これはとある王国の悲しい話。
日輪、蝕に沈み、空は青から黒へ。
横降り、ざあざあぶりの雨。雷鳴に稲光。
橙色の火花が光の線になって飛び交う、ここは間違えようもない生き地獄。
薄霧が這う古都の街角。
黒い鎧を纏った男が、白いドレスを赤く滲ませた少女を腕に抱いて、なにやら必死に訴えていた。
「行かないでくれ」
「キミがいなくなってしまったら、俺は―」
叙情に凝らされた息が喉頭を詰めた。
固い息ひとつだけ、唇から逃して。
それは甘い抱擁のような笑顔がどこまでも優しかったから。刻々と迫る現実が陽を蝕む。
舌の付け根に堰き止められた想いは嗚咽と成り果て、されど涙は砲火に照らされ、滑り落ちる宙の中を綺羅星のように瞬いた。
「うふふ、大丈夫よ。
あなたはとっても強いわ。
だからもう、顔をあげて―」
雨足が母音の音をどこかに連れ去っていく。
声だけでも覚えさせてくれと願うことすら、
もうとっくに叶わぬ贅沢だった。
背を打って流れる水も、撃って突き刺す火も、その全てを含めて今この瞬間を綴じていつまでも眺めていたいと願っていた。
それはそれは強く握られた恋人繋ぎの掌、少女の手から力が抜けていく理由も分からぬと自分を騙す。
慟哭に肺が震えている。思わず声が漏れる。
「嫌だ...嫌だ...キミが居ない世界なんて、そんなつまらないものはみたくないんだ」
少しでも視界に少女を留めておきたい自分を傷つけて、涙が溢れないように瞼をぎゅっと閉じた。
儚い微笑みを浮かべる少女が色付けたこの星の自然は、事実何にも代え難い傑作だった。
少女の命ただ一つを例外として。
総天然色の絵の具を持った才色兼備の少女は、それゆえに全ての愛を受けて過ごす日々を送った。
如何なる時代の流れがこのいたいけな少女を独りにしようとしても、男は何も言わず、片時も離れずそばにいた。
ただ寡黙に温もりを感じて、少女も寵愛を注ぐことで男を受け入れた。
2人はお互いの境界を溶かすように、互いの光と闇を分かちあった。
いつしか彼らは、ちょうど太陽と月のように、同じ形の光を放つようになっていた。
「でも...みて。
もう私にはあんまり見えないけれど...。
紅い月にあなたの色が差し掛かって、それはもう素敵で、私は愛しているの。
...だから、つまらないなんて言わないで。これは私が作ったお話なのよ」
早雲が流れて、真っ赤な満月が2人を照らした。
雨に濡れて艶がかった背中にかつてのような威圧感はなく、それでも守りたいという一心の輝きだけは失われなかった。
胸中の憎しみの片鱗も表出させることもなく、少女は笑顔で話していた。
男は返事をするともなく声をあげて咽び泣いた。
赤の滲んだドレスに縋って喉を震わせて鳴いた。
腕の中は、夜空と対称的な光景だった。
日蝕のように少女の瞳から光が消えていく。
荒い呼吸を何度も繰り返して泣き叫んでも、光は帰ってくる気配を見せない。
それが、それがどんなことよりもつらかった。
「ごめんね。そんな眼はさせたくなかったわ。
最後まで私を愛してくれて、ありがとうね。」
男は、少女の瞳から光が完全に失われていく様を見届けるのが怖かったから、薄く覆う涙の潤いが消えぬうちに少女の瞼を閉じてやった。
内気で臆病な男にとって、感情を露わにする経験を味わったのはこの日が初めてだった。
少女の指先から赤い糸のような稲妻が迸り、真紅の心臓が鼓動を打つ男の左胸を刺した。
何世紀後に生まれ変わってもまた結ばれるようにと、
そんなピュアな願いが込められた閃光はひどく傷んだ胸を穿った。
眠るように覆い被さる男の腕の中で、少女は満足げに鼻歌を唄いながら息を引き取った。
敵兵は2人を死んでいるものと思い込んで、決して寄りつくことはなかったという。
薄明前、月の沈まぬ晩のことだった。
翌日、劫火が彼女の作品を抱いた。
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