何も言ってもらえなかった女 (さけとば)
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何も言ってもらえなかった女
蒼穹の戦乙女ヴァルキリーは今日も、人間界の上空高くにいた。
常人の目には見えぬ霊体の状態で、はるか下に広がる地上を眺めていた。
もちろん主神オーディンから受けた命──神界戦争の勝利を確実にするため勇者の魂を集めるという、重大な使命を着々と遂行するためである。
長い眠りから覚めたばかりで、まだ日が浅く、自身の能力に関する記憶さえも未だ完全には思い出せない身の上ではあるが……。
それでもすでに三人の勇者を、おおむね問題なく選定できた。その内の一人、勇者としての適正値が一番高かった者をさっそく神界に送りもした。
つまりそれくらいには自身の任務内容を把握できている戦乙女は、今日も勇者と呼ぶに相応しい人間の魂を探すべく、行動を開始したのだ。
他者の心の律動を感じとれるように、目を閉じ、精神を集中させたところ──
(……話が違うじゃない! なんで……)
(……馬鹿な! 私は確かに……)
(……責任とりなさいよ! ……そうよ、あなたが……)
(……や、やめろ! だ、誰か、助け……ウワアアア……)
以上である。
精神集中を終えた後も、戦乙女が沈黙していると。
「何が聞こえたんだ、ヴァルキリー。不死者か?」
「いや、今のはたぶん助けを求める“声”じゃったと思うぞ」
と横から、さきに選定した英霊達が話しかけてくる。
戦乙女も考え込みつつ、二人に説明してみるものの、
「そうだな……。こういった場合は、果たしてどちらになるのか。人が」
「おおやっぱり。人が助けを求める声が聞こえたのじゃな」
「いや、人は怒っていた。代わりに不死者が」
「ふむふむ、不死者が暴れていたと」
「いや、不死者はおそらく……助けを?」
これまで聞こえてきた“声”とはかなり違う感覚だった事だけは確かなのだが。あれだけの情報では、いまいちどう考えていいか判断がつかない。
話の先を待っている二人を前に、ひとしきり黙り込んだ後、
「ここで話していても仕方がない。行くぞ」
結局は、魂を冒涜する存在をはっきり感知した事に変わりはない。ならば私がやる事にも変わりはないだろうと、戦乙女は現場に向かったのである。
☆☆☆
現場に降り立ってすぐに、不死者は見つかった。
というよりも戦乙女が姿を現したと同時に、勢いよく向かってきた。
「さっそく出やがったな、覚悟しやが──」
「た、助けてくれ!」
がしかし、はりきって大剣を構えた英霊には目もくれず。横を通り抜けた不死者はこともあろうに、大敵であるはずの戦乙女の後ろにさっと身を隠したのだ。
「……あ?」
「これは一体、どういう事なのじゃ」
不死者はやたら何かを恐れている様子。
というかなぜか着衣がやや乱れているような。
一方、盾にされた戦乙女は(くっ。後ろをとられるとは、なんたる不覚)などと少しくらい思った事はまあ思ったのだが。とりあえずはそのまま怯え隠れる不死者の視線の先を注視する事にした。
ぶっちゃけ戦意ゼロの不死者なんかより、後から来る人間の女らしき者の気配の方がよほど荒れていて、いかんともしがたいと思われるほどの迫力があったからである。
「待ちなさいよ! 逃げようたって、そうはいかないんだから!」
現れた女性の年頃は、三十半ばから四十の間くらいか。
ふんだんにレースが使われている装いに、きっかりと編み上げられた髪型。怒りのあまりにわめくだけでは収まらず、振り回している手にもあかぎれの様子は見られない。生前の人間界では『貴族』という身分の女性だったと思われる。
とにかく烈火のごとくキレているが。
戦乙女基準の分類上は、普通の人間の女の霊である。少なくとも今のところは。
「……おい。てめえ不死者だろうが」
「そうだとも。私は気高きエルダーヴァンパイア。貴様は私が、それ以外の何に見えるというのだね?」
「ゴミじゃねえのか。人間の女の魂一つに振り回されて、神サマの陰に隠れる奴に不死者の気高さは感じねえな」
「私を助けてくれるのなら誰だろうと構わん! 神にだって縋ってみせるさ!」
「すがすがしいまでの小物っぷりじゃのう」
なお英霊達の目から見ても、婦人は普通の人間の女である。なんかちょっとこわくて近寄りがたいだけで。
「助ける、とは一体どのような事を指す?」
「あ……あの女だよっ! あの女どうにかしてくれってお願いしてんの私は!」
「なるほど」
と不死者に具体的に懇願されたので、ひとまず剣を収める戦乙女。
「やはり浄化する気だったか、神め! ろくに話も聞かずにだと!」
「いっそ浄化されたらいいんじゃねえのか。この場に留まる理もなくなるぜ」
「貴様ッ! 他人事だと思って……!」
「ほうっておいてちょうだい! どうせ私に逝き場なんてないのよ!」
やはり陰から言葉で噛みつくだけの不死者と、まだ荒んでいる婦人の霊と。
騒がしい場全体に言ってから、戦乙女は落ち着いた声で話を促した。
「双方、静粛に。話を聞こう」
以下、この婦人自身が語るところによると。
婦人の生前の夫は、たいそうろくでもない旦那だったそうだ。
自分という妻がいるにもかかわらず、初恋だか幼馴染だか知らないけどお気に入りのメイドなんかと、四六時中、自分の目の前で、ピュアなラブラブ劇場を繰り広げていたのだとか。
そんな環境の中。ちょっとしたきっかけで、なにもかもどうでもよくなったのがついこの間。
婦人は、ヴェリザの方陣に手を出した。
いくつかのルーンが刻み込まれた石と、契約者の血と魂だけで成り立つ灰燼の下法。ようは夫とそのメイドを、不浄なる不死者の力を借りて、呪い殺そうとしたのである。
夫が覗こうともしない自分の部屋の中で。
闇市場で買った石ころに、ありったけの血液を染み込ませて。
薄れる意識の中、ざまあみやがれと思った事。
それから気づけば魂の姿になっていた自分の目の前に、契約通りにこの不死者が現れて。その辺りまでは、最高に気分がよかったのだけど──
「──話が違いすぎるのよ、何もかも!」
と再び声を荒げたのは現在の婦人である。
「全員ヴェリザとかいうのに魂を喰われるはずじゃなかったの!? 夫は!? どこに逝ったのよ、あの人は! ……それにあのメイド、死んですらいないじゃない! どうなってるのよ!」
戦乙女を間に挟んで、わめきたてる婦人に不死者の方も、
「だからそれは私のせいではないと、何度も言っているだろう! 私はあの時、お前の夫に間違いなく死霊をけしかけた! それに確実に、あの女の肉体から魂を抜きとったのだぞ! 抱えていたはずなのだ! ……途中までは、確かに」
「じゃあなんでよ! なんなのよ、その“途中までは”って!」
「それは……。なぜだ、あの魂はどう考えても手遅れの状態だったはず……。ただの人間の魂ごときが無意識化で、しかもあんな力技で私の腕から離れる事ができたとして、今さら元の肉体に戻る事など到底できるわけが……」
などと完全におよび腰ながら反論したり、原因を一生懸命考えたりしている。
一方では、
「のうヴァルキリー。この者達、もしかすると──」
「黙ってろ。話がこじれる」
「!? ぶ、無礼者! わらわはヴァルキリーに話しておるのじゃぞ、誰がお主のような筋肉ダルマになぞ……!」
思い当たった事を全部喋りそうだった素直っ子すぎる英霊の口を、もう一人の大人な方の英霊がすぐに手で塞いで黙らせた。
とたんにそっちの方に気をとられる素直っ子をよそに、まだ考えていた不死者が「……待てよ。あの時、かすかに異質な気配を感じたような。あれは……なんだ? 口にするのも、おぞましいような」と、ようやく大変な事実に気づきそうだった時である。
「本当に、何もかも最悪だわ。……なんでよ? こんなはずじゃなかったのに。どうしてあんな女が平然と生き残って、私だけがこんな目に──」
「話はそれで終わりか?」
ずっと盾にされたまま黙っていた戦乙女が、口を開いたのだ。
非難めいた語調で、不死者などには目もくれず、婦人の方だけをやはり嫌悪の目で見ている。
自然と周りが黙る中。婦人が気圧されずに
「そうよ。だったら何だっていうのよ」
と返すと、戦乙女は今度こそ容赦なく言い捨てた。
「邪法を用いて人を呪うなど言語道断。ましてや己の浅慮を省みる事もせず、死してなお他者に一方的な激憤を向けるか。なんと救いようのない……」
かっと目を見開く婦人。
「私が、全部悪いって言うの?」
「胸に手を当てよく考えるがいい。一時の激情に呑まれ、己の命を投げ捨てたのも自らの意思。その命を不死者などにくれてやろうと、軽忽に願ったのもお前自らの意思ではないか」
わなわなと震える婦人に、戦乙女がさらに言い続けたところで、
「お前の現在に、その召使いの生死など関係ない。すべてお前自身で選んだ事だろうに、それをお前は……」
「──あなたみたいな神様に、私の人生のなにが分かるっていうの!?」
ついに婦人が逆上した。
「両家のために嫁がされて! 相手の男も私の事なんか、はなから伴侶として見ていなかった! ずっと我慢してたのよ私は、何年も……何年も!」
金切り声に近い怒声をあげた後。
婦人は言葉通りに、それこそ何年も腹の底に溜め続けていた思いを、戦乙女に向かってぶちまけ始めたのである。
「愛されもしないのに、善良な妻でいろと? 夫と、夫の大好きなあの召使いと、老いて死ぬまで、ずっとあの家で暮し続ければよかったの!?」
「……」
「いつまで経ってもお姉様達のように、素敵な家庭も立派な子供も持てなかった私の気持ちが分かる!? それでも我慢し続けた私の気持ちが! 我慢したけどずっと何も変わらなくて、いつの間にか、ろくに顔を合わせた事もないような養子の跡取りもできてて……!」
黙って婦人の話を聞く戦乙女。
英霊二人はひそひそと「なんと。あの者には養子がおったのか」「そりゃいるだろ。あの歳の貴族で跡取りの用意もねえ方が問題あるぜ。姫さんにはまだ分からんだろうがな」と話してたり、いよいよ大変な事実に気づいたかもしれない不死者を目線でばっちり黙らせたりしている。
「……子も作れない役立たずな妻に、あの人は離縁も言い渡さなかった。たぶん自分が悪いからとでも思ってたんでしょうけど、それ以上に外聞を気にしてるようにしか私には見えなかったわ。そうじゃなきゃ、こんな愛のない女との縁組、最初からつっぱねてるはずだもの」
やっぱり黙って聞いている戦乙女。
婦人も、さっきよりは落ち着いた様子で話し続けている。
「それとも……。また別の女が来たところで、どうせ愛せるわけないって自分で分かってたからかも? 犠牲になる女は一人で十分、それくらいにしか考えられてなかったのかも。まったく、あれで人類を広く愛してるつもりだったんだから、笑っちゃうわね。たった一人の女も満足に愛せなかったくせに」
「……。その言いようだと、お前もその夫の事を愛していなかったように聞こえるな」
とここでようやく夫の
しかし、
「私だって、あの人を愛そうとしたわよ。最初の頃はね。でも無理でしょ? 私に可能性なんて最初からなかったんだから。あの人のそばには、すでにあの女がいて……私は、あの人が勝手に自分の運命を嘆いてるのを長年ひたすら見せつけられてただけの、ただの同居人ってところかしらね」
やっぱり婦人がとてもよく喋るので、また大人しく黙った。
なお同じく黙って聞いている、英霊二人の反応はそれぞれ
(なんと気の毒なご婦人じゃ……!)
(飯の悩みがない人生送ってたやつに不幸を語られてもな)
である。
「それでも我慢しようとしたけどこれ以上は無理だった。馬鹿な選択だなんて知っちゃこっちゃない、他にどうしようもなくなったから呪ったのよ。……そんなみじめな女の気持ちが、あなたみたいな神様に分かる?」
一通り喋りきった婦人は、戦乙女にさっきと同じ事を聞いてきた。
かと思いきや、
「分かってるわよ。あの人と同じくらい、自分も馬鹿だったって事くらい。今も昔もずっと。なりふりさえ構わなければ、他に道だってあったはずなのに」
戦乙女が口を開くよりも先に、自分で言って話をまとめる。
互いに、しばらくの沈黙。
今度は戦乙女の方から婦人に話しかけた。
「そこの不死者も言っていたな。お前がかけたはずの呪は、すでに何者かによって無効化されていると。だが」
「呪が失敗していたところで、今さら私は生き返れないんでしょ。分かっているわよ、そんな事。自分で自分の手首切ったんだから」
先ほどまでとは別人のように、あっけらかんとした様子である。
ようやく現状を落ち着いて認識できたのか、あるいは諦観の念に至ったか。
どちらにせよ、あくまでも先ほどまで“らしからぬ”狂態を見せていただけで、こちらの方が彼女本来の性格なのかもしれない。
夫や召使いを呪うほどの悪念に囚われていたにもかかわらず、この女性が未だ悪霊ではなく、ただの人間の霊として存在している理由もおそらくそこにあるのだろう。
「それで、お前はこれから、自らの魂を不死者などに委ねる気なのか?」
「そうねえ……。ゆだねると言えば、そうなるのかしらねえ」
色々な事を考えつつ確認をとる戦乙女に、なぜか婦人はあいまいに答える。
両者に目を向けられた不死者は、ひいと縮こまり。戦乙女が即座に何か物申そうとしたところで、婦人がさらに言った。
「せっかくだから、この不死者の妻になろうと思ってるの私」
「なぜそうなる」
「だって、今さら生き返れないし? 今度こそなりふり構わず、ってなったら、自然とそういう結論にたどり着いちゃって。贄にされるくらいなら、妻になった方がいいかなって」
またしても閉口する戦乙女。
そのすきに隠れてた不死者をがっしり捕まえて、婦人はさらに語る。
「一緒について来もしない夫の事なんか忘れて、新しい生き方を考える事にしたのよ。既成事実さえ作っちゃえば、贄なんかじゃなく、不死者の妻として迎えてくれるかもしれないじゃない? なのに、彼がいきなり逃げるから……」
「い、いやだあ……」
すがる目で見る不死者を、婦人が強く抱きしめている。
しかし誰も助ける者はいない。夫人はさらに強く抱きしめつつ語る。
「だからいいの。私の事はほうっておいて。自分でまいた種だもの、どんな結果になろうと覚悟はできているわ。贄になろうと、不死者の妻になろうと──」
「はなせっ……」
「妻になる気まんまんじゃな」
「早くも未亡人になりそうだけどな」
この女性が悪霊になっていない理由は、諦観の念とかそんな話ではなく。ただ単純にギリギリのところで超ポジティブであったからかもしれない。
……のような事を戦乙女がやっぱり色々考えていると、
「それじゃ、もう行くわね。ごきげんよう」
と婦人が言ってきた。
「最後に話を聞いてもらえてよかったわ。全部話しちゃうとすっきりするものね。あんなに悩んでいた自分が馬鹿みたい」
婦人はそう言って、しんなりした不死者を小脇に抱え直す。
あっさりとした笑顔を戦乙女に向けた後、
「あーあ。ほんっとに、馬鹿みたい……」
自嘲のこもった呟き。
それから、これ以上みじめな姿を見せたくないと思ったのか。すぐにでもその場から去ろうと、婦人が背を向けた時だった。
「待て」
戦乙女が婦人を引きとめた。
え? と振り返る婦人。
後ろの(……やっぱりな)とでも思ってそうな英霊二人を背景にして、戦乙女は婦人および、しんなりしてる不死者に言った。
「その契約は無効だ。契約が正しく遂行されなかった以上、契約者のみが代償を払わされる道理はない。──彼女を今すぐ解放しろ、不死者め!」
正確には、現在捕まってるのは不死者の方なわけだが。
そんな事お構いなしな戦乙女の言い分に、放心した婦人はぽとりと不死者を手放した。
少々時間を置いた後。正気を取り戻した不死者はハッと起きあがり、あまりの理不尽さに抗議の声をあげる。
「なんだと!? 貴様、私にこの女の魂を手放せと言うのか!」
というかこの不死者も、誰のせいで今こんな事になってるんだかさすがに気づいたらしい。
とっさに婦人を抱き寄せつつ、めちゃくちゃ憤りを露わにしてみるも、
「あげく言うに事欠いて、私が契約を正しく遂行できなかったせいだと!? なにを抜かすか! もとはといえば貴様が……!」
「手放したくないなら別にいいんだぜ。ヴェリザの元で仲良く夫婦として──」
「くっ、手放せばいいんだろう! 手放せば!」
すぐに婦人を突き放した。
「そんなに嫌か」
「嫌だよ! 誰が、こんなBBAと!」
「まあ、失礼ね。自分だって
大声で叫ぶ不死者。
「私は、若い乙女の血が好きなのだよ! 若ければ若いほどいい! 年寄りはダメだ! 血に雑味が混じっている!」
そう主張してから、後ろの方を見つつ、にやりと笑って言った。
「──そうだな、そこのデコっぱ」
「滅せよ!」
「お許しください、ヴェリザ様!」
不死者浄化完了。
戦乙女は向き直って婦人に言う。
「契約の執行者は消えた。お前を縛るものはもう何もない」
「消えた?」
「消した、の間違いではないのか」
もちろん英霊達の話す声は無視である。
戦乙女は続けて質問し、婦人も心のままに答えた。
「これでも、お前は自ら贄となる道を選ぶのか?」
「あ──。そうね。逝き先を選べるのなら、私……」
☆☆☆
「ねえお願い。あの人に会っても、私の事は言わないで」
別れ際、婦人がこんな事を頼んできた。
「お前の夫を私は知らぬ。例えこの先、会う事があろうとも……」
「嘘。あなたでしょ? 契約をめちゃくちゃにしてくれたの」
さすがに先ほどの不死者とのやり取りで、婦人も色々勘づいたらしい。
さして怒った様子でもなく、
「あの人、外面だけはいいから。そういうのに選ばれても不思議じゃないものね」
と腑に落ちたような独り言まで呟いているので、戦乙女もしらを切ることをやめて婦人に言ったが。
「しかしお前の夫、ベリナスはお前の事を心配しているぞ。真の愛ではなかったとしても、お前が長年連れ添った伴侶だったのは確かなのだろう。それならば」
本当の逝く先くらいは彼にも知らせた方がいいのではないか。そう言おうとした戦乙女を、婦人は首を振って遮った。
「それも嘘。あの人、そらに昇る前に、私の事を何か一言でも言っていて?」
まだ現世に残っていたとは知らなかったから。すでに不死者に喰われたと思っていたから。それは仕方がないだろう、と言い切れる理由はいくつでもある。
しかし婦人が言いたいのはきっと、そういう事ではないのだろう。
死んだと思っていても、もう手遅れだと分かりきっていても、それでも私を気にかけていてほしかった。
もしも今の婦人の状況に置かれているのが彼女ではなく、彼が心から愛したメイド、阿沙加であったなら。その時彼は何を差し置いても、自分の目の前からいなくなった女の“その後”を、ずっと想い続けていたに違いないのだから。
「……」
何も言い返さない戦乙女を前に、婦人は落胆の顔も見せなかった。
どころか水を得た魚のように、強気な笑みを浮かべて
「これは私の復讐よ。私を不幸せにしてくれたあの人の知らないところで、私は今度こそ幸せになってやるの」
とまで言ってみせた。
「私を心から愛してくれる素敵な人と、素敵な家庭を築いて、これでもかってくらいたくさん、たくさん幸せになって……」
芝居がかった仕草。
楽しそうに来世の事を話す婦人の目はどこか、ぎらついて見えた。
「それで、何もかもが手遅れになった頃。ようやく気づいたあの人が、とっても幸せな私の姿を見て、安っぽい悲劇の主人公にでもなったかのようにこう後悔するの」
今世の記憶が全部消え去っても、この気持ちだけは絶対に忘れてなるものか。まるで己の魂に、そう深く刻みこもうとしているかのように。
「──ああ、私はどうしようもない愚か者だった。どうして私は彼女と、あんな風に幸せに生きられなかったのだろう。彼女が私を求めていた時、あるいは彼女が私を見放す直前に、ほんの少しの想いさえ手向ける事ができていたならば──ってね」
粗雑な復讐計画のすべてを、馬鹿正直に洗いざらい喋った後。
婦人は自分でもおかしそうに、首をかしげて戦乙女に聞いてきた。
「この期におよんでまだそんなくだらない復讐を考えてるなんて、あなたみたいな神様にはとても理解できない事でしょうね」
さして時間をかけずに、無表情で答える戦乙女。
婦人もその意見に、ふふっと笑って同意した。
「相手がその意図に気づかぬ内は、その復讐は成立しない。害のない復讐ならば──、私はお前の意思を尊重するとしよう」
「それもそうね。ありがとう、女神さま」
人間界の上空高く。蒼穹の戦乙女はそこで、一人の女の魂を見送った。
逝く先は神界でも冥界でも、魔神ヴェリザの袂でもない。
次に受ける“生”の先は、これからすべての記憶を失う事になる女はもとより、人ならざる存在の戦乙女にも知り得ない事だ。
自身が選んだ逝く先に、それでも女はためらう事なく前に進み、
「あの人は、いつかは私に気づいてくれるのかしら」
けれど最後にそう言って、女の魂は輪廻の輪に還っていった。
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