永遠に紅い幼き月。悪魔レミリア・スカーレットは呪いに囚われていたと知れ。呪いの名は憧憬。五百年を誇る広大な精神の平原に穿たれた信じられぬほどの深い穴へ埋められた小さな憧れは、潤沢な時間が殖やした雑草により
淀んで動かざる永世を持つ吸血鬼の目を眩ませたのは星座に腰掛ける雲のような過客たちの特権であり、星のごとく飛んで散乱し消えていく生命の有り様には手が届かぬため様々な代替が試された。萎びながらも連綿と続けられる生命よりも永遠の好奇心が勝ると信じられて。滑石円盤を組み合わせた紅魔館と同規模の合唱する自鳴琴。『善きサマリア人』と名付けられた海水を触媒とする
吸血鬼の真意を知っていた者の一人であるフランドール・スカーレットが自身を毒の温床にするという狂い沙汰に沈み込んでいった夜の始まりはいつだったろう。元々狂っていたため一瞬にして決められた事だったかもしれぬ。ともあれ残された話を
雨の中に立つのは傘ひとつ。背中から生やした翼をきっちりと仕舞いこみ、靴の先へ雨粒が跳ねるのも嫌うようにして佇むのはレミリアであり、濡れた陰を履く紅色の輪郭は動かない。動けるはずもない。その様子を紅魔館内の飾り窓からフランドールが見下ろしていた。
雨の降り出す前になると吸血鬼が自らの意志で庭先に出ていくのは今や紅魔館において誰もが知る暗黙の事実となっていた。雨が止むか家人の誰かが見かねて担ぎ込むまで空から降りしきる檻の中で立ちつくしているのだ。ここ数年、もしくは数十年に及ぶ悪魔の流行を見捨ててフランドールは廊下の散策を再開した。『一人が首を吊ってそして誰もいなくなった』と歌いながら。空間を紅い光で満たす整然と配置されたランプの影が垂れ落ちる壁の色もまた
時を操る希少種の人間が雑用をこなしていた頃よりも
広い館内が完璧に整えられていたあの日々、幻想郷にやって来た当初の鮮烈な日々は今や昔だったが、振り返ってみれば記憶に残る人間のなんと多かったことか。とはいえ現在の人間も一筋縄のいかぬ者達ばかりで飽きさせることはない。それゆえに姉は虜となったのだ。剣の上に伏すがごときの。
廊下の途中で立ち止まった悪魔の妹はあらゆる動作を停止させて音を待った。レミリアを迎えに、もしくは強制的に戻すために開かれるドアの音を。雨が窓を叩く音とランプの中で焦がれていく燃料の音だけが耳を
「時は点描」「連続面の腐蝕版画」「彩画廊」「流動錯誤の柱」
角に立つそれぞれの口から零れ落ちた言葉は短くあったが執拗でこびり付くようであり、第一のフランドールが宙空に撒かれたそれらを掌へ巻き取っていく。平原の果てに沈む太陽さながらに。
「つまらない流行だと思うわ」「人間の生を教えてやればあいつも飽きるでしょう」「では死を知らなくちゃ。あの脆い死を再現できるかしら」「知っているのは壊すのと眠りだけ」
最先端を行く者が手を握りこむと一つのランプ内で燃える火そのものが砕け散り、灯心を伝うように滑り落ちながら消えていく。第三、第二の者もまた倣えば連綿と等間隔に配置されていた廊下の光の列へ小さな欠落が作られていき、最初の曲がり角で独りに戻っていた少女は再び耳を澄ませる。扉の開閉音が未だに館を駆け巡っていないことを確信してからランプの灯をもう一つ壊し揺るぎない足取りで去っていった。
向かった先の魔女が住む図書室でどのようなやり取りがあったものか。ひたすらに優しい過去の帳の向こうはもう窺い知ることができなくなってしまっているが、微かに残された言葉の気配から二人は死について長く話を続けたことが伺える。
フランドールは蛇のような嘘をついたのだろう。最終的に死を体験する吸血鬼は適当な同族を作ってしまうか、自らの分身を用いる等と仄めかしたか。そうでなければ魔女が姉妹の死に関する研究を認めるはずがない。いくらかの成果を携えた訪問者が暗い住処へと戻っていく際にパチュリーは提案した。
「貴方の魔法で作り出せばいいのに。私の物と違って理から外れて為されるのだから」
「鈍ってるんじゃない。死を創りだすだなんて魔法じゃ無理。神話に任せるよ」
「狂気は予言と詩の真髄ではなかったかしら?」
返事の代わりに後ろ手で叩きつけられた扉の音が鳴り響いてから後、フランドールの白い身体へ傷や治療跡が出鱈目な継ぎはぎのように見受けられるようになり、
「吸血鬼へ人の死を。たかが幾千の月芽を見る前に訪れるあの死を呼びこむために試してるの」
後頭部まで抜けている結晶が金色の髪を押し分けているあたりを悪魔の妹の細い指がそっとなぞる。
「私は一息に壊すことしかできないけれど、私が作るものならば吸血鬼を徐々に殺せると思うわ」
「お前のやり方はゾッとしないよ」
姉の視線が顔を撫でるのを見て鉱物の目は笑った。
「例えばこれは鉱物の削り粉を作るために私の瞳を媒体にしたの。人間の瞳みたいに結晶を思わせる部位が在るわけじゃないけれど
「自分に対しても止めるんだね」
「馬鹿。私の身体から生まれるものであれば吸血鬼に親和性があるだろうし、それを自分で試さないと我が種に効くかどうかなんてわからないじゃない。ゆっくりと生命を運ばれなければならないの。人間のように。叶えてあげる。」
「何を? 私にお前の痛みを見せるな」
「変なひと」
腕を組み憮然とする姉の脇を歩み去った姿を最後にして悪魔の妹の噂はしばらく絶える事になる。おそらくは澄んだ水の深い底から水面が雨に打たれるのを眺めるような日々が続いたのだろう。雨滴は死であり、それに触れようと腕を泳がせる徒労との蜜月。
次にフランドールが現れたのは図書室だった。分類が支配する知識の集積場はおびただしい数と量の世界であり、そこへ背の高い天幕が張られている。ここでも多くの終わりが試された。煙るギヤマンを吸い込んだ悪魔の妹が黄金を唇からこぼす音を魔女は聞いたのだし、年月以外に掟を持たぬ書架の移動式階段の軋みが歌を紡いだ夜はすべての理解が亡命した。その行く先は空気だったのかもしれぬし知識に棲む共同幻想、もしくは宿命と呼ばれがちな乞食の懐であったこともありうる。少なくともその疎開地がフランドールではなかったと魔女は断言している。歴史の先端に対する恐怖を瞳に浮かべて。
砂漠に付けた足跡の価値を知る者は誰かと運命が
本の森に囲まれた天井へ届きそうなほど高い布の塔を支える基部は一人寝るのがやっとの広さしかない。重たげでありながら皺の無い小さな黒い幕のぐるりへ館の主が不機嫌な声を放つと渋々といった様子でフランドールが頭だけを出して応対を始めた。強い香と微かな死臭が内部からゆったりと流れだしてきた中で行われた応酬は何も産み出さなかった。本を持ち出す許可を得られなかったために自室へ戻らず実験を開始した妹を翻意させる事などできず、本の在り処に例外を認めない魔女の意見も曲げられなかったのだ。
屍毒を抽出しようとする妹に心痛したレミリアの呟きが悪魔の一撃と化してパチュリーを貫いたのもこの夜ではあったが。
「誰のためだ?」
一撃の名は猜疑と知れ。魔女がフランドールの動機に疑問を持った事はなかった。身の内に巣食う嘘という名の蛇を射殺されるまでは。吸血鬼へ人間の生を教えるためにまず自らが死を知悉する必要があると説明されていた魔女だったが、身体へびっしり毒を咲かせた相談相手を想起して変質という言葉を思い出した。心ほど移ろいやすいものはないと種々の書物が言い残しているではないか。探求が道を切り替えるのもままある事。また魔女の得意とする七曜は相克を基としており、万物は常に対を持っているとの立場を取っていた。生を知るために死を得ようとするフランドールは、やがて生を教えるために死を与えようと思い至るのではないか? すでに魔女が気づいたように。もしくは最初からその腹づもりであったのかもしれぬ。
突然パチュリーが以後一切の資料使用を禁じ、加えてこれまでの成果も全て焚けとフランドールに宣告したのは音の高い咳が鳴り響く午後の火炎圏あたりの事。魔法少女へ向かって眼底に揺らめくモノクロームを見せていた魔女は言った。
「おまえの死への探求は何のために行っているのか」
「事の初めに言ったはず。人の生を知るために吸血鬼を殺す無痛毒を私は作成したいの」
床上で続々と魔法陣が起動していく。
「重ねて聞く。誰がためにそれを作っているのか」
魔で編まれた目に見えぬやり方で双方の息を殺されたのは象徴であったろう。嘘をつかぬために。もしくはつかせぬために用いられる古代のやり方であったから。
「レミリア・スカーレット」
故に答えは名の全てが用いられた。
こうして二人は衝突し、問題解決として図書室で弾幕決闘が行われる運びとなった。これもまた象徴に過ぎぬ。言語に過ぎぬ。幻想が互いの胸を剣で刺し貫いたところで、それにどれほどの価値がある?
さて、結果は意外にも喘息に襲われていたパチュリーが勝負を制した。どちらも必死であった遊戯の顛末は長く語り草となり、中でも喘息の発作に襲われながら血も凍る舞踏をやり遂げた魔女の姿は稀にみる美しさであったという。
魔女本人にとっては汚泥の中へ潜り込んだに等しかった。木行による風を無理に吸い込み途切れなく詠唱を続け、火行と月行で身体と精神の力を加速循環させた代償が毒液と化して全身を圧しひしいだ。勝利のあとで力なく床に横たわるパチュリーは冷たい炎に焼かれている。汗だくの疲労と喘息による苦痛のためではなく、消し炭に近い身体となったフランドールの見つめてくる瞳によって。知る者は挙動だけで他者に知らしめるものだ。自らの業病にのたうつ今この瞬間にも忌まわしい吸血鬼は学び答えを見つけていくのを止める術がないまま、屈辱と恐怖に勝利者は身を捩らせる。
少しだけ賢しらすぎた魔女に持たされた喘息という
結局のところ答えを得られたのが予期せぬ妨害のためであったのは皮肉であり通例でもあった。再び地下室の住人となった悪魔の妹は契約のとおりに今までの成果を全て破壊した。パチュリーであれば諦めただろう。知識を使い慣れた者らしく常に自らの外へ答えを求めて保存していたのだから、近似値の魔法少女もそうであると考えたのは無理からぬ話ではあった。だがそもそも狂気へ要求するなど狂気の沙汰であり、どれほどの研究であろうと実らぬと知れた茎葉に未練があるはずもない。もはや調べる必要すらない。吸血鬼が生まれながらに持つ滅びの
地の下へ向けて作られた深い深い闇。旧地獄や他の世界に一切関わらない穴をフランドールは降りていく。ぐるぐると螺旋を描き、もしくは落とされた剣のごとく真直ぐに進んでいく時間は千夜の千倍。だがそれも当然のこと。生半可な深さでは足りなかったのだ。辺りに溢れる黒は彼女の物。宇宙の物ではなく夜の物ではなく、ましてや神の物などではない。断じて。やがて登りとなっていく道にも歩みの幅は何ら変わらぬように見えたが、どこか気怠げで気が進まぬような仕草がちらつき始めた。歩く少女の垂らされて揺れる白い指は拒絶の軌跡を垣間見せる。これより行う業に震えてもいただろうか。
黒を否定する物が現れた。フランドールの背中から飛び出る異形の羽根の一つ一つがひとりでに千切れ飛び、少なくとも七色に輝いている。いや、八。やがて光は直径の異なる円形軌道を描いてはるか頭上で同じ方向へ廻っていく。そこに込められた魔力や呪詛の数は目眩を引き起こすほどで、
さて、魔法とは理であると魔女は語った。フランドールの魔がそこから外れているとも。ゆえに悪魔の妹は魔法少女と噂されることもあり、子供の夢がそうであるように因果からの逸脱さえ起こし得た。そして理論の代わりに求められるのは象徴であった。『コインいっこ』と告げたのは何時の夜だったか。
何もない周回軌道の中心点へ向かう軌跡はすでに垂直となっており、多くを消費して準備と起動を行った少女には隠しようのない色濃い疲労がへばり付いている。中心点のすぐ真下まで辿り着くと小さな光点が暗黒へ生まれた。太陽は廻り巡るものであり、不在であろうともいつしか必ず立ち戻る。そして自らが生み出した似て非なる物とはいえ太陽は太陽。わずかに膨れたのみで空間に定着した光を見ると嫌悪ゆえにか立ち止まって目を逸らし、いささか性急に掌を握り締めて光を破壊した。砕けて粉々になった太陽の破片を両掌で受け止めると偽惑星は支えを失ったかのように迷走を始めていくつかは燃え尽き、いくつかは蝿のようにフランドールの羽根へ戻っていった。残されたのは輝く煙を吹き上げて両手に溜まっている金色の光と、幻想の肉が焼ける音と匂い。
刹那から次の刹那へ移る間にフランドールはレミリアの居室に立っていた。
生まれた国の朝霧に満たされた首府の名を思い出そうとしているレミリアに作用されて部屋の窓から射し込んだ月の光は雪のように白く砕けていた。窓際で腰掛けている吸血鬼の椅子を除いて調度の全ての時は凍りつき、彼女が退室するまで時の流れから外れていることだろう。
姉へ妹が歩み寄ると二人は見つめあい、言語を用いぬ会話を行ったあとで姉が顎を逸らし口を開けた。白い喉は月の弧を思わせる。
フランドールの手ずから滴り落ちる光は今や月。銀色となった黄金が静かにレミリアの唇から喉へ落ちていく様を見るその顔もまた月。天が下した明かりの中で全てが嚥下されると同時に月は燃えた。黄昏に残照が引いていく速度で不可視の炎が両腕から這い登り、肉を腐蝕させ滅ぼし饐えさせ焦がし瓦解させ燃やし炭化させ灰燼と為した後で僅かな塵も逃さず世界からフランドールの全身は拭い去られた。さもあろう。虹が太陽を手にすることはない。最後まで姉妹の視線は絡みあったままで終わった。部屋には吸血鬼だけが静けさとなって残された。
季節がそっと置かれていく。紗のごとく緩やかに。流れ落ちる色とりどりの季節はつづら折りに重なって積もり、やがて少女の背を越えるほどになるだろう。人の暦で言えば二百年といったところ。とはいえ太陽の運び手は眠りのあとで再び舞い戻ることが許されている。
紅い悪魔の館の中、時の層なす布を通り抜けてフランドールは立っていた。昼時にもかかわらず館内の窓へ日除けがかかっていなかったため、硝子の透光性を破壊しながら吸血鬼は歩いた。暗闇に染まった無人の廊下を勝手な足取りで進む瞳に久方ぶりの家は変わっていないように映った。ある階の壁にずらりと並べられた数多の夫人肖像画を横目で流し見た後、玄関でうっすらと埃の被った日除け傘を見つけたフランドールは外へ通じる扉を開けた。
誰に止められることもなく日陰からはみ出さぬよう窮屈げな動きで歩んでいく吸血鬼はしばらくして紅魔館の庭に拡げられた大傘を、その下に机と椅子を置いてくつろぐ動かない大図書館と老婆の姿を見出した。双方ともに言葉数は少ない。手にした本へ目もくれず微笑む魔女は儚げで、さいわいの名残を聞いているのだとフランドールは観察した。やがて近寄ってくる赤い眼の吸血鬼を認めたパチュリーは無表情のまま一言唱えかけたが老婆にそっと手を撫でられると狼狽えながら中止し、続いて五言の応酬を交わすと立ち上がり館へ向けて歩き始めた。すれ違いざまに向けられた魔女の凄まじい眼光へ何ら興味を示すことなく吸血鬼は進み、やがて近しい距離で向き合うと老婆が先に口を開いた。
「では間に合ったのだね。昔のようには身体を曲げられないからこれで許して頂戴。お久しぶりね」
小さく頭を垂れた老婆と何かを弄ぶように動く自らの掌とを交互に見つめる吸血鬼の顔は無表情のままだ。
「そんな事をせずともただ待てば良いのですよ。フランドール。もう残りわずかなのだから。ただ今すぐにと望むのであれば止めません」
「間に合いたくなどなかった。鋭い日光ではなく穏やかに運ぶよう創ったのは私。こんな物を見せられる事も解っていた。でも目が覚めたのであれば引きこもっているわけにもいかない。いかに醜かろうとレミリア・スカーレットは看取らなければならない。死を与えると誓ったのだから」
あの日手にした答えの名は『老い』。生命に限りを生む名と知れ。
「でも私は誰を探しているの?」
フランドールの手から日傘が投げ捨てられると明るい世界は容赦なく吸血鬼へ伸しかかり、全身から千の煙が上がっていく。老女は立ち上がって庭を横切って行くと、か細い月花がそうであるように不思議と優美な動きで膝を折ってフランドールの身体を抱いて包んだ。
「馬鹿な子。レミリアはここにいる」
陰と影に包まれて揮発を止めたフランドールが見上げた老女からは一筋の煙すら上がっていない。
「おまえはもう吸血鬼じゃない」
「お姉様をおまえ呼ばわりしないの。歳を重ねるごとに私の幻想は抜けていき人間に近づいた。恐らくこれから魂の輪廻にも加わるだろう。学んでのち学び直していくために廻り続ける奔流へ」
ついにフランドールの無表情が砕けた。顔を隠すために地を向き首を左右へ揺らす妹へ姉は手を置いた。
「永遠を求める人間にありがちな幼さは持たず、ただ喜びの中で老いた。おまえは吸血鬼に影を作り、陽の下で動き回らせ雨中で踊らせ、そして殺す。幻想であろうと真の意味で死ねることを私もて示した。何人も成し得ぬことをしてのけた私の自慢の妹」
「お姉様」
「またね」
「お姉様」
妹を掻き抱いたレミリアの口から歌が漏れだした。老いていたため温かい月や冷たい太陽のようにとはいかなかったが、落日に光る雨音となってフランドールに降り注ぐ。
その雨もやがて絶えたが。
(終)
読んでいただきありがとうございました。
楽しんでいただければ幸いです。
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