を見ると自信が無くなってきた……。

 

「あぁ、いいよ。俺も一人だしな」

 

 あっさりと了承すればその瞬間、ぱぁっと笑顔になるんだから超可愛い。

 

 しかしそんな俺に対して待ったをかける奴が一人。正確な単位は不明であるが。

 

『か、壁ちゃんとはどうするんだよ! 今日で最後でしょ! こんな可哀想な話あるもんか! 寝取られだよ、寝取られ! N・T・R! 壁ちゃんを裏切ってそいつとテニスをするっていうのかい!』

 

 壁を指差して主張するアホ。なんだよ、壁ちゃんって頭わいてんのか、こいつ……。

 

 さっさと行こうと戸塚の方へ向き直ると、戸塚は小さく「緊張したぁ」と呟いていた。その言葉が伝染するかのように此方へ緊張が遷る。可愛すぎてこっちが緊張するっての。

 

 二人してコートへ向かう最中に追い憑いてきた幽霊が恨みがましくぶつぶつと呟く。

 

『最低下種野郎……寝取られたぁ、八幡くんが寝取られたぁ』

 

 ぶつぶつと他人事にいつまでも首を突っ込み文句を呟く九音。そんな彼奴に対して小さく呟く。いるいる、こういう女子居るわ。人の恋路に突っ込んであたかも当事者面するやつ。俺と壁の関係でしょ? お前に関係ないじゃん、終わったことに口挟まないでくんない? もう壁とは何もねーんだから、と。

 

『……ちょっと、八幡くんのその最低クズ鬼畜男ムーブ好きかも』

 

 なんだ、その情緒……。若干ドン引きしつつ、前を歩く戸塚へついていく。

 

『でも壁ちゃんを見捨ててファンタジー生物と懇ろはよくないと思う!』

 

 唐突にファンタジー生物とか言い始めた女幽霊。何の事だよ、と視線で尋ねて見ると、その幽霊は人差し指で前を歩く戸塚を指差す。

 

『あんなのファンタジー生物じゃん。ねー、八幡くん。君があいつを女子と勘違いしたのもそうだけど、アレ、男に見えるの?』

 

 アレと指が示す先はもちろんの如く、戸塚彩加の姿。

 

 確かに男子か女子かと問われれば絶妙に言葉を濁してしまう。男子の学生服を着ていればこそ。今、男子の体育に混じっていればこそはっきりと男子だと断言できるが――断言できるか?

 

 いかんいかん。男と判ってても見れば見るほど男なのか判らなくなる。アンクルソックスから伸びる綺麗な足、白くきめ細やかな肌、華奢な体躯、小動物を彷彿させる程に可愛らしい顔立ち。

 

『あぁやって男子に混じっていれば男にみえるのかもね、でもそれは状況による判断であってあのファンタジー生物単体の判断じゃないんだよ。現に八幡くんがジャージ姿なら女子と見間違うくらいには女々しい存在。意気地がない方じゃなく、肉体的に女みたいって意味』

 

 コートにたどり着き、二手に判れる。向こう側の戸塚がラケットをブンブンと振りながら「いっくよぉ!」と合図をしてきた。

 

 打たれたボールは想像よりも鋭く、しかしながら返しやすい位置に。それを俺は打ち返す。

 

『男が男を見間違えるなんて一般的とか普通だとか言い難いよね。もしも「そういうこともある」なんて賢しいフリして思考停止する人間が居るのなら私はこう言うね。冗談でしょ、ソレ。お前、頭蛆沸いてんのってね』

 

 九音は小馬鹿にするように呟く。そして――。

 

『思考停止の愚か者。こんなの本人がそう見られたいからに決まってんじゃん。それが意識的なのか、無意識的なのかはわかんないけど。もしかしたら本当に男色の気が――』

 

 やめとけ、と小さく呟く。こんな呟きは九音の耳にしか届かない。他のやつらは俺のことどころか俺たちのコートにすら注目していない。唯一の視線である戸塚にも遠すぎて届くわけがない。

 

 だから、これは九音への静止。幽霊への待ったなのだ。

 

『……ふーんだ! じゃあ鼻の下伸ばさないでよね! ともかく、あいつはそっちの気があるかないか、シュレディンガーの猫ののように確認しないならファンタジー生物でしょ』

 

 ……追求するつもりがないなら。というかそもそも九音が戸塚をどう呼ぼうとも俺に止めるすべは無い。そもそもが確認するつもりもないし、今回の話を掘り下げるつもりもない。

 

 それはまるで打ち合うテニスコートのベースラインのように。そこを超えてしまえばアウトなのだからお互いにはみ出さないように丁寧に打ち合う。

 

 弁えずに領分を超えてしまえば痛い目を見るのは嫌というほど体験してきた。それはこの一年だけじゃなくてずっと前から。

 

 だからしっかりと正確に、丁重に。

 

 ストロークの練習のように。お互いのことを踏み入らない。それは戸塚だけではなく、きっと由比ヶ浜のことも、雪ノ下のことも。

 

 途切れることなく続ける。他のコートを盗み見れば打ちミスに受けミスが目立つ。しかしながら俺も戸塚もどちらもミスをすることなく打ち続ける。

 

「やっぱりー、比企谷くんはー、上手だねーっ」

 

 距離があるために大きめに出された声は間延びしていた。深く沈む思考が一時中断される。分かりやすく投げられた話題に同じように間延びしながらも答える。

 

「壁打ってったからな、もはやテニスは究めた」

 

「それはスカッシュでー、テニスじゃないよぉー」

 

 楽しそうにボールを返す戸塚とは対象的にいつの間にかコート横のベンチでつまらなさそうに足をぷらぷらさせる九音。けれど次の瞬間、頭に鉢巻を巻いて千葉にある球団のユニフォームを来ていた。そして手には八幡の刺繍がされたタオルが。

 

 恥ずかしいからやめてくんない、それ。見てて死ねるわ。あと競技違うじゃねぇか。

 

『打て、打って八幡くん! 決めて! ホームラン! そんでそのファンタジー生物にボールを探しに行かせて! 二人っきりになろっ!』

 

 決めねぇし、やらねぇよ。

 

 というかその状況で戸塚にだけボール探させるなんて鬼か、俺は……。アホを見てはげんなりとやる気を奪われる。

 

 とはいえ、お互いにずっと打ち合い続けていたのでいい汗をかきはじめる。周りを見れば既に打ち合っている組は殆どなく、何人かはポケーっとこちらを眺めている。

 

「少し、休憩しよっか」

 

 何回目のラリーか覚えておらず、それほどまでに長く続いたラリーは戸塚の一言により中断される。片手をあげて返事をし、九音の座っているベンチへ。隣へ腰を下ろせば、睨んでくる。何だよ……。

 

 そんな視線を投げると幽霊はがばっと俺のひざに泣きわめくかのように顔を伏せた。

 

『酷い! こんなの酷すぎる! 寝取られ……寝取られだよ!』

 

 まだ、言ってんのかこいつ、いい加減しつこいと思いつつも――そこに影が落ちる。どうやら戸塚もこちらへやってきたようだ。九音の座っている場所へ腰を下ろそうと――ひゅるりと華麗に避けて逆サイドに座っては俺越しに戸塚を睨む。

 

『……近くない? ねね、近くなーい? 近すぎるでしょ!』

 

 九音の言う通り、戸塚が腰を下ろしていた場所は先程幽霊が座っていた場所。肩が当たるほどの距離に鼓動が早くなる。

 

 えっ、なんかめっちゃいい匂いするんだけど……こういうとき材木座だったらすげぇ酸っぱいんだが。

 

 男臭さとは無縁の甘ったるい匂いにトゥンクと胸が高鳴る。

 

「あ、あのね……比企谷くんにそ、その相談があるんだけれど」

 

 距離の近さに納得する。悩み事、相談事というものは大声でするものではなく小声でひそひそとするもの。大体陰口とか悪口とかも同じ。

 

 でもおかしいな、中学時代のひそひそ話ってたしかにひそひそしているが大体俺の耳にまで届いているんだけど。そしてまるで聞かせるかのように共有された話題は俺の話題。俺は中学時代から大人だったのでその話題に気づかないフリして、家に帰ってから泣いた。

 

 そう考えると戸塚の誰の耳に入らないようにひそひそと話す配慮はさすがと言える。その心根が判るというもの。そういう意味じゃこれだけ近くても仕方ない。なんとも合理的判断。そう何も間違っちゃいない。

 

『はぁーっ!? 相談事なら他所でやれよ! 八幡くんに解決できるわけないでしょ! 八幡くん舐めないでよね! 伊達に総武高校二年生の中でトップクラスにヤバイ奴って呼ばれてないんだから! うちの八幡くんに余計な相談事持ちかけないで! 後、八幡くんも鼻を伸ばさない!』

 

 伸びてないんですけど。それに鼻が伸びるなんて俺は嘘付き人形かよ。あいにくのようにピノッキオのように鼻も伸びていなければ、天狗のように鼻を高々としていない。

 

 ふすふすと鼻の穴は開いているかもだけど、それは運動後だから。呼吸が整っていないだけだから。

 

 めっちゃいい匂いするんだけど、戸塚。

 

『めっちゃ伸びてるんですけど! 人中ゆるゆるだよ! バカっ! 変態っ! 八幡っ!』

 

 ちょっと九音さん、俺の名前を悪口に交えるのやめてくださらない? 

 

 とはいえ少しだけ人中を触ってみる。全然緩くない。鼻の下のくぼみには少し汗が溜まっている程度。赤ちゃんが胎児の時に裂けた口がくっついた名残がゆるゆるだとはどういう状態なのか。

 

 少なくとも俺の今の顔は至極真面目に戸塚の相談に乗る凛々しい表情をしているはず。

 

 そういえば人中は赤ちゃんが前世のことをしゃべってはいけないと理由で天使に閉じられたという映画のワンシーンがあったことを思い出す。そして相談事、秘密の話を持ちかけてきた戸塚、仮に人中がゆるゆるだったとしてそれを閉じる戸塚は天使ではないだろうか。なるほど道理で可愛いわけ。そうだよな、仕方ないよな、天使だもんな。

 

「相談? まぁ、とりあえず話してくれよ」

 

 まぁ、何にせよ話を聞くとしよう。けれどもそれが気に食わないらしい幽霊がギャイのギャイのと噛み付いてくる。

 

『はぁーっ!? 何言ってるの! 相談事や厄介ごとなんて聞く必要ないよ! 無いったら無い! 私が気に食わない!』

 

 戸塚の話に耳を貸すなと騒ぐ幽霊。戸塚に聞こえないように小声ではいはいとテキトーにあしらう。 肩越しにガルルルと天使に向かって威嚇する悪霊。無礼だぞ、お前。

 

「う、うん! ありがと……えへへ、比企谷くん、優しいね」

 

 ――ハァッ!? 危うく改宗するところだったわ。こんなの見たら悪霊なら浄化されるでしょってばかりにキラキラとした笑顔。ちなみに悪霊は『何笑ってんだ、笑えなくしてやろうか? あぁん?』とガンつけていた。

 

「あ、あのね。うちの部活、テニス部のことなんだけど。すっごく弱いんだ。それで人数も少なくて……それに今度の大会で先輩たちが抜けちゃったらもっと弱くなっちゃうと思う。それに一年の子も高校から始めたばかりだからまだあまり慣れてなくて……それに、それにね? ぼくたちが弱いからそれでモチベーションも上がらないみたいなんだ。このままだと殆ど何もしなくても勝手にレギュラーになれちゃうし」

 

「……なるほどなぁ」

 

 テニス部が弱くなる原因、それが渦巻くような負の連鎖。弱いから人が集まらない、人が集まらないから競わない、競わないから弱いまま。完全にマイナスの循環。

 

 休もうがサボろうが自然にレギュラーになれるのだ。わざわざキツイ練習をしてまで這い上がろうとするものはいないだろう。技を磨かず、競わない。根本から競技を否定するスタイル。

 

 競技じゃないから、競わないから勝ち負けにこだわらず、強弱にこだわらない。競技ならぬお遊戯。お遊びでしかない、ごっこ遊びでしか。

 

 本気で部活に取り組んでいる奴らからしてみれば一喝することすら嫌厭される存在。そしてそういう奴らこそ競技やガチ勢に対して部活ごときでマジになってどうすんのとバカにするのだろう。

 

 青春の汗を否定して、半笑いで薄ら寒さを感じて。報われない努力を徒労と断罪して、輝く汗に微塵とも価値を感じない。

 

 だが残念なことに――

 

『は? 別にいいじゃん、何悩んでんの、こいつ? 頭悪いの?』

 

 足山九音は肯定する。こいつにとっては他人事。だからスポーツの協調性やチームの連帯感に唾を吐きつける。流石に俺はここまで酷くはないが本質は似たようなもん。

 

『はぁ、くだらないよねぇ。というかみんなが居ないと頑張れないとかチームプレイじゃあるまいし、テニスって個人競技じゃん。とうか他人が弱いだとか、他人が下手だとか言う前に自分をどうにかしろって話。そもそも八幡くんと同じレベルくらいってこの一年間、何してたの? って御話なんだよね。自分だって一年の頃は遊んでいたんじゃない? それが二年の今頃になって急に先輩面? うーん、クソじゃん! やりたいなら一人でやりなよ』

 

 すらすらとまぁ、よくもここまで悪し様に言えるよな。

 

「うん、ここで相談なんだけどさ……」

 

 どうやら本題はここかららしい。俺は小さく頷いて続きを待つ。

 

「うん、あの、あのね? 比企谷くんが良かったらなんだけど……その、さ。テニス部に入らない?」

 

「は?」

 

 即レスで疑問符が口から飛び出た。なぜそうなるとばかりに戸塚を見てしまう。そして後ろの幽霊は。

 

『はぁー? 何言ってんの、お前――あ、いや、待てよ。八幡くんのテニスウェア? ははは、は、は、八幡くんのテニスウェア!? みたいみたい! 超見たい! はぁー! めっちゃいいアイディア! 天才なの!? こいつ良いやつじゃん!』

 

 アホみたいな手のひら返し。

 

『弱小テニス部を救う八幡くん! 支える私……。うんうん、ありあり! わかるわかる、いいよね……いい……! ちょっくらテニス部に革命起こそう!』

 

 先程までの一人でやれという発言を撤回して調子のいいことを言い始める幽霊。

 

「ひ、比企谷くん、テニス上手だし! 体力すごいし! そ、それに制服じゃあまりわからないけど筋肉すごいし! 多分、もっともっと上手になれると思うんだ、ぼく!」

 

 鼻息荒くキラキラとした視線。そんな戸塚に対して背後の幽霊が。

 

『ふふん、でしょでしょ。よくわかっているよね、このファンタジー生物。八幡くんの筋肉は私が育てたからね!』

 

 左右の高いテンションに挟まれてはついていけずに疎外感。

 

 俺の鼻は伸びていなかったが背後の幽霊の鼻はこれでもかと伸びていた。それはもう高々と、見せつけるかのように。得意満面にニッコニコと。

 

「あ、あとさ、その比企谷くんと一所なら……その、ぼ、ぼくも頑張れるし」

 

『あ?』

 

 唐突に飛び出すどす黒い声。今まで調子にノッていた声は形を潜め、女性が出すには少しヤバイ類の声になっていた。

 

「ぼ、ぼくも比企谷くんと一緒にがんばりたいし……あっ!? へ、へん、変な意味じゃないよ!? ぼくも、テニス、上手になりたいから」

 

『よぅし! ダメだ! 八幡くん、これは罠だよ! テニスウェアは個人的に着て!』

 

 やだよ。というか何の罠だ……。さっきから肯定したり否定したりと忙しい幽霊だな。

 

 まぁ、しかしこのアホのおかげで戸塚のお願いならうんと頷きそうになるような提案も断ることができる。

 

 どんなにいじましくても、可愛くても。聞けない話ってのは多々とある。

 

「悪い、それは無理だ」

 

 きっぱりと断りを入れる。期待をもたせるようなことをせずに、曖昧に言葉を濁すようなこともせずに、なぁなぁとお互いが傷つかないような言葉を選ばずに。

 

 簡単でこれほど判りやすいものはないとばかりに拒否を示す。

 

 俺は自分の性格を知っている。毎日、命の危険があるわけでもないのに身体を鍛える意味なんてわからない。毎日好んで運動するのは公民館に集まってラジオ体操や太極拳をする老人会くらいなもんって偏見すらある。絶対にそのうち退部する。初めてやったバイトですら幽霊騒動により三日でバックレたくらいだ

 

 そんな俺が部活動に入ったところで戸塚の期待に添えるわけもなく。喜ばせてがっかりさせるくらいなら初めから期待されるようなことをしない。

 

「……そっかぁ」

 

 戸塚は本当に残念そうな声を出す。その震えた声や寂しそうに笑う姿に俺は言葉をかける。

 

「まぁ、その、なんだ……良案でもねぇか頭を捻ってみるよ」

 

 案は出せど何か出来るなんて思えないが。

 

「比企谷くん……優しいね。ありがとう、相談して少しは気が楽になったよ」

 

 はにかむ姿のその言葉を真に受けるつもりはない。社交辞令なんだろう、額面通りというわけではあるまい。

 

 だからといって疑うようなこともしない。どこまでも他人事で、他人の問題なのだ。それは足山九音だけではなく、きっと俺にとっても同じ。

 

 

 

~~~~~~~

 

 

「駄目、無理、許さない」

 

 雪ノ下の言葉はただひたすらに否定の単語であった。もしもこれが告白をした返事ならば心が折れて布団に潜りこみ、声を殺してさめざめと泣くレベル。無論、愛の告白をしたわけではないが。

 

 憮然と言い放つ雪ノ下に呆れながらも言い返す。

 

「いや、駄目とか無理とか少しは考えてさぁ」

 

「駄目なものは駄目で、無理なものは無理で、許せないものは許さないわ」 

 

 怒気すらも込めて話を突っぱねる。今回の話のことの発端は俺が受けた戸塚の件について。内容こそ言ってないが、テニス部の現状と俺の状況への解決策を遠回りに伝えてみたのだが結果はこの有様。

 

 上手い具合に雪ノ下と距離を置くという身勝手な方策を軽く口にした。円満に奉仕部を退部して、一時的にテニス部へ入部。そしてテニス部からも徐々に影を消して、最終的にはフェードアウト。勿論、どちらにも退部届けを出す所存である。

 

 そうすることによって現在の雪ノ下の執着染みた感情から一時的に離れて、冷めるのを待つ。そしてテニス部に入部していながら顔だけ出して段々と練習にこなくなる不良部員、比企谷八幡という悪玉菌を一時的に摂取してテニス部内の環境を荒らし、善玉菌を増やそうと部員たちは奮起する。そうすることにより部内の環境改善を試みる。もちろん悪玉菌はその内、自然排出されてテニス部も立ち直るという寸法である。

 

 そんなことを軽く話して見れば――雪ノ下の目は完全に据わっていた。怖い。というか椅子ごと近づけて、めっちゃ近くで睨んでくる、怖い。

 

 雪ノ下雪乃。怪現象に纏わる話で色々と接点が出来た少女。怪人に襲われた少女、怪異から影響を受けつつあるかもしれない女、妖怪に好かれた女の子、そしてあろうことか先日、夢の中でとはいえ怪現象に纏わる存在を上回った才媛。その才は非現実だけではなく、現実世界での方がわかりやすい。校内でも有数の美少女であり、成績も優秀と来たもんだ。まるで物語の主人公のような女である。

 

 そんな少女が部長を務める部活に俺は所属している。

 

 奉仕部。字面だけで見れば何だか卑猥な想像が浮かび上がりそうなその部活動は生徒の悩みを手助けするといった活動内容。手助けって何を助けちゃうのだろう、どきどき、と軽い気持ちでこの部室の扉を開けばきっと後悔する。

 

 扉を開いてそんなアホなことを抜かせば部長から養豚場の豚を見るかのような無機質かつ冷たい視線で見られるだろう。その視線にドキドキしはじめても意味が異なる。もしも同じ意味でどきどきしていたのなら新たな性癖を開拓している可能性があるので早急に病院へ行ったほうがいい。

 

 そんな扱いづらい少女であるからして今現在困っているのだ。

 

 色々と現在進行形で問題を抱えている。それは一重に心身が崩れているだけなのか、それともそう――あの首に巻かれ続けている包帯に意味があるのか。

 

 であるのならば原因となった事件の二人が一緒の部屋に居るのは不味い気がする。今でこそまだ問題は起きていないが、いつ起きるかは定かではない。ならばどうするべきなのか、それこそ縁切り。俺がこの部活動から離れれば良い。

 

 ただし、怪異に纏わる出来事ならその切り方にも注意が必要になってくるだろう。

 

 生きている人間同士ですら円満な縁の切り方など出来ないのだ。それが怪異に纏わるお話ならば細心の注意を払うべき。生きている人間関係ですらまともに築けていないにも関わらず、怪異や怪事件相手にぶっつけ本番というのだから我がことながら肝が据わりすぎている。

 

『難易度高いよねぇ』

 

 九音は俺の座る席の近く、身体半分ずらした机の上で呟いた。確かに言葉通りに俺にはハードルが高すぎる。

 

 そもそも円満ってどういうことだよ、円満に解決しましたやら円満に別れ話が出来ましたなんて与太話を俺は欠片も信じちゃいない。そもそもが人間関係の構築が出来ない俺である。すると切るべき縁も存在しない。

 

 つまり、この問題に関してスマートに解決できる俺など俺ではない。対人関係においてはいつまでもニュービー以下、そもそもやる気の欠片も無い。ボッチとしてはスペシャリストであっても、他人との問題解決においては素人よりも尚悪い。一人ぼっちの俺は――と、そこで言葉を止める。

 

『ん? どうかしたの? 八幡くん』

 

 疑問符を浮かべる浮遊霊を見る。俺がボッチを名乗るにはあまりにも片手落ちなのだ。少なくともこの目の前の女幽霊が居る限り、胸を張って一人ぼっちなど言えやしない。仮に一人ぼっちだったとしても、一人きりではないのだから。

 

 視線で何でもないと答えてから結局、現状ではどうこうも出来ない問題に頭を悩ませるなど無意味だと結論づけては逃げ出す。逃げるのなら得意分野だ、言い訳だっていつもしている。それはさながら数学の問題のように。苦手なものを無理に得意になろうとしなくてもいい。世の中が辛いことだらけなのだから、世が俺に辛辣なら俺は俺くらいに甘やかしてもいい筈。

 

 だから、雪ノ下の問題もそのうち自然とどうにかなるだろう、と。いつもの通りに逃避する。

 

 それが逃避行動であり、問題から目を逸らし続けているだけとしっていながらも――。

 

「言っておくけど、比企谷くん。駄目なものは駄目で無理なものは絶対に無理でそんなことをしたら許さないってことを先に伝えておくわね。もしも勝手にテニス部に見学をしにと考えているのならその無駄な抵抗はやめなさい。酷い目見るわよ」

 

 黙りこんでいた俺を雪ノ下がさらに椅子ごと近づけては静止を促す。そんな鋭い睨みに目を逸らしつつも俺は諦め悪く言い訳を募る。通ると思わないがそれでと足掻くかのように。

 

「や、でも、ほらなんだ? 俺をいれようっていう戸塚の考えもあながち的外れには思えなくてな。要はテニス部の奴らに危機感を抱かせればいい。安全圏でぬくぬくだらだらとするよりもレギュラー争いという意識を持たせるだけで十分何か変わると思うんだよ」

 

「あなたが集団の中で行動できると思っているの? あなたみたいな生き物、私以外に受け入れてもらえる筈ないでしょう? おごがましい」

 

 ねぇ、こいつ俺のことほんとに好きなわけ? なんか呪いとか何とかも思い過ごしのように思えてきたわ。むしろ嫌ってるでしょ、これ。好かれていると勘違いしているという説の方がよっぽど真実味あるわ。

 

 とはいえ、その鋭き罵倒の中で要望は確りと抑えている。ぐうの音がでないほどに正論。確かに俺に集団行動なんて無理だ。生死がかかってないにも関わらず個人的な理由で身体を動かす意味がちょっと理解できないし、わからない。それでいながらもしも俺よりもちんたらのんびりしている奴がいれば怒りのあまりラケットで新しい技を生み出してしまう。働きたくない気持ちなら俺がナンバーワン。

 

 雪ノ下の正論により俺の希望は完全に潰された。勝ち誇るかのように笑っては椅子をさらに近づける。

 

「集団真理のわかってない人ね。ぼっちの達人よ、あなた。でも安心して。あなたは私が面倒を見てあげるから」

 

 密着するかのような距離、ズボンの上からふとももを撫でられる。ゾクリとする声色と色気に硬直してしまう。

 

『ハァーっ!? なんだ、この痴女! その手なんですかーっ! せんせーっ! ここに痴女がいます! さっさと警察呼んで! 捕まえてっ!』

 

 雪ノ下の手を指差してぎゃーすかと騒ぐ九音。おかげで硬直していた身は弛緩する。こいつのアホな態度みてると緊張感薄れるわ。

 

 勿論、九音の指摘など雪ノ下の耳には届かない。届かないから指はとまらないし、いつの間にか手を握られていて、指が絡み合っていた。

 

「もっとも? 貴方という共通の敵を得て意思が統一されることはあるかもしれないわ。けれどそれじゃあ解決方法にはならないの。あなたという共通の敵に対してまとまることはあっても、それが自身の向上を促すことはないわ。ソースは私」

 

『あー……。確かに八幡くんってば共通の敵にはぴったりだよね。確かにその部分ではすっごい団結しそう。あと太ももさすさすやめたからって手を握るな、指を絡めるな、お前、ほんと、ほんと……ッ! ふーっ、ふうーっ! ふぅ……落ち着け、落ち着くんだ足山九音、KOOLになれ……。そうこの一号が振られるのは予定調和、こうやって積み上げさせておけばいい、落差があればあるほど、フラレタ時のダメージがでかくなるんだし! そうっ! ここは我慢の時、ぐぎっ、ぐぎぎぎぎぎっ……』

 

 なんか企んでいそうな物言いに呆れる。いや、こっぴどく振るとか怖くてするつもりないんだが、むしろ自然と醒める方向で勧めたい。具体的にはこのまま奉仕部からフェードアウトするみたいな。なんか不気味なオーラを出す九音に引いてしまう。そんな俺の様子に気づかぬまま雪ノ下は話を続ける。

 

「私は中学の頃、こっちへ戻ってきたのだけど当然転入という形で学校へ入ったわ。すると私の転入先の学校の女子、クラス内だけではなく学校を通して私を排斥しようと動いた。けれど誰一人として私に負けぬように自身を向上、高める努力をした人はいなかった……あの低脳ども……」

 

 こっちも怖ぇわ。右も左も真っ黒なオーラを纏っていやがる。俺は宥めるかのように雪ノ下へ落ち着けとばかりに当時の中学生たちの状況を整理する。

 

「あー、その、なんだ? 仕方ねぇんじゃねーの? お前みたいな可愛い子が入ってきたら攻撃的になるのもしょうがないと思うんだが……」

 

 すると雪ノ下はぱちくりと目を二、三回瞬いてから顔を伏せる。そして絞り出すように。

 

「もう一度言って」

 

 小声でねだってきた。そんな反応に遅れて九音が睨みつけながら文句を呟く。

 

『馬鹿……。可愛いとか綺麗とかいつから君はジゴロを目指すような発言を身に付けたわけ? 聞いててムカつくんですけどー。別にそうやって積み上げるのはいいけど、痛いしっぺ返しが返らないように気をつけてね? 君はいつだって見てきてるんじゃないか、愛の反対は憎悪だって。恨むほどの怨念は、残るほどの想いは愛憎が原因であることをそろそろ学習しなよ。ほんと、馬鹿、ボケナス、八幡』

 

 痴話喧嘩、恋愛がらみ。そしてそこから派生する怨念。

 

 怪現象において生前の感情というのは無関係ではないことが多い。いいや、むしろ強い想いこそが、強ければ強いほどの執着が怪現象となる。

 

 直近で最も判りやすい話で言えば怪人の件。不特定多数の恋慕が想いを為した化物を俺は見た筈だ。

 

『八幡くん、君が本当にどうしようもなくなって、その雌犬に対して本当に困ったら、いつものように私に愛を叫んでよ。そうすれば私がいつでもその女を始末してあげるから』

 

 浮遊霊は悪霊の如く笑う。露悪的なフリをする雑魚幽霊。幽霊の中じゃあ雑魚中の雑魚。出世することもない大多数の稚魚のような存在のくせして大口を叩く。

 

 それでも――それでも怪異なのだ。悪霊なのだ。化物なのだ。

 

 化物相手に人間が大立ち回りをするなどフィクションの中でしか許されない。そもそもが化物が出てくるのが大抵はフィクションであるのだが。

 

 創作物の主人公は機転や都合よくピンチを切り抜けるのだろう。そうじゃない、俺は違う。そしてこの世界で生きるやつらも。

 

 化物相手に戦うと云う選択肢が既に間違っているのだ。勝てる、勝てないの二者択一で想像しているから致命的。人が化物にあったら即座に回れ右をして命からがらに逃げることこそが正解。

 

「比企谷くん……?」

 

 黙りこむ俺を不審に思ったのか雪ノ下が顔を覗き込むよう顔を傾げる。

 

「あ、あぁ、いや、少し色々と考えてて」

 

「……そう、もう一度言うか悩んでるの? 悩んでるのなら言うべきだと思うわ。むしろ言いなさい」

 

「いや、それは別に悩んでねぇわ」

 

「悩みなさい。つれない。本当に貴方って釣った魚には餌をあげないのね」

 

「そりゃあ俺も奉仕部の一員だからな。魚を釣る役は他の奴に任せるわ」

 

「そう。でも貴方自身も問題の依頼人ということを忘れてない? 私は貴方に釣り方を教える義務があるの。なので言いなさい」

 

 何が何でも言わせようとする雪ノ下。どうやら逃がすつもりはないらしい。せめてもの悪あがきに俺は話題を変えることにした。元々は戸塚の御話だったしな、そちらに焦点を持っていこう。

 

「あー、戸塚のために何とかできないかね?」

 

「戸塚くんとやらよりも今、貴方の口からもう一度言うか言わないかの方が重要だと思うのだけれど。ねぇ、もう一度言って、可愛いって」

 

 さらに距離をつめられる。もはや胸の感触がわかるかのように腕を取られて、俺の指先は雪ノ下の太ももの上に乗せられる。

 

『はっ!? なんか色々と考えてたらめちゃくちゃ距離近い!? いやいや、離れなよ! 流石にこれは不純だよ! 駄目ったら駄目! 八幡くんの意思とは関係なしにわたしが滅っ! って殺っちゃう!』

 

 可愛らしい言葉とは裏腹に随分とバイオレンスな内容である。しかしながら、これは――と気づく。これは良くない、不味い、問題のある傾向。

 

 それこそ、先日の蜘蛛の件から少しずつ悪い方向へ雪ノ下の行動は変化している。こうやって言葉を求めるのも今日が初めてではない。だからこそ熱病にも見える様子は雪ノ下の本心とは到底思えない。

 

 白――包帯の白。

 

 毎日清潔な真っ白な包帯はあれからある程度の時間が経っているにも関わらず外される様子は無い。

 

 これだけ難のある態度を俺がとっていれば減るはずなのだ、想いが、好意が。目減りするほどの態度を取っているにも関わらず雪ノ下にはそれがない。むしろエスカレートするかのように、進行するかのような言動は俺がよく知っている存在と似ている感覚がある。

 

 執着、依存、嗜癖、耽溺。

 

 好意的になれるはずもないのに一人溺れている。まさに破滅的。つっけんどんに接していて、面白い反応を見せることもなく、ただ義務感で奉仕部に通い、雪ノ下の求める答えを一つとして出していないのならば嫌われるべきだ――あぁ、だからこそ。

 

 蜘蛛の夢の出来事を思い出す。幼い言動を繰り返す雪ノ下を、あの時の言葉を、願望を。

 

 けれども俺にはその全てに答えることは出来ない。するつもりもない。そして救うつもりもない。救えないのだ。

 

 雪ノ下は自分でしか救われない、自分でしか助けられないのだ。俺は不要な存在、不必要なファクター。むしろ悪化させる菌なのだ。

 

 彼女の心の中にあるモノを、誰もが尊き代物だと、賛美すべきものだと、世の中がそれはまるで素晴らしいものだと説く存在に唾をかける。

 

 知っているのだ、それが人を殺す原因になると。それが人を恨む原因になると。それが自分を殺す理由になると。それが絶望に至らしめるということを。それが――偽者であることを。

 

 俺にはどうにもできない。だから――雪ノ下が除霊を試みる、本物の霊能力者を探して自らその呪いと決別する必要があるのだ。

 

『……殺してあげるのに』

 

 残念そうに呟く九音を無視しては再びテニス部の案件を問い直す。

 

「ほら、俺って相談されたの初めてだったから意外と嬉しくて戸塚のこと何とか協力してあげてーんだよ」

 

「……」

 

 雪ノ下の綺麗な瞳が俺を射抜く。まるで西洋人形のような綺麗な目と暫く見つめあう。根負けしたのか少しだけ椅子を引き雪ノ下は小さく溜息を吐いた。

 

「……はぁ。あなたは本当に天邪鬼よね。してってお願いしてもしてくれないのに、不意にそんなことを言う。偶には聞いてくれてもいいのに」

 

 少しだけ重くなった空気を軽くするような口ぶりで言葉を続ける。

 

「初めて相談を受けて舞い上がっているなんて可愛らしい側面も見れたことだし、それでよしとするわ。確かにあなたが相談事を受けることはそうそうないと思うから。ちなみに私はよく恋愛相談されるわ」

 

 いや、そうなのだが。そこで勝ち誇った顔をされても、と微妙な気持ちになる。

 

 胸を張る雪ノ下にそんな側面があったのかとこちらも驚いてしまう。完全に孤高というか、ボッチというか。そんな俺の驚きが伝わったのか雪ノ下はフッと小さく笑ってその表情が段々と翳りを帯びる。

 

「まぁ、女子の恋愛相談なんて基本的には牽制みたいなものなのだけれど」

 

「どういうこと?」

 

『八幡くん、わかんない? 私も生きてたらそういう相談受けるだろうし』

 

 いや、お前は絶対に相談されねぇわ。俺だってしないし。

 

『いや、してよ! そこは私にくらいは相談しなよ! そういうとこだぞ!』

 

 何故か相談事に自信満々の女である。お前、戸塚の相談事の第一声覚えてんのかよ……。

 

 けれども絶対に相談には向かない九音が雪ノ下の相談事に関しては理解があるという口ぶり、一体どういうことだ……?

 

「比企谷くん。自分の好きな人言えば周りが気を使ってくれるでしょう? つまりは領有権を主張するようなものよ。知っていて手を出せば周囲から泥棒猫扱い。無論、女の子の輪からも外されるし、なんなら向こうから告白してきても外されるのよ? 何故、あそこまでは私は言われなければならないのかしら」

 

「あぁー、なるほど」

 

 俺は九音の方向を見て頷いた。なるほど、わかりやすい。

 

『おい、なんでこっち見て頷いてるわけ!』

 

 いや、何でもない。とはいえ女子に対するイメージが壊されていく。大半は足山九音とかいう悪霊のせいで粉々にされているが。

 

 女子同士のガールズトークとか恋ばなとかもっと甘酸っぱいものと思っていたが違うようだ。こうパジャマパーティーとかで好きな人を言いあったり顔を真っ赤にしたりする奴だと思ってたのに。

 

 そんな青少年のいたいけな夢をぶち壊した雪ノ下は憂いを帯びた表情のまま自嘲するかのように笑う。

 

「要するに何でもかんでも聞いて力を貸してあげるということが正しいとは限らないということ。ほら昔から言うでしょう? 獅子は我が子を千尋の谷から落とす。そして殺す、と」

 

 いや殺しちゃ駄目だろ。それじゃただのニグレクトじゃねぇか。勿論、愛を持って厳しく躾るのもニグレクトなのだろうが、それじゃあ救いの無い唯の子殺し。

 

「なら、お前ならどうするんだ? 戸塚の相談に対しては」

 

「私?」

 

 問われた雪ノ下は少しばかり目をぱちぱちと瞬かせた後に思案顔となる。顎へ手をあてて考え出した答えは。

 

「全員に死ぬまで走らせて、死ぬまで素振りさせて、死ぬまで練習をさせる……ことかしら」

 

 かしらじゃねぇーよ。しかも首を傾げて可愛らしく言うんじゃねぇよ。美少女しか似合わない仕草で可愛らしさをアピールされたところで内容が内容な分ひくことしかできない。猟奇的すぎるでしょ。

 

 しかもこの答え――若干九音の奴とかぶってるし。

 

『ちょ、ちょっと待ってよ八幡くん!』

 

 俺の雪ノ下へひく視線、ちらっと九音を盗み見た視線に浮遊霊は文句があるらしい。

 

『まさかこの女の猟奇的な解決方法を私と一緒だなんて思ってやしないだろうね! 違うよ! 全然違うよ! 流石に殺さない! 足山九音は人を殺したりしないから! ちょっと弱音を吐けなくなるまで走らせて! ちょっと足腰立たなくなるまで素振りさせて! ちょっと死にたくなる程に厳しい練習と罵倒を科すだけだから! 殺しちゃいないよ! 死んだら私じゃなくて本人のせいだから! ワタシ、ワルク、ナイ!』

 

 一緒じゃねぇか。放課後の奉仕部に来る前に九音に尋ねた解決方法と完全にニアピン。雪ノ下と九音の違いは直接的な殺人か業務上過失故意に見せかけた殺人の違いでしかない。むしろ九音の方が殺す気さえ隠して堂々と嘘八百を並べれば刑罰が軽くなるというのだから世の中間違っている。

 

 俺がそんな悪逆非道な考えを持つ一人と一体に半ば本気でひいていればガラリとドアが勢いよく開かれる。

 

「やっはろぉー!」

 

 いつものように頭の悪そうな挨拶をして入ってきたのは由比ヶ浜であった。その顔には悩みなどなさそうとばかりにニコニコと笑みが浮かんでいて、底抜けの明るさがこの部屋の中の修羅と化した空気を中和する。

 

 底抜けの明るさと言えば聞こえは良いがオブラートを剥いだらアホっぽい、バカっぽい空気とも言える。

 

 そしてその背後には対照的にどこか暗い雰囲気を纏った人物が立っていた。勿論怪現象怪異妖怪怪人奇奇怪怪と云った存在ではない。ちゃんと生きている人物。それもどこか見覚えのあるような。

 

 負の雰囲気の出所は自信の無さから伏せられた目、どこか怯えるかのようにきょろきょろする仕草、自信なさげに掴んでいる由比ヶ浜のブレザーの裾。震える指先。透き通る白い肌が困惑に満ちた人物と非常にマッチしているように見えたのだ。

 

 儚い、そう儚い。人の夢とまで書くほどに幽かな存在感。どこかの騒々しい幽霊とは対照的な人物。そんな自己主張が限りなく少ない彼女はゆっくりと顔をあげる――。

 

「あ……比企谷くんっ!」

 

 目が合うと一気に血色が戻る。そして花開くような笑顔は見るだけで此方の胸をドキリと跳ねさせ、俺という存在が彼女に対して笑顔を生んだことに一瞬呆けた。

 

「……戸塚か」

 

 彼女ではなく戸塚であった。自信無さげに部室に入ってきた、顔を上げるまではわからなかったの人物は話の種になっていた戸塚彩加本人。

 

「うんっ!」

 

 嬉しそうな返事をした戸塚が「とてて!」と可愛らしい擬音をつけながら小走りで近寄ってくる。そして俺の制服の袖口を握る。可愛い。

 

『男だぞ』

 

 何をバカな、そんなこと知ってるっつーの! かわいい……。

 

「比企谷くんはここで何をしているの?」

 

 首を傾げるといった仕草は女性にしか似合わないと思っていたがどうやら訂正をする必要があるらしい。むしろ女性より似合ってる。

 

「いや、俺は部活だけど……お前こそなんで?」

 

 俺の問いに答えたのは目の前の美少女……訂正。戸塚ではなくドヤ顔を携えた由比ヶ浜。張った胸がたゆんと一度揺れた。さっき、雪ノ下が胸を張った時とは大違い。

 

「ふふん! 今日は依頼人を連れてきたんだー!」

 

 自慢げに告げる由比ヶ浜。俺は心の中でお前じゃないんだが、と突っ込む。戸塚に聞きたかったのだ、戸塚に。戸塚の可愛い口から聞きたかったのに。

 

「やー、ほら? なんていうかさー。あたしも奉仕部のメンバーじゃん? だから偶には働こーって思ったんだー。そしたらさいちゃんが悩んでいるみたいだったから連れてきたの!」

 

「由比ヶ浜さん」

 

「え? ゆきのん、御礼はいいよぉ。あたしは奉仕部の一員として当然のことしただけだから!」

 

 じゃあさっきのドヤ顔なんだよ。いざ雪ノ下に何か云われようとすればわたわたと手を振り御礼はいいという。でもその顔は誇らしげな表情を浮かべていた。

 

「由比ヶ浜さん……あなた、別に部員ではないのだけれど」

 

「違うんだっ!?」

 

 違うんだ……。

 

 申し訳なさそうな雪ノ下の言葉に驚愕する由比ヶ浜。俺も九音も由比ヶ浜と同じように驚いてしまう。あまりにも自然に入り浸っているからてっきり部員なのかと思ってたわ……違うのか。

 

 済し崩し的に部員になっているパターンではなく、いつのまにか勝手に一人増えてる雪山にある小屋での怪現象タイプだったらしい。

 

「えぇ、顧問からの承認も得てなければ入部届も貰ってないから」

 

 融通が効かないと言えばいいのか、それとも生真面目と言えばいいのか。何とも雪ノ下らしい意見ではある。

 

「書くよぉ……幾らでも書くよぉぉー! あたしも仲間に入れてよぉー!」

 

『うーわ、清清しいまでにあっさりと仲間にいれてとか言えるんだ。八幡くんじゃ口が裂けても言えないよねー』

 

 は? 言えるし。むしろ言ってきたし。言ってきた上で拒否られてきたんだが?

 

 失礼な悪霊である、まったく。流石に戸塚との距離が近いせいか口に出して九音に反論はできない。運のいい奴め。

 

 素直に仲間に入れてといって受け入れられるであろう由比ヶ浜は涙目になりながら入部届を書いていた。

 

 取り出したルーズリーフに平仮名で「にゅうぶとどけ」と丸文字で書く。そんなテキトウな書面や書式で受理されんの? と疑問に思ったがわざわざ口に出して波風立てる必要もあるまい。

 

「それで戸塚彩加くんだったかしら。ご用件は?」

 

 いつの間にか部長席へと離れていた雪ノ下は必死に入部届を書いている由比ヶ浜を他所に戸塚へ目を向ける。怜悧な視線に射抜かれてぶるりと身体を震わせていた。

 

「あ、あの、そのテニスを強く、してくれるんだよね……?」

 

 初めこそ気丈に雪ノ下を見ていた目も言葉を重ねるにつれて段々と俺の方向へ戻ってくる。未だに袖口を握る戸塚と至近距離で視線が合う。うるるとした瞳は破壊力抜群。

 

 そっと目を逸らしてみると雪ノ下のじっとりした視線、さらに逸らして見ると九音の強すぎる目力。責め立てるかのような二人の視線はホラーチック。さっきまで戸塚の視線でメルヘンチックだった頭も急速に冷め、あまりの寒さと怖さに凍え震えてしまう。怖ぇ……。

 

「由比ヶ浜さんからどのような説明を受けたのかわからないのだけれど、奉仕部は便利屋ではないの。あなたの自立を促すことしかしないわ。だから強くなるのもあなた次第よ」

 

「そう、なんだ……」

 

『そーだそーだ! そんな都合よく強くなれるわけないだろ! 舐めんな、テニス! まったくこれだからファンタジーメルヘン脳内お花畑生物は嫌になっちゃうよ。何でも叶えてもらえるなんてランプの魔人じゃあるまいし。信じるやつの方がどうかしてる。ましてや願っただけで叶うのならそれは日常的な御話ではなく、非日常な御話。怪現象他ならない。そして怪現象でお願い事を対価なく叶えてもらう系統は必ず後で手痛いしっぺ返しを食らうってのが相場ってもんだ。そんないい話あるわけないでしょ! 舐めるなよ、テニスを!』

 

 まるでテニス経験者の物言いである。

 

 しかしながら言いたいことはわからなくもない。悪意を悪し様を抜いて考えれば割と的を得ている。願っただけで叶えてくれる。そんな都合のいい話は存在しない

 

 そんな依頼人を騙してつれてきた悪党は能天気に「はんこ、はんこ」とがさごそと鞄を漁っていた。諸悪の根源を睨みつけ、よくも戸塚を騙しやがって、と見てふと周りを見ると雪ノ下も、浮遊霊も、そして依頼人である戸塚も由比ヶ浜を見ている。

 

 そんな三者一体四様に見られている由比ヶ浜は一部の視線に気づき顔をあげる。

 

「え? 何?」

 

「何? ではないわ。あなたの責任無き発言で一人の少年の希望が儚く散ったのよ」

 

 雪ノ下の責めるような言葉に投げられた当人は疑問符を浮かべていた。いまのに疑問挟みこむ余地あったか?

 

「んぅ? んんっ? え、でもゆきのんとヒッキーなら何とかできるんじゃないの?」

 

 あっけらかんと言い放った言葉は雪ノ下への魔法の呪文。それはさながらランプをこする手のよう。聞き様によっては「できないの?」という問いかけである。そんな台詞を吐かれた日には雪ノ下は――。

 

「へぇ、あなたも言うようになったわね。比企谷くんとこの私を試すような物言いをするなんて」

 

『駄目だ、煽り耐性低すぎる……面倒ごとにうちの八幡くんを巻き込まないでよぉ』

 

 雪ノ下の口角が吊り上る。不敵に微笑むその表情はその挑戦受け取ったとばかり。幽霊と同様に俺は非常にめんどくさそうな顔をしていた。

 

 しかしそんなことは雪ノ下には関係が無い。舐められたらやり返す。舐められてなくてもやり返す。

 

「いいでしょう。戸塚くん、あなたのテニス技術の向上の依頼は受けます。あなたの技術を磨けばいいのよね?」

 

「は、はい、そうです……ぼくが上手くなれば皆も、少しは、やる気になってくれると、思う」

 

『はんっ、どーだろうね』

 

 ひゅるりと肩に乗りはじめる九音は戸塚の言葉を鼻で笑う。

 

『むしろ逆じゃない? やる気の無い奴らがやる気のある奴を見てやる気出すなんて綺麗事すぎない? むしろ逆だよ、あいつ何一人ではりきっちゃてるの? 気持ち悪いとかさ。暑苦しいとかさ。どうしてマイナスな方向に受け止められるって考えないのかな? まるで善性だけ肯定して、性悪やつらの気持ちなんてどうでもいいって? いやー、立派立派。もしかしてそんなあくどい奴は要らないって選民思想? ほぇー、ご立派。ぷーくすくす』

 

 ほんと、こいつ戸塚に対して辛辣だよな――いや、そもそも他の人間にもほとんどが辛辣。なんなら小町くらいじゃね? でも普通に小町をアホの子呼ばわりしてるしな。

 

 とはいえ、依頼人である戸塚と部長である雪ノ下の契約は完了した。

 

 戸塚は半歩ずれながら雪ノ下との間に俺を挟む。よくよく見ればぶるぶると指先は震えている。まぁ、それも仕方ない。視線の先にいる凍てつく波動を唱えてきそうな女と契約したのだ。その代償として貴様の命は貰うがな! くらいは言われてもおかしくない雰囲気。悪魔かよ、雪ノ下は。

 

 しかしながら最近では女子を小悪魔と分類されるのだから、雪ノ下ほどになると小ではなく中、もしくは大。そんな大悪魔の疑惑が生まれてしまう。そういえば、とふと幽霊の方を向く。

 

『……ん? なに?』

 

 こいつも頭の悪そうな雑誌の一文にあった『今日からこれでアナタもこあくま!』というコラムを楽しそうに読んでいたこと思い出す。おいおい、この女の正体にあたりがついちまったよ……。七十二くらい調べれば出てきそう。

 

 そんなことを考えていればぎゅっと袖が強くにぎられる。ちらりと後ろを見れば雪ノ下の方向を潤んだ瞳で見ている戸塚。さらにぷるぷるぷる震えている。

 

 よし、と俺は自分に勢いづけて半歩前に出ては視線をさえぎり雪ノ下へ向き直る。

 

 その瞬間、幽霊と目の前の女から舌打ちを貰った。なんで?

 

「手伝うのはわかったが、何をするんだよ?」

 

「私の話を聞いてなかったの? そうならば今後私の言葉だけは絶対に忘れないように調教してあげるわ」

 

 怖い。

 

 その一言がすべてだった。

 

 焦って雪ノ下の言葉を思い出す――まさか。死ぬまでうんたらという奴が本気の言葉だったのか? 口だけの雑魚幽霊が身近にいるせいで大げさに言ってるだけだと思っていた解決方法は実行されるらしい。

 

 もちろん、比喩的な表現なのだろう。けれども比喩だったとしても殺すほどの練習量に恐れ慄いてしまう。

 

「死ぬまで走らせるとかの奴のことかよ……本気か?」

 

「ご明察よ、比企谷くん」

 

 ニコッと微笑む雪ノ下。笑顔で言うことじゃない。怖いんだよ、その笑顔。

 

「ぼ、ぼく死んじゃうのかな」

 

 背後でぶるぶると震える戸塚。うっすらと見える白い肌は血色を失っている。俺は一度咳払いをして――。

 

「お前は死なないさ、俺が守るから」

 

 かばうように手をやり戸塚を雪ノ下の視線から隠すように立ちはだかる。

 

『殺すぞ』

 

 目の前からではなく真横から殺害宣言。肩の上にのる幽霊をちらりと見上げれがすごい目で見下ろしてくる。

 

 背後の戸塚は「はわぁ」と反応を見せ、くいくいと袖を引く。肩越しにその表情を見やればどこか熱っぽい視線が……。

 

「比企谷、くん。本気で言ってくれてるの……かな?」

 

 あぁ、もちろんだ! と頷きそうになるが肩の上から『頷いたら殺す』という呪詛に、正面からはゴルゴンのように恐ろしい目で。

 

 この状況下で己の意思を貫くをほど強い心を持っていなかった。

 

「や、ごめん、一度言ってみたかった台詞なんだわ、すまん」

 

 弱い俺を許してくれ。九音にも雪ノ下にも勝てない俺が誰かを守ろうなどとはちゃんちゃらおかしい話。自分の身を守ることすらままならない俺が余分に誰かを護れる筈も無かった。

 

 けれどもそんな悪巫山戯的な物言いでも良かったのか戸塚は少しだけ気色を取り戻していた。けれどもその顔はどこか不満げ。尖らせている唇に、じっとりとした瞳。なにこれ、可愛すぎない?

 

「むぅ、比企谷くんは時々わからないよ。でも、その……」

 

 戸塚が何かを言おうとした瞬間に――。

 

『なんだ、その雌顔!?』

 

「戸塚くんは放課後に部活があるのよね? ならお昼休みに特訓をしましょう。コートに集合でいいかりさ?」

 

 九音の指摘と雪ノ下の段取りを決める言葉に戸塚の言葉は遮られる。そして「りょーかい!」と脳天気な由比ヶ浜の返事が響き、戸塚の言葉は続けられることはなかった。

 

 小さく頷いた戸塚に続いて俺は自分自身を指さして尋ねる。

 

「当然でしょう? そもそもお昼休みに暇を持て余しているのだから断るなんて選択肢ありえないと思うのだけれど」

 

 雪ノ下の言葉は的確だった。的確すぎるが――。

 

『なんでこいつ、八幡くんがお昼に暇を持て余しているとか知ってるの?』

 

 疑問ではなく断言したその言葉に、まるで動向を全て知っているという物言いに俺は戦いた。

 

 

~~~~~~~

 

 総武高校の指定ジャージは不人気である。

 

 その原因は青の蛍光色というあまりにも目立つことから。夜でもはっきりとわかる青は生徒間では非常に評判が悪い。けれどもいつものように大多数に所属しない俺はこのジャージを嫌いではない。

 

 むしろ愛着が沸いている。そもそもがパッツンパッツンの体操服を着るかジャージを着るかの二択で常に後者を選び続けてきたのだ。一年も使えばお気に入りの服装になってくる。動きやすいしな。

 

 そんなジャージに腕を通してトイレで着替えてテニスコートへ。向かう理由はもちろん、奉仕部の活動。

 

 雪ノ下が計画している「戸塚を絶対に殺す計画」の片棒を担がされるため。俺は味方のフリをして戸塚を助けるためにコートへ向かうのだ。なんとしても天使が殺されるのを阻止せねばなるまい。

 

 けれども相手はあの雪ノ下である。もはや絶望しかない戦力差に膝が震えて普通に教室へ帰ってブッチしようかなという弱気な心を叱咤しながら足を進める。

 

 うつむき歩いていると――影が目に入った。顔も上げずに影とぶつからないよう進路を変えると目の前の相手は俺の動きに合わせてスススッと移動。

 

 なんだ、こいつ……。と顔を上げて見れば割と見知った顔であった。そもそもが見知った顔が少ない俺である、自然と数は限られてくる。ついでに横から『けっ』やら『ペッ』という九音の反応で正体は予想がつく。

 

「はーはっはっはっは! 八幡」

 

「……俺の名前を廊下で叫ぶな」

 

 暑苦しい名呼びと大声にげんなりとしながら大げさに笑う男の顔を見る。でっぷりとした巨躯、暑苦しい黒のコーに指ぬきグローブ。材木座義輝であった。

 

『死なねーかな、こいつ』

 

 エンカウントしてからの第一声に死を望まれる材木座。ど直球に死ねと言われているが、別に材木座自身が九音に何かしたことは一度たりともない。

 

 うざいと睨みつける目はひたすらに不快とばかり。九音の態度のせいか俺は少しばかり睨みつける力を弱める。あんまりにもあんまりな扱い。まぁ、先日の件を考えれば俺も思うところが無いわけではないが。

 

 お前の気まぐれで蜘蛛を助けたせいで巻き込まれた悪夢について文句の一つや二つは吐きたくなる。巻き込まれた側としてはいっぺん死ねよという言葉についつい頷いてしまいそうになるのだ。

 

 もちろん、こんなことは言えやしない。殺そうとした俺の自業自得で、怪現象絡みの出来事なのだから。

 

「こんなところで会うとはまさに奇縁よな。今しがた新作のプロットを渡しに行こうと思っておったのだ。さぁ、とくと見よ!」

 

「悪い、今から用事があんだ」

 

『べーっだ! ばぁーか、ばぁ−か! 一人でクソの処理してろ!』

 

 俺の肩口から顔を出して口汚い言葉を放つ。あっかんべーとばかりに主張したところで奴が気づくわけもない。差し出された紙束を軽快によけて再び在るき出そうとすると、材木座がそっと俺の肩に手をのせてきた。

 

 その瞬間、九音がすごい速度で飛び退る。

 

『わぁっ!? あ、あぶっ、危ない! やめろよぉ、霊体といえど触れたら汚れちゃうじゃん! クソをもっと自覚しろ』

 

 あんまりな扱いであった。あまりの扱いに憐憫や同情すら浮かんでしまう。しかしそんな材木座の表情は聞こえていないから変わることはない。慈愛を満ちたかのような表情をしている。

 

「そんな悲しい嘘をつくな、お前に予定などあるわけないだろう」

 

 やっぱ、こいつ死なねぇかな。的確に自尊心を傷つけてくる材木座にイラッとする。なんでこいつも雪ノ下も俺の昼休みの予定知ってるわけ?

 

「嘘じゃねぇよ。っていうか、お前には言われたかねーよ」

 

 飛び退った先、少し後方で腹を抱えて笑う女幽霊。これ絶対に嗤ってるわ。余り者、はみだしもの同士の暇か暇じゃないかの論争など滑稽極まりない。俺だって他人事なら嗤ってる。

 

「ふむん、わかるぞ八幡。つい見栄をはりたくて小さな嘘を吐いてしまったんだよな。そして嘘を隠すためにまた嘘をつく。後は連鎖するだけの悲しき業だぞ。これぞ欺瞞の無限螺旋。だが、その螺旋が向かう末は虚無よ……。その果てには何もないのだ。具体的には人間関係が虚無だ。まだ引き返せるぞ! さぁ、我の手を掴むのだ!」

 

 材木座が片手を伸ばしてくる。その手の中には紙束。心の底からうざいと思って見ていても欠片も効いちゃいねぇ。

 

『いや、藁のようにうんこ差し出すなよ。ばっちい』

 

 バッチイのはお前だ。とはいえキラキラとした視線で突き出される紙束を掴むつもりは毛頭ない。

 

「だから本当に」

 

 怒りのあまりに引き攣る頬。目の前のこの男をどうやって説き伏せてやろうかと頭を捻っていると……

 

『あ……』

 

 九音が何かに気づいたのか、その方向に目を向けようとした瞬間に衝撃。

 

「比企谷くんっ!」

 

 陽気な声が左手への衝撃と共に飛んでくる。腕に戸塚が飛びついてきた。霊体にこそ絡まれることはあれど、肉の触感になれてない左半身は完全に麻痺する。えっ? やわいやわいやわい、えっ? 天使ってこんなに柔らかいのか……。

 

「ちょうど良かった! いっしょにいこっ?」

 

「お、ぉう……」

 

 左肩にラケットを背負った戸塚は腕にくっついたまま楽しそうに提案してきた。甘い匂いに、温かい感触に脳髄が麻痺する。

 

『ぷ、ぷぷ、ぷじゃけるなーっ! 誰に許可を得て八幡くんの腕に抱きついてんだ! そこ私の! 私の席っ! 私の腕っ!』

 

 いや、俺のだよ。九音が猛抗議とばかりに戸塚へ言う。背中にはりついてぎゃーすかと騒ぐ女幽霊は非常に煩い。

 

「は、八幡、その御仁は――」

 

 材木座がまるで歌舞伎で大見得を切るかのように顔を歪ませる。

 

『私、最近すっごい我慢してるよね! 太もも撫でられてるのを我慢して見てたり、手を引いて夜の校舎を走るのをサポートしたり! 鼻をカミカミしたのもぐって堪えた! けどそうやって当ててんのよ! するのは流石にどうかと思う! ずるいっ!』

 

 胸はねぇよ。あまりにもアホで頓珍漢な台詞を吐く幽霊に呆れた目を向ける。そしてそのまま正面の材木座を見る。

 

「き、貴様ァっ! まさか我を裏切っていたのか!」

 

『私の心を弄んで! 裏切り者!』

 

 二方向から詰られてげんなりと肩を落とす。うるせぇ、こいつら……。

 

「裏切るってどういうこったよ。裏切ってねぇよ、そもそも仲間でもねぇよ」

 

 俺の呆れとかくだらないと切り捨てるような台詞が奴らの癪に障ったのかますます騒ぎ立てる。

 

「黙れっ、小僧! この半端イケメン! 残念美少年! ボッチだからと我が哀れんでやっていれば調子にのりおって……」

 

『この隠れ筋肉! 墓場イケメン! 好きっ!』

 

 罵倒なのか何なのか。しかしながらこんだけ阿吽の息で俺を責め立てる二人。息ぴったりだよな、そのまま付き合っちゃえば?

 

『い、今! 八幡くん! 凄く失礼でおぞましいこと考えなかった!? 背筋がぞわってした! ゾワワって!』

 

 背後から猛抗議する九音。傍から見れば片手と背中に美少女。けれども悲しいことに片や生物学的には男で、片や科学的に生物ではない。これがもしも演劇なら文句の一つや二つ言いたい構成。やっぱ神様って馬鹿だわ。

 

「ぜ、絶対に赦さない……」

 

 材木座の怨念すら篭ったつぶやき。少しでも恨み妬みを晴らすために言霊によっての浄化を試みる。

 

「まてまて、材木座。戸塚は女じゃない……男だ、多分」

 

『多分じゃなくて男だっつーの!』

 

 俺の自信なさげな態度に九音がいのいちに反応する。そして材木座はプルプルと震えたあとにカッと目を見開き。

 

「ぷ、ぷじゃけるなーっ! こんな可愛い子が男なわけないだろうっ!」

 

 絶叫と涙目で放たれる言葉には説得力があった。俺の言霊は完全に負けて、材木座の主張に「そうかな? そうかも……」と納得しそうになる。

 

 けれども再び言霊を装填して放つ。

 

「た、たしかに可愛いが男なんだよ」

 

 それでも自己保身のために男であると主張する。もしも戸塚が可愛い女の子ならこの状況は非常にヤバイ。好きになって告白するわ、こんなの。

 

 俺の主張を後押しするかのように戸塚は恥ずかしそうに左手で口元を隠して呟いた。

 

「ひ、比企谷くん、そんな……可愛いとか、ちょっと嬉しいけど、困る……」

 

 頬を染めて呟いた戸塚にいよいよもって自信がなくなってくる。本当に男だよな……?

 

「あ、あの、比企谷くんのお友達?」

 

「あー、どうだろうな……」

 

 曖昧に濁す。いやストレートに友達じゃねぇと言ってしまえばただでさえめんどくさいやつがさらにめんどくさくなるかもしれないのだ。多少の気を回すのは仕方なし。

 

「ふん、貴様のようなやつが我の強敵であるわけがないわ……」

 

 完全にヘソを曲げていた。めんどくせぇ。

 

『はぁ!? こんなクソ豚と八幡くんが友達だって? お前の目ガラス玉じゃん! そんなわけないでしょ! 汚れる! 八幡くんのお友達は私が決めるの!』

 

 ぎゃーすかと煩い幽霊。なんで俺の交友関係にお前が口出ししてくんだよ。お前はかーちゃんか。

 

 一人と一匹のめんどくさい奴らに囲まれてひたすらに疲れてしまう。この後にテニスとか地獄かよ。もう、これ以上、ここに時間を使って無駄に疲れる必要もあるまい。さっさと切り上げてテニスコートへ向かおう。

 

「戸塚、行こう」

 

 俺は未だに腕に絡んでいる戸塚に腕を動かして合図を出す。

 

「う、うん……」

 

 返事をしては歩き出せば――するりと熱は失われた。

 

「あ、あの材木座くんだっけ?」

 

 未だにぶつぶつ蹲っては呪詛を唱える材木座に「とててっ!」と近寄っては声をかける。

 

「比企谷くんのお友達なら……ぼくともお友達になれない、かな。そうだとしたら嬉しい……ぼく、男の友達って少ないから」

 

『あぁ!? はぁっ!? なんだ、その良妻ムーブっ……。夫の友達とは仲良くしようみたいなアレ! そんなの私がしたいっ!』

 

 いや、お前視点では戸塚の行動はそう見えんのか。こえーわ……。どんなシチュエーションだよ、それ。と呆れつつも失われた熱の行方をそっと眺める。

 

『……違うっ、これはッ!? これは――雄ビッチ! 八幡くんに粉をかけておきながらキープとして豚にも餌をやってるのか⁉ 恐ろしいよ、こいつッ!』

 

 恐ろしいのはお前だ。さっきから戸塚に対する誹謗中傷が酷すぎる。違うから、戸塚は心優しいやつだから材木座を見捨てるなんて出来なかったんだよ。べ、別に捨てられたとかじゃない。じゃないよね? ……ね?

 

『八幡くん寝取られたみたいな顔やめなよ! 違うよ! アレはビッチだよ! やめときな! 私みたいな女の子がいいよ! むしろ私がいい!』

 

 三人と一匹によるどろどろとした人間模様は混沌としていた。そんな中、声をかけられた材木座は立ち上がり高らかに笑い始めた。うぜぇ……。

 

「くはっ、くははははははっ! はぁーっはっはっは! いかにも我と八幡は親友『ちげぇよ』否、義兄弟『違う、殺す』否否否、我が主人で下僕があやつえ『殺すぞ』……えっ、ちょっと寒気が。こ、こほんっ! ま、まぁ、そこまでいうのならオトモダチ? とやらになってもよい。なんなら恋人でも良いぞ」

 

 肩口から見える九音の目がマジギレ寸前であった。俺はどうどうとあやしながら何とか落ち着かせる。本気で材木座を殺る雰囲気であった。

 

「う、うん、それはちょっとごめんね? 友達ってことで」

 

 ちらりと此方を見た後に材木座にお断りを入れる戸塚。なぜ意味深にこっちを見たと騒ぐ幽霊を宥める。そんな騒ぐ幽霊も「ふむ、そうか」と戸塚に答えて近づいてくる材木座から距離を取る。

 

 材木座はこちらに近づいて耳打ちで。

 

「なぁ、八幡。ひょっとしたら彼奴は我のこと好きなのではないか? モテ期というやつか?」

 

『ホモかよ、お前。まじで八幡くんから離れて。ほんと汚れる。まじで殺すぞ』

 

 ドン引きしながら九音が呟く。ほんと、この時間だけで何度九音をブチギレさせそうになってるんだ、こいつは。

 

 もはやテニスなんてする気力は奪われている。が、それでも遅れれるわけにはいかない。

 

「戸塚……行こう、遅れると雪ノ下に何を言われるかわからんからな」

 

「あ、うん」

 

 じゃあ、またとばかりに戸塚が手を挙げようとした瞬間に共にあるき出す材木座。

 

「む、それはいかんな。急ごうではないか。あの女傑、怒らせると怖いからなぁ……」

 

 挙げようとしていた手を下ろして苦笑する戸塚。そして俺の心中をそのまま九音が言い放つ。

 

『お前も来るのかよ……やだよぉ、お荷物だよぉ』

 

 何故か一列に並んでテニスコートを目指す。その最後尾には材木座。まぁ、いいかとため息を吐きながら足を進める。大体ホラー映画とかで消えるのは最後尾のやつで、有名な心霊スポットで襲われるのも最後尾の人間。

 

 せめて俺と戸塚を守る肉盾となれとばかりについてくる材木座に念を送ることで同行を俺は許可することにした。

 

 

~~~~~~~~

 

 

 

 テニスコートには既に制服の雪ノ下、ジャージ姿の由比ヶ浜が揃っていた。どうやら二人はここで昼食を取っていたらしい。テニスコート近くのベンチには可愛らしい小包みが二つ、ぽつねんと置かれている。

 

「では、始めましょうか」

 

 こちらに気づくやいなや早々に本題を切り出す雪ノ下。しかしながら、指示された戸塚の表情は少し浮かない。視線は二人が昼食を取ったであろうベンチへと注がれている。

 

「……どうかしたのか?」

 

「あ、うん、いや、何でもないよ……ただの噂話だから」

 

 戸塚は歯切れが悪く答える。俺は噂話と聞いてあまりいい予感はしないものの最近が最近である、念のために内容を確認する事に。

 

「噂話? テニス部のか?」

 

「う、うん……あのベンチ周辺にさ、女の幽霊が出るって噂なんだよ」

 

 俺はチラリとそこらへんに浮いている悪霊を見る。確か、こいつもあのベンチ座ってたよな。ラリー形式の時に座っていたからその時に霊感の強いやつに見られたのか?

 

『ん? ち、違うよ! 冤罪だよ、えんざーいっ! そもそも私を見れるやつの方がレアだからね? それにテニス部の浮幽霊ってアレでしょ』

 

 九音が指差した方向はベンチ周辺。俺には何も見えない。その指先はベンチから部室へ。そしてまたベンチへ。本当に居るのだろうか?

 

『居るって! なんかテニスウェア着た女の子! 違う学校の名前書いてあるから浮幽霊じゃない?』

 

 なるほど、確かに居るらしい。俺は納得して周りを見ると能天気に「そーなんだー」と呟く由比ヶ浜に何かを考え込む雪ノ下。そして考えが纏まったのか口を開く。

 

「ねぇ、戸塚くん。その噂いつから? その噂が前からあるのならそういう部分もテニス部に人が集まらない原因の可能性は無いかしら? 少なくともあんまり外聞がいいようには思えないのだけど」

 

 雪ノ下の指摘は依頼の根幹、強くなればもっと部活動が盛り上がるといった可能性の否定。

 

「あ、う、そう、なのかな……ぼく、あんまり考えたこと無かったから。ごめんね」

 

 恐る恐るとばかりに頭をさげる戸塚。その様子を見て雪ノ下は軽く溜息を吐く。

 

「まぁ、幽霊の件はあくまで噂なのでしょう? あなたが強くなればという部活が盛り上がるという理由の反証にはならないわ。あくまで別件として扱うべきよ」

 

「ゆきのん……」

 

 由比ヶ浜が雪ノ下を見てうるうると瞳を揺らす。そして次の瞬間、がばりと抱きつく。めっちゃゆるゆりしてんな。

 

「絶対に強くしてあげようね、ゆきのん!」

 

「は、離れなさいッ! つ、強くなるのはあくまで戸塚くん次第よ。まったく……」

 

 百合なのかな? 百合なのだろう。雪ノ下の優しさに感動して抱きつく由比ヶ浜、そんな二人を眺めながらほんわかとする。まったくと口で言うわりには満更でもなさそう。こいつ由比ヶ浜には滅法弱いよな。

 

 そんな様子を眺めていると戸塚が不安そうにこちらを見上げてきた。

 

「ごめんね、比企谷くん」

 

「あぁ、気にすんなよ。雪ノ下も言ったようにその件と部員が強くなって部活が盛り上がるのは別の話だろ、それにその幽霊の件なら俺が当たってみるわ」

 

 戸塚の肩に手をぽんと置いて俺は呟く。

 

『詐欺師、何を恩着せがましそうに。別にその雌犬三号のためじゃないんでしょう?』

 

 いつの間にか雌認定されていた、戸塚。とはいえ九音の言う通りだ、俺は俺のためにこの問題に取り掛かるつもりである。そもそもそんな噂が蔓延るテニスコートで暢気に体育を受けたくない。

 

 何らかの対処法や正体を探るべきである。好奇心が猫を殺す場合もあるが、故意の無知であることは犯罪であるとも言われている。知った以上、聞いた以上、聞いていませんでしたは世の中通用しないとのこと。そんなわけで自分を守れるのは自分だけなので、俺は自己保身として今回はこの件に首を突っ込む。

 

『薮蛇じゃなきゃいいけどね』

 

 怖い予言をする幽霊、そういう不吉なこと言うのやめてくれよ……。

 

『でも、あの女の子が何かするとは思えないんだけどねぇ』

 

 自分だけ見える女の子を見てからそう呟く九音。少なくともこれは重要な話なのかもしれない。

 

『……ん? というか! いつまでそのファンタジー生物雌犬三号の肩に触れてるのさ! 離れて! さっさと離れて! セクハラなんてサイテーっ! 私がするぞ! 君にッ!』

 

 最低なのにするのか、こいつ。

 

「比企谷くん」

 

 九音に呆れていると雪ノ下から声をかけられる、そちらの方向へ振り向くと内緒話をするかのように耳元へ口を当ててきた。

 

「んだよ?」

 

「次、戸塚くんへセクハラをしたら切るわ、覚悟しておきなさい」

 

 どうして俺の事を好きだとかぬかす奴らってこんなに攻撃的なの? 怖いというか、怖い。もう怖いという感想しか出てこないわ。

 

 雪ノ下のナニをと明言しない脅しに、俺は震えては頷いた。




※いつもより遅くなってすいません。楽しんで頂けると幸いです
※次回は13日の金曜日の投稿予定です。よろしくおねがいします。


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暮春【舌戦】

 

『ふぅ、愛ってなんだろうね……八幡くん』

 

 なんか急に意識高いOLみたいなこと言い始めやがった。

 

 本日の六限目、数学の時間。いつものように雑談を振ってくるかと思えば趣向を変えてきたようで。憂いを帯びた表情を顔に張りつけてはクソほど興味の無い話題を投げてくる。

 

 午後二時という時間帯は非常に眠い。そんな時間帯に投げられた質問に見せかけた謎の話をそっとスルーして腕を枕にしたまま睡魔に身を委ねる。

 

『ちょっと待って!? いつもより寝に入るの早すぎない! ちょっとは興味持ってよ!』

 

 いや死ぬほど興味持てなかったし。そんな答えを顔を横にしたまま答えてやる。

 

『や、持ってよ! 持とうよ! そういうの愛が無いと思うよ! 愛が! とりあえず、愛の話! ともかくね、私は常々思ってることがあるんだ、下心と真心の違いってなんだろう、ってね』

 

 なんか次は中高生みたいな悩めるお年頃の台詞を言ってきた。眠くなってきたな……。

 

『いいでしょ! 中高生くらいなんだからっ! ともかくね、私は最近思うのです! 愛ってなんだろって! 自分と他人、違う存在同士が繋がり合うためとか。赤い糸についてとか。他人と自分の境界線についてとか!』

 

 しょうがない、と顔を伏せて九音の話を聞いてやることにしよう。特訓後の疲れが非常に強力な睡魔を呼び寄せているが、そいつに負けるまでは聞くとしよう。

 

『でねでね、他人と自分の境界線についてなんだけど。よくさ、他人の行動に違和感がある時、普通だとか一般的とか常識的に考えてって使うことあるじゃん? まるで自分の考えが普通でお前がおかしいみたいな物言い。でもさ、こういうのって大抵バカ使うものだと思ってるんだよね。だってさぁ、相手と自分が行動、意見、考え方が異なっている状況下で、普通だとか、一般的だとか経験則での発言をなんで相手に言うの? いや、お前の人生観知らないってのって感じ。だからこういう物言いするやつを私はバカの自己紹介って思ってるんだけど……おっと、話がずれちゃった。そういうバカの話をしようかって思うんだ。なんで他人にそんなことを言うやつって自分が馬鹿だって、語彙力や説明力が無いって気づかないのかな、私なら気づくね、普通に考えて』

 

 早々に間抜けは見つかっていた。早くもこの話題は終了な気がする。けれどもそんな自分が馬鹿だと思うタイプを馬鹿にするバカは得意気に話し続ける。ていうか愛はどこにいったんだよ……。

 

『そういうやつってさ、人にこうやった方がいいだとか、こうするべきとか、こういう考え方しろだとか。そういう思考回路の持ち主って自分と他人の境界線が無いんだろうね。自分が考えてるから相手もこう考える筈、自分がこう感じているから相手もこう感じる筈だなんて。小さいころに教えてもらわなかったのかな、自分と他人は違う生き物だって。だから私は普通こうでしょとか、一般的に考えてとか頭良さげに物言っちゃうタイプをバカだと思うし、嫌いなんだよねぇ』

 

 完全に同族嫌悪である。

 

『でもね、それって仕方ない部分もあるのかなって。だって世の中って愛に満ち溢れてるからね。だってそうでしょ? 言葉を都合よく隠して、本心を悟らせないように、普通だとか一般的だなんて相手を否定して、相手の意見考え方行動感情を認めないで一方的に自分の正しさを証明する、しているつもりの魔法の言葉なんだよ? そりゃあ便利だから使うよね、その意見にうっすい根拠しかなくてもさ。だってバカって考えないでしょ? 自分の考えが本当に正しいのかなんて』

 

 ペラペラと話す内容、どこか要領の得ない内容は俺が察せないだけなのか、それとも特に意味が無い話を九音がテキトーに話しているせいなのか。

 

『そういえば、さ。八幡くんはさ、お義母さんに『あの子と仲良くしてはいけません』って言われたことない? あ……ごめん、普通に考えて言われたこと無かったよね、ごめん……』

 

 やめろ、バカ。ちょっと本気で悪いこと言っちゃったかなという視線やめろ。

 

 悲しいことに俺は母親からそんな言葉をもらったことはない。それはきっと友達がいなかったからとかじゃなくて、単純にかーちゃんが分け隔てなく子供と接するタイプだったからだろう。きっと、そう。多分、そう。

 

 むしろ俺の方が友達と思ってたやつの家で、トイレを借りてる時、部屋に戻ればそいつの母親から「あの子と遊んじゃダメよ、友達はちゃんと選びなさい」と盗み聞きしたことあったわ。むしろその後「いや、あいつ友達じゃねぇから」と言われて泣きそうになった。その後の友達のおかーさんの「そ、そう……」という哀れみの篭った言葉に泣いた。

 

『ま、まぁ、世の中の母親の定番台詞に『あの子と仲良くしちゃダメ』って言葉あるよね。私的には母親がそう思うのって私は仕方ないと思うんだ』

 

 どこか納得いくのかうんうんと縦に頷いている。けれども俺としてはいまいちピンと来ない。

 

 確かに「友達を選びなさい」という台詞は厳格な父や母を想起する字面である。もしも物語で登場するのなら、ど敵役、お邪魔虫を彷彿させる。子供の自由を認めない大人という配役は敵役にしか見えない。

 

『たとえば私に子供が居たとして、その子がとある女の子と仲良くなり始めた。それは喜ばしいことかもしれない、友達が出来ることはいいことなのかも。私だってそう思うよ。けどね、その子の両親が近隣で揉め事をしょっちゅう起こしてるとするなら別だよね。両親は働いておらず、トラブル続き、パトカーが止まる所を度々目撃されている。そんな両親を持つ女の子なら私は言うね、仲良くしちゃダメって』

 

 母親が子供の友達に口を出す。それは正しいことなのか、悪いことなのか。

 

『その女の子本人が礼儀正しくて、可愛くて、みんなの人気者で、文武両道だったとしても距離を取らせるよ。もしかしたら子供にとってその少女は特別な女の子かもしれない、手を差し伸べたいのかもしれない。でも私はその気持ちを踏みにじる。自分の子供が、自分の愛している存在がそんな危険な場所、危険に送る母親が居るの? 居るとするならそれこそ母親失格だと思うね。例えその少女の果てが死だったとしても、大事なのは自分の子で、他人の子供なんかじゃない。でもこんな思いも人は悪意を持って見る、私が酷い奴だとばかりに。そっちの方が酷いじゃない』

 

 九音にとって、その関わり方こそが、その関係性こそが愛に見えるのだろう。

 

『政略結婚に関してのイメージって悪いよね。恋愛結婚こそ至高だという風潮あるよね。本当にそうなのかな? 本人の意思を無視しているとばかりに言う人って親がどんな気持ちで娘や息子の幸せを考えているのか知ろうとするのかな? そういうやつに限ってさ、政略結婚を企む親は子供を道具としているとばっかり考えてる。そんなわけないじゃん。むしろ、娘や息子の幸せを考えた時に自分が良いと思ったことを進めるなんて親らしいと思うよ、愛だよ、愛。真心なんだよ』

 

 恋愛結婚、見合い結婚、政略結婚。

 

 どれが正しいのかなんて高校生の俺にはわからない。想像もできない。

 

『だからね、真心の話としてまとめると。今から私の言うことは愛なんだよ。いつだって母親みたいに君の境界線を超えるのは私の愛だって思ってね。そこに愛があることを忘れないで』

 

 背中に張り憑くように纏わり憑き、耳元で囁く。

 

『あのファンタジー生物に近づいちゃダメだよ。雌犬一号も二号もダメ。ついでにスメアゴルも』

 

 最近、よく接する人物の名前が上がる。うとうと、と瞼は重くなり、最後にこれだけは言っておこう。

 

 別に近づいてなんかいないということを、どこまでもチャンネルが違うんだから、世界が違うんだから近づけるわけもないことを。

 

 その距離は地表の裏側よりもきっと遠い。だから余計なお世話なんだよ、と。

 

『……そつき』

 

 眠りに落ちる直前にふと九音が何かを呟いたような気がした。けれども俺はそれをいつもの戯言だと受け取ってしまった。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 戸塚殺害計画もいよいよもって第二段階に突入する。第一段階を無事に生き延びた俺たち。今度も俺が守護らねば……と固い決意を抱く。

 

 そんな固い決意を抱いていた俺は――先に殺されそうになっていた。なんで?

 

 腕立てふせをする顔の下には汗で小さな水溜りが出来ていて、背中には雪ノ下が座っている。そして最初は雪ノ下一人だったにも関わらず、面白そうという理由で由比ヶ浜も乗っていた。

 

 背中の感触とか、色んなもの、特に悪戯気味に背筋を撫でる指が酷く身体に悪い。ちなみに最近は夜のトレーニングにも影響が出ている。自称トレーナーを名乗る女幽霊が酷く機嫌が悪いせいで非常に厳しいものに変貌していた。

 

 あれ? これ、戸塚を殺す計画じゃ無かったっけ? いつの間にか俺を殺す方向に話進んでない? 大丈夫? 

 

 もしかして俺っていつの間にか戸塚姓になってた? 婿養子になっちゃってた?

 

 そんな妄想のみで何とか今日まで生き延びてきた。戸塚が可愛くなければきっと死んでいたほどに辛いトレーニング。さすがは殺すと明言した女と女幽霊。完全に死にそう。

 

 そんな地獄のトレーニングも今日で終わりを迎えて、基礎的な部分ではなくこの後からは技術的な部分に入ることに。

 

 そうなると俺は完全にお役御免である。そもそも第一段階の時点で俺が何の役に立ったのかわからない。戸塚の隣でひたすらに筋トレしてただけ。

 

 まぁ、それとは別の件は無事に解決できたのだからいいか、と楽観視する。

 

 別の件、別件、幽霊騒動。

 

 事の顛末を、難事件でも大した問題でも、噺にならなかった話を。編纂する必要性も、編集する必要性も無かった怪異譚を俺は思い出す。

 

 まずは――足山九音の発言が事の発端であった。

 

 俺とは違って完全に霊視、お仲間を見ることが出来る彼女が言ったのだ。テニスウェアを着た幽霊の心あたりなど二つしか存在しないと。

 

 一つはファンタジー生物と呼ぶ戸塚に憑いているらしいテニスウェアを着た守護霊。どうやら戸塚の守護霊はそういった格好をしているらしい。

 

 そしてもう一体の本命。

 

 テニス部付近を彷徨う浮遊霊。

 

 決して、嘘やデマの類ではなく事実として居る幽霊。このテニスコート周辺に居るのだ、たしかに。

 

 けれども違和感があった、納得のいかない部分があった。

 

 その悪霊は悪戯をすると云った話。悪事の話、悪いことの御話。そうであるのなら、今の俺が見えないのは何故なのか。

 

 体験則で言うのなら、俺は悪霊という存在と縁深い、浮遊霊や善霊、人のための妖異には出逢うことすら叶わないのに、こと悪い奴らばかりはよってくる。

 

 テニス部内に忘れていたラケットが勝手に外にある。夜に活動しているのかボールが出しっぱなしのままでテニスコートに散らかっている。

 

 悪戯も悪戯、部員たちからしてみればいい迷惑だ。その上で不気味な噂により部員の足も遠のき、去年に比べて新入部員も格段に減っている。

 

 確かに悪戯だ、悪霊だ。人の都合に悪い霊だ――けれども、一部の人間には都合の良い霊でもあった。

 

 火の無いところに煙は立たない。確かに幽霊は居るのだ――けれども居るからといって何でも幽霊のせいにしていいわけではない。

 

 確かに火種ではあったのだろう、けれども燃料を追加して噂を広げて挙げ句の果てには罪をなすりつけたのは人間なのだ。

 

 例えば部活に不真面目で普段は居つかない幽霊部員が自分のラケットがなくなったと騒ぎ、外に出しっぱなしであった。使った人間はいけしゃあしゃあと幽霊騒動に便乗する。

 

 夜中に学校に忍び込んで遊ぶ生徒からしてみれば律儀に片付けをする方が珍しく、出しっぱなしのボールやラケットは幽霊騒ぎと片付けられた。

 

 そもそもがテニス部周辺を彷徨う幽霊は総武高校テニス部の一員では無い。彼女が着ているのは県境にある有名な女子私立のテニスウェア。

 

 本当に浮遊霊であるらしい。俺は九音にテニスウェアから知った高校名を聞いた時にそう中たりをつけて、今回の幽霊騒動をオカルト的な見地ではなく人為的なものだと調べ始めた。

 

 そう決めたら案の定というか、なんというか。

 

 教員は知っていたらしい。特に生活指導担当である平塚先生はそういった生徒達に何名か心当たりがあるとのこと。

 

 そしてものの見事に心当たりが的中し、自白させることは簡易であった。そもそもが生徒からしてみれば終わった話であるらしく、反省文も書いたし、親にも怒られたとのこと。

 

 まぁ、その影響でテニス部の弱体化など埒外のことなんだろう。そのことを俺は詰るつもりも無かった。言った所で俺の言葉に説得力なんてなく、ましてやそんな他人を慮り、人の気持ちがわかる奴なら最初からテニス部に謝罪していることだろう。早々と犯人を特定して、今回の御話は終わりとすることにした。

 

 ……まぁ、ことのあらましを聞き終えた後に九音がいつものように悪戯を仕掛けたとしても俺は咎めるつもりはない。だって俺には関係ないことだから。

 

 そして、そんな進学校の中でどちらかといえば不良をやっている生徒達の上から水をぶっかけた犯人はコートの隅で蟻の巣を眺めている。俺も一緒に眺めているので二人でかがみ込むといった形に。

 

『……ねぇ、八幡くん。私達の将来ってこんな感じなのかな?』

 

 何言ってんだ、こいつ……。頭おかしいのかと口に出すところであったが頭が弱いのは元々であったために言葉にしないでおいた。言及しないでおいたがアホを見るような目で見たのは仕方ないこと。そんな俺の様子に気づかずアリの巣をジッと見つめている。基礎トレを終えた俺はその隣に腰を下ろして同じようにその蟻を見る。

 

 そして数分蟻の様子を眺めていると九音が小さく呟く。

 

『夫の帰りを待つ妻、九音蟻、外でせっせと働く夫、八幡蟻。素敵な関係だよね、うっとり』

 

 アホ全開であった。疲労困憊の最中にアホの発言により更に疲れる。

 

「お前の見つめている蟻、全部雌だぞ」

 

『……情緒ないよね! そういうことじゃないのに!』

 

 蟻を見つめて見つける情緒ってなんだよ。

 

 蟻において働き蟻とは全て雌である。この甲斐甲斐しく巣穴に戻る蟻の性別は雌。そして雄蟻は巣穴の中で女王蟻と共に居る。一見してみれば専業主婦、ヒモのように見えるが雄蟻は女王蟻と一発ヤると死ぬ。

 

 まさに蟻の世界とは女王のみが正義の超独裁国家なのだ。雄は家畜で、働きありは奴隷。あまりにも蟻の世界が厳しすぎる。わき上がる情緒というのは負の方向のみ。少なくともうっとりする感情は俺の中に存在しない。

 

『……いや、待てよ。逆に考えるんだ。外で働く九音蟻、私の帰りを待つ八幡蟻。うんうん、いいよいいよ! 滾ってきた!』

 

 可哀想なことに働き蟻の男日照りが解消する可能性はほとんど無い。唯一の可能性としては女王が死んだ時のみ。その時にのみ奴隷からの脱出機会が与えられる。雄蟻は基本的に女王蟻としかシないのだ。

 

 とはいえ他者の想像や空想を止める権利は俺には無い。もう何も言うまいと再び蟻を見つめる。

 

『がんばれ九音、負けるな九音! 家には八幡くんが待ってるぞ!』

 

 せっせと巣穴に餌を持ち帰る働き蟻。その餌はまさに貢物、この光景はバリキャリが家に待つ夫へ帰るのではなく疲れたOLがホストに入れ込むといった構図。涙出てくるわ。

 

『あ、あと少し! がんばれ、がんばれ! 後少し――』

 

 蟻如きに感情を移入しているアホの気分をわざわざ害す必要もなく俺は無駄に否定せずに蟻の行く末を見守る、とその瞬間、刺さる。

 

『くっ!? くおーーんッ!』

 

 自分の名前を高らかに叫んだ後に、茫然自失とする幽霊。そんな状態の九音を尻目に事の元凶をなったボールを見る。

 

 フェンスに跳ね返り、ポンポンと二度ほど弾んでは足元へコロコロと。手に取っては打ったであろう材木座を見る。投げ返すとそれを太陽に掲げて大げさなポーズで語り始めた。

 

「ふむ、ここにまた魔球が完成してしまったようだ……土煙を舞わせ相手を幻惑し、生じた隙の合間にボールを叩き込む。これぞ、豊饒なる幻の大地ッ、岩砂閃波」

 

 どんな漢字を当てるのかわからない技名をつぶやいては余韻に浸る材木座。太陽にかざしてはニヒルに嗤って再び一人で壁打ちを始めた。

 

『あ、アアアァァァァつ! は、初めてだよ、ここまで私を怒らせたおバカさんは! 排泄しかしない猿のくせによくも私を!』

 

 いや、蟻だろ……。けれどもそんなツッコミを入れるにはフーッフーッと怒っている女幽霊はあまりにも怖すぎる。

 

『八幡くん! 弔い合戦だよ! 九音蟻が居ないと八幡蟻は餓死しちゃうんだから、これ八幡くんの弔い合戦でもあるの! あのスメアゴルに向かってボールを叩き込んで! コントロールは私がするから!』

 

 いややらねぇから。八幡蟻なら今頃違う蟻からちゃんと餌を貰ってるよ? 

 

 言葉には出さずとも動く意思はないことを座りっぱなしで居ることで伝える。唸りながら目尻に涙をためて睨みつけてきても絶対にしない。

 

 とはいえ、こんな表情をされれば大抵の男ならホイホイ言うこと聞くんだろうな、と思ってしまう。本当に顔がいいって特だわ。

 

 いつまでもここにいれば九音が我慢出来ずにキレるか。隣のコートに移動しようと立ち上がる。少し移動すればコート内で球出しを、審判席から指示出しをする奉仕部員達の姿が見えた。

 

 ボールを投げているのが由比ヶ浜で、指示出しが雪ノ下。ボールを素手で投げている由比ヶ浜は楽しそうに投げ入れている。

 

 え、怖い……。

 

 戸塚なんて息絶え絶えなのに、なんで楽しそうにボール投げてるの?

 

「由比ヶ浜さん、もっとあの辺りやその辺りに投げてちょうだい。難しいコースじゃなきゃ練習にはならないわ」

 

「りょーっ、かいっ!」

 

 雪ノ下の落ち着いた声がコート内の由比ヶ浜に届く。すると何が嬉しいのやら、楽しそうにボールを握ってはポイポイポポイと投げ入れる。

 

 ライン際、ネット際と指示されたボールは技術の問題なのかコントロールされてない。逆にそのイレギュラーさが捌くことの難易度を跳ね上げている。

 

 目線とはまったく違う方向に飛んでいくボールは天然のブラフとなり、拾う戸塚の足を一歩遅らせる。

 

 一歩目が遅れれば自然と拾う難度は高くなり、ましてや弾道など気にせずイレギュラーに落とされるのだ、ほんとよく拾う。

 

 けれども二十球目くらいであろうか、飛びつくかのようにボールを拾いあげては立ち上がり走ろうとするが足を縺れさせては転んでしまった。

 

 むき出しの肌は派手に転んだせいか大きく擦りむいている。

 

『ねーねー、八幡くん、やり返そうよぉ、スメアゴル相手に的あてやろうよぉ』

 

 欠片も興味を持たない女幽霊。少しは駆け寄って心配する由比ヶ浜を見習え。この女だけは情緒がどうとか言っちゃダメだわ。

 

「さいちゃん、大丈夫!?」

 

 ボールを投げていた由比ヶ浜がネットを回って戸塚へ近づき、戸塚の擦りむいた膝を見ては表情を歪める。

 

「だ、大丈夫、続けて」

 

 その返事を聞いて由比ヶ浜は雪ノ下を見て、戸塚も追うかのように見つめる。そんな二人の視線を受けた部長は審判席から降りて二歩ほど近づいては怜悧な視線で尋ねる。

 

「まだ、続けるつもりなのかしら?」

 

 雪ノ下は変わらない。いつものように、いつものごとく。なんの変哲もなく。

 

「うん、みんなに付き合ってもらってるから……もう少し頑張りたい」

 

 小さく笑って続行の意思を示す。そんな戸塚に向けて雪ノ下は無表情のままくるりと背を向ける。

 

「そう、由比ヶ浜さん、後は頼むわね」

 

 由比ヶ浜の返事を聞く前にすたすたと校舎へ向かっていく。そこはいつも俺が座っている方向、俺のベストプレイス方面。相変わらず、不器用な奴。

 

 けれども雪ノ下の様子に不安を覚えた戸塚が小さく呟いた。

 

「怒らせ……ちゃったかな」

 

 その言葉は誰に問われたわけではなく、それでいて誰かに投げたものだった。誰でもいいから答えを知ってるなら教えてほしいと呟かれた小さな呟き。

 

 俺は二人に近づき声をかける。

 

「そんなことねーよ、いつも通りだ。むしろ、怒った時はもっと怖いから安心しとけ」

 

「比企谷くん……本当?」

 

 戸塚が上目遣いで尋ねてくる。

 

 そのうるるとした瞳を向けられては続けて「もしもの時は俺が守ってやるよ」と口が滑りそうになる。けれども俺の勇気のなさや意気地の無さが口を縫い止める。怒った雪ノ下を相手に俺なんて肉盾になりそうもない。

 

「うわ、ヒッキー居たんだ。もー、どこ居たの? というか、それってヒッキーが怒られるようなことするからじゃん」

 

 いやいや何もしてねぇわ。むしろ何もしてない、何もしてこないから怒っているとかいう理不尽。

 

 もちろん、こんなことを言ったところで二人には意味が通じないだろう。そんな俺の言葉に思うところがあったのか戸塚はポツリと呟く。

 

「もしかしたら……呆れちゃったのかな、その、ぼく。やっぱり下手だし、上手にならないし、腕立てだって五回しか出来ないし」

 

 ちらりと目が合う。肩を落として呟いた言葉、中々に浴びない類の視線。劣等感の混じった言葉からその視線がどんな意味が篭っているのか想像できる。

 

「そんなことないと思うよ、ゆきのんは頼ってくる人を見捨てたりしないもん」

 

 テニスボールを掌で転がしながら手慰みをしていた由比ヶ浜は安心を与えるかのように力強く言い切る。

 

 その言葉に同意したのは以外にもこの場に居る誰よりも雪ノ下を敵視している女幽霊であった。

 

『まぁ、同意見。もちろん、プラス的な意味じゃなくてあれだけ挑発されておいて尻尾を巻いて逃げるって想像できる? そこの雌犬三号を強くできませんでしただなんてあの女は口が裂けても、死んでも言わないよ。今頃、拷問器具でも用意してるんじゃない? 強くならないと殺すって視界に訴えれば泣き言なんて言う暇ないでしょ、私ならそうするし。そうすれば死ぬ気でうまくなるか、八幡くんを誑かすファンタジー生物がお亡くなりになるかのどちらかなので……どう転んでも得しかしない……天才じゃん、私』

 

 なんて発想しやがるんだ、この女。流石に雪ノ下もそこまではしない。流石は性格の悪さで俺調べの月間MVPをまたしても獲得していた。

 

『華道部あたりから剣山借りてきて、次出来なかったらこれを履いてもらうわね、くらい言うんじゃない?』

 

 選手生命死ぬだろ、それ……もはや殺す気しかない女幽霊である。由比ヶ浜が雪ノ下の善性を信じていれば、九音の奴は雪ノ下の負けず嫌いといった欠点を責める。

 

 とはいえ、俺も似たり寄ったりなのだ。俺自身も雪ノ下にお手上げといった様子が想像できない。それに、どこへ行ったのかなど予想がついている。

 

 だから俺は二人、一人と一匹の意見を強調するために付け加える。

 

「安心しろ、戸塚。由比ヶ浜の料理に付き合うくらいに面倒見はいいから、なら期待できそうな戸塚を見捨てるなんて事象はありえねぇよ」

 

「どういう意味だし!?」

 

 俺はハァと小さくため息を吐いて由比ヶ浜に懇切丁寧に説明してやることにした。

 

「事象ってのは出来事の言い換えで――」

 

「意味を聞いてるんじゃないしっ!」

 

 由比ヶ浜は手に持っていたボールを此方に向けて投げてきた。その球は想像していたよりかは鋭く、それどころかまっすぐこっちに向かってくる。なんでさっきまではあんなにコントロール悪かったのに今回に限ってまっすぐ来るんだよ。

 

 けれどもこの一年間鍛えた身体能力は伊達ではない、この一年間の経験が無ければ「強……早……避……死」と走馬灯がよぎっていただろう。

 

 けれども首を軽く傾げるだけで避けたボールは背後にポンポンと落ちる。

 

 フッ、この程度を避けるなど何てことはない。今まで何度怪現象に巻き込まれたと思ってるんだ、舐めんな。

 

 ただ、悲しいことに怪現象に遭遇して無事であった試しがないわけであるから、完全に身体能力は伊達であることに気づいてしまった。

 

「よ、避けるなーっ」

 

 更にポイポイとかごのボールを連続で投げ始める由比ヶ浜。それを軽やかに避け続けるが、いつまでも遊んでいるわけにはいくまい。っていうか、その籠の球って戸塚の練習のためじゃねぇの?

 

 あんまり減りすぎると練習にならないために適当なところでボールをキャッチして「はいはい悪い悪い」と口にしてから戸塚へ声をかける。

 

「まぁ、雪ノ下の指示通りに続けていいんじゃねーか?」

 

「うんっ! ありがとっ、由比ヶ浜さん、比企谷くんっ!」

 

 戸塚の返事により練習は再開される。それからは弱音も吐かずに戸塚はボールを拾い続ける。由比ヶ浜といえば相変わらず酷いコントロールであること。

 

 十球、二十球と続けば先に根をあげたのは由比ヶ浜の方であった、

 

「もー、疲れたよー。ヒッキー交代してー」

 

 手持ち無沙汰だった俺に交代の指示が。俺は立ち上がってコートに入ろうとすると目の前にひゅるりと九音が立ちはだかった。

 

 なんだよ、こいつ……。

 

『行っちゃやだ! 八幡くんは私と九音蟻の弔慰を抱いてあそこのベンチで黙祷するのっ!』

 

 しねぇわ、なんだそのクソみたいな時間。そんな時間を過ごすくらいなら戸塚の練習に付き合った方が遥かに人道的で有意義。そんなわけでそんな幽霊をするりと避けてコート内へ。

 

『や、ヤダァァァァァァ、捨てないでぇぇぇぇぇ、何でもするからぁぁぁぁ! 捨てないでぇ……』

 

 何と人聞きの悪いことを叫ぶ幽霊であろうか。もしも誰かに聞かれていたら俺の社会的立場は大惨事。良心の呵責に訴えてくるその叫びを鼻で笑ってコートへ。内容が内容なだけに良心は微塵たりとも痛まない。

 

「代わる」

 

「あ、これ五球で飽きるから気をつけてね」

 

 マジかよ。その割には雪ノ下とやってるときは楽しそうにやってたよな。そんなことを考えているとシクシクと泣きながら背中に張り憑いてくる幽霊の泣き言が耳に入る。

 

『うーっ、この悲しい気持ちを八幡くんが投げ入れるボールに変な回転をかけてファンタジー生物をいじめることでストレス解消してやるぅ』

 

 性格が最悪であった。やめろよ、戸塚が可愛そうでしょ。

 

 あんまりにもとばっちりがすぎる戸塚に向けてサディスティックな笑みを浮かべる女幽霊。球をいくつか集めて籠に集めて練習を再開しようとした瞬間――聞こえた。

 

 甲高い笑い声とはしゃぐ音。

 

 周りを見回せば由比ヶ浜の視線が落ち着き無く泳いでいて、暗い影がさす。そしてあからさまに視線がそらされた場所にはどこかで見た覚えがある顔ぶれが。

 

「あ、テニスしてんじゃん」

 

 高い声がコート内にまで広がる、まるで聞かせるかのように言い放たれた言葉は――あぁ、そうか同じのクラスの奴らか。

 

 集団の背後に居た二人、王様と女王様の顔ぶれを見れば流石に自分のクラスの奴らであろうと予想づく。

 

 葉山と三浦。

 

 我がクラスにある一大派閥のトップに君臨する二人。総武高校でも相応に名が知れ渡っている男女。校内でその二人が一緒に歩いていれば噂になる程度には美男美女の組み合わせ。

 

 トップカーストと呼ばれる集団はテニスコートへ何の躊躇いも無く入ってくる。そして女王は顔ぶれを見回していれば――何故か一度俺のところで視線が止まった。そして止まった瞬間に漏れ出る。

 

「げっ、ヒキオじゃん……」

 

 誰だよ、それ。俺の新たな名字みたいな呼ばれ方にこっちの表情を歪めてぇわ。勝手にうちの両親を不仲にしたあとに再婚させないでくんない?

 

「あ、ユイたちだったんだ……」

 

 集団の中の一人、メガネ女子が小声で呟く。けれどもそんなことを知ったことばかりに女王様はズンズンズンと何の躊躇いもなくコートの中へ。

 

 俺と――由比ヶ浜をスルーして、まっすぐに戸塚の方向へ向かっていく。

 

「ねー、戸塚。あーしらもここで遊んでいい?」

 

「あ、三浦さん、その、ぼくたち、その遊んでるわけじゃ……なくて」

 

「あ? 聞こえないんだけどぉ」

 

 こっわ……、戸塚の小さすぎる懇願にも似た抗弁は女王様の一言に無為に帰す。振り絞った勇気は威圧によってかき消されて、戸塚の震える指先が今の心境を表している。

 

 その戸塚に共感するかのように材木座も由比ヶ浜もコート内に蔓延る重圧から目を背ける。

 

 女王の取り巻きもどこか気まずそうな表情を浮かべていている。だが、どこかに違和感を感じてしまう。

 

 けれどもその違和感は再び振り絞った勇気に消されてしまった。

 

「れ、練習だから……」

 

 二度目の言葉は一度目よりもはっきりとしたもので。強い意思にたじろいでもおかしくはない。

 

 けれどもそうではない、そうじゃない。

 

 正しいことだけが、綺麗なものだけが、眩しいだけのものが肯定される世界じゃないのだ。振り絞った勇気も踏みにじられることはある。

 

「ふーん、でも別に男子テニス部だけってわけじゃないっしょ。部外者混じってるじゃん」

 

『そりゃあ、引けないよねぇ。今更』

 

 訳知り顔のように九音はその光景を眺めていた。いつのまにか手にはラケット、服装はテニスウェアに着替えていた女幽霊はニヤニヤと俺達――ではなく三浦を見ている。

 

『こんなの引けるわけないじゃん。わかるわかるー。しょうがないよね、女王様だもんね』

 

 足山九音は女王と呼び、敬称づけているが――敬称をつけ加えることにより小馬鹿にしていた。

 

『臣下を引きつれてノコノコと。大声でテニスを邪魔しておきながら、尻尾まいて逃げる? 無理無理、そんなの謀反されちゃうじゃん、ギロチン行きじゃん。トップカーストはワガママ放題するのが仕事だもんね。ましてや雑魚に言い負かされてすごすご帰るなんて出来るわけない。特に八幡くんが居るこの状況じゃとても出来るわけないよねぇ』

 

 引き合いに出された俺は言おうとしていた何かが詰まる。

 

『先週、アレだけのいざこざがあった八幡くんと女王様、最近距離が出来始めている女王様と雌犬二号。そんな二人が仲良くテニスしているにも関わらず、女王たる自分が赦されないという不公平感。到底受け容れることが出来な良い内容だよね』

 

 面子、プライド、自尊心。さも判っているとばかりに得意気に語る九音の視線は再び戸塚と三浦に向いていた。

 

「練習? 部外者も混じってんじゃん。ってことは男テニだけで使っているわけじゃないっしょ」

 

「それは、そう、だけど……」

 

「なら、あーしらも使ってよくない? ねぇ、どうなん?」

 

「……だけど、その」

 

 今度は完全に心が折られたようだった。声は震えて俯きながら手指を遊ばせて必死に言葉を探す。

 

『ねぇ、いい考え思いついた!』

 

 絶対にろくでもないやつだ。俺は聞く耳など無いと視線で伝えてみるもののニンマリと嗤う幽霊の舌先は止まらない。

 

『簡単だよ! テニスコートを差し上げればいの! 言われるがままにテニスコートを貸し出してあげればいいじゃん! 拾い心で半分くらい使わせてあげて何が悪いの? ほんと器が小さいよね、雌犬三号って。完璧じゃん、何の問題も完璧な答え!』

 

 九音の言葉は確かに的を得ているように感じる。テニスコートの半分、使わない場所を差し出して、テキトーに遊ばせていればそのうち満足するだろう。

 

 たった一つの思いを、相談してきた戸塚の悩みを、本質を蔑ろにすれば――解決できるのだ。

 

『そこのファンタジー生物の強くなりたいって想いなんて蔑ろにして、部活を盛り上げたいって願いを踏みにじって、我が身可愛さに他人といざこざ起こしたくないから見捨てたとしても何の問題もない。むしろハッピーじゃん、こんな面倒事から解放されるなんてさ』

 

 あぁ、確かにそうだ。面倒事だ、昼休みに殺されそうなほどの筋トレを強いられ、その影響で機嫌の悪い幽霊のトレーニングで死にかけて。それで得られたものなんてほとんど無い。

 

 それにここで意固地になって戸塚が断れば明日からの教室での生活は針のむしろ。そう考えると受け容れるのは戸塚のためでもあるのだ。

 

 由比ヶ浜を見る。その表情は伺えない、気まずそうに顔を伏せているから。材木座を見る、我は関係ないとばかりに明後日に向かって口笛を吹いている、それ逆にめっちゃ目立ってるから。

 

 そして雪ノ下が消えていった方向を見る。あの方向にある場所から戻ってくるまでにはもう少し時間がかかるだろう。

 

 戸塚を見る。俯いて、誰の助けも求めずに自分で何とかしようとしている姿が目に入る。

 

 最後に九音を見る。意地悪くコート内の揉め事を見ながらニヤニヤと笑っているくせに――目が合うと判っているとばかりに小さくため息を吐いて『しょうがないなぁ』と言っては微笑む。

 

 俺は深く息を吸い込んでは吐いて、決める。

 

 俺は俺のやりたいようにすることに決めた。だからまず謝らなければならない。

 

「あー、悪い」

 

 ほんとに悪いことをしている自覚はある。こんなの雪ノ下が入れば文句を言われたり、平塚先生がいたなら小言を言われるかもしれない。でも居ないからノーカン。

 

 依頼人を部外者にして身勝手に自分の意見を通そうと口を開く。本当に自己中心的で悪辣な存在。バッシングや非難など受けて当然、むしろ非難ばかりされてきた俺。そんなのは今更。

 

 戸塚と三浦の間に言葉を割り入れては続ける。

 

「このコートは戸塚がお願いして貸して貰ってんだ。戸塚が顧問に頭を下げてな、だから悪いんだが他のやつらは無理なんだ」

 

 建前を口にして断る。本音は俺が気に食わないから使わせない。ただ、それだけ。

 

 俺の言葉に二人が振返る。自然と注目を浴びてしまう。

 

 そんな中で女王様は目を細めて戸塚と俺を交互に見ては苛立ち混じりに足をトントンと何度か叩いて威嚇を交えては言葉を投げてくる。

 

「は? あんただって部外者じゃん、なのに使ってるのはどーいうわけ?」

 

「戸塚の練習に付き合ってるだけであって、遊んでるとかじゃなくてアウトソーシングとかそんな感じなんだよ」

 

「ハァ? なにわけわかんないこと言ってんの? キモいんだけど」

 

 破ァッ! からのキモイの連続技に心が折られるところだった。危うく言われなれてなければ家に帰って泣いていたかもしれない。俺の心を折りたきゃ、九音の一匹や二匹連れてきてみろってんだ……『なんか、今、めっちゃ失礼なこと考えなかった』勘の鋭い幽霊である。

 

「まぁまぁ、二人共そんな喧嘩腰なんないでさ」

 

 俺と三浦の間に入ってきたのはクラスの王様である葉山。仲裁するかのように思いついた言葉を口にしている。

 

「ほら、みんなでやった方が楽しいしさ。そういうことでいいんじゃない?」

 

 爽やかな言葉に爽やかな笑顔。カーストの頂点でありながら低い態度と敵意無き笑顔を向けられれば大抵の女子は「まぁ、そうかな……好きかも」と納得するだろう。そして大抵の男子も「まぁ、そうかも」と納得する。

 

 けれど俺と――足山九音だけは違う。

 

『は? そういうことってどういうこったよ。その胡散臭い笑み引っ込めてくんない? 自分イケメンですって面吐き気するよね。八幡くんくらいになってから出直してくんない?』

 

 いや、それはお前の目がおかしいだけだわ……流石に葉山相手に顔面の勝負を挑めるほど蛮勇を持ち合わせていない。俺に出来るのはせめて言葉の揚げ足をとっては詰るくらい。

 

 ひゅるりといつものように背中に張り憑いてくる幽霊の戯言を聞き流して俺は――否定する。

 

「みんなって誰だよ。少なくとも俺は楽しくねーよ」

 

『ぷふっ』

 

 小さな笑い声が耳に入る。

 

「みんなで楽しむ? 冗談だろ? 俺は楽しくねーっつーの。お前らが男女混合でキャッキャウフフしながらテニスをしている横で過ごさなきゃならないってどんな拷問だよ。昼休みじゃねぇか、休ませてくれよ、俺の心を」

 

 お前らが視界に居るだけで心休まらないと伝えると取り巻きの何人かがこちらを睨んできた。俺は小さく鼻で笑い一蹴する。

 

「はんっ、葉山、お前はいい奴なんだろうな。後ろに居る奴らはみんなお前のことを信頼してるみたいだ、つまりそれはお前の人格が優れている証拠なんだろう。その上、お顔までよろしく、成績も優秀だと聞き及んでいる。そしてサッカー部のエースであって、さぞやおモテになるんでしょうね」

 

 地面に唾を吐くかこのように毒づきながら言い放つ。勿論の如く態度が態度である、これを素直に褒め言葉と受け取らないのは自然な流れ。周りの連中も敵意と困惑に満ちた視線を向けてくる。

 

「え、えっと、ヒキタニくんも楽しめるようにー」

 

『えっ!? 私達が楽しめるようにお前ら全員に的になるわけ? やったー! したいしたい! ストレス発散したい! 八幡くんしようよー! こいつらを的にしてテニスしようよぉ。それならファンタジー生物も楽しめるんじゃない?』

 

 楽しめねぇよ、むしろそれをゲラゲラ笑いながら出来るやつってこの中じゃお前くらいだよ。むしろひくわ、あんまりの性格の悪さにひく。

 

 もしも中学時代の俺だったならば葉山の言葉に絆され、涙を流し、御礼を述べて、葉山王国へ移住希望を出して、何も知らずに希望に満ち溢れた葉山王国を目指して歩き出すのだろう。そしてたどり着いて人間関係のあまりのハードルの高さに絶望してスラム街まで落ちる。勿論、市民権など発行されない。

 

 生憎なことに今の俺には通用しない、騙されない。残念なことに中学時代の純真無垢さは既に消えてなくなっている。

 

 葉山の言葉の軽さに信をおけるわけもないのだ。

 

 これだけのお通夜のような状況で戸塚の練習を片手間に楽しむなど土台無理な話なのだ。葉山の意見を否定するために俺は言葉を続ける。楽しいのは葉山キングタムの住人のみ。葉山キングダムはおろかクラスにすら居場所の無い俺が楽しむなんて絶対に無理ということを伝えるために。

 

「色々と持っているお前が何も持っていない俺からテニスコートまで奪うのか? 人格者として恥ずかしくないの? 非モテの俺たちを隅に追いやって女子と楽しむだなんてあまりにも人として非道すぎない?」

 

「そのとぉーりだぁ! 葉山某、貴様のしていることは最低の行為だ! 侵略行為だ! 復習するのは我にあり!」

 

 さっきまで明後日の方向見てて素知らぬ顔していた材木座が気炎を吐きながら俺の意見に乗っかる。その様子にリア充共は引いている。

 

『こいつ生きてて恥ずかしくないの? 八幡くんが言い出さなかったら絶対に黙ってテニスコート譲ってたよ。なに、自分もそう思ってたとばかりに声高々に言ってるわけ。死ね。このレベルの恥ずかしさってもう人どうこうとかじゃなくて生物として不適格だよね』

 

 やめてやれよ……九音は本気でゴミを見るかのような視線を材木座に送っていた。ゴミ認定した後に『仲間面うざい、この呪いの装備捨てれないの? おまえの席無いから』とぶつぶつ呟いていた。

 

「う、うわぁ、二人揃うと卑屈さと鬱陶しさと情けなさが倍増する……」

 

 由比ヶ浜が引き気味の声が漏れる。その感想に九音以外から見れば俺と材木座は似たりよったりなんだろうな、と軽く傷ついた。

 

 そんな由比ヶ浜の言通りに卑屈さと鬱陶しさと情けなさを武器に葉山へ抗弁してみれば王様は困ったように頭をがしがしとかいていた。

 

「んー、まぁ、そっかぁ……」

 

 ふっ、勝ったな。完全勝利、もはやテニスコートは守られたと言っても過言ではない。

 

「ねー、ちょっと隼人ぉー」

 

 気怠げな声が向き合う俺たちに投げられる。事の発端の女王様は既にテニスコート内でボールを手に取り、逆の手で握ったラケットでポンポンと遊んでいた。

 

「あーし、早くしたんだけどー、話終わったぁ?」

 

 ……この王様を相手に説得しても無意味だったのかもしれない。いやいや大丈夫だ。後は此方の意見は理解して貰えているだろう葉山の言葉を待つだけ。王様の言葉なら女王様も聞くだろう。

 

 終わったも何もお前らはさっさとテニスコートから出て大人しくすごすごと帰るだけ。俺の完璧な負け犬理論によりお前らの王様が完全敗北したのだ。後は尻尾を巻いて大人しく教室に戻ることだな。お前らにも待ってる家族(クラスメート)が居るんだろ。

 

 まさに完全勝利。敗北が知りたい。

 

「んー、あー、じゃあこうしよう。部外者同士で勝負。それで勝ったほうが戸塚の練習に付き合うというのはどうだろうか。確か、比企谷くんも戸塚の練習に付き合ってるんだよな? なら、戸塚も上手い相手と練習したほうが効率いいと思う。それに遊びじゃないのならなおさら効率のいい方を取るべきだと思うな」

 

 なるほど。

 

『……いや、なるほど、じゃなくて完全に言い負かされてるじゃん』

 

 ほげぇぇぇぇ!? 本当だ。いつの間にか俺の完璧な理論が崩れていた。いや、俺はやりたくないけど戸塚の為とか言われたら否定もできない。見てみろ、戸塚も「それなら……」みたいな顔してる。

 

「何それ、テニス勝負? 超面白そう!」

 

 三浦が獰猛な笑みを浮かべる。その瞬間に大勢が決まった、ふっ、所詮ボッチなどこの程度、意見を受け入れて貰えるなど全然思ってないし。この前、小町を送った時に一人で声たかだかに言ったところで誰にも響かないって自分で納得してたくらいだし。

 

 そこに在木材の肯定意見があったところでプラスどころかむしろマイナス。ぜんぜん、悔しくなんて無い。

 

『うっわ、めっちゃ悔しそう。でもいいじゃん、テニスでコテンパンにして格が違うってところ見せてあげようよ』

 

 俺って基本的に壁打ちくらいしか練習してないんだが。

 

『見てろよぉ、お前ら! 私の八幡くんがケチョンケチョンにしてやるからな!』

 

 葉山軍団を指さして宣戦布告する幽霊。その自信がどこから沸いてくるのか俺にはまったくと言っていいほどわからなかった。




次回投稿予定日は未定です
何度も変更申し訳ありません


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暮春【主演】

 

 人がひしめくテニスコート周辺。フェンス越しに集まるギャラリーの視線は期待たっぷりで。勿論の如く期待されているのは俺ではなく向かい側コートに居る男女二人。親にももう期待されない俺である、見知らぬ相手から期待されることなんてきっと無い。

 

『暇人、多すぎじゃない? そんなに興味がそそられる対戦カードなのかな?』

 

 九音の呟きに小さく「それな」と同意を示す。幾ら葉山や三浦が人気者とはいえ人が集まりすぎではないだろうか。仮に俺が関係の無い第三者なら少し見ていこうなんて思わないほど、どうでもいい対決。

 

 むしろ傍目から見れば単なる処刑。いや……、むしろ処刑だからこそ野次馬が集まってんのか。視点を変えて見れば少しばかり納得してしまった。

 

 とはいえ俺の処刑シーンに興味満々なん自意識過剰だろう。集まっているのは大半が葉山隼人のファンというやつ。やけに黄色い声援、葉山に対する応援が耳に入ってくる。よくよく見れば同学年だけではなく、三年や一年も居る、そんな人気者に集る軍団は――うげぇ。

 

『うっわ、ウェーブとか始めっちゃったよ……怖ぁ』

 

 九音の本気で気持ち悪いモノを見る視線。とはいえ俺も大差ない。理解不能な悪ノリに羞恥心を覚えてしまう。

 

 どこまでも他人事、対岸の火事ではあるものの、そんな他人事で済むのはこの瞬間まで。

 

 もうすぐ俺たちも巻き込まれる。問題の坩堝、その中でも極めて中心の方。断頭台へ上がる罪人のように執行は刻一刻と迫っているのだ。

 

「一応、部外者同士ってことから俺か、材木座だよな。どっちが出る?」

 

「我か……一応、庭球は全巻読破しているし、ミュージカルまで見にいった口だ。一日の長があると言えよう」

 

『言えねーよ、どの口で言うんだ、こいつ……死ねば?』

 

 九音の呆れた声、俺も同じく呆れてバカを見るかのように材木座を見つめる。いやようなじゃなくてバカだったわ……。

 

「お前に聞いた俺が悪かったよ。あとテニスを漢字で言い換えたんならミュージカルもきちんと言い換えろよ」

 

「ほむん、さもありなん。ならば八幡が出るほかあるまい。ところで、だ……ミュージカルって何と言うのだ?」

 

「だよなぁ、俺しかいねぇか」

 

 腹を括って周りを見回す。集まった人数に尻込みしそう。こんな観衆の前でテニスをしなければいけないとかどんな罰ゲームなんだよ。一流のスポーツ選手ですらホームとアウェーの勝率は異なるというのに、素人の勝負にそんなものを持ち込んだら萎縮して実力を発揮する前にビビって動けやしなくなる。

 

『やー、アウェー感満載だね。そもそも八幡くんにとってホームだなんて部屋くらいだからいつもどおりっちゃいつもどおり? 常にアウェーで戦ってきた君からしたら別に大した問題ってわけじゃないよね。それともビビっちゃってるの?』

 

 意地悪く嗤う幽霊に鼻で笑う。今更すぎる、それにこんな出来事なんて怪現象に比べたら容易い。負けて死ぬわけではあるまいし、搔くのは恥くらい。恥の多い人生を送ってきてるんだ、今更一つや二つ増えたところでどうってことねぇよ。

 

 誰にも聞こえないように小さく呟く。勿論、生きている人間で反応するやつは居ない。

 

『はぁー? なに、負ける前提で話してるわけ? 勝てばいいじゃん、勝てば!』

 

 無茶言うなよ……相手を見てから物を言えと幽霊を見る。同じ意味合いを含んだ質問が材木座からも飛んでくる。

 

「ふむ、八幡よ。勝算はあるのか? あと、ミュージカルの言い換えって何だ?」

 

「うるせーよ。勝算なんかねぇよ、後言い換えできねぇんならキャラの方を変えちまえよ」

 

「なるほど、頭いいな」

 

 素に戻って感心する材木座。欠片も嬉しくない。ついでにミュージカルの日本語なんて俺も知らねぇっての。

 

「ねぇ、早くしてくんない?」

 

 そんな俺達に声をかけてきたのは女王様であった。ガットを手でいじりながら此方を睨みつけては急かす。予期せぬ人物がラケットを握っていることにより俺は目をパチクリと瞬かせる。

 

 どういうことだ、と俺は王様を見ると王である葉山も驚いていた。いや、お前も驚いちゃうのかよ……。

 

「あれ? 優美子もやるのか?」

 

「当たり前だし、あーしがやりたいって言ったんだけど。それで揉めてんだからあーしがやるべきっしょ」

 

 めっちゃ責任感あんな……姉御肌というか、もうヤンママとかそこら辺。

 

「いやー、でも向こうも男子が出てくると思うよ。ほらヒキタニくんとか。彼、かなり強いと思う」

 

 いや、葉山、お前なんでハードル上げてくれるの、やめろよ。とはいえ葉山の説得に三浦は「へぇ」と、興味を持ったとばかりに此方へガン飛ばしてくる。まさに蛇に睨まれた蛙、ヒキガエルと化して身体を硬直させるが、その内心は竦んでなどいなかった。

 

 むしろ邪悪な笑みが浮かんでいる。ククク……ッ、バカめ……ッ。

 

 葉山隼人、サッカー部の大エースが出てくれば敗色が浮かんでくるがそこらへんでちゃらちゃら遊んでいる女子高生であるのなら負ける気などしない。さっきの由比ヶ浜ほどじゃなくても、ちょっと運動出来る程度なら軽く捻る自信はある。

 

 お前らが去年一年、放課後にボウリングしてはイエーイとハイタッチしてリアリアじゅうじゅうしている間、俺は怪異に襲われてそのまま遺影となるところだったのだ。絶対に負けねぇ……。

 

『うっわ、だっさ、情けな……ちょっとちょっと八幡くん! 私は君のカッコいいところが見たいだけであって、そういう情けないところ今は求めてないんだけど! 君があそこのいけ好かない、自分ってイケメンですよね? とか勘違いしている葉山って男子をボッコボコにしてほしいんですけど! そうやってアイアムナンバーワンってイケメンっぷりを発揮してほしい! そもそも君はそれでいいの? あんなギャル相手に完勝したところで虚しくならない?』

 

 ならない。

 

 俺は九音の意見に全然と首を振る。むしろ負ける可能性よりも勝つ試合の方がいいに決まってる。何言っちゃってるわけ? 葉山に負けてみっともない姿を公衆の面前に晒すくらいなら、三浦に勝って女子相手に本気出してみっともないと思われる方がマシ。

 

 それに女子の方が運動できないとか昭和の考えだろ。昨今の男女平等を考えるとそういう考えはよくない。例え体格差、筋肉量に違いがあってもそれは性差ではなく、努力の差でしかない。だから俺は一切、手を抜かない。

 

 フッ、勝ったな、この試合。

 

「あ、じゃあ男女混同のダブルスでよくない? うそ、やだ、あーしめっちゃ頭いい! あ、でもヒキオと組んでくれる奴いんの? とか。マジウケる」

 

 三浦の笑いがギャラリーに伝播してはドッと沸く。あからさまな嘲笑の的になった俺は卑屈に笑ってしまう。

 

『いや、笑い事じゃなくない? どうすんのさ』

 

 それな。ほんとウケるわ。完全に勝つ気満々だったのに、三浦の会心の一手により形成は完全に逆転。こういう盤外戦術とか卑怯な作戦良くないと思うわ。もっと正々堂々するべき。

 

 けれども俺が言ったところで覆らないだろう。幽霊の言う通り笑っている場合じゃない、本当に困った、心当たりがなさすぎる。

 

「あ、そーいえばなんかテニス部って女幽霊出るんでしょ? そいつと組めば? なんかヒキオらしくていいんじゃない?」

 

 どこかで聞いたかのような話を口にする。なにそれ、と興味を持つギャラリーと三浦は談笑を始めていた。

 

「いや、あーしも詳しいことは知んないけど。なんかテニス部って女幽霊が出るって話聞いたことあんだけどー」

 

 ふわふわと抽象的な話。聞き覚えがある生徒たちも居るようで、噂は集まり初めては盛り上がる。

 

 ただ居るだけなのにな。けれどもそれだけで悪なのだ。気持ち悪いものを、不快なものを、理解できないものを囃し立て、揶揄い、非難する。

 

 本当の話なら、居ると言知っているのなら。軽く扱っていい話題ではないにも関わらず、悼むべきで。けれども何も知らないから、信じてすらいないから、見えもしないから何とでも言うのだろう。

 

『私に肉体があれば、あんなこと言わせないのに……こんな奴ら、ワンパンで沈めてあげるのに』

 

 いや、そこは俺のテニスに協力してくれよ。そこはダブルス組めたのにとかそういうことじゃねぇのかよ。完全に頭の中、野蛮人じゃねぇか、こいつ……怖ぁ……。

 

 原始的解決方法が取れないことに臍を噛む九音を放ってどうするかと周りを見回す。

 

 少なくとも三浦はテニスで俺には勝てずとも作戦面で俺に勝つようだ。こんなのお手上げ、効果が抜群すぎる。

 

「八幡、このままでは不味いぞ。お前を相手にしてくれる女子など皆無……お前を! 相手にしてくれる女子などッ! 皆無ッ! 見知らぬ女生徒に希ったところでボッチで地味な貴様に手を貸してくれるなど到底思えん」

 

 なんで二回言ったんだよ、こいつ。んなこと、わかってるつーの。最悪、二対一でやるしかない。流石に二対一なら葉山も手を抜くだろう。その間にひたすら三浦を狙って点を荒稼ぎするしかねーな。

 

「比企谷くん、ごめんね……ぼくが女の子だったら良かったんだけど。ごめんね」

 

 ほんとそれ。ほんとにそれな。なんで戸塚が女の子じゃねぇんだよ。神様バカでしょ。こんなにかわいいのに女の子じゃないとかどういうこったよ……。

 

 いやいや、違う違う。そもそもが戸塚が女子だったとしても当事者であるが故に参加できない。あくまで戸塚は体裁だけでも中立を取り繕わなければなるまい。俺たちについたら前提が崩れちゃう。あまりの可愛さに錯乱してたわ。

 

『誰かに取り憑いたりできたら早かったんだけどね……ここいらで私、覚醒できないかなぁ』

 

 その口から漏れ出たのはオカルト業界にありがちな御話、憑依のことだろう。

 

 憑依、取り憑く、憑きモノ。人の肉体に生霊、死霊、動物霊が乗り移ることによってその人物を精神的、肉体的に影響を与える、操るといった御話。

 

 世界各地に散らばっている御話は様々で。人格を塗りつぶす、一変するほどの影響を与えるなんてことも。有名どころで悪魔憑き、狐憑き、河童憑きなど。霊という存在には非常に縁深い御話。

 

 ある意味、俺もこの悪霊に憑かれているという状況なのであるが、あまりにもこいつが俺を操ろうとする方法が原始的すぎる。

 

 意見を通そうとする時は大抵がただをこねたり、すねたりして意思表示をする。あんまりにも人間くさすぎて他の幽霊さんたちに失礼。

 

 一つだけ断言できるとするのなら、こいつからの何らかの影響を受けていたとしてもそれは――足山九音だからだろう。幽霊だからじゃなく、雑魚で、幽霊と呼ぶにはあまりにも騒々しく、それでいて恐ろしいほどに――。

 

『なんだよぅ』

 

 なんでもねぇよ、と小さく答える。その答えが気に食わないのか背中に張り付いて『なになに? なんだよ、なんだよぅ! 気になるってば! 言ってよぅ』と姦しい。

 

 やっぱ足山九音が幽霊なんて間違ってるわ。こいつがそんな大人しい存在であるわけがねぇ、自己主張強すぎ。じゃあ何なの? って聞かれたところで知らないから困るのだが。

 

 さて、どうするかと視線をコート内部に戻す。二対一というプランが現実味を帯びてくる。挑発の一つや二つでもすればあの短気な女王様だ、乗ってくるに違いない。

 

 そもそもが前提として間違っているのだ。テニスは別に一足す一が二に増える競技ではない。ましてや何倍にも膨れ上がるなんて素人同士では無理だろう。

 

 むしろマイナス、葉山の足を引っ張るなんて想像に容易い。むしろそこを突く。勝利のビジョンが浮かび上がり――悔しそうにギャラリーを睨む幽霊を見る。

 

 こんな催しに必要ない、と。こんなのお前が出る幕でもないと。

 

『……ぐぬぬ、覚醒、覚醒!』

 

 此方の様子に気づく様子の無い幽霊。手をかざして覚醒と何度も呟いている。ビックバンアタックとか撃つ構え。覚醒する方向が完全に間違っている。殺す気満々じゃねぇか。

 

 さて、と俺は振り返る。そこには葛藤している少女が居た。勿論、材木座も戸塚も悩んでいる。しかしながら種類の違う葛藤を抱える由比ヶ浜に向かって俺は必要ないと口に出す。

 

「それから、お前も出ようとか考えなくてもいいからな。ちゃんと戻れる居場所があるなら、そっちを守れよ」

 

 俺の言葉の意味が通じたのかなどわからない。けれども聞こえていたのは跳ねた由比ヶ浜の肩から伺い知れる。俯いているから表情などわからない。そもそも顔を上げていたところで俺に由比ヶ浜の表情から本心を読み取れるのか怪しいもんだが。

 

 戻れる居場所があるならそちらを。陽の中たる場所があるのならそっちを。ましてや雪ノ下が居ないこの状況でわざわざじめじめとした俺の、奉仕部未満ですらある此方側の味方なんてする必要も無い。

 

 俺に由比ヶ浜のことはわからない。何に葛藤をしているのかなど予想でしかなく、知ったような、理解したような素振りで得意気に話すことなんて出来るわけがない。

 

 それでも優しい女の子だ、心根が優しい処女なのだ。だからこの状況下で奉仕部の俺を天秤の上に乗せてくれるのだろう。けれどもその秤は間違っている。俺なんかが天秤の上で釣り合いが取れるわけないのだ。その幻想の荷重は由比ヶ浜の思い込み、優しさなんだろう。

 

 だから降りる。天秤の上から。

 

 俺には生きている人間で味方をしてくれるような仲のいい友人なんて一人たりとも居ない。それでもその事実を俺は恥じない、胸をはる。胸を張れる。堂々と生きていける。

 

 みんな仲良くなんて薄ら寒い標語なんて俺には必要ない。俺以外の誰かが心に刻めばいい。そもそもが俺たちは寄せ集め。仲良しこよしの集団なんかで無ければ、オトモダチなんかでもない。仲間意識なんてものは欠片もなく、たまたま一緒に居ただけの一人ひとりの集合体でしかないのだ。

 

 だから俺は一人でもいい。一人でも勝負を受ける。奴らが一人で居ることを悪だと、間違っているというのならそれは違うと証明したいだけ。一人と一体でも、一人きりに見えたととしても、例え他の誰かに見られていなかったとしても。

 

 俺の一年間は決して目の前の集団には劣っていない。

 

 平穏が欲しくて、生き延びることに安心して。いつもいつも危険ばかりで、救いの無い話ばかりで、悲惨さと悲壮さに溢れた御話に埋もれそうになったとしても。

 

 決してこの一年間を不要だったなんて思わない。

 

 まるで集団であることが正しいと、一人はバカだとせせら笑う奴らが待つコートへ。独りでも、中央を目掛けてゆっくり、と。

 

「――――る」

 

 小さな、とても小さな声が。群衆の喧騒に掻き消えてしまいそうな、それでも風にのって幽かに聞こえた音に俺は振り返る。空耳かと疑うような内容に尋ね返してしまう。

 

「あ?」

 

「やるって言ったの!」

 

 小さくうーっと唸った後に由比ヶ浜は真っ赤な顔をし此方を睨みつけてくる。

 

「いや、由比ヶ浜、お前……バカ、やめとけって」

 

「馬鹿じゃないしっ!」

 

「は? なに、お前、馬鹿なの? それとも俺のこと好きなの?」

 

 度が過ぎる優しさについ皮肉気味に尋ねてしまう。けれど、その言葉は――。

 

「す、好きで悪い!? あ、あちち、違うからっ! そういう意味の好きじゃなくてっ! ゆきのんもヒッキーも好きって意味だから! ほんと何言い出すの! そんくらいわかってよ! 馬鹿じゃん! バァーカッ!」

 

 混乱の極地に居る由比ヶ浜はバカバカと連呼し始める。近くにあったラケットをぶんぶんと振り回し始めた。ちなみに横を見れば材木座が死ぬほど恨みがましい目で見てきて、戸塚は苦笑している。

 

 ぶんぶんと振り回すラケットを避けていれば――女幽霊が手でTの字を作っていた。

 

『……タイム』

 

 競技は始まってすらいないのにタイムとか言い出し始めた。とはいえ、タイムと呟いた後に顔を伏せてプルプルプルプルと震え始めた。

 

『こ、こ、こっこっこっこっこぉぉぉぉぉぉ!』

 

 なんで急に鶏のモノマネし始めてんだよ。ラケットを軽やかに避けながら鶏と化した九音を見つめる。

 

『こっこっこ、こ、こん、こんなの! ダメでしょ! 待って待って、タイムタイム! 八幡くんが独りで戦おうとする決意に私がしょうがないなぁとばかりにヤレヤレして新しい能力とか覚醒して助ける流れだったっじゃん! そこら辺のモブに憑依して私が八幡くんを助けるヒロインになる流れだったよね? そうだったじゃん!』

 

 いや、それはお前の頭ん中だけだろ……。少なくともピンチになって覚醒するなんてご都合主義はこの一年間の酷い経験上、存在しないといえる。

 

 っていうか、この性悪幽霊に乗り移られるとかその女の子が可哀想。少なくとも悪影響だらけの悪意塗れの悪霊に取り憑かれて性格が悪くなるとかあまりにもムゴい。

 

 霊に取り憑かれて性格が変化するなど憑物譚にはよくある展開で。守護霊や背後霊によって性格も一変するという話は特段として珍しいことではないのだ。

 

 そんなことを妄想していた女幽霊は天を仰いで、まるで魂が抜けるように呟いた。

 

『わ、わたしのかんぺきなひろいんむーぶが……』

 

 完全に呆けきった幽霊はもう放置しておくこととして、問題は由比ヶ浜だ。

 

 彼女の関係者各位の様子を盗み見ると視線がこちらへ集まっていることに気がつく。どこまで聞こえていたのかわからないが、それでも面白くないとばかりの視線。ちなみに材木座からも似たように面白くないとばかりの視線。お前、味方じゃねぇのかよ。

 

「いや、落ち着け、空気読め? もっとよく考えろよ、お前の居場所って別にここだけじゃねーだろ。ほら、向こう見てみろよ、グループの女子、めっちゃお前のこと見てんぞ」

 

「え? ウソ!?  マジ……?」

 

 頬を引きつらせながら恐る恐るといった体でゆっくりと首を動かす由比ヶ浜。まるで壊れたブリキのように錆びついた音を奏でながら振り向く様子はさながらホラー映画の一幕。

 

 大体振り向いた先に居るのはやべーやつ。今回もジャンル的には似たようなもんであるが。

 

 振り向いた先、恐怖に押し負けてなのか、好奇心に逆らえなかったのか。理由は由比ヶ浜にしか、いや由比ヶ浜にもわからないかもしれない行動の果て、視線の先には女子グループ。

 

 女王様を中心としたグループ。その中でも特に中心人物とも言える三浦が目を細めている。アイラインやマスカラで大きさを強調している目が細められることで明らかに面白くないという表情が伺い知れる。くるくると縦に巻かれた金髪はドリルのようで、その螺旋をくるくると指先で遊びながら、足はトントンと貧乏ゆすり。

 

「ねぇ、ユイー、あんたさぁ、ソッチ側につくってことはあーしらとやるってことなんだけど、あんたそれでいいわけ?」

 

 どすの効いた声。恐怖を煽る声色が由比ヶ浜に注がれる。

 

 由比ヶ浜の指先は震えていた。それが表す感情は恐怖なのか、痛みなのか。ぎゅっと強く握られたスカートの皺。

 

 恐れを抱いたのは由比ヶ浜だけではない、その光景を見ていた第三者もだ。見ていたギャラリーも、近くに居た筈の女子グループも、王様ですらその空気から目を逸らす。

 

 それでいてことここに至って本当に他人事なのは未だに呆けている足山九音と――俺だけだった。

 

 それこそ、どこか映画を見るかのように、目の前で、巻き込まれていながら、中心に居る筈なのに。テレビ越し見る修羅場のように見ていた。

 

 だから――気づけてしまった。由比ヶ浜の息を飲む声が、振り絞る勇気が。口にするよりも前に。

 

「そ、そういうわけじゃない、って、こともないけど、さ……で、でも! あたし部活も大事! だから……だから、やるよ」

 

 はっきりと告げられた言葉。紡いだ言の葉。言霊はっきりと意思表示をしていた。口に出したのなら飲み込めない。なかったことには出来ない。

 

 そんな明確な意思表示を――ん?

 

「へー、そーなん。恥をかかないようにね」

 

 言葉はそっけない。そしてあっさりと引いていった姿は――そして、最後に一瞬だけ見えた目を細めた表情は。

 

 俺は字義どおりの無関心さを感じ取れなかった。むしろ、むしろ――言葉にするにはあまりにも色々な感情が見て取れた。

 

 いや、俺の思い込みだろう。気のせいだ。頭を振って否定する。

 

「着替え。女テニの部室借りるからあんたも来れば?」

 

「う、うんっ」

 

 テニス部部室に消えていく二人。ギャラリーはやべぇよ、やべぇよと騒いでいる。確かによくよく考えれば人目のつかないところに由比ヶ浜をよびだしたと見て取れなくも無い。

 

『……まぁ、大丈夫だよ。というか私的には大丈夫じゃない方が面白いんだけど』

 

 九音の意見に同調するわけではないが、大丈夫だろう。というか、大丈夫じゃないのは俺の方。

 

 なんか男子からも女子からもすごい目で見られてない? 特に男子からの視線は刺さるかのような代物が混じっている。

 

 そんな中、王様はこの状況で苦笑しながら近づいてくる。

 

「あのさー、ヒキタニくん」

 

 相変わらず間違っている名前を否定しようとも思えず、なんだよと視線で尋ね返す。

 

「俺さー、テニスのルールとかよくわかんないんだよね。ダブルスとか余計に難しいし、だからテキトーでもいいかな?」

 

「まぁ、素人同士だかな。卓球みたいに単純に打ち合って相手のコートに入れた方の点数とかでいいんじゃねーの」

 

「あ、それわかりやすいね。それでいこうか。ラインに関しては経験者である戸塚に判断してもらって、審判も戸塚に任せよっか」

 

 葉山が爽やかに笑う。その笑みに対して俺も意味なく悪い顔でニヤリと笑う。審判を任せられた戸塚も交えて三人で最低限のルールを取り決める。

 

 決まったルールは単純なもので十点先取で、デュースの場合のみ二点差がつくまで続行という曖昧なルール。テニスもどきのルールを構築しているうちに着替えに向かっていた二人が戻ってきた。

 

 由比ヶ浜が頬を染めながら近づいてくる度に男子が小さくどよめいている。服装の乱れを、ピンクのポロシャツと白のスコートを抑えて歩く姿は普通に歩くより目立っている。

 

 ふと横目で幽霊の着ているテニスウェア姿と比べるとその色合いの違いに気づく。てっきりこの幽霊は総武高校のテニスウェア着ているかと思えば全然違ったらしい。雑誌か、テレビか。情報源が不明のテニスウェアは黒を基調とした代物。紅の線と相まってどこかシャープな印象は強豪校と彷彿させる。

 

 そんな見てくれだけは強豪校やプロの一員に見える女は由比ヶ浜を見ては憎々しげに言い募る。

 

『何だァ、コイツぁ……その歩き方、誘ってんのかよ。けっ、ぺっ、ぺっぺっ』

 

 相変わらず態度の汚い女幽霊である。女の子ってこうさ? もっとさ。おしとやか? とかそんな感じじゃない? と夢を見ていた俺の女性観は既にズタボロ。欠片どころか粉と化している。

 

「て、テニスウェアって恥ずいし……なんかスカート短くない?」

 

 丈の位置を歩く度に気にする由比ヶ浜。お前、いつもスカートとかそんな感じじゃねぇか、と突っ込もうと思うが、かがみ込む由比ヶ浜の様子に言葉はせき止められる。

 

 緩いポロシャツの隙間、首筋の先から――。

 

『……八幡くん?』

 

 声を掛けられた方向を見ればにっこりと笑う女幽霊が。いやいや、俺は今戦略練ってただけだから。

 

 相手は葉山と三浦というコンビ。こうなれば三浦を狙うのは常道。男子と女子の運動量、体格差を考えれば自然で。葉山がサッカー部のエースという点を鑑みてもなお正しい。相手にするだけ損。ならば如何にも遊んでそうな三浦を狙うのは作戦として正しい。チャラチャラとテニスを楽しみに来たリア充など格好の的。スポッチャやなんやらでウェイウェイするのとは違うってことを俺が教えてやろう。

 

『それ以上見てたら目を潰しちゃうとこだったゾ』

 

 可愛らしくきゃぴるんとばかりに甘い声で恐ろしいことを言う幽霊。背筋に氷嚢を当てられたかのようにぶるりと一震え。目は笑っておらず、ついでに口元も笑ってない。真顔なので怖い。真顔でそんな声使うんだからちょっとしたホラー。

 

「ねー、ヒッキー……これ、短くない? ない?」

 

 未だにしきりにスカートを気にする由比ヶ浜。けれども九音に怯えていた間に俺は既にパーフェクトな答えを導きだしている。

 

 褒めれば九音が怒り、下手に貶せば由比ヶ浜が怒る。故に俺はただただ事実を口にするばかり。

 

「いや、普段からお前のスカートそれくらい短いじゃん」

 

 かんぺきな回答。褒めてもなければ貶してもいない。客観的回答を口に述べる。これこそが求められていた答え。またしても勝ってしまった。こういう状況で俺より上手に答えられるやついんの? ってレベル。

 

「はぁ!? な、なにそれ。い、いつもアタシのこと見てるってこと!? き、キモイキモイ! まじでキモいからっ!」

 

『はぁぁぁぁ!? なにいつもお前のこと気にしてるアピールしてんの!? 変態っ、変態っ、すけこましっ!』

 

 ここまで言う?

 

 俺のパーフェクトは完全に幻想だったようで。むしろ赤点。二人、もしくは一人と一体、一人と一柱、一人と一匹はこれでもかとばかりに責め立ててくる。由比ヶ浜に至ってはラケットを拾ってぶんぶんと振り回してくる。

 

「だ、大丈夫、見てねーから! 全然、見てない、眼中に入れてない! 安心しろ!」

 

「な、なんかそれはそれでやだし……それならもうちょっとくらい見てよ」

 

 ゆっくりとラケットを下ろす由比ヶ浜。九音は何故か頷きながら『うんうん、こういうのでいいんだよ、こういうので』とか納得していた。どこ目線だよ、こいつ。

 

「ほむんほむん!」

 

 するとそのタイミングで咳き込みなのか鳴き声なのかよくわからない言葉を口にいながら材木座が混じってくる。

 

『……こいつ帰ってなかったんだ。帰ればいいのに』

 

 しらっとした視線を向けて九音は本音をぶちまけていた。完全にお邪魔キャラ扱いである。

 

「ふむ、して八幡よ。作戦の方はどうする?」

 

『なんでこいつが仕切るわけ? ほんと恥とか無いわけ? 息するなよな、二酸化炭素増えるでしょ。酸素が減るでしょ。空気が汚れるでしょ。せめて空気清浄機くらい自前で用意して』

 

 ボロクソに貶す幽霊に苦笑を漏らしながら材木座の質問に答える。その場全員に伝わるように作戦内容を伝えることにした。

 

「まぁ、当たり前っちゃ当たり前だがペアの女子を狙うのが上策だろうな」

 

 俺が口にした内容はおおよそ見当がついていたようで「さもありなん」と材木座。九音は『だよねぇ』と同意してきた。

 

 ただ一人、由比ヶ浜をのぞいて。

 

「え? ヒッキー知らないの?」

 

 きょとんとして目をパチクリとした様子で俺に問いかけてくる。何を知らないと――。

 

「優美子、中学の時に女テニで県選抜なんだよ。テニスめちゃ上手いし」

 

 俺は由比ヶ浜が述べた言葉をゆっくりと噛み砕いて、そしてギギギと油をさしながら後ろを振り向く。そこにはフォームを確認している女王の姿。その隣には王様がしきりに頷いている。お前が教えられてんのかよ。

 

 再び首を動かして各々の表情を浮かべれば九音は渋い顔で呟いた。

 

『こりゃ、無理かも』

 

 あっさりと匙を投げる女幽霊。そして残る材木座は何故かニヒルに笑みを作っている。

 

「フッ、縦ロールは伊達ではないということか」

 

「あれ、ゆるふわウェーブなんだけど」

 

 どっちでもいいっつーの。つーか、誰だよ、女子を狙えば簡単に勝てるとか、勝算があるとか言い始めた奴……。絶対に許さねぇ。

 

 

 

~~~~~~~~~

 

 選抜。えりぬく、すぐりぬく、よりぬくと読み方、読み名は複数あれどその意味に大した違いは無い。

 

 多数の中から優れたものを選び出すことを意味する言葉。そして県選抜といえば千葉県内の中から選びぬかれたという意味している。千葉県内のテニス人口がどれほどまでかわからない。そもそも公立中学校出身であろう三浦がやっていたのは軟式テニス、ソフトテニスである可能性が極めて高い。

 

 ソフトテニスの人口といえば母数は限られてくるだろう。それなら何とか――等と甘い考えは切り裂かれた。

 

 風を裂くかのように放たれた弾丸は俺の甘い期待をずたずたに引き裂き、俺の真横を過ぎ去る。前情報があったとはいえ、俺は未だ甘く見ていた。

 

 キレイなフォームから放たれた弾丸は他所に意識を割きながら取れるほど生易しいものではなかった。

 

『うわぁ、これ……無理でしょ……』

 

 幽霊が小さく呟いた声は現実味を帯びている。一対一の点運びから勝負の流れを確実に呼び寄せたサービスエース、格の違いを見せつけられた。

 

 ギャラリーも小さくどよめきを上げて、ボールを放った女王は得意気な表情。いや、そんな顔にもなるわ……。

 

 最初でこそ盛り上がっていたギャラリーも、俺がレシーブを重ねるごとに小さくなり、応援も歓声も水が差したかのように。

 

 下馬評を覆すかのような俺の動きは意外だったのだろう。追っては返し、追っては返す。ただひたすらに続くストロークはギャラリー達が望んでいる期待を完全に裏切った。

 

 裏切ることや期待ハズレは俺の真骨頂である。

 

 葉山対俺のストローク対決は攻め急いだ葉山のミスにより俺に軍配が上がることに。そして二球目も同じような展開に陥り――今度は葉山のボレーが決まり点を取られる。

 

 ネット際の角度のついたボレーは流石に拾うことができない。故に次からは相手の動きも予測しながらストロークをする必要があると脳内をアップデートしている途中に三点目はあっさりと奪われた。

 

 今までの長いストロークは前座とばかりにあっさりと。

 

 かくして拮抗していた天秤は向こうのチームに傾いた。それこそ俺や葉山ですら前座扱いできるほどのハイプレイヤーであったらしい。そんな三浦に対して俺は――。

 

「めっちゃ上手ぇじゃん……」

 

 思わず漏れた呟きに反応したのは同陣営に立つ由比ヶ浜。

 

「だから言ったじゃん」

 

 由比ヶ浜は自信満々にふんすと鼻を鳴らす。向こうのグループとの関係は未だにどうなっているかなどわからないし、部室でどんな話があったのかわからないが。少なくとも由比ヶ浜自身にはそこまで隔意があるわけではないらしい。

 

「……ってかお前さっきからぜんぜんボール触ってねぇだろ」

 

 さっきまでの自信はどこへやら。きょどきょどと目を泳がせては止まってたははーと誤魔化し笑い。

 

「や、なんてーの? テニスはあんましたことなくてさー」

 

 その言葉に俺は目を丸くして驚きのあまりにそのまま思ったことを口に出してしまう。

 

「は? お前、テニスしたことないのにやるとか言ったの?」

 

「むぅ、悪かったわね」

 

 むくれる由比ヶ浜。いや、別に貶してねーよ、褒めてんだ。

 

 むしろどこまでお人好しなんだ、こいつ。

 

 ほとんどやったことの無い競技で更に相手は県選抜にサッカー部のエース。恥を搔くのなんて丸わかりで、それでも戸塚のために大勢の前で試合をするなんてどんだけいい奴なんだよ。

 

 これで実はテニスが上手かったとかなら最高にかっこいいシチュエーションなんだがそうそう上手くはいかないもの。むしろ、参加してくれているだけで頭が上がらない。

 

 そんなご都合主義なんてありもせず、実力差は明々白々。

 

『私が手伝おうっか? 私ならスーパーサーブも、スーパーレシーブもツイストサーブもドライブも回転かけ放題だけど』

 

 背中にはり憑く女幽霊の提案に首を振る。冗談じゃない。確かにそうすれば勝てるだろう。けれどもここは日常だ、どこまでも日の当たる場所なのだ。

 

 俺に不釣り合いな場所ではあれど、それを理由に非日常を巻き込んではならないのだ。

 

『……まっ、そうだよね。つーん、だ』

 

 わかってたとばかりに呟き拗ねる幽霊。俺は転がっているボールを拾い上げてベースラインに立つ。そして二度ほどポンポンと跳ねさせては手にとり、手から滑らせてアンダーでサーブを打つ。

 

 まっすぐと飛んでいくボールは葉山が難なく追いつき、返される。オイオイオイオイ――。

 

 そういうことしちゃうのかよ!

 

 葉山が返した方向は俺ではなく、由比ヶ浜。俺が取ろうとしていた戦法を葉山は躊躇いもなく選択した。

 

「あ、あわわわわ!」

 

 速度のあるリターンを拾おうと由比ヶ浜は賢明にラケットを振るも掠りもしない。虚をつかれど、追いついた俺はボールを拾う。

 

「あ、ありがとヒッキー!」

 

 由比ヶ浜の背後から影が伸びる。

 

 伸びた影は三浦。延長線上には待ってましたとばかりに構えていたのだ。そして角度のついたボレーを逆サイドに決められれば俺に成す術もなく天秤はさらに傾く。

 

 由比ヶ浜はしまったと表情に浮かべていた。そしてそのまま試合は一方的に。まるで水が流れるが如く点数が重ねられる。

 

 ボードに六の字が刻まれた時に小さく「あぅ」と由比ヶ浜が呻いた。既にギャラリーの歓声も戻っていて、点数が挙がる度に歓声が。

 

『完全に狙い打たれてるじゃん』

 

 九音の呆れも混じる声は由比ヶ浜を詰っているが俺は気にすんなと声をかけて定位置につく。

 

 というか早い、早すぎる。

 

 予定よりもかなり早い段階で葉山たちが由比ヶ浜への集中砲撃が始まっていた。わずか一点しかとっていないにも関わらず、攻略法を取られた。

 

 最初に葉山相手に勝ったのが勝負を急がせたのか? いいや、そうじゃねーな。こんなポジティブな意味合いじゃない。そもそもが俺なんかにかまってる暇なんて無いのだろう。相手にするだけ損。相手にもしたくない。そんな感じ。

 

 テニスでも嫌われものなのかよ、俺。

 

「……ごめんね、ヒッキー」

 

「謝んな、なんも悪いことしてねぇだろ」

 

 それでも気にするのだろう。空っぽの言葉など、軽い言葉など何の意味ももたない。事実として対抗できていない俺たち、俺がその言葉を口にしたところで慰めになんかなりやしない。

 

 九音が意地悪く笑っている。ほらみろ、私の力を借りてれば負けなかったじゃん、こんなことにならなかったじゃんと。いますぐ撤回するといいとばかりに。

 

 悔しいことに事実だ。俺じゃあどうしようもない。濁流のような勢いに抗う術など持ち合わせていない。それでも俺のちっぽけなプライドが、融通の利かないルールが、譲ってはいけない線が。

 

 足山九音の力を借りてはいけないと言うのだ。

 

 いつも都合よく、嘘を囁きながら、利用していながら。事此処に至って拒否してしまう。オカルトを現実に用いてはならないと。

 

 けれどもこの濁流は人の手によるものだから、人の手で解決せねばならないと強く思う。鯉が滝を登るかのように、その流れに抗うつもりでいる。

 

 誰のために。俺のために。

 

 負けるつもりだって無い。諦めているつもりもない。そんな物わかりがよければこんなことになっていない。この勝負も成りた合ってない。

 

 けれども、ナニカ。何かきっかけが無ければ――この濁流に。

 

『……』

 

 俺は流れを変えるためにアンダーサーブをやめる。上に放り投げて、ラケットを振りおろす。

 

 ――入った!

 

 ストレートに入ったボールは先程より勢いを増すが――レシ―バーは葉山から三浦に変わっていた。渾身の一撃、今日一番のサーブは経験者によりあっさりと拾われて返される。

 

 由比ヶ浜の横を抜けて返ってくる。

 

『……ほんと、君ってば私が居ないとダメダメなくせに。ほんと強がり。意地っ張り。八幡っぱり』

 

 背後から聞こえる呟き。

 

『約束どおり、手は出さないよ、手は』

 

 ボールが手元に来て打ち返そうとする瞬間に――耳元に囁きが。

 

『右サイド奥、がら空き。浮かせて打って』

 

 ラケットを持つ腕、ボールが当たる瞬間――俺はストロークを返す場所を変える。

 

 大きな円弧を描きながら宙を浮いたボールは、まるで幽霊のようにポンポンと。

 

 まるで一人でそこに居るかのように。

 

 遅れて近づいた足は既に二度、三度跳ねた後。

 

 静寂が広がる。点が入ったにも関わらず今度は誰一人として声を挙げなかっった。

 

『完璧じゃん、私』

 

 自画自賛、自己肯定。まるで自分の手柄とばかりに呟く声。表情など見ずともどんな顔をしているかなど丸わかり。渾身のドヤ顔を浮かべているに違いない。

 

『あれれー? おっかしいぞぉー? なんかさっきまで力借りないとか言ってたくせに、私の指示に従っちゃうだなんてぇ、恥ずかしくない? なーい?』

 

 ニヤニヤと笑う幽霊に俺は小さく笑う。そして普通に言い返すならこう言おう。

 

 俺もそこに打とうと思っていたんですが? と。

 

 この状況に何もオカルトは存在しない。ありえない回転や、不思議はどこにも無い。だから幽霊の力を借りたなんて誰も信じない。言えば妄言、呼ばれるは救急車。

 

『くふっ、ふふっ、ふふふっ。ま、いいよ、それで。私が口だそうとした所は君も打とうと思ってたところ。そうであっても何の不思議もないよね。だってこの一年間を共に過ごした私達じゃん。それくらいのツーカーでも何の不思議もないよ』

 

 背中に回された透明の腕。力を込めるかのようにギュッと強く回される。

 

『それじゃあ、急造の偽物コンビに本当の比翼連理ってものを見せてあげよっか。人間対人間、八幡くんに逆らう反乱分子をさっさと討伐しちゃおう』

 

 んだよ、反乱分子って。九音の呟きに苦笑を零して構える。続く相手のサーブは三浦。相変わらず弾丸のようなサービスは一息たりとも気の抜けない。

 

『……厄介だね。さっきの虚を射抜いたせいで全体に意識いってる。生半可な球だと簡単に返されちゃいそう』

 

 ボールに回り込んでストレートに打つ。けれども同じように回り込んだ三浦が対角線に。それを同じように打ち返す。

 

『……なるほど、それいいかも。ラリー勝負じゃ八幡くんに分があるね。一対一の勝負といこうか。あの金髪共に八幡くんのシコシコ見せてやろうぜ、シコシコ』

 

 女ん子がシコシコとか言うんじゃねぇよ……。この幽霊が呟く言葉はテニス用語の一つ。

 

 高い技術を必要ともせずに粘って、相手のミスを待つスタイルのこと。強打や華やかな技術を求められないスタイルは俺に向いていた。

 

 伊達に壁と毎日仲良くしていたわけではない。回数を重ねるごとに正確になる返球。ただそれだけをモチベーションに練習していたのだ。ボレーや、スマッシュなど派手なプレイなど無縁で。

 

 地味の中の王様。キングオブ地味、地味の中の地味を追求したそのスタイルは――少なくとも目の前の経験者相手に通じている。

 

 いや、正確に言えば――息を切らし始めた女王様を見て上回っていることを実感する。少なくともこの一年間の間に死にかけて、必要として、鍛え上げて、それでも無駄だった体力が今回ばかりは役に立っていた。

 

『くふっ、見なよ、八幡くん。あの苦しそうな顔、くふふふっ、ぷくくっ、もうすぐミスしそう』

 

 人の苦しむさまを愉しそうに見る悪霊。ろくでもねぇな、と感想を抱くが確かに向こう側で打ち返す三浦の表情は少し歪んでいた。それなりの速度のあるラリーの応酬である。仕方ないことと言えば仕方ない。

 

「優美子! 俺が後ろに――」

 

「いいからっ! 今、代わるミスるっ!」

 

 大声で怒鳴りあう対面のコート。その様相を――。

 

『くーっくっくっく! 仲間割れぇ? 仲間割れしちゃうの? ぷぷーっ! おっと、八幡くん、相手逆サイド狙ってるよ? どうやら仕掛けてくるみたいだね』

 

 いや、お前の笑い方邪悪すぎない?

 

 中央に走りかけていた足を止めて、再び走り出し地点へ。

 

「……なっ!?」

 

 三浦の顔が驚きに染まる。読まれたことに驚いたのだろう。確かに初心者の俺にそういった駆け引きは出来ない。そういった技術を身につけるにはあまりにも経験値が足りない。

 

 いや、別に九音がいなくてもどうにか出来たし、なんならわかっていた。ほんとほんと、この幽霊に助けられたなんてことはない。

 

 とはいえ、流石の性悪と云った所。駆け引き、トラップ、ブラフ。悪意に関してスペシャリストを名乗る足山九音を嵌めようなんて前提が間違っているのだ。どこを攻めてやろうとか、どこを突いてやろうだとか。性格の悪さなら一等賞を取る女に邪道は通用しない。

 

 意表をつくために伸びてきたストレートのストロークを目一杯振り抜き、逆サイドへ。葉山も必死にラケットを伸ばすが届かず、走り込んだ三浦も間に合わずに点が動く。

 

 六対三。一方的に流れていた勢いは立て続けに点を重ねて打ち切った。狭まった差は数字以上のものがあるかのように感じる。

 

「ふぅ……」

 

 軽く息を吐いて整える。少しだけ出た汗を手で拭い、向こうのコートから渡されたボールを勝手にサーブへの定位置へ。

 

「ヒッキー、すごいじゃん!」

 

 由比ヶ浜の声に適当な返事をしながら対面のコートを見る。三浦と葉山は集まって何がしかを話し合っていた。何か確認を獲っているのかもしれない。

 

 けれどもその答えははっきりと解りやすい。レシーバーの位置に葉山が立つことで向こうの戦術がわかったのだ。

 

『……ありゃ、対応早い。というかプライドとか鑑みてももう少し余裕があると思ったんだけど。向こうのチームって意外と八幡くんを過小評価していないのかも』

 

 九音の悩みの声にお前のせいだけどな、と小さく呟く。

 

 体育の際に見せたあの動きを勘定に入れたのならこっちに対して油断なく対応するのも仕方ない。偶然とか、偶々だとか思ってくれている間に点数を重ねる戦略はどうやら取れないらしい。

 

 前に出る三浦、中途半端なボールは打てない。いや、それどころかボレーやスマッシュを決められないようなボール運びをする必要がある。経験者が前に立つということはポーチするつもりがあるのだろう、ネット際の攻防を許してしまえば分が悪いどころか一瞬で決着がつく始末。

 

『ポーチやボレーって経験者じゃなきゃ難しいから前に経験者を置く。甘い球が打たれたら叩く気満々。自然とそうなればコースは限られてきて……うーわ、ガチじゃん……、素人相手に恥ずかしくないの?』

 

 九音の言葉に半ば頷きながらも適応力の高さに恐れ慄く。

 

 葉山相手だけなら何も問題ない。長々としたラリーはどうやら俺に向いているようで、しかしながらそこに些細なミスも許されないとなると話は変わってくる。

 

 ポーチボレー。

 

 後衛同士の打ち合いの最中に前衛プレイヤーが大きく移動しボレーを放つ。ポーチの意味合いは他人の領域に侵入する、密猟する、奪うという意味合いを含む。

 

 本来なら意表を突くプレイではあるが――わかっていても決定打足り得る状況。

 

『シングルスなら勝てたのに……ムカつく』

 

 呟いた言葉に苦笑が漏れる。まぁ、こんなもんかと自分に言う。別に敗北なんていつものことで。怪異に勝てない俺は日常でだって誰にも勝てやしない。

 

 足山九音の手を借りても実力テストは総合二位、自分で気づかなかったミスを指摘されてケアレスミスをなくしても一番にはなれない。

 

 テストのときのように素知らぬ顔で、わかっていたとばかりにお礼も述べずに書き直す。

 

『……来るよ』

 

 コートに集中する。そして放たれた弾丸は葉山隼人の今日一番のサーブであった。同じように上から振り下ろしたサービスはコートの奥底に突き刺さろうとしている。

 

 甘い球など返せやしないというのに。

 

 ほぼほぼ反射的に拾ったボールは緩やかなロブを描いてコートの奥へ。そして余裕のあった葉山は勢いよく振り抜いて先程とは逆サイドへ。

 

 センターラインに戻って、さらには逆サイドまでたどり着き返す――が、まずい三浦が不味い位置にいる。少し打ち上げては三浦の頭上を超えて葉山の下へ。

 

 力なく揺れてたどり着くボールに、またも余力のある葉山が力を込めて振る。再び厳しいコースに弾丸が放たれる。

 

 流石はサッカー部のエース。顔もよくて、みんなから人気があるだけはある。スクールカーストの頂点に立つ男はことここに至って一段とギアを挙げてきた。

 

 それが本来の実力なのか、それともこの勝負の中で培ったものなのかは判断がつかない。それでも最初よりかは遥かに鋭く、エグいコースに放たれる。

 

 バックハンドで打ち込むもののそのコースは――。

 

 待ってた、とばかりに緩いボールは前衛が打つには絶好の機会。

 

 わかっているにも関わらず打ち込むしかなかった。故に足は三浦が狙えるコースへ向かって走る。角度のついた最奥。滑り込むように追いつき、飛び退りながら何とか拾い上げる。

 

 拾い上げた球は――力無く宙を浮く。誰にでも判るチャンスボール。俺はすぐさま反転し、地に片手をついたまま体制を立て直す。目を見開いていた三浦に対して来るなら来いとばかりに体制を立て直して。

 

 けれども、いつだってそうだった。

 

 当たり前だった。俺は中学から今日に至ってずっと振られ続けたのだ。そんな無視されるのが当然な俺にボールを打つ筈もなく――三浦は体制を傾けて由比ヶ浜の方向へスマッシュを叩き込む。

 

 勢いよく刺さる球は由比ヶ浜の真横を通り抜ける。けれども、諦めていたのは俺だけで、由比ヶ浜は欠片も諦めちゃいない。既に通り過ぎていて、背後でポンポンとハネて音を立てて。それでも振り抜いて、空振ったラケット、そして足を縺れさせて転んで。

 

 嘲笑が沸く。クスクスと嫌な嗤いが、見下したような笑みが、馬鹿にしくさった声がコートの中に響き渡る。

 

「……無事か?」

 

 お互いがこけて無様を晒したコート内。笑われるなどいつものことで、馬鹿にされるのも、嫌われるのもいつものこと。

 

 しかしながら、俺だけの話で一緒に由比ヶ浜も笑われるのはどこか違う気がする。

 

「超怖かったし、恥ずい」

 

 由比ヶ浜の言葉に三浦の視線は一度こちらを伺うかのように。けれども俺が見ていると知るやいなや逸していた。それでいて逸らした先のギャラリーは笑いをやめると言うのだから、一体俺たちは何と勝負していたのか忘れてしまいそうになる。

 

『ぷーっ、クスクス! だっさぁ!』

 

 ちなみに一番笑っていたのはこの女幽霊。腹を抱えてゲラゲラと笑っては笑いを切るかのように一息つく。

 

『はー、ほんとダサダサだよねぇ。ダサいし、役にた立たないし、挙げ句の果てには空振ってこける』

 

 だから、と九音は付け加えた。まるで別の方法があるとばかりに。

 

『こんな奴、さっさとベンチに引っ込めたほうがいいよ。どうせ、いまのでビビって見世物にするにも哀れだしね。だからさっさと下げちゃえ、八幡くん』

 

 違和感を感じた。こと由比ヶ浜のことなどどうでもいいと言う九音がこうやって口を出すことに。

 

 いつものように悪口に塗れた言葉は何か意味があるかのようで。

 

 だが、九音の言うことにも一理ある。正直、勝ちの目はほとんど見えない。それこそ性悪幽霊が歪な回転をかけない限り、正攻法での勝ち筋は完全に潰えた、どうせ負けるのなら、オレ一人でいい。

 

 それにこの観衆の前で土下座の一つや二つすれば流石に人の目がある以上向こうも折れるだろう。そうすれば今の嘲りもそのまま俺にスライドするだけで。

 

 笑い話で終わればいい。そもそも土下座なんぞ俺にとって何のダメージにもならない。むしろ謝るだけで有耶無耶に出来るんだから実質俺の勝ち。

 

「優美子、マジでお前性格悪いな」

 

 聴衆の前で葉山が三浦をからかう。

 

「はぁ!? こんなの試合じゃ普通だし! あーしそこまで性格悪くないし! それにヒキオが――何でもっ、無いっ!」

 

 じゃれ合う二人の様相に笑いの形が変化する。嘲笑から和やかなムードに。そのやり取りが意識的なのか、無意識的なのかはわからない。けれども由比ヶ浜が嗤いの対象でなくなったのは確か。

 

「ヒッキー、絶対に勝とうね」

 

 そう言って由比ヶ浜は立ち上がろうとするが――瞬間、小さな「いったぁ」という悲鳴が耳に入った。

 

『……』

 

 俺は九音の方向を見る。先程の違和感が氷解する。こいつは多分知っていたのだろう由比ヶ浜の怪我を。だからしきりに下げろと言ってきていたのだ。

 

『……怪我してるんなら黙ってベンチに下がればいいのに。八幡くん、君が気に病む必要なんて無いんだからね。その女が勝手に参加して、勝手に転んで、勝手に怪我しただけなんだから』

 

 別に気にするかよ、んなこと。小さく呟いてから由比ヶ浜に近づく。

 

『……嘘つき』

 

 元気無く詰る幽霊。いつもの煩いくらい責めたてる様子と異なり調子が狂いそう。そんなことを頭の片隅に置きつつ由比ヶ浜に怪我の様子を尋ねる。

 

「おい、大丈夫かよ……」

 

「ごめ、ちょっと筋やっちゃったかも」

 

 照れ笑いを浮かべる由比ヶ浜。はにかんだ笑いに小さくたまり始める涙。

 

「ねぇ、もし、さ……もし、負けちゃったら、さいちゃん、困る、よね。あー、やばいなぁ……このまま謝っても、すまない、よねぇ……あーもう!」

 

 悔しそうに呟いて、唇を噛み、俯く。表情なんて見せたくないという意思に従い、そっぽを向く。それでも由比ヶ浜の言葉――諦めたくないと叫んだ言葉が耳の中に残る。

 

 まるで自分一人で背負っているかのようで、負けたら自分のせいとばかりで。

 

 俺は振り向いて少ししょんぼりとした幽霊の顔を見る。なんでこいつはこんな顔してるんだ。

 

『……何?』

 

 何じゃねぇよ、どいつもこいつも簡単に諦めやがって。まだ負けてねぇだろ。俺は今しがた思いついた打開策を聞かせてやるとしよう。。

 

「いいか? 別になんとかなる。最悪、この後材木座に女装させればいい」

 

「一瞬でばれるよ!?」

 

『き、気持ち悪っ!? なんつーこと言うのさっ!』

 

 不評であった。俺も言っておきながら気持ち悪くなった。

 

「まぁ、由比ヶ浜は逆の手でラケットを握っているだけでいい。あとは俺がどうにかしてやる」

 

「勝てそうなの……?」

 

『……使う?』

 

 二人の言葉に共通する答えを首を振ってから意思表示。正攻法じゃ既に格付けは済んでいる。比企谷八幡は足山九音の助言を貰ってもリア充には勝てない。

 

 ならば正攻法じゃなければいい。

 

「いいか? テニスには古来より禁じ手が存在する。その名は『ラケットがロケットになっちゃった』だ。教室でペンを飛ばすような俺だ。ラケットを飛ばしても何もおかしくない」

 

「ただのラフプレーだっ!? しかもこの前のことちっとも反省してない!」

 

「まぁ、最悪本気出すわ。俺が本気出せばそこいらに居る奴らの面前で土下座くらいするのは容易い。なんなら靴も舐めれる。そこまですりゃ許されるだろ」

 

「斜め上に本気すぎる……」

 

 呆れたようにため息を吐く由比ヶ浜。そしてクスクスと笑い始めた。怪我が痛いのか、笑いすぎて涙が出たのか。それとも違う理由か。潤み、真っ赤になったあ瞳をこちらに向けてくる。

 

「やー、ほんとさー、ほんと、ヒッキーって頭悪いしさー、性格も悪いし、諦めも悪いって最悪だよね……。ほんと。その上、挙動も不審で時々変だし。一年の頃からずっと。それにあんときだって……諦め悪くて、馬鹿みたいに全力でさ、キモいくらいに声出してさ……ほんと、バカみたい……でも、あたし、覚えているから」

 

 瞳が物語る。覚えていると語りかけてくる。

 

 けれども俺は由比ヶ浜が何の話をしているのかさっぱり理解できなかった。

 

「あたしじゃ……ダメかなぁ、ダメ……だよね」

 

 そう言って背中をくるりと向けてコートを去っていく由比ヶ浜。戸惑うギャラリーを押しのけて、コートから消えていく。その背中を止めることは出来ない。これ以上、優しさにつけこむことなど出来やしない。

 

 俺はコートの中にあるボールを拾い、葉山たちに声をかけようとしたところで後ろから聞こえる。

 

『……使わないの? わたし、必要、ない?』

 

 随分遠くから言うもんだ。背中に張り憑いているのが当たり前の幽霊がしおらしく呟いている。なに、こいつまで弱気になってんだ、と鼻で笑う。たかだかお遊びじゃねぇか、こんなのごっこ遊びでしかないのに。

 

 こんな【日常】の出来事で。何をそんなに。

 

『……だって、コレ、チャンスじゃん――』

 

 どういう意味か尋ねようとした瞬間、ざわめく。不意にギャラリーが湧きだち――そして中央から真っ二つに割れる。その中から現れる。まるでレッドカーペットを歩くかの如く。

 

 正中を堂々と歩く様はまるで主役。そしてそんな主演女優は不機嫌そうに目を細めて、怪訝そうに尋ねる。

 

「この馬鹿騒ぎは何かしら?」

 

 どこまで怜悧に、どこまでも冷たく、それでいて片手の中には救急箱を握っていて。

 

 ようやく。ようやく、雪ノ下雪乃がテニスコートへ戻ってきた。




※遅くなってすいません。楽しんで頂けると幸いです。
※次回投下は未定です


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暮春【脚本】

 

『ほんと、気分悪い……』

 

 九音の雪ノ下を見つめる目には憎悪が篭っていた。

 

『最悪、ほんっと悪辣。こんな主役みたいに登場して。せっかく私と八幡くんのコンビだったのに。堂々とさ、ほんと、腹が立つ……腹立つのに、これで勝ち目が見えるってんだから尚更ムカつく』

 

 九音の言葉に引っかかりを覚える。雪ノ下――確かに由比ヶ浜に比べればマシではあろうが、俺は雪ノ下がどれほど運動できるのかなんて知ら――。

 

『……わかるじゃん。奉仕部に入って腑抜けたの? それとも春になってから怪異に大したダメージ貰ってないからボケてるの? 最近死にかけることが無かったから腑抜けてる? ともかくっ! そんな腑抜けた子に! 私は! 育てた覚えはありませんっ!』

 

 なんかヒス気味に叫んでやがる。め、めんどくさぁ。

 

『あ、今! 私のことめんどくさいって思った! 絶対に思った! どうして八幡くんはそうなの! 私のこと一番に考えて! 浮気しないでっ! ちゃんと一日百回くらい好きって言って! 毎日言って』

 

 先程までのしおらしい態度とは何だったのか。いつものようにぎゃーすかと喧しい。

 

『その女がそこそこテニス出来るのなんて丸わかりじゃん!』

 

 言うほど、そうか? と考え込むが――確かに心当たりは思い浮かぶ。根本的な話をすれば今回の依頼、テニスに纏わる話は「戸塚のテニス技術向上」が目的だ。

 

 そしてその相談を受けた際に雪ノ下は「戸塚のやる気次第」と言い切ったのだ。出来ないではない、あくまで戸塚の気持ち次第だと。

 

 確かに死ぬまで走らせ、死ぬまで素振りさせて、死ぬまで練習させるという言葉は戸塚のやる気が問われる。それだけやれば上手くなるなんて想像に容易い。けれども本質的に、だ。人に教えるには自分が技術を持っていなければならないのだ。

 

 魚の釣り方を教えるには――釣り方を知らなければならない。もしも雪ノ下にとって専門外であったならばもう少し躊躇うはずなのだ。由比ヶ浜の挑発に乗る負けず嫌いである、挑発されたがゆえに引き受けた、という側面も考えられるだろう。

 

 だが、挑発をされるよりも前に雪ノ下は戸塚次第だと言い切ったのだ。つまりその裏には明確な自信が存在する。

 

 少なくとも戸塚よりは上で。戸塚だけではなく現役弱小テニス部部員よりも上との自負。

 

 向かいのコートに居る県選抜ほどではないにしろ、それでも少し齧った程度の人間を指導できる自信があるのだろう。俺は雪ノ下に近づきチグハグな格好について尋ねる。

 

「……その格好は?」

 

「……これは由比ヶ浜さんが着てくれって言うから」

 

 歯切れ悪そうに格好について答える雪ノ下。中途半端な格好が気になるのかしきりにスカートをに目を向けている。そしてひょっこりと雪ノ下の背後から顔を出したのは由比ヶ浜。

 

 由比ヶ浜の格好はコート去った際のスコート姿ではなく制服。しかもサイズがあってないらしく、自己主張する部分が視覚の暴力と化している。

 

「このまま負けるのはやな感じだし、ゆきのんに出てもらうだけ」

 

 由比ヶ浜の言葉に雪ノ下は眉間の皺を抑えながら「なんで私が……」と呟いていた。

 

「だって、こんなの頼める友達ってゆきのんしか居ないし」

 

 由比ヶ浜のストレートな物言いに雪ノ下の肩が小さく跳ねる。

 

「とも、だち……」

 

「うん、ともだち」

 

 まるで聞き慣れぬ言葉を大事にしまうかのように呟く雪ノ下に対して由比ヶ浜は怖気づくことなく肯定した。

 

 生きてる友達なんて居ない俺からしてみれば眩しくて目を背けてしまう光景。だから皮肉気味についつい要らぬことを呟いてしまう。

 

「……友達にこんな面倒なことを頼むか? なんか都合よく利用しているような」

 

 俺の皮肉気味な言葉に由比ヶ浜は驚いた表情をして心底不思議とばかりに口にする。

 

「えっ? 友達じゃなきゃこんなのお願いできないよ。どうでもいい人に大事なことをお願いなんてできないから」

 

 まるで当然とばかりに微笑みながら答える。嬉しそうに、楽しそうに、誇らしそうに。

 

 一人で居ることは間違っていない。俺はそう思う、たしかにそう思っている。一人で立つことを立派だと思っていれば、誇らしくも思う。

 

 けれど対極にある由比ヶ浜の理に俺は小さく参ったと呟く。

 

 そうなりたいとも思わないし、マネなんて到底出来ずに、仲間になんてなれなさそうだが。そちらはそちらで正しいと思ってしまう。むしろ由比ヶ浜の言葉だからこそ、それは正しいのだと。

 

 都合のいい人間関係を、友だちになんて言葉にかえて利用するほどの智謀を持ち得ない由比ヶ浜の言葉だから。こいつは本気でそう思っているんだと納得できる。

 

 だから、苦笑を零して雪ノ下に言う。

 

「なぁ、そいつは本気で言ってると思うぞ。バカだから」

 

「はぁ!? バカってなんだし! バカって言う方がバカなんだから、バァーカッ!」

 

 語るに落ちる自己紹介なんだよなぁ。俺と由比ヶ浜のやり取りに止まっていた雪ノ下が再び動く。

 

 知らない単語を聞いて完全に処理落ちしていた雪ノ下は再起動しては勝ち気な笑みを浮かべて、髪の毛をさっと払う。

 

「比企谷くん、あまり私を舐めないで頂戴。貴方や私に優しく出来る人間が悪い人なわけないじゃない。人を見る目はあるつもりよ」

 

 雪ノ下の言い分は正しい、正しいが――。

 

「理由が悲しすぎんでしょ……」

 

「けれど、真理よ。それとテニスするのは構わないけど、少し待っててもらえるかしら」

 

 雪ノ下は確信めいた発言の後に審判席へ。そして手に持っていた救急箱を戸塚に渡す。

 

「傷の手当くらいならば流石に自分で出来るわよね?」

 

「え、う、うん……」

 

 受け取った戸塚は躊躇いながらも手に取り、ありがとと小さく呟く。そんな様子を眺めていた由比ヶ浜は感激したようで。

 

「ゆきのん……えへへ、やっぱゆきのんって優しいよね」

 

 戻ってきた雪ノ下に由比ヶ浜は和やかに言い放つ。けれども雪ノ下は首を傾げてこちらを見ている。何だよ……?

 

「そうかしら。どこかの男は雪女扱いしていそうだけれど」

 

「な、何故、それを――はっ!?」

 

 二人のしらっと視線に明後日の方向へ目を背ける。

 

『完全に墓穴なんだよね……』

 

 いや違う。今のは高度な誘導尋問だった。俺が悪いというよりも雪ノ下が上手かった。多分、そう。

 

 そんな雪ノ下はいつものようにこめかみをグリグリともんでいる。なんでそんなに頭痛がするのだろうか、持病?

 

「何故、墓穴を掘るのか理解できないわ……けれど」

 

 雪ノ下は小さく付け足す。何故か目も逸らして、ナイショ話をするかのように耳に口をつけて小声でこしょこしょと。

 

「べ、別に貴方が雪女扱いしてくれるのは構わないわ。ちゃんとお嫁に貰ってくれる?」

 

 小声の呟きをはっきりと聞き取ってしまう。なんだ、このかわいい生き物。――殺気!? 

 

『なに、デレデレしてんの?』

 

 いやしてないしてない。してないから。ぜんぜんしてない。恥ずかしそうに雪ノ下がお嫁にもらってくれる? と自信なさげに尋ねてくるのにデレデレしたなんて風評被害。一瞬でもこんな子に殺されるのは本望かもな、男にとって。と思ったが俺はセーフ。それは大多数の男子の意見であって俺の意見では無い。ほんとにほんと。俺がお前に嘘ついたことあるかよ。見ろよ、この純粋無垢な目。真摯な瞳を。嘘をつくと思うのか?

 

『……じ、じっと見つめられると照れる。わ、私が可愛いのは知ってるけど、そんなまじまじ見つめたら困っちゃう! 照れる』

 

 欠片も俺の弁明は伝わってなかった。まぁいいか、有耶無耶になったのなら。

 

 それにしても――とコートを見回す。空気が変わった感覚。雪ノ下が登場したことにより先程までの下がりつつあった雰囲気は払拭された。

 

「由比ヶ浜さん、とりあえずこの試合に勝てばいいのでしょう? あなたの依頼、引き受けるわ」

 

「うんっ! やー、あたしじゃヒッキーを勝たせてあげられないから。ゆきのんなら」

 

「えぇ、問題ないわ」

 

 自信満々に言い切る。そして点数差を眺めては顎に手をあてて考え始めた。俺はその様子を見て、周りを見回す。

 

『どったの? 八幡くん……?』

 

 何でもないと首を振る。何か違和感が――まるで非日常に居るかのような違和感を感じたのだ。まるでナニカ見落としているかのように。

 

『問題ないでしょ、後はあの王様をコテンパンに負かすだけじゃん』

 

 そう、問題は無い。何も無いはずなのに――ベッタリと。こびりついた嫌な感覚は慣れ親しんだ代物。

 

 雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、材木座義輝、戸塚彩加。そして向こう側の葉山に三浦。ぐるりと首を動かせばギャラリーの数々。

 

 ほぼ面識の無い俺はその人物の顔を見たところで何も判別はつかない。一年らしき少女達に、昼休みにジャージを着ている生徒もいれば、この後なにかあるのかバスケ部のユニフォームを着たままこ男子に若草色のサッカーユニフォームを着た男子。現在の女幽霊や雪ノ下、三浦と同じように寒色系統テニスウェアを着ている少女も居る。しまいにゃ、やいのやいのとはしゃぎ倒す男子二人組もいれば、テニスを本当に見ているのか怪しいイチャつく男女の集団も居る。

 

 あぁ――これじゃない。

 

 もっと根本的なものだ、何かを見落としている。人なんかじゃない、そもそも――。

 

「雪ノ下サン? 悪いけどあーし、手加減できないから。オジョウサマなんでしょ? 怪我しないうちにやめたほうがいいと思うケド?」

 

 こんだけ集まったギャラリーの前で堂々と雪ノ下に宣言する三浦。けれどもそんな宣戦布告に対して我らが部長は勝ち気な笑みを引っ込めることはない。

 

「私は手加減してあげるから安心してちょうだい。その安いプライドが砕けないといいわね」

 

 好戦的だった。見栄えのいい二人がバチバチと火花を散らし合う様子にギャラリーも盛り上がる。

 

「それに、随分と私のと、とも……だぃと想……び……をいたぶってくれたわね」

 

 雪ノ下の一部だけやけに聞き取り難い部分に三浦は「……?」と表情を浮かべている。

 

「は? なんて?」

 

 そのツッコミに雪ノ下は顔を赤くしてプルプルと震えてキッと顔を上げて睨みつける。その様子に一歩と三浦はたじろいだ。

 

「……随分とうちの部員をいだぶってくれたようね。あなた、覚悟はできているの? 念のために言っておくけど、こう見えても私は根に持つタイプよ」

 

 言い放った雪ノ下はくるりと背を向ける。それに対して三浦も鼻を鳴らして定位置へ。

 

 最後に幽霊がその光景を眺めて呟いた。

 

『うんうん、これで――準備はすべて整ったね。後は勝つだけだよ、八幡くん』

 

 愉しそうに言う幽霊。その様子は嬉々としたもの。先程の不機嫌やしおらしさなど欠片も残っちゃいない。

 

『じゃあ、征伐と行こうか』

 

 誰にも見えないラケットを敵コートに向けて、軍配で指揮するかのように足山九音は言い放った。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 雪ノ下雪乃がコートに立つ。たったそれだけのことで歪な熱狂が渦巻く。見学に来ていた男子生徒は勿論のこと、女子生徒の注目だって集まっている。昨今、噂になっている一つの話がその歪な光景を後押ししていた。

 

 ――雪ノ下雪乃には想い人が居る。

 

 たったそれだけの話で視線は集まる。相手が誰なのか、真偽はどうなのか。そんなものに興味が寄せられ、視線は集まり、好き勝手に話される。話と成る。

 

 そんな想い人の最有力候補は俺――では勿論なく、対面のコートに立つ男。校内有数の色男である葉山隼人。

 

 そんな二人がネットを挟んで対立しているのだ。あらぬ妄想、要らぬ空想、不要な噂話が囁かれる。

 

 勿論、そんな色男と噂になっているのだ。雪ノ下に集まる女子生徒の視線は好意的な代物は少なく。悪意、敵意、憎悪と云った類の代物が大勢。

 

 そして最もその感情が強いのは対面のコート、葉山の後ろでサーブを打とうとしている三浦であった。

 

「あんさぁ、雪ノ下サン知らないだろうケド、あーし、テニスめっちゃ得意だから」

 

 テニスボールを下に叩きつけては跳ね返り掴む。淀みの無い仕草に獰猛な笑み。つい最近、襲いかかる寸前の獣は笑うのだと思い知った俺はその笑みが友好目的で浮かべられているとは思えない。

 

 むしろ牙むき出しの獣にしか見えない……怖ぇ。

 

「顔に傷ができちゃったら、ごめんネ?」

 

 怖ぇわ……。いや、もうなんか感想が怖いしか浮かばねぇわ。というか葉山があんだけ近くに居るのに猫かぶるとかしねぇんだとか、俺じゃなくても大抵の男がそのセリフにヒクんだと思うんだけど大丈夫か、ソレ? とか。

 

 そんなことをつらつらと考えているうちに――サーブが一閃。横を高速で通り過ぎていったボールは。

 

 アウトラインギリギリ。

 

 外に広がるように跳ねたボールはビビっている俺がレシーバーだったのなら追いつけなどしなかっただろう。

 

「……甘い」

 

 ほんの少し漏れた言葉。風にのって微かに飛び込んできた小さな呟きは雪ノ下の行動により証明された。

 

 利き手とは逆方向に広がるボールに追いつき、そして勢いのあるバックハンド。ワルツを踊るかのように身体を回転させ、全身の螺旋で返球されたボールは三浦の足元に突き刺さる。

 

 居合抜きと錯覚するほどに鋭いバックハンドは完璧なリターンエースと化す。

 

『えぇ……いや、えぇ……?』

 

 九音がどん引いている。かくいう俺も。そして呆然としているのは俺だけではなく対面のコート、サーブを打った三浦も同じだった。

 

 そりゃあ多少の心得があるとは思っていた。けれども此処までとは想像していなかった。

 

 仮にも県代表の実力がある女のサーブを難なく返す――いや、それだけじゃあない。むしろ寸前に行われた三浦の危険球予告。少しでも頭に入っていれば身体の中心に意識は向くだろう。そこから放たれた鋭く外へ広がるサーブ。

 

 虚を混ぜた渾身の一球。勝利をもぎ取らんと熱の篭った一球を、一瞬にして冷ます。熱も、熱意も、熱気も。何もかもを奪い去る。

 

「あなたが知っているとは思えないけれど」

 

 俺が雪女扱いした女は冷笑を持って砕く。

 

「私もテニス得意なの」

 

 ラケットの突きつけて、三浦の発言をそのまま返す。あまりにも冷たく、冷ややかな笑みに気圧された三浦は足を一歩引く。怯えと敵意が混じった視線が雪ノ下に注がれるが言葉は返ってこない。

 

 口元だけが小さく動き、吐き出された呪詛は誰にも届かぬ遠吠え。今の一球だけで完全に格付けがついた。

 

 俺は向こうから乱暴に投げられたボールをラケットで受け止めて、雪ノ下へ渡す。ついでに今のリターンに関して率直な感想を口にした。

 

「よく返せたよな、今の……」

 

「簡単よ、だって彼女……私に嫌がらせをしてくる女子と同じ顔をしていたもの。大体、そういう下種な考えというものはお見通しよ」

 

 得意気に話す雪ノ下。理由が悲しすぎる。嫌な経験則もあったもんだ……とはいえ、そういった読み合いというのならうちの幽霊も得意である。こいつならどうしたんだろうか?

 

『んぇ? 私? んー、私なら無駄に嘘をつかないからね。顔面狙うっていったら顔面シュート狙う。有言実行できない辺りあの女王様も小物だよね。ボールが返されたなら返した瞬間を狙ってラケットをロケットにすればいいのに』

 

 邪悪極まりない女であった。此方も此方で得意気な顔。それを得意といえる辺り多分出身が蛮族とかそこら辺。

 

 雪ノ下の実力を目の当たりにして一気に光明が広がる。そして始まる雪ノ下の猛攻。

 

 五点、六点あっさり点数が重ねて追いつけば、さらにそこから七点目を追加して逆転。圧倒的なまでの実力者。攻めも守りにも隙はなく、打球を返すごとに男子生徒から小さな歓声と感嘆の息が漏れる。

 

「ふはははははっ! 圧倒的ではないか、我が軍は!」

 

『死ねよ』

 

 その中でも一際大きな笑い声に女幽霊は反応した。負けて嘲笑の的になろうとしていた瞬間に息を潜めていたそれは、勝ち筋に乗った途端に現れた。

 

 勝ち馬に乗るが如く、活気を取り戻して高らかな笑い声をあげるのは材木座義輝。乗っかられると眉間にシワが寄りそうな体格の男が声高々に勝利宣言をしていた。

 

 だが材木座が調子づくのも無理はない。今までの漂っていた負けムードが一変し、俺と由比ヶ浜がテニスをしていた時に漂っていたアウェー感も薄れている。特に男子からの熱視線は雪ノ下へと集まっていた。

 

 足山九音を持ってしてもヤバイ女扱いの雪ノ下。その本性を知っている人間は少ない。一般科とは異なるクラスに籍を置く少女である普段からも高嶺の花扱い。

 

 ましてやあの美貌である。そこに学業が優秀で――さらには運動神経も抜群ときた。

 

 神秘的で魅力的で。そんな雰囲気を纏っているからこそ現れた。怪人が――想いが。一般の男子生徒が絡んだだけでそんな事件が起きるのだ。

 

 だからこそ、だからこそ――今回のMVPは由比ヶ浜なのだ。

 

 人が相手どるにはあまりにも高嶺の少女を考えなしに軽々と手を伸ばした。伸ばした手は何も知らなければ蛮勇にしか見えない、知っていても考えなしにしか見えない。

 

 底なしに考えなしのお人好しだから雪ノ下を動かした。故に今現在の雪ノ下のプレイは由比ヶ浜から託された思いの形なのだ。

 

 俺じゃあきっと出来ないことだった。雪ノ下に頼み事など出来ない俺には決してありえない結果だった。

 

 コート内の主演女優が雪ノ下なら最優秀助演女優は由比ヶ浜。俺と言えば多分、モブとかきっとそこら辺。これだけ頑張ってもその辺りだから多分俺に舞台の才能なんてきっとない。

 

 俺のような端役に敵役の葉山や三浦は完全に霞んでいた、あまりにも綺羅びやかで華やかな演技は女子の敵視をすべて叩き伏せ、黙らせる。そして男子からの熱視線はどんどんと熱量が上がっていく。

 

 そして――とうとう雪ノ下のサーブが回ってくる。今までの全てが見せ場であったからこそ、彼女がサーブの位置に立った瞬間にさらに重圧が寄せられる。

 

 注がれる視線は、期待は――自分のことでも無いくせに身体が重く感じてしまう。

 

 けれども傍目からは欠片も相貌も余裕も崩すことの無い雪ノ下。その怜悧な美貌に一切の翳りも焦りも浮かんでいない。

 

 これだけのプレッシャーの中で雪ノ下雪乃はブレない、変わらない、曲がらない。

 

 そして――雪ノ下がボールを高々と投げる。精細さを欠いたように見えるボールは風に揺られベースラインよりも少し前に。

 

 ――失敗?

 

 不意に浮かんだ一言は凡人ならではの発想。このプレッシャーだ、仕方ないと凡俗な感想が漏れる。

 

 けれどもその見当違いで的はずれな意見は即座に撤回することとなる。

 

 飛んでいた。

 

 軽やかな歩調からの華麗な跳躍。誰もが目を奪われていた。

 

 俺は知っている――生きている人間は飛べないことを。生者は飛べない。人は自らの力で地から離れることはできない。たとえ、この瞬間、どこまでも飛んでいきそうなほど美しくとも、落ちることしかできない。

 

 だが――その一瞬の眩しさに、美しさに。刹那の時間であろうとも。奪われてしまった、誰もが。時間を、視線を。

 

 遅れて響く一際高く跳ねる音。そして音の先にはてんてんと転がるボールが見えた。

 

 俺も観衆も、三浦も葉山も。誰一人として動くことが叶わなかった完璧なまでの一人舞台。

 

 呆然とその様子を口にしたのは俺だったのか――それとも違う誰かだったのか。

 

「ジャンピングサーブ……」

 

 誰もがソレを認識した瞬間に沸く。ありえないものを見た興奮でコート内は熱狂が渦巻く。

 

 既に二点差。あれだけ大敗を喫していた俺たちは逆転してさらには二点も上回っている。そして奇しくも残り二点で決着が着く。

 

「お前、ほんとに凄いのな……その調子で決めちまえよ」

 

 「……えぇ」

 

 俺の言葉に小さく返答した雪ノ下はレシーバーの位置へゆっくりと歩いていく。

 

 振り向いて敵陣のコートを見れば――三浦に葉山、何故か九音が立っていた。どういうこったよ……。

 

 俺は呆れた視線で向こう側に立つアホを見つめているとぷくーっと頬を膨らませていた。

 

『デレデレすんな! ぶち殺してやる、あの女!』

 

 アホがぎゃーすか騒いでいる。しかしながら九音が喚くのも仕方ない。確かに今の雪ノ下は映えすぎている。

 

 けれども対面のコートからひゅーっと軽快に跳んで戻ってくる幽霊は耳下で呟いた。

 

『八幡くんっ、あんなのに騙されちゃダメだよ! あんなの画面映えを意識したぶりっ子みたいな行動なんだからっ!』

 

 はぁ? 騙されるってなんだよ。急に雪ノ下の行動にケチを付け始めた幽霊の真意がわからず首を捻る。

 

『あんなの一発芸! 一発屋!』

 

 一発一発と叫ぶ幽霊。意味がわからないまま対面のコートに集中する。このままレシーバーの雪ノ下にボールを任せていれば自ずと勝利するとなんとなく思っていた。

 

 そして葉山のサーブ。

 

 繰り出されたサーブは勢いが少ない。センターコース寄りのイージなボール。雪ノ下の実力を考えればあまりにも甘い球。そのままレシーブエースを決められそうな程に緩い。

 

 しかし――雪ノ下の振るったラケットには力が無かった。そしてついでにラケットが落ちてしまう。

 

 主演女優のミスに俺は慌ててしまう。完全に油断していた俺はその光景に思考が一度停止してしまった。

 

 その停止が完全に命取り、チャンスボールを三浦が雪ノ下の方向に決めて一点差。汗で滑ったのかわからないがとりあえず近くに落ちたラケットを拾い動かない雪ノ下に手渡す。

 

「……どうした?」

 

 ラケットが滑る。普通の女子高生らしいミスに違和感を覚えて尋ねてしまう。勿論、雪ノ下とてそういうこともあるだろう。幻想や妄想の押し付けで痛い目を見た俺はそれを知っていたはずで。

 

 それでも違和感――そう、九音のわけのわからない発言が俺の違和感として浮き出る。聞き流していた言葉に――判りやすいほどの意味があって、それを見落としていて。

 

「ねぇ、早く構えてくんない?」

 

 急かすような三浦の言葉に俺は返答を聞きそびれる。いつまでも待たせるわけにはいかずにレシーバーの位置に立つ雪ノ下を盗み見る。俯いたままラケットを構える雪ノ下。

 

 彼女に目掛けて鋭いサーブが放たれる。けれども――追いついた。理解が。

 

 辛うじて拾った雪ノ下の様子を見てようやく俺は思い至ったのだ。何とか当てるだけで返球した力なきレシーブを見て、何もかもを思い違いしていたことを。

 

 まるで彷徨う幽霊のようにふわふわと浮く球は間抜けに彷徨う。

 

 ぽすん、と。力なくネットに引っかかり、超えることすら叶わなかった。そして、振り向けば雪ノ下は屈みこんでいる。俺は近よって様子を尋ねようとするが――その前に答えが。

 

「比企谷くん、自慢話をしていいかしら」

 

「あ、あぁ……」

 

 薄っすらと思い浮かぶ理由。いや、俺は知っていた筈なのに――あの夜に知っていた筈で。

 

「私ね、昔から割と何でもできたの。だから、何かを継続して長く続けることをしたことないわ」

 

 自嘲する笑みは自慢話というにはあまりにも陰鬱。

 

「私にテニスを教えてくれた人が居たわ。けれど私はその三日後に、その人に勝ってしまった。大抵のスポーツ、いえスポーツに限らず音楽にしろ、何にしろ、大体三日でそれなりのことができるようになるの」

 

『三日坊主じゃん』

 

 幽霊の小馬鹿にする物言いなど誰にも聞こえない。けれども、雪ノ下は言いにくそうに、一度俯いてから言葉を切り、それでも再び口を開く。

 

「私、体力だけには自信がないの……」

 

 結論はソレだった。荒い息を通り越して弱々しい呼吸音。体力の限界を超えていたにも関わらず、此処に至るまで打ち明けない負けず嫌い。

 

 俺は知っていた筈だった。体力のことも、負けず嫌いのことも、雪ノ下は誰もが期待する女の子でないことも。

 

 ご都合主義とばかりに、自分の思い描く通りに、このまま決着がつくと。雪ノ下なら勝ってくれると。

 

 変わらねぇ、救えねぇ。

 

 俺は変わってなど無かった。口先だけで知ったようなフリをして、理解している素振りだけあって、根本は改善していない。いつものように俺はまた雪ノ下像を勝手に信仰していたのだ。

 

『そりゃあ体力なんてつくわけないか。幾ら悟りを開いたとか口にして三日でやめるようじゃ。そんなの意味なんてないよね、結局』

 

 三日坊主。

 

 あまりの厳しさ故に三日で坊主をやめてしまうという一説。そしてもうひとつが『三日で悟りを開いた人間が坊主をやめてしまう』といった話。

 

 つまるところ雪ノ下は三日坊主なのだろう。飽きっぽいという言い合いではなく、ハマる前にそれなりに上手にこなしてきた人種なのだ。

 

 凡俗な俺たちは上手くなるには時間がかかる。時間がかかるということは練習する。長い時間を練習すれば自然と体力が付き、そして時間をかければ愛着が沸く。

 

 けれども雪ノ下にはソレがない、必要ない。

 

 練習を重ねる前に技術が身について。けれども向上する筈の体力は身につかず。

 

『はぁー、これこそほんとの無駄な努力だよね。体力が無いなら根本からどうしようもないじゃん。幾ら、本人が出来るとか口にしても信じられないよ。事実としてその雌犬が力尽きてるわけでしょ? こんなの主演じゃなくて道化だよね』

 

 鬱憤が溜まっていたのだろう、その毒々しい物言いは実に愉快と、嬉々として口にしていた。

 

『さっきの一発芸。ジャンピングサーブだってそうじゃん。間抜けな奴らは目を奪われてたけどあんなの悪あがきの騙しうち。テニスのサーブであんなに高くジャンプして打つ意味あるぅ? 無いよ、無い無い。わざわざそんなバランスが悪くて難易度の高いサーブをしてメリットあるの? 高いメリットがなくて、不要なリスクを取るから一発芸にしかならないんだよ――けど、まぁ』

 

 早口だった九音はモゴモゴと。実に言いづらそうな感じで呟く。

 

『ま、まぁおかげじゃないけど、そこの雌犬の体力を回復させれば勝ち筋は決まったようなもんだよね』

 

 ころころとボールが足元へ。傍から見れば風で足元へ転がってきたようにしか見えないだろう。けれども俺だけはその意味を理解した。

 

「早くしてくんない?」

 

 向かい側のコートから声が聞こえる。威圧感のある声は此方を急かすかのよう。後衛に入った三浦はどうやら打ち合う気でいるらしい。ギャラリーもブーイング混じりに此方を詰り始める。

 

「だからぁ、早くしろって言ってんの! それとも体力の無い雪ノ下サンが回復するまであーしら待ってあげなきゃいけないわけ? 情けな」

 

『カチコーン。はぁ? はぁ? はぁァァ? 勝てるし、八幡くんお前なんかに勝てるし! 情けなくなんてないからっ。むしろお前の戦法なんて丸わかりじゃん。後ろに立ってるなんてどうせ、強打で早期決着の一発逆転狙ってるんでしょ。はぁ? そんくらいの知能しかないくせに偉そうに物言うなんてはずかちー! 八幡くん! シコシコして相手が自滅させよう! マウント取ろう』

 

 中指を立てる幽霊に苦笑していると、何故か対面の王様も同じような笑い。

 

「ま、まぁまぁ、優美子もそんなに熱くならないでさ……楽しかったってことでいいんじゃないか?」

 

 ヒートアップする女王様を宥めるような言葉。けれども納得のいかない三浦は。

 

「試合だから、マジでカタはつけないっといけないっしょ」

 

 短く、冷たく。

 

 珍しくもあの王様に冷たい物言いでそう言い放ちあしらう。

 

 その言葉は本心だった。このコートの中で、誰よりも本気だったのは。雪ノ下でもなく、葉山でもなく、そして俺でもなく――由比ヶ浜でもなく。勿論、足山九音でもなくて。

 

 三浦優美子だった。誰よりも勝ちにこだわっていた。それこそこんなところで負けてはいけないと本気になっていて。

 

『……可哀想だなんて思っちゃやだよ。あいつらが先に吹っかけてきたんだよ』

 

 ダメではなく、嫌だと悪霊は言った。

 

『別にこんなテニス如きに本気になるなんて馬鹿らしいとか思うけど今日は嫌だ。今日は八幡くんの勝つところが欲しい』

 

 小さく溜息を吐く。別に譲るつもりも負けるつもりも無かった。けれどもどこかであの熱量に押されて負けても仕方ないと思った俺が居た。

 

『だって、あいつ、君の味方をしてくれる女なんて居ないとか言った。居るじゃん、私。あいつらから信じられなくてもいいよ。けど、君を想う私が此処に居るって証明してよ。だから――叩きのめして、全力で』

 

 わがまま全開で口にする言葉。それに続くように雪ノ下はラケットを対面のコートへ。

 

「少し黙ってくれないかしら。この人が――比企谷くんが試合を決めるから大人しく敗北しなさい」

 

 残りは二点。なんたる無茶振りを言う二人。その言葉は向こう側全員に届いたようで。

 

『……エッ、待って』

 

 九音が俯いて、そして顔をあげた時には髪紐が解けていた。

 

『はぁァァァ!? な、なにそのヒロインぶったセリフ! なしなし、そんなのナシ! 雌犬一号って役に立ったと思ったらコレ! 油断ならない! というか寸前まで私の時間だったじゃん! 私のヒロインタイム! はぁぁ!? こんなことあるぅ! 空気読め! 読んで!』

 

 一人、一匹、一柱で姦しく喚きはじめた幽霊に呆れながら視線を外せば――材木座が親指を立てていた。

 

『いや、お前、お前さぁぁぁぁ! お前、仲間面やめろよ! ほんとコイツ何なのさ!』

 

 材木座に噛みつき始める幽霊。視線をさらに動かせば――戸塚と目があった。試合に集中していて気づかなかったけど、審判席から戸塚に見られると緊張するな……。期待されるかのような瞳に少し身体がこわばる。

 

『いや、八幡くん。待って待って。どんどんダメな方向いってる。違う違う。今からの二点は君が私のために決めるってルートだったじゃん。そんな決意する感じだったじゃん』

 

 由比ヶ浜の方向は見なくても位置が丸わかり。バカみたいな声援が背後から届くんだから。幽霊と同じくらいに姦しく、そんなに応援されても俺に力なんて湧かない。

 

『あ゛ーあ゛ーあ゛ぁー! やめてよぉぉぉっ、八幡くんの応援やめてよぉぉぉぉ、そういう味方面私だけなの! 私の特権なの、取らないで! 泥棒! 泥棒猫共! 雌犬共!』

 

 いや、材木座は違ぇだろ。違う……よね?

 

 とはいえ声援や応援を受けて喚き立てながらダメージを受ける幽霊を見て笑いが漏れそうになる。味方側の応援でデバフがつくなんて『らしい』光景はひねくれ者の証左。

 

 ボールを持ってサーブを打つためにベースラインへ。

 

 その瞬間にざわめきとブーイングが大きくなる。そうそう、これこれ、こんなもん。

 

 耳に飛び込んでくるのは俺への評価、過去の悪行奇行。音楽室にある偉人の額縁を持って帰った話や、生物室で一人で骨格標本と言い争いしている噂、一人で朝早くにグラウンドでボールとバットを持っていたこと、図書室で這いずり回っていたこと、深夜に屋上に忍び込んだこと。

 

 噂が噂を呼んで、混じり合い。ヤバイやつはさらなる進化を経て気持ち悪くてヤバイやつへ。

 

 けれどもこんなのはいつものこと、日常茶飯事。むしろ中学時代に比べればマシ。ナルガヤなんて呼ばれないだけで遥かに。俺に告白された女子が可哀想だなんて言われることもなければ、黒板に俺の告白の報告が詳細に記載されているわけでもない。

 

 たかだか気持ち悪くてヤバイやつ程度の悪口なんて丁度いい反骨心が湧き上がって力が溢れてくるくらい。

 

 無論、気力は湧けどそんな都合のいい覚醒やパワーアップなど現実には起きない。仮に起きたとしても俺以外の誰か、俺じゃない。そもそもあいつらって持っているから覚醒する奴らなのだ、持っていない俺はそんなことを信じない。

 

 だから、あるもので戦う。

 

 足山九音の言った通りに雪ノ下の回復を待ちながら打ち合えば楽に勝てるのだろう。それは予定調和のように当たり前に。

 

 そんな結末を俺は拒否する。

 

 集中する、集中する、集中する。

 

 外の音を置き去りにして触覚を鋭敏にする。

 

 できると自分に言い聞かせる。できたと自分で思い込む。無意識への断言は願望から誓約に。

 

 そもそも俺に敗因なんて一つとして無かった。

 

 ただ平穏で刺激の無い一日に安堵して。夜は怯えて、這いずり、蹲り、どんなに痛くて、苦しくて、辛くて、嫌だったことも俺は一人と一匹でくぐり抜けてきた。

 

 生きた人間の温かさなんて知らなくて。どこまでも冷たい、身も凍る世界で過ごしてきた。

 

 陽だまりの中で意気揚々とみんなで笑い合っているお前らに。じめじめと夜の墓場よりも陰鬱な場所で生きてきた俺が、俺たちが。

 

 負ける由縁も因縁も原因もあるわけがない。

 

 生きることに関しては一等賞。生き汚さならナンバーワン。卑怯汚いをやらせたらオンリーワン。

 

 誰よりもこの一年間を真剣に生きてきた、生き足掻いてきた。生きていることに価値があるのなら、俺こそが最も価値ある人間。

 

 いつもなら九音のとりとめも無い話を片耳に、片手にはクソ不味いパンを持って、眉間にシワを寄せている時間帯。

 

 周囲の音が消える。九音の吐息だけが耳に入る。

 

 そして――聞こえた。

 

 刹那、ボールを放り投げる。

 

 女幽霊の吐息など年中聞いてて聞き飽きて。本来ならドキドキするかのような女の子との艶めかしい一幕も流石に飽き飽きで。

 

 鼓動も声も何もかもが日常過ぎて――『来るよ』という声も大体何のことか安易に想像できて。そしてまったく同じことを考えていることに苦笑すら浮かんで。

 

 打つ。

 

 決して傷つけないように、それでいて向こうのコートへ届くように優しく力を込めて。

 

 浮かぶ球は再び浮遊霊。

 

 ゆるやかに、漂う力の無い球。さまよっては目的地に飛んでいく。

 

 そこでようやく外の音が戻ってくる。クスクスと聞こえる笑い声、ギャラリーの失笑が耳朶を打つ。

 

 それでも打球は進む。嗤われても、蔑まれても。

 

 ふらふらと力なく進んで――落下予測地点には三浦が待ち構えていた。足で軽くリズムを取りながら落ちてきた瞬間に叩こうとする強い意思が受け取れる。

 

 不意に強烈な不穏が吹き荒む。

 

 ふわふわとさまよっていた球は悪意に背を押されてまるで別の方向へ。待ち構えていた三浦は目を見開く、慌てて追っても既に遅く、大きく流れている。女王を置いてけぼりにしてコートの隅でポーンと一度大きく跳ねた。

 

 三浦は追いつけない。けれどもカバーする葉山が追いついた。そしてワンバウンドに追いつき、拾い打とうとした瞬間に――戻る。

 

 葉山は知らない。不吉な風が一度ではないことを。

 

 吹き抜けて、戻ったボールはポンポンと。王様から、女王様からも逃げるかのように。気まぐれに踊ってコロコロとテニスコートの隅へ。

 

 まるであっちこっち彷徨って空を散歩する悪霊のようなボールは二人を散々振り回しておきながら悪びれもなく転がって――ようやく動きを止める。

 

『むふ、むふふふ! はっちまんくぅーん!』

 

 上機嫌とばかりに九音のコートが響き渡った。背中から回される腕がいつもより深く食い込んでいる気がする。ついでにスピスピ鳴らしている鼻音が煩い。

 

『もぅー! もーさ! 好き! 好き好き! 大好き! もう、なんていうか好きすぎて死ねるね! 死んでるけど! そうそうこれこれ! これだよね! うんうん、私と君の必殺技みたいで。ラブラブ石破天驚拳みたい! ほんっと、好き!』

 

 姦しい幽霊の大声に鼓膜が破れそう。小さく溜息を吐いて顔をあげると雪ノ下が此方を見つめていた。

 

『う、うわぁ! あ、あれ惚れ直してるパターンだ! 今の私と同じ目してるもんっ! ガルルルルっ、そりゃあ今の八幡くんは最強で最高にかっこいいけど、お前のじゃない! 私の!』

 

 違う俺のだ。

 

 相変わらず姦しい幽霊であるが、騒いでいるのはどうやら一匹オンリー。まるで音が止まったかのようなギャラリーはテニスボールの方向を見つめていた。

 

「そ、そういえば耳にしたことがある……あれは風を胃のままに操る伝説の技。その名も――『風を継ぐもの、風精悪戯!』ッ」

 

 材木座がここぞとばかりに注目を集めにきていた。ねーよ、そんな技名。ねーから。やめろ、巻き込むな。

 

『む、スメアゴルも偶には役に立つじゃん……今、ここに八幡くんと私に新たな必殺技が出来た――その名も【風精悪戯!】』

 

 えぇ……お前が気に入っちゃうのかよ……。悪霊だけではなく、ギャラリーにもその名前は浸透して「オイレンシルフィード?」「オイレンシルフィード!」と騒ぎ出す。いや、そんな名前受け入れちゃダメだろ……。

 

「あ、ありえないし……」

 

 呆然と呟くのは三浦。未だにテニスコート隅に転がっているボールを見つめている。視線の先の球を拾い、葉山がこちらに投げ渡してくる。その顔には苦笑が浮かんでいて。

 

「ははっ、まさに『魔球』だな」

 

 俺はボールを受け取り、再びサーブ位置につこうとすれば――雪ノ下が小走りに近づいてきて、上目遣いでこちらを見てきた。そして意を決したかのように口を開けば。

 

「……かっこよかったわよ、比企谷くん」

 

 それだけを告げて、再び小走りで前衛位置へ。俺はその一言に呆けて理解が追いついた瞬間に小さく頬をかく。

 

『はぁ? あの女、目が腐ってるよ! 八幡くんはいつもカッコいいでしょ!』

 

 だからそういう反応しにくい話はやめてくれ、と思ってしまう。俺自身は俺の顔を悪いとは思っていない。けれども両手を上げて肯定できるかといえばそうでもない。一年前の九音の詰りを思えば美意識に関してはちょっとした変化があった。

 

 微妙な気持ちのままサーブを――。

 

 瞬間――慣れ親しんだ感覚。あぁ、いつものだ。いつもの、致命的なミスを犯す瞬間の感覚。

 

 こんな日常で感じる筈の無い類の危機感。自分でビルから飛び降りるかのような。下から吹き抜けてくる架空の風を、心許ない地面の感覚に。

 

 周囲を見渡す。

 

 なんだ、何を間違えて――。

 

 喉に骨が刺さっているかのようで、その骨が――。手中にある球が意思を主張するかのようにギュルギュルと回り始める。早く始めろと、早く――勝負をつけろと。

 

 こんなことをするのは――。

 

『どウしたの?』

 

 魔性の笑みを浮かべていた。親しみの篭った、見入るような、足山九音という美少女が――自分が可愛いとわかった上でぶつけてくる笑みが。

 

 思い出せ、思い出せ、思い出せ――。おかしな点をおかしな話を――。

 

「早くしてくんないっ! いつまで突っ立ってんの!」

 

 怒鳴る三浦。俺は正面から彼女を見て――違うと判る。違うとわかっていながら何もかも無関係ではなさそうな直感が生まれる。

 

 由比ヶ浜を見る。由比ヶ浜もまた無関係ではない、むしろ――周囲を見て、周りを見てみればどれもこれも怪しく見えてしまう。これは俺の思い過ごしか? ここに居る全員が関係者だなんてありえない――ありえるとしたらこの勝負を見ているという事実。

 

 それが何の――。

 

「比企谷くん、どうかした?」

 

 雪ノ下も関係がある。けれどもそれがどんな意味を。

 

『流石にこれ以上は怪しまれるんじゃない? 八幡くんが何を心配しているのかわからないけど――何も問題ないよ。何の問題もなくなるよ』

 

 九音の言葉を聞いて小さく俺の思い過ごしか、と結論づける。この嫌な感覚は急に現れたもので俺の勘違いで。

 

 ボールを空中に放る。そして視線の先にはレシーバーの三浦。そして――前衛の葉山隼人。

 

 ――隼人?

 

 瞬間、爆発的に脳内に様々な情報が駆け巡る。止まっていた歯車を邪魔するナニカが外れた勢いで軽快に回り始める。

 

 勝負。勝ち負け。比企谷『八幡』。葉山『隼人』。呪われた女の子。霊障のある女の子。霊障が残り続ける理由。解決した御話。ストーカーの残り香。想いの傷跡。ストーカーの想い人。叶わぬ想い。消えた想い。勝者と敗者。ごっこ遊び。不吉な場所。霊地。再現性のある話――隼人を平定する。征伐する。

 

 腕は止まらない、止まらない、止まらない。そしてかけられる回転が――この勝負の行く末を物語っていた。

 

 不思議に見えないだろう、ただの威力の上がる回転でしかない。俺の実力に水増しした程度の。

 

 だから――この回転を止めて、どうにかするためには。

 

 俺は腹に力を込める、込めて――思惑通りに進んでいる油断している幽霊に。

 

「―――――ォォォォォンッ! 愛してるぞ、お前ぇぇぇぇぇッ!?」

 

『ふぇ!? は!? い、いきなり何! そ、そ、そういうのふ、不意打ちやめてよ! ちゃ、ちゃんと私が欲しがってから――』

 

 その瞬間、回転は止まる。

 

『あ……』

 

 間抜けが声に出す。

 

『く、くぅぅぅっ!? べ、別にここから私は自在に操れますけど? け、けど……けど、そうしたらお、怒る……?』

 

 俺は何も言わずにそのままボールを真上へ。打ち返すわけではなく、真上に打った。

 

「優美子、下がれッ!?」

 

 ギャラリーも、戸塚も、材木座も。由比ヶ浜も。そして雪ノ下も、さらには対面のコートで集中していた三浦も葉山も完全に一瞬だけ静止した。そして一番最初に動き出したのは葉山隼人。

 

「なによっ、ソレ! 卑怯だしっ!」

 

 ぐんぐんと空へ伸びる球――人が飛べないように重力からは逃れられない。相手のコートに大きな弧を描いて落下し、反動で再び大きな弧を描く。

 

 不味い――このままでは点が。

 

『……八幡くん、嫌なの?』

 

 俺は小さく頷く。俺の予想が正しいのなら――俺は望んでいない。けれどもこれは足山九音が望んだ結果だ。俺が怠慢に過ごしてきた結果だ。だから痺れを切らした九音が俺の尻を拭おうと『勝手』に計画したのだろう。

 

 大まかな枠組みしか見えない。けれどもその枠組で予想できる中身は笑って済ませられる内容ではない。

 

『……まぁ、折れてあげる』

 

 伸びる――伸びる伸びる伸びる。跳ねたボールは不自然に距離を伸ばし始めて、三浦はわき目もふらず追い縋る。

 

 追いかける三浦の猪突な勢いはそのままフェンスに向かって。遅まきながら気づいたギャラリーが焦りの声を出す。三浦も気づいて足を止めようとするが、速度はゼロに出来ず――。

 

 その時、ラケットを投げ捨てて解決に走り出した男が一人居た。勿論、俺なんかじゃない。むしろ、俺はこの後に待ち受けるこの事件の首謀者として吊るし上げられる予定だ。

 

 だから捨てたのは葉山隼人だ。

 

 駆け出したままの勢いで葉山隼人は三浦とフェンスの間に突っ込む。そして上がる土煙。二人の姿が覆い隠れて結果は霧の中。

 

 そして晴れた時に現れたのは――金網とフェンスを背に三浦を胸に抱える葉山の姿。腕の中で赤い顔をして葉山のシャツを小さく握り締めている三浦は女王様というよりかは王女様で。

 

 割れんばかりの大歓声。全員がスタンディングオベーション。間一髪の救出劇に盛り上がりは最高潮。

 

 演目は救出劇で、主役は葉山、メインヒロインは三浦で。ヒーローは胸の中のヒロインが無事なことを確認して小さく一息吐いた後に頭を撫でる。その行為に三浦は頬を染めていた。

 

 今まで外に居たオーディエンスもコート内に乱入してきて、劇の興奮が冷めぬまま二人をコール。

 

「HA・YA・TO! Hoo! HAA! YATO! Hoo!」

 

 アメリカナイズなノリで取り囲む。そして祝音が鳴り響く――予鈴のチャイムはエンディングムービを流し始めるには十分で。幸せな王妃と王様は臣下達に囲まれてはわーっしょいわーっしょいと持ち上げられて校舎へと去っていった。きっとこの後に二人は幸せなキスでもしてクランクアップ。いいラストでしたね、めでたしめでたし。

 

 ――じゃねぇんだわ。

 

 なんだ、あれ……凄まじい敗北感だけが胸に残って九音を見る。その九音は眉を八の字して呟いた。

 

『……クソ映画』

 

 監督お前なんだが……。つい漏れ出そうになる言葉を呑み込んで、ただただ疲れだけが残ったコートに疲労の証である溜息を吐いては重ねた。




※次回の投稿は未定です


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暮春【本題】

 

 コートの中に残された俺たち。

 

 ざっと背後からの足音にちらりと盗み見るかのように覗けばイイ笑顔の雪ノ下が立っていた。

 

「……さっきのアレ、何?」

 

 冷え冷えとした声。振り向いてはならないとわかりつつもゆっくりと声のかけられた方向へ顔を向ける。

 

 顔を向ければ全貌が顕に。小さく「ひっ」と喉から声が漏れる程度に怖い。目が笑ってない、ってか口元だけ弧を描いて顔は笑ってない。

 

「ねぇ、さっきの叫び声みたいなやつ何? 私の空耳で無ければーーくおん? くおんさんって誰?」

 

 あ、そっちか……と間抜けにも肩の力が抜ける。てっきり勝負が有耶無耶になったことに文句を言われると思ったが何の問題も無い。こういう時の言い訳は既に俺の中で用意されている。

 

「……うちで飼ってるペットだ」

 

『い、言うにことをかいてペット!? ほ、他にも言い方あるでしょ! もっと、こう、こ、こっこっこ、こい、こっこっこ』

 

 完全に鶏じゃねぇか。愛玩動物どころか家畜であった。

 

 とはいえ完璧だったのは俺の中だけだったらしい。返答に対していつもの如く眉間を抑える雪ノ下の姿が。そのまま数秒揉みほぐした後にじっとりとした視線を向けてくる。

 

「なんであの場面で急に叫ぶの? ……バカなの?」

 

「男ってのはバカなんだよ」

 

 かっこつけてみてもカッコつかない。というか唯の開き直り。けれどもそんな言い訳でいいのか「仕方ない人ね……まったく」と呟いて、葉山達が去っていった方向を見ていた。マジかよ、こんなんで許されるって……こいつ、将来は悪い男に引っかかりそう。

 

「もー、ヒッキーってばまた変な噂立つよ。どうすんの」

 

 とことことやってきた由比ヶ浜もまた勝負よりも今後の俺の心配なんてしてくる。けれどもそれも杞憂だろう。

 

「あの調子じゃ俺の奇行なんかよりか葉山の救出劇の方がよっぽど話の種にはいいだろ。むしろ俺の奇行なんて今に始まったことじゃねぇし、それによく知らないやつからしてみれば 比企谷、誰それ? みたいな感じになる」

 

「あー、確かに……ヒッキーと隼人くんじゃ……ねぇ?」

 

 言葉を濁したのか、それとも口にするまでもないことなのか。

 

 そもそも俺の悪い噂が今更沸いたところで大したことではない。むしろ知っている奴らからしてみれば「また?」と呆れることだろう。いや、それはそれで問題なんだろうが。

 

 今回の話、葉山の救出劇が噂になるのならそれに越したことはない。それが怪現象に纏わる話で無いだけで大歓迎。試合の話すら風化しそうで、勝負の行方が有耶無耶になったどころか、そんなことあったっけとばかりにお流れになってくれ。

 

 勝ちも、負けも、卑怯も、汚いも。全部水に流してもらえるとありがたい。

 

『……八幡くんの勝ちだもん』

 

 あくまで自分たちの勝ちだと言い張る幽霊。けれどもその声に賛同する生者は誰一人として存在しない。それが不満なのかますます頬を膨らませていた。

 

「……でもさ、ヒッキーらしくていいんじゃない? ヒッキーはヒッキーのままでいいってか、なんていうかみんな違ってみんないい?」

 

 突如として詩人の引用を呟く由比ヶ浜。その背後、未だに残っていた少数のギャラリーも続々と引き上げている。

 

 あいつらにとっても、こいつらにとっても。今回の勝負も青春の一幕なんだろう。葉山のことも、何もかもが。

 

 仕掛けた三浦にとってもきっとそうで、仕掛けた試合がなぁなぁで終わったところで思い出として風化する。十年後、二十年後にそんなこともあったなぁと笑い話にするのだろう、俺だけを除いて。

 

「そうね、あなたがあなたらしくあって欲しいと思う子は意外と多いと思うわ。別に彼らのようになる必要はきっとない……着替えてくるわ」

 

 雪ノ下はそう言って由比ヶ浜を連れて去っていく。残された俺はようやくコートの中で腰を下ろして一息つく。心地よい疲れが遅れてやってきた。

 

 それと同時にのっそりとコートにわざわざ入ってくる巨影。

 

「ふむよくやったぞ八幡。さすがは我が相棒よな。今は一時の安らぎに身を委ねるがいい――我との決着の日は近いぞ」

 

『……ここで永眠させてやろうか、コイツ』 

 

 九音の言葉など聞こえない材木座は意味深に笑ってはニヒルを装い去っていく。全然ニヒリズムもニヒリスティックも感じない。あいつには陰があるんじゃなくてただの陰キャで。悲しい過去と言えば聞こえだけはいいがあるのは黒歴史ばかり。不思議な力なんてものは持っておらず得てきたものは大体、恥。俺だからこそわかる。ほんと、キャラはブレるくせにそういう陰キャの鑑みたいなところはブレねぇよな、あいつ。

 

 そして、とことこと最後に戸塚がやってきた。

 

「ひ、比企谷くん……」

 

「怪我、大丈夫か?」

 

「う、うん、ありがと……」

 

 救急箱を抱えた戸塚が抱きしめるかのようにぎゅっと力を入れる。

 

「そっか。悪かったな、なんか変な感じになっちまって」

 

「そ、そんなことない。あ、あの……比企谷くん」

 

「ん?」

 

 白い指がさらに強く締め付ける。救急箱を大事に抱きしめて。何かを言おうと口を開いた戸塚は一度、口を閉じる、放とうとした言葉を呑み込んで――そして意を決したかのように顔を真赤にしたまま。

 

「すごくかっこよかった。ありがとう」

 

 目を閉じる。

 

 目を閉じて、今の言葉にどう反応すればいいのかわからず混乱が極まる。むしろ赤い頬やら潤んだ瞳を向けられている俺は見続けてしまえば正常で居られる自信が無い。

 

 悲しいことに戸塚彩加は男である。

 

 間違いなく男でこんな表情を受け止めてラブコメ始めるなど間違っているし、何なら性別が間違っている。ほんと、神様のバカ。

 

 それに――俺なんかよりもよっぽどお礼を受け取る資格がある奴らが居る。むしろ俺は相応しくなど無いのだ。

 

 最後の最後で勝負を捨てた俺にはあまりにも不相応。

 

「お礼なら俺なんかよりもあいつらに言ってやってくれ。あいつらは今着替えてるらしいから、玄関口で待っていれば通るんじゃねーか?」

 

「う、うん……そ、そうだね」

 

 どこかしゅんとした様子の戸塚。少しだけ拒絶気味な感情が言葉から漏れ出たのかもしれない。そしてトコトコと去っていく戸塚を見送って俺は金網を背にして目をつむる。

 

 ――――きがやくんっ!

 

 目を開けば、コートの出入り口に立つ戸塚が此方を見ている。

 

「そ、そのっ! ぼ、ぼくっ! 比企谷くんに助けて貰ってほんとにうれしかった! だ、だからっ、ありがとうっ!」

 

 小走りで去っていく戸塚の背を俺は呆けて見ていた。そんな俺の横に並んだ女幽霊がポツリと呟く。

 

『め、雌の顔してたっ……完全に雌の貌だった!』

 

 ぎゃーすかと騒ぐ幽霊。その幽霊を眺めながら雲を眺めた。

 

『……八幡くん、教室に戻らないの?』

 

 戻らない。むしろ今からが本題なのだ。

 

 むしろこれこそが本題なまである。

 

 今回の御話、今回のテニスに纏わる御話、この悪霊が企んでいたあれこれについて俺は問いたださなければならない。

 

 この幽霊が何をしたかったのか、何を考えていたのか、何を狙っていたのか、何を仕出かしていたのか。

 

『……怒らない?』

 

 悪戯がバレた子供みたいな顔で恐る恐る尋ねる女幽霊。これが可愛い悪戯程度なら怒らないと約束したが――俺の予想では結構な大事。それもこの学校を利用して、巻き込んでの。

 

 沈黙がテニスコートに降り立つ、そして十数秒睨んでいると観念したのかしょぼしょぼと小さく口にした。

 

 その内容は大規模な――。

 

『……放生会って知ってる?』

 

 大規模なお祭り騒ぎの下準備の御話。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 今回の出来事。始まり、すべての始まりは春の付喪神からだった。

 

 俺のお腹に残る霊障、聖痕を陰ながらどうにかしようとお節介を焼いた幽霊が居た。その幽霊自身は悪ぶって『私以外の女が傷つけた痕なんて要らない!』という理由を口にしていたが、結局のところ俺の為だったのだろう。

 

 とはいえ九音自身にその傷をどうにかする術は無く、俺自身も個人的に色々と試したが大した効果は見られなかった。

 

 清め水を使ったお清め、霊験あらたかな神社の御札を用いた解呪。どれもが効果が伺えず、結局放置することに。

 

 時間経過で少しずつ薄れてきてはいたので俺が楽観視していたところに、第二の事件である雪ノ下とストーカーが纏わる話が起きたのだ。

 

 ここだ――ここで俺が致命的な間違いを、勘違いを起こしたのは。

 

 雪ノ下雪乃と怪人の御話。

 

 その解決方法は雪ノ下雪乃にキスをすることで神話性、神秘性を崩壊させる。そうすることでストーカーの想いを否定したのだ。

 

 違いない、違えてない。間違ってはいない。

 

 けれども結果だけが異なる。解釈が異なっている。

 

 確かに数多の怪人は雪ノ下に幻滅したのかもしれない。けれども化物を生み出すほどの想いは、想念は――幻滅して、恨んで、怨念と成り果てた。

 

 これが九音の解釈。

 

 怪人は雪ノ下のことを「好きなんかじゃない」と思って消えたわけではなく、雪ノ下を恨んで、裏切られたと逆恨みして、勝手な押しつけを、呪いを押し付けて消えていったのだ。

 

 だから残っている、いつまでも、どこまでも。

 

 白い包帯、その下に広がっている光景を俺は知らない。けれども俺の希望的観測ではそのうち冷める、消えるなんて甘い考えは最初から間違っていた。

 

 そしてそれこそが足山九音の堪忍袋の緒を切った。

 

『なんで私の八幡くんが他の女といちゃつくのを眺めていなくちゃいけないわけ? しかもこれからもどんどんと巻き込まれる、巻き込んでいく、化物みたいに執着する。そんなの許せるわけないじゃん』

 

 俺のルーティンワークの一つ。出会った怪異を編纂し編集するという行為による。水に流した一枚の御話から九音は別解釈をし、雪ノ下の解呪を画策していたのだ。

 

 そして、奉仕部に現れた由比ヶ浜結衣に目をつけた。具体的には由比ヶ浜結衣のグループに、だ。

 

 クッキーの一件を経て、それとなく由比ヶ浜グループの動向を伺っているうちに一人の人物に目をつける。

 

 それが――葉山隼人。

 

 足山九音は葉山と俺を対決させる――いや具体的には俺に勝たせるつもりで何らかの勝負を企んでいた。

 

 けれども葉山自身が争いを好まない性格なのは今回のテニスの一件を考えれば想像に容易い。平和主義にも見える葉山を舞台の上に引っ張り出すのには相応の理由が必要とされている。

 

 だからこその三浦優美子なのだ。

 

 好戦的で、俺と因縁がある三浦にこそ白羽の矢が立ったのだ。ペン回しだけじゃない。俺に対する確執、由比ヶ浜に対する確執――ここのところ自棄に不運という状況。

 

 授業中に誰かから消しカスが投げられる、どこからかボールが飛んできてぶつかる、曲がり角を曲がろうとした時に何故か位置が悪い机に足をぶつける、つまずかせて教室で派手に転んでしまう、みんながわいわいしている時に席を外すように色々と仕掛けて疎外感を味合わせる、由比ヶ浜との関係を何とかしようと試みるが――すべてが何故か上手くいかない。

 

 空回りする理由の半分以上が性悪幽霊による行動だ。本人が自白したので間違いない。

 

 というわけで今回のテニス勝負が無くてもいずれは爆発するようにストレスを与え続けていたのだ。特に俺が居る時に限ってそういう不幸が起こるようにしてたらしい。サブリミナル効果的に俺の顔と不運を無意識に紐付けするよう動いてたのだ。

 

 ……いや、ほんと、すまん。

 

 三浦に対しては本当に謝罪しかこぼれない。むしろ、あいつどの顔で女王だから引けないよねとか言ってんだ。お前のせいじゃん、完全にマッチポンプじゃん。

 

 しかもあろうことかこの幽霊はその散々な悪行を自信満々に『えっへん』と胸をはるのだから始末に負えない。三浦に対しての罪悪感で胸がじくじくと痛む。

 

 そしてそこまでして何をしたかったというのか。

 

 葉山『隼人』が負ける。

 

 もっと言えば比企谷『八幡』に葉山『隼人』が負けることを望んだのだ。それはあたかも――七世紀のように。

 

 かつてこの国では隼人の反乱と呼ばれた事件がある。当時の宮崎に住んでいた人々――『隼人』の反乱が起きた時に鎮圧したのが朝廷。その時の神輿が『八幡神』なのだ。

 

 そして虐殺された隼人の霊は呪う。その呪いに困り果てた人々は荒ぶる霊たちを慰めるために祭りが開く――それこそが足山九音の目的。

 

 この幽霊は霊的スポットで、名前の因果を持つ人間同士で、意味があるかのような、意味をもたせるかのような、それでいて大観衆の目の前でその勝敗を目撃させようとしたのだ。

 

 もちろん、何も起こらないかもしれない。俺が考えすぎなだけの可能性はある。

 

 けれどもこの高校は――高嶺の花であるという理由だけで怪人が湧き出る呪われた地なのだ。そんな場所で意味深い、儀礼的なごっこ遊びをすれば起こるかもしれない。

 

 それも多数を巻き込んで、大多数の観衆を巻き込んでそんなことをしたのなら――。解呪を試みた雪ノ下は。解呪の素材となった葉山は。目撃者として集められた生徒たちはどうなるのか。

 

 何も影響はないのか、何も問題は起こらないのか。ただのテニス勝負だけでこと終えれるのか。

 

 巻き込んだ規模の大きさにぶるりと震えてしまう。

 

『……少しだけ悪いなっては思ったけど。愛だからね。私の八幡くんに対する愛の前では何もかもが許される。ラブ・イズ・ジャスティス……』

 

 いや、許されねーわ。

 

 深々とうんうん頷く幽霊の顔の中にある感情は反省なんかではなかった。

 

『八幡くんだけが無事ならいいじゃん……あの雌犬も呪いが解けるかもしれないしハッピー。二号もオトモダチが解呪されてハッピー。他のやつらは、えっと……まぁ、なんかハッピーになるんじゃない? 頭の中とか』

 

 散々な言いようであった。

 

 もしかすれば、万が一。

 

 そんな言葉ではあるが、そんな可能性で――たくさんの人間をオカルト的物事に巻き込もうとした幽霊は悪びれもない。

 

『むぅ、また別の方法を考えなきゃ』

 

 俺は立ち上がり、そして――スポーツバックの中に手を突っ込み、指先だけで物体を確認して取り出す。

 

 そして掴んだ代物の口を悪霊に向ける。

 

『んふぇ? んぎょぉぉぉぉぉ!?』

 

 手に持った霧吹きを受けて空中をゴロゴロと転がる幽霊。

 

 未遂で終わった計画の後に悪びれもせずに次の計画を考える様子はまさに悪霊。けれども言ってわかるわけもない女幽霊に俺は実力行使で事の大きさを伝えるしかなかった。

 

 伝えるしか無いんだが。多分、この程度じゃ意味無いんだろうなぁ……

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 テニス勝負があった日の放課後。

 

 九音の邪魔が入らなくなった途端に仲を取り戻した三浦に連れられて、由比ヶ浜は奉仕部をお休み。わざわざ俺になんぞ声かける律儀さは美徳であるが、後ろで怖い人が睨んでいたので総じてマイナス。

 

 というか今回の一件、根に持たれねぇといいな、と本気で思う。結果こそウェイウェイと映画ノリで去っていったが危うく怪我させるところであった。むしろ恨みなんて買って当然。俺のキューピッド的な役割も結果論でしかなく、それで相殺してくれやしないだろう。そもそも全ての元凶が隣の幽霊である。その恨みは決して逆さではなく真っ当。

 

 気も肩が重くなる。

 

 そんな俺のことなど気にも留めずに――重量の無い隣の幽霊は鼻歌を歌っていた。

 

『るんたったー、るんたったー』

 

 アホ丸出しであった。小町ですらそんな鼻歌はきっと歌わない……歌わないと思う。いや、自信無くなってきたな……。

 

 ともかく、知能指数がチンパンジーくらいの能天気さで隣で鼻歌を歌う幽霊。気分は完全にお休みモード。こいつが昼間にしでかしたことなど過去のこととばかり。

 

 連休を前にして幽霊の頭の中は『休みの間に何をしようか』と楽しそうであった。本来ならそれって俺が楽しむものである筈なのに、この幽霊に連れ回される想像しか出来ない。俺の休日どこだよ……。

 

『ねーねー、八幡くん、八幡くん。明日からの連休なにする? どこ行く?』

 

「寝る」

 

 甘えたような声で尋ねてくる内容に即答すれば頬を膨らませてぎゃいのぎゃいの文句を言ってくる幽霊。

 

 俺はその文句を耳に入れては流し、手に持った作文のやり直しが出来る場所を探して校内を彷徨い続ける。図書室は人が多く、保健室はカップルがいちゃついていた。結局のところそれ以外では奉仕部くらいしか心当たりがなく、足は自然と特別棟の四階へ。

 

 特別棟内には相変わらず独特の空気が蔓延っている。最奥までの道程は神秘的で、部室が近づく度に人の喧騒が遠ざかる気がする。

 

 神秘的といえば聞こえだけはいいがオカルトチックホラーチックな雰囲気は好きになれない。そんな好きになれない場所に自ら足を運んでいるというのだから天邪鬼そのもの。

 

 目的地の階層を目指すべく階段を一段ずつ昇り、そして角を曲がった所で気づく。

 

 テニスウェアの少女。

 

 そのテニスウェアには見覚えがあった。ギャラリーに混ざっていた一人だろう。黒を基調として、紅のラインが入っているウェアはどこか強豪校を彷彿させる。

 

 そんな少女が奉仕部部室の前に立っていた。

 

『何やってんだろ、アレ』

 

 九音のつぶやきに俺は小さく溜息を零す。いや、お前忘れてるかもしれないけど一応、奉仕部は生徒の悩みを聞く部活である。決して本を読むだけの部屋ではないのだ。

 

 まぁ、そんなことを思いつつも思いっきり俺の片手にはやり直しと言われた作文が握られているのだが。

 

「雪ノ下が昼休みテニスしてたから相談じゃねぇの? あんだけ上手けりゃ相談ごとやアドバイスの一つ二つくらい貰いに来てもおかしくねーだろ」

 

 その瞬間、右方向に居た幽霊がヒュルりと飛んで、向かい合う形に降り立つ。

 

『――?』

 

 その両目は理解できないとばかりに。首を捻りながら、顎に手をあてて――。

 

『なんで見えてるの?』

 

 意味不明な言葉を放った。その言葉の意味がどういう意図なのか考えて、答えに辿り着く前に目に映る。

 

 半透明の奥、九音を超えた先。

 

 奉仕部前に立っていた少女は四階最奥にある扉を――すり抜けた。

 

 開かず、開かれず。

 

 奉仕部の扉は決して開きなどしないで。走って、扉を見つめれば。

 

 キッチリと閉じていた。引くこともなかった扉が、開かれることもなかった扉が、人が通るのを憚る扉が。其処にあるにも関わらず少女は室内へ侵入したのだ。

 

 だから理解が追いつく。目に映った答えが真相。究明する必要もなく、何があったかなど丸わかりで。

 

 開く。扉を乱雑に引けばスライドした扉は大きな音を立てる。

 

「――――』

 

 胡乱げな表情で虚空を見つめる女の子。その背後に居た、はっきりと居た、背に張り付くかのように、まるで守護しているかのように。

 

「雪ノ下ッ!」

 

「ッ!? ひ、比企谷くん……びっくりするわね。な、何、一体……?』

 

 俺は隣の幽霊を見る。そしてその幽霊が元凶でないことは表情を見ればわかった。驚きを貼り付けた顔はこの悪霊にとっても予想外の出来事。

 

 だから――。

 

 俺はもう一度、正面を見据える。

 

『――比企谷クん?」

 

 親しげに、当たり前とばかりに声をかけてくる正面の存在。ここ最近、よく顔を合わせるようになった女の子がまるでいつも通りといった様子で首を傾げている様子が――気持ち悪い。

 

 見えている、知っている。

 

 目の前の少女は雪ノ下雪乃であって雪ノ下雪乃ではない。春の終わりに、春の暮れに、逢魔ヶ時に遭った少女は雪ノ下のフリをしたナニカであって、雪ノ下に乗り移ったナニカで。

 

 もしもそのナニカに名前をつけるのなら人はこう呼ぶのだろう、幽霊と。

 

 そしてその幽霊に取り憑かれた女の子を、雪ノ下を。

 

 俺は何と呼べばいいのかわからなかった。

 

 

 




※次回投稿は未定です
※遅れてまことに申し訳ありません。リアルがドチャクソ忙しいです。生暖かい目で見守って頂けると嬉しいです。


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